仏教
釈尊1釈尊2釈尊3釈迦の教え1釈迦の教え2仏教の伝承仏教1日本伝来奈良仏教最澄空海平安仏教法然仏教2宗派仏教3浄土教と仏教美術日本仏教史1日本仏教史2智積院真言宗歴史仏教を一言で言う沙羅双樹鑑真和上仏教の世界 
仏教諸説 / 大きな乗り物現世ご利益の宗教即身成仏天台本覚思想「空」の理論般若心経浄土教日本仏教が使う言葉意味を運ぶ乗り物一向一揆とスピノザ 
宗教雑話 / 世界の宗教ユダヤ教キリスト教イスラム教神道仏教仏教の本質大乗仏教の成立仏教と庶民南都六宗天台宗真言宗空海と最澄の履歴空海と最澄の書空海の「入唐求法」祭祀と霊力の背景空海ミッションの背景空海と神宝大乗仏教の特徴と成立過程大乗宗派と抗争大乗宗派の論争中期密教の成立過程中期密教の成立空海と最澄東密と台密チベット仏教真言密教と空海阿字観顕教と密教日本密教鎌倉新仏教の登場念仏の萌芽念仏の救済思想念仏思想の特異性浄土宗系の布教禅宗禅の心鎌倉新仏教大乗非仏説大乗の菩薩行・・・・・

時宗・一遍 仏の世界   

 
釈尊1

歴史上の仏教開祖「釈尊」が、真理に目覚めたる者=「菩薩」(bodhisattva・ボーディーサットバ/菩提薩)として覚りを開いたことが、入滅後に崇高な存在として崇拝され、仏像仏画の原形が作り上げられる段階で、「薩/sattva(サットバ・人)」としての「菩薩」の崇拝観念を超えて「理想仏」の「如来」像を作り上げ「釈迦如来」となった。 
「釈迦牟尼世尊」の「釈迦」は、釈迦国の種族としての名を示している。「牟尼」は、寂黙、仙人、智者などの意で、「釈迦牟尼」で釈迦族の聖者を表す。「世尊」は、仏即ち如来の如き成道者であることの美称。釈尊の姓としての喬答摩(Gautama・ゴータマ)は種族の別称。 
釈迦国迦毘羅(かぴら)城主浄飯王(ジョウボンノウ/S'uddhodana・シュッドゥーダナ)の妻、摩耶夫人(マーヤブニン/摩訶摩耶・マカマーヤ/Maha-ma-ya-・マハーマーヤ)は、ある晩「六つの牙を持つ白象が天から降りてきて、摩耶夫人の右の脇から体内に入り、その純白の象は胎の外から透き通って見え輝いていた」という夢を見た。すると懐妊したという。摩耶夫人は授かった王子の出産のため、生まれ故郷の天臂城(てんぴじょう)へ里帰りした。帰路の途中、ルンビニーの花畑を過ぎたところで急に産気づき、ふと無憂樹(むゆうじゅ)の一枝に手を伸ばしたところ、右の脇の下から王子「釈尊」が降誕(ごうたん・誕生)した。世紀前566年4月8日(565年という説もある)という。 
王子は、この地に降り立つと直ちに七歩自分の足で歩き、手を上下に指し伸べ「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と声高らかに宣言した、すると、突然の雨が降ってきた(甘露の放水)。 
悉達多(Siddha-rtha・シッダールタ)と名づけられ、誕生の七日後、生母摩耶夫人と死別、摩耶の妹の摩訶波闍波提(Maha-praja-pati-・マハープラジャーパティー)に養育される。 
幼年期より学術、武技を習学し良く通達し、文武両道の優れた王子に成長したが、しばしば深思瞑想に耽る性格であった。いつも人として生きることに心悩ませる太子を心配した浄飯王は、何とかできないものかと、城中に三時殿(寒さ、暑さ、雨の一年三期を快適に過ごせる宮殿)を建設したり、太子(19歳)に耶輸陀羅(Yas`odhara-・ヤショーダラー)を妃に迎えたが、根本苦の悩みに出家の道を選ぶことになった。この根本苦に悩み出家にいたる伝説が「四門の遊観」として語られている。 
「四門(しもん)の遊観(ゆうかん)」の粗筋 / 釈迦国の王子として生まれた釈尊は、迦毘羅(かぴら)城の三時殿で過ごし、やりたいこと、欲しい物は何でも思いのままで、不自由のない生活をしていたが、天上の歓楽を思わせるような五欲を楽しむ生活に自分自身の心に内省していた。ある日、一日郊外で遊ぼうと馬車で出かけ、「東の門」を出たら、馬車の前を手につかまってよろめき通り過ぎる老人を目にした。いつも若い男女、付き人や召使いに囲まれていた釈尊は、「あの者は何であのようにみにくい様相(白髪で背の曲がったやせ衰えた姿)をしているのであろうか」「人は歳をとって老いる」現実を知り悩んだ。それから数日して次に「南の門」を出たら、病人に遭遇した。そして次に「西の門」を出たら、葬儀を目にした。「あの儀式は何であろうか」「人は老い、病を得る、そして死を迎える」ことを知り深く悩んだ。しばらくして「北の門」を出たら、出家し行に付す乞喰沙門(こつじきしゃもん)に出会い、「なんと澄んだ目をしていて心が研ぎ澄まれる者なのであう。質素な衣を通して、体中から喜びの光の輝き、和やかな空気があたりに充満しているのを感じる」の沙門の姿を見て「出家」を決意した。 
29歳の年、7月の満月の晩、愛馬カンタカに乗り、城門を出て一路修行の旅に出た。 
修行の道を求め釈尊は、毘舎離(びしゃり)国の跋伽婆(バツヴァバ)仙人に就いたが覚りを得られず、摩掲陀国(まがだこく)の王舎城(おうしゃじょう)へ行き阿羅羅伽羅摩(アーラーラ・カーラーマ)仙人に就き「無所有処定(むしょうしょじょう)」(何もない境地)の禅定を受ける。次に鬱陀伽羅摩子(ウッダカ・ラマプッタ)仙人に就き「非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)」(何もないことはないという境地)の禅定を受け、更なる真の覚りを求め尼連禅河(にれんぜんが)の東岸優留頻羅(ウルヴェーラ)村の樹林(後に「苦行林」と名づく)で苦行を修す。この行は断食や息を止める苛酷な行で、いつしか衰弱した体に平常心を失い気力をなくし何も考えることが出来なくなった。釈尊は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ことに気づき、6年苦行を捨てる。尼連禅河に沐浴し力つきて倒れていると、村の娘須闍多(スジャーター)から乳び(ヨーグルト状の醍醐という飲物)を授かり力を回復した。これを見ていた浄飯王の使いの者達は、釈尊は堕落したと考え、婆羅奈斯(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)へ行ってしまった。 
釈尊は北方、伽耶(がや)村の畢波羅樹(ぴっぱらじゅ)(後に「菩提樹」と名づく)の下に座し、金剛の如くの決意で深く瞑想に入った。すると幾多の悪魔が来て釈尊の瞑想を邪魔した。ある時は美しい三人の娘を使わして誘惑し、またある時は大群を率いて覆滅しようとしたり覚りを開かせまいとした。釈尊は微動だもせず悉くこれらの悪魔を降伏(ごうぶく)した。心の安静を得て夜になって禅定に入り、最初に前世を知る知恵を得、次に無量の衆生を見通す知恵を得、最後に暁の明星のきらめきとともに迷いの闇を照らす真実の知恵を得た。ついに釈尊は正覚(しょうがく)を成道(じょうどう)した(覚りを開いた)、時に35歳の12月8日だった。この「覚り」がサンスクリット語で「Budhi(ブーディ)」であり、釈尊が覚れる者「覚者(かくじゃ)」即ち「Bodhi−Sattva(ボーディサットバ);覚る人」「真理に目覚めたる者」を漢字にして「菩提薩(ぼだいさった)」略して「菩薩」となったことを意味し、「Budhi(ブーディ)」が変化して「Buddha(ブッダ)」漢字にして「仏陀」となった。故に「伽耶(がや)村の畢波羅樹(ぴっぱらじゅ)」は「仏陀伽耶(がや)の菩提樹」と名づくことになった。 
釈尊は、その後も数週間はこの菩提樹下にて説法を開き、最初の説法を「初転法輪(しょてんぼうりん)」という。この説法が釈尊入滅に至るまでの45年間の源泉であった。内容は八万四千の法門と言われるほどの経典に収められ、それは「十二縁起」を順逆に観ずる知恵であると説明している。釈尊は苦行を共にし給仕してくれた5人の護衛(アサジ等)を思い、婆羅奈斯(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)へ向かい最初の教えを説いた。これが「初転法輪」で、教えは「中道」(中庸・ちゅうよう)と「四聖諦(ししょうたい)」であった。「中庸」と「四聖諦」の教えは、後の二大弟子の一人、舎利弗(しゃりほつ)に説いた教えた経典「般若(波羅蜜多)心経」である。自らが苦行を修した優留頻羅(ウルヴェーラ)に向かい再び伝道の旅に出た。三迦葉(かしょう)を(優留毘羅迦葉(ウルヴィラカショウ)は五百、那提迦葉(ナダイカショウ)は三百、伽耶迦葉(ガヤカショウ)は二百の弟子をひいていたといわれる)を教化し、摩竭陀(マガダ)国の首都王舎城(おうしゃじょう)に入る。国王頻婆娑羅(ビンビサーラ)王の崇敬を受け、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)(寺)を授かる。舎利弗(シャリホツ)、目連(モッケンレン)等250人の仏弟子が加わり教団が次第に大きくなる。父の浄飯王は一族を教化し、阿難(アナン)、難陀(ナンダ)、羅羅(ラゴラ)、提婆達多(ダイバダッタ)等が入道する。後に養母摩訶波闍波提(マハープラジャーパティ)の出家により比丘尼(びくに)の教団が成立する。その後、薩羅(コーサラ)国舎衛城(シャエイジョウ)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)ほか、各地を布教し、45年の歳月、多くの仏弟子ができ、教団も大きくなっていった。衆生を教化する中で涅槃に近付く覚りを開いた。その間に提婆達多(ダイバダッタ)の反逆もあったが、教団を破られることなく仏法を広めた。釈尊は北に向かい伝道に旅を続けたが、波婆城(ハバジョウ)で純陀(チュンダ)という鍛冶屋の子供から栴壇樹耳(せんだんじゅに)というキノコの供養を得たことで赤痢に罹ってしまった。拘尸那羅(クシナラ)の沙羅林(サラリン)に入り最後の説法を行い、沙羅樹の間に北を枕にして西を向き入滅した。釈尊80歳にして世紀前486年2月15日であったという。 
「中庸」とは、両極端に偏らず程良く中道を進むこと。凡夫の我らのみならず釈尊が何の不自由もなく、快楽の欲(五欲)に流されるままの生活の中で何の自覚も無く、何の反省をも得ずに過ごした日々が一極端なものとするとき、それらのすべてを断じ、自らの身を苦しめることに専心し苦行を修した日々が反対の一極端となり、両極端の道を退け、そこを離れた中道を進む道こそが如来の証す法であり、涅槃を導く道であると説いた教えである。この「中庸」を求める道の実践は「四聖諦」にあるとした。 
「四聖諦」とは、「苦(く)」「集(じゅう)」「滅(めつ)」「道(どう)」をいい、第一の真理として「苦」は、世の中は苦しみであることを知ること。その苦しみとは、人が人として生きる上で逃れることの出来ない苦悩である根本四苦「生」「老」「病」「死」からはじまる、「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとっく)」「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」の八苦より展開する百八の苦悩(煩悩)である。第二の真理としての「集」は、凡夫の苦しみの根源は心の奥深くに潜むもので、常に求めることに執着し押さえることの出来ない欲望の為すわざである(五欲煩悩)。第三の真理としての「滅」は、苦しみの無くなった世界が真の覚りの世界である。そして第四の真理としての「道」は、この真の覚りの世界に至るためには「八正道」の実践を以て修行すべきであると説いている。
 
釈尊2

仏教を学ぶ 
仏教、浄土真宗の授業をさせていただきます。まず最初は、「仏教を学ぶ」ということを考えていきましょう。 
最近、世の中に不安な要素が多いせいか、仏教関係の書籍がよく売れているそうです。仏教に興味を持ち、仏教を学ぶ人が増えていることば、大変喜ばしいことですが、「仏教を学ぶ」いうことば、一体どういうことなのでしょう。 
仏教を学問・知識として、客観的に学ぶということも惑いことではありませんし、必要な場合もあります。しかし、それだけでは、本当の意味で仏教を学んだことにはなりません。 
例えば、「鏡を見る」といった場合、「丸い綺麗な鏡だった」と、鏡の外見を見て満足する人はいないでしょう。「鏡を見る」ということば、「鏡に写った自分の姿を見る」ということのはずです。「仏教を学ぶ」ということもそれと同じで、仏教とはこういう教えだと、客観的に学ぶだけでは、その外見を見ているだけに過ぎません。仏教の教えを学べば学ぶはど自分の姿が明らかになる、自分の生きる意味と方向が定まってくる。そのような学び方でなければ、本当の意味で仏教を学んだことにはならないのです。 
道元禅師は、「仏道をならうというは自己をならうなり」(「正法眼蔵」)という言葉を残しておられます。仏への道・さとりへの道を学ぶということ、つまり、仏教を学ぶということば、自分白身を学ぶということなのです。仏教を学ぶ時、このことを常に心に留めておきましょう。 
 
私たちが生きていく上で、「私を見つめる」ということば、とても大切なことですが、そこには、必ず法(真実の教え・仏教)が必要です。なぜなら、私が私を見つめるのには、限界があるからです。どういう点かというと、次の二つが挙げられます。 
第一に、私の基準は絶対的なものではないということです。私を基準にして私を見つめても、私の基準が間違っていれば、正しく見つめることば出来ません。私たちの基準は常に自己中心的で、自分の都合によってすぐに変化します。だからこそ、変わらない基準(法)が必要なのです。 
第二に、私が私を見つめようとしても、本当の私を見ることが出来ないということです。私が私を見る時、「見ている私」と「見られている私」という二人の私が存在します。「見ている私」が本当の私で、「見られている私」は、私の頭の中で創り出した幻影です。それにもかかわらず、私たちは、「見られている私」を本当の私だと思い込んでいます。本当の私である「見ている私」を見ようとしたら、それを映し出してくれる鏡が必要になります。それが、「法(仏教)」なのです。  
仏教とは 
本来の仏教は、自分の望みを叶えてもらうためにお願いをする宗教ではありません。仏の教えを通して自己を見つめ、人として生きる道を求めていくことこそが大切です。 
宗教と言えば、多くの人は、神さまや仏さまにお願いするものだと思っているようですが、本来の仏教は、自分の望みを叶えてもらうようお願いする宗教とは全く違います。 
仏教とは、「仏の教え」と書きます。「仏」とは、仏陀(Buddha)という言葉を省略したもので、「さとった者」「真実に目覚めた者」のことです。ですから、第一ほ、仏教とは、「仏(さとった者・真実に目覚めた者)の教え」であると言えます。では、「真実に目覚めた者」とは、誰のことでしょう。 
具体的に言えば、釈尊のことです。歴史上の人物で、真実に目覚め、その内容を言葉として説かれた人が、釈尊なのです。ですから、仏教とは、「釈尊の教え」と言うこともできます。ただし、仏教は、釈尊が創り出したものではなく、釈尊は真実に目覚め、それを言葉として説いただけなのです。 
また、仏の教えを聞いた者が、真実に目覚め、仏に成るわけですから、第二に、仏教とは、「仏(真実に目覚めた者)に成る教え」であると言えます。 
私たちは、仏の教えを通して自分自身を見つめ、本当の人間として生きる道を求めていくことが大切です。それが、仏に成ることを目指すということなのです。 
仏と神/「この世に神も仏もあるものか」と、神と仏を混同して使われることもありますが、神と仏は全く違います。神と言っても、様々な神がおられ一概には言えませんが、私たちの身近なものとしては「日本の神」と「キリスト教の神」が挙げられます。 
「日本の神」は、人間を超越した力を持っていて、人間に幸福を与えたり、また一方では禍を与えたりすると考えられているもので、もとは自然崇拝的なものが中心でした。そのほか、天照大神など日本神話に登場する人格的な神や、先祖を神とするものなどがあり、これらが複雑に混ざり合ったりしていますが、要するに、祈願の対象として人間の願いを叶えてもらうための神であると言えます。 
「キリスト教の神」は、宇宙を創造し支配する全知全能の絶対者であると言われています。つまり、神は、世界と世界の全てのもの、もちろん人間をも創られたのであり、それらのすべてを支配し、保っていく力を持っておられる方です。 
それに対して、仏とは、先に述べた通りです。 
また、仏は、「キリスト教の神」のような創造主ではありませんから、仏が人間を創ったのではありません。キリスト教では、神が人間を創ったわけですから、神と人間との関係は、異質的なものであり、人間は決して神には成れません。ところが、仏と人間の関係は、異質的なものではなく、人間もさとれば仏です。私たちは仏の成ることができるのです。  
 
誕生

釈尊は今から約2500年前、インドの北で誕生されました。姓はゴータマ、名はシッダックと言います。 
釈尊は、今から約二千五百年前の四月八日、インドの北(現在ネパール)、ルンビニーの花園で誕生されました。 
その頃、インドの北方(現在のネパールとの国境付近)に、釈迦族と呼ばれる種族が、カピラ城(カピラヴアットウ)を中心に、小さな国をつくっていました。釈尊の父は、カピラ城主スッドーダナ王(浄飯王)、母は、その妃マーヤー夫人(摩耶夫人)でした。マーヤー夫人は、出産のための里帰りの途中、ルンビニーの花園で休息をとりました。その時、急に産気づいて太子(釈尊)を出産されたと伝えられています。 
釈尊は、姓はゴータマ (瞿雲)、名はシッグッタ(悉達多)と言います。ゴータマとは、「最良の牛」、シッダックとは、「目的を達成した者」という意味があります。 
一般的には、「お釈迦さま」とか「釈尊」というように呼んでいますが、「お釈迦さま」の「釈迦」とは、シャカ族(釈迦族)という釈尊の属していた種族の名前です。ですから、「お釈迦さま」という呼び方は、個人を呼ぶのに適当ではないのかもしれません。しかし、現在は、「お釈迦さま」と言えば、ゴータマ・シッグッタのことを指します。そして、釈迦族の一人であるゴータマ・シッグッタが、悟りを開き(真実に目覚め)仏陀(仏)と成られたので、「釈迦牟尼(シヤカム二)」、つまり、釈迦族出身(シャカ)の聖者(ムニ)と呼ばれるようになりました。また、世にも尊い方という意味で、「世尊」とも呼ばれました。この「釈迦牟尼世尊」を省略して、「釈尊」と呼んでいます。 
生存年代について/釈尊の生存年代については様々な説があり、はっきりしたことば、わかっていません。わかっているのは、釈尊は八十歳まで生存されたということぐらいです。現在、東南アジアの国々で採用されているのは、 
@紀元前六二四年〜五四四年(南方仏教の伝説による説)ですが、学問的には疑問があります。そのはか代表的な説をいくつか挙げると、 
A紀元前五六三〜四八三(スリランカの伝説による説) 
G紀元前五六六〜四八六(衆聖点記説) 
C紀元前四六六〜三八六(宇井伯寿説) 
D紀元前四六三〜三八三(中村元説) 
などがあります。 
学者によって約百年の違いがあるわけですが、インドの古代史の年代についてわずか百年の差しかないということば、年代の不明な古代インドとしては、驚くべきことだそうです。ちなみに現在、日本ではDの説が主流となっています。  
誕生の伝説 
釈尊の誕生について様々な伝説があります。伝説は歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではなく、真実を伝えようとしたものです。 
釈尊は誕生するとすぐに、七歩あるいて、右手で天を指し、左手で地を指して、「天上天下 唯我独尊(天にも地にもただ我独り尊し)」と宣言されたと伝えられています。そしてその時、天は感動し、甘露の雨を降らせたと言います。 
釈尊の誕生について、様々な伝説が伝わっています。伝説ですから、歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではありません。伝説は、事実を伝えようとしているのではなく、真実を伝えようとしているのです。ですから、その伝説が何を伝えようとしているのかを受け取っていくことが大切なのです。 
「七歩あるいた」ということば、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を超えたということを表します。誕生と同時に迷いを超えて悟りを開いたわけではありませんが、後に悟りを開いて仏陀(目覚めた者)と成ったと言うことを、誕生の所に引き寄せて表現しているのです。 
「天上天下 唯我独尊」という宣言は、決して「他人と比べて、この世の中で自分が一番尊い」という倣慢な意味ではありません。「私のいのちは、天にも地にも、この世の中にたった一つしかない、かけがえのないいのちである。しかも、このいのちは無限の意味内容を持っている。だからこそ私のいのちは尊い」という意味なのです。そして、これは、私のいのちにのみ言えることではなく、「すべてのいのちは、かけがえのない尊いものである」ということにつながるのです。 
六道について/衆生(生きもの)がそれぞれの行為によって趣き往く迷いの世界のことで、六趣とも言います。 
@地獄−苦しみの極まった世界。 
A餓鬼−飢え渇きに苦しんでいる世界。 
B畜生−恥をしらない世界。 
C修羅(阿修羅)−争いの世界。 
D人間(人)。 
E天上(天)−喜びの世界。(煩悩を離れていないので、やがて崩れる。これも迷いの世界)。 
六道については、未来のこととしてではなく、今現在、そのような世界に趣くような心を満ち、行為をしているということを考えてみることが大切です。 
「三界皆苦 我当安之」/「天上天下 唯我独尊」の後に、「三界皆苦 我当安之(三界は皆苦なり我まさにこれを安んずべし)」という言葉が続きます。これは、すべての人々に真実を知らせ、安らかな境地に到達させる仏陀の誕生を表すものです。
釈尊誕生の時、「甘露の雨が降った」という伝説があります。これは、ご誕生を人間だけでなく、大自然・大宇宙が喜んだということを表しています。 
釈尊誕生の時、「甘露の両が降った」という伝説があります。これは、釈尊の誕生を、人間だけではなく、動物や植物も含め、大自然・大宇宙が喜んだということを表しています。 
なお、この伝説によって、釈尊の誕生を祝う「花まつり」の時、誕生仏に甘茶を潅いでお祝いしています。だから、「花まつり」のことを「灌仏会」(かんぶつえ)とも言います。 
白い象が胎内に/マーヤー夫人は、白い象が胎内に入った夢を見た後、釈尊を懐妊した(兜率天(とそつてん)という天上の領域から白象の形をとって降りて来た)、という伝説があります。これは、釈尊の偉大さを表そうとしたものです。また、なぜ象かというと、インド人はことに象を好み大切にしていたからでしょう。 
右脇から誕生/ルンビニーの花園で、マーヤー夫人が、無憂華(むゆうげ)の枝を手にしようとした時、右脇から誕生したという伝説があります。ヒンドウー教の「マヌ法典」によれば、梵天の口から司祭者(バラモン)、腕から王族(クシャトリア)、腿から庶民(ヴァイシャ)、足から奴隷(シュードラ)がそれぞれ生まれたとされています。釈尊は王族ですから、腕(脇)から生まれたと伝えられているのです。しかし、釈尊は、このような身分制度(カースト制度)を否定されていることを忘れてはならないでしょう。また、なぜ右かというと、インドの習俗によると、右は清らかで、左は汚れているからです。 
アシタ仙人の予言/スッドーダナ王は、インドの風習に従って、アシタ仙人に王子の人相を占わせました。アシタ仙人は王子を抱きかかえると、急にふさぎこみ涙を流しました。周囲の人たち驚いて「何か障りがあるのでしょうか」と尋ねたところ、アシタ仙人は、次のように答えました。「私は、王子に不吉の相があるから泣いたのではない。この王子は、家にあれば、全世界を武器を用いず徳によって征服する偉大な王(転輪聖王)になるであろうし、また、出家すれば、精神界の王として、人類を救済する仏陀となるであろう。いずれにしても、すでに年老いた私は、この方の成人された姿を見ることができない。そう思うとつい悲しくなって涙がこばれたのである」と。 
このアシタ仙人の予言は、当時のインドの歴史的事情を反映しているようです。多くの国々が乱立し、争い合い、精神界もさまざまな思想が入り乱れる中、それぞれの混乱を治めてくれる偉大なる仏陀が出現することを願われていたのです。  
 
若き日

釈尊は幼少の頃、虫が小鳥に、小鳥が鷹に食べられる姿を見て、「なぜ生き物は殺し合うのか」と感じられたのです。 
釈尊の母マーヤー夫人は、釈尊出産後七日目に、亡くなられました。その後、釈尊は、母の妹であるマハーバジャーパティ一に養育されました。 
当時インドでは、上流階級にあっては、七・八歳になると、バラモンの学者のところで、ヴエーダ(バラモン教の根本聖典)などの学問を学ぶことが、一般の風習となっていました。 
仏伝によると、釈尊も、七歳になると、学問や武芸を学ばれたようです。そして、その進展は極めて早く、教師も舌を巻くほどで、やがては学ぶべきものが無くなるほどであったと伝えられています。 
また、小さい項から、とても感受性が強く、物事を深く考える性格だったようです。 
釈尊が幼少の頃(十歳頃)の、農耕祭でのことです。多くの牛が犂(すき)を付けて田を耕すのを眺めていた時、鋤(す)き起こされた土の中から、小さな虫が堀り出されました。それを見つけた小鳥がその虫をついばみ去りました。さらに、その小鳥を大きな鳥(鷹)が襲いました。釈尊は、この弱肉強食の悲しい現実を見て、「なぜ生きものは殺し合わなければならないのだろう」と、もの思いにふけり、けり、ひとり閻浮樹の木陰で静かに坐られた(樹下の静観)といいます。 
このような性格は、成長するに従って益々強くなり、瞑想にふけることが多くなりました。 
養母・異母弟/スッドーダナ王は、マーヤー夫人の死後、妹マハーバジャーパティーを後妻に迎えたのですが、このようなことば、世間的には、めずらしいことではありませんでした。また、このマハーバジャーパティーとの間に、ナンダ(難陀)という男子(異母弟)が生まれましたが、後に、釈尊の弟子になっています。 
農耕禁での疑問/農耕祭で生き物の食べ合いが起こった時、周囲の人々はこれをおもしろがり、はしゃぎましたが、釈尊だけは、その雰囲気にとけ込むことができなかったと伝えられています。私たちは、農耕祭のできごとを、この世は弱肉強食の世界だから仕方がないと、簡単に割り切ってしまってはいないでしょうか。私たち人間がもし食べられる側にいたとしたら、そうは言っておれないはずです。弱肉強食の現実を、深い悲しみとして受け取れるかどうかが、本当の人間として生きる上で、大切なことなのです。
釈尊は何不自由のない生活を送っていました。美しい妃も迎えました。しかし‥釈尊は、小さい頃から、とても感受性が強く、物事を深く考える性格で、成長するにしたがって、益々その傾向は強くなり、瞑想にふけることが多くなりました。 
スッドーダナ王は、沈みがちな釈尊を何とかしたいと思い、冬・夏・雨期に適する三つの宮殿を建て与え、多くの女性たちに音楽を奏でさせたり踊りを舞わせたりしました。また、美しいヤソーダラーを妃(きさき)に迎えました。 
これらは、跡継ぎである釈尊を、出家させないようにしようという意図もあったようです。 
しかし、釈尊は、何不自由ない華やかな生活の中で、かえってもの思いに沈み、深く考えこむようになりました。 
やがて、ヤソーダラー妃との間に王子が生まれました。しかし、釈尊の心が晴れることばありませんでした。釈尊が、「出家のための妨げができた」とつぶやいたことから、王子は、ラープラ(妨げ)と名づけられました。 
若き日の思い出/釈尊は、若き日の思い出を弟子たちに次のように語っておられます。 
「比丘たちよ、わたしはまことに細やかな心遣いをもって養育された。比丘たちよ、わたしの父の家には多くの蓮池が造られ、ある所にば青蓮が、ある所には紅蓮が、ある所には白蓮が、ただわたしだけのために植えられていた。 
比丘たちよ、わたしはカーシー産の栴檀(せんだん)の香以外は身につけなかった。ターバンも肌着も下着も上着もカーシー産の絹であった。比丘たちよ、暑さ寒さを防ぐように、塵(ちり)や蔓草(つるくさ)や露が身に触れぬように、昼も夜も、わたしの頭上には白い天蓋がさしかけられていた。 
比丘たちよ、わたしには三つの宮殿があった、一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨期のためであった。その雨期の四か月間、わたしは音楽を奏でる女たちばかりに取り巻かれて、雨期の宮殿の中に留まり、けっして外へ下り立つことは無かった。 
比丘たちよ、他の人々の家では、召使たちにはくず米の飯か酸(す)い粥(かゆ)が与えられるところなのに、わたしの父の家では、米飯と肉とが与えられていた。」(「阿含経」) 
ラープラ(妨げ)について/子どもが、ラープラ(妨げ)と名づけられたわけですが、釈尊は子どもが可愛くなかったのではありません。可愛いからこそ、出家の妨げになるのです。ちなみに、ラーフラは、後に釈尊の弟子になっています。  
釈尊は29歳の時、ついにお城を出られました。その釈尊は29歳の時、ついにお城を出られました。その理由に、東・南・西・北の、4つの門の話が伝わっています。 
釈尊は、妻と子に囲まれ、何不自由ない生活を送っておられましたが、出家への思いは、ますますつのり、ついに29歳の時、お城を出られました。 
釈尊の出家の理由を考える上で、参考になる二つの説話があります。一つは、前に紹介した「農耕祭でのできごと(樹下の静観)」 で、もう一は、次にも述べる「四門出遊」(いもんしゅゆう)と呼ばれているものです。 
ある時、釈尊は従者を連れて、東の門から城外に出られました。すると、釈尊の側を年老いて衰えた老人が通り過ぎました。城内には、そのようなみすぼらしい老人はいなかったので、尋ねました。「あれは何者だ」従者は答えました。 
「老人でございます」それを聞いた釈尊は、「私もやがて、あのように、老い衰えていかねばならない」と暗い気持ちになり、お城に戻られました。 
またある時、南の門から出て、病人に出会われ、「私もいつか、あのように、病気になるかもしれない」と不安な思いにかられ、お城に戻られました。 
またある時、西の門から出て、葬儀の列(死人)に出会われ、「私もやがて、あのように、死んでいかねばならない」と人生のむなしさを感じ、お城に戻られました。 
そして、最後に、北の門から出た時、出家修行者(沙門ーしゃもんー)に出会われ、そのけだかく尊い姿に強く心を打たれ、出家の決意を固められたと伝えられています。 
若き日の悩み/釈尊は、若き日の悩みを弟子たちに次のように語っておられます。「比丘たちよ、わたしはこのように恵まれており、このように細やかな心遣いをもって養育されたのだけれども、次のように考えた。世間の愚かな人々は、おのれ自身、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人の老い・病い・死を視て、あざけったり厭ったりしている。わたし自身もまた、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられぬ身である。わたし自身、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人の老い・病い・死を見て、あざけったり厭ったりすべきであろうか。これは正しいことではない、と。 
わたしはこのように考えて、青春にたいする空しい誇りと健康に対する空しい誇りと生存に対する空しい誇りとをすべて棄てた」(「阿含経」)。  
どんなに恵まれた生活をしていても、人は生まれると必ず、年をとり、病気になり、死んでいきます。この世に生を受けた意味は、何なのでしょうか。 
前回、釈尊が出家された理由として、「四門出遊」の物語を紹介しました。 
この物語は、釈尊は、人生の根本苦である四苦(生老病死の苦しみ)を解決するために出家されたということを表しています(「四門出遊」では、生苦は出てきませんが、後に、老病死の苦しみに、生の苦しみを加えて四苦として説かれるようになります)。 
どんなに恵まれた生活をしていたとしても、人は生まれると必ず、年をとり(老い)、病気になり、死んでいきます。これはどうあがいても避けられない事実なのです。その老病死の現実に直面したとき、人は悩み苦しみます。この人生の根本問題の解決をしない限り、本当の幸せはないのです。 
さらに言えば、老病死の問題に正面から取り組んだ時、今ここに生きていることの意味を問わずにはおれません。 
「どんなにがんばって生きても、皆、年をとって病気になって死んでいく。そんな人生に、どんな意味があるのか。私がこの世に生を受けた意味は何なのか」 
この間題を解決しようとするところに、宗教の根本的な意義があります。 
釈尊の出家は、釈尊自身の問題であると同時に、私たちに、大切な問題を投げかけているのです。 
■ 
釈尊が妻と子を捨てて出家したということに対して、疑問を感じる人もいるでしょうが、出家ということば、釈尊独自のものではなく、古代インドでは、ごく一般的に行われていた慣習だったのです。また、妻子に経済的不安を与えないものだけが出家を許されていたこと、そして、息子の誕生によって後継者ができたことなどを考え合わせれば、釈尊が出家をするのに必要な外面的条件は備わっており、皆が了解の上での出家であった、と考えられます。 
しかし、釈尊の出家の様子については、次のように伝えられています。 
「釈尊は、夜中にチャンナに命じて、白馬(カンタカ)を用意させ、ひそかにお城をぬけ出られました。釈尊は、愛馬カンタカにまたがり、アノーマー河を渡り、河原で一切の衣服や飾りをはずし、チャンナに持たせ、城に戻るように命じました。そして、自らは剃髪して、粗末な出家者の装いとなり、森の中へ入っていかれたのでした」 
また、次のような話もあります。 
「出家の前に、息子を一目見ておこうと思って、こつそりと寝室に入った。もし、私が妃の手をよけて息子を抱けば、妃は目を覚ますであろう。そうすれば私が出家する邪魔立てとなるだろう。仏となってから、戻ってきて会うことにしよう」  
 
求道

出家すると、まず釈尊はインド最大のマガタ国に向かわれました。マガタ国は新しい文化の中心で、釈尊は二人の仙人を訪ねました。 
釈尊は、出家するとまず、当時最大の強国マガタ国の首部ラージャガハ(王舎城)に向かわれました。そこは、当時インドで最も栄えた都で、新しい文化の中心地であり、多くの思想家や修行者が集まっていました。 
そこで、次のような出来事があったと伝えられています。 
マガタ国のビンピサーラ王は、修行者となられた釈尊の姿に注意を引かれ、言葉を交わしました。そして、釈迦族の王子であったことを知ると、軍隊と財力を提供することを申し出ました。しかし、世俗を捨て、道を求めている釈尊にとって、必要の無いものだったので、断わると、ビンピサーラ王は、「ならば、あなたが悟りを開いて仏となられたならば、まず私のところに来て教えを説いてください」と願い出ました。釈尊は、そのことを約束し、別れたと言われています。 
その後、釈尊は、真理を求めて二人の仙人を訪ねました。 
当時インドの出家者の修行方法として、禅定(瞑想)によって心を安定させ、苦脳を離れようとする修定主義と、肉体を苦しめることによって、心の平静を得ようとする苦行主義がありました。二人は、修定主義者でした。 
まずは、アーラーラ・カーラーマ仙人を訪ねました。アーラーラ・カーラーマ仙人の教え(「何も無い。何も考えるな」) は、何も考えないようにすることによって、悩みを乗り越えようというものでした。 
釈尊は、アーラーラ・カーラーマ仙人と同じ境地に達し、一緒に教えを説こうと誘われますが、この教えは、私の苦悩の根本的解決にならないと判断し、そこを去っていきました。 
次に、ウッダカ・ラーマプッタ仙人を訪ねました。ウッタカ・ラーマプッタ仙人の教え(「何も考えるな。考えないということも考えるな」) は、何も考えないようにしようということも考えないようにすることによって、悩みを乗り越えようとするものでした。 
釈尊は、ウッタカ・エフーマプッタ仙人とも同じ境地に達し、一緒に教えを説こうと誘われますが、この教えも、私の苦悩の根本的解決にならないと判断し、そこを去っていきました。 
結局二人の教えでは、禅定に入っている間は、心の平安が得られても、禅定をやめると苦悩がよみがえってきます。これらは、悩みと正面から向かい合って根本的に解決しようとする道ではなかったのです。だから、釈尊は満足できなかったのです。
心の平静を得ようと、釈尊は苦行に入られました。しかし、6年間の厳しい苦行でもさとりには達せられませんでした。 
アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマブッタ仙人の教え(修定主義)に満足できなかった釈尊は、苦行主義の道へと進まれました。 
苦行主義とは、人間を惑わす欲望は、肉体の働きから起こるという考えから、肉体を苦しめることによって、心の平静を得ようとするものです。 
釈尊がこの苦行に入られる頃には、釈迦族出身の5人の友人が付き添っていたようです。 
苦行林に入らレた釈尊は、さまざまな苦行をされたようですが、仏伝によると、「「極度の難行をしてみよう」と、一粒のゴマや米などで一日を過ごされたり、あるいは全く食を絶たれたりした。また、ある時は、息を止める瞑想に入って、大変な苦痛に打ちひしがれ、気を失ってたおれられた。そして、「ゴークマは死んだ」という噂まで流れた」と伝えられています。身休は骨と皮だけにやせ衰え、目は落ち窪み、頬はこけ、、肋骨が浮き出し、腹部が空洞のように窪んだガンダーラの苦行像を見ると、その苦行の壮絶さがうかがわれます。 
6年間、かつて無いはど激しい苦行を行った釈尊でしたが、身も心も衰えるばかりで、とてもさとりには達することができないと思われました。 
苦行を止める決心をした釈尊は、ネーランジャラー河(尼連禅河・にれんぜんが)で6年間の苦闘の垢を洗い落としました。そして、村娘のスジャーターから乳粥の供養を受け、元気を取り戻しました。それを見ていた5人の友人たちは、「釈尊は堕落した」と思い、その場を立ち去って行きました。 
苦行の放棄/ある経典によると、晩年の釈尊が、弟子の舎利弗(しゃりほつ)に向かって、苦行を放棄した理由を次のようにのべています。 
「その行動、その実践、その難行によっても、わたくしは人間の性質を超えた特別完全な聖なる智慧に到達しなかった。それはなぜであるか?この聖なる智慧がいまだ達せられていなかったからである。この聖なる智慧が達せられたならば、それは出離に導くものであり、それを行う人を正しく苦しみの消滅に導いてゆく」 
禅定や苦行を実践すれば、ある程度の心の平静や強い精神力は得られます。しかし、それらば、人生の苦悩の根本的解決にはならないのです。なぜなら、その根本的解決は、「人生の真実を知る」という智慧によらなければならないからです。  
お盆 
お盆の季節を迎えましたが、お盆って何かご存じですか?お盆の由来をたずねていくと、その意味あいがわかってきます。 
お盆って何でしょう。一般的には、お盆には、先祖の霊が帰っくるるので、それを慰めたり、供養したりする時だと思われているようです。しかし、浄土真宗では、そのようには説かれません。 
先祖は、お盆の時だけ帰ってきて、供養しないと子孫にたたるような、恐れの対象となる方ではありません。阿弥陀如来さまのはたらきによって、浄土に生まれ仏に成り、常に私たちを見護り導いてくださっているのです。ですから、浄土真宗では、お盆は、先祖のご恩を偲び、この私が仏の教えを聞く日なのです。 
「孟蘭盆(うらぼん)経」というお経にこんな話がのっています。 
釈尊の弟子に、目連尊者(もくれんそんじゃーモッガラーナ)という方がいました。目連尊者のお母さんは、大変目連尊者のことをかわいがり、おいしい食べ物が手に入ると、他の子には隠すようにして目連尊者に与えていました。目連尊者にとって、とてもやさしいお母さんでした。そんなお母さんもやがてお亡くなりになりました。 
目連尊者はお母さんのことが忘れられず、今はどうしておられるだろうと思いを巡らしたところ、心に浮かんだのは、骨と皮に痩せ衰えたお母さんの姿でした。それは、「むさぼりの心」の報いして示された餓鬼道の世界の姿でした。目連尊者は何とかしてお母さんを救おうと、食べ物を捧げました。しかし、お母さんがその食べ物を食べようとすると、それはたちまち炎に変わり、よけいに苦しめることになったのです。 
悲しみに暮れた目連尊者は、釈尊に教えを請い、言われた通り、多くの僧侶に供養しました。すると、お母さんは、たちまち苦しみから救われたのです。この法要がお盆の起源となりました。 
この説話が示す最も大切な点は、「母に食べ物を捧げてもかえって苦しめ、僧侶(三宝) に供養して初めて救われた」ということです。僧侶に供養するというのは、何も食べ物を捧げることだけを言うのではなく、仏の教えを一生懸命聞くということにつながるのです。 
わが子かわいさのあまり、餓鬼道に落ちるほどの罪を造ってしまった母。そして、母を餓鬼道に落としたのは、まさにこの日分だったと気づいた目連尊者。どんなに苦しかったことでしょう。目連尊者は、この母を救う道は、この私が三宝(仏・法・僧)に帰依し、正しい道を歩んでいくこと以外にないと気づくのです。そして、それこそ実は、母の救われる道でもあったのです。 
現在、全国各地でお盆の行事が行われています。しかし、それらは、各地のさまざまな習俗などが混ぎり合って、できあがったものです。ですから、お盆本来の意義は何なのかを見失わないようにしたいものです。
 
降魔・成道

スジャーターから乳粥を受けた釈尊は、菩提樹の下で瞑想に入られました。そして、煩悩と戦い、さとられました。 
スジャーターから乳粥(ちちがゆ)の供養を受け、体力を回復された釈尊は、その後、ネーランジャラー河のほとり、ウルヴエーラー村(後にブッタガヤーと呼ばれる)で、「さとりを開くまで、決してこの座を立つまい」という強い決心をされ、菩提樹の下で瞑想に入られました。 
仏伝よると、釈尊の成道(さとりの完成)が近いことを知った悪魔が、これを阻止するためにさまぜまな妨害をしたと言われています。悪魔はまず、自分の娘たちをつかわし、釈尊を誘惑させました。それでも釈尊の心が動じないことを知ると、今度は、武力をもって力ずくで瞑想を妨げようとしました。しかし、今度も釈尊の瞑想を乱すことはできませんでした。釈尊は、いかなる悪魔の妨害にも負けることばありませんでした。 
この悪魔との戦いは、釈尊の心の中での、煩悩との戦いを表しています。やがて釈尊は、煩悩の象徴である悪魔を降伏させ(降魔)、真実の智慧を得て、仏陀と成られました。釈尊35歳、12月8日、暁の明星が輝く頃のことであったと伝えられています。 
「仏陀」とは、「ブッダ」の書写で、「さとった者・真実に目覚めた者」という意味です。また、釈尊が、仏陀と成られたことを、道(さとり)が完成したということで、成道と言います。 
現在、12月8日には、釈尊功成道を祝う「成道会」の法要が行われています。 
菩提樹/アシヴァッタ樹のことで、ピッパラ樹とも呼ばれています。釈尊が、この木の下できとりを開いたので、菩提樹と言います。「菩提」 とは「ボーディ」の書写で、「さとり」という意味です。また、インドでは古来この木は、「神々の住居であって、不死(精神的な究極の境地)を観察する場所である」と非常に尊崇されていたので、釈尊はこの木の下で瞑想にふけられたと考えられます。 
ブッダガヤー/ブツタガヤーは、ヒンドゥー教の聖地ガヤーに対する名称です。ガヤーの近くにあり、釈尊がさとりを開いた所なので、「ガヤー」 の前に「ブツダ」をつけて「ブツダガヤー」と呼ばれています。また、釈尊の挫していた場所は、金剛座と呼ばれています。
さとり・梵天勧請 
釈尊のさとりの内容とは、どのようなものだったのでしょうか。それは、すべての苦悩の原因は、無明(煩悩)であると見抜き、それを解決する道を完成されたものです。 
釈尊は、悪魔を降(くだ)し(降魔ーこうま)、さとりを開いたわけですが、そのさとりの内容は一体どのようなものだったのでしょうか。 
「さとり」とは、その原語について言えば、「(真実に)目覚めること」「(真実を)知ること」という意味です。 
釈尊は、人生のありのまま姿を見極めること(如実知見ーにょじつちけん)によって、老・病・死の苦悩の原因は、無明(煩悩)であると見抜き、それを解決する道を完成されました。苦というものは、私の外側に客観的に存在するのではなく、私の心のあり方が間違っているところから生じているのです。ですから、心のあり方を転換することによって、苦悩を超えていくことができるのです(さとりの内容については、後に詳しく述べます)。 
釈尊は、成道(じょうどう)後、しばらくの間、瞑想を続けられました。まず、さとりの境地を一人で楽しまれました(自受法楽ーじじゅほうらく)。そして、自らのさとった内容を人々に説くべきかどうか迷われました。なぜ説法を躊躇されたかというと、その内容があまりにも難解なため、人々が理解できないばかりか、かえって混乱を招くのではないかという思いがあったからです。しかし、インドの最高の神である梵天(ぼんてん)の勧め(梵天勧請)によって、説法を決心されたと伝えられています。 
説法を躊躇されたということから、さとりの内容を説き明かすこと自体の困難さが表されるとともに、真実に背を向け真実に逆らって生きている私たちの現実が知らされます。 
梵天勧請の物語は、一切の人々が説法を願っているということを表すものであり、言い換えれば、万人が救済されなければならないということを表現しています。また、真のさとりは、外に向かって説かれることによって本当の意味で完成するものであり、説法の決心は、真実をさとった仏陀として必然的なものだったのです。 
梵天勧請/仏伝によると、次のように伝えられています。「釈尊は一人静かに瞑想にふけっておられたが、心のうちに次のような考えが起こった。 
私のさとったこの真理は、大変奥深く難解である。常識的なものの考えに凝り固まった人々には、到底わかってもらえないだろう。だから、私が法を説いたとしても私はただ疲れるだけであり、かえって人々を混乱させるだけではないだろうか」。その時、天上に住む梵天は、釈尊の思いを知り、「釈尊よ、どうか世の人々のために真理を説いてください。この世には汚れの少ない人々もいます。教えを聞けば、真理をさとるものになるでしょう」 
梵天の勧めによって、釈尊は説法を決心されたのでした。
伝道・初転法輪 
さとりを開かれた釈尊は、説法される決心をされました。最初に、一緒に修行した5人の旧友たちのもとに向かわれました。 
さとりを開かれた釈尊が、説法を決心されたということは、大変重要な意味を持っています。 
さとりは、自分一人の中で完成するものではなく、他に伝え、他を救済することによって、本当の意味で完成するという性質を持っているということを、証明することでもあるからです。また、自らの救済から、万人の救済へと、その目的が転換されたとも言えます。 
説法を決心された釈尊は、その対象者として、かつて師と仰いだアーラーラ・カーラーマ仙人と、ウッダカ・ラーマプッタ仙人を思い浮かべました。しかし、二人はすでにこの世にはいませんでした。そこで、次にかって一緒に修行した五人の旧友を思い浮かべました。彼らは、釈尊が苦行を放棄された時、堕落したと思い、釈尊のもとを去って行きましたが、今は、ベナレス郊外のけ可サールナートにある鹿野苑(ミガダーヤ)で修行をしていました。釈尊は、彼らに会いに、長い道のりを歩いて行かれました。 
釈尊がやって来るのを見た五人の旧友たちは、苦行を捨て、贅沢な生活におちいり、努め励むのを止めた釈尊を出迎えないよう約束しました。しかし、釈尊が近づくに従って、彼らはじっとしていることが出来なくなり、ある者は座席を整え、ある者は足を洗う水を用意しました。そして、釈尊の自信と慈愛に満ちた説法に次第に耳を傾け、ついに五人は、釈尊最初の弟子となりました。 
この釈尊の最初の説法を「初転法輪」と言います。 
ウパカとの遭遇/釈尊がベナレスに向かう途中、ウパカ(アージーヴァカ教徒)という修行僧に出会いました。ウパカは、釈尊の姿が清らかで尊いのを見て、「あなたを何を目指して出家したのですか。あなたの師はだれですか。あなたは誰の教えを信じているのですか」と尋ねました。それに対して釈尊ば、「私は一切に打ち勝った者、一切を知る者です。自ら知ったので、私に師匠は存在しません」と答えました。すると、ウパカは、「そうかもしれない」と頭を振って、去って行きました。伝承を大切にするインドで、自らさとった釈尊は、受け入れ難かったのでしょう。 
ウパカは、釈尊の最初の弟子になる機会を失いました。しかし、逆の見方をすれば、釈尊ば、最初の伝道に失敗したのです。真実を伝えることの困難さが知らされる興味ある出来事です。ちなみに、ウパカは後に釈尊の弟子になったという記述もあります。
 
三宝・三帰依

釈尊の最初の説法(初転法輪)で、仏・法・僧の三宝が成立しましだ。この3つが備わったことで、仏教教団が成立しました。 
釈尊が、鹿野苑で、かつて一緒に修行した5人の旧友にさ新訳報謝の説法を、「初転法輪」と言います。 
説法の内容は、人間の歩むべき正しい道(両極離れた道)「中道」と、人生の真相とさとりへの適格明賜沙紀jた「四諦・八正道」の教えだと言われています。 
この説法によって、仏・法・僧の三宝が成立しました。 
「仏」とは仏陀(真実に目覚めた者)、具体的には釈尊のことです。「法」とは仏陀の教え、「僧」とは仏陀の教えを信じ、実践する人たちのことです。 
この三つの宝が備わったことで、まきしく仏教教団が成立しました。 
それ以後、釈尊は80歳で亡くなられるまで、伝道の旅を続けられました。 
釈尊の弟子になりたいものは誰でも、「三帰依文」を三度繰り返すことによって、入門が許されたと言います。 
「三帰依文」とは、三宝(仏・法・僧)に帰依する(よりどころにする) ことを誓った文で次のようなものです。 
ブッダム・サラナム・ガッチャーミ(自ら仏に帰依したてまつる) 
タンマム・サラナム・ガッチサーミ(自ら法に帰依したてまつる) 
サンガム・サラナム・ガッチャーミ(自ら僧に帰依したてまつる) (パーリ語) 
三宝に帰依する(三帰依)とは、自己中心の生き方から、真実を求めて生きる生き方への転換だということを忘れないようにしたいものです。 
初転法輪/輪はインド古代の武器で、輪を転じて敵を降伏させることと、釈尊が法(教え)を説いて、煩悩を打ち砕くことを重ね合わせ、初めての説法のことを、初めて法の輪を転じたということで、初転法輪と言います。法輪は、仏教のシンボル(象徴)になっています。また、転輪聖王(インドの伝説上の理想的王)が、天から宝の輪を感得し、これを転がして四方を征服すると言われており、この輸が仏教に取り入れられたと考えられます。 
僧/「僧」は、「僧伽(サンガの書写)」 の略で、サンガは、「衆・和合衆」と訳します。もとは、「集まり・集団」という意味ですが、それが仏教に採り入れられ、釈尊を中心とした仏教者の集まりを指すようになりました。 
三帰依文/現在日本では、パーリ語の三帰依文は、音楽法要の時に歌われています。また、浄土真宗本源持派の得度式ゆ帰敬式では、「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」と唱えます。
教団の発展 
釈尊は5人の旧友の次に長者の子ヤサを出家させました。人生に虚しさを感じていたヤサは、釈尊の説法に感動し弟子となったのです。 
釈尊は、ベナレスで、五人の旧友の次に、長者の子ヤサを出家させました。ヤサは、裕福な生活をしていたにも関わらず、人生に虚しさを感じていました。 
ある時、釈尊の側を「ああ悩ましい。ああ煩わしい」と口ずさみながら、通り過ぎようとしました。その時、釈尊は、「ここに悩みは無い、ここに煩いは無い。ヤサよ、来て座れ。私は君の為に教えを説こう」と、言われました。それを聞いたヤサは、喜んで釈尊の近くに座り、説法を聞きました。説法に感動したヤサは、釈尊の弟子になりました。 
そして、ヤサを探して釈尊の所にやって来たヤサの父も、釈尊の説法を聞いて、在家信者になり、続いて、ヤサの母と言われています。 
やがて、ヤサが出家したことがベナレスの町に広まると、他の長者の子にも、大きな影響を与え、「ヤサほどの者が出家したのなら、すばらしい教えに違いない」と、友人四人が出家しました。さらに、ヤサの友人五十人が出家して、六十人の弟子ができました。 
その後、かつてさとりを開いた場所であるウルヴューラー(ブッダガヤー)に向かわれました。 
そこには、三人のバラモンがいました。カッサパという三人の兄弟で、それぞれ、五百人、三百人、二百人の弟子を引き連れていました。カッサパ三兄弟が釈尊の弟子になると、その弟子たちもすべて釈尊の弟子信になりました。このヤサの出家の時から、三帰依文を三度繰り返すことによって、入門が許されるようになったとすべて釈尊の弟子になりました。 
このようにして、サンガと呼ばれる仏教教団は、どんどん拡大していきました。 
自己を求める/釈尊は、ウルヴェーラーに向かう途中、密林に入り、ある樹の下で座られていた時、一人の女性を探し回っている若者三十人に出会いました。彼らは、大勢で遊んでいたのですが、一人の女性が彼らの持ち物を取って逃げてしまったのです。釈尊は彼らに言いました。「若者たちよ。その女性を探し求めるのと、自己を探し求めるのと、君たちにとってどちらが優れていますか?」と。「もちろん自己を探し求めることの方が優れています」。そうして、彼らは、釈尊の説法を聞き、弟子になったと伝えられています。
寺院の寄進 
ピンピサーラ王は、釈尊のために竹林精舎を寄進しました。有名な祇園精舎は、慈悲深い長者のスダッタが、黄金をその土地に敷き詰めるまでして、寄進したのです。 
釈尊が、多くの弟子とともに、マガダ国の首都ラージャgハ(王舎城) に行かれた時、ピンピサーラ王は、釈尊を訪ねました。 
かつて、ビンピサーラ王は、釈尊が出家して初めてこの地に来られた時、もし、さとりを開いたならば、教えを説きに戻ってきてほしいと、お願いしていました。今、その約束が果たされたことを心から喜び、感謝しました。 
ピンピサーラ王は、釈尊とその弟子のために、住居を提供したいと思い、ラージャガハから少し離れた所にある竹林園に、精舎(寺院)を建立し、寄進しました。この寺院は、竹林精舎と呼ばれ、仏教の最初の寺院であるといわれています。 
竹林精舎に滞在されている間に、サンジャヤというバラモンの弟子であったサーリブッタ(舎利弗)と、モッガラーナ(目連)が、250人の仲間を連れて、釈尊に帰依し、弟子になりました。 
また、釈尊が住まわれた精舎で、もっとも有名なものとして、祇園精舎があげられます。 
シャカ族が、代々従属していたといわれるコーサラ国の首都サーバッティー(舎衛城)にスタッタ(須達多)という長者がいました。スタツタとは、「よく施した人」という意味で、彼は、たいへん慈悲深く、孤独な人々を憐れみ衣食を施していたので、アナータピンディカ(孤独な人に食を給す鳩込詑施呼ばれ、「給孤独長者」と漢訳されています。 
スダッタは、商用でラージャガハ(王舎城)に行った時、釈尊の説法を聞いて、深く感動し、帰依しました。そして、自分の国に釈尊を招待したいと思い、願い出ました。釈尊の了解を得たスグッタは、精舎を建立するために、スタッタは、コーサラ国の国王の王子であるジェータ(祇陀ーぎだー)の所有する園林を譲り受けたいと願い出ました。ジエータは断りましたが、あきらめず頼んでくるので、冗談で、「どうしてもその土地がはしいのなら、黄金を敷き詰めてみろ。そうしたら、黄金を敷き詰めた所の土地を売ってやろう」と言いました。それを聞いたスタッタは、さっそく黄金を敷き詰め始めました。驚いたジエータは、なぜそこまでしてこの土地がほしいのか尋ねました。深く釈尊に帰依しているスタッタの思いを知って、ジエータは感激し、その土地を喜んで提供しました。そして、スタッタは、その土地に、大きな精舎を建立しました。これが有名な「祇園精舎」です。「祇園」とは、祇陀(ジエータ)の園林ということです。
教団の構成と生活 
初期仏教教団は4種類の人々で構成。ピクは出家した男性弟子、ピクニーは出家した女性弟子、ウパーサカは在家の男性信者、ウパーシカーは在家の女性信者。 
初期の仏教教団(サンガ)は、ビク(比丘)・ビクニー(比丘尼)・ウパーサカ(優婆塞)・ウパーシカー(優婆夷)の四種類の人々によって構成されていました。ビクとは、出家した男性の弟子、ピクニーとは、出家した女性の弟子のことで、ウパーサカとは、在家の男性信者、ウパーシカーとは、在家の女性信者のことを言います。 
仏教教団に属する人々は、決して一カ所に集って大集団を作っていたのではありません。 
在家信者は、それぞれ自分の生活を営みながら、釈尊や出家者から教えを受けました。 
出家者は、一定の住居を持たないで、各地を転々としながら、修行に励み、伝道に努めました。ただ、インドでは、夏に雨期が、三カ月続きます。その間は、出歩くのをやめて、一カ所に集り、学問に励めました。これが安居と呼ばれる重要な行事です。裕福な在家信者は、安居の為の住居を寄進し、これが後に寺院として発展しました。 
教団が大きくなるに従って、さまざまな規則が必要になってきました。仏教に帰依したものが守るべききまりのことを「戒律」と言います。「戒律」は、本来、「戒」と「律」とに分けられ、「戒」とは、自発心に基づいた戒めのことで、「律」とは、教団の規則としてまとめた強制的なきまりのことです。 
出家者であるピクは、二百五十戒、ビクニーは、三百四十八戒という多くの戒を守って生活し、さとりを目指しました。 
在家信者には、「五戒」が定められまし 
た。五戒とは、 
@不殺生戒(生きもの殺さないない) 
A不偸盗戒(盗みをしない) 
B不邪婬戒(配偶者以外の異性と性行為をしない) 
C不妄語戒(嘘をつかない) 
D不飲酒戒(酒を飲まない) 
の五つの戒めです。 
戒律は、生活を束縛する為にあるのではなく、生活を正し、さとりに至る為にあるのです。私たちにとって、この五戒が、どのような意味を持つか、考えてみましよう。 
平等/仏教教団(サンガ)に入った人は、社会における身分・階級に関係なく、皆平等でした。これは、当時、カースト制度に束縛されていたインドの社会において、驚くべきことなのです。カースト制度(四姓制度)とは、生まれによって、バラモン(司祭者)、クシャトリア(王族)、ヴァイシャ(平民)、シェードラ(奴隷)の四つの階級に分けられる差別的な身分制度です。
 
晩年

自らをともしびとし自らをよりどころとして… 
法をともしびとし法をよりどころとして… 
これが有名なく自灯明 法灯明〉の説法です。 
釈尊は、八十歳の時、当時最大の強国であったマガタ国の首都ラージャガハ(王舎城)の東北にある霊鷲山を出て、生まれ故郷に向かって旅に出られました。 
途中、ヴァイシャーリーの町外れ(ベールヴァ村) で雨期の安居に入られた釈尊は、激痛を伴う病に苦しまれました。 
しばらくして、病が回復に向かった時、常にそばに仕えていた弟子のアーナンダ(阿難)が、「一時は、このままお亡くなりになるのではないかと心配いたしましたが、お釈迦さまが、まだ弟子たちの中から、次の教団の統率者を選び、秘伝を授けておられないので、大事に至ることばないだろうと安心していました」と、思いを伝えました。それを聞いた釈尊は、「アーナンダよ。今さら私に何を期待するのか。私はすでに、悉く真理の法を説き明かしてきたではないか。 
仏の教えには、隠しておかねばならぬ秘伝(「教師の握り拳」)というものば、ないのだ」と言われ、続いて、「自らをともしびとし 自らをよりどころとして 他をよりどころとしてばならない法をともしびとし 法をよりどころとして 他をよりどころとしてはならない」と、いつまでも自分を頼りにするアーナンダに、自分が亡き後、何をよりどころにすべきかを示されました。これが、「自灯明 法灯明」と呼ばれる有名な説法です。この言葉は、「自分の人生を、本当に自分の問題として、責任を持って生きなさい。他人を頼ってばかりいてはだめですよ。しかし、自分をたよりにするといっても、自分勝手に生きるのではなく、法(真実の教え)をよりどころにして生きなさいよ」という意味です。 
ラージャガハ(王舎城)/「ラージャ」は「王」、「ガハ」は「舎」という意味です。今日では、それがなまって「ラージギール」と言います。「王舎城」の「城」は、日本人の考えるような「お城」ではなく、城壁に囲まれた都市のことを言い、後には、城壁がなくても「都市」のことを意味するようになりました。 
自灯明 法灯明/原語(ディーパ)を忠実に訳すと、「ともしび」ではなく、「島(または洲)」となります。インドでは、大洪水になると、一面水びたしになります。その時、所々に残っている洲が人々のよりどころとなるので、それに譬えているのです。対岸が見えなくなるはどの大洪水を経験することのない日本人にとっては、「ともしび」の方が受け取りやすいでしょう。
クシナガラに着いた釈尊は、アーナンダに、「私は疲れた。横になりたい」といわれ、沙羅双樹の間に、頭を北、右脇を下にして横になられた。 
釈尊は、疲れた体を自ら励ますように「アーナンダよ。次の町へ行こう」と呼びかけ、北へと旅を続けられました。いくつかの村を通り過ぎて、パーヴァー村に趣いた時、チユングという鍛冶工の所有するマンゴーの林に留まられました。その時、チエンダは、釈尊の説法を聞き、その後、食事に招待しました。チエンダから供養されたキノコの料理を食べた釈尊は、重い病が起こり、赤い血がほとばしり、激痛が生じました(下痢・血便)。しかし、釈尊は、その苦痛を耐え忍んで、クシナガラへと旅立たれたのでした。 
クシナガラに着くと、「アーナンダよ。私の為に、サーラの双樹(沙羅双樹) の間に、頭を北に向けて床を敷いてくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい」と、床の準備をさせました。釈尊は、そこに、頭を北、右脇を下(頭北面西右脇)にして、足の上に足を重ねて、横になられました。 
チユングの供養について/「アーナンダよ、チユングによくよく伝えるがよい。チユングの供えた食事が最後のものとなったが、彼は決して後悔する必要はない。成道の前に供えられた乳粥の供養と、入滅の前に供えられたチエンダの供養とは、ともに同じくらい功徳の大きい、価値のあるものであった、と」 チエンダの供養は、苦、スジャータの乳粥の供養と同じくらい尊いものだというのです。チユングは、自分の供養したキノコが原因で、釈尊が体調を崩されたわけですから、ひどく悩んだに違いありません。そして、周りの者が、チユングを責めないとも限りません。先の言葉は、これらのことを気遣われたものです。ここに、釈尊のやさしさが感じられます。 
アーナンダの悲しみ/釈尊が重病で横になっていた時、アーナンダは、釈尊の背後にいて、涙を流して泣いていました。それに気付いた釈尊は、「アーナンダよ、嘆き悲しむな。私はいつもこのように説いてきたではないか。ーすべての愛するものから別れ離れなければならないことを。生まれたものは必ず死なねばならない。死なないということが、どうしてありえようか。アーナンダよ、汝は長い間、実によく私に仕えてくれた。汝はすでに大きな功徳を積んだのだ。これからは、いっそう努め励んで修行せよ。速やかにさとりに至るであろう」と、世の無常を説き、さとりを目指して修行することを勧められたのでした。  
涅槃(入滅) 
御歳80歳の2月15日に涅槃に入られた釈尊。最後の最後まで、無常をさとること、修行に励むこと、そのふたつを説き続けられたのでした。 
釈尊が、重い病で、沙羅双樹の間で横になられ、もうすぐ息も絶えようとしている時、スバッダという修行者が尋ねてきました。アーナンダは、「釈尊は疲れておられるから」という理由で、釈尊への面会を断りました。それでもスバッダは、あきらめず願い出ていたところ、その会話を耳にされた釈尊は、「アーナンダよ、拒んではいけない。何でも質問するがよい」と、スバッダを呼び寄せました。スバッダの、「世の中には、さとりを得たという人がたくさんいますが、どうなのでしょうか」という質問に対し、釈尊は、「そういうことば、ほっておけ。スバッダよ。私はあなたに真理の法を説こう」と真実に生きる道を説かれました。釈尊の説法を聞いたスバg頑釈尊最後の直弟子となりました。 
そして、次第に最後の晴が近づいてきました。 
「すべてのものは移り変わる。汝らは、怠ることなく修行を完成させなさい」 
これが、釈尊最後の言葉であったと伝えられています。釈尊は、最後の最後まで、無常をさとることと、修行に励むことの二つを、説き続けたのでした。 
釈尊80歳、2月15日、涅槃に入られました(入滅)」。現在、この日に釈尊を偲び営まれている法要を「涅槃会」とよんでいます。 
涅槃(入滅)/涅槃(ニルヴァーナ)とは、もともと「煩悩の火が吹き消された状態」、つまり「さとり」 のことですが、釈尊が亡くなられた時に限り、「涅槃に入られた」と表現します。35歳ですでに「捏築(さとり)」 に入られているわけですが、生きている限り、肉体的束縛からは離れられません。弟子たちは、釈尊は死んだのではなく、肉体的束縛を超えた完全 
なる涅槃、大般涅槃に入られたと受け取ったのです。また、「入滅」とも言いますが「入滅」とは、滅度(ニルヴァーナ) に入ること、つまり、「涅槃に入る」と同じ意味です。 
涅槃図/釈尊が亡くなられた時の様子を描いた「涅槃図」が数多く伝わっています。「涅槃図」には、釈尊のまわりで悲しむ弟子と共に、さまざまな動物たちが描かれているものがあります。これは、釈尊が、人間だけでなく、すべてのいのちの尊さを説いたことを表現しているのです。
 
釈尊3

北インド、現ネパールの小国カピラバストゥ(千葉県サイズ)の釈迦族の王子、釈迦牟尼(むに=聖者)。本名ゴータマ・シッダールタ(ゴータマは“最上の牛”、シッダールタは“目的達成”の意)。仏教界では「釈尊」(釈迦牟尼世尊)という。“悟りを得た者”という意の「仏陀(ブッダ)」とも呼ばれる。父は国王・浄飯王(じょうぼんのう)、母は妃の摩耶夫人(まやぶにん、マーヤ)。伝承では、摩耶夫人がお産で実家に里帰りする途中、ルンビニー園で産気づき右脇から(!)産まれたとされている。しかも釈迦はいきなり7歩進んで、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」(世界にこの命は一つだけ、だからこそ全ての生命に価値があり尊い)と宣言したという。 
※仏教では4月8日に釈迦誕生を祝う儀式を「花祭り」「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ぶ。釈迦の仏像(赤ちゃんだけど立ってる)に甘茶をかけて祝福する。 
摩耶夫人は出産の影響で体調を崩し、釈迦は生後1週間で母を失う。王は後妻に摩耶夫人の妹を迎えた。釈迦は16歳で結婚、長男ラーフラをもうける。17歳の時、郊外に出かける為に東南西北の城門を通過すると、その度に門外で老人、病人、死人、出家者を見かけ、これをきっかけに人生の苦しみをどうすれば克服できるのか悩み始め、ついに29歳で王子の身分を捨て出家した。彼を連れ戻す為に5人の従者が追いかけて来たが、5人は王子の胸中を知って行動を共にするようになった。 
釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。 
釈迦はネーランジャラー河の岸辺で村娘スジャータが作ってくれた“牛乳がゆ”を食べて体力を回復させると、ガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入った。悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となった。ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになる。 
※魔物を打ち倒して悟りを得たことを、仏教では「降魔成道(ごうまじょうどう)」という。これを祝い12月8日には成道会(え)が行なわれる。 
釈迦の悟り 
釈迦は「苦」を克服する為に何を悟ったのか。結論から言うと「執着を捨てろ」ということ。 
世のすべてのものは移ろいゆく。恋愛感情や若さがそうであるように、どんなに「今のまま変わらないで」と願っても、いっさいが例外なく変化していく。人は世界が常に変化しつつある「無常」なものと頭で分かっていながら、欲望が心に生まれると「無常」として受け止められなくなる。煩悩(欲望)が判断を誤らせ、永遠に変化しない「常なるもの」と錯覚させる。そして、相手の心変わりを非難しては嘆き、失ってしまった物をいつまでも惜しみ悔やむ。 
釈迦は“縁”をキーワードにして、「苦」の根源に迫った。結果、万物が変化するという事実を認めない「無知」が「迷い」を生み、迷いが「欲望」を生み、欲望が「執着」を生み、執着が「苦しみ」を生むとする結論に至った。「無常」という真実をあるがままに受け入れることでしか心の平安(悟り)は得られないのだから、心が勝手に真実を曲げて解釈しないようにしっかりと現実を直視し、すべてのものに対する執着を断てと釈迦は説いた。 
釈迦は「無常」を受け入れた時に、初めて人は解脱(げだつ)できるとした。 
※解脱…煩悩の苦しみを克服して安らいだ自由な境地に至ること。また解脱には「輪廻から解放される」という意味もある。以下に続く。 
輪廻転生について 
仏教では各人の業(ごう、カルマ=善悪の行為)によって魂が六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)を輪廻するとされている。輪廻している魂は「迷いの状態」とされ、果てしのない再生から解脱する(自由になる)事を仏教は究極目標にしている。解脱を目指して善業を積む--これは来世にもっと善良な魂となる為に、現在の生活で善業を行なおうという前向きな思想だ。ところが現代(特に新興宗教)では、「前世の行いが悪かった」「祖先の大罪のせいだ」と過去の業ばかりを脅迫まがいに強調し、善行の理由が過去の禊(みそぎ)になっている。この場合、前世の業で人生は定まっており、現世ではどんな努力も無駄という考えに陥りやすくなる。過去をことさら重視せず、現在の自分を見て、よりよい魂となる為に善い行いをするべきだろう。 
※魂が死後に生まれ変わるという考え方は、古代ギリシャでプラトンやピタゴラスも説いており、釈迦の誕生以前からインドにあった思想だ。 
すべて空なり  
仏教の「空」は虚無を意味する空ではない。人の命は肉親と繋がっているだけではなく、これまで食べてきた全ての命とも、日光や水、酸素を生む植物、この宇宙にある全てのものと繋がっており、誰しも他から切り離されては存在できず、あらゆる物質と溶け合っているという、極めて深い感動的な意味での「空」だ。この世の全てが巨大なひとつの生命であること、これを一文字で表したものが「空」だ。ゆえに「色即是空、空即是色」(世の全てが空であり、空はまた世の全てである)となる。※あなたは私であり、私はあなたであり、鳥も、花も、星も、道端の石ころまで同じ存在である…グッとくるね。 
釈迦はブッダガヤで悟った後、さらに49日間禅を組んだまま悟りの法悦の余韻にひたり、人生はここに極まったとして何も食べず死を選ぼうとした。するとインド神話の創造神・梵天(ぼんてん)が目の前に現れ、彼に「悟りの内容を人に伝え広めなさい」と3回告げたという。釈迦は伝道にあたり、最初に5人の苦行仲間がいるバラナシ郊外へ向かい、サールナートの鹿野苑(ろくやおん)で初の説法“初転法輪(しょてんぼうりん)”を行なった。 
当初は釈迦を馬鹿にしていた彼らは教えに感銘を受け、初の仏教教団(サンガ)を結成した。他の宗教者が弟子を引き連れて加わる現象も続き、教団はすぐに千人以上になった。 
続けて古代インドの強国、マガダ国のビンビサーラ王が帰依(入信)したことを皮切りにコーサラ国など諸国の王にも帰依する者が出てくる。釈迦は弟子の人材にも恵まれ、二大弟子となる舎利弗(しゃりほつ)、目連(もくれん)が教団に加わった。 
40歳の時に父が死去し、故郷へ10年ぶりに戻って説法を行なうと、これに感動した妻や息子ラーフラ、いとこの阿難(あなんだ)、提婆達多(だいばだった)らが出家して弟子に加わった。釈迦がブッダガヤで悟りを得てほんの5年ほどで、基本的な伝道環境の大半が整い、教団の秩序を保つ為に様々な戒律が定められていく。  
諸王や大商人には経済的な援助を申し出る者も現れ、説法道場や安居(あんご)の場として最初の仏教寺院となった祇園精舎(コーサラ国の首都シュラーバスティーに設立)や竹林精舎(マガタ国の首都ラージャグリハに設立)を寄進した。釈迦は以降45年間、1250人の弟子とガンジス川中流地域でひたすら伝道活動を続けてゆく。 
※安居…釈迦はたとえ昆虫であれ殺生を禁じており、雨期に出歩くと虫や小動物を意図せず傷つけてしまうこともあるから、一門は1ヶ所に集って小屋を建て、3ヶ月の雨期が終わるのを、勉強会を開きながら待った。この集いを安居という。死の前年の安居は祇園精舎で開かれたと記録されている。 
73歳、釈迦を手厚く保護してくれたマガダ国ビンビサーラ王が息子の阿闍世(あじゃせ)に殺害された。即位した阿闍世は自分の行いを激しく後悔し、阿闍世は父以上の仏教の保護者になっていく。 
そして80歳。精力的に説法を続けてきた釈迦だが、さすがに体力も落ち、旅先で食中毒にかかった。豚肉料理またはキノコによるものと言われている。釈迦はクシナガラ郊外の沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、頭を北、顔を西に向け横たわると、高弟や信者たちが見守る中、「悲しまなくていい…私が説いた教えと戒律が、死後にお前たちの師となろう。ただ一切は過ぎていく。怠ることなく修行を完成しなさい」と最期に語って入滅(他界)した。 
※仏教では釈迦の死を涅槃(ねはん、吹き消されたという意味)と呼び、2月15日の涅槃会で釈迦を追悼している。涅槃には“煩悩の火が吹き消された状態”という意味もあり、この場合は悟りの境地を指す。元々はサンスクリット語の「ニルバーナ」であり、涅槃はその当て字。 
釈迦の死を悲嘆したマガダ国王・阿闍世は、釈迦の教えが誤って一人歩きをしないように、本当に釈迦が言ったことと、言ってないことをハッキリさせる為、釈迦の弟子500人(五百羅漢)を集めて教えを合議によってまとめさせた。これを“結集(けつじゅう)”という。彼らは互いの記憶を検証しながら聖典を編纂した。二大弟子の舎利弗、目連は既に他界していたので、教団二代目の大迦葉(だいかしょう)が座長となり、釈迦生前の秘書役・阿難がお経(説法)を、床屋出身の陽気なムードメーカー・優波離(うぱり)が律(教団の戒律)を編集主任となってまとめた。教義を一本化する為にこうした結集は後年にも行なわれ、100年後に700人が集まった第2回結集が、200年後にアショーカ王の下で1000人が集まった第3回結集が、2世紀頃にカニシュカ王が500人を集めた第4回結集が開催されたと伝わっている。弟子達のこうした努力の結実が、今に伝わる数々の経典である。 
釈迦の亡骸は火葬され、舎利(しゃり、遺骨)は周辺8大国の王たちの求めで分けられた。各舎利はストゥーバと呼ばれる供養塔に納められ、遺骨以外にも髪や爪、所持品を納めた塔が建てられ、これら全てが崇拝の対象になった。 
B.C.250年頃、インド史上最大の名君アショーカ王は、仏教を広めるためにストゥーバから仏舎利を取り出し、それを8万4千個に分けて同数のストゥーバを建てた。ちなみに、ストゥーバという言葉は日本に伝わった時に卒塔婆(そとうば)と置き換えられる。現代で卒塔婆といえば墓石の背後に立てる供養板のことをいうが、当初は大陸からもたらされた仏舎利を祀る供養塔=墓を指した。※五重塔などの“塔”という字は、「卒塔婆」の“塔”からきている。“塔”は墓なのだ。 
供養塔は時が経つにつれ、遠くからでも見えるように高くなっていく。塔のてっぺんが舎利の納められたストゥーバだ。つまり、塔はてっぺんを遠くの人に見せるものであり、そこから下はただの付け足しともいえる。 
世界最古の木造建築として、ユネスコの世界遺産に日本で最初に登録された法隆寺は、五重塔のてっぺんと内部中心の柱の2ヶ所に仏舎利が納骨されている。…しかし本当に釈迦本人の骨が、はるばる海を渡って奈良までやって来たのだろうか。僕は失礼とは思ったが、恐る恐る法隆寺でお坊さんに尋ねてみた。疑って反省。インドからどんなルートで奈良まで来たのか、また、舎利が分骨を重ねて小さくなっていく過程を詳細に記した巻物が現存するそうだ。遺骨は米粒ほどの大きさで、毎年元旦から3日間、午後1時に仏舎利を前にして「舎利講」という公開法要をしているとのこと。思わず高さ31.5mの巨大な墓に手を合わせた。 
仏像の誕生 
仏像が出現したのは入滅後500年以上経ってから。これは釈迦が「私の姿を拝んでどうしようというのか」と偶像を否定したことによる。また、仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。それゆえ、人々は釈迦の象徴として法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現。インド国旗の中央にも描かれている)や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石。姿がNGなので足跡を拝んだ)、菩提樹などを礼拝していた。 
500年も仏像を造らずにいた人々が仏像を彫り始める…いったい、その当時何が起こったのか。原因はイランやアフガン一帯を支配していた戦闘騎馬民族クシャーン帝国の大侵略だった。クシャーンのカニシュカ王は残酷無慈悲でインド北部に虐殺と破壊の嵐が吹き荒れた。人々は山中に逃げ込み、クシャーンの軍隊が通過するのを息を殺して待ち続ける。この時、精神的に極限まで追い詰められ、心の拠り所としたものが仏教であり、目に見えてすがれるものとして、藁をも掴む思いで刻み始めたのが釈迦像だった。 
征服者カニシュカ王はやがて釈迦の教えに触れて心を入れ替え、仏教の大保護者として歴史に名を残すようになる。王は帝国内の貨幣に釈迦像と「ブッダ」の名を刻印した。また当時の遺跡からはカニシュカ王の頭上に釈迦が鎮座する図柄の壷なども発見されている(これはかなり感動的。カニシュカが完全に釈迦に身を委ねている)。 
初期の仏像がギリシャ彫刻のように彫りが深いのは、B.C.330年頃にアレキサンダー大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ美術を持ち込んだ為だ。 
※仏教徒は釈迦の誕生、降魔成道、初転法輪、入滅を4大事件に選び、これらに縁のある地、ルンビニー園、ブッダガヤー、鹿野苑、クシナガラを四大聖地に定めている。 
※十大弟子の目連は地獄に落ちた母親を神通力で救ったという。これが故事となり、死後の肉親を迎える「お盆」(盂蘭盆会、うらぼんえ)が始まった。 
※名古屋の覚王山日泰寺には、タイ王室から譲り受けた確実に釈迦のものとされる舎利が納められ、日本仏教の全宗派が合同で寺を管理している。 
十大弟子 / 釈迦の1250人の弟子の中の高弟10人。 
舎利弗(しゃりほつ)天才肌の一番弟子/智慧第一 
目連(もくれん)もうひとりの高弟、超能力者/神通第一 
阿那律(あなりつ)眠らない修行でついに失明/天眼第一(釈迦の従兄弟) 
優波離(うばり)もと理髪師の愛嬌者/律第一 
富楼那(ふるな)商人あがりで説法上手/説法第一 
迦旃延(かせんねん)わかりやすい教えの伝道の達人/論義第一 
須菩提(しゅぼだい)“空”をもっともよく理解した人/解空第一 
羅羅(らごら/ラーフラ)お釈迦さんのひとり息子は荒行者/戒行第一 
大迦葉(だいかしょう)教団の二代目は清貧の人/頭陀第一 
阿難(あなん)お釈迦さんのハンサムな秘書役/多聞第一 
 
お釈迦様の教え1

仏教 
「諸々の悪は、作(な)すことなく、衆(もろもろ)の善は奉行(おこな)いて、自らその心を清くせよ。これ諸仏の教えなり。」(涅槃経) 
「怨恨(うらむこと)なき教えを仏教となし、訴訟(あらそうこと)なき教えを仏教となし、誹謗(そしること)なき教えを仏教と為す。」(寶蔵経) 
「自他を執せざる法、これを仏教と名づけ。謗ることなき法、これを仏教と名づけ、善く教え、善く導きて、宜しきに随う法。これを仏教と名づく。」(寶筐(ほうきょう)経) 
三法印 
諸行無常(しょぎょうむじょう) / この世の中で常なるものは何もなく絶えず変化している。 
諸法無我(しょほうむが) / すべてのものには我となる主体がない。 
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) / 一切のとらわれやこだわりを離れた姿。 
一切皆苦(いっさいかいく) / 一切は皆苦であること。これをいれて「四法印」ともいう。 
因果の法則 
お釈迦様は悟りを開かれて、「すべてのものは縁に因って生じ、縁に因って滅びる」と言われました。花でも種をまかなければ芽はでません。芽が育つ為には水と空気が必要です。この水と空気が縁です。どのような因業をもって生まれてきても、お釈迦様の教えを聞き善根を積むという縁により、結果が良くなってきます。    因果経というお経に 
「前世の因を知らんと欲せば、すなわち今世に受くるところのものこれなり。後世の果を知らんと欲せば、すなわち今世に為すところのものこれなり。」とありますが、 
今世でお釈迦様の教えにであい信仰をもつことによって、感謝の心が湧いてきて法悦歓喜の生活となり、身・口 ・意(しん・く・い)、身の行い、言葉、心遣いで善業を積むことができ、平安で幸福な境界を得られることになります。  
十界 / 私達の心には十の世界があるといわれていますが、仏様の教えを聞くまでは六道と言って六つの世界を行ったり来たりしています。  
六道 
地獄界 / 怒りの心 
餓鬼界 / 貪欲な心 
畜生界 / 愚かな心 
修羅界 / 争いの心 
人界 / 穏やかな心 
天上界 / 喜びで満たされている心 
四聖 
声聞界 / 仏様の教えを受けて世のわずらいを離れた者 
縁覚界 / 仏様の教えを受けて更に自分の日々出合うところの出来事と思い合わせてその縁に因って覚るように修行する人 
菩薩界 / 自らも仏を目指して修行しながらも他者を慈悲の心で先に救おうとする人 
仏界 / 絶対平安の境地にあり衆生を大慈大悲で救済する境界  
人間は通常、人界に住しますので怒りや貪欲などを出さないように良識があり、平穏な心でいるのが本当ですが、仏様の教えを聞かなければ縁によって人を憎んだり怨みをもったり、愚痴をいったりと、悪い心を使ってしまいます。 
天上界は神々の世界ですが、天上界も六道の中に入っているのは、何か嬉しいことがあり、天にも昇る思いをするかと思えば、次の瞬間に自分に不利なことが生じると、又縁によって怒りを出したりと、地獄界と天界を行ったり来たりするからです。  
貪欲・瞋り・愚痴の三毒が、地獄・餓鬼・畜生の境界に相当しますが、お釈迦様はこれが苦しみのもとであると説かれました。  
「多欲の人は利をもとむること多きが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲するところなければ、すなわちこの患いなし。直ちに少欲すら尚まさに修習べし。いかに況や、少欲のよく諸々の功徳を生ずるをや、少欲の人はすなわち諂曲(へつら)って人の意を求むることなく、また諸根のために牽(ひ)かれず、少欲を行う者は、心すなわち坦然(たんねん)として、憂い畏れるところなく、ことに触れて餘りあり。常に足らざることなし。少欲なる者にはすなわち涅槃あり。」(遺教経)  
「多欲は苦なり、生死の疲労は貪欲よりおこる。少欲にして無為なれば身心自在なりと覚知せよ。」(八大人覚経)  
「もし人、心足ることなければ、ただ多く求めて罪悪を増長す。菩薩はしからず、常に知足を念じ、貧に安んじ道を守り、ただ慧のみ是れ業なりと覚知す。」(八大人覚経) 
「貪人多く集め得て、足れるおもいを生ぜず、無明の闇、心を顛倒して、常に侵して他を損せんことを念ず、現在は怨憎多く、身を捨てては悪道に堕つ、この故に智者はまさに知足を念ずべし。」(尼乾子経) 
「瞋りをよく自ら制すること、走れる車を止めるが如くす、これを善きこととなす。迷いをすてて悟りにはいる。」(法句経)  
「若し瞋恚をなくせば安穏に眠ることを得ん。瞋恚をなくせば人をして歓喜を得せしめん。瞋恚は毒の本なり。これをなくす者は我が褒めるところなり。」(雑阿含経)  
「五欲に貪着して自ら放逸なる衆生は、為に不浄の境界を示現す。」(華厳経)  
私達は身・口・意(しん・く・い)の三業で善業も悪業も積むことになりますが、悪業には身で三、口で四、意で三の十悪を説かれています。  
十悪とは 
身には三つ / 「殺生」「偸盗(ちゅうとう)」「邪淫」 
口には四つ / 「悪口(あっく)」「妄語(嘘)」「両舌(二枚舌)」「綺語」 
意には三つ / 「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴」 
しかし、お釈迦様は、衆生がこのような悪業を積んでしまうのも無明によるとされ、 釈尊の教えによって小さな我を捨て、本来の自己が「仏」であるこに気づくと、この世は仏性で満ち満ちていることがわかります。自然と周りの方々にも仏様に接するように感謝して仏性を拝みあって合掌礼拝していくようになれば、この世がそのまま浄土となるのです(娑婆即寂光土)。  
四聖諦  
苦諦 / 人生はすべて苦でありその実態を見つめよ / 四苦八苦(※) 
集諦 / 人々は無知と煩悩によりさまざまな因をつくっている 
滅諦 / 一切の苦を滅し尽くした境地 
道諦 / 滅にいたるべき道。苦を離れる道 / 八正道、六波羅蜜(※) 
※四苦八苦 / 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)・五陰盛苦(心身の働きが盛んであるために色々な欲が出て苦しいこと) ※六波羅蜜 / 菩薩の修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧) 
八正道 / お釈迦様は「さとり」へ至るための聖なる八つの実践道を説かれました。 
正見(しょうけん) / 正しい見方かた、見解 
正思惟(しょうしゆい) / 正しい考え方、思考 
正語(しょうご) / 正しい言い方、表現 
正業(しょうごう) / 正しい行い、行為 
正命(しょうみょう) / 正しい暮らし方、生活 
正精進(しょうしょうじん) / 正しい精進、努力 
正念(しょうねん) / 正しい心のもちかた、専念 
正定(しょうじょう) / 正しい心の集中の仕方、禅定 
十二因縁  
無明(むみょう) / 迷いの根本的な無知 
行(ぎょう) / 行業にて、無明より出て次の意識を起すはたらき 
識(しき) / 託胎の初一念 
名色(みょうしき) / 精神と物質の両面 
六入(ろくにゅう)(六處・ろくしょ) / 眼耳鼻舌身の五根と意根をいう 
触(しょく) / 外界との接触すること 
受(じゅ) / 外界から感受して生ずる感情 
愛(あい) / 貪り欲する(愛欲) 
取(しゅ) / 自己の欲するものに執着すること 
有(う) / 迷いの存在 
生(しょう) / この世に生まれ生存すること 
老死(ろうし) / 人間が老い、死に、この世に生存することに伴う一切の憂い悲しみ、苦しみをいう。 
過去・現在・未来の三世に輪廻する生の連続を説くもので、無明・行は過去に於いて為す現在生存の因。 識より受までは果としての現在の生で、母胎に託して意識生活をなす第一歩である識より身心の和合する名識、感覚器官である六入をそなえ、出生して快楽や苦しみを感受する過程を示して、次の愛・取・有は未来の生・老死を生ずる因となり、終に生・老死の果とな る。  
「十二因縁とは、煩悩と業と苦との三法が互いに因縁になることをいう。初めの無明と第八の愛と第九の取とはこれ煩悩なり。第二の行と第十の有とはこれ業なり。また、識、名色、六處、触、受、および生、老死の七つはこれ苦なり。煩悩より業を生じ、業より苦を生じ、苦より煩悩を生じる。この煩悩と業と苦の三種は、互いに次々生じて、とどまらないこと輪の転ずるが如し。」(十二因縁論)  
上記の四聖諦の中の、苦諦・集諦の二諦の循環状態を説くのが、十二因縁の順観といい、これを絶つ為の道諦・滅諦の二諦に照らして、「無明なければ行なし、行なければ識なし……生なければ老死なし」、つまり煩悩なければ悪業も積まず、苦しみもなくなるということです。このように観ずるのを逆観といいます。  
六波羅蜜 / 六度ともいい、「度」の字は渡の字と同じ意味で、わたす、わたるということです。下記の六つの修行は、人々を迷いのこの岸より、悟りの彼の岸に渡す修行です。 
布施(ふせ) / 財施(物を施す)、法施(教えを施す)、無畏施(畏れない心を施す)。 
持戒(じかい) / 仏様の戒を守る。 
忍辱(にんにく) / どんな苦しみをも忍び、どんなに辱められてもそれに耐えること。 
精進(しょうじん) / 正しい修行を不断に継続すること。 
禅定(ぜんじょう) / 妄想や雑念から起こる心の動揺を去って念を一所に定めること。 
智慧(ちえ) / 仏様の悟りの智慧を修めること 
布施行は「無所得」で何かの報酬を求めてはいけない。忍辱(にんにく)行は、ものや名誉に囚われず「空」に住して実践する。  
四無量心 / 仏様の徳の一つで、大きな四つの心 
慈心(じしん) / 多くの人の幸福を願う暖かい心 
悲心(ひしん) / 多くの人の苦しみを除こうとする大きな心 
喜心(きしん) / 多くの人の幸福を共に喜ぶ広い心 
捨心(しゃしん) / 自分がほねおったことに報いを求めない。人の過ちを忘れて許す大きな心 
五根・五力 / 五根(こん)というのは私達が信心を定める根本になるもの。五力(ごりき)というのは五根により間違った思想を打ち破る「力」が生ずること。 
「五根(こん)」  
信根 / 仏の教えを信じることを生活の根本とする。 
精進根 / 心を純一にしてその信心を増していくこと 
念根 / 仏の教えを信じて忘れないこと。信をいつまでも持ち続けること。 
定根 / 心が信により定まっていること。 
慧根 / すべてのものの真実の相を見ること。 
「五力(ごりき)」  
信力 / 「信根」により、「邪信」を破ることができる。 
精進力 / 「精進根」により、「懈怠」を破ることができる。 
念力 / 「念根」により、つまらない「邪念」を打ち破ることができる。 
定力 / 「定根」により、心の乱れがなくなり「邪想」を破ることができる。 
慧力 / 「慧根」により、諸々の迷いの「諸惑」を破ることができる。 
七覚支 / 覚りを得るための七つの条件 
択法覚支(ちゃくほうかくし) / 真理の正しい教えを択ぶ。 
精進覚支(しょうじんかくし) / 心を純一にして精進していくこと。 
喜覚支(きかくし) / 信心により法悦歓喜が出て、日常の所作にも感謝と喜びが満ちる。 
軽安覚支(きょうあんかくし) / 心が軽く安らかで、愚痴などでてこない。くよくよしない。 
念覚支(ねんかくし) / 仏の教えを信じて忘れないこと。信をいつまでも持ち続けること。 
定覚支(じょうかくし) / 心が信により定まっていること。 
行捨覚支(ぎょうしゃかくし) / 自分の功績等に執着することなく全て捨てられること。
 
お釈迦様の教え2

中道1 
釈尊の鹿野苑での最初の説法は「初転法輪」とよばれています。それは「中道」「四諦・八正道」の教えです。 
釈尊の鹿野苑での最初の説法(初転法輪)の内容は「中道」と「四諦八正道」の教えだと言われています。 
「中道」とは、単に真ん中の道、どっちつかずの道という意味ではなく、両極端を離れた道のことを言います。 
釈尊は、禅定による修行を放棄した後、肉体を苦しめることによって、心の平静を得ようとする苦行主義に従って修行をされましたが、これも、さとりに至る道ではないと中止されました。しかし、欲望のままに生きる快楽主義に陥ったのではありません。苦行主義と快楽主義の両極端を離れた道、すこやかな精神と肉体によって、さとりを求めようという道でした。 
この「中道は、よく琴の糸に譬えられます。つまり、琴の糸は、たるんでいてはいい音が出ません。かといって張り過ぎては切れてしまいます。ちょうどいい張りの時に、きれいな音がでるのです。修行もそれと一緒で、緩すぎても(快楽主義)、張り過ぎても(苦行主義)タメなのです。さとりを完成させるためには、そのような「中道」を歩むべき事をまず説かれたのです。 
このように、「中道」は、もともと、修行の実践の上で語られていたのですが、次第に、ものの見方に関して、「中道」ということが言われるようになりました。つまり、「中道」とは、偏った見方をしないで、ありのままに見るという意味でも使われるようになったのです。これを如実知見(実の如く知見する)と言います。 
中道/「転法輪経」には、「中道」について、次のように述べられています。「修行者たちよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。一つは、さまざまな欲望に自己を奪われて快楽にふけることである。それは、低級なことであって無益なことだ。他の一つは、自らを苦しめることである。それは、下等であって無益なことだ。真理の体得者は、この両極端に近づかないで、「中道」 をさとったのである。それは、眼を生じ、認識を生じ、さとりに向かうものである」 
「中道の生き方」/私たちの生活の上で、中道的な生き方を考えてみると、「がんばりもせず、さぼりもせず、ほどほどに」という生き方と言うよりは、「がんばる時はがんばる。休む時は休む」という二辺にとらわれない生き方と言ったほうがよいでしょう。つまり、「中道」とは、苦と楽の直線上の中間点ではなく、苦楽を超えた高い次元に立つことなのです。  
中道2  
“中道”とは苦と楽のように相互に矛盾する2つの極端な立場から離れ、それを超越して実践することをいう。釈尊は当時一般的に行われていた苦行を6年間行った後、それが永遠の安らぎを与えるものではないと知った。苦行によっていたずらに身体を痛めつけても死んでしまっては安らぎを体験できないと考えた。そして瞑想のうちに悟りを開いた。  
釈尊は苦行主義と快楽主義のいずれにも偏らない「不苦不楽の中道」、八正道(八つの正しい行い)とりわけ“正定”という「坐って心を統一し、縁起(普遍的法)」をみる修行を実践することによって悟りを得た。初期仏教ではこの中道が主として説かれている(不苦不楽の中道のほかに、常住と断滅を否定した「不常不断の中道」、有と無に対する「非有非無の中道」などがある)。これらは1つの極端に固執した考え方を厳しく咎める理論である。この際、2つの極端を共に否定することは必ず二重否定の構造を有し、仏教の理想である涅槃にあい通じるところがある。  
釈尊は欲を肯定も否定もしなかったといわれている。もし欲を否定すれば、禁欲主義となりそれはつきつめると生活が成り立たず、ただ身体を痛めつけるだけとなってしまう。一方で欲を肯定すればこれもまた社会が成り立たない(実際当時アジタを代表とする快楽グループというものが存在したようである)。とにかく極端に偏ることが悪い欲であるとするのである。  
とにかく釈尊は“バランスのとれた”実践倫理としての中道を説いたのである。  
「君たち、出家者は二つの極端に近づいてはいけない。その二つとは、一つはいろいろの欲を貪り、執着すること。その行いは下劣で卑賤で、愚者のやることだ。賢明な人のすることではない。二つは身体を痛めつけて苦行をすること。それはただ苦痛だけが残り、意味がない。賢明な人のすることではない。君たち、ブッダはその二つの極端を捨てて、中道を悟ることができた。」 (相応部経典巻五、『如来所説』) 
 
四諦八正道

釈尊はさとりに向かう道として「中道」を説き、その具体的方法として「八つの聖なる道」と佃つの真軌を説かゎた。これが四諦八正道。 
釈尊は、さとりに向かう道として、「中道」について説かれた後、その具体的な方法として、「八つの聖なる道」をあげ、続いて「四つの真理」を説かれたと伝えられています。これが後に、「四諦・八正道」としてまとめられました。 
まず、「四諦」の「諦」は、訓読みにすると、「諦める」と読みます。「諦める」という言葉は、現在は、仕方がないと断念するという意味で用い、あまりいい印象はありませんが、もともと「諦める」とは、「明らかに見る」といういい意味だったのです。 
つまり、「諦」とは、明らかに見たもの、「真理」という意味なのです。ですから、「四諦」とは、「四つの真理」という意味です。具体的には、「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の四つです。 
「苦諦」とは、「人生の真相(真実の姿)は、苦である」という真理です。これは、人生の苦しい面のみを見る悲観主義の立場に立って言われたのではなく、あくまで、現実をありのままに見るという「中道」の立場に立って「人生は苦なり」と言われたのです。 
具体的にどのような苦があるかというと、「四苦八苦」があげられます。「四苦」とは、「生老病死」の四つ苦しみのことで、生苦(生まれる苦しみ)、老苦(老いる苦しみ)、病苦(病の苦しみ)、死苦(死ぬ苦しみ)のことを言います。 
「八苦」とは、「四苦」の他に八つあるのではなく、生老病死の四苦に、愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎む者と会わなければなら苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五蘊盛苦(思うようにならない心身から生じる苦しみ)の四つを加えて、「八苦」と言います。 
五蘊・五陰/五蘊(五陰とは)色・受・想・行・識のことで、仏教では人間は、この五種類の要素で成り立っていると説かれます。色とは物質、受とは感受作用、想とは知覚表象作用、行とは意志その他の心作用、識とは識別作用のことです。簡単に言えば、色とは肉体のこと、受・想・行識は、精神の働きを開いたもの、つまり、人間は、肉体と精神から成り立っているということです。  
私たちの思いは常に自己中心的で、現実が自分の思い通りになる事を望みます。この心が「苦」を生む根源なのです。 
釈尊は、「人生は苦なり」と、私たちの人生の現実を示されました。「四苦八苦」で表された苦しみは、人間として生まれたからには避けられない苦しみです。しかし、釈尊は、その苦しみの人生をごまかしたり、また、いたずらに嘆き悲しまれたりしたのではありません。苦しみの現実を克服すべき課題であると捉え、正面から向き合い、その原因を見極めていかれたのでした。 
それが二つ目の目の真理「集諦」です。 
「集諦」とは、「苦しみを招き集める原因は、煩悩である」という真理です。 
私たちは、苦しみの原因をすぐに外に求めようとしますが、実はその原因は、自らの内にある煩悩にあるというのです。 
例えば、老いること・病むこと・死ぬこと自体は「苦」ではありません。私たちは、生まれたからには、老病死を避けることができないにもかかわらず、いつまでも若くありたい、健康でありたい、いつまでも生きていたいと願います。その思いが、老病死を「苦」にするのです。 
私たちの思いは、常に自己中心的で、現実が自分の思い通りになることを望みます。釈尊は、この心が、実は苦しみを生む根源であると見抜かれたのです。そして、このように私たちの心身を煩わし悩ます心のはたらきを煩悩というのです。 
四苦 
生苦/「生苦」とは、生まれる苦しみということです。もう忘れてしまっているでしょうが、生まれるということば、肉体的苦しみ以上に、精神的な不安や苦悩は、大変なものだったはずです。ただし、生まれたことにより、老病死の苦があるわけですから、生まれる苦しみというより、老病死の苦を含めて、生きていることの苦しみと受け取った方が受け止めやすいでしよう。また、生老病死はすべて、自分の思い通りにならないという点からみても、生まれるということば、苦しみであると言えるでしょう。 
老苦・病苦/「老苦」とは老いる苦しみ、「病苦」とは病の苦しみということです。老いること、病むことには、肉体的にもいろいろな苦しみがあるでしょうが、それに伴って起こってくる、さまざま不安や悩みなど、精神的な苦しみのことをいいます。 
死苦/「死苦」とは、死ぬ苦しみということですが、死ぬこと自体の苦しみというより、死に対する不安から起こる苦しみのことです。  
釈尊が三つ目の真理として説かれた「滅諦」。滅諦とは苦を滅した境地が涅槃である、つまり苦の原因・煩悩が消えた状態がさとりであるという真理。  
人生は苦であり(苦諦)、その苦の原因は煩悩である(集諦)と見抜かれた釈尊は、三の目の真理として、「滅諦」を説かれました。 
「滅諦」とは、「苦(その原因である煩脳を滅した境地が涅槃(さとりの世界)である」という真理です。 
「涅槃」は、梵語ニルヴァーナの音写で、ニルヴァーナとは、もともと、「吹き消された状態」という意味です。つまり、涅槃とは、煩悩の火が吹き消された、さとりの境地のことをいいます。 
煩悩を滅した境地というと、心が空っぽになり、ボーつとした状態をイメージする人がありますが、それは違います。 
「煩悩が無くなる」と言うより、「煩悩でなくなる」と言ったはうがいいでしょう。煩悩は、自己中心の心から起こるものなので、自らを悩ませ煩わせます。「煩悩でなくなる」とは、自己中心の心を離れ、何ものにとらわれない平静で自由な境地のことですから、煩わされたり、悩まされたりすることばありません。 
さらに言えば、本当の意味で、他人の喜び悲しみに共感出来るような、豊かな心の状態をいうのです。 
三毒の煩悩/「煩悩」とは、心身を煩わし悩ます心のはたらきのことです。煩悩の数は、百八あるとも言われますが、煩悩の代表として、「三毒の煩悩」があげられます。「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の三つです。「貪欲」とは、貪りの心、「瞋恚」とは、怒りの心、「愚痴」とは、愚かな心のことです。これらの煩悩の根源は、「自己中心の心」 です。「貪欲」が貪りの心だと言っても、何でもかんでも欲しいわけではありません。お金は欲しいでしょうが、ゴミは要らないでしょう。友達は欲しいでしょうが、嫌な友達ならいない方がましでしょう。つまり、「貪欲」とは、自分にとって都合のいいものを貪り求める心なのです。「瞋恚」は、その反対で、自分にとって都合の悪いものを排除する心。そして、排除できなければ腹が立ちます。その怒りの心のことです。自分にとって都合のいいものを貪り求め(貪欲)、都合の悪いものを排除し、怒る(瞋恚)。このように自己中心の見方しかできず、真実が見えてない愚かさのことを「愚痴」というのです。そんな中で、他人を傷つけ、自らも傷ついています。この「三毒の煩悩」は、まさに、私たちの偽らざる現実を教えてくれているのです。  
苦を滅した境地がさとりであると示された釈尊は、次にさとりに至る方法を説かれました。それが四つ目の真理「道諦」です。 
人生は苦であり(苦諦)、その苦の原因は煩悩である(集諦)。そして、苦(その原因である煩悩が滅した境地が、涅槃のさとりであると示された釈尊は、次に涅槃に至る方法を説かれました。それが四つ目の真理「道諦」です。 
「道諦」とは、「苦(その原因である煩悩)を滅して涅槃のさとりに至る方法が、八正道である」という真理です。 
「八正道」とは具体的には、「正見」(正しい見解)、「正思惟}」正しい思索)、「正語」(正しい言語)、「正業」(正しい行為)、「正命」(正しい生活)、「正精進」(正しい努力)、「正念」(正しか思いの持続)、「正定」(正しい精神統一)です。 
この「八正道」の中、一番根本的なものは、第一番目の「正見」です。ここでいう「正しく見る」とは、偏った見方をせず、ありのままに見る(「中道」)ということです。正しく物事を見ること(正見)によって、正しく考え(正思惟)、正しい言葉も使える(正語)というように、それ以下のことが可能なのです。 
この八つの正しい道を歩むことによって、煩悩を滅し、涅槃のさとりに至ることができるのです。 
四諦八正道/釈尊の説かれた「四諦八正道」の教えは、医者が、病人を治療するのに似ていると言われています。医者は、まずお腹が痛いとか、頭痛がするとか、患者の現状を把握します。これが苦諦に当たります。次に医者は、その原因を探ります。お腹が痛む場合には、昨日、お腹を出して寝ていないか、今日、変な物を食べていないかなど。これが、集諦に当たります。そして、健康な状態を頭にイメージし(滅諦)、その健康体になる為には、どのような治療をすればいいかを考えます。お腹を温かくして休みなさいとか、この薬を飲みなさいとか。これが、道諦に当たります。医者は、体の病を治してくれますが、釈尊は、心の病を治してくださるのです。 
迷いの因果とさとりの因果/四諦の前半は、迷いの因果、後半は、さとりの因果を表すとも言われています。つまり、苦諦は、迷いの果(結果)であり、集諦は迷いの因(原因)です。滅諦は、さとりの果であり、道諦は、さとりの因です。このように、迷いの因果とさとりの因果を示すことによって、迷える人々をさとりに導こうとされたのです。  
 
祈りなき宗教

宗教と言えばや神仏にお祈りするもの。と思われがちですが、浄土真宗は全く違います。私の願いではなく、仏さまの願いを聞くのです。 
一般的には、宗教と言えば、神さまや仏さまの前で手を合わせ、自分の願いがかなうように祈りを捧げるものだと思っている人が多いようです。しかし、浄土真宗はそういう宗教とは、全く違います。 
浄土真宗では、仏さまに向かって祈るということばしません。もっと言えば、基本的には「祈る」という言葉も使いません。例えば、「健康をお祈りします」や「益々の発展をお祈りします」なども、「お祈りします」ではなく「念じます」という言葉に置き換えます。なぜかと言えば、「祈る」という言葉には、「神仏にお願いする」という意味があり、浄土真宗の教えに合わないからです。そこで、「心に強く思う」という意味の「念ずる」という言葉を使うのです。 
「祈る」という言葉にも「心に強く思う」という意味もあるので、そこまでこだわる必要も無いという人もいますが、やはり「祈る」という言葉には、「神仏にお願いずる」という意味あいが強く、浄土真宗の教えに生きるものにとって、その信心のあり方をはっきりさせるために、使わない方がいいでしよう。 
では、なぜ浄土真宗では「祈る」ということをしないのでしょう。それは、私たちの祈りはすべて自己中心の心から起こるものだからです。願いと言えば聞こえはいいですが、突き詰めればそれは欲望です。願いがかなえば感謝の心が起こりますが、かなわなかったら不平不満の心が起こります。それに、もし私の願いが全部かなったら、私以外の人にとっては、とてもいやな世界になるでしょう。 
そのように私たちの願いは、常に自己中心の心から起こるものなので、浄土真宗の本尊である阿弥陀如来さま(信仰の対象)にお願いしても願いをかなえてくれません。いくら一生懸命祈っても無駄です。無駄というより、自分勝手な願いをかなえてくださいと一生懸命になっている私に向かって、そんな自己中心的な願い(欲望)がかなうようにとお願いするのではなく、自己中心的な願いしか持てない自分を厳しく見つめ直し、正しい方向に向かって生きてくれよと願っていてくださるのです。 
つまり、浄土真宗では、私の願いをかなえてもらうのではなく、仏さまの願いを聞くのです。 
そこに、私が本当の人間として生きる道が見えてくるのです。  
 
縁起

仏教の根本原理をひと言で言えば、「縁起」であると言えます。それは文字通り「縁って起こっている」という意味です。 
仏教の根本原理をひと言で言えば、「縁起」であると言えます。 
「縁起」と言えば、「縁起がいい・悪い」という言葉を思い出す人が多いと思います。これは、仏教の「縁起」という言葉から生まれたものですが、本来の意味とは全く違います。 
「縁起」とは、文字通り、「縁って起こっていること」という意味です。もう少し詳しく言うと、「縁起とは、「因縁生起」を省略したもので、「すべてのものは、因縁によって、仮にそのようなものとして成り立っている(生まれ起こっている)ということ」です。 
「因」とは、直接原因、「縁」とは、間接原因のことです。例えば、花がここに咲いているとします。これを「果(結果)」とすると、その種が、「因」です。ただし、種があるだけでは花は咲きません。水・土・光などさまざまな条件がそろわなければ咲きません。これらが、「縁」です。花は、さまざまな因縁によって、はじめてきれいな花を咲かせているのです。 
また、種を「果」とすると、花(もしくは果実)が「因」となり、さまざまな環境的条件などが「縁」となります。 
このように、すべてのものは、因縁によって、成り立っているのですが、「因」「縁」「果」は、固定的なものではなく、それぞれの関係を表す言葉だということに注意が必要です。 
すべてのものは、お互いに、因となり縁となって繋がり合っているのです。このようなあり方を「縁起」というのです。 
つまり、「縁起」とは、「互いにもちつもたれつの関係にあること」といってもいいでしょう。 
縁起を正確に/AとBが存在し、お互いに関わり合っているのが縁起ではなく、関わり合いの中で、AとBが成り立っていると教えてくれるのが、縁起です。(例えば「聞き手」「話し手」という人が存在し、お互いが関わり合っているのではなく、「聞き手」によって「話し手」が存在し、「話し手」によって「聞き手」が存在するのです) 
兄と弟は、どちらが先に生まれたでしよう/当然兄が先に生まれたと答えるのが普通でしょう。しかし、縁起の教えから言えば、兄と弟は同時に生まれたのです。なぜなら、兄は、この世に誕生した時、一人の男の子であって、兄ではありません。弟が誕生すると同時に、その男の子が兄となるのです。また、弟も兄がいるからこそ弟なのです。このように、弟によって兄が存在し、兄によって弟が存在する。このようなあり方を縁起というのです。  
 
三法印

「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」この三つが仏教の根本である三法印。「法印」とは、仏教を特徴づける根本的な教えのことです。 
仏教の根本的なものとして、「三法印があります。「法印」とは、「仏教の教えの印」という意味で、仏教を特徴づける根本的な教えのことです。これは、仏教と仏教以外の教えを区別する時、基準となるもので、これに反するものは、仏教とは言えません。 
三法印とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つです。 
「諸行無常」の、「諸行」とは、「すべてのもの」、「無常」とは、「常では無い」ということです。 
ただし、常では無いといっても、人が、赤ちゃん1子ども→大人→老人→死人というように、段階的(生・住・異・滅)に変化する(「段階無常」) というのではありません。髪の毛や爪は、少しずつ伸び続けていますし、細胞レベルで考えれば、一瞬たりとも同じ状態では存在していません。このように、瞬間瞬間に生滅変化を繰り返している(「刹那無常」)という意味で、無常と言われているのです。 
つまり、「諸行無常」とは、「すべてのものは、瞬間瞬間に変化し続けているということ」です。 
第二に、「諸法無我」の「諸法」とは、「すべてのもの」、「無我」とは、「永遠に変わらない実体(我)は無い」ということです。 
釈尊以前のインドの哲学者たちは、身体と精神は変化するけれど、私の中に、永遠に変化しない「私」という固定的な実体があり、死後も永遠に不滅であると考えていました。インドでは、それをアートマン(我)と呼んでいました。現在の日本語で言えば、「霊魂」と言ってよいでしょう。 
釈尊は、「諸行無常」の原理から、すべてのものが変化するのに、アートマン(我)だけが変化しないということばありえない。それは、いつまでも不変でありたいという私たちの欲望や執着が生み出したものであると見抜かれたのです。 
それが、「諸法無我」(「すべてのものには、永遠に変わらない実体はないということ」) です。 
無常観/「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語に代表されるように日本人の無常観は、マイナスの側面のみで捉えられがちですが、無常は、必ずしもマイナス面のみでは無いということにも注意すべきでしょう。  
「涅槃」は梵語・ニルヴァーナの音写で、もともと、「吹き消された状態」という意味で、さとりの境地(涅槃)は、安らか(寂静)ということです。  
「諸行無常」「諸法無我」に続いて三番目は、「涅槃寂静」です。 
「涅槃寂静」とは、「さとりの境地(涅槃)は、安らか(寂静) であるということ」です。 
「涅槃」は、梵語ニルヴァーナの音写で、ニルヴァーナとは、もともと、「吹き消された状態」という意味です。つまり、涅槃とは、煩悩の火が吹き消された、さとりの境地のことをいいます。 
そして、そのさとりの境地は、絶対安定の安らかな境地であるというのです。 
これら、「三法印」の根底にある根本原理は、「縁起」 の法です。すべてのものは、縁起的存在だからこそ、常に移り変わるのであり(諸行無常)、永遠に変わらない実体は無いのです(諸法無我)。そして、これをさとった境地は、安らかなのです(涅槃寂静)。 
無常であることを知らず(受け入れられず)、常住であることを願うところに、苦しみが生まれます。 
また、永遠に変わらない実体が無いにも関わらず、それに執着することから苦しみが生まれるのです。 
四法印/三法印に、「一切皆苦」を加えて、四法印ということもあります。ただし、「一切皆苦」は、「諸行無常」に含まれると解釈して省略する場合と、「諸行無常」と「諸法無我」の二つの中に含まれると解釈して省略する場合とがあります。 
諸行と諸法/「諸行」も「諸法」も「すべてのもの」という意味ですが、正確に言えば、両者には相違があります。「諸行」の「すべてのもの」とは、因縁によって作り出されたもの(有為) のことで、「物(物質)」「者(人)」 のみではなく、状態や事柄なども含めます。現象といってもいいでしょう。「諸法」の「すべてのもの」とは、因縁によって作り出されたもの(有為) の他、因縁によって作り出されものではないもの(無為)、例えば、原理や法則なども含みます。例えば、諸行無常という教えは、「無我」ではありますが、「無常」ではないのです。 
涅槃/大乗仏教になると、涅槃は、静寂な境地であると同時に、積極的に利他活動を行う動的な境地であると説かれるようになります。  
 
仏教の伝承

結集(けつじゅう・経典の編集) 
釈尊の教えを正しく後世に伝えようと入滅から4カ月後に経典の編集会議が行われました。 
このような経典の編集会議を「結集」といいます。  
釈尊は、その生涯において、多くの人びとに教えを説かれましたが、それを、文字として残すということば、されませんでした。弟子たちも、それを記憶し、口伝えするのみだったので、正しく伝わらない恐れがありました。 
また、釈尊の説法は、「対機説法」とか「応病与薬」と言われるように、聞く人に応じて説かれたので、表面的には、さまざまな教えが存在したこともあって、正しい教えを文字として残す必要性が出てきたのです。 
さらには、「仏陀は亡くなられたから、もう我々は今から思うままの生活をしよう」と暴言をはく者すらあったと伝えられています。 
このような事情を知った弟子のマハーカッサパは、釈尊の教えを正しく整理して、後の世に残さなければならないと強く心に思い、そのことを多くの弟子たちに提案しました。 
こうして、釈尊入滅から約四カ月後いつ経典の編集会議(結集)が行われることになりました。場所は、ラージャガハ(王舎城)で、約五百人の弟子たちが集まり、座長にはマハーカッサパが推薦されました。そして、教法については多聞第一のアーナンダ(阿難)が、戒律については持律第一のウパーリ(優波離)が、大衆の前で述べ、皆でそれらが間違いない事を確認し、経典としてまとめられました。この最初の経典編集会議のことを「第一結集」といいます。 
経典は、厳密には、「経(スートラ)」と「律(ヴィナヤ)」とに分けられます。「経」とは、教法(教え)がまとめられたもので、「律」とは、戒律がまとめられたものです。また、この後、何度か結集が行われる中、「経」や「律」の註釈書にあたる「論(アピタルマ)」 が成立しました。この「経(経蔵)」「律(律蔵)」「論(論蔵)」を三蔵と呼びます。 
対機説法/教えを受ける者の素質(性格・能力)に適した教えを説くことです。「機」とは、仏さまに対して、教えを聞く人、救いの対象のことです。 
応病与薬/病に応じて薬を与えるということで、釈尊が、聞く人に応じて説法をされたことに誓えています。 
三蔵法師/経・律・論の三蔵に精通した僧に対する尊称です。ですから、三蔵法師は大勢いるのです。ちなみに、西遊記で有名な三蔵法師は、玄奘という名前です。  
 
仏教教団の分裂

釈尊滅後100年頃、教団内で戒律の解釈対立が生じました。そして伝統的保守派「上座部」と進歩的改革派「大衆部」に分裂しました。 
これを「根本分裂」と言います。  
釈尊が亡くなられた後も、弟子たちは、釈尊の説かれた教えに従って生活していましたが、釈尊滅後百年頃になると、教団の中で、戒律に対する解釈の相違が出てきました。進歩歩的な改革派の比丘(出家の僧侶)たちは、釈尊の精神を受け継ぐことが大切で、戒律は時代によって変化してもよいという立場をとり、戒律の一部に除外例を認め、ゆるやかにすることを主張しました。それに対し、伝統を守ろうとする保守的な長老たちは、釈尊の定めた戒律を厳格に守るべきだという立場をとり、それに反対しました。 
そして、その後、長老たちは、ヴァイシャーリーに約七百人を集めいつ戒律を中心にした結集(第二結集)を行いました。この会議に納得のいかなかった進歩的改革派の比丘たちは、約一万人を集めて別の会合を開き、独立を宣言しました。これに参加した比丘の人数が多かったので、「大衆部}と呼ばれています。これに対して、保守的な長老たちの一派を「上座部」と呼んでいます。 
このようにして、仏教教団は、伝統的保守派の「上座部」と進歩的改革派の「大衆部」の二つに分裂しました。これを「根本分裂」と言います。その後約百年の間に大衆部系統が細かく分裂し、次いでその後約百年の間に上座部系統が細かく分裂心強した。これを「枝末分裂」と言います。根本分裂の二部と枝末分裂の十八部を合せて、「小乗二十部」と言い習わしています。 
分裂の原因は、第一に戒律に対する態度の相違ですが、その他、経典の解釈の相違や地理的なものなどが考えられます。 
ちなみに、根本分裂以前を「原始仏教」、それ以後から大乗仏教興隆までを「部派仏教」と言います。また、「部派仏教」の教理を「アピタルマ仏教」と言います。アピタルマとは「法の研究」という意味です。 
アショーカ王/根本分裂が起こったのは、インド最初の古代統一帝国であるマウリヤ朝の全盛期、アショーカ王の時代でした。アショーカ王は、深く仏教に帰依し、国家を平一和に治めるために、仏教を取り入れました。 
アショーカ王は、仏教精神にもとづいた政治を行い、その施政方針を記した碑文を各地に建立しました。また、仏跡の保存に尽力し、多くの仏塔の建立も行いました。そして、周辺の国々に伝道師を派遣して、仏教の発展に努めました。  
 
大乗仏教

「大乗」とは「大きな乗り物」という意味です。自分一人だけの悟りを目指すのではなく、すべての人々を悟りに導くことを目指すのです。  
部派仏教の時代になると、それぞれの部派が独自の「経」と「律」を持つと共に、自分の部派の正統性を主張するために、多くの「論」が作成されました。また、王や長者などの有力な在家信者の保護を受けることによって、経済的基盤が安定し、比丘(出家の僧侶)たちは、次第に遊行生活をやめ、寺院に定住するようになり、教法の研究が盛んになっていきました。こうして、仏教が哲学的傾向を帯び、複雑化し、一般大衆から離れたものとなり、仏教本来の宗教性が失われていきました。 
このような仏教のあり方に対して、釈尊の根本精神に立ち返ろうとする動きが起こりました。そうして生まれたのが、大乗仏教です。 
「大乗仏教}の「大乗」とは、梵語「マハー・ヤーナ」の訳で、「大きな乗り物」という意味です。自分一人だけの悟りを目指すのではなく、すべての人々を迷いの世界かち悟りの世界に運ぶという意味で、大きな乗り物に譬えられています。つまり、「大乗仏教」とは、自らの悟りと共に、他人を悟りに導くことを目指す教えです。 
これに対して、自らの悟りのみを目指している「部派仏教」を「小乗仏教」と批判の意味をこめて呼びました。「小乗」とは、梵語「ヒーナ・ヤーナ」の訳で、「小さな乗り物」という意味です。 
仏教では、自らの悟りを目指すことを「自利」と言い、他人を悟りに導くことを「利他」と言います。「小乗仏教」は、「自利」のみを目指すのに対し、「大乗仏教」は、「自利利他」の完成を目指します。さらに言えば、「自利」よりも「利他」を強調するのが「大乗仏教」だと言ってもいいでしょう。また、仏のさとりを目指して修行する者のことを、「菩薩」といいますが、大乗仏教では、「利他」を強調するようになりました。つまり、「菩薩」 は「自利利他(特に利他)」の行を完成させて「仏」となるのです。 
ちなみに、「小乗仏教」では、仏と成った釈尊は別格であると考え弟子は、仏より僅かに下の「阿羅漢」に成ることを目指します。 
小乗仏教/「小乗仏教」という呼び名は、「大乗仏教」の側から、「部派仏教」(特に上座部系)を批判的に呼んだ呼び名ですから、正確には、「部派仏教」「上座部仏教」と呼ぶべきでしよう。  
大乗仏教の起源として考えられるのは、仏塔信仰・仏伝文学・大衆部系の部派仏教の三つです。  
大乗仏教の起源として考えられるのは、@仏塔信仰A仏伝文学、B大衆部系の部派仏教の三つです。 
部派仏教の時代になってからの仏教は、哲学的傾向を帯び、複雑化し、在家の信者たちから離れたものになってしまいました。そんな中で、在家の信者たちのよりどころば、仏塔でした。仏塔を礼拝供養することによって、釈尊を偲び、本来の仏教を求めたのです。 
また、その頃、多くの仏伝文学が作られました。釈尊を慕う人々の記憶の中で、釈尊が偉大になればなるはど、「わずか6年(29歳から35歳)で、あのようなすばらしい悟りを体得できるはずはない。きっと、前世でもっと修行をしていたはずだ」と考えるようになりました。そのような考えのもとで作られたのが、「ジャータカ」です。「ジャータカ」は、「本生譚」と訳され、釈尊の前世物語という意味です。 
「ジャータカ」の中では、釈尊は、さまざまな姿(主に動物)で登場し、他の為に自らのいのちをかけるような行い(利他行)をしています。 
 その功徳によって、この世であのようなすばらしい悟りを開いたと考えたのです(仏教で、前世や生まれ変わりを説いているのではなく、インド古来からの発想です)。 
ちなみに、釈尊の修行時代を「菩薩(悟りを求める人)」と呼んだのも、この頃からのようです。 
仏塔には、仏伝図やジャータカの彫刻が多いことから、仏塔信仰と仏伝文学が密接な関係であり、それが、大乗仏教の成立に大きな影響を与えたと考えられます。 
また、進歩的改革派の大衆部系の出家者の影響も大きかったと考えられます。 
仏教の流れ/インドから広く国外へ伝えられた仏教は、大きく二つの方向をたどっていきました。一つは、スリランカ、ミャンマー、イ、カンボジアなどの南方仏教(南伝仏教)、もう一つは、バミール高原を北に越えて、西域地方から中国へと伝わった北方仏教(北伝仏教)です。この北方仏教が、中国から朝鮮半島を通って、日本へと伝わってきました。前者が、小乗仏教(部派仏教) の流れで、後者が、大乗仏教の流れです。  
 
日本伝来と奈良・平安時代の仏教

538年、仏教が日本に伝来しました。そして、聖徳太子は仏教精神に基づく政治を行いました。その太子を、親鷲聖人は「和国の教主」とたたえられました。  
西暦五三八年、仏教が日本に伝来しました。仏教を受け入れることに、賛成派(崇仏派) の蘇我氏と、反対派(排仏派)の物部氏の勢力争いがありましたが、最終的には、蘇我氏が勝利し、仏教反対の勢力は、衰えていきました。 
推古天皇の時、摂政であった聖徳太子(574〜622)は、深く仏教に帰依し、仏教精神に基づく政治を行いました。「十七条憲法」の第一条には、「和を以って貴しとなす」、第二条には、「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧なり」とあり、生きる心構えと依りどころを、仏教に求めています。 
その他、法隆寺・四天王寺等の多くの寺院を建立し、また、仏教の研究も熱心に行いました。著作として、「法華経」「勝髴経」 「維摩経」の註釈書である「法華経義疏」「勝髴経義疏」「維摩経義疏」(「三経義疏」)があります。 
親鸞聖人ば、聖徳太子のことを、「和国の教主」とほめたたえておられます。 
奈良時代には、仏教は国家の保護を受け、ますます発展しましたが、鎮護国家の傾向が強く、いわゆる国家仏教という性格が明確になっていきました。 
国家は、「僧尼令」によって、得度・受戒の権限を掌握し、僧侶の生活までも厳しく規制していました。また、宗教活動は寺院内に限られ、国家の平安を祈ることを主な責務とし、一般民衆を教化することば禁じられていました(このような仏教を律令仏教と呼んでいます)。 
しかし、生活は国家から保証されており、国家は仏教教学の研究を奨励したので、南都六宗(三望論宗・法相宗・成実宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)が成立しました。ただ、ここで言う「宗」とは、現在の「宗派」ようなものではなく、学派的な存在でした。ですから、当時の僧侶は、一宗派に属しているのではなく、多くは二つ以上の宗を学んでいました。また、奈良の大寺には、多くの宗が同時にありました。 
平安時代には、伝教大師最澄が天台宗を、弘法大師空海が真言宗を開きました。最澄によって、得度・受戒の権限が取り返され、国家に対して主体性を持った宗派が成立しましたが、真言宗はもちろんのこと、天台宗も密教化し、国家や貴族の平安を祈願する祈祷中心の仏教、国家仏教の性質は残りました。 
ただし、民衆のための祈祷も行われたことや、天台宗の流れの中で、浄土教が発展したことによって、仏教が民衆に一歩近づいたと言ってよいでしょう。  
鎌倉時代の仏教 
鎌倉時代、民衆に仏教を広めた各宗の祖師方が出てこられました。その活躍によって、国家仏教に陥っていた仏教が、すべての人のための仏教、つまり仏教本来の姿にもどったのです。 
鎌倉時代になると、民衆の中に仏教を伝えた多くの僧侶が出てきました。 
鎌倉時代の仏教は、浄土教・禅・日蓮宗の三つの系統に分けられます。浄土教(念仏) の系統では、浄土宗を開いた法然、浄土真宗を開いた親鸞、そして、時宗を開いた一遍。禅の系統では、臨済宗を開いた栄西、曹洞宗を開いた道元。そして、もう一つの系統は、日蓮宗を開いた日蓮。浄土宗から出た一遍以外は、いずれも比叡山に学びながら、相次いで山をくだり、民衆に仏教を伝えていった人たちです。 
彼らの活躍によって、国家仏教に陥ってしまっていた日本の仏教が、すべての人のための仏教、つまり、仏教本来の姿にもどったと言ってよいでしょう。  
 
仏教1 日本伝来

 
 

仏教の日本への伝来についてお話しする前に、仏教が伝来した東アジア全体の状況を簡単にみておきましょう。中国では春秋戦国時代という長い分裂の時代を経て、ようやく前221年に秦による中国統一が実現しました。秦はすぐ滅亡しますが、その後を継いだ漢によって中国の古代帝国が完成しました。漢帝国は儒学を官学として国家体制を固め、その後の中国王朝のモデルともなりました。中国のこのような統一への動きは、周辺諸国へも影響を与えました。周辺地域である朝鮮や日本では、稲作に代表される文化が伝わります。しかし、漢の滅亡の後、中国が分裂状態に入ると、周辺民族の自立への動きがおこってきました。朝鮮では高句麗、さらには4世紀には南に新羅や百済がおこりいわゆる三国時代に入ります。日本では、3世紀には邪馬台国を中心とする連合がすすみ、4世紀には大和朝廷が成立することになります。漢滅亡後、中国では長く分裂の時代を迎えますが、6世紀の末には隋が中国を統一し、唐がその後をついで中国の統一王朝を完成します。中国における律令国家の成立は、周辺諸国にも刺激をあたえました。朝鮮では新羅が力をつけて7世紀には朝鮮半島を統一する律令国家を完成します。一方、日本は6世紀末に聖徳太子が現れて積極的に大陸の文物の導入につとめた。7世紀中ごろには大化改新を経て中央集権的な律令国家の体制を整えていくことになります。 
一方で、大乗仏教は西域を通じて1世紀には中国に伝わりました。その後、幾たびかの弾圧や迫害も受けましたが、中国の仏教は順調に発展をとげることになります。漢代は儒教が官学として確固たる位置をしめていました。しかし、漢帝国の滅亡から隋唐の約700年間は中国仏教の黄金時代といえます。特に、隋代には天台宗が、唐になると華厳宗が成立するなど中国仏教の成熟・繁栄期を迎えます。そのように考えてみると、日本の歴史において、弥生時代末期から古墳時代と飛鳥時代を経て古代律令国家の完成の時期は、中国仏教が揺籃期から完成期に向かう時期と一致することになります。日本の古代国家が仏教を積極的に取り入れていったのは、そのような中国の情勢をみると、ごく自然のなりゆきだったでしょう。 
日本への仏教伝来 
奈良の風景で、左が大仙稜古墳、いわゆる仁徳天皇稜と呼ばれる日本最大の古墳で、右が法隆寺の西院伽藍です。両者はそれぞれの時代を代表する建造物といえます。両者の間には約200年の時の流れがあるでしょうか。この両者を比べてみると、確かに、この200年間に何かが変わったことが分かると思います。何か土臭い古墳に対して、法隆寺の伽藍は文明の香りがするのではないでしょうか。古墳の写真は、建造当時はこのようなこんもりとした木々に覆われてはいなくて、拭き石で覆われていました。しかし、それにしても、この両者を支配している精神はまったく異なるものと言わざるを得ません。古代の日本は仏教に代表されるような大陸文化の摂取を通じて、国づくりをしてきました。法隆寺のこの西院伽藍に見られる精神が古代日本を形作ってきました。まずは、そのような精神がどのようなものであったのかを考えてみたいと思います。 
仏教が何時ごろ日本に伝わったかははっきりしません。大陸から渡来してきた人々の中には仏教を信じていた人々も少なからずいたと思います。しかし、仏教が正式に日本にもたらされた(仏教公伝)のは6世紀中ごろで、百済の聖明王が仏像と経典が伝えたのが初めと言われます。仏教はインドで生まれて以来、大きな発展をとげました。特に、大乗仏教が生まれ、中国に伝わる過程で、緻密な論理が展開されました。また、日本が大陸の影響を受けて古代国家を形成しようとしていく過程では、中国では天台宗や華厳宗のような壮大な思想体系が創り出されていくことになります。そのような仏教の哲理は、当時の日本人には無縁のものであったでしょう。古事記や日本書紀にみられる当時の日本人は、あまりに現世を愛した素朴な感性をもった人々でした。そのような日本にもたらされた仏教についての理解では、仏教は、蕃神(となりのくにの神)としてまだ仏と神の違いも知られていない現状で、呪術的な要素を多くもっていました。欽明天皇は仏教の受け入れに際して大臣たちにその是非を問いました。当時朝廷内では国際派の蘇我氏と国内派の物部氏が権力争いを繰り広げていましたが、この争いに仏教も巻き込まれる形になりました。受け入れを主張する蘇我稲目に対して、物部尾輿は「蕃神を拝めば国神の怒りを招く」として反対した。天皇は仏像を蘇我稲目に預け、礼拝するように命じます。しかしその後、疫病の流行したため、仏像と伽藍は物部氏に焼かれるなど迫害をうけます。その後、稲目の子の馬子は仏像を祭ることを許され、仏教は蘇我氏を中心とする渡来系氏族の多く居住していた飛鳥に根付いていきました。 
その後も蘇我氏と物部氏の勢力争いは激しくなっていきました。蘇我馬子は物部守屋を破り物部氏を滅ぼしますが、戦いの前に戦勝を祈って、寺院建立を発願しました。またこの物部氏との戦いには、まだ少年であった厩戸皇子(聖徳太子)も参戦しました。ヌルデの木で四天王像を作り、勝利した暁には寺院建立を発願しました。物部氏を滅ぼした後、馬子は飛鳥寺、厩戸皇子は四天王寺の建立に着手しました。 
四天王寺は大阪市天王寺区にあり、天王寺とも呼ばれています。聖徳太子への信仰が強くなるに従って太子ゆかりの四天王寺参りが盛んになりました。また、大阪湾に面する西門は極楽浄土の東門とみなす信仰がおこり多くの人々が参詣をしています。時宗の開祖の一遍も太子ゆかりのこの寺を訪れており、熊野参籠とともに一遍の宗教的体験の核ともなりました。 
飛鳥寺は蘇我氏の氏寺として創建当時はその威容を誇っていました。現在はその一部しか残っていませんが、創建当時は塔を中心の三方に金堂を配置した壮大なものでした。安居院に今の鎮座する大仏は止利仏師により造立された、日本で造られた最古の本格的な仏像です。12世紀末の火災で昔の面影を伝えるのは一部分になってしまいましたが、飛鳥大仏として有名です。 
高度な大陸文化への憧れや、己の力の誇示だけならば、仏像でなくとも寺院建築でなくともよかったはずです。大陸のすぐれた文物ならば仏像でなくとも、他にもいろいろあったはずです。仏教経典そのものを大切にすることもできたはずです。日蓮が法華経こそ信仰の対象であるといったように、経典を祀ることでも間にあったはずです。しかし、彼らは「人の形をした」仏像を拝みました。その仏像は、右手を広げて掌を拝んでいる人々にむけて畏れる必要はないと語りかけています(施無畏印)。また左手をそっと前に延ばしてお前の願うものを与えてあげようとやさしく語りかけてくれます(与願印)。施無畏・与願の印をした釈迦如来の前にぬかずいた古代の人々は何かを感じたはずです。仏像がこのように語りかけてくるものを無視しては、決して正しい仏像の理解にはならないのではないでしょうか。  
聖徳太子と奈良仏教 
聖徳太子は用明天皇の第2皇子として生まれ、おばにあたる推古天皇が即位すると摂政となり(593)、蘇我馬子とともに政治を担当しました。小野妹子を遣隋使として派遣し、仏教に代表される大陸のすすんだ文化を積極的に取り入れました。内政では冠位十二階を制定して、氏族制に基づく世襲制を打破して、人材登用の道をひらき、憲法十七条を制定して、役人の心得を示し、天皇への服従を要求しました。また太子が派遣した留学生が帰国後に、大化改新の理論的な指導者となったこともあって、聖徳太子は天皇中心の律令国家建設の先駆者とも評価されることがあります。 
聖徳太子は不思議な存在です。日本初の仏教理解者とされ、法隆寺や四天王寺など多くの寺院を建立しました。最澄をはじめ歴代の日本の仏教を代表するものから尊敬を受けています。親鸞は人生の決定的な分岐点で聖徳太子の影響を受けましたし、時宗の開祖の一遍が遊行上人と呼ばれるようになるきっかけとなった旅の出発も聖徳太子による四天王寺でした。聖徳太子というおくりな(諡号)も死後の太子への尊敬の念をあらわしているでしょう。しかし、聖徳太子の実像はそれほど明確ではありません。後世に太子を聖者として讃える太子信仰が、太子の実像をゆがめていることもあります。聖徳太子の著した「三経義疏」の内容が、敦煌で発見されたものと似ているということから、三経義疏が太子の作ではないとの意見もでてきています。 
初めに、太子による十七条の憲法を見てみましょう。一条和を以て貴しとなす、と和を強調しています。第二条篤く三法を敬えとあり、仏法僧の三法への恭順を命じています。これらのことは有名ですが、紹介したいのは十条です。人に対して怒るな、自分と違うことを怒るな、という行です。人はそれぞれに心があり、とらわれていることがある。相手が正しければ自分は違えており、またその逆もある。自分が必ずしも聖ではなく、人が必ずしも愚かであるのでもない、ともに凡夫である。自己を正当性のみを主張することなく、ともに過ちの多い悟りきれない凡夫である、との自覚は、現代にも必要なことでしょう。「凡夫の自覚」は太子の仏教理解を示しているのでしょう。 
また、太子の晩年の言葉として、「世間虚仮 唯仏是真」とあります。これも太子の仏教理解の傍証とされるものです。 
「三経義疏」と見てみましょう。三経とは「維摩経」「勝鬘経」「法華経」の三つの経典で義疏とはその意味についての注釈です。この作品については太子の真作であることに疑義をさしはさむ考えもあるようですが、それにしても、数ある大乗経典のなかでこの三つを太子が選んだとしたら、それだけで、太子の仏教理解の一端を垣間見られると思います。「維摩経」、在家の仏教徒である維摩が仏陀の弟子である出家者をこっぴどく打ち負かすというプロットは、出家中心主義の上座部仏教への批判を含んでいるでしょう。「勝鬘経」は在家の夫人である勝鬘(シューリーマーラー妃)の話を仏陀がよしとするものです。衆生は煩悩にまとわれているが、本性は清浄であり、仏陀となりうる性(如来蔵)を備えているというものです。如来蔵とは悟り(如来)を胎内にやどしている(蔵)ということで、仏性とも呼ばれるようになります。神護寺・楼門近くの立て札「月が雲に隠れていてもなくなったのではないと同じように、善心が悪心に隠れていてもなくなったわけではない」というものです。これも如来像(仏性)のことを言っているのだろうと思います。「法華経」は「般若心経」とならんで日本では最もよく読まれた経典です。法華経には一乗思想といって、誰でも救われるという考えがあります。大乗仏教では上座部系の仏教は小乗仏教であって、それでは救われないと考える向きもありました。それに対して、法華経では小乗仏教の教えは確かに優れた教えではないが、それもモノ分りの悪い子どもを救うための方便であって、大乗も小乗も人を救いへともたらす一つの乗り物であるだというものです。天台宗はこの「法華経」を一番評価する宗派です。 
これらの三つの経典は大乗仏教を代表するものです。また、これらの経典に共通したものは、聖と俗とを分けて聖を強調するという態度を否定しているところだと思います。泥の中でこそ美しい花を咲かせる蓮華に象徴される大乗仏教の精神を表しています。聖徳太子は出家者ではありませんでした。維摩のように在家者でした。また、勝鬘夫人の説を仏陀がよしとすることと、推古天皇を是とすることは関係があるかもしれません。聖徳太子はその影響力からいっても、日本仏教を理解するためのキーパーソンと言えそうです。聖徳太子は仏教を奨励し、仏教によって国のありかたへの指針を示そうとしました。そのような聖徳太子の方向性の先に、仏教によって国家の安泰をはかろうとする奈良仏教の鎮護国家があります。 
奈良仏教 
710年に都が平城京に移され、多くの寺院も平城京に移動しました。奈良仏教は南都六宗といいます。倶舎、成実、律、三論、法相、華厳の六つの宗派ですが、これらは宗派というよりも大学の学部といったようなもので、一寺院の中に諸派が同居して研鑽に励むものでした。学問仏教とも言えるでしょう。仏教を中心とする奈良時代の文化は天平文化と呼ばれ、その中心は聖武天皇です。天皇は仏教の力で国の安寧をはかろうと、741年に国分寺建立の詔を出し、743年には大仏建立の詔を出しました。それにより国ごとに国分寺と国分尼寺が、都には大仏が造られることになりました。 
華厳経の世界 
東大寺の宗派である華厳宗は唐の初めに中国で成立したものです。当時最先端の宗派でした。 大乗仏教は仏陀以外にさまざまの仏や菩薩を生み出しました。西方極楽浄土の阿弥陀仏、東方浄瑠璃浄土の薬師如来、補陀落浄土の観世音菩薩、未来仏である弥勒菩薩などは有名ですが、それ以外にも多数の仏や菩薩が生み出されました。そうなると問題が生じます。一体、これらの仏や菩薩の関係はどうなっているのだろうか。もっと平たく言えば、これらの諸仏のなかでどれが一番偉いのだろうか、という問題です。そこで考え出されたのが法身仏という考えです。仏教の真理そのもの、根源的な仏、それが法身仏で、すべての仏は法身仏の現れである、との考えです。そのような仏が東大寺大仏殿の盧舎那仏です。 
「西遊記」の孫悟空が、空を飛んで遥か遠くの某に文字を書いて帰ってくるとそれはお釈迦様の手の中での出来事だったとう話があります。華厳経の考えと似ているところがあります。華厳経では、すべては無数の縁で相互に関係しあっていると考えます。すべてはつながっています。それ故、華厳では、小さな一つの毛穴の中にも仏の世界があると考えます。大仏殿には盧舎那仏が鎮座していますが、その座っている蓮華の花の連弁には仏の世界が描かれています。この連弁の一枚一枚にも無限の宇宙があるというのです。すべては盧舎那仏の表れです。広大な盧舎那仏は微細なものの中にも現れます。 
聖武天皇が華厳の深遠な哲理をどれほど理解していたかは分かりません。しかし、東大寺に盧舎那仏をおき、各地の国分寺に釈迦仏などををおくことの意味は明瞭です。中央集権の律令国家を仏教で支える鎮護国家としての仏教、それが奈良仏教の政治的な意味であったのでしょう。  
 
奈良仏教
743年聖武天皇は大仏建立の詔をだしました。仏教の力で国家の安寧を図ろうとする鎮護国家の精神にもとづいてです。この国家的な大事業は困難を極めましたが、大仏建立に際して大きな役割を果たしたのが行基です。行基は民間で活躍をしていた僧侶で、仏教を伝道し、橋や堤を作る土木事業にも尽力しました。言い伝えによると、彼を慕い集まる庶民はしばしば1000人を数え、説法を聞き、また土木事業を習得した行基の指導に従って橋や堤を造った。しかし、当時の僧尼令では寺院の外で仏教の布教をすることは違反とされていました。それ故「百姓をまどわす」ものとして警戒されていました。大仏建立事業が始まり、多くの人々の協力が必要になると、政府も行基の力を必要とするようになります。行基も大仏建立に協力をして大いに貢献しました。行基は749年に82歳でなくなります。大仏開眼には間に合いませんでしたが、小僧行基とさげすまれていた彼は、大僧正行基と尊敬されるようになります。行基がどのような人物であったか、よく分かりません。しかし、日本の仏教の歴史の中には、民間仏教者とでもいう流れがあります。それは平安時代に引き継がれます。市聖と尊敬された空也はその代表でしょう。そのような民間仏教者の祖のようなものが行基とも言えそうです。 
大仏開眼 
752年聖武上皇、孝謙天皇らの他に文武百官や中国やインド、ベトナムから渡来した僧侶らが列席するなかで、高さ約16mの黄金に輝く盧舎那仏の開眼式が行われた。導師にはインド僧の菩提僊那が務めるというように、国際色豊かな開眼式でした。天平文化の国際性を暗示している。 
天平の甍 
大仏開眼は鎮護国家としての国家仏教を象徴する出来事でした。しかし、仏教を中央集権的な律令国家の基本とするためには、まだやり残していることがありました。国家の役人としての僧侶の権威付けです。当時、僧侶は特別の扱いとして、課税の対象からはずされていました。そのためもあったでしょう。多くの人々が自ら出家をして僧となることをしました。このような僧侶は私度僧と呼ばれ、官許なしに僧となることは禁止されていました。しかし、民衆の支持もあって、私度僧はあとをたちませんでした。行基も民衆に人気を博した私度僧の一人でした。正式の僧侶となるための戒壇院の設立は差し迫った問題でした。 
東大寺の大仏殿の西側に戒壇院があります。東大寺創建当時、唐では正式の僧侶となるためには、受戒といい戒壇で戒律を受ける儀式が必要でした。この時に受ける戒律は具足戒といいます。具足戒は比丘(男性)の場合は250戒、比丘尼(女性)の場合は348条にのぼりました。具足戒を受けるには三師七証といって、3人の師と7人の証人が必要でした。つまり10人の高僧が必要でした。当時、日本ではそのような正式の具足戒を授ける仕組みも整っていませんでした。僧侶の世界では正式な戒壇院で受戒することが正式な僧侶として認められる要件でした。言わば、僧侶としての一年生にあたります。唐にわたった日本の僧侶がどれほど日本で経験豊かな僧侶であっても、唐についてから先ず具足戒を受けなくてはなりません。それ故、日本の僧侶は法会の席では新羅からきた若い僧侶よりも末席に座らなくてはなりませんでした。それ故、戒壇院の設立は国内的にも対外的にも、必要不可欠でした。 
そのような要請のもとに招かれたのが鑑真でした。当時、すでに唐で名僧と尊敬されていた鑑真は、師の渡航に反対する弟子たちの妨害や、難破などのために5回のとこうに失敗した後、6度目にようやく渡航に成功しました。しかし、その時には、鑑真自身は視力を失うなどの辛苦をなめた渡航でした。来日した鑑真は、大仏殿の前に臨時の戒壇を築き、聖武上皇らに菩薩戒を授けました。その後、大仏殿の西側に戒壇院を設立し、ようやく日本にも正式の戒壇院に登り、具足戒を受けるという制度が確立することになりました。 
鑑真の晩年は決して恵まれたものではありませんでした。鑑真の日本への渡航は戒律を日本に伝え、多くの僧侶をつくることでした。しかし、当時の政府の意図は、むしろ僧侶の門戸を狭めることでした。晩年の鑑真は大僧正の任を解かれました。彼は唐招提寺の建立に力を注ぎました。唐招提寺は落ち着いた風格のある古寺です。唐招提寺には国宝の鑑真和上像があります。言い伝えでは、結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じた鑑真和上の姿を写した像ということで、鑑真の姿をよく伝えているといわれます。 
若葉して、おん眼のしずく、ぬぐわばや [芭蕉] 
鑑真が日本にもたらしたものは戒律ばかりではありません。天台宗にも詳しかった彼は天台の経論も多くもたらしました。やがて、天台は最澄によって再発見されることになります。とにかく、鑑真によって戒壇院が設立され、仏教も僧尼令のもとに国家統制の下に入りました。その後、戒壇院は筑前観世音寺と下野薬師寺にも作られ、三戒壇となりますが、とりわけ東大寺の戒壇院は大きな権限を持ちました。僧侶となるためには東大寺の戒壇院で受戒しなくてはならなりませんでした。後に最澄が天台宗を開き、弟子の養成にいくら力をいれても、最終的に東大寺で受戒をする段になって、思うように受戒を受けられなかったり、または受戒をした弟子が叡山にもどらなかったりすることがありました。叡山に大乗仏教の精神にのっとった大乗戒壇院を設立することは、最澄の悲願となりました。しかし、かれの生前にはこれは実現しませんでした。今でも、東大寺の戒壇院では30年に一度、受戒が行われているとのことです。 
天平文化 
三月堂は堂自体が国宝です。東大寺に残る建築物の中で一番古いもので、奈良時代のものです(一部は鎌倉時代)。このご本尊は不空羂索観音。日光・月光菩薩も国宝です。その他にも多くの国宝があり、三月堂(法華堂)は「天平仏の宝庫」といわれるように、堂内には仏像がところ狭しと並んでいます。阿修羅像はあまりにも有名です、修羅場といわれるように、阿修羅はインドの神に激しく戦いを挑む悪魔でした。しかし、この激しさが仏法を護るための護法神として取り入れられることになります。国宝館は藤原氏の氏寺としての往時の興福寺の力を示すみどころがいっぱいあります。天平仏ではありませんが、旧山田寺の仏頭は白鳳時代を代表する国宝で見逃すことができないでしょう。それと戒壇院の四天王像です。 
奈良から平安へ 
奈良仏教は聖武天皇に代表される国家仏教、鎮護国家をめざすものでした。自らを「三法の奴」とした聖武天皇のもと、仏教と国家は結びついていきます。そのような状況のなかで道鏡の問題が生まれました。道鏡は法相宗の僧侶でしたが、聖武天皇の娘であった称徳天皇の病を呪いで治療したことがきっかけで称徳天皇の寵を得るようになりました。おそらく恋愛感情もこめられていたでしょう。766年道鏡は法王となり、天皇と同じ待遇をえることになりました。769年「道鏡を天皇にすれば国が平和になる」との宇佐八幡宮のお告げがありました。女帝は和気清麻呂を派遣してその真偽を確認してくるように命じました。しかし、清麻呂は女帝と道鏡の期待を裏切って「皇族が後を継ぐべき」との報告をしました。道鏡は怒り、清麻呂を穢麻呂、清麻呂の姉の広虫を狭虫として備後に流しました。称徳天皇の死後、その後ろ盾を失った道鏡は下野の薬師寺に左遷されました。道鏡事件は、政治と仏教の結びつきから生じた仏教の堕落を露呈することになりました。その後の光仁天皇・桓武天皇の課題は、人心の一新、政治の建て直し、また、仏教界の堕落に対して厳しい取締りを行うことでした。桓武天皇は794年平安遷都を行いました。天皇は奈良仏教の寺院が平安京に移動することを禁止しました。桓武天皇は恐らく坊主を嫌っていたでしょう。その様な天皇にとって、純粋な修行僧であった最澄は、従来の僧侶にはない新鮮さを感じたことでしょう。やがて、天皇は最澄の支援者となっていきます。奈良仏教と平安仏教の相違は明瞭です。国家仏教、鎮護国家の奈良仏教に対して、平安仏教は都から山にこもりました。若き最澄が奈良仏教の堕落を嫌って叡山にこもったことに象徴されるように、初期の平安仏教は山岳仏教でした。最澄が比叡山、空海が高野山を拠点としたことは有名です。女人高野と呼ばれた室生寺を訪れれば、奥の院への道を歩むうちにそのことが納得されるでしょう。  
 
最澄と日本天台宗
最澄と空海の話をしたいと思います。この二人は平安仏教のリーダーとも言うべき人物ばかりではなく、日本の仏教史において決定的な役割を果たしました。日本では仏教が民衆のものとなり、日本人のものとなったのは鎌倉仏教からだと、よく言われます。しかし、日本の仏教では、この最澄と空海によって本格的な思索が始まったといえます。奈良時代の国家仏教とはことなり、最澄も空海も山に篭り自らの救いを求めてひたすら修行をしました。京都の仏像などの文化財のかなりの部分は空海がもたらした真言密教とかかわりのあるものです。最澄が開いた比叡山延暦寺は、仏教の言わば総合大学として、多くの仏教青年をひきつけてきました。一遍をのぞくほとんどすべての鎌倉仏教の開祖も、一度は叡山に上り修行をした後、下山して自らの信念のもとに新仏教を人々に説き始めました。この二人をおいて、日本仏教は語れないでしょう。 
最澄と空海は最澄が7歳ほど年長ですが、ほぼ同時代の人です。804年に二人は奇しくも遣唐使とともに唐へ渡りました。最澄はすでに桓武天皇の支援のもとに活躍をしていましたが、空海はまだ無名の修行僧でした。当時、遣唐使は四隻の船で編成されることになっていました。当時の航海技術では四隻に一隻つけばよいと考えられたのです。それほどの危険を冒してでも、大陸のすすんだ文物をもたらすことの必要性があったわけです。実際、その時には四隻のうち一隻は行方不明、一隻は渡航に失敗して日本に戻りました。最澄と空海は別々の船に乗っていましたが、奇跡的に両者の乗船した船だけが、唐に到着することができました。両者の出会いと決別は神護寺を舞台におこりました。以下は最澄のお話が中心です。 
最澄 
最澄は近江の国(滋賀県)に生まれました。12歳で近江の国分寺に入り、19歳で東大寺戒壇院で受戒をして正式の僧侶となりました。しかし、南都の堕落した仏教、腐敗した空気に耐えられなかった彼は、比叡山にこもって修行する道を選びました。現在でも比叡山は所によっては人里離れた感じがします。当時は本当に未開の山だったと思います。叡山にこもるにあたって彼が書いた「願文」があります。願文とは神仏を前に誓うことで、その文章を見ると、真面目で直向きな最澄の姿が浮かび上がってくるようです。 
厳しい無常観に立ち、更に厳しく自己を反省する最澄。「愚の中の極愚」「狂のなかの極狂」と自己を見据えた彼は、六根清浄の境地に達しないならば山を下りないと決意します。六根清浄とは限耳鼻舌触意、つまり視覚と聴覚と臭覚と味覚と触覚と心の感覚の全てが清浄となることで、人間が到達しうる最高の境地を言います。例えば昔の富士登山の時に「六根清浄、お山は晴天」と歌いながら登山をする風習が(恐らく富士信仰の中から生まれた)ありました。また、修験道(山伏)の修行の時も、「六根清浄、懺悔、懺悔」と唱えながら修行の道を進むことがあつたといわれています。日本に古代からある山岳信仰に仏教が結びついて生まれたものではないでしょうか。 
今は根本中堂となっている地に一乗止観院を立てて修行を続ける最澄は、やがて中国の天台宗と出会い、天台宗の教えが彼の心の中心となっていきます。天台宗は中国の隋の時代に天台智によって基礎づけられたもので、法華経を最重要の教典としながらも、多くの仏典を総合的に位置づけた壮大な体系的内容をもっています。 
一念三千 
天台には一念三千という考えがあります。 
三界/仏教ではこの世界のことを三界といいます。「女三界に家なし」ということわざがありますね。三界とは欲界と色界と無色界です。欲界とは最下層の世界で、淫欲・貪欲を有する衆生の住むところです。色界とは欲界の上、欲を離れた清らかな世界、無色界とは、色界を越えた最上の世界で精神のみが存在します。優れた瞑想に入っている者のみが生まれる世界で、その最高所が有頂天といいます。 
六道輪廻/欲界の衆生の輪廻を六道輪廻と言います。六道とは地獄、餓飢、畜生、阿修羅、人間、天です。天とは仏教に取り込まれた神のことで、仏教では天も輪廻を繰り返すと考えました。衆生はこの六つの世界を繰り返し輪廻する苦しみを負っています。村のはずれの辻などに六地蔵が置かれているのをよく見かけますが、それは六道を輪廻する衆生を導くために六体の地蔵が置かれたものです。しかし、仏教では、この六つの世界の他に、あと四つの世界を考えます。それが声聞と縁覚(独覚)と菩薩と仏です。声聞とは仏陀の声を聞いて悟りを開く、つまり出家をした仏陀の弟子を意味します。縁覚(独覚)とは仏陀に教えを乞わなくとも自力で悟りを開いた人です。この声聞と縁覚(独覚)は大乗仏教からは小乗とさげすまれていて、劣ったものとされています。六道に四つの世界を加えて十の世界を十界といいます。しかし、天台ではこの十の世界はそれぞれに他の九の世界を備えていると考えます。「地獄に仏」ということもありますね。またそれぞれに十の相と三つのあり方があります。つまり10×10×10×3と全部で三千の世界が考えられます。つまり私たち凡夫が日常生活においておこす一瞬一瞬の心が三千の世界を映すというのです。例えば、日ごろ心が穏やかな人も、何かの機会に人が自分に言った一言にかっとなってその相手を睨むとき、その人の心は阿修羅となっています。それ故、瞬時の油断もなく、心の中にある仏の世界を観ようとする修行が重要になってきます。 
 
比叡山で修行を続ける最澄は、やがて禅や華厳をへて天台に心をむけていきました。叡山にこもってから三年後に一乗止観院をたてますが、これが延暦寺の始まりとなりました。一条止観院という命名からも、すでにこの頃から最澄の中には法華経と天台宗が重要な位置をしめてきたことがわかります。 
最澄と桓武天皇が急接近していくのは、最澄が36歳の時に和気弘世らの要請をうけて高雄山寺(神護寺)で天台宗の集中講義を行ったことからでした。道鏡事件に代表されるような腐敗した奈良仏教を経験してきた坊主嫌いの桓武天皇にとって、最澄は従来の僧侶にないひたむきさを持っていたでしょう。以後、最澄は桓武天皇という強力な保護者を得ることになります。 
804年、38歳の最澄は桓武天皇に願い出て、遣唐使の一団とともに唐に赴きました。奇しくも、同じく別の船で空海も唐に向かったことは前述の通りです。すでに高名な最澄は唐での長逗留を許されずに還学生として渡りましたが、まったく無名だった空海は20年の滞在義務を伴う留学生としてでした。唐における最澄は、天台山に赴き本格的に天台宗を学び取るなど、精力的に動きました。彼はまた、密教の必要性も強く感じていて、そのための勉強をしたいと思っていましたが、還学生として一年の期間しかあたえられていなかった最澄にとっては、密教を十分に自分のものにする時間がありませんでした。 
帰国後の最澄は、密教の教えも伝えながら天台宗を広めることに力を注ぎます。806年には年に2名の僧侶を天台宗から認められるようになって、天台宗を開くことになります。 
しかし、順調にみえた最澄のキャリアにも強力な保護者であった桓武天皇の死を機に陰りが見え始めます。元来は天台を一番と考えていた最澄でしたが、彼を取り巻く貴族たちはむしろ加持祈祷をこととする密教を強く望んでいました。密教の重要性を最澄は十分に認識していましたが、最澄自身が密教についての不勉強を十分意識していました。そのような中で、密教を会得して唐から空海が帰国をします。一方で、中国文化にも強い憧れをもち、また書道にもたけていた嵯峨天皇が、文化的オールマイティーで、しかも嵯峨天皇とともに後世に三筆と賞された空海に対して、強い好意をもつようになります。 
最澄が空海の存在を強く意識するようになるのは、空海が朝廷に提出した請来目録を目にしてからでした。そこには、最澄が唐で学びたいと考えていた密教関係の経典などが並んでいました。それらの経典の名前を目にした時、恐らく、最澄は空海がどれほどの勉強を密教に関してしてきたかを即座に理解したに違いありません。自分に足りないものがあることを自覚した最澄は、空海に教えと請うことになります。とりわけ、密教関係の経典を借用するために、最澄は空海に礼を尽くして接近しました。812年最澄は高雄山寺で空海から灌頂を受けます。空海から灌頂を受けるということは、密教に関して最澄が空海の弟子になったということを意味します。神護寺の本堂には空海が何時どこで誰に灌頂を授けたかという覚書(灌頂暦名)があります。高名な最澄が空海から灌頂を受けたということは、空海のキャリアにとっては決定的といえるほど大きなことだったでしょう。 
その後も最澄と空海の関係は続きますが、次第に相互に溝ができていきました。名前の通り、あくまでも純粋な最澄に対して、清濁あわせ飲むというスケールの広い空海の人柄が両者の仲を遠ざけることになったように思えます。最澄の一番の望みは、空海の持つ経典の借用でした。しかし、空海にとっては密教とはあくまで、書物でまなぶものではなく、修行を伴うものでした。そのようなわけで、修行を必要とする密教を経典からのみ学ぼうとする最澄の態度への不信をつのらせていったでしょう。やがて、経典の借用を空海が拒絶したこと、また最澄の最愛の弟子であり密教の学習のために神護寺に派遣されていた泰範が叡山にもどらず、最澄が叡山に戻ることをすすめた泰範への手紙にたいして、空海自身が返事を出して、そのなかで最澄の仏教理解を激しく批判したことなどから、両雄の決別は決定的となりました。 
最澄と空海は決別して別の道を歩むようになります。最澄はその後、二つの大きな戦いを強いられることになります。法相宗の僧侶であった徳一との間で法華経の一乗思想を巡る論争がその一つ。それと大乗戒壇院の設立問題がもう一つです。 
一乗思想とはすべての人には仏性があり、必ず成仏するとの主張で、それに対して、人間の中にはどうしても救われないものもある。誰でも救われるなら、何を好んで厳しい修行をすることがあるかとする徳一との間の論争でした。論争がどちらかが勝ったということではありませんでしたが、徳一側の主張は残されていません。 
大乗戒壇院は、最澄が比叡山に大乗仏教の精神に基づいた戒壇院の設立を朝廷に願い出たことから始まります。当時、正式の僧侶になるためには東大寺の戒壇院で受戒する必要がありました。最澄が折角苦労をして育てた弟子たちが東大寺に受戒のために赴いても、なかなか最澄のもとにもどらないことがありました。南都の僧侶たちが最澄に意地悪をしたこともあったでしょう。または、天台宗では叡山で厳しい修行を課していましたから、叡山を降りた弟子たちが、再びあの厳しい修行を続けることに気後れをしたということもあったでしょう。 
最澄は東大寺の戒壇院での受戒の問題点を指摘します。受戒にあたって比丘たちが誓う250の戒律は小乗仏教の戒律であって大乗の精神を表していない。また三師七証というように十人の僧の前で誓うことについても、最澄は批判をします。本来は近いは仏の前でおこなうものであると。最澄のこのような姿勢は、戒律の内面化と言ってよいでしょう。晩年の最澄は戒壇院設立をめぐって南都との論争に終始しました。822年最澄は倒れ、56歳の生涯を閉じました。最澄の死の報告を受けて、朝廷も長年の彼の功績を思い比叡山に戒壇院を設立することを認めました。 
最澄と空海という二人は、決別後、それぞれ別々の道を歩みました。空海は南都の仏教とも融和的が関係をたもち、着々と平安仏教における不動の地位を築いていきます。真言密教を理論的にも完成し、高野山を開き、京都の東寺(教王護国寺)を勅賜され真言宗の根本道場とするなど目覚しい活躍をしました。しかし、空海の存在があまりに巨大で、また彼の思想が完成していたこともあったからでしょうか。真言宗はその後の思想的発展が乏しくなりました。それに対して、最澄の開いた比叡山延暦寺は発展をつづけます。叡山は仏教の総合大学となり、多くの仏教青年が叡山に登り修行に励みました。鎌倉仏教の開祖の多くが、比叡山からでることになります。その意味では、最澄の思想の中に、先ほどの大乗戒壇院設立に見られるような、最澄の形式よりも中身を重視する姿勢の中に、鎌倉仏教を生み出す下地があったということができるのだと思います。  
 
空海と真言密教
空海が脚光を浴びるようになったのは彼が唐から帰国をした後ですが、彼の全半生は分からないことが多く、不明確です。四国の讃岐に生まれ、やがて上京、大学にも入りました。若くして「三教指帰」を著していますが、儒教と道教、それに仏教を比較して仏教が優越していることを論じています。その文章の流麗な文体、その他から、その素養はなみなみならないものです。実際、遣唐使船が中国の遥か南部に漂着した時、現地の役人の非礼な扱いに対して、空海が大使に代わって書状を送っています。このことなどその時点で空戒が中国語(漢文)を自在に駆使できるまでの修養を身に着けていたことを証明しています。とにかく、空海は四国の各地で修行をしていたようです。恐らく、自ら出家をして僧となった私度僧として、厳しい修行を自らに課していたのでしょう。31歳で遣唐使船に乗船して唐へ行きましたが、恐らく、その直前に東大寺で正式に受戒をしたのでしょう。唐では長安で恵果から真言密教を学び、二年間で秘法の伝授を受けて帰国しました。帰国後ほどなく神護寺に入り、真言密教の布教に努めました。高野山を開いて金剛峰寺を創建、また京都の東寺を勅賜され、そこを真言宗の根本道場としました。62歳で高野山で入滅しました。 
真言密教 
密教は従来の仏教とはどことなく違った雰囲気をもっています。例えば、密教では大日如来を根本にすえていますが、この大日如来は、他の如来と異なって、宝冠その他の装身具を身に着けています。また、従来の仏教を顕教と呼ぶのに対して、密教は従来の仏教と自らの仏教を峻別して「密教」と呼びます。この違いは何でしょうか。 
密教は仏教ではないとの考えもあります。仏教では絶対的存在を否定しています。仏陀が諸行無常という時、ブラフマンのような永遠的存在は無いということを言っています。縁起ということはすべてが相互に依存しているということです。そして、「空」ということも「実体が無い」という真理を表しています。確かに、「真如」とか「実相」という言葉は何となく「絶対的真理そのもの」を表しているようにも見えます。しかし、それは仏教的な真理、つまり全ては絶対ではない、永遠の実体は存在しないとの真理を在るがままに捉えたことと関係があります。それに対して、密教では、この世界は六大とよばれるものからなっていると考えます。六大とは地、水、火、風、空の五つと、識、つまり心の六つです。六大から世界が成り立っています。物質的要素のみではなく心(識)もこの宇宙の本質を構成しているものに含めているところが面白いですね。六大とはあらゆる存在するものを合成し構成する要素です。六大はすべてが絡み合い、響きあっています。そして、それ自身が大日如来の体と考えられます。大日如来は大自然をはぐくむ生命そのものとさえいえます。 
汎神論という言葉があります。ヨーロッパの言葉ではPantheismといいますが、Panとは全てという意味。パンアメリカPanameriCaのpanは全日空の全と同じです。パノラマとは、Panとhoraoからなります。horaoとは観ることで、360度全てを眺めることができることをパノラマといいます。Theismはtheos(神)という言葉からきます。つまり汎神論(Pantheism)とは全てが神、つまり、自然(宇宙)自体が神と考えることを汎神論といいます。ヨーロッパのキリスト教では、神が世界を造ったと考え、世界は被造物、神は創造主と考えますから、創造主である神を被造物である世界と混同することとして、汎神論は厳しい批判を加えられてきました。しかし、この世界を神の現れとしてみようとする汎神論的思想は時としてヨーロッパの思想界に登場しました。空海が導入した真言密教もこのような汎神論(汎仏論)と言ってよいでしょう。全てが大日如来の顕現と密教は考えます。 
密教とは顕教に対比された言い方です。顕教では仏典に説かれる教えを考えながらたどる時、ある程度の仏教の理解が言葉で行われると考えますが、密教では言葉は決して真理を把握するのに足りるとは考えません。それこそ、言葉では捕らえきれない無限の秘密と考えます。 
大日如来は大乗仏教で登場する全ての仏の根源、そればかりではなく、森羅万象、あらゆるものは大日如来の顕現と考えます。従来の仏教と違って、真言密教では、大日如来の顕現である現実世界を決して貶める見方はしません。六大は絡み合い響きあい息づいています。自然の全てをはぐくみ育てる大いなる生命の源こそ、大日如意来と考えます。大日如来の顕現は身口意(しん・く・い)という三つの形をとります。自然の美しい姿形は大日如来の体(身)です。雄大な大自然の姿形ばかりではなく、人知れず咲く野の小さな花も大日如来の体(身)です。心を清めて耳を澄ましてみましょう。風のそよぎ、鳥のさえずり、雷の音、大自然の音は大日如来の声(口)です。意とは心です。心とは人間にだけあるものではありません。山の心、川の心、虫の心、大自然の心は大日如来の意(心)です。偉大な大自然の生命は、身口意の三つの姿であらわれる、無限に深い神秘です。 
即身成仏 
その様に考えると、全ては大日如来の顕現であるなら、自分自身も大日如来の顕現であるはずです。そのままの自分で大日如来であるはずです。これを即身成仏といいます。即身成仏のためには、三密の行を行います。三密の行とは、身に印契を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念ずることによって、大日如来からの力が加わる(加持)ことによってこの身のままで仏となります。 
密教の悟りの世界、あるいは大日如来の顕現を現したものが曼荼羅です。中央に大日如来を配して、次々と仏や菩薩が大日如来の側面として登場します。恐らく、曼荼羅とは描くことに意味があったのではないでしょうか。大日如来を念じながら、その顕現のありようを形に表していくもののように思います。その意味で京都の東寺・講堂の立体曼荼羅は圧巻です。東寺は嵯峨天皇より空海に下賜されたもので、それを空海は真言密教の道場につくり変えました。講堂の諸仏は立体曼荼羅といって、空海自身が大日如来を中心に諸仏を配置したもので、空海が大日如来の顕現をどのように考え感じていたのかを思いながら観ると何かを感じることができるのではないでしょうか。 
仏像 
密教は、仏教美術にも大きな影響をあたえました。全てが大日如来の顕現とする密教では、多くの仏や菩薩などの仏像が造られました。仏像には大きく四種類があります。仏(如来)、菩薩、明王、天部です。 
如来(仏) 
仏教では完成した存在で、悟りを開いた仏陀がモデルになります。仏陀は出家をしたときに、世俗の印としての贅沢な服や装身具をすべて捨て去りました。そのため、如来像は装身具を一切身に着けていません。簡素な衣をまとうのみです(例外は大日如来)。如来像にはいくつかの特色があります。仏の三十二相と呼ばれます。人々をもれなく救うために手足の指の間に水かきのようなもの(縵網)がついている。肌が金色である。仏陀の知恵がつまっているために頭の上が隆起している肉髻がる。眉間の間に白い毛が渦巻くようにある(白毫)等々。 
菩薩 
仏は仏教では最高位にあり、いわば悟りの世界(彼岸)にいます。そのためこの世界の人々には近づきがたいものがある場合もあるでしょう。菩薩とは、自らの悟りを差し置いても(というのも悟りを開くとは成仏することで、彼岸に行ってしまいます)衆生済度のためにこの世で励んでいる修行者です。修行時代(出家するまえの)仏陀がモデルで、そのために普通の人のような服をまとい装身具をつけています。(例外は地蔵菩薩) 
明王 
真言密教では明王は、大日如来の顕れで、いきどおり怒る様相(忿怒相)をしています。これは慈悲の精神を根本にすえる仏教には不似合いとも感じる人がいると思います。しかし、もし、わが子がガスコンロの近くで煮えたぎっている鍋に手をのばそうとしていたらどうでしょうか。母親は凄い形相で、「近づいたらダメ!」と叫ぶのではないでしょうか。この時の様相が明王の忿怒相です。救済しがたい衆生を救うための慈悲の忿怒が明王の特色です。 
天部 
インドで生まれた仏教は、インド社会の中で信仰されていた多くの神々を「天」と呼んで、仏や菩薩の下に置きました。天の多くは仏法を護る護法神として仏教にとりいれられました。四天王は代表的な天です。天と呼ばれなくとも、天部に分類されるものもあります。例えば、阿修羅。日本では帝釈天として信仰されている神であるインドラの神にいつも反抗して戦いを挑む悪魔がその由来ですが、その激しさが仏法を護る護法神として取り入られることになりました。天部は仏教芸術を豊かにすることに大きく貢献しています。 
 
空海は「万能人」のようです。著作活動一つにしても、「十住心論」のような体系的な作品一つを見ても、仏教会の巨人のようです。真言宗の教学を完成したことは勿論のこと、文学や詩文、三筆と呼ばれた書、さらには四国の満濃池の修築のような土木事業、手芸種智院を設立して庶民の教育にもつとめるなどその活躍は一通りではありません。62歳で高野山で入滅しますが、弘法大師と呼ばれるようになった空海は入滅したのではなく、高野山で入定したと信じられています。四国の讃岐出身で四国八十八箇所といって弘法大師ゆかりの霊場88箇所があり、そこを巡礼する人をお遍路さんといいます。お遍路はたとえ一人であっても「同行二人」と傘などに書かれています。弘法大師がその人と同行してくれているとの信仰からです。弘法大師に関わる逸話や場所が全国に多くあることも、大師信仰が庶民に深く根ざしている証拠でしょうか。  
 
平安仏教と浄土教
浄土とは仏の住む国土を意味します。大乗仏教は、我々の住む娑婆世界の他に無数の浄土を考えました。阿弥陀如来の極楽浄土は一番有名ですね。しかし、阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあるのに対して、薬師如来の住む浄瑠璃浄土は東方にあると信じられています。脇時の日光・月光の両菩薩も浄瑠璃浄土に住むとされます。よく仏教関係の人が、極楽浄土は有名で混んでいますが、薬師様の浄瑠璃浄土は空いていますよ、と冗談を言うことがあります。それ以外にも観音菩薩の補陀落山もそうでしょうか。観音信仰は日本に広く行き渡っていますから、補陀落にまつわる信仰も各地にあります。那智山が補陀落山に見立てられます。また日光ということばも、補陀落>ニ荒(ふたら)>ニ荒(にこう)>日光というように変化したという説もあります。熊野を中心に補陀落渡海という不気味な風習もありました。また、弥勒菩薩は未来仏とされ、遠い未来に衆生を救うために兜率天にて思惟していると信じられますが、この兜率天も一種の浄土と言えるのでしょう。 
阿弥陀仏 
阿弥陀仏の信仰は100年頃北西インドで成立しました。昔、法蔵菩薩といわれる方があらゆる衆生の救いを願って48の願をたてました。その中の48番目に「一切の衆生が私の浄土に生まれよう欲し、わずか十声の念仏でも唱えた人を救済できないならば、仏とならない」という有名な願があります。簡単に言えば「誰でも念仏を唱えて浄土に生まれることができないなら、仏とならない」というものです。ところが法蔵菩薩は悟りを開いて阿弥陀仏となった、というものです。つまり、48の願は成就した、それ故、阿弥陀仏を信じ念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるということになります。この48番目の願を法然や親鸞は「弥陀の本願」と呼び、それに全てを賭けることになります。 
浄土三部経 
阿弥陀仏への信仰がよりどころとする経典は三つ、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」で、これらを浄土三部経と言います。「無量寿経」は他力救済的色彩が強い経典で、「弥陀の本願」が出てきます。「観無量寿経」は阿弥陀仏とその浄土を観想することをすすめたもので、例えば、西方の極楽浄土を思いつつ沈む夕陽を眺めて、浄土の輝きを心に定着させること(日想観)から始まって、水や氷を見て瑠璃のごとき極楽の透き通った大地を思い浮かべる水想観、さらに地想観などと次々に浄土を観想する十六観など、視覚的特色をもっています。ここで「念仏」ということについて一言。念仏というと「ナムアミダブツ」ということを考えがちですが、「念仏」とは本来は仏を念ずるということで、「観無量寿経」のように極楽浄土の世界を思い浮かべることも「念仏」といえます。念仏を「なむあみだぶつ」と阿弥陀仏の名を唱えることとしたのは、むしろ法然などの鎌倉新仏教の人々でした。とにかく、念仏により極楽浄土へ往生するとの信仰は、2世紀頃には中国へ伝わり、それがやがて日本にも伝わってきます。 
常行三昧 
阿弥陀仏や浄土の思想が日本に伝わってきたのはかなり早い時期からでした。しかし、浄土教を広めるのに大きな役割を果たしたのが比叡山(天台宗)でした。天台宗は法華経を最重要経典としていましたが、天台宗自身が総合的な思想体系をもったもので、他の経典も広く研究する総合仏教大学的なところが比叡山でした。そのような天台の修行の一つに四種三昧というのがあります。三昧とは一心不乱に専心修行をすることです。四種三昧とは常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧の四つの三昧で90日を単位とする修行です。特にその中で「浄土教」に大きな影響をあたえたのが「常行三昧」でした。常行三昧とは阿弥陀仏を本尊として、90日間常に口には阿弥陀仏の名を唱え、意(心)に阿弥陀仏を念じ、阿弥陀仏の周りを歩み続けるものです。昼夜を問わず不眠不休で続けるので「常行」と呼ばれます。円仁(慈覚大師)が比叡山に常行三昧堂を建てたことから本格的な常行三昧の修行が始められました。 
90日間、阿弥陀仏を念じながら、阿弥陀仏の周りを歩む修行を思い浮かべてみましょう。恐らく、身も心も疲れ果て意識の朦朧としてくるでしょう。阿弥陀仏のみが心の中に明瞭な形をとってくるでしょう。 
この常行三昧は浄土信仰を広めるのに大きな役割を果たしました。大原の三千院にあるあの有名な極楽往生院も阿弥陀仏の背後にも回れる構造になっています。戸を全てしめて真っ暗な中に蝋燭をともしながらあの阿弥陀仏の周りを歩んだそうです。そのときの蝋燭のススのために、極楽往生院の壁や天井の絵がかすんでしまったとのことでした。阿弥陀堂で阿弥陀仏の背後にも回れる構造のものは、恐らく全て、常行三昧が行われたと言ってよいのではないでしょうか。有名な日野の法界寺もそうです。今は真言宗のお寺になっていますので常行三昧は行われていませんが、昔は常行三昧が行われていたとご住職が仰っていました。 
空也  
清水寺の近辺は、昔は鳥部野と言って死者を遺棄したり埋葬したりするところでした。化野(あだしの)の露、鳥部野の烟と言われますね。清水寺から清水坂を下り、清水道の信号を渡ってすすむあたりには鳥戸野の入り口にあたる六道の辻に位置しました。その付近には、今は珍皇寺や六波羅蜜寺があります。珍皇寺は中世以来、「六道さん」の名で親しまれ、あの世(冥府)とこの世の出入り口とも考えられていました。今でも、この寺はお盆の前にはあの世からの亡者の英霊を迎えるために多くの参詣者で賑わうとのことです。六波羅蜜寺は空也上人ゆかりの寺です。この寺の空也上人像は口から六体の仏が出ているというように「ナムアミダブツ」という音を形に表わしたことでも有名です。諸国を遊行し、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にしたと伝えられる空也は、972年この寺で入滅しました。六波羅という地名は、昔、遺棄された髑髏が多かったために「どくろがはら」と呼ばれたことから、「ろくはら」という地名がついたとの説もあります。市聖や阿弥陀聖と呼ばれた空也は念仏を民間に広めることに大きな役割を果たしました。 
「往生要集」 
空也が民間に阿弥陀仏の信仰を広めたのに対して、源信は貴族の間に浄土への憧れをかきたてました。秀才であったが名利を嫌って横川に隠棲した彼は、44歳の時に「往生要集」を完成しました。横川の恵心院に住したため「恵心僧都」と呼ばれた源信の「往生要集」は浄土教を広めるのに計り知れない影響を与えました。 
「往生要集」は二章からなり、第一章は「厭離穢土」といいます。そこで源信は地獄の様子を克明に描写しています。さらに、衆生が輪廻する六道の苦しみを述べ、人々に世が末法の時代に突入しようとしていることを実感させました。第二章の「欣求浄土」では、ひるがえって浄土の素晴らしさを克明に説きます。観無量寿経の影響を強く受けた「観察門」では、阿弥陀仏の姿を観想することを説きました。 
時はあたかも不安の時代でした。摂関政治が地方政治の乱れをさそい、それが武士の台頭に拍車をかけるなど、貴族たちに社会不安を与えようとしていた時代でした。末法の世には、自力の学問や修行では救われず阿弥陀仏にすがるほかはないとの源信の言葉は、貴族たちの心を揺さぶります。そのような貴族の一人に道長がいました。「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしとおもえば」との歌を詠んだ道長は53歳でした。しかし、体調を崩した彼は、阿弥陀仏の信仰にすがります。法成寺の阿弥陀堂には九体の阿弥陀仏が安置されました。阿弥陀仏が衆生を救うのには九つのグレードがあるとの信仰からでした。現在、この法成寺はありませんが、浄瑠璃寺(九体寺)には道長が造営した法成寺の阿弥陀堂と同種の九体の阿弥陀仏が安置されています。1027年道長は臨終を迎えます。北を枕に西向きに伏し、阿弥陀仏の手に結ばれた糸を自らも握りしめ、僧侶の読経の中で、浄土を夢見て62歳の生涯を閉じました。 
源信の「往生要集」は阿弥陀堂建築などの仏教美術に大きな影響をあたえました。藤原頼道による平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂は代表的な阿弥陀堂建築です。 
人間とは不思議なものです。源信は一心不乱に阿弥陀仏とその浄土を観想せよといいました。しかし、人は心に思い浮かべるだけでは不安ですし、満足ができないのでしょう。実際に目に見える形で浄土の世界や阿弥陀仏を作り出したのが、阿弥陀堂建築や阿弥陀来迎図でした。阿弥陀仏に救われるとはどういうことでしょうか。立派な阿弥陀堂建築をつくることが必要なのでしょうか。もしそうならお金に余裕の無い人はどうすればよいのでしょうか。むしろ、そのようなことは救いとは関係ないのではないだろうか。この問題は、やがて法然や親鸞などの鎌倉仏教の課題であり出発点となるでしょう。  
 
法然

鎌倉仏教に関しては、仏教が真に日本の仏教徒して実を結んだものとよく言われます。仏教が民衆にまで宗教として深く広まっていくのは鎌倉以後というのは確かだと思います。平安仏教から鎌倉仏教へを簡単に特色付けてみると、以下のようになるでしょうか。 
貴族の仏教から民衆の仏教へ。 
造寺造塔、教理研究から信仰そのものを問題としたこと。 
多くのことを学ぶことから一つのことを深めるようになったこと。 
信仰の実践を重視したこと。 
確かに、法然の主著である「選択本願念仏集」に選択という言葉がつけられているように、法然は従来から伝えられてきた仏教についての多くのことを捨てて、阿弥陀仏による救いに関することのみを選びとりました。そして、例えば、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗では「念仏」を、栄西の臨済宗や道元の曹洞宗では「坐禅」を、日蓮の法華宗では「唱題」を他の何よりも重要なものとして選び、それを深めることに専心しました。そして、単純であるからこそ、深い内容が民衆の心にまで届いていったのでしょう。 
今、その例として、浄土教が平安時代から鎌倉にかけてどのような発展をみせたかを考えてみます。 
源信の「往生要集」は末法の世にあって従来の学問や修行を中心とした仏教では救われない、ただひたすら阿弥陀仏とその極楽浄土を想念せよ、と説いて、貴族たちに大きな影響を及ぼしました。そして、心で思うだけでは物足りなかった貴族たちは、実際に阿弥陀仏と浄土の世界を作り上げました。それが阿弥陀堂建築でした。またそれほど財力の無かった者は、阿弥陀来迎図を描かせました。しかし、どうでしょうか。阿弥陀仏に救われて極楽往生をとげるためにはそのようなことが必要でしょうか。もしそうだとすれば、民衆は救われないのでしょうか。 
法然は「選択本願念仏集」の中で次のように言っています。 
「若し夫れ造寺造塔を以て本願と為さば、貧窮困乏の類は、定めて往生の望をたたん。然るに富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多し。若し知慧高才を以て本願となさば、愚鈍下智の者は、定めて往生の望を絶たん。しかるに知慧の者は少なく、愚癡の者は甚だ多し。もし多聞多見を以て本願と為さば、少聞少見の輩は、定めて往生の望を断たん。然るに多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。若し持戒持律を以て本願となさば、破戒無戒の人は、定めて往生の望を絶たん。然るに持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行は、之に准じて応に知るべし。上の諸行等を以て本願と為さば、往生せざる者多からん、然れば則ち弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、造寺起塔の諸行を以て往生の本願とせず、唯だ唱名念仏の一行を以て、其の本願となせり。」 
法然は、言います。もし寺や塔を作らなくては救われないならば、貧乏人は救われない。然るに貧乏人のほうが遥かに多い。知恵に恵まれなければ救われないならば、多くの一般の民衆は救われない。知識の多いことが救いの条件でも、戒律を堅固に護ることが救いの条件でも、救われる人はほとんどわずかである。だからこそ、阿弥陀仏は法蔵菩薩の時代に全ての人を救う慈悲の心から「弥陀の本願」をなし、「ナムアミダブツ」と口で唱えることのみで救われるとしたのだ。 
このように、救いのためには称名念仏のみでよいとしたのが法然の立場でした。法然は阿弥陀仏によって救われるためにはひたすら念仏を唱えることのみでよいとしました。念仏をどれほど唱えればよいか、については法然は特に話さなかったようです。「一念」でよいとか「多念」が必要だとの議論がありますが、法然自身は一日に何千回も念仏をとなえたそうです。親鸞は法然との出会いを経て自らが救われたとの気持ちがつよく、彼自身は法然の考えを変えたとの意識はなかったと思います。しかし、先ほどの「一念義」と「多念義」の問題に関しては、親鸞は念仏は回数が問題ではないと考えていました。もし、沢山の念仏が必要ならば、日々生活のために働かなくてはならない人々は救われない。念仏は唯の一度だけでよい。それも念仏を唱えようとする心が起きたこと自身が阿弥陀仏の慈悲によるのだから、「救って下さい」と願う念仏ではなく、感謝報恩の念仏と親鸞は考えました。もしかしたら、一遍は一回の念仏と考える以前に、阿弥陀仏の慈悲を感じて喜びの余り踊りだした(踊念仏)といえるのかも知れません。 
このように源信から鎌倉仏教の法然、親鸞にいたる流れを見てみると、鎌倉仏教の特色が浮かび上がってくると思います。 
 
法然は美作(岡山県)の武士の子として生まれました。幼くして父を夜討で失い、13歳で比叡山に登ります。叡山では「学一番の法然坊」と呼ばれるほどの秀才でしたが、やがて中国浄土教の善導の作品に導かれて称名念仏に開眼します。 
法然の根本には、「弥陀の本願」に対する絶対的信仰があります。法然は従来の修行や教理研究を通じて悟りへと至ろうする「聖道門」を捨てて、阿弥陀仏の慈悲にすがる「浄土門」を主張しました。というのも、末法の世においてはいずれの修行をもってしても、自らの力で救いへと至ることができないと考えたからです。救われるためには、難しい教義の研究や持戒などの行為(難行)では不十分で、誰にでもできる易しい行為(易行)でなくてはならない。それこそ「ナムアミダブツ」と唱えるだけでよい「念仏」である。ただひたすら「往生をとけると信じてナムアミダブツと唱える以外の何も別の仔細はない」と法然は言います。 
法然は鎌倉仏教の先駆者です。法然に対する旧仏教側からの批判者に明恵がいます。 
法然院と安楽寺については次のようなエピソードがあります。法然はこの法然院や安楽時があるあたり(鹿ケ谷といいます)の草庵で、弟子の住蓮や安楽と念仏三昧の修行をしていました。「六時礼賛」といって、一日に六回念仏をとなえます。ちなみに、一遍が開いた時宗の名称は、この六時礼賛からきています。その念仏は天台の声明と似ていて旋律がついていて美しい響きだったようです。住蓮や安楽は美声で、今で言うと多くのファンがついていたようです。その中に後鳥羽上皇の気に入りの女房であった松虫と鈴虫がいました。上皇の熊野行幸の留守に松虫と鈴虫が出家をして尼僧になってしまったという事件がおこります。この事件をきっかけに、従来から法然の念仏に対する不平を受けていた上皇は念仏の弾圧を行いました。法然は讃岐に、住蓮と安楽は斬首にあいました。このときに親鸞も越後に流されています。二人の弟子の死を悼んだ法然が二人のためにその名を残すべく山号に住蓮の名を入れて、「住蓮山安楽寺」としたのが安楽寺の由来です。  
 
仏教2 宗派

仏教は、2500年前に釈迦によって創設されました。釈迦はインド(現在のネパール)のカピラヴァスツの王スッドーダナとマーヤ夫人の間に生まれ、「ゴータマ・シッダルタ」と名付けられました。17歳で結婚して一子を授かりましたが、日々の快適な生活により心が満たされる事はなく、29歳で将来が約束された国王の地位や妻子を捨て、王宮を抜け出して修行の旅に出ます。そして6年間の修行をした末に、35歳になった釈迦はアシュヴァッタの樹(菩提樹)の下で「人間の真理」を悟りました。その後は自分が悟った「人間の真理」を弟子達に説き始め、80歳で亡くなるまで45年間各地を渡り歩いて布教しました。  
その後、仏教は世界各地に伝えられてそれぞれ独自の発展を遂げました。スリランカ・ミャンマーには上座部仏教、ジャワ・スマトラ・ボルネオ・ベトナム等には大乗仏教、カンボジアには大乗仏教と上座部仏教の両方が伝えられました。シルクロードの諸国では西域仏教が、チベットではラマ教として発展しました。 
仏教が中国へ伝来したのは後漢・明帝の時代(西暦67)とされますが、その前から西域から伝えられていたと言われています。後漢末から三国時代・西晋時代(西暦200-300年)になると、インドや西域から中国へ来る僧や、逆に中国からインドへ向かう僧もいました。西遊記で有名な三蔵法師がその例です。しかし、北魏の太武帝(446)・北周の武帝(574)・唐の武宗(845)・後周の世宗(955)による宗教弾圧より、次第に仏教は廃れて行きました。 
日本へ仏教が正式に伝えられたのは西暦552年とされますが、538年とも言われています。伝来当時、仏教を受け入れるかどうかを巡り、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が血で血を洗う政治抗争が繰り広げられました。結局、この抗争で物部氏が敗れた事や、聖徳太子が「国をあげて仏教を広めよう」と言う政治姿勢を取ったので、有名な法隆寺・四天王寺等の寺院を建立。仏教の発展に力を入れました。 
奈良時代後半から平安時代は、最澄(さいちょう)・空海(くうかい)によって唐から天台宗・真言宗が伝えられ、比叡山・高野山等が新たに開かれました。2人の教えは、藤原氏を筆頭として貴族階級から絶大の支持を得ました。 
平安時代中盤から鎌倉時代に入ると、仏教は一般民衆の信仰を集めるようになりました。法然(ほうねん)が浄土宗、弟子の親鸞(しんらん)が浄土真宗、栄西が臨済宗、弟子の道元が曹洞宗を、日蓮が日蓮宗を開きました。この時代に、主だたる宗派が出揃いました。 
室町時代は座禅の考え方が武士階級に広がり、隆盛を極めます。戦国時代にはキリスト教が日本に伝来し、織田信長がキリスト教布教のために仏教を徹底して迫害。比叡山延暦寺を焼き打ちに、浄土真宗を祖とする本願寺顕如とは激しい攻防戦を展開しました。 
江戸時代になるとキリシタン弾圧が本格的に始まり、幕府は仏教の宗派による集団的自治能力に目を付けました。お寺を幕府支配の末端機関とし、キリスト教信者に仏教の改宗を強いて厳しく監視させたのです。とは言え、権力側につかされることにより、新興宗教は誕生しませんでした。 
明治維新直後には「神仏判然」の政策が打ち立てられ、これが仏教排除と誤解されて「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と言う危機に晒されましたが、現在では多くの仏教系新興宗教が生まれています。 
日本の宗教人数 
日本における宗教の信者数は、文化庁「宗教年鑑」によりますと、神道系が約1億700万人、仏教系が約9100万人、キリスト教系が約260万人、その他約1000万人、合計2億1000万人となり、日本の総人口の2倍の信者数になります。これは、日本古来の民族信仰の基盤の上に自然風土の中で培われた年中行事や、祭礼等を通じて多い事に関連しています。そして、日本人が七五三や初詣等の季節の祭りを神社で行い、江戸時代の寺請制度の影響で葬式やお盆を仏教式で行うと言う、複数の宗教にまたがっているため。日本ではその宗教の神を拝めば信者とみなすのが、世界に例を見ない特徴です。 
仏壇の由来と歴史 
仏壇そのものは西暦686年天武天皇の時代に「諸国の家毎に仏舎を作り、すなわち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」(日本書紀)という詔勅が出て以来、厨子型から始まって今の金仏壇の形が日本の各漆塗り産地で作られるようになりました。その詔勅が出された3月27日は仏壇の日になっています。しかし、仏壇が普及したのは江戸時代になってから。江戸幕府の「宗門改め」や、キリシタン弾圧による「寺受け制度」に影響されたと考えられています。 
天台宗 
806年に開かれた、大乗仏教の宗派の1つです。中国で発祥し、最澄によって平安時代初期に日本に伝えられました。天台宗の名の起源は中国・浙江省(せっこうしょう)天台県にある天台山から来ています。正式名称は「天台法華円宗」。総本山は比叡山延暦寺(滋賀県)。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えるのが多いです。「全ての人は皆、仏の子供である」、「自分自身が仏である事に目覚めましょう」、「一隅を照らしましょう」。そして、悟りに至る方法を全ての人に開放したのが教えの特徴です。 
真言宗 
空海(弘法大師)によって9世紀初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。18種類の宗派に分かれています。有名なのが高野山金剛峯寺(和歌山県)を総本山とする高野山真言宗。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えます。回りくどい言い方をせず、悟りの境地をそのまま説きました。 
浄土宗 
1176年法然が開祖。日本の仏教宗派の1つ。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。総本山は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら・京都府)。「浄土に生まれればいつまでも浄土に居られますが、仏様としてこの世に帰って来てまだ救われない人々を救う事もできます」と教えました。 
浄土真宗本願寺派 
浄土真宗本願寺派は、親鸞が起こした浄土真宗の一宗派です。その中でも、最も寺の数が多いのが、この本願寺派。意外にも、宗名が正式に定められたのは1877年。戦国時代には第11代の本願寺顕如が織田信長包囲網を作り、激しい抗争を繰り広げた事でも有名。総本山は、世界遺産にも指定されている西本願寺(京都府)。浄土真宗の最大の特徴は、僧侶でも肉を食べても良い・妻帯者になれる・祈祷を行わないのが他の宗派には見られない点。「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」と、戒律のレベルが低いのが特徴です。 
真言宗大谷派 
親鸞が起こした浄土真宗の一派で、上に挙げた本願寺顕如の長男・教如が、1602年に徳川家康から土地を寄進されて新たに作ったのが東本願寺(真言宗大谷派・京都府)。西本願寺と区別するために「お東さん」と呼ばれます。1987年には宗教法人としての本願寺が法的に解散してからは、東本願寺の正式名称は「真宗本廟」に。阿弥陀如来を信じて、感謝の心と共に唱える「他力念仏」が基本形です。 
時宗 
鎌倉時代末期に起こった浄土教の一宗派。一遍が開祖。総本山は清浄光寺・通称遊行寺(ゆきょうじ・神奈川県)。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。他の宗派が「念仏を唱える努力を重視する」「信じるだけで往生は約束される」と教えたのに対し、「阿弥陀仏を信用する・しないは問わず、念仏さえ唱えれば往生できる」と教えたのが特徴です。 
臨済宗 
中国禅宗五家の1つで、唐の臨済義玄(りんざいぎげん・867年没)が開祖しました。日本には鎌倉時代に伝わり、日本で臨済宗と言えば禅の宗派の1つに分類されます。師匠と2人で対面した弟子が、見解を述べて師匠が確かめる、「問答形式」で悟りを開きます。「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。 
曹洞宗 
曹洞宗は、中国の禅宗五家の1つ。日本には道元が宋(中国)に渡り、1226年に帰国後、広めた禅の宗派。本山は吉祥山永平寺(きちじょうざんえいへいじ・福井県)、諸嶽山總持寺(しょがくさんそうしじ・神奈川県)。ただひたすらに坐禅を行うことを最も重要としたのが特徴です。臨済宗と同じく、「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。「脳死と臓器移植問題に対する答弁」等、現代社会の問題を公式HPで発表しているのも興味深いです。 
日蓮宗 
今まで挙げた宗教の中でも、日蓮宗のみ開祖と宗派の名前が同一です。釈迦の説いた教えの中でも、「法華経(ほけきょう)こそ世の中を救う最高の教え」である事が特徴です。「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と唱えます。総本山は身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ・山梨県)。
 
仏教3

仏教とは実在した釈迦族の王子が真理を発見して覚者となり、覚った真理を説いた教義である、仏教は古代エジプトと並び世界最高峰のインド哲学の内より興った教義で釈尊を祖とする、アジアを中心として普遍化し世界三大宗教に数えられるのが仏教である、仏教の源流とも言える古代信仰がバラモンであり、アーリア人社会による司祭階層から構成された、輪廻転生・カースト制度が作られ古語であるヴェーダ語で書かれている。 
紀元前約5世紀頃にライバルであった苦行を行うジャイナ教等と同時期に、仏教はガンジス川中流付近で釈迦により創唱された宗教でアジアを中心に信徒数約五億人を擁しキリスト教やイスラム教と共に世界宗教の一教として活動中であるが世界に於ける宗教人口の5,9%(注12、参照)程度であり、ヒンズー教徒の半数にも満たない、但し後述するが現在インドに於いては表の顔はヒンズー教徒であるが隠れ仏教徒が一億人程存在するとの主張がある。 
自然の原理を源としての梵と、自我すなわち我を集合して梵我一如を標榜して、BC7世紀以前からカーストの頂点にあり支配していたバラモンの周辺にクシャトリア即ち王族が勢力を伸ばし、バラモンの影響力に陰りを見せる頃ガンジス川中流付近では古代宗教が多く興るが、仏教はこれらを踏襲しながら梵我一如を否定し・犠牲を求める生贄を捧げるシステムを供物に変えるなどの革命も行う。 
梵我一如とはインド古代のバラモン教最高経典の一つでリグ・ベーダ聖典(注10)すなわち神々への賛歌の内にある。 
無我説と有我説とに分かれており「梵我一如」は有我説である、梵(ブラフマンBrahman)と我(アートマン´tman)と同一であると言う。 
梵とは宇宙に於ける根本原理を言い、梵を偶像化した像を仏教に於いては梵天と呼ぶ。 
有我説に於いては我とは生命・霊魂・自己を言い、肉体は滅びても我は不滅であると言う、ベーダ聖典を典拠とするバラモン哲学は梵我一如を正統するが、無我説を言う仏教や唯物論者は縁起説から始まり「諸行無常」を言い梵我一如を否定する,因みに´tmanとは自我と内に占める霊的パワーを言う。 
仏教の発生に影響を与えたとされる宗教に南ロシアから移住し征服した遊牧民・アーリア人の興した 1、犠牲祭や神々への讃歌を詠うバラモン教(BC1200-900頃)がある、 2、にサルベージを神々に指定し輪廻転生を考え出したシュラマナ(BC900-600頃) 3、不殺生・禁欲苦行を行うジャイナ教(BC580-500頃)がある。 
釈迦はインド北部、現在のネパール付近で釈迦族の王子として生まれ29歳の頃人生に虚しさを覚え出家し修行者(沙門・乞食による修行生活)の仲間入りする。 
バラモン教等の行者達と六年間修行したが、苦行に意義を見出せずマガタ国の菩提樹の下で座禅(禅定)する事により覚りを開き仏陀(釈迦牟尼*聖者)となった。 
重ねて言えば仏教はバラモン教の梵我一如(注18)の否定から始まる,万物は諸行無常であるのに絶対永遠であると誤解するから苦が生ずるとする、これらを有我説と言う。 唯物論者、沙門など自由思想家達は無我説(縁起説)を主張これが仏教に発展する基になる。 
梅原猛氏は、「仏教は釈迦において、バラモン教の巨大な宇宙哲学にたいして、極めて人間的な論理的思想として出発した、やがて仏教はバラモン教の宇宙論を取り入れるようになる、これが大乗仏教の発展でありその極端なものが密教である」と言われている。 
仏教は僧侶・信徒にとって仏の存在・教義をどれだけ信ずるか、信徒としての必須行動の範囲が明確ではない、一宗教の宗派と言うより潮流と解釈できる程幅が広いが、(日本人のための宗教言論・徳間書店小室直樹より抜粋)仏教論理の共通項を要約すれば「空」と「因果律」「縁起」で構成されていると言えよう、但し仏教徒は三宝があると考える、仏・法・僧に帰依する事である、これらを三帰依と言い仏教徒の必須条件と言えなくもない、また三宝の守秘義務として三学すなわち・戒すなわち戒律、乱れのない心を言う・常、と・慧がある、常は梵語のsam´dhiで三昧などと訳される、慧はj4´na即ち智慧で般若と訳される。 
三宝に帰依は信徒しての根幹となる信仰対象である、即ち三帰依の表現にお念仏があり、南無阿弥陀仏は帰依仏 ・南妙法蓮華経は帰依法 ・南無大師遍照金剛は帰依僧に対するものと言える。 
本来の仏教は一神教の様に人格神すなわち神の啓示を必要としないで、存在している法(ダルマ)すなわち完全な智慧を取得する道であり、修行等は覚りを開き如来すなわち仏のレベルに到達する事を目的としていたが、阿弥陀如来の登場で本願により救済される経典や、久遠実情の釈迦を標榜する法華経による、天主と僕の関係が構築されキリスト教的要素が加わる、ちなみにユダヤ教・キリスト教・イスラム教では聖人であろうが天主(神)の領域に到達する事は絶対にない。 
仏教の中国への伝播は紀元前1世紀頃とされるが南北朝時代頃から儒教・道教を凌駕するようになり、552年には日本に伝わる。 
日本の為政者が取り入れた仏教は宗教ではあるが世界最先端の文化・文明を取り入れたとも言える。 
インド仏教の道のりを簡単に俯瞰すると仏滅後BC3世紀頃アショーカ王が国家統一に手段として帰依した、これによりガンジス川流域の地域宗教から薔薇門教などを席巻して南インドにもおよび世界宗教への足懸りとなった、しかしBC3世紀末教団の纏まりが崩れ上座部と大衆部に分裂しBC1世紀頃までに細分化し部派仏教時代になる、一方薔薇門教はインドの土着信仰を取り入れ紀元1世紀頃にはヒンズー教となり静かに浸透する,因みにこの時代以前を原始仏教と呼び以後は、部派仏教時代(注19)とされている。 
仏教発祥の地インドで仏教は壊滅状態とも言えるが衰退した原因を数件ランダムに挙げてみた。 
4-5世紀インドを席巻したグプタ王朝がヒンズー教を国教とした事が挙げられるが、以下に挙げる事例の無視する事は出来ない。 
仏教が自己の覚りを目指す上座部の伝統を継続して折伏(しゃくぶく)に熱心でなかった事、すなわち出家主義により教義に偏重し大衆と離反した事が挙げられる、また教義上教団が武装集団を所持しなかった為でもあろう。 
もう一つ重大な原因として仏教は冠婚葬祭などの儀典をバラモン・ヒンズー教に任せていた事にもよる、故阿部慈園氏(日本の仏教を知る事典・東京書籍)に拠れば釈尊の葬儀の祭主はドーナと言うバラモン僧であったと言う(マハーバリニッパーナ経)、因みに中国に於いて儒教が中国国教に成ったのは元来は儀典屋であった儒教を孔子により詳細な律を定めて集団救済を行う宗教として最大限に利用した事も一因であろう。 
四姓平等思想から否定したカースト制度がインド社会から駆逐出来ず継続された事と信者が富裕層への偏りも原因の一因であろう。 
土着信仰と仏教の境界が曖昧になり形而学上の哲学に固執し、5世紀には倶舎論等を標榜する上座部に対して唯識論・中観論を言う大乗仏教が龍樹をベースに精緻な理論を展開するが7世紀になると台頭したヒンズー教の中で陀羅尼・呪詛を強調する密教すなわちタントリズム(タントラ教)が起り、ヒンズーの神々の冠に金剛を付け仏教尊に取り入れる等、妥協の産物として採用されるようになる、タントリズムはジャイナ教やヒンズー教にも存在しており、ヒンズー教等の概念を採用した為に後には逆に吸収され衰退に向かう、またインドネシアのジャワ島などではヒンズー教と密教が信仰されるが6-8世紀に併合した形態になり同一宗教となり14世紀にイスラムが侵攻するまで継続した、タントリズムには原始仏教が否定した愛欲・煩悩を容認して覚りを目指す哲学がありこれが後期密教に発展しチベットに伝わる。 
これに伴う急進的な説として退廃的な思想を持ち8世紀中盤から約500年継続した後期密教が堕落して仏教を滅亡させたとされる意見もあるが、智慧と快楽は表裏一体との認識を持つインド人の文化的遺伝子を考慮しての説であろうか。 
1203年インド・ビハール州アンチィーチャックの中核寺院・ヴィクラマシーラ寺院がイスラムの侵略で破壊されインド仏教は略姿を消した、現在に於いてはヒンズー教やイスラムに完全に凌駕され現在はネオブッデストと呼ばれアチュート(不可蝕賎民)(注2)に属する集団数百万人の少数宗派とされているが、釈尊がヒンズー教の神に祀られている事を考慮しても、一説には一億人の「隠れ仏教徒」が存在するとも言われている、インドに於いては現在もヒンズー教徒でなければ戸籍はむろん選挙権が無く、奨学金の支給もされない地域が多い為に隠れ仏教徒が多く存在すると言う、インドに於いて仏像は存在しており遺跡だけではなくヒンズー教徒により手厚く守護して宗派を越えて信仰されている処もある、またインドに帰化して仏教復興やカースト廃止に尽力する佐々井(ささい)秀嶺(しゅうれい)師は現地では菩薩と崇められていると言う、因みにインド独立の父とも言われるマハトマ・ガンジー(1869年-1948年)ですら強烈なカースト制度守護者であり、廃止論を唱えてガンジーと激論をしたアンベードカル博士の尽力により憲法上は否定されているがヒンズー教保護政策は現存している様である。 
仏教が日本に広まりキリスト教は小さな潮流でしかないのは、大友宗麟や高山右近などの戦国大名が入信したが火薬の素である硝石の輸入目的が指摘されている、障害は一神教の壁も大きいがカトリックは事実上、四神教であり弊害の総てではない、これには日本仏教が「本地垂迹説」を取り入れた事が大きい、本来の姿(本地)を具体的(迹)な姿に変えて現れる方便は利便性が高く仏教の興隆に欠く事の出きない必要条件であった。 
小室直樹氏はキリスト教に於いて天照大神をマリアに、イエスを神武天皇に垂迹していたら広がりは違うものになっていたと言われる。 
しかし日本では垂迹説が天主と僕の関係を逆転させている面がある、それは権力機構が宗教に関与し安易に神を作り上げている事にある、神話ではあるが出雲大社が嚆矢であり、菅原道真の天満宮また明治時代には英霊を靖国神社・護国神社に祭る等、日本古来の神道から逸脱している。 
現在仏教は大きく三系列に分けることが出来る。

上座部仏教 
大乗部からの侮蔑用語は小乗仏教、即ちヒーナ・劣る、ヤーナ・乗り物と訳される、(H ̄nay´na)ヒーナヤーナと言うが使用すべきでない、このサイトでは「上座部仏教」若しくは「部派仏教」と呼ぶ。 
上座部仏教・梵語ではスタビラ・バーダ(Sthavira‐v´da)パーリ語(p´li)でThera‐v´da(テーラー)と呼ぶべきである、分裂の原因には諸説あるが十事の非法・五事問題(注19)と言い阿羅漢即ちアルハット(arhat)の評価の相違も一因とされる。 
タイ、スリランカを中心になど東南アジアなどに伝わった教えである。(BC300年頃)また南伝仏教とも言われる、出家中心主義的な厳しい戒律厳守がある、バーリ語訳(中期インドのアーリア*ブラークリッツト*の代表言語で小乗経典の為の言葉ともされている。)の経典を用いている。 
出家至上主義を貫き僧侶は托鉢で糊口を凌ぎ在家信者は喜捨する事により功徳を得ると言い古典仏教の様式を踏襲される、しかし釈尊は覚りを開いた後55年の間に雨安居を除き王朝貴族から下層民に到るまで無差別に教えを説いて行脚した事実は大きな乗り物すなわちMah´y´naではなかったか。重ねて言えば小乗仏教と言う呼称は小さな乗り物と言う大乗側の侮蔑的な呼称で好ましくない。 
因みに上座部と大乗の分類に付いては倶舎宗・成実宗・律宗は上座部(小乗)で・法相宗・三論宗は初期で、少し時代を経た・華厳宗は大乗の範疇に入る。 
上座部に於いては帰依の対象と成る「仏」は釈迦如来一尊であり、従うのは十大弟子を含む阿羅漢である。 
大乗仏教(Mah´y´na 大衆部(だいしゅぶ))  
大乗仏教は初期に於ける般若経典を興し深甚な釈尊の真意と言える教えを伝えた哲学であろう、マハーヤーナ・大きな乗り物と言いBC1世紀頃ストーバの周りに在家信者を含む人々が集まり、「慈悲」の哲学を根幹として多くの衆生にも覚りの道が開くことが出来るような運動が広がりを見せた、衆生から隔離した宮殿に住み教理の研究や瞑想に耽り高邁な哲理を求める「自利行(じりぎょう)」ではなく衆生を救済する「利他行(りたぎょう)」を求める様になる、因みに利他行の実践者を菩薩と言う,日本の仏教界は大乗仏教の範疇に入る、但し日本仏教以外の仏教国は戒律に関しては上座部と相違は無く、日本仏教界は世界的に特異な存在である。 
大乗仏教に於いては釈尊が尊敬をこめて善友と呼びかけたとされる舎利弗・目犍連・大迦葉を初めとする十大弟子や阿羅漢は、単に出家修行僧いわゆる声聞扱にして菩薩よりランクは低く扱っている。 
衆生は現世の物質的欲求の満足を求めておりその必然から生まれたとも言えよう。 
梵語名をマハーヤーナと言いインド北西部から仏法(ぶつほう)東漸(とうぜん)の道シルクロードを経て中国・朝鮮・日本などを経て広まった教義で北伝仏教とも言われ経典は漢訳が用いられる、南伝の小さな乗り物から大乗即ち大きな乗り物で救われる法華思想や浄土思想を中心とした教派である、法華思想(法華経)は総ての人間は等しく成仏できると言い、浄土思想(浄土三部経)は阿弥陀如来に頼り観想・念仏などの易行で往生が可能になる。 
特に浄土教は法然・親鸞以来の信仰心のみで救われる教義で、先の最澄の悲願であった大乗戒と共に大乗の大乗とか世俗仏教とさえ言われる。 
密教も大乗の範疇に入れられるが、古代仏教が否定した教義を多く取り入れてヒンズー教と混血化しており仏教の範囲から逸脱しているかもしれない、大乗仏教を敢て分類すれば顕教を「波羅蜜道」とし、密教を「真言道」と分類する説もある。 
大乗仏教の蘊奥は慈悲にあると考える、慈とはいつくしみを言い梵語ではmaitr ̄(マイトリー)悲とは悲しみの共有を言う梵語はkarul´(カルナー)。 
「乗」とは乗り物を意味し、一乗は真実の教えは一つであるとする、また声聞・縁覚・菩薩を三乗と言う。 
密教は後期大乗仏教の範中に入り、その密教も前・中・後期に分類され日本密教は中期に相当する、密教は最後に顕れた宗派であるが、突如顕れたものでなく初期仏教時代から内包されていたと考えられる、呪詛や儀典に神秘性を取り入れ古典信仰を組み込み大乗を更に大乗化したものといえる、要するに大乗仏教の範囲に中でフイルドワークの相違から真言道と波羅蜜道とに分類出来る。 
密教とは秘密仏教の略称であり顕教が教えの総てが経典などにより露顕されているのに対して、密教は経典のみでは浅略釈(せんりゃくしゃく)であり不足である、本質を体感する深秘釈(しんびさく)いわゆる師との面授や呪を重要視して即身成仏を標榜する宗教である。 
密教と言えば空海の存在が抜きん出ている、特別な宗派と考えられ東密(真言宗)・台密(天台宗)に限定されるが日本仏教には浄土真宗系を除く全ての宗派に多大な影響を与えている。 
これ等の共通点は創奏者である釈迦如来を崇拝しその教えを受けて覚りを求める事には変わりはないが経典やサンガ組織(教団)は独自の形態をそれぞれの解釈で発展していった。 又インド以外の国々に信仰が広まるにつれその地域の儀式や規制及び信仰と融合し仏教として発展していった。 
釈迦の教えは呪や祈りを用いてサルベージを行うものではなく、同じ仏教でも上座部仏教以外は釈迦の教えとは言えない面がある、江戸中期の思想史家、富永仲基は釈迦の教えと大乗経典とは何等関係ないと「出定後語(しゅつじょうごご)」に於いて論破した、また明治後半東京帝国大学の村上専精教授も大乗非仏説でこれを肯定している、これは現在も覆されていない。 
しかし大乗側はインド人が発明した方便を使って釈迦がまだ弟子たちに説いていない真意・真理・を顕わした教えと説明している。 
上座部仏教が釈尊のみを仏とするのに対して大乗仏教は凡ての如来・菩薩であり、さらに密教に於いては明王・天部までが帰依の対象と成る。 
大乗経典を仏典と認知するには「真理を説いている理論は全て仏説である」 「真理とは言語表現を超越したものである」の二点を容認しなければ大乗経典は仏教の経典ではなくなると言はれている、即ち二点を認めてのみ大乗仏教は成立する、しかし仏教とは覚りを目指して生きて呼吸する真理を実践する宗教であり、さらに哲学と言うよりも潮流と理解すれば論議すべき問題では無い。 
また大乗・上座部を問わず経典の中で釈迦の言葉と証明できる経典は存在しない、中国に於いては「真経」すなわち釈尊直伝とされる経典と、「疑経」すなわち中国製との疑いを持つ経典や「偽経」いわゆる偽物と断定される経典があるが、方便或は真理を説いている理論は全て仏説であるに該当するかもしれない。 
チベット仏教 
チベットは密教の国であるが顕教もある、即ち後述のニンマ派では比重は小さいが採用される、最大宗派のゲルク派では顕教を正しく修得の後に密教に入ると言う。 
外部からはラマ教とも呼ばれる事があるが俗称である、中国に於いてチベット僧を「剌麻」「喇嘛」等と記述された事から、日本でも踏襲された事がある、後述するがラマとは師を意味し、上座部仏教を小乗、イスラム教を回教と呼ぶ程侮蔑性は無いがラマ教は正確な呼称ではない、チベット仏教は7世紀後半ネパールを経て伝わり上座部系が混在したチベット語訳の経典を使う。 
13世紀イスラムの侵攻を受けて追われた、大勢のインド僧達がチベットに逃れて仏教、中でも後期密教即ち無上瑜伽密教(anuttarayoga)を広めた、王家の婚姻関係や敦煌に於いての重訳(梵語-漢訳-チベット語)から中国仏教とも習合するが後にインド仏教が正統化される、これら多彩な仏教から土着宗教のポン教と習合して所謂ラマ教となる,従って多くの宗派が有り大派閥にゲルク派があり代表はダライラマである。 
チベット仏教の特徴は「転生活仏」にある、ダライラマは観音菩薩の転生で生き仏即ち活仏である、ダライラマに次ぐ地位にパンチェンラマがありダライラマの転生を認定する役割を持つが、現在表面に出ているパンチェンラマは中国政府の押し付けによる者で本物のラマは生死不明とされている。 
チベット密教は後期密教を採用しており、金剛乗即ちインド仏教の最終到達点とされている、空海が日本に請来した中期までの密教とは教義は踏襲しているが著しく変質した様に見える教義である、「性的ヨーガ」が興隆しヒンズー教の性力派(シャークタ派)と交流を受け、仏法の慈悲(男性)、智慧(女性)の融合、すなわち性的快楽を覚りに結びつける教義が取り入れられている、尚インドには性的快楽を語ることに抵抗感はない様である、チベット密教は多くの美術作品が世界に知られており、青銅像やタンカと呼ばれるチベット仏画が存在している、インドからの亡命僧が多く関わり男女間の性的快楽が表現されている、しかし儒教文化に馴染んだ中国に於いて元、清の時代に信仰された様であるが経典は「秘密集会タントラ」(施護訳)「一切如来金剛三業最上秘密大教王経」など漢訳されているが日の目を見ていない、本来は淫姿と見られタブーであり、その影響を受けた日本に於いても生殖崇拝的な左道すなわち後期密教が受け入れられる事は無かった、但し明治維新まで真言立川流に左道密教の跡が見られたと言う、外部からラマ教と呼ばれた様に師を大切にし「四宝」仏法僧に師宝を加えている、因みに左道の左は邪と解釈される。 
チベットには多くの宗派があるが、解脱せず何度の娑婆に生まれ変る「転生活仏(てんしょうかつぶつ)(トウルク)」のダライラマやパンテェンラマの所属するゲルク派に加え、・カギュ派・サキャ派に・最古の歴史を持つニンマ派で四大宗派を形成している、その他政治的に独立国であるブータンにはダライラマの所属するゲルク派から独立したドウク派があり健在である。 
重ねて言えばラマ教の呼称は現在では宗教関係者以外から言われている名称で、近年発行された著述の多くにラマ教の呼称は限定された場合にのみ使用されている、侮蔑用語ではないが誤解を招きやすく使用は適切とは考えられない、国名・宗派名(チベット仏教・ブータン仏教)若しくは「後期密教」を使用すべきと考える、因みにラマとは師を意味し梵語はguru(グル)、チベット語でbla ma(ラマ)である、またチベットでは信徒を「ナンパ」と言い、仏法を「チョエ」と呼び、教義すばわち釈迦の教えを「サンギェキテンパ」としている様だ。 
仏教僧で家庭を持つのは日本と、存在は少数で減りつつあるがチベットにも、仏教請来以前の土着宗教であるボン教と習合したニンマ派の僧にも婚姻僧がいると言う。 
現在のチベット仏教の指導的中心は1965年に開かれたニューデリーのチベットハウスにあり、最高指導者であるダライラマを中心に四大宗派の高僧による講座や学術文化面に於いて活動している。

日本に於いて仏教は日常用語・文化・芸術等と完全にリンクしており、規模的には最大級の仏教国と言える、 しかし仏教と言う名の形態のみである、20世紀の傑僧、薬師寺の故橋本凝胤師(1897-1978)は「日本仏教は宗教に非ず」と断罪する、また日本に伝わった宗教は、すべて本来の教義とかけ離れた教えになると小室直樹氏は言う、すなわち仏教の根幹は戒律にある、しかし日本に於いては中国から受けた三教合一論の影響も否定できないが、最澄・法然・親鸞・の流れの中で戒律は消滅した、その他日本仏教の特異性は墓・戒名・先祖に対する法要にあり、他の仏教国には見られない、中国は先祖供養が広まっているが仏教による会ではない。 
世界的に見て新宗教が広まると原始宗教は消滅するが日本に於いては呪術・怨霊鎮魂の為の神道と融合して生き残ることになる、これを井沢元彦氏に拠れば日本は民俗学・宗教学上のガラパゴス諸島とまで言う。 
仏教の分類 
上座部仏教 部派/顕教 
東南アジア・スリランカ・タイ・ビルマ他 / 南伝仏教と言い、個人で覚りを開く・釈尊の教えを忠実にまもる・スリランカに原典に近い経典が揃っている・修行者中心の仏教・人間として如何に生きるかの哲学・自利行(じりぎょう) 
人口比率38% 
大衆部仏教 大乗/顕教(波羅蜜道) 
中国・朝鮮・日本 / 北伝仏教と言い、大きな乗り物で大衆を彼岸に運ぶ・釈迦を超越した存在として崇拝(久遠実成の釈迦)・戒は在るが律は無い・BC1世紀頃仏塔参拝に訪れた在家信者等から始まった、それを龍樹が般若経を発表して体系化した。現世救済の哲学・利他行 
人口比率56% 
チベット仏教 部派色・後期密教(真言道) 
チベット、ブータン / 10世紀頃中国から入るがインドからも輸入して混合しラマ教独自の仏教を始める、インド仏教に於ける後期密教の正統を継承しているとも言える・仏法僧(三宝)にラマ(仏の化身、ダライラマ・パンチェンラマ)を加え四つの宝 
人口比率6%  ダライラマは大海を意味し観音の化身、パンチェンラマは阿弥陀如来の化身 
中期密教 大乗(真言道) 
中国・日本 / 秘密仏教の略(教えが露顕されていない)、三密の業、身・口・意、加持祈祷、呪力、密教で言う真言とは呪力の事、行動を重んじる、ヒンズー教に近い。仏教の説話の中にヒンズー教の説話が多い。輪廻転生・十二支・七夕・等 
人口比率大乗仏教に含む 
 
一口に仏教と言つても八万四千の法門が存在すると言われており、宗派と言うよりも潮流と言えるほど各宗派実に多様である、繰り返すが釈迦牟尼の教えとされる以外は全く違う宗教と考えたほうが正しいかも知れない。 
新しい経典は如(にょ)是(ぜ)我聞(がもん)即ち私は仏からこの様に聞たで始まれば何時でも新しく作る事が出来た。 
釈迦は35歳から80歳まで同じ説教をしていたとは思えず解釈の分かれる原因ともなった、中国天台宗の祖・天台智の法華経的解釈に於いては釈迦の説教の変化(方便)を五時八教と言い以下の様になる。 
1.華厳時覚りの時から二十一日間 
2.鹿苑時 十二年間 
3.方等時 八年間 
4.般若時 二十二年間 
5.法華涅槃時 八年と1日半に変化したとも言われる(1日半は涅槃経を説いてから入滅までの間)。 
釈尊の死後何度となく仏典結集(何が釈迦の教えかを判定する会議)が行はれたがどの経典も真説経典の証明は出来なかった、反面権力を背景とした解釈権は何処にもなく実に自由な発創の教説が生まれることになる。 
そこでインドでは保守層の上座部と進歩層の大乗派との間で根本分裂(BC400頃)が起こる、それがさらに20以上に分裂する、これを部派仏教時代(アビダルマ仏教時代)と言う、アビダルマ(各派で釈尊の正しい教義と信じて教理研究競う)以前を原始仏教と呼んでいる。 
新しく分裂した派の内、自分が覚ることを目的とした上座部(小乗仏教)は戒律を大切にする宗教であり僧侶はパーリ律(p´li)による227戒を厳重に守る必要がある。 
これに対して釈迦牟尼を神格化する久遠実成の釈迦論を標榜する事により現世利益を前面に出して、復活台頭してきたバラモン・ヒンズー教と対抗する為に生まれた一面をもつ大乗仏教は、大きな乗り物で大衆を浄土へ導くと言う現世救済の哲学であるが為に一般大衆には理解し易い宗教となった。 
大乗仏教はガンダーラに於いて起こるが、根本分裂の原因の他に、1世紀頃に中央アジアを支配していたゾロアスター教徒(拝火教)のクシャン人を仏教徒に改宗させるために考え出されたとも言える、彼等は火を崇拝し、強い偶像崇拝の信仰を持ち、来世への不安を感じていることから仏像や仏塔が作られ火炎光背等を採用する事になる。 
梵語でBuddha(仏陀)と言えば釈迦と考えられるが覚者・覚った人を意味しており初期の教団に於いて高弟達と「仏陀」「阿羅漢、アルハット arhat」と互いに呼び合ったとされている(十大弟子等は覚者として扱われた様)、又キリスト教やイスラムは全て唯一の神が創造したものであるのに対して仏教は悠久の昔からの宇宙真理を釈迦牟尼が覚ったものであり(宇宙他全てを創造したのは梵天)「多仏思想」即ち過去にも同じ覚りを開いた人物が存在したとする考察が行われた、これはインド古代に於ける言語仏典パーリ(p´li)語の法句経「七仏通誡偈(つうかいげ)」による、(諸悪莫作(しょあくまくさ)/衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)/自浄其意(じじょうごい)/是諸仏教(ぜしょぶっきょう))大般涅槃経の教えから言われている。 
・毘婆尸仏(びばしぶつ) / vip´syin / ヴイオアシュイン / 荘厳劫(過去の劫)    
・尸棄仏(しきぶつ) / oikhin / シキン / 荘厳劫(過去の劫) 
・毘舎浮仏(びしゃふぶつ) / vi>vaBhu / ブイシュアブー / 荘厳劫(過去の劫) 
・拘留孫仏(くるそんぶつ) / krakuCChanda / クラクッチャンダ / 賢劫(現在の劫) 
・拘那含牟尼(くなごんむに)仏(ぶつ) / kanakamuni / カナカニム / 賢劫(現在の劫) 
・迦葉仏(かしょうぶつ) / k´>yapa / カーシュヤパ / 賢劫(現在の劫) 
までの六仏に釈迦牟尼仏>´kyamuniを加えて「過去七仏」と言われる、七仏の七はインドに於ける古代神話の七仙に由来しておりジャイナ教にも同様の哲学がある。 
また同じ過去仏に錠光如来言う如来がある、梵語名dipankara(ディーバンカラ)燃燈如来・定光如来等とも呼ばれる、無限劫の過去仏で前世の釈迦すなわち薔薇門僧の浄幢菩薩を現世で覚者になると予言した。 
燃燈仏は無限劫の過去仏に最初に出現した覚者で、錠光如来(燃燈仏)から53番目に「世自在王如来」が顕れその弟子が阿弥陀如来と言う、因みに「瑞応経」と言う経典在ると言い、これに依れば悠久(限りない無限)の過去、すなわち儒童梵士(じゅどうぼんし)(浄幢菩薩)の時代に錠光如来から如来になると言う、お告げがあったとされる。 
又過去仏が作り出されると共に未来仏も考え出された、釈迦如来の後継者を仏嗣(ぶっし)と言い弥勒菩薩(仏嗣弥勒)である、現在、兜率天(とそつてん)において修行中であり五十六億七千万年後に弥勒仏(如来)と成ってこの世に現れると言う。 
そして阿含経に拠れば釈迦入滅後、弥勒仏の現れるまでの空白期間を、正法/釈迦の教えが正しく守られる ・像法/教えの形は守られる ・末法/経典は残るが教えは守られず乱れた世の中になる・(法滅/経典も無く壊滅的な時代を言い末法の後を言う解釈もある)(それぞれ500-1000年 、計1500-3000年)に区分される、これを三時観(三時思想)と言う。 
現在日本に見られるミイラは末法終了時点に弥勒仏に逢いたいと言う願望からのものが多い、また経塚を山中に埋めたのは弥勒降臨まで経典を残そうとするものである。 
インドにはBC3000-1500頃にはインダス川流域に広大な都市とヒンズー文化の源流が存在しギリシャと共に哲学、思想の最先進国であった。 
超一流の哲学者、思想家、宗教家達が哲学、宗教的考察を重ねて出来たのが大乗仏教である,インドでは哲学のレベルはエジプトと並び世界最高水準にあったが古代信仰・輪廻転生(りんねてんしょう)の思想からか「史書なきインド」と言われており物事を歴史的に考察する習慣が少ない為に事例を歴史に学ぶ中国とは国情に大きな違いがある、巨大な宗教の下ではその絶対性から歴史上ただ一度の事例を過大に捕らえ、人間の持つ本質は軽視されてきた、現代に於いてもプロの歴史学者の研究分野は著しく細分化されて巨視的な視野からの研究が軽視されてはいないだろうか。 
大乗仏教は又解脱者を信仰・崇拝・する宗教でもある、しかし現在の仏法は不浄説法に長じた者も見られ、真摯に法を説く人とは峻別しなければならない。 
最後に留意しなければならないのが、日本仏教は漢訳仏教を請来したのであり、密教を含む大乗仏教でも梵語やパーリ語(p´li)の仏教とは異なる点が多い事である、要するに中国の文化的遺伝子を色濃く組み込まれた仏教である。 
仏教は信仰の実践を六波羅蜜に求める、波羅蜜とは完成された状態とでも言うべきか、仏教は釈尊の誕生日すら各国独自であるのに対して六波羅蜜に関しては各仏教国、各宗派共通事項である。 
そしてその要諦は般若心経にあると言えよう、、観自在菩薩が覚り得た般若即ち真の智慧は凡て五蘊すなわち空であると説き、六波羅蜜 ・般若波羅蜜多いわゆる完全な智慧の完成を説く経典である、すなわち人間の心以外に実在する物は全て空と説き、仮説(仮設)であると実在の否定につながる。 
六波羅蜜とは 
(1)布施   
(2)持戒 (道徳・法律) 
(3)忍辱(にんにく) (耐え忍ぶ) 
(4)精進 (努力) 
(5)禅定 (徳を行う行動) 
(6)般若 (単に知恵ではなく慧に裏付けられて完成される、覚りに向けた智慧) 
五蘊(ごうん)とはpa4Ca‐skandha(パンチャ・スカンダ)仏教に於ける縁起観の内で、宇宙観を分析する時に使われる。 
1.色 (身体を構成する5の感覚器官・5根) ルーパ / 感覚  
2.受 (苦・楽・不苦不楽を受ける作用) ベーダナー / 感受  
3.想 (知覚作用) サンジュニャー / 表象 
4.行 (意思・真理作用) サンスカーラ / 意志 
5.識 (眼・耳・鼻・舌・身・意の認識) ビジュニャーナ / 感覚・知覚・思考作用を含む認識作用     
因みに「蘊」とは集合体を意味する、認識作用に五根があり眼識・耳識・鼻識・舌識・身識がある。 密教に於いては空海が「六大無礙(むげ)にして常に瑜伽なり」と言い六大縁起すなわち・地・水・火・風・空・識をいう。
注1.富永仲基(1715年-1746年)大阪商家の出身、三宅石庵に儒学を学び中国古代思想の研究から仏教史想を成立し歴史的に解明する「出定後語」は1745年の著作で仏教哲学者が方便を駆使して自説を拡大したもので大乗仏教は釈迦の説では無いとした、他の著作に「翁の文」がある。    
注2.バラモンとはインドに移り住んだアーリア人がドラピタ人等を制圧し興した宗教で、インドに於ける階級制度(カースト)の最高位にあり梵語のbr´hmalaの音訳で中国では婆羅門と記述された。 
カーストとはラテン語の Castusが語源でありBC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない、但しインドに於いてはバルナ(varla)と呼ばれている、バルナとは本来は色彩を意味しているが法的には建前として存在しない事になっている。 
釈迦はカーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、仏教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活し現在にも生きている。  
基本的には四階級と言われるが、事実上は五階級に分類され、さらに夫々が細かく分類される。  
1.ブラーフマナ・バラモン(婆羅門)司祭と訳され聖職に付き式典の祭主を勤める。  
2.クシャトリアと呼ばれ王族・貴族・武士などを指す。  
3.ビアイシャと言い平民を指す。  
4.シュードラと言い賎民を言い卑しいとされる職業に就く。  
5.アチュートと言いカーストの枠内に入れない不可蝕賎民(ふかしょくせんみん)を言う。  
この司祭階層の主宰する祭式をバラモン教と呼ばれたが、仏教やジャナ教が台頭すると衰えを見せるがカースト制度は維持された。西暦2-3世紀頃非アーリア的な神々や信仰形態を取り入れ大衆の支持を得ることに成功し宗教的融合を果たしてヒンドゥー教の成立をみた。当初バラモンは第4バルナのシュードラを差別・除外していたが、農民大衆をシュードラとみる傾向が一般化した為にシュードラ差別を改めて彼らのために祭式を挙行するようになった。 
バラモンと仏教の関係 釈迦如来は梵我一如の宇宙哲学を否定し無常、人間的論理を駆使して仏教を成立させるが後に興った大乗思想はバラモン思想を華厳等の教派として一体化する。 インドに於いてはカーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。  
注3.小乗仏教とは大乗側から見た差別用語であり上座部仏教の呼称が無難。 
注4.久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦とは実在の釈迦を神格化して永遠に実在する釈迦牟尼とするもので法華経如来量品十六において・私が成仏してから無量無辺百万億那由陀劫(なゆだこう)なり・即ち悠久の昔から真理を求めて来た。  
注5.劫(こう)/劫波の略語で梵語kalpaの意訳で佛教の言う非常に長い期間を言う、盤石(ばんじゃく)劫の一劫とは四十立方里の岩に天人が百年に一度舞い降りて衣の袖で岩面を一度なでる、その岩が磨耗するまでを一劫と言う。 
また大智度論に依れば芥子劫も有り芥子の実を百年に一度160`平方bの城都に一粒ずつ落とし満杯になって一劫とする数え方もある、またヒンズー教に於いては一劫は43億2千万年とする記述もある、今現在の劫を賢劫(けんごう)と言い過去の劫を荘厳劫(そうごんこう)・未来劫を星宿(せいしゅく)劫と呼びこれを三世三千佛と言う、曼荼羅に登場する賢劫の千佛はここから由来している。阿弥陀如来は法蔵菩薩時代に五劫の間修行して如来と成った、ちなみに阿弥陀五劫思惟像は東大寺(木造・漆箔・106,0Cm 室町時代)に合掌姿で存在している。 
劫の分類は複雑で宇宙形成から繰り返す壊滅、空劫、成劫、住劫までの劫を一大劫、器世間と言う時間を単位とする物を歳敷劫という。 
阿弥陀如来が四十八誓願をかなえて覚りを開いてから十劫が経過していると言う、人間が成仏出来るまでの時間軸に三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)の間に積功累徳(しゃっくるいとく)を必要とされる、三阿僧祇劫≑無数≑10の140乗≑3×10の56乗×1劫となる、但し乗数は52-56等の説がある、因みに積功累徳とは修行に精進を重ね功徳を積上げる事を云う。      
また劫の対極にある時間を表す極少時間は仏教用語で刹那(1/75≑秒)と言う。 
無限大と言える過去に「錠光如来」が出現し、その後も如来が現れ53番目に「世自在王如来」が現れる、「宝蔵菩薩」は世自在王如来の弟子で師から210億の佛の世界を示され五劫の間思惟した後に極楽浄土を完成して阿弥陀如来となった、因みにヒンズー教に於いては一劫を43億2千万年とされている。 
注6.輪廻転生とは全ての生物は業を持っており・解脱(成仏)しない限り六道の世界を転生すると言う、1天道・2人道・3修羅道・4畜生道・5餓鬼道・6地極道の世界を言う、天台の教義に拠れば六道とは「十界互具・ごぐ」の内「迷」の世界であり、「悟」の世界に如来・菩薩・明王・縁覚・声聞がある、因みに縁覚とは独覚を言い縁覚は修行中を言う。    
注7.五十六億七千万年/弥勒菩薩の住む兜率天の一日は下界の四百年に相当する・兜率天の住人の寿命は4千年であり、一年を三百六十日と計算されている、したがって360日X400倍X4000年=56億7千万年と計算される。 
注8.仏教公伝は552年とされるが、渡来系の人々の間では520年前半に信仰されていたと推察できる。「扶桑略記」に拠れば522年鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしばたつと)が渡来し大和高市郡坂田原に庵を結び仏像を安置したと言う、また日本人が最初に体験した異教と言われるが、それ以前に儒教が伝来したと言う伝承もあり、前後して道教の流れを汲む陰陽道も輸入されていた可能性も高い、ちなみに中国に於いては既に末法に入ったと恐れられた時代でもある。 
注9.三蔵とは/経典(スートラ・sutra)律(ヴィナヤ・vinaya)論(アビダンマ・ abhidhamma)を言い梵語名を tripipaka(ティピタカ)と言いう、仏教経典を経蔵(釈迦の説教)・律蔵(組織を維持するための規則)・論蔵(前二蔵の注釈・弟子たちの解釈書)に仕分したもので一切経・大蔵経の原点とされる、因みに三蔵の解説書を「義疏 」「疏」(しょ)と言う、大蔵経・一切経と同意語でこれに通じた人を三蔵・三蔵法師と呼ぶ。   
注10.リグ・ベーダ聖典/Rgveda BC2000-500年ころのインドに於ける最古の経典の一つでリグ・ベーダ、サーマ・ベーダs´maveda、ヤジュル・ベーダyajurveda、アタルヴァ・ベーダatharvedaがある。 
リグとは讃歌を意味しベーダはバラモン聖典をさす、゙サンヒータ Samhit´讃歌 ・呪文 ・祭詞を集成した本集、ブラーフマナBr´hman´サンヒータ補助部門。      
注11.四方仏とは四方に仏国土があると言う考えがあり、東方の浄瑠璃世界に薬師如来、西方極楽浄土に阿弥陀如来、南方娑婆に釈迦如来、北方弥勒浄土に弥勒如来 があり、興福寺の五重塔を初めとして多く存在する。 
注12.世界の宗教人口は約63億人の内、キリスト教徒32,9% ・イスラム教徒19,9% ・ヒンズー教徒13,2% ・中国民間信仰6,3%(儒教・道教など) ・仏教徒5,9%となる。 
注13.サンガ/梵語samgha で漢訳を僧伽(そうぎゃ)と言う、共同体を意味し通常教団を言いそこに所属する者を僧という。   
注14.梵字(サンスクリット文字)とはインドの古代文字で悉曇(しったん)文字とも言い12の母韻と35の体文で構成され梵天から与えられたと言う伝承がある。 
注15.空・因果律/仏教の蘊奥とされる空と因果律を乱暴に一言で言えば、空とは眼に見えているもの総てが仮設(仮説)であり実在しない、因果律とは現在置かれている結果には総てに原因がある。 
注16.仏教は人間や動物を生贄にするバラモンの犠牲祭を否定し供物を植物系に切り替えた。 
注17.末法思想と三時観とは、三時思想とも言い阿含経に拠れば釈迦如来の入滅後に弥勒仏の現れるまでの空白期間を示す正法・像法・末法を言う、当初は正法・像法が言われたが6世紀頃にインドで三時観となる、釈尊入滅後に於ける仏教流布期間を三期間の分類したもので正法は釈尊の教えが正しく伝わり、像法に於いてはやや形骸化するが教えの形は守られる、末法に到り経典は残るが漸衰滅亡すると言う。個々の期間は五百年・千年など諸説があるがしだいに千年説が広がる、これは中国に仏教が伝来時には末法にならない為に調整したとも考えられる、また一時観を千年とした根拠は、中国に於いては釈尊の生誕はBC948年としている、これは孔子よりも先に生誕した様に記録したかったとされる、三時観は日本に伝わり最澄が重要視し「守護国界章」を著している。 
仏法とは・証・行・教を言い正法とは三時が揃う事を言い、像法は証が失われ末法は証と行が失われる教のみが残る事を云う、証とは絶対知の感得を言い行は絶対知の感得の為の修行を言われる、また教は絶対知を感得する案内書すなわち経典を指す。 
末法を法滅と言い経典も無く壊滅的な時代を言い末法の後を言う解釈もある。 
注18.経典には真経・疑経・偽経が存在するが、疑経には「観無量寿経」や「弥勒上生経」、それに日本の仏教行事に多大な影響を与えた「盂蘭盆経」さらに護国三部経の一典である「仁王般若経」などの著名経典がこの範疇に入り、「仏説父母恩重経」などが偽経に入る、さらに「般若心経」にも疑経説がある。 
注19.阿毘達磨(abhidharma)・部派仏教(アビダルマ)時代、BC3世紀-1世紀頃の仏教の教理に依る釈尊の直弟子を含んだ分裂を言う、根本分裂すなわち「十事の非法」の賛否により上座部と大衆部に分かれ、更に分裂し上座部11部・大衆部9部となる。根本分裂の大きな事例に大乗仏教の祖とも言える(いえる)大天(だいてん)すなわち摩訶提婆(だいば)による「大天の五事」があり、阿羅漢の条件に幅を持たせる五項目の解釈や布施に金銀・貨幣の承認問題(十事の非法、すなわち戒律からの除外項目)等がある、因みに部派仏教の呼称は明治以降日本で使用される用語である。 
十事の非法 
1.前日に布施をうけた塩を蓄えて後日の食事に用いても良。2.中食後も、ある一定時間内は食事して良。3.食後に於いてまた食べても良。4.道場を離れれば食後でも食べて良。5.酥・油・蜜・石蜜などを酪に混入し食事時以外にも飲む事の承認。6.病気治療の為なら未醗酵の飲酒の承認。7.身体のサイズに応じた座具の大きさの選定承認。8.慣例の行為に準ずる場合は律と相違も認める。9.別箇に羯磨法(こんまほう)を行い、あとからやって来て他の人にそれの承認を求めることができる。10.金銭類の布施の承認。とされている。  
上座部の11派(南伝仏教(上座部と北伝仏教(大乗)とは多少の相違がある) 
説一切有部(せついっさいうぶ)・雪山(せっせん)部 ・犢子(とくし)部・法上部・賢冑(けんちゅう)部・正量(しょうりょう)部・密林山(みつりんせん)部・化地(けじ)部・法蔵部・飲光(おんこう)部・経量(きょうりょう)部   
大衆(だいしゅ)部の9派   
一説(いっせつ)部・説出世(せつしゅっせ)部・鶏胤(けいいん)部・多聞(たもん)部・説仮(せっけ)部・制多山(せいたせん)部・西山住部・北山住部。
 
 
浄土教と仏教美術

中国の神仏習合(しんぶつしゅうごう)の考えたかが仏教情報と共に流入するにつれて、次第に 
「罪業を侵して神になってしもうたから、仏教に帰依しますのん」 
と神様が仏教を信奉してしまうような例が増加することは前に見た。この時期、都だけでなく、地方の神社などでもこのタイプの神仏習合が盛んに行われ、神社の中に、神宮寺(じんぐうじ)が建設されることも多くなった。もともと神を祭っただろう御神木(ごしんぼく)から仏像が掘り出されることもあったり、神前読経(しんぜんどっきょう)といって、神の前でお経が読まれたりしている。 
またある僧を、「垂迹(すいじゃく)」(別の姿となって現れたるもの)として捉えて、かつての偉大な僧の生まれ変わりに見立てるようなことも、中国の影響で9世紀頃からみられるようになる。やがて11世紀を過ぎる頃には、とある神をある仏の生まれ変わりと考えるような思想、「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」が誕生してくることになった。 
8世紀半ばに始まる国分寺・国分尼寺は、地方ごとの公的寺院として機能していたが、国府の機能が変化し、受領が登場し、郡司も大きく姿を変えていく平安時代初期には、国分寺の管理経営が十分なされずに放置される例も増えてきた。中央は、もはやこれを絶対に維持しようとは考えず、かわりに氏寺(うじでら)など地域民と結びついて認知度の高い寺を、定額寺制(じょうがくじせい)といって、公的な官寺的待遇を与えることが行われるようになる。浅草の浅草寺(せんそうじ)なども、もとは氏寺だったらしい。 
さてインドに源泉を逆上る浄土教(じょうどきょう)の信仰は、様々な宗派でも受け入れられている仏、阿弥陀如来(あみだにょらい)を信仰対象とし、彼の治める浄土(じょうど)(それぞれの仏が治める浄土がそれぞれにあるそうだ)である「極楽(ごくらく)」へ往生(おうじょう)し成仏(じょうぶつ)するために、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)(仏様の名前を唱える)を行うものであるとして、隋唐時代の庶民の間に広まった宗教であった。 
これは教理や密教儀式といった、僧と国家に連なる宗派仏教に対して、民間仏教あるいは民間宗教的な側面を持って広まったのである。一宗派というよりは、一宗教とでも呼べるこの浄土教は、天台宗の円仁(えんにん)(794-864)が唐から持ち帰り、阿弥陀如来を浮かべつつ称名念仏を行ったのが始まりだとされている。この頃すでに民衆にも仏教は浸透していたが、それは官僧たちが教理をこね回すややこしい宗教ではなく、ずっと素朴でダイレクトなものだったから、庶民に布教する空也(くうや)(903-792)らが登場して、念仏路上ライブを繰り広げると、皆さん引きつけられて聞き入ったものであった。 
行基(ぎょうき)の例を見ても分かるように、民衆のため民衆の中にあって仏教を広めるという考えは、なにも鎌倉仏教に本格化するものではない。市聖(いちのひじり)と呼ばれる空也は、尾張(?)国分寺で得度して僧となったのだが、諸国を修行に巡りて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱えまくり、浄土教(というか阿弥陀仏信仰)を広めて回ったのである。その後、京でもこれを勧め、貴族とも交わって浄土教ブームの火付け役となった。(としておこう。)さらに疫病や飢饉などで亡くなった死体を火葬供養して周り、963年には藤原実頼(ふじわらのさねより)らの協力により鴨川(かもがわ)で大々的な無縁仏供養(むえんぼとけくよう)が行われた。無縁仏とは供養者の居ないものを指す。 
なお空也は、後に運慶(うんけい)の息子である康勝(こうしょう)が造った、口から六体の阿弥陀さまを吐きだした立像があって非常に有名だ。きっと見たことがあるはずだ。 
その後、恵心僧都(えしんそうず)とも尊称される源信(げんしん)(942-1017)が登場し、985年に「往生要集(おうじょうようしゅう)」を執筆。極楽に到るための念仏の教えとその方法を書き記し、日本における浄土教の教えを形作った。 
「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」とは、すなわち 
「穢れたるこの土を厭い離れ、浄土へ往生することを求めよ」 
といった意味であるが、この言葉は宮中の流行語大賞にさえなったのである。(……嘘を書くな。) 
空也が口で唱える称名念仏を説いたのに対して、源信は「観想念仏(かんそうねんぶつ)」つまり心にイメージするという、イメージトレーニングの先駆け(?)によって阿弥陀仏を念じることを説いたのであるが、このイメージで表現する方法は、すなわち芸術的表現や建築物としての表現として貴族たちに支持されて、浄土教美術を生み出す原動力ともなった。 
貴族たちの浄土教熱には、もう一つ、末法思想(まっぽうしそう)というものが関係している。怨霊におののき、物忌み(ものいみ)、方違え(かたたがえ)など、迷信や人ならざる物の怪に怯える貴族たちは、仏法の廃れて禍(わざわい)押し寄せるという時代、末法(まっぽう)の時代がやってくることを、非常に怖ろしく感じたからである。 
これはどういうものか。釈迦がお亡くなりてからの千年は正法(しょうほう)でまあ安心だが、続く千年の像法(ぞうほう)を経て、1052年から教えのすっかり廃れた末法(まっぽう)が始まるという説である。 
高密度都市空間で疫病や衛生問題による大量死が起こる京の都、そして周辺では日照りや災害による農作物不振やいくさなどが、人々の危機感をあおり立てた。藤原道長が出家後に法成寺(ほうじょうじ)(鎌倉時代にずたぼろになって廃絶)を建立し、安置された阿弥陀如来と自分の手を糸で結ばせながら、極楽往生を願って、ガクブル震えながら(かどうかは知らないが)亡くなったのは有名な話だ。こんな辞世の句を捏造しても面白いかも知れない。 
「この世をばわが世とぞ思ふ望月も 欠けたるのちは無しと思へば」 
そして末法が始まった1053年。浄土教美術の極み、極楽浄土を視覚化した壮大な建造物が生み出された。藤原頼道(ふじわらのよりみち)の作らせた平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)である。宇治川を前に、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂は、中国の幻の鳥「鳳凰(ほうおう)」の姿に見立てられ、鳳凰堂と呼ばれるのである。 
さて平等院の阿弥陀如来像は、寄木造り(よせぎづくり)で作られている。それまでの一木造り(いちぼくづくり)と異なり、仏像のそれぞれの部分を異なる木で製作し、これを組み合わせて使用するために、柔軟に巨像を製作することが出来た。さらにパーツを同時に製作するため、仏師たちが工房を組織して、短期間で仏像を完成させることが出来るようになっていく。この阿弥陀如来は、当時名を馳せた定朝(じょうちょう)という仏師の、唯一の現存作品としても知られている。定朝様(じょうちょうよう)といった様式名が与えられることがある。 
ほかの浄土教美術としては、阿弥陀仏が人々をお迎えにいらっしゃる絵図がしばしば描かれ、これは来迎図(らいごうず)と呼ばれている。現存するものとしては、高野山の聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)が有名だそうだ。
 
日本仏教史 1

伝来前夜 
2500年前にお釈迦様がおさとりになり、その教えをお説きになったことに始まる仏教は、その後様々な時代の変遷に翻弄され変容を遂げていきました。経と律という教えと規範にくわえ、教えを体系化し、より精緻にまとめ上げた論が登場し、僧団の分裂やお釈迦様の神格化を経て、仏像が登場し、大衆のための新しい大乗の教えが作られていきました。 
中国には仏滅後4500年、西暦前後には早くも仏教が伝えられ、異国情緒に溢れた儀礼がもてはやされ、瞬く間に中国社会に浸透していきました。しかし既に文化的素養のあった中国では仏教がそのまま受け入れられたのではなく、かなりの中国化を経て広まり、彼らの気風にあった教えが尊重されたのでした。 
このことは我が国に伝えられた仏教が既にかなり異質なものであった事実を物語っているのであり、様々な時代に作られた経典類もみな同等にお釈迦様の教えであるとして受け入れてしまいました。当然のことながら当時文献史的価値付けをすることもかなわなかったのであり、そうした背景を私たちは知りつつ、その歩みを見ていく必要があるようです。それではまず伝来時の事情から歴史を紐解くことにいたしましょう。 
仏教伝来 
日本へ仏教を伝える百済には4世紀の中葉、インド系の僧摩羅難陀が海路百済を訪れ仏教を伝えたといわれています。その後百済は新羅高句麗連合軍との戦時下に入り、任那を領有していた日本に援軍を頼む際の土産に金銅の釈迦仏像と経巻ならびに僧をわが国の朝廷に贈ったというのが仏教の公伝(西暦538)と伝えられています。欽明天皇7年のことでした。 
既にインドでは仏滅後1000年が経ち、唯識説が確立しそろそろ密教が勃興してくる時代。中国では鳩摩羅什が法華経、華厳経といった重要経典を含む膨大な経典を翻訳し終わった時代のことでした。 
欽明天皇の「西蕃の仏を受け入れるべきや否や」との問いに、蘇我氏は諸国の例に倣うべきであるとして賛成し、物部氏は古来の天神地祇の怒りを招くとして反対したと言われます。当時は仏を「他国神」「蕃神」などと記し、日本の神と同等のものとして仏を捉えていたようです。 
仏を招福神とみるか災厄神として捉えるかで争われたこの崇仏排仏に端を発した両者の抗争は政治的社会的権力争いの様相を呈し戦闘にまで発展しました。結局崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって仏教は豪族たちの間で採用され、競って氏寺を建立し、美しい仏像や経典類の調達に奔走することになりました。 
その後百済や高句麗から仏像や仏舎利などが移入され、それら仏像などに仕える修行僧を必要としたため、蘇我氏の後の氏寺法興寺にて、高句麗僧恵便を師として司馬達等の娘らが出家して善信、禅蔵、恵善の3人の尼僧が誕生し、大会と設斎が行われました。 
これをもって日本仏教史上の起点と位置づけ、日本書紀には「仏法の初め、これよりなれり」と記されています。おそらく当時既に複数の僧が朝鮮から渡り数々の儀礼も行っていたのでありましょう。後に善信尼等は正式な受戒のために百済に渡っています。その際百済からは僧恵聰はじめ数名の僧侶の他、造仏工、造寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者が来朝しています。 
聖徳太子の仏教 
推古天皇は即位(593)とともに兄用命帝の子聖徳太子を摂政として指名しました。日本の国家的黎明期における先覚者である太子は、かつて物部氏との戦いに先勝祈願した四天王を祀る寺を難波に造り、摂政になると、翌年には「三宝興隆」の詔勅を発し仏教を基礎にした国民の道徳精神を高め、高麗僧慧慈と百済僧慧聰を三宝の棟梁として二人から親しく教えを受けられました。 
太子は、氏姓による社会階級の他に個人の力量に応じてその身分を表示する階位制度である「冠位十二階」や社会の秩序を制約する道徳法である「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など内外の政治外交に活躍され、その後の国家の道筋を形作りました。 
この遣隋使の主目的は、仏教文化の摂取にあったとも言われ、学問僧を随行させ仏法の修得や経典の蒐集にあたらせました。これによって、それまで朝鮮半島を経由して流入していた仏教を本場中国からも直接摂取するなど、自発的計画に基づく積極的な大陸文化の輸入が計られていきました。 
606年、太子は推古帝に勝鬘経の講義をし、翌年には法隆寺を建立。この頃から太子は政務にあまり関わらず仏教研究に専念されたと言われています。遣隋使によってもたらされた仏教書に基づいて太子は勝鬘経義疏や法華義疏などの経典注釈書を残されています。これらは古来太子の真撰か偽撰かの議論があるところではありますが、いずれにしてもこれらの著作を日本仏教として重要視してきた事実に代わりはありません。 
これらの著作で注目されるのは、大乗の教えをも越えた絶対的一大乗を唱え、世俗を離れ一人山中坐禅に専念することを小乗と戒めるなど。広く人々を救うとする大乗教の重視、在俗の身による修行を尊重するこれら太子の思想傾向は後々まで日本仏教の性格を規定するものとなりました。 
622年太子が斑鳩宮で逝去すると、妃橘大郎女は天寿国繍帳を織らせ、太子の来世に天寿国(弥陀の浄土)への再生を願ったと言われています。この聖徳太子の時代を経て、仏教は日本に定着し国家仏教として繁栄していく基礎が出来上がりました。  
僧尼の統制 
それまでに大陸から流入していた外来思想である儒教道教の類が文字の修得や文学の理解に役立つものでしかなかったのに比べ、仏教は、あらゆる文化芸術にいたる諸々の人々の生活水準向上に繋がりました。 
金銅や木彫の神秘的な相貌、流麗な肢体をもつ仏像は精緻な彫刻技術、瓦葺き、重層、丹塗りの複雑な仕組みの伽藍は精密な建築技術を、調度類である、天蓋、仏壇、厨子、仏具は精巧な工芸技術をもたらし、さらには、その寺院で催される法会には伎楽が演奏され、経典を写すための筆の製法に至るまで、仏教は大陸の数多の新文化技術をわが国に一度に導入する礎となりました。 
そして、公伝から100年経った推古天皇の時代には飛鳥地方を中心に46もの氏寺がその壮麗さを競い、僧816,尼569と記録されています。次第に増えていた僧尼の統制を要することになり、624年に僧正、僧都、法頭の役がはじめて置かれました。氏族社会から律令体制への転換を意味する大化の改新後は、中央に「十師」の制を置いて衆僧の監督をさせ、諸寺には寺司、寺主を置かせました。そして、718年僧尼令二十七条が定められて僧尼統制の規則が完備しました。 
それによれば年間の出家者の数に制限を設け、希望者は試経を受けねばならず、そこで教学の素養と「金光明経」などの音訓読誦が試験されました。得度後は十戒の護持を制約され、寺院に住し、護国経典である「金光明経」や「仁王経」「法華経」などを読誦して鎮護国家、風雨順次、五穀豊穣などを祈祷する責務がありました。 
また許可なく山林に入って修行することや寺と別の道場を設けて民衆を教化したり、天文災禍を説いたり、吉凶を占ったり、巫術療病することも禁じ、違反者は還俗させられました。中国にあっては伝来から500年も後に行われたものが、わが国ではこうして伝来百年ほどにして仏教は国家の統制の中に管理されることになりました。 
大仏建立 
大化の改新後、政府は仏教に対して消極的態度を示し、寺院の造立よりも僧尼の統制に関心があったようですが、壬申の乱による政変を経て、天武天皇は一切経の書写、放生会を行う詔、大官大寺の造営や薬師寺の造立発願など積極的に関連事業を行いました。また使を諸国に遣わし金光明経や仁王経を説かし、公卿等には各家に仏殿や経蔵を設けさせて月毎に六斎を行わせたということです。 
天武の死後皇位を継いだ皇后持統も、金光明経百部を諸国に送り、毎年正月に読誦することを命じて国家の公の行事とするなど天武の施策を継承しました。こうして律令国家として強力な実権を掌握したこの天武、持統の政府において、正に仏教が国家の宗教的支柱としての重要な位置を与えられることになったのであります。 
次の文武天皇時には旱害、風害、疫病、飢饉が相次ぎ治安も乱れ、さらには政情不安に陥ったため平城遷都の大事業がなされ、710年、律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病に対する除災招福の意を込めた奈良遷都がなされました。そうして聖武天皇が即位すると、737年に国毎に釈迦仏一躯、脇侍菩薩二躯を作り大般若経の書写を命じる詔勅が出され、続いて国毎に法華経十部の書写と七重の塔の建設を命じ、741年に國分寺制度の詔勅が発せられました。 
国分僧寺には僧20人、尼寺には尼10人を置き、水田20町を施入することと規定され、金光明経の読誦によって天神地祇が国家に永く慶福をもたらし、五穀豊穣で、先祖の霊魂をも含め平和安穏と後生の安楽を祈念し、国家を守護することがその目的でありました。 
そしてそれら國分寺の総國分寺として大和國分寺を東大寺とあらため毘盧舎那仏を祀り、諸国國分寺と相応じて全国に毘盧舎那仏の世界を現前させ、天皇を中心とする中央政府と国司、国民との繋がりにおいて理想的国家の建設を目論んだのでありました。 
その理想国家の象徴が毘盧舎那仏であり、身の丈は14.7mもあって当時世界最大の金銅仏でありました。752年、既に皇位を譲られた聖武先帝は、文武百官とともに毘盧舎那大仏の開眼供養にのぞみました。一万の僧が列席し、大導師の座には唐から来朝したインド僧菩提僊那が着し、呪願師を唐僧道璿が勤め、またベトナム僧仏哲が伎楽を披露する中、華厳経が大仏宝前にて読誦され、正にかつてない盛大な儀式が執り行われました。 
この大仏の造立には、官僧から離脱して民衆を教化し様々な土木事業をはじめ社会活動に尽力した僧行基を勧進職に任命し、彼の組織した公的得度を経ていない私度僧集団を公認し、勧募に協力させました。かつて民衆に罪福の因果を説いて様々な事業に民衆を駆り立てた罪で朝廷の迫害にもあった行基ではありましたが、交通の開発農業生産の向上の他民衆の精神的安定にも貢献し、この大仏造立の功績から大僧正の最高位に任ぜられました。 
南都六宗 
日本に伝えられてから、徐々に蓄積されてきた仏教が、奈良の諸大寺において、その専門の科目ごとに出来上がった集団を南都六宗と呼びます。今日のような教団組織としての宗団ではなく、あくまでも専門分野ごとの研究グループという意味合いであったようです。 
最も早く伝えられた三論宗は、龍樹の「中論」と「十二門論」それに提婆の「百論」の三論に基づいて大乗仏教の中心課題である空思想を中心に研究する学派でした。正倉院文書によれば天平年間に般若心経の写経が多く作成されており、これらは天平写経と呼ばれています。当時の皇族貴族が発願した写経も大量に含まれており、心経に対する関心が早くもこの頃から芽生えていたことが窺われます。三論宗の学僧智光はわが国最初の般若心経注釈書「般若心経述義」や「大般若経疏」などの著作を残しています。 
この三論宗に付随して研究された成実宗は、インド部派仏教の学派にあたり、現在時における外界の対象は実在と見るが心やその作用は実在と認めないとする、訶梨跋摩の成実論を中心に研究する学派でした。 
また法相宗は、インド大乗仏教の唯識学派にあたり、入竺沙門玄奘三蔵によって中国に伝えられ、入唐した道昭は直接玄奘から学びました。意識下に潜在する心の分析に特徴があり、菩薩は輪廻を繰り返し修行する必要があり、それには永遠に近い時間を要すること、さらには気根により仏となれない人があることなど、三国伝来の正説を主張しました。 
道昭は諸国を遍歴し社会事業をもなし、わが国で初めて火葬に付されたことでも有名です。後に入唐した学僧玄ムは、唐の玄宗皇帝から紫の袈裟の着用を許されるなど重んじられ、帰朝後も國分寺の創建に関わるなど聖武帝に重用されましたが、それが為に政治に関わり遂に筑紫の観世音寺に左遷されてしまいました。しかし彼の将来した経論5000余巻は興福寺に勅蔵され後のわが国仏教学の発展に大きな役割を果たすことになりました。 
倶舎宗は、法相宗に付随し、世親の倶舎論を中心に学ぶインド部派仏教の学派に相当するのですが、倶舎論の中で規定する諸概念によって唯識説が成立することから、法相宗の基礎学として学ばれたのでありましょう。 
華厳宗は、初期大乗を代表する華厳経を学ぶ学派であり、大仏開眼の大導師菩提僊那とともに来朝した唐の道璿が初めて伝えました。中国の法蔵によって大成された思想に基づいた教えを説き、一つのものが世界の一切を含み、また一つのものには全てのものとの関係のもとに成り立っているとする華厳の教学は、律令体制の目指す統一国家の原理としてこの時代特に重要視されました。 
また律宗は、遣唐僧普照らの招請に応えて渡日を決意し、苦難の末754年に来朝した鑑真によって伝えられました。当時の僧尼は官僧とはいえ、正式な三師七証という受戒を受けておらず、他国で承認されるものではありませんでした。そこで、当時中国で主流であった四分律に則った授戒制を導入する必要に迫られていました。 
鑑真が来朝するとその年のうちに東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、そこで、聖武太上天皇、光明太后、孝謙天皇はじめ400余人が菩薩戒を受け、既に官僧であった80名あまりが旧戒を捨てて鑑真から正式な大戒を受けたということです。さらに下野薬師寺と筑紫観世音寺にも戒壇が設けられ、僧はこれら三戒壇のどれかで受戒することが必須となりました。 
こうして華やかな燦然たる仏教文化が咲き誇るかに見えるこの時代は、政治的には様々な内乱クーデターが続発する時代でもありました。仏教に傾倒し仏弟子との意識の強かった称徳女帝は、道鏡を極官に押し上げ、政治の混乱を招きました。国家と仏教の結合から生じていた積弊の打開に迫られる時代を迎えていました。  
天皇親政による律令制がしだいに衰退し、藤原氏系の貴族が政治の実権を握る時代が続き、その後院政を経て武士階級の台頭を迎える平安時代の仏教を見てまいりましょう。 
平安仏教の二大巨人/最澄 
桓武天皇(在位781-806)は即位後都を長岡に遷し、さらに794年平安京に遷都して人心の一新とともに仏教界の刷新を図りました。 
後に天台宗を開宗する最澄(766-822)は、近江に生まれ受戒の後、世俗化した奈良の官寺をさけて比叡山に草庵を結びました。この参籠行の間に、宮廷の仏事に奉仕する「内供奉十禅師」に任ぜられ、社会から一流の宗教者として公認されるようになりました。 
そして804年、還学生として入唐し、9ヶ月半ほどの間に天台山の行満に天台、また霊厳寺順暁からは密教を伝授されるなど多くの高僧から教えを受け、さらに多くの典籍を入手して帰朝。 
桓武帝から熱烈な歓迎を受け、翌806年には、円(天台の教え)密(密教)禅(禅の行法)戒(戒律)の四つを兼学する一大仏教センターとして[天台法華宗]の立宗が許されました。 
最澄は、様々なこの世の中の表れである現象をそのまま真実の姿であるととらえました。そのため、さとりと迷いの世界の同一性を強調し、さとりについてもその機根を問うよりはすべての人にさとりを開く能力があるとして、無差別平等の思想を形成していきました。こうした最澄の思想は法相宗との論争にも発展しましたが、後の日本仏教は最澄的な立場が主流となり、日本仏教を性格づけることになりました。 
さらに最澄は、南都仏教が支配する東大寺での四分律(250戒)に基づく受戒を小乗戒と否定、僧侶も大乗菩薩であるべきとの信念から、本来在家者のための戒を説く「梵網経(十重四十八軽戒)」を大乗戒として出家者に受戒させる大乗戒壇を設けることを上呈しました。こうして最澄の死後、828年それまでの三戒壇に加え、他国からは認められないもう一つの国立戒壇が比叡山に成立しました。このことはその後、最澄の意に反して戒律軽視の傾向を助長することになりました。 
平安仏教の二大巨人/空海 
最澄が入唐した第12次遣唐使第一船に乗っていた空海(773-835)は、讃岐に生まれ、後に都にのぼり大学に学ぶものの仏道に志し、四国で虚空藏求聞持法を修すなど山林での苦修練行に加え、詩文や語学、書道の才に卓越していたことも幸いし留学僧として入唐を果たしました。 
空海は、時の世界都市長安でインド僧般若三蔵や牟尼室利三蔵らに梵語を習い、正統な真言密教の継承者であった青龍寺の恵果阿闍梨に遇い、密教の大法を悉く伝授され、経論、曼荼羅図、密教法具などを授かりました。在唐2年ほどで帰朝した後、これら密教の典籍や絵図など216部461巻を記録した「御請来目録」を朝廷に奉り、密教思想の体系化に着手しました。 
最澄は、自らの密教を補完するために度々経典類の借覧を空海に申し入れています。嵯峨天皇(在位810-823)が即位すると、空海の文人としての才と密教の祈祷が宮廷や貴族に受け入れられ重用されました。そして812年、高雄山寺にて、最澄の依頼により最澄とその門弟泰範、円澄らに金剛界、胎藏界の結縁灌頂を授けています。 
空海は宇宙的スケールのもとに南都仏教や天台の教えをも含む総てを包摂する密教的思想体系を作り上げ、その実践法表現法をも兼ね備えた真言教学を大成しました。 
空海は、812年「真言宗」を開宗し、この広大な実践的思想体系を体現する道場として、816年、高野山が下賜され、822年には東大寺に真言院を建て、翌年には京都東寺を勅賜されています。さらに正月に宮中で行われる最勝王経を読誦する法会に真言密教による御七日御修法を併せ行う勅許を得て、南都諸大寺ばかりか宮中での修法も密教化することに成功していきました。 
密教化する南都仏教 
南都の諸大寺は、9世紀半ば頃から律令制の崩壊から経済的援助を貴族に求めざるを得ず、彼らの要望する密教の修法を行うために真言密教を兼学する必要に迫られました。 
そしてそのために官寺ではそれまでの上座・寺主・都維那といった三綱組織を廃して、貴族の子弟が迎え入れられる貴族化密教化を余儀なくされました。 
最も勢力のあった法相宗では、新興勢力であった天台の最澄と一切の衆生に仏になる可能性(仏性)を認めるか否かという論争を行った会津の徳一や大乗戒壇建立に反対した護命らをはじめ多くの優秀な学僧を輩出し、藤原氏の氏寺であった興福寺を中心として栄えました。 
律宗では、東大寺戒壇で受戒した僧が唐招提寺で1年から5年戒律を学ぶ規則があり隆盛を誇りますが、比叡山に大乗戒壇が出来た頃からこの風習は廃れ衰微しました。 
天台宗の発展 
天台宗では、円仁(794-864)が入唐して五台山や空海が修学した長安の青龍寺で密教を学び帰朝して、文徳天皇に灌頂を授けました。天台の教えと密教は理論的には同等であるが実践に於いては密教が勝れているとして、天台宗は密教化していきました。 
また円仁は、比叡山に実践法として中国天台山の「四種三昧」の行法を取り入れ、中でも常行三昧に五台山の五会念仏の節と作法を採用し、その後弟子らによって不断念仏法となり日本浄土教の起源となりました。 
また有名な回峰行(一定期間比叡山の西塔東塔横川の三塔を巡る行)は、円仁の弟子相応が創始し、さらに彼の努力により最澄と円仁に伝教、慈覚の両大師号を賜りました。 
その後天台宗も貴族の子弟が登山して生活が貴族化したり、円仁円珍の両派の反目があり、10世紀後半頃からは僧兵が跋扈する時代を迎えました。  
真言宗のその後 
空海の第一弟子実恵の系統に益信が出て、東寺の興隆に努め、宇多天皇の帰依を受けました。天皇は出家受戒の後譲位されて仁和寺に入り灌頂を受け、御室と称して平安仏教の一大中心となりました。宇多天皇は、歴代天皇の内1/3以上もの天皇が退位後仏門に入る法皇の先駆けとなりました。 
その後観賢が出て、東寺を中心とした真言宗の統一を実現し、空海の忌日に御影供を創始して大師信仰を起こし、また空海に弘法大師の諡号を賜りました。 
994年の火災による伽藍全焼の後藤原道長ら貴族の外護のもとに復興した高野山に登山した覚鑁(1095-1143)は、空海創始の伝法会を再興し鳥羽上皇の庇護のもと金剛峯寺座主に任ぜられました。しかし常住僧らの反感を買い、衆徒700人と共に紀伊根来に退去して新義真言宗を開基しました。 
その頃既に大寺の所領内に設けた別所で生活し念仏する集団があり、そうした浄土教に深い関心を持った覚鑁は、密教の大日如来と阿弥陀如来は一体平等であるとして、密教の立場から密教と弥陀信仰の融合を計りました。 
念仏を唱えながら、我が身が弥陀に入りそのまま大日となる、と観想して仏との一体感を味わう覚鑁の秘密念仏は継承され、後に高野聖と呼ばれる行者にも引き継がれました。 
神仏の習合 
奈良時代からすでに寺院の中で仏教を学ぶ僧たちとは別に正式な戒律を授からずに山野を駆けめぐり修行する遊行僧の活動が盛んでした。こうした遊行僧の働きかけもあり、律令制の基になっていた神社で神の仏教帰依が進み、各地に神宮寺を誕生させていました。 
これに呼応するように元々仏寺であった寺でも特定の神社を勧請したり寺域を本来治めていた神を守護神として祀りました。後にはこれら神宮寺の多くが宮中で信仰された真言密教の教えのもとに編成され、王権の擁護を獲得していきました。 
そうして遊行僧が神域である山に入り仏を礼拝することは同時に神をも礼することになり、山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こしました。平安中期には、本地である仏が人々のもとに神として垂迹するとした本地垂迹説が形成され神仏習合という独特な日本仏教を醸成していきました。 
また、山岳信仰と密教が結合して修験道が形成され、金峰山や醍醐寺を開創した真言宗の聖宝や熊野行幸の先達をつとめた天台宗の増誉らによって修験者が組織づけられていきました。 
仏教の儀礼と信仰 
皇室における祭祀が整えられたのは平安前期のことでした。天皇の忌日に行う「国忌」、正月8日から7日間玉体と国土の安穏、五穀豊穣を祈る「後七日御修法」「彼岸会」「盂蘭盆会」、天下泰平、疫病退散などのため般若心経を書写して祈願する「勅封心経会」などが宮中の仏教儀礼として明治初年まで行われました。 
こうした鎮護国家を祈る国家宗教としてだけでなく、この時代の仏教はしだいに個人の宗教として受け入れられていきました。特に、人々が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両密教は当時の貴族、文化人にとっても魅力溢れるものであったようです。 
また平安中期以降には仏事法会の重点がこうした現世利益や追善供養から参会者に対する唱導説法に移行し、さかんに釈迦講、法華八講など講会と呼ばれる様々な説経の会が催されました。この祈祷から聞法への流れは貴族から一般庶民にも広がり仏教の教えがより身近なものになりました。 
さらには、既に仏教の伝来と共に伝えられた輪廻思想が、この時代には死後閻魔王の裁きを受け地獄に堕ちる恐怖として次第に民衆にも浸透していました。特に平安末期から台頭してくる武士階級にとって自らの罪悪感から地獄に堕ちるべき身の衆生に代わって生前の功徳を閻魔王に説いて救済してくれるという地蔵菩薩の信仰が盛んになり、今日でもよく目にする草堂などに地蔵を祀る風習が出来ていきました。 
末法の世の到来 
比叡山の円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まりました。東国で争乱があるなど治安が悪化して人心が動揺すると、空也(903-972)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集めました。また源信は「往生要集」を著し、地獄を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。 
極楽往生を願って道長が法成寺(1022)を、子の頼道が宇治の平等院(1053)を建立するなど華麗な浄土系寺院諸堂を建設しました。しかしこの頃すでに、彼らの貴族政治にも陰りが見え始め、しだいに地方武士階級の勢力が増し、さらには疫病の流行や治安の乱れ、大地震や大火など天変地異が頻発し、また僧兵の横行などから、人々には正に末法の世の到来を予感させました。 
末法は、釈迦入滅2000年後に始まるといわれ、我が国では1052年(永承7年)にあたるとされました。 
この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるがさとりがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るとされました。これは中国で書物に記されたものであり、インドでは時代を意味する概念ではありませんでした。 
しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、さらに様々な動乱がおこり末法を強く意識させられる時代であったのです。 
平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。  
鎌倉時代の仏教 
朝廷や貴族が政権を握っていた時代から武士階級による権力掌握へと国家制度の大きな変革に加え、天災飢饉外患に悩まされた鎌倉時代、そうした影響から仏教がどのように変質していったのかを見てまいりましょう。 
新仏教を担う遁世僧 
平安末期には、南都の諸大寺や天台真言の大寺院また大神社は、皇室御領や摂関家領を遙かにしのぎ、各地にたくさんの荘園を所有します。有力寺院は貴族の受け入れ先となり、生活は華美なものとなりました。 
本来の仏道を求めるためには、教義を学修し講会の講師に出仕するなどの名利を競う官僧から離脱する他ありませんでした。そうして民間に布教し救済活動する聖や上人と言われる僧侶がこの時代多く現れてまいります。これから述べる鎌倉新仏教の担い手たちは何れも官僧の世界から離脱した遁世僧たちでした。 
法然浄土教の救済 
その先駆けをなすのが、僧兵が跋扈し騒動の絶えなかった比叡山から18歳の時黒谷別所に移った法然房源空(1133-1212)で、当時京の町は飢饉や大火が続き飢えと疫病が蔓延し末法そのものの様相でした。その後法然は奈良京都の碩学に各宗の奥義を学んで、1175年43歳の時、もっぱら弥陀の名号を称える称名念仏だけで極楽往生するとした専修念仏の立場を確立し、[浄土宗]を開きます。 
阿弥陀仏が前世で法蔵菩薩として修行していたときの一願を阿弥陀仏の分け隔てのない大慈悲ととらえ、我が身を徹底して内省し、救われる資格のない醜い心を持つ者であっても、その弥陀の本願によって救われるのだと深く信ずるところに如来の救済があると説きました。 
関白九条兼実らの帰依を受け、平安後期から流布された末法思想の影響や既に各地にあった念仏集団が法然の教えを支持して、瞬く間に東国の武士など地方にも教えが広まったと言われます。しかしその間諸行を兼修する延暦寺や興福寺などから弾圧を受け、弟子らのあらぬ嫌疑から専修念仏の停止の宣旨が下り、法然も土佐に流罪となりました。 
親鸞と一遍 
この時の法難で越後に流された親鸞(1173-1262)は、この時多くの門弟の一人で無名の存在でした。もともと比叡山の常行堂で不断念仏行に励んでいた親鸞は、29歳の時下山。六角堂に参籠後、聖徳太子の夢告により洛東吉水の法然の下に参じます。 
その後許された親鸞は常陸に移り熱心に農民や武士らに伝道し多くの弟子を育て、60過ぎに京に戻ってから90歳で死ぬまでは「教行信証」などの著作に取り組みます。 
自ら罪深き身であることに慚愧して厳しく自己を省みるとき、そこに自力による作善はあり得ず、何のはからいも捨てて弥陀自身による諸善が逆に衆生に回向されることを信じることにより衆生は浄土に往生するとした絶対他力の教えを説き、[浄土真宗]を名乗ります。 
親鸞は、非僧非俗を主張し公然と妻帯したことでも有名ですが、このことは今日に至る日本仏教の戒律軽視、無戒化を招く元になりました。 
親鸞にやや遅れて登場してくる一遍(1239-1189)は、親鸞以上に他力の信に徹底し、阿弥陀仏がさとりを得られたとき既に一切の衆生が往生することが決定されていたとして、信ずる心の有無に関わらず人のはからいを入れる余地なく「南無阿弥陀仏」の六字の名号の功力によって人は往生すると説きました。 
そして、人々が弥陀と結縁するためには「南無阿弥陀仏」と書かれた算を配ればよいと確信し、山野に野宿を重ねて全国を遊行し、時に鐘や鼓で調子を取り踊りはねながらの念仏・踊念仏が一般民衆に広まり、各地方武士層に支持されます。時衆と名乗りその時その場所の衆まりを重んじる僧俗の遊行回国の念仏衆として、後に一宗派[時宗]を形成しました。  
南都仏教の復興 
法然の浄土教に対して最も厳しく異を唱えたのは、法相宗の貞慶(1155-1213)でした。貞慶は、平安末期に戒律復興を企てた実範の系譜にあり、お釈迦様を本師と仰ぎ、戒定慧という仏教の基本から逸脱する法然の念仏は仏教を滅ぼすと訴え、「興福寺奏上」を起草、弾劾します。 
貞慶は戒と唯識を学び笠置山に隠遁して、なおかつ法相宗を興隆し、弥勒念仏を修して唯識説の師として信仰される弥勒信仰を広めます。また弟子らと共に編纂した「唯識論同学鈔」68巻は唯識研究の最高水準として長く研鑽されました。 
また華厳宗では、1180年平重衡によって焼けた東大寺大仏殿勧進職に任ぜられた重源は、伊勢神宮で「大般若経」を転読祈願して全国を巡り、後白河法皇や源頼朝を含む貴賤の喜捨を受け、宋風天竺様にて大仏殿を再建します。 
その後、栂尾山に住した明恵上人高弁(1173-1232)が出て、「摧邪輪」を著し、仏教本来の姿勢であるさとりを求める心・菩提心を不要とする法然の念仏を烈しく批判しました。 
明恵は華厳の他、真言密教や臨済禅を学び、坐禅に立脚した実践的華厳学を樹立。後鳥羽上皇や建礼門院に戒を授け、後鳥羽上皇と幕府方で争われた承久の乱(1221)では敗残兵をかくまうものの、逆に北条泰時の帰依も受けました。渡印を計画するなどお釈迦様を慕い、今日も行われる仏生会や涅槃会を創始したことでも有名です。 
その後東大寺戒壇院に住した凝然(1240-1321)が出て、声明、音律、国学、神書に通じ、鎌倉時代の華厳学を大成。さらに律宗を教理的に大乗仏教と位置づけた「律宗綱要」や、今日も読まれる仏教概論「八宗綱要」など多くの著作を残します。 
律宗では、貞慶に学んだ覚盛が正式な具足戒を授ける戒師のないことを嘆き、1236年自ら仏前に誓願して戒を受ける自誓受戒を東大寺大仏殿にて行い、唐招提寺に住して戒律の復興に努めました。 
真言律宗の社会貢献 
覚盛とともに自誓受戒した睿尊(1201-1290)は、はじめ高野山で密教を学び、その後荒れ果てた西大寺を復興して、戒律の教えを民衆に広め、[真言律宗]として非人や乞食の救済活動をなし橋や港湾の整備、造寺造塔に多くの業績を残しています。 
睿尊は後嵯峨、後深草、亀山など五帝の戒師になり興正菩薩の号を賜ります。生涯に具足戒を受けた者1300余人、菩薩戒を受けた者は96000余人に上るといいます。 
睿尊の弟子忍性(1217-1303)は、鎌倉に極楽寺を開き、悲田院、療病院を作って乞食や癩人を養い慈善救済活動に尽力。また、道や橋を造り井戸を掘るなど土木事業もなし、忍性菩薩と尊称されました。 
蒙古襲来にあたり極楽寺が勅願寺となり、異敵降伏の祈祷を行う国家寺院として国分寺の役割が見直されると、そこに西大寺僧が進出して特に西国の多くの国分寺を再興しました。 
禅宗の形成 
我が国への禅の初伝は飛鳥時代と一般に言われています。が、一宗派として坐禅を重視する宗派が確立するのは栄西(1141-1215)が二度入宋して臨済禅を学び、即心是仏の禅を宣揚してからのことです。 
栄西は比叡山で天台の教理を学び、入宋して密教を修得し、その後再び入宋して臨済宗黄竜派の禅を学び、1191年帰朝。九州博多で禅を布教し[臨済宗]を開基します。その後将軍頼家の帰依を受けて、京都に建仁寺を建立。 
栄西は禅の実践によってのみ王法も仏法も栄えるとして、自らも厳しい持戒禅定の生活を送りました。栄西は「喫茶養生記」を著して日本にお茶の風習を普及させたことでもよく知られています。 
しかし栄西が伝えた禅は密教と禅の兼修を家風としており、純粋禅が広まるのはその後中国人禅僧が来朝するまで待たねばなりませんでした。 
栄西滅後30年にして来朝した蘭渓道隆(1213-1278)は鎌倉の建長寺開山となり、ついで来朝した無学祖元は円覚寺を創立し、折しも蒙古来襲にあたり、北条時宗を激励し般若力を念じて勝利に導いたと言われ、その後も終生鎌倉武士の教化に励んだということです。 
しかし今日の臨済宗の主流となる禅を広めたのは南浦紹明で、蘭渓道隆に参じた後入宋して揚岐派の禅を伝え、多くの優秀な弟子を輩出しました。 
また道元(1200-1253)は、比叡山で天台を学んだあと入宋して天童山の如浄より曹洞禅を授かり、1227年に帰国。京都の南に位置する深草安養院などで宋朝風の仏祖正伝の純粋禅を唱え曹洞宗を開き、「正法眼蔵」を著します。後に越前に移り大仏寺(後の永平寺)を開山。 
坐禅は仏になるためではなく、人は本来仏であるとした天台の教えに基づき、だからこそ仏としての修行・坐禅が必要であり、日常の行ないすべてを禅と捉え、ただひたすらに坐禅する只管打坐を主唱しました。 
また道元は当時は末世と認識されていた中で、真実の大乗の教えには正像末を分かつことはないとして正論を主張したことは特筆に値します。  
法華経信仰者の登場 
平安後期に台頭した地方武士層を中心に、法華経を所持して読誦書写などを行い、それにより罪業を消滅し輪廻からの解放を求める信仰者がありました。法華経を信仰するそうした人々を背景として鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。 
日蓮(1222-1282)は、安房清澄寺に入り密教や浄土教を学んだ後、比叡山など各地を遍歴して、1253年法華経への絶対帰依を表明し[法華(日蓮)宗]を開き、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めます。 
念仏者を非難して専修法華の立場から、鎌倉で布教。その頃鎌倉は飢饉や疫病に見舞われていました。そこで「立正安国論」を著して幕府に献じ、念仏、禅、密教を禁じて法華経を唯一の正法と認めない限り災害が続き、他国の侵入を受けるなどと予言して、伊豆に流罪となります。 
日蓮は人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性格が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとって題目を唱えることによってのみかなえられる、題目にはすべての生き物の成仏を可能にする教理の真髄が込められてあり、その題目を唱えることで久遠の昔から成仏している仏の徳が与えられると説きました。 
ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。 
真言宗の歩み 
以上述べてきたように、この時代に新しい宗派を起こしたのは真言律宗を除き、すべて天台宗の本山・比叡山で修学した後遁世した僧たちでした。 
一方真言宗では、平安時代後期には仏菩薩等諸尊の供養法など実践面の研究が進み様々な流派を生みましたが、この時代には教理面での学道が振興します。 
頼朝が鎌倉に幕府を開くと、源家の氏神・鶴岡八幡宮の社僧別当職に就いたのをはじめ、僧坊が各地にでき、学僧衆も鎌倉に集まります。そうした影響から頼朝の一族及び北条氏は霊峰高野山を崇敬して、頼朝は勧学会を開き、北条時宗は勧学院を建立。密教経典の注釈書や空海の著作「声字実相義」「般若心経秘鍵」などを教材に教学の進歩を促しました。 
覚鑁の系統を継ぐ高野山上の大伝法院では諸学研鑽した頼瑜が出て学頭となり、抗争耐えない金剛峯寺方との禍根を一掃し、密厳院、大伝法院の屋宇道具一切を根来に移して、1288年新義派を分立しました。 
また、入宋して戒を修めた俊芿によって再興された京都泉涌寺は、承久の乱の後即位し崩御した四条天皇の葬儀を他の寺院が幕府の目をはばかり断ったとき敢えて引き受け、その後皇室の菩提所となりました。明治初年まで歴代天皇、皇族の葬儀を行い墓所が設けられ位牌が祀られています。 
また諸国を巡り弘法大師信仰と高野山納骨をすすめた遊行者集団・高野聖は、この時代には高野山内に蓮華谷、萱堂、千手院の三集団が形成されます。蓮華谷の頭目明遍(1142-1224)は、少納言通憲の子で、諸国を回国して高野山に登り、後に法然にも受法。称名念仏と弥陀の供養法に専心した生涯を送りました。 
政治経済に大きな変革のあったこの時代、仏教も時代に即応し平易な教えが興り、民衆に定着した反面、その影響から日本仏教が仏教の根本である実践的思想体系を損なう一過程となりました。 
また、これまで国家行事に参加する義務のあった官僧が出来なかった葬儀に遁世僧たちは積極的に関わり、今日に見る僧侶が葬送に関与する習慣もこの時代にできたのでした。  
室町時代から安土桃山時代までの仏教 
鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を経て室町幕府が興り、応仁の乱を経て戦国時代に入り、やがて信長秀吉の時代を迎える戦乱の世に、仏教がどのように時代に関わったのか見てまいりましょう。 
建武の新政 
天皇制の歴史の中で稀な天皇親政を実現した後醍醐天皇(在位1318-1339)は、地方武士のほか天台真言や興福寺などの寺院勢力をも味方に付けていました。中でも真言僧文観(1278-1357)は後醍醐天皇の帰依を受け醍醐寺座主となり、鎌倉幕府倒幕を祈祷。後醍醐天皇は倒幕を果たし、新政を実現します。 
しかし京都の治安は乱れて政治は混乱し、足利尊氏が兵を挙げて光明天皇を擁立すると、3年足らずで新政は崩壊。後醍醐天皇は逃れて行宮を営み、吉野と京都に朝廷が両立し、全国の武士も両勢力に別れて抗争が続く南北朝時代が到来します。後醍醐天皇は、文観を側近の一人として吉野や河内にも随行させました。 
室町幕府と臨済宗 
京都に幕府を開いた尊氏は、鎌倉幕府滅亡や南北朝の動乱で死んだ人々の怨霊を何よりも恐れていました。そこで帰依していた南禅寺の夢窓疎石(1275-1351)に勧められ、諸国に安国寺と利生塔を建立し、敵味方一切の霊を弔う怨親平等の精神に基づく鎮魂を祈らせ、後醍醐天皇追悼のため京都に総安国寺として天竜寺を建立。安国寺は既存の禅刹を安国寺と認定し、利生塔は真言天台律などの旧仏教寺院により新たに建立されました。 
幕府は、1342年南宋の官寺に倣い「五山十刹の制」を定めます。南禅寺を五山の上に置き、天竜寺、建仁寺、東福寺など五山と格付けされた寺院では、五山文学と言われる自らの修養の境涯を漢詩に表現する漢詩文や儒学などの研究が盛んでした。 
夢窓門下の春屋妙葩は、三代将軍義満によって禅宗寺院僧侶を管理する「僧録」に任ぜられ、諸禅寺の住職任免、所領寄進などの行政的権力を与えられます。義満は京都と鎌倉にそれぞれ五山を定め、臨済宗は室町幕府の官寺と化し、大勢力を築きます。また、当時多く来朝していた中国の禅僧と交流し中国語に堪能であった禅僧に外交文書を作成させ、また中国に外交官としても派遣しています。 
室町文化と時宗 
臨済禅の宗風は文学だけでなく、書画や印刷、建築、彫刻、造園術なども明からもたらします。 
枯淡の美を追究する水墨画が流行して雪舟など山水画に卓越した禅僧が現れ、また、その後の出版物の模範となる五山版と言われる木版本によって禅籍や詩文集が印刷されました。 
苔寺で有名な西芳寺庭園は夢窓らによって造営された山水画の趣向をいれた禅宗庭園で、枯山水・竜安寺の石庭もこの時代に造営されたものでした。 
また、八代将軍義政によって、鹿苑寺銀閣など後の住宅建築の原型となる書院造りが発達します。茶の湯も、義政が書院の茶として禅の精神を茶に取り入れ始めたもので、侘び茶として町衆や公家・武家に広まり、後に千利休が登場し大成します。 
時宗は、遊行回国を行う一方、各地に道場を設けて信徒を組織して農民や在地小武士らにも教えが広まります。また従軍して負傷者を看取り、戦没者を弔う陣僧としての役割を担い、軍旅を慰める興を催す活動から阿弥衆として芸能文化の創造に関わることとなり、室町文化を支える役割を果たします。猿楽師観阿弥・世阿弥の父子は時宗の徒と伝えられ、将軍家の庇護のもとに能を大成しました。能の芸道を「風姿花伝」などに残しています。  
曹洞宗の発展 
幕府公認の臨済禅は次第に一般武士や商工業者などとの関係が薄れたのに比べ、曹洞宗は、天台真言の寺院を禅に改宗させることによって発展し民衆に禅を広めます。 
瑩山紹瑾(1268-1325)が出て、能登永光寺と総持寺を改宗。特に密教との兼修禅を広め、儀式を重んじ祈祷を取り入れて念仏も否定せず、現世利益信仰をも吸収して教団が飛躍的に発展します。 
室町時代後半、戦国の世になると臨済禅の間隙をぬって教線を拡大し各地地頭、領主など武士を支持者にして全国に広まりました。 
浄土宗の発展 
法然歿後20あまりの流派に分かれていた浄土宗では、法然の弟子で、平生の多念の念仏を重んじる弁長の流派から聖冏(1341-1420)が出て、浄土宗の教義を大成。独立した一教団としての基礎を築きます。関東地方へ布教して信徒を獲得し教団を拡張しました。 
弟子の聖聡は常陸や千葉の領主の保護を獲得し、江戸に増上寺を建立。浄土宗寺院は全国の在地領主たる武士団の援助のもとに建立され、菩提寺として発展していきます。 
また、皇室の浄土宗への帰依は非常に深く、浄土教に深い知識のある僧侶に帰依して教えを受けています。清浄華院等煕は、1462年国師号を後花園天皇から賜り、1469年には知恩寺の法誉が朝廷の命令で天下泰平・国家安全・宝祚長久を祈祷しています。 
応仁の乱と一向一揆 
1392年、義満の時代に南北朝の和議が交わされ、後亀山天皇が京都大覚寺に入り南朝が解消。これによって武家の分裂は収まります。しかし、長期の戦乱で生命と財産が脅かされ重税に苦しむ農民は数か村が連帯して領主に対抗する土一揆を起こすようになります。 
さらに、八代義政の後嗣争いから応仁の乱(1467-1477)が起こると、京都から各地へ戦乱が広がり激しい戦いが展開されました。京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退していきました。そして、和議成立後も幕府は有名無実の存在となり、ついに群雄割拠の戦国時代が訪れます。 
親鸞亡き後、三派に分かれた浄土真宗(一向宗とも呼ばれる)では、覚如が出て、大谷本廟を中心とした本願寺が成立し、教団を立て直します。さらに蓮如(1415-1499)は、教義をわかりやすい文章にしたためた「御文」と寄り合い組織・講によって北陸、東海、近畿の手工業者や農民に布教し、現在にいたる真宗教団の発展を基礎づけたと言われています。 
蓮如は、職業の差別無く、どんな悪人でも一念発起の信心の定まるとき往生が決定し、その信心を得た者は如来に等しいなどと、親鸞の教えの要点を巧みに説きました。 
そして、多くの信徒を獲得するようになると比叡山衆徒に襲撃され、蓮如は北陸の吉崎に本願寺を建立。その隆盛を見た加賀の守護富樫政近は、本願寺を攻撃、蓮如は逃れ京都山科に本願寺を建設します。その後本願寺門徒の一向一揆は政近を敗死させ、1488年加賀国は本願寺領となり、1世紀あまり土豪や農民と僧侶が合議制によって統治しました。 
法華一揆 
応仁の乱後、焦土から復興した京都の町は、幕府権力の低下により、武装化した町衆による自衛が計られます。法華(日蓮)宗は鎌倉末期に京都に布教して以来、しだいに勢力を拡大、戦国時代中期には洛中に大寺院が多く建てられ、豪壮な寺域を擁していました。 
一向一揆が京都に迫ると、細川晴元らと結んで法華門徒が蜂起。生活と財産防衛のため町衆が法華の信仰と結びつき2年に亘り戦い、法華宗門徒による京都防衛は成功します。 
しかし、1536年比叡山衆徒が法華宗追放を決議すると興福寺や六角氏の援兵により寺院を焼かれた法華宗側は敗北し、京都の法華各寺院は堺に逃れました。  
信長の叡山焼き討ち 
天台宗では、皇族や摂関家出身者を延暦寺座主に迎えて祈祷や修法に努め、また学者も輩出し念仏も盛んに行われます。 
西教寺の真盛(1443-1495)は、戒を重んじた称名念仏を説いて、後土御門天皇の帰依を受け、天皇はじめ公家たちに源信の「往生要集」や浄土経典を講じています。各地に百あまりの不断念仏道場を開き数多の帰依を受けました。 
しかし、一方で比叡山には暴逆な衆徒が僧兵となり、真宗など新しい宗派の進出を圧迫して戦乱を起こしていました。1543年、ポルトガル人によって鉄砲が伝えられると、いち早く導入した織田信長が諸大名を破って上洛を果たします。 
信長は、なおも激しく抵抗を続ける寺院勢力の根源を抑えるため寺院所領の削減を図ります。真っ先に削られた延暦寺は、それを不服として朝廷に訴え出ますが、浅井・朝倉勢を匿ったことに端を発して、信長は1571年比叡山の堂塔を焼き払い僧俗3000人を殺戮。 
さらに、徹底抗戦していた各地の一向一揆をも平定。最後まで抵抗していた石山本願寺も1580年に開城し、一向一揆もここに終息します。 
秀吉の根来・高野山征伐 
真言宗でも応仁の乱の後、高野山や根来山では学僧とは別に経済的運営を司る行人と呼ばれる僧らが寺領を守るため自ら武器を取って僧兵化します。しかし彼らは寺領保護の名目で他領を横領し、一時高野は百万石、根来は七十万石を領していたと言われます。 
高野山は信長に反逆した浪士を匿い、信長と対立します。ときあたかも戦国武将の間を隠密として徘徊する聖衆があり、信長は高野聖千人あまりを捕らえ処刑。さらに、1581年信長は高野征伐を決し、十三万の軍勢を配して高野山を包囲、攻撃します。これに対し山上では防戦と降伏修法の祈祷に努め陥落せず。翌年、信長は京都本能寺で明智光秀の夜襲により客死します。 
信長の後を継いだ秀吉は、1585年十万の兵とともに根来山を攻め、大小2700の全伽藍を焼き払い、これにより根来山は貴重な聖教重宝の数々を失いました。 
この時、玄宥、専誉の両学匠は数百の学僧を引き連れてかろうじて高野山に逃れ、後に京都智積院と奈良長谷寺を本山とする真言宗智山豊山の両派に分立します。 
秀吉は根来山攻めの後、高野山にも迫ります。高野山客僧・木食応其(1536-1608)は秀吉の陣中にいたり赤心から一山の無事を請い願い上げます。これに感動した秀吉は、自らの祈願のため存続を許し、逆に一万石を寄進。1594年には自ら諸侯を率いて登山して大法要を営み、さらに生母供養のため青厳寺(現在の金剛峯寺)を建立しています。 
キリシタンの波紋と秀吉の宗教政策 
反宗教改革の戦いを挑む尖鋭集団であったイエズス会の創設メンバーの一人フランシスコ・ザビエルが鉄砲伝来の6年後に九州に上陸。キリスト教を伝えます。そしてその後、数十年の間キリスト教の布教が行われました。 
イエズス会は、日本の神仏信仰を偶像崇拝だとして批判。仏教僧、特に禅僧との論争を早くから展開します。仏教側の唱える輪廻思想に対しキリスト教は創世説を説き、万物の創造者を認めるか否かで議論が分かれたと言われています。 
信長は、寺院勢力を押さえ込み、世界の情勢を手にするためキリスト教の布教を許可。そして、京都に南蛮寺(教会)、安土には日本人聖職者養成のためのセミナリオ(神学校)の建設を認めます。 
布教を認めた大名の港には貿易船が入港し布教と貿易が一体となっており、さらにキリシタン大名大村純忠が長崎を教会領として寄進したことを知ると、1587年、秀吉は「日本は神仏国であり、日本の神を認める仏教と認めようとしないキリスト教とは氷炭相反する」としてキリスト教の布教を禁じ、バテレン(宣教師)追放令を発布します。 
秀吉は、太閤検地(1582)によって土地制度を一新してすべての寺領を没収し、後に由緒確かな所領のみ寄進名目で返還。本願寺や比叡山、高野山、興福寺などの復興を援助します。 
そして、1589年奈良の大仏をも凌ぐ方広寺大仏を京都東山に造立。亡き父母の供養として大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養(1595)を行いました。しかし、これら一連の施策は仏教界全体の懐柔を目論むものであったと言われています。 
鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで深く浸透する一方、この時代の仏教は世の中の移り変わりに対応し、また抗いながらも体制に飲み込まれていく先駆けとなりました。  
江戸時代の仏教 
関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立し、幕藩体制が確立。その後二百数十年に及ぶ近世封建制度の中で仏教がどのように継承されていったのかを見てまいりましょう。 
江戸幕府と寺院統制 
家康は江戸に幕府を開き、徳川氏の永久政権を志向して、儒教によって世道人心を導くことを選択します。しかし、林羅山ら京都五山出身の儒者に加え、南禅寺金地院崇伝や天台宗の学僧天海ら僧侶も側近として寺院統制や外交文書の起草に参画させています。 
幕府は宗派ごとに江戸に触頭寺院を置き幕府の命令を周知させ、本山の地位を保証した上で末寺を組織統制させます。さらに崇伝(1569-1633)起草による寺院法度によって各宗寺院の守るべき規則を、1601年に高野山に下した法度を皮切りに各宗寺院に下し、1662年には各宗共通の法度が発布されます。 
各宗内の職制、座次、住職資格、本寺末寺関係が規定されて、すべての寺院が本山から本寺、中本寺、直末寺、孫末寺へいたる、本山を本とする中央集権的な組織に組み入れられることになりました。 
また法談の制限、勧進募財の取締まり、新寺建立や新興宗教の禁止などが規定されて、自由な布教活動や新しい教義の提唱が禁止され、学問の振興のみが奨励されることになります。 
キリスト教禁制と寺壇制度 
キリスト教布教がスペイン、ポルトガルの植民地獲得の手段であることを知った家康は、1613年、崇伝に対し江戸城にて「バテレン追放の文」作成を命じます。 
これにより宣教師が追放され、信徒の改宗が命じられると、改宗した者にはその身元を引き受ける檀那寺から寺請けの証文を取らせました。 
重税と飢饉に苦しむ農民らが起こした一揆にキリシタンが多く含まれていた島原の乱(1637)が起こると、幕府は寺請制度を強化。四代家綱の時代に全国に普及することになります。 
1664年幕令によって、全国民について必ずどこかの寺院の檀徒になることが義務づけられます。そして、宗旨を人別に記載する「宗旨人別帳」が全国画一的に法制化され、家ごとに各人の年齢宗旨を記載し捺印させて檀那寺の住職がこれを証明。戸籍の原簿として、また租税台帳としても利用され、転住逃散を防止する役割も担っていました。 
婚姻、旅行、移住、死亡、奉公の際にも檀徒であることを証明する寺請証文の携行が必要でした。後には一家一宗旨、さらには檀那寺を変更することも禁止されました。 
東照宮造営 
熱心な念仏信者でもあった家康は死に際に幕府の守護神となることを遺言します。1616年、駿府で家康が息を引き取ると、家康の政治顧問であった天海(1536-1643)が、神道と仏教を融和した山王一実神道方式により、薬師如来を本地とする「東照大権現」の称号を勅許に基づいて授与。天海は、後に日光山輪王寺に東照宮を造営して家康を神として改葬します。 
さらに天海は江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺を創建して東の比叡山、すなわち東叡山と山号して関東一円の鎮護とし、法親王の入寺を請い、法親王はその後天台座主として東叡山に住し、天台宗の実権は江戸に移りました。 
天海は、家康から家光まで三代の将軍の側近として厚遇されました。 
紫衣事件 
尊貴を象徴し、元来高徳の僧尼に対し朝廷より賜っていた紫衣は、古来朝廷の収入源の一つでもありました。 
しかし1613年、幕府はこの紫衣勅許に先立ち幕府への申し入れを要するとした「勅許紫衣等に関する法度」を定めます。また、「任僧正」についても、さしたる学問者でなければ僧正の官を停止すべきと命じています。 
そして1615年には、「諸宗本山本寺の諸法度」を定めて、僧侶・寺院の地位や名誉に関する朝廷の特権を剥奪し、僧侶の昇進一つも天皇の一存では通らない事になります。 
後水尾天皇(在位1611-1629)は幕府に相談なく十数人の僧に紫衣着用の勅許を与えたことが明らかになると幕府はその無効を宣言し、これに抗議した大徳寺の沢庵ら3人の僧を流罪に処し、後水尾天皇は譲位しました。 
沢庵は後に許されると三代家光に帰依され、品川に広大な敷地を有する東海寺を建て迎えられています。   
 
 
日本仏教史 2 [概説]

仏教は紀元前五世紀の始めに仏陀釈迦牟尼が、人間の苦悩の解決法などを説いた教えで、多くの弟子や信者が集り、それぞれ修行や教えをより深く解釈するなど教理・哲学としての体系化が計られた。やがてこの仏陀の教えをインドの阿育王が帰依し保護したことからインド全土に拡がり、それが周辺諸国へも伝わり、世界宗教となる。  
我国に仏教がもたらされた正確な時期は不明だが、五世紀後半、おそらく大陸との交流に伴って仏教も伝播されたと思われる。六世紀初めに百済の五経博士が渡来し、聖明王が大和の大王の元に仏像や経論をもたらしたことが直接の契機となり、近畿の首長たちに積極的な仏教の受入れがなされたといわれる。六世紀後半には大和政権は中央政権として歩み始め、首長の中の首長である大王(天皇)と有力首長の蘇我氏、物部氏らの連合政権が確立。しかし、仏教を積極的に受け入れようとする厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我氏と消極派の物部氏が争い、積極派が勝利した事で仏教は我国の護国宗教となり、大和政権の影響力の及ぶ地に官大寺(国分寺・国分尼寺)が建立された。  
こうして八世紀に入ると大和には国家鎮護、諸国安寧、氏族繁栄のための仏典・教義等の研究機関として多くの寺院が建立される。これらの寺院が後、南都七大寺とよばれる寺院となり、この時にもたらされた仏典に応じた研究・学問がそれぞれの寺院でなされ、やがてそれらは南都六宗と呼ばれる教学の寺院となり多くの学僧を輩出し、中央・地方政府へ政治・外交の人材を供給した。  
顕教(けんきょう) / 言語・文字の上に明らかに説き示された教義。真言宗では一切の教法を顕教と密教の二種に分類し、聞き手の衆生の能力に応じて理解しやすいように説いた教えを顕教とし、さらにこれを二種に分けている。一つは仏が修行を積み重ねた菩薩を相手に説いた一乗の教法と声聞・縁覚と初歩の菩薩に説いた三乗の教法があるとする。そして密教はこれら顕教の上にある教法とする。また、天台宗においても『法華経』『華厳経』などの顕教よりも『大日経』など密教を上位に置いている。  
密教(みつきょう) / 人間の理性によっては把握しえない秘密の教え。顕教に対する語で、一般には神秘的、儀礼的、象徴的、実践的な宗教の意に用いている。インド大乗仏教の中におこり、七世紀には思想、修法両面において整備され、バラモン教・ヒンドゥ教文化が積極的に摂取されているといわれる。 
南都六宗(なんとろくしゅう)  
八世紀に官大寺などで研究されていた三論宗・法相宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の六宗をいう。当初、華厳宗を除く五宗が先に確立されていて、それぞれの教義を学ぶ僧徒を衆と呼んでいたことが『続日本記』等の文献から窺え、東大寺の大仏殿建立時には六宗が確立され、その時期に衆を宗と改めたといわれる。宗にはその宗に属する衆僧を指導する大学頭・小学頭、そして事務を掌る維那の三役が置かれていた。これら六宗は主に教義・仏典の研究や学問としての性格が強く、東大寺や大安寺・薬師寺など六宗兼学に見られるような総合大学、あるいは三論と成実、法相と倶舎など年分度者の割当てに応じた教義の兼学が一般的であった。このため、後の民衆仏教にみられるような宗派ごとの教団を形成する事はなかった。  
三論宗(さんろんしゅう)  
中国十三宗、日本八宗の一つ。中観論、百論、十二門論の三論を所依とした無所得空の法門。インドでは竜樹・堤婆を祖とし、中国の晋代に鳩摩羅什(くまらじゅう)が将来し、随の吉蔵に至って大成した。日本では推古三十三年(625)、吉蔵の弟子高麗の慧灌が渡来してこれを広めたが、後に慧灌の弟子智蔵および智蔵の弟子東大寺の道慈が入唐してその旨を究め、養老元年(717)宗名を立てた。  
法相宗(唯識宗)(ほっそうしゅう)  
中国十三宗、日本八宗の一つ。「解深密教(げしんみっきょう)」「成唯識論」などを典拠とし、萬法唯識心外無境を唱え、万有は唯識の変化であり阿頼耶識以外に何物も存在しないと説く。唐の窺基を祖とし、わが国では白雉三年(653)に道昭が入唐して玄奘(げんじょう)に受けたのを第一伝とする。南都興福寺・薬師寺を大本山とする宗門。  
倶舎宗(昆曇宗)(ぐしゃしゅう)  
日本八宗の一つ。世観の倶舎論による小乗教。一切諸法を五位七十五法に分け、その本性を究め、四諦の理を観じて阿羅漢果を証し無余涅槃(むよねはん)に入る事を主旨とする。中国では真諦・玄奘・普光らによって研究され、わが国では白雉三年(653)道昭・智通・智達が玄奘の新訳した倶舎論を伝えたのに始まり、玄舫(げんぼう)らが盛んに研究した。奈良時代に至って法相宗に付され、南都七大寺、その他諸宗に通じ、仏教の初門として学習されたが、一宗として独立するには至らなかった。  
倶舎論(ぐしゃろん) / 四世紀頃のインドの世観の著。玄奘の漢訳が有り、小乗仏教の教理の集大成である大昆婆沙論の綱要書。有漏無漏・無我などについて述べている。  
成実宗(じょうじつしゅう)  
中国十三宗、日本八宗の一つ。成実論を所依とする宗派。412年、鳩摩羅什が漢訳し弟子の僧叡がこれを講じた事から起り、唐初まで隆盛を極めた。わが国では三論宗とともに伝わり、白雉四年(654)道慈らが勅命により入唐し、玄奘三蔵より伝授され帰朝して伝えた。奈良時代に三論宗に付され、その兼学で学ぶだけとなり独立した宗門に至らなかった。  
成実論(じょうじつろん) / インドの訶梨跋摩(かりばつま)の著。二十巻または十六巻からなり、鳩摩羅什の漢訳が有り、四諦真実の正理を顕し、我法二空の義を成立すること、すなわち一切皆空と観ずる事によって涅槃に到達すると説く。  
律宗(りつしゅう)  
中国十三宗、日本八宗の一つ。随・唐の時代に智首・道宣らにより曇无徳(どんむとく)の四分律を所依として起る。戒律の実践・躬行を成仏の因とする宗派。日本では唐の高僧鑑真を開祖とする。鑑真は唐の嗣聖五年(688)、楊州江陽県(江蘇省)で生まれた。神竜元年(705)に道岸禅師より菩薩戒を受け、二十一歳の時に長安実際寺の戒壇で荊州南泉寺の名僧弘景を戒和上として具足戒を受けた。その後長安・洛陽を巡遊して律・天台宗はもちろん諸宗を研鑽し、戒律の講座を開くこと百三十回、授戒の弟子は四万余人、一切経を書写すること三部、古寺修復は八十余カ寺に達し、諸州屈指の伝戒師と称せられた。  
一方、わが国では、平城遷都後、仏教の隆盛にともない私度僧が郡出し、僧尼令に違犯する僧尼が多くなり、天平五年(733)遣唐使多治比広成に従って入唐した僧栄叡・普照らが舎人親王の要請で伝戒師の招請にあたった。この要請に応じたのがインド僧菩提仙那や落陽大福先寺の学僧道(セン)といわれる。さらに栄叡・普照らは楊州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願。その要請に応へた鑑真らの渡航は五回試みられるが、妨害や難破で失敗に帰し、天平勝宝二年(750)には栄叡が病没、鑑真も視力を失い補佐役の祥彦も病没する非運に見舞われる。しかし、なお伝法の志を捨てない鑑真は、同四年に入唐した遣唐船の遣唐副使大伴古麻呂の第二船に乗って翌五年薩摩国秋妻屋浦(鹿児島県川辺郡坊津町秋目)に入港した。翌六年二月、弟子法進・曇鸞・義静・思託らに随伴されて平城京に入り、東大寺客坊に止住する。この間当時の高官・高僧は再三に渡ってその労をねぎらい、勅使吉備真備は「自今以後、授戒伝律はもはら大和尚に任す」という孝謙女帝の意向をつたえたという。  
その後、大仏殿前に臨設の戒壇を築き、聖武上皇・光明皇太后はじめ沙弥証修四百四十余人に受戒し、後日には学僧八十余人に具足戒を受け、その翌年大仏殿西方に常設の戒壇院を造り、唐禅院に止住して戒律の普及に尽力する。翌八年の聖武上皇の病にあたっては看病禅師の一人として医療に従い大僧都に任ぜられた。  
天平宝字元年(757)十一月、備前国水田百町を賜り、故新田部親王の旧宅地、平城右京五条二坊の故地を下賜され伽藍の建立がなされ、同三年伽藍が完成し唐招提寺と名付けられた。それより前、朝廷は鑑真の身をいたわり大僧都の任を解き、大和上の尊号を贈る。しかし鑑真はそれから五年後の同七年五月、唐招提寺で入寂。その後、一時衰えるが覚盛・俊仍らにより再興された。  
華厳宗(けごんしゅう)  
華厳経を所依とし、事々無礙を旨として建てた宗派。インドでは竜樹.世観を祖とし、中国では隋の杜順・唐の賢首により大成された。わが国では天平八年(736)、唐の道(セン)がこれを伝えて以来、審祥・良弁らにより東大寺を中心に研究され、鎌倉時代に凝然・高弁らが中興し、現在では東大寺が総本山となっている。  
華厳経(けごんきょう) / 東晋の仏駄跋陀羅訳(旧訳華厳経、六十巻)、唐の実叉難陀訳(新訳華厳経、八十巻)、唐の般若訳(四十巻)が有る。全世界を昆廬遮那仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開している。大方広仏華厳経。 
天台宗(てんだいしゅう)  
中国十三宗・日本八宗の一で、中国・朝鮮・日本を通じての代表的な一宗とされる。中国天台山で智者大師智覬が創立した教学体系で、日本では最澄が比叡山に開創して以来平安仏教の中枢となり、日本の文化に多大な影響を及ぼした。天台大師智覬は慧思のもとで禅観を修し、実修すべき仏教を法華精神に基づいて五時八教に体系づけ、蔵・通・別・円の四教と空・仮・中三観の教義により十界互具・一念三千の思想を導き出し、天台思想を創始したとされる。我国では延暦四年(785)、東大寺で受戒した最澄が比叡山に籠って天台教学を志し、同二十三年入唐して天台法門を伝承したことに始まる。最澄は天台山湛然門下の道遂と行満から天台法華の法門と菩薩戒、順暁から密教、脩然から牛頭の禅要を伝承、叡山の天台宗の基とした。  
やがて大乗戒の戒壇を設けるために朝廷へ請願を試みた最澄だったが、南都僧綱らの反対で中々実現しなかった。最澄滅後の弘仁十三年(822)ようやく勅許され延暦寺が創建された。この最澄の門下には師の遺志を受継ぐ人材が多く、最澄滅後一山を統率し『天台法華宗義集』を著した義真、第二世天台座主に任ぜられた円澄、延暦寺別当となり師の行業を編した光定、師の伝記『叡山大師伝』を著した一乗忠(仁忠)などが知られ、入唐して師の不十分な密教を補修し伝承した第三世座主円仁、密教の一大円教論を伝来し第四世座主になる円珍ら代表的な門下が最澄の遺詼「我が志を述べよ」を遂行した。また、円仁門下の安然は化法四教と台密を五教論に組織づけて大成し、相応は回峰行を創始するなどの業績を残している。この間の充実した教学で天台教線は地方に延び、各地の大寺が天台別院となった。その後、一時その勢は衰えるも円仁法流の良源座主が承平五年(935)、焼亡した叡山諸堂を復興し、横川に堂舎を開き三塔を確立、論義を始めとした教学を勧め、二十六条式を制して僧団を刷新するなど叡山の中興を行った。その門下は三千とも称され、源信・覚運・覚超・皇慶の四哲と呼ばれる人々を出している。源信が恵心僧都と通称され叡山浄土教を確立し恵心流と称される門流を生み、覚運が法華思想を宣布しその法系を檀那流とし、横川の覚超は密教に秀でその法脈を川ノ流といい、東塔南谷の皇慶の密教法系を谷ノ流とされ、これら四哲の法流はのちに恵壇八流・台密十三流を生んだ。  
一方、円珍法流にも千観や余慶、その門下の慶祚・勝算らの偉才を輩出、中でも余慶は良源と並び称され、永祚元年(989)天台座主に補任されている。しかし、この補任で円仁系の僧徒が反抗、正暦四年(993)ついに円珍派の僧徒らは比叡山を追われ三井寺に移り、この山門対寺門の抗争はのちまで続くこととなった。白河天皇に信任された寺門派の頼豪は、三井寺に戒壇建立を奏したが山門の妨害でかなわず憤死したとも伝えられている。  
また、円仁が五台山から伝えた念仏は四種三昧のうちの常行三昧に位置づけられ、良源の『九品往生義』や源信の『往生要集』による叡山の弥陀信仰は、空也・良忍・永覚らを通じて民間に普及され、法華信仰と念仏往生の調和を生み、良忍、叡空から円頓戒と『往生要集』を相伝した法然房源空、その門流の隆寛・辨長・証空・聖覚・源智・親鸞、さらには一遍ら念仏の学僧は皆叡山で学んでいる。同じく鎌倉仏教を成立させた栄西・栄朝・道元・日蓮も叡山で学んだ。一方最澄が比叡山の守護神を山王と称して以来、神は仏の化現として国を守る本地垂迹思想を展開し、鎌倉時代には山王一実神道として真言宗の両部神道とともに大成する。また、回峰行や修験道と影響しあい記家成仏・声明成仏思想も生じ、円珍が熊野三山で修練したと伝える遺風により、門流の増命・余慶らが入峰練行を行い、増誉・行尊らによって寺門系の本山派修験道の基礎がかためられ、白山・日光山・羽黒山・大山など各地の修験が栄え民間に浸透することとなる。  
元亀二年(1571)、延暦寺は織田信長によって焼き討ちされ全滅するが豊臣秀吉、徳川家康によって再建され、教学や法義は地方学山、特に尊舜・尊海・定珍らによって発展した関東天台によって再興された。中でも天海は仙波喜多院など関東の学山に住し、日光山を領して徳川家康を東照宮大権現となし東叡山寛永寺を創し、親王を迎えて輪王寺門跡とし、歴代皇族がこれに任じ管領宮として天台座主をもかね、明治維新まで全仏教を統轄し天台宗の中心は関東に移った。  
千日回峯行(せんにちかいほうぎょう) / 比叡山第三代天台座主円仁(慈覚大師、794〜864)が入唐し五台山で修行して帰国したことにより、山岳の抖數に関心をもったことから、その弟子相応によって千日回峯行が始められた。相応の創始した回峯行は、堂舎、木石すべてが仏身とされる比叡山の霊地を七年間のべ一千日回峯する修行。その内容は、初年度から三年間は毎日百日間毎夜30キロ、四年目、五年目は同じ距離を百日間歩く。こうして七百日の回峯を終えると、七日間無動寺谷の明王院に籠って、断食・断水・不眠・不休・不臥で毎日十万遍の真言を唱える堂入を行う。次の六年目は百日間にわたって毎夜60キロ、七年目の最後の年は二百日間毎日約60キロの「京都大廻り」を行う。その後、九日間にわたって再び無動寺に籠り断食のうえで七百座の護摩をたき終了する。こうして回峯行が終え当行満阿闍梨になると、土足で宮中に参内して玉体加持をする。 
真言宗(しんごんしゅう)  
日本仏教八宗の一つ。真言陀羅尼を重視することから真言陀羅尼宗、顕密教判上から密宗、または台密に対して東密ともいう。開祖は弘法大師空海。教王を大日如来とし、所依の経典は『大日経』と『金剛頂経』の両部大経のほか『蘇悉地経』『瑜祇経』『略出経』があり、合わせて五部の秘経という。律では『蘇婆子童子経』、論では『釈摩訶衍論』『菩提心論』を持って所依の三蔵としている。  
密教は大乗仏教の流れの一つで、六・七世紀の間に整備され八世紀に体系化され、中国に伝わった。空海は延暦二十三年(804)入唐し、翌年恵果から付法を受けて密教の正嫡となった。密教の正統を示す潅頂の血脈として大日如来・金剛薩垂・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・空海を付法の八祖といい、密教を護持流伝した竜猛・竜智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海を伝持の八祖という。真言宗が宗としての独立を公認された時期には空海の主著『十往心論』が成立した天長七年(830)などさまざまあり一定しないが、最澄はすでに弘仁二年(811)の書状に秘密宗と書いていたが、同四年には真言宗と記していた。空海時代の真言宗は高雄山寺・高野山金剛峯寺・東寺を中心として形成されたが、空海は金剛峯寺・東寺が未完のまま生涯を高野山で終える。  
承和三年(836)、山城額安寺をはじめとする真言別院が各地に設置され、翌四年には真言宗諸国講読師選任の勅許を得て本末体制の基礎ができた。空海の直弟子時代は東寺(実恵)・貞観寺(真雅)・神護寺(真済)・安祥寺(恵運)・海印寺(道雄)・修禅寺(呆隣)・禅林寺(真紹)・金剛峯寺(真然)などが、それぞれ檀越を擁して独立寺院化したため宗としての組織的発展が無かった。特に真然は極端な高野山中心主義をとったため、東寺・神護寺との間に年分度者の設置や『三十帖策子』の帰属をめぐる紛争を引き起こした。この紛争で策子を東寺に取り戻した東寺長者観賢は、東寺中心の真言宗本末体制を確立し、金剛峯寺・神護寺・禅林寺・醍醐寺などを東寺の末寺に組織化する。一方、『東大寺要録』によれば、東大寺末寺として石山寺・長谷寺・東寺・海印寺・仁和寺・醍醐寺・勧修寺・金剛峯寺などが挙げられている。これは空海が東大寺で具足戒を受け、のちに真言院を建立したことと、真言宗僧の東大寺別当就任で東大寺が真言化したことによるとされ、真言宗僧侶の本貫は東大寺真言宗が圧倒的に多かったと言われている。  
真言宗の本寺となった東寺は代々貴族出身の僧が長者を独占した一種の事務所であったとされ、これに対し弘法大師諡号以後、大師入定信仰とともに信仰上の中心は高野山が占めることとなった。  
昌泰二年(899)宇多上皇が益信について落飾、延喜元年東寺で両部の潅頂を受けると、仁和寺は法親王を中心とした皇族出身者が相つぎ御室と称して貴族化し、一方聖宝は小野の醍醐寺に拠って山岳信仰を吸収して二大潮流の基を形成、広沢遍照寺の寛朝、小野曼荼羅寺の仁海が出るにおよんで、小野流と広沢流のいわゆる野沢(やたく)二流が生れた。この根本二流は師伝の相異に基づきそれぞれ六派に分れ、野沢根本十二流を形成する。広沢六流とは仁和御流・西院流・保寿院流・華厳院流・忍辱山流・伝法院流をいい、小野六流は安祥寺流・勧修寺流・随心院流の小野三流と三宝院流・理性院流・金剛王院流の醍醐三流をいう。中でも伝法院流は流祖を覚鑁とし新義真言宗の本流となった。さらには高野山の明算は小野流から分れ中院流を創設するなど、鎌倉時代には三十六流、室町時代になると七十余流となるなど事相上の分派が生まれている。しかしこれらは教団上の派閥までにはならず、実際には古義真言宗・新義真言宗、そして東寺派、叡尊の起した真言律宗に大別される。  
新義真言宗は、院政期に覚鑁が高野山に金剛峯寺末寺大伝法院を開き、座主職を東寺長者より奪い返し東寺からの独立を企てるが失脚し、根来寺に退いたことから始まる。実質的に新義として確立したのは秀吉の根来寺征伐後、天正十五年(1587)長谷寺に入った専誉、慶長五年(1600)洛東に智積院を開いた玄宥の時代で、両寺を本山とする専誉の智山派、玄宥の豊山派が生じた。以後、古義は関西に多く、新義は関東に多いとされる。 
修験道(しゅげんどう)  
わが国古来の原始的宗教ともいえる民俗信仰として山岳信仰(山の神への畏怖と崇拝)があり、それらに呪術や巫術などのシャーマニズム、大陸から渡来し仙境・仙人などの概念をもたらした道教が複合し、飛鳥時代には仙境と称された吉野・熊野や葛城山に籠り仙人に成ろうとする行者が現れている。これらの者のなかでもっとも知られたのが役小角(役行者)で、後に小角は修験道の祖とされる。平安時代に天台、真言両宗により密教がもたらされたことから、それらの教義によって修験道として確立。こうしてわが国独自の宗教的活動としてスタートした修験道は、その成立過程で密教の修行とされる籠山や回峰行などの山岳仏教と習合した。  
修験の霊場あるいは道場としては熊野三山を拠点とする熊野修験、さらに弥勒下生の地とされた金峰山を拠点とした修験が最も盛んで、そのどちらも大峰山の峰入を修行の場としていた。  
○聖護院、三宝院は、峰入といひて、大峰山にのぼり給ふことあり。役行者の跡をしたひ物せさせ給ふよし也。熊野より大峰をへて吉野に出るを、順峰入といひ、よし野より大峰をへて熊野に出るを、逆峰入といへり。春山と秋山とにて、順逆の差別をするは、ひがごと也。(『橘窓自語』)  
この外、羽黒山、日光、彦山などにも修験が起り、役小角の修行の地葛城山、北アルプスの雄峰立山、伯耆大山、富士山、筑波山、戸隠山など全国の主な山がその対象となっている。  
これらの事から、室町期になると修験道は台密系の聖護院を本山とする本山派と、東密系の醍醐寺三宝院を本山とする当山派の二大潮流が生まれ、江戸期には全国の修験道が幕府の宗教政策により、この二派に組み入れられる。  
本山派(ほんざんは)  
修験道の世界では、熊野と金峰の修験が最も盛んで、それらの修験道が全国に影響を与え、勢力を伸ばしていた。しかし、戦国期になると熊野三山の影響力が衰え、それまで三山の検校とはいえ名目だけの存在だった聖護院門跡は、衰勢の挽回のため自ら修行を行う。特に第二十三代熊野検校になった道興は、那智籠のうえで西国・東国を巡錫し、熊野先達を直接聖護院の配下にしていった。さらに京都東山に勧請されていた熊野若王子社を別当とし、乗々院を熊野三山奉行にするなど、全国の熊野社・修験を傘下におさめ本山派を形成した。本山派では各地の熊野先達を年行事に補任して、それまで先達・配札・祈祷などをしていた地域を霞として認め、その活動を安堵し、その上前を取る形で掌握・支配した。  
当山派(とうざんは)  
内山永久寺、法隆寺、三輪山、松尾寺など大和の諸大寺に依拠した修験は、吉野から峰入して熊野まで抖數(とそう:正しくは手篇)した。彼らは大峰山中の小笹に拠点を置いて、当山正大先達衆と呼ばれる結衆をつくりあげていた。最盛期には三十六余の寺院から正大先達が出ていたことから、当山三十六正大先達衆とも呼ばれたこれらの正大先達は、回国を旨とし、各自が全国各地に個人的に弟子をつくったことから、その支配を袈裟筋支配と呼んだ。これら当山正大先達衆は、醍醐寺を開いた聖宝を大峰山の峰入を再興した修験者として崇めていたことから、慶長年間(1596〜1615)頃から醍醐寺三宝院を本寺として当山派と呼ぶ教派を結成した。  
先達(せんだつ)  
山伏の功労者で、峯入りのとき等に、同行者の案内・指導をする者。 
浄土教(じょうどきょう)  
浄土とは仏・菩薩の住する清浄な国土の意味で、阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿しゅく仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、弥勒菩薩の兜率天、観音菩薩の補陀落山など種類は多いが、中国・日本において浄土という場合には一般に阿弥陀仏の極楽浄土を指す。このことから、阿弥陀仏の本願を信じ極楽浄土に往生し、そこで悟りを得ようとする教えとその実践を浄土教と称するようになった。浄土教では『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』を根本経典とし、これを浄土三部経と称している。  
インドにおいて最も早く浄土教を説いたのは大乗仏教の組織者とされる竜樹で、往生浄土の実践方法として礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・廻向門の五念門を説いた。二世紀半ばから五世紀にかけて中国で浄土三部経が訳出されると、魯山の慧遠などが念仏三昧の法を広め浄土教が興隆する。やがて北魏の時代に曇鸞が現れ、菩提流支から『観無量寿経』を授って浄土教を深く学び浄土五祖の初祖と称され、第二祖の道綽などによって中国の浄土教が大成された。  
我国では、円仁が嘉祥元年(848)叡山に常行三昧堂を建て、不断念仏を行った天台浄土教が始まりとされる。これに教学として理論づけを行ったのが良源で、彼はその著『極楽浄土九品往生義』のなかで、『観無量寿経』の天台教学による解釈を試みた。ついで門弟の源信が『往生要集』を著わし観相念仏の教学体系を確立、同門の覚運が『念仏宝号』を著わし法華・浄土・密教の三教融合を試みている。この天台浄土教にややおくれて、南都三論宗に永観が出て『往生拾因』を著わし口称念仏を強調する。やがて鎌倉時代に入り、善導の『観経疏』に啓発された源空が天台浄土教の殻から脱して阿弥陀仏の本願を無条件に信じて念仏を修する専修念仏宗を開宗し、『選択本願念仏集』を著わして教理体系を確立する。門下の親鸞はさらに本願の信を深め諸仏等同の体験を得て『教行信証』や種々の和讃で浄土宗の真を説く。これら源空や親鸞の念仏は、阿弥陀仏の本願の信に基づくものであったが、時宗を開いた一遍の念仏思想は天台浄土教の本覚思想と禅宗の混合した熊野権現の神勅を基盤としていた。  
浄土宗(念仏宗)(じょうどしゅう)  
阿弥陀仏の本願を信じ、その仏の名号を称えることによって、すべての人が極楽浄土に往生することができるとする宗派。宗祖は法然房源空。総本山は京都市東山区知恩院。安元元年(1175)、比叡山で修行していた源空が、善導の『観無量寿経疏』を読み専修念仏に帰一したとされる。源空の教えは当時の社会に大きな影響を与え、念仏支持者の増加に伴い旧仏教の諸宗からは白眼視さた。やがて弾圧は厳しくなり念仏の停止問題までに発展し、源空以下親鸞らの門下は流罪に処せられる。しかし、このことがかえって武士や農民の間に多くの支持者を得る事となった。  
源空没後は、門下の長老法蓮房信空が後継者となり教団の統制をはかり、長楽寺義の祖隆寛が源空の主張を貫き専修念仏を強調して論難に対抗するが、再び法難に遭い、源空の廟は破壊され、隆寛は陸奥に配流となる。それから智慶・幸西・長西・源智など各自が後継者であるという自負をもち分裂し、教団は組織的にも教義的にも不統一時代を迎える。  
その後、鎮西義の祖と言われる辧長、そしてその弟子良忠が現れ鎮西派が浄土宗の本流となって教義の統一に向った。しかし、知恩院と知恩寺の本家争いなど、依然教団的には不統一の時代が続いた。この散在した教団を統合したのが徳川家康の力を背景にした源誉存応で、存応は檀林制度を作り、元和法度(浄土宗諸法度)にもとづいて本末制度を確立し、有機的な教団を作りあげたとされる。  
浄土真宗(門徒宗)(じょうどしんしゅう)  
親鸞を開祖とする浄土教の一宗派。親鸞は法然房源空のもとで建仁元年(1202)自力聖道教を脱却し他力浄土教に帰依した。以来源空によって明示された専修念仏を聞信し、みずから一宗を開く意図はなかったが、浄土真宗という呼称は親鸞が源空の樹立した宗旨に「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と『高僧和讃』の中で述べた言葉からきている。しかし、浄土真宗という宗派名が正式に認められたのは明治に入ってからのことで、それまでは「門徒宗」「一向宗」などと呼ばれていた。  
親鸞は自身の宗教的立場を主著『教行信証』に示し、阿弥陀仏の本願を信ずることによって救われると強調した。そして「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と『歎異抄』の中で述べ、悪人こそ阿弥陀仏の救いの主対象であるといった。この悪人という言葉の解釈を後世さまざまに試み武士や商人、あるいは殺生を生業とする猟師や漁師に求める傾向にあったが、親鸞は「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」(『正像末和讃』)と自らを清浄心なき悪人と規定し、さらに「よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』)と、現実世界のあらゆる存在・行為はすべて虚仮であるという立場をとっている。  
しかし当初親鸞は「弟子一人ももたずさふらふ」と師匠と弟子の関係を否定し、「弥陀の御催しにあづかりて、念仏申し候人を、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり」といって、ともに念仏をとなえるものは同行同朋であると称し、師弟上下関係による教団形成には否定的であったとされる。しかし、晩年にその後継者となる息男善鸞が教えに背き東国教団を混乱に導くと、親鸞はこれを契機に、念仏者は正法を守るために連帯を強化するよう提唱する。以来正統信仰の保持と他教団からの批難への対応などから次第に教団体制を整えていく。  
佐渡流謫から赦免された親鸞はその後関東を中心に伝道活動に入り、関東・東国に多くの門弟を持つこととなった。やがて親鸞が京都に帰ると、有力門徒を中心に結集し、その所在地の名をつけた集団名で呼ばれるようになる。これらの門徒集団の中で、最も知られた集団が下野国高田の真仏・顕智らを中心とする高田門徒だろう。親鸞没後、東国の門徒集団は親鸞の末娘覚信尼とともに京都東山に墓所を置き大谷廟堂を造営した。この廟堂の第三代留守職覚如は、廟堂を本願寺と称して寺院化し、ここを中心として教団の統轄を図る。しかし、各地の門徒衆は覚如の企図に反対し、それぞれ独自の法脈を立て自立的教団の色彩を強くする。これら分立した教団が統一されるのは第八世蓮如の時代で、本願寺を中心とした教線が全国に拡がり各地の門徒を吸収するとともに、他の念仏衆(主に時宗・一向宗の念仏信奉者)をも取込んでゆく。この教線拡大期に、一向俊聖の起した一向宗の名が本願寺門徒衆の名として通称されるようになったと思われる。  
時宗(時衆)(じしゅう)  
浄土教系の一宗派で、古くは時衆と書き遊行宗ともいわれる。宗祖は一遍智真。文永八年(1271)信濃国善光寺に参籠して、心を一にして阿弥陀仏を念ずれば浄土に往生できるという浄土信仰上の比喩「二河白道」を感得し、それを図に現したものを本尊として、帰国後窪寺の山中の庵室に安置し三年間の念仏三昧に入る。その結果、衆生を救済しようとして成道した弥陀の正覚も、極楽浄土を願う衆生の一念も差別はなく、名号にすがる一念によって衆生は弥陀の浄土に生まれ変り、弥陀とともに同じ蓮の台に坐することができるという信念(十一不二偈)を得る。熊野権現の証誠殿に赴き託宣を乞い、この正しい事の神託を神の口から直接受けたとされ、この年(文永十一年)を開宗の年とした。その後、一遍は北は奥州江刺(岩手県北上市)から南は大隅国(鹿児島県)までの各地を遊行し、正応二年(1289)兵庫の観音堂で没した。  
時衆は遊行と躍り念仏・賦算(札くばり)をもって宗教的行儀とし、これを布教の手段としていたが、十分な教義を持っていなかったため、一遍の死後その門下の聖戒、仙阿、真教らは帰郷したり籠山するなどバラバラになり、一時教団は壊滅する。  
丹生山に入って死を待っていた真教に、淡河の領主淡河時俊の勧めと衆徒らに推され知識となり、一遍の法燈をついで教団を再編、十六年間の遊行を経て相模国当麻(神奈川県相模原市)の無量光寺に独住した。これが契機となり各地に道場が設けられ、真教在世時に百か所に及び、後をつだ智得、その弟子真光らによって教義の確立を図り、法弟呑海が藤沢に清浄光寺を建立するにおよび、鎌倉から室町時代前期には賦算を通じて民衆に浸透し飛躍的な発展をとげた。おそらく僧体の芸能民的要素の強い躍り念仏などのパフォーマンスで、民衆の心をつかみ急速に拡まったのだろう。こうした芸能的要素のために堕落するのも早く、社会が混乱し疲弊する戦国期には真の救済を求める民衆の支持を失い、代りに蓮如らの門徒宗に多くは取込まれてゆく。一方、武士にも浸透した時衆は、陣僧として武将に従い戦陣に臨み戦死者を弔ったり、最期の十念を授ける役割を担ったとされる。また、陣中での無聊をなぐさめるため早歌や連歌を指導したり、茶をたて、花を生けて心のおちつきを教える僧も現れる。こうした僧の中から一芸に秀でた観阿弥のような僧も現れ、やがて彼等は大名の同朋衆となり、茶坊主として抱えられていった。  
時宗教団の主流は、清浄光寺を本山とする遊行上人だが、同じく時衆を名乗ったが法系を異にする一向俊聖を祖とする法流もあった。蓮如の指摘では近江国番場(滋賀県坂田郡米原町)の蓮華寺を本山とする一向衆と呼ばれる衆徒がいたとされている。この外、天童仏向寺を本山とする天童派、海老島新善光寺を本山とする解意派などが一向俊聖の流れを汲んだ。この一向俊聖は浄土宗三祖長忠の弟子で、門徒を時衆と呼び踊念仏を併せ修していたため、一遍の時衆と混同される事が多かったといわれる。  
こうして一時は民衆宗教として他の宗派を圧倒し、全国に数千もの道場を持つ時衆だったが、その大衆性ゆえの堕落と、教線を武家に移した事で衰退に向い、江戸時代初期にはおよそ八百ばかりにその数を減らした。しかし、武家に重宝がられた事から幕府と大名の保護と統制の下、伝馬御朱印を与えられ、遊行回国の上人とし念仏札をはじめ大黒・愛染・天神・除病・矢除などの護符を与えながら、後世の往生と現世の利益を保証する遊行僧として存続していった。江戸時代のこの宗教統制の時に、宗派の名も時衆から時宗に改まったとされる。また、時宗の僧は一日を六時に分けて修行していた事から、六時宗ともいわれる。 
日蓮宗(法華宗)(にちれんしゅう)  
鎌倉時代、日蓮を開祖とする宗派で、日蓮の教えを継承、実践してきた宗派の総称。日蓮は貞応元年(1222)に安房国の荘官クラスの土豪の子として生まれた。十歳を過ぎた頃、近傍の東北荘にあった天台寺院清澄寺に入り嘉禎三年(1237)ごろ出家得度。房号を是聖房といい、僧名ははじめ蓮長と名乗り、後日蓮と改めたと伝えられる。遠国安房に就学の師なしとした日蓮は、延応元年(1239)のころに鎌倉、さらに京畿に留学。その留学の中心地となった比叡山延暦寺で、『涅槃経』の「法に依れ、人に依らざれ」の教えに触れた日蓮は、『法華経』をよるべき法=経典とする法華至上主義に到達、その過程で反浄土教の立場に立った。  
建長四年(1252)ころに清澄寺に戻り、翌年法華信仰弘通(ぐずう)を開始し、この年を教団では立教開宗の年としている。しかし、その反浄土教の教義による浄土宗門徒らの反発や、地頭東条景信の不正を糾弾するなどの行動により在地権力者から排斥され、村を出て鎌倉に赴き教えを広めることとなる。ちょうどこの頃に地震や台風、大雨などの災害が頻発し、飢饉を伴って世上も不安定となっていた事から、日蓮はこれらの災禍の原因は邪教である法然浄土教に人々が帰依し、法華信仰を捨てたためだとして『守護国家論』や『立正安国論』を著し、法華への信仰を取り戻さなければ「内乱」や「他国の侵略」が起こると浄土教徒への布施禁止と法華信仰への回帰を訴える。こうした行動から浄土宗門徒との争いが起こり日蓮は幕府に捕えられ伊豆へ配流となった。  
赦免され再び鎌倉に戻る頃、蒙古のフビライ・カーンから服属するか交戦するかの選択をせまる国書が幕府にもたらされた。この事で日蓮は自らの予言の正しい事を実証したと自負し、仏のことばの体現者としての自覚を強め、より急進的な法華択一の立場に立ち、浄土・禅・律の諸宗を批判。信奉者の言動も先鋭化していった。こうした中で、いよいよ蒙古の襲来が現実化し、対応にせまられた幕府は、治安の安定のため悪党と称される反権力の者たちへの取締りを厳しくし、日蓮らも悪党として捕えられた。この時、日蓮は斬首を宣告されたが寸前に死罪を免れ、佐渡へ配流される。やがて赦され鎌倉にもどり、執権北条時宗の被官平頼綱と会見し真言密教の重用を止めるように求めるが受け入れられず漂泊の旅に出る。晩年は甲斐国身延山に住し弘安五年(1282)当地で没した。日蓮は没する直前、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持を本弟子(六老僧)に指名。このうち日昭・日朗・日興・日向がそれぞれ門流を起し、後にもいくつかの門流が形成されることとなる。  
各門流は主に東国に教線を伸長させるが、公家・武家への奏上、王城弘通の企ても持ち、京都に拠点を据えた門流が形成され、公武への接近とともに町衆や洛外の農民を門徒化し、彼等の資金で多くの寺院が建設される。戦国時代に入ると、町衆を中心とする法華門徒衆は自営のための一揆を組織。こうした動きに危機感を抱いた他宗は天文五年(1536)延暦寺を中心に結集し、戦国大名の協力を得て武力で攻撃(天文法華の乱)、洛中の法華宗諸寺は堺に逃れた。  
しかし、法華門徒らの根幹をなす折伏による弘通や不受不施は、時の為政者となる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らに拒否される。他宗派との争いも絶えず、宗論対決を行うが常に敗論となって処罰された。 
禅宗(ぜんしゅう)  
座禅宗の略で、教宗に対して禅宗という。また、達磨を開祖としている事から達磨宗といい、仏の心印を伝える宗旨という意味で仏心宗ともいう。中国仏教十三宗、日本仏教十三宗の一つ。  
中国で、古くは坐禅をもっぱらにする人々の系統を一般に禅宗と呼んだことから、当初は達磨宗だけでなく天台宗・三論宗の系統も含まれていたが、中唐から宋の時代にかけて達磨系の禅宗がもっとも栄えたため、達磨宗だけを禅宗と称するようになったといわれる。  
日本における禅の流伝は、伝説で孝徳天皇白雉四年(653)に入唐した元興寺道昭が二祖慧可の法孫慧満から禅法を伝えられ、元興寺東南隅に禅院を建てたのを初伝としている。ついで神秀の弟子普寂の門人道(セン)が来朝して北宋禅を伝え、延暦二十三年(804)最澄が入唐して脩然から四祖道信の傍系である牛頭禅を受け、さらに嵯峨天皇の橘皇后の招聘で、慧能の流れを汲む馬祖下の斉安の弟子義空が来朝して南宗禅を伝えた。また承安元年(1171)叡山の覚阿が入宋して臨済宗楊岐派の轄堂慧遠から禅法を受けたと伝えられる。以上の五伝は法系が伝わらず一代で絶えた。ついで三宝寺の大日能忍は、みずから得悟した悟境を記した偈を、入宋させた練中・勝弁の二人の弟子に託し育王山の住持拙庵徳光に呈示させ、その印可証明を受け、二弟子の帰朝後、能忍は日本達磨宗の旗幟を掲げ、禅法を鼓吹したが叡山の圧迫を受け、後に道元門下に帰し、その後法統は絶えている。  
本格的に禅が伝えられるのは、文治三年(1187)入宋して虚庵懐敞から臨済宗黄竜派を伝えた明庵栄西に始まる。栄西は帰朝後、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を開いた。栄西についで入宋した道元は、天童如浄から曹洞宗を伝える。その後、多くの僧が入宋・入元したり、来朝して禅宗の派は二十四派を数える程隆盛した。  
達磨宗(だるましゅう)  
中国に興り、朝鮮・日本に伝わった禅宗。中国の梁の時代にインドより中国に渡ったといわれる菩提達磨は、後世制作された禅宗の伝燈で西天(インド・西域)の第二十八祖とされ、インドから中国に伝えたことにより、中国禅宗の初祖とされる。日本では摂津水田県の三宝寺に住した能忍によって唱導された。この系統には、覚晏・懐鑑・懐奘・懐照・懐義尼らがいたが、覚晏が住した大和多武峰が安貞元年(1227)と二年の二度に渡り興福寺衆徒によって焼き打ちに合い、門下は各地に散り、その多くは曹洞宗道元の下に帰することとなった。この派は、覚晏が大和に住していた事から、大和禅とも呼ばれる。  
臨済宗(りんざいしゅう)  
臨済義玄を祖とする禅宗の一派。禅宗の初祖菩提達磨より十一代の義玄から七伝し石霜楚円が生まれ、その門から黄竜慧南と楊岐方会が出て黄竜・楊岐の両派が生じた。中国禅宗は雲門・法眼・曹洞・臨済・為仰の五宗に黄竜・楊岐の二派を加えて五家七宗といった。日本に伝来した臨済宗は、明庵栄西の黄竜派を除いてすべて楊岐派の系統だとされる。能忍・栄西の後を受けて、顕密両宗を学び積極的に宗教の改革を目指す僧達が現れ、入宋者が相次ぐとともに、宋朝の政情が不安定化した事で宋からも蘭渓道隆ら多くの亡命者が来朝し、鎌倉時代に多くの禅門が開かれ、その門流は曹洞宗四流を除くと五十五を数えたとも言われている。  
これら伝法者の中で、元朝系の隠遁的な念仏禅を除いた大部分の門流は、公武の帰依を受けて京・鎌倉の五山に止住し、複合的な五山派を形成した。また禅門寺院は地方にも根を下ろし、近江永源寺や小早川氏の庇護を受けた安芸の仏通寺などが小教団を形成した。さらに、京都には幕府の統制を受けない大徳寺・妙法寺などの諸寺が開かれ、五山禅林に対し林下禅林と呼ばれ古風枯淡な宋風を維持し、五山派からも人材が流入して隆盛し、戦国大名などの帰依もあって五山派の末寺をも蚕食していった。  
曹洞宗(そうとうしゅう)  
中国禅宗五家七宗の一つ。宗派の名は二説有り、中国では洞山良价の洞とその弟子曹山本寂の曹をとり、それを倒置して曹洞宗と称したとする説を取り、日本では曹渓慧能の曹と洞山良价の洞を取って曹洞宗とする説をとっている。中国曹洞宗は、六祖慧能の南宗禅を継ぎ、その宗風は「曹洞細密」と評されるように綿密な宗風を特色とし、洞山・曹山によって提唱された五位の思想を中心として展開した。その後、真歇清了と宏智正覚が出るに及んで、真歇派と宏智派に分れた。道元がその法を継いだ天童如浄は真歇下の四代の法孫で、日本の曹洞宗の中心となり、以後多の門流も伝わったが長続きせず、道元派だけとなって今日に至っている。  
道元は帰朝後しばらく建仁寺に寓していたが、天福元年(1233)ごろ深草に興聖寺を開き、孤雲懐奘をはじめとした日本達磨宗出身者の参加をみて、興聖寺僧団を開創した。十年後の寛元元年(1243)に、越前に移住し大仏寺を開き、後に永平寺と改め永平寺僧団が創立される。道元はみずからの宗旨を曹洞宗ないしは禅宗とすることを嫌忌したことから、当初は正法宗あるいは道元宗と称していたが、永平寺第四世の瑩山紹瑾に至って中国曹洞宗との接続が図られ、道元は日本曹洞宗の初祖として位置づけられた。  
寒厳派(かんがんは) / 道元禅師の弟子寒厳義尹(かんがんぎいん)禅師を始祖とする曹洞宗の門流で、義尹禅師が順徳天皇(一説に後鳥羽上皇)の皇子であったことから法王派ともいう。その活動の拠点を肥後の地を中心に九州の西南部に展開したことから、この寒厳派は肥後曹洞宗とも呼ばれた。やがてこの門流は、遠江の普済寺十三門流や三河の妙厳寺(豊川稲荷)など東海地方にも進出した。  
黄檗宗(臨済宗黄檗派)(おうばくしゅう)  
明僧隠元隆掎を開祖とし、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とする禅衆の一派。隠元は臨済宗楊岐派の系統に属した人で、黄檗宗は明末の臨済宗であったが、伽藍の様式、法具・法服・読経・法要などの諸式がわが国の臨済宗と異なっていたので、江戸時代には臨済宗黄檗派、禅宗黄檗派などと呼ばれ、黄檗宗とも称された。明治七年(1874)教部省の命で臨済宗に合併されたが、同九年独立して黄檗宗となった。  
隠元は承応三年(1654)、渡来して長崎の興福寺・崇福寺、ついで摂津富田の普門寺に住し、やがて幕府から山城宇治に寺地を授かり、黄檗山万福寺を開創、黄檗宗の開祖となった。  
普化宗(ふけしゅう)  
中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅の一派。その徒は虚無僧、または薦僧・暮露・梵論字などと称される半僧半俗の遊行民であった。江戸時代に筒形の編笠を被り、掛絡を前につけ、木太刀などを持ち、尺八を吹く姿は知られている。わが国では心地覚心(法燈円明国師)が建長六年(1254)宋よりこれを伝え、紀州由良に興国寺を創立したことに始まる。覚心とともに来朝した四居士の一人、宝伏は頭陀金先に尺八を伝え、金先は全国を行脚し、下総小金に金竜山一月寺を開基し、その法系を金先派という。覚心の弟子寄竹了円の門人天外明普が京都白川に虚霊山明暗寺を建立して虚無宗の祖となった。その弟子に虚無があり、虚無は南朝の遺臣楠正勝の仮の姿で、虚鐸を弄しつつ諸国を廻り、足利氏の動静を秘かに探っていたという伝承もある。  
鎌倉末期にはすでに、放逸な行動、無頼性で『徒然草』で批判されていて、浮浪民が入り込み問題ともなっている。江戸時代には慶長十九年(1614)吉野織部が青梅に鈴法寺を開基し、一月寺、明暗寺とともに根本道場とした。入門者を士族に限り、師弟関係を厳密にするなどの掟が再々出されている。風呂屋・茶筌との関係も取沙汰され、肉食妻帯、風俗華美、口論を好むなど浪人勇士の隠家というだけでなく、さまざまな制外の民の寄留する宗教芸能集団となっていった。  
虚無僧祖師普化和尚 / 普化和尚は異国の人。中比日本に良菴と云ふ僧あり。普化の宗旨を唱へ専ら尺八を愛し四方に遊ぶ。其風異朝の普化が鈴をならすに似たるを以て、世人呼で和朝の普化と云ひ、虚無僧の祖師とす。(伊藤梅宇『見聞談叢』)  
中峯派(ちゅうほうは)  
十三世紀、中国元の天目山、幻住庵住持中峯明文が興したとされる禅宗の一派。日本では五山派から外れた地方の宗派として博多など九州に根付き、主に朝鮮、中国への外交使を担った。 
 
 
智積院(ちしゃくいん)

真言宗智山派の総本山で、京都市東山七条にある。宗団は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、東京都の高幡山金剛寺、名古屋市の大須観音寶生院を別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約30万人にのぼる檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けられている。 
真言宗の宗祖(しゅうそ)である弘法大師空海が高野山でご入定(にゅうじょう)したのは承和2年3月21日(835)で、それからおよそ260年後、興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院(だいでんぼういん)を建て、荒廃した高野山の復興と真言宗の教学の振興におおいに活躍した。それゆえに興教大師は「中興の祖」とあおがれている。 
保延6年(1140)修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の根来山(ねごろさん)へと移し、ここを真言宗の根本道場とした。新たな道場建設の槌音の響く中、康治2年12月12日(1143)興教大師覚鑁は、多くの弟子が見守る中、49才の生涯を閉じられた。 
鎌倉時代の中頃、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、高野山から大伝法院を根来山へ移した。これにより、根来山は学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになる。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院だった。しかし、同時に巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰した。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)智積院の再興の第一歩を洛北にしるした。慶長6年(1601)徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興された。その後、秀吉公が夭折した棄丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充された。再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」といった。こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立した。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出した。 
幕末から明治維新になると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・明治政府によっておこなわれた仏教廃止運動)の波を受け、困難な時代をむかえた。明治2年土佐藩の陣所となっていた教学研鑚の根本道場の勧学院が爆発炎上、明治15年一山の象徴である金堂を焼失した。明治33年智積院を中心に活動していた全国約3000の寺院が結集し、智積院を総本山と定めた。 
終戦後の世相の混乱をのりこえ、徐々にその拡充整備がなされた。昭和41年智山派全檀信徒のご浄財を得て、宿泊施設として智積院会館が建設された。昭和50年宗祖弘法大師ご誕生1200年の記念事業として新金堂を建立し、本尊大日如来の尊像も造顕され、焼失以来の宗団の悲願を達成した。平成7年興教大師850年御遠忌記念事業として、講堂(方丈殿)が再建された。こうして伝統ある智積院は、いまや真言宗の教えのよりどころとして老若男女を問わず多くの信仰を集め、日々参拝者が絶えない。
 
真言宗歴史

真言宗の教えは、開祖弘法大師によってほぼ大成されました。そのため、大師後270年ほどは、教学上の発展を見るに至らなかったと言われています。その間は、もっぱら時代の求めに応じて「転禍為福」の加持祈祷のために、修法「次第」の編纂や様々な儀礼法要の編成に費やされたのでした。しかしながら、大師後、十大弟子のうち実恵と真雅の法流が栄え、皇室の保護尊信は大師の時代と変わることなく、京都東寺を中心として発展していきます。 
実恵真雅の両法系を統合した源仁の弟子に益信(827-906)が出て、宇多天皇の尊信を得ます。天皇は益信に従って落飾され、延喜元年(901)東寺灌頂院にて伝法灌頂に入壇。大内山に仁和寺を造営し観法に余念なく、御室と称して平安仏教の一大中心となります。歴代天皇の御受戒御出家が相次ぎ、密教研究が盛んになり、造寺造仏を競ったため、密教隆盛の最頂に達したと言われています。 
宇多法皇の正嫡であった寛空は嵯峨大覚寺に住し、その法嗣寛朝は歴朝の国師として広沢に遍照寺を開創して、益信を流祖とする事相法流を大成。広沢流と呼ばれ、その後六流に分派していきました。諸儀礼の声明にも精通し、声明中興の祖と称されています。 
また益信と同時代に、真雅の法流を源仁から受けた聖宝(832-909)が出て、役の行者小角の遺跡や霊山山岳を跋渉。苦修練行して法験を現し数多の尊信を集めます。修験道の基を開き、宇治に醍醐山を創建します。 
ところで日本の神々を仏教の教えによって祭祀する神仏習合は奈良時代から起こりますが、「本地垂迹説」という理論的基礎を与えたのはこの頃のことでした。真言宗では、伊勢神宮の内外宮を胎藏金剛の両部に見立てた両部神道が形成されていきました。 
この聖宝の法資に観賢(853-925)が出て、東寺長者となり、はじめて東寺灌頂院にて御影供を営み、延喜21年(921)醍醐天皇の勅により宗祖に弘法大師の諡号を賜ります。観賢は勅使とともに御廟にいたり、そのとき大師の聖容を肉眼に拝したとして大師入定留身説を唱え、大師信仰と高野浄土信仰を起こします。また観賢は醍醐寺仁和寺も主宰して、さらに荒廃していた高野山の座主を兼ね、当時仁和寺、醍醐寺、高野山と分散していた真言宗を東寺を中心にして一大統制をはかりました。 
この観賢の法系から霊験を発揮して雨僧正と称された仁海が出て、正暦2年(991)小野に曼荼羅寺を開創。弟子多く著述二百部と言われ、聖宝からの法流を大成し小野流を開きます。 
広沢流が仁和寺を中心に貴族的相承をなして経軌を尊重するのに対し、小野流は醍醐寺を中心に庶民的伝播をなして師資口伝を重視しました。両法流ともに後にたくさんの分派が行われていきました。 
一方、大師によって秘密修禅の道場として開創された高野山では、その後の経営を大師から委嘱された真然が未完成であった堂塔を完成させ、後に東寺長者に補せられると、参内して高野山の霊威を天下に宣布します。 
そして、真然は東寺宝庫に宗宝として保管されていた、大師在唐の際自ら筆写した経軌「三十帖の策子」を借覧の上、高野山に持ち帰って保管します。その後真然の法孫無空が高野山座主のとき、東寺長者であった観賢がこの「三十帖の策子」返還を院宣をもって督促するに至り、延喜15年(915)無空は門徒を率いて離山。後に「三十帖の策子」は回収され東寺大経藏に納められましたが、このことは高野山一山の荒廃をもたらしました。 
天歴6年には雷火により奥の院焼失。正歴5年(995)また雷火によって大塔はじめ壇上伽藍の堂塔を悉く焼失しました。住僧のない時代が十数年続き、興福寺勧進僧祈親上人定誉がそれを嘆いて自ら入山し、一山の復興に尽力。仁海らも高野山浄土の思想を鼓吹して、藤原道長、頼道ら貴顕の外護を得て、ようやく復興の緒につきます。 
高野山中興の祖と言われる金剛峯寺検校明算は延久4年(1072)山に戻り、高野山における事相上の一流として中院流を開き宣揚して法会儀礼の復興にこぎつけたのでした。 
このように修法儀礼を中心とした法流の分派が盛んになり、院政期まで、東寺、高野山、醍醐寺、大覚寺、仁和寺、勧修寺などを中心に発展していきました。特に東寺は教団の根本道場であり、そのため真言密教は東寺系の密教、略して東密と呼ばれました。  
高野山の復興が成し遂げられた頃、熱烈なる信仰心と学徳をもって登場するのが覚鑁上人(1095-1143)でした。覚鑁は、南都に遊学して倶舎唯識を修め、仁和寺寛助に随って伝法灌頂に入壇。その後、高野山に登り、修学練行に勤め、鳥羽上皇の院宣により今の金剛峯寺の地に伝法院を開創します。 
そして、高野山の衰退とともに中絶していた、学徒を教養するための会式、伝法大会を長承元年(1132)鳥羽上皇の行幸を仰ぎ開白。春と秋に50日もの期間経軌を清談させ、これによって真言学徒の教養を高め、大いに高野山の教勢を張ることとなりました。覚鑁は高野中心主義を標榜、金剛峯寺座主職が東寺長者兼務であるが故に高野山が廃退したとして、このしきたりを違え、長承3年金剛峯寺座主に任ぜられ高野一山の興隆を計らんとします。 
しかしながら、天歴年間の伽藍焼失以来の高野山復興事業と関わりの無かった覚鑁は、明算の法資良禅の弟子ら常住僧徒の反感を買い争議が起こります。住坊密厳院に籠もり無言の行に入って著述に専念。沈思瞑想して、「五輪九字明秘密釈」「密厳院発露懺悔文」などを撰します。 
この少し前11世紀頃から末法思想が浸透する中で、高野山の別所では念仏行者高野聖が住み、浄土教の中心的拠点の一つになっていました。 
覚鑁はこうした高野聖とも交流し、大日如来と阿弥陀如来は本来一体平等であり、極楽浄土と密厳浄土は同処であると説き、盛んとなる浄土教との調和を計りました。 
永治元年(1141)、ついに覚鑁は伝法院の衆徒七百人と紀伊根来に退き、圓明寺などを造営するも、わずか3年後に永寂。 
その後、伝法院座主神覚らは高野山に帰還し、20年ほどは事無きを得ましたが、仁安3年(1168)には、伝法院方の僧侶が修正会に美服を着し華美で規律に背くとして争いに発展し、また金剛峯寺衆徒が伝法院を焼却するなど騒動が絶えず、正応元年(1288)、伝法院学頭頼瑜と座主道耀は伝法、密厳の両院を根来に移し独立の教団を形成することになります。 
根来山に大伝法会を開演すると学徒は雲集し、一大伽藍を現出。頼瑜(1226-1304)は教団の根本主張として、本地身説を基調とする高野山に対して、加持身説を提唱します。 
弘法大師が、釈尊所説の他の仏教と異なり、法身説法なるが故に密教であるとした説を更に厳密なものとして、頼瑜は無限常恒の本地法身を絶対無相の境地を説く自性身と化他の説法をなす加持身とに分けて、化他の一面においてのみ初めて説法ありとして加持身説法を主張しました。 
この覚鑁上人を祖と仰ぐ根来寺の系統を新義と言い、その他高野山や東寺などを古義と言います。 
鎌倉時代には、浄土宗などいわゆる鎌倉新仏教が台頭する中、源家の氏神を祀る鶴岡八幡宮の別当に真言僧が任ぜられ、頼朝の一族や北条氏は高野山を崇敬。また醍醐寺は醍醐天皇より三帝の庇護により発展し、源氏との関係も緊密となり興隆します。 
また、西大寺を中興する叡尊(1201-1290)は自誓受戒して戒律の復興を目論み、乞食囚人遊女にいたる多くの人々に戒を授けます。当時既に鎌倉を中心に関東に多くの真言宗学僧が進出しており、叡尊の弟子忍性は鎌倉に極楽寺を開創して悲田院、療病院を造り慈善救済事業を行いました。真言宗義によって戒律を修学するこの西大寺流律宗は後に真言律宗として独立します。 
室町幕府は、臨済宗南禅寺の夢想疎石など禅僧に帰依する一方、将軍家に護持僧として親近した醍醐寺座主満済を政治顧問として重用。醍醐寺は莫大な寺領所領を得て財力権勢は朝野を圧倒します。 
高野山では、長覚(1346-1416)、宥快(1345-1416)が出て教学が大成されます。 
長覚は、一切の功徳は自心に本来具足しており凡身に即して仏となり得るとして、無量寿院を中心とする不二門学派を形成。また宥快は、本来仏である我々は妄想に纏われ凡夫の相を現じているから、三密行によって開悟して本来ある功徳を開顕しなければいけないと主唱して、寶性院を中心とする而二門学派を形成し、山内の学徒を二分して論義問講が盛んとなり教学を大成するに至りました。 
しかし応仁文明の戦乱が起こると、大覚寺、仁和寺は伽藍の大半を焼失、醍醐寺、東寺も堂宇を悉く灰燼に帰すことになりました。  
戦国時代、高野山や根来山では、学道研修を旨とする学侶に対して、諸堂宇や荘園寺領の管理に従事する行人があり、彼らが時勢に迫られて僧兵となります。四隣を攻略、他領を略奪して、根来は七十万石、高野山は百万石を領するようになります。 
織田信長は十三万の軍勢で高野山を包囲攻撃しますが陥落せず、豊臣秀吉は天正13年(1585)十万の軍勢を配して根来寺を攻め焼き払います。そして秀吉は高野山にも迫りますが、高野山客僧木食応其が陣中にいたり無事を乞い願うと、秀吉は逆に青厳寺(今の金剛峯寺)を寄進。天下統一後、東寺にも寺領を寄せて五重塔を建立します。 
一方、焼かれた根来寺では、学頭であった専誉(1530-1604)と玄宥(1529-1605)が学徒を率いて高野山に逃れ、その後専誉は豊臣秀長の請により天正15年豊山長谷寺に住して奈良時代からの霊場寺院を学山として栄えさせ、玄宥は慶長5年(1600)徳川家康より寄進された京都智積院を本拠として学徒の養成に努めました。 
江戸時代に入ると、寺院法度が発布されて寺院統制が厳しくなる一方で、幕府は寛永年間に仁和寺など門跡寺院に寄進して堂塔伽藍を改修させ、大覚寺、醍醐寺など大寺は概ね旧観に復することができました。 
そして、高野山の頼慶が家康の信任を得て諸山に勧学の朱印を下すなど勧学運動に励み、学徳兼備の者にあらざれば大寺に入住させずとの規程を設けて、教学の振興を計りました。 
また高野山ではこの時代、高野浄土を説いて諸国遍歴した高野聖により祖先の霊骨を高野山に納骨して菩提所とする観念が浸透し、多数の大名の五輪塔が奥の院参道に建立されました。 
新義真言宗では、五代綱吉の時、帰依を受けて亮賢が江戸に護国寺を、また隆光は神田橋外に護持院を建立。特に隆光(1649-1724)は、綱吉の生母桂昌院からも帰依され、元禄3年(1690)隆光は覚鑁上人に大師号を奏請、興教大師号を賜ります。元禄8年隆光は大僧正に昇り、新義真言の僧録司に任ぜられ、その勢威並ぶ者なく、それによって、関東他派の多くの寺院を新義真言宗に転じました。 
また、智積院の学頭に運敞(1614-1693)が出て最盛期を迎えると、後に倶舎唯識の性相学が盛んとなり、豊山にも影響して斬新な学風を打ち立て多くの学者を輩出し、あたかも南都仏教が両山に移転した観を呈したと言うことです。 
寺壇制度ができて生活が安定し安逸に耽る僧界に対する非難の声が挙がると、戒律の復興運動が起こります。真言宗では正法律の興起をもたらし、明忍の志を継いだ浄厳(1639-1702)は、戒を仏道修行の基本と位置づけて如法真言律を唱導。元禄4年江戸に霊雲寺を開創して、数多の帰依を受けます。 
また、正法律を公称する慈雲尊者飲光(1718-1804)は、釈尊在世時の戒律復興を目指して無数の道俗を教化。「十善法語」「人となる道」など、かな言葉で書いた著作をなし、十善戒を人の人たる道と説いて、釈尊の根本仏教への復帰を提唱します。この慈雲による十善の教えは、後生の仏教者にも多大な影響を与えました。 
明治維新にあたり明治初年に発令された神仏分離令は、神仏習合を推進してきた真言宗寺院に大きな打撃を与えました。明治4年には諸山の勅会が廃止となり、承和2年(835)より宮中真言院で行われてきた真言宗による後七日御修法も中絶。しかしこれを憂いた雲照律師らの嘆願により、明治16年東寺灌頂院にて御衣加持を主として再興され、現在も一宗を挙げて謹修されています。 
そして、明治5年、維新政府によって一宗一管長制が定められると、金剛峯寺と東寺が古義真言宗の総本山、長谷寺と智積院が新義真言宗の総本山として各寺より輪番で管長を出すことになります。 
明治8年には合同真言宗が成立しますが、その後も離合集散を繰り返します。明治18年、初めて新義派の派号が公称され、さらに明治33年各山各立別置管長制度を確立して新義派が二分し、長谷寺を本山とする豊山派と智積院を本山とする智山派が独立します。 
そして昭和14年には、戦時下で強制的に一宗にまとめられ大真言宗を名乗りますが、戦後新しい宗教法人のもとに戦前にもまして各派が分派乱立し現在に至っています。  
 
仏教を一言で言う

キリスト教を一言でと言われたら私は、山上の垂訓の罪の自覚とロマ書の愛だと答える。しかし仏教を一言でと言われたらハタと困る自分を恥じ、仏教を鳥瞰的に概観した本はないかとAmazonを探した。英Oxford University Pressは、人文科学の数十種のテーマにA Very Short Introductionという小冊子を出しており、その一つに次の小冊子があった。 
Buddhism, Damien Keown, Univ. of London, pp136  
釈迦牟尼(前566-486或いは前463-383、牟尼=聖者)は北東印度の釈迦族の王子Gotama Siddharthaで、城下に出て老病死と出家者に出会い、生の苦と自分の使命を知った。妃と1人息子を捨てて29歳で出家遊行し、苦行の末35歳で菩提樹の下で悟を開いた。悟=菩提=bodhiを得たから、動詞の過去分詞でBuddha=仏陀=仏と呼ばれた。印度旅行で、釈迦牟尼が最初に説法したBenaresを訪れ、この菩提樹の子孫の木から葉を数枚頂戴して押葉額にした。この菩提樹はクワ科で中国以北では育たぬため、似たシナノキ科の木が中国では菩提樹と呼ばれ、仏教とともに來日した。同類の欧州のLindenは男女の愛を結ぶ木であり「山本リンダ」の名の由来でもある。釈迦牟尼が80歳で入滅し涅槃に入った姿が、東南アジアで見かける涅槃仏だ。この時四隅にフタバガキ科落葉高木の沙羅双樹が2本ずつ(=双樹)あり、1本ずつが直ちに枯れたという。この木も日本では育たないので、日本の沙羅双樹はツバキ科ナツツバキだ。平家物語冒頭の祇園精舎は布教拠点の一つ、沙羅双樹は無常の象徴である。  
菩提=悟とは、法=Dharma=世の真理、を知ることだ。法とは苦集滅道の四諦(したい 諦=真理)だと釈迦牟尼は説いた。苦=生は苦である。集=苦を集める原因は渇愛・欲望。滅=渇愛を滅すれば苦は無くなる。道=滅を実現する八正道。これは、正見、正思、正語、正業=行動、正命=生活、正精進、正念=法を憶念、正定=修習。次の四法印は四諦と同義だ。諸行無常、一切皆苦、諸法無我=我が自由にならぬ本質を自由にしようとすれば苦が生まれる、涅槃寂静=渇愛を滅却すれば寂静・清涼。  
欧米では仏教が宗教かどうかを論じるというから驚く。仏教には全能の創造の神がないからだという。釈迦牟尼は法を悟ったが発明も創造もしていない。仏教では、生は苦とされ生は喜びという考えは無い。出生自体が本人の最初の苦だという。人は行いによって来世には虫や人や菩薩に生まれ変わるが、渇愛がある限り転生し生の苦は続く。渇愛を滅却して涅槃に至れば再生も無くなる。凡人は再生するが、釈迦牟尼に再来はない。この生は苦という考えは印度を旅すると判る。仏教では愛は渇愛を表し、慈悲と区別している。キリスト教はαγαπε=Loveを愛と訳した。  
紀元前後に仏教は大きく変わる。既成仏教では救われぬ在家の(僧でない)人々が仏陀と仏塔を信仰し、仏陀が前世で菩提を求め努力した姿を菩提薩?=菩薩として理想像とし、自分よりも衆生の救済に当る利他の行いを尊いとした。このことから自らを大乗仏教(大きな乗り物)と称し、旧来仏教を小乗仏教と蔑視した。大乗仏教は般若経、法華経、阿弥陀経など新しい経典を2世紀頃までに作り出し、教義を哲学的に高めた。また阿弥陀如来(如来=仏陀)を初め無数の諸仏が浄土に住む世界を描いた。北西印度ガンダーラでは100 AD頃ギリシャの影響下で初めて仏像が作られた。それまではインド国旗の中央にある法輪という転生と布教の車輪を描いて仏陀の象徴とした。声聞乗=信仰心で仏の声を聞き悟を求める。縁覚乗=自ら悟を開く。菩薩乗=自分だけでなく皆の悟のために修行する。という三乗があるとする。信仰すれば救われるという思想が仏教に初めて登場したことになる。大乗仏教は印度北西部から西域を経て紀元前後に中国に伝わり、道教と軋轢を起こしつつ漢典仏教となり、チベット語に翻訳されてラマ教に、また朝鮮から538 ADには日本にも伝来した。しかし印度の仏教寺院は13世紀初めにイスラムの軍隊に偶像崇拝の邪教として破壊され、印度の仏教は終わった。チベット以北とViet Namの大乗仏教を北伝仏教、Sri Lankaと東南アジアの小乗仏教を南伝仏教ともいう。  
仏教を一言で言えば四諦だ。  
 
沙羅双樹

沙羅双樹1 
(娑羅双樹、さらそうじゅ、しゃらそうじゅ、学名:Shorea robusta) インド原産の常緑高木。ラワンの一種レッドラワン(S. negrosensis)と同属である。菩提樹、無憂樹と並び仏教聖木の一つ。 仏教三大聖樹(仏教三霊樹)。別名、沙羅の木(「サラノキ」「シャラノキ」)。 
常緑高木。幹高は30mにも達する。春に白い花を咲かせ、ジャスミンにも似た香りを放つ。耐寒性が弱く、日本で育てるには温室が必要である。日本では温暖な地域の仏教寺院や植物園に植えられている程度である。各地の寺院では本種の代用としてツバキ科のナツツバキが植えられることが多い。そのためナツツバキが「沙羅双樹」と呼ばれることもあるが本種とはまったくの別種である。 
インドから東南アジアにかけて広く分布。 
沙羅双樹と仏教 
釈迦がクシナガラで入滅(死去)したとき、臥床の四辺にあったという、4双8本の沙羅樹。時じくの花を咲かせ、たちまちに枯れ、白色に変じ、さながら鶴の群れのごとくであったという(「鶴林」の出典)。ヒンディー語ではサールと呼ばれる。日本語の「シャラ」または「サラ」の部分はこの読みに由来している。涅槃図にもよく描かれている。 
仏教三大聖樹 
無憂樹 (マメ科) / 釈迦が生まれた所にあった木  
印度菩提樹 (クワ科) / 釈迦が悟りを開いた所にあった木  
娑羅双樹 (フタバガキ科) / 釈迦が亡くなった所にあった木  
沙羅双樹2 
「仏陀入滅のとき、東西南北に生えていて時ならぬ花を咲かせたと伝えられる木」と言えばフタバガキ科のサラノキ(2本づつ生えていたのでサラソウジュ)ですが、日本では温室がないと育たないため、多くの寺院ではツバキ科の夏椿(別名サラノキ)が「仏陀入滅ゆかりの木」として植えられています。菩提樹も、本来のクワ科のインドボダイジュが日本では育たないため、代わりに、シナノキ科の植物の1つをボダイジュと名付け、「釈迦が悟りをひらいたゆかりの木」としています。沙羅双樹と菩提樹に加え仏教三聖木とされるのが、釈迦生誕の聖木無憂樹(ムユウジュ、アソカ)です。この木だけ日本で読み替えられた樹種がないのは不思議です。その代り日本で釈迦聖誕祭(灌仏会、花祭り)につきものの木がアマチャ(甘茶)、アジサイの仲間でちょうどこの時期に開花します。 
沙羅双樹 / 釈迦入滅(亡くなったとき)の聖木  
インドでのもともとの木  
科/フタバガキ || 学名/Shorea robusta  
原産地/インド中部〜ネパール、アッサム(標高1500mくらいまで)  
高さ30m以上直径1mになる。雨季と乾季のはっきりした地域に育ち、乾季には落葉する。東インド、ガンガ中流域の仏跡あたりでは3月中旬頃白い花が咲き、香りが満ちるという。半ば下垂する大きな円錐花序に3pほどの花がたくさん咲く。ライラックの花序を思いうかべれば近いだろうか。フタバガキ科特有のドングリにウサギの耳状の羽をつけたような実をつけるが羽は「フタバ」ではなく5枚。ショレアShorea属の樹木は「ラワン材」としてよく知られているが、サラノキの材は堅く耐久性に優れインドでは珍重される。  
日本でゆかりとされる木・夏椿(シャラノキ) / インド名シャーラから 
科/ツバキ || 学名/Stewartia pseudo-camellia  
原産地/本州(福島県以南)、四国、九州、朝鮮半島南部 
高さ10mくらいになる落葉高木。6月下旬から7月にツバキに似た白い花を咲かせる。樹皮がまだらに剥げるすべすべした赤褐色の幹が美しいが、庭木には同属でやや小型、枝ぶりが繊細で幹の橙褐色が鮮やかなヒメシャラのほうがよく植えられ、両種をあわせてシャラノキと呼ぶことも多い。サラノキと誤認して名がついたとされるが、花が白という意外に似たところはなく、どのような経緯で混同されたのか不思議である。サラソウジュの異名があるもう一種、エゴノキ科のハクウンボクのほうが花のイメージとしては近いだろう。  
沙羅双樹3 / ナツツバキ 
朝咲いて夜には散る、はかない命の一日花。ナツツバキは、哀れでありながら潔さを感じさせる純白の5弁花です。ナツツバキの原産地は、日本から朝鮮半島南部です。日本では、宮城県以西の山地に野生しており、別名シャラノキといわれます。ヒメシャラは、ナツツバキより小さい花をつけるのでヒメ(姫)シャラの名前がついています。 
両者とも、地方によっては、サルスベリとよばれます。昔の人々は、木に登る必要が多く、猿の木登り上手がうらやましかったに違いありません。そこで、猿でも滑って登れそうにない、樹肌のすべすべした木をサルスベリ(猿滑り)とよびました。このような樹肌を持つ樹木は、サルスベリ、サルダメシなどと名づけられており、日本で十種以上はあるでしょう。その中でも、代表的なものは、ナツツバキ、ヒメシャラ、リョウブなどです。 
現在、標準和名となっている“サルスベリ”は、中国から渡来したミソハギ科のサルスベリ(百日紅)です。サルスベリは、ナツツバキなどより、さらに樹肌がつるつるしています。 
ナツツバキの学名は、Stwartia pseudocamelliaです。属名のStwartiaは、英国のJ. Stuart氏から、種小名のpseudocamelliaは、“ツバキに似ているが偽の”という意味です。 
ところで、ナツツバキが、シャラノキまたはサラノキ(沙羅樹)とよばれるのは、釈迦(しゃか)が入滅(にゅうめつ)(死去)する時、臥床(がしょう)(寝床)に咲いていたインド原産の常緑高木樹(フタバガキ科)のサラソウジュ(仏教における聖なる樹の一つ)に間違えられたことに由来するといわれています。日本でいうシャラノキ(ナツツバキ)は、ツバキ科の落葉樹で、インドのものとは全く別の種です。本物の沙羅双樹は、日本に野生していません。 
ナツツバキは、釈迦と縁のある沙羅双樹と取り違えられたことから、寺院などによく植栽されています。また、花が美しいため、茶室の庭(ヒメシャラの場合が多い)などの庭木として植栽されます。 
釈迦は、インドの霊鷲山(ビハール州)から生まれ故郷に向かう途中に、クシナガラで涅槃(ねはん)に入りました。これが釈迦の入滅(死去)です。この時、釈迦の臥床の四辺に2本ずつあった沙羅樹が合体して1本の樹となり、たちまちのうちに枯れ、樹色が白変したといわれています。そのようすは、さながら鶴の群れのごとくであったとされ、釈迦の入滅を“鶴林(かくりん)”ともいいます。釈迦の入滅の前後を歴史的に描いた原始仏典の一つに、大般涅槃経(だいはつねはんきょう)があり、この経典では、法身の常住と一切衆生の成仏を説いています。 
なお、涅槃(サンスクリット語で、ニルブァーナ)とは、煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)して悟りの境地に入り、一切の苦しみから解放された状態をいい、大乗仏教では、常楽我浄(じょうらくがじょう)の四徳を具えた理想の境地とされています。  
平家物語の冒頭は 
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり 
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす 
奢(おご)れる人も久しからず 唯(ただ)春の夜の夢のごとし 
で始まります。 
この文中にある沙羅双樹は、ナツツバキのことで、この花が“一日花”で、白い花をつけることを意識しているものと思われます。 
祇園精舎は、釈迦に帰依(きえ)した須達(しゅだつ)長者が、釈迦とその弟子に寄進した寺で、中インドの舎衛(しゃえ)城の南に旧跡が残されています。諸行無常とは、仏教の基本教義の三法印の一つで、“この世のものは常に変化・生滅してとどまることはない”の意、言いかえれば、“この世ははかないものである”という意味です。この冒頭の文は、平家一門の栄枯盛衰を見事に表しています。 
万葉集の巻五の巻末には、山上憶良の“沈痾自哀文(ぢんあじあいぶん)”という長文の漢文があり、その中に“双樹”が登場しています。 
ナツツバキの材は、紅褐色で堅いため、床柱、器具、彫刻などに用いられます。また、茶花には欠かせないものとなっています。 
花言葉は、“愛らしい人”です。 
ものさびし青葉の宿の五月雨に 室にかなへる沙羅双樹の花 伊藤左千夫 
朝(あした)咲きゆふ散る花を沙羅の木と 植ゑしは日本のいつの古へか 土屋文明 
沙羅咲いて往路ばかりの月日かな 脇本星浪 
沙羅の花夕べほろびの色こぼし 冨塚静  
「諸行無常」 
諸行無常は、逞しく生きていきなさい、という事なのです。 
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす…」 
「平家物語」の冒頭に出てくる一節です。これは物悲しいでしょう。実は、日本で言われる諸行無常の概念と、仏教が説く真の意味の諸行無常は、全く意味が違うのです。 
皆さんは、どうしても「平家物語」の諸行無常が正しい意味だと勘違いしています。しかし、「無常」を物悲しいという意味に捉えてはいけません。仏教の説く「諸行無常」というのは、それとは全く違っていて、実にクールで逞しいのです。力強いのです。この点を皆さんは勘違いしてはいけません。 
諸行とは、万物を含めた、あらゆる事象のことです。無常とは、それら(宇宙)が止まることなく移り変わる(縁起する)ことです。即ちあらゆる現象の変化して止むことがないということ、この理法を説いたものが、諸行無常なのです。 
これは仏教の根本教理の三つの特徴を表した「三法印」即ち、諸法無我(いかなる存在も普遍の本質を持たない)、涅槃寂静(迷いを去った悟りの境地は次元を超えた安らぎである)、諸行無常(あらゆる事象は変化し止まることがない)の一つです。 
無常であるが故に、全ての物は変転していくが故に、何一つ定まる物はない。それ故に何一つ心が囚われる必要が無い、と説くのです。だからこそ仏教真理に目覚めると、逞しく生きていけるのです。要するに、我々が思い込んでいる真実など全て錯覚だと説いているのです。 
何かに心が囚われるから、「大切なもの」を失うのではないか、不幸になるのではないか、という気持ちが起こる、不安が生じます。人生とは、常にこの意識(不安)との戦いです。それは、理に通じていないという事でもあるのです。 
しかし乍ら、常に全ての事物は変転していく物であって定まるところは無いと知れば、自分の心がそこに囚われる必要がありませんから、常に柳に風で飄々としていられるわけです。実に逞しく生きていけるのです。 
ですから、諸行無常とは逞しく生きていきなさい、という事なのです。何事にも囚われてはいけませんよという事です。決して寒々とした感性ではありません。それどころか信じられないくらいの力強さがそこには存在するのです。  
平家物語 / 「沙羅双樹の花の色」は何故「盛者必衰の理」なのか 
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 
( 祇園精舎の鐘の音には 永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある 釈迦が亡くなった時に咲いたと言われる沙羅双樹の花の色は 栄えたものは必ず滅びるという法則を表している ) 
 
仏滅の際、沙羅双樹がどうなったかは、複数の異なった様子が伝わっていて、一定しないようです。 
釈尊が沙羅林に横たわった際、季節外れに花が咲き、散って釈尊の身を供養した。釈尊が横たわったところの東西南北に各一対の沙羅の木があり、入滅と同時に東西の二双と南北の二双が合わさって、それぞれ一樹となり、釈尊を覆った。このとき、木の幹が白変し、白鶴のような姿になった(「鶴林」「鶴樹」という言葉の由来)。 
この計8本の沙羅の木のうち、四方の双樹のそれぞれ一本は枯れて一本は繁茂した。(四方で一本ずつ残った)これを「四枯四栄」という・・・ 
四枯四栄は、誤った8種のモノの見方、(凡夫が俗世間を誤った見方で見ることが「四栄」、大乗仏教以前の仏教徒が涅槃を誤った見方で見ることが「四枯」)正しい8種のモノの見方(大乗以前の仏教徒が俗世間を正しい見方で見ることが「四枯」、大乗菩薩が涅槃を正しく見ることが「四栄」)という二重の喩えになっている、そして、一方が枯れ、一方が繁茂した中で涅槃されたということは、枯れ(衰)も栄え(盛)もしない涅槃そのものを表しているとされています。 
沙羅双樹の花の色が盛者必衰というのは、双樹の片方が枯れ、片方が栄えたことか。 
 
「沙羅双樹の花の色」の「色」は、colorではなくて仏教用語の「色 [ しきruupa (sanskrit) ]」なのではないでしょうか(色即是空とかに出てくる色です)。色というのは、「認識の対象となる物質的現象の総称」だそうなので、沙羅双樹の花の色=沙羅双樹の花の姿と取ると、咲いて散っていく花の姿を、平家一門の栄枯盛衰に見立てたと取れるのではないでしょうか。
 
鑑真和上

唐の僧で、日本律宗の開祖。上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身。701年、13歳の時に父に連れられ大雲寺を訪れた際、仏像を見ているうちに身体の奥底から感動が込み上げてきて出家したという。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。 
名僧探して苦節10年〜栄叡(ようえい)と普照(ふしょう) 
「戒律」という言葉には2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていた。朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており由々しき事態だった。 
仏教の先進国・唐では、新たに僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式「授戒」を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。 
ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けた。 
当時、遣唐使は文字通り命がけだった。派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。半分以上が遭難していた。不安はあったが、世の荒廃を憂いた2人は勇気を出して乗船した。特に栄叡は農家出身で重税の厳しさも分かっており、日本の仏教界に行動規範となる「律」が導入されれば、節度ある生き方が美徳とされ、朝廷にも良い影響が広がって善政に繋がり、社会が良くなって欲しいと願った。 
733年、2人を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着したが、それからが大変だった。唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった。国法を破ってまで日本に来てくれる名僧など簡単には見つからず、遭難の危険がある渡航には弟子や周囲が反対した。壁にぶつかって行き詰まり、苦悩する栄叡と普照。しかし、もっと大変な知らせが届いた。予算不足で次の遣唐使が来ないというのだ!「あり得ない!」激しく動揺しながらも、とにかく授戒師を探し続ける2人。唐の各地をさすらい、7年目には極度のホームシックから任務を諦めて帰国方法を模索した。それでも踏ん張って9年目に入った時に、2人は過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。「うがー!もう、この人しかいないッ!」。 
鑑真には多くの高弟(こうてい、トップクラスの弟子)がいて、各々の高弟がさらに千人規模の弟子をもっていた。栄叡と普照は最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、高弟の中から誰かを授戒師として遣わせて欲しいと熱望した。2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、弟子たちに渡日の希望者を尋ねた。しかし、弟子達は生命の危険を心配して沈黙する。「ならば、私が行きましょう」。驚き反対する弟子達に鑑真は続けて言う「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」。師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。すでに鑑真は54歳。さっそく海を渡る準備を進めた。 
ところが!せっかく鑑真という素晴らしい名僧の快諾を得ながら、彼らはなかなか日本へ帰れなかった。隣国の日本があまりに遠かった!唐の第6代皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。必然的に、出国は極秘作戦となる。東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だった。 
6度の渡日大作戦〜挑戦と挫折の11年 
第1回 / 743年(55歳)。上海南方の霊峰・天台山に参詣するフリをして日本に進路をとる作戦を立てるが、渡航を迷っていた弟子が密告。しかも「日本人僧の正体は海賊」というトンデモ情報を港の役人に流した為に、栄叡と普照は検挙され4ヵ月を獄中で過ごす。 
第2回 / 744年(56歳)。頑丈な軍用船を購入し、仏像や仏典を山ほど積み込み、彫工、石工など85人の技術者・職人を乗せて出航!→暴風雨で遭難。船体を修理し再び外洋に挑むも座礁。寧波(ニンポー)付近へ無念のリターンとなった。 
第3回 / 744年。態勢を整えて再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄され失敗。鑑真は栄叡を助ける為に奔走し、最終的に栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。 
第4回 / 744年。長江近辺からの出航は監視が厳しく困難となり、福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還される。一方、栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏する。 
第5回 / 748年(60歳)。ブラックリストに載っていた栄叡たちは依然監視下にあったが、隙をついて出航する。この時は極悪巨大暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。そして悲惨なことに、揚州に引き返す途中で、過酷な旅と南方の酷暑で体力を消耗した栄叡が他界する。遣唐使船で大陸に来て15年、ここまで頑張って来たが、栄叡はついに祖国の地を踏めなかった。親友・普照や鑑真は彼の死を心の底から悲しみ、鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。 
第6回 / 753年(65歳)。ついに日本から20年ぶりに第10回遣唐使がやって来た!日本側は帰国便で鑑真と弟子5人を非合法で連れ出す作戦に出る。遣唐使船は4隻600人の大船団。「1隻でも日本にたどり着ければ仏法を伝授できるように」と鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、唐側官憲の厳重な警戒を恐れた遣唐大使が「やばい!絶対バレる」と鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断でコッソリ自分の船に鑑真一行を乗せた。 
11月16日出航。沖縄、種子島と東シナ海を北上していく。嵐に遭遇して大使の船は南洋に流されたが、副大使の船は持ちこたえ、1ヶ月後の12月20日に鑑真と普照は薩摩の地を踏んだ。第1回の密航計画から11年、6度目の正直で悲願が達成された。 
翌754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着!行く先々で熱烈な歓迎を受けた。鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。4月、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。 
…だが、鑑真と朝廷の蜜月はこの時がピークだった。鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。 
759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる「唐招提寺」を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。 
※同寺の敷地から鑑真の時代の食器が発掘され、そこには位のない一般僧侶を表す「大衆」の文字が書かれていた。 
763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って結跏趺坐(けっかふざ、座禅)したまま息を引取ったという。享年75歳。来日から10年、唐招提寺創建から4年目の春だった。中国にいた54歳のあの日、2人の日本人僧侶が面会に来るまで、異国の私寺に骨を埋めることになるとは想像もしなかっただろう。今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。1250年前、こんな聖者が日本にいた。 
※鑑真一行が乗り合わせた第10回遣唐使の帰国便4隻はまさに運命の分かれ道。大使の旗艦は南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後は地元民と全く言葉が通じず、乗船者約200人の大半が殺された。 
※帰国後の普照は東大寺、西大寺に入る。旅をしていた時の辛い飢餓体験からか、759年(帰国6年後)、旅人の為に都郊外の街道に果樹を植えるよう朝廷に進言している。 
※761年、九州の大宰府・観世音寺と東国の下野国(栃木県)薬師寺にも戒壇が置かれ、日本の東西で受戒が可能になった。 
※2010年まで唐招提寺は本尊を安置する金堂の解体修理が行なわれている。 
※鑑真が中国で住職を務めていた揚州・大明寺は1966年に文化大革命で破壊され僧侶は追放された。その14年後、奈良の唐招提寺から国宝・鑑真和上座像が荒廃した大明寺に「里帰り」として運ばれた。この彫刻を拝観する為に21万人が訪れ、これを機に100名の僧侶が大明寺に戻って、立派に再建された。鑑真は千年以上経っても、まだ仏法に貢献しまくりだ。
 
仏教の世界

世界宗教である仏教は、ブッダことゴータマ・シッダールタによって開かれた。仏教はまことに多様な展開をした宗教ではあるが、その基本的性格はブッダによって定められ、継承され、発展して今日におよんでいるのである。ブッダとは、パーリ語でもサンスクリットでも「めざめた者」を意味するが、北部インド、現在のネパールでシャーキャ族の王子として生まれた。 
シャーキャ族の中の聖者(ムニ)だから「シャーキャムニ」と呼ばれ、それが音写されて「釈迦牟尼(しゃかむに)」となった。またバガヴァッドの訳語から「世尊(せそん)」ともいう。「釈迦牟尼」と「世尊」をあわせた「釈迦牟尼世尊」の短縮形から「釈尊」とも呼ばれる。本書では、ブッダと呼びたい。 
ブッダは一六歳のときに二人の王女と結婚し、一子をもうけた。ラーフラと呼ばれる男子で、後に父なるブッダの弟子となり、十大弟子の一人ともなる人物である。このように父の王宮でなんの憂いもなく恵まれた家庭生活を送っていたが、四度の外出によって人生が一変する。これを「四門出遊」というが、人間を悩ませる避けがたい苦悩、すなわち「生老病死」を知ったのだ。 
人生の目的を発見できずに悩んだブッダは、二九歳でついに妻子や両親を捨て、王宮をあとにして、修行の生活に入ってしまう。彼は二人の師から、哲学とヨーガについてそれぞれ教わるが、やがてそのもとを去り、五人の弟子たちとともに山林にこもって六年間の苛酷な苦行に没頭する。その苦行は「断穀行(だんこくぎょう)」と呼ばれ、一切の穀物を口にせず、水と木の実だけで生命をつなぎつつ一心に座禅に入るものだった。 
この断穀行はただの断食でも苦行でもなく、古い経典によれば、ブッダはこの間ひたすら「慈心」を修得していたという。「慈心」とは、その字の通り、慈悲の心である。自分ひとりの解脱のための修行ではなく、世のすべての人のための修行ゆえに「慈心」というのであり、また仏となる性質である「仏性」を持つ穀類を食べず損なわないこと自体が慈悲の行いであるというのだ。 
ブッダがこの六年間の苦行を意味あるものととらえたか、無意味だととらえたかについては意見が分かれている。そのいずれにせよ、その後ブッダは山林を出て、ナイランジャナー河で禁じられた沐浴(もくよく)をし、村の長者の娘であるスジャーターの捧げる乳粥を食べた。これを意志の弱さの証しとみた弟子たちは憤慨し、彼のもとを去ってしまう。ブッダは菩提樹の下に座し、三七二一日の座禅によって大悟成道したという。すなわち、悟りを開いたというのである。 
死神と悪魔が一体となったマーラが彼を襲ったが、夜明けにはマーラを打ち破り、四つの真理である「四諦(したい)」を得て、めざめた者としての「仏陀(ブッダ)」になった。 
そしてブッダは、ヴァーラーナシー(現在のベナレス)において、自分のもとを去ったかつての弟子たちに四諦を説いた。 
第一の真理は、苦という真理、すなわち「苦諦(くたい)」である。宇宙には一つとして常なるものはないのに、私たちは常ならんと欲して執着し、ここに苦しみが生まれるということだ。 
第二の真理は、集まる真理、すなわち「集諦(じったい)」である。すべてのものに不変の実体はなく、原因と条件によって仮の姿を現し、ものとして集合しているということである。 
第三の真理は、滅した真理、すなわち「滅諦(めったい)」である。欲望を捨て去ることによって、苦が消滅し、心のやすらぎが訪れるということである。 
そして第四の真理は、そこに至るための方法の真理、すなわち「道諦(どうたい)」である。この四つをあわせて、「苦・集・滅・道」の「四諦説」というのである。 
これに似たものに「四法印(しほういん)」というものがある。「一切皆苦」「諸行無常」「諸方無我」「涅槃寂静」といったよく知られた四つの仏教的コンセプトであり、根底にはブッダの教えの根幹ともいうべき「縁起」の思想がある。 
「一切皆苦」とは、人生の正体が「苦」であることに他ならないが、注意するべきは、ここでいう「苦」とは感覚上や心理上の「苦しみ」をいうのではなく、すべてこの世のものは有限であり、相対的であるということだ。 
「諸行無常」とは、花はやがて散り、人はやがて死ぬという人生の真実を知ることである。それは、すべてのものは原因(因)と条件(縁)とによってこの世にあらわれる(生起)からである。すなわちこの「因縁生起」を略したものが「縁起」である。縁起こそは、森羅万象すべての性格であり、そこには何ら永続すべき実体性などないのである。これを「諸法無我」という。 
この宇宙の理というべきものをわきまえず、欲望に苦しめられるのは「我執」である。我執をなくせば、煩悩の消え去った静かな涅槃境地が得られる。これを「涅槃寂静」という。 
以上の四つの教えは「四法印」として、仏教を他の宗教と区別する基本となり、古来から各宗派を超え、仏教の根本教説として尊重されてきた。このうち「一切皆苦」を除いた「三法印」が次第によく用いられるようになった。 
「四諦説」に戻ると、最後の道諦説は、まさに悟りを得るための方法論である。これを具体的に展開することこそ、ブッダの実践哲学そのものとなる。まず、苦の消滅にいたるためには「中道」を行くことが求められ、それにはすなわち「八正道」を明らかにすることが必要であるとされた。 
八正道とは、正見(正しく見方)、正思(正しい思惟)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精道(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい観想)をいう。このうち正定が、ブッダの説いた本来の教説にもっとも近いとされている。 
ヴァーラーナシーでの最初の説法の後、改宗者たちはサンガ(僧伽)と呼ばれる仏弟子たちの集団を組織した。仏教で信仰の対象として敬われる「三宝」とは、すなわち「仏(ブッダ)」・「法(ダルマ)」・「僧(サンガ)」である。そのサンガは修行者のみならず、バラモンや国王にいたるまで、ありとあらゆる人々を取り込み、めざましい発展をとげた。ブッダは、尼僧にまで修道生活の道を開いたが、その時すでに、ブッダは法(ダルマ)の衰退を予言していた。 
三五歳で成道した後、八0歳で中インドのクンナガラ村でその生を終えるまで、ブッダは一日も休むことなく教化の旅を続け、多くの人々を導いた。インド全国には及ばなかったけれども、強固な信者層を形成し、世界宗教としての今日の仏教の基礎をつくりあげたのであった。 
ブッダの入滅後、アーナンダ(阿難)が後継者となると見られていたが、サンガの長老の位についたのはマサーカッサパ(摩訶迦葉)だった。アーナンダは忠実な弟子で、二五年間というものブッダの側で仕えたが、そのために瞑想の技術を学ぶ時間も阿羅漢になる時間も彼にはなかったのである。阿羅漢とは、涅槃に達し、輪廻の循環にもはや戻ることのない存在だ。 
ブッダ入滅直後にラージャグリハでの第一回結集(けつじゅう)に、マサーカッサパが阿羅漢たちを招待したときにもアーナンダは招かれなかった。結集とは、ブッダの没後に仏教教団の統一を維持するために代表者を集めて開かれた仏典の編纂会議である。その後、アーナンダは隠遁し、ヨーガの技法を修めて阿羅漢になる。そして、マサーカッサパに質問されて、アーナンダは経を誦し、ウパーリ(優波離)は律の規則を定めるのである。 
サンガはヴァイシャーリーで開かれた第二回結集後に分裂し、上座仏教のシステムが生まれる。古代インドのマウリヤ朝の創始者チャンドラグプタの孫であり、紀元前三世紀に活躍したアショーカ王は仏教に帰依した。彼はバクトリア、ソグディアナ、スリランカ(セイロン島)に布教使節を派遣したが、スリランカへの布教の成果は驚くべきもので、今日にいたるまで仏教国でありつづけている。 
紀元一世紀頃、仏教はベンガル地方とスリランカから、インドシナ半島諸国、インドネシア島嶼部へと進出した。また同じ頃、カシミール地方とイラン東部を経て、中央アジア、中国へと伝わった。三七二年に中国から朝鮮へ、五三八年に朝鮮から日本に伝わったとされている。『死者の書』やダライ・ラマの存在で知られるチベットに定着するのは八世紀のことである。 
紀元一00年から二五0年に新しいスタイルの仏教が発展し、過去の教えよりすぐれた解脱の方法を打ち出した。そのためこの新しい仏教は自らを「大乗」と称し、それまでの仏教を「小乗」と呼んだ。ブッダが生前に説いた仏教も小乗仏教と呼ばれたのである。その字のごとく、大乗とは大きな乗り物であり、小乗とは小さな乗り物をさす。乗り物というのは、仏教の教えを、人々をこの迷いの岸から悟りの彼岸に渡してくれる乗り物にたとえた表現である。つまり、小さな乗り物では少数のエリートしか救われないが、大きな乗り物なら万人が救われるというわけだ。 
しかし、小乗仏教とは大乗仏教を自称する人々が一方的につけた侮蔑的な表現であり、今日では上座仏教などと呼ばれる。教団内の指導的な長老たちが「上座」に坐ることから命名された。その呼び名はともかく、仏教における最初の分裂は、ヴァイシャーリーでの第二回結集以後、アショーカ王の治世より以前にパータリプトラで生じた。そこでは阿羅漢の性質が問題となり、不浄をまぬがれているか、あるいは不浄にさらされているかが問われた。 
五つの争点があって、それは次のようなものである。阿羅漢は、夢の中での誘惑にそそのかされるのか。無知が生みだしたものを保持しているか。信仰に疑いを持っているか。知の追求において、他人からの助けを受け入れるのか。声をあげることで究極の真理に到達することができるのか、といったことが問われたのである。 
二つの陣営は、五つの争点に妥協点を見出すが、阿羅漢の夢精という解決不可能な問題をめぐって教団はついに分裂する。サンガの大半を占め、後に大乗仏教に発展する「大衆部」は、阿羅漢が夢の中で女神に誘惑されることはありうると主張するのに対し、「上座部」の長老たちは、こうした考えに反対したのである。大衆部は、誤りを犯しかねないとして阿羅漢の欲情を弁護した。だが、上座部はより保守的で、阿羅漢が完全な者であることを望んだわけである。後に仏教内部では、上座部が人間的傾向を、また大衆部が超越的傾向を示すことになる。 
それにしても、夢精についての議論が仏教最初の分裂を招いたとは!ブッダが聞いたら仰天するのではないだろうか。 
大乗仏教の教えは、紀元一00年頃に登場しはじめた般若経典においてはじめて現れる。 
『般若心経』は日本人にもっともなじみのある経典だが、正式には『般若波羅蜜多心経』という。「般若」といえば能楽の鬼の面を連想する人が多いが、実は「智慧」を意味する古代インド語の「パンニャー」を漢字に音訳したものである。「波羅蜜多」とは「彼岸に渡る」という意味で、「心」は根本である。よって、「仏の智慧でもって彼岸に渡る、その根本を教えた経典」というのが『般若心経』の正しい意味となる。この「仏の智慧で彼岸に渡る」ということこそ、大乗仏教の真髄である。 
そこでは「中道」や「空」が強調されたが、もともとこの二つのコンセプトはブッダ自らが示した考え方であり、大乗とか上座とかを超えた仏教の根幹となる思想と言ってよい。 
「中道」は孔子やアリストテレスが説いた「中庸」にも通じる考えで、「極端なことをしない」といった意味である。「いい加減」と表現してもよい。また「空」は「からっぽ」とか「無」ということではなく、平たく言えば、「こだわるな」という意味である。 
よく「空」と「無」は混同される。中国でも老荘思想における「無」と「空」は同じ意味だとされ、老子がインドに言ってブッダとなったという説まで唱えられた。しかし、無というのは有に対立する概念であるのに対し、空は有無を超越した概念である。すなわち、空は有でもなければ無でもなく、同時に有であり無でもある。また、有と無以外のものでもある。形式論理学から見ればまったくありえないこの「空」の論理こそ、仏教の最重要論理なのである。 
上座から大乗への移行は、望むべき理想の変化によく表れている。上座の教徒は阿羅漢、すなわち涅槃の状態を離れて、嫌悪すべき輪廻(サンサーラ)にもはや戻ることがない存在になることを切望した。それに対して、大乗の教徒は菩薩を望んだ。すなわちすでに悟りを得ているのにもかかわらず、人類全体が幸福になるために自分はあえて涅槃に入らず、世間に姿を現すことを選ぶ存在になることを望むのである。菩薩とは沈黙の仏ではなく、積極的に語り、行動し、不幸な人々を救済するためにやってくる。この新しい見地は、「信愛(バクティ)」と呼ばれるヒンドゥー教の献身の考え方に影響を受けたとされている。 
大乗以前や初期大乗の経典にはいくつかの教理の矛盾、つまりパラドックスを含んでいたが、これらは紀元一五0年頃のナーガールジュナ(龍樹)によって最終的な決着を見た。 
『中論』の著者で中観派を創始した彼は、まず第一に、伝統的な哲学のすべての見解に対して積極的な懐疑論を行使した。ナーガールジュナは、すべてこの世に存在するものは、本当は仮にそう考えておくだけであり、実体は一刹那に実在して、一刹那に消えるとした。すなわち、一瞬にして現れ、一瞬にして消えること、それこそが存在の真の姿だと考えたのである。 
この方法によって、バラモン教に起源をもつ本質主義に反論し、あらゆる事物には固有の本質がなく、存在するものは空であると主張したのである。この究極的な真理は、日常の表面的な真理とは対立し、空において涅槃(ニルバーナ)と輪廻(サンサーラ)とが同一であることを明らかにした。また、業という鎖につながれた現象の存在と、その切断とが一致することをも示したのである。 
中観派は四五0年頃、ナーガールジュナの否定的教説のみを保持する帰謬論証派と、その肯定的教説を保持する自立論証派とに分裂した。中観派仏教は中国と日本にも伝わり、禅仏教の出現を招くというきわめて大きな貢献をしたのである。 
大乗仏教のもう一つの重要な学派が唯識瑜伽行派(ゆいしきゆかぎょうは)である。三、四世紀のインドでマイトレーヤ(弥勒)、アサンガ(無著むじゃく)とヴァスバンドゥ(世親)の兄弟の三大論師によって体系化された。 
彼らは、一切の存在はただ(唯)心のはたらき(識)のつくり出した幻影にすぎず、あらゆる存在を生み出す根底にはアーラヤ識(阿頼耶識)があると考えた。アーラヤ識とは「霊妙な意識」を意味し、その貯蔵庫の中に、あらゆる経験が業の種子(しゅうじ)となってデータとして蓄積され、次の転生を決定するのだ。 
西洋においては、この考え方は秘教的なグノーシス主義に当初から支配的な理論だった。プロティノスが重視したため、その理論は大半の新プラトン主義者によって採用された。西洋と同じく東洋でも、私たちを宇宙につなぎ留めているこの種子を跡形もなく焼き尽くすことが重要だとされている。この汚れた種子を滅して清浄な種子で満たすためには、瑜伽行(ゆかぎょう)というヨーガ的な瞑想法を実践する。その伝統は、中国の玄奘、慈音大師基、日本の南都北嶺の法相宗にまで連なるのである。 
唯識はきわめて難解な思想だが、これを理解する最高の文学テキストが日本にある。三島由紀夫の遺作『豊饒の海』四部作である。この小説の大切なテーゼは法相宗の徹底的解説であるとされるほど、仏教の唯識哲学をベースにして書かれている。評論家の小室直樹氏など、「三島が日本人に対して遺した最も適切な仏教入門」とまで高く評価している。 
小室氏によると、『豊饒の海』は一般に輪廻転生の物語と思われているが、最後の「天人五衰」で三島は魂の輪廻を明確に否定し、唯識を強く打ち出した。唯識の思想は大変難解であるが、一言でいえば「万物流転」、すべてのものは移り変わるということである。魂の輪廻転生を否定した三島由紀夫は、生まれ変わって復活するのは何かという問いを読者に残したとも言える。 
日本人の多くは、仏教は人間の魂の存在を認め、輪廻転生を唱える宗教だと思っている。しかし、日本人における輪廻転生の思想には、実は仏教というよりヒンドゥー教の観念がかなり混じっているのである。これについて、小室氏は著書『日本人のための宗教原論』に次のように書いている。 
「おそらく、仏教の真理なんか有象無象(うぞうむぞう)にわかるわけがないと思った仏教の偉い坊さんたちが、恐ろしくわかりやすいヒンドゥー教の教義やインド人の俗信(民間の迷信、民話)を仮に使って、布教にととめたというところではないのだろうか」 
たしかに、そんなところかもしれない。とすれば、永久に過ごす地獄ら極楽が存在するなどというのは、もう仏教ではないわけである。仏教の目的は、悟ること。すなわち、もろもろの煩悩をなくして、解脱して涅槃に入ることだ。その煩悩は、「われが存す」という迷妄が根底にあるがゆえに生じるのである。よって、「われが存する」という迷妄を滅すれば、涅槃に行くことができる。これが仏教の蘊奥(うんのう)であり、また「魂はない」ということを意味するのである。 
とはいえ人間は、肉体が滅んでも魂は不滅であってほしいという希望を持つものであり、この希望がいわゆる「霊肉二元論」を生んだ。西洋の哲学史においては、プラトンをはじめ霊肉二元論が名高いが、インドの哲学者たちは、肉体の根底に本来の自我としての「アートマン」を想定した。アートマンは、たとえ肉体が死んでも、生まれ変わり死に変わりながら、永遠に実在し続けるのである。仏教は、このバラモン教、ひいてはヒンドゥー教の輪廻転生の思想を受け継ぎ、さらに精密化していったのである。しかし輪廻転生のアイデアだけを受け継ぎ、その主体であるアートマンの存在は否定した。 
すべては仮定であり仮説であると考える仏教は、実在論を認めず、それゆえ「魂」などという実在を認めることはないわけだ。すると、次のような意見が出てくる。「魂が存在しないというのなら、仏教とは唯物論ではないのか」と。そう、仏教の本質とは唯物論ではないかという批判は、かつてインドにおいて盛んになされたのである。 
時代は大いに下って一八ニ0年頃、ヨーロッパで仏教が成立した。研究が進展し、経典の翻訳がすすめられたその時期、仏教は「虚無の信仰」として大いなる恐怖をヨーロッパ人に与えたという。フランスの哲学者ロジェ=ポル・ドロワのエキサイティングな著書『虚無の信仰西欧はなぜ仏教を怖れたか』を読むと、異文化誤解というより、仏教の本質が浮き彫りになって非常に興味深い。 
ヨーロッパの人間の思想のバックボーンであるキリスト教においては、救済の主体として「魂」の存在が想定されている。ところが、仏教では、その魂はないという。それでは、死が人間にとってあらゆる意味での終わりを意味し、キリスト教信仰の核である「復活」もありえないことになる。復活なき死ほど恐ろしいものはない。だからこそ、ヨーロッパの人々は、仏教を大いに怖れたのである。 
また、ヨーロッパの社会は、人権や人間の生命といったものに絶対的な価値を置く。そのような社会に生きる人々から見れば、個人の死である「涅槃」などというものに究極の価値を置く仏教とは、人権や人間の生命を無視する危険な宗教であるということになる。かくしてヨーロッパが近代社会に突入した時点で、仏教はイスラム教とともに悪魔的信仰とされ、恐怖の対象となったのである。 
仏教の歴史に戻ろう。 
中国では漢帝国時代の紀元一三0年頃に、長安においてすでに仏教の存在が確かめられる。漢代に支配的だったのは儒教であり、仏教は当初、道教の異端派と見なされたという。それはインドの経典からの正確な漢訳が三世紀末になるまで現れず、そのうえ初期の翻訳ではこの新しい宗教の概念は道教の言葉を用いて表されたからであった。 
匈奴が華北を征服した後、仏教は人口過疎の華南で、貴族や文人によって維持された。浄土教の創始者である慧遠も、そうした担い手の一人であった。六世紀には道教を捨てた梁の武帝が仏教に帰依したが、この時代にはすでに、華北で民衆の仏教、ついで阿弥陀信仰が回復されていた。五世紀にこの華北に居を定めた人物が、大翻訳家で知られる鳩摩羅什(くまらじゅう)である。 
中国全土を再統一した隋王朝およびそれに続く唐王朝では、あらゆる社会層で仏教が繁栄した。その浸透を確かなものとしたのは禅宗である。インド仏教でブッダから数えて二八祖となる菩提達磨が禅宗の開祖として仰がれ、仏性と悟りを直接得るための特別な瞑想法を人々に教示した。彼は日本でも「ダルマさん」の愛称で親しまれている。 
禅宗と並んで、中国で大きな影響をおよぼしたもう一つの宗派が天台宗である。浙江省の天台山で智_(ちぎ)が六世紀に創立した。 
禅宗および天台宗の隆盛によって仏教には驚くべき活力と繁栄が生まれた。 
七世紀には『西遊記』で有名な玄奘三蔵国禁を犯してがインドへ向けて出発し、一六年におよぶ長旅の末に大量の経典を中国に持ち帰った。『聖書』には「旧約」と「新約」があるが、仏教経典には「旧約」と「新訳」がある。すなわち、仏教がインドから中国に伝来した際に経典の中国語訳が行われたが、四世紀から五世紀にかけての鳩摩羅什の訳を「旧訳」と呼び、七世紀の玄奘三蔵の訳を「新訳」というのである。 
仏教が隆盛すると、宮中内には当然のことながら嫉妬が渦巻き、九世紀中頃に激しい弾圧が行われることになる。その結果、仏教は禁止され、寺院は破壊され、僧侶は還俗を強いられた。中国仏教の勢力が衰退するのと比例して、優位になった儒教は、一四世紀には国教に定められた。 
仏教が中国から朝鮮に伝来したのは四世紀である。朝鮮の最初の寺院は三七六年に建立された。後に、中国仏教の展開の軌跡を注意深くたどった朝鮮仏教は、そのすべてを時刻に適合させた。中国と同じく、一0世紀まで仏教教団は繁栄し続けたが、それにともなって宗教本来の使命が薄れていく。厳格で煩雑な教義に憤りを感じた禅仏教の指導者たちは、独立した宗派を組織することになるが、この分裂の後は、九世紀以後の中国のような仏教の衰退は起こらなかった。 
しかし、李朝になった直後の一四00年から一四五〇年にかけて、仏教は厳しい規制を受けた。李朝が儒教を国教としたためで、その結果、瞑想を重視する禅宗と教義を重視する教宗という二つの教団に組織されていく。 
朝鮮は日本に仏教を伝えたが、近代の朝鮮仏教は逆に日本仏教と歩調を合わせながら発展してきた。そう、仏教後進国であった日本は歴史のある段階から突如として仏教先進国となり、その後は先頭をひた走るようになる。現代の世界を見わたしてみれば、日本こそ仏教の王国である。仏教は、開祖であるブッダが生まれたネパールや教化に励んだインドよりも、日本に仏教に伝えた中国や朝鮮よりも、他のどこよりも日本という土壌に深く根づき、大輪の花を咲かせたのだ。 
仏教が朝鮮から日本に伝来したのは六世紀後半だが、最初はあまり支持を得られなかった。しかし、後に尼僧となる推古天皇と、その甥の聖徳太子が仏教に帰依し、大いなる仏教興隆の時代が幕を開ける。 
ここで、仏教の伝来について作家の五木寛之氏が興味深い意見を述べている。一般には、百済から外交ルートでもって日本の為政者宛に手渡された仏像と、経典と、それから仏法の思想が国家仏教として輸入され、それから貴族仏教として平狩り、そして民衆レベルへ下りていったとされている。しかし、五木氏はこの考え方は逆であるという。文化とか思想とか信仰とかいうものが上から下へ一方的に下りて発展していったためしはないというのである。 
五木氏はいう。能とか、歌舞伎とか、あるいは茶道とか、生け花とか、さまざまな文化の完成度を持ったものというのは、すべて下から成り上がったものである。そのように考えると、仏教というのも、あの時点で国家対国家の形で輸入され、そして上から下へ下ろされていって日本で根づいたものとは考えられなくなってくる。 
当時の政府があの仏教を持ち込んだという時点では、もうすでに仏教が朝鮮半島から渡来する以前に日本の中に存在した。つまり、自然流入の形で民衆レベルでのサブ・カルチャーとして、これまでのアニミズムや土俗信仰や修験道などと混淆(こんこう)した形で、半島から来たもの、インドから来たもの、東南アジアから来たもの、直接に中国から来たもの、といった多種多様なルートで日本に入り込んでいたに違いない。そのように推測したうえで、五木氏は著書『仏教の心』において次のように述べている。 
「それ以前にすでに、庶民の生活のあいだに前仏教というものがあった、と考えたい。正式のかたちをとらないままに自然に流入してきたものと、アニミズムとがこんがらがった状態でもって、一種のプレ仏教が、相当に広くひろがりつつあったと、こう私は見るわけです」 
国家が仏教を掌握していくなかで、最初は自然発生的というか自然流入的な形で民衆の中へ広がっていった仏教が、正式のものとしてリファインされながら、学問的に成熟していった。そして管理されていき、民衆のレベルから切り離されていく。つまり、国家が民衆から仏教を吸いあげたという見方ができるかもしれない。 
その後、貴族のものとなった仏教は大いに栄えた。七0一年に都が遷都された奈良においても、その繁栄は続き、いわゆる「南都六宗」の時代を迎える。すなわち、三輪、成美、法相、倶舎、華厳、律の六宗が急速な発展をとげるが、これらはいずれも学問的色彩が強く、非常に難解であった。このうち三輪宗、法相宗、華厳宗は大乗仏教に属し、成美宗、倶舎宗、律宗は上座仏教に属する。 
平安時代になると、最澄が天台宗を、また空海が真言宗を、それぞれ中国から移入した。この二人は日本仏教にきわめて大きな痕跡をとどめ、その発展を決定づけたと言える。 
最澄は近江国に帰化人の末裔として生まれた。一四歳のときに僧侶になり、研究を終えた後に京都近くの比叡山にこもり、天台山に住んでいた中国の大師である智_の教えに賛同した。八0四年に、この教えを深めるために最澄は中国に赴いた。そこで他の密教を研究し、禅の実践を天台宗に取り入れ、日本に天台宗をもたらしたのである。天台宗は比叡山延暦寺を本山とし、僧侶は一二年の厳しい修行を成し遂げなければならなかった。 
天皇のあつい信頼も得た最澄は、死ぬまで栄光のうちに活躍し続け、権力や旧宗派との関係により自らの宗派の独立を保持した。 
死後「伝教大師」と尊称された最澄は、今日の日本でもなお崇められている。多くの天台宗の信者が真言宗に移ったが、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった日本仏教史の巨人たちもはじめは天台の僧侶であったことを考えれば、天台宗こそは「日本仏教のゆかご」であり、最澄とは偉大な教育者であったことを思い知る。 
最澄と並んで平安仏教を代表する空海は、讃岐(香川県)の生まれ、佐伯氏であった。 
一四歳のときに、すでに儒教と道教を学んでいたが、それらに失望した空海はやがて仏教に惹かれ、『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、仏教は他の二つの教えよりも深い本質的な要素を含んでいると主張した。信仰をより確かなものにすべく、八0四年に最澄とともに唐に留学した。そこで出会った真言宗の七代目の祖である恵果は、正統な後継者として空海に秘法を授けた。 
八0六年に帰国した空海は、奈良の東大寺の僧侶を務めた後、八一六年に高野山に真言宗の本山である金剛峯寺を建立した。空海は真言宗の八代目の祖となったわけだが、彼の宗派はまたたくまに成功を収めた。高野山は多数の僧侶が常駐し、建物も一五00を数えるほどだった。空海は、京都の御所の敷地内に真言院を創設したあと、瞑想にふけりつつ八三五年に没した。しかし高野山では、姿の見えなくなった彼が、今なお瞑想を続けているとされている。神秘と謎の光に包まれ、加持祈祷で有名な稀代の魔術師でもあった空海は、死後「弘法大師」の称号を受けた。 
最澄と空海が登場したので、ここで「密教」についてふれておこう。天台宗の密教を「台密」と略称し、真言宗の密教を「東密」と呼ぶ。空海が建立した東寺の密教という意味である。では、密教とは何か。平たく言えば、密教とは「秘密仏教」の略である。仏教史を見ると、密教は大乗仏教運動の後期に現れるが、それに対してそれまでの仏教が「顕教」と呼ばれる。 
この宇宙には姿なき仏が存在する。この仏は宇宙全体に広がっており、また宇宙そのものであると言ってもよい。仏教ではこの仏のことを「大日如来(だいにちにょらい)」とか「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」と呼んだ。姿なき仏を形にしたのが大仏で、奈良の東大寺の大仏は毘盧舎那仏である。 
この姿なき仏に人間がふれるには媒介者が必要であり、それが釈迦仏、つまりブッダなのである。ブッダは、宇宙そのものである姿なき仏を「宇宙の真理」として、人間がわかるように人間の言葉で説いた。ブッダの遺言には「掌(てのひら)に握って隠していることは何もない。すべてを語った」という一説がある。そうしたブッダの言葉を弟子たちが書き残したものが経典である。また、経典にはブッダ入滅後に弟子たちが神秘体験の中で聞いたブッダの言葉を書き記したものも多い。『般若心経』をはじめ『法華経』『阿弥陀経』など膨大な経典が仏教には残されており、私たちはこれらを読むことによって、宇宙の真理を得ることができる。このように言葉や文字で学ぶ仏教を「顕教」という。 
しかし、言葉や文字では宇宙の真理を体得できないという考え方が生まれた。言葉とは時代や地域によって意味およびニュアンスが変化するものであり、その解釈も時代とともに変化する。ブッダが残した経典の言葉にふれても、バイアスがかかって宇宙の真理は正しく伝わらない。そこで、言葉を介さずに直接的に宇宙の真理を獲得しようと考えたのが「密教」なのである。 
密教の儀式や祈祷が行われる場は「円環」を意味する「曼荼羅(まんだら)」と呼ばれ、後に布や紙などに描かれ、円から方形にも変化して壁にかけられるようになった。次第に「胎蔵界曼荼羅」「金剛界曼荼羅」の二つに整備されていった。 
「大乗と上座」「顕教と密教」というように、仏教をよりよく理解するために二つに区別する見方には他に「自力と他力」がある。通常は、禅宗が「自力宗」と呼ばれ、浄土宗や浄土真宗が「他力宗」と呼ばれる。 
もともとは、ナーガールジュナが『十住毘婆沙論(じゅうじゅびばしゃろん)』において「難行(なんぎょう)」と「易行(いぎょう)」の区別を説き、浄土教の曇鸞(どんらん)が『往生論註』において「易行」を勧めたことにさかのぼる。曇鸞は、仏道修行を目的地まで行く手段としての舟にたとえ、歩いてゆくより、舟に乗っていったほうが簡単かつ確実だろうというわけである。 
臨済宗の僧侶でもある作家の玄侑宗久氏は、著書『私だけの仏教』において、「しかし仏道とは、どう考えても最初は自力で始めるのである」と述べている。坐禅はもちろん、念仏も題目を自分の口で唱える以上、初めはあくまで自力である。法然は晩年、一日七万回もの念仏を唱えたとされるが、そこまでいけば唱えていながら自分の努力ではないという気がしてくる。玄侑氏は、自分の努力だと思えなくなったときにそれが「易行」と思え、それをさせてくれる「他力」を感じることではないかと述べ、次のように書いている。 
「坐禅も、最初は、というか、しばらくは痛さとの戦いであり、慣れるまでは努力を要する。そういう意味では『自力』の期間が目立つかもしれない。しかしどんな方法でも、慣れれば次第に心地よさのなかで自分の努力は忘れていく。換言すれば、日常感覚のなかでは努力しても得られないような感覚が行を繰り返していると現れ、その言葉にできない素晴らしい事態を、『他力』と呼んでいるのである」 
「他力」は誤解されやすいコンセプトである。よく「他力本願」などと安易に使われるが、実はこの「他力」は、出口なき闇の時代に光を放つ、日本史上最も深い思想であり、すさまじいパワーを秘めた「生きる力」である。このように主張するのは、五木寛之氏だ。氏は大ベストセラーになり、海外でも翻訳出版された著書『他力』で次のように述べる。 
「もはや現在は個人の〈自力〉で脱出できるときではありません。法然、親鸞、蓮如などの思想の核心をなす〈他力〉こそ、これまでの宗教の常識を超え、私たちの乾いた心を劇的に活性化する〈魂のエネルギー〉です。この真の〈他力〉に触れたとき、人は自己と外界が一変して見えることに衝撃をうけることでしょう」 
「他力」とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が、自分の生き方を支えているという考え方なのだと五木氏はいう。そして、浄土系において、その大きな力は阿弥陀如来であるとされた。「他力」は、法然、親鸞、蓮如の思想の核心をなすが、彼らも阿弥陀仏信仰に基づく浄土系の人々である。 
阿弥陀は、サンスクリットの「無量光」あるいは「無量寿」を漢字に音写した呼び名である。阿弥陀仏に祈れば、その楽園である「浄土」に生まれ変わることができ、そこで人は輪廻転生を乗り越え、悦びのうちに自身がブッダとなるのを待つ。そのような阿弥陀仏信仰はインドでは発展しなかったが、四世紀の中国で慧遠が広め、浄土宗を生んだ。 
しかし阿弥陀仏信仰が大きく花開いたのは日本においてである。一〇世紀いらいの混乱の時代にあって、信者に仏の無限の慈悲を保証し、阿弥陀仏信仰はますます広がっていった。まず、空也が京都の路上でひょうたんを叩きながら説教してまわった。源信は、中国の大師である善導の教えに霊感を受け、極楽浄土の様子を克明に描いた『往生要集』を九六五年に著した。平安時代の大ベストセラーとなり、藤原道長も紫式部も鴨長明も西行も愛読したという。そして、良忍が融通念仏宗をつくった。 
しかし、浄土宗の真の創始者は源空だった。彼は、法然の名でよく知られている。法然は、教義が衰退する時代にあって人生の最終解脱を得るのは不可能であると考えた。ただ、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることのみが救いを保証するものとした。社会のあらゆる階層の人々が浄土宗の信者となったが、他の宗派の僧からねたまれ、法然は一二0七年に土佐に流罪となった。 
このとき、彼の最も重要な弟子である親鸞も一緒に流刑に処せられた。しかし、東国の田舎に住んだ親鸞は、妻帯して五人の子をもうけた。つまり「非僧非俗」となった彼は多くの弟子を持った。親鸞は、悪人さえもが往生できるという「悪人正機説」を唱え、法然より急進的な教えを説いた。それは、念仏を唱えることは揺るぎない信頼と阿弥陀への感謝の念に他ならず、念仏だけが救われる唯一の方法であると主張し、ついには浄土真宗を開いた。八代目の教主として蓮如が現れ、組織づくりにおいて天才ぶりを発揮した。こうして本願寺教団とも呼ばれる浄土真宗は大成功を収めたのである。今日の日本で、浄土真宗は、仏教のあらゆる宗派の中で、約一五00万人という最も多くの信者を抱えている。 
この他、浄土系の人物としては、一遍がいる。彼インド各地を遊行し続けたブッダのように寺を持たず、念仏しながら行脚(あんぎゃ)したが、その行為は歓喜を伴い、やがて踊念仏として流行した。念仏によって阿弥陀仏との一体化をめざし、阿弥陀仏と自己との無分別状態で踊ったという。 
禅宗は、すでに中国でいくつかの分派を生んでいたが、日本には二つの系統が伝来した。一つは栄西によって伝えられた臨済宗で、武士のあいだに多くの信徒を得た。もう一つは道元によってもたらされた曹洞宗で、より瞑想的な禅が行われ。民衆のあいだに広まった。この二つの宗派の信徒の社会構成は、「臨済将軍、曹洞土民」という言葉に要約される。つまり、臨済宗は武士に、曹洞宗は農民に広まったということだ。 
玄侑宗久氏によれば、栄西と道元の関係はある意味で法然と親鸞に似ているという。栄西は禅以外の方法論も認める。道元は栄西に師事し、その弟子である明全とともに入宋するが、約四年後に持ち帰ったものは妥協を排した純粋な禅、ひたすらに坐禅をする「只管打坐(しかんたざ)」の心で修するという厳しい生活哲学だった。それがまるで、浄土宗門下から生まれた親鸞の絶対他力の徹底ぶりに似ているというのである。 
禅宗には臨済宗と曹洞宗の他に黄檗宗(おうばくしゅう)がある。これは、中国明代の禅僧であった隠元隆_(いんげんりゅうき)によって江戸時代に伝えられたものである。宇治の万福寺を本山とし、中国風の作法を強く残している。本来、禅ほど中国仏教色の濃いものはないといえるが、禅はまたきわめて日本的な茶道・華道・能などのベースとなり、日本文化の基本となっていった。 
日本仏教における独自の宗派として日蓮宗がある。安房国小湊の漁師の子に生まれた日蓮は、一五歳で天台宗の僧侶となった。しかし、改革の意志を実現するには天台宗はあまりにも偏狭であるとし、またブッダの権威を失わせた阿弥陀仏信仰を批判した日蓮は、『法華経』の中に真理を見つけたと確信する。この『法華経』の題そのものがブッダの悟りに呼応していると言明し、「南無妙法蓮華経」を唱えるだけで充分であるとした。 
日蓮は、民衆と同じく時の鎌倉幕府をも改宗させることを強く望み、たくさんの警告文を書いた。また、自らを一菩薩、さらに同時に複数の菩薩であると信じた彼は、他のすべての宗派を糾弾しながら、鎌倉の路上で説教しはじめた。激しい言動のために一二六一年に伊豆半島に流罪に処せられたが、恩赦を受け、再び攻撃を開始した。死刑になる危険をぎりぎりのところで逃れたが、一二七一年に再び追放された。 
三年後に鎌倉に戻った日蓮は、弟子たちに囲まれ、富士山西部の身延山に行って暮らした。それ以来、身延山は日蓮宗の信者が足繁く通う巡礼の場所になっている。 
現代の日本では、仏教は数多くの宗派に分かれ、戦前は一三宗五六派とされていたが、戦後になるとさらに数を増やした。基本的な宗派が一三宗というのは現在でも変わらないが、これは華厳宗、法相宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、日蓮宗である。 
なお、江戸時代の仏教宗派の中で活発な信仰活動が行われたのは、浄土真宗と日蓮宗である。このうち日蓮宗の在家信仰は近代になって新宗教という形に発展した。公称信徒数が日本で一番多い創価学会と二番目に多い立正佼成会をはじめ、霊友会、仏所護念会教団、妙智会教団、本門仏立宗などの大規模な教団がいずれも日蓮系(法華系)に属する。その他の仏教系教団では、真如苑、阿含宗、幸福の科学などがよく知られている。かの一九九五年に地下鉄サリン事件という空前のテロ犯罪を犯した、あのオウム真理教も仏教を名乗っていた。 
仏教学者の玉城康四郎は、巨視的なスケールを持つ著者『仏教の根底にある者』に次のように書いている。 
「聖徳太子から空海までまさに二百年、空海から鎌倉まで四百年、鎌倉から今日まで八百年。いったい、二百年、四百年、八百年というのは何を意味するのであろうか。それは、仏教の展開をも含めて日本思想のさまざまな、複雑な諸問題をはらんでいることはいうまでもあるまい。しかし、鎌倉から今日までの八百年は、前の二百年、四百年に比べて、日本仏教として余りにも不毛であったことは隠し得ないであろう」 
この文章が書かれたのは一九七三年だが、事態は変わっていない。いや、変わっていないどころか日本仏教は、オウム真理教事件という途方もない業(ごう)を抱え込んでしまった。私たち日本人は、今日的な新しい人間の問題の中で、新しい仏教を生み出さなければならなかった。その結果が、あの不幸な事件だとしたら、あまりにも虚しい。 
そもそもオウムは仏教ではなかったという見方もできる。オウムは地獄が実在するとして、地獄に堕ちると信者を脅して金をまきあげ、拉致したり、殺したり、犯罪を命令したりしたのだった。本来の仏教において、地獄は存在しない。魂すら存在しない。存在しない魂が存在しない地獄に堕ちると言った時点で、日本の仏教者が「オウムは仏教ではない」と断言するべきであった。ましてやオウムは、ユダヤ・キリスト教的な「ハルマゲドン」まで持ち出していたのである! 
日本人の宗教的寛容性を私は全面的に肯定するが、その最大の弱点であり欠点が出たものこそオウム真理教事件であった。 
浅原彰晃こと松本美津夫に死刑判決が出た今、私たちは五木寛之氏のごとく、悪人正機を唱えた親鸞に問うてみなければならない。 
「御聖人、浅原彰晃もまた往生できるのでしょうか」と。 
仏教ブームであるという。その背景には一神教への不安と警戒が大きくある。キリスト教世界とイスラム教世界の対立はもはや非常に危険な状態に立ち入っている。この両宗教の対立の根は深く、このまま憎しみ合えば、人類は滅びてしまうかもしれない。それを避けるには、彼らが正義という思想のもとにある自己の欲望を絶対化する思想を反省して、憎悪の根を断たなければならない。この欲望や憎悪の思想の根を断つということこそ仏教の思想に他ならないのである。 
曼荼羅に描かれている神々が示すごとく、仏教は本質的に多神教である。そして多神教は正義より寛容の徳を重視する。いま世界で求められるべき徳とは、正義の徳でなく寛容の徳、あるいは慈悲の徳である。この寛容の徳や慈悲の徳を世界に発信できるのは、日本仏教を置いてないと私は思う。  
 
 
仏教諸説

 
 
大きな乗り物
大乗仏教とは、「仏を乗せる大きな乗り物」のこと。といってもそれはお話の始まりにすぎず、これで万事解決ということにはならない。この乗り物はたぶん船で、行先が仏の国土なのだから、なによりもまず、すでにその国土に住んでいるはずの仏様はこれに乗る必要がないのである。化身あるいは仮の姿でなら乗っているかもしれないけれど、仏として乗ってはいない。本来この船に乗るように予定されているのは、衆生あるいは凡夫あるいは凡愚つまりあなたや私たち普通の人なのだ。だが、それもちょっと違うらしい。この大きく安全な船で連れて行ってくれる先は、いってみれば極楽浄土なのだから、それに乗り込むには、それなりの代金というか代償つまり資格が必要になる。仏の国へ行くことを約束されている者だけがこれに乗っているはずなので、そのような人たち、つまり成仏することが決定している者を「菩薩」という。したがって、「菩薩を乗せる大きな乗り物」というのがごく正しい言い方なのだが、実は、それにも問題がある。  
大乗仏教は「衆生を涅槃に導く」のを目的とする。阿弥陀仏などは、まだ法蔵菩薩といっていたころ、衆生の一人でも成仏しなかったなら、自分も成仏しないと願を立てたくらいである。かくのごとく、大乗仏教とは衆生すなわち愚かな生徒であるあなたも私も必ず成仏に導いてくれる有難い教えである。そもそも資格がある教師しか乗り組んでいないのであれば、その目的が達成されないことになる。だから、この大きな船はまだ行き先(成仏)が決定していない者も乗せている。ただし、中途で煩悩の海に落ちて溺れる者もいるらしい。その落ちこぼれの数については判断できかねるし、法を謗る者すなわち先生のいうことを聞かないわたくしのような生徒がその落ちこぼれのなかに入っていることも確かであろうが、船そのものは、間違いなくすべての衆生を乗せるための乗り物なのである。  
では、落ちこぼれについてはどうなっているのだ? 私たち凡愚のかなりの者どもには、こんな立派な船に乗る資格を得る見込みがない。それを仏の種がないというらしいが、だからこそ凡愚なのだと「小さい乗り物」の方を支持する小乗仏教関係者がいっていて、彼らはいろいろの器量に応じて、並と中と上等の三つの乗り物を用意しており、これを三乗という。上等の「菩薩の乗り物」は、大乗仏教の「大きな乗り物」と同じものだが、並と中の方はそれぞれ「羊の乗り物」と「象の乗り物」と呼ばれていて、せっかく乗り込んでも目的地の極楽には行きつかないのだ。伝教大師と弘法大師もほかの大乗仏教関係者たちも、部分的にではあるが、これら二種類の小さくて劣等な乗り物があることだけは認めているけれど、それは方便として仮にいっただけで、本当は「大きな乗り物」一つだけで用が足りていると主張する。それを一乗という。そうして、仏たちは、いまのところは何も決まっていないが、こんな私たちでも、たとえどんな悪人であっても、いつかは必ずこの船に乗せて極楽へ連れていくと予告してくださっているのだ。では、どうやって?  
ここで、大乗仏教ではちょっとした手妻をやる。なにもないところから鳩を取り出すように、仏を取り出してみせ、衆生はそのままで仏であると宣言するのである。山川草木悉皆成仏。なにもかもありのままですでに仏になれる性質が備わっていると。でもそういわれてみても、やっぱりタダでは成仏はできないのではないかと私たち凡愚の悩みはつきない。その証拠が、菩薩たちが、言葉と絵図でリアルに見せてくれる安楽な極楽と酸鼻をきわめる地獄の相であろう。実際、極楽の方はただの夢物語らしいけれども、地獄の惨いありさまは、私たちには、この世のもの、現実のものとしか思えない迫力なのだ。並の船から上等の船に乗り換える問題、資格の問題も含めて、なにもかもすでにちゃんと成仏するように予定されていると納得させ、その有難みを教えるためには、まず地獄をリアルに見せることが必要だったのかもしれないが、かえって私たちはそのリアルさゆえに、地獄の観念から離れられなくなってしまった。でも心配には及ばない。心ばえさえ正しければ、そしてただ一心に信心すれば、それで万事解決だと菩薩たちが心強くもいってくださる。 
 
現世ご利益の宗教

どんなに不確かなものであれ、宗教は私たちの生活の一部としてある。平均的な日本人が日常生活のなかで出会う宗教といえば仏教だが、そのなかには土俗的な神々やら儒教の道徳やら、ひょっとしたらキリスト教や新興宗教の考え方だって紛れ込んでいないとはかぎらない。げんに古来この国の人びとは神道・仏教・儒教をまとめていっしょくたにしてやってきた。かの二宮尊徳の教えに、自分の奉じる宗教は「神儒仏正味一粒丸」とあったくらいである。少々不謹慎に聞こえるのを我慢すれば、そこに笑うべきところは少しもない。弘法大師もいっているように、「神仏儒一如」は私たち日本人の常識だから。そうして、なによりも私たちの宗教のおおかたを現世利益が彩っていることだけは間違いがなかった。私たちは仏教の本来がどうだったかを探るよりも、日本の仏教がげんにその姿を現したそのあり方に焦点を当てる。私たちが興味をもつのは、あくまでも日本人の思想史としての仏教なので、ことさらに歪みや矛盾・欠陥を暴こうとするつもりはない。ただ、信心にはつねになにがしか理性の吟味を受け付けないところがあって、理性の導きをモットーとする私たちには、例えそれが宗教というものがもつ長所であっても、その部分を見逃すつもりはない。その一つが現世ご利益である。  
わたくしは、とりあえず現世利益を説く仏教の本が読みたかった。実際に私たち日本人の主な関心がそこにある以上、その手の書物はいくらもあるだろうと思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。ぜんぶとはいわないけれど、普通の人びとにとって、仏教は信心することの見返りになにかのご利益を得ることで成り立っている。もとより信心は人各々の真心から出た行為に違いないのだから、ご利益を願っても慎みを欠いたなら、せっかくの信心もふいになってしまうかもしれない。金儲けだけが目的の信心だったらむしろ、その願いの切実さからいっても、それだけよけいに悪心を抑えてかかる用心をするに違いない。  
つまり、仏教について語るのなら、信仰をもたなければどうにもなるまいということ。でも実際には信仰抜きで仏教を論じる人はいくらもいるし、信仰をもっていても戒律にはとんと無頓着な人もいる。仏事を家業とする人は、それで金儲けをすることと、人助けをするなど社会に役に立っていることとの間で上手に折り合いを見つける。またわたくしのように、不信心を看板に掲げ、ヴォランティア活動などはしり込みし、慈善や寄付さえしたがらないくせに、大きな顔をして仏教を論じようと企てる者もいる。  
とりあえず、不信心者が宗教を論じてはいけないということはなさそうである。  
ただし、仏教はそんな罰当たりな者どももぜんぶ呑み込んでしまう融通無碍の思想大系ではあるが、それでも仏法を謗る者だけは許さない。そんな連中は絶対に成仏できないし、必ず地獄へ堕ちるという。だからというわけでもないが、私たちもそれだけは避けたい。信心するまでには至らなくとも、信仰をもつことには敬意を失わない立場は守りたい。わたしくしは、この稿を草するにあたって読んだ何冊かの本を通してたくさんのことを学んだ仏教学者の、研究者であると同時に信仰者でもある立場の難しさとともに、そうあることの必然性もまた理解したのだった。  
以前、絵のことを調べようとしたときもそうだったが、研究論文はべつにして、日常の信心・生き方や趣味に関わるトピックについては、通俗的なものも専門的なものも含め、書き手の数があんがい限られていて、しかも一人でいくつも本を書いているのを発見した。観光旅行と同じで、それだけ手馴れた名所案内が必要とされている世界なのだ。仏教にかぎっていえば、そんな通俗案内本の常連が山折哲雄とひろさちやである。  
山折という高名な宗教学者の名前はわたくしも知っていたから、まず『宗教の話』(一九九七年)と『日本宗教文化の構造と祖形』(一九九五年)の二冊を読んでみた。ただしあんまり感心しなかったので、簡単なメモしか取っていない。後のごたいそうな題名の本にいたっては、題名だけで一行のメモもないから、批評などは控えるべきかもしれぬ。山折はいまの仏教は葬式仏教だと人並みに憂えるくせに、伝統に根ざした日本人独自の生活と情緒をことさら重んじて、そこに私たちが日常無意識に示す宗教的(仏教的)態度の表れを見ようという立場だから、それも当然といえば当然なのかもしれないが、伝統をないがしろにし、宗教心を忘れた戦後教育のあり方を嘆いて、世人の風当たりが強い葬式仏教の金儲け主義をけなすのはよいとしても、すぐに馬脚を現して、仏教が人々の生活に溶け込んでいるという理由づけになりさえすれば、葬式の形骸化くらいには驚かない。そのあたりは、妙に物分りがいいのである。同じ理由で、宗教文化の構造と祖形などという得体の知れない発想も、生活の伝統も土着信仰も仏教もなにもかもごっちゃにするところに生じたものに違いない。年代で計る「弱い歴史」(たぶん弁証法的唯物史観のようなものを指す)よりも文明で計る民族的な「強い歴史」が必要だなどというのも、つまりは日本人には日本的なものがよく、日本人なら日本人らしくしろというだけのことなのである。  
ひろさちやというのはもちろん本名ではないが、『どの宗教が役に立つか』(一九九〇年)と『ひろさちやの応用仏教』(一九九六年)という二冊を読んでみた。多数の著書のなかからどれを選んだというのでなく、たまたま目についただけなのだけれども。  
それぞれ雑誌に連載したエッセイを纏めて本にしたものだが、あらかじめ予想していたのとはちょっと違って、その正体は、なによりも「生活に役に立つ仏教、わたしたちが幸せに生きていくための仏教」(『応用仏教』)を普通の人に易しく話しかける仏教伝道師の天職を楽しんでいるといった風情の本である。いったいわたくしは、凡愚を善導すべき坊さんのなかには、現世ご利益の説法を含めて、自らの宗論(宗論とは、例えばキリスト教神学において典型的であるように、それぞれの宗派祖師無謬論に立つ宗教理論を指す)に従って愚直に教え諭す宗教書の書き手がいくらもいるものと思っていた。そうして、いまのような時代にはけっこうそれを買う人も多いのではないかと。現世ご利益をいうなら、新興宗教にあたる方が手っ取り早いし、その分野になら有り余るほどの本が書かれているけれども、ひろの指摘をまつまでもなく、それらのほとんどは信用ならないし、どんな形であれ、この世のご利益を保障するお説教に優劣はないかもしれないが、わたくしとしては、長い年月にわたって鍛え上げ、信用のおけるそれぞれの神学をもつ仏教・キリスト教・イスラム教の三大宗教のなかに見出すことにこだわったたわけなのだった。ところがお金が儲かるというのは論外としても、幸運を呼び込む類いの正面切って現世利益を説く本というのは、当たり前といえば当たり前なのだが、実はまったくなかったといっていいのである。そうしてひろの本もまたそうではなかった。『どの宗教が役に立つか』の「あとがき」でひろは、どんな社会にも「どっかりと動かない部分がある。それが伝統であり、とりもなおさず宗教である」という。つまり、宗教は人間がもって生まれたもの、生きる手段であり文化だということであろう。目先のご利益など、ちいせえ、ちいせえというわけである。このあたりが、自らの宗派を明らかにせず、もっぱら大乗仏教全体の広報宣伝係をもって任ずる著者の本音であろう。  
元来が外来の思想である仏教がこの国に輸入されて、伝統とがっちり結びついた独自のあり方が日本仏教であるのはいうまでもない。それはそれでいいのだが、その結果として現れ出でた神仏習合とか本地垂迹説とか本覚思想とかが、現世肯定の色濃い現実主義的な宗教の形になっていることもまた衆知のことである。この手の宗教が現世ご利益を目指す方向に傾斜しがちなことに、わたくしはほとんど確信がある。誰かがまともに、つまりそんなものがあるとして、「正しい意味」での現世ご利益を取り上げるとしたら、その書きぶりからいったって、ひろをおいて他には見出せないのではあるまいか。事実わたくしは、キリスト教とイスラム教の顔も適当に立てながら、宗教で見出せる幸せとは他所にあるのではなく自分のなかにあると日常会話のノリで説法するひろがいっているのは、そんな常識的で平凡な事柄などではなく、大乗仏教がもつ一つ顔であるところの「現実肯定」あるいは「現世ご利益」のご託宣と思って読んでいたのである。事実、役に立つ宗教各項の題名はそのまま六つのご利益を求める設問になっているのだが、そのすべてに著者はそれぞれ仏教がいちばんと答えるのだ。それは、仏教だけが人を裁かず、自己犠牲が義務づけられるような上等な人間になることを強要せず、諦めること(ひろによれば、それは実態を幻想抜きで認識するという意味で、「明らめること」と表記するのが適切だというのだが)を勧めて、この世の気楽な生き方を保障できるからである。ひろの読者たちは、間違いなく、仏教こそいちばんご利益があると信じることであろう。  
求められることが少なくて、しかも果報が多いという意味で。宗教について読み始めて、それまで出会ったなかでいちばん面白かったのが、ルポ作家溝口敦の『宗教の火遊び―心の危機からいかに身を守るか!』(小学館、一九九六年)だった。比叡山延暦寺の回峰行からアメリカの宗教カルトまで、週刊誌に載せた二十三篇の記事を集めた文集である。いかがわしい新興宗教、水子供養、統一教会、オウム真理教などについての批判的な記事が多いが、ちゃんとした宗教である真言密教も取り上げられている。批判はしても、概して相手を理解しようとする姿勢が強く、宗教学  
者や文化人類学者の教養本風なエッセイよりははるかに私たちが知りたい宗教の内容に迫っているとわたくしは思った。三派に分裂して抗争を繰り返しているので有名な世界救世教の項で、抗争の原因が結局は金と権力であるのを示唆して、「ふつう新宗教は信者が三十人いれば食える、五百人いればベンツに乗れる」とコメントする。従順な信者集団は「財産」なのだと。真言宗高野山のルポでは、密教の風変わりな儀式とともに、教団の知識たちの公式な見方を紹介する。そのなかで彼らは、日本ではあらゆる宗教が密教化するにしたがって現世ご利益宗教風になっていくと打ち明けている。日蓮宗も浄土真宗も、手の込んだ儀式をやるようになった過程で、結局そうなった。  
そうして明かされる真言宗の三つの特質。一つ、宇宙規模のものの考え方ができること。個を中心にものを考える。個そのもののなかに全体が含まれる。私自身がひとつの完全な宇宙である。  
二つめは、なにごとも排除せず抱き取っていくこと。異質なものを総合的に包容していくマンダラの世界である。三つは、頭で考えるのではなくて、体全体で感じ、探っていこうとする。仏教の現場では、そこから荘厳すなわち寺院儀式装飾のあくなき煌びやかさへの追求が起こったのである。わたくしとしては、これだけで本書を読んだ価値は十分にあったのだった。 
口さがない世間がけっして見逃さない噂が宗教にまつわる金の話である。それはわたくしも例外ではない。なんでも一九九五年後半参院選挙で圧勝した創価学会池田会長の奢り高ぶったふるまいが国民と自民党の反発を招き、広報戦略の軌道修正を余儀なくされたのだという。学会がいっさい取材拒否の高圧的な態度を改め、メディアの質問に可能なかぎり答えると言い出したのを受けて、著者が雑誌『諸君!』九六年一月号に「最低でも情報開示を」と題する質問表を掲載したのが、本書六章に採録されている。  
それによれば、創価学会ではいっさい発表していないが、年間で三千億ないし四千億円の収入を得ている。そのほとんどが学会員(著者によれば、日蓮正宗と戦闘状態にある学会は少なくとも「法的には」宗教法人ではなく、信徒集団でもない)からの献金である。池田会長は九四年に二億五千万に近い税金を個人で払っていて、その所得額は七億円を超える。その他にも、いろんな名目で秘密に支出される金や各支部の豪華施設が山ほどあるに違いない。  
創価学会の幹部たちが税金の免除など宗教法人の特権をフルに活用して、会員から貢がせた金でおいしい生活をしていると疑われてもしかたがないのではないか。いまや彼らが法外な利益をそこから得ている宗教法人の非課税が早急に問われるべきであろうと。  
著者によれば、日本人の七十九%は宗教を信じていない。つまり一億二千四百万の人口のうち二千五百万人がなんらかの信仰をもっているだけである。ひろの計算によれば四千万になるが、それは三分の一の日本国民が信仰をもっているという別の統計による。宗教法人は公益法人として括られるものの一つで、現在(九五年六月)約二十五万三千団体ある公益法人のうちの約七十三%が宗教法人なのだという。彼らは自動的に非課税になっているから、なんらかの収益事業を営んでいるとして確定申告している数は一万六百団体だけで、その所得額も合計で四百三十億円にすぎぬ。宗教法人は信者にもまた文化庁や地方官庁の宗教法人係りにさえ会計報告をする義務がない。宗教法人の特典とは、1信者の献金(布施など)には課税されない。2収益事業には課税されるが、一般の企業の税率が三十七・五%(現行は三十四・五%)なのにたいして二十七%(現行二十五%)でよく、3しかもその所得のうち二十七%(現行二十五%)があらかじめ寄付金と見なされて除外できる 4預貯金や公社債の利子、株式の配当金、株・不動産の譲渡利益にも、それが宗教会計に属すると認定されれば、いっさい課税を免れる。すなわち二割の国民が関係するだけの宗教関係者の懐を肥やすために、国民の税金が濫費されているのであると。  
俗人の私たちがこれらの事柄に憤慨したり絶望したりするのは、やはり現世ご利益願望と関係があるだろう。宗教に多額の金銭収入を含む個人的なご利益を期待するなら、当然、他人様のご利益も認めなくては筋が通らない。ご利益を授ける人がまっさきにご利益に預かるというのはいささか納得しにくいところがあるけれど、教祖とその取り巻きが真っ先にご利益を授かるのを止める理由がない。とはいえ、自分を通り越して、他人にご利益がいってしまうのはねたましいし、腹の立つことである。現世ご利益が金銭と社会的地位を意味するなら、それらはまともな宗教から得られるべき幸福ではありえず、ほんとうの幸せの中身は平安な心であるというひろの意見はもっともである。けれども、私たちはなおかつ、信心の見返りとして具体的な形で与えられる利益を宗教に求める。宗教全体を見渡してみれば、現世ご利益宗教が宗教ではないというのは間違っているし、げんに私たちの日常社会の宗教現場がはっきりとそれを示している。  
溝口がインターヴューした高野山の知識というのは、高野山密教研究所長(当時)の松長有慶である。わたくしはさっそく岩波新書の一冊として出ている松長の『密教』(一九九一年)を読んでみた。真言密教の入門書としては最良の一冊だろうと思う。さきの密教の特質を、松長はここでは「小宇宙としての私の身体が、大宇宙と同体で、部分の中に全体が存在するという世界観」だといい、「煩悩即菩提とか俗諦即真諦など、正反対な対立する概念を即で結びつけて、本質的には同一であるとする」と解説してみせるのである。それならばこの国ではおなじみの理論であり言い回しであって、私たちはこれまでに何度もお目にかかってきた。なによりもまず西田幾多郎の哲学に。西田はこの論法を禅宗との付き合いのなかから得たが、それは真言宗でも一向に構わなかったのである。松長はまた、九世紀に空海が中国からもたらしたのが呪術的な雰囲気が濃厚な密教だったが、それはもともと大乗仏教がもっていたものにほかならず、その呪術的な機能が日本の国家と国民のため、あるいは凡夫たちの心を掴むのに大いに役立つと考えたからだろうともいっている。空海は、ライヴァルの最澄以上に、新しい宗派発展のためには、秘密めかした呪術とそれが人々に約束する現世利益がたいへん有効であることを心得ていたわけである。  
もとより呪術によるご利益だけでは、仏教があまねく崇拝され受け入れられるには十分でなかった。仏教の本来の目的は、なんといっても、衆生すなわち凡夫たちを救って成仏させることなのだから。仏教の目的はこのようにしごく明瞭なのにもかかわらず、細かく見ていくと、その内容は非常に入り組んでいる。なにしろ釈迦の時代から約二千五百年、中国へ渡来してからでも二千年の歴史があるのだから、そのあいだに起こったこと、とりわけサンスクリット語からの原典から漢籍に翻訳されたこと、またタントリズム(密教)など土着の思想の影響を受けたことなど、時代と事情の変化に応じて、そのたびに新しい理論が必要になったのだった。といっても、わたくしはただ気楽にそういっているだけで、仏教思想史について具体的な知識はなにも持ち合わせていないし、経典のことについてもかいもく分からない。ただ仏教学に関する本を二、三冊読んだだけでも、仏教のそれぞれの宗派の間ではいうに及ばず、一つの宗派のなかでさえも、教典の語句の解釈をめぐって、仏の教えについて意見が酷く割れていたり、時とともに変質したりしていることが窺われるのであった。その解釈の分かれ方および変化たるや日本史における文献解読をめぐる議論の比ではないらしいのである。例えば、石田瑞麿『教行信証入門』(一九八九年)は、親鸞の無量寿経の特異な読み方を紹介しながら、当時の天台宗にあって、それはけっして特別なことではなかったという。それも、わざわざ無理な読み方をしてまで、そこに顕れる自分が正しいと信じる「真理」を伝えるのである。しかも私たちは、そんな仏教の世界に、全体として、成仏と現世利益との相反する目標と、そのはざまに生じたもろもろの異なる意見をもののみごとに融合・統一しているらしい仏教共同体の存在をはっきりと見ている。ところがその実際の仏教共同体ほど、各派それぞれが、互いに通じない言葉で、表面上理解し合っているかのような会話が行われ、果てしなく妥協しながら、物事が行く先も分からぬ方向へ、しかもみんな一緒になって流れていく社会はないのだった。  
いうまでもないことだが、えげつない金銭の問題もからんで、世間に満ち溢れる善男善女を教導していこうという目的でなら断然一致するこんな世界では、なによりもあちこち目移りがする観光地のように、道案内が必要である。そんな案内人を私たちは説教師あるいは伝道師と呼ぶのが普通であろうが、しかし、その呼称に満足して働いてくれるひろのような人材は存外少ないのである。そして、その原因はなによりも仏教自体のなかにあるだろう。道案内といっても、お遍路やお伊勢参りや熊野詣でのような集団のお参りを引率しその世話をやく先達のことをいおうとするのではない。彼らならそれこそ道師という名が似合う人たちであるが、私たちがいうのは、各宗派入り乱れ、互いに食い違っている教えの意味や、日本人なら日頃お馴染みのお経の文句や言い回しが、分かったようで実はちっとも分かっていないのを、凡愚の身にも、なんとか判ったような気にさせ、納得させてくれるような仏教評論家のことである。それには、松長のような宗派に所属してあくまでも宗論の建前で教える人と、宗派に属さず自由な研究者の立場で仏教というものを論じる人とがあるだろう。いま、わたくしが取り上げるのは後者である。専門の仏教学者である前者との区別がはなはだ曖昧なのが困るが、つまり文学者、哲学者または文化人類学者など人文学の世界に住み、新聞の文化欄や大衆的な出版物に登場し、衆生凡愚の目にはとりわけ華々しくかつ権威ある者として映じている人たちのことであるが、その代表を挙げれば、まず梅原猛。  
彼ら文学者たちの解説の特徴は高名な坊さんたちへの手放しの賛美にあり、そのやり方は、論証を無視し、理性に訴えず、直接に私たちの心をくすぐる。そのいちばん目覚しい例を、私たちは、一九六八年ノーベル文学賞を受賞したおりの川端康成の『美しい日本』と題した記念講演に見ることができる。そこで川端は徹頭徹尾日本文化の伝統の賛美に終始するが、なかでも道元や明恵、一休、良寛、西行らを挙げ、本来外来文化の提唱者であるはずの仏教者によって日本の美がもっともよく体現されているかのように説いたのだった。もとより仏教が日本の伝統文化の中核をなしているということは間違っていない。それでもなお仏教の思想が、儒教や道教と同じく、もともと外来の思想だったということを無視していいことにはならない。わたくしは、この部分を末木文美士『仏教―言葉の思想史』(一九九六年)に拠って書いているのだが、末木は川端のような姿勢すなわち「伝統へののめりこみ」を、「伝統の無批判な賛美に突き進み、頑迷な自文化優越のイデオロギーを加速する」ことにしかならない危険な仕業とみている。川端のような文学者のくすぐりが効果をもつのは、おそらく彼らのいっていることが私たちの民族の歴史への思い込み、あるいは、幕藩体制あるいはずっとそれ以前の共同体の掟の、いまでもなお個人のなかに刻印されている伝統という民族共同の記憶に訴える仕掛けになっているからだ。私たちが捨てきれずにいる心の葛藤ないし抑圧としての記憶とは、お望みなら日本人の常識といってもかまわないが、生活を守るよりは脅かすことの方が多かった山や川や野に宿る原始的な神々であり、祖先に取り付いた怨霊であるだろう。極端な例を挙げれば、丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』(一九八四年)では忠臣蔵を御霊信仰で説明する。幕府の暴政苛令のうっぷんを怨霊に託して晴らしているという一見合理的な解説がついているとはいえ、丸谷がいう御霊信仰の怨霊が、論証抜きで日本の民衆が生まれながらにもっていると称する性質を拠りどころとしているかぎり、彼の説明は伝統にのめりこんだ文学者流のこじつけにしか見えない。  
村山修一は、御霊信仰の発生を奈良時代から平安時代初期にいたる百年間の貴族のあいだで起こった度重なる権力闘争と結びつけて考える(村山『本地垂迹』一九七四年)。天平十二年(七四〇年)の長屋王の事件から承和十年(八四三年)の文屋宮田麻呂事件まで政治暗闘劇の都合十五件のうち、明らかに冤罪とわかるのが八件もあるのだ。他に失脚者に同情が集まったケースである二件を加えると、権力闘争の当事者はいうまでもないが、疫病の流行や天候不順が怨霊の祟りだという思い込みと、それを利用して一般民衆のあいだに噂を広めた向きがあったに違いない。疫病は怨霊の祟りという思想は中国に始まったのだが、それを主に天台宗の坊さんたちがこの国に伝えたのであった。いわゆる御霊信仰とは、主として政治的陰謀などの悲運に倒れた人の怨霊を鎮める各地御霊社系統のものと、その他に、外来の疫神である牛頭天王を祭った祇園社系統のものとの二大潮流があったと村山はいう。  
前者を広める活動をしたのが天台宗の僧侶たちであり、後者を応援したのは呪術を職業とした真言密教の坊さんたちである。そこへ本朝最大の怨霊としての天満天神が加わった。九〇三年、菅原道真が死去してすぐ怨霊の跳梁が始まり、道真追放を画策した藤原時平や源光、藤原定国、同菅根らがそれぞれ非業の最後を遂げた次第はよく知られている。道真左遷を命じた醍醐天皇もまた死ぬまで彼の怨霊に苦しめられた。だが北野天満宮の創設はそれらと直接の繋がりはない。村山によれば、その縁起は道真死後四〇年も経った九四二年、多冶比文子に下った神託に始まる。文子は巫女であったといい、さらに九四七年、太郎丸という童子が神がかりになって指した北野の地に社が建てられたのだという。本地垂迹説が広く行き渡るにつれて、インドの仏様より一段と低く見られた日本の神様が、自身仏の救済を待っている煩悩をもった一介の人格へと成り下がり、祟りを及ぼす怨霊と変わらなくなったという事情を、宗教家たちが利用しないはずはなかった。すでに八幡宮系の放生会が歌舞音曲をもって民衆を信仰に勧誘していたが、疫病や天災による社会不安を除くための邪気追放・怨霊の慰和鎮撫としてのアトラクションが誘導するところの利益信仰、日頃の生活のうっぷん晴らしが、御霊信仰には付き物になった。雷神菅公に典型的に見るように、怨霊の出現はいつもまことに荒々しい姿である。その祟りの激しさには、当事者はもとより、関係ない人びとまでも死ぬほど脅えるほどだ。でも怨霊たちはすぐ音なしくなってしまう。別の理由から暴発しそうだった民衆心理も、盛大なアトラクションのなかでめでたく解消してしまう。天満宮が公家たちの信仰を集めて繁盛するころには、菅公の怒りもすっかり収まって、いつのまにか文道詩歌の神様になっている。かっての雷神疫神のおもかげはすっかり影を潜めてしまった。  
丸谷が忠臣蔵の人気に御霊信仰のかげを見るのは、なにやら文学的でもあり、うがった見方でもあるのだろうが、疫病はともかく、いくら社会不安の種に事欠かなかった当時の民衆でも、お上へのうっぷん晴らしにはなっても、義士たちの祟りを信じたということはありそうにない。御霊信仰という概念ないし呼称は、いつの時代においても、もろもろの社会現象を総称するにはあまりにも見当を失していて、本当の動機あるいは原因を覆い隠してしまう便利な言い訳にすぎない。御霊信仰は、朝廷とその体制を支える大寺院が仕組んだ民衆懐柔策がその実態だった気配の濃い、十世紀から十一世紀の日本社会の現象を説明するには有効かもしれないが、近世の複雑な経済社会を切り開くメスとしてはまったく力不足だろう。  
私たち日本人の文化の現場では、いってみれば、儒教も道教もいまでもまだ現役であるし、なにせ私たちは、どんな教義も混ぜこぜにずるのが得意なのだ。すべての神と仏たちの効用は私たちの心のなかでいっしょくたになっていて、かんたんに政治と宗教の連合軍に操られる民衆の姿は古代に限らない。それを批判することは簡単だが、たいていの場合、信心という宗教のいちばん肝心なところが忘れられているといわれてしまう。信仰にはたくさんの段階があって、同じキリスト教でも、神の名において武力を行使するのを躊躇わないアメリカの大統領と外交を大切にするヨーロッパの国家指導者とのあいだには、それぞれ信仰の強さ弱さだけにとどまらない宗教にたいする姿勢の違いがあるいってよい。  
人間社会のいとなみについてのあらゆる問題には宗教的な面があるともいえる。客観的に論じるときでも、いくぶんでも信仰をもっていれば、それが私たちの意見に反映されるのは避けられない。  
だが総じて私たちはそれを隠したりしないし、またする必要もない。必要とされるのは、私たちが社会的な動物であるかぎり、肯定も否定も含めて、信仰や宗教と折り合っていく智慧である。とはいえ、絶対的あるいは純粋な信仰が前提になる宗教家と宗教学の世界では、そんないい加減は許されないかもしれぬ。仏教でいえば、まだ菩提心を起こさない無明(無智)の身で何事かを為したとしても、けっして善い結果は生まれない。信仰薄い学者が仏教学の研究をするさえさわりがあるのに、不信心なわたくしなどが小賢しく仏教を語るのが論外であることはいわれるまでもないのである。無明の身で教えについて語ること自体が、悪意といって悪ければ、矛盾に満ちた行為であるという批判を退けることは、宗教の世界では、まことにむつかしい。  
ひろの『応用仏教』は、専門家の坊さん向けの雑誌に連載した凡夫に説教するためのマニュアルであるが、そこでは、ご利益信仰をインチキとしてきっぱり否定したり、悟りいってんばりの即身成仏を問題視したり、仏教の特質は現実批判にあるといったり、儒教を排斥したりと、なかなか批判的なもので、いってみれば大乗仏教の立場で仏教の純粋主義が説かれているのだった。重箱の隅をつつくような学術研究にばかりうつつ抜かす仏教学者や、葬式や法要ばかりにくわしいいい加減な坊さんたちに、厳しい信仰者として、もっと生身の宗教者らしく生活の役に立つ仏教を教えなさいと叱咤激励するごとくである。ひろの宗論的立場は、あまりにも通俗的な説明に終始しているためにはっきりとは分からないが、易しい言葉で心の持ちようを説く「宗教家」ひろさちやは、ほとけさま本来の智慧の光は眩しすぎて凡夫らには見えず聞こえないのだから、その光を和らげ、あるいは馴染み深い下級の神様かなにかに姿を変え、凡夫らと同じ立場に降りてきて、俗っぽい言葉で語り教えるという本地垂迹・和光同塵をみずから実行しているようにみえる。それはあとで述べる本覚思想そのものではないかとわたくしは思うのだが、まさにそれこそ「正しい」意味での現世ご利益宗教の姿だといっても、ひろはたぶん怒らないだろう。 
 
即身成仏

即身成仏の思想はどちらかといえば密教に特有なもので、その教理を説いたものとしては、空海(七七四〜八三五)の『即身成仏義』(八二四年頃)がいちばん有名である。私たちは、その内容を、末木文美士『日本仏教思想史論考』(一九九三年)に収録されている「日本仏教―即身成仏論を中心に」と梅原猛『空海の思想について』(一九八〇年)のなかの「即身成仏義」の項について見てみよう。  
仏 教 の 目的が私たち凡人の成仏にあることはあまねく知られている。もっとそれらしい仏教用語を使った表現がお好みなら、「如来(仏の呼び名の一つ)によって衆生が涅槃に導かれること」といえばよい。どちらも同じ意味である。といって、意味は同じでも、実は、言い換えたときにはまったく同じといえないのが言葉の厄介なところである。「衆生の成仏」といっても、空海の真言密教では、「即身成仏」には特殊な能力と儀式が必要であるが、いま私たちが馴染んでいる考え方では、念仏の力によってあっという間に成仏できるということである。また「涅槃」とは消滅の意味で、死亡するということのほかに、煩悩を滅却して絶対自由となったありさまをいう(『広辞苑』)。涅槃と死亡とは同じことを意味するのが普通だが、煩悩の脱却は必ずしも死ぬことを必要としない。如来のひそやかな手引きはあるにしても、現代の小説などで見るかぎりでは、だれでもとはいかないけれども、凡人(衆生)が一瞬のうちに煩悩を滅却することが多く、苦悩の果てとはいえ、人は突然生きながら煩悩から脱却できると考えられていることが分かる。このように、仏教用語における表現の違いが、微妙な意味のずれを生んでいる。何百年にもわたってインド、中国、日本で経典にしるされた仏教の用語は、時代や携わった人の立場と思惑によって、さまざまに解釈され言い換えられてきた。漢語訳さらに漢訳が日本風に解釈されたり読まれたりと、変転極まりない過程を辿ってきたことを考え合わせると、げんに私たちの国に将来し、時を越えて伝えられてきている用語の使われ方が、それこそ気の遠くなるほど縺れにもつれた糸みたいなものであるのが理解できるだろう。まして、そこにはあんまり厳密な作法というものがあったとは思われず、それこそ思いつきで、いくらでも語の解釈が変わったのだった。専門の仏教学者にさえ判断がつかないのであるから、例えば即身成仏を「生身のまま仏になること」と現代の日常会話風に言い換えるとして、いまさらその意味が弘法大師さんが言っているのと少しばかりずれていたとしても、そんなことは気にするだけ無駄というものである。例えば、山折哲雄は即身成仏を「人間が自己の肉体を精神をコントロールすることによって自己神格化の過程に入ること」といい、当世風に、心理的な神秘体験として説明する。具体的には、仏の大悲の力が衆生に働きかけ、同時に衆生の信心の力がそれを受け止めるのだという(山折『日本仏教思想の源流』一九八七年)。でも空海の説いた「入我我入」ということがまさにその通りだったとしても、即身成仏を異常心理の働きとして説明するのは、空海には思いもよらなかったことに違いない。  
即身成仏という考えは、もともと成仏あるいは涅槃が長期のつらい修行のはてに、おそらく死ぬことによって達成されるべきものだったのにたいして、きわめて短期に成仏できるという新仏教の、いわば「売り」として出てきたのであった。もっともその発想自体は、法華経にある「すべて生きとし生ける者はみな仏となりうる」という思想が前提にあって、これも解釈次第でいろいろに変る例のひとつだけれども、法華経を最高の経典と信じる最澄がもっとも好んだといわれる天台の根本思想「諸法実相」、つまりもろもろの法(物や事)が真実の相(あり方)そのものであるということや、般若心経のかの有名なスローガン「色即是空」などから導き出されたのであった。早い話しが、生まれながら仏の素質がなければ、即身成仏などとうてい覚束ないはずなのだ。  
即身成仏とは、南都の旧仏教にたいする平安初期の新仏教を代表した空海と最澄をもって提唱者とする。即身成仏などいいかげんなことをいうなと反撥する旧仏教の中心にいたのが法相宗であった。法相宗は奈良時代から平安時代初期にかけてもっとも盛んだった宗派で、大乗仏教の基礎となった「空の理論」に対抗した「唯識論」の流れを汲む。「空理論」の側に立つ空海の即身成仏論も、直接論争はしなかったが、彼らの批判のなかで理論的に鍛えられたのである。  
成仏の遅速に顕密両仏教の差を見るという空海の考え方は、唐で学んだものと末木はいう。その場合の即身成仏とは、密教が好む秘法としての、従って説明抜きの、単純な速疾成仏・現世成仏の意にすぎなかった。それを高度な理論に仕上げたのが空海の『即身成仏義』である。平たくいえば、それは「父母からもらった肉体のままに仏になる」(梅原、前掲書)ことである。なぜそうなるかを説明する空海の理論の中心は、六大・四曼・三密だという。  
六大の大とは世界の構成原理の意。地・水・火・風・空の物質的原理としての五大に、精神的原理の識大を加えたのが六大である。  
これで物と心を備えた世界の総体を指すというわけである。つまり六大とは、抽象的・理念的に捉えられた真理ではなくて、具体的・現象的に捉えられたありのままの世界の相がそのまま根源的原理となっているということで、その上に四曼・三密がからむという構図が描かれているのだろう。四曼とは四つの曼荼羅で、六大がシンボル化されたもの。具体的には、大日如来を中心に図式化してある。この図柄が世界の本質、宇宙の中心に通じる通路であり、象徴である。そうして、そのための実践論が三密加持である。行者の身・口(語)・意(心)の行為が仏の身・口・意の行為と合致するとき、速疾に、この世での即身成仏が実現するといわれたのだった。いうのは簡単だが、実際には、よほどの修行を積んだ行者にだって簡単な業とは思われない。なまなかなことで達成できるものではないのである。  
このような宇宙の構造的な理解は、古代インドの論理学から出ている。それについて何事かを述べる知識はわたくしにはないが、タントリズム(密教)がインドに確立した六〜七世紀にはもうそういう考え方があった。空海は、それ以前に生き、「すべてのものは空である」といったことで知られる、大乗仏教の建設者と目される竜樹を密教伝達の大先達として讃えて、彼自身をその末に連なる直系の密教護持者と称する(梅原、前掲書)。古代インド伝来の宇宙の構造理解を空海が信じていたことには不都合はない。六つの元素に還元することも、当時としては、おかしなところはなかった。わたくしとしても、真言密教の教祖としての空海の教えと宇宙理解に科学の名で吟味を加えるほど野暮ではないつもりである。すべてをシンボルという形式に収めて理解しようとするのが現代風だということにも、まぁ異存はない。私たちは、空海の著作を文学的に読み解き、そこに密教教理のシンボリズムを発見すれば足りるのであろう。「宇宙にあるものすべてが生命体である」また「精神も物質も同じエネルギー活動である」という命題を信じることはできなくても、それが密教独自の考え方だということまでは納得できるであろう(立川武蔵『密教の思想』、一九九八年)。ただし現代の私たちは、空海が述べる密教の教義のなかに真理命題が含まれるとは考えない。いってみれば、十七世紀に書かれたデカルトの『方法序説』の本文である科学論文を私たちが顧みることはなくなったが、それでも序説自体には、なお私たちにとって否定しがたい真理命題が含まれているのとはおのずから違う。「われわれの判断が、理性のみによって導かれた場合以上に、純粋で堅固なものであることは不可能に近い」(谷川多圭子訳)と記すデカルトの姿勢を私たちが近代的だと思うのは、彼の人間の理性にたいする信頼が私たちの共感を呼ぶからである。自分の理性が認めたもの以外は信じないという姿勢は、もし弘法大師空海が伝えられているような天才だったとしたら、当時の実情に即したかぎりで、デカルトに負けない理性信奉者でなければならなかったはずだ。  
梅原の説明も山折の説明も、仏教学者立川のそれとそう隔たっているわけではないが、空海の言葉の解釈を現代に通じる意味に言い換えたものとしてではなく、同じ今風の言いようでも、現代の言葉との意味内容の差には気がつかないふりをして、その代わりに、文学的な言い回しを使ってあいまいにしてしまうところが違う。論証を用いるべきところを思いつきで済ましてしまう。「すべてのものがすべてのものを、その内面において含んでい、その中心にいるのが大日如来である」という言い方は、少なくとも大日如来を定義することを抜きにしては、空海の言葉を、現代の私たちに判断できる意味をもった言葉で言い直す試みとはいえまい。  
「われわれ自身は、その本質において、六大からなりたっていて、宇宙の中心仏である大日如来と同じ性質である。しかし、われわれは小さい自我にとらわれているために、このような自己の本質をよく理解しない。われわれが小我へのとらわれを離れ、自己の内的本質に目覚めるとき、われわれの中に大日如来は入りきたり、われわれは大日如来と一体となり、そして、われわれによって、われわれは自由自在な仏の安楽行をなし、そして、それによって、また、不思議な力を発揮することができる」と、空海が教えた即身成仏の意味を、梅原は彼の『空海の思想について』のなかで解説してみせるのだが、ここに私たちが納得する行動の基準となるなにかがあるといえるだろうか。神秘的な体験の受け売り、いってみれば、説明抜きの仕様書、酔っ払いの呪文にすぎない。梅原のつもりでは、覚りは知性による探求の結果ではなしに、つまり言葉で言い表せる態のものでなく、ありのままの自分の心のなかで仏と感応する一瞬のうちに起こる。それでは、大日如来も日本の神々も、あるいはシャーマニズムも怨霊の祟りさえも区別できないだろう。  
私たちが梅原の解説を文学的だという理由は、空海が描いてみせた図式をありのままに受け入れる彼の態度にある。解説者は自身空海になったつもりで、一瞬の感応によって、大日如来が自分と一体だという事実を受け入れる。「自己の内的本質に目覚める(自分のなかの仏を見出す)」というのはそういうことであろう。  
この即身成仏の文学的表現をそのまま受け入れるには、なによりもまず、空海が無謬なスーパーマンであることを解説者とともに信じる必要がある。本当に成仏するのは簡単ではないと彼自身が悩んだことは忘れられる。書き記されたことをそのまま受け入れることは、言葉として記されているというだけで、理解はできなくとも、そこにはちゃんと真理が語られていると信じることでもある。そうして、私たちは文学的表現とはまさにそういうものだと了解している。 
空海の著作でいちばんよく読まれているのが『三教指帰』である。弱冠二十四歳まだ留学前の若者が、本場の中国人もびっくりするような漢語で書いたこの本は、内容もたいへん凝っていて、小説仕立てで儒教と道教と仏教の三教を比較し、仏教の勝ちを宣言する。私たちは、現在、この作品を福永光司のとても分かりやすい現代語訳によって読むことができる(日本の名著三『最澄・空海』一九九六年)。八世紀の終わりに書かれたこの作品がたいへん見事な漢文になっているのは、もちろん空海の才知が並々ならぬものであることを示しているが、まったく孤立して出現したというわけではない。福永によれば、その背後には数百年にわたる漢文受容の歴史とその成果があるという。空海の著述もその一つだったのである。文章のほとんどにそれぞれ依拠する文例があり、それらを下書きにしてつくられている。その頃、現代の私たちのようにはオリジナリティ(独創性)を重んじる考え方はなかったから、彼らは、盗作のそしりなどまったく気にせずに、平気で他人の文章をそっくり真似たのだった。むしろことごとく古典の用例字句に合致していることこそが賞賛された。吉川幸次郎が空海の『文鏡秘府論』を評して、受験者用の美文、古びた議論の雑記帖的な集録といったことに山折が不服を唱えているが(『日本仏教思想の源流』前掲書)、吉川が指摘したこの傾向は、当時も今も大方の日本の知識人に共通するのではあるまいか。  
『三教指帰』最後の仏教の巻で、空海の分身であるらしい論述者がこういう。「わたしは、まよいの世界の苦しみの根源について述べ、さとりの世界の楽しい果報を説明しよう。この道理は周公や孔子もまだ語っていず、老子や荘子もまだ説いていないことだ。  
この果報は小乗仏教の教えによる声聞や縁覚の修行者には到達不可能であり、一生十地すなわち大乗仏教の教えによる菩薩だけが段階的に修行してその境地に遊びうるのである」と。この記述は、儒教と道教をも極め、とりわけ法華経に親しんでいた青年空海がすでに最先端の大乗仏教理論を取り入れたことを示すだろう。理論は年とともにより精緻になっていくが、密教に転向したあとでも、彼の考えは基本的には変わらない。仏の真実の法は菩薩でない普通の人にはけっして理解できないほどに深い。われわれはただ仏の教えに帰依し従うしかないとすれば、衆生たるもの、それなりの修行を一心にしたあと、その報いを受ける者だけがありのままの姿で成仏するしかあるまい。  
梅原猛は三密加持によって人格の転換が行われるという。もともと仏と人とは身体が同じなのだからそれも当たり前なのだが、それにはやはり加持祈祷すなわち呪術の助けが入用である。その助けのおかげで速疾に成仏が適うのだから、速疾という利点を空海は何度もなんども繰り返して使っているけれども、梅原にとって疾いということはあまり問題ではないらしい。それよりも、仏と衆生の感応ということがかんじんだと彼はいう。感応はあらゆる宗教にとって本質的なことに違いはないが、とくに密教ではその感応による即身成仏を強調するのだと。この身そのままに仏になるとはそういうことだと梅原はいうのである。速い遅いはすでに問題ではないし、だいいち空海にあっては、速いということは易しいということと同じではなかった。梅原はただ、言葉ではとうてい言い表せない感応ということこそ空海の説の大胆きわまるところだといいたいのだった。この身そのままで仏になるというのは、当時の人びとにはショックだったに違いないと。まさに。  
でも本当にショックだったのは、いまのままで即時に成仏ができるという可能性が示されたからだったとわたくしは思う。それがどんなに難しいことなのかを考えない場合はとくに。  
梅原の説明は、教祖無謬論に立たざるをえない真言宗論とはおのずから違うけれども、明らかな宗論への応援歌ではある。たぶん研究者としてよりも文学者として語るのでそんな阿ったいい方になるのだろうが、いずれにせよ、彼は空海がスーパーマンだったといいたいばっかりに、即身成仏論の歴史的・社会的な側面を見落としてしまう。長く辛い修行抜きで成仏できるというところに即身成仏の社会的意味あるいは旨みがあったはずなのに、空海はそれを故意か偶然かあいまいなままにしておいたので、彼が唱えた三密加持の実践は、結局、難しくてだれにもできるようなシロモノではなかった。末木は、「ここから即身成仏は次第に現実味を失って神秘化して考えられるようになり、空海が清涼殿で仏の姿を現して他宗の学匠たちを屈服させたとか、入滅せずにいまだに高野山に生きているという説話を生んだ」という。宗論が苦労しているところを、梅原は気楽にやり過ごして涼しい顔をしている。  
即身成仏を「だれにでもできる父母からもらった肉体のままで仏になる」方策だと、凡愚の人びとに向かって説く梅原猛は、そうとあからさまにいっていないが、実は天台本覚思想の立場を代表している。当代の天台本覚思想のイデオローグである栗原勇は「自然との一体感によって現象のなかに実在が体験される」のが日本人だといい、「人間には本来仏となる本質があるから、おのずからに成仏する」のであり、「心を個人の認識機能としてではなく、ある瞬間に、個人の枠を超越的なものとする。そのとき意識は個を超え、全体に合一される」と説くことをもって天台本覚思想の真髄だといった(『最澄と天台本覚思想―日本精神史序説―』、一九九四年)。「日本の仏教の特質は、民間信仰をとりいれ消化したもの」で「汎神論的であり、アニミズムの匂いが濃い」ともいい、それをありのままに受け入れる栗田が、「修行者ではない衆生も瞬間的に成仏できるという大乗仏教特有の考え」と、生まれつき「自然のなかに仏性を見る」ことに慣れている日本人が「自然と一体化する」のを、はたしてそんな体験が日常的にあるかと疑う私たちに向かって、ごく普通の仏教的体験と言いくるめるのは、実際のところ、かなり難しい。社会的・歴史的にそのような体験が私たちのなかに育ってきた過程を証明できないかぎりは。栗田はまた「肉身を現世に備えたまま、時空的飛躍によって成仏する」即身成仏こそ本覚思想の中身であるともいっていて、真言密教との結びつきを暗示しているのだが、それもただの言葉である。だいいち、それでは生身の実体が成仏するといっているように聞こえるが、それは仏教では禁句だったのではあるまいか。そのような空虚な言い回しに感心する向きがあるとはとても思えない。風俗あるいはさまざまな民族的習慣と呪術が一体になった雑信仰と結びつくこの国のいまの仏教のあり方を栗田は好ましいと思うかしらないが、それは仏教の一部それも劣った一面でしかないだろう。  
いくら栗田が「天台本覚こそ、千数百年の歴史のなかで日本人の伝統をとうして一貫した正統性を保ち、文芸・美術・工芸・能・狂言・生花・茶の湯など生活芸術、生き方の倫理的根底をなす」と力説しても、それらは日々の生活の方便としては使われても、私たちの生活全体・心のあり方にとっては、ごく薄っぺらな理屈にもならない理屈でしかなかった。少なくとも、鎌倉新仏教の祖師たちが衆生を涅槃に導くにあたって感得した宗教的体験とほとんどなんの関りもないことは確かである。  
ある意味で、本覚思想とは、即身成仏の密教以上に、現世ご利益仏教だとわたくしは思っている。なぜなら、金儲けばかりがご利益なのではなく、現世で簡単に幸せになれる、成仏できるという保証こそ最高のご利益であろうから。そうして、そこに私たちはまたもや、お馴染みの「煩悩即菩提」という考え方を発見する。  
悩みも覚りも同じもの、あるがままの現実をそっくり認めるのが幸福への道。ありのままの生を受け入れるとともに、その結果として、死を恐れずにすむことが信仰の功徳というものだ。そのような考え方をこそ私たちは「本覚思想」という名称で呼んできたのだった。なにごともありのままでよければ、ついには成仏の観念さえ成り立たなくなりかねない信仰のあり方に、梅原猛を含むこの国の文学者たちが多数賛同していることは間違いないのである。  
仏教タントリズム(密教)は、インド土着の宗教思想運動であるタントリズムが七世紀ころ仏教と結びついたもので、富や名声を重んじ生命を賛える現世肯定の傾向を帯びるのだが、それは同じようにタントリズムと融合して急速に勢力を伸ばしてきたヒンドゥー教に対抗するためでもあったという(立川武蔵『密教の思想』)。九世紀の初めに最澄と空海が日本に持ち込んだ密教とは、いうまでもなく仏教と結びついたタントリズム(密教)であって、それがもつ現世肯定主義が、日本人の常識と比べて、ことさらに異質なものと意識されたわけではないであろう。天台宗内で本覚思想が完成したのは、最澄死後百年以上も経ってからで、最澄自身が本覚思想を説いたことはなかったと田村芳朗はいう(『天台本覚思想概説』、日本思想大系『天台本覚論』一九七三年所載)。むしろそれらしいことを言った最初の人は真言密教の開祖である空海だったのだ。本覚思想は開祖の思惑から遠くずれてしまったまま、密教と交わり、この国の文学芸能とも骨の髄まで関わっている。だからこそ梅原をはじめとする文学者流儀の本覚思想派は、密教の本山ともいうべき真言宗の宗論に携わっているのでないにもかかわらず、空海をまったく批判できず、さりとて宗論に徹することも適わず、あいまいな立場で文学的観光仏教案内を続けるしかないのである。 
 
天台本覚思想

 

本覚思想と気安くいうわりにはその内容が分かりにくい。ものの本に、本覚思想のことなら日本思想大系『天台本覚論』のなかに田村芳朗が書いている「天台本覚思想概説」がいちばんまとまっているとある通り、そこから教えられるところが多かった。わたくしもこの論文を参考にする。この国でいわゆる本覚思想というのは、天台宗のなかで発達完成された思想なので、天台本覚思想と呼ぶのが一般的である。  
田村によれば、最初に天台本覚思想の研究に手を染めたのは島地大等(一八七五〜一九二七)である。島地によれば、本覚思想は、具体的な現実の事象をそのまま絶対とみなし、また肯定することで、「事常住」(不変であること)などという。眼前の事物のすがたこそ永遠な真理の活現のすがたであり、本来の覚性(本覚)の顕現したものという意味である。もともとは中国で使われた語で、『大乗起信論』という書物で論じられたのを初めとする。不覚ないし始覚にたいして、ほんとうに覚る、の意味であった。現実の世界に見えているものを覚ることだったのだが、そこに華厳経系の哲学(唯識論)が現れて、真実心(真心)ということこそ肝心だといった。真心だけが見通せる本質というか理想像というか、現実を超える根源的な実体があって、その本質がさまざまな姿を取ってこの世界に現れると考えたのである。それに対し、本質だけが別にあるとは考えず、本も仮もみな融合して一つであると見る本覚は、対抗上、ただの覚性(知っている状態)ではすまなくなった。いうなれば、覚性自体の絶対化が起こったのだ。そうしてそれが日本に入って、天台本覚思想として完成するのである。  
なぜそうなのか詳しい理屈はわたくしにもはっきりとしないが、中国の天台教学では、たくさんの事象も元来一つの原理のなかに備わると説く。つまり煩悩と菩提は二つのものでありながら一体をなすという風に。この説が日本に入ると、もっと積極的に、「煩悩即菩提」というお馴染みの考え方が編み出されるのである。悪があるという現実をそのまま受け入れて、煩悩と菩提、生と死という対立を捨て、煩悩も死もそのままで肯定してしまう。実体が別にあったうえでの認識(覚性)という図式ではなしに、実体即覚性すなわち本覚であるという風に。それを事的相即論あるいは顕現相即論などという。天台教学ではよく「三諦」ということをいう。諦とは真実不虚の意で、真如・法制・実相ともいう。諦は実体と見なされていない。この真如(真実)の「理」を、空・仮・中の三つの面からさまざまな姿のもとに示すことが三諦である。  
前述の島地が「眼前のすがたこそが永遠な真理の活現のすがた」といっているのが、本覚が形をとった姿であるが、私たちがこの世界で目にするのは真如の「仮」または「中」の姿ということになろう。だが、田村によると、最澄も空海も「眼前の姿がそのまま永遠の真理」とまではいっていない。彼らはまだ中国天台の考え方からそんなに出てはいなかったし、「本覚」ということもことさらに言ってはいないのだった。日本天台でもまた、良源、源信の段階まではそうだったのである。「事象ないし事を絶対肯定(事実視・事常住)した」完成した天台本覚思想は十三世紀まで待たなければならない。本覚思想の最重要文献といわれるものはほとんどが最澄や源信の作とされているが、作者はもちろん違うし、書かれた時代もずっと後なのである。  
田村芳朗が推奨するもっともよく天台本覚思想を述べているとされる文献が、ともに源信著と伝えられる『三十四個事書』と『本覚讃釈』の二書である。ただし、そう伝えられているだけで、本当に源信が書いたと思っている研究者はだれもいない。なにしろ本覚の教えは、天台宗門のなかでも、代々口伝をもってするべき秘儀であって、そもそもいつ誰が書いたのかさえ世に公開されるのを憚るからだ。  
『三十四個事書』は、本覚思想の三十四か条の教えを記した書物である。『天台本覚論』(前掲書)のなかの現代語訳から、ほんの一部を抜粋してそれがどんなものかちょっと触れてみることにしたい。「無相の三身とは真如実相の体なり」とある。三身とは三仏ともいう。法身・報身・応身のこと。「法身」とは真の身体あるいは仏の本地。修行が報われたという意味の「報身」は仏の智慧をいう。「応身」は垂迹つまり衆生に仏が慈悲を施すときの化身である。もともとは、応身だけが説法を行いうるとした。しかし、本覚論では、三身がみな一身に備わっていて衆生に相対するのだといっている。  
「 垂 迹 の仏を見るに、ただ本地の仏なり。水中の月を見るは、天月を見るなり」ごく普通に考えれば、化身した仏を見るのは、水に映った月を見るようなもので、そこから実際に天にある月を想像するということであり、理屈の上でも、なんの不都合もないようである。だが本覚論ではそうはいかない。水中の月も天の月もまったく同じ実物(実相)であるように、八幡神や東照権現など化身の仏が本物の仏と一つであるといわなければならない。  
「三諦円融・・・取捨てなし」三諦は空・仮・中の三態がそれぞれ一つになって解け合っている。前に引用した二つの例をみても分かるように、どれを取捨ててもいけないし、事をそのまま永遠の姿に見ることだという。それを「事常住」ともいう。「死即涅槃とは世間常住」世間は無常ながら、現実界の諸事象の姿そのままが常住であるということ。まことに分かりにくい。「草木成仏の事」草木(非情のもの)も成仏するのならば、環境に変化が生じたことになり、世間相そのまま常住ということに反すると主張する向きがあったが、天台本覚論では、草木も草木ながら常住するのであり、そのままが仏であるという。つまり成仏はすでに必要ではなく、その意味では不成仏なのだと。「因果倶時」因果も同時である。因果即応ということ。因果に時の経過を見るべきではなく、衆生は一瞬のうちにそのままで仏の顕現の姿であるという絶対的肯定に行き着くのである。  
「煩悩即菩提は明暗不二・迷語不二・・・例えば掌を仰ぐときは菩提といい、覆うときは煩悩というがごとし」煩悩と菩提が別々なものでただ合体しているのなら切り離せばよい。背と正面のような関係なら切り離せないけれども、そのときは煩悩を転じて菩提とするように工夫する。だが天台本覚論では、煩悩と菩提は二つでありながら「即一体」であるという。どういうことかよく分からないながら、ゆめゆめ疑うなかれというのが、明暗不二、迷語不二という言い方であるわけだろう。矛盾的統一とも説き、その意味では正悪も分けられない。凡夫即仏である。「一念念仏の事」迷いを捨ててから解脱するのではない。ただ速疾に一瞬の間に覚りの位に入る。これらのいわく言いがたい真理を器量のある者だけに口伝せよ、とこの書は結ばれる。剣術や芸能と同じ、一子相伝なのである。  
つぎに『本覚讃釈』を見よう。真理は客観的にして同時に主体的なものであるという立場を述べる。「本覚心身とは、自身本覚不生の理なり」生滅・造作を越えて本来本然として真理(法)の覚体が存すること。初めは覚っていないのだから、本覚の身とはいえないのではあるまいかという問いに、万物発生の源で本覚といっておこうと答えるのだが、校注者田村は、それでは始めも終わりもないという大乗仏教の「空論」の考えと矛盾するのではないかと故障を申し立てている。同じことなのだが、天台の教えが煩悩即菩提・生死即涅槃にあるのなら、仏道修行など不要になるのではないかと問うたのは最澄と論争した法相宗の徳一だったが、これにも最澄はきちんと応対していない。この義は簡単にいえないと答えるにとどまっている。事象そのままが法性の理であり、差別多様・生滅変化そのもののなかに不生不滅の真理があるというのであろう。「生死は始めなくて終わりあり。涅槃は始めあって終わりなし」とも。事象そのまま法性といってもそれは本質的実体を意味するものではなく、そのかぎりで空である。意味がよく分からないと問われて、「(それは)密教による。是非論理の所詮を離れたり」つまり密教なんだからあれこれ議論すべきものではないといってすましている。さとるということは、水と氷の性が一つだと知るようなものだと。分かるも分からないも、ただそれだけのことなら、子供だって知っている事実である。水中の月の映像と天の月の譬えは仏家のとくに好むところとみえて、ここでも採用されている。水中の月と天の月がまったく同じものであるごとく、衆生即仏だと。衆生の生きる方便を説いて、衆生即仏の智慧をもつこと、あたかも浮き袋をもって深海を渡るようなものだともいう。浮き袋とは戒めを守る生活の譬えである。心弱き女人は途中で誰かにねだられると自分の浮き袋を与えてしまう。即ち本人は海中に沈み向こう岸に着くことができないと。せっかく大きな乗り物に乗せてもらったのに無駄にしてしまうとは。心賢き人はそんな馬鹿なことはしない。  
上の二つの文献を覗いて見たかぎりでは、意味がよく分からないが、対立するものをみんな一緒くたにして瞬間的に分かってしまうのが本覚だという趣旨が述べられているようである。「三身が即応しながら一身に備わっている」とか、三諦円融とか、煩悩即菩提とか、明暗不二とか、衆生即仏とかの語は、要するにみんな一つだといっているのに違いない。末木文美士は、現代の仏教に倫理観が欠如しているといわれる理由の一つに空とか一如思想があるという批判があるといい、それが何事も結局は同じことになってしまうのだから、社会的な行動としては何をやっても無駄だと考える傾向を生んだという意味の田村芳朗の言葉を引用している(末木文美士『解体する言葉と世界―仏教からの挑戦―』一九九八年)。唐から伝わってきたのは天台教学だけではなく、華厳教学も禅もあるのだが、室町時代以降、この国の生活・文化に天台本覚思想一色といってもいいほど大きな影響を振った理由は、本覚門が他と違って、現象の底に本質というか根元的なものの存在を認めるよりも、具体的な事象・現象を重視して、世間ありのままの姿を実相(真相)と見る立場のせいであった。仏教とは馴染まないはずの文芸・芸能がとりわけ価値あるものして世間に通用したのも、天台本覚思想が社会に幻想である娯楽のあり方をそのまま実相として受け入れてしまう論理を用意したからだったろう。  
宗教的な色がついているという点では、謡曲のなかの怨霊たちはもちろん仏の慈悲によって救われるのだが、本覚思想を徹底するのであれば、怨念を抱いたままが救いということになってしまい、意地悪な見方をすれば、結果的に仏の慈悲など不要ということに落ち着くのが、本覚思想が抱える致命的な矛盾であった(「能と本覚思想」末木『解体する言葉の世界』所載)。そう見てくると、本覚思想の論理ははなから破綻しているというよりない。末木によれば、だからこそ際どいぎりぎりのところで幽玄の美学が成立しているというのだが。  
ともあれ、融通無碍に言葉の意味を変更しながら、なにもかもいっしくたにして了解してしまう行き方がすでに近世・近代の日本仏教の理論を破綻にまで追い込んだのがはっきりしているからには、その元凶でもある無反省な空・一如思想のバランスシートをそろそろはっきりさせる時期に来ているのではあるまいか。天台教学というもの、十世紀の源信あたりを最後に、学としてはまったく衰微し、かつ頽廃してしまったと井上光貞がいっているが(井上『日本浄土教成立史の研究』一九五六年)、私たちもその意見に同意したい。 
鎌田茂雄の『現代人の仏教』(一九九八年)を読んでみてびっくりした。仏教を説く方便として現代日本人をくすぐる仕掛けを施すという趣旨は分からないでもないが、お馴染みの名僧知識のエピソードを鏤めるのはいいとして、そこに剣豪宮本武蔵が出てきたからである。そういえば、この著者は、武士出身の異色の禅者鈴木正三を好んで引く。なにしろ「親子、兄弟、朋友、師弟などあらゆる人の関係、国家や民族の関係、国土、自然にたいする感謝の念が、衆生に仏の恩ということを感得させる」のが日本の仏教だといいたいらしい著者が、日本国民にあまねく及ぶ天皇の恩をそのなかに含めないのは、時節がら共感を得にくいということにすぎまい。  
鎌田は高名な曹洞宗禅系の仏教学者であるが、同時に、通俗道徳と本覚思想のイデオローグでもあるようだ。一方的に説明して論証を省いてしまうところが、本覚思想家の手口そっくりである。  
「草木国土悉皆成仏」は仏典に典拠がなく日本人の創作であるが、「日本人の自然観がこのような美しい宗教的な言葉を創造した」といい、あるいは「われわれの真の自己は仏の命である」「自分が本来成仏していることを信じるのが真実の信仰である」などなど、真や真実という言葉が氾濫する文章を読むと、「ことばというものは大切である。人間関係を円満ならしめるためにことばがどんなに大切であるかを知るべきである」という著者が、実は、言語と言葉を相手を誑かすための道具とより見ていないのではと心配になる。  
「衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水をはなれて氷なく、衆生のほかに仏なし」というのは、鎌田が取って置きの宝物のようにして引用する白隠禅師の言葉である。衆生が本来仏だというのは一つの仮説として戴いておくけれども、水と氷が同じものだというのと、仏と凡夫あるいは菩提と煩悩が同じというのとでは、知識の体系というかロジックの次元がぜんぜん別である。何でもいっしょくたにするのが仏教のお家芸である方便だといっても、こいつはやりすぎだと思う。吉川英治の『宮本武蔵』はわたくしが子供のころいたく愛読した小説であったが、まだ世間にうとい若者にとって、そのどこがいちばん魅力的だったかというと、魔術師のような沢庵和尚のえもいわれぬ法力の導きによって、武蔵が剣のコツや人との付き合いのコツを一瞬のうちに覚るさまにあるのだった。やくざな友達や邪悪な敵と違って、武蔵だけがそういう風に生まれついていて、いまにして思えば、それが大人の通念である通俗道徳あるいは衆生即仏というありさまの実践だったのだろうが、子供のわたくしにとっては、それは、いってみればオカルト小説であった。鎌田がその通俗道徳を方便として使い、私たち現代人の仏教として提示してみせた本覚思想は、私たちの社会のなかで、人びとのあいだに共同幻想を築くためのセメントとしての機能を果たしているわけなのだった。  
「天台本覚思想概説」(『天台本覚論』所載)のなかで田村芳朗は、「天台本覚思想にたいしては、現代の学者のほとんどが堕落・退廃の思想とみなしている」と書いている。それは秘密口伝、血脈相承、実子相続に加え、口伝法門を金銭で買い取るなどの習慣によるだけでなく、その中身もまた批判を排除したことによる奇怪でいかがわしいものに堕していったからだ。そうして、そのような悪習は、仲間内や集団の利益、権益を独占するための安易で効率的なやり方として私たちの社会を毒してきたのだった。仏教界、修験道、神道はもとより能楽から人殺しまで、学問、芸能、技術、商業にいたるあらゆる組織に天台方式が広がっていったばかりでなく、煩悩をもつたまま、未熟なままのあり方を容認してしまうことで、修行(学習)を軽視し、ひいては修行不要論にいたる生き方さえ生んだのである。  
本覚思想にたいする真正面からの批判として、私たちは袴谷憲昭の『本覚思想批判』(一九八九年)と『批判仏教』(一九九〇年)の二冊を取り上げる。仏教学の論文集として、ほぼ同時期に発表された。わたくしの手に負えない専門的なことはおくとして、『本覚思想批判』序論で、著者はのっけに「本覚思想は仏教ではない」と書くのである。それに続けて、本覚思想とは「自国の土着的伝統の場を自己肯定的に温存する場所の哲学であり、それに対立する正しい仏教とは、まず土着の思想や宗教を否定する外来の思想であり、それを否定する批判の哲学である」という。また、彼がいう本覚思想とは「一切法の根底に一なる体や真如としての本覚を据え、一切合財を包含するという構造をいう」あるいは「人間のみならず動物も山川草木も全て、一なる根源的悟りの上に根拠づけられて各自がそれを有しているという考え方だから、仏教としての正邪の決着など全く問題にもしない」と述べられる。  
袴谷を読んで、わたくしは目から鱗が落ちる思いがしたことを告白しておきたい。いくらか大げさに聞こえるかもしれないけれども、わたくしがそう思わずにいられなかったくだりをもう少し引く。「すべてが一なりという前提は、定義上言葉によって表現できないから、言葉による論証も信も知性も関係なしに、ただ相手にその考えを押し付ける権威主義として機能するだけ」であり、著者が考える正しい仏教は「空間的に一なる場所を否定して時間的な縁起のみが真実だと主張したもの」にほかならず、さらに本物の仏教なら「権威主義を否定することによって、自己否定的に利他にむかって言葉を大切に選ぶ」のであり、「悉皆成仏などまやかしで」あって、「本当の仏教は信仰と知性によって縁起を考えていく知性主義だが、本覚思想はその反対の悟りの体験主義にすぎない」と。  
これらの袴谷の主張は、多かれ少なかれ、わたくしが感じていた天台本覚思想のうさん臭さを正確に言い当てていると思う。その翌年出版された『批判仏教』も、いろいろなトピックに合わせて同じ主張を展開しているのだが、「無批判的かつ自己肯定的にいかなる土着思想でも取り込んで膨れ上がっていく場所の宗教である本覚思想に厳しく対峙していく批判仏教」としての著者の立場が高らかに宣言される。本覚思想が、覚りこそ仏教で、つねに真偽をはっきり区別して判断するような知性は害悪だみたいな宣伝をしているのは、中国の土着的な老荘思想の受け売りでしかなく、とうてい仏教とはいえないシロモノであるという。その例として、袴谷は京都学派や小林秀雄にはじまる東大仏文出の文学者たちを挙げるのだが、それは彼らが「山川草木悉皆成仏」(同じことだが、もとは草木国土悉皆成仏といった)というらちもない本覚思想のさわり言葉を無批判に振り回すからである。道元が生涯を通じてあくまでも本覚思想批判を貫いたという袴谷の主張は、道元死後の曹洞宗学が世におもねって本覚思想を受け入れたことで、身内への激しい批判反省となって噴出する。それは道元最晩年の著作である『正法眼蔵』十二巻本をあくまでも道元思想の決定版とみなす著者の主張に繋がっている。わたくしなどには、本覚思想の中身とともにその是非を判断することなどできないが、袴谷が仏教学に携わりながらもあくまでも信仰者の立場を学問の立場と両立させようとしている努力には共感できるのである。袴谷は、学者兼信仰者として、真理には経験的事実つまり見かけ通りの事実と、言葉を尽くして信じさせる必要のある正しい真理の二つがあると考えており、前者をまやかしだと思う。信仰者としてはうなずける態度であり、宗論と科学とが交錯する、いってみれば、研究者と宗教家とが同じである場合が多い仏教学という特殊な学問では許されることであろう。しかしそれは、信じることよりも理解することの方が優先する他の学問ないし科学では通りにくい議論であることもまた確かである。  
天台本覚思想については、さまざまな思惑が交錯してまことに分かりにくくなっているが、私たちはこの項の締めくくりに、これまでのおさらいを兼ねて、もっとも妥当と思われる見方として、先に紹介した『三十四個事書』をもって本覚思想の典型とする末木文美士の「中世天台と本覚思想」(『日本仏教思想史論考』前掲書、所載)を紹介したい。それによると、まず仏は三つの姿をもっているが、どれも変化はせずに同一のままにある。変化を否定する自己同一が本覚思想の第一の特色であると。第二は、世俗の現象世界がそのまま永遠の世界であること。無常が常住であるとか、悪人も成仏するとかの議論に繋がる。衆生は衆生のままでよいということにもなり、ついには成仏そのものが必要でなくなる。  
「止観」(静かな環境で雑念を払いひたすら仏の姿を思い浮かべること)さえ不断のままの活動のうちでよいとして骨抜きにされる。本覚思想が修行無用論に陥る傾向がここにあるわけだ。第三に、成仏はほとんど否定される。そのままであることがよいのだから、何かに成るには及ばないのだ。もっとも成るという論理がまったく否定されているわけではなく、いくつかの修行の段階が提示されるけれども、そのなかの最も低い段階が重視されるのである。  
仏教をまったく知らない最低段階を「理即」というが、そこから次の「字即」の段階に上がれば、もう誰でもたちまち成仏すなわち「さとり」の境地に達することができるのである。一つの階段を上がるだけで覚りの瞬間への転換があるというずいぶんとご都合主義なこの言い分は、衆生即仏であるならば、教えを聞こうと聞くまいと、信じようと信じまいとどうでもよいことになってしまう道理だが、それでは宗教としての本覚思想そのものが立ち行かないので、無理を承知で用意された議論なのであろうと末木はいう。ついでにいえば、鎌倉時代になってしきりに説かれる「一念往生」という考えはここから出ている。だが、そのときには、本覚思想の中身はすでに「奇怪でいかがわしい性格の注釈」によってしか語られなくなっている。  
はっきりいって、大きな乗り物に乗せてもらった凡愚の者たちが、たいした苦労もなしに成仏できるという本覚の理論にはいかがわしいところがあって、とくに人間の努力とは切っても切れない関係にある時間の要素を無視してしまうところなど、現代人の私たちにはいまひとつ理解できない部分で、にわかには信用しかねるのだ。そうして、その分かりにくいところは、大乗仏教のなかで大きな役割を果たしている「空観」と呼ばれる思想から来ていると思われる。そこで私たちは、難解であることを承知で、次の項では「空」について吟味する。いくら分かりにくくても、空の理論を外しては、日本仏教を論じたことにはとてもならないからである。 
 
「空」の理論

天台本覚論にそもそも理解できる内容があるのかどうか疑わしいけれども、曖昧で理屈の通らないたくさんの言葉が飛び交うなかで、社会との関係でいえば現実肯定主義あるいは現状維持主義、教義のうえでは、誰でもみんな成仏できるという主張に要約できるようにわたくしなどは感じている。そしてその前提にあるのが、禅宗などでもいう「煩悩即菩提」のテーゼである。煩悩と菩提というまったく正反対の概念を、別々のものとして考えずに、小ざかしい理屈抜きで、まったく同一のあるいは一つのものと考えなさいという教えだ。前の項で明かされたように、そいつは生死でもいいし、衆生と菩薩でもいいし、要するに、優劣の極を表す対になった概念を一つに纏める論法であって、西欧哲学の弁証法とよほど近いものだといわれることもあるようだけれど、いずれにせよ、それがおよそ普通の現代人にも理解できる考え方かどうかなどは問題ではないらしい。末木文美士によれば、煩悩即菩提というテーゼは、あくまでも覚った仏の立場からいわれるので、覚りとは縁のない衆生の立場では、煩悩と菩提はちゃんと区別していっしょになどしてはいけないのが仏教の常識というものだというのだが(末木『碧巌録を読む』一九九八年)。  
そういう考え方は仏教特有のもので、相即思想と呼び(田村芳朗「天台本覚論」『日本思想史大系』所載、前掲書)、その発端となったのが「相即不二論」だという。田村の解説によると、生死と涅槃、煩悩と菩提あるいは凡夫(衆生)と仏など、いずれも固定的実体(我)があって存在しているのではなく、ともに無我・空であり、その意味において不二であり、相即しているということである。いずれにせよ実体がなく空っぽなのだから、不二、即一つあるいは一如であるといって、そのどちらに転んでも問題がないわけなのだった。  
私たちは、その分かりにくさというものを、仏教の方では、すべて「空」にまつわる理論から来ているだろうと推測する。ただし、それなりに洗練された天台本覚論が、ながい思索のはてに、西欧哲学の考え方を経験したあとでもなお、いまだに空の理論を批判的に論じることをせず、ただちょっとばかし修復するだけで事足りるとしたことが、本覚思想というものをうさん臭いものにしている理由である。しかし、その前にまず、問題の空の理論を吟味してみるのがよさそうである。何冊かの本を読んだだけで、わたくしが大乗仏教の根本的な理論である「空」(くう)ということを理解したとは思わないし、これからもないだろう。だから、以下の記述は、わたくしが知りえた範囲での仏教学者たちのたんなる受け売りである。私たちが主に参考にするのは、初学者の手引きとしてはおそらくもっとも適切だろうと思われる二冊。中村元『竜樹』と立川武蔵『空の思想』である。ともに、この手の啓蒙書シリーズで定評のある講談社学術文庫本によった。  
空の理論あるいは空の思想を、仏教の立場からいえば、「空観」ということになる。その空観の理論を打ち立てたのが、釈迦が死んで七百年ほど後に生まれたナーガールジュナ(一五〇〜二五〇頃)で、それを説いた書が『中論』である。彼を祖とする仏教哲学者たちの一派を中観派と呼び、彼らが説いた空観の仏教がすなわち中国を経て私たちの国に伝った大乗仏教である。  
「大乗」とは大きな乗り物のことで、新しい仏教という自負あるいは権威づけのために自ら名付け、それ以前の古い仏教には「小乗」という蔑称を与えて区別したのだった。その違いを一口でいえば、小乗では修行者は自分だけの覚りを求め、大乗は自分が覚るだけではダメで、他の劣った人々を覚りの境地に導き、彼らまでも幸福にすることを目指す、だれでも乗せる「大きな乗り物」ということにある。だから、大乗仏教では、人びとに受け入れられやすいように、仏や菩薩に帰依するならば、多くの富や幸福が得られ無病息災でいられると説く、現世ご利益風な説法を憚りとはしなかった。一つには、この点が大乗仏教に、たがいに一貫しない教説とともに複雑きわまる性格を与えた理由だった。大乗仏教は本家のインドではすでに滅び、伝わった先の中国と日本で洗練され、高度に理論化されたが、その核心になったのはナーガールジュナが立てた空の理論であった。当然、彼の書も中国に伝えられ漢訳されてさらに理論が深められたのであるが、そのとき原著者に与えられた中国名が竜樹だった。以後、彼を私たちもこの名で呼ぶことにしたい。わが国では、密教の嫡流と自ら位置づける空海がその系譜の大先達に挙げているほか、八宗のすべてが竜樹を祖師と仰いでいるほどである。八宗とは、古代南都六宗と呼ばれた中観派の流れを汲む三論宗をはじめとする成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗に加えて、その後に生まれた北都京都の天台宗と真言宗をいう。  
中村元に従って『中論』に記された竜樹の思想をみると、空とは「もろもろの事物が相互依存において成立しているという理論」である。その基にある中観派哲学者たちの認識とは、「何ものも実在するものはない(存在するものがないのだから、実体もない)。  
あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎない(見せかけあるいは現象を発生させている基体あるいは物自体もない)。その真相についていえば空虚である。つまりその本質を欠いているのだ」ということにある。ただし、初学者向けの中村の説明は、私たちにも分かりやすいように、よほど現代風に仕立て直してあるだろう。  
とはいえ、続けて中村が「空は肯定と否定というようなものの対立を離れたものである」というとき、私たちにはもはや、竜樹のいうことがけっして理解しやすいものとは思えなくなる。  
西欧の哲学が実体の観念をめぐって考えられてきたのと違って、仏教哲学は法の哲学であるといわれる。法は実体ではなく、きまりあるいは事の真相である。それでも小乗仏教では、実体としてではないが一切の法はあるという私たちからすれば分かりやすい主張をしていたが、竜樹は、法はないという意味の「法空」ということをいったのだった。もちろん「すべてつくられたものは無常である」(諸行無常)と七百年も前にいっている仏陀の主張が論理的に成り立つためには、永遠の存在でなくてもいいが、とにかく相互依存の建前からいっても、何らかの無常でないものの存在が必要である。ものでも法でもよいが、およそ何か(例えば真理)が実在するためには、自然の存在としてあるのでなければ、それ自身の本質(理想)の形であるということであろう。それを「実有」という。少なくとも、小乗仏教の哲学者たちはそう解していた。  
でも、『中論』ではそうはいわない。諸法は実有するのではなくて、自性上ないといったのだ。「自性」とは、小乗仏教の理論家たちが考えたように、法の本質のあり方を実体視したものである。  
「自性」は独立に実在するもの、絶対に変化せずにあるものであるから、空の理論では、そんなものがあるはずはないのであった。  
しかも竜樹は、空観は有と無の二つの対立する考えを排斥するだけであって、実は、あらゆる事象を建設し成立させるものだとも主張する。「空性の成立する人にとっては一切のものが成立する」のだと中村は解説してみせる。ますます分からなくなってくるが、中村がこの本の冒頭で述べている「空とは、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論である」を思い出してみれば、とりあえず『中論』が「縁起」ということを解説した書物だという風に理解するのがよいことが分かる。中村のいうことを聞こう。「あらゆる存在は互いに相依って成立していて独立には存在しないから、存在するものはそれ自身のうちに否定の契機を蔵することによって成立している。そこに空ということがよく適合する」のだと。つまり、あるのは実体ではなく相互依存の関係だけというわけだろう。その関係である縁起はつねに理由であり、空はつねに帰結である。縁起から「無自性」が導き出され、無自性から空が出てくるともいう。縁起・無自性・空の三つの概念はみな同じなのだが、そのなかでは縁起が根本である。『中論』という名は「中道」ということを重視するところから来ているのだが、中道は空と同じ意味で、有無の二つの対立を離れていることである。私たちにもお馴染みの西欧近代哲学では、なによりも自我を追求することが問題の中心であったから、主観と客観の対立がずっと解決されずにいまに続いているが、仏教は最初から主観と客観の対立を排除した立場に立って、あり方(関係としての事象のあり方)としての種々の法を説いたのだが、竜樹の中観派ではこれを法と呼ばずに空といい、そのあり方に相互依存あるいは相互限定の関係を見たのだった。そうして、それを「縁起」と呼んだのである。西洋哲学の立場から縁起というものにアプローチした三枝充悳は、縁起を関係性と言い換えることを提案して、その関係の一方がつねに自己の現実にかかわっているのが仏教的思考の特徴だといった。自己の現実を離れて、全然無関係の第三者の立場から、関係が立てられることはないと(三枝『縁起の思想』二〇〇〇年)。つまり、客観的立場というものをいっさい認めないのである。実体をいっさい認めなければ、そうなるだろう。そのかぎりでは、よほど分かりやすい説明になっている。 
釈迦がすべてこの世のものは不確かだという意味で使った諸行無常が時間のことを指すのであれば、物事はよほど簡単になるが、それだけでは成仏を説明できない。竜樹は空という言葉で、時間も実体的存在もなにもかも否定してみせたあとで、縁起という相互依存関係を、いわばそれらに代わる作用の原理として示したのであった。無常(時間)と空虚(空間)という語の意味が、働きという意味に変化したのである。いってみれば、時間と空間のカテゴリー(認識形式)を働きあるいは関係(相互作用)というカテゴリーに置き換えたのだ。働きをエネルギーと捉える現代人は、ふたたび実体の認識に逆戻りしてしまったが、竜樹がそれを見ることがなかったのは幸せだった。  
思いつくままに、中村元の現代訳によって、空論に記されている文言の例をいくつか示そう。ご覧のように、難解ではあるものの、いずれの表現にも私たちを魅きつける何かがある。ひたすら「なにも存在しない」と繰り返しながら、そこに私たちは、非情な時間と空間の論理を超え、ものに執着しないことから始まる実践行動の拠り所となるものが力強く説かれているのを感じる。  
「ものが有るときにも無いときにも、そのものにとって縁は成立しない」「縁の結果は存在しない」「すでに去ったものは去らない。まだ去らないものも去らない。いま去りつつあるものも去らない」「見るはたらきを離れても離れなくても、見る主体は存在しない」「有(もの)が生じることは理に合わない。無が生じるのも理に合わない」「原因が存在しないから、結果も存在しないし、能動因(はたらきのもと)も存在しない。原因と結果が存在しないから、はたらきも行為主体も、また能動因も存在しない」「行為によって行為主体がある。行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない」「始めもなく終わりもないのに、どうして中があろうか」「その本性上存在するものがあるといったりするのは、常住(永遠の存在)に執着することからくる偏見である」「慈悲心は、この世とかの世において果報を受ける種子である」「種子があって果報があるように、心の連続から果報は生じ、先に行為(業)があってそれに基づいて果報が生じるのだから、断絶でもなければ生滅でもないわけだ」「業ともろもろの煩悩とは、もろもろの身体の生じるための縁である」「空なるものには、生成も滅亡もありえない。空ならざるものには、生成も滅亡もありえない」「三つの時(過去・現在・未来)にわたって生存の連続があるというのは正しくない。であるから、三つの時のうちに存在しない生存の連続がどうして存在しようか」「空であるといってはならない。そんなことを言い出すと、空でもなく不空でもないなどと言い出すから。そのように説くことがあるのは、ただ無明の人たちに分からせるための仮説としてだけだ」  
きりがないからここらへんで止める。ざっと読んでみると、なんとなく竜樹のいいたいことが分かってくるような気がすると同時に、彼がいつも論理的に語っているのでないこと、天台本覚論でいうような相即論をいつも用いているわけではないことも分かってくる。人がいつも首尾一貫していることは稀である。また言葉というものがいつもロジックに沿うわけでないことも確かだが、それでも言葉は、その性質上、ロジックを飛び越えては成立しない。その辺りの呼吸を、代々の仏教哲学者たちは、西欧の哲学者たちと比べ、あんまりよく心得てはいなかったうらみがある。西欧では、形而上学を毛嫌いした経験主義の哲学者でも、時間と因果の規則性を認めるには吝かでなかった。ただし中論の文章には、引用したなかでもとくに有名な三番目の句に見られるような際立った一つの特徴があって、つねに問答を想定してそれに反論する言い方でのみ語っているのである。竜樹はこの書でけっして反証を挙げたりもしなければ、自説を打ち立てたりもしない。ソクラテスのように、つねに相手のいうことに反対しあるいは否定するだけである。否定の否定といったような、とことん何もないということを強調する空の理論には相応しい論法だといえないこともないが、『中論』が論理の整合性(ロジックへのこだわり)という点では一貫せず、難解である理由にもなっているだろう。そもそも空の理論そのものが摑みどころがないのだといってしまえばそれまでだけれども。  
竜樹には別に二十の詩篇というのがあるが、その中からもいくつかを紹介する。「もろもろの形成する力によってつくられたものは、この世においても、かの世においても、生起したものではない。それらは因縁によって生じたものであり、それらはすべてその本体については空である」「愚かな凡夫どもは、真実に存在しない我や苦楽についての妄想のすべてが存在すると見做している」「生起なるものは妄想であり、外界の事物は存在しないのに(彼らには分からないのだ)」竜樹によれば、仏陀は世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理の二つの真理を説いたのであった。前者を「俗諦」、後者を「真諦」というのだが、ただ世俗的な表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできないのである。そうして、一切諸法すべては空であるという究極の真理に到達できなければ、ニルヴァーナ(涅槃)を体得することはできない。哲学原理というよりは、仏教の実践的な教義として、竜樹が明かしたこの二様の真理のあり方のえもいわれぬ関係が、よく大乗仏教の本質を説明するといえばよいだろうと思う。  
立川武蔵の『空の思想』は、竜樹以後の空の意味が、インドですでに中観派と唯識派に分かれたあと、一世紀ごろ中国に伝わった仏教の二千年にわたる歴史のなかで、さらにいくつかに分裂、各派ごとに意味もまたどんどん変っていくありさまを追う。大きくは、天台教学、華厳教学、禅の三つの系統に分かれていったことが知られているけれども、全体として、立川はその変化を、空であるはずの世界が否定を通じて甦る過程と捉えるのである。立川によれば、空の思想はキリスト教でいうような神の存在をいっさい認めないが、その代り「否定作用によって自己が新しくよみがえるというプロセスの原動力」が空なのだという。自性はもとより存在しないものであるが、ないはずのもろもろの事象が縁起によって甦った姿を仮の形つまり「聖なるもの」として認めるのであると。立川がいう「聖なるものが甦る」というのは、相互依存関係の成立ということと同様、空の思想がこの世での慈悲の実践に連なる仏の道であることをいっているのだと思う。結局のところ、わたくしが理解する「縁起」とは、慈悲の実行と衆生を救うことを目指している仏教を、すべてが空虚であるというニヒリズムから救い出す装置なのである。そこのところを、宗教人類学者の佐々木宏幹は、仏教は、外からやってくる悪霊など邪悪な物(実体)を祓い取り除く呪術とは違って、「あれこれとしあわせを求める主体の働き、すなわち執着、欲望、煩悩を断ち切り、払い去って心の平安を得る」ための救いの文化だと定義して、「仏教は時代を経るにつれて種々の学派、流派に分かれ、さまざまな教義論や修業論が展開されたが、執着、煩悩の主体としての自我を徹底して払い離れるというたてまえと実践とは、いかなる立場においても共通して保持されて今にいたっている」と述べている(『宗教人類学』一九九五年)。浄化され聖化された自我が永遠の相であるためには存在するというしかないが、空の理論では、それがどうなるかは、結局、問われずじまいである。  
インドにおけるもう一つの空の理論である唯識派や、中国に渡ってから展開された天台教学、華厳教学、禅に私たちの理解は及ばない。各派各論の細かな違いが、いま仏教学者たちの間で新たな論議を巻き起こしていて、仏教の根幹に関る議論にまで発展しているらしい。私たちももちろんその議論の行方にはおおいに関心があるが、本稿で触れることはできない。立川によれば、唯識派は心の認識作用を実在するものと認めるところが、竜樹らの中観(空観)と違うという。同じ大乗仏教のなかで、唯識派は、存在を認めた点で、空をめぐる議論において不徹底というべきなのかもわからない。  
中国の天台教学を完成したのは、竜樹の三百年あとに現れた天台大師智(五三八〜五九七)である。時代は隋(五八一〜六一九)から唐(六一八〜九〇七)へと入ってくる。あたかも老荘思想の影響で現世利益や呪術に傾いた旧弊を脱し、戒律を守って自己を律し、世俗的な栄誉を無視する自己否定の態度が重んじられるときにあたる。天台教義は、竜樹『中論』の流れを引くが、その核心は「一心三観」だという。空性、仮説、中道の三者を三つの真理(三諦)とみなす『中論』を引き継ぎ、空・仮・中の三つがそれぞれ別個のものではなく、互いに融合した状態であると説く。それを「三諦円融」という。空性は本来言葉では言い表せないが、空性を覚った者が凡愚を導くために、あえてその体験を言葉によって表現したものが仮説である。そうして、その仮説を働かせる場面を「中道」という。したがって仮説と中道とは同じものである。この場合の空は、無というよりはすでに「根元」という意味に近いのだと立川はいう。もろもろのものは、目には見えないけれども、その元は存するのだと。智は、空は根本であるという意味で、それを如と呼んだ。無ではなく有るのだとも。天台教学において、空の理論はさらに変化して、本質的なもの(実体)の存在に近づいたのであった。  
ほとんど同じ時期の中国の仏教に起こった別の教学が、唯識派の流れを汲む華厳教学と禅であった。華厳宗第三祖の賢首大師法蔵によって大成された華厳教学では、この派の聖典とされる華厳経の教えに従って、根源的なものの存在を認めるのである。その根源的なものが、さまざまな場面に応じてさまざまな姿を現すと考えるのだといわれる。般若心経の優れた解説書を著したことでも有名な法蔵によれば、華厳経では色と空との間に、聖・俗あるいは悟・不悟といった区別を立てない。相反する姿を状況に応じて顕す基体あるいは根源的なもの(実体)の存在を認める。華厳宗ではその根源的なものを「法界」といい、現象としてのものは、どのような仕方であれ、そこから生じるのであった。  
禅を中国にもたらしたのは菩提達磨(不明〜五三二頃)である。  
その禅宗は七世紀に南宗と北宗に分裂した。北宗はまもなく滅び、以後南宗のみ栄える。道元が日本に招来した禅も南宗であった。  
等しく空の理論を共有するといっても、もともと宗派として聖典あるいは決まった経典をもたない禅宗では、般若心経を読む場合がいちばん多いという。そしてその代わりに、この宗派ではよく公案を読んだり出したりするのである。「公案」とは、昔の偉い禅者の言動を記したもので、お手本という意味合いにも取れるし、規範的な文書とも解釈されると末木文美士がいっている(『碧巌録を読む』前掲書)。つまり、修行者がそれに解答を出さなければならない問題集なのである。禅宗では、空論の議論を深めるよりは、個々の修行者の心構えということをもっとも大切にするのだ。末木によれば、「禅の究極的なあり方は、いろいろ求めてさまよい歩いてきたが、その段階を抜け出して、もう求めるものは何もない、自由自在な境地に至ること」である。  
道元が中国で学んだ禅は、言葉を介することなく直接ものに接して覚るという方法で、そこに空の思想の基本が示されていた。  
一般に禅では言葉を重視しないといわれているが、それは間違いだと末木はいう。禅宗ほど言葉にこだわる宗教はないのだと。世界(真理)には、言語で表現できる世界(世俗諦)とできない世界(第一義諦・真諦)があって、真理のことはまず世俗の言葉で語りはじめないとはじまらないが、第一義的なもう一つの世界の方は言語表現を超えた覚りによってしか体得できないということを竜樹が述べているのはすでに言った。禅はその気合をとても大切にする教えである。例えば禅の問答では、世間でいうように、あるものが存在するとも存在しないともいえない。そんなことを離れて、理屈抜きでそこに真理があると語れば、それでもう「禅の言葉」は使命を終える。禅では、言葉を超えたところにある真理を言葉で示すことがまさに求められているのだから。禅のなかには、そんなとても分かりにくい形で、「空」の実体はあると同時にないという思想が顔を出しているのだ。事実、「本来無一物」と説く南宋禅の何でも否定あるいは何事にも無関心という生き方が、逆に、現前世界はそのままで円満なのだから、慈悲の実践など無用だという態度を生みかねないという根強い批判がある。かって鈴木大拙は、「宗教は道徳ではない。我というものが大切で、自由自在で物事に囚われないという呼吸を会得することだ」また「禅宗は断じて哲学ではない。その基礎は心理学に置かれている」といった(『禅とは何か』一九二八年)。彼によれば、自分が世間に対処していく呼吸を手に入れるために、禅は、場合によっては、社会的価値から外れた、社会にとって危険で反道徳的なシロモノにもなりうるものである。空というものはまことに分かりにくい。  
鈴木大拙の正覚(覚り)がどんなものであれ、末木がいう求めるものがもう何もない自由自在な境地も、よほどそれに近いのではあるまいか。  
竜樹が大乗仏教の基礎的な理論として打ち立てた空の理論(空観)は、大般若経を研究して得たものであった。大般若経は一世紀のころできた一連の経典の総称で、ぜんぶで六百巻にも及ぶ膨大なものである。大乗仏教が起こったのもちょうどその頃であって、般若経はいわば大乗仏教専用の経典だったといえる。それまでの仏教はまだ原始的な状態にあったともいえ、釈迦の死後、まだ師の記憶を失わない弟子たちが残した説法を経典としていた。  
しかし、釈迦が死んで何百年も経った竜樹の時代につくられたもろもろの経典はすでに性格を変えている。ここでは、釈尊(釈迦)は観念的・理想的な存在として現れるのである。もともと菩薩は仏になる前の修行中の釈迦だけを指した言葉であったが、いまや慈悲の念をもって生きとし生きるもの、衆生を苦しみから救おうと、理想としての釈尊を目指す者は誰でも菩薩であり、仏になれるのであった。利他行為を実践する人は、出家も在家も問わぬ、みんな菩薩と呼ばれる。なぜなら大乗仏教は一切衆生を成仏させる教えだからである。慈悲に基づく菩薩行はだれでも行うべき行で、凡夫も実践すべきものであるし、至らぬところは諸仏・諸菩薩に帰依して、彼らもその力によって実践を果たし救われる(成仏する)ことになる。大乗仏教では、三世十方(時空を越えありとあらゆるところ)にわたり無数の諸仏が出世したと報告されるに至った。彼らが体得した一切が空であるという境地を「無常正等覚」という。つまりは覚りであり、菩薩になった標である。時空を超えたところにいる、それら無数の仏たちが存在するかどうかが問われることはもはやないらしい。 
 
般若心経

つぎは、竜樹がそこに空の理論を見出した般若経を見る順序である。  
私 た ち 日本人のなかで、『般若心経』を知らない者はまずいまい。「色即是空空即是色」というこの経のさわりの文句を聞いたことがない人はもっと少なかろう。その意味だってたいていの人が心得ていて、「色や形のあるものは無常なものなのだから、それらに執着するのはやめるべきだ」という風に理解しているだろうと思う。わたくしもそうである。しかし、立川武蔵によると、それは違うらしい。元々はそうだったのだが、この経典が中国から日本に渡るうちに変わってきて、いまは「色や形のあるままにもろもろのものは真実である」と理解するのが正しいのだという。  
空はどこかへ行ってしまった。詳しくは中村元の解釈をこのすぐあとで引く。それを「諸法実相」というが、私たち凡愚のこの言葉の理解は、いぜんとして古代インドでこの経典がつくられた当時のままに取り残されていて、色や形など実体でないものに関っても無駄で、実体であるものの本質だけを見つめなさいという教えととっている人が多いだろう。しかし、諸法実相とは、中村によれば、「諸法が互いに合依り相互に限定する関係において成立している如実相を意味し、縁起と同義である」ということになる。  
最澄はこの言葉をはなはだ愛用した。もろもろの法(現象)が真理のあり方をそのまま示しているという考え方で、それが日本天台の根本思想になったのである。そうして、それはそのまま前に述べた天台本覚思想として私たちが理解しているものでもある。  
本文わずか二百六十二文字の小さな経典『般若心経』が日本人のあいだでいちばん人気があるのはいまに始まったことではなかった。すでに江戸時代には、一口に「習ったお経は心経に観音経」というくらい人びとのあいだに広まっていた。「めくら心経」というものさえあった。無筆つまりあきめくらの人にも読めるようにと、文字の代わりに絵でもって全文を示したもので、大きいとか優れたという意味の「摩訶」(マカ)は釜の絵を逆さに、「般若」は般若の面の絵でという具合なのである(金岡秀友項校注『般若心経』)。もっとも角を生やした恐ろしい顔の「般若の面」と清らかな心経とはどこで結びつくのかが分からなかった。不思議に思って、広辞苑を引いたら、それは般若坊という名前の能面師が打った鬼女の面から来ているのだそうである。ただしそれにも異説があって、馬場あき子は般若心経の「般若」すなわち「悟りの知恵」をこの恐ろしい鬼女の面に見ている。いかにも文学者らしい解釈ではあるが、仏の知恵によって解脱したいという嫉妬に狂った女の切なる願いが込められていると考えるのである(馬場『鬼の研究』一九七一年)。  
人気の秘密の一つは短いからだろう。ほとんど意味も分からない漢語を読み下すのも、慣れない筆で写経するにも、二百六十二字ならさほどの辛抱を要求しない。しかも、なによりも全六百巻という大般若経を三百語たらずに圧縮したエッセンスともいうべき有難いお経であるからには。とはいうものの、いくら真髄だけを述べたといっても、たったの二百六十二語では短縮するにしても少し度が過ぎている。省略された言葉のつながりが分からなくて内容を理解するのに苦労するだろう。そこで、古来、心経には数え切れないくらい注釈書が書かれたのだった。人びとの関心の深さもさることながら、その一語一語がなにを意味しているかを、その背景とともに、教えてもらう必要があったのである。  
今日、日本で一般に読誦される般若心経は、かの三蔵法師玄奘の漢訳による『仏説摩訶般若波羅密多心経』(通称『般若心経』)である。私たちはそれを主として金岡秀友校注『般若心経』(講談社学術文庫本、二〇〇一年)によって見ていきたい。「般若」とは、人間が本来もっている浄らかな心、浄らかな本性のこと。金岡は、般若心経を「真実の知恵の経」と定義し、「人間本来の浄らかさを、さまざまな修行によって、充分に発揮し完成させる」ための知恵を説いたのがこの経だという。もっとも重要なことは、実践に結びつかなければ般若ではないということ。実践には五つあって、布施、持戒、忍辱、精進、禅定をいう。前の四つは説明の必要もないだろうが、最後の「禅定」というのは、精神を安定させるための修練である。この五つの実践が完成してはじめて最終的に般若が完成するのだ。完成の形の般若を加えた六つが「六波羅密」である。六波羅密の達成は基本的には誰にも可能である。般若心経の背景には、「一切衆生悉皆仏性」つまりすべての人に仏の性が備わっているという思想があるのだ。または「一切衆生心本来清浄」とも。私たちは、前項で述べた竜樹の空の理論のなかに、実践的な仏法を目指す理性の働きを予感した。金岡の解説を読んで私たちが感じるのは、般若心経がまさにその空観の真髄を語っているらしいということであった。  
この経の本文は、観自在菩薩すなわち観音さまが舎利という釈迦の弟子に向かって空の真理を説き明かす趣向になっている。すでに釈尊が直接弟子たちに説くという古い形がすたれ、数万だか数十万だか知らないが、無数にいる仏や菩薩が劣った者たちに真理を説くという大乗仏教に特有の形になっているのだ。「観自在」という名は、真理と現実(現象)のあいだに区別を立てず、そのありのままの姿に真実を見る自在の境地にあるということを意味している。  
最初の部分の有名な文句「色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり」の中村元の解釈「実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。  
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。およそ物質的現象というものは、すべて実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである」を金岡が紹介している。色とは、形あるいは形として人間の五感上に顕れるものを指し、実体ではないが、西欧哲学では、普通はその裏に感覚を呼び覚ます実体(物自体)があると観念されている。中村のこの解釈は、現代風な言葉で表された精一杯の空理論の絵解きだろうと思う。「空」は、ここではたんなる空虚(からっぽ)から真理を示す語に進化しているのだ。現実にとらわれず、しかも現実を重視する立場こそ、般若心経が明かす空観の立場である。  
般若心経はいう。眼・耳・鼻・舌・皮膚の五感で感じるすべてのものには実体がない。心に思うことにもない。物事を知ることつまり自分の意識も実体ではない。覚りの入口にも達せずなんにも知らない愚かな状態を「無明」というが、人が無明であることもないし、その人の無明が解消するということもない。なんにもないという真理を知ることこそ般若波羅密多すなわち知恵の救いであると。金岡はそれを「無一物無尽蔵」が般若の心であると表現する。過去・現在・未来の三世に出現する無数の仏たちはみなその心を覚知し、ひたすら人びとに救いの道を示す。そうして、最後に心経は真実の言葉、無上の真言を誦すことを勧める。「ガーテー、ガーテー、パーラサンガテー、ボーティー、スヴァーハー」と。これは呪(マントラ)であり、だから梵語のままであり、漢語に翻訳してはいけないものであるとされた。疑ってはいけない。  
この境地こそが「無上正等覚」なのだから。このマントラの意味を、金岡が引く渡辺照宏訳で見よう。「到れり、到れり。彼岸に到れり。彼岸に到着せり。悟りめでたし」内 外 の 数ある般若心経の注釈書のなかでもっともユニークなのが弘法大師空海の『般若心経秘鍵』だと金岡はいう。昔から日本の高僧たちは経典を自在にというか、かなり恣意的に読み解くのを習慣としてきた。自由かつ自在な解釈が、仏教をこの国独自なものとして定着させるためには必要な作業であったのかもしれない。親鸞もそうだったというが、なんの智慧も計らいもいらないという念仏の信心が易行とされるけれども、じつはそれがいちばん難しいのだということを親鸞はもちろん知っていただろう。  
その困難な成仏あるいは覚りを得るには神秘的直感つまり呪術的な力を必要とする。空海は仏の知恵は翻訳不能だと知っていた。  
だからこそ、般若心経の最後の数語が「呪」すなわちマントラと呼ばれたのだった。真実を明らかにするには、一切の苦を取り除く呪あるいは真言(マントラ)の不思議な働きがどうしても入用だ。弘法大師はいう「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。  
一字に千理を含み、即身に法如を証す」と。  
 
神仏習合・本地垂迹そして浄土教

いささか三題噺めくけれども、ここに挙げた三つの概念は、思想史の上から見た日本仏教の特徴の一端をよく示していると思っている。  
末木文美士『日本仏教思想史論考』(一九九三年、前掲書)によると、一般に仏教学の主流は文献を中心にしたインド仏教研究にあり、日本仏教学は傍流にすぎず、研究業績もごく少ない。むしろ仏教学の一分野であるはずの日本仏教史のみが独り歩きしており、国史学の一部と見なされて、仏教学者ではなく歴史学者の手で研究が積み重なられてきたのであった。したがって日本仏教史は、実証主義的・客観主義的な歴史学の方法を用いるのが主流で、その限りでは、日本思想史の一分野として遇されるに相応しいといった方がいいのかもしれないが、教理思想の研究を中心とする本来の仏教学の立場からすれば、とても満足できるありさまではないと末木はいう。  
ここで私たちが取り上げる日本仏教は、いうまでもなく実証主義的・客観主義的な歴史学的方法で絡めとった現象だけで、日本人の考え方というか思想の流れを読み取るのに役立てばよいのである。もちろん、宗教としての仏教をそれだけのものと考えるわけではないけれども。しかも私たちの生活のなかにある仏教が外来のものであるかぎり、それが同化する過程で蒙った独特のかたちを見る必要があると思う。とりわけ、それが歪んだかたちだったらとくに。  
村山修一『本地垂迹』(一九七四年)は、この問題を扱った歴史書である。神仏習合という概念のもとに一括されるこの現象は、もちろん日本独特のものとはいえず、強大な伝播力をもつ宗教が一地方に浸入し、そこの原始的・土着的な宗教を征服することは珍しくもなんともない。三大宗教を構成するキリスト教とイスラム教と仏教とが、世界をほぼ三分していった歴史がそれを雄弁に物語っているだろう。六世紀半ば、仏教が中国から新羅を経由して日本に渡来して以来、この国の土着の信仰がそれに呑み込まれていくありさまを、私たちは「神仏習合」といいならわしてきた。  
和銅三年(七一〇年)に奈良の都ができる以前の飛鳥・白鳳時代代には、仏と神祇とはまだ相拮抗していたようである。六世紀から七世紀の初めにかけて、聖徳太子が現れて仏教をこの国の本としたことはあまねく知られているけれども、それでも天皇はまだ呪術者とし君臨していたし、天武天皇などはことさらに陰陽道を重んじて、その呪いの力で神仏を接近させようと図っていたと村山はいう。呪術的儀礼としてのわが国固有の祖霊信仰がそこに一つの強力な役割を見出したに違いなく、なによりも支配者が奉じる宗教には、五穀豊穣・長寿延命・国家安寧といった現世ご利益の効用を欠かすわけにはいかないのだった。奈良時代に入ると、神仏習合ははっきりと仏教の勝利というかたちを取ってたち現れる。若狭比古神宮寺が建立されるのは七二〇年前後のことだが、これがきっかけとなって、次々と仏と神を一緒に祭るかたちの神宮寺がつくられるのである。例えば、少し後にできた伊勢神宮寺のご神体は、天照大神・日輪・大日如来・盧舎那仏とされ、それらが合体した一つのものであると考えられたのだった。あたかも東大寺大仏の造営が国を挙げて行われていたときに当たり、勧進元である行基も伊勢神宮寺に参詣して造営の成功を祈念しているのである。  
だが、神仏同体思想について村山が注目するのは、若狭に神宮寺が初めて建立されたとき、神が煩悩の衆生と看做されていたことであって、この場合の私たちの土着神は、仏道を求め解脱を願う衆生の一人として捉えられている。もちろん仏法を守って慈悲を施す神という同等に近い捉え方もあるのだが、いずれにせよ、神は仏に従属しその恩恵を受ける立場にあることは変わらない。  
仏教をもって民の支配の道具とする権力者が、仏法をすんなりと受け入れさせるための方便としてそのような考え方を宣伝したのは頷けることであるけれど、それだけに仏教の定着とともに、今度は保守化というべき伝統の復活あるいは神の復権が目立ってくる。その流れをさらにもっともらしく理論化したのが「本地垂迹説」である。村山によれば、最初の神が衆生と変わらないもっとも低く見られた段階から、次に仏法の有難さを知ってこれを護ろうと眷族化した段階、最後に神仏同体へと神をもっとも重く扱う段階へと順次展開していって、本地垂迹説は完成する。だがしかし仏教をより深く考えるようになった私たちが、この三つの段階のどれをいちばん身近なものとして考えているかは、一概にはいえないだろう。  
本地垂迹とは、仏陀が衆生を済度せんとして、種々の日本の神に姿をかえて現れるということである。もともとはインドに起こった考えであるが、大乗仏教が起こって釈迦すなわち仏陀に理想的・絶対的な性格が与えられたことは前にもいったけれども、それ以来、仏陀には、理想的な像と、弟子とともに生き教えを説いた歴史的ないわば生身の存在の二種類の釈迦がいることになった。  
歴史的な釈迦という存在は、いまもって普通に私たちが考えているように、私たちのように生き、弟子や衆生に交わり、直接教えを垂れた人間であるが、釈迦が死んで数百年たつと、そのあり方は、実は、この世のものでない理想としての釈迦(仏)の化身または垂迹だったという考えが生まれてきたのだった。その場合の理想像が「本地」と呼ばれる。  
大乗仏教では、仏を三身にわける。すなわち法身・応身・化身である。法身は仏の理想像であり、応身はその仏が衆生に説教するとき現実に現す姿をいう。応身は報身ともいわれ、この場合は、修行が報いられたという意味で仏の智慧が表面に出た表現となる。また法身・応身・報身を仏の三身とする見方もあり、それぞれの解釈が可能である。化身は相手や場所に応じて自在に姿を変えることをいう。そのあとの二身が「垂迹」である。だから本地垂迹説が受け入れられるには、大日如来にしろ、観音にしろ、なによりもまず超人(絶対的存在または理屈からいっても唯一神である実在)としての仏あるいは仏陀を前提としているわけで、実体をきっぱりと否定する大乗仏教の根幹であるはずの空の理論との間に噛み合わないところが生じることはすでにいった。  
奈良時代の神宮寺に先立つ、神仏習合のいちばん早い例は、五世紀に創められた豊前国(福岡県)の矢幡八幡宮だという。この宮の神官は僧形をしていたのである。六世紀には宇佐八幡宮にも僧形の神官がいる。ただし宇佐八幡宮に入った仏教は道教と陰陽道がミックスしたものだったらしい。神仏習合は民間との繋がりが濃いだけに、官製の仏教からみても神仏習合を地で行く八幡伸は侮れない影響力をもっていただろう。東大寺大仏の勧進に際してはそれが大いにものをいったので、膨大な八幡神からの寄付がなかったら、はたして造営に成功したかどうか分からない。神社と護国寺が一体となった宮寺では、神官は公式に妻帯し、半僧半俗形式が行われるが、この形式は、公卿紀氏一門が独占する石清水八幡宮の神官に始まる(村山、前掲書)。八幡社のご神体は、権現菩薩つまり菩薩であると同時に権現という形である。権現とは、仏あるいは菩薩が衆生を救うために種々の身や物となって権(かり)に姿を現すことをいうのだから、この習俗は、その土地々々で祭る神祇が異なっても、垂迹の本地はどこでも同じという神仏習合思想の新たな展開があったことを意味すると村山はいう。そうして、それはもちろん政治の犠牲者の祟りが、疫病や自然災害の原因と結び付けられた御霊信仰の発展とも深い関係がある。菅原道真が権現となった北野天満宮の例を思い起こせばよい。そのもっとも早い祟りを祓う儀式の例が八幡社に始まった放生会だった。もともとは神に捧げる生贄を神聖な日まで生かしておくための池に、殺生を避け、生贄を放してやったのがその儀礼の始まりだったのである。  
時代は降り、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたすぐあとの一一九〇年、公顕が天台座主の地位についた。この人物が、われら日本人の先祖である神祇に極楽往生の道を祈るのが、あらゆる本尊に祈るよりまさっていると、臍の緒きって初めて言い出したのだった(村山『本地垂迹』前掲書)。六世紀の終わりに聖徳太子が仏教を日本の本と定めてから六百年を経て、ほかならぬ仏教徒の親玉の口から、ついに神が仏の上に立ったと公に宣言されたのである。  
もとより公顕は特別な例だったということはできる。でも、比叡山延暦寺に付属する日吉山王権現が仏と同一であるとの主張は、これをきっかけにどんどん形を整えることになる。いわゆる山王一実神道である。公顕から二代あとの座主となった慈円でさえ、「神は仏の道しるべ」と詠ったくらいだ。十三世紀になると、とうとう大日如来の本国はわが日本だということになってしまい、その証拠として、日本国という号がそこから出ているといわれるまでになる。一三一八年頃に纏められた叡山百科全書ともいうべき書では、日本の神と大日は同じで本地だとされ、釈迦がその垂迹になっている。ついに「釈迦と日本の神の地位が逆転して、神が上位におかれた」のである(末木『日本仏教思想史論考』前掲書)。ちょうど同じころ、『三輪明神縁起』という書が現れ、両部神道と呼ばれる真言宗の神道ができあがる。一三一八年は、奇しくも日本最後の古代的・専制的天皇であった後醍醐天皇が践祚した年である。一二七四年と八一年の二度の蒙古襲来の国難を凌いでからほぼ三十年、この国には神国思想が定着しつつある。鎌倉幕府が倒れて、つかの間の天皇親政が実現するまでには二十五年あまりある。いまや叡山をはじめ日本の各寺に得体の知れない神々が祭られ、公式な仏教儀式の一部になっているのが当たり前になっているのだった。  
神仏習合と並んで日本仏教に特異な味わいを添えているのが、浄土信仰である。もとより浄土信仰は中国から伝来したものだけれども、ある意味で、それは唯一とはいわないまでも、数少ないこの国が生んだ独創的な思想だから。浄土教は律令時代にはすでに日本に伝わっていて、当然のことながら御霊信仰や神仏習合とも関りあっている。その流れに着目し、日本思想史にかかわってくる浄土教信仰の発達を跡付けることを日本史研究の領分と認めた研究者は多い。そのなかでもっとも優れた業績の一つに数えられるのが、井上光貞『日本浄土教成立史の研究』(一九五六年)であることはだれしも認めるに違いない。その証拠に、この本は永い絶版のあと一九八二年に再版される。いま私たちがたやすく読めるのはそのおかげである。明治の元勲井上馨を父にもつ史家井上は、英国風の手堅い実証的な研究方法を特色とする。いまでも私たち日本人の精神形成に大きな影響力を及ぼしている浄土教を、信仰の立場からでなく、対象として突き放し、いわば客観的・科学的な立場で研究した点で、それは出色の仕事であった。井上が彼の研究をいまなお現代人のなかで生きている信仰としての鎌倉期の浄土教まで追わず、その入口までの成立史で留めたのは、一つには、その方法の限界を認めたことにあったかもしれない。もちろん鎌倉新仏教各派へ研究が及んでいないというのではないが、教祖無謬の立場に立つ宗論の歴史主義的理解と科学的・実証的な歴史学が一致点を見出すのはますます難しくなっている。その上、天台本覚思想から日本美の発見と賛美に掏りかえるご都合主義の文芸評論にいたるまで、阿弥陀信仰と浄土教をめぐる言挙は、世俗化と頽廃化の度合いを深めて、いかにもややこしいありさまになっている。浄土教成立までの研究が古代史家の手でなされたのは適切なことだったとしても、それ以後の浄土教および仏教各宗の研究は、歴史学の手を離れ、日本仏教学の手に移るのが筋というものだろう。  
律令時代の阿弥陀信仰は死者への民俗的な儀礼と区別がつかず、浄土教の展開とまではいえないと井上はいう。当時、人びとはまだ現世を厭うという感情を知らなかったから、極楽浄土へ行こうと望むこともなかったのである。聖徳太子が亡くなったとき、橘夫人の願いでつくられた緞帳の銘文に、太子が「天寿国」に生まれかわったとありそれが往生思想のはじめとされているけれども、天寿国が阿弥陀仏の極楽浄土だとは考えにくいのである(大野達之助『上代の浄土教』一九七二年)。様子が変わったのは、前にも村山の記述で紹介したが、奈良時代に入ってからだった。追善のために呪術を頼んだりしたのは、病や災難がだれかの祟りと思ったからで、いわば他人にした己の仕打ちへの悔恨がその動機だったので、禍を祓うという意味では、人びとの信仰はまだきわめて現世利益中心だったわけである。支配層を独占する貴族が大いに繁栄を謳歌した奈良時代に、悲観的な浄土教は似合わなかった。 
浄土教がしずかに浸透していったのは、南都六宗の閉鎖的な僧綱の社会だった。井上によれば、まず東大寺の三論宗に広まり、ついで同じ東大寺の華厳宗系統の僧たちに伝わり、法相宗の興福寺でも平安時代初期には浄土教を迎え入れた。私たちがいま浄土教の特色としている凡夫易行(むつかしい学問や修業をしなくても成仏できる)は、当然のことながら、勉学難行が商売である学僧たちの間ではまったく問題にはならなかった。平安時代の貴族たちはまず教養として彼らから浄土教を学んだ。だから極楽往生のために、いろいろな行を修め、功徳を積むのは当然のことだったのである。  
十一世紀初期、いわゆる摂関政治の形が頂点に達した藤原兼家・道長の時代から後期の頼道の時代が浄土教の発達と重なっているのは、ちょうどその時が、日本社会とりわけその政治のあり方の転換期にあたったからだった。この時期の浄土教を井上は「藤原時代的浄土教」と呼んで、私たちが親しんでいる法然の「浄土教」と区別する。その中身は天台浄土教であるが、法然の浄土教と違う点は、念仏がもっとも大切なものであるところまでは同じでも、往生を確実にするためには、諸行をきちんと修めるのも欠かせないと考える点である。貴族社会に盛んだった天台浄土教が、戒行やもろもろの功徳を是認していたことには、法然教との違いを見るうえで非常に大きな意味がある。荘厳を極めた阿弥陀堂をつくり、往生決定に必要とあれば、いかなる準備も抜かりなくするなどということは、財力や権力のある貴族や僧侶にしかできることではなかった。さまざまに違った念仏の仕方、日常の生活と心構え、弥陀を拝むさいの準備や作業の作法など学僧源信らが事細かく規定できたのも、特権的な貴族階級と高僧たちが理論とさまざまな仕来りを完成させていたという事情が背景にあったからだ。いずれにせよ、それは庶民的な宗教の形からは遠く離れたものだった。  
その反面、平安京の主として君臨する藤原氏のもとで、浄土教に帰依した平安時代末期に生きる文人たちに特徴的だったのが社会にたいする鋭い批判精神だったと井上はいう。すでに身分制度の固定化が進み発展も望み薄になった平安期社会では、支配層を形成する貴族全員にポストを保障することはできなくなっている。  
律令的身分制が崩れてこの方、有力貴族の家に生まれても、次男、三男ともなれば朝廷に出仕することも適わず、出家して宗教の世界で生きる道を探るのが当たり前になっている。まして貧乏貴族の家に生まれるか、絶え間ない権力闘争に負けでもした日には、出世の望みははなから諦めるしかなかったろう。そんな下層貴族の間では、なまじ教養があるせいで、社会にたいする不平・批判が強まっていくのはやむをえないことだった。浄土教は、政治の場で用いられる儒教や道教の唐風を嫌い、好んで俗語である日本語を使うような、そんな鬱屈した彼らの心を捕らえた。たしかに道長や世に時めく藤原一門の浄土教への打ち込み様は目覚しかったが、不平不満の種がない彼らの信仰にはどうしても現世利益の色合いが濃く、厭世の意識は低いだろう。厭離穢土・欣求浄土をいう浄土教の念仏の本当の主役は、あくまでも不満を抱く下層貴族だったという井上光貞の着眼は鋭い。  
それに伴って、平安時代にあらゆる階層の人びとを捕らえた「無常」という言葉の意味の変化に、時代の変遷がもっともよく表れている。インドに発した根本仏教もしくは原始仏教では、無常とは「常住」(不変なもの)がないこと、「生者必滅」ということであり、確かなものはどこにも無いということの詠嘆的な表現だった。その原始仏教時代末期に竜樹がつくりあげた空の思想(空観)の中身を私たちは縁起説といっているが、それは私たちが普通理解するような時間のなかで生起する因果関係のことではなくて、時間もなく、始まりも終わりも、原因も結果もない、ただこの瞬間に対立しあるいは絡み合うたんなる相互依存関係を意味するだけである(「空の思想」前述)。しかしながら、もともと機械的な  
関係だけを意味する空観もまた、時代とともに変容していって、その時々に世間で行われる仏教のなかで少しずつ違う意味をもつようになった。平安時代にはじまり今もそのままに理解されている「無常」は、井上によれば、いまでは業感縁起説というべきものに変化しているのだった。過去の宿命が私たちを律しており、それを覆すことなどとうていできないという諦めの感情である。  
この宿世が過去の業の報いとしてあらゆる人びとの生活を支配しているという、不平不満に凝り固まった文人たちから始まったこの手の無常観が、いまでは宗教的なものに関心を示すほどのごく普通の人びとの間に広く深く広まってきている。その悪縁を解消してあげましょうというペテン紛いの現世ご利益宗教とともに。  
鎌倉時代には、それらはあげて末法思想というものだった。「末法」あるいは「末世」とは、釈尊の生きた世を隔てるにつれて仏法は次第に衰え、ついには滅亡するという思想である。一般には、釈尊の入滅から数えて千年日から仏法が衰えはじめ、さらに仏法が有効に効かなくなるその千年が終わると、それから一万年続く末法の世に入るといわれる。最初の千年を「正法」といい、教・行・証とされる仏法実践のうち、釈尊の教えに従って修行して覚り(証)を開く仏法が正しく行われる時期である。つぎの千年を「像法」と呼び、教えと修行は行われるけれども、もはや効験衰えて覚ることはできなくなった時期をいう。その後に来るのが、三つとも無くなった「末法」というわけである。  
この国に「末法」をはじめて紹介したのは奈良の僧安澄で、八〇七年に発表した注釈書に六つの説を挙げた。もとより根拠のない話なのだが、安澄自身は「正法千年・像法千年説」を取っていて、法相系がこの説を踏襲している。一方、三論系の僧たちの間では、「正法五百年・像法千年説」が採用され、この両説が対立していたという。だいいち数える発端となる釈迦が死んだ年がいつかもはっきりしていない。通説では、ある文献に従って、釈尊入滅を紀元前九四九年とする。それだと正法・像法各千年説では、後冷泉天皇永承七年壬辰すなわち西暦一〇五二年が末法に入る年に当たるのであった(田村『日本仏教史三』前掲書)。ただし、十二世紀までは、末法思想といっても、南都の寺院のなかだけで囁かれる異説の一つにすぎず、教法にも変遷がありうるという至極もっともな話に終わっていたのである。だが、末法入りが現実のものになった一〇五二年にはそうはいかなかった。それは浄土教の盛行と関係があるだろう。社会制度の乱れを嘆き、先行きの生活に絶望した人びとが増えるにつれて、この世は末世だと感じる人の数が増えた。これから何か悪いことが続発する、この世の終わりは近いなどと現代の週刊誌なら派手に書き立てるところだったろうが、当時だって、クチコミで広まり、とうとう末法に入ったというニュースは人びとの話題を浚ったに違いないのだ。あたかも道長の子、ときの関白藤原頼通が平等院を建立する前の年で、まだ藤原摂関政権は弱みを見せていないが、衰運は忍び寄っている。それから十五年、一〇六八年に即位した後三条天皇が横暴な藤原家のやり方を好まず、代々藤原家の血筋にきまっていた皇后をわざわざ他の家筋から立てた。その後を受けた白河天皇も藤原家に好意をもたない。苦労人の後三条にくらべてかなり人柄が劣る白河はまた、摂関家などには鼻も引っ掛けず、極め付けの無責任体制といえる院政をこの国に初めて起こした君主でもある。天皇在位十年、法王になってから実に四十数年も権力の座に居座り続け一一二九年に死んだときには、摂関家の権威は見る影もなく、おまけに法王がほしいままな振舞いを続けたむくいが、政治をすっかりおかしくしてしまっている。末法はまだとば口に入ったにすぎないが、廷臣たちはすっかりやる気を失くし、代わって野望に燃える武士たちが政権への欲望を実現させようとしている。下克上の始まりである。一一八五年に平家が壇ノ浦で滅亡、源平の争乱を経て鎌倉幕府が誕生するまでの百三十年間は、それこそ絵に描いたような末法の世だと人々は思った。頼りにしてきた古代的な秩序と、もろもろの価値がみごとにひっくり返った時代だったのだから。  
北条政権に代わった鎌倉幕府の時代を生き、権力に楯突き一二八二年に死んだ日蓮はとりわけ強く末法思想の影響を受けたという。同じ時期に興りたちまち庶民の心を捕らえた浄土教にとって、この世の終わりが近いという考えほどよい肥やしになったものはなかった。見渡せば、悪業も災害ももう当たり前の世の中になっている。自分では死ぬまで堅く戒律を護った法然が、それまでの仏教に比べればとんでもなくラディカルな専修念仏教についたのも、それが末法の世に唯一相応しい宗教だったからだった。どんな修行も無駄だし、成仏の可能性もまったくない末法の世に、従来の仏教は役に立たない。まして行いすました浄かな高僧の説法などなんの助けにもならない。しかも人びとの苦しみは彼らが背負った宿命の結果だから、それに対処するための唯一の手段は、無駄と分かっているからこそ、使い勝手がよい専修念仏あるいは一向専修しかなかったのがよく納得できるのである。でもその前に、まず悪業の報いというやつを見極める必要があるだろう。  
藤原摂関政権が頂点に達しようとしている九八四年に源信が著した『往生要集』くらい、その要請によく応えた書物はなかった。『往生要集』は藤原時代的浄土教の特徴をもっともよく伝えるものでもあったと井上はいう。念仏は勧めたけれど、源信は専修念仏の肩をもったわけではなかった。貴族社会の一員である天台僧として、彼はもろもろの修行や功徳の大切さを認め、その上での念仏こそもっとも効果的なのだといっているのだから。彼がいう念仏は、ただ唱えればいいというものでもない。阿弥陀仏の相好を心に浮かべながらの念仏でなければ意味がないのであった。  
これを「止観」という。そうして、すべて天台宗から出ている鎌倉新仏教の始祖たちでさえ、のちにそれを捨てたとしても、それらの行の意味についてはよく心得ていたのだった。一生を浄かな持戒僧として送った法然の生き方がそれを示している。自分個人の意識の問題としてなら、難易にかかわりなく、行というものを彼らがおろそかに考えていたとは思えない。新しい浄土教のまぎれもない先駆者としての源信に宿っている、それ以前の、いってみれば、古風な浄土教の面目を見逃すべきではない。宗教から自分を見詰める厳しさが失われたらどうなるか、つね日頃、巷のいかがわしい新興宗教を見てうんざりしている私たちにはよく分かっているはずだ。自分ひとり極楽浄土に生まれかわりたいと願うのは、利己主義ではないのかという非難が当時実際に中国にあったという(中村元『往生要集』一九八三年)。その意見を裏付ける経典もある。だが、日本天台ではその疑問を受け付けない。天台の学僧である源信も、極楽を願う者の心には必ずや利他の願いが起きると答えるのである。中村によれば、極楽往生の利他主義を明言したのは、実に、源信が始めてであった。  
井上の研究によれば(『日本浄土教成立史の研究』前掲書)、源信が『往生要集』を書いた動機は個人的なもので、彼が主催する極楽往生を遂げるサークルのための往生手引書としてつくったのだった。この手引書を著す前の約二十年のあいだ、彼は勧学会という往生決定のための団体を慶滋保胤とともに主宰しており、それは一緒に往生を果たそうとするただの同好会にとどまらず、仲間の死に際しては、全員で手を尽くして往生に導き、死んだあともなお故人との結びつきを信じる強い精神的絆を保った団体だったという。勧学会が解散し、つぎに新たな二十五三味会というサークルが誕生したときにこの本が出来上がったのだから、これこそ彼の二十年来の経験と新たな念仏会のためのきわめて実践的な実地念仏指南の書物だったことが分かるのである。源信の浄土教は、あくまでも貴族社会のためのものだった。実際に、鎌倉・室町時代を通して貴族社会で行われた浄土教は、法然が立てたような庶民的な浄土教とは違う。例えば、花園天皇や九条兼実はもとより、足利義満・義正なども浄土教に深く帰依していたけれども、彼らの浄土教はあくまでも貴族的な諸行を重んじる観念的な念仏であって、一向念仏には好意をもっていなかった。  
つまりこういうことだ。同じ念仏行でも、「聖道門」つまり自力で成仏する道と、「浄土門」つまり他力で成仏する念仏専修の、二つの浄土教があったのである。貴族たちは財力も知識も人手もあり、そこで学識豊かな僧侶から手引きしてもらえる寺院との付き合いもある。それらはいわば自分の力で獲得したのだから、なんにもない他力本願しか手のない貧乏人といっしょにしてもらっては困るわけだろう。一般庶民を対象に、法然や親鸞や一遍が開拓したもう一つの浄土教が別のものであるかぎり、それはまた、おのずから別の問題を孕むのである。  
一〇一七年に源信が死んでから八十年あまり経った一一〇三年、良忍という一人の天台僧が大原に隠棲して、融通念仏という新しい浄土教を起こしたのが一一二四年である。あれほど全盛を誇っていた藤原摂関家の権威はすでに地に落ち、世は白河院政の時代になって久しい。天台浄土教の僧たちは、貴族や新興の武士たちが金にあかしてきらびやかな阿弥陀堂をつくり、独りよがりな耽美的観想に耽るのに迎合して、おべっかを使うのに忙しい。かって源信らがその学識を謳われた天台の学問もいまは地に落ちてみる影もない。一方で武力を蓄えた堂衆に牛耳られる教団は、白河法皇の身勝手な干渉のせいで分裂し、互いに血で血を洗う抗争を繰り返している。「まじめな宗教生活など営みがたくなった叡山から、源信の法系につながる浄土教家たちが、つぎつぎと叡山を離れて別所に隠棲したり、教団と離れた布教活動をはじめたりした」のは当然で、前代の浄土教家の精神はむしろ「教団から分かれていったそれらの人びとの中に伝わってゆく」と井上は述べている。  
大原がそんな人たちの最大の隠棲地になった。私たちは、良忍が立てた「融通念仏」といわれるもののなかに、鎌倉期の浄土教にいたる道筋を見る。その思想は、井上によれば、「一人の念仏と衆人のそれとが互いに融通しあって往生の機縁となる」(一人一切人、一切人一人)というものだった。つまり、当時の天台流念仏が独りで唱するのをよしとしたのにたいして、念仏者たちの同行関係を重視したもので、個人的に阿弥陀仏に帰依するのでなく、同行者同士が誘い合って弥陀を慕い念仏することを通して、自力の念仏と他力と慈悲とを両立させる思想がここにはっきりと打ち出されている。一一三四年に良忍が死んでから、法然が専修念仏を宣言したのがそれからほぼ四〇年経った一一七五年のことである。  
その五年後に源頼朝が伊豆で挙兵、時代はすでに後白河法皇の世になっている。 
浄土教の精神からいえば、神仏習合は必ずしも賛成できない。  
ひたすら念仏を唱えて阿弥陀仏一筋の宗教には、土着の神々を尊重しなければならない筋合いはないからである。事実、法然の教えを奉じた専修念仏信徒のなかのラジカルな分子は神祇不拝を激しく主張していた。ただでさえ念仏専修の徒に警戒を深めていた支配権力寄りの高僧や公卿たちが、その反動で、ことさら神国思想に走ることになった。しかし、実際には、日蓮をはじめ親鸞も一遍も、神や祖霊を敬うことをむしろ奨励した。それはもっぱら一般民衆の間に教えを広めていった彼らが、すでにこの国の社会に広く浸透していた神仏習合・本地垂迹の思想を否定する愚を避けたからでもあるし、場合によっては、利用さえしたからである。  
浄土教がしっかりと根付いた時点で私たちはあらためて、この国の宗教のあり方が神仏習合と分かちがたく結びついていることを確認することになる。時代が降るとともに、天台宗にも真言宗にも禅宗にも、はたまた念仏諸宗にも日蓮宗にもそれぞれ独特の神祇信仰が取り付くのを私たちは見るであろう(村山『本地垂迹』前掲書)。村山が挙げる十四世紀半ばにできた『神道集』に載る五十編を数える神社や寺院の縁起譚や、それらと関連がある数ある文芸作品を見れば、私たちはその荒唐無稽さに呆れるより先に、土着の神と渡来の仏たちとの、ただもう本能に導かれたというしかない無節操な野合ぶりに鼻白む思いがするはずだ。  
始祖たちの個性が大いに近代文芸を勢いづかせたという事実がある。最澄と空海、法然、親鸞、道元、一遍、日蓮らおよび名のある念仏者たちはすべて、文学者たちの創造力を掻き立ててやまない。それはおそらく私たちが宗教的な国民であるからではなく、私たちの日常生活のなかに、念仏や説教それらをテーマとした文芸作品を通して、彼らが発した言葉や彼らが示した行いが、ほとんどもとの意味も分からなくなった状態で、溶け込んでいるからにすぎないだろう。もともとインドに生まれた経典はどれも説話的であるし、言葉で足りないところは想像力でおぎなうように出来ている。注釈もあまり論理的とはいえなかった。それらが漢訳され中国に渡ったあともそれは変わらない。とくに空観についていえば、数えきれないくらいの注釈も、筋の通った説明を諦めて、意味を言外に含めるのをいっそ上等なことと考えたふしがある。  
日本に渡って、なお一層、書かれてある文言をそのまま尊重する風が強まれば、一方で都合よく自分勝手に解釈する風は横行しても、本来の意味を批判的に議論することはなおさらむつかしくなる。空観の内容はもうあまり哲学的な論議の対象にはならず、いわば慮外の意味、論理を超えた意味をなさない解釈として、批判的に語らないのが分別のあることとされたのだった。仏教が伝来の民俗文化と同化する過程で起こったのは、そういう事態だった。  
気鋭の仏教学者である末木文美士も松本史朗も、仏教の本質的な部分をよく語りうるのは文学だと考えているようである。もちろん、それは神仏習合の思想、つまり土着の信仰と真理の哲学とが切り結ぶ言葉と意味の領域にかぎっての話なのだが、文芸作品とくに能のテーマが無常を取り上げる場合には、両者はいかにも分かちがたく、ただもう文学的に解釈するよりない。始祖たちの個性がからんだ浄土教という一種のメルヘンと、天台本覚思想という論理がひっくり返った世界は、すでに文学としてでしか語れない部分であるのかもわからない。  
私たちは、法然によって変質した浄土教が、この国に独自な庶民の宗教を立てたことを高く評価する反面、言葉による説明を軽んじて、むりやり単純な原則に戻ってしまったのを詮無いことだったと思う。一向念仏は思考を停止したところに成立する宗教である。法然は元来たいへん論理的な思考に秀でた人だったという(田村円澄『日本仏教史三鎌倉時代』一九八三年)。でも煩悶し考え抜いたはてに、ついに現実からの解脱を果たした法然の回心は、同時に、一切衆生は念仏というただ一つの単純な行で十分だとする、考えることを軽んじる傾向を人々の心に呼び込んでしまった。たとえそれが末法における信仰を第一とする姿勢の結果であり、日本思想史上きわめて重要な意味をもつ事件だったとしても。  
仏教はいつも相互に解決のつかない議論をいっしょくたにすることで、いわば総合的な哲学としてあったはずだった。それを近世の武家中心の社会が、専修一向の念仏と怨霊を祓う行為に短絡させた結果が、日本の仏教を部分的にいびつなものにしている。  
もとより一向念仏と他力本願の浄土教ばかりが大乗仏教でないことはいうまでもないことである。神仏習合的仏教は多種多様で、とてもすっきりと統合できる態のものではない。おまけに儒教や道教もそれと分かちがたく結びついている。だが近世の念仏諸宗こそが、私たち一般庶民生活のなかの宗教的体験のもっとも大きな部分を占めていることを否定することはできまい。独り占めのその罪をいうならば、それは一向念仏であり、仏教が使う言葉の意味を単純化し過ぎることだったと思う。だからこそ私たちは、できるかぎり理論的であろうとしながら、多面的な経典のそれぞれに目配りし、しかもなお批判的に見ることもやめない源信の浄土教と、もともと同じ精神を共有していたはずの鎌倉新仏教の祖師たちの初心に帰るべきだといいたいのだ。  
日本浄土教成立史を法然教の成立で締めくくる井上光貞が、それに至る道標として地蔵信仰の成立を挙げているのはとても興味深い。それは民間浄土教というべきものがすでにあったことを跡付けるもので、法然の浄土教はまさにその延長にある。井上によれば、それは地獄というものにたいする貴族と民衆との見方の違いに発したのだった。『往生要集』という往生の手引書に親しんでいる貴族には、地獄はそんなに怖いものではなかった。自身の往生に問題はないと信じる彼らは、むしろその後半に詳細に描かれている極楽の素晴らしさの方にこそ関心があったのである。一方、功徳を積むすべのない民衆には、いくら念仏を唱えても、極楽往生などとても不可能としか思えなかったのだった。彼らの地獄行きは必定だった。しかも彼らは現世の自分の悪行ゆえに地獄に堕ちるのではない。前世の罪状ゆえに、生まれながらの罪深い身として地獄に堕ちるのである。後白河院の時代の民衆は、そんな自分たちの先行きに絶望し、『往生要集』に書かれたような地獄をまさに現実的な恐怖と感じていた。そんな極楽往生さえできない人びとの救済者が地蔵菩薩だった。地蔵は、地獄に堕ちた人びとがひたすら慈悲を願って助けを求めるのを、選り好みせずに応えてくれる。同じ地獄に住んで苦しみをともにしながら、少しでも彼らの苦しみを和らげようとしてくれるのである。ひたすら地蔵に帰依し、弥陀の名を念ずれば地獄に堕ちた罪人も救われるという考えは、のちの法然や親鸞の「選択本願」や「悪人生機」の思想にとても近いものであった。そしてそれはまた、民間浄土教を担って民衆の教化を行う、山門を離れた乞食坊主あるいは聖・在家沙彌の思想でもある。  
この項を書くうえでわたくしがもっとも多くを負っている井上光貞の研究は、「浄土教が日本の社会に受け入れられ、遂には聖道門(難行)に対立する浄土門(易行)として、思想的にも教団的にも独立するにいたる過程を跡づける」ものであったが、そのような意味での日本的浄土教が誕生したのは、まさに法然の浄土門が確立したときだった。井上の研究はそこにたどり着くところで終わっているのだが、そのこと自体、井上が法然教の確立に込めた日本思想史上の意味の重みを示してあまりがない。  
法然の研究といえば、田村円澄を逸することはできないだろう。  
私たちは、『日本仏教史三鎌倉時代』によって、田村が描く法然像を紹介してこの項を締めくくりたいと思う。立場は違え、彼の評価もまた井上と同じである。田村は法然に帰依した信仰者であり、同時に仏教史の研究者であった。「法然・隆寛・親鸞」と題する本書最終章の冒頭に「絶対者に対する信が宗教の基本である」と書く田村は、旧仏教や天台本覚思想とは異なる法然浄土教の本義への自らの帰依を明らかにする。「釈迦が説いた真実の教えに従っているか否かが、大乗と小乗を分かつ」という田村は、大乗仏教では、「八十歳で死んだ人間としての釈迦は重大な意味をもたない。覚者としての釈迦(理想化された釈迦)が示した永遠の法」つまり、仏または如来(その意味は、真実のなかから現生したもの)の真実の言葉を聞くことだけを重視する。そこから著者はさらに聖道門と浄土門を分けるのであるが、覚りを開くことがこの現世においてなされるのを主張するのが聖道門で、天台、真言、禅はみなこれ属するが、それにたいし、法然の浄土門は、現世を否定し、浄土において覚りを開くことを主張するのだという。法然はいう。私たち凡愚の者は、浄土に往生することはできるけれども、成仏は不可能なのだと。至誠心・深心・回向発願の三つの心を具えて浄土を願生し、ひたすら念仏を唱えて弥陀の慈悲に縋ることが往生するということなのであって、それ以外には何もないのだった。これを「他力本願」という。法然がこの国にはじめて開いた浄土門であった。法然の回心は、一一七五年、四十三才のときだという。この瞬間、弥陀の慈悲によって、法然一人が救われたのではなく、日本思想史上、はじめて一切衆生が救われることになったのだと田村はいう。「造像起塔をもって本願とするならば、貧窮困乏の類は往生などできっこない。しかも富貴の者ははなはだ少ない。だから、弥陀如来は、法蔵比丘の昔、圧倒的多数を占める衆生を助けるために、ただ称名念仏の一行をもってその本願としたのだ」と法然は『選択本願念仏集』に書いた。それを布教のための方便だとか、簡単にできる行の勧めだとかいうのは当たるまい。法然はけっしてそんな策を弄する人ではなかったし、当時の仏教界の常識に真っ向から逆らうこのような主張が、どちらかといえば臆病な法然に伊達や酔狂でいえたはずがなかった。田村がいう通り、「宗教的生の体験は、その宗教者自身の苦悩と遍歴によることなくしては深められない」のだから、これらの言は、あらゆる宗論の遍歴を繰り返したあげく、なお煩悩から脱却することができなかった法然個人が、苦悩と自己反省のはてに、彼の内なる「如来」と直接に対話した結果だったというしかないのである。 
 
日本仏教が使う言葉

仏教学者末木文美士からわたくしはこれまでに多くのことを教えられたが、この項を、末木の『仏教―言葉の思想史』(一九九六年、前掲書)とその二年あとに出た『解体する言葉と世界―仏教からの挑戦』(一九九八年)を読むことから始めたい。仏教の現状にずっと飽き足りない気持ちを抱いていたわたくしがエッセーのテーマに日本仏教を取り上げようと思いたったのは、たまたま末木の本を読んだからだった。『言葉の思想史』はわたくしが読んだ彼の二番目の本なのだが、わたくしはまず、はじめの項でも紹介した、序章の「仏教翻訳文化論」冒頭のノーベル賞を貰った川端康成の記念講演「美しい日本」批判のくだりに目を見張ったのであった。仏教を語りながら、外来の思想だったはずの「東洋の虚無」思想(空あるいは無常)こそ日本精神そのものだみたいな日本中心論に陥るのをみずから戒める著者の態度は、わたくしも共感できるものだった。西欧思想を受け入れ消化しつつ、そこに新しい文化を打ち立てた明治以来のこの国の行き方は、仏教にたいしても、外来思想を受け止め独自の形に鋳なおしたその跡を批判的に顧みる必要を明かしているだろう。日本仏教はいま、改めて西欧から学んだ方法を活用して、検討しなおすべきときに来ている。  
二冊の本の主題が「言葉」にあることはその題名にすでに明らかであるけれども、それは同時に、現代の哲学が言語学あるいは言語の問題にとりわけ強く関っていることを反映しているに違いない。わたくしが関心をもったのもそこのところだった。これらの本が提唱している、仏教で使われている用語あるいは言葉の、いわば先入観を抜きにした吟味と再解釈の試みこそ、いまもっとも待ち望まれていることだから。言葉は意味を運ぶ乗り物なのだから、私たちは、一見、意味を超越することを装う不明瞭で難解な仏教の言葉もまた、同等の意味をもつより具体的な表現に言い換えることによって、よりよく理解できるはずだと考える。といっても仏教の世界では、さまざまな注釈が出るたびごとに、いつの間にかその意味内容が変わってしまい、しかもそれをやかましくいわないのが流儀であるらしいから、獲物をつかまえるのは容易ではない。  
や た ら に難解な漢語を際限もなく繰り出す仏教の説法というものは、例えば弘法大師空海の著述がそうだが、とくに漢語に馴染がなくなった現代では、普通の人にとっては絶望的なまでに分かりにくい。ただし、古代から連綿と続いてきた私たちの社会で使われる語としてなら、仏教の用語はたいていの人には耳新しいものではないのである。おじいさんやおばあさん、気難しい近所の老人や会社の偉い人たちが好んで使う仏教言葉に、意味はわからなくとも、ふだんから馴染んでいるはずだから。いってみれば、私たちの言語生活のいたるところに仏教用語が氾濫しているといってもいいくらいなのである。ただ問題は、たいていの人がその意味内容の変遷に関心を払わないこと。私たちは、いい加減に教わってきた言葉を、いい加減に使ってきた。いま仏教がとりたてて関心を集めているかどうかは別にしても、仏教で使う言葉が混乱を極めているからには、それらを分かりやすい言葉で言い換える必要があるにきまっている。そうして、それが現代の仏教の方針とは相容れないということもないはずだ。なぜなら仏教は二千年もの間、用語としての二字ないし四字の漢語の意味の範囲を新しい状況に応じてどんどん拡張し、あるいは新しい内容を取り込んできたからである。元来言葉にはそのような外延的な性質があることをバートランド・ラッセルも指摘していたが、いってみれば、私たちが生きている言葉と言い習わしてきた話し言葉はみなそうである。例えば、日常使っている「アイデア」とか「コンセプト」とかいうイギリス語が、ちかごろ私たちのビジネス社会で新しく担うことになった意味内容を考えてみればよい。仏教の言葉もまたそれくらいひんぱんに、中世から近代まで、いろんな階層の人びとの間で、日常的に説かれかつ使われながら、内容を変化させてきたのだった。それが意味の混乱の広がりに輪を掛けたのも無理はないのである。  
新しい言葉に言い換えるとき、まったく同じ意味を保ち続けることはできない相談である。とくに定義無用、ご意見無用の仏教の世界においては、元の言葉の意味そのものが曖昧なのであるから。でも末木ら新世代の研究者が信じているように、仏教が本質的に「知恵の宗教」であるとすれば、知性と批判精神こそもっとも大切なものである。私たちも、仏教の言葉にできるかぎりロジックや道理に沿った分かりやすい説明を求めてもバチは当たるまいと思う。都合のいいことに、仏教で使われる語のほとんどが、耳慣れないのも含めて、たいていの国語辞典に現代の言葉に翻訳されて載っている。それだけ私たちの生活のなかに入り込んでいるのだ。内容ははっきりと摑みきれなくとも、それぞれにみんな懐かしい。とくに「煩悩即菩提」という語など、これはもう震いつきたいくらいに。  
「大乗仏教は紀元後―世紀ごろ起こったとされ、初期の主要な経典は梵語で伝えられたが、現在伝わっているのはそこから翻訳された漢籍、チベット語訳がほとんどである」と『仏教−言葉の思想史』の著者はいう。唐代に玄奘が成し遂げ、宋代にシステム化された翻訳で完成させた五千巻余りがいま私たちに伝えられ、目にする形の経典である。それらの漢籍を構成する四字句が二字の単語と熟語を多用したその結果が、例えば、私たちにお馴染みの、世界・現在・過去・未来・因果・平等・菩薩・涅槃などの語として伝わったのだった。  
仏教界では受け入れにくいことだったけれども、大乗仏教は歴史上仏陀が説いたものではないというのが学会の定説になっていて、それに係わる経典はほぼ一世紀から三世紀にかけて成立したとされる。六百巻に及ぶという「空の理論書」大般若経とそのクリーム(精髄)ともいうべき般若心経もその一つであることはすでにいった。  
その他に日本で人気があったのが法華経で、なによりもその方便品によって名高い。凡愚の者が真理を覚るのはとても難しく、仏の知恵(般若)をじかに衆生に覚らせるのは不可能だったからこそ方便が必要だったが、「いまこそ方便を捨てて仏の知恵をそのままに説くときが来た。仏の道はただ一乗であり、法華経は知恵ある者、菩薩に説くべきもの」とそこにいう(定方晟『大乗経典を読む』一九九二年)。人びとに向かってした説法は、相手に合わせて分かりやすく、いわば、方便として説いたものにすぎなかったとお釈迦さまが告白するわけである。彼らに自分の涅槃・成仏のありさまなどを語ったけれども、実は、あたしは永遠の昔から成仏している。いまこそ本当の真理を語ろうと。『言葉と思想史』に続いて同じ主題で書かれた『解体する言葉と世界』(一九九八年)の末木文美士の言いぐさでは、「法華経などは、これまでブッダが説いたのは全部方便で、法華経こそがブッダの真実の教えだというのだから、これはもういかがわしさを通り越して狂信的大ボラだといいたくなる」ということになる。  
これを「一乗」説という。釈尊の目的とはただ一つ、衆生に仏の知恵を分からせることである。仏になれる自信など持ち合わせていない低いレヴェルの人びとには、もともと「三乗」という行き方がある。仏の教えを聞いて覚りを開く弟子たちを指す「声聞乗」、自力で縁起の理法を知って覚りを開く「独覚乗」、衆生を覚りに導くと同時に自らは仏の覚りを約束されている「菩薩乗」の三つの乗り物があるが、いまや初めの二つは方便であって、最後の菩薩乗だけが大乗すなわち本当の乗り物であるとされるのだ。  
一乗説とはつねに他の劣った者を益する立場に成り立つのだから、その意味では、方便として説かれる自分だけにしか目が届かない初めの二乗でも最後には成仏できることになる。ちょっと分かりにくい議論だけれども、要するに、初めの二つはないものと決まってしまえば、人はみな成仏するといっているのである。でもそのためには、成仏する見込みの立たない二乗になどこだわっていないで、最後の大乗になる教えによって菩薩になるしかない。そうして法華経の教えに従えば、いろいろあっても、最後には一切衆生だれでも菩薩になれるはずなのだった。だから三乗ではなく一乗なのだと。つまりは、それが正しいのだから、正しいというわけである。この説は日本天台宗開祖の最澄が口を酸っぱくして主張したところであって、のちにこの天台一乗主義が日本仏教全体を覆うことになる。実は、このように説く法華経にたいしては悪口もずいぶんあるらしい。効能書ばかりで肝心の薬をいっこうに見せない。真の仏教の哲学を語るのをさぼっていると(定方『大乗仏典を読む』前掲書)。  
人が仏になりうるという主張をはじめて明確に宣言した法華経を、未完成ではあるが、空の立場に立つ大乗仏教最高の経典という研究者も多い。その一人に松本史朗がいる(松本『仏教への道』一九九三年)。  
法華経で宣言されるように、仏陀が人間であったことはなく、永遠のものという観念で捉らえたうえで大乗仏教は成立している。  
その一方で、実体あるいは実在(あるいは理想)ということを徹底的に否定した空あるいは縁起の理論は、自分というものさえその存在(自性という)はけっして認めない。でも、徳を実践する自分がいるということは暗黙のうちに前提されている。しかも仏陀の永遠の観念(それはとりもなおさず、実体ということだろう)は大いに必要とされているのだから、「なにもかも空である」という断言は、論争上必要なだけの、ただの言葉の「あや」ということになってしまう。空の理論における「縁起」とは、始めと終わりを必要とする時間のなかで起きる具体的な因果関係ではなく、たがいに因となり果となるような相互依存の関係をそう名付けたものにすぎないのだから、いうまでも実体といえるような性質のものではありえない。すべてがないといわれるとき、もう因果関係も存在しないし、言語を媒介にして意味づけることもできない。  
原因と結果とその背後にあるはずの実体がなくて、どうして関係という概念が成立するのかという疑問はひとまずおく。仏教にはおよそ客観的立場というものはありえず、関係の一方の当事者はつねに自分が認める現実であると説明する三枝充悳の『縁起の思想』(前掲書)が前提にしている関係とは、知覚あるいは欲望とか執着とか個人の心理作用にすぎないのではという点も問わない。  
末木がいうように、「縁起」はそもそも言語表現を超えたものなのだから。だが、法華経が示した一乗の原理は、煩悩の問題を解消して、覚る者と覚れない者の区別といったそのあたりの曖昧をすっきりと単純化したようだけれども、同時に、小乗仏教における釈尊の個人崇拝とは方向を異にした、絶対化あるいは実体化に逆戻りしかねない危険を孕んでいることだけはいっておかなくてはならない。仏の乗り物に乗る人は、凡愚であっても、実は永遠の存在である仏なのである。ただしまだ仏ではなくて、仏になることを目指している人である。でも仮の姿である仏を目指す人がいれば、どこかにその基の仏があるはずだという考えを完全に排除するのはむつかしい。松本は法華経が述べる大乗理論の矛盾にはもちろん気がついている。「この矛盾以外に人間存在の意味はない」と彼はいう(松本『仏教への道』前掲書)。「人間に向かってあなたは仏だとけっしていってはならない。あなたは菩薩だといわねばならない」とも。菩薩はまだ仏ではないが、ある意味では、仏以上のものであり、つまりそれがこの世にある尊い人間の実存である。神というものの存在を認めない仏教にあって、一乗は「人間こそ神以上に尊い存在であることを示している」思想なのであると松本はいう。仏あるいは神という完全なものの存在を受け入れない仏教は、その代わりに見出す仮のもの(現象)をあたかも存在しているかのように語る。人間存在(実存)もまた何かの仮の姿と捉えるかのような、このあたりの議論を理解するのはたいそう難しい。法華経も拠っている空の思想では、その肝心の人間も菩薩もすべてはないというそのあり方を、松本は「危機的」という言葉で言い表すが、別の言葉でいえば、それは文学的ということでもあるらしいし、さらに批判的ということにも通じるとされるのだ。言葉による表現こそもっとも大切だという松本の思惑が、ここで、信仰者と批判哲学者の間の衝突を演じていると思うのはわたくしの僻目だろうか。 
ここで、私たちはもっとも大乗仏教らしい表現、「煩悩即菩提」のテーゼに立ち返ってみよう。相即論あるいは相即不二論といわれるこの手の言い方を、末木はあくまでも覚った仏の立場からいわれるもので、覚っていないあるいは到底覚ることなどない衆生の立場からすれば、煩悩と菩提はあくまでも別のものでなければならないというのが仏教の常識だと解説してみせる(『碧巌録を読む』前掲書)。つまり、仏教には二通りの常識があって、それは純粋の理論としていわれるのではなく、あくまでも実践の理論であり、かつ方便としての理論というわけであろう。法は言葉でしか表現できないくせに、言葉ではもはやその真実を語ることはできないのだ。その辺の呼吸をもっともよく示しているのが禅の公案である。末木は、「禅では有意味性を失った語りえないことを語れという」という。日常使われている言葉を「解体して…その言葉の意味の根源に至ろうとする」のだと。  
一方、松本史朗は、「煩悩即菩提」を「さとりというものを客観的な一つの対象に固定することをやめ、さとりを一つの固定的な枠のなかから開放し、さとりそれ自体をいわば解消してしまうならば、必然的に人間の全生活がさとりになる」と解釈する。末木がいっている「語りえないものを語る」というのよりはよいが、それでも、いかにももって回った言い方だし、空の原理にこだわるところ、例えば「煩悩は自己否定によって菩提となる」というところに、松本の信仰者としての立場が反映している。信仰の実践者としての彼は道元の「修せざるにはあらわれず」という言葉を無上のものと考えている。さとりあるいは菩提にいたる道はすでに人間なら誰にでも備わっているが、しかしそれは絶えざる修行の場にのみ表れる。道理を知るのに、言葉が足りない部分は、実践あるいは体験によるしかないということである。方便を究意(無上のもの)とすることに賛成できなければ、あとは実在するものとしての自然の法則、あるいは真理に頼るしかないのだから。  
法華経と並ぶ経典に涅槃経がある。法華経とほぼ同じころ漢訳された経典で、懺悔の重要さを強調した部分があるために、悪人成仏の理論化によく利用される(定方『大乗経典を読む』前掲書)。  
仏身は「金剛身」、「不生不滅」すなわち仏は永遠の存在で、今の生きている姿は変化にすぎないという。この経の圧巻は、父を殺して自ら王位を継いだ阿闇世王が苦しんでいるのを釈尊が救うくだりであるが、この世には永遠不変の相(姿)などないのだから、親殺しの罪だって救われないことはないといって、救済を約束する。教えを説く相手によって言い方を変えるのを対機説法というらしいが、それにしてもいささかこじつけがすぎるのではと著者の定方もいう。  
同列の大乗経典に浄土教聖典の一つ無量寿経があり、これは三世紀半ばには漢訳されたといわれるが、法蔵という菩薩が極楽浄土を建設し、そこに衆生すべてを生まれかわらせるという四十八の願を立てた次第が語られる。その願は首尾よく成就し、法蔵も阿弥陀仏に出世した。その四十八願のなかでいちばん有名なのが第十八願である。「たとひ我仏を得たらむに、十万の衆生、至心に心業して、我が国に生ぜむと欲して、乃至十念せむに、もし生ぜずば正覚を取らじ」(松本史朗『仏教への道』による)という。わたしが仏になることができても、十万の衆生が真心こめてわたしの浄土に生まれかわりたいと願い、念仏することわずか十遍にしかすぎなくとも、みなの往生ができなかったならば、わたしは仏にはならないと願ったのである。この文言は日本の鎌倉新仏教の祖師たちの心をいたく捉えたようで、「正覚を取らじ」というセリフはわたくしなどもいろんなところで読んだ記憶がある。「自由のために死す」といった板垣退助のセリフのように、菩薩ではあっても仏にはならないという宣言くらい男らしく響く言葉はない。  
菩薩は、この穢れた世の中で迷い苦しむ人びととそれほど一つになって、彼らを救おうとしたのであった。でも無量寿経の法蔵はすでに仏になって十劫を経た。いまは西方十万億土のかなたの極楽世界に住んでいるのだ。してみると、法蔵の周囲では衆生はみんな救い出されていたのだろう。そんな憎まれ口を叩きたくなるのも、経典は様々な成り立ちをした独立のもので、一つの団体あるいは思想のもとに作られたそれぞれ特殊なものであるのに、それらを奉じる僧さんたちが、どれもこれもひっくるめて、経典の文言を普遍的な絶対の真理として扱う慣習を捨てようとしないからである。仏教では、注釈はともかく、経典そのものに疑いを挟むことは許されていなかった。その事情は、ほとんどの場合、いまでも変わらない。  
松本史朗は、菩薩とは、一切衆生を救済するために、仏から下降してみずから願って娑婆世界に生まれてきたものだという。仏の本地が十万万億土の仏国土に住み着いていても、それならばつじつまは合う。もしかしたら阿弥陀仏は二十一世紀の現世に、観音菩薩あるいは地蔵菩薩に化身して現れたかもしれぬ。そういえば昨日も、街角で、艶かしい姿に身をやつした観音さまを見かけたような気がする。今日もまた犯してしまった罪を悔いながら、それでも私たち衆生は、その尊いお姿を思い出しながら、ほっとした気分を味わうだろう。  
浄土教の三大聖典といわれるのは、無量寿経、阿弥陀経、観無量寿経である。いずれもインドで成立したとされるが、観無量寿経だけは、伝わった思想を撰述した地を中央アジアとする説が有力である。無量寿経も阿弥陀経も、念仏を一心不乱に行えば、誰でも浄土に生まれかわれるという念仏往生の思想が説かれている。  
一方、観無量寿経の方は阿弥陀仏の姿やその国土(極楽浄土)の様子が記述され、阿弥陀仏と随伴の観音菩薩、勢至菩薩などを観想する仕方(止観)を説明しているところがインドらしくないとされるのである。のち『往生要集』の源信によって最大限に利用された。浄土教の根幹をなすこれら三つの経典の思想が、彼岸の国土やそこに住む仏たちを、たてまえの上ではともかく、実際にそれらが実在するものとして、人びとに信じさせたがっているのは明らかである。ことに地獄と極楽のありさまを、目に見えるように、こと細かくリアルに描いている観無量寿経に顕著に窺われるように、信仰の勧誘あるいは伝道の成果は、ひとえにそれらの情景がいかに真に迫っているかに懸かっている。それが方便だというなら、それはそれでよい。だが迷いや苦しみすなわち煩悩即菩提という議論の基になった「空」の論理はここでしばらくは忘れられる。空観を徹底させれば、地獄は妄想にすぎないのであるから(中村元『往生要集』一九八三年)。阿弥陀が見る善あるいは地獄もまたないという真理と、煩悩の徒が夢見る浄土の姿やそこでのわが身の幸せ、つまり彼らにとっての善と真理とは、実は、それぞれ異なった二種類の基準による真理ということになる。煩悩の徒は、彼らが住む浮世のどこにでも悪が偏在していることを知っているし、空想の地獄も現実の地獄もともにありうるものとして、自分の身に沁みて心得ている。普通の日本人にとっては、地獄とは現世とつながりのある世界、死んでから行くまったく別のところであるよりも、むしろ現世の延長のように観念されている。だからこそ、地獄の苦から逃れるために、仏の慈悲にすがるということと、他ならぬこの自分の手でなんとかしなければならないということが裏腹の関係にあるのだった。阿弥陀仏は煩悩即菩提の原理に忠実に、ひたすら衆生を導いてやればよいが、導かれる衆生の側ではどこまでいっても煩悩は煩悩で、かんたんに菩提にはならない。いくら努めても、そうなる保障さえ得られない。  
だれでも成仏できるという教祖を信じて、ひたすらお題目を唱えるしか手はない。信者たちが最後にすがるのは、極楽浄土のリアルなイメージだけになる。それはもうほとんど実在の極楽と変わらないものになっている。浄土教あるいは他力本願の宗教の論理的な破綻はその辺からきざしてくるに違いなかった。  
相即論にたいして鈴木大拙が唱えた即非論というのがあることを末木文美士『言葉の思想史』が紹介している。末木によると、これは「AはAではない。ゆえにAはAである」というものだそうである。具体的には「菩薩が衆生を涅槃に導くことは、衆生を涅槃に導くことではない。ゆえに菩薩は衆生を涅槃に導く」という。いかにも禅坊主がいいそうなことだけれども、私たちにはまったく理解に苦しむ展開である。ただし空観に特有なこの言い方にも、合理的な説明がないわけではない。著者が紹介しているある宗教学者によるもっとも適切な読解とは、「菩薩が説く涅槃に導くこととは、衆生(凡夫)が実体的なものとして考えている涅槃ではない、と菩薩がいう」となる。つまりこの即非の理論は、菩薩のと衆生のと別の基準による涅槃があるということを前提にしていて、「積極的な実践や肯定さるべき価値をもつ対象にたいしてのみ適用される」のであると。こんな持って回ったややこしい言い方しかできないのかどうかはさておき、ここで強調されているのは、「菩薩は衆生を導かなければならない任務を背負っている」というもう一つの前提である。天上の神から遣わされたキリスト教の天使のように。だが実体を引き合いに出すことをあくまでも嫌う空の論理では、任務も天使もみんな方便ということになり、自分で実践に励むしかないことになる。末木の結論を聞こう。「即非の論理はけっして抽象的に何にでも当てはめられる論理ではない。むしろ、既存の実践大系の枠を使いながら・・・それをより高次の世界に向けて進ませる実践的な指向性をもつ表現形式なのである」と。  
仏教が使う言葉はいつも論理を飛び越える。ときに不条理に聞こえるが、むろんそうではないのである。ただロジックを故意に隠すのが好きなだけなのだ。即非論の菩薩と涅槃のロジックにしても、順序をわざと逆にしているのである。「1菩薩は衆生を涅槃に導くものである。2しかるに衆生はまったく別の種類の涅槃を願っている。3ゆえに、菩薩が衆生を導くのは正しい涅槃だけである」とでもすれば、おかしなところはなにもないのだ。ところがこれは「正しい涅槃」という概念を受け入れていて、正しくない涅槃はむろん虚妄であろうけれど、正しい涅槃なら実体として存在するという意味である。それでは、実体という考えを徹底的に排除する空観の思想に抵触してしまうことになる。「菩薩も衆生も空なのだから、菩薩は衆生を涅槃に導かないし、衆生はまったく別の涅槃を願っていることもない。正しい涅槃も間違った涅槃もともにない」と竜樹ならいうだろう。だから、「衆生を涅槃に導くことは、涅槃に導くことではない」とどっちにもとれる言い方しかなかったのだ。末木によれば、大拙は、即非論そのもの、あるいは具体的には涅槃というものへの理解を合理的に説明することには無関心で、それこそ神秘的な体験というものだとあっさり考えたらしいが、実体との関係をうやむやにしておくためには、存外、それもいい考えだったかもしれないのだ。  
これまでわたくしが述べてきたことを要約すると、仏教教学の根底には空の理論(空観)があり、空観とは具体的には縁起説のことであった。縁起とはもともと時間の意味に違いないとわたくしは思っているが、さまざまに解釈されてきたらしい縁起説を、現代風の言葉で簡潔に言い換えると関係主義となる。釈迦が説いた諸行無常を出発点とした仏教の教えは、実体の存在をまったく認めない。一世紀から二世紀ころインドに現れた竜樹が説いた空観はまさにその思想を理論化したものだったが、そこから現在の私たちが信仰するか、あるいは日頃親しく接している大乗仏教が立ち現れたのであった。大乗仏教は、無数の仏や菩薩たちをつくり出して、衆生すなわち私たちのような凡夫・凡愚を一人も残らず救い出して、涅槃に連れて行ってくださる。涅槃とは、具体的には、そんな私たちが実践を通してあらゆる人間の苦しみを解脱して平安な心を得ることをいい、理想としては、成仏して極楽浄土に生まれかわることである。  
それらのことはみな、はるか昔から伝わる経典に書かれてあり、いっさいが決まっていることでもあるのだった。  
ただ問題は、わたくしが述べたような要約は、あまりにも簡潔すぎて仏教の実態を伝えないということにある。わたくしにそんなことをいう資格があるとは思えないけれども、仏教にはあまりにも夾雑物が多すぎて、むしろ正統派にたいするもろもろの異論や異説のなかに仏教というものの本質があるのではないかと疑われるほどである。例えば、空観が実体などいっさい無いといっていて、それが仏教の教義では正統なのであるが、竜樹がそう唱えてからいくらも経たないうちに現れた唯識を名乗る一派では、真実あるいは真理を実体と認め、この世の現象はみなその実体がさまざまな姿をとって現れるのだといったという。この立場は、もうよほど西欧哲学でいう認識論に近い。唯物派の流れを汲む華厳宗教学もしたがって認識の基になる実体を認める方向で固まっている。現在華厳宗の本山は奈良の東大寺であるが、限定されているとはいえ、その存在の重みは、仏教が実体という考えをついに捨てきれなかった証拠として残る。というより私たちは、空観のあまりにも断定的な否定が、かえって実体とか実在という観念について考える機会を仏教から奪ったのではないかと疑う。げんに諸行無常の空の理論など現場の僧侶は忘れていることが多いだろう。彼らが葬式仏教のビジネスに精を出しているあいだは。この世に降りてきて、苦しみをともにしながら私たちを救済する地蔵をはじめとする菩薩たちは、永遠に変わらない真理と未来永劫仏土におわします仏たちのご利益を心掛けのよい善男善女に授けるのに忙しくて、諸行無常の方はほとんど放っておかれる。 
空海の『秘密曼荼羅十住心論』十巻は、渡辺照宏の解説によると、「道徳意識以前から出発し、道徳意識の芽生え、宗教的あこがれを経て、仏教思想のさまざまな段階をのぼり、天台、華厳から最高の密教に到るさまを十住心として説明」した著述である。これは空海の仏教概論であると渡辺がいう通り、修養の勧めとして見るかぎりでは、その狙いはまことに分かりやすいのだ。しかるに、おそらく見事な漢文で書かれたこの著述を、注釈つきの読み下し文で読んでみると、わたくしなどには難解というよりは、ほとんど読解不可能である。それは主として空海が種々の経典から引用している用語の大部分が、これまで見たことも聞いたこともないことによる。注釈を見るくらいではまったく追いつかない(日本思想史大系五『空海』一九七五年)。冒頭の有名な一句「大日尊曰く。菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究意とする」はたぶん空海の方法論として見ることができるが、本文の理解に、この手引きはあんまり役に立たないのだ。  
私たちは、『十住心論』の解説を企てようなどとは夢にも思わないが、分からないなりに、少しばかり齧ってみることにする。書き手のわたくしがほとんど理解不能というのでは世話はないが、煩わしいのをしばらく我慢して、お付き合いを願いたい。  
十の段階の第一を、空海は、「異生羝羊住心」と呼ぶ。羊的な境地とは、凡愚のことを指す。わたくしやあなたに当て嵌まる唯一の境地、つまりまだ道徳以前のありさまである。博覧強記の著者は各種経典をひっくり返して、そこに記されている悪の例証をこれでもか、これでもかと繰り広げる。そのほんの一部、私たちのような最低の人間が陥りやすい罪行を紹介する。偸盗の罪では、もとより地獄に堕ちるのだが、可笑しいのは、なぜか微善の因縁によってめでたく人間に復帰したあとのことである。ただし、そんな手合いは人身に返ってもしあわせにはなれない。姿形は人間でも、いかにも汚くて、臭気紛々、人に嫌われるしかないのだ。  
せいぜいのところめくらの乞食にしかなれないと、空海は宣告する。邪淫の罪。人身に戻ってもさらに安心はできない。絶えず女房や愛人に裏切られ、とても平安な心で世を渡ることなどできないのである。両舌の罪というのがある。これは裏切りのことなのだが、うまく人身に返れても、口は臭いし、歯並びは悪し、どもりだし、いくら善いことをしても人には信用されない。  
この段階に留まる人間どもは、もちろん地獄とは縁が切れないが、それも因縁によるのである。空海はいう。だが時が至れば衆生も熟するときが来るだろう。いっさいの法(あり方)は自然による。つまり他からの働きかけがないのが法である。対して、縁は自然によらず、人巧による。人の行状が縁になって何かが起きるのだ。常住不動の我々の無上の道は、因果を離れたもの、解脱に通じる。実は、老荘が天の自然の道といったものもこれと同じと空海は説き、当人の努力で、早くこの最低の人間の条件から抜け出すことを勧めるのであった。ただし、それにはどうすればよいか素人にも分かる手引きは用意されていない。空海は、このクラスの人間にたいしてはあんまり親切とはいえなかった。  
『十住心論』巻二は、「愚童持済住心」である。その心は、行いを慎む浄行の身ということ。もう凡愚ではなく、よほど菩薩に近くなっていて、仏法が顕れはじめるクラスである。実際、この第二段階から上が、菩提心をもった将来の涅槃の有資格者たりうる者だといってよいのだ。だからよく功徳も積んでいるし、十善の実行にも励んでいる。空海は、たぶんこのクラスに属すると考えているのだろうか、正しい政治を行っている善い王のあり方を述べ、その功徳とは、性暴虐でないこと、恩恵をよく施すこと、正直であること、人の話をよく聴くことにあるという。こんな国王がいる国なら栄えるに違いない。べつだん彼がこれ以上の境地に達しなくともだ。  
第三の住心を「嬰童無畏住心」という。すでにいかなる執着からも自由であるが、まだ涅槃にはいかない。もう凡夫を去ることはるかだといっても、まだ外道に落ちる罠は九十六種類もある。  
ただし、修行成就への道は見えている。とはいえ行く手にはまだ、善いこと悪いこと、修行しなければならないことが山ほどあって、空海はそれらをいちいち説明していくのである。  
第四段階を「唯濫無我住心」という。これは声聞(仏から直接教えを聞く)の位だと解説にある。声聞とは三乗の一で、まだ菩薩ではないが、比丘あるいは比丘尼としてもう一人前の仏弟子ということである。ただしまだ成仏できると決まったわけではない。  
空海もそうだが、仏教では段階をはなはだ重視する。成仏を志す者にたくさんの段階を用意して、差別しているのだ。一般には六道といい、それは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上であるが、そのあとさらに声聞・縁覚(独覚)・菩薩・仏の四つを加えて、合わせて十界。つまりは生きとし生けるものの順次昇段すべき十種のあり方、それぞれ差別された生存領域のことである(中村『往生要集』前掲書)。『十住心論』では、第四段階が声聞に該当するわけである。空海によればこの声聞にも八つの部門があって、順次上へ上がっていくには、まだそれぞれたくさんの行を修めなければならないのだ。もちろん最後は涅槃に達するのだが、すべての理法にきちんと従っていることが条件である。そう簡単ではなさそうだ。第五、第六は省くけれど、だんだん知恵がついて、縁覚(独覚。各自独りで覚ること)、さらにただ仏に聞くだけでなく自分で済度に乗り出す菩薩へと進んでいく。ここまで来れば、三乗問題は解決して、涅槃疑いなしの境地といえる。第七段階では空の理論の真髄を極め、その上の境地は、よくは分からないけれども、如実知自とも空性無境ともいい、第九段階は顕教の至極とされ、最後の「秘密荘厳住心」第十に至る。これは、身・口・意の三密をもって曼荼羅を荘厳する意味と解説にあるが、要するに真言宗こそ最高の境地だということである。ちなみに、第九が華厳経の、第八は天台宗の境地だという。  
その極意を現すのは真言(マントラ)と称する秘密の真実語で、これは仏がつくったものでもなければ、誰かにつくらせたものでもない。「性相常住」すなわち永遠の真実の言葉である。私たちはここで、般若心経の最後に出てくる呪文を思い浮かべてもよい。  
この言葉とともに、加持をもって衆生を利益するのが、生身ではない理念としての仏の無限の慈悲というものだ。なぜか、『秘密曼荼羅十住心論』は最後の文句を欠いているという。それは逸失したともいい、初めから無かったともいう。空海さんにはどこまでも秘密がついて回るのだった。  
かくのごとく、私たちは真言密教が懐深く隠している底の知れない「宇宙の真実」をもってかれの特色と見立てるように慣らされているが、実際に私たちが見るのは装飾過多の建造物や人を驚かす虚飾に満ちた儀式であるにすぎず、いってみれば、表面的な操作による権威の押し付けがその正体ではないかと疑いたくもなる。  
空海が真言密教を広めることになったきっかけは、八〇九年に即位した嵯峨天皇との詩文を通しての交流であったという。それはまた朝廷のなかの地位が、八〇六年に没した桓武天皇の信任厚かった最澄と交替したことと見合うわけである。ものの本によると、彼らはそれぞれ仕える天皇たちとは互いに気を許しあった特別な関係にあったという。最澄が相談に乗った桓武天皇は、聡明ではあったがナイーヴに過ぎた面があったのかもしれない。そのせいか人一倍怨霊に悩まされた人であった。前代の光仁天皇のとき、皇后井上内親王と皇太子が廃されたあげく不審な死をとげた、いわば他人が引き起こした事件の祟りに悩んだばかりか、自分の代に、配所に赴く途中死んだ皇后のもう一人の皇子相良親王の祟りにも死ぬまで怯え続けたのだった。桓武はその祟りから逃れるために、改葬や追善供養を行ったり、彼らを祭る神社を建てたり、相良親王には天皇のおくり名さえしたが、それでも足りずに、七三四年に長岡京へその十年後には平安京へと、二度も都を変えた。  
悩みの相談相手として桓武がどれほど最澄に頼っていたかは分からないが、すくなくとも最澄の方では、その見返りに天皇の個人的な好意をあてにできたようであった。七八八年に比叡山延暦寺ができたことがそれを証明している。空海も嵯峨の個人的な後ろ盾を最大限に利用した。嵯峨もまた怨霊に悩んだことがあったのである。高野山金剛峰寺を空海が創建した八一六年が、嵯峨天皇の代だったことはいうまでもあるまい。そういう政治的な駆引きにかけては、空海は最澄などの及びもつかない器量と手練手管を備えていた。  
南都六宗と称せられた奈良時代以来、仏教と政権とが一体だった状況にあっては、仏教寺院は政府の庇護を受けるかわりに政権と政権党の人びとのために宗教活動をする。宗教活動が武器よりずっと有効な力と信じられていた時代には、政府にはなにをおいても宗教を司る者たちを独占する理由があったのである。それが鎮護国家といわれる事態である。国家は僧侶を飼い慣らし、僧侶は国家を悪霊から護ってやるという持ちつもたれつの関係だ。それを普通私たちは王法と仏法の関係と言い習わす。いわば、互いに相反するように見えながら、実は、もたれあい補い合っている関係として。そんな状態が十一世紀半ばまで続いたのだった。だから、九世紀のはじめ、最澄と空海が最新の知識を引っ提げて新しい宗教を起こしたとき、彼らが生き延びる道を、一般大衆の信者にでなしに、もっぱら国家権力とその組織に頼ったのを咎めることはできない。山折哲雄も、空海は仏法を現実の政治にどう組み込むかだけに関心があって、国家の方針の方を仏の法に従わせることには熱心でなかったといっている(山折『日本仏教思想の源流』一九八七年)。現状維持が彼の本音だったのは、自分でも、王法と仏法は現象形態が違うだけで本質は同じだといったことでも分かる。むしろ私たちが注目するのは、王法と仏法との関係が、奈良時代の律令制に基づく法制度的なものから、天皇と特別な関係にあるカリスマをもった個人を介在させる形に変化したことにある。もとより、それは最澄と空海というとりわけ偉大な宗教家の個性によった面が大きい。だが同時に、そこには時代と文化の変化のありよう、すなわちカリスマを必要とする大衆信者の存在が無視できないものになってきていることを示すだろう。その四十年前には、かの悪僧道鏡が太政大臣の位に昇っている。  
世の中が悪くなって末法思想が蔓延、支配層の貴族のなかにも階級的な分裂が起き、下層貴族と大衆との境がはっきりしなくなってきて、不満をもった下層貴族が火をつけた浄土信仰の拡大と深化が、民衆的レヴェルで受け入れられそうな形へと変質を遂げることを仏教自体に強いる十二世紀までには、まだ三百年以上もの間がある。その間、摂関政治から院政へと政権の担い手が変わるにつれて、施政者自身が民衆との付き合い方を学ばなければ生き延びるのが覚束なくなる状況は強まる一方である。  
空海の『十住心論』は、そういった将来の事情を反映していない。信仰の最高位を目指す十段階のうちで民衆が関るのは最初の一段階にすぎず、空海は彼らの教化などにはあまり期待をもたない。民衆は凡愚のままで放っておかれる。彼が期待をかけるのは第二段階の知恵に目覚めた善人たちだけで、政治をする王たちもここに入っている。空海が期待を寄せるのは、国家の柱石たる指導的階層つまり既成の秩序をがっちり護る人びとにすぎないだろう。時代からいって当然なのだが、彼も最澄も社会秩序抜きでは法を説けない人だったようにみえる。十二世紀の終わりに法然の浄土教が完成し、日本仏教はそこでそれ以前と以後とのあいだに断絶のときを迎えるのだが、いま私たちが理解している仏教の言葉はほとんどが以後の世界で通用する意味によるであろう。「即身成仏」も般若心経の「色是即空」などの言葉も、仏教とは「私たち凡愚の者たちを成仏に導く教えである」という定義も、その一つであるに違いない。そういう意味では、近代以前に生まれた日本天台の言葉も、真言密教の言葉も、私たちが意味をとらまえるのは難しい。邪淫の果てに落ちた地獄から「微善」のおかげで再び生き返った人は、なにやらそれは短い刑期で監獄から釈放された軽犯罪の犯人のようでもあるが、奥さんには浮気されるし、もしかしたら高額の保険を掛けられて殺されてしまうかもしれない。  
愛人は金を持ち逃げして他の男に走る。そういう宿命なのだ。会社の若い者や実の娘にまで口が臭いといわれてしまうオトーサンは、前世では、間違いなく嘘つきだったのである。このような身につまされるリアルな認識は私たちにもよく分かるのだが、その前に、地獄からたまたま生まれかわることがあるという事実を、マントラを唱えてする修行した結果としてであれ、象徴的にであれ、方便としてであれ、ともかく受け入れなければならないということである。  
 
意味を運ぶ乗り物

空海流の仏教概論ともいうべき『十住心論』から、私たちは涅槃に達することの難しさを思い知ったばかりか、そのためには、専門の修行者として、厳格に規定されたプログラムに従って行をこなしていくことを要求される。素人(無明の身)にはいかにも難しい。ここには、教典から引用された恐ろしく細かな事柄が疑うべからざる事実として紹介されるが、小乗にたいする大乗の絶対的優位が説かれるばかりで、もはや縁起についての哲学も、空についての論議も、即身成仏の種明かしも聞かれない。普通の人には窺い知れない法の巨大な秘密と不思議を浮かび上がらせるのを目的とする空海の文章は、古今の経典と文献についての該博な知識と深い漢文の素養がなければ書けなかったと評釈者はいう。  
空海に限らず、経典の引用で満たされたこのような文は、もろもろの注釈書なしでは、わたくしなどが真意を解することはむつかしい。例えば、源信の『往生要集』は、念仏を効果あらしめるために、ありとあらゆる工夫をすることの大切さを説いてやまないが、とくに観察門(止観)の必要を強調する。観察とは念仏をしながら仏の相貌を観ずることをいっている。げんに見たこともない仏の姿を思い浮かべるのは相応に難しい。そんな向きに源信は、本書後半の大部分を割いて、かれの相貌をそれこそ微にいり細にわたって説明するのだが、そのほとんどがやはり観察門の手引きとして利用できる観無量寿経からの受け売りであった。中村によれば、『往生要集』の実に三分の二が経典または古典からの引用である。そうして源信自身の文章も、当代一博識の学者らしく、ことごとく経典の内容に沿って言い換えたものだという。このことは、源信がどのような見解でも、いちいち経典の文言に照らしてみて、それに内容が合っているから正解だとしていることを意味する。彼にとっては、経典に書かれていることのみが正しいのだった。私たちが、このような態度はとうてい客観的・科学的とはいえず、間違っていると思うのは、デカルトに賛成して、自分の理性の吟味に耐えた事柄のみを受け入れる態度を正しいと考えるからだ。  
『往生要集』は、中村元の現代語訳のおかげで、私たちにも内容の意味そのものはよく分かるようになったけれども、それでも経典が本当のことしかいっていないと無理に仮定しなければ、源信がお手本を示して観察するように求める仏や極楽のイメージをそのまま受け入れることはできない。源信は、当時としては飛びぬけて理詰めにものを考えた人で、合理主義的な議論を展開することによって自分の信仰を学問的な確信に高めようとしていたと中村はいう。彼によれば、空といっても有といっても根は一つで、その無二である相を観じるのが、念仏の究極の姿である。乗り物は一つである。仏陀が方便として説く場合以外には、第一の乗り物も第二の乗り物も存在しない。私たちは、源信が、ある種の経典では否定し、ある種の経典では認めている仏と法の存在という観念をめぐって、それぞれに矛盾した言葉を用い、しかもなお論理的であろうと心を砕いた努力を疑わない。そしてそれは、つぎに取り上げる最澄にも見出せる、その時代における傑出した理性の働きのお手本といってよい。  
一方で、「仏の言葉なくして仏教はありえない」という仏の言葉を絶対視する松本史朗の発言が信者の立場からのものだとしても、なお「仏教において言葉の問題(使われ方や意味の詮索)が重要であること」(末木『仏教−言葉の思想史』前掲書)は揺るがない。そして、それはどの宗教でも同じであろう。ただし、仏の言葉がどんなに重要でも、松本自身もいうように、「無批判に経典に書かれていることを信じるのではなく、そこに自らの判断で批判的に正しい仏教を見分けること」までやめてしまう理由にはならない。そう信じるからこそ、松本は仏教が本来説く真理は「縁起説」あるいは「無我説」だという立場を守り、いささかでも実体とか基体とかいった観念を含んだ「正しくない仏教」、例えばすべての人間には生まれつき仏(如来)が体内に蔵されていると説く「如来蔵思想」などを徹底的に批判するのである。それはまた、「なにが正しいかという追求や信仰をそっちのけにさせ、ドイツ哲学やフランス文学に造詣を積んだ知識人が仏教に対する信も問われずに・・・銘々勝手な謎解きに参加できるような満足感を味わう」ためだけに空海や道元や親鸞を読む彼らの姿勢への全面的な抗議に通じるものでもある(袴谷『本覚思想批判』前掲書)。でも、まだ正しい信仰は何かについての意見が分かれているあいだは、末木文美士の「実は、仏教そのものが極めてあいまいで捉えどころがない。絶対の真理などもともとない。概念規定もなく、思いもよらぬ解釈によっていとも簡単に逆転するのが、仏教の教義というもので・・・」(『仏教−言葉の思想史』)という見方を受け入れるしかない。  
言葉は意味を運ぶ乗り物である。  
日本天台宗開祖最澄は、旧仏教に対抗して、一乗思想をこの国に植えつけるために、法相宗の学僧徳一と激しい論争を行った。  
その成果が法華経の素晴らしさを十項目にわたって説いた、最澄晩年の著作『法華秀句』である。そこに天台の一乗主義がもっとも鮮やかに主張されている。奈良時代から平安初期にかけた盛んだった法相宗では、南都旧仏教を代表して、長期修行・三劫成仏(無限の時間をかけて修行したはての成仏)を主張したのにたいして、即身成仏、悉皆仏性の主張をもって反論を加えた最澄が拠りどころにしたのが法華経だった。  
成仏するには並々ならぬ個人の努力と修行が必要だということは、いわば仏教にとっては常識に属する事柄だ。でも、即身成仏をいうことは、その原則に反する事態である。『法華秀句』で、最澄は、わずか八歳の童女が成仏して、衆生に法を説いたという法華経の記述を証拠として即身成仏の可能性を主張する。この主張によって最澄は、はじめて凡夫の成仏が可能であることを宣言したのだった。幼児でしかも女があっさり成仏した事実(!)がある以上、いかなる凡夫にだってその可能性はある道理であろうと。でも、これはかなり乱暴な議論であった。果てのない修行をモットーに、生身のままで成仏することなど夢にも思わないごく常識的な修行者にとって、法華経を聞いて即刻成仏したという女の子・龍女の存在など迷惑以外のなにものでもない。無量(無数)の衆生(凡夫)も覚りのチャンスがあるという仏の予言だと経典に書いてあるのだといわれても、にわかには納得しないだろう。  
予言はあくまでも予言であって、必ずそうなるということではない。むしろ、伝承にありがちな理屈を越えた奇跡譚と考えておくのが無難というものだ。中国天台ではさすがに、もともとこの龍女は菩薩の化身だったのだと説明づけていたことを思えばなおさらである。即身成仏とか悉皆仏性とかいうのは、宗教における完全な平等主義の宣言だといってよい。あるいは、この世の苦悩を一身に引き受ける願いを立てた菩薩や修行者でなくとも、この世にあまり不満のない人びと、知恵が足りなくて真実を覚らない人々でも、無条件で成仏できるという思想ともいえる。その場合、彼らはまさに現世でご利益に預かったのである。論争という建て前上、最澄には自分の言葉を単純であいまいさの残らない主張として発する必要があったであろう。彼が本当に修行や持戒の無効を信じていたとは思えない。事実、その後の天台教学の展開をみれば、ことは違った方向へと動いていくのである。  
最澄より二十七歳若い弟子円仁が唐留学から帰ってきたのは八四七年のことである。最澄の留学から数えて四十年以上が経っている。天台浄土教の元祖でもあるその円仁が、「台密」と呼ばれる天台密教を興したのであった。密教は最澄が唐からもたらした教義の一つではあったが、その内容は不十分なものに留まっていた。本格的な密教をこの国に将来したのは彼の後に帰国した空海である。最澄が空海に密教の教えを乞い、経典の借入れを断られたことが両者不和のもとになった次第はだれでも知っている。その穴を埋めたのが円仁だったのである。大野達之助によれば、円仁らをはじめとする天台僧のなかには、天台の宝典たる法華経的な『摩訶止観』のあまりにも精密に完成された行法だけでは即身成仏は覚束ないと考える者が多かったという。即身成仏はもっと直接に仏と感応すること、いうにいわれぬ摩訶(まったくもって)不思議な行体験の果てによりよく達成されると考える方が人びとの好みに合った。すなわち止観のほかにも、意味を超越した真言を唱えたり、印を結んだりといった理屈では説明がつかない行を必要とする密教的な行法の助けが入用だろうと考えたのである。  
円仁自身、大日経(つまり密教)の方が法華経より上だと言い切っているのだ(大野『上代の浄土教』一九七八年)。なんとなくいかがわしい「天台本覚思想」が円仁から生まれたのも頷ける話である。いったん密教に関ったら最後、物事はみんな通俗化し、非合理的で、現世ご利益風になってしまうらしい。  
いまでは私たちも、田村晃祐の現代語訳のおかげで、『法華秀句』のさわりの部分をたやすく読むことができる(日本の名著三『最澄・空海』一九八三年)。そこで彼は、覚りへの段階を示す声聞・縁覚・菩薩三乗と法華経が説く一乗説との関係について、「腐った種である迦葉も、成仏するという予言を得ている」という。  
その意味は、声門は、いまはまだ仏の種がなく、成仏が決定しているわけではないが、いつかは覚り、成仏の位に入っていくべきものということ。彼らは、いまはまだ功徳を具えていないが、最後には成仏するという堅い不動心を得るに違いない。成るべきあり方というか事の筋道が法というものであるが、それは人の力では左右できないもので、自然とも言い換えられる。成仏するというのはあらかじめ決められている自然の法で、その法に従うものとしての身体についていえば、それは仏の身体とまったく同じものなのだから、身体といっても実体ではなく仮の言い方にすぎないとしても、その身体には仏になるだろうという予言が前もって与えられたことになるというのだ。それなら、その身体が外から与えられた実体であると観念するまでにはあと一歩であろう。三乗を説いて一乗であるというのは、言葉を変えれば、成仏できるという声聞に与えられた「予言」である。といっても、声聞は成り行きに任せてなんにもしなくていいということでもない。いわゆる修行つまり実践はどこまでも彼らについて回るのである。なんとなく分かったようでもあるが、誑かされているようでもある。  
「常住」つまり不変の真理がなお否定されたままでは、その真理を目指す修行も実践も効果が期待できないといわれているようなものだから。  
ここに当て嵌まるかどうか分からないが、中国天台でよくいう三諦(三重の真理)ということを思い起こしてみる。前にもいったが、それは空・仮・中の真理の三つの姿をいう。「空諦」とは、一切の事物は実在性をもっていないということ。「仮諦」とは、それらの事物は一時的な仮の存在つまり現象にすぎないということ。  
最後の「中諦」は、それらの事物が非実在なものであってしかも一時的なものとして存在しているという事実をいう(中村元『竜樹』前掲書)。これは明らかに弁証法とは違うものである。三乗というのは修行についての差別であるが、覚りには差別も段階もなく、それが一乗の乗り物(大乗)であると最澄はいう。しかし三乗はなかったことにされているのだから、そこから一乗が出てくることはないのである。凡夫・声聞・縁覚はこの世のありのままの姿(仮諦)を定まったもの(実在)と認めるという過ちを犯すが、菩薩ともなれば、無常ということ、空の世界には生じることも滅することもない(空諦)と知っている。だが永遠の安楽・絶対の清浄はたんなる現象と見なされてはいないのだから、それらはおそらく実体として存在するはずだ(中諦)。それが涅槃ということである。声聞・縁覚・菩薩へと至る道筋に決定ということはない。仏性をもたない者の覚りへの道は法(自然)にはない。自然には予告があるだけだ。覚るのはあくまでも人の行い(巧み)なのだから、そこに無明の者でも覚ることができるきっかけが生じる。最澄の理論がざっとこのようなものだとすれば、天台本覚思想とはずいぶん違っているというしかない。  
空の理論を最澄がことさらに説くことはない。だから上のように意味づけるのは、あくまでもわたくしの手前勝手な解釈にすぎないが、すべては空であるということを前提にして、この世のあるがままの姿(現象)が仮であると同時に永遠の真理でもあるという理屈では、人が努めて何かに成るつまり修行という行為がうまく説明できるとは思えない。最澄の真意を言葉に言い換えるのはまことに難しい。それはたやすくは現代の私たちに通じる意味を運ばないのだ。  
下巻にさっき述べた龍女の話が出てくるのだが、このエピソードはもっぱら覚りについて法華経に説かれる仏の智慧が凡人にはとうてい測り難い深さ広さを示すものとして使われる。仏たちに護られていて、徳行を怠らず、仏の種をもち、あらゆる衆生を救う心を起こしている者だけが、そんな法華経の心に適う。では仏の種をもたない衆生はどうすればいいのか。話はどうしても堂々巡りになってしまうが、少なくとも、双方の面倒を見る万能な仏の存在だけは確認された。そこでは、空観もまたたんなる仏の方便として扱われた可能性だってある。法華経にたいしては、肝心なことは何もいっていないという批判があることはすでに紹介した。  
仏教が大いなる知恵であり、ロジックを重んじる言葉であることを私たちは疑わない。だが、いろいろ異なった知恵があることを認めたくないばっかりに、ロジックの方を捻じ曲げる結果になっているのも確かであろう。むしろ仏教のなかにはさまざまな考えが混在していることを認めて、それぞれのつじつまを合わせるためのこじつけをやめて、それぞれの個性の発露でもある異なった思想を、必ずしも教義としてではなく、相互に矛盾があるまま伝える必要があるのではないか。私たちの貧しい探求で分かったことからしても、結局は実践の知恵である仏教にはその方が相応しいし、仏教でいう慈悲の行為のさまざまなあり方も納得できる。  
私たちは、これまでのおさらいも兼ねて、日本仏教で使われる言葉のうち理屈の通らないもののいくつかを取り上げて締めくくりとしたい。結論を出すためではなく、少しでも二千年の劫を経たこの怪物に近づくために。  
大乗仏教が私たち凡夫を成仏に導いてくれる教えであることには疑問の余地がない。凡夫も仏になれるという思想は、天台法華宗の際立った特色だった。最澄の『法華秀句』にはじめてその考えが述べられたことの重要性は、法然の近世浄土教への回心と勝るとも劣らない日本仏教史上の事件であった。でもそれは仏教のもつ実践的意義あるいはプラグマティックな性質(方便)にのみ係わる事柄であって、それも知恵のうちだといわれればそれまでであるけれども、凡夫にも仏性が備わっている、あるいは凡夫は仏であるというしかなくなって、言葉の混乱を招いただけだった。どのように言いくるめても、凡夫は仏ではありえない。そうでなければ成仏することが意味をなさなくなる。同様に、「即身成仏」という言葉も混乱を招くだけである。無理を通せば、意味が引っ込むのだ。  
本覚思想がこの国の文学とくに能に及ぼした影響は非常に大きい。おおげさに言えば、私たちが愛する日本中世の文芸作品は、ことごとく本覚思想のおかげでこしらえることができたのだった。  
仏教のもつプラグマティックな面が遺憾なく発揮された場である。 
九世紀半ばにできた「草木国土悉皆成仏」という言葉は、もともと有情(主体、自分)が成仏すれば、まわりの世界が仏の世界に変わるのだから、それに伴って草木国土も成仏することになるという至極もっともな事柄にすぎなかったのだが、有情が否定されて無常になったばっかりに、草木にも自分と同じ心があっておのずから発心・成仏するとなったのがこの言葉のはじめである。それを本覚思想というのだが、やがて、無情とは何にもないことだし、あってもそれは仮の姿であり、そもそも草木も人間もそのままで仏なのだから、成仏する必要もないといわれるに至る。ますます訳が分からないことになったのだ。  
禅についてバーナード・ホールという人がいった言葉を末木美文士が紹介している(末木『解体する言葉と世界−仏教からの挑戦』前掲書)。たいへん面白いので、私たちもそれを引用させてもらう。「熟達した達人によって直接に媒介なしに究極的真理として知覚されるものが、凡夫である信者の未熟ゆえに隠されたり、習慣的な真理として方便によって間接的に顕わされるのだと普通いわれる。この偽装が直接性の教義の補完物としての儀礼の使用や媒介物の再導入を説明する」と。凡夫に仏性があると主張する寺方の裏の事情をこれほど見事に言い当てた解説はない。私たちはこの分析のなかに、ヒュームを生んだ国の実証的な精神の働きを見る思いがする。  
もう一つの末木の本『仏教− 言葉の思想史』( 前掲書) は、仏教で使われるいくつかの混乱を招きやすい言葉を取り上げて、それぞれに説明をつけたり、現代の言葉に言い換えたりしていて、その第一章を「因果応報」にあてている。大乗仏教が、救済者としての仏と菩薩という観念と、誰でも仏になりうる可能性をもっているという思想をつくりだしたことは私たちもすでに指摘したが、それと一緒に、仏と菩薩をどっさり創った。その中でも一番人気の阿弥陀仏や観音菩薩を信仰する見返りに往生できるのは、凡夫の目からみれば、応報である。彼らが背負っている因果とは六道と呼ばれる地獄や畜生の世界を輪廻する宿縁にほかならず、そこから解脱することが切に願われているのだったから。解脱できるとすれば、それこそが信心の現世ご利益というものだった。  
私たちが祖先から伝えられた数々の説話集はすべて、そんな因果応報の物語を紡ぐのに忙しい。博識の坊さんたちが、時間という観念を認めない空の思想に基づいて、それぞれの説話に因果応報のありえないこと、そういうのはただ仮の説明、方便であることを論証しようといくら精を出しても、そんなことは知ったことではないのだった。  
「一念」とはごく短い時間、瞬間を意味する。たった一度の念仏でも一瞬のうちに往生できると法然は説いた。だがどんなに短くても、因果関係を紡ぐ時は流れるはずだ。それでは具合が悪いので、それはただたんに清浄な心の作用を意味することにして、解脱にいたる因果の時間を消してしまう。  
中村元は仏教の言葉を現代の言葉で言い換える作業にもっとも力を尽くした仏教学者で、仏教学のイロハも分からないわたくしにとってはいちばん頼りになる教師であった。「空観とは、一切諸法が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しないと観ずる思想である」と中村はいう(『竜樹』前掲書)。それは、西欧の哲学でいう主観的観念論のように、自分の意識に映じたものだけを問題にする哲学と見なすことはできないが、少なくとも、紀元二百〜三百年ころのインドの空観派がそう考えていたことは分かる。だが続いて中村が「法」とはきまりの意味であるといい、本性や本質がモノとして有るのと違って、法はモノではあっても経験的な事物ではなく「あり方」としてのモノであるとする古いインド仏教哲学各派(彼らを有部と称し、釈尊が直接説いた教えを伝える者だという)の思想を「法有」と呼んで否定した竜樹の空観では、それに対し「法空」ということを主張したと解説するとき、彼らの「法」とは自然の、私たちにお馴染みの言い方でいえば「科学的・客観的な法則」ではないのである。そういう法則のあり方は、彼らのつもりでは「実有」( 実在)であり、時間的・空間的な規定に縛られているのである。空観は時間という独立な実体を認めない。もちろん運動も認めない。一切が空(からっぽ)なのである。空観が認めるのは、因果の関係を含まない相互依存の関係だけである。これを「縁起」という。竜樹の『中論』が説いたのはその一点だけだったと中村はいう。だが前にも述べたように、『中論』は自分の理論を原理として主張したものではなくて、誤った議論に反論することだけを目的とした著述である。反論のための反論には、どうしても筋の通らないところが出てしまう。  
諸行無常を主張するためには、無住な存在を無情たらしめる反対の概念、つまりなんらかの常住(永遠)なるものの存在が必要である。無にたいする有のように。要するに、どっちも同じものだといってすましてしまうのは解決にはならない。  
同じことが「自性」についてもいえる。自性とは、本質・あり方を実体視した独立に存在するもののこと。自性(本質)は絶対に変化しないし、自然につくられたものであって、他に依存してあるのではない。それに対し、一切の有を否定した空観では、無自性を説く。それが縁起だという。縁起・無自性・空はみな同じものだというのだが、なぜそうなのかという説明はないらしい。  
しかも竜樹は「空性の成立する人にとっては一切のものが成立する」といっているという。空観はあらゆるものを建設し成立させると中村もいっているから、してみると空観とは、議論を弄ぶだけで何にも行動しない輩にたいして反撃を加えた実践の理論を説いているのであって、著者は、そのどっちにも偏らないころを「中道」と呼んだのだと理解できる。中村の説明はこうである。「無」には二つの意味がある。有との対立を打ち切ったところに成立する「無」と、有と対立した「無」である。対立を断ち切るときの「無」は、凡夫を煩悩から解脱させるための、執着をなくするという方便の意味の「無」である。究極の「無」は有と対立した無で、「相互に限定し合う関係において成立している如実相を意味し、縁起と同義である」と中村はいう。残念ながら、明快だとはとてもいえそうにない。  
以上は混乱した意味をもつ日本仏教の用語のほんの一部にすぎないが、それだけでも、言葉を言い換えることによって矛盾が炙り出されているのが分かる。仏教が全体として時間と空間の理論である因果、彼らの用語でいえば「縁起」にかかわる教説であることは動かないと思われる。「空」の理論が否定に否定を重ねるやり方を押し通したために、その因果もないことになってしまったのが、あとに混乱を残した。私たちはそれについてどうこう言うつもりはないが、混乱の元は意外とはっきりしているのだ。空と実体の対立を相即の理論でもって、ロジックの吟味をせずに、あんまりあっさりと片付けてしまったことが問題だった。自分がいったことに責任を負わない僧正や禅師を大量につくっただけで、その対立はぜんぜん片付いてなどいなかった。  
私たちが必要としているのは、ご託宣ではなく、言葉の意味である。  
法然は日本の仏教史のうえでもっとも重要な人だったが、それはただ一念の念仏に往生の可能性をこめた彼の専修念仏が、「日本の下層庶民の歴史において、自己の自由意志と決断とに基づいて選ばれた最初の教説になった」(田村円澄『日本仏教史三鎌倉仏教』前掲書)からである。前世の宿縁あるいは現世での悪行のために、現世における成仏が不可能だと覚った凡夫庶民の絶望が浄土教を盛んにした理由だった。法然と親鸞にとっては「無情」ということさえどうでもよく、成仏など望むべくもない「罪悪生死」の凡夫だという深刻な自己反省に打ちひしがれた自分があっただけだったと田村はいう。専修念仏はそんな心構えから出発したのである。善男善女がその実在を信じている極楽浄土を、彼らだって疑いはしなかったはずだ。だが極楽はあくまでも死んでから行くところである。その限りでのあの世にすぎない。極楽の蓮の台とか、芳しい香りとか、美男の仏様をこの世で観想するなど、凡夫の身の往生の助けになりはしないし、無駄なことでさえある。  
それでも、ひたすら念仏を唱えて極楽往生だけを願う法然の浄土教の精神はなお生きていて、浄土は観念的な実在として人びとの心のなかにある。それは目には見えないし、想像することもできないが、信心深い仏教徒ならだれでも、あの世には仏も極楽も地獄もあると信じているにきまっている。  
「衆生はそのままで仏である」という本覚思想に特有な説についていえば、人間のなかには如来(仏)が内臓されている、あるいはあらゆる人間ひいては万物のなかに仏性があるという説(如来蔵)は、私たちはだれでも善人の種をもっているという意味で、仏教を特徴づける優れた考え方だと思う。でも残念ながら、ただそういっているだけで、根拠がない。まだ菩薩あるいは仏ではないのだから、普通の人がそうなるにはそれだけの努力ないしは修行がいるというのであれば、それは道理である。それを妄想が晴れて知恵が顕れると言い表してももちろんかまわない。万物がそのままで仏であると主張する本覚思想でも、この世のあり方がこのままの姿で真理であると断定して、ついでに私たちの周りにも極楽があるかのような幻想を振りまくのが一種の騙し(方便)だということくらいは分かっている。もともと天台浄土教では、「止観」の理論に従って、成仏のためには、極楽や仏の相貌を心のなかで観照し、いろいろな行も怠り無くこなすことが必要であった。  
おしなべて修行の有効性と必要が認識されていたのだ。だが、本覚思想ができあがったあとでは、面倒な修行を怠るのをとがめだてする根拠がなくなってしまう。ちょうど同じ事情が専修念仏宗にも当て嵌まったけれども、何千回、何万回という念仏を毎日こなし、自らの罪障を省みる作業はなまなかな覚悟ではできないだろう。浄土教では、真宗でも同じであるが、信心を得るためには、罪悪生死の凡夫である自分を見詰め、もろもろの自力の心を振り捨てて、ただひたすら弥陀に帰依する態度が必須とされる。彼らは自分が仏であることなど信じないし、仏になることさえ他人任せである。それにたいし、一瞬の覚りに賭ける本覚思想では、もともとそれなりの行も覚悟も入用だったはずだが、普通の人がすでにもう仏なのだといわれてしまえば、もうそこで修行の努力はご破算になっている。  
つまり、ここに凡夫の成仏には身を削る修行が必要という伝統的な立場と、もうそそのままで仏なのだから修行は不要だという新しい立場の二つがあることになった。前者を「聖道門」、後者を「浄土門」というのが一般だが、前にもいったように、浄土門は専修念仏についてのみいわれる仏道である。天台本覚が修行を軽視したといっても、それは行き掛かり上そうなっただけで、思想自体は聖道門に属するのだ。  
私たちが繰り返し確認したように、専修念仏はもとより天台本覚という新しい立場でも、信心を堅く保つための不断の努力と知恵の開発まで不要といっているのではないのである。ただ本覚では、「山川草木悉皆成仏」という立場上、「修行」に代わる別の説明を必要としている。それを彼らは、生まれつき備わっている仏性としての知恵が、霧が晴れるように、顕れてくると説明する。  
少なくとも霧を払う努力だけは認めるのである。揚げ足をとるわけではないが、先も分からなかった凡愚の身から修行して這い上がった菩薩あるいは仏と、知恵を隠していた霧を振り払って顕れた菩薩あるいは仏とは、結果的には区別がつかいないのではないか。修行が必要にしても必要ないにしても、菩薩あるいは仏が、人巧を経て、顕れるものであるという点ではまったく同じである。  
妄想の霧がかかったままの凡愚と、これからのつらい修行で当てもなく菩薩を目指す凡愚の違いを知ることはできない。どちらの説明が当たっているかなんて分かりっこないのだ。論証が困難なのだから、言い回しの違いだけを見て、意味が同じとも違っているともいえないわけだ。  
私たちは、どうやら本覚思想に行き着いたところで、近世以降の仏教が陥っている袋小路が見えてきたと思う。相即論はもう通用しない。われわれはみんな仏だ、というのもダメである。私たちがまだ救いを求めているなら、そして仏教に関心があるなら、新しい言葉とそれを紡ぎだす知恵を見つける必要がある。  
ある科学者が科学には絶対的な真理というものはないという意味のことをいっているのを新聞の記事で読んだ。それはおそらく、どんなに精確で客観的な事実に見えたとしても、科学的にはなお仮説と見なす必要があるということだろうと思う。私たちは一人残らず水と氷が同じものだという判断を共有する。太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているという判断もまたそうである。でも子供たちはそう思っていないかもしれない。いまはもうそんなことはないだろうが、地動説が万人の常識になったあとでも、船乗りたちはコンパスを使って支障なく地球の裏側の港まで大洋を越えて航海していた。そこでは、地球と北極星は動かないものという天動説の仮定がちゃんと機能していた。客観的真理というものは相対的なもので、ほとんどの人が同じ判断を共有している状態があればそれで十分だ。私たちはいま、社会で共有されている判断がいつの間にか変わってしまっているのを常日ごろ経験している。たとえそれが科学の名において告げられた「真理」であっても。フロイトのリビドーと抑圧の理論をわたくしはよく出来た仮説だとは思うが、客観的な真理かどうかとなると判断できかねる。ダーウィンの進化論をわたくしは客観的かつ科学的な真理だと判断しているが、アメリカには、ちゃんとした学校教育を受けた人のあいだに、わたくしと判断を共有しない人たちがたくさんいるらしい。二〇〇五年の現職のアメリカ合衆国の大統領と国務長官もその一人かもしれないのだ。私たちが信じている客観的真理の大部分はたぶんその程度のもので、そこに表される意味が、ときに応じて、伸びたり縮んだりまたは無効になったりする。  
それにたいし、仏教の言葉でいう真理は、覚らない者には分からないかあるいはいろいろに変わるものだったが、覚りを開いた者にとってはただ一つの意味を示す言葉である。それはキリスト教でも同じで、わたくしが思い違いをしているのでなかったら、それは、科学者が考えるような、客観的真理とは違うものである。  
もちろん主観的・観念的なものでもない。だから、それは「常住」の普遍的な真理である。その真理を言葉では言い尽くせないというのなら、それでもよいが、実際に長い間にわたって仏教が説き続けてきた知恵とは言葉にほかならず、しかもその言葉が、必ずしも現代の私たちに分かりやすい形で、意味を伝えていないことが問題なのだった。なぜなら、知恵とは説明する技術なのだから。  
 
一向一揆とスピノザ

私たちは、本論では、仏教(仏法)と政治(王法)の関係について触れることを避けた。この問題は、優に一冊の本を書かせるほどの内容をもつにもかかわらず、私たちにはその準備がなかったから。  
さきに述べた聖道門と浄土門の区別を、前者を国の安寧を祈る仏教、後者をもっぱら個人の成仏を願う仏教と言い換えることができる。旧派八宗の仏法の基本的性格は、律令国家体制下における鎮護国家の仏教として、王法と相依相即することだった(田村円澄『日本仏教史三鎌倉時代』前掲書)。法然の出現によってはじめて日本仏教は、国家権力に寄り添い服従するのでなく、ときには公共道徳にさえ背を向ける、ひたすら衆生を救うためだけの宗教をもったわけであった。それを、私たちは浄土門と呼ばれる「専修念仏教」という特殊なタイプの仏教と見なす。それに引き換え法然と親鸞以外の日蓮をはじめとする鎌倉新仏教の祖師たちはみな、仏法を国家のために役立てるというこの国の伝統には忠実だったのである。明らかにこの国では、他の国や社会でも同じだろうが、政治と宗教は一般に切っても切れない関係にあった。  
ただ浄土教を立てた法然だけが、仏法と王法とが相補い依存し合うという考え方に消極的な関心しか払わなかったのだった。ところが私たちは、法然に連座して佐渡に流されたさい、「主上、臣下、法に背き義に違き・・・」と理不尽な政治のあり方にはげしく抗議した、法然のもっともよき理解者であるはずの親鸞(一一七三〜一二六二)の教えを継いだ者たちのなかで、日本人派離れのした目覚しい政治行動の例を見ることになる。十五世紀から十六世紀にかけて百年余りも続いたいわゆる一向一揆である。それはまぎれもなく真宗中興の祖といわれる第八代法主蓮如(一四一五〜九九)が組織した本願寺派教団門徒衆の手による国盗り一揆だった。(真宗のなかでも、のちに本願寺派から異端と指弾される専修寺派と仏光寺派は政治的な野心を示していない)浄土真宗本願寺派だけが、国盗り戦争を仕掛けかつそれに勝ち抜くだけの政治力をもった理由は、「村の有力農民を中心とする庶民層門徒に支えられていた」(笠原一男)からである。一揆の中心になったのは命令することに慣れた在地の武士だったけれども、武士たちはむしろそれらの農民の力を頼って、自分たちの政治目的に利用したといった方がよいようである。一揆側が支配権を手  
中に収めたあと、たちまち有力者の間で紛争が起こった。信仰を持とうともつまいと、権力をめぐる政治闘争が絶えることはなかった。十六世紀前半、一揆の最盛期には、指導者でもある坊主を任命するのも門徒の力関係によっていたと笠原はいっている。この世を厭い、極楽浄土に生まれかわることだけを願う彼らには、逆に、現世の利益など期待しない、生活の安定はみずからの力で勝ち取るしかないという思いがあったかもしれぬ。  
ただし、一揆が支配される側からの主権奪取の政治行動だったとはいえ、時代の状況を考えれば、それを旧制度転覆を図る民衆革命とは呼べない。この国では、古来、国にたいする民衆の反抗はつねに一揆といわれる。宗教的な装いを纏うこともあるが、基本的には、村方での百姓農民の年貢免除の誓願あるいは不払い闘争であった。ときにはそれが広い範囲の抵抗運動あるいは反乱へと広がるが、その場合は、本来の農民の闘いという要素は薄れていくだろう。博労たちの抗議行動から始まった土一揆、あるいは支配層である力のある武士が覇権争奪を繰り広げる国一揆などだが、本願寺門徒衆による一向一揆もそのなかの一つであった。  
一向一揆については、笠原一男の綿密な研究がある(笠原一男『一向一揆の研究』一九八一年)。詳細はそちらに譲るしかないけれども、なかでもっとも有名な加賀国の一向一揆について簡単に紹介しておこう。長享二年(一四八八年)加賀国守護の富樫正親が二十万の門徒勢に攻められ、一門の者とともに殺された。本願寺八代目法主を継いだ蓮如が吉崎に道場を構えて、疲弊していた真宗教団の再興を図って以来、北陸一帯は真宗本願寺の勢力が強いところであった。強大な寺院をもたない彼らはもっぱら地域に密着した道場や末寺を通じて布教を行った。それらの道場や小寺を預かるのは、親鸞の伝統に従って、頭髪を剃らない普通の生活人の坊主たちだった。彼らはまた道場を自力で賄っていけるだけの財力をもった村方の有力者・名主たちでもあったから、当然、直接生産者である配下の農民たちに大きな影響力をもっていたし、自分らが責任を担う年貢米納入を通して、村方のあらゆる生活に通暁していたのである。布教にあたり、彼ら農村の有力者こそ新しい教団の中核になると期待していた蓮如は、反面、守護・地頭といった武士支配層を、農民門徒を弾圧する者として捉える。だからこそ富樫正親が一四七四年に加賀一国に覇権を確立したとき、門徒衆を味方につけることがその決め手になるとされたわけなのだった。笠原は、七四年の政変を最初の一向一揆と位置づけている。それがいつ破綻し、敵味方の関係に分かれたかの経緯は省くけれども、要は、加賀の一揆側の勢力がそれほど強くなって、傀儡の富樫を必要としなくなったばかりか、逆に彼の武士としての  
野望が一揆側の邪魔になったのだろう。  
一四六七年からほぼ十年続いた応仁の乱のあとの戦国時代に、真宗が浸透していったのは、関東や東北ではなく、成熟した社会基盤をもっていた近畿・北陸・東海・九州の村々だったという笠原の指摘がある。それらの地域の実力を蓄えた有力名主層を中核として真宗教団は発展していったのだった。そんな指導者たちのなかに、彼らの力を利用して自分も成長することを目論む在地の武士たちが積極諦に参加していったのはごく自然な成り行きだったろう。次の時代の覇者となる在地武士と百姓名主とは、煎じ詰めれば、同じ村方階層の出といっていいからである。  
王法が貴族など選ばれた層が国民を支配する政治の仕組を指すとすれば、仏法は、階層を離れ、すべて一般の人びとの立場から働きかけ、王法の政治の欠陥を正すための政治の仕組といってよい。そのかぎりで仏法は、衆生すなわち民衆のための政治を目指すものとして、王法と対をなすだろう。蓮如が門徒はすべて同胞であり、同等の立場に立つことを前面に打ち出したとき、彼には王法を軽んじるつもりなどなかったかもしれない。だがあまりにも熱心な蓮如の信者たちは、神祇・諸仏を蔑ろにし、国家が任じた守護や地頭を軽んじて、年貢を払わないといった反社会的な行動で王法に反抗する。その揚句、かってなかったほどの一揆が発現したのだった。  
富樫を滅ぼした一向一揆とはまさにこのようなもので、運動の主体は、武士と名主が強力に指揮し指導する戦闘組織および行政組織ともいうべき組で成り立っていたという。それはまた本願寺を頂点に組織された講とその下部組織である組という形でもあって、加賀一国に張り巡らされた坊主・武士信徒による合議制の指導部に率いられる強大な一揆つまり団結した民衆の組織であった。  
加賀は、この国の歴史で唯一、ほぼ百年にわたって「一向坊主を領主にする・・・百姓の持ちたる国」になったのだ。そうなれば、守護・地頭クラスの有力武士だって争って門徒に鞍替えするしかない。本願寺法主といえば、それはもう将軍か法王なみの扱いを受けるのであった。年貢の未払闘争からはじまった一向一揆は、ついに村・郷・郡を「坊主大名」「地頭坊主」が支配する「門徒領国制」を加賀国に実現させたのである。ただし戦乱を勝ち抜いた覇者という意味では、いささか毛色は変わっているが、坊主大名とそれを支えるスタッフもまた戦国大名に変わりはなかった。本願寺を巻き込んだ戦国時代のメカニズムは、蓮如の思惑を超えて作用する。戦国大名間のその避けられない葛藤の結果が一五八〇年の石山戦争であって、結局、本願寺は織田信長との対決に敗れ去るのである。本願寺が信長に降参したあと、門徒の支配もあっという間に崩れ去った。国人(武士)門徒は雪崩を打って本願寺から逃げ出す。江戸幕藩体制下には、国の衆を指揮する武士門徒は、もうまったくといっていいほど姿を現さない。  
加賀一向一揆は、農民武士を問わず、一般信者が民衆の立場で国の支配権を要求したという意味で、王法を仏法に従わせようとした宗教戦争の様相を帯びた実例として評価できるけれども、それを近代的な意味での自由開放・主権在民への闘いだったとするには無理がある。門徒たちが望んだのは、合議制の共和国ではなく、戦国武将に代わって、自分たちが選んだ坊主領主のもとに支配されることで、それはそのまま本願寺法主の独裁支配体制を承認することだった。  
笠原はとくに一章を設けて、本願寺教団のいわゆる「一家衆」による恐怖支配の実態を明らかにしている。一家衆とは本願寺法主の血縁者をいい、蓮如の法主時代に始まる。蓮如には実に二十七人の子供がいて、彼らがそれぞれに地方の本願寺勢力の中心となっている寺に派遣されていた。彼ら一家衆の役割は、講や組といった本願寺の地方組織の活動を指導すると同時に、各地の門徒衆の行動を監視することにあった。彼らを通じて、本願寺は、地方門徒たちの生活全般を掌握しかつ支配していたが、そんな彼らが振るう最終的な武器が、第十代証如のときに法主専用の権限となった破門である。しかも一家衆は、彼らに反抗する門徒を、中央に君臨する法主の知らないところで、法主の名によって独断で破門を申し渡していたのが実情だった。破門されれば、当人が無限地獄に堕ちるのはいうまでもないが、全員が門徒である村では、それはそのまま村八分になる。破門された門徒にはもうどこにも行き場がなかった。実際に飢え死んだ者がいくらもいたと笠原はいう。破門だけではない。本願寺に背いた者を死刑に処すことさえ行われたのである。本願寺が支配した土地ではどこでも、一家衆は横暴な悪代官のように恐れられていた。このような支配のタイプは、戦国領主のそれとまったく変わらない。もし手を緩めれば、たちまち他の領主に滅ぼされるのだ。「一向一揆」は外部からの呼び名で、本願寺自身がそう称していたわけではない。でも戦乱の世だからこそありえた形だったとはいえるだろう。たしかに一向一揆の国では、連帯する農民らは、少しは豊かになり、奴隷より少しはましな自由を得たけれども、それがそのまま極楽浄土でありえないことは蓮如が繰り返し説いた通りであった。仏の国は彼岸にのみあるので、穢しいこの世にあるはずがなかった。  
先にも述べたように、門徒衆は、念仏のほかは雑行・余行は一切不要という真宗の立場を押し進めて、神祇・諸仏・菩薩らを軽蔑誹謗する傾向があった。蓮如も、親鸞同様、そんな信者たちのラディカルな行動には手を焼いた。しかも弥陀一仏に帰依してひたすら念仏を唱え、神祇を頼まないことは、いわば法然と親鸞の念仏教の核心である。教団指導者として他宗や政治との摩擦を避けたいばっかりに、諸神を敬いほかの様々な信仰を否定して争いを起こさないよういくら戒めてみても、教団による支配の締め付けが必要とされるかぎり、とても徹底するはずがなかった。蓮如自身は戦国大名になることはもとより、政治に関わることを望んだとは思われない。事あるごとに諸神・諸仏との調和を説いたけれども、武士や諸大名との間に必然的に発生する政治的・経済的な摩擦を一揆という形で乗り切り、そこに生き残りを賭ける加賀の門徒衆がそんな蓮如の心を汲もうとしなかったのは当然のことだった。一四八八年一揆の前夜には、加賀の有力寺院を頂点に組織された門徒衆の勢力は絶頂で、加賀一国の支配権は彼らの手中にある。守護がいくら号令しても、年貢の徴収さえ彼らの同意がなければできないありさまで、一円支配を目論む守護富樫正親が一丁前の戦国大名として戦乱の世に打って出るためには、どうしても彼らとの対決が避けられなかったのだった。挫折はしたけれども、越中、能登はもとより飛騨、三河、紀伊などでも、世にいう一向一揆とは、本願寺の後ろ楯を頼んだ農民国人連合の門徒勢力が、経済的な支配権をめぐって、領国大名に戦いを挑んだものだったのである。  
私たちは、もとより仏法(宗教)と王法(政治)の関係について、建設的な展望を持ち合わせているわけではないが、ただそれが切っても切れないものなら、せめて知恵と理性によってその関係を調整する必要はあるだろうと信じる。この国の祖師たちが、仏法と王法とをあい寄りあい補うものと考えたのも一つの行きかたであったが、彼らは、政治のあり方を民衆の視点から捉えることがなかった。あれだけ衆生について語りながら、民衆の権利あるいは民衆の自由な意思を認めるという、いわば近代的な発想が出てこなかったことに仏教の欠陥を見るのはたやすい。だがもともと仏教には政治学そのものが欠けている。彼らが担当した鎮護国家は、呪術ではあっても、支配の論理あるいは技術とはいえないだろう。衆生が支配される対象でなかったということは、衆生がみずから権利をもった政治の主体ではありえなかったということでもある。とはいえ、あらゆる思想は固定的ではない。仏教のようにとらまえどころがない思想ならなおさらである。本稿の課題ではないけれど、衆生の権利(民主化)の種を見つけることだってきっとできるに違いない。
宗教のなかに近代化あるいは民主化の手掛かりを見つけるために、私たちは、オランダ生まれの特異なユダヤ人哲学者スピノザを取り上げたい。彼くらい宗教と政治、あるいは神と個人の自由の狭間で引き裂かれ、しかもそれをわが身にしっかりと引き受けた者はいないから。バルーフ・スピノザ(一六三二〜七七)が際立っているのは、彼がユダヤ教の教育を受けながら、自ら信じる理性の力に従い、キリスト教の考え方に近づいて独特の汎神論を練り上げたことにある。さらにいえば、彼は、一四七一年スペインの女王イザベラ・カトリカ(カトリカとは、法王から与えられた公な称号で、カトリックの守護者とでもいう意味)が、「隠れユダヤ教徒」の汚名を着せて国外に追放したスペイン在住のユダヤ人「マラーノ」の後裔だった。蔑まれた追い払われた彼らの呼び名マラーノとは豚を意味するという(小岸昭『マラーノの系譜』一九九四年)。豚と呼ばれ、無一文で国を追われた彼らの多くが、信教に寛大だったオリンダに移住したが、スピノザの一族もそのなかのひとりだった。当然、マラーノたちは新しい土地で改めてユダヤ教の信仰を確認し合い、オランダに建設されたそんな彼らのユダヤ教徒社会が、ある意味では、本国のものよりもいっそう非寛容になったのも頷ける話だった。そんなユダヤ教会に馴染まず、キリスト教に関心をもつスピノザが、教会から破門され、ユダヤ人社会を追放されたのは彼が二十四歳のときである。  
ただし、わたくしがスピノザについて知っていることはほんの僅かである。信仰者と純粋理論の哲学者の立場とを両立させた例としてのスピノザが、宗教と政治の展開に何かのヒントを与えるかぎりで、取り上げるのにすぎない。わたくしのスピノザの神学と政治の関係についての知識は、すべて彼の『エチカ』と柴田寿子『スピノザの政治思想―デモクラシーのもうひとつの可能性』(二〇〇〇年)によった。  
その生涯を見渡して、私たちは、スピノザの強い個性とけっしてくじけることがなかった強い意思とに深い感銘を受ける。無神論者のレッテルを貼られて孤立した身でありながら、彼にはつねに理解ある良き友人と手を差し伸べる後援者がいたし、生前に発表できた本はわずかだったが、彼の思想に耳を傾ける人の数は少なくなかったのである。レンズ磨きの仕事で生活を立てていたという。レンズ磨きといえば、当時は尖端的な技術というべきものだったから、いまならさしずめコンピュータ・エンジニアで、彼が従事したのは、知識人には相応しい仕事だったと柴田はいっている。スピノザはたいへんにバランスの取れた精神の持主だったように見える。  
スピノザの主著は『エチカ』(倫理学)で、一六七五年ごろ完成した。ただし出版はできなかった。したとしてもすぐに発禁になっただろうから。『エチカ』はその構成からいってもきわめて特異な本である。幾何学の叙述をそっくり援用して、定義・定理・要請(備考)という形式が貫かれているのだ。つまりすべてが論理的に導き出された結論であって、その中身には疑う余地などまったくないというわけである。こんな精神についての厳密な理論書をどう読んだらよいか、だれでも戸惑ってしまうだろう。全体は五部に分かれる。第一部「神について」から「精神の本性および起源について」「感情の本性および起源について」「人間の隷属あるいは感情の力について」と続き、第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」で締めくくる(畠中尚志訳『エチカ(倫理学)』上・下、一九七五年)。  
第一部「神について」の冒頭で、スピノザが定義する「神」とは、「絶対に永遠無限な本質を有する実体」である。自己だけがその原因であるかぎり、それを「存在する」というのが最初の定理である。こういう定理がある。「自然のうちには一つとして偶然のものはなく、すべては一定の仕方で存在し、作用するように神の本性の必然性から決定されている」さらに「意思は自由な原因とはいわれず、ただ必然的な原因とのみ呼ばれる」と。これはスピノザが「神のほかにはいかなる実体も存在しない」と考えていることの帰結で、この場合の「神」とは、私たちの自我(自分という意識)の外にあり、私たちの想い(心理作用)だけではどうにもならない、自然の法則ということとほとんど同じものといってよい。「すべての観念は神に関係するかぎり真である」という定理も同じことをいっている。真であることはどうにもならないし、私たちが何を考えようと、何をしようと、真であるかぎりすべては神の予定表のなかに書き込まれていることになる。だから、彼は、人間が自由であると思い込んでいるのはとんでもない間違いだというのである。彼の精神に関する定理三十五はこうである。  
「虚偽(誤謬)とは非妥当な、あるいは毀損し混乱した観念が含む認識の欠乏に存する」またいう「人間の自由の観念なるものは、彼らが自らの行動の原因を知らないということにある」と。スピノザがいいたいのは、おそらく「精神の能力はもっぱら妥当な認識作用にのみある」ということにある。べつのところでは、理性に導かれる人間だけが、一切が神の本性から生じることを知るともいっている。彼は感情を信用せず、理性だけを信じた。彼にとっては、理性あるいは知性によってのみ物事を妥当に考えることになるので、妥当に考えるかぎり、その人のすることは自然の法則すなわち神の本性に合致する。理性の本性は明瞭判然と認識する私たちの精神で、その最高の働きは神を認識することなのだから、私たちが理性に従って自分の利益を追求することが自分の存在の証であるとともに、そのために大いに努力する人が徳のある人となるとスピノザの定理は述べる。妥当に考えることから出る欲望は「能動」と呼ばれ、反対に妥当に物事を考えない、つまり人間の能力から外れた欲望を「受動」と呼ぶ。スピノザは受動ということをはなはだ嫌う。受動という感情は混乱した観念、すべての衝動ないし欲望の非妥当的な観念から生じると彼はいう。ゆえにそれに明瞭判断を下せば、受動はおのずからなくなると。つまり、理性だけを使えとの勧めだろう。受動は「パッション」である。日本語では「盲目的な情熱」。少なくとも、文学者が好きな情熱がスピノザの神のプログラムに入っていないことだけは確かなのだ。  
第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」の定理十八は、「何びとも神を憎むことができない」ということ。その証明。  
私たちのなかにある「神」の観念は妥当かつ完全である。私たちの精神はつねに完全な神を観想するかぎりで働くのだから、そこにはどんな悲しみもなく、憎むこともありえない。スピノザにとっては、人間の精神も身体(物)も、ともに同じ物が別々に表された姿だと考えられている。それらはまた、みんな神のなかにあるのだから永遠なものである。彼の哲学の根本テーゼは、すべてを神としての必然性のもとにあるということなのだから、さまざまな事物、さまざまな現象はすべて唯一存在する実体である神のさまざまに変わる様態だということになる。つまり、人間の判断も行動もまた事物のありようも、すべては神の本性の必然性から生ずるのであった。  
無明の私たちがスピノザから学ぶことができたのは、そんなに多くはない。ただこれだけはいえる。スピノザはいつも理性による判断を大切にしたが、最終的に神を認めるのは直感だということ。でもそれは、彼が物事を判断するのに自分の理性だけに頼ったことと矛盾しない。彼が考える神とは、自然の理あるいは最高の知性といったようなものであるから。  
私たちはこれからスピノザが政治について何を考えていたかを見ていくのだが、それらはあげて柴田寿子『スピノザの政治思想』(前掲書)に従う。  
スピノザは若いころから政治に関心をもち、当時としては進歩派だった都市商人による寡頭政治、いわゆるシヴィック・ヒューマニズムと呼ばれる一種の共和主義側に属した。一六七〇年上梓とともにすぐ発禁になった『神学政治論』はスピノザが生前に発表した唯一の著作だった。政治理論について、彼はトーマス・ホッブス(一五八八〜一六七七)から強い影響を受けたばかりか、個人的にも面識があって互いに尊敬し合っていたという。西欧の近代民主主義国家の基本原理となったホッブスが考えた国家とは、殺し合い奪い合う野蛮な自然状態から自らの熟慮によって抜け出た人びと(市民たち)が、秩序を保障する主権者(独裁者)を選出したのち、市民たちが神と結ぶ契約を意味した。ホッブスはこの思想で、独裁的な君主とそれを転覆する市民の権利とを合理的に説明したのだった。だが、スピノザが考える国家は、人びとがもつ個人的な自然の権利がそのまま通用する自然状態に源がある。  
なぜなら、彼にあっては、自然権はそのまま神に由来するものなのだから、自然状態はホッブスがいうような野蛮な状態ではなく、人びとがその自然権を共同に運用する社会方式そのものでる。神は市民たちに国家権力を与えはしない。市民たちが自らつくり上げた自然状態こそが国家権力であって、それはもちろん神の予定表に書き込まれていたものである。それはまた、国家とは人間の霊魂を救済するための手段として神が教会とは別につくった制度であるというカルヴィン派の意見とも違う。二十一世紀のアメリカでいまだに広く支持されているカルヴィン派の思想では、為政者は「市民の秩序」を護るために神の命を受けた個人で、神のお使いであり、神とは二人三脚の間柄なのだ。  
スピノザが描く国家のイメージは、「個々人が自己利益にもとづく活動を行うことによって、自分と他人の欲望や感情の一致点を見出す場であり、それらのせめぎ合いが複合された一つの力に組み合わされ、全体としてあたかもひとつの精神であるかのように機能する統一体である」(柴田、前掲書)。具体的には、彼が目標とした国家は「理性によって導かれる自由によって構成される自由な共和国」であった。理性による結合こそが、完璧な和と力を備えた一個の身体のような政体を生むのだ。ホッブスの国家はたんに戦争がないという消極的平和の状態をいうにすぎなかったが、スピノザは誰よりも早く、近代国家は大衆による秩序をもって成立する政体であると見抜いていたと柴田はいう。それはとりもなおさず近代的な民主制国家というもののごく早い認識であった。彼が言う国家の法とは、従って、公の自由をどれくらい実現できるかにその意義がある。個人的利益を追求する個人が同時に公共的な徳をもつ人だという論点には、いうまでもなく、個人間の違いを認めたうえでの共通の規範があるということを前提にしている。大衆主権の「民主国家」が彼らの非妥協的な判断による欲望実現のせいで簡単に崩れ去ってしまうことを、マラーノであるスピノザはよく弁えていた。にもかかわらず彼は、人びとのありのまままの自然の権利が神から来ているものであるかぎり、いつもそれらが複合された運動が妥当な均衡に達して、理性の支配が甦ることをけっして疑わなかったのだった。  
私たちは、不十分かつ未消化ながら、これでスピノザの政治論の概要を終わりたい。そして、これだけからでも、彼の政治哲学が古来仏教が言ってきた王法とはだいぶ様子が違っていることが分かる。だが仏法が政治論でないように、『エチカ』の定理も政治と直接に関係がないし、それどころか、いくつかの点で仏教の教へと同じことをいっている。例えば、この世界のもろもろの現象はすべて実体としての真理がさまざまに姿を変えたものというくだりである。これは、仏教の本流から外れているがゆえに、私たちがくわしく検討しなかった唯識論と華厳経の主張にそっくりである。そうして、実体など一切ないと否認しながら、絶えず実体の観念を前提としているかのように振舞うさまざまな仏教教義のあり方に私たちを連れ戻す。『エチカ』を読むと、仏教の教義とよく似た思想にしばしば出くわす。でも、実体も法をすべてがなく空っぽだと説く空観と、神あるいは本質は実体であると断言するスピノザとでは、神あるいは絶対者にたいする考えが根本的に違っている。それは同時に、仏教とユダヤ教あるいはキリスト教との違いである。似ているというだけでは、それらが同じ意味を運んでいるとはいえない。むしろどっちつかずの表現に終始する仏教の言葉には、総じて世界中のどの智慧の言葉とも似てしまう特徴があるだろう。大衆をついに実体として捉えなかった日本仏教が未解決で残したつけが、主権在民の政治哲学だったと私たちは思いたい。そうして、仏教にはなんでもあるのだから、それを探ることが今後の私たちの課題である。仏教が他の二大宗教とくらべて理性を重視する宗教であることを、私たちは何人かの気鋭の仏教学者たちの論議のなかに見出してきたと思う。「神との契約」あるいは「仏との取引」という観念こそまるでそぐわないけれども、私たちは、仏教哲学について語りながら、仏と菩薩が予定してくれているかぎりでの法を社会的権利として主張して悪いことはない。わたくしなどは、もし仏教が「仏との契約」というアイデアを思いついていたら、仏教にも、主権在民の思想が生まれていたかもしれないと空想する。修行や呪術は信仰の方に任せておけばよいのである。  
 
 
宗教雑話

 
 
世界の宗教
 

世界三大宗教といわれる仏教とキリスト教、イスラム教との簡単な比較をしてみたいと思います。 
宗教とは何でしょうか。人間の存在に対する不安とこれを取り除こうとする探究心と人類の知恵から信仰が生まれました。そして、人間の根本的な疑問に答えようとするさまざまな宗教が登場し、個性のある布教活動を行ってきました。 
宗教には二つの側面があります。一つは「社会的な組織や制度(教団)」であり、もう一つは「心のあり方、捉え方(信仰)」です。これらは、「信仰の対象=神・仏」という形で捉えられ、崇拝の対象とされる神や仏には人々の信仰心が投影され、神や仏の捉え方は、信仰の考え方の相違点として譲り合うことのないさまざまな宗教紛争を起こしました。 
特に、キリスト教にこの傾向性が強く表われたことは歴史的な事実です。 
実は、中世のキリスト教徒は、今日では考えられないくらい文盲率が著しく高く、また、当時の聖書はラテン語かギリシャ語で書かれていたので、一般民衆のほとんどの人はこれを読むことができませんでした。 
今日のように、客観的に、哲学的に思索できる人々は育っていませんでした。キリスト教徒の大半は、指導者(聖職者など)のことばに左右されやすく、過激な言動にもすぐに影響されやすい欠点がありました。 
庶民が、自分たちの母国語で聖書が読めるようになったのは、宗教改革の嵐の中でドイツのマルティン・ルターがドイツ語訳の聖書を翻訳したことに啓蒙され、各国でも母国語の聖書が翻訳されるようになってからのことです。 
キリスト教は、ユダヤ教徒(旧約聖書)であったキリストが神の啓示により新たに説いた教え(新約聖書)であり、キリストの没後の紀元一世紀の半ば頃成立した教団で「イエスを神の子として、その復活と絶対愛を信仰する」特徴があります。 
イスラム教は、7世紀に登場したムハンマドが大天使ガブリエルの啓示を受けて成立した教団で「唯一神アッラに対する絶対帰依とイスラム法を遵守する」特徴があります。 
キリスト教の神とイスラム教の神は同一の神です。宇宙観と死後の世界について同一のイメージをもっています。唯一絶対神の「天地創造」と「最後の審判」がこれです。 
この両教の特徴的なことは、国家権力と結びつき、布教のために「宗教戦争」といわれる領土獲得の侵略戦争を何度も繰り返してきたことです。仏教はこれを保護する王は何人もでましたが仏教を布教するために侵略戦争を起こした王はいません。 
ヨーロッパ諸国に比べ、イスラム圏では、イスラム教徒としてのムスリムの義務(コーランの朗読)を実践する必要から、アラビア語教育が共通語として普及し、出身地や人種の違いを問われることがなく、貿易や商業の発展がスムーズに行われていました。 
イスラム教徒は、異教徒に寛大に接したことから、商業活動を通じて、各地の先進技術が導入されていました。異文化を柔軟に取り入れた中世のイスラム圏は、いわば文明の集積地となったのです。 
イスラム商人は、東南アジア諸国や中国に盛んに進出し、貴金属や香辛料の交易で莫大な利益を上げました。ムスリム商人の寄港地となった各都市には自然にイスラム教がもたらされました。 
インドネシアやマレーシアなどにイスラム教徒が多いのは実はムスリム商人の遺産でした。ムスリム商人の後に軍隊が進出し政治・経済宗教を制圧するということはありませんでした。 
イスラム教は、実は異文化を尊重し、実力を以って干渉することを選択しませんでした。この点がキリスト教の布教とは大きく異なる事実です。 
しかし、中央アジアのイスラム教徒はこれとは明らかに異なり、アジアではインドに至る道筋の仏教徒は悉く蹂躙され仏教文化や文化遺産が大量に破壊され続けました。 
アジアのイスラム教徒は、罰則規定がある律法の禁止規定に忠実に従い、仏教を偶像崇拝と見做し、仏教遺蹟の破壊を宣言しています。 
イスラム教徒は、キリスト教やユダヤ教に対する場合と異なり、仏教が持つ宗教観が全く肌に合わず、特に仏教施設は偶像崇拝の場と見做され、何の躊躇もなく近年まで無残な破壊活動を受けています。今日でもアフガニスタンでのタリバンの破壊活動が世界に強い衝撃を与えています。 
イスラム教徒の眼から見て受け入れられない信仰対象(仏像など)はことごとく偶像と見做されます。偶像崇拝の禁止はイスラム教徒の義務と考えられ、敬虔なイスラム教徒の視点から見れば、仏教はことごとく偶像崇拝と見做されることになります。 
近世になると、イスラム教徒の特質は、日常の生活や行動基準、考え方の全般に至るまで詳細な教義の縛りが厳しく行われるようになりました。ここでは自由な発想や柔軟な思考が妨げられるようになり、教条的な信徒が目だってきてイスラム教と異なる思想を強く否定する民族主義的な傾向性が表面化するようになります。 
宗教の権威が社会の全般に浸透し、あらゆる社会基盤に大きな影響を与えたイスラム社会では王権や宗教権威を牽制できる市民階級が育たず、市民の手による民主化が芽生えませんでした。 
キリスト教社会の西欧文化圏で近代社会の思想基盤となる「デモクラシー」が育っていくのと対照的にイスラム社会では民主化の芽生えはありませんでした。 
今日でもイスラム世界の社会基盤が脆弱で不安定なまま推移して多くの紛争を抱え込む結果となったのは「グローバリゼーション」に背を向けた閉鎖社会を形成してしまった為だと考えられます。 
イスラム世界にこのような顕著な変化が見られるようになったのは、18世紀後半に始まったイギリスの産業革命以後、ヨーロッパ諸国の発展に取り残されたからです。キリスト教徒に軍事、外交、経済、政治の世界で明らかな劣勢になったのです。19世紀のオスマントルコの壊滅によって、イスラム世界はヨーロッパ諸国に分断され植民地政策に組み込まれて隷属する運命をたどりました。 
20世紀以後もイスラム諸国では市民階級が育たず、民主化の種も芽吹くことがありませんでした。 
ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教は同じ神の啓示により発生した同根の唯一絶対神を信奉する一神教の宗教です。この三つの宗教を「アブラハムの宗教」その教徒を「啓典の民」といいます。三つの宗教が同じ預言者アブラハムから分かれた兄弟の宗教という意味です。 
啓典とは預言者が神の啓示を受け伝えたとされる聖典(経典、教典ともいう)です。キリスト教とイスラム教は改宗が容易で身分や民族を問わない平等主義に立ち個人単位で戒律に随いますが、ユダヤ教は民族単位で改宗は厳格です。 
ユダヤ教では、神とモーセが結んだ契約(旧約聖書)により、神がユダヤ民族に安住の地を与えることと引き換えに生活習慣や態度について厳しい戒律を与えました。ユダヤ教の特徴は、ユダヤ民族が神から選ばれたとする「選民思想」をもつ民族性にあり、天国に行くための条件は民族単位です。個人単位ではありません。 
ユダヤのこの思想は、他民族や他宗の理解が得られず、長年にわたり迫害や差別の対象となっています。イスラム教とキリスト教の大きな違いは、キリストとマホメットをどのような存在と見るかです。 
イスラム教はユダヤ教とキリスト教の影響を受けて成立しました。マホメット(ムハンマド)はアブラハム〜モーゼ〜イエスと続く預言者の中で、最高・最後の預言者と位置付けられ、神の預言を完成させた者であると考えられています。 
イスラム教徒はキリストの神性を否定して神の啓示を伝える預言者とみる立場ですが、キリスト教徒はキリストは神(三位一体説)と同一視するところから両者は相入れない対立軸をもっています。 
キリスト教やイスラム教に共通する信仰姿勢は、まず全ての造物主である神ありきで始まり、人は神を信じる存在であるということができます。ところが、仏教では、まず宇宙の法則(法)があって真実を実感することができる、と考える大きな違いがあります。 
キリスト教とイスラム教、そしてユダヤ教は神を主体とする「他律性の高い宗教」であり、仏教は「自立性を重んじる宗教」ということができます。一般的に、他律性の高い宗教は修行方法がシンプルで規律性や評価基準が比較的に容易という長所があり、異文化を持つ他宗教の考え方や思想の違いを容認できず攻撃する欠点があります。 
特に教義にこだわる原理主義者は妥協のない極端な行動をとる傾向性が強く、これと特徴のある民族主義が結合すると妥協ができない頑固者になります。このような人々と紛争を起こせば出口のない戦争に巻き込まれる危険性が著しく高くなります。キリスト教徒やユダヤ教徒とイスラム原理主義者の戦争は解決策が無くこの調停はいつも困難を極めています。 
なを、プロテスタントについては、カトリックの教皇のように、教義のすべてを判定する権威が存在せず、各派の教団に個性のある新たな教義が発生して混乱が生ずるリスクをその体質の中に持っているといっても過言ではありません。皮肉にも絶対的な権威者が必要な場合もあるのです。 
伝統のある、ユダヤ教やヒンズー教が世界宗教と認められないのは、民族宗教の特徴が強すぎるからです。信仰の単位は個人が主体となり入信や脱退が容易であること、民族性を否認し、国際性という共通項を持つことが世界宗教のキーワードです。 
キリスト教もイスラム教も、建築、美術、音楽、文学、哲学、科学そして社会福祉や生活文化に至る広い分野において世界の手本となり、世界中に多大の貢献をしてきた事実をもっています。 
世界の文化に多大な貢献をしてきたキリスト教の長い歴史を見れば、称賛に値する多くの光の面だけでなく、悲惨な影の部分を色濃く投影してきた事実を否定することができません。 
しかし、これはキリスト教の教義に問題があるのではなく、その信徒の一部の者の欲の中に問題があるといわなければなりません。 
ところで、宗教改革が資本主義を育てた、という説があります。フランス人カルヴァンはドイツ人ルターの『聖書回帰説』に影響を受けましたが、カルヴァン自身は『予定説』を主張しました。 
予定説は「死後、神の国にいけるかどうかは神が予め決めている」という主張です。「全知全能の偉大な神が、救済する人を決めていないはずがない」ということを根拠とする説です。この説は「自分はすでに救われている」と信じることができる人々に受け入れられました。 
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、この予定説が欧米の資本主義の発展に寄与したと信じて、1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を発表しました。これによると、「自分に与えられた職業を天職と考えて勤勉に働き、経済の発展に貢献することで国力を発展させることができる」ということです。 
この考えは、「現世で成功する人を神が救わないずが無い」「現世で成功した自分は、神にすでに救われている」のだから「自分に与えられている天職(運命)を全うすれば良い」という考えを根拠とするものです。これで納得できるキリスト教徒の精神の柔軟性を垣間見る思いがします。 
キリスト教のような一神教の立場では、自らの正当性と優位性をけっして他の宗教に譲ることはありません。熱心な布教活動には長所と短所が同時に現れます。 
例えば、キリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教徒の間で発生する争いには出口がありません。 
この三者は同じ神を土壌とする同根の宗教でありながら、自らの正当性は絶対に譲ることがありません。今日のイスラエルとパレスチナの国際紛争は宗教の対立が深く絡み、出口のない国際政治問題になっています。 
社会への無償奉仕(神への奉仕)や隣人愛はキリスト教のもっとも優れた理念です。しかし、植民地政策の重要な一翼を担ってきたこともまた事実です。 
愛は解かりやすく受け入れやすい概念です。仏教の慈悲と類似していますが一般人が理解できる長所があります。 
「愛を送られて傷つく人はいない。しかし、受け取り手にとって、不安を感じる愛は、もはや愛ではない」という箴言がある通り、愛も自然に伝わるものではなく、相手が受け入れるまでの努力が必要です。 
もっとも興味を引く事実は、植民地政策の前哨戦として熱心に布教されたキリスト教がさまざまな障害を乗り越えて、植民地となった諸国や支配地に根付き今日まで文化的に伝承されてきた事実です。 
これは、キリスト教の卓越した業績の一つというべきでしょう。

 
ユダヤ教

ユダヤ教は、現存する世界の宗教の中では最古級の宗教です。 
『ヘブライ語聖書』(旧約聖書)の創世記によれば、神とアブラハムとの間で交わされた契約により始まる宗教でその成立時期は紀元前2000年頃のこととされています。 
アブラハムは、ノアの方舟で有名なノアの子孫とされています。アブラハムの名は神から与えられた名前ですが、その名の由来は「多くの国民の父」を意味するものです。このアブラハムの契約は、唯一神ヤハウェに対する絶対的な服従を理想とする信仰です。 
アブラハムの子の「ヤコブ」がユダヤ人の祖とまり、イシュマエルがアラブ人の祖となった、とされています。 
ヤハウェはユダヤ人の祖先・アブラハムに現われたことから、彼とその子、孫の名前をとって「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼ばれますが、この子孫は「啓典の民」といわれます。 
ユダヤ教は、神とは世界を創造した造物主と考え、これを唯一絶対の神と定義した最初の宗教です。キリスト教の「造物主思想」(the Creator=神=万物を創造した者)に決定的な影響を与えましたが、この思想はギリシャ、ローマなどの諸民族に生まれた多様な多神教的色彩を根本から否定する思想です。この思想の特徴は、唯一の絶対的な宗教的価値観を持つ神の存在しか認めない厳格で妥協性のない独善的な一神教の性格を色濃く持つ宗教です。 
ユダヤ教は、国(固有の領土・統治権)を持たない流浪の民・ユダヤ民族の中に芽生えた唯一絶対神「ヤハウェ(エホバ)」に対する信仰によって民族のアイデンティティを保ち続けて来たという特徴を持っています。 
その信仰は神との契約によって様々な宗教的律法を守ることにより神の手によって約束の地(国)に導かれることを願うものです。何代も他民族の支配下におかれた悲惨な境遇の中でユダヤ民族を結束させ生きる望みを失わないために胸中に抱いて育てた民族思想によって支えられてきました。 
ユダヤ教の律法は、出エジプトの預言者モーゼがシナイ山で神から授けられた十戒が全ての基礎となっています。 
1 私はあなたがたの神である。私以外の者を神としてはならない。(唯一神) 
2 像を作ってそれを拝んではならない。(偶像崇拝の禁止) 
3 神の名をみだりに口にしてはならない。(神の名) 
4 6日働いたら7日目は祈りのために休め。(安息日) 
5 父と母を敬え(先祖を敬え) 
6 殺してはならない。 
7 姦淫してはならない。 
8 盗んではならない。 
9 嘘の証言をしてはならない。 
10 隣人の家をむさぼってはならない。 
律法を守らなかった人々には神の罰があると説かれましたが、ユダヤ人は何度も律法を破りました。紀元前6世紀のバビロン捕囚はこの罰だと考えられましたが、神はユダヤ人を許し救い主をこの世に送る約束をしました。いわゆるメシア思想です。 
メシアは救世主といいますが、キリストはメシア(messia=その元意は油を注がれた者=王・預言者・大司祭)のギリシャ語訳です。神の声を伝える預言者とは異なる存在とされています。 
キリストやマホメットを救世主とみるか、預言者とみるか、この見方の違いによって、キリスト教とイスラム教の違いがよく理解できます。 
ちなみに、イスラム教徒はキリストを救世主と認めず預言者として位置づけます。イスラム教徒にはマホメットが最後の偉大な預言者と位置付ける特徴があります。 
日常生活の上において、ユダヤ人の行動規範となったのは「律法(ト―ラ)」と「タルムード」です。 
律法は、『ヘブライ語聖書』(旧約聖書)の最初の五書(モーセ五書)のことで紀元前400年頃に編纂されたものです。 
「タルムード」は、口伝律法の「ミシュナー」とユダヤ教特有の律法教師「ラビ」が解釈したミシュナーの解説書「ゲマラ」を集成したものです。農業や商売、食事、祈り、結婚、などの日常生活のあらゆる場面における指針や心がけが記された書です。考え方や価値観を示すもので、ユダヤ特有のティストと様々な教訓に満ちたものとなっています。 
亡国の民、ユダヤ民族は、他国の支配下で他民族の圧迫や差別を受けながら流浪の民として2000年以上も世界を彷徨い続け、苦渋と忍耐の日々を過ごしてきました。この過酷な環境の中に置かれながらも民族のアイデンティティを失うことなく結束して生き抜いてこられた特殊な歴史観を持っています。 
他国に何百年も定住しながら一致団結して結束し、他民族に吸収されることなく、溶け込まず、同化せず、民族固有の宗教文化を保ち続けられたことは奇跡という以外に適切な言葉がありません。 
ユダヤ教が現在のような宗教として確立したのは、『ヘブライ語聖書』の第二の書「出エジプト記」が語る紀元前13世紀のことと考えられています。 
ユダヤ民族の離散(ディアスポラ)が始まり亡国の民となった出来事は、西暦66年のローマに対する反乱(第一次ユダヤ戦争)と西暦77年のエルサレム神殿の破壊を契機にするものです。 
ユダヤ民族は、過去に様々な不幸に見舞われましたが、その主なものとしては次のような出来事があげられています。 
1 アブラハムの契約によりカナンの地に導かれたユダヤの民は飢饉などにより、 
   エジプトに移住したが、やがて奴隷として暮らすようになる。 
2 イスラエルの民は預言者モーセに率いられて圧政のエジプトを脱出する。 
3 モーセはシナイ山で神に「十戒」を授けられる(シナイ契約)が、40年も荒野を彷徨う。 
4 モーセの後継者「ヨシュア」は、先住民と戦い勝利してカナンの地に入った。 
5 紀元前11世紀にカナンの地にイスラエル王国を建設する。 
6 イスラエル王国は、ダビデ王、ソロモン王の治世に最盛期となるが、ソロモン王の死後、       
  イスラエル王国とユダ王国に分裂する。 
7 前722年、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は前586年バビロニアに滅   
  ぼされる。エルサレム神殿は破壊され、バビロン捕囚となる。 
8 前538年、新バビロニアがアケメノス朝ペルシャに敗れて滅亡。 
   ユダヤ人はエルサレム帰還を許される。 
9 その後はエジプトやシリアの支配を受けるが、前142年、独立しハスモン朝を樹立。 
10 前63年、ローマ帝国の支配下に置かれる。ローマの治世下でキリスト処刑される。 
11 66年、ローマに対する反乱(第一次ユダヤ戦争) 
12 70年、エルサレム神殿の破壊。ユダヤ人の離散(ディアスポラ)が始まる。 
ユダヤ教の信仰の中で、「神に選ばれ守られている民族」という選民思想が生まれ、ユダヤ民族を誇り高い気風の存在にしました。この誇りがあったからこそ民族のアイデンティティを失わずに結束が出来たのです。 
しかしこの思想は他民族を苛立たせる結果を生みます。また、キリストを裏切ったユダがユダヤ人であったことから、ユダヤ民族は二重の迫害の対象となり悲惨な運命に見舞われました。 
特に、同根の啓典の民であるキリスト教徒とイスラム教徒からの迫害は悲惨を極めました。 
宗教的な迫害が薄れてくるのは18世紀になってからです。この頃から活動の制限が薄れ、活動範囲が急速に拡大していきます。 
4世紀にキリスト教がローマ帝国に公認されて以来、ユダヤ教徒の迫害が組織的に断続的に行われていました。 
キリスト教の熱狂が頂点に達した12-13世紀のヨーロッパでは、キリスト教徒とユダヤ人の交流が禁止され、ユダヤ人は農業や手工業の生業から締め出されてしまいます。 
職業選択の自由を奪われたユダヤ人は、迫害で他人に奪われることのない財産、いつどこに逃れても生きていける智慧を身に付ける教育に活路を見出し、文化、芸術、学術の分野で多くの人材が育ちました。その結果、多くの成功者が輩出され、独自性のある富裕層が形成されました。 
この中で、ユダヤ教はユダヤ人の宗教ではなく、ユダヤ教の信者はユダヤ民族である、という評価が定着し、中世までユダヤ民族と人種との相関関係が否定されました。 
19世紀以降は民主国家の概念が現われ、「ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)」または「ユダヤ人を親に持つ者(民族集団)」という二つの概念が使われています。 
ユダヤ教徒は布教活動はしません。一般人がユダヤ教に入信してユダヤ教徒と認められることは通常ではありません。ユダヤ人のコミュニティーが認めた場合に例外的に許される場合がありますが、ユダヤ教徒の母から生まれた子がユダヤ教徒と認められる社会を形成しています。父母特に父親の威厳や存在感を大事にする家庭環境を形成して日常の生活環境の中でユダヤ教の生活習慣を守っています。往年の日本人社会とよく似ています。 
13世紀にエルサレムにシナゴーグ(会堂)を建設しユダヤ民族の子弟の教育を組織的に行うようになりましたが、16世紀には四つのシナゴーグを建設しています。 
国籍を持たない民族は国家の保護が求められません。 
仕事を得ることは困難を極め、自らの才覚によって生きる術を探さなければなりません。 
ユダヤ人の多くは芸術家、科学者などの才能と頭脳を生かした分野に活路を見出しました。 
高い教育に力を注ぎ共同で教育機関をつくり子弟を教育しました。 
また、キリスト教徒が不浄の仕事と忌み嫌った金融業や商業には伝統的に従事者が多く、世界中に独自の情報ネットワークを作り、競争に勝って財を築き世界経済を牛耳る者が出てきました。 
1887年にはロスチャイルド家がイスラエルの地に農業コロニーを買収し、1896年にはロスチャイルド家の援助のもとにユダヤ人開拓村が誕生しました。ユダヤ人は千年以上の歳月をかけてシナイ半島に徐々に集結し、定住の既成事実を重ねてアラブ人の実効支配を否定していったのです。 
1902年には、ユダヤ民族の母国語であるヘブライ語を話せる家庭は僅かに10家族だけしか存在していない状態でした。ユダヤ人のほとんどの人が居住地域の言語を話していたのです。1904年頃からヘブライ語の授業を行う学校が増えていきました。 
ユダヤ人は、世界諸国の在住者を合わせれば1300−1400万人と推定されていますが、イスラエル本国に531万人、特にアメリカに528万人も居住し、世界金融や商業の重要部分を掌握し、アメリカは当然ながら世界の政治・経済に多大な影響力を行使しています。その外交力を見ても日本などは太刀打ちできない実力を持っていると考えられます。 
財界では、ロックフェラー、ロスチャイルドが有名ですが、今世界の金融はユダヤ人の手に握られているといっても過言ではないとも言われています。 
この他には、物理学者アインシュタインとオッペンハイマー、思想家マルクス、フロイト、作家フランツ・カフカ、アメリカの外交官ハリー・ホワイト、キッシンジャー元米国務長官、日本国憲法の執筆者チャールズ・ケーディス、日本史研究者ハバート・ノーマン、映画監督スティブン・スピルバーグ、日本のテレビによく出るピーター・バラカン、デーブ・スペクターなど様々な分野に存在しています。 
ユダヤ人は世界人口のおよそ0.2%に過ぎません。ユダヤ教は布教活動をしないので、人口が大量に増えることは今後とも考えられません。しかし、ノーベル賞の受賞者の数を見れば、この20%がユダヤ人だといわれています。 
ユダヤ人の成功には高等教育の外に、ユダヤ人の魂とか頭脳と呼ばれ、ユダヤ教徒が生きるために長年にわたり積み重ねたラビ(律法教師)たちの智慧の書『タルムード』の存在が知られています。 
これは、ユダヤ民族のため各律法の内容をどの様に理解し具体的な判断をすればいいのか、その基本的な考え方を個別に示す位置付けにあるものと考えられる内容です。 
しかし、他民族からこの『タルムード』見れば、間違いなく不快感と警戒心が湧きおこることが避けられない内容の言葉が書き綴られています。 
実はこの『タルムード』がヒトラーの逆鱗にふれてホロコーストを招いたのではないかと言われたものですが、『タルムード』がユダヤ人の結束を固めた心の砦であるともいわれています。 
但し、『タルムード』は長年のラビの努力の結晶です。異教徒が研究することは許されない、という特殊事情を考慮する必要性があると考えます。 
世界の紛争や戦争の原因は「宗教対立」と「富や利権、資源の奪い合い」にあります。ユダヤ人の受けたホロコーストという大量虐殺やイスラエルの建国はこの線上にあるものと考えられています。 
ユダヤ民族がパレスティナの地に、シオニスト思想を掲げてイスラエル国家を建国したのは1948年5月14日のことでした。シナイ半島の委任統治国・イギリスの後押しや欧米の支援と黙認によるものです。 
パレスティナ問題の紛争の原因は、「宗教の対立」と「領土の奪い合い」という難しい課題を複数抱えています。何度も国際関係国の調停を受けながら紛争の終結が見えてきません。その都度、泥沼状態に陥ってしまいます。パレスティナ紛争は、当事者双方とも解決策が見いだせない混沌の中にあり出口が見えません。

 
キリスト教

キリスト教の特徴は、唯一絶対の神(万物の創造者=the Creator)の存在を前提とする宗教です。キリスト教社会では人間や動植物などの様々な生命体も宇宙も地球も神によって作られた(天地創造説=the Creation)とする神話によって成り立っています。 
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は思想的には同一の神を受け入れる同根の宗教です。この意味では「エホバ」も「キリスト(イエス)」も「アラー」も同一の神であり、伝道者の立場の違いから神の名が異なっているだけだと考えられています。いずれも唯一絶対の神を前提とする宗教であり他の宗教との共存は本質的には極めて困難と考えられます。いずれも他宗教の存在を認める教義がないという独善的な共通性を持つところから、他宗教との間には常に緊張感と相克関係が存在します。特に、キリスト教徒とイスラム教徒の間では信頼関係が容易には築けないことが知られています。 
キリスト教のような唯一の絶対的な一神教の立場では、日本人の宗教観は理解されません。キリスト教社会では、創造主(神)と被造物(人間)との間には、造った者(神)と造られた者(人間)という厳然たる差別があります。この立場では釈迦、孔子、ソクラテスなどの偉人は実在の人であり、「土のチリから作られた被造物」にすぎない、ということになります。釈迦(仏教)をキリスト(神)と比べることは神に対する冒涜である、ということになります。 
戦国時代の日本で布教活動したイエズス会の宣教師たちは、「土くれ」が神や仏として尊崇されていることに強い嫌悪感を持ち、貿易の利益を提供して領主をそそのかし、神社仏閣を破壊させました。この事実は、ルイス・フロイスの「日本史」第50章豊後編に書かれていますが、「新しいキリシタンたちは熱意に燃え、さっそくにも神仏(の像)を捨て、また焼却し、その地にあったすべての偶像(仏像や神像のこと)を破壊した」として、これが正義の行いであると絶賛しています。土くれの偶像は神への冒涜であり、これを破壊したのは正義の行いである、というのです。 
日本は戦闘力のある武士の国であったことからキリスト教徒の植民地化は免れましたが、他の諸国では土着の宗教は徹底的に破壊され、キリスト教徒に改宗させられています。特に、南アメリカの諸国は悲惨でした。 
ユダヤ人ナザレのイエスは、紀元前4年頃、ヨルダン川西岸のベツレヘムで、大工の父ヨセフと母マリアの息子として生誕し、少年時代をガリラヤ地方のナザレで過ごしたと伝承されています。 
イエスは、大工を生業としていましたが、30歳頃にヨハネの洗礼を受け、荒野で40日の修行を経て、ガリラヤ地方を中心にして独自の教えを説き始めました。 
ユダヤ教は神に救われる為に律法(戒律)を重視しますが、当時では約6000もの戒律があり、病人や貧乏人など、多くの人々は到底守れない状態にありました。 
律法重視に疑問を感じたイエスは「神は人ができないことを要求し、罰するような方ではないはず」と考え、神は愛を与える存在だ、と説くようになります。 
福音書はイエスが身体の不自由な人を治し、死者さえも蘇らせたと記しています。 
イエスは「山上の垂訓」といわれる説教で、「心貧しき人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」など「八福の教え」や「神の下の平等」「隣人愛」「復讐の禁止」を語り、キリスト教の精神や教義の土台となる教えを説きました。 
ユダヤの人々は、神から使わされたメシアが出現してローマの圧政からユダヤの民を解放することを待ち望みましたが、イエスはユダヤ人が待ち望んだメシア(救世主)ではありませんでした。 
イエスが説いたのは「神の愛による魂の救済」でした。 
ローマ帝国の権力者と結託し利権を得ていたサドカイ派の祭司たちはイエスを警戒していました。 
ユダヤ教の律法学者やパリサイ派の指導者から危険視されました。 
イエスもまた戒律を厳守する彼らに懐疑的でした。 
民衆の期待は裏切られ、反動でイエスを憎む人もでてきました。 
紀元30年、イエスは弟子たちとの「最後の晩餐」で自分の処刑と弟子の背信行為を予言し、ユダの裏切りによってゴルゴダの丘で十字架にかけられ磔刑に処せられました。 
イエスは、「神の子」を騙った罪でユダヤの最高法院に捕縛され、ローマ総督によって、「ユダヤ人の王」(ユダヤ人の救世主)と称した罪状で磔刑に処せられたのです。 
聖書には、磔刑されたイエスは3日後に復活を遂げたとの記載があります。 
復活したイエスは40日の間、弟子たちの前に度々現われ、処刑前に逃亡した弟子を許し、神の子として昇天した後、聖霊が弟子たちの前に降臨することを予言し、昇天10日後に聖霊が弟子たちに降臨し神の霊を授けたといいます。 
キリスト教では、イエスが受難という形で人類の原罪を背負い、人々を救済しようとした、と説明しますが、このイエスの復活こそがキリスト教の原点となるものです。 
キリストの生涯は謎に包まれた前半生と凝縮された晩年の僅か30年余でした。イエスが弟子と伴に伝道したのは僅か2〜3年のことですが、この期間にキリスト教の根本が形成されたことになります. 
父と子と聖霊の三位一体説は「キリスト論」として論じられ、イエスは神なのか人間なのか、という形で争われました。イエスが神であれば唯一絶対の神の外に別の神が存在することになり、唯一神の考えに矛盾が生じると考えられたのです。 
神学者アタナシウスが考えた結論は、神は創造主である「父」と、イエスとしてこの世に現われた「子」と、神の超然的な力や人間に語りかける言葉である「聖霊」という三つのペルソナ(位格)があるがその本質は同一である、とするものです。 
3〜4世紀頃、これにアレキサンドリア教会の長老・アリウスが「父と子は完全に同一ではなく、子は創造主たる父なる神より劣格である」と反論しました。 
キリスト教を公認したローマ帝国のコンスタンティヌス帝はこのことを憂慮し、325年にアナトリアのニカイアで公会議を開催し、「ニカイア信条」を採択してアタナシウス派を正統と定め、アリウス派を異端と定めました。 
三位一体説は451年の「カルケドン信条」によって定まりましたが、キリスト論はこれ以後もたびたび論争を引き起こしています。 
5世紀の半ば頃、イエスの人性を論じたコンスタンティノープル主教のネストリウスに対して、神学者エウテケスは「イエスの人性は、その受肉の後、神性に吸収された」とする「単性論」を主張しました。 
ネストリウス派は、431年に異端とされ、「単性論」も451年に開催されたカルケドン公会議で異端とされましたが、これを機に、「単性論」を支持する東方諸教会が離反することになります。 
現在でもエジプトのコプト教会、アルメニア教会、エチオピア教会は単性論派に分類されています。 
キリスト教の世界の信者数は21億7318万人(2006年)で世界人口の33.2%を占め、世界の1/3はキリスト教徒です。 
キリスト教は熱心な布教活動と諸国の侵略や植民地活動によって世界に広められた世界最大の宗教です。 
しかし、布教の手段に問題があるにも係わらず、キリスト教の理念は人々に受け入れられ定着しています。西洋の先進文化として受け入れられたものと考えられます。 
実は、キリスト教は「原罪・贖罪・愛」を特徴とする教説を説きながら、世界のいたる所に紛争の輪を広げて来た2重構造の歴史に彩られた宗教です。 
18世紀以降、キリスト教は世界の政治、軍事、経済を支配してきた実績を持つ先進の欧米文化圏の諸国に支えられてきました。今日でも国際政治の力学を視点にすれば、キリスト教徒の独善性や責任を実力をもって追及できる対抗勢力がありません。 
誰でもが世界紛争の原因を認識できる状況にあるにもかかわらず、キリスト教徒が関わる国際紛争は今日でも世界中に多発しています。 
キリスト教国家の中からこのような現実問題に対する批判勢力がでてこないという特徴があり、キリスト教徒と係わる紛争は解決策が無く長期化して悲惨そのものです。 
キリスト教徒は、神の唯一絶対性を信じる故に民族性と宗教が複雑に絡む紛争の当事者になると異教徒と妥協が出来なくなる傾向性が強くでてくる体質を持っています。 
キリスト教を知るには「旧約聖書」と「新訳聖書」を知らなければなりません。これらの聖書は、実に二千年以上の歳月をかけて完成された壮大な物語です。 
『旧約聖書』はユダヤ人の歴史12巻と律法5巻、智慧文学5巻、預言書17巻の39の書で構成されています。口承の物語などが次第に文書化されてきた長い歴史を持っています。 
キリストの教えだけでなく伝承者の考え方も相当な量が混入されているものと考えられます。 
『新訳聖書』はイエスの教えを記したキリスト教徒の聖典であり「THE BOOK」という唯一の書物です。イエスの生涯とその教えを記した福音書4巻、使徒言行録という歴史書1巻、パウロ等の複数書簡21巻、ヨハネの黙示録(預言書)1巻から構成され、紀元50年頃から約100年間で書かれたとされています。 
カトリックの規範的な聖書とされるラテン語の聖書「ウルガタ訳」は紀元405年頃完成したものでこれが各国語訳の定本となったものです。ドイツ語訳、英語訳等の各国語の聖書は16世紀のルネサンス期に出版され始めたものです。 
キリスト教には二大勢力があります。ローマ法王を中心とするカトリックの勢力とこれを批判して分裂し独立したプロテスタントの勢力です。 
両者の違いは信仰理念の違いによるものであり、両者の対立は16世紀から17世紀に吹き荒れた宗教改革というヨーロッパ各地を巻き込む宗経戦争を経験したことによって政治的な妥協をみて、互いの存在を容認する共存関係が成立して棲み分けが完了しています。 
キリスト教徒の理念の違いは、最終的には戦争という悲惨な経験をし、やがて疲れ果てて終息をするという特徴があります。 
その概要はすでに述べました。 
カトリックとプロテスタントの違いを上げれば、概ね次の通りです。 
1名称の意味 
カトリックは「普遍的」を意味する言葉です。国籍、人種、性別に関係なく、全ての人々に神の愛を与える、という考えです。 
プロテスタントは「抗議する者」という意味で、カトリック教会の在り方を批判する改革者という立場をとりました。 
2信仰の在り方 
カトリックは聖書、儀式、伝統、伝承を重視し、ミサや善行を励行します。ローマ教皇、各階層の聖職者の階級制度を認め聖職者の権威を認めます。 
プロテスタントは、教皇にあたる存在が無く、皆平等と考えます。信仰の拠り所は聖書のみ(聖書至上主義)と考え、信仰のみが魂を救済する(新興義認説)としてミサは行いません。聖職者の特別な権威を否定し、ローマ教皇も一般信徒も神の下では平等と考えます(万人祭司説)。聖母マリアの崇拝を否定し、結婚と離婚の考え方もカトリックより柔軟性があります。 
3聖職者 
カロリックの神父は独身男性に限られます。 
プロテスタントの牧師は結婚が可能で女性も牧師になれます。 
キリスト教の歴史と伝統は、「クリスマス(降誕祭)」、「イースター(復活祭)」「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」という三大祝日によって表されています。特に、ペンテコステはキリスト教会の成立と位置付けられている非常に重要な祝日とされています。 
キリスト教の最大社会はアメリカ合衆国です。歴代のアメリカ大統領が聖書に手を置いて宣言する儀式はアメリカが特殊な宗教社会であることを雄弁に語るものです。 
アメリカ合衆国は、その当初はヨーロッパからの移民によって建国されましたが、多様な民族、多様な文化など、様々な多様性を背景に持つ人々が共存する国家です。 
アメリカの礎を築いた当初の移民はイギリスからメイフラワー号で渡海してきた清教徒の集団でした。アメリカの建国には濃厚な選民意識が反映されています。神によって、新大陸アメリカ(約束の地)に導かれたと(選民思想)考え、聖書の世界が現実の世界として実現したのがアメリカの建国と捉えるのです。 
「アメリカ人は神に選ばれた民」という考えは、モーセがイスラエルの民を引率してエジプトを脱出し、約束の地カナンに向かった故実に擬えた思想です。 
この考え方は現在のアメリカ合衆国の外交姿勢に濃厚に反映されています。パレスチィナに於けるイスラエルと中東諸国との長い紛争で、アメリカがイスラエルを支援してきたのは国内のユダヤ勢力を意識してのことだけではありません。 
アメリカ人の9割以上の人は神の存在を信じる人々です。キリスト教は多民族国家を一つにまとめる役割を果たしてきました。この人々の大半がマリアの処女懐胎を信じ、ダーウインの進化論を否定する人々ですが敬虔なキリスト教徒と考えられています。 
アメリカのキリスト教保守派はユダヤ人に対して複雑な偏見を持ちながら、イスラエルは「神の祝福を受けた場所」と認め、イスラエルを守ることがキリストの再臨につながると考えているのです。 
アメリカは選ばれた民によって建国された、とする精神が生き続けるためには「神徒の契約を絶対に守らなければならない」という条件が重要なポイントとなります。これを破れば、アメリカ国家は地獄に落ちると考える精神が外交や経済面に生きていると考えられています。 
敬虔なアメリカ人のキリスト教徒ほど、アメリカがキリスト教の理念を実現した国と考えているといわれています。 
他方では、ユダヤ教徒は長年にわたり培った高度な教育、科学、金融、商業の分野で絶大な威力を発揮し、アメリカにおいて、政治、経済、外交、科学などの基幹部分に特別な存在感を占めています。 
イスラエル本国に匹敵する多数のユダヤ人がアメリカ国民として存在し強力なネットワークを形成してユダヤ人の権益を守りながら、アメリカ大統領の選挙をも左右する力を所持しています。

 
イスラム教

イスラム教は、13億3696万人の信者を擁する世界第二の一神教です。その成立時期は7世紀初期です。 
イスラム教は、神の啓示を受けた預言者・ムハンマドが創始した宗教です。 
6世紀末頃、ムハンマドはマッカー(メッカ―)で生まれました。しばしば郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していましたが、40歳の時、神(アッラー)の啓示を受けたといいます。 
神の啓示は突然のことでしたが、妻ハディジャーとその弟ワラカ(キリスト教徒)に、啓示を与えたのは神意を伝える天使(大天使ガブリエル)に違いないと励まされ、次第に預言者としての自覚を持ってイスラム教の布教を決意するにいたったと伝承されています。 
ムハンマドは、釈迦やキリストと違って神格化されることなく、普通の人間として生涯を全うしました。 
初期のイスラム教は、日常の仕事を持ちながら信仰を実践する在家宗教として発展しました。 
当時のアラビア半島は、ユダヤ教やキリスト教が一部に布教していましたが、大部分のアラビア人は自然の事物に宿る聖霊などを崇拝する多神教でした。 
この多神教信仰は、現世に価値を置く生活を基本にするもので、来世の存在を考える思想がありませんでした。イスラム教ではこれをジャーヒリーヤ(無知)といいます。 
ムハンマドはメッカーで布教を開始しましたが、布教の内容は「唯一神アッラーへの帰依」「富の独占の批判」「社会的弱者の救済」などで若者や貧しい者に広まりを見せました。.. 
しかし、大商人たちの反発を受けて迫害に遭い、メディナに移住してイスラム共同体(ウンマ)の形成を目指し布教活動を行いました。 
アラブ諸部族間の争いや宗教対立の中で、ユダヤ教徒との連携を図りましたが、ユダヤ教徒が「偽預言者」とムハンマドを非難して対抗勢力の支持に回ったため、ユダヤ教徒やキリスト教徒と決別して独自の道を歩むことになります。 
ムハンマドは、ユダヤ教に対しては「神の前では全ての人が平等である」として選民思想を否定し、神を信じる全ての者が救われると批判しました。 
キリスト教徒に対しては「神は生みも生まれもしない」としてイエスを神と同一視する三位一体説を批判しました。 
イスラム教徒は、全知全能の神アッラーに対する絶対的な帰依と絶対服従を誓う者(ムスリム)です。この信仰の在るべき姿は「六信五行」によって救われ、信仰が完結すると考えられています。 
信仰が篤ければ誰でも天国に行けるといいます 
六信とは、「神、天使、啓典、預言者、来世、天命」という六つの存在を信じる内面的な信仰をいいます。 
1 「神」とは、全知全能の神アッラーに対する絶対的な帰依と服従。 
2 「天使」とは、アッラーの使者ガブリエルの啓示を信じる。 
3 「啓典」とは、神の啓示の書「コーラン」「シャーリア(律法)」 
4 「預言者」とは、ムハンマドはアッラーの言葉を預った偉大な信徒 
5 「来世」終末の世界(来世)こそ本当の世界であると。 
6 「天命」とは、この世の全てのことはアッラーのお思し召しであり、死後の世界も予定されていること。 
五行とは「信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼」という五つの実際に行わなければならない信仰行為をいいます。 
1 「信仰の告白」とは、アッラーの他に神は無く、ムハンマドは神の使徒なり、と唱えること。 
2 「礼拝」とは、メッカーの方向に向かって1日五回行う。毎週金曜日の昼には集団で礼拝を行う。 
3 「喜捨」とは、貧者への施し、生活困窮者や孤児などに富を分かち与える。 
4 「断食」とは、ラマダーンの月(イスラム暦の第9月)に、富める者も貧しい者も平等に苦しみを経験する。 
5 「巡礼」とは、ムスリムの一生に一度の義務として、メッカーのカーバ神殿の儀式に参加する。 
イスラム教徒の信仰の在るべき姿は、六信五行によって具体的に示されているので、誰にでも分かり易く、実践項目が具体的に明らにされていることに特徴があります。 
イスラム教の教義と律法は驚くほど具体的で精緻です。あまりにも整いすぎていて、信徒の創意工夫の入る余地はありません。イスラム教徒は教条的に教義を受け入れるだけで、自由な精神を前提とする思索の道を奪われているのではないかとの疑いが感じられます。 
このため、聖職者の権威が強く、信徒は教義と律法に服従する信仰をそのまま受け入れることにより成就するとされています。 
コーラン(クルアーン)は、イスラム啓典の中の最高位に位置付けられるものです。この内容は、ムハンマドが610〜632年までの22年間に神から授かった啓示です。 
教義に関すること、日常生活の振る舞い方などが記されていますが、神の言葉とされているので一語たりとも改変することは許されません。 
コーランの翻訳は認められず、翻訳されたものはコーランと認められません。コーランは「読誦されるべきもの」という意味であり、声に出して読まなければなりません。 
読み方や、節の付け方、息継ぎをする箇所などが事細かに定められていて、幼い頃から繰り返し暗誦して正しい暗誦方法を学ばなければなりません。 
イスラム教の行動規範は、神から与えられ、イスラム法学者が解釈を付した「シャーリア」によって、日常生活をしなければなりません。 
シャーリアの法源は、第1に神の言葉「コーラン」、第2にムハンマドの慣行「スンナ」、第3に共同体(ウンマ)の合意「イジュマー」、第4に法学者の類推解釈「キャース」とされています。 
更に、シャーリアの具体的な内容は、五つの範疇に分類されます。1「義務行為」(五行や配偶者扶養など)、2「推奨行為」(喜捨や結婚など)、3「許容行為」(飲食、売買など)、4「忌避行為」(離婚や中絶など)、5「禁止行為」(殺人、窃盗、飲酒、豚肉食、偶像崇拝など)です。 
このうち、禁止行為には罰則規定があります。 
コーランに説かれる神と人間の関係は、キリスト教とほとんど同じです。全体が114章から構成されていますが、ムハンマドが神から与えられた啓示を、ムハンマドの死後の7世紀半ばにアラビア語で結集したものです。この中で、繰り返し強調されるのは「汝らの神は唯一なる神である」という原理です。 
神は天地創造説で構築され、創世記や最後の審判を語ります。 
神は6日で天地を創造し、その創造行為は今も続いているとします。神はこの世を一瞬で無にできる存在だとし、この世は7層の天界と7層の地層で構成された世界であるとして天使や悪魔の存在を語り、随所に登場させています。 
神の前では、人間は無力な存在であるとし、人間は神の被造物であるが、命を吹き込まれたことで善にも悪にもなる生き物になったとしています。厚い信心をすれば、神は人間を赦しますが、祈るだけでは全て罪が赦されるわけではない、といいます。 
神は従順な僕には慈悲を深くし、従わない者には罰を下します。 
その世界は、アッラの絶対的な存在と厳正な因果応報です。 
また、コーランには、人間社会の生活活動の全てが記されているわけではないので、現実生活のすべてには対応できません。 
そこで、ムハンマドの慣行(スンナ)や共同体(ウンマ)の合意、イスラム法学者の類推解釈(キャース)によって、合理的な規定を適用するという運用をしてきました。 
イスラム教徒の一生の生活全般や通過儀礼はコーラン、ハディース、スンナなどに具体的に規定されています。結婚や葬儀、命名、割礼、など多数にわたります。 
例えば、結婚はイスラム世界の発展を推進する為に多産が推奨されるので、数字的にはイスラム教徒の信者数がキリスト教数を上回る傾向性が出ています。 
カトリックや東方正教会では結婚は秘蹟(機密)の一つとされ神が介在する儀礼とされますが、イスラム教では花婿と花嫁その後見人が契約書を交わすことで成立し、役所に婚姻届を提出するだけでは成立しません。 
イスラム教徒は、死を来世への通過点と考えます。墓などは質素なものが多く、遺体を清めて納棺し土埋にします。葬列は墓地に向かう途中でモスクに立ちより、葬儀の礼拝を行います。 
遺体は右わき腹を下に、顔はメッカーの方角に向けなければなりません。埋葬は死後できるだけ早く、その日の日没までに行います。 
イスラム教徒の聖地は、第一に、ムハンマドの生誕地でカアバ神殿があるメッカー、第二にヒジュラが行われ、ムハンマドの霊廟があるメディナ、第三にムハンマドが天上世界に旅立ったとされる岩のドームがあるエルサレムです。 
エルサレムにはユダヤ教徒の聖地(嘆きの壁・シオン山)でもあり、キリスト教の聖地(イエスが処刑されたゴルゴダの丘に建つ聖墳墓教会)でもあります。エルサレムは三つ巴の聖地を巡る果てしない争奪戦の渦中にあります。 
イスラム教も預言者ムハンマドの後継者問題で各派が生じ対立が始まりました。その最大のものはスンニ派とシーア派との対立です。 
イスラム世界の両派の勢力は、スンニ派9割、シーア派1割(イランを拠点とする)であり、数の上ではスンニ派が圧倒的に多数派です。 
そもそもの対立の経緯は、合議制によって定めた第4代カリフの正統性を不満とする勢力がシーアを分派したことにあり、預言者ムハンマドの後継者問題にからむ政治的な対立を要因とするものでした。 
現代の中東問題にイスラム原理主義とかイスラム過激派として問題視されている勢力はシーア派内部の政治的な対立が数々の分裂を起こし、過激な武力による破壊行為を公然と行う者が出て来たと考えられています。 
しかし、イスラム原理主義=テロ組織・過激組織との図式は誤解によるものです。原理主義はイスラム教徒から見た目線ではなく、キリスト教徒の目線で見た表現です。もともと原理主義という表現は聖書の原点(聖書は無謬性)に帰ることの主張であり、キリスト教根本主義を唱えることでした。 
過去に栄光の文化圏を建設したイスラム社会は、10世紀のアッバス朝の滅亡後は分裂と衰退を繰り返し、11〜13世紀には十字軍の遠征によって荒廃し、13世紀には巨大帝国モンゴルの侵略によって見る影もなく衰退に向かいました。 
イスラム社会は、日常生活の全般をイスラムの諸儀礼に適合しなければならない社会でした。厳格なイスラムの教えを守ることで社会変革の意思を次第に失っていったと考えられます。 
西洋諸国との政治・経済・軍事・外交の面で徐々に実力差が出始め、やがて海外進出に勢いづいた西欧諸国の植民地政策に曝されました。 
20世紀のイスラム社会は独裁政治や社会主義政策の失敗などから深刻なインフレや失業問題に悩まされ、貧富の差が拡大しました。 
イスラム社会では、その原因は欧米の真似をして欧米と付き合うことにあると考えられたのです。そこで、政治や社会習慣を見直してイスラム教の原点に戻ろうとする運動がでてきました。これを「イスラム主義」といいますが、欧米人はイスラム原理主義と云ってきました。 
欧米人の脳裏に、20世紀初頭にキリスト教プロテスタントの特定の宗派に悩まされた記憶が甦ったのではないかと考えられます。 
特に、石油利権と領土問題が複雑に絡んだイラン・イラク戦争は、イランでパーレビ王朝が崩壊しホメイニ師が最高指導者となったことでイスラム原理主義が活発化し、この一部が過激な活動をするようになったことでした。 
この隣国の社会情勢を注視して、スンニ派勢力を結集してイスラム社会の統一を目論んだイラクのサダム・フセインがイランに軍事力による先制攻撃を仕掛けたことからイラン・イラク戦争が勃発しました。 
過激派は、武器を使ってまでイスラム社会を守ろうとする人々のことを云いますが、「ジハード(聖戦)」という便利な言葉で正統化しようとしているように考えられます。 
この勢力は、少数派の孤立を免れる為に、欧米キリスト社会に対する反感を強めて、イスラム社会の同情や支援を受けようとしています。イスラム教徒はその宗教的情熱とムスリムの義務などから決して欧米のキリスト教諸国に屈したり信念を曲げることはありません。納得させるのは至難の業です。 
あるいは、世界的な硬直状態を望んで、イスラム教とキリスト教の全面対立に引き込もうとしているのではないかとも考えられます。 
キリスト教徒とイスラム教徒の深刻な争いを収める処方箋はありません。いずれも世界宗教を代表するプライドの高い一神教だけに仲裁する実力を持った勢力が無いのです。イスラム教とキリスト教の対立には有効な合意や和解形成の為の智慧が必要です。

 
日本の精神文化の背景 / 神道

神道は日本固有の民族宗教と考えられています。八百万の神々を受け入れる特徴的な民族宗教ですが、その原型はどのような発生起源をもつのでしょうか。 
神道とは、仏教伝来以後に仏教と区別するために便宜上で付けられた名称です。その特徴は、万物に霊魂が宿っているという精霊崇拝(アミニズム)や自然信仰から発生した日本民族の伝統的な宗教を言います。神道には仏教のような論理学、倫理学の体系や戒律、行などの体系もありません。 
原始神道は、自然や神に対する畏敬の念から始まり、人の生きる道にめざめて人と自然が融和することを目指したと考えられます。原始神道の特徴は、地縁、血縁、などで結ばれた村落や部族の共同体の守護と安楽、共同体意識の統合を目的にする民族宗教といわれていますが、これらは今日的な立ち位置から後付けで説明された概念であろうと考えられます。 
神の概念は多様ですが、大いなる存在であること、人智ではとてもうかがい知ることができない存在であること、と考えられました。人の智ではアプローチできない神の道と考えられたことから、一般民衆から見れば、神を祭祀する王や司祭者は特別な人、神に準ずる人、さらに神そのものと考えられたことで王権の民に対する支配権が確立されていったと考えられます。天皇の神聖性は、様々な神話によって特別な崇拝を際立たせることによって完成されたものと考えられます。 
古代の神道は、原始神道の精神を継承しなら、興亡する部族、氏族の指導者(もしくは支配者)が共同体の統率の手段として司祭者を置いて神の言葉を聞きこれを共同体の人々に伝え受け入れさせるという支配の手段として機能するようになりました。司祭者の地位が向上し、巫女が配置されて儀礼化が整えられていきました。王権が確立するとともに神社という建築様式が現れるようになりますが、神道(信仰)が支配者の政治的な権威を高める建築様式として機能するようになります。 
明治天皇は「日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語られたという伝承があり、皇室のルーツにはユダヤの影が見え隠れしているという史観が語り継がれています。いわく、「皇室専用の部屋には必ず六芒星(ダビデの星)のマークが椅子にも天井にもある」、皇室の祖霊を顕彰し、日本の総合的、統一的祭祀場(神社)としての権威付けのために天照大神を祭神とする「伊勢神宮」を作ったが、「伊勢神宮の燈籠にはダビデの星が刻印されている」「伊勢神宮の莫大な建造費用はユダヤ系の秦氏の貢献に負うものであり、ユダヤの理念と秘儀が幾重にも封印されている」などがこれです。 
伊勢神宮は最高の格式を持つ神社と位置付けられていますが、アマテラス祭祀は比較的新しく平安時代以降に成立したものです。万世一系の天皇が統治する世界観を徹底し、本来的には男神であるべき天照大神を女神に変える意図で持統天皇の正統性を主張するために政治的に造られた神社だと考えられます。いわゆる藤原不比等が捏造した宗教革命といわれるものですが、日本書記の伊勢神宮の創建に係わる記述は信頼性がないと考えられます。 
本来の古神道によれば、主祭神の天照大神は男性神であったが、持統天皇=女性太陽神=天照大神の同格化という位置づけにこだわった宗教革命の総仕上げが伊勢神宮の創建になったのではないかと考えられています。秦氏が伊勢神宮の莫大な建造費用を支援しましたが、秦氏はユダヤ(原始キリスト教)の男性太陽神を封印したといわれています。 
実は秦氏が創建した寺社仏閣、神社は膨大な数です。古代の錚々たる著名な寺社仏閣の大半には秦氏一族の関与があります。秦氏は平安京を設計した国造りの総合プロデユーサであり莫大な費用を負担した陰の施主でもありました。広大な土地を開拓し、養蚕や機織り、酒造を広め、信仰と殖産のフィクサーとなって裏の権力を握った一族です。 
秦氏が造った神社・寺院は、京都太秦の広隆寺、京都伏見の稲荷大社、京都石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の松尾大社、四国の金毘羅宮、石川の白山比盗_社、また、京都の上賀茂神社と下賀茂神社は秦氏の姻戚関係にあった賀茂氏の創建です。日本の神道を確立させたのは秦氏であるといわれています。 
在位中の天皇の伊勢神宮参拝は明治天皇が初めてでした。歴代の天皇は誰一人として参拝した事実がないとする史観があります。アマテラスは、記紀が最後の政権奪取に成功を収めた政権があたかも連綿と政権を維持し継続して来たかのごとく捏造するために作りだした建国神話の付け足しでしかないことを知っていたこと、記紀が創作したアマテラス神話は捏造の女神であり信頼性がなかったのではないかと考えられます。 
ちなみに、弓削の道鏡が宇佐八幡の神官と結託して偽の神託を捏造し、藤原不比等の孫でパトロンの女帝・称徳天皇(718-770)から譲位を受けようとした時、その可否を問う神託を得るために勅使・和気清麻呂が直行したのは伊勢神宮ではなく、九州・大分の宇佐八幡でした。宇佐八幡の神託によって道鏡の譲位は阻まれ、女帝もこの神託を受け入れざるを得なかった事実がありました。 
日本古代の創世神はスサノオです。古い神社の祭神はスサノオとオオクニヌシが圧倒的に多く、アマテラスは少数派であり平安以降に受け入れた神社に偏っています。全国の神社を分類すれば、新羅(伽耶)系がほぼ80%の圧倒的多数を占めていることから、日本古代の創世期に活躍した渡来系の人々は圧倒的に新羅(伽耶)系が多いことが分かります。 
伊勢神宮の創建は、古代の霊場として尊崇された三輪山(祭神は大物主)の時代に終わり告げさせる目的があったのではないかと考えられる出来事でした。アマテラスの古代創世期の神話や顕彰は、スサノオとオオクニヌシの業績を切り取って付け替えられたものだと考えられています。記紀が常套手段として使った捏造手法と考えられます。 
古事記によれば、伊勢神宮の創建は第10代崇神天皇記と第11第垂仁天皇記に伊勢神宮を祀ったとありますが、実在する天皇は第15代の応神天皇が最初とみる史観からは、創建を紀元前にまで遡らせて権威付けしていると考えられています。応神天皇を河内王権の初代天皇とみる有力説があります。古代・葛城王権から政権を奪った崇神天皇から始まった三輪王朝(イリ王朝)が応神天皇から始まる河内王朝(ワケ王朝)と交替して天皇の血脈が変わったとみる立場(三王朝交代説)から見れば古事記説は荒唐無稽な作為にすぎないと考えられます。 
日本古代の建国は370〜390年頃という推定が考えられます。その根拠は三韓の建国に刺激を受けてのものだと考えます。新羅が356年、百済が346年、加羅(伽耶)が369年の建国であるところから合理的に推定したものです。3世紀から7世紀の間に有力王権の綱引きと興亡が行われ最後の勝者が統一王権を奪取した継体天皇(新王朝=越前王権=現皇室の祖)と考えられます。世界の王家を見ても姓(苗字)がないのは日本の天皇家だけです。姓を隠すことは、その出自を隠すことです。出自を隠す必然性とは一体何かという疑問が残ります。 
神道は、社会のまとまりの単位である氏族の地縁、血縁集団の生活習慣の中で生まれた宗教的な信仰態度を引き継ぐ概念であると考えられます。それはまさに精霊崇拝(アミニズム)や自然(山川草木など)信仰、祖霊崇拝など万物に八百万の神々の霊性が宿ると考える信仰態度です。 
古神道では神々が鎮座する山や川などの自然領域を「神奈備(かんなび)」として神聖化しました。「かんなび」には神霊が降臨する場所を「依り代(よりしろ)」、降臨した神霊が宿る神聖な物を「御霊代(みたましろ)」といいますが、「物実(ものざね)」ともいい、鏡、剣、玉石などが神社の御神体とされました。特に皇室の三種神器、物部の十種神宝(十種神宝御璽)が有名です。 
神の住む山「神奈備(かんなび)」や森などの神聖な場所に置かれた巨岩、巨石の御座所は「磐座(いわくら)」と呼ばれ、樹木の御座所は「神籬(ひもろぎ)」と呼ばれますが、常世(神の世界)と現世(この世の世界)の境界線として機能する装置と考えられるものです。 
「神奈備(かんなび)」や「神籬(ひもろぎ)」は神の降臨を仰ぐ「御座所」として崇拝されましたが。古代のシャーマンはこの御座所で神の信託を受け取る行為を荘厳するために霊術や秘術を用い、自己の存在と正当性を大いした者と考えられます。 
やがて神道の神々を祭神として祭る建築様式の社殿が生まれ、拝殿や本殿を持つ祭殿が信仰拠点の建物として常設化され「神社」という様式が登場しました。次第に生活の節目や農作物の生育や穫り入れなど重要なタイミングに合わせて祭壇を設けて厳かに祭祀を執行する形式が現れ、日常的な常設の祭場である神社が普及したと考えられます。これが秦氏によって始められたユダヤ的祭祀形態と考えられる様式です。 
神社で祭祀されている祭神には1自然事象に由来する自然神、2神話伝説に由来する伝記神・霊能神(天照大神、大国主命など)、3人間に類似した神体や性格を持つ人格神(英雄・功労者、皇祖神、祖先神など)があります。 
神道はあらゆるものに霊性を認める多神教の要素を持っています。宗教的な教義体系を持ってはいませんが、仏教との本地垂迹説による神仏混淆を受け入れ、修験道と相互に影響しあうという関係性を濃厚に持ってきました。また一方では、中国の儒学、老荘思想や哲学を受け入れ陰陽道や神仏習合の体系に変化した一面をも併せ持っています。 
明治維新によって、天皇を頂点とする国家神道が明治政府の神祇官によって推奨され、日本民族の新しい中央集権国家の形成に利用されましたが、これによって「神国思想」と「神風」に守られた特別の国家観が国民に刷り込まれて浸透しました。敗戦により、国家神道は否定されましたが、伊勢神宮、明治神宮、靖国神社などにはその残滓が残っていると考えられています。神道は古代でも近世・現代でも政治的に利用されてきた負の歴史を濃厚に持っているといっても過言ではありません。国家神道は、原始神道の概念とは根本的に異なる異質なものだったと考えられます。 
本来の神道の特徴をいえば、融通無碍であり、自他の宗教の違いに強いこだわりを持つという頑なな態度はありません。一神教のように唯一絶対などという頑迷さはほとんどなく、必要に応じて同時に複数の神々(神社)を礼拝することが日常的に行われています。多神教の優れた一面だと考えられる出来事です。 
神道は山岳信仰の修験道と混淆し、天皇の意思によって仏教を受け入れたことで、民族宗教としての論理性や儀式を整備して神道として完成した事実を持っています。神道が他宗教を拒絶する偏狭な思想を持たなかったことで、日本民族の精神の多様性が形成されていった要因であったと考えられます。日本人の精神性に大きな影響を与えた神道の役割には大きな感謝があります。 
多神教も一神教も長所が同時に短所になるという二重構造を色濃く持っていることは言うまでもありません。一神教の決定的な欠陥は、相手の宗教を否定しなければならない宿命を背負っていることです。どうにもならないジレンマは教義的に共存共栄の道が閉ざされていることです。一神教と一神教との間には克服できない相克関係が生まれることが避けられません。神道が持つ多神教的な態度は多宗教の信仰態度を否定するよう要素少ない点が長所と考えられますが、造物主思想を持つキリスト教的な思想(イスラム教やユダヤ教も同様ですが)を持つ欧米人に神道思想を理解させるには困難な要素が多分にあることを十分に知らなければなりません。

 
日本の精神文化の背景 / 仏教

仏教とは、紀元前5世紀頃のインドに出現した釈迦の悟りによって開かれた宗教です。その教えは「真実に目覚めて悟りを得る」ことを目的とする宗教です。 
釈迦は29歳で四門出遊を契機として出家し、36歳で真理に目覚め、80歳で入滅するまで45年間、仏教伝道の旅を続けた実在の人です。 
仏教の原点は、難行苦行の末に苦楽のいずれをも否定した釈迦が中道の精神にたどりつき、菩提樹の下で瞑想によって正覚(悟り)を開いたことにあります。悟りとは、私達の心の中にある真理を知る妨げとなる様々な要因を取り除くことができれば真理が明らかに知ることができる、ということにあります。 
「神の啓示」を受けて創始されたキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教は一人の人間が真理に目覚めて悟りを得たことから出発し、修行を完成して成仏(如来となること)することを目的とするものです。 
ここにヨーロッパ系と東洋系の宗教概念の大きな違いがあることを理解しなければなりません。 
仏教とは、この菩提樹下の釈迦の境地を自分自身の中にも実現しようとして、菩提心(悟りを求める向上心)を求める修行をすることをいいます。 
しかし釈迦の悟りは宇宙に存在する原理・法則・真理をあるがままに認識したものであり、釈迦が独自の瞑想によって発見したものではありません。 
釈迦の悟りは、誰でもが釈迦と同じように追体験できる可能性があるものであり、さらにそれらを深めていけることをも可能とするものでした。 
仏教の原点は菩提心にあります。菩提心とは悟りの浄土に至る強い信仰心を保ち続けることによって解脱の可能性が開かれるものですが、菩提心を否定するものは仏教とはいえません。 
仏教の歴史は釈迦の菩提心を追体験する仏教徒の研鑽の歴史なのです。 
釈迦が瞑想(禅定)により完全な涅槃に入ったとき、帝釈天は「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」の詩によってこれを表現しました。 
しかし、釈迦(ブッダ)は悟りを開いたばかりの時、世間を見渡し、衆生の能力を見て、この悟りを理解できる者がいないと判断して説法をすることを躊躇しました。 
釈迦は悩んだ末に、梵天の勧請によって、最初の説法(初転法輪)を決意することができました。 
この初転法輪が明らかにする梵天の勧請は、ヒンズー教の最高神の懇願を受けるという形式をとることによって仏教の優位性を示すものです。 
このことは、インド民衆が受け入れ易い信仰に合わせて仏教に取り込もうとする意図を持つものであると考えられています。 
初転法輪に選んだ相手は、かつて難行苦行の修行仲間の5人の比丘でした。五人の比丘は釈迦の悟りを容易に認めず、緊迫した場面や困難な説得が続きましたが、これが功を奏したことにより仏教が誕生しました。 
仏教にも釈迦の生前には今日のような仏教経典はありませんでした。インドでは、「尊い教えは声に出すのがよい」とされ、教えの内容は師から弟子へ口伝で継承され、書きとめるということをしませんでした。 
釈迦滅後の数百年に口伝では正確な内容が伝わらないことが問題となり、紀元前383年頃に第1回の結集が行われました。同様に、第二回目の結集が紀元前283年頃に行われ、第三回目の結集が紀元前244年頃に行われました。 
結集とは、自分が受けた教えを互いに暗誦し合い、皆で記憶することでした。皆が教えの内容を出し合い、比較することで教えの整合性を図り、伝えるべき内容を確認し合ったのです。 
第三回結集後の紀元前3世紀末に、修行の在り方、日常の生活態度の在り方、教団の在り方を定める律の考え方などについて、これを厳格に守るか、緩めるかの対立が治まらず、固守派の上座部と柔軟派の大衆部とが根本的な分裂をすることになりました。 
これ以降、上座部(南伝仏教)と大衆部(北伝仏教・大乗仏教)はそれぞれの道を歩むことになりました。 
簡単な流れは次の通りです。 
11世紀にインドから中国に大乗仏教が伝えられました。 
24世紀に、中国から朝鮮に大乗仏教が伝えられました。 
3538年頃、朝鮮(百済)から日本に大乗仏教が伝えられました。 
4646年頃、インドからチベットに大乗仏教が伝えられました。 
513世紀、インド仏教はイスラム教徒に消滅させられました。 
仏教には伝統的な解釈があります。仏教の内部で何か新しい運動が起こる場合には、それがブッダの事蹟にどのように関連づけられるかという視点が欠くことのできない検討課題になることです。 
大乗仏典の多くはこのように伝統的な仏伝を意識して、これに独自の解釈を施し新たな仏陀観を打ち立ててきましたが、これには釈迦の成仏とこれにまつわる様々な事象をどのように解釈し整合性を持たせるかということに腐心したものと考えられます。 
ブッダの「悟り」の内容については、古来より多くの弟子たちが頭を悩ませてきました。例えば、原始仏教の教典(『阿含経』)だけでも15種類の異なった伝承があるといわれています。これに大乗仏教の膨大な教典に語られる「悟り」は一体何種類あるのでしょうか。 
般若教典には、悟りの同義語に「空」や「深遠」が語られています。「般若の智慧」も同様です。 
このように、釈迦の説いた「悟り」の内容がこれを聞いた人により異なるのは、釈迦が聞く者の理解力に応じて教えを説いた対機説法にあると考えられています。 
この他にも情報を正しく伝達する難しさがあります。情報伝達の難しさは、何人もの耳や口を伝わる間に間違った情報内容として伝わってしまうことにあります。 
人から人に伝播するうちに、聞いた者の理解力、伝える者の表現力によって情報内容が少しずつ変化して間違った内容を伝えてしまうのではないかと考えられます。 
文字によって記録されることのない時代でした。正確な伝達は困難でした。各人は正しく伝えたつもりでもそこには自ずから限界があります。各人が理解した内容が正しい教えということになってしまいます。 
紀元前2000年頃、古代インドに侵入しヴェーダ文明をもたらした初期アーリア人は、カースト制度と呼ばれたインド固有の社会制度をつくり、インドを支配しました。 
アーリア人は、高度な宗教哲学を持っていましたが無文字民族でした。文字や記録として残されたものではなく、人々の暗唱によって伝承されてきたものでした。インドでは釈迦の時代にも文字で記録することはありませんでした。 
インドの文字の起源は、紀元前3世紀の阿育(アショーカ)王の国家統一以降のカローシュテイ文字(右から左に横書きする表音文字)やブラーフミー文字(左から右へ横書きする表音文字)と考えられますが、ブラーフミー文字はサンスクリット語の起源となるものです。今日の梵字悉曇の源流です。 
インドでは、人間は生まれた瞬間に、自分の帰属するカースト制度によって日常生活の骨格が決定され生涯変わることのない社会生活を営まなければなりませんでした。 
釈迦は、カースト制度を社会構造とする中で、人間が自由を求めるとき、どの様に考えたのでしょうか。釈迦は、この方法を社会の変革に求めず、人間の精神の自由を求める方向に舵を取りました。これが釈迦仏教なのです。 
南伝の上座部仏教でさえ様々に「悟り」が伝承されました。大乗仏教も同様ですが、大乗仏教になると膨大な教典の中から○○経が最高教典という形で優劣を比較する状況になっていくことに特徴があります。 
特に、インドから中国に伝播された大乗仏教にこの有り様が典型的に現れました。中国人の「本物探し」気質がこれに拍車をかけることになりました。 
中国人の特質の「中華思想」(中国は世界の中心という思想)の一つに、他国の優れた文物を取り入れても、中国人の気質に合わせて受容する姿勢を堅持し、他国語が中国語に翻訳される段階から中国的な解釈に書き改められることです。この瞬間から原文の元意が失われることがあります。 
日本にもたらされた仏教はほとんどが中国仏教の流れにあります。 
中国では釈迦と同時期の紀元前5世紀頃にはすでに春秋戦国時代の諸子百家により道教や儒教といった中国人の精神文化の中核を形成した思想が花開いていました。 
中国に仏教が伝わったのは、通説によれば漢の武帝が匈奴を追い払いシルクロードを開いた1世紀頃と考えられます。最初に伝承された教典は「空」の思想の大乗仏教であったと考えられています。 
敦煌はこの頃に整備された城市ですが、敦煌遺跡の発掘調査などから、その頃には仏教経典は断続的にもたらされていたと考えられています。 
中国に伝えられた仏教は、当初は宗教というよりも新奇な外来哲学の一つとして受けとめられました。中国には、紀元前から儒教や道教という中国産の社会道徳の思想が定着していました。仏教はこれらとは相反する教えを含むもので社会的に受け入れにくい側面を持っていました。 
儒教の目標は「社会の秩序」であり「礼・仁・孝の実践」です。道教の目標は「不老不死」であり「正しい生活」の実践です。「悟りと解脱」を目標とする個人的な修行を実践する仏教との間には違和感があり、仏教側は儒教・道教との類似性(隠棲は出家に通じる、など)を説教的に強調しなければなりませんでした。 
また、儒教・道教には、時代の変化に対応するために古びた教義の刷新を図り仏教思想を取り入れなければならない事情があったのです。 
2〜3世紀頃には、インドの竜樹(ナーガルジュナ「日本仏教八宗の祖」)の「空」の思想や『大智度論』などが中国に伝承されたと考えられます。 
4世紀後半〜5世紀初頭にインド系の僧・鳩摩羅什によって大乗仏教の「空」の概念を体系化した中観派の教典が中国にもたらされました。 
中国では、インドからの渡来僧の手で次々に漢訳の仏典が翻訳され、その内容の矛盾が目立つようになりました。 
そこで、直接に本場インドで学ぼうという機運が生まれ、5世紀には法顕、7世紀には玄奘などの求法僧がインドに赴き、多くの経典を中国にもたらしました。 
儒教・道教と仏教は、互いに国の庇護を争う立場になりますが、反発と受容をくりかえしながら、中国社会に適した形で融合(三教合一)していきました。 
629年、唐の玄奘が、仏典の原点に触れるべくインドに旅立ち、「経(教義・教典)」「律(規則)「論(教典の解釈)」の三蔵を中国に請来しました。日本では「大化の改新」が行われた年です。 
日本仏教は、中国人の考えた仏教史観に覆われていることを事実として受け止めなければなりません。仏教は中国で研鑽され体系化されましたが、道教や儒教の思想の影響を受けながら中国人の受け入れやすい仏教観に書き改められた部分は少なくない、と考えられます。 
仏教は中国人が変質させ、更に日本で日本文化との習合が図られました。釈迦のインド仏教の元意が正しく受け入れられたかどうか再検討する場面はあちこちにありそうです。 
特に、末法思想の浸透した鎌倉期の仏教は、インド仏教や中国仏教からの教義の縛りを受けることなく日本の独自性のある複数の鎌倉新仏教(祖師仏教)が成立し、大衆の支持を得て定着しました。 
鎌倉新仏教の登場によって、日本仏教の勢力関係に庶民の獲得という新たな構図が発生して激しい変化が起こりました。 
幕府の宗教統制が無力となった明治時代に入ると、檀家制度の下で固定化されてきた宗教の改宗が可能となり、新興宗教が多発する激動期に突入していきました。 
これに加え、昭和の新憲法の下で更なる信教の自由化が急速に拡大し、新興宗教が乱立して信者の獲得競争を繰り返しました。 
その結果、なんと鎌倉新仏教系の信者の合計が仏教徒の過半数を占めるまでに成長したのです。 
日本の宗教事情が乱れる大きな要因になりました。

 
仏教の本質

仏教には絶対的な造物主である「神」は存在しません。初期(原始)仏教の特徴をいえば、仏とは、救世主でもなく預言者でもありません。「覚者」つまり「悟った者=真理に目覚めた人」という意味です。信仰の対象は神ではなく、仏陀(釈迦)に対するものでもなく、「法に対する帰依」を表すものです。 
仏教の帰依の対象は釈迦ではなく「法」です。仏像は釈迦在世には存在せず、滅後に法を象徴する形式として表われたものです。仏教では三宝(仏・法・僧)を厚く敬います。釈迦は悟りへの道を説くにあたり三つの真理を説きました。これを「三法印」といいます。 
1. 三宝とは「仏法僧」に帰依して厚く敬うことをいいます。 
(仏教特有の「三帰依文」を紹介します。これは南伝・北伝仏教とも共通で読経・勤行の前に称えられるものです。) 
【漢訳文】      【現代和訳文】 
「自帰依仏」    私は仏に帰依します 
「自帰依法」    私は法に帰依します 
「自帰依僧」    私は僧に帰依します 
【サンスクリット文】 
Buddham saranam gacchami. ブッダム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依仏) 
Dharmam saranam gacchami. ダルマム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依法) 
Sangham saranam gacchami. サンガム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依僧) 
2.三法印とは 
1「諸行無常」=万物は常に変化し一定の物は無い。 
2「諸法無我」=存在するすべてのものは実体がない。 
3「涅槃寂静」=輪廻の苦を抜け出せば煩悩に迷うことのない境地に至る。 
この三法印に、「4一切皆苦(すべては思い通りにはならないという人生の実態)」を加えて四法印とする場合があります。 
四法印とは「物事は常に変化しており、それ自体で存在し続けるものはないのに、ずっとあり続けると錯覚し、執着して苦を招くことになる」ことを戒めるものです。 
苦は執着によって生起するので「苦の発生」「苦の原因」「苦の滅却」「苦の滅却の道」を「四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)」という因果関係を示して原因とその結果を明らかにし、苦から抜け出して涅槃(煩悩を断じた悟りの境地)に至る方法を考えたのです。 
この四諦は大乗仏教ではより高度な縁起説「十二因縁」として継承されました。 
十二因縁は、苦の根本原因を12の因縁生起によって因果関係を凝視したものです。 
十二因縁説は、老・死という苦しみの原因には、無明という根本的な原因がある、という説です。 
無明という真理が分からない無知を脱することができれば苦しみが無くなるとする考えです。 
この説によれば、前世の無知を原因とする1無明(真理を知らないこと)や2行(間違った行為)によって、現在の果となる3識(間違った認識)、4名色(認識の対象)、5六処(感覚器官)、6触(外界との接触)、7受(感覚作用)が生じる。 
また、現在の果を原因として8愛(激しい渇愛)、9取(執着)、I有(生存・存在)が生じ、来世の果となるJ生、K老死が生じる。 
これらの前世、現在、未来のことがらが原因と結果になる因果関係(因縁)によって輪廻が生まれるという考えです。 
この説には、老死という苦は無明から生じるとみる「順観」と、無明という根本の煩悩を滅することで老死などの苦が無くなるとみる「逆観」の二通りの見方があります。 
この中に、無知や渇愛、執着などの因果関係を分析して、生・老・病・死の「四苦」と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦は社会生活の中で発生する誰もが避けることができないものであり、人間の存在、生存そのものが苦であると見るプロセスを凝視する英知が示されました。 
釈迦は、四苦八苦を断じて悟りを開くための具体的な実践方法を「八正道」(1正見・2正思・3正語・4正行・5正命・6正精進・7正念・8正定)と考えました。 
これらは釈迦が菩提樹下の深い瞑想で得た悟りの内容だと伝承されてきたものです。 
八正道は、修行者が自ら心に正しい行いをすることを誓い、そのことに専念し、智慧を磨き、釈迦の教えを身に付けるために不断の努力をする修行の枠組みを示すものです。この理念が仏教の仏道修行の体系化やマニュアル作成の基本とされるようになりました。 
ちなみに、この八正道から「身・口・意の三業」と「戒・定・慧の三学」の仏教の修行の根幹となる概念がでてきます。 
釈迦の仏教からみれば、キリスト教やイスラム教でいう地獄も天国もすべて空であり実在する真実ではない、ということになります。 
釈迦仏教(原始仏教)の基本的な考えは、「中道」「慈悲」「無我」の思想と「縁起」の関係性を内的連鎖で説明するところにあります。 
縁起とは「互いに相依って生じせしめる働き(その関係性)」であり、現象界は何ひとつとして実体視してならないという考えです。 
一切の出来事(結果)は直接的な原因(因)と間接的な原因(縁)の作用によって生じるものであり固定のものや不変のものはない、と考えたのです。 
ここから無我(非我)という考えが出てくると同時に、互いの関係性が最も望ましい状態で存続するためのありようが「中道」です。また、この中道の基となる精神的な働きが「慈悲」です。この「目覚め」に向かう基本的な姿勢が他を拠り所としない「自灯明」です。 
慈悲とは、自己犠牲をともなう他人への思いやりをいいますが、他人に利益や安楽をもたらす「慈」と、憐れみや同情などから他人の不利益や苦を取り除く「悲」からなる思いやりの心をいいます。慈悲には「喜」と「捨」が加わり、慈悲喜捨と説かれました。「喜」は自らの喜びが同時に他人を喜ばすこと、「捨」は平静を指し、心に動揺や偏向がないことをいいます。 
この仏教の基本理念はやがて大乗仏教の菩薩の「四無量心(慈・悲・喜・捨)」に引き継がれていくことになります。 
中道は修行の実践の在り方を示すもので、ブッダの教えの実践の核心ともいうべきものです。あるがままを受け入れ、八正道の精神を目標とする生活を実践することがその内容です。 
苦と楽の両極端に偏る無益性を戒め、「不苦不楽」の立場で、ものの見方、考え方、価値観に偏りがなく、物事への執着心を持たず、自由な精神を求めるバランス感覚を実践の核心とするものです。 
例えば、輪廻の考察に於いて、人が死んでも霊魂(アートマン)は不滅と考える「常見」の立場、また、人はこの世かぎりの存在で死ねば再生しないと考える「断見」の立場は、それぞれ両極端であるからこの考えから離れ中道をとるべきだと考えられました。 
ブッダは、ブッダ滅後の「修行の在り方」について何を拠り所にすべきかを明確に述べています。「阿難陀よ、比丘は自らを燈明とし、自己を頼りとして、他を頼りとせず。法を燈明とし、法を頼りとして他を頼りとしないでいなさい(『ディーガ・ニカーヤ』)」という有名な句です。これは、「自灯明、法灯明」とか「自帰依、法帰依」といわれ、釈迦の遺言ともいうべき言葉です。自己と法を頼りにして、他人の言葉に惑わされることなく、自己を確立すべきことを遺誡したものであると解されています。 
縁起(因縁生起)は構造や原理を示し、慈悲と中道は実践論を示す概念です。 
釈迦の教えは、まず動機づけを与え、目標のヴィジョンを示して、修行者自らが修行の道を歩み、自分自身で悟りを得るようにする特徴があります。 
弟子になったからといって、手とり足とりして悟りの境地に運んでくれるわけではありません。修行は自分自身で解決しなければならない道なのです。 
仏教の特徴は、物事の成り立ちを「法(ダルマ)」と見たことにあります。物事を成り立たせ、その状態を維持する構成要素や固有の属性を「法」と見て、人間存在の法を深く考察しました。仏教は人間存在の構成要素である「法(ダルマ)」を考察の対象とする宗教です。 
キリスト教やイスラム教では宇宙の創造主である神の意志は絶対ですが、仏教では原因を変えれば、自らの意思で結果も変えることができると考える大きな違いがあります。 
釈迦が「教義帰依」や「偶像帰依」「個人崇拝」を否定したことは明らかです。釈迦は、「我々の中には如来が宿っている。しかし我々には煩悩がまとわりついてそれが見えない。だから、心を清らかにして煩悩を抑制し、如来の胎児(如来蔵=仏性)を育てていけば、いつか我々も如来になれる」と教えています。 
誰もが仏になる可能性を原始仏教では「自性清浄心」といいますが、『涅槃経』では「如来蔵思想」といい「一切衆生悉有仏性」といいます。この思想は『華厳経』や密教に大きな影響を与えました。悟りのプロセスの概要を示す概念です。また、法華では「本覚思想」といいます。 
今日の新興宗教の特徴にあげられる教祖や個人崇拝は、まさに目を覆いたくなる惨状にあると言うべきでしょうか。 
神に帰依するキリスト教、イスラム法に帰依するイスラム教との違いは明白です。個々の人間をどのように見るか、人間はどのように神や法に向き合うべきか、という視点でみれば、その違いは歴然としています。 
宗教は時代とともに変質する傾向性があります。キリスト教が産声を上げた頃、仏教の中に大乗仏教が登場しました。複数の大乗の菩薩が現われてさまざまな高度な大乗経典を説きました。 
この大乗教典には、大乗仏教の存在を鮮烈にデビューさせた空の思想を説く『般若経』の600巻の膨大な教典群が圧巻です。 
また、釈迦の悟りの内容を示して釈迦を超える存在(毘盧遮那)と華厳思想を説く『華厳経』、一乗妙法の法華思想を説く『法華経』、阿弥陀仏を信奉する浄土思想を説く『浄土教』、一切の衆生には仏性があることを説く『涅槃経』など特色のある多数の大乗の教典群が大乗仏教の優れた思想の花を開かせることになりました。 
キリスト教やイスラム教の精神文化と日本人の精神文化の違いとは何でしょうか。精神文化とは、人々の生活様式や文化活動に重要な影響を与える要素です。これを知ることにより、本当の歴史事実の意味内容が理解できるのではないでしょうか。 
仏教は日本人の精神風土の形成に重要な要素を与え、生活の様々な部分に浸透しています。日本の仏教の大きな特徴は、ブッダの救いの力が死者に及ぶように期待され、生きている者に幸福を招き寄せる祈りとして定着してきました。「現世安穏・後生善処」は端的にこのことを語るものです。 
世界三大宗教のいずれもが創始者(預言者、神の使徒を含む)の死後には求心力が弱まって考え方の相違により分裂しながら競合し発展を遂げましたが、釈尊滅後、仏教教団も同様に分裂をしました。 
仏教は、釈迦滅後にサンガ教団の膨張とともに、様々な規律の受け止め方に違いが生じて部派仏教に分裂していきましたが、釈迦滅後500年頃(紀元前後頃)には決定的な分裂があり、この中の「大衆部」からは大乗仏教が興起して様々な大乗の菩薩が出現し大乗経典を編纂するようになりました。(詳細は「(21)-1大乗仏教(その特徴と成立過程を考える」をご覧ください) 
他方では、上座部仏教から大乗仏教への批判が、分裂の当初からあることも知られた事実です。

 
大乗仏教の成立(日本)

仏教は6世紀の初期に朝鮮半島を経由して朝廷と貴族にもたらされた中国の最新思想でした。この頃一般民衆には仏教は広まる歴史的な背景がありませんでした。 
一般民衆に仏教が浸透し始め仏教を信仰するのは、この後百数十年後のことであったと考えられています。 
仏教が受け入れられたのは、当時の大国であった中国の最新の思想であったからであり、朝廷や貴族が仏教思想を理解して受け入れたわけではありませんでした。 
仏教を受け入れた朝廷や貴族は仏教の内容をほとんど理解していなかったと考えられています。 
大乗仏教は他の宗教に比べて独特な思想です。仏教は「縁起の思想」と「空の思想」の理解の上に展開する特徴的な思想です。 
実は、本来の釈迦仏教は最初に「信」から始まる宗教ではなく、知性による「教理」の理解から始まる思想でした。 
ところが、教理の理解から始まる信仰は困難であるところから、鎌倉新仏教の祖師は智慧(教理)を熱心な信仰(信)に特化する「以信代慧」を強調することで大衆信者の獲得に方向変換をしました。 
一心不乱に祈る行為によって功徳を期待する信仰姿勢は今日まで受け継がれて様々な盲信を生みました。 
このような一般民衆の功徳を求める信仰姿勢が、仏教の本質を歪め、様々な功徳を説く新興宗教が芽吹く温床となってきたと考えられます。その要因は、仏教の受容の当初から日本人が信仰の動機として内包してきたものでした。 
平安末期から鎌倉時代は、旱魃や暴風雨、飢饉や疫病が多発した不安定な時代でした。天台宗やその系列から出てきた日蓮宗や浄土宗・浄土真宗の僧が広めた末法思想は、社会に受け入れられやすい状況の中で布教拡大の手段として大いに利用されました。鎌倉仏教の特異性はここにも認められます。 
仏教がもたらされた以前から、日本人には神々に対する信仰が浸透していました。 
当時の人々の神に対する信仰は、神々は自然現象や事物の中に存在し超自然的な力を備えていると考えられていました。信の心を持って丁寧に祀ると恩恵に預かることができ、粗末に扱うと祟りをもたらす存在であると考えられてきたのです。 
異国から仏教がもたらされたことによって、「崇仏」と「廃仏」の対立が発生しました。その争いの代表格が有力氏族の「蘇我氏(崇仏派)」」と「物部氏(廃仏派)」との間で激しい争いが起こりました。 
廃仏派の主張は「異国の神を拝むと国神の怒りをかう」というものでした。蘇我氏は配下に渡来人を多く抱えていたことから宗教的な権威を持つ必要性があったと見られています。 
当初、朝廷は蘇我氏が私的に仏像を祀ることを認めましたが、その頃に疫病が流行したことから、その理由が蘇我氏の仏像崇拝にあるとする主張が認められ、仏像を難波の堀江に捨てさせ、寺を燃やしました。 
ところが、今度は宮中に災厄が起こったことで仏の祟りに違いないと考えられました。仏教は、丁重に祀らないと祟りをもたらす神々と同列に考えられていたのです。 
蘇我氏と物部氏の政治的な対立が宗教上の対立を招いたと考えられていますが、仏教が受容されていく過程がよくわかります。 
古代より日本は神祇(神道)によって、天皇が統治する国家観が打ち立てられてきました。日本は神道の国であり、天皇は神祇の祭祀王でした。 
天皇が仏教に帰依するという大転換は、公伝(日本書紀)によれば、仏教伝来は552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王が朝廷に金銅の釈迦像一体と幡・蓋・経論を献上したことが始まりとされています。実際には、元興寺伽藍縁起などには538年説の私伝があり、有力視されています。 
飛鳥時代には、仏教思想に基づいた政治が行われました。大貴族は氏寺を建立し氏族の繁栄を祈りました。 
蘇我氏は百済からの渡来人の技術力を用いて法興寺を建立しました。聖徳太子(厩戸王子)は四天王寺、法隆寺、広隆寺を建立したと伝えられています。 
聖徳太子は、篤く三宝(仏法僧)を敬えとする「三宝興隆の詔」を発して、仏教の核心は三宝帰依にある伝承されてきました。 
聖徳太子は日本人なら誰でもが知っている、もっとも尊敬されている日本人の一人です。しかしその歴史的実在は「厩戸皇子」であるとされていますが、その実績を証明する決定的な資料が存在しないところから、聖徳太子の実在を疑う人々は少なからず、その説の概要は次のようなものです。ちなみに有名な旧一万円札の肖像は別人のものであったことが証明されています。 
厩戸皇子は、1用明天皇と穴穂部間人王との間に生まれた.。2601年に斑鳩宮を造って本拠とした。3現在の法隆寺のもとになる寺を建立した、という属性や事実関係は認めるが、聖徳太子は『日本書紀』が「ヤマトタケル」と同様に捏造した架空の人物であるとする説です。 
この捏造説では、聖徳太子の名称が最初に出てくる「法隆寺金堂の薬師像光背銘・(607年)・釈迦像光背銘(623年)・中宮寺天寿国シュウ帳(622年以降)」などの法隆寺関連資料『日本書紀』(720年)に使用されている用語(天皇・法王・東宮・仏師)は『万葉集』や中国の『隋書倭国伝』の用語例と異なり、厩戸皇子や蘇我馬子の時代には使用されていなかった用語であることを子細に検証し、法隆寺関連資料は『日本書紀』成立後に成立したものであると推定しています。 
また、『日本書紀』の編者は舎人親王ということになっていますが、その実質的な編者は、多数説では藤原不比等(藤原鎌足の子)だと見られています。 
『日本書紀』のこの時代の記述については謎が多いことが歴史学者から指摘されていますが、藤原不比等の創作ではないかと見られています。 
聖徳太子が、4冠位12階制を定めて、門閥主義を排し有能な人材を登用したこと。5十七条憲法を制定して天皇中心の国家理念と道徳を示したこと。6遣隋使8(小野妹子)を隋に派遣して対等な国交を開いたこと。7『三経義疏』(勝髪経、法華経、維摩経の注釈書)を述作し蘇我馬子とともに国史を編纂したとすることを強く否定しています。 
厩戸皇子に大勢の豪族を抑え込む実力があったと認められないこと。厩戸皇子は摂政(最初の摂政は858年の藤原良房)でもなく皇太子(立太子制度は689年の飛鳥浄御原令で採用された制度)でもないこと。遣隋使を派遣した責任者は『隋書倭国伝』によれば聖徳太子と認められないこと。『三経義疏』のうち『勝髪義疏』は敦煌出土の『勝髪義疏本義』と7割方が同一内容であり、『法華経義疏』は8世紀に行信が捏造し、『維摩経義疏』は後代の杜正倫の『百行章』からの引用だったことがその理由です。 
神道の国、神の国・日本に仏教が入ってきて、天皇が仏教徒になるという大転換が行われました。これ以降、天皇は神祇の祭祀王であると共に仏教の帰依者(信者)であるという関係性が生まれ、仏教と神道を神仏習合する『本地垂迹説』が生まれて明治維新まで続いたことは周知の事実です。 
日本では、大乗仏教が天皇によって受容された歴史的事実があります。その初めから仏教(精神的権威)は王法(世俗の権威)に常に寄り添う形で国家から手厚く保護されましたが、実際には仏法は常に王法の管理下に置かれました。 
仏教の受容は、鎮護国家の役割を期待されたことにあります。奈良時代、仏教は国家を鎮め護ることができると考えられました。その理由は、仏教教典が護国の霊験をもたらすと信じられたことにあります。 
例えば、『仁王経』には、「動乱・外冦・天地怪異・星宿失度・賊・火・水・風の七難に臨んで国を護り、富貴・官位などの果報を護りたい時、疾病などの苦から身を護りたいときなど、この経を読誦すれば自ずと成就できる」と述べられています。 
また『金光明経』には「この経を流布させる王があれば、四天王が常にやってきて擁護し、一切の災いや障害は皆消滅させる」と述べています。これらの護法の功徳が信じられたことはとりもなおさず、従来の神道を始めとする産土神にない霊力を求めたことが如実に分かります。 
この『仁王経』と『金光明経』は密教経典です。 
737年、聖武天皇は全国に「国分寺・国分尼寺の制度」の詔勅を公布して国ごとに国分寺・国分尼寺を建立し、その総国分寺に奈良の東大寺(現在の華厳宗の総本山)を任じて『華厳経』の世界観を表現する毘盧遮那仏(顕教の仏名、密教では大日如来という)を祀りました。国家の政策として仏教に鎮護国家の役割を持たせたのです。 
聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立の外に、国分寺には『金光明(最勝王)教』を、国分尼寺には『法華経』の経典を収め、更に、この経典をそれぞれ各10部を書写するように命じました。しかし、当時、財源や技術者は中央政府に吸い取られていて、とても困難な事業でした。全国にほぼ完備したのは760年代の半ばでした。20年の歳月を要したのです。 
奈良の唐招提寺を創建した律宗の開祖・渡来僧の「鑑真」(688−763)は、艱難辛苦を乗り越えて日本にくることができました。鑑真は中国で戒律の高僧として高い評価があり、その才能を惜しんだ唐の玄宗皇帝の出国許可が得られず渡航禁止処分となりました。鑑真はこれをものともせず10年かけて5回の密航を実行しましたが、諸々の妨害と密告・遭難に合い失敗を繰り返しました。最初の密航失敗から11年目の753年に、ついにこれを乗り越えて6回目の密航に成功し薩摩の坊津にたどり着きました。このとき鑑真は65歳でしたが過酷な密航で失明していました。 
唐招提寺 
鑑真の在世中は「唐律招提」という寺名でした。 
聖武天皇・光明皇后の没後、鑑真は考謙天皇の庇護が得られず経済的に逼迫しました。 
女帝は道鏡を天皇にしようとして失敗する大事件を起こしています。 
(道鏡は考謙女帝の看病により寵愛を受けて異例の出世(太政大臣禅師・法王)をし、 
女帝の譲位を受けようとしましたが和気清麻呂に阻まれました。) 
鑑真没後に女帝・称徳天皇(考謙天皇と同一人物)より、思いもかけず 
この揮毫を受けたことにより改名したのです。 
鑑真は日本国の仏教政策により、僧に正式に授戒する「戒師」として国家から招聘された当時の中国を代表する戒律の高僧です。しかも、当初の招請の予定では、鑑真の弟子から10人の有資格者を期待していたのですが、快く応じる僧が揃わず途方に暮れていました。ところが、思いもかけず、数千人の弟子を持つ鑑真本人が来てくれるという予想外の展開になり招請の使者「栄叡と普照」は狂喜乱舞したことでしょう。 
実は、6回目の密航では、いざとなったそのときに遣唐大使「藤原清河」は唐を恐れて鑑真の乗船を拒否しました。これに反して副使の「大伴古麻呂」が密かに乗船の便宜を図ったことで密航が実現したのです。 
仏教政策 
当時の日本は「飢饉」「疫病」「政変」が続き、世情不安が広がりを見せていました。 
この逼迫した政治状況を打破する施策に仏教の鎮護国家思想を利用しようとした 
ものです。鑑真は中国・唐では「江淮(江南地方と淮南地方)の間に唯一人化主たり」 
といわれた高僧です。 
聖武天皇・光明皇后(女帝・考謙天皇の父母)など多数に東大寺で授戒しています。 
大僧都(当時の僧の最高位)に任ぜられ重用されましたが、聖武天皇没後は一転し 
て考謙天皇は鑑真を用いることがありませんでした。 
鑑真は南都六宗の既存勢力の排斥運動などにより解任されたという説があります。 
授戒師の招請理由は、日本では仏教の戒律の重要性が十分に理解されることなく、これを省略した形で授戒していたので正式な僧がいませんでした。これは、決定的な欠陥でした。本来は、インド以来の伝統として3人の師と7人の証明師が立ち会う厳格な授戒の儀式が必要であることが分かりました。 
これは今日でも同様ですが、この正式な受戒を受けていない者は「私度僧」といい本物の僧とは認められません。 
そこで、急ぎ正当な資格のある授戒師を中国に求めたのです。 
鑑真の来日により、正式な僧の授戒が可能になりました。国立戒壇は761年に奈良・東大寺の戒壇院、筑紫国・太宰府の観世音寺、下野国(栃木県)の薬師寺の3ケ所に置かれ、給料が支給される国家公務員の僧侶の授戒がなされました。
 
仏教思想が庶民に受け入れられた諸事情の考察

日本の仏教は、本場インド仏教が直接に輸入されたものではなく、いわゆる北伝の大乗仏教、しかも、中国経由で伝承されたという事実があります。 
中国仏教の特徴は、インド思想の仏教経典を翻訳する段階で、中国に定着していた儒教・道教など中国思想との整合性に適合するように書き改められたという特異性があります。中国仏教はインド仏教をそのまま受け入れたものではありません。  
 日本仏教は、当時の先進国であった中国の思想を手本として積極的に受容する価値観に覆われていました。日本では、このような事情を知ることなく、疑いを持つことなく中国仏教典を受け入れてきた事実があります。 
日本の仏教各宗派の殆どがこのような中国仏教思想を手本として受け入れ、中国の解釈を基準として日本仏教を形成し発展させてきた歴史的事実を知らなければなりません。 
6世紀の日本に伝来した仏教は、まず朝廷や貴族に受け入れられました。仏教の鎮護国家の思想が為政者に受け入れられ政治的な利用目的に重宝されました。 
仏教の普及が進むのは奈良時代になってからのことです。奈良時代には、仏教は日本古来の神道と結びつき「神仏習合」の風習が発生しました。この風習は1000年以上も民衆の間に広く浸透しました。 
天皇や皇族、貴族層など上級の支配層に期待されて抱え込まれた仏教の諸機能は、戦後の教科書などで、いわゆる「貴族仏教」という庶民性を否定する名称を付けられて差別化されるという扱いを意図的に受けました。仏教が庶民感覚からはほど遠い存在であったとする評価の表れだと考えられます。 
仏教の本質には貴族と庶民の差別化はありません。しかし、仏教の保護と育成には膨大な国家予算が投入されてきたことは事実です。これに係わった主役が天皇や貴族、上級武士(領主層)であったことも事実です。 
これらの支配層は、教養もあり思索能力が比較的に高い階層を形成しています。しかし、その生きざまにおいてさまざまな諸事情を抱え込み、後生善処を強く願い、死後の世界に無関心ではいられない人々でもあります。 
識字率が低く財力の乏しい無力な庶民が新思想の仏教を受け入れ宣教する主体になれなかったことも事実です。しかし、だからといって、仏教が貴族の所有物であったとは言えません。仏教の本質には、王侯貴族の所有物にできる道理がありません。 
キリスト教も、イスラム教も庶民の手によって世界宗教に成長したという歴史的な事実はありません。世界宗教は、紛れもなく強力な軍事力、経済力、政治力を所持する王侯貴族の意図と庇護のもとで独善的に布教されてきた歴史事実に覆われているという側面があります。 
しかし、これらは世界宗教が王権を正当化し、また庶民の統治を正当化する政治的な手段として利用された側面があったという事実を述べているに過ぎません。一方では教団側には、教団を経済的に安定させる手段として、効率的な布教活動に専念できる社会環境を形成できるメリットを積極的に利用したものと考えられます。しかしながら、僧の出家の動機にはこのような政治的な観点は全くありません。真面目な出家者が宗教に求めた本質は、普遍的な「真理の探究」「自身の探究」にあったと考えられます。 
別の言い方をすれば、「自身の魂の救済を求める者」「世の為、人の為に真理を求める者」「生き方、死に方を良師に学び求める者」「家庭環境の要請に応えなければならない職業後継者」など様々な動機が考えられますが、出家者の一人一人が生きてきた生活環境の中の出来事に影響を受けた側面を濃厚に持っているものと考えられます。 
宗教には、さまざまな学問、価値観を俯瞰する統合的な機能があります。修行中は一般社会から隔離される独特の環境に身を置かなければなりませんが、良師の指導を受ける僧院の伝統的な修行法が僧の人格形成に大きく関わる体験を積ませることになります。とはいえ、実際には僧の評価は個人の資質や能力、努力の結果が大きく反映されたものになることは致し方ありません。宗教との向き合い方が違えば、宗教者の行動にも違いが出てきます。 
それでは庶民の仏教とは何を意味するものでしょうか。これを端的に表現すれば、仏教の庶民化とは、いわゆる、鎮魂と冥福を説く「葬式仏教」化を意味するものと考えられます。 
一般的に葬式仏教の名称は伝統の仏教教団を批判したり貶める用語として用いられることが通例ですが、これは、仏教の僧侶の業務の中心が「葬式や先祖供養」になっていると見る庶民感覚からの見方であろうと考えられます。この見方からは、僧が、庶民から法外な謝礼を取っているという風評に乗り、僧がぼろ儲けしているという認識が拡散されて広まり、真実性がない事例までも含めて一括して批判の対象になったものであろうと考えられます。 
「鎮魂」と「冥福」は僧侶に求められた特徴的な機能です。王侯貴族にも庶民にも期待された仏教の第一の機能は死者の供養でした。これは、死者の魂だけでなく、残った遺族の精神をも安らげる機能が期待された概念です。 
鎮魂は死者の魂が祟ることを恐れ、荒ぶる魂の鎮まることを期待するものですが、同時に自分のために祈る気持ちが込められています。 
冥福は死者の冥界(死後の世界、あの世)での幸福を祈る追善供養(その儀式は「供養」と「回向」)を期待するものです。 
鎮魂と冥福のためにもっとも効果が期待されたのは造像や写経のほかに「受戒」が挙げられました。受戒によって与えられるものが「戒名」です。受戒によって死者は冥途での修業の目標を与えられ、長い時間を迷うことなく修業して鎮魂し、冥福を得ることができると考えられたのです。 
残された遺族が死者のために戒名を付けて冥福を祈る風習はこのような考えのもとで人々に浸透していったものと考えられます。しかし、庶民の生活が豊かになると、宗門や寺院に何らの貢献をしてこなかった人々が、高位の戒名を買い求め、先祖の戒名までもを金銭で買い取って高位の戒名に改める(追修)ことまで願い出る者が出現してきました。高位の戒名は、死者が生前に積んできた善行や寺院に対する奉仕などの積み重ねを賞して付けられるものです。戒名は死者の生前の社会的地位や名誉を評価するものではありません。 
世界の宗教は、まず死への恐怖を慰撫する目的で、死後の世界での魂の幸福(冥福)を得る方法を示すために、現世で何をしなければならないか、また、何をしてはならないかを明らかにして現世での人生の目標を様々に語ってきました。 
宗教が哲学や道徳とは異なるこれらの機能を求められ続けるのであれば、葬式仏教と蔑視する者がいようとも「鎮魂」と「冥福」(その儀式が「供養」と「回向」)を求める人々のために、僧は自信を持って積極的に葬式に関わり続ける必然性があるのではないかと考えます。 
しかしながら、「供養」と「回向」は実務経験を重ねた僧であれば、人々が求める一定の期待に応えることが可能ですが、「鎮魂」は僧の素質や能力を基本とする修行の成果がなければできない性質のものです。いうなれば、僧の評価は人々から期待される「鎮魂」を可能にする仏力、法力、加持力のありようが納得させられるかどうかということです。「鎮魂」とは「マイナスの極に沈んでいる霊魂をプラスマイナスゼロにすること」、更に、プラスマイナスゼロからプラスに持っていくのが「供養」であると説明した人(第一生命経済研究所主任研究員・小谷みどり氏)がいますが、分り易く、的を得た表現だと考えられます。 
東日本大震災のとき、仏教教団の各宗派からボランティァ活動に参加した僧が直面したのは「鎮魂」を納得させられる力がないことに気づたことでした。突然の震災によって命を失った人はなぜ自分が死ななければならなかったのかを受け入れる状態ではないと考えられます。運よく生き残った家族は自分だけ生き残ったことに贖罪を感じてばかりで、立ち直れない人々があまりにも多すぎました。ありきたりの慰めの言葉を口にするだけでは納得させられない重い雰囲気に言葉を失い、無力感を味わったということです。 
このような生きる目標を一時的に喪失する悲惨な状況は、広島、長崎の原爆投下や阪神淡路大震災でも同様でしたが、受け入れられない激変の世界に直面すると、人は傲然自失の状態から立ち直れるきっかけを掴むことができません。 
「鎮魂」は突然の死が受け入れられない死者の魂を深いマイナスの極から少なくともニュトラルの状態まで引き上げる力がなくてはなりません。そのうえで「冥福」の祈りが届くありようを保ちながら、死者の魂が安らぎ、遺族が納得する「供養」と「回向」に移っていきます。しかし、これは言葉の説明にすぎません。実際には、僧自身に修行によって得られる霊的な力がなければ、関係者が納得する状態で法要を進行させることはできません。この瞬間を考えれば、宗教は哲学や思想では語れない霊的な要素を多分に持っていることは間違いのない事実です。ことばだけでは悲しみのどん底にいる人々を救えない事実を身を持って体験したことで、僧としての修行のあるべき姿を見つめ直す契機になったものと考えられます。 
葬式仏教を非難する古典的な見解は、実は仏教の創始者である釈迦自身の葬式に係わる次のような出来事に起因するものでした。この説の大半は、主として戦後に急成長した新興宗教の立場から既存寺院仏教を非難する手法として便利に利用されてきたものと考えられます。 
葬儀については、『涅槃経』第九節に、アーナンダ(阿難)の質問に対して仏陀の考え方が次のように述べられています。 
「尊師よ、われわれは、如来の遺体にどう対処したらいいのでしょうか」「アーナンダよ、君たちは、如来の遺体に従事しないことだ。どうか、きみたちは、アーナンダよ、自分のことに励みなさい。自分のことに努めなさい。自分のことに不放逸に、熱心に、精励していなさい。アーナンダよ、如来に信服した王族身分の賢者も、バラモン身分の賢者も、居士身分の賢者もいる。かれらが如来の遺体供養をするだろう」と。 
この一文は今日の仏教と葬儀との関わりを考える基本資料であるといわれているものです。この文を文字どおりに解釈すれば、僧侶は葬儀に関わらなくてもよい(僧は適任者ではないのか)。なぜなら、葬儀は信者である王族、バラモン、居士などの有志が行うから(費用のかかる葬儀は資力や指導力があるこれらの人々が適任なのか)ということであろうか。修行した僧侶の葬儀の執行を否定してまで、まさか素人の葬儀執行に委ねるということなのか?、との疑いが生じる道理上では考えられない釈迦の真意は一体なんであったであろうか。 
この文は、仏陀が「仏陀自身の葬儀」について仏弟子のアーナンダに説いたもので、葬儀の対象者が正等覚者であり如来である仏陀を前提にするものから特別のケースであると解釈することが可能です。修行者や在家信徒の葬儀に関するものではありません。「何かの事情があるがゆえに、いまは葬儀に関わらなくともよい」なのか「葬儀は僧の仕事ではない、だから、今後も関わるな」ということなのか不明です。 
弟子の僧が行う葬儀よりも、王族などが行う葬儀のほうが荘厳で仏教宣布の効果は大きいとも考えられます。 
この文を根拠として、もともと仏教の僧侶は葬儀と直接的な関係は無かったと主張する解説書がでてきましたが、これは葬式仏教を批判する立場に見られる態度です。仏陀の言葉は重い。戒律のすべてを仏陀が定めた、とする立場では、むやみに疑問を呈したり、その心を推し量るべきではないかもしれません。しかし、僧の葬儀の関与を否定しなければならないほど本質的なものであるのかどうかの思索が欠落した態度だと考えられます。この説には、誰かの解説書をネタ本にして疑うことなく受け入れた瑕疵があると考えられます。 
それは、インド社会の特殊性として知られた「カースト制度」の足枷として機能していた厳しい職業制度「バァルナ・ジャーティ制」の視点が欠落していたことです。ブッダが仏教教団をカースト制度から護ろうとした決意を見落としていたことです。 
実は、ブッダの葬儀には弟子がかかわっていたのです。ブッダがアーナンダにおまえは葬儀にかかわるなと命じたのは、アーナンダがまだ修行が足りず未熟だったので葬儀にかかわるなと命じたのではないかという考え方があったのです。その証拠は、ブッダの葬儀ときに、葬儀専門の人たちが火をつけようとしたのですが、何度やっても火をつけることができませんでした。そこでマハーカッサパ(大迦葉)が点火したら燃え上がりました。これでマハーカッサパがこの葬儀を仕切ったといってもよかったのです。(「お坊さんのための仏教入門」、正木晃・著、春秋社、2013年) 
但し、仏弟子には制限がありました。僧は出家者の葬儀にかかわることができましたが、在家者の葬儀には係われませんでした。その理由は、葬儀の執行には専門のカーストの職業者が存在していたからです。これを無視して葬儀を行えば、葬儀を行った僧は葬儀専門の職業者のカースト(バァルナ・ジャーティ制)に組み込まれる危険性がありました。僧に在家者の葬儀を禁止したのは、インドのカースト制度の縛りから仏教教団を護るためだったと考えらえます。ゆえに、日本にはインドのようなカースト制度がないことは自明の理であるところから、僧の葬儀を否定する根拠は全くありません。釈迦の言葉は僧の葬儀を否定する曲解に使われてきた側面があったことは遺憾な出来事でした。 
今日、宗門との対立で破門され、僧侶の指導・関与を否定しいる新興宗教団体が「友人葬」の名目で、学会内に専門の典礼部もどきの組織をつくり、素人会員に地域の創価学会・会員の葬儀の全般を取り仕切らせていることが広く知られています。その始まりは、前述の釈迦の言葉を奇貨として曲解し、敵対する宗門を兵糧攻めにする目的で会員に僧侶の関与を拒否させるプロパガンダとして便利に使われたものであろうと考えられています。 
釈迦の直弟子を自認するプライドの高いテラワーダ仏教(上座部仏教、過去にはこれを小乗教と表示しましたが差別用語と考える学者は使用しない)の僧は、現代では積極的にかかわる傾向性があります。スリランカー、タイ、ミャンマーでは戒律で禁止されているはずの在家信者の葬儀にかかわっているのは、カースト制度がないからだと考えられます。しかし、葬儀の際には悪魔がつかないように「パリッタ(真言、陀羅尼)」という呪文を盛んに唱えています。テラワーダ仏教ではこの「パリッタ」を用いる宗教儀礼が盛んに行われています。上座部仏教は呪術を否定していると信じている人がいますが、それは捏造された神話です。実際には相当に呪術的であると考えられます。 
仏教教団の存在理由は「悟りをもとめること」「ブッダの教えを後世に忠実に伝えること(上求菩提、下化衆生)」です。これが僧の仕事です。この意味で仏教教団は「福田(ふくでん)」に位置付けられました。一般の仏教信者は、教団(僧)にお布施することで、その教団に福徳や功徳などの宗教的な利得を積むことになるので、お布施した人は、そのお布施がやがて功徳や回向になる、という考えが「福田(ふくでん)」の機能です。 
この「福田(ふくでん)」の機能は、日本の仏教界ではあまり言及されることがありませんが、チベットやネパールでは言及されています。ここでは、菩提寺を荘厳にすることに無上の喜びを感じる心があるようです。寺は誰のものでもなく、自分たちのものという感覚を持ち続けていると考えられます。 
奈良の南都六宗(華厳・法相・律・三論・成実・倶舎の各宗)の僧侶は、今日でも葬儀に関わらないという興味深い事実があります。僧侶自身の葬儀は実家の檀家寺院の僧侶に依頼してきた事実です。この伝統は1200年以上を遡る古いものですが、それでも、僧侶の葬儀を僧侶以外の在家の篤志家や有志に委ねるということはありません。 
大乗仏教の立場からみれば、宗派の戒律になんらのさわりが無く、社会通念上の伝統的な公序良俗の中で、檀家のニーズに応えてきた信頼の範疇にある葬儀はなんらの批判の対象となるものではりません。 
今日の社会では僧の葬儀の関与を否認することは不可能であるといわなければなりませんが、他方では、葬儀に関わる僧の謝礼など(特に戒名代)が法外であるとの批判には答えていく責任があるのではないかと考えます。 
仏教葬儀について、文献上でもっとも古い仏式葬儀といわれるものは756年の聖武天皇の葬儀であるとするのが多数説です。 
日本の葬儀の歴史をみれば、僧侶が社会の一般大衆である人々の葬儀に積極的に関わり始めたのは、1614年のキリスト教の排斥を発端とする徳川幕府の宗教政策(寺請制度)と、1638年頃に全国的に普及し完成をみた寺檀制度によるものでした。 
これによって一般庶民も檀家制度に組み込まれる社会体制が確立し、葬儀や法要が寺院や僧侶の重要な役割となりました。これに従い、檀家は最大の経済的な支えになり、過去帳が寺宝になったことは知られた事実です。 
今日の寺院はこれを継承し寺院経営の基盤としています。 
仏式葬儀が社会に浸透していったもうひとつの理由に、「死」は穢れや恐怖ではなく死者を導き成仏させる、迷妄の衆生を仏道に導く浄土への旅立ちであると説いたことです。僧だからこそできる説得方法でした。 
引導作法は死者の霊魂に呼びかけて仏弟子となるための得度を受けさせる儀礼ですが、死者はここから長い修業を開始して悟りへの階段を登ってゆくことになります。死んだからと言って直ちに仏(悟りを開いた覚者)になれるものではありません。 
葬儀や引導作法は死者があの世で迷うことなく修業できるようにとの遺族の願いを結集した伝統的な儀礼です。また、年忌法要は、この世に残されたものが、あの世で修業中の縁者に対して送る追善供養です。もし、葬儀の引導作法によって直ちに成仏できるものであれば年忌法要は必要なくなります。遺族の要請により僧侶が50回忌に至るまで死者が修業を怠ることなく悟りを進化できるように死者の魂に呼びかけている儀礼が年忌法要だと考えられています。 
このような伝統儀礼は僧が執行して遺族の悲しみを慰撫してきましたが、その実体は外野席から送る応援のようなものとだ考える見方が一方にはあります。僧であっても死者になり替わることは不可能なことですから、一方では宗教儀礼が他人事と考える冷ややかな醒めた感覚の人々がいることは致し方ありません。しかし、だからといって、素人の新興宗教団体の信者が僧になり替わって形式的に執行して僧の真似事をしていいとは考えられません。葬儀、鎮魂や供養、回向は誰にでもできるものではないからです。 
近年、新興宗教団体には、信者が信者の葬儀や年忌法要を執り行い、広大な墓苑を各地に造成して信者を抱え込んでいる巨大団体があります。自前で広大な墓苑を各地に造成し、強引な見解を主張しながら仏法僧の三宝を否定し続けています。宗教感覚がマヒして僧侶と同等、もしかしたらそれ以上に位置付けているかもしれません。毎日、簡便な朝晩のお勤めをしていると感覚がマヒして、自分たちは僧と同じかそれ以上だと錯覚しているのかもしれません。 
これらの団体は宗門から破門されて所属の寺院から飛び出して自立した新興宗教団体ですが、信者が信者を抱え込み、大規模な墓地を造成して信者に転売し、巨額の利益を上げています。素人導師が僧の真似事をして粗雑で驚くほど簡略な葬儀の真似事を執行し、墓地の管理を手広く行い、信じられない簡略な供養や回向の真似事をし、信者を墓地に縛り付け、金のなる木に育て上げているという批判があります。素人信者が導師となり、このような粗悪な真似事をしていることに誰も文句を言わないことが不思議です。この教団には宗教儀礼の必然性の認識が欠落していること、葬儀、供養、回向の受け取り方そのものが決定的に欠落していることから、とても粗雑でいい加減な宗教儀礼の真似事をしているようにしか見えません。受け手(信者)が無知だからではないかとも考えられますが、不思議な団体です。 
今日の葬儀には、役割分担をする多くの人手と経費がかかり一般家庭には頭の痛い問題です。葬儀を質素、簡略にして時間と人の手や経費を節約するという選択肢もありますが、死者を送る遺族が仏僧の厳かな葬儀を求める気持ちはなくならないのは事実です。 
戒律の本質的な条項に抵触しない範囲内で破戒の口実にされることなく「随方毘尼」(時と場所によって条項の改廃を認める規定)という現実的な対応の仕方は妥当性の高い方法と考えられます。 
時と場所によって、その時代の公序良俗や社会の価値観に適合する解釈の仕方があります。現代社会では、一般家庭でも僧による仏式葬儀の形式が広く浸透しており、僧は適任者であると認められ信頼されていることは疑いのない事実です。 
明治維新後、西洋列国に追いつく目的で強力な天皇中心の国体を作り上げる明治政府が「国家神道」を目論み神と仏を分離する「神仏分離令」を断行しましたが、今日でも実質的には未完のままです。 
また、信教の自由を保証する新憲法の下で、新興宗教団体が大量発生してさまざまな教義を建てたことにより、日本人の宗教感覚は価値観の多様化の氾濫の中で様々な価値観を生み育てています。 
この結果、宗教統計の信者数などに正確な数字が反映できなくなっています。宗教統計によれば、日本の神道系信者数は1億人、仏教系信者数が約9000万人おり、日本の総人口を超える異常数値を示しています。
 
南都六宗(国家仏教)

 

日本に仏教が伝来したのは、文献の上では538年説と552年説がありますが、538年説が有力視されています。しかし、仏教は大陸の進んだ文化として朝鮮半島からの渡来人を介して、すでに6世紀前半には日本に伝わっていたのではないかと考えられています。 
この頃、仏教の受容を巡る激しい対立が起こりました。受容を主張する蘇我氏と否定的な物部氏が対立しましたが、蘇我氏が勝利して、仏教が最初に芽吹いた飛鳥文化が開花しました。 
645年の大化の改新に始まる律令制度のもとで中央集権国家が完成し、大宝律令が制定されて、7世紀後半〜8世紀初頭の藤原京に白鳳文化が生まれました。 
奈良の平城京で花開いた天平文化の中で仏教が隆盛しました。 
聖武天皇の時代、全国に国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、仏教は国家の手厚い庇護を受けました。 
南都六宗が成立したのは、東大寺大仏殿の建立が始まった747年(天平19)頃から大仏開眼供養の前年751年(勝宝3)の間と考えられますが、各宗を統括する宗務所が置かれ、国家の手厚い保護のもとに国家仏教としての国家の管理を受ける体制が整えられました。 
仏教の初めは、鎮護国家を祈る国家仏教として成立しましたが、官立寺院であり、仏教の学術研究をする場所でした。当初の各寺院は、学派として自由に研究する場所であり、独立の宗派を形成していませんでした。諸学の兼学が推奨され、学派の対立はありませんでした。この頃の宗は学門上の区分の学派を意味するもので、平安末期にはじまる宗派とは異なるものでした。 
754年、国家の要請により、中国から「鑑真」(律宗と天台宗の大家)を平城京に招請して国立戒壇院(1東大寺戒壇院、2大宰府・観世音寺戒壇院、3下野・薬師寺戒壇院)を設置し、国家公務員の身分を持つ公式な僧侶の受戒制度を整えました。国立戒壇の受戒は「年分度者」と呼称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受けましたが、毎年10数名の狭き門でした。官僧以外は僧侶として国家から公認されていない存在でした。彼らは「私度僧」といわれ、山林修行によって霊的な力を身に付ける修行を試みる者でした。私度僧は国家から禁止されながらも淘汰されることはありませんでしたが、僧の大部分はこの私度僧であったと考えられます。 
南都六宗は1三論宗、2法相宗、3華厳宗、4倶舎宗、5成実宗、6律宗の順に成立していますが、 南都六宗の概要は次の通りです。 
1「三論宗」は、中国・唐の吉蔵の弟子、高句麗の僧・慧灌によって、625年(推古33)に南都六宗の中で最初にもたらされた宗です。教学内容は、般若経の「諸法は皆な空なり」に基づくものですが、三論とは、鳩摩羅什の訳出した竜樹(150−250頃)の中論、十二門論と、弟子の提婆(170−270頃)の百論の三つの論をいいます。「破邪顕正」、「真俗二諦」、「八不中道」の三科を理論の中心としますが、人間や事物の一切のものに固定的な実体を考えることを否定する「一切皆空」を説くところから「空宗」ともよばれた中観派の宗です。元興寺・大安寺を本拠地としました。 
中論では諸法が因と縁によって生起することを有(存在)と説くのが俗諦、一切を空と説くのが真諦です。 有と空を止揚し非有非空の中道に導くことが破邪顕正です。 
八不(不生・不滅・不去・不来・不一・不異・不断・不常の八迷)とは、正しい道理を悟る八重の否定ですが、これによって究極の真理である中道が現れ、破邪が顕れる、という考えです。八不は、『般若心経』の不生不滅、不垢不浄、不増不減の六不とは言葉が異なるものの、表現する内容が同じと考えられるところから、六不=八不の表現と見られています。 
2「法相宗」は、中国唐代に玄奘のもたらした唯識系の経論、特に、『成唯識論』に基づいて玄奘の高弟慈恩大師によって創立された宗派です。日本には、道昭、玄ムによってもたらされました。 
法相宗の教理は「阿頼耶識縁起」といわれる唯心論的な理論です。 
阿頼耶識は六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)、七識の未那識の最深層に位置する八識とされる瑜伽行派の独自概念です。 
インドでは如来蔵と同一視する考え方があり、玄奘以前の中国ではこの識が「真識」か「妄識」かを巡る論争がありました。 
この説は、自己の心身と世界のすべてが、自己の最深層にある阿頼耶識の中に蓄積された過去の経験の潜在余力(習気、種子)から生ずるとする学説に立つものです。 
この深層心理学ともいうべき精緻な心理分析の理論を仏教界に提供したことは法相宗の教学の大きな貢献でした。 
しかし、悟り(成仏)の可能性について、各人の先天的な資質の差別を(五性格別、三乗説)を認めたことが中国仏教界に大きな衝撃を与え、すべての人に成仏の可能性を認める一乗説(天台宗)との間で激しい論争(三一権実論争)を引き起こしました。 
法相宗は中国仏教界の主流を占めることなく衰退しましたが、法相教学の概念の多くが華厳宗の教学に組み込まれました。 
法相宗は、日本では南都六宗の中で最も有力な宗派として栄えましたが、中国の三一権実論争を引き継ぐ形で、徳一と天台宗の最澄の間で同じ論争が引き起こされました。 
法相宗の本拠地は、元興寺、興福寺、薬師寺です。 
鎌倉以降、法相宗の勢力は衰退に向かいましたが、教学は仏教の基礎学として各宗の学僧によって学ばれ今日に至っています。 
尚、法隆寺は1980年に独立して「聖徳宗」に、清水寺は1965年に独立して「北法相宗」という新たな宗派を形成しました。 
3「華厳宗」は、1300年以上の歴史を持ち、中国・唐の初期に華厳経を最高・究極の経典として、その思想を研究した学派です。 
地理的には東アジア全域に広まり、日本では東大寺系の教学を確立しました。禅者や念仏者に影響を与え、明恵の密教思想に影響を与えるなど宗派を超えた影響力があります。 
華厳教学は時代的にも、地域的にもかなり大きな変容があり一概にまとめることは難しいもいのがあります。 
華厳経は、もっとも古い『十地経』が紀元前1世紀頃から2世紀ごろに編集され、華厳経の全体が編集されたのは四世紀頃と推定されています。 
華厳とは、美しく飾るという意味で、色とりどりの華によって厳(飾)られたものを意味します。すなわち蓮華蔵の世界ということになります。華厳経は真実教、一乗教、円教と評価されています。 
仏教の考え方の基礎を形成した空の思想では、あらゆるものに固定的な実体は無く、縁起という関係性よって現象する、と考えました。 
華厳の唯識思想は、空の思想を補完して、その現象は人が認識しているだけであり心の外に事物的存在は無いと考えます。 
外界の形ある存在は心が作り出している幻想に過ぎず、あるのはただ(唯)意識だけであり、意識が外界の存在を作り出していると考えることが唯識の思考の特徴です。 
心の作用は仮に存在するものとしてその心の在り方を瑜伽行(ヨーガの実践)でコントロールし、悟りを得ようとしました。これを唯識思想といいます。 
唯識系の論書を理解するためには、この瑜伽行という深い瞑想の中で真実を見つめる行法の体験が必要です。 
華厳経には現実の実践(菩薩行)を強調する特徴があります。真空から妙有への展開が見られます。 
華厳経の根本的な特徴は、「事事無碍」(事物・事象が互いに何の障礙もなく交流・融合する「一即一切、一切即一」)の縁起を明らかにする点に見出されます。 
華厳経の『入法界品』には、善財童子(求道の菩薩)が文殊菩薩の指導に発心して観音・弥勒菩薩など53人の善知識を歴訪して教えを受け、最後に普賢菩薩から大願の法門を聴聞して普賢の行位を具足し、正覚・自在力・転法輪・方便力などを得て法界に証入するという菩薩の修道の階梯が示されています。東海道五十三次はこれに由来するものです。 
『十地品』(十地経)には、菩薩が修習の深まりによって到達する十地の階梯が説かれています。これは実践の体系を組織化した論書でもあります。 
日本には、740年、良弁が新羅に留学して帰国した審祥に金鐘寺(東大寺三月堂)で華厳経60巻を講義させたことを最初とします。審祥が学んだ華厳は元暁と法蔵の影響が強い華厳学でした。これが東大寺の学派となりました。 
元興寺や薬師寺など法相宗の大寺院でも講義され、西大寺(創建時は西の総国分寺、後、真言律宗の本山)でも兼学されるなど、南都(奈良)で重要な位置を占めました。 
華厳宗は東大寺を拠点として「華厳思想」を専門に研究する学派です。 
4「倶舎宗」は、インドの世親(ヴァスバンドウ)が著した教理を中心とする綱要書『阿毘達磨倶舎論』(倶舎論)を研究する宗派です。 
この論は上座部仏教の最大の部派「説一切有部」の論書として知られる『大毘婆沙論』の教理を批判して著した論書です。有部に対抗する軽量部の立場から著したもので、大乗仏教に大きな影響を与えました。 
ちなみに、大乗仏教も「空の理論」を展開して有部の『大毘婆沙論』を批判して対抗しました。 
倶舎論は、唯識三年、倶舎八年といわれ、頭がクシャクシャになる難解な論として定評がありました。専門の南都の学僧でさえ研究に長期間かかったといわれています。 
倶舎論は、法相宗の道昭が請来し東大寺などで仏教の教理の基礎学として研究されました。倶舎宗は、独立の宗派ではなく、法相宗の付属の宗として毎年1名の僧の得度が公認されていました。現在もその重要性は仏教研究者から認識されています。 
5「成実宗」は、成実論の研究をする宗派です。成実論は訶梨跋摩(ハリヴァルマン)の著した、主として(上座部)部派仏教の「軽量部」の立場から「説一切有部」の思想を批判し、大乗仏教の教理を取り入れています。鳩摩羅什の漢訳(411-412)が現存しますが、書名の「真実を完成する論」の真実が四諦の教えを指すもので小乗論書との批判を受け衰退します。 
日本には、三論宗とともに中国から伝来し、三論宗の寓宗として研究されるにとどまりました。 
6「律宗」は、中国の道宣の説に基づき、『四分律』を重視し、菩薩戒として三聚浄戒の受持を主張する。教理的には唯識の影響を強く受けています。日本には、朝廷の招請により、道宣の孫弟子「鑑真」によって伝来されました。 
754年、中国・唐より「鑑真」が招かれて東大寺に戒壇院が置かれ、761年には下野に薬師寺が、筑紫に観世音寺が置かれて僧の授戒制度が確立しました。 
正式な授戒を許可された僧の身分は、今日でいう国家公務員の資格を与えられ、これに相応しい俸禄が朝廷より支給され厚遇されました。しかしこの人数は少なく(年10人程度)、大部分は「私度僧」となって山林に交わって修行をしましたが、山岳宗教の修験道との混交が一般的でした。 
律宗は、平安初期頃まで栄え、その後次第に衰え、平安中期頃には衰退しました。授戒の儀式は興福寺や東大寺の堂衆という僧に継承されています。 
本拠地は唐招提寺です。他に、真言律宗の西大寺があります。 
南都六宗は仏教研究の道場です。今日の寺院と異なり「檀家なし」「葬式はしない」という共通性があります。 
南都六宗は学問の道場としての色彩が強く、一人の僧が2宗以上の兼学をし、複数の宗派を兼ねるのはごく普通のことでした。宗派間の垣根は低く、向学心の高い僧はどの宗派の学問でも修めることができました。当然、宗派間で学問上の争いを起こす必然性がありませんでした。 
しかし、8世紀頃には、権勢を競い合う風潮があらわれ、学僧の囲い込みが始まり、次第に学僧の奪い合いや確執が表面化するようになりました。 
学問研究の自由な姿勢が失われ、排他的となって、他の寺院に出向いて教えを乞う美風が次第に失われて行きました。 
僧院(寺院)は、当時、最高の学府を形成するインテリ集団でした。王法の下に管理される仏法でしたが、権勢を競うが如く、自己顕示欲を示して次第に政治の乱れに意見具申をする形で政治に介入するようになりました。 
8世紀末、桓武天皇は政権内部で暗闘が収まらず、怨霊の跋扈(当時の貴族の独特の感覚)と仏教界の腐敗(王法から見た独特の視点)を避けるため奈良の都・平城京から京都(平安京)に遷都しました。 
桓武天皇は新たな都には新たな護国仏教を待望しました。これに応えたのがスーパスター空海と天才最澄でした。最澄と空海の登場により仏教は学派から宗派に衣替えすることになります。 
南都六宗と天台宗はほとんど中国仏教の直輸入です。日本的な工夫は儀式などの通過儀礼しか見られません。 
教義の体系は、中国でほぼ完成されており、ただこれを学ぶことが日本の仏教のありようでした。日本人の創意工夫は空海の出現まで待たなければなりません。 
空海は、十住心論(『大日経』住心品、『大日経疏』、『菩提心論』等による教相判釈)の教判論で、十玄・六相の教理を持つ華厳宗を第九住心(極無自性心)に位置づけ、三融円諦の教理を持つ天台宗を第八住心(如実一道心)として、華厳宗を天台宗の上に置きました。八不を説く三論宗を第七住心(覚心不生心)に、法相宗(唯識)を第六住心(他縁大乗心)に、縁覚乗(独覚)を第五住心(抜業因種心)に、声聞乗(二乗)を第四住心(唯蘊無我心)に、位置づけています。 
空海は『秘蔵宝鑰』巻下に、「九種の住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」といっています。この二句は「前の所説の九種の心はみな至極の仏果にあらず」ということです。 
仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に分けられ、真言は実相と縁起の双方を止揚したものと考えられます。 
鎌倉新仏教は(布教のために)庶民感覚を取り入れ実践論を単純化し特化した特徴をもつ祖師仏教で教理的な発展は特にありません。教理論としては四家大乗(天台・華厳・法相・真言)の教理で尽きていると考えられます。 
後世に、鎌倉新仏教(祖師仏教)の立場から、あからさまな南都六宗の批判がされるようになりました。その要旨は「南都六宗」は、自分一身の解脱を目的とする自利の傾向が強く、あらゆる衆生を救済する大乗の「化他」の精神が乏しい」とするものです。しかし、この批判は本質的な批判とは言えず、一方的な批判と考えられるものです。大乗の化他の精神を世の中に身を持って献身した僧が一体何人いるでしょうか。わが宗は南都六宗を遥かに凌駕する大乗の菩薩を輩出してきたと胸を張れる鎌倉新仏教(祖師仏教)が一体いくつあるというのでしょうか。 
仏教の本質を逸脱する思い込みの我見を初心な民衆に刷り込む異様なプロパガンダをしてきた鎌倉新仏教(祖師仏教)が、真実の大乗の菩薩の在り方であったと本当に信じているのでしょうか。自らの立ち位置に疑問を感じる感性を喪失した盲信の輩に、仏教の本質を語る資格があるとは到底考えられません。事実は南都六宗の研鑽がなければ、鎌倉新仏教(祖師仏教)が芽吹く土壌が醸成される可能性もなかったのではないかと考えられます。 
南都六宗の日本仏教に与えた影響と功績は甚大であり、計り知れない感謝の念を持つべきだと考えられます。南都六宗の存在なしに、今日の日本仏教の存在はありません。南都六宗の仏教の研鑽があればこそ、これを土壌とするたくさんの日本仏教が花開くことができたのではないかと考えられます。
 
天台宗

 

「天台宗」は、南岳慧思から法華経の意義を伝授された智が中国・浙江省の東部に位置する天台山の国清寺で思索し、理論と実践の両面から仏教思想を再編し仏教の整理統合を図る目的で考えた独自の五時八教説によって開宗した宗派(中国の天台宗)です。 
これを伝承して天台智を高祖と仰ぎ、比叡山を開創した最澄を宗祖とする宗派が日本の天台宗です。 
智の法華経解釈の講義内容を門人の章安が筆録整理したものが「天台三大部」です。章安は583年、23歳頃に弟子となり、27歳頃から34歳頃までの聴講を校訂し、69歳で『法華文句』の添削が終わったと述べています。 
長い年月の間に章安が推敲した解釈論も混在しているものと考えられます。 
章安は智没後、師の著作を整理しながら涅槃経の注釈を完成しています。 
「天台三大部」とは、1法華経の奥深い意義を総論する『法華玄義』、2法華経の経文を天台独自の教義で解釈した『法華文句』、3法華経の精神に基づき独自の眼で当時の仏教を俯瞰し、その禅観を止観という名称で体系化した『摩訶止観』をいいます。 
これとは別に天台宗には智の撰といわれる「五小部」があります。1『金光明経玄義』2巻、2『金光明経文句』6巻、3『観音玄義』2巻、4『観音義疏』2巻、5『観無量寿経疏』1巻です。観音経や阿弥陀の論書があることに興味が湧きます。 
天台智が独自の眼で著した教相判釈を「五時八教論」といいます。これは、あらゆる経典は釈迦の教えであるとする前提で、釈迦の教説の説法期間を5分割し、教えの内容を8種類に区分したものです。五時とは1華厳時、2阿含時、3方等・般若、4法華時、5涅槃時をいいます。衆生の機根(レベル)と教えの内容を評価することによって順位付けするものです。 
八教とは、経典の内容を「化法の四教」1蔵教、2通教、3別教、4円教と衆生の教化の方法・仕方を区分する「化儀の四教」5頓教、6漸教、7秘密教、8不定教に区分したものです。化法と化儀の関係性は、病気治療の際の、薬の調合と治療法の関係に譬えられます。 
この教判は智が意欲を持って仏教経典の整合性と統合を目指した創意工夫は認められますが、仏教全般を統合できる教相判釈論とはいえません。(後述参照) 
天台教学の流れを汲む人がこの教判を振りかざして、法華経が最高だとして、他宗を見下して様々な攻撃を仕掛けた事実は多くの問題を含むものだと考えられます。 
天台宗によって、法華経だけが釈迦の真説でその他の経典は仮の教えであるという五時八教説の主張が広く蔓延する流れが発生しました。 
この流れの中に、この教判を便利に利用する日蓮が現われ、法華経の教主(本仏)は日蓮という驚愕する主張まで出てきました。いわゆる日蓮本仏論(下種仏法)です。特に、日蓮正宗(興門派または富士派)と元信徒団体であった新興宗教団体の創価学会がこの急先鋒です。 
天台の教理は空、仮、中の三諦円融論を綱格として、十界、十界互具、十如是(十如実相)、三世間をベースにする法数によって示す一念三千論、十乗観法、性具説を説くものです。 
一念三千論は天台教学の眼目とされています。一念とは凡夫の一瞬の心を示します。三千は心の様相の極大化を示します。実践的には自己の心中に存在する仏界(悟り)を観想することで統一的宇宙観を示しています。 
しかし、これは言葉や文章で表現できない悟りの世界を仮説的に、補足的に、法数によって表現したものであると考えられます。 
智は、この一念三千を摩訶止観巻5で1回言及しただけですが、湛然は『摩訶止観輔行弘決』巻5で、これを究極の極説と解釈して、指南とするように力説しました。これによって、一念に大きな哲学的意味が与えられることになります。 
中国では、天台教学は華厳教学と共に中国二大思想として展開しました。 
天台教学は一時廃れますが、六祖の湛然が天台三大部の注釈を完成し、瓦礫にまで仏性を認める非情仏性説を認めて、華厳宗や法相宗に対抗しました。 
806年、天台宗は止観業(法華経)と遮那業(密教)各1名、二人の年分度者(公認僧)を勅許されました。比叡山は止観業と遮那業を学僧の教育制度としました。 
円仁は密教の外に、中国五台山の念仏を比叡山に伝えましたが、これは源信などの手によって比叡山の浄土思想として学ばれました。 
源信は、『往生要集』を著して比叡山に念仏の大きな流れを形成しましたが、この流れの延長線上に、後年の法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)が花開きその立宗に大きな影響力を与えました。 
比叡山には、最澄以来、法華、密教、禅、浄土思想の兼学の流れがありました。 
僧の興味によってどの方向を専門にするのか違っていましたが、自分の流れがもっとも正しい方向だと考えることは自然の流れです。 
このような比叡山の兼学の精神は、やがて栄西(禅)、道元(禅)、日蓮(法華)を生むことになります。 
栄西や道元は比叡山の僧の間で頭角を現した存在でしたが、日蓮はそうではなく比叡山での知名度は低く、立宗宣言後の鎌倉方面での国家諌暁の活動や数度の流罪などにより知られる存在になりました。 
比叡山では日蓮の評価は高くありませんでしたが、明治以降の日蓮系の熱心な日蓮信者や新興宗教団体の布教活動によって、その業績を鎌倉時代にまで遡り顕彰される存在となった特徴があります。 
比叡山から出たこれらの学派勢力が独立自尊の道を独り歩きをすることになりますが、これによって伝統的な仏教思想と学問の整合性や統一性が著しく損なわれることになります。 
比叡山の各学派勢力は、思想的にも学問的にも統一性に欠け整合性を失っていました。このような状況の積み重ねが温床となって末法思想を育て上げたと考えられます。 
天台宗の中興の祖といわれる18世座主良源(元三大師)没後、円仁(第三代座主)派と円珍(第五代座主・天台寺門宗宗祖、空海の妹又は姪の子といわれる)派は密教の考え方の相違により対立抗争を繰り返していましたが、993年、円仁派の僧徒が円珍派の房舎を襲撃して打ち壊す事件が発生したことにより両者の対立は決定的となります。 
円珍系は比叡山を下山して園城寺(三井寺)に入り寺門派(現在の天台寺門宗、本尊:弥勒菩薩)を形成しました。この分裂により比叡山は山門派(現在の天台宗、本尊:薬師如来)といわれました。 
この他にも比叡山には室町時代に分派した現在の「天台真盛宗」(総本山:西教寺、本尊:阿弥陀如来)があります。延暦寺や園城寺が密教色が濃いのに対し、西教寺は浄土教的色彩が濃い天台念仏と戒律の道場として特徴があります。 
しかし、天台念仏という名称は天台が法華経の道場に冠せられた象徴的存在と見る立場の人には違和感を感じさせる名称だと考えられています。 
天台という名称自体が法華経という意味内容を持っていると考える立場では、法華思想が中心でなければ天台とはいえないことは自明の理だからです。 
智や最澄がこだわった天台の名称を念仏を修飾する冠として使うことは妥当なことではなく、天台をブランド名のごとく抱え込み、比叡山の中で生まれた念仏だからといって天台を冠するのはいかがなものかと考えられます。智や最澄の意思に反することは明白です。 
浄土宗や浄土真宗、日蓮宗のように独自性(実際には天台を名乗れなかった)を主張する方がすっきりすると考えられます。 
西教寺が浄土色を濃くしたのは1486年に入寺した中興の祖・真盛の思想の影響です。 
この宗風を「戒称二門」(戒律と称名念仏)、「円戒念仏」(完全に速く成仏する念仏)と称しています 
これは、法然の専修念仏や親鸞の悪人正機説とは全く異なる念仏と云われていますが、一体何が異なるのでしょうか。 
天台念仏が浄土宗や浄土真宗の他力本願を否定し、自力の菩提心の上に称名念仏立てるものであれば、全く異なる教理だと認められます。 
1571年、織田信長の全山焼き打ちによって、延暦寺、園城寺、西教寺とこれらの守護社「日吉大社」の歴史と伝統のある伽藍や数々の仏教遺産のほとんどが完全に破壊され焼失しました。 
しかし、それぞれが豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康などの武将によって再建を許され、復興を果たしています。 
信長が比叡山を全山焼き打ちに処断したのは、次のような理由と考えられています。 
1多数の僧兵を抱え込み戦国大名に匹敵する政治的な武力集団であったこと。 
僧兵が粗暴な振る舞いや騒擾などで朝廷や社会の人々に多大な迷惑をかけて来たこと。など 
2政治的中立の立場を取らず、露骨に信長の敵対勢力に味方したこと 
浅井・朝倉の軍勢を比叡山に匿い、武田信玄、一向宗と組み、信長の包囲網を形成したこと。など 
3比叡山の堕落が著しく許容範囲を逸脱したと見られたこと。 
法灯を世の為人の為に役立てず、財を蓄え、妻妾を蓄えたこと。 
しかも、これらを神聖な修行道場であるべき比叡山に住まわせたこと。 
比叡山に赤子の泣き声や子供の嬌声が響き渡り、僧の戒律がなくなったと見られたこと。など 
天海は徳川家の為に、中世天台の伝統的神道を再編して山王一実神道を作り上げ、家康を東照大権現に祭り上げて東照宮祭祀を興し、徳川家の絶大な信頼を得ました。 
徳川将軍家の肝いりで比叡山の復興に指揮を取った天海の指導のもとで1625年、総本山の地位を上野の東叡山寛永寺・日光輪王寺(宮門跡寺院)に譲り、徳川政権に奉仕する存在となりました。 
明治政府の寺領没収により勢力を失いましたが、1870年、比叡山が総本山の地位を再び手に入れました。 
戦後20ほどの認証団体に分離しましたが、東京・浅草の浅草寺も「聖観音宗」の総本山として独立しています。 
比叡山の特徴は、開創以来、権門勢家の庇護によって教勢を維持してきた教団であるため、歴史的に信徒の獲得の熱意が弱く、教団を経済的に支える信徒組織が驚くほど弱体なことです。
 
真言宗

 

「真言宗」は弘法大師・空海を開祖とする密教の宗派です。 
密教は顕教に対する言葉です。時間、空間を超越した絶対的な真理(悟り)、宇宙の構成要素そのものを本体とする宇宙の根源仏・大日如来の秘密の教えで、インド大乗仏教の到達点に花開いた仏教の最終形を示す秘教です。 
顕教では歴史上実在した応身仏(釈迦如来)、または、修行を積んだ報いによって如来となった報身仏(阿弥陀如来、薬師如来など)を教主としますが、密教の教主は、宇宙の根源仏である法身の大日如来(華厳経の教主・毘盧遮那仏と同一の仏)です。 
密教は、インド大乗仏教の最終段階に登場し、8世紀に完成した大乗仏教の到達点です。これを中期密教といい、大日経系(胎蔵界曼荼羅)と金剛頂系(金剛界曼荼羅)の法流の双方の正当な伝法者である中国・長安(西安)の青龍寺の恵果阿闍梨から伝法を受けた空海によって日本にもたらされた宗派が真言宗です。中国に真言宗という宗派はなく、真言宗は空海が命名した名称です。 
真言宗の特徴は従来の仏教がそうであったように中国仏教の直輸入ではなく、これをベースにする空海の思索によって大乗仏教の教えが整理統合され、密教の事相(実践論)と教相(教理論)が再構築されたものでした。これにより、日本密教の骨格が明確になりました。 
空海は『弁顕密二教論』を著し、悟りの世界は言葉では説明できず(果分不可説)、成仏には極めて長い時間を要する(三劫成仏)、と説く顕教を浅略の教えである、といっています。密教は悟りの世界を真言によって現わすことができ(果分可説)、この身このままで成仏できる(即身成仏)深秘の教えであるといいます。 
また、教相判釈の『秘密曼荼羅十住心論』(十住心論)、『秘蔵宝鑰』では、人間の心の状態を十の発展段階に分類して、第十住心段階の秘密荘厳心が真言密教の究極の境地とし、第九住心に華厳宗、第八住心に天台宗、第七住心に三論宗、第六住心に法相宗、第五住心に縁覚乗、第四住心に声聞乗、第三住心に天乗、第二住心に人乗、第一住心に一向行悪を位置付けました。これを「九顕一密」といいます。 
あらゆる宗教を包摂し統合する(九顕十密)悟りの世界は、大日如来を中心に諸仏・諸菩薩が調和して存在、その世界を可視的に図示したものが両部の曼荼羅である、といいます 
密教では心に曼荼羅の諸尊を観念し、口にその真言を唱え、手に諸尊の印契を結ぶ三密瑜伽の修行をすることにより、本尊と一体になり(入我我入)即身成仏することを目指すのです。 
9世紀後半からは真言教団にも停滞と保守的な様相が現われ始めました。台密、東密共に学匠の求道心や学究的な探究の精神が次第に忘れ去られていった時代を迎えました。 
僧侶の関心が、天皇や皇族、貴族の世俗的な願望に応えるために、より効果的に密教の修法を執行することに集中するようになりました。もっぱら利己的な呪法が重要視され始めたのです。 
その結果、皇族、貴族の援助のもとで、莫大な荘園が寄贈され、各地の寺院の経済的な基盤が整いました。こうして真言教団は、祖師の思想を更に発展させることができず停滞し堕落していったのです。 
半世紀の沈滞期から脱して隆盛に向かう契機は、宇多上皇が仁和寺での出家得度をして伝法灌頂による阿闍梨位に就任したことにありました。上皇は「寛平法皇」として仁和寺に円堂院・御室を設け、政務を監督して、阿闍梨の修法に努めました。東密教団の復興は天皇・皇族の援助により成し遂げられたのです。 
9世紀の半ばに、事相(実践論:密教儀礼など)の研鑽の中で聖宝の法系の「小野流」(随心院)と寛平(宇多天皇)法王の法系の「広沢流」の野沢二流が分立し、十二流、三十六流と多岐に分流しました。 
この流れは各地の大寺院に継承されていますが、この分流は教相(教義)の違いからくる分裂ではありません。 
12世紀に真言宗・中興の祖といわれる覚鑁が登場し、高野山の改革を目指しました。覚鑁は『密厳院発露懺悔文』を著して僧侶の行住坐臥の戒めとしています。 
この文をみれば、当時、覚鑁が僧に「何が欠け」「何が必要」と考えたのかが一目瞭然です。僧侶の「あるべき姿」が具体的に述べられています。今日に於いても、いささかも色あせない指南書といえるのではないかと考えます。 
覚鑁(興教大師)は真言宗中興の祖といわれ学識・見識の優れた高僧でした。 
平安時代の後期になると念仏思想が朝廷や貴族、権門勢家に広く受け入れられて、臨終の間際に阿弥陀如来に救われて極楽浄土に往生することを念願する風潮が蔓延しました。 
このような世相を背景に仏教界でも浄土思想は大きな影響を与えるようになりました。 
覚鑁は、大日如来の真言密教に阿弥陀如来の浄土思想を包摂して密厳浄土思想を展開しました。大日如来を普門総徳の本仏とし、阿弥陀如来を別徳の仏とする両部曼荼羅の世界観によるものです。 
実は、高野山にも比叡山と同様に、浄土思想の取り扱いで多少の紛糾がありました。称名念仏が全山に響き渡る勢いを示したのです。称名念仏をどの様に扱うかが大問題となったのです。主流を形成する反対勢力の圧力も日増しに強くなり摩擦が随所で発生することになります。 
覚鑁は早い時期から才能を発揮し空海以来の秀才と見られました。13才で仁和寺に入り皇室出身の寛助僧正に師事して密教を学び、14才で興福寺で唯識・倶舎を学び、続いて東大寺で華厳・三論を学び、16才で仁和寺に戻り寛助僧正から得度を受けました。20才で念願の高野山の修行に入り、35才で真言密教の伝法の為の種々の灌頂を悉く伝授されています。 
覚鑁は高野山の腐敗と衰退を嘆きその立て直しを固く決意ました。やがて、鳥羽上皇の信任を得て庇護を受けると勅許により高野山に伝法院と密厳院を創建しました。40才で高野山金剛峯寺の座主(管長)に任じられ、高野山の復興を目的とする改革に着手しました。 
しかし、性急な改革は本寺方(主流派)の同意を得られませんでした。若くして鳥羽上皇の信任を得、高野山座主となって思いどおりに改革を断行しようとする覚鑁の姿勢が多くの本寺方の抵抗と反抗を生んでしまったのです。僧侶でも道理によらず嫉妬に狂う瞬間があります。座主に反抗する決意は生半可なものではありません。決死の覚悟があったものと考えられます。 
1140年、覚鑁は命の危険にさらされて、改革の道半ばで本寺方の度重なる武力の実力行使を受けて下山させられました。この時、覚鑁に随身して下山した学徒・僧徒は1300人余でした。 
この頃、高野山でも、周囲の騒乱から自らの権益を守るために多数の僧兵を抱えていました。僧兵は、戦国期の動乱の中で武士の荘園の横領や武力による脅しに対抗する自衛手段として「行人」の僧兵化がすすめられたものです。行人は、学侶の研究や修法、法要の執行など雑役に従事する下級職として古くから存在しましたが、次第に経済面を支配して勢力を増大し、戦国期には軍事権を掌握して他領の略奪にまで手を伸ばす実力を持っていました。 
僧兵は正式な修行をした僧侶ではありません。殺伐とした雰囲気を漂わしている不穏な存在です。何か事あれば過剰に反応し騒ぎ立てることで存在をアピールする不逞な輩同然な者が多数たむろしていたことは事実です。僧の煽動を受け、この時とばかりに騒ぎ立てる者が後を絶ちませんでした。騒動が治まらないのは自然の流れでした。 
覚鑁は、紀州・根来山に退去して堂宇を建て僧の指導・育成に専念しましたが、本寺方の様々な弾圧が引き続き治まる気配のない悲運の中で、覚鑁は志半ばの47才で遷化しました。 
その後、和議が成立して大伝法院は高野山に再興されましたが、金剛峯寺と大伝法院の新旧思想の反目が収まらず、1288年、大伝法院の学頭・頼瑜の手により大伝法院と密厳院を根来寺に移しました。古義真言宗と新義真言宗の分立の最初といわれる出来事です。 
古義と新義の違いは、教相の仏身論において、古義は「本地身説」(自性説学派)をたて、新義は「加持身説」(加持説学派)をたてることです。 
大日如来は宇宙の真理の法そのもので、本来的には姿・形はありません。しかし密教では法身にも色があり、形もあり、説法もあると見る特徴があります。大日如来の「その体は六大、その相は四曼、その用は三密」(後述参照)の自性法身と見るのです。両説の違いは、大日如来の説法をどのように見るかという問題です。 
この問題の起こる直接的な原因は『大日経』の教主に対する善無為の解釈の相違からでした。善無為は一面では本地身とみ、一面では加持身と解するように見えることに起因するものです。 
新義の説の代表者は根来山の頼瑜(1307-1392)、古義の説の代表者は高野山の宥快(1345-1416)と見られています。 
なお、新義には密教と念仏を融合して真言念仏(秘密念仏思想)の基礎を作るという新機軸が継承されています。 
根来寺は、1585年、豊臣秀吉の軍勢の攻撃を受け壊滅状態になりました。根来寺には、戦国時代の鉄砲集団「雑賀衆」が所属していました。雑賀衆は鉄砲を製造・販売するばかりでなく、その鉄砲技能と卓越した戦闘力で各地の合戦に傭兵として参加し、大阪・本願寺の攻防で多大な実績を示したこと、また、信長を狙撃したことで織田・豊臣政権の標的になったのです。雑賀衆の棟梁は雑賀孫一です。 
根来寺は、豊臣政権が崩壊した後、徳川家康に復興を許され、その助力を得て復興を果たしました。この根来寺の系流から新義真言宗の豊山派と智山派がでてきています。 
1600年には奈良・長谷寺には豊山派(専誉)が、1605年には京都・智積院には智山派(玄宥)が誕生し隆盛に向かいました。 
豊山派と智山派、高野山が交代で真言宗の管長職を努める体制となった時代もありました。 
新義真言宗は智山派(京都・智積院)、豊山派(奈良・長谷寺)、新義派(和歌山・根来寺)の三派で、他は古義派です。 
智山派の大本山には成田山新勝寺、川崎大師、高尾・薬王院があります。豊山派の大本山は護国寺があります。 
古義派の本山は、高野山・金剛峯寺、京都・東寺、京都・醍醐寺、京都・仁和寺、京都・大覚寺、京都・勧修寺、京都・泉涌寺、香川・善通寺、奈良・西大寺(真言律宗)などの分派があります。 
昭和18年に18本山による真言宗各派総大本山会(真言宗各山会)が設立され、意思の疎通と親睦が図られています。 
真言宗各山会は輪番制で旧朝廷の儀礼「御修法(後七日御修法)」の執行をするなどの事業を協同で運営し結束しています。
 
空海と最澄 / 履歴

 

平安仏教、もとい、日本仏教を語る場合には、仏教の巨星、泰斗でもある秀才「最澄」と天才「空海」を語らなければなりません。絵に描いたような秀才肌で実直、真面目な学者型の最澄と天才肌で現実的、外交型の空海、この二人が同時期あらわれたことで、日本の大乗仏教に大きな質的変化を請来させました。この両人が結果的に、競いあう運命を持ってしまったことは、いったい如何なる因縁生起によるものでしょうか。それとも、両人の際立った性格の相違によるものだったのでしょうか。 
両人は渡来系氏族の家系にある人物です。しかし、弥生時代の渡来人は中国系であろうと朝鮮半島経由であろうと、中央アジア系や西アジア系であろうと、直接に船で渡来しようと渡来人と認識されます。縄文人と弥生人の人口構成を比較すれば渡来系が圧倒的に多数を構成して支配層を形成してしていたと通説では考えられています。こういう意味では、日本の平安時代まで上層部のほとんどはもれなく渡来系です。 
日本人(特に、中部以西の地域)の祖型の65%相当は渡来系の末裔と考えられていますが、そのほとんどの家系の由緒が不明になっていることは、それぞれの家系が支配者層を形成したか(氏姓制度)どうかの違いです。家系を守るに値する由緒やステータスがあったかどうかで決まります。苗字のない家系の由緒は長くは伝えられません。目印が消失するからです。 
ちなみに、江戸時代までは、日本人のほとんどが古代より先祖伝来の地方でほぼ固定的に生活してきました。主な生活の基盤は農林水産業でした。江戸時代は士農工商の身分制度が人々を拘束しました。庶民が苗字帯刀することは許されませんでした。 
明治維新によって、苗字(姓)が禁止されていた農工商身分の人々は国民の90%を占める平民となり、1875年(明治8年)の太政官布告「平民苗字必称義務令」によって平民も苗字(姓)を持つことが許されました。国民は職業の自由と居住の自由が制度として保障され、律令制度の始まり以来、初めて各個人が生まれ在所から自由に移動できるようになりました。国民が豊かになると、先祖を脚色して家紋を持つ人々が増加しましたが、実は江戸時代まで国民の90%は苗字(姓)も家紋も持てなかったのです。 
最澄は、後漢の考献帝の子孫を祖先とする弥生時代の帰化人の7代目にあたると伝承されています。三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として比叡山麓の古市郷(大津市坂本本町)に生誕しましたが幼名を「広野」といいます。一般的には、渡来系の氏族には、先祖を古い家系や有力氏族に繋げる家系の創作が多く見られますが、最澄の家系が考献帝の子孫かどうかの事実関係は藪の中にあり、誰にもわかりません。大陸の皇族や王族を先祖にする氏族の家系は証拠による検証方法しかありません。なかには、最澄の家系は、中国系ではなく新羅系ではないかという説もあります。 
780年(宝亀11年)、最澄は12才のとき大安寺の行表を師として出家しました。785年、19才のとき東大寺の戒壇院で具足戒を受け国家公認の僧となりましたが、22才の時、南都仏教に見切りをつけ、比叡山に草庵を結んで多くの経綸を学び天台教学の基礎を構想したと考えられています。 
このときの最澄の心境を作家の永井路子は「仏教とはすなわち人間の魂の問題にかかわるものだと思い定めて、純粋な思惟の世界への旅立ちを決意した」また「いまだ理を照らす心を得ざるより以還、才芸あらじ」と誓い法華経を中心とする天台の教えを学び、一切を顧みませんでした」と表現しています。 
最澄は比叡山を拠点として、天台の典籍を求めて学び、仏道修行を成就するための五つの願文をたてましたが、これが「十二年籠山」として僧の修行規則定めたものとして制度化されています。この願文は、最澄が「南都は論ばかりあって実なし(自分たちの栄達を考えるばかりで庶民の救済行為がない)」と考え、南都仏教に失望して見切りをつけ、比叡山に入山して一乗止観院を作り、理想の修行道場を目指した最澄の立場を明確にした立誓文と考えられます。 
この願文を読んだ寿興禅師(桓武天皇の内供奉・十禅師の一人)が、最澄の純粋無垢な精神に感動して最澄を訪ねて親交を結びました。桓武は側近の和気清麿らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見出し、登用を決意したと考えられています。最澄は797年に内供奉となり、朝廷の内道場に仕えて天皇の安泰を祈り、進言する役職につきました。内供奉は定員が10名であり、十禅師と呼ばれました。 
最澄は、802年に和気清麻呂の長男・広世に招かれて(桓武天皇の肝いりで)京都高尾山寺(神護寺)で法華三大部(『摩訶止観』、『法華玄義』、『法華文句』)を南都六宗の高僧を集めて講義していますが、朝廷が思うように制御できない南都六宗の牽制に利用されたと考えられます。 
和気広世は、和気清麻呂の長男です。桓武天皇の宗教政策の補佐役を務めた人物です。父は和気清麻呂です。清麻呂は、宇佐八幡神託事件(道鏡事件)の時、称徳女帝の意向に沿わなかったため忌避されて左遷されましたが、光仁天皇の即位時に従5位に復権し、桓武天皇の即位時に従4位下、長岡京遷都の手柄で従4位上に昇進し、民部省長官を歴任、死後に正3位を贈られています。桓武は和気兄弟(長男広世、三男の真綱は、参議、左近衛中将)を信任し重用しました。和気氏は土地開発設計施工のノウハウを持つ専門家でもあり長岡遷都、平安遷都の設計施工の責任者(遷都造営大夫)を務めました。長岡と京都は秦氏から提供された土地であり、秦氏の援助を受けるなど深い友好関係を築いています。 
最澄の入唐求法は、和気広世と和気真綱兄弟が桓武天皇に勧めたことで実現したとする説があります。1年の短期間とはいえ、リスクのある渡海を許すこと、内供奉の最澄を手放すことについて桓武は慎重に判断したものと考えられます。最澄の留学のパトロンは桓武の第一皇子・安殿親王(平城天皇)だと考えられています。最澄は延暦21(802)年9月、入唐求法の上表分を差出し、勅許を得ています。『叡山大師伝』によれば、「多年天台教学を研究したが請来されている典籍には誤りが多く真意がつかみにくい。師伝によって直接伝授を受ける必要があるので留学生と環学生を各1名任命を受けたい(要旨)」とする入唐の上表文を提出して、天台法華宗は留学生として円基、妙澄の2名、環学生として最澄1名が勅許を得ました。最澄は、訳語僧(通訳)として義真を帯同する許可を得ていることから中国語に堪能でなかったと考えられています。最澄は渡航費用として東宮(後の平城天皇)から金銀数百両を下賜されています。 
翌22年4月14日に難波から遣唐使船に乗り込み出帆しましたが、途中の瀬戸内海で暴風雨に遭い船が大破したことで、最澄は10月23日より九州の大宰府にある竈山寺に留まって越年し、翌年の遣唐使船を待ちました。 
最澄の比叡山も秦氏の聖地を譲られたものでした。平安遷都の794年、最澄を施主とする王都鎮護の法要が営まれましたが、ここに秦氏を出自とする勤操と護命の二人の僧が招かれています。秦氏、和気氏、最澄は互いに相手を必要とする関係性がありました。勤操は空海と最澄の両人と友好関係があったのです。 
最澄はこの縁で入唐求法の短期留学の還学生(期間1年)に選ばれ、弟子の義真を連れて遣唐副使の第二船に乗船しました。このとき空海は遣唐使の第一船に乗船していることから、なぜ空海が遣唐大使の第一船に乗船が許されたのか疑問が残りますが、二人は別行動で互いに顔を合わせる機会がありませんでした。 
最澄の入唐求法について、作家・司馬遼太郎は「教の根本は法華経であるべきと確信し、唐の天台法華体系を輸入しようとする明確な目的をもって入唐した」と表現しています。 
最澄は台州刺史の陸淳に面会し、たまたま龍興寺に『摩訶止観』の講義に来ていた天台宗の最も優れた高僧であった道邃和尚を紹介して貰い面会することができました。この不思議な縁で、最澄は道邃から大乗菩薩戒を受けることができました。 
天台山の国清寺で惟象から供養法(密教)を受け、行満和尚に八十余巻の仏典と妙楽大師湛然の遺品を授けられました。 
最澄は8か月の入唐期間のうち6か月を台州・臨海の龍興寺に戻り過ごしましたが、帰国途上の越州・紹興で帰路の船を待つ1か月の間に、越州・竜興寺の順暁から大日系の密教を授けられました。しかしこれは本格的・体系的な密教といえるものではない不徹底なものであったことは最澄自身がよく理解していました。最澄の目的は、主として写経103部253巻の招来、後に比叡山の大乗円頓戒の独立の根拠とした円教菩薩戒の受戒が主なものであることが分かります。 
この最澄の帰国を待っていたのが怨霊に苦しみ病床にあった桓武天皇でした。桓武は最澄の法華経に興味を示さず、密教のことばかり最澄に尋ねました。桓武は密教が最新仏教であることを知り、その高い効能で癒されることを強く期待していたのです。最澄は困惑し、途方にくれました。真面目な最澄は何とか桓武の負託に応えようと懸命な努力をしたものと考えられます。最澄の底の浅い密教ではどうにもならないことでしたが、知力を尽くして祈祷せざるを得ませんでした。このような最澄の前に、空海の『請来目録』が提出されたことで、最澄は空海の存在を知り、空海が請来した体系的な正統密教の秘奥の世界を垣間見たと考えられます。最澄は自筆で空海の『請来目録』の写しを残しているところから、空海に接近してこれを学ぶ心つもりであったことが分かります。 
空海は、日本に無い経典を461巻も請来しています。この事実から、空海は事前に、諸大寺の経蔵を巡り、日本にある経典類の調査を終えていたと考えられます。日本に無い仏典(主として密教経典類)を請来したこと、この経典類を整理・分類して理論体系を把握できたことが空海の真言密教の体系化に大きく貢献したと考えられます。 
空海に謙虚に教えを乞う最澄の書簡は26通ありますが、空海から最澄に宛てた書簡は5〜6通であったところから、両者の交友は、最澄が積極的に辞を低くして教えを乞う(弟子になる)という形で始まったものでした。最澄は空海に伝法の資格「伝法潅頂」(阿闍梨位の取得)の伝授を求め、伝法灌頂までどのくらいかかるか聞いています。空海は、最澄の能力をもってしても三年必要と考えこれを最澄に伝えましたが、最澄は3ケ月位の期間を予定していたと考えられています。最澄には密教独特の修行の理解が及ばず、法華経と同様に、空海から書物を借りて読むことで密教を理解できると考えていたことなどから、両者はすれ違いを修復できないまま自然に分かれていくことになりました。 
ちなみに、伝法潅頂の伝授を受けるためには、「得度」「受戒」と「四度加行」の満行が必須の前提条件です。当時の必修期間は個人の能力にもよりますが密教の基礎教育期間1〜2年を除き、伝法潅頂に要する期間は1〜2年程度と考えられます。後年になると300〜100日に徐々に期間短縮されるようになりますが、教則本、修道の次第本が漢文の手書きで行われた時代はとても時間がかかったと考えられます。今日では便利な筆記用具が揃い、各種の教則本や四度加行の各種「次第本」が大量印刷できるようになったことで学習の効率化が大幅に進み、修道システムが完成したと考えられます。また師と弟子の面授の効率改善が工夫され、伝授の在り方が大幅に改善されたことで期間短縮が可能になったものと考えられます。しかし、この伝法灌頂は密教僧として許可(こか)を受ける灌頂です。今日的には、ここをスタートラインとして、必要となる各種行法を「伝燈大阿闍梨」から授法して研鑽し、本格的な密教僧となるべく修行の道に入ることになります。 
最澄は、延暦25年(806年)、国家から独立宗派・天台宗を公認されました。809年、最澄は弟子の経珍を空海の元に遣わして、空海が唐から持ち帰った密教経典12部の借覧を願い出ていますが、この頃から最澄と空海の二人の間で書簡の往復が始まりました。仏法の深奥を極めた空海に進んで膝を屈するさわやかな最澄の姿がここにあります。この頃、最澄は空海から真言、悉曇(梵字)、華厳経の典籍を借りて密教を研究していました。 
812年、高弟の泰範、円澄、光定を連れて京都・高尾山寺(神護寺/現・高野山真言宗)に登り、空海から金剛界と胎蔵界の結縁灌頂(初歩の灌頂)を受け、翌813年1月、泰範、円澄、光定を空海のもとに派遣して空海から密教を学ばせることを願い出て3月まで3名を高尾山寺で学ばせました。高尾山寺は和気氏が創建した氏寺です。 
ところが一番弟子の泰範は最澄が再三再四にわたる比叡山への帰山勧告に応じることなく、空海の下にとどまり空海から弟子入りを認められました。 
813年11月、最澄は空海に密教の秘伝書「理趣釈経」の借覧を申し入れましたが、空海はこれを拒否しています。最澄の学び方が読書による理解(法華経と同じ学び方)しかできていないこと、本格的な密教の修道システムを実践していないこと、面授による伝授を受けていないことなどから、秘教を正しく理解する基礎ができていない最澄が読めば誤解が生じるというリスクを回避したものと考えられます。空海が最澄の依頼を拒否したのはこのような理由であったと考えられます。また、この頃から二人の宗教観の違いが徐々に増幅していたことで相容れないものとなっていたのではないかと考えられます。これを境に最澄と空海の関係は疎遠になっていきました。 
空海と最澄のもう一つの違いは、空海は20歳前から山林修行を体験して、自然の中で言霊の神秘を体得して霊力を身に付ける修行体験を積んでいたことです。言霊とは、「ある言葉を口にすると、その言葉の持つ霊力が刺激されて言葉どおりのことが実現する」という考え方です。空海は「一切所聞の音はみな是陀羅尼なり、即ち是れ諸仏説法の音なり(秘蔵記)」と言っていますが、森羅万象の自然現象の音や響きは陀羅尼(真言)であり仏の説法であるという発想は山林修行の中で培われた鋭敏な感覚であろうと考えられます。密教修業は密教経典や儀軌書(修行方法を具体的に定めた書)の通りに実践し密教的な追体験をすることが不可欠であり、書物を読んで智慧を得ることだけではその境地に到達できません。山林修行は、肉体を酷使する人間の能力の極限を突き詰めることで呪力を得ようとしたことから、野たれ死にする危険性があります。しかし、僧の能力に高い呪力が期待されたこと、また、僧もこれを望んで能力の極限を覗こうとしたのではないと考えられます。空海の山林修行の体験は、密教の神秘的な呪力を育成する効果な方法であったと考えられます。 
最澄は、815年、大安寺で南都の学僧と論争。その後東国に旅立ち、鑑真ゆかりの寺である上野(群馬県)の浄法寺や下野(栃木県)の小野寺を拠点にして法華経の伝道を展開しました。そこで法相宗の学僧、会津の徳一といわゆる三一権実論争を引き起こしました。詳細は(20)−2、(20)−3宗派の抗争、論争の通りです。 
818年、自ら具足戒を破棄して『山家学生式』を定めました。以後、天台宗の年分度者は比叡山で大乗戒を受け、12年間の山中修業を義務付けられました。これは最澄が定めた天台宗の修行の在り方です。天台宗は南都(奈良)仏教との間で仏教の正当性を争う不毛の抗争に明け暮れましたが、最澄の弟子が勝手に独善的な判断に基づく勝利宣言をしています。 
法華経を最高経典とする仏教観が最澄がこだわった思想世界です。最澄の価値観と認識が天台宗の宗論に他宗攻撃の縛りを植えつけることとなり、天台宗徒は他宗を攻撃し続けましたが、最澄の思いは遂げられることはありませんでした。 
中国での法華経の全盛期は隋のときでした。隋の終わり頃には次第に衰微の一途をたどりましたが、最澄が入唐した頃は微弱であったと考えられています。 
インドには法華経が流布された形跡が全く発見されていないことから、中央アジアで編纂された法華経が中国に伝えられて隋代に花開いたと考えられ、法華経もいわゆる中国仏教の性格と特徴を濃厚に持ていると考えられます。ちなみに、中国に最終的に残った仏教宗派は禅宗と浄土宗です。 
最澄は、中国・天台宗の教義を日本に移植しましたが、比叡山の仏教は未完のままでした。これが比叡山の教義と宗旨の完成を妨げることになりました。最澄の後継者たちは最澄の未完を補填すべく努力を続けました。最澄亡き後、円仁、円珍が困難を乗り越えて渡唐し、最澄が悔いを残した体系的な密教を持ち帰り、台密(天台密教)を体系化しました。鎌倉時代、天台宗は中核を体系化できないままに禅や念仏の兼学を許したことから「選別の仏教化」に換骨堕胎する傾向に陥り、ついに鎌倉新仏教が誕生しました。最澄が「止観業」と「遮那業」の二本立ての修学方法を採用したこと、その後も禅、念仏の兼学を奨励したことで、ついに完成することがありませんでした。 
鎌倉期の天台宗からは、禅、念仏、法華などを立宗する新興仏教の祖師(優秀な後継者と呼べるのでしょうか?)たちが排出されました。鎌倉仏教の祖師は一途で、教条的、排他的、非協調的で、包括的態度を取る人物が遂に出ることがありませんでした。最澄が終生、奈良仏教(大乗仏教の濫觴、功労者)と対立したことで最澄の後継者も最澄の立場を踏襲せざるを得ませんでした。これが、法華経の流布の妨げとなっていったと考えられます。 
最澄は学者タイプの僧、空海は実践化タイプの僧という比較があります。大乗仏教の精神がが利他・慈悲にあるならば、僧侶は学識もさりながら、まず実践者として衆生済度の実践者として生きるべきだという視点からの比較であったと考えられます。最澄が「籠山12年」の戒律明けに実行したことは、比叡山に中央図書館を整備するために、当時日本に輸入されていた全経典を目録に従って写経して経蔵にそろえることでした。最澄の文献蒐集癖は性格的なものであろうと考えられますが、最澄の自筆で空海の「請来目録(写)」が残されていることです。空海は、治水灌漑工事、寺院や学校の創設、また鉱山開発(水銀鉱脈)などの済世利民を実践活動をしています。 
空海は奈良仏教を包摂して友好関係を保ちました。空海の偉業は、密教を大陸から請来したことではなく、実は三国伝来の密教を日本において完成させたことにあります。空海が密教を完成させたことで、真言宗からは、ついに、空海を超える人物が出てくることがありませんでした。このゆえに、真言宗には新興宗教が芽吹いて跋扈する余地がなくなりましたが、これが真言宗の長所でもあり、同時に短所となったものと考えられます。 
空海の讃岐・佐伯直氏は、5〜6世紀の頃から肥沃な土地と港を支配して海の交易に進出して財を成した氏族と考えられます。讃岐に阿刀氏の在住がなく、父・佐伯善通(田公)は、母・阿刀玉依姫と知り合ったのはどこかという憶測があります。佐伯氏は伝統的な書芸の家系と考えらますが、肥沃な土地と良港を支配する氏族であったことから、船を所有して讃岐と難波を往来する交易活動を行い財を築いたと考えらえます。佐伯氏の一族に地方では見られない位階の高い人物が多数いたことから献物叙位(財物等を朝廷に献物し、その見返りに位階を入手すること)の方法を取っていたと考えられています。佐伯氏の交易の拠点となる倉庫が住吉津にあったと考えられること、当時の結婚形体が妻訪婚であり、母と子は母の一族と生活を10年くらいは共にしていたのではないかと考えられることなどから、空海の出生地は讃岐ではなく、阿刀氏の本拠地である畿内と考える説があります。(武内考善・『空海素描』・高野山大学) 
788(延暦7)年、15歳の佐伯真央(空海)は、伯父の阿刀大足(桓武天皇の3男・伊予親王の侍講、従5位下)を訪ねて讃岐国から上京しました。この後、空海は佐伯今毛人(さえきの・いまえみし)の氏寺・佐伯院に寄宿していることから平城京であったと考えられます。佐伯氏は有力氏族・大伴氏の末裔とする説があります。 
都の佐伯氏の中で最も高位に上ったのは佐伯今毛人で正3位参議、民部卿、太宰帥(長官)、大和守、皇后太夫など多数の役職を歴任しましたが、造東大寺長官、造西大寺長官、造長岡京使(長官)など建築・土木の技術系の専門家であったと考えられています。 
空海は、『文鏡秘府論』によれば、幼少の頃から阿刀大足について学問を学んでいたとあるので、阿刀氏は平城京近辺に居住していた人物であるところから、空海は幼少の頃は母の実家(近畿地方)にいた可能性があると考えられます。『空海僧都伝』には、「15歳で外舅二千石阿刀大足に随って、論語・孝経及び史伝等を受け、兼ねて文章を学びき」とあります。大学寮では、同郷の「直講・味酒浄成(うまざけのきよなり)に就いて毛詩・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問ふ。博く経史を覧て殊に仏経を好む」とあります。『御遺告』には、「外戚の舅曰く、たとひ仏弟子になるとも、如かず大学に出でて文書を習って身を立てしめんにはと。」この教言に任せて俗典の少書等及び史伝を受け、兼ねて文章を学ぶ。然して後、生十五に及んで入京し、初めて石淵の贈僧正大師に逢って大虚空蔵等丼びに能満虚空蔵の法呂を受け、心を入れて念持す。とあります。 
792(延暦11)年、空海は18歳の時、平城京にただ一つの置かれた中央の「大学寮」の明教科(儒学を研究)に入ります。この大学寮は唐の「国士監制度」を模倣した中央官吏養成所ですが地方には「国学」が置かれていました。入学対象者は13〜16歳までの従5位以上の貴族の子弟ですが、制度の見直しが何度かあり、例外も許されたようです。大学には明経道(明経生400名+明経得業生4名)・紀伝道(文章生20名+文章得業生2名)・明法道(明法生10名+明法得業生2名)・算道科(算生20名+算生得業生2名)・書道(2名)・音韻道(2名)の6科があり全体の学生数は500名弱でした。得業生はすべての学内試験を合格して研究のために在籍を許された者です。今日の大学院生のようなものです。卒業できる者は国家試験を合格した任官者だけでした。卒業か退学しかない制度です。 
今日の学制とは大きく異なり、自動的に進級できる制度ではなく、歳試で上・上と上・中以上の成績が取れなければ進級できず、31歳までに国家試験(明経・明法・秀才・進士)に合格できなければ退学処分となります。国家試験に合格すれば官吏に登用されますが、合格=任官であったことから採用枠との関係があり、合格率が低く抑えられたことで、ほとんどの学生は卒業できなかったと考えられます。空海の大学での様子は「蛍雪を猶怠れるに拉ぎ、縄錐の勤めざるに怒る」とあり、刻苦勉励、言語に絶する姿勢が見えます。空海は、中途で仏道修行の道に転向して退学していますが、これは空海の能力の問題ではなく、進路の違いによる退学であったと考えられます。空海は官吏登用を望まなかったということです。 
空海の父「佐伯善通」は、讃岐直田公(さぬきのあたいたぎみ)という郡司または国造に任命された家系です。母は「玉依姫」といい阿刀大足の妹です。この阿刀氏からは多数の宗教家を輩出し、特に法相宗に多くの高僧を輩出して興隆に大きく貢献しています。 
南都六宗の中心的存在であった法相宗を隆盛に導いた義淵(姓阿刀氏:東大寺要録に記載)、玄ム(姓阿刀)、善珠(法師俗称安都宿禰)は師弟関係にありますが阿刀氏の出身です。阿刀氏は、法相宗の法脈の頂点を極めた存在でした。 
阿刀氏の祖神は、平安遷都の際に、河内国渋川郡(東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られています。新撰姓氏録には、阿刀宿禰は、石上朝臣と同じき祖、饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記載があります。石上氏は天武天皇13年(684)に物部の系譜の氏族に賜った氏姓であるところから、阿刀氏は物部の支族と考えられます。饒速日命は神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の祖父・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄です。兄の饒速日命は物部氏族の祖となりますが、宗教儀式を司る氏族の血筋を伝えています。弟の・瓊瓊杵尊は皇族を輩出する一族を形成して、兄弟は別系統の血筋を伝えたと考えられます。しかし、これらの事実関係は藪の中です。客観的に検証できる証拠資料はありません。 
京都府編纂の神社明細帳には阿刀宿禰の祖・味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されています。 
奈良仏教いわゆる南都六宗と激しく対立した最澄とは異なり、空海は南都六宗と良好な友好関係を築いてこれたのは密教の理念であった包摂性という特性だけでなく、奈良仏教に多くの高僧を輩出した阿刀氏の影響や後押しがあったものと考えられます。 
奈良・大安寺は南都七大寺の一つであり、南都六宗の「三論宗」の大寺でした。空海と最澄はこの大安寺と関係していました。大安寺のホームページには、最澄は12歳で近江国分寺で得度しているが、このときの剃髪の戒師は大安寺の行表であったこと、空海は19歳の時、大安寺の勤操(その実父は秦氏)により得度を受けたという説があります。若き空海は、勤操に伴われて和泉の槇尾山に赴き勤操の剃髪を受けて出家し得度したともいわれています。一説には勤操と空海には直接の師弟関係を疑問視する見方もありますが、二人の間には長い親交があったことは否めません。勤操が秦氏の出自であったことは偶然でしょうか。 
後に空海は、大安寺の別当に補せられていますが、『御遺告』第八に、勤操を「わが大師」と呼んでいますが、実は空海の師僧が誰であったかは特定できていません。勤操とは非常に親しい関係であったことは事実ですが、空海自身が師僧が誰であったのかを明確に述べていないことから、これを示す資料が出てくれば新発見です。空海は、特に慈しんだ身内の直弟子(實恵、真然、智泉)を大安寺に預け修行させていますが、自身の修行の追体験をさせる目的があったものと考えられます。 
大安寺は、奈良の最古の寺・元興寺とともに三論宗の本山でした。竜樹の「中論」「十二門論」と竜樹の弟子提婆の「百論」などインド中観派の論を受け継ぎ、空の概念を研究しました。竜樹の「大智度論」を学び、中期以降は唯識中観派、瑜伽行唯識派の学説が現れました。その論が難解なところから、華厳、法相に押されて衰退していきましたが、天台宗には「三諦(空・仮・中)」「円融三諦」「一心三観」の理論に大きな影響を与え、真言宗にも同様に影響を与えています。 
大安寺その古代の前身は「大官大寺」です。「大官大寺」の前身は、「百済大寺」、「高市大寺」と改称していますが、天武天皇が、全僧尼を統制する僧綱所として「大官大寺」に改めて創建した官寺です。飛鳥時代には、「川原寺」「飛鳥寺」「大官大寺」が三大官寺として置かれましたが、「大官大寺」が筆頭でした。大安寺が空海と最澄に共通性を持つていたことに驚きました。現在の大安寺は、高野山真言宗に属しています。 
空海と最澄が、一緒に最後の遣唐使となった第16次遣唐使(20数年ぶりに再開)に随行することになったのは果たして偶然の出来事だったのでしょうか。唐への留学について二人を後押しする人物がいたのではないかという疑いが消えません。その後の遣唐使は、19〜20次は取り止め、894年には唐の内戦を理由として菅原道真が廃止決定しています。次の遣唐使船に乗船できる千載一遇のチャンスでした。二人の得度の戒師が大安寺の僧でした。僧にとって得度の戒師や師僧は特別な存在です。その関係は生涯消えない関係性を持つことになります。
 
空海と最澄 / 書を読む

 

空海は、平安時代の初期に嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と讃えられました。この中でも、空海は第一の能書家として日本の王義之に比肩される不世出の代表格に挙げられています。 
「書は人なり」「心正しければ筆正し」との伝承があります。また「言葉は人なり」ともいわれてきました。言葉は人の心であり、書は人の言葉と心を文字という形に表したもの、いうなれば、作者の感情や人間性を文字の形や、一つ一つの線や点で表現し、文字に芸術性を持たせたものと考えられます。 
しかし、書が芸術であるためには、作者の美意識と個性、そして独創性が必要であり、書の一定の規範を踏まえた技法の鍛錬をしなければなりません。 
空海は、797年に『三教指帰』(『聾瞽指帰』はその草稿本)を著して、その「序」で出家の動機を述べています。 
「本論」では、三教の思想の特質をそれぞれの登場人物に対話討論の形式で戯曲風に語らせるという手法を用いて、仏教が儒教や道教とは比較にならないほど優れていることを結論付けています。 
一人の沙門から虚空蔵聞持の法を聞き、仏典を学ぶうちに仏教への関心が高まっていったことを契機に、二十歳頃、大学を中退し、孔孟の思想書や仏教の経典を真剣に学び、また、私度僧として各地に修行を重ねた結果、仏教の奥義を極めたいとして衆生済度のために出家する動機を表明した書でです。 
『三教指帰』は、24歳の空海のひたむきな気持ちを関係者に表明する出家宣言書です。四六駢儷体で書かれたこの練達の書は、空海が十代から漢文や書の研鑽を重ねて来たことを如実に示すもので、王義之の書風の影響が見えます。 
墨痕鮮やかな力強い文字は、昂ぶる気持ちを抑えながらも、抑えきれない空海の若き日の精神の高ぶりが垣間見える書であると考えられます。 
空海は入唐により、真言密教の正統な継承者になるとともに、さまざまな書体や書風、技巧を学び、中国皇帝から「五筆和尚」の敬称を送られました。 
空海は、僅か2年の在唐中に中国人が驚愕する書や漢文の達人の域に達した努力家でもありました。 
空海は能書ゆえに嵯峨天皇に近づくことができ、真言密教を確立するための一つの手段として書を用いましたが、これによって、空海の書の本質そのものが損なわれることはありませんでした。 
空海は入唐によって恵果和尚から真言密教の伝授を受けたばかりでなく、書や文芸についても仏道修行の一環として熱心に研究していたことが『性霊集』十に「天皇への上表文」という形式で在唐中の学業や書に関する内容を述べた文章「勅賜の屏風を書き了って即ち献ずるの表、并(ならびに)に詩」(弘安5年、816年)によって知ることができます。 
これによれば、「書は散なり」と述べ「書は心の解放」であると言っています。 
「情のおもむくままに任せ、本性を自分の望むとおりに自由にさせ、心を自然界にゆったりと遊ばせ、手本となる法則を移りゆく四季に求め、文字の形態を森羅万象に具象化することが至妙である」と述べていいます。 
また、「書にも書の病を除き、筆理にかなうために何をどうすればよいか考えないとすぐれた書とは評価されないこと。書は古人の書を学ぶ際、筆意、用筆、その書の精神を学ぶのはよいが、単に古人の字の形を真似ただけでは上手とはいえない。 
昔からすぐれた能書家の書風がそれぞれ異なるのは、古人の書から精神を学び、書は自分の書を書いたからである」と古典を学ぶ要諦を述べていいます。 
『風信帖』は、『灌頂歴名』と並び称される空海の書の最高傑作であり国宝ですが、『風信帖』(一通目)『忽披帖』(二通目)、『忽恵帖』(三通目)の三通をまとめたもので、一通目の書き出しの句に因んでこの名で呼ばれています。元は五通あったものですが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次の所望により天正20年(1592年)4月9日に献上したことが巻末の奥書に記されています。 
『風信帖』は平安仏教界の双壁をなす空海と最澄の7年間の交流を示す往復書簡の一部であり、二人の関係が明白に伝わってくる歴史的な一級の資料として高い評価があります。三通とも日付けのみで年紀がありませんが、状況証拠などから、弘仁2年から4年(811〜4年)と考えられています。 
『風信帖』と『忽恵帖』は空海から最澄に宛てた書状であることが宛名によってわかります。 
『忽披帖』には宛名がなく、最澄と藤原冬嗣の両説がありますが最澄宛てと考える説が妥当であると考えます。 
当時、空海は嵯峨天皇の信頼を得ていたこと、空海の密教が本流であることが世間に広まったこと、などから、空海と最澄の立場が現世的にも逆転していく段階にあったことが分かります。 
二人の関係は、密教の取り組み姿勢の違いから、やがて決定的な仲たがいをすることになります。 
空海は、最澄から『理趣釈経』を借り受けたいとの申し入れを受け、これを拒絶しています。その理由は、密教は面授による伝授を基本とするところにあります。定められた各修行の段階を終了しなければ面授が受けられず、それはとりもなおさず、師匠が弟子の能力がまだそのレベルに達していない段階にあると認めていることであり、まだその時ではないことを理解させるために、最澄の密教の修行方法の基本姿勢の在り方を批判したものと考えられます。最澄は、法華経の学び方と密教の学び方が同じものと考えていたのです。 
両人の書のやり取りを「久隔清音、馳恋無極」で始まる最澄の『久隔帖』の書と、「風信雲書、自天翔臨」で始まる空海の『風信帖』とを比較すれば、最澄の文字の筆法は均質で几帳面であり、神経の行き届いた筆跡であり、最澄の真面目で地味な性格が滲み出ています。 
『久隔帖』は、最澄の最も有名な真蹟で、空海との親しい交わりを示すとともに最澄の真摯な人柄を表すものとして評価されています。 
この書は、最澄が空海の下で密教修業している一番弟子の弟子の泰範に宛てた形式をとっていますが、実質は空海に宛てた親書であることが明らかです。 
最澄の『久隔帖』の内容は、『弘法大師の書簡』(高木、元・著)より引用し転載します。 
「久しく音信が絶え、こよなく思い慕われます。おすこやかなる趣を伝え聞き、まずは安堵いたしました。空海大師が作った五言八句の中寿勧興詩の序の中に『一百二十礼仏』『方円図』および『注義』の名が見られます。今、和韻の詩を作って奏上しようとを存じますが、その「礼仏図」というものが分かりません。なにとぞ阿闍梨(空海)に言って新しく撰述された方円図や注義の拝借をさせていただき、あわせてその大意を知らせてくださるようにお願いします。その和韻の詩は早々には作り得ず、またひとたび筆を染めた詩文は後になって改作することもかないません。どうか、その詳しい内容をお示しくだされば、必ずや和韻の詩を作って大師の前に献上します。謹んで貞聡に託して手紙を差しあげます。恭敬いたします。弘安四年十一月二十五日小法弟の最澄 状上 
高尾の範闍梨 法前 
最近、『法華経』の梵本一巻入手しました。空海阿闍梨にご覧にいれるために、来月の九日十日に参上いたしたく存じます。もし、和上がお暇なら、必ず伺います。またもし、お暇がないようなら、後の機会を待ちます。ご都合のほどお知らせください。詳しいことは拝眉の上、申し上げます。謹んで深く恭敬いたします。」というものです。この手紙は、最澄が空海の弟子であることを最澄自身が述べているところに歴史的価値があります。 
最澄の書は、若いころから、王羲之の『修字聖教序』を習ったことが『久隔帖』と『入唐蝶』などから分かりますが、気品の高さ、澄みきった境地、わき目もふらず自分の信念を貫く一徹さが現れています。この書風は生涯を通じてほとんど変化がない、という衆目の評価があります。 
梅原猛は、「最澄の文書は明晰で論理的である。その背後には彼の身を切るような痛切な自己反省がある。そしてその書は女性的でどこかに深い悲しみを秘めている。この書を見ていると最澄は厳しさの反面、もろい孤独さを持った人ではないかと思う。」と述べています。 
空海の文字は極めて詩的な美辞麗句があり、大小、線の肥痩、墨つぎ、運筆の緩急も変幻自在であり、この八文字の修辞に二人の個性の差異が歴然と表われています。 
『風信帖』は弘仁3年(812年、推定)最澄が空海に『摩訶止観』を贈り、比叡山に登るように誘った書状に対する返信です。 
『風信帖』の書風は王義之の書法に則したものですが、顔真卿の書法も加味され、豊潤で重厚、闊達自在な変化に富んだ多様な筆致がみられ、空海の抱く心情が鮮やかに映し出されています。強さが内面に潜り、筆毛の抑揚が自在になり、線には含蓄のある意味合いが増し、ゆとりや柔軟性、おおらかさがある中にも凛とした僧の品格が匂い表れています。 
当時、世間の評価の高かった最澄に対し、謙譲の気持ちを示しながらも、「どうか労をいとわず、この院(乙訓寺と推定される)まで、降りてきてください」と書いたことは見事という他ありません。この書には、空海の僧としての内面の充実と自信が感じられ、空海の書は、豪胆、かつ、繊細な心と状況に即して自在に書風を変える特徴が見事です。 
唐・留学前の20代頃の『聾瞽指帰』の筆致とは書風や書技とは異なる明らかな進歩がみられ、書の研究の成果が結実したものと高く評価されています。空海の書が日本の頂点を極める書であることは間違いのない事実と考えられます。 
『忽披帖』は、書風が一転し、文字も大きく、肉厚で墨の量も多い。覇気に満ちた空海の力強さや、精気とともに情緒さえ感じられるものです。さらっと書いた、卒意の書であると評価されています。 
『忽恵帖』は、流麗な草書体で書かれ、内熱した境地を示す書風で、柔らかく細い線で軽快な運筆によって書かれています。 
最澄への細やかな心使いが感じられる書ですが、三通がそれぞれ異なる書風で書かれたことに、空海の最澄に対する書の披歴の意図が感じられます。 
仏教僧としてばかりでなく、書家としてもライバル意識がその意識下に潜んでいたのではないかと考えられます。 
『灌頂歴名』は、弘仁3、4年(812、3年)京都・高尾山寺で三回にわたり灌頂を授けた者の名前を列挙したもので、僧俗がランダムに併記されています。 
空海の手控用のメモとして作成され、改めて装い直す必要のないもので、空海の真筆の中で最もその素顔が顕れた書として、『風信帖』以上に高い評価をする書家が多いものです。 
この書の特徴は、書かれた月日や状況、また、空海自身の感情が異なったため、その書風が微妙に異なっていることです。 
11月15日に、最澄以下4名が金剛界の灌頂を受けたことを示す記述があるところから、11月14日の歴名とともに、空海と最澄の関係を示す最も重要な書とされているものです。 
メモ書きにしては丁寧な筆の運びで、線に深みと幅があり熟練の書技と風韻が感じられます。 
灌頂を授ける空海の満足感と静寂の中にも凛とした気迫が込められている書です。 
11月14日には、大悲胎蔵生の灌頂を授けた僧俗百45名の記述があり、僧では、最澄、賢栄、元は最澄の弟子であった泰範ら二十二名の記述があります。名前の下に小さく寺院名や得仏の尊名が書かれていますが、これは前もって書かれていたものと考えられています。 
僧や沙弥の部には消去や加筆・訂正はないが、近子や童子の項には多くみられるところから、空海とあまり面識のない人が増減したことが想像できる書です。 
3回目の3月6日の歴名には、金剛界の灌頂を授けた僧5名、沙弥12名の記述があります。 
前2回の書と比較すれば、重厚さや気韻生動を欠いていることから、別人の書ではないかという説もありますが、得仏を示す小さな文字は名前にくらべ筆勢があること、熟練の味が見られることから真蹟であるとする説に賛同します。 
なお、十二月十四日の歴名の書は、同時代に書かれた『風信帖』の書法とは少しことなることから、空海が入唐時に学び、会得したと考えられる顔真卿の書法の影響が自然にでているとみる説を支持します。 
空海の書風は、中国・東晋の書の大家として高名な王義之の伝統的な書法に、唐代の書家・顔真卿の書法を加味しながら、空海独特の個性を醸し出し比類なき書の大家として高い評価が定着しています。数多くの歴代の書家が揃って空海の書を手本として臨書してきた事実がこれを物語っています。
 
空海の「入唐求法」

 

空海の留学直前には、「空白の7年」があり、この間の空海の行跡を空海自身が何も語らず謎とされてきたことで、空海研究者の間で「空白の7年」に何があったのか、これを知ろうとする関心が高まりました。この間の空海の事跡を語る歴史資料が発見されていないことから、さまざまな仮説が独り歩きをしています。 
事実関係を証明する資料がなければ、学問的な研究とは言えません。しかし、それを知りながらなをも、この「空白の7年」に対する仮説を試みる者がでてきます。「空白の7年」は、空海が留学僧に選任される難条件をクリアして、突如として第16次・遣唐使の随行員として登場する直前の空海の事跡を知ることになるからです。 
実は第16次遣唐使船は803年(延暦22)4月16日に難波津を出帆したのですが、瀬戸内海で暴風雨にあって甚大な被害を蒙り、この年の派遣は中止となりました。嵐にあった者は不吉とされたことで渡航禁止となった留学僧の欠員補充が急遽行われ、新たに空海が選任されました。第16次遣唐使船は、延暦23年5月12日難波を出帆し、7月6日に五島列島の田浦から唐に向けて出帆し日本を離れましたが、空海の留学はまたとない僥倖の上に成立したのです。しかし、7月7日には暴風雨に遭い1カ月の間、海上で遭難することになります。船には風見師が同乗して出帆の判断を下していましたが、当時は台風の気象知識がなく、単なる偏西風の知識しかなかったと考えられます。 
このときの遣唐使の動向や日程が『続日本後紀』に書かれています。この遣唐使船団は4船で構成され600名が乗船しましたが、第1船に遣唐大使・藤原葛野麿が、第2船に副使・石川道益(入唐後に没)が乗船しました。空海は第1船に乗船し、最澄は第2船に乗船しています。第1船は1ケ月海を漂い、帆は破れ舵は折れて九死に一生の状態で福州の近くの赤岸鎮に着岸しましたが、あまりにもみすぼらしい状態であったこと、国書など身分を証明となるものを所持していなかったことから、日本の遣唐使船であることが信じてもらえず海賊と間違われて拘留されています。 
遣唐大使が三度も福州長官に弁明書を差し出しましたが相手にされなかったことで、空海が遣唐正使に替わって「大使の福州の観察使に与ふるが為の書」(この題名は弟子・真済が後に付け『生霊集』に集録)を代筆しました。この文の書体、文体、表現法が福州長官・閻済美を感動させたことで遣唐使として扱われることになります。ところが、これによって長安へ行くことを許可された大使一行22名の中に空海の名前がなかったことから、今度は自分のために、長安に上京できるように再び「福州の観察使に請うて入京する啓」(『生霊集』巻5)を提出して許され長安に行くことができました。空海が入京を拒否された理由が不明ですが、空海の身分に行き違いがあったのではないかと考えられます。 
大使と空海の一行23名は11月3日に福州を出発し、12月23日に長安に到着しました。24日に大使は皇帝・徳宗に国書(第2船の副使が所持)及び貢物を奉げ、25日には皇帝の接見をうけて、遣唐使の大任を果たしています。 
最澄が乗船したの第2船(判官・菅原清公)は、同様に遭難の一歩手前の状態を乗り切って、運よく予定航路に近い明州・寧波府に9月1日に到着しました。最澄は体調回復の休養を取って、長安に向かう遣唐使一行(11月15日長安に到着)と別れ、9月15日に弟子の義真を連れて目的地の天台山に向い、24日に台州に到着しています。このとき、台州の陸淳が天台山修禅寺の道邃を竜興寺に招いて『摩訶止観』を講義している最中に巡り合うことになり、10日後に天台山に到着して国清寺の行満から天台の法門を30日間にわたって伝授されています。 
第3船は行方不明で難破沈没したものと考えられ、第4戦は引き返したと考えられます。第1船と第2船が渡海に成功したことで、平安仏教(空海の真言宗と最澄の天台宗)が花開くことができたのです。遣唐使は次の第17次(中止や計画だけで終わったものを除く)で終了となったことから、この意味では、空海が突然に留学僧に選ばれ遣唐使船に乗船できたタイミングが絶妙であったことが分かります。帰国は、大同元(806)年10月のことでした。 
最澄の身分は、すべての経費と諸費用の全額を国家から支給され、随行員を帯同できる身分の還学生(期間1年)、空海は滞在費用のほか全ての経費と諸費用の全額を個人負担しなければならない留学生(期間20年)でした。最澄と空海の身分差は歴然としていました。 
ここで、空海が、個人負担の膨大な留学費と多数の経典群(書写)、仏像・仏具(密教法具)などの調度品を整えた莫大な費用(今日の価格換算で数億円〜)をどのように捻出したのかという疑問がもたれることになり、さまざまな仮説が独り歩きするようになりました。 
空海の七年間の空白は、空海自身が何も語らず、また、この期間の空海に関する情報が何にもないことから名づけられたものですが、これは意図的に隠された、または公にできない理由があったことを示すものではないかと考えられています。 
多くの空海研究者は、この空白期間について、入唐を準備するために学問や語学の準備をしていたとか、唐に渡るための自己資金を蓄えるために多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募ったのではないか、などという仮説を述べています。しかし、20年の長期留学生が必要とする多額の金銭(今日の換算で数億円相当と考えられる)が当時は無名の空海に布施などの手段で調達できるとは考えられません。何よりも、無名の空海が国家から留学生に選ばれる保証はなく、空海の卓越した能力があればできたはずだと簡単には考えられません。南都六宗が持つ独占的な推薦枠を獲得しなければならなかった理由が説明できないと考えられます。 
空海は、23歳から30歳まで消息不明になっていましたが、 一介の私度僧であった空海が、30歳になって現れたかと思うと、延暦23年4月7日に出家得度(空海・生涯と思想・宮坂宥勝、ちくま学芸文庫、2011年)し、あっというまに国家公認の僧となるために東大寺戒壇院の受戒(同年4月中旬〜5月初旬頃)を済ませ(入檀の推薦は誰がしたのか)、難破で渡海に失敗した遣唐使船(延暦22年4月)から下船させられた留学生が失格して空海に差し替えられ、空海が正式な留学生に選任(延暦23年4月下旬頃)されて、延暦23年5月12日の遣唐使船に乗船しています。難関の三つの条件を絶妙のタイミングで見事にクリアできた空海の僥倖には権力者の強い意思が働いたのではないかと考えられます。このスケジュールから見れば、留学費の準備は万端であったこと、すべてが予め決まっていたかのように何事もなくスムーズに運ばれたことが分かります。 
この仮説に立てば、空海が20年の留学期間を2年余に自主短縮して帰国した理由も明らかです。空海は当初から20年の留学期間の縛りを意に介していなかったのではないかと考えられます。何よりも重要なことは密教の根本を学ぶことが第一であり、その他のことは期間短縮の合理的な理由を明確にして朝廷の理解が得られる手続きを踏むことで非難を受けても解消できる自信があったと考えられます。もし、空海が留学期間20年を守っていたら帰国できたかどうか、空海の真言宗が成立したかどうかも誰にもわかりません。また、正統な密教の伝法潅頂が終われば、20年も留まる必然性もなかったと考えられます。 
空白の7年間は、1東大寺戒壇院への入檀許可(803年4月9日入壇/国家公務員資格の取得)、2留学生に選ばれる保証(803年5月12日遣唐使船に乗船)、320年の留学費用+空海コレクション(大量の経典、曼荼羅・仏具、など概算でも数億円)を持ち帰ることができるほどに多額の経費の調達、などの三つの条件を同時に保障するものでなくてはなりません。この三つの条件は、強力な国家の保障または遣唐使人事を一手に握る人物の関与がなければ解決できない内容であると考えられます。後に、空海は810年に東大寺別当(官職名、現在の管長職、他の職位にある者が兼職するときの職名)や大安寺別当に任ぜられていますが、空海は京都・奈良の複数の大寺院の別当職を任ぜられています。 
このような仮説の立ち位置からは、若干20歳の空海の出家宣言の書といわれる『聾瞽指帰』の読み方もおのずと違ったものになります。巷間で言われる「大学を中途退学をして家族の非難を浴びた出家の理由を正当化したもの」または「出家の気持ちを抑えがたくその理由を吐露したもの」という説明よりは、「特定の権力者に対して空海の能力や人物像をアピールするものであった」とする視点に妥当性があると考えられます。 
叔父の阿刀大足は空海の能力を高く評価していたと考えられますが、阿刀氏は空海を特命ミッションの担当者に推薦できてもこれを決定できる立場になく、高位の決定者に対し空海の能力を示す必要があったのではないかと考えられます。『聾瞽指帰』の大人びた見識や論旨の明白さ、優れた書風や書体は、空海の人物像を決定者に質量ともに十分アピールできる内容として認められるものであったと考えられます。 
空海が留学生に選任される三つの必要不可欠条件を次々にクリアできた理由は、特命ミッションを十分に遂行できたこと、もしくは、これと同様の高い評価を受けたことの褒賞であったと考えられます。空海の特命ミッションとは一体何であろうか。ちなみに、『聾瞽指帰』は空海によって改定がされ『三教指帰』と改題されています。なぜでしょうか。 
空海に渡唐留学の勅許が下りた経緯は不明です。空海自身は、後年、先帝(桓武天皇)の特別のはからいで幸いにも大唐へ渡って勉学することができたという感謝の言葉を述べていることから、通常の手続きにによる選任ではなく、桓武天皇の勅許により突如として決まった、と考えられます。当時はまったく無名であった空海が入唐僧に抜擢され、居並ぶ南都六宗の推薦僧を差し置いて、勅許を得ることは容易ならざることであったというべきです。これにはどのような裏事情があったのでしょうか。桓武が特別に認めた空海の資質とは一体なんであっただろうか興味が尽きません。これを仮説することは許される許容範囲と考えます。 
空海の中国語の語学力は卓越したものでした。中国人と通訳なしで不自由なく会話ができたというレベルのものではなく、科挙を合格した中国の上級官吏が空海に驚愕して敬意を払うというハイレベルの中国語の教養(詩文など)を身に付けていました。空海が二十歳まで学んだ大学で身に付けた教養(唐語や書法など)で到達できるレベルではないと考えられます。 
空海はこの中国語の語学力をどのような方法で身に付けたのでしょうか。ここにも阿刀氏の特別なサポート体制が取られたのではないかと考えられます。空海が探し求め続けた密教を短期間で習得しえた理由の一つが、卓越した語学力と理解力、記憶力にありました。空白の7年間にこれらの習得期間があったと考えることは自然で違和感がありません。 
教養の高さを感じさせるこれらの能力は整えられた学習環境の中に育まれるものです。単なる中国人との会話や書物を独習しただけで身に付くものではありません。山林修行の中では身に付かない性質のものです。空海には空白の7年間にこのような学習環境があったと考えることはとても自然なことです。 
高野山大学(大学院)は、真言密教研究の中心地の一つです。密教蔵書では日本一(ということは世界一)といえる貴重蔵書を保存してきた図書館を持ち、密教研究部門では超一流の教授陣を揃えた教育(研究)機関と考えられます。その教授陣の大半が現職の高僧であるとともに当代の一流の学者、研究者であるところに特徴がありますが、教相(理論)と自相(実践)とが両輪となった教育体制がとられていると考えられます。ここで、空海の系譜につながる今日の学僧が、空海の「空白の7年」をどのように受け止めてきたのか、どのような空海像を思い描いてきたのかを考えてみることは欠かせない重要な要素となります。 
これは仮説であるという性格上、何らかの形で書かれた全ての仮説を紹介することは不可能ですが、この中で穏当であり、かつ蓋然性が高い要素を持っていると考えられる仮説をランダムに抽出して紹介します。検証可能な証拠に基づくものばかりではない、という点では控え目に扱わなければならないものであるところから、氏名は省略することになりますので、ご了承ください。 
これらの説の特徴は、空海の渡唐(留学)の真の目的がなんであったのかというところから、空海が抱き温めてきたものに視点をあて、空海の研究姿勢や緻密な思考力、行動力を考えながら、空海が持ったであろう蓋然性の高い事柄、それは、密教の本質を具体的に知ることができる内容とは、空海にとっては何であったのかという視点に立つ合理的な手法と考えられます。 
「空海は最澄の留学を知り、自身も私費留学を決意した」などという根拠のない仮説を主張する者がいます。「最澄と空海の最初の出会いはいつか」という問題がありますが、この仮説を示す証拠がありません。もし、これを証明する証拠がでてくれば、新発見です。現在、分かっている二人の出会いは、809(大同4)年8月24日付けの最澄から空海に宛てた現存する最古の手紙です。空海は留学期間を短縮して帰国したことで、九州・大宰府観音寺に留め置かれるという処置を受けていましたが、大同元年(806)9月10月初旬には帰朝していたと考えられます。大同元年10月12日付けで『請来目録』 の提出を高階真人遠成に託しましたが、空海は早期帰国した「欠期の罪」を詫びる書を上表分として添えています。高階遠成は12月13日に入京して平城天皇に報告されています。平城帝は『請来目録』を最澄に見せて下問したものと考えられます。 
これを許されて入京の許可が下りたのは大同4年7月16日付けの太政官符でした。空海が入京できたのは早くても8月の初めと考えられます。最澄の手紙は、「謹んで啓す。借請法門の事」で始まり、12部の経典を箇条書きにした後に、「右の法門、伝法のための故に暫く山室に借らん。敢えて損失せず、謹んで経珍仏子に付して、以って啓す。大同4年8月24日、下僧最澄状上」とあることから、最澄は空海が朝廷に差し出した「請来目録」を書写して、空海が入京する日を待っていたことが考えられます。 
この説は、最澄の留学目的が法華経に心酔して「中国の天台宗の教理と論書類を請来すること」が主目的とするものであったことから類推した説と考えられます。法華経はすでに鑑真によって請来され諸宗で学ばれていました。世間には誤解があるようですが、法華経は諸宗でも研究されていた経典で、天台宗の専属ではありません。最澄の中国・天台教学の移植は、端的にいえば、この宗の論拠「法華文句、法華玄義、摩訶止観」を権威のある天台山で学び、その教理の本旨や理論体系を理解して持ち帰る(移植)ことであったと考えられます。最澄は1年留学の還学僧でした。 
ところが、空海の密教の請来は、このような単純な移植を目的とするものとは到底考えられません。密教は、一部の経典類が遣唐使船で請来されていましたが、サンスクリット(梵字・悉曇)や密教儀軌、修道システムを理解できる僧はいませんでした。日本に根を下ろしていない未知の最新仏教でした。この説の主張者は、法華経の体系と密教体系の根本的な違いが全く理解できていない者の説であることが明白です。密教は、教相(理論)と事相(実践)を両輪とする膨大な密教体系を持ち、教義や論書を学んだだけで日本に持ち帰り、真言密教の緻密な体系を構築できるなどという簡単なものではありません。密教の核心はその実践的な修道システム、特に、伝法潅頂にあります。ここに空海と最澄の仏教研究の根本的な相違点を見落としている決定的な欠点があると考えられます。両人の仏教研究の姿勢の違いが、空海と最澄の交流の中で徐々にすれ違いを起こす素因であり、後に、空海と最澄が別離する原因になったものと考えられます。 
空海の真言密教は、大日経や金剛頂経などの密教経典を学び、著名な学者や密教僧の論書を学んだだけでは概要レベルの理解にしか到達できません。天台宗にも緻密な台密の体系があるので、これを実践した密教僧には十分に理解できる内容だと考えられます。法華経を修行の中心にしてきた僧には理解できない内容があると考えられます。真言宗は全員が密教僧ですが天台宗には「止観業(法華)」と「遮那業(密教)」の二門があり、修道システムが根本的に異なるところから僧侶にもいろいろと違いがあると考えられます。 
話を元に戻します。渡唐前の空海は、大日経の「住心品」第一は読解力よって理解できたが「具縁品」第二以下からは実修部分となり、師資相承の伝授がなければ理解できないことから、中国・唐の長安に行き密教のしかるべき師に直接会い教授を受けたいと念願していたのではないかと考えられます。これは空海の『御遣告』からの解釈です。 
密教は、般若経典の「空の思想」、華厳経の「華厳思想」のなどの理解力や基礎能力を前提にしていると考えられます。この説では、渡唐前の空海が東大寺で『八十華厳』や『六十華厳』を比較対照しながら徹底的に学んだと考えています。法蔵の『(華厳経)探玄記』や『(華厳)五教章』をそのわきに置いて何度も熟読したと考えています。空白の7年、空海は東大寺の学僧に従い相当深く華厳思想の研究をしていたと思ってさしつかえない、と述べています。 
この説は、空海が言霊(ことだま)言語と考えたサンスクリット語(梵字、悉曇)の取得について言及していますが、説得力のある見解だと考えられます。空海の渡唐動機を「虚(むな)しく往(ゆ)いて実(みち)て帰る(『性霊集二』恵果碑文)」の意味と両立して考える説です。空海が渡唐によって切実に良師を求めた動機は、梵字・悉曇すなわちサンスクリットの修得と真言・陀羅尼の(本格的な)勉強、そしてそれをもとにした儀軌類の理解や作法の伝授にいたる期待こそが動機の一番であった、ということに躊躇しない。と述べています。 
空白の7年間、空海は大安寺に出入りする渡来僧をつかまえては悉曇・梵字・真言・陀羅尼を少しづつでも学び、不首尾ながら多少の参考文献を手に入れ、読み書きのほか唐語や和語への変換を徹底して習ったのではないだろうか。しかし、これがきちんと取得できなければ自分が向かおうとしている密教世界が不備に終わる、そういう危機感やあせりがつのるばかりであったと思う。だから、長安における空海のサンスクリットの勉強は日に夜を徹して行われたと思われる。たった2年足らずであそこまで、と思わせることが『三十帖策子』に朱で手書きされた書き込み内容のレベルや後の『声字実相義』の理解力に見える。今、大学などで学べるサンスクリットにしても、入門から2年で空海のレベルに達するのは無理である。空海とてサンスクリットには時間がかかったはずで、空白の7年はちょうどよい時間である。と述べています。 
密教の行法には、言霊言語のサンスクリット語が多用されています。空海は、真言、・陀羅尼が持つ言葉の意味やイメージが、行者と仏とが一体(入我我入)になる大事な秘儀のカギを握っていることについて、強い関心を持ちながらも、おそらくわからずに悶々としていたのではないか。と述べています。なお、空海は入唐後に『金剛頂経』系の存在を知り、恵果阿闍梨に教えを受けなければ胎蔵系と金剛頂系を統合する正統密教に出会えなかったことを知り、遣唐使に随行できたことが千載一遇のチャンスであったことを深く感謝したものと考えられます。 
その効果の一端を『三十帖策子』をあげて説明しています。『三十帖策子』の中に梵字・悉曇にかかわる資料がある。諸処の行外に空海の赤字の書き入れがあるが、これを注意深く見ていくと、空海のサンスクリットの(修得)レベルが見え、それは相当な実力がなければ書けない注記である。と述べています。さらに、『声字実相義』のサンスクリット複合語(六離合釈)の正確な捉え方やその概念をメタファー(metaphor 隠喩//直接表現にかえて属性の類似するもので代置する間接表現法)して声字とのかかわりを説く発想からしても並々ならぬものがうかがえる、と述べています。 
空海は、長安の西明寺に入り、カシミール出身の般若三蔵からサンスクリット、梵字・悉曇を、インド僧・牟尼室利三蔵からやインド哲学や文法、修辞、音韻、漢訳の特訓を受け急成長しましたが、その理解度があまりにも早く(3ケ月程度)両三蔵を驚嘆させています。この後、基礎力をつけた空海(32歳)は、入唐翌年6月上旬青竜寺を訪ね、恵果(59歳)阿闍梨(密教の二つの流れ、胎蔵と金剛界の正統な継承者、第7世)に面謁を許され(般若三蔵は恵果の弟子であり、情報提供があったと考えられます)ました。一介の留学生がインド密教の正統な法灯を伝える大唐帝国の国師・恵果阿闍梨に面会が許されるなどということは一般的には考えられないことでした。ここで空海は稀有な能力を認められ、「我れ先より汝が来ることを知りて相待つこと久し。今日相見ること大(おおい)に好(よ)し、大に好し。報命竭(つ)きなんと欲すれども、不法に人なし。須(すべか)らく速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし(『請来目』)」という破天荒な待遇を受けています。諸外国からの幾多の学僧や直弟子1000余人を差し置いて空海に伝法潅頂の入壇が許されたのですが、恵果の期待感が示されていることから、すでに空海の資質が認められていたことが分かる出来事でした。 
恵果は健康の衰えを自覚していたが、弟子は千人余いるものの付伝する適格者が病身の弟子・義明しか無く、正統密教が一代で枯れてしまうのではないかという不安を持っていた時期であったと考えられますが、そのようなときに空海が現れ、日常を共にして空海の資質を見るにつけても密教理解の到達度が予想以上で会あったことを知り、空海に伝法灌頂する決心を固めたのではないかと考えられます。 
入門まもなく、空海に胎蔵界の灌頂が授けられ、7月上旬には金剛界の灌頂が授けられました。8月上旬には愛弟子・義明にも授けられていない伝法阿闍梨の灌頂が授けられましたが、これによって恵果の正当な法灯が空海に正式に伝法されたのです。恵果阿闍梨は同年12月15日に青竜寺の東塔院で入滅されましたが、空海が恵果の門に入ってから6ケ月後の事でした。空海と恵果の出会いは奇跡的なまたとない千載一遇の邂逅でした。 
仏と縁を結ぶ「投花得仏」(目隠しのまま曼荼羅に導かれて行うの儀式)において、1461尊ある金剛界でも、414尊ある胎蔵界でも空海の投花はいずれも大日如来の身上に着いたことで、恵果は不思議なことだと讃嘆して空海に「遍照金剛」の灌頂名を付与しています。この由縁によって、空海の宝号が「南無大師遍照金剛」と定まりました。 
恵果が空海に次のように遺言しています。同様に『請来目録』より要約して引用します。「去年(804)12月15日、恵果阿闍梨が香しい湯で身体を洗い、大日如来の印を結び右脇を下にして遷化された夜、空海が道場で念じていると、恵果和尚が宛然として空海の前に現れ、我と汝とは深い師弟関係があって密教を広めてきた。我は日本に生まれ変わって汝の弟子となろう。汝は知らないであろうが、我と汝は宿縁が深く、何度も生死を繰り返して密教を広め何度も(互いに)師弟関係にあった。だから今、遠方より訪れた汝に密教を伝えるのである。」空海はこの宗教体験によって、「恵果の膝元に来ることができたのは空海の力ではなく、学び終えて日本に帰国するのも空海の意思ではないこと、恵果阿闍梨の鉤に引っ掛けられて招かれ、阿闍梨の綱に引っ張られて帰国することになったこと、ゆえに、空海は、恵果から速やかに帰国して日本に密教を広める責任があるといわれたことが理解できた」と考えられます。宗教体験には人を変える力があります。空海の内面には大きな変化が生まれたものと考えられます。 
空海は門下を代表して「恵果碑文」を撰し恵果の偉大な功績をたたえ、多くの遺弟に感動を与えましたが、大同元年(806)10月初旬頃、皇帝の代替わりを祝賀する臨時の検討船が派遣されてきたチャンスに恵まれこれに便乗して帰国することができました。このとき、空海の帰国と共に密教の正統も中国を離れ日本に伝わることになりました。恵果から伝法灌頂を受けた弟子は「弁弘、慧日、惟上、義明、空海、義円」の6人でしたが、胎蔵・金剛界の両部の灌頂を受けたものは空海と義明の2名だけでした。義明は歳若くして世を去ったので、インド伝来の正統密教の伝法灌頂を受けた正嫡の後継者は空海以外にはいません。この後、中国の密教は次第に衰退に向かいました。 
恵果・阿闍梨(伝持の7世及び付法の7世)は、俗称は「馬」氏、貧しい昭応村に生まれました。9歳で青龍寺の塔頭・聖佛寺住職・曇貞に仕えていることから親の意思で寺に預けられたものと考えられます。しかし、恵果は才能豊かな人物でした。20歳で出家、得度して具足戒を受戒しましたが、一行(伝持の6世)に師事し、不空(伝持の4世)より金剛頂系の法灯を、善無為(伝持の5世)より胎蔵系と蘇悉地経を、幻超から大日経を受け継ぎ、胎蔵生系と金剛界系を統合して中国密教を形成した人物です。30歳で本山・青龍寺の住職に任ぜられ、唐の三朝(代宗・憲宗・徳宗)の国師となって、数千人の弟子を育成した偉大な宗教家です。 
空海や橘逸勢と共に第一船で入唐した興福寺の僧・霊仙がいました。霊仙は空海より長く留まりましたが、唐皇帝・憲宗に才能を認められ「三蔵」の地位を与えられたことで帰国を禁じられました。唐が終焉を迎えたことで、帰国することなく骨を埋めることになりました。 
密教は大乗仏教の到達点に花開いた教えです。空海が請来し再構築した真言密教は、インド〜中国〜日本という三国伝来の密教を体系化して完成させたものでした。全仏教のみならず、人間精神の全階梯を包摂する密教の体系化を成し遂げたのはインド・中国・日本を見渡しても空海以外にはいませんでした。純粋密教は空海によって完成され、真言宗の1000年を超える長い歴史をみても、もついに空海を超える人物が出てくることがありませんでした。これが真言宗の長所でもあり、短所でもあると考えられます。 
空海の真言密教の系譜は、『大日経』の胎蔵生曼荼羅思想と、『金剛頂経』の金剛界曼荼羅思想の二つの異なる法流を統合することによって誕生しています。二つの法流は、中国・青竜寺の恵果阿闍梨によってなされましたが、空海は恵果に伝法灌頂を伝授されて正当な血脈を相承した第8祖です。 
インドから中国に胎蔵界系の密教を伝えたのは、東インドの王族出身の善無為(シュバカラシンハ)三蔵でした。716(開元4)年に80歳の高齢の身で入唐して長安に留まり、多くの弟子を養成しましたが玄宗皇帝の下で『大日経』などの密教経典の漢訳に勤めました。金剛界系の密教は、720(開元8)年にインドから入唐した金剛智(ヴァジュラボーディ)三蔵が長安に灌頂道場を建立して『金剛頂経』などの密教経典を漢訳して弟子を養成しました。金剛智は霊的超能力にすぐれ中国密教の開祖に擬されています。 
金剛智の弟子・不空三蔵はインド出身の僧ですが、金剛智の下で20年余密教経典の翻訳に携わり、一切の法を師の金剛智から伝授され、玄宗、粛宗、代宗の三代の皇帝に仕え絶大な信任を受けました。五台山に密教の根本道場を建立し密教の普及に精魂を尽くしましたが、天台山の天台法華宗の影が薄くなったと喧伝されています。不空三蔵は胎蔵会系の密教に通暁することがありませんでしたが、弟子の恵果阿闍梨が両界の曼荼羅思想を統合することになります。 
恵果は善無為の高弟・玄超について胎蔵界の曼荼羅思想を受け継ぎ、密教史上初めて両界の思想統合を成し遂げたのです。こうして恵果は正純密教の最高峰に立ちましたが、空海が入唐したのは、恵果阿闍梨が徳宗の貞元20(804)年に長安の醴泉寺に金剛界曼荼羅の灌頂道場を建立した年で、恵果が中国密教界の第一人者の足場を築きあげた直後の事でした。
 
「初期開拓者」と祭祀と霊力の背景を考える [仮説]

 

日本建国を成し遂げた初期の開拓者の有力グループには、四つのグループが考えられています。結論をいえば、皇室の先祖は誰か、ということになりますが、記紀の記述は神話の世界の物語を天皇家(アマテラス、天孫)に繋いでいるけれども、その出自を意図的に隠していると考えられ、信頼できる歴史事実とはいえません。国家の初期建設が隠されている先進国は、日本だけだという悩ましい歴史観の中に置かれています。歴代の政権が皇室の淵源を明らかにできなかった事情とは一体何故でしょうか。はっきりしている事実は、「明らかにしたくない」という強い意思(宮内庁)が働いているという事実だけです。皇室の出自が明らかになれば、天皇の尊厳や尊崇の念が失われるとでも考えているのでしょうか。 
四つのグループとは1先住民(縄文人)が弥生人や渡来人を吸収して国家を築いたとする説、2中国大陸からの渡来系氏族が日本列島を征服して国家を建設したとする説、3朝鮮半島の支族(スサノオなど)が渡来して国家を形成したとする説、この説には複数説があります。4西アジアのシュメールやユダヤ(原始キリスト教、景教などを含む)の渡来説などです。四つのグループに共通する史観は、船で九州に渡来して、九州の中で軍事的な勢力の抗争に勝利して生き残り、瀬戸内海を制して、近畿(ヤマト、大和)に至り、統一国家を樹立したとする見解です。 
九州での勢力争いでは、グループ間の戦争と衝突によって勢力圏が形成されましたが、近畿での王権の樹立では支配者に宗教的な権威付けが行われ、原始宗教から祭祀形態が整備された神道形態を示していることから、日本列島の初期開拓者と見做され、特別な血統を認められた宗教的権威者に支配の正当性を委ねられた大王が共立されたと考えられます。各地で異なる祭祀を持つ有力氏族が近畿の大和に集まり、共通の祭祀形態で統一された大和王権を形成したものと考えられます。大王は天皇制に移行しましたが、一つの統一王朝が一つの血統によって維持されてきたかどうかについては争いがあります。いわゆる王朝交代説ですが、なぜか血統は継承されてきたと考えられています。 
1先住民(縄文人)説は、国家の概念が形成された根拠が証明できず、国家の形成に関わった有力勢力が九州に地盤を形成した氏族であったことの証明ができません。 
2説の代表説は、朝鮮半島南部地域の馬韓、弁韓(伽耶諸国)、辰韓(秦韓)の倭人、特に辰韓(または経由か?)から渡来した考えられるスサノオ族(古代出雲神族)が北九州を拠点として、中九州と南九州の初期開拓者アマテラス族と九州の覇権を競ったと考えられます。アマテラス族を側面から支援した海神族は、中国沿岸地域(または経由?)からの渡来者で、長崎、天草沿岸地域から九州南西地域の沿岸を拠点にしていたと考えられますが、アマテラス族の渡海を側面支援したと考えられる人々と推定されます。当初はスサノオが優勢でしたが、天之忍穂耳の参戦により、アマテラス同盟軍が優勢となり、スサノオは朝鮮半島に追放されています。なお、スサノオは滅亡した箕子朝鮮の王または王子であり、日本で王権の再興を懸けたのではないかとする説があります。 
3説は、BC150年頃、中国・長江流域の呉楚七国の乱からの脱出者である天之忍穂耳が渡来して、アマテラス族と手を結んでスサノオ族と領土の奪い合いを繰り広げたと考えられますが、北九州からスサノオの勢力を追い出して糸島に伊都国を建国したと考えられます。天穂日は天之忍穂耳の先発偵察隊でしたが、海流に流されて船は島根半島に漂着し、出雲神族に紛れ込み、後に出雲臣族を形成しました。出雲神族と出雲臣族の接触はBC100年頃と考えられますが、出雲の国譲り以降は、天穂日の系譜が出雲国造家として出雲大社の神主を代々務める家系となっています。 
しかし、アマテラスの出自は不明です。中国・呉楚七国亡命者系、朝鮮半島系、ユダヤ系の各説があります。なお、BC100年頃、天之忍穂耳が娶ったアマテラス族の萬幡豊秋津師姫から生まれた子が天孫となり「瓊々杵」が鹿児島県の出水市付近に、「天火明」が大分県(日向)延岡付近に天孫降臨しますが、古代は女系を出自とする習わしがあるところからアマテラス族と名乗ったと考えられます。天孫に神武が登場して九州の統一が成し遂げられ、記紀のいわゆる神武東征が行われたと考えられます。なお、この時期は秦の渡来者・徐福一行の九州上陸とも一致する時代であるところから、軍事力を所持する徐福一行が介入して建国に関わりを持ったことが考えられます。 
2説と3説は、今後の考古学の証明が必要ですが、中国、朝鮮の王族または有力氏族が出自を隠すという事実が皆無であること、むしろ、出自を明かすことは一族の名誉欲を一段と高める要素であることからアマテラスは中国、朝鮮系ではないのではないかと否定的に考えられます。中国・朝鮮の諸王朝は軍事力による力の統一が全てであり、敗者の資産や文化を徹底的に奪い、殲滅するという支配構造を持つ軍事王であるところから、日本の皇室の性格(祭祀王)とは同一性が全く考えられません。 
但し、中国大陸や朝鮮半島からの渡来者であった有力氏族は、国家の形成に関わり、名誉ある地位を獲得して貴族層を形成したと考えられます。これらの氏族は軍事力を提供し皇室の祖を支えた有力氏族であったと考えられます。減点法からみれば、残るのは高い文化を持ち、大集団で移動する力があるユダヤ勢力ではないかと考えられます。国家という概念を持ち、王の血統性が支配の正当性を持つ集団、一定の文化と軍事力を持った集団はユダヤだけです。いわゆる日本列島の初期開拓者は、海と中国大陸、朝鮮半島を経由して目的を持って渡来してきたユダヤ勢力であった可能性が高いと考えられます。 
巨大な軍事力を持たされなかった皇室が、その地位を軍事力が優勢な幾多の勢力から簒奪されなかったのは、祭祀王としての地位が確立されて周知徹底されたことで、余人をもって換え難い地位を独占してこれた血統の特殊性にあったと考えられます。中国・朝鮮の王朝は、典型的な「易姓革命」にあり、力(軍事力)が支配者を決するという実力の歴史観の中にあります。中国・朝鮮では、血統には支配の正統性が全くありません。皆無です。 
特別の宗教的権威者が支配の正当性を認められると、その権威を象徴する神宝が考案されて様々な霊力が与えられ、王位継承の正統性の象徴となったものと考えられます。神宝には、人々に対する支配者・大王の権威付けだけでなく、人々の崇拝や恐れ、服従と信頼が複雑に織り込まれたものと考えられます。神宝は、それ自体が不思議な霊力や威力を持つ力の根源となる秘宝と考えられたのです。ユダヤ王国の再興を求めて渡来した人々によって神宝が持ち込まれたとする説があります。いわゆるユダヤ王国の神宝、ユダヤ統合の象徴です。この神宝は何処に隠されたのでしょうか。どこにあるというのでしょうか。 
空海、幼名・佐伯真魚は、父から幼少より文字を習い、学問の手引きを受けました。『空海僧都伝』には、「和上生まれて聡明。よく人事を識る。五、六歳の後、隣里の間、神童と号す」とあります。12才頃からは論語、孝経、史伝などの漢籍を母の兄・阿刀大足(讃岐出身・桓武天皇の皇子伊予親王の侍講、従5位)から学びました。真魚(食用の魚)の幼名には違和感がありますが、イエス・キリストにちなんだ名前ではないか?とする説があります。 
空海は、18歳で長岡京の大学の明経科(論語、左史伝、五経などを学ぶ学科)に入学を許可されました。この大学は六学科で構成されていましたが、五位以上の貴族の子弟が入学を許された国の上級官吏養成機関でした。佐伯家は位が低く入学資格がありませんでしたが特別の計らいで入学を許されたのです。 
当初、空海は上級国家公務員を目指したと考えられます。当時の大学の入学年齢は16歳前後であり18歳の入学は遅いものでしたが、家族は空海に大きな希望と期待をもったと考えられます。 
ところが、20歳頃、中途退学(前述のとおり)してしまいました。期待していた父や親族はさぞ落胆したことでしょう。ところが、空海を大学に導いた功労者・阿刀大足の落胆ぶりや嘆き、空海の将来に係わる積極的な関与があったのか、なかったのか、これが何ゆえか空海研究では欠落しています。 
空海は『聾瞽指帰』を著作して、出家の決意を表明しましたが、何故か、大学中退後ただちに出家して寺院に入り弟子入りしていないことが不思議です。23〜30歳まで空白の期間をつくり、独立自尊の姿勢を取りながら山林に交わり、独自の開悟を目指すというのは不自然に考えられます。 
合理的な解釈では、空海の出家は大学卒業後でも十分に間に合うものだったと考えられます。両親や親族の期待を背負い国家官僚になるべく特別に入学を許可されたのに、卒業を待たないですぐにも退学して行動に移さなければならない空海の身に突然に差し迫った緊急ミッションとは何か。それは本当に出家にあったのでしょうか。 
阿刀氏とは事前の相談を十分にしていたのではないか、むしろ、阿刀氏が空海に特別ミッションを要請したのではないかと考えられます。空海が山林に交わり出口のない修業に邁進しただけとは考えられません。空海が語らなかった空白の7年間は、空海に緊急の特別なミッションが与えられ、しかも口外できない性質の任務であったのではないかと考えられます。 
空海には、自身の経歴や事跡にさえ書くことができない特別ミッションがあっと考えることは合理的な推定だと考えます。 
しかもその緊急な特別ミッションは、人目には熱心な山岳修行者に見えるものであったと考えられます。 
ここで、『日本とユダヤのハーモニー(著者:中島尚彦)』(http://www.history.com/)が主張する阿刀氏の係わりがあったとみる見解 と『神社仏閣に隠された 日本史の謎と闇』(中見利男・編著 別冊宝島2069号)の特集『消された古代豪族物部氏と三種神器を超える十種神宝の秘密を追う』には合理的な推理があると考えられますので、これらの切り口を引用させていただき、仮説を展開してみます。 
イスラエル王国はソロモン王の死後の前930年に北イスラエルが独立して南北に分離しました。南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族の2部族が、北イスラエルには10部族(ルベン、シメオン、レビ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、セブルン、ヨセフ)が分かれましたが、後に、レビ族は祭祀一族として除外され、ヨセフ族がマナセとエフライムに分かれました。12部族はアブラハムの子ヤコブの子孫であり血縁関係を持つ同族です。 
紀元前8世紀、ユダ王国の首都エルサレムから預言者イザヤが国家崩壊の危機に直面した北イスラエルの10部族と南ユダ王国の2部族に向けて、南北の同朋に向けて国家の崩壊と救いを予言する警告の「イザヤ書」66章のメッセージを投げかけました。 
当時イザヤは神の予言者として活躍したもっとも有名なヘブライ人の預言者で人々の信頼が厚い人物でした。王の治世に直言できる存在でした。 
前半39章には国家崩壊に象徴される神の裁きの記述があり、所々に希望と救いのメッセージが記載されています。それは、東方の「海の島々」や聖なる山に救いの道が残されていることを示唆するもので、イザヤはインマヌエル(神が我らと共におられる)という言葉を用いて、幼子が「驚くべき指導者、力ある神」の象徴となり、イスラエルが救われて平和の道を見出すことができることを語りました。 
当時、北イスラエルはアッシリアの攻撃を目前に控えた緊迫の状態にあり、南ユダ王国も崩壊の現実的な危機に向かう緊迫した政治情勢の下にありました。イスラエルの民は一刻も早く国外に脱出することを望んだと考えられる状況下にありました。 
前731年にダマスコ(現ダマスカス)が陥落し、前722年に北イスラエル王国が滅亡し、アッシリアの占領下に置かれました。 
イザヤのインマヌエル予言には、東方の「海の島々」や聖なる山にイスラエルの救いがあるということだけでなく、インマヌエルの群れには、行き着く所どこでも速やかに相手を征服することができる力と権威が与えられたと信じられました。 
預言者イザヤの言葉に励まされた大勢の民は、イザヤのリーダーシップに従い、北イスラエル王国が滅亡し、南ユダ王国が滅びる前に新天地を目指して旅立ったと考えられます。 
南ユダ王国はヘゼキヤ王(前715−687)のとき宗教改革があって一時小康状態になりますが、次第にアッシリアやエジプトの征服を受けて支配下に置かれ自立できませんでした。前586年に新バビロニア(バビロン捕囚)によって滅亡しました。 
イザヤは、ヘゼキヤ王の晩年に、ダビデ王の王系を継ぐ子孫の王国を継続するために王の皇子を同伴して王宮を去り、新しい平安の都を築くために、船で東方の「海の島々」や聖なる山のある新天地に向かったと考えられています。 
この時、イザヤは神殿から「契約の箱」と「神宝」を新しい国のために持ち去ったことが旧約聖書に読み取ることができますが、ダビデ王の約束は永遠であり、ダビデ王の血脈が途切れないようにする必然の行為でした。国外脱出は、あらたな預言の地(東方の海の島々や聖なる山)に新王国を建設する船出であったと考えられます。 
この頃、航海に耐えうる構造の船もあり海の航路は発見されていました.。海の道(航路)は、私達が考えるよりも早い時期にすでに利用されていました。 
船の航海の同乗者には王の後継者となる王子と国家のリーダー的存在であった著名な預言者や神宝(旧約聖書の「契約の箱」)を守り、主の神殿を司る祭司であるレビ人でした。また、護衛の任務についた軍人も同乗して国外脱出したものと考えられます。 
その他の数百万の民は陸路で中央アジアを経由(シルクロードのはしりを形成)して中国、朝鮮半島を経由しましたが、途中でさまざまな土地に定住せざるを得ないいろいろな諸事情を抱える人々が多く出たものと考えられます。 
新天地への夢を捨てがたく様々な困難を克服して数十年から数百年の時を経て日本にたどり着いた人々が大勢いたものと考えられるところから、このネット情報はさまざまな検証を試みています。 
この中に見える記述を参照しながら、ユダヤの足跡を検証し、日本にたどり着いたユダヤの人々を考えてみたいと思います。 
秦氏は、日本書記によれば、応神天皇の時代に中央アジアのオアシス国家・弓月王国(現・グルジア)の王・弓月君(事実を隠すために作られた伝説の人物)に率いられて百済の百二十県の民と共に渡来した人物です。途中で新羅に渡航を妨げられ伽耶で足止めにあっていますが、倭国が葛城氏を指揮官とする軍隊を伽耶に派遣して無事に渡来させています。 
ここにいう「百済百二十県の民」とは、旅の途中で、何らかの事情によって百済に定着していたユダヤ系の民であり、日本を目指した先遣の人々の後裔であると考えられます。組織力のある弓月君の移動情報を得て集団に加わり、移動のリスクを避けようとしたものと考えられます。 
このとき、新羅と戦闘状態にならなかったことはとりもなおさず、日本列島の王権の軍事力が新羅の軍事力を凌駕する実力があったと認められるものですが、この一行には列島王権の救援を求める手立てがあったこと、また、日本列島の王権には一行の救援要請を受け取り巨大な軍隊を派遣して渡来させる実力があったこと、一行を待ち望んでいる有力な勢力が存在していたことが分かります。国の正史にわざわざ記載された事実をみれば、為政者との特別な縁故や関係性が読み取れる出来事であると考えられます。 
このことは、当時の日本列島の王権が朝鮮半島南部の三韓地域に既得権益を保持していたことが理解できる出来事でしたが、日本列島の王権が新羅との戦争を前提にしてまで当時の軍編成では巨大すぎる1万5千余の軍隊を派遣した理由は一体何故か疑問が残ります。何か特別な縁故の意識があったものと考えられます。 
また、この一行の文化や史蹟は百済のものではなく、新羅系のものが多く残されていることから新羅系とみられていましたが、『新撰姓氏録』には秦始皇帝の末裔とするなど、そのルーツが謎に包まれました。彼らは中国系でも新羅・百済系でもなく、中央アジアを経由して朝鮮半島に至り、つてを求めて渡来してきたユダヤ系民族ではないかと見る有力説が浮上しました。 
実は、秦の始皇帝(第31代秦王・政、紀元前221年中国最初の統一国家を樹立)にもユダヤ人説があります。政の実父はユダヤの政商であった韓の呂不偉(後に秦の宰相となる)であるという風評が流布しましたが、後漢の班固は『漢書』 に始皇帝の実父は呂不偉であると断言しています。始皇帝の体格・容貌は大柄で鼻の形や目の色などには西アジア系の特徴的な色彩があったとの伝承があります。 
呂不偉は、趙に人質に出されていた不遇な秦の公子・子楚を秦王にさせるべく援助し、政の生母となる趙姫(呂不偉の愛人)を子楚の望みにまかせて婚姻させ、子楚を秦王にするべく、策を用いて秦に帰国させることに成功しました。子楚は妾腹の子であり、兄弟が20人もいて王になる資格は絶望的な人物でしたが、呂不偉は策謀によって競合相手を次々に失脚させ、子楚を荘襄王に就任させた功労者です。これによって、政が次の秦王となる道筋を作りました。「奇貨居くべし」の語源になった出来事です。 
地方王権の一つにすぎなかった秦が、強国となって中国を統一できたのはユダヤの物心両面の支援によるものであったという説があります。ちなみに、中国の春秋戦国時代の諸子百家はユダヤ系の人々であったという説があります。 
ところが、秦の名前を持つ国がもう一つあります。「前秦(351−394)」、「後秦(384−417)」といわれる国です。前秦はチベット系氐(てい)族が、後秦はチベット系の羌族(タングート)が建国した国ですが国名に「秦」をつけたことは秦との関係性にこだわったものと考えられます。新羅が377年に前秦に朝貢していたことが宋の文献に記載されているところから、後秦でも新羅とチベット系の人々との関係性が継続していたと考えられます。中国人(漢人)は自らを秦人とは言わないので秦氏は漢族ではありえず、チベット系(その出自はユダヤ系マナセ族ではないかと比定されている)であり、その末裔が新羅経由で渡来してきたと考える説があります。 
「失われた10部族を帰還させるための調査をする特務機関・アミシャブ(1975年設立)」は、世界的に有名な諜報機関モサドの全面協力を受けるイスラエルの国家機関です。このアミシャブが失われた10部族の痕跡を探していますが、アフガニスタン、パキスタン、カシミール、中国、ミャンマーなどの各地に10部族の末裔が現在も居住していることを発見しています。 
これによれば、1インド・ビルマの山岳地帯にシンルン族(人口100〜200万人。中国で奴隷同然の扱いを受けタイ・ビルマを経由して避難したという伝承をもつ)中国の河南省の開封にユダヤの居留区が作られ、開封はユダヤ交易商人で栄えた。2ビルマのカレン族(人口600〜800万人。中国から逃亡してきたという伝承をもつ)、3羌岷(チャンミン)族(人口25万人。中国四川省とチベット国境のミンコウ付近。秦氏の出自が仮説されている地区)、4バタン(パシュトゥン)人(アフガニスタン、パキスタン、インド、イランの広い地区に分布しているが人口は数千万人規模。ルベン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフの息子など失われた支族の部族名をもつ。)、5カシミール族(人口500〜700万人。インド北部とアフガニスタンの国境付近。外見上でユダヤ人に酷似し、言語、習慣に共通点が多い)、6エチオピアのベト・イスラエル(王国が分裂したとき、ダン族が自ら捕囚となってエチオピアに向かった民の後裔、7日本(ユダヤ人研究者のラビ・マーヴィン・トケイヤーやヨセフ・アイデルバーグなど多数が日本とイスラエルの同祖性を文化、習慣、言語の近似性などを挙げて支持している。イスラエルではラビ(宗教指導者)の見解は尊重され人々の信頼度は高く、格別な評価を受ける伝統があります。 
中国四川省とチベットとの境に定住してきた3の羌族は、アミシャブがマナセ族の可能性を認めている部族です。ちなみに、アミシャブのラビ・アビハイル氏(ユダヤ教の宗教指導者)は「日本人と失われた10部族との関係性が考えられる証拠は十分に根拠があるものであり、日本人と失われた10部族に何らかのつながりがあることは否定できないであろう」と述べています。 
アミシャブは、今後、遺伝子の調査を中心に、ユダヤ(イスラエル)の末裔探しを継続する予定です。エフライムを名乗る民はかなりいましたが、Y染色体DNAがD系統でないマナセ族、エフライム族はいまだに発見されていません。アミシャブは、ユダヤの王家の系統であるマナセ族、エフライム族が世界のどこにいるのか関心を持っています。ちなみに、失われた10部族に比定された集団の中で最も進んだ国家を形成しいるのは日本です。 
古代人の日本人の形成過程を仮定すれば、Y染色体DNAのO系統(東アジア系)が本土と沖縄に、C3系統(北アジア系)が北海道にそれぞれ先住民として存在しましたが、Y染色体DNA分析のD系統を持たない人々と考えられます。中国・朝鮮系のO系統の渡来人は農耕民族であり、寒冷な北海道、東北には移民しなかったと考えられます。 
日本人を形成するもう一つの集団は、Y染色体DNA分析でD2系統の集団です。この集団は、縄文時代後期から弥生時代初期(BC97−BC68頃)に渡来した第10代崇神天皇(実在性が考えられる初代王神武と同一性がある)が率いる集団が最初です。この集団は支配階級となり、一夫多妻によってD2系統の民を飛躍的に増大させ、沖縄から北海道南部までの沿岸沿いに広く分布し、漁猟・狩猟を行っていたと考えられます。この集団は、古神道(修験道を含む)、天皇家の伝承など日本の伝統文化を形成しましたが、これがユダヤ文化との類似性を持つ文化と考えられるところから、天皇家はユダヤの王権を継承するエフライム族の王家ではないかと見る説があります。 
もう一つのD2系統は、遅れて5世紀初頭に渡来した殖産豪族・秦氏一族(マナセ族に比定)です。エフライムとマナセはヨセフの子であり、失われたユダヤの10氏族の中でも親近性が特に高い氏族です。日本で成功した同族の支援や共存共栄を夢見て日本に渡来する動機が見えてくるようです。秦氏は欽明天皇の時の戸籍では7,053戸(家族数では3〜4万人)であり、当時の人口の10%に匹敵する人口があったといわれていますが、現代の人口は計り知れません。 
古事記によれば、秦氏は、第11代垂仁天皇の時代に羽田(秦)氏が渡来し、第14代仲哀天皇の時代に「功満王」一行が渡来していることから、これらは先遣隊であり、応神朝に本格的に集団を組んで渡来したのではないかと考えられます。秦氏は物部氏と特別な関係性を持った有力氏族という位置にあり、古代日本の重要な存在であったと考えられます。 
実は、イスラエル国内では、日本人とユダヤとの関係性について、多くの研究者がいて、特に歴代の駐日イスラエル大使がこの関係性を力説する本を出版しています。イスラエルで学ばれる外国語は日本語が最も高い人気があり、エルサレム大学の日本語学科は人気抜群で競争率が高いことで知られています。イスラエル人は日本人が同胞であることを信じています。 
本題に戻します。空白の7年の背景は、国家権力者が入り乱れて数多くの政権奪取を繰り返した歴史事実を作り上げたことで、敗者は恨みと怨念を持ち、勝者は祟りと怨霊にことのほか恐れおののく一種の精神障害を持つに至りました。勝者は、祟りと怨霊から逃れることを切に願い、その方法を探らせましたが、あらゆる手を尽くしても怨霊退散の効果がなく、最終的には、そのものが強い霊力を持つと語り継がれてきた「神宝」を求めざるを得ない状況に至ったものと考えられます。 
安定した理想の都を造るためにはこの「神宝」を王都に迎い入れ、王城守護と繁栄を、そして祟りや怨霊の退散を切に願ったものと考えられます。 
神宝とは何か。どこにあるのか。誰に探させればいいのか。神宝探索にはたくさんの難題が考えられます。これらを次章につないでいきます。
 
空海の特別ミッション[仮説] の背景を考える

 

本題に戻ります。留学前の空海の「空白の7年」の神宝探索とは、どのようなものが考えられるであろうか。その端緒となる出来事を「週刊・日本の歴史ー新発見・ここが変わった、ここまで分った(朝日新聞出版13)」と「呪われた平安京遷都の知られざる理由(関裕二)」を参照し、または引用させていただき神宝探索の端緒となる出来事を整理します。 
神宝探索の端緒は、400年続いた平安時代の幕開けに行われた2度の遷都(長岡京・平安京)にあります。その理由は、桓武天皇の「出自に対する負い目とコンプレックス」「怨霊に対する苦悩と恐れ慄(おのの)き」から解放されたい、という切なる願いにあったと考えられます。 
天武天皇の皇統は、曾孫の聖武天皇に成人の皇子がなく、娘の安倍内親王が女帝(孝謙天皇、称徳天皇)となり重祚しましたが、後継者を指名しないまま死亡したことで皇位継承問題が発生しました。天武系の皇統を押す吉備真備と天智系を押す藤原(式家)百川が暗闘したと考えられています。吉備真備は藤原氏の包囲網にあい政争に敗れ「長生の弊、この恥にあう」と述べて朝堂から去りました。 
770年(宝亀元年)、天智系の齢60を超えた天智の孫・白壁王(光仁天皇)が即位したことで天武の皇統が絶え、天智の皇統が復活しましが、今度は光仁の後継指名の政争と暗闘が勃発しました。実は、桓武天皇が皇位につけたことは奇跡的なことで、皇位簒奪の疑惑が囁かれる複雑な事情がありました。 光仁は他戸(おさべ)親王(母は皇后であった聖武天皇の娘・井上内親王)を太子と定め、山部親王(桓武天皇)は後継者とは認められていませんでした。 
772年(宝亀3年)皇后が光仁を呪詛したという密告を受け、母子はその地位を追われて幽閉されましたが、同じ日に母子は死亡しました。殺害されたと考えられています。また、桓武は実姉が死亡したのも他戸親王母子の呪詛によるものだと攻めています。母子に何の利益があるというのでしょうか。藤原氏の陰謀と考えられます。 
『公卿補任』は、この事件が藤原良継と藤原百川(ももかわ)が山部親王を即位させるために仕組んだ謀略であったと記録し、『水鏡』は、藤原百川が祟りに苦しめられたと記録にとどめています。『本朝後胤紹運録』は他戸親王母子は獄中で死んで龍になって祟ったといっています。 
桓武天皇は、実母が百済の武烈王の末裔とされる高野新笠であり即位の資格要件(母が天皇の娘または藤原氏出身であること)が欠落していました。高野新笠の身分は低く、実母の身分が低い場合は婢母といわれましたが、桓武のコンプレックスとなりました。これが桓武天皇の即位の正当性を疑問視する要因ですが、桓武には、資格要件を満たしている他戸親王を抹殺しなければ即位できなかった事実があったのです。 
天武系と天智系には皇統を巡る激しい争いがあります。672年の「壬申の乱」の勝者となった天武天皇が統一国家・日本を成立させて皇統を奪取しましたが、藤原氏は聖武天皇(母は藤原不比等の長女・首皇子)の即位によって持統天皇(天武の后、天智の第二皇女、当初は天智系に即位させるための中継ぎ役であった)から始まる天智系の王家の創立を目論みました。しかし、聖武は天武の子であるこに目覚めて藤原仲麻呂(恵美押勝と改名・藤原不比等の孫)と政争し、子の女帝・称徳天皇(道鏡とのスキャンダルの当事者、捏造のにおいがする)は恵美押勝を誅殺(藤原仲麻呂の乱)してしまいました。藤原氏にとっては悪夢の連続というべきものであり、藤原氏は天武系の皇位を嫌い簒奪を狙っていたと考えられます。 
桓武は母を同じくする実弟の早良親王を僧籍から還俗させてを太子にしましたが、息子の安殿(あて)に皇位を譲りたい親心が芽生えたと考えられます。早良親王は、藤原氏の標的にされ、藤原種継の政的であった大伴家持を主犯格とする謀略を仕組まれました。『続日本紀』には中納言・大伴家持が大伴氏と佐伯氏を巻き込み、早良親王をそそのかして藤原種継を殺したとありますが、これは藤原氏の謀略と考えられます。藤原種継の母は秦氏であり、秦氏と太いパイプを持っていたことから遷都を急いだ桓武に重用されていたものと考えられます。 
早良親王は廃太子となり淡路島に流罪されましたが抗議の断食により死亡したとされました。大伴家持は任地で死亡していましたが遺骸の埋葬が許されず、官籍から削除され、息子は流罪になっています。 788年(延暦7年)、長岡京に早良親王の祟りに襲われたという戦慄が走りました。河川の氾濫や飢饉の深刻な被害にみまわれたばかりでなく、桓武の后・旅子、早良親王の母、高野皇太后、安殿、桓武の皇后・乙牟漏、が次々に亡くなったのです。安殿の体調不良に際し陰陽師の占いに「早良親王の祟り」とでたことから、あわてて早良親王の御陵に塚守を置き周辺での殺生を禁じて「崇道天皇」を追号し祀りましたが、延暦9年の秋には疫病(天然痘)が大流行したことで人々は恐れおののきました。 
桓武が長岡京を造営して遷都した理由には、奈良仏教との隔絶や水運の利便性に欠けていたことなどの的を得た見解がありますが、実は、桓武には聖武天皇系が造営した都城・平城京に対する大きな嫌悪感があったからではないかと考えられます。歴代の皇位を巡る謀略の数々は、さほどに桓武の心を悩ませ恐れさせていたと考えられます。 
桓武天皇は、どうにもならないこのような恐れ慄きから解放されたいと切に願ったであろうことは、当時の世相や背景を考えれば、これらから解放される方法を見つけるべく探り続けたことが無理なく理解できます。 奈良の平城京を捨てたのは、「南都の仏僧の問題点」にあるのではなく「仏教の腐敗」とは、言い換えれば、「反藤原」「親蘇我」「親天武系」といっていることであり、藤原政権にとっては頭痛の種となっていたと考えられます。桓武は「祟られる対象」であり、藤原氏にとっては「平城京は政敵を葬り去った戦場」また「藤原氏を恨む人々の墓場」でもあるところから恐ろしい土地と受け取るようになっていたのではないかと考えられます。 
しかし、長岡京にも問題がありました。長岡京は聖武天皇が造営した後期の難波宮を解体して移築し完成をまたずに遷都しました。発掘調査の結果、長岡京には特徴的な構造が大発見されています。南門両側の復廊が南に延び先端に楼閣を持つ構造がこれです。門の左右に楼閣を設置する建築様式は中国で「闕(けつ)」と呼ばれ、皇帝の権威と権力を誇示する建築様式といわれるものです。宮殿を丘に設け、朝堂院南門に楼閣を設けたのは長安城を模倣したものと考えられます。これには特別な意図が感じられ、長岡京に日本初の中国様式を導入したのは、新皇統を正当化する狙いがあったものと考えられます。 
桓武は、河内の交野で昊天祭祀(こうてんさいし/郊祀)を行いました。郊祀とは、天を支配する天帝に地を支配したことを報告する中国の皇帝儀礼です。桓武は専制政治を目指して自らを皇帝に擬する宣布を行ったものと考えられます。 
長岡京がわずか10年の短期間で廃都となり平安京に遷都された理由には、造都を急ぐあまり利便性を評価して川辺に都を造った構造的な欠陥があったこと、また、造営を指揮した藤原種継の暗殺事件の障害があり、先行きに暗雲の不安要素が見て取れていたことなどが考えられます。 
長岡京は「丘と水の都」といわれましたが、水運と陸上交通の要衝でした。この意味では都市機能を向上させる地理的な要地でしたが、遷都から8年後の延暦11年に大洪水、突風の自然大災害に見舞われましたが、その特殊な地勢から大打撃を蒙りました。桓武天皇はより安全性の高い地勢を持つ新たな新天地を平安京に定め、ここで秦氏による平安京の大造営が行われたのです。 このような背景などから、祟りにおびえ切った桓武はあらゆる手段を使って調伏しようと手を尽くしたと考えられます。 
これらの状況を変える力を持つと期待された「神宝」の探索について、藤原氏や秦氏が桓武天皇の相談にあずかり、阿刀氏に持ち込まれたことで空海に白羽の矢が立ったのではないかと考えられます。 
因縁としか考えられませんが、空海は佐伯氏の出自で、母は物部系の阿刀氏です。佐伯氏は大伴氏と縁が深く、物部氏同様に藤原氏に恨みを持っている人々ではなかったかと考えられます。藤原氏の実態は、競合する有力氏族の存在を許さず、藤原氏の地位を脅かす恐れのある有力氏族を標的にして謀略を仕掛け、ことごとく失脚させてきた歴史を数多く持つ天皇家の外戚です。天皇家と独占的な外戚関係を形成して上級貴族の地位を藤原一族で独占してきた唯一無二の氏族です。天皇家はまさしく藤原一族といえます。皇室に古代王権を形成した大王のDNAが引き継がれているかどうか疑問符がつけられそうです。 
「日本書記の垂仁26年秋8月の条」に、代11代垂仁天皇は、物部十千根大連(もののべのとおちねのおおむらじ)を出雲に派遣し、出雲に伝承されてきた「神宝」を検校(検査し監督すること)することを命じた記載があります。十千根は神宝の検校を済ませて奏上しましたが、垂仁天皇から出雲の神宝の管理を命ぜられています。これはヤマト王権が、出雲の祭祀権を収奪し、出雲王権はヤマト王権に屈服したことを示すものでした。出雲は物部から強制的な検校を受けたことで、神宝とその霊力を奪われ、祭祀権を失った地方政権に格下げされたことで消えることがない深い恨みを抱いたと考えられます。出雲王権は長い建国の歴史をも奪われたことになりますが、これが記紀に「国譲り」の神話として残された事実です。 
物部氏はニギハヤヒ由来の「十種神宝」に加え、「出雲の神宝」をも所持したことで、絶大な祭祀権を手に入れたことになります。天皇家の三種の神器は皇位継承のシンボルであり、これとは意味合いが異なりますが、物部の「十種神宝」と「出雲の神宝」はその使用方法が霊力を期待するものであることにおいて同種の神宝と考えられ、同じ出自を持つ神宝、もしくは同一の神宝ではないかとの疑いが消えません。 神宝は権力者が握った祭祀の権威を高めるために、霊力の威力を示すことによって、人々の尊崇と恐れを同時に掴む仕組みに利用されたと考えられます。 
「同垂仁天皇3年春3月の条」には、昔に新羅の王子・アメノヒボコの渡来があり、「神宝(羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の籬)」7種を持参したことの言及があります。 古事記には、(神宝は)珠が二つ、浪振比礼、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の8種という記載がありますが、これらは兵庫県出石神社にアメノヒボコと共に祀られているとあります。 
神宝には、3種、7種、8種、10種の4種類の伝承がありますが、古代には「神宝」霊力あらたかな門外不出の秘宝として、神が持つ特別な権威の象徴として、人々の信仰や政治に大きな影響を与えていたことが分かります。人々は神宝の霊力を尊崇しながらも同時に恐れを感じる複雑な気持ちを抱いたであろうことが考えられます。 
長岡京が安住の都でなかったことが、再び桓武に更なる遷都の決意を急がせたと考えられます。四神相応の清浄な候補地を早急に探させること、同時に、死活問題となった降りかかる天変地異や怨霊を鎮めて恐れおののきから解放されたいところから、再び南都の仏教勢力の知恵や効果的な対処方法を求めて接触する必要性を認めたものと考えます。どうにもならない死活問題の解決の糸口はこのような方法にしかなかったのではないかと考えられます。 
桓武は少数の側近に接触を行わせ、能力の高い人材の推薦を南都側に打診したものと考えます。その基準には、「秘密を守れること、神宝の真贋が見分けられる特殊能力と探査能力が優れた者、宗教的能力の優れた家系を出自とする者、安心して使える者」などが考えられます。極秘任務であるところから、厳しい条件であったと考えます。 
南都の最大の仏教勢力は法相宗です。要所であるところから内密な人選依頼が行われた考えられます。しかし、冷静に考えれば僧侶の中から推薦条件を満たす人物を探しだすことは非常に困難です。そのような人物が簡単に見つかるものではありません。可能性は信頼できる縁故者の中から適性能力を有する者を探すこと、このような結論に達したと考えられます。 
そこで、法相宗の高僧を多数出している阿刀氏と縁故関係があり、その力量を買われた若き空海に白羽の矢が立てられたと考えます。桓武の寵愛を受けていた第三皇子・伊予親王の侍講を務めた伯父の阿刀大足が関係する皇室関係、空海と師弟関係を結ぶ大安寺(三論宗)の権操(秦氏の出自)などからも後押しを受けたことが考えられます。 
その人物の適性検査の一端として差し出されて披見された決意書が いわゆる「出家宣言の書」といわれる空海の『聾瞽指帰』だったのではないかと考えられます。空海は、『聾瞽指帰』しを改訂版して『三教指帰』を作成していますが、何らかの効果を目的として改定しなければならない事情や必然性があったと考えられます。この『聾瞽指帰』が、一般では入手できない天皇の専用紙「縦簾紙(じゅうれんし)」に書かれていたことから、朝廷の関与がなければ入手できないものであったと考えられます。これを総合的に考えれば、『三教指帰』は、留学前の直前に空海の力量を認めて貰うために手直しした改訂版と考えることができます。なを『聾瞽指帰』は国宝に指定された書です。 
縦簾紙は、嵯峨天皇の書「哭澄上人詩」、光明皇后の書「臨楽毅論」などにしか使われていない貴重紙です。独特な製法で漉かれた特殊紙ですが、その特徴は、紙を漉く際に幅7mm位の簾目ができることです。王羲之の書「喪乱帖」などの中国・唐時代などにみられる特殊紙という特徴的な性質をもっている点から、中国の技術によって生産された輸入品と考えられます。入手困難な極上品であるところから、天皇、皇后の皇室専用紙として使われたと考えられ、桓武天皇の意思によって空海に渡されたものではないかと考えられます。 
この特別紙がどのよう動機や背景のもとで空海に交付されたと考えればいいのでしょうか。伊予親王は、阿刀大足を師とするところから空海とは相弟子という関係があり、空海の能力を高く評価していたことが考えられます。伊予親王が特別な後押しをして桓武天皇を動かし、縦簾紙を下付させたという主張には可能性があると考えられます。しかし、空海が実績のない無名の青年であったことから、空海に特別ミッションを与えて、その結果を桓武が評価した後に信頼が生まれ、桓武は空海を側に置いて隠密に仕えさせていたのではないかと考えられます。『聾瞽指帰』が改訂され『三教指帰』に山岳修行中の宗教体験が盛り込まれ、空海の宗教修行者のイメージが強調された理由はここあったのではないかと考えられます。 
伊予親王は空海留学のパトロンの一人と考えられますが、桓武天皇の遷化の後、807(大同2)年11月に母の藤原吉子と共に服毒自殺をしています。藤原宗成のクーデター発覚事件に巻き添えをくったものと考えられますが、兄の安殿親王(平城天皇)が競争相手を潰す画策をしたものと考えられます。平城天皇には、「薬子の変(平城太上天皇の変)」という後日譚があります。皇位継承を巡る謀略によって死に追い込まれた早良親王と伊予親王の怨霊から逃れるために嵯峨天皇に譲位した平城天皇でしたが、上皇になっても天皇の王権を握って離さず分掌したこと、大同5(810)年に皇位の復位を画策したことで二所朝廷の弊害が発生しました。平城の寵愛を受けた内侍・藤原薬子(正三位・式家)が首謀者となって天皇復位の陰謀を企てますが、嵯峨天皇側は先手をとってこれを制圧しました。平城は出家・剃髪し、薬子は服毒自殺、兄の藤原仲成は左遷、射殺となり、多くの人々が連座しています。 
空海が大学を中退(20歳頃)して私度僧になったことは、『性霊集』に「二十歳前に吉野から高野の地に入った」と述べられていること、空海24歳の延暦16年窮月(12月)始(1)日に著した『聾瞽指帰』の内容から私度僧として市井や山林修行を行っていたことが分かります。『聾瞽指帰』は、儒教、道教、仏教、いわゆの三教の比較論を論じて仏道を志す意思表明に変えたものだと考えられていますが、これは中退後、4年も経過していたことから、今更の感があり不自然と考えられます。空海が『聾瞽指帰』を書いた本当の理由はなんであろうか疑問がわきます。ちなみに、縦簾紙に清書された『聾瞽指帰』には、その元になった草稿本があったと考えられています。 
『聾瞽指帰』は、四六駢儷体で書かれ、王羲之の書風の影響が見える書の技能、また、文書構成力や戯曲風の物語の展開が優れたものであったと評価される内容でした。この書が誰に向けられて書かれたものか、空海は誰に自分というものを評価してほしかったのか、空海は何も語っていません。ここには、密教に対する記述が何もないところから、この頃の空海は唐への留学の具体的な意識を持っていなかったと考えられます。後に、これを手直して改題しなければならなかった事情とは何か。何らかの必然性があったことは事実です。 
ところが空海は延暦16年臘月(12月)1日付けの改訂版『三教指帰』を著しています。その序文には「虚空蔵(菩薩)求聞持法」を阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で修法したことの言及が記述されているところから、明星来影の密教的体験をして、密教的感性や能力が決定的に飛躍したことを誰かに認めさせようと考えた行動であったことが分かります。久米寺で大日経に出会い、密教の深淵に触れて、サンスクリット語(梵字・悉曇)の難問を解決すべく南都諸大寺の僧に何度も尋ね回ったと思われますが、空海の求める回答を出せる僧が皆無であったと考えられます。そこで、これを理解するには中国に行くしかないと思い定めたと考えられます。空海の留学の気持ちが明確になったのは『聾瞽指帰』の改訂版として『三教指帰』を著そうとした直前であったと考えられます。そこに留学の可能性が見えてきた展望があって、延暦16年12月に空海が留学を決意した必然性の高い出来事があったと考えられます。そこで、序文に仏教修行者としての到達レベルを書き加え 、巻末の「十韻の詩」を入れ替え、本文の文章や用語の間違いを徹底的に訂正して、空海の漢文素養が格段に高いレベルアップを果たしたことを立証したものと考えられます。『聾瞽指帰』と『三教指帰』が書かれた日付けの表現方法が替えられていますが同年同月同日の日付です。日付を替えられない何らかの事情があったものと考えられます。 
これらは、無名の青年であった空海が独力で手に入れられるチャンスではなく、強力なサポータの存在があって、尋常でない支援を受けた結果、三つの困難な条件を完全クリアして遣唐大使第一船に同乗が許されたと考えられます。空白の7年の中に「山岳修行」と「南都諸大寺での密教文献の研鑽」の期間があったことは、空海の密教を学ぶ資質が一段と磨かれていた事実からも推定可能な範囲と考えられますが、空白の7年の全てをその期間に充てたということはとても不自然で考えられません。それであれば、そもそも空白の7年が発生する必然性がなく、空海はこの期間の具体的な事実関係を明らかにできたはずだと考えられます。この間の空海には、桓武の要請に応えなければならない特別なミッションがあったと考えられます。 
従来の仮説の中に、空海の「空白の7年」は唐留学の費用の捻出のために「水銀鉱山の探査」に従事することで莫大な資金を捻出する効果が考えられるとする説がありますが、この説は当時水銀は高価であり寺社仏閣を荘厳する塗料「朱」に大量に使用されたことで、留学費用の捻出に効果があると考えられた仮説と考えられます。この説は、後の空海の社会事業の一端からヒントを得た仮説と考えられます。 
山師の仕事は専門的な知識・経験が必要なところから、実績のない青年空海が簡単にできるものではなく、雲をつかむような仮説ではないかと考えられます。この説は、空海のように目的に向かって着実な手を打つ性格の人には蓋然性が低いところから、これに賭ける必然性はないものと考えられます。もし、空白の7年が水銀探査に使われていたのであれば、空海がいかに有能であろうとも、僥倖をつかむ可能性はほとんどなかったのではないかと考えられます。 
同様に親しかった山師から資金提供を受けたのではないかとする説もありますが、実績のない青年私度僧にそこまで義理立てする必然性があったかどうかの合理的な説明にかけているところから、単なる餞別と混同する説ではないかと考えられます。 
他方では、南都の諸寺院の有縁の僧からカンパを受けたのではないかという説がありますが、南都の僧のカンパで空海が持って行ったと考えられる換金性の高い金、または砂金の必要量がカンパで足りるとは考えられず、何よりも空海が特別扱いを受けられた僥倖に対する嫉妬の感情の方が強かったのではないかと考えられます。若干の餞別と混同する説ではないかと考えられます。餞別で受けた金額で20年の留学に必要な額をまかなえたなど到底考えられません。空海自身もそのようなことはあてにしていなかったと考えられます。 
これらの説の欠点は、短期間で迅速に留学僧に選任され、すみやかに遣唐使の随行員に選ばれる保証がなく、その前提条件である南都の有力寺院の推薦枠を獲得して国立戒壇(東大寺)に入壇し、正式な僧侶(国家公務員)の資格を取得できた可能性が全く見えてきません。この条件は、いかに有能な空海であっても個人の能力だけでは難しいと考えられます。この説は、空海に必然的な僥倖をもたらす特別ミッションであったとは考えられません。
 
空海と神宝「歴史に現れた神宝」

 

粋密教の請来のための中国留学から帰国した空海は、嵯峨天皇の勅命を得て伊勢神宮の内宮に参籠し十種神宝図を転写しています。これを『十種宝高野山本』として高野山に伝え「天照大神十種神寶 奉於伊勢寶殿寫之耳」と記しています。ところが、この事実を伊勢神宮に取材したところ、伊勢神宮には十種神宝があるという話も噂も伝わっていないということであった。(「寺社仏閣に隠された 日本史の謎と闇」 中見利男-編著 宝島社 別冊宝島2069) 
しかし、上記本は空海が偽りを書き残すことは考えられないことから、「十種神宝には実物と神璽(デザイン)の2種類が存在しているため、空海が伊勢神宮で転写したのは神璽の方かもしれない」という整理をしています。妥当な判断であろうと考えられます。 
実は、十種神宝の宝探しは「天下をも動かす霊力を持つ秘宝」という位置付けにされたことで権力者が隠れた争奪戦を繰り返してきた歴史でした。空海が桓武天皇の命に従って、この秘宝の探索に奔走した特別ミッションを受けたのではないかと疑う状況が考えられます。権力闘争の犠牲者となり、罪なくして死んだ人々の怨霊が都を跋扈して祟っていると受け止めた桓武天皇のどうにもならない恐れ慄きを受け止めて、これを解決しなければならない政治状況が緊急課題として存在していたと考えられます。桓武は、怨霊を強力に封じ、遷都した都を守護して安寧と発展をもたらす神秘の霊力を心から望んでいたと考えられます。平城京から、いまだ未完成の長岡京に逃れるように遷都した桓武でしたが、精神の平穏はなかったと考えられます。400年続いた平安時代は、2度(長岡京・平安京)の遷都によって始りましたが、その理由は、桓武天皇の「出自に対する負い目と怨霊に対する恐れにあった」と考えられます。 
天武天皇は、皇位継承の宝器、皇室のシンボルとして「三種の神器(八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉)」 を制定しました。これは、中国・長江の良渚文化の象徴であった玉j(祭祀)、玉銊(軍事)、玉壁(経済)と同じような意味合いを持つものと考えられますが、「鏡は祭祀」を、「剣は軍事」を、「玉は経済」を象徴する意味を持つものであったと考えられます。鏡、剣、玉が揃うことで祭政一致の王権の象徴にしたものと考えられます。 
十種神宝は、三種の神器の象徴的な意味合いとは異なり、それ自体が超越した霊力を持つとされている秘宝です。日本書紀には「天神に派遣されたニギハヤヒノミコト(饒速日命)が天神の祖より十種神宝(天璽の瑞宝十種)を授けられてこの国を統治した」とあり、物部系の伝書「先代旧事本紀」には「ニギハヤヒの子・宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)は神武天皇が大和に入ったあと天物部を率いて各地を平定したので天皇の寵愛を受けた」と伝えています。 
ここで、出雲神族(クナト大神に率いられて出雲に最初に定着して出雲王国を作った「大国主命」の直系を自認する富當雄(とみまさお)元サンケイ新聞編集局次長当時67歳が一子相伝によって代々引き継がれてきた伝承内容と比較してみたい。 
富氏の証言によれば、大国主は固有名詞ではなく代々承継された出雲王権の主宰者の敬称名であり、たくさんの大国主が存在したといいます。スサノオは侵略者であり、大国主と敵対する関係であったが、記紀の作者が出雲神族と結びつけるためにスサノオを大国主の父、祖神と偽る捏造を行ったといいます。記紀がスサノオをアマテラスの弟とする姉弟関係を作ってアマテラスの権威づけに利用しているが、実際のスサノオは『出雲風土記』にもあるように、海から石見地方の須佐に上陸してその地の首長になった者に過ぎず、記紀が出雲国造りの「オオナムチ(大国主)」の舅の位置に据えた(婚姻関係で)演出の役割を持たされたものだといいます。石見地方で「韓」または「辛」がつく地名を持つ地に必ずスサノオ神話が伝承されていることからその出自が考えられます。 
なお、富氏の伝承にはアマテラスの存在は無い。富氏の伝承によれば、天孫族の本拠地は九州にあり、アメノホヒは九州から対馬海流にのって出雲入りした。天孫族はアメノホヒノ一族を先遣隊として送るが、ホヒはオオクニヌシにへつらい3年たっても帰らなかった。続いてアメノワカヒコが派遣されてきたが、オオクニヌシの娘シテタルヒメを娶り、葦原中国を自分のものにしようと8年も居ついた。(天孫族の)タカギノ神は怒り、ワカヒコを殺してしまった(これは『古事記』神話伝説とほぼ同じ内容です)。出雲風土記は、アメノホヒノ後裔の出雲臣広嶋が作成した。ホヒは出雲の祭祀権を握り(政権を握ったことになる)、子孫は国造家に取り立てられた。国造家の「出雲文書」ではホヒは隠中(スパイ)であった。ホヒは出雲神族と婚姻関係を結んでオオクニヌシに国を譲るように画策する一方で、後続部隊を出雲に引き入れる手引きをした。アメノホヒノの子孫の国造家は北島、千家である。神魂神社宮司の秋上家と婚姻関係を結び形の上では同族になったが、秋上氏の口から千家に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識を持っている。といっています。 
饒速日命は、スサノオ(素戔嗚尊)の三男・大歳命の改名であり、高皇産霊神(徐福の子孫)の協力を受けてヤマトに天孫降臨し日本(ヒノモト)を建国したとされていますが、「神武の国譲り」の経緯は神話によって隠されたままです。なお、国譲りは天孫族の圧迫に耐えきれなくなった在来の諸王権が支配権(祭祀権)を差し出したものと考えられます。考古学的にみても数千もしくは数万の軍団が氏族の存亡をかけて勝敗を争った形跡がなく、小さな戦闘や小競り合いがあったとしても、大勢は生き残りをかける徹底した戦争の勝敗による軍事的な支配権の確立によって国が形成されたのではなく、祭祀権の移譲という形で決着したのではないかと考えられます。なお、富氏の証言では、出雲の国譲りの際に、祭祀権を天孫族から命を受けた物部氏に召し上げられたといっていることから、このとき、出雲の十種神宝が物部氏に移動したのではないかという疑いが考えられます。 
大陸の生き残りをかけた王権の興亡史と比較すれば大きく異なる日本の特殊事情によって解決が図られたのではないかと考えられます。祭祀権の上下関係の秩序の形成によって支配権の正当化が図られたこと、そのような宗教的価値観が日本の統一王権の形成過程にあったと考えられます。皇室が世界最古の王族として類例がない数千年の命脈を保てた理由の一つは、その権威が軍事力による支配権の確立によるものではなく、宗教的な権威、並ぶもののない祭祀権の確立を図ったことが民族(国民大衆)の中に深く広く定着させた結果ではなかったかと考えられます。皇室が数々の激動の歴史を乗り越えて生き残った奇跡の淵源はこのような宗教観の中にあったと考えられます。 
その出自を隠し続けている、世界に類を見ない姓を持たない天皇家の存在をどのように考えるべきでしょうか。世界中をみても、王位に就いて王家の家系を形成した者の中には姓を持たず出自を隠した家系はありません。中国系や満州系、モンゴル系や北東アジア系、朝鮮半島系の王族はすべて姓を持ち、出自を隠した(抹消した)王族は全くありません。むしろその出自を飾りたてて名誉欲を満足させようとする傾向性さえあります。天皇家がその出自を隠した理由は、今日の日本語では理解できない名前が多すぎるところにあるのではないかと考えられます。名前の音を無理やり漢字表記にし当て字を入れているだけではないのかという疑いが消えません。いわゆる「尊」、「命」をミコトと読ませたり、名づけたりすることは中国系にも朝鮮系、北東アジア系にも全くありません。天孫族を騙った王家もありません。西アジア系ではないかという疑いがもたれる由縁だと考えられます。 
崇神天皇7年に勅命を受けた物部氏の祖・伊香色雄命(イカガシコオノミコト)がこの十種神宝を石上布留高庭に奉祀したのが「石上神宮」の始まりです。石上神宮は物部氏の総氏神であり、日本最古の神社となりますが、代々の物部氏が祭祀を司ってきた特別の神社です。 
記紀が神宮と格付けした石上神宮の周辺は、ミタマフリ(御霊振り)という鎮魂の儀式を司る伝統を保有し、現在でも毎年11月に「鎮魂祭」が厳粛に執行されています。鎮魂の古い読み方には、「オホムタマフリ・ミタマフリ」と「オホムタマシヅメ・ミタマシヅメ」の二通りがあります。833年(天長10)年に成立した「養老令」の注釈書『了義解』には、鎮魂を「離遊の運魂を招ぎ、身体の中府に鎮む」とありますが、『梁塵秘抄口伝集』には、「是はたましひを振りをこす、ゆらゆらゆらゆらとをこすなりとかたりきかせしなり」とあり、鎮魂の儀式には「魂鎮め」と「魂振り」の二通りがあったことが分かります。 
石上神社の鎮魂の秘儀や呪法とは、どのようなものだったのでしょうか。石上神宮の鎮魂祭の模様が『私の日本古代史(上) 天皇とは何者かー縄文から倭の五王まで 上田正昭著、新潮選書』に詳しく書かれていますので抜粋して紹介します。 
儀式の秘儀は「柳筥(やなぎばこ)と鈴のついた榊(鈴榊)」を用いるものであり、柳筥には三つの土器が収められ、右の土器には洗米と玉緒、中央の土器には十代物袋、左の土器には切麻が収められている。鈴榊は約1mで鈴4個が赤絹糸で枝の各枝に結び付けられている。まず、宮司が十代物袋を鈴榊に結び付け、これを右手に捧げ、玉緒の土器を左手に捧げて「神勅の事由」を黙祷する。次に、鈴榊を禰宜に渡す。宮司「布留(ふる)の言(こと)の本(もと)」を唱えて玉緒を結ぶこと1回、禰宜「和歌の本」を唱え、鈴榊を右より左へ振り動かす。次に、「和歌の末」を唱えて左より右へ振りつつ返す。宮司・禰宜交互に繰り返すこと10回。その後に宮司が十代物袋と玉緒と洗米とを奉書に包んで神殿内に奉納する。 
十代物袋とは、大きな奉書を縦二つ折りにしたものを四角形に切り、さらにこれを五角形にして両面を貼り合わせ、中に十種の神宝の図形神を納め、上方に穴をあけてこよりを通したもので、十代物袋の表には「振御玉神」と書かれている。 
「神勅の事由」とは、「瀛都鏡(おきつががみ)、辺都(へつ)鏡、八握剣、生(いく)玉、足(たる)玉、死返(まかるがえし)玉、道返(みちがえし)玉、蛇比礼(へびのひれ)、蜂比礼、品物(くさぐさのもの)比礼」という十種です。比礼は呪布です「布留の言の本」とは、「一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)五(い)六(む)七(な)八(や)九十(ここのたり)ハライタマヘキヨメタマヘ」という祝詞です。これをすれば「死人も返りていきむ」という天神の御祖の教えによって行うものです。「和歌の本」とは、布留部(ふるべ)由良止(ゆらと)、「和歌の末」とは、由良止(ゆらと)布留部(ふるべ)」と唱える祝詞です。この十代物袋、「神勅の事由」「布留の言の本」、「和歌の本・末」は、『先代旧事本記』に記載された祝詞とほとんど変わりがなく、瑞宝十種も同一のものであることが見て取れますが、十種神宝の本物が使われず、十代物袋という図形紙(コピー)を使っているところから、本物がなかったことが考えられます。 
『先代旧事本記』は、延喜年間の904〜906年頃に物部系の人物によって編纂されたものと考えられますが、宮廷の鎮魂祭に瑞宝十種とその鎮魂呪法が取り入れられていたのかどうかが問題となります。「大宝令」や「養老令」の解説書でる「令集解」(貞観年間の859〜877年頃)の職員令・神祇官鎮魂の条に記された細注には前記の石上神社の儀式と同様の記述があることから、宮廷の鎮魂祭にも物部系の鎮魂呪法が貞観年間以前に取り入れられていたことの傍証になりうると考えられます。平安時代の法制書『政事要略』巻26の中寅鎮魂祭の条に「集解に云はく」として引用していることなどからも明らかであると考えられます。 
瑞宝十種の伝承内容は検討する必要性があります。瑞宝は、『古事記』には「天津瑞」(具体的な内容の記述がない)といい、『日本書紀』は、「天表」として「天羽羽矢(あまのはばや)一隻」と「歩靫(かちゆぎ)」を挙げています。天表とは弓箭(弓と矢、転じて武器のこと)のことですが、日本の長弓は世界に類がなく日本独特の形状です。世界の短弓に比べて扱い難く 使い難いとされていますが、古代には弓箭に対して異常な崇拝観念があり、神聖視されてきたことから今日まで長弓が継承されています。ここに民族性が隠されている可能性が考えられます。『古語拾遺』によれば、天は美称のこと、羽羽は大蛇・蛇のこと、大蛇をこれ羽羽と謂ふ、あるので、この天表(長弓)が大蛇の象徴として神聖視された意味(民族の象徴=トーテム?)にあるのではないかと考えられます。 
『先代旧事本紀』では、鏡2、剣1、玉4、比礼3であり、それぞれの内容は異なっていますが、記紀には、これに類する物として新羅の皇子と伝承された天之日矛(天日槍)が持参した物が記述されています。古事記には「玉津宝(珠二貫)、浪切る比礼(呪布)、風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡」と記述され、日本書紀には「羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石玉、出石の刀子、出石の桙(ほこ)、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)、胆狭浅太(いささのたち)」と記述されています。日本書紀の垂仁天皇88年7月の条には天日槍の曾孫という清彦が神宝を献じ、隠匿していた出石の小刀も「皆、神府に蔵む」とあります。この神府は石上神宮の神府であることは『釈日本紀』に天日槍の献上について同様の記述があることから認められます。 
日本書紀に天武天皇3年(674)8月3日の条に、「元来、諸家の神府に貯め宝物、今皆その子孫に還せ」という命令が出されています。これは、石上神社の宝物を諸家に分布するものでしたが、これによって石上神府は刀剣類の「兵杖多く収る故に」兵庫化していく状況が現れるようになっていきました。『延喜式』巻第三には、石上神宮に伴(大伴)・佐伯の二殿があり、その鑰(かぎ)は「庫に納めてたやすく開くを得ざれ」という規定があります。伴・佐伯の両殿と称された建物の存在も兵庫との関連を意味づけるものだと考えられます。 
石上神宮には夥しい数の秘宝が奉納されていますが、スサノオがヤマタノオロチを退治した十握剣という霊剣(熱田神宮に奉納された皇室の神宝・草薙の剣とは異なる)やアメノヒボコが新羅から携えてきた御神宝なども奉納されています。十握剣は吉備の神部にある石上布都魂神社に奉納されていた宝剣ですが、石上布都魂神社の宮司は代々物部氏が継承してきたところから吉備王国とニギハヤヒの密接な関連性、また、吉備の物部氏とヤマトの物部氏との間には同族関係が認められ、吉備王国はニギハヤヒの拠点だったのではないかと考えられます。 
日本書記には初代王の宮が纏向遺跡にあったと記述されていること、隣接する箸墓古墳から弥生時代後半に吉備で作られ始めた特殊器台や特殊土器が発掘されていること、綾杉紋や鋸歯紋の装飾と赤朱で塗装した巨大な筒型土器は部族ごとの首長埋葬の祭祀用の土器であること、しかもこれらは吉備の楯築遺跡などから発見されている土器と同じものであること、土器には産地に多様性が見られることから、纏向の祭祀は諸国の王権が参加する共同体祭祀の形態をとっていたと考えられ、なかでも吉備や出雲が祭祀の中心にいたのではないかと考えられます。 
ニギハヤヒは、天孫族の神話「神武東征」に先立ってヤマトに入り、神武に先行する王権を建国していましたが、何故か、後から、到達した神武に不思議な「国譲り」をしたばかりか、その配下となって神武の建国に貢献する存在になっています。『日本書紀』によれば、神武は猿田彦が指揮するニギハヤヒ軍(生駒山と葛城山の急所に布陣)に敗れ兄を失って撤退していますが、めげることなく今度は熊野から遠回りして、八咫烏などの助けを受けながら再度の戦いを挑みました。このとき、敵将の猿田彦の問いに答えて天孫族の印(しるし)「天の羽羽矢(あまのはばや)」を見せたことで、ニギハヤヒの戦意を喪失させています。 
神武(本当は崇神?)が示した矢が、ニギハヤヒが所持するものと同じものであったことから、ニギハヤヒは「天孫と人は違う」といって支配権を譲る決意をしていますが、戦術的に優位な位置に布陣しているニギハヤヒ軍が神武に降伏しなければならない理由とは、見せられた矢が身分の上下関係を示すものであったと考えられます。降伏を認めない義兄の猿田彦(妹がニギハヤヒの妻)を切り殺してまで支配権を譲り渡さなければならない十分な理由が一本の矢の装飾にあったと考えられます。 
印が矢であることから、その出自が狩猟民族系の系譜にある民族であろうと解釈できますが、一本の矢だけで身分の上下関係が分かり、しかもその秩序を守らなければならない精神性を持つ民族とは、宗教的な権威と秩序が守られていた西アジア系の民族(ユダヤ系?)ではないかという疑いが消えません。仮に朝鮮半島や中国の諸民族の系譜であれば、戦の勝者のみが支配権を持つことが一般的です。この矢は日本書紀が「天表」としている神宝でした。 
考古学の立場から纏向集団は政治的、軍事的に統一された統一王国ではなく、諸王国が参集した祭祀共同体であったことがほぼ明かされていることから、纏向は近畿諸国と吉備王国、出雲王国(祭祀の中心地・三輪山に大国主が祭祀さた)などが作った祭祀共同体ではなかったかという説に現実性があると考えられます。 
ところが吉備王国も物部氏もまた、出雲王国と同様に、藤原不比等の作為的な記紀の編纂によって日本正史より意図的に抹消されています。記紀は最後の統一王朝を手にした勢力が権力奪取のために次々と有力豪族を抹消した手口と事実を隠すためのプロパガンダ史書して編集したものであると考えられます。記紀を正史と位置付けた藤原氏の意図が手に取るように透けて見えます。 
日本の古代史は、記紀の記述に頼っていては真実の歴史が分からなくなると考えられます。記紀が意図的に消し去った、出雲王国、吉備王国、九州北部(倭国)と南部(日向勢力)の関係性を読み解かなければ事実は藪の中です。何も見えてはきません。そこで、記紀が消し去った先行王権を語る伝承の諸資料(敗者の史書)を参考にして、注意深く検討しながらこれらの主張を取り入れることで、古代史を見直す必要があると考えます。 
日本建国の源流となった大陸からの渡来人の出自は本当に中国南部(揚子江流域)や朝鮮南部(三韓地域)であったのか、これらの地域は単なる通過点であって、本当は西アジアの出自(ユダヤ教徒、原始キリスト教徒、シュメール、ヒッタイトなどの諸説がある)ではないのか、などの疑問が残ります。 皇室は何故にその出自を隠しつ続けなければならないのか疑問が残るのは当然です。あろうことか、8世紀の大和朝廷が記紀の編纂事業の妨げになると見做して忌避し、各有力豪族に提出させた氏族史(家史)を焼却した行為には正当性がないと考えられます。 
古代ヤマトの祭祀の中心は三輪山を聖地とし大物主を祭神とする形態でした。前記富氏の伝承では、大和(奈良県)と紀伊(和歌山県)は出雲王国の分国であり、出雲人が耕作をしてきた場所であったということです。圧迫を受けて出雲王国を「国譲り」させられた後に、出雲王族は大和に移され三輪山の麓に住むことになり、三輪氏の租となったという伝承です。 
最後に統一王朝を形成した勢力が皇室の権威を高めるために行った宗教改革が伊勢神宮の創建であったと考えます。統一王朝の最高祭祀権を皇室の始祖に格付けした女神・アマテラスに付与し、アマテラスを神々の最古参格・最高位に位置付ける捏造(最古参の男神・スサノオと姉弟とし、天岩戸騒動を神話化する)を完成させる目的で創建した皇室神社が伊勢神宮と考えられます。ゆえに記紀は平安時代に創建した事実を隠し紀元前に創建したと捏造する必然性があったのです。 
神武と応神は共に「ハツクニシラススメラミコト」の名前を持つところから、記紀が同一人の事跡を古く見せるためのに分割するレトリック手法であると考えられ、神武の存在感は否定され、初代神武から欠史8代を含む10人の天皇は存在しないと考える有力な史観(通説)があります。 
高皇産霊神(徐福の子孫)は、神皇産霊神(素戔嗚尊、饒速日命)と協力関係をつくり、相助け合ってヤマトに降臨し統一国家・日本を建国したという伝承を持ち、高皇産霊神と神皇産霊神は皇室の最高神の格式を持つと考えられ、宮中三殿の祭祀は、第一殿に神皇産霊神を、第二殿には高皇産霊神を主祭神として行われてきました。 
秦氏は饒速日命を祭祀する氏族です。松尾大社の祭神は「大山咋命」ですが、これは大歳命(饒速日命)の子「猿田彦命」のことです。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神(饒速日命)であり、愛宕神社の祭神は建御雷神(饒速日命)、白山神社の祭神も饒速日命と考えられます。神社の祭神名が異なるように見えますが、祭神の実体には同一性があると考えられます。秦氏は神社の祭祀形態を導入して神社祭祀を確立した功労者と考えられています。 
伊勢神宮の莫大な建造費用は秦氏の財力が大きく貢献しています。ユダヤ系の秦氏は日本中に多くの寺社仏閣を創建した大旦那・大施主でした。伊勢はユダヤ系渡来人が集団で入植した所縁の土地です。秦氏が伊勢神宮にこだわりを持って、自らが創建した多くの寺社仏閣と同様にユダヤまたは原始キリスト教の痕跡を封印したのではないかと考えられます。秦氏の理念が伊勢神宮に反映されたと考えることは不思議なことではありません。秦一族は平安京の遷都の設計と施工のプロデュサーだけでなく、遷都の企画立案の影のフィクサーとして莫大な建造費用を負担した実力者でした。 
平安京になった土地は秦氏が手塩にかけて心魂傾けて開発した土地でした。これを無償で提供した秦氏の胸中はどのようなものであったでしょうか。秦氏は平安京をユダヤの王都になぞらえた理想郷に設計したと見られています。秦氏については、前節の「(13)−1神道とは何か(日本の精神文化の背景1)」を参照願います。 
ところで、伊勢神宮の最高神という宗教的権威が定まった後、女帝の持統天皇を除く歴代の天皇が伊勢神宮に行幸したという事実は全くありません。行幸した唯一の天皇は明治維新の政変によって絶大な権力を与えられた明治天皇だけでした。明治天皇には伊勢神宮の宗教的権威を神だのみにしなければならない王政復古という政治的な必然性があったと考えられます。 
伊勢神宮の内宮の祭神は女神の天照大神です。実は本来的な天照大神は男神です。記紀は女帝の持統天皇の事跡を正当化するために天照大神を女神にすり替えたという疑惑があります。また、外宮に祭祀された豊受大神も男神と考えられます。豊受大神は、秦の高度技術を持って渡来し各地に伝播した徐福集団を祀る神ですが、伊勢神宮の外宮の本殿千木が外削されていることで男神(内削であれば女神)であることが分かります。記紀の数々の天照大神に係わる捏造や創作は、持統天皇=女性太陽神=天照大神という位置付けを意図するものと考えられますが、世界には女性の太陽神は存在しません。陰陽五行説では、太陽神の本質は陽でありこれを陰に置き換える陰陽の逆転はありえないものです。伊勢神宮の創建は記紀の捏造の最終的な総仕上げの完成を目的にした太陽神の女性化を強引に行ったものであったと考えられます。 
伊勢に行幸しようとしない天皇家の中で唯一の行幸をした者が持統天皇でした。しかし、この行幸は当時の中納言・三輪朝臣高市麿が官位を投げ打ってまで反対したのを振り払うように挙行されたものでした。式年遷宮が持統天皇の頃より始まったことから、祭祀の正当な聖地が三輪山から伊勢神宮に変わったと宣言する狙いがあったのではないかと考えられていますが、次代以降の天皇の行幸が行われた事実はありません。アマテラスが捏造された女神であることから信頼性がなかったのではないかと考えられます。ちなみに、伊勢神宮詣では富士山信仰と同様に江戸時代の庶民に中で爆発的な広がりを見せたという事実があります。 
ここで十種神宝の話に戻します。十種神宝が探し求められたのは、その霊力の強さが権力者を魅了して惹きつけ、その霊力で支配体制を完成させようとしたからだと考えられます。ではその内容、実体はどのようなものであったのでしょうか。これを見て驚いたことは、これぞまさに中国、朝鮮、日本のいずれの文化でもないと直感させる物でした。これは、おそらく西アジア発生の品々であろうと考えられる性質のある品々です。 
十種神宝の内容は、1死反玉(死者をよみがえらせる力を持つという蘇生法)、2道反玉(邪気を払う、悪霊退散、悪霊封じ)、3沖津鏡(人生の道しるべとなる鏡、裏面に掟が彫られた鏡、太陽の分霊)、4蜂比礼(魔除け、身を隠す、悪霊や不浄なものを封しる)・5蛇比礼(邪気邪霊から身を守る)、6辺津鏡(顔を写し生気・邪気を判断する、己を常に輝く存在にする鏡、秦の鏡ともいう)、7足玉(すべての願いを叶える叶える玉)、8八握剣(国家の安泰を願う神剣、悪霊を払う)、9品々物比礼(死者や病人を蘇生させるために寝かせる敷物、死反玉で蘇生させる、魔物から身や重要なものを隠す、物部の比礼ともいう)、I生玉(神と人をつなぐ神人合一の光の玉)ですが、その姿・形色彩等はここに掲載できませんので、興味のある方はネットで「十種神宝」を検索してください。 
この十種神宝には秘伝の操作法は、鎮魂法「布留の言(ふるのこと)」にあります。この呪文は、神主が唱える祝詞(のりと)のように調子を整えて唱えますが、布留(フル)とは饒速日命のことです。 
「布留の言(ふるのこと)」 『一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)五(い)六(む)七(な)八(や)九十(ここのたり)布留部(ふるべ)由良由良止(ゆらゆらと)布留部(ふるべ)』これを調子を整えて何回も唱えるということです。この呪文は「ゆらゆらと身体を震わせながら使用」したのではないかと考えられますが、これには「十種神宝(とくさのかんだから)祓詞」という「いわれ」が述べられていますので興味のある方はネット情報の参照をお勧め致します。 
古代の王権は、諸王権が入り乱れた支配権の奪い合い、また、身内の権力の奪い合いで多数の死者や犠牲者を作りました。敗者は恨みをもち、この世に深い怨念を残したと考えられたことで、勝者は敗者の怨霊や祟りをことのほか忌み嫌い恐れました。祟りや怨霊から逃れるために遷都をした例がしばしばあったことは事実です。為政者は身も心も安心できる強い神仏の加護を真剣に求めました。神道(修験道を含む)や仏教の興隆もこのような為政者の求めに応じて発展してきた歴史を持っていますが、為政者の強いニーズに応えられる人物には、為政者の手厚い保護と望みに任せた立身出世を保証する特別な加護がもたらされたと考えられます。十種神宝は、特に優れたその霊力が語り継がれてきたところから、為政者の願望には格別に強い要求があったものと考えられます。 
神宝の探索には、優れた探索能力、これを継続できる強靭な体力や真贋を見極める特殊な能力、また、秘密が完全黙秘できる忍耐力が求められます。誰にでもできることではありません。為政者の立場では、誰にこの任を与えれば安全確実に任務を遂行してくれるか、その人選には信頼できる配下の協力が欠かせません。阿刀氏が身内の空海に白羽の矢を立てるのは、空海を為政者に認めさせるチャンスでもあり、自らの忠誠心を示すまたとない絶好の機会と考えたことは容易に理解できる出来事であったと考えられます。
 
大乗仏教 / 特徴と成立過程

 

大乗仏教の基本的な思想には、「般若思想」「華厳思想」「法華思想」「浄土思想」や「禅の思想」などがあります。各宗派の教理論は、このような思想の下に展開されてきたものです。 
大乗仏教の諸経典は釈迦滅後500年前後に成立したものです。 
釈尊滅後、次第にサンガ集団が膨張して、メンバーの多様化や集団構成の複雑化が進み、集団の規則となる律が制定されました。 
しかし、教団が肥大化するにつれ、集団内部に想定外の諸々の事態や問題が発生しました。これを解決し、教団の秩序を維持するためには、新たな規律の追加が必要となりますが、諸規律が整備されてゆく中で、出家者の日々の生活からその行事や作法まで細かく定められるようになりました。 
あらゆる事態を想定して規律を定めることは不可能であることから、新たな条文の追加が必要となることは避けられません。やがて、規律の条文解釈やその実行を厳格に守るか、緩やかにするかで対立が表面化し、ついには和解できない混乱の中で教団は分裂しました。 
規律を厳格に忠実に守るべきだとする保守派の長老たちのグループは「上座部」、これに反対し戒律を緩めるべきだと主張する進歩派のグループは「大衆部」に分裂(根本分裂)しました。 
また、地域の特性や思想の違いなどからさらに細かい分裂(枝末分裂)を繰り返しました。これを「部派仏教」といい、各部派が自らの正当性を主張して別々の道を歩むことになります。 
「大衆部」からは大乗仏教が興起しました。大乗仏教の特長は、多くの諸仏や諸菩薩が登場し、民衆に利益と安楽をもたらす「利他行」の要素が顕在化することです。 
大乗の菩薩とは、釈尊の菩提樹下の悟りの体験を自ら追体験しようと修行する者たちの名称でした。菩薩であることを自覚して修行に励む者は、厳しく自己を律し利他行を実践することでブッダとなる誓願をたてました。 
上座部仏教(小乗)の修行者が個人の悟り(自利行)を目指して阿羅漢を目標とする修行をしましたが、菩薩はこれを批判して衆生の中に入り利他の実践をしました。 
釈迦の初期仏教の実践論は「四諦と八正道」にありましたが、大乗仏教では自利的な要素と対人関係の要素がセットになった「六波羅密行」に移行していきました。 
大乗仏教は出家ぜずとも誰もが平等に救われるという教えですが、さすがに何もしなくともよいわけではなく、六つの基本的な修行が必要とされました。 
六波羅密行とは、1布施(人々の為に尽くす)、2持戒(殺人や窃盗をしない)、3忍辱(耐え忍ぶことを身に付ける)、4精進(努力・精進する)、5禅定(精神を集中させる)、6般若(事実や真実をありのままに見る智慧を身に付ける)という六種の波羅蜜行をいいます。 
1〜4は「行」に関するもので、戒・定・慧の三学でいえば、「戒学」にあたる部分です。布施・持戒・忍辱・精進は修行の基礎部分にあたります。この基礎が一通りできることを前提として、5禅定という「定学」に進みますが、禅定とは、仏と同じ境地になること、仏を信じる心、菩提心を持つことを言います。最後に6の智慧という「慧学」に至り、悟りの内容(その概念は「自性清浄心」、「本覚思想」、「如来蔵思想」、「三摩耶心」などで表現される)を知ることで六種供養が完成しますが、これは、「戒学」⇒「定学」⇒「慧学」という修道の階梯を示すものであると考えられます。 
この説の特徴は、煩悩と苦悩に覆われたこの世(此岸)で修行して生きる智慧を身につけることにより、人が悟りの世界(彼岸)に渡れる(悟る)とするものです。 
大乗の利他行は「人々の救済」という具体的な方法をとることになりますが、救いを求める者には「社会生活での不安や苦悩を取り除く行為(社会事業)」と「死後の世界への不安を取り除き、意義のある生き方を導こうとする行為」が求められるようになりました。 
これが菩薩に求められた救済方法です。菩薩の修行は「上求菩提」「下化衆生」と表現されてきました。上(仏)には菩提を求め、下(声聞・縁覚・六道の衆生)には教化し救済を行う修行です。 
インドから中国に伝わって根付き花開いた仏教の初めは、「訳経僧」と呼ばれる西域の僧たちによってもたらされた経典から始まりました。 
彼らはインドや中国の出身者ではありませんが、仏教の教えを評価し、インドの言葉を習得して中国に大乗経典をもたらしたのです。 
経典が漢語に翻訳される過程で、仏教が受け入れやすくするために意味の拡張や加筆が少なからず行われたことは周知の事実です。 
特に、インド人の価値観や世界観がそのまま中国人に受け入れられない要素を持つ言葉や儒教や道教の思想と合わない内容は書き改められたものと考えられます。 
また、仏教が受容されやすくする狙いから、いかにも本物の経典のように装う偽経が多数作られました。今日に伝承された様々な経典にも真偽が明らかでない要素を持つ経典が多数あると考えられます。 
訳経は、語学に堪能な数人の訳僧が役割分担する共同の作業で行われました。 
1担当者が原典を一節づつ言語で読み上げる。 
2これを聴いた翻訳者が中国語に直訳する。 
3更に別の担当者が漢文に筆写する。 
4言葉の意味内容を分かり易く整え、適切な漢文に推敲する。 
5文章の格調(語韻など)を整える。 
ただし、翻訳の各段階で、解釈者の思想や価値観が混入され、原文が書きかえられることがあったと考えられています。 
知られている著名な訳経僧は、そのほとんどが西域出身の王族や上流階級に属した者たちです。彼らは恵まれた身分を返上して自らの意思で出家した者たちです。 
安息国の太子であった安世高は王位を弟に譲って出家し、148年に中国・後漢の都城・洛陽に入り部派仏教の論書アビダルマを中国に伝えました。また、安は呼吸を整えて精神を集中し解脱に至る瞑想法を伝えました。 
月氏出身の支婁迦讖(支讖)は、168〜189年頃の霊帝の頃、洛陽に入り、般若経典の中で最も古いとされる『道行般若経』等の大乗経典を翻訳しています。 
祖父の代に月氏国から中国に帰化した支謙は、『大明度無極経』(支讖が翻訳した『道行般若経』の同本異訳)を翻訳して「空の思想」をもたらし、初期の中国仏教界に多大な影響を与えました。 
先祖を月氏国出身にもつ竺法護は敦煌に居住していましたが、266年〜308年の間に『般若経』『法華経』『維摩経』『無量寿経』等数多くの大乗経典を訳して、中国に大乗仏教を定着させた功績があります。 
4世紀後半〜5世紀には法顕(詳細不詳)と西域の亀茲国出身でインド貴族の鳩摩炎を父とする鳩摩羅什(344-413)の翻訳がありました。中央アジアのシルクロードに地理的に立地する西域諸国には紀元前の早期にインド仏教が伝播して布教されていました。 
鳩摩羅什は原始仏教や上座部仏教の主流を形成したアビダルマ仏教に精通していましたが大乗仏教に転向し、主に中観派の論書を研究しました。384年に中国・後涼の捕虜となりますが、401年に後秦に迎えられ長安に移転しました。 
中国で漢語を17年間学び、『法華経』『阿弥陀教』『中論』『大智度論』『成実論』などを漢訳して多大な貢献をするとともに中国の三論宗と成実宗の基礎を開きました。奈良仏教の三論宗と成実宗は中国から直輸入された宗派です。 
鳩摩羅什、玄奘三蔵、真諦、不空の四人を四大訳経家と言います。 
玄奘三蔵(602-664)は中国唐代の訳経僧です。生家の陳氏は後漢以来の士大夫の家系でしたが、王朝の興廃により複数の王朝に仕えています。 
仏典の研究は原典に拠るべきであると考えた玄奘は、唐朝の許可を得ることなく密出国でインドの仏教思想を直接に求める旅に出ました。西遊記は玄奘の旅行記『大唐西域記』をタネ本にして書かれた劇作です。 
645年に、16年間の艱難辛苦を克服して経典657部や仏像を唐にもたらしたことでその業績を太宗から高く評価されて膨大な経典の翻訳に従事しました。西安の大慈恩寺には玄奘の持ち帰った経典や仏像を保存するために大雁塔が建造されました。 
玄奘三蔵は法相宗の開祖となりましたが、1942年に南京市の中華門外にある雨台の石棺内に頭骨と複数の副葬品が旧日本軍に発見されたことから、その一部がさいたま市の慈恩寺に分骨され、さらに、その一部が奈良の薬師寺に再分骨されています。 
真諦(499-569)は西インド出身のインド僧でしたが、中国・涼の武帝に招かれて経典の翻訳に貢献しました。 
主な翻訳は『摂大乗論』『倶舎論』などがあり『大乗起信論』は中国や日本の仏教徒に多大な影響を与えました。 
真諦は、大乗仏教の中でも瑜伽行唯識派の思想を伝えた功績があります。 
不空(705-774)は、インドから中国に渡来した僧です。720年に唐に渡り、師僧の金剛智を助けて訳経に従事しましたが、金剛智の入寂後の741年インドに戻り龍智から密教の秘法を伝授され胎蔵・金剛両部の伝法灌頂(五部灌頂)を受けました。746年に中国に帰り、以後中国で死ぬまで訳経と布教に従事しています。 
玄宗・粛宗・代宗の三代の帝師となり『金剛頂経』など密教経典110部143巻を翻訳し中国密教の基礎を築きました。 
不空の弟子には六哲と称された含光・慧超・恵果・慧朗・元皎・覚超がいますが、特に、恵果は空海に密教を伝法灌頂したことで真言宗の「付法の八祖」の第六祖、「伝持の八祖」の第四祖に位置づけられました。 
仏教の伝播には、二つの大きなルートがあります。その一つは「北伝仏教」(サンスクリット語の原典)といい、いわゆる大乗仏教のルートです。もう一つは「南伝仏教」(パーリ語の原典)といい、いわゆる上座部仏教(小乗経)のルートです。 
北伝仏教は、紀元前2世紀にインドのマガダ国から中央アジアの大月氏国に伝えられました。この仏教は上座部(部派仏教・小乗経)の経典や部派仏教の論書アビダルマです。この時代には大乗仏教がまだ成立していません。 
紀元前後に成立した大乗仏教は、シルクロードの起点となる西域に伝わり仏教文化が定着して仏教美術が花開きました。紀元前2-紀元4世紀頃には断続的に西域から様々な経典が中国に伝えられ、中国で中国文化(道教・儒教)と融合し中国独特の仏教文化が生まれました。 
中国から、384年に百済、372年高句麗に、528年新羅に、538-552年頃日本に伝播されました。7世紀にチベットに、8世紀にはモンゴルに伝播されました。8世紀には中期密教が成立しますが、後期密教の成立は11世紀で、この時代にはまだ成立していません。 
東アジア地域に広まった大乗仏教は中国文化の影響を受けた中国系仏教の色彩が色濃く反映されたものです。 
仏教は西域地方に早くから伝えられたと考えられています。紀元1世紀に北インドに大帝国を築いたクシャーナ王朝は西域の月氏族がインドにやってきた征服王朝です。 
仏教は、紀元前3世紀頃のアショカ王の時代にインド中央部から西北インドに広がり、中央アジアにまで及んでいたものと考えられています。 
南伝仏教は、紀元前3世紀頃、アショカ王がセイロン(現スリランカ)に王子を派遣したことから上座部(部派仏教)の大蔵経(パーリ語の聖典)が伝播されました。 
5世紀頃にビルマ(現ミャンマ-)に伝えられ、7世紀にジャワ、ピィリッピンに、8世紀にはカンボジアに、13世紀にはタイ、ラオスに伝播されました。 
釈迦の在世に成立した仏教経典はありません。ブッダが語った言葉そのものが書かれた経典もありません。 
ブッダが使ったと思われる「古代マガダ語」で書かれた経典はありません。仏教が伝わった西インドではパ-リ語が使われていました。 
最初の経典は、紀元前1世紀にスリランカで作成されたパ−リ語の経典「ニカーヤ」です。これが現存する最古の経典ですが、ブッダの言葉に一番近い経典といわれています。 
パーリ語による南伝大蔵経「ニカーヤ」は原始仏教経典と呼ばれます。 
サンスクリット語から漢訳された北伝大蔵経「アーガマ」を大乗仏教経典と呼ぶところから、これと区別するために「原始仏教経典」と呼ばれています。 
ニカーヤ教典とほぼ同一内容のアーガマ教典があることが知られています。 
大蔵経とは経・律・論の三蔵の全体を云います。 
インドから中国に伝播された仏教は、百済を経由して日本に受け入れられました。日本では神道や山岳宗教の要素が取り入れられて結合しました。 
日本の仏教は、インドの原始仏教の精神をベースにしながらも中国仏教の独自性のある精神をも受け継ぎ、独特の日本仏教が生まれました。 
仏教を学ぶには、この歴史的な変遷を十分に理解しながら、それぞれの思想がどこから生まれたものであるかを吟味する必要があるようです。
 
大乗仏教 / 宗派と抗争

 

仏教の特徴は、同時に多くの大乗経典の存在を容認し、さまざまな「教理」や諸仏・諸菩薩の存在を受け入れたことです。仏教にたくさんの宗派や教団が存在する理由はここにあります。 
インドから中国に仏教が伝来し数多くの経典が翻訳されるようになると、経典の内容や理論的な整合性が問題にされるようになり、内容に食い違いのあるすべての仏典を体系的に理解しようと努める機運がでてきました。 
まず文献学の考察を無視した立場から、全ての経典は釈迦の一代聖教であるとの前提で経典の成立順序に関係なく体系化しようとする教理解釈の方法論が考えられました。 
この説は、各教典の教説を「教えの浅いもの、深いもの」と「能力や理解力の優劣によって説かれたもの」を区分し、悟りから涅槃に至るまでのブッダの生涯にどのように位置づけるかと考えたのですが、これが中国における教理解釈の基本となり、中国で仏教が変質しました。 
これが中国で始まった「真実の教えさがし」です。これから法華経が最高とか、浄土教が一番とか主張するグループや教団が名乗りを上げるようになります。 
この頃、中国に密教は伝えられていないので密教が登場する機会はありませんでした。 
この中で中国天台山に「智」が現れ、すべての仏典を釈迦の一代聖教として位置付け、これを五時八経に分類して法華経を最高とする独善的な説を立てました。この説から中国天台宗が成立し、日本では最澄によって比叡山に天台宗が開宗されました。最澄は渡来系の氏族の出身で幼少期より英才で知られ、将来を嘱望された人物です。 
天台智がとったこの方法は、「あるべき論」からいえば賞味期限切れの教判論と考えられます。 
混沌とした時代に、一定の整合性や統合性を目的として大鉈を振るう教判論が出てくるのは時代の要請であったと考えられます。 
しかし、各経典を根拠とする教判論は8世紀以降には出尽くした観があります。 
時限的に有効であった教理論でも安定期を迎えれば評価基準が変わるのは当然です。 
文献的な考察や経典の思想の価値の比較検討、経典の真偽(埋蔵教や偽書)を学術的に研究する方向に転換していくのは本来のあるべき姿です。 
有効期間の過ぎた教理論をいつまでも振り回すのは明らかに間違いです。 
もし、釈迦の在世に法華経や華厳経などの大乗経典の内容が確立していて、この精神が釈迦の金口から直接に説法されていたのであれば、上座部(小乗)と大衆部(大乗)の分裂もなかったであろうし、20余の部派仏教の分裂や大乗仏教の多数の経典や分裂など、様々な乱立の歴史はなかった、と考えられます。上座部から大乗非仏説が出てくるなど考えられない、といえるのです。 
最澄と南都六宗の間で様々な論争がおきました。最澄から仕掛けたものです。 
802年に、高尾・神護寺で、最澄は朝廷の斡旋を受けて南都六宗の七大寺の高僧を集め、天台の三大部を講じて法華一乗の思想を宣揚しました。 
このとき、南都六宗側は最澄の講説に特に反駁することなく、最澄を讃嘆する旨の書状を天皇に提出した事実がありました。天台宗ではこれが南都六宗の敗北であり、以後、天台宗の風下に立つことを認めたと宣伝することになりました。 
しかし、この天台宗の態度はいかがなものかと考えます。南都六宗は中国の天台宗の教理を知悉していたのは当然です。中国で華厳宗や法相宗との間で様々な法論があり結論が出ていないことを知っています。反駁しなかったことも、書状を差し出したことも天皇や朝廷の意向に敬意を払っただけだと考えるべきでした。 
南都六宗の七大寺の高僧が天皇の面前で反駁したり激論したり出来るはずもありません。不快な気持をぐっと飲み込んだ、ものと考えられます。 
密教を空海から学ぶことをあきらめた最澄は、本来のテーマである奈良仏教の攻撃に軌道修正しました。法華第一の説に立って、これを認めない南都六宗(法相宗の「徳一」)に法華経の解釈をめぐる「三一権実論争」を仕掛けました。 
この理論闘争は、5ケ年にわたる長いものでした。発端は関東布教を決意した最澄が、会津の磐梯恵日寺(寺僧300人、僧兵3000人、堂塔伽藍100以上、子院3800坊の大寺院)を天台宗の傘下に入れようとして法論を挑んだことで勃発しました。徳一は藤原仲麻呂(恵美押勝)の子であり藤原不比等の孫ですが、藤原氏の氏寺・興福寺で法相宗を学んだ僧です。一時、道鏡のために不遇を極めましたが、道鏡が失脚して復活しました。後に、東大寺の役僧になっていることから、空海とは東大寺の縁がある人物です。 
この論争は、三乗(声聞乗、独覚乗または縁覚乗の二乗と菩薩乗)と一乗(仏乗)のどちらが真実の教えか、仮の教えかを論じるものです。 
そもそもの発端は、鳩摩羅什の漢訳になる『妙法蓮華経』方便品の一節にある「無二亦無三」の解釈についての対立から始まるものでした。この一節の前後は「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。仏の方便の説をば除く。」(植木雅俊・訳)というものですが、この一節の解釈の相違から大論争に発展したものでした。 
なお、この該当部分のサンスクリット原典では「乗り物はただ一つであり、第二の者は存在しない。実に第三のものも世間には〔いついかなる時にも〕決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説くという人間の中の最高の人〔であるブッダ〕たちの方便を除いては。」(植木雅俊・訳)と訳されています。 
光宅寺法雲や天台智は「一仏乗のみがあって、二乗(声聞・独覚=縁覚)もなく、また三乗(二乗と菩薩乗)もないとする解釈を示しました。 
これに対し、法相宗の慈恩大師は鳩摩羅什が「二」「三」と訳した箇所は原文では「第二」「第三」であるとして「一乗(仏乗)のみがあって、第二の独覚乗も第三の声聞乗もない」と解釈したのです。(植木雅俊・著「仏教本当の教え」中公新書) 
智等は声聞乗と独覚乗、菩薩乗と仏乗の四つの乗り物があると考えたので「四車家」の説といわれます。これに対して、慈恩は声聞乗と独覚乗、仏乗の三つの乗り物を前提にしたので「三車家」と言われました。 
この争いは、鳩摩羅什の漢訳を基にするものでしたが、サンスクリット原文によれば、前半分は真実の乗り物(一仏乗)が唯一で、それ以外に第二、第三のものはないと強調するレトリックであり、二乗(声聞と独覚=縁覚)と三乗(二乗と菩薩)は方便としては存在するという内容でした。漢訳を基にした双方の解釈は誤りでした。 
四車家と三車家の考え方の違いは、小乗仏教(上座部)の説一切有部の三乗説と法華経の三乗説の違いを反映したものでした。 
両説の見解の相違点は「菩薩」をどのように観るかという立場の違いからくるものです。四車家の見解は法華経が説く三乗説の立場からの見解であり、三車家の見解は説一切有部の三乗説の影響を受けた立場からの見解でした。 
実は小乗仏教では菩薩は「覚り(bodhi)を得ることが確定した人(sattva)」と考え、それは釈迦以外には存在しないと考える特徴があります。この立場では、声聞乗によって到達できるのは「阿羅漢果」、独覚乗によって到達できるのは「独覚果」であり、いずれもブッダ(仏)以外には到達できないと考えるのです。 
ゆえに、菩薩=釈迦であり、それは仏と同一の存在であると考えます。菩薩のための乗り物も、仏のための乗り物も釈迦(ブッダまたは釈尊)に限定された乗り物と考えるので、仏乗は出家修行者の手が届かないもの、すなわち、一仏乗は権(仮)の教えでしかないと考えるのです。実は、上座部(小乗教)と大衆部(大乗教)の大きな見解の相違の一つがここにあります。 
これに対して、大乗仏教では、菩薩とは「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」であると宣言して「覚りを求める人は誰でも菩薩である」と見做し、釈迦が菩薩として修業した内容を自らも追体験する意思を持った幾多の大乗の菩薩が誕生して様々な経典を編纂したのです。 
説一切有部が主張したのは、人は誰でも能力や素質などの諸要素に影響されるもので、仏道修行も当然に皆平等ではありえない、ということにあります。この影響を受けた中国法相宗では「五性格別」という説をたてました。 
その内容は、1仏果を得ることが決まっている人、2阿羅漢果を得ることが決まっている人、3独覚果を得ることが決まっている人、という(決定性)の人々、4いずれにも決まっていない人(不定性)、5覚りとは全く縁のない人(無種性)に仕分け、人の能力や素質、努力などの差別観を容認したのです。仏道修行といえども個人の問題であり、そこには能力差、努力や素質の影響があることは当然と受け止めたのです。 
しかし、中国天台宗を興起した智らは、「全ての人ば誰でも成仏できる」と主張して、その論理性を維持する必然性から、人のように意思のない草木や瓦礫にまで仏性を認め、単なる成仏の可能性の次元を飛び越える「成仏の不差別」を主張して激しく対抗したのです。 
この「瓦礫にまで仏性を認める」智の主張は上座部仏教の伝統的な仏教概念と激しく対立する異説といえるものですが、瓦礫等であっても人の意思や情念を受けた因縁生起(縁起)によって仏の尊像という成仏の姿にさえ成ることができる、という見解をベースにするものであると考えられるものです。 
「衆生の心の深奥部にはブッダとなる種子を持っている」とする如来蔵思想は、意思(悟りに向かう菩提心)を持つ人間を前提にする概念であり可能性の問題でした。本来的には姿も形もない仏の姿を金・銀・銅の鉱物や、木や紙(絵)に尊像を仮象して仏の造立が行われたことで、縁起があれば、非情世界の石や金属また木や紙(絵)も成仏が可能であるとする論理性にこだわったものと考えられます。 
しかし、論理的な可能性は何もしない不作為の状態にあるにもかかわらず「成仏の不差別」を保障するものでないことは当然です。 
基本概念として認識しなければならないのは、悟りに向かう原動力は人の意思であるということです。意思のない非情世界の瓦石にまで仏性を認める見解はインドの釈迦仏教の論理性と矛盾する見解と考えられますが、この天台の法華経の考え方は最澄に引き継がれ比叡山天台宗が高い評価を受ける大きな要素となりました。 
しかし、法華経は、法華経の受持によって諸菩薩の救済が受けられることを説くだけで、成仏に至る修業の方法やプロセスなどの具体的な内容は何も語っていません。 
戦後、法華経を依経とする新興宗教団体が乱立して、様々に法華経を賛嘆して布教活動ができたのは法華経の曖昧さにあるのではないかと考えられる一面性が在ります。この中には様々な創作を随所に混入させる新興宗教団体が現れて会員数を力にする特異性のある布教活動を行っています。
 
大乗仏教 / 宗派の論争

 

この論争は、端的に言えば「成仏の可能性」についての争いです。最澄は「誰れでもが成仏できる」といい、徳一は「人には生まれつき成仏できる能力を欠く者がいる」という争いです。 
人々に成仏の具体的な方法を示すものでなく、成仏の可能性の考え方や観念の相違でしかない水掛け論です。この議論の勝負がついても人々の成仏に何の影響もありません。 
しかし、この議論の勝負がついても本質的には「可能性の問題」でしかないことは双方が十分に認識できるはずです。勝負にこだわるのは「論理性の帰結」に関わる問題だからです。 
個人の資質を無視した論理は虚しさが募ります。また、個人の資質にこだわって、成仏の可能性さえも閉ざす人々を作ることになる論理性も無残です。 
本質的にはこの争論の決着がついても、日々に変化する現実の社会に生存する個々の人々の成仏は個人の可能性の問題であり、どんなに優れた教理・教論であっても人々の成仏を保障するものではなく、また、本人以外には誰であれ責任が取れる問題ではありません。 
成仏論の前提には人間の存在をどの様に見るか、という現実的な問題が解決される必要性があります。 
「個人の資質」を問題にしたのが、唯識論を学んだ法相宗の徳一の立場です。しかし、徳一は奈良仏教が研鑽した華厳や三論などの大乗の教理に通じた資質を持つ高名な高僧です。 
最澄の立場は人間性の個別性や特質、個人の資質を問題にしていません。人間が生活環境の中で様々な影響を受けながら、向上心を失わず、悟りに向かう心(菩提心)を持ち続けられる存在かどうかの考察がありません。 
この議論は、様々な環境要因に様々な制約を受けながら生存している人間存在を見誤った空虚な空中戦でしかないように考えられます。人間をどうみるかの考察を解決してからこの問題を議論すべきだったのではないかと考えます。中道の視点が欠落しているように見えてしまいます。 
中国でも決着がつかなかった問題を蒸し返すのは、何らかの意図があるからだと考えられます。この問題は、天皇や朝廷の意向を背負った最澄が政治的な作為をもって仕掛けた法論だと考えられます。 
最澄の背後に天皇の意向を感じた南都六宗側に十分な対応ができるはずもありません。 
南都六宗であっても天皇の意思に背けないのは当然です。唯識論や倶舎論などで論陣を張り議論なれした南都六宗が、天台教学や法華一乗の論理に屈することなど考えられません。 
見方によっては、この法論は王法が仏法を責める一方的なものであり、天皇の意思を背負った最澄の生真面目な性格が災いして妥協のない修羅場に行き着くことになったものと考えられます。 
当時、奈良仏教の勢力を抑え込むことは天皇や朝廷の政治的な方針でした。桓武天皇が平城京を捨て平安京に遷都した大きな理由の一つに南都六宗の政治に対する介入を阻止することがあげられます。 
奈良時代の仏教は、政治体制の中に組み入れられ過剰な保護を受け続けた結果、1寺院が大土地を所有して律令体制の経済政策に悪影響を及ぼしたこと、2僧侶の腐敗、例えば、玄ムや弓削道鏡は政治に深入りして失脚し追放されています。さらに、3多数の寺院への出費がかさみ国家財政が逼迫した、ことなどにより仏教の革新が要請されたのです。 
比叡山は総合的な仏教アカデミーであったという説明を聞くたびに違和感を感じます。 
比叡山自体が密教なのか法華なのか定まらず、しかもこの中から出てきた禅宗と浄土(真)宗は比叡山の教義から外れたものです。. 
日蓮宗の思想はあまりにも尖鋭的でドラステック、しかも教条的で頑迷です。それぞれがあまりにも違いすぎる教義を持ち、思想そのものが激しく対立する概念を持っています。 
単一の教団から何故このような異なる思想の教団が乱立したのか不思議です。 
比叡山の厳格な修行の中から簡略な新宗教がでてくるのは、あたかも、救い難い末法思想の蔓延という特別な時代背景を反映した舞台装置の上の狂喜乱舞を見ているようです。 
当初、比叡山ではこれらの新宗教の登場に驚愕して弾圧という方法を何度も取りました。 
しかし、これらの教団が民衆の支持を得て教勢を拡大し世間の認知と定着を勝ち取ると一転して教祖の評価を変えました。 
800年の長きにわたり異端視してきた鎌倉新仏教の祖師の評価を掌を返すように変え、比叡山に祖師たちの業績を顕彰する看板や遺影を掲げ始めたのは昭和40年代のことでした。 
比叡山の閑静な佇まいが急速に俗塵に染まり始めたのです。 
これらの教祖は比叡山で学んだ偉人であるという形を作り上げ、比叡山が総合アカデミーであることを強調して積極的に宣伝に利用するようになりました。 
空海は奈良仏教の華厳宗や法相宗などの教理のうち是認できる部分は包摂し、不適切なものは純化する手法を用いたので、奈良の諸大寺とは協調的な関係を築き友好関係にありました。 
空海は東大寺の別当、大安寺の別当となり、興福寺で藤原冬嗣のために一族の繁栄を祈願する儀礼を行っています。 
密教は一切のものと対立せずに包み込む基本的な性格があります。空海は、南都の諸大寺の高僧と親睦関係を生涯続けました。
 
中期密教の成立過程

 

インドの仏教が原始仏教から大乗仏教へ、大乗仏教から密教へ展開する過程で仏陀観と仏身観に大きな変革がありました。 
ブッダの涅槃後、無仏状態を補うために色身や法身、報身や応身(化身)などが生みだされ、過去仏、未来仏、そして十方三世諸菩薩や釈迦在世にも同時的存在していた辟支仏(独覚)など無数の仏、菩薩が登場する中で、これを大いなる一仏に収斂しようとする動きが生じました。 
やがて、大乗仏教の到達点には、真理の世界や仏の世界の本質を雄弁に語り「即身成仏」を説く密教経典(『大日経』・『金剛頂経』など)が現われ「真言密教(東密)」と「天台密教(台密)」が成立しました。 
仏教経典は「現世利益」と「成仏」という対立軸が微妙に関係しあいながら構成されています。大乗仏教の出家修行者の目的は最終形としては「解脱」を得ることにあります。しかし、出家修行者といえども日常生活の中には世間的な生活習慣にも現実的な対応が求められます。 
大乗仏教の経典の大きな視点の構成は「悔過」「瑜伽」「陀羅尼」にあります。最古の大乗経典の一つ『舎利佛悔過経」には、来世に悪所に生ぜず、善き所に生じたいと願うなら悔過すべきであると説き、十方仏を礼拝して作善をなすならば、豪、貴、富、楽などの現世の利益が与えられると説かれています。奈良・東大寺の二月堂の修二会は悔過法にもとずく除災招福の仏教行事です。 
禅定による精神統一は涅槃に入ることを目的とする修行法です。大乗初期の『維摩経』『首楞厳三昧経』『大品般若経』『法華経』『華厳経』には、釈尊をはじめ諸尊の神通力による神変が説かれています。神変は禅定の三昧の結果(瑜伽)として現われるものですが、これが現世利益の期待として付加されることになります。 
神通力とともに大乗の菩薩の持つ徳目に陀羅尼があります。陀羅尼は総持ともいい精神統一を意味する概念です。大乗経典には菩薩が陀羅尼と三昧に通じる者として登場し、禅定の精神統一に入って正覚を得ることを求められる存在とされています。 
大乗経典には、「正覚を目指し憶持(心に念じ信仰すること)を意味する陀羅尼」と「現世利益を目指す呪文としての陀羅尼(自己の欲望を充足するもの)」が説かれています。 
『法華経』の「薬王菩薩本事品第23」や「陀羅尼品第26」などには、経典の受持と陀羅尼の読誦に「真言・陀羅尼を唱えることで神仏の加護を得て災害から免れる功徳を説くなど、他の大乗経典と異なる特色を示しています。 
「陀羅尼品第26」では、伝道者に菩薩と諸天部の守護の呪文の力が語られます。法華経にも般若経などの大乗経典と同様に呪文(陀羅尼)の効力が説かれたのです。 
ここでは、薬王菩薩と勇施菩薩が人々に護身と幸福の呪文を贈り、毘沙門天、持国天、十羅刹女、鬼子母神の法華守護の諸天部から呪文が贈られます。世尊(釈尊)が法華修行者の守護を命じたという形式をとります。 
「普賢菩薩勧発品第28」は、法華経の結びの章です。東方世界から霊鷲山に来臨した普賢菩薩が世尊滅後の法華経を信じる者に救いの手をさしのべることが語られています。 
普賢菩薩は、普賢菩薩の唱える呪文を聴く者は法華経を保って永遠に苦を脱することができることを世尊に誓います。 
ここでは、普賢菩薩の救いの福音は呪文(陀羅尼)によって語られました。 
法華経の信者は、世尊滅後には普賢菩薩の呪文によって救われることが語られ,霊鷲山に参集した多くの聴衆は歓喜に包まれ、神々も精霊も全ての生き物が歓喜しました。 
陀羅尼は総持や能持と意訳されてきたものです。古来より仏や菩薩、神々の威力が込められた聖句としてその意味を訳すことは禁じられましたが、短い言葉に宇宙の真理が集約されていると考えられてきました。 
宇宙の創造は波動(ゆらぎ)から始まり、人の耳に聞こえなくとも全ての波動の始まりは運動と音であり、すべての存在には音が伴うと認識されてきました。 
人の祈りが陀羅尼となり、日本では「ことば」の霊力を言霊(ことだま)といい、古代から荒ぶる御霊(みたま)を鎮撫して五穀豊穣を祈る祭式などに用いられました。古代インドでは魔除け、災難よけ、毒蛇よけなどの除災招福や深い祈りから密教の陀羅尼として発展しています。 
『般若経』では、般若波羅密多の智慧の持つ呪力によって、教典を受持し、読誦し、書写した結果、様々な災害から身を護ることができると説かれました。般若経は大乗経典の中でもっとも膨大な経典(600巻)として知られていいます。 
大乗仏教の菩薩の修行は「波羅密門の修行」でした。『般若経』では、自らの心の本源は本来清浄で輝くものであるが、これが様々な分別によって覆われているので、覆いを取り除くことが修行の肝要でした。 
六波羅密(1布施、2持戒、3忍辱、4精進、5禅定、6智慧)や7方便、8願、9力、I智の十波羅密のそれぞれの徳目を完成して仏の位に至るとされました。菩薩の誓願の求道心の力強さと菩提心の自己発現の力がこれを乗り越える力になると考えられたのです。 
般若心経は般若経600巻のエッセンスを262文字で表現する経典です。般若心経の原型はインドで3世紀頃に成立しましたが、各宗派で読まれているものは玄奘三蔵の漢訳本です。 
この経の説かれた舞台は法華経と同じ霊鷲山ですが、瞑想中の釈迦が作り出した対話を、釈迦の胸中の意を汲んだ観自在菩薩(観音)が舎利子(舎利弗)に向かって仏教の真髄を説くという形式をとっています。 
般若心経は、菩薩が求めて止まない悟りの境地(真実の道)に至るヴィジョンを示すもので、悟りは般若波羅蜜多(このうえない智慧の完成)を求める心に在ることを示します。 
精神を統一して心身の五感を正常に働かせて心を覆うものを取り除けば、閉ざされて逃げ場がないという感覚(時間、空間に縛られ、世間のありとあらゆる習慣や固定観念などに縛られること)を持つことなく恐怖なども生まれることがない。ゆえに実在するものは何もなく(五蘊皆空)、束縛と見えたものは心が生み出した幻影であることが理解できると考えます。 
ゆえに、究極の真実を求めるなら真実の祈りの言葉=マントラ(真言)を唱え、偽りのない真実の言葉で祈らなければなりません。密教では、真言は特定の儀礼や瞑想修業の場で師から弟子に伝授される言葉であり、象徴的、かつ聖なる言葉です。これを繰り返し唱えることで修行者の人格を調和的に揺さぶり、さらに高次元の体験へと昇華させる祈りの言葉でもあります。 
智慧の完成は、全方位に見渡せる展望が効く状況の現出であり、完璧な目覚めに導くものです。般若心経は262文字の中に仏教の真髄を説き、真実の祈りの言葉「真言」を説いたお経です。密教への導入部に位置づけられる経典であると考えられています。 
『般若経』以来、菩薩の智慧と慈悲を完成するための「菩薩行」は大乗の核心です。龍樹は『菩提心論』において、三摩地の菩提心を真言門の特質として捉えました。 
三摩地とは、本有の仏性は煩悩に覆われて覚知しないから精神統一して覆いを除き普賢の大菩提心に至ることですが、真言行者の三摩地の菩提心の実践のありようは、月輪観や阿字観、五相成身観などの瞑想法として捉えられています。 
『華厳経』は三つの先駆経典「十地品」「如来生起品」「入法界品」を取り入れて成立した教典です。その特徴は、1一切の現象は心が作り出したものと説き、2一切の衆生は仏の智慧を備えている(性具説)と説き、3菩薩の修業の階梯を示している経典です。 
大乗の波羅密門の修行階梯を典型的に整理して述べていますが、この最終段階で如来の活動が「身、口、意の三業」として説かれ、三業の働きの秘密性が「如来の秘密の境位」として十種(身体の秘密、言葉の秘密、心の秘密、思量する秘密など)列挙し、如来と如来の後を継ぐ者との共通の通過点を灌頂という儀礼に託して描いています。 
『法華経』の「普賢菩薩勧発品第28」に法華経を信じる者には普賢菩薩が救いの手をさしのべるとありますが、同様に、『華厳経』には「普賢菩薩行願讃」があります。その内容は1普賢菩薩があらゆる仏を賛嘆し人々に奉仕することを誓うという内容と、2釈尊を賛嘆しながらも阿弥陀如来に対する賛嘆の詩句がつづられたものです。 
「普賢菩薩行願讃」の詩句は華厳思想を信奉する人々の中で複雑な変遷と発展を遂げながら華厳経に編入されたものと考えられていますが、「普賢菩薩行願讃」は東アジア諸国で広く信奉されています。 
中国・朝鮮では「華厳思想」を体現するものとして信奉されましたが、日本では阿弥陀如来を讃える浄土思想を勧めるものとして源信僧都や法然に尊重されました。日本の大乗仏教に与えた影響は甚大です。 
『華厳経』の毘盧遮那仏、密教の『大日如来』が空を体現する根源的に唯一の本初仏として成立しました。このとき、全ての仏・菩薩は毘盧遮那仏(大日如来)の放射としての顕現に過ぎないという観念が成立したのです。 
『華厳経』は釈迦の悟りの内容をそのまま示す経典として著名です。難解な仏教の教理を具体的に述べていますが、要約すれば「悟りとは何か」「成仏するには何が必要か」「ブッダ(仏)とは何か」「人は菩薩としてどのように生きるべきか」「菩薩の精神的な悟りの階梯とは何か」などです。 
しかし、華厳は「有教無観」と評価される通り、精緻な大乗教理を持ちながらもそれを悟りに押し上げる具体的な観法を持ちませんでした。 
華厳経において、真言密教の菩提心の概念がほぼ完成されたと考えられています。ただし、顕教の華厳が「波羅蜜門(三劫成仏)」を説くのに対し真言密教では「真言門(即身成仏)」を説く違いがあります。 
また顕教の華厳経では修業中の利他行から大悲・慈悲が出てくる(因位からの菩提心)が、真言密教では修業の出発点となる菩提心に大悲・慈悲が当然に含まれるが、仏の境界に入って初めて顕現する(果位からの菩提心または三摩地の菩提心)と見る違いがあります。 
この観点から、華厳の教理体系は大乗仏教中で最も高い水準を示す密教の導入部として空海から高い評価をうけ、法相や天台の教理の上に位置づけられています。 
インドでは、大乗仏教と密教が個別の教団を組織していた形跡はありません。密教は大乗仏教の教団内部で発生し進化したものです。4世紀頃から、大乗仏教はタントリズム台頭の影響を受け入れて次第に変貌していき、6世紀以降には本来の仏教教団に存在しない傾向をいくつも併せ持つようになります。 
また、初期の大乗仏教の中には、禅定の憶持を意味した陀羅尼も呪句に変容し現世利益を期待する多くの陀羅尼を生みだす源泉になっていたと考えられています。 
大乗仏教の中に密教を展開する何らかの萌芽を認められるのは4世紀頃と考えられています(「大乗仏教における密教の形成」松長有慶)。 
6世紀後半には、「息災」「増益」「調伏」というヴェーダの儀礼が密教の護摩法として取り入れられ、密教儀礼として経典の中で表面化します。 
『大日経』は、思想面では大乗仏教思想(『般若経など)を深化し、実践面において「三密瑜伽行」を構築しました。心の問題を主題として取り上げ、中観(瑜伽行中観)思想を基盤とする理解を加えています。 
また、成仏を目的とする宗教理念を明し、その手段として印契と陀羅尼に三摩地(心)を加え身語心の三密を一体化する三密瑜伽行の観法をはじめて説きました。 
『真実摂教』(金剛頂経)は、ヒンズーの儀礼の影響を排して、大悲心に基づく衆生救済を目的とする密教儀礼に転化させ、内容と外観ともに密教独自の形態を持ち、体系化された思想に裏付けられた密教儀礼に構成されています。 
『理趣経』は、大乗仏教の代表的な経典である『般若経』の空の思想を更に積極的に展開させ密教経典化したものです。ここでは、大乗仏教の「経典受持の功徳」は、「執金剛位の獲得」という密教的なものに変わります。 
『理趣経』(不空訳)は、大乗経典と同様に、「序文」「正宗分」「流通分」の三分からなり、正宗分は17段に構成されていますが、各段にはそれぞれの教主の具体的な悟りの内容が開示されています。 
各段の教主は「仏身観の密教化」によるものですが、その悟りの内容は種字(一字の呪字)で凝縮形として表されています。 
種字は経典が示す思想内容の凝縮形と考えられるようになりました。各段の終わりにはその経典部分の「得益」が掲げられています。
 
中期密教の成立 / インド→中国→日本

 

密教経典の特色は、大日如来が金剛薩埵たちに自分の悟りを隋自意の立場で説くという内容になっていることです。密教では相手の機根に合わせて隋他意の立場で対機説法をするという方法は取りません。 
密教には、特徴的な視点があります。それは、1信仰の対象(仏陀観)、2信仰する人(人間観)、3人が生きる世界(世界観)です。人が生きている世界をどの様に考えるか、人はどの様に生活し、どの様な修行をして、何を目指した生き方をするのか、という問題を真正面から捉えようとするのです。 
即身成仏への道は、真実に生きる道です。密教特有のマンダラ思想は悟りの境界をシンボリックに表現した心と真実の世界観を示しています。 
毘盧遮那仏(華厳経の世界)は、顕教の世界では沈黙の仏でしたが、密教の世界では雄弁の仏となり、宇宙の事象に仮託して常に法を説く法身の「大日如来」(サンスクリット語で「マハー・ヴィロチャーナ・ブッダ」)となります。しかし、大日如来の言葉は深遠な仏の言葉だから凡夫には理解できません。凡俗には秘密とされることから「密教」と呼ばれています。 
密教では、大日如来の分身が様々な仏、菩薩、明王、天部の諸尊となって、人々と相対するようになります。 
大日如来を「普門総徳」として、諸仏、菩薩、明王、天部は大日如来の徳の一部分を表す「一門別徳」と位置づけます。この関係性は「普門即一門」として統一されています。 
両部の曼荼羅はこの統一性をパンテオンという形で具体的に示しています。密教は大乗仏教の諸仏・菩薩をあるがままに統合的に継承しています。 
密教は大乗仏教ばかりでなく、あらゆる宗教を統合することが可能な多神教の性格をも合わせ持っています。 
密教(タントリック・ブデイズムまたはエソトリック・ブデイズム)は、インドで発生し発達した仏教の最終形です。インドでは、いかなる宗教も民族宗教のヒンドゥー教の影響を受けましたが、密教はその秘密性に於いて、仏教の中で特殊な発展を遂げた大乗仏教の最終形です。 
体験の深さを強調することや「深秘の教え」という意味が含まれることから「秘密仏教」という表現をされることもあります。 
中国、日本に伝わり、また、チベットに伝わりそれぞれ独自性のある展開をしました。 
インドで一般的に用いられる呼称はバジュラ・ヤーナ(vajra-yana)といいますが、「金剛乗」と訳されています。大乗の中で更に発展の深まりを示したことから「金剛大乗」(バジュラ・マハーヤーナ)、また、真言を用いることから「真言乗」(マントラ・ヤーナ)ともいわれます。 
金剛乗は、インドでは大乗仏教の中の最高の教えという美称として使われました。密教は大乗仏教の到達点に現われた思想であり、その宗教儀礼も、観法も、呪法も大乗仏教に本来的に備わっていたものが、更に深耕されて展開したものと考えられます。これが、大乗仏教から密教へ展開された仏教の歴史的な道程といえます。 
秘密とは、大乗の菩薩のために説かれた奥深い教えをいいます。8世紀初頭に著された『大日経疏』には、「秘密とは如来秘奥の蔵にして、顕露の常の教とは同じからず」(巻第十五)と述べられています。 
インドで密教がいつ頃に起こったかは今後の研究を待たなければなりませんが、タントリズムを密教と捉えれば、紀元前2000年頃のインダス文明の遺跡の中に求めることができます。 
また、古代アーリア人が作ったインド最古の宗教文献・ヴェ‐ダ(バラモンの根本聖典)の中に見出だすことができます。マントラを口ずさんで神々に攘災招福という現世利益を祈ったのです。 
神秘主義的、呪術的、儀礼的な要素は、初期仏教以来、様々な形で教団の中に潜在していましたが、大乗仏教の興起とともに次第に表面化するに至りました。 
密教儀礼は陀羅尼とか真言による攘災招福の信仰によって次第に整備され、バラモン教やヒンズー教の神々が仏教の諸仏、諸菩薩に姿を変えて摂取され、多神教的な傾向性を顕著にして行きました。 
これは仏教の優位性を示し、他教徒の吸収を目指したデモンストレーションと考えられます。 
古来インドの民衆の間で根強く信仰されてきた呪法と儀礼が、大乗仏教の思想的な背景を踏まえながら仏教独自の実践法として、密教経典の中に再生したものと考えられています。 
密教が中国に初めて伝来したのは、3世紀初頭の前漢滅亡後に覇権を競い鼎立した魏・呉・蜀の三国時代のことと考えられています。玄奘三蔵がインドから経・律・論をもたらした直後の7世紀中頃-8世紀初期頃、善無為によって『大日経』が訳され、金剛智によって『金剛頂経』が訳されて純粋密教が成立しました。 
また、不空が『金剛頂経』系の多くの経典を訳して密教の深い教理を中国仏教界に認知させたことで、遅れてきた最新の密教が大乗仏教の最終形の到達点の輪郭を表現する存在感を示すようになります。これによって密教が中国仏教界で重きをなす宗派として興起しました。 
インド密教史の研究では6世紀までを前期とし、この期間に編纂された密教経典を「雑密」といいます。7世紀を「中期」とし、この期間に編集された経典を「純粋密教」(純密)といいます。日本に請来された密教は、東密、台密ともに純密(中期密教)です。 
8世紀以降を「後期」とし、この期間に編纂された密教経典を「後期密教」といいます。 
後期密教ではヒンズー教的な要素がよりいっそう顕著になりますが、その主題は「慈悲」と「智慧」であり「現証(現世利益)」と「成仏」を目指すという顕教(大乗仏教)と同一の共通点を持っています。 
空海の真言密教はインド、中国の中期密教を空海の思索によって独自の発展を遂げたものです。 
真言宗は空海が開いた宗派です。密教を同じ意味で、「秘密乗」、「秘密仏乗」、「秘密一乗」、「秘密曼荼羅教」などと表現することがあります。また、一乗仏教を強調して教法の最高性を表現するときは「金剛一乗」といいます。 
真言とは、サンスクリットでマントラ(manntora)といいます。「神々に捧げる賛歌」または「神を讃える短い言葉」を意味するものですが、空海はこれを「真実の言葉」、「真理の言葉」と理解しました。 
真言は大日如来の自内証の悟りそのものを示す真実の教え、という意味に解釈するのです。 
このような意味からみれば、真言は、宇宙の真理そのものを仏の悟りの内容とする大日如来の法身説法の教えです。真言宗の名前の由来はこのような理由によるものです。 
密教の分類はインド、中国、日本では異なります。密教という場合は、地域別にどこの密教かを限定しなければなりません。密教が伝播された地域は、インド、中国、日本、チベットとその周辺諸国、モンゴル、ロシアとその周辺諸国です。 
密教の分類は次のように考えられています。 
中国・日本での密教の分類は、『雑部密教』(雑密)と『純粋密教』(純密)に分けることが伝統的な分類です。経典の内容からみて仕分ける分類法です。 
古い密教から650年頃までに成立した経典を一括して雑部密教と位置付け、その後、650−700年頃に成立した大日経系や金剛頂経系の経典を純粋密教と位置付けました。
 
中期密教の成立 / 空海と最澄

 

空海が密教に出会うことになった経緯は次の通りです。 
都の大学に入学を果たし将来を嘱望されていたのにもかかわらず、父母や周囲の期待に背いて、空海が出家の決意をするに至る心境の変化を『聾瞽指帰』(後の『三教指帰』)というユニークな戯曲風の自伝で語っています。 
出家の動機を述べ、仏教が儒教や道教とは比較にならないほど優れていることを結論づけています。一人の沙門から虚空蔵聞持の法を聞き、仏典を学ぶうちに仏教への関心が高まっていき、大学を中退して、私度僧として各地に修行を重ねた結果、仏教の奥義を極めたいとして衆生済度の為に出家する動機を語った出家宣言の書です。 
空海と密教の出会いは、伝記によれば、奈良の大安寺や東大寺で経典を学んだが空海を満足させる経典が無かったということです。そこで、空海が「唯一無二の教えを示したまえ」と一心に祈ると、夢の中に見知らぬ人が立ち『大毘盧遮那経』(『大日経』)という経典が大和の国高市郡の久米寺の東塔の下にある。そこに不二の教えが示されている」と告げ、姿を消した、といいます。 
さっそく夢に示されたとおり、久米寺に行くと、東塔の柱の中に『大日経』が眠っていました。『大日経』には「自己の探究と悟りへの真実に生きる道」が説かれていることがわかりました。 
しかし、手に取って見ても神童といわれた空海にも全く歯が立たない内容が随所にある経典でした。 
密教経典はサンスクリット文字や真言、印契、密教儀礼などが多数あり、顕教の僧や研究者から見れば未知の領域にある経典です。基礎知識が全くない状態では無理もありません。 
『大日経』は遣唐使船がずいぶん前に中国から持ち帰ったものの、誰もこれを研究する者がいないまま放置されていたと考えられます。誰に尋ねても空海に教えられる師はいませんでした。唐に渡る以外に方法は無い、空海の胸に入唐求法の思いが急速に膨らんだものと考えられます。 
インドから中国に伝来された最新の大乗仏教である純粋密教(中期)は大日如来の慈悲を語る「胎蔵生」と大日如来の智慧を語る「金剛界」の両部の大法を相承する中国・青龍寺の恵果阿闍梨から、その弟子千人余を差し置いて、伝法の素質を認められた留学僧「空海」が伝法灌頂を受けたことにより日本に請来されました。 
空海が常人と異なるのは、渡海するまでに10年以上も密教の基礎(山岳修行のようなものと考えられる)を修行していた実績があることです。しかも、西安に到着して直ちに密教を教える寺院を尋ねることなく、中国密教の第一人者・恵果阿闍梨に弟子入りして本物の密教を学ぶための用意周到な事前準備と情報収集に努めたことです。 
このため、西明寺に逗留して密教を学ぶための準備期間を設け、中国語、サンスクリット語の練達と様々な筆法を修めて、直ぐに密教が学べる態勢を用意周到に整えていたことです。 
空海は、密教を学ぶ十分な予備知識と心構えを持って、万全な状態で青龍寺の恵果阿闍梨の弟子入りに臨みました。 
空海は書や文芸についても仏道修行の一環として熱心に研究しています。様々な書風や技巧を学び、その実力は本場の中国皇帝より「五筆和尚」の敬称を送られたことでも明らかです。空海は僅か二年の在唐中に中国人が驚愕するほどの書や漢文の達人の域に達していたのです。 
恵果はこのような西安での空海の評判を聞き知っていたのではないかと考えられます。空海の留学の目的が密教の受法と伝授にあることも風評によって聞き知っていたものと考えられます。 
空海と恵果の出会いの情景とエピソードが『御請来目録』に記されています。 
ここでは、恵果は余命の少ないことを自覚して、付法すべき適任者の出現を待ち望んでいたと考えられています。恵果は遠く東の国から渡海してきて密教の受法を願い出た日本の留学僧・空海を一目見て、その才能を見抜き、自らが受け継いできた密教の奥義をことごとく異国の留学僧に伝授しようと決意した、と見られています。 
恵果は、空海に「我先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。報命竭きなんと欲すれども、付法に人なし。必ず須らく速やかに香華を辨じて灌頂壇に入るべし」と語り、密教の劇的な縁を示しました。空海32歳のことです。 
空海と恵果の発菩提心戒の授戒や胎蔵生・金剛界の両部の伝法灌頂などの授法、阿闍梨位の認定までは6カ月間かけて行われています。空海の有縁の仏菩薩を定める密教儀式に於いて、目隠しをした空海が金剛界・胎蔵界の敷曼荼羅に導かれ投華得仏という儀式に臨んだところ、いずれの投華でも大日如来に落下するという不思議な縁で、恵果から「遍照金剛」の号を授けられました。 
この故事により、空海の法号が「南無大師遍照金剛」となったのです。 
師僧の恵果も、弟子の空海も常人ではない器の大きさが分かるエピソードです。空海に密教の法統を伝授した恵果はこの直後に60歳で遷化しました。 
空海と最澄は同一の遣唐使(804年)に随行した留学生でした。空海は自己負担で長期間(20年)学ぶ留学生として正統密教を、最澄は朝廷の命令により莫大な留学費用のすべてを国家から支給される待遇を受ける環学生(短期留学1年)として、天台教学(法華文句、法華玄義、摩訶止観など)を、それぞれ中国から持ち帰る目的を持っていました。 
空海が持ち帰った密教は統合性のある純粋密教でしたが、留学期限を待たずして目的を達成し僅か2年余で帰国したことで帰朝報告の入洛が4年余も許されませんでした。空海が太政官から入京を許可されたのは809年7月のことでした。 
密教はすでに最澄によりもたらされた(空海は二番煎じ)という事実があったことで希少性が損なわれたことは事実です。空海が帰朝報告を許されたのは遣唐判官の高階遠成を通じて『御請来目録』を朝廷に提出したこと、この中に書かれた密教文献の膨大な量と内容から正統密教への期待感が高まったこと、また、皇位の継承が平城天皇から嵯峨天皇に移ったことが大きく影響したと考えられています。 
空海の『御請来目録』の中身とは 
・新訳の教典   142部 247巻 
・梵字真言讃    42部  44巻 
・論疏章(注釈書) 32部 174巻 
・仏像、曼荼羅、密教法具 
など多数 
『御請来目録』から判ることは、まず、その多彩さです。これは、密教が単に教典や注釈書などを読んで理解できるものではないということです。密教儀礼には、梵字真言を唱え、仏像や曼荼羅を祀り、密教法具を用いるなど、誰が見ても識別できる分かりやすい特徴があります。これは、先人の僧が導入した顕教とは明らかに違う性格のものを請来したことが分かります。 
空海の請来した教典は、不空(恵果の師僧)の訳した教典が多いことです。不空訳の教典をたくさん持ち帰ったことが空海の密教の大きな特徴です。 
また、この目録に「密教の教えは奥深くて言葉や筆で表現しきれるものではない。だから、図画の形をかりてまだその奥深い教えを知らない人たちに示すのである」と書いた空海の注釈が印象的です。 
最澄は、ついでに禅や密教を学びましたが不完全なものでした。最澄の帰朝報告では中国天台宗の報告のついでに奉呈した密教教典に天皇や朝廷が予想外の大反響を示したので大変驚きました。その後、空海が持ち帰った密教の内容が『御請来目録』(今日の国宝や重要文化財を多数含む)として奉呈されたことで、最澄の密教が部分的で不完全なものであったことが判明しました。 
806年10月22日、空海が帰国後に最初に執筆して朝廷に提出した『御請来目録』には要所に説明がありますが、これによれば1密教は仏教の中でもっとも優れた教えである。2密教は即身成仏の教えである。3密教は鎮護国家の教えである。4密教は民衆の攘災招福の教えである。との説明があります。 
812年、空海は京都の高尾山寺(神護寺)において、日本最初の純粋密教の灌頂を行いましたが、この時、最澄とその門下生らが弟子となり初歩の灌頂を受けました。 
真面目な天才最澄はさすがです。なんと当時は格下の空海に弟子入りして2度の灌頂を受けています。しかし、最澄は密教が「師弟相承=面授」で行われることを理解できず、法華経と同様に経典を読んで理解できると考え数々の教典を空海から借覧することを繰り返しましたが、秘教の『理趣釈経』の借覧を空海から拒否されたことをきっかけとして二人の宗教観の微妙な相違点が大きくなり、交友関係は疎遠になりました。 
二人の密教の取り組み姿勢の根本的な相違点は、空海は「密教は五感の全てを駆使して学び、師の面授によって体得するものであり、文字や言葉を理解することではない。教典を読んで解かるというものではないのに、何故に教典や筆授にこだわるのか」と考え、最澄は「密教を学びたいために教典を借りて書写したいだけなのに貸してくれない」と考えたことにあると云われています。 
この事情が空海と最澄の7年間の交流を示す往復書簡である国宝の『風信帖』『忽恵帖』『忽披帖』『灌頂歴名』からありありと分かります。 
最澄が帰国後に目標としたものは1鑑真が定めた戒壇制度(全国3拠点「奈良・東大寺」「下野・薬師寺」「筑紫・観世音寺」で行う僧の認定制度)を改めること、2比叡山(一乗止観院)を「大乗戒壇」にして仏教アカデミーの拠点とすることでした。 
実は最澄は、空海が帰朝を許される以前の805年(延暦24年)に、勅命により、最澄が阿闍梨となって、奈良・南都六宗の高僧(道証・修円・勤操など)を無理やり集め、日本で初めて密教の灌頂を京都・高尾山寺(神護寺)で行い名声を得ました。しかし、このことは最澄にとっては驚きであったと思われます。なぜなら、最澄に密教の阿闍梨位の適正な資格があったかどうかといえば否定的だからです。
 
中期密教の成立 / 東密と台密

 

最澄の仏教界に占める地位や権威は入唐後にはもっと強力になっていました。 
ところが、最澄はとても困った事態に直面しました。ノイローゼで病床にあった桓武天皇から密教の祈祷や呪文で救ってほしいという切実な期待をされたのです。また、貴族たちからも法華経ではなく密教の加持祈祷のご利益を期待されてしまったのです。 
最澄は天皇の命令により密教の加持祈祷や儀礼を行わざるを得ませんでした。 
しかし、最澄の密教は中途半端なものでした。このような時に、空海が唐から本格的な密教を持ち帰ったのです。 
もし、最澄が完全な密教を持ち帰っていたら、最澄の運命は大きく変わったものになっていたはずです。 
空海は、能書家ゆえに嵯峨天皇のなみなみならぬ信頼を受け、真言密教を確立するための一つの手段としましたが、これによって空海の本質が損なわれることはありませんでした。 
空海は「密教の第一人者」、「文学・芸術(書)の大家」、「医療と漢方医学に精通」して非凡な才能を示し「民衆救済と社会福祉事業」で活躍して嵯峨天皇に重用されました。 
この頃、空海と最澄の立場がすでに逆転していたのではないかと云われています。 
かつて桓武天皇の内供奉に任じられた最澄は、嵯峨天皇の時代では空海の密教に完全に抑えられていたことが分かります。 
また最澄は、密教を修得させるため空海の下に派遣して修行をさせていた最愛の弟子「泰範」が密教に魅せられて空海の弟子となってしまったことで深い落胆をすることになりました。 
空海が年分度者を許可されたのは835年のことでした。空海の教団が成立したのは伝統的な説では807年とされていますが、弟子集団が成立したのは813年〜814年頃ではないかという有力説があります。 
806年、最澄は天台宗を認められ南都六宗に対抗できる存在となりました。これにより、最澄は朝廷に南都六宗と同様に国家公認の僧の授戒が独自に出来ることを朝廷に願いでました。 
天台宗が大乗戒壇院の設立を認められたのは、最澄の死後七日目のことでした。南都仏教界の妨害により、生前の実現が叶いませんでした。比叡山に延暦寺の戒壇院が設立されたのは、最澄の死後から五年後のことでした。 
天台宗は、年分度者として、遮那業(密教)1名、止観業(法華)1名の計2名を毎年、国家公認の僧として選出することを嵯峨天皇から認可されました。南都六宗以外からは初めてのことです。 
最澄が存命中は、比叡山には正統な密教は伝わりませんでした。 
最澄の滅後に天台座主となる直弟子「円仁」と孫弟子「円珍」が相次いで中国に密教を求めて留学し、比叡山に本格的な密教を請来することになります。 
台密の特徴は、空海の東密が『大日経』と『金剛頂経』を理智不二とするのに対し、両部の上に『蘇悉地経』を別に総括的にたてることです。これには東密から理論的に不要との批判があります。 
『蘇悉地経』にはサンスクリット原典が残っていないのでインドでの成立事情が不明です。この経は、所作を徹底的に整備するための儀軌書ですが、何故に、天台宗では『大日経』や『金剛頂経』の上に置いたのでしょうか。 
『蘇悉地経』には『大日経』や『金剛頂経』に匹敵する哲学がなく諸尊の配列もありません。しかし、両部の真言法(仏部・蓮華部・金剛部)を成就する修法の経としての観念が中国では青龍寺の義真、法全、比叡山の円仁、円珍、宗叡らの伝授の流れの中で形成され受け止められてきたものと考えられます。 
なお、『蘇悉地経』の教説主は執金剛、対向者は軍茶利、中尊は仏頂尊という特徴的な構成になっています。 
比叡山では、密教の解釈の相違により、円仁の門流は比叡山(山門派)を占拠し、円珍の門流(寺門派)は園城寺(三井寺)に追いやられ、その門弟たちは正統性を争い、骨肉の争いをすることになります。 
天台法華宗ともいわれる比叡山が密教の解釈の相違で二つに割れたのです。比叡山の密教の比重がどれほどに大きく妥協できない性質であったかがわかる出来事でした。 
円仁(慈覚大師・794-864))は最澄の弟子です。第17次遣唐使に随行し在唐9年の艱難辛苦の修行を行い、比叡山に蘇悉地経を請来して、台密を東密の『大日経』、『金剛頂教』に『蘇悉地経』を加えた三部構成にし、法華経を同列に扱い、東密に対する特色として台密の基礎を固めました。 
円仁の密教の特色は法華経や他の一乗教を密教に含め、三乗教を顕教に配するという特異な見解でした。東密の顕劣密勝の立場に対して劣性にあった天台の顕密観を示さねばならない宿命によるものですが相当に無理を重ねた見解です。 
円仁は天台宗第3代座主となり、天台宗を10年間指導しました。 
最澄や空海が入唐した9世紀初頭には蘇悉地経には両部と同等の評価はありませんでしたが、円仁が入唐したころ中国では蘇悉地法が最盛期であったことの影響だと考えられます。 
円珍(智証大師・814-891)は天台初代座主義真の弟子です。遣唐使の派遣が中止されていたため唐の貿易船に便乗して中国にわたり6年間天台山や青龍寺で学びました。延暦寺別院・園城寺(三井寺)の初代別当となり、五代天台座主を歴任し、天台密教を完成させ、根本中堂の改造に着手して比叡山の伽藍配置を現在の形にしました。円珍は空海の甥(妹の子)といわれています。 
円珍は、円仁の密教観を継承しつつも円教(法華経)に対する密教の優位性(円劣密勝)を大胆に主張しています。 
ちなみに、比叡山の根本中堂は密教壇で荘厳され日々の儀式は密教儀礼で行われています。密教では、最澄は空海の弟子として灌頂を受けています。最澄は円(法華)密一致の立場でした。矛盾するものと捉えていませんでした。 
最澄の後継者である「円仁」「「円珍」は比叡山が密教に於いて、純粋密教の正統な血脈相承者である空海の高野山や東寺に見劣りしている現状を憂いて相次いで中国に留学し整合性のある密教を導入する努力を続けたので比叡山は著しく密教に傾斜することになりました。 
比叡山は、平安時代から戦国時代まで何度も武装した僧兵が京都市中に乱入して朝廷に強訴するなど政治介入を繰り返した歴史を持っています。織田信長に反抗して無謀な政治的介入を繰り返し、全山の焼き打ちという前代未聞の壊滅的な打撃を受けましたが、これらは法華一乗の思想をもって朝廷も武家も恐れ入らせることができると過信したからだと考えられています。 
比叡山は政治に介入する悪癖を濃厚に持つ歴史に彩られています。 
天台密教を完成させたのは五大院「安然」でした。安然は円仁の弟子ですが、最澄の一族でもあります。安然は相反するものと思われた法華と密教を統合する理論を打ち立て、天台密教を確立した学匠です。密教を中心にすべての仏教を統一する一元論を説き天台密教を大成させました。 
安然の教学思想の特色は、その著作の『真言宗教時義』や『菩提心義』などに示されていますが、蔵教・通教・別教の三乗教や法華・華厳の円教の上に密教の優位を位置付ける五時教判によって、一切の仏教を密教によって統合するものでした。 
如来隋自意の立場から見ればあらゆる教えはすべては密教に帰納するという立場で、台密の教義は、密教を中心に置きつつ天台法華教学との融合、一致を模索するものでした。安然はこれが密教の本質と捉えたのです。安然は天台宗の名を廃して真言宗の名を用い、台密の教理を完成させました。 
台密の流れは、良源、覚超、皇慶、覚運、源信などに引き継がれ、密教の修法を中心にして比叡山を発展させました。 
比叡山では、覚超の流派が横川を修行場所としたので「川流」と呼ばれ、皇慶の流派は東塔南谷を修行場所としたので「谷流」と呼ばれました。谷流は時代とともに分派を重ねています。 
比叡山延暦寺は密教化により護国の大法を修する王城鎮護の寺として発展を遂げましたが、後に法華一乗の立場からこれを批判する勢力が現れました。 
比叡山には密教を中心とする「遮那業」と法華経を中心とする「止観業」の二つの側面があります。中心が二つあることは、折に触れて何かと問題が発生しやすいといことでもあります。これが天台宗の限界です。比叡山は今後とも密教と法華の間で彷徨うほかないと考えられます。
 
後期密教の成立 / チベット仏教

 

インドでは、7世紀から12世紀にかけて、密教が全盛期を迎えましたが、8世紀以降の後期密教の時代には『大日経』系の密教はほとんど展開せず、『金剛頂経』系の密教がタントリズムの隆盛とあいまって目覚ましい展開を見せました。 
しかし、1203年頃、密教の最大寺院ビクラマシーラ寺がイスラム教徒に破壊され、このときインド密教が終焉したとされています。 
12世紀頃までに成立した後期密教を「タントラ密教」といい、後期密教はインドからチベットに伝播され、チベットの民族宗教のボン教などと混交して独自のチベット密教を形成しています。この流れは、チベット周辺国、モンゴル、ロシアに伝播されました。 
日本密教は後期密教の影響を全く受けていません。後期密教の特徴の一つに性的儀礼がありますが、これは理論上から導かれる観念的な瞑想法です。実際にこのような性的行為を修行として取り上げる密教僧がいないのは当然です。この行法は精神的に高度な瞑想法です。 
後期密教が中国に伝わらなかった原因には、中国が独自文化(儒教・道教・大乗仏教・中期密教など)を持ち社会的な価値観が安定していて、生理的・性的な実践法を受け入れる社会的な宗教土壌がなかったことです。 
今日でも日本に後期密教が受け入れられていないのは、空海を始め密教の請来者が意図的に否定してきたこと、また、日本の社会風俗の習慣、価値観の違いによるものだと考えられます。 
チベット密教はインド後期密教をそのまま受け継いると考えられていますが、民族宗教(ボン教など)との混交習合も相当に進んでいるものと考えられます。 
チベット密教といえば、ヤブユム(yab-yum)という男女合体像があまりにも有名です。無知な人々は、あたかもこの像が淫祀邪教の如くに誤解して好奇の目で見ています。しかし、これらの像立はインド後期密教を受け入れた8世紀以降のチベット的変貌であり、チベット密教の基本理念は「金剛頂経」系統のインド密教を継承するものです。 
大乗仏教がチベットに伝えられたのは7世紀のことです。ネパールと中国から伝播されたのですが、8世紀頃から本格的な仏教の移植が始まりました。 
初期のチベット仏教は王室と貴族を中心とする国家体制を擁護することが主目的でした。日本やアジア諸国と同様に「金光明経」が篤く崇拝されました。 
8世紀後半からインド密教の移植が始まりましたが、王室の安泰に危険性を与えるものと見做されて忌避されたことで初期及び中期密教が選択された経緯がありましたました。また、9世紀には仏教が迫害されその勢力は一時的に失われることがありましたが、11世紀の初頭から仏教の復興が始まりました。 
9世紀までのチベット仏教は顕教が優勢でしたが。11世紀以降になると仏教は王室の援助を失い、民衆との接点を重視するようになりました。チベット仏教は多数の宗派に別れ、それぞれが学問的な伝統を形成しました。 
各派は顕教や密教の経典を依経としましたが、次第に戒律と顕教、密教の融合に関心を持つようになりました。顕教の上に密教を位置付け、密教の学習は顕教を一通り理解できるレベルに達した少数のエリートのみに許されました。 
チベット密教の分類法は、これまでの研究の成果では密教の分類法としてはより進んだ分類と考えられています。 
第一期「作タントラ」 
現世利益的な要素の強い祈願的な修法の作法を中心とする特徴があります。呪法、陀羅尼、印契の作法などです。 
第二期「行タントラ」 
修法に加え理論づけを行って修行と理論の両面を説きます。 
大日如来が即身成仏について語る『大日経』はこの行タントラの基本経典です。 
第三期「瑜伽タントラ」 
ヨーガ(サマーディ)を中心とするもので、禅定により精神を統一し、仏と修行者が合一することを目指すものです。 
大日如来が即身成仏の実践法を語る『初会金剛頂経』はこの「瑜伽タントラ」の基本経典です。 
第四期「無上瑜伽タントラ」 
これが8−10世紀の後期密教といわれるチベット密教の立場を特徴的に示すものです。 
中国・日本の密教伝道者たちが意識的に受け入れなかった秘教であり、日本密教に全く影響が無い範疇にあるものです。 
この中には快楽思想とか、左道密教といわれる生理的・性的儀礼を含むタントリズムに特徴があります。インド、欧米の学者が研究する密教の領域はほとんどがこの無上瑜伽タントラです。 
無上瑜伽タントラの基本経典は、方便(大悲)・父タントラ系の『秘密集会タントラ』、般若(空性)・母タントラ系の『呼金剛タントラ』、不二タントラ系の『カーラチャクラ(時輪)タントラ』の三つに細分されます。不二タントラは父・母の両タントラを統合した系統を云います。 
チベット密教では、経典や諸仏・諸菩薩が様変わりして、修行の行法や実践法にも大きな変化が現れます。インド後期密教の受容がチベット土着の習俗を濃厚に持つ既存宗教(ボン教など)と混交したからだと考えられています。 
これらのチベット特有の変化は、社会風土の異なる人々には、まるで別種の密教のような異様な印象を抱かせるものです。精神は外形ではなく中身で判断すべきことは十分承知していても、なお、一般的には否めない違和感が残るものと考えられます。 
『父タントラ』、『秘密集会タントラ』『ヴァジュラバイラヴァ・タントラ』の系統は、チベット密教特有の「秘密仏」を対象として生理的行法を実践法とするようになりました。 
『母タントラ』『ヘーヴァジュラ・タントラ』『サンヴァラ・タントラ』の系統は、「秘密仏」を対象として性的行法を実践法とするようになります。 
「秘密仏」は各実践法に合わせたと考えられる像立に特徴があり、中国・日本の仏像とは全く異相の姿形を持つ仏像です。 
観音像は法華経(観音経)の観音とは様変わりした女性観音「タ―ラ」が登場します。チベットでは、「タ―ラ」は威力を示す観音として人々から篤く信仰されています。 
『父タントラ』と『母タントラ』を統合した『カーラチャクラ(時輪)タントラ』では、智慧と慈悲という菩提心に関わる心の在り方の両側面の多様性が父・母不二タントラとして止揚されています。 
チベット密教の特徴は、無上瑜伽タントラに「生起次第」という曼荼羅の生成過程をリアルに観想し、性的ヨーガによって万物を生みだす秘儀を詳細に解き明かす瞑想をすることにあります。 
この目的は、日常の固定観念や様々に彩られた現実の価値観を粉砕(凡常の慢を退治する)して視点を転換させる意識革命にあるといわれています。 
ツオンカパは、これは「空性観」を修得するためであると明快に示しています。 
その次の階梯が「究竟次第」です。此れは究極のプロセスといわれるもので、「空性観」を修得するために修道中もっとも重要なものとされています。 
この相承は厳格を極め、このチベット密教の奥義に入れる者は師僧によってその能力が認定された極少数の選ばれた弟子に限られています。 
究竟次第の修道目的は風(ルン)を伴った意識の働きを知り、森羅万象を支配している光(ブッダ)の本性(実存する真理=勝義の光明)を悟ることにあるとされています。 
この「究竟次第」では、身心にあらゆる現象が明確に生起してくるので現実的な対応の経験なくしては理解できない身体意識に取り憑かれ始めるといいます。 
これに十分に対応できる方法をシュミレーションによって訓練し備えておかなければなりません。 
そのため瞑想による風(ルン)のコントロールに習熟しなければならず、「死者の書」を基礎知識として「生起次第」を繰り返し修道し、次第の完成をさせなければなりません。、 
チベット密教では、釈迦はこのような瞑想によってブッダとなったと考えられています。 
密教では人間の身体を小宇宙とみなし、一切の真理のよりどころと考えます。そして、人間と一切の森羅万象の大宇宙と合一させる観想方法を考えました。 
『大日経』の観想方法の特色は、五字を身体の五カ処に布置する「五字厳身観」です。金剛頂系の『真実摂経』の観想方法は「五相成身観」といいます。 
父タントラ系と母タントラ系は、もともと起源や基盤を異にする実践体系です。無上瑜伽タントラ系の体系化によって止揚されたものです。 
方便・父タントラ系では、大宇宙である法身を展開して、五仏・四明妃・八菩薩などを現実世界を構成する蘊処界に配して、これらを究極的には無自性空・清浄光明と観想して小宇宙と大宇宙の合一に至ります。 
般若・母タントラ系では、行者の身体に抑圧を加え、生気の環流する脈管と霊の中心である輪を支配し、菩提心を下位から次第に上昇させる観想によって、小宇宙と大宇宙が合一する不変の大楽を得る境地に至ります。 
母タントラ系の修道システムは、ヒンズー教のシャクティ派の色彩の影響が見られますが、大乗仏教の基本姿勢としての般若・空性と方便・大悲の合一する菩提心の獲得を目的とする点で、ヒンズー教とは一線を画しています。 
中国に後期密教の無上瑜伽タントラ系の教典が受容されなかった理由は、道教や儒経の価値観が形成されていて、中国社会の風俗習慣に無上瑜伽の性的修法を受け入れる土壌が無く消極的な態度をとらせたものと考えられます。 
中国最大の大帝国を建設した元朝は、チベット密教に篤く帰依し極端な保護政策を実施したので中国各地にチベット密教が急速に拡大しました。 
中国密教は元朝以降にチベット密教が主導権を握りましたが、元朝の滅亡後には次第に衰退していきました。中国には老荘思想が人々に定着していたので、老荘思想と異なる外来思想が定着できる社会環境を整えることは困難を極めたのです。 
チベットでは観音は特別な意味を持ちます。ゲルク派の法王は長年、チベットの国家元首として君臨しましたが、代々のダライラマ(現在は14世)は観音の再誕として転生を信じられた存在です。 
ちなみに、第二位のパンチェンラマは阿弥陀如来の転生と信じられています。 
ダライラマとパンチェンラマはそれぞれが同一人物(仏)の間で代々に継承されてきたことになります。 
このような転生活仏思想は、チベットの特性の民族性によるものと考えられます。 
チベットでは、師僧(ラマ)をことのほか尊ぶ伝統があります。この考えから、優れたラマは仏の化身として転生を繰り返し衆生を導くものと考えられたのです。 
15世紀、ゲルク派、カルマ派は転生活仏を宗派の指導者と定めました。 
1578年、ゲルク派のソナム・ギャンツオがモンゴルのアルタン・ハーンからダライ・ラマ(大海)の称号を受けたことにより、次代の転生者が全チベットを統一し、政教一致のダライ・ラマ政権が成立しました。これ以後、ダライ・ラマの転生者がチベットの宗教・政治の最高指導者とされましたが、現在のダライ・ラマ14世は中国のチベット侵攻に抵抗してインドに亡命しました。 
ダライ・ラマ14世は、世界各国を歴訪して講演を行って世界平和とチベット独立運動の理解を求める旅を続けています。
 
真言密教 / 空海

 

空海の密教(真言密教)の思想的な体系化は、三部書といわれる『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』の著作によって、その教理的な基盤が構築されました。 
真言密教は、空海の深い思索によって再構築された独自性のある日本密教の思想体系です。 
真言密教の特質は、1説主(大日如来)、2教説(法身説法)、3実践の可能性(菩提心・三昧耶)、4実践の超時空性(三密瑜伽)、5利益、にあります。 
「菩提心」と「三昧耶」そして「三密瑜伽」は真言密教の根本思想を示す特徴的な概念であり、眼目です。菩提心は梵字のbodhi-cittaの音写で「阿耨多羅三藐三菩提」という最上の仏の悟りを求める心をいいます。                                          三昧耶は梵字のsamayaの音写で仏と衆生が本来的に平等であることをいい、また、一切衆生を救い尽くす仏の本誓を意味する言葉です。なお、三密瑜伽は下記のとおりです。 
これらの言葉は密教の教えの持つ包括性と寛容な価値観に彩られています。 
空海の真言密教の教理の中核は「六大・四曼・三密」に要約されています。空海は即身成仏の論を『即身成仏義』と二経一論八個の証文(『金剛頂経』四文、『大日経』二文、『菩提心論』二文)を引くことによって説明しています。 
ついで、次の「二頌八句の偈」によってそのプロセスを語っています。 
「六大無碍にして常に瑜伽なり、四種曼荼各々離れず、 
三密加持すれば速疾に顕る、重重帝網なるを即身と名ずく。 
法然に薩般若を具足し、心数心王刹塵に過ぎたり、 
各々五智無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり。」 
この短い二頌八句の偈頌は「即身成仏」の内容を語るものですが、「六大」「四曼荼羅」「三密」は真言密教の教理の真髄を語るものと考えられています。                     これを適切に解説することは困難ですが、2〜3の解説本を参考にして意訳すれば、次のような内容になると考えます。 
インドに発生した仏教では、宇宙の本体は宇宙を構成する6つの要素であると考えます。この思想では、宇宙は色(地・水・火・風・空=物質)と心(識=精神)が渾然一体となった実相(瑜伽)であると考えられています。                                      この6つの構成要素(六大)はさえぎるものがなく、永遠に融け合って結びつき、万物を構成する本質的な要素であると考えられています。 
宇宙も大日如来も私たち人間もこの六大が深く密接に結びついたもの(瑜伽)であり、瑜伽の中であらゆる生命体が生かされ、それが集まって世界が構成されている。            大日如如来の慈悲と智慧がこの世界を包み込んでいると空海は考えます。六大の活動的な事実を持って宇宙の実在、万物の実在と考えるのです。 
大日如来は宇宙の根源仏として、すべての如来、すべての菩薩を統合する存在です。大日如来は宇宙を形成する原理そのものを示す存在ですが、本来的には姿も形もありません。しかし、草木や動物、人間やあらゆる生命に宿り、現われる存在と見做されます。 
あらゆる現象や真理を認識する智慧は大日如来から生まれ、人が修行によってこの智慧を修得すれば、大日如来と一体になれると空海は主張しました。即身成仏の思想の基盤はこのような考えによるものです。 
宇宙を構成する六大は眼で見ることができません。四種の曼荼羅は宇宙の相をその働きによって可視化したものであり、六大を捉える手段としての役割を持つものです。 
四曼とは、1「大曼荼羅(形の相)」といい、宇宙が大日如来の形となって現われる全体を表すもの、2「三昧耶曼荼羅(姿・形の奥にある意味や働きの相)」という法具蓮華など仏の持ち物で象徴的に表わすもの、3「法曼荼羅(音声の相)」といって仏菩薩などを真言で象徴し梵字(これを「種字」といい「種字曼荼羅」とも云う)で表わすもの、4「羯磨曼荼羅(宇宙の活動の相)」という仏の活動を立体的に表現するものです。 
宇宙は絶え間なく変化する働きに満ちています。人はこの四曼を心に念じることにより宇宙を観想し捉えることが可能になるとし、空海はこの変化を捉える手段として「三密」を主張します。 
三密とは、1「身密」(印を結ぶこと=手の形によって宇宙の活動を表す)、2「口密(真言を唱えること=言葉の持つ力を表す)、3「意密(瞑想すること=宇宙の調和と秩序を図る為の働き)」をいい、宇宙の絶え間なく変化する働きや現象を三密という行為によって把握するためのものです。 
人は、真言を唱えることによって宇宙のエネルギーを発し、大日如来と一体になれたり、大きな力を身につけることができる、と空海は考えたのです。 
仏と私たちの身体、言葉、心の働きが不思議な働きによって感応するとき、速やかに悟りの世界という質的な変化が現れる。あたかも帝釈天が持つ天網のように幾重にも重なり合いながら、映じ合うことを名づけて即身という。 
あらゆるものは、あるがままに、計り知れない多くの仏の姿をしていて、一切の智慧を備えている。すべての人々には各々に「心の作用」や「心の主体」が備わって数限りなく存在している。 
心の作用、心の主体のそれぞれに五智如来(「金剛界の五仏=1大日如来・2阿閦如来・3宝生如来・4阿弥陀如来・5不空成就(釈迦如来)」)の智慧と際限のない智慧(五智=無際智=大日如来の智)が備わり何一つ欠けるものは無い。 
これらの智慧を持って、すべてを映し出す鏡のように照らすとき、真理に目覚めた智者となる。 
そのポイントは三密加持(三密瑜伽)にあると空海はいいます。 
716年、中インドから入唐した「善無為」が、法華経を凌ぐ教え『大日経』(正式名称は『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます)の解釈書(論)を洛陽に於いて著しました。 
また、720年には、インドから渡来した「金剛智」により『大日経』を凌ぐ最高教典『金剛頂経』が長安にもたらされました。 
この両経は真言密教で「両部の大経」とされる根本教典ですが、これにより「即身成仏」の理論体系が整えられました。 
両教は別々の密教の流れの中でそれぞれが継承されましたが、この両教の正式な継承者である中国・青龍寺の恵果阿闍梨から空海が伝法の灌頂を受けたことはすでに述べました。 
真言密教の修行の中核は『大日経』の「入真言門住心品第一」に、金剛薩埵の「仏の智慧とは何か」という問いに対し、大日如来が「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟」と答えた記述にあります。                                                    これは三句の法門(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす)といいます。 
菩提心とは「白淨信心(白く清らかで信じて疑わない心)」といい、仏性・如来蔵とも言います。大悲とは、一切の苦を抜く無量の楽を施す(抜苦与楽)ことをいいます。             方便は他を利益する働きをいい、具体的には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や四摂法(布施・愛語・利行・同事)などを指すと考えられています。 
この「三句の法門」を理解する前提となるものが密教の核心ともいえる「如実知自心(実の如く自身を知る)」です。如実知自心は「ありのままに悉く自らの心を知る」ことであり、これを正しく知ることが密教の修業目的となる概念です。                              密教の修業は「三密加持」によって示されるもので阿耨多羅三藐三菩提(この上ない正しい完全な悟り、無上正等覚ともいう)を目指すものです。 
三句の法門を端的に表現すれば、第一に「悟りを求める心(発心の句)」を出発点として、第二に、そのためには「優しい思いやりの心を養うこと(修業の句)」を根本にして、第三に、最終的には工夫をして「世のため、人のために尽くす(証果の句)」ことが求められる結果でなければならない、ということです。 
「方便」とは釈迦が示した実際的な救済方法の中核となる概念です。釈迦は救いを求めてくる人の理解力や苦悩の現実性に即した救済をこころがけました。                  救済には存在するものの本質を見抜く知恵を持ち、ものごとの特性を見分けて対応する方便が必要とされたのです。 
三密加持とは、「手に仏の本誓を示す印契を結び、口に仏の教えである真言を唱え、心を静め清めて仏の悟りの境地に入るように努める」ことをいいます。 
[三密」とは身密、口密、意密をいい、身体と言葉と心の三種の働きをいいます。大日如来には色も形も活動もあり、あらゆる場所で、あらゆるときに説法し続けていると考えることが密教と顕教との考えの違いです。 
しかし、大日如来の説法は無目的で効果を期待する説法ではありません。故に、この説法を把握して自らの宗教体験に生かす法の受け取り手(金剛薩埵)が必要です。          次にその体験を伝えて現実社会の中に具体的に示して人々に役立てうる付法の阿闍梨の出現が必要です。 
「加持」とは、加は仏の大悲の力、持は衆生の信心の力をいいます。「衆生の信心の力」と「仏の大悲の力」とが結合して法界(大宇宙)に働きかける力となって祈りが成就する、と考えられたのです。顕教には加持という考えはありません。 
しかし、思うままの結果が得られる精神の集中は簡単ではありません。そこで、「月輪観」「阿字観」などの基礎的な瞑想法や「五相成身観」などの観想を日々訓練する必要があります。 
釈迦仏教では、凡夫の意識や行為・経験は「身・口・意の三業」と考えられました。しかし、密教では、その本性から見れば、凡夫の三業も仏の三密と異なるものではないと考えます。 
そこで、法身仏(大日如来)の三密と加持感応すれば凡夫の三業が浄化されて、三業がそのまま三密となり、仏と我とが「入我我入」して即身成仏すると考えるのです。これを「三密加持の妙行」といいます。 
密教経典の特徴は、顕教のような「教え」だけでなく、「成仏に至る修行方法」を具体的に語ることです。 
仏教経典を仕分ければ、「教えが文字によって表されている教典」を顕教といいます。    顕教の教典は「スートラ」といいます。これに対し、密教経典の大部分は「タントラ」といいます。 
顕密ともに、教典や「経・律・論」の語句や難しい解釈には基本的な解釈論を学ぶことが必須とされています。 
例えば、天台では『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』など、真言密教では『釈摩訶衍論』や『菩提心論』などがこれにあたります。
阿字観(あじかん)
密教の根本経典の一つである『大日経』において初出し、主に密教において説かれる瞑想法であり、日本では、平安時代の弘法大師空海によって伝えられたとするものを指す。  
阿字観は、歴史上の弘法大師空海の伝とされる事相の中で、現存する数少ない遺法の一つとされる。一般にはあまり知られていないが日本の密教で事相と呼ばれるものは、いわゆる全て「四度立て」の修法(修道)を基本としているが、これは実際には空海以来の直伝ではなく、平安末期の興教大師覚鑁の著作をもとにして、後の鎌倉時代から始まったものである。  
平安密教の終焉は、相次ぐ戦乱や飢饉に加え元暦2年に京都一帯を襲った大震災によって、首都機能は崩壊して時の貴族政権が倒れただけでなく、国家仏教(平安仏教)であった真言宗と天台宗は共に、主要な施設と人材に甚大な被害を受けたことによる。これに対して真言宗を例に挙げると、施設面では神護寺中興の祖といわれる文覚上人が、次政権の源頼朝の援助によって京都地区の寺院や東寺・神護寺・高野山等の寺院を復興し、事相面では鎌倉時代になり興教大師覚鑁の「十八道念誦次第」等を資料として、後の明恵上人らによって主な文献から復興・復元されたものであり、また、現行のものは鎌倉時代の興正菩薩叡尊に始まる「戒律復興運動」によって事相面での発展をみた江戸時代になって、霊雲寺の浄厳らの碩学により大成された事相の内容を踏襲し、題名と内容とは必ずしも一致するものではなく、儀式の流れを重視した新しい別のものとなっている。  
これに対して、「古密教」の事相の中には、歴史的な変動をかい潜って今に伝わるものがあり、その代表的な修法の一つが阿字観であり、他に『十八契印』の修法的な内容を伝える「護身法」や、『吽字義』の実践法の一種「吽字観」等々が挙げられる。  
阿字観は別名を阿字観ヨーガ・密教ヨーガとも言うが、現代では中国密教における古法に属する「唐密宗」(唐密:タンミィ)と、チベット仏教のニンマ派の大成就法である「ゾクチェン」にも、異なる密教の阿字観が伝承されていることが報告されている。  
日本の真言宗の事相では、大日如来を表す梵字が月輪の中、蓮華の上に描かれた軸を見つめて、姿勢と呼吸を整え瞑想する。この際に、阿字を描く形式上に「金剛界」の阿字と、「胎蔵界」の阿字があるとされているが、これは覚鑁の著作に始まるもので、原典の『大日経』によるものではない。 元々は真言宗の僧侶が修行の方法として実践していたもので、真言寺院に伝えられていた。トレーニングの瞑想法として同法に「数息観すそくかん]」、「阿息観あそくかん」、「月輪観がちりんかん」等がある。  
これに関連した密教の瞑想として、同じく『大日経』に基づく『胎蔵界法』に見える各種の「五輪観」や、加えて「十八契印」に基づく『護身法』と、『金剛薩埵厳身観』に基づく「三密観」がある。  
一般の寺院では今はもう行なわれていないが、古式には「阿字観」を授ける前に『護身法加行』があり、「護身法折紙」や「護身法切紙」を授けた。また、『理趣経加行』もあって、そこでは特別に『金剛薩埵厳身観』の「口伝」や「切紙」を授けたりもした。  
阿字観の功徳  
阿字観について、古典の一つ『阿字義』には「阿字観の効能」として以下のように述べている。現行の阿字観と、古法の阿字観の違いが感じられて興味深いものがある。  
阿字の効能について、もし、初心の行者がこの『阿字観』を感想する時に、自身の心が未だ(覚りも、仏も分からずに)純粋な境地や、しっかりとした禅定が得られていないならば、まず最初に仏画としての「蓮華」を描き、次に「月輪」を描き、その中に「阿字」を書いて軸装して目の前に掲げて、観想(瞑想)するべきである。もし、その人がこの観想に熟達したならば、この「阿字」が心中より光を放って、あまねく三世十方法界の諸仏の浄土に届く。その際に、この光は瑜伽行者の頭頂から足先まで体中を巡ることになる。つまりは、この「阿字」を明らかに観想できれば、六根の諸々の罪業と障害が全て清められて清浄となる。また、六根が清浄になり無垢であれば、心の本質(心性)も無垢清浄となり、例えば、透明な水晶や清らかな満月のようなものとなる。この状態で、(瑜伽行者が)世間における六道の輪廻に目を転じた際には、一切の草や木にいたるまでが砕け散り、おおよそ外境としてあらわれる(幻影の)全てが破れ去ってしまうものである。この『阿字観』を修すると、このようによく一切の煩悩を除くことになり、それによりあらゆる効能がある。何故かというと、「八葉」を観想して多くもせず、少なくもしない(この「八葉」ということが肝心で)おおよそ人の心の形(心輪:心臓のチャクラ)は、八葉の蓮華の花が未だ開かないような形(未敷蓮華の形)をしており、八方に分かれた筋(輪線:脈管のこと)があり、男性は上に向かって開き、女性は下に向かって開いている。今、この心を観想して、それを開く(開敷蓮華の形)のである。また、その際の「八葉」は(観想により本尊法における『胎蔵界』の中台八葉の)四仏四菩薩である。心髄が具足するか、しないかは、すべてその(瑜伽行者の)心にかかっている。蓮華三昧の心が、もし、開くときには、無量の法門が具足する。それらは例えば、百八の三昧(瞑想)の法門、五百の陀羅尼(真言)の法門等である。このようにして、無量無辺の法門が具足しないということがないのである。またもし諸仏を見たいという人、諸仏を(直接に)供養したいと思う人、菩提(覚り)を証発(証得)しようと思う人、諸々の菩薩と同じように生きて行きたいと思う人、一切衆生を利益しようと思う人、一切の悉地を得たいと思う人、一切智を得たいと思う人、これらの人は更に他の方法や瞑想法を求める必要はない。まさに唯々、この『阿字観』を観想するべきである。一切衆生の自らの心は、元から今に至るまで清浄であるけれども、無明によって覆い隠されていて、その心の状態を言い表すことはできない。もし、この心を清めることができれば、すなわち、その心は(『大日経』に説く)「胎蔵界曼荼羅」となって現出する。(この曼荼羅は)他の場所から持って来たのではない。更にまた、「阿字」も他から来たのではない。唯々、心より生じたものである。禅定を修して、その心はようやく清くなる。そして、心が清浄になるが故に「阿字」もまた心中に現出する。つまりは「阿字」の法門に入るが故に、(瑜伽行者は)大果報を得る。(その境地は)他人が授けることができるものではない。もし、短命の人が日々の三時(朝・昼・夜)に、この「阿字」について考え、観想すれば、長寿を得ることができる。もし、出る息と入る息の中にこの「阿字」を観想すれば、壽命は伸び、いつまでも健康を保ち続ける。これは、この「阿字」の菩提心は(金剛界法と違って)不生不滅の法門だからである。また、出る息と、入る息を工夫する場合には、鼻の先15センチの所に、この「阿字」を観想することである。この観想による功徳はというと、  
1.下品の成就ならば、死の間際に当たる人が、むしろ生き返る。  
2.中品の成就ならば、虚空に昇るが如き大自在の境地を得る。  
3.上品の成就ならば、すなわち「無上正等覚」に至る。
 
顕教と密教の違い

 

大乗仏教の最終形として7〜8世紀に登場した密教の本質は、顕教との違いを理解することによって明らかになります。 
顕教と密教の大きな違いは1仏身観(教主)、2仏が説く法の内容、3成仏観(その捉え方)、4教主の言葉の違い、などにあると考えられています。 
実は、顕教という言葉は、密教と対比する意図をもって弘法大師・空海によって造られた言葉でした。「成仏の意味内容」「成仏の捉え方」「成仏に至る修道方法」などの違いを説明するために考えられたものです。 
伝統的な大乗仏教(顕教)では、仏に成ること(成仏)を「智慧の完成」と捉え、真理や実相の知的な認識や獲得が成仏であると考えました。 
これに対し、空海の密教では、成仏とは仏の智慧を実践することであり、仏として為すべき行為を(現実の社会の中で)実行することであると捉えました。 
密教では、「智慧の完成」は入り口でしかなく、仏の行為を為すことが仏に成ることであると捉えられたのです。 
仏(本尊または根本尊形)の存在をどのように観るかという仏身論(観)があります。 
仏身論は、「仏陀とは何か」という仏教では避けて通れない本質的な問題を論じるものです。 
仏教徒であれば無関心ではいられない根本的な原理原則論といえるものです。 
釈迦の滅後、成仏して不死の存在となったと考えられた釈迦が死んだという事実に衝撃を受けた仏教徒は、この事実を受け止めなければなりませんでした。仏教徒はブッダの存在性、その在り方を再確認する必要性に迫られたのです。 
そこで、釈迦が肉体を持つ実在の両親から生まれた事実としての存在=1肉体(色身)を持つ釈尊だけでなく、悟りを開いた釈尊は肉体を超越した存在=2悟りを内容とする法身であるとする二面性を釈尊の存在性として認識したのです。この考えは、肉体(色身)は滅んでも悟りの内容(法身)=精神内容は永遠と考えるものです。 
次に、精神内容が普遍性(永遠性)であるならば、過去にもその理を覚ったブッダ(過去仏)が存在したに違いない、と考えたのは道理です。 
ここから過去七仏が登場することになりますが、これらのブッダ(仏)はすべて智慧の光に満ちて、あらゆる場所に普遍的に存在する法身と目に見える肉体を持つ色身の二面性(二身説)の存在と考えられました。 
過去七仏の縁起を受けて現在仏が生起し、あらゆる世界の普遍の原理をあるがままに覚ることで未来仏(弥勒仏)が生起する悟りの世界の永遠性が認識されたのです。 
やがて、ブッダの考察の結果次のような三身説に収斂されました。 
1悟りそのものを身体とするブッダ(自性身)⇒悟った法を体現している=法身 
2悟りの法味を享受するブッダ(受容身)⇒過去の善行の報いによって得た=報身 
報身は「自受用身(悟りの法味を自ら享受する)」と「他受用身(菩薩に享受させる)」に 
分けられます。 
3衆生を救済するために肉体を持って現れたブッダ(変化身)⇒衆生の苦悩に応じて現れる=応身 
仏陀の捉え方は、特定の仏教教団の性格や本質を識別する評価基準となるものです。 
例えばある宗教団体が本物の仏教教団といえるかどうかを判定する評価基準となるものであり、仏教教団の構造や性格を自ら語ることになるものです。 
特定の既存教団が内包する仏身論は、その宗教団体の存在観や普遍性、そして妥当性を自ら語るという本質論を明らかにするものと考えられます。 
顕教の特長は、菩薩の修業によって諸法(宇宙観)の真理や実相を覚りその内容を「法」として「仏の身」と捉えたことにあります。菩薩の誓願を完成した報いを成仏(仏)と見て、これを仏陀といいます。仏陀は人の身であったので明らかに「人身」です。 
よって、修業の動機などの諸要素が菩薩の誓願や修業内容の違いとなって現れ、顕教の仏身論の内容や性格が定まります。 
なお、論理的にいえば、菩薩の修行者はどのような誓願を完成させようとも「応身」か「報身」であり、「法身」(宇宙の真理・実相の当体=根本仏)と見做すことはできません。人の身であった者を法身に仕立て上げることはできません。各宗の祖師や新興宗教団体のリーダーを法身になぞらえる戯論は否定すべきものです。 
密教の仏は宇宙の真理・実相を「法」(仏身)ととらえる「法身」です。密教では大日如来(毘盧遮那仏)を法身如来とし、諸仏・諸菩薩・明王などをその分身とするパンテオン(金剛界と胎蔵界の両曼荼羅)を形成しています。 
仏の説法、教説は顕教と密教では異なります。 
仏の覚った法(真理・実相)は、顕教の教主は人であるところから、人が人に法を説くという在り方(対機説法)になり教主の覚った果分(智慧の内容)は間接的にしか伝わりません。これを「果分不可説」といいます。 
密教の教主は法そのものであり、法である仏が人に直接に法を説くというあり方(法身説法)になります。これを「果分可説」といいます。 
顕教と密教は成仏の捉え方に違いがあります。顕教では、仏と成る智慧の完成(成仏)は、菩薩の修業により善行や福徳、智慧などを三劫という果てしなく長い所要時間をかけて積み重ねることによって成仏が可能になると考えていますが、これを「三劫成仏」と言います。 
これに対し、密教では、成仏とは「仏の行為をなすこと」と捉え、佛の智慧を実践すること、仏として為すべき行為を実行することと考えます。これが真言密教の成仏観であり「即身成仏」の思想です。 
仏の説法の形式の違いは、顕教と密教の教主の「ことば」の違いにあります。 
顕教の教主の「ことば」は、人である仏(応身仏または報身仏)が人である衆生に語りかけている「ことば」です。 
密教の「ことば」は人の「ことば」ではなく、宇宙にあるがままに存在する森羅万象(真実や実相)を本体とする法身仏が法を直接に説く「ことば」であり、それは衆生の素質や能力に合わせた方便の対機説法の形式をとることなく真実のみを直接に語る「ことば」と考えられています。 
弘法大師空海は、法身仏の「ことば」は、宇宙の真実・実相をありのままに如実に語る存在の「ことば」であり、「いろ、かたち、うごき」として現れる存在と考えています。この「ことば」の働き(語密)と法身仏(大日如来)とが互いに渉入する「入我我入」の境地の中でその意味(智慧)を読み取るのです。 
顕教は文字で書かれた教典を読むことにより学ぶことができますが、密教は師僧の伝授によって学ぶことが伝統的な方法であり、単に文字を解釈したり、独学で学べるものではないと否定されています。 
大乗仏教兼学の比叡山からはさまざまな教義を持つ新仏教(禅・念仏・法華)が生まれましたが、高野山や東寺では口伝の違いによる分派はありましたが、教義を異にする新仏教が生まれることはありませんでした。 
伝法灌頂によって継承される伝統の密教修道システムから釈迦仏教の本質に抵触したり否定する新仏教が芽吹くことはありませんでした。 
これは、決して偶然ではなく密教の修道システムが機能していたからだと考えられています。
 
日本密教の特徴

 

『大日経』は、正式名称を『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます。宇宙の真理を具現する法身仏である毘盧遮那如来(大日如来)が執金剛秘密主(金剛薩埵)の質問に対して答える形式をとっています。この経には仏の智慧(一切智々)を獲得するための根拠や三密(身・口・意)の構造が主体に説かれています。 
大日経の中心は前述の三句の法門です。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」ことを説きました。ありのままの自らの心を観察し「如実知自心」が仏の智慧の獲得にほかならないとして心を分析していきます。 
また、毘盧遮那の慈悲を表す大悲胎蔵生曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)の描き方、灌頂や護摩の説明、印や真言の次第などが説かれています。 
『金剛頂経』の正式な名称は『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(三巻)といいます。金剛頂とは大日如来の智徳を説明する語です。金剛は堅固不壊の金剛宝に喩え、頂はその智慧が最勝無上であることを意味します。 
この経は、真言密教では「初会の金剛頂経」といい『真実摂経』といいます。 
金剛頂経は、大日如来が一切義成就菩薩(釈迦)の質問に答える形式を取っています。大日如来が自らの如来性を語り、仏身を成就する修道法として「五相成身観」という瞑想法を説きます。 
金剛界曼荼羅の詳細説明を説き、釈迦が如来になるために必要な方法や「即身成仏」の方法が説かれています。 
『大日経』と『金剛頂経』は真言密教の根本教典で、両部の大経といわれています。 
金剛頂経十八会の第六会が有名な『理趣経』です。正式名称を『大楽金剛不空真実三昧耶経般若波羅密多理趣品』といいますが、大日如来が金剛手菩薩(金剛薩埵)らの諸菩薩に一切諸法は本来は自性清浄であることを説きます。 
このとき、「十七清浄句」をあげて一切の人間的欲望を肯定する大楽思想を語ります。この中に、性欲でさえ清浄な菩薩の位であるという、般若の智慧を通じた価値の転換が語られます。 
ここでは欲望を単純に悪として否定せず、欲望を大楽思想の智慧を通じることによって、個人の欲望にとどめず、世の為人の為になる欲望に昇華させて価値転換を図る大胆な現実肯定を説いています。 
現実的な欲望もそのまま絶対の世界(真如・仏)に裏付けられた真実であるから本質的には清浄であると見るのです。 
尚、理趣経の主旨を曲解する教義を持ってしまったことで、「左道密教」の評価を受けて真言密教から否定された一つの宗派があります。これを「立川流真言宗」といいます。衆目の誤解を助長しかねない性欲にまつわる諸儀礼が密教の本旨を逸脱するものであると指弾されて否定されたのです。 
この影響は、密教に今日まで続く計り知れないダメージを与えました。興味本位の世間の無責任な風評の流れを堰き止めることはできません。無知による誤解が新たな誤解を作り続けて無責任な風評がまことしやかにささやかれていることは事実です。 
密教という語にそのような誤解を受ける響や要素があると受け取ったのでしょうか。 
密教では本尊の多様化がありますが、その精神内容は「慈悲」と「智慧」という共通の要素で表されます。「大悲胎蔵生曼荼羅」は慈悲を、「金剛界曼荼羅」は智慧を表すものですが、この曼荼羅は全ての仏を集合させそれぞれの役割を合理的に位置づけ、密教の大日如来の悟りの世界観を可視的に表現したパンテオンを形成しています。 
大悲胎蔵生曼荼羅は、13のグループに414尊の仏菩薩等を配置していますが、中心部の中台八葉院の9尊は大日如来を中心に四如来四菩薩が囲む構図です。これを東の4院と西の4院の計8院(仏部)と南の3院(金剛部)と北の3院(蓮華部)が取り囲む構図になっています。 
金剛界曼荼羅は、9グループの会に1461尊の仏菩薩等が配置されていますが、中心部の成身会は大日如来を中心に、東は阿閦如来、南は宝生如来、西は阿弥陀如来、北は不空成就如来(釈迦如来)の金剛界5仏などの37尊の他1061尊を配置する構図です。 
ちなみに、五相成身観は、この37尊とそれぞれに入我我入した後に中尊の大日如来(毘盧遮那仏)と一体となり悟りを得る金剛界の瞑想法です。 
法界のあらゆる存在は悉く因縁や縁起によるものであり、このような関係性の中に「法」の存在が認められます。 
一切諸法は不生不滅の中道にあります。仏の境界は始めも終わりもない不滅・常住の「本不生」であり「本有常住」です。法(=仏)は大宇宙(大自然)の中に本来のあるべき姿のまま実在していると認識することになります。 
密教では、付法の系譜が重要な意義を持ちます。密教では師弟関係がとても重要です。宗教体験そのものは、文字や言葉で表現できない境地のものです。神秘体験を正しく伝えるには、師となる阿闍梨の資質が重要であり、弟子である行者を的確に導くことができる深い宗教体験を持っていることが必要不可欠です。 
阿闍梨が相伝した法灯が由緒正しいものであるか否かによって、弟子の宗教体験の中身が左右されるのは道理です。阿闍梨との出会いによって弟子の宗教体験の質が決まってしまうことは避けようがないと考えられます。 
密教では、素質にすぐれ、正しい法脈を継承する阿闍梨との出会いの「縁」をことのほか重要視します。このため、阿闍梨は、素質を認める者しか弟子入りを許可することがありません。このような関係性からは、相伝は文字や言葉などの筆授で行わず、阿闍梨である師僧と弟子とが面授によって相伝することが基本形となりますが、これが密教の伝統的な「伝授」の在り方と考えられます。 
密教の付法、その時期の選定、などはすべて大阿闍梨の判断に委ねられる性質のものです。修行そのものは、入門から「伝法灌頂」迄の準備期間としては長期にわたりますが、伝授自体は長期間を必要としません。宗門所定の「四度加行」を規定通りに修了して、総本山の認定試験(年1回)に合格することにより「伝法灌頂」という付法がなされています。「伝法灌頂」の入壇を許可され、諸儀礼を無事に通過した者は「伝燈阿闍梨」となることができます。 
インド仏教は最終的に密教になりましたが、12世紀に完成した後期密教(タントラ密教)はインドからチベットに伝わりボン教などと習合してチベット密教に変質しました。 
また、モンゴルにはチベット密教がもたらされ国教となりましたが、モンゴル人の覇権とともに中国やロシアに伝播されました。 
しかし、インド密教はイスラム教徒に全部破壊され1203年には完全に消滅しました。 
今のインド仏教は「バウッダ(仏教)」といわれヒンズー教の一派として吸収されたとみるのが日本の多数説です。ちなみに、インドではすべての宗教がインドの民族宗教であるヒンズー教の一派と見做される伝統を持っています。 
インドには、世界的に有名なカースト制度(四つのヴァルナー)という階層間の差別があります。 
しかし、本当の差別は同一カーストの中にあるジャーティ(世襲の職業が3000以上もある)の上下関係によって作られている、といわれています。 
インドで問題になる差別はこの同一カースト内のジャーティの上下関係の差別なのです。 
カーストの差別よりもジャーティ内の差別の方が耐え難い、といわれています。 
インドは今でも職業選択の自由はありません。例えば、婚姻は同一ジャーティの中で行われています。 
この差別から逃れるため、平等主義の仏教に改宗する人々が増加し、1000万人以上の新仏教徒が誕生している模様です。 
現在の密教は、中期密教を深化させた日本密教(東密、台密)と後期密教を受け継いだチベット密教に集約されます。 
後期密教の中心を形成したチベット密教は、中国政府の干渉を嫌ったダライラマ14世が1959年にインド亡命したことによってチベット本国を離れて亡命政府を樹立しました。これにより、新たな独立運動を世界に認知させなければならない受難の道を歩むことになりました。
 
鎌倉新仏教(祖師仏教)の登場

 

平安末期から日本独特の「末法思想」が急速に広まり、仏教界は混乱に陥りました。 鎌倉時代には、広がる社会不安と末法思想を背景にした特異性と混乱の中で、人々が求める民衆救済の時代の要請に答える形で、新たな思想と気風を持った日本独特の新仏教が誕生し民衆の中に急速に広がりました。 
鎌倉時代は、新宗教の祖師がそれぞれ特異性のある意図を持って、様々な思想を蔓延させたパフォーマンスの時代でした。 
末法思想とは、インド、中国、日本それぞれに異なる説がありますが、日本では1052年から末法の時代に突入したと見られました。 この時代の特徴は、武士が台頭し武力によって摂関政治による王侯貴族の既得権益を奪い、武士の世が台頭する特徴的な世相を反映する激動の社会でした。有力な大寺社が僧兵を抱えて武装するのはこの頃のことです。 
この思想の特徴は、釈迦滅後の仏法の盛衰を特徴的な時代区分に仕分けて語るものです。 最初に用いたのは中国・南岳慧思(515〜577)の「立誓願文」といわれますが、インドでは『大集経』に500年ごとの時代区分による説明があり、この説の典拠とされています。 
これによれば、釈迦滅後500年は「解脱堅固」、次の500年は「禅定堅固」、同様に500年毎には「読誦多門堅固」、「多造寺堅固」となり2000年後に「闘争言訟・白法隠没」となる末法になって仏教は完全に廃れる、と云っています。                         日本では『扶桑略記』、『霊異記』、『愚管抄』などに記載があり、最澄・撰の『末法燈明記』なども同様の主旨を述べています。 
末法思想は、中国、日本でも主として天台宗系の僧侶によって風評の流布がなされてきたという特徴があります。法華経を流布する社会環境を狙ったのではないかと考えられます。 
この三時の思想は、釈迦滅後の千年間が「像法時代」次の千年が「正法時代」それぞれ釈迦仏教の真意が徐々にすたれ、2000年以降には「末法時代」になって仏教の正しい教えが無くなる世の中になり人々は救われない、というものです。 
人々は奈落の底に落ちる思いを強く持ちました。 しかし、末法思想はいわゆる終末思想(この世の終わり)とは全く異なるものです。末法思想は釈迦の教えの有効性の問題でしたが、民衆は同時に終末思想をも関連づける連想をしたものと考えられています。 従って、この思想を重く受け止めた人々は、末法の世からなんとか救われたいと強く願ったのです。 このような時代背景の中で鎌倉新仏教が登場しました。 
鎌倉時代の特徴は、仏教に期待されていた国家鎮護の役割が相対的に低くなり、個人の救済を主な役割とするようになったことです。 仏教の大衆化という新たな社会状況が生まれ、仏教の教勢拡大は王侯貴族の庇護ばかりでなく、大衆の支持が深く関わるようになったことです。 
この末法思想は、その後の世の中の流れを知っている現代人から見れば、それほどまでに悲観的にならなくとも良いのではと考えますが、真実でなくとも、当時の人々はそのような流言飛語にすぐに乗せられやすい心理状況にあったのです。 
ちなみに、この思想は真実ではありませんでしたが、このような特殊な社会状況の中で鎌倉新仏教(祖師仏教)が民衆の昂ぶる不安感の蔓延を契機として、次々に成立したことは事実です。 
僧院では、この末法思想を言い訳にして修行が疎かになる風潮が随所に見られましたが、曹洞宗の道元は末法思想を批判し否定しています。 
「禅宗」「念仏宗(浄土宗・浄土真宗)」「日蓮宗」は、日本独自の典型的な祖師仏教で鎌倉新仏教と呼ばれています。これらの宗祖は比叡山で学んだという共通点を持っています。 
武士団を統率する幕府の庇護を受けた臨済宗・黄檗宗を除けば、民衆の中に布教され民衆の支持を得て成立した教団といえます。難解で手の届かないな仏教を「簡素で分かりやすい教義」にしたことが民衆に支持されたと考えられています。 
なお、学校教育の現場で使用する歴史教科書に明らかに間違っている仏教認識がある事実に言及する必要があります。この点で、黒田俊雄著『王法と仏法』中世史の構図・P7)」は冷静にこの事実を指摘していると考えます。 
黒田説が指摘するこの教科書に見られる定説は、顕密仏教(真言・天台および南都六宗)を「古代仏教」と呼んで中世仏教史の主役から降ろし、鎌倉新仏教(法然・親鸞・道元・日蓮など)を中世的な仏教、又は思想として扱うことにあります。 
鎌倉新仏教が起こり顕密仏教が古い時代のものであるかの如く扱うのは仏教の基礎知識が欠落した明らかな事実誤認を示すものです。 
顕密仏教こそが時代を通じて大乗仏教世界に多大の影響を与え、中世から今日までばかりでなく、今後も思想界をリードする仏教哲学を伝えて行くことは否定できない事実だと考えられます。 
キリスト教やイスラム教の哲学が現代思想を持ってしても越えられないのと同様に、顕密仏教の思想を超えることは事実上では不可能と考えられます。これと同様なことが世界の歴史遺産となっている建築、絵画、美術工芸の世界や音楽の世界に数多く存在していることを私たちは知っています。 
鎌倉新仏教の発芽は、顕密仏教の思想や哲学があったからこそなしえたことでしたが、鎌倉新仏教は自宗の独自性や布教の便宜性を競って教義の簡素化や単純化に努めた結果、民衆を信者にする布教活動に一定の成功を収めることができました。 
その結果は、釈迦仏教の本質論を逸脱し、基本精神を大きく見失って、日本独自の祖師仏教を築きあげて釈迦仏教を著しく毀損してしまいました。末法思想の縛りが大きく影響したものではないかと考えられます。これは、大乗非仏説を惹起させた大きな原因の一つと考えられ、釈迦仏教の本質を大きく逸脱する教義を持ったからだと考えられています。 
大乗哲学を代表する法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗は「四家大乗」として大乗仏教の発展に大きな貢献をしてきた実績があります。                               密教は大乗仏教を統合する理念を示し、大乗仏教が目標とする「即身成仏」思想を集大成した実績があります。 今日でも、高野山や比叡山、東大寺や興福寺、薬師寺などの顕密寺院を除いて仏教を語ることは不可能です。 
顕密仏教とは 
「顕」とは、「現われていること(文字により表現化されている)」⇒顕教 
 ・南都六宗 ・天台法華 ・禅宗 ・浄土(真)宗 ・日蓮宗など                  「密」とは、「隠れていること(本質的にものをみること)」 (教義や修行方法が文字や言葉で表現されない秘密の教え)⇒密教 
・真言密教 ・天台密教 
顕教とは、「誓願によって出現した報身仏(阿弥陀如来、薬師如来など)」または、「歴史的に存在した応身仏(釈迦如来)」の教えです。 
教えの相手の機根(知的レベル)に合わせて説法します(隋他意)。  
密教とは、「宇宙の真実そのものを人格化した法身仏=大日如来」が説く教えです。 
教えの相手の機根(知的レベル)に関係なく真実を語ります(隋自意)。 
自己の探究(如実知自心)と悟りへの真実に生きる道の探究を目的とします。 
密教は、インド仏教が生んだ最後の思想です。   
空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような記載があります。 
「顕薬払塵」(顕薬は塵を払い)、「真言開庫」(真言は庫を開く) 
顕教はものごとの塵を払い清め美しく見えるようにする働きをするようなものだが、しかし、密教はものごとの本質の中に、直接に真理をみる、という違いがあります。 
顕密仏教が王侯貴族の庇護を受けて来たことが受け入れられない事実であっても、鎌倉新仏教が現世的・世俗肯定的で親しみを感じた庶民に受け入れられたとしても、仏教には仏教の伝統的な(釈迦仏教の)判断基準があります。時代の要請を持ちだして、その時々に適当な評価基準を設定して決められる性質のものではありません。 
一般的に、ほとんどの教科書的な表現は、仏教の内容を専門的に分析することなく、単に文化的に顕著に表われた潮流の側面や動きを捉えた評価になるので年代順の新旧感覚に重きが置かれる記述になる欠点があります。 
もし、仏教の評価基準を無視して誰かの意見を参考にして決められるようなものであれば、それは正当な評価ではありません。仏教は、一過性の文化的側面では評価できない性質をもっています。 
鎌倉新仏教が教勢を拡大できた時代は鎌倉末期から戦国時代と明治時代以降のことです。室町幕府、織田・豊臣政権下や江戸幕府の下では教勢拡大の活動は権力によって抑え込まれていました。権力者に宗教の関心が濃厚にあったからです。 
全国規模の教勢拡大の活動は明治以降、特に昭和20年以降の戦後の信教の自由の下でのことでした。この時から新興教団の教義をチェックする機能が自動的に消滅しました。宗教は各人の自由に任されたのです。 
特に、昭和20年代以降の戦後の新興宗教の乱立によって仏教の本質的な教義が歪められてきました。戦後に宗教の自由に目覚めた新興宗教団体が多数出現し、熱心に信者を手作りして囲い込む布教拡大の競争が行われるようになりました。 
戦後の信教の保障の中で、信徒の数が教勢や宗旨の正当性を左右する指標に利用されるようになりました。まさに数は力なりです。戦国期の一向宗の興起以来の新たな社会問題が発生する温床が形成されました。 
今日の仏教思想の混乱に拍車が懸ったのは、戦後に複数の在家信者中心の巨大新興宗教団体が出現して、言論の自由のもとに自教団に都合のいい教理を蔓延させ信者の獲得競争に狂奔したことにあると考えられます。  
この奔流の中で仏教の基本精神は歪められ、矯正が不可能な非仏説が蔓延する社会状況が出来上がりました。仏教の精神を回復させることは容易ではありません。
 
浄土宗系 / 念仏の萌芽

 

念仏の萌芽は、986年(寛和2年)に比叡山の横川で結成された「二十五三昧会」にあります。念仏は天台法華の修業道場の中で発芽し育てられた歴史を持っています。 
この会の結社の目的は、毎月15日に集まり念仏三昧を行い、臨終を迎えた会員を極楽往生させるために皆で念仏を唱えて送葬することでした。 
死者は、自分が往生したなら「往生した」、地獄などに堕ちたら「落ちた」と夢や幻、白昼夢でもいいから、往生の結果をお互いに知らせ合うことを約束するものでした。 
参加者は花山法王などの皇族、貴族、学識豊かな僧侶などです。このメンバーに恵心僧都、源信などがいましたが、この結社の指導原理は源信の著作『往生要集』でした。 
念仏が比叡山で支持され始めたのは、比叡山の中に蔓延した末法思想を発端とするものです。末法思想は、人間が迷いに迷い転生を繰り返すのは時代や因果によって予め定められた解脱不能の世界観を示すものと捉えられました。 
ブッダはこの迷いの世界からの解脱を説きましたが、平安末期から鎌倉時代に生きた人々はこの理を知る由もなく、末法の世では人々の心は煩悩と罪悪にまみれ身心ともに悟りを得るための素質が劣悪になり成道できる保証が全くない世界になると考えたのです。 
このような濁世末代のなかで、唯一の救いは阿弥陀如来にすがることしかなく、念仏しかないと比叡山・天台宗の中の有識者たちが考えたのです。 
『往生要集』は、法然(1133〜1212)に決定的な影響を与えました。 
法然(1133〜1212)は、美作国の押領使・漆間時国の子として生まれましたが13才で比叡山に出家し(諱は源空、房号は法然)、43才で日本の浄土宗の開祖となります。 
法然は、保元・平治の動乱の中に生き、平家の台頭と滅亡、源氏の鎌倉幕府体制の成立などさまざまな政治的動乱と社会の混迷期を生きた人物です。末法思想を真正面から受けとめて生き抜いた僧です。清僧の評価があります。 
この『往生要集』の特徴は、人間が迷って輪廻転生を繰り返す世界を壮絶な描写で表しています。とりわけ様々な地獄の生々しい描写は人々の無常観や不浄、苦を増幅させるものでした。 
末法の人々は救いのない死後の世界から救われる方法をせつに願望しました。 
この思想を末法思想といいますが、その特徴は「劣悪な素質しか持ちえない末法の衆生はどんなにあがいても往生の縁が無く、自力での往生・解脱は望めない」というものですが、この思想は天台宗の僧によって世間に伝播されました。 
草木や瓦礫などのあらゆるものに仏性を認め、成仏の可能性を認める伝統を持つ比叡山から末法思想が生まれ育ったのは、まごうことのない自己矛盾、若しくは自己撞着というべきだと考えられます。 
結果的に見れば、比叡山に始まる末法思想が天台宗の僧侶によって風評流布され民衆に伝播されて社会に蔓延化していったことにより、鎌倉(祖師)仏教が誕生した機縁となったのは事実です。 
法然は、『往生要集』と『観無量寿経疏』(中国浄土宗の大成者・善道の解説書)によって阿弥陀如来の救済が絶対他力と一向専修念仏にあることを悟りました。 
どうにも救いようのない末法の衆生を浄土に救いあげることができる仏は阿弥陀如来以外にはない、と考えたのです。 
絶対他力とは、自ら菩提心を求めることは不可能なのですべてを阿弥陀如来に委ねることです。これが、無条件で阿弥陀を信じる切ることで成立することになった日本独特の浄土宗の誕生です。 
一切の法が滅尽して人々に救いがなくなるという末法思想に、この世の終わりを予言する終末思想が結びついた鎌倉時代特有の思想が出来上がり人々は絶望感にさいなまれました。 
この中で法然の絶望感が日本の念仏宗(浄土宗)を開きました。 
親鸞(1173〜1262)は法然の弟子です。親鸞は公卿・日野有範の長男として生まれましたが9才の時、京都の青蓮院で得度し比叡山に入って常行三昧堂の堂僧となりました。 
浄土真宗の開祖となりますが生前は流罪後に非僧非俗の存在となります。 
念仏信仰を激しく罵倒した日蓮から非難されていない唯一の念仏者です。 
親鸞は、20年間念仏修行に専念しましたが悟りを得られず、絶望感の中にありましたが、本山のエリート僧の道を捨てて29歳で比叡山から下山しました。 
当時の比叡山は、熾烈な派閥抗争に加えて、僧兵が比叡山の中だけでなく京都市中に乱入して乱暴狼藉を繰り返すことが度重なり目も当てられない喧噪の中にありました。寺院の特権を護るために神輿を担いで朝廷や権門勢家に強訴したのは比叡山延暦寺が始めた悪弊です。 
僧も山内の治安の維持に忙殺され人々に法味を施す余裕もない状況にあったと考えられます。 
親鸞は、京都の六角堂で百日間の参籠中の95日目の払暁に救世観音の夢告を得たと云います。 
その内容は、「お前が宿報により女犯の罪を犯すときは、私が妻となって犯されよう。一生の間、お前の身の飾りとなり、臨終には極楽へ導こう」ということであったと伝承されています。 
女性を観音の化身にして、女犯の罪から逃れる親鸞の姿に痛々しい情念を感じますが、世俗の中にあっても往生の道は開かれている、という発想の転換には親鸞の苦悩が見えます。 
親鸞の妻帯女犯は当時の仏教界の伝統から見れば間違いなく破戒僧の宣言と受け取られる性質のものです。しかし、当時の仏教界は、隠れ妻帯や稚児の男色などがあり、親鸞を破戒僧として糾弾できる道理に欠けていました。 
また、親鸞が還俗して非僧非俗の立場になったことからことを荒立てる必要性が無くなったとも考えられます。 
親鸞のどうにもならない性欲という本能との対峙の結末が女犯の罪から逃れるために観音菩薩の化身を持ちだしたことは、実は何の解決にもなっていません。これは親鸞自身が一番よく解かっています。 
この問題は大変デリケートな要素を含むものでした。今日の私たちが考えるような理解を示す教団や僧侶はありません。他の僧侶ならこのような要素を含む問題に一石を投ずることなく内に秘めて語らないと考えられます。この点、親鸞は真面目な性格が表面化したものと考えられます。 
ちなみに、仏教の高僧伝には親鸞と同様のデリケートな逸話は伝わっていません。 
法然は性格が清涼で智慧に満ちた円満な人柄と見られていましたが、親鸞は一生貧しく、世に知られず、心情も障り多く、信仰・思想はがむしゃらに一途で、煩いと暗さとを含む性格であったと評されています。 
親鸞は生まれながらに宿業を背負った自分を自覚してこれを受け入れ直視した人と見られています。 
法然は妻帯しませんでしたが、親鸞は三度の結婚で妻帯しました。 
親鸞は抑えきれない愛欲の炎が自分の中に存在する事実を受け入れ妻帯したのです。 
法然は親鸞にたいして「一人で念仏できないというなら、妻帯して念仏申しなさい。僧では念仏できないというなら、俗のまま念仏申せばよく、俗ではできないというなら僧になって念仏申せばよい」と教導しています。 
親鸞は最初の妻とは越後に流罪となったときに別れ、二番目の妻とは死別し、三番目の妻・恵信尼とようやく落ち着くことが出来たといいます。しかし、親鸞は各地に残した子供たち、別れた妻の貧窮、妾になる娘に対する心労、裏切った息子との対立や縁切りなど、様々な煩悩から解放されることが終生ありませんでした。 
平安・鎌倉の時代、末法や地獄は心の中に在る心の様相という認識がありませんでした。 
これらは心の外にある事実として受け取られ、ほとんどの宗教家は自己の内面の問題として受け止める姿勢がありませんでした。
 
浄土宗系 / 念仏の救済思想

 

宗教が急速に広まる社会現象にはいくつかの社会条件が背景にあります。 
いわゆる、災害、大地震などの天変地異、戦争・動乱で大勢の死者がでる、凶作、物価の急上昇、生活苦、価値観の喪失または崩壊などです。 
人心が荒廃し政治が信頼できなくなると人々は身心の救済を宗教に求めるようになります。 
浄土教には「厭離穢土、欣求浄土」の思想的背景があります。 
実は、徳川家康が三河の領主として独り立ちを始めた頃、浄土宗寺院と争い、家臣の相当数が寺院の味方に付いて家康に叛旗を翻して謀反を起こすという事態に至りました。 
家康の家臣団は主家思いの者が多く、忍耐強い団結力が有りました。これらの家臣たちが主家に弓弾くことなど考えなかった家康は窮地に陥りました。 
家康を見限った理由は、主人に背く背信よりも阿弥陀如来に背く不信の方が恐ろしかったからですが、戦場の死よりも地獄行きの方が恐ろしいと受け止めたことは家康に大きな衝撃を与えました。 
家康が浄土宗を認めて檀家となることで和解が整い無事に治まりましたが、この騒動は家康の生涯の反省となりました。これ以降、家康は、「厭離穢土、欣求浄土」の軍旗を作って本陣に立て、家臣団はこの旗の下で忠勤に励みました。 
徳川家は治世の為に天台宗(上野・寛永寺)と浄土宗(芝・増上寺)の檀家となり、将軍、家族の遺骨を分散して菩提を弔わせました。 
厭離穢土、欣求浄土の思想は、現世を苦界とみて離れ、浄土を願う思想です。人はただ生きているだけで何の楽しみもない状態にあることを嘆きとする人々の心を表現しています。 
この思想は日本で変質し、ごく普通の人間は自力で解脱できる能力を欠いているので、劣悪な素質しか持ちえない民衆はいかにあがいたところで解脱し往生することができない、だから、自力を捨てて阿弥陀如来に浄土に救い取って貰うほかに道がないという他力本願が強調されました。 
浄土教は、あわれな衆生を救いあげてくれるのは阿弥陀如来以外にない、と固く信じる宗旨です。 
これほどまでに阿弥陀如来の誓願を便利に利用する宗旨は他に例がありません。 
この考えは、明らかに釈迦仏教の教理とは相反する妄説と考えられます。 
意思を持って信者の向上心(菩提心)を喪失させておきながら、成仏を願うことはまさに自己矛盾というほかありません。 
法然は、末法に生まれ合わせた自分の存在を「罪悪深重の凡夫」と捉えました。末法意識は特に当時の知識人、支配層であった権門勢家の貴族層に浸透しました。 
宇治平等院は栄耀栄華を極めた藤原道長が受けとめた末法の浄土思想の建造物として有名です。浄土を表現した壁一面の浄土世界に阿弥陀如来の来迎図が鮮やかに彩色されています。 
臨終の間際に高僧に見送られ、阿弥陀如来の来迎を望み、それでも不安を感じて阿弥陀如来の手と自分の手を五色の蓮糸で結んで浄土に救い取られることを切に望み、極楽往生を願いながら冥土に旅立った姿と伝承されています。 
浄土思想は、平安貴族の欲望の果てに花開いた極楽浄土の展開でもありました。現世の権力も栄耀栄華もあの世に持っていくことはできません。権力は己の栄耀栄華の永遠を願いますが、死後の世界も生前と同様に、むしろそれ以上に変わらぬ栄華を維持しようと心を砕きました。 
浄土思想が平安貴族を魅了してやまなかった背景には、華麗な極楽浄土が、実は一握りの権力者の栄耀栄華を霊界の世界に持ち込もうとした欲が見えます。しかし、院政の失敗と貴族の没落が止まらず、政治の混迷の中から台頭した武士が権力を纂奪する時代を迎えることになります。末法思想の背景の一つです。 
末法には、現世の悲惨な境遇は前世の報いとする「因果応報」の思想が蔓延しました。 
この思想は農民などが飢餓、貧困、病気に苦しむのは前世の報いであると考えます。生き地獄に置かれた被差別民の存在は己の身から出た錆びという結論になります。あらゆる社会悪や矛盾、身分差別は前世の悪業という宿業によるもので自己責任の結果になります。 
このような社会状況を背景にして念仏信仰が急速に広まったものと考えられます。 
この宿業思想は、支配者にとても都合のよい考え方を提供しました。 
らい病者が集落から追い出されて隔離され、特定の差別された職業の者を集落から排除する社会悪が発生しましたが、支配者はこれらの社会悪から目をそむけても痛みを感じる必要が無くなったのです。この思想は、いわゆる被差別民が必然的に発生する差別制度の温床になりました。 
法然の『選択集』の思想的な背景は、『無量寿経』に、(末法になって)法滅尽の後、100年間(この経を)世間にとどめ置くとあることを絶対的な真実の預言として受け入れ、末法には『無量寿経』だけしか有効性がないと受け止めたことにあります。 
この『選択集』は法然66才の時、外護者の九条兼実(五摂家)の懇請により撰述された書ですが、「称名念仏は仏の本願にかなう」とする唐僧・善導の著作『観経疏』の一文を根拠とするものでした。 
念仏は全ての人々を極楽往生させる特効薬であると念仏僧が弘めたこと、また、これを聞いた人々が狂喜して受け入れたこと、このような信仰の在り方の連鎖が阿弥陀如来の仏力、法力を曲解するという途方もない新宗教を生み育てました。 
臨終正念の場で念仏を唱えれば誰でも本当に極楽に掬い取られることができるのでしょうか。 
人の臨終、いわゆる「お迎え」を考えるときに直面する課題は「譫妄(せんもう)」の問題です。 
譫妄とは臨死期の精神錯乱状態をいいます。医学的には、認知機能の全般にでる意識障害といいますが、一般的には情動の不安定性、幻覚をともない、不適切な衝動、非合理的、暴力的行動をともなうものです。そのほとんどが急性で可逆的な精神疾患です。発生率は70〜80%とされています。 
その原因は個人によって千差万別ですが、医学的には酸素不足、内臓疾患による毒素の蓄積、脳の委縮や病変が考えられています。終末期の患者のほぼ70%が譫妄状態になるといいます。 
譫妄の影響は、突然に暴れだす、凄まじい恐怖感に襲われる、または、とても楽しい気分になる、ことなどですが、譫妄状態の内実は外から見ても分からないことから周囲の人々に衝撃や不安感を抱かせます。四分の三以上の遺族が苦痛を感じる経験をしています。 
法然の高弟、聖光(鎮西上人)が浄土宗の正当な教義に認定された『念仏名義集』の下巻に臨終行儀が記されています。 
その中に「よくない様子の臨終では三悪趣(地獄道、餓鬼道、畜生道)に堕ちること必定」という記載があります。ここでは、臨終がどのような様子であろうと、みな極楽浄土へ往生できると主張する者がいるが、それはあきらかな間違いであるといっています。 
医療の現場では、譫妄状態の対処を依頼された医師は、まず向精神薬を投与しますが、それでも効かない場合は麻酔を投与します。こうなると、患者は眠ったまま(意識のない状態)最後を迎えることになります。 
このように臨終正念とは言葉だけの世界に漂っている不安定で切ないものに感じます。人は最後を迎えると「ありのままを受け入れる」淡々とした精神状態を作ることがほとんどの場合できません。譫妄を幻覚とみるか、または、宗教的な見地とみるかは本人の全人格的許容の問題です。他人は当事者になり替わることができません。 
日蓮宗の身延山久遠寺の中興三師にあげられる日遠(1572-1642)が日蓮宗版の臨終行儀とされる『千代見草』に全39項目にわたって臨終の知見を書いていますが、そのうちの第27項目に「病人よはり、臨終ややちかくなりて、ゆめにもあらず、目のまへに、未来の有様をみることあり。」と記しています。 
譫妄や「お迎え」を医学の立場から見るだけでなく宗教的な立ち場で見直して考えてみることも出来るのではないかと考えます。
 
浄土宗系 / 念仏思想の特異性

 

浄土宗の法然は「他力本願」の専修念仏の思想を打ちだして、末法思想の中で急速に広まった終末の世相の中で生きる無力な民衆の共感を集めました。 
法然は、阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は誰でも極楽浄土に救い取られるのだから、自ら厳しい修行を積まなくても阿弥陀仏の力によって悟りを開くことができるとして「他力本願」を人々に勧めました。 
これは、自力を主体とする伝統的な修行を否定する大胆な変化です。大きな驚きを持って民衆から迎え入れられました。 
中国・唐の道綽(562-645)は『安楽集』に自力の行を励んでこの世で悟りを開くことを目指す「聖道門」(釈迦仏教の教え)を否定して、阿弥陀の本願を信じて念仏して浄土に生まれ来世に悟りを得ようとする凡夫の道の浄土門を勧めました。 
中国・浄土教を大成した善道(613-681)の『観無量寿経疏』の「散善義」に「一心に阿弥陀如来の名号を称えるならば、阿弥陀如来は決してその人を捨てず、救ってくれる。なぜなら、それが阿弥陀仏の願だからだ」とあります。だから、阿弥陀仏はすべての人々を救い上げる義務があるから誰でも救われるはずだ、というのがその根拠です。 
末法思想を背景にして日本の中で広まった他力本願の思想は、仏教の修行の伝統を根底から否定する新思想でした。 
末法では、聖道門は悟りがたく、浄土門は容易だ、とするのがその根拠です。しかし、これは事実ではありません。釈迦は修行方法として浄土門を説いていません。浄土門は釈迦仏教の精神に相反するものでありえないのです。あえていうなら、釈迦滅後のインドの大乗の菩薩が説いた『無量寿』、『阿弥陀教』にある思想です。 
法然は、念仏至上の核心を『選択集』を著して表明しました。唐僧・善導の私論である『観経疏』の一文によって、これまで大乗の諸菩薩が積み上げて来た大乗仏教の叡智の方法論の全てを尽く捨て去り、阿弥陀仏の本願によってのみ救われるとする思想を選択しました。 
法然の弟子、親鸞は『教行信証』を著して、「自分の罪を減らそうとするのは、阿弥陀仏の本願、力を信じていない証拠である。そのような善人(自力の向上心を持つ人)は、疑いの心が残っているいる以上極楽に入れない。」「すべてに自力を捨てて、弥陀の前に自分を投げ出せ。その瞬間に極楽浄土が確約される。生きたまま弥陀にすくい取られるのだ。」と「絶対他力」を主張して異彩をは放ちました。 
越後流罪後の親鸞は非僧非俗(僧でなく、俗でもない)の不思議な存在でした。 
当時の既成仏教界は堕落が著しく、本物の僧は皆無と見られていました。 
僧は僧侶の姿をした俗人と見られたのです。 
これを評価すれば、全てでは無いにしても世間一般では「僧侶とは自分を偽り、人を偽って、醜い自分を上手に覆い隠し、あるいは居直って恥じない者をいう」と酷評されるケースもあったのです。 
親鸞の場合は、還俗したので正しい僧とはいえないが、俗人かといえば単なる俗人でもない。僧も俗人も越えて仏道に励む者とみれば、本当の僧といえるのではないかと考えられたのです。これが親鸞の言う非僧非俗という概念だと考えられています。 
親鸞の弟子・唯円は、親鸞思想の真意が正しく伝わらず、師の意志と異なる信仰を正して信心の本質を語るために『歎異抄』を著して「悪人正機説」という伝統的な仏教とは明らかに異なる衝撃的な論旨の異説を唱えました。 
これによれば、親鸞の真意は「真実心(自力の向上心)が持てない凡夫(悪人)」ほど阿弥陀仏が救い取ってくれるはずだ」という主張にあります。なぜなら、こういう人ほど阿弥陀仏の救済があるはずだと親鸞は考えたのです。 
法然(浄土宗)と親鸞(浄土真宗)の違いは、法然は阿弥陀如来にすがりつき、称名念仏、専修念仏することによって救済が得られると考える「念仏為本」の出家仏教です。 
これに対し、親鸞は、称名念仏さえ思うに任せない人がいる、だから、「阿弥陀如来の力を信じること」が信心の第一歩だとして「信心為本」を主張する(剃髪しない)在家仏教でした。 
親鸞は善と悪を自問自答し続けた人です。「自分が性欲に悩んだように、人はどうしようもない煩悩とともにあり、善悪の判断は条件や環境により変化する不安定なものだ」と考えたのです。 
親鸞の生きた時代は朝廷から武家への政権交代が始まる動乱の中にあり、権力争いや反乱が多発し上皇や天皇が流刑されるなど末法の始まりという世相を反映したものでした。 
阿弥陀如来は西方浄土の教主として、巷間ではあたかも念仏宗(浄土宗や浄土真宗)の専属の仏のように誤解を受けることがあります。 
しかし、これは明らかな間違いです。阿弥陀如来は尊格が高い仏であり、特に慈悲の深い仏として顕教でも密教でも多くの寺の本堂の中尊として安置されています。日蓮宗を除く多数の宗派で人気の高い仏です。 
阿弥陀如来の慈悲の深さには心を打たれますが、このような考えを持つ念仏者を救い上げなければならないと決めつけられた(?)阿弥陀如来に心から感謝をし、そして同情したいと思います。 
親鸞の思想は明らかに釈迦仏教(中道説)が否定する性質の宗教です。 
なを、浄土宗では「声に出して念仏する」ことに意味があるとしますが、浄土真宗では「阿弥陀仏にすがる心(信仰を心に限定)」にこそ意味がある、と考える違いがあります。 
親鸞の門下は、その当初から肉食妻帯を許し、管長職は世襲制でした。日本の浄土真宗は本家の中国浄土宗とは全く異質のものになってしまったことは確かです。 
親鸞の300年後に、プロテスタントの聖職にあり宗教改革の牽引者となったドイツのルターも妻帯しています。 
日本では、明治維新の改革で太政官が僧の妻帯を許可したことで、どの宗派でも寺院の世襲と私物化が始まり、その中には僧の質の低下が問題視されるケースがあることが指摘されています。 
浄土思想は日蓮思想と相反する概念を持っています。浄土系の思想の特色は、「この現世では救われるはずがないから、阿弥陀仏の手で極楽浄土に救い取って貰い、来世で成仏する」というものです。現実を否定するこの浄土思想は、現実肯定主義の日蓮から激しい攻撃を受け、また、為政者から弾圧を受けました。しかし、すべての人々をもれなく救う「阿弥陀如来の誓願」が次第に人々の共感を捉えました。 
京都・高山寺の開山「明恵(1173-1232)」は、華厳と密教と禅を思想の核とする実践をし、法然の『選択集』を批判するために『摧邪輪』を著しました。 
明恵の法然に対する批判は「法然は悟りに向かう心(菩提心)を重視せず、阿弥陀如来に救済を求め、自らの悟りへの修行を否定している」ということにあります。. 
そして「称名の一行は、劣根一類(宗教的能力の劣った人)の為に授く、何ぞ、天下諸人をもって、皆下劣根機と為すや。無礼の至り、称計すべからず」と憤慨されています。また、「法然の説は自ら邪心に任せて善導(中国浄土教の泰斗)の正義を穢している」と云いきっています。 
明恵は鎌倉前期の華厳宗の高僧です。高野山の文覚らに師事して出家し、真言、華厳、禅を兼学しましたが京都・栂尾・高山寺を華厳宗中興の道場としました。栄西が中国から請来した茶樹を栽培しています。 
日本の浄土思想は、釈迦仏教にない思想です。釈迦仏教の理念に相反する思想です。大乗仏教の特徴的な思想である菩薩行道の修行とも大きく異なる特異性を持つ思想です。 
浄土教は、『無量寿経』、『阿弥陀経』、『観無量寿経』の浄土三部経を根本経典としています。 
浄土教が成立したのは2世紀初頭の紀元100年頃に編纂された無量寿経、阿弥陀経に始まります。しかし、インドで流布された形跡はありません。インドでは阿弥陀如来像が発見されていないこと、宗教以外に銘文や文献に浄土経典の引用や言及が全くないことから、インド人には受け入れられていなかったことが分かります。 
『観無量寿教』はインドではなく4-5世紀頃の中央アジアで編纂された経典ですが伝訳の途中で中国色が加味され、いわゆる中国仏教色が濃厚ですが、この経典は、特に、中国と日本の浄土教思想の考え方に決定的な影響を及ぼしました。 
法然はこれら三部経のいずれかに比重をかけることはありませんでしたが、他の念仏者を見れば、親鸞は無量寿経を、証空は観無量寿経を、一遍は阿弥陀経を、それぞれ重要経典と位置付けました。 
浄土思想は、古代インドで広く展開した「仏国土」に由来する思想です。インドでは紀元前後の大乗仏教運動の中で救済仏思想が次々に創造されました。特に、西方の極楽浄土の教主・阿弥陀如来の48願の徳目に人気が集中しました。、 
本来的には多くの仏の存在とその仏の国土(浄土)意味するものでしたが、中国、日本の阿弥陀仏信仰が広まってから、一般的には阿弥陀仏の浄土を示すものと受け取られるようになりました。 
インドの浄土思想は、釈迦仏教の精神を継承するものであり、中国の変質した浄土教とは異なります。日本の浄土教のように菩提心(自力の向上心)を否定する称名念仏や専修念仏の思想を持つものではありません。 
釈迦の仏教精神を継承するインドの大乗菩薩の中に中国や日本のような称名念仏や専修念仏を広める者は存在しませんでした。 
日本特有の浄土思想は、釈迦仏教の精神や教理の縛りがある中で自然に発生する思想ではなく、釈迦仏教の拘束を受けない者にしか持てない思想だと考えられます。 
菩提心を否定する称名念仏や専修念仏の思想は、本質的には仏教といえるかどうかという問題を含むものであり、実に悩ましい事柄を多く抱えています。中国で大きく変質し、日本で上塗りして育てられた日本仏教(鎌倉新仏教または祖師仏教)というべきものです。 
浄土教は、中国に2世紀の後半に伝えられ、5世紀初めに慧遠が白蓮社という念仏結社をつくり、曇鸞が浄土三部経から『往生論注』を著し、道綽が『安楽集』を著し、善導が『観無量寿経疏』を著して称名念仏の浄土教が確立しました。 
中国では、中国で発生した「念仏」と「禅」が融合して「念仏禅」が誕生し、中国禅の大勢を占める大きな勢力に育ちました。中国禅は中国仏教の基盤を形成する大きな勢力に発展し、周辺藷国の仏教勢力との間で中国禅の正当性と優位性を争う歴史を作りました。 
日本では、7世紀前半に浄土教が伝えられ、9世紀前半に円仁が中国・五台山の念仏三昧法を比叡山に移植しました。良源が『極楽浄土九品往生義』を、源信が『往生要集』を著して天台念仏教が誕生しました。これが末法思想の影響により、一遍が時宗を開き、良忍が融通念仏宗を開き、法然が『往生要集』を著して称名念仏を主張して浄土宗を、親鸞が『教行信証』を著して専修念仏を主張し浄土真宗を開いたのです。
 
浄土宗系 / 布教と発展

 

親鸞の法流は浄土真宗(本願寺教団・一向宗)ですが、教団運営と人心掌握に抜群の才能を発揮した第8世・蓮如(1415-1499)がでるまでは、本願寺は人跡絶えて参詣の人もない窮乏のどん底状態のあり様でした。 
蓮如は、第七世・存如の庶子でしたが、兄弟や血縁者を政治工作によって粉砕し、壮絶な跡目争いに打ち勝ってその地位を掴みました。 
蓮如は27人の子供(13男14女)を本願寺教団の拡張の布石として利用しました。5男の実如に第9世を継がせ、12男を重要地点に配置し、14女を有力寺院や新たに帰属した重要寺院に嫁がせるなど、本願寺中心の絶対的な専制体制の布石の要として利用しました。 
蓮如の布教拡大は、御文(御文章)と呼ばれる独自の文書伝道でした。これは消息文(手紙)の形式による念仏指導で、読む者に不惜身命の覚悟をさせる絶大な効果がありました。 
その布教の主な対象は農村の農民層でした。農村部に一向宗が浸透した結果、その後に誕生した日蓮宗は農村地域への布教が困難となり、町衆といわれた商工業者をターゲットとして対照的な棲み分けをせざるをえなかったと考えられています。 
一向宗徒と日蓮宗徒は同一地域に混在することがほとんどない社会環境が自然に形成されたのです。今日でも、日蓮宗系は農村部への布教活動がほとんど浸透していません。 
この頃、真宗門徒の仏光寺派は、名帳絵系図による布教活動で勢力をのばしていましたが、名帳に名前を記された者は往生が決定されるとする異端性がありました。また他派でも同様の異端説が蔓延して混乱がありました。蓮如はこれを徹底的に攻撃して排除するために、仏壇の本尊や名号に裏書きを自著して真偽を明らかにする布教活動を行いました。 
各地に本願寺勢力が扶植され、門徒が組織化され他派に競り勝つ実力を持つ勢力になると、比叡山衆徒は本願寺を仏教の敵と見做し、1465年に京都大谷本願寺を襲撃しました。蓮如は近江に逃れ、各地に布教活動の場を移していきます。 
1471年、越前の吉崎に拠点となる「御房」を建て、北陸地方を地盤としていた真宗高田派(天台系の諸行を取り入れていた)を一掃して、本願寺勢力を北陸地方に定着させました。 
蓮如の布教で本願寺門徒は各地で講を組織しましたが、やがて自治単位に膨張し、一向一揆の組織的な基盤を形成していきました。 
一向一揆について述べたい。来世の往生が約束されている一向宗徒は、(親鸞の)仏法を守るために、(また、地獄行きを免れるために)死をも恐れず殉教の為に徹底的に戦う決意が次第に形成されていきました。 
一向宗(浄土真宗)の法主や有力寺院の代表者の地位は世襲制で妻帯しました。信者は法主や代表者を尊敬して仰ぎ、信者は多額の金銭を寄進するために群れをなしたといわれています。 
今日の定義でいえばは、当時の一向宗はオカルト宗教ということになります。 
この時代は兵農の分離政策がなかったので農民は何時でも武装できる状態にありました。 
しかも、農民は各地の戦国大名に強制的にi駆り出されて従軍させられていたので戦闘行為の経験者が多数存在し、武装蜂起すればいつでも強力な即戦力となる強さがありました。 
一向一揆の勢力が戦国大名に匹敵する軍事力を所持して強力な戦闘力が発揮できた秘密はここにあります。 
しかし、一向宗徒の前途は多難でした。実は本願寺を絶対支配者とする専制体制の中では、屍を野に曝すのはいつの場合も門徒であり、寺院や僧から蓄えを収奪されるのも門徒でした。 
門徒は、往生をカタにとられ、自身の生死の権利まで法主に握られた哀れな存在になっていきます。門徒にも差別と結びつく宿業思想がまとわりつき、地獄道や餓鬼道から解放されることはありませんでした。 
一向宗は北陸に進出した17年後に、蓮如の指導のもとに加賀国の守護大名富樫政親と決戦してこれを破り、加賀を門徒農民の自治国「百姓の持ちたる国」として成立させました。 
富樫氏の治世の在り方に反感を持つ小領主や土豪・寺院勢力を結集して、農民や小領主・土豪のためにという大義名分を掲げて戦ったのです。圧政を見て見ぬふりはできない、ということにしたのでしょうか。 
各地の戦国大名を驚愕させた一向一揆の影響は各地に波及し、戦国時代に宗教勢力の侮りがたい軍事力の存在を認めさせました。 
蓮如は、1478年、京都山科に本願寺を再建し、1497年には摂津(大阪)の石山に石山御坊(石山本願寺の前身)を建立し、1498年、85才で往生しました。 
顕如(1543-1592)は、12才で第11代法主となり、正親町天皇の勅命で最高寺格の門跡となります。 
当時、本願寺は日本第一の裕福な寺でした。朝廷が経済的に困窮して即位の式典が行えないことから、顕如を門跡にする条件で式典の費用を本願寺が提供する政治的取引を行ったのです。いわゆる足元を見たのです。 
この頃、織田信長の勢力が破竹の勢いで膨張し、地方の一向一揆を武力弾圧し、顕如を圧迫し続けたことで、顕如は、伊勢や長島、加賀や越前、紀伊や雑賀などの一向一揆を率いて織田信長と対峙しました。 
しかし、織田軍に一揆が平定されると、反織田勢力の朝倉氏や浅井氏、安芸の毛利氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などと盟約を結び織田包囲網を形成しました。 
1570年から最後の砦である本拠地の石山御坊で10年間の包囲戦が勃発しますが、同盟軍の諸大名が次々に敗退して石山本願寺は孤立化し、敗戦は時間の問題となりました。 
織田信長の軍団が本願寺の巨大な包囲網を破り大勝を収めた秘密は、織田家の軍団が専門職の戦闘集団で構成されていたことにあります。 
織田軍団の特徴は信長の先見性と合理性によっていつでも戦える専門職の武士団で構成されていました。 
農民兵を徴用しない信長軍は自領の農民の怨嗟の対象になることなく、状況に応じて長期滞陣が可能な軍団でした。機動力に優れた軍団を複数所持していたことから同時に多方面の戦力展開が対応出来たのです。 
信長は尾張半国の身代であった若年の頃から、家臣団の兵農分離を推進して戦闘員を居城の城下に集めて配置し、いつでも戦闘ができる体制を整えていたのです。 
当時の最強軍団であった越後の上杉軍や甲斐の武田軍は、臨時に徴用された農民軍で足軽(歩兵)軍団を構成していたので農繁期には戦争を継続することができない欠点がありました。 
ほとんどの戦国大名は、戦時のつど自領内の農民を徴用して軍団を編成せざるをえなかったので、急場に間に合わず、手間取ったり、雪の降る冬季は動けないなど出兵は困難を極めるのが通常でした。特に、農繁期になると戦闘を継続することができず和議を結んで撤退するほかありませんでした。 
信長の領国は産物が豊かなうえ、楽市楽座を奨励して領内の通行税を廃止するなどの政策を実施して商業活動を活性化させていました。堺、京都、大阪を直轄地として戦費を調達し、鉄砲など武器や鎧兜の強化と軽量化などの武具の最新化に積極的に取り組み装備が優れていました。 
信長は富国強兵の方策をかぎわける能力と部下を戦略的に使いこなす能力が卓越していました。信長軍は多方面に軍事力を展開したり長期布陣が可能でした。強固な石山本願寺の包囲網が完成して本願寺勢力の孤立化が継続していたので陥落は目前に迫っていました。 
和議か徹底抗戦かで揺れる中で顕如は和議を決意しますが、長男の教如(1558-1614)は和議に反対して義絶されました。正親町天皇の仲介により退去しましたが、その後も本願寺は退去派と籠城派が対立し分裂しました。 
顕如は紀伊に退去し、泉州、天満を転々としますが、1592年、豊臣秀吉から京都の土地を寄進され本願寺(現在の西本願寺)を再興しました。 
その後、本願寺は相続問題がこじれて家騒動が治まらず、秀吉や家康の介入を招き西本願寺(顕如三男・准如)と東本願寺(教如)の二派に分裂しました.. 
これにより、歴史に初めて存在した戦う武闘宗教集団・本願寺勢力は政権の期待通りの教団となり脅威性を喪失していきました。本願寺は他の教団・宗派と同様に政権に寄り添う道を選択したのです。 
日本の念仏宗の主な系譜は次の通りです。特に、本願寺の系譜は日蓮宗と同様に教義の解釈の違いから多くの宗派に分裂し、共存していることが特徴的です。 
○浄土宗(京都:知恩院「鎮西派」、開山:法然坊源空(1133〜1212) 
徳川家の庇護を受け発展する。東京の芝「増上寺」が将軍家菩提所として有名。 
○浄土真宗本願寺派(京都:西本願寺)宗祖:親鸞、開創(1591年):11世顕如 
開山:准如(1558〜1614、東本願寺の教如の弟) 
12世教如は一向宗の石山合戦の責任を秀吉にとらされ隠居処分、准如に交代する。 
徳川家康の一向宗(門徒宗)分断政策により復活し、東西分裂に加担する。 
○真宗大谷派(京都:東本願寺)宗祖:親鸞、 
開山:12世教如(1577〜1630:西本願寺:准如の兄、11世顕如の長男) 
徳川幕府から東西の分断政策により特別に庇護を受けました。 
○時宗(藤沢市:清浄光寺)開祖:一遍(1239〜1289)、開創(1325年):呑海 
遊行と札(南無阿弥陀仏)配りの特異な布教をしています。 
江戸時代に幕府の保護を受け、寺院を建立し本末体制を整備しました。 
○融通念仏宗(大阪:大念仏寺)開祖:良忍(1073〜1132) 
声明念仏、踊り念仏に特徴があるが、良忍没後に衰退しました。 
14世紀に再興され勧進聖により「絵巻」の絵解きをしながら各地を布教しています。 
江戸時代に寺院化し本末制度を整備しました。
 
禅宗 / 禅とは

 

禅とは何か。6世紀の中国に突如として現われた教えです。インドに実在したと伝承される「菩提達磨」によって中国にもたらされました。 
禅は禅定の省略形です。禅定とは、サンスクリットの瞑想を意味する「ディヤーナ」を漢語で「禅那」と音写し、心身の調整を意味する漢語の「定」を合わせた造語です。 
心身の安定をはかり意識を集中して真理を探究する修行方法を「禅定」と表現したのです。 
禅について書くことは困難です。禅の中に入って禅を語れば「不立文字」が立ちはだかり、語る内容は禅の心とは言えなくなります。禅宗に伝わる「拈華微笑」には、中国禅がその出生と生い立ちを精一杯の手法で秘密にして隠した世界があります。 
釈迦の拈華微笑とは、「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無想、微妙の法門あり、摩訶迦葉に付属す」というもので、禅宗にまことしやかに伝承されてきた内容ですが、これは、摩訶迦葉が釈迦から禅門の血脈を相承したとする由緒の正しさを主張するための捏造でした。 
禅宗は釈迦仏教の嫡流を詐称し、正当な継承者であることを喧伝するために、拈華微笑の故事を創作して釈迦より「以心伝心」により「正法眼蔵」(悟り)を摩訶迦葉が付法されたと主張してきました。 代々の法統を継承して二十八祖の菩提達磨によって中国にもたらされたと牽強付会の論を展開しています。 
摩訶迦葉(マハーカッサパ)は、釈迦の十大弟子の一人で頭陀(托鉢)第一といわれ、衣食住の清貧を旨とする修行を行った人物です。禅宗が迦葉を祖師に選んだのは、迦葉が十大弟子の筆頭にあげられたこと、その得意分野が頭陀(托鉢)であったことに起因すると考えられます。 
拈華微笑の伝記は、インドの霊鷲山の上で釈迦が黙って華を拈ったところ、多数の弟子は誰一人としてその意味を理解できなかったが、ただ一人摩訶迦葉だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという故事を創作することによって伝記が作られたと考えられます。 
このことは『大梵天王問仏決疑経』に出典されていると宋の王安石は述べていますが、この経典は拈華微笑の伝説に根拠を与えるために中国で捏造された偽経と評価されています。 
釈尊の死の直前に解かれた経典であるパーリ仏典のマハー・パリニッバー・スッタンタ(漢訳『大般涅槃経』と同一内容)によれば、迦葉は釈尊の臨終の場の傍にいなかったこと、遠隔地で修行していたこと、迦葉が知ったのは釈尊の死から7日後のことであったことが分かります。 
また、中国の漢訳仏典の二大目録『開元釈教録』や『貞元新定釈教目録』には『大梵天王問仏決疑経』が記載されていないこと、中国への伝来時期や訳者が不明であることから偽経とされています。 
チンギスハーンの子孫が統治した中国の元朝で、後期密教を継承するチベット密教と中国禅宗とが仏教の正統性と国教の地位を巡って大論争を引き起こした結果、チベット密教が国教の地位を獲得する事実がありました。 
禅宗が「教化別伝」や「不立文字」の教理を作ったそもそもの理由として考えられるのは釈迦のインド仏教に強引に繋げるための意図的な作為だったと考えられます。禅宗は中国産ゆえに老荘思想の匂いを漂わせています。近年でも、敦煌文書の発見と文献学の再評価により、禅宗が仏教としては特異な存在であることが証明されています。 
中国で禅宗が生まれた原因の一つに、中国には古来より儒教・道教、老荘思想などが定着し、調気法の伝統が根付いていたことが挙げられます。 中国社会にこれを必要とする時代背景があったと考えられます。 
禅宗を中国に伝えた達磨が摩訶迦葉の血脈を代々継承してきたことを信じる者は他宗門の学匠の中にはいません。                                                       また、釈迦の本流を自認するプライドの高い上座部仏教の諸部派の学匠が、このような禅宗のプロパガンダを認めないのは当然とも考えられます。 
禅宗の始祖となった達磨は、禅を四つの教え(四聖句)により表現しました。 
1「不立文字」 釈迦の悟りの内容は文字や言葉で表せない。 座禅によって自分が直接体験得るしかない。 
2「教化別伝」 教典や教理の束縛を受けず、直接体験によって、 心から心に伝えることが大切である。 
3「直指人心」 自分の中に備わっている仏心をまっすぐに見つめること。 
4「見性成仏」 自分の心の中に潜んでいる仏性に目覚めれば、悟りが得られる。 
禅の教えは言葉や文字に頼ることなく、師と弟子とが直接向き合い「師資相承」という形で受け継がれることが特徴です。                                        師弟の間に深い人格的な関わりを持つことを前提とするものです。 
禅宗は中国で作られた中国産仏教であり、「インドには存在しない仏教」であるという批判がありますが、禅宗が日本に移植され、新たな日本文化を創造、形成してきたことは大きな貢献であったと評価することができます。 
インド仏教の修行の基盤の一つに「禅定」があります。 この禅定は、調気法(調息・調身・調心を整える)で意識を集中して瞑想する修行法で、宗派を問わず僧侶なら誰でも体験する基本的な修行法の一つです。 但し、禅宗の禅と他宗の禅定はその瞑想法が根本的に異なるものです。個人の素質や能力によって、その覚知の内容に大きな格差がでることは避けられません。 
禅僧が座禅によって得る悟り(開悟)は客観性の視点から認知できる内容ではありません。自己という実体を否定し、存在(有)そのものに個性を認めない立場の禅の悟りの内容が本物かどうかの見極めは困難で、その悟りの内容は個人の能力とパーソナリティに覆われています。これには小乗教的要素が強すぎるのではないかという批判と疑問視があるところから、悟りを社会に還元する大乗的要素を積極的にアピールする必要がありそうです。個人的な悟りは自己満足の世界に過ぎません。
 
禅宗 / 禅の心

 

禅の心を「あるがままに生き、あるがままに存在すること」を知恵の内容とするものと考えられますが、知恵の内容や本物の自分は言葉で表現することができません。ただひたすらに、座禅して、絶対的な「無」の境地を体現することを目的とすることを発想する禅宗の禅は中国で生まれた中国禅です。釈迦教団の伝統的なインドの禅定とは本質的に異なるものです。 
禅宗が中国から日本にもたらされたのは、新興の武士階級が朝廷・貴族に代わって台頭してきた時期でした。 禅宗の受容が武士階級から始まったのです。 戦闘を職業として従事する武士は、この生業を正当化し得る新しい宗教を欲していました。 禅宗はこの武士の要求に適切に応えることによって布教の転機を掴むことができました。 
新興の武士階級は、禅宗を新しい文化として受け取り、朝廷や貴族たちが誇りにしてきた京都の貴族文化や伝統文化に対抗する意図を持って、積極的に禅宗を受け入れたと考えられます。 鎌倉武士は、禅が中国の先進文化を代表するシンボルと受け取りました。 
鎌倉時代を通じて、寺院の改宗という衣替えがこの頃に頻繁に起きました。 守護・地頭などの武士勢力の庇護を受けることを目的とするものです。 改宗は天台宗や真言宗の地方寺院が特に目立ちます。 これは、1地方寺院がさまざまな緊急の紛争解決のために本山の援助を期待するにはあまりにも遠隔地に位置していて万一の場合には不安があったこと、2地元の権力者が檀家寺の改宗を望んだことなどが挙げられます。 禅宗の布教活動は地元の有力者である守護・地頭をはじめとする武士階級の熱い支持によるものでした。 
世界の眼を視点とすれば、今日の日本の仏教の中でもっとも世界に知られているは禅宗です。 禅宗には禅文化の存在価値を世界にアピールし、認知させた功績があります。 また、禅文化は茶道・華道・剣道・相撲道など多くの日本文化に計り知れない影響を与えてきた文化功労者です。 その功績は誰しもが認めているものと思われます。 
禅の教えは言葉や文字に頼ることなく、師と弟子とが直接向き合い「師資相承」という形で受け継がれることが特徴です。師弟の間に深い人格的な関わりを持つことを前提とするものです。日本の禅宗には、つぎの三つの宗派がありますが、一般的に禅宗と言えば曹洞宗を指すことが一般的です。 
禅宗を知る手がかりを栄西(臨済宗開祖)、道元(曹洞宗開祖)、隠元(黄檗宗開祖)の思想と事跡から、その違いを比較してみたいと考えます。 
臨済宗は鎌倉初期に中国・宋に留学した栄西(1141〜1215)が開祖です。 鎌倉幕府執権の北条氏から特別の庇護を受けましたが、室町時代の足利義満のとき、「鎌倉五山」(1建長寺、2円覚寺、3寿福寺、4浄智寺、5浄妙寺)と「京都五山」(1天竜寺、2相国寺、3建仁寺、4東福寺、4万寿寺、別格に南禅寺)が定められました。 
この五山を中心とする禅文化を五山文化といいます。五山制度、鎌倉五山は北条執権氏や有力な御家人の庇護を、京都五山は足利幕府や有力守護大名などの権力者に接近して庇護を受けましたが、五山制度は足利氏が私的に定めたものであり、臨済宗全体の格式や上下関係を意味するものではありません。 
これとは別に、臨済宗には意図的に権力者との間に距離を置いた大伽藍の大徳寺や妙心寺の流れがあり、今日の臨済宗の基本的な骨格を形成しました。臨済宗の特徴は「公案」を用いる看話禅にあります。 五山派からは戦国末期に西笑承兌が豊臣秀吉の、以心崇伝が徳川家康の外交顧問を務めました。 
「公案」と「看話禅」とは、 公案は修行の過程でおこる疑問(疑団)を起こす為に用いられた禅問答です。 祖師たちの具体的な行為や言動を例に禅の精神を究明する手法ですが、 悟りの典型的な表現(公案)を元に学徒に悟りを開かせる手段として用いられました。 公案の体系は1700の典型的な表現にまとめられています。 
公案は頭で理解するのではなく、身体全体で経験し、自分の心の中に見つけるものです。 他人の模範的な合理的な答えではなく、自身の直接体験から出た答えが求められます。 自分自身の見解を師に納得させる真正の見解(悟りの体験)でなければなりません。 
看話とは「じっと見守る。注視する。」こと。公案を冷静に受け止めて思考を巡らすこと。 自分の心を宇宙と一体化し、真実の自己を発見する目的で行います。道元は、悟りを目標視する看話禅を厳しく批判しましたが、座禅の主流は看話禅でした。 
曹洞宗は道元(1222から1282)を宗祖とする禅宗の二大宗派の一つです。中国曹洞宗の流れを受け継ぎ、永平寺(高祖:道元)と総持寺(太祖:瑩山)の二つの大本山が両極となって競い合い一宗の研鑽をしています。 
道元は比叡山で学び、栄西門下の明全に禅の手ほどきを受けた後、中国・宋に留学し童山の如浄から曹洞宗を継承しました。帰国後、京都深草に草庵を建て、宇治に興聖寺を創建しての弟子の育成活動を始めましたが、比叡山の弾圧を受けて、難を避けた北陸の地に永平寺を創建しました。 
曹洞宗の特徴は、ひたすら座禅をする「只管打坐」(黙照禅)です。道元は、仏道修行の基盤は座禅にあるとして弟子の育成をしましたが、一般的な布教活動はしませんでした。 
座禅とは、精神の安定をはかり統一すること。「禅定」ともいいます。精神状態を示す「禅」に、身体の姿勢を示す「坐」が結び付き座禅という語ができました。 禅定は釈迦の悟りを追体験する大乗の菩薩の基本的な修行形態であり、禅宗の独自性を意味するものでなく、どの宗派にもあります。 しかし、黙々と座禅することで足りるとする黙照禅は他宗にない独自性です。 
道元は座禅を「身体で座り、心で座り、身も心も一切の束縛を離れた自由な状態で座るべきだ」として「どんな悟りも救いも求めず、無条件に座禅に打ち込む姿そのものが仏(即心是仏)なのだ」といっています。 
即心是仏とは、「自己と大宇宙とが一体化したあるがままの姿」をいいます。 道元は『正法眼蔵』で即心是仏に至る道が「只管打坐」であるとしています。 黙照禅とは、悟りを得るための修行として座禅するのではなく、座禅が悟りそのものである、と言っています。 只管打坐(黙照禅)とは、壁に向かって、ただひたすら座禅することです。 
道元は『正法眼蔵弁道話』に「単伝正直の仏法は最上の中に最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちいず、祗管に打座して身心脱落することを得よ」といい、焼香、念仏、読経も不要である、ただひたすらに打座して身心脱落せよ、と言っています。道元は、座禅の修行によって悟りを開いて仏になるのではなく、座禅の修行そのものがそのまま悟りであると説いています。道元の仏教観は、釈尊以来の祖師も座禅によって大悟したという認識にあります。 
また、道元は、末法思想は許しがたい邪見であるとして強く否定しました。常に生じ、常に滅してやまない無常の中に法があり、釈迦の法が滅するものではなく、末法という特別な時はないと否定しています。末法思想に乗って燎原の火のごとく人々の心を掴んだ念仏宗の教えは「暇なく念仏を唱え続ける念仏衆の姿は、春の田の蛙が昼夜をわかたずに鳴き騒ぐようなもの。いかに唱えてもついに益なし」と否定しています。 
この道元の批判の趣旨は、法華宗(現・日蓮宗各派)にも同様なことが言えます。法華経の総本山比叡山から異端視され数々の弾圧を受けながらも、法華経の異端な読み方から生まれた日蓮思想によって末法思想に火をつけて煽り、折伏という換骨奪胎の行為を敢行して布教の拡大をしてきた在り方は、幕府の忌避するものでした。 
黄檗宗は、中国からの渡来僧・隠元(1592〜1673)が開祖です。中国臨済宗をそのまま持ち込んだもので、日本化した臨済宗とは異なるものです。徳川四代将軍家綱の帰依を得て、京都・宇治に万福寺を創建しました。 中国風の念仏(己身の弥陀を念ずる)を加えた明朝の臨済禅とほぼ同一で特別な個性が無く、格別な布教活動もなく大衆に支持されることはありませんでした。 
黄檗宗の僧としては、近代にチベットに単身で乗り込み苦難の末にチベット大蔵経を日本にもたらした河口慧海が有名です。しかし、何故か慧海は還暦を迎えて還俗してしまいました。 
一般的に、禅宗では自己の意思を経典より優位に立てる欠点があることがしばしば指摘されています。禅宗では、経典の真意を究明する姿勢が稀薄であると指摘する識者が多くいます。 禅の特徴である「語録」や「問答形式」は、中国文化の特徴を示しています。 
とはいえ、これまでに築きあげた「禅文化」は800年の実績を持つ日本有数の伝統文化を形成した事実があります。同様に、念仏(浄土宗・浄土真宗)、日蓮宗も800年の歴史があります。しかし、仏教思想の伝統的なあり方を基準にすれば、「非仏説」という疑いの眼を向けられることは致し方ないことです。 
絶対的な「無」の境地や本物の自分を究明する禅僧の関心事は、ぎりぎりまで真実を煮詰める正念工夫にあります。自らの精神を如何なるものからも拘束を受けない自由の境地に置くことにあります。  
座禅とはひたすら座って何か一つ己のうちに真理を見出すことを目的とするものです。 
禅者は、絶対的な「無」を見つめる中であらゆる思考と意欲ばかりでなく、感情をもなくして、沈思黙考を続けるほかなく、己も他者もない、言葉で言い表せない絶対的な「無」の境地にいたることを追及する正念工夫に没頭するならば、いわゆる後生善処や現世利益の妄想を受け入れる素地がありません。 
禅宗の立場では余のことはいわゆる妄想のなせる業とみるほかないところから、信者の請いを受けて行う葬儀や年忌法要、本尊に向かって祈りをささげる行為や死者の霊や菩提に回向や祈りを奉げ、同時に自分の後生善処や現世利益を求める信者の行為の実態は禅の立場で見れば単なる俗欲にすぎないことになります。禅僧は信者が期待する功徳とは本質的には隔絶した世界に立っているのではないかと考えさせられます。 
禅宗の「禅」は哲学であり、宗教の色も匂いもない。このような批判に禅僧はどのように答えるのでしょうか。
 
鎌倉新仏教をどう見るか

 

鎌倉新仏教は、修行の単純化と本尊の功徳を強調することにより多数の民衆の心を掴みましたが、同時に大乗仏教を大きく変質させました。 
鎌倉新仏教は、日本仏教史の大きな転換期にあたり、まさしく「大乗非仏説」が乱立することになりました。しかし、この現象を進化と捉える人々がいること本当に驚きを隠せません。歴史教科書の記述は、ほとんどこれに倣うものが多いところから、その基礎知識があやふやで、確信がないところから既存の教科書の記述をそのまま援用して前例に倣うという無難な作成をしてきたのではないかと考えらえます。中・高生の教科書は批判的な文章を掲載できない性質があるところから、教科書の執筆者は仏教知識を深め、記述の仕方には、より一層の慎重な対応が求められていると考えられます。 
鎌倉新仏教の始祖たちは、多くの衆生に生きる力を与え、多くの人々の精神を開放し、一時代を反映する布教活動をしました。宗教には、世相や時流が敏感に反映される局面があります。しかし、これは表層的な見方であり、宗教の本質ではありません。仏教の本質は時代や世相の影響を受けることがない、人間の本質にかかわる「真理の探究」にあります。 
民衆の中に根を張れない宗教は評価されませんが、民衆の宗教観をミスリードする宗教も問題視されなければなりません。 
浄土宗、浄土真宗と日蓮宗の布教の仕方は、大衆に解かり易くしかもシンプルでした。 
この両宗の布教活動には多くの共通性があります。この両宗が難解な仏教を民衆レベルに理解させた手法は画期的な出来事でした。仏法を理解するための難解な基礎知識がいらないのです。仏教の大衆化という大きな質的変化の幕開けによって、いくつもの道筋が拓かれるようになったのです。 
称名念仏や題目を唱えることだけで誰でも救われるという文句は、民衆に直接に語りかけることができる大きな価値転換の比類ない効果がありました。燎原の火のごとく急激にひろがる勢いがありました。 
「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも阿弥陀如来に救われる。「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば誰でも救われる。しかも法華経は釈迦の真実の最高の教えだ、と簡単に解かり易く、直接に、手短に民衆に語りかけ、大きな驚きと感動を与えられるのです。 
布教の在り方を根本から変える出来事でした。 
特に、日蓮宗系と浄土真宗の信者の抱え込みや教義の刷り込みには強い独善性と違和感を感じます。 
信者が他宗の寺社仏閣に参詣することを極端に嫌悪し隔離しようとする意思が強く感じられます。 
他宗との比較や検討を考えることさえ奪われ、囲い込まれる信者は哀れです。 
しかし、これは純粋な信心の在り方という特異な教義を刷り込まれることによって沈黙させられています。 
仏教の本質は、釈迦の悟りの精神にあります。しかし、大乗仏教や密教のアジア各地への伝道や移植は釈迦在世の純粋な形態が保持されたものではありませんでした。 
仏教は、これが伝播された地域の気候・風土や民族性、風俗・習慣、によって生まれた固有の宗教観や民族思想との混交などの様々な変容の歴史を持っています。 
この意味で、仏教は各地の民族宗教と接触し、融合や同化をしつつ民衆の中に定着して勢力の拡大を図ってきました。 
そうであれば、仏教に本質的なもの、本来的な在るべきものを厳格に規定して、それ以外のものは純粋な仏教ではない、とする宗教観を持つのはどうか、という反対意見が出てくるのは致し方ないことです。 
しかし、これを仏教の堕落とみるか、あるいは発展と捉えるかは個人の価値観の問題だとして放置することは許されません。 
もっとも大事なことは、他の宗教や思想と接触しながらも、仏教の基本的な考え方を維持する過程の中で生きた仏教の歴史が作られることを再認識することが肝要だと考えられます。 
仏教の本質と合わない思想や教義を持つ宗教は仏教とはいえないことは当然です。 
過熱する布教では勢いのままに誇大な言葉や過大な表言が語られるものです。 
根幹に狂いが生じても繁った枝葉は自ら過ちに気付くことはありません。 
しかし、仏教の創始者である釈迦の思想や教義を逸脱する思想を持つ宗教は仏教ではない、との評価を受けることは致し方ないことです。 
これは周知の事実ですが、どの宗派にも自宗が他の宗派より優れているとする、いわば自画自賛の教理論を持っています。 
残念ながら、客観的に、権威的に、あるいは教理的に一つの教判論に従わせる強制力はありません。だから、新興宗教がいくらでも作れるのです。 
勿論、優劣を論ずる基準が作れないわけではありませんが、作る努力をする力が結集できないのです。自宗の否定になるかもしれない基準作りに参加できるはずもありません。 
自宗派は仏教であると思っている教団でも仏教の伝統的な解釈によれば、とても仏教とはいえないものまで混在しているのが実態です。 
仏教には教義を判定する権威が存在しません。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教との大きな違いです。 
宗教に求められる道理とは何でしょうか。 
宗教を説く側(教団)と、説かれる側(信者)には根本的な違いがあります。 
この違いの壁が低ければ低いほど信者の評価が高くなります。 
信者を上からの目線で見る横柄な僧よりも、信者の目線に合わせた心使いができる僧の方が評価が高くなることは道理です。 
人々は、宗教の教義や理念を理解してから受け入れているのでしょうか。 
本来の「あるべき姿」をいえば、教義や理念に共感してから受け入れる、という形が理想的ですが、実際にはこのような人々は皆無に近いのではないかと考えられます。 
信者の入信の動機は、思想や理念の共感などという高尚なものではなく、もっと現実的な「人的関係」や「現世利益」などにあるのではないかと考えられます。 
現世利益は結果次第です。たいがいの結果は現世利益にしてしまう解釈が横行することになります。 
現代でも、実際には、親兄弟の勧めや友人知人の勧誘によって背中を押されたり、生活環境の中の人と人のつながりによって入信する場合が圧倒的に多い、といわれています。 
宗教に権力の意思が干渉し、自由な布教活動が許されない時代には内輪で語り合うことしかできなかった教団が、戦後に信教の自由を保障されると遼原の火のごとく興起し、多くの新興宗教が生まれました。 
この特徴的な新興宗教は僧侶の布教活動によるものではなく、世俗の信者が教団をつくり、信者の獲得に成功したことです。 
巨大な新興宗教が誕生しましたが、これらの大多数は、浄土系と日蓮系そしてキリスト教系の団体です。 
その理由は、布教活動が比較的に簡単で容易だからと考えられています。 
宗教の基礎知識の乏しい信徒が宗教を自由に語れば、誤解が生じます。 
しかも誤解に気づかず、様々な解釈が横行するようになることは避けられません。 
広範囲に伝播された教義の曲解は簡単に正すことができません。ここに新たな問題が発生することになりました。 
かつて、古典的な入信の動機として、病気、貧困、罪の意識(地獄行き)などが語られ、もっと積極的な者は福運、運気を開く、宿命の打開などを期待しました。 
このとき、歴史と実績のある教団は、教祖や継承者の人格的な魅力や行為、奇跡譚などを語り、宗派の教義や理念を解釈して初心者の不安を取り除き慰留してきました。 
宗教の正しい理解があれば、受け入れの時間的な経過とともに信心が安定して行きます。 
自律的な人は、やがて教義や理念がエンジンとなって推進力を発揮するようになります。 
しかし、これは個人の性格や能力、理解力の影響を受けながらのことであり、一般的には長時間を必要とすると考えられます。 
人の出会いは「縁起」によります。縁は実に様々で良縁もあれば悪縁もあります。 
どの様な縁に出会うかは本人の運次第といえます。 
どの宗教に出会うかは本人がどのような縁を持っているかで決まります。 
縁は、人の縁、天の縁、地の縁など、人によって色々な云い方がされます。 
仏教には、たまたまも、偶然もありません。 
宗教に出会うのも、いい師匠に出会うのも縁起によります。縁起は不思議な現象です。 
オカルト宗教に出会うのも、新興宗教に出会うのも、キリスト教やイスラム教に出会うのも、顕密仏教に出会うのもその人の持っている縁によると考えられます。 
しかし、縁起は条件を変えることによって、縁を変換することも可能と考えられます。
 
大乗非仏説 / 南伝と北伝の抗争

 

釈迦滅後(紀元前5世紀頃)から200後頃から始まった仏教教団の分裂が進み、500年後頃、上座部(小乗教・北伝仏教)と大衆部(大乗教・南伝仏教)に分裂しました。この頃から、上座部仏教から大乗仏教に対する批判がありました。いわゆる「大乗非仏説」というものです。 
この分裂は「戒律」に関する見解の相違が飽和状態になり大分裂したものですが、「釈迦仏教の受け止め方や考え方」の違いによるものでした。 
小乗教はパリー語の教典とともに東南アジア(南伝仏教)へ伝播され、大乗仏教はサンスクリット語の教典とともに東アジア(北伝仏教)に伝播され中国経由で日本にもたらされました。 
終戦後のことです。東南アジアの仏教者(僧侶)が日本の仏教を指して「それは仏教ではない。仏教とはいえない。」と評価し日本の仏教者に衝撃を与えた事実がありました。 
この評価は、東南アジアの仏教から見たありのままのものですが、教典の違いだけでなく、教団の在り方、戒律の実践、行事(法事)その他の万般にわたり、南伝仏教と驚愕するほど隔絶していることによるものでした。 
江戸中期にも大阪の町人であった富永仲基が『出定後語』(1745年)を書いて大乗非仏説を唱えています。その要旨は「大乗仏教は釈尊が直接に説いたお経ではない」とするものでした。 
仲基は、大阪の町人たちが共同出資して作った庶民教育の学校「懐徳堂」で学びました。ここでは権力や権威者の縛りのない学び方ができたことから、経典を読み比べているうちに相互に食い違いと矛盾する内容があることに疑問を持ち自分なりにその原因を探求した結果、初期の経典は素朴なものであったが後世に次第に書き加えられて増補されたからだと推論したのです。 
仲基説の影響を受けた国学者の平田篤胤が『出定笑語』を書いて仏教を揶揄して否定したことから仏教関係者を大いに悩ませました。 
また、維新後の明治初期には、大乗非仏説に便乗した国学者の勢力が極端な「廃仏毀釈」の政策を強行させて多数の仏教文化遺産を破却させました。天皇の権威を利用した国家神道の時流を形成し、これに便乗して力ずくで仏教を抑え込むという奇跡が生まれたのです。 
小乗教(上座部仏教)と大乗仏教(大衆部仏教)との根本的な考え方の相違点は、「釈尊と仏陀(ブッダ)をどのように捉えるか」ということにあります。 
小乗教では、「仏陀」は釈尊(釈迦)そのものであり、仏教とは釈尊の教えそのものである」と捉えますが、大乗仏教では「仏陀を超越的な存在と捉え、釈尊はブッダの化身と見る」解釈をします。 
大乗仏教の考えでは「釈尊はこの世に現われた存在と捉え、仏教は普遍的な真理そのもの」と考えます。 
この考えからは、釈尊と同じように真理を伝えるために現われる仏が他にたくさん存在しても良い、という考えになります。 
しかし、南伝仏教の伝わった諸国の小乗仏教がこのような教判や教理を認めるわけがありません。これでは上座部が認めない教理・教判を勝手に評価して小乗教を見下げていることになります。 
これは公平な評価とは言えませんが、2000年以上も続いた大乗の教判や教理が今更変わるわけがありません。 
大乗仏教の殆どの経典が「如是我聞」で始まる形式をとる理由の第一は、(事実は大乗の諸菩薩が書いた)大乗経典は釈迦が説いた内容を直接に聞いて書き残したという仏説の形式をとるためでした。日本の仏教者は大乗経典は釈迦が書いたものとすることを大前提として仏教を学んできたのです。 
上座部仏教との比較では、興味深い事実があります。上座部仏教では、信仰の対象となるのは「釈迦」とその仏舎利をおさめる「ストーパ(仏塔)」に限られます。 
大乗仏教の日本で信仰されている諸仏、諸菩薩などは信仰の対象とはされません。 
また、頭髪を蓄える僧侶(浄土真宗など)は皆無で、所依の経典は阿含経典のみです。 
寺の建築様式は日本式建造物と全く異なり、本堂の荘厳の仕方や儀式などの通過儀礼も全く異なります。 
同根の仏教であり、さまざまな共通項があるといっても客観的にはなかなか理解できる状況ではないといえます。 
上座仏教(テラワーダ仏教)は、生まれ故郷の南アジア周辺を限界として広まりましたが、ついに世界宗教に成長することがありませんでした。インドと同様な社会構造を持つ地域から出ることができなかったという特徴があります。インド仏教とこれを継承するチベット仏教は、輪廻転生を前提とする仏教観を濃厚に持つ共通性を持っていますが、自然に関する関心をほとんど持つことがありませんでした。救済の対象は輪廻転生する動物だけであり、植物や鉱物は救済の対象には含まれませんでした。 
チベット密教は、インド大乗仏教の厳然たる正統な後継者であり、13世紀に花開いた最新の後期密教のエースですが、「山川草木悉皆成仏」の思想を持ちませんでした。これが、中央アジア、中国を経由して発展した日本の中期密教との違いの一つです。ダライラマ14世は、定期的に高野山に行かれて数々の講演を続けておられますが、高野山真言宗・松長有慶管長猊下の影響を受けられて3年ほど前から「草も木も全部成仏するのだ」と発言されるようになり、伝統的な解釈を変えられました。救済の対象が有情界だけではなく、非情界をも対象にする思想を受け入れたものと考えられます。 
この事実は、「山川草木悉皆成仏」の思想は、中央アジアの大乗の菩薩が編纂した大乗経典の中で育まれた思想であり、中国仏教が受け入れた思想であることが分かります。 
テラワーダ仏教(上座仏教=小乗仏教)は、原始仏教の継承者の立場をとることで、社会的活動に関わらない僧院生活を基本的な生活態度としてきましたが、近年では、さすがに社会との関わりを避けてばかりもいられなくなり、タイではエイズ患者の救済に係わり、スリランカでも社会との係わりに変化が見られるようになりました。 
仏教は「成仏(悟り)」を目指す宗教です。上座仏教は成仏を目指しながら成仏を特別なものと捉え、それは不可能だから、せめて煩悩だけは断じて「阿羅漢」を目指そうと考えました。小乗教の最高の悟りは阿羅漢です。 
これに対し、大乗仏教はすべての人々が成仏できる可能性があると主張しましたが、実際にはこの世での成仏は容易ではないとし、菩薩道を展開して成仏の可能性を示したもののその具体的な方法を明らかにできず「三劫成仏」を示すのみでした。 
法華経が即身成仏の思想を持っているという主張がありますが、法華経のどこに成仏に至るプロセスが具体的に記述されているのか全く分かりません。法華経は、その解釈論の一念三千が法数(十如是、十界、十界互呉、百界千如、三世間など)を上げて心の世界を語ろうとしていますが、抽象的な可能性に言及しているだけとしか考えられません。 
こうした成仏へのあこがれ、願いの中で8世紀に純粋密教が登場し、速やかにこの身のまま即身成仏できるという思想を展開しました。 
空海は『即身成仏義』を著し、その理論と実践を語っています。 
南伝の上座部仏教からみれば、日蓮宗の「題目を中心とする修行」や浄土宗・浄土真宗の「他力本願の思想」などは偏った安易な修行法と見做され、伝統的な仏道修行の立場からみれば受け入れがたく到底仏教とは認められないことは自明の理といえます。 
このような違いをあげれば、釈迦の直弟子を自認するプライドの高い上座部仏教から「大乗非仏説」がでてくるのは仕方が無いことのように考えられます。このうえ、仏道修行の在り方まで全く異なるわけですから、あたかも「非仏教」ではないかと見られる傾向性があります。 
鎌倉新仏教は、末法思想を重く受け止めすぎた欠点があります。激動の社会環境下で終末思想を連想した人々の恐れを救済する名分を立てた祖師達が、日本人が持つ情念を大量に刷り込んだことで、伝統的仏教が変質させられ日本人に受け入れ易い宗教観が生まれたものと考えられます。 
仏教経典は俗に八万四千といわれますが、実はこの教典のすべてをブッダ(釈迦)が説いたものではありません。東南アジア諸国に伝わった南伝仏教(上座部)の側から「大乗仏教は非仏説」との批判があります。この批判は、ブッダが説いた真説の経は「阿含経典」だけであり、「ダンマパダ(法句教)」や「スッタニパータ(経集)」だけだと考えている立場のものです。 
しかし、釈迦が直接に文字にして残した経典はどこにもありません。しからば、阿含経の全体がそのまま「釈迦の教え」といえるのでしょうか。これは強く否定できます。 
阿含経も釈迦の「金口の説法」が数百年もの間、口承により伝来された過程で釈迦の教え以外のものが少なからず混入していることは否定できない、と考えられています。 
南伝の小乗(上座)仏教もまた非仏説なのです。 
仏典の正当性を歴史的な事実から求めることは不可能といえます。仏典の真実性は上座仏教でも大乗仏教でも真偽を判定する方法がありません。仏典がもつ真理観やその精神を判断するしか方法がありません。 
このような中で、一つの仏典だけを金科玉条として受け入れ、他の経典を排除する姿勢(特に法華経信者にみられる)は、教条性にまみれたカルト行為であり釈迦の精神に反するものだと考えられます。 
そもそも大乗経典のほとんどが、釈迦滅後のインドや中央アジアの諸菩薩、すなわち、釈迦の悟りの精神を追体験するために修行を続けた仏弟子が、釈迦の悟りの世界の精神性の受け取り方を表明するものであったと考えられます。 
問題なのは、日本の大乗仏教の系譜にあることを騙る信仰宗教団体が多数出現して様々に大乗仏教の理念(精神性)を捻じ曲げてきたことにあります。 
残念なことは、日本の仏教界にはこれらを正そうとする熱意が見られないことです。宗教界には自浄作用が全くないことにあります。これを日本的な寛容の精神とでもいうのでしょうか。
 
大乗非仏説 / 大乗の特徴は菩薩行

 

視点をかえれば、仏(ブッダ)は歴史上に実在した釈迦だけを指す固有名詞ではないと考えることができます。大乗仏教では多数の仏を迎え、それらの諸仏がそれぞれに教えを説いて大乗経典が成立しています。この視点から「大乗は仏説にほかならず」といえる、との反論がなされています。 
仏教経典は釈迦滅後200年以上たってから文章化され始めたものです。釈迦滅後から、釈迦の弟子たちによって語り継がれた説話がお経となったのです。 
この中身は「経・律・論」に分けられますが、まとめて言えば、「釈迦の思想をまとめたもの」です。 
別の言い方をすれば、釈迦の思想の本筋を継承するものは「お経」と見做すことができます。 
これとは異なり、仏教経典を依経としても、釈迦の思想から外れた新たな思想を創作したものは仏教とはいえないことは当然です。 
インドから伝承されて中国で翻訳された経典が日本に伝わりました。経典は訳者の思想のブレを反映する内容になることは避けられません。どの教団も教典選びにはこのような価値判断が働いています。 
インドの原典を翻訳した教典とは別に、中国その他で新たに作られた教典を「偽経」といいます。しかし、信仰心に基ずいて釈迦の精神を受け継いだ者が作ったものであれば、それも仏教教典と言えるのではないか、という考えがあります。 
大乗仏教では「法(真理)を体得したブッダをどのように見るか」という視点から「仏身論」が考えられました。二身説(法身と色身)、三身説(法身、報身、応身)、四身説(自性身、自受用身、他受用身、変化身)などです。このうち、三身説で話を進めます。 
三身とは、1応身: 実在する釈迦が悟りを得てブッダ「釈迦如来」となる。 
2報身:菩薩が修行を積み仏となる。 
<例>法蔵比丘が48の衆生救済の願を成就して「阿弥陀如来」となる。 
<例>菩薩であった時、12の衆生救済の願を成就して「薬師如来」となる。 
<例>釈迦の次にブッダとなる記別を受け兜卒天で修業中の「弥勒菩薩」 
56億7000万年後に「弥勒如来」として下生し衆生救済をする仏。 
3法身:宇宙の真理、悟りそのものを人格化した仏⇒大日如来 
これらの仏は過去仏、現在仏、未来仏として三世に存在すると考えられました。 
釈迦は、過去世に於いて1002回の輪廻を繰り返し1003回目に悟りを得てブッダになったと釈迦の前世物語「ジャータカ物語」はいいます。この説話集は南伝仏教では釈迦の「本生譚」と扱われるパーリ語で書かれたれっきとしたお経です。 
前世で修行中の釈迦(本生菩薩)を悟りに導いた仏は「燃灯仏」です。 
釈迦と同じく、阿弥陀如来はインドの王族の太子でしたが出家し、「世自在仏」の教化によって法蔵比丘となり、修業を成就して阿弥陀如来となりました。 
どのような仏も悟りを開く契機になった仏に導かれていると考えるのが仏教の特徴です。仏も突然に自力によって悟りが開けるのではなく、報身仏や法身仏の下で修業することによって悟りを開き仏になったと考えられたのです。 
多数の「ジャータカ物語」が著されると、『マハーヴァスツ』という代表的な仏伝文学の書物が著され、これらが整理統合されて、修行時代の釈迦の姿を理想的な修行者の在り方として普遍化して菩薩の理想像が整理されるようになりました。 
釈迦の修行を理想とし、自らも無上正等菩提(悟り)を発心して、釈迦の誓願を自らの誓願とする修行者が出現し、共有された菩薩の願(仏への行願)が一般化されるようになりました。 
大乗の菩薩は、自らが解脱して完成するばかりでなく、他を解脱させる利他行(衆生済度)を願とする点で、小乗教とは異なります。 
大乗の菩薩がどの様な「菩薩行」を目指すのか、によって多数の大乗経典が編纂されました。実は、釈迦は成仏に至る道筋と成仏の最終形の回答を用意していませんでした。 
大乗の菩薩は釈迦の精神を受け継ぎながらも釈迦の立場に立って様々な道筋を忖度しながら自ら「菩薩行の回答を試みました。多数の大乗経典はこうして様々に編纂されたましたが、その中身は受け取る人によって様々に解釈されてきました。 
こうして、大乗仏教では三世十方の諸仏諸菩薩の多数の尊が登場し、時間と空間を超えた仏の世界が花開き現出することになりました. 
大乗経典には優れた数々の経典がありますが、この中でも『華厳経』と『法華経』は大乗仏教を学ぶものには必須の基本経典になると考えます。この中に大乗哲学の重要部分が含まれているからです。 
やがて、統一的な仏陀観が密教の出現により成立します。 
密教では、大乗仏教の諸仏・諸菩薩をそのまま受け継ぎ、全ての諸仏・諸菩薩を統一する絶対的な仏を大日如来と定め「普門総徳の仏」とし、その他の仏・菩薩・明王・天部などを「一門別徳の仏」としました。 
端的にいえば諸仏・諸菩薩・明王・天部は大日如来の分身として位置づけられたのです。 
大乗非仏説の中心は仏を生身とみるか、法身とみるかの問題です。 
しからば、小乗教のように生身の釈迦の説のみに限定する必要はありません。 
仏教とは歴史上に存在する生身の釈迦の説法のみをいうのではなく、釈迦を悟りに導いた法身の説法もまた仏教に相違なしと考えることができるのです。 
悟りの本体である真理や法則は過去・現在・未来の三世に普遍的な存在と考えるべきです。 
仏教の教えは、伝統的には「経・律・論」の三つの分野の内容を吟味することによって判断することになります。その上で、客観的な基準として「1教相論(教相判釈)」「2教理論(経典論)」「3仏身論(仏陀論)」「4成仏論(修行論)」の四つのカテゴリーにわたって比較検討することが妥当であると考えます。 
また、北伝の大乗仏教と南伝の小乗仏教(上座部仏教)に共通する初期仏教(原始仏教=釈迦仏教)の基本概念は仏教のベースとして学習しなければならないことは当然です。これを外したら仏教とはいえないからです。 
仏教の修行は「戒・定・慧」の三学を学ぶことです。日本ではまず比叡山の最澄が戒と律を混同し「律は劣った小乗のものだから大乗ではこれを捨てるべきだ」という主張を展開しました。これに「仏陀の教えは正しく実行できず、実行しても悟りは得られず、人に救いの道はない」という当時の末法思想が後押しすることになります。 
鎌倉新仏教はこれを積極的に肯定し、「戒律は前時代的で非合理的、且つ、非現実的なものであるから大乗相応の地・日本には相応しくない。現実社会の要請や、常識、慣習にそぐうものに改めるべきだ」という日本独特の主張が多数派を占めるようになりました。 
こうして、日本では戒律に関心が低い宗派や教団が増えてくるという問題が発生することになりました。しかし、戒のない仏道修行は無く、律のない教団などあり得ません。大乗仏教でも例えば「十善戒」は僧侶にも在家にも共通する戒です。 
「戒」は「良い習慣」を意味するサンスクリットあるいはパーリ語「sila」の漢訳語です。戒は「防非止悪」を目的とするもので、個人が意志を持って自発的に守らなければならない行為規範です。戒は個人の日常生活のうえでの行動の指標・原則となるものです。「戒」の否定は由々しき問題を含むものがあります。 
しかし、戒を守る、守らないは本人自身の問題です。その結果も本人自身に帰属する問題ですが、釈迦の時代にはどのように考えられていたのでしょうか。 
「戒」の言語といわれるパーリ語「sila」が、釈迦の在世でどのように使われていたのかを調べた人がいます。当時の文献に出てくるシーラの用例をすべて抜き出して調べた結果、これこそがシーラの原語に違いないという文例を探し当てました。それは「あの娘はとてもシーラがよい。」という文例でした。この文例はシーラを「気立て」という意味で使っていたのです。これを考えると「戒」とは、「気立ての良い人を育むための方策」でした。気立ての良い人になることが仏教の大きな目的の一つであったと考えられるのです。(「お坊さんのための仏教入門」・正木晃・著、春秋社、2013年、p14) 
テラワーダ仏教(上座部仏教=小乗教)が戒をどんどん増やしていったのは、普通の人が絶対に守れないくらいに厳しくすることで(バラモン教の)カースト制度に組み込まれないようにするためであった、といいます。畑を耕したり、野菜を作るなどの生産活動にかかわれば、その活動にかかわる職業カースト(バァルナ・ジャーティ制)に組み込まれてしまうことを防止するためでした。実は、僧が生産活動を禁止された理由は、バラモンのカースト制度に取り込まれないようにするためでした。インドの社会構造のどうにもならない身分制度から身を避けるための自己防衛だったのです。 
これを考えれば、「なにかある場合に、ブッダの原点に返れ!」と言ってきたことが、実はそうとも言えないことを示唆していると考えられます。現代の日本では日常生活の場で、釈迦の原点に返れということは絶対に不可能ともいえるものがあると考えられます。時代背景の違いは、「戒」の自発的な考え方をも変える合理性が求められていると考えられるのです。 
「律」は僧の集団・組織の秩序を維持するための規範であり、僧侶の行為にのみ適用されるものです。僧の犯した罪の軽重によって科せられる罰則規定があることがその特徴です。 
一般的に、どのような宗教であれ集団には戒律がなければ秩序が維持できないことは当然と考えられます。 
日本仏教界には他の仏教国にない特殊な環境があります。いわゆる、「檀家制度」「僧侶の世襲」「僧侶の妻帯」です。このような日本独自の制度を持ちながら、世界でも類を見ない形で発展を遂げて来た日本の仏教界は、外国の仏教界から見ると理解を得るには難しい事情があることも事実です。 
また、寺院の中に住職の家族(寺族といいます)が同居しているのも日本だけです。家族が寺院に同居すれば家族の個人経費が発生します。寺院と直接関係ない家族の物品購入は税法上の区別ができているかどうかの議論もあります。これらに誤解が生じないように説明を続ける必要があると考えます。
 

 


    項目内容の詳細表示へ戻る戻る    
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。