七重八重

【重・襲】(かさね) 物などを重ねること。また、重ねたもの。特に、衣服を数枚重ねて着ること。また、その衣服。かさねぎ。(襲)袍(ほう)の下に重ねて着る服。したがさね。衣服の上着と下着とそなわっていること。(襲)衣服を重ねて着るときの、衣と衣との配色、または、衣の表と裏との配色。季節によって色目(いろめ)にきまりがあり、紅梅襲(こうばいがさね)、卯の花襲、山吹襲などのようにいう。刀身の厚み。〔接尾〕重なっているもの、重ねてあるものを数えるのに用いる。「小袖ひとかさね」「紙ふたかさね」  
襲の色目(いろめ) 位色(いしき)に関係のない、公家男女の下着や私服の地質に、季節による配色を考慮して生じた表地と裏地の襲の色と、衣服数枚を重ねた場合の袖、襟、裾口などに見られる色合。きれ地がかたくなってから形式化し、「おめり」と呼んで、裏地を表地にのぞかせるのが普通となった。 
【初重】(しょじゅう) 声明(しょうみょう)の講式や平曲で、最低の音域で歌われる部分。 
【一重・単・単衣】(ひとえ) そのものだけで、重なっていないこと。また、そのもの。ひとひら。一枚。花弁が一枚ずつになっていて、重ならないこと。単弁。ひとえもの(単物)。まじりけのないさま。純粋であるさま。ひたすら。程度が一段と進むさま。いっそう。ひとしお。多く、「今ひとえ」の形で用いられる。
【単物】(ひとえもの) 裏地のついていない和服の総称。絹地を普通とし、夏とその前後に着る。ひとえぎぬ。ひとえごろも。ひとえ。袷(あわせ)。(裏地のないことを特色としたところから)素襖(すおう)の直垂(ひたたれ)。
【一日】(ひとえ) 「ひとひ(一日)」の変化した語。
【二重】(ふたえ) 二つかさなっていること。二つかさなってあること。また、そのもの。にじゅう。二つに折れ曲がること。腰が折れ曲がるさまにもいう。ふたあい(二藍)。ふたつぎぬ(二衣)。織物で、紋綾の上に縫取り紋を加えること。また、その織物。二重織物。 
【三重】(みえ) 三つ重なっていること。また、その重なっているもの。三色の色系で模様を織り出した織物。 
【四重】(しじゅう) 四つかさなること。「しじゅうざい(四重罪)」の略。声明(しょうみょう)や平家琵琶などで、初重(しょじゅう)から数えて四番目の音域。普通は三重(さんじゅう)が最高。 
【五重】(いつえ) 袿(うちき)などを五枚重ねること。また、袴着用の形式。五重襲(いつえがさね)。*紫式部日記「三重五えの袿に」。五枚重ね着したように、袖口、褄(つま)の表裏に中陪(なかべ)三枚を加え重ね縫いしたもの。一説に、地紋の上に五色の糸で模様を織り出したものという。五重の御衣(おんぞ)、五重の唐衣(からぎぬ)、五重の衣(きぬ)など。*紫式部日記「表着は菊の五え」。  
五重の扇(おうぎ) 檜扇(ひおうぎ)の板数の多い扇。七、八枚を一重扇といい、その五倍のもの。一説に、板の幅が最も狭く開くものとも。また、檜扇の両端の板を薄様で五重に包んで、色々の糸でとじて美しくしたものともいう。 
【七重】(ななえ) 七つかさなること。また、そのもの。転じて、多くのかさなり。しちじゅう。  
七重の膝(ひざ)を八重(やえ)に折る 丁寧なうえにも、さらに丁寧にして願い、またはわびなどする。 
【八重】(やえ) 八つ重なっていること。転じて、数多く重なっていること。また、そのもの。*古事記‐下・歌謡「夜幣(ヤヘ)の柴垣」。特に、花片が幾片も重なっていること。また、その花。重弁。*源氏‐幻「八重さく花桜」  
八重の遠(おち) ずっと遠いあちらの方。  
八重の潮風(しおかぜ) 八重の潮路を吹いて来る風。  
八重の潮路(しおじ・しおみち) はるかな潮路。非常に長い海路。やしおじ。  
八重の山路(やまじ) 幾重にも重なって非常に長い山路。八重山にある路。  
八雲 幾重にも重なった雲。八重雲。 
【九重】(ここのえ) 九つ重なっていること。物が幾重にも重なること。また、そのかさなり。*大和‐三五「しらくものここのへにたつみねなれば」。(昔、中国の王城の門が九つ重なっていたところから)天子の住居。宮中。禁中。皇居。*枕‐三「いかばかりなる人九重をならすらん」。皇居のあるところ。みやこ。帝都。また、枕詞のように「都」にかけて用いることもある。*平家‐四「九えの宮こをいでて」。(禁中の人の意から)公家。(昔、貴人が用いたところから)御召縮緬(おめしちりめん)のこと。宮城県仙台市の名物の菓子。糯米(もちごめ)粉で製した香煎(こうせん)のまわりに砂糖をからめたものに、熱湯を加えて飲料とする。明治天皇の行幸を記念しての命名。香の名。伽羅(きゃら)の属。名香百二十種の一つ。  
九重の中(うち) 皇居の内。宮中。禁中。九重。  
九重の宮(みや) 禁中に建てられた宮殿。また、禁中。 
【十重】(とえ) 物が一〇、重なること。十かさね。 
【二十重】(はたえ) (「はた」は数多い意)物がいくえにもかさなること。「十重(とえ)二十重」の形で用いられることが多い。「十重二十重に取り囲む」 
【十重二十重】(とえはたえ) 幾重にも重なること。幾重にもとり囲む様子。 
【幾重】(いくえ)  いくつかかさなっていること。また、いくつものかさなり。*千載‐四九六「いくへかさなる山路なりとも」  
幾重にも 何度もくりかえして。かさねがさね。下に、わびる、願うの類の語がきて、相手に、ひたすら、深く頼む気持を表わす。*虎寛本狂言・八句連歌「幾重にも御辞退仕りまする」 
【重箱】 食物を入れる木製の四角な容器。二重、三重に重ねられるようにしてあり、漆塗りが多く、蒔絵(まきえ)などをほどこした精巧なものもある。遊里で、芸者や幇間(ほうかん)などが、花代、揚代の二重売りをすること。  
重箱で味噌をする (重箱では味噌はすれないところから)外見がどんなにりっぱであってもその器(うつわ)でなければ役に立たないことのたとえ。また、外見を整えることや、細かい点にとんじゃくしないでおおめに見ることのたとえにもいう。  
重箱の隅(すみ)を杓子(しゃくし)で払う[=を擂粉木(すりこぎ)で洗う] (四角な重箱の隅を丸い杓子で払っても、擂粉木で洗っても、隅に物が残るところから)あまり細かい点まで干渉しないで、おおめに見るべきだというたとえ。  
重箱の隅(すみ)を楊枝(ようじ)でほじくる[=つつく] 些細な点まで干渉、せんさくしたり、どうでもよいようなつまらない事柄にまで口出しをすることのたとえ。  
【重箱面】 重箱のような四角な顔。角顔。  
【重箱読】(じゅうばこよみ) (「じゅう」は「重」の音読み、「ばこ」は「箱」の訓読みであるところから)上の字を音で、下の字を訓で読むこと。また、その読み方。「団子」を「だんご」、「王手」を「おうて」と読む類。上を訓で、下を音で読む湯桶(ゆとう)読みに対していう。また、広く、一語の漢字熟語を音訓まぜて読むことにもいう。 
七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに 無きぞ悲しき
兼明親王1  
(かねあきらしんのう) 延喜十四〜永延一(914-987)別称:前中書王・御子左大臣  
醍醐天皇の第十六皇子。母は藤原菅根女、淑姫。源高明の異母弟。源姓を賜わり、臣籍に下って、承平二年(932)、従四位上。播磨権守・右近衛中将・左近衛中将などを経て、天慶七年(944)、参議。天暦七年(953)、権中納言。同九年、中納言。康保四年(967)、従二位・大納言。天禄二年(971)、左大臣。貞元二年(977)、勅により親王に復し、二品中務卿。寛和二年(986)、卿を辞す。晩年は嵯峨に隠棲。『本朝文粋』に詩文を残す。勅撰和歌集入集は後拾遺集の1首のみ。『古今和歌六帖』の撰者に有力視されている。  
小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける  
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき(後拾遺1154)  
【通釈】(詞書)小倉(京都嵯峨の小倉山付近)の家に住んでおりました頃、雨の降った日でしたが、来客があって、帰りがけ蓑を借りたいと言われたので、山吹の枝を折って持たせました。その人は事情が呑み込めずに帰って行きましたが、何日か経って、山吹の真意が解らなかったと言って寄越したので、その返事に歌を届けました。  
(歌)表の意:山吹の花は七重八重に咲くのに、実が一つも結ばないのは不思議です。  
裏の意:山吹ではありませんが、お貸しすべき蓑ひとつ無くて心苦しいことです。  
【語釈】◇みのひとつだに「実の一つだに」「蓑一つだに」の掛詞。八重山吹の花が実を結ばないことに、貸すべき蓑がないことを掛けている。◇なきぞあやしき無いことが申し訳ない。「あやしき」は、この場合「道理や礼儀にはずれている」程の意。江戸時代の流布本などでは「かなしき」になっている。  
【補記】後世、湯浅常山の『常山紀談』巻一「太田持資歌道に志す事」などに引かれ、広く知られるようになった(太田持資は太田道灌)。  
【主な派生歌】  
山吹のはながみばかり金いれにみのひとつだになきぞかなしき(四方赤良)  
山吹のみの一つだに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり(橘曙覧) 
兼明親王2  
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき  
【通釈】七重八重に花は咲いているけれど、山吹が実の一つさえもないように、蓑一つさえもないのは悲しいことです。  
和歌「七重八重」は、兼明親王(かねあきらしんのう・914〜986年)の作品で、後拾遺和歌集(19−1155)に収載されています。詞書(ことばがき)に、「小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日蓑かる人の侍りければ、山吹の枝を折てとらせて侍りけり。心も得でまかり過ぎて又の日、山吹の心もえざりしよしいひおこせて侍りける返事にいひ遣はしける。」とあります。小倉は、京都市北西部小倉山(標高295m)付近一帯を指します。なお、後拾遺和歌集は、諸伝本の数が90本に及ぶようで、「七重八重」の第5句「なきぞ悲しき」は「なきぞあやしき」から変化して流布されたきたといわれています。  
「山吹の里」の碑(所在地高田1−18−1)  
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重花は咲けども山吹のみの(蓑)ひとつだに無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図絵」(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。 
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき 1  
最近、雨が多い。  
昨日は時折ぱらつく雨の中、山道を歩いた。山道を歩きながら、茶飲みの戯れ言に読んでもらおうと、こんなことを考えた。  
春雨と言うと、しとしとと降る優しい雨をイメージするが、最近の雨は優しさの微塵もない荒々しい降り方をすることが多い。  
作者も本のタイトルも忘れたが、小学生の頃読んだSFものにこんなことが書いてあった―地球の大気中の二酸化炭素の量がこのまま増え続けると、やがては金星のようになる。金星は二酸化炭素を主成分とする大気に包まれているため温室効果が生じ、地表温度は、金星よりも太陽に近い水星よりも高く、常に暴風に見舞われている―と。  
最近の荒ぶる天候を見るにつけ、地球の状況が金星に近づきつつあるのではあるまいか?とつい思ってしまう。これも人間達が、地球に辛く当ってきたことに対するしっぺ返しか?  
子供も愛情をもって育てれば愛情豊かな子が育つが、痛めつけられて育てられると、やはり思いやりに欠けた人間に育ちやすいものだ。  
以前係わりを持った中学校のサッカー部の顧問で、連日生徒達を殴ったり蹴ったりしてトレーニングしていた体育教師がいた。そこで、「お前は何故に暴力で子供たちにサッカーを教えるのだ?」と詰問したところ、「自分も高校時代、監督に地面に叩きつけられ、スパイクで顔を踏みつけつけられて指導されてきた。そのおかげで県大会にも出場でき、今の自分があると思っている。だから自分も同じように教えれば、やがては生徒達は分かってくれるはずだ。」としゃあしゃあと、その体育教師は言ってのけた。呆れ果てた私は、「お前はとんだ裸の王様だ、お前のような奴に大事な子供を預けることはできない!」とどやしつけてやったことがあったが、その体育教師もまた子供の頃、暴力教師に出会ってしまった被害者の一人であったのかと思ったものだ。  
こうも荒々しい天候が続くと、地球を傷め続けて来た人間の一人として、素直に反省せざるを得ない。  
雨が降っていると、どうしても出かけるのが億劫になるものだ。そんな時、「孤鞍衝雨・・・(こあんあめをつきて・・・)」と漢詩の一節が口をついて出てくる。これはもう何十年もの間、雨降りに出かけることを尻込みする自分を奮い立たせるための自身への掛け声となっている。  
何故ならば、孤鞍衝雨・・・と言う光景がとても勇ましく見えるし、またこの言い回しの響きがとても格好いいからである。この言葉を何度か心の中で呟くと、なんとなく、一人馬に乗って雨の中を颯爽と出かける気になれるのである。尤も現代のことであるから、乗り物は馬ではなく車と言うことになるが。  
   孤鞍衝雨叩茅茨   こあんあめをついてぼうしをたたく  
   少女為遺花一枝   しょうじょためにおくるはないっし  
   少女不言花不語   しょうじょはいわずはなかたらず  
   英雄心緒乱如糸   えいゆうのしんしょみだれていとのごとし  
この漢詩は中学一年の英語の授業で習った。  
私の中学一年の時の英語教師は漢詩が大好きで、英語と漢文の文法、つまり言葉の羅列順序が良く似ていると口癖のように言っていた。で、日本語とまるで違う英語の単語の並び順に対する生徒達の違和感を払拭するため、「むしろ日本語が特異な言葉で、世界標準はこう言う並べ方なんだよ。」と教えるために英語の授業時間に漢詩の勉強となったのであろうと推測する。なんともゆとりのある授業であった。何のためか分からぬが、授業日数を減らしただけの現在逆の意味で使われている“ゆとり教育で”育った若者達には、想像もつかない授業風景ではなかろうか?  
この英語教師は、肝心な英語よりもむしろ漢詩を教えることに熱心であったように記憶している。おかげで、英語は好きになれなかったが漢詩は好きになった。(^-^)  
孤鞍は一般的には「こうあん」と読む人が多いようであるが、その英語教師は「こあん」と読んだ。私も「こあん」の方が響きが良くて好きだ。また、孤鞍は単騎のことであるが、この詩の場合は太田道潅を指し、江戸城を築城した武将とも・・・『ええっ!江戸城を造ったのは徳川家康ではなかったのか?』と、それを聞いた、当時の小学校から上がったばかりの新入生は思ったものだ。  
おかげで、この先生の英語の授業時間では、英語と国語と漢文と情操教育と歴史を勉強することができた。  
ある時、生徒の誰かが、「ティーチャー」とその先生に呼びかけた。すると先生は「先生を呼ぶときはミスターだ。」と教えてくれた。以来その先生はミスターサエグサと呼ばれるようになった。  
ノバック先生が主演のアメリカから渡ってきた人気テレビドラマ・「ミスターノバック」が放映されたのは、その翌年であったが、ミスターサエグサの教え通り、アメリカでは○○先生と呼ぶ時はミスター○○になるんだなと改めて得心が行ったものである。  
ミスターサエグサは言った。「茅茨(ぼうし)とは、茅葺の粗末な家のことだ。」と。そして更に続けた。「茅葺、知ってるか?見たことある人?田舎の方に行けば、今でも残っているところもある。屋根が、あの藁のような植物でできた家だ。」  
ミスターサエグサは漢文の話になるとどんどん熱がこもって来る。真剣な顔つきで解説を続けた。  
「ある日、太田道灌が鷹狩りに出かけて、突然の雨に襲われた。道潅は馬を走らせ帰路を急ぐが、雨はひどくなるばかり。そこで、偶然見つけた農家で簑を借りようと立ち寄った。道潅が蓑を貸してくれと言うと、少女が出て来て無言のまま黄色く咲いた山吹の一枝を差し出した。道灌には、その意味がわからず、不機嫌のまま帰館した。帰館してから、ことの顛末を家臣に話したところ、それは『七重八重花は咲けども山吹の実の〈簑〉一つだになきぞ悲しき』という古歌で返答したのだと教えら、英雄の心緒乱れて・・・英雄とは太田道潅のことだよ。心緒とは心の動きのことだよ。つまり、太田道潅の心の中は糸のように揺れ動いたんだよ。」と。  
ミスターサエグサは「心緒」は「しんしょ」と読まず「しんちょ」と読んだ。私もここは「しんちょ」の方が好きだ。  
「少女は、花が咲いても実のつかない山吹にたとえて、『貧しくて、この家には簑の一つさえありません。』と、ゆかしく断ったのだ。この時、道灌は自分の無学を恥じ、以来大いに発奮して勉学を重ね、文武両道の偉大な武将となったのだ。だから君たちも恥をかかないように大いに勉強をしなければいけない。」と、ミスターサエグサは解説してくれたのであった。以来、私はこの漢詩が好きになり、ことある毎に心の中で諳んじてきたものである。  
そう言えば、最近ヤマブキを見かけなくなった。昔は住宅街を歩いていると、よく、生垣からこぼれるように咲いているヤマブキを見かけたものだが、最近ではめっきり見かけなくなった。  
試しに、仕事で出かけたついでに探してみたが、身近なところには見つからなかった。  
随分と探し回って、やっと一軒、生垣から黄色い花がこぼれおちている家を見つけた。  
同じヤマブキでも八重ではなく一重のヤマブキであった。  
八重のヤマブキは園芸種と言う事であるので、住宅地にはむしろ八重のヤマブキが多かろうにと思っていたが、また一つ疑問に思うことが頭に浮かんできた。  
太田道潅の逸話に出てくる和歌は後拾遺和歌集にある兼明親王の和歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞあやしき」が元となっているそうだが、平安時代に既に園芸種が存在したのだろうか?  
そう一つの疑問が頭をかすめるとまた次の疑問が頭をもたげる。  
待てよ、室町時代の・・・(批判覚悟で敢て悪い表現を使うと)水飲み百姓の娘に、太田道潅も知らなかった兼明親王の和歌を知っているだけの教養が本当にあっただろうか?道潅をも凌ぐ教養の持ち主と言うことは、もしかしたら京を追われた没落貴族の娘であろうか?それにしても、家臣に教えられるようでは情け無い。いや、少女に花を差し出されたくらいで心を乱す男が英雄と言えるのか?それに、どうせもうずぶ濡れであろう。今更蓑を着てどうするのだ?である。この辺はどうしても不自然だ。この状況であれば蓑を貸してくれでなく、「雨宿りさせてくれ」が普通であろう。ついでに囲炉裏の火に当たらせてくれである。  
まあ、そんなことはどうでも良いが・・・太田道潅の逸話はマユツバと言うのは事実かもしれない。しかし、この一つの漢詩が私に教えてくれたものは計り知れないほど多い。  
そう言えば、ミスターサエグサは「花一枝」を「はなのひとえだ」と読んでいたが、私もこれには賛成である。物語に登場する教養豊かな農家の娘と、まだ大成前のちょっと間抜けな英雄と言う取り合わせからすると、読み方が硬すぎる。情景からしてもっと柔らかい読み方が良いだろう。  
それに「少女ためにおくる」となると、「我が家の窮状を分かって頂戴。」と押し付けている感じになり、少女のイメージが崩れる。やはり、この場合の少女は下心なしにさりげなく花を差し出すイメージにしたい。  
そこで、漢文の文法上の制約は何一つ知らぬ無学な私としては恥を恐れず、次のように読みたい。  
   こあん雨をつきてぼうしをたたく  
   少女花のひとえだをおくる(をなす)  
   少女言わず花語らず  
   英雄のしんちょ乱れて糸の如し  
七重八重・・・は、博学多才な兼明親王が、科学技術の発達により、物質面では八重の花のように、絢爛豪華に咲き誇っているように見えるが、実のところ、心の面では貧しく実りのない現代社会の有り様を予見して詠んだ歌ではあるまいか。 
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき 2  
先だって、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」について、疑問に思うことを、気のままに書き連ねたところ、拙者の幼稚な発想にもかかわらず様々なご意見をいただき感謝の念に堪えない。  
実に中学一年の時からであるから、随分と長い間疑問を抱えたままであったことに気付いたわけだが、この辺でこの疑問に終止符を打っておきたい。  
当初、私同様に、「園芸種の八重の山吹が平安時代にあったとは考え難い。イチゴの花やキイチゴの花が重なって咲いているところを良く見かけるが、そんな様が八重の花に見えて、思わず詠んだ歌ではないか?」と考えている人もいたが、「花咲きて実は生らぬとも長き日に思ほゆるかもヤマブキの花」と万葉集にもあるところを見ると、八重の山吹の存在はかなり古くからであったことは最早否定できない。とすると、やはり某“はなせんせ”の「・・・平安時代に現代のような遺伝子組み換えで、特性をもった園芸品種を作り出すことはできなかったでしょうが、自然界や栽培途中の植物群から、突然変異を見つけ出しそれを繁殖して園芸品種を作り出すことはできたのではないでしょうか。勿論種子は出来ないわけですから、人の手で株分け、挿し木、取り木といった方法でです。武家や町人たちはあまりの美しさに株分けして自宅に持ち帰えり、鑑賞価値のある八重咲きが広まったということ(^-^)八重ヤマブキはバラ科ヤマブキ属。日本各地の湿った斜面に野生するヤマブキは花びらが5枚の一重咲きです。その雄蕊が花弁化し、雌蕊が退化して八重咲きになった園芸品種が七重八重と詠まれた八重ヤマブキでは?」との説が一番適切であろうと拙者は一人納得したのである。  
残る疑問は、貧しい農家の娘が太田道潅をも凌ぐ教養を身につけていた一点になるが、結論としては・・・昔は、良い政治が行われていたため、貧しい農家の娘ですら、和歌をたしなみ、園芸種の八重の山吹を栽培する余裕があった。今は政治が悪いので、中流・上流であろうが、それだけのゆとりを物心両面で持つことができず、政治・行政一体となった銭の花を咲かせるための利権争いに巻き込まれ、人々は山野に花を見ることなく、あちこちの政治・行政機関に咲く仇花を見るばかりである。  
このような時勢で暮らしていると、盛唐の詩人・張謂の「題長安主人壁(長安の主人、壁に題す)」は蓋し名言と謂わざるを得ない。また彼が生きた時代は、我が国初の貨幣・和同開珎鋳造から半世紀ほどの頃。その頃既にここまで悟っていたかと思うと驚愕せずには居られない。  
   世人結交須黄金   せじんまじわりをむすぶにおうごんをもちう  
   黄金不多交不深   おうごんおおからざればまじわりふかからず  
   縦令然諾暫相許   たといぜんだくしばらくあいゆるすとも  
   終是悠悠行路心   ついにこれゆうゆうとしてこうろのこころ  
この漢詩も、中学一年の時の英語教師・ミスター・サエグサに習ったものであるが、そう言えば、この日本と言う国、かつてはアメリカさん一辺倒で中国なんて見向きもせず国交断絶状態。それが今や東のアメリカに手を摺り合わせ、西の中国にぺこぺこ。チベット人の人権も、イラク人の生命の尊さもオッパッピー。これ全て黄金のためである。  
そう言えば、ちょっと前まで防衛省の天皇とまで謳われ、何百回ものゴルフの接待を受けておられたあのお方は今やどうしておられるのであろうか?もう金にならないと悟るや、最早相手にする武器証人も居ないのであろうな。  
商業主義の五輪にも、最早平和の祭典の面影はない。 
「後拾遺和歌集」中務卿兼明親王の和歌「ななへやへ はなはさけども」
 「かなしき」と「あやしき」でどちらがポピュラーか
明治期の教科書に太田道灌の逸話として紹介されたものが多いため、「悲しき」とするのがポピュラーである。  
『漢詩名句辞典』 太田道潅の逸話について描いた「太田道潅借蓑図」に付された詩と解説があり。詩は「なきぞかなしき」。解説に「「七重八重…」の歌は、「後拾遺集 十九 雑部」に兼明親王の作として見えるが、第五句は「なきぞあやしき」となっている。」とあり。「なお、この詩は、大槻磐渓の作とも伝えられているが甚だ疑わしく作者不明である。」ともあり。  
『後拾遺和歌集新釈』 「中務卿兼明親王」の作として同歌があり「なきぞあやしき」となっている。補説として太田道灌の逸話が載っており、「(前略) なきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話が『常山紀談』に載る」とあり。  
『和歌植物表現辞典』 和歌の記載は「あやしき」。(後拾遺集・雑五・1154・兼明親王)教科書に掲載された記録以下のように明治期に教科書で太田道灌の逸話として多くあげられている。道灌の逸話として紹介されたものはみな「悲しき」と記述されている。 
 
 
 
 

 
   
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
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