宮城野と信夫・団七踊り

宮城野信夫の仇討ち話志賀団七口説き団七踊り奥州白石噺村からの娘秋田音頭相馬の仇討傾城買虎之巻「奥州白石噺」をめぐる諸芸能・・・
由井正雪 / 正雪1正雪2正雪3慶安の変1慶安の変の歴史的意義2末期養子と由井正雪事件幕府不満の弾圧に利用された叛乱計画足洗半左衛門正雪地蔵尊
 

雑学の世界・補考   

宮城野・信夫(みやぎの・しのぶ)
人形浄瑠璃「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」の通称。また、その両主人公である姉妹。  
宮城野・信夫姉妹 仇討ちの話1

伊達政宗の家臣、片倉小十郎重長の剣術の師に、志賀団七という男がいた。
この男、無道で知られた人物で、寛永13年のある日、農民が娘二人を連れ、田で作業している所に通りかかり、その際、娘が投げ捨てた草が袴に当たったと、烈火のごとく怒り狂って、娘を切り捨てようとした。父親が驚き、土下座して詫びるが聞き入れず、志賀はこの父を切った。父は田の中を逃げたが力尽き、死んでしまった。子供達も家に逃げ帰ったが、病気で臥せっていた母はこれを聞いて、やがてショックもあったのか、後を追うように死んでしまう。
姉妹は親の恨みを晴らすため、かたみとなった土地を売り、江戸に出て剣術家、由井正雪を尋ねる。最初は相手にしなかった正雪だが、姉妹の熱心さと孝心にうたれ、3年の間に仇討ちをさせることを約束。姉に宮城野(みやぎの)、妹に信夫(しのぶ)と名をつけ、姉には鎖鎌と手裏剣、妹には長刀を指導。また、正雪の妻が二人に女としてのたしなみを教えるなどし、ついに三年で器量・立ち居振る舞いとも門弟一となった。
門弟三人に付き添われて白石に戻った姉妹は、片倉小十郎重長に事の次第を説明。曰く、「父母ともになき今、生きるすべもないので、親子もろとも、団七様のお手にかかって死にたい」と。
願われた重長は、志賀の無道を知っていたので、伊達家を通して幕府に伺いを立て、幕府から孝女であると特別に許しを貰った。
寛永17年(1640年)2月、白石川六本松河原にて、片倉の侍150人と見物客1000人ほどに見守られ、姉妹は正雪の妻から送られた着物と鉢巻、一方の志賀は2尺5寸の大刀を持って、煌びやかないでたちで登場。戦いが始まると、姉妹は奮戦し、姉が鎖鎌で志賀の腕をからめ取り、妹が長刀で腕を切り落とし、「父母の無念を晴らしたまえ」と叫ぶや、志賀の首を切り落とした。
仇討ちが終わった後、姉妹は武士を殺した罪を償うためにとその場で自害しようとしたが、周りにいた人々に止められて思い留まり、姉妹揃って髪を切り、生涯仏に仕えて暮らしたという。
当時としては大ニュースだったようで、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなり、死後は八枚田孝子堂に父とともに祀られ、後年、姉妹を讃え、荒城の月で有名な土井晩翠の歌碑が立てられている。
郷(さと)の生める宮城野信夫かんばしき孝女の誉(ほまれ)千代に朽ちせず
宮城野・信夫の仇討ち2

 

逆戸(さかど)村(今の大鷹沢三沢(おおたかさわみさわ))に与太郎という百姓がいました。与太郎はまずしくても幸せな生活をしていました。
寛永(かんえい)13年(1636年)のある日、与太郎は、むすめ二人を連れて八枚田で田の草をとっていました。
そのとき、片倉小十郎の剣術の先生である志賀団七(しがだんしち)が通りかかりました。たまたま妹信夫が投げた田の草が、通りすぎようとした団七のはかまに当たってしまいました。団七は火のようにおこり、むすめを切り殺そうとしました。与太郎は土下座してむすめが悪かったとあやまりましたが、団七は聞く耳を持たず、その場で与太郎をきりつけました。与太郎は血を流しながら田の中を逃げましたが、小さな丘の上で力つきて死んでしまいました。姉妹も命からがらわが家ににげ帰り、病気の母親に話しました。その母も与太郎の後を追うようになくなってしまいました。
姉妹は親のうらみをはらすため団七をうち取ろうと決めました。しかし、敵は武士です。 か弱きむすめが勝つためには、一流の剣術を習わなければなりません。そこで二人は親のかたみの土地を売って、江戸の剣術家、由井正雪をたずねました。
最初姉妹を相手にしなかった正雪でしたが、げん関ばらいをしても何度も願い出る姉妹の熱心さに心が動かされ、姉妹の話を聞きました。姉妹の孝心に心をうたれ、姉を宮城野(みやぎの)、妹を信夫(しのぶ)と命名し、3年の間にあだうちをさせることをやくそくしました。
その日から、血のにじむようなけいこが始まりました。正雪は宮城野にくさりがまとしゅりけん、信夫になぎたなを指導しました。また正雪のつまは、姉妹に女としてのたしなみを教えました。こうして約束の3年をこえる5年の修行を積み、姉妹は器量、立ちふるまいとも門弟の中で一番に成長したのです。ついに姉妹は、希望をなしとげるため、門弟3人につきそわれて、白石へと向かいました。
白石についた姉妹は、「父母ともになき今、生きるすべもないので、親子もろとも、団七様のお手にかかって死にたい」と片倉小十郎に願い出ました。団七の無道ぶりを知っていた小十郎は、伊達家を通じ幕府にうかがいをたてました。普通であればみとめられないあだうちでしたが、幕府も孝女であると特別にみとめました。
寛永17年(1640年)春まだ浅い2月。白石川六本松河原があだうちの場所となりました。片倉家のさむらい150人が周りを囲い、見物客は1000人にもなりました。
しんとしたきんちょうの空気がはりつめた。宮城野・信夫は正雪のつまからおくられた着物を着て、はちまきをきりりとしめて前に出ました。一方、志賀団七は2尺5寸の大刀を帯び、はなやかな出で立ちで登場しました。
ドーン、ドーンというたいこの合図で立ち会いが始まりました。
まず、信夫がなぎなたで戦いましたが、勝負がつかず、続いて宮城野が戦いました。宮城野はくさりがまのふんどうをふって戦いました。くさりが団七のうでにからまったとき、信夫のなぎなたが団七の両うでを切り落としました。姉妹は、「父母の無念をはらしたまえ」と声高くさけび、団七の首を切り落としました。
姉妹は、親のかたきとはいえ、武士を切ったつみをわびるため、その場で死のうとしました。それを止めようとする人々の声によって思いとどまった姉妹は、かみを切り静岡の弥勒寺(みろくじ)のそばにいおりをたてました。宮城野62才、信夫64才でなくなるまで、 仏につかえました。 二人をまつった孝子堂が大鷹沢三沢にあります。
土井晩翠の歌碑
郷(さと)の生める宮城野信夫かんばしき孝女の誉(ほまれ)千代に朽ちせず
 
志賀団七口説き

 

頃は寛永十四年どし 父の仇を娘が討つは 
いとも稀にて世に珍しき  それをどこよと尋ねて聞けば 
国は奥州仙台の国 時の城主に正宗公と
家老片倉小十郎殿と 支配間なる川崎街道 
酒戸村とて申せしところ  僅か田地が十二国高 
作る百姓に名は与茂作と 娘姉妹持ちおかれしが
姉のお菊に妹のお信 姉が十六その妹が 
ようよう十三蕾の年よ  頃は六月下旬の頃に 
ある日与茂作打ち連れ立ちて 至るところは柳が越よ
柳越にて田の草取りよ 草は僅かの浮き草なれど 
稲の袴や無常の風や  触れば落ちる露の玉 
死する命を夢にも知らず 姉が唄えば妹が囃す
流行る小唄で取る田の草を 道の街道にみな投げ出だす 
通りかかるは団七殿よ  通り合わすを夢にも知らず 
取りし田の草また後投げよ 投げたその草団七殿の
袴裾には少しはかかる そこで団七大いに怒り 
そこな百姓の土百姓奴郎が  武士に土打つ例があるか 
斬りて捨てんと大いに怒る 親子三人それ見るよりも
小溝上がりて両手をすすぎ 道のかたえに両手をつきて 
七重の膝を八重に折り  姉も妹も父与茂作も 
拝みますると両手を合わせ ようようこの娘が十三なれば
西も東も知らざるものよ どうぞ御慈悲にお助け召され 
云えど団七耳にも入れず  日頃良からん若侍で 
心良からぬ団七ならば すがり嘆くを耳にも入れず
二尺五寸をすらりと抜いて 斬って捨てんとひしめきかかる 
斬ってかかれば父与茂作も  何をなさるぞ団七殿よ 
わしも昔は武士なるぞ 出羽の家中の落人なれば
むざに御前に打たれはすまい 云うて与茂作鍬とりて 
しばし間は戦いなさる  むこう若武者身は老人で 
腕が下りて目先がくらみ 右の腕の拳が緩み
持ちた鍬をばカラリと落とす 哀れなるかや父与茂作は 
畦を枕に大袈裟斬りよ  それと見るより姉妹子供 
八丁ばかりの田の畦道を 命からがら逃げふせければ
後で団七思いしことは あれを生かせば以降の邪魔よ 
後を慕いて追いかけみれば  娘姉妹行方は知れず 
行方知らねばままにはならぬ 血をば拭き取り刀を鞘に
己が屋敷に立ち返りしが 後で哀れは姉妹娘 
われに返りてただ泣くばかり  母もそのとき大病なれば 
重き枕をようやく上げて ここは何事こは何とする
委細語れや姉妹娘 言えば姉妹顔振り上げて 
今日の次第を細かに語る  それとみるより母親様は 
はっと想いし気は仰天の 気を揉み上げて胸鬱ぐ
いとしなるかや母親様に 呼べと叫べど正体もない 
娘姉妹それ見るよりも  母の閨にて立ったり居たり 
母もそのとき相果てければ 泣きつ嘆きつ正体もない
隣近所がみな集まりて ともに涙の袖をも絞る 
もはや嘆くな姉妹子供  なんぼその様に嘆いたとても 
最早父母還らぬものよ 野辺の送りを急いで頼む
野辺の送りを頼むとあれば お寺様にも届けにゃならぬ 
お寺様より十年回向を  四度も三度もまた六度も 
回向するのも父母のため 正体なくも姉妹は
親に一生の泣き別れする 急ぎ給えば山入りなさる 
後に哀れは姉妹娘  二人ながらに身はしょんぼりと 
そこで姉妹思案を返す 姉のお菊のさて申すには
なんと妹思案はないか どうとしてなりあの団七を 
仇討つなら父親様も  怨み晴らして成仏致す 
言えばお信の申せしことは それは姐さん良い思いつき
わしもとうからそう思います ここで剣術指南はできぬ 
広いお江戸に上ったうえで  名ある家にて師匠を取りて 
武芸稽古を致そうでないか 云えばお菊の打ち喜びて
さあさこれから仕度をせんと 手布衣手拭水足袋脚絆 
何か揃えて見事なことよ  恵みも深き父母の 
父の位牌はお菊が守る 母の位牌はお信が守る
ここに哀れは姉妹娘 知らぬお江戸をたずねて上る 
尋ね尋ねてお江戸に着いて  天馬町にて投宿いたす 
浅草辺や上野辺 芝居神明その茶屋茶屋を
尋ね廻るはもし御家中の 名ある茶屋には早や立ち寄りて 
御問ござんす御亭主様よ  私ゃあなたにもの問いましょう 
江戸の町にて剣術指南 一と申せし御方様よ
云えば亭主がキャラリと笑う 愚かなるかよ江戸洛中は 
十里四方が四方が四面  町が八百のう八丁町 
およそ日ノ本六十余州 大名揃えて八百八大名
それに旗本また八万騎 それに付き添う諸侍方 
誰を一ともまた上手とも  教えがたないとは言うものの 
当時名高い四五人あるを 教え聞かすぞよう聞け娘
剣術一の達人は 柳生十兵衛但馬守よ 
軍学流のその名人は かたぎょ淡路の御守様よ 
棒の名人許しを取りて 名ある中にも阿部十次郎と 槍は山本伝兵衛様よ
長刀手裏剣その名人は 万事終えたるその名人は 
江戸の町にてその名も高き  榎町にて由井昌雪と 
これを訪ねて行かれよ娘 言えば姉妹打ち喜びて
さらばこれから昌雪様の お家御門を御免と入る 
お家ござんすお旦那様よ  五年奉公よろしく頼む 
教え下され武芸の道を 言えば昌雪さて申すには
国はいずくで名はなにがしか 委細語れや姉妹娘 
言えば姉妹泣き物語り  国は奥州仙台の国 
家老片倉小十郎様の 知行内なる川崎街道
酒戸村とて申せしところ 僅か田地が十二国高 
作る百姓に名は与茂作と  今年六月下旬の頃に 
不慮なことにて父をも討たれ 忘れ難ないその残念さ
何卒あなたの御慈悲をもちて 親の仇を討たせて給え 
云えば昌雪さて申すには  これはでかした姉妹娘 
親の仇を娘が討つは さても稀にて世に珍しや
五年奉公致せよ娘 昼は炊事の奉公致せ 
夜は部屋にて剣術致せ  さあさこれから朝夕ともに 
武芸大事と心にかけよ 云うてその場で名を召しかえる
姉を宮城野妹を信夫 姉に神鎌また鎖鎌 
白柄長刀妹の信夫  そこで姉妹心を入れて 
武芸稽古を励まれまする 月日経つのは間のないものよ
最早武芸も五年に及ぶ ある日昌雪あい心見に 
娘姉妹小坪に呼んで  名ある落人四五人呼んで 
姉と妹を仕合せみれば さすが名高い四五人共は
姉と妹に打ち伏せらるる そこで昌雪打ち喜んで 
最早さらさら気遣いはない  早く急いで本国致せ 
祝儀餞別白無垢小袖 姉に神鎌また鎖鎌
白柄長刀妹の信夫 これを昌雪餞別とする 
道を見立てるそのためとして  一に熊谷三郎兵衛なるぞ 
松田弥五七坪内但馬 これを三人あい添え下す
名残り惜しさに姉宮城野が 信夫涙の袖をも絞る 
我が故郷は奥州の  人の便りで白石城下 
尋ね尋ねて片倉様の 御家御門を御免と入る
御免なされやそれがし共は 江戸の町なる由井昌雪の 
家来熊谷三郎兵衛なるぞ  松田弥五七坪内但馬 
これな娘はこの御領内 酒戸村なる与茂作娘
今を去ること五ヵ年以前 これな御家中の団七殿の 
御手にかかりて無念の最期  仇討たんの存念ありて 
五年この方匿いおいた 何卒あなたの御慈悲をもって
父の仇をお討たせなされ それと聞くより小十郎様は 
すぐにそれより御登城なさる  登城いたされ御公儀様に 
申し上げれば御公儀よりも 父の固きを娘が討つは
さても稀にて世に珍しや 国の面目世の外聞に 
仇討たせとその御意下る  仰せつけられ片蔵様は 
はっと答えて御殿を下る 仇討ちなら用意の場所は
場所を改め白石河原 二十一間四面の矢来 
真正面には検査の御小屋  大木隼人や名は兵衛様 
それに御目付玉之守というて これがこの日の検査の役よ
警護の侍八十人よ これに足軽三百五十 
矢来周りの固めの役よ  最早日にちも相定まりて 
五十四郡に回状廻す それと聞くより近国他国
老と女の差別も知らず 集い来たるは野も山も 
里も河原もその数知れず  雨の足をも並べた如く 
それに団七姉妹娘 御上様より御念のために
着たる衣装を改め見んと そこで団七改め見るに 
鎖帷子肌には着込む  何と団七武士なる者が 
鎖帷子肌には着るな 卑怯千万早や剥ぎ取れと
矢来間にて剥ぎ取られます 娘姉妹改め見るに 
それら娘にそのものはない  御上様より合図の太鼓 
それと聞くより妹の信夫 白柄長刀小脇に持ちて
小褄かいとり早や進み出で もうしこれいな団七殿よ 
覚えあるかや五ヵ年以前  酒戸村なる与茂作娘 
元を質せば我が身のしなし わしの怨みのこの切先を
不肖なれども受け取り召され 云えば団七きゃらりと笑う 
覚えあるぞや五ヵ年以前  無礼せしゆえ斬り捨てたるに 
仇討ちとは片腹痛い 返り討ちどや一度にかかれ
云えば信夫が申せしことは 何を云わんす団七殿よ 
針は細いでも飲まれはすまい  山椒胡椒は細いが辛い 
関の小刀身は細けれど 綾も断ちゃまた錦も切れる
そんな高言勝負の上と 白柄長刀両手に持ちて 
斬ってかかれば団七殿は  二尺一寸さらりと抜いて 
しばし間は戦いなさる 御上様より休みの太鼓
それを聞くより姉宮城野が 鎖鎌をば両手に持ちて 
鎖鎌なら一尺二尺  金の鎖に鉛の分銅 
含み針をば三十五本 しばし間は戦いなさる
運のつきかや団七殿は 両の眼に三本打たれ 
是非に及ばず死に物狂い  それと見るより妹信夫 
白柄長刀両手に持ちて 眼にもとまらず首打ち落とす
姉の宮城野妹の信夫 親の仇をとうとう晴らし 
その名響くは海山千里  親の仇を討ちたる娘 
世にも稀なる孝女の誉れ 語り伝えんいつの世までも
 
団七踊り」 / 奥州白石噺の系譜

 

姉の宮城野薙刀(みやぎのなぎなた)持ちて 妹お信(のぶ)は陣鎌持ちて
右と左に身構え致す 中に立つのは志賀団七(しがだんしち)よ
二尺八寸の刀を持ちて そこで宮城野言葉をかけて
とても叶わぬ志賀団七よ 親の仇きぞ覚悟をしろと
言えば団七にっこと笑い 仇き呼ばわり小癪(こしゃく)な奴よ
返り討ちだぞ覚悟をしろと 言って団七刀を抜けば
石川県松任市柏野地区(旧石川郡柏野村)に伝えられる「団七踊り」の音頭「娘仇討ち白石口説やんれ節」の一節である。樹齢数百年の欅(けやき)の大木がたちならぶ神社の境内にやぐらが組まれ、それをめぐって、幾重もの踊りの輪が出来る。津軽三味線に似た細かい撥さばきの三味線と、抑揚の少ない尺八、単調な太鼓が楽器のすべてだ。軽快さと悠長さをあわせもったような不思議な囃子にあわせて、甲高い音頭とりの歌がうたわれる。土地では、「柏野じょんがら」と呼んでいる。
そろたそろたよ踊り子がそろたそろた 踊り子が手をたたく
踊りゃしまらにゃ 若い衆のしょまじゃ たてておどらにゃ 娘のしょまじゃ
これにあわせて四種類の踊りが同時に踊られる。「手踊り」「扇踊り」「笠松踊り」「団七踊り」がそれだ。「手踊り」は、いわゆる一般的な盆踊りである。浴衣に手ぬぐいのほほかむりをしたおもいおもいの服装で自由に踊る。ただ、未婚の娘たちだけが、赤い襦袢に黒繻子の帯を結び編み笠をかむったそろいの装束で列に加わり、踊り場に花をそえる。「扇踊り」は、若い衆の踊りである。浴衣の前に若の字を築けんたいめぬいた真紅の懸帯をつけ、二本の扇子をもって踊る闊達な踊りである。「笠松踊り」と「団七踊り」は、この踊りの輪の中にまじって踊られる仕組み踊りである。段物とも呼ばれている。「笠松踊り」は、二人で踊られる。奥州笠松峠にすんでいたという女賊鬼神のお松と、これに殺された父の仇きを討とうとする夏目仙太郎という武士のたちまわりが演ぜられる。
「団七踊り」は、三人で踊られる。中央に旅網笠に紋付・袴・わらじばきの武士志賀団七が、二刀をふりかざし、右と左から手甲・脚絆に身を固めた巡礼姿の姉妹宮城野と信夫の二人が、それぞれ薙刀と鎖鎌をかざしてたちむかう。三人のたちまわりがいくつかの振りによって構成され、それが延々と続けられる。
緩急渾然(かんきゅこんぜん)とした囃子と、甲高い音頭・歌と、そして四種類の踊りが、奇妙にまざりあって、不思議な興奮状態をかもしだす。人々は、踊りの輪の内と外にむしろをしいてすわり、次々と流れていく踊りに見とれながら、音頭の歌に恍惚として聞きほれるのである。
「団七踊り」の音頭として歌われる「娘仇討ち白石口説やんれ節」は、えんえん140節、全部をうたいあげるには数時間を要する。
国は奥州白石郡(おうしゅうしらいしごうり) 坂田村(さかたむら)にて百姓の与太郎(よたろう)
心正しき律儀(りちぎ)な者よ 与太郎女房をお小夜(さよ)と言うて
二人みめよき娘がござる 姉はお宮よ妹はお信
二人もろとも愛嬌者(あいきょうもの)で 器量(きりょう)よいこと人並みすぐれ
殊(こと)に両親孝行(ふたおや)なさる 家内睦まじ繁盛(はんじよ)な暮らし
奥州白石郡坂田村の百姓与太郎と女房のお小夜、それにお宮・お信の姉妹の四人は、貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。
6月なかばのある日、与太郎と二人の娘たちは、うちそろって田の草取りをしていた。ところが、妹娘のお信が畦の小道へ投げ捨てた田の草が、折悪しくそこを通りかかった志賀団七という武士の足にあたってしまった。団七は、近郷近在の百姓たちから毛虫のように嫌われている悪役人である。かねて姉娘のお宮に恋慕して父与太郎から断わられ、遺恨に思っていた。与太郎は仰天して、笠をぬぎすてると畔道に手をついて、
さても貴方と少しも知らず 無礼致した二人の娘
どうぞ堪忍お許しなされ
と死物狂いで許しを請うた。ところが団七は、
おのれこあまに言い付けおいて わざと致した仕業であろう
憎つくい奴らよ許しはせぬ
と、腰の大刀を抜くよりはやく、いきなり与太郎を一刀のもとに切り殺してしまう。
ととさん、のうととさん
と取り残された母子三人は、与太郎の死骸にとりすがってただただ泣きくずれるばかりであった。かけつけた村人たちも、あまりのことにともども嘆き悲しむばかりでなすすべを知らない。と、庄屋太郎兵衛は、やがて心をとりなおし、
これさお小夜や二人の娘 さぞや悲しく悔しくあろう
いまにわれらに仇きを取らせ 恨み晴らしてくれようほどに
心直し時節を待て
と、かたい決意の上、母子をなぐさめるとともに、村人たちと相談した上、団七の仕業をくわしく書きしたためて、領主の所へ訴え出た。百姓たちからの訴えを聞いた領主は、大いに怒り、
たとえ慮外を致したとても 国の宝の民百姓をば
むざと手に掛け不届き者よ 殊によこしま非道を致し
われが役目を権威にかけて 諸事をはからう大胆者よ
とて、すぐに使者を遣わして団七に切腹を仰せつけた。この使いを受けると、団七はあわてて逃げ出し行方をくらましてしまう。泣く泣く葬式をすませ、四十九日の追善供養を営みおえると、巡礼姿に身をかためた母娘三人は、親類や村人たちのはげましに送られながら、仇討ちの旅にのぼる。路銀を使いはたした旅先の宿で母に死なれた後、さらに数々の苦労をなめた末、姉妹は、とうとう父の仇き志賀団七を討ちとる。
さすが団七真陰流の その名聞こえし達人なれば
すでに宮城野危うく見える そこで信夫は陣鎌持ちて
鎖投げれば団七殿の 腕にからむを後へ引けば
姉は突きこみききてを落とす そこで団七数所へ手疵
とてもかなわぬ運命つきる 姉と妹は止めを刺して
積もる思いの恨みも晴れて 本望遂げます二人の娘
世にも稀なる仇討ちでござる
これが、「娘仇討ち白石口説やんれ節」でうたわれる宮城野・信夫の仇討ち物語の概略である。
木版刷りの古びた音頭本に書きつづられた姉妹の仇討ち物語。百姓の娘姉妹が、武士に対して仇討ちをする、考えてみれば、不思議な話である。これはいったい何なのだろう。はたしてこんなことが本当にあったのだろうか。もしあったのだとしたら、遠い東北の地で起こった事件が、なぜ北陸の盆踊りの中で、歌い踊られるのであろうか。
幾世代をかさねて歌い踊りつがれてきた「娘仇討ち白石口説」と「団七踊り」には、祖先たちのどんな想いがこめられているのであろうか。
「奥州白石噺」の成立と展開の過程を辿りつつ、「団七踊り」の持っている生命力を探ってみたいと思う。
「奥州白石噺」

 

史実と巷説
二人の百姓娘の仇討ちは、はたして史実なのであろうか。史実であるとすれば、それは、具体的に、いつどこで起こったどのような事件であったのだろうか。また史実でないとしたら、いつ、だれが つくりだしたのだろうか。とにかく、「奥州白石噺」の成立過程は、興味深い課題でありながら、ほとんど明らかにされていない。
これまでに、何人かの人達が、この課題に取組んだ。代表的な論者として、次の三人があげられる。
松村操編「実事諌」(明治14年刊)「宮城野信夫の実説」/平出鏗二郎著「敵討」(明治43年刊)「陸奥国仙台白鳥明神社前姉妹の敵討」/三田村鳶魚(みたむらえんぎよ)著「芝居ぱなし」(大正15年刊)「宮城野信夫」
三人は、いずれも、世間一般に「宮城野信夫の敵討」として知られている物語が、実は実録体小説作者や浄瑠璃・歌舞伎作者たちによって大きく創作の手が加えられたものであることを指摘し、同時にこの物語のもとになった事件が享保8(1723)年に実際にあったことを指摘している点で共通している。
松村・平出両論文は、ほとんど史実の説明におわっているが、三田村論文は、それをふまえつつ、浄瑠璃・歌舞伎への発展過程を明らかにしょうとした労作である。しかし、三田村氏は、浄瑠璃・歌舞伎の成立・発展の過程について詳述しながら、ついに史実と芝居との間をつなぐ確かなパイプを見出すことができなかった。ただ、研究の方向として実録体小説に着目することの重要性を指摘しているのは、卓見と言わねばならない。
事件の実在の根拠としてあげられるほとんど唯一の史料が、本島知辰「月堂見聞集」に見られる次の記録である。
仙台より写し来り候敵討ちの事
松平陸奥守様御家来片倉小十郎殿知行の内、足立村百姓四郎左衛門と申者、去る享保三成年、白石と申す所にて、小十郎殿剣術の師に、田辺志摩と申、知行千石取り候仁これあり候に行逢ひ、路次の供回りを破り候とて口論に及び、彼の四郎左衛門を田辺志摩打捨て申し候。此の節、四郎左衛門に二人の女子あり。姉 十一歳・妹八歳。早速に領内を立退き、仙台に住居致し、陸奥守様剣術の師瀧本伝八郎殿と申す方へ姉妹共に奉公に罷り出、忍々に剣術を見習ひ、六か年の間、剣術習練致し候。
或る時、女部屋に木刀の声頻りに聞え申すに付き、伝八郎不審に存ぜられ、伺い見られ候所に、右の二女剣術稽古仕り候様子に候。伝八郎子細を尋ね申され候えば、報讐の心入り候由申し候に付き、伝八郎感心浅からず、此よりいよいよ似て修業致さ せ、密かに秘伝申聞され候由なり、高千石、此の度御加増弐千石、瀧本伝八郎名を土佐と改む。
右の次第は、当春陸奥守様へ、彼の二人の女が寸志を遂げさせたき旨、御願い申上げられ候に付き、右敲き田辺志摩と引合され、仙台の内白鳥大明神の社前、宮の前と申す所に矢来を結ひ、当卯(享保8年)の三月、双方立合い勝負仰せ付けられ候。
仙台御家中衆、警固検分これあり候、姉と志摩と数刻討合ひ、二人替る替る相戦ひ候て、程なく志摩を袈裟切りに切付け申し候。姉走り掛かり止めをさし申し候。
殿様御機嫌斜めならず、此の女子共家中へ養女に給うべき旨仰せ出され候処、二女共に堅く御辞退申し上げ俟て御受けを申さず候。父の敲き志摩を討ち候事、元より罪遁れず候。願わくは如何様とも御仕置きに仰せ付けられ下され候様に申上げ候えなば、猶以て皆々感心いたし候。さて、瀧本氏二女に向ひ、委細に様子を申聞かせ、殊に太守の御意を違背申すべきにあらず。
某も時の主人たり。剣術の指南の恩、彼是れ以て我が申す義そむくべからずと申され候えば、漸々了簡に随ひ納得仕り候。依て御家老三万石伊達安房殿へ姉娘を引取り申され候。当年十六歳。高知らず大小路権九郎殿へ妹娘手疵養生仰せ付けられ候。
当年十三歳。
右の書付け、実否の義存ぜず候え共、仙台より写し参り候由、世間風説これあり候故、留置き候。以上
二人の娘たちの父親が無礼討ちにされたのが、享保3(1718)年であり、仇きを討ち果したのが、享保8(1723)年3月であって、時に姉16歳、妹13歳であったというのが、内容の骨子である。
一見してあまりに出来すぎた話であり、事実であるとはにわかに信じがたい内容であるといわざるをえない。
「月堂見聞集」は、月堂・本島知辰が、元禄10(1697)年から享保19(1734)年に至る38年間にわたって、天変地異、政治や社会、出来事、行事や風俗などを詳細に記録した見聞雑録である。材料の多くは自ら実見したものであり、元禄・享保期の世態・風俗を知るための好個の史料とされているものである。
ただ、この記録については、筆者自身が、「右の書付け、実否の義存ぜず候」と断っている通り、事実を確認したものでないことは明らかである。と同時に、「仙台より写し来り候由、世間風説これあり」と記述されているように、二人の百姓娘の仇討ち話が、仙台から伝わってきた風聞として世評に上っていた事は、事実として確認してよいであろう。
二女敵討ちの経過について書かれたもっとも古い文献がこのような巷説という体裁を取っていることが、史実確認の作業を困難にしている最大の原因である。
この事件そのものを実証するにたる史料は、現在のところ存在しない。この事件の実否やその内容、歴史的位置づけ等については、今後の研究にまたざるをえない。
実録体小説
この事件が史実として確認できるとしたら、きわめて特異な事件であったことは言うまでもない。 実否のことはともかく、この話が、「仙台女敵討ち」として、各地に喧伝され、大変な評判を呼んだことは、否定することのできない事実である。
「月堂見聞集」の記述は、享保8(1723)年の5月から7月の時点で、すでにそのような状況が存在したことを物語っている。
士農工商の厳重な身分制度のもとであえいでいた当時の民衆にとって、百姓の娘たちが武士の不当な仕打ちに対して公然とたたかいをいどみ、艱難辛苦の末ついに仇きを討ちとったというこの話は、胸のすくような痛快な話題であったに違いない。
それが、東北の片田舎の村で貧しい百姓の小娘たちによって引き起こされたことであれ、いやそうであればあるほど、重大事件として、民衆の口から口へと伝えられていったのであろう。
民衆のさまざまな願望や意志が付け加えられながら…。
やがてこれが、物語としての体裁をととのえて、実録体小説の形にまとめられ、「奥州白石噺」が成立する。
実録体小説とは、国文学者中村幸彦氏の定義によれば江戸時代を通じてもっぱら写本で伝わり、読者はもっぱら貸本屋を通じて鑑賞するのが常態であった小説的作品である。内容が、将軍家や大名家の秘事に関したり、時の政治向きにわたって流言蛮語的性質をもったものが多いので、刊行が許されず、写本でさえしばしば取締りの対象とされた。
「奥州仙台女敵討」「奥州仙台領白石女敵討」「白石女敵討」等と題する数多くの写本が伝承されている。明和3(1766)年から慶応2(1866)年まで、明治以前の年号が明記されているものだけでも数十種を確認することができる。さまざま な表題がつけられ、体裁もまちまちであるが、内容はほとんどまったく同じである。
寛永12(1635)年、片倉小十郎領奥州白石在郷逆戸村の百姓与太郎(田地12石)が、16歳と13歳になる二人の娘と田の草取りをしている最中、妹娘が投げた田の草の泥水が、ちょうど通りかかった白石藩の武士志賀団七(領地二百石)の袴にかかり、父与太郎はその場で無礼討ちにされる。命からがら逃げ帰った娘たちから話を聞いた母親も、病が重って間もなく世を去ってしまう。残された姉妹は、庄屋をはじめ村人の好意で、田畑を売り払って旅に出る。江戸にのぼり、当時江戸第一の武芸者として知られた由井正雪(ゆいしょうせつ)の弟子となり、その加護のもとに5年間、姉の宮城野は鎖鎌、妹信夫は薙刀の修業をつみ、正雪のはからいによって、藩主の認許を得、寛永17(1640)年、白石の河原にはりめぐらされた竹矢来の中で、みごとに団七を討ち果す。後に、慶安4(1651)年、由井正雪が丸橋忠弥と共に企てた幕府転覆事件、いわゆる慶安事件に破れて打ち首となった際、仇討ちの直後に髪をきって尼となっていた姉妹は、その首をもらいうけ、駿府の弥勒町にある菩提院に葬り、その側に庵をむすんで追善供養をいとなんだ。
由井正雪のいわゆる慶安事件の顛末をつづった実録体小説が「慶安太平記」であるが、この中に「奥州白石噺」がそっくりそのままおさまっている。登場人物の名前や地名、年代はもちうん、話の筋書きや文章表現にいたるまで「奥州仙台女敵討」にまったく同じである。
幕末の写本には、「奥州白石女敵討ち発端の事、井びに同胞の娘武術修業の事」「同胞の女敵き志賀団七を討取る事、井びに同胞の者尼となる事」の二章にわけて編録されているが、「慶安太平記」の最古の写本と考えられる東京大学図書館所蔵の宝暦7(1757)年の写本には、「奥州仙台女敵討の事」としておさめられており、表題までまったく同じである。
「奥州白石噺」のみを独立にあつかった「奥州仙台女敵討の事」と、「慶安太平記」の中に組み込まれた一章とは、まったく同じものだということが確認できる。であるとすれば、前者が後者のなかに組み込まれたか、あるいは後者の一部が独立して前者となったか、ふたつの場合が考えられよう。
前後の関係は別として、享保8(1723)年から数えて34年後の宝暦7(1757)年には、「奥州白石噺」が、物語としての体裁をすっかり整えて、さかんに読まれていたことが推測される。
いまだほとんど調査されていないが、「慶安太平記」と「奥州仙台女敵討」の写本類は、全国各地に膨大に残存しているのではなかろうか。
伝承されている写本は、どれも手垢で真っ黒によごれ幾人もの稚拙な筆跡でかなづけさたものが多い。多くの人たちによっ てくりかえしくりかえし読まれたであろうことが想像される。
浄瑠璃・歌舞伎と浮世絵
宝暦(1751-63)・明和(1764-71)・安永(1772-80)と、「奥州白石噺」は、民衆の問に広く深く浸透していった。この人気・評判をあてこんで、やがてこの物語が浄瑠璃・歌舞伎の題材としてとりあげられ、目論見どおりの大当を取ることになる。
その最初が、紀上太郎・馬事焉馬・楊容黛合作の浄瑠璃「碁太平記白石噺」である。安永9(1780)年正月、江戸外記座で初演され、同じ年に歌舞伎として森田座で上演された。(代)物語は、「慶安太平記」をもとにしながらも、時代を南北朝時代にとり、事件の筋はもちろん、登場する人名や地名等も大きく書きかえられている。逆戸村が逆井村に、与太郎が与茂作に、志賀団七が志賀台七に、由井正雪が宇治常悦にといった具合である。
由井正雪の登場する慶安事件と、楠木正成の登場する南北朝の動乱とを結びつけ、これに白石女仇討ちを組み入れるという複雑な筋だてになっているが、作者たちがもっとも意を注いだのが、二女の仇討ちの部分であったことは、「白石噺」という外題や、「姉は宮城野、妹は信夫」という角書きからも充分に察せられるところである。
第四段、百姓与茂作が代官志賀大七に手打ちにされる逆井村の「田植えの場」から、第八段、姉妹が、宇治常悦の邸内で剣術の修業をし、常悦等の助力によって大七を討ち本懐をとげる扇ヶ谷「仇討ちの場」までの五段は、ほぼ「奥州仙台女敵討」の筋にしたがって、二女の仇討ち物語として展開されている。
浄瑠璃・歌舞伎の「白石噺」が、実録体小説の内容とくらべてもっとも大きく異なる点は、父親が殺された際に、姉娘はすでに数年以前に年貢未納の貧しさを救うために江戸の吉原へ身売りされており、父母の死後、妹娘が姉を尋ねて江戸にのぼり、吉原の遊廓大黒屋で傾城となっている姉宮城野に再会し、大里屋の主人惣六の協力で仇討ちに立ち上がることになっている点である。
今をときめく評判太夫となっている姉と、奥州訛りの田舎娘ある妹が、不思議な縁にみちびかれて再会する「揚げ屋の場」は、この作品中の名場面としてもっとも人気を博した。
「碁太平記白石噺」は、明和・安永という年代に浄瑠璃・歌舞伎がもったひとつの記念碑的な作品であった。そこには、江戸・上方の町人文化が到達しえた優点がくっきりとあらわれている。
もっとも注目すべき点として、封建支配下の農民生活の貧しさ苦しさがくっきりと描きだされていることをあげなければならない。
第四段、「田植えの場」で、夫与茂作を殺された女房のお小夜は、病臥の床で嘆き悲しむ。
「過ぎし年の水損旱損、仕慣れぬ業に辛苦の迫り、未進の替りに姉娘は、君傾城の憂き勤め、親の水牢見て居られず、孝行からの勤め奉公、やうやう未進は納めても、納め兼ねた貧の病、さぞや娘が心にも、今日や迎ひにくる事か、明日やとばかりに在所の空、ながめて暮さん可愛やな…」
さらに、第七段「揚げ屋の場」で、妹に再会した宮城野は、わが身の不幸を振返って慨嘆する。
「これ妹、さだめし常々母さんのお咄にも聞きやらうが、たしかそなたが五つの年、父さんは水牢とやらのお咎め、その御難儀を救わんため、母さんと談合の上、8年以前にこの身を売って人出に渡り、はるばるここに流れの身。ああ思へいんがば思へば世の中に、わしほど因果な者はない。」
歌舞伎の舞台に東北の百姓娘が、東北訛りのセリフそのままで登場するこの作品は、それだけでもきわめて特異な性格をもっているが、特に過重な年貢の負担にたえられない農民が水牢に入れられ、娘が身売りされねばならない苛酷な状況を率直とろに吐露したセリフは、民衆文化としてのこの作品の性格をきわだたせる上で重要な役割をはたしている。
士無水四(1851)年初演の「東山桜荘子」(佐倉義民伝)にさかのぼること70年、町人文化の代表である浄瑠璃・歌舞伎に、農民生活の苛酷な実態と民衆のなげきといかりの声が反映されていることに、この作品のもっとも重要な歴史的意義を見ることができよう。
「碁太平記白石噺」は、初演以来大評判となった。いろいろな改作も加えられながら、江戸・上方を中心にさかんに上演され、さらに全国各地に広まっていった。
地方都市金沢でも、たびたび上演された記録が残されている。
さて、浄瑠璃・歌舞伎の隆盛と並行して、役者たちの舞台姿を描いた浮世絵の流行を見たが、豊国・国周・国芳・国貞・芳年・芳廉等多くの絵師たちが、「碁太平記白石噺」の役者絵に腕をふるった。
寛政6(1794)年5月から翌7年1月までの約10ヵ月間、すいせい江戸浮世絵界に彗星のごとくに登場し、百敷十枚の錦絵・版下とうしゅうさいしゃらく絵を残して、かき消すように消えた東洲斎写楽が、はじめて世かたきうちのりあいばなしに問うた28枚のうち7枚が、「敵討乗合話」の登場人物をけらずおおくびえ描いた作品であった。28枚の大版雲母刷りの大首絵は、写楽の全作品中もっとも優秀な芸術性の高い粒よりの作品群で、写楽の技巧の秀抜さと役者の的確な演技のとらえ方に注目されるものである。
「敵討乗合話」は、寛政6年に、江戸の桐座で初演された「碁太平記白石噺」の翻案である。
中山富三郎の宮城野、松本米三郎の信夫、二世市川高麗蔵(後の五世松本幸四郎)の志賀大七、四世松本幸四郎の肴屋五郎兵衛等七枚の大首絵には、登場人物の性格とそれを演ずる一人一人の役者たちの個性がみごとに描きわけられ、大絵師写楽の面目が躍如として息づいている。
東洲斎写楽の最初の作品の題材として、宮城野・信夫が取り上げられていることは、興味深い事実である。たまたまその時期に江戸の舞台にかかっていたというだけの理由であろうか。
ちなみに、写楽の役者絵を出版した葛屋重三郎、志賀大七を演じてモデルの一人になった二世市川高麗蔵等は、「碁太平記白石噺」の作者紀上太郎・鳥亭焉馬、妓楼主大黒屋庄六、蜀山人大 田南畝等と密接な交友関係にあった。なぞの絵師といわれる写楽の実像を解明するための何らかの手がかりがえられそうにも思われる。
「奥州白石噺」をめぐる諸芸能
「奥州白石噺」を題材とした演目をもつ芸能が、全国各地に分布しており、確認できるだけでも百ヶ所近くに及んでいる。
手もとに集積された資料を、芸能別、地域別に整理すると別表のようになる。
地域的に見れば、北は青森・秋田・岩手・山形・福島から、新潟・富山・石川・長野・栃木・埼玉・東京・静岡・和歌山・大阪・兵庫・鳥取・島根・山口をへて、南は徳島・愛媛・高知の四国諸県、福岡・大分・長崎・佐賀・宮崎・熊本・鹿児島の九州全県に分布し、さらに沖縄にまで及んで、まさに日本全国に分布しているといっても過言ではない。
さらに芸能の形態から見ると、なまの浄瑠璃・歌舞伎のほか、神楽・盆踊り・口説・にわか・狂言・人形芝居・組踊りなど、まさに多彩をきわめている。
青森県では津軽じょんから節の口説の中で歌われ、秋田県では神楽の一種番楽の演目となり、岩手県では神楽のほか田植え踊りの狂言として、福島県では念仏踊りの歌・踊りとして、…佐賀県では川原狂言の一演目として、宮崎県では高千穂一帯の盆踊りの中で、熊本県・鹿児島県では棒踊りで、…一つ一つについてふれればきりがないくらいである。九州南端の種子しま島には、島内20ヶ所の集落になぎなた踊り(団七口説)がある。
さらに、沖縄の組踊りの一演目「姉妹敵討」は、県内13ヶ所に分布しているが、これも、「奥州白石噺」・「団七踊り」の一変形と見てよいであろう。
奥州逆戸村の百姓与太郎が宜野湾伊佐村(ぎのわんいさそん)の百姓大山下庫理(おおやましたくり)に、宮城野・信夫が亀松・乙鶴姉妹に、志賀団七が謝名の大主に、由井正雪が湧川(わくかわ)の按司(あんじ)にというふうにすっかり沖縄化され、物語の内容もかなり大きな変化をしているが、支配階級の不当な仕打ちによって父親を殺された百姓の娘姉妹が、剣術指南の指導と援助のもとに、ついに父の仇きを討ちとるという筋は、「奥州白石噺」に酷似している。
二人の娘亀松・乙鶴姉妹を侍女として召し出せという謝名(じゃな)の大主の不当な要求に対して、百姓大山下庫理(おおやましたくり)は、
いかな下々の どんな下々の
百姓よやても 百姓であっても
御勢に任ち お勢いにまかせて
無理な事めしやらめ  無理な事おっしゃるか。
たとえ一刀に たとえ一刀のもとに
殺されよしちも 殺されようとも、
此仰す事や この仰せ事は
御請けなやへらぬ   お請けできません。
と言って抵抗し、ついに殺されてしまう。残された二人の娘たちは、
哀り父親や あわれ父親は
罪科もないらぬ 罪科もないのに、
子二人がために 二人の子のために
殺されておれば 殺されているので、
女身よやても 女の身であっても
只やみのなよめ 放っておくことができるか
と、敵討ちを決意する。姉十七歳、妹十六歳。
父大山下庫理と娘亀松・乙鶴姉妹のセリフのなかに、「奥州白石噺」の精髄が脈々と息づいている。
双方名乗り合った後、笛・太鼓のはげしい囃子にあわせて、三人がたちまわる仇討ちの場面は、本土各地に伝承される「団七踊り」のありさまを彷彿させる。
一つの物語が、文字通り日本全国にわたって、これほど広範な地域にしかもこれほど多様な芸能のなかに組み込まれた例は、おそらく他にその類を見ないであろう。
「奥州白石噺」と民衆思想
文学や芸能を通して世にひろめられ、多くの人々の共感をえた仇討ちには、実説と虚構との区別がきわめて不明確なものが多い。江戸時代末期にさかんに刊行された「仇討番付」には、確実な史実と明らかな虚構とが、何の区別もなしに渾然とならべられている。
民衆にとって仇討ちがもった意味について、尾崎秀樹氏は、次のように述べている。
「あるところで敵討ちが行われる。すると早速それがかわら版にのる。現在の日刊紙が週刊誌と思えばいい。人気をあおり立てたところで、目さきのきく作者によって浄瑠璃や歌舞伎に仕組まれ、また草双紙や祭文の形式で、全国津々浦々へ波及する。こうしていったん庶民のイメージに定着したものが、今度は逆に、事実そのものまでゆがめて行き、その認識に立って、改めて新しい敵討ち物が書下ろされる。こうなると、噂さが噂を生んで、どれがもとのかたちなのかわからないところまで発展してゆくものだが、庶民の好みによってふくれあがる噂さと、そうでないものとに二分されることは見落せない。……(芝居や小説の題材として)伝承されるものとされないものとの区別は、それが大衆の夢を培うか、否かにかかっているものらしい。」
「大衆にとっては実際にどうであったかということが大切なのではなく、その物語がどのような欲求をみたしてくれるかが主要だからだ」と。
「奥州白石噺」の成立と展開の過程は、まさにその典型であったといっていい。
武士の不当な仕打ちに対するかよわい百姓娘姉妹によるけなげな闘い、成立の当初から物語の主題は明確であった。
全国各地に分布する「団七踊り」は、「奥州白石噺」の主題を芸能の形で象徴的に表現したものであり、それこそまさに「団七踊り」の生命力であると言っていい。
そこで演じられるのは、ほとんど草取りの場で百姓与太郎が切り殺される場面と、宮城野・信夫姉妹による志賀団七討ちとりの場面、つまり、百姓が武士から受ける不当な仕打ちと、それに対するたたかいの場面に限られている。
袴にはねた泥水に難くせをつけて、志賀団七が悪口雑言のかぎりをつくし、百姓与太郎が必死に詫びるのも聞き入れずついに切り殺してしまう場面が、微に入り細にわたってえがかれる。
さらに、意をつくして謝ってもまったく通じないことを悟った与太郎が、鍬を振りあげて立ち向かっていくという筋になっているところも、二三にとどまらない。
ここには、この物語にこめられた民衆の思想が、もっとも端的に表明されているといえよう。
「宮城野・信夫の事と、ゼファーソンの筆と、是れ正に余を駆りて自由民権の義軍に投ぜしめしもの」−福島自由民権運動の指導者河野広中の言と伝えられるこの言葉は、「奥州白石噺」が民衆思想に与えた影響のもっとも顕著な表明である。
明治15(1882)年におこった福島事件は、明治17(1884)年の加波山事件・秩父事件へとつづく自由民権運動の最激化事件の一つである。この事件の全経過を通して中心的な指導をしたのが河野広中である。
明治42(1909)年に刊行された田岡嶺雲(たおかれいうん)主筆の雑誌「黒白」に掲げられた「明治叛臣伝」の中に、河野広中の略伝がおさめられている。歴史家家永三郎氏が発見し、広く世に紹介したものだ。
「君は幼にしてその母その祖の腕に抱かれ、俚俗が伝ふる宮城野・信夫の復仇謳を聴くことを好み、反復そのことを話せしとかや。…
君が幼弦にしてこの悲壮なる俗談を稔聞し、長ずるに及び、普天の下、王臣に非ざる無きを知るに従ひ、非理非道非義非仁は必ず階級制度より起るを深く牢く銘記し、躬から古名家に生れたるを忘れ、四民平等の理想を作りし矢先、忽ち北米合衆国独立の宣言を読むに及び、総身の血湧き肉ふるひしゃ知るべきのみ。
君曾て語りて曰く、宮城野・信夫の事と、ゼファーソンの筆と、是れ正に余を駆りて自由民権の義軍に投ぜしめしものと。」
すなわち、自由民権運動の指導者河野広中が、四民平等の意識に目覚め、自由民権の運動に挺身するにいたった重要な要因として、彼が幼少年時代に母や祖母から聞いた宮城野・信夫の物語と、青年時代に接したトーマス・ジェファーソンの筆になるアメリカ合衆国の独立宣言文があげられている。しかも彼が独立宣言文を読んで、「総身の血湧き肉ふるひし」根底に、宮城野・信夫の仇討ち物語を通して身につけた「非理非道非義非仁は必ず階級制度より起る」という社会認識があったことが述べられているのである。
アメリカ合衆国の独立宣言文が河野広中の思想変革の重要な契機になったことは事実であるが、独立宣言文を読んでその意味するところを正しくとらえ、自らの政治理念として受け入れるだけの思想的基盤が彼の中にすでに培われていたこと、それを育んだものの一つが「奥州白石噺」であったという述懐は、きわめて意味深い内容を含んでいる。
明治以来のわが国における民主と進歩の運動が、近代ヨーロッパの思想や文化の受容を重要な契機として前進したことは否定すべくもない事実であるが、それらと接触した当時の日本の社会の中に、日本人自らの手によって準備されていた近代への志向があったことを見落としてはならないだろう。
「奥州白石噺」からアメリカ独立宣言文へ、自由民権の思想に大きく目を開いていった河野広中の成長過程は、幕末世直し一揆から自由民権運動へと発展していった日本人民の民主と進歩の道筋の一つの象徴的な姿といえよう。
「団七踊り」の生命力
江戸時代の末期、幕藩体制が崩壊の危機にあえいでいた時期に、百姓一揆や打ちこわし等「世直し」を求める民衆運動の未曽有の高揚があった。政治・経済・社会の各方面での闘いと並行して、文化の面でも、民衆が自らの手で自らの文化を作り上げようとする気運が盛り上がりつつあった。「ええじゃないか」運動の中で空前の流行をみた「伊勢音頭」をはじめとする歌や踊りの盛行は、そのもっとも顕著なあらわれであった。
農民たちが、自分たちの歌や踊りにあわせて、自分たちの言葉でおもいのたけを歌いあげたのが音頭・口説である。説教や祭文等が本来もっていた宗教的性格がほとんどまったく拭い去られて、農民たちの生活と密着した題材がえらばれた。浄瑠璃や歌舞伎等江戸・上方の町人文化から多くのものを吸収しながら、その全面的な模倣から農民的な消化へ、さらに農民自身による創作へと発展していく。江戸時代の最末期にその頂点に達した音頭や口説は、農民たちが自らの生活の中から生み出したすぐれた農民文学であり、一大叙事詩であった。
しかもそれが全国的に普及し、各地にほとんど共通の内容をもったものが分布していることは、民衆自らの手によって新しい民族文化・国民文化創造の作業がすすめられていたことの証といってよいであろう。
「奥州白石噺」の展開過程で生み出された「娘仇討ち白石口説」と「団七踊り」は、幕末維新期における民衆文化の壮大な高まりと広まりを象徴する記念碑的な存在というべきであろうか。
加賀平野の一農村に伝承される郷土芸能「団七踊り」のルーツ探しからはじまったこの作業は、当初の予測をはるかにこえて広く深い根っこにたどりついた。だが、これまでに解明してきたことは、「団七踊り」の全体像のほんの一部にすぎないであろう。その根っこはもっと深く、そしてもっともっと広いにちがいない。
「団七踊り」の誕生と伝播の経過をたどり、そこにこめられた人々の意識や思想をさぐることは、単なる一芸能のルーツ探しといった意味をはるかにこえて、日本の民衆文化、民族文化の根源とその本質をさぐることに大きくかかわるものであるかもしれない。
全国各地に伝承される「団七踊り」は、今も確実に生き続けている。
1993(平成5)年2月14日、新装なった愛知県芸術劇場で、開館記念協賛事業として、「第三回団七踊りとともに」が開催された。佐塔豊淑風女史が主宰するこの発表会には、宮城県白石市の「白石和讃」と「白石団七踊り」・徳島県宍喰町の「宍喰団七踊り」・愛知県名古屋市岩塚町の「岩塚団七踊り」・和歌山市岡崎の「岡崎団七踊り」・宮崎県延岡市の「ばんば踊り(志賀団七)」・同県諸塚村の「黒葛原団七踊り」の6団体が出演し、大ホールをうずめた1700人の観客の喝釆をえた。
「白石団七踊り」は、「白石噺」のふるさと白石市の民謡民舞保存会の人たちが、1972年に和歌山市岡崎の「団七踊り」を導入したものである。20年の歳月をへてすっかり地元の郷土芸能として定着し、毎年かならず上演されているという。同じく静岡市から導入したという「白石和讃」は、女性たちの哀調切々たる歌声が心にしみた。「延岡団七踊り」では、若い保母さん達が演じた宮城野・信夫姉妹の薙刀・鎖鎌によるたちまわりがみごとであった。「黒葛原団七踊り」では、鍬を振りあげて立ち向かう与太郎と志賀団七のたちまわりが延々と演じられた。
各地の芸能の特徴をそれぞれ大切にしながら、宮城野・信夫の仇討ち物語が生き生きと描かれている姿をまのあたりにして胸があつくなった。
沖縄県では、ここ数年来郷土芸能の復興がさかんである。とくに近年、「組踊り」の復興が、県内各地の町や村で取り組まれている。50年、60年ぶりで復活されたという事例も少なくしまいてきうちない。復興された演目の中に、「姉妹敵討」が多く含まれている事が注目される。南風原町本部区では、昭和11(1936)年に演じられて以来途絶えていたものが、1989年に、実に53年ぶりに復活されたという。沖縄戦をへて、アメリカ軍政下で困難な基地反対闘争をたたかい続けてきた伊江島に伝承される組踊り「姉妹敵討」のこととあわせて、この芸能のもつ生命力の強靱さを痛感させられる。
 
村からの娘 / 宮本百合子

 

新年号の「文学評論」という雑誌に、平林英子さんの「一つの典型」という小説がのっていて時節柄私にいろいろの感想をいだかせた。民子というプロレタリア文学の仕事をしている主婦のところへ、或る日突然信州の山奥の革命的伝統をもった村の大井とし子という娘から手紙が来る。その手紙は「あなたがこちらへお出下さいましてよりもはや一年が過ぎました。農村は不景気の風に吹きまくられて、百姓はその日のパンにさえありつくことが出来ません。これから段々寒くなってゆくばかりでございます」というような書き出しで「ついては大変突然で申しかねますが私をあなたのお家の女中にでも使って下さるわけには参りませんでしょうか」というのであった。
民子が自分の家庭の事情をも考え、はっきりした返事を出しかねているうちに、電報で明朝新宿へ着くから迎えに出てくれということになり、愈々(いよいよ)上京したとし子が民子の家庭で、一とおりならぬ民子の気づかいを引起しつつ暮す次第が、すらすらと巧に描かれているのである。
山奥の世間知らずで、物心づくとから左翼的な考えかたでだけ育てられた十六の娘の一本気で、非実際的な気持や姿がガスのひねり工合一つにさえ神経を用いなければならぬ都会の家庭生活の細々した有様の描写を背景としてまざまざ書かれている。良人仙吉とは文学の階級性についても違った考えをもっていて、過去においては信州のその村へも講演に行ったりした民子が、そういうとし子の出現につれて、彼女の当惑をどちらといえば揶揄(やゆ)する周囲の良人・良人の友達などに対する気がね、気づかいの感情もどこやらユーモアをふくんで、私は女らしい筆致でよく描き出されていると思った。
平林さんは、この小説を、旧ナルプの機械的指導の一つの反映、そういう指導が生み出した一つの娘のタイプとして観察し、「一つの典型」という題をもつけて書かれたらしく想像された。その考えかたについての論議をここでしようとは思わないのであるが、私はこの一篇の小説から、本当に田舎出のごく若い娘たちが急にこの東京の切りつめた都会生活に入って、どんなに様々の可憐な人にも語ることの出来ない心持を経験してゆくであろうかという事を、深く思いやったのであった。
新宿へ迎えに出た民子の後について朝の混雑した郊外の表通りを家へ向って来る道々、とし子は二三歩あるいたかと思うと、すぐに当惑したようにして立止ってしまうので、民子が心配してとし子のところまで小戻りして、
「どうしたの、気分がわるいんですか」
ときくと、とし子は、いかにもきまりわるそうに苦笑して静に頭を横にふった。
「いいえ、人間や自転車や自動車が、いくらでもくるもんであぶなくってどうにも歩けないんだが…」
そういう十六のとし子の心持も私を或る実感で打ったし、女中という、都会の小市民の家庭の中での一つの役割とその型とになかなかはまれず、主婦としての民子は、やっと一ヵ月も経って、とし子の態度が軟らかくなって来たのに些か安堵するというところも、はっきり都会の主婦の常識というものがうかがえて、私にいろいろのことを考えさせた。
東北の飢饉地方から、売られて汽車にのせられ、東京へ出て来る娘たちの年頃は、皆この小説に書かれている十六のとし子と同じ年かその下が多い。身売り防止会は、それらの田舎出の娘たちを一通り仕こんで方々の家へ女中として世話しているのであるが、その娘たちの心の中には、このとし子とは違うか、又全く同じような当惑や、型に入れぬ工合わるさがあるだろうし、多かれ少なかれ持っている田舎の朴訥(ぼくとつ)さ、一本気が段々くずされて都会に所謂(いわゆる)馴らされてゆく過程にも、痛々しいものがないとは決して云えぬことを、私は感じたのである。
来年も凶作があるかないかを予測するため、海へ船を出して天候を観測したりしている記事が大きい見出しに写真つきで華やかに新聞に出たが、あの報告で今年の秋を、みのりの秋と楽しく期待出来た人間は恐らく一人もなかったであろうと思う。東北地方の飢饉は、二三年前からのことで、問題は天候ばかりにはないことが既に誰にでも理解されている。同じ空の下でも、地主の田圃の稲の穂は実の重さで垂れたのである。
秋田の方の故郷で暮している鈴木清というプロレタリア作家の「進歩」に発表された通信は、東京の愛国婦人会や何かが、まるで農民が道徳をさえわきまえぬ者で娘を売るように口やかましくほんの一部の身売り防止事業などに世人の注意をあつめ、窮乏の真の原因とその徹底した打開策とを大衆の目から逸(そ)らさせようとしていることに立腹を示したものであった。
鈴木さんばかりがそう思うのではない。私はその文章をよんだ時はっきりそう思った。私たち皆そこまで現実を見ているし、地方の人は猶更はっきりそのことを思っているにちがいないのである。
この頃真理運動ということを云い出して、都下の中途半端な学生などの間に或る人気をあつめはじめている友松円諦という坊さんは、文芸春秋の新年号に「凶作地の人々に与う」という題で一つの意見を公にしている。
友松は、東北地方の飢饉が今年にはじまったことでないということについて、その地方における地主と小作との関係の中に原因をつきとめず「彼らは恵まれた自然に慢性になっているらしい。ここに私達がまじめに考えなくてはならぬ点があると思う」と、東北における農民の窮乏根治策のために「農村真理道場」というのをそういう地方に設けようとする広告を発表しているのである。そして、自分が骨を折って若い男女の冬期間だけの出稼ぎを援助し、「村民の気分を作興して」例えば娘の身売りを平気でさせる「貞操に関する観念の極めて鈍感であることを」改善しなければならぬ。「真理道場の第一の使命を農村文化の向上において、科学、哲学、宗教に関する真理文庫をつくったり」、講習をしたりすること、健康増進をはかりたい等説明しているのである。そしたら「十年二十年の間に見ちがえるような東北地方が出現するであろう」と思うというのが友松の意見であるが、果してそれが現実の問題としてどの位しっかりした具体性をもっているかということになると、私は恐らく文芸春秋の全読者が、あまりハキハキした肯定的な返事はしないであろうと思う。
昔から有名な宮城野信夫の義太夫は、既に東北地方から江戸吉原に売られた娘宮城野とその妹信夫とを扱っているのである。殿様、地頭様、庄屋様、斬りすて御免の水呑百姓という順序で息もつけなかった昔から、今日地主、小作となってまで東北農民の実生活は、果してどの程度の経済的向上が許されたであろう。アメリカと交歓ラジオ放送が行われている今日東北の農民は床の張ってない小屋に家畜とすんで地べたに藁をしいて生活している。徳川時代でも、地べた以下のところで生きていたのではないであろう。日本の農民生活は、原始的な状態のまま搾られとおして、今日この複雑な国際経済関係のただ中にねじこまれて来ているのである。
宮城野信夫「白石噺」の作者は、義太夫の文学の中に信夫のひどい東北弁をとり入れ、それが交通不便で、その東北弁の真偽を見わける機会もない当時にあっては珍しく、そこが所謂新趣向として都会の閑人たちの耳をたのしませたのであった。
今日娘の身売りは、道徳的な方面からだけ問題を見る方向へそらされて、徳川時代から引つづいたそのような風習の根源である、東北の農民の歴史的窮乏の経済的原因は、後の方へ引とめられている。もし愛国婦人会や矯風会が本当にそういう事を防止するために一般婦人の力を糾合するのであるなら、それらの婦人に先ず第一、小作制度の本質をつきとめさせ、農民の負うている負債の性質について実際を理解させなければならないのであろう。そのような根本的な点にふれぬために現代の社会機構について知識のうすい婦人の層を動員しての身売防止運動であることは、既にしれわたった事実であると思われる。却って、このことがきっかけとなって、友松円諦のような者や、農村自力更正修養団の思想やがはいりこむことも予想される。
この間、プロレタリア作家の徳永直と、これはプロレタリア短歌を専門とする渡辺順三とが、東北飢饉地方を見学に行った。私は断片的にではあるがいろいろ感銘のふかい話を聞いたが、その中で特に心に銘じたことが一つあった。それはあちらに行って実際に見れば、よきにつけあしきにつけ東京にいて聞きしにまさる有様だが、同じ稗(ひえ)を食っている村の農民でも、そこに農民組合のあるところとないところでは、若い農民はもとよりのこと、老人連でさえ全く元気が違う。同じ稗と木の実、松の皮を食いつつ組合のあるところの村の農民は、顔色までいくらかましであるので、非常に考えさせられ、感動したという話なのである。
私にとって、これは忘られぬ話となった。大衆の自発的な力はすっかりつぶれてしまったように思われ、思わせられている今日、この話は深い教訓をもっている。我々をつき動かす内容をふくんでいるのである。
足かけ三年前、「働く婦人」という婦人のための雑誌が出ていた時分、一般の婦人雑誌がとりあげるに先だってそこの婦人の記者が東北飢饉地方を視察にゆき、その記事を連載したことがあった。現実を正しく反映するそういう種類の婦人雑誌がなくなることも、今日叫ばれている身売り防止事業の本質を理解するとき、改めて私共にうなずけるのである。
先頃新聞に、飢饉地方から出て来た娘さんの一人が、或る義侠心にとんだ若い大工さんの嫁に貰われ、幸福な新世帯をもったという記事が出た。丈夫そうに白い歯並をニコニコと見せ、股引に小肥りの膝をつつんで坐っている若い大工さんと一つ火鉢にさし向いに坐った花嫁さんが、さも恥しげに重い島田をうつぶしている姿を撮影した写真は、何十万人かの新聞読者の口元を思わずほころばせたであろうと思う。私は、この若い大工さん夫婦の姿に暖い優しい情愛を感じたのであったが、この実に万ガ一の好運にめぐりあった娘さんの身上は、更に何千人か飢えた田舎から東京に出ている娘さんの心に、どんなにか謂わば当のない期待を抱かせたであろうか、と思った。島田髷の写真は初々しく愛らしいけれども、都会の荒い生活で大工の女房として、やがて幾人かの子供の母親として闘ってゆくこの娘さんの生涯は、この写真の中にうつしとられたままのものではありえないのである。
新宿の遊廓でたった一晩来た外国人に身代金を出して貰い自由の身になった娘さんのことも新聞に出て、身の上話が雑誌に出たりしているが、売られた娘の間でこの話は、どんな風に話し合われているであろうか。
私は、そういうめずらしい機会にめぐり合った娘さんたちの身の上を心からよろこぶのである。けれども、その極めて稀れな一つ二つの実例さえ、何千人かの文字さえ自由によめぬ若い娘さん達にとって、忍ぶべからざる境遇を忍ぶよすがに役立てられている場合もあろうと、或る憤りを感じるのである。

秋田音頭

 

ヤートセーコラ 秋田音頭です
 (ハイキタカサッサコイサッサコイナー)
コラ いずれこれより御免なこうむり音頭の無駄を言う(アーソレソレ)
 あたりさわりもあろうけれどもサッサと出しかける
 (ハイキタカサッサコイサッサコイナー・以下、掛け声同様)
コラ 秋田名物八森鰰々(ハタハタ)男鹿で男鹿ブリコ
 能代春慶(しゅんけい)桧山納豆大館曲わっぱ
コラ 太平山から四方の景色をのぞいて見たならば
 船は沢山大漁万作秋田は大繁盛
コラ 秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ
 手頃な蕗の葉さらりとさしかけサッサと出て行くかえ
コラ 秋田よいとこ名物たくさん東北一番だ
 金山木山に花咲く公園美人が舞い踊る
コラ 秋田の女ご何してきれいだと聞くだけ野暮だんす
 小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげ
コラ 何につけでも一杯呑まねば物事はかどらね
 呑めば呑むほど気持ちコ開けて踊りコなど出はる
コラ 秋田名物コの字づくしをつまんで言うならば
 坊ッコにガッコ笠コに小皿コ酢ッコに醤油ッコ
コラ 時勢はどうでも世間は何でも踊りコ踊らせ
 日本開闢(かいびゃく)天の岩戸も踊りで夜が明けた
コラ おら家(え)の兄貴生意気こきゃがって月賦で車買った
 ちょすもちょせねで免許も取れねであばあなんとせばえ
コラ 隣の爺さま物好ぎたげで月賦でバイク買った
 運転するしび全然知らねでばばあなんとせばえ
コラ お前(め)達お前達(お前方お前方)踊りコ見るなら
 あんまり口開ぐな今だばええども春先などだば雀コ巣コかける
コラ 巡査が来たたて消防衆来たたてちっともおっかなぐねえー
 ごどしねたて悪いごどさねばでっきりおっかなぐね
コラ 汽車も速いし電車も速い電信なお速い
 何でもかんでも速いどこいったば足袋はで足洗った
コラ 妻君ある人秋田に来るなら心コ固く持て
 小野小町の生まれ在所美人がうようよだ
コラ 奥州仙台白石城下で女の敵討ち
 姉は宮城野妹は信夫団七首落とす
コラ いろはにほへとちるぬるをわかは昔のたとえごと
 今の人達ゃ見識高くてさんきゅうべるまっちょ
コラ おら家のお多福めったにないこと鬢取って髪結った
 お寺さ行ぐどてそばやさひかがてみんなに笑われた
コラ お寺の和尚さん法事さ行くのににわとり貝焼食うた
 ナムカラタンノウトラヤーヤたば頭さ羽根おいだ
コラ 秋田のおばこ蕗刈る姿みんなさ見ひでもだ
 赤い襷にあねさん被り本当に惚れ惚れす
コラ 秋田の名所海では男鹿島山では鳥海山
 田沢の緑に十和田の紅葉絵かきも筆投げた
 
相馬の仇討 / 直木三十五

 

「軍右衛門、廉直にして」、「九郎右衛門|後(のち)に講釈師となる」廉直などと云う形容詞で書かれる男は大抵堅すぎて女にすかれない。武士であって後に講釈師にでも成ろうという心掛けの男、こんなのは浮気な女に時々すかれる。
そこで、軍右衛門の女房は浮気者であったらしく、別腹の弟九郎右衛門といい仲に成ってしまった。寛延二年の暮の話である。翌年の三月、とっくから人の口にはのぼって独り「廉直なる」軍右衛門のみが知らなかったものが、薄々気づき出したようだから、二人はいくらかの金をもって逃出してしまった。
どうせこういう二人が、少々位の金で暮らして行けよう訳が無い。
「どうやら兄貴め、ここに居るのに気がついたらしいぜ。中国へ出ようたって路銀は無し、どうだやっつけようか?ええ、未練があるかい」
「あの人を殺す?」
「あっちを殺さなけりゃ、こっちが殺されるさ。毒食や皿さ、それともまだ思出す時があるのかい」
「思出しやしないけど」
「じゃいいじゃ無いか」
どうせ二人ともそう気の利いた会話などしっこない。こんな事を話して機(おり)をまつ。九郎右衛門衛の腹では、うまく行ったら金もさらってと――四月六日の夜、闇。袷(あわせ)一枚に刀一本、黒の風呂敷、紋も名も入ってないやつで頬冠り、跣足(はだし)のまま塀を乗越えて忍び込んだ。床下から勝手の揚板を上げて居間へ、廊下から障子へ穴をあけて窺うと行灯(あんどん)を枕元に眠入っているから、そろりそろり。畳を踏んで目を醒ましてはと、真向に振冠った刀、敷居の上から、一歩踏出すや打下す。傷は深くないが脳震盪(のうしんとう)を起すから双手を延してぶるぶると震わしたまま、頭を枕から外して、ぐったりと横へ倒れた。暫く様子を窺ってから、近寄ってみるとこと切れているらしい。違棚(ちがいだな)の上の手箱を開けて、探すと金がない。斬るのはうまく行ったが、斬ったらあの手箱からと考えていたのが外れたから、彼処(かしこ)か此処(ここ)かと探すが、こうなると気がせく。薄気味も悪い。小箪笥(こだんす)、と手をかけてぐっと引く。軽い所へ、錠がかかって居たからかたかたと音を立てたが、それと共に、
「誰だ」
という家来中川十内の声、刀を取直して壁へぴったり背をつける。
「旦那様?」
暫く声がしなかったと思うと、次の室(へや)の襖の開く音。九郎右衛門一大事と、そろそろと横に歩みつつ廊下へ出て雨戸を開こうとする時、
「おっ――曲者(くせもの)っ」
どんと身体(からだ)を雨戸へ当てて、庭へ飛降りる。戸の上へ転ぶ、そのはずみ刀を雨戸へ突刺してしまったが、抜取るひまがない。両手の空いたのを幸、塀を掻昇って一目散に逃げてしまった。

十内、齢十七歳、捨ててあった刀を証拠に森の城主――豊後国――久留島(くるしま)信濃守(しなののかみ)光通(みつのぶ)に敵討願いを軍右衛門が一子六歳になる清十郎と連署で願出た。
「奇特の志(こころざし)天晴れである。軍右衛門、妻を奪われ、抜きも合さず姦夫の為に殺害せらるる段、年寄役ともあろう者として不届至極、本来ならば跡目断絶させるべき所、其方(そのほう)の志にめで、又家中の旧家の故を以って、特に清十郎にそのまま恩禄を下しおこう。又敵討の儀は清十郎十五歳に成長するまで待って討つ方がよかろう。それまで其方ともによく剣道を学んでおけ」
と重役からの沙汰があった。清十郎六歳だから九年ある。柚(ゆず)は九年の花盛りと、ずい分長いが、十内乗りかかった船である。何も判らぬ清十郎に、
「坊っちゃん、これが敵九郎右衛門で御座いますよ。さあしっかり、まだまだ」
と、藁(わら)人形の据物斬(すえものぎり)、立木を打つ斬込の練習、宝暦九年まで隣近所で称(ほ)めぬ者の無い位必死の稽古を試みた。
十内の弟に弥五郎というのがある。これと三人、落ち行く先は九州|佐柄(さがら)を逆に、博多(はかた)へ出て、広島、岡山、大阪と探ねてきた。多少の路銀はあるが、京大阪で判らぬとすれば次は江戸だ、出来るだけの節倹をしていたがだんだん心細くなったから当時江戸で流行(はや)っていた「旦那の練った膏薬(こうやく)」と云う行商人、大声に流しつつ、江戸中心当りを求めたが居ない。宝暦十二年の春、ふとした事から豊後訛(ぶんごなまり)のある浪人が仙台で紙子揉(かみこも)みをしていたが、女房と何か争った末、女房を足蹴にしたのが基で死なしてしまった――今どうしているか、多分そのまま居やしないか、と云う話を聞いた。
十内|雀躍(こおどり)して、清十郎を引ずるように、仙台へ行ってみると、確かにそうらしいが居なくなっている。近所で聞くと、
「器用な性(たち)で、一時手習の師匠もし芝居の手伝いなどしていたが、何んでもそう遠くない所に居るとの話」
と云う。これに力を得て、
「旦那の練った膏薬」
と流しつつ、磐城(いわき)相馬郡(そうまごおり)へ入ってきた。

十内、敵の器用な性(たち)を知っているから、もしかとも思うし自分も徒然(つれづれ)のままに寄席へ入った。近頃の寄席だと少し位の徒然では入る気もしなかろうが、昔の寄席は耳学問、早学び、徒然と勉強の二道かけて流行ったものだ。聖代娯楽が民衆と結付いて、活動はさておき、寄席の類さして流行らぬとも思えぬが、それで江戸期に較べるとざっと三分の一は減っているそうである。
相馬原町へきた江戸の講釈師、牧牛舎梅林、可成りの入りだが、今高座で軍記物を読んでいる四十近い、芸名久松喜遊次という男、講釈師より遊人(あそびにん)といった名だから勿論前座だが、締った読み調子、素人染みているにしては――巧いというのだろう。
「頃は何時(いつ)なんめり、天正二十三年十一月、上杉弾正|大弼(だいひつ)輝虎入道謙信に置かせられましては、越後春日城には留守居として長尾越前守景政を残し、選(え)りに選ったる精兵一万八千騎を引率なし、勝利を八幡に祈って勢揃を為(な)し、どんと打込む大太鼓、エイエイエイと武者押しは一鼓六足の足並なり、真先立って翻(ひるがえ)る旗は刀八(とうはち)毘沙門の御旗なり。大将謙信におかせられましては、金小実(きんこざね)、萌黄(もえぎ)と白二段分けの腹当に、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織、金鍬形を打ったる御兜を一天高しと押いただき……」
土間へ、木戸の暖簾(のれん)を頭で分けて一足入れたが、混んでいるから一寸(ちょっと)足を留めて、高座をみるとどっと胸へきた。すっと頭を引込めて、暖簾の間からよく見ると髪も姿(なり)も変っているがそれらしい。
「よく入ってますね」
「へイ」
木戸番という奴は無愛想が多い。
「今の高座のは、武家上りらしいが、そうじゃ無いんですか」
木戸番、じろりと顔を見上げて、
「よく御存じですの、何んでもそんな話でげすよ」
ぷいと出てしまったが、七八間行くと一目散、主人佐々木清十郎の泊って居る宿へ、どんどんと梯子を踏鳴して飛んで上ってきた。
「一寸表へ」
「見つかったか?」
と、云ったが荷から取出す脇差。顔色が変る。
「何処(どこ)だ」
目で知らせる無言の二人。
「弥五郎待っていろ」
と、不審がって見送っている女中をあとに寄席へきてみると、川中島の大合戦、外まで洩れてくる。
「さっと吹払う朝風に、霧晴れやったる、川中島を見渡せば、天よりや降ったりけん。地よりや湧きたりけん。大根の打懸纏(うちかけまと)いを押立てて一手の軍の寄せ来たるは、これぞ越後名代の勇将甘粕備前守と知られたり」
木戸番うつむいて煙草ばかり喫っている。
「へイ、有難う」
木札二枚、とんと置く奴を引つかんで、
「札を頂きます」
無言で渡して、そっと暖簾の外から盗見する。
「どうか御入りなすって」
と、云ったが聞えない。聞えたが、聞えたきりで耳を抜けてしまった。
「もし申し兼ねますが、一寸どうか。へイ、其処は入口で御座いますので」
「ああ、いや御免」
ぷいと出てしまう。

喜遊次が高座を降りて、楽屋――と云っても書割のうしろで坐る所も無い。碌に削りもしない白木を打交(うちちが)えた腰掛が二つばかり、腰を下して渋茶をすすっていると、
「喜遊次とは御前か」
と背後(うしろ)からぴったり左手へ寄りそって立った男。田舎の同心だけは知っている。右手へ立つと抜討というやつを食うが、左手へ立つとそいつが利かない。
「ヘイ、手前」
「一寸外まで」
と、云ったが蓆(むしろ)一枚|撥(はね)ると外だ。四五人が御用提灯を一つ灯して立っているからはっとしたがままよと引かれる。何かのかかり合いだろう。真逆(まさか)露見したのじゃあるまい。と思いながら役宅へつく。
白洲――と云っても自い砂が敷いてあるとは限らない。赤土の庭へ茣蓙(ござ)一枚、
「夜中ながら調べる。その方元佐々木九郎右衛門と申したであろうがな」
さてはと気がついたが逃げはできない。白を切ってその上に又と、
「一向存じません」
役人首を廻して、
「この男に相違ないか」
と云うので、喜遊次ふと横を見ると、篝火(かがりび)の影から、
「確(しか)と相違御座りませぬ。九郎右衛門、よも見忘れまい。中川十内じや」
と、中川十内。奉行又向直って、
「どうじゃ、その方にも見覚えがあろう」
「はっ」
と云ったが、十内が「相違ない」と云ったのと、奉行が「どうじゃ、その方にも」と云ったのとは、間髪を容れない呼吸で畳み込まれた。それに応じて明快に、
「いいえ決して」
とは中々云えない。誰でも「はッ」と出てしまう。その隙に又追かけて、
「縄打て」
あざやかな手口、原町へ置いておくには惜しい役人と思ったが、敵討願と云うので、丁度来合せていた領主相馬弾正の御目附、石川甚太夫が自身で調べたのだ。

翌日、清十郎と九郎右衛門との古主、久留島家へ飛脚が立つ、返書に「相違なし、よろしく」とあるから、公儀御届帳の記載有無を江戸へ調べの使を出す。ちゃんと届出(とどけいで)になっているから、宝暦十二年五月二十四日宇田郡中村原町の広場に十間に二十間という杭を打った縄を張った。芝居講談だと悉(ことごと)く竹矢来を結び廻すが、あれは犯罪人の不穏な連中に対して万一の事を思ったからで、敵討の方は大抵「行馬(こうば)を廻す」と云って杭を打った。
早朝から一杯の人出、それを五十人の足軽が出て、六尺棒で、
「引っ込め、静かに」
と、整理する。時刻がくると小目付が侍頭(さむらいがしら)と共に仮小屋の検分所へ入ってくる。席を設けておくとやがて目付、富田与左衛門、岡庄右衛門、石川甚太夫、徒目付、市川新介、山田市郎右衛門、侍頭高木源右衛門、足立兵左衛門が、討手、仇人(かたき)を中に、馬上と徒歩で入ってくる。
足軽が検使のある左右へ手桶に水を入れて置く。侍頭太鼓を脇にして撥をもっている。
「佐々木清十郎、これへ」
小目付の声に左右から出る。
「鎖帷子(くさりかたびら)の類は着用致しおらぬな」
「致しておりませぬ」
「心静かに勝負なされい」
「有難う存じ奉ります」
中川十内、同じこと、
「佐々木九郎右衛門、出ませい」
右手から、
「衣類下を改めい」
足軽、九郎右衛門の衣類の上から撫でてみて、
「着用致しておりませぬ」
「よし、卑怯な振舞致すまいぞ」
「有難く存じます」
「盃」
一人の足軽が白木の三宝に土器(かわらけ)をのせて中央へ持って出る。後のが手桶を提げて行って、
「盃をなされ」
足軽の出す土器を受けて九郎右衛門が一口、受取って足軽が十内に指す、十内弥五郎に指して弥五郎から清十郎へ廻ったのを、口をつけて、
「いざ」
と叫ぶ。発止と地になげつけて砕く。と、どーん、どーんと合図の太鼓、足軽が三宝を下げるとき、四人は刀を抜いて、
「さあ」
足軽は左右に二人ずつ、六尺棒をもって、警(いまし)めている。真岡木綿の紋付に裁付袴(たつつけばかま)。足軽でも上等の方だ。

無言で四人が睨合っている。三人と一人との勝負には、余程段ちがいで無いと、一人の方から斬かけない。三人の一人が斬込む。外して外の一人へ斬込んで敵の陣をくずす、これが普通とされている。
清十郎も九郎右衛門も普通の腕だから、まず十内が、
「やあ」
と小手へ入れてくる。真剣勝負の小手なんかは利目の薄い物だが、助勢で敵を計るときにはこの辺へ一寸(ちょっと)手を出してみる。払って、斬込む、退く。横から清十郎が討込もうとする隙に、九郎右衛門ぴたりと構を立直して、
「やあ」
と、喜遊次中々の腕前、半時間位経ったが勝負がつかぬ。朝とは云え五月末の太陽、八時になると相当に暑い、四人ながら汗に浸(し)んでいる。どーん、と太鼓の音、
「休憩」
と足軽が叫んで、四人の間へ六尺棒を入れる。十内思わず、汗を横なでして、
「有難う」
と礼を云う。足軽付添って右左へ別れて、控所へ、汗を拭い、水を飲んで、刀を試(しら)べる。
「もう一息という所で、踏込方が足りませぬな。四度目の斬込みなど確かに一本きまった所、ほんの一寸で外(そ)れましたが、踏込んで御覧なさい」
身分は低いが武芸自慢の足軽、中々批評を試みる。
「左様、つい気怯(きおく)れ申して見物が多いと固く取っていけませぬ」
「いや、見物があるので固くとらるる位なら見上げたもので御座る」
足軽大いに上げたり下げたりしている。
「如何、始めてよろしゅう御座るか」
と、小目付が聞きにくる。
「これは御丁寧なる。何卒(どうぞ)御打ち下されい」
どーん、どーん。見物、欠伸(あくび)していたが、そろそろ起直ってくる。
「いざ」
と引く六尺棒、又勝負したが、どうにかこうにか討取る。どっと鬨(とき)の声が上る。
「御目出度う御座る」
という足軽の言葉をあとに、検使に礼を述べる。
「首級(くび)を持参の儀苦しゅうない」
講談だとすぐ竹矢来を結んで敵討をするが、本当の話となるとそんな事をして仇討したのは極く稀である。俗書に伝えられているのはこれと「宮城野信夫の仇討」位のもので、行馬(こうば)の中での晴の勝負など滅多と無かった。一例として挙げておく。
 
傾城買虎之巻 / 直木三十五

 

池水に夜な夜な影は映れども 水も濁らず月も汚れず はなはだ面白い歌である。しかし、――池水に夜な夜な映る月影の水は濁れど影の汚れぬとしたら――私は松葉屋瀬川を、近世名妓伝の第一に持って行ってもいいと思う。
この作は、浅草再法庵(さいほうあん)に、行(おこな)い澄ましていた、元吉原松葉屋の抱え瀬川の作であって、庵(いおり)の壁に書いてあった一首の中(うち)だというのである。
「宮城野信夫(しのぶ)」なる話が全然架空の事実で、大田蜀山人の例の手紙――手紙などは全く偽物であって、暇に任せて拵えたものらしいが、この瀬川の話なども、延享から宝暦へかけての、江戸時代でも一番退屈であった盛りの時に、欠伸除(あくびよ)けに造られたものらしい。
「翁草」にこの瀬川の仇討を、通信文で尤(もっと)もらしく書いているが、この文の出所というものが全然不明で調べるによしが無い。と云ってこの外に記録は無いから、嘘ともいえぬが、本当とも云えぬ。後段の、
「江戸なる哉(かな)、江戸なる哉、天明三年吉原松葉屋今の瀬川を千五百両にて身請せし大尽あり、諸侯の類(たぐい)かと聞くに不然(しからず)、尋常の町家なりとぞ」
位は信じられるが、とにかく嘘八百の瓦版が出たり、役所の報告に出鱈目を云ってきたりした時分だから、
「年々色をかえ品をかえたる流言の妄説(うそばなし)、懲(こり)も無く毎年化(ばか)されて、一盃ずつうまうまと喰わさるる衆中」
という風で、嘘吐きが念を入れて流行(はや)って居たから「瀬川の仇討」など、当時の手紙一本位を証拠に信じる事は出来ない。
従って、瀬川が仇討をしてから、再法庵へ移ったのも嘘であるし、和歌も勿論、後世の人の悪戯(いたずら)となってしまう。然し、悪戯にしても、中々味のある歌で、男を水、己れを月として、夜ごと夜ごとに枕を代えているが、悟ると月も水も汚れない――というよりも、私のつくり更(か)え、男は汚れても女は汚れぬと、男はこう悟るが、中々女の諦めきれぬのをよく諦悟(ていご)させた歌である。

そこで、嘘としておいても、この話は有名なもので、秋篠(あきしの)の助太刀と共に遊女武勇伝として双璧とすべきものである。嘘を嘘としておいて書いて行っても興味――極めてお芝居的な興味の多い物語である。尤(もっと)も嘘を吐くのに余り面白くないものはいけない。それにこの話は可成り狂言作者が手を加えているらしいから、従ってお芝居的な技巧が多すぎもする。興味が或は薄いかも知れぬ。興味の有無は読者にもよる。私はとにかく、書いてみる位の興味はもっている位にしておいて――。
「歌浦さん、一寸(ちょっと)」 と、禿(かむろ)が呼んだから、妓(おんな)が膝に凭(もた)れていた客が、いやいや柱へ凭れ直した。歌浦が立って行くと、
「嫉(や)けるから」 と、瀬川が笑っている。
「まあ」 瀬川が襖を開けると、客は真赤な顔をしながら、浄瑠璃を語っていた。床柱へ凭れて赤い顔をしながら語っている浄瑠璃に余り上手なものは無い。瀬川は打懸(うちかけ)を引きながら入ってきたが、その客の前へきて、すらりと脱捨てると、右手に閃く匕首(あいくち)。
「敵」 と云って肩日へぐさと突きさすと力を込めて斬下げた。
「あっ」 と、締められたような声を出して、客が床の間へ倒れたとき、
「父の敵、源八」 と叫びつつ又振上げた匕首の手を一人の他の客が握って、
「何をする、危い」
「離して、離して」
もう一人と三人の客の残った一人が、大丈夫とみて背(うしろ)から抱かかえ、
「誰か来いよう」
と叫んだ。禿(かむろ)と歌浦とが内所へ馳込んだので、五六人も登ってくると、髪を乱して瀬川は身もだえしている。客の一人が、肩を押えながら、倒れて唸っている。
「瀬川」
「親方、離してこの人を、御父さんの敵を討ちます」
「敵討か――敵討なら瀬川、証拠を御役人に見せて」
「いいえ、妾(わたし)は殺されても」
「これ――」
と、親方、目で源八の方を差すと、
「済みません、御内儀(おかみ)さんも勘弁して、もう大丈夫、離して下さい。さ刀も」
と坐ってしまった。役人はすぐきた。そして南町奉行中山出雲守の手から、曲淵治左衛門(まがりぶちじざえもん)と広瀬佐之助の二人が群がる人々を分けながら両三人の目明(めあかし)を連れて入ってきた。

享保七年四月二日の事である。客が三人、松葉屋へ登(あが)った。前々からの馴染とみえて、
「これは、御珍らしい」
と御主婦(おかみ)が云った。
「又、四五日御邪魔するで」
と、上方(かみがた)の人らしいが二三日流連(いつづけ)をしていて、
「もう流連(いつづけ)も飽いたな」
大抵、流連(いつづけ)というものは二三日もすると飽き飽きする。いくら惚れた妓(おんな)とでも、妓と茶屋とは又別である。
「どや、江の島から鎌倉へでも廻ろうか」
「ええな」
亭主を呼んで、
「金をあずけとくわ、たんとも無いけど」
と、出した胴巻、中々重そうである。一目にみても、小千両あると判るやろ、一寸(ちょっと)持っていても此位と、流連客(いつづけきゃく)ふんぞり返っている。
「道中が恐いよってな」
「何云うてんね、太夫の方が恐いで、胡摩(ごま)の灰(はい)なら金だけや、太夫は尻の毛まで抜きよる、な、歌浦」
「知りんせん、御口の悪い」
「そこで二三十両ここに持ってるが、もし足らなんだら途中からでも使を出すよって渡してんか」
「かしこまりました。では――何分大切な御金の事で御座いますから、飛脚の参りました節に何か証拠が御座いませんと」
「そやそや、印鑑で割符をしとこか」
「ではこの紙へ」
と、亭主の懐中している紙入から抜出す紙一折。
「はい、確かに」
「一つやりんか」
「有難う存じます――御返盃、長居は不粋と申しまして手前はこれで」
「長居は不粋か、皮肉やな」
「とんでも無い。この禿頭(はげあたま)が」
とぴしゃりと亭主自分の頭を叩いて引きさがってしまう。
内所へきて、胴巻に封印をし、印鑑の紙をみていると、
「親方、瀬川ざます」
と、襖の外で声がしたから、
「さあ、御入り」
女房が、煙管(きせる)をはたいて、
「御苦労だね、一つ御頼みしようか。これ、鏡台をもっておいで」
と、昔の女郎、女房の髪まで結ってやったが、今は芸者は半襟をかけても、皺をよせる。
「主人やろな、番頭にしては外の人と話振りもちがうし。中々上方者にしてはよく遊んでいる」
と、亭主、印を見ながら女房に云っていると、髪を梳(す)きながら眺めていた瀬川が、
「まあ、珍らしい印形、妾(わたし)のとよく似ていますが」
「ふん、わしもそう思ってるが、こりゃ町家のと違うらしいな」
「親方一寸(ちょっと)拝見してもよざますか」
手にとって見ると、夫久之進(きゅうのしん)の所持していた物と寸分の違いも無い。はやる胸を押隠して、
「一寸拝借させて頂きましても……」
「いいとも」
髪を結上げて、部屋へ戻り、印形を較べてみると全く同である。禿(かむろ)を呼んで、その客の脇差を取寄せると、間違いも無い拵(こしら)え、目貫(めぬき)の竹に虎、柄頭(つかがしら)の同じ模様、蝋塗(ろうぬり)の鞘、糸の色に至るまで、朝夕自分が持たせて出した夫の腰の物である。
さらさらと書流す一通の手紙、金七という己が宿元へ。
「敵が判ったから今討取るつもり」
後の事色々と頼んで使を出してから身拵え。用意の短刀を懐に、歌浦を呼んで立たせてから斬りつけたのである。

奈良へ行くと猿沢の池の次が、十三鐘(しょう)、所謂(いわゆる)「石子詰(いしこづめ)」の有ったと云われている所であるが、一時間名所を廻って一円の車屋や、名所一廻り三十銭の案内人が、
「鹿を殺した罪で憐れや十三の子供が一丈二尺の穴へ埋められ、生ながらの石子詰」
と、出鱈目の説明をする。
瀬川の父、大森右膳が奈良の産。京都で富小路家(とみのこうじけ)に侍奉公(さむらいぼうこう)していたが、故(ゆえ)あって故郷に帰り、大森通仙と名を更えて、怪しげな医師になっていた。
この「故あって」、実は富小路家の女中と不義を働き、手をとって戻ってきたのであるが、多分いい女であったにちがいない。瀬川こと本名たかは、この二人の間へ生れた子であった。
「不義は御家の御法度(ごはっと)」で、危いと首にかかわるし、第一若い男と奥女中との間、余程取締りの厳重であるべき筈だのに、出来たのだから通仙もいい男にちがいない。従って、たかは父に似たか母に似たかは知れぬがいい女である。
「二人のいい所だけを取るともっといい女だったのに」
と、通仙、藪医だからメンデリズムの法則なんか知らなかったのだろう。子供という者は母に似るか父に似るか、祖父母に似るかで、母のいい所と父のいい所だけをとったり、二人の悪い所だけに似たりして生れるもので無い。母親が小ぢんまりとした細面(ほそおもて)の美人で、父親が眉の太い、大きい鼻だと、きまって親爺に似て出来てくるものである。
たかが十二三の時分から、そろそろ近所で噂が高くなった。
「医者坊主の娘にしておくのは勿体(もったい)ないな。鹿の角細工店でも出して看板娘にすると、よう儲かるで」
と、諸国遊覧客の懐を相手に暮している奈良町人碌な事を云わない。
奈良町奉行の与力、玉井与一右衛門の若党の源八というのが、このたかに惚込んだ。通仙の下男に頼んでは艶書を送る。下男の方では、
「旦那又参りました」
と、庭にでも落ちていたような顔をして、忠実そうに通仙に手渡す。
「うるさい奴じや」
と気にもとめない。源八その内にそれと知って、一日酒の勢をかりて、通仙に申込むと頭ごなしに叱られてしまった。
「畜生め、御嬢さんに聞いてみろ。二つ返事で、あの源八ならと来るのだ、覚えてやがれ坊主め」
と、怨んでいたが思出すのは例の石子詰である。神鹿(しんろく)を殺す者は、人殺しよりも重い罪になるというのが、とにかく掟らしく云触(いいふら)されていたから、源八夜中に一頭ぽかりとやっておいて、死骸を通仙の門口へ置いておいた。
私はこの話を誰かの作り事であると云っておいたが、この鹿殺しなどもよく出てくる手である。
「やあ鹿が死んでいる」
落語で云うと、門口へ鹿でも死んでいると大変だというので、奈良では競って早起きしたと云うが、冬寒くって夏暑い所、夜中までも起きている必要のない所だから早起きをしたのだろう。
「鹿め通仙さんに見て貰いにきて、叩いても起きないうちに死んだのやろ」
「阿呆抜かせ」
「それでも春日(かすが)さんの使姫の神鹿や、その位のことは判るで」
「神鹿の死損(しにそこね)てこの事や」
「洒落か、そら」
「しんどの仕損いって、どや上手やろ」
役人が来て調べたが勿論下手人は判らない。下手人が判らないと、門口にあったという理由で通仙は処払いに処せられる。これも判らない処分であるが、こうしないと松葉屋瀬川の話はおもしろくならない。
この時代より以前、板倉伊賀守が奉行をして居た頃、ひどくこの鹿に就(つい)ての処分法が苛酷であったから、寺社奉行と相談の上改めた事よりも、講談俗書では矢張り、厳刑のままの方が名高い。
通仙仕方がないから又京都へ行く。ここも面白くないから大阪へ出て山脇通仙と改めていたが、何の因果か奈良程繁昌しない。繁昌はしないが、元が武家で今が医者だから相当の交際はできる。その上に、これを事実らしくする為に持出してきた友人が、鯛屋(たいや)大和(やまと)、号を貞柳という狂歌の名人である。上本町五丁目の寺に墓があるが、この人を引張り出してきて通仙の友人にしてしまった。通仙もいい友人が出来たから、貧乏の棒が次第に太くなり、というような狂歌を作っている内に病気になって死んでしまったが。とにかく、仇討物語もいろいろとある中に、この位経歴のよく知れた人は無い。
当時の大阪城代内藤豊前守の家中百五十石勘定方小野田久之進へ、この貞柳が、たかを嫁入らせた。母親は年増だがいい女、娘は後の松葉屋瀬川、久之進も悪い気持でない。

享保三年、内藤豊前守御役御免になって、領地越後の国村上へ帰る事になった。久之進も勿論同道、一旦深川の上屋敷へ戻ったが、後片附の為、同十月藩金四百五十両を携(たずさ)えて大阪へ上る事になった。
東海道で、悪馬子の出るのは箱根、盗賊の出るのは薩陀峠(さつたとうげ)ときめてある。この御きまりの薩陀峠へ、小野田久之進不覚にも一人で差しかかった。大抵旅人は五六人、七八人も一緒になって由井を出て薩陀へかかるのであるが、大事な役目を控えながら、ただ一人、白昼にしても夕方にしても山中深い所へきたから、
「旅人まて」
と人相の悪いのが三四人出てきた。人相の悪い盗賊なんてものは大抵下っ端である。頭分(かしらぶん)になると皆人相がいい。何んとかという殺人鬼など、尤(もっと)も深切な銀行員、小間物屋の如くであったと云うし、今でも大きい泥棒は大抵堂々と上流に住んでいる。
「何を小癪な」
と、ちゃんちゃんとやったが、久之進殺されてしまった。勿論藩の金もとられるし、大小も奪われた。前段の如く、この大小から手がかりになっているが、昔の盗人にしても可成り間抜けた奴である。一本しかない刀でもあるまいし奪った刀を、日本中で尤も役人の目の光っている吉原へ差料(さしりょう)にして行くなど、盗人心得を知らない事も甚(はなは)だしい。
たか親子、久之進が不意の死の為追放に処せられた。殿様が、たかを一目見たならこんな事にもならなかったであろうが仕方も無い。
「どうして二人はこう不幸だろう」
と嘆いていると、出入の商人の若松屋金七というのが、
「何御二人位」
と、見ていても一貫や二貫の値打はあると、美しい女の幸い、すぐ引取ってくれたから、何処かへ後妻にでもと思っていると、金七の住んでいた富沢町に火事があって、金七の家も類焼してしまった。女郎になるのもこの位手数をかけぬとなれないから、昔は律義であった。
今度は金七夫婦とたかの母子と四人で今戸の竹本君太夫という義太夫語りの家へ世話になる事になったが、これは金七の弟である。今でも君太夫などと云う名は、義太夫よりも安女郎にありそうな名であるが、この君太夫も貪乏である。そして根が芸人である。
「太夫になると素敵ですぜ、ねえおたかさん。おい嬶(かか)、どう思う」
「そう妾(わたし)も思っていたよ。惜しいもんだよ、こんな長屋に捨てておくのは」
「どうです、御母さん。私の口でなら松葉屋って、吉原で一二の大店へ話が纏(まと)まるが」
と、金七が居ないと云うし、母子にしてもここまで来ると、それより外に途がない。一夜泣きながら話をきめて、
「それでは一つ御頼み申します」
「しめた」
「ええ」
「いえ、こっちの事」
と云って一走り松葉屋へ。
「宵の中から君さん」
「今日は流しじゃ無(ね)えんで、これ居ますかい」
「居るよ、無心かい」
「へん、時々はこっちから儲けさして差上げる事もあるんだ。まあーっ、高尾か玉菊か、照手(てるて)の姫か弁天か」
「トテシャン」
「洒落ちゃいけねえ、大した代物で、家(うち)に居るんだ」
「ぷっ、手前の女房じゃ、金をつけても嫌だよ」
主人が逢って、とにかく玉を見よう。連れてくると、
「成程義太夫の御師匠の見つけた玉だけあってトテシャンだ」
と、二百五十年を経て、洒落になるのだから、作り話でもこういう風にしておかぬといけない。
十年で百二十両。今の値として三千円位のものらしいが今十年で三千円というのは大した妓(おんな)でない。尤(もっと)も娼妓なら中々いい代物であるから、松葉屋瀬川も娼妓並としておいていいか。それとも君太夫が五十両も刎(はね)たか。散茶の相場としてこんな物であったかも知れない。
松葉屋で代々瀬川という名になっている。そして丁度この前の瀬川が受出されて名のみ残っている折である。主人と女房とで、礼式、遊芸のたしなみを聞くと、
「一通りは」
と云う。君太夫が散々(さんざん)「武家出」と云っていたが、怪しいと思って、茶の手前をみると、通仙の娘である。貞柳の友人の子だから上手である。
「三味は」
と、弾かすと、義太夫の食客(いそうろう)、トテシャンと弾く。
「琴は」
「矢張り、トテシャンと弾きます」
「うむ、洒落まで出来る」
とすっかり気に入って、八畳と六畳の二間を与え、新造一人に禿(かむろ)をつけて、定紋付きの調度一揃え、
「初店瀬川」
と改良半紙二枚を飯粒でつないで、悪筆を振ったのを、欄間へ張る。――とにかく店を張る事になったが、瀬川の心の中では、
「池の水に夜な夜な月は映れども」
である。諸国諸人の集まり場所、もしや夫の敵の手がかりでもあろうかと、母に与えられた短刀を箪笥(たんす)に秘めている内に、
「割符(わりふ)か、よし押してやろ」
と、ぺたりと御念入りにも盗んだ、人の印形まで、大べらぼうの盗人は押してしまったのである。

この盗賊、誰あろう。奈良で鹿を殺して通仙の門口へおいた若党源八であるから、この名高い松葉屋瀬川の仇討も嘘であるとしか思えなくなる。事実は小説より奇なりとあるから、本当にしておいてもいいが、第一章の如く、官文書にまで嘘をかいた時世である。手紙の真(まこと)しやかな偽造位訳は無い。
取調べると、源八の旧悪悉(ことごと)く露見したから、
「年来の大科人(おおとがにん)の知れたのも、瀬川の手柄である。傾城奉公(けいせいぼうこう)を免じてつかわす」
と沙汰が下るし、まだまだ都合のいい事には、
「源八所持の金子は、内藤家より当時届出がないによって、公儀へ召上げた上改めて瀬川に与える」
と、久之進の殺されたのが享保三年。この決定が享保七年。足掛け五年の間、源八が使いもせずに持っていたと云うのだから、心掛けのいい泥棒もあったものである。
瀬川は、その金で母の養育を金七に頼み、幡随院(ばんずいいん)の弟子となって名を自貞(じてい)と改め、再法庵に住んで例の歌を作ったというのであるが父の大森通仙の方が詳しく判っている。この話はこの後に至って、自貞がどうしたか、何時死んだか、再法庵というのはどの辺にあったか、その外の歌はどういうのか、主人公の事が少しも判らない。
とにかく、文化三年、司馬芝叟(しばしそう)が「新吉原瀬川復讐(せがわのあだうち)」という浄瑠璃をかき、続いて「傾城買虎之巻(けいせいかいとらのまき)」となっていよいよ面白くされ、吉原遊女の仇討として人の好奇心をそそったのである。
 
「奥州白石噺」をめぐる諸芸能

 

盆踊り、盆口説
1 青森県(県内各地) 津軽じょんから節(宮城野・信夫)
2 新潟県(地名不詳) 団七踊り
3 富山県西礪波郡戸出町 ちょんがれ節(白石噺、敵討の段)
4 富山県中新川郡上市町白萩 だんしち踊り
5 富山県婦負郡八尾町大長谷栃折 だんしち踊り
6 石川県松任市下柏野 柏野盆踊り(団七踊り)
7 長野県(地名不詳) 団七踊り
8 静岡県掛川地区 口説 白石和讃
9 和歌山市岡崎地区 団七踊り
10 大阪府団七踊り 河内音頭(志賀団七)
11 兵庫県三原町(淡路島) 大久保踊り、鎌踊り(白石噺)
12 鳥取県東伯郡東伯町逢束 逢東金:踊り(志賀団七)
13 島根県魎摩郡温泉津 庄内松阪、天保十四年民謡書留
14 山口県阿東郡世雲天子 団七口説 団七踊り
15 山口県大津郡三隅町満坂 志賀団七踊り
16 徳島県海部郡宍喰町 宍喰踊り(志賀団七音頭・団七踊り)
17 徳島県海部郡宍喰町船津 船津盆踊り(団七踊り)
18 徳島県勝津郡上勝町田野々 盆踊り(団七踊り)
19 愛媛県喜多郡長浜町青島 団七踊り
20 愛媛県大洲市上須成 団七踊り
21 愛媛県温泉郡重信町志津川 団七踊り
22 高知県香美郡香北町西川 盆踊り口説(志賀段七)
23 福岡県北九州市門司区大里町 薙刀踊り
24 大分県直入郡直入町長湯 団七踊り
25 大分県日田市三花 竹踊り
26 大分県大分郡湯布院 竹踊り
27 長崎県対馬阿連地区 盆踊り口説(志賀団七)
28 宮崎県西臼杵郡五力瀬町桑野内 団七踊り
29 宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸 団七踊り
30 宮崎県西臼杵郡日之影町七折 団七踊り
31 宮崎県西臼杵郡日之影町深角 団七踊り
32 宮崎県東臼杵郡北郷村 口説 団七踊り
33 宮崎県東臼杵郡諸塚村 団七踊り
34 宮崎県延岡市 ばんば踊り(団七踊り)
35 熊本県阿蘇郡小国町西里 盆踊り口説棒踊り(団七)
36 熊本県阿蘇郡南小国村白川 白川盆踊り(団七踊り)
37 熊本県阿蘇郡高森町峯ノ宿 峯ノ宿盆踊り(団七踊り)
38 熊本県水俣市集地区 集踊り(団七踊り)
39 鹿児島県西之表市安城上之町 なぎなた踊り(団七口説)
40 鹿児島県西之表市安城下之町 なぎなた踊り(団七口説)
41 鹿児島県南種子町平山西之町 なぎなた踊り(団七口説)
42 鹿児島県南種子町下西目 なぎなた踊り(団七口説)
43 鹿児島県南種子町砂坂 なぎなた踊り(団七口説)
44 鹿児島県南種子町中之塩屋 なぎなた踊り(団七口説)
45 鹿児島県南種子町大川 なぎなた踊り(団七口説)
46 鹿児島県南種子町上之平 なぎなた踊り(団七口説)
47 鹿児島県南種子町中西 なぎなた踊り(団七口説)
48 鹿児島県南種子町上方 なぎなた踊り(団七口説)
49 鹿児島県南種子町田尾 なぎなた踊り(団七口説)
50 鹿児島県中種子町上方 なぎなた踊り(団七口説)
51 鹿児島県中種子町満足山 なぎなた踊り(団七口説)
52 鹿児島県中種子町阿高磯 なぎなた踊り(団七口説)
53 鹿児島県中種子町西之町 なぎなた踊り(団七口説)
54 鹿児島県向町 なぎなた踊り(団七口説)
55 鹿児島県今熊野 なぎなた踊り(団七口説)
56 鹿児島県東之町 なぎなた踊り(団七口説)
57 鹿児島県女州 なぎなた踊り(団七口説)
58 鹿児島県向井町 なぎなた踊り(団七口説)
神楽・番楽
1 秋田県本荘市鳥田目 鳥田目番楽 団七
2 秋田県本荘市雪車町 書車町番楽 団七
3 秋田県本荘市福田 福田獅子舞 志賀団七仇討ち
4 秋田県本荘市柴野 柴野獅子舞 団七
5 秋田県本荘市万願寺 万願寺番楽 団七
6 秋田県由利郡由利町屋敷 屋敷番楽 団七
7 秋田県由利郡象潟町横岡 鳥海山日立舞 団七
8 秋田県能代市朴瀬 朴瀬番楽 団七
9 秋田県能代市真壁地 真壁地番楽 団七
10 岩手県下閉伊郡田野畑村和野 和野神楽 志賀団七
11 岩手県下閉伊郡普代村卵子酉 鵜島神楽 志賀団七 
狂言、にわか、万作、歌念仏、その他
1 岩手県岩手郡大更村 田植え踊り、狂言(志賀団七)
2 福島県白河市天神町 白河歌念仏踊り(宮城野・信夫)
3 山形県山形市 デロレン祭文(志賀団七)
4 富山県中新川郡上市町開谷 千本突き地固め踊り(団七仇討ち)
5 石川県鹿島郡能登町向田 にわか踊り(団七踊り)
6 福井県大飯郡高浜町 太刀振り(白石仇討ち)
7 埼玉県北足立郡桶川町川田谷 万作芸(志賀団七仇討ち)
8 千葉県佐原市 佐原囃子(だんしち)
9 佐賀県藤津郡太良町川原 川原狂言(志賀団七仇討ち)
10 佐賀県杵島郡山内町宮野 宮野浮立(宮城野・信夫・団七敵討) 
地芝居
1 栃木県安蘇郡葛生町下牧 牧歌舞伎(白石噺) 
人形浄瑠璃、文楽、人形芝居
1 秋田県由利郡鳥海町猿倉 倉人形芝居「碁太平記白石噺」
2 秋田県雄勝郡羽後町野中 野中人形芝居「碁太平記白石噺」
3 長野県下伊那郡阿南町 早稲田人形「揚げ屋」
4 東京都八王子市 八王子車人形「碁太平記」
5 埼玉県秩父郡横瀬村下郷 横瀬人形、説教節「白石噺」
6 鳥取県鳥取市円通寺 円通寺人形芝居「志賀団七」 
組踊り
1 沖縄県今帰仁村字余泊 組踊り「姉妹敵討」
2 沖縄県名護市字真喜屋 組踊り「姉妹敵討」
3 沖縄県名護市字源河 組踊り「姉妹敵討」
4 沖縄県伊江村字西江前 組踊り「姉妹敵討」
5 沖縄県伊是名村字伊是名 組踊り「姉妹敵討」
6 沖縄県伊是名村字仲田 組踊り「姉妹敵討」
7 沖縄県恩納村字名嘉真 組踊り「姉妹敵討」
8 沖縄県石川市字東恩納 組踊り「姉妹敵討」
9 沖縄県西原町字小那覇 組踊り「姉妹敵討」
10 沖縄県南風原町字本部 組踊り「姉妹敵討」
11 沖縄県佐敷町宇佐敷 組踊り「姉妹敵討」
12 沖縄県与那国町宇和納(東) 組踊り「姉妹敵討」
13 沖縄県宜野湾市字野嵩 組踊り「宜野湾敵討」 
柏野じょんがら踊り
柏野じょんがら踊りは、毎年8月14日・お盆の時期に行われます。 かつて北陸街道の宿場として栄えた下柏野町(しもかしわのまち)で生まれたこの踊りは、通常の盆踊りとは異なり、他の地区には見られない大変珍しいもので、市の文化財に指定されています。
細かい撥さばきの三味線、抑揚の少ない尺八、単純な拍子を刻む太鼓、そして、軽快さと悠長さを併せ持ったような不思議な囃子に合わせて、甲高い音頭のじょんがら節が唄われます。 このじょんがら節に合わせて、手踊り・扇踊り・団七踊り・笠松踊りの合計四種類の踊りが、同時に踊られるのです。

細かいばちさばきの三味線、抑揚の少ない尺八、単純な太鼓に合わせたかんだかい音頭の唄が「柏野じょんがら節」です。これに合わせて4種類の踊りが踊られます。
一般的な手踊りと扇踊り、その他に段物(だんもの)と呼ばれる団七踊りとが渾然一体となって踊られる仕組み踊りです。 現在は松任市の無形文化財に指定されており柏野地区で盆踊りに公開されています。

北陸街道の宿場として栄えた下柏野町(しもかしわのまち)で生まれた踊り。通常の盆踊りとは異なり、他地区には見られない大変珍しいもので、市の文化財に指定されている。この踊りを編み出したのは、内匠清八郎であると伝えられ、北陸地方に発達した盆踊り歌の独特の形式である「やんれ口説き」の中に「娘仇討奥州口説きやんれぶし」の囃子と歌舞伎の立ち廻りなどが振り付けとなって現在の団七踊り、笠松踊りが編み出された。「柏野じょんがら節」にあわせて、手踊り・扇踊り・団七踊り・笠松踊りの4種類の踊りが踊られる。一般的な手踊りと扇踊りの輪の中にまじって、段物と呼ばれる団七踊りと笠松踊りとが、揮然一体となって踊られる仕組踊り。団七踊りは父を殺された姉妹があだ討ちの旅に出て、見事敵(かたき)を討つという物語がモチーフ。二刀流の侍にそれぞれ鎖鎌と長刀(なぎなた)を持った姉妹がまさに仇討ちを成し遂げようとする場面が踊りに再現されている。細かいばちさばきの三味線と抑揚の少ない尺八、単純な太鼓で軽快さと悠長さを併せ持ったような不思議な囃子にあわせて、かん高い音頭の唄が唄われる。

柏野村(かしわのむら)は、石川県石川郡に存在した村。 村名は、合併した4村において、中世の所領単位として「柏野」の名が使われていたことによる。その柏野は、この地が「楢柏野」と呼ばれていた原野だったことに由来し、室町時代から柏野の名が見えている。 この地で生まれた盆踊り唄に『柏野じょんから節』があり、柏野じょんがら踊りが行われている。

この踊りを編み出したのは、内匠清八郎であると伝えられ、北陸地方に発達した盆踊り歌の独特の形式である「やんれ口説き」の中に「娘仇討奥州口説きやんれぶし」の囃子と歌舞伎の立ち廻りなどが振り付けとなって現在の団七踊り、笠松踊りが編み出された。細かいばちさばきの三味線と抑揚の少ない尺八、単純な太鼓で軽快さと悠長さを併せ持ったような不思議な囃子にあわせて、かん高い音頭の唄が唄われる。これが「柏野じょんがら節」である。この「柏野じょんがら節」にあわせて、四種類の踊りが踊られる。一般的な手踊りと扇踊りの輪の中にまじって、段物と呼ばれる団七踊りと笠松踊りとが、揮然一体となって踊られる仕組踊りである。 昭和59年(1984)市文化財(民俗芸能)に指定。  
 
由井正雪1

 

ゆいしょうせつ/まさゆき、慶長10年-慶安4年(1605-1651) 江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変の首謀者である。名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある。
慶長10年(1605年)、駿河国由比(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋の子として生まれた。なお、『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある。17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。楠木正成の子孫を称する楠木正虎の子である軍学者の楠木正辰(楠木不伝)の弟子となり、才をみこまれてその娘と結婚し婿養子となった。
「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師である張良と諸葛亮孔明に由来している。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。
慶安の変
慶安4年(1651年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を集めて幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとなった。 
 
由比正雪2

 

駿州の紺屋の生まれ、由比正雪は、17才の時、シャムヘ渡った山田長政が、反乱軍を鎮圧した功績によって国王から、大守に任ぜられた偉業を知り、胸が張り裂けんばかりの感動を覚えた。これが切っ掛となり、多情多感な青年、由比正雪は、元和8年(1622)大きな夢を抱いて、江戸へ飛び出し、親類の菓子屋で奉公を始めた。
正雪は商用に託して、諸国の武家屋敷に出人りをしていたが、その様ないきさっから次第に武芸にも、関心を持つようになっていった。当時幕府は、大阪方の浪人達を厳しく、取り締まっていたが、不安げにうろつく多くの浪人達に同情を抱き正雪は、幕府の政策に疑念を持ち始めるのであった。
元々正雪の志は、山田長政に憧れ軍学者になる事であり、その為、仕事にも身が入らずとうとう菓子屋を、やめる事になってしまった。
その後正雪は直ちに、志をかなえるべく、楠不伝、と言う軍学者の道場に、入門するのであった。正雪は内弟子として入り込み、師匠の信任を得るため人一倍、努力した。その甲斐あってか早々に師匠の、代稽古を努めるようになり、更に数年後には道場を継ぎ、念願の軍学者、となったのである。
そして数年の歳月が流れていった。一流軍学者、との評判も立ち日増しに、大勢の聴講者が、押し掛けるようになった。しかし幕府は、多くの聴衆が集まる事に懸念を抱き、隠密を門弟として送り込むなど、警戒し始めるのであった。
正雪が江戸に出て、一人前の軍学者になるまで、後ろ盾となって目をかけてくれた善き、理解者がい た。それは、板倉重昌であった。重昌は、将軍を補佐する最高機関である幕閣を勤めており、駿府城にいた当時から正雪の少年時代を良く、知っていたからである。だが重昌は、寛永15(1638)年、島原の乱で、幕閣内での勢力抗争の煽りを受け、無念の死をとげるはめとなってしまった。
正雪はその事に大きな衝撃を受け、腹の底から込み上げる怒りを覚えた。この事件を機に重昌の、無念、の死を弔うかの様に正雪は幕府を、批判し始めるのであった。
その頃の、幕府の政策は、関ケ原の合戦以来、外様大名の容赦ない、取り潰し政策であった。その、取り潰しによって、40万人とも50万人とも言われた浪人達は、巷にあふれる。ところが、これら大量の浪人に対しても幕府は、諸大名が浪人を集めて、勢力を強める事を恐れ、それ故、新しく浪人を召し抱える事を厳しく、禁じていた。
だが、この様な状況下にあってもあえて、浪人を召し抱えるなど幕府に対して、逆らう大名がいた、それは、徳川御三家の一人、紀州大納言頼宣であった。また、頼宣は、こうした浪人達に同情し、幕府を批判している正雪に、特別な好意を寄せていた、大名でもあった。

頼宣が、幕府に逆らうのは、それなりの訳がある。曾て頼宣は、駿府城の城主として就任したが、僅か三年で、紀伊の和歌山城に移された。大御所政治の中心地であった駿府を、追い出され、田舎の和歌山に、転居させられたからである。頼宣は憤まんやるかたない思いを持っていた。
この、徳川直系に対する処遇の不満は、春日局を中心に形成されていた、松平信綱、酒井忠勝、阿部忠秋などの、若手幕閣らに向けられ、彼らを批判する、言動となっていった。
更に頼宣が、徳川御三家の一人である事から皆、神経を尖らせた。その為、知恵伊豆と、異名をとっている松平信綱は、煙たい存在の頼宣を抑える妙案を、密かに、練っていた。
その策とは、幕府を批判している正雪に、隠密を使って事を起こさせ、正雪と関係している頼宣を封じ込める、と言う企みであった。
一方、正雪に同調し、好意を寄せている紀州大納言頼宣は、そのよしみから、しばしば御前にも正雪を、招いていたのであった。
今日も、広大な紀州屋敷の一室で正雪は、近頃の若手幕閣達の動きに懸念を持ち、それとなく頼宣候に話を、持ち掛けていた。
『紀州様、今、天下の形勢を御覧になられ、いか様に思われますか』
『天下の形勢とは、どう言うことじゃ』
『近頃の、若手幕閣達の勢力の事で御座います。先頃、家光候は、紀州家の剣術と槍の技を御覧になられたと思いますが』
『うむ……そう言えば、いたく感心されて、おられたようで御座ったが』
『紀州様がお抱えする、武術の技を、家光候はなぜ、御覧になられたのでしょうか』
『わが紀州家の心を疑って、武術の力量を探るために、そのようなことをされたと、貴公は言いたい のだな』
『いや、疑いではなく、既にその恐れがあるとの懸念から偵察に、来られたものと思われます』
『すると、牽制しにか!』
『さように存じます』
『わしが思うには、家光候が自ら、わが家の武術を見定めに来られたのは、恐らく、側近の考えではな いかと、思うのだが』
『それがしも、さように存じあげます』
『やはりそう思われるか。家光候を使い、それとなく我が家を偵察しに、来させるとは、側近達の陰の力を更に、強くしている証拠だな』
『多分そのように、思われます』
『う一ん、徳川の直系を汲む者にとって、幕府そのものが、手の届かぬものとなって行くとは、天下はいささか淋しい形勢に、なりつつあるようじゃ』
『それがしもかねてより、幕府の政策に対しては憂いを、持っておりまする。巷に溢れる浪人達を救う為にも、そろそろ事を起こし改革を訴える時期が、参ったようで御座います』
『ほっほう、その様な企みを持っておられると、申されるのか、しからば陰ながら』
『はっ、力強きお言葉、かたじけのう御座います、つきましては、御三家の重みはまだまだ通用するはずで御座います。それ故、何彼と便宜の為、紀州様の御印の力を、お貸し戴きとう存じます』    
『さようか、だが扱い如何によっては、我が藩の命にも関わる代物故扱いには、くれぐれも注意下されよ』と言うと、頼宣候はおもむろに文箱から、1枚の、虎の印が押してある白紙を、取り出した。
『有り難きお志、無駄には致しませぬ。また御迷惑をかけませぬ事を、お誓い申しあげます』
改まって正雪はお礼を述べたが、頼宣候はただ大きくうなずき、微笑んでいた。

幕府にとって最も恐ろしいのは、紀州大納言頼宣と、関係を持つと見られている正雪の、影響力である。その為正雪の動向は逐次、道場に送り込まれていた隠密から、幕閣達に報告され、正雪に対する幕府の圧力は日増しに、厳しさを増していった。だが正雪は、この圧力に屈する事なく更に、抗議の行動へと反発を、強めていくのであった。折しも正雪が、抗議行動を決意した時、叛乱の協力者となる、丸橋忠弥、と言う人物と出会うのであった。
だがこれは、松平信綱が仕組んだ、罠、なのである。
丸橋忠弥の父は、四国の覇者、長宗我部盛親であるが盛親は曾て、大阪冬の陣の時に、今は北町奉行と なっている石谷将監に、指を斬り落とされなぶり殺しにされた。
その為忠弥は、石谷将監に仇を討とうと強い、決意を持っていた。松平信綱はそこに目を付け、北町奉行の石谷に、恨みを晴らそうとする忠弥と、幕府に、批判を強めている正雪とを、結び付ける事で、『きっと何か事を起こすであろう』と、目算していたのであった。
そこで信綱は、隠密として送り込んでいた奥村八郎衛門に、それとなく丸橋忠弥に正雪を引き会わせるよう、指示した。
ある日奥村は、本郷お茶の水にある丸橋道場に正雪を案内し、宝蔵院流の槍の師範である丸橋忠弥に引き会わせた。
『それがしは由比正雪と申す者、軍学の極めを志しておる故、貴殿一族の、戦の歴史に強い、興味をもっておりまする、勉学の為お聴かせ戴けませぬか』
忠弥も、正雪の依頼に快く応じ、話しを聴かせた。最初は、長宗我部一族の起こりや歴史などを語り、そして、感慨をこめながら数々の武勇伝を語っていった。だが大阪冬の陣の話になると、忠弥の顔面が紅潮し始め、語気は一気に強い口調となった。
『父上の最後を思うと、武士として不名誉な辱めであり、憤は今でも、忘れは致しませぬ、父上を捕らえた北町奉行の、石谷将監めを仇として只、一突きにするまでだ。それがしの悲願ご理解下され』
『忠弥殿、貴殿の心中察するに、余りまする、だが、一奉行を刺したとて、個人的な怨みの仇討ちに、過ぎぬのでは』
『なに!四百年の誉れある、我が家の無念を、単なる個人的な怨みと申されるのか。正雪殿、徳川の泰平が、悪いのだ、戦国の世になれば、個人的な怨みなど御座るまい』
『なるほど御尤もな、そう言えば、徳川の泰平を守り過ぎるあまり、大名の取り潰しによって浪人となった武士達が、どれ程おることか、それを思うと我も怒りが』
『正雪殿もそう思われるか、ならば、互いの怒りを合わせ事を起こせば、浪人達を苦しめている幕府の悪政も、改革することが、きっと出来ようぞ』
二人は意気統合し、その後も親交を、深めていくのであった。そしていつしか二人の怒りは、叛乱の構想へと変わっていきその気運は、急速に高まっていった。

さっそく、正雪と丸橋忠弥は叛乱計画を、立てた。
江戸においてはまず、江戸城に蓄えてある火薬を一騎に、爆発させる。それを合図に闇にまぎれて市内の、数十箇所に火を放ち市中を、火の海にする。この、火の手を見るや、丸橋忠弥の一団は、葵の提灯を掲げ江戸城内に、突入する。そして、将軍の神輿を出させ、そのまま将軍を拉致して裏街道より、久能山へ急行する。
京都においては、江戸の情報を得るや、二条城を乗っ取る。
大阪では、京都での行動を合図に市中を焼き討ちし、大阪城を占拠する。
また、駿府の正雪一行は、久能山を襲撃し、金庫にある金銀を押さえ、軍用に当てる。更に、駿府城を落として東海道を分断し、四方に号令を発する形で天下を定める。
これらの決起行動には、集めた三千の、浪人達が一挙に動く、と言う計画であった。
しかし、正雪と忠弥は不覚にも、松平信綱が張り巡らしていた諜報網から、これ等の計画は全て、報告されていた事には、気付いていなかった。

慶安4年(1651)、7月21日未明、遂に、その計画は決行された。
正雪は江戸を出発し駿府に同かった。従う者は総勢、11人である。何か事があれば、紀州大納言から賜った書状が役立つ、正雪は自信を持っての、旅立であった。
正雪が江戸を出ると丸橋忠弥は叛乱の、準備に取り掛かった、市内の攻め口は14箇所と定め、三千の、浪人達の内、14隊を精鋭部隊とし、残り八百人は遊軍とした。そして、計画万端怠りなく忠弥と浪人達は、決起の日を、待っていた。
だが、正雪一行が江戸を発つと直ちに幕府は、叛乱の押さえにかかった。
まずは北町奉行の同心24人は、丸橋道場に向かった。そして表と裏に分かれ『火事だあ、火事だあ』と叫び立て、、忠弥があわてて飛び出したところをあっと言う間に、取り押さえた。続いて、正雪の道場も手人れを受け30人余りが捕らえられこれで、叛乱の要所は全て押さえられた。この様に江戸での叛乱は事前に漏れていた情報によりあっけなく未遂に終わってしまったのである。
一方、駿府へ向かった正雪の一向が、紀州藩の定宿となっている梅屋に、わらじを脱いだのは7月25日であったが夕刻には早くも、梅屋町の同心に発見されていた。
駿府城代の大久保忠成は、幕府から早打ちで送られてきた書状を受け取るや、主だった者を集め対応策を、打ち合わせた。書状には、正雪一行の人相書きと、叛乱計画の内容が記されており更に、『正雪は必ず生け捕りにせよ』と、付け加えられていた。
その為城代と町奉行は、生け捕り策に知恵を絞った。
梅屋に押し入っての生け捕りではこちら側に、かなりの犠牲者を出てしまう。
そこで、江戸より手傷を負った手配者を取調べる、と言う理由で外に、誘き出す事にした。
そして、与力を使わし。
『江戸より手負いの者がある故、旅人の手傷を改めている。奉行所まで参上されたし』
戸口越しに中から返事があった。
『我らは紀州家の家臣で御座る、手傷あらためならばこの宿で、お調べ願いたい』
『いや、紀州様の家臣に検視を差し向けては、矢礼かと存じあげる、まげて御出頭願いたい』
与力は重ねて、出頭する様申し入れたが、聞き入れられなかった。
宵のうちからかがり火が焚かれ、与力達は夜通し見張りを続け、間も無く、夜明けを迎えようとしている『これは只ならぬ事である、たぶん江戸の叛乱は失敗しこの計画も、見破られている事であろう』と正雪は直感的に悟った。
『再度お頼み申す、奉行所へ参上されたし、なぜにお断りめされるのか』
『それほどまでの仰せなら後ほど参上つかまつろう、今しばらくお待ち下され』
『分かり申した。ならばお待ち致そう』
『相手は我らを、生け捕りにするつもりだ。生け捕りにされ厳しい拷問を受け、生き恥をさらさぬ為にも、ここに至っては、自害するしか我らに、残された道はない』
『正雪殿、このままでは犬死にではないか。せめてひと太刀浴びせねば』そうだ、そうだ
『いや、待たれよ、この場に及んで何人かを、打ち斬ったところで、無益と言うものであろうそれよりも潔く果てようではないか。我も無念ではあるが、この様になった事は総べて我が、不徳の致すところである。皆の者には、詫びても詫び切れぬ想いがただ、心残りとなっている』
『正雪殿、無念で御座る。正雪殿オー、正雪殿オー、』
一同が静まり返る中正雪は、筆を取り出した。
この叛乱が断じて己れの、野心によるものではなかった事。大名の取り潰しによって出た、多くの浪人達を憂い、御政道を正さんが為に、起こした事。紀州家の家臣を名乗ったが、この件については頼宣候は、預り知らぬ事。これ等の趣旨を遺書に、したためた。そして正雪は、最後の心境を皆に、告げた。
『今は戦もなくなり泰平の世ではあるが、しかし一方では、巷には浪人が溢れ、大名も次々と潰されて いく嘆かわしい、世の中でもある、心ある者ならば必ず、悲しく思うことであろう。我はこれから、冥土へ旅立つが、下々が憂える事のない、天下長久の御政道がなされん事を、心に留めて参りますぞ』と言うと正雪は、辞世の句を書きしるした。
『秋はただ、なれし世にさえもの憂きに、長き門出の、心とどむな、長き門出の、心とどむな』
東の空は明るみ、かがり火が消え失せる頃、梅屋の奥からすさまじい、うめき声と刀の切り裂く音が、響いた。与力同心らは梅屋に突人し、急いよく障子を、蹴破った。
そこで、まず見たものは、血刀を下げて呆然と立っている増上寺の僧、廓然の姿だった。
足元には鮮血が飛び散り、畳の縁に沿って流れた、血の海の中に首のない、九つの死体が、横たわっていた。
廓然と下郎の和田助だけが生け捕りとなって、此の大捕物は終る。
時に正雪47才、であった。
正雪が自決したのち、遺品の中から紀州候の書状がみつかった。その為、宣頼候は十年間、和歌山城へ帰る事を許されず江戸で、拘束をうける事となった。こうして、煙たい頼宣の、封じ込めを企んだ松平信綱は蔭で、にんまりと、ほくそ笑むのであった。
この叛乱では、直接に関わった者だけでなく、家族や親類を含め総勢、三百人程が刑場の雫と消える、大事件となったのである。
この事件の後幕府は、正雪の遺書を教訓とし各藩に、積極的に浪人を召し抱えるよう、浪人救済に乗り出した。更に、大名家の取り潰しを減らすため、末期の養子を許可した。
これによってお家断絶の事態は急速に、減っていくのであった。
この様に幕府の政策を大きく、改革させたのは、この叛乱が正雪の野心から、起こされたものではなく、国を憂い御政道正さんと、死をもって訴えた義士の、抗議行動であったからである。だが、正雪は『幕府の転覆を企てた反逆者』と言う汚名を着せられその真相は、闇の中に葬られてしまった。
しかし今、こうしてその真相は明かされ、憂国の軍学者、由比正雪の真実の姿がここに、蘇って来たのである。
慶安事件以来350年、由比本陣前の紺屋の奥でひっそりと、供養をされてきた正雪の、五輸の塔には線香の、煙りが今でも漂っている。 
 
由比正雪3

 

巷にあふれた浪人救済計画が、なぜか“謀反の挙”に
由比正雪は、丸橋忠弥らと謀って徳川幕府を転覆させようとした謀反人だとされている。徳川三代将軍家光の頃には、関ヶ原の合戦において生まれた浪人が全国津々浦々にいた。幕府はこうした浪人が反幕府の力として結集せぬよう心を砕いた。浪人の取り締まりも厳しいものがあり、由比正雪はこれら浪人に対する幕府のやり方に反発し1651年(慶安4年)、それを正すために謀叛の挙に出たというわけだ。これが「由比正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」で、この事件を起こしたことで、彼の“悪役”像がつくられることになったのだ。
由比正雪は江戸時代初期の軍学者。「油井正雪」「由井正雪」「油比正雪」「遊井正雪」「湯井正雪」など様々に表現される場合もある。生没年は1605年(慶長10年)〜16051年(慶安4年)。駿河由比の農業兼紺屋の子として生まれたといわれる。幼名は久之助。幼い頃より才気煥発で、17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となった。
楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「油井民部之助橘正雪(ゆい・かきべのすけ・たちばなの・しょうせつ/まさゆき)」と名乗り、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開いた。大名の子弟や旗本なども含め、一時は3000人の門下生を抱え、絶大な支持を得たという。まずは順風満帆な軍学者としての生活を送っていたとみられる。
こうした環境にあって、なぜ正雪が幕府転覆計画を立てた首謀者として追及されることになるのか?軍学塾の主宰者として、巷にあふれた、行き場のない浪人たちを目の当たりにして、立ち上がざるを得なかったのか、学者として理論と実践の重要さを門下生に教えるためだったのか?そこに至る経緯はよく分からない。しかし1651年(慶安4年)、三代将軍家光が没し、四代将軍家綱が11歳で将軍に就いたが、大名の取り潰しなどで多数の浪人が出て、社会は騒然とした状況にあった。
正雪は宝蔵院流の槍術家、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などとともに、浪人の救済と幕府の政治を改革しようと計画。1651年(慶安4年)7月29日を期して江戸・駿府・京都・大坂の4カ所で同時に兵を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前に同志の一人が密告、この計画が発覚する。「慶安の変」と呼ばれる事件だ。正雪は移動途中の駿府梅屋町の旅籠で奉行の捕り方に囲まれ、部下7名とともに自刃した。享年47。しかし、幕府はさらに追及して、連累者2000人、うち1000人を断罪して決着をつけた。だが、一説によると、これは幕府の陰謀で、浪人弾圧の口実をつくるため、デッチあげたのだという。
正雪の意図は、天下を覆すことではなく、幕府の政道を改めようとし、そのため徳川御三家をも利用しようとしていた。このことは、真偽のほどは分からないが、徳川御三家・紀州徳川家の家祖、徳川頼宣(家康の十男)の印章文書を偽造していたという嫌疑がかかったことでも明らかだ。このため、一時は頼宣も共謀していたのではないかとの疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。頼宣は、後に紀州から出て徳川八代将軍となった吉宗の祖父だ。
正雪のこうした目論見を、幕府の「知恵伊豆」といわれたマキャベリスト、松平伊豆守信綱が反乱事件として拡大、歪曲し、一挙に旧大名の残党を掃討し、徳川体制の不安を取り除いたのだという見方もある。だが、真相は分からない。 
 
慶安の変1

 

慶安4年(1651)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。
由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道」(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。
計画
そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子徳川家綱が継ぐこととなった。次の将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として幕府転覆、浪人救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取るための勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、という作戦であった。
露見
しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫した。また、駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。
弾圧に利用された叛乱計画
慶安の変は、幕政への諫言、浪人救済が目的の謀反行動といわれた。幕府はその背後(武功派勢力)と正雪との関係を警戒した。大目付の中根正盛は与力20余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者である。これは、“やらせ訴人”であって、「訴人があった」ということを天下に知らせるための道具でしかない。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげる[1]。
影響
江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を契機に、老中阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らの掲げた理念に沿った世になっていった。 
 
由井正雪の乱(慶安の変)の歴史的意義2

 

寛永14〜15年(1637〜1638年)に勃発した島原の乱は、単なる宗教戦争(キリスト信者の蜂起)ではなく、取り潰された多くの外様大名の家臣出身の浪人や、苛酷な年貢徴収に反発した農民による反乱でした。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠から、三代将軍徳川家光までの時代は、いわゆる武断政治といわれた時代で、幕府による政権運営が安定し、武士が生き生きとしてしていたと思われがちです。ところが、この二人の将軍は、何事も「徳川家本位」の政治家に過ぎず、狭義での政治力のみをもち、創始者徳川家康のような高い志はありませんでした。
二人の徹底的な外様大名の取潰し政策(改易)により、日本国中に浪人が溢れだし、再仕官が困難な彼等の中には、盗賊や追いはぎに身を落とすものも多く、大きな社会不安の原因となっていました。
島原の乱のきっかけは、領主による行き過ぎた年貢徴収でした。元々はこれに対する農民の反乱であったのですが、キリスト教信者と、巷に溢れていた浪人がこれに加わり、幕府政治への反発が一気に爆発したというのが乱の本質というべきものでした。幕府は12万人もの兵力を動員した末にこれを鎮圧し、理不尽な年貢徴収をしたその大名を死罪にしました。しかし、浪人対策については全く反省の姿勢が見られず、今後のキリスト教弾圧に利用しただけとなってしまい、相変わらず外様大名の改易は減りませんでした。
これらの状況に堪えかねた軍学者由井正雪は、その13年後の慶安4年(1651年)に幕府に対するクーデターを勃発させました。彼は優れた軍学者で、大名家はもちろん、幕府からさえも仕官の誘いが絶えないほどでした。幕府の誘いを断ったことで、正雪が開いた軍学塾の人気は凄まじく、一時は3000人の塾生が集まったそうです。
結局このクーデターは、仲間の裏切りにより失敗してしまうのですが、その後彼の計画の規模の大きさを知った幕府側は、大いに震撼したそうです。これにより幕府は、ようやく大名の取り潰し政策に終止符を打ったのです。四代将軍徳川家綱は文治政治に切り替え、五代徳川綱吉はこれを見事に完成させました。
正雪ほどの優秀な人物ですから、反乱など起こさず、普通に仕官していたら、周りから尊敬されつつ平穏無事な生涯を送れたに違いありません。でも47歳で散っていた彼の生き方は、それを選ばず、己の志を通すことに殉じたのです。赤穂浪士には悪いですが、主君のための忠義より、多くの浪人のために戦った正雪こそ、まことの武(もののふ)と言えるでしょう。 
 
末期養子と由井正雪事件

 

徳川幕府時代には「末期養子」というものがあった。これは男子の無い者が急病等で危篤に陥ったとき、または重傷を蒙って死に瀕し、人事不省となったときなどに、親類朋友などが相|議(はか)って本人の名をもって養子をすることがあり、また時としては死後喪(も)を秘し、本人の生存を装うて養子をすることもある。これらの場合を通常「末期養子」といい、また時としては「遽(にわか)養子」もしくは「急養子」ともいうた。
人生常なく、喩(たと)えば朝露の如しで、まだ年が若く、嗣子の無い者で俄(にわか)に死亡する者も随分少なくはない。故にもし末期養子(まつごようし)に依って家督を継ぐことを許さぬ法律があるときは、急病、負傷、変災などのために戸主が突然に死亡して、一家断絶する場合が多くあるのは勿論である。しかるに徳川幕府の初めには、諸侯の配置を整理して幕府の基礎を固くするがために、大名取潰しの政策を行い、末期養子の禁を厳にして、諸侯が嗣子無くして死んだときは、直ちにその封土(ほうど)を没収した。その結果、幕府開始より慶安年間に至るまで約五十年の間に、無嗣死亡のために断絶した一万石以上の諸侯の数が合計六十一家、その禄高五百十七万石余に及んだ。
大名取潰しの結果は浪人の増加である。これら浪人となった者は、本来概(おおむ)ね生れながら、世禄に衣食しておった者であるから、弓箭槍刀(きゅうせんそうとう)を取って戦うことは知っているけれども、耜鋤算盤(ししょそろばん)を取って自活することは出来難い者である。故に彼らはいわゆる浪人の身となった結果、往々生活に窮し、動(やや)もすれば暴行を働いて良民を苦しめ、あるいは乱を思い不軌(ふき)を謀る者さえ生じたのは、けだし自然の勢ともいうべきであろう。関ヶ原の役に、西軍の将の封(ほう)を失う者八十余人、その結果浮浪の徒が天下に満ち、後の大阪陣には、これら亡命変を待つの徒が四方から馳せ集ったために、一時大阪の軍気の大いに振ったことは人の能(よ)く知るところである。また島原の乱にも、小西の遺臣を始め九州の浪人が多くこれに加わったので、竟(つい)に幕府をして大兵を動かさしめるようになった。正雪(しょうせつ)の陰謀事件の際にも、これに加担して天下の大乱を起そうと企てた浪人の数は、実に二千余人の多きに及んだということである。
浪人は社会の危険分子である。大阪両度の陣、島原の乱、共に浪士の乱ともいうべきものであったから、幕府は浪人の取締を厳重にする必要を認め、特に島原の乱の起った寛永十四年から五人組制度を整備し、比隣検察の法を励行したことは、我輩の「五人組制度」中に論じて置いたところである。既にして、慶安四年に由井正雪の陰謀が露現した後ち、幕府は従来の大名取潰しの政策が意想外の結果を招き、これがためにかえって危険分子を天下に増殖するものであるということに気づき、警察法をもってその末を治めるよりは、むしろその源を塞いで大名取潰しの政策を棄て、浪人発生の原因を杜絶する方がよいということを悟るに至った。
しかるに、前にも述べた如く、幕府が大名取潰しの原因として利用したものの中で、末期養子の禁はその最も著しいものであって、慶安以前に種々の原因に依って除封または減封せられた諸侯の総数百六十九家の中、六十七家は嗣子の無いために断絶せられ、または特恩をもって減禄に止められたものであるから、これがために夥(おびただ)しい浪人を出したことも明らかである。
そこで、由井正雪(ゆいしょうせつ)陰謀事件が慶安四年十一月二十九日丸橋忠弥(まるばしちゅうや)らの処刑で結了すると、幕府は直ちに浪人の処分の事を議した。十二月十日に白書院で開いた閣老の会議では、酒井讃岐守忠勝(さかいさぬきのかみただかつ)が浪人江戸払のことを発議し、阿部豊後守忠秋の反対論でその詮議は熄(や)んだが、その翌日に養子法改正に関する法令を発し、[#以下レ−=は返り点]五十歳以下の者の末期養子は「依=其筋目−」または「依=其品−」これを許し、跡式を立てしめることとした。故に慶安の養子法改正以後には、諸大名の嗣子無くして死んだためにその家の断絶した例は追々少なくなり、末期養子の禁は爾後(じご)次第に弛(ゆる)んで、天和年間に至ると、五十歳以上十七歳以下の者の末期養子でも、「吟味之上可レ定レ之」と令するに至った。とにかく、慶安以後の法令には「依=其筋目−」とか「依=其品−」とか「吟味之上」とかいう語があって、絶対の禁を弛(ゆる)べたのみならず、その実これを許さなかった例は極めて稀であったのである。随って浪人の数も著しく減少するようになり、正雪事件以後には、浪人の乱ともいうべきものは全くその跡を絶つに至った。
「君臣言行録」の記すところに拠れば、この慶安の養子法改正は、敏慧周密をもって正雪、忠弥等の党与の逮捕を指揮した、かの「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。 
 
幕府不満の弾圧に利用された由井正雪の叛乱計画

 

政権が不安定なとき、政権の座にある者がもっとも気にし、嫌がるのは批判だ。何をいっているかを気にし、誰がいっているかを気にする。この時代は、浪人問題だけでなく、庶民の感情も不安定で、幕閣は日夜その波立ちに神経を使っていた。
中根正盛は、こういうときにこそ自身の職務が活用されるべきであり、それは、絞って幕政批判の根を絶つことだ、と思っていた。その意味では、いわゆる忍びの者中心の隠密活動とは一線を画していた。
(おれの仕事は政治そのものだ)という自恃のきもちをもっていた。だから配下の与力たちにも、いつも、「幕府のためである。大名の腐臭・腐肉を探り出すことでおのれを卑しむな。むしろ誇りをもて」と激励していた。
おれとおれの配下の廻国者で組織している隠密機関は、甲賀者や伊賀者などの、忍びの技術を主体とする諜報活動者よりも、はるかに高度で知的なものだ、という自信をもっていたのである。それは、忍びの者たちの将軍への私的接続とはちがって、幕閣という政府組織の一角に、はっきり機関≠ニしての位置づけがある、と信じていたからである。
松平定政の処分が発表された七月十八日ころから、由井正雪に関する密告が、松平信綱や町奉行の石谷貞清のところに、つぎつぎとぞなわれているという情報が正盛のところに入ってきた。密告者の多くは、正盛や信綱が前々から神田連雀町の裏店にある由井正雪の学塾に、門人として潜入させておいたものばかりである。
が、これは早くいえば、やらせ訴人″であって、「訴人があった」ということを天下に知らせるための道具でしかない。
中根正盛はもっと別なうごきかたをしている。かれは配下の廻国者を、かなり前別から、駿河・河内・大和・紀伊・京都などへ派遣していた。由井正雪の素性・学問歴などを調べさせていたのだが、もうひとつ、正盛は正雪が唱える楠木流の軍学というものに、改めて関心をもっていた。楠木流の軍学とは一体何なのか、ということと同時に、学祖である楠木正成とはどういう人間だったのか、また、その子孫がどうつづいたのかを、河内・大和・京都などで調べさせたのである。それは由井正雪がなぜ楠木流軍学なのかを知るためであった。
訴人によって発覚している正雪の、
 ○江戸を火薬爆発で焼く
 ○その騒ぎにまぎれて要人を殺し、江戸城を乗っ取る、そして将軍を擁する
 ○京都でも呼応し、二条城、大坂城を乗っ取る
 ○由井正雪は久龍山で総指揮をとり、軍用金を用意する、やがて将軍を人質に天下に号令する
などという計画は、正雪には悪いが、まあ実現の可能性はない。もともと鎮圧する気ならいつでも潰せる計画である。それをいま慎重に正盛がことをはこんでいるのは、定政よりももっと巨きな幕府批判者紀伊頼宣を、この際一挙に叩きつぶそう、という謀計が、松平信綱と中根正盛にあつたからである。
紀伊頼宣、つまり紀州藩主徳川頗宣は、徳川家康の第三子で、豪放かつ英明な器量人であつた。幕政が次第に、合戦を知らない若者吏僚の手で運営されることに反撥し、浪人をすすんで抱えた。いきおい、外様大名や浪人・庶民からひじょうに好感の眼でみられていた。文治派閣僚はそういう頼宣に警戒の姿勢を固くした。
特に松平信綱は、もつとも鋭いまなざしで紀州をにらんでいた。
中根正盛が配下の廻国者を紀州に派したのも、紀伊頼宣と由井正雪との関係を何としてでも立証しようというためであつた。正盛は紀州潜入組に、「たとえ火のない煙でもいい、探り出せ」と厳命した。まるで、火のないところに煙を立ててこい、といわんばかりである。
それでなくても、江戸には大久保彦左衛門のような武功派がこの間まで生きていて、陰でしきりに文治派攻撃をやっていた。かれの書いた『三河物語』など、武功派の不平、憤懣集のようなもので、共鳴する旗本はしきりに書写してまわし読みをしているという。
松平信綱にすれば、「浪人よりも、むしろ幕府内の武功派旗本とこれに同調する大名のほうが問題だ」ということになる。その武功派の盟主が頼宣なのだ。しかも外部から浪人群が支持している。これは潰さなければならない。このへんの事情を正盛は知りつくしていた。
正盛は、「日本国内では、再び干支をまじえぬ」という幕府の方針を正しいと信じている。いつまで経っても戦争の夢を忘れられない亡者共は、尻尾の先まで息の板をとめなければならぬ。若い者ならいざ知らず、年老いた者が再び合戦を、などと喚くのは一体どういう了簡だ。もう亡霊共は政治の場からひっこめ、合戦の一切を否定する松平信綱のような、若手文治派に政治をまかせてどこが悪いのだ、正盛はそう思っていた。 
 
悲運の豪農・足洗半左衛門 〜由比正雪事件〜

 

江戸時代初期、幕府は容赦無く大名を取り潰した。そのたびに家禄を失った武士は、浪人となった。
関ヶ原の役(1600)から慶安3年(1650)までに約40万人(栗田元次博士)、別の説によると23万5千人(田原良一氏)の浪人が出たという。家族や奉公人を含めると膨大な人数で社会不安の原因となっていた。
慶安4年7月25日夜、駿府(いまの静岡市)・梅屋町の町年寄・梅屋太郎右衛門方を町奉行所の手の者が取り囲んだ。江戸から着いたばかりの由比正雪の一行は逃げられぬと観念、8人が自害、2人が捕らえられた。前後して、江戸では丸橋忠弥らが捕縛され、大阪では金井半兵衛が自殺した。政情不安に乗じ、世直しをしようという「駿府・江戸・大阪の同時多発クーデター、いわゆる慶安の乱」はあっけない幕切れとなった。
流布された説によると、「同志五千人で江戸、駿府、大阪で同時クーデターを惹起し、幼将軍家綱を奪って大改革を起こす」というものだが、現実は数百人規模といわれている。
幕府は、密告により一味を検挙し、江戸では56名を磔・斬罪・獄門に、駿府でも処刑が行われた。正雪の父母ら一族や連累者も処刑された。事件は社会の上下に衝動を与え、幕府を震撼させた。
由比正雪の首塚といわれている石塔が、静岡市沓谷5丁目の菩提樹院にある。
慶安の乱は、当時の絶好の話題となり、講談などにとり上げられ流布した。その中で「慶安大平記」が有名である。
それによると処刑された中に、「下足洗村の百姓半左衛門」がいる。半左衛門は、豪家で、田地三千八百石余、金三十万両を貯え、家中も百八十人ありて大百姓という。豪農・半左衛門は正雪を「神仏のごとく尊敬し」とあり、一種のスポンサーであった。
「屋敷は幅二町、奥行二町余…」とあるが、記事は「針小棒大だ」といわれている。だがかなりの豪農であったことは事実だろう。
幕府の老中指令は厳しく、「半左衛門、婿の伊右衛門とそれぞれの女房は磔、男子は斬罪、女房の腹にいて男子が生まれれば斬罪、娘なら卑しい身分に落とせ」という過酷なものという。
半左衛門の屋敷跡は、廃墟となり後に寺が建てられた。現存する小字(こあざ)に「屋敷田、木戸口」があり、「酒屋敷跡」といわれているところもある。また地域内の下河原延命地蔵尊には半左衛門の供養塔もあるという。
いずれにしても、半左衛門一族の最後は悲惨であつた。
当時の幕府は、「武家諸法度」、「諸士法度」の法により浪人を厳しく取り締まった。慶安4年の落首に、「すたりもの 物芸の沙汰に素浪人 橋の出店に河岸の小屋掛け」というのがある。
しかし慶安の乱を契機に幕府の政治に変化が見られた。
事件後、大老、老中の審議で多くは「浪人の江戸払い」を主張したが、阿部忠秋は「江戸払いで、浪人は出身の路を失い、やむをえず山賊、強盗、辻切り、乞食になり世を乱す。いずれも幕府の苦労は同じだ。」として江戸払いを中止した。
幕府は、大名・旗本の「末期養子の禁」をゆるめた。世継ぎがなく、お家断絶の憂き目に遭うものが多く弊害が指摘されていた。
やがて幕府の政治の全局面が「武断政治から文治政治」に進展した。
このように慶安の乱は江戸幕政の一大転向期と評価される重大事件という。(栗田元次博士)
「下足洗村の百姓半左衛門」は、由比正雪の「世直し」の主義主張に私淑し、当時の情勢にある程度の理解を持っていた進歩的人物だったと想像される。
事敗れ一族とともに悲運の運命をたどることになったが、「郷土の生んだ偉大な人物」として称え、その名を後世まで伝えたいものである。 
 
正雪地蔵尊 (東京都新宿区矢来町 秋葉神社境内)

 

この地は由比正雪の屋敷跡の一部でしたが、 かなり時が経ってからこのお地蔵さまが掘り出されていますので、正雪との関係を伝える確かな資料は存在していません。ただ、キリシタン灯籠としてかなり有名な地蔵さまです。でも、ちょっと目にはお地蔵さまどころか灯籠にさえ見えません。失礼してお姿を拝見させていただきましたが、キリシタン灯籠の竿(さお)の一部と確認できただけです。
由井正雪(由比正雪)、慶安事件(慶安の変・慶安の乱・由井正雪の乱)で知られる江戸初期の軍学者です。駿河国油井(ゆい)生れで、17歳で江戸に出て鶴屋に奉公し、のち楠不伝(くすのき・ふでん)に軍学を学んで養子となりました。神田連雀町の裏店で楠流軍学を教授し、多くの浪人を門下に集めました。
慶安4年(1651)第3代将軍徳川家光が没した時勢に乗じ、丸橋忠弥・金井半兵衛らとともに幕府のご政道を改めようと企てました。計画では正雪は駿府で城から武器を奪って久能山に向かい、家康の残した金を奪い取る予定でした。また、丸橋らは江戸小石川の幕府火薬庫を爆破して江戸城を占拠、第4代将軍家綱を人質とし、金井らは大坂で騒乱を起こす手筈でした。
しかし、正雪の一味に加わっていた奥村八左衛門とその徒弟幸忠が訴え出て未然に発覚。追討を命ぜられた新番組・駒井右京親昌(ちかまさ)に駿府茶町の旅籠梅屋で包囲され、正雪は切腹しました。丸橋は捕らえられてのち鈴ヶ森で処刑、金井は正雪の死を確かめてから大坂の天王寺で自害しています。連累者は2千余名にものぼりました。
幕府はこの事件後、浪人対策を重視して浪人の発生を防ぐため、末期(まつご)養子の制度を緩和して大名家断絶の機会を少なくしました。
家光時代の大名取り潰しで、江戸市中には不満浪人があふれていました。
そして、慶安事件の黒幕は徳川頼宣(よりのぶ)(家康の第10子、紀伊徳川家の祖)という説があります。その証拠として多くの内通者があり、彼らの多くが幕府に召し抱えられ出世していることがあげられています。また、正雪は1630(寛永 7)紀州藩に来遊しています。
さらに、久能山の霊廟に納められた家康の遺金2百万両は、すでに半分を御三家へ分け、残りは寛永13年(1636)江戸城に移されていました。 
 

 

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