十八女・氏素性
苗字十八女武士と地名名字氏姓苗字足利氏誕生物語家紋 
苗字を知ればルーツが分る漢字名の読み方漢字表記の外国地名・・・ 
海野氏ルーツ興亡史物語

時宗・一遍 仏の世界   

 
苗字

語源 
日本の法律用語では、氏・名とよんでいるが、一般社会では「氏」を姓・苗字・名字とよんでいる。「家」という制度は崩壊し、現在では、家とか家名という言葉は法律上でもありえないのに、家の歴史を探究調査している人は多い。 
「氏」は、血縁または職業を同じくする人々によって構成された部族の公称で、その首長を神格化したのが鎮守で、この氏がのちに家名の代名詞、または□□氏というように敬称にも変化した。戦後の法律では、名前の前半につける呼称と見なされるようになった。 
「姓」は、本来は血筋を表わす呼称で、骨名(カバネ)と呼んでいたが、後に家格を表わす姓になってから誰しもが上位の姓に憧れ、朝廷の許可がないのに、身分の高い姓を僭称する者が続出し、政府も規制することが不可能となったので、次第に姓の尊厳性が失われ、姓は単なる家名となり、氏と姓の区別が曖昧になり混同してしまった。 
「名字」は、天平15年(743)開墾地の私有が認められたことから、平安朝時代より開拓者や土地支配者が、土地の領有を宣言する意味も含め、地名を家名としたことに由来するといわれるが、家名を地名とした例もあり、地名と家名のいずれが早いかは、鶏と卵のような議論となって判然としない場合が多い。しかし、名字を名乗っていやのは豪族でその豪族たちは常に武力で「家」の威勢を誇示していたので、必然的に、名字は武家の名誉を象徴し、余人の僭称を許さない特権的色彩が濃くなっていたものと考えられる。 
「苗字」は、稲の苗が分かれて増殖するごとく、子孫も分家からさらに分家が生まれて繁栄するようにと念願して名付けられたものと考えられる。 
江戸時代になり、貴族または武家のほかは家名を名乗ることが許されなかったにに、特に功績を認められた学者・医師・農民・町民に、幕府または藩主が許可した家名が生まれ、また明治初期に公布された「苗字必称義務令」によって多数の家名が創作されたが、これらの家名は大衆的色彩の濃いもので、氏姓や名字とは異質の呼称であると考えたほうがいいようだ。 いずれにしても、氏・姓・名字・苗字の由来はそれぞれにあって、現在ある家名の多くが、氏・姓・名字・苗字のいずれか区別することも難しいので、この文では苗字と総称したい。  
何姓あるのか  
日本の苗字は約十万姓以上あるといわれているが、少なくとも現在の時点ではその実数は完全には把握されていないのが実状である。それでは、何故実数がつかめないのか。ひとつには、実数を数える場合に明白な定説がないことが挙げられる。 
例えば、同じ字体の苗字であっても、まったく異なった訓読をもつ場合、それとは別に、大田(オオタ・オオダ)/烏丸(カラスマ・カラスマル)/八田(ハッタ・ハチダ)などのような、清音・濁音・促音などの相違を重視して、それぞれ別個の苗字であると主張する人が多数いる。 
四大姓  
四姓といえば源平藤橘で、日本の代表的家名であり、先祖を調査する人にとって重要な家名である。ところが源氏といっても、その祖先は、嵯峨・淳和・清和・陽成・宇多・村上などの諸天皇に始まる諸流があり、平氏にしても、桓武・仁明などの天皇を祖先とするものがあるので、家系を調べるときに、先祖が源氏であるからといって、源義家の同族と思うのは早計である。 
しかし、藤原一族は藤原鎌足が先祖で、その一族の繁栄は、藤の字のつく苗字が多いこよを見ても明白である。これを代表しているのが十六藤とよばれる以下の苗字である。 安藤・伊藤・遠藤・加藤・工藤・後藤・近藤・佐藤・斎藤・春藤・進藤・須藤・内藤・尾藤・武藤。いずれも藤原の「藤」に縁故のある地名、職掌に関係のある字を結び付けた家名である。 
起源  
明治3年9月「平民苗字許可令」が公布され国民全部に苗字を名乗ることが許されたが、庶民は御用金を申し付けられるのではないかと疑った。また僧侶は出家の身だから苗字は不要であると政府の命令に従わなかったので、明治5年9月「住職僧侶名字必称義務令」を布告した。それでも庶民は苗字を名乗ることを躊躇していたため、明治8年2月「平民名字必称義務令」を布告して強制的に家名の創設を命じた。しかし、無学の者が多かったので、これらの人々は、文字を解する神官・僧侶・家主などに命名してもらったが、なかには命名に窮し、それがために珍姓が出現したことも、笑えない事実である。 
そこで苗字の発生した根拠を尋ねてみると 
(1)天孫・地祇(先住豪族)・天皇の子孫に授けられた氏姓。 
(2)朝廷や幕府・主家などから授与、または許可された家名。 
(3)世官名・世襲名などを、後世に伝えるため、その他の理由で、氏姓としたもの。 
(4)氏族の領有地・または分派により取得した土地の名、あるいは種族構成などに縁故のある用語にもとづいて命名した姓氏。 
(5)明治初期の太政官布告により創設された苗字。 
(6)日本に帰化じた外国人、または両親の不明な遺児のために創設した苗字。 
などに、大別できると思う。 
それでは苗字の文字と読み方は、何にもとづいて選ばれたのか。 
(1)住所または出身地や領域の地名、あるいは地形・方位から命名したもの。東西南北・上中下などの字のつく苗字は本家の位置からみた分家の苗字に多く見られる。 
(2)信仰・宗教にちなむ神仏の名・社寺名・葬式・行事または伝説に関連した用語。 
(3)先人の徳望を敬慕して、その人名や徳望を表現したもの。 
(4)祖先の官職名または職業名を苗字としたもの。 
(5)家に伝わる故事来歴、由緒による苗字。 
(6)前項の(二)のほかに、主家の家名を用いる不敬を避けるとか、敵の目を逃れるためういは分家したために、本家の文字を分解(小柴を小比木とする)したり、また統合したり、他字(松平を松日楽にする)にしたり、読み方を変えたりしたもの。字の点を取った文字を用いた苗字もある。 
(7)天象・周易・神秘・畏敬・憧憬の念を表わして命名したもの。武器や飲食物・動植物・家具の名を用いたものもある。 
(8)修養に心掛け、人倫五常などの座右銘・経文・古典などの語句からとったもの。 
(9)瑞祥を祈願し、または優雅を慕い、嘉字や数字・形状・色彩などで表現したもの。 
などが考えられる。
  
訓読の由来  
訓読の由来について、若干の例を見てみる。 
十八女(サカリ) 安徳天皇は実は女帝で阿波に逃れ、供をした湯浅但馬が萱野の開拓した地で十八歳を迎えられたので、十八女村の地名が生まれたという。 
金魚(キンギョ) 壇ノ浦で敗れ、引島に逃れた人が、徳川時代に家名を金魚とよび廻船問屋を営み繁盛したことから、その地を金魚の浜と呼ぶようになったという。 
石渡(イシワタ) 岩礁に流された日蓮上人を漁民が戸板を岩から岩に並べて助けたので、日蓮が感謝して漁民に与えた家名であるという。 
大仏(オサラギ) 鎌倉長谷の大仏を建立するときに大木を伐り出した地に名付けた地名で、北条氏の一門大仏陸奥守の邸宅があった。陸奥国岩代の大仏氏はダイブツと名乗った。大仏が鎮座している高徳院の大正初期の住職は転法輪(テボリ)さんといい、仏教用語のテンホウリンを家名にされたという。 
宿屋(ヤドヤ) 鎌倉幕府が開府され旅人が増加したので、長谷に宿屋が出現し、この地にいた武将が宿屋の地名を家名とした。 
少ない例だが、苗字の訓読にも長い歴史があることが理解できてくる。  
 
武士と地名・名字

名字の発生  
家名をあらわす苗字という語は、草木の苗の意味で、戦国の末から江戸時代にかけて多く使われ、普及した言葉である。その以前には「名字」が用いられている。この名字は律令時代、正式の姓氏に対し、略式に用いられた「あざな」(字)から起こっている。「あざな」というのは、男子が成年後、実名のほかに付ける別名であり、漢学者などはよく「字(あざな)」を使った。それとは別に地名を字とするものがあった。「日本書紀」の仁賢天皇の条に、億計天皇「諱大脚、字島郎」とあるのがそれである。この地名を字とするものは、11世紀の半ばころからにわかに増加してきた。それは地方の富農層が多年世襲耕作していた口分田を私有地化するとともに、未開地や荒廃地の開発に乗り出し、その私有地に特定の名称を付し、自らもこれを「字」として用いるようになったからである。国衙はこの「名」を新たに徴税賦課の単位として帳簿に記載し、名主もその名を事故の称号とした。名田の名には久延・吉則・貞利・福富など縁起のよい名をつけることが多く、これが地名となった。 
国衙の役人であった在庁官人や郡司などもその権威をもってさかんに田畠を開発し、百姓の開墾した田畠をも買得、兼併し、両者を私領として獲得し、それに特別の名をつけた。その名には土地の状況などに基づく名が多く、それが地名となり、さらにその地名に基づいて名字の多くが生まれた。 
しかし、在地領主が名字とした領地は、私領のなかでもとくに開発の拠点とした本領である。領主はこの本領に本宅を設けて付近の開墾を進めると同時に、その一族・郎等および従者としての農民に土地を支給して移住させ、さらに開発を広げていった。在地領主は、その本領を「名字の地」として、一族の団結をはかる重要な拠点とした。 
こうして、名字には地名からとったものが自然大きな部分を占めることになったが、地名からとった名字には、その地形によるものがもっとも多い。山に関係したものでは、山の尾根をさす長尾・横尾・高尾などがある。山口は山の物と里の 物を交換する場所または山手(入会料)徴収の地である。泊瀬は遡江する船の泊まる瀬、江戸や水戸は海から河にはいる入り口で交通の要地、水口・樋口は灌漑水の出る場所で、水口祭などが行われる。 
一方、地方に国司として下り、そのまま土着したものや、介などの有力な在庁官人の中には、国名と出生の氏とを結びつけて、新しい名字をつくりだした。遠藤氏が相良氏と祖を同じくする遠州発祥の氏であることは、相良氏の祖が遠藤介と称したもとからも知られる。一国の守護に任命されたものが、その国名を名字とすることもあった。鎌倉時代の伊賀氏などがそれであろうが、室町時代になうと、それがことに多くなった。足利氏の一族の斯波氏が尾張守に補任された関係で、尾張氏を称したのは、その一例である。しかし、大体一代限りのものが多い。摂津氏などは定着した例である。平安末期以来、郡司に任命された開発領主が、郡の名を名字とすることは、いたるところにその例が見られる。 
庶子家ではその下の郷の名を付けることが多い。一例として常陸平氏といわれる常陸大掾家では、12世紀初頭から13世紀初頭の約一世紀の間に、中世的郷名を名乗る五つの支族と、さらにはそのそれぞれから、中世郷名を名乗る庶子家が分立した。  
荘園の下司や預所の場合には、荘の名が用いられた。武蔵国男衾郡の畠山荘司は畠山氏、上野国新田庄の下司源義国は、新田氏を名字とした。庶子家では分割相続した庄の一部が名字となった。さらに若党や郎等らに至っては、さらに小字や小さい名田の名が名字となった。 
しかしその地が、「名字地」として定着するためには、そこに直接開発にあたった先祖の墓所や葬堂ないし一族の祭祀の中心である神社のあることが必要である。なお、またその名字の地は、その名字を名乗る一族が相伝世襲するところでなければならない。一代限りのものや、個人の勝手に名乗るものであってはならない。加賀介を歴任した林氏のうち林新介成家は、林の嫡流から分かれ、その子成景から板津を名乗るようになった。これは成景がこの板津にはじめて屋敷を構え、それを彼の開発本領=名字の地としたことを意味する。 
名字の地は、こうして一族結合の中心となったが、それが子々孫々に相伝されるには、嫡系の男子による相続の制が確立されていなければならない。一族を代表して、名字の地を惣領し、管理する体制は、11世紀後半以来、在地領主である地方武士の間にほど成立しやものと思われるが、これを惣領制的な一族結合の体制と呼ばれている。それは一族・一門・一流・一類などと呼ばれる同族的な結合であって、従来の氏とは根本的にその性格を異にする。一族の中、同一世代のものを輩行といい、吉とか、親とか名前の一字を共通することによって、同族の意識を高めた。名字はまたそうした一族の意識を象徴するものとして、惣領制の形成と深い関係をもっている。 
公家の世界でも、古代以来の伝統をひく氏族の統制がゆるみ、そこに多数の門葉・門流が分岐して来た。平安末期には、閑院流・日野流・勧修寺流など、藤原氏の諸流が、その本宅や山荘に菩提所を営み、その地名や菩提所の名を門流の称号とし、故実作法の上にも独自の伝承を形成していった。徳大寺実能が洛西衣笠に邸宅を構え、徳大寺堂を菩提所としたのはその一つである。称号の地はやがて名字地ともいわれ、山科家では祖先の墳墓のある山科の地を名字地とも称号の地とも呼んでいる。 
名字が字名から起こり、地名に多くの起源をもつことはこれで知られるが、この中でとりわけ多く普及したのは、藤原氏と源氏・平氏を本流とする名字であった。地方に下った藤原氏では、秀郷流の佐藤が下野を根拠として東北に広がり、利仁流の斎藤が越前、林・富樫が加賀に発展した。これに対し、賜姓皇族の平氏は、坂東八平氏として、早く関東の南部に根を張り、源氏は摂津・河内・近江から、うややおくれて甲斐・信濃に勢いをひろげた。 
この場合、注意すべきことは、これらが地方の豪族として、何故、群少の武士を従えるようになったかということである。一般に貴種の崇拝から地方の土豪がこれを迎えたように云われるが、やはり地方の国司として、また鎮守府将軍としての権威をもって地方の武士を統合していったものと思われる。 
また、地方豪族の中に貴種の出であると称するものが多いが、はたして系図通りに信用していいものかどうか疑問である。地方の武士たちは、貴種の出である藤原氏などの姻戚となることを願い、その姓をも工藤・斎藤など、何々藤と改めた。津軽の安藤氏が、安部氏の出身でありながら、安藤を名乗ったのも、藤原氏の権勢と結びつくためであり、藤原氏の勢いの衰えとともに、安東姓に復帰したものと思われる。斎藤別当実盛も「尊卑分脈」によると、藤原氏の出身ではなく、在原姓であったという。藤の字を冠した名字が西国に多く、下に付けた名字が東国に多く、両者あわせて、藤原氏の末流と称するものが名字の中でもかなりな部分を占めるのは、こうした関係からであろう。
初期の武士団と名字  
地方の武士は、こうして次第に社会的にも進出し、独自の名字をもって、身分的にも庶民と異なった待遇を受けるようになった。ふつう、武士の身分は名字と帯刀の二つを表識としている。しかし、武士が帯刀を特権としたのは、庶民が武装を禁止せられた兵農分離以後のことである。それまでは、百姓もまた武装することができた。ところが、この名字だけはその以前から武士の身分的表識として、鎌倉・室町時代を通して重視されていた。そ れは武士が庶民と違った身分を国家から認められて以来のことである。11世紀以来、朝廷や摂関家にあっては、戦闘集団としての在地領主を、滝口ないし北面の武者として登用しはじめたが、地方にあっても、国司はそれを国 司軍として編成した。国司には、一国内の武士の注文すなわち名簿が備えつけられてあり、それが中央に注進せられたといわれる。国司に備えられた文書の中には、武士の家系と過去の経歴を記した「譜第図」なるものもあったという。これらは、武士の身分の決定が国 司への登録という方法によってなされたことを示すものである。 
鎌倉幕府の創立とともに、武士のあるものは幕府の御家人・非御家人とを問わず、庶民と区別された。御成敗式目の第十五条は「謀書罪科を犯した場合、侍に於いては所領を没収せらるべし」とし、「風下の輩に至っては、火印を其面に捻さるべし」と規定している。侍と庶民の間には一線を画されていたのである。 
この区分は、室町時代になっても依然として続けられている。東寺領山城上下の久世庄では、長禄三年の徳政一揆にあたり、連署の起請文が出されているが、それには「侍分と地下別紙也」とあって、庶民は別紙に書き、名字を記さないのが普通であった。応仁直前と見られる小早川弘景置文においても、「中間は名字無きものにて候間、時の器用干要にて候」と見えている。名字は、中間の様な所従にも名乗ることを許されなかったのである。 
鎌倉時代には、地方豪族の間で、古代以来の名があわせ用いられていた。荘園の本所や国に提出する正式の書類には、紀とか泰とかの氏を用いるのが例であった。また、移住先で新しい名字を名乗る際でも、惣領家の名字をその上に冠して、出自を明らかにするのが慣習であった。三浦和田とか佐々木加地とか、この時期から南北朝時代にかけて、複姓が好んで用いられたのは、まだこの時代の土豪が惣領の下に武力行動の行われていたことを語るものである。 
惣領制の進展にあたって注意されるのは、惣領となる家督家の権限が強化され、惣領家の名字が庶子家に使用することを許されなくなったことである。室町時代になってとりわけこの傾向が強くなった。将軍家の号である足利姓が一族に許されなかったが、豊後の大友氏にあっても、庶子家の被官化が急速に進められた時期に、将軍義詮が、大友名字は能直以来惣領の号であるところ、庶子等が自称するのは自由の儀であるとして、これを禁止する御教書を氏時に与えた。 
本家の名字を簡略化する場合もある。結城の名字が惣領家だけに限られ、他の庶子家は吉成姓を名乗った。肥後の菊池も、その本流が水偏の菊池を名字とするに対し、地方、とくに東北地方に発展してきた菊地が土偏を書くのも、こうしたことからであろう。 
もっとも、戦いに敗れたり、没落したりしたときには、本家の名字と違った別の名字、しかしもとの名字によく似た名字が用いられる。陸奥の岩井郡奥玉村の金氏は、その系図によると、室町の中期永亨の頃までは金であったが、嘉吉の頃には金野、永正以降今野、元和には紺野を称し、いまは金姓に復している。これは「降をなすによって世間を恐れ、紺と改む、出世の節は金野・今野どちらを用いてもよい」と見えている。名字を改めるのにはそれ相当の事情が働いていたのであろう。それにしても改名は、本家の惣領にあやかりながら、庶子家でなければならぬものを要求している。 
惣領制のもとにおける名字として、いま一つ注意されるのは、同じ一家でも夫と妻の名字が別々であることである。これは鎌倉時代、夫と妻の財産が別々に保持され、処分されることから起こった。妻は自分の名義の財産である所領を処分するときは、生家の惣領の許可を必要とした。妻はこのた嫁しても夫の名字を名乗らず、生家の名字をとなえた。将軍頼朝の妻政子は、平氏である北条氏の出であったため、常に平政子を称した。これは中国の慣習にならうものとされるが、事実は中国の宗族と日本の惣領制家族の間に共通な性格があったためである。夫と妻とは名字・財産、そして墓地をも別にすることが多かったのである。この夫婦別姓の慣習は、惣領制の解体した室町・戦国はもとより、江戸時代から明治の初年にまで引き継がれた。江戸時代、武家の妻はすべて里方の姓を名乗った。高禄の武士はふつう妻のほかに何人かの妾をもつのが例であったから、どの腹の子供かをはっきりさせるために、里方の姓を名乗らせたとう説もあるが、疑問である。やはり、保守的な傾向をもつ武士の家族生活に惣領制家族の時代の慣習が残っていたと考えたほうが自然なようだ。
 
武士の移住と名字

名字の分布を調べる際に、一番目につくのは、鎌倉武士の移住と名字の関係である。鎌倉武士の中でも北関東の小山等の豪族は、白河関を越えて陸奥の地方に移住発展している。しかし南関東の武士が本領をはなれて遠隔地に移住したのは、やはり幕府の政治力であった。将軍の頼朝は、平氏を平らげて後、平氏一族とその武将の所領を没収し、部下の将士に賞として与えた。なかでも、西国に分布していた平家の没官領の多くを源氏の御家人に分与したため、その地方には意外に多く鎌倉武士の植民地ができた。豊後国の所領を大友氏等、安芸国の所領を小早川・熊谷・吉川・毛利等の諸氏、越後にあった平家関係の所領を三浦・毛利・大見等に与えたのは、そのあらわれである。 
つぎに頼朝の奥州征伐にあたり、功労のあった諸将は、それぞれ所領を奥羽の地に与えられているが、なかでも多くの所領を海道ぞいにもらったのは千葉氏であった。千葉氏では、常胤の次男師常が相馬郡を本領として相馬氏を賞し、陸奥では行方郡内村々の地頭職を与えられたが、相馬の名字は移住後も使用し、移住の地をも相馬と呼ばせた。これは移住地が未開発の地方で相馬氏の権力が圧倒的であったためである。三男の胤盛は、千葉郡の武石郷を領し、文治五年宇多・伊具・亘理の三郡に所領を賜ったが、その曽孫に至って亘理氏を称した。四男の胤信は大須賀保を本拠とするが、岩城郡に移っても大須賀氏を称した。なお、葛西七郡と称される地域にも千葉頼胤を始祖とする千葉氏の一族が居住しているが、この頼胤は常胤の改名とする説と常胤の七男とする両説があって、明らかではない。いずれにしても、葛西氏の重臣として千葉の一族が繁延し、その名字もこの地方一帯にひろがっている。葛西氏は郷里の地名をそのままに発展したが、居住地の地名を変えることはなかった。 
梶原氏の場合では、気仙郡唐桑村石浜に梶原景時と景季を祭ったお堂がある。これは景時の兄がこの地方に下向したとき、居宅のそばにお堂を立てたのがはじめであろう。梶原の名字もこの地方に多い。本吉地方には熊谷氏が勢力を伸ばしている。その史料は系図だけであるが、この地域一帯の豪族となっている。安芸に下った熊谷氏は三入薗の地頭として発展していったが、近江と陸奥の熊谷氏も今後の研究で明らかとなることだろう。 
なお、北関東の小野寺・阿曽沼・小山の諸氏もそれぞれ所領を与えられ、一族が移住している。関東武士団の地方移住として、つぎに大きな契機となったのは三浦氏の宝治合戦であろう。三浦氏は北条氏に対立する最大の武将であっただけに、その与党の没収せられた所領は大きく、北条氏に近い南関東の武士がその所領を与えられて、それぞれに移住した。三浦氏のなかで北条氏に近かった葦名氏が会津荘の地頭代、渋谷氏が薩摩の入来院の地頭に任命されるなど、地方でも北条氏、とくに得宗家の勢力がいよいよ増していった。この中でも注目されるのは、北条氏の御内人と称される伊豆の武士たちである。工藤・南条・曽我・狩野の諸氏がそれであり、ことに工藤氏は、北条氏の得宗領のあるところに必ずといっていいほど、代官として派遣されている。津軽・南部・寒河江・若狭等々、工藤の名字のあるところは、北条氏の勢力圏であったところということができるようだ。
諏訪氏の場合  
信濃の諏訪氏も北条氏の発展にともなって、各地に活躍した。諏訪の上社の祭神建御名方の子孫は後世神家とも、諏訪氏ともいうが、本来は三輪氏であろうか。上社の社家には、神・小出・矢島・伊藤・長坂・花岡などがあるが「太平記」には神家の一党三十三家が挙げられている。下社の社家のは国造家の流れを汲む大祝金刺氏があり、このほか今井・志津野があり、さらに源氏の流れを汲むという滋野氏もいつのころからか諏訪の一族とまじわって行った。こうして諏訪氏の一族は約百四十氏ともいわれるが、諏訪とか神とか本来の姓よりも他姓を名乗るものが多い。北条氏は信濃に多くの得宗領をもち、諏訪の大祝を有力な味方にしていたから、東国各地の得宗領にも諏訪の一党が代官として派遣された。津軽に神の名字が多くあるのは、このためである。  
鈴木氏の場合  
熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。 
源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。 
伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。北上・鳴瀬などの大河川の流域にも熊野神社が建てられ、上流の宮崎には大崎氏によって大崎五郡の総鎮守である熊野神社が勧請され、その神輿は祭のときはるばる桃生郡にまで巡行したという。陸前唐桑の網主鈴木家も熊野系図に記しているが、その隣村に梶原堂のあるのは、鈴木と梶原が共に活動していたことを物語っている。また、熊野と鈴木氏の関係は北陸にも及んでいる。加賀山内の白川別宮ももとは熊野宮、城主の鈴木出羽守は藤白郷の出身という。  
佐藤氏の場合  
佐藤氏も鈴木氏についで天下の大姓であり、鈴木が関東にもっとも多かったのに対し、佐藤姓は東北のすべての県で一位を占めている。その理由の一つに、佐藤基治のとき、阿武隈の上流の肥沃な信達地方をおさえ、平泉藤原氏政権の有力な武将として、各地に一族を分封させ、相当な地盤を形成していったことがあげられる。第二に佐藤一族が頼朝に降伏したあと、各地に発展したのは、その実力を各地の有力者に認められたためであろう。 
降伏後の佐藤氏の発展については、以下のように考えられる。 
第一、その本拠地信夫郡の佐藤一族では、基治の子隆治・継信・忠信・重光などがあり、継信・忠信の兄弟は義経に従って活躍し、戦死した。文治五年基治は許されて信夫庄に帰ったが、伊勢佐藤氏の系図をみると、基治の子継信の子孫は摺上川上流飯坂を中心として、信夫庄北東部にひろがっている。南北朝の内乱期、一部は葛西氏に従い、本吉郡馬籠に移った。 
第二、信夫の佐藤氏が移住した馬籠と津谷の両村は、早く佐藤庄司の妻の湯沐の地といわれ、ここに佐藤氏の所領があったのであろう。佐藤一族は、この地方を中心として大いに発展した。 
第三、出羽最上郡豊田邑に移住した佐藤一族、さらに田川郡にものび、酒田を経て、新潟・秋田等にひろがった。また一部は同じ出羽の長井庄に移り、最後に伊達氏に従い、仙台伊達の主流をなした。 
第四、宮城郡西根にも、戦いを避けてこの地に土着した継信・忠信の兄七郎の系統が伊達氏の家臣に取り立てられている。なお佐藤は宮城地方の豪族留守氏の執事にもなっているから、馬籠の佐藤氏が葛西氏の重臣になったこととあわせて、佐藤一族の繁栄を考えるべきであろう。 
また、湯の庄司といわれた佐藤氏が青根や秋保温泉の草分けになっていることも面白い。さらに、相馬藩の侍の約20%は、伊達氏に追われた佐藤氏の流れを汲むものといわれ、全国でも珍しいほど佐藤姓の集まるところとなっている。  
名字の固定と混乱 
名字がさかんにつくられたのは、武士の移住と開墾の行われた鎌倉時代のことである。南北朝の内乱後は、相続制も庶子の分割相続から単独相続に変化し、集合家族から、家父長的な直系家族がかたまってくる。嫡子以外の庶子が土地をもらって分家を構える率は少なくなる。分家創設の際も、住地の如何に拘わらず、長く本家の名字を称するようになり、しぜん新しい名字の続出もなくなった。 
しかしその反面、庶民の成長にともなって、庶民にして名字を名乗るものも多く、有名な名字を詐称するものも現われた。ことに戦国末期以降、下克上によって一城の主となったものは、系図をつぎつぎに改編し、氏素性を尊貴名物とすることに苦慮した。一方、戦乱によって主家が没落すると、その一族は名字を変えて領内にひそみ、また多少これを改めて他家に仕官したりした。 
たとえば、肥後の菊池氏のように戦国の末、その一族のなかに酒田や秋田に亡命するものもあり、先に南北朝内乱期、病身のため家督を譲って東北の各地を流浪したという菊池武士の子孫とともに、東北の菊地姓姓のもとをなした。安房の里見の一族や家臣も盛岡付近に亡命している。名字の移動と混乱は、戦国末期にその頂点に達したといえよう。 
名字が混乱すればするだけ、一家を象徴する名字の価値が加わってくる。永亨以来、御番帳には土岐何々とか、佐々木何々とか、有名な氏の同苗にあたる者の名が記されているが、これはその苗字によって政治上儀式上ちがった待遇のあることを示すものである。熊野の御師は佐々木名字とか里見名字とかを全国一円に檀那の対象とし売買している。 
こうして名字は家格を示すものとなり、すべての名誉や財産の象徴として尊ばれ、名字をつぐことが家督相続の大事な要素となったのである。毛利元就は、三子をいましめた自筆の書状に「毛利と申名字之儀涯分末代までもすたり候わぬように御心づかい肝心までにて候」と記している。長宗我部元親がその百箇条で名字を改めるのを禁じているのも、家来をして家の観念を重んじさせるためにほかならない。有力な武将は、一家の権威を高めるため、同じ名字をもつ部下にはその改名を命じ、部下も主家に遠慮して自発的に改名した。常陸の江戸氏が徳川氏の江戸に遠慮して、水戸氏に改めたのがそれにあたる。 
一方、主家は恩賞として部下に苗字を新しく与えた。豊臣秀吉は有力大名に羽柴姓を与え、徳川家康は島津など二十九家に松平姓を与えた。形式的にその一族たる処遇を与えて、その心をつなごうとしたのである。 
このように社会の混乱期には、名字を固定化しようという動きと新しい名字を創造しようとする動きがあったが、結局、後者はそれほど多くはなく、鎌倉時代につくられた武士の名字が大半を占めて、明治に至ったのである。  
 
氏・姓・苗字

氏と姓と苗字 
現代社会にあって、「氏名」「姓名」「苗字と名前」というように氏・姓・苗字ともに個人の名前に対応する「家の名」の同義語として用いられている。しかし、氏・姓・苗字を歴史的・発生的にみてみると、それぞれの時代の社会や政治を反映したそれぞれ別の意味を有している。 
氏 
ウチ(内)、ウミチ(生血)、ウミスジ(産筋)から、朝鮮語・蒙古語に発生を求める説がある。同じ祖先をもつ家族の集団、つまり擬制的なものも含めて血のつながりによって成り立つ同族の集団である。大化以前では、この氏による集団が、社会的にも政治的にも基礎となる集団だった。その統率者を氏上と呼んだ。 
姓 
姓をカバネと呼ぶ場合、氏に付いてその職掌・家格や尊卑を表わす呼称である。カバネとは、女性の血肉(皮)と男性の骨によって出生したことを意味する皮骨という言葉を縮めた古代語。氏を基礎単位として、それを姓によって秩序づけたのが、いわゆる氏姓制度であり、大化以前の大和政権の支配形態であった。 
苗字/名字 
発生的には、名字が先だろう。荘園制度によって土地を所有した名主は、土地の所有を表明するため、土地に自分の名をつけ、所有地を名田と称した。氏から分かれて独立派生駿時代になると、所有地の字名(あざな)を家名とする風習が生まれて、この家名を名字とよび、広大な領域を持った者をのちに大名とよぶようになった。苗字のほうは、平安時代になって子孫が繁栄することを期待して、吉祥を意味する文字を選んで家名とする風習が生まれ、これがのちに苗字と呼ばれる語源になった。 
氏姓制度の時代では、氏と姓を称することで社会的地位や政治的権力を示すことができたが、大化以後は、姓制の改正が行われたり、新旧氏族の興亡などがあって、特定の氏(源平藤橘)が権力を独占するようになると、姓本来の意味は失われていった。 
さらに氏が細分化して日常的な呼称として苗字が生まれてくるのだが、正式の名称として氏や姓がなくなってしまうわけではなく、ことに氏は先祖の家柄を示すものとして重要な意味をもった。例 「足利 左馬頭 源 朝臣 直義」(苗字/職名/氏/姓/諱) 足利氏が源の出自であることを示す氏の名であり、朝臣は姓で源という氏の名に付随する慣例的な呼称。  
しかし、歴史の流れの中ではこうした氏の名も形骸化し、忘れさられ、苗字が一般化していった。それでも苗字の発生をたどっていくと、千数百年前の氏や姓にいきつくこともまれではなく、古い氏・姓が、連綿として生き続けている姿をみることとなる。 
姓氏の起源 
氏の名を称するようになったのは、5世紀末から6世紀にかけての時期と想定される。それ以前はたとえば「卑弥呼」のように氏の名を冠してはいない。 
氏の名をみると、「地名」に由来するものと、氏の「職業」に由来するものとがみられる。 
地名に由来するものとして、葛城・平群・蘇我・巨勢・藤原などは中央の政治にも参画した畿内の有力豪族。また、尾張・日向・筑紫・上毛野・吉備などは地方の豪族。さらに帰化人には、泰・高麗・百済・漢など母国の名を用いたものがあるが、これも地名に含めることができよう。 
職業に由来するもの、いわゆる名負いの氏は、神事にたずさわった中臣・忌部、軍事を担当した大伴・物部・久米などがあげられる。姓は、もと氏人が氏上に対して用いた尊称であったともいわれている。それが氏姓制度という社会的・政治的秩序に組みこまれることにより、氏と姓を併称する日本古代の姓氏となったと考えられる。 
苗字(名字)の起源 
氏や姓とは別に苗字(名字)が家の名として世襲されるようになるのは、平安末期からだ。氏という大きな集団のなかから家父長的な家族が独立して、独自の家名を称え始めたのである。 その一派に公家の称号がある。これは主としてその公家の住む地名をとって呼称としたものだが、男子が結婚して妻の家に住んでいた間は、当然これが父から子へ世襲されることは少なかった。つまり父子代々称号が異なったのである。 
例 (藤原) 閑院冬嗣 > 一条良房 > 堀川基経 > 小一条忠平 > 九条師輔  
しかし、やがて家長の住居である本第を中心にして、代々一家の本拠地が定まってくると、この称号も世襲され苗字として来ていされていった。 
近衛・九条・三条・勘解由小路などはその本第の地名、山科・醍醐は山荘のあった地名、西園寺・徳大寺は祖先の建立した寺院名による。 
また地方では、このころ在地の領主や中央から下ってきた官人による所領の開発が盛んに行われ、彼等は一方では自家の権威を示すため旧来の氏の名を用いながら、他方では自らの本拠地の名を一族の名称として名乗るようになった。名を字名(あざな)としたことから、これを名字という。これが土地とともに世襲され、公的な家の名として認められていった。 
このように、公家の称号にしても、武士の名字にしても、苗字の起源に土地の名に由来するものが多いのは、このような理由によるものだ。 
苗字と名字 
字義のごとく解せば、名字は名田の名に因む字名、苗字は苗裔の名で子々孫々、家系を同じくする人々の集団、というこになろうか。発生からすれば名字が古く、意味も限られてくる。苗字は一般的である。江戸時代には苗字帯刀のように苗字が用いられている。しかし、現在ではそのような差異なく、同じ意味にもちいられている。現在日本の苗字(名字)は十万とも十数万ともいわれ、正確な数は把握しがたいが、世界に類をみない多様性を有していることは間違いない。その発生もまた多様性をもっている。 
古代姓氏の分類(神別) 
天降った神々の姓 
物部氏/饒速日(ニギハヤヒ)命の子孫。モノノフの語が物部よりおこったとされるように、武勇をもってしられる氏族。石上・穂積・弓削・葛野・高橋・額田・長谷部・日下部・今木・内田など。 
中臣氏/祖・天児屋根(アメノコヤネ)命は祭祀をあづかり、神と人の中をとりもつ意からこの名が出た。大中臣・津島・中村・村山・平岡・藤原など。 
大伴氏/高皇産霊(タカミムスビ)神を祖とする。佐伯・大伴大田・大伴山前・榎本・林・神松・家内・高志など。 
日奉氏/大伴氏と同じ高皇産霊神の末。天照大神を祭るための氏族。小山・久米・弓削・斎部・玉祖・玉作・伊与部・恩智・荒田・畝尾・飛鳥など。 
県犬養氏/神皇産霊(イカミミムスビ)神の末。犬を飼育し狩猟にあたる。竹田・間人・矢田部・巨椋・丈部・祝部・犬養・田辺・多米・今木・爪工・川瀬・高野など。 
土着の神々の姓 
大国主命(出雲族)の末/石辺・宗形・賀茂・長柄など。綿積命の末/安曇・海犬養・安曇犬養・凡海・八太など。椎根津彦命の末/青海・倭太・大和・物忌・等禰など。 
天孫族の姓氏 
神武天皇以前に皇族から分かれたとされるもの。 
火明(ホアカリ)命、天忍穂耳(アメノオシオミミ)命の子で、瓊々杵(ニニギ)尊の兄。/尾張・伊福部・湯母竹田・石作・檜前舎人・榎室・丹比須布・但馬海・大炊刑部・坂合部・丹比・伊与部・六人部・朝来・津守・笛吹・次田など。 
天穂日(アメノホヒ)命、天忍穂耳命の弟。出雲に国土奉献を勧告に出向いたまま、大国主命の女下照姫と結婚、出雲に土着した神。/出雲・入間・神門・土師・菅原・秋篠・大枝・凡河内・石津など。 
天津彦根(アマツヒコネ)命、天穂日命の弟。各地国造の祖。/額田部湯巫・三枝部・奄地・高市・桑名・山背・額田部河田・山代・津夫江・大県など。 
火須勢理(ホスセリ)命、瓊々杵尊の子。母は木之花佐久夜卑売。日子穂穂出命の兄。/阿多御手犬養・阿多隼人・二見・大角隼人・日下部・坂合部。 
天道根(アメノミチネ)命、神魂命の五世の孫。/滋野・大村・大家・大坂・伊蘇路。  
 
足利氏の誕生物語

時は1057年、場所は下野国足利。 
「殿、ここはなかなか良い土地ではありませんか。あの大河の流れは、一年中切れることは無いと聞きます。」 
高階惟章(たかしなこれあき)は、奥州遠征の帰途立ち寄った足利の地で、渡良瀬川を背にした陣営にくつろぐ主の源義家(みなもとのよしいえ)に目を輝かせて報告しました。 
主従の関係とはいえ、高階惟章の母冷泉局(れいぜいのつぼね)は、義家の乳母であったので幼い頃より二人は兄弟同様に育てられ、義家にとっては最も信頼のできる家臣の一人でした。 
「ほう、惟章、だいぶ気に入ったようではないか。ではあの大河の南半分を足利よりもらいうけ、そのうちの東半分を荘園として開拓したらどうだ?これでも私は元下野の国守、足利殿も私の頼みなら大河の南の未墾の地を譲ってくれよう。」 
当時、この足利の地は、平将門を倒して一躍関東の大豪族にのし上がった佐野唐沢山の主だった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である藤原系足利氏が治めておりました。 
東半分という言い方がおかしくて高階惟章は、思わずニヤリとしました。 
「で、西半分は殿が鋤鍬をもって開墾するのですか?」 
これには義家も大笑いして答えました。 
「いやいや、これでも私は源氏の頭領、そんなわけにもいくまい。だが叶うなら戦を忘れ、そんな暮らしをしてみたいものだ・・・。そうだ、私は平和を願い、足利の東の地に八幡宮を寄進しようぞ。」 
ふたりは久しぶりに心の奥から笑いあったのでした。 
かくして足利の地は三つに分割され、中心を東西に流れ足利を二分している渡良瀬川を挟み、北半分の足利中心地が土着の藤姓足利氏領、南半分のうち東側を梁田御厨荘(やなだみくりやのしょう)と呼び高階惟章が領有、西側を足利庄八幡郷大将陣(たいしょうじん)と呼び源義家が領有しました。 
これより30数年もたったある日の事、征夷大将軍となった源義家の元へ高階惟章が訪ねてきました。 
「殿、どうでしょう。私にはいつになっても実子ができません。そこで今度生まれた日野様の御子を養子にいただけないでしょうか。」 
日野有綱(ひのありつな)の娘は源義家とは、だいぶ年が離れていたが、義家には最も寵愛されていました。先年義家にとっては三男にあたる義国を出産し、今度の子は四男でした。 
「そうだな。では三歳となったら乳母とともに預けよう。」 
こうして義家四男源義頼(みなもとのよしより)は高階惟章の養子となり、名も高階惟頼(たかしなこれより)と改めました。 
このようなわけで源義国と高階惟頼は実の兄弟でした。兄弟の仲はよく、お互いに信頼しあっていました。家督争いで家が乱れた時も、二人の兄弟はけして争うような関係にはなりませんでした。義家の跡を取るはずの二男義親(よしちか)(長男は早世)が追放となった時、家督は当然三男の義国に譲られるべきでしたが、当時義国は新羅三郎義光(しんにさぶろうよしみつ)(武田祖)の配下として活躍しており、すでに義家にとっては反対勢力と化していましたから、家督は五男義忠(よしただ)から、次男義親の子為義(ためよし)へと義国、高階惟頼兄弟を避けて継がれていきました。二人は家督争いに巻き込まれるように京を追放され、野州足利の地へと逃れるように流れていったのでした。 
源義国は足利庄八幡郷に土着し、高階惟頼は養父の領地梁田御厨荘に土着しました。源義国、これから後、彼は足利義国と名乗り後の足利将軍家の開祖となるのです。高階惟頼、彼は義国の忠実な執事となり、後の足利家の名執事、高師直(こうのもろなお)の祖となるのです。  
足利の地に土着した源義国には二人の有能な子がおりました。長男の義重(よししげ)と次男で正妻の子の義康(よしやす)でした。ある日の事、義国は、二人のわが子を呼び、告げました。 
「よいか、おまえたちは、いつも対等な兄弟だ、兄弟は決して争ってはならない。そこで二人に公平に私の財産を分け与える。子々孫々まで、仲良く相争うことのないよう、伝えよ。」 
そして、弟の義康には正妻の子として家嫡を継がせ足利の地を与え、兄の義重には足利の地と同等の広さの未開拓の隣地を切り開き新たな家を興すよう告げました。 
「足利の隣の地に新田を開き、一族を栄えさせよ。そう、義重、おまえは新田を開く者、これよりは新田義重と名乗るがよい。わしは足利の開拓を終えた身だ。今後は義重とともに新天地の新田で暮らそう。」 
こうして、二人の仲のよい兄弟は、足利義康、新田義重としてそれぞれの家に分かれたのでした。 
「我が源氏のしるしは丸に三本の筋が入っている。中央の一本は、長子の印として義重に、両の二本は次子の印として義康に与える。これよりは両家の家紋とするがよい。」 
こうして二引両(ふたっぴきりょう)の家紋の足利家、大中黒(おおなかぐろ)の家紋の新田家が起きたのでした。 
新しく領主となった足利義康には難問が待っていました。父義国の弟の高階惟頼の領地、梁田御厨荘の扱いでした。渡良瀬川の北に住む藤姓足利氏の足利家綱(いえつな)は、元より梁田御厨荘は源義家に譲った覚えはないと、その領有を主張し、高階惟頼と激しく対立していたのでした。 
「宮廷より梁田御厨荘の領有を正式に認められたというのに、未だに藤原の者達は梁田領に了解もなしに入り込み、荘官のごとく領民より租税と称して野武士のように穀物を奪って行く。もう忍耐も限度というものだ。」 
高階惟頼の子、高階惟真(たかしなこれまさ)は、熱血漢でしたので、足利義康の止めるのも聞かずに、藤姓足利氏に夜討ちをかけました。従兄弟ではありましたが、兄弟同様に育ち仲の良かった足利義康と高階惟真は、性格は正反対でした。 
夜半、渡良瀬川を渡り、藤姓足利氏の居城両崖山に向かいました。不意を突いた作戦は成功したかのように見えましたが、あらかじめ予測し体勢を整えていた藤姓足利の軍勢にたちまち取り囲まれ、高階惟真は、討ち死にしてしまったのでした。 
「よいか、私は戦さを嫌った。それがために、梁田御厨荘の領有問題の解決が遅れた。その結果がこれだ。私は誤っていたのだ。自らの領地領民を守る為には、戦かうよりない。われわれは誇り高き清和源氏。我が祖は天下国家の為に剣を持って戦ってきたのだ。恥じないような力を持たねばならない。」足利義康は、遺骸の無い高階惟真の墓前に一族の者を集め誓うのでした。 
足利義康は、その子、足利義兼(あしかがよしかね)と足利義清(よしきよ)(細川氏祖)に徹底した武人としての教育を行ないました。成人した義兼に父義康は、諭すように告げました。 
「よいか、この足利の地を守るのは力だ。今や都の者どもには、われわれの権利を守る力はない。これからは兄弟力をあわせ、この地を守るように。」 
すると、足利義兼から、思いもかけない言葉がかえってきたのです。 
「父上、守りさえすれば良いのでしょうか。祖義家公は、自らを捨てて天下国家の為に戦いました。我らも都に上って御国の為の戦いをすべきかと思います。」 
足利義康は、義兼の目に天下取りの野望に燃えた炎の目を見たのでした。 
「義兼、よくぞ言った。存分にやってみるがよい。」  
世の中は騒然とした時代でした。伊豆の山中より天下取りの旗揚げをした源頼朝(みなもとのよりとも)は、やがて鎌倉の地に幕府を開き、武士の時代が到来したことを世の中に示す事になるのです。一度は敗北したものの房総半島より再起した源頼朝の元に、足利義兼は、わずか数騎を伴って、足利の田舎より駆けつけました。やがて鎌倉に入った頼朝には関東に敵はおりませんでした。 
さて、北条政子(ほうじょうまさこ)(頼朝の妻)の心を巧みに捕らえて源頼朝の厚遇を手中に治めた足利義兼は早速その威厳を示す目的で、鎌倉に広大な足利屋敷を構えました。それは北条一族の屋敷の規模にも匹敵する物であったといいます。むろん源頼朝は、あえてそれを許しました。そうすることで源氏の血の優位性を関東武士団にしらしめる必要があったからでした。しかし、同じ源氏一族でありながら、足利氏の親戚の新田氏に対する源頼朝の態度は、全く対象的に極度に冷たいものでありました。 
当時の新田荘は、新田一門の努力の開墾で、北関東屈指の規模に発展しており、いまだにわずかな領地を争っている程度の貧しい足利荘とは、比べものにならないほどの規模でした。新田義兼は、新田家の支族程度に没落した思っていた足利氏に頭ごなしの待遇がもたらされるのが、何とも我慢の出来ない事でした。財力的にも、関東武士団の中では、トップクラスの力を持つ新田氏だったのです。それに見合った鎌倉屋敷の建設許可を幕府に申し出ましたが、認められたのは市中に門構えもままならないような、わずかな場所でした。 
「新田義兼殿には、武士の頭領としての才覚は無かった。無かったのにも関わらず、大きな望みを持ちすぎたのだ。頼朝殿も、充分見抜いておられる。今の新生幕府には、新田殿の力は、ただ迷惑なだけなのだ。」 
足利義兼は新田義兼に同情しました。上州から越後にかけて巨大な勢力を持ちながら関東武士団の心を捕らえる事が出来なかったばかりに天下取りのいくさに遅れ、源頼朝の冷遇に耐えなければならない。ほんの数カ月前までは家臣とさえ思っていたたった数百石足らずの足利氏に先を越されてしまったのです。その屈辱感は、相当な物であるに違いありませんでした。 
足利義兼は源頼朝の忠実な家臣としてよく働きました。そうすることで地力を蓄えなければ小国の生きる道は無いと考えての事です。北条政子の義弟としての立場を彼は大いに利用しました。彼は、形の上でこそ源氏の天下ではあるが実態は北条政権であることを当初より正確に見抜いていました。彼はそのロビー外交手腕のすべてを北条氏にむけたのです。 
北条時政(ときまさ)の娘との間に生まれた足利義氏(よしうじ)の正妻に、北条泰時(やすとき)の娘をもらい受けたのもその一つでありました。また別腹の足利義純(よしずみ)には、畠山重忠(はたけやましげただ)と死別した北条時政の娘、つまり足利義兼の妻の姉妹にあたる年上の娘をもらい受けました。 
足利義兼の手腕は戦場の時以上に発揮しました。彼は足利郷での旧来よりの絹織物生産に全力を上げさせました。可能な限り高級に仕上げ、その大半を蓄財ではなく、外交に利用しました。これが絶大な力を発揮しました。金を積んでも入手できない高級品となると、多くの武家の女達が争って、つてをもとめて足利義兼の所へおとづれ請い求めます。これを政治賄賂として利用して、鎌倉での足利氏の地位はますます高まったのでした。 
やがて時は移り足利義兼の子足利義氏の代になると、その地位は不動の物となりました。宝治二年(1248)、結城朝光(ゆうきともみつ)は足利義氏よりの書状を手に、声を荒げ、家臣に何事かわめき散らしていました。 
「足利の田舎者が、このような書状をよこしおった。」 
家臣の一人が、放り投げられた書状を手に読み返し、不思議そうに主人に訪ねます。 
「ただの連絡事かと思いますが、なにかこの文面に不快な事でも?」 
「わからぬのか。たわけ。結びの肩書を見よ。」 
言われて家臣は、ハッとしました。そこには、「結城上野入道殿、足利政所」とあるではありませんか。結城家も足利家も幕府の御家人の立場、いわば同輩であり、当然主従の関係にはありません。書状では「結城政所殿、足利左馬頭入道」と相手を立てた書き方をするのが当然の礼儀であるのに、これでは相手を見下している事になります。 
ただちに結城朝光はさほど必要とは思われないこの書状の返書をかき、最後に、ことさら墨を濃くしたうえで「足利左馬頭入道殿、結城政所」と添えました。事は、ついに執権時頼の所にまで及び、時頼は、双方を呼び事情を聞きました。結城朝光は結城家が源頼朝の元で活躍した家系を示し、足利は我が名門結城よりはるかに家格は下であると主張しました。一方の足利義氏は結城氏は元々源氏の元で働く者であると主張し、そのうえで、我が足利は源氏の嫡宗が途絶えた今では、最も源氏宗家に近い、いわば源氏頭領である。つまり結城家は足利家より家格が下であると訴えました。 
幕府創設期にはたしかに名門結城氏であり、いかに源氏の血を引くとはいえ当時はなりあがりの足利氏のほうがはるかに家格は下と思われていました。しかし、執権時頼の裁定は御家人達を驚かせました。時頼は、双方を同格と裁定し、双方を宥め、事を治めたのです。 
ついに足利氏の力を幕府も認めざるを得ない時代がきた象徴的な出来事でした。足利氏は源氏の頭領としての地位を着々と手中に治めつつありました。  
足利義氏は、嫡子に義父の北条泰時より一字をもらい、泰氏(やすうじ)と命名しました。すでに北条執権の力は国を安定させていました。北条一族でありしかも源氏の嫡流という名誉な地位を築いた足利家は、その勢力を全国に広げていったのでした。とくに三河地方は足利の経済基盤を大いに強めることになりました。ここは肥沃な土地で農生産物が豊かに取れ、しかも東西の経済交流の中間点として栄えました。足利義氏は、泰氏の兄にあたる長氏にこの地を与え、治めさせました。足利長氏は、やがて後の時代に戦国大名として名をはせる今川家、吉良家の祖となるのでした。  
また、いとこにあたる足利義実からは細川家、仁木家のやはり名家が誕生することになります。兄弟には畠山家、桃井家をそれぞれなのらせ、巨大な足利一門を全国に形成していったのでした。  
足利氏の勢力拡大は足利義氏の子、足利泰氏の代に最大になりました。その子らは、一色公深、石塔頼茂、渋川義顕、斯波家氏となり足利家を支える重臣となりました。北条氏の勢力拡大に平行して足利一門の黄金時代が築かれていったのです。  
ある日の事、足利泰氏の元に、奇妙な来客がありました。出で立ちこそ今から戦場に向かわんとするりりしい武士の姿ではありましたが、その言葉遣いは、どうみても似つかわしくない京なまりでした。それでもにわか仕込みのあずま言葉でうやうやしく挨拶をするので、思わず足利泰氏は吹き出してしまいました。  
「はあ? 平石殿、そんなに私の言葉は奇妙ですか。」  
足利泰氏は、鎌倉御家人からは、特別の親しみをこめて平石殿と呼ばれていました。この京なまりの男もそれにならい足利泰氏を平石殿と呼んだのです。  
「いやいや、失礼した。貴殿は公家と見たが、いったいその格好はどうなされた。」 足利泰氏は、この奇妙な来客にたいそう興味をもちました。  
「はい。私はご察しの通り、京は勧修寺(かんしゅうじ)家の者で名を重房(しげふさ)と申します。このたびの宗尊将軍の下向に従い鎌倉に参ったばかりでございます。」  
あいかわらずの京なまりで、しかし勉強したと思われる間違いの無い鎌倉言葉でした。 「それが何故にそのような武家の格好をしておるのか?」  
聞くと、この勧修寺重房という男、鎌倉下りに際し、公家を捨てて武士になる決心をしたといいます。そのため京で武家の風習を習い、言葉も覚えたという事でした。  
「公家などと聞こえはいいが台所は火の車。そんな未来の無い公家には、もう飽き飽きいたしました。これからは武士の世であります。どうでしょう平石殿、私を家臣の末席に加えてはいただけませんでしょうか。」  
その目には、何とも言えぬ光がありました。 「なぜにこのような鎌倉の末席の足利に?貴殿の家柄なら仕えるにふさわしい家がいくらでもあるだろうに。」  
勧修寺重房は、その言葉にニヤリと含み笑いをしました。  
「京では、家柄で家格が決められます。都の者達に聞けば鎌倉で一番家格が上なのはどこのお屋敷か決まっております。それは清和のみかどの血に最も近いお方でございます。伊豆の山賊の末裔などではございません。」  
その言葉にはさすがに足利泰氏は驚きました。そしてそれは足利家のだれもが潜在的に心の中に秘めた事でもあったのです。  
「おもしろい。勧修寺重房殿、都の事情に詳しい貴殿の能力を買って、ぜひ我が足利に来てもらおう。」  
勧修寺重房は、こうして足利氏に仕え、名も公家名字から武家名字の上杉と改め、上杉重房(うえすぎしげふさ)と名乗りました。後の時代に、足利本家をしのぐほどの関東の名門となる、上杉家の初代でした。
上杉重房は、頭の切れる男でした。次々と公家との橋渡しを実行し、京での足利氏の足場作りに奔走しました。こうして足利泰氏の絶大な信頼のもと三番奉行として足利一族内部での発言力はどんどん高まっていったのです。 
上杉重房の娘が側室として足利泰氏の跡取りの足利頼氏(よりうじ)の元に上がり血縁となった時、その立場は歴代の筆頭執事の高階氏に次ぐ地位にまで上っていました。やがてこの側室から生まれた男子が足利家始まって以来の北条家の母でない嫡子となったのです。足利家時(いえとき)でした。足利家時は、露骨なほどに母方の上杉氏を最も重用しました。本来なら家督を相続できる立場になかった自分を強力にバックアップし、現在の地位に導いてくれた上杉氏に絶大な信頼をよせていたのです。代が上杉重房から上杉頼重(よりしげ)になってもその気持ちに変化はありませんでした。何事に付けても上杉頼重の勧めにしたがい強大な足利氏の舵取りを行なっていったのです。もともと京の公家達に強いつながりを持っている上杉氏のフル回転で、足利家時は京での立場が大いに向上していました。京では足利家時は式部大夫と呼ばれ、鎌倉ではそれが足利家時の京かぶれを象徴するものとして陰口の際の陰称として使われていたほどでした。事実、足利家時は京の都に憧れていました。上杉頼重の働きで六波羅探題時茂の娘を妻に迎えてからは、毎夜毎夜聞かされる都の艶やかな話に、その気持ちはつのるばかりでした。 
文保元年、足利家時は三十五歳になっていました。その日、先年高階重氏より足利家執権を引き継いたばかりの高階師氏(たかしなもろうじ)が足利家時を訪ねました。 
「殿、我々は祖義兼公以来の関東武士でございます。もう少し御家人達を大切にしませんと・・・。」 
「またおまえの愚痴か。私は武士には、とんと愛想がつきておる。もう剣を取って野蛮な戦いをする時代ではない。だいたい、おまえのかぶれておる義兼公を始めとして歴代の足利一門のやってきた事といったら何だ。鎌倉将軍や執権殿に媚びるだけの家系ではないか。どこに関東武士の名誉などあると言うのだ。私は太刀を捨てて京屋敷に暮らすのが今の夢だ。少なくとも鎌倉殿にへつらってきた御先祖よりはましというものだ。」 
毎度この対立の繰り返しでした。古い関東武士気質の高階重氏には、モダンな上杉頼重に感化され切った足利家時が、どうにも歯がゆかったのです。 
「殿、今日はその事も有りますが、ぜひ殿に見ていただきたい物がございます。祖義兼公より足利家に代々継がれてきた秘宝でございます。これには、義兼公より伝えられた古文書が入っております。代々足利を継ぐ者は、これを読み、読んだ者はたとえわが子であろうとその内容を他の者に話してはならないという掟がございます。代々執権を務めております高階が大切に管理し、足利家の当主になった方に一度だけおみせする習わしになっております。ぜひ殿のお手で開けてくださいますようお願い申し上げます。」 
言われて眺めると、古めかしい、しかし管理の行き届いた黒漆の箱がそこに置かれてありました。年数の経つ父の花押の封印を破るとそこに緑青を吹いた錠がありました。懐剣で軽く叩くと簡単に錠は開けられました。中にはだいぶ変色した文書が入っていました。 
それをやおら取り上げ無造作に読みだした足利家時の顔がみるみる蒼白になっていきました。しばし呆然とその文書をながめていた足利家時は、ふらりと立ち上がると夢遊病のように奥の部屋に入っていったのでした。 
その日、足利家時は自害しました。 
古文書には、祖源義家が、死に際し自分は七代目の子孫に変わって天下を取ると遺言したとしたためてありました。そのためには歴代足利家を継ぐ者は、自分を犠牲にして七代目の成就の為に尽くせ。ひたすら耐え忍びその時の為に蓄えよ、ともありました。その七代目がまさに足利家時だったのです。足利家は、その大きな野望の為に代々の主君が恥を忍び権力者に媚び力を蓄えてきたのです。なのに足利家時はそんな先祖の所行を恥じ軽蔑し、武士を捨てたいとさえ思っていました。全てが義家公の生れ変りとなる自分の為にしたことなのに。 
足利家時は遺言を残し自害しました。 
「南無八幡大菩薩。私は足利家の悲願を成就させるべき立場にありながらこの所行。恥じ悔いております。願わくば、この命ささげますのでどうか三代後にふただび生れかわり真に天下を取らせたまえ。」  
足利家時の自害は足利一族に衝撃を与えました。自害の理由を足利家執権の高階師氏に問いつめる家臣も多くいましたが、高階師氏は、重臣以外にその理由を明かすことを強く拒みました。  
噂は鎌倉中に流れたが、誰もその正しい理由はわかりませんでしたので、 「足利一族には、悪い血が流れている。どうやら足利氏は代々頭に障害のある者が誕生するらしい。」  
などといった噂がもっともらしく飛び交いました。高階師氏は、幕府に対し足利家時がにわかの病死のため家督を長子に継がせるむねの届け出を淡々と行いました。  
「足利殿の子は何と申したかのう?」 執権の北条貞時は、北条一族にも使わない丁寧な言い回しで、足利家時を足利殿と呼びました。  
「はい、烏帽子親の貞時(さだとき)様より一字をいただいた足利貞氏(さだうじ)と申します。」  
時の執権に烏帽子親になってもらい、その名をもらうのは足利家の伝統でした。足利義氏は北条義時から、足利泰氏は北条泰時から、足利頼氏は北条時頼から、足利家時は北条時宗からと、それぞれ名を貰っていたのです。  
家督を継いだ足利貞氏は熱血な青年でした。  
「本来、将軍は得宗より身分が上である。将軍とは、もともと関東武士団を統率し、天子様の元で天下に号令する役目をもっている。それなのに今の将軍は京都より招かれた人形ではないか。将軍には将軍にふさわしい関東武士で源氏の嫡流が任命されるべきである。」  
と公言してはばかりませんでした。これが意外にも鎌倉御家人の間に評判となりました。鎌倉御家人は源頼朝の元で戦った先祖をみな誇りとし、いかに勇敢に戦ったかを家の自慢としていました。源氏の嫡流の号令のもとで、天下の大業を行なうことは御家人たちの共通の夢だったのです。  
足利貞氏には美しい妻がありました。父方の親戚である上杉頼重(よりしげ)の娘です。足利貞氏は子どもの頃から上杉屋敷に遊びにいくたびに見かける美しい姫に憧れていました。家臣のなかには、元々足利一門ではない上杉の力が足利家の中でますます強くなる事を快く思わない者が多くいましたが、足利貞氏のたっての望みで父家時に許され娶った妻でした。  
上杉頼重の娘は清子(きよこ)といいました。清子は美しい姫でした。それと同時に決断力がある才女でもあったのです。 「私の勤めは征夷大将軍の母になる事です。」  
足利家時の自害の本当の理由を告げられた清子は、はらはらと涙を流しながらも、足利貞氏に向かってはっきりと言い切ったのでした。  
「おお征夷大将軍とな。それは場合によっては北条に弓を引く事になる。なかなか大きな事を申す。」  
足利貞氏は驚きながらも、自分の心を理解してくれる妻を娶った事を誇りに思いました。 足利貞氏はわが子を部屋に呼びました。  
嘉元3年(1305)に清子の産んだ長子は13歳に成長していました。  
「又太郎。我が父は祖義家公の遺言により義家公の生れ変りであった。義家公は八幡大菩薩の化身である。このたびその遺言により、そなたにすべてを託すとあった。つまりはそなたには本日より八幡大菩薩となったのである。このことしかと伝えたぞ。」  
又太郎は色白で貴公子にふさわしい顔立ちをしていました。 そのきゃしゃな身体でうやうやしく父の前に礼する又太郎の顔は含み笑いをしていました。  
2年後、足利又太郎は元服し、従五位下、治部大輔に任ぜられ、名も得宗北条高時より一字をもらい、足利高氏(あしかがたかうじ)と名乗りました。こののち北条執権幕府を倒し、京都の室町に新幕府を開き十五代にわたり栄えることになる足利初代将軍足利尊氏の登場でした。
源氏とは固有名詞の姓ではない 
「源氏」という姓は、皇族賜姓の一つで、嵯峨天皇(786〜842)の弘仁5年(814)に、皇子を皇族から臣下の籍に下して「源」の姓(かばね)を賜ったことに始まる。 
その後が、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・花山・三条天皇等から出た源氏がある中で、清和源氏が武門に秀で、後に源頼朝が鎌倉幕府を開いた(1192年)ことで有名になった。 
嵯峨天皇の時に、初めて「源氏」となったのは、「本朝皇胤紹運録」によれば、嵯峨天皇の御子、50人のうち、男子では、源信・源弘・源常・源寛・源明・源定・源鎮・源生・源澄・源安・源清・源融・源勤・源勝・源啓・源賢・源継、また女子では、源貞姫・源潔姫・源全姫・源善姫・源更姫・源若姫・源神姫・源盈姫・源声姫・源容姫・源端姫・源吾姫・源密姫・源良姫・源年姫ら、男子17人、女子15人の、計32人である。他の御子18人は、親王または内親王として皇族の籍に残ったのである。 
嵯峨源氏のうち、融は左大臣従一位、信と常の二人はいずれも左大臣正二位。弘は大納言正二位、定は大納言正三位兼左大将。明は参議兼刑部卿、生は参議従三位兼右衛門督、勤は参議兼従三位左兵衛督。寛は宮内卿正四位下、安は備中守従四位上、勝は従四位上、啓は越前守従四位上、継は従三位。以上が公卿である。その他には、出家した人、無位であったものがそれぞれ二人ずついる。なかでも、源融は河原院や宇治の別荘などの豪華な邸宅を造り、物語や説話の上でも著名である。 
一方、女性の源氏では潔姫は臣下の藤原良房(804〜872)に嫁して、明子を生んだ。明子は後に文徳天皇の女御となり、清和天皇を生んだ。明子は染殿后として著名。「伊勢物語」に昔男在原業平との逸話が語られている。潔姫は正三位に叙せられたが、全姫は、後宮に出仕し、正二位、尚侍となっている。 
御子が大勢いることは、皇室の財政を逼迫するために、御子たちの中で母方の出自が低い子たちを主に臣下の籍に下して、自活して生きて行かせたのである。
 
家紋

日本において古くより出自といった自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた紋章である。単に紋所(もんどころ)や紋とも呼ばれる。日本だけで241種、5116紋以上の家紋がある。また、現在採取されているだけで2万近くの家紋が確認されている。 
英語圏で用いられる象徴(Symbol)は抽象的な図案を指し、紋章(Coatofarms)は視覚的な図案を指すが、日本の家紋は「兜飾り」の意味からFamilycrest、Crestといった英語で表現されている。これは西洋の個人紋章(Coatofarms)の構成要素であるクレスト(Crest)は一族・家族で共有することがあり、日本の家紋と同様の機能を有するからである。日本名を音訳してmon、kamonとする場合もある。 
家紋は今日まで息づいている日本固有の文化であると言っていい。「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれる源氏、平氏、藤原氏、橘氏といった強力な氏族が最も名を馳せていた時代、地方に移り住んだ氏族の一部が他の同じ氏族の人間と区別を図るため土地の名前などを自分の家名(屋号)とし、それが後の名字となった。家紋は家の独自性を示す固有の目印的な紋章として生まれ、名字を表す紋章としての要素が強い。 
その後、武家や公家が家紋を使用するようになり、血統や元々の帰属勢力としていくつかのグループに大きく分けることができ、それぞれが代表的な家紋とそのバリエーションで構成される。その他、各地の豪族がそれぞれ新たに創作した家紋が現代まで伝わっているものもある。特別な紋章や場合を除いて、家紋を幾つも所有することは自由であったこともあり、墓地や家具、船舶にまで付けられるほどまでに広まる。家紋は人々の暮らしに息づいていた。刀や甲冑といった武具にも、好んで使用されていた。しかし家紋の使用に制限はなかったと言うが、他家の家紋を無闇勝手に使用してはそれなりの軋轢や摩擦が生じる。特に大名や将軍などの、地位の高い家のものとなれば尚のことであった。そのため、他家の定紋は出来るだけ配慮して使わないこととする暗黙の了解があったとされる。  
歴史 
平安時代-鎌倉時代 
家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。奈良時代から調度や器物には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、平安時代になると次第に調度品に文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、貴族が各家固有の目印として使う特色を帯びてきた。そして平安末期に近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説がある。 
その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていく。例えば上記の西園寺実季は「鞘絵」を、徳大寺実能は「木瓜」を、菅原一族などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、鎌倉時代にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していった。 
武家の家紋は公家よりも遅れ、源平の対立が激化し始めた平安末期に生まれる。戦場において自分の働きを証明、また名を残す自己顕示のため各自が考えた固有の図象を旗幕、幔幕にあしらったことが、その始まりであったと考えられている。源氏が白旗、平氏が赤旗を戦場での敵味方の区別を付けやすくするための認識性のために掲げた。旗に家紋の原型となる紋章を描くことはなかったが、家来である武蔵七党である児玉党は後の児玉の家紋になる「軍配団扇紋」の「唐団扇」を軍旗に描いている。このことから、武家の家紋も公家と同じく平安後期に生まれたと考えられるが、それもわずか数えられるほどで、爆発的に普及し始めるのは鎌倉時代以後となる。鎌倉中期頃にはほとんどの武士は家紋を持ち、家紋の文化は武家社会に定着していたと考えられている。 
本格的な合戦が増えた鎌倉時代には、武士にとって武勲を上げる機会が増えた。そのため必然的に敵味方を区別したり、自身の手柄の確認させたりするための手段が必要となり、幔幕や幟旗、馬標や刀の鞘など、ありとあらゆる物場に家紋が入れられた。 
公家社会においては武士のように名を上げるために家紋を使用する必要はなかった。そのため室町時代に入る頃にはほとんど廃れてしまう。そもそも家を識別するために紋章を使用するという発想は武家のものであり、その存在自体が厳格な家格の序列に固定化された公家には、そうした紋章をあえて使用する必然性がなかったのである。したがって公家の家紋は「武家にならって作られた伝統」だという側面が強い。 
南北朝時代-室町時代-戦国時代 
南北朝時代に入る頃には、「大紋」といった直垂に家紋が縫いつけられた衣服が武士の間で普及する。室町時代頃から、紋章を付けた衣服のことを礼服と呼ぶようになるが、礼服に必ず家紋をつけるという発想や考えはまだ一般化してなかった。その考えが定着し始めたのは、大紋から発展した「素襖」や「肩衣」といった衣服が出始めた室町時代中期の東山文化が栄えた頃だと言われる。同じ頃、羽織が生まれた。 
戦国時代に入ると同族同士で戦い合うことも増えた。敵・味方の区別をしやすくするため、この頃から急激に家紋の種類が増え始めた。 
同時期、「平紋(ひょうもん)」と呼ばれる2・3色に柄を色分けた家紋が流行した。例えば安土桃山時代、朝鮮に出兵した武将・加藤清正の平紋柄の桔梗を小袖につけている肖像画が、京都の勤持院に残されている。この柄は江戸時代に入っても人気は衰えず、元禄頃の華美な家紋が流行した時期などは派手好きな民衆に特に好んで使用された。 
江戸時代 
江戸時代には、武士同士による激しい戦はほとんどなくなり、合戦における敵味方の区別のように実用的だった家紋の役割は変化していき、一種の権威の象徴となっていった。 
士農工商という身分が明確に分けられていた階級社会があった江戸時代では、家紋の用途は相手の身分や家格に応じて自分や家族の身なりを正すためであったり、家の格式を他人に示したりする、相手の身分を確認したり示したりするといった目的に変化した。 
また日本では、一般庶民も広く家紋を所有し使用した。百姓、町人、そして役者・芸人・遊女などといった社会的には低い階級に位置づけられた者までが、自由に家紋を用いたのである。これは貴族などごく限られた者しか家の紋章が許されないヨーロッパ各国とは対照的である。 
一般的な百姓・町人は苗字の公称ができなかったが、家紋を用いることは規制されてなかったため、家・一族の標識として機能していった。 
さらに江戸時代には、「羽織」や「裃」など礼装・正装の衣服に家紋を入れる慣習が一般化する。元禄時代に入ると、人々の生活は次第に華やかなものになっていき、家紋を持っていなかった人々も家紋を必要とする機会が生まれ、豊臣秀吉の吉例によって「五三の桐」紋が下層庶民に好まれた。また一般の家紋も装飾化され、武家や庶民が用いる家紋も華美・優美な形に整っていった。そのため、左右や上下対称になった家紋や、丸で囲んだ家紋が増え始めたのはこの時期であると考えられている。 
また、幕末頃ヨーロッパではジャポニスムとして家紋のデザイン性が評価され、アール・ヌーヴォーの絵画などに使用された。 
明治時代以降 
明治時代になると欧米文化が流入したが、上流階級を除き洋装が急速に普及したわけではなく、むしろ身分規制がなくなったことにより庶民が紋服を着用したり、墓石などに家紋を入れることが増えた。また当時盛んだった国粋主義や家意識の表象として多く用いられた。その一例としてオーダーメイドの軍刀の柄金具に銀細工で所有者の家紋を入れることがあった。 
現在 
第二次世界大戦後は戦中にピークに達した社会的重圧を「軍国的」「封建的」の概念で否定するようになり、家紋はその表象のひとつとみなされることもあった。また関心が欧米文化に傾倒するに伴って紋服などを着用することが少なくなり、国民の間で家紋は次第に縁遠いものとなっていった。しかしそれでも家紋は、現在でもほとんどの家に一つは伝えられており、冠婚葬祭などで着用される礼服には必要不可欠なものになっている。また伝統芸能や老舗では現在でも定紋を前面に打ち出して活動する者も多い。  
分類 
定紋・代表紋・替紋 
源平藤橘や物部、大伴と呼ばれる氏族の権力が全盛期であった頃、何千という名字が生まれ、その後次第に家紋が用いられ始める。家紋が生まれて間もない鎌倉時代や平安時代は江戸時代の元禄頃とは違い、家紋の種類や形は多くはなかった。そのため、美しく人気のある家紋や描きやすい単純な図案の家紋ほど好まれる傾向にあり、同名字であっても異なる家紋を利用しているケースもあれば、異名字であっても同じ家紋を利用していることがあった。 
同じ氏族の中で比較的多く使われている家紋は代表紋(だいひょうもん)、または表紋(おもてもん)といい、その氏族の代表的な家紋として扱われていた。例えば、藤原氏から分かれた長家や那須といった支流では、もっとも使用されている家紋の「一文字紋」を代表紋としている。また、当時の武士の間では同名字でも複数の異なる家紋を使用することが一般的であったため、公式に示すための正式な家紋が必要とされた。そういった各個人が決まって用いる家紋のことを定紋(じょうもん)または「本紋」や「正紋」という。 
基本的に、諸大名や将軍家では定紋を嫡子だけにしか継がせなかったため、また時代とともに一家系で持ちうる替紋の数が増えるに連れて、定紋の権威や価値や必要性は強まっていった。「替紋(かえもん・たいもん)」とは、本来の家を示す公式的な家紋である定紋以外の家紋のことである。替紋は「裏紋」、「別紋」、「副紋」、「控紋」などともいう。後述しているが、家同士での家紋のやりとりが頻繁にあり、家紋を自由に創作することがあった。そのため、本来の家紋の意味を逸脱した家紋を多く持っている家もあった。例えば、伊達政宗らの仙台伊達家は使用した家紋の数が多いことで知られ、江戸中期には、定紋の「仙台笹」を初めとして、「伊達鴛鴦(だておしどり)」「九曜(くよう)」「丸の内に竪三つ引(まるのうちにたてみつきひ)」「雪輪に薄(ゆきわにすすき)」「八つ薺(やつなずな)」「五七桐」「十六菊」、の7つの替紋を用いている。 
通紋 
江戸時代に入ると、華美で装飾的な家紋は武士に限らず、庶民にも利用された。そういった少数の家や個人が独占できなくなった家紋のことを「通紋(つうもん・とおりもん)」という。通紋は、例えば「花菱紋」といった一般的に優美な家紋に多い。「五三の桐」や「蔦」などはその一般性から、貸衣装の紋としてよく使われている。 
神紋・寺紋 
神社や寺でも各々に用いる固有の紋があるが、特に家紋と区別してそれらの紋は神紋(しんもん)や寺紋(じもん)と呼ばれる。しかし同じように校章といった各学校における紋章や、会社など社団法人には社章も存在するが、家紋の数や種類と比べると圧倒的に少ないため、日本の紋章学者の間では「紋章=家紋」という認識が一般的である。 
神紋には、各神社にゆかりのある公家・武家の家紋が用いられる他、唐などにおける図案や由緒縁起にまつわる図案など独自の意匠が用いられていることも多い。神職の系統の家系では、神紋が家紋代わりとなっている(花菱紋、柏紋など)。 
女紋 
主に畿内(関西地方)を中心とした西国において普及している風習の1つである。女紋とは実家の家紋とは異なり女系から女系へと伝える紋章のことであり、実家の家紋とは意匠も由緒も異なる。関西の商家では外部から頻繁に有能な入婿を迎えて家を継がせる女系相続が行われたため、自然発生的に女系に伝わる紋が生まれたといわれる。特に近畿地方の商家においては「家紋が一つしかない家は、旧家とは言わない」ともいい、代々の女紋を持つ家は相当な旧家として敬意を持って遇されることが多い。関東をはじめ関西以外ではこの風習は希であり、女紋という文化のないところでは婚姻に際し、習慣の違いからしばしば難色を示される場合もあるという(嫁いだのであるから当家の家紋を用いるべきという理由)。現在でもこの風習は根強く残っている。 
家同士の婚姻が主だった時代、女性が嫁ぐ場合に婚家に女紋を持って行く例も見られる。女紋の意匠は主に家紋を基にしているが、輪郭をかたどった「陰・中陰」、「細輪」、「覗き」などやや女性らしいものが多い。女性が留袖に実家の家紋を用いる例が多く見られるが、女紋を継承している場合は女紋で留袖を作る。  
菊紋と桐紋 
古くから菊紋である十六八重菊は皇室の紋として幕府や民衆などに広く認識され、桐紋である五七桐は菊紋の替紋として使用されていた。皇室に対して功績があった者に対して、天皇が菊紋や桐紋を下賜されることは度々あり、一説には承久の乱の際、後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕の志士達に対して、愛好していた菊の紋を彫刻した刀を賜与されたことが発端ともいわれている。後に足利尊氏や豊臣秀吉なども菊紋や桐紋を授かったという事例がある。菊紋を授かることは名誉かつ光栄なことであったが、主に下賜された家紋は替紋とされていた桐紋といわれ、天皇より任命された摂政・関白・征夷大将軍・太政大臣など統治者らは統治者の行う政策などに於いて功績を残した家来や大名などに、桐紋を贈与することもあったという。皇族の家紋である菊紋や桐紋の権威は増して厳格になり、1591年(天正19年)、1595年(文禄4年)には、豊臣秀吉が菊紋や桐紋の無断使用を禁止する規制を布くほどであった。 
菊紋 
豊臣政権から徳川氏の政権である江戸幕府に交代してからは次第に禁止令は緩まり、また江戸幕府は自己の権威を京の朝廷の上に置こうとしていた傾向から、同様の菊紋は仏具の金具・彫刻や和菓子の造形、または暖簾の図柄に用いられるなど、一般人への使用・普及に拍車を掛けた。比較的家紋の使用には寛容な幕府であったということも影響しているが、徳川氏の家紋である葵紋の使用は厳格に禁止している。 
その後、明治新政府になると皇室の十六八重菊の皇室以外の使用は全面的に禁じられる。親王家も使用規制の対象になり、八幡や泉涌寺といった皇室ゆかりの神社や仏閣に対しても規制が行われ、徐々に皇室の菊紋の権威は復活していくことになる。現在、天皇と皇室の御紋である「十六八重菊」が慣習法上の国章の扱いを受けている。十六八重菊に意匠的には似ている十六菊は、日本国の発行するパスポートや議員バッジなどのデザインとして取り入れられている。今のところ日本では特定の菊紋を国章とする法令はない。商標法第4条第1項第1号には「国旗、菊花紋章、勲章、褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標」について、商標登録要件を満たさないと定められている。 
桐紋 
桐紋が皇室御用達の紋になったのは元寇襲来の少し前の鎌倉時代中期と言われる。家紋としてよく見られる五三桐やそれに丸で囲ったものは、「太閤記」や伝承などで農民出身とされている豊臣秀吉が用いたことから「家紋のないほどの一般庶民がなんらかの事情で家紋を必要とする場合(紋付袴の着用等)に用いる家紋」としても使用され、上流階級とは逆の理由で庶民の間で一般的に流布した。また、現在では貸衣装の紋としてよく使われる。 
明治政府が建てられ、菊紋の法的規制が布かれる中、桐紋については、菊紋と同じような法的規制などの対処は採られなかった。室町から続く将軍家の家来に対する桐紋の譲渡が頻繁にあり、家の家紋として使用している者もいたため、それを配慮したためだと考えられている。しかしながら、権威が失墜したわけではなく、五七桐が内閣・政府の紋章として官記や辞令書の用紙などに慣例的に用いられ、最近では、日本国外において日本の内閣総理大臣の紋章として定着しつつある。桐紋はもともと政府を表す紋章としての性格があり、小判などの江戸時代の貨幣や明治以降の貨幣、現在の最高額硬貨である五百円硬貨にもその刻印がある。
新田氏 
新田氏の始祖義重は、八幡太郎義家の三男義国の長子であり、義重が新田氏、弟の義康が足利氏の祖となった。義重は上野国新田郡を開発し、その所領を摂関家の傍流花山院忠雅に寄進、自身は新田庄の下司職として、この地を実質的に支配した。
足利氏 
足利氏は清和源氏、源義家の孫・義康が、下野国足利庄に拠って足利氏を称したのに始まる。鎌倉時代、その所領は下野・三河・丹波・美作・上総・下総に散在した。このため一族は各地に発展していった。
 
苗字を知ればルーツが分る

苗字の種類は世界一苗字は30万、家紋は2万 
先生が苗字や家紋を収集されたご功績は大変なものだと伺っております。 
また、先生のご著書を拝読すると、苗字の由縁を遡行することで、自分のルーツが徐々に明らかになっていくような気がいたしまして、まるで推理小説を読んでいるような興奮を覚えました。こういったものを編纂されるには、あらゆる知識が必要かと思うのですが、そもそもこの道に入られたきっかけは? 
丹羽 子どもの頃から、自分の苗字である「丹羽」が、なぜ「ニワ」と読むのか、不思議に思ったんです。「タンバ」と読む人もいて、そうでない人もいる。周囲にも「四十八願」さんという変った苗字の人もいたりして、なぜそう読ませるのか、どうしてその苗字になったのか、誰に聞いても釈然としませんでした。そういった素朴な疑問がきっかけです。 
( 丹羽基二氏調べ。苗字は地名姓、氏名姓、建造物姓、信仰姓、物象姓、職名など、由来はさまざまであるが、多くは地名に関係する。ちなみに第一位である佐藤さんの「佐」は藤原秀郷の居住地、下野国佐野庄(栃木県佐野市)を示し、藤は藤原姓の故地、大和国高市郡藤原里を表すという。姓氏の型に「氏名(うじな)」とあるのは「藤」が藤原氏の氏名であるため。また、「職名」とあるのは秀郷の後裔公清が「左衛門尉」という役職についており、佐藤氏はここから発祥という説もあるため ) 
実際、どのように調査を進めたのかというと、とにかく全国各地のお墓を朝から夕方まで見て歩きました。不謹慎なようですが、お墓にはちゃんと苗字と名前が刻まれているので、資料の正確さでは随一ですから…(笑)。 
そうやっている間に、墓石に刻まれている家紋も苗字と密接に関係していることを発見しました。祖先のルーツを辿る場合は苗字と家紋をセットで考えると、比較的ルーツが判明しやすいんですよ。また、墓場ばかり巡っている間に仏足石や墓場そのものも面白い存在だなあと思ったりして、苗字を軸にさまざまなことへ興味が広がっていきました。 
それにしても、ご著書も150冊くらいあって、先生の知的探究心というか、そのご成果というか、とにかくすごいですね。 
丹羽 初めからこんなに深みに入ろうとは自分で思っていたわけではないんですよ。苗字を調べているうちに、地名についてもいろいろと調べて知るようになり、発見があったり…。それをまとめているうちに、このようになりました。 
苗字を変えることをタブー視しなかった日本人 
なんでも、日本人の苗字は30万種類もあるそうで、その由来も祖先の居住地の名称からきたものや、一族の血統を表したもの、職業からきたもの等、随分といろいろあるそうですね。どうして日本にはこんなにも沢山の苗字があるのでしょうか? 
丹羽 日本の苗字の多さは世界一でしょう。苗字の種類が多い理由の第一には、漢字が導入され、表記の方法が多様化したことが挙げられます。例えば同じ「つちや」さんでも「土屋」「土谷」「槌谷」など、表記の方法はいろいろあります。同じ音でも、血筋、家系の本流支流、仲間だとかを意識して区別をつけようと、異なった漢字をあてたことも要因の一つです。 
一方、ヨーロッパなどは音表文字ですから、アクセントやイントネーションで変化をつけるのが精一杯。漢字でバリエーションをつけられる日本人の苗字は、いくらでも増える可能性があり、世界でも類を見ない突出した種類の豊富さにつながったのでしょう。 
なるほど。漢字の表記による工夫でしたら、いろいろできますからね。例えば「マツムラ」でしたら「松村」、「松邑」とか…。 
丹羽 その通りです。また、日本の苗字が増えた理由には、漢字の表記による他、もう一つ別の理由があります。それは、日本人は苗字を単なる家名として捉えていることです。つまり、「みだりに変えるものではない」という思想が強くなかったからです。 
例えば、中国の苗字は大体1000、韓国は250程です。これは大陸的な事由、つまり、陸続きで絶えず他民族を意識した結果、苗字を変えることを拒んだからでしょう。すなわち、同じ苗字を持つものは、同じ血統であり、同じ祖先であるという民族意識の表れだともいえます。 
それに比べ、日本は島国で、大陸ほど他民族を意識することはなかった。元を辿れば、日本人の多くは天皇という同一祖ということで、「苗字を変えることはタブー」という意識が少なかったのでしょう。実際、日本人は住む所を変えるたびに従来の苗字を変えたり、一部を変化させたりしてきたようです。 
かつての中国や韓国においては、苗字は一族の証だったんですね。 
そういえば、韓国ではつい最近まで、同姓で家系の始祖の出身地やルーツが同じだった場合は、結婚ができなかったと聞いたことがあります。 
日本人の苗字の8割は地名に由来している 
一方、日本では地名や氏姓などいろんな由来があるようですが…? 
丹羽 はい、由来で最も多いのは地名です。居住地や祖先の出身地を苗字にしたものが、8割を占めることが分りました。 
例えば「田中」や「渡辺」などは、それに当る場合が多いです。次に多いのが職業や屋号に由来するもので、「服部」は古代服部の子孫で衣服を織っていたことから、「鍛冶」は金属などで武器や農具などを作っていたことに由来します。その次は職掌(官職)名からきたもの。軍事に携わった「大伴」や、神事に携わった「中臣」などがそうです。中には「豊臣」のように天皇から賜ったというようなものもありますが、そういった例は少ないようです。 
( 丹羽氏いわく、「家紋は絵に描いた苗字」。苗字ほどではないが、バラエティーに富み、デザイン的にも美しい家紋。上段左より片喰(かたばみ)紋の代表:片喰、桐紋の代表:五三桐、蔦紋の代表:蔦、下段左より蝶紋の代表:揚羽蝶、木瓜(もっこう)紋の代表:木瓜、鱗紋の代表:三つ鱗 ) 
日本人の苗字はどうやら地名と切り離せないようで、苗字を調査することは地名を調査することだともいえます。 
そもそも、自分の村を離れて「どこそこの土地のものだ」「どこそこの土地で生れた男だ」と名乗りを挙げたのが、苗字の発祥の理由の一つですので…。 
地名の消失は文化と伝統の喪失 
なるほど、苗字と地名の関係は深いわけですね。その地名にも、それぞれいろいろな歴史がありますよね。でも、先生、近頃では昔ながらのいい地名がどんどん減ってはいませんか。 
丹羽 そうなんです。現在、由緒ある地名の消失が進んでいます。また、市町村再編にともなって、それが加速していると言ってもいいでしょう。 
こんなふうに考えているのは閑人だけかもしれませんが、例えば埼玉県の「浦和」にしても、北浦和、南浦和、西、東、中、武蔵…と現在ではいろいろあります。でも、そもそも「浦和」ってどういうことなのでしょうか。もし、「浦和」が「入間川の流れが屈折している土地や中洲」という地形の一帯の地域を指していたとすると、前出のその名付け方は少し乱暴な気がしないわけでもないんです。 
もちろん知名度の高い「浦和」を活用する術であるのは理解できますが、それと同時に地名がただの符牒として捉えられているなあとしみじみじ感じるわけです。 
もったいないような気もしますね。 
丹羽 そうですね。気付きにくいですが、地名は祖先を辿るヒントでもありますし、さまざまな伝統や文化の痕跡です。そういった地名が失われつつあるのは非常に惜しいですね。 
同志で「地名を守る会」という活動をやってはいますが、現実問題、なかなか止められません。「ワタナベ」さんの苗字の発祥地である大阪市中央区の地名「渡辺」が消されようとしたときは、「地名を守る会」で慌ててて運動し、残すことができましたが…。 
それは良かったですね。それにしても、苗字にしろ、地名にしろ、由緒を知ることは大事なことですね。知ることで、祖先にも、土地にも、歴史にも、いろいろなことに関心が広がりますからね。 
丹羽 そうなんです。由緒を知ることで大事にできることも多々ありますし、関心が広がれば、その人の人生もより充実するのではと思っています。それに、自分の先祖と家系について、苗字や家紋を手掛りに調査するのも非常におもしろいと思いますよ。自分の足でお墓やお寺の過去帳を見たり、役場に行ってみたり、神社の祭りの資料、神社創建の資料、寄付台帳まで見せてもらったりして…。 
こういったことをやっているせいか、私も次から次に興味が沸いてきます。私も苗字の次は名前について調べたいな…、なんて考えているんですよ。  
 
漢字名の読み方

漢字で書かれた地名とか人名には正しい読み方が分かりにくいことが多い。  
刊行された本では表紙にある著者名にふりがながなくても、奥付けに正しい読み方が出ている。雑誌の中に出てくる多数の筆者の名前にはふりがながつけられるようになってから久しい。新聞などに載る人名や地名にはふりがなをつけてあることが多いので間違った読み方をすることは少ない。  
しかし、新聞の投稿欄などに出ている名前には、それが会名とか人名であっても、ふりがなをつけてあることは殆んど見られないものである。また、各種の団体から出される機関紙とか情報誌などは一般公開するものではないから、人名の読み方などには考慮が払われていないということであろう。  
ただ、部外者にとっては、会員などの名簿・一覧表をつくるためには正確な読み方があると便利である。  
さる会合で(目)と書かれた名札をつけていた人がいたが、(め)と読むとは思えないので、訊いたところ、それは(さっか)と読むのだと教えてくれた。調べてみると、2007年版の「新潮日本語漢字辞典」には(目)は姓氏としては(さがみ)・(さかん)・(さがん)・(さっか)・(まなこ)と呼ぶと記してあることを発見した。  
同辞典には、(一)という漢字を姓氏として使う場合は6種類、名前として使った場合には16通りの読み方が記載されているが、それ以外に、姓として(にのまえ)と読むこともあると聞いたことがある。  
こんな特殊な例は別にして、よく使われる漢字の(上)、(小)、(大)、(太)などについて考察をしてみる。  
まず、(上)について言えば、苗字としての上田は(うえだ)が普通の読み方であるが、上村となると、(うえむら)と(かみむら)のどちらを使うべきか迷うし、小田は(おだ)、小山は(こやま)と誰でも読むと思うが、小浜では(おばま)と(こはま)の二通りの読み方があるので、正しい方を選ぶのはむつかしくなる。なお、小田と大田(または太田)、小野と大野などは、漢字で書いてある限り間違えることはないが、英字でOnoと書いてあるときには小野のことか、大野のことか迷うものである。E-Mailの名前としてOnumaと書いていた人があり、大沼だと思ってしまったのであるが、本当は小沼であることを知った。小沼は(こぬま)と読むのが普通であり、(おぬま)と読むとは想像しなかったという経験がある。大と小の読み方を他人に間違われないように気をつけてくれればよいのだが、こんなことに気をつかう人は少ないと思う。  
例を挙げれば、大阪を英字で書くとOsakaとしてあるのが普通であるようだが、Oosaka(おおさか)とかOhsaka(おーさか)などと記して、(おさか)ではないと念を押してあるのはみたことがない。  
知人の大賀氏はオランダに社用で出張したときから、それまでのOgaをOhgaと変更したが、Ogaでは(オーガ)と呼んでくれないからOhgaとしたと聞いた。  
日本名を英字で表記するときには上田をUeda、松江をMatsueと書く人が多いのであるが、(え)を(e)としたのでは本来の日本語読みをしてくれないことがある。たとえば、武居、または武末をTakesueと書いておいたために、(たけすえ)ではなく(たけすう)と職場で呼ばれていた先生があった。この先生はハワイ生まれの二世であるが、親が使っていた英字綴りを踏襲していたために、ドクター・タケスーとして知られるようになってしまったわけである。  
日本語名を英字で書いたときには、間違えられないように気をつけて綴りを工夫してみても日本流に発音してくれるとは限らないが、少なくとも、(え)をはっきり発音してもらうために上田は(Uyeda)、上村は(Uyemura)、松江は(Matsuye)、末は(Suye)というようにするとよいのではと思う。  
また、(川)という字は川田(かわだ)、田川(たがわ)にあるように語頭にあれば(かわ)であるが、語尾にあれば(がわ)と発音されるのが普通であるが、津川を(つかわ)と発音する朝鮮系の習字の先生がいた。朝鮮系の人は濁音が不得手であると聞いているがそのためであったのかも知れない。  
日本人が催す会合の出席申し込み用紙に名前にはふりがなをつけることが求められているのは名簿を作成するには是非必要な条件であるからであろう。  
それから名簿に記載する名前を「あいうえお順」に並べる向きもあるが、私は「ABC順」に並べた方が便利だと思う。「あいうえお順」では、苗字が英字である場合には(L)と(R)で始まる名前を双方とも「ラ行」の欄に並べることになり都合が悪いことになるが「ABC順」では問題はない。しかし、発音は(ク)であっても英字のスペルはCか、Kである分からないときなどには「ABC順」にこだわると、正しい英字のスペルを探すのに苦労することは確かである。  
日本人社会に無料で頒布されているBridgeUSA社の「南カリフォルニア生活大辞典」なるTelephoneDirectoryはあいうえお順とABC順の双方を使って編集してある行き届いた優秀な辞典であると思う。  
苗字は明治時代に戸籍簿が作成されたとき、個人が自由に選んだものを登録したと聞いたが、お寺の名前を人名として登録した例は稀であるようだ。よく知られた西園寺公望という政治家の家名は鎌倉時代に遡ることが「日本人物事典」に出ているが、徳大寺家に次男として生まれ、西園寺家へは養子として入ったとあるから、多分、徳大寺家も古い家系であろう。京都の東山にある著名な禅宗寺である東福寺の名前を持った人があるのをアメリカへ来て知ったが、本人は名前の起源については分からないとのことであった。  
その他、日本にいたとき知った円福寺姓の人がいたが、これは実名であった。最近テルビで音楽指揮者として(円光寺雅彦)の名を見たが、女優の(円城寺あや)も実名であるらしい。しかし、歌手の(水前寺清子)は実名ではなくて芸名である。なお、当地の短歌会員が使っている西光寺姓はペン・ネームであると聞いたが、西光寺とは何らかの縁のある人ではないかと推測する。  
苗字は世襲であるが、名前の方は親などが選んで登録される規則である。しかし、あまりとっぴな名前であると戸籍係りの公務員が受け付けてくれないこともあるようだ。明治時代の登録名で(るい)、(しか)、(はつ)など、ほとんど符号に近いものがよく使われていたのを知っているが、漢字名にすると、名付親が字にこめた意が現れてくる。しかし、克子と書いて(よし子)と呼んでほしい人は振り仮名をつけておくべきであろう。また、ひらかなで姓名を書いている俳優や歌手があるが、これでは読み方を間違えられることはないにしても、どんな漢字をあてはめたらよいのか分からないので物足りない気がするものだ。 
 
漢字表記の外国地名

1993年10月の羅府新報・木曜随想欄で野本一平氏が「羅府といういい方」と題して、漢字による日本以外の国名とか、都市名など42ばかり紹介されていた。その野本氏の記事に刺激されて、地名を漢字で表記する問題について、私見を記してみたいと思う。  
はじめから漢字で表記してある中国の地名の場合には、それを日本では、つい日本流に発音してしまうものだ。しかし、それでは現在の中国では通用しなくなっている。例外として、「北京」であれば、戦前の日本で発行された地図には「ペーキン」と振り仮名がついていたので「北京」を「ホクキョウ」などと(日本読み)をすることはなかった。そのほか、「上海」は「シャンハイ」、「南京」は「ナンキン」と読むようにし向けられていた。最近の地図の本には、はじめから太いカタカナで標記して漢字名を小さく副えてある式を採用しているので間違った発音(とんでもない間違いの)をすることも避けられて便利になった。その新しい地図書では、「北京」を「ベージン」と読むように変更されている。  
ところが、もともと漢字などには縁のない中国以外の外国の土地名を、日本人は、こちらの耳に入った発音に似せて、日本流に、日本人同士で通じるように書き表わそうと苦労をしてきたことは確かである。しかし、地名は、どうしても漢字にするというやり方は、今ではすっかり廃れてしまった。外国語をカタカナで表記するように定められたのは明治時代に遡るのだと思うが、大正時代になっても、文人などは、まだ諸外国の国名、地名などに漢字(公認または好き勝手な当て字)を使っていた。  
アメリカに移民としてきた日本人の間でも、土地の名前を漢字で書くことにこだわって、その土地の情報誌とか地方新聞に発表して使っているうちに、その漢字名がその土地以外の日系社会にもひろまっていったと思われる。三十年前の羅府新報の「地方欄」には、まだ、布市とか巴市、散港、讃港などからの地方記事が出ていたと記憶している。  
日本でも人の名前とか土地の名前を漢字で書いてある場合には、それを(正確)に読みこなすことは困難であることは周知のことで、振り仮名をつけるのが好ましい状態であるから、アメリカに来てまで、自分の住むマチをわざわざ漢字で「布市」と書いて「フレスノ」と読ます(理解してもらう)など(無駄?)な努力をする日本人の心根がいじらしくもある。誰しも、特に愛着のあるものには、(あだ名)をつけたがるものであるから、洒落た漢字名前でも考えつけば一層おもしろさが増す訳で、一般にもアピールしたに違いない。なお、漢字にすると新聞などで印刷する際に場所を取らないという実益もある。さしずめ、サンフランシスコなどの長い地名を「桑港」と二字に縮めてしまうと、見出しの場所に使う時には特に都合がよい。  
いずれにしても、日本に限らず、アメリカでも(公認)の略字が、至る所で採用されているのだから、日本で流行の(漢字略語)に文句をつけるのは見当違いである。しかし、外国の地名に関する限り、昔懐かしい漢字表記は使用されなくなったことは事実である。従って、今かろうじて命脈を保っている外国の漢字名でも最近の印刷物の中に見ることは、全く少なくなってしまった。私は、老人の懐古趣味と言われるかも知れないが、先人が愛用した?漢字地名を、もう一度振り返って、ここに列挙してみた。 
亜市(アラメダ、Alameda)  
麦嶺(バークレイ、Berkeley)  
加州(カリフォルニア、California)  
剣橋(ケンブリッジ、Cambridge)  
市俄古(シカゴ、Chicago)  
格州(コロラド、Colorado)  
死の谷(デス・バレー、DeathValley)  
伝馬(デンバー、Denver)  
不老林(フローリン、Florin)  
布市(フレスノ、Fresno)  
大渓谷(グランド・キャニオン、GrandCanyon)  
比良(ヒラ、GilaRiver)・・戦時強制収容所  
画村(ガダループ、Guadalupe)  
布州、布哇(ハワイ、Hawaii)  
心嶺山(ハート・マウンテン、HeartMountain)・・戦時強制収容所  
聖林(ハリウッド、Hollywood)  
愛州(アイダホ、Idaho)  
帝国平原(インペリアル・バレー、ImperialValley)  
加哇(カワイ、Kauai)  
楼台(ローダイ、Lodi)  
長浜(ロングビーチ、LongBeach)  
羅府(ロスアンゼルス、ロサンゼルス、LosAngeles)  
満座那(マンザナ、マンザナー、Manzanar)・・戦時強制収容所  
馬哇(マウイ、Maui)  
満市(マウンテンビュー、MountainView)  
嶺爾亜山(マウント・レニアー、Mt.Rainier)  
寧州(ネブラスカ、Nebraska)  
紐育、新約府(ニューヨーク、NewYork)  
新墨州(ニュー・メキシコ、NewMexico)  
王府(オークランド、Oakland)  
奥殿(オグデン、Ogden)  
橙郡(オレンジ郡、OrangeCounty)  
央州(オレゴン、Oregon)  
巴市(パサデナ、Pasadena)  
真珠湾(パール・ハーバー、PearlHarbor)  
費府(フィラデルフィア、Philadelphia)  
河畔(リバー・サイド、Riverside)  
絡機(ロッキー、Rocky)  
桜府、桜面都(サクラメント、Sacramento)  
塩湖(ソート・レイク、SaltLake)  
讃港(サン・デーゴ、SanDiego)  
桑港(サン・フランシスコ、SanFrancisco)  
佐市(サンノゼ、SanJose)  
散港(サンペドロ、SanPedro)  
珊市(サンタ・バーバラ、SantaBarbara)  
聖市(サンタ・マリア、SantaMaria)  
沙港(シアトル、Seattle)  
素法県(スポケーン、Spokane)  
聖路易市(セントルイス、St.Louis)  
須市(ストックトン、スタックトン、Stockton)  
丹宝藍(タンホーラン、Turnhorun?)  
敵刺(テキサス州、Texas)  
鶴嶺湖(ツールレーク、TuleLake)・・戦時強制収容所  
河下(かわしも、ウオールナッツ・グローブ、WalnutGrove)  
華府(ワシントン市、Washington,DC)  
華州(ワシントン州、StateofWashington)  
華村(ワットソンビレ、Watsonville)  
倭州(ワイオミング、Wyoming) 
右の他にも古い南加の日本人史のあちこちに「冬村長老教会」という名が出ているが、この「冬村」は土地名ではなく、英語教会名の「ウインタースバーグ長老教会」を日本人の教会員が「冬村」と呼び慣わしていたということであるらしい。従って、この英語の原名であるWintersburgはカリフォルニアの市名としては地図には見あたらない。このウインタースバーグ長老教会は戦前にはハンチングトン・ビーチにあったが、今はガーデングローブに移っており、未だに日系人の教会員も多いらしく(日語サービス)もあると羅府新報の英語欄の教会案内に出ている。  
しかし、英語名Wintersburgは、教会名以外にも学校名としても、道路の名前とか、GardenGroveWintersburgChannelとかの名前としてハンチングトン・ビーチ、ガーデン・グローブ、サンタ・アナ地区に見られる。  
以上で分かるように、日本人が漢字で呼び慣わした地名は、それぞれ有識人が考えた(傑作)もあれば、語呂合わせで発音が似ているだけのものもあり、英語の意味を間違えて当て字を使ったものもあることにお気付きと思う。  
例えば「聖林」として定着している地名のHOLLYWOODのHOLLYはヒイラギ(柊)である。その昔HOLLYWOOD地区に住んでいた日本人が雅号としてHOLLYWOODを日本語で「柊林」(シュウリンと発音)と書いて日本人仲間に紹介していたのに、周りの日本人がHOLLYをHOLYと間違ってHOLYの意味の(聖)を使って「聖林」と言い換えたのがそのまま広まってしまったということだと当地の古老が話している。  
それから、日本人が多数住んでいたとか、よく訪れる土地であっても、その名前に漢字の(渾名)が印刷物には簡単に見つからないところがある。例えば、ガーデナ、ベーカース・フィールド、タコマ、モンタナ州などがある。これらの漢字名は、誰かが発明したのであろうが、あまり普及しなかったということだろう。  
これらの漢字名の中で、今でも使われているものは、ごく僅かになっていることは、誰しも認めることと思うが、その中でも「羅府」という名前は、「羅府新報」が続く限り、安泰?であるとみたい。ロス・アンジェルスを日本人が、なぜ「羅府」と書くようになったかの考察は、野本氏が調べたところでは、1956年発行の「南加州日本人史」にその由来が明記されているそうだ。それによると、1894年に当地で漢詩に長じていた船橋義七氏が、その頃のロスアンジェルス市の中国名「羅省技利」を「羅府」と変更して日本人が使用することを言い出したのが日本人社会に定着したのだという。  
*(注)「羅府技利」の技は、羅府新報社の誤植で枝という字が、正しいのだと思う。  
1960年版の「南加州日本人七十年史」の45頁にある記載に由る。  
日本人は、漢字だけに頼らないで、発音記号として使える仮名文字を発明していたので、それを使えば、どんな地名でも容易に表記出来るのだが、生憎、中国人は、外国の地名を書く時にも漢字を利用して表記するより手がないので、無数にある外国地名に全部漢字を当てはめないといけないという不利な条件がある。私は外国の地名まで、中国人のヒソミに習って不便な漢字表記をする必要はないと思う。  
たまたま生き残った漢字名の「羅府」以外で、中国名にあやかった漢字名では、ニューヨークの中国名「紐約」を「紐育」として使ったぐらいのものであろう。この「紐育」も現地でも日本でも、今は殆ど使用されなくなっているのではないかと思う。しかし、中国名の「紐約」は、現存しているのかどうかは知らない。中国人が使用していたロスアンゼルス「羅省枝利」は、現在では変更されて、「洛杉キ」(キの漢字は、機に似ているが、木ヘンの代わりに古を使う、また、このキの略字として石ヘンに几を横につける)と書くようになり、その発音はロサンキに近いと聞いている。  
それでは、アメリカの西海岸の都市で、夙に拓けたサンフランシスコの日本名「桑港」も中国人がいち早く使っていた漢字名をもじったのではないかとの疑問が出る。ところが、サンフランシスコの中国名は「旧金山」であるというのだから「桑港」とはおよそ似つかない。「桑港」の語源について疑問を持った岡本宣明氏が「札医通信358号」に日本では、明治時代には、「角里伏爾尼亜州」(カリフォルニア州)の「桑方西斯哥港」(サンフランシスコ)と書いていたらしいので、そこに「桑港」の語源があると指摘されている。私には、日本人に馴染みの深い「金門橋」とか「金門湾」を、中国人がどう呼称しているのかにも興味があるのだが、まだ分からないままでいる。  
日本人は、アメリカの表記法でも昔は「亜米利加」を使っていたのを簡略にして「米国」として今でも愛用しているが、中国名では「美国」となるのだから、中国名を真似したものとは考えられない。従って世界各国の名前も日本人は、自らの発想で命名したのだと思う。  
アメリカ以外の諸外国の日本式の漢字名は、その多くが「死語」となっているが、野本氏は、以下に列挙する20ばかりの名前を示しておられた。すなわち、イギリス「英吉利西」、イタリー「伊太利」、フランス「仏蘭西」、ドイツ「独逸」、ロシア「露西亜」、ユダヤ「猶太」、カナダ「加奈陀」、メキシコ「墨国」、ペルシア「波斯」、トルコ「土耳古」、オランダ「阿蘭陀」、スエーデン「瑞典」、ベルギー「白耳義」、オーストリア「墺太利」、ポルトガル「葡萄牙」、エジプト「埃及」、アッシリア「亜刺比亜」、パナマ「巴奈馬」、パリー「巴利、巴里」、ローマ「羅馬」などである。  
その他にも、漢字利用の日本式表記の国名、地名では、スペイン「西班牙」、ハンガリー「洪牙利」、インド「印度」、フィリピン「比島」、オーストラリア「豪州」、ブラジル「伯剌西爾」、ギリシャ「希臘」、ロンドン「倫敦」などがある。  
ここで触れておきたいのは、漢字を三字も四字も羅列して外国名にするのは、面倒くさいので、日本人うけのする、二字の外国名が可成りの数で実用化された。すなわち、アメリカを「米国」、英吉利を「英国」、仏蘭西を「仏国」、独逸を「独国」、伊太利亜を「伊国」、伯剌西爾を「伯国」とするなどである。しかし、この調子で西班牙を「西国」などと書いてみると、どうも混乱を招いて不都合になるので、日本人好みの省略法も度を過ごすと仇になると思う。  
ともあれ、これらの各国各様の、伝統・歴史に基づく国名表記は、国際連盟に採用された英字による表記に従うのが、混乱を防ぐためには一番無難である。そして英語綴りは、日本人に発音し易いカタカナ表記にするべきで、日本流の(創造名)は避けるべきである。  
しかし、今でも日本人が未だに漢字表記に固執している外国地名(=日本の方言)もある。例えば、太平洋、大西洋、地中海、紅海、黒海、死海、裏海(カスピ海)、喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)などである。しかし、日本で発行されている帝国書院の地図帳には、漢字とともに英語が併記してあるのは喜ばしい。 
   
海野氏

海野氏は信濃国海野郷(現在の東御市本海野)を本拠とした信濃の豪族であり、新張・望月の牧の管理者であった祢津・望月氏の両者と共に、その基盤を築いた。  
平安から戦国時代までの約700年の長きにわたって信州と西上州にまたがる地域を支配した信濃の名族である。  
保元2年(1157)中央での政変「保元の乱」には、源義朝の下で活躍し、治承5年(1181)木曽義仲の白鳥河原(現在の東御市本海野白鳥神社前の千曲川)挙兵に際しては、その中心的となって奮闘した。鎌倉時代になっても源頼朝や北条氏に武勇をもって重く用いられ、中央にも聞こえた弓馬の名家で流鏑馬(やぶさめ)の射手として活躍している。  
天文10年(1541)信濃侵略を企図した甲斐の武田信虎は、村上義清・諏訪頼重と連合に攻め入られ「海野平の合戦」で死命を制し、信州屈指の名族海野氏の正系はここにて滅亡した。  
 
■海野氏  
(うんのうじ) 信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。  
滋野氏の後裔とされる滋野則重(則広)の嫡子・重道、あるいは重道の嫡子・広道から始まるとされる。海野の姓は摂関家の荘園であった海野荘にちなんでおり、清和天皇の第4皇子貞保親王(滋野氏の祖である善淵王の祖父)が住したと伝えられる場所である。ただ、清和天皇の後胤を祖とする海野氏の系図は裏付けとなる史料に乏しく、滋野氏とはなんらかの繋がりがある一族とも、まったく関係の無い在地の開発領主をその祖とする向きもある。  
平安時代 から鎌倉時代  
平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士に「宇野太郎(海野太郎)」の名が見える。平家物語には源義仲の侍大将として広道の子の海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。義仲の嫡男・源義高の身代わりとなった忠勤を源頼朝に賞賛され、側近に取り立てられた幸親の三男・海野幸氏が家督を継いで、海野氏は滅亡を免れる。幸氏は武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されたと伝えられるほどの弓の名手で、『吾妻鏡』に上野国の所領を巡って甲斐国守護の武田氏に勝訴した記述が残されており、この時期に信濃東部(小県郡・佐久郡など)から上野西部(『吾妻郡』)に勢力を拡大した事がわかる。同じく『吾妻鏡』には和田合戦で海野左近なる者が幕府方として討死したとされる。  
南北朝から室町時代  
その後はしばらく記録に登場しなくなるが、鎌倉幕府が滅んだあとの建武2年(1335年)に起こった中先代の乱では、海野幸康が諏訪氏らと共に北条時行軍に参じ、鎌倉に攻め上る。その後の南北朝時代は他の北条残党と同じように南朝に属し、信濃守護家小笠原氏や村上氏らと対立した。『群書類従』によると、海野幸康は正平7年(1352年)に宗良親王に従って笛吹峠の戦いに参陣し戦死を遂げる。応永7年(1400年)の大塔合戦では、当合戦の寄せ手大将であった同族の根津遠光300騎とともに滋野三家嫡流として海野幸義が300騎を率いて参陣しており、滋野一族の中でも嫡流家としての影響力を保持していたことをうかがわせる。 また永享10年(1438年)の結城合戦では海野幸数が根津遠光など他の滋野諸族とともに小笠原氏に従って参陣している。  
戦国時代  
応仁元年(1467年)、村上氏との戦いで海野持幸が戦死して小県郡塩田荘が村上氏に奪われ、応仁2年(1468年)にも村上氏と「海野大乱」と呼ばれる戦いを繰り広げ、海野氏の勢力は徐々に衰退していった。戦国期では永正10年(1513年)越後で長尾氏が高梨氏の支援を得て守護の上杉氏と対立し、海野氏は井上氏や島津氏、栗田氏らと守護方を応援するため越後に侵入しようとするなど関東管領上杉氏の被官として地位を保うとする。天文10年(1541年)、甲斐国の武田信虎、信濃の村上義清、諏訪頼重の連合軍に攻められ(海野平の戦い)、嫡男海野幸義は村上軍との神川の戦いで討ち死にし、当主海野棟綱は上州の上杉憲政の元に逃れる。  
嫡流はいったん途絶えるが、信濃を領国化した武田信玄は一族を信濃諸族の名跡を継がせることで懐柔させる方策を取り、海野氏についても信玄の次男信親(竜芳)がその名跡を継いだが、武田氏が織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡すると信親も処刑された。  
この武田系海野氏の後裔は江戸時代、高家武田氏へと連なることになる。戦国時代、小県郡に勢力を扶植した真田氏は海野氏流を称している。  
なお、海野幸義には長男の海野業吉がいたとされ、後の海野左馬允とする説もある。その場合、海野氏直系の血筋が残されたことになるが、確かな証拠は見つかっていない。海野左馬允は、真田幸隆の従兄弟とされ、真田家臣として『加沢記』など真田家の記録に登場する。  
他に上野国吾妻郡の海野一族である羽尾幸光(岩櫃城主・吾妻郡代)・輝幸(沼田城代)兄弟が、海野棟綱の死後に海野氏を継承したと称して海野姓を名乗っている。 
 
 
■海野氏のルーツ
 
奈良時代の海野郷  
奈良の正倉院には、信濃の海野郷から牛か馬の背によって、はるばる奈良の都へ運ばれ、そして宮中で、きらびやかな調度品として、その責務を果たしたものが残っている。  
正倉院は光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献上された無数の宝物を収めた庫である。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られている。  
この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野(うんの)郷(ごう)戸主(へぬし)爪工部(はたくみべ)君調(きみみつぎ)」と墨で書いた麻織物の布の一片が発見されている。これには年号がないが推定すると天平年間(729〜41)頃の貢物であろうと言われてる。  
このころ小県郡に海野郷という集落があって、爪工部という人々が、高貴な人が使う「紫の衣笠」を造れる高度な技術者集団がいて、かなり地位の高い姓を賜っていた人々が、この地に住んでいたことが立証される資料である。どうして、このような職業・身分の人たちが、こんな僻地に、しかも都から遠い地に定住してたのだろうか。  
爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、翳(さしば)をつくるのを職業とする部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇に長柄をつけたようなものをいう。(有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている)主として鷹の羽でつくったものだが、この海野郷は昔から鷹の産地として有名で、平安時代からこの土豪として有名になった祢津氏は、放鷹の技術をもっては天下一と称されたくらいである。  
五世紀ころ、大和政権は遂次に、その勢力を広めるため東山道が拡充されていた。  
この海野郷周辺には中曽根親王塚をはじめとする多くの古墳が存在していることからみて、早くから中央の文化がこの地に流れこんでいたことは言うまでもない。  
この郷の由緒の古さを暗示するが、さらにもう一つ注目すべき歴史的事実がある。それは今から約1190年前の弘仁14年(823)前後に編纂された「日本国現報善悪霊異記(りょういき)」に、信濃国のものが二つも載せられていることである。一つは跡目の里(上田市川西方面から青木村)ともう一つは嬢(おおな)の里、すなわち海野郷の説話によると、奈良時代の末期の宝亀5年(774)この地に大伴連(おおともむらじ)忍勝(おしかつ)なるものがおり、法華寺川(金原川の下流)に居所をかまえ、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の勢力者であり、中央に直結する政治・文化の中核的存在であったことを示している。後世に発生した海野氏は、この大伴の系譜をひくものではなかろうか?  
また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残っており、いずれも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っている。しかも、すぐ西方には、信濃国府・信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっておりました。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのが海野氏ではなかろうか。 
滋野の地名  
現在の長野県東御市には「滋野」という地名と神社が、それぞれ二ヶ所にあります。  
一つは地名で、祢津大字新張(みはり)字滋野(現在は東御市新張)があり、しかもその地に新張の「滋野神社」があり、創立年月は不詳であるが、口傳には大同年中(806〜9)牧監滋野良成朝臣(あそん)の創建と伝えられております。  
もう一つは和(かのう)大字海善寺字滋野原・滋野鎮(しずめ)と地名があり、その地に海善寺の「滋野神社」があり、創立は未詳であるが、伝えによると大昔、海野郷内に移住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭ったという。  
天延年中(973〜5)に滋野氏の後裔である海野幸恒が再興したと伝えられ、社の南面には海野氏の旧館の地へと続いていることから、海野氏と深いつながりをもつ古社であることが明瞭である。その後になって木曽義仲が戦勝祈願の折に、白赤のボケを記念樹しておられます。  
また東御市西深井(にしふかい)の諏訪社、東御市下之城(しものじょう)の両羽(もろは)神社、佐久市望月の大伴神社には、楢原東人系の神や神像を祀っておられます。このことからも無関係ではないと思われます。  
それから、京都府庁(京都御所の西側)の周辺に以前滋野学区(現在の上京区)と呼ばれていた所に京都市立滋野中学校(昭和55年ころ閉校)と上京消防団滋野分団の詰め所が、かってありました。  
その府庁の西側には平安時代のはじめ、滋野貞主の邸があり、そこにはよい泉が湧き出していて、後に蹴鞠(けまり)の達人成通らが住んでいて、滋野井と呼んでいたといいます。(平凡社「京都の地名」より) 
奈良原にいた滋野氏の祖  
平安時代の六国史の記事『平安遺文』の資料に、滋野朝臣貞主の曽祖父は楢原造(ならはらみやつこ)東人(あずまびと)で、『続日本記』に天平勝宝2年(750)3月「駿河の国司楢原造東人が在任中に庵原郡蒲原(現在の静岡市蒲原)の多胡浦浜で金を採取して、朝廷に献上したので同年5月には東人に伊蘇志(いそしのおみ)(勤)臣の姓(かばね)を賜った」とあり、この頃は奈良大仏の鋳造をしている時であったので、金の発見と採取を促したことが知られておる。  
天平17年(745)の記事では「外従五位下楢原造東人」とある。  
その翌年天平18年(746)5月7日に「外」がはずれて「従五位下」に改められたことは、地方出身者や地方の郡司等に与えられた位階のことである。「造」については地方における有力者で、朝廷に仕えるようになった身分のことであるので、「東人」は飛鳥朝廷に仕える前は、東国に住んでいた人ではなかろうか。  
以上のことから楢原造東人の先祖の地は信濃国奈良原(現在の長野県東御市新張の奈良原)がもとで、都に出て仕えるようになり滋野氏を名乗るようになったのであろう。  
このころ、新張牧の奈良原の聖地に、智光山三光院長命寺が密教の修行道場として栄えており、この寺の上人は永作元年(989)6月に亡くなっております。  
そのほかに奈良原の地には「古寺跡」「奈良原京跡」等の歴史的に古い地名が残り、楢原姓の苗字を持つ人たちがおられます。「楢原」の苗字の人は現在長野県の東信地方に44軒で、うち東御市に43軒で新張地区には35軒が固まっておられます。  
この奈良原の地には「新張の牧」があり、この地の豪族祢津氏、祢津神平貞直が鷹飼いの秘術で名高いように、馬を飼う技術が極めて優れたものがいたと思われます。「望月の牧」を基盤とする望月氏も同様で、奈良県御所市楢原の山麓に馬の神様、駒形神社があることから楢原造東人の先祖の地は奈良原であっただろうと思われる。  
また現在の長命寺の別当で東方に大日堂があり、その本尊の大日如来地蔵尊は天平元年(729)に奈良県の楢原氏の菩提樹九品寺開基と同じ行基菩薩で北国辺土庶民教化のため巡回の際に、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造(丈220センチ)で霊験著しく、未完の秘仏であると言われている。  
昭和2年(1927)7月4日、金井区長小林虎一郎氏、長命寺54世百瀬栄善師等の斡旋により、文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏等の調査の時、平安朝の藤原氏全盛時代の彫刻で900有余年前の仏像にて、国宝的価値が充分ありと、折り紙をつけられるほどの尊像であったが、残念なことに寛保2年(1742)の戌の満水の時に庭心・清心両尼僧の救出が辛うじてで、避難の際に一方の肩を損像してしまったことである。(土屋麓風著「祢津の史蹟を巡る」より) 
奈良県の楢原氏  
楢原は大和国葛上郡楢原郷(現在の奈良県御所市(ごせし)大字楢原)にある地名であり、現在の福島・茨城・群馬・福井・岐阜・奈良・兵庫・鳥取・岡山の諸県に十ケ所あります。  
この楢原には、駒形大重神社があり、駒形神社と大重神社は別々のお宮であったが、明治40年(1907)に合併して、現在地の駒形神社に合祀された。大重神社は、楢原の地で東方の字「田口」に鎮座していたという。  
大重神社は「延喜式」神名帳の「葛城大重神社」にあたり、地元では「しげのさん」と呼ばれ親しまれており、滋野氏につながりを持つ有力なお宮であった。現在は、合祀された駒形大重神社に、祭神の二座のうち一座は滋野貞主が祀られております。  
奈良県御所市大字楢原の葛城山の東麓に九品寺(くほんじ)があり、山号戒那山、浄土宗、本尊の木造阿弥陀坐像(像高123センチ)は平安後期の作で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1768)の再興、寺伝では行基の開基で、もと戒那千坊に属したという。  
永禄年間(1558〜70)弘誓が浄土宗を改宗、中世に勢いを振るった楢原氏の菩提寺で、同氏一族の墓碑がある。  
葛城山の東麓に標高320メートルの丘の尾上に楢原城跡がある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ240メートル余り細長く突出て、段上に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は、平地になっていて連郭があり、東・南・北に全長500メートルに及ぶ空堀の跡をとどめ、西端に三重掘跡がある。  
楢原氏は大和六党の一つの南党で、すでに鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している。(春日文書)  
この楢原氏は大和出身の旧族である。『和名妙』に「奈良波良」と訓じている。越知郷段銭算用状(春日神社文書)に「楢原庄十町五段半」とあり、中世には興福寺大乗院方国民楢原氏がみえる。(平凡社「奈良の地名」より) 
滋野氏の祖楢原氏  
この楢原氏の系統については『新撰姓氏録』の右京神別の条に「滋野宿祢、紀直と同祖、神魂命五世の孫天道根命の後成」と明記されており、紀伊国造と同系であって、次の系図が伝えられている。  
奈良の平城京に都があったときには船白・家譯(いえつぐ)父子は伊蘇志臣(いそしおみ)でしたが、伊蘇志臣から滋野宿祢(すくね)に変わったのは、第50代恒武天皇の延暦17年(798)船白の代のことである。  
貞雄は右京の人也。父従五位上家訳、延暦7年(798)に伊蘇志臣を改めて滋野宿祢を賜う。弘仁14年(823)に滋野朝臣を賜う」とある。  
それは、楢原から滋野に変わったのが、大同元年(806)5月18日の平安遷都のときに船白や家譯も一緒に、奈良の地から平安京の滋野の地(京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって「滋野朝臣(あそん)」となったと思われます。こうして、家譯の子貞主は「滋野朝臣」となり、平安時代はじめに、京の都に滋野氏が誕生したのであろう。  
滋野貞主は『続日本記』から『日本三代実録』までの六国史の記事に『平安遺文』の史料等をみてみますと、第53代淳和天皇の代に、儒臣にして大同2年(807)文章生に及第(合格)、弘仁2年(811)仕少内記となり、弘仁12年(821)に図書頭、その後内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔を歴任、弘仁14年(823)には父(家譯)とともに滋野朝臣の姓を賜り、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に任ぜられ、嘉祥3年(850)正四位下となるなど諸官を歴任しております。  
空海は宝亀5年(774)に出生、承和2年(835)3月21日に示寂しております。平安時代初期の僧で、弘法大師の諡号を延喜21年(921)に後醍醐天皇から追贈され真言宗の開祖である。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。  
空海は弘仁3年(812)11月15日、高尾山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに同年12月14日には胎蔵灌頂を開壇した。(灌頂とは、初めて受戒する者、または修道が進んだときは香水を頭頂に灌ぐ儀式を行うこと)  
入壇者には、最澄や、その弟子円澄・光定・泰範のほか190名にのぼった。受胎蔵灌頂人歴名の中に貞主の名前がある。ここに記載された貞主が滋野貞主ならば、年齢28才の時になります。  
仁寿2年(852)2月8日の条に『続日本後紀』には、「参議正四位下行宮内卿兼相模守滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京の人也。曾祖父大学頭兼博士正五位下楢原東人。云々遂に姓に伊蘇志臣を賜る。父尾張守従五位上家譯は延暦年中姓に滋野宿祢を賜う」とうあり、滋野氏の家系について大約すると次のように述べている。  
貞主の曽祖父は大学頭兼博士で正五位下の官位をもつ楢原東人という学者であった。九経に該通し名儒といわれた。天平勝宝元年(749)駿河守となっていたとき、駿河区にから黄金を産出した。東人はこれを帝に献じたので帝は非常に喜んで、その功をほめて「勤しき哉臣や」と言われ、伊蘇志臣という姓を賜ったという。貞主の父は家譯(いえおき)といい、伊蘇志臣を改めて朝臣を賜り、以後子孫は滋野朝臣を称するようになった。  
また、仁寿2年(852)の『文禄実録』に大外記名草宿祢安成に滋野朝臣の姓を賜るとある。  
貞主は、慶雲4年(707)より天長4年(827)の間に諸人が作った詩作178、人賦17首、誌97首、序51首、対策38首を偏して『経国集』20 巻を朝廷に献上しました。  
また、貞主は、典籍の編集長としてのその大事業を完成させたばかりでなく、、天長8年(831)には勅(天皇の命令)により、多くの儒教者とともに秘府の図書を基に、類別を編纂し1,000巻に及ぶ百科辞書『秘府略』を著す。これは、わが国空前の大著で、この一部が国宝として今に残っている。  
多くの学者を統率して完成させた裏には貞主の高潔な人柄が窺い知られます。  
貞主は、第53代淳和天皇の代、儒臣にして文章生より出身し、諸官を歴任した。、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に進み、嘉祥年中(848〜50)正四位宮内卿兼相模守となる。  
貞主には二女がおり、長女縄子は仁明天皇の女御(妃)となり本康親王を生んでいる。次女奥子も文徳天皇の中宮(皇后)として惟彦親王を生んでいる。親王や内親王が生れて天皇の義父となり、一大勢力者となったが、唇に腫れものができて、仁寿2年(852)2月8日68才でなくなっている。その居宅を西寺の別院に寄贈し、慈恩院と名づけられている。  
貞主の弟貞雄(家譯の第3子)も滋野朝臣を称し、丹波守・宮内卿・摂津守等を歴任、その女岑子は文徳天皇の妃となり2皇子2皇女を生んだ。兄貞主と同じく高官でありながら温厚な性質で庶民から敬愛されていたもののようである。  
このように貞主・貞雄の代に至って皇室の外戚ともなった滋野氏は、当時朝廷において、橘氏・菅原氏などと並ぶ所謂権門勢家となったことは容易に想像できる。  
次に貞観元年(859)12月の『三代実録』には「従四位上行摂津守滋野朝臣貞雄卒す。65才で、兄貞主の方が10才年上であったことが分かる。  
『日本三代実録』によると、掃部頭滋野朝臣善蔭は承和13年(846)に外従五位下を授けられ、滋野善蔭の弟に滋野善法・善根らがいる、貞観4年(862)12月20日に善蔭・善根は二人そろって国司に任官せられ、滋野善蔭は丹波守に、滋野善根は美濃守になった。滋野善根が外従五位下を賜ったのは斉衡元年(854)のことである。また、滋野善根は『日本三代実録』によると、貞観12年(870)に信濃守となつていることが知られる。  
前記系図の滋野善蔭の子滋野恒蔭は『日本後記』によると、貞観10年(868)正月に大外記より従五位下の叙位があり、1月16日に信濃介に任ぜられる。  
このようにして、滋野一族の者が信濃の国司に任ぜられ、信濃に下向している。これが信濃滋野氏の祖となったという。  
『日本後記』によると信濃からの貢馬を司る役人として見られることから、代々馬寮と深い関係を持つ役職にあったと思われる。  
このような滋野氏の子孫で京にいた者は、朱雀天皇の時代に中務大丞滋野春仁、一条天皇の時代に『権記(ごんき)』に出てくる大外記滋野善言などがいる。  
『権記』というのは、権大納言藤原行成の日記のことで、藤原道長全盛時代、道長と親交のあった行成の日々の記録として、平安中葉を研究するための貴重な資料となっている。この『権記』の寛弘6年(1009)8月17日の条に、「信濃から貢馬を牽いてきたが、先例によって今日は一応馬寮に納め、明日"駒牽きの儀式"を行うようにと命令があったので、その由を善言朝臣に申し伝えて退出した」という記事がある。  
善言朝臣というのが前述の信濃守善根やその兄善蔭の系統をふむ者であろうと推察される。馬寮の役人で"駒牽き"のことを司る官吏であって、しかも朝臣という姓を附されていることから推して、相当の高い位置にいたものであろうと思われる。すでに滋野氏はかなり早くから信濃国の牧と深い関係にあったことは推察しえないことである。その成立は、少なくとも奈良時代より古いことは、市内から発掘された馬具(杏葉など)一つとっても容易に想像せられる。  
国分寺跡が上田市内に発掘された。ところで国府は、少なくとも平安初期の元慶3年(879)ころは筑摩郡(松本市内)に移っていたことは『日本三代実録』の9月の条にそれを示唆する記事がある。元慶の前は貞観だから、貞観年間に信濃守や介を拝命された滋野氏は、小県郡にあった国府の近くに赴任したことになってくる。滋野三家を中心とする東信濃の土豪は、貢馬(くめ朝廷に貢進する駿馬)などを通じて国庁の最高責任者である信濃守や介とは、当然深い関係が保たれねばならない。  
このことは信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、とくにその諸牧の代表的なものであった望月牧や新張牧、その管理者であった望月氏や祢津氏及びその中間にある海野氏と血縁関係までもつようになった。これが滋野氏を祖とする理由になったのではないかと思われる。  
滋野系は小県から佐久へかけての名立たる土豪、真田・岩下・矢沢・根々井・楯等々滋野氏の後と称するものはあまりに多い。中には小室・矢島・落合・志賀・平原・春日などの諸氏まで、滋野氏の一族に数えられる説もある。  
このころ海野郷一帯には渡来人にかかわる伝承が多く残されており、浅科村八幡(現在の佐久市八幡)には「高良社」が祀られている。また、北御牧村下之城(現在の東御市下之城)の両羽神社には善淵王とダッタン人と言われている船白(代)の二基の木造が安置されている。この地方の伝承によれば、その一基の船白は、渤海国(現在の中国東部に興った国)からの渡来人であり、善淵王の師と言われている。  
古くから馬の飼育・調教などを渡来人である渤海国の人達から伝授を受けて、朝廷に献上する馬を飼育していた。  
そのころ渡来人(騎馬遊牧民)の馬頭琴や横笛が望郷の思いを馳せながら、遠く離れた故郷のメロディーを懐かしく口ずさんでいたのかも知れない。  
モンゴルが本流で、信濃国の御牧原周辺に、この流れを聞いて、地元の人たちが、これを母体となって小室節が唄われるようになった。  
この小諸節は、参勤交代の大名や旅人たちにより、日本海側に、そして北前舟により、北上して北海道江差までも、江差追分として、唄われるようになった。  
小諸節は全国各地の馬子唄や追分節と音調がよく似て、しかもモンゴル民謡「小さい葺色の馬」とも楽節の構造・音階・拍子・旋律の流れがよく似ているそうである。  
小諸節・信濃追分節・追分馬子唄で唄われる。その後、全国各地の追分節はここが発信地となった。  
渤海国は朝鮮半島の高句麗の旧地を合併して栄え、わが国の奈良朝の聖武天皇のころより、しばしばわが国にも朝貢をしていた国である。  
その渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、その見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白」である。  
これは滋野氏が中央の名族として、朝廷とかかわった古い記録(日本後記)に見られることである。  
その船白の像と伝えられている古像が、滋野氏との関係の深いと言われている善淵王像と、一緒に祀られていることは、望月牧の馬飼養の技術導入と牧経営にかかわった人たちから、繁栄の基礎を学び、習得したのではなかろうか。 (北御牧村村誌より)  
このころ、海野に水をひくための用水で、吉田堰が真田石舟地籍(現在の上田市長石舟)から神川の水を揚げて、本原・赤坂・矢沢・下郷・森・大日木・小井田・中吉田・東深井に至り、海野郷へ延長されて千曲川に合流している。創始は、養老年間(717〜23)だと言われている。吉田という地名は、稲作に適した良い田のあるところという名のようです。従来は田沢(現在の東御市和)から流れ出す金原川および成沢川の水を利用していたのであったが、永禄元年(1558)から13年かけて大改修によって完成した。これにより吉田堰は瀬沢川を渡って、東深井、大平寺方面まで水が届くようになりました。  
滋野恒蔭の子恒成は正六位下因幡介となり、清和天皇の皇子貞保親王の家司となる。妹は貞保親王に嫁いだ、滋野恒成の子の恒信は正六位上左馬権助となり、天暦4年(950)2月に信濃国望月牧監となって下向し、海野幸俊と改名した。  
一説には、滋野信濃守恒蔭の子に滋野恒成(善淵王=一説には恒蔭の女子が清和天皇の子の貞保親王と結婚して、その孫善淵王(よしぶちおう)が信濃守として小県郡に下ったともいわれる)が寛平2年(890)に生まれるという。  
望月牧監幸俊の子信濃守幸経(幸恒)は天延元年(973)9月海野荘の下司となる。  
これを系図に示すと次の如くになる。  
一説には、一羽のツバメが舞い込んできて、それを見上げた親王の目に糞が落ちてきて、それがもとで親王は目を病み、色々と手を尽くしたが、効き目がなく、信濃の烏帽子山麓に霊湯(嬬恋村の加沢の湯)があると聞いて、はるばる下ってきて湯治をしたという。痛みは治ったものの、ついに盲目となり、小県郡海野の郷に住むことになった。信濃国の国司に任ぜられ、その後に信濃の深井氏の娘と結婚し、その孫が善淵王(恒成)で信濃滋野氏の祖と言われている。  
この深井氏の後裔に、深井棟広が、海野氏の家臣で戦国期に村上氏と海野氏との戦いで海野む棟綱とともに上州へ追いやられた。その後真田氏の配下となった深井棟広の養子、深井綱吉も真田の手により忙殺されたが、その子深井三弥は真田昌幸の家臣となり、孫の深井外記は幸村の家臣となり一族の存亡を願ったが幸村の配下となった深井外記は慶長19年(1614)の夏の陣で討ち死にした。深井外記の子、深井右馬助は真田信之の家臣となって松代に移ったが、元和8年(1622)に真田信之家臣団48騎が松代を退去した事件があり、その際に48騎の一員であった。深井右馬助は、旧地(深井郷)に帰農することを決意して東深井に戻った。その子孫である深井邦信、その子深井正、その子深井幸pと現在も地域で活躍されておられます。 
信濃滋野氏誕生と平将門(天慶の乱)  
滋野恒成(善淵王)が48才の頃、千曲川合戦(天慶の乱)が起こる。  
恒武天皇の第四子葛原親王は、東国に荘園を持っていた。葛原親王の子に高見王がおり、その子が高望王である。この高望王が「平」の姓を賜る。平高望が寛平2年(890)52才のとき上総介に任命され、一族郎党を引きつれて東国に下った。  
そのころ、大和朝廷に征服され帰順した「えぞ」を上総や下総につれてきて「俘因」といって集団生活をさせていた。その「俘因」がたびたび反乱を起こし、朝廷を悩ましていたので高望に国内の治安維持にあたらせた。高望の長子国香(鎮守府将軍)には菊間(現在の千葉県市原市)に、二男の良兼には横芝に、三男の良将には佐倉に、四男の良繇には天羽に、それぞれ配置して上総の周囲を固めていた。そのうち、佐倉にいた良将は下総介と同時に鎮守府将軍も兼ねた。  
延喜11年(911)高望は、73才の生涯を閉じたが、中央政府は、翌年の延喜12年に、藤原利仁を上総介に任命15年に鎮守府将軍に任じた。これに対して面白くないのは、高望の長男国香であった。  
その後の延喜17年(918)に良将が亡くなり、いままで一門を中心とした上総・下総の勢力が崩れかけてきた。  
平国香は平将門に攻め殺された。国香の子貞盛は、京都にいてこのことを聞き、東国に下り、伯父の良兼と力を合わせて平将門を攻めたが、力及ばず敗れてしまった。  
そこで平貞盛は、都に上がって官軍の力を借りて平将門を打つべく手勢を引き連れて都を目指して急いだ。さらにそのうえ、将門が大がかりな製鉄所をつくり、武器や甲冑を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたのであろう。地方に居って、醜い争いの巻き添えを食らうよりも、将門を中傷するために上京し、それをきっかけに、立身出世をしようというものであった。  
そのために貞盛は、承平8年(938)2月中旬、京都の高官たちに贈る「袖の下」を十分準備して、中山道へ向って出発した。  
これを聞いた平将門は、もし貞盛が上洛して官に自分の悪行を知らせたならば大変であると、百余騎の兵を率いて、まだ碓氷峠には残雪のある季節なので、これを蹴散らかして峠を越え追撃をした。  
当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠を過ぎて松本に入るのが順路であったので、貞盛もこの経路を取り、小諸の西、滋野の総本家の海野古城(現在の東御市本海野三分)に立ち寄った。  
この地は信濃豪族海野氏がおり、以前の縁故により善淵王(恒成)に協力と助けを求め再び、ここでの、その厚意により、一息をつこうとしたのであろう。  
というのは、善淵王と平貞盛との関係は、貞盛が、かつて京都で左馬允の職にあったとき、信濃の御牧の牧監滋野氏と懇意であった。また、以前に平将門が上京のとき、平貞盛の依頼によって宇治川に布陣し、将門を亡き者にしようとした縁故があった。  
この滋野氏に協力したのが近江国(滋賀県)甲賀郡にいた甲賀武士、これが甲賀者として、古くから忍術をもって知られていた一族が望月氏で、その功績によって甲賀郡司に任命されて、そこに定着して、忍者の一家をなしたという。  
貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は、先まわりして信濃国分寺付近に待機していた。そこは上田の東方で、北から流れる神川の橋の付近は貞盛が通らねばならない地点であった。将門としては、貞盛が千曲川を渡らせぬために、天慶2年(939)に、ここで千曲川合戦(天慶の乱)が行われたのであります。この日は冬まだ寒い2月29日のことであったと言われる。  
この戦火で信濃国分寺が消失してしまったという。  
貞盛方の勇将他田真樹というものが、敵の矢にあたって戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるということから、郡司として国府に務めておったが、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援に駆けつけたものであろう。  
従来、この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたものと思われる。  
ここは、たびたび戦場になったところで、天正13年(1585)上田城が真田幸村(信繁)の父真田昌幸によって完成をみたころ、攻め寄せた徳川の大軍7,000人余、迎え撃つ真田勢は2,000人弱であった。しかし真田の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり死者1,300人余であったと言われている。これに対して真田が他の死者は40人ほどであったという。二度目の戦いは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際して、関ヶ原に向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は38,000人いう大軍、これに対して、昌幸・幸村父子の率いる上田城兵は、わずか2,500人ほどであったという。このときも徳川勢は上田しろを攻めあぐね、この地に数日間も釘づけにされただけに終わり、関ヶ原の決戦に遅れるという失態をすることになる。そういう宿命的な場所であった。  
この戦闘の結果、貞盛の方はまたも負戦となったが、運よく小牧山中にのがれ助かった。将門はいかにしても貞盛をうつべく手を尽くしたが、見つからずやむなく東国へ引き返した。  
『千たび くびを掻きて 空しく 堵邑に 還りぬ』 平将門  
平貞盛は難を逃れて、長途の旅の糧食を奪われ、飢えと寒さに悩まされ悲惨な思いをしながら、やっとのことで京都にたどり着いたが、持ってきた「袖の下」などは途中でなくしてしまったので、太政官に訴えても真剣に取り上げられず、本国で糺明せよという天判状をもらい、京都での仕官の道も達せず、僅か3ケ月の短い期間で東国へ下った。(赤城宗徳著『新編将門地誌』より) 
海野氏の祖善淵王  
滋野恒成(善淵王)は真言宗に深い信仰があり、延長年間(923〜30)ころに宮嶽山神社(四之宮権現)を創建している。  
その祭神は貞保親王で、清和天皇の第四皇子で、信濃国司の任にあたったとき、当地(海野郷)に移住されたが、延喜2年(902)4月13日に死去され奉葬した御陸墓であります。  
その後、松代藩主真田家より毎年米10石、祢津領主より米18石を御供料として進納されておりましたが、明治維新のころから廃された。  
神社の頂上までの石段の数は、なんと一年の日数と同じ365段があり、現在では体力増進・維持のためにジョキングをしておられる人を多く見かけます。  
滋野恒成(善淵王)は天慶4年(941)1月20日になくなられ、法名『海善寺殿滋王白保大禅定門』をとって海善寺と称された。  
当寺は、第56代清和天皇の皇子貞保親王をもって開基とし、承平5年(935)5月に海野郷に一宇を建立して、親王の法号をとって海善寺と号した。  
昭和21年(1946)に海善寺集落の西側の畑から「廃海善寺石塔基礎」が出土され、安山岩で、高さ28センチ・底面は46センチの直角で、「文保」(1317〜18)の年号が陰刻されており、海野氏の館の鬼門除けに祈願寺として、そのころに再建したのではなかろうか。  
600有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として20貫の寺領のほかに、隠居免五貫文を寄付している。翌年7月28日十坊並びに、太鼓免36貫百文を寄付している。  
その後、天正15年(1587)ころ領主真田昌幸が上田へ築城したのにともない、当寺も鬼門除けの鎮護として、本寺を現今の地(現在の上田市新田 海禅寺)に移し、再建されました。   
鬼門とは、陰陽道でいう家や城の東北の方向のことで、百鬼が出入りする文であると考えられていたのです。ですから都や城を築くにあたって、東北の方向に鎮護のための寺や神社を建立したものです。たとえば、江戸の上のの寛永寺、京都の比叡山の延暦寺などです。  
慶長6年(1601)真田候より24貫の地を寄付される。   
真田信之が元和8年(1622)海野郷にあった白鳥神社(祭神は日本武尊・貞元親王・善淵王など)を松代に移築の際に、神社の別当寺として移されたものです。海善寺住職阿闍梨法師尊海を伴い、松代西条(現在の長野市松代)に移し、開善寺と改めました。  
白鳥山の西麓、こんもりとした林を背に、開善寺が見えてきます。整然と白い塀が境内を囲み、本堂の前には亭亭と杉の木立が伸びています。本堂に祀られている本尊の地蔵菩薩は、開基者の滋野法親王を等身大に刻んだものと言われます。現在は地元をはじめ屋代や稲荷山などの信者の方々がいて、毎年4月15日の聖天講に訪れます。  
今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建され、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵(回転する書棚を安置するものとして県内最古です)に天海版一切経(江戸初期に天台宗の僧天海が刊行した経本6323巻で、48年間かかって木活字版)が収められていて、現在は県宝となっております。(松代町誌より)  
本堂内の左手の欄間に「護摩堂」とかかれた大きな偏額が見えます。その下方に様々な仏像が、所狭しと安置されています。  
不動明王像、右手に馬頭観音菩薩像、左手に愛染明王像、その傍らに数々の大日如来像群などなど。  
優しい言葉などでは聞き入れない業の強いものを、県で脅したうえで説き伏せ、右手に持つ縄で救ってあげようとする不動明王。牙をむき出し、怒りの形相なのに不動の名は似合わないようですが、こうして悪魔を追い払い、動かし難い静かなさとりを護っているのでしょう。さて愛染明王では、光背の真赤な日輪は、燃える煩悩を象徴し、愛欲にとらわれ、身を滅ぼしてしまいそうな人々を救い、よりよい人生に向かわせようとします。ですから幸せな縁結び、家庭円満を祈って多くの信者が信仰して来ました。  
その他の国々の滋野氏は、次の人々が文献に見える。  
先ず紀伊の人で名草豊成・名草安成の両人が滋野朝臣を賜っている。元来は九州の宗形氏族の者が、紀伊の名草直氏の女をめとり、その子孫は母子によって名草宿祢となり、滋野朝臣になった。  
また、鎌倉時代の人で、延慶3年(1310)に相模国(神奈川県)の人に滋野景善。元弘元年(南朝年号1331)に能登国(石川県)の人に滋野信直。元徳3年(北朝年号1331)に出羽国(山形県)の人に滋野行家などが見え、室町時代永享9年(1437)には日向国(宮崎県)に山伏滋野氏権津師定慶坊がいる。(日本家系協会滋野一族より) 
 
■海野氏興亡史

海野氏のはじまり  
はじめの海野の地は、ウムナ・ウムノとなって、海野の文字を用いられ、海野郷といい、鎌倉時代に入って海野庄となったという。  
奈良時代の初期、天平10年(738)頃に、正倉院御物の麻布に「信濃国小県郡海野郷」と墨書があり、この頃貢物が海野郷から信州の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされたことを立証する資料である。  
さて、海野の祖と伝えられる幸俊から幸氏に至る系図は次のようである。  
前記系図の滋野恒信は、天暦4年(950)望月牧監となり、信州小県郡海野に下向し、海野幸俊に改名したとされる。海野氏初代当主となる。  
海野小太郎幸恒信濃守は、海野氏2代当主。  
海野幸恒の長男海野信濃守幸明が海野氏3代当主。天延の頃(973)弟たちは分家して二男直家は祢津氏(詳しくは)、三男重俊は望月氏(詳しくは)を起している。  
この祢津氏から分れた浦野氏は、祢津神平貞直の子貞信で、浦野三郎と言い、鎌倉初期(1100ころ)に浦野庄の開発を手掛け、ここの地を苗字としたという。(詳しくは)  
海野・祢津・望月、これらを滋野三家といい、三家は緊密で、出陣の次第によると海野ら戦う時は海野幡中、右祢津、左望月となり、三家一体となって外敵に当ったという。  
この頃の家紋は海野氏が州浜や結び雁金で、祢津氏は丸に月で、望月氏は七曜または九曜の紋であったとされる。  
海野氏と並んで信州の雄族で、現地にあっては、相当な勢力になって支族も広く分出し、信州・甲州のみでなく、近江・甲賀にも進出して一勢力となったほか、各地の諏訪神社等の神官となった者もあり、出家して寺を開基して、諸国に赴いた者もいる。  
孫の海野小太郎幸真は海野氏4代を継ぎ、海野小太郎幸盛が海野氏5代当主。  
上田市上野の砥石城跡の山麓に望富士山陽泰寺(禅宗)があり、この丘より富士山が望めることからと伝えられている。  
縁起は古く、白鳳11年(683)、北陸の高僧泰澄がしばらく錫杖を止め、心を養ったので、奈良時代の高僧行基が「養泰院」と称したという。  
海野氏4代海野小太郎幸真は当寺に深く帰依し、田畑を寄進した功徳により、海野氏の菩提寺としての開基となり、以後海野氏代々外護の任を果たした。  
海野小太郎幸真(陽泰院殿笑岩道讃庵主)の墓は寺院の裏山に建立されております。(寺紋は「州浜」) 
前九年の役  
永承6年(1051)陸奥、衣川以北六郡を領していた安部氏(俘囚の長)が朝廷に反抗して貢税の義務を果たさず、また安部頼時の代には、衣川を越えて南進し領土を拡大してきたので、朝廷の派遣官である陸奥守藤原登任が鎮圧のために、これを攻めたが逆に敗れてしまったので、朝廷は源氏の棟梁源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍として派遣すると安部氏は源氏の名声にすぐ服属を誓い、同時に罪も許された。陸奥国は頼義の国府在任中は平穏であった。  
頼義の任期が終わろうとして胆沢城から多賀城へ帰る途中の阿久利川(一関市)で野営中「夜襲を受けた」と藤原光貞が告げ、犯人は「安部貞任であろう」ということを信じて、ひたすら恭順の意味を示してきた安部氏と源氏との戦端が開かれたのである。発端は不可解な阿久利川事件であった。  
源氏は歩騎数万、優勢に戦いを進めたが安部氏の大将頼時は鳥海棚(岩手県江刺郡金ケ崎)付近で流れ矢に当り戦死、頼義は安部氏討伐の宣旨(朝廷の命令)を受けていたので早速頼時の敗死を報告し、更に子貞任・宗任らを討つことを申請した。  
しかし土着の安倍氏の結束は固く、河崎棚(東磐井郡)に結集、源氏軍を黄海(同郡東部藤沢町)で追撃、旧暦11月厳冬風雪の中、重囲にあって源氏軍最大の危機に陥る。しかし19才義家の勇猛果敢な活躍により九死に一生を得る。  
貞任らの勢いはますます盛んとなる中で源氏はこの窮状打開のため最後の手段として「夷は夷を以って制す」の方法をとり、出羽仙北三郡(雄勝・平鹿・仙北)の俘囚長清原氏に応援を求めるのである。  
康平5年(1062)清原武則は同族と共に10,000余りの兵を率いて出陣、源氏・清原混成部隊はわずか1ヶ月で難攻の小松棚(一関市)と安倍軍のゲリラ戦に勝ち天下の要塞衣川関の戦でも大勝、最後の拠点厨川棚(盛岡市の西北)で安部貞任・宗任軍は、地獄絵の中に落ち安部氏は滅亡したのである。  
源氏の危機を救った清原武則は翌年従五位下鎮守府将軍となり、俘囚長出身としては最初である破格の栄誉を得ると共に、支配地域は仙北三郡に陸奥の奥六郡をあわせもつ飛躍的な成長を遂げたのである。  
頼義は嫡男義家を伴い、奥州に向かう途中、東山道の道筋にあたる海野氏6代海野小太郎幸家に頼時追討の戦いに加わるよう援兵の請いを、戦役につくため同族騎馬80騎の棟梁として総勢270人が従い、源頼義に従い安部頼時制圧に乗り出したが頑強な抵抗にあい出羽国北部の豪族清原氏に援兵を請い、勝敗を繰り返しながら暫く安倍頼時を倒し嫡男貞仁と弟の宗仁を捕虜として長くかかった戦乱をようやく終息させた。この乱は、源頼義の奥州下向より終息するまでの11年間(1051〜1062)の長期の乱で、後に、前九年の役と称された。  
この戦いに行くにつけ赤石藤次郎は戦勝を祈願して無事帰還できたので正行院(寺)を南屋敷の一角に開基したのである。  
場所は現在の海野保育園の100mほど東側です。 
西上州の海野氏支族  
海野氏6代海野小太郎幸家の弟幸房は下屋将藍と称して、平安朝末期のころ三原(群馬県妻恋村)に住し、その子孫は代々修験者となって、西部吾妻の地を開拓して、その地の草分けとなった。  
また、その孫は鎌原氏・大厩氏・西窪氏と西上州方面に支族が分出している。  
幸房の子幸友は、下屋出羽守で法号を昌慶と称し、父の棄城庵の志を継いだ。幸房の孫幸兼を下屋形部太郎といい、はじめて鎌原郷に移り住んだ。  
幸兼の弟は、大厩伊弥藤五郎・西窪伊弥三郎・万座新三郎入道・門谷弥四郎として、それぞれの住地を氏として分れ住み、幸兼の長男重友は武人として頼朝の浅間野狩に従って、鎌の字を賜って鎌原太郎を名乗った。  
二男の友康を名伊越形部三郎といって常法院の祖となった。  
孫の友成を形部三郎出羽守といい、弟は赤羽根に住んで赤羽幸兼・今井形部三郎・芦生田丹藤太と分かれ、いずれも住居地名を氏として分れた。  
こうして浅間山麓の鎌原郷に土着した鎌原氏は三原庄きっての土豪として、永くこの地を支配してきた。元和元年(1681)沼田藩5千石余の家老職にあった。鎌原氏は代々三原庄の地頭につき、頼朝の鎌倉幕府に務め、その後上杉氏に属し、戦国の世は武田氏に出仕して、武田氏滅亡後引きつづき真田氏の沼田藩に仕えて、天和の改易まで約500年この地にあって、この地を支配してきた。 
後三年の役  
前九年の役から、清原氏の三代約20年を経過した。孫の清原真衡の代になり一族の間に争いが起り、領域は乱をはじめた。  
永保3年(1083)陸奥守として赴任してきた源頼義の嫡男源義家は、この争いに介入し、最初は清原真衡を応援し一応鎮定していた。  
ところが清原真衡が急死すると、今度は相手方の清衡・家衡の間で争いが起り、源義家は清原清衡方に加勢して、清原家衡を倒し、寛治元年(1087)9月乱を平定した。この乱を後三年の役というのです。  
この時も義家より援兵の請いがあり海野氏7代海野小太郎幸勝は同族80騎の棟梁として総勢480人をつれて源義家に従い、遠い奥州の地まで軍馬を進めて陸奥の清原清衡と共にに戦っている。  
この正行院はのちに地蔵寺と改名されたのである。  
源義家も京都に帰り、新たにこの地方に君臨したのは清衡でした。  
姓を「清原」から「藤原」へ改めた初代清衡公は、荒廃した国土を復興し、この地にこの世の浄土「理想郷」を創ろうとしたのです。  
以後、百年にわたる平泉黄金文化のいしずえを藤原氏4代にわたり築いていったのです。  
平成23年(2011)6月26日世界遺産に登録されました。平泉のシンボルが国宝中尊寺金色堂です。藤原文化を象徴する建造物で、浄土思想が息づく阿弥陀堂は、内外を黒漆で塗り、その上に金箔で押したため、金色堂とよばれています。このほかにも毛越寺観自在王院跡・無量院跡・金鶏山が織りなす極楽寺浄土の世界を勘能できます。  
ちなみに、日本の世界遺産「文化遺産」では姫路城(1993登録)・法隆寺地域の仏教建造物(1993登録)・古都京都の文化財(1994登録)・白川郷・五箇山の合掌造り集落(1995登録)・原爆ドーム(1996登録)・厳島神社(1996登録)・古都奈良の文化財(1998登録)・日光の社寺(1999登録)・琉球王国のグスク及び関連遺産群(2000登録)・紀伊山地の霊場と参詣道(2004登録)・石見銀山遺跡とその文化的景観(2007登録)・平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群(2011登録)・富岡製糸場と絹産業遺産群(田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴(2014登録))の13件、「自然遺産」では白神山地(1993登録)・屋久島(1993登録)・知床(2005登録)・小笠原諸島(2011登録)・富士山(信仰の対象と芸術の源泉として富士山域・本栖湖・富士山本宮浅間大社・白糸の滝・忍野八海(出口・底抜・湧・鏡・お釜・銚子・濁・菖蒲各池)・御師住宅(旧外川家・小佐野家)・三保の松原(2013登録))の5件で、18件が世界遺産に登録されています。 
保元の乱  
保元元年(1156)7月11日に起きた「保元の乱」の原因は、天皇家の内紛と関白や摂関家の争いで戦うことになったのである。  
兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の間で家督争いに端を発する武力衝突が、京都で発生した。両者の対立には摂関家でも、弟の左大臣藤原頼長は上皇方に、兄の関白藤原忠通は天皇方につき、兄弟による骨肉の争いとなった。  
この戦いで活躍したのが、源氏と平氏の二大勢力に代表される新興勢力の武士であった。  
平氏は平清盛とその息子基盛が天皇方に、清盛の叔父である平忠正、平家弘、平康弘らは上皇方に分かれた。  
源氏では、棟梁の源為義と、その息子の頼賢・頼仲・為朝・為仲の4人は上皇方についたが、嫡男の源義朝と為義の祖父である源義家の孫の足利義康、源氏一族の源頼政らは天皇方についた。こうして、天皇家・摂関家・源氏と平氏の一族も親子や兄弟でも敵同士となって戦う事態になったのである。  
両者は前日10日から兵を集めだした。高松殿に結集した600余騎の天皇方は、11日未明に3隊に分れて鴨川を渡った。  
平清盛を大将とする300余騎が二条大路を進み、源義朝を大将とする200余騎は大炊御門大路を進み、足利義康を大将とする100余騎は近衛大路を進んで、上皇方が集まる前斉院統子内親王の御所(東三条邸)に向かい、夜襲を行った。  
上皇方は源為朝らが奮戦したが、勢いは天皇方にあり、崇徳上皇と藤原頼長は逃亡する。天皇方は源為義の住宅も焼き払った。  
わずか四時間ほどで決着して天皇方の勝利に終わった。捕らえられた上皇は讃岐に流罪となった。  
0海野氏8代海野小太郎幸親は、天皇側として源義朝に属し、京都に上り信濃武士300騎の棟梁として活躍し武功を立てた。海野氏の直轄領は海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(吾妻郡)、佐久地方、四賀村付近まで広がり、彼らは海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。 
平治の乱  
保元の乱から3年目にして起きた騒乱、保元の乱で勝利に大きく貢献したにも関わらず、平清盛に比べて任官が低いことを不満とし、やがて両者の対立が激しくなっていった。  
僧である藤原道憲(後の信西)の計略で清盛は上皇の近臣として権勢をふるい勢力を伸ばし、一方の義朝は、やはり上皇の信西と対立関係にあった摂関家藤原信頼と組んでついに反撃に出る。  
平治元年(1159)12月9日、信頼・義朝軍は、清盛の熊野へ参詣のため京都との留守をねらって挙兵し、後白河上皇を内裏に移し、信西の屋敷に焼き討ちをかけ逃げる途中、宇治田原で首を刎ねられ、信頼は自ら大臣・大将となり、義朝を播磨守に任命した。  
しかし、まもなく清盛は帰京して、信頼は殺され、義朝は東国へ逃走中、尾張国の内海荘で見つかって殺された。  
平賀義信・源頼朝と共に御所の郁芳門を守っていたが、平頼盛が押寄せて来て、頼朝は捕えられ、伊豆に流され、幼かった牛若らも母と共に捕えられた。  
源氏の勢力は一時まったく沈滞し、その反面平氏は全盛期を迎え、政治の実権は貴族から武士の手にうつり、古代貴族政権の時代は終り、中世武家政権の出現となる。 
木曽義仲の旗挙げ  
治承4年(1180)8月17日、平家の乱後、伊豆の蛭ケ小島で流人の生活を送っていた源頼朝が挙兵しました。  
さて、義仲の父義賢は、頼朝の兄の義平に殺されていますので、義仲にとっては頼朝はいわば仇の弟であり、義仲は頼朝に対抗意識もあり、先に平家を倒してしまいたいの思いから、養父中原兼遠に相談する。以仁王の令旨を受け、頼朝挙兵から約一か月後の治承4年(1180)9月7日に中原兼遠とその子ら・樋口兼光・今井兼平・巴御前らと心をあわせて木曽谷の柏原で兵を挙げる。  
信濃「市原の合戦」(現在の信大工学部付近)で笠原頼直と戦い、義仲にとって大事な緒戦が大勝利で終わった。  
そこで一旦、信濃国府に戻る。一息入れた後、治承4年(1180)9月、諏訪から佐久や小県の信濃武士らが続々と宮の腰に集まり、その日のうちに1千騎になったとも、また反対に武士の数も少なく、心細い旗挙げだったとも言われています。  
旗挙げ八幡宮で勝利を祈願した義仲は、信濃武士らを従えて、父の故郷である上野国多胡庄(現在の群馬県多野郡吉井町)に入りました。  
源頼朝の勢威が日の出の勢いで関東にのびてきていたから、腰を落ち着ける暇もなく、またその頃、越後の城氏が信濃へ侵攻するという風聞も聞こえてきましたので、2ケ月後に信濃への退却を決意したのだと思われます。  
義仲はまだ27才、諸豪族を従えていくためには、世間に名の通ったより強力な後楯てとなる人物が必要であり、中原兼遠はその座を退いて根井行親(42才)に後事一切を頼んだ。  
1,000余騎はその夜、根々井を中心とした佐久平一円の集落で宿営をした。  
翌朝、行親は矢嶋四郎に命じて義仲に白馬を贈った。矢嶋ヶ原で育った馬の中でも最も優れた馬である。気品がありながら馬力や脚力は抜群の名馬であった。おそらく貢馬が行われている頃であったら、帝の乗馬として召されたであろうと思わせるものであった。  
義仲は行親父子の温情に感謝し、以後死ぬまで、この馬を手離さなかった。  
また、木曽からの武者たちにも、矢嶋四郎は相応の馬を贈り、義仲軍の士気もあがり、後々の原動力となったことを銘記すべきである。  
中原兼遠は、円光と号して仏門に入ったと伝えられています。そして治承5年の5月に病気になり、同年6月15日、手塩にかけた義仲の横田河原での大勝利の吉報を知ることなく、その生涯を閉じていきました。 
横田河原合戦  
一方、これを請けた根井行親は東信濃を本拠にした名族、滋野の支族で、信濃国屈指の大豪族、海野氏8代海野小太郎幸親を筆頭にした滋野三家の全面的な後楯てがあり、さらに北信の源氏、諏訪の金刺氏も上野国の武士らも加わって相当な勢力となりました。  
そして義仲は、本拠地を依田氏城に決めました。  
なぜここに、本拠地としたか、それはは東信を中心とした滋野党である。その中でも滋野党は、奈良・平安の昔から名馬を大量に育成し、保持していた。今で言うと戦車・トラック・通信伝達・乗用車に匹敵する戦力であったからである。  
義仲周辺の一連の不穏な動きは、たちまちにして京の平家方や隣国越後の大豪族、城氏の知るところとなりました。  
一方義仲は、越後軍が横田河原に出陣したとの知らせを聞くと、ただちに依田城を出て、治承5年(1181)夏の6月10日前後のころ、海野氏の氏神、白鳥神社に隣接する白鳥河原(千曲川敷)に集結した主な武将は  
上野国の足利義清・長瀬義員など高山党の面々。  
滋野一族からは、木曽四天王の一人根井小弥太行忠(根井行親の嫡男)を筆頭に・木曽四天王の一人盾六郎親忠・矢島四郎行重・根井小次郎行直・望月三郎重忠と嫡男小室太郎忠兼・次男の中村太郎忠直・根津小次郎行直・根津三郎信貞・余田二郎忠朝・千野太郎栄朝・諏訪三郎朝次・塩田八郎高光・丸子小中太・小林二郎家員・志賀八郎・桜井太郎・手塚別当光重・手塚太郎光盛・桜井二郎・野沢太郎・本沢次郎。  
海野弥平四郎幸広(のち海野氏9代)・海野二郎幸平・海野十郎幸久・井上太郎光盛・高梨高信・高梨頼高・仁科太郎盛弘・仁科二郎盛宗・藤沢二郎清親・伊那の泉太郎維長・村上基周。そして木曽からは、木曽四天王の一人樋口二郎兼光・木曽四天王の一人今井四郎兼平・落合五郎兼行・岡田太郎義親・木曽与次・与三・進士禅師・金剛禅師・検非所八郎・平原次郎景親・石窪次郎らおよそ3千騎の精兵でした。  
盾六郎親忠が、横田河原への敵情偵察を申し出して、海野・上田・塩尻から千曲川の狭間、岩鼻の岩山(現在の千曲公園)に登り、義仲に敵状を伝えますと、義仲軍は夜を徹して馬を飛ばし、途中で八幡社(現在の武水別神社)に戦勝を祈願し横田河原の対岸に陣を敷き、虎視眈々と機の熟すのを待った。  
   横田河原周辺図  
義仲は雨の宮付近から攻撃を仕掛けたのは治承元年(1177)6月14日、横田河原一帯を包む濃い川霧が次第に晴れ上がった眼前に殺到する木曽軍に不意をつかれた越後の城四郎長茂の大軍4万騎は惨敗をきし、直江津から会津まで逃げて行ってしまいました。しかもこの年の養和元年(1181)2月4日、平家の棟梁平清盛が熱病を壊して、64才の生涯を閉じている。  
横田河原の合戦の勝利によって、一挙に北陸道一帯を支配に収めてしまいました。  
ところが、ちょうどその頃、つまり治承4年(1180)、養和元年(1181)、寿永元年(1182)は三年続きの大凶作で、平家も義仲も兵を動かすことができませんでしたが、義仲の前には当面の敵、頼朝の間に険悪な空気が漂い始めたからです。  
自分は頼朝に敵対心を抱く理由は何もない、と宣言し、和睦の条件として、さらに頼朝に二心のないことを示す証として、嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させることを条件に、人質として鎌倉に送ることにしたのです。  
お供に海野氏10代海野小太郎幸氏(海野氏8代海野小太郎幸親の三男)のほか望月・諏訪・藤沢など、一人当たり1,000の兵がつけられた。  
義仲が心配した通り、義仲の死後、義高は入間の河原で頼朝に殺されますが、鎌倉の義高は、大姫に兄のように慕われ、二人の純愛は育まれていて、義高の死を聞いた大姫は、悲嘆のあまり食事も取らず、ついに廃人のようになって、19才の生涯を終えています。義高の墓は鎌倉市大船の常楽寺に、また終焉の地の狭山市には義高を祀る清水八幡があります。 
燧ケ城・般若野合戦  
義仲と頼朝の間に不快が生れ、頼朝が信濃に攻め入ったのが、寿永2年(1183)3月の初めですから、平家方としては、源氏同士が内輪喧嘩を始めましたので、絶好のチャンス到来とばかり、平家の全精力を結集しての追討軍の編成だったろうと思われますが、そのときはすでに、義仲と頼朝の間には和睦が成立していたのである。  
平家方は触れに応じて集まった兵は山陰・山陽・四国・九州を中心に、10万余にものぼり、寿永2年(1183)4月17日に都を出発、平家の威信にかけても義仲を倒そうと、琵琶湖の両岸に道を分けて、北陸道めざして進撃していきました。  
初戦は4月26日、越前の要害、燧ケ城(現在の福井県南条郡今庄町)で火ぶたが切って落とされました。  
この城は木曽陣営の最前線基地で、義仲は越後国府にいて、信濃の仁科守弘をはじめとして北陸道の武将を中心に、6千余騎で守らせていました。  
仁科守弘は、日野川の支流の能美・新道の二つの川の落ち合う地点で水をせき止めて人口の湖を作りましたので、平家の大軍も進撃することができずに、両軍はにらみあって日数がすぎていきました。  
ところが、城中に裏切り者が出たのである。平泉寺の長吏斉明威儀師です。その夜、平家軍は大石を取り除き、柵を切り崩して水を落とし、一気に城に攻め込んできたので、ついに木曽軍は総退陣を余儀なくされ、加賀へ逃げ込んだのですが、勢いに乗った平家の赤旗で埋め尽くされてしまいました。  
越前・加賀の戦は、平家方の快進撃、大勝利に終始し、木曽軍はただひたすら逃げまどい、名だたる武将が数多く討死し、また平家に寝返った一族も多々あったという。  
5月3日、義仲はただちに今井兼平に精鋭6千騎をあずけて越中へと出陣を命じました。  
兼平の率いる先鋒隊は呉羽山の山裾にある八幡社に戦勝を祈願し、備えを固めたと同じころ、平維盛も越中前司盛俊に5千騎をあずけて越中へ急がしていました。  
5月8日、「道案内の斉明威儀師の計らいの通りにせよ」と言われていたが、遅れをとった盛俊は、やむなく呉羽山の手前、般若野に陣を構えて兼平軍と対峙したのでした。  
その夜、兼平軍は暗闇にまぎれて山を下り、夜明けとともに白旗30流を高くかかげ、全軍ときの声をあげて般若野へ押し出し、敵陣へ突入し、互いに息きつく暇もない戦いが7〜8時間続きましたが、次第に盛俊軍が2千余の死傷者や逃亡者を出して小矢部川へ敗走し、夜には倶利伽羅峠を越え加賀まで退いたのです。(以下 宮下功著「木曽義仲を溯る」より) 
倶利伽羅合戦  
敗れた平家軍は、敗走してきた盛俊軍を本隊に吸収して作戦を立て直し、全軍10万の兵を二つに分け、本隊7万余騎は倶利伽羅峠の天険を利用して砺波山へ向う、またからめ手3万余騎は志雄山(羽咋市志雄町)に向かい、木曽軍の背後を衝いて挟み撃ちにしようとの作戦であった。   
義仲も越後を出発して越中へ、越前諸族・能登の武士団・越中の軍団らも加わって、その兵5万余騎、先発隊の今井軍と合流、寿永2年(1183)5月10日の夜、軍議を開きました。  
翌11日、義仲のもとに、二隊に分れて平家軍が進軍との情報が入ってきましたので、義仲は軍勢を7手に分けて、  
まず第一手は伯父の新宮十郎行家に矢田判官代義清・盾六郎親忠・海野氏9代海野弥四郎幸広ら1万騎を志雄山に向かう。  
第二手は根井行親を大将とする2千余騎に弥勒山へ。  
第三手は今井兼平の2千余騎を日ノ宮林へ。   
第四手は樋口兼光の3千騎は竹橋へ。   
第五手は余田次郎・丸子小中太・諏訪三郎ら3千騎を倶利伽羅峠の西端の葎原へ。  
第六手は巴の1千騎は鷲ヶ峰の麓に向かわせる。  
義仲自身の率いる3万余騎は小矢部川を渡り砺波山の北はずれ、埴生にそれぞれ陣を取りました。  
埴生八幡宮に祐筆(文書係)の大夫房覚明(海野氏8代海野小太郎幸親の二男)に必勝祈願の願書を書かせ、鏑矢13本を添えて神前に収めました。(現在の護国八幡宮とも埴生八幡宮とも呼ばれるこの神社には、その時の願書と2本の矢が大切に社宝として保存されている)  
5月11日は小競り合いのうちに暮れ、明日の決戦に備えて平家軍は疲れを癒すべき仮眠に入った同じ頃、木曽軍の兵士たちは音をたてず、声を殺して、谷をよじ登り、平家軍に近づいていったのである。  
そして作戦完了の合図と同時に、北から南から白旗をあげ、太鼓を鳴らし、ほら貝を響かせ、ときの声を轟かせ、この突然の事態に虚をつかれ、驚いて起きあがった平家軍10万の眼前に、角に燃えさかる松明をくくりつけられて荒れ狂った牛の大群が猛然と襲いかかっていったのです。(「田単火牛の策」は中国春秋時代の田単将軍に則ったものです)この合戦で大勝利を得ました。  
5月12日には、奥州藤原秀衡から義仲に、名馬二頭が贈られていて、奥州の大豪族藤原氏と木曽義仲との間に軍治同盟が結ばれていたことがわかります。  
続く安宅合戦と篠原合戦も平家の派遣軍の敗北に終わり、京に向けて逃げ帰っていきました。  
また、一つ気にかかるのは、当時の比叡山の山法師軍団の動向であった。  
大夫房覚明に牒状を書かせて山門に送ったら、ただちに3千一同で協議した、木曽軍に味方する旨の返事を木曽軍の本陣に送られたのが、寿永2年(1183)7月2日のことです。  
木ノ芽峠を越え、近江国・琵琶湖を経て7月22日、5万騎を率いた義仲軍は、比叡山に登り、延暦寺東塔の惣持院に本営を構え、そしてさらに比叡山の僧兵も加わって、気勢を上げました。  
横川中堂の元三大師堂(四季講堂)の庭に、道元禅師が出家した得度霊跡の石標があります。道元は曹洞宗の元祖で、父は久我通親、母は前の関白藤原基房の娘伊子で、伊子は義仲の妻の一人で、義仲の死後、久我通親と再婚して道元を生んでいます。 
平家の都落ち  
平家一門の最後の手段として、法皇・天皇や女院などを奉じ、三種の神器(歴代の天皇が受け継いだ三つの宝、やわたの鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉)を奉じて西国に逃れる方策を決意したが、この噂を耳にした後白河法皇は、寿永2年(1183)7月24日の夜半に数人の供を連れて法住寺殿御所を出て、鞍馬の奥へ逃げ隠れ、比叡山の義仲に身を寄せてしまった。  
平家の総師内大臣平宗盛は、翌25日の朝、六波羅や小松殿、八条などの邸宅殿堂に火をかけ、三種の神器と安徳天皇(6歳の幼帝)・建礼門院ら一門をひきつれて、27日に西海さして落ちて行ったのです。  
28日に義仲、行家とともに京に入る。  
8月16日義仲、朝日将軍になる。20日皇位継承問題が決着して、高倉四の宮(後鳥羽天皇)が即位する。  
木曽谷で挙兵して三年、ついに木曽義仲は源頼朝より先に、上洛の夢を果たす。平家軍の横暴に苦しめられていた京都人は、最初のうち義仲の軍が解放軍に見え、喜んで迎えられた。  
しかし、元来、義仲軍の兵卒は各地の寄合世帯で、統率が取れていなかった。9月に「猫間の事」が起り、京中での木曽軍の乱暴、狼狽が勃発し、戦場と同じように略奪を働く者もいて、都の人々らのひんしゅくを買うようになる。  
さらに義仲は後白河法皇との不協和音から、朝廷内外の不評が噴出する。  
所詮義仲は木曽山中に育った自然児で、宮中の礼儀や習慣に馴染まなかったのである。  
そこで義仲のことが煙たい後白河法皇は、9月20日法皇、義仲を避けるために西国で勢力を盛り返す平氏の追討を理由に山陽道に向かわせ、体よく京から遠ざけた。(平家物語) 
水島の合戦と大夫房覚明  
寿永2年(1183)10月1日、日蝕の日に現在の玉島港湾内で、行われた珍しい源平合戦である。天下は鎌倉の源頼朝と都の木曽義仲に西海の平家で三分される形勢になったのである。  
京都を追われて北九州へ落ち延びた平家一族は、瀬戸内の水軍をなんとか味方に引き入れて体制を立て直し、京都奪還を目指して東進を開始した。  
平家方は平重衡・通盛・教経の三勇将が率いる兵船300余隻7千人が柏島沖に出陣して、満所(政所か、玉島大橋西詰の小高い丘)付近に赤旗を並べ柵を設けて陣地を構える。  
一方、木曽義仲は都の政情と鎌倉の動きに不安を覚えながらも、度重なる後白河法皇の策謀に利用されて平家追討の院宣のもとに山陽道を西下したのは9月、10月にようやく中国路に達し、四国の平家を討つ拠点として備中の水島を確保するためね腹心の矢田義清や海野幸広を将に大部隊を派遣した。  
そしてその手始めとして、当時備中の南部一帯に勢力を持っていた平家方の武将妹尾兼康・宗康父子を、その根拠地板倉(現在の岡山市吉備津神社西方)で打取り、勢いに乗って先鋒隊の矢田判官義清・海野氏9代海野弥平四郎幸広の二勇将が率いる兵船300余隻5千人が乙島の渡里付近に出陣し、城(玉島大橋東詰の北方、標高30mほどの台地)と呼ばれるところへ白旗を押し立てて陣地を構えた。  
両軍は、わずか500mほどの海峡を挟んで、時こそ来れと相対峙した。  
初冬を迎えた10月1日(新暦12月初め頃)夜明けとともに合戦の火ぶたが切って落とされた。  
初めのうちは、勇猛をもって聞えた木曽軍が有利に見えたが、なにしろ木曽の山中で育った軍団だけに騎馬戦にはめっぽう強いが、海戦には全くの不慣れとあって次第に旗色が悪くなった。その上、山猿と悪口を言われ、文盲が多かった木曽軍は、これから起こる日蝕という奇怪な自然現象を全く知らず、ただ恐れおののくだけで戦意を失い敗れることとなる。  
かたや海戦に強く、しかも戦術に長けた平家軍の策略に全くはまり込んだ木曽軍が体制を立て直そうとする頃、にわかに西風が激しく吹き出し海は大しけとなり、海戦に慣れない源氏軍の兵士たちは船の上に立つことが、出来ない有様となった。  
その上、真昼というのにあたり一面薄墨を流したような暗闇となり、日蝕を知らない木曽軍の兵士たちは天変地異に驚かされ、すっかり恐れをなして大混乱………さらに不運にも矢田義清・総大将海野氏9代海野幸広の二人の大将まで討死し、木曽源氏は全軍総崩れとなり、平家軍の一方的な大勝利で終わった。僅か数時間の海戦であったと言われていますが、源平合戦の中で平家の勝ったのは、この合戦だけであった。  
命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かであったと言われてる。  
西国から旧都・福原に戻った平氏は屋島を本拠地に瀬戸内で勢力を回復し、一の谷に強固な城郭を構え反撃の時を狙っていた。  
法皇はウラで源頼朝とつながっていたのである。  
11月20日怒った義仲は、法皇御所を焼討ち、法皇を幽閉し、貴族らの官職剥奪などの報復をする。  
23日に藤原基房の娘伊子と結婚する。  
12月、義仲は法皇に強要して、源頼朝追討の院宣を出させる。   
元暦元年(1184)1月3日には、ついに征夷大将軍の宣下を受ける。  
いや、たぶん強引に宣下を出させたのだろう。  
しかし、その時はすでに、鎌倉の頼朝は、源範頼・義経を総大将とする義仲討伐軍6万騎を進発させていた。  
それもつかの間で、源頼朝の代官として京に進撃してきた源範頼・義経の軍による、1月16日の宇治川渡河戦・瀬田の戦で敗れ、北陸へ落ちる途中、1月21日琵琶湖畔粟津で討死する。義仲享年31歳だった。(源平盛衰記より)  
海野氏8代海野小太郎幸親の二男海野幸長は若くして京の都に上り、勧学院の学生で俗名蔵人通広いう、出家してから最乗房信救と改めて南都興福寺で学んだ。  
この興福寺では得業信救(21才)と称していた。  
その坊時代には平清盛を罵倒して南都に居られなくなり、東国に逃げ延びたということである。  
信救東国に下る際、三河国国府で偶然源頼朝と義仲双方の叔父源行家と出会った。  
源行家は以仁王の平家追討の令旨を諸国の源氏へ回状した後、自らも都へ攻め上ったが、養和元年(1181)4月墨俣川(岐阜県長良川)の戦いで敗れ、三河国へ落ち延びるところだった。二人は信濃国で挙兵した木曽義仲を頼った。  
木曽義仲が決起したのは治承4年(1180)9月7日木曽の日義(宮の原)であるが、市原の合戦(会田の戦い、長野県四賀村)小笠原頼直軍を破った後、亡父義賢の遺領であった上野国(群馬県)にまで勢力を広げてから、信濃国丸子の金鳳山山頂の依田館を拠点にした。  
寿永2年(1183)3月頼朝軍は10万余騎の大軍をもって義仲征伐に乗り込んだが、義仲は依田から越後境の熊坂峠まで退いて相手にしなかった。  
そればかりか義仲は今井四郎兼平を使者にして和議を申し込み、頼朝に対して異心の無い証として11才の嫡子清水冠者義高を人質として差し出した。(名目は頼朝の長女大姫との結婚)この時、義高に付き添ったのが信救の弟幸氏をはじめとする海野・望月など信濃の兵であった。  
同年4月木曽義仲が本拠地信濃国依田館から白鳥河原(海野宿の東にある千曲川)に兵を集結し挙兵した時、信救の父幸親と兄幸広は、真っ先に駆けつけて篠ノ井横田河原で越後の城四郎長茂率いる6万の大軍に勝利した。  
得業信救は木曽義仲の軍師となって大夫房覚明と称し祐筆として仕えた。  
都に慣れない木曽義仲と公家社会との間に立って接点の役目をしましたが、木曽没落の後は比叡山に上り、嘉禄元年(1225)71代慈円僧正の弟子となり、円通院浄寛と改めました。  
その後源空(法然上人)の弟子となって西仏坊と改名し、のち親鸞に従い、共に東国各地に布教活動後、親鸞の行状記を著し、その子の浄賀に授けさせる。  
海野幸長(覚明)は信濃海野庄に戻り一庵を建立した。  
建暦2年(1212)9月に親鸞は報恩院白鳥山康楽寺と命名し開基した。  
その後長野市長谷の地に移って第2世浄賀(西佛房の孫)のとき康楽寺の号を許され、さらには第14世浄教が永禄元年(1558)塩崎の現在地に移転した。  
海野氏が住職である寺は、長野県内に15寺・県外に11寺あり、いかに海野氏が名族であったか伺わせる。  
海野幸長(覚明)は『平家物語』の琵琶法師による語り手の一人ではないかと推測されている。  
寿永3年(1184)1月21日に粟津口にて討死した木曽義仲(31才)の菩提を弔うべく、木曽に帰った海野幸長(覚明)は柏原寺に義仲公を祀り、寺名を日照山徳音寺と改めました。木曽義仲の霊は、ここに眠っております。  
海野幸長(覚明)は、仁治2年(1241)1月28日、85歳で死去した。  
その後、時を経ずして木曽義仲を討った範頼・義経兄弟は源頼朝の命を受け、南は瀬戸内海、西北は絶壁で、攻撃が難しい一の谷攻撃に向かう。  
翌元暦元年(1184)2月、源氏軍は二手に分かれ、大手へは範頼率いる本隊5万騎が、義経は軍目付の土肥実平とともに1万騎を率いて搦手門の須磨口に向かった。義経は600mもの斜面、あの有名な「鵯越」を馬で奇襲戦法をかけた。  
こうして「一の谷合戦」で平氏は敗れる。  
さらに、その翌年の元暦2年(1185)2月には「屋島の合戦」に敗れて下関へ走ることとなる。この戦いでは那須与一の逸話が有名だ。 
海野中興の祖幸氏  
幸氏は海野氏8代海野小太郎幸親の三男として生まれた。   
旗挙げの後、木曽義仲が上州へ進攻したため、源頼朝と不和になり、和睦の印として、寿永2年(1183)義仲の子清水冠者義高を人質として源頼朝の元へ送られるときに海野氏10代海野左衛門尉幸氏は、人質義高に随伴して鎌倉に赴いた。  
元暦元年(1184)粟津口で義仲が討死し木曽氏が滅亡した後、義高の死罪処分が決定する。義高は頼朝の長女大姫の婿になっていたが、父が討たれたからには安心しておれない。義高の身に危険が迫ったので、いち早く欺き、義高はひそかに海野小太郎幸氏と脱出計画を練った。義高は双六が好きで、いつも幸氏を相手にしていた。  
そこで幸氏が義高の身代わりとなって、義高は女装して元暦元年4月21日の夜、殿中を抜け出した。幸氏は義高の寝床に入り寝ていた。  
朝になると、義高のいつもいる部屋で、一人で双六をしていたので、誰も気がつかなかった。  
日暮れごろになって、やっと義高と思ったのは身代わりの幸氏で、義高がいないことがばれ、頼朝はおおいに怒って幸氏を拘禁し、堀親家らを追ってとして差し向けた。  
ほどなく義高は親家の郎従藤内光澄のために、入間河原で討たれてしまった。大姫は夫の死を聞いてショックを受け、病床に臥してしまった。母政子も、おおいに哀しみ、頼朝に迫ったので、ついに光澄は殺されてしまった。  
木曽義仲が連れてきた三男の義基を京の寺に預けており、ひそかに京を脱出して東国に赴いたという。その頃越後に配流されていた親鸞に入門。法名「義延房釈念信」を授かった。健保2年(1214)、親鸞が東国への布教に向けて越後を去るとき、親鸞は草庵を念信(義基)に託し、「長称念仏寺」と名付けた。これが長称寺の始まりという。念信と親鸞との縁は、義仲に仕えていた覚明が取持った可能性がある。長称寺はその後、越後から上州沼田、木曽福島と移った後、戦国時代に現在の松本市梓川倭に移転(この時代、石山本願寺と織田信長が約10年間にわたって戦ったとき、長称寺の門徒たちも応援に駆けつけた)。その後、寛永2年(1625)、松本藩によって松本城下の和泉町(現在城東2)に、その約30年後に現在(松本市女鳥羽2)の場所に移された。同寺の鐘楼の銅鐘は宝暦3年(1753)、高名な鋳物師によって改鋳され、昭和19年(1944)に国の重要美術品に指定されている。現在の住職は木曽義浄師。(「信濃毎日新聞」2011・10・19日付「親鸞と信州」より)  
さて海野小太郎幸氏は、その忠誠心をかわれて、却って将軍源頼朝に認められて、鎌倉御家人として仕えることになる。  
いずれにせよ頼朝の御家人となった幸氏は、文治4年(1188)から弓の名手として、しきりに「吾妻鏡」には、この幸氏がしばしば登場する。  
文治5年(1189)正月、頼朝の長子頼家が弓始めに三浦義連と並んで、幸氏は四番目の射手を命ぜられ、和田義盛ら射手十人の一人に名を連ねている。  
海野小太郎幸氏は、白鳥神社を太平寺より現在地に移す。  
建久元年(1190)海野幸氏は居城を古城より太平寺に移す。  
弓馬の術に優れていた幸氏は将軍の狩りの御供をすることも多く、建久4年(1193)の頼朝による富士の巻狩りにも参加している。幸氏は源頼朝の二度の上洛にも祢津次郎らと共に随兵を務めている。  
建久6年(1196)3月の将軍家東大寺供養の際には、弓の名手を従え惣門の警備を務め、祢津次郎らと随兵している。  
また建久8年(1198)の源頼朝善光寺参詣には、随兵として後陣を命ぜられている。  
また幸氏は当然ながら幕府軍の一員として合戦にも参陣している。建仁元年(1201)の越後の城氏の反乱の鎮定の際には、先頭を争って負傷しており、その懸命な忠勤ぶりがうかがえるし、保元の乱(1156)にも従軍している。  
以後鎌倉の御家人として代々弓馬の誉れ高い名族として伝えられる。(吾妻鑑より)  
『神道集』には、長文の「諏訪縁起(甲賀三郎物語)」が収められている。浅間山の別当寺であった浅間山真楽寺の境内の大沼池は甲賀三郎(諏訪三郎)が出現した池だという。  
鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、覚明のことをしばしば記している。  
これは覚明の才能を源頼朝が充分にしっていたため、覚明を高く評価していたことの現われではなかろうか。  
建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行ったときに信救得業(覚明)に導師を務めさせている。  
その4年後の建久5年(1194)10月には、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が旧主義朝と父の正清の菩提のために如法経10種供養を行ったとき、願文の原稿を書いたのも、この覚明であった。  
つまり信救はみごとに名僧として鎌倉の連中を手だまにとっていたようである。この子・孫が次図のごとく各地において浄土真宗の寺を開基して、その子孫が現在までも続いている。 
曽我兄弟仇討ち  
日本の三大仇討ちの一つである曽我兄弟の仇討ちの主役、曽我十郎と五郎の兄弟は、母が祐信と再婚したので、曽我十郎祐成・五郎時致と名乗り、父の仇を討つため、曽我の里で時節の到来を待っていた。  
そこでまず、事件の経過に簡単に触れてみます。曽我兄弟は、幼いとき、実父の河津祐通(祐泰)を工藤祐経に殺された。所領争いがからんでのことで、祐経側にも言い分がないわけではなかったが、父を失った兄弟は、母が再婚したので養父のもとで育ちながら父の仇、祐経を討つことを願いつづけ、建久4年(1193)5月28日夜、源頼朝が催した巻狩を行った富士の裾野で、ついに宿願であった親の仇を果たした。  
当夜は大雷雨であったので、頼朝の御家人たちは大騒ぎして走り出たものの、十郎たちのために多くの人々が傷を受けた。  
十郎は新田忠常に殺された。  
五郎は頼朝の幕舎に突進、頼朝も太刀を取って身構えたが、結局五郎は捕えられた。  
翌日、頼朝が五郎を直接訊問。  
五郎の祖父伊東祐親は伊豆の大豪族だったが、以前わが娘と頼朝の仲を割いたり、旗挙げの折に反抗したために没落している。五郎は父の仇討ちとともに、伊東氏没落の根なきにしもあらず、そのことを頼朝に言いたくて幕舎に近づいたたけで、後で自殺するつもりだったと述べた。頼朝は彼を許そうとしたが、祐経の遺児の犬房丸が泣いて訴えたので、やむなく五郎を引き渡し、殺すことを許した。  
これで、一応落着するが、この事件はクーデターで、頼朝暗殺計画が隠されていた。という説が大正年間には、歴史学者の三浦周行博士が提唱している。また最近では、小説家の永井路子さんが、この事件について新説を提唱している。  
三浦説は五郎の烏帽子親(元服のとき烏帽子を被せる役で、親に近い関係を持つ)が北条時政だったことから、この関係を重くみて時政の命を受けて、兄弟が頼朝を爼ったとして、黒幕は北条時政だったというのである。  
また永井説は、時政は頼朝を殺して権力を握るほどの力を持っていない。そして、このとき傷を受けた人々の中に、時政と親しい伊豆の御家人の名がみえる。彼らが傷を受けるということは、当然その部下も多数殺されたり、傷をつけられたりしている。と考えられることから、これが曽我兄弟二人だけの仕業ではできないことは、あきらかである。  
時政や伊豆の豪族たちは被害者である。このクーデターの首謀者は大庭景儀・岡崎義実だろうとしている。  
思えば、彼らには不満がうっせきしていた。旗挙げのとき、大庭景儀は弟の景親が平家方についたにもかかわらず、敢然として頼朝の許に馳せ参じた。  
岡崎義実も石橋山の合戦で、息子の佐奈田与一を失っており、いつしか彼は時代の主役でなくなってきていた。代わってのしあがってきているのは、伊豆の小武士団にすぎなかった北条時政で、のさばりかえってきている。  
巻狩のための野営が、鎌倉御所より手薄なのを幸い、頼朝を襲い、範頼を担いで権力を握ろうとしたのではなかろうか。  
それは頼朝の弟、範頼が疑いをかけられたので、起請文を提出するが許されず、結局修善寺に配流され、のちに殺害されているのを重くみている。  
怪我をした武士の中に信濃の武士である海野氏10代海野小太郎幸氏の名が見える。   
上田市緑が丘西区の矢島城跡のさらに北に「上平」「上寺」とよばれてる広いゆるい傾斜の平地がある。昔、曽我十郎祐成の妾の「虎御前」、曽我兄弟が父の敵工藤祐経を討って恨みを晴らして死するにおよび、悲しみに耐えず、その菩提を弔うために諸国霊場を巡拝の後、善光寺に詣で、この上平に来て一宇建て、虎立山菩提院祐成寺と号し、兄弟の菩提を弔った。その後応永年間(1394〜1472)鎌倉光明寺一誉俊厳上人が来て唱導師として能化普く、中興の師として伽藍を営み、さらに永享5年(1433)に該寺が高地で参詣に不便なるをもって、もと虎見ケ原といわれた現在地に移り、寺号も宝池山九品院呈蓮てらと改称した。浄土宗で知恩院の末寺である。北佐久郡立科町(旧横鳥村)の「虎御前」の石が松の木の下に立っている。昔虎御前の侍女蔦女が善光寺参詣の後、この地に居を下して終わり石に化したという。鬢水の井戸と言い虎尼が鏡の代わりに顔を映して化粧した泉だという。また、佐久市(旧高瀬村)落合の仏国山時宗寺にまつわるものである。建物は焼失後、南佐久田口の竜岡城の一部に移建された。この寺は一見平屋の民家のように見え、寺号は別に「虎御山時宗寺」とも俗称される。曽我物語の流布本では五郎時致の字を使っている。この寺の西北裏隅に段丘の切れた下に「影見井」なる井戸があって、良水な清水が湛えていて寺の飲用水としている。 
和田合戦  
建仁元年(1202)海野氏10代海野小太郎幸氏は越後鳥坂城にて城資盛を討つ。  
建保元年(1213)5月2日、和田義盛は三浦氏の一族で、治承4年(1180)の源頼朝挙兵の当初から幕下に属して活躍し、侍所の初代別当となって信任は窮めて篤かった。直情径行の東国武士の一典型でもあり、比企氏の乱後、北条氏に比肩する勢力を保った。  
信濃国へ最初に任命された守護は、頼朝幕下にあって最高実力者の一人であった頼朝の乳母の子比企能員(ひきよしかず)が充てられたとみられる。また信濃国小県郡塩田荘の地頭には、早くから京都を脱して頼朝に仕えて、その信任が篤かった惟宗(これむね)忠久が文治2年(1186)2月8日に補任されている。この忠久は、のちには九州の薩摩・大隅・日向一円(鹿児島県・宮崎県)にある近衛家の庄官となり、島津姓を名乗り、豪族薩摩島津家の祖となった人である。武蔵国比企郡のゆかりで結ばれたとも考えられる比企氏と島津氏は、建仁3年(1203)の比企氏の乱後信濃塩田から姿を消し、替わって北條氏が信濃の守護人となる。信濃国守護が文書の上で正式に認められるのは「明月記」の嘉禄3年(1228)の記事で、執権泰時の弟重時が信濃守護となっている。重時が弘長元年(1261)に没すると、その子長時が信濃守護職を継ぎ、4年後長時が死ぬとわずか14才の嫡子義宗が、こけをうけついでいる。長時の弟義政が信濃塩田へ入ったのは建治3年(1270)であった。当時36才の義政は幕府の要職である連署にあったところから、この突然の隠退には執権時宗の強力な対蒙古挙国態勢との対立も考えられている。塩田の地を選んだのは父重時が守護の地であったことと、ここに「信州の学海」と称せられる仏教の一中心が形成されていたことがあげられる。安楽寺の八角三重塔と開山樵谷憔僊(しょうこくいせん)。二世幼牛恵仁像 / 常楽寺石造多宝塔(弘長2年の刻銘) / 中禅寺薬師堂と薬師如来像 / 前山寺三重塔さらに舞田の金王五輪塔・奈良尾の石造弥勒仏塔 / 柳沢の安曽岡五輪塔・別所院内の宝篋印塔などがそれである。以後義政から国時を経て俊時に及ぶ塩田北條氏三代が塩田の地に続く。  
その終止符は鎌倉幕府滅亡とともにうたれた。ときに正慶2年(1333)であった。  
和田合戦のきっかけは、義盛の甥胤長らが源頼家の遺児を擁立する陰謀が発覚したとして逮捕され、義盛の陳情にもかかわらず赦されなかったことから、面目を潰された義盛は三浦義村ら一族を統合して執権北条義時討伐を決意したが、挙兵直前に義村は寝返った。  
このため義盛は準備不足のまま立ちあがり、一時は幕府を占領するほど優勢であったが、衆寡敵せず田比浜に追いつめられ、海野小太郎幸氏らによって全滅した。 
承久の乱と長倉保領土争い  
承久3年(1221)海野氏10代海野小太郎幸氏は執権北条泰時の幕府方の将として「承久の乱」に美濃大井戸で参戦する。このとき幸氏は49歳であった。幕府重臣として重要な事項の謀議にも参加している。  
香坂宗清(初代香坂家)も戦功により、鎌倉将軍宗尊親王に仕え、文応元年(1260)信州新町の牧之島の地を賜わる。その後信濃守護守小笠原貞宗の命により、総大将村上信貞率いる市河経助・高梨五郎などが、牧城を攻めたが天然の要害にあり、落城しなかった。それ以降の戦乱でも落ちることはなかった。  
幸氏は源頼朝より庄を与えられていて、上野国三国の庄(長野原町・嬬恋村)の地頭であったので、滋野姓海野氏は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。  
源頼朝の浅間の狩あたりに「大石寺本」では『信濃と上野の境なる碓井山を越え給い、沓掛の宿に着き給符。その夜は大井・伴野・志賀・置田・内村の人々ぞ守りける。次の日鎌倉殿、三原へ御越あり、離山の腰を通らせ給ふ。その折、「節狐の啼きて走り通りければ、梶原聞きも敢す」と口ずさみけり。信濃の国の住人海野小太郎幸氏「忍びても夜こそこうとはいふべきに」と付けたりければ、人々感じ合はれける云々』海野小太郎は梶原とともに褒美の品々を頂戴している。  
このことで海野幸氏は甲斐の武田光蓮(武田信光)との国境の長倉保(軽井沢町)との領地争いを行ったとあり、幸氏の領地は甲斐に接するほど広かったのであろうか。  
この訴訟は幕府の裁定で海野方の勝訴でおさまったことが、幕府の公式記録である『吾妻鏡』に記されている。  
そして甲斐の武田家は、その結果内紛が起きてしまうのである。  
武田光蓮が二男信忠を勘当してしまうような武田家にとっては非常に悲しいことが起きるのである。  
海野氏は、甲斐国に本拠をもつ武田氏と犬猿のなかの時代を過ごすのである。  
これは、仁治2年(1241)3月のこととされている。この時、幸氏は69才である。  
長生きで活躍していたことになる。この時期の海野氏の支配地域は、海野氏連合体全体で江戸時代の石高に換算して5〜7万石程度と推定される。(信濃全域で55万石と称されてる)海野氏の最盛期と言える。  
海野氏は本領海野の地を開発領主であり、海野荘と呼ばれた地域で、その領家は藤原摂関家だった。12世紀初め関白忠実の代より、南北朝時代の14世紀中葉まで藤原氏嫡流(近衛家)に伝領されたことが考証されている。つまり海野氏は、摂関政治の全盛時代より摂関家に従属し、その荘官として勢力を蓄えていたとみられるのである。  
本領海野郷にても居城を太平寺に移し、海野氏中興の基礎を築くたといえるだろう。  
幸氏の活躍は『吾妻鏡』に多く記録され、特に幕府恒例の弓始めの儀式には、1番手または2番手の射手としての活躍が数多く記録されている。  
また嘉禎3年(1237)北条泰時の嫡男、北条時頼に流鏑馬の故実を指南したことも記されている。  
幸氏が木曽義高の従者として鎌倉に赴たのは、寿永2年(1183)で、年齢11才と言われているので、北条時頼に流鏑馬の故実を指南したときの年齢は65才となる。 
文永の役・弘安の役  
弘安4年(1281)に海野氏11代海野小太郎幸継(幸氏の長男)は、塩田氏に従い弘安の役に出陣する。  
文永の役・弘安の役は、中国が元の時代で、日本に2回に渡って侵略してきた事件である。  
元の皇帝フビライは日本に朝貢を求めて使者を送ってきたが、執権北条時宗は拒否して九州沿岸の防備を固めた。   
フビライは文永11年(1274)中国(蒙古)高麗の兵28,000を送り、壱岐・対馬を侵略の後、10月20日には九州博多湾西部の今津付近に上陸した。  
将兵よく防戦して勝敗がつかぬため攻撃軍は、一旦沖の船に引き上げた。その晩、台風に遭い、そのために多くの船が沈み、多数の将士を失う。残る兵士は、戦意を失い敗退していった。  
この文永の役以後も、フビライは日本侵略の夢は消えず、降伏勧告の使者を日本に送ったが、執権北条時宗は従わず、使者を鎌倉竜の口にて斬り、覚悟のほどを示し九州を主体として沿岸の防備をますます堅固にした。  
フビライは日本侵略の兵力を金方慶を主将とする蒙古・漢・高麗合流軍40,000の東路軍と范文虎の率いる旧南宋軍100,000の江南軍を編成して日本に向けた。  
弘安4年(1281)6月6日、東路軍は志賀の島に襲来。待ち受けていた幕府軍と激戦になり勇敢な将士の反撃に侵略軍は上陸を果たさず退き、江南軍の到着を待った。  
東路軍は遅れた江南軍と平戸付近で合流し、一挙に博多湾に押し入るべく鷹島付近に移動する。  
これを察知した日本軍は小船にて猛攻をかける。激戦の最中、7月30日から暴風雨が吹き荒れて、翌閏7月1日(閏年で7月が2回ある)には来襲軍の船は、ほとんど壊滅し、范文虎は士卒を置き去りにして本国へ逃げ帰り、残された将兵は殺害または捕虜となり、日本軍の大勝利のうちに終わった。 
中先代の乱  
海野氏12代海野小太郎幸春・海野氏13代海野小太郎幸重は、北條氏に心を寄せる武士であった。ことに信濃では鎌倉幕府執権高時の遺児北条時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、鎌倉幕府の再興を期し、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月北條時行は挙兵し、滋野一族の海野・祢津・望月らはこれに応じた。  
建武政府に対してお起した乱。鎌倉執権の北条氏を先代、室町幕府の足利氏を当代と呼び、その中間に起きた乱のため後世の識者は中先代の乱と称した。  
海野氏を含む諏訪・滋野一党・時行軍は各地で赫々たる戦果を上げ、手越河原(静岡県手越)の戦いでは、さらに足利直義を三河方面まで敗走させ、7月25日鎌倉を回復して、中先代と称せられた。しかし僅か20日ほどの後に、直義援軍のため京都より東下した足利尊氏軍との戦いに敗れ、頼重・時継は自害し、北条氏再考の目的はあえなく挫折しました。  
乱は京都公家西園寺公宗と諏訪頼重とが通じて建武政府打倒を計画するが、途中にて計画が露見して誅殺されたため、建武2年に頼重は海野氏を中心とする滋野一族を味方にして時行を奉じて挙兵した。  
戦いの手始めに守護小笠原貞宗の軍を破り、続いて小手指ケ原(埼玉県所沢市)にて足利軍を破り足利直義が守る鎌倉を攻め落とした。直義は鎌倉を逃亡に際して監禁していた後醍醐天皇の皇子、護良親王を殺害した。  
敗走した直義軍は同年7月27日、これを食い止めようと、駿河の国手越河原に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻め上ってきた時行軍の勢いを止めることは出来ず、三河をめざし敗走した。  
危機を感じた足利一族の棟梁尊氏は、後醍醐天皇の裁可を得ず、救援のため兵を率いて東下、三河の国矢萩(岡崎市)にて直義軍と合流、8月9日ん進撃してきた時行軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、これを破り、敗走する時行軍を追って、途中小夜の山中(掛川市)さらに破り、14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。  
時行軍は、続いて高橋縄手・清見ケ関(清水市)と息つく間もなく攻めたてられ、防戦の甲斐なく敗走。  
17日箱根山、18日には時行軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所として、よく防ぐも敵せず、尊氏は、19日には鎌倉を奪還した。  
諏訪頼重は自害し、時行による鎌倉奪還は僅か20日間の夢に終わった。  
尊氏はその後、後醍醐天皇の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻した。  
このことが半世紀余りにおよぶ南北朝内乱時代の契機となった。  
諏訪及び海野氏を含む滋野一族が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱の動機になり、海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーになった。また海野氏の一部は安倍奥に逃れ、安倍城を拠点とする南朝方の狩野貞長に従ってとも考えられる。 
小手指ケ原の合戦  
海野氏14代海野小太郎幸康は宗良親王に従い、足利尊氏と戦い大敗。幸康は戦死しました。(笛吹き峠の合戦)  
元弘2年(1332)の暮れ、南河内に再挙した楠木正成は、またたく間に河内国内はもとより、紀伊・和泉の地頭・御家人までも討ち平らげた。赤坂籠城戦につぐ、再度の反乱の炎が燃え上がったのである。  
元弘3年(1333)正月、鎌倉幕府は諸国の軍勢を動員し、六波羅に集結させると、これを河内道・大和道そして紀伊道の三方面に分け、反乱地帯へ向け出発させた。大軍勢を三方に分けたのは、河内方面が千早・赤坂とその周辺の楠木軍を掃討し、大和方面軍が吉野の大塔宮護良親王軍を攻撃し、金剛山の背面に回り込んだ紀伊方面軍が、反乱軍の退路を封鎖する狙いからであった。  
元弘3年(1333)2月22日、阿蘇治時率いる河内道の一隊は、赤坂城への攻撃を開始し、相模の本間、備中の須山、武蔵の猪俣、その他結城白河の武士どもが守っていたが、平野将監以下の城兵下り上赤坂城は落ちたのである。  
一方、ときを同じくして、護良親王の吉野山が陥落した。そこで、河内方面軍・大和方面軍、さらに紀伊方面軍は金剛山西麓の山懐に殺到することになった。ここは一方だけが金剛山の主峰につづき、三方絶壁となって渓谷に囲まれ、突兀としてそびえる山岳城塞で、これが千早城である。楠木正成は、この城に立て籠もって、幕府方の大軍勢を持久戦に引きずり込み、鎌倉北条氏壊滅の全国的情勢を、決定的に切り開いたのである。  
正平7年(1352)2月、尊氏の弟直義が鎌倉で急死する。(毒殺とも言う)  
これを機に関東や信濃を中心に南朝方と鎌倉の足利尊氏との間に激しい戦闘が始まった。  
南朝方は宗良親王を総大将として、諏訪氏及び海野氏を棟梁とする滋野一族は、佐久郡両羽神社に軍中の安全を祈念した海野・望月・祢津・矢沢家が集結し、風雲急なる鎌倉に向かって応援のため急進した。  
佐久郡内山の峠を越え、富岡街道を下仁田を経て東進した。笛吹き峠(埼玉県嵐山町と鳩山村の境の峠)を経て鎌倉街道を南下し鎌倉に到着した、徒歩部隊は約10日間の行程であった。  
正慶2年(1333)4月中旬に鎌倉に到着した滋野一族は、直ちに鎌倉防衛軍の編成の中に組み込まれてた。  
また上州では新田義貞の子義宗・義興の兄弟が兵を起し、5月18日には、稲村ケ崎から侵攻して鎌倉幕府は滅亡する。  
源氏3代より北条氏へと続いた約150年間の鎌倉幕府が廃絶する。また3代約50年の塩田北条氏も運命を共にした。  
鎌倉が陥落して尊氏は狩野川付近(南足柄市)に逃れ、兵を整えて上州方面へ北上した。  
戦いの巧者の尊氏は、宗良親王軍と新田軍とを分断する作戦を採り、まず新田軍を国府付近で戦って、これを破った。続いて兵力を整えた尊氏軍と笛吹き峠の宗良親王は2月28日、小手指ケ原(所沢市)で決戦となるが両軍譲らず、激戦が続いたが、ついに南朝方の敗北となる。  
この戦いで14代海野幸康は討死したと伝えられている。  
宗良親王は応長元年(1311)に生まれ、後醍醐天皇の第五皇子、母は歌道の家二条氏の娘で、その関係で早くから歌道にいそしんでいた。出家して延暦寺に入り、20才で天台座主となったが、建武4年(1337)に還俗し、北畠親房とともに伊勢に移り、翌年浜名湖の北岸に近い井伊城に移った。のち越後・越中に転戦、南北争乱の時代となり、遠江国奥山城に在住し、この城の東方を流れる天竜川の上流、伊那谷を臨む信濃大河原城(大鹿村)に康永5年(1344)2月ころ移り、香坂高宗の警護を受けている。このあたりが、宗良親王の東国計略の根拠地となった。そして、以後30数年、おもにここに居られ信濃宮といわれた。  
康永5年信濃国大河原と申す山のおくに籠り居侍りしに、たゞかりそめる山郷のかきほわたり見らはぬ心地し侍るに、やぶしわかぬ春の光待出づる鶯の百囀(ももさへずり)もむかし思ひ出でられしば「かりのやど囲ふばかりの呉竹をありし園とや鶯の鳴く」信濃国大河原という深山に籠りて、年月をのみ送り侍りしに、さらにいつと待つべき期もなければ、香坂高宗などが、朝夕の霜雪を払ふ忠節も。そのあとかたならん事さへ、かたはら痛く思ひつづけられて「いはで思ふ谷の心も苦しきは身をむもれ木とすぐすなりけり」  
晩年は吉野へ上り「新葉和歌集」を選集し、さいごは大河原で亡くなられたらしい。親王は誠実で思いやりのある人柄だったので、武士たちに信頼された。親王と香坂高宗の間には、利害をこえた親愛の情があった。  
信濃宮神社 / 上蔵(わぞう)の東方の高台にあり、戦時中県の事業として造営が続けられたが、戦争で中絶、規模を宿使用して奉賛会の手によって今の社殿が完成した。境内には宗良親王の歌碑がある。  
「君のため世のためなにかをしからむ捨ててかひある命なりせば」  
「われは世にありやととはゝ信濃なる伊那とこたえよ峰の松風」  
香坂高宗墓 / 香坂氏は滋野氏の一族で佐久香坂の出身、鎌倉時代に牧之島(信州新町)・大河原へ進出した。いずれも牧場の経営として大河原・鹿塩は諏訪社領だったらしく滋野氏は諏訪氏の仲間だった。高宗は天竜川沿いの大草(下伊那郡中川村)を本拠としていたらしいが、宗良親王を大河原に迎え、ここが東国の南党の中心地となった。一時は親王を奉じて関東に出陣したが、その後、南党の勢力は次第に振るわなくなった。しかし、高宗は最後まで献身的に親王に奉仕した。  
高宗の居城大河原城は上蔵にあるが、いまは小渋川に削られてごく一部しか残っていない。  
高宗は応永14年(1407)に居城大河原城で死去される。法名 永林院殿禅室良正大居士  
墓は城址や福満寺を見下ろす岡野上にある。高宗は大正4年従四位を追贈された。その位記は大塩村役場に保管されている。 
大塔合戦  
海野氏16代海野小太郎幸永と幸永の嫡男、海野氏22代海野左近将監幸則は国人一揆の一員として参戦、信濃守小笠原長秀に反抗して勝利する。  
応永7年(1400)、足利氏に頼んで念願の信濃守護に補任さけた小笠原10代当主長秀は、衆目を驚かすばかりの都風のきらびやかな行列を整え、伊那勢800余騎を従えて川中島を練り歩き、守護所のあった善光寺に入った。  
7月信濃へ入り各地の豪族(国人)を召集し、遠近の武士が進物を捧げて伺ったところ、尊大でろくな挨拶も返ってこなかった。これを見て、長秀の傲慢な態度は反感をかい、古くから長秀を心よく思っていない各地の豪族たちは腹に据えかねて合戦に及んだのであった。  
9月のことで、場所は篠ノ井西方の大塔が中心となった所から、大塔合戦と称せられた。合戦は守護方の敗北に終わるが、このときの様子を綴った「大塔物語」は、信濃各地の豪族を記録されている。  
彼らは早速協議の上、北信濃の村上満信氏を旗頭に、500余騎を率いて屋代城(千曲市)を討ち立ち、篠ノ井の岡に陣を取った。伴野・平賀・望月氏の佐久勢は700余騎、一団となって上島(千曲市雨宮)に、23代海野宮内少輔幸義以下は中村・会田・岩下・大井・光・田沢・塔原・深井・土肥・矢島氏ら小県勢300余騎を率いて山王堂(長野市篠ノ井)、高梨勢500騎は二つ柳(篠ノ井)、井上・須田・島津勢500余騎は千曲川の岸辺に、大文字一揆の人々は仁科弾正少弼盛房・祢津越後守遠光(小田中・実田・横尾・曲尾などの諸氏)ら800余騎、香坂(牧城主9代香坂宗継)・諏訪・その他の豪族を加えた大連合を組織して、11手に分かれて陣取った。  
善光寺から討って出た信濃守護小笠原長秀の率いる軍勢はほとんど伊那地方の武士で、動員範囲は狭く、しかも地域的にかた寄っていた。  
信濃守護がた800余騎は、長秀と松皮の旗を真中に囲んで、塩崎城をめざして進むうちに夜が明けてきた。これを見て、まず村上氏配下の千田信頼が四宮河原で襲いかかり、一戦を交えた。つづいて小笠原勢は村上・伴野・高梨勢と戦い、どうやらこれを切り抜けた。豪勇でなる坂西長国は、高梨氏の嫡男橡原次郎(くぬはら)と一騎打ちをして、これを打ち取った。小笠原勢が疲れ、多くの死者をだしたところへ、新手の大文字一揆が攻めかかってきたので、軍勢は二分されてしまった。長秀はようやく塩崎城にたどり着いたが、坂西・古米・櫛本氏以下300騎は前進できず、途中で大塔の古要害(長野市篠ノ井大塔地籍)に逃げ込んだ。  
22日間にわたる籠城の末、ついに飢えと寒さに力尽き小笠原勢は、10月17日の夜、大手・搦手(からめて)の戸張を開いて切って出、300余人ほとんど戦死・自害を遂げた。  
大塔を攻め落とした国人勢は11手にわかれて一路塩崎城に向かい、これを包囲して陣を張った。城中の兵はこれまでの合戦で疵を受けた半死半生のものが多く、そこへあらたに祢津・仁科・諏訪勢が攻撃に加わってきたので、長秀の運命も風前の灯ととなった。大井光矩が仲介に入り、村上氏と談合のすえ国人勢ヲ撤退させた。長秀はこの恥辱をそそぐ手だてもなく、すごすごと京都へ逃げ帰った。  
長秀の末路は寂しいものであった。翌年守護職を解任され、応永12年(1405)には、世の中が騒々しく所領も維持しがたいとして、一族の惣領職以下すべての所領を弟の政康に譲っている。同19年(1412)には出家し、同32年(1425)52才で死去されたという。  
大文字一揆の構成員は、祢津・春日・香坂・落合・小田切・窪寺・小市・栗田・西牧・三村・仁科・原・宮高氏で佐久・小県郡の滋野一族が中心となっている。  
矢島城は太郎山の虚空蔵沢に臨む扇状台地字上平の突端の地に築かれ、「建武2年(1335)矢島氏が諏訪から北林郷(旧西脇地籍)に引き移り北林城を居城とする在城支配者北林氏を川中島方面に追放し以降当地方を支配した」との伝承から「北林城」とも呼称されるが、「海野宮内少輔幸義・舎弟中村弥平四郎・会田・岩下・大井・光・田沢・塔之原・深井・土肥・矢島氏ら以下引率、其勢300騎云々」(大塔物語)などから、応永年間から永禄年間にかけて小県郡に矢島氏が存在したことはほぼ確実と思われる。  
弟に19代海野信濃守幸定・20代海野信濃守幸秀・21代海野小太郎幸守や18代海野幸信らがいる。また、幸則の弟に海野信濃守満幸や17代海野幸昌らがいる。  
続いて大塔城(長野市篠ノ井)も落とし、長秀は、ほうほうの体で京都に逃げ帰った。  
これが有名な大塔合戦で、当時の中央政権に対する地方武士の動向を示す者であった。  
23代海野宮内少輔幸義の弟に岩下豊後守がおり、家紋は根笹に雪、旗印は月輪、信州小県郡岩下に住し姓となす。領所は小牧岩下村を領し、小牧中尾の城に住み、世俗小牧殿と号した。  
岩下豊後守の後に岩下幸兼あり、小名を岩下次郎右衛門大夫と号し、後に下野守従5位下となる。  
岩下幸兼の子の小名を岩下次郎幸邦、後に岩下次郎右衛門佐と言い、豊後守従5位下となる。  
岩下次郎幸邦の弟にして上之条に住み、竹鼻三郎左衛門と号し、後に横尾領に移り、但馬守と号す。世俗横尾殿という。  
その妹が丸子民部清高の妻となった。  
岩下次郎幸邦から後、岩下家は幸繁−政幸−清幸−幸実−幸広−幸記−幸景−幸任−幸豊と続いた。  
岩下幸豊は岩下勘右衛門尉と名のる。 
信濃中信の海野支族  
前記の諸系図にある海野氏11代海野小太郎幸継の弟(幸氏の二男)賢信房は、福井県鯖江市の万法寺を開基している。(詳しくは「全国各地の海野氏と寺院」を、ご覧ください)  
10代海野幸氏の三男に海野三郎道敏(乗念房)は、富山県大山町の真成寺を開基している。  
四男尭元(小田切次郎)は、小田切氏の祖。  
五男海野矢四郎助氏は、駿河安部氏祖で井川海野氏先祖(詳しくは「全国各地の海野氏と寺院」静岡県の海野氏をご覧ください)  
海野氏12代海野幸春は、幸継の長男として生まれる。  
海野氏は鎌倉幕府との関係が緊密となり、のちに子孫は各地に分散して繁栄した。  
次男の会田小太郎幸持は、会田に移ったため地名により会田氏と称した。会田氏は現在の会田小学校のある殿村の地に居館し、その南を城下町と、要害名城を虚空蔵山中の陣に持っていた。  
虚空蔵山は会田富士と呼ばれる火山性の山で、標高1136m、頂上は屋根のように東西に長く、山頂には数郭をなし、鎌倉時代の山城の特徴を有しているが、山頂には水の手はなく、日常の防備は中腹の「中の陣」と呼ばれる場所を中心に、その東に接して「秋吉」と呼ばれる帯郭形の砦がある。いわゆる本城は、この「中の陣」であろう。  
殿村の館・中の陣・虚空蔵山を総称して会田城と称するらしいが、虚空蔵山は要害城として機能したものと思われる。  
小笠原長時は、天文17年(1548)7月19日の塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れ、その2年後には本城である林城を追われた。  
天文22年には武田信玄は刈谷原城の太田氏を攻めて4月2日には落城された。翌3日には会田虚空蔵山が放火され塔原城とともに武田方に降参した。  
会田氏が容易に降参した理由は、小県海野氏の後をついだ真田幸隆が武田方について降状を勧めたことや、もともと小笠原氏との間には強い結びつきはなかったことがあげられている。  
また高白斉記によると、武田方に降参した会田の海野下野守(岩下氏)に、刈谷原城を加増しようとしたところ、既に刈谷原城代となっていた今福石見守が渋ったため、別の城を替地として与えたとのことである。  
この後、会田の海野氏は武田軍団の一員となり、10騎の軍役をつとめて各地に転戦し、武田勝頼の滅亡後は小笠原貞慶に滅ぼされた。  
その会田氏ゆかりの寺である広田寺の本堂の屋根には、真田家の家紋と同じ六文銭の家紋がある。寺の正面に向かって左側に「会田塚」と書かれた看板があり、下に流れる小川まで下って行くと会田塚があり、奥には虚空蔵山も見える。  
会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骨の代りに埋められたと言われている。会田氏は天正10年(1582)10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住持は安置されていた開基(岩下豊後守)の位牌を以って現在の広田寺付近に逃れた。戦いの後、ここに遺品を収め、会田氏一党の供養が行われたと言われてる。  
広田寺過去帳には、会田岩下氏によって中興された知見寺は、広田寺の東の山を越した知見寺というところにあったが、小笠原勢に焼かれ、時の住持が「開基殿(岩下豊後守)の御尊牌をいただき奉り、山中に安座すること七日なり」とある。  
明科町の犀川の西岸に中村城があり、その城にある時期居城したのが海野系中村氏といわれる豪族である。その中村氏は、海野系会田氏から分かれたといわれているのである。  
この中村氏のことについては未だ充分な資料を手にすることはできない。今後の調査研究に待たねばならない。  
三男の塔原三郎幸次の居館は明科中学校付近にあり、ふだんはそこで暮らしていて、いざというときだけ城へたてこもり、居館の周りには家来の住む城下町があり、現在の「町」の集落が、その城下町のあった所である。  
塔の原城は、鎌倉時代の中ごろ川手郷の地頭となって東信から進出してきた海野氏の一族で塔原氏を名乗り、その詰めの城として本城が築かれました。  
城の規模は、標高は750m、麓が500mなので比高は250mで、500m×500mと、かなり大きな城で、長峰山の尾根を六条の空堀で切り、本郭と第二郭の主体部を設けている。さらに吐中部落の方向へ東側に5個、北の尾根筋に13個の帯曲輪を設け、主体部には土塁や石垣を巡らす大規模な城です。  
塔原氏は、戦国時代の天文22年(1553)4月2日に、武田信玄に攻められ城を捨てて逃げたが、のち信玄の配下となりました。  
その後信玄は、小県郡海野氏の一族である海野三河守幸貞を塔の原城主にすえ、塔原氏は副将の位置に格下げになったものらしい。  
永禄10年(1567)3月に至って信玄は、その嫡男太郎義信を意見の相違から自害させたことから、家臣団に動揺が起り、これを静めるため8月に家臣団を、信濃国小県郡下之郷生島足島神社に集合させ、信玄に二心なき旨の誓約状を差出させている。  
この時の誓約状「生島足島文書」によると、塔原城主海野三河守幸貞は、8月7日付をもって信玄の重臣跡部太炊介に対し、信玄に二心なき事、上杉謙信からどんな誘いがあっても、また甲・信・西上州にいる信玄の家臣が叛いても、絶対に違反しない旨を神仏に懸けて誓約している。また海野三河守幸貞の家臣である塔原藤左衛門宗幸・会田の虚空蔵山城主海野下野守の家臣の中に塔原織部幸知も、同様の誓約している。  
武田氏滅亡後、松本へ帰った小笠原貞慶氏との争いになり、天正11年(1583)松本城で誘殺され塔原氏は滅亡する。おそらく同時に居館や塔の原城も破棄されたものと思われる。  
これらの人達の子孫は戦国の世が終わり平和になると、農民となり庄屋・組頭・長百姓などの村役になって村方を治めるようになった。  
海野幸継四男の田沢四郎幸国は、筑摩郡田沢に、鎌倉時代中期に兄弟などとともに、この地方の嶺間から川手方面に進出して、各地に定着し、在名をとって、それぞれの苗字とし、子孫を反映させていったのである。  
小県郡から筑摩郡への浸出の理由は、海野氏が、本領の地、新補地頭として、この地方を鎌倉幕府より補任されて、その子弟を派出するに至ったものと推考される。  
田沢の地は、犀川に面する川手方面の郷村のうち、その最南端を固める重要な最前線であった。  
田沢氏は、この地で定着に際しては治政・防備・交通など都合の良いところに居館を構え、また祈願時や氏神を祭ったと考えられる。  
山城にしても元禄11年(1698)の国絵図書上の際にも隣村、光の仁場城をもった田沢城とし、享保9年(1724)の信府統記にも、この説を踏襲しているが、しかし田沢地籍(田沢駅東の山上)には田沢城跡は存在している。  
田沢氏は、室町時代初期応永7年(1400)9月更級郡大塔の合戦には、時の信濃守護小笠原長秀を追討する側にあった宗家小県郡の海野幸義の旗下として同族の会田・塔原・光・大葦・刈谷原氏などと共に参戦し、小笠原軍を撃破し、小笠原氏は京都へ敗走している。  
これ以上史料上から全く姿を消している。田沢氏滅亡後いつの日か花村氏に替わったらしく、室町時代末の世に言われる戦国時代になると花村氏が現われてくる。天正11年(1583)に武士を捨て民間に下り農となっている。  
海野幸継五男の苅谷原五郎は荒神尾(七嵐)城主であった。  
甲陽軍鑑では、武田軍による苅谷原城攻撃の際、米倉丹後が銃丸除けの竹束の盾を使って城に迫ったことが書かれています。  
この時城主であった太田弥助(太田長門守資忠)は太田道灌の一族とも言われている。五輪石塔が付近の洞光寺に遺されております。  
太田弥助兄弟と記載れている、住職の話よれば太田弥助と中沢監物の石塔であるとのことでした。  
この城主太田資忠は、小笠原長時の家臣でいたが、主君小笠原が林城を追われた後も武田方に降伏することなく守りを固めていたそうです。  
しかし真田幸隆による戸石城攻略の後、村上方の本拠地である葛尾城攻略に着手した武田方は天文22年(1553)3月29日、深志城を出発して、正午には苅谷原城に到着して城攻めを開始し、4月2日には落城されて城主太田資忠は捕えられ、その後、今福石見守が城主となっています。  
光氏は、海野幸継の六男、海野六郎幸元が、筑摩郡光村に、来往し、その地名をとって氏を称した。塔原村に法恩寺を開基している。  
光城は犀川右岸丘陵上の尾根に面して、豊科町内では規模の大きな山城で、戦乱激しくなった戦国時代(16世紀)初期に築かれたと考えられる。  
光城は、標高911.7mにあり、麓の標高が550mというので比高360mもある。山頂の城跡付近まで車で行け、山全体がハイキングコースになっていて、城址は公園として整備されている。東側に塁堀があり、井戸跡が見られる。尾根筋に堀切が見え、そこが古峯神社が建っている本郭(長さ50m、幅30m)である。  
神社の背後に土塁がある。古峯神社は火の神であり、そのことからここが狼煙台であったことが示唆される。そのころ海野一族は、互いにノロシ等使って連絡しあって栄えていたのである。周囲には腰曲輪がある。その南に深さ5mほどの堀切があり、ニ郭に相当する長さ5mほどの曲輪がある。この曲輪内に土塁で囲まれた部分がある。  
光小次郎幸時の代、応永7年(1400)9月の大塔合戦には宗家小県郡の海野氏23代海野宮内少輔幸義の旗下として、同族の苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏などと共に出陣し、信濃国守護職である小笠原長秀の軍と戦って勝利を収めている。  
その後、永享12年(1440)の結城城攻めには、小笠原長秀の舎弟信濃国守護政康の命によって、宗家小県郡の海野氏21代海野小太郎幸守の旗下として苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏等一族と共に参戦している。  
光小次郎幸時5世の孫大和守幸政の代、天文17年(1548)7月19日甲斐の武田信玄と中信の雄小笠原長時との塩尻峠の戦いには、その傘下として戦ったが、戦いに敗れて各自の城へ引き籠った。  
天文22年(1553)4月2日武田信玄の苅谷原城攻めの猛攻であることを聞いて、城を捨て逃げ去っている。おそらく落城後武田氏の軍門に降り、城主としての地位を安堵されたものであろう。  
大和守幸政は退き子の才三幸友は、天正11年(1583)2月に塔原三河守が松本城で誘殺されて滅亡後、翌12年8月18日に、先陣仁科勢のあと詰めとして、才三幸友・高橋靱負を遺わしたから、攻略している。  
天正18年(1590)7がつ小笠原貞慶が関東下総の栗橋後に古河に移封に際しては、これに随行し、この地を去っている。  
天文10年(1541)5月武田信虎は謀議をもって、諏訪郡主の諏訪頼重・埴科郡坂城の城主村上義清と合意した上で、甲諏両軍は大門峠を越えて、南より小県郡内に攻め入り芦田城(北佐久郡立科町)・長窪城(小県郡長和町)を攻略し、村上軍は北方の上田方面より攻め、両方共に海野平に海野氏を挟撃して、海野・尾の山・矢沢・祢津の諸城を攻め落とした。この時海野氏の当主幸義は戦死し、その父棟綱は関東管領である上州白井(群馬県)の上杉憲政に走って援軍を受けたが、時既に遅く海野氏の回復することができず数百年続いた塔原・光氏などの宗家海野氏はこの時一旦滅亡したのであった。  
浦野氏は、海野幸継の7男として浦野七郎右衛門は、浦野氏の祖として上州吾妻の大戸城主となる。 
大洞院開基の如仲天ァ  
覚明に継いで、末派約3,000ケ寺の大多数を持つ曹洞宗大洞院を開基した如仲天ァ(じょちゅうてんぎん)は海野氏で、貞治4年(1365)生れ、5歳のときに母を失い、9歳にして伊那谷上穂山(うわぶやま)(現在の駒ヶ根市天台宗光前寺)恵明(えみょう)法師に従って法華経を学び、感ずるところあって禅門を慕い、上野吉祥寺(現在の群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能の門に入って剃髪した。  
のち越前(福井県)坂井郡金津町御簾尾平田山瀧沢寺開山梅山(ばいざん)聞本(もんぼん)の許に投じた。  
その後江州に南下し、琵琶湖の北辺(塩津)呪山に入って洞春庵を構えて悟り、それから修行に専念すること3年に及んだ。  
再三にわたり閑静安住の地を見つけ出されてしまったので、遠州周知郡天宮神社神主の中村大善とその宮座衆を中心とする天宮村及びその周辺の農民たちを本願の施主として資材の寄附を仰ぎ、門下数人の禅僧を率いて洞寿院の基を開いた。  
応永18年(1411)に遠江の飯田城主(森町飯田)山内対馬守(山内一豊の祖先)は師の宗風を慕って来化を請うた。如仲は山内氏の懇望により、飯田の崇信院へ赴き、やがてほど近い橘の地に橘谷山大洞院(静岡県周智郡森町橘)を開創し、改ざんには梅山を第一世と仰ぎ、自らは第二世となった。  
その後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造している。  
如仲天ァの高い学徳の下に集まった多くの弟子の中に、特に優れた六人を、大洞六哲と呼び、その中の一人は洞慶院の開祖石叟円柱で、不琢玄珪(雲林寺)・物外性応(海蔵寺)・真厳道空(可睡斎)・喜山性讃(竜渓院)・大輝霊曜(最福寺)である。  
応永28年(1421)2月には総持寺40世に昇った。梅山の没後、瀧沢寺(福井県坂井郡金津町御簾尾)は住持を欠いたので、檀那の招きを受けて永享2年(1430)4月、はるばる遠州から来て6世を継いだ。  
廃れた伽藍を修め、先師の衣鉢を継いで、よく瀧沢寺の復興に尽くしたので、後世瀧沢寺中興の祖と仰がれるようになった。  
住院8年の永享10年(1438)に瀧沢寺を去って再び近江の洞寿院に戻り、晩年には加賀の仏陀寺にも住持した。  
永享12年(1440)2月4日、齢75才で没した。  
また更埴市桑原山龍洞院を如仲禅師が応永年間に桑原郷に泊まり、北山に登ったところ、西北に龍の臥するような峰があり、奇勝絶景の地であるとして寺を建て、龍燈院と名づけたのに始まるという。(『日本同上聯燈録』より)  
如仲天ァは高祖の永平寺開山道元から数えて、7代目の40世である。曹洞宗末寺15,000余りの内、3,200余りの寺が如仲天ァ派である。その中には、袋井市の可睡斎があり、海野氏との縁故の深い興善寺は可睡斎の末寺である。 
結城合戦  
前述した如く、海野氏24代海野小太郎幸数は、永享12年(1440)に下総の結城合戦にて守護小笠原政康(長秀の弟、応永32年(1425)信濃守護となる)の指揮下で、信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加して、結城氏朝と戦い勝利している。  
信濃武士団に陣中警備と矢倉の役目の順番を記載した帳面『結城陣番帳』に、海野氏は10番目に記録されている。弟に海野大善大夫憲広がいる。  
また27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名前がみられる。  
「信陽雑記」にも結城攻撃が記されている。  
かって室町幕府の将軍足利義教と不和であった関東公方足利持氏は幕府に反抗を企てた。いかも、これをいさめた関東管領上杉憲実を討とうとしたので、その不法をなじり、義教は持氏討伐を決行して、持氏を追い詰め鎌倉の永安寺にて自殺させた。 この合戦を永享の乱(1438)という。  
この乱で持氏側に味方した結城七郎氏朝は持氏の遺児二人を引き取り養育し、やがて遺児を擁立して名城といわれる結城城にこもり、幕府に反旗をひるがえした。  
幕府は上杉憲実らを派遣し、諸国の軍勢を徴収して、城に立て籠もる結城氏を攻めた。結城氏はよく防戦するも、衆寡敵せず、城を枕に討死した。  
擁立された持氏の遺児たちも捕えられ、美濃にて斬られた。  
結城合戦の終わった2か月後、京都ではかってない衝撃的な事件が起こった。将軍足利義教が嘉吉元年(1441)6月24日、戦勝祝賀のため赤松満祐邸に招待され、猿楽鑑賞の宴のさなか、満祐の手兵によって暗殺されたのである。三代義満いらい安定してきた室町幕府は崩壊への第一歩をふみ出すのであった。  
この翌年の嘉吉2年(1442)8月、義教の先兵として活躍してきた小笠原政康も、海野の地で死去してしまう。幕府の動揺に加え、勇将で文武の達人ともいわれたこの政康の死は、信濃の前途にふたたび暗雲を投じるかのようであった。 
鎌倉で元服  
海野氏24代海野小太郎幸数・25代海野信濃守持幸父子はおのおの、宝徳元年(1449)、鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しているから、関東管領家に属し、船山郷(現在の埴科郡戸倉町・更埴市)の地頭御家人であった。  
『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、宝徳元年(1449)に海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。  
また海野氏26代海野信濃守氏幸は25代海野信濃守持幸から継承して延徳(1490)頃まで海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。  
この時期の海野氏の所領は、東は東上田・海善寺・海野本郷、北は小井田・林、西は桶沢・房山・踏入、南は千曲川端までとされており、庶子である海善寺や太平寺の氏の一族を代官として従い、さらに深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたという。  
大塔合戦で信濃諸豪族の盟主となった村上満信のあと村上頼清の代には、勢力を挽回した小笠原政康に屈服したが、政康の死で小笠原家が分裂・紛争を始めると村上氏は再び勢力を伸ばした。  
小県郡内川東地方で古くから勢力を張っていた海野氏は応仁元年(1467)、村上政清氏と戦い、海野氏26代海野信濃守氏幸は戦死している。   
応仁元年(1467)、村上政清氏と戦いで敗北して以来、塩田平も村上氏に制圧され、西上州の国人衆も海野氏の支配下を離れ上杉勢力下の箕輪城主長野氏の支配を受け、箕輪衆に組み込まれたので、海野氏の勢力圏は次第に狭められ衰退期に入ったと言える。  
この時期、海野氏の支配圏は海野郷を中心にして西は深井・吉田、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の西上州境界付近の祢津氏所領、南は千曲川付近小田中氏所領までとされる。  
江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。  
室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。  
その子海野氏27代海野信濃守幸棟のころからが戦国時代に突入した時期となる。  
永正2年(1505)1月13日に没した夫人「禅量大禅尼」のために、翌年永正3年興善寺の開基となる。  
幸棟は大永4年(1524)7月16日に没している。海野(現東御市和)の興善寺に葬られている。法名は瑞泉院殿器山道天居士。  
海野氏28代海野信濃守棟綱が高野山蓮華定院宛ての宿坊定書に著判している。 
海野平合戦  
戦国時代の天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野氏28代海野信濃守棟綱ら滋野一族(海野氏・祢津氏・望月氏・真田氏)との間で行われた合戦である。  
信濃国は、室町時代より守護による統制がとれず、戦国時代も守護家小笠原氏の支配力は限定的で、地域単位で勢力基盤をもつ国人領主が割拠していた。  
東信地域では信濃村上義清と海野氏幸が支配領の境界をめぐって争いが激化していった。室町時代の応仁2年(1468)には両者の抗争から海野大乱が起っている。村上氏は海野氏を圧迫すると共に佐久郡にも侵攻を始め、文明16年(1484)には佐久の名門大井氏の大井政則を下し、佐久郡に支配力を得るようになっていった。  
武田信虎は、永正16年(1519)に佐久郡の平賀城を攻めている。  
この時は村上氏(初陣)が援軍として出陣し、武田信虎は平賀周辺に火を放っただけで退散している。  
大永2年(1522)にも大井城を攻めるが、村上氏の援軍により敗北している。  
一方、隣国甲斐でも守護権力の弱体化による家督争いが起こり、戦国初期の動乱が展開しつつあった。永禄5年(1562)武田信虎が叔父信恵撃破し、反守護勢力を一掃し一応の決着をみた。  
永正16年(1519)には本拠地を甲府に移し、国内統一を実現していった。信虎の対外戦略は、はじめの北条氏、駿河の今川氏に向けられていたが、今川氏輝の死去により後を継いだ義元とは同盟を結び、その矛先は信濃に向けられた。当然、海野一族も、その攻撃目標となった。  
諏訪を領する諏訪頼満が甲斐の国人と結んで甲斐統一を志向する信虎と対立していたが、天文4年(1535)9月には武田信虎は諏訪氏と和睦し、翌天文5年(1536)11月には海ノ口城を攻略して佐久郡侵攻が行われ、武田晴信の初陣の戦いと言われている。  
天文8年(1539)には飯富虎信が佐久に侵攻し、村上義清と戦っている。  
武田信虎は駿河国の今川氏と和睦すると本格的な信濃侵攻を行い、佐久郡の攻略を行う。天文9年(1540)には諏訪氏を継いだ諏訪頼重が信虎の娘婿となり同盟関係が強化された。  
天文9年(1540)2月、村上軍が甲斐に侵攻、4月には武田方の板垣信方が佐久に侵攻するが、武田氏と村上氏の激しい攻防が繰り広げられたが、結果として村上氏方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田氏に制圧された。  
村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡では海野氏を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領上杉氏を後ろ盾として辛うじて存続していた。  
しかし上杉氏と結んだ海野氏は、武田氏からも村上氏からも共通の敵とみなされ、翌年の天文10年(1541)5月、佐久郡をほぼ制圧した武田信虎は、同盟者の諏訪頼重や前年まで死闘を繰り広げていた村上義清と手を組んで小県へ侵攻する。  
すでに村上氏との戦いで大幅に勢力を縮小していた海野氏には、単独で抵抗する力は残されておらず、海野棟綱は関東管領上杉憲政に援軍を求めた。 当時、海野一族は関東管領上杉氏に仕えていた。海野一族が治める東信濃から上州にかけ地域は、越後と関東を結ぶ重要な連絡路である。  
関東管領家と対立していた武田氏は、上野国から越後国にかけて勢力をふるっていた上杉家の連絡路を遮断し、信州から上杉家の勢力を駆逐しようとしたのである。 
海野宗家滅亡  
天文9年(1540)、武田晴信は信虎に従って初めて信濃に入り、佐久郡の諸城を攻め落した。  
さらに翌年の天文10年(1541)5月から兵馬を小県にすすめた武田信虎・晴信軍は佐久郡から、村上義清軍は砥石城から、諏訪頼重軍は和田峠から侵入し、それぞれ名族海野一族の篭もる属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。  
海野一族は、独力では太刀打ちできないとして、関東管領上杉憲政に援軍を要請した。ところが、上杉の援軍は遅れに遅れ、到着したのは合戦1か月後の7月であったという。  
当時、管領家は、相模の北条氏らとの戦いが忙しく、小豪族のことなど全く問題にせず、後回しになったのであろう。  
援軍の来ない中、海野一族は必死に反撃した。兵力は少ないが、皆一騎当千の兵である。梅雨の時期で神川・千曲川が増水しており、武田軍の攻撃も困難を極めた。  
しかし、多勢に無勢であり、海野一族は四分五裂に分断され各所で大損害を被った。海野氏第28代海野棟綱は破れて、上野(群馬県)へ逃れたのは、そこで上杉憲政の援助を得ようとしたからである。  
ついに、祢津宮内太輔元直は海野氏滅亡時に矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕えられたが、諏訪頼重によって命は助けられた。望月氏も武田氏に降伏。  
天正10年(1541)7月になると海野棟綱の要請を受けた上杉憲政は3,000騎を率いて関東から佐久へ入り、小県郡の村上義清をせめて海野を回復しようと試みたが、諏訪頼重が長窪へ出陣して義清の支援の姿勢を示したため果たせず、和睦して帰陣している。  
このとき甲斐勢が出兵しなかったのは、信虎・晴信父子の対立が頂点に達し、ついに子晴信にわれて父信虎が駿府に去るという事件があったためであろう。  
しかし甲斐を完全におさえた晴信の信濃侵攻は本格化し、まず諏訪氏を滅ぼし、伊那の高遠城を落とし、再度佐久に入り小県をうかがった。  
矢沢氏は、文明2年(1470)の諏訪神社上社の神事奉仕をはじめとして、延徳(1489〜91)・天文(1532〜54)・永禄(1558〜69)・天正(1573〜91)の各年間に諏訪上社の神使御頭を務めている。天正8年(1580)〜9年には矢沢綱頼が武田勝頼から沢口での戦功を賞した感状を得るなど、以降、武田氏に属して活躍した。武田氏滅亡後、綱頼は真田氏の重臣として上野沼田城代を務め、その間北条氏との幾多の抗争に優れた軍略を発揮した。天正13年(1585)上田原合戦の折は、綱頼の子、2代三十郎頼康が矢沢城を守り800の守兵で依田源七郎ら1,500の軍勢を退けたという。その後、元和8年(1622)矢沢氏は真田信之に従って松代へ移り、矢沢の地は小諸城主から上田城主に移封した仙石氏3代政勝の領地となった。3代頼邦(頼康の弟)−4代頼貞−5代頼永−6代頼次(頼永の弟)−7代頼豊−8代誠重−9代頼誠−10代頼寛−11代頼容−12代頼尭(1,400石)−13代頼春−14代頼孝−15代頼直(恩田柳水民生の二男)−16代頼道(恩田檪園民知の長男で造り酒経営・長野県議・松代町長)−17代頼忠(松代藩文化施設管理事務所長・真田宝物館の運営)真田家の筆頭家老として活躍された。  
天文11年(1542)12月1日、文武両道にすぐれてる祢津元直は武田晴信に臣従し、祢津元直の娘(里美姫)が武田晴信の側室として嫁いだ。また元直は幸隆に従い戸石城攻略において戦功をあげたらしく、祢津の地を回復している。矢沢氏も、諏訪市ゆかりの神氏であることから知行を安堵された。  
諏訪頼重は立科山北麓の大河原峠を下り、長窪城主大井貞隆の降伏により、無血で城を明け渡す。頼重の遺児、美貌湖衣姫も武田晴信の側室に迎えられた。  
晴信の歌  
「もののふの心にふかく しのびいる つづみの音のぬしぞ こひしき」  
里美の歌  
「甲斐ありて躑躅ケ崎の 雪の野を きみに寄りつつ ともに歩まん」  
湖衣姫の歌  
「いまはただ かすめても取らん山里に 美しく咲ける 白ゆりの花」  
棟綱の子の海野氏29代海野左京太夫幸義は、天文10年(1541)に村上氏との神川の戦いで戦死した。真田幸隆の妻の兄であり、幸隆にとっては義兄である。  
享年32歳。法名赫?院殿瑞山幸善大居士  
海野棟綱は、真田幸隆をともなって上州吾妻郡の羽尾へ逃げ、代々支配した地を追われることになった。  
上州吾妻郡には海野氏の支族が広がっており、棟綱・幸隆にとっては絶好の逃避地であったのかもしれない、棟綱らが身を落ち着けた羽尾は、幸隆の妻の父・羽尾幸全の領地であった。  
幸隆は戦いに敗れて、妻の実家の庇護を受ける身になった。  
棟綱は、羽尾に潜み、散り散りに四散した一族の生き残りと、旧領の回復を狙っていた。  
この戦いは信虎の小県地方侵攻の総仕上げともよべる戦いであったが、天文10年(1541)6月に信虎は嫡男の武田晴信(信玄)のクーデターにより甲斐から追放されるという事件が発生したため、武田氏の声量は一時的に後退し海野氏の旧領の多くは村上義清の支配することになり、7月には海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、箕輪城主長野業政を総大将とし佐久郡に出兵する。  
箕輪城は、明応〜永正(1492〜1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にしてお互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山之内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。永禄4年(1561)長野業政は若年の業盛(氏業)を重臣達に託し病死した。業盛は父の遺志を守り城兵一体となって、よく戦ったが12月、武田信玄は北条氏康とともに倉賀野城を攻め、小幡信貞を味方につけ、上州侵攻の先導とし、永禄6年には国峰城・安中城・松井田城などの長野方の要所となる西上州の諸城は次々と武田の手に落ち、加えて若年の業盛に対する不安感もあり離反者も出、永禄8年(1565)6月には倉賀野城も落ち、翌永禄9年(1566)9月29日、さすがの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至り、城主業盛は、「春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里」という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏在城は60余年である。長野氏滅亡のあと、武田氏が箕輪城を支配、武田勝頼は重臣内藤昌豊を城代として入り、続いて子の外記(昌月)が継いだ。しかし天正10年(1582)、武田勝頼が天目山において滅亡によって終わり、織田信長は家臣の滝川一益を厩橋城に入り、箕輪城を治下においたが、この年本能寺の変があり、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。天正18年(1590)7月、小田原は落城し、後北条氏滅亡すると、徳川家康は重臣井伊直政を12万石で、ここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3年(1598)直政が城を高碕に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。構造は、城の標高は270m、面積は47fに及ぶ丘城である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を回して守りを固めている。城は深さ10余mに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。また、多くの井戸によって城の用水は完備され、六ヶ所の「馬出し」があり、鍛冶場もあり武具など作製や修理をしたであろう。  
佐久郡の大井氏・平賀氏・内山氏・志賀氏らは戦わずに降伏している。  
この上杉軍には海野棟綱や真田幸隆らも参戦していたと思われるが、長野業政は諏訪頼重と和睦して、海野氏の旧領小県郡には入らず帰還してしまった。  
このことが、真田幸隆が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とされる。  
海野氏の当主の海野棟綱は勢力を回復できぬまま歴史から姿を消すが、幸義の遺児らは武田氏に仕えた。棟綱と共に上州に逃れた一族の中には、真田幸隆のように後に武田氏に仕えて所領を奪還した者もいる。  
上野国(群馬県)高山村尻高に海野棟綱入道の碑が現存している。  
碑面には、真田海野本国信濃国貞元親王後胤 / 伍玉五拾六代海野行棟長子 / 清和天皇も語海野右太良行氏 / 海野棟綱入道  
と鮮明に刻まれている。  
羽尾幸光とその弟輝幸が海野姓を許されたことが棟綱に何だかの関係があるとされている。羽尾幸光・輝幸兄弟や宗家正統とされる海野業吉(海野幸義の長男)が真田幸隆に従い上州で参戦し、岩櫃城攻略に大きく貢献していることが鍵となるかもしれないが、海野宗家は完全に没落し去ってしまったとも言えるだろう。   
武田氏の勢力は大きく後退し、佐久郡は上杉氏、小県郡は村上義清の支配することになる。信虎体制を継承した晴信は天文11年(1542)から信濃侵攻を再開し、7月に武田晴信は妹婿の諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡の勢力を併呑すると佐久郡を奪い返す。  
幸隆は天文12年(1543)武田家臣として、佐久郡岩尾城代となり、信州先方衆として活躍しはじめる。  
4月7日、武田晴信が高遠城を攻める。がしかし、高遠城主高遠頼継は前日の夜に西の天竜川沿いの伊那の福与城主藤沢頼親に頼り、城を脱出し、城はもぬけの空となる。  
6月駿府の今川義元よりの援軍、板垣玄蕃一行と上原城に居る板垣信方の兵と合流し、小笠原長時の出城竜ケ崎城を攻めると同時に福与城も攻め落す。  
天文14年(1545)真田幸隆、小県郡の旧領松尾城に帰る。  
天文15年(1546)5月、武田晴信は前山城に入り、佐久郡内山城(内山城合戦)の大井貞清を攻め滅ぼす。  
翌天文16年(1547)8月、武田晴信が志賀城の笠原清繁を攻略する。   
また小田井原城など攻略する。  
上野国から上杉憲政の援軍が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、飯富虎昌・上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。(小田井原合戦) 
上田原合戦  
天文17年(1548)2月、甲斐を出発した武田晴信(後の信玄)は雪の大門峠(現在長和町大門)、砂原峠(現在上田市塩田)を越え、総勢8千余の武田勢は倉升山の麓の御陣ケ入に陣を構えた。倉升山一帯には、武田方が陣をすえたことを物語る陣ケ入・御陣ケ原・兵糧山・相図山・物見山・味方原等の小字名が今も残っている。  
一方の村上義清は武田晴信出陣の報に接するや、大老職の屋代政国・清野清秀・楽岩寺光氏に出陣を命じた。さらに、楽岩寺光氏をして高井郡の高梨政頼・井上清政、水内郡の島津規久等川中島四郡の諸将はむろんのこと、上州(群馬県)の諸士にも出兵を促した。義清は家臣諸山上総介を上野国へ派遣し、上州の諸将の間を奔走させていた。さらに、義清は、上州と深い大井貞清を通じ、小林平四郎等の上州勢を味方に取り込んでいる。  
義清は葛尾城に諸将を集め、武田の攻勢をどう迎え討つか評議した。  
義清の老中に佐久郡志賀城の笠原清繁の縁者・親類が多く、志賀城陥落を怨み含みて、この弔い合戦を是非すべき、さもなくば村上家の武威を失う、直ちに出陣すべきと老中が奨める、義清はこれに賛同し出陣した。  
2月14日の夜明けにはまだ時がある寅の刻(午前3時)、村上勢は楽岩寺光氏以下3千の兵を葛尾城に残し、義清以下7千余の兵は千曲川の北側に沿って南下し、上田の和合城(上田市岩鼻)に3百余の兵を残し、岩鼻口より渡河、浦野川を前に、天白山のふもとの塩田川原に、産川を前にして陣を構えた。  
この日は朝から細雨が降りしきり、夕方にはミゾレに変わっている。  
村上勢は、一陣に高梨政頼・井上清政・清野清秀等、二陣に須田満親・島津規久・会田清幸ろ小田切清定・大日方平武等、左陣に室賀満正(信俊)、右陣に栗田国時、後陣は山田豊前・斎藤等が固めた。  
一方、武田勢は、一陣に板垣信方、二陣に飯富虎昌・小山田信有・小山田昌辰・武田信繁、右に諸角虎貞・真田幸隆、左に馬場信春、後陣は内藤昌豊、遊軍は原正俊の布陣であった。  
ようやく早春の気配が感じられ、太郎山に逆霧がおり、風が肌を刺すように冷たく、いつもなら東の方に秀麗な姿を見せる烏帽子岳も、厚い雲に覆われていた。真田幸隆は、武田晴信の家臣として出撃し、下之条から上田原付近で村上義清と激戦が展開されました。この合戦を『上田原合戦』という。  
辰の刻(午前8時)ころ、武田方がまず行動を開始し、下之条付近で両軍が激突した。板垣信方が先陣を承わって3,500の兵力で村上方の陣に戸津に融資、つづいて小山田・甘利・才間・初鹿野の各隊も突入し、壮大な野戦を繰り広げた。板垣信方は村上方の一陣を打ち崩し、首級150をあげた。  
義清は直ちに兵を繰り出し、村上勢は板垣信方の陣を急襲する。不意をつかれた板垣勢は狼狽し敗走する。信方は床机に腰かけていたが、安中一藤太が槍をつけ倒れるところを、尾州浪人上条織部に首を取られた。  
義清は再度突撃する。これに対して武田方の馬場民部信房・内藤修理昌豊が左右から義清を挟撃し、諸角豊後が帰路を遮る。甲兵久保田助之丞が義清の馬を刺し、馬が驚いて棒立ちになり義清が落馬し負傷する。武田方の兵が群がり寄ってきて、義清はもはやこれまでと自害せんとするを屋代源五が押しとどめる。そこへ、義清旗本14・5騎、雑兵4・50が駆けつける。従臣赤池修理亮は、義清を救い上げ、自分の馬を義清に授けた。そして一団となって石隅淵の方面から室賀峠を越え泉口付近(坂城町網掛)に兵を収容し、葛尾城に凱旋した。  
義清が戦場から引き揚げたので、晴信はかろうじて陣を立て直すことができ、そのまま上田原に滞留した。武田方は、板垣駿河守信方をはじめ、甘利備前守虎泰・初鹿野伝右衛門・才間河内守等名だたる将を含め、700余が討たれた。  
一方、村上方も、また、大将義清が負傷、屋代源五基綱(父は屋代正国)・小島権兵衛重成・雨宮刑部正利・西条義忠・森村清秀・若槻清尚・中里清純等名のある武将も討たれ、3百数十人が戦死するなど、大きな打撃をうけた。  
石久摩神社の本殿裏に武田方・村上方の武将の墓という五輪塔、周辺には上田原合戦での無名戦死者の墓と思われる石積みが残っています。   
村上義清が生れたのは文亀元年(1501)で、父は葛尾城主(現在の埴科郡坂城町)顕国、母は室町幕府管領(将軍を補佐して幕府の政務を総括する役職)の斯波義寛の娘で、家臣の出浦周防守国則の妻を乳母と言われています。幼名は武王丸、正室は信濃守護の小笠原長棟の娘で、子に村上(山浦)国清がいる。  
この板垣信方(始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元年(1489)生れ)は、武田信虎・信玄の二代に仕えた武田家の重臣であるとともに、傳役として若き日の信玄を支えてきたことから、信玄から大きな信頼を得ていたといわれています。天文11年(1542)の諏訪攻略については副将として采配をふるい、その後、諏訪郡代となり信玄の信濃攻めの中心的な役割を果たしました。  
戦いで敗れた武田軍は、石久摩淵台上でようやく陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず、上田原に布陣したままである。がしかし  
天文17年(1548)3月5日、武田軍は諏訪上原城に移動。  
7月10日、武田軍は古府中の躑躅ケ崎の武田館を出発し、15日に甲信国境の小淵沢で休息する。7月19日、寅の上刻(午前4時)奇襲作戦に出て、塩尻峠に信濃守護職小笠原長時本陣へ総攻撃する。  
9月1日、北佐久郡の田の口城を奪回して、小山田信有らを救出し、前山城を押さえて、5日後に甲斐黒川金山へ人夫として送り込む。また、佐久尾台城主尾台又六謀叛する。  
天文18年(1549)3月、真田幸隆は望月源三郎・望月新六ら一族を武田氏に服属させ、蘆田(依田新左衛門)・伴野氏らも武田方に降る。4月、武田晴信が佐久春日城を攻略。7月、小笠原長時が武田方を急襲(塩尻峠合戦)したが、武田晴信は迎え撃つた。9月、武田晴信が佐久前山城を攻略、平原城を焼く、真田幸隆参戦する。 
戸石崩れ  
天文19年(1550)7月初旬、武田軍は小山田信有らと諏訪郡へ出馬、10日諏訪を経て筑摩の馬場民部殿が築いた村井城に入り、小笠原氏の属城の攻略を督励した。  
武田軍はまづ15日深志(後の松本城)の出城なる戌亥城を猛攻してこれを占領、ついで信濃守護職城主小笠原長時の林城をはじめ深志・岡田・桐原・山家・島立・浅間の諸城を攻め落とし、小笠原長時は逃亡、安曇野の豪族仁科道外も降伏した。  
晴信は19日深志城へ入り、馬場民部信春を城代に任じ、下旬一旦諏訪へもどり、兵糧を備え出陣する。  
8月29日、武田晴信は陣馬山に本陣を構える、大兵を率いて村上氏の戸石城を囲む、戦闘を始める前の行事である「矢合わせ」が行われた。  
9月3日、戸石城へ本陣を寄せた。  
9月9日午前6時、武田軍の総攻撃がはじまった。20日間にわたって攻撃は続いたが、横田備中守高松の死が報じられた。それと同時に大将を失った甘利隊・横田隊がどっと崩れて、陣形はたちまちのうちに混乱を極めた。  
11日、小尾豊信が身代わりとなり討死する。  
城攻めの手詰まりから武田軍は陣形を立て直しを策したが、功を秦せず、配色が濃くなってきた。  
信玄は一戦の小山田隊と後陣の両角隊に連絡を取り、全軍一丸となって、村上軍に当ることを策した。  
このとき勘助は敵陣を混乱させさえすれば、あとは信玄の若さと捨て身が、味方の陣形を立て直すだろうと考えた。  
勘助の作戦と活躍で、信玄方は、危うい急場をしのぐことができた。  
10月1日、早朝から武田軍は退却を始めた。これを見て取った義清軍は直ちに追撃を始めたので、武田軍は大きな犠牲(小山田備中守信有が討死する)を払いながらの退却となった。  
この時、真田幸隆は村上家に属する川中島平の須田新左衛門氏・寺尾氏・清野氏(苅谷原氏が後に川中島の清野と大塚に分家)・春原氏らを味方にすることに成功する。  
村上義清は高梨政頼と手を組み、武田に寝返った清野氏の寺尾城を攻め、この知らせに驚いた幸隆は、晴信に急報し、自らは寺尾城救援に赴く。  
11月1日、攻囲1ヶ月に及んだが、落城させることができず、囲みを解いて退却した。  
真田幸隆は善光寺平へ進んで村上義清の背後を攪乱していたが、急きょ晴信の本陣に帰り、状況の急変を継げた。それは北信濃の反乱を鎮めた義清が、全力を奮って戸石城攻めの救援に来るというものだった。  
砥石城攻めは完全に失敗であったが、晴信は機を逃さず戦場を離脱したのである。  
この退却は、幸隆の献策により、武田晴信より諏訪形1,000貫文の地を与えられる。  
天文20年(1551)5月20日、武田軍が引き上げて行ったので、義清は戸石城にわずかな兵を残して本隊を引き上げた。  
この有様をじっと見ていた真田幸隆は、戸石城を守る義仲軍に手をまわし、城中に何人かを味方につけ、その中の矢沢氏は武田氏に内応し、火を樓櫓に放ちて敵を導いき、ころ合いを見計らって攻撃をしかけた。  
要害頑固な戸石城も、真田幸隆の天才的な知略によって、砥石城は殆ど一兵も損ずることなく不意を襲って「乗っ取る」という形で落城させてしまったのだ。  
7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飯富虎昌が真田幸隆に連絡するが、これは飯富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、晴信が小県へ出馬する旨を真田方にも伝えてくれとあって、小諸城主飯富虎昌・内山城主上原昌辰と同列に扱っていることから、真田幸隆の武田家臣としての地位が固まったことが明らかである。  
9月、内山城代上原伊賀守昌重が、さきに討死した小山田備中守昌行の名跡を継ぎ、小山田備中守昌辰と名乗る。  
戸石城(標高800m)の支域ともいう米山城(村上義清公の石碑がある)には、有名な白米城伝説がある。武田信玄は戸石城を猛烈に攻め、ついに水の手を断った。まもる村上義清勢は、白米を馬の背に流して洗うふりをし、遠目には水がいくらでもあるように見せかけた。こうして信玄の猛攻を防ぎながら、義清は城を捨てて越後へ落ち延びて行ったという。米山城は戸石城から続く尾根が上田方面に突出した地点にあり、上田盆地が一望できる見晴らしの良いところで、ハイキングコースとしても親しまれている。今でも少し地面を掘れば焼き米が出る。この焼き米は、籾のまま煎った兵糧ではないかと言われている。 
川中島合戦がはじまる  
天文22年(1553)4月9日午前8時ころ村上義清は武田方の勢いを見て戦わずして葛尾城を逃れ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ落ち延びたのです。その後義清自身も一騎打ちで有名な永禄4年(1561)の川中島合戦などに従軍して、旧領の回復を目指しましたが、結局意図は達成できず永禄8年(1565)に越後の根知城主(現在の糸魚川市根知)となり、嫡男の国清は上杉謙信の養子に迎えられて、山浦景国と改名、上杉一門となりました。  
村上義清は武田氏によって攻撃され、居城が消失しました。義清の夫人は逃れて千曲川の岸にいたり、お金をもっていなかったため、お礼に自分の笄(こうがい)をとって船頭に与えて川を渡りました。しかし武田軍に取り囲まれ、夫人は逃れることができないのを悟り自刃しました。後に布陣の霊を祀って石の祠を建立した。これが有名な「笄の渡し」伝説であります。  
義清は元亀4年(1573)に亡くなり光源寺(現在の上越市)に埋葬されました。義清の墓所は坂城町にもありますが、根知城下の根小屋の安福寺(糸魚川市)に五輪塔があります。このほかにも新潟県津南町や上水内郡飯綱町にも墓があり、それだけ義清が慕われていたという証かも知れません。  
村上義清の墓は、第3代坂木代官長谷川安左衛門利次が名家遺跡が失われないよう、明暦3年(1657)義清公の孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保2年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政3年(1791)清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設となった。  
ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、幸隆の活躍が大きかった。  
真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。また幸隆は仏門に入り、一徳斎良心と号す。  
謙信は川中島に出兵する。4月22日、甲越両軍最初の衝突(川中島合戦のはじまり)武田軍は後退し、義清は旧領を恢復して、小県郡塩田城に拠住す。  
8月5日、信玄が塩田城をおとし、義清逃亡。  
8月10日、真田昌幸(11才)を人質として甲府へ送り、代わりに上田秋和350貫文の地を与えられる。  
9月、信玄が再び川中島に出兵、各地で武田軍は戦う。  
天文24年(1555)4月、川中島合戦激戦開戦。  
弘治元年(1555)7月、川中島合戦二回目の対戦。対陣4カ月におよび、10月15日雪斎の仲裁により休戦、両軍和睦して撤退する。武田軍は諏訪に退く。11月6日、諏訪の湖衣姫ご逝去す。享年25才。  
弘治2年(1556)9月8日、信玄が真田幸隆に、その攻略を即し、埴科郡東条の雨飾城を攻め落して、城将となる。  
弘治3年(1557)2月、武田軍が葛山城(善光寺裏の山)を落とす。  
4月、謙信が信濃に出陣し、川中島合戦三回目の対陣する。  
永禄元年(1558)4月、幸隆が小山田昌行とともに、東条(雨飾)籠城衆に定められる。  
永禄2年(1559)5月末、長延寺の実了僧都に越中の一向宗門徒を束ねてもらう約束。岐秀大和尚により出家し、薙髪して晴信改め法名信玄を授かる。  
永禄3年(1560)、羽尾入道・海野長門守幸光は鎌原の砦を攻め、鎌原敗れる。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子平原において信玄に出仕する。  
この頃、幸隆を通じて上野の海野一族は信玄に随順する。  
また、海津築城に幸隆も助力する。  
永禄4年(1561)5月、真田幸隆は西上野に出陣する。  
8月真田幸隆岩櫃城を攻める。  
8月23日、上田原古戦場にて敵前法要し、海津城へ向かう。  
9月8日夕方雨、9日晴れ、夜半から10日の夜明けにかけて、濃い霧が発生する。  
21日川中島合戦が激戦となる。、真田幸隆・信綱父子は武田方の将としてこの川中島合戦に参戦する。真田幸隆・信綱・昌輝・昌幸父子は、妻女山を攻める。  
これが、有名な武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の一騎打ちとして伝えられる。 
上州・関連の合戦  
永禄4年(1561)8月、武田信玄は松尾城主真田幸隆・小諸城主甘利左衛門尉に兵3,000をつけ岩櫃城を攻撃、斎藤憲広は善導寺の住僧を仲に和睦している。鎌原・羽尾両氏の境界線を信玄が定めて、双方が和睦している。  
10月、岩櫃の斎藤憲広によって鎌原城は攻め落され、羽尾幸全が斉藤方として城代となる。真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。  
永禄5年(1562)3月、信玄の検使に羽尾は不満を示し、斎藤憲広(斉藤太郎越前守一岩斎)に訴え、憲広はその旨鎌原に伝えたが応じず、鎌原同地を引き払って小県郡浦野領地を信玄に同高の地をあたえられる。かくして鎌原の領地は、そのまま羽尾の手中に入る。羽尾入道は鎌原城に入る。  
永禄6年(1563)3月、三原荘をめぐって鎌原氏と羽尾氏との争いが再燃する。  
6月、羽尾入道は万座の湯治中、真田幸隆居館を攻め、鎌原城を奪い取る。羽尾入道は高井へ落ち、上杉氏の加勢を得ることになる。  
9月、斎藤憲広は越後上杉家の後ろ盾により長野原城へ進軍、常田高家が城代として守っていたが落城する。真田幸隆は岩櫃城を攻めていたが、戦局は思わしくなく和議を余儀なくされる。  
羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が武田方に内応する。  
真田幸隆は羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟の助力により斎藤実憲を調略する。  
10月13日、真田幸隆は上野国吾妻郡の岩櫃城を攻略する。  
祢津元直も、この時幸隆の重臣として活躍している。  
岩櫃城主斎藤越前守入道は上杉謙信を頼って越後へ落ちる。  
岩櫃城を鎌原幸重と湯本善太夫に城代として任せる。  
11月、鎌原宮内少輔は羽尾入道の館を奇襲し、入道は大戸の館へ落ちるが消息は不明である。  
真田幸隆は吾妻郡守護鎌原宮内少輔を岩櫃城代とする。  
永禄7年(1564)、1月海野長門守幸光・海野能登守輝幸兄弟は真田を頼り、小県・佐久の少々の土地をあてがわれる。  
鎌原宮内嫡男筑前守は甲府の信玄に年始に伺う。  
3月、幸隆は上野長野原に出陣、真田一徳斎の号が初見。  
引きつづき、武田晴信は海野・祢津らと共に上野に在陣を命じる。この方面の将として計略に務める。  
10月には、岩櫃城を落とす。  
永禄8年(1565)11月、仙蔵の砦に陣した幸隆は、真田氏に就いた植栗・冨澤らを先鋒隊として、嵩山城攻撃を開始。五反田台というところで両軍が七度に及ぶ戦闘を繰り返したが、城虎丸の斎藤軍は次第に真田軍に押されていき、嵩山城に立て籠もっている。  
幸隆は嵩山城を四方から包囲して、五反田台の戦いから7日後の17日に夜襲を決行、真田軍は大手一の木戸口を攻め破り、火を放っている。火が燃え上がるなか斎藤憲宗は観念し、腹を十文字に掻っ捌いて自決し、弱冠18才の城虎丸は天狗の峰にかけ上って、真田軍をめがけて身を投じている。これを見ていた兵士と女たちも、次から次へと岩上から飛び降り、悲壮な最期を遂げたている。嵩山落城により、吾妻郡の最大勢力を誇っていた斎藤氏は滅亡し、真田氏は吾妻郡を支配下に収める。  
幸隆は正面きっての攻めでは落とせず、斎藤憲広の家老である池田重安佐渡守を内応させて、城内の動揺を誘って嵩山城を攻め落したという。  
また、嫡男信綱が陣を置いたところは「陣平」という、それが地名として現在も残っている。矢澤綱頼は嵩山城合戦では前線には出ず、岩櫃城の守備に付いている。これは、上杉の白井・沼田衆の来襲に備えていたためである。  
永禄9年(1565)、羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が岩櫃城代となり、吾妻衆70騎の与力と城を守る。  
武田晴信が嫡男武田義信の謀反の疑いありとして、自害を命じる。  
この時晴信は、家臣団の動揺を防ぐために、ほぼ全域の家臣団から起請文を徴収した。  
この中で真田氏に関係ある地域では、小県郡で室賀信俊・海野幸貞・祢津政直・祢津直吉・望月信雅・依田信盛・小泉一族、吾妻領では、浦野幸次、海野衆では、真田綱吉らの名前がみえる。  
昌幸(武藤喜兵衛の)長男信之が生れる。  
9月29日、幸隆が上州箕輪城攻め落城し、長野氏は滅びる。  
永禄10年(1567)3月6日、真田幸隆は上杉一族長尾憲景が籠る白井城(群馬県子持村)を攻略する。  
白井城攻略に関しては永禄8年から元亀3年までの間で諸説はあるが、11月23日白井城代を勤めていた祢津政直宛てに武田晴信から知行があてがわれている。  
昌幸(武藤喜兵衛の)次男信繁(幸村)が生れる。  
元亀元年(1570)このころ、信綱上野の最前線を守る。  
4月、信玄は春日虎綱(高坂弾正)に後事を信綱に託して伊豆侵入の武田軍に加わるよう命ずる。  
元亀3年(1572)3月、幸隆が計略で上野白井城を落とす。信玄がそれを賞し、箕輪城に在城して春日虎綱(高坂弾正)の支持を受けるよう命ずる。  
三方ケ原合戦で武田晴信は徳川家康を破る。晴信は川中島地方からの逃亡者の逮捕を、小県の諸領主祢津松鴎軒(常安政直)・真田信綱・室賀大和入道・浦野源一郎・小泉昌宗らに命じる。  
天正元年(1573)3月、白井城が上杉軍のために奪われる。幸隆は引続き、上野で上杉方と戦う。  
4月12日、武田信玄が三河より帰陣の途次に伊那郡駒場で没する。  
法名 恵林寺殿機山玄公大居士 53才。  
天正2年(1574)5月19日、真田一徳斎幸隆が戸石城で病死する(永正10年(1513)に生れ)  
法名「笑傲印殿月峯良心大庵主」 享年62歳(高野山蓮華定院過去帳)  
長子真田源太左衛門信綱が家督を継ぐ。38歳。  
11月、信綱が四阿山別当職を安堵される。   
天正3年(1575)5月21日、武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍と三河長篠城(愛知県鳳来町)に戦って大敗し、真田信綱・昌輝がともに戦死する。  
信綱は享年39歳、法名 信綱寺殿大室道也大居士  
昌輝は享年33歳。三男昌幸が家督を継ぐ。  
10月、昌幸が河原隆正(母の兄)に真田町屋敷年貢を宛行う。  
11月、昌幸が四阿山別当職を安堵される。勝頼が長篠で戦死した望月昌頼の家に、武田信豊の女を養子とし、望月の家督を継がせる。 
上州海野系と海野竜宝の末裔  
永禄2年(1559)3月、羽尾長門守海野幸光は大洞山雲林寺(曹洞宗、安中の青木山長源寺末)を創建する。  
9月、信玄は安中・松井田・箕輪城を攻める。  
10月、岩櫃・武山の領民が小野子庄に逃散する。信玄は倉内城(沼田)に入る。  
永禄3年(1560)、羽尾道雲入道(幸全)、海野長門守幸光が鎌原の砦を攻める。  
鎌原敗れる。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子は幸隆の斡旋により、信州平原において信玄に謁す。  
8月、謙信は厩橋城(前橋市)に入り年越しする。  
永禄4年(1561)5月、幸隆は西上州に出陣する。  
8月、武田信玄は真田幸隆(松尾城主)・甘利左衛門尉(小諸城主)を大将とし、旗本検使として曽根七郎兵衛を命じ、その他信州勢・芦田下総守・室賀兵部大夫入道・相木市兵衛尉・矢沢右馬介・祢津宮内太夫・浦野左馬允ら総勢3,000余騎をつけ、大戸口、三原口の両手に分けて岩櫃城へと攻め寄せた。  
これに対して岩櫃の斎藤憲広は、人の和を失って全く勝算なく、善導寺の従僧を仲して、人質を差出して降伏した。  
10月、羽尾道雲入道(幸全)は海野長門守幸光の兄弟を中心に、富沢加賀守康運・湯本善太夫・浦野下野守・同中務太夫・横谷左近将監ら600余騎を味方に誘い、鎌原城の要塞に押し寄せた。  
これに対して、兼ねてこの事あるを知っていた鎌原幸重は嫡子筑前守を赤羽根の台に出し、西窪佐渡守を大将として家の子今井・樋口を鷹川の古城山へ差し置いて、幸重自身は鎌原城にあって指揮に当たり、これを守った。  
岩櫃城は、岩櫃山(標高802m)の中腹にあり、鎌倉時代初期のころ吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は1.4`uで上州最大を誇り、甲斐の岩殿城・駿河の久能城と並び武田領内の三名城といわせてる。徳川家康の一国一城令が慶長20年(1615)に発されにより400余年の長い歴史を残し、その姿は消えました。  
永禄5年(1562)3月、甲府から三枝松善八郎・曽根七郎兵衛、信州から室賀入道を検使として現地で羽尾・鎌原の境界線を定めた。  
信玄の検使に羽尾入道は、不満を示し、斎藤憲広に訴えてきた、憲広は熊川境界を不当として、山遠岡与五右衛門尉・一場右京進の両名を使者として鎌原幸重のもとへ送ったが、安否にかかわる重大事であるととして拒否をした。  
10月、突然鎌原城を引払って、一門はことごとく信州佐久郡へ退去してしまったので、羽尾道雲入道(幸全)は鎌原城に入る。  
信玄は翌年3月、甘利左衛門尉(小諸城主)を以って鎌原の許へ、羽尾領と同等の土地を、小県郡浦野領内に与える。  
かくして鎌原の所領は、そのまま羽尾の手の中に入ったしまった。  
永禄6年(1563)6月、羽尾道雲入道(幸全)は万座の湯(万座温泉)へ湯治中であり、入道の嫡男源太郎も岩櫃城へ伺いて留守であると鎌原の百姓から報告されてきた。  
真田幸隆は、祢津覚直・甘利左衛門尉らと少々加勢をもらい鎌原へ向かった。この時鎌原城には羽尾の留守兵僅か5〜60人程いたが、これを聞くと城兵は早々に城をあけて逃げ去ってしまった。  
鎌原幸重は一戦も交えず、一兵も損うことなく鎌原城を奪い返すことができたのである。  
羽尾道雲入道は、6月下旬万座の湯から山を越え信州高井の郷(上高井郡高山村)へと落ちて行った。どうすることもできないことから、越後の上杉謙信に援軍を求めた。武田と上杉の争乱への戦火となる。  
8月下旬のこと、岩櫃城内において斎藤憲広は、作戦会議を開いて、「鎌原氏を討つ」と計ったところ、同意したので、早速一門である中山城主中山安芸守を使者として派遣した。  
沼田城主沼田憲泰は快く受けたので憲広は大いに喜んで、鎌原を攻め滅ぼす決意を固めたのである。  
9月、信州高井に落ちた羽尾入道は鎌原老臣樋口次郎左衛門を利用しようとして、岩櫃城の憲広からも弟海野長門守を使者として、「お前の城主鎌原を打ち取ったなら鎌原幸重の所領はそっくり樋口に与える」このことを伝え、全面同調することになった。  
樋口は早速高井にいる羽尾入道に「大前の辺で、自分は白馬で、鎌原宮内幸重は黒馬で出陣するので、これを目標に鉄砲で射殺するようにと、詐謀をこまごまと書いた」密書を送る。  
ところが、鎌原の黒馬は膝を折ったので、樋口は仕方なく自分の白馬に乗換えて進軍した。入道はかねての通り、鉄砲の上手な猟師を雇い、物陰で黒馬めがけて鉄砲を放った。弾は樋口の胸を貫通し、従う者も、その場で射殺された。  
入道は黒成馬の鎌原を打取った。白馬に跨る大将樋口だと思い、弓や鉄砲をしまい、弁当を出して酒盛りをしようとする所へ鎌原勢が一度に、どっと押し寄せたので羽尾勢は右往左往して、敗れて平戸川へと落ちて行った。  
9月下旬のこと、長野原の合戦で真田幸隆の弟常田新六郎俊綱は須川橋近くの諏訪明神の前まで出向いて防いだが羽尾と戦って討死し果てたのである。  
10月、真田幸隆は再度岩櫃城攻めをする。落城し斎藤憲広は、謙信を頼って越後に落ちる。  
11月27日、鎌原宮内少輔幸重は甘利・祢津両氏の加勢を得て、その兵力300騎、夜襲に乗じ恨みの敵である羽尾入道の館を急襲した。入道は手勢僅か5〜60人の手薄で、雪の夜の急襲であったので、妻女を連れて夜半を徒歩で須賀尾峠を越えて命からがら大戸の館へたどり着いた。大戸真楽寺の妻は入道の妹であった。深い雪と嵐に手足は凍傷におかされ、やっとのことで明けがた逃げ延びたが、その後の消息は全く不明であり、あわれな末路であった。  
幸隆は吾妻郡の守護に、鎌原宮内少輔・湯本・三枝松を岩櫃城代とする。  
永禄7年(1564)1月、海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟は真田幸隆のお預けになり、信州佐久郡・小県郡の内、少しの土地をもらったに過ぎなかった。  
永禄9年(1566)、鎌原・浦野・湯本・西窪・横谷・植栗の6氏だけは幸隆の直属とし、その他富沢以下70余騎を配下として海野兄弟は岩櫃に居住し、吾妻郡代となる。  
海野輝幸の子幸貞は武田信玄に仕えて三河守と称す。  
永禄10年(1567)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸・伊勢守幸忠・平八郎信盛の連盟のもの、「海野被官」として桑名・塔原氏ほか5名連記のもの、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)・神尾房友ほか12名連記のものがある。海野衆の中には幸義の嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている。  
永禄12年(1569)10月12日付の武田氏竜宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守・海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみても、有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。  
また幸義の娘は、武田信玄の二男信親(のちの龍宝、盲人、母三條夫人)の妻となった。永禄11年(1568)三河守幸貞らは越後の上杉謙信に通じる事が露顕して、誅せられ、龍宝は生まれつきに目が不自由であったため、早くから仏門に帰依してしており、信玄の近くに仕えていた。  
海野家を継いだ竜宝は、父武田信玄と母三条内大臣公頼の娘との間に二男として生まれた。長男は義信・弟四男が勝頼である。五男盛信は仁科五郎盛信として「信濃の国の歌」り歌詞にもあるように安曇の仁科家を継ぐのである。  
信濃の豪族海野家を継いで、海野二郎信親と称した。海野二郎信親は海野氏を継ぎ80騎の将として、海野城主なる。竜宝は陣代として小草野若狭守をつとめさせた。この小草野氏は東御市県(瓜田団地の住宅から田中小学校の敷地周辺)に館を構えていたといわれている。  
武田神社の西側を北に向かって、丁度突き当りのところに小さな塔や仏像があり、ここは、竜宝の墓と伝えられ、近在の人達は昔から「お聖道様」と親しまれ、大切に保存して来られました。  
このあたりが、かって聖道小路という字名で、聖道の屋敷があったからだといいます。  
永禄10年(1567)10月に信玄の長男が亡くなり、二男の信親は盲目であったため、三男の勝頼(麻績城主服部左衛門清信の娘が諏訪頼重に嫁ぎ、湖衣姫が生れ、のちに信玄の側室となり勝頼を産む)が継ぐことになった。  
その後、武田勝頼が采配を振るって更に領土を増やしたが、力をつけた織田勢の侵入を許すと、次々に家臣が離反。甲府にも織田勢が押し寄せ、海野信親の身を案じた法流山入明寺(甲府市住吉、浄土真宗・本尊は阿弥陀如来・信親の墓もある)住職栄順は、海野城から信親を寺に迎えて、隠まった。  
しかし、まもなく天正10年(1582)3月11日、天目山にて武田勝頼父子が自刃して、武田氏は滅亡、その報を聞くと海野信親は入明寺で自害し果てた。42才であった。住職栄順は遺骸を寺内に埋め、法号を「長元院殿釋離潭竜宝大居士」という。 海野信親には男子1人と娘2人がいた。嫡子信道(道快天正2年(1574)生れ〜1643)は9才であった。  
祖母である三条夫人の縁故のある本願寺の顕如法王から顕の一字を与えられ顕了道快の僧名を賜った。  
その時、武田の血筋が絶えるのを心配した入明寺の栄順は、長延寺の実了師慶和和尚の養子になっていた。  
幼い顕了と母(竜宝室)を伴い敵の目から逃れ、長延寺領の信州伊那犬飼村に無事逃し、織田勢の捜索からうまく逃した。  
勝頼37才辞世の歌「おぼろなる 月もほのかに 春がすみ 晴れていくよの 西の山の端」勝頼夫人19才辞世の歌「黒かみの みだれたる夜ぞ はてしなき 思いに消ゆる つゆの玉のを」また、小田原北条家を偲んで「かえるかり たのむぞかくのことはを もちてさがみの 国におとせよ」 空を飛ぶ鳥があるならば、この武田家末路のようすを、私の実家である小田原北条家に伝えてほしい。  
信濃国小県郡海野の「姫宮」の地名と祠は「善光寺道名所図絵」にも記録されている。国道18号線の海野地籍に、レストラン「キャロット」がある西側の道を、赤石不動尊に北へ向かって200mほど右側に「姫宮」の祠がある。甲斐武田信玄の二男竜宝を父として、海野左京太夫幸義公の娘を母として生まれたのが、滋野勘七郎海野信音武田太郎能登守「蓮寿院殿光本鏡大居士」海野信音の室は甲斐の馬場家の娘で(武田と共に馬場家も滅亡)「蓮池院殿好厳貞鏡大大姉」その実家馬場家の命運も案じつつ、天正10年(1582)4月3日に、武田勝頼が天目山にて自刃したと聞いて、海野居館(姫宮の東側)にて夫と共に自害し通称「くろ姫」おひめさまとして赤石に祀られた。この地方に「姫宮」の話は大変悲しい話として伝承されている。  
その年の6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれて滅亡すると、逸早く甲府へ乗り込んできた徳川家康は、武田の旧制・旧法を尊重するとの触れ書で武田旧臣の懐柔を策した。実了上人は、伊那から顕了道快を連れ戻し、尊体寺で徳川家康に拝謁。ことの次第を訴えて長延寺再興を願い出た、家康は信玄の孫・顕了の住職を条件に復興を許可した。この時顕了は14才であったため、入明寺和尚が後見人となり長延寺は再興されたという。  
そして、慶長8年(1603)には実了の後を継いで長延寺(現在光澤寺)第二世となった。  
顕了道快は、その後、甲斐で活躍した元武田家臣だった土屋長安とも面識があったと考えられる。  
経理に秀でた土屋長安は、家康に仕え大久保忠隣の与力に任じられ、以後、大久保長安と称した。甲斐の復興を指揮し、堤防復旧や新田開発、甲斐の金山採掘などに尽力したと考えられる。  
天正18年(1590)、徳川家康が関東に入ると、翌年、八王子8,000石が大久保長安の領地となり、八王子の開発が始まった。  
また大久保長安は徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子500人同心創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子500人同心が誕生した。慶長4年(1599)には関ヶ原の戦いに備えて同心を増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。  
徳川家康からも重用された大久保長安は旧武田家臣を保護しただけでなく、武田信玄の娘(松姫)などのも保護したらしい。  
慶長5年(1600)には、武田信道に子、武田信正が誕生している。  
慶長18年(1613)4月25日、69才で大久保長安が亡くなった後、金山産出の横領の疑いを掛けられ、5月17日に大久保一族や腹心は捕えられた。  
7月9日には、その捕えられた一族郎党が処刑される。  
また、武田信道や松姫を保護していたことから、武田氏が再興を企んでいるとも疑われ、武田信道と子の信正は常陸笠間城主松平康長丹波守の下に預けられたあと、元和元年(1615)武田信道と信正(教了)の親子と共に伊豆大島への流刑となった。時に顕了42才であった。武田信正の妻「ままの局」と家臣9人と共に伊豆大島の野増に居住した。(伊豆の武田氏と呼ばれる)  
伊豆大島には現在も供養塔や屋敷跡が残っている。  
永禄10年(1567)武田信玄の6女松姫(海野竜宝とは異母兄妹)7才と織田信長の長男奇応丸10才との政略結婚の婚約が成立したが、この婚約は松姫12才のときに解消された。そして信玄の死後、武田家の運命も退潮の方向につき進んでいった。松姫は兄勝頼を心の底から思ってくれる真田昌幸・幸村父子の心が頼もしく心嬉しかった。信玄は、かって跡部勝資・真田昌幸の二人を「わしの両目である」と高く評価していたという。その真田父子が勝頼の……は落目の武田家であるが…… 真田幸村が恋慕の情をいだいた松姫も新府城落城後−甲府入明寺−開桃寺−恵林寺−向獄寺−それから武蔵国を目指しての流転の旅、東奥山・田無瀬と険しい山道を通り抜け八王子金照庵へ向かった、そして心源寺へ。このように敗走の旅を続ける松姫に対して絶えず忍びの者を送り安否を気遣い情報収集をしていたのが真田幸村父子であった。松姫は信松尼として元和2年(1616)4月16日に、辛く寂しい56才の生涯を閉じた。真田幸村は徳川家康の本陣めがけて突撃して、大阪夏の陣において元和元年(1615)5月7日、49才で戦死する。(上田真田勢32人戦死・敵首29を得る)  
武田信道は寛永20年(1643)3月5日についに赦免の日を迎えることなく70才で伊豆大島で世を去った。子の武田信正もすでに43才、父顕了が島に流された歳に近かった。  
それからさらに20余年が過ぎ、信正66才、大島にきて厳しい流刑生活が実に48年の歳月が流れようとしていた折、上野寛永寺の法親王、公海上人の仲介などもあり、徳川家光公13回忌を契機に流刑が許されることが決まり、将軍徳川家綱より寛文3年(1663)3月赦免され江戸に戻ることができた。そして、寛文12年(1672)小山田信茂の娘香具姫を母に持つ、平藩主内藤忠興(内藤帯刀忠興)の娘(17才)との間に武田信興を設けた。  
武田信興は最初は内藤忠興の元で生活をしていたが、父武田信正が死去したのちは 柳沢保明(のちの柳沢吉保)の世話になって暮らしていた。  
そして、柳沢吉保の推挙により武田信興は元禄13年(1700)12月27日に徳川家臣として復帰し、甲斐・八代郡内に500石を与えられ、寄合に所属する旗本となる。  
翌年元禄14年(1701)1月には徳川綱吉に拝謁。9月には表高家に列することになり、江戸城・幸橋門外に新たに宅地を与えられ、宝永2年(1705)8月19日には領地を相模国大佐郡と高座郡内に移された。  
武田信興は元文3年(1738)7月9日死去、享年67才。芝の西信寺に葬られている。  
長男信安が家督を相続して、信明―護信-信典-信之-崇信-信任-要子-信保-昌信-邦信-英信と、その子孫は、武田信玄以来の血脈を保ち、現在第17代武田英信氏(嫡流武田氏)が東京に在住されている。(長男の場合は「信」を下に、養子・2〜3男は「信」を上に)  
また、海野氏の末裔でも在られる。  
大正3年(1914)大正天皇即位に際し、戦国の武将従四位下大膳大夫武田信玄の民生上の功績が認められ従三位が贈呈された。しかし、この位記宣命は、その正統の子孫に渡されることになっている。ところが、この事を聞いて、全国の武田信玄の後裔を名乗る人が多く表れて、当時の添田敬一郎山梨県知事は困惑された。そこで知事は提出された資料を当時の東京帝国大学史料編纂所に送って判定を依頼した。調査検討した結果次のことが実証された。  
長男太郎義信は幽死・2男は竜宝・3男は17才で早世・4男が四郎勝頼・5男は盛信は天正10年(1582)高遠城に敗死、従って信玄公の男系として天目山の難以後に生存していたのは竜宝と7男信清の二人である。竜宝は半僧半俗として天目山の難に際し、甲府入明寺に自殺したが、その子顕了道快は甲府長延寺に隠れ信長の目を逃れた。その子信近は赦免され、また、その子信興は幕府に仕えることとなり武田家は復興、その子孫伝承して現当主信玄公15世の孫武田信保氏に、位記宣命が下賜された。天目山の難を逃れた末子の信清は、祢津氏出身の母を持ち高野山に潜み、のち越後の上杉昌勝(夫人は信清の姉)の保護をうけ子孫相続して米沢に住する。  
永禄のはじめごろ(1558)より羽尾景幸(幸世)以下の兄弟は、上州岩櫃城主斉藤憲広に仕えていたが、永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属した。  
長兄の入道は、11月末大戸城に逃げている。そして永禄9年(1566)に幸光・輝幸兄弟は岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。長門守幸光は、修験道に帰依して福仙院と号し、金剛院の法弘法師に師事していたという。  
弟の輝幸は強弓をひき、荒馬をこなし、兵法に秀で海野能登守と称していた。  
天正2年(1574)2月、戸石城にて真田一徳斎入道幸隆が病死する。信綱が家督を継ぐ。  
天正3年(1575)5月、長篠の戦で、武田勝頼は大敗し、真田信綱。昌輝が戦死し、昌幸が家督を継ぎ、砥石城に入り吾妻郡代となる。  
羽尾長門守海野幸光が小滝山宗泉寺(曹洞宗・雲林寺末)を開基する。  
天正4年(1576)3月、昌幸が上野榛名山に禁制を掲げる。  
4月、昌幸が、上州勢多郡那淵城を攻め取り、続いて名胡桃・小川をはじめその他の諸城を攻略する。  
北条氏政の上野侵略を武田勝頼に報告する。勝頼が北上野の防備を厳重にさせる。海野長門守(羽尾幸光)・能登守(羽尾輝幸)兄弟は、昌幸に属する。昌幸は岩櫃城主となり、真田家を継ぐ。  
天正5年(1577)8月、武田勝頼が昌幸の手紙に答えて織田信長の行動が活発なことを告げる。  
天正6年(1578)3月19日、上杉謙信が死に、景勝・景虎両養子の間に争い(御館の乱)が起る。勝頼は景勝を応援する。  
越後が乱れると、上州方面への上杉方の圧力が弱まっていたのに乗じて、昌幸は上州への計略を進める。  
天正7年(1579)2月、勝頼が昌幸上野石橋郷の内一軒分の諸役を免ずる。  
3月17日、昌幸は上野吾妻郡の地侍羽尾幸光らに上野中山城と尻高城を奪い取取られたと報じる。  
天正8年(1580)2月、昌幸が僧某に上野倉内を手に入れたら所領を与えようと約束する。  
3月、昌幸が高野山蓮華定院を前々のように真田郷住民の宿坊と定める。  
4月、矢沢頼綱が沼田城を攻め、それを甲府に出張中の昌幸に報告、勝頼は頼綱の戦功をほめ、昌幸をすぐに帰城させることを知らせる。この後、昌幸は引続き沼田城の攻略に従う。  
4月26日、昌幸は沼田城潜入を田村角内に命じ、籾50俵を与える。  
5月4日、昌幸は沼田城を陥とるため、主将に矢沢頼綱を任命する。  
続いて、上野猿ヶ京城三ノ曲輪に放火した中沢半右衛門に荒牧10貫文を宛行う。  
この頃、昌幸の陣容は約4,000人といわれるが、後に松代藩の重臣となった家臣の主なものは次の通りです。(加沢記)  
湯本三郎右衛門・木村戸右衛門・大熊五郎右衛門・河原左京・高梨兵庫助・木村勘五左衛門・鎌原宮内・矢野半左衛門尉・白倉武兵衛・赤沢常隆介・出浦上総介・宮下藤右衛門。  
昌幸は上州名胡桃城と小川城を攻略する。沼田城主藤田信吉が武田方に降る。昌幸は、ついに要衝沼田城の招降に成功した。  
昌幸は降状した藤田信吉をそのまま城代として残し、目付役として海野能登守輝幸を任命しました。  
5月23日、昌幸は勝頼の命により、沼田城在番の海野幸光らに軍令を与える。  
6月、森下又左衛門に沼田領のうちで領地を与えると約束する。  
9月、勝頼が金井外記に、上野名胡桃50貫を宛行う。昌幸これを奉る。  
海野能登守輝幸は沼田城代となる。  
天正9年(1581)昌幸は内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、また屋敷地などを安堵。  
岩櫃城代をつとめるには沼田の城代になっているが、岩櫃城・沼田城攻略に功のあった割には恩賞が少ないと、不満を周囲に漏らし、やがてその声は昌幸にも届いた。かってより不仲であった鎌原氏やその一党が、海野兄弟に謀反の企て有りと訴え出たので、海野兄弟を疎ましく思っていた昌幸は好機到来と、討伐することにした。  
11月21日真田昌幸は舎弟真田隠岐守信尹を大将にに命じ、鎌原。湯本らの吾妻180騎余の軍勢で岩櫃にいる海野長門守幸光を攻め、長門守幸光は75才の老齢で、しかも目を患い、殆ど盲目であったが、3尺5寸の大刀を振りかざし、敵14〜5人を切り倒した後に、腹をかききって壮烈な再起を遂げた。  
幸光の妻と14才の娘は、渡利常陸介が付き添って越後へと逃れようとしたが、真田軍に祖とされる。観念した常陸介は、泣きながら母娘の首を落としたといわれる。幸光を誅した信尹は、鎌原・湯本・池田の三将を岩櫃城に残し、輝幸の居る沼田城に向かう。  
岩櫃城の長門守を打取った真田隠岐守信尹は、沼田の城代藤田信吉と図り、だまし討ちを企むも、早くこれを察した海野能登守輝幸親子は「無実を直接訴えようと」郎党150余の兵と共に城を出ました。  
城門には真田・藤田の兵2,000余が固めていたが、威風堂々と一行に気圧され道を開き通過し、迦葉山(かしょうざん)に入ろうとしたが、やがて気を取り直した寄せ手は後を追撃したが、多勢に無勢、やがてほとんど討死し、海野親子はもはやこれまでと、22日に息子の中務大輔幸貞(妻は矢沢綱頼女)と共に互いに刺し違えて死んだ。  
ときに能登守輝幸は73才、幸貞は38才という。これにより羽尾氏は滅亡する。  
海野長門守幸光の法名は、雲林院殿前長州洞雲全龍大居士といい、羽尾北小滝にその墓がある。  
弟能登守輝幸の墳墓は沼田市迦葉山道沿い岡谷地内阿難(女)坂十二の森近くの路傍に、父子二つの石祠と「海野霊墳」の墓碑が建てられ、一本の巨松がそびえて墓を守っている。  
迦葉山龍華院弥勒護国禅寺は「天狗のお山」として知られ、沼田市内から北東へ16qの山の中にある。開祖は嘉祥元年(848)、上野国の太守、葛原一品親王(桓武天皇の皇子)が比叡山三祖の円仁慈覚大師を招いて開かれた。唐より帰朝間もない慈覚大師は唐の「迦葉佛鶏足山」と似てる山並みから「迦葉山龍華院弥勒護国禅寺」としました。当寺が曹洞宗に改宗の折天巽禅師に同行の高弟で中峯尊者という方がおり、伽藍造営・布教伝道など大変努力されたが、住職が大盛禅師に代がわるおり、自分の役目が終ったことで昇天し、その後に天狗のお面が残されていたと言われ、この中峯尊者が「お天狗さま」としてあがめられ、迦葉山信仰により功徳を信じ、天狗面を奉納する習わしが広がった。  
幸貞の次女は祢津志摩守元直の妻となり、真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。  
その弟太郎は天正9年に僅か8才であったために助命され、長じて久三郎といい、姉婿に養育されて原郷左衛門と称した。  
元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は松代藩士となり、今も存続しておられます。 
海野関連支族の不思議  
海野一党は不思議に盲人・医術・妖術などと関係が深く、事例を示すと  
1 貞保親王が、眼病にかかり、鹿沢温泉で湯治により、目の痛みは治ったが、視力は恢復せずに盲人になってしまった。  
2 滋野望月氏は祖神として両羽神社(長野県東御市下之城)を祭っている。この神は京都山科にもあり、盲人たちの祖神である。  
3 滋野祢津氏は館の裏山に祖神四宮権現(長野県東御市祢津)を祀っている。この四宮権現も京都山科四宮河原に盲人蝉丸を祭神として祭られ、やはり盲人たちの祖神である。  
4 近世に上田房山村(上田市田町)の弁天祭日に、小県一帯の琵琶法師や芸能にたずさわる盲人が集まって種々の相談をしていた。その管理をしていたのは深井氏であり、この深井氏は海野氏の重臣で、家伝では貞保親王の妻はこの家の女であるという。  
5 信玄の二男竜宝も盲人であり、海野二郎と称している。海野には盲人でつとまる何かの仕事があったのかもしれない。  
また海野一党は修験・巫女・医術との関係が深く色々な列証がある。  
1 滋野望月氏は巫女・舞太夫・修験山伏等を支配していた。望月盛時が川中島で戦死した。その後室千代女は祢津村に土着して武田信玄から甲信両国の神子頭を命ぜられて巫女を支配したという。  
2 上州吾妻郡に住んだ下屋氏は、北上州の修験道の支配権をもっていた。  
3 祢津氏は鷹匠として著名であった。諏訪大明神絵図詞によると、平安末期に活躍した祢津神平貞直は大祝の猶子となり、東国無双の鷹匠であった。鷹匠は狩や鎮魂などの呪術と関係が深い。  
4 海野氏の氏神である白鳥神社はオシラサマともいわれ、マタギ(猟人)や修験の神でもあった。また滋野氏はいつか諏訪神を奉ずる神党となり、諏訪の神人として「甲賀三郎」の伝説にもなる。  
5 海野氏は医術とも関係が深い。大奥の医師に望月氏があり、草津温泉の領主が海野系湯本氏であったのも関連があるかもしれない。  
6 祢津には「ののう巫女」といわれる巫女の集団が明治初期まで存在したた。信濃巫女の発祥の地として、徳川三百年を通じて全国の巫女を養育し、大規模な巫女村であった。 (小林計一郎著「真田一族」より)  
史実に登場する「くノ一」で有名なのは、武田信玄に仕えた「歩き巫女」の集団である。歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、時には男性に身を任せることもあって、いわば流浪の遊女でもあった。巫女の歴史は古く、祢津の巫女たちを「ノノー」と呼んでいた。かって幼児の頃、神様や仏様のことを「ノノサマ」と尊んで言ったり、祖父母や父親を尊敬する意味で「ノノー」と呼んでいた。神降ろしをして媒霊的存在で、「口寄せ」であり、庶民はいろいろな困難なとき、武将もこの巫女を信仰し、利用していた。それは戦いに駆り出される人々の死の恐怖を和らげ、あわせて勝利の予言を得た。そればかりか、巫女は、予言者であり、まじないや祈祷などもおこない、医療技術にまで及んでいた。戦国時代には孤児・捨て子・迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた美少女のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのがくノ一である。信玄のくノ一の要請を命じたのは信州北佐久郡望月城主盛時(川中島の戦で戦死)の若き未亡人、望月千代女は甲賀流忍術の流れを汲む名家で、望月家の血族であり、信玄の甥が入り婿になっていた。信玄は彼女を「甲斐信濃両国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村の古御舘に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開き、200〜300日とを越える少女たちに呪術・祈祷・忍術・護身術やさらに相手が男性だった時のために性技まで教え込んだ。祢津は信濃巫女発祥の地であり「巫女養育日本一」であった。歩き巫女には国境がなく、全国どこにでも自由に行けたため、関東から畿内、東北北陸を回って口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に随時報告していた。 
 
■海野史物語

日本武尊と白鳥神社  
今から約1900年前、日本武尊(やまとたけるのみこと)が首尾よくクマソ兄弟を討ったかと思うと、すぐに出雲の国に転進し計略をもって、その国で暴れていたイズモタケルを平らげ、喜び勇んで大和に帰ってくると「こんどは東国に行ってエゾを討て」と父景行(けいこう)天皇に命ぜられました。  
途中伊勢神宮に詣で、叔母上のヤマト姫から天叢雲の剣(あまのむらくものつるぎ)と火打石をいただきました。  
そして勇躍東をさして進む道すがら、思い出しても不愉快な、あの焼津の原で土地の暴れものにはかられて火攻めにあったり、また上総(かずさ)へ渡る相模(さがみ)の海で、神の怒りを静めるために、弟橘姫(おとたちばなひめ)がミコトの身代わりに海中へ身を投じて入水するという悲しい目にもあいました。  
このように苦心惨憺(くしんさんたん)、ままならぬ東国のものどもをようやくに打ち平らげ、その帰途、鳥居峠に立ち、相模の方を眺められ、入水した姫(おきさき)を忍んで「吾妻者邪(あずまはや)妻こいし」とお叫び(さけび)になりました。  
このことから現在でも群馬県に吾妻郡(あがつまぐん)があり嬬恋村(つまこいむら)と名づけられた地名があります。  
それから後、鳥居峠を越えて信濃国に入り、この地で滞在されました。近くの小さな海を見て、相模の海難を思い出されて、「この海も野となれ」と念じられ、それからこの地は海野(うんの)と言うようになったと云われております。  
それから大和への凱旋(がいせん)の帰途、伊吹山(滋賀県坂田郡伊吹町と岐阜県揖斐郡春日村との境にある山)まで来たとき、荒らぶる豪族との戦いに、不覚にも手痛い攻撃をこうむってしまった。  
この負け戦から長年の心労がどっと出て、あの山を越えれば大和だという一歩手前の鈴鹿の能煩野(のぼの)で、ついに動けない事態に陥って(おちいって)しまった。  
苦難に満ちた戦いの思い出が走馬灯のようにミコトの胸をかけめぐり、「ああ、大和に帰りたい、大和は美しいなあ」とふるさとを懐かしみ、『大和の国は、日本の中でもすばらしい国である。  
山々が幾重にも重なり、青葉が茂り、山が垣のように囲み、その中にある大和の国はすばらしい。  
また、私のお伴の中で命が充分にある人は大和に帰り、平群の山(へぐりのやま)の茂った樫の葉をかんざしのように頭にさして、楽しく過ごしなさいよ。』こういって、ふるさとを恋いしたうミコトの声に従臣たちも目がしらを押えました。  
「父君に、東国を平定して参りましたと一言だけいいたいために、やっとここまで来たのに・・・・・・」ひたいには苦痛をこらえる油汗が玉のように吹き出ていました。  
「あーあ死んでも死にきれないなあ」とカッと目をひらかれたミコトはとうとう息を引きとってしまいました。  
このとき、御歳わずか30才だったと云います。  
急使によって大和においでになったお妃や子たちが、取るものも取りあえずかけつけて地をかきむしってお嘆(なげき)きになりました。  
そしてミコトがおなくなりになった能煩野(三重県亀山市能煩野町)の地にお墓を築きましたが、そのお墓が出来上がった時、御陵の中から突然一羽の巨大な白鳥が舞い上がりました。  
あれよ、あれよといううちに巨大な白鳥は2回3回と旋回したかと思うと、生前ミコトがあれほど帰りたがっていた大和をさして飛んでいきました。  
どういうことか、この白鳥は奈良の琴弾(きんだん)の原に翼をしばらく休めた後、再び舞いあがり、それまでミコトが通った東国の道筋をたどって飛んでいきました。あちこちで休んで海野の地にも、この白鳥は飛んできて羽を休めました。  
この時、天皇は諸国に命令し、白鳥の止まった所に祠(ほこら)を建てミコトを祀るよう申されました。これが白鳥神社であるといわれております。 (古事記より)  
この付近には、これにまつわる地名が次のように多く残っております。  
羽毛山(はけやま)・羽毛田(はけた)・片羽(かたは)・尾野山(おのやま)・羽尾山(はねおやま)・両羽(もろは)・尾撫(おなで)・羽掛(はかけ)・尾掛神社(おかけじんじゃ)等がある。  
当白鳥神社は境内876坪、氏子149戸。祭神は日本武尊・白鳥大明神・須佐之男命(天照大神(あまてらすおおみのかみ)の弟で天の岩戸を押し開いたり、また出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという方)・貞元親王(さだもとしんのう)・善淵王(よしぶちおう))・海野広道で、中世の豪族海野氏の氏神(うじがみ)であったが、現在は本海野区の産土神(うぶすなかみ)として祀(まつ)られています。  
この神社は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(足仲彦(たらしなかつひこ))から、ミコトの大功により、白鳥大明神と贈号をたまわり、神地・神職などをさだめられ、第15代応神(おうじん)天皇(誉田別(ほんたわけ))からも、また勅額を賜りました。  
その後、永久2年(1114)に至り、海野広道は当地領主の祖である貞元親王を本殿に合せ祀られました。  
久寿年間(1154ころ)海野幸明は、また善淵王と海野広道の2霊を合祀し、巨多の神領を寄附された。これより武家の尊信ますます厚く、文治6年(1190)海野氏幸は社殿を今の地に移して再建された。  
日本武尊・海野氏・真田氏の先祖を祀る白鳥神社がある。いまは地域住民の氏神となっている。 真田氏も白鳥神社の祭典には、その当主、もしくは名代を参拝させていた。真田幸村の家臣に、いわゆる「真田十勇士」と呼ばれる架空の人々と考えられてきたが、史実としての真実味を帯びてしまうようだ。海野三郎・祢津甚八・望月六郎は、滋野三家にかかわりがある。筧十蔵は豊後国富来20,000石の城主の嫡男であると自称している。源平の壇の浦の合戦の時、宇佐八幡宮に火を放って殿宇を焼き払い、また義経の九州亡命を向かい入れようとしたかどで、上野国利根郡に流されている。信濃国であった浅間山山麓の延長ともいうべき、利根郡は真田氏が支配していたこともある。三好清海入道・三好為三入道は、出羽国亀田城を本拠とした三好三人衆の後裔で、亀田城主の三好六郎の嫡子で、母が真田昌幸の母と姉妹であった。兄の清海は、老臣の勧めに従って縁故ある真田家を頼るべき、幸村の郎党に加わる。弟の為三は三好一族の支族矢島城に立て籠もって、東国の雄将佐竹右京と一戦を交えた。由利鎌之助は、幸村の郎党になる前から、奥州藤原氏に随って出羽国由利郡を領有していた由利氏は、信濃の中原氏と同族である。中原兼遠の四男業平は今井の姓を名のり、佐久市今井に住み、二男兼光は樋口を名のり、八千穂村樋口に住んでいたが、南北朝争乱のころ、小笠原・大井氏の一族もまた佐久から由利郡に移住している。そのため佐久地方と同じ地名が多く見かける。また真田姓で六連銭を家紋とする家がぬきんでて多く居られます。猿飛佐助・霧隠才蔵は、猿飛は甲賀流忍者で滋賀県甲賀郡甲南町塩野の諏訪神社由緒書によると、蛇体の形をして初めて浅間山麓の大沼の池(御代田町塩野)に出現している。類似の伝承が甲賀の地にも、霧隠とかかわりのある伊賀の地にも伝えられている。穴山小助の穴山姓は、佐久地方と隣接する甲斐国北巨摩郡より起こって姓である。  
以来海野家累代から真田信之に至るまで数々社領を寄付し、盛んに祭祀を行ってきました。  
元和年間(1615ころ)に至り仙石忠政の領地となり社領を没収される。  
寛永元年(1624)9月、真田信之松代の地に移殿を再建しました。  
寛永17年(1640)仙石忠俊は更に3貫500文の社領を寄附された。  
のち寛保2年(1742)8月洪水のため社領すべて流失する。  
弘化3年(1846)12月には松城藩主真田信濃守幸貫(ゆきつら)より永代10石が寄進されました。  
文化5年(1808)雷電為右衛門が信州に巡業のおり海野宿にも立ち寄り白鳥神社へ参拝し、そして毎年8月12日に行われている祭礼相撲のために、4本柱土俵が奉納されました。  
この文書は海野宿歴史民族資料館に展示してあります。  
それから以後、明治時代を経て奉納相撲が昭和5年(1930)頃まで続いておりました。  
また神事の舞の一つで、心安らぐ平安な世を願い、昭和15年(1940)皇紀2600年の記念祝典のときにつくられた浦安の舞が、女子8人の舞姫による白鳥神社境内で、手ぶり・身ぶりをしのばせる典雅で荘重な舞、扇の舞と鈴の舞とに分かれております。  
祭日は、毎年4月12日と11月23日に浦安の舞を奉納しております。特に11月の勤労感謝の日には「海野宿ふれあい祭り」に併せた大祭の折には赤いジュウタンを敷いた特設舞台が設けられて、カメラのフラッシュが集中します。  
この日近郷近在から海野宿の街並みには、ひとひとで溢れて、歩けないくらいの人が集まります。  
また、この神社の社叢は、樹齢700年を越えた欅(けやき)・槐(えんじゅ)等の大木により、立派な鎮守の森となっており、町の天然記念物にも指定されております。 
奈良正倉院と海野郷  
正倉院といえば、1,200余年も昔、光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献納された無数の宝物を収めた庫であります。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られているところです。  
この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野郷(うんのごう)戸主(へぬし)爪工部君調(はたくみべきみみつぎ)」と墨書された麻織物の紐の芯(ひものしん)があります。これには年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729〜741)の貢物であろうと推定できます。  
この頃小県郡に海野郷があり、ここに爪工部を名のる人々が住んでいたことを立証する史料であります。  
国郡郷 / 古代日本の行政組織で、それより前は「国評(郡)里」または「国郡郷里」制  
戸主 / 里に変わって新しく出来た郷の中に50戸が集まった戸の主  
爪工部 / きぬがさ(貴人の頭上にかざす団扇(うちわ)に、長い柄をつをつけたようなもの)をつくる職を持って宮中に奉仕した人々を言う / ここではその子孫という意味であろう / また爪工部は「宿祢(しゅくね)」という姓(かばね)を賜っているので、かなり位の高い家柄であったであろう  
君 / 君という敬称がつけられていることは、この地方の土豪であった  
調 / 男子に課せられた貢物で、土地の物産を朝廷へ献上すること  
どうして、このような職業身分の人たちが、この僻遠(へきえん)の地に定住したのだろうか。  
5世紀のころ、大和政権は逐次(ちくじ)その勢力を拡張するため東山道(ひがしやまみち)を通していました。  
この海野郷は中曽根親王塚をはじめ、多くの古墳が存在していることによって、早くから中央の文化が流れ込んだことはいうまでもありません。  
次項の「日本霊異記(りょういき)」には奈良時代に、この地に大伴連(おおともむらじ)という姓をもつ忍勝(おしかつ)なる人は、氏寺までもつという大きな勢力を張っていたことを記しているが、後世信濃の名族として海野氏は、この大伴の系譜をひくものであろう。  
また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残り、何れも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っております。  
しかもすぐ西方には、信濃国府、信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっていた。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのであろう。  
そしてまた、何れにしても、この紐は今から1,200余年前、海野郷から信濃の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされ、そして宮中に入り、きらびやかな調度品の中につつましく身をおいて、その責務を果したものであろう。 
大伴氏と中曽根親王塚  
「日本国現報善悪霊異記(りょういき)」は、わが国最初の説話集であり、平安初期、弘仁14年(823)前後に奈良薬師寺の僧景戒が編集したと考察されている。  
奈良時代の全国66カ国中、28カ国の116の説話が収められており、東山道に11のうち、信濃国が2つ、しかもこの2つとも小県郡である。  
これは、当時小県郡に国府があり、信濃国の文化の中心であったことを物語るものであります。  
 
大伴連忍勝(おおともむらじおしかつ)は、信濃国小県郡嬢(おうな)の里(現在の東御市一帯の地域)の人である。大伴連らは心を合せて、その里に堂を造って大伴氏の氏寺とした。  
忍勝は大般若経を写すために願を立て、物を集め、髪を剃り袈裟をつけ、戒を受けて仏道を修行し、いつもその堂に住んでいた。  
宝亀5年(774)の春の3月のこと、突然人に落としいれられ、その堂の檀家の者に打たれて死んだ。檀家の者と忍勝とは同族である。  
親類は相はかって「檀家の者を殺人罪として裁いてもらおう」といった。  
そこですぐ忍勝の体を焼かないで、場所をきめて墓を作り、仮に埋葬しておいた。  
ところが5日すぎて忍勝は生き返って、親類の者に次のように言った。  
『5人の召使いが一緒に付いて急いで行った。行く道に非常な坂があった。  
坂の上に登って立ちどまってみると、3つに分れた大きな道があった。  
ひつの道は平らで広く、1つの道は草が生えて荒れ、1つの道は藪でふさがっていた。  
分かれ道の中に王がいた。使いの者が「呼んでまいり ました」といった。王は平の道を指して「この道から連れて行け」といった。  
5人の使いがとりまいて行った。道のはずれに大きな釜があった。  
焔のように湯気が立ち、波のようにわき返り、雷のようにうなっていた。  
そこで忍勝を捕まえて、生きながらざんぶと釜に放りこんだ。  
釜は冷えて4つに割れた。そこに3人の僧が出てきて忍勝に向って「おまえはどんなよい事をしたのか」とたずねた。  
「わたしはよい事もせず、ただ大般若経600巻を写そうと思ったので、先に願を立てましたがまだ写していません」といった。  
そのときに3枚の鉄の札を出して比べると、言うとおりであった。  
僧は忍勝に「おまえは本当に願を立てて出家し、仏道を修行した。  
このようなよい事をしても、住んでいた堂の物を使ったので、おまえを呼んだのだ。いまは帰って願を果し、また堂の物をつぐなえ」といった。  
そしてやっと許されて帰ってきた。  
3つの分れ道を通りすぎ、坂を下ってみると生き返っていた。  
これは願を立てた力と物を使ったための災難で、自分の招いた罪で、地獄のとがではない』といった。  
大般若経に「一体、銭1文は毎日2倍にしていくと20日で174万3貫968文になる。だから1文の銭も盗んで使ってはならない」といっている。  
 
奈良末期の宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)里(現本海野周辺一帯)に大伴連忍勝なるものがおり、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の大氏族で海野郷の中心的人物ではなかっただろうか。  
大伴氏は、わが国古代から大和政権期に軍事担当した氏族で、6世紀頃まで朝廷の最高権力者であった。  
中曽根親王塚も大伴氏の勢力を示すものではないかと言われている。  
中曽根親王塚は丸山ともよばれ、円墳のように見えますが、墳丘の麓の1辺の長さは52m内外、高さ11m余の膨大な方墳であります。  
このような方墳は全国的に見ても数が少なく、東日本では、その規模において1〜2を争うほどの大きさであって、5世紀後半に築造してものと推定されています。  
奈良朝の末に朝廷は馬の必要性から朝鮮を経て蒙古の馬を導入し全国に32の勅旨牧をつくり、その半分の16の牧場が信濃国に設けられました。  
大伴氏は馬を飼う牧場経営者でありました。  
この地方には信濃第一の望月の牧が望月氏が管理し、それに次ぐ新治の牧が祢津氏が管理し、その棟梁が海野にいた大伴氏ではなかろうかとも云われている。  
「信濃奇勝録」にもありますが、北御牧村下之城の両羽神社に奉納されている2体の木像があります。1体は海野氏の祖と言われる貞保親王の像で、もう1体は目が大きくて、牙があり総髪の異様なもので、ダッタン人(満州や沿海州をダッタンと言っていた)と呼ばれている船代の像であります。  
当時の日本は野生の馬だけでしてので、馬の飼育繁殖の技術指導のために高句麗や蒙古の人達が多く渡来しました。  
騎馬遊牧民族として名高い蒙古人が、牧場の仕事の合間に馬頭琴をひいたり、祖国のメロデーを口ずさんでおり、この美しい音色がやがて土地の歌となって「小諸節」や「江差追分」となり、その本流がモンゴルであると定説になっております。  
大伴氏の栄えた頃、大伴連忍勝も信濃に派遣された一族の末裔で、法華寺川(金原川の下流)に土着して居所を持ちこの嬢里に発生した土豪海野氏はこの大伴氏の血をひくものではないだろうか。 (上田小県誌より) 
平将門と善淵王  
平貞盛は平将門(たいらのまさかど)が反乱を企てておると、時の政権をバックにして、ライバルの将門をたおそうと考えておりました。  
さらに将門が製鉄所をつくり、武器や甲胃(かっちゅう)を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたものであろう。  
地方に居って、醜い争いのまきぞいを食うよりも、将門を中傷するため上京し、それをきっかけに立身出世をしようというものであった。  
そこで平貞盛は、承平8年(938)2月中旬、東山道を京都に向けて出発しました。これを聞いた将門は、100余騎の兵をひきいて、まだ碓氷峠には厳雪のある季節これを蹴散らして峠を越え追撃した。  
当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠と過ぎて松本にはいるのが順路であった。貞盛はこの経路をとり、小諸の西、滋野の総本家の海野古城に立よって、善淵王に助けを求めてこられました。  
善淵王と平貞盛との関係は、貞盛がかつて京都で左馬允の職にあった時、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意でありました。  
この滋野氏は信濃の豪族で「続群書類従」によれば海野氏の祖であります。  
清和天皇--貞保親王--目宮王--善淵王 延喜5年(905)はじめて醍醐(だいご)天皇より滋野姓を賜う。  
また、以前に将門上京の際、貞盛の依頼によって宇治川を布陣、将門を亡きものにしようとした縁故があった。この協力を謝し、再び、ここでその厚意によって、一息つこうとしたものであろう。  
貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は先まわりして信濃国分寺付近に待機して、神川をはさんで千曲川合戦が行われたのであります。  
この日は冬まだ寒い2月29日のことであったといわれております。この戦火で旧信濃国分寺が焼失してしまったという。貞盛方上兵他田(おさだ)真樹はこの時矢に当って戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるとしているから、郡司として国府にあり、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援にかけつけたものであろう。  
従来この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたという、貞盛は運よく山中にのがれ、将門は空しく引きあげました。  
「千たび首を掻(か)きて空しく堵邑(とゆう)に還りぬ」と平将門は、その落胆ぶりを「将門記」に記しております。  
旅の糧食を失って飢(うえ)と寒さに悩まされ、やっとのことで京都にたどり着いた貞盛は、太政官に訴え出ており、将門に対する召喚状(しょうかんじょう)が出されました。  
承平2年(932)平将門返逆の時に勅にして滋野姓を名乗っていた善淵王に御幡を賜りました。これが滋野氏の「州浜」の家紋となりました。  
清和天皇の第4皇子に貞保親王という方がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれておられました。  
貞保親王は琵琶がお上手でありました。ある日、親王が琵琶をお弾きになっていたところ、その演奏の妙なる音色に誘われて1羽のツバメが御殿に入ってきました。  
そのツバメは曲に合わせて飛び回りました。  
あまりにも優雅に飛ぶもので、周りの人達は驚きの声をあげたその瞬間、貞保親王は目を開いてツバメを見上げた時、ツバメの糞が目に入り、痛み出し名医に見てもらったも治りませんでした。  
そのとき信濃国の深井の里のむすめが「信濃国に不思議なほど病に効く加沢温泉があります。」と申し上げました。  
そこで親王は信濃国へ下向され、深井の館にお入りになって温泉に浴されたところ、お痛みはとれましたが、御目は不自由になられたので、そのまま海野庄に住みつくことになりました。  
深井某の娘は、盲目であった親王の身の回りの世話をしていましたが、やがて御子が生まれ、この御子が成長をして善淵王と称するようになりました。醍醐天皇の延喜5年(905)に善淵王は滋野姓を賜りました。  
善淵王は真言宗に深く信仰があり、寺を建立した。貞保親王を宮嶽山稜(みやたけさんりょう)に葬り、神として奉祀りした。  
これが祢津西宮(現東部町祢津)の四之宮権現である。  
天慶4年(941)1月20日に亡くなられ、善淵王の法名(海善寺殿滋王白保大禅定門)を取って海善寺と称された。  
600有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として寺領若干のほか、なおまた隠居免5貫文を寄附しております。翌年7月28日には、10坊ならび太鼓免36貫100文を寄附しております。  
その後天正15年(1587)頃、領主真田昌幸の時に至り、上田城より丑寅の方が鬼門に当るを以って、本寺を現今の地(上田市新田)に移し「大智山海禅寺」を再建して上田城の鬼門除けとなり、海善寺は廃寺となりました。  
その後江戸時代の大洪水すなわち、寛保2年(1742)の「戌の満水」によって大部分が流失しました。  
その廃寺跡の畑から「廃海善寺石塔基礎」が掘り出されて、いま曽根の興善寺本堂の西側の建物軒下に保存されている。  
その1面に「文保□□□月十□ 比丘尼沙弥恵」と刻印され、何年であるかわからないが、文保は2年間しかないので1317年か1318年である。鎌倉時代末期であり、その頃すでにあったことがわかる貴重な資料であります。  
真田信之が元和8年(1622)松代西条にこの寺を移し、金剛山開禅寺と改め白鳥神社の別当とした。  
今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建し、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵に天海版一切が納められている経蔵は県宝であります。  
また北御牧村下之城の両羽神社に善淵王の木造が安置されている。 
木曽義仲と大夫房覚明  
旭将軍木曽義仲は信州を代表する武将で、爾(なんじ)今現在まで義仲の如き、偉大なる人物を残念ながら見ることは出来ません。  
義仲の父源義賢(よしかた)は甥の悪源太義平(15才)に急襲されて討死した。そのとき義賢の次男(後の義仲)は比企部(埼玉県)大倉館で久寿元年(1154)生れて間もない、わずか2才でありました。  
畠山重能(しげよし)に命じ、捜し出して必ず殺せと厳命を受けました。  
難なく母子を捕えられたが2才の幼時を討つことができなかった。  
斉藤別当実盛に助けられ、それから信濃の木曽谷の土豪中原兼遠(かねとう)に、この駒王丸母子は預けられたのであります。  
駒王丸は、中原兼遠のもと、木曽谷ですくすく成長しました。  
長じて義仲と名のり、兼遠の子の樋口次郎兼光や今井四郎兼平らを家来とし、武将としての修行をしました。  
また、その娘をめとって義高・義基の二人の子がいました。  
治承4年(1180)義仲は27才を迎えていました。  
そんな折、以仁王(もちひとおう)の発した平家追討の令旨(りょうじ)は、山伏に変装し平家の目をくらまして、都を脱出した源行家によって諸国の源氏のもとに伝えられた。  
源頼朝のもとへは、4月下旬に、木曽の義仲へは5月上旬に到着しました。  
義仲が、平家討伐の旗挙げを木曽谷の八幡社でしたのは、その年の9月、27才の秋であった。  
かくて、10月には、義仲は上野(群馬県)に進出しました。  
上野国多胡郡は、20数年までは、亡父義賢の本拠地であった。  
上野の地は短期間に殆んど勢力圏に収めることができました。  
しかし、約2ケ月の滞留の後、軍を信濃に帰したのである。  
上野から下野の武蔵など、これ以上に進出することは、従兄の頼朝を刺激することになり、加うるに大豪族として越後から出羽(秋田・山形)にかけて、偉大な勢力の平氏一族の城氏から義仲を討たんとして、北方から信濃に進入の機をうかがっていたからであります。  
軍を直ちに信濃に還した義仲は、おそらく依田城(現上田市丸子)に入り、その年の正月をそこで過したのであろう。  
あくる治承5年春、城四郎助茂(すけもち)は全兵力を集め、6万を率いて信濃侵入を開始しました。  
信濃国境を突破した平家の先鋒、城軍は難なく善光寺平に進出してまいりました。  
一方、木曽義仲は信濃小県郡の白鳥河原に3千余騎の軍勢を集結したのであります。  
それは治承5年(1181)初夏の6月10日前後のことであったであろう。  
白鳥河原で全軍の馬首をそろえたのは、木曽の樋口兼光・今井兼平・木曽中太・弥中太・検非違使(けびいし)太郎以下、諏訪の諏訪次郎・千野太郎・手塚別当以下、東信濃では根井小弥太・楯親忠・塩田高光・矢島行忠・落合兼行・桜井太郎・大室太郎・祢津神平・祢津貞行・祢津信貞・望月次郎一族・志賀七郎一族・平原景能、地元では総大将海野幸親・弥平四郎幸広、  
それに上野・甲斐などにいた源氏の将が加わりました。  
東信濃の武士たちは、新張牧・望月牧・塩河牧の中心勢力者で騎馬の技術は戦闘に、進軍に予想外の威力を発揮したものであろう。  
白鳥河原への集結は交通の便もさることながら、義仲の旗挙げに力のあった長瀬氏の近くで、しかも集まりやすいということであった。  
広大な河原であり地元の豪族海野一族の勢力があったと見ることができる。  
白鳥神社に戦勝祈願参拝、海善寺に先祖代々の霊に出陣の報告をして白鳥河原を後に出陣し、さっそうと千曲川の流れにそって横田河原に到着した。  
合戦は6月14日朝8時頃、木曽方の奇策により平家のしるしとなっていた赤いのぼりを持つ兵を横手から近づけたら、平家方は見かたがえたと喜んだので、やにわ源氏の白いのぼりを振りかざして攻めつけたので、大敗した城氏は奥州へ落ちていった。かくして義仲の勢力は越後までのび、上洛への糸口ができた。  
大武士団である城氏が、義仲によってもろくも壊滅させられたとの報は、越後以西の北陸武士に決定的な影響を与えた。越中・加賀・能登。越前の郡小武士団は、次々と義仲の陣営に加わっていったのである。  
平家にとっては予想もしなかったことである。越前は東国の頼朝よりも近い。平家は前年から準備を進めてはいたが、勢力圏の根こそぎ動員を行って、10万余の大軍を平維盛・通盛らに率いさせて京都を発った。  
それは寿永2年(1183)4月である。難なく越前の国境を突破した平家軍は、敵が加賀・越中・能登の武士だけだったので5月初めには加賀まで占拠、先鋒の一隊は越中平野まで進出し、本隊の大軍は加賀と越中国境の砺波山倶利伽羅峠に陣取った。義仲軍はたちまち平家の先鋒を追い散らして、倶利伽羅の麓に進出した。  
決戦は翌朝からと寝静まった5月10日夜半、義仲は得意の奇襲作戦(牛の角に松明をくくりつけて敵陣に)出て、切り立った深い地獄谷を除いた三方から夜襲をかけた。あわれ平家は総崩れとなり、続く安宅・篠原の戦いと完膚なきまでに撃破され、都に逃げ帰ったものは僅かであった。  
義仲は、6月初めには越前に進み、外交交渉で延暦寺を味方につけ、7月には本営を叡山において京都を眼下にするところまで迫った。  
この状況に直面した平家は、7月25日ついに安徳天皇を奉じ、一門あげて西海さして都落ちする。  
この時くつわを並べて戦ったのが、愛妾巴御前と彼女の兄今井兼平である。二人とも義仲の乳母子で、幼い頃から兄弟のようにして育った間柄だった。  
巴は「そのころ齢22、3なり。色白く髪長く、容顔まことに美麗なり。されども大力の強弓精兵」とたたえられた女武者である。  
28日、義仲は、以仁王の令旨わもたらした叔父行家とともに念願の入京を果たすのである。  
平家の乱以来、20数年ぶりに源氏の白旗が都にひるがえった。  
直ちに義仲は、後白河法皇から京都守護を命ぜられ、従5位下左馬頭兼越後守に任ぜられた。  
しかし、滞京1〜2ケ月で、政治性の貧弱さや部下の洛中狼藉などによって、義仲と公家の間は円滑でなくなる。また、西海から盛り返してきた平家との戦いも思うようにならなかった。  
義仲軍の粗野を嫌った後白河法皇が、鎌倉の源頼朝に義仲討伐を命じたからだ。   
元暦元年(1184)正月早々従4位下に進んで、武門最高の栄官である征夷大将軍に任ぜられた。旭将軍の名は、これより起こるのである。  
しかし義仲が、この栄誉に輝いたのも数日、頼朝の代官として派遣された弟範頼・義経の率いる軍勢は、永寿3年(1184)1月に5万の大軍をさずけ、大手の瀬田と、からめ手の宇治川の二方面から都に攻め込ませた。  
義仲は今井兼平に5百の軍勢をつけて瀬田の唐橋を守らせ、自身はわずか3百騎をひきいて宇治川から攻め上がって来る義経軍に対したが、兵力の多寡はいかんともし難い。  
一度の合戦で守備陣を破られ、六条河原の戦にも大敗し、敵の包囲網を突き破って栗田口から脱出した時には、従う者は巴をはじめわずか6騎という有様だった。  
死ぬときは一緒にと、子供のころから兼平と誓い合っている。その約束を果たそうと山科を抜けて瀬田の唐橋へ向かっていると、大津の打出浜で兼平の一行50騎ばかりと出合った。  
勇気百倍した二人は、敗残の味方を集めて最後の合戦をこころみるが、敵陣の真っただ中に斬り込み、縦横・蜘蛛手・十文字に駆け破っても、敵は次々と新手をくり出してくる。  
さすがの義仲も、もはやこれまでと覚悟を定め、巴に木曽谷に逃げるように命じた。この戦いに敗れ粟津で討たれてしまったのです。時に31才、鎌倉にいた長子の義高(12才)も頼朝の手で殺された。  
義仲・兼平主従が討死してから数年後、一人の尼僧が義仲の墓の側に庵を結んで菩提を弔うようになった。里の者が素姓をたずねても、名も無き者と答えるばかりである。  
そのために庵は無名庵と呼ばれていたが、やがて尼僧は巴であることが分かった。  
後年その地には義仲寺が建てられ、現在も本堂や翁堂・無名庵・文庫などが残されている。今も仲良く、琵琶湖を望む景勝の地で、眠りについているのである。  
海野氏は義仲勢が滅びても騎馬武者の生命は衰えることなく頼朝をはじめ北条・足利・真田氏等に仕え騎馬弓射の道に長じて重く召抱えられました。  
海野氏9代海野弥平四郎幸広は寿永2年(1183)11月備中水島の合戦で、木曽義仲の大将軍として討死しているが、弟の海野幸長(のちの大夫房覚明)の存在を見逃してはならない。頼朝には、かなりの文官の政治顧問がいたが、義仲には覚明がただひとりの文官であった。  
また義仲の祐筆として活躍され、この大夫房覚明こそ「平家物語」の語り手の1人ではないかといわれている。  
海野幸長は海野氏8代海野小太郎幸親の二男として、保元2年(1157)の生れ、俗名を海野蔵人通広といった。  
京に上って院御所に仕え、興福寺勧学院進士から文章博士となり、ときの勢力者平清盛を筆誅(文章でその責を問う)した名文は今に知られ、伊勢神宮の祭文は宝物として現存する。また、のちに出家して南都興福寺の学僧として名を知られるようになっり最乗坊信救と称した。  
治承4年(1180)園城寺(三井寺)が以仁王の平氏追討の令旨を奉じ、南都に送ったとき、信救はその返事を書いた。その書面に、平清盛大いに怒り、信救は南都に居れず東国に赴く途中、平家追討のため東国から都へ攻め上って三河国府にいた源行家に会い、行家の陣中に加わったが、行家が源頼朝と不和になると、木曽義仲のもとで軍師として平家追討に功があり、大夫房覚明と称した。  
「源平盛衰記」「吾妻鑑」「徒然草」などにも、その名が見られる。さらに近年「平家物語」の作者、信濃前司行長は、この人とする説が有力で、中世文学史に輝かしい業績を残したことがうかがえる。  
義仲には、木曽谷時代はもちろんのこと、信濃から上野・越後にかけて勢力を拡大している期間も、戦いの事だけであって神仏崇敬の事績はほとんどない。 諏訪・戸隠・穂高・弥彦の大明神や善光寺などの大寺があるにもかかわらずである。  
それが、越中から越前にかけての北陸一帯に進出してくるころになると、突然のように埴生八幡や白山権現などの諸社寺に、所領などを奉納して崇敬の誠を捧げる事象が現われてくる。これが、北陸の武士たちに与えた影響は実に大きいものがあった。彼らは、現実的利害だけでなく、精神的にも強く義仲に結びついてくるのである。  
それから半年後、苦境に陥った義仲から離反する武士が続出した。しかし北陸武士の多くは最後まで離れず、ほとんどが義仲と運命を共にしている。譜代の家人でなかった彼らがこのような行動に出ている背後には、前記の事情が介在していたのであろう。  
義仲のこうした態度の変化、それは社寺に捧げた願文の筆者がすべて覚明であることがわかるように、彼の献策にもとづくものであったことは疑う余地がない。記録には覚明を義仲の手書きとか祐筆としているが、彼は単なる書記であったのではないのである。  
義仲の上洛に最も不気味な存在であったのは、京都への入口の喉首を抑える絶好の位置を占めた比叡山延暦寺であった。山門と呼ばれた延暦寺は、平安時代から朝野の尊崇の的であった大寺院であるだけでなく、数千の僧兵を擁する大軍団でもあった。しかも平家とは不和ではない。  
これと戦ってたとえ勝っても、南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた平家と同じ非難を受けることは確実である。山門を味方しないまでも中立を保ち、入京への道を開かせることが最も肝要なのであるが、こうした高等政策は義仲や側近の武将にはとても不可能であった。このとき、遺憾なく能力を発揮したのが覚明である。  
覚明はまず、平家の無道を鳴らし義仲の軍が大義名分にもとづく所以を力説し、源氏と平家のいずれを選ぶかと迫った見事な牒状をそうして山門につきつけた。山門のような僧兵を擁する大寺院は、当時は、一山の大事は上層部だけで決めずに広く詮議と称する大衆討議にかけるのが普通であったようだが、そうした事情は各見様は熟知している。  
大衆討議ともなれば、リードのいかんによって結論は思いがけない方向に行くことがある。覚明は、旧知を頼っていろいろの工作をしたらしい。かなりの曲折を経て、山門は源氏に同心と決定、義仲の前に入京への大道が広々と開かれた。覚明の山門工作は大成功を収めたのである。平家一門の都落ちの直接のきっかけになったのは、この延暦寺の源氏同心であった。  
しかし、義仲の政治工作で成功をみたのは、後にも先にもただこの一回だけである。入京後の義仲には、そのもつ武力以上に政治手腕を発揮することが必要になる。すぐれた政治感覚で事を処理していかなければ、苦心して手に入れた軍事的成功も全く意味のないものに終わってしまう事態に、しばしば遭遇する。だが、義仲の側近にもはや覚明の姿を認めることはできない。 なぜ覚明が義仲のもとを去ったのかは、明らかでないが、入京後の義仲が、みじめな政治的失態を重ねていったことと、覚明以外にはほとんど政治的感覚にすぐれたもののなかったことと、密接な関係のあったことだけは確かである。  
寿永3年(1184)義仲の滅亡後、箱根山に隠れたが、比叡山の天台座主大僧の門に入り、ここで範宴(のちの親鸞聖人)を知る。建仁元年(1201)範宴と覚明は京都・吉水に下って法然上人の弟子になり円通院浄賀と改めた。後日浄賀は名を西佛房と改めた。  
承元元年(1207)念仏禁止の法難に遭った親鸞聖人は越後流罪となり、建暦元年(1211)流罪赦免後、越後から東国(関東地方)に布教に向かうが、西佛房は全て聖人と行を共にしている。越後から東国への旅の途中、たまたま信州角間(現上田市真田)にて法然上人の往生を知らせる使者に出会った親鸞聖人一行は、近くの海野庄(現東御市海野)に建暦2年(1212)3月、一庵を建立し、報恩の経を読誦した。親鸞聖人はこれを「報恩院」と命名された。これが康楽寺の草創である。  
西佛房は仁治2年(1242)1月28日に85才で死去した。 
臼田文書と海野庄  
臼田氏の先祖の滋野光直は小県郡海野庄田中郷の地頭頭を勤めており、それを子の光氏に譲ったという古文書が茨城県稲敷郡(いなしきぐん)江戸崎町羽賀(はが)の臼田修家にあります。  
それは寛元(かんげん)元年(1243)、今から約770年も前のことである。  
臼田文書によれば田中郷は貞治6年(1367)に武蔵国帷郷(かたびらごう)(横浜市保土ヶ谷区)と共に臼田勘由左衛門尉直連に譲られた。  
小県郡海野庄に領地を持っていた滋野姓臼田氏が常陸に本拠を移したのは何の時代で、どのような理由によってであろうか正確なことは勿論、未だわかっておりません。  
上杉は南北朝時代に関東の執事であった。  
上杉憲顕は足利兄弟に反抗し、正平6年(1351)信濃国に落ちた。  
その後貞治2年に関東管領に復活して下向し、憲顕の子憲方は常陸国信太荘を領地としたので、その子憲定から嘉慶元年(1387)に臼田氏は布佐郷(茨城県稲敷郡美浦村)を与えられたのであろう。  
臼田氏の移住したところは茨城県の霞ヶ浦南岸の大変に開けた土地であります。  
海野荘の加納田中郷(小県郡東部町田中)に所領を持っていた滋野氏の一族田中光氏(みつうじ)は、寛元元年(1243)10月6日に、自分の所領を分けて子供に譲り与えました。  
長男の経氏(つねうじ)、次男の景光(かげみつ)、浦野氏の女房になった女の子、孫の増御前と呼ぶ女の子、小野氏から嫁いできた光氏の妻、それに母の西妙(光氏の父滋野光直の妻)に、次のように譲り与えました。  
嫡子経氏 田中郷を譲るに当って、代々家に伝わっている下文(院庁・将軍政所などから下付された証文)2通、父光直から貰った譲状1通、祖母西妙から貰った譲状1通  
子息景光 小太郎屋敷と田1丁  
浦野女房 宮三入道屋敷と在家付の田6反(没後経氏知行)  
孫増御前 藤入道在家と在家付の田6反(没後経氏知行)  
小野氏父道直の屋敷「堀の内」と内作田2町3反(没後経氏知行)  
西妙 父光直の屋敷と作田および光直譲状  
滋野光直(妻は西妙)――田中(海野)四郎光氏(妻は小野氏)――滋野左衛門尉経氏(道阿)弟二男景光・妹長女浦野氏の妻・弟三男光直――滋野経長(妹増御前)――□――臼田四郎左衛門尉重経(宮一丸)弟宗氏――臼田四郎左衛門光重(沙弥至中)――臼田勘解由左衛門尉直連(妹大熊氏の妻)――臼田勘解由左衛門尉彦八滋野貞重(鶴宮九、沙弥定勝)――□――臼田勘解四右衛門尉小四郎貞氏――臼田藤四郎政重と続き地域で活躍される。  
年号 / 西暦 / 関係事項  
寛元2年 1244 12月30日将軍藤原頼嗣から滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております  
建長6年 1254 11月5日将軍藤原家政から左衛門尉滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております  
永仁3年1295 執権北条貞時から安堵状、望月神平六重直が海野庄鞍掛条賀沢村の内、田6反・在家一宇を小田切兵衛次郎から買い取る  
永仁4年1296 3月11日重直は伯母「尼道しょう」から海野庄三分条今井村の内、田1町1反、地頭職を譲られる。田在家望月左衛門重能の譲状並びに御下文相添えて甥の望月神平六重直に永代譲る  
延慶2年1309 3月3日重直は海野庄鞍掛条賀沢村の内、田を娘「媛夜叉」に譲る  
延慶3年 1310 3月7日鎌倉幕府から左衛門尉滋野経氏の田中郷の内田10町と在家42宇を滋野経長に領知せしむべき安堵状を下付されております  
応長元年 1311 2月9日武蔵の国帷の郷(現横浜市保土ヶ谷)の内、名田・在家、信濃の国の田中郷を孫の宮一丸に領地を譲られました  
正中3年 1326 3月25日幕府金沢貞顕が臼田四郎重経に領地3分の1を返し付けられる  
嘉歴3年1328 諏訪上社5月会御頭役結番下知状に、共の庄桜井・野沢・臼田郷は丹波前司跡と記してある  
嘉歴3年1329 諏訪頭役結番帳に海野氏が浦野氏の本拠地の隣の古泉庄や、青木峠を越えて会田地方まで勢力範囲としていた  
元弘3年1333 10月28日国司清原直人より、海野庄鞍掛条賀沢村の土地の安堵を申請して、承認される  
建武3年1336 8月5日足利幕府によって安堵される  
観応2年 1351 海野庄田中郷の内 田在家 田3町5反・在家3軒を永代叔父宗氏に、大熊の女子に田5反・在家1宇、但し没後は叔父宗氏知行す、もし宗氏に子なき時は、惣領(家督をつぐべき家筋)の子孫に返して欲しい  
嘉慶元年1387 滋野勘解由左衛門直連は上杉憲顕の孫上杉憲定(光照寺殿)から常陸国信太荘布佐郷をあてがわれる  
正平9年1354 2月23日臼田四郎左衛門尉光重が上総国与宇呂保の地を所望し、上杉憲顕が承知された  
貞治6年 1367 沙弥至中なる臼田四郎左衛門尉光重から滋野勘解由左衛門直連に田中郷と帷郷を譲る。但し没後、鶴宮丸に永代譲り渡す  
応安元年 1368 3月23日時の幕府(将軍足利義満)から知行安堵の御教書下付  
応永32年 1425 貞重から孫の小四郎貞氏に次通り譲る。田中郷・惣領職定勝知行分 田畠・在家等武蔵国師岡保小帷郷の内、岸弥三郎入道作本町6反・在家1宇等  
文安3年 1436 政重 上杉憲景より遺跡を譲られる  
天正18年 1590 秀吉の関東進攻は南常陸も一変させ、兵農分離が進んで羽賀に館をおいた臼田氏は、そこを離れた武士身分になろうとせず、ついてそこに土着する道を選んで現在に至る  
如仲天ァと興善寺  
日本洞上聯燈録(にほんどうじょうれんとうろく)によると、如仲天ァ(じょちゅうてんぎん)は海野氏の一族で、貞治(じょうぢ)4年(1365)9月5日に生れ、5才の時に母を亡くし、9才のときに伊那谷上穂(うわぶ)山(駒ヶ根市赤穂町白山天台宗光前寺)の恵明(えみょう)法師のもとで仏教に関する書物を学びましたが、たまたま法華経を読んでいたところ、「成物己来甚大久遠」という一節の文に疑いを持ち始め、ひそかに禅宗の寺を慕(した)って、上州の吉祥寺(群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能公の門に入って髪を剃って僧侶となり、仏道の道を歩み始めました。  
その後、越前(今の福井県)坂井郡金津町御簾尾(みずのお)平田山瀧沢寺(りゅうたくじ)を開山した梅山聞本(ばいざんもんぼん)(美濃の生れ)をたずねて座禅をし、厳しい禅宗の修行を極めえることができた。  
応永10年(1403)に師の梅山は如仲に向って「この上は、深山幽谷に籠り草庵を結んで長養するがよい」とすすめられました。  
瀧沢寺を去って近江の国(今の滋賀県)に南下し、琵琶湖の北辺、塩津の祝(のろい)山(現 西浅井町祝山380-3)に入って洞春庵(どうしゅうあん)をかまえて世間から離れて悟(さと)り、それから修行に専念すること3年に及んだ。  
そんな如仲天ァの徳風を聞いて、多くの学徒で室が狭いくらいいっぱい集まりました。そこで弟子の道空に譲り、応永13年(1406)には、その東方余呉湖の東約5qの丹生川菅並(現 長浜市余呉町菅並492)の山谷が、中国五台山に似た勝地として移建、白山妙理権現より塩泉を施された塩谷山洞寿院(どうじゅいん)と号して開基した。  
安土桃山時代には、朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年1605)徳川秀忠から、ご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許された。また、天明8年(1788)住職が京都霊鑑寺の戒師を務めていらい、宮家の尊崇を受け、菊の紋章を本堂につけることが許された。  
この頃遠江(今の静岡県)周知郡飯田城主に山内対馬守崇信(つしまのかみたかのぶ)(法号崇信寺(そうしんじ)玉山道美)という地頭級の小領主がおりました。遠く如仲の学徳を聞いて深く帰向し、応永8年(1401)崇信寺(そうしんじ(同郡森町飯田)を聞いて迎請(げいしょう)し開山しました。  
この崇信(たかのぷ)は信長・秀吉・家康に仕えて、山内家初代土佐藩主となった山内一豊の祖先であるといわれております。  
如仲は此処に閑静安住の地を見出したと思ったのも束の間に過ぎず、年と共に多数参集するに至ったので、3度盾れて北方6q余の橘谷(遠州一宮の神)の奥衾谷川の水源近い地に、応永18年(1411)橘谷山大洞院(きっこうざんだいどういん)を開創し、開山には梅山を第1世と仰ぎ、自らは 2世となったのです。  
応永28年(1421)2月には総持寺(そうじじ)の40世となっております。  
如仲はその後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造しているが、これを鋳造した鋳物師(いもじ)は一宮庄内、特に天宮(あまのみや)神社の周辺に移住して、太田川の川隈等に堆積する砂鉄を利用していた一群である。  
梵鐘以下の寺院用鉄製仏具・朝廷や足利将軍に献納する調度品の外、色々な民需品を鋳造し、遠く近畿地方まで隊商を組織し広くこれを全国的に売り捌(さば)いていたのである。  
梅山がなくなったあと、瀧沢寺は住持(じゅうじ)が14年間もいなくなってしまいました。寺は荒れてしまっていましたので、檀家のひとたちは如仲天ァをはるばる遠州(今の静岡県)まで訪ねて瀧沢寺の住持となって欲しいと頼みました。永享2年(1430)4月、その強い熱意に応えて瀧沢寺の第6世となりました。  
廃(すた)ておりました寺の建物を直したり、梅山大和尚の教えをよく受けついで瀧沢寺の復興に尽くしましたので、後の世になり瀧沢寺中興の祖と仰がれて降ります。  
瀧沢寺に住持して8年、寺も復興してきたので、永享10年(1438)寺を去って再び近江の洞寿院へ帰りました。晩年には加賀の仏陀寺(ぶつだじ)にも住持した。如仲天ァは永享12年(1440)2月4日に亡くなり、享年75才であった。今もお墓は瀧沢寺にあります。  
門弟には英傑が出てそれぞれ一派をなし、近江・東海3州をはじめ、広く各地に繁延して太源門下梅山系の主流をなし、後世その門葉は大いに繁栄しました。  
橘谷山大洞院は、応永18年(1411)如仲天ァ禅師の開いた寺で、時の将軍足利義持の寄進によりこの地に禅の大道場が建立されました。  
梅山聞本禅師を勧請の開山として仰いでおります。  
門前には、清水次郎長一家の名物男、森の石松の墓があります。  
余談になるが、近年この森の石松の墓をさすると、パチンコの玉の出がよいとか、株式売買で成功するとかで全国各地から噂がうわさを呼び、この墓をお参りに来る人が絶えない状態で、角が丸くなってしまったと云われております。  
またしても筆が勇んで横すべりしたと思われる。再び本筋に立ちかえります。  
曹洞宗寺数は17,549寺、永平寺末2,027ケ寺・総持寺末15,522ケ寺の中で中通幻派8,931ケ寺・大源派4,358ケ寺の中、如仲派3,200余ケ寺の末寺をもっております。  
その門末寺に火防守衛の総本山、秋葉総本殿万松山可睡斎(かすいさい)(静岡県袋井市久能)があります。  
可睡斎は曹洞宗屈指の名刹、およそ600年前の応永8年(1401)に如仲天ァ禅師が開山で東陽軒と名付けたのがその始まりです。  
11代仙麟等膳和尚は若い時、駿河の慈非尾村増善寺で修行をしていました。  
そのころ家康公(竹千代丸といっていた)が今川義元の質子になっていたのを、ご覧になって、「この若者は他日、必ず立派な方になる」と見込まれ、日夜人格の指導に専念。  
ある夜にひそかに竹千代丸を葛籠に匿し、自ら負て清水から船に乗せ勢州篠島に渡り暫くかくれておったが、遂に三州岡崎城につれ戻されました。  
その後、次第に出世し浜松城主となった家康公は、に入られるや、等膳和尚を招いて夜更けまで旧事を語っていた席上でコクリコクリと無心に居眠りをする和尚を見て家康公はにこりせられ「和尚我を見ること愛児の如し、故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ。和尚睡る如し」と言って、それ以来「可睡斎」と愛称せられ、後に寺号も「可睡斎」と改めた。  
また度々家康の心を安らかにした旧恩にむくいて、天正11年(1583)10月、駿河・遠州・三河の4ケ国の総録司という取締りの職をあたえ10万石の札をもって待遇せられた。  
以来、歴代の住職は高僧が相次ぎ、天下の「お可睡様」と呼ばれるにおよび、名実とも東海道における禅の大道場としての面目を充実しております。  
10万余坪の境内には、本堂をはじめ、御真殿・奥の院・経蔵・開運大黒殿・瑞竜閣・僧堂・位牌堂など壮麗な建造物が林間の中に連ねています。  
また、四階建ての末雲閣や170畳の斎堂があり、150畳に及ぶ大書院の東側には、みごとな滝があり、その大庭園の美観は賞讃そのものです。  
この末寺が東御市和にある海野小太郎開基の瑞泉山興善寺(海野宿の北方の丘)であります。  
興善寺は、平安・鎌倉以来、戦国時代に至る600余年の間、この地に勢力を張っていたのが海野氏で、海野小太郎幸義(幸善ともかく)のとき、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の圧迫するところとなったので、武運長久と領地の安泰を祈願して、永正10年(1513)曹洞宗の寺院を開基し自分の名前をそのまま幸善寺と命名されました。  
天文10年(1541)5月の海野平合戦に武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、29代海野幸義は神川にて戦死(法名瑞泉院殿器山道天大居士)。  
その後貞享3年(1696)火災のため建築物のすべてを焼失した。  
それから20年ほどを経て、享保年間、名僧知識と言われた第13世泰音禅師のときに、檀家の協力を得て、現在の位置に本堂等再建されました。この復興したときから、幸善寺を興善寺と改められました。  
宝暦14年(1764)に全焼し、明治4年(1871)再度の火災に見舞われ、重要文献その他の貴重品の大部分を焼失されました。  
歴代住職 / 初代 林英宗甫 永正3年(1506)開堂、享禄4年(1531)8月12日寂  
現在は、30世柴田善達禅師に及んでおります。  
その間幾多の名僧を出しました。中でも18世泉随禅師は、能州総持寺(のちに鶴見に移る)の貫主となった名僧であります。  
興善寺の山号瑞泉山。曹洞宗、本尊は釈迦坐像(像高90p)で右に文殊菩薩坐像・左に普賢菩薩像。家紋は州浜・六連銭。興善寺末寺は向陽院(丸子町塩川狐塚)・全宗院(上田市中吉田)・金窓寺(上田市諏訪形)・日輪寺(上田市横町)・大英寺(埴科郡坂城町)・天照寺(長野市篠ノ井小松原)。  
境内の敷地2,300余坪。本堂・位牌堂・庫裡・鐘楼・豪華な山門・豪壮な石垣。特に本堂の鬼瓦であるが、明治4年の火災のあと、同20年再建、80年ぶりで昭和38年屋根の葺き替え、本堂の鬼瓦を下ろされました。高さ4.9m、底の開き4.54m、重さ1.9t、片方25個の組立て、普請に当った瓦職人も、長野県内にこれだけの大きなものは見たことが無いと言っておりました。山門は、平成3年に再建する。  
また境内には、多孔質安山岩でつくられた、高さ28p・底面46pの直角の石塔基礎で昭和21年に海善寺跡の畑から出土したものであります。  
文保(1318)の年号が陰刻してあり、鎌倉時代にあったと思われる廃海善寺の歴史を物語る貴重な資料であり、武田信玄がこの寺で武運を祈ったと伝えられております。  
また、善淵王御座石・開基墓(享保20年)・庚申塔(明和4年)等がある。  
その後真田昌幸が上田城をつくられたときに鬼門除として移り海禅寺と改称し、真田信之の松代移封にともない寺も松代に移り開善寺と改称され今日に至っております。 
武田信玄と海野氏  
天文7年(1538)6月、北条軍との和議が成立して3年間武田信虎は珍しく戦がなく平穏な暮らしが続いていた。  
天文9年5月、24才で諏訪氏を継いだ頼重に信虎の娘の祢々(ねね)(晴信のちの信玄の妹)を11月に嫁がせております。  
信虎が最後の合戦を飾ったのは48才の天文10年(1541)の晩春に始まった信州の「佐久攻略」であった。  
晴信21才の初陣説は、このあたりから出ている。  
「甲陽軍艦(こうようぐんかん)」「武田三代軍記」などでは信虎・晴信父子の奮戦ぶりを克明に描いている。信虎軍は1日に36の城を攻め落としたと伝えられております。  
武田信虎軍は佐久を通って、現在の白樺湖に近い大門峠を降り、諏訪頼重は下諏訪の和田峠から山つたいに、村上義清軍は戸石城で兵力をそろえ、いずれも血に飢えたような連合軍で戦闘をいどんだ。  
折からの雨期に大雨が続いて戦場は水びたし、川はあふれ、おぼれる者さえ出る中を滋野三家の前衛とする城は次々とたたかれた。  
双方の主力がぶつかりあい。防衛軍は歯を食いしばって戦ったけれど、5月13日に尾野山(現丸子町生田)の城が落され、翌日海野平(現白鳥団地)を占拠され、海野城の本拠は陥落(かんらく)しました。  
祢津元直は晴信の妹が妻であることと、諏訪神社の神官と縁をむすんでいたので特に許され、望月氏は武田軍に降伏した。  
この三者(武田・諏訪・村上)がどんなふうに海野討滅の計画をきめたかは、わからないが村上氏は前から海野をくつがえそうとねらっていたことは確かである。  
海野一族と隣り合わせで、同じ千曲の沿岸に葛尾城を強化した村上氏は海野氏を快く思っていなかったので応仁元年(1467)に両者が激突を起こし、海野氏を惨敗し、上田川西地方に勢力範囲を広げ野望をめざしていたが、武田信玄に弘治3年(1557)2月15日火攻めで落城しました。  
もう1人の諏訪氏も海野城を攻め入った翌年には、信玄にはかられて悲憤の最期をとげたし、武田信虎は、わが子の信玄に追放されるという運命に立たされました。  
のち天文22年(1553)に、あの有名な上杉謙信との川中島の戦いとなります  
その後、永禄4年(1561)海野氏の家名を滅ぼすことは心ならぬと、信玄の第2子次郎信親は〔母は三条内大臣公頼女で、天文7年(1538)生まれで、盲目のため髪をたくわえず別館にいた。居館は城北の聖道(しょうどう)小路。時の人お聖道(しょうどう)様という。  
また4男が勝頼で、5男が仁科五郎盛信である。〕海野幸義公の女子を妻として、海野民部亟龍宝(うんのみぶのじょうりゅうほう)と名乗り海野氏を継いだといわれております。  
海野の旧臣80騎の将となり、性格は穏やかで慈しみ深く、人々から敬愛され、龍宝の陣代として春原(小草野)若狭守隆在に奥座の家名を賜る。100貫の知行から1,000貫を与え家老をつとめさせた。また弟の春原惣左衛門は甘利左衛門の同心に召し加えられ、本地30貫を300貫加増される。  
その邸宅跡は、今本海野区字瓜田にあり、昔人はここを奥座と称して夏目田組なれど本海野区の飛地となっている。  
奥座屋敷跡 / この写真の松の木の根元には、祠が祀られていて湧水が出ていた。今は、この松の木は伐採されている。  
天正10年(1582)3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山に敗死を聞き、城南畔村(現甲府市住吉町)入明寺(にゅうみょうじ)内で自刃した。(年42才、法名長元院殿釈潭竜芳大居士)  
その子顕了道快は甲府長延寺に隠れ織田信長の目を逃れ、その子信正は赦免され、その子信興は江戸時代高家(大名に準ずる格式を与えられ、朝廷に対する儀式をつかさどった)の衆に列し、子孫武田家を伝承して15代昌信-16代邦信-17代目海野英信氏となり、東京都世田谷に現存しておられます。  
天正10年(1582)3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山で自刃、海野竜宝も甲府入明寺にての自刃等武田家の滅亡はあったが、武田家の血縁者で生き延びたものも多いと言われる。  
海野竜宝の妹穴山梅雪夫人がいる。この妹は母が正室三条夫人であるので竜宝とは実の同母の兄弟である。  
この梅雪夫人は武田家滅亡後に髪を切り、見性院さまと呼ばれる尼となったのは42才のときである。  
見性院は、その後下総国に住み57才のとき、徳川家康より500石と現在の埼玉県うらわ市大牧の領地を与えられた。そして江戸城北の丸に移された。 見性院が北の丸に入ると大奥では比丘尼屋敷と呼ぶようになった。  
ここで余生をすごす見性院が66才になったとき、徳川二代使用郡秀忠の側室(お志津の方)が比丘尼屋敷に救いを求めてきた。秀忠の正室のうらみを受けて大奥にいられず見性院に相談のため、駆け込んできたという。  
比丘尼屋敷の見性院は大奥のもめごとの苦情相談の役目をしていたのだろうか。そして、このお志津の世話をまた頼まれたのが竜宝の妹、すなわち見性院の妹信松尼であったという。  
信松尼とは信玄と油川夫人との間に生まれた竜宝の異母の妹である。  
この信松尼とは婚約者であった織田信忠を総大将とする織田軍が甲斐へ乱入する直前八王子に逃れた於松(松尼)である。  
見性院はお志津が江戸城から抜け出す手引きをし妹信松尼のいる八王子へ送り届けた。そして信松尼はお志津を、現在の埼玉県うらわ市大牧の地主の家に案内した。  
『うやまって申す祈願の事 南無氷川大明神 ここにそれがし卑しき身として将軍の御想い者なり 御種を宿して 当4・5月頃臨月たり しかれども正室(御台)嫉妬の御心深く 江戸城 大奥(営中)に居ることを得ず いま信松尼のいたわりによって身をこのほとりに偲ぶ それがし全く卑しき身にして有難き御寵愛を破る神罰として かかる御種を身ごもり乍ら住む所にさまよう 神明誠あらば それがし胎内の御種男子にして守護したまい 二人とも生き全うして御運をひらく事を得 大願成就なさしめたまわれば心願の事必ずたがい奉るまじく候也 慶長16年(1611)2月 志津』  
このとき、お志津は28才であり、出産する3ケ月前 埼玉うらわの氷川神社に安産祈願文を奉納したのである。  
お志津は、この年の5月7日に秀忠の三男を出産した。  
竜宝兄妹の見性院と信松尼の老いた姉妹が秀忠の三男の養育の世話をした。この三男が14才に成長した時、見性院の世話により信州高遠の城主保科正光の養子となった保科正之である。  
竜宝の妹見性院は保科正之の栄達を願いながら、元和8年(1622)5月9日比丘尼屋敷で77才の天寿を全うした。  
保科正之はのちに、高遠城から会津若松23万石の藩祖となって、寛文12年(1635)62さいで没した。  
昌幸の子孫の会津藩主松平容保(かたもり)は、安政5年(1858)3月見性院ゆかりの大牧村の菩提寺天台宗清泰寺に廟所を建て、法名 見性院殿高峯妙顕尊儀という。お志津の方は、寛永12年(1635)9月7日病没、52才。身延山久遠寺に墓所がある。 
 


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