時代の人々
南北朝概論南朝指導者と戦略赤松円心楠木正儀護良親王北条高時 
常陸と楠木氏虚無僧と楠木氏足利尊氏北条政子明恵北条泰時後醍醐天皇・・・

時宗・一遍 仏の世界   

  1185 法然 栄西 道元 親鸞 日蓮 一向 一遍 他阿 明恵 北条 
政子
北条 
泰時
北条 
高時
新田 
義貞
後醍醐 
天皇
足利 
尊氏
鎌倉 
時代
  1133 1141   1173     開祖 第二祖 1173 1157 1183        
1200     1200                        
  1212 1215                          
          1222         1225          
            1239 1239 1236 1232            
                      1242        
1250     1253                        
        1262                      
                               
          1282 1287 1289             1283  
                               
1300                       1303 1300   1305
                1319              
                               
南北朝 
時代
                        1333 1338 1339  
                               
1350                             1358
 
 
南北朝時代(1336-1392)

中世の時代区分の1つ。 一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の出来事として扱うが、正確には延元元年/建武3年(1336)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、 元中9年/明徳3年(1392)に両朝が合一するまでの期間を指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称す。  
南北朝概論

14世紀の日本を混乱に陥れた南北朝時代。日本の歴史の転換点ともなる重要な時代なのですが、全体像が掴みにくい・混乱の終わりが見えず爽快感がない・皇室が絡むので論じるのに微妙な問題があるといった要因から敬遠される傾向があります。 
南北朝時代の背景 
8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。 
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となる。13世紀前半に承久の乱で軍事力に勝る幕府が朝廷を圧倒して大きく優位に立ち、次第に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向するようになる。 
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴って非農業民を支配下に置いた新興豪族が台頭、「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素とみなされるようになっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」は寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。 
一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。 
経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいたのである。 
「太平記」のあらすじ 
大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、意欲的に貨幣経済を取り入れた改革を行うが力の及ぶ範囲は限られていた。また、彼は大覚寺統でも傍流でありこのままでは子孫に皇位が継承される可能性はなかった。そこで、後醍醐は朝廷に支配権を取り戻し集権的な政権を樹立するため、そして皇位継承への介入(調停)を廃して自らの系統に皇位を継承させるため幕府打倒を志すようになった。まず1324年後醍醐は不平派を味方に付けて挙兵を目論むが事前に露見。この時は天皇自身に責めは及ばなかったが、その後も新興豪族に加え経済・軍事的に大きな力を持つ宗教勢力を味方に付けて倒幕を行おうとしていた。1331年再び計画が露見、後醍醐は笠置山に逃れて挙兵するが幕府軍に敗北し捕らえられる。なお、同時に河内の新興豪族・楠木正成も赤坂城で蜂起しているがこれも奮戦の末に落城している。幕府に捕らえられた後醍醐は持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流されたが、その後も後醍醐の皇子・護良親王が各地の豪族たちに挙兵を呼びかけて吉野に篭城した。また1332年末から1333年初頭にかけて正成が赤坂城を奪還すると共に大阪平野各地で幕府軍を破り京を脅かし、千早城に篭城。幕府は関東から大軍を派遣してこれを攻撃するが苦戦を強いられ、幕府の軍事的威信は著しく低下した。この頃には播磨の赤松円心がしばしば京を攻撃し、河野水軍なども挙兵。更に後醍醐が隠岐から脱出して伯耆の名和長年の庇護を受けて船上山に篭った。そして5月には幕府軍として派遣された幕府方の有力者・足利高氏が後醍醐側に寝返って京の幕府拠点であった六波羅探題を攻略、京は後醍醐方の手に落ちた。同時期に関東でも上野の豪族・新田義貞が破竹の進撃により鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は130年の歴史に幕を下ろした。 
こうして政権樹立に成功した後醍醐は、光厳の即位を否定した上で自らを頂点とする専制政権建設に取り組む。建武の新政である。貨幣経済を重視し、先例や家柄にとらわれない人材起用を行うが、その強引な政策が各方面の反発を買う。更に恩賞における処理が豪族たちの不満を招いた。その中で護良親王と足利尊氏(高氏が改名)が豪族の指示を巡り対立。結局は尊氏が支持を集め護良は失脚する。 
1335年鎌倉幕府残党が鎌倉を奪回。尊氏はこれを鎮圧に向かったのをきっかけとして現地で独自の論功行賞を行い自らの政権樹立を目指す。後醍醐は当然これを朝廷に対する反逆とみなし、新田義貞を大将とする討伐軍を派遣するが尊氏は竹ノ下でこれを破って上京。1336年初頭には京において足利軍と新田・楠木ら朝廷軍との死闘が繰り広げられるが奥州から駆け付けた北畠顕家の奮戦もあり後醍醐方が足利軍を一旦は追い散らす。尊氏は自らの大義名分を確保するために持明院統の光厳院より院宣(上皇、すなわち退位した天皇による命令書)を得て各地の豪族に呼びかけながら九州に逃れた。なお、その途上で中国・四国の要地に一族・現地豪族を配置して追撃に備えている。そして博多に上陸した足利軍は後醍醐方の菊池氏による大軍を多々良浜で破って九州を制圧、水陸両軍を編成して再び京へ向かう。一方で義貞の率いる朝廷軍は編成に手間取り追撃が遅れ、更に播磨白旗城で尊氏に味方する赤松円心により進軍を阻まれ後手に回る。この際に正成は尊氏との和平を後醍醐に進言するが受け入れられていない。5月末に足利の大軍は兵庫に至り、正成は京を捨てて比叡山に入り大阪平野の楠木軍と共に京の足利軍を包囲する戦略を具申するが却下された。かくして兵庫に迫る足利群を新田・楠木軍は湊川で迎え撃つ。尊氏の戦術により新田・楠木勢は分断され包囲に陥った楠木勢は異例の奮闘を見せるものの衆寡敵せず正成らは落命。こうして尊氏の入京を防ぐものはなくなった(湊川の戦い)。後醍醐は義貞と共に京を逃れ比叡山に篭城するが足利軍によって包囲され、尊氏による和平提案に応じる。 
一方で尊氏は京に入ると持明院統から光明天皇を擁立し、和平成立すると後醍醐から譲位を受ける(北朝)。その上で尊氏は京に自らの政権を樹立する事を宣言した(足利幕府)。一方で後醍醐は京を脱出して吉野に逃れ自らの皇位がまだ正統である事を主張した(南朝)。60年以上にわたる南北朝の動乱はここに始まる。後醍醐は各地の味方に挙兵を呼びかけて京奪回を図った。この時期、北陸に新田義貞、奥州に北畠顕家、伊勢に北畠親房が有力な南朝方として勢力を張っており彼らによる奮起が期待された。顕家は1338年に奥州から出陣して足利軍が押さえていた鎌倉を攻略すると共に、東海道を一気に西上して青野原(関ヶ原)で足利軍を破るものの自身も大きな損害を受け伊勢で軍勢を再編。そして奈良を経て大阪平野に進出すると共に別働隊を八幡に向かわせて京に圧力をかけた。しかし和泉石津で足利軍の主力・高師直の手勢と激戦の末に敗れて討ち死に。こうして奥州の南朝方は大きな打撃を受けた。一方で義貞は拠点の越前金ヶ崎城を落とされるなど苦戦を強いられるが、北陸のかなりの地域を支配化に収める事に成功。しかし情勢が安定せず顕家への援軍を送ることは出来なかった。そして1338年越前完全平定を目前にした中で流れ矢に当たり戦死するという不運な最期を遂げている。これらは劣勢な戦力で無理な攻勢に出た事による破綻と言えるかもしれない。 
これを受けて尊氏は同年に正式に征夷大将軍に就任。南朝では北畠親房が伊勢から関東に下り、常陸を中心とした現地の水軍勢力を味方にして勢力拡大と奥州における南朝拠点再建を図る。こうした中で1339年後醍醐が崩御、子の義良親王が皇位を継ぐ(後村上天皇)。敵ながら後醍醐を敬慕していた尊氏が慰霊のため天竜寺を建立したのはこの時である。さて関東における親房は北関東・奥州白河の結城氏と結んで勢力を広げようとするが結城氏は応じず自身も苦戦を強いられる。この際に味方の士気を高めると共に南朝の正統性を地方豪族たちに訴えようと執筆したのが「神皇正統記」であった。親房はこれに加え、現地の豪族たちに官位の仲介をするなどして味方に付けようと努力するが空しく1343年関東における拠点を失ってやがて吉野に帰還している。 
この頃、南朝は奥州の北畠顕信、信濃周辺の宗良親王、四国の花園宮、九州の懐良親王・菊池氏など皇子や貴族を派遣して各地に勢力を扶植しようとするものの足利方が圧倒的優位を保っていた。この時期、足利幕府は軍事動員・恩賞授与を受け持つ将軍尊氏と一般政務・所領保証・訴訟を担当する副将軍・直義(尊氏の弟)による二頭体制を取り順調な政権運営がなされていた。しかし、旧来の権威を軽視する新興豪族を中心とした高師直(尊氏の執事)派と有力豪族ら保守派による直義派の対立がこの頃から深まるようになった。 
1347年吉野の南朝方は親房の指導の下で楠木正行(正成の子)を主力として再度活動を開始し足利方に脅威を与えるが、翌年初頭に四条畷で師直の大軍が正行を討ち取る事で南朝の攻勢は潰える。この際に師直は勢いに乗って吉野に攻め入っており、南朝は更に奥地の賀名生に逃れ自力で攻勢に出る力を失った。こうして足利方の安定的優位が確立したかに見えたが、この戦功で師直派が力を持った事が両派閥の対立を一気に表面化させる(観応の擾乱)。直義が尊氏に要求して師直を罷免すると、今度は1349年師直がクーデターを起こして返り咲き直義やその一党を失脚させた。これに対して1350年直義は養子・直冬(実父は尊氏)に九州で勢力拡大させると共に自身は南朝と結んで師直・尊氏と戦いこれを破る。1351年直義は尊氏と和平し師直らを殺害して復権に成功した。しかし両派閥の対立は修復不能であり、今度は尊氏と直義が衝突するに至る。今度は尊氏が南朝に降伏して名分を確保し、関東に逃れた直義を1352年に滅ぼした。 
こうして一時的ながら朝廷は南朝のみに統一され(正平の一統)、三種の神器も南朝に接収された。更に勢いづいた南朝は京都を軍事占領し北朝の上皇・天皇ら主要皇族を捕らえ北朝を崩壊させている。義詮は間もなく京を奪回し北朝を再建したものの、皇位を証明する三種の神器も即位を正統化する「治天の君」(天皇家の家長)も欠いており以後の北朝は正統性に疑問が残る事となる。これは北朝に権限を認められている足利幕府の正統性にも影を落とす事となり、大きな政治課題となった。 
さて旧直義派は直冬を中心に抵抗を続けるが、足利幕府から排除され劣勢に立たされる。彼らは南朝に降り何度か京を奪うも一時的攻勢に過ぎなかった。こうして足利幕府を二分した内乱は一段落する。 
1358年尊氏が病没し義詮が第二代将軍として幕府指導者の地位を継承。この時期、九州では懐良親王を擁立する菊池武光が勢いを増しており、1359年筑後川の戦いで少弐氏を破ったのをきっかけに、大宰府を制圧し1362年には九州全土を手中にしていた。一方で足利幕府は有力者間の内紛に悩まされ九州に手が出せない状態が続く。義詮は有力者の統制に苦しみ、仁木義長や細川清氏・斯波高経らの反逆に悩まされるが佐々木導誉・赤松則祐らの協力も得てこれを克服。細川頼之の活躍により旧直義派の大内弘世・山名時氏とも(彼らの既得権益を認めた上で)和平が成立し、足利幕府は安定へと向かう。この時期には南朝とも何度か和平交渉がもたれており、1367年南朝和平派の楠木正儀との間で和平成立寸前まで至るものの直前に破談。 
義詮の後を継いだ第三代将軍・義満の時代になると幕府の優勢は確立しており、細川頼之の補佐もあり将軍権力の確立や幕府機構の整備が進められ義満は専制君主への方向性を志向するようになる。一方で南朝では内部分裂に直面していた。後村上天皇崩御後に即位した長慶天皇は主戦派であり、和平派の楠木正儀は幕府への降伏を余儀なくされている。また、九州においても1372年今川了俊が九州探題として派遣されて以降、南朝方は次第に劣勢に追いやられていった。そして軍事的崩壊に直面する南朝では、再び和平派が力を持ち後亀山天皇の下で和平交渉がなされる。幕府にとっても三種の神器を回収し北朝や幕府の正統性を確保する為にも南朝の平和的吸収は必要な課題であった。かくして1392年持明院統と大覚寺統の交互即位などを条件として両朝は合体し、後亀山(南朝)から後小松(北朝)に三種の神器が譲渡された。しかしこれは実質的な南朝の降伏であり、合体時の約束は守られず以降は専ら北朝系統によって皇位は継承されていく。また、この内乱で朝廷の政治的権限は失われ幕府による専制体制が樹立されるが、幕府の権力も有力者の支持に依拠した不安定なものでありやがて有力者間の争いなどもあって15世紀前半になると政情は再び揺らぎだすのである。 
両陣営の勢力差 
南朝や足利幕府の勢力圏は安定していたとはいえない。というのは、豪族の一族内紛や現地での土地・利権争いなどで各地の豪族たちが自らの都合に応じて両陣営を渡り歩いていたからである。しかし、大体において足利方が圧倒的に優勢であった点は一貫しているといえよう。 
まず、南朝は畿内南部の山間地に拠点を置き関連文書も大和・紀伊・河内・和泉の山間部を中心に極めて限られた地域でしか見られていない。そして本拠地も当初は吉野であったが、軍事的劣勢になってからは賀名生に移り更に金剛寺や観心寺、住吉神社などを転々としている(攻勢に出るための移動もあり一概に劣勢によるとはいえないが)。一方で地方拠点も当初は奥州(北畠顕家)や越前(新田義貞)などが存在したがいずれも足利方の攻勢により早い段階で壊滅の憂き目を見ている。ただ、九州のみは足利幕府より派遣された九州探題と現地有力豪族との対立や幕府内紛に乗じて菊池氏が派遣を樹立する事に成功している。 
足利幕府は全国の豪族に対して所領を保証する事で味方に引き入れる事にかなり成功し圧倒的な戦力を築いた。ただし、足利将軍家の直轄領は少なくしかも直前までは同輩であった有力者も多数存在したため、その結束は極めて不安定なものであった。利益や権力を政権内部で争った一方が対抗上南朝に走る例もしばしば見られ、それが戦乱を長引かせる一因になっている。 
南北朝の動乱は、二つの朝廷が分裂したものには違いないが、それぞれが互角の戦いをするものではなかった。北朝は足利幕府の傀儡と言ってよい存在であった(当初は全くの無力でもなかったようだが)し、南朝に至っては山間部による地の利を生かして辛うじて敵の攻勢を防ぎながら敵の分裂に乗じる事で細々と命脈を保つに過ぎなかった。一方で圧倒的勢力を誇る足利幕府も、その基盤は極めて不安定であり統一を達成するには多くの困難をはらんでいた。これが両勢力の不均衡にもかかわらず戦乱が長らく持続した原因である。 
南朝・北朝両陣営の内情 
北朝/北朝は、代々持明院統の皇室から天皇を輩出した。当初はある程度の所領に対して裁判権を有し京市内の行政権も保有していたが、自身の武力を形成する事は出来ず足利幕府による保護が不可欠であった。そのため早くから幕府による政治介入を許しており、中期以降は所領が地方豪族によって多くは侵食され経済基盤を失ったためもあり政治的権限を足利幕府に奪われ形骸的な存在となる。軍事的には完全に足利幕府に依存しており、内乱における当事者では実質的にありえなかった。 
足利幕府/足利氏は鎌倉幕府の下でも有数の名門として遇されていたが、首長の座にあった北条氏からは警戒されてもいた。それによる圧迫を払いのけ更に自らの政権を樹立するため、後醍醐の蜂起に乗じて北条氏打倒に加わる。建武政権においてもその功績が重んじられると共に勢力を警戒され「敬して遠ざけられる」状況であった。しかしその中で戦いで得た関東における既得権益を「鎌倉将軍府」(後醍醐の皇子・成良親王を首長に迎えた)として認められ自らの政治的基盤を獲得。更に建武政権に不満を持つ各地の豪族と連絡し味方を増やしていた。後醍醐に背いた当初は一進一退の戦いであったが持明院統と結んで大義名分を手に入れてからは大きな勢力を築き京に自らの政権を樹立した。 
政権樹立後は軍事的権限を尊氏、内政を直義が担当したがこれが文治派・武断派や保守派・革新派などの対立を招き内乱に至る原因となっている。その後もしばしば政権内の内紛に苦しめられるが、時には武力で打倒し時には利を食わせて帰順させるなど硬軟両面で対応し優位を確立していった。 
配下の有力豪族たちは戦乱における兵糧確保を名目に貴族の荘園の半分を手中に収めるのを認められており(半済令)、これを通じて有力者たちはその所領における支配を確立させようとした。 
尊氏は降伏する者に寛大で所領に関しても気前良かったとされており、これが多くの豪族を味方として引き寄せたと言われる。ただし、これは足利将軍家の直轄領が少ないのに拍車をかける側面が存在したのも否めない。またかつて同輩であった豪族も配下には多く、反逆もしばしばであった。中期以降は擁立する北朝の正統性に疑問符がつく状況であったため幕府自身の正統性にも問題があり、将軍の権威確立に苦慮する事となる。そのため、北朝の政治的正統性確立を目的として南朝の平和的吸収および北朝天皇への譲位に強く執着した。 
義満の時代に両朝合体による政治的統一と一応の政治的安定を実現するが、完全に有力者を押さえ込めたわけではなく彼の死後には再び有力者への対応に苦慮する事となる。そして15世紀前半には将軍が有力豪族に暗殺される事態となり、それを契機に将軍の権威は低下し1467年より11年持続した応仁の乱によってその無力化することとなる。 
南朝/大覚寺統の後醍醐系統により皇位が継承された。後醍醐は商業発達に伴い台頭した非農業民を味方に組み入れる事で鎌倉幕府を打倒し政権樹立に成功するが、朝廷の社会的実力は低下しており商業勢力も日本全体を抑え込むには発達が不十分であった。そのため、専制を志向するものの安定した政治権力を築く事が出来ず、尊氏を中心とする反対勢力の前に敗れて吉野に逃れる。以降も非農業民を中心として味方を組織し、足利幕府に対して抵抗を続けるものの農業勢力の力がいまだ強く圧倒的な劣勢に終始した。しかししばしば足利幕府が内紛に陥ったためその一方と手を結んで一時的な優勢を現出したこともあった。中期以降の南朝は足利幕府内の不平分子が大義名分として擁立する存在となる。 
足利幕府の傀儡であった北朝と異なり、南朝では天皇自身が政権の主導権を握り国家戦略策定をも行っていた。また、将軍が配下の反乱に悩まされた足利幕府と異なり天皇の権威を脅かす臣下は出現していない。支配領域の荘園から米の上納を求める事で収入源としており、これは足利幕府における半済令と共通すると言える。 
皇位の象徴である「三種の神器」を保有し続けていると主張し、事実中期以降は北朝の「三種の神器」も回収して唯一神器をもつ存在であった。そのため軍事的に圧倒的劣勢でありながらも平和的和平にこぎつける事が可能となった。しかし両朝合体後は講和時の条件も反故にされ、残党による抵抗をしばらく続けた(後南朝)後に歴史の表舞台から消えていった。 
要約 
社会の発展に伴い、社会の傍流である筈の人々の役割が増大し社会的影響力を増加させ、それが政権の腐敗もあいまって不安定要因となる。 
彼らを利用して専制政治を目論む後醍醐天皇が、武家政権に戦いを挑むも挫折。 
勝利した筈の武家政権も革新派・保守派の対立から内戦に突入、敗れた朝廷の残党がそれに乗じて再び勢力を伸ばすも結局は敗北 。 
南北朝は非農業民が農業社会に対抗するだけの実力をつけつつある変革期であるだけでなく、軍事的にも特権階層である騎馬戦士の個人的武勇によるところが大きい戦いから 、歩兵の集団の占める役割が増大する時代です。 
この時代は商業の発達により貨幣経済が本格化、それに伴い庶民の社会的実力が向上して文化的な役割も大きくなりました。茶の湯、立花、俳諧、能・狂言など一般に日本文化として連想されるものの起源が 、この時期に見られると言えます。まさしく日本史上屈指の転換点であったと言えるのです。 
主要人物 
後醍醐天皇/皇室が持明院統・大覚寺統に別れて争っていた時代に大覚寺統・後宇多天皇の子として生まれる。名は尊治。天皇に即位すると卓抜した政治手腕で朝廷の支配が及ぶ京都周辺で政治改革を行い高い評価を得た。朝廷による全国的な専制政権を樹立し自らが支配者として君臨する事を目論み鎌倉幕府を倒すため戦いを仕掛ける。緒戦は敗れ隠岐に流されるものの最終的に倒幕に成功し朝廷による統一政権を実現するが、その強引な政治方針は各方面から反発を買い足利尊氏の反逆により政権は瓦解。吉野に逃れ尊氏が擁立する持明院統の朝廷と対立。足利政権との戦いが不利になりつつある中で病没。 
足利尊氏/鎌倉幕府配下の中で有数の名門に生まれる。当初は幕府方であったが、鎌倉幕府を支配する北条氏に取って代わり天下を取ることが足利氏の宿望であった関係もあり後醍醐天皇方に寝返り京都を占領。これで畿内が後醍醐方の手に落ち、尊氏の功績は大きいと評価された。後醍醐政権の下で当初は雌伏していたが、政権への不満が高まる中で後醍醐に反旗を翻し戦いの末に京を占領し自らの政権を樹立。戦力的優位を活かし南朝との戦いを有利に進めるが、弟・直義らとの内紛に悩まされる中で病没。 
足利直義/尊氏の弟。尊氏の戦いにおいて忠実に尊氏を補佐し、時には戦意を喪失した尊氏を叱咤激励した。尊氏と異なり軍事的才能には恵まれなかったが政治的手腕を発揮し政権運営に大きく貢献。保守派の旗頭として担ぎ出され、尊氏やその執事・高師直らを擁立する新興勢力と対立し、戦いの末に敗れる。 
桃井直常/直義派の武将。尊氏・高師直と激しく対立。直義没後はその養子・直冬の配下となる。保守派の有力者として強硬に、好戦的に戦いを進める。 
足利直冬/足利直義の養子(実父は尊氏)。実際には尊氏の長男であるが、母の身分が低い事もあり冷遇される(一方、義詮は正室の子であった)。中国探題に任じられるが、観応の擾乱において養父・直義と行動を共にする。直義没後は直義派を率いて南朝と結び京を一時占領するがやがて劣勢となる。自らの障壁となる尊氏・義詮との戦いに過ごし、その愛憎を戦う原動力とするも報われなかった生涯であった。 
高師直/足利氏の執事。尊氏に従って軍事面で手腕を発揮し、南朝方の主力である北畠顕家や楠木正行(正成の子)を討ち取るなどの戦功を挙げている。新興豪族を家臣として編成し軍事力として動員している事から、彼らの利益を代表する存在として直義らの保守派と激しく対立。内乱の末に直義派に破れて殺害される。既成秩序破壊者としての性格が強かったのは知られる。 
新田義貞/源氏の血を引く関東の豪族。尊氏が後醍醐方に寝返り京を占拠したと同時期に挙兵し鎌倉を占領、幕府を滅亡させる。尊氏が後醍醐天皇に反逆した際には後醍醐方の総指揮官として軍勢を率い転戦するも苦戦を強いられる。後醍醐が吉野に逃れる前後に後醍醐の皇子・恒良親王を伴い北陸に降る。一時はその軍事手腕で北陸に勢力を広げるが、黒丸城攻めの最中、督戦のため少数の兵で前線に向かう最中に敵の大軍に遭遇し戦死。軍人としては優秀であるが、政治的な力量はない。実直で部下思いでもあったが、あっけなく討ち死にを遂げたのが惜しまれる。 
脇屋義助/新田義貞の弟。義貞に従い、各地で転戦する。義貞の副将として別働隊を率いる事も多かった。義貞死後も北陸で奮戦するが及ばず、四国で南朝方の糾合を図るが間もなく病没した。勇戦ぶりも描かれ決して無能ではないが、しばしば文弱な貴族や練度の低い烏合の衆を率いる事になったためか、敗北のきっかけを作り義貞の足を引っ張る結果となる事も多く割の合わない役どころである。 
楠木正成/商業の発達により台頭した河内の土豪出身。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し挙兵した際に召しだされ、赤坂城・千早城での篭城戦で幕府軍を翻弄する。その健闘ぶりが鎌倉軍の威信低下・各地での倒幕勢力蜂起に繋がったといえその功績は大きい。尊氏が反逆した後も後醍醐のため奮戦する。情勢が有利な間に尊氏と和解する、京を一旦明け渡して包囲するといった献策をしたが受け入れられず、不利な戦いを強いられた湊川合戦で足利の大軍の前に力尽きる。後世に至るまで忠臣として称えられた。少数の戦力でゲリラ戦術などを用い敵を翻弄し、部下たちと固い結束を誇った。また、人物としても実直で包容力のある申し分ない人物とされることが多い。 
護良親王/後醍醐天皇の第一皇子(異説あり)。後醍醐天皇が挙兵した際には比叡山・吉野などで僧兵や豪族たちに蜂起を呼びかけ倒幕勢力を組織化、後醍醐が隠岐に流された期間には実質上の総司令官として活動。後醍醐政権下では尊氏と対立するが、尊氏の計略によりその勢威を脅威とした後醍醐によって捕縛され、やがて直義によって殺害される。後醍醐方として手腕を振るい大きな貢献をするも、(本人の意図とは関係なく)後醍醐にとって「獅子身中の虫」という側面があった。保身に長けているとは言えずあっさりと没落し姿を消したのは惜しまれる。 
恒良親王/後醍醐天皇の皇子。寵妃・阿野廉子との間に生まれた関係もあり皇太子に立てられる。尊氏との戦いの中で後醍醐より帝位を譲られ(ただし、後になり後醍醐はそれを撤回し自分が天皇と主張)新田義貞と共に北陸へ下り越前金ヶ崎城に篭るが落城の際に捕えられ後に処刑される。 
赤松円心、則祐/播磨の新興豪族。則祐は円心の三男。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し挙兵した際、則祐は護良親王に付き従い行動。円心も護良親王の令旨を受けて播磨で挙兵し、幕府方が占拠する京都を繰り返し攻撃する。建武政権においては、後醍醐が護良親王を警戒していたため護良派の赤松氏は冷遇される。そのため、護良没落後は足利尊氏に接近し尊氏が反旗を翻した後には足利方として活躍。尊氏が義貞に敗れ西国に落ち延びた際には、持明院統の天皇を擁立して朝敵の汚名を防ぐ事を進言したり、播磨白旗城で新田軍を食い止めるなど大きな功績を挙げている。その後も足利政権の下で有力者として活躍、観応の擾乱でも尊氏方として活動した。後を継いだ則祐も足利政権で有力者として巧みに遊泳した。将軍義詮が細川清氏ら南朝軍により京を失った際は幼い義満を播磨で保護している。赤松氏は侍所別当を務める家柄として定着する。 
北畠顕家/北畠親房の子。後醍醐政権では東北地方を統括する奥州将軍府に赴任。尊氏が反旗を翻した際には上洛し尊氏軍を新田義貞・楠木正成らと共に西国に追い落とす。尊氏が再び京を占領し政権樹立した後、再度上洛を試みしばらくは破竹の進撃を続けるが、石津の戦いで高師直に敗れ討ち取られる。 
千種忠顕・名和長年・結城親光/鎌倉幕府倒幕の際に功績を上げ後醍醐天皇より寵愛を受ける。楠木正成と共に「三木一草」と呼ばれた。尊氏との戦いの中で戦死。 
北畠親房/後醍醐天皇の寵臣の一人。尊氏が反逆し後醍醐が吉野に逃れた際、伊勢に南朝が他の勢力を築く。後醍醐死後、関東に入り南朝方の勢力扶植に腐心するが果たせず。その後、吉野で南朝方の指揮を取り足利幕府の内紛に乗じて京都奪回を成功させる。関東経略時代は貴族的・大時代的趣味を持ち陰謀をめぐらすが裏目に出る傾向があったが、その後は吉野で南朝全体の指揮を取り、敵の内紛の間隙を巧みに利用した。 
足利義詮/尊氏の子。尊氏の死後に後継者として足利幕府第二代将軍となる。幕府内の内紛や南朝との戦いに苦闘する。結果として幕府の優位確立に成功しており無能ではないと思われるが、京から逃れる際に天皇らを同行させるのを忘れるなど重大な失態が目立つ。 
佐々木道誉/近江に拠点を持つ有力豪族。尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際に尊氏に従い、以降も尊氏と行動を共にする。幕府内部での内紛を強かに泳ぎ抜き有力者としての地位を確立。晩年は若い世代の後見役的な存在であった。陰謀家として知られ時には寝返りも辞さなかったが、尊氏には基本的に忠実であった。既存の価値観に捉われない派手な装束・振る舞いから婆沙羅大名と言われた。多彩な才能に恵まれ、革新的な時代の子である。強かで保身の術にも長けていた。 
細川清氏/足利一門の一人。観応の擾乱で尊氏方として奮戦し武名を馳せる。義詮が将軍になった際には執事として補佐するが、強引な手法や傲慢さから反発を買う。佐々木道誉の陰謀もあり義詮から謀反人として討伐を受け、南朝に降る。一時は京を占領するも次第に劣勢となり最後は細川頼之に討ち取られる。その勇猛さから重んじられ新世代の期待の星であったが、激昂しやすさが仇となり破滅の道を歩む。 
山名時氏/新田一族の土豪。足利方として奮戦。観応の擾乱では直義派の有力者として力を振るい、その軍事手腕と強かさで勢力を拡大。一時期は京都を占領もしている。最終的には義詮に形式的な降伏をするが自分の勢力圏を追認させている。粗野で強かな直義方の兵(つわもの)である。 
大内弘世/一説では百済王家の末裔とされる。大陸との貿易により利益を上げている。南北朝の間を渡り歩き、観応の擾乱では直義方として活動。その手腕で勢力を拡大。最終的には義詮に形式的な降伏をするが自分の勢力圏を追認させている。保守派に相当する直義方の有力者であるが、本人は革新的な時代の子である。 
後村上天皇/後醍醐天皇の皇子。後醍醐崩御を受け、南朝第二代の天皇となる。若年期は北畠親房の補佐を受けるが、親房死後は南朝の総帥として圧倒的不利な状況下で戦いを進めると共に幕府との和睦も模索。 
四条隆俊/南朝方の公家。南朝の正統性に疑いを持たない強硬派。忠誠心に問題はなく勇敢ではあるが、情勢の実態をどの程度認識できているかには疑問がある。 
楠木正儀/楠木正成の三男。兄・正行が戦死した後は楠木氏当主として軍事的に南朝を支える。南朝首脳・公家の強硬な主張と圧倒的不利な現実の板ばさみとなり苦悩、幕府との和平を模索。一時期は北朝に投降している。 
新田義興/新田義貞の子。観応の擾乱の際には幕府内紛に乗じて関東で新田氏の残党を率いて挙兵。一時期は鎌倉を占拠するが尊氏に敗れる。その後、幕府方の土豪に謀殺される。 
長慶天皇/後村上天皇の皇子。第三代南朝天皇。強硬な主戦派として和平派と対立。戦況の悪化と共に和平派の後亀山に譲位を余儀なくされるがその後も主戦派の領袖であり続けたようだ。自らの野望・その強硬さにより結果として南朝の分裂を招く結果となる。 
細川頼之/足利の一門。細川清氏の従兄弟。観応の擾乱で尊氏方として戦い、中国の敵勢力を懐柔。清氏が謀反を起こした際には彼を討ち取っている。その後、義詮病没時に管領となり第三代将軍義満を補佐。幕府の体制を整えると共に情勢の安定化に努める。清氏と共に新世代の期待の星。勇猛だがキレやすい清氏と違い、安定した性格の持ち主で強かな智将として活躍。最終的に事態の安定化に一応は成功。  
 
南朝の軍事指導者と戦略

護良親王 
後醍醐天皇の皇子として延慶元年(1308)に生まれる。寺社勢力を味方につける後醍醐の計画の一環として延暦寺の座主となる。後醍醐挙兵の際には比叡山・吉野などで寺社や新興豪族を中心に蜂起を呼びかけて倒幕勢力を組織化、後醍醐が隠岐に流された期間には楠木正成・赤松円心の補佐も受けて実質上の総司令官として活動。後醍醐政権下では足利尊氏と対立するが劣勢に陥り、折からその勢威を脅威としていた後醍醐によって切捨てされ捕縛される。その後は足利氏の拠点である鎌倉に送られ、やがて建武2年(1335)足利直義によって殺害される。 
戦略/鎌倉幕府の武力はいまだ強大であり、正面から戦っては勝ち目はなかった。そこで、寺社・修験道との深い繋がりを利用し、彼らを組織化して京周辺を中心に全国で蜂起させることで幕府を揺さぶり、更なる不平分子の蜂起を誘発させて状況を有利にする戦略をとった。中でも千早城で大軍を相手に奮戦する楠木正成と繰り返して京に攻撃を加える赤松円心は貴重な手駒であったといえる。こうした戦略は正成らの補佐により樹立されたものと思われるが、結果として全国の不平分子を動かし戦況を変化させる事に成功した。幕府打倒後は、全国の有力豪族に人望のある大豪族・足利氏を警戒し自らが豪族を束ねる事で朝廷を安定させようと図った。しかし足利氏の力を切り崩すのは難しく、しかも嘗て最高指揮官として「天皇代理」の役割を果たしていた事から後醍醐に危険視されており失脚することとなった。 
後醍醐天皇 
皇室が持明院統・大覚寺統に別れて争っていた時代に大覚寺統・後宇多天皇の子として正応元年(1288)に生まれる。名は尊治。天皇に即位すると卓抜した政治手腕で朝廷の支配が及ぶ京都周辺で政治改革を行い高い評価を得た。朝廷による全国的な専制政権を樹立し自らが支配者として君臨する事を目論み鎌倉幕府を倒すため戦いを仕掛ける。緒戦は敗れ隠岐に流されるものの最終的に倒幕に成功し朝廷による統一政権を実現するが、その強引な政治方針は各方面から反発を買い足利尊氏の反逆により政権は瓦解。吉野に逃れ尊氏が擁立する持明院統の朝廷と対立。足利政権との戦いが不利になりつつある中で延元4年(1339)病没。 
戦略/後醍醐は、畿内を中心とする新興豪族や水軍・宗教勢力を味方につける事で統一政権樹立に成功したが、政情を安定させ政権を維持するには実力不足であった。政権が崩壊し吉野に移るのを余儀なくされた後も、新興豪族や反足利勢力を中心に各地方に味方勢力を扶植した上で都を奪回しようと計画していた。しかし劣勢の上に成果を急いだ事や味方間の連携が難しかった事から各個撃破され、失意のうちに没する事となった。なお、後醍醐は例外的な篭城戦以外では前線に出ておらず、足利尊氏との戦いで直接の軍指揮官を務めていたのは新田義貞であったが、戦略決定権を握っていたのは一貫して後醍醐であり義貞は戦略レベルの決定には与らず実質的に一方面軍司令官と大差ない状況であった。 
北畠親房 
永仁元年(1293)、中堅貴族の家柄に生まれる。後醍醐天皇が即位した直後には重臣の一人として知られるが、一時期は距離を置いている。後醍醐政権成立後は奥州経略を任された息子・顕家に同伴して奥州に赴いた。尊氏が反逆し後醍醐が吉野に逃れた際、伊勢に南朝方の勢力を築いている。一時期、関東に入り南朝方の勢力扶植に腐心するが果たせず。吉野に帰還して後醍醐没後の南朝方を指揮するが間もなく畿内南朝軍主力を壊滅させてしまう。その後、足利政権の内紛に乗じて京都奪回を成功させるが一時的なものに終わった。正平9年(1354)に没している。 
戦略/当初は後醍醐の構想に沿って、南朝の正統性を唱えアジテーションする事で各地の新興豪族・反足利勢力を味方につけ地方を組織化しようとしていた。しかし、戦況が不利であった事や後醍醐崩御直後の権力空白状態において十分な援護を受けられなかった事、加えて親房自身が原則論に固執する傾向が強かったことから豪族の支持を得る事はできなかった。吉野帰還後は味方勢力を自らのアジテーション理論を用いて組織化し、敵の内部分裂を巧妙に利用して立ち回り南朝の立場を向上させた。更に足利方の隙を着いて正平7年(1352)一時的ながらも京奪回に成功している。しかしこの時期も京奪回に固執する傾向があり、成果を焦って正平3年(1348)四条畷合戦で南朝主力である楠木正行軍を全滅させると言う失態をしている。さらに京奪回も結局は維持するだけの戦力がなく失敗に終わり、消耗する結果に終わった(ただしその際に北朝の天皇・院や神器を回収した事は、後に足利政権の正統性を奪う事になり和平交渉に影響を与えている)。また、京奪回後の具体的な展望は抱いていなかったと思われる。同時期に足利方との和平交渉も行っているが、南朝による統一という原則論にこだわり破綻させている。和平交渉は飽くまで敵の内紛に付け入り情勢を有利に運ぶための駆け引きとして捉えていたようだ。 
足利直冬 
足利直義の養子(実父は尊氏)。実際には尊氏の長男であるが、母の身分が低い事もあり冷遇される(一方、義詮は正室の子であった)。中国探題に任じられるが、尊氏・直義が対立して足利政権が内紛状態になると養父・直義に味方して九州・中国地方で勢力拡大を図る。直義没後は旧直義派を率いて南朝に降伏、総追捕使に任じられ軍事指導者とされる。正平10年(1355)京を一時占領するがやがて劣勢となり、山陰に逃れる。生没年は不詳。 
戦略/旧直義派と南朝の勢力を合同させ京を尊氏から奪取する事に成功しているが、尊氏に一泡吹かせる事が全てだったようで、長期的な展望を抱いていたとは思われない。また、分裂した足利方の首領であり本質的には南朝軍事指導者と呼ぶにはそぐわないのであるが、便宜上とは言え南朝から軍事総指揮官の資格を与えられ戦略的権限も得ているためここに記した。 
細川清氏 
足利一族として生まれ、青年期より足利尊氏配下で武功を挙げ勇将として知られた。足利政権第二代将軍・義詮の時代には執事として足利政権の運営にあたるが、強引な方針が有力者の反発を受けて北朝康安元年(1361、正平16年)に失脚し南朝に降る。同年に楠木正儀と共に南朝軍を率いて京を占領するが短期間で奪回され、四国に逃れる。正平17年(1362)敗死。 
戦略/自らの軍勢と南朝の勢力を合同させ京を足利方から奪取しているが、長期的な展望を抱いていたとは思われない(楠木正儀は、戦略的に無意味として上述の京攻撃に反対している)。足利政権内部の権力争いに敗れて大義名分を求め南朝に近づいた存在であり本質的には南朝軍事指導者と呼ぶにはそぐわないが、便宜上ながら南朝総指揮官を務めて戦略的権限も与えられているためここに記した。 
楠木正儀 
楠木正成の三男。兄・正行が戦死した後は楠木氏当主として軍事的に南朝を支える。足利方の分裂に乗じて何度か京奪回を果たしてもいる。後村上天皇の篤い信頼を受け、足利政権との和平を模索。後村上死後に強硬派が台頭すると立場が微妙となり、一時期は足利方に投降している。晩年は再び南朝に帰参しているが没年は不明である。 
戦略/南朝拠点における南朝方有力豪族(楠木氏は河内・和泉を拠点とする中小豪族であり、それが南朝有力者となっている時点で南朝の圧倒的劣勢が伺える)の当主として、親房没後に南朝の軍事面を双肩に担う。この時期は足利方の内紛を利用して一時的に京奪回を果たす事はあるものの、足利方との戦力差は隔絶しており南朝の巻き返しは絶望的であった。軍事的には戦力消耗を避けて河内・紀伊・大和の険阻な地形を利用した守勢を基本としながらも、折を見て足利方に攻勢に出て圧力をかけていた。長年にわたり前線に身をおいて戦況を熟知する立場から、軍事的圧力をかけて足利方を揺さぶる一方で機会を捉えては和平交渉を行っており、南朝の面目が立つ形での和平を志向していたようだ。後村上天皇による絶大な信任を背景にして正平22年(1367)和平成立手前まで交渉を運ぶが、折から台頭した強硬派の妨害があってか失敗に終わっている。逆に、後村上の次に即位した長慶天皇の下では強硬派と対立して足利方に降伏する羽目に陥っている。南朝で再び和平派が勢いを増したのを見てか、再び南朝に戻っているが南北朝合一前に没したとされる。 
長慶天皇 
興国4年(1343)後村上天皇の子として生まれる。正平23年(1368)即位し、弘和3年(1383)頃まで在位したようだ。在位期間において和平交渉は行われておらず、南朝の主戦派により擁立されたと推定されている。南北朝合一時にも京に入る一行に同行せず吉野に留まったとされる。 
戦略/即位時点で、南朝中枢部は紀伊・大和・河内・和泉の山間部のみに残存するに過ぎず消滅寸前の状態であった。後村上崩御に伴う不安から空中分解の危険も懸念されたと思われる。強硬な主戦論を前面に出す事で、人心を統一し共通の敵に当らせて動揺を防ぐ狙いであったろう。そして南朝方で唯一優勢に戦いを進め九州統一を成し遂げていた菊池氏による来援を頼みに抵抗する方針だったと考えられる。しかし、現実との乖離が著しい強硬論が軍事的主力であった楠木正儀を敵方に走らせ、更に和平派との対立と言う形で内部分裂を招いたのは皮肉であった。最終的には圧倒的な足利方の攻撃の前に挫折を余儀なくされている。なお、この時期に前線の総司令を務めたのは楠木一門の長老格である和田正武であったが、戦略レベルでの権限はなかったと思われる。 
後亀山天皇 
後村上の子であり、長慶の弟にあたる。主戦派の挫折を受けて弘和3年(1383)頃に即位。和平派の支持を受けていたと思われ、元中9年(1392)足利方からの和平を受諾して神器を北朝・後小松天皇に譲渡。ここに南北朝動乱は一応の幕を閉じた。しかしその後、和平条件であった南北両系統が交互に即位するという約束が果たされないのを不満として再び吉野に逃れた事もある。応永31年(1424)に没。 
戦略/この時期には九州も足利方の手に落ちつつあり、畿内では頼みとした楠木氏の拠点が次々に落とされるなど軍事的崩壊に直面していた。軍事的に南朝を背負える人物も存在せず、抵抗の余地はなく表向きの対面を保つ形で和平(実質上の降伏)に応じるほか選択肢はなかったと言える。なお、皇位を象徴する神器を保有していたのは南朝のみであったため、足利政権は神器を平和裏に譲られる事で北朝及び足利政権の正統性を確保する事を望んでいた。それを利用して、両系統が交代で即位・公領は南朝が支配という可能な限り有利な条件を引き出している。しかし実力のない身の悲しさ、この条件は結果として反故にされたも同然となる。 
 
意外な事に、実際に戦場に出た武将ではなく天皇自身が国家戦略を担う指導者となっている時期が多い事が分かりました。南朝は、その前身である大覚寺統時代から天皇が政権運営の主導権を取る伝統があるのですが、軍事面でもそうした性質が現れたと言えるでしょう。特に後醍醐天皇は専制的な政治体制を志向していましたので尚更です。しかし、これがややもすれば現実にそぐわない理想論に流れる傾向を作り出し、情勢を更に不利なものとした面は否めません。 
また、独力で状況を打開するだけの力を失った後には足利政権の内紛に乗じるほか対抗手段を失っていましたが、それすらも後には足利政権における内紛の敗者が降伏して南朝の指揮官を務めるようになっています。南朝が内紛に付け入って主導権を握る事すらできなくなっていた実情がそこからは垣間見えるのです。 
これらの事情は、南朝の動きを長期的展望に欠けた機会主義的なものとしたといえます。一方、楠木正儀は長期的展望を持った数少ない指導者でしたが、中小豪族に過ぎない彼が指導的立場に立たざるを得ない状況自体が南朝の弱体を示すものでした。こうして見ると、軍事的経験と社会的実力を兼ね備えた南朝方生え抜きの指導者は、護良親王しか見当たりません。南朝は早い段階で実に惜しい人材を失ったといえます。 
南朝六十年の国家戦略からは、南朝の目指す理想と現実の落差、そしてその弱点が垣間見えると言えそうです。  
 
赤松円心 (1277-1350)

楠木正成と同様に「悪党」と呼ばれる新興豪族の出身でありながら、南朝に殉じた楠木氏とは対照的に足利方として活動し侍所長官を務める有力守護にまでのし上がった赤松円心。その生涯を概観する。 
時代背景 
8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には支配力を弱めた結果として崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握・支配するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。 
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となった。13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的優位に立ち、次第にその支配権を西日本にも広げていく。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、更にこの頃に発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向していた。 
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置いた新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれた。彼等は朝廷・幕府ですら統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素となっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。 
一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実権を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。 
経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は周囲の敵意を受けながら強権体制を建築しつつあったのである。 
赤松氏 
赤松氏の拠点とした播磨は、比較的京に近く播磨平野を擁して農業生産高も高い。更に瀬戸内における海上交通の要地でもあり、西国でも重要性の高い地域の一つであった。 
さて赤松氏は「村上天皇第七皇子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫」と称していた事が知られる。中央の高官が播磨に配流される際には佐用郡に居住するのが通例とされていたが、季房も佐用郡で現地豪族の娘と契り、その子が現地で土着していったというのである。因みに、この時代には現地の豪族が貴種と娘を娶わせて自らの血統を高めようとするのは珍しくなかった。季房の曾孫である宇野則景が北条義時の時代に佐用荘地頭となり、その子孫で則範の末子である家範が初めて赤松氏を名乗ったようである。則村、即ち円心は家範からみて四代目の子孫に相当する。 
こうして見ると、赤松氏が村上源氏の末裔と言うのは少なくとも楠木氏が橘諸兄の末裔と言うよりは信憑性がありそうである。しかし、だとしてもその一族は14世紀には播磨の一土豪に過ぎなかった。祖先の信憑性は高くとも、この時点での社会的位置は楠木氏と大差なかったといってよい。そして赤松氏はこの一族の嫡流ですら決してなく分家の一つに過ぎなかったのである。そこから名を挙げて播磨一国の守護、更に全国有数の実力者の地位まで上り詰めた円心やその子・則祐の力量は並々ならぬものであると言えよう。 
さて赤松円心は、没年から逆算すると建治3年(1277)に生まれたようである。若年期の逸話としては、禅僧・雪村友梅と出会い将来出世すると予言されてこれに感謝したというものが伝わる程度である。円心の若年期における雪村の年譜も考慮すると、もし実際に出会っているとすれば京においてであろうとされる。だとすれば大番役のために上洛していたものとも考えられ、御家人であった可能性も浮上する。因みに円心の甥も禅僧であり宗峰妙超と号し、円心は彼のために元応元年(1319)に京の紫野に庵を建立してやっている。これが後世には大徳寺に発展するのであるが、これは別の話である。 
動乱の幕開け 
この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護し支持基盤に取り込もうと図る。そうして、後醍醐はやがて幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるためであり、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立するためである。時に幕府は北条氏の惣領である高時が病弱のため指導力不足で、東北の反乱や権力争いに悩まされており後醍醐にとって絶好の機会と思われた。後醍醐は、皇子・尊雲法親王を天台座主として叡山に送り込むなど寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。 
しかし、後醍醐の誘いに応じて河内赤坂で挙兵していた楠木正成は、最初の挙兵こそ準備不十分であったものの元弘3年(1333)になると幕府軍を大阪平野各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、護良親王(尊雲法親王、還俗して護良と名乗る)は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。これにより威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻め落とせず苦戦を余儀なくされる状態であった。幕府に反感を持つ人々は、これを見て幕府の軍事的威信の低下を見て取っており、ここに更に幕府方に対し攻勢を取る者が出現した際にはこれに続くものが陸続するであろう状況であった。 
挙兵 
円心の居住する播磨は、前述のような戦略的重大性もあって六波羅探題(京に置かれた幕府の西国における拠点、代々北条氏が歴任)の直轄地であった。この関係から赤松氏は北条氏との関わりも必然的に強くならざるを得なかったと思われるが、それだけに北条氏への反発も高まった可能性はある。円心の三男・則祐は一族の小寺頼季と共に、護良が天台座主であった頃からその側近として仕え護良と共に吉野山中を転戦しており、早い段階で円心が朝廷方に心を寄せていたものと推察できる。更に、「赤松記」によれば同じ時期に長男・範資と次男・貞範を摂津尼崎に派遣し勢力扶植に努めていたという。摂津長洲荘の起請文に「執行範資」「惣追捕使貞範」と記したものが存在する事からもその記事に信憑性はあるといえる。これもまた、朝廷方として活動するための布石であったのかもしれない。 
さて元弘3年2月則祐は小寺頼季と共に護良の令旨を持参して円心の下に参上した。これに従って円心は佐用荘苔縄に築城して挙兵。更に令旨は播磨国中の寺社・豪族に伝達され、千騎の軍勢が円心の下に集ったのである。令旨には十七ヶ条にわたって恩賞の約束が記されており、人々を駆り立てるには十分な効果があったと思われる。ところで護良の令旨は3月21日付で出されていたが、挙兵の日限を25日に定めていた。出されてから届けられるまでの時間も考慮すると、既に円心らは蜂起を決意し護良と連絡の上で準備を整えていたと考えるべきであろう。 
さて円心はすぐに杉坂・山の里を軍勢で塞ぎ、山陽・山陰と畿内との交通を遮断した。貞範は船坂山に陣を敷き、中国地方から六波羅に馳せ参じようとする軍勢を撃退、更に伊東惟群を降らせる事に成功。惟群は備前三石で蜂起し、守護・加治氏の軍勢を撃退して円心の背後を固めた。これで円心は安心して京に進出する事が出来るようになったのである。 
六波羅との戦い 
円心はまず兵庫に進出して摩耶山に陣を敷いた。これを知った六波羅は、事態を重視して北条時知・佐々木時信の率いる五千の軍勢を派遣。閏2月11日円心は百から二百程度の弓兵を山から降ろして六波羅軍に矢を射掛けさせ、山へ逃げる事で敵を山上へと誘き寄せた。軽装の赤松兵は早くに自陣に合流したが、騎兵を中心とする六波羅軍は険しい山道に難渋。そこへ山中に伏せていた則祐・飽間光泰が矢の雨を浴びせかける。そして敵が混乱したのを見計らって範資・貞範が上月・佐用・小寺・頓宮ら五百を率いて突入した。六波羅勢は突破されて軍の態を為さなくなり、大損害を被って退却したのである。 
この勝利に乗じて赤松軍は摂津の平野部に進撃し久々知に本陣を置き、酒部に先方を配置する。3月10日雨が降っていたこともあり、円心は油断して自身の周囲に少数の兵しか配置していなかったが、そこへ阿波から上陸した小笠原氏の軍勢が奇襲をかける。円心は目印になるものを捨てて敵軍に紛れ、命からがら脱出すると伊丹方面の自軍に逃げ込んだ。思わぬ敗北を喫した円心であったが、翌日に気を取り直して瀬川(箕面市)に進撃。六波羅は第二陣として一万の大軍を差し向けており、それと決戦するためである。両軍は睨み合うが、数では赤松軍は三千と大きく劣る。そこで円心は貞範に宇野国頼・佐用範家・飽間光泰らと共に少数の兵を授け、敵背後に廻らせる。貞範らは竹やぶに伏せて敵軍に矢を射掛け、敵の動きが乱れた隙を突いて打って出た。六波羅方は貞範らが少数であるとは知らず、挟撃されたと考えて動揺。その機会を逃さず円心は全軍を率いて鬨の声を上げて突撃した。これで六波羅軍は潰走し大きな損害を出したのである。 
ここで則祐の進言に従い、一気に京へ進出する事に決めた円心は12日淀・赤井・山崎・西岡といった京郊外地域に野伏を用い火を放って六波羅方を揺さぶる。六波羅は在京の兵を動員して二万の軍勢を編成し防衛体制をとった。さて円心は久我畷・西七条の二方面から突入を図る。まず円心自身の率いる久我畷方面では、桂川を挟んで攻め倦み敵味方とも矢を射掛けあう状況がしばらく続いたが、則祐は飽間九郎・伊東大輔・小寺頼季らと共に渡河を強行して上陸に成功。これを見た赤松軍は勇気付けられて川を渡り、六波羅軍を突破して京に侵入、六波羅に程近い蓮華王院にまで進出した。一方、西七条方面でも突入に成功しており、大宮・猪熊・堀川に火をかける。この時の戦場となった京の混乱は、光厳天皇・後伏見院・花園院が御所から六波羅庁へと避難する程であった。こうした中で六波羅方は隅田・高橋の三千を西七条方面へ、陶山・河野の二千を蓮華王院方面へ差し向けて防戦に当たる。陶山・河野らは奮戦して赤松勢を撃退し、苦戦していた隅田・高橋らを救援して七条方面の赤松軍をも追い散らしたのである。勝利した六波羅軍は翌日に討ち取った赤松軍の首を多数六条河原に晒したが、その中に赤松円心と札を付けられた首が五つあって京童の笑い者となった。円心の顔を知る者が六波羅方に居なかったため生じた喜劇である。 
こうして円心は最初の京攻防戦において大敗し、一時は自刃も考えるほどであったが辛うじて思いとどまった。因みにこの際、男山八幡宮に祈りを捧げたところ神託があり、それに従って以降は家紋である左巻き巴の旗に大龍の姿を描いて大将旗として用いたと言う。さて気を取り直した円心は軍勢を再編成し、貴族である中院貞能を形式上の総大将として擁立して名分を整える。その上で山崎から八幡にかけての地域を占拠し、桂川から木津川に至る水上交通を遮断して京を兵糧攻めにする方策をとったのである。 
円心が京を兵糧攻めにしたのを受けて六波羅方は、糧道確保のために五千の軍勢を割いて山崎を攻撃させる。迎え撃つ円心は、手勢を三つに分けて弓兵五百を大原野に配置し、野伏と少数の騎兵からなる千の兵を狐川に待機させ、更に刀・槍で武装した歩兵八百を向日明神広報の松原に伏せさせた。まず大原野の弓隊が高場から六波羅軍に矢を射掛け、これを追撃する六波羅軍の側面を刀・槍隊が伏兵として攻撃。更に騎兵に率いられた野伏らが背後に回りこんで退路を断つ態勢をとった。これで六波羅軍は浮き足立ち潰走したのである。 
この状況を見た叡山は、反幕府派が勢いづいて挙兵。戦闘では六波羅方が優勢であったし、叡山内部も幕府派が残存しており一枚岩ではなかったが、六波羅としては南西と北東における交通の要地を封鎖された形となったのである。 
これに乗じるようにして、円心は4月3日に再度京へ総攻撃を掛けた。殿法印良忠(護良の側近)・中院定平を擁立し伊東・頓宮らや周辺の野伏で編成された三千が伏見・鳥羽方面から侵入。そして円心自身が率いる宇野・佐用ら三千五百が桂方面から西七条へと向かったのである。六波羅は、味方のうち三千を後方の叡山に対して割かなければならない状態で迎撃態勢をとる。前回と同様に六波羅軍は二つに分かれてそれぞれの敵に対処した。赤松軍は歩兵が多いため小路を塞いで射手を前面に出し矢を射掛け、一方の六波羅軍は騎兵が多いため機動力を生かして何とか包囲しようと図る。こうして双方とも死力を尽くして戦っていたが、まず伏見方面では数で勝る六波羅軍が赤松勢を破って宇治へと追い散らし、更に東寺に迫っていた赤松軍をも蹴散らした。そうして一つにまとまった六波羅軍は、西朱雀の円心本陣へと攻め寄せこれも撃退。円心による京攻略作戦はこの時も実を結ばなかった。 
この直後、山陰方面から後醍醐の寵臣である千種忠顕が数万の軍勢を率いて西山に布陣し、4月8日単独で攻め寄せるがこれも敗退している。 
こうして、京攻略自体は難航していたものの、円心の奮戦により徐々にこの地域の戦況は後醍醐方に傾いていたのである。幕府軍が千早攻めに難航して威信が低下し反幕府派を力づけていた事、千早城に多くの軍勢を裂かざるを得なくなり京が手薄に為っていた事が要因として挙げられる。倒幕への流れは正成が種を蒔き円心が芽を育てたといえよう。しかし花を咲かせ完全に形勢を逆転するには、あと一押しが足りないのも事実であった。 
8幕府滅亡へのうねり 
円心の奮戦を受けて、各地で幕府に対し挙兵する豪族が続出した。四国では元弘3年2月に、赤松軍の挙兵に合わせるようにして土居通増・得能通綱・忽那重清が挙兵。同年閏2月には長門探題・北条時直を石井湊で破り、続いて伊予守護・宇都宮貞宗も撃退し備後に進出して鞆津を占拠している。同じ頃に大和の高間行秀・快全、紀州粉河寺が蜂起。また関東でも小山氏が挙兵し、九州でも失敗に終わっているが菊池氏が鎮西探題を攻撃している。こうした中で隠岐に流されていた後醍醐が脱出して伯耆の名和長年に迎えられる。これによって反幕府方は更に勢いづき、前述した千種忠顕が軍勢を率いて六波羅攻撃に加わったのである。 
赤松氏と千種忠顕により攻撃を繰り返し受け圧迫されていた六波羅探題は、鎌倉に更なる援軍を依頼。これを受けて、幕府は名越時家と足利高氏を援軍として上洛させる方針とした。足利氏は情勢を見て今こそ北条氏を倒し天下を狙う好機であると睨んでいたので、途中の三河で後醍醐に連絡を取り綸旨を手に入れていた。高氏はそれを隠しながら京に到着。六波羅は4月27日大手軍の名越勢七千を伏見方面から、搦手軍の足利勢五千を向日方面から進軍させる事とした。さて名越勢を迎え撃ったのは赤松軍であった。円心は三千の兵を淀・古河・久我畷に布陣させ、遠巻きにして名越勢に矢を射掛ける。名越勢は数の優位と騎兵の攻撃力を生かして戦いを進めようとしていたが、佐用範家が大将・時家を射落としたのを切っ掛けにして名越勢は潰走。赤松勢はこれを追撃して大いに戦果を挙げた。 
一方で足利軍は途中で行軍を止めて情勢を観察していたが、名越勢の壊滅を見て高氏は時期到ると判断し丹波にて倒幕の挙兵をした。5月8日足利勢は赤松軍・千種軍と協力して六波羅探題を攻撃、六波羅方も勇戦したものの衆寡敵せずついに敗退。同時に赤松勢も東寺方面から足利軍を援護していた。六波羅方は羅生門から八条河原に及ぶ堀・塀・逆茂木・櫓といった仮設城郭というべき防衛線を設置してこれを防いでいたが、勢いに勝る赤松軍は貞範の手勢がこれを突破したのを切っ掛けにして七条河原方面へ乱入した。六波羅探題の北条仲時・時益は防衛を断念し、光厳天皇・後伏見院・花園院を供奉して東国に落ち延びようとしたが道中の近江番場で野伏に包囲され自決。光厳らは捕らえられ京に護送された。 
こうして六波羅探題は滅亡して畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は一気に後醍醐方に傾いた。これに続くようにして新田義貞により鎌倉が陥落、さらに大友氏・少弐氏により鎮西探題も陥落した。ここに鎌倉幕府は130年の歴史を閉じたのである。正成・円心により育てられた倒幕への流れという苗は、高氏により花開き義貞により実を付けたと言える。後に万里小路藤房が倒幕への功績が特に大きかった人物として高氏・義貞・正成・円心・長年の五人を挙げており、世間一般の目にも彼等の貢献が際立って見えたと言えよう。 
建武政権下の円心 
京が味方により解放されたという知らせを受け、後醍醐は伯耆から上洛の途につく。その道中の5月30日円心らは兵庫福厳寺で後醍醐に初めて拝謁した。後醍醐は上機嫌であり、「天下草創の功、ひとえに汝ら贔屓の忠戦によれり。恩賞は各々の望みに任すべし。」と円心に声を掛け供奉を命じたと「太平記」は伝える。このときの感激を後醍醐自身が忘れなければ、歴史の流れは少し違ったものとなったかもしれない。ともあれ、後醍醐は京に入ると自身の親政による統一政権(元号から「建武政権」と呼ばれる)の建設に着手しようとしていた。しかしながら、倒幕に大きな功績のあった護良親王は足利氏と早くも対立し、信貴山に篭って動かなかった。後醍醐は新たな争いを避けるべく、護良を征夷大将軍に任命して懐柔。この際、入京する護良の軍勢の先陣を勤めたのが赤松円心の手勢であった。倒幕に大きな功を立てたと自負する円心にとっては得意の瞬間であったろう。 
親政を再開し全国の支配権を手に入れた後醍醐天皇の最初にすべき事は倒幕に協力した人々への恩賞であった。全国から無数の武士・寺社が功績を具申し恩賞を求めており、限られた領地で充分それに応え切れるか疑問な状態であった。しかも天皇は己の実力基盤を確立する為に自身や近臣らに多くの旧北条氏領を付帯させていた。これが恩賞の公平性への不満を大きくしていた。しかし足利尊氏(高氏、後醍醐の名「尊治」から一文字賜って改名)や新田義貞ら倒幕に大きく貢献した人々は多大な恩賞を与えられていることが多かったようだ。特に楠木正成・名和長年・結城親光・千種忠顕は破格の出世とみなされ「三木一草」と呼ばれていた。そして円心も播磨守護に任命された。上述の面々と比べると少ないとはいえるが、それでも元来は佐用荘周辺のみに勢力を張り、しかも一族の惣領ですらなかった事を考えると破格の出世ではあった。早くもこの年の9月に、円心は国内の地頭に宛てて内裏拡張工事のため木材の供出を求めた文書を発布している。もっとも、同年10月には新田義貞が播磨守に任命され、両者が播磨における現地支配を争う形勢になるのであるが。 
さて後醍醐は弱体化した王朝の危機的状況を認識し、権力強化を目指して新たな政治体制を構想していた。中央では経済・警察など主要官職は近臣が就き天皇に全権力が直結する様に図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。こうして農業と非農業の均衡を取る中央集権的な専制政治を目論み、勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとしていたのである。 
しかしそれを貫徹するには実力が未だ不足しており、急激な改革に反発する勢力は数多く存在していた。その中でも、豪族達から名門として信望を集める足利氏は最大の危険分子であった。尊氏は京に奉行所を設置して豪族達と主従関係を結ぼうとしていたほか、また新田義貞の鎌倉攻めに長男・千寿王(義詮)を参加させて足利を盟主として鎌倉を落としたという形を作り関東に勢力を張りつつあったのである。これと激しく対立していたのが護良親王であった。彼は尊氏が新たに幕府を作ることを警戒し、また自らが有力豪族達による軍事力を束ねようとしていた。後醍醐にとっては、尊氏はもちろん、護良も脅威と言うべき存在であった。倒幕戦においては隠岐に流された後醍醐の変わりに総司令官役を勤めており、それが現在となっては後醍醐の権威を脅かすようになっていた。また、味方を増やす必要性から戦中に恩賞を約束する令旨を多発していたのであるが、それが本領安堵などの混乱を招いていたのである。後醍醐は護良に尊氏排除の了解を与えたと「梅松論」は記しているが、あわよくば両者の共倒れを望んでいた可能性はある。 
さて尊氏と護良の対立は、豪族達の信望に勝る尊氏が護良を圧倒する形成となっていった。また、護良は自らの皇子を皇位に就けようと望んでいる阿野廉子(後醍醐の愛妾)とも対立しており、次第に孤立して言った。こうした中で護良派の勢力は次第に削られていったようで、護良は建武元年(1334)の後半になると奥州から北畠氏より送られてきた兵達に戦力を依存する有様であった。そして同年12月護良は後醍醐によって捕らえられ足利氏の勢力範囲である鎌倉へと護送されたのである。 
さて、この同じ時期に円心は播磨守護を罷免されて佐用荘地頭職のみとされたようである。この時期に特に円心に失態があったわけではなく、不可解な大左遷である。しかし前述の護良失墜と結び付けて考えれば答えは見えてくる。言うまでもなく円心は、護良の令旨によって挙兵し、一族も護良の側近として仕え、護良入京の際には先陣を勤めた筋金入りの護良派である。護良の勢力削減がなされる一環として、円心も「人員整理」に巻き込まれたのであろう。 
こうして、建武政権は有力者同士の対立を調整できず、また危険分子の芽を摘むという流れの中で、倒幕に大きな功績を挙げた護良を切り捨てる事となった。そしてそれは同じく著しい勲功のある円心をも切り捨てる事に繋がった。後醍醐の側近である万里小路藤房が前述のように倒幕に特に功績があった五人に円心の名を挙げて後醍醐を非難したのはこの時であるという。建武政権が円心を切り捨てたと同様、円心も政権に見切りをつけたようである。これが政権の崩壊に少なからぬ影響を及ぼすのである。 
尊氏の挙兵 
建武2年(1335)6月信濃で鎌倉幕府残党による一大反乱が勃発した。北条高時の子・時行が諏訪氏に擁立されて挙兵し、関東に侵入。鎌倉を守る足利直義(尊氏の弟)はこれに敗れて三河まで逃れた。因みにこの際に護良は、彼が時行に利用されるのを恐れた直義によって殺害されている。これを受けて尊氏は、直義を救援し関東を奪回するために後醍醐の許可を待たず東下。この際、円心は貞範を従軍させており、尊氏に接近を図っていたことが分かる。既に建武政権に失望していた円心は、幕府再興を志す足利氏に希望を託したのであろう。さて、関東を奪回した尊氏は鎌倉に入り独自の論功行賞を行う。建武政権はこれを謀反であるとして新田義貞に尊氏・直義の討伐を命じた。当初は後醍醐に弓を引くのを拒んで出陣しなかった尊氏であったが、直義が義貞に敗れ危地に陥るとこれを救援すべく出陣し新田郡を撃破した。この際、貞範は箱根竹ノ下合戦で脇屋義助(義貞の弟)軍に突撃して勝利に貢献しており、その功績で丹波春日部荘を尊氏から与えられている。 
新田軍を破った尊氏は勢いに乗って上洛、円心はこれに応じて挙兵し尊氏が男山に到着した際には範資が参陣している。そして足利軍は大軍で京を包囲、赤松軍は山崎の脇屋義助軍を突破して京に乱入し攻略の足掛かりを作った。後醍醐は叡山に逃れ、足利と新田・北畠顕家・正成との間で京争奪戦が行われるが、結局は足利方は敗れて西国に逃れている。この際、円心は尊氏・直義に摩耶山の城に篭城するよう進言するが、味方の士気が落ちることを恐れて反対する者があり円心もこれに従った。続いて円心は、「梅松論」によれば西国の要所に味方を配置して勢力を整える事と持明院統の光厳院から院宣を受けて大義名分を立てることを勧めた。円心は、自分達が「朝敵」すなわち天皇に弓を引いていることが後ろめたさに繋がり士気が上らなかったのが今回の敗因の一つではないかと踏んでいたのだ。尊氏らもそれは感じており、その信玄は受け入れられた。尊氏は光厳院に密使を送ると同時に、瀬戸内の要所に現地豪族と足利一族を配置して守りを固めさせてから九州に向かった。四国に細川和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅、播磨に赤松円心、備前三石に石橋和義・松田盛朝、備中鞆尾に今川俊氏・政氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防に大嶋義政・大内弘世、長門に斯波高経・厚東武実という配置である。特に播磨は朝廷軍が討伐に向かった際に最初にこれを迎え撃つ位置にあり、円心はその重責を引き受けたのである。嘗て後醍醐方として奮戦した赤松氏は、今は反後醍醐の急先鋒として再び表舞台に立とうとしていた。 
白旗城 
円心は、播磨防衛の要として苔縄北方の険しい山の頂点に新たな城郭を建設した。その際に源氏の白旗が降ってきたと称し白旗城と名付けている。更に源氏の氏神で武神である八幡を祀り、以前から現地の神であった春日神社も併せて祭祀して赤松の氏神とした。自らが(村上)源氏であることを称揚すると共に、源氏の棟梁である足利氏に天が味方していることを示して見方の士気を挙げようとしたものであろう。 
さて、足利方への追撃に対する朝廷の対応は迅速とはいえなかった。新たに降伏者の組み入れ・軍の再編成・凶作の中での兵糧集め・東国への調略・北畠顕家らを帰還させての奥州確保に力を注いでおり、足元を固める事に精一杯であった。尊氏を追撃できず、その勢力挽回を傍観するしかない状況に対して多くの朝廷方の武将は焦りを感じていたと思われる。例えば、楠木正成が天下の人心は尊氏に傾いているため新田を切り捨ててでも尊氏と講和するべきだと献策したと「梅松論」は伝えており、これもそうした風潮の一端を現すものであろう。「太平記」によれば義貞は朝廷から賜った美女・勾当内侍への愛に溺れていたとされる、これも情勢への焦りを紛らわせていたものかも知れぬ。 
また義貞自身が病気となり出陣できず、3月江田行義・大館氏明に数千を与えて先行させていた。彼等は「太平記」によれば3月6日書写山に到着。円心はこれを蹴散らそうと出陣し、室山(揖保郡)で衝突したが敗北している。緒戦において先遣隊が勝利したことで新田軍は意気挙がり、やがて義貞自身も数万の兵力を率いて播磨に到着した。義貞は弘山に本陣を置き、まず城攻めを避けようと円心に対し播磨守護職を条件として降伏するよう交渉したが、それが結果として円心に篭城戦の準備期間を与えることとなった。交渉が不調に終わって義貞は白旗城を包囲する。しかし険阻な地形に阻まれ、更に円心は兵糧・水の備蓄も十分行っており弓の名手を数多く備えて抗戦したため、新田軍は一ヶ月以上にわたって攻め寄せるものの犠牲ばかりを増やし戦果を挙げる事はできなかった。義貞は播磨守であり、この地を制圧する事は威信を保つ上で不可欠であったばかりでなく、交通の便や兵糧確保の点からも重要であった。それもあって時間を空費する結果となったのである。義貞はそれを取り戻すべく弟・義助らを別働隊として中国地方に派遣し福山城を落とすなどの戦果を挙げたものの時は既に遅く、尊氏は多々良浜で菊池氏を破って九州を掌握して再上洛の準備にかかっていた。円心はさすがに兵糧不足などで苦しくなってきたこともあり、則祐を使者として尊氏に早期の上洛を促す。これを受けて尊氏は4月26日九州を発ち、直義に陸軍を率いさせ自身は水軍を率いて進撃した。併せて五万近い大軍であったと言う。5月18日に尊氏は室津に到着。義貞は逆に包囲される事を恐れ、白旗城の包みを解いて全軍を兵庫まで引き上げさせた。解放された円心は翌日に尊氏の下に挨拶に趣いている。この際に円心は敵方が置き去っていった旗印を多数持参して尊氏に披露したが、尊氏はこれを見て「この中には以前に味方だった者も多いが、一時の難を逃れるためやむなく義貞に属したのであり、真に不憫である。いずれは見方に参るであろうからとがめる必要はない。」と述懐したと言う。尊氏の度量が知られる逸話である。足利軍は更に前進し5月25日兵庫の湊川で新田・楠木軍を大群に物を言わせて撃破し楠木正成を討死させた。こうして大勢は定まり、尊氏は再び京に入って自らの政権樹立にかかる。嘗て正成が千早城で幕府の大軍を翻弄して流れを引き寄せたのと同様、円心も白旗城で尊氏側に時代を呼び込んだのである。 
播磨守護・赤松円心 
後醍醐は新田軍と共に叡山に逃れ、しばらく抵抗するが兵糧が乏しくなった事もあり尊氏の和平工作に応じて下山、義貞は北陸に逃れた。尊氏は皇位の印である三種の神器を譲り受けて持明院統の光明天皇を擁立(北朝)。尊氏による天下が定まったように見えたが、後醍醐は再び脱走して吉野に逃れ、自らが正統な天皇であることを宣言(南朝)。ここに、京と吉野に二人の天皇が存在する南北朝動乱が幕を開けたのである。尊氏が円心の助言により取ってきた戦略が大義名分を手に入れるために持明院統と大覚寺統の争い、即ち「君と君との御争い」を前面に出す事だったのを考えれば必然の帰結であったともいえる。この情勢下で、尊氏は京を拠点として幕府樹立を進めていた。 
これまでの功績を評価され、足利政権において円心は播磨守護、範資は摂津守護・美作権守に任命された。円心はこれを受けて播磨国内の掌握に努めたが、播磨の国境周辺では新田一族である金谷経氏が丹生山に篭って明石の近江寺と結びこれに抵抗していた。円心はこれらとの戦いに忙殺され、建武5年(1338)数回にわたって南朝方の丹生山城や香下寺城を攻撃している。その一方で、苔縄に菩提寺である法雲寺を建立。その開山として招かれたのが、円心の青年期に出世を予言した雪村友梅であったという。 
さて足利政権は南朝との戦いを圧倒的優勢に進め、政権運営も軍事・恩賞を司る尊氏と本領安堵・裁判・一般政務を受け持つ直義の二頭体制で順調であった。しかし、次第に尊氏の執事として権勢を振るう高師直と直義の間で主導権を巡る争いが見られるようになった。師直の下には実力主義で権威を軽んじる新興豪族が多く集っており、旧来の名門豪族を中心に安定した秩序を志向する直義とは相容れないようになっていたのである。貞和5年(1349)閏6月に直義が尊氏に要求して師直を罷免させ、これに対して同年8月に師直がクーデターを起こして復権し今度は直義が失脚した。こうした中で、円心は師直派に味方して船坂峠の守りを固め、また貞範が姫路城を建設している。中国地方で足利直冬(直義の養子)が直義派の勢力扶植に努めており、これに対して京との連絡を絶つのが目的であった。こうして幕府が深刻な内紛に陥ろうとしていた中、貞和6年(1350)1月11日赤松円心は京七条の邸で急死した。74歳であった。 
赤松則祐 
円心死後に赤松氏を継承したのは長男・範資であった。既に範資はで摂津守護あったが、「広峰神社文書」に残る御教書から範資が播磨守護をも兼ねていた事が分かるのである。しかし範資も観応2年(1351)急死し、則祐が後を継いだ。則祐は円心の三男であったが、歴戦の勇士として実績や力量を広く認められていたのである。因みに範資の長男・光範が摂津守護を受け継いでいる。 
さて、赤松氏で立て続けに惣領の交代が起こっている間、足利政権は泥沼の内乱に陥っていた。観応元年(1350)12月から2年(1351)2月にかけて、直義が南朝と手を結んで尊氏・師直らと戦い、兵庫で師直らを打ち破って尊氏と和睦し師直を殺害。直義優位の体制が確立されたかに見えたが、尊氏派と直義派の対立は明白となっており、今度は尊氏が南朝に形式上の降伏をして名分を獲得し、直義を討伐しようとしていた。 
観応2年(1351)7月尊氏は近江の佐々木導誉が背いたので討伐すると称して近江に向かい、義詮(尊氏の嫡男)も赤松則祐を討つためといって京から西に向かった。これは、導誉・則祐と共謀して京の直義を東西から挟撃する体勢を作ったものである。直義はすぐに越前に脱出し、尊氏と決戦する態勢を作った。この際、則祐は護良親王の子・陸良親王を奉じており、南朝との和睦を勧める布石を打っていた。尤も、この時期に導誉に南朝から尊氏・直義らを討つよう綸旨が出ていたことを考慮に入れると、状況によっては実際に南朝方に寝返る事も視野に入れたものであったかも知れぬ。ともあれ、則祐らの交渉により尊氏方と南朝の和睦が成立(正平一統)。尊氏はこれを受けて関東に出陣し、直義を追って鎌倉まで至り南朝正平7年(1352)2月には毒殺している。 
一方、この頃に南朝は京を攻め落とし、ここに尊氏方と南朝の和議は破れた。義詮は間もなく京を奪回するが、尊氏方と直義の後を継いだ直冬・南朝との三つ巴の形勢は続いたのである。この期間、則祐は一貫して尊氏方として行動し、南朝や直冬軍と戦っている。 
尊氏が没して義詮が第二代将軍となった後も、則祐は有力守護として重きをなしていた。康安元年(1361)強権をふるった執事・細川清氏が佐々木導誉らと対立して失脚し、南朝と結んで京に攻め入った。この時、則祐は山名時氏が備前守護・松田氏を破って美作に侵入した際、これと戦って撃退する功を挙げている。また、清氏により京が落とされた際には義詮の嫡男・春王丸(義満)を播磨白旗城に迎えて保護している。因みにこの時、退屈する春王に対して現地の田楽を催して慰めたといわれ、義満時代には将軍が赤松邸を訪問してこの「赤松囃子」を見物するのが通例となった。これらの功があって、則祐は播磨に加えて備前の守護職を与えられている。更に貞治4年(1365)則祐が上洛した際には春王丸が赤松邸を訪れ則祐の養君と称されたのである。 
晩年の応安2年(1369)光範が南朝方に通じて挙兵したためこれを討伐して摂津守護も兼任。翌年には禅律方頭人に任じられ、幕府の宗教政策に関与することとなった。翌応安4年(1371)11月則祐は病没。享年61であった。 
則祐は、巧みに立ち回りながらも尊氏方として活躍して勢力を伸ばし、将軍家の信任も獲得した。更に一族内部の争いも利用して自身の力を伸ばす強かさも目立つ。また、宝林寺を建立するなど禅を篤く信仰し、延文4年(1359)の「新千載和歌集」には二首の和歌が入集するなど当時としては教養人でもあった。これも彼の立ち回りを有利にする役に立ったであろうことは想像に難くない。最初には護良の側近として登場し、最後には足利政権有力者として乱世を泳ぎぬいた古強者・則祐。その姿は同時期に「ばさら大名」と呼ばれ鮮やかな存在感を示した佐々木導誉とも重なるものがある。 
その後 
則祐の後は、その子・義則が継ぎ康暦元年(1379)侍所別当となり明徳3年(1392)に美作守護に任じられるなど赤松氏の地位を有力守護として安定させた。義満時代以降、赤松氏は京極・一色・山名などと共に侍所別当を歴任する「四職」の家柄とみなされるようになる。一方、嫡流の他にも様々な庶流が存在感を示すようになっていた。例えば、則祐の子・満則の系統である大河内家、則祐の子・義祐の系統である有馬家、そして貞範の系統である春日部流などが挙げられる。 
さて義則の後を継いだ満祐は、気性の荒さもあり足利政権第四代将軍・義持と折り合いが上手く行かなかった。その一方、上述の庶流が実務能力もあって重んじられ、中でも春日部流の持貞が近侍衆として義持の寵愛を受けていたのである。そのため、満祐はしばしば義持から迫害を受け、一時的には本国である播磨を召し上げられたこともあったのである。第六代将軍・義教の時代になると、正長2年(1429)「赤松囃子」を再興するなど当初は満祐と将軍家の関係は良好であった。しかし義教が将軍権力の確立のために有力者を圧迫し、更に赤松貞村が義教に寵愛を受けるようになると両者の間に緊張が走る。嘉吉元年(1441)6月24日満祐は義教を自邸に招いて暗殺。嘉吉の乱である。満祐は当初、将軍を討ち取りその場で討死するつもりであったが、動揺した幕閣が誰も追討の兵を差し向けなかったため拍子抜けし、国許での決戦を決意。旗印として旧南朝系の小倉宮を擁立しようとしたが果たせず、直冬の子孫である義尊を立てて挙兵した。これに対して幕府は義教の子・義勝を後継者に定めて山名持豊を大将として軍勢を差し向け、満祐らは抵抗するものの遂に敗れて討死。こうして赤松氏嫡流は一旦滅亡した。 
その後、嘉吉3年(1443)南朝残党が御所に乱入して三種の神器を奪い、幕府軍がこれを討ち取るものの神璽は奪われるという事件が起こった。これに対し、第八代将軍・義政の時代に赤松氏残党が主家再興を条件に神璽奪回に当たり、長禄2年(1458)これを成功させる。こうして、赤松政則が取り立てられて加賀半国を宛がわれ一応の赤松氏再興がなった。これに対し、赤松討伐で勢力を拡大した山名氏が反発。政則は山名宗全の敵手・細川勝元と接近し、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱では細川方について戦った。その中で播磨・備前・美作を平定すると共に義政から侍所別当に任じられ、赤松氏の栄光を取り戻す事に成功しているのである。 
しかし、応仁の乱以降は、足利政権の実力が失墜したこともあって守護の各国での権威も低下。在地豪族達が実力で勢力を伸ばすようになっていた。赤松氏も一族内部の争いもあって力を失い、浦上氏や宇喜多氏により取って代わられるようになった。16世紀の全国統一にあたって赤松氏は信長・秀吉に臣従して命脈を保つが、関ヶ原の戦いで宇喜多秀家に従って西軍についたため所領を没収され、その家名は歴史から姿を消したのである。 
 
赤松氏は、その出自において楠木氏と共通点が多い。どちらも元来は低い家柄ながらも商業発達により台頭した新興豪族であり、従来の政治権力からは「悪党」と呼ばれた。また、歩兵・散兵を活用した戦術や城塞戦での活躍なども共通している。従来の価値観では収まりきらない面を持った変革期を象徴する存在であった。それが、片方は南朝に殉じて一瞬の光芒を放つものの没落し、もう一方は後醍醐を見限って足利方の有力者として栄光をつかむ。正成は後醍醐自身から信任を受け建武政権でも篤く報いられたため、その恩に報じて身を滅ぼした。円心は、護良親王の令旨で挙兵したのが禍して後醍醐から冷遇され、これに反発して足利方につき成功に至った。両者の運命を分かったものは、後醍醐に優遇されたか否かのみであり、しかも冷遇された側が生き残ったのである。なんともいえぬ歴史の皮肉であろう。 
家門の危機に当たっては将軍を暗殺し、取り潰し後も機会を掴んで再興を果たす辺りは、祖先の実力主義や強かさが未だ血脈に残っていたということであろうか。しかしながら、百年近く守護として中央政権の権力に依存して存在した事は、豪族としての現地性や逞しさを弱めたかもしれない。それが最終的には戦国期における没落・滅亡を招いたのであろう。  
 
楠木正儀 (1330-1386-?)

「南風競わず」と言われ圧倒的劣勢に置かれた南朝。南北朝動乱の中後期に、その南朝を軍事的に中枢で支えたのが楠木正成の三男である正儀(まさのり)である。彼の苦闘に満ちた生涯を概観するとともに、南北朝期後半における南朝についても見ていきたいと思う。 
時代背景 
11世紀頃より、日本は自給自足的に勢力を伸ばした寺社・貴族や各地の地方豪族が連合して形式的に中央政府(朝廷)を奉ずる形をとり始める。そして12世紀末に東西の大勢力による内乱(源平合戦)を経て東国に政権(鎌倉幕府)が成立して以降、東を幕府・西を朝廷が支配する二重政権の体制となり、承久の乱以降は武力で勝る幕府が朝廷に対し大きく優位に立つ。 
更に13世紀後半になると、元寇を契機に幕府は国防のため東のみならず全国に広範で強力な支配を及ぼすようになる。この頃、領地を分割により相続していた地方豪族たちの間で領地の細分化や本家・庶子の分裂傾向が一族争いの火種になりかねなかった。折からの貨幣経済の発展に伴う支出の増大も豪族たちを苦しめており、これも彼らの庇護者たる幕府への不満を募らせていた。さらに、畿内や瀬戸内海を中心に商業・運送業・芸能を生業とする非農耕民が実力を貯えつつあり、その社会的存在感は侮れないものとなっていたのである。彼らは、貨幣経済の発展を背景に畿内周辺の農村にも入込み、幕府の武力をも脅かす存在となりつつあった。幕府を動かしていた北条氏も彼らを取り込むことで自分たちの権力を強化しようとするが、十分な支持が得られないばかりか旧来の豪族たちからの反発も受ける結果となった。更に朝廷では支配力を弱めたのみでなく皇室が持明院統・大覚寺統に分裂、それに合わせて貴族達も争い幕府の仲介が不可欠であった。しかし北条高時を首班とする当時の幕府はこうした事態に有効な対応ができずにいたのである。 
そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い、非農業民や没落豪族を味方につけての鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。皇位継承に干渉する幕府を倒し傍流である己の血統に皇位を受け継がせるためであり、さらに全国支配権を朝廷に取戻すためであった。元弘元年(1331)後醍醐は挙兵したが幕府の大軍により敗北、持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵した楠木正成が元弘3年(1333)幕府軍を大阪平野各地で翻弄し、金剛山の千早城に篭り幕府の大軍相手に奮闘。これを受けて各地で幕府に不満を抱く勢力が蜂起し後醍醐も隠岐から脱出、そうした情勢下で幕府方の有力者である足利高氏(尊氏)も朝廷方に寝返り京の幕府拠点・六波羅探題を攻略。時を同じくして関東の豪族・新田義貞が鎌倉を滅ぼし後醍醐天皇による全国政権が成立した。 
後醍醐天皇は商工業を通じて台頭する非農業民を味方につけることで中央集権的な専制体制を志向したが、急速で強引な改革は混乱と反発を招き、朝廷や当時の非農業民はそれを抑えきるには余りに力不足であった。豪族たちの期待は彼らの中で最大の名門である足利尊氏に集まる。尊氏は関東での反乱鎮圧をきっかけに朝廷に反旗を翻す。新田義貞・楠木正成・北畠顕家ら朝廷方はこれに抵抗して一進一退の攻防を繰り広げるが、湊川合戦で正成が討ち死にするなど決定的な敗北を喫する。尊氏は持明院統・光明天皇を擁立し対抗した(北朝)上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立し、一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張(南朝)。ここに南北朝の動乱が始まる。 
南朝は修験道など宗教勢力や水軍・新興豪族を主力としつつも各地に味方勢力の扶植を図るとともに京奪回に全力を注ぐが、既に全国的な信望を失っており圧倒的劣勢で後醍醐は失意のうちに崩御。 
一方、尊氏は弟・直義とともに政権の確立を目指し、商工業中心の新興勢力を取り込みつつも農業を基礎におく旧来の豪族たちにも配慮した政権運営で次第に基盤確立を成し遂げつつあるように見えていた。 
正儀登場まで 
楠木氏は大阪平野、特に河内を中心に勢力を持ち河川交通などの運輸や水源管理、商業流通を担って実力をつけつつあった中小の新興豪族であったと考えられている。正儀の父・正成は後醍醐が挙兵した際に赤坂城で呼応し、更に四天王寺などで幕府軍を翻弄した後に千早城で幕府の大軍を相手に少数の兵で互角に戦って幕府の威信低下を招き、不平分子の蜂起を誘発したことは上述したとおりである。この功績が認められて後醍醐政権では和泉・河内・摂津の権益を認められ栄華を極めたが、尊氏が叛乱した際にこれと戦って奮戦するも湊川合戦で足利の大群を相手に奮闘し落命している。 
その後は正成の長男・正行を中心として畿内における南朝の主力として機能し、吉野の防衛を担う。そして正平2年(1347)南朝の重臣・北畠親房による戦略指導の下で大阪平野を中心に盛んに軍事的活動を開始し、しばしば足利方の軍勢を撃破している。正儀は「太平記」記述から年齢を逆算すると元徳2年(1330)生まれであると思われるが、この時期には既に兄達の補佐に回っていた可能性が高い。 
多難の船出 
相次ぐ敗戦に事態を重く見た足利政権は執事・高師直に大軍を与えてこれに対処させる。正平3年(1348)1月四条畷で楠木軍はこの大群と遭遇し戦闘に突入。圧倒的大軍の前に正行・正時(正成の次男)は衆寡敵せず戦死し、これで南朝の畿内における主力は壊滅、以降は主体的な軍事活動を行えるだけの実力を失うことになる。これには強硬な決戦による状況の打開を望んだ親房の構想が背景にあり、それが現実と乖離していた結果、破綻したのである。 
さて兄二人が戦死したことで自動的に正儀が楠木氏の当主となり、この難局に対処することとなる。師直らは勢いに乗って南朝本拠まで攻め寄せており、これに対する軍事的対応を迫られたのである。師直によって吉野の御所は焼き払われ、後村上らは賀名生まで逃れることとなった。一方で河内には1月14日に東条へ高師泰が攻め寄せており、正儀はこれに対し地形を利用して防御して翌年の7月まで睨み合う。また楠木の軍勢は大阪平野の各地で転戦し、正平3年5月石川河原で高師義を討ち取っている。こうして最初の危機をどうにか乗り切ったのである。 
また、敗戦に伴う味方勢力の同様も大きな問題であった。親房が大阪平野の豪族・和田助氏に三河釜谷荘兼清名の地頭職を与えたり観心寺に尾張国長岡荘を寄進したのと同時期に、正儀も金剛寺など周辺の寺院に所領安堵を行っている。正儀はこの時期に左衛門尉に任官しており、楠木氏当主として正行時代に引き続いて河内・和泉の守護に相当する権限を有していたようだ。上述の所領安堵もそれにのっとって行われたのである。 
観応の擾乱 
この後も、正儀は畿内南朝軍の主力として大阪平野を中心に転戦した。正平3年に足利方が、直義の養子・足利直冬を紀伊に派遣するのもこうした活動への対応である。 
さて、一見すると一枚岩に見えていた足利政権であるが、平時の政務を担う直義と戦時体制を受け持つ尊氏の執事・高師直の間で対立が顕在化し始めていた。文官派・保守的な大豪族・東国・惣領が直義につく傾向があったのに対して、武断派・新興豪族・畿内や瀬戸内・庶子が師直と結びついてこの対立をより深刻にしていた。さて北朝貞和5年(南朝正平4年、1349)閏6月に直義は尊氏に要求して師直を執事から罷免。一方で師直も同年8月にクーデターを起こして直義を引退させその側近も追放、代わりに尊氏の嫡男・義詮を招いた。 
正平5年10月これを不満とした直義は京を脱出して大和に入り、11月に南朝と結んだ上で挙兵。12月9日直義方の桃井軍が近江坂本から京に侵入しているが、これに楠木氏の一族である和田氏が加わっている。さらに直義が八幡に進出して京を包囲した際には、正儀率いる楠木軍もこれに参加しているようだ。この直義の勢いに、尊氏・師直は対抗しきれず正平6年(1351)2月に降伏し師直は殺害された。こうして直義優位の体制が樹立されたのである。 
その後も直義と南朝の間で和平条件の交渉は継続されていたが、直義が政権を足利氏に代表される有力豪族に任せるよう求めたのに対して南朝は朝廷による統一政権を強硬に主張し、結局は物別れに終わった。この際、交渉に当たった正儀家臣は直義に「この上は南方討伐の大将を差し向けていただければ、我が主は御案内をするでしょう」と口走ったという。南朝で強硬論を唱えたのは恐らく親房であろうが、こうした意見が戦場で実情を熟知するに至った正儀にとっては耐え難い固陋なものと映ったとしても不思議はない。今後も正儀は足利方との和平交渉において活躍するのであるが、南朝の顔が立つ形での和平希求と強硬派への不信感が長らく正儀の心中を占めることとなったであろう。 
正平一統 
さて足利政権内部では、今度は尊氏が直義主導体制に不満を抱いていた。正平6年(1351)8月尊氏が南朝に降伏を申し出て、10月にこれが受け入れられる。これを「正平一統」と呼ぶ。これをうけて尊氏は直義を鎌倉まで追撃して滅ぼすに至ったのであるが、同時期に全国の南朝方は勢いづく。この機会を利用して京・鎌倉を奪回しようと親房は目論んでいたのである。 
正平7年(1352)2月26日後村上天皇は賀名生を出て、住吉・四天王寺を経て閏2月19日八幡に至った。一方、伏見からは北畠顕能が、丹波からは千種顕経軍が京に接近。正儀も大阪平野から京に向かっている。これに対して京の義詮は不安に思い南朝方と交渉を重ねるがそれ以上の有効な手を打てずにいた。そして閏2月29日、これらの軍勢が一斉に洛中に侵入。北畠軍は東寺から、千草軍は西七条から、そして正儀らは桂川から攻撃を開始した。後手に回った足利方は、細川顕氏が防戦するが楠木勢はこれを包囲して撃破。さらに細川頼春も抵抗するが、楠木勢の歩兵が盾を利用して家屋の屋根に上りそこから矢を雨のように射掛けるので近づけない。そこへ楠木軍の騎兵が突入して細川勢を壊乱させ、頼春を討ち取っている。 
こうして南朝は京奪回に成功した。南朝方は北朝の神器を回収しするとともに光厳院・光明院・崇光天皇を捕えて吉野に送り北朝解消を行った。更に敵対する者からは権益を剥奪したが、服従する者には旧来の権益を保証。この時に正儀も大山崎神人に荏胡麻を扱う特権を引き続き認める文書を発行している。こうして一時的にではあるが南朝だけが朝廷である現象が出現したのである。この時を特に「正平一統」と呼ぶのはそのためである。 
八幡の攻防 
さて義詮は近江に逃れて軍勢を再編し、3月に入ると反攻体制に入る。大軍を率いて義詮が再び京に入ると、洛中の北畠勢は情勢不利と見て撤退し淀を経て八幡の本軍と合流した。足利軍は八幡の包囲にかかり、これを迎え撃つべく正儀は佐羅科に布陣し「南狩遺文」によれば北畠顕能は大渡に軍勢を展開している。さて足利軍は山崎から仁木義長が、宇治から細川顕氏が八幡攻撃を開始。正儀はこれに対して濠を掘って細川軍と睨み合い、しばしば夜襲をかけて動揺を誘った。八幡の守備は堅固で容易には陥落しない勢いであったが、足利軍は大軍に物を言わせて兵糧攻めを行う。これに対して楠木軍は洞ヶ峠に進出して河内と連絡が取れる体勢を布くと共に神崎方面にも睨みを利かしたのである。そして正儀はこれに加えて拠点の河内で援軍を編成しようと図ったが、現地豪族との争いがあり果たせなかったのである。 
こうしている間に八幡の南朝軍は兵糧が不足し始めた。5月10日になると湯川荘司が足利方に降伏、これを契機に南朝は篭城を断念して撤退戦に入った。足利軍は直ちに追撃し、楠木軍は南朝主力としてこれを懸命に防いでいたが乱戦の中で四条隆資が討ち死にしている。後村上天皇自身も鎧を身につけ馬に乗って辛くも逃げ延びる有様であり、数多くの犠牲を出したのは無理もないことであった。同時期に関東で挙兵した南朝軍も同様に敗退しており、親房主導による乾坤一擲の反攻作戦は失敗に終わった。自前の戦力が不足している以上、無理のある計画であり必然の結果とも言える。こうして南朝は再び吉野山中で逼塞するのを余儀なくされたのである。 
第二次・第三次京攻防戦 
正平一統が破綻して京を放棄した後も、正儀は足利軍との小競り合いを続けていた。正平7年10月に赤松光範を石塔頼房・吉良満貞と共に破っているのはその一例である。 
さて、南朝にとって再度の好機は意外に早く訪れた。足利政権内での内紛はまだ収まっていなかったのである。佐々木導誉と山名時氏が出雲守護職を巡って対立し、時氏が南朝に降伏。これを受けて正平8年(1353)1月正儀は佐々木秀綱を破って進撃し、伊勢の北畠顕能も奈良に進出した。そして5月に入ると楠木軍は天王寺を経て八幡に布陣し、6月に入ると山名軍が山陰諸国の兵を率いて上洛、奈良からは四条隆俊も派兵した。 
これに対して義詮は三千の軍勢を集めて鹿ケ谷で布陣して迎え撃つ。6月9日楠木・吉良・石塔の三千は南の八条から京に侵入し、山名軍五千は仁和寺・西七条から進撃して両軍は四条で合流し鹿ケ谷の足利軍に攻めかかった。まず楠木軍と足利方の六角勢が交戦状態に入って相互に矢を射掛けあい、機を見て山名軍が六角勢を突破。続いて山名師氏が土岐勢を、楠木・石塔勢が細川清氏を撃破した。これを見て不利を悟った義詮は京を捨てて近江坂本へ逃れ、更に叡山の動向が明らかでないのを不安視して美濃に撤退している。 
こうして南朝は山名軍と協力することで再び京を手中にしたが、主導権をめぐり山名と不協和音が絶えなかった。更に義詮が美濃で再び体勢を立て直して反攻に出る気配であったため、すぐに京を放棄せざるを得なかった。 
正平9年(1354)4月南朝の指導的地位にいた北畠親房が没した。以降、南朝の軍事は正儀の双肩にかかることになる。柱石を失っての士気低下を憂慮し、同年10月後村上は賀名生から金剛寺に行宮を移転させ前進への意志を示した。金剛寺は南朝の最大荘園である八条院領の一部であると共に、和田氏の拠点でもあり南朝にとっては軍事的・経済的に重要地点だったのである。無論、楠木氏の勢力圏でもあった。更に南朝は味方の士気を挙げるべく攻勢をとる。山名時氏が直義の養子・足利直冬を擁立して再び南朝に近づいており、直冬と結んで再び京を窺う事としたのである。同年9月直冬は南朝から総追捕使に任命され、武家の棟梁として作戦の指揮を執ることとなった。 
12月に入ると、直冬・山名時氏は七千の兵で但馬を経て、そして旧直義派の桃井直常・斯波高経は三千の軍勢を率いて北陸から京へ向かった。これを見た尊氏は京を守りきれないと判断し近江へ逃れる。正平10年(1355)1月16日桃井勢が京に入り、26日正儀が四条隆俊・吉良満貞・石塔頼房と共に三千の兵で八幡に到着した。こうして南朝は三度目の京奪回を果たした。2月6日山名軍と楠木軍は三島の山上に布陣する義詮軍に奇襲をかける。前衛の細川頼之率いる二千は足元から急襲を受けて潰走、勇猛な山名勢と山岳戦に長じた楠木勢は勢いに乗って義詮本陣を脅かす。しかし佐々木導誉・赤松則祐の手勢が雨のように矢を射掛けて奮戦しその間に他の軍勢が援軍に駆けつけたため、南朝方は惜しくも敗北した。更に尊氏が自ら東山に進出して兵糧攻めの体制を取り桃井・斯波軍と激戦を繰り広げている。尊氏らは京を包囲して兵糧攻めの体勢をとったため直冬・正儀らは3月にやむなく撤退。 
この数年で三度にわたり京奪回に成功したが、いずれも短期間で撤退を余儀なくされている。元来、京は防衛戦に向いておらず守り抜くことは難しい。戦略として京に拘る事自体に無理があると言えよう。また、二度目・三度目についていえば主導権を握っていたのは山名氏であり直冬であって、南朝軍は飽くまで付随的なものであった。南朝は足利政権の不平分子に大義名分を与えて情勢に付け入ることはできても自力で打開する力は最早なかったのである。前線で戦い続けた正儀はそれを痛感することとなった。正儀は「太平記」でしばしば「心少し延たる者」「親に替り、兄に是まで劣らん」「急に敵に当る機少し」と批判されているが、こうした事情を勘案した上で戦場では決定的敗北を避ける慎重・守勢的な戦いを見せると共に和平を追求するようになったのであろう。 
義詮の南朝大攻撃 
正平13年(1358)4月30日足利尊氏が没し義詮が足利政権第二代将軍となった。翌正平14年(1359)11月義詮は自らの権威を確立するために大軍を編成して南朝に大規模な攻撃を企図する。関東からは畠山国清が数万の大軍を率いてこれに参加。この知らせは南朝の君臣に動揺を与えたが、正儀は暦の吉凶・険阻な地形・敵の不和を引き合いに出し天の時・地の利・人の和が全て味方に有利であり必ず勝利できると述べて後村上を安心させた。その上で後方の観心寺に行宮を移し紀伊龍門の砦と金剛山を防衛線とする方針を立てる。更に紀ノ川には野伏を配置し、平石・八尾・龍泉にも城塞を設置して防御力を強める手を打ったのである。 
当初は地の利を生かして足利の大軍を翻弄していたが、次第に兵力の差を覆いきれなくなっていく。龍門は仁木義長に落とされ、龍泉も細川清氏・赤松の軍によって陥落。更に平石城も失った楠木勢は赤坂・千早を頼みとしての籠城戦を余儀なくされつつあった。和田正武はこの情勢を打開しようと少数の兵で足利方に夜襲をかけるが、大勢を変えるには至らない。因みに「太平記」によればこの際、敵兵が正武を暗殺しようとこの一団に紛れ込んでいたのであるが、合言葉をいきなり発して動作の遅れた者を討つという「立勝り居勝り」により露見して失敗に終わったと言う。正儀は千早城で敵を引き付け長期戦に持ち込んで情勢の変化を待つほかなかった。 
これに加えて護良の皇子・興良親王が南朝に反旗を翻したのも同じ時期であり、南朝の命運もあと僅かと思われた。しかし、正平15年(1360)5月国清と仁木義長が対立して義長が反乱。足利方は南朝討伐どころではなくなり急遽軍勢を引き上げる。義長は敗れて伊勢に戻って南朝に降り、国清も人望を失って失脚した。南朝は危機を脱すると共に再び攻勢の準備に入ったのである。 
最後の京攻略 
正平16年(1361)足利政権では再び内紛が起こっていた。執事・細川清氏が強権を振るって佐々木導誉ら有力者の反感を買い、謀反の疑いをかけられたのである。清氏は9月に南朝に降り、京攻撃を進言。これについて正儀も意見を求められたが、京を落とすだけなら自身のみでも可能であるが守ることは清氏の力があっても難しいと述べて反対している。しかし結局、「一夜だけでも御所で過ごし、後はその夜の夢を偲びたい」という後村上や貴族たちの強い希望により京攻撃が決定した。これまでは南朝の軍勢が京を占拠したことはあっても、後村上自身が入洛した事はなかったのである。天皇として即位していながら都を追われる年月が長く、情勢は次第に不利となり南朝による統一の望みが少なくなっている以上、京に入れる機会があれば縋りたくなるのは無理からぬところであったかもしれない。 
さて12月清氏・正儀らは住吉・天王寺を経て数千の兵で京へ進撃。更に赤松範実も摂津から山崎へ進んでいた。これを受けて義詮は佐々木高秀五百を摂津茨木に、今川了俊の七百を山崎に、吉良満貞・宇都宮を大渡に派遣して防衛体制を築いた。しかし細川・楠木軍の勢いに押されてこれらの軍勢は戦わずして撤退し、義詮は不利を悟って京を捨てて近江に逃れた。12月8日南朝方は四度目の京奪回を果たした。 
この時、佐々木導誉は退去するに当たり邸宅を飾り立てている。まず美しく清掃し、六間の客殿に紋付の大畳を並べて中央と両脇に掛軸・花瓶・香炉・茶釜・盆を整えた。更に書院には王羲之筆の草書の偈・韓愈の掛軸を、寝所には沈香の枕・緞子地の夜具を飾り、加えて十二間の夜警室には鳥・兎・雉・白鳥の肉を3本の棹に懸け並べ3石の大筒に酒を満たし、その上に時宗僧二人を留め置いてもてなす様命じる徹底振りであった。導誉の屋敷を占拠したのは正儀であったが、これを知って感嘆し導誉に私怨を持つ清氏が焼き払うよう求めたのを拒んで自らの宿所としている。 
さて京を占領したものの全国における南朝方は振るわぬ状態であった。唯一九州のみが菊池氏により隆盛を誇っていたが、京を救援できる距離ではない。やがて義詮は軍勢を再編し、佐々木・赤松を中心として京を挟撃する体勢をとり始めたため12月26日南朝は再び撤退。この際、正儀は佐々木邸を前以上に飾り立てた上で返礼として鎧・太刀を置いて立ち去った。「太平記」は古狸に騙されて鎧・太刀を取られたと笑いものにしているが、明日知れぬ戦乱で粋な振る舞いを見せた敵に粋で返した小気味良い逸話であると言えよう。 
その後、清氏は四国に渡り拠点を築こうとするが細川頼之に敗れて討ち取られる。正平17年(1362)正儀が和田正武と共に反攻を試み、摂津渡辺橋で佐々木軍と戦っている。この時、佐々木軍が橋を守って渡河を防ごうとするのに対し、正儀らは野伏を入れた数千の軍勢を率いて密かに上流で渡河して佐々木軍の背後に回って急襲をかけて破り、続いて兵庫に進出して赤松軍と対峙しているが一時的な成果に終わった。これ以降、南朝が京を奪回する機会は訪れることはなかったのである。 
南朝における政治機構 
正儀が軍事的主力として活動した時期の南朝における情勢・政治機構について見る。 
正儀が兄達の戦死に伴って家督を継ぐ直前において、既に南朝は各地で旗色が悪く支配領域もかなり限られたものとなっていた。早くも興国4年(1343)には北畠氏は伊勢玉丸城を失陥して多気城に撤退、更に伊賀における味方勢力も縮小していた。また奥州でも正平2年(1347)北畠顕信が霊山・宇津峰など拠点となる城を失って逼塞を余儀なくされた。前述の観応の擾乱に乗じて一時は宇津峰城を奪回しているが正平8年(1353)には早くも再び落とされて以降は顕信の活動も見られなくなる。こうした状況において、南朝の支配領域は極めて限られたものとなり中でも大和・紀伊・河内・和泉に重点が置かれるようになる。しかしそうした中でも、曲がりなりにも天下を二分する勢力として、政権としての形式が整えられていたようである。 
まず経済基盤であるが、支配下の荘園に「朝用分」と呼ばれる支出が課されていたようである。この「朝用分」は、南朝に属する寺社領を「一時的に」召し上げてそこから朝廷の収入を得ると言うもので、正平年間から最末期の元中年間(1380年代後半から1392)に至るまですなわち南朝中後期全体において認められている。打ち続く戦乱の中で、現地において軍費を調達する必要からこうした制度が生まれてきたものであろう。正儀も河内・和泉の寺社に「朝用分」を命じたり祈祷など協力を条件に免除したりする文書を残している。おそらくはこの地域の守護として徴収に携わったものであろう。戦乱において「一時的に」行うという名目で実質的に永続化したであろうことも想像に難くない。そう考えると、この「朝用分」は足利政権における「半済」(荘園の半分を軍費として守護が手に入れることができる制度)と極めて類似した性格を持つと言える。 
そして一般政務の中心を占める土地問題を扱っていたのが、「武者所」である。後醍醐天皇の統一政権期には御所警備を担うとされた「武者所」であるが、この時期は四条隆資らにより所領宛行を行う南朝の中心機関となっていたようだ。そして聴断制により南朝の中心人物が参加しての評定が行われた。因みに「聴断」とは天皇の意志が強く作用する事を意味しており、貴族たちの合議制をっ中心としていた持明院統とは異なる大覚寺統の伝統にのっとったものと言える。鎌倉幕府で言えば合議を重んじる評定衆・引付衆というよりは得宗(北条氏惣領)臨席の寄合に近い性格の最高意思決定機関であったといえるかもしれない。 
さてその決議を執行するのが現地の国司・守護であった。河内・和泉においては「宮将軍」が綸旨を確認する調査のため在庁官人(国府に勤務する官吏)を指揮しており、正儀が綸旨の内容を実行に移すよう命じている。これは「宮将軍」が国司として、正儀が守護としてその職分を果たしたと考えてよいであろう。因みに正平10年(1355)頃から正儀は河内守に任じられており、守護・国司を兼任したと見てよい。 
そして中央の官職は、従来の朝廷に準じると考えてよいであろう。「新葉和歌集」から伺える南朝宮廷の構成員は、摂関家に始まり北畠・勧修寺流藤原氏など中流貴族まで一応の人材は揃っていた様であるから宮廷の形式を小規模ながらも整えることはできたと見られる。 
宗教的にも、荘厳浄土寺で御八講(法華経の講話)が行われ如意輪寺に南朝皇族の墓所が置かれたほか、四天王寺も南朝の支配下にあった。更に観心寺・金剛寺・住吉神社が一時は南朝行宮とされていたことも考えに入れると、ある程度の規模で慣例の宗教儀式は行われていたと言えよう。そして天皇の身体を呪術的に守る護持僧も文観・仁誉など密教僧が勤めていたのである。 
更に中央政府としての威信を保つために文化事業も盛んに行われた。しばしば歌合が行われ宗良親王により「新葉和歌集」に纏められたのは有名であるが、有識故実や宮廷文化の研究も行われ長慶天皇の源氏物語研究「仙秘抄」などに結実している。 
以上のように、南朝は小規模ながらも中央政府としての形式を備え、朝廷としての伝統的な形式を重んじながらも実務的な面では足利政権とも共通した性格を多く持つ政権であったと言える。 
和平交渉 
この時期、南朝と足利方の間にしばしば和平の話が持ち上がっている。最初は正平3年(1348)における四条畷での敗北直後であるが、「園太暦」によれば師直が夢窓疎石や西大寺長老(「西大寺代々長老名」によれば信昭)を仲介させてこれを機会に南朝との和平を進めようとしたという。しかしこの時には交渉が余り進捗した様子がない。 
次は正平5年(1350)観応の擾乱において直義が南朝と結んだ際のこと。直義が師直を粛清した後も南朝との和平交渉を進め、南朝側の代表を正儀が務めたことは前述した。この際には直義がともかく朝廷を統一し持明院統・大覚寺統が交代で皇位につくことを主張したのに対し、南朝が後醍醐系統による皇位継承や朝廷による統一政治を主張し物別れに終わっている。足利方はこの後も、南朝を平和裏に吸収して統一に持ち込む事を基本条件とすることになる。 
翌年の正平6年尊氏が直義と対抗するために南朝に降伏、一時的に北朝が廃され南朝が京を奪回することとなった。上述の正平一統である。南朝は北朝の天皇や院を連れ去り三種の神器を回収したため、それ以降の北朝天皇はその正統性を保証する存在を欠いているといえる。基本的に北朝の貴族たちは足利政権と南朝との和平に不快を示すことが多いが、この時のように北朝が見捨てられる形になるのを恐れるためである。 
その次に和平の話が持ち上がったのは正平15年(1360)「愚管記」によれば義詮が南朝に大規模な攻撃をかける一方で和平を呼びかけていたとされる。その後の正平20年(1365)に四天王寺金堂上棟式が後村上列席の下で行われた際、足利方から馬が献上されたと「師守記」は伝えており、この時期には足利政権と南朝はある程度の歩み寄りを見せていたようだ。後村上も長い戦いで南朝にとっての厳しい現実を認識し、徐々に和平へと傾いていたのかもしれない。 
そうした中で正平21年(1366)から22年(1367)にかけておこなわれた和平交渉は、それまでになく進展したものとなった。足利方の担当は佐々木導誉であり、南朝方は正儀である。「師守記」によれば両陣営が条件面で大凡の同意に達し、北朝天皇の同意も得た上で関東の基氏に意思を確認し最終決定をするという段階にまで至ったようだ。その状況で正平22年4月29日南朝から葉室光資が使者として義詮に謁見しているが、ここで急に和平交渉は破談に終わった。「後愚管記」は、南朝方の文書に(義詮が)「降参」と書かれていたため義詮が気分を害したのが原因と記している。その後も同年8月まで一応の交渉は続けられたようだが、ついに和平には至らなかった。ほとんど話が纏まっていながら急に破談となった裏に何があったかは明らかでないが、翌正平23年(1368)後村上が崩御していることを考えると、交渉中に後村上が病などにより影響力を低下させ主戦派が台頭した可能性が指摘される。この時期は懐良親王を擁する菊池氏が九州を統一支配し東上する気配も見せていたが、こうした事が彼らを強気にしたのは想像に難くない。 
正儀はこれら和平交渉の少なくとも二度にわたって南朝代表を務め、その他の時期も前線にいて交渉に関与した可能性は高い。厳しい戦況を熟知しているだけに、無謀な戦いで破滅するよりも面目の立つ形での和平の方が現実的であると考えるようになったとしても不思議はない。しかし、こうした実績が正儀を南朝内部で微妙な立場に追い込むこととなる。 
和平派の敗北 
後村上の晩年には、正儀は後村上と極めて密接な関係を持つようになる。正平16年(1361)頃には左馬頭に任命され、正平20年(1365)頃には左兵衛督の官職を授けられている。左兵衛督は従四位下相当で、参議でない人が任じられるのはまれ(鎌倉幕府第二代将軍源頼家が例外として存在)であった。正儀は特例で任じられた訳であり、直義が最後に任じられた官職であることや頼家の例も考慮すると武家の棟梁扱いに等しいと言えよう。更に正平20年(1365)正儀が後村上の綸旨奏者を務めており、蔵人(天皇の秘書)の役割も果たしていたのである。しかし正平23年(1368)3月後村上が崩御し寛成親王が即位する(長慶天皇)と状況は一変する事になる。 
さて、この時期の南朝は史料が乏しく長慶即位の有無に関しては定説のない状況であったが、大正期に八代国治が史料を整理して長慶が実際に在位した事を論じて以降はそれが定説となっている。そこで述べられている論拠についてここで紹介しよう。まず後柏原天皇時代の「帝王御系図」に「吉野帝 法皇寛成」と記されており寛成の即位を示唆している。そして応永22年(1415)後小松天皇の命で編纂された「本朝皇胤紹運録」で寛成の下に「於南自立 号長慶院」、弟・煕成の下に「自吉野降参、蒙太政天皇尊号、号後亀山院」と記されており北朝もその即位を認めたと考えることができる。更に、富岡家所蔵の「新葉集」における応永32年(1425)奥書に「慶寿院法皇御在位の時」編纂されたとあり、応永33年(1426)奥書で挙げられた「新葉集」歌人の生存者に「慶寿院法皇」の名は入っていない。この時点で後亀山は存命であるから、「慶寿院法皇」が後亀山でないことは言えそうである。加えて「建内記」に海門和尚を「後村上御孫、慶寿院御子」と記した記事があり、また観心寺に海門が所領を長慶院の遺命により処分した文書が残されていることからも「慶寿院」は長慶の事であり彼は南朝で即位したと考えてよい。更に言うと、天授3年(1377)に編纂された「嘉喜門院集」では「内の御方」(天皇)に「長慶院」と端書されており、「畊雲百首」で「天授二年仙洞並当今」の「仙洞」(上皇)に「長慶院」、「当今」に「大覚寺殿」と端書されていることもこれを裏付けると言える。 
次にその在位期間であるが、弘和元年(1381)に編纂された「新葉集」に「三代の御門に仕え」とある事からこの時期にはまだ在位していたと考えてよい。一方で「花営三代記」には文中元年(1372)に南朝天皇が譲位したという噂を記しているが信憑性では「新葉集」に劣るといえよう。元中元年(1384)に長慶の院宣が認められていることから、弘和3年(1383)前後に弟・煕成に譲位したと見てよいであろう。 
この長慶が在位したと思われる期間において、和平交渉は一度も行われていない。史料が少ないため断定するのは危険であるが、この点からも長慶や彼を擁立した人々は主戦派であった可能性が強い。大和・紀伊・河内・和泉の山間部にしか綸旨が及ばないような弱体勢力において強硬な主戦論を唱える事は、現実が見えていないと言われても仕方ないかもしれない。しかし、極めて弱体化しているからこそ強硬な原理的主張を唱えて鼓舞しなければ空中分解の危険があったとも見ることもできる。彼らは九州の味方が来援する事に一縷の望みをかけていたであろう。ともあれ、こうした情勢下では和平を唱え続けていたであろう正儀の立場は難しいものとなる。彼が長慶や強硬派貴族から遠ざけられるようになったであろうことは想像に難くない。 
北へ走る 
正平24年(1369)1月正儀は突如として足利方に降伏する。これを受け入れたのが足利政権において第三代将軍義満を補佐する管領・細川頼之であり、同年2月正儀は和泉・河内の守護職を保証されており4月には上洛して頼之や義満に対面している。また、南朝時代の官職・左兵衛督は武家の棟梁に相当するものであるので、北朝降伏後は中務大輔に変更となっている。正五位相当であるから格下げではあるが、慣例から言って実質的にほぼ同格と言ってよい官職であり、足利方が正儀にかなりの配慮をしていることが伺える。南朝の武力を担っていた正儀が降伏した事実は、大きな宣伝効果を持つと考えられるためこれを天下に知らしめるためもあっての厚遇であろう。 
正儀がここで北朝に降った真意を知ることは難しい。南朝強硬派の台頭が契機であることはほぼ間違いないが、その目的には諸説あるようだ。南朝の主力である自分が抜ける事で和平止むなしという方向に導くつもりだった、南朝で和平を策すのが難しい以上は身を移して頼之と和平条件を詰めるつもりだった、などと色々言われていた。しかし後述するように積極的に南朝攻撃に参加している点も考えると、現実に即しない強硬な貴族たちの主張に反発した結果ではないかと推測されている。考えれば、こうした主張によって父や兄が死に追いやられており自身も無理な戦いに従事させられた。そしてこの時も長年の功労にもかかわらず評価されず微妙な立場に立たされたであろう。あるいは内通の疑いをかけられたかも知れぬ。そうした長年の怒りと不満が、この時に臨界点を突破したのではないか。この正儀の振る舞いは、大坂の陣において片桐且元が豊臣家存続のため尽力したにもかかわらず内通を疑われて徳川方に移り、戦いでは大坂城に大砲を打ち込んだ事実を想起させるものがある。 
さて正儀が足利方に陣営を変えた事実は、楠木一族の強い反発によって応じられることとなった。北朝応安3年(1370、南朝建徳元年)には和田正武と正儀の軍勢が衝突しており、これに対して頼之は養子・細川頼基を援軍に差し向けている。しかし足利方の有力者には頼之に反発するものも多く、援軍の将たちも積極的に正儀・頼基を援助しようとしない。そのため頼之が出家を仄めかし義満が宥めることでようやく援軍が動き出す騒ぎになっている。正儀は足利政権内部で孤立傾向にあり頼之のみが頼りであったことが伺える。 
北朝応安6年(1373、南朝文中2年)8月正儀は足利軍を案内して南朝行宮である金剛寺を攻撃した。この時に南朝強硬派である四条隆俊が戦死し、長慶は天野に逃れている。更に土丸城の橋本正督が正儀の誘いにより足利方に降伏、9月には紀伊有田も足利軍に降った。この時期には今川了俊による九州経略も軌道に乗り始めており、南朝方の勢力は日毎に縮小していたのである。 
さて北朝康暦元年(1379、南朝天授5年)に管領・細川頼之は反対派の有力者達に押されて地位を追われ、斯波義将が管領となる。正儀はここに庇護者を失った。また和泉守護職も台頭しつつあった山名氏清によって永和4年(1378、南朝天授4年)に既に奪われていた。足利政権には正儀の居場所は最早なくなっていたのである。 
南に帰る 
弘和2年(1382)正儀は再び南朝に帰参していたようである。足利方への降伏により一族の離反を招いた事や足利政権内部で孤立した事が大きな打撃であったろう。そして省みて、自分はやはり南朝方の人間であると思い定めたものであろう。南朝としても圧倒的劣勢の中では長らく武力を担ってきた正儀の存在は貴重であったため迎え入れるに吝かでなかったろうし、主戦派の発言力が弱まったことも正儀にとって帰参への抵抗を少なくしたであろう。彼の死に場所は他の一族と同じで結局は南朝であった。この年の閏1月正儀は平尾で山名氏清の軍勢と戦って、一族数人・士卒140人を失う大敗を喫している。最早、南朝の頽勢を留めることは誰にもできなかった。 
さて南朝は帰参した正儀に対して以前と同じ左兵衛督として待遇、更に翌弘和3年(1383)参議に昇進させて貴族待遇としている。同じころ、長慶天皇が退位して煕成親王(後亀山天皇)が即位した。この天皇の下で再び和平派が力を強めたようで、正儀は彼らからの期待を受けたものであろう。その後も正儀は河内・和泉で元中3年(1386)まで文書を発行しているのが知られているが、それ以降の事跡については不明である。 
その後 
元中9年(1392、北朝明徳3年)閏10月後亀山は北朝・後小松天皇に三種の神器を譲渡。ここに六十余年に及んだ南北朝の争いはいったん幕を閉じた。しかし、その後の展開は旧南朝側に大きな不満をもたらすこととなった。両朝合体時の約束では皇位を両系統が交互に継承することとなっていたが、実際には守られることはなく北朝系統が受け継いでいった。また、南朝が支配することとなっていた国衙領(公領)も豪族達に侵食され実質が失われており経済的にも苦境にさらされる。 
こうした中で旧南朝勢力がしばしば不平分子と結びついたりして挙兵しているが、その中に楠木氏の姿も認められている。早くも合体間もない応永6年(1399)における大内義弘の反乱に楠木一族が参加している(正儀の子・正勝とされる)のが「応永記」から知られる。それ以降も主なものだけを挙げると、正長2年(1429)楠木光正が第六代将軍・義教を奈良で暗殺しようと謀って捕らえられ処刑されている。永享9年(1437)河内で楠木一族が挙兵しており、嘉吉3年(1343)南朝残党により神璽が内裏から奪われた際も楠木次郎が関与している。そして文和4年(1447)楠木雅楽助が紀伊で挙兵して宇都宮・畠山に討伐された。寛正元年(1460)には楠木某が挙兵に失敗して処刑されている。そして応仁の乱の最中である文明2年(1470)天皇・将軍を要した東軍・細川勝元に対抗するため西軍・山名宗全が旧南朝皇族を擁立した際に楠木氏も加わっていることが知られている。 
これ以降は、足利政権が実力を失ったこともあってその不平分子が擁立する旧南朝勢力も姿を現さなくなる。無論、楠木氏も表舞台には見られなくなるのであるが、永禄2年(1559)楠木氏子孫と称する正虎が正成の朝敵赦免を要求して容れられている。後に正虎は織田信長の祐筆として活動。また、北畠親房と共に関東で活動していた楠木一族の子孫が数原氏と名乗り徳川期に水戸徳川家・徳川将軍家に侍医として使えたことが知られる。旧南朝として抑圧を受けていた楠木氏も、ここで社会的に地位をある程度回復したと言えるのである(実際に子孫であったかは確かめるすべはないが)。そして水戸徳川氏の「大日本史」などにより、楠木氏は「忠臣」として称揚されるようになり近代に至る。 
 
正儀は元来性格的に温和であったようで、「吉野拾遺」には正儀を仇として狙う能王という人物もその温情にほだされて帰服した逸話が記されているし、「太平記」にも正儀が溺れた敵兵を救出して衣類・医薬を施した話が残っている。後者に関しては父・正成や兄・正行にも同様の逸話が存在し、楠木氏代々の家風であったと言えるかもしれない。こうした人柄に加えて苦しい戦況への洞察が、正儀を慎重な守勢派・和平派へと育てたものであろう。一時期に北朝へ降ったために毀誉褒貶のある人物であるが、総体的に見れば南朝の柱石として楠木氏惣領の名を汚さなかったといえるし貢献度・力量においては父や兄にも決して劣るものではないと言える。圧倒的劣勢におかれた南朝後期においては第一の人物であろう。  
 
護良親王 (1308-1335)

鎌倉政権打倒に際しての実質上の司令官であり、戦後は尊氏を危険視するも父・後醍醐により排除された悲劇の皇子・護良親王。 
誕生 
護良は、延慶3年(1308)後宇多院の子・尊治親王(後の後醍醐天皇)の皇子として生まれたとされている。母は民部卿三位と呼ばれた女性であるが、その経歴については不詳だ。北畠師親の娘であるとも言われるが、日野経子をさすとも言われる。「太平記」によれば、幼少より聡明で後醍醐は彼を皇太子にしたいと望んでいたというが、実際には後醍醐が後継者として望んだのは護良の異母兄弟である世良・尊良であったようだ。ともあれ護良は、後醍醐天皇が即位した頃には仏門に入り尊雲法親王と名乗っていたようで、正中2年(1325)梶井門跡に入り承鎮法親王の弟子として天台座主・親源より灌頂を受けている。因みに彼が「大塔宮」と呼ばれるのはこの時に梶井門跡の大塔に入室した事に由来している。また、顕教(経典に記された仏の教え。密教と対比してこう呼ぶ)を仲円から学んだようだ。 
時代情勢 
12世紀末に鎌倉幕府が成立して以降、主に西を朝廷、東を幕府が支配する体制が成立。13世紀前半における承久の乱の後には調停に対する幕府の優位が確立し、13世紀後半の元寇を契機にして防衛のため西国・非御家人にも幕府は支配を及ぼす必要が生じた事もあって全国的に力を伸ばす。加えてこの頃、朝廷は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰がざるを得なくなる。更に幕府の統制強化の中で国司の権限であった田文作成が守護の手に移るなど土地把握力が低下した。一方で幕府は、朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち非農業民の台頭による社会不安、更には御家人達に生じてきた経済格差による不満に悩まされるようになった。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領・得宗の下で非農業民を支配化に組み込んでの専制体制を志向するようになった。しかしこれは従来幕府の軍事力を支えてきた将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。一方で非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、乱世到来の近さを思わせる状態であった。 
不思議の門主 
北条氏に向けての不満が高まりつつある中、得宗高時や実権を握る内管領長崎高資はそれに対する十分な対策を打ち出しえなかった。一方、両統分裂の中で兄・後二条天皇の子が成長するまでの中継ぎ、すなわち「一世限りの主」として即位した後醍醐天皇は、それに留まる事を良しとせず天皇親政を進めると共に自己の子孫による皇位継承と全国一元支配を目論み倒幕を志向するに至った。後醍醐は北条氏に不満を抱く御家人達に声を掛けると共に、朝廷と繋がりが深い寺社・非農業民らの力を組織して対抗しようと図った。 
そうした情勢下の嘉暦2年(1326)尊雲は天台座主に任命された。2年後に一旦辞職しているが元徳元年(1329)に再び座主となっている。座主の位に就いている間、尊雲は本業であるはずの仏道を差し置いて武芸鍛錬に余念がなかったため人々は「未(いまだ)斯る(かかる)不思議の門主は御坐さず」と噂し合ったと言う。後醍醐は叡山を倒幕のための武力として期待しており、尊雲の座主就任は叡山を味方に引き寄せる事が期待されての人事であった。尊雲はそれをよく承知しており、挙兵の日に備えて自らを鍛えると共に武力となる僧兵との直接的な繋がりを作ろうとしていたのである。また、後醍醐も自ら叡山や奈良に行幸し多額の寄進を行っており、有力寺社の武力を組み入れる工作を進めていた。 
元弘の変 
元弘元年(1331)、後醍醐天皇の倒幕計画が吉田定房の密告により幕府に漏れ、幕府は日野俊基らを捕らえられた。天皇の倒幕計画が露呈したのは正中元年(1324)に続いて二度目であり、前回とは違い穏便な結末は期待できないと考えられた。実際、幕府方は天皇を捕らえ譲位させようと考えて大軍を上洛させていた。この動きを叡山の尊雲は察知し御所に知らせると共に叡山への行幸を勧める。これを受けて後醍醐は御所を脱出するが叡山へは向かわず、奈良を経て笠置に篭った。後醍醐が叡山に赴かなかった理由として、まず陥落した際の後背地が存在しない事が考えられる。また、南都は摂河泉に近い事から楠木氏を始めとする味方の土豪を頼みとしたものであろう。一方、比叡山には花山院師賢が後醍醐に成りすまして向かい、西塔に奉じられた。 
時の天台座主は尊雲の異母兄弟である尊澄法親王(後の宗良親王)であり、尊雲は彼と協力して叡山大衆の結束に力を注いだ。天皇自身の行幸と聞いた僧兵達は感銘を受けて結束し、ほとんどが味方に付いたという。一方で天皇の御所脱出を知った六波羅探題(京にある西国の幕府出先機関)は、脱出先が叡山との情報を掴み約七千の軍勢を大津・唐崎方面へ差し向けた。迎え撃つ叡山側も六千の兵力を編成する。そのうち数百人が血気に逸って唐崎に出撃し六波羅方と衝突した。叡山方は無勢のため苦戦を強いられるが隘路を利用して粘りを見せ、その間に山上から数千の軍勢が今路越へと殺到し和仁・堅田からは水軍が大津に回り幕府軍の退路を断とうと動いていた。包囲される危険が生じた六波羅方は退却を余儀なくされたが、その際に追撃を受けて大きな犠牲を出すに至った。 
朝廷側としては幸先の良い勝利であったが、叡山に入った「天皇」が偽者である事が直後に露見したため叡山宗徒は欺かれたのを怒って雲散霧消し、尊雲らは下山して落ち延びざるを得なくなった。偽者の天皇で敵味方を最後まで欺き通す事は難しいのは予想されたであろうから、恐らくは当初より後醍醐が南都で体制を整えるまでの時間稼ぎが目的だったと思われる。この間に後醍醐が笠置山に篭って防備を整えると共に河内赤坂では楠木正成が呼応して挙兵しており、その目的は十分に果たされたと言えよう。 
 比叡山の動員体制が崩壊した後、尊雲は尊澄と共に笠置山に赴いて後醍醐と合流。「増鏡」によれば尊雲は間もなく金剛山の楠木正成が篭る赤坂へと移ったと言う。やがて笠置・赤坂に鎌倉から派遣された大軍が押し寄せ、両者は落城し後醍醐や尊澄らは捕らえられ流罪となった。幕府は三種の神器を後醍醐から譲り受けて持明院統の光厳天皇を即位させ事態収拾を図る。しかし尊雲や正成は逃げ延びた。尊雲が京に潜伏していると言う噂が流れた事もあり、六波羅は洛中の取締りを強化するなど大きな不安を抱いていた。 
逃避行 
尊雲は、その後は潜伏生活を送る事となるが、その時期の消息については「太平記」に記されている。まず奈良に逃れ般若寺に潜伏していたと言われる。後醍醐に近侍し倒幕計画にも加わっていた文観の息がかかった勢力が般若寺には存在しており、それを頼ったものであろう。ある時、幕府方の一条院按察法眼の手勢が襲撃したため仏殿に身を隠した。内部には経典を納める唐櫃が三つ並んでおりそのうち一つの蓋が開いており残り二つは閉まっていた。尊雲はまず開いた櫃に入り経を被って隠れる。隠形の呪を口ずさみ見つかった際にはすぐ自刃できるよう腹に白刃を押し当てて息を殺していると、追手は蓋をした櫃二つを捜索して立ち去っていった。尊雲は用心のために次に蓋をした櫃に移ったところ、果たして先ほどの追手が戻ってきて蓋の開いた櫃を捜索したが見つからない。追手は「大塔宮はおわさず、中に大唐の玄奘三蔵がおわした(玄奘により訳された経典であるため)」と軽口を叩きながら立ち去ったと「太平記」は伝える。余談であるが、「大塔宮」の呼称は「おおとうのみや」と読むのが現在通例とされているが、この事例からは「だいとうのみや」とも言われていた可能性が示唆される。当時の人名の読み方はそう厳格ではなかったのかもしれない。 
危ういところで難を逃れた尊雲は、小寺相模・赤松則祐ら部下を率いて熊野へと向かう事とした。修験者に姿を変えて道中の神社に幣を捧げ勤行も怠らず身元が露見するのを防ぎつつの旅である。「太平記」によれば、途中で熊野は鎌倉方であり危険であると熊野権現から夢で告げられ十津川へと目的地を変更。恐らくは熊野三山での朝廷支持者が一行に知らせたというのが実態であろう。十津川に到着した尊雲らは、まず現地の有力者である戸野兵衛から保護を受けた。戸野の家人が病で悩んでいたのを祈祷で治す事により信頼を得て、兵衛が朝廷に心を寄せているのを確かめた後に身元を明かしたと「太平記」は伝える。兵衛を通じて、その叔父で十津川の元締めである竹原八郎から迎えられ十津川全体が馳せ参じたという。ここで尊雲は還俗して「護良」と名乗り、竹原八郎の娘を娶ったと伝えられる。 
護良が十津川の郷民を味方にした事は、熊野別当にも伝えられた。別当は護良を捕らえた者に六万貫の賞金をかけると共に幕府からも伊勢国串間荘が恩賞として与えられる旨を布告したため、十津川郷民の中からも幕府方に寝返る者が現れるようになった。やがて竹原八郎の子からも寝返る気配があったため護良一行は再び脱出した。 
途中、芋瀬の荘官に行く手を遮られたが、交渉の末に旗を渡した上で通過を認められた。これをもって戦闘した証拠とし荘官が幕府へ顔を立てるためである(尤も、護良配下で遅れて通過した村上義光が奪還している)。更に玉木荘でも遮られ、荘司に交渉しているがこの時は不調で襲撃を受けている。包囲を受け討死を覚悟したところに、紀伊国の土豪である野長瀬氏が数百の兵を率いて救援に駆けつけたため難を逃れた。「太平記」によれば、彼らは護良が守りとして身に着けていた老松明神のお告げで馳せ参じたという。 
「太平記」が描くこの時期の護良の物語には、宗教的・超自然的な影がちらついている。護良がこの時期に滞在した紀伊半島南部は、金剛山地・吉野・熊野・高野と古来より山岳信仰が栄えた聖地が多数存在する地域である。こうした地域は密教と密接に結びついて独自のネットワークを構築していた。修験者は自由に行動が取れるため、広い地域に情報を伝達する能力と人脈を有していたのである。また、沿岸には熊野水軍が勢力を広げており、海上交通においてもこの地域は重要な役割を果たしていた。貨幣経済が発達する中で、彼らは非農業民を支配下に置き侮れない社会的実力を持つようになっていた。護良が嘗て天台座主であった時期に倒幕に備えてこうした勢力とも関係を構築していたであろうことは想像に難くない。無論、幕府方も彼らの取り込みには力を入れていたため必ずしも全てを味方につけることができたわけではないが、決して侮れない支持基盤が形成されていたであろう。「太平記」のエピソードからは修験者が折々で護良のために働き危機を救ってきた事が推測される。また、護良自身が宗教者としての素養を有していた事も伺われ、嘗て僧として体得した力が彼らを味方に引き入れる上で大きく役立ったであろうと思われる。 
 さて、野長瀬氏の保護を受けた護良は、槙野城を経て吉野の金峰山蔵王堂に入り、この地で挙兵するに至る。 
吉野山 
元弘3年(1333)潜伏していた楠木正成が再び姿を現し、大阪平野の各地で幕府方を撹乱する。更に六波羅の軍勢を摂津渡辺で撃破し、京を恐怖に陥れた。幕府はこれを鎮圧し事態を収拾するために再び大軍を派遣する必要が生じたのである。時期を同じくして、播磨では赤松円心が、大和では高間行秀が、さらに伊予では土居・得能・忽那氏が護良の令旨に応じて挙兵したのである。後醍醐はこの時期は隠岐に流罪となっており、動きが取れない状態であった。護良は水軍を味方につけて後醍醐と連絡を取りながら、実質上の総司令官として諸勢力に反幕府の挙兵を呼びかけていたのである。そして自身は吉野山に入り篭城した。同時期に正成は金剛山の千早城に篭って幕府の大軍を迎え撃つ体制を整えていたのである。この両者は連携し、畿内を中心に新興豪族の糾合を図っていた。 
幕府方は戦いを始めるにあたり正成を捕らえた者に丹後国船井荘、護良を捕らえた者に近江国麻生荘を恩賞として与えると布告しており、総司令と前線での第一人者として二人を認識していた事が知られる。そして吉野には二階堂貞藤が数万の軍勢を率いて殺到し攻囲戦を開始。守る護良方は三千程度であったが、地の利を生かして難所・隘路を利用しつつ翻弄していた。幕府方に参戦していた吉野の執行・岩菊丸は地理を熟知していたため少数の供を連れて裏から蔵王堂に突入、護良方が混乱したのを受けて正面の幕府軍も突撃した。護良は討死を覚悟し部下達と酒宴を開いていたが、村上義光に諌められて脱出。義光は護良の身代わりとして幕府軍をひきつけて時間を稼いだ上で自刃した。この時に義光の子・義隆も護良を守って討死を遂げている。 
どうにか難を逃れた護良は高野山に逃れた。二階堂貞藤は追っ手を差し向けて高野を捜索させるが、衆徒が護良を匿いぬいたためついに発見される事はなかったのである。 
大日本国皇太子 
一方、千早城の正成は幕府の大軍を相手に一歩も引かず翻弄していた。そして護良も、再び潜伏生活をしながら吉野・十津川・宇陀の野伏を組織して幕府軍の糧道を襲撃する事でこれを援護した。こうした地の利を生かしての神出鬼没なゲリラ戦の他、全国各地へ令旨を飛ばして幕府に不満を持つ豪族達に挙兵を呼びかけていたのである。正成の戦いぶりが九州など遠隔地にまで伝わる事で、全国的な幕府の威信低下が見られるようになった。こうした中で、護良の令旨は越後の三浦和田氏、薩摩の牛屎氏、筑後の三原氏にまで及んでいた。この時期、九州では菊池武時が挙兵して大宰府を攻撃しているが、これも護良の令旨による行動ではないかと推測されている。幕府軍の一員として千早城包囲戦に参加していた豪族達の中にも自分の領地が心配だったり幕府を見限ったりと言う理由で引き上げるものが見られるようになった。上野の新田義貞もその一人であったが、護良がその際に義貞に与えた文書は綸旨(天皇の命令書)の形式をとっていたと「太平記」は伝える。その逸話の真偽はともかく、後醍醐が不在の中で天皇代理というべき役割を果たし朝廷軍の第一人者として大きな役割を果たしていたのは疑いない。護良を「大日本国皇太子」と記す文書も存在しており、一般からもそうした目で見られていた事が伺える。 
やがて、後醍醐も水軍の手引きで隠岐から脱出し伯耆の名和長年に迎えられ、千種忠顕を大将として京奪回のため軍勢を派遣する。忠顕は播磨の赤松氏と共に京攻撃を繰り返すものの苦戦。こうした中で鎌倉から幕府軍第二陣として上洛した足利高氏が後醍醐と内通して寝返り、5月7日に六波羅探題を攻略して京を手中にした。六波羅探題であった北条仲時らは近江番場で自刃。この知らせを受けた千早を包囲していた幕府軍は崩壊し、畿内の幕府方勢力は駆逐される事になる。時を同じくして上野で新田義貞が挙兵し鎌倉を攻略、5月22日に北条高時らは一族と共に自決し鎌倉幕府はその歴史を閉じた。この際に畿内から三木氏が新田軍に参加しており、護良の手によるものであると言われている。 
将軍宮 
幕府滅亡の直後から、「将軍宮の仰せにより」(勝尾寺文書)のように護良を「将軍」と記す書物が散見される。この頃、京を占領した足利高氏が六波羅探題の実務官僚を吸収して奉行所を開き軍政を布いており、護良はこれを朝廷への新たな脅威と認識してこれに対抗しようとしていたのである。「太平記」は配下である良忠の部下を高氏に処刑された恨みから対立が始まったと記しているが、事実としても切っ掛けに過ぎないであろう。武家の名門として北条氏に代わって武家を束ねようとする足利氏と、朝廷の下に武家を服従させようとする護良の路線とは相容れる筈はなかった。 
後醍醐は伯耆から京へ凱旋するが、護良はこれを出迎えることなく信貴山に篭って動かなかった。後醍醐は護良を再び仏門に戻らせようと考えていたが、護良はこれを拒み朝廷にとって新たな強敵である足利を討伐する事を主張した。しかし後醍醐にとってようやく長い戦いから解放されたばかりの段階で、新たな戦いを始めるのは難しかった。また、最後は勢いに乗ったとはいえ薄氷を踏んでの勝利であったことや味方の疲弊を考えると足利勢との争いは大きな危険であると言えた。そして、形勢を決定付ける大きな功績こそあれ明らかな罪状のない高氏を討伐する事は名分も立たず人々に大きな不安を与える事が予想されたのである。後醍醐にとって、少なくとも現時点では高氏との正面対立は得策ではなかったため、護良を何とか宥めざるを得なかった。そこで、6月3日に護良を征夷大将軍に任じることで妥結するに至った。 
護良は、これに加えて和泉・紀伊を知行国として与えられた。また、丹後にも配下を国司として派遣した形跡があり恩賞として権限を認められたようだ。そうした地域を拠点として、湯浅氏・伊東氏など畿内の豪族を部下として編成した。また、この時期に奥州支配を確立するために義良親王を奉じて北畠顕家が奥州将軍府を設立しているが、「保暦間記」によればこれは護良が北畠親房と図って後醍醐に勧めたものであると言う。護良は、畿内・奥州を味方として固める事で来るべき足利氏との対決に備えていた。しかし、その時は遂に訪れる事はなかったのである。 
没落 
討幕戦において、護良が天皇代理を務めていた事は前述した。その際に、護良は数多くの令旨を発布し恩賞の約束や所領安堵を行っていた訳であるが、戦中に味方に付くよう呼びかけるものであるから景気の良い空手形を乱発する事になるのは致し方ない。戦後になって新たな秩序を形成するに当たりこれらを全て実行するのは不可能であったが、豪族達や寺社がこれら令旨内容の実行を求めるのは彼ら自身の生活を守るため当然であった。更に後醍醐自身も同様な綸旨を数多く出しており、後醍醐の綸旨と護良の令旨に内容の食い違いがしばしば見られていた(そして恐らく綸旨同士・令旨同士でも食い違いがあったであろう)。建武政権成立直後に所領安堵に綸旨が必要であると定めたのは、令旨の効力を法的に制限してこうした事態に対処する意図であった。ただし実務上の混乱を招いたため7月には諸国平均安堵法が出され各国国司の認定にゆだねる事としているが。そしてこの年の8月末には護良の征夷大将軍が取り消され、令旨の無効が宣言された。護良は明らかに後醍醐から冷遇され、見放され始めていた。「太平記」などでは自分の子を皇太子にしようと目論む後醍醐の愛妾・阿野廉子の讒言によるとしているが、単にそれだけでなく後醍醐自身が護良を危険視し警戒するようになったためではなかろうか。 
護良は、朝廷による統一政権を確立させるために最大の危険分子である尊氏(高氏は後醍醐から名「尊治」の一字を賜り改名)幕府の支配下にあった武力を吸収しようと図っていたのであり、父後醍醐の理想のため邁進していたのであるが、護良自身の意図とは関わりなく後醍醐にとって護良は脅威であり尊氏と同じく「獅子身中の虫」となっていたのである。 
護良が執拗に敵視した尊氏は、後醍醐から見ても無論危険分子であった。前述のように自らの名の一字を与え、頼朝の例に倣い武蔵・相模・伊豆を与え、鎮守府将軍に任じながらも力を付けすぎないように気を配っていた。苦心して面目が立つように計らいながら懐柔しようと目論んでいたようだ。その一方で、「梅松論」によれば護良に密かに内諾を与えて尊氏を討伐させようとしたようである。これには正成や義貞、名和長年らも一枚噛んでいたようであるが、後醍醐としては危険分子二人を噛み合わせて片方を倒し残りも弱体化させようとしていたのではあるまいか。 
後醍醐は、寵臣たちを登用し商工業の直接支配を試みたり広大な旧北条得宗(本家当主)領を自ら独占することで経済基盤の確立を図る一方、紛糾する土地問題に対しては寵臣や旧幕府官僚からなる雑訴決断所を設けることで法的解決を目指した。また、寺社に関しても自らの支配下に組み入れようとして中央集権的な専制体制構築を進めていた。こうした中で、護良は非農業民や寺社・修験道との繋がりを断たれ力を削がれていったであろう事は想像に難くない。着実に豪族達の信望を集めつつあった尊氏との戦力差は絶望的なまでに開き始めており、護良に残された対抗手段はテロリズムのみであった。護良が無頼漢を配下に組み入れ、彼らが京で辻斬りを行っていたという逸話が残っているが、恐らくはこの時期の話であろう。建武元年6月尊氏の屋敷を襲撃する計画がなされたが、失敗に終わっている。しかしこうした中でも護良は覇気を失っていなかったようで、明極楚俊に参禅し兵仏一致の教えを聞いており「深く教理に通じ、武略人に過ぐ」と高く評価されている。彼の悲しいまでの孤高な意地が垣間見える。 
そしてついに破局が訪れる。建武元年(1334)11月、護良は参内したところを名和長年・結城親光によって捕縛された。天皇に対する謀反の疑いと言う罪状であった。生涯をかけて献身してきた父に捕えられた事が信じられなかったのか、自らの至誠を訴えた書状を後醍醐に宛てて記して温情を求めるものの字体は覆らなかった。尊氏が阿野廉子と結んで後醍醐に護良を讒訴したのが原因と「太平記」は伝える。しかし命を狙われた尊氏が後醍醐に抗議し、後醍醐が火の粉が自らに及ぶのを避けて劣勢覆いがたい護良を切り捨てたというのが真相であろう。護良にとって後醍醐は敬愛する父であり献身の対象であったが、後醍醐にとっては自らの権威に拮抗する脅威であり除かれるべきものでしかなかった。護良は鎌倉にいる直義(尊氏の弟)の元に護送される事となった。これは後醍醐が飽くまでこれを尊氏と護良の私闘であるとしたのを意味しており、獅子身中の虫である護良と心中する訳にはいかなかったという事であろう。道中で「武家よりも君のうらめしく渡らせたまふ」と護良は述懐しているが、当然の心情であろう。これに続いて、護良の部下達も謀反人として処刑されているが、ここでは南部・工藤といった奥州出身と思われる人物の名が目に付く。後醍醐により嘗ての人脈を起たれつつあった護良にとって、奥州将軍府の北畠氏から送られた人々が最後の頼みであったことが察せられる。 
建武2年(1335)信濃で北条高時の子・時行が蜂起し鎌倉に攻め寄せた。鎌倉を守っていた足利直義はこれを防ぐ事ができず7月22日に一旦関東から撤退する事になるが、この際に淵辺義博に命じて幽閉していた護良を殺害させている。敗走に伴う混乱に紛れて厄介な敵を処分したとも、混乱に紛れて護良が救出され放たれた虎となるのを恐れたためとも言われる。「太平記」によれば、この時に護良は激しく抵抗して歯で刀を噛み折り、首をはねられた後も目を見開いて折れた刃を噛み締めたままであったという。到底事実とは思われない逸話ではあるが、護良の無念を表して余りある。なお、一説では淵辺義博が密かに護良を救出し逃れさせたという話もあるが、護良のような人物がこの動乱の時代に大人しく姿を消すとは思われない。いずれにせよ護良はこのときを限りに歴史から姿を消し二度と現れることはなかったのである。 
その後 
この北条氏残党蜂起をきっかけにして尊氏は鎮圧を名目に関東へ向かい、鎌倉を奪回した後に朝廷に反旗を翻す。後醍醐は護良に代わる対抗馬として新田義貞を選び尊氏と戦わせるが、最終的に戦局は朝廷に利あらず建武政権は3年で崩壊し尊氏が京に政権を樹立。後醍醐は吉野に逃れ不利な状況下で抵抗する事となる。南北朝動乱の幕開けである。 
もし護良が十分に権限を与えられて尊氏と対抗していたら、という仮定は興味をそそられるが、その際の結末は神のみぞ知るであろう。ただ、そうなったとしても護良が武家に対し尊氏程のカリスマたりえたかは疑問である。護良が(皇子としての威光はあったものの)自らの力で寺社・新興豪族を味方に組み入れたのと比べて、足利氏は歴代の名門で古くから有力者を含めた豪族達の人望を集めていた。加えて尊氏も人気を集めやすい人柄であり、護良としては分が悪かったと思われる。実際に尊氏と対抗したのは護良でなく義貞であったわけだが、今度はその義貞と護良を比べてみよう。護良は権威や全国的信望では義貞を上回っているし個人的武勇・戦略眼においては劣らないと思われる。が、戦闘指揮官としての経験では及ばず戦力として頼みにできる一族の存在もない。また、義貞と違い後醍醐から警戒され十分な援護を得られない可能性が強い。義貞と比較するとやや有利であるが、そう大きな差はなさそうだ。義貞が尊氏に相当の差をつけられていたことも考えると、護良が十分な条件下で尊氏と戦っていたとしても苦戦は免れなかったであろうと思われる。 
読み方の問題 
余談になるが、「大塔宮護良」の読み方について一言述べておこう。戦前においては「だいとうのみやもりなが」と読む事が一般であった。皇室において「良」の字に「なが」の読みを当てる事はしばしば見られたためである。しかし80年代に「おおとうのみやもりよし」と読む事が上横手雅敬氏により提唱され、大河ドラマ「太平記」を契機に世間にも定着した。その論拠としては以下の通りである。@「毛利家文書」における正平6年(1351)常陸親王御使交名に「おおたをのみや」とある事、A那比新宮神社の正平2年(1347)「大般若経」奥書に「応答宮」とある事、B「太平記」古写本である西源院本で「大塔二品護良」に「タウ」と振り仮名があった事から「おおとうのみや」と読んだ事が知られる。「護良」については、兄弟達について以下のことが知られている事から「もりよし」であると類推された。@応安4年(1371)「帝系図」では後村上(義良)を「義儀」(本来「儀義」と書こうとしたと思われ、「のりよし」と読むのであろう)と記している事、A応永15年(1408)「人王百代具名記」が後村上を「儀良」と書き「ヨシ」と振り仮名している事、B「増鏡」に「タカヨシ」「ヨヨシ」と振り仮名したものが見られる事から後醍醐の皇子達は「-ヨシ」と呼ばれていた事が知られたのである。南北朝における学説・人物評価は戦前戦後で激変する例も少なくないが、護良の読みもその一つであり戦前世代には新しい読みを耳にしてショックを受けたという話も聞かれる。「教訓物語」としての性格が強かった戦前国史教育と実証を重んじる戦後教育の差異を象徴する話と言えるかもしれない。 
王権と皇子 
ところで、王権においては有能な皇子は頼もしい支えになりうると同時に、王者の権威を脅かす者として疎外される傾向もあるようである。そして、そうした場合において同情・人気は皇子に集まる事が一般のようだ(無論、王者と皇子のどちらが正しいと言うのではなく王者には王者の、皇子には皇子の事情があるわけであるが)。そうした例としては天武天皇の子で皇后(後の持統天皇)に謀反の罪を着せられた大津皇子が知られるし、頼朝に警戒され粛清された源義経もその系統に分類しうるであろう。そして、そうした源流は我が国においては日本武尊に求められるようだ。護良もその例に漏れず、前述のような生存説も見られることからも分かるように民衆の同情を呼んでいたのである。 
近代に入ると、皇室への忠義を鼓吹するために南朝の功臣達を顕彰する目的もあって、護良が幽閉されたという伝承のある(史実とは異なる)洞窟が神社として祀られるようになった。護良を祭神とする鎌倉宮である。日本武尊ら「悲劇の皇子」や正成ら「南朝の忠臣」などと同様に、その悲劇や同情をも忠君愛国の偶像として利用されるにいたったといえる。 
 
護良は、討幕においては事実上の総司令官であった。朝廷の皇子としては異例にも自ら先頭に立って戦場に身を置き、各地を放浪して豪族と交わり配下に組織した。後醍醐の数多い皇子達の中でも傑出した存在と言えるし、皇室の歴史の中でもかなり際立った存在である。しかしながらそれが災いして父・後醍醐の権威を脅かす存在と認識され悲劇に繋がった。護良は余りにも後醍醐に似すぎており、立ち位置が近すぎたのかもしれない。  
 
北条高時 (1303-1333)

130年の歴史を持つ鎌倉幕府、それを支配した北条氏。その最後の当主である高時の生涯を概観し、やがては南北朝の動乱に至る14世紀の社会を北条氏に近い視点から見る。 
当時の情勢 
我が国において8世紀初頭に完成した中央集権的な統一政権は、早くも9世紀に崩壊の兆しを見せた。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で富裕化した地方豪族により自給体制が各地で形成されていく。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認せざるを得なくなり、人口把握して人頭税をとる方式から土地単位で税収入を確保する体制に方針転換した。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として政府(朝廷)が推戴される「王朝国家」が10世紀から11世紀前半にかけて成立。 
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心とした独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形が出来上がる。特に13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的な優位に立ち、次第に西日本も含めた広い地域に支配権を広げた。 
北条氏・執権政治時代 
北条氏は桓武平氏の末裔とされているが、12世紀後半における北条時政の時代には伊豆の中小豪族に過ぎなかったといわれる。源氏の棟梁である源頼朝が敗れてこの地に流刑となり、時政の娘・政子を妻に迎えてから運命が変わり始める。頼朝が挙兵し、鎌倉を拠点として関東を平定し更に平氏との争いを制し軍事政権を樹立させると、政権の主「鎌倉殿」の外戚として影響力を増すようになる。頼朝死後、時政・義時(時政の子)・政子は将軍(「鎌倉殿」)の外戚として、そして将軍の強権に反発する御家人(将軍と主従関係にある豪族)の代表者として将軍や対立する有力者を排斥しつつ幕府内で勢力を高める。頼朝直系が断絶すると、政子が将軍権力を代行し義時が御家人の代表として政務を取る形で権力を握った。承久の乱で朝廷に圧勝した後は更にその力を強め、義時の子・泰時は有力御家人との協力体制を強め、幕府における基本法である御成敗式目で知られるように慣習・道理を重んじる政治運営を行い広く支持を集めた。泰時は評定衆を、時頼の時代には訴訟審議のため引付衆を設けるなど、有力御家人の合議制を取りその議長役として北条氏は地位を確立させていった。他にも時頼は京都大番役など御家人の負担を軽減したり農民の負担に気を配り勧農を行い支持を集めたのである。しかし、一方で北条氏に反発する勢力も強く、彼らは名目上幕府の主である将軍の権威を立てて北条氏と対立(北条一族の中にも北条氏惣領と対立し将軍に近づくものがいた)。三浦泰村に代表されるそうした勢力を排斥し地盤を固める中で、時頼時代の後半には北条氏による専制化の傾向が見られるようになっていく。評定衆(北条一族は泰時時代には19人中5人であったのが時頼時代には13人中5人)や守護に北条一族の占める割合が高まったのはその一例であろう。 
北条氏・得宗専制へ 
時頼は出家して執権(将軍を補佐し政務を執る役目。北条氏が代々その地位についていた)から退き公的地位を持たなくなった後も、幕府清二の実験は握り続けていた。そしてその子・時宗が幼少時より後継者として目される。北条氏が幕政における最高実力者の座を引き継いでいく事は固定的な事実として受け止められる傾向が強くなったのである。公的地位である「執権」としてでなく北条氏惣領として重んじられ権力を握る様子は、朝廷において公的地位「天皇」より皇室当主である「治天の君」が実験を握っていたのと似ている。そうした中で、北条氏の家令が執権の代官という役割を果たすようになり「内管領」と呼ばれるようになった。また、得宗(北条氏惣領、義時の法号に由来)の私邸で秘密会議が行われ、そこで人事・土地問題における中央貴族との折衝・制度の調整など重要な政治方針が定められるようになった。これはやがて「寄合」として公式制度化するようになっていく。 
時宗の時代になると、将軍・宗尊親王と対立した末に将軍交代が行われその間に時宗が「鎌倉殿」代理として御家人との主従権をも手に収めるようになる。これが時の経過と共に固定化し恩賞授与・主従関係といった将軍権力の代行を北条氏惣領が行うようになる。また従来は評定衆の手にあった官位推薦権を将軍の手に移し実質的に北条氏の意思が反映されるようにしている。折からの元寇により国家を挙げて防衛に当たる必要が生じたこともあり、従来は幕府の力が及ばなかった中央貴族領の豪族にも動員をかけるようになるなど専制的な傾向を強くしていった。また、外的防御のためもあって山陰・瀬戸内・九州の要地を北条氏が守護として把握、交通要所や周辺の商工業に従事する豪族達を支配下に収めることで経済力・支配力を高めようとした。六波羅探題(京における幕府の拠点で歴代長官は北条氏が輩出)が摂津・丹波・播磨を、鎮西探題(元寇後に九州管轄のため設けられ北条氏が歴任)が肥前を直轄するようになったのはその一例である。 
時宗の子・貞時の時代になると、代替わりして間もない弘安7年(1284)5月前半を得宗・後半を将軍に奏上する形式と考えられる法令が出され、将軍権威の再確認と同時に得宗地位の公式化が図られた。翌弘安8年には政権中枢に残った有力御家人である安達泰盛一族(貞時の外戚でもあり得宗の身内という性格も強い)が滅ぼされ(霜月騒動)内管領・平頼綱が幼少の貞時を補佐する形で強権を振るう。全国で多くの反対派が滅亡の憂き目に会い、これに敵対できる勢力は存在しなくなった。この時期、頼綱の子である飯沼助宗が五位検非違使判官に昇進している事実がその権勢を如実に表している。尤も、頼綱は自らの一族だけでなく貞時も北条氏の極官を越えた従四位下に任官させ主家の権威上昇を図っている。 
貞時が成長すると、永仁元年(1295)に専権を振るった頼綱を滅ぼして(平禅門の乱)実権を得宗自身の手に取り戻す。まず貞時は土地をめぐる訴訟の増加・長期化への対応を打ち出した。合議制のため審議が長期化していた引付衆を廃止し、執奏七人により迅速に判決を下すようにした。これは翌年には中断され引付衆が復興されるものの、これを契機に貞時が判決を握るようになる。また再審機関・越訴方を廃止し御内人(北条氏と主従関係にある豪族)五人により扱わせた。また、この時期に告訴に応じない者を犯罪として処断する、裁判における主張内容の追加は禁止する、従来は民事事件であった刈田狼藉・路次狼藉を刑事事件とするといった改革がなされた。嘗ては慣例尊重・当事者主義で正確さを重んじていた土地関連の訴訟は、この時期には強大な公権力を背景とした法的な強制機関へと転換したのである。膨大な数に上る土地問題への対処としてやむを得ない面は大きかったが、これが得宗の強権を制度的に裏付けるものとなったのも事実である。 
さて、土地関連の訴訟が増大する原因として、御家人の窮乏が挙げられる。所領は一族で分割相続するのが通常であり、代替わり毎に零細化するのは避けられなかった。加えて、この頃に発達した貨幣経済に巻き込まれ出費が増大、更に元寇による軍役負担の増加による経済的苦境が圧し掛かった。元寇により領地が増大した訳ではないため、恩賞に当てる土地が不足した事もこの問題に拍車をかけた。将軍や北条氏の土地を一部細分化して恩賞としたり、謀反人などの所領を与える事で対応していたがとても足りなかったのである。そうした状況から、本所(土地に権限を持つ中央貴族)や非御家人・商人に売却したり金融業者から金を借りて所領を質流れさせる御家人が続出した。金策に好都合である事から借上(高利貸)・山僧といった金融業者を代官として用い、彼らに支配権を奪われる例も多かった。その結果、土地を持たない「無足御家人」が多く生まれ御家人の没落が生じていたのである。こうした御家人達の救済も重要な政治課題であった。御家人には幕府の推挙により官職につける、査問手続なしでは逮捕されないといった特権があるだけでなく、「鎌倉殿」の直臣としての誇りも伴うことから特権意識を持った閉鎖性のある階層となっていたのは否めない。 
幕府を軍事的に支えていた彼らの要求に応え、経済的・精神的な救済をする必要があったのである。貞時は法的に彼らの御家人身分を保証すると共に、永仁2年(1297)徳政令を発布した。この法令では、まず訴訟の増加や判決の不安定化への対策として越訴(再審請求)を禁止し、無足御家人救済のために売却地の返却を命じた。ここには下文がある事例や20年以上経過した事例は返却できないと定めたが、御家人以外に売却した場合は無期限で返却できるとされている。 
また、銭の貸借に関する訴訟を不受理とした。これも借金に悩む御家人への救済が目的であろう。しかしこれは却って社会の混乱を招き、一年後に停止せざるを得なかった。 
また、防衛上重要な九州を中心に、前述のように非御家人をも動員し幕府の支配下に組み入れたり、現地の庶子を惣領から独立する事を許したりするなど現実的な対応を余儀なくされていたが、これが御家人と幕府との主従関係を揺るがす事となっていく。また、西日本を中心に、非御家人・商工業者が御家人による収奪に対して激しい反発を抱く事例が目立つようになっていた。既に13世紀中ごろより幕府・朝廷の制御を外れ荘園に実力行使する「悪党」が問題となっていたが、この時期から特に目立つようになってくる。 
こうした問題を抱えた時期である応長元年(1311)、貞時は病没。跡を継いで得宗として幕府の頂点に立ったのが今回の主人公である高時である。時に九歳。 
得宗北条高時 
高時は嘉元3年(1303)貞時の嫡男として生まれた。7歳で元服して「高時」と名乗り、10歳で正五位下・左馬権頭に任官した。そして14歳になると執権に就任し15歳で相模守となった。因みに、このコースは祖父・時宗や父・貞時とほとんど同一であり(時宗が14歳で就任したのは連署、すなわち副執権であるが)、得宗の官職が先例重視となっていたことが伺える。 
こうして幕府の頂点に立った高時であるが、評判は芳しくなかった。一族の金沢貞顕は「田楽の外無他事候」「連日御酒、當時何事もさたありぬとも不覚候、歎入候」と記しているように、酒宴・田楽に興じて政務を疎かにしていたといわれる。「太平記」によれば闘犬にも熱中し、鎌倉中に犬が溢れたとも言われる。後の二条河原落書でも「犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ」とあるため、高時が田楽に並び闘犬を好んだのは事実であろう。また病気がちでもあったようで酷い時は他人と話をすることもできず、「久御坐かなはぬ御事に候」とも貞顕は記しており、高時の病状に一喜一憂する内容の書状も「金沢文庫」には残されている。「保暦間記」にも「頗亡気(うつけ)ノ軀ニテ、将軍家ノ執権モ叶イ難カリケリ」と記され、「高時正軀ナキ儘、高資心ニ任セテ天下ノ事ヲ行フ。人ノ歎キ積リケレバ、関東ノ侍ドモニモ深ク疎レニキ。世上ニ果敢果敢(はかばか)シカラジナド申セリ」と評されている。夢窓国師や南山士雲に参禅し、茶・仏画を好んだ事も知られており、自ら「南山士雲像」を描いてもいる。必ずしも暗愚ではなく文化的素養にも不足はしていなかったといえるが、全般的には上述のように高時が病弱のため政治をとらず、その指導力においては全く評価されていなかったといえる。花園院もその日記「花園院宸記」で「近年東風有若亡、関東当時無人の故か」と記しているように誰が幕府を引っ張っているかが外からは見えなかったといえる。事実、この時期に目立った事績といえば文保2年(1318)から元応元年(1319)にかけて日蓮宗と他宗派との論争をさせ、日蓮門下が他宗を論破したため題目の不興を許可した事(鎌倉殿中問答)位である。もっとも、しばらくは大過なく政権運営がなされていたということも出来る。 
得宗専制期の政治運営 
高時が得宗として君臨していた時期、幕府政治はどのように行われていたのか、これを少し見てみよう。 
当時において実質的に最高決定機能を持っていたのが「寄合」である。時頼時代にその私邸で政治方針を決める秘密会議を行った事に端を発するこの会議は、やがて公式化し得宗・内管領・執権・連署や一族有力者により行われた。以前において政策決定や裁判に大きな役割を果たした評定衆・引付衆も北条一門の割合が増加し、引付頭人が北条氏により占められると共に構成員の若年化が進行していた。評定衆を例にとると義時時代には19人中5人であったのが時宗時代には10人中5人となっており、やがて十代で評定衆の座を占める例も見られるようになっている。これらが実務能力より家格により構成員が決定されるようになり、権限を奪われて形骸化していたことが分かる。 
また北条一族が守護職に占める割合も上昇していた。泰時時代には39ヶ国中11ヶ国に留まっていたのが時宗時代には52ヶ国中27ヶ国となっており、高時時代に至っては57ヶ国中30ヶ国にのぼっている。中でも得宗家は武蔵・伊豆・駿河・若狭他の守護職を兼任しており、経済・軍事力の強大さが伺える。 
こうした中で、幕府内の役職を基準に家格が定められていった。最も格式が高いとされるのが「寄合衆」であり、得宗家を含めて寄合に参加するのを認められた有力一族である。得宗家、北条宗政(時宗の弟)系、名越時常系、赤橋、普音寺、北条時村系、金沢顕時系、大仏嘉宗系がこれに当たる。それに次ぐのが「評定衆家」であり名越時基系、塩田などがこれに相当する。そしてその下にその他の一族が位置していたのである。 
北条一門だけでなく、御内人の間でも家格が分かれていた。執事(内管領)となりうる家系として長崎・諏訪・尾藤があり、これに次ぐ執事を補佐する存在として安東・工藤が位置していた。中でも有力だったのが長崎氏であり、実際に執事となったのは大半がこの一族であった。彼らは侍所所司を世襲しており、加えて寄合衆・執事の職を掌握しその相互作用により強い権勢を確保していたのである。そして御内人の勤める役職は時代が下るにつれて増大している。鎌倉市政を司る地奉行も御内人が歴任していたし、末期には評定衆の着到を記す参否を安東氏が勤め、将軍と御家人の主従関係を司る御恩奉行にすら塩飽氏が任官している。北条氏の幕府への侵食の深さを表している。 
この時期の政権運営において、人事・所領処分・官位昇進に関しては長崎円喜・高資父子や安達時顕が高時を補佐する形で握っていたといわれる。霜月騒動で失脚した筈の安達氏が再び幕政の要職を握っている一因として、平禅門の乱後に貞時が彼らの復権を進めたことがあり、更に内管領と安達氏が得宗を補佐するという時宗時代の形式を先例として重んじたからと言われている。 
以上から分かるように、この時期の幕府政治は家格・先例重視で行われておりその点では朝廷と変わらない。高時が非常な若年で幕府の頂点に立ったのもそうした事情によるものであり、彼自身の実務能力は当初から期待されていなかったと言って過言ではない。これは得宗を頂点とした政治運営体制の完成・成熟を意味すると同時に、形式化・硬直化をも一方では意味していた。これが政情不安定に際しての対処を難しくしたのである。 
当時の社会 
13世紀後半から、畿内を中心に生産力向上・海外交易を背景にして商業・貨幣経済が発達。一方で主流であった農業経営を営む豪族達は、貨幣経済に巻き込まれて出費が増大したり、分割相続で所領が細分化するなどの要因で没落する者が見られるようになった。北条氏による権力強化は一般御家人の没落に拍車をかけた面があり、幕府も彼らの救済に乗り出したが十分な成果を挙げられなかった事は前述した。こうして御家人層に北条一門に不満を抱く者が増加。 
一方、北条氏は、専制的な権力を固めるに当たり商業・交通の要所を直轄領として組み入れたり商工業に従事する新興豪族を家臣として取り込むなど、商工業者を支配下に置くことで経済的な実力基盤をつけようとした。しかし、西国の新興豪族は伝統的に朝廷と関係が深いものが多く必ずしも順調には運ばず、寧ろ東国政権の首領である北条氏に反発するものも少なくなかったようである。こうした西国の新興豪族の中には、朝廷・幕府の権威に従わず実力で所領を荒らす行動に出るものも少なからず存在し、社会不安要素となっていた。 
一方で朝廷は京都周辺に実力が限定されており、しかも皇室・主要貴族が分裂している有様であった。幕府はこれに対して介入し調整する事も余儀なくされており、ともすれば恨みを買いやすい状況であった。 
得宗政権は必ずしも無為無策でなく、新しい時代にそれなりに対応を図っていたのであるが、却って孤立の危険に晒されていたのである。しかしながら北条氏、すなわち幕府以外に日本を押さえられる実力者は存在せず、幕府が倒れれば無政府状態になる可能性が懸念される、そういった状況であった。 
当今御謀反 
前述のように皇室は持明院統・大覚寺統に分裂して主導権争いをしており、幕府の調停が不可欠な状況であった。そうした中、14世紀前半に大覚寺統から後醍醐天皇が即位。後醍醐は精力的に改革を推し進め、京周辺の商工業者・日農業民の支持を獲得することで専制的な政治運営を志向する。しかし後醍醐は大覚寺統の傍流出身で中継ぎとしての即位であったため彼の子孫が皇位につく可能性は通常では考えられない状態であった。自らの子孫に位を受け継がすためには皇位継承の仲介役である幕府の存在はあってはならなかった。更に、衰微する朝廷が実力を取り戻し日本の統治者としての実質を回復するために商工業勢力を取り込んでの倒幕が必要であると後醍醐は考えたのである。 
かくして正中元年(1324)、後醍醐は北条氏に不平を持つ豪族を味方に引き入れ、北野天満宮の祭礼での賑わいに紛れて挙兵する計画を立てる。しかしこれはすぐに露見し、計画者で後醍醐側近の日野俊基・資朝らが捕らえられた。現役の天皇が現体制を転覆しようと計った前代未聞の事件であり、人々は「当今御謀反」とささやきあったという。後醍醐は事態を収拾するために万里小路宣房を鎌倉に使者として派遣し事件と無関係であると主張。幕府はこれを受けて天皇を不問とし、資朝を佐渡へ流し金沢貞将に五千の兵を与え六波羅探題に常駐させるに留めた。何とも微温的な対応であるが、この時、幕府としては軍事的実力を持たない朝廷に余り関わりあって事態をこじらせられない事情があったのである。 
陸奥安東氏の乱 
この頃、幕府は奥州での兵乱への対処に悩まされていた。陸奥における北条氏の代官・安東氏の内乱である。 
安東氏は義時時代に奥州に代官として下向し、十三湊を中心に奥羽・渡島を支配してアイヌとの交易に従事。「蝦夷管領」「日本将軍」と呼称される有力者であった。彼らは奥州において沿岸の民を支配下に置いて現地の商工業を把握していたと思われる。 
1320年ごろから、その安東氏内部で十三湊を拠点とする貞季(津軽安東氏、下国家)と出羽に勢力を築いた宗季・季久(秋田安東氏、上国家)の争いが起こっていた。幕府はこの調停を図るが、不調に終わっている。内管領長崎高資が双方から賄賂を受け取ったのが原因とも言われる。やがて両陣営に加えて蝦夷が放棄し、奥州全土にわたっての争乱に発展した。 
幕府は正中元年に嫡流である貞季を解任し宗久を代官に任命したが、これが貞季の強い反抗を招いた。嘉暦元年(1326)に工藤祐長を派遣して季長を捕えさせるが、尚も戦乱は沈静化しなかったために翌年には宇都宮高貞・小田高知をも派遣して翌年にようやく和議に持ち込むという騒ぎになっている。こうした北条氏の勢力圏での北条氏家臣による戦乱を捌きかねているという事態は、幕府の威信を低下させかねないものであった。これに加えて新たな火種を抱えたくない、というのが後醍醐挙兵未遂の報に接したときの幕府首脳の本音であったろう。北条氏が朝廷に強い態度を示さなかったのには、そうした舞台裏があったのである。 
鎌倉内部での暗闘 
嘉暦元年(1326)3月高時は執権の職を退いて出家した。法名は宗鑑。病のためとされているが、時頼・時宗・貞時も同じような年齢で出家しておりこれも得宗家の先例となっていた可能性はある。この時に数多くの有力御家人が付き従い出家している。さて、泰家(高時の弟)が次の執権職を希望するものの、高資は認めず北条一族有力者である金沢貞顕を執権とした。泰家は憤懣やるかたなく、出家してしまった。これは、温厚な貞顕なら操りやすいと高資が踏んだためと言われているが、泰家が執権になった場合には得宗家に当主が二人生じることになり分裂の火種になることが予想され妥当な判断であったと言える。さて就任時には喜びを示していた貞顕であるが、わずか1ヶ月の在位で執権を退き出家してしまう。おそらくは泰家陣営からの強い圧力がかけられ続けていたものと思われる。後を受けて就任したのは、やはり一門の有力者である赤橋守時。鎌倉幕府最後の執権となる人物である。 
執権の地位をめぐって北条一族内で暗闘が繰り広げられた4年後の元徳2年(1330)8月長崎高頼・工藤七郎らが長崎円喜(貞時時代に内管領を務めた。高資の父)と高資の暗殺を計画したことが露見。高時が彼らに命じて内管領父子を討たせようとしたと言われている。かつて父・貞時が平頼綱の専横を嫌ってこれを討伐し実権を取り戻した前例に倣おうとしたものであろうが、この時は失敗に終わったのである。尤も、成功していたとしても高時にその後の政局を乗り切れる力量があったかは極めて疑問であるが。 
ともあれ、北条氏の政権は全国的に孤立を進めるのみならず、奥州・畿内に加えて内部にも火種を抱える状況であった。後醍醐天皇により再び倒幕の烽火が上げられたのは、こうした時期だったのである。 
動乱の世へ 
後醍醐は前回の失敗で諦めず、再び倒幕を目論んでいた。新たに寺社勢力に皇子・護良親王など息の掛かった人物を送り込んでその経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)挙兵し笠置山に篭った。この時、後醍醐は奈良・東大寺を当初便りにしたのであるが、北条氏も寺社勢力の把握を怠ってはおらず幕府方の要人も相当に存在したため笠置に移ったのである。この時点でも、幕府内部にはなお穏便な解決を模索する動きもあったが、事ここに至っては正面からの軍事対決は避けられなかった。幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。 
しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成は元弘3年(1333)幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、後醍醐の皇子・護良は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻めあぐねる。これを受けて、播磨の赤松円心のようにかねてから幕府に不満を抱く豪族が各地で立ち上がった。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対し不遇に陥った地方豪族が中心であった。やがて後醍醐が隠岐から脱出し名和長年に迎えられて伯耆船上山に篭る。後醍醐方の意気は天を衝くばかりとなり、京は赤松氏と後醍醐寵臣の千種忠顕により攻撃を受ける状況で京における幕府方の拠点・六波羅探題より鎌倉に援軍依頼が出されるのである。 
終焉 元弘3年(1333) 
京への援軍として派遣されたのは足利高氏であった。足利氏は源氏の嫡流であり、本来なら北条氏より家格は上の存在である。また三河・下野を中心に多数の所領を持つ有力者であり、北条氏も一目置いて代々婚姻関係を結び一族に準じる扱いをしていた名門であった。しかし、足利氏としては北条氏による圧力を絶えず感じていたであろうし、有力豪族が次々に排斥されるのを目の当たりにし次は自分達であろうと警戒もしていたと思われる。そうでなくとも家格で劣る北条氏に臣従せざるをえない現状に不満を抱いており、反逆の機をうかがっていた存在であった。そのため、北条方でも出陣に当たり裏切りを警戒して起請文(誓約書)と人質を提出させている。 
上洛した高氏は、果たして後醍醐と連絡して寝返り4月27日丹波篠村で挙兵、5月7日赤松・千種と協力して六波羅探題を攻撃。六波羅方も善戦するものの衆寡敵せず8日には北条時益・仲時の両探題は京を捨てて逃れる決意をせざるを得なかった。彼らは直臣である千人の兵を率い、後伏見院・花園院・光厳天皇を供奉して鎌倉へと逃れる事にした。足利軍は六波羅軍の反撃を弱めるため敢えて東方の退路を残しており、そこから脱出したのである。 
両探題はまずは近江に入り、守護である六角時信の軍勢を頼る事とした。しかし道中の苦集滅道で野盗からの襲撃を受け時益が討死。また山科四条河原でも野伏から攻撃され天皇に従う貴族達は次々に逃散した。「帝が関東へ臨幸なさるに狼藉を図るは何者か」と配下の部将が威嚇したところ、「帝とは言え既に運は尽きておいでである。通さないとは申さぬ、部下の馬・甲冑を全て捨てて安心して落ち延びなされ」という嘲弄が返ってきた。幕府・朝廷の権威も歯牙にかけない層の存在が如実に伺える。この場は配下が大金の隠し場所を教えると野盗らを欺いて通過。一行は篠原で宿を取り翌9日愛知川を越えて番場宿に差し掛かったところで再び野伏の襲撃があったため撃退したが、山上まで追撃した際に錦旗を掲げた五千近いと思われる軍勢が認められた。これを見た六波羅軍は六角勢の合流を待つ事にしたが、六角は待てどもやって来ない。仲時らはもはやこれまでと判断して一斉に腹を切った。所は番場蓮華寺、自決した六波羅方は432人でうち仲時ら189人が過去帳に名を記されている。天皇や院は捕えられ京へ護送された。この時に番場で軍勢を集めて六波羅方を自害に追い込んだのは誰か明らかでないが、足利と内通し青海に勢力を持っていた佐々木導誉であろうと推測されている。かくして畿内における幕府の拠点である六波羅探題は滅亡した。 
同時期、関東でも火の手が上っていた。5月8日上野国生品神社で新田義貞が一族と共に挙兵。新田氏も足利氏と同様に源氏の嫡流に当たる家柄であるが、足利と比べると格段に不遇であり上野の有力土豪の一人に過ぎなかった。さて義貞は一旦東山道を西に出て越後の一門と合流した上で鎌倉へ向けて南下。 
これに対して北条方は金沢貞将を下総・下河辺荘方面に派遣して東関東から新田の背後に回らせ、一方で桜田貞国・長崎高重らを入間川方面に向かわせ正面から迎え撃つ体勢をとった。11日小手指原で両軍が遭遇し合戦となった。北条方は用心して守勢を取り、一方で新田軍は入間川を渡り攻勢に出る。丸一日の戦闘の末に痛み分けで両軍は一旦引き上げたが、翌12日夜明けと共に北条方は攻撃を受け、新田郡の中央突破を許す結果となった。 
15日今度は北条泰家率いる一万余騎の軍勢が分倍河原で新田軍を迎え撃った。北条軍はまず三千の射手を前面に立てて矢を激しく射掛けて新田軍の出足を止め、騎馬戦士が攻撃をかけて新田軍を撃退。しかし勝利した北条方も少なからず損害を蒙っており追撃する余力はなかった。さて三浦義勝が新田軍に六千の軍勢を率いて合流し、翌日に先陣として北条軍に奇襲を仕掛けた。前日の激戦で疲労していた泰家軍は不意を疲れて混乱に陥り、そこへ義貞本軍の攻撃を受けて敗北した。 
17日村岡合戦で北条方が新田軍に反撃を加えるが大勢に影響を及ぼすには至らなかった。一方で同日、下総方面の金沢貞将の部隊が鶴見で敗北。更に畿内での六波羅探題滅亡の報が入り、鎌倉方は意気消沈した。 
18日新田軍は三方向から鎌倉攻撃に入った。大館宗氏・江田行義の一万が極楽寺方面、堀口貞満・大嶋守之の一万が巨福呂坂方面、義貞自らの数万が化粧坂方面から攻撃をかけた。一方、幕府方は極楽寺方面に大仏貞直の五千、巨福呂坂に赤橋守時の六千、化粧坂に金沢貞顕の三千を配置。更に市街地に後詰として一万を控えさせた。鎌倉は三方を山・残りを海に囲まれ、通路は狭く切り立った要害である。幕府方は街道に逆茂木を備えて防御し、海には軍船を浮かべて守備を固め、地の利を活かすことに最後の希望をかけていたのである。  
まず、赤橋守時が激闘の末に自刃して果てた。彼は執権の地位にはあったが実権は得宗高時や長崎父子に握られており、更に足利高氏の義兄であったため疑いの目を向けられていた。そうした微妙な立場が彼の壮絶な最期に影響していたと見る向きも多い。 
一方で極楽寺方面では新田軍を防ぎとめ、一時新田軍に稲村ヶ崎から突入を許したが、大仏貞直勢は押し戻して敵将・大館宗氏を討ち取っている。この知らせを受けた義貞は、21日干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉に乱入し、各所に火を放った。 
防衛線を突破された北条方は鎌倉での市街戦に突入。この中で北条氏身内の者達は次々と壮絶な最期を遂げていった。まず長崎思元父子が敵中を駆け巡って奮戦の末に討死。大仏貞直は、側近三十人が切腹して主に自刃を勧めたのを見てその気の早さを非難し、新田軍に突入して果てた。金沢貞将も新田軍相手に奮戦した。高時はその戦いぶりに感嘆して六波羅探題職を与えている。既に六波羅は陥落しており鎌倉の滅亡も時間の問題なこの時点では、実際的な意味はない任命であったが、貞将は一族間でも名誉とされる地位を与えてくれた高時の心遣いに感激し敵の大軍との戦闘で散華している。その他にも、北条基時(仲時の父)・塩田道祐父子・塩飽聖遠父子・安東入道(御内人、義貞の義父)…。数多くの人々が鎌倉・北条氏に殉じている。 
22日高時は一族を集めて東勝寺に逃れた。長崎高重(円喜の孫)はそれまでも散々に戦闘をしていたが、高時に自分が戻るまで自害を待つように申し出た上で百五十騎を率いて新田本陣に潜入した。義貞と刺し違える心積もりであったが、敵に高重の顔を知るものがおり失敗。数千の兵を討ち取り東勝寺に戻った際には身体に23本の矢が刺さっていたと言われる。高重は盃を三度傾け、おもむろに腹を切った。隣席の摂津入道道準もこれを見て盃を半分傾けて切腹する。次に諏訪入道直性が盃を三度乾してから十文字に腹を切る。長崎円喜は高時が見苦しい振る舞いに出ないかを心配し腹を切れずにいたが、孫の新右衛門がこれを見て円喜の胸を刺した上で自刃。これを受けて高時も腹を切った。享年31歳。北条一門・有力御内人283人、それ以外も含め870余人がこの時に命を落としている。頼朝以来130余年の歴史を誇った鎌倉幕府は、ここに滅亡したのである。 
その後 
自決直前、高時は子息の万寿・亀寿を落ち延びさせていた。万寿は五大院宗繁の裏切りにより捕えられて処刑されるが、亀寿は信濃に逃れ諏訪氏の保護を受け時行と名乗る。 
さて北条政権を滅亡させた後醍醐天皇は自らの政権を京に樹立させる。商工業勢力を基盤においての専制的政権を志向するが、急激で強引な改革や恩賞問題から各地で不満が高まる。 
これを受けて各地の北条氏残党が反乱。中でも主なものは建武2年(1335)西園寺公宗と北条泰家が結んで目論んだ後醍醐暗殺計画であった。これに時行や越中の名越時兼が呼応する予定であったが、未然に密告で露見し失敗に終わる。時行は引くに引けず7月に挙兵。この時、保科・四宮氏が挙兵して信濃守護・小笠原貞宗の注意を引きその間に時行が蜂起して信濃から関東に攻め入った。これに北条残党が加わって数万の軍勢となり関東を支配していた足利軍を各地で破り7月25日北条軍は鎌倉を奪還、足利直義は三河に逃れた。 
しかし北条氏の再起も長くは続かなかった。京から足利尊氏(高氏、後醍醐から「尊」の一字を賜り改名)が大軍を率いて攻め入り、北条軍相手に連戦連勝で鎌倉を再奪回したのだ。時行は信濃に落ち延び再起をうかがう。 
やがて尊氏は自らの政権樹立を目指し後醍醐と敵対して挙兵、後醍醐方は敗北して日本は尊氏ら足利政権が擁立する京の朝廷(持明院統、北朝)と吉野に逃れた後醍醐方(大覚寺統、南朝)に分裂する。この時、時行は後醍醐から朝敵赦免の綸旨を受け足利軍と戦っている。彼にとっては直接鎌倉を滅ぼした義貞より、長年にわたり北条の恩を受けながら寝返りで形勢を定めた足利の方が仇敵であったようだ。或いは、天皇の臣下となるのは従来通りなので問題ないが、足利の下風に立つ事は北条嫡流の誇りが許さなかったのかもしれない。 
ある時は奥州の北畠勢と合流し、別の時は新田軍と合同作戦を取り、正平7年(1352)足利方の内紛に乗じて新田軍と共同で鎌倉を奪回した事もある。しかし結局は衆寡敵せずで敗北し、翌正平8年(1353)に捕えられて5月20日鎌倉竜ノ口で処刑された。ここに北条氏嫡流は滅亡したのである。 
 
北条氏は、元来は伊豆の中小豪族に過ぎなかったが、頼朝の外戚という有利な立場を足がかりに地位を上昇させ、やがて豪族達の代表者と言う形で権力を掴んでいった。巧みに豪族達の利害を調整して支持を集める他、その権力を安定したものとするため他の有力豪族を排斥し、商工業勢力も積極的に取り込んで経済力・社会的実力を付けていった。 
しかし、元が中小豪族であったためにこの過程で相当な無理が生じており、多くの豪族が脱落し犠牲となった。豪族達の代表であった筈の北条氏は、いつしか彼らを抑圧する存在となっていき彼らから敵視を受けるようになった。無論、北条氏も彼らの代表者である事に自身の権力が根差している事は認識しており救済政策を打ち出しているが、北条氏の勢力拡大そのものが御家人没落の一因であったこともあって効果は十分に上らなかった。 
また、商工業者・寺社勢力取り込みに関しても、先進地域である畿内では伝統的に朝廷との関係が強く、外来者である御家人への反発が存在した。関東の代表者である北条氏はその時点で彼らの反感をかいうる存在であり、多くの離反者を彼らからも出す事となった。 
こうして、無理な勢力拡大の結果として各方面から孤立したのが北条氏滅亡の最大の原因であろう。鎌倉滅亡時に膨大な数の人間が殉じている事から北条氏を支える階層が相当に形成されていた事は察せられるが、それでも時代の流れに抗する事はできなかった。関東は依然として農業中心の豪族が社会の中心であり、商工業者のみでは対抗できるものでなかった事も挙げられよう。 
加えて、北条政権そのものが先例第一となり機構の整備はされている反面で柔軟性を失い動乱への適切な対応が難しくなっていた事も大きかった。 
高時自身にこうした動乱を乗り切る力量がなかったのは確かであろうが、彼の暗愚のために鎌倉幕府が滅亡したと見るのは酷であろう。北条氏が支配体制を固める中で重なってきた問題・矛盾が遂に覆いきれないレベルまで達したと見るべきである。北条政権は、無論状況を認識して精一杯の対応をしたのではあるが、時に利あらず力及ばなかったのである。高時が精神的に不安定な一面があり遊興に我を忘れがちであったのも、そうした重圧感や閉塞感から逃れようとしたからではなかったろうか。 
北条得宗政権、それを受けついた後醍醐政権や足利政権。彼らの時代は商工業が発達し主流となり始めているが、社会を支えきれる段階には至っておらず中世的な地方豪族・寺社といった自足的な存在の力がまだ侮れないと言う未熟な段階であった。そうした中で集権体勢を目指して苦闘した彼らは、近世への生みの苦しみを味わっていたと言える。  
 
常陸と楠木氏

南北朝における南朝方の代表的存在・楠木氏。彼らは河内の新興豪族として一般には認知されていますし、実際に大部分の活動は大阪平野を舞台としています。しかし、遠く離れた北関東の常陸においても楠木氏の活動があったことは余り知られていません。 
常陸と楠木氏 
鎌倉幕府打倒に大きな貢献をした楠木正成は、摂津・河内・和泉の守護に任じられ河内守となったほか、恩賞として新たな所領を与えられました。それらの恩賞には、河内国新開荘・土佐国安芸荘・出羽国屋代荘と共に常陸国瓜連荘も含まれていたのです。 
この地に代官として派遣されたとされるのが正成の一族(と思われる)楠木正家です。彼は足利尊氏が後醍醐天皇に反逆した後、延元元年(1336)にこの地で足利方の佐竹氏と戦いましたが結局は関東は足利方が優位を確立することになります。 
これで楠木氏と常陸の関わりは終わりを告げたかに見えますが、南北朝動乱が終わった直後の時期に楠木正勝(正儀の子、正成の孫)が筑波山の古通寺を開いたという伝承が残っています。また、この地域出身の作詞家・野口有情は、実家が楠木正季(正成の弟)の末裔であると称しており菊水(楠木氏の家紋)を家紋として用いていたそうです。加えて、忍城の武士である吉野氏は楠木氏の流れを汲むと伝えられます。これらの話から考えると、この地域には一過性だけでない楠木氏との関わりがある可能性は否定できません。 
楠木氏は大阪平野で水分川の水利権を握り水上交通を手中にして水銀の交易で財を成したと考えられていますが、常陸北部にも金や辰砂が産出されており現地の非農業民とも楠木氏が関係を結んだのでしょうか。また、「楠木」姓の元となったであろう地名が大阪平野には認められず、楠木氏は元は他地域の豪族だったのが御家人(鎌倉将軍の家臣)または御内人(幕府の実権を握った北条氏の家臣)として大阪平野に所領を与えられ移住した可能性も指摘されています。これに関連して「吾妻鏡」で頼朝に従って上洛した豪族の中に忍三郎・忍五郎と並んで「楠木四郎」の名が見えることが注目されており、この人物と河内の楠木氏との直接の関連は不明なものの楠木氏が元来は北関東に拠点を持っていた可能性も浮かび上がるのでです。ひょっとすると一族が古くから常陸に縁を持っていたかも知れません。明らかな証拠はまったくなく、真相は永遠の謎ですが。 
常陸と南朝 
楠木氏だけでなく、常陸は関東の中では南朝と縁の深い地域です。北畠親房が伊勢から関東へ向かい南朝方の拠点扶植を図った際、最初に上陸したのは神宮寺城でしたがこの地は熊野権現と関係の深い場所であったということです。そこから考えると、親房を運んだ船団は熊野水軍であったと考えるのが自然でしょうか。そうすると、楠木氏は紀伊の湯浅氏とも縁が深かったようですから、熊野水軍を通じて大阪平野と常陸の連絡を取っていたのかもしれません。 
それはさておき、関東において親房に味方した城は大宝城・関城・真壁城・中群城であり霞ヶ浦や桜川沿いに集中していることがわかります。この周辺の漁業・水運などは鹿嶋神社の神人(下級神官、多くは非農業民が庇護を求めてこうした肩書きを持った)が権益を掌握しており、霞ヶ浦周辺を拠点として水軍も編成していたと考えられています。楠木氏を始めとして南朝方を構成していたのは非農業民や彼等を束ねる新興豪族であったといわれていますが、ここでも彼等が関東における南朝方の主力となったわけですね。 
しかし関東は依然として農業民を抱える大豪族の力が強く、彼等を編成した足利方によってこうした南朝方の非農業勢力は圧迫され敗北を喫するのです。 
 
楠木氏が活躍した大阪平野と遠く離れて一見何の関係もなさそうな常陸国。しかしそこでも楠木氏の活動の影がチラチラと見えるのは面白いものです。そしてその背景には親房の抗戦をも支えた水上勢力、中でも楠木氏とも縁の深かった熊野水軍の姿が垣間見えるのです。それは楠木氏と常陸の関係だけでなく、この時代における日本列島沿岸の水上勢力の社会的実力をも窺わせる興味深い存在といえます。  
 
虚無僧と楠木氏

時代劇で隠密として登場するなど、天蓋笠をかぶり尺八を吹く姿で知られる虚無僧。その歴史的起源に楠木氏が関係しているという伝承があるようです。 
「ぼろぼろ」 
まず、虚無僧の前身と言われる「ぼろぼろ」について述べる事にします。「ぼろぼろ」は鎌倉末期に多く見られるようになった遊行者の事で、「梵論字」とも呼ばれます。その実態については、梵字について解説し説教を行いながら遊行する事で生計を立てる芸能宗教者だったと推測されています。 
「徒然草」にも「ぼろぼろ」が登場しますが、そこでは彼らは集団で念仏を唱え命を軽んじて刃傷沙汰をしばしばおこすが名誉や主従の絆を重んじる存在とされています。そして「ぼろぼろの手紙」に登場する虚空坊は、正義を重んじる存在として描かれています。勿論美化されているのでしょうが、「ぼろぼろ」には彼等自身の美学・価値観が存在した事が伺えます。一方「七一番職人歌合」からは「ぼろぼろ」が念仏修行者と共に諸国を遊行していた事や嘗ては小領主であった者もいた事がわかっています。実際、鎌倉の名門・三浦氏が北条氏により没落させられた際には家臣の戸部氏が一時期こうした遊行の身として過ごしたという話も伝えられているのです。「ぼろぼろ」には主君を失った浪人も多く含まれていたのでしょう。なるほど、道理で時宗の踊念仏集団が武士の価値観を持ち合わせたような存在な訳ですね。 
彼等遊行者は、各地の地方豪族たちにより治安を紊乱すると見做されて殺害される事も往々にありました。彼等が集団で行動していたのはそうした存在から自衛する為でもあったようです。 
その「ぼろぼろ」の有り様が変貌し禅宗や中国文化が取り入れられて現在知られている虚無僧の原型が出来たのが14世紀末頃の事でした。そして、それに楠木正勝が大きく関わっていると言う伝承が残っているのです。 
楠木正勝 
楠木正勝は、正成の孫で南朝後期を軍事的に支えた正儀の子です。彼は南朝が足利政権に屈服した後も、足利への抵抗を続け義満に反旗を翻した大内義弘の軍にも参加して戦ったものの敗れて逃れたとされています。 
その正勝ですが、「虚鐸伝記国字解」によれば虚風から尺八を学び諸国を回遊したと伝えられ、天蓋を被り尺八を吹く現在の虚無僧形式の祖とされているのです。更に筑波山の虚無僧寺・古通寺は正勝が開いたと言う伝説があり、彼の書と伝えられるものも残されています。しかしどう考えても話が出来すぎていますし、天蓋が出来たのは徳川期の事だと言われていますから間違いなくこの話自体は後世の作為でしょう。ただ、楠木氏、それも正成や正行でなく比較的マイナーな正勝に祖を求めているあたり、一笑に付せない何かがある様にも思われます。一部分であるにせよ、何らかの事実が含まれているのかもしれません。実際、虚無僧が尺八を吹く現在の原型を固めた時期と正勝が生きたとされる時期はほぼ一致しているわけですし。 
そこで、まずは一番不審と思われる天蓋について考えて見ましょう。14世紀の「峰相記」には、播磨国の「悪党」すなわち政治権力の思うようにならない新興豪族について記述がありますが、それによれば彼らは「六方笠をかぶり柿帷を着て」「人に面を合わせず忍びたる体」であったそうです。つまりは、「悪党」たちは笠を被り顔を隠していたというのです。楠木氏も正成以前から「悪党」と呼ばれた新興豪族でしたし、正勝は敗者の残党というべき存在でしたから素顔を隠して隠密行動をしたとしてもおかしくありません。当初の虚無僧たちも、そのようにして顔を隠していたのではないでしょうか。それが徳川期になって天蓋を被るようになったと思われます。正勝が尺八を吹いたという伝承の真偽はわかりませんが、上述の遊行者に紛れて諸国の味方と連絡を取ったという可能性はなくもないのかもしれません。それにしても、なぜ楠木氏が虚無僧と結び付けられたのでしょうか。 
虚無僧と南朝 
そういえば、虚無僧寺には楠木氏だけでなく南朝そのものとの因縁があるようです。例えば、深谷の虚無僧寺・福正寺は長慶天皇が令山峻翁に命じて開かせた国済寺を移転したものですし、やはり虚無僧寺である興国寺も南朝皇族の帰依した寺といわれています。更に青梅の鈴法寺建立を懇請した吉野織部之助は楠木氏の末裔と伝えられます。 
こうした南朝系統の伝承が多い一方で、前述の興国寺の近くに明徳の乱で敗れた山名氏の旧臣が聖となって住み着いたという話も残っています。この時期の南朝と山名氏、どちらも政治的敗者といってよい存在ですね。そういえば「ぼろぼろ」にも失脚した武士が多く流れ込んでいました。それと同じ文脈で考えればこの時期に南朝関係者が虚無僧と因縁があるのも理解できます。 
この時期、足利方・南朝とも大陸からの新文化である禅宗を取り入れるようになっていました。そして禅宗とともに様々な新奇な文物が流入しており、尺八もその一つだったのです。それが「ぼろぼろ」の世界に14世紀末から15世紀初頭にかけて急速に流入し、新たな宗教芸能として尺八が採用され普化尺八が禅の修業として広がっていきました。この時期において「ぼろぼろ」の流れを変えるほどに多数で新規参入してもおかしくない政治的敗北者といえば旧南朝勢力が自然でしょう。彼らなら、大陸との交渉もある新興豪族出身も多いですし禅宗文化の素養があったとしても不思議はまったくありません。 
真偽のほどは明らかではありませんが、「虚鐸伝記国字解」の伝承は虚無僧と旧南朝との関連を暗示している可能性は十分にありそうです。 
 
「ぼろぼろ」、そしてそれが発展した虚無僧の中には、政治的に敗北し身をやつした者も少なからずいたようです。「虚無僧」草創期における最大の政治的敗者、すなわち南朝残党にとって、楠木氏嫡流の正勝はアイドル的存在だったことは想像に難くありません。そして、後世にいたるまで虚無僧には浪人が数多く存在し隠密を行う者も少なからずいましたが、それを納得させるような話ですね。  
 
足利尊氏1 (1305-1358)

鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁、鎮守府将軍八幡太郎源義家の子、義国を祖とする足利氏の嫡流。足利将軍家の祖。足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。 
後醍醐天皇専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやったが、後醍醐天皇勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は吉野へ遷り南朝を創始した。 
幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。北朝において後光厳天皇の新千載和歌集は尊氏の執奏によるもので、以後の勅撰和歌集が二十一代集の最後の新続古今和歌集まで全てで足利将軍の執奏によることとなった発端にあたる。 後醍醐天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。 
誕生から鎌倉幕府滅亡 
尊氏は嘉元3年(1305)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。「難太平記」は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319)10月10日15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。「難太平記」 は尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。元弘元年(1331)後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。 「太平記」はこれにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。 
元弘3年/正慶2年(1333)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、5月7日六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時、高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。 高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。 
建武の新政から南北朝動乱 
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。 
後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守大将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334)尊氏は、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。 
建武2年(1335)信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、8月2日勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐19日鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。 
直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に会った尊氏は同年2月京都を放棄して赤松円心の進言を容れて九州に下った。 
九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像の宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月京都を再び制圧した。 
京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。 
観応の擾乱から晩年 
尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ(在職1338-1358)ここに、後に室町幕府と呼ばれることになる武家政権が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。 南朝との戦いでは新田義貞の弟・脇屋義助を撃破し越前から駆逐することに成功。楠木正成の遺児・楠木正行も四条畷で討ち取り、吉野を焼き討ちにするなど戦果をあげた。 
新政権において、尊氏は政務を直義に任せ、自らは武士の棟梁として君臨した。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した。二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こしていき、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていたが、師直派に擁立されてしまう。正平4年/貞和5年(1349)襲撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなったが、直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説がある。 
尊氏は直義に代わって政務を担当させるため嫡男義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/観応元年(1350)尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝方に付き、桃井直常、畠山国清ら一部の譜代の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、尊氏も直義に摂津国打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高兄弟の出家を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351)和議が成立した。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺されている。 
直義は義詮の補佐として政務に復帰した。尊氏・義詮は佐々木道誉や赤松則祐の謀反を名目として近江・播磨へ出陣し、実際には直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行なった。この動きに対して直義は北陸方面へ脱出して鎌倉へ逃げた。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。平行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は正平7年/観応3年(1352)2月に急死した。「太平記」は尊氏による毒殺の疑いを記している。 
その直後に宗良親王、新田義興・義宗、北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ戻った。その後足利直冬が京都へ侵攻するが、結局直冬は九州へ去る。正平9年/文和3年(1354)京都を南朝に一時奪われるが、翌年奪還した。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが、正平13年/延文3年4月30日(1358)、背中に出来た癰(よう、腫物)のため、京都二条万里小路邸にて死去した。享年54、尊氏の墓・等持院。
足利尊氏2

嘉元3-延文3(1305-1358)清和源氏。三河・上総の守護を勤めた足利貞氏の子。母は上杉頼重女、清子。庶腹であったが、父の正妻に子がなかったため嫡男として家を継いだ。幼名は又太郎。直義の同母兄。執権北条高時を烏帽子親として元服し、高時の名より一字を得て高氏を名乗る。 
元応元年(1319)従五位下に叙され、治部大輔に任ぜられる。正慶2年(1333)3月幕府の命により後醍醐天皇方を討つため上洛するも、途中で討幕に翻意、六波羅探題を滅ぼして京を掌握した。鎌倉幕府滅亡後、建武中興の大功労者として後醍醐天皇より諱の一字を賜り尊氏と改名する。元弘4年(1334)正月、正三位に昇叙され、同年9月には参議に就任。建武2年(1335)7月、北条時行が信濃に挙兵し鎌倉を占領すると、翌月討伐のため関東に下向。この際征夷大将軍の地位を望んだが、天皇は征東将軍に任ずるに留めた。鎮定後、環京の命を拒絶して鎌倉にとどまり、建武政権に反旗を翻す。やがて尊氏追討に下向した新田義貞の軍を箱根に破り上洛したが、北畠顕家らの奥羽勢に敗れて九州へ落ち延びた。この際、光厳院に新田義貞追討の院宣を請い受け、やがて勢力を盛り返し摂津湊川に楠木正成を倒して再上洛。建武3年(1336)8月、光明天皇を即位させ、同年11月、建武式目を公布して室町幕府を開く。同月、権大納言に任ぜられ、翌暦応元年(1338)8月、待望の征夷大将軍に任命された。しかし前年末に後醍醐天皇は京より吉野に脱出して南朝を樹立、南北朝動乱の時代が幕を開けた。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御すると喪に服し、光厳院の命により亡き帝を弔うため天龍寺の造営を計画、康永4年(1345)に完成させて夢窓疎石を住持にすえた。 
幕府の政務は弟の直義に委ねていたが、やがて執事高師直との対立を深めた直義は観応元年(1350)に蜂起し、高氏一族を滅ぼした。尊氏は直義を討つため南朝と和睦した上、関東に兵を率い直義を降伏させた(翌年、直義は急死。尊氏による毒殺とも言われる)。文和元年(1352)、光厳院の第三皇子後光厳天皇の即位を実現。その後、直義の養子直冬と結んだ南朝方に京都を奪われるなどしたが、文和4年(1355)3月、子の義詮とともに京都を恢復した。延文3年(1358)4月30日京都二条万里小路邸で病没。享年54。法名は仁山妙義。等持院と号し、鎌倉では長寿寺殿と称された。贈左大臣、のち贈太政大臣。墓所は等持院(京都市北区)。 
和歌・連歌を好み、二条為定に師事、また頓阿を厚遇した。貞和元年(1345)冬、為定より三代集の伝授を受ける(新千載集)。延文元年(1356)、新千載集の撰進を企画、これは勅撰集の武家執奏の先蹤となった。元弘3年(1333)7月立后の月次御屏風和歌、暦応2年(1339)6月の持明院殿御会、建武2年(1335)の内裏千首、建武三年の住吉社法楽和歌、暦応2年(1339)の春日奉納和歌などに出詠。貞和・延文百首に詠進(続群書類従に「等持院殿御百首」として収録)。続後拾遺集初出。風雅集には16首、新千載集には22首入集。勅撰入集は計86首。  
 
北条政子
1

保元2年-嘉禄元年7月11日(1157-1225)平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡姫。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局など。 
伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 
「政子」の名は建保6年(1218)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という名であったかは不明。 
流人の妻 
政子は伊豆国の豪族北条時政の長女として生まれた。 伊豆の在庁官人であった父時政は、平治の乱で敗れ伊豆に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中で留守の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。 
この頃の政子と頼朝に関する史料はないが、「曾我物語」によると二人の馴れ初めとして「夢買い」の話がある。政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれた、とある。 
治承元年(1177)頼朝と政子の関係を知った時政は平氏一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平氏の一族であり、平氏政権の成立とともに目代となり伊豆での平氏の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。 
この時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べている。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。 
治承4年(1180)以仁王が源頼政と平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで長兄の宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。 
頼朝は時政、義時とともに安房に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。 
御台所 
養和2年(1182)政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平氏方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあった。祐親はこの赦免を恥じとして自害してしまう。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の二代将軍頼家である。 
政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江へ流罪にさせた。 
政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くの妾を持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父義朝も多くの妾がおり、祖父為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。事実、頼朝と義経の母親は別である。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子はそんな夫の行動を容認できなかった。 
頼朝の庶子の貞暁は政子を憚って出家させられた。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。 
寿永2年(1183)頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子義高と頼朝と政子の長女大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。 
義仲は平氏を破り、頼朝より早く入京した。だが、義仲は京の統治に失敗し、平氏と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184)、頼朝は弟の範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。 
範頼と義経は一ノ谷の戦いで平氏に大勝し、捕虜になった三位中将平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。 
範頼と義経が平氏と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185)、義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。 
平氏滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186)義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。 
政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。 
奥州へ逃れた義経は文治5年(1189)4月藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190)頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。 
建久3年(1192)政子は男子(千幡)を生んだ。後の三代将軍実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。7歳になった時、京の仁和寺へ送られることになり、出発の日に頼朝は密かに会いに来ている。 
建久4年(1193)頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話である。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽閉されて殺されている。 
大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。 
建久6年(1195)、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197)に大姫は20歳の若さで死去した。「承久記」によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。 
頼朝は次女の三幡姫を入内させようと図るが、朝廷の実力者である源通親に阻まれる。親鎌倉派の関白九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になったために、頼朝は再度の上洛を計画するが、建久10年(1199)1月落馬が元で急死した。「承久記」によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては幼い頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。 
尼御台 
長子の頼家が家督を継ぐ。政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれる。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時持ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。 
若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200)頼家の専制を抑制すべく大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。 
頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。 
頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。 
建仁3年(1203)頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。 
頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまう。頼家は後に暗殺されている。 
代って将軍宣下を受けたのは実朝で、父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。 
実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。 
政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。 
建保6年(1218)政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従二位に叙されている。「愚管抄」によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。 
実朝の官位の昇進は更に進んで右大臣に登った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。 
建保7年(1219)右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。「承久記」によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。 
尼将軍 
実朝の葬儀が終わると政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。 
承久3年(1221)皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。上皇は義時追討の宣旨を諸国の守護と地頭に下す。上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかった。 
政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。「吾妻鏡」や「承久記」には政子自身が鎌倉武士を前に涙の演説を行い、御家人は皆落涙した旨の記述がある。 
軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。 
後鳥羽上皇は宣旨の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。 
北条政子の墓と伝わるやぐら(寿福寺)政子は義時とともに戦後処理にあたった。貞応3年(1224)義時が急死する。長男の泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。 
泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、泰時は弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。 
嘉禄元年(1225)政子は病の床に付き、死去した。享年69。 墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に源実朝の胴墓の隣にある。 
 
「吾妻鏡」は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は「愚管抄」で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。「承久記」では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。 
室町時代の一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ卑弥呼、奈良時代の女帝(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいている。北畠親房の「神皇正統記」や今川了俊の「難太平記」でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。 
江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、「大日本史」や新井白石、頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。 
近代に入ると文明史論的な立場から女性政治家としての政子の立場を評価する動きが出てきた。一方で、皇国史観的な立場からは承久の乱で朝廷を打ち負かし三人の上皇を流罪にしたことが尊皇の心に欠けると批判された。 
現代では、大河ドラマ「草燃える」の原作となった永井路子の小説「北条政子」などが主な作品。テレビドラマに登場する政子は気が強く権勢欲に富むが、一方で女としての優しさものぞかせる複雑な性格の女性としておおむね描かれている。政子については夫や子を殺して天下を奪った悪女とも、慈愛と悲しみに満ちた良妻賢母とも様々に評価されている。  
小説・北条政子2 尼将軍 / 日本史初の女性リーダー
東国武士の政権を守った尼将軍 
政子は正直にいって一夫の源頼朝に不満なところがあった。それは、政子には次のような政治理念があったからだ。 
鎌倉に新しい幕府を開いたのは、あくまでも″武士の・武士による・武士のための政権〃を確立したということだ。 
それを支えるのは東国武士であって、西国の武士ではない。とくに都の人間ではない。 
政子は、武士が京都に入ると必ず生活が貴族化して堕落する、と思っていた。だから、京都に生まれ育った夫の頼朝がときに京都を恋しがり、またとくに京都の女性に色目を使うのを好ましからず思っていた。 
東国の伊豆に生まれた政子には、女性でありながら東国武士の初心・原点の思想が脈々と流れていた。 
したがって、政子が鎌倉政権に託したのは、この「東国武士の初心・原点をあくまでも失わない」というものだ。 
東国武士の初心・原点というのは、質実剛健・不言実行・潔い身の処し方・家族や部下に対する限りない愛情などである。 
同じ源氏の一族でも、木曾義仲・源義経などの武士が京都に入ると必ずフニヤフニヤになり、結果的には身をほろぼしてしまう。こういう状況を見ていて、政子はいよいよ「武士が都に入ると必ず骨抜きになる」と感じた。 
したがって、せっかく夫が鎌倉に樹立した武士の政権は、あくまでもバックボーンをきちんと持った、東国武士の初心・原点を守りつづけるものでなくてはならないと感じた。 
そして、そのためには「たとえ女性であっても、自分が実質的な将軍になって鎌倉幕府を守り抜かなければならない」と心を決した。 
政子はこれを実行した。そのため、彼女は尼将軍″と呼ばれた。  
頼朝の挙兵 
頼朝が後白河法皇の皇子以仁王の令旨を受けて兵をあげたのは、治承四(一一八○)年八月のことである。以仁王は源頼政を味方にしたが、二人はまもなく平家側の大軍に囲まれた。頼政は戦死し、以仁王は逃れた。この以仁王決起の原因として、「平家万能の世の中では、資格があるにもかかわらず、以仁王は皇太子になれなかったからだ」という説がある。 
そうなると、この挙兵の動機は、「以仁王の私的な事情によるもの」ということになるが、全国の状況はそんな程度のものではなかった。 
「平家にあらずんば人にあらず」と豪語する平家一門は、平清盛の采配によって全国の国々のほとんどの管理者ポストを占めていた。平家でない武士たちの不満がいっせいに爆発する寸前にあったのである。 
以仁王の令旨を携えてやってきた使者を迎えて、頼朝はついに挙兵に踏みきった。この挙兵を支えたのが、政子の父北条時政であった。時政は都での大番役を務め終えたばかりであり、武士のつらさを骨身にしみて知っていた。したがって、(一丁やってみるか。だめでもともとだ)というダメモトの覚悟を決め、頼朝を煽った。頼朝はこれに乗り、まず伊豆国の目代だった山木兼隆を殺させた。 
前述したように、山木兼隆は、一時、北条時政が、(流人の頼朝の妻になるよりも、正式な役人である山木殿に嫁入りさせたほうがいい)と考えて、政子を嫁入りさせた相手である。これを真っ先に殺したのは、やはり(嫉妬からきた頼朝の報復か)と考えがちだが、そうではない。山木兼隆はれっきとした中央政府の派遣した役人であり、同時に平家一門であった。したがって、山木を討つことはそのまま、「平家に対し、真っ向から挑戦する」という頼朝の姿勢を示すものであった。 
父の北条時政や、夫の源頼朝から学んだ名補佐役ぶり 
補佐役の重要な職務の一つは、組織目的達成の過程における進行管理である。鎌倉執権政府がその後、曲がりなりにも続いていくのは、幕府創立初期における政子の、「名補佐役ぶり」に負うところが大きい。しかし、その政子も、先天的にそういう能力を身についていたわけではない。やはり、父の北条時政や、夫の源頼朝から学んだところが多い。さらに、頼朝が京都から招いた下級公家の大江広元からも学んだ。学んだことの最大のものは、「トップリーダーならびにその補佐役は、バトルだけに目を向けてはならない。ウォーを見渡さなければだめだ」ということである。 
源頼朝は源平騒乱の過程において、実戦にはまったく参加していない。彼がみずから合戦で指揮をとったのは、伊豆で蜂起したときだけだ。その後の平家との重大な戦いは、すべて弟の義経や範頼に任せている。当時の、「親が殺されれば子はその遺体を乗り越えて突き進み、子が殺されればさらに孫がその遺体を越えて突き進む」という東国武士の風潮からいえば、頼朝の態度は必ずしも褒められたものではない。勇猛一途で合戟のことしか考えない東国武士の中には、「鎌倉の御大将は卑怯者だ」と見る者もいただろう。気の強い政子自身、(わが夫は腑甲斐ない)と感じたこともある。 
が、次第に、頼朝がなぜ鎌倉から動かないかという理由がわかってきた。それは「源平騒乱の全体像を客観的に凝視する」という考えがあったからである。  
父娘の野望は一致 
「おまえも相当なしたたか者に育ったな」 
「すべて父上のご薫陶でございます」 
「嘘をつけ」時政は笑った。そして、「頼朝殿の都の女子好きが、結局はおまえをそういう女に仕立てたのだ」と笑った。政子は一瞬バッと顔を赤くしたが、すぐうなずいた。 
「そのとおりでございます。ですから、今後そういう心配がいっさいなく鎌倉政権を持続するためには、このたびの父上のお役目は重大です。成果如何によってそれがかないましょう」 
そう告げた。時政はうなずいた。ここで父娘の気持ちは一致した。 
鎌倉政権はあくまでも、東国武士の・東国武士による・東国武士のための政権である。 
そして、その鎌倉政権によるイニシアチブを握るのは、北条家とその子孫である。 
その限りにおいては、政子は単なる頼朝の妻ではない。実質的に鎌倉政権を主導する北条家の一員の立場を貫く。 
鎌倉政権の「補佐役」のポストは、あくまでも北条一族がこれを引き継ぐ。 
このたびの北条時政の上京は、その礎石を築く目的もあわせ持っている。 
だからこそ、父の時政は娘政子の眼の底にそういう野望を見抜き、(わが娘ながら、男性に負けない政治性を持っている)と感じたのである。そうなると、時政の娘に対する見方も変わる。時政はこの夜はっきりと、(この娘と俺の野望は一致している。政子がいることは北条家のために大いに頼もしい)と感じた。  
父以上の補佐役 
(直接収入源を持たなければ、将軍の勢威が保てない)と考えたからである。そこへいくと頼朝にはまだそんなものがない。だから、政子はやきもきしていた。政子自身にすれば、(征夷大将軍としての夫が直接管理できる土地と農民を持ちたい)と願う。軍勢にしても同じだ。確かに直臣は増えてはきたが、大した勢力ではない。一朝事あるときはすべて御家人群の世話にならなければならない。誇り高い政子にすれば、それもやりきれない思いだ。政子は収入とともに、直接の軍勢ももっと多く持ちたいと願いつづけていた。そして、(そうさせるのが私の役割なのだ)と現代でいう「補佐役的責務」を痛感していた。今まではとにかくその線に沿って努力してきた。父の時政も協力してきた。立場からいえば、父の時政が鎌倉幕府頼朝政権の補佐役なのだ。政子は将軍の妻だから、父の上位者になる。ただ、実質的な心配や、いろいろな策を立てるのは政子のほうが多い。それに、父の時政も、「わが娘ながら、なかなかおまえはよくやるよ」といって協力してくれた。  
我が子・頼家の裁を止めた御家人会議の設置 
政子の胸の中に、今までなかった冷たい氷の柱が立った。それは、(場合によっては、たとえわが子であっても頼家を処断しなければならない)ということであった。この段階において、政子は公人頼家と私人頼家とに分断した。つまり、将軍である頼家は公人だ。しかし、息子である頼家は私人だ。が、頼家にすれば、二つながら自分一人のものだ。したがって、政子が決断し、「公人である頼家を処分する」と決定したときは、私人である頼家も同時に処分されてしまう。これは切り離すことができない。今までの政子は、(私にそれができるだろうか)と悩んだ。しかし、ここまできた以上、もう心を決めざるをえない。父時政のいう、「御家人会議」は、合議機関ではあるが、決定機関でもある。つまり、「鎌倉幕府の意思を決定する機関」だ。御家人会議そのものが決定権を持つ執行機関でもあるのだ。そうでなければ、頼家の親裁を止めることはできない。おそらく頼家は文句をいうだろう。承知もすまい。それでは明らかに鎌倉幕府の決定機関が真っ二つに割れてしまうからだ。今でいえば、トップマネジントが分裂してしまう。言葉を換えれば、「鎌倉幕府の二元政治」が行なわれることになる。が、その混乱もやむをえないと政子は覚悟した。 
そこで、父の時政から聞いた御家人会議の機能について弟に話した。義時は眼を輝かせて話を聞いた。そして、聞き終わると大きくうなずいた。 
「賛成です」 
「では早速、人選に入りましょう」 
新しく設ける御家人の会議は、定員を一三人とすることにした。 
実朝を征夷大将軍に、頼家を見捨てる 
「二代将軍頼家卿死去」の報が、京都朝廷にもたらされていたということだ。 
したがって、京都朝廷は、「急ぎ、三代将軍の決定を行なうように」と命じ、それに対し、北条側では、「旧将軍の弟実朝をもってこれにあてたい」と奉答した。この辺の運びはおそらく大江広元あたりの手際によるものだろう。九月七日には、「源実朝を征夷大将軍に任ずる」という宣旨がもたらされた。このとき、政子は頼家のところに行った。そして、「あなたのお気持ちはよくわかるけれど、実際事態はここまできてしまった。どうか観念して、仏門にお入りなさい」と諭した。頼家は抵抗した。政子を睨み、「母上は私に対し慈母であったことは一度もない。しかし、今はまったく鬼になられた」と恨みの言葉を告げた。政子は甘受した。そういわれても仕方がないと思っていたからだ。 
同時にまた、(そうしなければならないつらさは、到底この頼家にはわからない)と思った。  
父をも政敵として倒す 
「さらに、父側に不利な情報を流す以外ない」ということになった。もう政子・義時姉弟には、時政を父と思う気持ちはない。完全な政敵であった。 
「政敵はつぶさなければならない」という意志は一致している。その点においては、すでに親子の情を忘れた政略以外の何ものでもなかった。政子側はふたたびガセネタを噂として流した。それは義時が最初恐れた、「北条時政は娘婿を次期執権に指名する」という段階からさらに飛躍させて、「時政・牧の方夫婦は、自分の娘婿である平賀朝雅を次期将軍に推し立てようとはかっている。そのため、邪魔になる実朝を殺害しょうと企てている」という恐ろしいものであった。さすがに鎌倉は驚愕した。 
「内々噂には聞いていたが、現執権北条時政殿は、そこまで牧の方の尻に敷かれているのか」と驚きの声を放った。そして、このときもまた、「十分ありえることだ」と噂をさかしらに肯定する者がたくさんいた。この噂は前のようにすぐに消えなかった。それどころか、煙はいよいよ濃度を深め、鎌倉の空気は険悪になった。勇ましい連中からは、「たとえ鎌倉幕府創立の功労者であっても、そのように公私混同する北条時政は不届き者だ。この際、思いきって諌伐すべきだ」などという物騒な意見まで出はじめた。政子と義時は、「この機会はのがせぬ」と合意した。 
そこで、元久二 (一二〇五)閏七月十九日に、政子の命によって数人の有力御家人が、軍勢を率いて時政邸に押し入った。  
承久の乱で武士の心を一つにした政子の訴え 
「みなみな心を一つにして承れ。私の最後の言葉である。その昔、武士は大番役を三年務めるのが常であった。それが武士の責務だと思い、家来を連れて京へ上った。しかし、三年の任期満ちて故郷へ帰るときには、おのれの財産を使いつくし、馬も所持品もいっさい売り払って供の者もなく、蓑笠を首にかけ、みすぼらしい姿で戻ってくるのが常だった。大番役は京都に滞在中の費用をおのれで負担しなければならなかったからである。それを亡き殿(頼朝)はあわれに思われ、三年をわずか半年に縮められた。しかも、身代に応じて割りあて、諸人が助かるようになされた。こんなことはつい最近のことで、まだみなみなもよく覚えておいでのはずだ。これほど情け深くあられた故殿のご恩がどうして忘れられようか。みなみなよ、その殿に村して、忘恩の徒となって京都へ味方するならそれもよし。そういう考えを持つ者は、そのことを今はっきり申しきってこの場を去れ。敵味方を明らかにされよ」と血涙をふるって述べ立てた。 
政子の気持ちに外連味はない。本心でそう思っていた。彼女の頭の中には、死んだ頼朝の面影がはっきりした映像を持って座りこみ、「政子、しっかりやれ」と励ましていた。頼朝の映像に肩を押され、政子は思いのたけを叫びつづけた。庭を埋めつくしていた御家人武士たちは圧倒された。このころの武士はまだそれほど教養がない。ろくに字も読めなければ、書くこともできない。おそらく自分の名を書ける者もそれほど多くはなかろう。したがって、早くいえば、これらの武士た ちは、「知よりも憎が先行する存在」だった。そして、これが東国武士の強さの核になっている。東国武士が強いのはあまり知的な思考をしないためだ。勘で動く。そして、直情径行だ。いったんこうと感じたら、すぐいけいけドンドン″で実行する。ほとんどの武士が政子の涙ながらの大演説に感動した。その空気をしっかりつかむと政子はつけたしとして自 分が見た夢の話をした。 
「したがって、このたびの上洛は、伊勢大神宮もお認めになり応援してくださる。みなみなよ、迷うところなく泰時殿に従え。泰時殿はすでに出発しておられるぞ!」とひと際声を張りあげた。庭でたちまちウォーという開の声があがった。 
承久三(一二二一)年五月二十二日、御家人たちは先を争うように鎌倉を出立し、先発した泰時を追いはじめた。
北条政子3
彼女は北条時政の娘で、源頼朝の妻となり、頼家・実朝を産みます。彼女が前回取り上げた女性たちとは別格なのは、彼女が夫や息子たちの意図を飛び越えて、自分のなすべきことをなしとげて行ったからです。 
北条家は平家の一門ですが、源平の最終戦においては、頼朝の保護者であったことから、源氏側として戦います。そして鎌倉幕府成立後は執権という立場になり、形骸化した将軍を差し置いて、日本の支配者になるのです。ということで源平の争いの最終勝者は実は平氏だった訳です。 
それはさておき、北条政子は頼朝が生きている間も積極的に政治的問題に介入しましたが、実力を発揮するのは、やはり頼朝の死後です。 
平家を倒し、弟の義経も倒して敵のいなくなった源頼朝は征夷大将軍の職名をもらい、政子の父の北条時政や、有能な官吏である大江広元らを中心に政治組織である幕府を編成、武家政治の基本構造を作りますが、馬から落ちてあっけなく死んでしまいます。 
そこで頼朝の長男の頼家が将軍職を継ぐのですが、彼はいたって無能な人物でした。その為、早々に北条政子は父の時政にも協力してもらい、政治の実権を将軍から奪い、幕府の色々な決裁に関しては政子が判断するような体制を整えます。これに対して、どうにも無能な頼家は、対抗処置を取るような根性も無く、同じように無能な仲間を集めて騒いだり部下の妻を強奪したりして、ひんしゅくを買い、最後は何かとうるさい母と祖父を除こうとします。が、むろん逆に捕らえられ、殺されます。(比企能員の変) そして将軍職は弟の実朝が引き継ぎます。 
ところが、頼家の息子公暁が実朝を父の仇と狙い、鶴岡八幡宮に参拝に来た所をふい打ちして暗殺してしまいます。むろん公暁は護衛の武士にその場で殺されますが、頼朝の血統はあっという間に消えてしまいました。 
ここで北条政子は将軍不在のまま、頼朝の妻であるからには幕府の長であるとして武士たちの上に君臨し、頼朝がやり残した幕府の職制の整備を行ないました。そして続いて起きた後鳥羽上皇による承久の変においては、御家人たちをカリスマ的な説得力で味方につけて上皇軍を打ち破り、鎌倉幕府の基礎を固めたのです。この為、彼女は「尼将軍」と呼ばれ、非常に尊敬されました。 
北条政子が晩年心の拠り所としたのは、頼家の娘の竹御所でした。彼女は国のために自分の息子の頼家の殺害を命じるのですが、それ故に息子の忘れ形見の彼女を宝物のように大事に育てていました。 
そして北条政子の死後、やはり将軍を誰か立てなければならない、ということになった時、頼朝の姪の孫の当たる九条頼経が京都から呼ばれ将軍になりますが、竹の御所がその妻になりました。彼女がもし子供を産んでいたら将軍家の血統は一応頼朝の直系で続いて行っていたところなのですが、頼経の子を身篭るも、子供は死産・自らもそのお産で死ぬという非運に見舞われます。この結果、将軍職はその後、源氏とはゆかりもない天皇家の親王から迎え入れることになります。 
結果、幕府の実権は将軍ではなく北条家のものが執権の名で掌握する体制になっていきます。また考えてみると、そもそも北条政子が頼朝と結婚していなかったら、源氏の蜂起に北条一族が協力することもなく、頼朝はあえなく倒されていたでしょうから、北条政子こそ、鎌倉幕府を作った人と言ってもいいかも知れません。 
 
明恵・日本的革命の哲学 / 山本七平

保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。 
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。 
山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。 
ところで、泰時は明恵の思想に大きな影響を受けたことはつとに知られている。明恵と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいることはいる。しかし、明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。 
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。 
ところがこの明恵に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。 
さて、西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合、それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。 
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。 
明恵のユニークさというのは、国家の秩序の基本の把え方にある。明恵は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ているのである。明恵に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は「華厳経(けごんきょう)」に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に「華厳経」の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」 
確かに、現代人は明恵の世界を共有することはむずかしい。しかし、明恵が真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。 
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。 
さて、流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。 
わが国は、古くは中国、近年は欧米から・・・やむなくいろんな法律をまねしてわが国の法律としてきた。諸外国の法律をまねしたものを「継受法」という。やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、もちろん国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。 
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。 
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。 
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。 
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。 
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。 
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。 
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが「天皇陛下の経済学」の中でも指摘している。
日本に革命思想はなかったか 
孟先生がいわれた。 
「暴君の桀王・紂王が天下を失ったのは、人民を失ったからである。人民を失ったとは、人民の心を失ったことを意味する。天下を手に入れるには一っの方法がある。人民を手に入れることであり、そうすればすぐに天下を手に入れることができる。人民を手に入れるには一つの方法がある。人民の心を手に入れることであり、そうすれば人民を手に入れることができる。人民の心を手に入れるには一つの方法がある。人民の希望するものを彼らのために集めてやり、人民のいやがるものをおしつけない、ただそれだけでよろしい。人民の仁徳にひかれるのは、まるで水が低いほうに流れ、獣がひろい原野に走り去るようなものだ。淵に魚を追いたてるのが、獺(かわうそ)である。茂みに雀(すずめ)を追いたてるのが、鳶(とび)である。殷の湯王、周の武王のほうに人民を追いたてたのが、夏の桀王と殷の紂王とである。現在、天下の君主のなかで仁政を好むものがあれば、諸侯はみなその君主のほうに人民を追いたてるにちがいない。いくら天下の王となるまいとしても、不可能であろう。現在の王となろうと希望する者は、七年間の持病をなおすため、三年間かわかした艾(もぐさ)をさがしているようなものだ。もし平常からたくわえておかなかったら、死ぬまで古い艾(もぐさ)を手に入れることはできまい。もしも仁政を心掛けなければ、死ぬまで恥を受けることにびくびくして、ついに死亡してしまうだろう。 
詩経に、 そのふるまいのどこによいところかあろうか  ともどもに溺れ死ぬばかりだ 
とよんでいるのは、このさまをいったのだ」と。 
天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という崇徳の逆転宣言は、痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。
聖書型革命と孟子型革命 
孟子の革命論 
前章で記した「革命」の基本的定義をもう一度要約してみよう。 
それは現体制の外に何らかの絶対者を置き、その絶対者の意志に基づいて現体制を打倒して新体制を樹立する、ということであろう。 孟子にとって絶対者は「天」であり、その「天」の意志は自動的に「民心」に表われるから、その「民心」の動向に基づいて新しい王朝を樹てることが「絶対者の意志」に従うことであった。 
そして以上の「革命」を、西欧の「革命論」の基礎となった「旧約聖書」と対比してみると、両者の違いは明確に出てくる。聖書の場合も、体制の外に絶対者すなわち「神」を置いている。この点まではある意味では両者に変りはない。しかし、前章で記したように聖書には孟子のような「天意=民心論」すなわち、絶対者と民心とが自動的につながっているという思想はない。そういう自動的なものではなく、神と人をつなぐものが「契約(ベリート)」なのである。孟子の革命論と聖書の革命論との決定的な違いは「契約」という考え方の有無にあると言ってよい。 
人類最初の西欧型革命 
この違いがなぜ出てきたかの「発生論的探究」は今回は除き、それは創造神話の時代からの、基本的な違いであると指摘するにとどめよう。これらに関心のある方は拙書「聖書の常識」を参照していただきたい。この点、孟子における「天意」の表われ方はきわめて自動的だが、聖書における「神の意思」の表われ方はまことに「作為的」であって、「神」が契約を更改すれば社会は基本から変わってしまうわけである。 
ではここで欧米人を一人つかまえて次のような質問をしてみよう。「ここにAという国があったとしよう。その国のある階級を代表するBなる者が服従しないので、A国皇帝がその代表の討伐を命ずる勅命を出し、実際に戦端が開かれた。ところがこのBなる者は一挙に首都に進撃し、皇帝一族を追放し、皇帝を退位させて自分の望む者を帝位につけ、討伐を企画した者どもを処刑した上で、自分が擁立した皇帝をも無視し、その形式的な認証も署名もない基本法を勝手に発布し、この法は過去において皇帝が発布した法規とは全く無関係と宣言したら、これは革命と言えるか、言えないか」。今まで私が質問した限りでは、すべての欧米人は「もちろん革命ですよ」と言った。 
承久の乱は日本史最大の事件 
まず注目すべきは、承久の乱という事件が、武士団が朝廷と正面衝突をして勝利を得た最初の戦争だということである。朝廷への個々の小叛乱、否、相当に大きな叛乱もそれまでにあったが、すべては失敗に終わっている。また武士団が勝手に三上皇を配流に処し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立したのも、このときがはじめてである。 
天皇に刃向うことは当時は強烈なタブーであり、武士団の中に、強い恐怖と非倫理的悪行という考え方と、伝統否定という心理的抵抗があって当然だった。当時の武士は、事を起すにあたって必ず「院宣」とか「令旨」とかを受け、名目的には天皇家の一員の「命令」によって行動している。この点では頼朝とても例外でなく、彼の行き方は常に何らかの「大義名分」を保持し、院政を利用して幕府を育てあげるという政策をとっている。ところが承久の乱はこれと全く違って、義時追討の「院宣」が下っているのに、これをはねかえして軍を起したのであり、彼には「大義名分」といえるものは全くない。 
さらに「身分」が大きく心理的に作用するこの時代に、頼朝と義時とを比べれば、両者の違いは余りに大きい。頼朝は「源氏の嫡流」「武家の棟領」で、すでに何代にもわたって朝廷と関係をもつ名門である。一方北条氏といえば伊豆の豪族にすぎず、それも、三浦、千葉、小山のように強大な同族的武士団を擁して数郡から一国にわたって勢力を振った大豪族でない。下級かせいぜい中級の豪族、ごく平凡な在地武士、伊豆国の在所官人であった。その伊豆さえもちろん彼の支配下にあったわけでなく、狩野、仁田、宇佐美、伊東等の豪族がいた。 
当時の東国の武士団は、京都に対して強い「文化的劣等感」をもっていた。これが朝廷側の「官打ち」を可能にしたし、「官位」「恩賞」でさそえば、義時を討とうという人間が鎌倉の中から出て来て少しも不思議でない。御家人にとっては彼はあくまでも「同輩」か「下輩」にすぎず、勅を受けてこれを討つことに罪悪感を感じる者がいるはずがない。 
三浦一族の意識では義時は「伊豆の小豪族、自分以下の北条氏」にすぎず、これを、「一天ノ君ノ思召」で討つことに、何ら良心のとがめを感じなくて不思議ではない。後鳥羽上皇が、「成上り」として御家人からさえ反感をもたれている義時などは、諸国に院宣を下せば簡単に討滅できると考えて不思議ではなかった。 
そしてこの予測は、必ずしもあたらなかったわけではない。その証拠に上皇挙兵のとき、多くの鎌倉御家人が京都側に立っている。 
限定的西欧型革命 
「吾妻鏡」には尼将軍政子の訓示として次の言葉がある。「皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。是れ最後の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰(伐)し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝之志浅からんや。しかるに今、逆臣之讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし」と。 
これは有名な<名訓示>だから知っている人も多いであろう。政子が果してこの通りに言ったかどうかはわからないが、これはあくまでも心情に訴える「女性の論理」だから、大筋はこの通りであろう。彼女はまず「恩」をとき、「名を惜しむの族」はこの「恩」を忘れた「裏切り者の御家人」秀廉・胤義を討ち取るべきだと主張する。敵は決して天皇家でなく、幕府への「逆臣」であり、「非義の綸旨」が下ったのは、その「讒」によるのだから、この「逆臣」を討伐するのだという論理である。これは確かに、御家人の感情に訴える点では効力があったであろう。 
しかし、たとえ「非義の綸旨」であろうと、勅命が下った以上、これに抵抗すれば抵抗した者が「逆臣」である。そうならないためには、まず降伏し、それが「逆臣の讒」であることを朝廷へ陳情して撤回してもらうことが「筋を通す道」であろう。この議論を展開するのが泰時である。ところがそれに対して義時は次のように言ったと「明恵上人伝記」にある。 
「尤(もっと)も此の事さる事にてあれども、それは君主の政ただしく、国家治る時の事なり。今此の君の御代と成て、国々乱れ所々安からず、上下万民愁(うれい)を抱かずといふことなし。然るに関東進退の分国ばかり、聊か此の横難に及ばずして、万民安楽のおもひをなせり。若し御一統あらば、禍(わざわい)四海にみち、わずらひ一天に普(あまね)くして安きことなく、人民大に愁(うれう)べし。これ私を存じて随(したがい)申さざるにあらず。天下の人の歎(なげき)にかはりて、たとへば身の冥加(みょうが)つき、命を落とすといふとも、痛む可きにあらず。是れ先蹤なきにあらず、周武王・漢高祖、既に此の義に及ぶ歟(か)。それは猶自ら天下を取りて王位に居(おわ)せり。これは関東若し運を開くといふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君をあやまり奉るべきにあらず、申勧(すす)むる近臣どもの悪行を罰するにてこそあれ」 
これは、義時がこのように言ったと泰時が明恵上人に言っているわけで、この考えが義時のものなのか泰時のものなのか明らかでない。というのは、明恵上人の「義時泰時批判」に対する泰時の弁護だからである。またこの伝記自体がどれだけ史料的価値があるかも問題であろう。泰時と明恵上人との関係は後に記すが、しかしいずれにせよ、ここに記されている論理は孟子の「湯武放伐論」であり、この著者が孟子によって義時・泰時を正当化していることは明らかである。 
「桀紂の天下を失えるは、その民を失えばなり」にはじまる孟子の言葉の「桀紂」を「上皇」にすれば、ここで義時が言っているのはまさに孟子の言葉であり、「是れ先蹤なきにあらず……」なのである。上皇はまさに、人民を幕府の方へ迫いやってしまう。「獺(だつ)なり」「せん(亶に鳥)なり」であり、それによって否応なく民心が集まってきた幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」になった。ただ義時・泰時の場合は、天皇家を滅ぼしてかわって北条天皇になり、前の体制を浄化するだけで、そのままその体制をつづけていったわけではない。この点では「限定的中国型革命」ともいうべきものだが、この限定は孟子にとっての「天」が彼にとっては「天照大神・正八幡宮」という自己の伝統にあった点にあるであろう。だが「式目」の発布という点から見れば、これは中国の革命思想を越えており、「限定的西欧型革命」とも言えるのである。
北条泰時の論理 
衆の「棄つる所」と「推す所」 
水戸彰考館の前総裁・安積澹泊(あさかたんぱく)は、「大日本史論讃」に次のように記している。 
「兄弟牆(かき)にせめ(門のなかに児)ぎ、骨肉相賊(そこな)うは、蓋(けだ)し人倫の大変なり。保元の事、亦惨ならずや。崇徳上皇の戎(いくさ)を興せるは、固より名義無し。帝、已むを得ずして之に応ずるは、之を猶(ゆる)して可なり。拘(とら)えて之を流せるは己甚(はなは)だしからずや。…此(こ)れ、彝倫(いりん)(人倫)のやぶ(澤のつくりと敗のつくり)るる所なり。藤原信頼を嬖寵(男色の相手として寵愛)して、立ちどころに兵革を招き、平清盛に委任して、反って呑噬(どんぜい)に遭い、源義仲・源義経に逼られて、源頼朝を討つの誥を下すに至りては、則ち朝令夕改、天下、適従(主として従う)するを知るなし、大権、関東に潜移して、其の狙詐の術に堕つを知らず。…摂政兼実、清原頼業の語を記して曰く、「嘗(かつ)てこれを通憲法師に聞く。帝の闇主たる、古今にその比少し…」」と記し、政権が関東に移ったのは、「闇主」後白河帝の失徳が原因としている。 
では、義時・泰時に配流された後鳥羽上皇その人、さらにこれを行なった当事者である泰時には、どのような評価が下されているのであろうか。確かに今までのような例があるとはいえ、これはあくまでも朝廷内のこと、たとえ幕府ができても、それが名目的には朝廷内の一機関ならともかく、「天皇制政府」以外に「幕府制政府」とも言うべきものを樹立し、陪臣でありながら三上皇を配流に付して天皇を退位させ、勝手に法律を発布するなどと言うことは、「皇国史観」の源流とされる水戸学では到底許すべからざることではないのか? 
後白河帝への批判 
安債澹泊(あさかたんぱく)は後鳥羽天皇の即位の異常さに言及する。「人君、位に即くには、必ずその始めを正しくす。その始めを正すは、その終りを正す所以なり。古より、未だ神器なくして極に登るの君あらず。元暦の践祚は、一時の権に出で、万世の法となすべからず。藤原兼実これを当時に議し、藤原冬良これを後に論ず。異邦の人すらなお白板天子(玉璽なき自称天子、白板は告命なき白い板)を議す。国朝、赫々たる神明の裔、豈(あに)、その礼を重んぜざるべけんや。これ祖宗の法を蔑(なみ)して、その始めを正さざるなり…」と。 
この事件は、平宗盛が安徳天皇と神器をもって西に走ったので、後白河法皇が高倉天皇の第四子尊成親王を立てて天皇とし、神器なしで、ただ参議の藤原修範を伊勢に派遣して大神宮に新しく天皇を立てたと報告した事件を言う。これがいわば「白板天皇」の後鳥羽帝で、藤原兼実はこれを「殆為二嘲弄之基一」と記し、冬良は「先帝(安徳)筑紫へ率ておわしければ、こたみ初て三の神宝なくて、めずらしき例に成ぬべし」と記している。これは、当時の人にはショッキングな大事件であったらしく、「源平盛衰記」等でも盛んに論じられている。従って義時・泰時も、口にはしなくても当然にこのことを知っており、その心底のどこかに「後鳥羽上皇は白板天皇にすぎない」という意識はあったであろう。それを可能にしたのは、後白河法皇である。 
さらに、仲恭天皇(九条廃帝)から後堀河天皇への譲位の強制・新帝擁立も、全く前例がなかったことではない、とも言い得たし、白板系を廃して正統にもどしたとも主張し得たであろう。というのは、後堀河天皇の父の後高倉院は後鳥羽天皇の兄だからである。同時に、この「白板天皇」にすぎず、「「殆為二嘲弄之基一」という状態は後鳥羽上皇にも作用して、少々異常な高姿勢を幕府に対してとらせたとも見られる。 
なぜ泰時だけがべタホメか 
さらに泰時は、京都に進撃した総司令官であり、そのうえ朝廷から立法権を奪って勝手に「関東御成敗式目」という法律を発布した。 
こう見てくると、天皇のみ正統でこれが絶対なら、泰時は日本史上最大の叛逆者であり、どのような罵詈讒謗が加えられても不思議でないはずである。 
ところがまことに不思議なことだが、泰時への非難はまさにゼロに等しい。「皇国史観」の源流とされる水戸学でも、当然、泰時への批判は実に峻烈になりそうなものだが、奇妙なことに「ベタホメ」なのである。 
そうした考え方はまさに孟子の革命論―天意=人心論―であろう。「白板天子」後鳥羽上皇への「嘲弄」と、その失徳と失政は、結果として孟子のいう「獺(だつ)(かわうそ)なり、せん(亶に鳥)(とび)なり」となって人民を幕府の方へ追いやってしまったので、幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」という形になった。それなのに義時は終生「位、四品を踰えず」で自らが王になろうとする野心なく、専ら仁政を施したのは立派で、「天下に功無しと請うべからず」なのである。義時でさえこうであれば泰時が「ベタホメ」になって不思議ではない。 
「貞永式目」は徳川時代にも「標準」であり、広く民間に浸透し、明治五年までは寺子屋の教科書で、明治二十二年の憲法、二十三年の民法公布まで日本人の「民の法」の基本となっていた。だが「貞永式目」という法の公布には、天皇は一切タッチしていない。日本人は長いあいだ幕府の執権が定めた法の下にいたわけで、この時以降を「幕府法の時代」と規定してよいであろう。 
その意味では確かに「ベタホメ」は当然なのだが、これを「人神共に憤る」という後鳥羽上皇の項の批判と対照すると、日本人の政治意識とは全く不思議なものだと思わざるを得ない。というのは天皇からの奪権者への「ベタホメ」は、天皇制の否定のはずだからである。 
だがさらに澹泊(たんぱく)は、承久の乱における泰時の態度には、ただ「弁護のみ」で、次のように記している。「承久の変に、義時を諫争し、言、切なりといえども聴かれず。その、兵を将(ひき)いて王師に抗するや、遂に乗輿を指斥する(仲恭天皇を退位させたこと)に至れるは、その本心に非ず、誠に已むことを得ざればなり。四条帝崩ずるに至りて、則ち籤(くじ)を探りて策を決し、土御門の皇胤を翊戴(よくたい)す。乃心(たいしん)王室(心、王室にあり)、亦従(よ)りて知るべきなり。源親房謂う「承久の事は、その曲、上に在り。泰時は義時の成績を承け、志を治安に励み、毫も私する所無し」と。これ、以て定論となすべし」と。 
日本人の心底にある理想像 
「神皇正統記」の著者の北畠親房・・・・この南朝正統論の「生みの親」こそ、最も徹底した泰時批判論者であって不思議ではない。それがやはり、「後鳥羽上皇がよろしくない」であり、「泰時は立派だ」としている。 
まことに不思議なのだが、その立場からして当然に泰時に徹底的な批判を加えて然るべき人間が、すべて「泰時だけは別」としている。 
一体この不思議はどこから出たのであろう―それを探究するのが本稿の目的の一つである。というのは、その国の歴史において、彼のような位置にありながら「ベタホメ」にされるということは、日本人の心底にある、ある種の「理想像」を彼が具現していたと思われ、その理想像を形成した「思想」と彼の制定した「法律」こそ、以後の基準になっていると思われるからである。 
「将軍なき幕府」の自壊を待つ 
後鳥羽上皇が期待していたのは「幕府の自壊」であった。事実、後鳥羽上皇が泰時に等しい「徳」と「政治力」をもっていたらこれは可能だったかも知れない。というのは幕府の中心たるべき源実朝には子供がなく、その「象徴的中心」は失われようとしていた。義時は政子を京都に派遣し、実朝の後継者として皇族将軍を東下させることを院の当局者と密約していた。いわば義時自身、自分と朝廷との間に立ちうる「仲介的人間」を欲していたわけである。だが実朝が死ぬと院はこの件をうやむやにし、中心を失わせて御家人相互を争わせ、その間に、個々に朝廷側に寝返らせて、北条政権を崩壊させようとした。 
そこで実朝弔問と同時に摂津の国長江・倉橋両荘の地頭改補を幕府に命じた。同荘の領家は、院の寵愛する伊賀局亀菊のものであったが、地頭が亀菊の命に従わなかったというのがその理由である。ところがこれは幕府にとって重要な問題であり、もしこれが前例になれば、地頭への任免権は実質的に朝廷に奪われる。従って、勲功の賞によって与えられた地頭職を罪科なく免ずることはできず、義時は、弟の時房に一千騎をさずけて上洛させ、院に拒否を回答させた。一種の力の誇示による圧力であろう。こうなると半ば決裂状態であり、院による皇族将軍の東下などは期待できない。そこで頼朝の外孫の左大臣九条道家の幼児三寅を将軍に迎えることにした。 
無条件降伏論者の泰時 
後鳥羽院は、北面の武士を中心に、寺社の僧兵や神人をも誘い、さらに承久三年四月に順徳天皇が仲恭天皇に譲位してこれを助けるという体勢をとった。その上で、在京中の御家人を味方に誘い、幕府と親しかった西園寺公経(きんつね)を幽閉し、同年五月十五日、諸国に義時追討の院宣・宣旨が下され、ここに承久の乱は勃発した。いわば仕掛けたのはあくまでも朝廷側である。 
こうなると、鎌倉側も早速に対応策を考えねばならない。しかし泰時はこのときまず「無条件降伏論」を展開したという。 
果して事実か否かはわからない。泰時と明恵上人が非常に親しく、共に尊敬し合う間柄であったことは、両者が交換した和歌が残っているから事実であろうが、「明恵上人伝記」の中に記されていることが、ことごとく事実ではないかも知れぬ。しかし、この泰時の態度は、他の資料と対比して矛盾がないことも事実なのである。彼はあらゆる点で「消極論」であり、もし上皇が討伐軍を東下させるなら、箱根・足柄を防御線としてこれを防ごうと提案している。 
そしてこの点から見れば、泰時の「無条件降伏論」なるものも、後に足利尊氏がとった方策と変らないのではないか、とかんぐることも可能なのである。いわば、これほど恭順の意を表しているのに、なお朝廷が高圧的に出れば、御家人は「明日はわが身か……」と思って逆に団結する。その団結したところで、長途の遠征で疲れた敵を箱根の山岳地帯で迎撃すれば必ず勝つ。勝った上で院宣・宣旨の撤回を求めれば、天皇と戦場で直接的に対決することは避けられる。もしこれが真相なら、泰時は相当な策士ということになるであろう。 
賽は投げられた 
いずれにせよ軍議では、無条件降伏論も迎撃論も斥けられ、出撃論が採択された。しかしこれは必ずしも多数意見でなく大江広元が強く主張し、尼将軍政子がこれに同調したためと思われる。 
政子の名演説の「名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」 
評議の結果は泰時・時房を大将軍とし、武蔵の軍勢が集まりしだい出撃ときまり、ついで遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の諸国に飛脚をとばして御家人の参向を求めることになった。これがいわゆる東国だが、当時の幕府の直接的な支配圏はわずかこれだけである。 
この場合は、朝廷の切り崩しが成功するか、幕府側がこれをはねのけて団結するかが勝敗の分れ目であり、その点から見れば、武士団を「戦争へと踏み切らせる」ことが第一のはずである。大江広元はこの点をよく理解していた。彼は義時に向って即時出撃を強く主張し、その結果、泰時は軍勢の到着を待たず、二十二日払暁京都に向って進撃することになった。藤沢を出たとき、従うものは子息時氏以下十八騎にすぎなかったという。まさに「賽(さい)は投げられた」であったろう。 
このようにして泰時は出発した。しかし彼は途中で引返してきて、上皇が自ら出陣したときに取るべき態度を義時にたずねた。これは彼にとっても、武士団にとっても大きな問題であったろう。義時は次のように答えたという。 
「かしこくも問えるおのこかな。その事なり、まさに君の御輿に向いて弓を弓くことはいかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓のつるをきりて、ひとえにかしこまり申して、身を任せたてまつるべし。さはあらで、君は都におわしましながら、軍兵をたまわせば、命をすてて千人が一人になるまで戦うべし」と。 
おそらく、このことを武士団が知ったら士気の低下を招くであろう。というのは「こういう事態になったら無条件で降伏である」という前提で戦争ははじめられるものではない。それを知れば、戦う気力は失せてしまう。さらにこのことが裏切者を通じて敵にもれれば、敵ははじめからそれを作戦として用いるであろう。それを避けるためにこのような方法をとったとすれば、泰時は決して、単純なる「忠誠の人」とはいえず、この点では「尊氏の出家」以上の政治力をもった人間かも知れないのである。 
「承久の乱」の戦後処理 
6月16日、泰時は、六波羅の屋敷に入って占領行政を開始した。泰時が18騎とともに鎌倉を進発してから21日目のことである。さっそく上皇は泰時に勅使を派遣し、この討幕の挙は謀臣の計画で自分の意思でなく、すべては幕府の申請のまま宣下すると申入れた。 
終戦処理の最高方針を決定したのは義時であったが、義時は、実に巧妙なやり方で終戦処理を行なった。詳しくは省略するが、まず後鳥羽上皇に部下を処分させた。まず「上下」を分断してから「上」の処分にかかった。この辺は確かに辛辣きわまりない。彼の意図は、幕府の要求がそのまま通る朝廷へと改組することであった。 
そして、7月9日、新天皇(後堀川)が決るやいなや、三上皇の配流が決った。7月13日のことである。土御門は早く世を去ったが、その後、二上皇の還京運動が起っている。だが泰時は頑としてこれを拒否している。 
なお、幕府は、朝廷側に味方した公家・武士の所領を調査して没収した。3000余ケ所にのぼったとういう。 
しかし、泰時は、厳しいばかりではなかったようだ。大体において処罰の嫌いな人間であったようで、のちに義時の後妻の伊賀氏が、義時の死後、泰時を廃して自分の子政村を執権にしようとした陰謀のときでも、処刑者なし、首謀者三人への幽閉と遠流のみで、他は一切処罰なしで事をおさめている。承久の変で処刑者が少なかったのもおそらく彼の建議で、また彼は、敵方の人間を助けようとさまざまに努力している。 
明恵上人との出会い 
そういう彼であっても、敗残兵の小部隊で所々に蟠踞して盗賊化すれば治安上放置するわけにはいかない。ところが栂尾の山中に多くの軍兵が隠れているという風説があり、そこで安達景盛が山狩りを行ない、どうも意識的に軍兵をかくまっているらしい僧侶を見つけて逮捕し、これを泰時の面前に引きすえた。これが高山寺の明恵(みょうえ)上人であった。泰時は驚いて明恵上人を上座にすえ、この非礼にどうしてよいかわからぬ体であった。上人は静かに口を切ると次のように言った(くわしくは後に全文を引用するが、まずここではその要旨を記しておこう)。 
「高山寺が多くの落人を隠して置いたという風説があるそうだが、いかにもその通りであろう。大体私は、貴賤で人を差別しようという心を起すことさえ、沙門にあるまじきことと考え、そういう心をきざしても、それを打消すことにしている。また人から何かの縁で祈祷を頼まれても、もし祈って助けることができるなら、何よりも先に一切衆生が三途に沈んで苦しむのを助けるべきで、夢のような浮世のしばしの願などを祈ることは、大事の前の小事だから受けつけたことはない。このようにして歳月をすごして来たから、私に祈ってもらったなどという人はこの世にはいないであろう。しかしこの山は、三宝寄進の所で殺生禁断の地である。鷹に追われる鳥も、猟師に追われる獣も、みなここに隠れて助かる。では、敵に追われた軍兵が、かろうじて命を助かり、木や岩の間に隠れているのを、わが身への後の咎を恐れ、情容赦なく追い出し、敵に捕えられ命を奪われても平然としておられようか。私の本師釈迦如来の昔は、鳩に代って全身を鷹の餌とし、また飢えた虎に身を投げたという話もある。それほどの大慈悲には及ばないが、少しばかりのこともしないで、よいであろうか。隠し得るならば、袖の中にも袈裟の下にも隠してやりたいと思う。この後も助けよう。もしこれが政治のために困ると言うなら致し方ない。即座に私の首をはねられたらよかろう」 
泰時は深く感動し、武士の狼籍を詫び、輿を用意して高山寺に送りとどけた。この話はどこまで事実かわからない。しかし明恵上人と泰時との運命的な出会いが、彼が六波羅に居たときのことであったのは事実、また泰時が心の底から尊敬したのは明恵上人であり、同時に、泰時に決定的な感動を与えたのも明恵上人であったであろう。これは二人が交わした歌にも表われている。天皇も上皇も泰時には絶対でなかった。そして絶対だったのは、おそらく明恵上人なのである。
明恵上人の役割 
明恵上人に感動して 
明恵上人と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいる。しかし明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。 
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵上人は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵上人を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。 ところがこの明恵上人に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。 
明恵上人の泰時への影響は実に大きく、明恵の弟子喜海が著わしたといわれる「栂尾明恵上人伝記」によると後の泰時の行動原理はすべて明恵上人から出たもので、彼の時代に天下がよく治まったのも、彼自身が生存中も死後も前述のように「ベタホメ」であるのも、すべて明恵の教えに従ったためだと言うことになる。こうなると「貞永式目」にも明恵上人の思想が深く反映していることになるが、これが果して事実であろうか。 
事実とすれば、どのような思想に基づく「法」が、徳川時代にも安積澹泊(あたかたんぱく)の言うように民の標準であり、明治の民法典論争から民法の制定まで、現実に日本人を規制していたのであろうか。これはわれわれの社会に最も長く存続した法であり、また生活規範であったから、現実には今なおわれわれの「本音の規範」の基となっているがゆえに大きな問題と思われる 
明恵上人が生れたのは承安三年(一一七三年)、親鸞も同じ年に生れているから二人は同年である。いわばこの対蹠的とも言える二人は同じ激動の時代を生きていた。それは宗教的にも政治的にも新しい日本が新しい規範と秩序のもとに生れ変わる「生みの苦しみ」の時代であり、この二人の思想家が共にその後の日本に決定的に影響を与えた。 
栂尾(とがのお)の高山寺の経蔵に伝わるおびただしい数の古典籍は、800年の時間に耐えて来た中世の総合図書館の相貌を今に示している。その中心はいうまでもなく明恵とその弟子たちが形成したものであるが、それらは決して栂尾の地に自然に集積したものではない。一冊、一巻に明恵の遍歴の生涯のあとがしるされ、弟子たちの随従のあとがしのばれる。そうした典籍の森の中に立つと、鎌倉時代の初頭に成立して行った一つの信仰集団の緊張と豊饒がひしひしと伝わって来る。その核といった明恵は、いわば硬質の存在としての仏教者である」・・・・と。事実、その蔵書目録の中の明恵上人による書写と著作の量もまた驚くべきものであり、著書だけで七〇巻に及ぶという。 
政治的変革の誘発者 
「古今著聞集」や「沙石集」にある説話は当時多くの人が知っていた明恵上人の面影であろうが、それらはまことに「この世離れ」のした話であって、世人にこのように映じた人から直接的な政治的影響を受けるなどとは、まず、考えられないからである。 
では一体こういう人が、大きな政治的・社会的影響力を持ち得るのであろうか。それはありそうもないことに思われるが、最も非政治的な人間こそ、大きな政治的変革を誘発し得るのである。 
西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
明惠の「裏返し革命思想」 
自然的秩序への絶対的信頼 
政権を維持するにはどうしたらよいか 
「国会で多数を維持すればよい」 
「では、多数を維持するにはどうすればよいか」 
「国民の支持を得ればよい」 
では、以上のすべての支持を得るにはどうすればよいか。すべての人がこうあってほしいという期待に答えればよい、それだけになる。ではどうすればそれが可能なのか。 
そこに出てくるのが「明恵上人伝記」の中の、覚智伝承ともいうべき部分である。 
秋田城介入道大蓮房覚知(あきたじょうのすけにゅうどうだいれんぼうかくち)語(かた)りて云(い)はく、 
「泰時(やすとき)朝臣(あそん)常(つね)に人(ひと)に逢(あ)ひて語(かた)り給(たま)ひしは、我(われ)不肖(ふしょう)蒙昧(もうまい)の身(み)たりながら辞(じ)する理(り)なく、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下(てんか)を治(をさ)めたる事(こと)は、一筋(ひとすぢ)に明恵上人(みょうえしょうにん)の御恩(ごおん)なり。其(そ)の故(ゆゑ)は承久大乱(じょうきゅうのたいらん)の已(い)後(ご)在京(さいきょう)の時(とき)、常(つね)に拝謁(はいえつ)す。或時(あるとき)、法談(ほうだん)の次(ついで)に、「如何(いか)なる方便(ほうべん)を以(もつ)てか天下(てんか)を治(をさ)むる術(じゅつ)候(さうら)ふべき」と尋(たづ)ね申(まう)したりしかば、上人(しょうにん)仰(おほ)せられて云(い)はく、「如何(いか)に苦痛(くつう)転倒(てんどう)して、一身(いっしん)穏(おだや)かならず病(や)める病者(びょうじゃ)をも、良医(りょうい)是(これ)を見(み)て、是(こ)れは寒(かん)より発(おこ)りたり、是(こ)れは熱(ねつ)に犯(をか)されたりと、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)って、薬(くすり)を与(あた)へ灸(きゅう)を加(くは)ふれば、則(すなは)ち冷熱(れいねつ)さり病(やまひ)癒(いゆ)るが如(ごと)く、国(くに)の乱(みだ)れて穏(おだや)かならず治(をさま)り難(がた)きは、何(なん)の侵(をか)す故(ゆゑ)ぞと、先(ま)づ根源(こんげん)を能(よ)く知(し)り給(たま)ふべし。さもなくて打(う)ち向(むか)ふままに賞罰(しょうばつ)を行(おこな)ひ給(たま)はば、弥ゝ(いよいよ)人(ひと)の心(こころ)かたましく(ねじけて)わわく(みだりがましく)にのみ成(な)りて、恥(はぢ)をも知(し)らず、前(まへ)を治(をさ)むれば後(うしろ)より乱(みだ)れ、内(うち)を宥(なだ)むれば外(そと)より恨(うら)む。されば世(よ)の治(をさ)まると云(い)ふ事(こと)なし。是(こ)れ妄医(もうい)の寒熱(かんねつ)を弁(わきま)へずして、一旦(いったん)苦痛(くつう)のある所を灸(きゅう)し、先(ま)づ彼(かれ)が願(ねが)ひに随(したが)ひて、妄(みだ)りに薬(くすり)を与(あた)ふるが如(ごと)し。忠(ちゅう)を尽(つ)くして療(りょう)を加(くは)ふれども、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)らざるが故(ゆゑ)に、ますます病悩(びょうのう)重(かさな)りていえざるが如(ごと)し。されば世(よ)の乱(みだ)るる根源(こんげん)は、何(なに)より起(おこ)るぞと云(い)へば、只欲(ただよく)を本(もと)とせり、此(こ)の欲心(よくしん)一切(いっさい)に遍(あまねく)して万般(ばんぱん)の禍(わざはひ)と成(な)るなり、是(こ)れ天下(てんか)の大病(たいびょう)に非(あら)ずや。是(こ)を療(りょう)せんと思(おも)ひ給はば、先(ま)づ此(こ)の欲心(よくしん)を失(うしな)ひ給(たま)はば、天下(てんか)自(おのづか)ら令(れい)せずして治(をさま)るべし」と云々(うんぬん)」 
この言葉は、「明恵上人はこのように語った」と泰時が語っているわけで、明恵上人の言葉を聞いたままに記したものではない。その上、さらにそれを大蓮房覚智がだれかに語り、それが覚智伝承となって世に伝わってこの「伝記」に収録されたのだから、泰時の受取り方、さらに覚智の解釈その他が当然に入っているであろう。そのため大変に「通俗的訓話」のようになってはいるが、その基本までもどってみると明恵上人の考え方は、実にユニークだといわねばならない。だが両者の考え方が混淆していると見て、これを一応、明恵―泰時政治思想としておこう。 
ユニークというのは、国家の秩序の基本の把え方で、明恵上人は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ている点である。明恵上人に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵上人その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は「華厳経(けごんきょう)」に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に「華厳経」の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」 
確かに現代人は、明恵上人の世界を共有することはむずかしい。しかし明恵上人が、真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。 
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。 
なぜこれが「裏返し革命思想」といえるのか 
固有法と継受法 
革命は「西欧型革命」と「中国型革命」に大別できるが、義時、泰時の行動は現象的にはむしろ「限定的西欧型革命」というべきだ。 
天皇から権力を奪取してこれを虚位に置き、「貞永式目」などという法律を武蔵守にすぎない泰時が天皇の裁可も経ずに一方的に公布・施行してしまうなどという革命は、中国型革命にはない行き方だからである。では西欧型革命なのであろうか。現象的・限定的にはそう見えるが、決してそうは言えないのは「明恵―泰時政治思想」が、西欧型革命の基本とは全く違うからである。 
西欧型革命の基本型ともいうべきヨシヤ王の申命記革命について言えば、それはいわば神殿から出てきた「神との契約書」の通りに社会を基本から変えていこうという革命である。この行き方は、その契約書に記されている「言葉(デバリーム)」が絶対なのであり、現に存在する「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」が絶対なのではない。「申命記」はへブライ語聖書の書名では「言葉(デバリーム)」であるが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」はこの「言葉(デバリーム)」で示されている通りに再構成すべき対象で、この「言葉」の方が絶対で、現存する秩序は絶対ではないのである。この基本的な考え方の違いは今も欧米と日本との間にある。 
では「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を絶対化し、「言葉」によって構成された世界を逆に否定するという明恵の「裏返し革命」が、どうして「限定的西欧型革命」のような形になったのであろうか。 
幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その署「大勢三転考」において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」とした。面白いことに彼もまた明恵上人と同じように紀州の出身であり、明治の政治家陸奥宗光の実父である。 
この区分は、政権の交替でなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。この見方は、天皇親政を日本のあり方と規定し、幕府制を歴史の誤りとする皇国史観的見方とは基本的に相容れない。 
彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨(かばね)の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血族集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれば氏(うじ)が血脈で骨(かばね)は骨に相当し、その職務は、血縁的系譜の相承で子孫に受けつがれる。この「骨(かばね)」は天武天皇13年(684年)に廃され「職(つかさ)の代」となる。いわば朝廷から「官職」を与えられてはじめて地位と権限とが生ずる時代である。この684年とは、年代記的に記せば、681年に律令(浄御原令)がつくりはじめられ、682年に礼儀・言語の制が定められ、683年に諸国の境界がきめられ、684年に諸氏の族姓を改めて八色の姓とされ、685年に親王・諸王十二階・諸臣四十八階が定められている。これらの制度の変革が彼のいう「職(つかさ)の代」のはじまりであろう。そして第三の「名の代」は文治元年(1185年)、源頼朝が六十余州総追捕使に任ぜられた以後の時代で、「名」とは封建制下の大名・小名の時代である。 
無理があった律令制度 
「継受法」、この言葉は今更説明の必要はないと思うが「広辞苑」では「他国の法律を自国の国民性・民族性に照らして継受した法律」とされ、「固有法」に対立する概念とされている。そして「社会のあるところに必ず法あり」ならば、中国の法を継受する以前にも何らかの法が日本にあったであろう。それが「骨(かばね)の代」の法だ。 
大陸の文化を「継受しようという意志」はほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布される。 
幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。 
だが大化の改新は、その基本である「公地公民制」があってはじめて機能するわけであり、これが崩壊すれば中央の機能はたちまち麻痺してしまう。そしてこの制度ではまず、唐を下敷にしてペイパープランがつくられ、そのプランの方へ当時の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押しこんで行くという形にならざるを得ない。これは相当に無理なことであり、これを強行しようとすれば否応なく神権的な啓蒙的絶対君主が必要となり、同時にこの体制が、決して唐の模倣でなくわが国本来の体制であるとしなければならない。いわば、外国を絶対化し、その法と体制を継受しているのに、「王政復古」で日本本来の姿に戻ったのだとしなければならないのである。大化元年の詔に「当(まさ)に上古聖王の跡に遵(したが)いて天の下を治め、復当に信あって天の下を治む可し」とあり、この行き方もまた明治と変りはない。またそれを遂行した天皇が「天智・天武」等神権的名称で呼ばれることも、明治が生み出した「現人神天皇制」と共通している。 
これは厳密の意味では、西欧型革命でも中国型革命でもない。ただ、ペイパープランの「言葉」の方へ「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押し込んでいくという現象は似ている。しかし西欧型革命は、いかに新しい理論を基にしていようと、その理論がその社会から生れたものなら、その社会の現実に根をもっているが、外国に出来ている伝統的体制をほぼそのままに輸入して強行することは、その社会の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」に基礎を置いているとはいいがたいから無理がくる。もちろん、法が輸入されるときは、体制も宗教も文化も共に輸入されてその社会に作用し、その社会の文化的転換を引き起す。だがそのような転換によって引き起された新しい文化は、その体制と法とが予期したものではない。律令は武家という「新しい階級(ニュー・クラス)」とそれを基にした「武家文化」などというものが出てくることを全然予想していなかった。 
新しい階級が出て、新しい秩序が要請されるなら、律令を改定すればよさそうなものだが、継受法はそれができないのが普通である。理由はまずはじめから無理があるから、絶対的権威をもって強制的に施行し、そのため「現人神の法」とされるか、または「法自体」を「物神化」してこれを絶対としなければならないからである。そのため律令も急速に「名存実亡」化していく、いわば社会に「名法」と「実法」ができてしまって、人びとは通常は「実法」に従っている。そしてそれをだれもあやしまなくなる。これは「物神化」している新憲法にもある現象である。たとえば「平和憲法を絶対に守れ」といっている私大の学長に、では八十九条を字義通りに遵守し、それに定められた通り実施してよろしいかといえば、簡単に「よろしい」とは言えないであろう。 
条文は次の通りである。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。これによれば公金は、公の支配に属さない教育事業に支出してはならず、従って私立大学にも支出してはならないはずだが、そういえばおそらく、「それは別である」とさまざまな「理論」を述べうるであろう。それは結局この条項の一部がすでに「名存実亡」しているのであって、この「名法」とは違う「実法」が当然のこととして社会で行なわれているということである。人はそれを不思議としない。が、そのため憲法を改正しようとはいわない。ただこの場合、少々こまるのは、もし「私大をつぶしてやれ」という政治家が出てきて、この条項を盾に、「私大への国家補助は憲法違反だ」といって打ち切れば、「憲法を絶対に守れ」と主張している者はこれに対抗できないという問題を生ずる。そしてすべての法が「名存実亡」となれば、支配者はすべての点で、自己に都合のよいように名法・実法の使いわけができて、これは「無法よりこまる」という状態になってしまう。 
名存実亡化する継受法 
律令には同じことがあり、さらに公地公民制は、裏返せば、すべてに利権が附属する利権制国家になりうる。事実、律令制はそうなって行った。というのはこの制度が本当にその通りに実施されれば、口分田を如何に勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、またさまざまな不正を行ないうる。(名存実亡:表向き言っている事と実体とが合わないこと) 
律令制は一面では利権制であり、同時にそれが公地公民制の崩壊へとつながった。 
公地公民制は原則的には土地の売買は認めておらず、またこれは寄進することもできないはずである。ところがこれが行なわれておりそこで天平18年(746年)これを改めて禁じ、5月に再び禁じた。しかし現実には、つまり「実法」としては行なわれており、甚だしい例には、私有の墾田を公地として官に売り渡している例もある。そして天平勝宝元年(749年)には諸大寺の墾田を制限し寺院に土地を寄進することを禁じているが、それも守られていない。 
自己の伝統的な「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を無視した継受法には、いかに神権的権威でこれを施行しても「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、いかんともしがたい様相を呈する。 
その原因は日本的自然秩序を無視した律令という継受法の「名存実亡」にある。そこで、まず「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という発想になる。この明恵―泰時的政治思想の背後にはこのような歴史的体験があり、それがさらに生々しく、承久の乱の前夜に再現したわけである。
「貞永式目」の根本思想 
自然的秩序絶対の思想 
私は時々、いま日本人が「泰時のような状態」に置かれたらどうするであろうかと空想する。 
いまもし新憲法も消え、それに基づく政治制度も消え、西欧型民主主義も消えてしまって、「全く新しい思想を自ら考え出し、それに基づく法哲学を創出し、それによって今までの人類にない新しい法律と制度を作り出して制定し、実施しよう」ということになったら、人びとは一体どうするであろうか。 
人間が、何か新しい発想で新しいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。 
その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することとは全く別である。継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。この点、明恵―泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序絶対(ナチュラル・オーダー)」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。 
まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す「式目」の基になる体制も、あるがままにあって一向に差しつかえないわけである。朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめてからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。これが大体、明恵―泰時政治思想の基本であろう。だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違ってくる。これはもしも今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである。このことは今の段階では、政治家よりむしろ経営者の行き方にあるが―。 
宗教法的体制は生まず 
前章で記したように、明恵上人は泰時に、この自然的秩序に即応する体制を樹立するには「先づ此の欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」であるといい、その背後には、「政治は利権である」が当然とされていた律令制の苦い歴史的体験があるであろうとのべた。この体験も一つの素材であるが、つづく明恵上人の言葉には明らかに、孔子・老子・荘子・孟子等の考え方が入っている。 
たとえば「孟子」は「心を養うには寡欲が最良の方法である。その人となりが寡欲であれば、たとえ仁義の心を失っても、失った所は少なくてすむ。その人となりが多欲であれば、仁義の心があるとしてもきわめてわずかである」と説き、また老子は「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」といい。荘子も「聖人の静なるや、静は善なりと曰うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり。……それ虚静恬淡、寂莫無為、天下の平(和)なるにして道徳の至(きわみ)なり」としている。この考え方の背後にあるものは、「自然法則は道徳法則である」という発想だから、それは先験的なものであり、「無欲」な自然状態になれば、この先験的道徳法則が発見できるという考え方であろう。後にこれを体系的な哲学にするのは朱子であろうが、明恵上人の考え方はもちろん朱子学的ではなく、むしろ、それへ至る思想の日本的・仏教的解釈と見るべきであろう。 
また明恵上人は春日大明神をも信仰しており、この点では最も正統的な三教合一論者であったといえる。そして喜海の記すところでは、大乗・小乗はもとより外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵(じょうえ)から発したものだと固く信じていたらしい。 
しかし、この考え方が政治的に機能するときは、何らかの宗教を絶対化した「宗教法的体制」にはならない、そのことが、まさに泰時の政治思想さらに幕府の政治思想の基本となっている。従って泰時が明恵上人の影響を強く受けたことは日本が「仏教体制」になったということではないし、華厳教学をもって日本の「統治神学」となし、他はことごとく排斥するということでもない。 
朝廷の清原家を別にすれば、儒教を研究し講義するのもまた僧侶であった。 
儒者が公的な位置になったのは徳川時代からであり、有名な林羅山も身分では僧侶で法印であり、その子春斎も法眼であった。 
明恵上人が儒教の教えをとき、「貞永式目」に儒教についての規定がなくても、当時の常識では別に不思議ではない。 
人間は自然の一存在 
従って新しい秩序のための材料として儒教的発言が明恵上人の口から出て別に不思議ではない。 
「民を視ること傷めるが如し(傷病者を見るように)」は文王への孟子の評、また前述のように「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」は「老子」、また「聖人の静なるや、静は善なりと曰(のたま)うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり」は「荘子」の言葉である。また孟子も寡欲が仁と義の前提であるとしている。これは、人間を自然の中の一存在ととらえて、自然の秩序が同時に個人の道徳律の基本であり、それがまた社会の秩序の基本であるとする中国の基本的思想から出た考え方である。しかし人間は知覚作用があるから、これが経験的世界に反応する。それが「情」であり、心が外物に触れて動くと情が働いて「欲」が生ずる。この「欲望」に動かされると、人間は自然の秩序を基本とする道徳律からはずれる。そこで心が外物に動かされず、欲を起さなければその行為はおのずから道徳律にかない、それが自然的な秩序を形成するという考え方である。そしてこの状態になれば、人間の徳によって宇宙の秩序と一体化し、それによって社会は整々と何の乱れもなく調和して機能する。この状態が「子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共(めぐ)るが如し」という「論語」の言葉にもなる。 
明恵の「あるべきようは」 
では人は「無欲で無為」であればよいのか。さらに全員が無欲になって隠遁してしまえばよいのか。面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。 
「或時上人語りて曰はく、「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にて有らんと申すなり。聖教(しょうぎょう)の中にも行すべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計(はか)り資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。仏も戒を破って我を見て、何の益かあると説き給へり。仍(よっ)て阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)と云ふ七字を持(たも)つべし。是を持(たも)つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり。過(あやま)ちはわろきに非ず。悪事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持(たも)たば、敢(あ)えて悪しき事有(あ)るべからず」と云々」と。 
また「遺訓抄出」には「又云、我は後世たすからむと云者にあらず。たゞ現世先づあるべきやうにてあらんと云者也。云々」とあり、この言葉は座右の銘のように絶えず口にしたらしい。この考え方は浄土教の信者とは方向が全く違う。 
元来この言葉は、僧に対して、それぞれの素質に応じた行(ぎょう)をして解脱を求めるように、その行を「あるべきように」行なえといった意味ではなかったかと思われるが、後に、一般人すべてに共通する規範として受取られるようになった。高山寺所蔵の「伝記」の断簡に「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣下のあるへきやう、僧は僧のあるへきやう、俗は俗のあるへきやう、女は女のあるへきやうなり。このあるへきやうそむくゆへに一切あしき也」と記されているのは、このように受取られた証拠であろう。もっとも、これは室町時代のものといわれる。 
「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。事実、明恵上人にはそういった律義な一面があり「聖教の上に数珠・手袋等の物、之をおくべからず。文机の下に聖教、之をおくべからず。口を以て筆をねふるべからず。壇巾と仏具中と簡別せしむべし……」と言ったような、学問所と持仏堂における細かい規則が定められている。これは当然で、「あるべきようは」はまずそれを示さなければならない。それをしないで、いきなり叱るとか罰するとかいうことは、それこそ「師」の「あるべきようは」に背くであろう。だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、心のじっぽう(実法)というものが常に意識されなければならない。 
すなわち「ただ心のじつぽう(実法)に実あるふるまひは、をのずから戒法に付合すべき也」で内的規範がそのまま外的規範であるようになるのが「あるべきようは」であって、「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。 
律令格式を無視して 
貞永元年(一二三二年)、「式目」の発布と同時に彼は次のような手紙を六波羅探題の弟の重時に送っている。 
御式目事 
雑務御成敗(訴訟)のあいだ、おなじ躰(てい)なる事(同趣旨の訴訟)をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候を、ずいぶんに精好(せいごう)(念入りに)せられ候へども、おのづから人にしたがうて(当事者の強弱上下で)軽重などの出来(いでき)候ざらんために、かねて式条をつくられ候。その状一通まいらせ候。かやうの事には、むねと(専ら)法令の文(律令格式に基づく公家法)につきて、その沙汰あるべきにて候に、ゐ中(いなか)にはその道をうかゞい知りたるもの、千人万人が中にひとりだにもありがたく候。まさしく犯しつれば、たちまちに罪に沈む(処罰される)べき盗人(ぬすみ)・夜討躰(てい)のことをだにも、たくみ企(くわだ)てゝ、身をそこなう輩(ともがら)おほくのみこそ候へ。まして子細を知らぬ(罪の意識のない)ものゝ沙汰(さた)しおきて候らんことを、時にのぞみて(裁判になって)法令にひきいれてかんがへ候はゞ、鹿穴(落し穴)ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか。この故にや候けん、大将殿(頼朝)の御時、法令をもとめて(律令格式の条文に基づいて)御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝(けう)あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲(まが)れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵の計り事にてや候とてかやうに沙汰(制定)候を、京辺には定(さだ)めて物をも知らぬ夷戎(えびす)どもが書きあつめたることよなと、、わらはるゝ方(かた)も候はんずらんと、憚(はゞか)り覚え候へば、傍痛(かたはらいた)き(心ならずも)次第にて侯へども、かねて(予め)定められ候はねば、人にしたがふことの出来(いでき)ぬべく候故に、かく沙汰候也。関東御家人・守護所・地頭にはあまねく披露(ひろう)して、この意(こころ)を得させられ候べし。且(かつ)は書き写して、守護所・地頭には面々(めんめん)にくばりて、その国中の地頭・御家一人ともに、仰せ含められ候べく候。これにもれたる事候はゞ、追うて記し加へらるべき(追加法を公布する)にて候。 
あなかしく。 
貞永元八月八日武蔵守(御判) 
駿河守殿 
これを読むとまことに面白い。まず律令制は形式主義なので、裁判に際しては必ず「法令にひきいれて」すなわち律令格式の条文を引用して、これに基づくべきことになっているが、その法令なるものは「ゐ中(いなか)(田舎)」で知っているものは皆無に等しい。さらにこの「法」が「名存実亡」ともなると、「名法」は知らずに当然のこととして「実法」通りにやっていたのに、ひとたび裁判ともなると、それが「罪」であるとされてしまう。これではまるで「鹿穴(落し穴)」を掘っている山の中にそれと知らずに入っていって落ち込むのと同じことになってしまう。 
そして頼朝以来、律令格式を一切無視して裁判をしてきた。しかし頼朝のような「権威」がいなくなると、どんなに裁判に念を入れても「人にしたがうて」すなわち当事者の強弱高下によって不公平になりやすい。そこで、公平を期するために、予めこれを定めたという。というとこれは明恵上人の「戒法」にあたるであろう。 
世界史上の奇妙な事件 
だがこの「戒法」というものは「心の実法に実あるふるまい」をしていれば、自然にそれが、「戒法」になるような「法」であらねばならない。それは、結局、自然的秩序(ナチュラル・オーダー)をそのままに「戒法」としたということになる。いわば、内心の規範(道徳律)と社会の秩序と自然の秩序が一体化するような形であらねばならぬということ。それが「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵」となる、いわば「あるべきようは」が達成されるということであろう。泰時にとっては「立法の趣旨」とはつまりそれだけであった。 
この手紙の署名は「武蔵守」であり、「式目」の末尾の「起請詞」における署名は「武蔵守平朝臣泰時」なのである。今でいえば大体「武蔵県知事」にあたるが、当時の「武蔵」の地位はもちろん東京都より低い。たとえこれが「東京都」と同格であったとしても、「知事」が勝手に法をつくって公布するというのは、正統論から見れば、あるまじき行為である。いまもし東京都知事が勝手に憲法を発布して、その末尾に「東京都知事」と署名していたら、だれでも「そんなバカなことが通用するか」と言うであろう。もちろん当時は、庶民はそんなことはいうまい。だが「法」を一手に握っていた公家がこれを黙って見すごすはずはない。するとその非難の矢面に立つのは六波羅探題の弟の重時である。そこで泰時は、前便の約一ヵ月後に、次のような手紙をおくっている。 
御成敗候べき条々の事注され候状を、目録となづくべきにて候を、さすがに政(まつりごと)の躰をも注(ちゅうし)載(のせ)られ候ゆへに、執筆の人々さかしく(賢明にも)式条と申(もうす)字をつけあて候間、その名をことごとしき(大げさ)やうに覚(おぼえ)候によりて式目とかきかへて候也。其旨を御存知あるべく候歟(か)。 
さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説(立法上の典拠)として被注載之由(ちゅうしのせらるるのよし)、人さだめて謗難(ぼうなん)(非難)を加事候歟(か)。ま事(こと)にさせる本文(=本説)にすがりたる事候はねども、たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也。かやうに兼日に定め候はずして、或はことの理非をつぎ(ないがしろ)にして其人のつよきよはきにより、或は、御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候(判決ずみの件を知らぬ顔で再び裁判に持ち出すようなことをする)。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰を定めて、人の高下を不論(ろんぜず)、偏頗(へんぱ)なく裁定せられ候はんために、子細記録しをかれ候者也。この状(式目)は法令のおしへ(律令格式)に違するところなど少々候へども、たとえば律令格式はまな(真名=漢字)をしりて候物のために、やがて(すなわち)漢字を見候がことし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかひ候時は人は目をしいたる(盲目になる)がごとくにて候へば、この式目は只(ただ)かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)も改まるべきにあらず候也。凡(およそ)法令のおしへ(律令格式)めでたく(立派)候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に一両もありがたく候歟。仍(さて)諸人しらず候処に、俄(にはか)に法意をもて理非を勘(かんがえ)候時に、法令の宮人(朝廷の法曹官僚)心にまかせて(恣意的に)軽重の文(条文)どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録(判決)一同ならず候故に、人皆迷惑と云云(うんぬん)、これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置(ちゅうしおか)れ候者也。京都人々の中に謗難を加(くわうる)事候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言。 
貞永元九月十一日武蔵守在― 
駿河守殿 
法の形をとらぬ実法 
まことに面白い手紙である。彼は「式目」を「目録」と名づけようとした。では当時の「目録」という言葉に「法令集」という意味があったのであろうか。実は、ない。「所領目録」「文書目録」等、「目録」の意味と用法は現在とは変らない。従って泰時にとっては「式目」とは「法規目録」とでも言うべきものであった。ではこの「法規目録」はいかなる法理上の典拠に基づいて制定されたのか。そう問われ、またそれが明らかでないと非難されても、そのような法理上の典拠はないと彼はいう。このように明言した立法者はおそらく、人類史上、彼だけであろう。そして言う「たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也」と。一体この「道理」とは何であろうか。泰時はそれについて何も記していないが、簡単にいえば「あるべきようは」であろう。前の手紙と対比しつつ、今まで記した明恵―泰時的政治思想を探って行けば、それ以外には考えられまい。いわばこれが立法上の典拠なのである。 
彼は律令格式がきわめて体系的で立派なことは認めている。しかしそれは「漢字」で書かれているようなもので「かな」しかわからない一般人にはわからないという。そこでこの「式目」は、「かな」しか知らない多くの人を「心えやすからせんため」に制定したものであるという。もちろんこれは比喩であって「式目」もまた実際には「漢文」で書かれている。しかし律令格式を知る者は、「千人万人が中にひとりだにもありがたく」また「百千が中に一両もありがたく」という状態は、この法律を知る者が皆無に等しかったことを示している。これは事実であろう。問題はこの語の前の「武家のならひ、民間の法」という言葉である。これは確かに、律令格式とは別の「武家法と民間の慣習法」があるという意味ではなく、「武家・庶民を問わずそれを知らないのが一般的である」という意味であろう。ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保って来たことは否定できない。その意味では「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。 
簡単にいえばそれが自然的秩序(ナチュラル・オーダー)であり、そのため逆に律令が浸透しなかったともいえる。そして人びとは、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもて理非を勘(かんがえ)」となり、「人皆迷惑と云云」という状態になる。そして泰時が、この状態に終止符をうとうということである。だが泰時は決して、「式目絶対、今日から「関東御成敗式目」が日本国における唯一絶対の法である」と宣言したわけではない。彼はあくまでもその時点において「あるものはある」とする態度を持している。いわば出来あがった自然的秩序をそのまま肯定しているわけで、朝幕がそのまま併存してよいように、「律令・式目」もまた併存していて一向にかまわなかった。彼は「式目」への謗難を礼儀正しく拒否したが、といって「律令」に謗難を加えようとはしなかった。だが律令は結局、「天皇家とその周辺」の「家法」のようになっていき、「武家国内の教会法のヴァチカン」のように、やがて、そこだけが特別法の一区画になって行くのである。 
明恵と鈴木正三をつなぐもの 
「明恵上人伝記」は明治に消されてしまった本だが、それまではおそらく最も広く読まれた本の一つである。もっとも版に起されたのは徳川初期(寛文五年・一六六五年)だが、それまでも筆写によって三百五、六十年、読みつがれてきた。 
「あるべきようは」はむしろ僧侶への訓戒であろうが、これが「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣のあるへきやう……このあるへきやうにそむくゆへに一切あしき也」と理解されるとこれは世俗の一般倫理になる。さらにこれに「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現に有るべき様にて有らんと申すなり」が加わると、一般人はこれを「後生を願ってひたすら念仏を唱えていても無意味で、そんなことをするよりもこの世の任務をあるべきように果せばそれでよい」という考え方になる。これは世俗の任務を一心不乱に行なえば宗教的救済に通ずるという意味になってくる。この考え方は前に「勤勉の哲学」で記した鈴木正三の「四民日用」の考え方の祖型ということができる。事実ある坊さんは私に「鈴木正三は禅宗というけれど、むしろ明恵上人の系統をひくと考えた方がよいのではないのか」といわれたが、確かに両者の思想には関連があると思われる。しかしそのことを正三の著作から実証することはむずかしい。 
だがこのほかにも両者相対応している考え方は多い。たとえば大乗・小乗はいうまでもなく外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵より発したもの、という考え方は正三の「口ニテ云処ハ、老子ノ教モ、孔子ノ教モ、昔シ天竺ニ発興セシ外道ノ教エモ、仏道モ、一ツ也、少シモ替事ナシ……」という考え方に通ずるであろう。だがしかし最も決定的な影響は自然的秩序がすべての基本であり、内的規範(道徳律)も社会秩序もそれに基づかねばならぬとする明恵―泰時的な考え方である。この考え方は徐々に日本人に浸透し、キリシタン時代から徳川時代にかけてこれが日本人にとって当然の考え方となった。もうだれも、律令格式の存在は念頭にない。そしてこれが一種絶対的ともいえる思想になっていたことを、日本人自身が自覚しないまでになっていた。 
そして、それは外国の思想と衝突したときに、明確に自らのうちに再把握されるという結果になっている。これが最も明確に出ているのがキリシタンから反キリシタンに転じた不干斎ハビヤンであろう。転向する前には、この自然的秩序を基として「あるべきよう」な社会を形成するにはキリシタンが最もよい方法を提供していると彼は考え、次のように言う。 
「(キリシタンは)現世安穏、後生善所ノ徳ヲ得セシメン為ニ弘メ玉へル法ナレバ、外ニハ善ニ勧ミ、悪ヲ懲スノ道ヲ教へテ、利欲ヲ離レ、アヤウキヲスクイ、キハマレル(困窮者)ヲ扶ケ、内ニハ又、天下ノ泰平、君臣ノ安穏ヲイノッテ、孝順ヲ先ニシ、高キヲ敬イ、賤シキを哀ミ、ヲノレ責テ戒律ヲ守リ、都(すべ)テ浮世ノ宝位(たからい)ヲバ破れ靴(ヤブレグツ)ヲ捨ルヨリモ尚カロンジ……」 
等々。これは泰時的な「あるべきようは」であり、ハビヤンはキリシタンがそれを実現してくれると信じた。 
そして転向後は、キリシタンこそこの自然的秩序の基本を破壊するものと考える。それが伝道文書の「妙貞問答」と排耶書の「破提宇子」に表われている。この二つを通読すると、「転んだ」ように見えて、実は、自然的秩序絶対という点では一貫している。これが明恵上人が残した最大の遺産であったろう。 
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。 
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。
象徴天皇制の創出とその政策 
天皇も律令も棚あげ 
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。 
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。 
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。 
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが「天皇陛下の経済学」の中でも指摘している。 
もっともこれを指摘しているのは氏だけではない。戦国末期に日本を訪れたキリシタンの宣教師は分国大名を独立国と見なしていた。法制的な面からいえばこの見方は正しく、各分国をヴェネチアやミラノやフィレンツェのような独立小国と見て当然である。しかし分国大名は自分が独立国だという意識はなく、やはり天皇を日本の統合の象徴と見て尊崇していたことは、多くの人が指摘している。権力いわば立法権・行政権・司法権をもたなくても統合の象徴とは見ていたわけである。この状態を現出させたのが泰時であり、これが日本の伝統となった。 
その泰時自身は大変な「天皇尊崇家」であったと思われる。三上皇を島流しにしようと、仲恭天皇を退位させようと、尊崇家なのである。それでいて、否それなるが故に、「貞永式目」はあらゆる点で完全に天皇を無視しており、天皇の裁可も経ず、天皇のサインさえない。この点では「御名御璽」がついている新憲法より徹底している。さらにその末尾の起請文を読むと、天皇に対してこの法の遵守を聖約するといった言葉も全くない。起請の対象は「梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆・筥根(はこね)両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の部類眷属」である。いわば法の制定などという行為は、名目的にも実質的にも、天皇とは無関係であった。なぜこうなったのか。 
天意が人心にそのまま表われるように、天皇の意志がそのまま人心に表われるなら、「式目」発布のときにその序文として「院宣」をもらってもおかしくないはずである。確かにこれは「武家法」だから武家が制定するのが当然ともいえようが、武家は非合法集団でなく、それまでも泰時はしばしば奏請して院宣を出してもらっている。さらに、後高倉院も後堀河天皇もそれを拒否するはずはない。だがそれができなかった。理由は、律令には慣習や先例の集積は法とはしないという原則があったからである。継受法はしばしばこうなる。 
いまの日本で自衛隊が国民の八六パーセントの支持をうけても、またこれが存在し存続していても、憲法にはそれに関する条項が入れられないのと似た現象であろう。同じように当時の社会ではすでに現実の社会的慣習と先例が法となっている。しかしそれを法として認めることはできない。だがそれは結局、天皇ともども律令も棚あげされる結果となった。このことはもちろん、式目が律令を全然参考にしなかったということではなく、法に対する考え方の基本が全く違っていたということである。 
地味な「政治家(ステイツマン)」の業績 
泰時は確かに日本史における最も興味深い人物であり、また梅棹忠夫氏が評されたように「日本で最初の政治家(ステイツマン)」であり、あらゆる意味で重要な人物である。 
泰時(執権)と叔父の時房(連署)、この二人の信頼関係はまさに絶対的であった。延応元年の夏に泰時が発病したとき、時房は酒宴中であったが、酒宴をやめなかった。周囲が不思議そうな顔をすると彼は、自分がこうやって酒を飲んでいられるのも泰時のおかげだ。泰時が死んだら到底こんなことはやっておれないだろう、これが今生最後の酒宴だと思うから、見舞に行かず酒を飲んでいるのだ、といったという。 
執権・泰時は、連署・時房をよき相談相手として、評定衆との合議制で政治を行なった。もちろん、合議制だけでは能率的な政治は行い得ないので、それなりのしっかりした官僚組織が必要であるし、天皇を頂点とした安定した政治システムも必要である。 
泰時は、まず幕府の移転を行ない人心の一新を行なった。同じ鎌倉の中ではあるが、大蔵から宇都宮辻に役所を移転したのである。政子の死後半年のことである。そして間髪を入れず、将軍予定者の三寅の元服と将軍就任である。1219年(承久1)将軍源実朝が暗殺されて後、左大臣九条道家の子の三寅が、源頼朝の遠縁にあたるという理由で、将軍として鎌倉に迎えられた。三寅は当時2歳であり、頼朝の尼将軍・北条政子が政務を行ったが、政子の死によって、一日も早く三寅を将軍にして政治の安定を図る必要があったのである。1225年の暮れも押し迫った頃、ようやく三寅は元服し、頼経と改名した。年令8歳である。すぐに朝廷に申請して翌年の2月に頼経は征夷大将軍に任じられた。 
ここではじめて、天皇→将軍→執権・連署→評定衆という<形式>が確立し、後鳥羽上皇との反目以来つづいていた変則的状態は終り、体制の法的整備は完成した。 
泰時は派手派手しさがないから、義時急死・鎌倉帰還・伊賀氏の陰謀の制圧と処理・政子の死・幕府の移転・三寅の元服と将軍任命・新体制の整備が驚くべき速さで進んで行ったことに人は案外気づかない。さまざまな意味でその見通し、計画、処置は的確であった。 
これによって幕府は寛喜二年にはじまる大飢饉に備えることができたといえよう。そしてこの飢饉の体験は「貞永式目」に生々しく反映している。何しろ生産性が低い時代である。気候不順はすぐ農作物を直撃する。この年は陰暦の六月九日に雪が降った。今でいえば七月中旬から下旬、最も暑いときである。ところが八月にも九月にも大雨で農作物は枯死し、気温も急低下して冬のようになった。鎌倉でも暴風のため人家の破損が多かったが10月から11月になると今度は暖冬異変で、京都では11月から12月に桜が咲き、蝉が鳴くという状態になった。 
戦乱より飢饉が恐い 
昔から日本人を苦しめたのは戦乱よりむしろ飢饉であったと思われる。 
この自然的秩序(ナチュラル・オーダー)が狂ってくると、いわば「天変地異」が起ると、如何ともしがたいわけである。これは幕府といえども何とも致し方がない。 
こうなると「天変地異」すなわち自然的秩序の異常現象には、人間は、受動的にこれに対応する以外に方法がないことになる。いかなる「権」も「天」に勝てぬなら、天変地異が起ったら法律も変え、生活規範も変えてこれに対応しなければならない。後述するように「式目」では飢饉の時の人身売買を許している。 
泰時の質素と明恵の無欲 
同じ試練が泰時を襲った。 
まず彼は、飢饉だ、飢饉だといっても、米が、ある所にはあることは知っていた。まず彼は京都・鎌倉をはじめとする全国の富者から、泰時が保証人となって米を借り、それを郡・郷・村の餓死しかかっている人に貸し与えた。彼は、来年平年作にもどれば元金だけ返納せよ、利息は自分が負担しようといってその借用証を手許に置いた。 
しかし泰時は結局資力のない者には返済を免除し、それはすべて自分で負担したので、大変な貧乏をした。 
何しろ利子負担分と返済の肩がわりが貞永元年までに九千石になり、そのうえ多くの領地の年貢を免除したから財政的には大変である。 
「病にあらずといえども存命し難し」 
もっとも泰時の倹約の話はこれだけではない。彼は常に質素で飾らず、館の造作なども殆ど気にかけなかった。 
さらに無欲な者を愛するとともに、作為的に何かを得ようとする者、いわば「奸智の者」を嫌った。 
裁判になった場合でも、敗訴した者が率直に自分の非を認めれば、泰時は決してそれ以上追及しなかった。 
下総の地頭と領家が相論したとき領家の言い分を聞いた地頭が即座に「敗けました」といった。泰時はその率直さに感心して、相手の正直さをほめたという話が「沙石集」にある。一方この逆の場合、すなわち裁判に不服なものが実力で抵抗すると脅迫しても、彼は少しも屈しなかった。北条氏は絶対的権威でないし、相手は武力をもっているからそのような抵抗が起って不思議ではない。そういう場合の泰時は実に毅然としていた。いわば怨を恐れて「理」を曲げれば、それが逆に、権威なき政権の破滅になることを知っていたのである。いわば彼の一生は、「ただ道理の推すところ」を貫き通し、この「道理を推すこと」を貫き通すことだけを権威としていたわけである。これが「日本最初の政治家(ステイツマン)」といわれる理由であろう。
明恵1(みょうえ) 
承安3年-寛喜4年(1173-1232) 
和歌山有田出身。南都六宗の華厳宗(大本山は東大寺)の学僧。諱(いみな、没後の贈り名)は高弁。鎌倉初期の同時代を生きた法然、親鸞、日蓮と違って新宗派を開いた教祖ではないので、現代では知名度が低いけれど、当時は旧仏教界側の最も影響力の大きな人物の1人だった。父は平重国、母も武家出身。 
1180年、7歳の時に母が病没、父も半年後に挙兵した頼朝軍と戦い東国で敗死してしまう。翌年、両親を失った明恵は、亡き母が生前に彼を京都高尾・神護寺の薬師仏に仕える僧にしたがっていたことから、同寺の叔父を頼って仏門を叩き、名僧文覚(もんがく)の弟子となる。 
明恵は母がこの薬師仏に祈願して授かった子どもだった。 
熱心に華厳宗を学び、16歳の時に東大寺にある鑑真が作った戒壇院で公式に出家。これまで以上に力を入れて修行するが、京都や奈良の僧たちが出世レースに明け暮れている姿を見て違和感を感じ、1196年(23歳)、故郷紀州に戻ると山中に小さな庵を建てそこに篭って修行を続けた。 
この時の仏道を究めんとする明恵の決意は相当なもので、学識で有名になり傲慢になりつつあった自分を戒める為に、そして色欲の煩悩など全ての俗念を取り去る為に、庵に入ってすぐ右耳を切り落としている。彼は「これでもう自分から人前に出なくなる。人目をはばかり、出世しようと奔走することもない。私は心が弱いので、こうでもしなければ道を誤ってしまう」と語り、そして「目を潰すとお経が読めなくなる。鼻がないと鼻水が落ちてお経が汚れる。手を切ると印が結べない。耳は見栄えが悪くなるだけだ」と耳を選んだ理由をあげている。以後、明恵は自身の事を「耳切り法師」と呼ぶようになった。 
※ゴッホは耳を切ったり「ボンズ(坊主)としての自画像」を描いている。明恵の影響、というのは考え過ぎだろうが、文献で“坊主”を知っている以上、可能性が全くゼロともいえない。 
1199年(26歳)、神護寺に帰るが、師の文覚が後鳥羽上皇への謀反の嫌疑で流刑となり死去、神護寺は荒廃し明恵は各地を流転する。次第にあらゆる全仏教の原点となる釈迦の遺跡を巡拝したいとの思いを強め、30歳、32歳の時に2度にわたってインド渡航を計画した。三蔵法師の旅行記などを熟読して長安からの日程表を作り旅支度をしたが、病に伏したり周囲の猛反対や神託の為に頓挫。実際、大陸の治安はチンギスハンの勢力拡大と共に悪化しており旅を出来る状況ではなかったという。 
1206年(33歳)、後鳥羽上皇から京都郊外の栂尾(とがのお)を与えられ、華厳宗の修行道場として高山寺を再興する。明恵は坐禅をこよなく愛し、数日分の食料を小ぶりの桶に入れて裏山に行き、「一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」というほど、昼夜を問わず石の上、木の下などで坐禅を重ねた。 
明恵は常に釈迦を深く慕い、憧れていた。心の中心にいたのは釈迦だ。彼は釈迦を敬慕するあまり、仏陀伝を聞いている途中で失神したという。そして釈迦の言葉を理解する為にも、学問、戒律、行を重視していた明恵は、1212年(39歳)、念仏(南無阿弥陀仏)さえ唱えれば阿弥陀の大慈悲で極楽往生できるという法然・親鸞の浄土教へ反感を持ち、「摧邪輪(さいじゃりん)」を著して、舌鋒鋭く猛烈に抗議した(ちなみに親鸞とは年が同じ)。 
1215年(42歳)、臨済宗開祖の栄西禅師が没する。明恵は30歳頃から栄西と交流があり、明恵の誠実さに惚れ込んだ栄西は「宗派の後継者になって欲しい」と願ったが、明恵はガラじゃないとこれを固辞。栄西は「せめてこれだけでも」と、自分の大切な法衣を明恵に贈った。栄西は弟子達に「分からないことがあれば明恵上人に聞け」と言い残したという(すごい信頼ぶりだ)。 
栄西はまた、宋から持ち帰った茶種を明恵に渡した。明恵は高山寺に茶園を作って栽培し、優れた効能を知ると宇治に広め、そこから静岡や各地に茶が伝わった。高山寺のある栂尾は茶の発祥地として鎌倉後期には日本最大の産地となり、毎年天皇にも献上された。 
1221年(48歳)、承久の乱で幕府軍に追われて高山寺の境内に隠れていた上皇側の落武者をかくまい、明恵はその罪で六波羅(治安機関)の北条泰時の下に連行される。泰時に真意をただされた明恵はこう語った「私は親友に祈祷を依頼されても引き受けない。なぜか。全ての人々の苦しみを救う事が重要であり、特定の人の為に祈祷などしないのだ。この戦でも、どちらか一方の味方をするつもりはない。高山寺は殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命を繋いでいる。ましてや人が岩の狭間に隠れているのを、無慈悲に追い出せようか。むしろ袖の中でも袈裟の下でも隠してあげたいし、私は今後もそうするつもりだ。もしも、この当然のことが許されぬのなら、即座にこの愚僧の首をはねられよ」。この毅然とした態度、高潔な徳に泰時は胸を打たれ、無礼を謝ると帰りの牛車を用意して寺に届けた。この後、泰時は明恵を師と仰ぎ、教えを請うためにしばしば高山寺に足を運んだ。この2年後、明恵は夫を戦で失った妻たちの為に尼寺(善妙寺)を開いた。 
1231年(59歳)、明恵は紀州で法要を行ない、帰って来た後に疲れが出て床に伏した。そして翌年1月、明恵は「今日臨終すべし」と告げて、弟子たちに「名声や欲得に迷わぬように」と戒め、しばらく座禅をした後、「時が来たようだ。右脇を下に身を横たえよう」と横になり、蓮華印にした手を胸に置き、右足を真っ直ぐ伸ばし、左膝を少し曲げて重ねた。最期は顔に歓喜が満ち、安らかな大往生だったという。明恵は禅堂院の後方に、弟子によって丁重に埋葬された。現在、廟前には毎年11月8日に茶業者が訪れ、その年の新茶を供える献茶式が行われている。 
栄誉を避け、戒律を守り、ひたすら釈迦を慕い、心静かに修行し続けた清僧・明恵。訃報を聞いた天台座主の良快は、宗派が異なるにもかかわらず「今の世は、明恵上人のような人こそ聖人と言うのだ」と称えたという。 
月の歌人・明恵 
明恵がまだ10代半ばの頃、放浪歌人の西行法師が何度か神護寺を訪れており、明恵は歌道の指導を受けたという。明恵は一晩中屋外で座禅を組むことが多かったことから、「月の歌人」と呼ばれるほど月の歌を大量に詠んだ。その歌才は勅撰集に27首も選ばれているほど優れている。 
「山寺に 秋の暁 寝ざめして 虫と共にぞ なきあかしつる」 
(山寺の秋の朝焼け。眠れぬ私は虫と共に泣きあかしたよ) 
「隈もなく 澄める心の 輝けば 我が光とや 月思ふらむ」 
(隅々まで澄み切った私の心の明るい輝きを、月は自分の光と思うのではないか) 
「昔見し 道は茂りて あとたえぬ 月の光を 踏みてこそ入れ」 
(昔訪れた廃寺の草茂る道。私は月の光を踏み入って行く) 
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」 
(明るい!明る過ぎるぜ、お月さまッ!) 
「雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風や身にしむ 雪や冷たき」 
(雲から出て私に同行する冬の月よ、風が身に沁むだろう、雪が冷たいだろう) 
川端康成はノーベル文学賞受賞の記念講演「美しい日本の私」の冒頭でこの名歌を紹介した。 
高山寺 
寺内の石水院は戦火をくぐり抜けた鎌倉期の建物で国宝。「明恵上人座禅像」のほか、有名な「鳥獣人物戯画」(漫画の原点!)も寺の所蔵で、これまた国宝だ。明恵は幼くして死に別れた両親をよく懐かしみ、母の遺品の美しい櫛を、常に肌身離さず懐に入れていた。また夢で修行に出かける時はいつも仔犬が登場することから、仔犬を見る度に父母の生まれ変わりではないかと思ったらしく、明恵に帰依した名仏師・運慶が彫ってくれた木彫の仔犬を、常に机の側に置いて大切に可愛がっていたという。これらの櫛や仔犬像は現在も高山寺に保管されている。 
平家一門が我が世の春を謳歌していた頃、明恵は建礼門院(清盛の娘、安徳の生母)に受戒を頼まれた。ところが、建礼門院は高座の御簾(みす)から手だけを出しており、明恵は静かにこう言った。「私は低い身分ですが釈迦の弟子となって久しく、高座に上らず受戒すれば師弟ともに罪に落ちると経にあります。どうか私以外の法師を招き御授戒ください」。びっくりした建礼門院は御簾から飛び出て彼を高座に座らせ、その後は深く帰依するようになったという。 
明恵は19歳から58歳までの40年間、毎夜の夢を綴った。これは世界で唯一の夢の日記、「夢記(ゆめのき)」として知られている。 
承久の乱の際、明恵は泰時への説法で許されたが、後鳥羽院は隠岐に流され、かの地で死去している。 
高山寺は真言宗と華厳宗の寺であったが、江戸時代に真言宗のみに転じた。 
インド旅行がボツになった悲しみを慰めるように、明恵は寺周辺の山に釈迦と縁のあるインドの山の名を付けている。 
高山寺には複製画の「鳥獣人物戯画」が展示されている。オリジナルは京都国立博物館に預かってもらっている。 
文覚(俗名遠藤盛遠)は頼朝に挙兵を促した高僧。父の仇ともいえる人物に弟子入りしたわけだが、明恵が後年それを知ったのかは不明。神護寺に伝頼朝像があるのは文覚繋がりだろう。 
釈迦は阿弥陀について語っていない以上、阿弥陀より釈迦を尊ぶ明恵の気持は理解できる。また、宗教の価値が人の苦しみを取り除くことにあるならば、念仏ひとつで救われる浄土教がお経を読めない多くの民衆を勇気づけたかを考えると、要は一人一人が自分にあった思想を選べばいいのだと僕は思う(もちろん何も選ばなくてもいい)。
明恵2 
鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。 
承安3年1月8日(1173)平重国と湯浅宗重の四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。 
治承4年(1180)8歳にして両親を失い、高雄山神護寺に文覚の弟子上覚を師として出家。法諱は成弁(後、高弁に改名)。仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学び、将来を嘱望されたが俗縁を絶ち紀伊国有田郡白上や同国筏立に遁世した。釈迦への思慕の念が深く2度天竺(インド)へ渡ることを企画したが、春日明神の神託が在り断念した。 
建永元年(1206)後鳥羽上皇から山城国栂尾(とがのお)を下賜されて高山寺を開山し、観行と学問にはげんだ。戒律を重んじ、念仏の信徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に尽力した。法然の浄土宗を批判した「摧邪輪(ざいじゃりん)」「四座講式」の著作や、40年にも及ぶ観行での夢想を記録した「夢記」などがあり、弟子の筆記による「却廃忘記」など数多くの著書がある。和歌もよくし家集「明恵上人和歌集」がある。 
山本七平氏によれば、承久の乱の後、鎌倉方の総司令官で後の三代執権となる北条泰時と出会ってその尊敬を得、泰時のその後の政治思想、特に、関東御成敗式目の制定の基礎となった「道理」の思想に大きな影響を与えたとされる。 
寛喜4年1月19日(1232)死去。享年60(満58歳没)。
 
北条泰時

鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権である(在任/1224-1242年)。 
寿永2年(1183)北条義時の長男として生まれる。幼名は金剛。母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明。父の義時は21歳、祖父の時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして4年目の頃である。 
金剛が10歳の頃、御家人多賀重行が泰時と擦れ違った際、下馬の礼を取らなかったことを頼朝に咎められた。頼朝の外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。頼朝の譴責に対して重行は、自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時も非礼だとは思っていないと弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促した。そこで泰時に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。しかし頼朝は、重行は言い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えた。「吾妻鏡」に収録されるこの逸話は、泰時の高邁な人柄と、頼朝の泰時に対する寵愛を端的に表した話と評されている。 
建久5年2月2日(1194)13歳で元服する。幕府の初代将軍となった頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って、頼時と名乗る。具体的な時期は不明だが、後に泰時に改名した。頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の建仁2年8月23日(1202)三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年嫡男時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。建仁3年9月(1203)比企能員の変で比企討伐軍に加わる。 
建暦元年(1211)修理亮に補任する。建暦2年5月(1212)異母弟で正室の子であった次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父義時に義絶され、失脚している。建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。 
建保6年(1218)父から侍所の別当に任じられる。承久元年(1219)に従五位上・駿河守に叙位・任官される。 
承久3年(1221)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。 
貞応3年6月(1224)父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。伯母である尼御台・北条政子は泰時と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。泰時は政子の後見の元、家督を相続して42歳で第3代執権となる。伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。義時の遺領配分に際して泰時は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時は「自分は執権の身ですから」として辞退したという。伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時の立場の弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。泰時は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。これが後の得宗・内管領の前身となる。 
翌年嘉禄元年6月(1225)に有力幕臣・大江広元が没し、7月には政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。泰時はこの難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出した。叔父の時房を京都から呼び戻し、泰時と並ぶ執権の地位に迎え「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。泰時は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。 
3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経は嘉禄3年(1226)正式に征夷大将軍となる(実朝暗殺以降6年余、幕府は征夷大将軍不在であった)。頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言した。この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。 
一方、家庭内では嘉禄3年6月18日(1227)16歳の次男時実が家臣に殺害された。寛喜2年6月18日(1230)には長男の時氏が病のため28歳で死去し、1ヶ月後の7月に三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は10日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く8月4日に25歳で死去するなど、立て続けに不幸に見舞われた。 
御成敗式目 
承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。泰時は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。泰時は「道理」(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。 
泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。はじめはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、裁判の基準としての意味で「御成敗式目」と呼ばれるようになる。完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。 
「多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは「ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか」と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この「式目」は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な「道理」に基づいたものなのだ。」 
「御成敗式目」は日本における最初の武家法典である。それ以前の律令や、明治以降の各種法令が基本的に外国の法令を模範として制定された継承法であるのに対し、式目はわが国が独自に制定した法令であるという点で、日本の法の歴史上画期的なものとなった。 
 
嘉禎元年(1235)石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、強権を発して寺社勢力を押さえつけた。興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。 
仁治3年(1242)に四条天皇が崩御したため、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。この強引な措置により、九条道家や西園寺公経ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。新天皇の外戚(叔父)である土御門定通は泰時の妹である竹殿を妻としていたため、以後泰時は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させていくことになる。 
朝廷の天皇問題の頃から過労が原因で倒れていた泰時は、赤痢を併発させて体調が悪化したため、出家して観阿と号し、1ヶ月半後の仁治3年6月15日(1242)に死去した。享年60。奇しくも、義時、政子、大江広元と、北条氏政権で枢要な地位にあった人物も泰時と同じ6月~7月に没しており、また承久の乱で三上皇が配流されたのも同じ季節だったため、巷では上皇らの怨霊による祟りではないかという風聞が流布した。 
第4代執権には早世した時氏の長男である孫の北条経時が就任した。 
後白河、後鳥羽院政が強力だった承久の乱以前の幕府は御家人の権益を擁護して旧勢力と対抗する立場にあったが、院政の実質的機能が失われた承久の乱以降は、幕府は貴族・寺社等の旧勢力と、地頭・御家人勢力との均衡の上に立って、両者の対立を調停する権力として固定した。父の義時の偉業を継いで北条執権体制を軌道に乗せた泰時は、名執権と称えられる。 
逸話 
泰時は人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的評価をされる傾向にある。同時代では、参議・広橋経光などが古代中国の聖人君子に例えて賞賛している。 
泰時の政治は当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現するとされ、彼のすぐれた人格を示すエピソードは多く伝えられる。沙石集は泰時を「まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である」と評し、裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、道理に適った話を聞けば「道理ほどに面白きものはない」と言って感動して涙まで流すと伝えている。 
例えば次のような話が沙石集にある。 
1.九州に忠勤の若い武士があった。彼の父は困窮のため所領を売り払う破目に陥った。彼は苦心してそれを買い戻し父に返してやった。しかし父は彼に所領を与えず、どういったわけか全て彼の弟に与えてしまったため、兄弟の間で争論があり、泰時の下で裁判となった。立ち会う泰時は、初め兄の方を勝たせたいと思った。しかし、弟は正式の手続きを経ており、御成敗式目に照らすと弟が明らかに有利である。泰時は兄に深い同情を寄せながらも弟に勝訴の判決を下さざるを得なかった。泰時は兄が不憫でならなかったので、目をかけて衣食の世話をしてやった。兄はある女性と結婚して、非常に貧しく暮らした。ある時、九州に領主の欠けた土地が見つかったので、泰時はこれを兄に与えた。兄は「この2、3年妻にわびしい思いばかりさせておりますので、拝領地で食事も十分に食べさせ、いたわってやりたいと思います」と感謝を述べた。泰時は「立身すると苦しい時の妻を忘れてしまう人が世の中には多い。あなたのお考えは実に立派だ」と言って旅用の馬や鞍の世話もしてやった。 
2.ある地頭と領家が争論した際、領家の言い分を聞いた地頭は直ちに「負けました」と言った。泰時は「見事な負けっぷりだ。明らかな敗訴でも言い訳をするのが普通なのに、自分で敗訴を認めた貴殿は実に立派で正直な人だ。執権として長い間裁判をやってきたが、こんなに嬉しい事は初めてだ」と言って涙ぐんで感動した。 
3.源頼家に仕えていた19歳の頃、頼家が蹴鞠に凝って幕政を顧みないことを憂いて諫言したことがある。寛喜の飢饉の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話がある。この際には民衆を慮って質素を尊び、畳、衣装、烏帽子などの新調を避け、夜は燈火を用いず、酒宴や遊覧を取りやめるなど贅沢を禁止した。晩年に行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石を運んだ事もある。 
このように誠実に仕事をこなしたため公家や民衆からも評判がよく、泰時が植えた柳の日陰で休む旅人が泰時に感謝する逸話もある。 
しかし一方で近衛経兼などは承久の乱後の朝廷に対する厳正な措置を恨み、泰時を平清盛に重ねて悪評を下している。このような公家の一部の悪感情を反映してか泰時の死に際しては後鳥羽上皇の祟りを噂するものもいた。 
鎌倉幕府滅亡後、北条氏に対する評価は皇室に対する処遇を巡る大義名分論を中心に行われ、北条高時などが暗君として評価されているが、泰時は徳政を讃えられる傾向にある。南北朝時代には南朝方の北畠親房が「神皇正統記」において、江戸時代には武家の専横を批判する新井白石も肯定的評価をしている。一方で、江戸期の国学振興においては本居宣長や頼山陽などの国学者が泰時を批判するようにもなった。 
また鎌倉幕府北条氏による後世の編纂書「吾妻鏡」には、泰時に関する美談が数多く記されているが、中には他人のエピソードを流用している作為も見られる。   
 
後醍醐天皇

後醍醐天皇1 
鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に二度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。  
生涯  
大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。  
即位  
徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることは否定された。後醍醐天皇は不満を募らせた。それが後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。  
倒幕  
正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。  
流罪、そして復帰  
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。  
建武の新政  
帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。  
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。また、倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の言を受けて親王を鎌倉に配流している。  
足利尊氏の離反  
建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。  
南北朝時代  
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳)。  
摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。  
後醍醐天皇2 
 年代  出来事  
 1324年 正中の変、倒幕の密某露見  
 1331年 天皇笠置山に潜伏、楠木正成赤坂城に挙兵  
 1332年 天皇隠岐に流される、護良親王吉野に挙兵、正成千早城にこもる  
 1333年 天皇隠岐を脱出、足利尊氏六波羅を攻める 
      新田義貞鎌倉を攻め倉幕府滅ぶ、天皇京都へ還幸  
 1334年 建武の新政はじまる  
 1335年 中先代の乱、護良親王殺される、足利尊氏反す  
 1336年 (1月) 尊氏 京の戦いに敗れ、九州へ落ちる  
      (5月) 尊氏 再度東上、湊川で楠木正成死す  
      (8月) 尊氏 入京、光明天皇(北朝)を擁立   
      (12月) 後醍醐天皇 吉野で南朝樹立   
 1338年 新田義貞越前にて戦死、尊氏北朝より征夷大将軍に任ぜられる  
 1339年 後醍醐天皇死す  
>     身はたとえ南山の苔に埋るとも 魂魄は常に北闕の天を望まんと思う 
両統迭立  
1172年、朝廷の実権を握っていた後嵯峨上皇は後継者を指名しないまま死去しました。  
朝廷内では皇位後継者をめぐる内紛が起こり、朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂し、140年もの間争うことになります。1317年、窮した朝廷が幕府に調停(シャレではない)を依頼した結果、幕府の折衷案を受け入れることになります。  
両統迭立(りょうとうてつりつ)とは皇位を持明院統と大覚寺統という二つの皇統が交互に継ぐことを言います。  
この部分は大変分かりづらいので、左の継承図を見ながら我慢して読んで下さい。数字は皇位継承順です。  
後嵯峨天皇は譲位して長男の後深草天皇を即位させましたが、次男の亀山天皇を盲愛し後深草天皇を無理矢理退位させ、亀山天皇を即位させました。後嵯峨上皇はさらに亀山天皇の皇太子として、亀山の皇子(後宇多天皇)を立てたのです。  
後嵯峨法皇は死の直前、所領の分配をしたのみで皇位に関しては本意を明らかにせず、自分の死後の治天の君(実際に政務を取る天皇家の主)は幕府の推戴に任せるとのことでした。  
北条氏が後嵯峨上皇の意に従い亀山天皇を治天の君と定めると治天の君として院政を望んでいた後深草上皇の失望不満は大きく、ついに天皇方と院方の対立へと発展して行きます。  
しかし亀山天皇は後深草上皇の不遇に同情し後宇多天皇に譲位した後、皇太子に上皇の皇子(伏見天皇)を立てたのです。  
その後幕府が両統迭立の案を立てると、この案にもとづき両統の代表者である後伏見上皇と後宇多法皇が談合して今後両統から確実に交互に皇位につくことが約束されました。(余談ですが、頓知問答でおなじみの一休さんは後伏見天皇の子孫です)
元寇以降、鎌倉幕府の支配力は急速に衰えていきます。  
鎌倉幕府の役割とは簡単にいえば武士の利益を保護し、トラブル(その多くは土地問題)を調停することでしたが、それが出来にくくなってきたのです。  
元寇の役でとりあえずは元軍は退けたものの、全国の武士達は疲弊の極地にありました。彼等は幕府の命令とはいえ国庫から費用が出るわけではなく、すべて自前で戦ったのです。  
幕府側にも武士達に恩賞を与えたくも与える土地はなく、北条氏の領地をなんとかやりくりするにも限度がありました。執権北条時宗は山積する問題を前に34歳の若さで過労死してしまいます。  
恩賞はロクにもらえず、訴訟を起こせば幕府の要人に賄賂を贈る方が勝つ・・・・・。  
何のための幕府なのか  
御家人たちの矛先は北条氏に向かいます。  
時宗の後を継いだのは貞時。当時14歳。その後を継いだのが最後の執権、北条高時です。
後醍醐天皇の理想と挫折  
一方この時期、武士とは別の角度から鎌倉幕府を、いや、武士の存在自体を疎ましく思う人が出現します。  
後醍醐天皇です。  
両統迭立の原則に従って花園天皇の譲位した後を受けて即位したのが後醍醐天皇です(1318年)。後醍醐天皇の皇太子(後二条天皇の皇子)が早世すると、後醍醐は自分の皇子を皇太子に立てようとしましたが、幕府は先の和談に従って持明院統の量仁皇子を皇太子に立てました。これによって後醍醐天皇はひどく幕府を恨んだといわれます。逆恨みですね。  
歴代の天皇の中でこの人ほどイデオロギー的な人も珍しいでしょう。彼は一生をかけて自分の「理想」の実現を目指したと言っても過言ではありません。  
しかし後醍醐天皇の思いとはうらはらにその理想は一時的には実現したものの、時の流れに反したがために、その行為は数十年にわたる戦乱の発端となり、失意のうちに生涯を終えます。  
後醍醐天皇の目指した理想とはなにか。  
それは武士による支配を改め、再び天皇を頂点とする公家政治をはじめることだったのです。そしてそれを理論的に支えたのは中国から伝来してきた朱子学でした。  
朱子学とはここにも書きましたが、後醍醐天皇はこの思想の大義名分論を重視し、この国の正当な支配者は誰なのかと自問します。それから直線的に日本の正当なる支配者は天皇家である。天皇は絶対の正義であり、逆らうものは絶対の悪なのだ。  
それは朱子学の理論に照らしても正しい。  
自分の理想の実現には鎌倉幕府を倒さなければならない。  
と考えるようになるには、それほどの時間はかからなかったでしょう。  
しかしここで後醍醐天皇は強烈なジレンマに陥ります。  
自分に味方する武士がいなくては幕府を倒せないからです。  
天皇には護衛兵はいても、軍事力はありません。  
なぜなら国軍は遠い昔、桓武天皇の時代に廃止されたからで、幕府を頂点とする武士団は天皇の指揮下にはなかったからです。(ちなみにこの状態のまま明治時代になります)  
やむなく後醍醐天皇は各地の有力豪族に綸旨を発し、倒幕を命ずる以外方法はありませんでした。この時だけは後醍醐天皇と、幕府に不満をもつ武士達の利害はとりあえず一致したのです。  
足利尊氏、新田義貞等によって鎌倉幕府が倒れ、北条氏が滅亡したのは1333年5月のことでした。
失敗した新政  
後醍醐天皇の新政は結論から言って大失敗でした。その内容はいろいろありますが大きく分ければ恩賞と新税があげられますし、失敗した理由は後醍醐天皇の政治が時代にマッチしておらず、民衆の支持を得られなかったためです。  
倒幕に参加した武士達は当然ながら恩賞を欲しました。  
元寇以来、彼等のフトコロはひっ迫していたのです。  
しかし恩賞の不公平さは武士達の期待を見事に裏切ってしまいました。足利氏と新田氏はともかく、楠木正成はわずかに河内守に任ぜられただけでした。恩賞だけではなく土地の名義を勝手に変えられたり、いつの間にか一つの土地の名義が複数の武士になっていたことも珍しからぬこだったのです。  
その混乱に輪をかけて、内裏建築のための増税が加わります。  
その取立ては守護や地頭の任務ですが、従来からの守護・地頭はほとんどが罷免され、新たな守護・地頭は朝廷から任命された人達でした。守護・地頭といえば聞こえは良いですが政治のやり方も良くわかっていない公家たちが選んだ者達です。ごろつき、あぶれ者も多かったようで、彼等が任地でどのような取立てをしたか容易に想像できます。  
このような武士を無視した新政の背景には、当時の公家たちにあった「選民思想」があります。公家は選ばれた者であり、万民の頂点に立つべきもの、という思想です。後醍醐天皇の側近北畠親房はその著、神皇正統記で、こう書いています。  
北条が滅んだのは武士の功績ではない。天の意志である。  
そもそも武士などは、以前は朝敵(朝廷の敵)であった。  
天皇に味方したおかげて家を滅ぼさなかっただけでも感謝しなくてはならない。  
その上さらに恩賞が欲しいなど、不届きである。  
これが当時の公家一般の考えだったのです。  
まったく人間というものはここまで思い上がれるものなのか。  
現代の感覚で笑うのは簡単ですが、それが『歴史の流れ』というものなのでしょう。  
もっとも北畠親房がこれを書いたのは1338〜1339年のことで、すでに建武の新政は破綻し後醍醐天皇が吉野に亡命政権をたてた後でした。公家政治が世に受け入れられなかったので、余計武士に対する不満がつのっていたに違いありません。  
武士の立場から見れば、平安末期には彼等の不満のエネルギーが貴族政治を崩壊させ鎌倉幕府を樹立させたのです。鎌倉政権は時代の流れにマッチした政権でした。  
武士の殆どは後醍醐天皇の思想、新政治への抱負を知らずに後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府を倒しました。知らなかったのは無理のないことで、この時代、選挙演説などありませんから政治家が他人に自分の考えや公約(?)を知らせる義務などなかったのです。  
でも比較的後醍醐天皇の近くにいた楠木正成などは、あるいはこうなることを予測していたのではないでしょうか。この想像はちょっと自信がありませんが。  
さて武士達は単に鎌倉幕府(北条政権)に失望していただけであり、武家政治そのものに失望していたわけではないのです。  
彼らは今さらながらに自分達の利益を守る人・・・鎌倉幕府に代わる新たな武家政権・・・が現れるのを切望するようになります。そしてその武家政権の代表者といえば、最大の実力者と誰もが認める足利尊氏以外にはいませんでした。
後醍醐天皇の新政に不満を持ったのは武士だけではありませんでした。  
天皇はそれまで存在した関白職を廃止し、一切を独裁するようになります。神皇正統記の北畠親房の批判は武士だけではなく、天皇もその対象でした。  
天皇たる者はその政治制度を重んじ、正しく運営しなければならない。天皇は政務の遂行に際しては補佐の臣を選んでそれを通じなければならない。前例というものをよく調べよと親房は言います。  
親房は伝統的な前例主義者であり、独裁者というものを認めない保守的な人間だったのです。  
独裁者とは何か。簡単に言えば『俺がルール・ブックなのだ』という存在です。  
日本史には例えば中国皇帝のような、強烈な自我を持つ独裁者というものが登場したことがありません。これは日本人というものの人間的な性格によるものなのか、あるいは独裁者が生まれにくい、生まれたとしてもそれを認めない風土、国民性があるのかもしれません。  
それでなくとも何かにつけて自分のすることに反対する公家たちに後醍醐天皇が言った有名な言葉があります。  
朕の新儀が未来の先例なり (私がこれからすることが、将来の前例になるのだ)  
私はこの言葉自体はけっしてキライではありません。公家というものはいわゆる前例主義、慣例主義で、新規なものを伝統的に拒否するものです。前例がないからこそやってみなくてはならないこともありますからね。  
とにもかくにも、後醍醐天皇は武家だけでなく公家からも見離されていきます。前例のないことを次々に実行しただけではありません。後醍醐天皇に優遇されたのは一握りの公家・・・能力のあるなしではなく、後醍醐天皇に気に入られた人が多かったからです。後醍醐の愛妾、阿野廉子がそれを代表します。  
この社会情勢を巧みに批判し、諷刺して見せたのが有名な二条河原の落書です。  
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家 俄大名 迷者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナル、訴訟人 文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者・・・・  
このごろ都にはやるもの。夜討ち、強盗、にせの天皇の命令書。囚人、早馬、意味のない騒動など。  
また、僧から俗人にもどるものや、逆に、勝手に僧になる者が目につく。恩賞により名もない土豪から急に大名になった者がいるかと思うと、路頭に迷う者もいる。所領の保証や恩賞にあずかるために、いつわりのいくさを申し立てる者もいる。  
恩賞担当役の公家は、お気に入りの遊女から「私も人に生まれたからには一坪でもいいから土地がほしい」と言われたところ、すぐに土地を与えたと言われます。命がけで戦った武士達にはほとんど与えられていないのに・・・・。
新たな戦乱  
1335年7月。鎌倉幕府が滅びてわずか2年後。  
信濃国に潜伏していた鎌倉幕府最後の執権北条高時の遺児北条時行は新政に不満を持つ豪族達と共に決起し、一路南下し鎌倉に攻め込みます。  
鎌倉を守っていた足利直義は一戦して破れ、鎌倉を脱出して三河まで逃げて京都にいる兄尊氏に援軍を求めます。後醍醐の皇子護良親王が殺されたのはこの時のことです。  
関東の騒動を鎮めるため征討将軍に任命されることを願った尊氏ですが、朝廷から却下されてしまいます。これは後醍醐天皇が当時最大の軍事実力者であった尊氏のさらなる勢力増大を危険視したためです。  
しかし尊氏は朝廷に無断で京都を出て直義と合流し、関東に向かい北条軍を破ります。その後尊氏は帰京せよとの朝廷の命令を無視し、鎌倉において独断で論功行賞を行うようになりました。  
論功行賞とは功績のある者にそれに相応しい恩賞を与えることです。かつて源頼朝が時の朝廷からこの権利を譲渡されたことで、頼朝は全国の武士への命令権を獲得しました。命令と恩賞とは一体のものですからね。それは鎌倉幕府成立前の重大な布石だったのです。ですから尊氏の行為は朝廷への反逆でした。  
足利尊氏に対抗できるのは、実力でははるかに劣りますが新田義貞以外にいません。朝廷はあらたに新田義貞を将軍とする征討軍を編成し、足利軍と戦わせることになります。しかし新田軍は箱根竹の下の戦いで敗れ、その余勢をかって足利尊氏は京都に進撃します。(1335年12月)  
京に入った尊氏は楠木正成の巧みな戦術に翻弄され、さらには北畠親房の子、顕家率いる優勢な奥州軍が着陣するとついには敗れ、九州に落ち延びます。しかしわずかの期間で体制を整え、再び京都に向かって進撃を開始しました。  
京都から脱出した後醍醐天皇は比叡山で湊川の敗戦を知り、とりあえず足利尊氏と和睦することを思いつきます。これに反対する新田義貞に対して後醍醐天皇は  
自分はもう隠退し、恒良を天皇とする。おまえは恒良、尊良と共に越前へ行け  
と言います。越前には新田氏の領地があったのです。(恒良親王、尊良親王は共に後醍醐の子です)  
しかし新田義貞等が立てこもった越前金ケ崎城は越前守護の斯波高経に包囲され、窮した義貞は城を脱出し杣山城へ移ります。  
そこで兵を集め斯波高経の軍を金ヶ崎城と挟み撃ちにする作戦でしたが、募兵に手間取るうちに金ヶ崎城は落城。尊良親王、新田義顕(義貞の長男)は自害し、恒良親王は捕らえられて後に毒殺されています。恒良親王はわずか14歳でした。  
その一方で幽閉されていた後醍醐天皇は、足利尊氏に強要されて三種の神器を尊氏に渡してしまいます。足利尊氏はこの三種の神器をもって、光厳上皇の弟を天皇に即位させるのです。光明天皇です(1336年8月)。その3ヵ月後。足利方の監視の隙をついて後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野山で亡命政権をたて、ここに南北朝が始まるのです。  
後醍醐天皇は  
足利に渡した三種の神器はニセ物で、自分こそ真の天皇である。我に忠義を尽くすなら逆賊尊氏を討て  
と命じました。新田義貞に言った皇太子を恒良親王とすることもでたらめで、義貞は後醍醐天皇に利用され、切り捨てられたのでした。  
これこそ後醍醐天皇という人の本質なのです。  
この例だけでなく後醍醐天皇は極めて明敏な人でしたが、一人の人間としてみた場合、性格上の欠陥も目立つ人でした。  
当時貴人情を知らず、という言葉がありました。  
身分の高い家に生まれた人は、人に奉仕されても奉仕したことがなく、その感覚は一般の人とはかけ離れていて、人を平気で犠牲にすることがあるのです。  
後醍醐天皇の身勝手さの犠牲になったのは武士だけではありません。  
鎌倉時代末期、倒幕の密謀が露見して幕府に追求された後醍醐天皇は知らぬ存ぜぬで押し通し、最後には密某は側近の日野俊基が勝手に仕組んだことと言って逃げています。  
これが露見したのは後醍醐天皇の側近、吉田定房が幕府に密告したためでしたが、真相はどうも密某がばれそうになったことを知った後醍醐天皇が先手を打って、わざと吉田定房を使って幕府に密告させたようです。後醍醐天皇の吉田定房への信任はその後も変わっていないのがなによりの証拠です。事件が起こると秘書の責任にする政治家は昔からいたのです(笑)  
鎌倉幕府滅亡後、武士達にたいした恩賞を与えなかったことはさすがに後ろめたかったようです。  
その不満の代表格は足利尊氏でした。  
実際には尊氏はそれまでは高氏と名乗っていましたが、後醍醐天皇は、「オレの名前の一字をやるから不平を言うな」とばかりに名前である尊治(たかはる)の一字を与えます。足利高氏が尊氏となるのはこの時のことです。  
当時主君の名前の一字をもらうことは非常に名誉なことでした。  
しかし・・・・ただそれだけで何も実質的なものはないのです。尊氏の不満はさらに高まっていきます。  
それを察した後醍醐天皇は皇子の護良親王に尊氏暗殺を命じます。しかし尊氏は逆に護良親王を謀反の疑いがあるとして捕らえ、後醍醐天皇には、「私を狙ったのは天皇のご命令でしょうか」、と詰め寄ります。  
あわてた天皇はここでも知らぬ存ぜぬを押し通し、その結果護良親王は鎌倉に幽閉され、後に尊氏の弟、直義に殺されることになります。鎌倉に護送される護良親王は一言、尊氏より父がうらめしい、と漏らしました。後醍醐天皇は息子をも切り捨てたのです。
天皇の持つ力を権威と権力に二分するなら、天皇は古くから権威はあっても権力のない存在で、実際の政治は天皇の代行者が担当していました。聖徳太子や蘇我氏がそれを代表します。  
中大兄皇子は天皇親政(天皇による直接政治)を目指しそれに成功したのが大化の改新でしたが、10世紀ごろから再び「代行者(藤原氏)」による政治が摂関政治として復活してきます。そうした中で院政は新たな宮廷革命でした。  
《院政》  
太上天皇(上皇、法皇)の執政を常態とする政治形態。律令政治が天皇と貴族の共同統治的官僚政治であり、摂関政治上級官僚貴族の寡頭政治的色彩が強いのに対し、白河上皇の専制的権勢のもとに定着した政治形態を後世の史家が院政と名付けた。(平凡社世界大百科事典)  
院政とは実権を持つ上皇(治天の君)が執政する政治形態であり、天皇とは将来「治天の君」になるための見習期間で、まったく権威も権力も持たない状態だったのです。  
南北朝の抗争は別の観点から見れば院政派と親政派の抗争でもありました。院政は1086年白河法皇から始まり1321年まで続きましたが、後醍醐は院政を否定し、親政をめざしました。  
1185年、壇ノ浦の合戦で三種の神器は安徳天皇、二位尼(平清盛の妻。安徳天皇の祖母時子)と共に海に沈みました。源氏方の必死の捜索で勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣は発見できなかったため、草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用する ことになります。この代用を含んだ三種の神器で即位したのが後白河天皇です。  
剣が代用でよいなら、鏡と勾玉も代用でかまわないはずです。  
つまり三種の神器で天皇の正統性を主張することは150年も前からできないことで、神器の持ち主よりむしろち治天の君に指名される者こそ正式な天皇と考えられていました。ですから後醍醐天皇が信じた三種の神器の価値とはもはや滑稽劇でしかなかったのです。  
しかしそれ(滑稽劇)は後世になってわかること。  
当時は三種の神器の価値、権威は絶大なものだったと思います。  
そうでなければ楠木一族のように純粋な忠義心からではなく、なぜ多くの他の武士達が南朝を支持したか説明できないからです。  
結局のところ南北朝とは朱子学と言う理念先行の学問にかぶれた後醍醐天皇が、当時の大多数の社会分子である武士を無視して強行した時代錯誤の政治からはじまったのです。こんなバカげた争いはそれ以前にも、それ以降にもありません。後醍醐天皇は自分のせいで日本中が大混乱していることにいささかの責任も感じず、その死の直前にこう言い残したようです。  
・・・ただ生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思ふばかりなり  
これ思ふ故、玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。  
もし命に背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ  
我が願いは朝敵を滅ぼし、四海(四方の海・・・天下のこと)を太平にすることである  
だから我が身はたとえ南山(吉野のこと)の苔に埋もれても、魂はいつも北闕(京都のこと)の空にある  
もし我が遺言に背くなら、皇位をついでも真の天皇ではない、臣下も忠義の臣とは言えない  
我が願いは太平の世である。我が子孫はあくまで北朝と戦えとまで言ったのです。両朝が合一(統一とは違い、力ずくで合わせること)されたのは1392年。足利尊氏の孫、足利義満の時代でした。  
後醍醐天皇の生涯をみると、政治家というものは時代にマッチしていなければならないと思います。また一般の国民を無視した政治というものは結局のところ長続きしないものだとも思います。  
前記と重複しますが、日本史にはヨーロッパや中国でいうところの絶対権力者、独裁者というものが存在しません。それでも独裁者と言う言葉にすぐ連想するのは織田信長と後醍醐天皇です。それだけこの二人は日本人としては強烈な個性の持ち主でありました。  
しかし信長は時代の要求によって生まれたと思いますが、後醍醐天皇は時代に望まれた人ではなかったのです。 
後醍醐天皇3 
後醍醐天皇 正応1年(1288)〜暦応2年/延元4年(1339)  
1.中継ぎの天皇として即位  
大覚寺統、後宇多天皇の第2皇子。諱は尊治(たかはる)。父の後宇多上皇は長子後二条天皇の子で孫にあたる邦良親王の即位を望む。邦良親王が幼少の為にその中継ぎ的存在として、尊治親王は持妙院統の花園天皇の跡を受け延慶1年(1318)に即位した。この時、天皇は31歳。
2.天皇の独裁を目指し、朝廷の改革を断行  
後醍醐帝は、朱子学などの思想を取り入れ天皇親政による独裁政権を目指し、数々の朝政改革に着手した。貴族の序列にとらわれない能力主義による人材登用を実施、吉田定房、万里小路宣房、北畠親房、日野俊基、資基らを要職に就け、朝政の刷新を図った。この人事は家格門閥を重視する貴族より大きな反発を受けたが、本来は対立者たる持妙院統の花園上皇からの支持も受け、後醍醐帝の新政はまずまずの滑り出しを見せた。  
また、それまで国家の建て前であった農作物からの年貢よりも、商業、流通業者からの上納金を重視する革命的な政策の転換を行ない、凋落傾向にあった朝廷の建て直しに尽力した。
3.正中の変  
こうした朝政の実績を上げていくにつれ、天皇独裁による日本の全国支配を目指す後醍醐帝にとって、東国を中心に大きな勢力を誇り、天皇の即位にすら大きな発言権を持つ幕府との対立は不可避のものとなっていった。  
帝は無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、宴会にかこつけて日野俊基、資基、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語い、討幕の計画を練った。正中1年(1324)、無礼講に参加していた武士の一人、土岐頼員の寝返りによって討幕計画が発覚、計画の中心メンバーであった日野俊基、資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」という。 当然鎌倉幕府の捜査の手は真の首謀者たる後醍醐帝にも伸びてはきたが、帝は弁明のために鎌倉に万里小路宣房を勅使として遣わし、幕府の慰撫に努めた。天皇が武家に告文を出すのは前代未聞の出来事である。朝廷と同じく弱体化の方向にあった幕府は、ここで帝と全面対決の姿勢を打ち出す事は得策ではないと判断、帝の弁明を受け入れて、日野資基を佐渡に配流するのみの穏便な処置にとどめた。
4.元弘の変  
しかし帝はこの失敗に屈しなかった。息子の護良親王を比叡山延暦寺の座主に据え、東大寺、興福寺との連携を強めたりと、僧兵達を戦力として動員出来るように画策した。更に律僧文観を交渉者として、河内の土豪楠木正成、幕府要人の伊賀兼光らの味方引き入れに成功する。また、米価、酒価の公定、関所の廃止を行って商工業者の支持を得、日野俊基を各地に派遣して悪党海賊、反北条派の武士の調略を行った。  
こうして討幕に向けて周到な計画が練られたが、元弘1年(1331)、未だ幕府の実力を恐れる帝の側近、吉田定房によって幕府に密告され、計画は再び瓦解した。吉田定房は、事が後戻り出来ないほど深入りする前に計画を発覚させて、正中の変の時のような穏便な処置を幕府に期待したらしい。しかし幕府は今回はこれを許さず、日野俊基らを捕縛、鎌倉へ移送、次に帝の処置を検討し始めた。  
追いつめられた後醍醐帝は笠置にて挙兵、楠木正成も河内赤坂城にてこれに呼応した。しかし頼みの延暦寺が幕府側についてしまい護良親王らは比叡山を脱出する羽目に、楠木の赤坂城も幕府軍の攻勢の前に落城し、笠置の帝も捕らえられてしまう。これを「元弘の変」と呼ぶ。
5.隠岐への配流から伯耆船上山での再起  
幕府は、後醍醐帝を退位させ、承久の乱の故事に倣って隠岐へ配流し、持妙院統の量仁親王を立てて光厳天皇となした。後醍醐帝の各皇子も配流され、日野俊基、資基は斬罪に処せられた。承久の乱の首謀者後鳥羽上皇は、隠岐へ配流された後はすっかり意気消沈し世捨て人として失意の余生を送ったが、後醍醐帝は不屈の闘志を持ち配流程度では全く挫けなかった。また、幕府の強硬な処置が反幕府の気運を一気に高め、畿内周辺にて幕府方六波羅探題に対する反乱が頻発した。幕府の追討を逃れた護良親王は吉野山で挙兵、各地の悪党、海賊、反北条派の武士に討幕の綸旨を飛ばす。楠木正成も千早城を建てて反幕府軍の拠点となして抵抗運動を続け、播磨では佐用荘地頭職赤松則村が護良親王の綸旨に呼応して京に攻め入る大戦果をあげた。こうした状況の中、後醍醐帝は隠岐の脱出に成功し、伯耆の豪商名和長年に迎えられて船上山に拠り、討幕の綸旨を各地に発し、鎌倉幕府と対決する姿勢を見せてゆく。
6.倒幕の成功と建武政権の樹立  
後醍醐天皇は、名和長年に迎えられて伯耆船上山に拠って以来、各地の反幕府勢力に綸旨を飛ばして、倒幕の中心勢力となった。これに最もよく応えたのが、播磨国佐用荘地頭職の赤松円心入道、河内の悪党、楠木正成である。  
この二人は、一説によると旧来からの北条氏子飼いの配下であったという。彼らは一般的な武士とは違い、街道筋を押さえ通行料を取ったり、商業を生業にする事で利益を上げる非御家人勢力で、鎌倉幕府発足時、成り上がりの北条氏は他の御家人よりも勢力が小さかったため、彼らを利用して経済基盤を大いに強化したという。  
鎌倉末期になると、北条氏は全国に圧倒的支配を展開したため、彼らの力を必要としなくなったのかも知れない。後醍醐帝は、赤松、楠木らの北条氏に対する不満を見切って、自陣に勧誘したとも考えられる。  
いずれにせよ、この二人は朝廷方に対する大いなる助力となった。  
護良親王とともに畿内に勢力を張り、千早城に拠って鎌倉からの大軍を引きつけ、粘りに粘る戦法と採る楠木正成。これは朝廷方にとってすなわち盾の役割を果たした。  
山陽の街道筋に勢力を張り、摂津を進撃して六波羅の軍勢と戦い、これを打ち破って二度も京都に攻め入った赤松円心。これは朝廷にとって、攻撃するための武器、すなわち槍の役割を果たした。  
二人の活躍により、北条の力を絶対のものと思っていた各地の勢力も、倒幕の可能性を現実のものとして感じ始める。  
かかる気運を察知した北条宗家(得宗)の高時は、1333年春、北条一族重鎮の名越高家と、源氏御家人最大の実力者足利高氏に上京を命じ、六波羅の救援に当てて赤松円心らを討伐しようとした。  
上京した足利高氏は六波羅には入らず、母の実家上杉氏の家領である丹波篠村に入り、ここに駐屯した。  
一方の名越高家は、赤松円心を討伐すべく彼の本拠地である播磨に進軍し、これと合戦に入る。幕府からの大軍を率いて圧倒しようとした名越高家であるが、赤松円心指揮の前に散々に打ち破られ、自身も戦死するという大敗を喫した。  
六波羅軍を幾度か破り、幕府からの救援軍までをも撃破、大将の名越高家を打ち取った赤松円心の功績は誠に大きなものがある。しかし、赤松が果たした最大の功績は、この大勝によって、足利高氏に幕府への見切りをつけさせた事であった。  
足利高氏は、2年前、父親の喪中であるにも関わらず、正中の変で朝廷軍を倒す戦に動員されており、今回またもや上京を命じられ、従軍させられる事に対して北条氏に対する反感を強めていた。1333年4月、名越高家の敗報を聞いた高氏は、丹波篠山で反北条の旗幟を鮮明にし、赤松円心に協力して入京、六波羅探題を滅ぼして京を制圧した。  
北条氏に続く大勢力である足利家が、反北条を表明して後醍醐帝側に付いた事は大きかった。  
足利と並ぶ源氏の名流でありながら幕府から冷遇されていた新田家も、棟梁の義貞が足利家に同調して関東上野で叛乱を起こし、軍勢を率いて南下、鎌倉を一気に攻略して北条氏を壊滅させた。  
この事態に、千早城を取り囲んでいた幕府の大軍は動揺、楠木正成の猛反撃にあってあっけなく崩壊、雲霧消散する。  
鉄壁の強権を誇った北条氏の支配は、後醍醐天皇の不屈の闘志により、遂に終わりの時を迎える事となった。  
伯耆の地にて名和長年や千種忠顕とともに幕軍に抵抗していた後醍醐帝は、各地で朝廷方が勝利するに及んで悠々と京へ入り、幕府の擁立した光厳天皇の帝位を剥奪して、6月、天皇親政の政権樹立を宣言した。
7.建武政権の混乱  
北条氏に反感を持つ各地の勢力に支えられ、再び帝位に復して新政権を樹立した後醍醐天皇だったが、その政事は当初から躓きが多かった。  
まずは政策の失敗である。  
天皇親政を絶対のものとしようとした後醍醐天皇は、光厳天皇の朝政を刷新し、関白を廃して朝廷の旧習を取り止めた。  
記録所、恩賞方を新たに設立し、側近の武将、公家を登用してこれに当たらせ、最終的な決定権は天皇が下す綸旨に全てを集約させた。  
しかし、旧幕府方の事務官を追放して、素人集団で始めた政治は、当然の如く順調には行かなかった。  
特に恩賞方では、各地から所領の安堵を求めて大小無数の武家が京に殺到したため、天皇親裁の綸旨発行は到底間に合わず、早くも麻痺状態に陥った。  
次に天皇家内部の不和である。  
後醍醐帝と、大塔宮護良親王の微妙な対立が表面化する。大塔宮護良親王は、畿内の反幕府軍を結集するため親王の名前で「綸旨」を連発したが、本来、「綸旨」を下す事ができるのは、唯一天皇のみである。親王のような立場で各地に命令を下すとなれば、それは「綸旨」ではなくて、「令旨」でなければならない。  
親王は、令旨ではインパクトが弱いため、敢えて「綸旨」を名乗って各勢力に檄を飛ばしたのだが、後醍醐帝から見れば、これは自らの立場を公然と侵す行為で、不快の極みではあった。  
天皇の寵愛する女官、阿野簾子も、自分の子供を次代の天皇に就けようと、有力な候補でライバルである大塔宮への讒言を帝に繰り返したため、いよいよ親王への風当たりは強くなる。  
しかし、倒幕勢力の一翼を担った大塔宮親王の大功績を無視することは到底できず、親王の要求した征夷大将軍の地位を、後醍醐帝は認めざるを得なかった。  
これも大塔宮の立場からすれば、全国の武士を糾合する立場を天皇の息子である親王が持てば、何かと朝廷がやりやすくなるだろう、との配慮から出たものと思われるが、武家の棟梁という立場を認めさせられてしまった、という点において、公家と武家の隔てなく上位に立とうとしていた後醍醐帝からすれば、いまいましい限りであったと察せられる。  
三つ目は人事の失敗である。  
畿内の幕軍撃退に大功のあった楠木正成、伯耆船上山で後醍醐帝を迎え入れた名和長年、帝に近侍して功績を上げた結城親光、村上源氏の名門で帝から抜擢を受け、常に行動を供にした公家の千種忠顕は、「三木一草(くすのき・ほうき・ゆうき、ちぐさ)」と呼ばれ、多大な恩賞と叙官を受けた。  
楠木正成は、検非違使、河内国司、河内守護、和泉守護に任官。名和長年は伯耆国司、因幡国司、恩賞方に任官。結城親光も同じく恩賞方、千種忠顕は従三位,弾正大弼,参議に任官され、各々破格の待遇を受けた。  
しかし、この四人に伍する、あるいはそれを上回るか、という功績を挙げた人間が、この中に入っていない。赤松円心である。  
当初は恩賞として播磨守護が与えられたものの、まもなくそれも剥奪されている。一説によれば、赤松円心は大塔宮と近しいため、赤松を重用すれば大塔宮の朝廷内での地位を強化する事になり、後醍醐帝と阿野簾子は、それを嫌って赤松を冷遇したとも言われる。  
確かに、大塔宮が門主として比叡山に入っていた早い時期から、赤松円心は息子の則祐を出家させて近侍させ、大塔宮とは連携を深めていた。しかし、どの程度大塔宮と親密な関係にあったのかは不明である。  
しかし、赤松を冷遇した事は、あとあと建武政権に暗い影を落としていく。  
その上、反北条勢力をまとめる最大のきっかけとなった足利高氏も、新政権のどの役職にも就かなかった。一応、従三位武蔵守を与えられ、後醍醐帝の実名である尊治(たかはる)より一文字を譲られて、尊氏と改名したが、実権のある記録所や恩賞方の重役には入らない。  
京の世人は、新政権に「尊氏ナシ」と噂をして、その人事を不思議がった。  
これは、新政権の混乱を見越して、尊氏側が辞退したものだとも言われる。  
いずれにせよ、以上のような様々な火種を抱えて、すんなりと新政権が運営できるわけがなかった。
8.叛乱の続発と足利尊氏との対立  
公家と武家の恩賞を全て綸旨で裁こうとした後醍醐帝であったが、複雑に入り乱れた各地の豪族の揉め事を円満に解決する事は、付け焼刃の朝廷では到底不可能、しかも天皇側近の公家は、幕府という後ろ盾を失った武士達を必ずしも公平に扱わなかったため、上京した武家の諍いにより、京は大混乱に陥った。  
ここで天皇は綸旨万能の考え方を多少改め、1333年7月、北条氏以外の幕府官僚を登用し、雑訴決断所を設けて恩賞関連の事務処理を委任した。  
しかし、これは武家に対してのみの制度緩和で、逆に寺社勢力や上級貴族に対しては従来の利権をさらに剥奪し、天皇専制の初志を貫徹しようとした。  
続く1334年、建武と元号を変えてからは後醍醐帝の専制意思は一層高まり、大内裏(宮殿)の造営や地方への課税強化など、民政的にも厳しい方針をあくまで採り続けた。  
これに反発した公家勢力のうち、北畠親房、顕家親子は、後醍醐帝の子、義良親王を推戴して陸奥に下向し、名目上帝を助けるといいつつも陸奥将軍府を作り上げ、独立した地方政権を樹立しつつあった。  
陸奥の公家政権に脅威を感じた武家側も、尊氏の弟足利直義が、同じく後醍醐帝の子である成良親王を奉じて鎌倉に入り、同様に将軍府を作って独立した政庁を構築していった。  
これらは、各地の有力勢力に息子を預けて自分の血統を絶やさないように、とする後醍醐帝の戦略とも一致したため、天皇自身も了承をした訳だが、実際は公家、武家ともに新政に対する不満を高めており、公武両者の比較的穏便な叛乱手段であったとも言える。  
同時に、このような地方政権を認めた事は、必然的に天皇自身の支配力を低めるものだった。  
さらに、阿野簾子が足利尊氏と結んで、反足利色を強めていた大塔宮を後醍醐帝に讒言したため、1334年10月、天皇はこれを捕縛、鎌倉の足利直義の元に送り、親王を幽閉した。倒幕の戦いに功績があり、皇族ながら征夷大将軍の地位を以って武士に君臨しようとした大塔宮を、天皇の私情を以って追放した事は大失敗と言わざるを得なかった。  
これ以後、武士の力は武士でしか押さえられなくなっていく。  
天皇の綸旨の価値は二条河原の落書にからかわれるほど地に落ち、政権はいよいよ混乱の極みに達した。  
鎌倉幕府の北条氏と親しく、武家申詞を歴任した名門公家西園寺家は、幕府が滅亡した後は政権から遠ざけられ、冷遇の極みであったが、当主公宗はこれを不服として再び北条家の天下を招来すべく、鎌倉で新田義貞に敗死した北条高時の遺児、北条時行を擁してついに叛乱を起こした。これを中先代の乱と呼ぶ。  
公宗の叛意はすぐに知れて誅殺されたが、時行は1335年7月に信濃で挙兵し、女影谷、小手指原、府中、武蔵井出の沢で足利直義軍を破って鎌倉に入った。  
このとき、敗走する足利直義はどさくさにまぎれて大塔宮護良親王を斬殺するに及ぶ。  
足利尊氏は、弟直義が鎌倉を追われた事態を受けて、鎌倉の奪還命令と征夷大将軍の任官を望んだが、尊氏の野望を感じた天皇はこれを許さなかった。  
尊氏は怒り、天皇に無断で軍勢を率いて東海道を下向、慌てた天皇は「征東将軍」という中途半端な地位を移動中の尊氏に贈り、彼への慰撫を図った。  
三河で敗走してきた直義と尊氏は合流、遠江、駿河、相模に北条時行を撃破して鎌倉を奪いかえしたが、後醍醐帝からの京への帰還命令を尊氏は拒否し、征夷大将軍の任官を再び望んだ。  
後醍醐帝はこれを叛乱と断定、足利尊氏、直義兄弟の官位を全て剥奪し、もう一人の源氏棟梁である新田義貞を討伐軍の長に任じて鎌倉攻略に向かわせる。ついに、後醍醐帝の命じた軍勢は、足利尊氏と闘うことになった。 
後醍醐天皇4 
正応元〜延元四(1288-1339) 諱:尊治(たかはる)  
後宇多院の第二皇子。母は談天門院藤原忠子。後二条天皇の弟。子に護良親王・尊良親王・世良親王・宗良親王・懽子内親王(光厳後宮)・祥子内親王(最後の斎宮)・懐良親王・後村上天皇ほか。大覚寺統・持明院統系図  
母が後宇多天皇と離縁し亀山院のもとに入ったため、同院の寵愛を受けて育つ。徳治三年(1308)、後二条天皇が急逝すると、持明院統の花園天皇が践祚したが、後二条天皇の遺子邦良親王は幼少であったため、即位後邦良を立太子させることを条件に皇太子に立てられた。文保二年(1318)二月受禅し、同年三月、即位。御宇多院が院政を敷いた。元亨元年(1321)、後宇多院の院政停止に伴い、親政を始める。この年、記録所を置いて訴訟を親裁する。正中元年(1324)、後宇多院が崩ずると、春宮邦良親王を廃して子息を皇太子に就けようとしたが、鎌倉幕府の拒絶に遭う。同年、討幕の密議が漏れたが、幕府は事を穏便に処した(正中の変)。正中三年(1326)三月、春宮邦良親王が薨去すると、幕府は両統迭立の原則に則り、持明院統の後伏見院皇子量仁親王を皇太子に立てた。激怒した後醍醐天皇は再び討幕計画を進め、日野俊基を諸国に派遣して幕府に批判的な武士を糾合させた。元弘元年(1331)、謀は再び露見し、後醍醐天皇は笠置へ遷幸。まもなく楠木正成が河内赤坂城に挙兵したが、同年九月、笠置は落城し、天皇は捕えられ六波羅探題によって幽閉された(元弘の変)。十月、持明院統の光厳天皇が践祚した。  
元弘二年(1332)、隠岐国に配流されるも、護良親王・楠木正茂・赤松円心らが各地で次々に挙兵し、情勢は急変。翌年隠岐からの脱出に成功した後、足利尊氏らが六波羅を、新田義貞らが鎌倉を攻略して、ついに鎌倉幕府を滅亡に追いやった。六月、入京して親政を開始(建武の新政)。延喜・天暦の治を理想に掲げ、政治体制の革新に取りかかるが、恩賞に公平を欠いたことなどから武家の反発を招く。建武二年(1335)、足利尊氏が新田義貞を除くことを名目に挙兵し、同三年八月、持明院統の光明天皇を擁立した。十一月、尊氏は幕府を再興し、建武の新政はわずか二年五カ月で瓦解するに至った。同年十二月、後醍醐天皇は京を脱出して吉野に移り、朝廷を再建(南朝)。以後、北朝との戦が続くが、次第に劣勢になる中、延元四年(1339)八月十六日、行宮吉野金峰山寺塔金輪王寺にて崩御。五十二歳。遺勅により後醍醐と追号された。  
正中二年(1325)、二条為定に続後拾遺集を撰進させる。新後撰集初出。勅撰入集は計八十三首。また准勅撰の新葉集には四十六首採られている。『建武年中行事』『建武日中行事』を勅撰した。
春  
鶯を  
おしなべて空にしらるる春の色をおのがねのみと鶯ぞなく(続千載14)  
(空の色、霞の色、山の色……どこもかしこも春めいたしるしが感じとれるのだが、自分の声だけがそうなのだと言わんばかりにウグイスが鳴いている。 ) 
みこの宮と申し侍りし時よませ給うける  
さのみやは春の深山みやまの花をみん早すみのぼれ雲の上の月(続千載178)  
(そういつまでも春の深山の桜を見ていられようか。早く澄んだ光を昇らせてくれ、雲に隠れた月よ。 )   
題しらず  
今はよも枝にこもれる花もあらじ木のめ春雨時をしる比(新葉82)  
(今はよもや枝の蕾に籠っている花もあるまい。春雨が降り、木の芽もふくらむ時が来たことを知るこの頃。)  
芳野の行宮におましましける時、雲井の桜とて世尊寺のほとりに有りける花の咲きたるを御覧じてよませ給ひける  
ここにても雲井の桜さきにけりただかりそめの宿と思ふに(新葉83)  
(吉野の行宮(あんぐう)は、ただ仮そめの住まいと思っていたのに、ここにも「雲井の桜」と呼ばれる花が咲いたのだった。)  
夏  
芳野の行宮にてうへのをのこども題をさぐりて歌よみ侍りけるついでに、五月雨(さみだれ)といふことをよませ給うける  
都だにさびしかりしを雲はれぬ芳野のおくの五月雨の比(新葉217)  
(梅雨の季節ともなれば、都にいてさえ寂しかったのに……。雲が晴れることのない吉野の山奥の侘びしさはなおさらだ。)  
秋  
建武二年人々題をさぐりて千首歌つかうまつりける次(ついで)に、秋植物といへる事をよませ給うける  
夕づくよ小倉の峰は名のみして山の下てる秋の紅葉ば(新千載565)  
(夕月夜、「小暗い」という小倉(おぐら)の峰は名ばかりで、山の下に明々と照り映える秋の紅葉よ。)  
元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時、月前擣衣といふことを  
聞き侘びぬ八月(はつき)九月(ながつき)ながき夜の月の夜さむに衣うつ声(新葉367)  
(聞いているのも辛くなった。八月九月と深まりゆく秋の夜、冷え冷えとした月光の射す寒夜に、砧(きぬた)を打つ音を。)  
元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時、月前菊花といへることをよませ給ける  
うつろはぬ色こそみゆれ白菊の花と月とのおなじまがきに(新葉386)  
(褪せない色が見えるよ、白菊の花と、月の光とが同居する籬に。)
冬  
芳野の行宮にてよませ給ける御歌中に  
ふしわびぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山おろしの風(新葉461)  
(辛くて寝ていられない。霜が降りたように冷たい寝床は荒れて、袖の隙間に吹きつける、激しい山颪の風。)  
豊明節会をよませ給うける  
天つ風袖さむからし乙女子がかへる雲路の明がたの空(続後拾遺454)  
(天を吹き渡る風が袖に寒そうだ。五節の舞姫たちが帰ってゆく、明け方の空の雲の通り路よ。)  
雑  
題しらず  
ながむるをおなじ空ぞとしらせばや古郷人も月はみるらん(新葉552)  
(私は遠い旅先にあって、つくづくと月を眺めている――この空は、都で眺めるのと同じ空なのだぞと知らせてやりたいものだ。懐かしい京の人々よ、あなた方もこの月を眺めているだろう。)  
河月をよませ給ける  
てらしみよ御裳濯みもすそ川にすむ月もにごらぬ波の底の心を(新葉579)  
(御裳濯川の面に澄んだ影を映す月も、波の底まで照らしてご覧ぜよ、その川水のように濁りなく明澄な我が心を。)  
題しらず (二首)  
まだなれぬいたやの軒のむら時雨おとを聞くにもぬるる袖かな(新葉1119)  
(まだ慣れない板葺きの粗末な小屋で、軒を叩く通り雨の音を聞くにつけても、我が身の境遇が思いやられ、悲しくて涙に濡れる袖だことよ。)
夜な夜なのなぐさめなりし月だにも待どほになる夕ぐれの空(新葉1120)  
(夜ごとに眺める月だけが心の慰めになった――しかし月の出が遅くなるにつれて、それさえ首を長くして待つことになる、夕暮の空よ。)
先帝は今日、津の国昆陽野の宿といふ所に着かせ給ひて、夕づく夜ほのかにをかしきをながめおはします。  
命あればこやの軒ばの月も見つ又いかならん行末の空(増鏡)  
(命があったので、昆陽の宿の軒端に射す月も見ることができた。これから先はどうなるのだろうか。)  
題しらず  
うづもるる身をば歎かずなべて世のくもるぞつらき今朝のはつ雪(新葉1130)  
(初雪が積もった――我が身がこのまま世に埋もれてゆくとしても、歎きはしない。それよりも、世の中がおしなべて曇ってしまうのが辛いのだ、今朝の雪模様の空のように。)   
後醍醐の女性関係と皇子たち 
はじめに  
十四世紀日本を彩った個性的な帝王・後醍醐天皇。彼は関係した女性が三十人以上、儲けた子供は三十二人(醍醐天皇に次ぐ歴代二位)とこちらでも傑出した存在でした。その皇子たちは、後醍醐の理想を求める戦いに巻き込まれ、数奇な運命をたどる事になります。そこで、今回は後醍醐天皇の主要な女性関係と、皇子たちの略歴を挙げていきたいと思います。皇子たちには南朝の旗頭として大きな役割をした人物も多く、後醍醐の国家戦略を見る上でも有用であろうかと思います。といっても、「帝王後醍醐」末尾に掲載された表を写して解説を加えただけですけどね。
後醍醐と后妃・皇子たち  
中宮 西園寺禧子(光厳より礼成門院、後醍醐より後京極院)  
関東申次として朝廷で権力を振るっていた西園寺実兼の娘。正和二年(1313)、後醍醐が実家より浚って手にいれたという。時に数え十一歳。後醍醐即位後には中宮となる。間に懽子内親王を儲けた。  
懽子内親王:後に光厳院に入内し宣政門院と号する。  
二条為子  
二条為世の娘。二条家は和歌宗匠の家柄で、彼女自身も「新後撰集」に五首入集するなど優れた歌人であった。権大納言典侍として後二条天皇(後醍醐の異母兄)に仕える。しかし後醍醐は彼女と通じて尊良親王、宗良親王、瓊子を儲けている。  
尊良親王:「増鏡」「太平記」によれば第一皇子。後醍醐が元弘元年(1331)に挙兵した際には従って笠置に篭った。笠置が陥落すると捉えられて土佐に流されるが、元弘三年(1333)に脱出して九州に渡り現地豪族に擁立されて挙兵している。足利尊氏が挙兵して建武政権が崩壊した延元元年(1336)には恒良親王と共に新田義貞に擁されて越前金ヶ崎に入っている。翌年、金ヶ崎城陥落の際に自刃。  
宗良親王:第三皇子。当初は「尊澄法親王」と名乗り天台座主として叡山の把握を期待される。後醍醐挙兵時には叡山で挙兵するも失敗、笠置に移って後醍醐に随行するも捕らえられ讃岐に流される。後醍醐が吉野に移ってからは還俗して遠江・信濃などを中心に甲信越・北陸各地を巡り南朝の拠点建設に従事する。後村上から征夷将軍に任じられ、正平七年(1352)に関東の南朝方が一斉蜂起した際にはその総大将を務めている。なお、本来は文人気質であったようで南朝方歌人の和歌を掲載した准勅撰「新葉和歌集」や私家集「李花集」を編纂している。  
瓊子:隠岐に流された後醍醐を慕い、米子で尼として過ごしたとされる。尊良・宗良にも言える事であるが、為子との間の子は後醍醐への無私な献身が光る傾向にある。また、母の血を受け継いだのか歌人としての素養が目立つ。  
遊義門院一条  
西園寺実俊の娘。後宇多院(後醍醐の父)に仕えてその子を産む。後醍醐との間には世良親王、欣子、静尊法親王を儲ける。  
世良親王:「増鏡」によれば第二皇子。西園寺家の女性を母としていた事や聡明であったことから後醍醐から後継者として期待された。元徳三年(1330)に若くして病没している。  
静尊法親王:聖護院門跡となったとされる。  
民部卿三位  
北畠親子(師親の娘)とされる。伏見天皇(持明院統)、次いで亀山院(大覚寺統の祖、後醍醐の祖父)に仕えて亀山院の子を産む。後醍醐との間には護良親王、妣子内親王ともう一人皇子を儲けた。  
護良親王:第四皇子と思われる。通称「大塔宮」。「尊雲法親王」として天台座主に任じられ叡山を味方につける事を画策。この際、武芸の訓練に余念がなかったと伝えられる。後醍醐が元弘元年(1331)に挙兵すると叡山僧兵達を尊澄法親王(宗良親王)と共に組織して挙兵するが失敗。その後は楠木正成の赤坂城に入り、更に吉野山中を巡って現地豪族を味方につけ、更に修験道組織を利用して赤松円心を始めとする各地の豪族に挙兵を促して組織化した。後醍醐が隠岐に流されている期間には総司令として活動しており、上述の戦略が戦況の変化に大きく貢献する事となる。戦後には征夷大将軍に任じられるが、足利尊氏と対立し更に後醍醐によってその勢威を警戒され最終的には失脚。足利氏の勢力圏である鎌倉に送られ、建武二年(1335)には殺害された。  
亀山院皇女  
詳細不明。後醍醐との間に恒性皇子を儲けたとされる。  
恒性皇子:大覚寺門跡に任じられ、元弘の変では反幕府派に擁立され挙兵。捕らえられ越中に流され、処刑される。  
山階実子  
山階左大臣・洞院実雄の娘。始めは後宇多院に仕えたが、後醍醐との間に皇女を儲ける。  
後宇多院権中納言局  
後宇多院に仕えるが、後醍醐との間に皇女を儲ける。  
吉田定房女  
後醍醐を養育した吉田定房の娘。後醍醐即位時に典侍として参列した事が「天祚礼祀職掌録」から知られているが、側室であったかは確証なし。  
阿野廉子(新待賢門院)  
下級貴族・阿野公廉の娘。中宮禧子に当初は仕えていたが、後醍醐に寵愛され恒良親王、成良親王、義良親王、祥子内親王ともう一人皇子を儲けている。後醍醐が隠岐に配流された折には同行し、建武政権では多くの所領を与えられ隠然たる権勢を振るう。彼女の周囲に千種忠顕・名和長年・結城親光などが派閥を形成し、不満を招いたのが建武期における混乱の一因とされた。彼女が寵愛された関係から、立太子された皇子が多い。その中でも義良は即位して南朝第二代・後村上天皇となる。  
恒良親王:建武政権下で皇太子として立てられる。延元元年(1336)、建武政権が崩壊した際には後醍醐から皇位を譲渡されて新田義貞と共に越前に移った(ただし後醍醐は吉野に逃れた際に再び自身が天皇であると主張し、恒良の皇位は無視されている)。現地で綸旨を発して豪族を味方につけ拠点建設に当っているが、翌年に越前金ヶ崎城が落城した際に捕らえられた。「太平記」によれば足利方により毒殺されたとされるが、真偽は不明。  
成良親王:建武政権下で、足利直義によって擁立され鎌倉将軍府の長とされる。足利尊氏が後醍醐から三種の神器を譲り受けて持明院統・光明天皇が即位した際には尊氏により皇太子に立てられている。しかし、後醍醐が吉野に逃れた後には位を廃されたようだ。「太平記」によれば足利方により毒殺されたとされるが、その後も生存していたという史料も存在し真偽は不明。  
義良親王(後村上天皇):建武政権下で、北畠顕家により擁立され奥州将軍府の長となる。顕家が奥州から京を目指して西上した際に途中で吉野に移されており、吉野で立太子している。後醍醐が病死した後に即位。後村上天皇と呼ばれる。北畠親房の補佐を受けて足利方への抵抗を行うが、戦局に利あらず吉野から賀名生へ行宮を移すはめになっている。更に戦況によって観心寺・金剛寺・住吉神社などに行宮を移している。足利方の内部分裂に乗じて何度か京を取り戻す事に成功しているが、いずれも一時的なものに終わった。晩年には楠木正儀(正成の子)を信任して足利方と対面が立つ条件で和平使用と画策しているが、果たせぬうちに病没した。  
北畠大納言典侍  
北畠師重の娘。  
北畠小大納言  
上記の妹。  
藤原為道女  
中宮禧子に当初は仕えていたが、後醍醐との間に躬良親王、懐良親王に加え皇女を儲けた。  
躬良親王:後に仁和寺に入り法仁法親王と称した。  
懐良親王:後醍醐が吉野に移った後、九州に南朝方の拠点をつくるため「征西将軍」に任じられた。延元三年(1338)に四国に入るもののすぐには九州に移れずしばらく伊予の忽那島で水軍の保護を受ける。正平三年(1348)に九州に上陸し、以降は菊池氏に擁立され九州制覇を目指す。しばらくは現地での尊氏方・足利直冬方・南朝方の争いに乗じて勢力拡大を図り、正平十三年(1358)に筑後川合戦で菊池武光が少弐氏を破ったのを契機に二年後に大宰府を制圧し九州全土を十三年間にわたり支配下に収めた。しかし足利方の今川了俊により文中元年(1372)に大宰府を失い、弘和三年(1383)に失意のうちに病没。大宰府失陥直前、明と国交を持ち「日本国王」に封じられており、明の後援を得て劣勢を挽回しようとしていた可能性が指摘される。  
世尊寺経朝女(勾当内侍)  
後醍醐との間に皇女を儲けるが、後に北畠具行に賜る。  
民部卿局  
後醍醐との間に皇女を儲ける。  
洞院守子(従二位)  
左大臣洞院実泰の娘。玄円法親王を儲ける。  
玄円法親王:南都興福寺一乗院の門跡となる。  
藤原為信女(少将内侍)  
当初は後二条天皇に仕えていた。  
藤原親子(中納言典侍)  
後醍醐との間に花園宮を儲ける。  
花園宮:「帝王系図吹上本」によれば名は満良親王。四国に派遣され南朝拠点建設の旗印とされたことがあるようだ。  
基時朝臣女  
後醍醐との間に皇女を儲ける。  
菅原在仲女(少将内侍)  
後醍醐との間に聖助法親王を儲ける。  
四条隆資女  
後醍醐との間に醍醐宮を儲ける。因みに隆資は後醍醐の近臣であり、楠木正成とも関係が深かった。  
新中宮 c子内親王(新室町院)  
持明院統の後伏見院の皇女。建武政権成立直後に中宮禧子が没したため、立后。後醍醐との間に皇女を儲けている。  
藤原栄子(安福殿女御)  
関白・二条道平の娘。母は菊池武時の姉という説もあるが真偽不明。  
世尊寺経尹女(新勾当内侍)  
世尊寺行房の妹。「太平記」によれば新田義貞に賜ったというが真偽不明。  
藤原保藤女(新按察典侍)  
後に護良親王に仕えて南御方と称される。「太平記」によれば護良の最期を見届けている。  
洞院公敏女(大納言局)  
詳細不明。  
洞院公泰女  
詳細不明。  
坊門局  
後醍醐との間に皇女を儲けた。  
帥典侍讃岐  
詳細不明。  
藤原為忠女(遊義門院左衛督局)  
後醍醐との間に皇女を儲けた。  
源康子(飛鳥井局)  
源康持の娘とされる。他の詳細は不明。  
源康持女(若水局)  
詳細不明。  
昭訓門院近衛  
後醍醐との間に皇女を儲けた。  
洞院実明女  
後醍醐との間に皇女を儲けた。
おわりに  
なんというか、やはり壮観です。英雄色を好む、の典型といえそうですね。一夜の関係も入れるともっといるかもしれません。祖父や父・兄の側室や、挙句の果てには叔母にまで手を出している辺りは乱脈ここに極まれりです。おまけに十一歳の少女を浚って我が物にするという「若紫」並みの事をしている一方で十五歳年上の女性にも手をつける守備範囲の広さをも見せ付けています。ここまでくると天晴れですね。まあ、後醍醐だけではなくこの当時の宮廷における男女関係は相当に乱れていたのです。例えば持明院統・大覚寺統それぞれの始祖である後深草・亀山とも異母姉妹に手を出して子を産ませています。更に、後深草の愛人であった後深草院二条は西園寺実兼や亀山とも関係を持っています。  
そしてその一方で、多くの子供達をしっかりと手駒として有効活用しているあたりも強かですね。皇位の望みがない皇子が寺院に入るのは慣例でしたが、後醍醐の場合はそれも寺社勢力を把握してその経済力・軍事力を味方に付けるのに利用しているのですから凄まじい。また戦乱になると各地方に派遣されてその地域に拠点建設することを期待されるなど皇族として異例なほど波乱万丈な生涯を余儀なくされる例が多いです。そうした皇子の中には単なる手駒では終わらずその個性を輝かせた存在も何人か存在しており、今日まで歴史上に煌きを残しているのです。
太平記1 / 楠木正成の実像と虚構 
楠木正成の『太平記』への登場は、衝撃的であると同時に、神秘的な伝承に包まれている。元弘元年(一三三一)八月下旬、六波羅ろくはら勢の追及を逃れて和束わつかの鷲峰山じゆぶせんへ、さらに木津川と伊賀街道を見下ろす要衝の地笠置山かさぎやまへと赴いた後醍醐ごだいご天皇は、山上に仮の皇居を定めて諸国の軍勢を集めた。笠置から伊賀街道を西へ走ると南山城みなみやましろの木津、そこから大和やまと道みちを北へ進路をとれば京、南へ下れば奈良・河内へ通じることができる。笠置寺や南都の僧兵たち、それに近国の武士たちが山上に集まったが、名のある御家人ごけにんクラスの武将は一人も参上しない。焦りを感じた天皇は、まどろみの中で不思議な夢を見る。宮中の紫宸殿ししんでんの庭らしき所に大きな常磐ときわ木ぎがあり、緑の陰がひろがった南向きの枝の下に、大臣以下百官が列座しているが、上座には誰も座っていない。天皇がいぶかしく思っていると、鬘びんずらを結った二人の童子が忽然こつぜんと天皇の前に現れて、その座へ案内したかと思うと、童子は天上へ消えてしまう。目覚めた天皇は自ら夢合わせをする。「木の南」、つまり楠の木の下に、南に向って座れというのは、天子としての徳を治め、日本国中の者どもを自分に仕えさせようとの神仏のお告げに相違ない。そう信じた天皇は、笠置寺の僧を呼んで、この近くに「楠」という武士はいないかと尋ね、近くではないが、河内国金剛山かわちのくにこんごうさんの西に、楠くすのき多聞兵衛正成たもんのひようえまさしげという武士がいることを知る。彼は橘諸兄たちばなのもろえの後胤こういんで、軍神毘沙門天びしやもんてんの申し子であるという。勅使万里小路までのこうじ中納言藤房ふじふさを居館に迎えた楠木正成は、すぐに笠置へ忍んで参上し、天皇に「天下草創の功は、武略と智謀の二つにて候ふ」と奏上する。また、武力だけで幕府軍と戦うならば、全国の武士を集めたとしても勝つことはできないが、謀はかりごとをもってすれば勝利を得ることはたやすいと言い、続けて、「合戦の習ひにて候へば、いつたんの勝負をば必ずしも御覧ずべからず。正成一人いまだ生きてありと聞きこし食めし候はば、聖運せいうんはつひに開くべしと思おぼし食めし候へ」と、頼もし気に勅答して、河内へ帰って行くのであった。  
兵法の権化、天皇の御治世を実現するに相違ない武将として『太平記』にさっそうと登場する正成は、すでに後醍醐天皇との間に何らかの関係を持っていた。『増鏡』巻十五「むら時雨」には、「笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、つは物ども参りつどふ中に、事のはじめより頼み思されたりし楠の木兵衛正成といふ物あり。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、をのが館のあたりをいかめしくしたゝめて、このをはします所、もし危あやふからん折は、行幸をもなしきこえんなど、用意しけり」とあり、赤坂城への行幸も予定していたと記されている。さらに、笠置城陥落以前に、尊良親王たかよししんのう・護良もりよし親王は城を出て、「楠の木が館におはしましけり」ともあるので、正成が大塔宮おおとうのみや護良親王そして後醍醐天皇との密接な連繋れんけいのうえで行動していたことが知られるのである。  
幸いにも、この頃の正成に関する確実な史料がある。それは正慶元年(一三三二)六月日の日付のある、「故大宰帥親王家こだざいのそちしんのうけ御遺跡臨川寺領りんせんじりよう等目録」(天竜寺文書)中の和泉国若松荘(大阪府堺市)に関する部分である。  
一、同国(和泉国)若松庄  
内大臣僧正道祐だうゆう、競望けいばうし申すに依よつて、去んぬる元徳三年二月十四日、不慮に綸旨りんじを下さるるの由、承り及ぶの間、已すでに仏陀に施入せにゆうするの地、非分に御綺おいろいの段、歎なげき申すの処ところ、同廿五日、綸旨を寺家に成され了おはんぬ。しかるに悪党楠兵衛尉、当所を押妨あうばうするの由、風聞ふうぶんの説に依つて、かの跡と称し、当国の守護御代官、去年九月の比ころより、年貢以下を収納せしむるの条、不便ふびんの次第なり。守護御代官、今に当知行たうちぎやう、当所領家、故親王家年貢三百石、領家一円の地なり、本家仁和寺勝功徳院  
元徳二年(一三三〇)九月十七日に忽然と世を去つた世良よよし親王は、後醍醐天皇が将来を嘱望した御子で、『増鏡』巻十五「むら時雨」にも「一の御子(尊良)よりも御才ざえなどもいとかしこく、よろづきやうざく(警策。すぐれていること)に物し給へれば、今より記録所へも御供にも出でさせ給(ふ)」とあり、天皇が日常政務を見学させるほどであった。親王の乳父めのとであった北畠親房は、「我世つきぬる心地して」、この時に出家してしまった。その世良親王の遺命によって臨川寺に寄進された十八ヶ所の荘郷の一つが和泉国若松荘である。目録は原文は漢文で書かれ、大意は以下の通りである。  
若松荘を内大臣中院通重なかのいんみちしげの子で醍醐寺の僧正道祐が臨川寺りんせんじから奪おうとして後醍醐天皇に望み、天皇は翌三年二月に綸旨を出して道祐の所有を認めたが、臨川寺の抗議により撤回、臨川寺領と認めた。ところが、天皇の倒幕計画が発覚して、同年八月天皇は宮中を脱出、笠置に逃れ、正成は九月に赤坂城で挙兵した。すると、和泉国守護代は、「悪党楠兵衛尉」がこの若松荘を横領していたという風聞に基づき、悪党正成所有の土地という理由で、前年九月頃から荘園の年貢などを奪い、正慶元年六月の今にいたるまで、本荘を知行していて、困ったことである。なおこの若松荘は故親王家がこの荘園全体の一定の年貢収納のみの権利を持つ領家職を持っていて、その年貢は三百石であり、本所職は仁和寺勝功徳院が所有している。  
この目録は、正慶元年六月に作成され、当時院政を執っていた持明院統の後伏見上皇に寺領安堵あんどを願うべく提出されたものであることを考える必要がある。後醍醐天皇は隠岐に流されて四か月、正成はまだ潜伏中である。この臨川寺は、世良親王の別業が、その遺志によって後醍醐天皇の許可を得て寺となったものである。臨川寺としては、後醍醐天皇と固く結びついている文観もんかんの弟子である道祐や正成がこの荘園を管理していたことを隠し、持明院統を支える幕府勢力の侵入を食い止める必要があった。当時の和泉守護は幕府最後の連署れんしよ(両執権)である北条茂時しげとき、守護代はその被官信太しのだ左衛門三郎と考えられる(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)。大覚寺統の世良親王が所有していた土地を、反対派の持明院統の上皇に認めてもらおうというのであるから、臨川寺の「作文」はなかなか難しいのである。後醍醐側の正成を、「悪党」と非難し、その行為が正当なものであっても「押妨」(暴力的な所領侵入)だと主張する必要があった。  
右の文書が後伏見上皇の許に提出されて半年後、潜伏していた正成は再び活動を始め、十二月には奇想天外な戦法によって、幕府方の湯浅定仏じようぶつらの立たて籠こもる赤坂城を奪還する。『太平記』では、その八か月前、元弘二年(正慶元年)四月の合戦とし、正成の潜伏期間を一年二か月から六か月に縮めている。この赤坂城奪還作戦から正成の第二次の挙兵・合戦が始まるのであり、翌元弘三年(正慶二年)一月五日には南河内の紀州との境に位置する甲斐荘安満見あまみ(天見)で紀伊国の御家人井上入道を駆け散らして北上し、十四日には羽曳野はびきの市あたりまで進出して河内守護代らを破り、十五日夜には「楠木丸与二官軍一(六波羅軍)於二泉堺一合戦」(『道平公記』正慶二年一月十六日条)している。楠木勢の進撃がいかに迅速であったかは、当時の記録である『楠木合戦注文』の「同(一月)十五日 同国(河内国)御家人 当器とうき左衛門自ラ放火ス 中田地頭同 橘上地頭代同」という短い記事からも窺うことができる。周辺の地頭たちは、楠木勢の進攻に対応しきれずに、自邸に放火して、おそらくは逃げ散ったのであろう。十九日には、天王寺に城郭を構えた六波羅軍との熾烈しれつな、十四時間におよぶ合戦の末、楠木軍は勝利を収める。『道平公記』は「二十日 天王寺軍兵(六波羅軍)已降了。仍引退二渡辺一多以被レ誅云々」と記している。渡辺の橋詰まで六波羅軍を追い落した楠木勢は、二十日から二十一日までの二日間、天王寺に滞陣して、二十二日には赤坂・千早の本拠へ帰った。正成の天王寺合戦はこれで終了しており、『太平記』が名勝負として喧伝けんでんする、勇猛な紀清両党を率いる宇都宮公綱と楠木正成との間の、いわば名将同士の駆け引きは、明らかな虚構である。  
ここにもう一つ、正成の素顔を知る史料がある。先に引用した、前関白藤原道平の日記『道平日記』の正慶二年閏二月一日、すなわち、天王寺合戦の一か月と十日後の記事である。  
一日乙丑 或人語云、近日有二和歌一くすの木のねはかまくらに成ものを枝をきりにと何の出るらん  
六波羅探題館の門に貼はられていた可能性もないではないこの落首を、道平に伝えた者は誰か、という点にも興味を覚えるが、道平は感想を述べず、意識的にか、落首の出所について何も記していない。国文学者の長坂成行氏は、「正成は無名であったが、(太平記の)作者は正成を知っていた。正成の出自・経歴、すなわち『ねはかまくらに成る』という過去と、幕府を裏切って後醍醐方として挙兵した事実を知っていて、しかしそのことを全く記さなかった。憶測に過ぎないが、作者は正成に関しては〈裏切り〉という行為を描きたくなかった。(中略)広い洛中には、だが正成の素姓を知る者もいて、それが問題の落首として顕現したのであろう」と推測した(「『道平公記』の和歌一首」軍記と語り物 23 一九八七・三)。この落首も、都の人々がよく知っていて、しかし、作者が『太平記』の中で意識的に披露しなかった落首の一つだと解釈すると、興味は広がっていくのではなかろうか。  
楠木正成が幕府の御家人や北条得宗の被官だった可能性については、歴史家によって古くからいわれてきた。とくに網野善彦氏は一貫してそのことを主張し、戦前・戦後の正成の「虚像」から、もう自由になってよいころではないかと述べておられる。『吾妻鏡』建久六年(一一九五)十一月七日条に見える、武蔵国の御家人と推定される頼朝の随兵の一人「楠木四郎」は、確実な史料に登場する楠木氏の初見記事である。また、江戸時代に編輯されたとはいえ、おそらくは確実な資料に基づいていると推測される『高野春秋編年輯録』および林羅山の『鎌倉将軍家譜』の両書に見られる、正成が北条高時の命によって自分の根拠地である河内国金剛山の麓ふもとからさほど隔っていない保田荘の荘司を討伐したという記事等を、さきに見た落首および和泉国若松荘に関する記録と考え合わせるならば、楠木正成は、その軍事力を得宗北条高時から評価されていた河内国の代表的な御家人・得宗被官だったのではあるまいか。  
『太平記』作者が、北条政権に対する後醍醐天皇の勝利を確信させる人物として形象したのがこの正成であり、正成形象化の中心を、作者は「不思議」という語によって捉えようとした。たとえば千早城合戦では、「大軍之近ヅク処、山勢是ガ為ニ動キ、時ノ声ノ震フ中、坤軸須臾コンジクシユユニ摧クダケタリ、此勢ニモヲソレズ、纔わづかニ千人ニタラヌ小勢ニテ、誰ヲ憑タノミ、何ヲ待トシモ無ナキ城中ニ、コラヘテ防ギ戦ヒケル、楠ガ心ノ程コソ不思議ナレ」(西源院本)のように、わずかな手兵しゆへいで千早城を守る正成の「武略と智謀」とを考えるとき、とても人間わざとは思えないのである。このように超現実的なものへの驚きが「不思議」である。これが時を経て天正本になると、「楠が心の程こそいかめしけれ」と、正成の精神のありようへの賛嘆へと移行する。正成の、「不思議」としかいいようのない「武略と智謀」に通底する、近寄りがたい人間存在の持つ威圧感すら感じさせる語が「いかめし」である。そこには表現者の、正成への深い尊敬の念が見られる。この「いかめし」の語が、流布本では、「楠ノ心ノ程コソ不敵ナレ」と、現実的な不羈ふきの精神を示す「不敵」という語に置き換えられている。いってみれば、古態本の超現実的なレベルでの賞賛から、天正本の倫理的な視点を経由して、流布本の日常的・現実的レベルでの賛嘆へと変化しているのである。  
なお、本書は水府明徳会彰考館蔵天正本『太平記』を底本としている。天正本は巻一の巻末に「于時天正廿暦終春第九天/書之畢」の奥書を有し、ほぼ全巻一筆の完本であり、広く知られている神田本から流布本に至る諸本群と対立する天正本系写本四本(他は龍谷大学本・義輝本・野尻本)の中の最善本である。流布本に対する天正本の主な異文は『参考太平記』の中で紹介されて古くから注目されていたが、全文が活字化されるのは今回初めてである。 
太平記2 / 後醍醐天皇と足利尊氏 
『太平記』の中で後醍醐ごだいご天皇の実像が最も鮮明に描かれている箇所は、巻十七の「儲君を義貞に付けらるる事」とその直前の「堀口還幸を抑へ留める事」の章段ではなかろうか(古態本の西源院本で見ると、「自山門還幸事」「堀口押留還幸事」「立儲君被付義貞事」の三章段に相当する部分である)。建武三年(一三三六)五月、この年、再び比叡山に難を避けた後醍醐天皇は、宮方の度重なる敗戦によって、「京勢(足利方)は籠かごの中を出いでたる鳥の如くに悦び、宮方は穽あなに籠こもりたる獣の如くに縮つづまれり」(本文:三八二ページ)という状況に堪えがたくなっていた。ほぼ半年に及ぶ山上生活である。宮方に一本化しているかと思われた僧徒たちも、将軍足利尊氏あしかがたかうじから「数箇所の庄園を寄附」されて切り崩され、「目の前の欲に身の後の恥を忘れ」て武家方に寝返ったが、それも、「山門の衆徒財産を尽くし、士卒の兵粮を出だすといへども、公家・武家の従類上下二十万人に余りたる人数を、六月の始めより十月の中旬まで眷養けんやうしければ、家財ことごとく尽くして、ともに首陽に莅のぞまんとす」という有様では、非難できることではなかった。足利高経たかつねによる北国街道の封鎖、佐々木道誉・小笠原貞宗さだむねによる琵琶湖運送の停止によって、山上の軍勢と僧徒たちは耐乏生活の限界を超えようとしていた。  
一方、湊川合戦ののち、直義ただよしを都へ入れ、尊氏自身は石清水八幡に留まって、六月三日に光厳こうごん上皇と豊仁ゆたひと親王を迎えていたが、同月十四日に上皇と親王を奉じて東寺へ移った。そして『太平記』が六月三十日・七月十三日・同十七日の三度にわたる京合戦に構成している(本文:三五六ページ頭注)六月三十日の合戦が行われるのであるが、この合戦は宮方が奇襲作戦でなく正面から武家方と戦いえた最後のもので、名和長年なわながとしが六条大宮で戦死している。この日の合戦を前にして、早朝、光厳上皇に宛ててしたためたとされる尊氏の文書が近年天龍寺で上島有氏らによって発見された(「毎日新聞」一九九〇年四月一一日)。  
美濃国大榑庄おおぐれのしよう、播磨国多可庄たかのしようは、去月二十五日、楠木判官正成湊河において討ち取らしむ恩賞に宛てらるべきか。ここに新田義貞已下凶徒等、山門に逃げ籠り城墎を構ふ。討手を差し遣るべき旨院宣を成さるるなり。この旨畏み奉り、達し奉らしめ給ふべく候ふ。(原文は漢文)  
この文書は、武士の棟梁権を自分と争う資格を有する新田義貞につたよしさだを、光厳上皇の院宣によって朝敵としている点で、章段「堀口還幸を抑へ留める事」の冒頭に記されている山上の後醍醐天皇への誓言(本文:三八三ページ)と軌を一にする。後者は、前年の十月中先代の乱を鎮めるために東下した際に天皇に背くようになったのは義貞・義助らのせいであること、天皇に対しては少しも反逆の意志がなかったことを述べ、「ただ義貞が一類を亡ぼして、向後の讒臣ざんしんを懲らさんと存ずるばかりなり」(本文:三八四ページ)という。そして、「天下の成敗」を朝廷にお任せするから京へ還幸していただきたい、と諸神勧請の起請文を添えて懇願するのである。後醍醐天皇は「傍かたへの元老・智臣にも仰せ合はせられず」、すぐに尊氏の申し出を受けて、還幸の決意をする。尊氏は、「『さては、叡智浅からずと申せども、欺くに安かりけり』と悦んで、さもありぬべき大名どもの許へ、縁に触れ趣を伺つて、潜かに状を通じてぞ語らはれける」と、『太平記』作者は語っている。これほど上手く「御和談」(『建武三年以来記』)が運ぶとは思っていなかった、という筆致である。さっそく、新田方の武将に対する切り崩し、誘いが行われ、その結果が「新田の一族にて、いつも一方の大将」(本文:三八五ページ)である江田行義えだゆきよし・大館氏明おおだちうじあきらの、還幸供奉のために持ち場を放棄しての登山となって現れている。このあたりの『太平記』作者の語り口は驚くほど鮮やかである。  
義貞の部将で新田氏一族の堀口貞満ほりぐちさだみつが皇居へ駆けつけると、還幸の仕度は完了していた。貞満は鳳輦ほうれんの轅ながえに取りついて、多年忠功の義貞を見捨てて、「大逆無道の尊氏」に叡慮を移されるとは、どのような「不義」が義貞にあったからなのかと詰め寄る。続いて、「今洛中数箇度の戦ひに、朝敵勢盛んにして、官軍頻りに利を失ひ候ふ事、全く戦ひの咎にあらず。ただ帝徳の欠くる所に候ふかによつて、御方みかたに参る勢のすくなき故にて候はずや」(本文:三八七ページ)という。これは、この年の二月、尊氏が兵庫から筑紫へ落ちたときに、楠木正成くすのきまさしげが天皇に、今回自分が河内・和泉の守護として兵を集めようとしても集まらない、敗軍の尊氏に武士たちは手弁当で従って行こうとしているのだ、と言い、自分が天皇と尊氏との仲介をするから尊氏を都へ呼び返していただきたいと献言したこと(『梅松論』)を読者に思い起させる。『太平記』作者の時代認識を反映している表現だといえよう。貞満はさらに、どうしても天皇が京都へ還られるのならば、義貞をはじめとする新田氏一族五十余人の首を刎はねてからにしていただきたい、と諫めた。このあたり、貞満の姿は、すでに義貞と一体化しているのである。そこで、天皇も後悔の色があるものの、  
「貞満が朕を恨み申しつるところ、一儀その謂れあるに似たりといへども、なほ遠慮の足らざるに当れり」(本文:三八八ページ)と自己正当化を計るが、天皇自身やましさはやはり消えなかったようだ。「天運いまだ時到らずして兵疲れ、勢ひ廃れ」(本文:三八九ページ)たから、尊氏と「いつたん和睦の儀を謀つ」たのだという。こうして皇太子恒良つねよし親王に譲位して、義貞につけて北陸へ下向させることで、義貞を慰めるのである。天正本では、夜ひそかに日吉社の大宮権現に祈念する義貞について、「誠に勇士家を起して、望むに子孫を思ふことあれば、義貞も北国へ落ちて、事もしならずはと、子孫のために祈念を尽くされける心の中こそ哀れなれ」(本文:三九〇ページ)と増補して、義貞を切り捨てる後醍醐天皇との違いをきわだたせようとしている。  
後醍醐天皇還幸の要請は三種神器の北朝への引き渡し以外には考えられない。光明天皇(豊仁親王)の践祚の儀はこの年(建武三年)八月十五日に権大納言二条良基よしもと邸で行われた。このことは巻十九の冒頭章段「豊仁王登極の事」に詳しいが、この二日後の八月十七日に、尊氏は自筆の願文を清水寺の観世音菩薩の宝前に納めている。  
この世は夢のごとくに候。尊氏に道心給たばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候。今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候。  
   建武三年八月十七日尊氏 (花押)  
 清水寺  
神奈川県の常盤山文庫に蔵されているこの願文は、自分に道心を授けて欲しい、早く遁世がしたい、今生の果報は弟の直義に与えて欲しい、と願っている。仮名文字のややたどたどしい願文で、終りに行くと文字も少し小さく、文字と文字の間隔も詰ったものとなっていて、はじめから字配りなどを考えて書かれたものではなく、もしかするとある錯乱状態で書かれたものではないか、とさえ推測される。宮方の攻撃によく耐え、六月三十日の大合戦に勝利を収めて、豊仁親王を位につけることにも成功し、幕府を開き建武式目を制定することも完全に予定されたこの時期は、三十二歳の将軍尊氏にとって得意の絶頂にあったのではないかと想像されるのに、なぜこのような願文を書いたのか。前年九月、鎌倉で建長寺(『梅松論』では浄光明寺)に籠って、後醍醐天皇に恭順の意を表した尊氏の姿に重なるものがある。  
さきに掲出した、六月三十日合戦当日に治天の君光厳上皇に奉った文書は、それまで決着のつかなかった合戦の中で、自らの万一の場合をも考えたうえでの細やかな配慮のもとに書き記したものであろう。冷静に計算することのできる、しかも人心収攬にたけた政治家像が思い描かれる。それに対して清水寺に納めた願文は、三種神器を欠く光明天皇擁立が無理を通したものであることを痛感し、敬慕する、ないしは精神的にあらがうことを自分自身好まない後醍醐天皇を欺き、還幸を奏請する折衝の日程を暮夜考えて、おそらくは不安定な精神状態の中でこれを書いたのではないか。この願文は遁世することの代償行為だと考えられないであろうか。「この世は夢」のようなものだとは承知していても、半年前に筑紫落ちをして以来のことを考えると、この世の転変、自分が一族だけでなく、武士階級の未来を創っていかなければならないという、目のくらむような責任などを考えると、矢も盾もたまらずに、願文をしたためたくなったのであろう。このように考えることが許されるならば、生身の尊氏はこれら二通の文書の間を往復している存在だということがいえよう。  
近年、『太平記』の全体像を、後醍醐天皇の物語として読み解こうとする論が盛んになろうとしている。その嚆矢こうしは長坂成行氏の「帝王後醐醍の物語―『太平記』私論―」(「日本文学」一九八二・一)であろう。氏は後醍醐天皇は作品中に「意志の人」として登場し、「重要な判断を必要とする場面では、自らが断を下し運命を切り開いており、その意味で後醍醐は物語の流れを領導する主役」だととらえ、その「意志的・積極的な態度は、ともすればあくことのない執着心あるいは我意に任せての狭量さ・驕慢さを伴なって現われる」とする。そして、いわゆる第三部の世界で怨霊化する後醍醐は、巻二十三の冒頭章段「伊勢国より霊験を注進する事」(流布本は「大森彦七事」)で、怨霊となって大森彦七の所持する宝剣を奪おうと企てる楠木正成の言葉として、「先朝(後醍醐)は元来摩醯首羅まけいしゆら王わうの所変にてましませば、今還つて欲界の六天に御座あり」とあるところを指摘して、「摩醯修羅は即ち大自在天(シヴァ神)で、世界創造と破壊の最高神」であり、「冥界においても後醍醐は顕界に働きかける核となる」と考える。後醍醐天皇の崩御の姿が多くのテキストで「左の御手には法花経の五の巻を握らせ給ひ、右の御手には御剣を按じ」となっている点に注目したい。徴古館本には「五の巻」は見られない(神田本は欠巻)が、『法華経』第五巻は提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品を含むけれども、『太平記』作者が問題とするのは、死者が地下から現れ出ることを祈る涌出品の存在であろう。後醍醐天皇の亡骸を通常の南向きに葬らずに、北向きにして都の方角に対峙たいじするようにしたのもそのためである。怨霊となっての復活を暗示したものであり、巻二十一以降の『太平記』世界は、復活した後醍醐が、南朝方に属して失意のうちに死んでいった者たちの頂点に立って現世(顕界)に働きかけるという構造を持つのである。 
太平記3 / 佐々木道誉――『太平記』の内と外 
暦応三年(一三四〇)十月六日、ばさら大名佐々木佐渡判官入道道誉どうよ(彼自身の署名では「導誉」が多い)は、子息秀綱ひでつなと家人たちが惹ひき起した妙法院宮亮性りようしよう法親王(北朝の光厳上皇・光明天皇の弟)の坊人とのいさかいに自ら踏み込んで、御所に焼打をかけた。『太平記』巻二十一「道誉妙法院を炒やく事」は、この事件を詳しく記している。当時権中納言であった源通冬みなもとのみちふゆの日記『中院一品記なかのいんいつぽんき』の十月六日条には、「夜に入りて京辺に焼亡あり」(原文漢文)とあり、翌七日条に詳しい記述がある。  
伝へ聞く、去んぬる夜、白河妙法院宮(亮性親王、仙洞御兄弟なり)の御所、焼き払ふと云々。佐々木佐渡大夫判官入道々誉、并びに同子息大夫判官秀綱、かの御所に寄せ懸け放火し、散々に追捕・狼藉を致すと云々。かの秀綱は、去んぬる夕、竹園の御坊人と御所辺において喧嘩あり。その故の意趣か。累代門跡相承の重宝等奪ひ取り、或いは灰燼となす。言語道断の悪行、頗る天魔の所為か。これに依つて武家は雑訴を止め、山徒は蜂起すと云々。  
「御所辺」での「喧嘩」の意図が何であったのかは記されず、『太平記』にいうように、御所の「紅葉の枝」を折り取って、「諷詠閑吟」していた法親王を驚かせ、伺候していた門徒の延暦寺の法師によって叩き出されたかどうかは明確ではないが、いかにもあり得そうなことではある。通冬は十月二十六日条にその後のことを載せている。それによると、「今朝佐渡判官入道々誉父子、配流に処すと云々」として、この配流は「一向武家の沙汰」であり、山門の衆徒はなお「鬱憤」を抱いているという。その理由は、道誉の先祖定綱さだつなが建久年間(一一九〇〜九九)に日吉山王の下級社僧である近江国高島の神人じにんを殺害させた罰で遠島となり、その次男定重さだしげは山門の神人に引き渡されて、野洲やす河原がわらで首を刎はねられているが、「尩弱わうじやくの神人」を殺害した咎とがですらこのような処置があったのに、今回の事件は「山門の官長」に関わる事件でありながら罰が軽すぎるというものであると、衆徒の怒りを紹介して、通冬は、「尤もつともその謂いはれあるか」という。また、道誉父子の配流の行装について、「軽忽きやうこつ、不可思議なり。ただ遊覧の体ていをもつて先となす。武家の沙汰、軽式なり」と記し、「道々に酒肴を儲まうけ、宿々に傾城を弄もてあそぶ事尋常よのつねの流人に事様ことざま替つて、美々しくぞ見えける」(本文:二五ページ)と描く『太平記』と符合している。  
山門を嘲弄ちようろうするために、「猿皮さるかはうつぼに猿皮の腰当」をした遊山の体への怒りからと思われるが、山門では道誉父子の身柄引き渡しを朝廷に要求する。そこで、改めて十二月十二日に、道誉の名乗りは将軍尊氏と同名の高氏なので、配流に際しての先例にならって源峯方と改名したうえで、出羽国への配流を決定したのであるが、道誉父子を処罰する気のない幕府に逆らえない朝廷の姿を、通冬は書き残している。それによれば、配流決定をした際に、宣下せんげの奉行をする太政官の蔵人は、「所労」(病気)を理由にして欠席し、代りの役人もなかなか現れぬままに、早朝の予定が昼になり、それ以上延ばせないので、何とか形式を整えて宣下したのである。蔵人の欠席も怪しげな理由であり、奉行すべき公卿が前夜落馬したために不参というのも、疑わしいように思われる。道誉が、幕府に対する朝廷側の窓口である勧修寺経顕かじゆうじつねあきと、この時点ですでに親交をもっていたかは不明であるが、何らかの働きかけが公卿たちに対してこの時もなされていたであろうことは想像にかたくない。「江州ハ代々佐々木名字ノ守護ノ国」(巻十七。西源院本による)であり、妙法院の本山である延暦寺と佐々木氏との間には、国人の支配、したがって政治・経済機構の支配をめぐる積年の確執があったことがこの事件の背景をなしている。「ばさら・風流を事とし」た道誉の「その手の物ども」の惹き起した「喧」に便乗した感のある焼打事件は、建武三年(一三三六)の近江合戦から五年ぶりに訪れた大きな舞台であった、という見方も不可能ではない。前回の近江合戦は、道誉にとってまたとない国人支配の好機であったと同時に、積年にわたる山門に対する佐々木氏の鬱陶を晴らすよい機会であった。そして今回の妙法院焼打事件は、幕府内における道誉の重みを確認する好機であったと同時に、山門への揶揄やゆ・嘲笑のまたとない機会であった。将軍と直義ただよしには道誉を処罰する意志がほとんどないこと、むしろ処罰することの不可能であることを、あらかじめ計算に入れての乱暴ではなかったか。天正本では「上総国武射むさの郡こほりへ流されけり」とするが、武射郡には佐々木氏の所領がある(諸本は武射郡の南の「山辺郡」とする)。配所まで実際に行ったかどうかもはっきりせず、翌暦応四年(一三四一)八月十四日以前に、直義の命によって、伊勢国の南軍追討に発向している(朽木文書・尊勝院文書)ことから考えれば、処罰は形式にすぎなかったことがよく理解できる。まさに「武家の沙汰、軽式なり」(中院一品記)であった。  
妙法院焼打事件からほぼ十年後、貞和五年(一三四九)六月の四条河原の田楽でんがく桟敷が倒壊して死傷者が多数出た事件(巻二十六・洛中の変違并びに田楽桟敷崩るる事)、閏うるう六月の直義による師直もろなおの執事権罷免に続いて、京中を騒擾そうじように巻き込んだ足利直義派と高こうの師直派の正面対決は、同年八月の師直の反撃、直義の政務辞退と義詮よしあきらの上京、直義の出家(巻二十六・御所囲む事・義詮朝臣上洛の事・直義朝臣出家の事)、さらに直義派の上杉重能しげよし・畠山直宗ただむねの配流・刑戮けいりくという師直派の徹底的な行動によって、師直派の勝利に終ったかに見えたが、直義は翌観応元年十月ひそかに京都を脱出して大和へ向い、十二月に南朝と手を結んだ(巻二十七・直義禅閤逐電の事・恵源南朝へ参らるる事)。八幡山に陣を構えた直義のもとには畠山国清くにきよが駆けつけ、北国から桃井直常もものいただつねが攻め上って、比叡坂本に到着し、義詮を京から追い出した。直義軍は播磨の光明寺合戦、摂津の打出うちで合戦で、将軍と行動を共にした師直・師泰らを破り、武庫川むこがわ辺で師直らは上杉重能の子能憲よしのりによって殺害された(巻二十八・師直師泰等誅伐の事)。勝者となった直義は再び政務の座に就いた。入京した尊氏にとって形は和睦とはいえ、事実は惨憺たる敗北であったが、尊氏派の枢要メンバーである道誉、仁木頼章にきよりあき・義長よしなが兄弟、土岐頼康ときよりやす・細川清氏きようじら七人は、「罪名を宥され、所領等悉く安堵せしむ」(房玄法印記)という宥免ゆうめん措置を得ることができた。森茂暁氏は、「この寛大な措置の背後に、将軍尊氏の直義に対する強力な宥免要請があったろうことが推測される」(『佐々木導誉』九〇ページ)といわれる。『園太暦』によれば、道誉はこの年一月十六日、近江にある拠城(天正本によれば甲良荘の居城)めざして下向しており、師直との間に距離を保っていたことが、危機を免れ得た原因である。『太平記』巻二十九「諸大名都を逃げ下る事」に適確に捉えられているように、直義派と尊氏派の対立は以前にも増して熾烈しれつとなり、直義は桃井直常の言を容いれて都を落ち、尊氏はこの年五月に決裂していた南朝との和睦に成功し、直義追伐の宣旨を賜って、近江国へ進発した。この時に道誉が尊氏父子のもとへ真っ先に馳せ参じていることから推測すると、この時の対直義派追伐の作戦は道誉から出たものではないかと考えられる。巻二十九「八重山蒲生野やあいやまがもうの合戦の事」は天正本独自の増補であり、地理の詳細さ、近江国の国人層の活躍する記述などから、佐々木京極氏からの資料提供はもちろんであるが、天正本作者あるいは改訂本製作グループ内の人物に、相当この地域の地理にも明るい人物のいたことが推測される。この章段の冒頭には、「当国守護佐々木大夫判官氏頼、両殿(注、尊氏と直義)の不快に一身の進退定めがたく思ひけるにや、去んぬる六月二十五日に出家遁世の身となつて、高野山に閉ぢ籠る」ページ(本文:四六四ページ)とあり、進退に窮した佐々木の本宗(六角氏)氏頼が、尊氏派優勢の中で、直義派であることに徹しきれず、出家の道を選んだことを語っている。続いて、「その弟五郎左衛門尉定詮さだあき、幼稚の家督千手丸せんじゆまるを扶持して国の探題たりしかば、一千余騎を率して八重山の陳ぢんに馳せ加はる」と記され、氏頼から家督を譲られた少年が叔父に助けられて、直義派として参戦したという。千手丸の母は道誉の娘であり、佐々木六角氏と佐々木京極氏との、ごく近縁の親戚の中では、係累関係のやや薄い氏頼の弟定詮の勇姿には、皮肉っぽい作者の眼があるように思われる。  
戦場を駆けめぐる武将としての道誉でなく、幕府要人としての道誉の、「武家申詞もうしことば」と称された幕府からの申し入れを朝廷側に伝える使者としての役職については、『太平記』ではまったく触れていない。例えば、貞和三年(一三四七)八月八日、光厳上皇に新日吉社造営料および法勝寺大勧進職について伝え、観応元年(一三五〇)十月二十七日に、義詮の使者として光厳上皇に九州発向を奏聞し、十一月十六日には光厳上皇に直義追討の院宣を請願したり、文和元年(一三五二)六月三日・十九日に光厳上皇の第三皇子弥仁いやひと親王の践祚せんそに関して勧修寺経顕を訪問し、さらに十一月二十八日には崇光・後光厳(弥仁)の母である陽禄門院の死去に際して、諒闇りようあんのことで同じく経顕を訪問したりして、「武家申詞」を伝えるなどのことである。『太平記』の中に北朝の有力公卿として頻出する勧修寺経顕の発言は、道誉との間の太いパイプを考え合わせると重みが増してくるのであるが、作者は幕府内の対朝廷の交渉巧者としての道誉を描く代りに、幕府内の有力守護大名追い落しに辣腕らつわんをふるった策略家道誉を描き続けている。  
文和元年、山名時氏ときうじ・師氏もろうじ父子が道誉に怒って、父子で南朝に与くみした経過は巻三十二「山名左衛門佐敵と成る事」(神宮徴古館本)ほかに詳しい。発端は出雲守護職をめぐる争奪戦にある。道誉は時氏から出雲守護職を奪い返しただけでなく、時氏自身を幕府中枢から追い落すことに成功している。『太平記』の作者は、他の守護大名の追随を許さない道誉の文化的領域である連歌の会や茶会を、師氏を怒らす道具立てに使っている。次に、仁木義長事件であるが、義長は、侍所さむらいどころとして道誉と行動を共にし、高師直亡きあとは幕府の執事を務めた頼章の弟である。義長追い落しの主謀者は畠山国清であり、巻三十五「諸大名仁木を討たんと擬する事」によれば、「佐渡判官入道は、身にとりて仁木に指さしたる宿意は無けれども、余あまりに傍若無人にふるまふ事を、狼藉なりと目を懸かけける時分なり」と描かれている。義長に取り込まれていて、畠山国清・土岐頼康・佐々木氏頼らの手の届かない将軍義詮を、道誉が義長と「軍いくさ評定」を「数刻におよ」んでしている間に「女房の姿」にした義詮を脱出させる、という手の込んだ方法で救ったのである。  
さらに、細川清氏に対する追い落し工作は、かつて詳しく触れたように(「太平記の人物形象・細川清氏」、『太平記の研究』所収)、巻三十六「相模守清氏隠謀露顕の事」に描かれ、今川了俊の『難太平記』中の「清氏の野心、実にあらざる事」に、「細川清氏は、実際には野心を持っていなかったのであろう。将軍の恩が余りにも過分で思い上り、上意にもそむいたために、ある人が彼の失脚をたくらんだのである」と明言し、清氏が石清水いわしみず八幡社の神殿に「天下を執るべし」と書いて納めた自筆とされる願文について、「この願文は清氏の筆跡になるものではないのではなかろうか。亡父(注、範国)は、『願文についている判形はんぎようも、清氏自筆のものかどうか疑問であった』と、お話になった」と書きとめている。『太平記』に描かれた、道誉による清氏願文のすり替えのほのめかしと考え合わせると、非常に興味のあるところである。  
不世出のばさら大名佐々木道誉は、尊氏亡きあとの幕府の大黒柱として、他の有力守護大名の誰もがなし得なかった不倒翁としての一生を送り、応安六年(一三七三)八月二十七日、近江国甲良こうら荘の勝楽寺で、七十八歳の生涯を閉じた。傍らには彼の晩年を温かいものにしたであろう「みま」と呼ばれた女性がいた。 
太平記4 / 『太平記』と光厳天皇 
巻三十九の最終章段「光くわ厳うごん院ゐん法皇山国やまぐにに於いて崩御の事」は、次のような語りから始まる。  
さる程に、光厳院禅定ぜんぢやう法皇は、去る正平七年の比、南山賀名生あなふの奥より楚その囚とらはれを許されさせ玉ひて、還御なりたりし後、この世の中いよいよ憂き物に思おぼし食めし知らせ玉ひて、姑射山こやさんの雲を辞し、汾水陽ふんすいやうの花を捨てて、なほ御身を軽く持たばやとの御あらましの末通りて、方袍はうはう・円頂ゑんちやうの出塵しゆつぢんと成らせ玉ひしかば、伏見の奥、光厳院と申す幽閑の地にぞ移り住ませ玉ひける。  
しかし、この地もなお都近く、浮世の出来事がいやおうなしに耳に入ってくるのをうとましく思って、「人工にんぐ・行者あんじやの一人も召し具せられず、御伴僧ただ一人にて(神宮徴古館本「唯順覚と申ける僧一人を御伴にて」。諸本同じ)、山川斗藪とそうのために立ち出で」なさった。「山川斗藪」であるから、必ずしも初めから目的地が定まっているわけではない。まず西国方面をご覧になろうと、摂津難波なにわの浦へ出て、戦乱の世とは対蹠的な自然の美しさに気づかせられ、心は高野山こうやさんへと向う。途中で、高くそびえている山が合戦で無数の武士が死んだ金剛山こんごうさんだと木樵に教えられ、  
あなあさましや、その合戦と云ふも、吾われ一方の皇統にて、天下を諍あらそひしかば、若干そこばくの亡卒悪趣ばうそつあくしゆに堕して、多劫たごふ苦を受けん事も、我が罪障にこそ成らめ  
として「先非を悔い」ることが、高野山への行脚、吉野の南朝の御所訪問という構想を呼び出している。道中、紀伊川に架けられた柴橋を渡りかねて、通りがかった野武士に川へ突き落されるという現実があるからこそ、上皇の澄みきった心境がいっそう尊く思われるのである。古態本から流布本に至る諸本では、この後、高野山の諸堂を巡拝なさっている上皇のもとへ、さきの野武士が僧形になって姿を現し、懺悔するという対比的構図をなす記事をもつが、天正本はその対比を採らず、物語の枝葉を刈り取っているといえよう。  
光厳天皇(一三一三〜六四)は、後伏見天皇の第一皇子として、嘉暦元年(一三二六)両統迭立てつりつ(大覚寺統・持明院統が交替で天皇を立てること。鎌倉幕府はこれを遵守した)によって、後醍醐天皇の皇太子となり、元弘元年(一三三一)北条高時に擁立されて践祚せんそしたが、同三年五月、隠岐から還幸した後醍醐に廃された。建武三年(一三三六)足利尊氏の奏請で、弟光明天皇が即位して、上皇は院政を開いた。観応三年(一三五二)閏うるう二月光明こうみよう上皇・崇光すこう上皇・直仁なおひと親王とともに南朝方に捕えられ、六月には賀名生へ移され、まもなく後村上天皇の行宮あんぐうで落飾し、禅道に入った。  
この章段の語る光厳院の、後村上天皇との対面を史実に徴することは、少なくとも現在までのところできていない。ただし、『大日本史料』(第六編二四、正平十七年・貞治元年九月一日条)は、法隆寺の記録文書『嘉元記』の一条、  
康安二年(壬寅)九月一日、持明院法皇(禅僧)当寺御参詣(在之已下十余人)御乗馬也、一夜御逗留、(中略)寺中ハ御歩行也  
を引き、『太平記』作者が構想した後村上天皇との対面はこの直後のものと理解しているが、そう判断する根拠はない。『太平記』のこの記事に年時を欠くことは、意図されてのことであり、この記事が作者の思想を表現するために虚構されたものであることを、物語っていよう(今川家本・毛利家本等では、本書四〇九ページの法皇崩御「同じき七月七日」を、「貞治三年甲辰七月七日」と明記し、作者の意図から一歩はみ出している)。  
予われ元来万劫まんごふ煩悩の身を以て、一種虚空こくうの塵にあるを本意とは存ぜざりしかども、前業ぜんごふの嬰かかる所に旧縁を離れ兼ねて、住むべきあらましの山は心にありながら、遠く待たれぬ老の来る道をば留むる関守もなくて歳月を送りし程に、天下乱れて一日も休む時なかりしかば、元弘の初めは江州番馬ばんばまで落ち行きて、四百人の兵つはものどもが思ひ思ひに自害せし中に交はりて、腥羶せいせんの血に心を酔はしめ、正平の末には当山の幽閑に逢ひて、両秊ねんを過ぐるまで秋刑しうけいの罪に胆きもを嘗なめて、これ程にされば世はうき物にてありけるよと、初めて驚くばかりに覚え候ひしかば、重祚ちようその位に望みをも掛けず、万機ばんきの政まつりごとに心をも止とどめざりしかども、我を強あながちに本主とせしかば、遁のがれ出づべき隙ひまなくて、哀れ早晩いつか山深き栖すみかに雲を伴ひ松を隣として、心安く生涯をも暮すべきと、心に懸けてこれを念じこれを思ひしところに、天地命めいを革あらため、譲位の儀出で来たりしかば、蟄懐ちつくわい一時に啓ひらけて、この姿に成りてこそ候へ  
自らの一生を振り返っての法皇の言葉である。人間を、終生の煩悩に苦しむ微小な存在であると意識するようになったのが、いつであったか触れていないが、すべてを捨てて諸国行脚に出た、法皇の澄んだ境地からの言葉であり、この後の法皇崩御を語る言葉の中の一句、「身の安きを得る処、すなはち心安し」との呼応が見られる。作者は、法皇の三回忌(正しくは七回忌)が後光厳天皇によって、内裏だいりで営まれ、天皇自らが金字で『法華経』一巻を書写して供養したと言い、「六趣りくしゆの群類も等しくその余薫にぞあづからんと、聴聞の貴賤押し並なべて、皆感涙をぞ流しける」と、来世での救済を予想して、巻三十九は閉じられている。  
この章段を詳細に分析した中西達治氏は、後藤丹治氏がかつて『平家物語』「灌かん頂じよう巻のまき」の影響に言及した点を延長して、「光厳法皇と後村上天皇との対話が、建礼門院と後白河法皇との対話の、単なる形式的類似にすぎないといってよいのかといえば、必ずしもそうは言えず、特に光厳法皇の述懐の内容には、この章の構成にかかわる最も根源的なテーマが内包されており、そこに、はっきり『六道之沙汰』と同質の世界を感じとることができるのである」とされた(「太平記における光厳院廻国説話」、『太平記の論』所収。初出は一九九一年)。この論を受けて武田昌憲氏は、光厳院の高野山から吉野へという行脚が『平家物語』の「灌頂巻」大原御幸おおはらごこうに匹敵するという見方は、「建礼門院が六道を経験したように光厳院も人間世界で、在位(天上)、流れ矢(修羅)、番場での血の海(地獄)、院を犬呼ばわり(畜生)、賀名生での辛苦(餓鬼)の六道を経験されたからであり、以上の『太平記』の衝撃的な記述も計算されたものであったとみることもできる」(「光厳天皇――和漢の学に秀でる――」、『国文学解釈と鑑賞』五六巻八号)と、光厳院の現実の生涯が六道廻輪的性格を持つと指摘された。  
光厳院の生涯を六道廻輪にあてはめることの当否は別として、我々は巻九「番場にて腹切る事」の段で、武士たちが番場の辻堂のいたるところで切腹するさまを、呆然として見ているだけであった光厳天皇を容易に想像することができる。後醍醐天皇還幸後の帝位の剥奪があり、その後、治天ちてんの君(院政を行う院)に返り咲いたことを、「あはれ、この持明院殿は、大果報の人かな。手痛き軍いくさの一度もし給はで、将軍より王位を給はらせ玉ひたる事よ」(巻十九・豊仁王登極の事)と、「田舎人」つまりは武士階級に揶揄やゆされるところとなった。  
これと同様の批評が巻二十六「大稲妻天狗てんぐ未来記の事」でも述べられており、そこでは持明院統の政権の実態が愛宕山あたごやまの天狗により「なかなか運のある武家に順したがはせ玉ひて、政道の善悪もなく、偏ひとへに幼児の乳母を憑たのむが如く、奴やつことrひとしく度わたらせ玉へば、還かへつて形の如く安全に御座おはします者なり。これも御本意にてはあらねども、理をも欲をも叶はず、道に打ち棄てさせ玉へば、御運を開かせ玉ふに似ると云へども、物くさき至極なり」((3)三三五ページ)と喝破されている。  
森茂暁氏によれば、光厳上皇の命を奉じて出された院宣で年次の明記されたもの、および無年号ながら推定可能のものは、三五〇通ほど確認されていて、この数は、自身でも書くなど乱発された「後醍醐天皇綸旨の比ではないが、一五年間に出された数にしては歴代天皇・上皇の中でも上位にランクされ」るという(『南北朝期公武関係史の研究』一五七ページ)。そして、「このことは同上皇の政治運営が種々の制約を受けながらも比較的活況を呈した証左とみてよかろう」とも言われる。先に引用した文言のうち、「重祚の位に望みをも掛けず、万機の政に心をも止めざりしかども、我を強ちに本主とせしかば」云々と関わると考えてもよかろう。院政を考える上で、訴訟に関わる院文殿ふどの庭中は南北朝期にそのピークを迎えると考察されているが、光厳上皇院政での文殿衆は、朝廷の最高議決機関のメンバーである評定衆と多く重なり、評定衆の上位に位する摂家せつけ出身者・清華せいが出身者の中でも、「洞院家の進出は特に注目される」(同書一八〇ページ)とされる。洞院とういん家周辺と『太平記』作者圏との関係を考えると(鈴木登美恵「太平記作者圏の考察――洞院家の周辺――」、『中世文学』三五号)、光厳院をめぐる話柄がどのあたりから提供されたか興味の湧くところであるが、『太平記』作者の関心は公武関係、特に院政の実務には及んでいなかったのではないかと思われる。  
現在、その一部が国会図書館に蔵される宝徳三、四年(一四五一、五二)書写本の写しである、いわゆる宝徳本『太平記』を研究し、古写本の復元に努めた長坂成行氏は、尾張藩の国学者河村秀頴が寛永無刊記整版に写し取った宝徳本の整版との異同から、宝徳本の巻四十下が「光厳院崩御事」で終ることを明らかにし、『太平記』の成立過程に問題を提起した(「『太平記』終結部の諸相――“光厳院行脚の事”をめぐって――」、『日本文学』四〇巻六号)。光厳上皇の崩御が語られ、三回忌供養の営みが、六道の衆生すべての救済に及ぶとするこの章段で、南北朝動乱五十年の歴史語りの幕が閉じられるとする宝徳本の構成は魅力があるものとして映るのである。 
帝王後醍醐 
玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄ハツネニ北闕ノ天ヲ望マント思フ。  
やっと後醍醐に登場してもらうことにした。日本史上、最も大胆で、非運な天皇だ。しかし、これを南北朝の争乱の只中にとらえ、歴史の正邪の視点のうちに語ろうとすると、きわめて複雑な問題と直面することになる。いったい乱世における一味同心とは何か。自由狼藉とは何か。そして「異形の王権」とは何なのか。 
今夜からしばらく南北朝に耽ることにする。幕末維新、昭和前史に匹敵して、最も語り方が難しい時代だ。「玉」(ぎょく)の語り方が難しい。  
もともと『太平記』が南北朝語りのマザーをつくってしまっていた。それに、このマザーはめっぽうよくできていた。ナラトロジックには『平家物語』と双璧だ。そのため、その湯にいつまでも浸っていたいという気持ちと、歴史の見方としてはそこから脱しなければならないだろうという気持ちとが、いつも交錯する。いいかえれば、『太平記』をどう読むかということが、そもそも南北朝をどう語るかという出発点にならざるをえなくなっている。しかも、その語りでは、「玉」は褒めそやされ、また貶される。兵頭裕己に『太平記〈よみ〉の可能性』という興味深い本もあるのだが、プロの目からして「読み」が難しいということは、「語り」も並大抵ではすまないということなのだ。  
南北朝を彩る登場人物からすると、最大の主人公はやはり後醍醐天皇である。この破天荒な人物を除いては南北朝はありえない。  
けれども、2000人におよぶ登場人物を配した『太平記』がすでにそうなっているのだが、実は南北朝を語るべき主人公はいくらでもいる。尊氏も楠木正成も大塔宮(おおとうのみや)も、それぞれが立派な主人公になりうる。文観(もんかん)や新田義貞から見ても、バサラ大名佐々木道誉や懐良(かねよし)親王から見ても、南北朝は面目躍如する。北方謙三がそういう多様な南北朝の男たちをずっと小説仕立てで描いてきた。そのコンセプト、一言でいうなら「自由狼藉」なのである。それをしかし、「玉」だけにあてはめるわけにはいかない。  
日本の歴史を、100年ずつくらいのスパンでどのように見るかという大きな視点で南北朝にあてはめようとすると、今度は「摂関と天皇」や「幕府と天皇」という対比軸が必要になり、そのうえで“天皇の戦争”という一番厄介な問題を直視しなければなってくる。  
13世紀から14世紀にかけて、日本は「天皇が日本を問うた時代」になった。それが後鳥羽院から後醍醐天皇におよび、そこから南北朝の亀裂が深くなったのである。  
こうして天皇家の皇統が、「北朝」(持明院統)と「南朝」(大覚寺統)の二つに割れてしまったのだ。それが半世紀以上、60年も続いたわけだ。昭和のまるごとが二つの朝廷抗争のなかにいたようなもの、これが共和党と民主党が大選挙によって入れ替わり立ち代わりするというならともかく、事態は隠然として60年にわたった天皇家の「両統迭立」なのである。日本という国家がずっと二天を戴いたのだ。その解消も統合も、できなかったのだ。  
これを歴史学では「南北正閏(せいじゅん)問題」というのだが、これをどのように語るかとなると、「日本という方法」の一番深いところまで掘り下げがすすむことになる。のちに水戸光圀の『大日本史』が直面したのは、この正閏問題だった。新井白石も頼山陽も、この問題では唸ったままにいる。 
こういう南北正閏問題をあからさまに表面化させてしまったのは、もとはといえば「承久の乱」を後鳥羽院の隠岐流刑というふうに処理した北条執権政府の判断があったからである。  
ここに、「幕府と天皇」という二つのシステムを巧みにハンドリングしなければ何も進まなくなるという、日本中世の“見えない羅針盤”がコトコト動くことになった。つまり「公武並存」とは何かという問題だ。南北朝を語るには、この未熟なデュアル・スタンダードの原因にもメスを入れなければならない。  
それなら、そのような「日本の天」なる大きな問題をもって時代社会をオムニシエントに見ていけばいいかというと、一方には「日本の地」なるものの新たな動向がオムニプレゼントに動いていた。それを代表するのが当時の地方に跋扈していた「悪党」だった。日本には以前から「天神地祇」という見方があるのだが、天神たる後醍醐は、地祇たる悪党と結びついたのだ。それが同時のことなのだ。  
これは厄介である。天皇と供御人(くごにん)が結びつき、貴人と賤人がワープしあっている。しかも、網野善彦がそういう見方を繰り出したのだが、そこにこそ「日本という方法」の驚くべき本来もあったのである。 
と、まあ、こういうぐあいに、まことに多様な見方をマルチレイヤーにマルチリンクにマルチカルチュラルに見ていかないと、南北朝の本質なんて、とうてい容易には浮き彫りにできないということになる。  
ここに加えて、ぼくにもあてはまることなのだが、この時代の舞台がたえず地域を動きまわっていたということがある。そのイン・モーションな動きの視点で、時代社会を読む必要がある。ところが、これが京都人には苦手なのである。  
京都に住んでいると、いつのまにかジンマシンならぬジマンシンに冒されて、ときおり京都バカになっていることを思い知らされる。その症状はたとえば、奈良の古代文化を失念しすぎること(百人一首や禅寺には強いが、万葉集や華厳に弱い)、大坂文化に上方弁の人形浄瑠璃が誕生しているのを軽視すること(いまはどうだか知らないが、かつては京都には文楽をたのしむ風情がなかった)、近江や伊勢や熊野に暗いこと(お伊勢参りは好きだが、それ以外の神仏信仰には学ぼうとはしない)、等々にあらわれる。この症状、最近ますますひどくなっている。  
京都人というのはどういうわけか、江戸文化や東京文化にはセンシティブなのだが、近隣の畿内文化にはどしがたく鈍感で、かつ冷淡なのである。そのため周辺のことをよく知らない。ぼく自身、それを生駒や浄瑠璃寺や若狭街道を初めて訪れたときに、愕然と感じた。  
本を読んでいても、同じショックにしばしば襲われた。琵琶湖の北の菅浦のこと、近江八幡の歴史、河内の古代中世、丹波と丹後の役割、木津川の力、美濃との関係など、何も知っちゃいなかった。京都中心の歴史なら、ぼくには林屋一門が執筆編集した『京都の歴史』全10巻(森谷克久さんたちが京都歴史編纂所の仕事をまとめた)という“隠れた秘密兵器”があって、かなり細かいところまでいつでも入っていけた。しかし、畿内や西海、南海・東海道はさっぱりなのだ。 
これが南北朝を見ようとするときの邪魔になる。『太平記』とは京都を逸脱する物語であるからだ。  
この、田楽と闘犬に狂う北条高時の話から、後醍醐天皇や楠木正成の知謀を活写して、足利尊氏の転身や佐々木道誉のバサラぶりをへて、観応の擾乱をめぐりつつ南朝ロマンの数々の名場面を蘇らせた歴史物語は、なるほど話の骨格こそ京都の朝廷の覇権を争う物語なのではあるが、その主要舞台は笠置や吉野や河内赤坂であって京都ではなく、後醍醐を盛り立てたのは播磨だったのだし、ことに北畠顕家と親房の親子の活躍は北関東や東北で、後醍醐の皇子たちが活躍する後南朝の舞台のほとんどは九州なのである。  
つまり『太平記』を読むということは、京都を外から見る目がないと読めないということなのだ。 
というあたりで、そろそろ今夜の本題に入りたい。とりあげるのは村松剛の『帝王後醍醐』である。理由がいくつかある。  
ひとつには、やはり日本史上最大の「玉」である後醍醐を知るところから南北朝に入っていくのが“王道”だろうということ、それには三島由紀夫の親友であった村松剛が、あえて私意を殺して練りに練りあげたこの一冊がいいだろうということだ。歴史研究でもなく、小説でもなく、いわゆる評伝でもない。どちらかといえば稗史に近い。そのため「読み」と「語り」がぶれないようになっている。  
もうひとつには、南北朝の話は今夜ではとうてい終わらない。そのため、めったにこんなことはしないのだが、次夜にも、そのまた次夜にもつないでいこうかと思っているということだ。どのようにつなぐかはいまは明かさないが、何度か日をあらためて、そのうち水戸光圀の『大日本史』の周辺に及ぼうかと思っている。途中、ぜひとも「後南朝」をゆっくり通過してみたい。そういう“つなぎ”をしていくには、やはり後醍醐から始めるのがいいだろうということだ。 
では、始めよう。今夜のぼくが諸君に提供できるのは、南北朝史の流れをざっとかいつまんでおくことなので、いまのところはそれ以上を期待しないでもらいたい。できるだけわかりやすく書くつもりだが、やはり流れはやや複雑になる。せめて、どのように後醍醐が登場するか、どのように足利尊氏が絡んでいくか、そこに注意してもらいたい。  
以下は村松の本書の構成をかなり勝手に組み替えてある。話は「地なる悪党」の跳梁跋扈から始まっていく。『太平記』の冒頭には、こんな一節があった。今日の社会にこそあてはまる。  
四海オオイニ乱レテ、一日モイマダ安カラズ。狼煙(ろうえん)天ヲ翳(かく)シ、鯢波(げいは)地ヲ動カスコト、今ニイタルマデ四十余年、一人トシテ春秋ニ富メルコトヲ得ズ、万民手足ヲ措(おく)ニ所ナシ。  
鎌倉幕府は13世紀の中頃から悪党の横行に手を焼くようになっていた。畿内を中心に台頭してきた在地の反逆者たち、アウトローたちである。反逆者とかアウトローといえばまだ聞こえもいいが、山賊・海賊のたぐいとみなされた。  
初期の悪党は10人から20人ほどの小集団で、柿色の服をまとい、覆面をし、柄鞘のはげた太刀をふりまわして、周囲の旧権力を脅かした。そのリーダーは「張本人」とか「張本」とよばれる。こういう悪党のなかに、のちの楠木正成(くすのき・まさしげ)の父親にあたるであろう、正体不明の楠(くすのき)河内入道もいた。  
文永10年(1273)、北条幕府は悪党跳梁の原因が、守護が職務を怠慢にしていて、御家人らが悪党を領内にかくまっていることだと判断し、もしも悪党を領内に隠しおいたことが露見したばあいには、所領の3分の1を没収するという通達を出した。  
しかし事態はいっこうにおさまらない。14世紀になると、御家人自身がみずから悪党化していることも露見してきた。よくあることだ。防衛省の幹部が防衛を食いものにすることをおぼえてしまうのだ。そこで乾元2年(1304)、幕府は悪党の処罰を流刑から死刑に変更し、元応1年(1319)には、六波羅探題の大仏惟貞が悪党討伐の執達吏を畿内・山陽・南海の12カ国に派遣して、追憮に乗り出した。  
これは逆効果だった。幕府の統制に真っ向から対抗する悪党があらわれ、かれらはかえって、しだいに力のある武装集団に切り替わっていった。矢倉をつくり、走木(はしりぎ)を駆使し、飛礫作戦に長じていった。まるで古代中国諸子百家の墨子(ぼくし)の集団だ。 
伊賀の荘園に登場した黒田党などが、そういう悪党の代表のひとつだった。黒田党については研究もよくすすんでいるので(小泉宜右『悪党』、新井孝重『悪党の世紀』など)、悪党の生態が中世コミュニティとどのように結びついていたかは、歴然とする。  
が、それだけでなく、悪党は独特のネットワークを結びはじめた。そのネットワークには海路や河川に強い者たちも出現し、たとえば播磨の悪党は但馬・丹波・因幡・伯耆と結んで瀬戸内海・日本海を押さえ、畿内への年貢米がこのラインで阻止強奪されることも頻繁になってきた。まさに山賊海賊行為だが、アラビアのロレンスの列車攻撃などを思い浮かべたほうがいいだろう。それは義挙だったのだ。だから悪党の誕生を、歴史学者たちは蒙古襲来とともに吹き荒れた「神風」の流行とともに語ることもある(109夜『神風と悪党の世紀』参照)。  
伯耆の赤松則村(円心)や伯耆の名和長年などの、のちに後醍醐の一味となった悪党がこうして力量をつけていった。『太平記』は「正中嘉暦ノ比(ころ)ハ、其振舞先年ニ超過シテ天下ノ耳目ヲ驚カス」と書いている。 
悪党についてはいくら説明してもしたりないが、いまぼくが強調しておきたいことは、天皇の歴史と悪党の歴史をメビウスの輪をつなげるごとく、同時に見るしかない時代が到来していたということなのだ。  
そもそも平安時代というのは京都を中心に、全国をおおざっぱに浄土と穢土(えど)に振り分けた時代だった。いまは祇園祭として有名な御霊会が立ち上がってきたのも、「浄なる都」を守るため、「穢なるもの」(アンタッチャブル)を出雲路・紫野・船岡あたりで食いとめようという初期の企画にもとづいていた。天皇家の一族が「撫物」(なでもの)をするのも、穢なるものを河川に流すためだった。そういうことに熱心になったから、逆にそこに古代天皇儀礼も成長していったわけだ。  
しかしこれが進んでいって中世になると、京都の周辺地域には酒呑童子や伊吹童子といった想像を絶する鬼たちがいることになり、これが天狗や修羅や餓鬼の姿となって都を襲うという図式にもなって、さらには各地の境界に蝉丸や逆髪などの異形・異類・異風が伝説的に立ち上がってくることにもなった。  
悪党の跳梁とは、このようなさまざまな架空の「穢なるもの」が、実のところは現実の力をもって畿内・西海の各所に異様異体の者として立ち上がっていたという話として、理解するべきなのである。だからこそ、人々は想像していた異類ヴァーチャルな力が各地の異形リアルになってきたことに驚いたのだ。これを一言には「自由狼藉」の放埒がとどまらなくなったということだ。  
のちに後醍醐天皇となる尊治(たかはる)親王が生まれた13世紀末の正応1年(1288)というのは、一言でいえば、こういう時代だったのである。  
後醍醐は即位して、知ってのように天皇親政をめざすのだが、それは、これら“穢土の悪党”をふくめた「王土王民思想」によって、日本をなべて統一掌握したいということだった。しかし、実は後醍醐そのものが時代社会の自由狼藉であり、異例者だったのである。 
尊治は後宇多天皇の第2皇子だった。母親は五辻忠継の娘の忠子である。藤原花山院の系統に属する。本書『帝王後醍醐』は、冒頭第1行を「京都の今出川堀川の西北に五辻という町がある」というふうに、この五辻家の物語から始めている。たいへんうまい出だしだった。  
その尊治は祖父の亀山上皇のもとで育てられ、乳父の吉田定房の薫陶をうけて成長していたのだが、第1皇子邦治親王(後二条天皇)が徳治3年(1308)に死んだので、12歳の花園天皇が即位して、21歳の尊治が遅咲きの皇太子に立つことになった。当時の立坊(りつぼう)が20歳をこえるというのは、かなりの遅咲きなのである。が、異例なのは、そのことだけではなかった。  
そのころすでに、天皇の座は「持明院統」と「大覚寺統」との両派によって競われていた。これがとんでもない運命をもたらした。どこからこの骨肉の争いが皇統選択の問題として始まったかというと、直接的には後嵯峨上皇が文永9年(1272)に死去したのち、その第2皇子の第89代後深草天皇(持明院統)と第3皇子の第90代亀山天皇(大覚寺統)をそれぞれ皇位につかせようとして、それでかえって骨肉の血統が争うようになったためだった。つまり、血の抗争は後醍醐のおじいさんの時代に始まったばかりだった。  
もっともそれだけなら、古代以来、次期天皇に誰が就くかということはまさに血で血を洗うごとくにのべつ争われていたのだから、あきらめて運命に従うしかない話でもあるわけなのだが、この時代、この「玉」の選択決定に執権北条の鎌倉幕府が介入してしまったことが、事情を複雑にも、深刻にもした。  
これはもとはといえば、後鳥羽院が武家から政権を奪還するための承久の乱に失敗して、2代執権北条義時によって隠岐に流されたことに起因する。 
承久の乱(1221)のあと、義時は承久の乱にまったく関与しなかった後堀河天皇を立儲(りっちょ)させ、この系統を四条に継がせた。  
ところが四条天皇は12歳で死んだ。もとより皇子がいるはずはない。そこで、摂政九条道家が自分の外孫であった順徳天皇の子の忠成を立てようとしたのだが、3代執権の北条泰時はこれに猛然と反対し、土御門の子の邦仁(くにひと)を立坊させた。これが後醍醐のおじいさんの後嵯峨天皇なのである。以来、執権政府は天皇の座を左右する。  
天皇の座だけでなく、北条は摂関家もすでに左右していた。藤原氏による摂政・関白独占は、その後は藤原の家柄を分けた近衛・九条によって分有されていたのだが、北条時頼の時代、近衛から鷹司が、九条より二条・一条が出て、五摂家をうまく競わせてコントロールするようにもなっていた。  
ともかくも、執権北条が天皇の座を動かしたのだ。しかし、皇族の対立があまりに顕著になるのは幕府にとってはよろしくない。またぞろ後鳥羽院のように北面の武士を集めて武装するような天皇が出てこないともかぎらない。  
幕府はそこで御都合主義よろしく、文保1年(1317)以降は後深草系の持明院統(持)と亀山系の大覚寺統(大)を、「両統迭立」させていくことにしてしまった。それも10年で交代がおこるようにした。まことに機械的だ。皇族たちも、やむなくこれをのんだ。これを歴史上では「文保の和談」という。  
これで、皇位は入れかわり立ちかわり、ジグザグに進むことになった。89後深草(持)、90亀山(大)、91後宇多(大)、92伏見(持)、93後伏見(持)、94後二条(大)、95花園(持)、96後醍醐(大)というふうに。  
ちなみに、この両統迭立の当初の後深草と亀山の両院が互いに「治天の君」をめぐるドラマを演じている事情を、一人の女性がその内面から眺めていた記録があった。すでに「千夜千冊」にたっぷり綴った後深草院二条の『とはずがたり』である。  
もうひとつちなみに、さきごろの小泉政権のとき、皇統問題が浮上して女帝を天皇にするかどうかという議論がやかましくなったことがあったけれど、皇統を本気で問題にするなら、実はこの「文保の和談」まで戻って皇統分与の意図に着目しなければならなかったのである。 
尊治は践祚(せんそ)して、文保2年(1318)に後醍醐天皇となった。亀山天皇の皇胤をうけた大覚寺統の第96代だ。  
大覚寺とは、あの嵯峨嵐山の大覚寺のことで、ここに亀山院の離宮があったことに因んでいる。その亀山離宮のあとがいまは女性客に人気のロマンチック・ライトアップの大覚寺。しかし、大覚寺統というのは持明院統とはちがって、どこか「テロリズムのロマン」のほうに酔いしれるような、そういう一派だった。持明院のほうは、上立売新町の西に後深草院が御所をもったことに始まっている。  
さて、3年後の元亨1年(1321)、後醍醐は後宇多上皇から政務を委譲されるやいなや、ただちに天皇親政を開始した。  
記録所を再興し、「神人公事停止令」を発して神人(じにん)の本所(荘園所有者)に対する賦課を免除し、京都の商工業者を供御人(くごにん)として編成して、“天皇の経済”を確立していった。  
人事も一新した。北畠親房、吉田定房、万里小路宣房、日野資朝、日野俊基などを登用し、次々に「倫旨」(りんじ)を発した(親房・定房・宣房の3人を「後(のち)の三房」という)。後醍醐親政、もっと広くは「南朝の政権」は、つねにこの倫旨を連発するところに特徴がある。  
まさに溌剌たる帝王後醍醐のスタートだった。しかし、たんに親政をしたわけではない。後醍醐は幕府を根底から解体したかった。 
後醍醐即位のちょっと前の正和5年(1316)、鎌倉では14歳の北条高時が執権になっていた。賄賂が通り、幕政はそうとうに腐敗しつつある。実権は内管領(うちかんれい)の長崎高資(たかすけ)が握っている。  
そこへ津軽で「安東一族の乱」がおこって、その鎮定が内管領に依頼されたにもかかわらず、高資(たかすけ)は安東一族の対立者の双方から賄賂をとっていたため、これをきっかけに「蝦夷の反乱」がおこり、ここにいよいよ鎌倉幕府が無能力機関であることがはっきりしてきた。  
嘉暦1年(1326)、高時はさっさと出家した。もう、北条執権による幕政がもたないと見えたのだ。無責任な話だが、側近の多くも現場を放り出した(最近の日本政治は、この北条氏めいている)。佐々木高氏もその一人で、剃髪すると道誉を名のる(バサラ大名の異名をとるのはずっとあとのこと)。  
高時はここから田楽や闘犬に狂った。『太平記』には「ソノ興ハナハダ尋常ニ越タリ」と描写されている。ある夜、侍女が高時の所業を不審に思って障子の穴より覗いてみると、田楽法師と見えたのは人ではなく、カラス天狗や山伏姿の異形異類の媚者(ばけもの)だった。京都から田楽法師に扮した後醍醐方の間者たちが、幕府の奥深くまで潜入していたのである。  
事態が急を告げているというエピソードだが、それでも高時はさらに遊び惚け、いっとき鎌倉市中には肉に飽き、錦を着飾った犬が4000匹に及んだと『太平記』は伝える。もっとも高時は闘犬ばかりに狂ったばかりでなく、禅林文化にも傾倒した。夢窓疎石とのかかわりがここに始まった。  
かくて、鎌倉の幕府側であとにのこる権力者といえば、管領の長崎高資の一派だけだった。もっともこういう幕府の弱体ぶりにつけこんだから、新参の足利高氏などが台頭してくるのだが‥‥。 
鎌倉の末期的な状況は、後醍醐に懸案の不満を解消するチャンスをもたらした。公武の社会に両統迭立のルールがある以上、後醍醐はしょせんは“中継ぎ”のリリーフ天皇という宿命だったのだが、こんなことはプライドの高い帝王後醍醐にはゼッタイ気にいらない。  
しかし、これを解消するには両統迭立に介入した幕府そのものを打倒解体するしかない。田楽法師に化けた間者が鎌倉に潜伏していたのは、そのためだった。  
弱体とはいえ幕府だって、「玉」のあやしい動向には間諜をさしむけた。京都で朝廷を見張る役は六波羅探題である。幕府はこの機関を陰に陽につかった。いったん権力の座を得た一党は、いかに腐敗していようとも、なかなかその座を降りようとはしないのだ。執権政府が自らを脅かすかもしれない帝王の動向をさぐろうとしたのは当然である。  
一方、後醍醐の側近たちは煙幕をはりながら、ひそかに討幕の画策に突進していった。「無礼講」と称して遊宴を催し、敵の目を欺きつつ勤王討幕の計画を練り上げた。どんな遊宴であったかは、『太平記』にも『太平記絵巻』にもいきいきと描写されている。かんたんにいえば乱痴気騒ぎを装ったのである(忠臣蔵の物語に大石内蔵助が遊び惚けている場面が強調されるのは、この後醍醐の無礼講を踏襲している)。 
後醍醐派の乱痴気騒ぎは、この時代の用語でいえば「一味同心」というものである。この用語はふつうは「一揆」につかわれる。だからそこにはかなり反抗的で、大義名分のイデオロギー的な気負いがひそんでいた。今夜は詳しい説明を省いておくが、とくに「宋学」(朱子学)の和学化あるいは国策化という魂胆があった。  
こうした一味同心の気概と企画を各地の豪族や悪党に説得していたのは、日野俊基や日野資朝だった。二人は「野伏」(のぶせり・野の山伏・のぶし)の恰好をしつつ、近江や美濃や三河を歩き、西海道や南海道に足をのばした。  
そのうち、二人は各地の反応が討幕への期待に満ちていることを感じていった。後醍醐に勤王討幕の発動を求めてみると、帝王とて異存はない。約束された10年の在位も、あと3年に迫っていた。こうして幕府の目を盗んで無礼講がひらかれたのだ。  
無礼講に集まっていたのは、『太平記』によれば花山院師賢(もろかた)、四条隆資(たかすけ)、洞院実世(とうのいんさねよ)、日野俊基、僧侶の遊雅や聖護院の玄基、足助(あすけ)重成、多治見国長といった側近中の側近である。そこに西大寺の知暁や文観(もんかん)らの妖僧も加わった。  
このとき文観が六波羅探題の評定衆・伊賀兼光を抱きこんで、討幕成就の祈祷をするため、奈良般若寺の本尊の菩薩像を造立したというのが、あのころ出版直後からたちまち話題になった網野善彦さんの『異形の王権』があきらかにしたことである。  
文観については、いろいろ詳しい話もしたいのだが、今夜は遠慮しておく。醍醐寺の座主ともなったし、邪教として名高い「立川流」に通じていたとも言われてきた。このあたり「密教と天皇」という視点が浮上する。 
討幕の口火は六波羅探題を落とすことにあった。決行は後宇多上皇が亡くなったあとの、元亨4年(1324)9月23日と決まった。北野社の祭礼の日にあたる。祭礼警護で六波羅探題が手薄になったところを狙おうというのだ。  
ところがあろうことか、この計画が直前に洩れた。密告があった。無礼講に参加していた遊雅か、土岐頼員か、別種の者か。密告者の名前や正体はいまなお判明していないのだが、ともかくも後醍醐の最初の討幕計画はその初っ端で露呈してしまったのだ。頓挫した。  
日野資朝、俊基、遊雅は鎌倉に護送され、取り調べのうえ主犯は日野資朝となって(資朝があえて主犯をかぶったのであろう)、佐渡に配流された。これがいわゆる「正中の変」である。 
幕府の執権は高時に代わって金沢貞顕になっていた。後醍醐はシラを切った。謀議などしていないし、そんなことに関与したと思われるのは「スコブル迷惑」(花園天皇日記)だと突っぱねた。けれども、何もあきらめてはいない。その一方で、さらに念入りの討幕計画の立案にとりくんだ。  
嘉暦1年(1326)に中宮禧子の安産を心より祈祷するという名目で、「関東調伏」の修法を禁中奥深くで進行させると(これを仕切ったのは文観で、帝王自身も密教の伝法灌頂をうけて護摩壇に向かった)、元徳3年(1330)にはしきりに南都北嶺を訪れ、東大寺・興福寺・延暦寺の僧兵の決起や協力を約束させていった。  
延暦寺との折衝には、のちに護良(もりよし)親王となる尊雲法親王がファシリテーションをした(大塔宮とも呼ばれた)。護良親王は嘉暦2年に天台座主にもなっている。  
既存宗教勢力の南都北嶺を味方にすえたばかりではない。後醍醐はすすんで文観を介して「異形の輩」とも接触していった。「異形の輩」とは非人を含む。後醍醐は上下貴賎を問わぬ新時代のための背水のネットワークを組み立てようとしたわけである。これがのちに楠木正成・名和長年らの“穢土の悪党”とも結んだ総決戦態勢にもなっていく。 
帝王後醍醐のコンセプトは「王土王民思想」であり、その理念が実現する姿は「都鄙合体」と「君臣合体」にある。  
この時代、一方の幕府や武家の思想は「放伐革命思想」にもとづいていた。これは孟子の見解が変形したもので、君主があやまちを犯したばあいは、たとえ君主であろうとも放伐しなければならないとする有名な思想をいう。北条の執権や主要な武門の連中はおおむねこの立場を固守していた。  
これに比すると、後醍醐とその側近たちは「王土王民思想」にもとづいて、わかりやすくいうのなら、「たとえ君主がふさわしくない者であろうとも、王と民との関係は一体になっていくべきである」との見解を下敷きにした。  
この「放伐革命」か「王土王民」かという相違がそれぞれにもつ真意は、いまはとりあえず伏せてはおくが、また、短く要約した程度の解説ではこの相違の意味するところは、かえってわかりにくくなるので説明をしないですますことにするが、けれども、この問題を解義する視点こそ、このあとの全日本史をゆるがしていく抗争点になっていくのである。幕末の水戸イデオロギーや尊王攘夷は、その吹きだまりのようなものだったのだ。  
こうした相違が時代の水面に浮上しつつあった時期の元徳2年(1330)、後醍醐の天皇親政の足下からは大胆な政策が次々に連打されていった。たとえば米価公定令、沽酒法、関所停止令などだ。米価の高騰を抑え、物産の売り惜しみを禁じ、いくつかの関所をとっぱらって市と交易と流通の開示を図ったのである。それは「王土王民」のモデルづくりともいえるのであるが、いいかえれば、洛中を政治経済センターとする“天皇の経済”の拡充を意味していた。 
そんなおり、後醍醐はふたたび密かに討幕の狼煙をあげようとしていた。これが「元弘の変」の開幕だ。  
しかし不運にも、この計画はまたまた密告によって事前に洩れた。今度の密告者の名前はわかっている。「後の三房」の一人の吉田定房である。後醍醐の乳父だった人物だ。定房は“天皇のクーデター”がかえって今後の帝王の立場を危うくし、王土王民思想をむしろ狂わせるとみて、あえて倒幕計画の首謀者を日野俊基に帰着させて、帝王の危機を未然に防ぐために幕府にリークした、とされている。密告の前には、定房は後醍醐に諌書(かんしょ)十カ条も出していた。  
はたしてこれが真意や真相であったかどうかはわからないが、幕府はこの密告にもとづいて文観・円観・忠円・智教・遊雅らを「関東調伏」の罪で捕らえて鎌倉に護送し、とくに妖僧文観については最も絶海遠方の硫黄島に流してしまった。  
首謀者となった日野俊基は鎌倉で斬首、同じく各地のオルグに出向いていた日野資朝も配流先の佐渡で斬られた。  
すべてを承知で大罪を一人でかぶった日野俊基が、いざ鎌倉に護送され、胸中覚悟のうえで「東くだり」していく場面は、『太平記』きっての名調子になっている。こんな感じの道行文だ。  
憂(うき)ヲバ留メヌ逢坂ノ、関ノ清水ニ袖濡レテ、末ハ山路ヲ打出ノ浜。沖ヲ遥ニ見渡セバ、塩ナラヌ海ニ焦(こが)レ行ク、身ヲ浮舟ノ浮沈(うきしずみ)、胸モ轟(とどろ)ト踏鳴ラス。勢多ノ長橋打チ渡リ、行キ交フ人ニ近江路ヤ、世ヲウネノ野ニ鳴ク鶴モ、子ヲ思フカト哀レナリ‥‥。  
すでに執権政治はどんな決断にも優柔不断になっていた。政治家は決断力が鈍ったら、オワリなのである。「元弘の変」の事態の展開も必ずしも迅速なものではなかった。のろのろしていた。  
そこで後醍醐はその優柔不断を利用して、洛中を夜陰に乗じて脱出すると、笠置に逃れ、笠置寺を拠点に捲土重来を期することにした。「玉」のほうが動いた。やはり南北朝の舞台は京都ではなかったのだ。しだいに『太平記』のクライマックスが近づいてくる。  
後醍醐は近隣の武士や悪党に参陣をよびかけた。ここで呼応したのが楠木正成である。正成は『太平記』では、ここで初めて顔を出す。  
一方、京都を後醍醐が脱出して笠置に籠城して「行在」(あんざい)を設けたという知らせを聞いた幕府側は、今度はやっといきり立った。まず六波羅探題に笠置攻撃を仕掛けさせ、ついでは大仏貞直と金沢貞冬を、さらには足利高氏(のちの尊氏)を大将とした上洛軍を急遽結成させた。こうしておいて後醍醐の天皇位を剥奪し、持明院統の光厳天皇を立てた。  
六波羅軍は7万だったという。笠置の砦には常時数百人もいない。しかし、大塔宮護良親王を総指揮官とした笠置はすぐには落ちない。それどころか河内の赤坂で楠木正成が挙兵し(ここはぼくが教えていた帝塚山学院大学の研究室の窓から眺められる位置にある)、備後の一宮では桜山慈俊が挙兵して、後醍醐が笠置に孤立しないように援護射撃を買って出た。ついに悪党が後醍醐とともに行動をおこしたのだ。楠木一族が動いたのは、前年に日野俊基が「野伏」に姿をやつして一味同心倒幕思想の説得に来たことを受けている。  
やがて阿蘇時治を大将とした上洛軍20万が笠置・赤坂を取り囲むと、さすがに両城は陥落した。後醍醐は今度こそ捕らえられ、元徳4年(1332)に隠岐に流された。承久の乱のときの後鳥羽院以来の「天皇の隠岐流罪」だった。 
付き従ったのは阿野簾子(村松剛は「可憐な女」だったろうと書いている)と、忠臣千種忠顕と世尊寺行房くらい、身の回りを警護する者とていなかった。後醍醐は絶体絶命のピンチに立たされた。  
この後醍醐の隠岐配流の途中、児島高徳(こじまたかのり)が帝王救出をはかって一行の車駕を追ったというのも、『太平記』では有名なくだりになっている。  
高徳は宿舎に忍びこむのだが、そこはもはや後醍醐一行が出立したあとで、やむなく庭の桜の幹を削って、かの十文字の詩を彫り刻み、時いたらば「回天の功」を奏したいという寓意を後醍醐に伝えようとしたというのだ(この「回天」の思想がのちに水戸イデオロギーに飛び火する)。  
天(てん)勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ  
時(とき)範蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず  
護良親王と楠木正成の二人は首尾よく行方をくらました。護良親王はいったん和歌山の由良に出て、海岸沿いに切目王子をへて、峻厳な熊野路(いわゆる熊野古道)を越えて十津川の奥地の一郭に入った。いまは大塔村になる。吉野に近い。しかし、そこから姿をあらわすにはいかなかった。動くべきはやはり隠岐の「玉」なのである。  
楠木正成がどうしていたかは、はっきりしていたことがわかっていない。約1年ほどを潜伏した。そのあいだに金剛山の西の斜面を着々と要塞化していた(今日の富田林や河内長野あたり)。これまた墨子の戦法を思わせる。河内にひそかに戻って、下赤坂の砦を奪還してもいる。これは忍びの者の動きに近い。しかし、やはり表立った動きは消していた。  
隠岐で監視を受けていた後醍醐は、味方の誰もが動けなかったからといって、これで万事が休したとは毫も思っていなかった。帝王復権を一分一秒たりともあきらめていなかった。護良親王と悪党ネットワークに対して、さまざまな指令を発していた。そこが和歌を詠み耽った後鳥羽院とはまったくちがっている。こんな天皇は日本史上初めてである。 
こうして正慶1年・元弘2年(1332)の11月、突如として護良親王が吉野に挙兵し、これに呼応して楠木正成が河内の千早城で再挙すると、諸国の悪党と反幕府勢力とが一斉に蜂起を始めたのだ。  
むろん幕府は組織軍をさしむけ、この鎮圧に向かうのだが、敵の拠点が分散していて標的が定まらない。大塔宮護良が各地に「令旨」(りょうじ)を飛ばし、各地の蜂起が連打されたからである。播磨では赤松則村が苔縄城で挙兵して京都を窺い、幕府お膝元の関東では当初は幕府軍に加担していた新田荘の豪族新田義貞が生品神社に逆転の鬨をあげた。  
それだけではなかった。、四国では河野一族が反幕府の行動をおこし、九州にも菊地武時の鎮西探題攻撃がおこったのだ。とくに楠木一党の遊動作戦は事態をつねに撹乱させた。  
このような、さしずめ同時テロの一斉蜂起ともいうべき多面遊動作戦が功奏する只中、一瞬のスキをついて後醍醐は隠岐を脱出して、出雲に上陸してみせた。まさに巌窟王モンテ・クリストの脱出だったろう。 
帝王を迎えたのは海上ネットワークの首領・名和長年である。二人は伯耆の船上山に砦を築くと、ここから全国の地頭・御家人に倫旨を発信させた。  
こうなると幕府も最後の決定的戦いを挑むしかなくなっていく。元弘3年(1333)、名越高家・足利高氏らが上洛して事態の鎮圧に向かうのだが、ここで高氏の劇的な後醍醐側への寝返りがおこって、大勢が大きく急転していった。六波羅探題の北条仲時・時益はあわてて後伏見・花園両上皇と光厳天皇を京都から脱出させるしかなくなっていた。  
が、幕府は逃げたら終わりなのである。その2日後、六波羅勢は近江の番場で一斉自害を余儀なくされる。名越高家は赤松則村と戦って戦死し、これで六波羅探題がなくなった。  
時を同じくして、新田義貞の一軍が鎌倉を襲った。幕府軍と5日間にわたる戦闘をまじえると、ここにあっけなく鎌倉幕府が壊滅してしまったのだ。北条高時も東勝寺に入って自害した。正式な「鎌倉時代終結」は、まさにこの時になる。 
後醍醐は名実ともに「日本帝王の座」に返り咲いた。王政復古である。ただちに年号を建武と改めた。これは、後漢の光武帝が王莽を破って建武をおこした故事に倣っていた。  
こうして後醍醐は「朕ノ新義ハ未来ノ先例タルベシ」という有名な宣言をする。「建武の新政」のクライテリアのすべてがここにあった。雑訴(ざっそ)決断所をおこし、倫旨の連発によって王権至上主義を貫いた。とくに軍事指揮権と恩賞宛行権は徹底して掌握した。  
人事もふたたび一新した。関白と太政大臣を廃止し、太政官会議の下の八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)のすべてに新たな卿(長官)を就任させた。まあ、官僚を総入れ替えしたわけだ。楠木正成も名和長年も千種忠顕も新田義貞も、新たな政務の部署に就いた。  
高氏も“尊氏”と名を一新して恩賞を得るのだが、そこから尊氏の行動は一見、不可解なものになっていく。また迅速にもなっていく。いっさいの政府要職につかぬまま、自身で奉行所を設けて各地の武将の心情を引き付けておく一方、武蔵守として関東の「中先代(なかせんだい)の乱」の平定に向かうと、そこで軍旗と姿勢をひるがえして“新田義貞征伐”を表明し、箱根下の合戦にもちこんで新田軍を敗走させたのだ。のみならず、そのままその敗走する新田軍を追うかっこうで、帝都に入京した。  
ここに今度は、京都を守るのは後醍醐帝の陣営の方という、かつての事情とはまったく逆の、公武亀裂の情勢が出来(しゅったい)することになった。  
もう、王政復古の政務どころではなくなった。さすがの帝王も保身に走る以外にはなくなっている。そこで後醍醐がやむなく「尊氏誅伐」の倫旨を発すると、義則親王を奉じた北畠顕家が急いで近江坂本に駆けつけ、ここに北畠軍と尊氏軍との戦闘が都大路にくりひろげられるというふうになっていく。このあたりのことは『太平記』より『梅松論』のほうが詳しい。  
この間、護良親王は鎌倉に幽閉され、足利直義(尊氏の弟)によって殺害されてしまう。わずか27歳だ。ぼくはこの若き大塔宮が大好きなのだが、ここで舞台から降りてしまったのは、いかにも惜しい。 
後醍醐と尊氏の都を舞台にした戦闘は、このときばかりは後醍醐側の結集力のほうが有利だった。いったん尊氏は京都を逐われて、西海道を九州に向かった。これは各地の在地勢力を味方につけるためでもあり、建武の親政の制度不備に代わるニューシステムを準備するためでもあった。巷間、このころの後醍醐政治は最悪の評判だったのだ(このことはのちに北畠親房がしたためた『神皇正統記』にも書いてある)。  
この尊氏の動向を見て、楠木正成は事態の意外な展開に驚き、後醍醐に尊氏との和睦を進言しようとするのだが、この献策は参議の坊門清忠らの公家によって握りつぶされてしまった。  
建武3年(1336)3月、九州の多々良浜(現在の博多)に入った尊氏は、迎え撃つ後醍醐方の菊地武敏軍を破ると、ここで一転、博多を出発して瀬戸内海を東上する。水軍7500余艘に達したという。このまま尊氏軍が京都に向かったのでは、後醍醐軍はひとたまりもなさそうだった。  
そこで登場してくるのが、またもや楠木正成なのである。そしてここからは、『太平記』で一番人口に膾炙した場面になっていく。尊氏軍をなんとか阻止すべく、5月、正成は京都を出発して、まずは青葉茂れる桜井の駅で、子の正行(まさつら)と駒を並べて将来の再起を約させて別れると、弟の正季(まさすえ)とともに腹心の部下700騎のみを率いて、兵庫湊川に向かったのだ。  
多勢に無勢はもとより承知のこと、かくて正成は「湊川の合戦」で凄惨にも自刃して果てた。いまの湊川神社が正成を祀っている(ぼくはここで関西の若手神職を前に講演をしたことがある)。 
勢いを得た尊氏軍は6月に入京、天皇の軍隊とのすさまじい激戦を挑んでいった。まさに最後の決戦である。  
今度は天皇軍はあきらかに不利だった。後醍醐は名和長年・千種忠顕・宇都宮公綱・千葉貞胤らと「三種の神器」を奉じると、近江坂本から比叡延暦寺に入ったのだが、そこへ足利直義が攻撃を仕掛けたため、後醍醐軍の武将らは都に追われ、たまらず千種、長年らは討ち死にしていった。  
ここを『太平記』は、「開闢以来、兵革(ひょうかく)ノ起ル事多シトイヘドモ、是程ノ無道ハイマダ記サザルトコロナリ」と書いた。京都はまたしても主要な舞台ではなかったのだ。  
尊氏は8月15日に光明天皇の擁立を宣言した。11月、尊氏が「建武式目」17カ条を制定したとき、ここにはやくも室町幕府が成立することなる。ニューシステムの誕生だ。 
では、これでやっと京都が歴史の舞台になったのかというと、そうではない。後醍醐は北畠親房のたっての勧めで12月21日には冬の吉野の人になったのだ。  
舞台は吉野に移った。しかもいまだ後醍醐は、自身が日本国の帝王たることをあきらめてはいない。ただちに「日本」を奪還する計画を練った。ここに「南朝」としての後醍醐派の“天皇の戦争”が開始する。  
反撃は、今度は北から動いた。奥羽にいた北畠顕家が兵を動かして東上を開始、建武4・延元2年(1337)には鎌倉に入って斯波家長を破ると、そのまま休むまもなく東海道を西上し、美濃の青野原で高師冬と土岐頼遠の軍勢と激闘をまじえ、伊勢路から伊賀をへて大和に向かったのだ。  
しかし顕家は、このままでは帝王が復活できるとは思っていなかった。陣中で書状をしたため、後醍醐に中央集権の弊害を説き、租税を免ずることを切々と諌奏すると、そこに襲ってきた高師直に敗れ、石津浜で討ち死をした。  
新田義貞は越前にいた。この地で義貞は、南朝としての「北国合戦」を受け持ち、細川孝基軍と闘って燈明寺畷で矢を眉間に打たれて絶命した。頼みとしていた二人の南朝の将の連続した戦死に、後醍醐は吉野で呻いた。「こととはん 人さえまれに成りにけり 我世の末の程ぞ知らるる」。打ち続く非運に、劣勢を挽回するすべすらなくなかったかのようだった。  
それでも後醍醐は必死の手を打った。自分の皇子たちを吉野から各地に放つという乾坤一擲の方針を立てたのだ。 
ここからが南北朝の本番になっていく。森茂暁の『皇子たちの南北朝』(中公新書)になっていく。  
義良(のりよし)親王は北畠親房とともに陸奥へ、宗良(むねよし)親王はと遠江へ、満良(みつよし)親王は土佐へ、そして総帥を北畠顕信に託して鎮守府将軍に仕立てるというものだ。  
まことに悲痛な計画である。けれども待てど暮らせど、はかばかしい成果はなかなか届いてこない。  
吉野に籠もって2年9カ月、後醍醐はついに病に倒れた。暦応2・延元4年(1339)、後醍醐は8月15日に皇位を義良親王(のちの後村上天皇)に譲ると、その翌日、「足利方をことごとく滅ぼせ」と一言命じて、大きく息を引き取った。まだ52歳の帝王だった。  
『太平記』は、後醍醐が「玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄ハツネニ北闕ノ天ヲ望マント思フ」と遺言し、左手に『法華経』巻の五を抱き、右手に剣を握って大往生を遂げたと記している。すべてのドラマは吉野に閉じたかのようだった。 
これが帝王後醍醐の生涯だ。あまりに疾風迅雷の日々だった。長きにわたった非合法天皇でもあった。しかし、南北朝の歴史は、実はここからこそ始まるのである。王民王土思想は、ここからこそ広がるのだ。後醍醐の死は、南朝のドラマの始まりなのである。  
もう少し正確にいえば、建武3年11月に足利尊氏が「建武式目」制定によって室町幕府を成立させた直後の12月に、後醍醐が吉野に移ったそのときから、南北朝という前代未聞の分裂の時代が始まったのである。  
ここからの南朝の主人公は「後醍醐の皇子たち」であり、楠木正行や楠木正儀であり、北畠顕能や新田義宗であり、とりわけ九州に南朝政権を樹立する懐良(かねよし)親王になっていく。懐良親王は征西将軍として後南朝の最も劇的な主人公になっていく(懐良親王のことを知れば北九州の歴史観が一変するだろう)。  
しかし、この南北朝時代は、また同時に足利将軍尊氏から2代義詮への、また3代義満による室町社会が確立されていった時代そのものでもあった。  
この事情、なかなか複雑だ。だいたい『太平記』にして、後醍醐亡きあとの貞治6年(1367)まで描いている。これは義満が3代将軍に就任するところまでにあたる。しかし、それは南北二朝が「持明院統」(北朝)と「大覚寺統」(南朝)に分裂したまま存続していた時代でもあったのである。  
北朝は光明・崇光・後光厳・後円融・後小松天皇の6代が続き、南朝は後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇の4代が続いた。 
密教に耽溺した後醍醐天皇 
鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を行われた後醍醐天皇(1288-1339)は、異色の帝です。  
まず、自らの追号(死後に与えられる名、おくりな)を、自ら「後醍醐」と決められたこと。醍醐天皇は父の宇多天皇とともに、天皇による親政を敷き、善政を行ったとされます。後醍後は、醍醐天皇の治世を取り戻し、武家の手から実権を回復することを考えておられたのです。  
また、後醍後は密教に深く帰依されました。後醍醐と密教のかかわりは、そもそも父帝の後宇多が真言宗御室派の仁和寺で落飾(髪を降ろす)され、同じ真言宗の大覚寺を御所とされたことに始まります。皇太子の後醍後も密教に深く帰依しておられました。  
その後醍後の前に、文観(1278-1357)、円観(1281-1356)という僧侶が現れます。文観は、鎌倉時代、多くの庶民の支持を得ていた真言律宗の僧侶でしたが、醍醐寺で灌頂を受け、遁世僧として貧民救済などを行っていました。また円観は比叡山で得度した官僧でしたが、のちに遁世僧となりました。密教の文観、顕教(天台宗)の円観は後醍醐の信任を得て、政治向きにも深く関与します。  
文観は、醍醐寺、天王寺などの座主となり、円観は法勝寺を再建して住持となります。この二人が、後醍後に倒幕の建議をしたと言われているのです。  
英雄的な気質を持つ後醍後が、倒幕の建議に強く心を動かされたのは間違いがありません。しかしながら、後醍醐の周辺には幕府を倒すような武力はありませんでした。この武力を後醍後に付与したのが文観だといわれています。  
文観は、一方で真言立川流という流派を学びました。この流派は仏教では不邪淫戒として固く戒められている性行為を即身成仏への道と考える異端の宗派でした。文観は鎌倉時代に興った立川流を完成させたと言われます。立川流は文観によって急速に広がり、庶民や地方豪族などに熱狂的に信仰されます。これまで、中央の貴族や権力者とは全く関わりのなかったこうした人々が、倒幕運動に参加したと言われています。その代表格が悪党と呼ばれた楠木正成であり、名和長年であり、赤松円心だったのです。  
後醍醐自身も、真言立川流に深く帰依されたと言われています。もともとは中宮・禧子の安産を文観に祈祷させたことから始まっていましたが、自らもその修業をされたと言われます。一説によれば密教僧による「無礼講」と呼ばれる怪しげな酒宴にも参加されたと言われます。今も残る後醍後の肖像は、密教僧の姿をされています。  
また、後醍後は文観の手引きで、本来ならば対面などは許されない庶民や芸人、遊女とも交流します。後醍後はこうした人々から、民衆のパワーを感じ取られたことでしょう。これが倒幕、世の中の変革の源となったのです。  
鎌倉時代中期の天皇であった後嵯峨天皇(1220-1272)には、3人の皇子がおられました。このうち宗尊親王(1242-1274)は鎌倉幕府の将軍となりました。後嵯峨は退位して上皇となり、後深草(1243-1304)が即位します。しかし、後深草は病弱だったために退位させられ、弟の亀山(1249-1305)が即位します。亀山の皇太子にはその皇子である後宇多(1267-1324)が立ちます。当時まだ実権を有していた後嵯峨上皇もこれを支持したので、皇統はこれで亀山天皇の系統に引き継がれたかと思われましたが、鎌倉幕府の不興を買って亀山は退位に追い込まれ、後深草の皇子だった伏見天皇(1265-1317)が即位します。  
ここに後深草、亀山という兄弟の天皇の間に深刻な対立が生まれました。鎌倉幕府は、これを調停し、両方の系統から交代に天皇を即位させるルール(両統迭立)を定めました。  
亀山天皇の孫に当たる後醍醐天皇は、父の後宇多から次の天皇は、後深草の系統に譲るように命ぜられていましたが、天皇親政による新しい世の中を開こうと考えていた後醍後はこれを拒絶、父後宇多と不仲になってしまいます。室町時代に入っても、長く混乱が続いた南北朝の問題は、個々に端を発するのです。  
興味深いのは、後深草の系統が持明院統、亀山の系統が大覚寺統とともに寺院の名前で呼ばれたことです。持明院は摂関家が開いた寺院(現存せず)、大覚寺は嵯峨天皇の離宮跡に空海が開いた寺院です。中世には、寺院は天皇や上皇(治天の君)が住持し、政治を行う場所となっていました。ここにも、権力、政治と深くかかわった中世寺院の姿を見ることが出来ます。 
 


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菊池千本槍 
菊池千本槍(きくちせんぼんやり)は、太刀洗と共に、菊池氏を表す常套句。 南北朝時代の戦法は、馬上からの弓矢や薙刀、野太刀によるものが主流で、槍はまだ普及していなかった。南朝方であった菊池氏は新田義貞の指揮下に入り、各所で足利勢と戦う。 
建武2年11月(1335)箱根・竹ノ下の戦いにおいて菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案。竹藪から各自、手頃な竹を1本2mほどに切らせ、それに短刀を結わえて作らせた。見た事のない兵器に足利勢は大いに苦戦する。結果1,000名の兵で、足利尊氏の弟として知られる足利直義直属の軍を3,000名を敗走させた。(ただし、足利直義は戦下手として有名である。) 
その後、菊池武重は大和国より肥後国菊池に移住した刀鍛冶の集団・延寿一門に槍を作らせた。これが肥後延寿派の刀工の起源とされる。 
槍の登場は、その後の戦法に大きな影響を与えた。現在は菊池神社で見ることができる。 
上記の史実を元に、海軍士官の短剣に菊池槍を改造し仕込むことが流行した。精神的・歴史的な意味もあるが、菊池槍が比較的細身で海軍士官短剣の形状に合致したのも理由の一つである。その中でも知られるのが特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の松尾敬宇海軍大尉の逸話であり、同大尉は先祖伝来の菊池槍を携行して攻撃に臨んだ。この松尾大尉の逸話は昭和の戦時中末期のプロパガンダ映画、「菊池千本槍シドニー特別特攻隊」1944大映(菊池寛監督)に流用された。 
この逸話について菊池寛は文藝春秋の昭和18年6月号でこう語っている。「熊本へ行ったとき、シドニー攻撃の勇士、松尾海軍中佐の生家を訪問した。お父さんもお母さんも、立派な人であった。松尾中佐は、○年の○月帰省したのが最後であったが、たった二泊の短い帰省であるに拘らず、数里離れている隈府の菊池神社に参拝したそうである。しかもシドニー攻撃には、菊池千本槍を短刀に仕込んで携帯したそうである。菊池千本槍とは、短刀の形をした槍の穂先である。建武二年の暮れ、武時の子、武重が箱根水呑峠で、足利直義と戦ったとき、竹を切ってその先に、短刀を結んで新武器としたという伝説があるが、爾来菊池勢の槍の穂先は、短刀の形をしているのが特色である」。   
 
楠木正成 
南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。 
鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がなく権威が失墜していた。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々。民は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。焦る後醍醐天皇。この時、駆けつけた数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があった。 
正成の前半生は不明だが、楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の土豪(地方豪族)。河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあった。天皇に謁見して戦への意見を求められた正成は「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機もあるでしょう」と答えた。この言葉は後の戦いで証明されていく。 
地元に戻った正成は山中に築いた山城・赤坂城を拠点に挙兵する。“挙兵”といっても正成の兵力はわずかに500。これに対して幕府は数万の討伐軍を差し向けた。甲冑(かっちゅう)を着て武装した幕府軍に対し、正成軍の大半は普段農民の地侍であり、兜もなく上半身が裸の者もいた。粗末な山城を見た幕府軍の武将からは「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ」と声が聞こえた。 
油断した幕府兵は各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。ところが、兵が斜面を埋めた瞬間に突然城の外壁が崩れ(二重の塀だった!)、幕府兵の頭上にドデカい岩や大木が地響きをあげて転がってきた!1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲を得意とし、この初戦だけで幕府側は700名も兵を失った。藁人形であざむく、熱湯をかけるなど奇策に翻弄された幕府軍は力押しをやめ、城を包囲して持久戦に持ち込んだ(この時、幕府軍の中には足利尊氏もいた。彼は「正成という男は只者ではない」と感心したという)。 
兵糧攻めの結果、正成軍は20日で食糧が尽き、そこへ京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った(天皇は隠岐島に配流された)。正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらます。 
※この時、幕府側の武将の誰もが、“正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した”と考え、「敵ながら立派な最期だった」と言い合ったという。このような従来の価値観で動かず、舌を出してサクッと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁だろう。 
1332年(38歳)、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現す。彼は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の天王寺を占拠、京を睨む。これに対し北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けた。正成側には敵の4倍の兵が終結しており、臣下は「一気に踏み潰しましょう」と主張したが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と提案を退け、謎の撤退をする。幕府のエリート部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領。ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える。しかし夜が明けても正成軍に動く気配はない。次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲した。「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退した。実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いたものだった。正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利する。 
翌1333年2月(39歳)、幕府は目の上のコブ、正成の息の根を止めるべく、8万騎の大征伐軍を追討に向かわせる。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に篭城した。幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ない。結局、2年前の赤坂城と同様に兵糧攻めを選んだ。ところが、今回は勝手が違った。なまじ8万も兵がいる為に、先に餓えたのが包囲している幕府兵だったのだ。正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、「千早城そのものが囮(おとり)」という前代未聞のものだった。山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになった。 
8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わった。「幕府軍、恐れるに足らず」これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始め、ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきた。尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取る。正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させたのだ。6月、正成は隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めた。 
※赤坂城、千早城の合戦の後日、正成は敵・味方双方の戦死者を区別なく弔う為に、「寄手(よせて、攻撃側)」「身方(味方)」の供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なった。敵という文字を使わずに「寄手」としたり、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいなど、残忍非情な戦国武将が多い中で、人格者としての正成の存在は際立っている。誠実な人柄が垣間見える感動的な供養塔だ(現在も千早赤阪村営の墓地に残っている)。 
1334年(40歳)、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタート。正成は土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されるという異例の出世を果たす。後醍醐天皇は天皇主導の下で戦のない世の中を築こうとしたが、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え独裁を推し進める。まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。 
朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、1335年11月、尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵する。 
京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃った。尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走する。 
正成はこの勝利を単純に祝えなかった。逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わっていく光景を見たからだ。「自軍の武士までが、ここまで尊氏を慕っている…!」。新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に対して「どうか尊氏と和睦して下さい」と涙ながらに進言する。ところが、公家達は「なぜ勝利した我らが尊氏めに和睦を求めねばならぬのか。不思議なことを申すものよ」と正成を嘲笑する始末…。 
1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始。後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じる。“討伐”といっても、今や尊氏側の方が大軍勢。正面からぶつかっては勝てない。策略が必要だ。正成は提案する「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めしますゆえ、帝は比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」。しかしこの案は「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」という公家たちの意見で却下された。彼が得意とした山中での奇策も「帝の軍の権威が…」で不採用。 
失意の中、正成は湊川に向かって出陣する。天皇の求心力は無きに等しかった。尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700。戦力差は何と50倍!正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書く。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈った。 
5月25日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいた。戦力の差は歴然としており即座に勝敗がつくと思われたが、尊氏は正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らなかった。今でこそ両者は戦っているが、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志。尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていた。しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、このままでは自軍の損失も増える一方。尊氏はついに一斉攻撃を命じた。6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺していたという。享年42歳。 
正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。尊氏側の記録(「梅松論」)は、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。 
尊氏の没後、室町幕府が北朝の正当性を強調する中、足利軍と戦った正成を「逆賊」として扱ったため、彼は死後300年近く汚名を着せられていた。たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーだった。 
正成の終焉の地・湊川にある墓は、もとは畑の中の小さな塚で荒廃していたのを、1692年に“水戸黄門”徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した(墓碑銘に「嗚呼」とあるのは正成だけと思う。ちなみに工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎)。光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。墓の傍らには水戸光圀像がある。 
正成の墓碑は大きな亀の背に乗っている儒教式だ。古来から中国では、死後の魂が霊峰・崑崙山(こんろんさん)に鎮まることが理想とされている。亀はこの山に運んでくれる聖なる生き物とされており、こうした墓の形になった。 
室町時代の軍記物語「太平記」には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいる。 
※正成の故郷、大阪・河内長野の観心寺の境内には彼の首塚がある。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。 
※正成討死の半年後、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開く。翌1337年、新田義貞が敗死。1339年には後醍醐天皇も他界する。正成の死の12年後(1348年)、息子の楠木正行(まさつら、22歳)は南朝方の武将として父の弔い合戦に挑んで破れ、父の最期と同様に、弟の正時と互いに刺し違えて自害した。