越前・若越の中世前期の信仰と宗教
顕密寺社白山信仰道元と永平寺専修念仏如道の思想日像と法華宗・・・ 
立山信仰近世立山信仰の展開立山地獄

時宗・一遍 仏の世界   

 
顕密寺社

中世社会と仏教 
中世社会の生産力水準は決して高くなく、自然への依存度が高かった。技術も呪術から自立しておらず、両者は未分離なままであった。このことは祈祷の有効性を人びとに実感させることになり、五穀豊穣・鎮護国家の祈りが中世宗教に課せられた使命であった。つまり平和と繁栄を祈り実現することが、宗教の中心的役割であった。その点でいえば、中世宗教は宗教的現世主義を基調としており、祈祷の有効性が信じられている限りは、宗教界における顕密寺社の地位は揺らぐことはなかった。鎌倉期に法然・親鸞・道元・日蓮などのいわゆる鎌倉新仏教が登場するが、それらはあくまで少数派の異端であるにとどまっていた。実際、これらの宗派が社会的な広がりを確保するには戦国期を待たなければならなかったし、それ以前に教団が展開した場合でも、延暦寺など権門寺院の末寺となったり、教義を変質させて妥協を図るなど、顕密仏教の世界に埋没していった。顕密仏教は、中央の延暦寺・興福寺・東寺や六勝寺、あるいは一宮・国分寺や地方有力寺院といった国レベルでの祈祷組織をもっていただけではない。荘園鎮守や村堂を毛細管のように張りめぐらせていたこと、そしてこれらの仏神事を通じて民衆意識を深く捉えていた点に、その強靱さの秘密があった。例えば三方郡山西郷の鎮守28所社では、修正会・彼岸会・法華懺法・不断如法経や毎月17日千巻読経などが行なわれていたし、郷内の仏神事の運営には民衆も積極的に関与していた。興福寺領の坂井郡河口荘では民衆支配の宗教的拠点として十郷それぞれに春日社が勧請されて、修正会・修二会・五節句・彼岸会のほか、仁王講・大般若経・法華八講・常楽会などが実施されたし、正応元年(1288)坪江郷が興福寺に寄進されたおりにも、春日社が勧請されている。また鎌倉初期に遠敷郡西津荘の多烏浦が開発されたさい、浦鎮守として天満宮が勧請され、浦本堂として大福寺が造立されているし、坂井郡豊原寺では毎年正月に閼伽井の水を汲んで祈祷し、毎月8日の薬師講で参詣した道俗に一滴ずつ注いで、除病の加持香水としていた。このように中世民衆にとって、寺院や神社は必要不可欠なものであった。生産力水準の低い中世社会にあっては、五穀豊穣を祈る修正会などの祈祷は必須の儀礼であり、それゆえにこうした祈祷は一種の農業政策であり、また民衆生活を安定させる社会福利政策の意味あいをもっていた。中世社会が顕密仏教を必要とした構造的要因がここにある。  
若狭の祈祷秩序

若狭における国衙の祈祷秩序をうかがわせる史料が、文永2年(1265)の大田文である。ここでは若狭にある62の寺院と神社が挙げられ、それぞれ国衙から不輸田として認められた寺田・神田の面積が記されている。とすれば、この寺田・神田の量的多寡が、若狭における体制側の宗教秩序を表示しているはずである。この点で若狭は、鎌倉期における国衙の宗教秩序を展望しうる稀有な事例といえよう。まず一・二宮である上下宮(若狭彦社・若狭姫社)の神田が46町余と、国内の寺社のなかでも圧倒的な広さを誇っている。しかもこの神田には「不検注」という他にはみられない注記があり、一・二宮は国内の他の寺社とは異なった特権的地位を占めていた。上下宮はこれ以外にも、八講田・彼岸田など3町4段余の除田を認められていたし、その祈祷供料として広大な常満保が設定されていた。常満保は遠敷郡富田郷・西郷・東郷の29町余の田地からなる国衙支配下の保であるが、そのうち19町余が除田とされて、そこからの年貢が国祈祷所の供料に充てられていた。費用の内訳は恒例祈祷(14町3段余)、長日仁王最勝王講(2町)、観音経万巻・薬師経千2百巻(6段)や御読経所炭(8段余)となっており、国祈祷所では、仁王般若経・金光明最勝王経といった護国経典の講会や、一・二宮の本地である薬師如来と千手観音への読経が行なわれていた。恒例祈祷の内容はよくわからないが、修正会・仏名会といった行事が実施されていたはずである。この常満供僧は一宮の禰宜一族との間で婚姻関係を結んだ事例が多く、その供僧職の多くは禰宜一族の間で相伝された。常満保は一・二宮の祈祷所であっただけではなく、血族の面でも一宮と一体化していた。上下宮についで神田・寺田の多いのが国分寺である。国分尼寺の7町5段余を含め、25町余が除田とされている。尼寺は国分寺が掌握していた。さて国分寺は平安期に次第に衰退していく傾向にあったが、それでも全国で3分の2以上の国分寺が中世でも活動していることが確認できる。しかも鎌倉初期より朝廷や幕府が国分寺・国分尼寺や一・二宮の修造をさかんに命じており、国分寺・同尼寺を一・二宮とともに中世国家の祈祷秩序の中核として再編しようとする動きもみえる。こうした新たな動きがどこまで現実化されたか定かではないが、一・二宮とともに国衙祈祷の中核を担った若狭国分寺は、中世的再生に成功した例といってよかろう。国分寺運営の実体は定かではないが、国分寺大別当明印の9代の子孫にあたる小別当厳俊は娘を若狭彦神社の禰宜景尚(1183-1252)に嫁がせて、小別当職を孫の実尚からさらにその子尚印へと相伝させており、小別当職は一族内で実子相続されていた。また実尚と尚印は常満供僧を兼帯していたし、実盛も国分寺供僧と常満供僧・小浜八幡宮禰宜を兼帯しており、国分寺と常満保・小浜8幡が密接な関係にあったことを示している。事実、貞和5年(1349)に若狭国分寺供僧職をめぐる相論のさい、文書が謀書かどうか常満供僧に問い合わされており、供僧一同が答申している。このように国分寺と常満供僧とは緊密な関係にあり、両者が若狭の仏教祈祷の中核であった。国分寺の仏事のなかで特に重要だったのが修正の吉祥会で、厳重無双の御願とされて、老耄・病気・禁忌・幼稚以外は代理の僧を立てることが認められなかった。事実、14世紀中ごろの国分寺供僧良円は、これに出仕しなかったため改易されており(同前)、その厳重さがうかがえる。修正の吉祥会は古代の吉祥悔過に源を発している。毎年正月に昼は最勝王経を講じ夜は吉祥天に罪悪を懺悔して天下安穏・5穀豊穣を祈った儀式で、8世紀から官大寺や諸国国分寺で実施された。「今昔物語集」では、「諸国にも吉祥御願と名づけて各国分寺」で年始に最勝王経を講じていると述べているし、中世大隅の国分寺でも吉祥御願は最も重要な法会の1つであった(「国分寺文書」「薩藩旧記」)。若狭では応仁の乱後まで国分寺吉祥御願が実施されていたことが確認できるが、天正5年(1577)国分寺の7堂伽藍は焼失した。満願寺は文永の大田文によれば、大飯郡の佐分郷と本郷に計5町1段余の寺田を認められており、寺院としては国分寺についで面積が広い。鎌倉期の国衙祈祷体制のなかでかなり重要な位置を占めていたはずであるが、現在廃寺となっており詳細は未詳である。17世紀中ごろに小浜の意足寺が満願寺の古跡に移ったといわれ(「若州管内社寺由緒記」)、現在の大飯町意足寺の地に満願寺があったらしい。意足寺の本尊千手観音像は、満願寺の本尊を継承したようである。この千手観音は一木造の平安仏(国指定重要文化財)で、胎内に応徳元年(1084)書写の千手千眼陀羅尼経を納める。文安6年(1449)東寺修理料勧進に対し、満願寺の8名の僧侶が奉加しているし、このころ骨格ができた若狭33所のうちの1つでもあった。ところで文永の若狭国大田文をみると、神宮寺の所領が3段240歩(38番目)と予想以上に少ないことに驚かされる。神宮寺は奈良期の成立といわれ、少なくとも平安初期には成立を確認することのできる古刹で、上下宮の神宮寺であり「若狭国根本神宮寺」と自称していた。にもかかわらず寺田がわずか3段余というのは、上下宮の神田の巨大さに比べて少なすぎるであろう。しかも、建長元年(1249)藤原光範寄進状によれば、「当寺の破壊、殊に甚だしく、人法共になきが如し」とあり、かなり衰退していたようである。院政期に若狭国一・二宮が国衙祭祀の中核として発展していくなかで、一・二宮での仏教祈祷は神宮寺の主導から、次第に常満供僧主導へと取って代わられた。神宮寺僧の一部は常満供僧となったが、神宮寺そのものは一・二宮の発展から取り残されたのである。しかし鎌倉中期以降、神宮寺は在地領主の信仰を得ながら再出発することになる。 
モンゴル襲来と仏神事興行

一国内の仏事や仏教行政は、古代では国講師と国司とが共同してあたっていたが、10世紀になると国司の権限強化のなかで国講師の権限は解体し、以後、国司が部内寺社を管轄することになった。それに対し国衙支配の強化に抵抗する寺社のなかには、大野郡平泉寺のように中央の権門寺社と本末関係を取り結び、その権威をかりることによって国衙と対抗しようとした。こうして院政期には延暦寺などの末寺が全国に展開し、地域の宗教行政は国司と本末関係との対抗のなかで進展していった。こうしたあり方に1つの転機をもたらしたのがモンゴル襲来である。モンゴル襲来の危機のなかで、幕府-守護体制は国司の権限を吸収し、部内寺社に対する祈祷命令権を掌握することになる。弘安の役の翌々年の弘安6年12月(1283)若狭をはじめ8か国の寺社で異国降伏の祈祷を行なうよう、幕府の下知が出ている。これを受けたのが当該8か国の守護北条時宗であるので、この命は全国の守護に通達されたとみてよい。また正応5年10月にも、一宮・国分寺および主要な寺社で異国降伏の祈祷を行ない巻数を進めるよう、守護に下知が出ている。その命は守護代を介して地頭・後家人・預所に通知され、それぞれの領内の主要寺社で祈祷して11月中に巻数を進めるよう通知している。こうした史料が太良荘の文書群とともに東寺に伝えられていることや、遠敷郡明通寺にも延慶3年(1310)降伏祈祷が守護代・税所代の連署で通達されていることからすれば、幕府の異国降伏祈祷は現地の隅々にまで伝達され、全国一斉に実施されたといえよう。これまで一部の例外を除いて、幕府が直接一宮・国分寺や地方有力寺社に祈祷を命じたことはなかったし、またこれほど大規模な祈祷を繰り返し行なったことは朝廷でもない。対外的危機のなかで幕府は宗教政策の面でも権力集中を行ない、一宮・国分寺への祈祷命令権を掌握したのである。しかし、祈祷を命ずることは保護を与えることでもある。しかも「4海静謐已前に長日顕密の御祈祷を修せしむるの条、随分の忠節と謂うべけんや」とあるように、当時は降伏祈祷もまた一種の軍忠と意識されており、祈祷に励んだ寺社への恩賞が必要となってくる。こうして鎌倉末期、幕府は朝廷とともに大規模な寺社興行政策を展開した。例えば幕府は弘安7年に寺社の新造を停止し国分寺・一宮を興行するよう命じて、それぞれの現状や所領を注進させたが、その結果若狭では弘安9年に一宮と小浜八幡宮の造営用途が一国平均役として賦課され、荘園・寺社の抵抗を押し切って造営が行なわれている。こうしたなかで、税所領遠敷郡谷田寺も新たな動きをみせる。厖大な所領をもつ一・二宮や小浜8幡が、幕府の命によって国衙の力で修造されたにもかかわらず、若狭第2の御願所たる谷田寺ではわずか1町の料田も収公されており、本堂・鎮守宮・拝殿・楼門など伽藍の維持もおぼつかないと訴えており、弘安11年に国衙から敷地安堵の禁制を得ている。このように寺社興行政策は一方では寺社間の矛盾を激化させたし、またそれぞれの寺院の自己主張を顕在化させて祈祷秩序の流動化をもたらした。
僧侶の妻帯

平安期の末になると顕密仏教の世界でも妻帯が一般化し、真弟相続(実子相続)が広範に登場するようになる。弘長3年(1263)公家新制は、顕密僧が「妻妾を蓄えて」いることを批判しているが、他方では破戒僧も重要であるとして、その放逐には踏み切っていない。朝廷ですら、顕密僧の妻帯を実質的に容認していたのである。とはいえ、すべての顕密寺院で妻帯が行なわれていたわけではない。東寺のように、供僧の不犯を原則とする寺院も存在していた。こうした顕密僧の妻帯状況を生き生きと伝えているのが、「若狭国鎮守12宮社務代々系図」である。「常満供僧月静房妻」「常満供僧桑心房妻」「常満供僧多田慈心房妻」「常満供僧但馬房長祐妻」「常満供僧薩摩阿闍梨長玄妻」とあり、一宮禰宜一族との女性で常満供僧と結婚した者が何人もいる。しかも常満供僧が禰宜一族の間で実子相続されていたことも明瞭にうかがえ、鎌倉初期から国祈祷所の常満供僧が妻帯していたことがわかる。また、国分寺供僧も妻帯していた。鎌倉期の国衙祭祀の中枢たる一・二宮および常満供僧・国分寺供僧・小浜八幡宮禰宜は、婚姻関係を通じて緊密に結びついていたのである。しかも興味深いことに、「社務系図」では妻帯していない僧侶に特別な注記をしている。「聖たるの間、子なし」(泰賢・舜憲・宗弁・頼盛)、「神宮寺住侶の間、聖なり、仍て子なし」(頼賢)と記載されていたり、さらには「早世の間、子なし」(周防房)と記される例もあって、僧侶とはいえ妻帯しないのが例外であったようだ。時代は降るが、越前の平泉寺の僧侶も「大半は」妻帯していた(「蔭凉軒日録」)。では「社務系図」は、なぜ妻帯していない僧侶を「聖」とよんだのだろうか。一般に顕密仏教の僧侶は、僧正・僧都・律師、法印・法眼・法橋という国家的官位体系に属していた。それに対し、遁世して国家的官位体系から離脱した人びとを「聖」「聖人」「上人」とよんでいた。ところが「社務系図」で「聖」とされた人物はいずれも、「山僧肥前注記」「山僧大和房」「多田弁房、常満供僧・多田薬師堂別当」「神宮寺住侶」「大和阿闍梨」といった肩書きをもっており、顕密僧であって遁世僧ではない。つまり彼らは本来の意味で「聖」だったのではなく、ここでの「聖」の語法は比喩なのである。当時は俗人も僧侶も、遁世したならば性的禁欲を貫くものと考えられており、夫婦が一緒に出家する例も多かった。つまり遁世した聖は妻帯しないのが通常であった。もちろん現実には聖の妻帯が進行しており、「カクスハ上人、セヌハ仏」との発言すらみえている(「沙石集」)。しかしなお聖・上人は一般の者とは異なって性的禁欲を貫くものとの社会通念が生きていた。そのために「社務系図」では、顕密僧でありながら妻帯しなかった人びとを「聖」とよんだのである。ちなみに親鸞が妻帯した事実は著名であるが、延暦寺僧のまま妻帯するよりも、遁世僧となって妻帯することの方が社会的軋轢は大きかったはずである。「社務系図」にはもう一点、興味深い事実がある。ここに神宮寺の僧侶が2人登場するが、いずれも「神宮寺住侶、聖たる間、子なし」(頼盛)「神宮寺住侶の間、聖なり、仍て子なし」(頼賢)と記されていて、2人とも妻帯していない。特に後者の事例では、神宮寺の僧侶が妻帯を禁じられていたようである。若狭国の祈祷秩序の中核を占める常満・国分寺供僧が妻帯していたのに対し、神宮寺のように妻帯を禁止した寺院も存在した。鎌倉中期以降、神宮寺が再発展していった要因の1つはここにあった。  
白山信仰

越前では、若狭のように国衙を中核とする祈祷秩序を展望しうる史料に恵まれていない。そこで、越前で強い力をふるった平泉寺を中心とする白山信仰についてみておこう。白山信仰そのものは原始的な山岳信仰に由来するが、平安初期の密教の展開のなかでそれと習合していくこととなる。「白山之記」によれば、天長9年(832)には白山に登拝する加賀・越前・美濃の三馬場が開けていたとする。ほぼこのころに宗叡(809-84)が越前白山で苦行を行なっており(「三代実録」)、9世紀初頭に越前馬場が成立していたことは確実である。また11世紀中ごろに成立した「法華験記」には、立山・白山などの霊所で祈願した越中の海運法師の説話や泰澄伝承が登場しているし、天喜年間(1053-58)には日泰上人が越前白山の竜池の水を汲んだという。こうした密教験者の活動のなかで、白山の山岳信仰は仏教と習合し、やがて本地垂迹説によって教理的に体系化されていった。しかもそのさい、白山での験者の修行の場はほとんどが「越前白山」と記されており、白山信仰の仏教化は三馬場のなかでも越前馬場によって主導された。長寛3年(1165)ごろに成立した「白山之記」によれば、白山は次のような構成となっている。まず白山の最高峰である御前峰には白山妙理大菩薩を、その北の大汝峰には高祖太男知大明神、南の別山には別山大行事を祀っており、それぞれの本地は十一面観音・阿弥陀・聖観音とされている。またそれぞれの山上には宝殿が設けられており、末代上人の勧進によって鳥羽院や越前国足羽の住人の願となる鰐口や錫杖が安置された。末代は富士上人とも号し、富士山に数百回登山して山上に大日寺を構えた験者で、鳥羽院の信任厚い人物である(「本朝世紀」)。末代は、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納して白山信仰の仏教化に積極的に関わるとともに、鳥羽院と白山とを結びつけた人物でもあった。白山信仰の越前での中心が、「平清水」「白山社」「白山平泉寺」などとよばれた平泉寺である。大治5年(1130)前後に鳥羽院は、院宣によってその側近である園城寺の覚宗を検校に任じて社務を執行させた。ほぼ同時期、鳥羽院は加賀馬場の白山宮でも、神主職の上に検校職を設置して側近の信縁を補任している。鳥羽院が末代を介して白山に仏具を奉納したことと、平泉寺や加賀白山宮に積極的に介入したこととは、密接な連関があろう。しかし、事態は必ずしも鳥羽院の思惑どおりには進まなかった。久安3年(1147)加賀白山宮は延暦寺の末寺となって国衙・院権力のもとから自立しようとしたし、平泉寺も同年に住僧らが園城寺長吏覚宗の支配の過酷さに反発して自らを延暦寺の末寺に寄進した。延暦寺は鳥羽院に平泉寺の末寺化を認めるよう迫り、覚宗の没後に延暦寺末寺とするとの院宣を得た。覚宗は仁平2年(1152)に没しているので、まもなく平泉寺は延暦寺の末寺となったであろう。一般にこうした末寺化は国衙との政治的経済的軋轢が原因となることが多いが、平泉寺の場合も伊勢神宮役夫工米など一国平均役に対する抵抗が延暦寺末寺化の背景にあった。こうして平泉寺は、延暦寺と結びながら地域の権門寺院としての地歩を固めていったが、そのなかで軍事集団としての性格も強めていった。養和元年9月(1181)平通盛軍が木曾義仲追討のため越前から加賀に進撃したところ、平泉寺長吏斉明は平家方から寝返って、背後から通盛軍を襲撃して敗退に追い込んでいる。ところが寿永2年4月(1183)平維盛を将とする追討軍との南条郡燧城合戦では、斉明は逆に平氏に内応して源氏を破り、さらに加賀国へと侵攻している。結局、斉明は倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曾義仲に捕らえられ処刑されたが、北陸道での戦いで平泉寺が重要な軍事的役割を果たしたことがわかる。こうした平泉寺の軍事集団化の背後には、武士団の寺院内への流入があった。平泉寺の長吏斉明は越前に勢力をもつ武士団である河合系斎藤氏の出身で、叔父には白山長吏広命が、甥にも平泉寺長吏実暹がおり、特に実暹の場合、長吏職を「相伝の所帯」と称している(「天台座主記」)。しかも斉明とほぼ同時期に疋田系斎藤氏からも平泉寺長吏賢厳が出ており、この時期に越前斎藤氏が平泉寺を掌握していたことがわかる。その過程では寺僧同士の殺し合いもおきており、平泉寺内での厳しい武力対決を経るなかで斎藤氏一族の覇権が確立したのであろう。こうした武士団の流入がある以上、平泉寺の軍事集団化は必然であった。丸岡町東部にあった豊原寺も治承・寿永の内乱や南北朝内乱で僧兵が活躍するが、ここも越前斎藤氏と密接なつながりがあった。「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」や利仁将軍の子孫が帰依渇仰したといわれ、疋田以成とその一族が豊原寺の発展におおいに寄与している。おそらく斎藤氏は外護者の位置にとどまらず、平泉寺と同様、豊原寺内部にまで進出したはずである。両寺の中世的発展とその武装化は、在地武士団に支えられていた。中世平泉寺の重要な所領に吉田郡藤島荘がある。これは最終的には源頼朝の寄進によって平泉寺領となったが、斉明の兄弟に「藤島右衛門尉助延」という藤島を名乗る人物がいたこと、藤島荘は平家没官領とされており、内乱以前は平氏与党の支配下にあったらしいこと、内乱後、源頼朝が藤島荘を平泉寺に寄進していること、以上の事実からすれば、内乱以前の段階から平泉寺が藤島荘と関わりをもっていた可能性も高い。平泉寺における斎藤一族の覇権の確立の背後には、藤島荘の権益があったとも考えられる。さて天台座主慈円は、平和を回復するには仏法興隆の必要があるとして、建久6年(1195)から無動寺大乗院で勧学講を開催した。その費用を捻出すべく、慈円は東大寺大仏供養のために上洛していた源頼朝と交渉して、藤島荘から上がる年貢のうち1000石を勧学講に充てることを認めさせた。建暦2年(1212)の目録によれば、藤島荘の年貢4800石のうち、平泉寺の寺用が1000石、勧学講など延暦寺の仏事用途が2800石、本家である青蓮院得分が1000石となっていたし、綿3000両も勧学講と本家に充てられていた。藤島荘の年貢米の実に8割近くが延暦寺に奪われているのである。しかも平泉寺はこれ以外にも末寺役を負担していた。延暦寺の内部ではその後、藤島荘や平泉寺長吏職をめぐって梶井門跡と青蓮院門跡との間で紛議がおこり、建保2年(1214)には青蓮院門徒が離山する騒ぎとなっている(「天台座主記」)。平泉寺や藤島荘が天台座主の進止(支配)なのか、それとも青蓮院の別相伝なのかに紛争の原因があったが、結局、慈円・青蓮院側の主張が通ったようである。しかし文永2年に園城寺焼打ちを咎めて、幕府が座主最仁(梶井門跡)を改易して澄覚を補任したさい、藤島荘と平泉寺は座主澄覚の進止とされた(「新抄」)。これに対し平泉寺は、重い負担に不満をつのらせ、延暦寺の支配下から離脱の動きをみせるようになる。そして藤島荘などを押領するとともに、末寺役の納入を拒絶するようになった(「門葉記」)。建武4年(1337)平泉寺衆徒は新田義貞の追討に協力して藤島城に篭もるとともに義貞調伏の呪咀を行なったが、そのさい、平泉寺は延暦寺と争ってきた藤島荘の領知を北朝側に認めさせた(「太平記」)。しかしその奪還は必ずしも容易に実現せず、これ以後も藤島荘は青蓮院の支配下にあったらしい(「華頂要略」)。しかしそのなかで延暦寺との本末関係は次第に実質的意味あいを失い、平泉寺は地域の有力権門寺院として自立し、その最盛期を迎えることになる。白山系寺院にはこのほかに、丹生郡大谷寺、今立郡大滝寺・長泉寺、坂井郡豊原寺・千手寺などがあった。なかでも豊原寺衆徒は僧兵として勇名を馳せており、平泉寺とともに越前を代表する大寺である。織田信長の焼打ちや明治期の神仏分離の影響もあって現在は廃寺となっているが、平泉寺と同様、故地には厖大な寺坊跡が残されている。15世紀中ごろに成立したと考えられる「白山豊原寺縁起」によれば、寛喜元年(1229)豊原寺は延暦寺と本末関係を結んで妙法院門跡領となっている。従来は園城寺や興福寺とも宗教的交流があったが、以後は山僧(延暦寺の僧)を学頭に迎えて天台宗への純化を図ったという。また嘉暦元年(1326)と至徳2年(1385)には平泉寺と相論となり、いずれが本寺であるかを争ったが、最終的に豊原寺の主張が裁許されたという。平泉寺との本末をめぐる同様の動きは、越知山大谷寺でもみえる。越知山は泰澄が白山を開く前に最初に修行をした霊地といわれ、平安後期の木像十一面観音像・阿弥陀像・聖観音像を伝えている。これは白山三所権現の本地仏としては最古の遺存例である。ところがこの越知山でも平泉寺の「本寺」であるとの主張が登場するようになる。その前提となったのは、越知山が泰澄の最初の修行地であり、また彼の入定地でもあるという伝承だが、泰澄伝のなかでこうした伝承が登場するのは鎌倉期の末になってからである。このころから大谷寺も白山信仰の主導権争いに名乗りを挙げたのである。越前の白山信仰は平泉寺を中心に展開したが、地域寺院としての自立化はむしろ寺院間の矛盾を顕在化させ、政治的・宗教的な葛藤を激化させることになった。  
顕密仏教と浄土教

顕密仏教は5穀豊穣・鎮護国家といった現世の祈りによって、平和と繁栄を実現しようとした。しかしそれだけではない。顕密仏教は来世の祈りについても機能を果たしていた。元来、浄土教は顕密仏教の内部から生み出されてきたもので、念仏や口称による極楽往生がさかんに説かれていた。平安期の延暦寺の教学書には、「未断惑の凡夫も念仏の力によって往生を得る也」(「阿弥陀新十疑」)、「十悪五逆の人も臨終の十念の力にて彼国(極楽)に生まることを得る也、況や女人と雖も宿善開発せば、何ぞ安養界(極楽)に生まれざらんや」(「浄土厳飾抄」)とあり、凡夫や女性の念仏往生はもちろんのこと、十悪や五逆罪を犯した悪人ですら称名念仏によって極楽往生できると説かれていた。しかもこうした思潮は世俗社会にも浸透しており、平安末には「弥陀の誓ひぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、一度御名を称ふれば、来迎引接疑はず」「竜女はほとけに成りにけり、などか、われらも成らざらん、5障の雲こそ厚くとも、如来月輪隠されじ」といった今様が謡われていた(「梁塵秘抄」)。越前・若狭で顕密仏教系の念仏信仰がどの程度普及していたかは定かではない。しかし延暦寺常寿院領の三方郡山西郷長法寺には念仏田があったし、丹生郡大谷寺では毎年7月14日の盆に「十方檀那・三界万霊のため」に阿弥陀経の読経が行なわれて念仏・陀羅尼が唱えられている。坂井郡河口荘には光明寺の不断念仏田のほか、春日社念仏堂田・八幡宮念仏堂田・神宮寺阿弥陀田などがあったし、丹生郡剣太神宮寺(織田寺)では地蔵講が行なわれていた。南北朝期に越前で真宗や時衆が一定の広がりを確保するが、その素地にはこうした顕密系の阿弥陀信仰の展開があった。白山の弥陀・観音は衆生救済のために地獄にいるといわれており(「沙石集」)、白山信仰もまた来世信仰を包摂するものへと飛躍している。田畠の寄進によって極楽往生を祈る例も数多い。大谷寺では嘉元4年(1306)藤原兼範が2段の田を弘法大師御影供料田に寄進して父母の命日の勤行を依頼しているし、現世・後世のために「国内の檀那、郡中の施主」に対し法華8講の勧進も行なわれた。正中2年(1325)尼了心が亡夫の追善と自分の後生菩提のため田地を遠敷郡神宮寺へ寄進しているし、明通寺でも親の追善や「現前息災・後生善処」のため田地寄進が行なわれていたほか、十悪五逆を犯した悪人の救済すら説いている。このほか「2親得脱并びに自身の往生極楽」のために如法経米を寄進した事例も数多く、明通寺や羽賀寺には厖大な寄進札が残っている(「小浜市史」)。このなかには逆修と明示したものも多い。逆修は生前のうちに死後の冥福を願って仏事を行なうもので、死後の追善よりも7倍の功徳があるとされた。また如法経は一般に法華経をさし、その写経や読経を依頼するために米銭の寄進が行なわれた。法華経を信じて念仏を唱えるというのが、中世人の典型的な来世信仰のありようであった。明通寺や羽賀寺だけでなく顕密寺社の多くが民衆の来世信仰を獲得しようとしたさい、如法経信仰は非常に有効であった。もちろん極楽往生のため田畠を寄進することは、顕密寺社の場合だけではない。敦賀西福寺や小浜浄土寺などのように、浄土宗・浄土真宗・時宗の寺院でも同様の例を確認することができる。この点で両者は共通の基盤に立っていたといえよう。ただし現世の祈りを基軸とする顕密寺社の場合、触穢の問題から、現世祈祷にかかわる僧侶は葬送の導師を禁じられるなど、来世の祈りにはさまざまな制約があった。その結果、来世の祈りを基軸とする新たな宗派が登場してきたとき、顕密寺社はこの分野から次第に後退してゆかなければならなかったのである。  
道元と永平寺

日本禅宗の成立 
一般に栄西が中国より禅を伝えたことをもって日本禅宗の出発点とするが、「元亨釈書」や「延宝伝燈録」などの僧伝や「興禅記」(無象静照著)・「将来目録」(入唐求法者が持ち帰った書物等の目録)などの史料から、鎌倉期以前にも禅を日本に伝えた人物が存在したことが知られる。まず飛鳥朝期に道照(629-700)が入唐し、法相宗や成実宗とともに禅を学び、元興寺に禅院を設けている。奈良期には唐僧の道璿(どうせん)が天平8年(736)に来日し、大和大安寺に禅院を設け、門弟の行表に法を伝えている。北宗禅というものであった。平安期に入ると最澄が入唐して円・密・禅・戒の4宗を伝えているが、彼は入唐する前にすでに行表から北宗禅を学んでいた。唐からは牛頭禅と称されるものを伝えた。空海にも「禅宗秘法記」という著述があったといい、在唐時に禅を学んだものと思われる。比叡山では円仁も入唐のおりに禅を学び禅院を設けており、円珍は代表的な禅籍である「6祖法宝檀経」を将来している。さらに平安期には唐僧の義空が南宗禅(以降、日本に入ってくる禅宗はこの南宗禅に属する)を伝えている。日本側の招きに応じたものであったが、数年にして帰国した。また日本から入唐した瓦屋能光(933年ころ没)は中国曹洞宗の祖である洞山良价の弟子となり、中国で没している。永延元年(987)帰国した三論宗の然(ちょうねん)は宋朝禅を学び、禅宗の宣揚を朝廷に奏請したが許可されなかった。平安末期に禅を伝えた人物に覚阿がいる。覚阿は入宋し、南宗禅のなかの臨済宗楊岐派の禅を伝えて、安元元年(1175)帰国して比叡山に入った。高倉天皇の問法を受けたが、笛を吹くのみであったという。このように、平安期以前において中国の禅宗と関わりをもった僧侶たちが何人かいたが、法孫を残さなかったために、これまでの禅宗史上ではあまり重んじられなかった。しかし覚阿の伝禅などは、後述する大日房能忍におおいに影響を与えることになったのではないかと考えられる。さて、中国からの伝禅という視点のみでは、鎌倉期以降なにゆえに禅宗が受容されていったかが理解できない。その背景には、中国禅を受容できるだけの基盤が日本のなかに存在したとみなければならないとする新しい視点が提示されている。それは、「往生伝」などの説話文学のなかに登場する禅定を修する僧や行的な僧に見出すことができる。また、奈良期における山林修行僧や民間布教僧のなかに位置した看病禅師や、持戒・看病の能力をもって国家に登用されていった内供奉十禅師の存在、平安期には寺院内に置かれた十禅師から四種三昧の修行をもっぱらにし臨終往生への助勢(葬祭)を行なう禅衆へと変化していった事実にも注目する必要がある。中世における禅僧たちがもっていた葬祭や祈祷の能力は、古代の「禅師」たちがもっていたものであったとするのである。さらに、禅的なものを古代からの山林修行の伝統のなかにも見出すことができるとする説もある。つまり、古代仏教のなかから中世における浄土教の展開や法華宗・律宗などの展開のみをみるのではなく、古代の行的仏教のなかからは禅宗の展開もみなければならないという視点である。これらのことを考えると、入宋して禅を伝えた道元についてみるとき、中国からの伝禅という視点とともに、道元の入宋にいたるまでと帰国後の展開、特に道元のもとに参じた人びととの関連においては、古代仏教からの禅的な伝統や行的仏教の系譜などからの影響について考える視点が必要となってくる。  
鎌倉期における禅宗の受容と展開

道元についてみる前に、日本の禅宗の流れについて概観しておこう。入唐した学生・学問僧(300年間で149人)に比べると入宋僧(170年間で109人)・入元僧(160年間で222人)の数ははるかに多い。入唐僧たちは、国家の留学生として求法の責務を負わされていた。ところが「然や成尋らの北宋時代の渡海は、国家からの派遣ではなく私的なもので、仏蹟巡礼が目的であった。平安末から鎌倉期に渡海した僧、すなわち入宋僧は次のように3分類できるといわれている。1.「然などの延長線上にあるもので重源や栄西などのように早く入宋した人びとで仏蹟巡礼を目的とするもの、2.俊芿(しゅんじょう)や月翁智鏡などのように律宗を伝えるためのもの、3.禅宗を求めてのもの、以上の3分類である。栄西は天台宗に活力を与えるために禅を用いようとした人物であるが、その2回目の入宋でさえ、宋より「天竺」に渡り仏蹟を巡礼するのが最終目的であったことはよく知られている。しかし、その後の入宋僧の大部分は3である。また日本の禅宗界は、中国禅を能動的に求めた時期から受動的に受容された時期へと移っていったとみることもできる。鎌倉前期には道元に代表されるような求法伝法を目的とした入宋僧が多かった。しかし後期以降は次第に文化摂取のための入宋・入元へと変化し、滞在年数も長くなっている。そしてこの時期には多くの優秀な中国禅僧が渡来したといわれており、日本の禅宗にとっては受動的受容の時期ということになる。鎌倉前期の禅宗界をみると、栄西が建立した京都建仁寺は真言・止観・禅の三宗を兼ねそなえた比叡山の末寺として存在し、栄西自身は鎌倉幕府のなかでは台密僧として活動しており、彼の門弟たちも同様であった。中国禅宗界を代表する無準師範の法を嗣いで帰国した円爾弁円は、9条道家の外護を受けて京都東山に本格的な禅寺の東福寺を建立しているが、同寺も真言・天台・禅の三宗を修する道場として出発したとされる。唱えた禅も顕密禅と称されるものであった。なおこの時期に、只管打坐(ただひたすら打ちすわる)という純粋禅を唱えていた道元は越前に赴くことになる。道元が越前に入ることを決断した要因の1つに、圧倒的な大伽藍である東福寺の建立を挙げる説があるほどである。このような日本の禅宗界の兼修禅的・顕密禅的な傾向を変化させたのは、寛元4年(1246)に渡来した蘭渓道隆であった。彼は宋朝風の純粋禅をもたらしたのである。彼が開山となった鎌倉の建長寺は、宋朝風の建築様式で建立された。この蘭渓が京都の建仁寺の住持となるに及んで、純粋禅は京都にももたらされた。武士のなかにも北条時頼のように、禅に深い理解を示す者も出てきた。ただし兀菴普寧は時頼が没すると、禅の理解者なしとして帰国した。北条時宗は、日本においても著名であった無準師範の高弟の環渓あたりを招こうとしたが、実際には法弟の無学祖元が弘安2年(1279)渡来した。蘭渓・無学ともに元の圧迫を避けての渡来という感じが強く、必ずしも一流の人物ではなかったようであるが、両者により宋朝風の純粋禅がもたらされた。元は再度の日本侵略に失敗すると、属国となるよう勧誘するために一山一寧という禅僧を送り込んできた。北条貞時はいっとき彼をとらえるが、のちには建長寺の住持としている。以後は日本からの招きに応じて渡来した人物が多く、東里弘会・東明慧日・霊山道陰などが挙げられる。このうち東明慧日は曹洞宗宏智派を伝えた人物である。彼およびのちに渡来した東陵永璵の法孫は、臨済宗で占められた五山派のなかでは珍しく曹洞宗として存在し、朝倉氏の外護を受けて越前にも寺院を有した。鎌倉最末期になると、清拙正澄や明極楚俊・竺仙梵僊などの一流の禅僧が招きに応じて渡来してくるようになる。明極は当時の入元僧の多くが彼のもとを訪れるほどの人物であり、竺仙も入元僧であれば一度は訪れるという古林清茂の高弟であった。これ以降は渡来僧は途絶え、わずかに曹洞宗宏智派の東陵永璵が観応2年(1351)渡来したに過ぎない。また日本の禅の水準も高まり、渡海してまで中国禅林から学ぼうとする者は少なくなっていた。そうしたなか鎌倉末期から南北朝期にかけて、渡海の経験のない、密教的要素を禅のなかに融合させた禅風をもつ夢窓疎石が活躍するようになり、その門派が勢力をもつようになっていったのである。禅宗の展開をみる場合、臨済宗と曹洞宗に分けてみるよりも、宗派にかかわらず京都・鎌倉の 五山を中心に展開した五山派(叢林)と地方に発展した林下(または林下禅林)とに分けて把握すべきであるという見解がある。そして中央から地方への伝播は三波に分けてとらえられている。まず第一波には越前永平寺開山の道元をはじめ、臨済宗の紀伊国由良西方寺(のちの興国寺)の開山である無本覚心、陸奥国松島円福寺の性才法心、山城国勝林寺の天祐思順などがおり、彼らは中国禅を積極的に求め、地方に隠遁し、教団形成には否定的であったという。このうち道元や天祐を除くほとんどの人びとは密教的性格をもっていた。彼らの活躍した時期は鎌倉前期であった。次に第2波は五山派寺院の門弟らで、上層の地方豪族の保護を受けて各地に寺院を建立した人びとである。それらの寺院は5山寺院の末寺となっていった。第三波には中国の中峰明本に参じて念仏禅を伝えた人びとが多く、隠遁的であった。近江国永源寺の寂室元光、常陸国法雲寺の復庵宗己、筑前国高源寺の遠渓祖雄、甲斐国天目山棲雲寺の業海本浄などで、南北朝前期から中期にかけての人たちである。またこの時期には、さまざまな理由で5山およびその周辺の寺院から地方へ出た人びともおり、一派を別立する者や、各地の他派へ流入する者などがいたのである。こうしたなかで、教団否定的であった各派も教団を形成するようになっていった。永平寺道元下の法孫のなかにも、永平寺から加賀大乗寺へ出た徹通義介や、能登永光寺・総持寺を開いた瑩山紹瑾などが登場するに及んで、曹洞宗は大規模な教団へと変化していった。五山派に属することなく各地に展開した林下禅林を代表するものには、永平寺道元下の曹洞宗や臨済宗の京都大徳寺・妙心寺の門流などが挙げられる。なお、曹洞宗でも宏智派は5山叢林のなかにあり、朝倉氏の保護を受けて越前にも進出してくることになるのである。  
栄西と能忍とその門下

道元の生誕前後(1200)は、禅宗史からみると大きな画期であった。栄西と能忍の出現である。栄西はまず天台宗の教学を学んだのち入宋し、臨済禅を学び、建久2年(1191)に帰国した。「興禅護国論」を著わし、建仁2年(1202)には将軍頼家の援助を受けて京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の寺として建仁寺を建立している。建永元年(1206)重源の跡を嗣いで東大寺の勧進職となり、復興に尽力している。栄西の勧進聖的性格がうかがわれる。能忍は房号を大日房という。禅宗に関心をもち、独力で悟りを開き、摂津水田(大阪府吹田市)に三宝寺を開創している。しかし無師独悟を批判されると、文治5年(1189)弟子2人を入宋させ阿育王山の拙庵徳光のもとに遣わし、嗣法を許されている。能忍は「在京上人能忍」と称されており(「百練抄」)、京都での布教活動を行なっていたようである。能忍は拙庵から弟子を通じて受けた初祖達磨から6祖慧能(禅が中国でさかんになる基礎を作った人物)にいたる6人の舎利をもとに達磨宗を強調し、それまでの釈迦の舎利信仰に強い影響を与えたとも考えられている。建久5年には栄西とともに達磨宗の布教を停止させられているが、禅僧としての活動が栄西以上であったことは、日蓮が「開目抄」のなかで念仏宗の法然に並べて禅宗の大日(能忍)を挙げていることからもうかがえる。能忍の弟子である仏地覚晏は、多武峰(奈良県桜井市)に移る以前は京都東山にいた。弟子の懐鑑が東山で覚晏から血脈を受けている(「永平寺室中聞書」)。しかし多武峰は安貞2年(1228)に興福寺衆徒によって焼打ちに遭い、覚晏門下も離散ということになったようである。懐鑑は越前足羽郡波着寺に移りその拠点とした。多武峰にいた覚晏に参じた懐奘は帰国して建仁寺にいた道元を訪ね、文暦元年(1234)には宇治興聖寺の道元の門弟となっており、仁治2年(1241)には、越前波着寺にいた懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて上洛し、やはり道元の門下に入っている。なお波着寺は足羽川流域の稲津保にあるが、この稲津保出身でのちに永平寺3世となる義介が、波着寺にいた懐鑑のもとで寛喜3年(1231)ごろに出家している。そして、この達磨宗の相承物は義介から瑩山紹瑾へと伝播されていった。また越前大野郡宝慶寺開山の寂円の弟子であり、のちに永平寺5世となる義雲も系字の「義」が付されており、波着寺で出家したのではないかと考えられる。義雲は宝慶寺の檀越であった伊自良氏の出身と推定されている。いずれにしても達磨宗には、東山・多武峰・越前波着寺を経て道元の門下に入っていった一派と、摂津吹田の三宝寺を中心に応仁年間(1467-69)まで存続した一派が存在したのである。  
道元の入宋

永平寺を開いた道元の伝記としては、道元から4世で能登総持寺の開山の瑩山紹瑾が中心となって編集したとされる「元祖孤雲徹通三大尊行状記」(「曹洞宗全書史伝」)や、それを整備して応永年間(1394-1428)に編集されたという「永平寺三祖行業記」、永平寺14世建撕(1468-74まで永平寺住持)が著わした「永平開山道元禅師行状建撕記」(以下「建撕記」と略)、また瑩山紹瑾が歴代の祖の伝記を著わした「伝光録」(「曹洞宗全書史伝」)のなかの「第51祖、永平元和尚」の項などがある。これらの伝記を中心に道元の行歴を略記してみたいと思う。道元は、頼朝が幕府を開いて8年後の正治2年(1200)に京都で生まれている。正月2日の誕生とされる。父は村上源氏の久我通親、母は松殿藤原基房の娘の伊子といわれている。ただし実父はこれまで育父とされてきた通親の子道具とする説も有力となってきているが、母である藤原基房の娘との関係もあっていまだ確定的とはいえないので、ここでは父は通親、母は基房の娘伊子と考えておきたい。道元誕生の地は未詳であるが、母方の松殿の宇治木幡の山荘ではないかといわれている。父である源通親は当時土御門上皇の外祖父であり、頼朝をして「手にあまる」と怖れさせるほどの政界での実力者であった(「愚管抄」)。しかし道元はこの父を3歳のときに失い、母も8歳のときに失っている。母も初めは木曾義仲のもとに嫁がされ、そののち源通親の側室にされたという説もあるほどの薄幸の人であったようである。母方の伯父である師家は、道元を官職に就かせるために養子とし元服させようとした。しかし道元は13歳の春のある夜、松殿の山荘を去り比叡山の麓に母方の叔父良観法師(「永平寺 三祖行業記」「建撕記」には良顕とみえ、「尊卑分脈」には良観とある)の庵を訪ねた。良観は道元を比叡山横川の首楞厳院般若谷の千光房に住まわせることにしている。この般若谷は、栄西の弟子でのちに道元とともに入宋することになる明全が参学したところであり、道元より年長であるがのちに弟子となる懐奘も参学した場所であった。建保元年(1213)14歳の4月9日、天台座主公円について得度し、翌日戒檀院において菩薩戒を受け、仏法房道元と名乗った。比叡山において天台教学を学習するに及び、大きな疑問が生じたという。それは「本来本法性、天然自性身」という、一切の衆生には本来仏性がそなわっており人は本来仏であるとする天台宗などの基本的な考え方に対して、道元は、元来仏であるならばこれまでの諸仏諸祖はなにゆえに修行する必要があることを説いてきたのであるかという疑問をもったのである。天台教学からみれば幼稚にさえみえる疑問であったが、この基本的な問いに答えてくれる人物はいなかった。当時、延暦寺・興福寺・園城寺(三井寺)などの寺院の間では争いが生じており、そのために公円は辞任するにいたる。道元も15歳のころ比叡山を去り、園城寺の座主公胤を訪ね、先の疑問を問うたが公胤は答えず、禅宗の存在を教えた。道元はその指示により京都の建仁寺を訪ね、栄西が伝えた臨済宗黄竜派の禅にふれることになった。以後、道元は建仁寺や園城寺において学習を続けた。栄西は建保3年6月5日に鎌倉の寿福寺で没しており(一説には7月5日建仁寺にて没)、道元が栄西に会うことができたかどうかは微妙であるが、おそらく会うことはできなかったのではないかと考えられる。栄西なきあとの建仁寺においては、栄西の弟子の明全について参禅した。貞応2年(1223)24歳の2月22日、明全とともに京都を出発し、博多から船出して4月には中国の明州慶元府(寧波)に到着した。同年7月に天童山景徳寺に入り、臨済宗大恵派の無際了派に参じる。翌3年冬に無際が死去したので、天童山を去り諸方を歴訪したが、満足できなかった。ついに帰国しかけたが、以前に耳にした如浄という禅僧が天童山の住持となっていたので参禅することにした。如浄に参じてまもなく、ともに入宋した明全が亡くなっている。  
建仁寺から深草へ

嘉禄3年(1227)28歳の秋、如浄より嗣書(法が伝えられたことを証明する書)を受け、帰国することになった。同年8月ごろ出帆し、肥後国の川尻に帰着し(薩摩国坊津に帰着したとする説もある)、京都建仁寺に入った。この年、早くも「普勧坐禅儀」(「曹洞宗全書宗源」)を撰述している。なお永平寺所蔵の道元真筆本(国宝)の奥書は天福元年(1233)の撰述となっているが、まもなく撰述する「弁道話」に「その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄のころ撰集せし普勧坐禅儀に依行すべし」とあり、嘉禄3年は12月10日に安貞元年と改元されていることを考えると、嘉禄3年に撰述したことになる。したがって永平寺所蔵の同書は、6年後に深草の観音導利院興聖寺を開創したおりに清書したものである。この「普勧坐禅儀」は道元が主張する「正伝の仏法」の坐禅を一般に広め勧めようとするもので、いわゆる教学の仏法ではなく、仏教の原点に帰り釈迦の正覚に直結しようとするものであったといえる。同書は道元の基本的立場を明らかにするものであった。建仁寺にいた道元のもとには、法を問う者も少なくなかったようである(「正法眼蔵随聞記」)。しかし寛喜2年の31歳のころ、建仁寺を出て山城深草に閑居した。建仁寺は道元にとって、次第に参禅者に指導できるような環境ではなくなっていたようである。大日房能忍の法孫であった懐奘が参随を願ったときに、別のところに草庵を結ぼうと思うのでそのときに訪ねて来るようにと言わざるをえなかったほどであった(「伝光録」)。それに、当時の建仁寺は腐敗し堕落していたようである(「正法眼蔵随聞記」)。そして道元の建仁寺における房舎は破棄された(「京都御所東山御文庫記録」)。教禅兼修の建仁寺で純粋禅を説いたため、比叡山僧の迫害があったものと考えられる。  
深草における活動

寛喜2年に閑居したところは京都郊外深草の極楽寺別院の安養院であった。この安養院で翌3年8月15日、道元の禅を如実に示した「弁道話」を撰述している。道元は如浄から伝えた仏法を正伝の仏法と称したが、それは只管打坐の禅風であった。坐禅を、悟るための手段にはしなかった。坐禅それ自体に絶対の価値を見出し、坐禅修行すること以外に悟りはないとし、「修証一如」、すなわち坐禅(修)が悟り(証)であるとする。道元の在俗男女に対する態度は、「弁道話」に「本郷にかへりし、すなわち弘法救生をおもひとせり」と述べており、帰国後は法を広め、衆生を救済することを念頭に置いていたことが知られる。ゆえに坐禅修行は「男女貴賎」にかかわらず修することができるものであることを明確に示している。このころになると道元の周辺には、近衛家や藤原教家(弘誓院)・正覚禅尼などの助力者が現われたようである。このうち近衛家は、近衛基通と道元の父とされる久我通親とがともに抗幕派として政治的に深い関係にあったとされる。また建長5年(1253)の近衛家の所領目録からは(「近衛家文書」)、冷泉宮領の相模国波多野(神奈川県秦野市)の地を管理したことが知られるが、この波多野はのちに道元の大檀越となる波多野氏の本貫の地であった。藤原家と密接な関係にあった寺院のなかには山階寺や法性寺などをはじめとして多武峰や極楽寺も存在し、近衛家とも無関係ではなかったようで、道元が深草の極楽寺の別院である安養院に居住するようになったのも、近衛氏との関係からではなかったかと考えられている。藤原教家は道元の母方の関係者であったようである(「尊卑分脈」「山州名跡志」)。道元はこの藤原教家や正覚禅尼などの助力により、天福元年ころに観音導利院興聖宝林禅寺を深草の極楽寺跡に開いている。そしてこの年の夏に「正法眼蔵」(摩訶般若波羅密の巻)を示し、以後同書の示衆・撰述を進めていくことになる。文暦元年の冬、大日房能忍門下で仏地覚晏の門弟であった懐奘が参じてきている。嘉禎2年10月(1236)僧堂を開くと、前述のように仁治2年春には越前波着寺の懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて道元のもとに入っている。大日房門下の集団での参入であった。道元僧団は次第に大きくなっていった。やがて京都においても説法を行なうようになり、仁治3年12月17日には六波羅の波多野義重のもとで「正法眼蔵」(全機の巻)を説き、翌寛元元年4月29日には六波羅密寺で「正法眼蔵」(古仏心の巻)を説いている。道元の建仁寺・深草時代に道元に参学・問法する者が少なからず存在したことは前述したが、帰国後まもない安貞元年10月15日明全の得度の弟子の智姉が明全の舎利(火葬にしたときに高僧ほど多数あるとされる美しい骨)を分与してほしい旨を申し出てきたので、道元は「舎利相伝記」(「曹洞宗全書宗源」)を書いて与えている。道元が建仁寺にいたときである。なおこの智姉は道元より4代の法孫になり能登の永光寺や総持寺の開山として知られる瑩山紹瑾の「洞谷記」に「明智優婆夷」と表記されており、篤信者であったことがうかがえる。瑩山は永光寺開創に尽力した平氏の女性をこの建仁寺に道元を訪ねた明智と対比させているのであり、のちのちまで明智の名は知られるところとなっていたようである。「洞谷記」にはまた「瑩山今生祖母明智優婆夷」とみえる。瑩山の出生地は坂井郡多称村(丸岡町山崎三ケ)、あるいは今立郡帆山(武生市)ともいわれている。明智は越前の人か、あるいは少なくとも越前と密接な関係にあった人物であったと理解される。  
道元の越前入国

天台宗の教学を集大成したといわれる「渓嵐拾葉集」(1347)には、仏法房(道元)が後嵯峨天皇のときに「護国正法義」を著して奏聞に及んだが、佐の法師が、道元の説は仏教に拠ったものではないので沙汰に及ぶようなものではないとの判定を下し、極楽寺が破却されたという記事を掲載している。これによれば、道元が「護国正法義」を著したということになり、その内容が原因で極楽寺が破却されたというのである。その内容は未詳であるが、栄西の「興禅護国論」を意識してのものであったと思われる。では「護国正法義」が著述されたのはいつごろなのであろうか。暦仁2年4月25日(1239)に撰述された「正法眼蔵」の奥書に「観音導利興聖護国寺開闢沙門道元示」とある。「護国」という文字がみられるのは、この巻だけである。「護国」ということが強く意識されたときであろうか。この暦仁2年4月からそう遠くない時期で、かつ後嵯峨天皇の即位後で、「正法眼蔵」の撰述に間がある時期が「護国正法義」の著された時期ということになろう。それは、仁治3年6月2日の「正法眼蔵」(光明の巻)以後、9月9日の「正法眼蔵」(身心学道の巻)撰述の間ということになると考えられている。しかし、道元が越前に入居するのはちょうど1年後の寛元元年の7月である。「護国正法義」の撰述からすると間があきすぎているとする見方から、極楽寺破却そして道元の越前入居の直接の原因は、仁治3年12月17日の六波羅密寺そばの波多野義重邸と翌寛元元年4月29日の六波羅密寺での「正法眼蔵」の説示ではなかったかとする説もある。いずれにしても、波多野氏がのちに永平寺における檀越となっているところをみると、六波羅での道元の説法は入越と深くかかわっているとみてよかろう。天台別院であり、多くの人びとの信仰を集めていた六波羅密寺での説示が比叡山の僧徒を怒らせ、興聖寺が破却されるという事態になってしまったものと思われる。六波羅密寺での説示は古仏心の巻であり、その巻頭では、禅宗の系図が釈迦以来正しく伝わってきたことを示すものであるだけに、比叡山側を刺激するものであったのかもしれない。それにしても、道元の越前入国は急であった。「正法眼蔵」の著述・説示は、天福元年夏に説きはじめて仁治3年12月までの9年半に42巻に及んでいたが、仁治4年に入っても正月6日に都機、3月10日に空華、4月29日に古仏心、5月5日に菩提埵薩4接法、7月7日に葛藤の各巻を示している。古仏心の巻以外は興聖寺での説示である。7月7日に同寺で説示して1か月を経ない閏7月1日には、すでに越前大野郡の禅師峰において三界唯一心の巻を示しているのである。深草興聖寺を義準に頼み、7月のうちに越前に入ったことになる。興聖寺の破却があったとすれば、説示に間がある5月5日から7月7日の間であったものと推定される。さて、道元の越前入国の理由であるが、直接的には興聖寺が破却されるということがあったかもしれないが、それのみではなかったようである。道元はすでに師の如浄から深山幽谷に居して修行するようにといわれており(「宝慶記」)、深山にての修行のことは「正法眼蔵」(重雲堂式の巻)のなかにもうかがえるので、道元の心の底には深山幽谷での修行への思いがあったものと思われる。それが興聖寺の破却や、比叡山や建仁寺との関係の悪化、あるいは大規模な伽藍をそなえた東福寺の建立などのこととあいまって、越前入居ということに傾いていったものと思われるのである。  
越前入居の要因

道元が吉田郡志比荘に入居することになった最大の理由は、それまでに有力檀越となっていた波多野義重の所領が同所に存在したことによるものと考えられる。波多野氏は平安末期以降、多くの支族を出し、秦野盆地(神奈川県秦野市)から足柄平野へと進出し、松田・河村・大友・菖蒲・広沢など各地の地名を苗字とする諸流が活躍する状況になっていた。次に波多野氏が全国に拡散したのは、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下して争った承久の乱(1221)が契機になっていて、関東の多くの後家人が乱の恩賞地を得て西遷していったが、波多野義重もこの時期に志比荘に移ったのではないかと考えられる。志比荘は、平安末期の承安3年(1173)に後白河天皇の女御の建春門院平滋子の本願によって創建された最勝光院領として立荘された荘園である。義重は承久の乱にさいしては惣領の波多野経朝に従って参戦し、右眼を失明している(「吾妻鏡」)。義重が承久の乱の新恩地として志比荘の地頭職を受けたことを明らかにする史料は存在しないが、道元を同荘に招き、のちに永平寺の大檀越となっていることや、義重の跡を嗣いだと考えられる子息の時光が「野尻」と号し越中国野尻(富山県福野町)を領していたことが知られることから、義重と時光は越中国野尻とともに志比荘の地頭職を受け継いでいったものと考えられる。これらのことから義重は、承久の乱による恩賞として越中国野尻とともに志比荘を受け、西遷していったと考えてよかろう。承久の乱後に義重の名がみえる史料は、仁治3年12月17日に道元が六波羅蜜寺のそばにある義重の邸宅で説示した「正法眼蔵」の奥書である。当時の義重は六波羅探題での任務に就いており、六波羅に屋敷を構えていたことが知られる。またそれ以降も、京都六波羅で活動していた。義重にとって、志比荘へ入宋僧を迎え、数年後に寺院(大仏寺、のちの永平寺)を建立したことは、自らの力を荘園内外に示すことになったものと思われる。西遷後家人が本貫地から神を勧請したり、新たに寺院を建立した例は多々あるが、波多野義重が道元を迎えて寺院を建立したのも、そのような面でとらえることができるのではなかろうか。道元が越前に入居することになった理由には、波多野義重の勧誘とともに、足羽郡波着寺から参入してきた懐鑑以下の達磨宗の人びとの勧めも存在したと考えられる。そのなかには義介のように、足羽川流域の稲津保の出身者もおり、越前の地理や状況に詳しい人びとがいたと思われる。波着寺の旧跡(福井市成願寺町)は「波着観音」と称され、登り口には「波着観音」の額を掲げた鳥居が建っている。志比荘は波着寺からさほど遠くない所にあった。波着寺は比叡山の末寺的存在であったと考えられるが、かつて達磨宗の人びとが拠りどころとした東山多武峰のように、往徨する天台宗の別所聖などが居住する場であったろう。さらに道元を越前に迎えるにあたっては、波多野義重とともに、後述するように今立郡に所領をもち京都に私宅をもっていて義重とも系図上でも連なると考えられる覚念の力もあったものと思われる。また道元から明全の舎利を受けた明智も、前述したように越前と密接な関係にあった人物であった。道元は、こうした諸関係を背景として越前に赴くことになったのである。ただ越前出発まで「正法眼蔵」の説示を続け、半月ばかりで越前に入り、入り次第すぐに同書の説示を開始しているところをみると、興聖寺破却事件の有無はともかくとして、越前入国はかなり計画的に以前から進められていたものと考えられる。なお計画性が考えられることから、興聖寺破却事件などは存在しなかったとする見解もある。  
  
永平寺の開創

仁治4年7月7日、すなわち七夕の時点では興聖寺にいた道元は、閏7月1日には志比荘の吉峰寺(上志比村吉峰)において「正法眼蔵」(三界唯一心の巻)を説示している。「建撕記」は、7月16日に宇治を出発し、7月末には越前の吉峰寺に入ったと記している。「正法眼蔵」の各巻の奥書により、道元がどこに居住していたのかがわかるが、入越当初の道元は閏7月1日から11月13日までは吉峰寺において4か月半の間に16巻の「正法眼蔵」を説示している。11月6日に説示された「正法眼蔵」(梅華の巻)には「深雪 三尺大地漫々」とあるように、吉峰寺は雪の深いところであった。11月19日から翌寛元2年元旦までに、禅師峰下の草庵(大野市西大月)において「正法眼蔵」5巻が示衆され、門弟懐奘により2巻が書写されている。禅師峰で正月を越した道元や懐奘は吉峰寺に戻り、正月11日から6月7日までは同寺にて「正法眼蔵」各巻の示衆や書写を行ない、このときの夏安居(4月15日から7月15日の修行)は吉峰寺を中心に行なわれたものと思われる。越前に入国して1年弱の間に、道元は吉峰寺から禅師峰へ移り、また吉峰寺へ戻ったことになるが、周辺の僧侶たちは両寺間を往復しながら修行生活を続けていたのではないかと思われる。そしてこの間に、それまでに計画されていたであろう大仏寺の建立が、春になるのを待って実行に移されていった。2月29日には大仏寺法堂の地を平らにする工事、4月12日にはその法堂の上棟式が行なわれた。その儀式の時間などについては陰陽師の安倍晴宗に占わせている(「建撕記」)。この安倍晴宗はのちの建長4年4月1日に宗尊親王が将軍として鎌倉へ下向するさいに、西御方(内大臣土御門通親の娘)や波多野義重らとともに従った人物である。7月18日には開堂説法が行なわれており、道元の語録集である「永平広録」にもそのときの法語が掲載されている。寺院は吉祥山大仏寺と号することになった。このときの法要の参詣人のなかには、「前大和守清原真人」「源蔵人」「野尻入道実阿左近将監」「案主」「公文」などがいた。このうちの「野尻入道」とは越中国野尻にいた波多野義重の子息の時光であろう。また「案主」「公文」といった荘園を管理する在地の人物と思われる人びとの参加もあったことがうかがえる。9月7日には京都の興聖寺より大仏寺に木犀樹が送られてきている。大仏寺開堂の祝賀ということであったろう。そして翌寛元3年の4月15日には大仏寺において夏安居の上堂(堂の須弥壇の上に登って行なう説法)があった(「永平広録」)。これはすでに大仏寺に僧堂が完成していたことを示している。このような大仏寺の建立には波多野義重とともに覚念の助力があった。越前に入ってまもないころに、すでに2人で寺地の選定にあたっている。「建撕記」に、「雲州大守并今南東左金吾禅門覚念相共ニ建立セント欲ス、庄内ニテ山水ノ便宜ヲ尋ヌ」とみえ、覚念は今南東郡内に所領をもっていたことがうかがえる。ちなみに今南東郡とは、今立郡のうち月尾川・鞍谷川流域および足羽川上流域にあたる。道元は最晩年に上洛し覚念の私宅で療養生活を送っているので(「建撕記」)、先述したように覚念は京都に私宅をもち今立郡に所領をもつ人物であったといえる。覚念は波多野義通の2男義職(義元)の子息としてみえる中島義康ではないかと考えられ(「諸家系図纂」)、波多野義重は同じく波多野義通の長男忠綱の子息であるから(「尊卑分脈」)、義重と覚念とは従兄弟という近い関係にあったことが理解される。ところで大仏寺という寺名であるが、これは禅宗寺院として建立される以前にあった寺名であったと思われる。道元や波多野義重・覚念らは大仏寺という古寺があった所を整地してそこに本格的な禅寺を建立し、旧寺名をそのままとって大仏寺としたものと考えられる。なお、大仏寺は現在の永平寺裏山の大仏寺山山頂付近にあり、3代の義介のときに現在地に移ったとする説があるが、大仏寺旧跡といわれる所はのちの永平寺の伽藍が存在したほどの広さはないので、大仏寺は当初より現在の永平寺が存在するあたりに建立されたものと考えられる。大仏寺の開堂説法から2年、同寺での初めての結夏上堂から1年が経過した寛元4年6月15日、道元は大仏寺を永平寺と改めている(「永平広録」)。またこの日には「永平寺知事清規」を撰述し、永平寺を運営する6知事の心構えを定めており、道元の意気込みが感じられる。道元は宝治元年8月(1247)に執権北条時頼の招請により鎌倉に赴き、説法を行ない、翌2年3月に帰山している。この鎌倉行きはあまり思うようにいかなかったようで、反省の色がみえる。この年の暮の12月21日に「庫院須知」を定めて、「公界米」の使用の仕方について規制を定めており、それより2年前の寛元4年8月6日にも「正法眼蔵」(示庫院文の巻)で規制を定めており、すでに庫院が存在したことが知られる。また建長元年正月11日には「吉祥山永平寺衆寮箴規」を撰述しているので、衆寮という建築物も完成していたことが理解できる。建長元年10月18日に道元は「永平寺規制」を設け、参陣・訴訟を行なうこと、諸寺の役職に就くこと、他寺院の勧進職を勤めること、地頭や守護所の政所へ赴き訴訟を行なうこと、諸方の墓堂の供僧や三昧僧(葬送にかかわる僧)を務めることなど、9か条について禁止しているのである。禁制を定めなければならないほど、さまざまな能力をもった僧侶たちが存在したということになる。そこには、ややもすれば世間の一般的な傾向に流される僧侶を出さないよう腐心している道元の姿がある。また永平寺にはさまざまな人びとも参詣したようである。寛元5年正月15日の布薩説戒のさいには5色の雲が方丈の正面障子にたなびいたといい、参詣していた吉田郡河南荘中郷の人びとがそれを見物したという文書が伝えられている。道元は建長4年の秋に病気となり、翌5年7月には永平寺を退いている。そして懐奘が7月4日に2世として入院した。8月5日に道元は懐奘をともない京都に向かって出発し、俗弟子覚念の高辻西洞院の宅に入り、8月15日には中秋の和歌を詠み、同月28日に寂した。54歳であった。懐奘は東山の赤辻にて道元を荼毘に付し、9月10日に永平寺に帰った。同月12日には葬儀を行ない、永平寺の西隅の道元の師如浄の塔があったところに塔を建て、その庵を承陽庵と号することにしている。なお、それまでの如浄の塔は道元を慕って中国より渡来した寂円が塔主として守ってきたものであった。  
道元没後の永平寺と三代相論

道元のいなくなった永平寺は2代孤雲懐奘の尽力によって維持されてきたといえる。道元の生前中から「正法眼蔵」の書写を続けてきたが、道元寂後も道元が最晩年に新たに100巻をめざして編集しなおすために書き始めたという新草「正法眼蔵」の書写を中心に道元の遺作を整理し、書写を続けている。懐奘はいま一方では、建長7年2月14日に徹通義介に嗣法を許している(「永平寺室中聞書」)。この義介は懐奘の要請により宋国に渡ったというが、この入宋はまず史実であったとみてよかろう。そして弘長2年(1262)に在宋4年にして帰国した。義介が将来したと伝える「五山十刹図」(金沢市大乗寺蔵)には問題点がある。将来説は否定されないとしても、それを親しく見聞し筆録したということではなさそうである。しかし義介が入宋し学んできたことが反映されて、永平寺の伽藍と規矩(規律)が整備されたことは確かであり、それは帰国早々に実行されていった(「三祖行業記」)。文永4年4月8日(1267)義介が懐奘のあとを受けて永平寺三代に入った。義介はその後も引き続き伽藍や規矩の整備に力を尽くしたとみえ、「永平中興」とさえ称されたようである。しかしこの革新的な面に反発する人びともいた。何らかの事件があったようである。結局、義介は文永9年2月に退院している。そののちに寺の門前に養母堂を建てて母を養っていたという。これがいわゆる第一次三代相論というべき事件である。義介のあとの永平寺には懐奘が再び住した。しかしその懐奘も弘安3年8月24日に死去している。そこで、義介が再度永平寺に入ることになった。ところがやはり義介の革新的な面を指示する一派とそれに反発する道元の宗風を重んずる一派との対立は深まるばかりであったようである。義介は住持すること7年にして弘安10年ついに永平寺を退院し(「建撕記」)、すでに弘安6年の時点で澄海法師という人物の招きに応じてその開山(第1世)となっていた加賀大乗寺に入ってしまう。そのあとを受けて永平寺4世として入ったのが義演であった。義介が入宋したりして伽藍の整備や規矩などについて学んでいたときに、2世懐奘を手伝って「正法眼蔵」の書写や道元の語録である「永平広録」の編集などを行なっていたのが義演であった。義介の革新性に対して、義演には道元の禅風をそのまま守る姿勢があったものと思われる。大檀那波多野氏の努力もあったようであるが、義介派との対立は避けられなかった。これがいわゆる第2次三代相論である。のちに義演が没すると、義介と義演のいずれを永平寺三代とするかで双方の遺弟たちのあいだでさらに相論があったとされる。すなわち第3次三代相論である。義演の行状については史料がないが、加賀大乗寺に入った義介の門弟である瑩山紹瑾は、永平寺住持中の義演の許可を得て「仏祖正伝菩薩戒作法」の書写をしている。この年代に正応5年(1292)とする説(「仏祖正伝菩薩戒作法」)と永仁4年(1296)とする説(「洞谷記」)があるが、いずれにしてもこのころに義演が永平寺の住持として在住していたということになる。また義演の住持中に2度ほど火災に遭ったという説がある。1つは永仁5年3月24日に山門・方丈を残して全焼したとする説である。金沢市の浄住寺が所蔵する「安楽山産福禅寺年代記」にみられる記載であるが、「建撕記」には見当たらない。いま1つは、徳治・延慶年間(1306-11)のころに火災に遭い、懐奘が書写した「正法眼蔵」も焼けてしまい、義雲が灰燼のなかから拾い出してまとめたものが義雲本と称される60巻本の「正法眼蔵」であるという説である。しかし義雲の60巻本はそのような成立ではないので、この説も成立しない。次の義雲が5世として入ったときに永平寺はかなり荒廃していたようであるが、火災後の永平寺を興したという記録はないので、これらの火災説は史実ではないようである。近世に編纂された「日本洞上聯灯録」のなかの義演伝では、晩年は報恩寺に閑居し世間に出ることはなかったと記述されているが、同寺がどこの寺院であるのかは未詳である。  
義雲の中興と寂円派

三代相論などで永平寺はかなり疲弊していたようである。このような状況のなか、大野郡宝慶寺から5世として入院したのが義雲であった。義雲は道元を慕って宋国より渡来してきて懐奘に嗣法し宝慶寺を開いた寂円の門弟で、弘安2年ごろに懐奘に助力して「正法眼蔵」を書写していた人物である。正和3年12月2日(1314)永平寺に入っている。義雲は宝慶寺から什物などを持参したりして伽藍の整備を行ない、永平寺の復興に全力を挙げている。嘉暦2年8月4日(1327)には梵鐘を鋳造している。入院してから13年が経過していた。梵鐘の鋳造は諸堂の復興がほぼ完了したことを意味するのではなかろうか。このように義雲は伽藍の復興に尽力したが、宗旨に関する面でもその立直しを行なっている。60巻本「正法眼蔵」は義雲の編集によるものといわれており、嘉暦4年5月には60巻の各巻の題目の下に着語を付し、各巻の大意を7言4句の偈(宗教的な内容をもった漢詩文)で表現した「正法眼蔵品目頌」を撰述している。先述したように、義介を永平寺の中興とよんだ時期があったようであるが、義雲以降は彼を称するのが一般的となった。義雲が入寺して以降、関東より入った門鶴が慶長3年(1598)に24世になるまで、永平寺住持はいずれも宝慶寺から入ることになっていった。すなわち寂円派の人びとによって永平寺住持職は務められていったのである。義雲が正慶2年10月12日(1333)に寂したのちに住持となったのは、門弟の曇希という人物であった。  
専修念仏 
北陸道と専修念仏

鎌倉期は、顕密仏教とは異質な新たな思想運動が展開した時代でもある。その1つが法然による専修念仏の提唱であり、やがて幸西・親鸞や一遍を生むなど、中世の宗教界に大きな影響を与えた。法然は安元元年(1175)に廻心し、新たに浄土宗を立てて専修念仏の教化に努めた。当時、顕密仏教は「現世安穏・後世善処」を標榜し、さまざまな善根を積み重ねることによって往生できると説いていた。それに対し法然は諸行往生を否定し、法華経読誦や造寺造塔・田畠寄進など念仏以外のすべての行為から往生行としての価値を剥奪し、それらいっさいを無価値と断じた。その結果、持戒の高僧や寺社を嘲笑する風潮が急速に広まり、顕密仏教の権威を大きく揺さぶった。そこで朝廷は顕密仏教の要請を容れて建永2年(1207)、仏法を妨げる「天魔」と断じて専修念仏を禁止し、法然とその弟子を流罪・死刑に処した。そしてこれ以後も弾圧は頻繁に繰り返された。こうした状況にもかかわらず、専修念仏は北陸地方に着実に浸透していった。元久2年(1205)専修念仏弾圧を要請した興福寺奏状によれば、専修念仏の教えが「北陸・東海等の諸国」でさかんに唱えられていると述べているし、法然は最晩年に「越中国光明房へつかはす御返事」を出している。このように越中など北陸地方で専修念仏は活発に展開していた。顕密仏教の拠点たる畿内よりも、その周辺地域の方が寺社勢力の矛盾が露呈しやすく、その分、反顕密仏教の主張が受容されやすかったのであろう(なお「漢語燈録」などに「遣北陸道書状」を収めるが、これは鎌倉後期ごろの偽撰である)。では専修念仏の展開は、現実の地域社会のなかでどのような意味をもっていたのだろうか。鎌倉後期の「沙石集」に次のような話がみえている。鎮西に浄土宗に造詣の深い地頭がいた。あるとき彼は領内の神田を検注して、台帳に記載のない「余田」を没収しようとした。ところが神社側は強硬に反対して、田地を返還しないなら呪咀すると脅した。地頭は「呪咀するのなら、やってみよ。念仏者たる者、呪咀や神罰なんぞ恐れはしない。弥陀の光明に守られている私を、神とても罰せようはずがないからだ」とうそぶいた。そこで神社側が呪咀したところ、地頭は間もなく「悪キ病」となって狂い死にし、その母親や地頭の息子までもが相ついで病死した。まずこの話で興味深いのは、この神の性格である。その神は自ら「十一面ノ化身」と名乗っているし、地頭の母親は「白山権現」に陳謝している。この神社が十一面観音を本地とする白山社であることは明白であろう。つまりこの説話は、鎮西を舞台とするものではあるが、専修念仏を信仰する地頭と白山社との抗争の話なのである。とすれば白山信仰の強固な北陸地域に専修念仏が展開していくなかで、同様の紛争は日常的に繰り返されたはずである。ちなみに蓮如が吉崎で布教したさい、彼は信者に諸宗誹謗を禁じたが、その諸宗とは具体的には越中・加賀の立山・白山と「越前ナラバ平泉寺・豊原寺」であった(「蓮如御文」)。第2にこの説話の素材は、隠田没収という経済的利権をめぐる地頭と神社側との抗争である。ところがこの話では、こうした経済的対立がそのままストレートに表現されるのではなく、宗教的対立の形をとっている。神社側は利権の維持のために呪咀という宗教的暴力に訴えたし、地頭側は阿弥陀信仰によってその呪咀をはねのけようとした。そして実際、中世の神社や顕密寺院は、仏罰・神罰・呪咀という宗教的暴力によって自らの世俗的権益を守ろうとしていた。高野山金剛峰寺は年貢を未進した百姓を4季の祈祷で呪咀したし、興福寺も坂井郡坪江郷の本役未進に対し、「厳重の調伏」を行なっている。山林伐採を咎められた大野郡井野部郷の百姓たちは「神の御事、おそろしく存じ候」と語っているし、また三方郡前河荘の地頭である殖野(上野)胤時は、日吉社と争って濫訴をしたため、夭逝して子孫が絶えたという。「沙石集」に描かれた話は単なる説話なのではなく、中世社会の実相であった。とすれば、地頭であれ百姓であれ、世俗社会のなかで宗教勢力と対立・葛藤を余儀なくされた人びとは、必然的に他の宗教を求めざるをえない。こうして専修念仏が社会に浸透していった。専修念仏の社会的浸透の背後には、世俗的現実的世界における対立と葛藤があった。  
玉桂寺阿弥陀像と北陸地域

昭和54年(1979)、滋賀県信楽町にある玉桂寺の阿弥陀仏像の胎内から大量の文書が発見された(「玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書」、以下「報告書」と略)。勢観房源智(1183-1238)の筆になる造立願文と、この作善に結縁した4万6000人余の道俗の交名(名簿)約30点である。源智の願文によれば、この仏像は法然の恩徳に報謝するために造立したという。この事業の中心になった勢観房源智は平重盛の孫で、13歳で法然のもとに入室し「選択本願念仏集」を付属されて「常随給仕」すること18年に及んだ、法然の側近中の側近である。この願文の日付は、建暦2年12月24日(1212)となっている。法然はこの年の正月25日に没しているので、法然没後11か月目に願文が記されたことになる。おそらく仏像造立は法然の死後まもなく計画され、法然の周忌に間に合わせようとしたのだろう。とすれば、わずか11か月の間に5万人近くの結縁者を集めたことになり、専修念仏を支えたネットワークの広がりに改めて驚かされる。そしてそのネットワークは北陸地方にも及んでいた。胎内文書のなかに「越中国百万遍勤修人名」と題されたものがある。これは比丘・入道・俗童・比丘尼・女に分けて合計1500人余の名が三紙にわたって記されており、さらにそのあとに異筆で2300名ほどの姓名が書き継がれている。これによって仏像造立に越中の人びとが関与していたことがわかるが、さらに交名の人名を検討すると、北陸の地名を冠した姓をいくつも検出することができる(本史料の異筆部分が越中交名に属するかは判断が難しいが、一応属するものとした。また異筆頭部700名近くが「源氏等交名」の前部と一致するなど、胎内交名には清書史料が混在しており、表12での人数はあくまで便宜的なものである)。まず越前関係では「三国景光」「三国成近」「三国則包」など三国姓が28名、「ツルカノ氏」「ツルカノ守包」「ツルカノケサ宗」のように敦賀姓が3名みえる。若狭は「ワカサコクノ氏」が2名、越中関係では「射水恒忠」「射水氏忠」などの射水姓が4人、「佐味景正」「サミノ則安」「サミノ貞房」など佐味姓が4名、「イナミ恒弘」の井波姓が1名、「砥波氏」「トナミノ守包」のように礪波姓が3例みえる。能登・加賀では「能登重則」「能登近守」「ハクイ(羽昨)ノ真俊」「額田氏」「江沼氏」「加賀末実」のように、郡名を名乗る者を確認できる。このほか三嶋(越後)、依智秦・穴太(近江)、一条大宮・宇治・山城(京都・山城)、若江(河内)などともに、淡路・和泉・出雲・伊豆・尾張・甲斐・上野・駿河・丹波・播磨・飛騨などの国名の姓がみえるし、「盲者良慶」「盲僧覚妙」「カタヒノ仲安」のような身障者も登場しており、越中を舞台に諸国から多様な人びとが交流している様子がうかがわれる。同様のことは他の交名についてもいえる。越前では三国(29人)・敦賀(2人)・道守(2人)や「越前国蓮宝上人」の名がみえるし、若狭では「わかさのうち」「若サノアネカコ氏」がみえる。国名では前出のほかに、安芸・阿波・淡路・伊賀・壱岐・伊勢・因幡・伊予・越後・大隅・近江・讃岐・下総・下野・周防・但馬・日向・三河・美作・美濃・大和などがみえ、畿内近国を中心に東国・9州にまでわたっている。もっとも地名・国名を冠した氏や姓名を名乗っているからといって、この場合、勧進聖が移動したのか、それとも結縁者の方が移動したのか不明なため、分析は慎重を期する必要があるが、それでもおおよその傾向がわかるだろう。当時の活発な交通の展開、そして専修念仏の勧進が北陸地方でも積極的に展開されたことがうかがえる。ところで、この交名には興味深い点がもう1つある。「をみのさたつね等交名帳」の最後に「エソ370人」の名前が記されている。中世のエゾを考えるうえで非常に貴重な史料であるが、しかし問題はこのエゾがどの地域の人びとなのかという点にある。エゾの姓が吉弥侯(君子)氏・大鳥氏・鳥取氏・安倍氏など東北地方に勢力をもった氏族であることから、東北エゾ説が唱えられているが、それに対し近江に移住させられた古代俘囚の末裔である可能性も指摘されている。東北エゾ説と近江エゾ説のいずれが妥当なのだろうか。大和朝廷に服属した俘囚は、多く君子(吉弥侯)を名乗っていた。ところが朝廷は俘囚を各国に分散して配置したため、君子や君子部(吉弥侯部)などの姓が東北を中心に全国的に分布することになった。とすれば、エゾ交名に君子というエゾ特有の姓がみえるからといって、このエゾを東北のエゾと断定することはできない。しかも平安末期の段階でも、近江の俘囚が君子を名乗っている例があるから(「台記」)、彼らを東北のエゾと断定することは困難である。しかし、別の理由から東北エゾ説は支持される。370名のエゾ交名のなかで有姓者は38名いるが、そのうち15名が君子姓を名乗っている。ところがこの君子姓はエゾ交名以外の一般交名でも10名確認することができ、しかもその登場箇所が集中している。4名と6名の君子姓が固まって登場しているのである。つまりエゾ交名以外にも、俘囚の系譜を引く2つの集団が一般交名のなかに混在している。君子姓は交名全体のなかで4名・6名・15名の3グループ登場するが、同じように君子を名乗りながら、15名のグループだけがエゾと特定されているのである。これは何を意味していると考えるべきであろうか。しかもエゾ交名には18の姓が登場しており、このエゾが多数の一族からなっていることがわかる。ところが表13のように、紀氏・安倍氏・藤井氏はもとより、鳥取氏・大鳥氏・玉造氏・滋野氏も一般交名に多数登場する。にもかかわらず、エゾ交名の人びとだけがことさらにエゾと特定されているのである。こうした事実は、彼らがエゾと意識される特定空間に住んでいたことを示唆しているだろう。君子姓に即していえば、3グループのうち15名のグループだけがエゾとされたのは、このグループがエゾの地に居住していたからである。つまり近江などに配置された古代俘囚の末裔は、一般交名のなかにみえる4名・6名の君子氏であり、エゾ交名に登場する15名の君子氏が東北地方のエゾであった。エゾ交名の「エソ」は東北地域のそれなのである。では聖たちは、どのようなルートでエゾの人びとに勧進したのか。わずか11か月の間に勧進が行なわれたことからすれば当然、海上交通が思い浮かぶだろう。実際、胎内交名全体で三国姓が57名、敦賀姓が5名、出雲姓が36名登場するなど、日本海交通路の結節点ともいうべき地名が登場する。しかも胎内交名には「日本光弘」など6例の日本氏が検出できるが、この「日本」が、「羽賀寺縁起」や説経節「さんせう大夫」(山椒大夫)にみえる「奥州十三湊日之本将軍」「奥州日の本の将軍」の日本である可能性もある。以上からすれば、日本海交通路の活性化のなかで、専修念仏がエゾの地まで進出していったとみてよいのではないだろうか。越前・若狭はその媒介地であった。  
「愚闇記」

鎌倉後期における越前の宗教状況を鮮やかに示す史料に、「愚闇記」がある。これは正和年間(1312-17)または正和2年に、今立郡長泉寺の孤山隠士が20か条にわたって諸宗を批判したものである。この長泉寺は霊池山と号する天台宗寺院で、泰澄が白山を勧請して白山姫社と長泉寺を創建したとの伝がある。平泉寺の末寺で、朝倉期は寺領数千石・寺坊36を数えたというが、天正2年(1574)の一向一揆で焼亡した(「越前国名蹟考」など)。「時衆過去帳」によれば、貞治2年(1363)に「音一房」(長泉寺)の往生の記載がみえるし、それ以後にも長泉寺時衆の記載がある。「愚闇記」は時衆を厳しく批判したが、それから数十年ののちには、長泉寺の内部にまで時衆の影響が及んでいた。「愚闇記」の著者孤山隠士は、長泉寺別当法印とも、また徳若丸という童子が隠者になって長泉寺に住んだとも伝えられているだけで(「中野物語」)、詳細は不明である。いずれにせよ、当地における体制仏教の中核にあった人物とみてよかろう。「愚闇記」の完本は発見されておらず、念仏を批判した箇所だけが部分的に伝わっているだけだが、20か条の事書はすべて残っており、これをもとに本書の大筋を推測することができる。事書は次のとおりである。(1)踊躍念仏は仏説にみえないこと、(2)踊躍の衆いずれもが飯・汁と御菜とを混ぜ合わせて食事をしていること、(3)踊躍の衆が網衣(時衆が着用した網のような粗い布で織った粗末な衣服)を死人の上にかけて覆うこと、(4)踊躍の衆が道場で連歌を行なっていること、(5)踊躍の門弟らが6字名号南無の義を立てていること、(6)念仏の行者が臨終のさいに端座して合掌するよう勧めていること、(7)念仏の行者が毎日の勤行と称して早念珠を行なっていること、(8)念仏の功徳は亡者のために得益がないこと、(9)聖道門の僧侶たちが学文を嗜まないこと、(10)堂社参詣のついでに縁者を訪ねること、(11)聖道門でさかんに陰陽師を請用すること、(12)聖道門での如法経の行儀にいろいろ不法な点があること、(13)堂舎を造るために他所の材木を切りとること、(14)持律の比丘が猿楽や白拍子を見聞すること、(15)聚洛田里に寺院を建立すること、(16)禁忌を破って神社に参詣すること、(17)飲酒や沽酒は僧侶に不相応なこと、(18)師匠が貧窮・零落すれば弟子が手紙すら寄こさなくなること、(19)日蓮坊の流の人びとが6字名号を破折すること、(20)一向念仏と称して浄不浄を無視して念仏を唱え阿弥陀経などを読経しないこと。本文がほとんど残っていないため、それぞれの条項が何を対象に批判しているのか正確にはつかめないが、おおよそのことはわかる。 
まず(1)-(8)までと(16)(20)の10か条が念仏に関するもので、本書のほぼ半分がこの問題に充てられている。しかも念仏関係のなかで「踊躍の衆」と「念仏の行者」が分けられているし、また「一向念仏」と称する人びとも別立されている。これはそれぞれ時衆・顕密系浄土教・浄土真宗にほぼ対応しており、これらが当時、越前で展開していたことを示している。また(14)(19)では律宗・法華宗への批判も登場しており、これによって鎌倉末期に越前で律宗や法華宗が一定度展開していたことが判明する。このように「愚闇記」は、越前の天台僧が14世紀初頭段階で何に対して危機観を抱いていたかを直截に示しており、体制仏教側からみた越前仏教界の俯瞰図といってよい。さて「愚闇記」は他宗派を攻撃するだけではなく、顕密仏教の現状に対する自己批判も行なっている。(9)学問衰退、(10)参詣不法、(11)陰陽師請用、(12)如法経不法、(13)材木伐採の5か条がそれであり、(15)寺院建立、(17)飲酒・沽酒、(18)弟子不法の3条もその可能性が高い。なかでも学問の衰退を愁えていることが注目される。天台律の恵鎮円観は永仁3年(1295)に延暦寺に入室したが、そこでは坊主も同朋も、まるで「勧学の志なく、偏に兵法を専らに」していたと述べており(「5代国師自記」)、この時期の延暦寺の退廃ぶりを示している。また仁和寺菩提院行遍(1181-1264)の「参語集」には、越前平泉寺での稚児の扇闘の様子が描かれているが、そこではそれぞれの稚児が金銀をちりばめ贅をこらした扇を競いあっており、鎌倉期の平泉寺の雰囲気がうかがえる。第12条では如法経にふれている。これは近江・若狭などで、天台系寺院が民衆の信仰を獲得してゆくさいの要ともなったものであるだけに、如法経の威儀作法がないがしろにされている現状に「愚闇記」は特に危機感を表明している。また顕密僧の飲酒は当時日常的に行なわれていたが、沽酒もさかんとなっている。永徳2年(1382)に制定された坂井郡滝谷寺の寺院法では、わざわざ寺内での酒の売買を禁止しているし、豊原寺のあった越前豊原は名酒の産地として全国的に著名であった(「尺素往来」)。このように「愚闇記」は、他宗派を批判するだけではなく、学問が衰え信心がゆるみ、威儀作法をないがしろにしている顕密仏教界の現状をも、厳しく自己批判している。さて、この「愚闇記」に反論した書物がある。大町如道の「愚闇記返札」(「真宗史料集成」)である。そこで次に如道についてみてみよう。  
大町如道と三門徒派

鎌倉末期の越前に注目すべき思想家が登場した。足羽郡大町専修寺の如道(如導)である。如道とその門下を一般に三門徒派(横越証誠寺・鯖江誠照寺・中野専照寺)とよぶが、のちに本願寺と三門徒派が対立したこともあって、如道は悪名高い秘事法門の主唱者として厳しく批判されてきた。例えば加賀光教寺の顕誓(1499-1570)が執筆した「反古裏書」には、本願寺覚如が越前に赴いたさい、如道はその教化を受けたが、覚如が上洛すると彼は秘事法門の邪義を唱えるようになって門徒から追放されたとある。秘事法門とは善鸞(親鸞が義絶した息子)の法統を引くもので、教団指導者は代々「唯授 一人口決」を受けて親鸞位に登り、自己を仏とし仏像への礼拝を拒絶したといわれる(「大谷本願寺通紀」)。近代真宗学でも本願寺中心主義を払拭できなかったこともあって、こうした如道への邪宗視はなお存続したが、昭和10年(1935)に今庄町専念寺の住職である藤季の画期的な研究「愚暗記返札の研究」が発表され、これを契機にようやく如道像の全面的見直しが進むことになった。如道については生没年すら未詳で、その出自についても、平判官康頼の子孫とも、大町太郎衛門の子とも伝えられているが(「中野物語」)、定かではない。ただ彼は「真言宗4度ノ潅頂」を受けている。当時、百姓身分出身の者が伝法潅頂を認められることはまずありえず、社会的には侍身分の出身であった。やがて如道は真言僧から専修念仏へと回心したが、そのきっかけとなったのは、親鸞面授の弟子である三河国和田の円善との出会いである(「親鸞聖人門侶交名牒」)。善鸞義絶によって東国真宗教団の動揺と危機がほぼ落着した正嘉2年(1258)に、東国教団の指導者たちは上洛して京都の親鸞に面した。その京都からの帰り、指導者の1人顕智は三河国の「権守トノ」宅に滞在し、ここを拠点に3年にわたって布教を行なった(「三河念仏相承日記」)。その「権守トノ」が如道の師の円善である。円善はその後、三河門徒の中心として活発な活動を展開し、やがてその教線を越前にまで伸ばしていった。例えば13世紀後半には三河佐塚の専性が越前大野に専光寺を構えているし、円善の弟子信性も足羽川沿いの足羽郡和田荘に道場(和田本覚寺)を開いている。このような三河和田門徒の越前進出のなかで、如道は円善と出会ってその弟子となり、専修念仏へと回心した。そして大町に専修寺を開創し、そこを拠点に近江・若狭にまで信者を増やしていき、ついに当地の専修念仏の指導者となった。こうしたなかで、如道は本願寺の覚如(1270-1351)と出会う。応長元年(1311)覚如は息子の存覚とともに越前に下向して、20日余の間如道のもとに逗留した。その間、如道は覚如父子から「教行信証」の講義を受けている(「存覚一期記」)。この覚如の越前下向は、覚如自身にとって特別な意味あいがあった。覚如は親鸞の曾孫で、「口伝鈔」「改邪鈔」「親鸞聖人伝絵」などを著して親鸞至上主義を掲げるとともに、親鸞門流における本願寺の地位確立に努めた人物である。覚如はこの越前下向の前年に、大谷廟堂(本願寺の前身)の留守職をめぐる長年の相論にようやく勝利することができた。しかし東国門弟が留守職任命権を握るなど、伯父唯善との相論の過程で親鸞門流の主導権は東国門弟に掌握されることになった。そこで覚如はこれ以後、主導権を奪取して本願寺中心主義を確立しようとするが、その第一歩として越前下向が行なわれたのである。しかも覚如は親鸞の「鏡の御影」を越前に携行しており、如道の教化が特に重要なものであったことがわかる。如道が東国の高田派に連なる人物であるにせよ、越前から近江・若狭にかけて多くの信者を擁していた如道の支持を得ることは、本願寺の主導権を確立していくうえで欠かすことのできないことであった。観応2年(1351)正月に覚如が没したおりには、如道は観応の擾乱に揺れる京都に上洛してその葬儀に参列しているし、覚如の伝記「慕帰絵詞」では、「自余修学の門徒」ながら覚如の弟子となった者の筆頭に如道を挙げている。如道と覚如とのつながりの深さがわかるだろう。如道が邪義を唱えたために破門されたとの「反古裏書」の記事は事実に反している。しかも如道の著作をみても、秘事法門の色彩は全くみえない。如道の没後、第4代の浄一(中野専照寺祖)が本願寺巧如(1376-1440)と対立して門徒を放たれ、その対抗上、浄一は京都出雲路毫摂寺と結んだり石清水八幡宮の田中善法寺の末寺になろうとした経緯がある(「中野物語」)。おそらくこの浄一への敵対感情によって如道像が歪曲されたのであろう。  
  
如道の思想

先に紹介した「愚闇記」は、如道が「愚闇記返札」で反論したこともあって、三門徒派に関わる部分だけ本文が残っている。そこで両者の論争をたどりながら、如道と三門徒派の思想的実態を明らかにしたい。「愚闇記」の真宗門徒への批判は、大略次のとおりである。(1)阿弥陀経も読まず、6時礼讃もせず、親鸞の和讃を歌って同音に一向念仏するだけで、念仏以外の余行を否定していること、(2)浄不浄を嫌わず念仏を唱えて、念仏のさいに手も身体も洗わないこと、(3)道場参詣のときに魚類美物を振る舞うなど、肉食を戒めないこと、(4)袈裟や数珠をもたないだけでなく、別時の寄合では女は着飾り化粧をし、男は武装して道場を守っていること、(5)死者の追善に卒塔婆を立てないこと、(6)神社参詣の禁忌を否定していることである。こうした批判の根底には、極楽往生のためには念仏以外の功徳も修する必要があるとの思潮が存していた。称名念仏が極楽往生の正業であるとしても、阿弥陀経の読誦や6時礼讃の勤行のような助業も必要であれば、懺悔や持戒も必要だというのである。「愚闇記」は念仏を否定しているのではない。実際、延暦寺が念仏を「万善衆善の根本」「諸宗の通規」と語り、興福寺が「諸宗みな念仏を信ず」と語っているように、念仏信仰は顕密仏教全体の共通基盤であった。その意味では、称名念仏の価値を容認しつつも読経・礼讃や持戒・懺悔も必要であるとの「愚闇記」の主張は、顕密仏教側からする専修念仏批判の典型といえよう。また存覚の「破邪顕正抄」にも、顕密仏教側の批判として(1)破戒を勧めていること、(2)阿弥陀経や6時礼讃を用いず和讃だけを唱えること、(3)触穢・吉凶を無視すること、(4)仏前で畜類魚鳥を食すること、といった項目が挙がっており、先の6項目と共通している。当時こうした風潮は真宗門徒の間でかなり普遍的だったのであろう。では如道はこうした批判にどう応えているのか。まず踊躍念仏が仏説にないとの批判に対しては、経文の根拠があると反論している。踊り念仏への批判はすでに「天狗草子」(1296)や「野守鏡」(1295)にもみえており、信心を得た喜びの比喩表現として経文に「踊躍歓喜」(躍り上がるほどうれしい)と記されているのを、実際に踊ってみせるのは愚かな誤解だと嘲弄している。こうしたなかで如道が踊躍念仏を弁護しているのは注目すべきことだろう。如道門下で踊り念仏が行なわれていたことを推測させるからである。踊り念仏は時衆が有名で、一遍は弘安2年(1279)ごろに信濃で「をどり始」めてからしばしば実施したし、一向俊聖も文永11年(1274)より踊り念仏を始めている(「一向上人伝」)。また真宗高田派でも行なわれていた形跡があり、如道門下の動向を思えば、踊り念仏は初期真宗教団のなかで一定の広がりをもっていたようだ。しかも「本化別頭仏祖統紀」(1731)によれば、法華宗の日像が洛北松崎(京都市左京区)で布教したところ、500人近い村人が帰依し、一緒に唱題して「踊躍歓喜」したという。そして近世にあっても「唱題踊躍の故実、今なお存す」と記されており、念仏や題目を唱えながら踊ることは、民衆的世界では宗派の枠組みを超えた広がりをもっていた。さて問題は助業や余行に対する姿勢であるが、如道は、「近代ノ学者ノ中ニ諸行ノ往生」を主張する者が出てきているが諸行往生の根拠となる経文などないと、諸行往生を明確に否定している。この時期、顕密仏教側の圧迫を避けるため、専修念仏のなかでも諸行往生を容認する動きが次第に顕著になりつつあったが、如道はそれを明確に拒絶している。そして弥陀が本願としたのは念仏だけであって、懺悔や持戒・6時礼讃は必要ないと反論している。また念仏と不浄の問題については、浄土門では俗人は俗人のまま、女人は女人のまま往生するのだから、口称念仏のさいに手水・沐浴は必要ないと反論する。魚食についても、俗人である以上、憚る必要はないと論じている。「中野物語」によれば、三門徒派では父母の命日でも魚鳥を食し、如道は、あれば食えばよいし無ければ食わなければよいと教化していたと伝えており、これが如道の特徴の1つだったようである。ちなみに、こうした魚鳥会は顕密仏教の世界でもしばしば行なわれていた。違いがあるとすれば、顕密仏教では魚鳥会を行なってはならないとの理念を信じつつも我慢できずに魚鳥会を行なったのに対し、如道は俗人宗教の立場から魚鳥会を憚らなければならないという理念そのものを否定した。神社に関しては、本地である弥陀を仰いで垂迹の神を守らないだけだと述べ、他力の信心が確立したなら禁忌を憚る必要はないと論じている。弥陀を諸神の本地とする思想は、のちに存覚が「諸神本懐集」などで展開するが、ここではすでにその論点が登場しており、思想史上注目すべきである。ただ、利智精進の輩による聖道門の存在を認めているらしい点が、親鸞との対比上若干注意される。しかし身口意三業の清浄を要求する「愚闇記」の主張に対して、「たとえ海底を傾けて自心の不浄を洗ったとしても、それを浄めることはできない」と、不浄の絶対不可避性の立場から本質的反論を試みているのは興味深い。これは親鸞の、悪の絶対不可避性の主張に連なるものである。親鸞が「すべての人間は悪人たらざるをえない」と主張したのに対し、如道は「すべての人間は不浄たらざるをえない」と語った。「愚闇記返札」は従来必ずしも十分に注目されてこなかったが、鎌倉後期の段階で専修念仏の原則的立場から顕密仏教に果敢に反論した書物として、高く評価すべきである。  
時宗の展開

「愚闇記」では20か条の批判のうち4分の1にあたる5か条を時衆批判にあてており、鎌倉末期に越前で時衆が着実に展開していたことを示している。さて時宗とよばれる宗派は、近世に一遍の系譜を引くものと一向俊聖の系譜のものが合体させられてできあがった。一遍は諸国を遊行して念仏を勧め、信不信に関わらず往生を約する賦算を行なったが、越前・若狭に足を踏み入れた形跡はない。当地における時宗の展開に大きな役割を果たしたのは、その弟子の他阿真教である。他阿真教(1237-1319)は建治3年(1277)に豊後で一遍の門下となり、一遍とともに遊行した。正応2年(1289)に一遍が没すると、他阿はその後継者となり北陸・関東を中心に遊行した。そして時衆統制のために知識を「仏の御使い」として絶対服従させ、「時衆過去帳」を作成するとともに、時衆の定住化を図って時宗教団を確立した。その意味で他阿真教は時衆の教団確立のうえで大きな功績を残したが、それは同時に、知識帰命のような権威主義的教団編成と時衆教義の変質をも随伴していた。一遍の跡を継いだ他阿真教の活動が、本格的に社会的に認知された最初の地が越前であった。正応3年夏、越前にやってきた他阿は、国府(武生市)惣社の招請を受けて7日間参篭した。そののち今立郡に赴いたところ、神主や国府の人びとに神託・霊夢があり再び惣社に招かれた。さらに丹生郡佐々生(朝日町)や今立郡瓜生(武生市)で念仏勧進を行なっていると、惣社から招請されて歳末7日の別時念仏を勤修したという(「一遍・他阿上人絵伝」)。このように他阿真教は何度も繰り返し惣社から招かれている。惣社という、国衙に影響力をもった神社で歓待されたことは、勧進を行なううえで有利にはたらいたはずである。ちなみに彼が念仏勧進を行なった佐々生には時衆道場があり、遊行14代太空のときに但阿弥陀仏や覚阿弥陀仏(佐々生入道)らの時衆を輩出している(「時宗過去帳」)。また瓜生からは、国阿の弟子である其阿弥陀仏が出て敦賀来迎寺の住持となっている(「国阿上人伝」)。その後、他阿真教は加賀に赴いたが、正応5年の秋、越前に招請されたついでに再び惣社を訪れた。そこへ平泉寺の衆徒が押し寄せて他阿を追却しようとしたため、他阿は惣社神主の要請でやむなく加賀に立ち去った(「一遍・他阿上人絵伝」)。わずか2年ほどの布教とはいえ、平泉寺が危険視しなければならなかったほど他阿の声望が高まっていた。このほか敦賀でも布教しており、近江から北陸にかけての地は彼の遊行活動が最も活発に展開された地であった。そのこともあって、歴代の遊行上人は必ず坂井郡長崎(称念寺)に立ち寄っている。一方、一向俊聖(1239-87)は他阿真教より以前に越前で足跡を残した。一向は一遍と同時期に活躍した遊行の念仏聖で、播磨の書写山円教寺で出家してのち、鎌倉の良忠に師事した。良忠は法然の孫弟子にあたり、浄土宗第3祖とされる人物で、「選択伝弘決疑鈔」「決答授手印疑問鈔」などを著して浄土教学を大成している。さて一向は文永10年に良忠のもとを辞し、浄土の宗名も経論義学も投げ捨てて、遊行の旅にでた。彼は諸国を遍歴して念仏を勧め、時衆と称して弟子に阿弥号をつけ、踊り念仏を行なうなど、一遍と酷似した活動を行なった。賦算を行なわなかった点で一遍と異なるが、それ以外の面では2人は大変よく似ていた。とはいえ、2人の間には直接的な交渉は全くない。つまり全く交流のなかった2人の念仏聖が、それぞれ独自に踊り念仏を行ないながら念仏を遊行勧進していたのである。鎌倉後期には一遍や一向俊聖のような念仏聖が幅広く活動しており、2人ともそうした潮流の一存在に過ぎなかった。一向俊聖は弘安7年に加賀国金沢で踊躍念仏を行なったあと、越前に赴き「武田の荘司」という豪族の供養を受けた。これによって、口のきけなかった豪族の息子が話し始めたため、武田はその奇瑞に驚いて、一向に阿弥陀像と仏舎利を献じた。これが武田如来・武田舎利といわれるもので、のちに一向派の拠点たる近江国番場(滋賀県米原町)の蓮華寺に安置されたという(「一向上人伝」)。話そのものは神秘化されているが、一向俊聖の越前来訪は事実とみてよかろう。ただしその後の一向門流と越前・若狭との交渉は確認できない。  
 
律宗・法華宗

日像と法華宗 
越前・若狭における法華宗の展開は、日像とその門流が中心であった。それ以外では日蓮6老僧の1人である日興が、最晩年の元弘2年(1332)に佐渡妙宣寺日満を北陸道7か国の法華宗大別当に補任しているが(「妙宣寺文書」)、越前・若狭での日興門流の活動は確認できない。さて日像(1269-1342)は法華宗の洛内伝道を最初に果たした人物である。40年にわたる「三黜三赦」(京都からの三度の追放と三度の赦免)の苦難の後、日像は建武元年(1334)に京都妙顕寺を法華宗初の勅願寺とすることに成功した。この勅許は法華宗の公認を意味しており、教団発展史のうえで重大な意義を有するが、諸宗と同一レベルで公武祈祷を行なうことは、不受不施の原則から王侯を除外したことを意味し、宗義上の問題も残した。日像は永仁元年(1293)に上洛・布教を決意し、翌2年2月に鎌倉を出発し、佐渡・北陸道を経由して4月初めに京都に到着した。その間、能登・加賀・越前・若狭などに布教の跡を残したという。例えば能登石動山天平寺(石川県鹿島町)の山伏大宮房(日乗)を折伏しているし、越中羽生8幡の社僧だったその弟の妙文も日像に帰して、南条郡西大道(南条町)の妙泰寺や同郡今宿(武生市)の妙勧寺を開創した。敦賀の妙顕寺はもと気比社と関わりのある真言宗寺院であったが、住持覚円が日像に46か条にわたる宗義批判を行なったところ、見事に弁折されて法華宗に転じたという。また小浜の禅僧であった日禅も日像に帰して入洛に同道し、のちに小浜妙興寺を開創したという(「本化別頭仏祖統紀」)。もちろん、以上の開創伝承すべてに信が置けるわけではない。しかし正和2年(1313)の「愚闇記」では、「日蓮坊の流」が南無阿弥陀仏の6字名号を棄破していることを批判している。このことは、天台僧が念仏系と法華宗との対立・抗争を問題にしなければならないほど、越前での法華宗の活動が活発だったことを物語っている。日像の布教後わずか20年とはいえ、法華宗の勢力もまた着実に定着しつつあった。  
律宗の展開

鎌倉期の体制仏教の思想潮流には、2つの流れがあった。1つは本覚論の潮流であり、もう1つが戒律興隆の動きである。本覚論は煩悩即菩提・衆生即仏を説いて持戒や苦行を不要としたため、顕密僧の破戒・濫行や寺社焼打ちの口実とされるなど、悪僧の活動の正当化に援用された。それに対し朝廷・幕府は悪僧を厳しく取り締まると同時に、僧徒の濫行を批判した。こうした政府の悪僧対策に呼応する形で、鎌倉初期に顕密仏教の内部から悪僧批判の潮流が噴出し、戒律重視の改革運動が勃興したのである。栄西は戒律復興による王法・仏法の再建をめざしたし、俊・曇照は南山律を伝えて京都泉涌寺・戒光寺を拠点に活動した。叡尊・覚盛らは西大寺・唐招提寺を拠点に真言律を展開したし、鎌倉後期には恵尋・恵・伝信興円らの天台律の動きも登場し、戒律興隆は宗派の枠を超えた運動となった。こうしたなかで最も顕著な動きをみせたのが、叡尊の西大寺流律宗である。西大寺流は鎌倉後期に北条得宗と結んで全国に展開し、顕密寺社の復興や交通路整備にあたるとともに、光明真言・釈迦念仏・融通念仏を勧進して民衆の信仰をも獲得していった。さて「授菩薩戒弟子交名」には越前出身の僧が2名みえており、叡尊の弟子に越前出身者がいたことがわかる。とはいえ、越前・若狭における鎌倉期の律宗の動向については、「愚闇記」で律僧が猿楽や白拍子を見聞していることを揶揄している程度で、具体的な宗教活動は不明である。越前・若狭と西大寺流との関係が確認できるのは、敦賀津での津料徴収と、興福寺領での西大寺末の展開ぐらいである。永仁6年4月伏見天皇の綸旨によって京都祇園社の本地供の祈りが西大寺に命じられ、その供料として敦賀の津料および敦賀郡野坂荘の年貢が充てられている(「西大寺田園目録」)。また徳治2年(1307)から5年間、敦賀津の関料が醍醐寺・祇園社と西大寺の修理料に充てられており、西大寺流律僧が敦賀津での交通税の徴収にたずさわっていた。橋の造営や寺社の修理のために津料・関料といった交通税を徴収することがこのころから多くなったが、西大寺流はこうした潮流を推進した中心的存在であった。ところで、「西大寺光明真言過去帳」の14代長老尭基(1296-1370)の項には神宮護国寺・大善寺の僧侶の名前がみえるし、明徳2年(1391)の「西大寺末寺帳」には坂井郡金津の神宮護国寺と兵庫の大善寺・長福寺が登場しており、南北朝期に越前で律宗寺院が展開していたことがわかる。これらの寺院はいずれも廃絶しているが、このうち神宮護国寺は坂井郡坪江郷にあり、大善寺・長福寺は河口荘兵庫郷にあって、すべて興福寺領に存していた。では西大寺末寺が興福寺領に展開していたのには訳があるのだろうか。叡尊が西大寺運営権を興福寺から寄進されるなど、西大寺流と興福寺はもとから親密な関係にあったが、越前で両者の接触が確認できるのは、春日神社の造営をめぐってである。興福寺は正応元年(1288)に後深草院から坪江郷を寄進されると、永仁6年に春日社を大和三笠山から金津に勧請した。当時、一般に荘園支配の宗教的拠点として末寺・末社が設立されることが多かったが、この勧請に西大寺の浄賢が関与していたのである。そして正和4年には、金津の8日市人が神宮護国寺と惣鎮守新春日社の造営のために浄賢にゆだねられている(「坪江上郷条々」「雑々引付」)。つまり浄賢は金津の市庭を料所として春日社とその別当寺の神宮護国寺を造営し、護国寺はその後も西大寺流の僧侶によって運営されたのである。このように興福寺の荘園支配に積極的に協力するなかで、河口・坪江荘に西大寺末寺が形成されていった。しかも金津は交通の要衝であり、西大寺流の末寺が陸海交通路の結節点に形成されることが多いという特徴がここでも確認できる。とはいえ、西大寺流のもう1つの大きな特徴である民衆布教については、越前・若狭ともになお不明である。  
 
立山信仰

筆者はこれまで、江戸時代における立山信仰の基本構造を考察するには、どのような題材が最も有効であるかを模索してきた。そうしたなかで、数年前から筆者は芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅をその最たる題材として位 置づけるようになり、最近に至るまで度-検討を試みてきている。 そこで、以下、なぜ上記の研究が江戸時代の立山信仰史研究のなかで特別 な意味をもつのかといったことについて、まず第1章で筆者なりの視座を示し、さらにそれを踏まえて第2章では芦峅寺衆徒が行った廻檀配札活動の実態、第3章では立山曼荼羅の諸相について紹介していきたい。  
第1章.研究の視座  
1-1.加賀藩支配による芦峅寺衆徒の山篭・山岳抖ソウ型修験から御師型修験への移行 
中世から近世初頭にかけて、僧兵として越中守護職の桃井直常や越中守護代の神保長誠、あるいは越中国主の佐-成政等の武将たちと結びついていた芦峅寺一山に対し(註1)、佐-成政が没落した後、新たに加賀藩支配がはじまると、藩は壊滅政策ではなく懐柔政策をとり、芦峅寺一山が加賀藩に支配される以前から持ち続けていた僧兵的な側面 の取り除きをはかったと思われる。 天正15年(1587)、新川郡が加賀藩前田家の所領になると、翌年(1588)、利家はすみやかに芦峅寺仲宮寺姥堂に対し100俵の寺領を安堵して藩の寺社支配の組織枠に組み込み(註2)、中央の既成宗教教団との関係を持たせず、徳川幕府の本末制度にもとづく寺院支配が届かないところに芦峅寺一山を置いた(註3)。 さてその際、加賀藩は芦峅寺一山に対し、山中ゲリラ的な要素を取り除くため、修験道における山中修行を抑制し、その代わりにあくまでも加賀藩の国家安泰や藩主とその家族の無事息災を祈祷する山麓の祈願寺院としての役割を担わせた(加賀藩の公的祈願寺院となった)(註4)。さらに、それによって、衆徒の宗教活動の基盤は立山山中から山麓の自地に移り、立山山中における峰入りや柴燈護摩などの修行は次第に廃れ(註5)、むしろ山麓芦峅寺の境内地での年中行事が増加していった(註6)。  このような芦峅寺衆徒の「修験」としての性格の推移を宮本袈裟雄氏が提示する修験の性格の四類型(註7)に当てはめて示すならば、1「山篭・山岳抖ソウ型修験」と3型「御師型修験」の混在型(どちらかというと1の性格が3よりも強い)からV型「御師型修験」へと移行していったことになる。
1-2.芦峅寺衆徒の御師型修験への移行にともなう諸国の檀那場での廻檀配札活動の重視 
芦峅寺村は北アルプス立山連峰の山麓、常願寺川上流右岸段丘上に位置する。すなわち、サトヤマに位 置し、同村の中核をなす芦峅中宮寺は山宮である。一方、岩峅寺村は北アルプス立山連峰の山麓、常願寺川右岸扇状地の扇頂部に位 置する。すなわちサトに位置し、同村の中核をなす立山寺は里宮である。 加賀藩は、立山に最も近い山宮の芦峅寺には、立山の山自体にかかわる宗教的諸権利〔(1)「立山本寺別 当」の職号の使用権、(2)六十六部納経所の設置権及び納経帳の発行権、(3)山役銭の徴収権、(4)立山山中諸堂舎の管理権など〕を与えず、むしろ山から閉め出すように加賀藩領国内外での廻檀配札活動の権利を与えている。一方、里宮の岩峅寺には、前述の立山の山自体にかかわる宗教的諸権利を与えて管理を任せるのであるが、岩峅寺としては不便なことに立山山麓から山上までの禅定登山道は一本道となっており、その途上、岩峅寺集落と立山山中との間に芦峅寺集落が障害物のように挟まっているため、否応なしに芦峅寺を通 過せざるをえず、そうした状況が何かと争論を起こす引き金となった。 なお、そうした争論の裁判は加賀藩公事場奉行で行われ、結局は藩が審判するため全て藩の意のままであった。このように、得意な者に得意な職分を与えず、互いに対抗させることでその力を削ぎ、最終的には藩の審判によって服従させるといったしたたかな方策が感じられる(註8)。 以上、[1]・[2]の視座を整理すると、江戸時代、立山衆徒が加賀藩にがんじがらめに支配されるなかで、特に芦峅寺衆徒については、加賀藩から立山山中にかかわる宗教的権利を奪われ、その一方で以前から行っていた加賀藩領国内外での廻檀配札活動はこれまでどおり認められたので、そちらの活動を重視せざるをえない状況となった。こうした衆徒に対する支配動向が、どこまで加賀藩の作為によるものだったのかは未だに判然としない点も多いが、その状況だけを端的に言い表すならば、結果 的には加賀藩によって「山篭・山岳抖ソウ型修験」と「御師型修験」の混在型(どちらかというと前者の性格が後者よりも強い)から「御師型修験」へと移行させられたのである。それゆえ、芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と、その際に教具となった立山曼荼羅に関する研究は、江戸時代における立山信仰の実相を見ていくうえで、必要不可欠な題材だといえるのである。
1-3.立山信仰の伝播と受容に関する研究の重要性 
立山信仰を「情報」としてとらえると、立山信仰史研究の分野は(1)「情報としての立山信仰の内容」、(2)「情報の発信地(芦峅寺・岩峅寺)と発信者(芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒)」、(3)「情報の受信地(檀那場)と受信者(宿坊家と師檀関係を結ぶ信徒など)」などの要素から成立していることがわかる。   これらの諸要素のうち、従来の立山信仰史研究の分野において、(1)と(2)については早い時期から多くの先学研究者によって取り組まれ、かなりの研究成果 が見られる。ただし(2)に関する問題として、情報の発信者である芦峅寺衆徒や岩峅寺衆徒の活動実態については、自山での活動はある程度研究されているが、布教先での活動についてはほとんど研究されていない。それにも増して(3)に至っては、わずかに寺口けい子氏や筆者によるものが見られる程度で、充分に研究が行われているとは言い難い状況である。 こうした状況に対し、筆者は、前記の(1)と(2)の部分的な研究成果だけでは、本当の意味で立山信仰を理解・解明したことにはならないと考えている。衆徒の布教活動によって日本国内各地に伝播した立山信仰は、伝播先の各地域で衆徒の思惑通 りに受容されることも多かったであろうが、時には衆徒の思惑をはずれ当地の様-な影響を受けて微妙に変化したり、あるいは、檀那場で立山講として成長・維持されていく過程で信徒側の影響を強く受け、極端に変化したりしながら受容されたこともあったものと推測される。 筆者はこのような変容した立山信仰もまた立山信仰の重要な一面として着目すべきであると考えており、いわば「内なる立山信仰」と「外なる立山信仰」の両方を総体的に研究していくことの必要性を指摘したいのである。なお、こうした視点は、立山曼荼羅の製作発願者である衆徒とその費用負担者である檀那場の信徒、実質的な製作者である絵師の三者間の微妙な力バランスのもとに製作された多くの立山曼荼羅諸本に対する研究にも、大きな意味をもつものと考えられる(註9)。
註 
註1)木倉豊信編『越中立山古文書』(立山開発鉄道株式会社、1962年12月)所収の芦峅寺文書のうち史料番号1・2・4〜9・12〜19・21〜25。木倉豊信「立山古文書について」(『越中立山古文書』所収、343頁・344頁)。 註2)『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書のうち史料番号26。「一山旧記扣 永禄・天正・文禄・寛永・延宝等」(廣瀬誠編『越中立山古記録 第1巻』所収、18頁・19頁・27頁、立山開発鉄道株式会社、1989年9月)。米原寛「芦峅寺門前地の形態-宗教村落芦峅寺の場合-」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第1号』所収、1994年3月)。 註3)米原寛前掲論文参照。「当山旧記留覚帳(文化11年)」(『越中立山古記録 第一巻』所収、10頁)。「納経一件留帳 上 文化8〜12年」(『越中立山古記録 第1巻』所収、69頁)。天保11年(1840)、岩峅寺24軒の全ての宿坊家が東叡山寛永寺の末寺となることで権威付けを謀ろうと画策したが、加賀藩に阻止されている。また、青蓮院の末寺になろうとも画策したが、同じく加賀藩に阻止されている。以上はの内容は「芦峅寺・岩峅寺山格古式改帳(天保13年)」(『越中立山古記録 第1巻』所収、213〜223頁)からうかがわれる。 註4)木倉豊信「立山古文書について」(『越中立山古文書』所収、342頁)。『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書のうち史料番号26・28・30・34・46・48〜58・61〜64・69・70などからうかがわれる。 註5)「一山旧記扣 永禄・天正・文禄・寛永・延宝等」(『越中立山古記録 第1巻』所収、18頁)。 註6)『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書のうち史料番号119。「当山旧記留覚帳(文化11年)」(『越中立山古記録 第1巻』所収、5頁・6頁)。「当山古法通諸事勤方旧記(文政12年)」(『越中立山古記録 第1巻』所収、29〜52頁)。「諸堂勤方等年中行事外数件(天保13年)」(高瀬保編『越中立山古記録 第4巻』所収、1〜64頁)。 註7)宮本袈裟雄「序論 課題と方法」(『里修験の研究』所収、吉川弘文館、1984年10月)。 註8)福江充『立山信仰と立山曼荼羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-』(11〜40頁・115〜136頁、岩田書院、1998年4月)。 註9)福江充「立山曼荼羅の図像描写に対する基礎的研究-特に諸本の分類について-」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第7号』所収、2000年3月)。
第2章.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動

2-1.芦峅寺と宿坊衆徒 
芦峅寺の集落は、富山市街から約30キロメ-トル南東の北アルプス立山連峰の山麓に位 置し、立山連峰を源流域とする常願寺川上流の右岸段丘上に乗っかっている。同村は平安時代に起源をもち、江戸時代に入ると、立山信仰を護持し全国に布教した衆徒たちの拠点集落として発展した。当時、村内には姥堂・閻魔堂・講堂・開山堂などの諸堂社を中核施設として38軒の宿坊や約70戸の門前百姓家を擁し、加賀藩支配のもと、藩の祈願所や立山禅定登山の基地として、その役割を果 たしていた。そして、同村の衆徒たちは活発な勧進布教活動によって立山信仰を各地に広めたので、立山には修験者に限らず、一般 庶民の参詣者や禅定登山者たちも多くやって来るようになった。 ところで、日本各地の霊山では、その山岳信仰に関わる宗教者のことを一般 的に御師と称する場合が多いが、芦峅寺衆徒たちのあいだでは学問を重んじる気風が強く、自分たちのことを御師の用語でではなく、あえて経論の学習や法会を司る学僧を意味する衆徒の用語で称している。  
2-2.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と護符(概略) 
江戸時代初期、加賀藩は修験の霊場や由緒のある古寺社については再興し、以後、加賀藩の菩提所(例えば天徳院や瑞竜寺など)や祈祷所(例えば観音院や波着寺、宝幢寺など)とともに外護した。そのなかで芦峅寺も加賀藩の外護によって再興され、以後、前田氏一門の息災延命や安産、領内の異変などに対する祈祷所の役割を果 たしていくことになる。いわば加賀藩の公的寺社として、しかも修験道寺院としてではなく、前田家との特殊な関係を強調する外護所として、藩の寺社支配の体制下に完全におさまったのである。しかし、そのために芦峅寺衆徒が本来的に有した修験的な性格は弱まった。 延宝3年(1675)に芦峅寺衆徒・神主中が加賀藩郡奉行に宛てた書付によると、立山には高貴山と金峯山の両峰があり、かつては峰入修行や柴燈護摩などの修法を行っていたが、それも途絶えてしまったとある。この記述が物語るように、芦峅寺衆徒は江戸時代の比較的早い時期に、例えば、当時大峰山や出羽三山など各地の霊山で行われていたような、山中・山上での峰入などの修験道の修行を行わなくなったようである。 それよりもむしろ、立山は平安時代後期から既に山中に「生き地獄」のある山として知られ、以後、その立山地獄の信仰がより一層深化し広まりを見せ、江戸時代に至っては、日本人のあいだで立山といえば、その「生き地獄」が見所となっていたので、芦峅寺衆徒は、これを活用した諸国での廻檀配札布教に重点を置くようになったものと考えられる。 芦峅寺日光坊所蔵の慶長9年(1604)の断簡文書から、規模は明らかではないが慶長期頃既に三河国や美濃国や尾張国の村-に芦峅寺衆徒による檀那場が開かれていたことがわかる。そして近世後期には、芦峅寺宿坊家の衆徒は、例えば日光坊は尾張国、善道坊は三河国、宝泉坊は江戸といったように日本国内の各地でそれぞれの宿坊ごとに檀那場を形成し、毎年、農閑期に檀那場へ赴き、立山信仰を布教しながら護符や経帷子、小間物などを頒布して廻っていた。 芦峅寺衆徒は多種多様な護符を刷ったが、廻檀配札活動を行った際には牛玉宝印をはじめ諸願成就供養札や護摩供養札、守護札、寿命長久供養札、火防札、姥尊秘法供養札、山絵図(立山禅定登山案内図)などを、また、特に女性の信徒に対しては血盆経や月水不浄除守札、安産守札などを頒布した。さらに時には、その地域の民衆の需要に応え、養蚕祈願や大漁祈願といった種類の護符も頒布した。 この他、護符だけに限らず、箸、針、楊枝、扇、元結などの小間物をはじめ、反魂丹や貼り薬なども頒布して利益を得ている。こうしたなかで、檀那場の周旋人や特に大金を寄進した檀家、あるいは、旅行中いろいろと便宜をはかってくれた人-には葛や金平糖、茶、椎茸などを進呈している。 ところで、前掲の牛玉宝印とは、牛の胆嚢内にできた牛黄や胃内にできた牛玉 は病魔除去に効験があるとされ、修正会などの仏教行事で、牛玉加持と称する秘密の修法を行う際に用いられたものである。こうした霊験あらたかな牛玉 が、護符の形式をとって流布したものが牛玉宝印である。芦峅寺の牛玉宝印には「立山之宝」と記されたものが見られ、加賀藩に献上されたり、諸国で布教活動を行った際に配られたりした。なお、「立山之宝」には、その形態から牛玉 宝印の大判と小判の2種類が見られる。
2-3.芦峅寺衆徒が製作した護符の種類 
富山県[立山博物館]では、芦峅寺のかつての宿坊家に残されていた多数の版木や朱印を収蔵しているが、これらの資料は、立山信仰の往時に芦峅寺で様-な護符が刷られていたことを物語っている。一方、こうした芦峅寺の実態からすると、現在、雄山神社前立社壇のある岩峅寺のかつての宿坊家にも版木は残されていると考えられるが、これについては、未だに組織的・体系的な調査・研究が行われていないため、その詳細は不明である。そこで、以下、ある程度研究成果 が修められている芦峅寺の事例を中心に紹介したい。 さて、護符とは、紙や布、木片に神号や仏名、経文、真言、呪術的な絵や文字などを直筆あるいは版木で記し、神璽や宝印を押したりしたものである。祈祷儀礼にともなって作製される場合が多く、こうしてできた護符には神仏の霊が宿るので、これを貼る所には神仏の霊験や御加護があると信じられた。なお、携帯可能な護符は守札と呼称される。 芦峅寺衆徒はこうした護符を多種多様に刷ったが、その種類は大別して以下のとおりである。  (1)牛玉宝印として「立山之宝」の大判と小判、(2)火防札として「立山火の用心」、(3)諸願成就祈祷札として「立山大宮供諸願成就祈所」、(4)護摩供養祈祷札として「奉修不動明王護摩供家内安全諸願成就祈所」・「奉修護摩供病気平癒祈所」、(5)護摩供祈祷巻数として「立山大宮護摩供巻数」、(6)五穀成就祈祷札として「立山宮五穀成就守護所」、(7)祈祷宝札として「御祈祷宝札」・「御祈祷之札」、(8)姥尊子孫繁昌祈祷札として「立山御姥尊子孫繁昌祈所」・「立山御姥尊子孫繁昌寿命長久所」、(9)秘法供養札として「奉修開山元祖秘法供寿命長久祈所」・「奉修日待大尊秘法供家内安全祈所」、(10)守護札として「立山大権現守護所」・「御守護」、(11)勝木守護札として「除剣難勝木守札」、(12)転読大般 若経に関係して「奉転読大般若経息災延命諸願成就祈所」、(13)星祭供養札として「奉星祭家内安全除災延命擁護所」、(14)大漁祈願札として「立山雄山神社大漁満足祈所」、(15)代参祈祷札として「立山御代参宝札」、(16)神璽として「立山雄山神社御璽」、(17)布橋潅頂会に関して「血脈 立山御姥堂布橋大灌頂」・「変女転男 立山中宮寺大阿遮梨」・「血脈 奉納血盆経一千巻圓頓戒破地獄秘法」・「血盆経一千巻供養功徳書伝燈大阿闍梨(内符)」、(18)月水不浄除守札として「月水不浄除御守」・「月水之大事」・「月水蔵根元秘事」、(19)安産守札として「安産神符」・「易安産守、」、(20)流水灌頂会に関して「血脈 流水灌頂法会因縁機興即生往生極楽」、(21)大施餓鬼法要会に関して「永代大施餓鬼料稟」、(22)経帷子として「胴体」・「肩」・「袖」・「背中」・「手甲」「脚半」・「頭陀袋」・「帯」、(23)経典に関して「仏説大蔵正教血盆経」・「奉納血盆経請取」・「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」、(24)仏画として「立山和光大権現」・「姥尊」・「不動明王」・「秋葉明神」・「太上神仙鎮宅霊符尊」・「立山地獄」、(25)名号・種子・仏言・仏名に関して「南無阿弥陀仏」・「立山・白山・富士浅間の三権現」・「南無地蔵願主大菩薩」、(26)養蚕に関して「養蚕御守」・「蚕養之大神」・「蚕養倍成符」、(27)売薬に関して「薬代金表」など、(28)立山登山案内図として「越中国立山禅定名所附図別 当岩峅寺」(岩峅寺版)・「越中国立山禅定並略御縁起名所附図」(芦峅寺版)。この他、(29)位 牌の雛形や(30)宿帳の雛形、(31)各種証状の雛形などが見られる。
2-4.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動をとりまく環境 
[1]岩峅寺衆徒の立山山上・山中管理と芦峅寺衆徒の廻檀配札活動 
江戸時代、立山衆徒(芦峅寺衆徒と岩峅寺衆徒)が加賀藩にがんじがらめに支配されるなかで、加賀藩はどちらかといえばサト宮の岩峅寺を優遇し、立山山上・山中にかかわる宗教的権利を同寺に与えた。その権利を奪われた芦峅寺衆徒にとって、彼らが以前から行ってきた加賀藩領国内外での廻檀配札活動だけは、いつの時期も藩が芦峅寺側の権利として安定的に認めてくれたので、彼らはこの活動を重視した。  
[2]芦峅寺村をとりまく自然環境と廻檀配札活動 
北アルプス立山の山麓、標高400メ-トルのあたりに位置する芦峅寺村の冬は、深い雪に閉ざされてとても厳しい。この時期、宿坊家の衆徒たちは立山山上・山中での宗教活動が全く行えず、また、それを村内境内地の諸堂や自坊で行うにしても、天候の悪いなか、その準備や執行は何かと大変であったと考えられる。日常生活も逼塞したものだったに違いない。このような環境であるが、だからといって衆徒たちが冬のあいだ同村で逼塞した生活を送っていても経済的には何のメリットもない。そこで、衆徒たちは諸国で檀那場を形成し、同地で廻檀配札活動を行った。各宿坊家の衆徒たちが檀那場を形成した地域に、比較的太平洋側の地域が多いのも、彼らが天候が良いところを活動場所として求めたからであろう。  
[3]芦峅寺衆徒の「渡世」のための廻檀配札活動 
芦峅寺衆徒の廻檀配札活動は、確かに「立山信仰」があってはじめて存在しうるものとはいえ、その実質的な意味合いは、芦峅寺宿坊家の人-が「渡世」していくための「出稼ぎ」そのものだったといえる。近世後期の芦峅寺の経済状況は凶作・地震などの天災・火災などの人災、門前百姓の造用負担拒否などで総体的に最悪である。そうしたなかで、芦峅寺衆徒の加賀藩に対するいつもの口癖は立山信仰は脇に置いて、むしろ自分たちが「渡世」できるか、できないであった。特に近世後期になると芦峅寺衆徒にとっては彼らの収入のかなりを占める廻檀配札活動が、その宗教活動において最も重要なものになっていた。それは彼らの生活を支えるための生命線であり、その権利に対して岩峅寺と争論になっても絶対に死守しなければならないものであった。
2-5.芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と加賀藩 
[1]廻檀配札活動の収益の行方 
近世後期には、芦峅寺宿坊家の経済状況は凶作や天災・火災などの影響を受け、次第に悪化し、宿坊家間でかなり大きな貧富の差ができた。そして、一部の宿坊家は、加賀藩からの借用銀の返済に追われ、その日の生活にすら困り果 て、廻檀配札のための準備費用が捻出できず、檀那場へ赴くことができなかった。一方、その傍らで、檀那場の状態が良好な、例えば大都市江戸などに檀那場を保有した宝泉坊のように、毎年の廻檀配札活動で着実に蓄財している宿坊家もみられる。ただし、こうした宿坊家も、結局は加賀藩の強圧的な支配のもと、半強制的に藩寺社奉行所に祠堂金の自発的な預け入れといった形をとらされながら、確実にわずかな利息金を得ることができたとはいえ、廻檀配札活動の収益のほとんどを没収されたのである。ただし、その預金は芦峅寺が飢饉等の非常事態で困窮した際、救済基金としての機能を果 たし、芦峅寺を助けていた。それがあって、例えば宝泉坊衆徒の泰音など、藩に多額の祠堂金を納めた宿坊家は芦峅寺一山のなかでも影響力をもつようになった。  
[2]加賀藩と廻檀配札活動 
江戸での檀那場の形成状況や廻檀配札活動の実態を検討していて興味深く思えるのは、加賀藩関係者に対してほとんど勧進活動を行っていない点である。本来であれば、江戸の加賀藩邸などで、望郷の念にかられた江戸勤番の藩士たちに勧進布教を行えば、手軽さと収益の面 で一番効果的に思えるのだが、そういった素振りは全く見られない。また、加賀藩領国内においては、能登国鹿島郡・鳳至郡・珠洲郡、越中国婦負郡(富山藩領)などの地域を除いて、その他の地域では檀那場形成がきわめて希薄である。こうした状況は、次のような意味をもっていると推測される。すなわち、加賀藩とすれば、芦峅寺衆徒が江戸の加賀藩邸や自藩領内で廻檀配札活動という、いわゆる一種の経済活動を積極的に行ったとしても、自藩のなかでお金が回るだけで外貨として増えるわけではなく全くメリットがなかった。それよりもむしろ、衆徒を冬期に藩領国外に「出稼ぎ」に出し、廻檀配札活動を行わせ、少しでも外貨をかせがせようとしたのではなかろうか。結局その収益の多くは加賀藩に入ることを思えば、なおのことそのように感じられるのである。
2-6.芦峅寺衆徒が諸国で形成した檀那場の実態 
[1]廻檀に適した檀那場の規模と庄屋とのコミュニケ-ション 
芦峅寺宿坊家の檀那場の規模は数百人から最大1500人程度で、それほど大きいものとはいえない。芦峅寺から遠く離れた各地域の檀那場を末永く維持していくためには、毎年定期に必ず檀那場を訪れ、各村をとりしきる庄屋の檀家とのコミュニケ-ションを大切にしながら勧進布教活動を行うことが最も大切であった。それゆえ、ある程度の収益が獲得できれば、廻檀不可能な規模になるまで無制限に信徒を獲得し、檀那場を拡大するようなことは行わなかった。このように人との直接的なつながりで維持され、檀那場に末社が勧請されることがなかった立山信仰は、衆徒がその檀那場に配札に訪れることができなくなると、たちどころに解体していった。 
[2]街道沿いにも形成される小規模の檀那場 
これまでは、檀那場そのものの地域だけに着目されてきたが、檀那場に向かうまでの様-な街道にも、宿泊家を中心として、その沿線に浅く檀那場が出来ていくことがわかった。  
[3]尾張国における檀那場の場合 
福泉坊や日光坊が尾張国に形成していた檀那場の特徴は、檀家という1軒1軒の「点」が密集して、ほどよい規模の「面 」を形成しているところにある。そして、このような状況は、衆徒が檀那場で廻檀配札活動を行った際、衆徒自身が檀家を1軒1軒廻るにしても、あるいは実質的な配札を各村の庄屋に委託するにしても、村から村への移動や初穂の徴収などの面 でひじょうに効率的なものであったと考えられる。 
[4]信濃国における檀那場の場合 
信濃国における各宿坊家の檀那場は、当然といえば当然だが、街道などの諸道が整備された比較的交通 の便のよい地域に形成されていたことがわかる。また、信濃国の一部の地域の檀那場の分布状況をみていくと、各村に数軒ずつ檀家が点在するといった檀那場の分布状況が、衆徒による檀家から檀家への移動行為によって、ようやく点である檀家と檀家を結んだ「線」や「筋」、あるいは、過大にみても「帯」程度になるにすぎない場合がみうけられる。その実態は尾張国の事例のような「面 」とはほど遠い。「檀那場」は地域によっては、従来の立山信仰研究史の分野でイメ-ジされてきたような「面 」的なものばかりとは必ずしも言えない。 
[5]房総半島における檀那場の場合 
房総半島の事例として各宗教勢力とのかかわりの面からみていくと、衆徒は檀那場では真言宗系の勢力が比較的強い地域を配札領域としている。おそらく、芦峅寺衆徒自体が、もと高野山学侶龍淵の影響もあって、真言宗的要素も多分に含んだ天台宗であり、檀那場の真言宗寺院との間に軋轢が生じるようなことは、他宗派との場合と比べると少なく、むしろ教線を拡大していくにしても、他宗派寺院よりは少なからずくみしやすかったものと考えられる。 
[6]江戸における檀那場の場合 
江戸時代中期に芦峅寺衆徒が江戸で形成した檀那場の実態をみていくと、当時既に信徒数のうえでは江戸時代後期のそれとほぼ同等の規模で檀那場が形成されている。この事実は、さらに必然として芦峅寺衆徒による檀那場形成の起源がこの時期より一層遡ることを示唆し、芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に関する文書で最古の慶長9年の芦峅寺日光坊文書の内容とも、わずかながら接近することができるため、きわめて重要な意味をもつ。 江戸時代中期の廻檀配札活動の形態は、江戸時代後期の形態ほど成熟していない。すなわち、江戸時代後期の廻檀配札活動における真骨頂ともいうべき強力な商業活動的性格がそれほど強く感じられない。 師檀関係の形成については、江戸の檀那場の場合、初期の段階では比較的勧誘しやすい商人・職人・新吉原関係者などを主なタ-ゲットとして進められたようである。当初の檀那場はこれらの人-が中核となって支えていたと考えられる。その後、江戸時代後期へと時代が進むにつれて檀那場も成熟し、信徒たちの身分に幕臣や藩士たちの武士層も増加し、極端な場合では諸大名や松平乗全(三河国西尾藩主)・本多忠民(三河国岡崎藩主)などの幕閣大名のなかにも芦峅寺宿坊家と師檀関係を結ぶものが出てきたのである。 
[7]加賀藩領国内における檀那場の場合 
幕末期頃、加賀藩領国内においては、相善坊と等覚坊が能登国の鹿島郡・鳳至郡・珠洲郡でそれぞれ檀那場を形成しており、また相真坊も越中国婦負郡(富山藩領)で檀那場を形成していた。しかし、その他の砺波郡や射水郡など地域については、各宿坊家がくじ引きで獲得した割当地を檀那場として開拓してもよいことになっていたが、実際のところ積極的に檀那場が形成された痕跡は見られない。くじ引きで決まる檀那場であるから、いわゆる一般 的な檀那場のように継続的・固定的なものではなかった。そのため、いずれの宿坊家においても、むしろ加賀藩領国外で形成した檀那場での廻檀配札活動に力を入れている。なお、芦峅寺衆徒による加賀藩領国内での檀那場形成が希薄で、むしろ藩領国外でのそれが充実していたことに対し、加賀藩が、例えば「外貨獲得」などの意志のもと、何らかのかたちで作用していたか否かは、今後の検討課題である。
2-7.芦峅寺衆徒が行った廻檀配札活動の実態 
[1]農村部の檀那場での廻檀配札活動の実態 
衆徒は檀那場では主に庄屋(名主)宅を定宿とするが、その庄屋は、大概その地域において立山信仰の講組織をまとめる周旋人である場合が多い。護符などの具体的な頒布方法については、まず、衆徒が定宿の庄屋に対し、その村で必要な護符の枚数について注文をとる。それに対し庄屋は人足を雇い、村内の信徒宅を中心に、時にはそうでない家-までも巡回させ、村人が必要とする護符の枚数を把握する。衆徒はその枚数分の護符を庄屋に渡し、実質的な頒布は全て庄屋及び庄屋が雇った人足に任せてしまうのである。 ある村での勧進活動を終えると、衆徒は次の村に向かうが、信徒に頒布するために持ち込んだ護符や経帷子・小間物・薬・土産などの沢山の荷物のなかから、その村で必要な品物を必要な数量 だけ取り出し、次に配札を予定している村までの自分の荷物の搬送を庄屋に依頼し、それを受けて庄屋が伝馬人足を雇い、衆徒の荷物を次の村の庄屋宅まで送ってやる。この方法により、衆徒は配札に必要な沢山の荷物を自分自身ではほとんど持つことなく、身軽に村から村へと移動できた。なお、頒布した護符や諸品などの代金は初穂料として1年送り、すなわち、翌年再び当地に廻檀配札に訪れた際に徴収した。  
[2]都市部と農村部の檀那場の廻檀経路の違い 
江戸御府内などの都市部を中心に檀那場を形成した宿坊家と、農・山・漁村に檀那場を形成した宿坊家とでは、廻檀経路のあり方に違いがみられる。すなわち、都市派は数軒の定宿を担う信徒宅をベ-ス基地として、放射線状に何度も出入りを繰り返しながら廻檀配札を行っているが、農・山・漁村派は各村-の庄屋宅から次の庄屋宅へといった具合に、一筆書きのように順-に廻檀して配札を行っている。  
[3]衆徒個人の才覚に左右される廻檀配札活動 
各宿坊家衆徒の勧進方法をみていくと微妙に差異がみられ、それぞれの衆徒の才覚や個性から得意・不得意があったようである。タイプとしては、御祈祷主体型と護符頒布主体型がみられる。それぞれの衆徒の才覚によって廻檀配札活動による収益にも差が出たであろう。
2-8.芦峅寺宿坊家間の檀那場での廻檀配札活動をめぐる争い 
[1]各宿坊家が形成した檀那場の入り組み 
芦峅寺各宿坊家が保有する檀那場及び檀縁は地方と大都市といった地域差も考慮する必要があるとはいえ、総体的にはどこの地域でも、ある程度入り組んでいたと考えられる。従来の研究史で指摘されてきたように、1坊に対して1国割といった画一的でスマ-トな状況が一般 的であったとはいいがたい。 
[2]姥堂別当職への諸負担と他宿坊家の檀那場への侵犯 
姥堂別当など、輪番制で一山内の特別な役職が回ってきた場合には、当該宿坊家には、それに関する諸経費を自家が先頭に立って調達していく必要が生じ、例年を上回る勧進収益が必要となった。それゆえ、宿坊家のなかには、芦峅寺一山の規約違反と知りながらも、ついつい自坊の檀那場以外に他の宿坊家の檀那場にまで手を出してしまい、争いになってしまう例もみられる。 
[3]宿坊家間の檀那場をめぐる争論とその解決法 
ある宿坊家がひとたび条件の良い檀那場の形成に成功すると、その宿坊家はその維持に全力を尽くし縄張りができる。もしそのあたりに新規に檀那場を開拓しようとする他の宿坊家があれば、その宿坊家は、条件の良い地域から既に先行の宿坊家におさえられているので、あとは条件の悪い地域ばかりが残っており、なかなか思うように進出していくことができない。それゆえ、ときには他の宿坊家の檀那場と知りながらついついそれを侵してしまい、争いになることもあった。 しかし、芦峅寺宿坊家間の廻檀配札活動は全て一山の管理下にあり、万一争いが生じた際には、芦峅寺一山の衆評により的確な判断が下され、一度当事者の檀那場を一山が引き揚げ、規約に基づいて改めて正しく配分するかたちをとっている。
2-9.芦峅寺衆徒の女性を対象とした勧進活動 
[1]江戸の檀那場の信徒による姥堂境内地六地蔵尊石像の寄進 
嘉永5年(1852)から5年がかりで、江戸の檀那場の信徒たちが芦峅寺の姥堂境内地に六地蔵尊石像を寄進した。同地蔵尊像の寄進家の特徴をみていくと、その戸主は、江戸の信徒たちのなかでも、どちらかといえば立山信仰の講組織を中心となって支えていた大名の家臣や旗本、中流商人らであった。寄進目的については、いずれも自家の祖先に対する追善供養や家内安全子孫繁栄などの現世利益のための供養を目的としていた。 ところで、江戸時代後期、芦峅寺衆徒は各地の檀那場で、特に女性の信徒に対しては、越中立山が女人往生の霊場であることを強調し、血の池地獄からの救済と極楽往生の願いをかなえる布橋灌頂会の儀式への結縁を積極的に喧伝した。それゆえ、当時の仏教界においては、救済から洩れがちな女性の信徒たちのあいだで、立山信仰は好んで受け入れられる素地があった。前述の地蔵尊像の施主に比較的女性が多くみられる傾向も、芦峅寺衆徒が当時の女性の需要に巧に応えることができていることと、彼らが女性層を大きなマ-ケットとみなして積極的に勧進布教活動を行っていたからだと考えられる。 
[2]芦峅寺衆徒の血盆経唱導 
芦峅寺宝泉坊の『立山血池地獄血盆経納経御方記帳(控)』の内容から、同坊衆徒泰音は江戸の檀那場で、同坊と師檀関係を結ぶ大名の妻・奥女中をはじめ、大名の家臣の妻、幕臣等の妻、商人・職人・家主たちの妻などを対象として血盆経唱導を行っていたことがわかる。また、信徒以外の人-にも新規に血盆経納経を勧誘していたことがわかる。このような実態は、幕末期、血盆経信仰が江戸の女性たちの間で身分を越えてかなり浸透していたことと、血ノ池の苦患を恐れて、多くの女性がそこからの救済を切望していたことがわかる。
2-10.廻檀配札活動に関する参考文献 
日和祐樹「立山信仰と勧進」(高瀬重雄編『山岳宗教史研究叢書10 白山・立山と北陸修験道』所収、名著出版、1977年9月)。『立山町史 上巻』(立山町編・刊行、1977年10月)。寺口けい子「芦峅寺善道坊諸国檀那廻りの実態」(『富山史壇 第67号』所収、越中史壇会編、1977年12月)。福江充「江戸時代幕末期 芦峅寺宿坊家間の檀那場をめぐる争いについて」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第5号』所収、富山県[立山博物館]、1998年3月)。福江充『立山信仰と立山曼荼羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-(日本宗教民俗叢書4)』(岩田書院、1998年4月)。福江充「立山信仰にみる石仏寄進の一例-江戸の信徒による姥堂境内六地蔵尊石像の寄進」(『宗教民俗研究 第8号』所収、日本宗教民俗学研究会、1998年6月)。福江充「芦峅寺衆徒の宗教活動」(『とやま民俗文化誌(とやまライブラリ-6)』所収、富山民俗文化研究グル-プ編、シ-・エ-・ピ-、1998年8月)。福江充「芦峅寺宿坊家の廻檀配札活動とその収益の行方」(『富山市日本海文化研究所報 第21号』所収、富山市日本海文化研究所、1998年9月)。福江充「立山山麓芦峅寺宿坊の檀那帳に見る立山信仰-立山信仰の伝播者芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と檀那場」(『情報と物流の日本史-地域間交流の視点から-』所収、地方史研究協議会編、雄山閣出版、1998年10月)。福江充「幕末期江戸の立山信仰-芦峅寺宝泉坊の江戸の檀那場と廻檀配札活動の実態-」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第6号』所収、富山県[立山博物館]、1999年3月)。福江充「木版立山登山案内図(芦峅寺系)の施主について」(『立山登山案内図と立山カルデラ 第5回企画展解説図録』所収、立山カルデラ砂防博物館、2000年7月)。福江充「立山信仰と刷り物」(『とやま 版 越中版画から現代の版表現まで 資料集』所収、(財)富山県文化振興財団富山県民会館美術館、2000年10月)。福江充「江戸時代中期における江戸の立山信仰-江戸時代中期に芦峅寺衆徒が江戸で形成した檀那場について-」(『富山史壇 第133号』所収、越中史壇会編、2000年12月)。福江充「信濃国の立山信仰」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第8号』所収、富山県[立山博物館]、2001年3月)。福江充『近世立山信仰の展開-加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札-(近世史研究叢書7)』(岩田書院、2002年5月)。
第3章.立山曼荼羅の諸相

3-1.立山曼荼羅の呼称について 
越中立山の山岳宗教に関する絵画史料として立山曼荼羅と称される絵図があり、筆者は現在41点の作品を確認している。 その画面には、立山衆徒が信徒に対して絵解き布教をする際の項目で大区分して、[1]立山開山縁起、[2]立山地獄、[3]立山浄土、[4]立山禅定登山案内(立山の女人禁制伝説を含む)、[5]芦峅寺布橋大潅頂の祭礼の5つの内容が描かれている。 さて、今でこそ立山曼荼羅は「立山曼荼羅」の用語で人-に周知され、学術用語としても定着しているが、江戸時代は必ずしもそうでなかった。 すなわち、同時代の立山曼荼羅を表現する用語を調べていくと、芦峅寺文書や岩峅寺文書、あるいは立山曼荼羅諸本の軸裏銘文などに、[1]「御絵伝 有頼之由来」・[2]「御絵 有頼之由来」・[3]「有頼之由来立山御絵」・[4]「開山之行状之御絵伝」・[5]「立山之絵図まん多ら」・[6]「立山絵相四幅」・[7]「御絵図曼荼羅」・[8]「立山縁起四幅」・[9]「立山開山伝来御絵図」・[10]「立山絵伝」・[11]「立山和光大権現画」・[12]「御曼陀羅」・[13]「御曼荼羅」・[14]「立山図絵二軸」・[15]「御絵図」・[16]「立山絵図」など、様-な用語が見られる(註1)。  
註 
註1)[1]〜[4]については、『越中立山古記録 第1巻』(103頁〜106頁・125頁・129頁・131頁・132頁・135頁・152頁、廣瀬誠編、立山開発鉄道株式会社、1989年9月20日)や『越中立山古文書』(71頁、木倉豊信編、国書刊行会、1982年6月20日)を参照。[5]は「納経一件扣 上ル扣(文化8年)」(芦峅寺雄山神社所蔵)に見られる。[6]は『開帳旧記・宝物弘通 旧記 文政七年改之 弐冊之内』(金沢市立玉川図書館所蔵、文政10年の記載条項に見られる。)に見られる。[7]は、芦峅寺宝泉坊がかつて三河国西尾藩主松平乗全から寄進された立山曼荼羅の件で、慶応3年9月に芦峅寺が加賀藩寺社奉行所に答申した書付(芦峅寺雄山神社所蔵)に見られる。[8]は立山曼荼羅『宝泉坊本』(安政5年12月に成立の軸裏に記された銘文や同曼荼羅に関する製作者の三河国西尾藩主松平乗全から芦峅寺宝泉坊に宛てた寄付状(安政5年12月15日)に見られる。[9]は立山曼荼羅『宝泉坊本』の画面 を覆う覆布に記されている。[10]は立山曼荼羅『坪井家A本』(この曼荼羅の成立年次は未詳だが、軸裏の銘文から天保元年より同8年の間に補筆されたことがわかる。)や立山曼荼羅『桃原寺本』の軸裏に記された銘文に見られる。また、富山県魚津市に所在する浄土真宗大谷派大徳寺の『慈興院大徳寺由緒記』(享保16年4月成立、順覚著)の中には「立山絵伝」と記述されているという(林雅彦『増補日本の絵解き-資料と研究』226頁、三弥井書店、1984年6月)。さらに、富山県立山町大石原在住の佐伯省次氏の談話によれば、氏所蔵の立山曼荼羅『佐伯家本』は昭和51年に改装したが、それまで軸裏には「慈興上人開山御絵伝」と銘があったという(林雅彦『増補日本の絵解き-資料と研究』227頁)。[11]は立山曼荼羅『最勝寺本』(安政2年9月に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[12]は立山曼荼羅『志鷹家本』(天保7年10月に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[13]は立山曼荼羅『吉祥坊本』(慶応2年に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[14]は立山曼荼羅『称念寺B本』(文化10年2月に成立)の軸裏に記された銘文に見られる。[15]は芦峅寺宝泉坊の元治2年の東都廻檀日記帳や芦峅寺大仙坊の昭和3年の愛知県檀那帳(いずれも芦峅寺雄山神社所蔵)に見られる。[16]は『越中立山古文書』(213頁、木倉豊信編、国書刊行会、1982年6月20日)に見られる。  
3-2.立山曼荼羅諸本の形態について 
立山曼荼羅諸本の形態には、基本的には4幅1対の掛軸式が多く見られ、これはおそらく衆徒が行った廻檀配札活動や出開帳など移動をともなう勧進布教活動に適するように、携帯性を考慮して取り入れられたものであろう。 また、4幅を掛け合わせると立山信仰の各種物語を網羅した大画面ができあがり、檀那場の信徒に対し、衆徒の説教の声だけでなく、視角的な面 でも強く訴えかけることができたのであろう。 現在確認されている41作品のうち、5幅1対の作品が1点(『相真坊A本』)、4幅1対の作品が22点、3幅1対の作品が3点(『稲沢家本』など)、2幅1対の作品が4点、1幅の作品が8点である。これ以外に、『伊藤家本』はその構図や図像配置から、おそらく本来は4幅1対であったと推測されるが、現在はそのうちの向かって左端幅から2幅しか残っていない。また『村上家本』も1幅しか残っていないが、本来は複数の掛幅本であったと推測される。 一方、立山曼荼羅としては特殊な例だが、『大江寺本』は掛軸形式ではなく、収納方法が折り畳み式の1枚物で、法量 が220.0cm×260.0cm(外寸)と他の作品と比較して群を抜いて巨大である。 この他、2幅1対の立山曼荼羅は『藤縄家本』や『称念寺A』、『称念寺B本』、『高橋家旧蔵本』など、その製作主体が芦峅寺衆徒や岩峅寺衆徒でない場合が多い。また、1幅物の作品のうち『多賀坊本』や『志鷹家本』、『市神神社本』は木版の立山禅定登山案内図を拡大模写 したものである。 ところで、現存の作品のなかで最大のものは前掲の『大江寺本』で、法量が縦190.0cm×横220.0cm(内寸)であり本紙面積が41,800平方センチメ-トルとなる。掛軸形式の作品では『来迎寺本』が縦163.0cm×横240.0cm(内寸)で本紙面 積が39,120平方センチメ-トルとなり最大である。なお内寸が確認できた39点の作品の本紙面積の平均は22,340.6平方センチメ-トルである。それゆえ本紙が149.5cm四方の作品が平均サイズということになろうか。素材については、絹本が41点のうち13点で、紙本が28点である。
3-3.庶民教化に効果をもたらした立山曼荼羅 
芦峅寺の宿坊衆徒は、各-の宿坊家ごとに檀那場を形成し、毎年農閑期に全国の檀那場に赴き、立山信仰を布教してまわった。その際、立山曼荼羅を絵解きして庶民を教化した。 衆徒は檀那場で定宿(主に庄屋宅)に泊まり、近隣の村人を集め立山曼荼羅を絵解きしたが、立山開山伝説・立山地獄・立山浄土・立山禅定登山案内・芦峅寺布橋大灌頂の祭礼の5つの内容を曼荼羅から順-に引き出し、話芸を駆使し身ぶり手振りもまじえて物語った。そして、男性に対しては夏の立山での禅定登山を勧誘し、女性に対しては秋の彼岸に芦峅寺で行われる布橋灌頂会への参加や血盆経供養を勧誘した。その際、自坊での宿泊を勧め、道案内などの便宜をはかることを約束した。立山の山容や立山信仰の内容をよく知らない人-に、それを立山曼荼羅の具体的な図柄で視覚的に紹介したので、庶民のあいだでは、難解な教理にもとづく説教よりも、こうした絵解きによる娯楽性の強い布教のほうが好まれたようである。 なお、芦峅寺宝泉坊の元治2年(1865)の檀那帳から立山曼荼羅の絵解き料金がわかるが、他の諸供養も含めて230文から950文のあいだであった。 一方、岩峅寺の宿坊衆徒は、安永期頃から出開帳による勧進布教活動を行うようになり、文化・文政期に入るとその回数も著しく増加した。岩峅寺の出開帳は、立山山中諸堂舎の修復費用などの捻出を名目に、加賀藩寺社奉行の許可を得て藩領国内各地の寺院を宿寺とし、あらかじめ取り決められた開催期間と収益分配にもとづいて行われた。 この他、一部の岩峅寺衆徒が、藩の許可を得て、あるいは、無許可で藩領国外に檀那場を形成し、出開帳を機縁として廻檀配札活動を行った。これらの勧進布教活動にも立山曼荼羅が宝物として開帳されたり、檀那場での廻檀配札で信徒に対して絵解き教化が行われた。こうした立山曼荼羅の絵解きの種本として、岩峅寺延命院の玄清が嘉永6年(1853)に記した『立山手引草』が現存している。
3-4.立山衆徒の争論と立山曼荼羅 
立山曼荼羅の起源や制作者、制作方法、制作目的、使用方法などについては、いまだに未解明の部分が多いが、その構図や図柄・図像は芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒による勧進活動の変遷と密接に関係しているようである。  
[1]芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と岩峅寺衆徒の出開帳 
江戸時代の幕末における立山衆徒(芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒)の地元以外の地域での勧進活動を見ていくと、いずれも加賀藩の支配のもと、芦峅寺衆徒は加賀藩領国内の能登国や加賀藩領国外の国-で毎年定時期に廻檀配札活動を行っており、一方、岩峅寺衆徒は加賀藩領国内の寺院を会場として、不定期に出開帳による勧進活動を行っている。 ところで、こうした勧進活動の諸権利や職掌区分が厳守されるようになるのは、天保4年(1833)以後のことである。それ以前の芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒の勧進活動における職掌区分は、根本的には正徳元年(1711)に加賀藩より下された判決で確定したが、以後も判決内容に対する双方の不満や拡大解釈、違法行為から争論が絶えず、度-裁判沙汰となった。しかし、このような状況下、正徳元年(1711)の判決は必ずしも厳守されなかったものの、以後の裁判では判決を下す際の先例として最重要視され、また天保4年(1833)の判決は、以後この種の裁判沙汰をなくすために加賀藩の強力な行政指導を伴ったものであり、いずれもその後の芦峅寺衆徒・岩峅寺衆徒の勧進活動の形態及びその方向性などに大きな影響を与えた。 
[2]霊山立山の宗教的権利をめぐる芦峅寺衆徒と岩峅寺衆徒の争論 
正徳元年(1711)の判決で、芦峅寺衆徒は山役銭の徴収権や諸堂舎の管理権など立山そのものに関わる権利を失ったため、従来から行ってきた諸国での廻檀配札活動(初見、慶長7年)への依存度を高め、それまで以上に檀那場の維持・整備・新たな開拓につとめることとなった。一方岩峅寺は、諸国での廻檀配札活動を禁じられたわけではないが、以後も立山そのものを主体とする勧進活動に重点を置き、諸国での勧進活動の機会がこの時点でそがれてしまった。こうした中で、安永(1772〜1780)頃から岩峅寺衆徒の勧進活動において出開帳の形態が見られるようになり、文化・文政期(1804〜1829)に頻繁に行われた。岩峅寺の出開帳は加賀藩の許可のもとに行われ、加賀・越中・能登の加賀藩領国内の寺院を宿寺として期間を定めて行われたが、次第に無許可で、さらに領国外の国-で芦峅寺の旧来からの檀那場に入り込み配札活動といった、いわば芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に極めて類似した活動が行われた。文化8年(1811)の「納経一件扣 上ル扣」(芦峅寺雄山神社蔵)には「一立山之絵図まん多ら与号、披露仕諸人参詣為致候処ヘ、岩峅寺衆徒年-利ふぢんニ右絵図半記取候ヘ共、彼是申候得バ争論ニ相成故、御役所様ヘ御難題ヲ懸、且拙僧共困窮之処故、御断不申上候。」といった一節があり、文頭の「立山之絵図まん多ら」は立山曼荼羅をあらわす用語の初見である。この史料によって、文化期には既に芦峅寺衆徒が立山曼荼羅を披露して勧進活動を行っていたことや、一方、その頃よりそう離れていない時期から岩峅寺衆徒が理不尽に立山曼荼羅を「半記取」っていたことがわかる。また『開帳旧記・宝物弘通 旧記』(金沢市立図書館蔵)から、文政10年(1827)の出開帳の際には霊宝として立山山中に祀る諸尊像とともに「立山絵相 四幅」も開帳している。ところで、芦峅寺側がこうした状況に危機感をもち対応し始めたのは文政8年(1825)頃からである。同年、芦峅寺側は「配札一件根本也」とした願書を寺社奉行所に提出し、その中で、正徳元(1711)年に行われた公事場裁判での判決内容を持ち出し、諸国での廻檀配札活動が芦峅寺の職掌であることを訴えている。これに対し、天保2年(1831)9月に岩峅寺側は逆に芦峅寺の火防札・山絵図・御絵伝などの発行について、正徳元年(1711)の公事場奉行での判決の趣意に違犯していると、寺社奉行所に訴えを起こした。このように芦峅寺と岩峅寺の間では、勧進活動の諸権利をめぐって泥沼状態の争論及び裁判が続いたが、結局天保4年(1833)9月に、藩公事場から岩峅寺の諸国での出開帳と配札の禁止、及び万一違犯者を発見した場合の報告の義務など、芦峅寺にとっては一応勝訴といえる判決が下され決着した。しかしこの際、芦峅寺も護符や請取書などの表記について藩から厳しい規制を受けた。また各坊の廻檀配札活動についても、新たな争論を避けるため檀那帳を調査・整備することとなった。一方岩峅寺は加賀藩領国外の国-での出開帳は厳禁され、さらに加賀藩領国内での通 常の出開帳についても、よほどの有事でない限り、以前に比べ極端に制限されることとなった。 
[3]立山衆徒の勧進活動と立山曼荼羅 
岩峅寺の勧進活動の形態を見ていくと、文化・文政期に頻繁に行われた出開帳を除いては、総体的に立山そのものを主体とする勧進活動に重点が置かれている。このような状況のなかで岩峅寺が芦峅寺に見られるような構図や図柄・図像の立山曼荼羅を必要としたかどうかは疑問である。元来、岩峅寺には文化・文政期以前、芦峅寺に見られるような勧進性に優れた図柄や図像を有する立山曼荼羅は存在しなかったのではなかろうか。仮に存在したとしても、檀那場の信徒が感化を受けて制作した、木版画の立山登拝案内図(『市神神社本(文化3年)』)を拡大模写 したような作品や、まさに山絵図そのもののような作品であっただろう。こうした中で文化期頃から、岩峅寺の勧進活動として出開帳が頻繁に行われるようになるが、その際、前掲の文化8年(1811)の「納経一件扣 上ル扣」(芦峅寺雄山神社蔵)からも窺われるように、芦峅寺の立山曼荼羅に見られるような勧進性も幾分意識した構図や図柄を有する作品が制作されるようになったのだろう。しかし、それにしても、一般 的には『開帳旧記・宝物弘通旧記』(金沢市立図書館蔵)の文政10年(1827)の記載が示すように、その立山曼荼羅(「立山絵相 四幅」)は出開帳の際に、立山山中の諸尊像などの霊宝や天狗の爪などの珍品と同じ意識レベルでもって取り扱われるものであった。すなわち芦峅寺の勧進活動において立山曼荼羅が浄土真宗蓮如上人の御絵伝のように、絵解き布教の際の教具の役割を果 たしていたのとは異なり、岩峅寺の勧進活動においては、どちらかといえば特別 公開用の霊宝・珍品のたぐいであったのである。また、出開帳は幾つかの宿坊が共同で不定期に開催したため、岩峅寺に数本あればことたり、毎年定期に廻檀配札に出かける芦峅寺の宿坊家のように各宿坊家が最低1本を所持する必要はない。それゆえ、現存本数が芦峅寺のものと比べて極端に少ないのであろう。文政期に、岩峅寺衆徒の一部が限りなく芦峅寺の廻檀配札活動に類似した出開帳を頻繁に行い、立山曼荼羅の弘通 も行っているが、その際には、芦峅寺の旧来の檀那場での活動ということで、檀那場の信徒に求められ、意識的に芦峅寺の立山曼荼羅に類似した作品も制作し絵解きしていたのかもしれない。しかし、天保4年(1833)に加賀藩の判決で他国での配札活動が禁じられ、以後の出開帳が極端に制限されると、通 常の勧進活動では立山曼荼羅は必需品ではなくなり、むしろ所持・使用するとある意味では芦峅寺や藩の無用な誤解を招きかねず、次第に姿を消していったのであろう。現在、岩峅寺の宿坊家の立山曼荼羅が厳密には数点しか確認されていない理由もそのあたりにあると考えられる。かつて、岩峅寺延命院から、同坊玄清が嘉永7年(1854)に書写 した立山曼荼羅の絵解き台本『立山手引草』が発見されたが、この史料の意義も、単に岩峅寺にも立山曼荼羅が存在して絵解き布教の事実があったとだけ考えるのではなく、こうした岩峅寺衆徒の勧進活動の変遷の中で、どのような意味をもって制作されたか、或いは実際に使用されたのかどうかを再検討する必要があろう。 一方、芦峅寺の勧進活動の形態を見ていくと、慶長期より諸国での廻檀配札布教の伝統が続いており、前掲の文献史料から文化期には、その構図や図柄、図像は明らかでないとはいえ立山曼荼羅の存在が確認できる。もちろんそれ以前から制作されていたことは明らかである。 さて、岩峅寺衆徒が、加賀藩領国外の国-で芦峅寺の旧来からの檀那場に入り込み、出開帳を名目としての配札活動といった、いわば芦峅寺衆徒の廻檀配札活動に類似の活動を行って芦峅寺の勧進活動に支障をきたした事件は、天保4年(1833)に加賀藩より芦峅寺に有利な判決で決着したが、芦峅寺はこの一連の事件に対し著しく動揺し、以後の勧進活動のあり方に強い危機感を感じ、従来からの廻檀配札活動をより強化するため、それまでの各坊の檀那帳や檀縁、護符の整備をはかり、一山であらたに誓約をかわしている。また一方で、芦峅寺では文政3年(1820)に、それまで破損の著しかった布橋が掛け替えられ、それを契機に布橋潅頂会の儀式がより多くの参詣者を対象として整備され、大型イベント化した。そして天保期にピ-クを向かえる。このように芦峅寺側の勧進活動の手段は、自村での布橋大潅頂の祭礼と諸国配札活動に重点が置かれることとなった。 さて、こうした芦峅寺における勧進活動の動向は、立山曼荼羅の構図や図柄・図像に大きな影響を与えている。芦峅寺衆徒の意識は、聖地立山そのものや修験者や廻国聖・僧等が行う立山禅定登山そのものよりも、むしろ文化・文政期頃からの庶民の参詣者の増加で収入が見込める自分達の村落に強く向けられるようになった。そして、天保期以降に制作された多くの芦峅寺系立山曼荼羅はまさにその影響を受け、画中においては立山山中や禅定道の図柄以上に山麓の霊場(芦峅寺村落)の図柄が重視されて描かれている。すなわち芦峅寺の村落が画面 の中心より下方に大きくスペ-スを割いて描かれ、さらに、そこには芦峅寺に大きな利益をもたらす布橋大潅頂の祭礼の様子や、経帷子の頒布を促進するための三途ノ川の様子が中心的題材として詳細に描かれているのである。その際、以前拙稿において、芦峅寺の立山曼荼羅について、特に布橋潅頂会の場面 の構図や図柄から天保初期を境にして旧タイプのものと新タイプのものとに分類したが、旧タイプの曼荼羅では、まだ立山山上や山中の図柄に比較的強い意識が置かれ、山上には立山禅定登山者の姿も見られる。すなわち、山麓の霊場参詣と山上へ向かっての禅定登山が同程度に意識されているのである。それに対して新タイプの曼荼羅では、禅定登山に対する意識は衰退している。そして、画中、芦峅寺の村落は立山大権現祭の祭礼の場面 と開山堂や講堂側の境内地、布橋潅頂会の祭礼の場面で構図が固められており、特に布橋潅頂会の祭礼に填め込むように閻魔堂・布橋・姥堂が描かれているのである。堂舎が主体でそれに合わせて祭礼を描くのではなく、祭礼の図柄の中に堂舎を填め込んでいるのである。このような構図や図柄・図像は布橋潅頂会をまず第一に引き立たせ、諸国での廻檀配札活動の際に、地獄・極楽の信仰とともに特に女性の救済も積極的に喧伝し、より勧進活動の活性化をはかろうとする芦峅寺衆徒の意識から生み出されたものと考えたい。
3-5.立山曼荼羅の制作について 
現存する芦峅寺立山曼荼羅の制作年代や制作者・制作地・制作方法については、それを示す史料がきわめて少なく現在のところ不明な点が多い。 制作年代については、『来迎寺本』のように17世紀の制作と推測されるものもあるが、ほとんどのものが近世後期に制作されたようである。制作者と制作地については、曼荼羅の裏書きからわかるものもあるが、それによると地元の絵師によって描かれたものは案外少なく、檀那場の信徒が施主となって、在地の絵師によって描かれたものが数本確認できる。 立山曼荼羅の起源については、これまで中世説や近世説などの諸説が見られるが、こうしたなかで近年筆者は、現存作品の構図や図柄と芦峅寺文書などの文献史料を重ね合わせて制作年代を検討し、そのほとんどが江戸時代後期以降に制作されていることを指摘した(註1)。なお、例外として天保元年(1830)に修復された『坪井家A本』やその作品と類似の構図を有する『来迎寺本』は、江戸時代後期以前に制作されたと考えられるが、いずれにしろ、現存作品に制作時期が江戸時代中期を遡るものは見当たらない。ただし、それはあくまでも現存作品に限定してのことであって、だからといって筆者はそれ以前に立山曼荼羅が存在しなかったと考えているわけではない。 成立起源が中世か近世かは文献史料のうえでは確認できないが、おそらく、最初の段階で描かれた立山曼荼羅は、一例をあげると、元禄13年(1700)の『立山禅定並後立山黒部谷絵図』(富山県立図書館所蔵)の構図・図柄のように、立山連峰や黒部奥山を描いた山絵図に立山信仰にかかわる集落や堂舎、史蹟、地名などが簡略に書き添えられたものだっただろう。あるいは、享保7年(1722)には既に木版立山登山案内図(富山県立図書館所蔵)の構図や図柄が定版として確立しており、さらに、時代は後になるが文化3年(1806)の『市神神社本』(市神神社所蔵)や天保7年(1836)の『志鷹家本』(個人所蔵)のように、実際に木版立山登山案内図を拡大模写 して制作された立山曼荼羅も見られるので、おそらく初期の段階の立山曼荼羅にも同じような制作過程をたどったものがあっただろう。いうなれば、初期の立山曼荼羅は総じて地図的古絵図だったと推測される。ちなみに、文政2年(1819)の『高橋家旧蔵本』は江戸時代後期の作例ではあるが、原初的な山絵図の趣を多分に残している。 ところで、江戸時代、立山衆徒は加賀藩に支配され、まず第一に藩の祈願所としての役割を果 たすとともに、特に芦峅寺衆徒は藩の主導で山中での修験道の修行よりも加賀藩領国内外での廻檀配札活動に力を入れることとなった。これに基づき、布教圏は次第に拡大し配札活動の形態も進展していった。一方、それと呼応するように、衆徒が各地で形成した檀那場では、寛文期から嘉永期に度-刊行された版本『和字絵入往生要集』の流布で地獄に対する視覚的イメ-ジの大衆化が進み、そうした背景のもと信徒たちの需要に応じて、それまでの地図的立山曼荼羅の構図や図柄も次第に立山開山伝説や地元の祭礼をはじめ、既存の地獄絵画などの図柄をふんだんに取り入れた説話画的なものへと変容していったと推測される。さらに、江戸時代後期、庶民のあいだで各地の霊場・霊山参詣が流行し、立山もその一所としてより多くの参詣者を迎えるが、こうした状況も立山曼荼羅の構図や図柄に大きな影響を与えている。  それゆえ、現在我-が立山曼荼羅の典型的な構図・図柄と認識しているような、立山山中を舞台に地獄・浄土の世界が描かれ、さらに開山伝説や祭礼などの要素もふんだんに描かれた構図・図柄は、江戸時代後期に入り、説話画としての成熟期を迎えてからのものといえる。なお、その集大成ともいうべき作品は、安政5年(1858)に芦峅寺宝泉坊と師檀関係を結ぶ老中松平和泉守が同坊に寄進した立山曼荼羅『宝泉坊本』と、一方、慶応2年(1866)に芦峅寺吉祥坊と師檀関係を結ぶ老中本多美濃守が同坊に寄進した立山曼荼羅『吉祥坊本』である。 この2作品については、きわめて希な例であるが、近年、筆者が芦峅寺雄山神社の古文書群から発見した宝泉坊と吉祥坊の江戸の檀那帳(信者住所録)や宝泉坊衆徒の檀那廻り日記、慶応3年(1867)に芦峅寺が加賀藩寺社奉行所に宛てた立山曼荼羅についての上申書、さらには両作品の裏書きなどの文献史料を相互に補完させながら検討していくことにより、その制作時期や制作者、制作地、制作過程などをある程度明らかにすることができたのである。そこで、以下、その内容についてみていきたい。 まず、立山曼荼羅『宝泉坊本』の制作過程については、慶応3年(1867)に、芦峅寺が加賀藩寺社奉行所に宛てた立山曼荼羅についての上申書からうかがうことができる。それは、次の通 りである。松平和泉守(本名は松平乗全、三河国西尾藩主)は絵の才能が豊かで、老中職を勤めるかたわら、安政5年(1858)に、既存の立山曼荼羅を見て、プロ顔負けの技法で芸術的な立山曼荼羅を描き上げた。そして、その表装には、和泉守が以前徳川家茂(江戸幕府第14代将軍)から拝領した衣類を、事前に徳川慶喜(江戸幕府第15代将軍)の許可を得たうえで使用したという。和泉守は、こうして完成した立山曼荼羅がよほどの自信作だったようで、ある日、江戸城内で将軍をはじめ諸大名やその奥方等に披露した。その後ほどなく、師檀関係(寺僧と檀家の関係)を結ぶ宝泉坊にこの曼荼羅が寄進された。ところで、現存の立山曼荼羅『宝泉坊本』には、画中に「源乗全書」の墨書銘と落款が見られ、また裏書きにも「立山縁起四幅自模写 以寄附 越州立山寳泉坊 西尾拾遺源乗全 安政五年戊午十二月」と記載されているので、この曼荼羅こそが先程の上申書で述べられた立山曼荼羅であることが確認できる。 次に立山曼荼羅『吉祥坊本』の制作過程について述べたい。最近筆者は吉祥坊の幕末の檀那帳を解読したが、そのなかに、同坊衆徒が師檀関係を結ぶ南伝馬町2丁目の加賀屋忠七と銀座4丁目筆屋の栄文堂庄之助に立山曼荼羅を描かせ、それが慶応2年(1866)4月に完成したとするくだりを見つけた。一方、『吉祥坊本』の画中には「慶応二丙寅四月吉辰 登光斎林龍謹画」と「林豊謹画」の墨書銘が見られる。同年同月に立山曼荼羅が別 -に何本も制作されたとは考えにくく、おそらく加賀屋・栄文堂の両者が登光斎林龍・林豊の両者と同一人物だったと考えられるのである。『吉祥坊本』は江戸の町絵師によって描かれ、慶応2年(1866)4月に完成したことがわかるのである。 さらに、『吉祥坊本』の裏書きを検討したい。『吉祥坊本』の第4幅の裏書きには、慶応2年(1866)6月、芦峅寺教蔵坊の衆徒照界が同曼荼羅の成立(4月)に対する祝辞文を記している。また、第2幅の裏面 には、上部に「奉為昭徳院殿征夷大将軍贈正一位大政大臣源朝臣家茂公 尊儀 慶應二丙寅年八月廿二日」(徳川家茂)と「奉為午之歳御女性静寛院宮御息災延命也」(和宮〔静寛院宮〕)の2枚の識札が、寄進者代表として貼り込まれ、さらに、その下に墨書で、この曼荼羅の寄進に関わった本多美濃守(本名は本多忠民、三河国岡崎藩主)をはじめ本多氏歴代やその親族及び岡崎藩士たちの俗名・戒名・没年等が記載されている。なお、幕末の吉祥坊の檀那帳から本多美濃守は吉祥坊と師檀関係を結んでいたことが確認できる。 ところで、裏書きの内容と前掲の立山曼荼羅に関する上申書の内容を重ねると、次のような構図が浮かんでくる。先程、松平和泉守が直筆の立山曼荼羅を江戸城で披露したことについて述べたが、その際、後に立山曼荼羅『吉祥坊本』を寄進した和宮や老中本多美濃守が同席していた可能性がある。おそらく、和宮は江戸城内で和泉守直筆の立山曼荼羅を鑑賞し、自分自身も立山曼荼羅の寄進を思い立った。それは、江戸城内で幕府滅亡に対する危機感がつのるなか、立山信仰に何らかの救いを見出したからであろう。また、『吉祥坊本』完成直後の慶応2年(1866)7月、長州征討に赴いた夫家茂が大坂城で病死しており、1ヶ月後に夫への追善供養の意味も付加された。一方、吉祥坊と師檀関係を結ぶ美濃守も、自分の前任として老中職に就いていた和泉守が、檀那寺の宝泉坊に『宝泉坊本』を寄進したことに影響され、そこに和宮からの依頼もあり、吉祥坊への立山曼荼羅の寄進を発願したのであろう。  
註 
註1)福江充「立山曼荼羅『坪井竜童氏本』について」(福江充『立山信仰と立山曼荼羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-(日本宗教民俗学叢書4)』所収、岩田書院、1998年4月)。
3-6.立山曼荼羅に描かれた内容 
3-6-1.立山開山縁起 
3-6-1-1.立山開山縁起のあらすじ(以下は、芦峅寺の立山開山縁起にもとづく) 
布施の館(或いは布施城)に住む越中国司佐伯有頼は、ある日、父有若が大切にしていた白鷹を持ち出して鷹狩りに出かけたが、その最中、誤って鷹狩り用の白鷹を放逸してしまった。白鷹を追跡し、ようやく発見し、手元に呼び寄せた時、突然熊が現れ襲いかかってきたため、またもや白鷹は逃げてしまった。驚き怒った有頼は、熊に矢を射かけると、矢は熊に命中したものの手負いとなって立山山中奥深へ逃げ込んだ。有頼は熊の血痕をたどりながら山中を分け入って追跡していくと、熊は玉 殿窟に逃げ込んだ。いよいよしとめようと思い、弓をかまえると、そこには、熊ではなく胸に矢傷を受けた阿弥陀如来が顕現した。有頼はこれに驚き、霊異に感動して弓を切り捨て出家し、慈興と名乗って立山を仏教の山として開いた。 こうした立山開山の由来を記した縁起史料には、『類聚既験抄』(鎌倉時代編纂)や『伊呂波字類抄』10巻本の「立山大菩薩顕給本縁起」(鎌倉時代増補)、『神道集』巻4の「越中立山権現事」(南北朝時代編纂)、『和漢三才図会』(江戸時代正徳期頃の編纂)などがみられ、この他、立山信仰の拠点集落であった立山山麓の芦峅寺と岩峅寺にも、宿坊衆徒や社人により江戸中期から末期にかけて製作された「立山大縁起」や「立山小縁起」、「立山略縁起」などが数点見られる。  
3-6-1-2.立山開山について 
明治時代、立山連峰の剱岳と大日岳から奈良時代末期から平安時代初期の製作と推定される銅錫杖頭などの修験の遺物が発見された。それにより、その頃には立山山中にも諸国の峰-を巡り山中修行に励む験者や聖が存在していたことがわかる。こうした諸国回峰の験者や聖は不動信仰の伝播者でもあった。 不動明王は五大明王のうちの中心的な明王であり、平安時代から同尊を本尊として祀り、疫病退散や国家・社会の平安を祈願して加持祈祷が行われてきた。そして当時の不動信仰は、例えば『平家物語』に真言僧文覚が紀伊国熊野の那智大滝で21日の荒行を行い、不動明王の加護によって助けられたといった記載や『天台南山無動寺建立和尚伝』に比叡山の千日回峰行の開創者と伝える無動寺の相応和尚(831〜918)が葛川の霊瀑で不動明王を感得したといった記載に表れているように、回峰行や修験道と深く結びついていたことがわかる。 このように不動信仰は、平安時代には修験者たちを媒介として地方に伝播されたが、立山でも不動信仰の伝播が見られ、山麓の芦峅寺閻魔堂には平安時代の成立と推測される木造不動明王頭部が1体残っている。同尊頭部は寄木造りで全長は60cmもあるが、もとはそれに見合う巨大な胴体部も存在したはずである。同尊の存在により、遅くとも平安時代末期頃までには芦峅寺か、あるいはその界隈に不動信仰が伝播していたことや、こうした尊像を安置することが可能な規模の宗教施設・組織が存在していたことなども推測される。 ところで、立山の開山については、鎌倉時代の『類聚既験抄』に無名の狩人の開山が記載される他、江戸時代の『和漢三才図会』や『立山略縁起』などには、大宝元年(701)、慈興上人(佐伯有若或いはその嫡男有頼)の開山が記載されるが、現実的には、延喜5(905)の「佐伯院付属状」(『随心院文書』)による越中守佐伯有若の実在や、『師資相承』にみえる天台宗園城寺長吏康済(昌泰2年〔899〕72才没)の功績「越中立山建立」の解釈から、開山は9世紀半ば以降10世紀初頭までに、天台宗寺門派勢力によって行われたと考えられる。そうすると、この頃から急速に立山山麓の宗教組織や施設が整備・拡大されたであろうから、やはり前掲の木造不動明王頭部もそうした背景のなかで開山以降、平安時代末期頃までに成立したと考えるべきであろう。 一方、立山山麓上市町に所在する大岩山日石寺の不動明王磨崖仏は矜羯羅童子・制咤迦童子とともに平安時代初期の成立と推測され、また同岩に刻まれている阿弥陀如来坐像と僧形像は阿弥陀信仰が伝播した平安時代後期の追刻と推測されるが、これらの諸尊も平安時代初期から不動明王を自身の守り尊として信仰する山岳修行者たちが立山界隈で活動していたことを表している。  
3-6-2.立山地獄 
3-6-2-1.立山曼荼羅に描かれた立山地獄の図像 
日本人が古くからいだいていた山中他界観と仏教の地獄の思想がまじわり、立山では平安時代後期には、地獄谷や剱岳などの景観が地獄に見立てられて信仰された。 平安時代後期の『今昔物語集』には「日本国ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノ地獄ニ堕ツト云ヘリ」とみえ、立山が地獄を有する山として広く人-に認知されていたことがわかる。 江戸時代には、立山信仰は立山山麓の芦峅寺や岩峅寺の宿坊衆徒によって護持され、全国各地に布教されて広まった。その際、布教内容の中核となったのが平安時代より脈-たる伝統をもつ立山の地獄信仰であった。彼らは庶民に対して「立山曼荼羅」を絵解きして布教したが、この絵図のなかで特に目を引くのは立山地獄の場面 である。 立山の山中、特に地獄谷周辺を舞台として等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄の八大地獄や六道世界の修羅道・畜生道・餓鬼道などでの責め苦の様子が所狭しと描き込まれている。  
[1]内容的には八大地獄に該当・関連する図像及び図柄 
獄卒が亡者を鉄釜の熱湯の中に投げ込み煮る(黒ト処〔阿鼻地獄〕)、瓮熟処〔等活地獄〕、獄卒が亡者に大釘打ち込む〔等活地獄〕、獄卒が亡者を包丁で切り刻む(解身地獄〔黒縄地獄〕)、鶏が亡者を襲う(鶏地獄〔八大地獄付属別 処〕)、美女に近づくために身体を切り裂かれながら樹を登り降りする(刀葉林〔衆合地獄〕)、獄卒が亡者を猛火の中に投げ込み焼き尽くす(雲火霧処〔叫喚地獄〕)、獄卒が亡者の舌を引き抜く〔大叫喚地獄〕、目連尊者と串刺しの母〔焦熱地獄〕、獄卒が亡者を炎上する鉄車に乗せて引き廻す(阿毘至大地獄の鉄車〔阿鼻地獄〕)。 
[2]内容的には八寒地獄に該当する図像及び図柄  
寒地獄、八寒地獄に堕ちた亡者。 
[3]六道世界のうち修羅道・畜生道・餓鬼道に関する図柄 
刃を交える武士と太鼓をたたく獄卒(修羅道)、畜生道、餓鬼道。 
[4]十王信仰に関する図像及び図柄  
閻魔王、冥官(右)、冥官(左)、人頭、業秤、浄玻璃鏡、浄玻璃鏡に亡者の罪を映す獄卒、浄玻璃鏡に罪を映される亡者、首枷をされた亡者、賽の河原、賽の河原の地蔵菩薩、賽の河原で石積みする子供たち、賽の河原で石積を壊す獄卒。 
[5]血盆経信仰に関する図像及び図柄 
血の池地獄、血の池地獄に堕ちた女性の亡者、血の池地獄に堕ちた女性を救済する如意輪観音菩薩、血の池地獄に隣接して建つ如意輪観音堂、血の池地獄の前に立つ僧侶(血盆経納経会)。 
[6]盂蘭盆経信仰に関する図像及び図柄 
施餓鬼法要会、施餓鬼法要会に結縁する蓮をかぶった人物(餓鬼)。 
[7]その他  
石女地獄、両婦地獄、片袖幽霊譚、針の山(剱岳〔黒縄地獄に類型あり〕)、畜生道(傲慢の報いで牛になった森尻の智明坊)。 
3-6-2-2.越中立山における地獄信仰の展開 
[1]立山山中地獄の発生 
インドの仏教経典『倶舎論』や『大毘婆沙論』などによると、地獄の位置について、それは人間が住む世界の地下に重層的に奥深く続くかたちで存在すると説く。一方、外来宗教の仏教が日本に伝わり伝播する以前から、日本人は、人が死ぬ とその霊魂は山中に行き、そこで死霊から祖霊に清められ、さらに子孫のまつりを受けるとより一層清められ山の神になると考えていた。すなわち、山地・山岳を死霊・祖霊の漂い鎮まる他界と考えていたようである。 仏教が伝播すると日本ではこれらの両方の考え方がまじわり、霊魂の集まる山中こそが外来宗教の仏教が示す地獄のある場所だと信じられるようになった。つまり、地獄の様子やどのような罪でどのような地獄に堕ちるのかといった具体的なイメ-ジは、圧倒的で壮大な理論体系をもつ仏教にもとづいたが、その場所については、仏教が伝播する以前から日本人がいだいていた考え方にもとづいて、山中に設定したのである。 その際、越中立山は山中に火山活動の影響で荒れ果てた景観を有し、地獄を見出すには格好の場所であった。立山山中の地獄谷及びミクリガ池・血の池などは火山活動による爆裂火口であり、なかでも地獄谷では、火山ガスを噴出するイオウの塔、熱湯の沸き返る池、至る所からの噴気が見られ、また特有の臭いも相まって、そこは不気味な谷間となっている。こうした特異で非日常的な景観が地獄の様子に見立てられ、立山地獄の信仰が生まれたのであろう。  
[2]立山山中地獄の展開(古代・中世) 
立山は9世紀半ば以降、10世紀初頭までに開山され、天台教団系の宗教者たちの一拠点となっていた。しかし、それ以前にも山中修行者のいたことが、剱岳や大日岳で発見された平安時代初期の銅錫杖頭などの遺物によってわかる。 彼らの目には、山中の地獄谷の荒れ果てた景観こそが、まさに仏教の説く地獄の世界のように映り、彼らはそれを諸国の霊山を巡って修行していくなかで喧伝したものと思われる。それゆえ、立山地獄は貴族社会を中心に、人-のあいだで次第に知られ信仰されるようになった。 折しも、平安時代中期以降の末法思想の流行や比叡山横川の学僧源信による『往生要集』の著述及び内容の流布、地獄絵や六道絵の発展などは、そのような立山地獄の流布にも影響を与えたと考えられる。 平安時代末期には、芸能往来物『新猿楽記』や歌謡集『梁塵秘抄』に見られるように、立山は日本各地の霊山・霊場とともに修験の行場、あるいは、観音霊場として知られていたが、その頃の立山に対する最も強烈なイメ-ジは山中に実在する地獄の世界であった。 平安時代に書かれた『本朝法華験記』や『今昔物語集』などの仏教説話集には、越中立山の地獄は死者の霊魂が集まるところとしてたびたび登場し、その一節に見える「日本国ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノ地獄ニ墜ツト云ヘリ」の文言からも、その頃既に立山が山中に地獄をもつ山として、山中修行者や都の貴族・僧侶のあいだで認識されていたことがわかる。 以下、この『本朝法華験記』や『今昔物語集』に収められている立山地獄説話の内容を若干見ておきたい。 『本朝法華験記』第124「越中国立山の女人」は、立山参詣中の修行者が立山地獄に堕ちた女性の幽霊の依頼を受け、その近江国蒲生郡の生家を訪ねて、遺族に法華経の書写 供養を営ませ、それによって、女性の幽霊は立山の地獄から出てトウ利天に転生したという話である。この物語の冒頭では山中の地獄谷の景観や称名滝(勝妙の滝)にも言及している。また地獄の原に帝釈岳があり、そこは天帝釈・冥官の集会して衆生の善悪を考え定めるところだとしている。さらに、女性が生前に観音を祈念し一度だけ持斎した功徳で、観音が毎月18日に自分の身代わりとなって苦しみを受けてくれることも記し、観音代受苦説話の色彩 をも帯びている。なお、『今昔物語集』巻第14には、「修行僧至越中立山会小女語第七」と題された類話が見られるが、その内容は、立山参詣の修行者を三井寺の僧としているものの、その他の点ではこれとほぼ同様である。 『今昔物語集』巻第17「堕越中立山地獄蒙地蔵助語第二十七」は、修行僧延好が立山地獄に堕ちた女性の幽霊の依頼を受け、その京の七条の生家を訪ねて、遺族に地蔵菩薩像一体の造立や法華経三部の書写 など、亡霊救済の追善供養を営ませた話である。そのなかで、女性が生前、祇陀林寺の地蔵講に1〜2度参詣した功徳で、地蔵菩薩が毎日地獄にやって来て、早朝、日中、日没の3回、自分の身代わりとなって苦しみを受けてくれることも併記している。 ちなみに、この地蔵代受苦説話は中世には地蔵菩薩霊験記絵巻として絵画化されたが、現在、アメリカのフリア美術館に13世紀中頃成立の『地蔵菩薩霊験記絵巻』が残っており、同本には「地蔵講結縁の人にかはりて苦を受給事」と題し、立山地獄に堕ちた女性に代わって責め苦を受ける地蔵の姿が描かれている。 『今昔物語集』にはこの他、越中国の書生の妻が地獄に堕ち、その子3人が立山に参詣し、その地獄に堕ちている母の声を聞き、その望み通 りに国司の協力を得て千部法華経書写供養を営み、母を地獄から救う話も見られる(『今昔物語集』巻14「越中国書生妻死堕立山地獄語第八」)。 以上、具体的に『本朝法華験記』や『今昔物語集』に収められた立山地獄説話を見てきたが、こうした説話は『宝物集』や『三国伝記』にも類話が見られる。そして、いずれにしろ、立山地獄に堕ちた亡霊の救済は、修行僧による錫杖供養だとか、遺族による法華経の書写 供養や地蔵菩薩への供養などによって行われている。 さて、鎌倉時代に入ると、鎌倉期増補『伊呂波字類抄』10巻本の「立山大菩薩顕給本縁起」に、立山山中に八大地獄の顕現したことが記されている。八大地獄とは等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻を指し、罪状に応じて責め苦に等級があった。また各地獄は16の別 所をもち、合わせて136の地獄があるとされた。 この他、室町時代の謡曲『善知鳥』は、生前、善知鳥(鳥の名前)を捕まえた罪の報いで立山の地獄に堕ちた陸奥の猟師の話である。当時既に全国的な広まりをみせる「立山地獄説話」と12世紀の『地獄草紙』などの地獄絵にみられる「鶏地獄」(人間世界にいた時、鳥や獣などの生き物を虐待した罪で堕ちる)、さらには後世『立山曼荼羅』にも描かれる「片袖幽霊譚」(立山地獄に堕ちた亡者が立山で修行中の僧侶に着物の片袖を託して遺族による供養を依頼する物語)の3つの要素が組み合わされ、まずは謡曲として成立した。さらに、これを原作として能楽『善知鳥』が上演され、今日に至っている。 ところで、立山の地獄信仰は前述の文学作品などからもわかるように、日本の末法思想や浄土教思想の受容・展開過程の中でとらえることができる。 すなわち、平安時代末期の『本朝法華験記』や『今昔物語集』に見られる立山地獄説話では、立山地獄に堕ちた亡霊の救済者は地蔵菩薩や観音菩薩であり、救済されて転生する先も阿弥陀如来の極楽浄土ではなくトウ利天とされる。なお、『本朝法華験記』第124話と『今昔物語集』巻14第7話には、帝釈天が衆生を裁く場所として「大イナル峰」、すなわち帝釈岳を記載している。ここでいう帝釈岳が立山連峰のいずれの峰を示すかは不明だが、平安時代の説話に登場する地獄谷周辺の山はこの帝釈岳だけである。おそらく、こうした説話を背景として、帝釈天風の容貌の銅造男神立像(寛喜2年〔1230〕の銘文が刻まれている)が製作されたのであろう。 これに対して、鎌倉時代の『類聚既験抄』や山麓の岩峅寺・芦峅寺の諸宿坊家に伝わる『立山開山縁起』では、開山者を導く熊が阿弥陀如来の化身として記され、さらに南北朝時代に成立した『神道集』では、立山の浄土について「立山十二所権現即ち十二光仏の止住する山」、「越中国の一の宮をば立山権現と申す。御本地は阿弥陀如来是なり」と記され、立山山中の浄土を阿弥陀如来の浄土とする思想が強く表れている。このように、立山では、はじめは観音信仰や地蔵信仰がその山岳信仰の中核であったが、それらと結びつきながら鎌倉時代頃より次第に阿弥陀信仰が中核となっていった。 
[3]立山衆徒に喧伝された立山山中地獄(近世・近代) 
江戸時代、立山信仰は加賀藩の庇護のもと立山山麓の芦峅寺と岩峅寺の衆徒によって維持され、加賀藩領域内をはじめ全国各地に布教されて伝播した。その際、布教内容の中核となっていたのが平安時代より脈-たる伝統を有する立山の地獄信仰であった。 芦峅寺衆徒は諸国での廻檀配札による勧進布教活動で、また岩峅寺衆徒は加賀藩領国内での出開帳による勧進布教活動で立山曼荼羅を教具として用い、民衆に対して絵解き布教を行った。特に芦峅寺衆徒の場合、毎年農閑期に諸国の檀那場に赴き、定宿を担う信徒宅で立山曼荼羅を掛け、近隣から集まった信徒たちを前にして、独特の節回しで曼荼羅に描かれている立山開山伝説や立山地獄と立山浄土、女人禁制にまつわる伝説、布橋大潅頂の祭礼などを語り聞かせた。なかでも、特に立山の地獄信仰を強調し、立山に参詣すれば堕地獄の罪も許されると説き民衆の参詣を誘った。女性に対しては、立山山中の血の池地獄(女性であれば避けえない血の穢によって堕ちるとされた地獄で、中国の偽経『血盆経』に基づく思想である。)の存在とその思想を強調して説き、そこからの救済を目的として毎年7月15日に芦峅寺で行われる大施餓鬼法要会への代参や、あるいは女性の極楽往生を願って、毎年秋の彼岸の中日に芦峅寺で行われる布橋大潅頂の祭礼への参加を勧誘した。 ところで、江戸時代に実際に立山を訪れた禅定登山者たちの紀行文(例えば、大淀三千風『日本行脚文集』〔天和3年〕・橘三喜『一宮巡詣記』〔元禄9年〕・野田成亮『日本九峰修行日記』〔文化13年〕など)を見ていくと、彼らにとっては、立山三山(雄山・浄土山・別 山)巡りはもちろんのこと、かねてから聞き知っていた立山の地獄谷巡りも登拝コ-スとして、欠くことのできないものであったことがわかる。ほとんどの登山者は山頂をきわめた後、地獄谷巡りをしている。ただし、江戸時代後期になると、例えば十返舎一九が『金草鞋』(文化11年刊行)で立山地獄をちゃかすように、いずれの人-も地獄谷に対してはそれほど信仰的な恐怖感をいだいておらず、案外冷静に景観を観察している。 江戸時代の文化・文政期頃から庶民のあいだで日本各地の寺社や霊場・霊山への参詣を名目とした物見遊山的な旅が流行するが、それによって参詣といった行為は、当然ながら本来の信仰行事としての意味が薄れたものになった。立山禅定登山者が立山地獄に対し信仰的恐怖感をほとんど抱いていないのも、おそらくこうしたところに起因するのであろう。 さて、明治初頭の廃仏毀釈や廃藩置県により、立山信仰にかかわる芦峅寺・岩峅寺の宗教施設・一山組織は壊滅的な打撃を受け、部分的に廃絶、あるいは継続しても大きな転換を余儀なくされた。しかし、明治8年(1875)に大教院が、さらに明治10年(1877)に教部省が廃止され、明治新政府の神祇偏重の宗教統制政策が修正されると、仏教各宗派の独自の宗教活動も容認される状況となった。このような宗教界の気運のなかで、かつての繁栄をなくした芦峅寺と岩峅寺では、明治13年(1880)に旧東西社人(旧芦峅寺宿坊衆徒と旧岩峅寺宿坊衆徒)らで立山講社が結成された。 この立山講社は、明治新政府の政策の影響を受けて崩壊した旧来の立山信仰を中心とする宗教組織を、神道講社(後に神道講社と仏教講社の2派に分裂した)の結成によって立山雄山神社信仰の名のもとに再編し、江戸時代、芦峅寺衆徒が諸国で行っていた廻檀配札活動に基づく講組織や旧縁を復活させ、立山への信仰登山者を獲得しようとするものであった。講社活動において、旧宿坊衆徒は檀那場の信徒に対し立山曼荼羅を絵解きして布教したが、その内容は江戸時代と同じように地獄・極楽の信仰を中核とするものであり、信徒たちのあいだでは講社の教義に基づく内容よりもむしろそちらの方が人気を得ていた。しかし、こうした立山講社の活動も明治時代中期にピ-クを迎えたが、その後はそれにかかわる旧宿坊家が次第に減少したため、立山曼荼羅の絵解きもろとも大二次世界大戦後まもなく消滅した。  
3-6-2-3.立山地獄に関する参考文献 
五来重「山岳信仰と地獄」(『地獄と人間』所収、朝日新聞社、1976年9月)。『別 冊太陽 地獄百景(日本のこころ62)』(平凡社、1988年7月)。宮次男『日本の美術12 六道絵』(至文堂、1988年12月)。川崎市民ミュ-ジアム編『閻魔登場-閻魔登場展解説図録』(川崎市民ミュ-ジアム、1989年8月)。坂本要編『地獄の世界』(渓水社、1990年12月)。五来重『日本人の地獄と極楽』(人文書院、1991年3月)。山折哲雄『仏教民俗学』(講談社、1993年7月)。由谷裕哉「立山地獄説話への一試論」(『立山地獄説話への一試論(富山県立山博物館調査研究報告書)』所収、富山県[立山博物館]、1996年3月)。由谷裕哉「『法華験記』所収 立山地獄説話について」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会、1997年11月)。『立山山上石造物・関連遺跡調査報告書2 地獄谷・賽の河原』(富山県[立山博物館]発行、1998年3月)。福江充「越中立山の地獄信仰と立山曼荼羅に描かれた地獄の風景」(『立山信仰と立山曼荼羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-(日本宗教民俗叢書4)』所収、岩田書院、1998年4月)。鷹巣純・福江充『地獄遊覧-地獄草紙から立山曼荼羅まで-?富山県[立山博物館]開館10周年記念資料集)』(富山県[立山博物館]、2001年9月)。 
3-6-3.立山浄土 
立山曼荼羅の画面上、雄山と浄土山の山間や雄山と大汝山の山間に仏・菩薩の来迎場面 が描かれている。浄土山の右脇には、立山の本地である阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩を従え来迎している。左脇には、二十五菩薩が様-な楽器で荘厳な音楽を奏でながら来迎している。仏たちが乗っている雲は高速を表現した早来迎の形式で描かれている。曼荼羅によっては、仏たちが浄土山の斜面 を滑り降りるように来迎するものや、山を越えて、あるいは山の間をぬうように来迎するもの、山の向こうの異次元空間から突如降下するものなど、様-な表現がとられている。  
3-6-4.立山禅定登山案内  
3-6-4-1.立山禅定登山 
江戸時代、立山は加賀藩の支配地として厳しく管理され、禅定登山ができる期間は7月と8月の2ヶ月間だけであった。また、女人禁制のため女性の参詣者は禅定登山ができなかった。全国各地からやってきた禅定登山者は、登山の拠点となる岩峅寺・芦峅寺の宿坊で宿泊し、翌日早朝に衆徒や中語に引率されて入山し、まずは室堂を目指した。登山者は室堂で一夜を明かし、翌暁、衆徒に引率されて峰本社に登頂した。さらに三山(雄山・浄土山・別 山)や玉殿窟、地獄谷を巡って下山した。「立山曼荼羅」の画面では、山麓の宿坊集落から山中を経て山上に至る禅定登山道が骨格的に曼荼羅の構図を形成している。その道筋に沿って様-な名所や伝説が描き込まれている。  
3-6-4-2.立山禅定登山案内の場面に含まれる伝説 
[1]藤橋にまつわる伝説 
芦峅寺より1里ほど先に大河が流れていたが、橋は掛けられていなかった。佐伯有頼が手負いの熊を追いかけこの地にさしかかったとき、金色の猪が現れ、有頼を背中に乗せて河を渡った。猪は河を渡り終えると、その先の坂の途中で姿を消した。河渡りの地を「藤橋」、猪が消えた坂を「黄金坂」という。また別 の伝説では、猪ではなく猿が現れ、藤蔓で橋を作って有頼を渡したという。一方、佐伯有頼にまつわる伝説とは別 に、次のものがあげられる。曹洞宗の開祖道元禅師が立山登拝のため、この地にさしかかったとき、橋がなくて河を渡れずに困っていると、多勢の猿が現れ、藤蔓を使って橋を掛け渡してくれた。おかげで道元禅師は無事に河を渡ることができた。それゆえ、この橋は「藤橋」と称されたとするものである。 
[2]立山の女人禁制にまつわる伝説   
立山の登山口に女人堂を建立するため材木を集めたところ、その木は一夜にして石に変わったという。また別 の伝説によると、若狭小浜の尼僧止宇呂が、2人の女子を従え強引に女人禁制の立山に入山した。その時、権現堂の建て替えのために積み置かれていた材木を跨いだところ、たちまち石に変わったという。これが、材木坂の「材木石」である。さらに止宇呂の一行は禅定登山を続け、罪の深さを断じる所とされた「断罪坂」にさしかかった。ここでは、従者の童女が気後れしてなかなか登ろうとしない。止宇呂はそれを叱ったので童女は脅えて小水を洩らしたが、その行為が山神を怒らせ道に深い穴が開いた。これを「叱り尿(しかりばり)」という。それでも登り続けると、2人のお供の女子は、それぞれ、壮女が「美女杉」に、童女も「禿杉」に変わってしまった。止宇呂はさらに登り続けるが、ついには自身も「姥石」に変わり、その際、立山権現に奉納するために持参した鏡を山頂に向かって投げたが、それも天狗平付近で落下し「鏡石」に変わってしまった。 古来、大峰山や羽黒山、白山、立山、英彦山、富士山などの修験霊山はもちろん、比叡山や高野山など、各地の霊山では、女性の参詣登山を禁じていた。それゆえ、このような女人禁制にまつわる諸伝説は、各地の霊山にみられる。霊山に入ろうとする女性は「トラ」と総称され、伝説中には、例えば白山では「融姿(とおる)」、金峰山では「都藍尼」などの名前で登場している。 
[3]称名滝にまつわる伝説 
浄土宗の開祖法然上人が立山に登拝した時、滝の音が称名念仏の声のように聞こえたので、この滝を称名滝と名付けたのだという。 
[4]牛になった智明坊   
上市森尻の寺の智明坊は、生まれつき驕慢で、信者からお布施を取り立てて生計をたててる悪僧であった。ある日、先達として参詣者を従え立山に登山した際、一ノ谷の岩場であやまって谷に転落してしまった。そして、そのまま牛の姿になって、ほえながら遠ざかっていった。その後、参詣者は立山登拝の帰り道に一ノ谷にさしかかり、そこで智明坊の名前を呼んだところ、牛が姿を見せ、悲しそうな表情で畜生が原の方へ遠ざかっていった。日頃の行いの悪いものが立山に登ると、生きながら畜生になってしまうのである。一方、別 の伝説では、智明坊は、にわかに牛の吼えるような声を出し、天狗となり、自ら光蔵坊と名のって一ノ谷に住んだという。剱岳の刀尾権現は、この光蔵坊を追い出したが、退散する際に、爪を一つ落としていったという。 
[5]善知鳥   
立山禅定の僧が、地獄巡りを終え下山しようとしていたところ、猟師の亡霊に出くわした。この亡霊が僧に話しかけていわく、自分は陸奥の外が浜出身の猟師で、生前「善知鳥」を捕らえた報いで立山地獄に堕ち、責め苦を受けているのだという。そして僧に、もし陸奥に行かれることがあれば遺族を訪ね、蓑笠を供養してくれるように伝えてほしいと懇願した。これに対し、僧が、遺族を納得させるだけの証拠を求めたので、猟師は僧に形見の品として麻衣の片袖を託し消え失せていった。その後、僧は外が浜に猟師の妻子を訪ね、まず猟師の伝言を伝え、形見の片袖を渡した。妻子がこれを供養すると猟師の亡霊が現れ、生前の猟で犯した業と、地獄での責め苦の様子をまのあたりに見せ、そうこうするうちに、助けを求めながら消え失せていった。この伝説に登場する「善知鳥」とは鳥の名前で、善知鳥の親鳥が砂中に隠した雛鳥に餌を与える際に「うとう」と鳴くと、雛鳥が「やすかた」と応える習性から善知鳥と名付けられたと伝承されている。この伝説の内容は、室町時代に既に全国的な広まりをみせる「立山地獄の因果 応報譚」と12世紀の『地獄草紙』等にみられる「鶏地獄」のモチ-フを組み合わせ、まずは謡曲として作られた。これを原作として『能−善知鳥』が上演され今日に至っている。 
3-6-4-3.立山の伝説に関する参考文献 
廣瀬誠『立山と白山』(北國出版社、1971年3月)。佐伯幸長「立山の文化財と伝説と大仙人雑話ならびに由縁の人-」(『立山信仰の源流と変遷』所収、立山神道本院、1973年9月)。佐伯幸長「立山をめぐる伝承説話」(高瀬重雄編『白山・立山と北陸の修験道(山岳宗教史研究叢書10)』所収、名著出版、1977年9月)。佐伯泰正『あしくらに伝わる民話』(国立立山少年自然の家刊行、1990年11月)、佐伯泰正編『立山のむかし』(1991年3月)。福江充「立山の伝説」(『平成6年度全国高等学校総合体育大会 第38回全国高等学校登山大会 予報 第1号』所収、1994年)。 
3-6-5.立山山麓芦峅寺の布橋と布橋大潅頂の祭礼  
3-6-5-1.芦峅寺の布橋について 
布橋は、立山山麓芦峅寺地域の姥谷川に架かる木橋である。この橋は芦峅寺の人-には日常生活の中で渡られ、また立山登拝者たちもこの橋を渡って立山山中に向かった。この橋は「姥堂御宝前の橋」、「天の浮橋」などと呼ばれた。 江戸時代、毎年秋彼岸中日に閻魔堂と姥堂、及びこの橋を利用し、女性の極楽浄土への往生を願って布橋大潅頂の祭礼が執行されたが、その際、橋に白布が敷し渡されることから「布橋」とよばれ、極楽浄土へ渡る掛け橋とされた。いわば、この橋は此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていたのである。 布橋大潅頂の祭礼で女性の信者は、橋に敷かれた白布の上を目隠しをして渡らせられたが、悪人はこの橋から谷川へ転落すると伝承され、立山曼荼羅にもその記載がみられる。 橋の長さ25間は二十五菩薩、高さ13間は十三仏、桁の数48本は阿弥陀如来の四十八願、敷板の数108枚は煩悩の数、欄干の擬宝珠の数6個は六地蔵、釘数3万8千8本は法華経の文字数など、橋を構成する各部分には、仏教思想にもとづいて意味が込められている。また、敷板の裏には仏の種子が墨書されている。 こうした布橋は、高野山奥の院の御廟川に架かる御廟橋(無明橋)や伊勢神宮の五十鈴川に架かる宇治橋とともに日本三霊橋のひとつに数えられていたという(日光の大谷川に架かる神橋がそのひとつに数えられる場合もある)。 橋の成立については、延宝2年(1674)の「一山旧記扣」に、「天正十八年(1590)に中宮姥堂・同橋」などの修理が行われたという記載がみられることや、布橋再建の橋札銘文(文政3年(1820))に、布橋が慶長11年(1606)に造営されたとの記載がみられることから、近世初期には既に掛けられていたものと考えられる。「布橋」の語句については、前述の延宝2年(1674)の「一山旧記扣」に、慶長19(1614)年に芳春院・玉 泉院が中宮姥堂へ参詣に訪れ、その際、「御宝前之橋ニ布橋を御掛、大分之儀式被為成」とみえるのが初出であり、一方、橋そのものを「布橋」と呼称した例については、前述の文政3年(1820)の橋札銘文に「姥堂前布橋」とみえるのが初出である。明治初年に、明治新政府の神仏分離令による加賀藩の神仏分離政策で廃絶したが、昭和45年(1970)、立山風土記の丘の一環として復元された。布橋の遺物としては、慶長14年(1609)の棟札および寛永元年(1624)の擬宝珠〔加賀3代藩主前田利常が寄進〕が現存する。  
3-6-5-2.芦峅寺布橋大潅頂の祭礼内容 
慶長19年(1614)、加賀初代藩主前田利家夫人芳春院(お松)と加賀2代藩主前田利長夫人玉 泉院(織田信長の4女永)が越中立山山麓の芦峅寺に参詣し、滞在中に同寺姥堂の前の姥谷川に架かる橋に布橋(橋板の上に白布を敷き渡して橋に見立てた)を掛けて何らかの宗教儀式を行った。 ちなみに、同年、加賀2代藩主前田利長が5月20日に亡くなり、その母である芳春院(お松)は、慶長5年(1600)以来の江戸での人質生活から解放され、6月に金沢にもどってきている。10月には大坂冬の陣が勃発し、翌年の大坂夏の陣、さらには豊臣家滅亡へと続き、前田家にとっては、まさに激動の時代であった(利家の3女摩阿は秀吉の側室となる。4女豪は秀吉の養女となる)。こうした状況から芳春院と玉泉院が芦峅寺を訪れた意味を考えてみると、次の3つが考えられる。 [1]利長の追善供養、[2]生前に自分を供養する逆修供養、[3]大坂冬の陣など政情不穏な時期を控え、古くから軍事上意味のある芦峅寺の衆徒を懐柔しておく、といったことなどが推測される。 さて、前述の慶長19年(1614)の儀式が契機となったのか、あるいは、それ以前から芦峅寺でこうした儀式が行われていたのかは、それを示す史料が現存せず明らかではないが、慶長19年(1614)の加賀藩主夫人らによる一件以降も、布橋を利用して何らかの宗教儀式が行われていたことが芦峅寺文書などの史料から断片的にうかがわれる。 そして、近世後期になると、文政3年(1820)にそれまで破損の著しかった布橋が新たに架け替えられたことを契機に、さらには文政6年(1823)から芦峅寺に定住した元高野山の学侶龍淵の影響なども受け、女人救済をかかげる「布橋潅頂会」として芦峅寺一山の最も重要な祭礼に発展した。 以下、近世後期における布橋潅頂会の内容を概略しておくと、この祭礼は毎年秋の彼岸の中日に芦峅寺の姥堂・閻魔堂・布橋を法場として執行された。 まず初めに、全国各地から訪れた参詣者は閻魔堂で懴悔の儀式を受け、そこで三昧耶戒を授かる。それが終わると宿坊の衆徒(引導師)に導かれ、声明曲や楽器の演奏で賑やかななかを衆徒と共に行道し布橋を渡る。 なお、芦峅寺の伝承によると、女性の参詣者たちはこの白布が敷き渡された橋を目隠しをして渡らせられたが、悪事を働いた者は白布が蜘の糸のように細く見えうまく渡ることができず、この橋から、大蛇が口を開けて待ちうける谷川へ転落したといわれている。そして、この様子は立山曼荼羅に描かれてる。 布橋を渡り終えると、衆徒(来迎師)に導かれ姥堂へ入る。堂内では天台系の四箇法要が勤められ、血脈の授与や説法が行われた。一方、これについて芦峅寺の伝承によると、姥堂では堂篭もりの儀式が行われたとされ、扉を閉め切った暗い堂内での勤行ののち、扉がいっせいに開けられると、まばゆい光りが入り込み、まさに極楽浄土からの仏の来迎を疑似体験したのだといわれている。 女性の参詣者は、この儀式に参加することによって来世の極楽往生を約束され、生まれかわった気持ちで日常の生活に帰っていったのだという。 さて、こうした布橋潅頂会の儀式内容からもうかがわれるように、布橋は極楽浄土へ渡る掛け橋とされており、いわば、此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていたわけである。そして、こうした観念にもとづき、芦峅寺地域では墓地は布橋を渡った先、すなわち彼岸の地に設けられている。 なお、布橋潅頂会と類似した儀式として、奈良県北葛城郡の当麻寺や東京都世田谷区奥沢の浄真寺、京都市東山区今熊野の泉涌寺即成院で行われている迎講(葬送儀礼の一例として、阿弥陀如来の迎接のありさまを模し演劇化した儀式)があげられる。  
3-6-5-3.文政末期以降に急増した布橋大潅頂や立山大権現祭などの祭礼への参詣者 
立山は女人禁制で女性の参詣者は登拝することができなかった。また観光・遊楽的な要素が強まったとはいえ、やはり禅定登山は肉体的に厳しく高齢者にはむいていなかった。さらに、健康な男性にとっても、立山に入山して登拝できる期間は7月〜8月の2ヶ月間だけで、シ-ズン外に訪れると山麓の岩峅寺・芦峅寺などの霊場にしか参詣することができなかった。それゆえ19世紀以降、各地の社寺・霊山参詣が大衆化していくなか、立山を訪れる女性や老人の参詣者は急増したが、こうした人-にとっては、禅定登山にではなく、例えば、立山開山慈興上人の廟所があり立山大権現が勧請された山麓の霊場芦峅寺に参詣すること、あるいは、そこで行われる祭礼に参詣・結縁することにこそ重要な意義があったのである。 さて芦峅寺では、古くから毎年秋彼岸の中日に布橋を利用して何らかの宗教儀式が行われていたが、この儀式は、文政3年(1820)にそれまで破損の著しかった布橋が新たに架け替えられたことを契機に、さらには文政6年(1823)頃から芦峅寺に定住した、もと高野山の学侶龍淵などの影響を受け、その内容に真言宗の結縁潅頂の思想が取り込まれ、より多くの庶民の参詣・結縁を対象とした完成度とイベント性の高い祭礼、いわゆる「布橋潅頂会」として再構成された。 そして、この祭礼は身分性別を問わず、来世の極楽往生を願う人-全てを対象としていたため、当時の仏教界において救済の対象から洩れがちであった女性たちの間でとりわけ人気を博し、祭礼当日には加賀藩領内はもとより全国各地から参詣者が群集した。 一方、布橋潅頂会だけではなく、毎年7月12日から15日までの間、芦峅寺において芦峅・岩峅両寺衆徒が合同で執行した立山大権現祭礼についても、全国各地から参詣者が群集した。  
3-6-5-4.布橋大潅頂の祭礼に関する参考文献 
草野寛正「立山姥堂の行事考」(『高志人 1巻1号』所収、高志人社編、1936年9月)。廣瀬誠「立山御姥信仰の一考察」(『信濃 第16巻 第1号』所収、信濃史学会編、1964年1月)。五来重「布橋大灌頂と白山行事」(高瀬重雄編『山岳宗教史研究叢書10 白山・立山と北陸修験道』所収、名著出版、1977年9月)。廣瀬誠「立山の御姥信仰」(『立山黒部奥山の歴史と伝承』所収、桂書房、1984年10月)。橘禮吉「白山加賀禅定道の検証紀行1-加賀禅定道に布橋灌頂はあったか」(『あしなか 第222編』所収、山村民俗の会、1989年)。岩鼻通 明「特集-死と再生 越中立山女人救済儀礼再考」(『月刊芸能 1992・2 特集-死と再生』所収、1992年2月)。菊池武「我が国の擬死再生儀礼と立山布橋大灌頂会(前篇)〔富山県立山博物館調査研究報告書〕」(富山県[立山博物館]、1994年3月)。鈴木正崇「女人禁制の宗教論」(『日本の美学21 特集 性 美と禁制の葛藤』所収、日本の美学編集委員会編、ぺりかん社、1994年7月)。「我が国の擬死再生儀礼と立山布橋大灌頂会(後篇)〔富山県立山博物館調査研究報告書〕」(富山県[立山博物館]、1995年3月)。菊池武「再生儀礼と布橋大灌頂会-特に布をめぐって-」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会、1997年11月)。福江充「「芦峅寺文書」に見る布橋と布橋灌頂会」(『立山信仰と立山曼荼羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-(日本宗教民俗叢書4)』所収、岩田書院、1998年4月)。福江充「芦峅寺姥堂の立地・構造からみた布橋灌頂会」(『郷土の文化 第25輯』所収、富山県立図書館・富山県郷土史会、2000年3月)。
3-7.立山曼荼羅に関する参考文献 
沼賢亮「立山信仰と立山曼荼羅」(『仏教芸術 68号』所収、仏教芸術学会編、毎日新聞社、1968年8月)。林雅彦『日本の絵解き-資料と研究-』(三弥井書店、1982年2月)。長島勝正『立山曼荼羅集成(複製)第1期』(文献出版、1983年)。岩鼻通 明「宗教景観の構造把握への一試論-立山の縁起、マンダラ、参詣絵図からのアプロ-チ」(『空間景観イメ-ジ』所収、京都大学文学部地理学教室編、地人書房、1983年8月)。佐伯立光「立山曼荼羅図に見られる立山信仰の世界」(『立山町史 別 冊』所収、立山町編・刊行、1984年2月)。長島勝正『立山曼荼羅集成(複製)第2期』(文献出版、1985年2月)。岩鼻通 明「立山マンダラ作成年代考」(『山岳修験 第2号』所収、山岳修験学会編、山岳修験学会・名著出版、1986月9月)。岩鼻通 明「立山マンダラにみる聖と俗のコスモロジ-」(『絵図のコスモロジ- 下巻』所収、葛川絵図研究会編、葛川絵図研究会・地人書房、1989年7月)。岩鼻通 明『社寺参詣曼荼羅の系譜における立山曼荼羅の位置づけに関する研究(富山県立山博物館調査研究報告書)』(富山県教育委員会立山博物館建設準備室、1991年3月)。『富山県[立山博物館]開館記念展解説図録「立山のこころとカタチ-立山曼荼羅の世界」』(富山県[立山博物館]、1991年11月)。鈴木昭英「社寺参詣の絵解き-参詣曼荼羅の特性とその普及」(『仏教民俗学大系5 仏教芸能と美術』所収、名著出版、1993年9月)。楠瀬勝「石黒信由の立山道筋実測図と立山曼荼羅」(田中喜男編『歴史の中の都市と村落社会』所収、思文閣出版、1994年10月)。林雅彦「絵解き台本「立山曼荼羅」」(『絵解き研究 第12号』所収、絵解き研究会、1996年9月)。岩鼻通 明「立山曼荼羅研究の成果と課題」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会編、1997年11月)。福江充『立山信仰と立山曼荼羅-芦峅寺衆徒の勧進活動-(日本宗教民俗叢書4)』(岩田書院、1998年4月)。福江充「立山略縁起と立山曼荼羅-芦峅寺宝泉坊旧蔵本『立山縁起』の紹介と考察-」(『国文学 解釈と鑑賞 第63巻12号 特集 物語る寺社縁起』所収、至文堂、1998年12月)。福江充「立山曼荼羅の図像描写 に対する基礎的研究-特に諸本の分類について-」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第7号』所収、富山県[立山博物館]、2000年3月)。福江充「立山曼荼羅に関する外郭情報-特に呼称と形態について-」(『人と自然の情報交流誌 たてはく 第36号』所収、富山県[立山博物館]、2001年3月)。福江充『近世立山信仰の展開-加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札-(近世史研究叢書7)』(岩田書院、2002年5月)。高木三郎『富山県[立山博物館]平成14年度春季企画展解説図録「探検!立山曼荼羅-親子で親しむ立山開山伝説-」』(富山県[立山博物館]、2002年7月)。 
 
近世立山信仰の展開−加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札−

本書は、第九回山岳修験学会賞を受賞した『立山信仰と立山曼荼羅』に次ぐ、著者の二冊目の研究書である。著者の精力的な史料の掘り起こしと解読によって、立山信仰についての、われわれが抱いていた一般的な漠然としたイメ-ジは崩れさり、より具体性をもった立山信仰のイメ-ジが構築されつつある。本書も、前書同様に、いままで未紹介であった多くの史料群(檀那帳を中心に)を駆使し、膨大なデ-タ-ベ-スに整理しなおし、さらにそれを地図上に落として、視覚的に檀那場の実態を提示している。デ-タ-ベ-スの情報は、ただちに誰にでも活用できる性格のものではないが、本書の中で公開されたことによって、そこに書き込まれたデ-タ-が、いつか他の研究者によって、予想外の文脈のもとで再利用される日を待つことになった。著者の意図が、できるだけ史料の内容を客観化して、他の研究者の利用に耐えうるものを提供しようとするところにあることはまちがいない。著者の研究のスタンスからして、デ-タ-を使いながら独断的な解釈を加えることは極力避けられている。もし読者が、デ-タ-の部分を読み飛ばして、著者独自な解釈や結論だけを拾い上げて、読み取ろうとするならば、徒労におわるかもしれない。そうした読み方は、本書には適してはいない。同じようなテ-マに関心のある研究者が、著者が提示しているデ-タ-に目を通しつつ、自分の研究とつきあわせていくという読み方が、本書にもっとも相応しく、有効性のあるものと思われる。以下、章立てを紹介しておきたい。 
序章は、研究史を回顧して、これまでの多くの研究は、配札活動に関して「総説的な内容」であり、史料にもとづく緻密な検討はないがしろであったと評される。著者によれば、衆徒による廻檀配札活動こそが、立山信仰の性格を最も的確に表わすものであり、本書の課題もその点にしぼられている。それとあわせて、山籠・山岳斗籔型修験から御師型修験への移行があったことも指摘されている。 
第一章は、檀那帳、廻檀日記帳をデ-タ-ベ-ス化したものであり、江戸、三河、能登における衆徒の廻檀配札活動と信者数などの地域的差異を示す。江戸では信者数は、三〇〇〜五〇〇名、三河では一〇〇〇〜一五〇〇名、能登では五〇〇名であり、都会の信徒の経済力が比較的豊かなことが推定される。また江戸では仏前回向、立山曼荼羅の絵解きなど御祈主体型であるのに対して、三河、能登では護符頒布主体型であることの相違が言及されている。 
第二章は、尾張国に檀那場を有していた福泉坊、日光坊の檀那場の分布状況を調べて、互いに入り組まないように配慮されていたこと、一村あたりの檀家の分布密度が高いところが多く、「面」を形成した「良質な檀那場」であることが確認されている。 
第三章は、信濃国の檀家の分布状況を地図に落としていくと、檀家の分布は「線」「筋」あるいは「帯」程度であったことを示す。檀那場を「面」的に考えてきた従来のイメ-ジは、修正を必要とする。信濃からの「ざら越え」を廃止することによって、加賀藩は立山を完全に支配することができるようになった経緯が説明されている。 
第四章は、衆徒が房総半島に形成した檀那場を追跡したものであるが、それほどの収益があがったわけではなく、わざわざ遠方に訪れることに「何か不思議なものを感じる」と、著者は漏らす。檀那場は、真言宗系の寺院勢力が強い地域であることから、真言宗的な要素を含む天台宗系の立山の衆徒によっては、教線拡大には都合がよかったのではないか、という推察が加えられる。 
第五章は、成立時期不明の檀那帳が江戸時代中期に成立したものであったことを確定した上で、その檀那帳を使って、江戸時代中期の檀那場の様態を分析したものである。それによると、商人・職人・新吉原関係者などをタ-ゲットにしていたが、江戸時代後期になると檀那場も「成熟」し、幕臣、藩士など武家層が増加したという。檀那帳も、長帳形態から横帳形態に変化したことも指摘されている。 
第六章は、宝泉坊衆徒・泰音が江戸で形成した檀那場を検討したのもであるが、西尾藩主松平乗全も檀那になっており、その関連で家臣も多く檀那になっていたこと、新吉原には立山講がつくられていたが、それ以外は、江戸のあちこちに点在して、信徒が集住していることはなかったことを明らかにしている。 
第七章は、幕末に信徒からの寄進をうけて、姥堂境内に六地蔵尊石像が像立されたが、関係史料(泰音著)や銘文を解読したものである。寄進者、寄進目的などが明らかにされるが、六地蔵のうち三体は女性の施主によるものであった。近世後期の芦峅寺衆徒が、立山が女人往生の霊場をあることを強調し、女性の信徒をタ-ゲットにした勧進活動の成果であった。 
第八章は、宝泉坊衆徒・泰音が江戸で行った血盆経の唱導活動をとりあげて、その受容層を分析したものである。それによると、主たる受容者は、泰音と師檀関係にある大名の妻、奥女中、家臣の妻、商人・職人の妻などであった。泰音は、師檀関係のある檀家を中心に、新規に勧誘者をとりこんでいったが、血盆経信仰は、身分を越えて江戸の女性の間に広がっていったという。 
第九章では、三八宿坊家のなかでも困窮化がすすみ、檀那場にも行くことができなくなった家と、順調に収益をあげる家とがあったことが指摘される。加賀藩は、困窮した宿坊には借用銀を貸し、収益をあげた宿坊からは祠堂銀を預け入れさせて、かなりの廻檀配札の収益は、加賀藩に没収されたという。 
第十章は、芦峅寺の衆徒間で生じた争論を対象にして、それらの争論を解決したのが一山の衆評による判断にあったことを明らかにしている。 
第十一章では、加賀藩領国の檀那場について考察し、籤引きで割り当てたことがあったことが指摘されているが、領国内ははとんど檀那場が形成されなかったと結論づけている。 
結語では、もう一度著者が、本書で明らかにした点を反復しており、論旨の力点がどこにあるかを知る上で、貴重である。 
 
章立てを一見すると、十一の論文が配列されているが、序章、結語をのぞくと、三つのパ-トに分かれていることがわかる。第一に、第一章から第四章までで、芦峅寺衆徒が尾張国、信濃国、房総をめぐって檀那場を形成した点が、比較考察されている。各地域ごとの檀那場形成の特質が分析されており、興味深い。第二に、第五章から第八章までで、江戸における立山信仰の展開を、衆徒の廻檀配札の側と、信者の寄進の側の双方から検討している。第三に、第九章以降であり、加賀藩寺社奉行所の祠堂銀・借用銀、芦峅寺一山内の争い、一山の裁決、加賀藩領内の檀那場形成のように、立山信仰を提供するメ-カ-側の内部世界に焦点をあてている。 
前書に関しては多くの書評が出され、本書に関してもすでに的確な評価が出されている現状で、屋上屋を重ねることになるような気がするが、評者の感想を提示しておこう。ふんだんに未紹介の史料を駆使して、立山衆徒の檀那場形成を緻密に追跡した著者の功績は、立山信仰研究のみならず、近世の山岳宗教研究において画期的なものであろう。衆徒たちのマンパワ-の組織化には、目をみはるものがあり、近世の山岳宗教を「民間信仰」「基層信仰」で語ることが一面的であったことを思い知らさせる。同時代の山岳宗教の組織に関して、比較研究がなされていくならば、大きな稔りを生むであろう。つぎに評者の要望・疑問点をつぎに述べておく。 
第一に、近世を通じて立山衆徒の活動は継続していたのであろうが、とりわけ近世後期に活性化の時代を迎えたようである。慶長九年(一六〇四)の日光坊所蔵史料があり、芦峅寺衆徒の活動はその時点までさかのぼるというが、現存する史料は後期に集中している。その点から見て、近世中期の江戸の檀那場を扱った第五章は、貴重な成果というべきであろう。第五章の内容は、つぎにようにまとめられている。 
「ある意味では江戸時代後期の廻檀配札活動における真骨頂ともいうべき強力な商業活動的性格がそれほど強くは感じられなかった。このほか、師檀関係の形成については、江戸の檀那場の場合、初期の段階では比較的勧誘しやすい商人・職人・新吉原関係者などを主なタ-ゲットとして進められたようである。当初の檀那場はこれらの人-が中核となって支えていたと考えられる。その後、江戸時代後期へと時代が進むにつれて檀那場も成熟し、信徒たちの身分に幕臣や藩士たちの武士層も増加し、極端な部分では諸大名や前掲の松平乗全など、幕閣大名のなかにも芦峅寺宿坊家と師檀関係を結ぶものが出てきたのである。」 
中期から後期にかけての相違として、「商業活動的性格」が指摘され、檀那場も商人・職人から武士層をも含むようになって檀那場も「成熟」したことが指摘されている。確かに頒布類の商品が増えて、血盆経納経予約が行われるようになったと記されているが、檀那場は「成熟」したと表現できるのであろうか。評者の語感では、果物であれ人間であれ、「未熟」であったものが、あるべき姿に成長して「成熟」するのであるが、立山信仰の歴史を予定調和的に「成熟」したのであろうか。著者は、近世の初期、中期と連続させながら、後期に開花したと見ているようであるが、評者は、芦峅寺衆徒は、以前からの活動をふまえながらも近世後期に質量ともに飛躍的に活動を新展開させたと見るべきだと思う。第七章の六地蔵寄進も、第八章の血盆経唱導も、第四章の房総への進出も、こうした新展開があったことを示唆している。衆徒が女人救済の売り物にして、武家層の女性にまで入り込んでいったのは、檀那場が「成熟」したというより、近世後期の都市にあった多様な民俗信仰が「成熟」したことの一例として把握すべきであろう。著者自身が書いているように、「江戸の人-と立山衆徒との関係形成の契機」(三五五頁)が解明されるならば、近世後期の立山信仰の特質がよりリアルに理解できるようになるはずである。 
第二に、評者の無理解を晒すことになるかもしれないが、伊勢、津島、富士、秋葉などの御師、行者の配札・祈祷の活動が契機になって、村においても神明社、天王社、富士塚、秋葉社がつくられ、村人が講をつくり、定期的に祭りを行うことは、近世以降には珍しくなかったが、立山信仰では、それに類似したものはなかったようである。本書にも、「壇那場に末社が勧請されることがなかった立山信仰は、衆徒がその檀那場に配札に訪れることができなくなると、たちどころに衰退していった。」(五二一頁)とあるが、他の宗教センタ-から派遣される宗教者の活動とは、その点で一線を画している。このことは、立山の宗教センタ-としての社会的性格、歴史的特質に関わっているように思われる。加賀藩に支配されており、さらに立山が岩峅寺と芦峅寺とに権益が二分されており、センタ-全体として立山の神仏の霊威の個性を打ち出すことはできなかったのでなかろうか。そもそも衆徒は、いわゆる修験者でもなく、宿坊と農地を有して、冬に太平洋の村、町を廻檀する、加賀藩ご用達の「出稼ぎ」集団であった。第一点との関連で推測すれば、近世後期から幕末にかけて都市を中心に新展開した立山衆徒は、他の宗教センタ-の御師、行者より後発であって、村の社までは入りきれなかったという解釈も可能かもしれない。視点を変えるならば、村の中にまで入らずに配札が可能であったと言うこともできよう。村の庄屋が、芦峅寺衆徒を迎え入れ、世話をしたとしても、衆徒が配る札を、村の堂社で祀ることはなく、あくまで個別的に家、個人ごとに頒布して、祀っていたのではなかろうか。このあたりのことが、実証的につめることができると、立山信仰の特質も、他の宗教センタ-との比較のなかで浮かびあがるのではないか。 
第三に、芦峅寺一山の構造やヒエラルヒ-、そこでの合議の方法をもっと詳しく論及してもよかったのではないか。加賀藩からの命令系統、岩峅寺との交渉の仕方なども、史料上解明しがたいのかもしれないが、知りたいところである。第十章では、「芦峅寺の一山の衆議」(四七六頁)、「姥堂別当など、輪番制」(四七六頁)が指摘され、第十一章では、加賀藩領内の割当地が籤引きで決められることが解明されており、さらに掘り下げて、一山の内部構造やル-ルが系統的に明らかにされることが期待されるところであろう。 
 
立山地獄が生まれた経緯と背景

第1章 地獄と信仰について
第1節 地獄について  
地獄とは、悪行を積んだ者が堕ちる世界のことであり、その罪状に応じてありとあらゆる責め苦を負わされる世界である。  
衆生が自ら作った業により生死輪廻を繰り返す6つの世界、「六道」(餓鬼道、畜生道、修羅道、地獄道、天界道、人間道)の一つとされ、その中でも最も恐ろしい世界であると伝えられている。  
日本に伝わる地獄について書かれた書物は「倶舎論(くしゃろん)」、「大智度論(だいちどろん)」、「正法念処経(しょうほうねんしょきょう)」など数多く存在するが、その中でもっとも代表的な書物は「往生(おうじょう)要集(ようしゅう)」であろう。  
「往生要集」の作者は天台宗の僧・源信。「往生要集」の末文によると、源信は永観2年(984)冬12 月に比叡山延暦寺横川(よかわ)の地で撰述を開始し、翌寛和元年(985)4月に「往生要集」3巻を完成したという。「往生要集」は、それまで死霊鎮送の真言陀羅尼との区別も定かでなかったような念仏に、往生業としての異議を始めて明確に理論化・体系化した書物として、完成直後から浄土教家・念仏者の間で評判になった。  
そして今回「往生要集」の中で最も着目すべきは、地獄と極楽について細かく説明している点である。同書で源信は、インドの仏典に描かれた地獄や極楽を要約・整理し、極楽浄土の荘厳と地獄の恐ろしさを述べ、さらに極楽往生の方法について細かく説明しているのだ。  
当時は「末法思想」と呼ばれる、仏の教えが一切届かぬ時代(末法)が到来するという思想が信じられており、その時代の到来を恐れていた。そこで源信は「往生要集」を撰述することにより、末法を乗り切る方法を教え諭した。簡単に説明すれば、念仏に励むことによってその功徳により死後極楽往生できれば、仮にこの世が末法の暗闇に染まっても明るい死後の世界が待っているという内容である。  
しかし、その内容は人々に安心を与えると同時に恐怖をも植え付けた。「往生要集」には極楽の記述だけではなく、冒頭に恐怖と苦悩に満ちた地獄についての描写が書かれていたためである。  
「往生要集」によると、地獄は八大地獄と八寒地獄という2つの地獄に分けられ、さらに八大地獄はその名の通り等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻(無間)と呼ばれる8種類の地獄が存在する。そしてさらにその8種類の地獄には、それぞれの罪に合わせた16 の別処が附属されているという。それらを合計すると、136 もの膨大な数の種類の地獄があることになる。地下一千由旬(ゆじゅん)(古代インドの単位。一説によると約7千キロ)に等活地獄があり、順をなして最下層の阿鼻地獄に至るという。  
8種類存在する地獄の詳細は、以下の通りである。  
等活地獄  
地獄世界の中で最も浅く、比較的罪の軽い者が堕ちる地獄が「等活地獄」と呼ばれる場所である。この地獄は生前に殺生の罪を犯した者が堕ち、此処の亡者達は皆粗暴で喧嘩っ早くいつもお互いに傷つけ殺し合い、獄卒達はそれを楽しそうに煽る。  
その一方で、獄卒が鉄の杖や棒で亡者の身体を粉々に砕くか、あるいは料理人が魚や肉をさばくように鋭利な刃物で亡者の肉を裂く。亡者達はこれらの激しい責め苦で一旦は死んでしまうが、涼風が吹くと元の体に甦り、幾度も同じ責め苦を受け続けるのである。  
それらの様子は図1の「北野天神縁起絵巻」から伺うことができる。  
黒縄地獄  
黒縄地獄は、主に殺生と窃盗の罪を犯した者が堕ちる地獄である。等活地獄の下にあり、その空間は一辺が一万由旬(約10 万キロ)の立方体で、そこで受ける苦痛は等活地獄の十倍だといわれている。  
この地獄では、獄卒が熱鉄の黒縄を使って亡者の体に線を引き、それに沿って熱鉄の斧・鋸・刀で切り割く。あるいは巨大な2本の鉄柱が離れて立てられ、柱と柱の間に鉄の縄が張られ、縄の下では煮えたぎる窯が設置されている。そして獄卒達は亡者にサーカスの綱渡りの如く、縄を渡れと強要してくるのである。亡者の中には石を背負って渡らされる者もおり、仕方なく縄を渡ろうとすると、縄は高温で熱せられているせいであまりの熱さに耐えきれず、下の窯に落ちて煮られてしまうのだ。  
図2では、右半分に前述した通り獄卒達に黒縄で身体に線を引かれ、その線に沿って鑿(のみ)を入れたり鉋をかけられたり、切り刻まれたりされている亡者の姿が描かれている。そして左面には、燃えさかる鉄の鍋に放り込まれ、熱湯で煮られている亡者の様子がうかがえる。  
衆合地獄  
衆合地獄は黒縄地獄の下にあり、空間は一辺が一万由旬(約10 万キロ)の立方体と黒縄地獄と変わらない。この地獄は殺生と窃盗に加え、邪淫(夫または妻以外の異性との情事など、人の道に外れた性行為)の罪を犯した者が堕ちる。  
その地獄では、亡者達は2つ並んでそびえる鉄山の谷間に投げ込まれ、獄卒達が頃合いを見計らって鉄山を押し動かして亡者達を押しつぶすという責め苦が存在する。「北野天神縁起絵巻」にもその様子が描かれており、滝のように流れ出す血しぶきが恐ろしく、そして強いインパクトを与えている。  
中でも、衆合地獄の責め苦の一つである「刀葉林」(図3)は、この地獄の特性を非常に表している。  
樹の上には美しい女人がいて、亡者に向かって「汝、如何でここに至りて我を抱かん」と婉然たる笑みを送り、亡者を誘惑する。色香に惑わされた亡者が樹を登っていくと、刀のように鋭い葉で身を切り裂かれる。それでも亡者は血まみれになって登っていく。やっと樹の上に辿り着くが、そこに女性の姿はない。こんどは樹の下に降り、亡者をまた誘惑する。喜んだ亡者は木を降りていき、また鋭い刀葉で身を切られる。このようなことを何度も繰り返し、亡者は身も心も微塵に切り刻まれるというわけだ。  
叫喚地獄  
叫喚地獄は衆合地獄の下にあり、空間は黒縄地獄・衆合地獄と同じ規模(一辺が約10 万キロの立方体)である。この地獄には殺生・窃盗・邪淫の他、主に酒に関する罪を犯した者が堕ちる地獄である。  
この地獄の特性は、酒を飲む人に対して非常に厳しい点である。酒愛好家で連日豪飲する者はもちろんのこと、日頃ストレス解消などから適量を嗜むような者でさえも情け容赦なく堕とされ、厳しい責め苦を受ける。現代の我々からしたら「たかが飲酒ごときで厳しすぎるのではないか」と思うだろうが、仏教世界では殺生も当然重罪だが、飲酒も負けず劣らず重罪なのである。  
十六小地獄のレパートリーも数多い。旅人に酒を飲ませ、酔ったところで物品を奪ったり殺したりした者が堕ちる「雨炎火石」では、空から焼け石が降り注ぎ、地には「熱沸河」と呼ばれる灼熱の川が流れており、亡者達は石で潰され灼熱の河で溺れていく。水で薄めた酒を売った者が堕ちる「火末虫」(図4)では、亡者の身体から無数の虫が湧き出て、その身体を食べ尽くすという地獄である。  
他にも女性に酒を飲ませて性的暴行を加えた者が堕ちる地獄、相手の無知につけ込み高価な酒を買わせた者が堕ちる地獄、使用人に酒を飲ませて動物を殺させた者が堕ちる地獄など、酒に関係する行動全てを地獄に堕とさんばかりにある。  
大叫喚地獄  
大叫喚地獄は叫喚地獄の下にあり、規模は黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄と同じ(一辺が約10万キロの立方体)である。この地獄には、殺生・窃盗・邪淫・飲酒に加えて妄語、つまり嘘つきが堕とされる。その苦しみは、叫喚地獄の10 倍であるといわれている。  
大叫喚地獄内にある十六小地獄のうち、受無辺苦処(じゅむへんくしょ)と呼ばれる地獄では、獄卒が熱く熱せられた金挟みで亡者の舌を挟んで抜き出される責め苦があることから、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」という言葉はここから生まれたものだと考えられている。  
焦熱・大焦熱地獄  
焦熱地獄は大叫喚地獄の下にあり、その空間は黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄と同じ規模(一辺が約10 万キロの立方体)である。ここには殺生・窃盗・邪淫・妄語に加え、邪見(因果の理法を否定する誤った考え)の罪を犯した者が堕ちる。  
図5の絵から伺えるように、焦熱地獄では獄卒が大きな鉄の串を使って亡者の肛門から頭までを串刺しにし、何度もひっくり返して炙るという責め苦が存在する。  
大焦熱地獄は焦熱地獄の下にあり、その空間は黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄と同じ規模(一辺が約10 万キロの立方体)である。この地獄に堕ちる者の罪は焦熱地獄に加えて、尼を犯すなどの罪を犯した者が堕ちる。  
阿鼻地獄  
この阿鼻地獄は、八大地獄の最下層に存在する。阿鼻地獄は別名「無間地獄」と呼ばれており、その名の通りこの地獄に堕ちた亡者は、一瞬たりとも休む間もなく激烈な責め苦を受け続けることからその名がついたといわれている。阿鼻地獄の空間は一辺が8万由旬(約80 万キロ)の立方体で、その中には七重の鉄城があり、七層の鉄網に囲まれている。下方には刀林を巡る18 の内と外を隔てる壁がある。城の四隅には銅の恐ろしい大狗がいて、全ての毛穴から猛火を出している。  
阿鼻地獄は、讒法(ざんほう)(仏教の「法」と「道」をそしる行い)をし、八大地獄の中で阿鼻地獄以外へ堕ちる罪を全て犯し、さらに仏教で最も重い罪である五逆罪を犯した者が堕ちる。  
その五逆罪とは、  
1 父親を殺した罪  
2 母親を殺した罪  
3 修行修学し聖者の域に達した僧を殺した罪  
4 仏を傷つけ、出血させた罪  
5 破僧伽罪(仏教教団を破壊した罪、大乗仏教を誹謗した罪)  
のことである。  
阿鼻地獄行きが決まった亡者達は中有(死の瞬間から来世における生命の誕生までの時間)で獄卒の呵責を受けたのち、地獄の恐ろしい叫び声を聞きながら2万5千由旬を巡る。さらに亡者は真っ逆さまの体勢で2千年の長い時間を掛けて堕ち続け、ようやく阿鼻地獄に到達する。そうしてようやく阿鼻地獄に堕ちた亡者達は他の八大地獄とは比べものにならぬほどの苦しい責め空を受け、火を吐く猛犬、亡者を丸呑みにしようとする大蛇など、他にも名付けがたい異形の動物たちによって罪人達は苦しめられる(図6)。  
阿鼻地獄行きが決まった亡者は「火車」と呼ばれる火の車によって連れていかれるという伝承があり、火車に連れていかれた亡者は悪行を重ねた者という証拠であった。そのため、「亡骸を火車に連れていかれた家は末代までの恥」とまで言われていた。  
八寒地獄  
八大地獄と対を成すように存在するのが、八寒地獄と呼ばれる地獄である。  
八大地獄が炎と病をテーマにした地獄だとすれば、八寒地獄はその名の通り極寒をテーマにした地獄であり、頞部陀地獄(あぶだじごく)、刺部陀地獄(にらぶだじごく)、頞听陀地獄(あただじごく)、婆地獄(かかばじごく)、虎虎婆地獄(ここばじごく)、鉢羅地獄(うばらじごく)、鉢特摩地獄(はどまじごく)、摩訶鉢特摩地獄(まかはどまじごく)の8つからなる。  
この八寒地獄は八大地獄と比べて様子が描かれた地獄絵もなく、「とにかく寒い、身が裂けるほ寒い」という記述しかないことから、謎が多い地獄である。  
ちなみに、先述した8つの地獄の名前は、「寒すぎてそうとしか喋れない」という適当な理由から付けられたらしい。  
三途の川  
亡くなった者は死後三途の川を渡り、あの世へと向かう。  
これは誰もが知っていることであり、臨死体験した者がその光景を見たという話が聞かれるほど有名な話である。  
しかし、ただ三途の川を渡るだけではない。渡る前から亡者の罪を謀る裁判が行われており、判明した罪によって渡り方が変化する。善人は渡されている橋を渡ることができ、普通の者は六文銭を払い渡し船に乗る、そして悪人は激流に投げ込まれたり、毒蛇が密集する遙か下流を渡らなければならないのである。  
このように善人・普通の者・悪人の3通りの渡河方法があったことから、「三途の川」という名称がついたといわれている。  
女性の地獄  
地獄の中には、女性だけが堕ちる地獄というものが存在する。そのなかでも最も有名なものが、「血の池地獄」と呼ばれる地獄であろう。「血の池」の名称は、月経や出産の出血が不浄を他に及ぼす罪から生まれた。この地獄は血盆池地獄とも別称されるように、「血盆経」というわずか420 余字の短文の経典に基づいて創造された。この経典は10 世紀(明の時代)に中国で成立した偽経(正式な翻訳経ではなく偽作された経典)で、日本には室町時代の頃に伝来した。  
何故女性が血の池地獄に堕ちるのか。それは、女性は出産(および月経)の血で地神を汚したり、その衣類を洗った川の水で茶を入れて神に供養するため、そうした罪で死後、血の池地獄に堕ちるのだ。  
そのほかにも子供を産むことのできない不妊の女性や、何らかの事情によって子供を産むことができなかった女性が堕ちる「石女地獄」など、女性への差別や侮蔑、男尊女卑を含んだ地獄がいくつも存在するのである。  
賽の河原  
親より先に死んでしまい、父母の恩に報いることができなかった子供は、賽の河原に堕ちてしまう。この賽の河原は地獄内にあるのではなく、三途の川を渡る手前で、なおかつ地獄の外側といった、いわばあの世とこの世の境界的な場所に位置するのだという。つまり賽の河原という場所は地獄のようで地獄でない、中途半端な位置づけなのである。  
なぜこのような場所にあるのか。それは、「幼くして死んだ子供達は親への恩を返していないので極楽浄土に行くことはできない、しかし、地獄行きとなるとかわいそうである」という考えから創造されたと考えられる。  
賽の河原に連れていかれた子供達は、父母への恩返しのために河原に石を積み上げ塔を造る。しかし、せっかく造った石塔も夕暮れになると地獄の鬼が現れて黒金棒で突き崩してしまう。その苦しみは、亡くなった子供達の追善供養を忘れてしまうほどに嘆き悲しむ、親たちの有様に起因するという。そしてやがて、父母の供養によって地蔵菩薩が現れ、子供達を救うのである。  
こうした賽の河原の信仰は、中国の経典や「往生要集」にも見られず、おそらくは中世末期以降、日本の民間伝承のなかで独自に成立していったものであると考えられている。
第2節 十王信仰と成り立ち  
十王信仰とは、十人の王があの世で亡者が生前に犯した罪を順次裁くという信仰のことである。古代中国に起こった信仰で、日本には平安時代に中国から伝えられ、鎌倉時代以降に大いに広まった。  
亡者の罪を取り調べる裁判官を総称して「十王」と呼ばれ、その名の通り10 人の王が存在する。最初の一審は初七日に行われ、それを皮切りに7日ごとに第7審(四十九日)まで行われる。その後第8審が死後百日目、第九審が一年目、第十審が3年目に行われる。  
10 人の裁判官の王達と、彼等の正体(本地仏)は次の通りである。初七日(死後7日目)は秦広王(不動明王)、二七日(死後14 日目)は初江王(釈迦如来)、三七日(死後21 日目)は宋帝王(文殊菩薩)、四七日(死後28 日目)は五官王(普賢菩薩)、五七日(死後35 日目)は閻魔王(地蔵菩薩)、六七日(死後42 日目)は変成王(弥勒菩薩)、七七日(四十九日)は太山王(薬師如来)、百か日(死後100 日目)は平等王(観音菩薩)、一周忌(死後365 日目)は都市王(勢至菩薩)、三回忌(死後730 日目)は五道輪転王(阿弥陀如来)の順に裁かれる。  
このように10 人の王達の正体を仏とする考え方は、とりわけ日本で流行したものだが、怖そうな王達も実はその正体が仏なので、慈悲の心で亡者達を裁いているというわけである。  
現在でもある人が亡くなると、その遺族は初七日や四十九日の法事などを営むが、その背景にはまさしく十王信仰が存在している。裁判官の王達は、遺族が亡者のためにきちんと法事を行っているかどうかを、監斎使者(仏法を守護する善神)を派遣して調査する。何故法事を行う必要があるのかというと、それは裁判官の王達に亡者の情状酌量を求めるためである。
第3節 日本の地獄信仰  
江戸時代には十王信仰、とりわけ十王の中でも一番身近で人気があった閻魔王を信仰する閻魔信仰が盛んになり、閻魔堂が数多く造られた。地獄の裁判官にして十王の最高権威である閻魔王は、この世とあの世の境目である冥界にいる。そこから転じて、町や村の境界の外からの災厄から護ってくれると厚く信仰されたのである。江戸の町、つまり現在の東京都にも閻魔様を祀る閻魔堂が数多く建てられ、度重なる震災や戦争などを経て多くは失われてしまったが、それでも今なお百近い閻魔堂が都内の各所に祀られている。  
東京都文京区にある源覚寺は別名「こんにゃくゑんま」と呼ばれており、鎌倉時代の作と推定される閻魔蔵は厚く信仰され、江戸時代から続く縁日(1月と7月の15 日と16 日)には今も多くの人で賑わう。この閻魔には片眼がないが、これは、江戸時代半ばに眼病を患った老婆が閻魔に祈願したところ、閻魔王は自分の右眼を身代わりに、老婆を治癒した。以来、老婆は感謝の印として、好物のこんにゃくを断ち、それを供えたとの逸話が残っている。  
神奈川県の鎌倉にある円応寺は「閻魔堂」または「十王堂」と呼ばれており、鎌倉時代屈指の十王彫刻が祀られている。閻魔大王坐像はその表情から「笑い閻魔」と呼ばれている。  
このように、日本各地で祀られている閻魔王は庶民にとって身近な存在であったためか、笑みを浮かべている像が多かったり、庶民を救済したという話が多く残っている。
第2章 山岳信仰の歴史地理学的研究
第1節 歴史地理学の環境知覚研究  
歴史地理学は、他の分野ではできない方法であらゆる観点からアプローチをかける学問である(1)。  
過去景観の残片を、地図を見る経験とそれに裏打ちされた直感によって的確に拾い出し、残片のありようそのものや、それらの相互の位置関係にヒントを得て、歴史資料や考古学の成果なども有効に用いながら、その時代または時点の景観を一定の範囲で復元するのが、歴史地理学の基本的な仕事である。その仕事を進めていると、おのずから何故そのような景観が「構築」されなければならなかったのかが読めてくるのだ。つまり、過去にその景観を作った人々の「地表経営」の意図まで読み解くことができ、人々がいかに「地表」に生きたかという歴史、通常の歴史学ではアプローチできなかった歴史の一側面を明らかにすることができる。  
このような方法を用いて、歴史地理学の環境知覚研究は、過去の人々がどのように環境を知覚し、どのような地理的行動を行っていたのかを研究するのである。
第2節 立山と山岳信仰  
富山県の東部に屹立する立山は雄山(おやま)(標高3003 メートル)、大汝山(おおなんじやま)(標高3015 メートル)、富士(ふじ)ノ(の)折立(おりたて)(標高2999 メートル)の3つの峰の総称であり、これらからなる立山信仰は全国の至る所にまで広がってる。そして立山の麓には、芦峅寺と岩峅寺と呼ばれる2つの山岳宗教集落が存在する。  
そのなかでも芦峅寺村の位置や起源、時代変遷などの芦峅寺の概要を示しておく。  
芦峅寺集落の位置  
「芦峅寺」の呼称は村名を示している。  
同村の集落は、富山市街から約30 キロメートル南東の北アルプス立山連峰の山麓に位置し(標高400 メートル)、立山連峰を源流域とする常願寺川上流の右岸段丘上に載っかっている。村内の所々から望むことができる立山連峰の様子は、四季を通じてとても美しく素晴らしい。  
宗教村落芦峅寺のおこり  
立山は9世紀半ば以降、10 世紀初頭までは開山され、天台教団系の宗教者達の一拠点となっていた。しかし、それ以前に、既に諸国の山岳霊場を巡る山林抖擻の行者達の修行場の一所となっていた。それについては、立山連峰の劔岳や大日岳から発見された平安時代初期の銅錫杖頭などの遺物から推測されるが、このほか、平安時代の仏教説話集「大日本国法華験記」や「今昔物語集」所収の立山地獄説話に、諸国回峰の修行者が立山地獄に堕ちた亡霊と遭遇説話が載せられていることなどからもうかがえる。  
その後、こうした修行者のなかに立山山麓に定住して宗教活動を実践する者が出始め、次第に組織や堂舎を整えていった。芦峅寺閻魔堂には平安時代の成立と推測される木造不動明王像頭部が一体残っている。同頭部は寄木造で全長は60 センチメートルもあるが、元はそれに見合う巨大な胴体部も存在していたはずである。同像の存在から、遅くとも平安時代末期頃までには、芦峅寺かあるいはその界隈に諸国回峰の修行者達によって、彼等の守り尊である不動明王に対する信仰がもたらされ、さらに前述の通り、彼等の中で山麓に定住して宗教活動を行う者も出てきて、こうした巨大な不動明王像の安置を可能とする宗教組織や堂舎を形成したものと思われる。  
芦峅寺と岩峅寺の争論  
北アルプス立山連峰の山麓に位置する芦峅寺村が標高400 メートルの高地に位置しているのに対し、岩峅寺は常願寺川右岸扇状地の扇頂部の平野部に位置している(図7)。  
芦峅寺村はその自然環境(気温・日照時間・水温などの問題)から稲作には適さない村であった。したがって、この村では焼畑・炭焼・木挽などを主な生業としてきた。このような場所的・生業的な面からとらえると、芦峅寺の場所は「ヤマ」〜「サトヤマ」として位置づけられ、さらに、その中核である芦峅中宮寺は「山宮」として位置づけられる。  
一方、岩峅寺は中世より荘園村落として発達し、稲作を主な生業としてきた。このような場所的・生業的な面からとらえると、岩峅寺の場所は「サト」として位置づけられ、さらに、その中核である立山寺は「里宮」として位置づけられよう。  
ところで、芦峅寺と岩峅寺の立山に対する宗教的諸権利、即ち戸銭や室堂入銭の徴収権、山中諸堂舎の管理権などは、当初同権であった。しかし、加賀藩は正徳元年(1711)以降、立山に最も近い山宮の芦峅寺には、立山の山自体に関わる宗教的権利(1「立山本寺別当」の職号の使用権、2六十六部納経堂の設置権及び納経帳の発行権、3山役銭の徴収権、4立山山中諸堂舎の管理権など)を与えず、むしろ山から閉め出すように加賀藩領国外での廻壇配札活動の権利を与えている。  
一方、里宮の岩峅寺には、前述の立山の山自体に関わる宗教的諸権利を与えて管理を任せるのであるが、岩峅寺としては不便にも立山山麓から山上までの禅定登山道は一本道となっており(図7黒線)、その途上、岩峅寺集落と立山山中との間に芦峅寺集落が障害的に位置しているため、否応なしに芦峅寺を通過せざるをえず、このような状況が何かと論争を起こす元となった。  
では何故、平野側に住む岩峅寺に立山の宗教諸権利が与えられ、山に詳しいはずの芦峅寺が山から追い出される形となったのか。それは、山に詳しいが故に加賀藩に危険視されたためと考える。  
山岳修行者達は山を駆けるため、必然的に山に詳しくなる。そのため、幕府や各藩が定めた街道や関所を無視して山を駆け、人の目に触れることなく自由に諸国に出入りできる術を持っていたと考えられる。それを、平野に住み山岳に詳しくない武士達が、彼等の行動を恐れたのではないだろうか。  
これ以上山に詳しくさせないため、そして目に届かない行動を制限させるために、加賀藩はあえて芦峅寺を山から遠ざけ、岩峅寺と争わせることによって互いの力を削ぐ形に持っていったのである。このような考え方は、戦国時代に一向一揆の存在に頭を悩まされていたであろう加賀藩のことを考えると、むしろ当然の行動かもしれない。  
芦峅寺の廻壇配札活動  
山を追われた芦峅寺は、各宿坊家にそれぞれの地域に檀那場(立山信仰の信者がある程度集中して存在する得意先)を形成していた。こうした檀那場は、当初から日本各地に広がりをもっていたのではない。江戸時代前期以降、それ以前に既に中部・東海地方の人々の間で定着していた富士山・立山・白山を巡拝する三禅定の影響を受けながら、次第に拡大していったと思われる。  
立山衆徒は毎年農閑期になると自分の檀那場に赴き、立山信仰を布教しながら護符や経帷子を頒布して回っていた。こうした宗教活動を「諸国檀那配札廻り」や「廻壇配札活動」などという。宗徒は様々な護符を刷っていたが、廻壇配札活動の際には、牛玉札を中心に火の用心や諸願成就、護摩供養、御守護などの祈祷札、山絵図、経帷子などを頒布した。また、特に女性の信者には血盆経や月水不浄除、安産などの祈祷札を頒布した。ときには、それぞれの地域の需要に応じ、養蚕祈願札や大漁祈願札なども頒布することがあった。その他、護符に限らず、越中富山の代表的な売薬反魂丹や現地で調達した箸・針・楊枝・扇・元結なども頒布して利益を得ていた。  
檀那場では、主に庄屋(名主)宅を定宿としたが、その庄屋は現地で立山講の信徒達をとりまとめる周旋人である場合が多い。護符などの具体的な頒布方法については、まず、衆徒が定宿の庄屋に対し、その村で必要な護符の枚数について注文をとる。それに対し庄屋は人足を雇い、村内の檀家を中心に、ときにはそうでない家々までも巡回させ、村人が必要とする護符の枚数を把握する。衆徒はその枚数分の護符を庄屋にわたし、実質的な頒布は全て庄屋が雇った人足に任せてしまうのである。  
こうした活動で大きな宣伝効果をもたらしたのが、立山曼荼羅であった。衆徒は毎年、講元の庄屋宅に宿泊した際、近隣の村人を集め、持参してきたかあるいは同家に預け置いていた立山曼荼羅を座敷の床の間に掛けて絵解きした。曼荼羅の画面から、立山開山縁起・立山地獄・立山浄土・立山禅定登山案内・布橋灌頂法会・立山権現祭礼などの内容を引き出し、節談調で物語ったという。そして、男性には夏の立山での禅定登山を勧誘し、女性には秋の彼岸に芦峅寺で行われる布橋灌頂法会の参加や血盆経供養を勧誘した。その際、自分の宿坊での宿泊を勧め、道案内などの便宜をはかることを約束した。  
立山の山容や立山信仰の内容をよく知らない人々に、それを立山曼荼羅の具体的な図柄で視覚的に紹介したので、人々の間では難解な教理にもとづく説教よりも、こうした絵解きによる娯楽性豊かな布教の方が好まれ、かなりの人気を得たようである。
第3章 立山の地獄信仰
第1節 立山開山縁起  
立山は、自然の中で地獄と浄土といった仏教世界が一緒に体験できる、世にも稀な人間救済空間である。そのような立山を、仏の阿弥陀如来のお告げによって開山(仏教修行ができるように、登山道を整備したり堂舎を建てたりする)した人物が、「佐伯有頼」である。  
この佐伯有頼の立山開山にまつわる物語を記したものが、「立山開山縁起」である。  
同縁起には、「類聚既験抄」(鎌倉時代編纂)や「伊呂波字類抄」十巻本の「立山大菩薩顕給本縁起」(鎌倉時代増補)、「神道集」巻四の「越中立山権現事」(南北朝時代編纂)、「和漢三才図会」(江戸時代正徳期の編纂)など、いくつもの種類がみられる。またこのほかにも、立山信仰の拠点村落であった立山山麓の芦峅寺と岩峅寺に、宿坊宗徒や社人により江戸時代中期から末期にかけて制作された「立山大縁起」や「立山小縁起」、「立山略縁起」など数点見られる。  
書かれているストーリーの内容はそれぞれ微妙な違いが見られるが、大まかなストーリーは大体同じとみてよい。あらすじは、以下の通りである。  
ある日、父に借りた白鷹で狩りをしていた有頼だが、白鷹がいきなり飛び去って逃がしてしまう。そこで白鷹を追い求めて立山山中に入っていった有頼の前に、突然熊が出現する。驚いた有頼が熊を矢で射かけたところ、熊は山中へと逃げていった。山深くまで熊を追っていった有頼がとうとう玉殿窟(ぎょくでんくつ)へ熊を追いつめたが、そこにあったのは阿弥陀如来と観音菩薩、勢至(せいし)菩薩の三尊の仏像が安置されていた。それらを拝んでよく見ると、阿弥陀如来の胸には自分が射た矢が刺さっていた。  
阿弥陀如来は有頼に、「私は乱れた世の人々を救うために地獄や浄土などの世界をこの山に表して、お前を待っていた。だからその方法として有若を越中国司にした。白鷹は劔山刀尾天神である。お前は早く僧侶になり、立山を開くがよい」と告げた。  
有頼はこの霊異に深く感動して涙を流した。  
開山者は越中国司である佐伯有若、あるいはその息子である佐伯有頼とするものが大部分であり、岩峅寺と芦峅寺の宿坊に伝来する江戸時代の立山縁起においては、ほとんどが佐伯有頼に統一されている。  
開山の時期はおおむね大宝年間(701 〜 704)とされるが、地方の霊山の縁起においては、その多くが開山時期を役小角の活躍期より古く遡らせるという作為が見られ、信憑性は乏しい。
第2節 立山と地獄信仰の融合  
立山は平安時代の古くから、日本人の間で山中に地獄が存在する山として知られていた。同時代の仏教説話集である「大日本法華験記」や「今昔物語」には、越中立山の地獄は死者の霊魂が集まる場所として書かれている。  
その一節が、以下の通りである。(略)往越中立山。彼山有地獄原。遙広山谷中。有百千出湯。従深穴中涌出。以岩覆穴。出湯鹿強。従厳辺涌出。現依湯力覆岩動揺。熱気充塞不可近見。其原奥方有火柱。常焼爆燃。此有大峰。名帝釈岳。是天帝帝釈冥官集会。勘定衆生善悪処矣。其地獄原谷末有大滝。高数百丈。名勝妙滝。如張白布。従昔伝言。日本国人造罪。多堕立山地獄云々(略)(2)。  
地獄の位置について、インドの「倶舎論」や「大昆婆沙論」等の仏教経典には、それは人間が住む世界の地下に重層的に奥深く続く形で存在すると説かれている。一方、もともと外来宗教であった仏教が日本で広まる以前から、日本は天上や地下、山中、海中といった、いわば自分達の住む世界の垂直・水平方向の延長線上の場所を他界とする観念を持っていた。そのなかでも山中を他界とする観念は、日本の国土の大部分が山地や山岳で占められるといった独特な風土・環境のためか、とりわけ強くもたれていたようである。  
すなわち古代の日本人は、人が死ぬとその霊魂が肉体から分離して、村里近くの山やあるいは立山のような立派な山へ登ると考えており、山地・山岳を死霊・祖霊の漂い静まる他界としていたのである。  
仏教の広まりと浸透にともない、日本ではその土着の他界観と仏教の地獄観が交わり、霊魂の漂い静まる山中こそが、外来宗教の仏教が示す地獄のある場所だと信じられるようになった。つまり、地獄の亡者に対する裁判や責め苦などの具体的な内容は、圧倒的で壮大な体系を持つ仏教に依拠したが、その場所に関しては、自分達の根源的な考えに基づいて、山中に見出したのである。  
その際、越中立山は山中に火山活動の影響で荒れ果てた景観を有し、地獄を見出すには格好の場所であった。立山山中の地獄谷、ミクリガ池、血の池などは、4万年前からたびたび起こった水蒸気爆発による爆裂火口であり、なかでも地獄谷では、火山ガスを噴出する硫黄の塔(図8)、熱湯の沸き上がる池、至る所からの噴気が見られ、また特有の匂いも相まって、そこは不気味な谷間となっている。  
福江充は、こうした特異で非日常的な景観が地獄の様子に見立てられ、立山地獄の信仰が生まれたものと考えられる、(3)と述べている。
第3節 立山曼荼羅  
越中立山の山岳宗教に関する絵画史料として、立山曼荼羅と称される絵図がある。それは、立山信仰の内容が、大きな物では掛け合わせて縦160センチ×横240 センチの大画面に網羅的に描かれた掛け軸式の絵画のことである。  
この、立山曼荼羅の呼称は、富山の郷土史家草野寛正が、昭和11 年(1936)に論文「立山姥堂の行事考」(『高志人 一巻一号』高志人社)のなかで用いて以降、研究者の間で次第に普及し、今では一般の人々にも周知されている。しかし江戸時代の芦峅寺文書や立山曼荼羅の軸裏の銘文などに、立山曼荼羅が「曼荼羅」の用語で表現されている場合が幾例か見られるとはいえ、たいていは「御絵伝」や「有頼由来立山御絵」「開山之行状之御絵伝」などの用語で表現されている。いわゆる密教系の曼荼羅よりも浄土真宗の高僧絵伝などの  
性格に近いものとして認識されていたようである。  
画面(図9)には、立山の山岳景観を背景として、この曼荼羅の主題である立山開山縁起のいくつかの場面をはじめ、立山地獄の様子、阿弥陀如来と諸菩薩の来迎場面、立山山麓・山中の名所や旧跡、芦峅寺布橋灌頂法会の様子などが、曼荼羅のシンボルの日輪(太陽)・月輪(月)や参詣者などと共に巧みな構図で描かれている。  
一方、別の視点で立山曼荼羅を見ていくと、立山連峰上空の天道や立山地獄谷の地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道、立山山麓の人道など、いわゆる六道の表現(六道絵)と、阿弥陀聖衆来迎の表現といった2つのモチーフが描かれており、したがってこの立山曼荼羅は、「六道・阿弥陀聖衆来迎図」とも位置づけることができる。
第4節 おんばさま  
江戸時代、姥谷川(姥堂川ともいう)の左岸、閻魔堂の先の布橋を渡ったところに、入母屋造、唐様の姥堂が建っていた。堂内には本尊3体の姥尊像が須弥壇上の厨子に祀られ、さらにその両脇壇上には、江戸時代の日本の国数になぞらえ、66体の姥尊像が祀られていた。その姿は乳房を垂らした老婆で、片膝を立てて座す。容貌は特異で、髪が長く、目を見開き、中には口がカッと開けたものや般若相のものもあり、いかにも恐ろしげである(図10)。  
現存の像は、いずれも南北朝時代から江戸時代にかけて作られている。現存最古の姥尊は永和元年(1375)に成立したものである。この異形の姥尊は、芦峅寺の人々にはもとより、越中国主佐々成政や加賀初代藩主前田利家らの武将達にも、芦峅寺で最も重要な尊体として位置づけられ、篤く信仰されてきた。  
立山山麓の芦峅寺と岩峅寺は、ともに立山信仰に関わる宗教村落だが、その基層の信仰内容は大きく異なる。端的に言うと、芦峅寺は姥尊信仰が基層であり、岩峅寺は刀尾天神信仰が基層である。それゆえ、芦峅寺の姥尊お召し替えや布橋大灌頂法会などの行事を含め、同村の立山信仰の内容を理解するには、その基層の姥尊信仰を見ていく必要がある。しかし、姥尊はなかなか複雑かつ不思議な尊格であり、その起源は未だに判明していない。起源や正体を巡り、これまで先学諸氏の間でたびたび議論が成されてきている。
第4章 都から見た立山の姿
平安時代から既に「地獄が存在する山」として都である京都に伝わっていた立山。では何故都から遠く離れた立山の地に地獄がある、という話が伝わるようになったのか。立山地獄の説話が生み出された理由を、3点提示して論じる。
第1節 「延暦寺護国縁起」より  
そもそも、誰が立山の存在を都に伝えたのか。それは、比叡山延暦寺に所属し、全国の山岳を修行して回っている山岳修行者達である。  
当時の比叡山延暦寺には宗教研究センターのようなものが本山に存在し、学問に励む者とそれができない、所謂“落ちこぼれ”が存在した。その“落ちこぼれ”と呼ばれた者達が実地に出て行き、全国を修行し回る「修験者」が現れるようになったのである。そして彼等が本山に帰ってくる度、都の貴族達は彼等から各地の話をこぞって聞きたがった。そして、それらの話を集めてまとめたものが「今昔物語」や「大日本法華験記」である。  
つまり、山岳修行者達が情報メッセンジャーとなり、あちこち巡っては都に情報をもたらしてきたのである。  
そして山岳修行者達の中心である比叡山延暦寺は、都から見て丑寅の方角、つまり鬼門の方角に位置している。鬼門は「鬼や不浄なものがやってくる方角」として忌避されており、平安京遷都のときも「此所四神相応之地也。然而當東北有一高岳。以東以北即是鬼開也。適雖得四神相応之霊地。非無百寮怖畏之難。遷都儀式。宣有天察(4)」とあり、鬼門を特に忌避していたことが伺える。  
そこで、「延暦七年。博教大師向長岡京。咫尺龍顔奏言。所學教法。是善悪不二。邪正一如。魔界即佛。男之所談也。謂建第一義諦常安穏之都。専嘗帝徳偏崇佛法於最澄者。天子本命之伽藍致鎮護國家之誓護(5)」と、延暦7年に伝教大師が長岡京に赴き、鎮護国家のために、伽藍建立のことを奏上した、とも書いている。  
そういったところから出発し、比叡山は皇城の鬼門にあたるので、その災いを避けるために延暦寺を建てたという説が生み出されたのである。つまり、比叡山延暦寺は、都の鬼門を護る要塞であった。  
その「延暦寺は都の鬼門を護る存在である」という説から、「延暦寺がどのような存在から都を護っているのかという証明のため、立山に地獄が作り出された」という可能性を、筆者は提示する。  
そもそも、地獄というのは、死後人がどのような場所に行きどのような苦しみを受けるのか、そしてその苦しみから逃れるためにはどうしたらよいのか、寺が自らの力を示すために語られる場合が多い。そして立山の場合も、延暦寺の力を示すために生み出されたのではないだろうか。  
図11 の地図を見ていただきたい。都から見て鬼門(北東)の方角に比叡山延暦寺があり、さらに比叡山延暦寺を越えて鬼門の方角へ進んでいくと、立山に行き当たる。つまり延暦寺は、自分達よりさらに北東に位置する立山の景観が地獄の様相と、なおかつ「人間が亡くなった後、魂は山へとのぼる」という山中他界観と一致することを知り、自分達の力を示すために立山地獄を利用したのである。では何故、都から近い他の山ではなく、遠い立山を利用したのか。その理由は、次の論点へと移る。
第2節 「六月晦大祓」より  
当時の都では、不浄なもの・恐ろしいものを自分達の身近に置かず、外へ追い出す傾向にあった。それは、「六月晦大祓」の内容からうかがい知ることができる。  
(原文)  
祓給比乎清給事、高山・短山之末与理、佐久那太理尓落多支速川能瀬坐瀬織津比梼~云神、大海原尓持出奈武。如此持出往波、荒潮之塩乃八百道乃八塩道之塩乃八百会尓座須速開都梼~云神、持可可呑弖牟。如此久可可呑弖波、気吹戸坐須気吹戸主止云神、根国・底国尓気吹放弖牟。如此久気吹放弖波、根国・底国尓坐速佐須良比涛o云神、持佐須良比失弖牟(6)。  
(訳文)  
祓い清めて下さる罪(具体的には罪を付けた祓えの品物)を、高い山や低い山の頂から勢いよく落下してさか巻き流れる速い川の瀬においでになる織津比唐ニいう神様が、川から大海原へ持ち出してしまうであろう。このように持ち出して行ってしまえば、激しい潮流の沢山の水路が一所に集合して渦をなしている所においでになる速開都唐ニいう神様が、それをかっかっと音を立てて呑み込んでしまうであろう。このようにかっかっと呑み込んでしまえば、息を吹き出す戸口の所においでになる気吹戸主という神様が、それを地底の闇黒の世界へ息で吹いて放ちやってしまうであろう。このように息で吹いて放ちやってしまえば、地底の闇黒の世界においでになる速佐須良比唐ニいう神様が、それを持ってどことも知れずうろつき廻って、ついにすっかりなくしてしまうであろう(7)。  
このように「六月晦大祓」にて、罪(具体的には罪を付けた祓えの品物)は、高い山から低い山へ、川から大海原へ、潮流が渦をなして飲み込み暗黒の世界へ、そして地底の世界で消えてなくなっていく。これから見て分かる通り、当時の人々はとにかく、己の身に宿ったり周囲に存在する穢れを自分達から遠ざけたがったのである。  
つまり、延暦寺が同じ丑寅(北東)の方角であっても、近くにある山ではなく立山に地獄を設定した理由もここにあると私は推測する。地獄というものは罪を犯した亡者達が集まり、責め苦を受ける場所である。そのため、都の人々は地獄を恐れ、忌避した。そのため延暦寺も、都から遠く離れた立山に地獄を設定したのである。  
さらに、延暦寺が立山に地獄を設定した理由がもう一つ存在する。
第3節 「延喜式」より  
立山に地獄が設定された第3の理由、それは「延喜式」に書かれている「穢れ及び鬼が住む国」とされている佐渡と同じ方向に立山が存在していることである。  
「延喜式巻十六・陰陽寮」には、「穢悪伎疫鬼能所所村々尓藏里隠布留乎波。千里之外。四方之堺。東方陸奥。西方遠値嘉。南方土佐。北方佐渡與里乎知能所乎。奈牟多知疫鬼之住加登定賜比行賜氐(8)」。とあり、東は陸奥、西は遠値嘉、南は土佐、そして北は佐渡といったふうにそれぞれ千里離れた場所に鬼、もしくは穢れが住む国が存在している。そして注目すべきは、北方に位置している佐渡である。  
図11 から見て分かる通り、佐渡と立山は都から見てほぼ同一方向に位置しており、そのため同一視されたのではないかと推測する。
終章 結論 ―結びにかえて―
以上3点が、私から見た都から見た立山地獄が設定された理由である。  
まとめると、  
1 仏教より伝え聞く地獄の様相が、立山の自然景観と一致。  
2 古代の人々が元々持っていた山中他界観に基づく。  
3 都から遙か離れた場所=自分達が住む世界の垂直・水平方向の延長線上の場所  
4 都から鬼門の方角に位置する。  
5 都から遠く離れた場所に位置する。  
6 「鬼や穢れが住む場所」とされる佐渡と同一方向にある。  
と理由が総合して、立山に地獄があるという概念が生み出されたのだと考える。つまり立山は、「地獄がある山」と考えられるのに絶好の条件を有していたのである。そのため、都を護る立場である延暦寺はそれを利用し、「自分達が都から護っている存在」として「大日本法華験記」や「今昔物語」などの仏教説話集に立山地獄の様相やその立山から娘を助ける話を書き、都に「立山=地獄が存在する山」という印象を植え付けたのだろう。  
そして都に「立山=地獄が存在する山」という概念が定着した根拠として、「貴船の本地」と「天狗の内裏」を挙げる。  
「貴船の本地」では、 おほゐとの、さらはかたりて、きかせんとて。これよりきたへ、まいりていけへは。くらまの御てらとてあり。それより、ほそみちあり、それをはるかに、ゆきてみれは。そうしやうがたにとてあり。  
そのをくに、大なるいけあり。そのなを、みぞろいけと申也。そのをくに、大きなるあなあり。そのあなよりゆけは國あり。其國のなを、きこくといふ(9)。  
とあり、貴船にある谷の岩間を丑寅北東の鬼門の方角に進んだところにある「岩屋」のなかを五十里ほど歩いたところに、「鬼国」がある、と語られている。同時に、「天狗の内裏」にも似たような記述が見られ、鞍馬から北東の方角へ進むと天狗の内裏があるという。  
そして図12 を見てもらえば分かる通り、貴船及び鞍馬から見て鬼門、北東の方角に立山が位置している。つまり、「貴船の本地」及び「天狗の内裏」が成立した頃には既に、延暦寺によって「立山=地獄が存在する山」という概念が定着していたと考える。  
そして調べていく内に、気付いたことが一つある。  
前述で説明した通り、立山曼荼羅は山から追い出されて全国各地に立山信仰を普及して回ることとなった芦峅寺衆徒が、誰にでも分かりやすく絵解きするために作られたものである。そして中世で発展を見せた地獄・六道絵も、寺が死後の世界や地獄から逃れるための方法を説明するために描かれたものだという。  
さらに、地獄絵が流行した理由として保元・平治の乱による都の混乱と古代貴族が今まで築いてきた権威が地に堕ちたことによる心理的衝撃が背景にある。そして現代になって地獄について描かれた絵本や漫画が流行るようになったのも、現代日本社会に対する人々の不安が背景にあるかもしれない。  
何を言いたいのかというと、こういった現象は時代を問わず繰り返す、ということである。人々は常に幸福と不安の間を行き来しており、精神的不安を抱くとより現実を直視し、死後のさらなる苦しみから逃れようとする。そのため、その度に地獄が際立って注目されるのである。  
現在、はじまりでも述べたように、地元民でも知る者が少ない立山信仰・立山地獄であるが、もし今の日本が不安定な状況に陥ったら、再び立山信仰が流行する時代が来るのかもしれない。
注  
(1) 足利健亮『地図から読む歴史』講談社、2012、4頁。  
(2) 大曽根章介校注「大日本法華験記巻下第百廿四 越中国立山の女人」『日本思想史大系7』岩波書店、1974、565 頁。  
(3) 福江充『立山曼荼羅――絵解きと信仰の世界』法藏館、2005、37 頁。  
(4) 佛書刊行曾編纂「延暦寺護国縁起巻中」『大日本仏教全書126』佛書刊行曾、1914、421 頁。  
(5) 同上  
(6) 青木紀元「六月晦大祓」『祝詞全評釈─延喜式祝詞中臣寿詞』右文書院、2000、89 〜 90 頁。  
(7) 同上、244 〜 245 頁。  
(8) 「延喜式 中篇 陰陽寮」『新訂増補・国史大系』吉川弘文館、1972、443 頁。  
(9) 横山重・松本隆信編「貴船の本地」『室町時代物語大成 第九』角川書店、1981、72 頁。 
 


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