藪と寝耳

 
寝耳に水耳にちなんだ言葉耳垢・・・
藪の中/芥川龍之介
 
【藪】低木・草・竹などの乱雑に生い茂っている所。おどろ。竹の生え茂っている所。竹藪。竹林。やぶいしゃ(藪医者)」の略。藪蕎麦(やぶそば)。 
藪から棒 (「藪から棒を突き出す」の略)物事のしかたがだしぬけである。突然であるさま。唐突であるさま。寝耳に水。 
「藪から棒を突き出す」の略 / 藪は草木が群がり中がわからず、急に棒を突き出すと驚くことから、意表をついた行動をすることの喩えとして、「藪から棒」と使われるようになった。江戸中期の浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』に、「藪から棒と申さうか 寝耳に水と申さうか」の例が見られる。 
藪に功の者 (「やぶ」に「野夫」、「こう」に「剛」を当ててもいう) 草深い所にも立派な者がいる。ばかにしている者の中にも案外立派な者が交じっている。藪医者だと言われている者の中にも案外名医が交じっている。 
藪に馬鍬(まぐわ) 無理な事をあえて行うこと。 
藪に目 どこで誰が見ているかわからない、秘密などが漏れやすいたとえ。壁に耳。 
藪にめくばせ よそ見、やぶにらみ、事が秘密であることを示す意。 
藪をつついて蛇を出す 不必要な事をしてかえって災いを受ける。やぶへび。 
草を打って蛇を驚かす 何気なくした行為が思いがけない結果を生ずること。また、一人を懲らしめて、それと関係する他の人をも戒めること。 
青天の霹靂 突然に起こった大事変・大事件のこと。また、予期しないで受ける衝撃のこと。「霹靂」は雷の意で、青く晴れた空に突然雷が起こることから言う。 
【藪蛇】(「藪をつついて蛇を出す」から)余計なことをして、かえって災いを受ける。
【藪医者】(「やぶ」は「野巫(やぶ)」で、本来は「呪術を医薬とともに用いる者」の意であったという。「藪」「野夫」などの漢字を当てて田舎医者の意となり、あざけっていったものか)技術のつたない医者。庸医(ようい)。竹庵(ちくあん)。 
藪医者の手柄話 下手な者ほど自慢話をしたがるということ。藪医者は死なせてしまった病人のことは棚に上げ、治療に成功したまれな例を得々と喋る。「藪(やぶ)医者」は医術のまずい医者。人名に模して「藪井竹庵(ちくあん)」とも言う。「藪」は当て字であり、もとは「一つの術しか知らない田舎の巫医(ふい)(巫女(みこ)と医者)」の意で、「野巫」と書いた。古代は祈祷(きとう)で病気を治す巫女も医者と同類に見なされた。 
藪医者の病人選び 下手な者ほど仕事の選り好みをするということ。藪医者は治療の難しそうな患者は診たがらないことから。  
【藪入】(草深い田舎に帰る意から)正月と盆の16日あるいはその前後に、奉公人が主人から暇をもらって実家に帰ること。特に正月のものをさし、盆のものは後の藪入りということが多い。季節を問わず、奉公人や嫁などが主人に暇をもらって実家に休息に行くこと。 
【藪鶯】(やぶうぐいす)都会風の言葉の使えない田舎者。 
【藪椿】ツバキの異称。特に山野に自生するものをさすこともある。やまつばき。 
【藪睨】(やぶにらみ)斜視。言動・思考などが見当違いなこと。
寝耳に入る 何もしないのに思いがけず手にはいる。 
寝耳に水 まったく思いがけず突然なできごと。 
寝た子を起こす せっかくおさまっている事柄に手出し再び問題をひき起こす。 
寝て花をやる 寝て楽しい夢を見て心を慰める。寝て楽しみごとをする。 
寝ても覚めても いつも。絶えず。 
寝よとの鐘 人に寝よと告げる鐘。亥の刻(午後10時頃)に打った鐘。 
寝る子は育つ よく眠る子は丈夫に成長する。
寝覚めが悪い ある事が気になり重荷になりして気が安まらない。過去に他人に悪い情況をもたらしたことなどが反省されて良心がいたむ。心が安まらない。 
寝食を忘れる 物事に熱中して寝ることも食べることも忘れる。 
寝息を窺う 人の睡眠中に気付かれないように悪事などをしようとする。 
寝惚ける 目がさめても夢うつつでぼんやりしている。色がはっきりしなくなる。ぼける。 
寝返る 味方を裏切って敵方につく。ねがえりをうつ。 
寝刃を合わす ひそかに悪事をたくらむ。内密に事を企てる。 
寝鳥を刺す 無抵抗のものを捕え殺す容易さ、無慈悲さ、相手を安心させておいて危害を加えるたとえ。
【寝耳】睡眠中に音やことばが耳にはいること。 
【寝刃】(ねたば)切れ味の鈍くなった刀剣の刃。 
【寝鳥】(ねとり)ねぐらに寝ている鳥。ねぐらどり。
[類語] あに図らん・計らずも・あに図らんや・突として・思いがけず・思い掛けず・思掛ず・はからずも・出し抜けに・計らず・突然・不意に・思い掛ず・豈図らんや・思掛けず・豈図らん・ふいと  
[類義] 足下から雉が立つ・足下から煙が出る・足下から鳥が立つ・青天の霹靂・寝耳に擂粉木・寝耳に水・窓から槍  
[注意] 「藪から蛇」は誤り 
 
寝耳に水  
穏やかでない題目であるが、この「寝耳に水」という言葉は、もともと「寝耳に水音」であったのが次第に「寝耳に水を注ぐ」という意味で使われるようになったとか、ある辞書に出ていたが、寝耳に(音)を入れるよりは、(水)を入れた方が、もっと寝ている人を驚かすには効果的であろう。「寝耳に水」に似た言い方では「藪から棒」があるが前者の方が驚く程度がひどいと思う。  
寝ている人を驚かす為に大声で呼ぶとか、揺り動かすなどはまだしも、水をぶっかけるのは全く極端なやり方である。その理由は耳には水が(禁物)であるからである。それでは、何故耳と水とは(仲良く出来ない)関係にあるかを説明しておきたい。  
それは、人間も含めて陸上動物の耳には水が入ると色々な傷害が起こるということに他ならない。耳はもともと空気を伝わって達した(音)を聴く為にあるもので、水の中の(音)を聴くには適してないように構成されている。  
オットセイやシールのように、陸上に住んでいても水に潜って餌を捕る動物には耳介が小さくなって、耳の孔の入り口の所で水が中に入らないような構造になっているし、鯨の類では耳の孔は完全に詰まっているらしい。河馬にはやや小さいが、ちゃんと耳があるので水の中に潜る時には耳に水が入らないように工夫がしてあるのではないかと思う。  
人間は(水遊び)が好きであるが、Swimmer'sEar(水泳者の耳病)といわれる症状がつきまとうことが多い。耳の孔は細くて長い管(人間では約1インチ)で行き止まりのところに鼓膜があるが、一旦耳の孔(外耳道)に入った水は簡単に外に流れ出ないし、耳糞が水で湿ると風通しが悪くて乾きにくいので、そのうちに黴や細菌が発生して炎症を起こす結果になりやすい。そして、知覚神経の密度が高いので、とても敏感に出来ている外耳道に炎症が起きると大変痛い思いをすることになる。炎症が起きないでも耳の中に水が溜まった感じは嫌なものであるし、聴こえも悪くなる。とにかく、水を耳の中に入れて良いことは殆どないと言ってよい。殆どと言ったのは、医者などが耳糞を洗い出す為に水を使う(耳洗ジセン)ことがあるからである。しかしこの場合は短時間であるし、耳の中に水を残さないように注意するから問題は起こらないのが普通である。  
なお、一般の人は知らないで過ごしている現象であるが、耳の中に冷たい水を入れると目が回る(めまいがする)ということである。冷たい水でなくとも熱いお湯(摂氏42度以上)を耳の中に入れても同じく目が回るものである。  
これは鼓膜の外に達した冷水、または温水が内耳液の動きを引き起こすからである。この際、鼓膜に穴が開いていると、水が中耳に進入するので内耳への影響(めまいなどの)はうんと大きくなることは当然である。また中耳に入った水は「中耳炎」を惹き起こすこともあり得る。 
思いがけないことが起こったり、思いもよらない知らせを受けたりした時に使う言葉です。たとえば、「彼が自動車事故に遭うなんて、寝耳に水だった」のように、予想していなかった状況に直面した時に使います。この言葉の由来を、「眠っている時に耳に水が入り、驚いた様子を表している」と想像する方も多いのではないでしょうか。
この言葉の語源は、眠っている時に水の音が聞こえたことに由来しています。これは、豊臣秀吉の生涯を記した伝記『太閤記』の「城中は寝耳に水の入りたるごとく驚き給えり」という一節が元になっているそうです。この一節は、就寝中に洪水が起こり濁流の流れる音が聞こえた、または洪水を知らせる人の声が耳に入った様子を表しています。つまり「水」とは「洪水の音」、眠っている時に不意に洪水が起こるという予想外の出来事が、「寝耳に水」という表現につながったというわけです。それがいつしか、「寝耳」「水」という漢字から連想されて、「眠っている時に耳に水が入った」という意味に解されるようになったのでしょう。 
 
耳にちなんだ言葉  
1995年の5月「耳という字を使った言葉」と題して思いついたことを草して、得々としていた所、日本語表現研究会から「からだ言葉の事典」が1995年9月、「これは役立つ!気のきいた言葉の事典」が1996年の5月に発行されていることを知った。後者の事典では、(身体のパーツを使った気のきいた言葉)の章で、なんと140頁も費やして色々と記載があり、(耳)のことでも44項目の字例が7頁に亘って書き記してあるのを見たので、この改正版では、これらの事典に取り上げられている(言葉)はなるべく避けることにした。  
なお、私は耳鼻咽喉科学を専攻したので、専門用語としての(耳)の言葉も多く知っているが、それらの言葉にも、この稿では、あまり深入りしないようにしたい。  
さて、耳(Ear)という語は、洋の東西を問わず、日常生活に広く使われていることは言うまでもないが、日本でも(方言的使用法)もあるように思う。  
例えば、(いわゆるネコ耳)という語を渡辺淳一氏が「新訳・からだ事典」の中で、ーー"ネコ耳とは、西欧人に多く、耳道腺(耳垢腺のこと)からの分泌が活発で、耳のなかが、いつも濡れた感じがする耳のこと"ーーと説明してあるが、岡山地方では、湿った軟らかい耳垢のある耳を(ジル耳)と言っていたように記憶している。  
ところが、この(ネコ耳)を英語に直訳して、CatEar(キャット・イヤー)とすれば、ProtrudingEar,LopEarとか、CupEarなどとも言われる(人の耳の形)を表現することになる。そして、これらの英語を逆に日本語に直せば、「猫耳」とか「袋耳」となってしまう。もっとも、「袋耳」(=ポケット・イヤー)は、厳密に言えば、「猫耳」によく似ているが、少しばかり異なった奇形の耳を指すらしい。それに、「袋耳」には(奇形の耳)とは全く違った意味があることが国語辞典に出ている。曰く、(袋耳)とは(ザル耳)の反対で、(一度聞いたことを忘れない耳)の意であるとか、もう一つは、(織物の縁を袋になるように縫ったもの)のこととあるからややこしい。  
(猫)の耳の話を出したついでに、他の動物の耳のことについても思いをめぐらせば、(馬の耳に念仏)とか、(馬耳東風)に出てくる(馬の耳)と、(牛耳る)に出てくる(牛の耳)などが、すぐ頭に浮かぶが、(犬)の耳のことは、日本人はなぜか(問題にしない?)ようである。しかし、英語では、DogEar(犬の耳)といって、頁に取り付けるTag(Ear-marker)とか、縫合創で皮膚が剰って盛り上がったところを称ぶ時に使ったりする。日本語で(犬の耳)に少し関係がありそうな言葉を探せば、(耳を揃える)とか、(食パンの耳)などが考えられるだけである。  
それから、(兎の耳)は、日本人は、(耳をピンと立てる)などの時に使わないでもないが、英語ではRabbitEar(テレビの上のおくラビット・アンテナ)としてちやんと使用される。なお、英語の(耳=イヤー)にはトーモロコシの実の部分の名称として使うなど、耳の字は、民族特有の使い方があるものだ。  
さて、動物には、それぞれ特有の耳があるのは勿論だが、人間の耳もよく見れば、個人差がひどく、同じ形の耳は二つとないことは誰しも認めることであろう。そして、耳の無い「無耳」人もあれば、耳が皮膚の下に隠れた「かくれ耳」、ごく小さい耳「小耳」、特に大きい耳(福耳)を持った人もあり、果ては耳が一つ以上ある人「多耳」まであるのだから、いよいよ多種多様になる。  
その中で、(福耳)といえば、ある人の本に、福耳という語を「猫耳」とか「袋耳」などに見られるように、頭の側面から突き出ている耳のこととして使ってあったが、正しくは、仏陀の耳や、七福神のなかの大黒様とか、"福助足袋"の福助さんのように、大きな耳(特に耳垂、耳たぶが大きくて長い)のことであり、福相として人から畏敬される耳である。  
「猫耳」は人間にとっては、奇形の一種で、アメリカでは整形手術の対象になることが多いが、日本ではあまり気にかけないようである。それから耳、耳介の奇形として「カリフラワー耳」というのがある。これは、柔道家とか、レスラーや相撲力士(たとえば貴乃花の耳)などによくみられるが、この奇形は、耳介に出来た(血腫)のなれの果てで、残念ながら整形手術をしても、よい結果が出ないという(厄介なもの)である。したがって、貴乃花なども「カリフラワー耳」なんか手術して整形しようとしないで、むしろ(耳飾り・勲章)のつもりで誇りにして胸を張るのが一番よいことと思う。もともと、耳にはケロイドが出来やすい傾向があるので、やたらに耳に孔をあけたり、耳輪(俗にピアースという)をつけたりしていると、コブ状の肉塊が生ずることがある。しかし、このケロイドの肉塊は流石に(耳飾り)として受け入れる人はないようである。(福耳)でもあまり極端なものは、奇形と見なされて、整形したいという向きもあるかも知れないが、薄気味悪い(トンガリ耳)とか、貧相に見える(小耳)よりは、福々しい印象を与えるので、(福耳)の方が好ましいことは確かである。  
いま述べたように、(福耳)は大きくて長い耳のことであるが、(耳が長い)というと、よく聴こえる耳という意味に使われるし、(耳が痛い)というのは、生理的な「耳痛」のことではなく、痛いところを突かれた時の表現のことが多いものである。しかし、(耳が赤くなる)とか、(顔を赤める)などというと、実際に耳や、顔が赤くなる(赤面する)ことと関係があり、英語でもレッド・イヤーとか、レッド・フェイスという言葉があり、日本語と同じような意味で使用されている。ところが、(耳が痒い)という表現を英語にすると、スニーズ(くしゃみ、くさめ)するとした方が日本語の意味に近い。それから、(耳にタコが出来る)という表現の場合は、英語ではバーン(耳を焼く、耳を焦がす)するという言い方に変ってしまう。日本語と英語の表現法の違いで面白いのは、(目いっぱい)の(目)が英語では、(耳いっぱい・イヤーフル)として(耳)になってしまうことだ。日本人の感覚では、(耳いっぱい)などと言わないで、むしろ(耳カキいっぱい)という微量の表現がピッタリするというところだろう。  
それにしても、耳という字を使った表現は、「日本語表現研究会の事典」に記載されているもの以外にも数多くあり、日常生活を豊かにする?(耳よりな話)に事欠かない。(初耳)、(耳新しい)、(耳慣れ)、(耳に届く)、(耳に残る)、(耳に当たる)、(耳をつんざく)、(耳に逆らう)、(耳に吹き込む)、(早耳)、(鬼耳)、(空耳)とか、(耳年増)などなどは、その事典には取り上げられていない(耳のついた)語である。  
なお、(耳から耳へ)とか(耳から口へ)という言い方もあるが、これらは(目から鼻に抜ける)と共通点がありそうだ。ただ、(耳から耳)と、(耳から口)では、(情報や言葉)が通り抜ける架空の通路をつなげているのに対して、(目から鼻へ)は(涙)が通り抜けたり、逆に(鼻から目へ)では(鼻血)が通り抜ける「鼻涙管」が実在するので少し違っている。面白いことに、英語で(耳から耳へ)=(イヤー・ツー・イヤー)と言えば、大笑いをして口裂が耳に届く位大きく開くことであり、片方の耳から脳を通って他方の耳に抜けるということではない。これは西欧人には(ザル耳)の発想がなく、筒抜けになって、情報が頭にとどまらないのは(頭が硬い、石頭)であるから、はじめから情報がうまく入り込めないと表現するということであろう。  
さらにつけ加えると、(耳から鼻へ)という表現がないのが不思議である。しかし、(鼻から耳へ)空気が抜ける経験は誰しも持っている筈である。それは「耳管」という(通路)がある為であるが、鼻と耳をつないでいる通路は想像することは出来ても、(耳から鼻)に抜けるという実感はないからだと思う。  
情報や知識を取り入れる口として、(百聞は一見にしかず)の格言もあるが、(耳学問)という言葉もあるので、耳は目に劣らない重要さがあるというものだ。言うまでもなく、生まれつき耳が聴こえなければ、言葉は発達しないから、「聾唖」という言葉がある程である。目の悪い人とか字の読めない人には「耳文庫」なる便利なものを造って(耳)を活用する方法も取られている。  
医学用語ではあるが、一般によく知られた言葉には、「中耳炎」がある。俗語の(耳だれ)を「耳漏(ジロウ)」、(耳くそ)を「耳垢(ジコウ)」と呼べば医学用語になる。その(耳くそ)を取る為に(耳を洗う)「耳洗(ジセン)」方法は、日本では殆ど使われないが、アメリカではよく使われる方法である。耳糞(耳くそ)の溜まる(耳の孔)は、医学用語では「外耳道(ガイジドウ)」という。ここには、(耳の毛)「耳毛(ジモウ)」の多い人もあり、脱落した耳毛が耳垢と混じって外耳道を塞ぐこともある。耳くそ(耳糞、耳垢、イヤー・ワックス、セルーメン)というものは、日本ではあまり問題にしないで、時には、市販の(耳掻き)を家庭で使う程度で、専門家の手を煩わすことは少ないものである。諺に(目糞鼻糞を笑い)はあっても、耳糞を使った諺には、お目にかからぬようだ。西欧では、(耳くそ)をイヤー・ワックス(耳蝋)と呼ぶのは、東洋系の乾いた耳垢よりは、ワックスに近い耳垢を持つ人が多いからである。このワックスのように塊った(かたまった)耳垢は補聴器などを使う時に邪魔になることが多い。  
(耳がつまったような感じ)を、医学では「耳閉感(ジヘイカン)」というが、その原因は色々あるので、外耳道が塞がっている為と決めてしまうべきではない。耳を塞ぐためには、(耳栓)を使うこともあり、耳を包帯(耳帯(ジタイ))で覆うこともある。鼓膜を観察するために使うものに「耳鏡(ジキョウ)」というものがあるが、(鏡)とはいっても、顔を映す(鏡)とは似ていない。外耳道は体の中でも、もっとも敏感な所の一つであるが、(目の中に入れても痛くない)と言っても(耳の中に入れても)とは言わないのだから、耳は目に比べるとやや鈍感とされているに違いない。それかあらぬか、子供などはよく耳の中に、消しゴムとか、豆、真珠などの「異物」を入れることがある。ところが、いざ、この「異物」を取り除く段になって外耳道をつつくと、そこが、いかに痛いものであるか、思い知らされることになる。  
耳の字のついた言葉で、歓迎されないものの一つに「耳鳴り」がある。「耳鳴り」については、別稿に譲りたいので、ここでは触れないが、(耳)をつけて形成された漢字について一言して見たい。例えば、耳に(心)をつけると(恥)となり、卯月とか卯の花の(卯)を耳につけると(聊か)になったり、耳の横に幟(ノボリ)をつけたら、(職)になり、聖職の(聖)にも耳が入っているなどがある。また、(聞く)とか(聴く)に耳が使われているのは当然であろうが、(声)の本字には下に耳がついていることは象徴的である。それから、なぜか知らぬが、耳の上に(従)をつけると(聳える)となるが、(竜)が上につくと(聾(ツンボ))となる。更に、耳を(草)で覆うと(茸(キノコ、タケ))となるが、実際に「中耳」から「耳茸(ミミタケ)」が生えてくることがあるのだから面白いものである。また、(口)に(耳)を三ツつけて(囁く)にするなど、漢字を作った先人は粋なものである。 
 
耳垢 
耳の垢(セルーメン)、耳垢(みみあか、じこう)は学術語で、俗には、耳糞(みみくそ)という。英語では、糞(くそ)という表現は取らないで、むしろ、耳の蝋(ワックス)と俗称する。日本人に多く見られる耳糞は、乾いて、かさかさした、魚の鱗(うろこ)のようなものだから、ワックスとは言いかねるが、西洋人種には、蝋の塊を思わせるような耳糞が多いからであろう。因みに、黒人種は西洋型の耳糞である。  
耳の孔に溜まる耳垢は、それが、乾いたものであれ、ジルジルした柔らかいものであれ、鱗状のものでも、蝋状の塊でも、自然に外へ排出される。人体は、全く絶妙に出来ているのだから、耳も、その例に洩れないのは不思議ではあるまい。  
従って、人は自然の理に副って生きておれば、耳糞を目の仇にして、掘り出す必要はない筈である。又、耳糞は、目糞や鼻糞のように、見苦しいものではないのだから、自然に出て来るのに任せておけばよいのに、支那では、昔から、「耳掻き」を発明しているのは何故であろうか?私の想像では、何かの理由で耳が痒くなった時に、耳を掻く道具として、「耳掻き」をこしらえたと思うのだが、耳はひどく掻くと痛いが、軽く、そっと触ると快感があることを発見した為、耳をくすぐる綿のボンボンも、耳掻き棒の後端に取り付けたのではなかろうか。  
耳から快感を引き起こす為に、舌でなめるのも一法かも知れないが、耳の孔に唾を入れると、耳糞が軟らかくなって、耳を塞ぐことになるおそれがある上に、耳に湿気が永く残っていると、空中にある「かび」が生えて来ることもあるので注意しなければならない。  
耳糞は少し酸性であるので、「かび」は着かないという効き目があるが、虫などの進入を防ぐという効能もある。もし、睡眠中に、耳の中に虫が入り込んだ時の「大騒動」を想像するのは容易であろう。大抵の人は、パジャマ姿のまま、救急室に駆け込んで来るが、落ち着いて、頭を働かせて、耳の中に水とか、アルコホールを入れて、虫の動きを止めてから、然るべき医師の許を訪れるのが最良策である。  
このように、耳糞は天から与えられた配剤であるので、大事にしたい所だが、耳の中に補聴器などを入れるようになった為、耳糞が邪魔になり、耳糞を取る苦労が増えた今日である。この際、自分で、耳掻きや、綿棒を使って、耳糞を取ろうとすると、成功しないことも多く、外耳道を傷つけたり、出血を招くこともあるので、矢張り面倒でも、専門家の御厄介になるのが無難である。 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。  
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。
 
 
藪の中 芥川龍之介
検非違使けびいしに問われたる木樵きこりの物語
さようでございます。あの死骸しがいを見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝けさいつもの通り、裏山の杉を伐きりに参りました。すると山陰やまかげの藪やぶの中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山科やましなの駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩やせ杉の交まじった、人気ひとけのない所でございます。
死骸は縹はなだの水干すいかんに、都風みやこふうのさび烏帽子をかぶったまま、仰向あおむけに倒れて居りました。何しろ一刀ひとかたなとは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳すほうに滲しみたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾かわいて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅うまばえが一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
太刀たちか何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄なわが一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛くしが一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通かよう路とは、藪一つ隔たって居りますから。
検非違使に問われたる旅法師たびほうしの物語
あの死骸の男には、確かに昨日きのう遇あって居ります。昨日の、――さあ、午頃ひるごろでございましょう。場所は関山せきやまから山科やましなへ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子むしを垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重はぎがさねらしい、衣きぬの色ばかりでございます。馬は月毛つきげの、――確か法師髪ほうしがみの馬のようでございました。丈たけでございますか? 丈は四寸よきもございましたか? ――何しろ沙門しゃもんの事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀たちも帯びて居おれば、弓矢も携たずさえて居りました。殊に黒い塗ぬり箙えびらへ、二十あまり征矢そやをさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真まことに人間の命なぞは、如露亦如電にょろやくにょでんに違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。
検非違使に問われたる放免ほうめんの物語
わたしが搦からめ取った男でございますか? これは確かに多襄丸たじょうまると云う、名高い盗人ぬすびとでございます。もっともわたしが搦からめ取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口あわだぐちの石橋いしばしの上に、うんうん呻うなって居りました。時刻でございますか? 時刻は昨夜さくやの初更しょこう頃でございます。いつぞやわたしが捉とらえ損じた時にも、やはりこの紺こんの水干すいかんに、打出うちだしの太刀たちを佩はいて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携たずさえて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革かわを巻いた弓、黒塗りの箙えびら、鷹たかの羽の征矢そやが十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法師髪ほうしがみの月毛つきげでございます。その畜生ちくしょうに落されるとは、何かの因縁いんねんに違いございません。それは石橋の少し先に、長い端綱はづなを引いたまま、路ばたの青芒あおすすきを食って居りました。
この多襄丸たじょうまると云うやつは、洛中らくちゅうに徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺とりべでらの賓頭盧びんずるの後うしろの山に、物詣ものもうでに来たらしい女房が一人、女めの童わらわと一しょに殺されていたのは、こいつの仕業しわざだとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出さしでがましゅうございますが、それも御詮議ごせんぎ下さいまし。
検非違使に問われたる媼おうなの物語
はい、あの死骸は手前の娘が、片附かたづいた男でございます。が、都のものではございません。若狭わかさの国府こくふの侍でございます。名は金沢かなざわの武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立きだてでございますから、遺恨いこんなぞ受ける筈はございません。
娘でございますか? 娘の名は真砂まさご、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻めじりに黒子ほくろのある、小さい瓜実顔うりざねがおでございます。
武弘は昨日きのう娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻むこの事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥うばが一生のお願いでございますから、たとい草木くさきを分けましても、娘の行方ゆくえをお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸たじょうまるとか何とか申す、盗人ぬすびとのやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
多襄丸たじょうまるの白状
あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問ごうもんにかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯ひきょうな隠し立てはしないつもりです。
わたしは昨日きのうの午ひる少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子ひょうしに、牟子むしの垂絹たれぎぬが上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩にょぼさつのように見えたのです。わたしはその咄嗟とっさの間あいだに、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪うばうとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀たちを使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派りっぱに生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科やましなの駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫くふうをしました。
これも造作ぞうさはありません。わたしはあの夫婦と途みちづれになると、向うの山には古塚ふるづかがある、この古塚を発あばいて見たら、鏡や太刀たちが沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪やぶの中へ、そう云う物を埋うずめてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時はんときもたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路やまみちへ馬を向けていたのです。
わたしは藪やぶの前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇かわいていますから、異存いぞんのある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺つぼにはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
藪はしばらくの間あいだは竹ばかりです。が、半町はんちょうほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合つごうの好いい場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩やせ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎まばらになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩はいているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括くくりつけられてしまいました。縄なわですか? 縄は盗人ぬすびとの有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張ほおばらせれば、ほかに面倒はありません。
わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星ずぼしに当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠いちめがさを脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛しばられている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐ふところから出していたか、きらりと小刀さすがを引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈はげしい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹ひばらを突かれたでしょう。いや、それは身を躱かわしたところが、無二無三むにむざんに斬り立てられる内には、どんな怪我けがも仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸たじょうまるですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀さすがを打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後あとに、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋すがりつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥はじを見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘あえぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)
こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷ざんこくな人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳ひとみを見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴かみなりに打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭ねんとうにあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑いやしい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒けたおしても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀たちに、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那せつな、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
しかし男を殺すにしても、卑怯ひきょうな殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相けっそうを変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利きかずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目ごうめに、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)
わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡あとも残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉のどに、断末魔だんまつまの音がするだけです。
事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路やまみちへ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後ごの事は申し上げるだけ、無用の口数くちかずに過ぎますまい。ただ、都みやこへはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗おうちの梢こずえに、懸ける首と思っていますから、どうか極刑ごっけいに遇わせて下さい。(昂然こうぜんたる態度)
清水寺に来れる女の懺悔ざんげ
――その紺こんの水干すいかんを着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲あざけるように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶みもだえをしても、体中からだじゅうにかかった縄目なわめは、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転ころぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟とっさの間あいだに、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端とたんです。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚さとりました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震みぶるいが出ずにはいられません。口さえ一言いちごんも利きけない夫は、その刹那せつなの眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃ひらめいていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑さげすんだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
その内にやっと気がついて見ると、あの紺こんの水干すいかんの男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛しばられているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑さげすみの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中うちは、何と云えば好よいかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥はじを御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌いまわしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂さけそうな胸を抑えながら、夫の太刀たちを探しました。が、あの盗人ぬすびとに奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀さすがだけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇くちびるを動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言ひとこと云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹はなだの水干の胸へ、ずぶりと小刀さすがを刺し通しました。
わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交まじった杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸しがいの縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀さすがを喉のどに突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢じまんにはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ふがいないものは、大慈大悲の観世音菩薩かんぜおんぼさつも、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人ぬすびとの手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好よいのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷すすりなき)
巫女みこの口を借りたる死霊の物語
――盗人ぬすびとは妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利きけない。体も杉の根に縛しばられている。が、おれはその間あいだに、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真まに受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然しょうぜんと笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬ねたましさに身悶みもだえをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆だいたんにも、そう云う話さえ持ち出した。
盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡もたげた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有ちゅううに迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚しんいに燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇やみの中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色がんしよくを失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様さかさまにおれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪のろわしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然迸ほとばしるごとき嘲笑ちょうしょう)その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋すがっている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒けたおされた、(再ふたたび迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷うなずけば好よい。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦ゆるしてやりたい。(再び、長き沈黙)
妻はおれがためらう内に、何か一声ひとこえ叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟とっさに飛びかかったが、これは袖そでさえ捉とらえなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
盗人は妻が逃げ去った後のち、太刀たちや弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄なわを切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟つぶやいたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度みたび、長き沈黙)
おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀さすがが一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺さした。何か腥なまぐさい塊かたまりがおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰やまかげの藪の空には、小鳥一羽囀さえずりに来ない。ただ杉や竹の杪うらに、寂しい日影が漂ただよっている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇うすやみが立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀さすがを抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢あふれて来る。おれはそれぎり永久に、中有ちゅううの闇へ沈んでしまった。………  
   (大正十年十二月)