西国風土記

中部 / 静岡県山梨県長野県新潟県富山県石川県福井県岐阜県愛知県
  中山道歌枕古代三関  
近畿 / 三重県滋賀県京都府奈良県和歌山県大阪府兵庫県
中国 / 鳥取県島根県岡山県広島県山口県
四国 / 徳島県香川県愛媛県高知県
九州 / 福岡県佐賀県長崎県熊本県大分県宮崎県鹿児島県沖縄県
東国 東北・北海道 関東
 
民謡

雑学の世界・補考   

中部地方
静岡県 / 伊豆、駿河、遠江・伊豆諸島

 

静岡山梨長野新潟富山石川福井岐阜愛知

田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人
伊豆半島
日本列島はユーラシアプレートの東端に乗る島だが、東に太平洋プレート、南にフィリピン海プレートが接してゐる。太平洋プレートはわづかづつ西に移動し、日本海溝の底でユーラシアプレートの下に潜り込んでゐるといふ。フィリピン海プレートは、北端に伊豆諸島や伊豆半島、丹沢山地を載せて北上してゐるらしい。百万年以上前は、伊豆半島は独立した島だったらしく、特異な植物の生態も見られるといふ。
丹沢山地の麓(神奈川県秦野市平沢)の震生湖は、地震でできたものなのだらう。
○ 山さけて成しける池や水すまし 寺田寅彦
○ 山はさけ海はあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも 源実朝
右の実朝の歌は単に似た歌といふこと。
枯野 / 田方郡天城湯ヶ島町
    天城
応神天皇の御代に伊豆で造られた船は、浮くこと軽く、海上をすべるやうに走ったので枯野かるの(軽野)と名づけられたといふ。田方郡天城湯ヶ島町松ヶ瀬に軽野神社があり、事代主ことしろぬし命をまつる。
○ 鳥総とぶさ立て足柄山に舟木伐り 木に伐り行きつあたら舟木を 沙弥満誓
鳥総とは、切り倒した切り株のあとに小枝などを立てて、山の神や樹霊に感謝をささげるもののこと。
伊豆山神社 / 熱海市伊豆山
むかし熱海の洞窟から湧き出た温泉を、「走湯はしりゆの湯」といった。滝のやうに激しく湧き出してゐたらしい。
○ 伊豆の国山の南に出づる 湯の速きは神のしるしなりけり 玉葉集
その地に浜宮として走湯神社がまつられ、山を登ると本宮の伊豆山神社がある。ここの森は「古古比ここひの森」といはれた。ココヒとは「かがひ」(歌垣)のことだらうといふ。
○ 五月闇ここひの森のほととぎす 人知れずのみ啼きいたるかな 兼房朝臣
伊豆山神社の神木の梛なぎの木の葉は、男女の仲を結ぶなどのお守りとされる。葉脈が切れにくいからだともいふ。
○ 今度ござらば持て来てたもれ 伊豆のお山のなぎの葉を
諸句
○ 「伊豆は詩の国であると、世の人はいふ。伊豆は日本歴史の縮図であると、ある歴史家はいふ。そこで私はつけ加へていふ。伊豆は海山のあらゆる風景の画廊であると」(川端康成)
三島の神 / 伊豆、伊豆諸島
下田市白浜の伊古奈比唐「こなひめ神社は、三島大明神の后神をまつるといふ。その白浜の地が、平安初期の延喜式名神大社の伊豆三嶋神社のあった旧址であるらしい。今の三島神社{大社}は、平安中期以降にここから伊豆国府のあった今の三島市の地へ遷ったものといふ。
○ あはれとや三島の神の宮柱 ただここにしもめぐり来にけり 十六夜日記
伊豆の三島神社は、最古のものは三宅島にまつられたといふ。伊予の三島明神の分れとされるが、伊豆諸島では三島の神は事代主ことしろぬし神とされることが多い。火山列島の伊豆諸島に住む人々は、御神火を恐れて暮らしてはきたが、事代主神が火山の噴火のたびに島を広げてくださるといふ信仰があるといふ。
三島明神の主な后神は次の島にまつられてゐる。
波布比売(はぶ大后)波布比売命神社 大島
伊賀牟比売(伊古奈比売)后神社 三宅島伊賀谷
佐岐多麻比売御笏神社 三宅島神着
久爾都比売(泊御途口大后明神)泊神社 新島
阿波売命(三島神社の本后)阿波命神社 神津島
絵島と生島新五郎 / 三宅島
正徳年中、江戸の人気役者、生島新五郎は、大奥の女中絵島ゑじまと通じた罪で三宅島に流された。事件は大奥改革を狙った老中たちの捏造したものだったといふ。江島は信州高遠たかとほへ流罪となった。新五郎を哀れんで三宅島の民謡に歌はれた。
○ 花の絵島がから糸ならば たぐり寄せたい身がそばへ
八丈島の為朝
むかし八丈島は「女護にょごが島」ともいひ、美人ばかりが住む島だった。島の女たちは、年に一度、南風の吹く日に、それぞれの作ったわらぞうりを南の浜に並べた。南風に乗って青ヶ島から男たちが渡って来て、そのぞうりをはくと、ぞうりには女たちの印がついてゐて、女は自分のぞうりをはいた男を一夜夫に迎へたのである。
○ 南風だよ皆出ておぢゃれ 迎へぞうりの紅鼻緒 八丈しょめ節
男たちは明くる日には「男島」とも呼ばれた青ヶ島へ帰っていった。八丈島は女だけの島だった。むかし島に漂着した先祖たちが、海神のたたりを恐れ、男女別々の島に住んだのだといふ。
保元の乱に敗れた源為朝は、追手を逃れて諸国を渡り、八丈島に着いた。為朝は島の女と結婚して男子の双子が生まれた。このときから、男女の同棲が始まったといふ。
まもなく追討の軍船がやってくると、為朝は小島(八丈小島)に渡った。八丈実記によると、敵を待つ間に為朝が卯の花を折り挿した地を宇津木村といひ、鳥を飛礫つぶて打ちにした地を鳥打村といふ。為朝が詠んだ歌がある。
○ 梓弓手にから巻いていたづらに 敵を待つまぞ久しかりける 源為朝
為朝はこの地で壮絶な最期をとげ、宇津木村の八郎大明神にまつられた。
富士山 / 富士市
むかし富士郡に子のない老夫婦があり、裏の竹林の中から現はれた幼い女の子を養子にして、かぐや姫と名づけた。姫が美しい娘に成長したころ、駿河の国司に見初められて求婚されたのだが、姫は、自分が富士山の仙女であり、老夫婦のもとでのつとめが終ったことを告げ、玉手箱を国司に与へて富士の頂に帰っていった。国司が玉手箱を開けると、中から富士の煙が漂ひ、その煙の中に姫の姿が見えた。国司は姫の幻を追って富士の頂上に登り、噴煙の中に再びかぐや姫の姿を見て、火口に身を投げたといふ。
○ 山も富士煙も富士の煙にて 煙るものとは誰も知らじな (神道集)
別の話では、帝が行幸されたとき、美しい姫を見初められて一泊され、あらためて后に迎へようと都へ戻られた。ところが姫は、時が来たといひ、形見に不死の薬を残して、天の飛車に乗って天上へ帰って行った。不死の薬は帝に届けられたが、帝は、思ひ出すのも悲しいことだと受け取らず、使者は富士山の頂上で不死の薬を焼いた。その煙は絶えることはなかったといふ。
富士山の神は、普通は、木花開耶姫このはなのさくやひめといひ、浅間神社にまつられる。(版画・田中義一)
○ 富士の嶺は開ひらける花のならひにて なほ時知らぬ山ざくらかな 続後撰集
○ 駿河路や花橘も茶の匂ひ 芭蕉
○ 物干しに富士や拝まん北斎忌 永井荷風
源平のころ、鳥の羽音に驚いた富士川の合戦の以降、平氏は衰へていったといふ。
○ 富士川の瀬々の岩越す水よりも 早くも落つる伊勢平氏かな
足柄峠 / 駿東郡小山町
駿東郡小山町、国鉄(JR)足柄駅付近に竹之下の宿場があった。
○ 足柄の山の嵐の跡とめて 花の雪ふむ竹の下道 風雅集
ここから東の足柄峠を越えて相模国へ入る道が、古代の東海道である。むかし美濃国青墓あをはかの遊女が足柄峠を越えようとしたとき、何かはばかるものがあったらしく、山神が翁の姿で現はれて越えるための歌を教へてくれたといふ。その歌が、竹之下宿の遊女たちに伝へられて来た。
○ 秋ならばいかに木の葉の乱れまし あらしぞ落つるあしがらの山
三保の松原 / 清水市
清水市の三保の松原、その西の有度山の南の有度浜あたりに、むかし神女が天から降りて舞ひ遊びをしたといふ。羽衣伝説としては最も有名な地である。
○ 有度浜うどはまに天の羽衣むかし着て 振りけむ袖や今日のはふりこ 能因
○ 清見潟きよみがた磯山もとは暮れそめて 入り日のこれる三保の松原 藤原冬隆
清見潟とは今の清水港をいふ。
静岡市の久能山くのうさん東照宮に伝はる歌。
○ 人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな 徳川家康
草薙の剣
清水市宮切の久佐奈岐くさなぎ神社は、日本武尊をまつる。四体の神像があり、吉備武彦命、大伴武日連、七掬脛、弟橘姫をかたどったものとされるが、この四人は尊の東征に従った者たち(日本書紀)である。日本武尊は、久能山の北の草薙の地で賊の火攻めにあひ、剣で草をなぎはらって難をのがれたといふ。火を焼かれた地は少し離れた焼津だったともいふ。
○ 焼津辺にわが行きしかば駿河なる 安部の市路に逢ひし子らはも 春日蔵老
諸歌
○ 登呂をとめ安倍をのこらが歌垣の 歌声に交じる遠つ潮騒 佐々木信綱
○ 価あたひ無き珠たまをいだきて知らざりし たとひおぼゆる日の本の人 三矢重松
宇津山 宇津ノ谷峠
宇津山は、安倍郡と志太郡の堺(今の静岡市と岡部町の堺)にある峠である。伊勢物語の主人公が東下りにここを通ると、道は暗く細く、蔦や楓が繁り、歩く身は心細く、思ひがけないことに出会ひさうだと思ってゐたら、旅の修行僧に出会ったので、京への歌を託した。
○ 駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり 伊勢物語
以来、京の人にも知られた土地となったが、正応二年(1289)にここを通った「とはずがたり」の筆者は、蔦も楓も見ることなく歌を詠んだといふ。
○ 言の葉も繁しと聞きし蔦はいづら 夢にだに見ず宇津の山越え 後深草院二条
西行の笠懸松 / 志太郡岡部町
武士だった西行が出家をして、東国の旅に出たとき、家来の西住も伴として従った。だが西住は、旅の途中、志太郡岡部で病死した。西住を葬った塚の傍らの松に掛けた笠には、西行の歌が記してあったといふ。
○ 西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して 西行
小夜の中山 夜泣き石 / 榛原郡金谷町
東海道の日坂にっさか峠(掛川市)から東、榛原郡金谷町へ出る坂道を、小夜の中山といふ。
○ 甲斐が根をさやにも見しかけがれなく 横ほりふせるさやの中山 古今集
南北朝のころ、ここで小夜姫といふ身重の女が、山賊に殺された。山賊は北条氏の残党だともいふ。小夜姫は息を引き取ったが、生まれた子は石の上で夜泣きしてゐたところを、近くの里人に発見された。里人に養育された子は、十三の年に出家したが、「命なりけり、さやの中山」と口ずさみながら諸国をめぐり、池田の宿で、母の仇討を遂げたといふ。
○ 年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山 西行
その石は、夜啼き石と呼ばれ、久遠寺境内、または東海道沿ひにある石をいふ。近くの夜泣き松は、樹皮が子供の夜泣きに効き目があるといふ。
桜井王 / 磐田市中泉 府八幡宮
天武天皇の曽孫・桜井王が遠江国司として赴任した時、国府内にまつられたのが、府八幡宮(磐田市中泉)の始りであるといふ。万葉集に、桜井王が遠江国から聖武天皇に贈った歌があり、何かの了解を求めて請願したときの歌のやうである。
○ 長月ながつきのその初雁はつかりの使にも 思ふ心は聞こえ来ぬかも 桜井王
聖武天皇は、遠州灘の長浜の地名を歌に詠んで、すべて任せたと答へてゐる。
○ 大の浦その長浜に寄する波 ゆたけく君を思ふこの頃 聖武天皇
池田の熊野 / 磐田郡豊田町池田
源平時代に、池田宿の長者の娘・熊野ゆやは、京に召されて平宗盛(清盛の子)に仕へてゐた。ある年の花見のとき、故郷から老母の重病を知らされ、暇乞ひに歌を詠んだ(謡曲熊野)。
○ いかにせん都の春も惜しけれど 馴れしあづまの花や散るらん 熊野
源頼朝の弟の範頼は、池田宿の遊女を母として、蒲御厨に生まれたことから、蒲かばの冠者かんじゃといはれた。義経とともに平家を倒した功績はあったが、最後は伊豆修善寺で頼朝に殺された。
池田は、もとは天竜川の西岸にあったらしく、川の流域が変って東になったやうだ。
○ そのかみの里は川瀬となりにけり ここに池田の同じ名なれど
秋葉山
○ あなたふと秋葉の山にまし坐せる この日の本の火防ぎの神 伝元明天皇
井伊谷宮 / 引佐郡引佐町井伊谷
引佐郡は、南北朝のころ後醍醐天皇の皇子・宗良親王の東国での拠点の地であり、また終焉の地ともいふ。興国元年(1340)に井伊谷ゐのや城が落ちてから親王は信濃などへ移ったが、信濃から安倍城の狩野氏の娘への変らぬ思ひを送った歌がある。
○ 富士の嶺の煙を見ても君問へよ 浅間の岳はいかが燃ゆると 宗良親王
引佐町に親王をまつる井伊谷宮があり、墓廟には龍潭寺が建てられた。
春日明神と野狐 / 浜松市白羽町 白羽神社
天文のころ、馬込川の河口に、白い鹿に乗った貴い神が現はれた。その夜、上流の白羽の里では、里人全員が同じ夢をみて、白鹿に乗った春日の神のお告げを聞いた。その鹿は口に麦の穂をくはへてゐたといふ。神のお告げにより、里人たちは、里の南の荒涼の地を開墾し、春日明神をまつった。これがのちの白羽神社(浜松市白羽町)である。
それからまもなく、開墾のために住むところを失った野狐たちが領主のもとへ訴へ出た。領主は、駿河国の富士の裾野の良い土地を教へたので、野狐は歌を残して移住して行ったといふ。
○ 住み慣れし里を離れて野狐の 旅もするがの富士の裾野へ
村の耕地の中には狐塚が残ってゐる。
橋本の宿、浜名湖 / 浜名郡新居町
奥州を平定し、建久元年(1190)に京へ上る源頼朝の一行は、各地で歓迎を受け、浜名湖の南の橋本の宿でも遊女たちの大変なもてなしがあったので、頼朝は機嫌よく歌を口ずさんだ。
○ 橋本の君に何をか渡すべき 源頼朝
臣下の梶原景時が、たはむれに下の句を付けた。
○ ただ杣山のくれであらばや 梶原景時
実際は織物などの豪華な引き出物を遊女たちに与へた。頼朝は京で権大納言、右近衛大将に任ぜられ、建久三年には征夷大将軍に任ぜられた。
浜名湖はもと淡水湖で、遠江(遠つ淡海)の国名にもなったほどだが、湖から南の海へ通じた浜名川といふ短い川に架る橋のそばに橋本宿があった。明応七年(1498)の大地震以来、地殻変動によって海水が入りこみ、橋本宿も水没したので、宿場は新居宿へ移った。
 

 

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駿河
○ 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
○ 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
○ けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき戀をするがへぞ行く
○ 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
○ いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
駿河の國久能の山寺にて、月を見てよみける
○ 涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て
○ 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
「清見潟」駿河の歌枕。静岡県駿東郡清水町。清水港から駿河湾沿いに東にある地名。清見寺が現存。
「三保が崎」駿河の歌枕。駿河湾に突き出た景勝地。三保の松原の羽衣伝説がある。 「あひの中山」不明。伊勢、相模にもあるといいます。 「富士」駿河の歌枕。富士山のこと。静岡県と山梨県にまたがる日本最高峰。
(注) 
○ 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
この歌については西行作ではなかろうと思います。誤まって山家集に入ったものでしょう。続拾遺集311番に登蓮法師の詠歌としてあります。玄玉集、歌仙落書でも登蓮法師の作としているようです。登蓮法師の歌は以下です。
○ 清見潟月すむ夜半のむら雲は富士の高嶺の煙なりけり (登蓮法師 続拾遺集)
「玄玉集」撰者不詳。1192.3年頃の成立。現存部分の歌数733首。九条家、御子左家の歌人が多い。
「歌仙落書」1170年代に成立した歌論書。編著者不明。俊恵、俊成、登蓮、隆信、清輔、寂然、小侍従など20人を選んでの同時代人による秀歌などの評釈書。
遠江 / 浜名湖のこと。転じて国名。現在の静岡県西部に当たる。
あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたりける、思ひ出でられて
○ 年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
「さやの中山」静岡県掛川市にある。「さよの中山」ではなく「さやの中山」と呼ぶのが正しい。ただし「さよの中山」でも誤りではない。東海道の難所。遠江の歌枕。
富士山の伝説
富士ノ山ニハ雪ノフ(降)リツモ(積)リテアルガ、六月十五日(みなつきのもちのひ)ニソノ雪ノキ(消)エテ、子(ね)ノ時ヨリシモ(後)ニハ又フ(降)リカハ(替)ルト、駿河國風土記(するがのくにのふどき)ニミ(見)エタリト云ヘリ。(萬葉集註釋卷第三)
富士山に関する伝承ですが、何故に六月十五日なのかよくわかりません。
『荊楚歳時記』旧暦六月条では非常に暑いことが繰り返し書かれていますが、特に15日に何かあるわけではありません。旧暦六月中には二十四節季の大暑もありますから確かに一番暑い時ではありますが。
『常陸国風土記』福慈・筑波の伝承。来訪神歓待伝承ですが、富士山が雪に覆われることになった由来についてといています。これはそのうち取り上げることになるでしょうから、今回は省略。
『竹取物語』かぐや姫昇天に当って、姫は不老不死の泉を入れた壺を天子に残していきますが、天子はそれを富士山頂で焼いてしまいます。その煙が今も立ち上っている。不死=富士という地名起源伝承です。
『富士山』。能楽の曲名。もろこしの昭明王が富士山にやってくる。かつて方士が不老不死の薬を探しに来たことがありその故地を訪ねるためだった。麓で海女に会い、いろいろな物語を聞いた。
・ 鶯の卵から生まれた少女が帝の皇女となって、後に昇天した。形見の鏡と不死の薬を焼いたのでその煙が今も上がっている。
・ 富士山の時知らぬ雪。
・ 富士山は天竺から飛んできた。
・ 愛鷹山と富士山で金剛・胎蔵両界を表している。
海女は一度消えて、次には浅間菩薩とかぐや姫を連れて現れて、不老不死の薬を残していった。
山の背比べ。足高山、八ヶ岳と背比べをしたという伝承がある。
『辞典』に載っているのは上の四つぐらいですが、もちろん他にもいろいろありそうです。『万葉集』の富士関係歌謡も幾つかあります。
上記四つのうちで興味深いのは、やはり能楽『富士山』。鶯の卵から生まれた少女の話というのははじめて聞きました。日本では卵生型出生譚は少ないので覚えておきましょう。またこの鶯少女が不死の薬と富士の煙に結び付けられているのも興味深い。ラストでかぐや姫が出てきる手いるので、作者も竹取を忘れていたわけはないと思いますが。
富士山と不死の関係については、「時知らぬ雪」とも関係があるかもしれません。「時を知らない」ことは日本では不死性と結びつくのかもしれません。「トキジクノカグノコノミ」という名称もまたしかり。
後代の伝承で『竹取』の影響力が強いということはわかりましたが、それでは『常陸風』との整合性が取れないような気もします。むしろ『常陸』の書き方では「死の山」というイメージになってしまいます。
まあ薬は焼いてしまうわけですから、「失われた不老不死」の伝承でもあり、その意味では富士山の荒涼とした山容はどちらの伝承にも通じるのかもしれません。一方、その「死/不死」の裏表一体的な感覚は日本海側の八百比丘尼伝承に通じるところもある気がします。 
田子の由来
するが(駿河)の國の風土記に云(イハク)、廬原(イホハラノ)郡不來見(こぬみ)の濱に妻をお(置)きてかよ(通)ふ神有(アリ)。其神つね(常)に岩木(いはき)の山より越(コエ)て來るに、かの山にあら(荒)ぶる神の道さま(妨)たぐる神有(アリ)て、さへぎ(遮)りて不通(トホサズ)。件(クダン)の神あ(在)らざる間をうかが(伺)ひてかよ(通)ふ。かるがゆゑ(故)に來ることかた(難)し。女神は男神を待(マツ)とて岩木(いはき)の山の此方(コナタ)にいた(到)りて、よる++(夜々)待(マツ)に、待得(マチウ)ることなければ、男神の名をよ(呼)びてさけ(叫)ぶ。よりてそこ(其處)を名付(ナヅケ)て、てこの呼坂(ヨビサカ)とすと云々。(續歌林良材集上)
「てこ」という地名の起源伝承で、田子の浦ももとは「てこ=女の浦」だったという話。上記文章の後に歌が三首あるのですが、『万葉集』の歌のだそうです。
伝承内容としては交通を妨げる荒ぶる神の話。風土記にも幾つかあります。
播磨風
賀古郡舟引の原−通行する舟の半分を沈める。
揖保郡佐比の岡−通行する人の十人に五人を殺し、五人に三人を殺す。祭祀で和める。
神前郡生野−通行する人の半分を殺す。「死野」を「生野」に改める。
肥前風
基肆(き)郡姫社(こそ)の郷−半分が死ぬ。女神。祭祀者を指定する。
神埼郡−往来の人が多数殺される。天皇の巡幸があって被害がなくなる。
佐嘉郡−川上のあらぶる神が往来者の半分を殺すが祭祀によって和らぐ。
その他記紀にある弟橘媛入水伝承がある三浦半島沖の「走水の神」なども、上記の交通を妨げる荒ぶる神に含まれると思われます。位置的にも近いです。またもちろん古代文献以外でもこの手の伝承はあると思います。私が知っているのは飛鳥鬼の俎雪隠にまつわる伝承ぐらいですが。
これらの交通阻害をする荒ぶる神の伝承は基本的には祭祀起源伝承につながったのではないかと思います。播磨揖保郡・肥前姫社・佐嘉郡の伝承では祭祀によって社が作られたことを伝えています。交通阻害ではありませんが、近隣の村人に恐れられていた常陸風の立速日男命も山中に社を作って祭祀されたことで和んだとあります。
上記六例で祭祀に触れない播磨の二つは「舟を陸に挙げて引いた=舟引き」「応神天皇が名前が悪いとして死野から生野に変えた」という単純な地名起源です。
今回の駿河の伝承も祭祀起源に触れないものですが、そこに男女神の逢瀬を重ねている点で新しいような気もします。
しかし播磨揖保の荒ぶる女神の怒りの理由は男神に置いてけぼりを食らったことにあったりします。播磨揖保は男に袖にされた女神自身が交通妨害の荒ぶる神になったのに対して、駿河の場合は交通妨害の荒ぶる神によって男に会えない女神が嘆くということになっているのです。
ところでここに登場する「岩木山」はもちろん青森のそれではなく、「薩埵(さった)峠」と推定されています。
この「さった峠」、どうも日本海の「親不知」と並び称されるような交通の難所だったようです。山が海に突き出していて、波にさらわれないように駆け抜けたとか。また地質も脆弱で現在でも地滑り注意地区だとか。正確に言えば、海岸沿いの道を避けるために山に作った道の峠が「さった峠」ということなのかな?
しかし海に突き出している地形ですから、そこから富士山を望むことができるとかで、『東海道五十三次』「由比」にもその景色が画かれています。
上記の交通妨害をする神々の伝承が残る土地もやはり交通の難所だった可能性があります。
ただ実際に地図を見ると位置関係が良くわからない。男神は東から西へ通ってくるのでしょうか?だとすると田子の浦とこの伝承は関係がない、単に「東国では女性を『てこ』と呼び、田子の浦もそうだ」と言っているだけということになります。 
三保松原
案風土記 古老傳言 昔有神女 自天降來 曝羽衣於松枝 漁人拾得而見之 其輕軟不可言也 所謂六銖衣乎 織女機中物乎 神女乞之 漁人不與 神女欲上天 而無羽衣  於是 遂與漁人爲夫婦 蓋不得已也其後一旦 女取羽衣 乘雲而去 其漁人亦登仙云(本朝神社考五)
三保の松原の伝承。典型的な天人女房譚ですが、天女が単独であることや犬が登場しないことなど滋賀県余呉湖のそれとはやはり違っています。あと子供が生まれず、夫の漁師も仙人になってしまいます。
子供が生まれないので始祖伝承にならないのは当然ですが、よくよく見てみると地名起源伝承ですらないのです。単に三保の松原であったお話というだけで。
地名そのものよりも式内社御穂神社の縁起としての機能のほうが重要なのかもしれません。祭神は三穂津姫と三穂津彦(大国主)ということになっています。『日本書紀』一書では三穂津姫はタカミムスヒの娘であり、大物主と結婚することになっています。
記紀において、大国主或はその御子神たちは各地の姫神たちと結婚しますが、これは大国主を通じて各地の神々を天孫の配下におくといった意味合いがあるでしょう。一方で各地の神々、というか神社はそれを祭祀の起源に結びつけることで格の高さを誇ろうとする。そういう相互の依存関係は神婚譚以外にも反映されるところだと思います。
しかしそれぞれの地域には在地の伝承も存在するわけで、中央よりの伝承と在地伝承のどちらが重視されるようになるかは時と場合によると思われます。御穂神社の場合、天津神の娘と国津神の結婚が天女と漁師の結婚に重なる部分もある。
御穂神社には羽衣の切れ端が保存されているとも。また「天女の舞」というものが伝承されているそうです。
それにしても天人女房譚の伝わる地域は水辺が多い。山中の水辺もあれば海岸もある。
この神社は三穂津姫と結び付けられたこともあり、「御穂」という稲作と関係がありそうな名前になっていますが、考えてみると天女と農民が結婚したというのはあまりないようにも思います。奈具社伝承は農業的ですが。天人女房が農耕とかかわるというのもあまり一辺倒に考えない方がいいかもしれません。
むしろ天女と結婚する人間の男が狩猟民・漁労民・農耕民と多様でありえるというのが天人女房が世界各地に分布している大きな理由なのかもしれません。山の天女と海辺の天女、性格の違いを比較してみるのも一つの方法でしょう。 
万葉集 / 廬原
廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
廬原(いほはら)の 浄見(きよみ)[清見]の埼(さき)の みほ[三保]の浦(うら)の 寛(ゆた)けき見(み)つつ 物念(ものも)ひもなし
廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆったりとした景色を見ていると 何の物思いもない)(胸の中の思いはすべて消えてしまってはればれとした気持になった

題詞に「田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作歌二首」とある。訓み下すと「田口益人大夫(たぐちのますひとのまへつきみ)、上野國司(かみつけのくにのつかさ)に任(ま)けらえし時、駿河(するが)の浄見埼(きよみさき)に至りて作る歌二首」ということで、本歌と次の297番歌は、作者「田口益人」が「上野國司」に赴任時に「駿河浄見埼」まで来て作った歌であることが分かる。「田口益人」は、『続日本紀』によると、慶雲元年(704)正月に従五位下を授けられ、和銅元年(708)三月二従五位上で、上野守に任ぜられている。和銅二年十一月には右兵衛率に任ぜられているので、上野守としては僅か二年に満たぬ在任であった。霊亀元年(715)四月には正五位上になっている。上野守に任ぜらた時は従五位上であったから大夫と記したもの。「上野(かみつけの)」は、「東山道の一国。現在の群馬県にあたる。北は岩代・越後、西は信濃、南は武蔵、東は下野に接する。大化改新後、毛野(けの)国が上・下に二分し、上毛野国と下毛野国となった。古代は東国経営の拠点となり、戦国時代は北条・上杉・武田氏の抗争の場となる。江戸時代は幕府領と小藩に分立。廃藩置県後九県に分かれ、明治九年(一八七六)群馬県となる。上州。上毛。」(『日本国語大辞典』より)。「國司」は、令制の地方官で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官の総称だが、狭義の用法では、守だけを指す。「駿河浄見埼」は、現在の静岡県静岡市清水区興津清見寺町(清見寺がある)あたりの海岸の突出したところを浄見の埼と言ったものと思われる。
「廬原」は『和名抄』の郡名に「伊保波良」の注があり、「いほはら」と訓む。現在の静岡市清水区廬原(いはら)町。「見穂之浦乃」は「みほ[三保]の浦(うら)の」、現在の静岡市清水区三保。「三保」は、清水港の入り海の出先で、清見崎とは南北相対している。 
オホナムチと温泉
准后親房記 引伊豆國風土記曰 稽温泉 玄古 天孫未降也 大己貴與少彦名 我秋津洲 憫民夭折 始制禁藥湯泉之術 伊津神湯 又其數而箱根之元湯是也 走湯者不然  人皇四十四代養老年中開基 非尋常出湯 一晝夕二度 山岸窟中 火焔隆發 而出温泉 甚燐烈 鈍沸湯 以樋盛湯 船 浸身者諸病悉治(同右第三)
オホナムチ・スクナヒコナが民の為に薬の製法と温泉を教えたという話で、箱根元湯はその一つ。でも走り湯はそうではなくて元正天皇の養老年間に始まったという。オホナムチスクナヒコナと温泉については伊予国にもありました。
しかし実は前半部よりも後半部のほうが気になります。養老年間です。『続日本紀』によると元正天皇は美濃国へ御幸し、そこで洗うと皮膚が滑らかになり、白髪が黒髪に、禿頭に毛が生えるという霊泉を発見します。そして霊亀三年を改めて養老元年とした。そういう曰くのある年号なのです。また同記事には後漢光武帝の故事が引かれています。さらに『古今著聞集』『十訓抄』・謡曲などにおいては酒の泉としています。酒の泉については『播磨風土記』にも記載があるとか。
ともかく養老というのは霊泉の発見と関わりの深い年代なのです。この上記伝承は伊豆の温泉をそれにかこつけたものだと考えることが出来るかもしれません。ちなみに養老年間は717年から724年。三世一身法とかの時代です。
さらに後半部の走り湯を樋で引くというのは伊予国の伝承と良く似ています。あちらは大分から温泉をひいてきたわけですが。もちろん温泉を他の場所で使ったり、温度を調節したりするために普通に行われていたと思いますから特別こだわる必要は無いかもしれません。
その他の温泉伝承。『辞典』では「鹿の湯」「鶴の湯」二項目が温泉発見伝承をまとめています。鹿・猪・亀・天狗・鶴・雁・鷺・鴻・鳩・鷲。動物の導きによる温泉の発見伝承です。 
秋葉山本宮秋葉神社 / 静岡県浜松市天竜区春野町領家
火防せの神として名高い秋葉神社の総本社である。現在では火之迦具土を主祭神とする秋葉神社上社が秋葉山山頂付近にあって尊崇を集めているが、明治の神仏分離より前は山頂には秋葉寺もあり、神仏習合の霊域であった。また主祭神も「秋葉三尺坊大権現」であった。
この秋葉大権現である三尺坊は実在の人物とされており、宝亀9年(778年)に信濃にて母親が観音菩薩に念じて生まれ、越後の栃尾にある蔵王権現の三尺坊で修行を重ね、ついには迦楼羅天を感得して飛行神通自在となって秋葉山へ飛来したといわれている。その姿は飯綱権現(頭は迦楼羅天、身体や持ち物は不動明王、そして白狐に乗っている)と同じであり、天狗として祀られている。また観音菩薩の化身であるともされる。
秋葉信仰が盛んとなったのは、貞享2年(1685年)に始まった「秋葉祭り」が発端であったとされる。一種の流行り神であり、秋葉の神輿を村送りの形式で巡航させるのが流行となった。その頃から火防せの神として東海地方を中心に信仰を集め、江戸などでも秋葉講と呼ばれる講を設けて秋葉山へ詣でることが大流行したのである。
明治の神仏分離政策によって、秋葉神社と秋葉寺は切り離され、神仏習合の象徴であった秋葉大権現は主祭神の地位から下ろされた。また秋葉寺は無住のために廃寺(後に再建、ただし秋葉大権現ゆかりのものは本山である可睡斎に移されている)となり、大きく様変わりした。
現在、秋葉山本宮秋葉神社は、山頂にある上社と、山の南東側麓にある下社の2社によって成り立っている。
火之迦具土 / 伊弉諾尊と伊弉冉尊の神産みで誕生した、記紀神話における火の神。伊弉冉尊の陰部を焼いて瀕死の重傷を負わせたために、伊弉諾尊によって首を刎ねられたとされる。
石室神社(いろうじんじゃ/いしむろじんじゃ) / 静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎
伊豆半島の先端にある石廊崎。その石廊崎灯台よりさらに先端に位置するのが石室神社である。祭神は伊波例命(イワレノミコト)であり、役行者が勧請したとされている。神社そのものは、さらにそれ以前、弓月君の子孫である秦氏がこの地に建立したものであるという説もある。位置的な関係から海上安全の神として信仰を集めている。
石室神社には(伊豆七不思議)の一つとされる「千石船の帆柱」がある。岩壁に食い込むように建てられた社殿の基礎として建物を支える柱であるが、この帆柱がここにある由来が伝承されている。
播州(兵庫県)浜田港から塩を積んだ千石船が江戸に向かって航行していた。石廊崎は暗礁も多く、強風が吹き付ける海の難所である。船が差し掛かった時、運悪く嵐となり、もはや転覆するしかない状況となった。船主は陸地にある石室神社に手を合わせ、江戸に無事到着したあかつきに船の帆柱を奉納すると一心に祈った。すると嵐は収まり、船はそのまま無事に江戸にたどり着いたのである。そしてその帰り道、再び石廊崎に差し掛かった船は突然動かなくなり、追い打ちを掛けるようにいきなり暴風雨となった。往路の際の願い事を思い出した船主は、嵐の中、自ら斧を振るい帆柱を切り倒した。すると帆柱は波によって陸へ流され、神社の前に奉納されたかのように打ち上げられたのである。同時に暴風雨も収まり、船はそのまま櫓を漕いで播州まで戻ることが出来たという。
石室神社からさらに先端に、熊野神社がある。この神社は縁結びの効験があるとされるが、これにも不思議な伝説がある。
石廊崎の名主の娘・お静は漁師の幸吉と恋仲となるが、身分違いのために引き離され、幸吉は石廊崎から10キロ近く離れた神子元島に流されてしまった。しかしお静は石廊崎の先端で火を焚き、幸吉も島で火を焚き、お互いの無事を確かめ合っていた。ある夜、島からの火が見えないため、お静は心配のあまり大風の中を島へ向かって小舟をこぎだした。しかし大波に行く手を遮られ、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって、神子元島で二人は再会し結ばれた。それを知った親は二人の仲を認め、その後末永く幸せに暮らしたという。お静が火を焚いたとする場所に祀られたのが、熊野神社である。
役行者 / 634?-701?。修験道の開祖とされる。699年に「人を言葉で惑わせている」との讒言によって伊豆大島に流される。この時も神通力によって各地を訪れ、石廊崎へもその際に訪れたこととなっている。なお、石廊崎の駐車場には役行者の銅像が置かれている。
伊豆七不思議 / 大瀬の神池・函南のこだま石・堂ヶ島のゆるぎ橋・手石の阿弥陀如来・河津の酒精進鳥精進・独鈷の湯・石廊崎権現(石室神社)の帆柱。
大神山八幡宮 座頭宮(おおかみやまはちまんぐう) / 静岡県湖西市大知波
大神山八幡宮の境内にはいくつかの祠があるが、その中の1つに祀られているのが座頭宮(ざとうのみや)である。この宮には1つの言い伝えがある。
このあたりには豊川稲荷へ行くための豊川道という街道があり、大知波には峠があった。ある時、その峠を越えるために二人の盲目の姉妹が通りがかった。まだ年端もいかない娘であったが、琵琶の免状を貰うためにはるばる東国からやって来たのだった。峠に至る道に迷ったので、近くで働いていた農夫に行き道を尋ねた。ところが、その農夫はつい悪戯心で、峠へ行く道とは別の方角を教えたのであった。間違った道とは知らず、娘達は礼を言って、その道を歩いて行った。
数日後の大雨の後、崖の下で二面の琵琶が見つかった。村人は旅路を急ぐ盲目の姉妹のことを思い出した。おそらく道を間違えて崖から滑り落ちてしまったのだろうということで片付けられた。しかし、その出来事があってから、件の農夫の家には不幸が次々と襲った。特に顕著だったのが、生まれてくる子供が不具の子、しかもほとんどが目の見えない子供ばかりだったのである。
ようやく不幸の原因が、出来心で間違った道を教えたために命を失った姉妹の祟りであると悟った家の者は、大慌てで祠を建てて祀ったのである。それが座頭宮の始まりであるという。座頭宮は、市杵島姫命(弁財天)と共に同じ祠に祀られており、今でもこの農夫の子孫によって守り継がれているという。
河津三郎血塚(かわづさぶろうちづか) / 静岡県伊東市八幡野
閑静な住宅地の外れに血塚の入口がある。車止めの先は石畳の道、そして両脇にはよく手入れされた林が続く。元々この道は伊豆半島の東海岸を通って下田へ至る主要な街道であった「東浦路」の一部であり、近年自治体が整備して遊歩道としたものである。この石畳の道の奥にあるのが、河津三郎の血塚である。
河津三郎祐泰は伊東祐親の嫡男で、河津荘を領有していたために「河津」を名乗っていた。この当時、伊東祐親は伊東荘の所有権を巡る問題で恨みを買っていた。相手は義理の甥にあたる工藤祐経。祐親は祐経の所領であった伊東荘を奪い取り、さらに祐経の妻となった自分の娘を強引に他家に嫁に出すという暴挙に出たためである。ただ祐親からすれば、伊東荘は元来父親の所領であり、父の死後に祖父が後妻の連れ子が産んだ子を嫡男に据えて伊東荘を与え、嫡孫である自分を次男として養子に迎えたこと自体が理不尽な仕打ちであったわけであり、その後妻の子の息子から伊東荘を取り戻しただけという認識だったとされる。
だが遺恨を持つ工藤祐経の思いは変わりなく、復讐のために暗殺を企てたのである。安元2年(1176年)、伊豆に流された源頼朝の無聊を慰めるべく狩りがおこなわれた。その帰り道で待ち伏せたのは、祐経の配下の大見小藤太成家と八幡三郎行氏の二人。共に弓の名手で、街道を行く祐親父子を遠矢で射殺そうとしたのである。街道を眼下に見おろす椎の木三本に身を潜ませて、何名かの武将が通るのをやり過ごすと、先に馬に乗って現れたのは河津三郎。目の前を通り過ぎるのを待って八幡三郎が放った矢は、鞍の後ろをかすめて河津三郎の腰を貫いた。剛の者である三郎は応戦しようとするが、力尽きて落馬する。
続いてやって来た伊東祐親を狙った大見小藤太の矢はわずかにそれて失敗。他の武将も異変に気付いたために、二の矢を放つことなく二人の刺客は退散した。祐親は落馬した息子を抱きかかえるが、既に三郎は虫の息であった。三郎は最期の力を振り絞り、自分を射た者が八幡・大見の両名であり、工藤祐経の企みであろうと告げた。そして言葉を継いで、残される子供を案じつつ息絶えたのである。
父を殺された遺児は、その後母親の再婚のために川津の家を離れたが、決して復讐を諦めてはいなかった。父の死から17年後の建久4年(1193年)、兄弟は富士の巻狩の場で工藤祐経を討ち果たしたのである。これが日本三大仇討ちの一つとされる曾我兄弟の仇討ちである。
河津三郎の血塚は、曾我兄弟の仇討ち発端の地として知られ、多くの文人墨客が訪れたとされる。塚が建てられた時期は不明であるが、塚の頂上に置かれた宝篋印塔は南北朝時代の特徴を持つとされており、おそらくその時代に伊東氏の一族の者が塚を造ったのではないかと推測される。
河津三郎祐泰 / 1146?-1176。伊東祐親の嫡男。父より河津荘を受け継いだため、河津の姓を名乗る。工藤祐経の命により暗殺される。後に子の曾我十郎祐成と曾我五郎時致が仇を討つ(祐泰の妻が曾我祐信に再嫁したため曾我姓を名乗る)。ちなみに相撲の決まり手の1つである「河津掛け」は、祐泰考案の技であることからその名が付いたとされる説がある。
伊東祐親 / ?-1182。伊豆の豪族、東国における平家方の武将として平清盛の信頼を得る。源頼朝が伊豆に流罪になった際の監視役に任ぜられる。頼朝挙兵後も一貫して平家方に味方し、富士川の合戦の後に捕らえられる。一旦は助命されるが、それを潔しとせず自害する。
工藤祐経 / ?-1193。源頼朝挙兵の初期より臣従し、頼朝の寵臣となる。『吾妻鏡』によると、捕らわれた平重衡を慰める宴席で鼓を打って今様を謡ったり、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際にも鼓を打つなど、歌舞音曲に通じているが、武将としての戦功はあまりなかったとされる。建久4年の富士の巻狩りの最終日に、遊女と寝ていたところを曾我兄弟に襲われて討ち取られる。嫡男の祐時は伊東姓を名乗り、日向伊東氏をはじめとして、全国各地の伊東氏の祖となっている。
日本三大仇討ち / 曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻で荒木又右衛門が助太刀したことで有名)、赤穂浪士の討ち入りを指す。
桜ヶ池(さくらがいけ) / 静岡県御前崎市佐倉
面積約2万uの堰止め湖である。三方を鬱蒼とした林に囲まれた様子はかなり神秘的である。
池のほとりには池宮神社がある。祭神は瀬織津姫であり、敏達天皇13年(584年)にこの池に現れたため神社が創建されたされる。この神社の行事としておこなわれるのが「おひつ納め」である。これは祭神の一柱である皇円阿闍梨にまつわるものであり、遠州七不思議として数えられる。
皇円阿闍梨は天台宗の高僧であり、浄土宗の開祖・法然の師匠として知られる。皇円は、釈迦入滅より56億7千万年後に弥勒菩薩が衆生を救う時まで、菩薩行をおこなって衆生を救いたいという願いを立てる。そのために人よりも遙かに寿命の長い龍に化身することを欲し、この桜ヶ池に入水寂滅するのである。
数年後、弟子の法然は師を偲んでこの地を訪れた。そして桧のお櫃に赤飯を詰めたものを池の中心まで運んで投げ入れた。それ以降、法然の弟子の親鸞や熊谷蓮生房などが継承して今に伝わる奇祭となった。現在でも9月23日におこなわれ、直径40cmの桧のお櫃に4升5合の赤飯を詰めて池に投じられる。おひつ納めの神事は約2時間、100個前後のお櫃が沈められるとのことである。
この奇祭の不思議なところは、沈められたお櫃が数日後には空になって必ず浮き上がってくることである(浮き上がってきたお櫃は奉納した人に下げ渡されるとのこと)。さらにこの池は底なしであり、諏訪湖に繋がっているという伝説がある。そのために、沈められたお櫃が諏訪湖に浮かび上がってきたことがかつてあったとも言い伝えられている。そして皇円が変じた龍は諏訪湖に訪れることがあり、7年に一度だけ出現するという池の平の幻の池が、龍が途中で休むために現れるのだとされている。
瀬織津姫 / 大祓詞に登場する神で祓戸四神とされ、災厄を払う神である。しかし記紀に登場しない神であり、謎の多い神である。一説では、天照大神の荒御魂(向津姫)ともされる。災厄を払う神であるため、川などの水辺に祀られることが多い。
皇円 / 1074?-1169。肥後の出身。比叡山で修行した名僧で、弟子三千人とも言われた。また日本仏教史の基礎資料として名高い『扶桑略記』を編纂している。
遠州七不思議 / 桜ヶ池の他に、小夜中山の夜泣き石、大興寺の子生まれ石、池の平の幻の池、遠州灘の波小僧、天龍の京丸牡丹、掛川の無間の鐘などがある。
十九首塚(じゅうくしょづか) / 静岡県掛川市十九首
平将門の伝承といえば関東がその中心であるが、それ以外の地にもいくつか残されている。掛川市内にもぽつんと伝承が残されている。
平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋するべく将門以下の主立った一族郎党の首級を持って西へ向かっていた。そしてちょうどこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使も到着。ここで持参した19名の首実検がおこなわれたのである。
ところが首実検が済むと、勅使はこれらの首を打ち棄てるように命ずる。京都に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京都に持ち込むことはならぬという理由であった。それに対して秀郷は「逆臣とはいえ、死者に鞭打つことは出来ない」と言って、この地に手厚く葬ったという。これが十九首塚であり、また首と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたという。そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を「掛川」と呼ぶようになったとの説もある。
19の首はそれぞれ塚に葬られたのであるが、現在は将門のものとされる塚だけが残されている。そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備されている。
十九首塚に祀られた者 / 相馬小太郎将門・御厨三郎将頼・大葦原四郎将平・大葦原五郎将為・大葦原六郎将武(以上一族) 鷲沼庄司光則・武藤五郎貞世・鷲沼太郎光武・堀江入道周金・御厨別当多治経明・御厨別当文屋好兼・隅田忠次直文・東三郎氏敦・隅田九郎将貞・藤原玄茂・藤原玄明・大須賀平内時茂・長橋七郎保時・坂上逐高(以上郎党)
波小僧・浪小僧(なみこぞう) / 静岡県御前崎市池新田(波小僧) 静岡県浜松市西区舞阪町(浪小僧)
遠州七不思議の1つと数えられる“遠州灘の波小僧”は、東は御前崎から西は伊良湖岬までの遠州灘一帯で起こる自然現象を指す。昔からこの一帯では、海鳴りによって天候を判断していた。西に音がすれば晴れ、東であれば雨、さらに東であれば嵐という具合である。この不思議な自然現象について、古くから「波小僧」という妖怪にまつわる言い伝えが残されている。
ある漁師が遠州灘で漁をしていると、網に奇妙な生き物が引っ掛かってきた。それは波小僧であった。漁師はこれを殺そうとしたが、波小僧は「命を助けてくれたならば、お礼に雨や嵐の時にお知らせします」と願い出た。漁師はそれを聞いて、海に帰してやった。それ以来、波小僧が海鳴りで天候を知らせるようになったのだという。
上のものは遠州灘に面する地域一帯に流布する波小僧の基本的な話であるが、中には、行基が農作業を手伝わせるために作った藁人形が波小僧の正体である(この説は河童の起源の一説と同じ内容)とか、海鳴りは波小僧が海底で太鼓を叩いて知らせている音とか、漁の網に引っ掛かったのではなくて陸に上がって遊んでいるうちに干上がってしまったところを助けられたとか、色々なバリエーションがある。いずれにせよ、海鳴りの正体は、海に住む妖怪の仕業ということになっている。
現在、御前崎市の浜岡砂丘の入り口近くに「波小僧」、浜松市舞阪町の旧東海道と国道1号線が交わる地点に「浪小僧」の像がある。漢字は違うが、どちらも同じ妖怪を指しているのは間違いないだろう。
遠州七不思議 / 「七不思議」であるが、実際には10以上の不思議が紹介されている。波小僧の他には、小夜の中山夜泣き石、桜が池のおひつ納め、京丸牡丹、無間の鐘、三度栗、池の平の幻の池、霧吹き井戸、子生まれ石、能満寺のソテツ、片葉の葦、天狗の火、清明塚などが挙げられる。
猫塚・ねずみ塚(ねこづか・ねずみづか) / 静岡県御前崎市御前崎
その昔、御前崎に遍照院という寺があった。そこの住職がある時、難破した船の木片に取りすがって流れてきた子猫を助けて、寺で飼うことにした。
それから10年の月日が流れた頃、遍照院に旅の僧が宿を求めてきた。住職を快くその僧を迎え入れた。そして3日目の夜、突然本堂の屋根裏で何かが格闘する大きな物音がした。翌朝、おそるおそる屋根裏を覗いてみると、寺の飼い猫と隣家の猫が深手を負って倒れていた。さらにそのそばには、旅僧の衣服をまとった大鼠が死んでいたのである。旅の僧に化けて住職を喰い殺そうとした大鼠の企みに気付いた猫が、命を助けて貰った恩義に報いるために、大鼠を倒して住職の危難を救ったのである。
住職はこの2匹の猫を懇ろに葬り、そこに塚を建てた。これが現在でも残る猫塚である。
一方の殺された大鼠であるが、こちらは海に捨てることとなったが、運びきれずに海岸近くにうち捨てられてしまった。すると住職の夢枕に大鼠が現れ、改心して今後は海上の安全と大漁を約束すると伝えた。そこで住職は、大鼠のためにも塚を建ててやったのである。それがねずみ塚である。
人穴(ひとあな) / 静岡県富士宮市人穴
人穴は富士山の噴火によって作られた溶岩洞穴である。奥行きは約90m。古来より神聖な場所として信仰の対象となっていたようであり、江ノ島の岩屋洞窟とつながっているという伝説も残されている。
『吾妻鏡』によると、建仁3年(1203年)6月、源頼家は富士の裾野一帯で巻狩りをおこなった。その時、家臣の仁田四郎忠常に人穴探索を命じた。忠常は家来5人と共に人穴に入るが、蝙蝠が飛び交い蛇が足元を這うという状況。さらに千人の鬨の声のような大音声がしたかと思うと、ときおり人の泣く声が聞こえてくる。その奥に大河があって渡ることができず、川向こうに光が見えると、中に不思議な姿の人が現れた。たちまち家来4名が急死し、恐れおののいた忠常は頼家から授かった刀を川に投げ入れて立ち去った。そして翌日になって忠常はようやく人穴から出ることが出来た。土地の古老によると「この穴は浅間大菩薩が住み給う場所である」ということであった。
また、『御伽草子』にある『富士の人穴草子』は、上の仁田(新田)四郎の話をさらに拡張させ、人穴で出会った毒蛇に拝領の太刀を献上すると、本来の姿である浅間大菩薩に変化し、地獄から天道までの六道巡りに案内される内容となっている。
この富士山の神である浅間大神にまつわる地として古くからある人穴で修行を積んだのが、長谷川角行という行者である。この角行こそが江戸時代に隆盛を見た富士講の創始者であり、この事実によって人穴は富士信仰(富士講)にとっての一大聖地と位置づけられることとなる。そのため人穴周辺には信者による碑の建立が相次ぎ、現在でも230基の碑が建ち並び“人穴富士講遺跡”として保存されている。
現在、人穴は崩落の危険性があるために立入禁止となっている。またまことしやかな都市伝説として、県道に面した大鳥居は、入る時にはくぐらない、出る時にはくぐるようにしないと、事故に遭ったり霊に取り憑かれるという噂がある。
仁田四郎忠常 / 1167-1203。鎌倉時代初期の御家人。源頼朝挙兵の時より従い、頼朝の信任が厚かった。曽我兄弟の仇討ちの際には、曽我十郎を討ち取る功績を挙げる。また富士の巻狩りでは猪の背に跨って仕留めたという武勇を残す。人穴探索の直後、比企の乱では北条時政の命に従って比企能員(源頼家の舅)を謀殺するが、頼家が出した時政征討を受けながら曖昧な態度を示したために殺される。
長谷川角行 / 1541-1646。長崎の出身。18歳で行者となり、全国を巡る。役行者のお告げを聞いて富士信仰を志し、人穴内で角材を立てて爪先立ちとなる苦行を積む(角行の名はこれにちなむ)。その後も全国を巡り呪符などを配布する。後に角行の直系弟子によって富士講が爆発的に発展した際に、開祖として信仰の対象となった。
富士講 / 角行創始の富士信仰が、直系の弟子である村上光清(1682-1759)による北口本宮冨士浅間神社再興と、食行身禄(1671-1733)の富士山入定によって、江戸を中心に爆発的な支持を受け、組織化された講社。定期的な拝み行事と富士登山をおこなう。また江戸の各地に「富士塚」を築いて、信仰の対象とした。
佛現寺(ぶつげんじ) / 静岡県伊東市物見が丘
日蓮宗の霊跡寺院である。弘長元年(1261年)、日蓮は伊豆へ流罪となった。当時に難病に悩んでいた伊東の地頭・伊東八郎左衛門は、日蓮を伊東に招いて祈祷をおこなわせた。すると病気が平癒したため八郎左衛門は日蓮に帰依し、館のそばに建てた毘沙門堂に置いた。この毘沙門堂が佛現寺の前身であり、日蓮が赦免を受けて伊豆を去った後、惣堂と呼ばれ8つの寺院の輪番で護持されていたとされる。佛現寺として独立した寺院となったのは、明治に入ってからということになる。
この寺院には「天狗の詫び状」という巻物が保管されている。長さは1丈(約3m)、幅は1尺(約30cm)の巻物に約2900文字余りが書かれている。しかし、その文字は解読不能であり、一体何が書かれているかは判らない。ただ以下のような伝承が残されている。
万治元年(1658年)頃、東伊豆から中伊豆に抜ける柏峠に天狗が現れ、多くの旅人が難儀していた。その話を聞いた住職の日安上人はその天狗を懲らしめようと、単身柏峠に乗り込んでいった。怪力無双と言われた上人は天狗を見つけると、いきなり3尺もの長い鼻を両手で掴むと捻り倒したのである。驚いた天狗は老松に飛び移ると、一陣の風と共に逃げ去ってしまった。そして同時に上から落ちてきたのがこの巻物であるとされる(一説では、日安上人が峠へ行って7日間祈祷をし、満願の日に峠の松の巨木を切り倒すと、枝に巻物が引っかかってきたともされる)。何が書かれているかは判らないが、おそらく上人の怪力に恐れ入った天狗が、二度と悪さをしないと誓った内容がしたためられているのだろうということで「天狗の詫び証文」と呼ばれるようになったのである。
佛現寺には「天狗の髭」という、天狗にまつわる寺宝がもう1つある。これは佛現寺に縁のある人が寄進したもので、吉凶を占うことが出来るという。
ただ詫び証文も髭も一般には公開されていない。その代わり伊東の和菓子屋である玉屋で作られている「天狗詫状」という羊羹が売られており、その包み紙に「天狗の詫び証文」の写しとその由来が印刷されている(この羊羹は佛現寺でも手に入れることが出来る)。
小夜の夜泣石(さよのよなきいし) / 静岡県掛川市佐夜鹿
小夜の中山に住むお石という臨月の妊婦が菊川からの帰り、この丸石のあたりで腹痛に見舞われうずくまっていたところ、轟業右衛門という男が介抱したが金に目がくらみ、お石を斬り殺して金を奪って逃げた。その斬り口から子供が生まれ、お石の魂は丸石に取り憑き毎夜泣くために、この石は“夜泣石”と呼ばれるようになった。生まれた子供は音八と名付けられ、近所の久延寺の住職が飴を食べさせ育て、やがて大和の刀研ぎ師の弟子となった。ある時一人の侍が刀を研ぎにやってきた。立派な刀だが刃が少しこぼれている。音八が訳を聞くと、昔小夜の中山で女を一人斬ったという。この侍こそが轟業右衛門であり、音八は見事母親の仇を討ったという。
この伝承が全国に広まったのは、まさにこの石自体が東海道の真ん中にデンと置かれた曰く付きの石だった故である。歌川広重の『東海道五十三次』にも描かれているほどである。ところが、この石は明治以降は数奇な運命に翻弄されることになる。
明治天皇が東幸される際、畏れ多いということで街道から退かされ、ゆかりの久延寺へ移転。そして明治14年(1881年)にその人気から東京浅草で開催された「勧業博覧会」へ出品となったのだが、石が到着する前に浅草では張りぼての石の中に子供を入れて泣き声を出させる見せ物が大繁盛し、本物のは“泣かない”とのことで全く人気が出ず、そのまま静岡に返されることになる。焼津まで到着したが、ここで資金が底をついて雨晒しのまま。ようやく小夜まで運んだが、峠の上の寺まで運びきれずに結局現在の位置に半ば放置され、そのまま保存となってしまったという。
さらに話がややこしくなるのが、久延寺にも“夜泣石”が安置されている事実。しかし久延寺にあるのは本物があった場所近くから発見されたよく似た石であり、昭和30年代以降に安置されているものである。 
夜泣石の位置変遷 / 現在は国道1号線・小夜の中山トンネルの静岡市方面側にある「小泉屋」そばの高台にある。かつて置かれていた地点(旧東海道)には(夜泣き石跡)が残されていて、その変遷が確認できる。
久延寺 / 行基の開基とされる。徳川家康が遠江平定時に本陣としたのを契機に、ゆかりの寺院として栄える。本尊は、夜泣石伝承にちなんで「子育て観音」と呼ばれている。 
 
 
山梨県 / 甲斐

 

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甲斐が嶺に咲きにけらしな足引の 山梨岡の山なしの花 能因
酒折宮 / 甲府市酒折
日本武やまとたける尊の東征の帰途、箱根の碓氷の峠を越えて甲斐国に入り、酒折宮に留まって、土地の翁と片歌のやりとりをされた。
○ 新治筑波を過ぎて幾夜かねつる 日本武尊
○ かゞなべて夜には九夜日には十日を 御火焼翁
尊が旅立つとき、塩海足尼しほのみのすくねに袋に入った火打石を授けて甲斐国の将来を托された。この火打石は、尊が東国へ出発のときに伊勢神宮の倭姫やまとひめ命から賜はったものである。塩海足尼は、火打嚢を御神体に宮を建て、日本武尊を国の守護神としてまつった。その甲府市酒折の酒折宮は、もとは今より北の山の中幅にあったといふ。
○ 語りつぐ御歌とともに万代よろづよに つぎて栄えむ酒折の宮 本居宣長
大嶽山 / 東山梨郡三冨村上釜口 大嶽山那賀都神社
日本武尊が甲武信の国境の雁坂かりさか峠を越えようとしたとき、深い霧が立ち込めて進むことができなかった。尊が岩室に篭もって三神(大山祇神、大雷神、高おかみの神)に祈ると、進路を告げる神宣があった。尊は神に感謝を捧げ、岩室に剣を留め置いて三神を祀った。その地が、大嶽山那賀都神社の奥社であるといふ。天武天皇の御代の役えんの小角をづの以来、多くの僧が参篭した。天平七年には、行基が甲斐国を訪れ、大嶽山に参篭して観世音像を彫った。そのとき神の声が聞え、行基は恐れ畏んで歌を献った。この歌から大嶽山那賀都神社の名がついたといふ。
○ 赤の浦 那留都賀なるつが崎に那留なる神の 御稜威みいつや高く那賀都ながととは祈る
蹴裂明神
太古の甲府盆地は湖であったともいふ。二代綏靖天皇の御代に、向山むかうやま土本毘古ともびこ王が甲斐国を訪れ、左右口う ば ぐち山に住む左右弁羅さうべららの協力を得て、鰍沢かじかざはの南の山を足で蹴って切り開き、湖水を富士川に落して、広大な平地を得て国造りをしたといふ。のちに王の葬られた地にまつられたのが佐久さく大明神で、蹴裂大明神ともいひ、今の東八代郡中道町上向山の佐久神社のことである。
甲府盆地が湖だったといふのは、甲斐地方に広く伝はる伝説である。地蔵菩薩の発案で蹴裂明神らが切り開いたともいひ、甲府市の稲積神社では、四道将軍の一人武淳川別たけぬなかはわけ命が切り開いたとする。甲府市の穴切大神社では、大己貴命に祈願して、和銅年中に国司以下、多数の人々の力で土木工事をして切り開いたといふ。韮崎市旭町の穂見神社の伝説では、大洪水で甲府盆地が湖水と化したとき、鳳凰山に住む大唐仙人が、蹴裂明神と力をあはせて山を切り開いたとされ、この里の山代王子が新しい土地を開墾して米作りの道を教へたといふ。また蹴裂明神とは安曇あづみ氏の祖神の日金拆ひかなさく命で、治水の神だともいふ。
甲府盆地には水の神をまつる神社も多く、甲府市高畑の住吉神社に伝はる歌がある。
○ 有難や今日住吉の神ませば なほしも頼む代々の行末 武田太郎信義
笛吹権三郎 / 東山梨郡三富村芹沢
後醍醐天皇の御代のこと、甲斐国の芹沢という村の子酉ねとり川の川辺に、京から母と息子の二人連れが移り住んだ。子の名は藤原権三郎といひ、正中の変で連座して死んだ父の弔ひのため、毎日小屋で高麗笛を吹いた。美しい笛の音に聞き惚れた村人は、笛吹権三郎様と呼んで親しんだ。
ある秋、子酉川が大洪水にみまはれたとき、母は水に呑まれて行方不明となってしまった。それ以来権三郎の笛は、深い悲しみに満ちたものとなり、村人もあまり近づかなくなってしまった。そのうち権三郎の姿が見えないことに気づいた村人は、心配になって川下の集落を捜すと、筏に乗って笛を吹く男を見たといふ者があった。筏は発見されたが、権三郎を見つけることはできなかった。
この村ではそれ以来、月のよい晩には、どこからともなく笛の音が聞えたといふ。すると村人は握り飯を作って川に流し、権三郎の霊を慰めたといふ。以来、子酉川は笛吹川と呼ばれるやうになった。
○ 山あらし雪の白波吹き立てて ねとり流るる笛吹の川 夢窓国師
○ 峡川の笛吹川を越え来れば この高はらはみな葡萄なり 窪田空穂
天目山 / 大和村田野
武田勝頼は、長篠の戦の大敗北以後、劣勢に立たされてゐた。度重なる重臣の裏切にあひ、織田徳川の大軍の攻撃をうけて城を捨て、天目山の麓の田野を最後の場所と決めた。精鋭を選んで押し寄せる敵兵に向って最後の合戦を試み、田野に引き上げて生き残りの臣下とともに自害した。天正十年三月のことである。
○ 黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思ひに消ゆる露のたまの緒 相模(勝頼夫人)
○ 朧なる月のほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山の端武田勝頼
○ あだに見よ誰もあらしの桜花 咲きちるほどは春の夜の夢 武田信勝(勝頼嫡子)
武田家は新羅三郎義光(源義家の弟)を祖とする名門である。新羅三郎は笙の名手でもあり、後三年の役のときに死を覚悟し、足柄山で豊原時秋に秘曲を伝授したといふ。
甲斐の黒駒
甲斐盆地では古代から放牧が盛んで、甲斐の黒駒は名産として朝廷に献上された。御坂峠の北の御坂町上黒駒の周辺が特に盛んだったといふ。
○ ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば 命死なまし甲斐の栗駒 日本書紀
御坂峠の文学碑
○ 富士には月見草がよく似合ふ 太宰治
猿橋 / 大月市
大月市の桂川の岸壁に架る橋を猿橋といふ。難所の谷であったが、猿たちが手をつないで谷を渡る姿を見て、その形を摸して橋を架けたといふ。猿は近くの山王社に祀られる。
○ 名のみしてさけぶもきかぬ猿橋の 下にこたふる山川の声 道興
諸歌
○ 惜しからぬ命なれども今日までぞ つれなき甲斐の白根をも見つ 平家物語 維盛
身延山
○ うつぶさにさのみは人の寝られねば 月を身延に置きかへるらん 日蓮
一宮町 浅間神社
○ うつし植うる初瀬の花の白木綿(しらゆふ)を かけてぞ祈る神のまにまに 武田機山 
 

 

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甲斐 / 国名。甲斐の国。現在の山梨県。
○ 雨しのぐ身延の郷のかき柴に巣立はじむる鶯のこゑ
○ 君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは
「身延」山梨県南西部にある地名。山梨県南巨摩郡身延町。 
都留
かひ(甲斐)の國のつる(鶴)の郡に菊お(生)ひたる山あり。その山の谷より流るる水、菊を洗ふ。これによりて、その水を飮む人は、命(いのち)なが(長)くして、つる(鶴)のごとし。仍(ヨリ)て郡(コホリ)の名とせり。彼(カノ)國(ノ)風土記にみえたり。(和歌童蒙抄四)
この伝承、菊に触れた水を飲むと長寿になるという話ですが、この伝承実はそのまま中国の伝承にもあります。
日本でも室町時代の『塵添アイノウ抄』で重陽の節句の菊酒について元は「菊の露が落ちた川の水を飲んでいたら長寿になった」としています。この逸文の出典である『和歌童蒙抄』は十二世紀中頃の成立ですから、ちょっと早いですがこの頃既に「菊と長寿」に関する伝承が中国から日本に入っていたことは十分に考えられます。重陽=菊の節句は平安期には既に宮中儀礼として行われていたそうですから。
菊酒について日本の民間では蛇婿入り型の昔話で由来が説かれることがあります。しかしこれは359月の節句の習俗、桃酒・菖蒲湯・菊酒と置換可能、或いは全てに言及する事例もあるようで、蛇婿伝承と菊が直接的に関係があるということではないと思われます。
なぜ菊が長寿と結びつくか?この根幹部分を確認する必要があるでしょう。
まず菊は薬用でした。これは重要です。中国では菊花茶はよく飲まれています。初期の蚊取り線香に使われた除虫菊は地中海原産で明治に入って渡来したもののようですが、古代中国では菊の灰を使って小麦の虫除けに使ったという記述が『荊楚歳時記』にはあります。菊の灰に特に虫除けの効能があるのかどうかは不明ですが。
菊は天皇家の家紋ですが、これは鎌倉時代後鳥羽上皇が菊を好んだことから始まったそうです。菊の栽培サイクルは稲のそれとほぼ同じであると言うのです。これはなかなか興味深い指摘です。
しかし奈良時代では菊についての記述は非常に少ないようで、万葉集にも登場しないとか。私のPCに入っている文献では『日本書紀』黄泉国条に登場する菊理媛(くくりひめ)ぐらいでしょうか?ほとんど関係なさそうです。
日文研『故事類苑』に載る『本草和名』には数多くの菊の異名が記載されていますが、その中に「日精」とあるのが気になるところです。「月の精である」という記述もあるので単純ではありませんが。また同引用『伊呂波字類抄』では和名を「カワラヨモギ」としています。蓬も薬草ですし、「川原に生えている」ことが特徴として認識されていたとすれば、今回の伝承内容とも近いと言えそうです。『和漢三才図絵』には仁徳天皇のときに百済からもたらされたとも。
状況証拠的なものはいろいろと探れそうですが、どうもこれという決定打はなさそうです。放射状に広がる花びらの形から太陽を表すこともあるような気がするのですが、色に問題があるかもしれません。
鶴と長寿の関係については中国では『抱朴子』に既に記述があるようです。しかし亀と違って鶴の寿命は大したことないようなので、これも考察が必要な気はします。
長寿にまつわる伝承としては、日本海沿岸に伝わる人魚の肉の伝承など有名ですが、こちらは個人の長寿ではなく、長寿の村を語る伝承です。長寿の源泉たる異界として、日本ではやはり海のほうが顕著な気がしますが、山梨県に海はありません。中国的な神仙郷と共通性が高くなるのはある意味必然かもしれません。 
石船神社 / 山梨県笛吹市
創祀不詳なるも現存の板札によれば、正徳元年に社殿を建立したが焼失し、間もなく再建したもので、境内に欅の巨木あり、更に石灯篭に元禄酉年五月二三日の彫刻もあって本神社の古くより存立した事がわかる。山梨県社寺境内外区別帳並びに甲斐国志にも記載されてゐる。神殿下に船に似た石あり、社号の起こる所と伝へられる。 
石船神社 / 山梨県都留市
神殿に祭られている護良親王のものとされる御首級(ごしゅきゅう)が開帳される。祭礼当番の引き継ぎ式の一環で、毎年恒例。護良親王は後醍醐天皇の皇子で、政争のため1335(建武2)年に鎌倉で殺害されたとされる。御首級は、親王の寵愛(ちょうあい)を受けた雛鶴(ひなづる)姫が抱いて鎌倉街道を逃れ、同神社に奉安したと伝えられる。江戸初期に漆とおがくずで複顔術が施された日本最古級のものだという。 
身延山 / 山梨県南巨摩郡身延町・早川町
日蓮宗総本山の身延山久遠くおん寺は、山梨県南巨摩みなみこま郡身延町の西部、同郡早川はやかわ町との境にそびえる身延山(一一五三メートル)の南東麓に位置し、旅館や土産物屋が並ぶ身延町の中心市街は南東流する身延川の左岸沿いに形成される。この身延川は、身延山と南の鷹取たかとり>山に挟まれた谷を流れ下り、やがて富士川の支流波木井はきい川に注いでいる。
身延市街のはずれから北に向かう参道を進んで巨大な三門をくぐると、杉林の先に「高齢者や心臓の弱い者は、石段両側の男坂・女坂を利用すべし」と記された看板の立つ二八七段の石段がある。菩提梯ぼだいていといい、涅槃に達するとされる石段である。この急な石段を登りきったところに、本堂や祖師堂などが並ぶ久遠寺の壮大な伽藍が展開する。奥之院思親ししん閣のある身延山の山頂には、寺の裏から通じるロープウェーで七分ほど。晴れていれば富士山や南アルプスの雄大な山並みが開け、眼下には門前町身延の町並や富士川の清流を望むことができる。
日蓮が身延山に入ったのは、文永一一年(一二七四)のこととされる。文化一一年(一八一四)に成立した地誌『甲斐国志』は、ミノブの地名は古くは「蓑夫」と記したが、日蓮がこの地に来住して「身延」に改めたと記す。『西行法師家集』に「雨しのぐみのぶの郷のかき柴にすだちはじむる鶯のこゑ」の歌が載り、この詠歌を収録する『夫木和歌抄』は「みのぶのさと 甲斐」としており、日蓮来住以前にミノブの地名が存在したことは確かなことと思われる。ただし、その表記が「蓑夫」であったという確証はない。
文永一一年二月、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰った日蓮は、鎌倉幕府に自らの意見が受け容れられなかったため、甲斐国波木井郷(現身延町)の地頭波木井六郎実長(甲斐源氏の一流南部光行の子)の招きに応じ、五月一七日に波木井郷で実長に対面した。日蓮が身延の地に足跡を刻んだはじめである。翌六月一七日には身延山中に草庵が完成、身延での隠遁生活が始まった。
日蓮は身延から数多くの書状を弟子たちへ発している。そのうち身延入山の翌年、文永一二年のものと推定される二月一六日付の書状(日蓮聖人遺文、以下書状はすべて同遺文所収)に「身延の嶺と申大山あり、東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり、高き屏風を四ついたてたるかことし」とあるように、「身延の嶺」=身延山を自らの草庵の位置を示す北界の指標として表現している。ちなみにこの書状に「西は七面の嶺」とみえる七面しちめん山(一九八二・四メートル)には日蓮宗の守護神七面大明神(七面天女)が祀られる。現在、七面山の山域は身延町の西に接する早川町南部を占めているが、山頂の一帯だけは身延町の飛地となっている。
ところで、日蓮が身延での草庵生活を始めて六年後、弘安三年(一二八〇)正月二七日付の日蓮書状には「庵室を結て天雨を脱れ、木の皮をはきて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし」などと記されており、草庵での生活は相当厳しかったようである。なお前掲の二月一六日付書状には「峯に上てみれは、草木森森たり、谷に下てたつぬれは、大石連連たり、大狼の音山に充満し、猨猴のなき谷にひひき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひひきかまひすし」とも記されており、日蓮の隠遁生活は身延山の自然に抱かれたものであった。
最初の草庵は建治四年(一二七八)頃には老朽化し、「なをす事なくて、よるひをとほさねとも、月のひかりにて聖教をよみまいらせ」るというような有様であった(建治年間「日蓮書状」)。「庵室を結て天雨を脱れ……」と記される正月二七日付書状はその二年後ということになる。しかし、翌弘安四年に波木井実長とその一族によって一〇間四面の新坊が建立され、その新坊は身延山久遠寺と命名されたという。
弘安五年九月八日、日蓮は養生のため常陸国に向けて出立した。ところが、旅中の一〇月一三日に武蔵国池上いけがみ郷(現東京都大田区)の池上宗仲の館(現在の池上本門寺の地にあったと推測される)で六一歳の生涯を終えた。このとき日蓮は自らの死期を悟っていたようで、同月七日の書状に「縦いつくにて死候とも、九箇年の間心安く法華経を読誦し奉候山なれは、墓をは身延山に立させ給へ」と遺言している。身延山は日蓮晩年の聖地として、その心に強く刻み込まれていたのであろう。
本堂の西方、日蓮祖廟がある西谷にしだに境内の杉木立のなかに、石に囲まれた一画がある。日蓮の草庵跡(山梨県指定史跡)である。筆者が西谷を訪れたとき、狼はもちろんのこと、猿、鹿などの声も聞こえなかったが、日蓮が「蝉のひひきかまひすし」と記したように、あふれんばかりの蝉時雨が頭上から降り注いでいた。 
鳳凰山(ほうおうさん) / 山梨県
山梨県の西部、甲府盆地の西縁をさえぎるようにそびえる鳳凰山は南アルプス(赤石あかいし山脈)を構成する山塊の一つで、どっしりとした山容は独立峰に近い様相を呈している。山頂部は北西―南東方向に連なる地蔵じぞうヶ岳(二七六四メートル)・観音かんのんヶ岳(二八四〇・九メートル)・薬師やくしヶ岳(二七八〇メートル)の三峰に分かれていて、現在では鳳凰三山という呼称が広く用いられている。山体は黒雲母花崗岩からなり、所々で巨岩が露出、とくに地蔵ヶ岳山頂の高さ六〇メートルほどの岩峰は、その特異な姿が山麓からも望見され、当山のトレードマークとなっている。大日だいにち岩・地蔵仏、あるいは地蔵のオベリスクとよばれるこの岩に明治三七年(一九〇四)日本アルプスの紹介者として知られる英国人ウォルター・ウェストンが初登攀し、日本における近代アルピニズムの幕が開けられた。山頂からの眺望はすばらしく、北には甲斐駒ヶ岳のダイナミックな稜線が躍り、日本第二の高峰北岳から間あいノ岳・農鳥のうとり岳と続く白峰しらね三山のスカイラインは西方、野呂のろ川(早川)の谷を挟んで指呼の間である。
主峰三峰に地蔵・観音・薬師の名があるように古くから信仰の山で、弘法大師開山の伝説もある。江戸時代には頂上に鳳凰山権現(鳳凰山大神とも)の石祠が祀られ、北麓の柳沢やなぎさわ村(現山梨県武川むかわ村)にある里宮雄山おやま神社から石空いしうとろ川沿いに登った。旧暦の八・九月が登拝期間で例祭日は九月九日、参詣者は途中石空川にかかる精進しょうじんヶ滝で沐浴潔斎した。また六・七月に登山する者がいると権現の怒りによって天候不順を招き、秋の実りに災いが生じるとされていた。当山東方、釜無かまなし川を挟んで対峙する茅かやヶ岳の西麓、現在の韮崎にらさき市東部から明野あけの村にかけての地域では次のような伝承も語り継がれている。かつて同地域は水利に乏しく畑作が主で、小さな池を掘ってわずかな水を確保していた。韮崎市穂坂ほさか町三ッ沢みつざわの牛うし池、同宮久保みやくぼの鳥之小とりのこ池もそうした池の一で、水不足に悩む茅ヶ岳西麓の人々が年々雨乞いのため鳳凰山に登山するのを哀れんだ山の神が、農牛のううしと農鳥のうとりを遣わして両池を掘らせたというものである。これは全国各地にみられる山腹の残雪の形によって播種の時期を知る習俗に関連して生じた説話で、観音ヶ岳の東面に五月頃姿を現すのが農牛で、農鳥は農鳥岳のそれである。鳳凰山が水神・農業神として崇められていたことがうかがえる。
鳳凰の山名由来については諸説がある。主なものをあげると法王(仏法の王、大日如来とされる)が姿を現した山であるから、奈良法皇(奈良王ともみえ、孝謙天皇とも道鏡ともいう)が登った山であるから、古くは大鳥おおとりヶ岳・大鳥ヶ根とよび大鳥に鳳の字をあてたことによる、などである。江戸時代、当山を大鳥ヶ岳とよんでいた史料もみられることから、大鳥説が有力である。さらに大鳥の由来については山の姿を大鳥に見立てたとするのが一般的であるが、地蔵のオベリスクを「おおとんがり」とよび、これが変化したとする説もある。一方、奈良法皇登山説は当山の南麓、現在は白峰三山への登山口の一となっている野呂川沿いの早川はやかわ町奈良田ならだが発祥地のようである。同所では孝謙天皇(あるいは道鏡)遷居の伝説や、同天皇にまつわる七不思議といった説話が残されている。一九世紀前半、甲府勤番支配松平定能が幕府の内命を受けて編んだ『甲斐国志』はすぐれた地誌として広く知られているが、同書も江戸時代に奈良田村が免租であったことについて
「奈良王ノ旧跡奈良田村(中略)里人奇偉ヲ伝ヘテ相誇ル昔時某帝此ノ所ニ遷幸アリ是レヲ奈良王ト称ス其ノ皇居タル故ヲ以テ十里四方万世無税ノ村ナリ」
との言い伝えを載せる。もっとも定能は同所が寒冷な山間僻地にあって農耕に適さないため税がないのであって、特権が奈良王に淵源するというこの伝説は単なる付会と一蹴している。しかし、当山が孝謙天皇と関わりのある山との伝承は山麓に広く分布する。韮崎市の御座石ございし温泉は北側から縦走する場合の登山口の一で、温泉名は周辺が古く御座石山と称されたことに由来する。孝謙天皇が座った石を御座石と称したことから名付けられた山名という。『甲斐国志』は孝謙天皇との関わりについては触れず、「十数年前潦水ニテ山崩レ土中ニ埋レテ今ハ亡シ」と当時すでになくなっていたと記すが、現在も薬師ヶ岳から東に延びる尾根の一ピークに御座石の名がある。
ところで明治四三年(一九一〇)陸地測量部が作成した五万分一図で現在の呼称である三山の総称として鳳凰山の名を採用したことから、地蔵ヶ岳一峰のみの呼称とすべきとする一山説、観音・薬師の二峰の名だとする二山説、それに三山説との間で山名論争が起こっている。検証してみると三山説も古くから使用されていたが、地元での呼び方は地蔵一峰のみとする一山説とする史料が多かった。二山説は江戸時代に甲府城下など少し離れた地(三峰の区別がつけにくい所)で生まれた呼称ということで廃れていった。昭和一〇年代以降、五万分一図で採用された三山説が浸透、一般的になったために三山説が定着する。しかし、今でも地元の山岳会などでは一山説に帰すべきと主張している。 
恵林寺(えりんじ) / 山梨県甲州市塩山小屋敷
元徳2年(1330年)、当時の守護であった二階堂氏が夢窓疎石を招いて開いた古刹である。応仁の乱後、武田氏が菩提と定めたことによって再興された。特に武田信玄が篤く崇敬し、寺領を寄進し、さらに美濃より快川紹喜を招いている(快川紹喜を招いた永禄7年(1564年)の時には既に出家剃髪して、信玄を名乗っている)。そして己の死を3年間秘した後の葬儀はここで執りおこなわれおり、信玄の公式の墓所も恵林寺とされている。
信玄とゆかりの深い恵林寺であるが、最も有名なものが“武田不動尊”と呼ばれる木像である。これは生前の信玄が仏師・康清と対面して彫らせた不動明王像であり、その姿を模したものであると伝えられている。また自らの毛髪を焼き、それを混ぜた絵の具で彩色させたともされる。
そして快川紹喜にまつわる有名な逸話も残されている。天正10年(1582年)4月。武田家滅亡直後の残党狩りがおこなわれ、食客であった佐々木次郎(六角義定)が恵林寺に逃げ込んできた。探索した織田勢が引き渡しを要求するが、住職の快川紹喜はそれを拒絶。そのため寺は焼き討ちに遭う。その時、三門に追い込められた快川紹喜は
「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もまた涼し」
という偈を遺して焼死したのである。
恵林寺は、その後、甲斐を領有した徳川家康によって再興され、現在に至っている。再建された三門の柱には、快川紹喜の偈が今も掲げられている。
武田信玄 / 1521-1573。甲斐の領主として版図を広げ、戦国時代最強の武将とされる。一方で禅宗をはじめ神仏に深く帰依する。出家剃髪をおこなったのは30代頃とされ(正確な時期は不明)、幼少の頃より学問の師と仰いでいた岐秀元伯によって得度している。墓所については恵林寺が公となっているが、実際には現在の愛知・長野県境あたりで亡くなったものとされている。この周辺には“信玄の墓”とされるものが複数存在する。
快川紹喜 / ?-1582。美濃出身の僧。姓は土岐氏とされる。武田信玄の招きで恵林寺住職となる。三門の偈は、実際は快川の創作ではなく、晩唐の詩人・杜荀鶴(846-904)の作った詩の一部である。この句の部分だけが、臨済宗で重んじられた『碧巌録』に掲載されており、これを発したわけである。なおその意は「坐禅を組むのに静かな山中や水辺を選ぶ必要はなく、心が無の境地にあれば寒暑に煩わされることもない」である。
おいらん堂 / 山梨県北都留郡丹波山村奥秋
国道411号線から奥秋のキャンプ場へ行く途中の集落に、おいらん堂はある。昭和63年(1988年)に再建された簡素なお堂であるが、中には位牌や供養のための木彫りの人形が置かれており、その供養の歴史の長さを物語っている。
おいらん堂の名前の由来は、このお堂から西へ丹波山川を遡ること約9kmの地点にある「おいらん淵」での事件である。甲州を武田氏が支配していた頃、この淵の近くには黒川千軒と呼ばれるほどの金山があった。しかし武田勝頼の代になり、織田信長の攻勢によってかつての勢いをなくした武田家は、この黒川金山を閉山してその存在を消そうとした。そしてその秘密が漏れないよう、金山で働く工夫を相手にしていた遊女を皆殺しにする計画を立てた。渓谷に宴台を設け、その舞台で遊女に舞を舞わせている最中に、台を支えていた藤つるを切り落として遊女全員(55人と言われている)を淵に沈めてしまったのである。
おいらん淵に沈められた遊女の遺体の多くが、下流の奥秋の地に打ち上げられたという。哀れに思った村人はその遺体を懇ろに葬り、それがおいらん堂となったのである。
おむつ塚 / 山梨県山梨市一丁田中
川沿いに広がる桃畑の一角に、石の地蔵が寄せ集められたような塚がある。これが“おむつ”という名の女性を祀ったおむつ塚である。今でも7月15日にこの塚の前で法要がおこなわれているという。
かつてこの地には、よそから嫁に来る者は前もって地頭(地主)に挨拶に行くという習わしがあった。おむつもそれに従って地頭の屋敷へ挨拶に行った。この土地の地頭は好色で、美しいおむつを見ると、手籠めにしようと言い寄った。おむつは抵抗するが、地頭はおむつを軟禁して身を任すことを強要する。だがおむつが拒絶し続けたために、地頭は拷問に掛け、ついには毒虫などと共に生きたまま土中に埋めてしまったのである。
帰ってこないのを案じたおむつの母親は地頭の屋敷へ赴き、そこで無礼があって手討ちになったと知らされる。しかし事の真相を悟った母親は、娘の埋められた場所へ行って一掴みの栗の実を撒くと、地頭への呪いの言葉を吐いて絶命した。
この直後から地頭の周囲には怪異が起こり、とうとう家人や身内を斬り殺し、自らも狂死してしまった。そしておむつの祟りを恐れた子孫は塚を建てて、おむつの供養を執りおこなったのである。しかし明治の終わり頃に、身内同士の財産をめぐる争いから刃傷沙汰を起こして、一族は絶えてしまったという。
さらに一丁田中にある陣屋(田安陣屋)跡の屋敷では、深夜に寝ていると、天井が落ちてくるという怪異が「おむつの祟り」として、大正の頃までまことしやかに噂されていたという。
猿橋(さるはし) / 山梨県大月市猿橋町
日本三奇橋の1つとされる猿橋は、現存する木造の刎橋である。刎橋は橋脚を用いずに橋を架ける工法で作られており、刎ね木と呼ばれる木材を岩盤に差し込み、その上に新たな刎ね木を先へと突き出すことで橋板を支える部分を組み上げる。そして刎ね木が腐蝕しないように、その部分には屋根が取りつけられる。現存する唯一の刎橋としての価値、さらに独特の工法故の優美さのために、猿橋は国の名勝にも指定されている。
独特の橋の工法から、猿橋には建造にまつわる伝説が残されている。この橋が出来たのは推古天皇在位の時代とされている。造ったのは、百済からやって来た渡来人の志羅呼とされる。
土地の者から架橋を懇願されて承諾した志羅呼であるが、流れが急なために普通の工法では橋が架けられない。思案していると、川の両岸に猿の群が現れた。猿は手をさしのべあって橋を作ると、行き来し始めた。この光景を見た志羅呼は、両岸から材木をせり出すことで橋を架ける工法を思い付いたのである。この「猿橋」という名も、猿の行動を見て着想を得たことから付けられたとされる。現在でも、橋の近くには猿を神使とする山王神社の祠がある。
諏訪神社御神木(すわじんじゃごしんぼく) / 山梨県甲州市大和町宮本
JR中央線・甲斐大和駅のすぐそばにある神社である。本殿は県指定の文化財であり、周囲に刻まれた多くの彫刻は一見の価値がある。この本殿の後ろに御神木の朴の木がある。伝承によると、日本武尊がこの地を訪れた折に使っていた杖が巨木と成長したものであるとされる。
しかし当地にある教育委員会の案内板には、さらに次のような言葉が続く。「古来からこの神木を疎かにすると、不祥の事件が起きると信じられているので、神意に逆らわないようにしている」。即ち公的に祟りの存在を認めているのである。
“不祥の事件”が起こったのは、戦後に入ってから。昭和28年(1953年)、この神社の裏を通る中央本線の架線に枝が触れるということで、6名の作業員が枝を払った。その後、この6名のうち5名が事故死。残る1名も別の事故で大怪我をしたという。
そして昭和43年(1968年)、線路拡張のため御神木を撤去する計画が持ち上がった。その直後の6月15日の未明、大和中学校(この諏訪神社と線路を挟んだ斜め向かいに位置する中学校)の生徒を乗せた修学旅行のバスが、国道20号線韮崎バイパスで、無免許の少年の運転するトラックと正面衝突。生徒3名、教員2名、運転手1名の計6名が亡くなるという惨事が起こったのである。
これ以降、鉄道関係者はこの御神木に触れることを忌避し、伸びた枝が架線に当たらないように防護する、最低限度の策を取っている。現在は、この御神木が線路と接する箇所に大掛かりな金属製の囲いを設け、架線や車両が触れないように処置している。
長源寺(ちょうげんじ) / 山梨県山梨市万力
長源寺の山号は“蟹沢山”というが、この寺には蟹の妖怪(蟹坊主)にまつわる伝承が残されている。
昔、長源寺では住職がたびたび消え失せてしまうということが続き、いつの間にか無住の寺となっていた。ある時、一人の諸国行脚の高僧が村人からその噂を聞きつけ、一夜の宿を取った。
すると真夜中、怪しい気配と共に巨大な僧が現れ、「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時如何」と問いかけてきた。すると高僧はすかさず「汝は蟹なり」と大喝するや、持っていた独鈷を投げつけた。投げつけられた僧はたちまち巨大な蟹に変じて、そのまま逃げ去ってしまった。
翌日、村人と血の跡をたどると、甲羅が砕けた大蟹が死んでいた。高僧は救蟹法印と名を改め、村人の要望によりこの寺の住職となったという。
この寺の境内には、2つの穴の開いた大岩があるが、これは大蟹が岩を鋏に刺して投げつけたものであると伝わっている。またこの伝説の縁起を示す掛け軸も残されており、それによると、大蟹の割れた甲羅から千手観音が現れたため、この寺の本尊は千手観音となったとされている。
姫が淵(ひめがふち) / 山梨県甲州市大和町田野
天正10年(1582年)3月11日、甲斐の名門・武田氏は田野の地において滅亡する。実質の当主である武田勝頼以下、嫡男の信勝、そして継室の北条夫人は、この地で自害して果てたのである。
北条夫人は甲相同盟の目的で、長篠合戦の後に武田家に嫁いできた。典型的な政略結婚であり、織田信長による甲州攻めで武田家縁戚の武将までが数多く離反する中で、国許へ帰るよう勧められたとも言われる。しかし、織田軍侵攻の最中に武田八幡宮に武田家の安泰を願う願文を奉納しており、居城であった新府城から落ち延びてから最期までそばにあって生死を共にした。
武田勝頼らが自害したとされる地に建立された景徳院の下を流れる日川には、姫が淵と呼ばれる場所が伝わる。勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身の回りの世話をしていた侍女16名も、武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされる。その侍女たちが死を選び、身を投げた場所が姫が淵である。現在、景徳院の下にある駐車場には、大きな石のレリーフがある。そこに刻まれているのが、北条夫人と16名の侍女の姿である(実際の姫が淵は日川のさらに上流あたりではないかとされる)。
この田野の地まで勝頼に付き従った者は、記録によると50名にも満たないという。いずれもこの地で生涯を終えている。
丸石神(まるいしがみ) / 山梨県山梨市七日市場
ある意味、日本有数の謎ではないかと思っている物件である。何が謎かと言えば、とにかく山梨県一帯に数百か所も祀られているにもかかわらず、他地域ではほとんど全く見ることが出来ず、しかもその出自に関する伝承もない。そして信じられないほど真球に近い形をしていながら、自然の産物なのか(自然状態でもこのような形の石が出来ることは可能であるという)、あるいは人の手が加わったものなのかも分からない。そして最も驚くべきことは、地元の人にとってこの丸い石がある風景が日常であるという事実である。それ故に、観光の対象ともなることもなく、また本格的な学術調査もほとんどなされたことがない。言うならば、日本人の石に対する自然崇拝が原形のまま残されていると言ってもおかしくない印象なのである。
この丸石神信仰と言えるものが見られるのは、山梨県一帯とその隣接エリアだけに限られる。特に多いとされるのは、山梨市一帯であると言われている。最も大きい丸石神とされるのは、山梨市七日市場にある。ここのものは台座に置かれている(その台座自身も丸石なのだが)が、そのまま地べたに置かれているもの、下手をすると石垣状になって既に祀られている状態ではないものまで、ありとあらゆる形で散見することが出来る。言うならば祀り方のルールすらない。
さらに言うならば、置かれている場所もまちまちである。多くは道祖神のように道路の辻や人の集まる公共の施設の近くにあるが、神社の境内にあったり、屋敷神よろしく家の敷地内にあることもある。何らかの信仰の対象であることは理解できるが、特定の宗教や神に限定されることもない(というよりも、丸石神という呼称も便宜上ものであり、地元でも統一された呼び名があるとは思えない)。あまりにも素朴で自然すぎるとしか言いようがない。
山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ) / 山梨県山梨市下石森
石森山という小高い丘に鎮座する神社である。社伝によると、日本武尊が東夷征討の折に勧請したのが始まりであるとされており、境内には日本武尊が腰掛けたとされる岩が残されている。
この周辺には石森山以外に目立った高地はなく、またこの丘にはかなりの数の巨岩があるため、デイラボッチ(ダイダラボッチ)がこの丘を作ったという伝承も残されている。そのため境内にはデイラボッチの大わらじが奉納されている。 
 
 
長野県 / 信濃

 

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信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ 万葉集
諏訪の神 / 諏訪市
むかし近江国甲賀郡の甲賀三郎諏方よりかたは、伊吹山の賊を退治したとき、妻の春日姫を何者かにさらはれた。三郎は日本中の山々を探し歩き、信濃国蓼科たてしな山の人穴で姫を発見して救出したが、兄の二郎に穴へ突き落とされ、地底の国々を遍歴することになった。長い試練に耐へて地底から脱出できた場所は、浅間嶽のふもとであった。このとき三郎の姿は、蛇身となってゐた。その後、三郎は諏訪明神として諏訪の上社に鎮座し、春日姫は下社に鎮まったといふ。(神道集)
冬の始めに諏訪湖が凍るとき、湖を横断する氷の堤ができる。御神渡といひ、大蛇の渡った跡だともいふ。
○ 諏訪の湖の氷の上の通ひ路は 神の渡りて解くるなりけり 顕伸
○ 諏訪の海や氷を踏みて渡る世も 神し守らば危ふからめや 宗良親王
諏訪神社{大社}は建御名方たけみなかた命をまつる信濃国一宮である。
白糸温泉 / 松本市
松本市東部の入山辺温泉は、またの名を白糸温泉、筑摩つかまの湯ともいった。
○ 出づる湯のわくにかかれる白糸は くる人絶えぬものにぞありける 源重之
日本書紀に天武天皇の行幸の計画があった「束間つかま温湯」は、この地とされる。元正天皇が行幸された美濃の養老滝も温泉だったとの説もある。天武天皇には信濃遷都の計画もあったらしく、この温泉が関係してゐるのだといふ。(川崎康之「天武天皇」)
ものぐさ太郎 / 南安曇郡梓川村、穂高町
○ まれまれはここに集ひていにしへの あたらし人のごとくはらばへ 釈迢空
むかし梓川のほとりの新村(松本市新村)に、太郎といふ男があり、ものぐさで働くこともせず、ただ道端に寝ころんで人に食べ物を乞うて暮らし、ものぐさ太郎と呼ばれてゐた。
あるとき村に、都から賦役の命令が来た。割当の人数だけ出せばよいので、村の役に立ってゐない太郎が行くことになった。太郎が都できちんと働いたかどうかわからないが、期間が終ったので、信州へ帰ることになった。太郎は賦役の仲間におだてられ、都の女を妻にして帰らうと思った。清水寺の前で、やはり乞食同然の姿でごろごろして道行く人を眺めることにした。そこへ、とある貴族の女房が通りかかった。太郎は突然立ち上がって女房に近寄って手をつかみ、求婚してみた。驚いた女房は、しかし平静を装って歌を詠んだ。
○ から竹を杖につきたるものなれば ふし添ひがたき人を見るかな 女房
太郎はすぐに歌を返した。
○ 万代の竹のよごとに添ふふしの などから竹にふしなかるべき 太郎
身なりのわりに、みごとな歌の返しなので意外に思はれたが、女房はとにかく手を離してもらひたいと詠んだ。
○ 離せかしあみの糸目の繁ければ この手を離せ物語りせむ 女房
この場だけは立ち去りたかったので、女房は住ひを教へた。
○ 思ふなら訪ひても来ませわが宿は からたちばなの紫の門 女房
そこで太郎が手を離すと、女房は大急ぎで走って逃げた。
その日の夕、太郎は、歌で教へられた紫の門のある家を捜して忍び込んだ。庭にゐる太郎に気づいた女房は、柿など果物を与へれば帰るだらうと山盛りにして差し出すと、太郎は歌を詠んだ。
○ 津の国の浪花の浦のかきなれば うらわたらねどしほはつきけり 太郎
上等の紙の束を与へると、紙に歌を書いてよこした。
○ ちはやぶる神を使ひにたび(賜)たるは 吾を社と思ふかや君 太郎
根負けした女房は、歌の才のある男でもあるし、とうとう部屋に入れてしまった。
風呂に入れてみると、なかなかの美男子であった。何日か作法も学んで、都へ出仕して、帝の前で歌を披露したりもした。
○ 鴬の濡れたる声の聞こゆるは 梅の花笠もるや春雨 太郎
その後、太郎は、むかし信濃に流された二位の中将の子であることがわかった。歌の才と学問が認められ、信濃の中将に任命された。かの女房を妻として故郷へ帰り、死後は穂高大明神としてまつられた。妻はあさひ大権現としてまつられ、縁結びの神とされた。
姨捨山 / 更級郡
    姨捨山・姥捨山
昔ある男が、母親同様に面倒を見て来た老いた姨(乳母)を、妻に責め立てられて、山に捨てた。家に帰って、姨捨山から昇る月を見ると、悲しみがこみ上げて歌に出た。
○ わが心なぐさめかねつ更級や をばすて山に照る月を見て 大和物語
男はさっそく姨を連れ戻したといふ。この姨捨山は更埴市の冠着山のこととされ、山麓の長楽寺で詠んだ芭蕉の句もある。
○ おもかげや姨ひとり泣く月の友 芭蕉
吉田東伍は、姥捨山は長野市笹ノ井塩崎長谷の長谷寺の裏山の長谷寺山のこととする。この山は古くは小長谷をはつせ山といひ、ヲハツセがヲバステに転じたといふ。ハツセは古代の葬地を意味し、大和の初瀬はつせも同様であった。
○ 事しあらば小初瀬山の石城にも 隠こもらば共にな思ひ わが夫 万葉集
姨捨山は、かつての葬場であった記憶と、大陸の説話が結び付いたものらしい。風習としての「姥捨」は日本にはなかったやうだ。
戸隠山 / 上水内郡戸隠村
    鬼女紅葉
戸隠とがくし山は、天照あまてらす大神おほみかみが天の岩屋戸に籠られた際に、天手力男あめのたぢからを命がその入口の岩戸を開き、力余ってその岩戸が高天原から落ちてできた山だといふ。次の歌は山の西方で詠んだもの。
○ 久方の天の岩戸のあけしより 雲井にのこる有明の山 香川景樹
諸歌句
○ そば時や月の信濃の善光寺 一茶
○ 跡しのぶ川中島の朝あらし いぶきのさ霧おもかげに見ゆ
○ ちくま川古城に添ひていにしへを 語り顔なる水の音かな 入江為守
中野市出身の中山晋平作曲の歌。
○ 信州中野は気立てで知れる 横に車は押しゃしない (中野小唄) 野口雨情
牛に引かれて善光寺参り / 小諸市 布引観音
昔、小諸に慾の深い婆がゐた。四月八日の観音さまの祭礼の日は、機を織ったり布を干したりしてはいけない日とされてゐたが、婆は観音さまの信仰もなく、勝手に布を干してゐた。するとどこからか一頭の牛が現はれて、二本の角で婆の布を引っかけて走り去った。婆は牛を追ひかけて何里も走り、善光寺まで来て牛を見失った。あくる日、婆はとぼとぼ小諸まで帰ってくると観音堂の前で寝込んでしまった。夢に観音さまが現はれて歌を詠んだ。
○ 牛とのみ思ひはなちそこの道に 汝をみちびくおのが心を
目覚めると堂の中の観音さまの首に、婆の布が懸かってゐた。観音さまが牛と化って導いてくれたことがわかり、この日から信心深い婆さんになったといふ。
追分 / 北佐久郡軽井沢町
中山道と北国街道の分岐点の追分(軽井沢町追分)は、近世に宿場町として栄えたが、古代の宿駅・長倉駅の地ともいはれる。各地の民謡の追分節は、ここから広まったといふ。
○ 西は追分 東は関所 せめて峠の茶屋までも 追分節
○ さらしなは右みよしのは左にて 月と花とを追分の宿
軽井沢町長倉の遠近宮をちこちのみや(祭神 磐長姫いはながひめ命)は、伊勢物語の歌にちなんで名づけられた。
○ 信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人の見やはとがめぬ 伊勢物語
古代の式内社・長倉神社も追分付近にあったといはれる。沓掛の今の長倉神社は元は八幡神社といってゐたやうだ。その沓掛の長倉神社には長谷川伸の歌碑がある。沓掛は、長谷川伸の股旅物の出世作「沓掛時次郎」の舞台となった地で、今は軽井沢町に編入されて「中軽井沢」といふらしい。
○ 千両万両狂けない意地も 人情搦めば弱くなる
浅間三筋のけむりの下で、男沓掛時次郎
望月の駒 / 北佐久郡望月町
名馬の産地だった望月の里の長者の娘に、生駒いこま姫といふ美しい娘があった。十三才のとき、姫は采女うねめとして京へ召されることになった。さう決まって以来、姫の愛馬の月毛つきげの駒は、何も食べずに痩せ衰へて行った。見かねた長者は、一時の間に七牧を三度巡ることができたら、姫と馬でどこぞの山ででも暮らすが良いと言った。すると駒は疾風のやうに走り出して半時の間に二周し、三周目にかかったころ、驚いた長者は偽りの時の鐘を鳴らした。そのまま月毛の駒は帰らず、姫の姿も消えてゐたといふ。
○ むかしより変らぬ顔をうつしきや 月毛の駒の旅の道芝 浅井洌
これに似た話は、東北地方ではオシラサマの話になってゐて、死んだ姫と馬が翌朝桑の木に登って蚕になったといひ、養蚕の起源の話になってゐる。
高遠の絵島 / 上伊那郡高遠たかとほ町
    絵島生島
上伊那郡高遠たかとほ町は、江戸城の奥女中の絵島が、冤罪によって流罪となった地である。相手の歌舞伎役者、生島新五郎は三宅島に流された。(三宅島の項参照)
○ 向ふ谷に陽かげるはやしこの山に 絵島は生きの心堪へにし 今井邦子
信濃宮(宗良親王) / 下伊那郡大鹿村
後醍醐天皇の皇子、宗良親王は、南北朝時代に東国を転戦し、主に伊那谷の大鹿村大河原に御在所を置き、信濃宮しなののみやと呼ばれた。大鹿村は山間の地ではあるが、鎌倉初期の福徳寺の建物は国宝に指定され、山林や牧場などの産業で栄えた村のやうだ。
○ 散らぬまに立ちかへるべき道ならば 都のつとに花も折らまし 宗良親王
宗良親王の皇子といはれる尹良ゆきよし親王は、伊那地方や奥三河などでは、山の旅人の守護神「ゆきよしさま」として密かにまつられてゐる。
若き日の釈迢空が伊那を旅したときの歌(下伊那郡阿南町)。
○ 遠き世ゆ守り伝へし神いかり この声を吾聞くことなかりき 釈迢空
箒木 / 伊那郡阿知村
箒木とは、園原の伏屋といふところに生へるといふ木で、遠くから見ると箒のやうに見え、近づくと何も見えないといふ峠の木である。木の下の小屋で行なはれた忌籠りについての伝承だらうともいはれる。園原は伊那郡阿知村智里の台地をいふらしく、現在は中央高速道のインターチェンジの名にもなった。
○ 園原や伏屋に生ふる帚木の ありとは見れど逢はぬ君かな 坂上是則
○ ありと見て尋ねばこれもいかならむ 伏屋に咲ける山の初花 宗良親王
木曽路
古代の東山道は伊那谷を通ったが、奈良時代の和銅のころ、美濃国恵那郡から信濃へ入る木曽路が開通したといふ。険しいところと思はれたやうだ。
○ おそろしや木曽のかけ路の丸木橋 ふみみるたびに落ちぬべきかな 空仁法師
○ 出づる峯入る山の端の近ければ 木曽路は月の影も短し
○ 「木曽路はすべて山の中にある」島崎藤村
朝日将軍・木曽義仲 / 木曽郡日義村
木曽義仲の愛妾の山吹と巴ともえの名は、山吹山、巴淵の地名によるものといふ。
○ 山吹も巴も出でて田植かな 許六
木曽郡日義村の山吹山には、お盆迎へのころ、里の子供たちが行列を組んで行進し、山頂で花火をあげる。行進するときに歌ふ歌を「だっぽしょう」といふ。「らっぽしょう」ともいひ、「乱舞しょう」の訛ともいふ。
○ 朝日将軍義仲と おらが在所は一つでござる
 巴御前 山吹姫も おらが隣の姉さぢゃないか
○ 送られつ送りつ果ては木曽の秋 芭蕉
諸歌
○ ふるさとの信濃を遠み秋くさの りんだうの花は摘むによしなし 若山喜志子
○ 鉦鳴らし信濃の国を行き行かば ありしながらの母見るらむか 窪田空穂
信濃の国
信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに よろづ足らわぬ事ぞなき
   四方に聳ゆる山々は 御岳乗鞍駒ヶ岳
   浅間は殊に活火山いづれも国の鎮めなり
   流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
   南に木曽川天竜川これまた国の固めなり
木曽の谷には真木茂り諏訪の湖には魚多し
民の稼ぎも豊にて五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼ひの業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ国の命を繋ぐなり
   尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
   木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
   来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山
   著き名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝へたる
旭将軍義仲も仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人にして文武の誉類なく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず
   吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
   穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
   道一筋に学びなば昔の人にや劣るべき
   古来山河の秀でたる 国は偉人のある習ひ 
 

 

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信濃
「木曾」 長野県西南部の地名。木曽川上流域を指す。
○ 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曾のかけはし底もみえねば
○ 駒なづむ木曾のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり
○ ひときれは都をすてて出づれどもめぐりてはなほきそのかけ橋
○ さまざまに木曾のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ歸る山人
木曾と申す武者、死に侍りにけりな
○ 木曾人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
「諏訪」 長野県諏訪盆地にある地名。諏訪大社、諏訪湖がある。
○ 春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ
○ とぢそむる氷をいかにいとふらむあぢ群渡る諏訪のみづうみ
「姥捨」 長野県更級郡にある地名。老婆を山に置き去りにするという伝説で有名。月の名所としての信濃の歌枕。
○ くまもなき月のひかりをながむればまづ姨捨の山ぞ戀しき
○ あらはさぬ我が心をぞうらむべき月やはうときをばすての山
○ 天雲のはるるみ空の月かげに恨なぐさむをばすての山
「浅間」 長野県と群馬県の県境にある山。活火山。
○ いつとなく思ひにもゆる我身かな淺間の煙しめる世もなく
「かざこしの嶺」 長野県伊那郡風越山のこと。信濃の歌枕。
○ かざこしの嶺のつづきに咲く花はいつ盛ともなくや散るらむ
「伏屋」 長野県下伊那郡阿智村。園原にあったという粗末な屋。
○ あはざらむことをば知らず帚木のふせやと聞きて尋ね行くかな
「信濃梨」 梨の一種で実が小さいという。ちなみに「信濃柿」もあり、実は小さい。
例ならぬ人の大事なりけるが、四月に梨の花の咲きたりけるを見て、梨のほしきよしを願ひけるに、もしやと人に尋ねければ、枯れたるかしはにつつみたる梨を、唯一つ遣して、こればかりなど申したる返りごとに
○ 花の折かしはにつつむしなの梨は一つなれどもありのみと見ゆ 
信濃なる浅間の嶽にたつ煙
伊勢物語は男女の恋の諸相が味わい深く語られる歌物語である。和歌を中心とした章段がそれぞれ独立しながらも全体として「昔男」の一代記の体裁をとるが、現存形態に至るまでにはいくたびかの増補があったと考えられ、その基盤には口承の「歌語り」があったとされる。「昔男」に在原業平の姿が投影されているというよりも、この物語は「業平的なるもの」が呼び込まれることによって生成したということなのだろう。
物語は男と二条后高子を思わせる女性との悲恋を語ったのち、男を東国へと向かわせる。この「あづま下り」は、三河国、駿河国、武蔵国というように東海道に沿って語られていくが、その前に浅間山を詠んだ歌が入り込んでいる。信濃なる浅間の嶽(たけ)にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ――。信濃国にある浅間山に立ちのぼる煙は誰でも注視するものだと、都から下ってきた男が煙をあげる浅間山を不可思議な景物として詠んだものとして一応は理解できる。ただし、東海道から浅間山は見えるはずもない。この歌がもともとは信濃地方の民謡であり、伝承歌として物語に取り込まれたと推測されるゆえんである。
この歌がその土地の民謡であるとすれば、自分の熱い恋心があの浅間の煙のようにあちらこちらの人に悟られはしまいかとする恋の歌と理解できるが、それにしてもなぜ伊勢物語はこの歌を選びとったのであろうか。この歌があることによって男の旅程の不自然さは免れないし、また、こうした民謡はこの群馬の地にもあったことであろう。
古代の旅の歌は境界を越えるときに詠まれることが多い。信濃国と上野国との間にあって噴煙を立ち上らせる「浅間の嶽」はまさに越えがたい境界を示すのにふさわしい。ここから東は異郷の地。吉永哲郎氏もこの歌にふれながら指摘しておられる(『群馬史再発見』あさを社、平成13年)が、都の人びとはそのような意識を持っていたのだろう。物語はその境界を歌によって越えさせる。「あづま下り」に語られることのない上野国は、むしろそのことによって境界を越えた男を無言のうちにつつみ込み、その漂泊の思いをかたどっているのである。 
箒のような「ははき木」
昔、風土記と申(マヲス)ふみ(書)み侍(見ハベリ)しにこそ、此はゝきゞ(コノ箒木)のよし(由縁)は大略み(見)え侍しかど、年ひさ(久)にまかり成(ナリ)て、はか※※しく覺(オボ)え侍らず。件木(クダンノキ)は美濃信濃兩國界、その原ふせやと云(イフ)所にある木なり。とほ(遠)くてみ(見)れば、はゝき(箒)をた(立)てたるやうにてた(立)てり。ちか(近)くてみ(見)れば、それに似たる木もなし。然(シカレ)ば、あ(有)りとはみ(見)れどあ(逢)はぬ物にたとへ侍(ハベル)。(袖中抄第十九)
帚木にまつわる伝承。遠くから見れば箒を立てたように見える木だが近づいてみるとそのような樹はない。それで有るように見えるけれど会えないことの喩えとして使われる。
『辞典』によれば平安時代初期には都にも知れらる伝説で、歌の中でも既に読まれるほど有名だったとか。『源氏』の巻名にもなっています。空蝉の登場する巻。
前にあげた陸奥国浅香沼もそうですが、歌枕の考証などが風土記逸文に採用されることが多いというのはありそうです。確かに考えてみればこんな地方など行ったことがなかったであろう都人が歌に使うほど知られた名所ならば、『風土記』にでも出典がありそうなものではあります。
帚木の名を伝える檜の木は長野県阿智村園原の月見堂に根元の幹のみが残っているとか。 
大塚神社 耳塚(おおつかじんじゃ みみづか) / 長野県安曇野市穂高耳塚
一面水田地帯の真ん中にそそり立つ巨木が目印となっている。近くまで来ると、この小さな神社そのものが少し盛り上がった土地に鎮座しているために、ここが塚であることが分かる。
この耳塚に埋められているのは、八面大王の耳であると言われている。八面大王はこの安曇野地方の伝説では鬼とされ、悪逆の限りを尽くした後に坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされたとされている。しかし蘇ることを恐れた田村麻呂は、八面大王の遺骸を切り刻んで、各地に埋めたのである。耳塚はその耳を埋めた場所であるとされているのである。
現在では“耳の神様”として有名となり、祈願をする地元の人も少なくないという。
八面大王 / 魏石鬼(ぎしき)とも言われる。鬼として民話化されているが、この伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。この書物によると、耳塚は、降伏した盗賊団を処罰した際に手下を含めて全員の耳をそぎ落としたものを埋めた場所であるとされている。
鍵引石(かぎひきいし) / 長野県北佐久郡立科町蓼科
雨境峠は、大和朝廷が造った古代の官道が通過した地点である。この標高1580mの峠の周辺には、5〜6世紀に成立したと考えられる祭祀遺跡群がある。その中の1つが鍵引石である。雨境峠から南に下った女神湖畔にあるこの石の名は、祭祀遺跡とは関係のない、河童にまつわる伝説に由来する。
今の女神湖のあるあたりは“赤沼”と呼ばれる湿地帯であった。その赤沼に住んでいたのが河童の河太郎。河太郎は子供に化けると大きな石に座り、道行く人を“鍵引き”に誘うのである。“鍵引き”とは指と指を絡めて引っ張り合う指相撲のことである。河太郎は鍵引きを始めると、恐ろしい力で相手を沼に引きずり込んでしまうのであった。 ある時、その噂を聞いた諏訪頼遠という剛力無双の侍が立ち寄ったところ、またしても河太郎が子供に化けて石の上から鍵引きに誘った。頼遠はそれを受けて、指を絡めるやいきなり馬を駆けだして、あっという間に河太郎を引きずり回したのである。しばらくして見ると、頭のお皿の水がこぼれた河太郎は瀕死の状態。そこで頼遠が「沼から出て行くか、それとも殺されるか」と尋ねると、河太郎は「今夜半には立ち去ります」と答えたので、そこで赦されたのであった。
翌日になると、赤沼は干上がっており、代わりに隣村に大きな池が出来ていた。人々はこの新しい池を“夜の間の池(一夜池)”と呼び、河太郎はここに移ったのだろうと言い合った。しかし河太郎が鍵引きのために座っていた石だけは残り、鍵引石と呼ばれるようになったという。
魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや) / 長野県安曇野市穂高有明宮城
『信府統記』によると、平安時代初期、安曇野地方に魏石鬼という賊がいた。別名を八面大王という。各地を荒らし回ったため、大同元年(806年)に蝦夷征討に赴く途上にあった坂上田村麻呂によって成敗されたと伝えられる。この魏石鬼が田村麻呂に抵抗するために立て籠もったとされるのが、魏石鬼岩窟である。
有明山神社に隣接する正福寺から細い山道を伝って歩くこと10分足らず、岩窟はある。岩窟の上にはお堂が建てられ、さらに岩窟の表面には磨崖仏が彫られている。かつては修験道などの修行場としても用いられた様子がうかがわれる。
この岩窟は花崗岩の巨石を組み上げられて作られた古墳、日本では珍しいドルメン式古墳であるとする鳥居龍蔵の説が一般的である。この地域の名ともなっている安曇族が九州方面から移動してきた海洋民族とされるため、ドルメン式古墳が多く見られる朝鮮半島との関係も指摘される。山の中にひっそりと佇むようにある岩窟は、その特異な姿である故に、何かしら畏怖の念を感じさせるものがあると言えるだろう。
『信府統記』 / 松本藩の命によって享保9年(1724年)完成の、信濃国の地誌。魏石鬼の伝説は、おおよそこの書籍に依っている。ただしこの伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。
ドルメン / 支石墓。柱となる巨石を数個並べてその上に平らな巨石を乗せる、テーブルのような形の墓。西ヨーロッパのものが有名であるが、東アジアでも独自に発達し、中国東北部で発生し、朝鮮半島に広く見られる。日本では、朝鮮半島の影響を受けたと推測されるものが九州北部にいくつかあるが、その規模はかなり小さい。弥生時代前期にはほぼ作られなくなったと考えられる。
鳥居龍蔵 / 1870-1953。人類学・考古学・民俗学者。日本をはじめ、アジア地域のフィールドワークを精力的に行う。
葛井神社(くずいじんじゃ) / 長野県茅野市ちの
諏訪大社上社の摂社の1つであり、諏訪大社の大祝の即位の際に御社参りをする13の神社の1つに数えられる。祭神は槻井泉神(つきいずみのかみ)。
この神社の信仰の対象は本殿に隣接する池である。この池は諏訪七不思議の1つ“葛井の清池”に数えられ、色々な伝承が残されている。
最も有名なものは、上社の年中行事の最後となる「葛井の御手幣(みてぐら)送り」の神事である。大晦日に、上社で使われた幣帛や榊、柳の枝や柏の葉を取り下げて、葛井神社に運ぶ。そして寅の刻に前宮御室の御燈を合図に、それらを池に投げ入れるのである。すると翌元日の卯の刻に遠江国の佐奈岐(さなぎ)池に浮き上がってくるという。
またこの底なしの池には片目の魚がおり、それが池の主であり、捕ると祟りで死ぬとも言われている。町中にある何の変哲もない池であるが、非常に神秘的な伝承を持つ場所である。
諏訪大社 / 本宮と前宮からなる上社、春宮と秋宮からなる下社の計4つの神社。信濃一ノ宮として崇敬を集める。祭神は、出雲国譲りの際に諏訪へ来た建御名方神と、その妃の八坂刀売神である。また土着信仰の対象であった蛇神のミシャグジ神とも一体視されている。
諏訪七不思議 / 諏訪大社の上社と下社の神事などにまつわる七不思議(上社と下社にも独自に七不思議があり、それらを総合した形で諏訪七不思議が形成されている)。 湖水御神渡・蛙狩神事・五穀の筒粥・高野の耳裂鹿・葛井の清池・御作田の早稲・宝殿の天滴。
佐奈岐の池 / 具体的にどこの池を指すかは不詳。しかし比定地として最も有力なのは、静岡県御前崎市佐倉にある、遠州七不思議の1つ、桜ヶ池である。この池にも龍神に供えるために赤飯を詰めたお櫃を池に沈める「お櫃納め」がおこなわれており、そのお櫃が諏訪湖に浮かび上がったとの伝承が残されている。
光前寺 早太郎の墓(こうぜんじ はやたろうのはか) / 長野県駒ヶ根市赤穂
光前寺は天台宗の古刹である。庭園は国の名勝に指定され、境内にはヒカリゴケが自生するという、非常に環境の良い落ち着きのある場所である。この寺院には、霊犬・早太郎にまつわる伝説が残されている。
ある時、山犬が光前寺の縁の下で子犬を生んだ。住職が手厚く世話をしてやると、母犬は子犬の1匹を寺に残していった。残された子犬は大変賢く、動きが俊敏であったため、早太郎と名付けられた。
数年後、光前寺に一実坊という旅の僧が訪れた。僧が言うには、遠州府中の見附天神では、毎年祭りの時に白羽の矢が立てられた家の娘を人身御供として神に差し出す風習がある。生贄を要求する神がいるのかと思い様子をうかがうと、化け物たちが現れて「今宵今晩おるまいな 信州信濃の早太郎 このことばかりは知らせるな 早太郎には知らせるな」と歌いながら娘を引っさらっていった。そこで信濃に早太郎という者を探しに来たのであるが、それが光前寺の飼い犬と知って、借り受けに来たのであると。
話を聞いた住職は早速早太郎に言い聞かせ、一実坊と共に見附天神に向かった。そして祭りの生贄となる娘の代わりに早太郎が箱に入って、夜を待った。すると化け物たちが現れ、歌い踊りながら箱を開けた。一散に飛び出す早太郎、不意を突かれて慌てふためく化け物。しばらく凄まじい戦いの物音がしていたが、やがてその音も小さくなっていった。夜が明けて村人がおそるおそる見に行くと、巨大な狒狒が3匹噛み殺されていたのであった。
その頃早太郎は、生まれ故郷の光前寺へ向かっていた。しかし狒狒との戦いの傷は深く、寺に戻り住職の顔を見ると、一声鳴いてそのまま息絶えてしまった。哀れに思った住職は、境内に一基の墓を建て、霊犬・早太郎を祀った。延慶元年(1308年)のことと寺では伝えられている。またその後、一実坊も早太郎供養のために大般若経を奉納している(現存)。
早太郎の伝説は光前寺だけではなく、狒狒退治があった見附天神にも伝えられており、この縁で駒ヶ根市と静岡県磐田市は姉妹都市を提携している。かなり距離のある土地同士で全く共通の伝説が残る、珍しい実例である。
「早太郎」の名称 / 光前寺の伝説では「早太郎」とされているが、もう一方の伝承地である見附天神では「しっぺい(悉平)太郎」と呼ばれている。また「疾風太郎」と呼び慣わす地域もある。
見附天神 / 静岡県磐田市にある。矢奈比賣神社が正式名称。隣接地には早太郎を祀る霊犬神社がある。一実坊はこの神社の社僧であり、実際に早太郎を探しに信濃へ行ったのは旅の六部であるとの伝説もある。また見附天神での伝説では、大怪我を負った早太郎を村人が介抱し、それから光前寺に送り返したとされている。
筑摩神社 飯塚(つかまじんじゃ いいづか) / 長野県松本市筑摩
現在は筑摩神社と呼ばれているが、かつては「八幡宮」と称しており、筑摩と安曇地方の総社とされていた。
創建は延暦13年(794年)。坂上田村麻呂によって石清水八幡宮を勧請したのが始まりとされる。伝説によると、坂上田村麻呂は、この地を荒らし回っていた八面大王を退治するために石清水八幡宮に参籠し、この地に八幡宮を祀れば大願成就するとの神託を受けて建てたという。そして見事に八面大王を退治した田村麻呂は、再び蘇らないように遺骸を切り刻んで各地に埋めたのであるが、その首は筑摩神社の境内に埋められたのであった。現在では、八面大王の首塚は“飯塚”という名で呼ばれている。
また一説では、泉小太郎(または小次郎)が湖の水を流して松本平を平地とした後、鬼賊を倒してその首を埋めたともされる。いずれにせよ、この飯塚は鬼の首を埋めて祀った場所とされている。
八面大王 / 魏石鬼(ぎしき)とも言われる。鬼として民話化されているが、この伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。
石清水八幡宮 / 貞観元年(859年)に、宇佐神宮より山城の男山に勧請され創建。平安京の裏鬼門に位置しており、王城守護・国家鎮護の役目を果たしているとされる。石清水八幡宮の創建が坂上田村麻呂の死後であるため、筑摩神社創建の由来は時代的に矛盾している。
泉小太郎 / 安曇野開拓にまつわる伝説的人物。白龍王と犀龍との間に生まれた小太郎は、母の犀龍と再会すると、湖の水を抜いて広大な土地を生み出すことを願う。そして母の背中に乗り、山清路の岩盤を打ち抜いて水を流した(現在の犀川)とされる。
鳴石(なるいし) / 長野県北佐久郡立科町大字芦田八ヶ野鳴石
大和朝廷が東国支配を果たしたとされるのが、5世紀頃。その東国との主要道として設けられたのが、東山道である。この道の途中に雨境(アマザカイ)峠がある。この周辺は現在でも多くの祭祀遺跡が存在しており、その最も象徴的なものが、鳴石である。
この巨石は鏡餅が重なっているかのような奇麗な形をしている。しかし調査によると、これは一つの石が割れたのではなく、本当に人工的に重ねられたものであるという。しかも2つの石とも別の場所から意図的に運ばれてきたものであると判明している。それ故にこの岩の上で何らかの祭祀が執り行われたものであると考えてもよいと言われている。
鳴石の名の由来であるが、風が強く吹く時にこの石が音を立て、必ず天気が悪くなるという言い伝えによるという。さらに、天変地異にまつわる恐ろしい伝承も残されている。ある時、石工がこの石を割ろうと玄翁で数回叩いたところ、突然山鳴りが起こり、空から火の雨が降り注ぎ、石工は悶死したという。祭祀の施設であると同時に、この石そのものが神聖視された石座であるということが分かる伝承であると言えるだろう。
ちなみに、雨境峠の祭祀遺跡は、蓼科山の神に対するものであると考えられている。その蓼科山には“ビジンサマ”という名の山の神が住んでおり、その形態は丸くて黒い雲に覆われ、赤や青の布きれのようなものが下に付いているという。何か鳴石の姿や伝承を彷彿とさせるような形である。 
 
 
新潟県 / 越後、佐渡

 

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伊夜日子(いやひこ)の高嶺にかすみ打ち靡き 越こしの国原春立ちにけり 久澄
奴奈川姫 / 頚城郡
むかし大国主神が越の国の頚城くびき郡に来たとき、この土地を「国中の日高見ひだかみの国なり」といひ、土地の奴奈川姫の神と結婚した。姫は居多こたの浜の西の躬論山(今の岩戸山)で、健御名方たけみなかた神(諏訪の神)を生んだといふ(新井市の斐太神社由緒による)。または黒姫山の洞窟で生んだともいふ。奴奈川姫は糸魚川の神ともいひ、翡翠にたとへられる美しい姫である。
○ 渟名ぬな川の底なる玉求めて 得し玉かも拾ひて得し玉かも
 惜あたらしき君が老ゆらく惜をしも 万葉集
居多神社「片葉の芦」 / 上越市五智
上越市付近に、古代の越後国府があったといはれる。大国主命・奴奈川姫・建御名方命(諏訪神)をまつる居多神社は、越後一宮として栄えた。
○ 天の原雲のよそまで八島守る 神や涼しき沖つ汐風 尭恵
むかし親鸞が越後へ配流となったとき、居多神社を詣でて歌を詠んだ。
○ 末遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは 親鸞
かう詠んで歌を神前に供へて祈祷すると、境内の芦の葉は、一夜にして片葉になったといふ。今も居多神社の境内には片葉の芦が群生する。片葉の葦は、全国各地で、神に捧げられたり、また神の依代とされ、神聖なものとされ、各地の「七不思議」の一つに取り上げられることも多い。
諸歌
○ 夜の荒川御神輿が下る 川は万燈の迎へ船 祇園ばやしの笛や太鼓で夜が明ける
初あられ / 上越市
高田地方では、十一月になると時雨がつづき、やがて霰に変る。霰はトタン屋根を心地よい音で鳴らして地表を白い玉でうづめる。この音を聞くと不思議に明るい気分になるといふ。そして冬を迎へる。高田の四月堂の「初あられ」は、大豆に白い糖衣をかけた素朴な豆菓子である。
○ 色香味 越の高田の初あられ 深雪の里にふるあられ 舌を鳴らして召し上がれ 堀口大学
松山鏡 / 東頚城郡松之山町
東頚城郡松之山町に伝はる伝説で、人々がまだ鏡を知らなかった頃の話である。
桓武天皇の勅命を受けて東夷征伐に赴いた大伴家持は、戦に敗れて帝の怒りを買ひ、都を追はれて、篠原刑部左衛門と名を変へて越後の松之山に隠れ住んだ。妻と娘の京子とともにしばらく暮らしたが、妻は不治の病に倒れ、枕元に娘を呼んで、「母に逢ひたくなったらこの鏡を見るがよい。今よりずっと若い姿でこの中に現はれるから」と言って形見の鏡を授けて、息を引き取った。
やがて家持は土地の女を後妻に迎へたが、後妻は何かにつけて娘を虐待したので、娘はことあるごとに鏡をのぞきこんでは母と語り合ひ、慰めとした。
ある日、継母の折檻に耐へかねて、家の外へとび出した娘は、庭の池のほとりで一人水面みなもを眺めてゐると、水面に若き母の姿がありありと映って見えた。娘は懐かしさにかられ、母に呼びかけるやうに水面に顔を近づけ、池に身を投げたといふ。この池を鏡が池といふ。
数年後に東夷を征伐した坂上田村麻呂が、帰途の道すがら家持を訪れた。家持は、庭の池の石橋を見て都を思ひ出し、このとき詠んだ歌が、有名な「かささぎの」の歌だといふ。
○ かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける 大伴家持
家持は田村麻呂のとりなしで都へ戻り、継母は尼となって池の畔に庵をいとなんで娘の菩提をとむらったといふ。池の浮島の紅水仙は、鏡に彫られた紅水仙が化成したものといふ。松之山町中尾には、今も鏡が池、お京塚、刑部屋敷跡が残ってゐる。家持が越後に住んだ事実はない。良寛の長歌に、良く似た話があり、土地の名家に生まれた男の話になってゐる。
親不知子不知 / 西頚城郡青海町
兄の清盛と対立してゐた平頼盛は、京から越後へ逃れ、五百刈村で落人として暮らしてゐた。京でこの噂を聞いた妻は、二才の子を連れて、越後へ向かって慣れぬ旅に出た。越中を過ぎ、越後の入口に入ると、道は波の打ち寄せる絶壁の下の狭い砂浜だけだった。この浜を、波が引いては進み、波が来ては岸壁に身を寄せて波の引くのを待って進んだが、とうとう波に足をすくはれて、子どもの手が離れ、その子は波に呑み込まれてしまった。そのとき詠んだといふ歌。
○ 親知らず子はこの浦の波枕 越路の磯の泡と消え行く
この歌から、越後のこの難所を、親不知子不知といふやうになったといふ。
お光吾作 / 柏崎市番神
浪曲「佐渡情話」で知られるお光、吾作は、本名は おべん、藤吉といふ。
柏崎の藤吉は、佐渡通ひの船頭だった。海が荒れて佐渡に長居をしたとき、おべんと恋仲となった。藤吉が別れを惜しみつつも柏崎へ帰ってから、おべんは、日増しにつのる思ひを堪へきれず、たらひ舟にのり、荒海の中を柏崎へと漕ぎ出した。やがて日が暮れて岬も見失ひ、つひに波に飲まれて帰らぬ人となったといふ。
○ たらひ舟荒海も越ゆうたがはず 番神堂の灯かげ頼めば 与謝野晶子
柏崎市番神の諏訪神社に、お光吾作の墓と、お光のたらひ舟がある。
出雲崎 / 三島郡出雲崎町
三島郡出雲崎町は、良寛の生まれた土地であり、芭蕉が佐渡を詠んだのもこの地である。
○ 荒海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉
○ たらちねの母が形見と朝夕に 佐渡の島べをうち見つるかな 良寛
遊女初君 / 三島郡寺泊町
鎌倉時代の末頃、京都の公家社会は持明院統と大覚寺統と呼ばれる二派の対立があった。持明院統は後の北朝につながるものであるが、これに近い京極為兼は、永仁六年(1298)に讒言によって佐渡へ流罪の宣告を受けた。越後に送られて寺泊に滞在し、船で佐渡へ渡ることになったのだが、寺泊の遊女・初君の見送りの歌がある。
○ 物思ひ越路の浦の白波も 立ちかへるならひありとこそ聞け 初君
為兼は五年で許されて京へ戻り、玉葉和歌集の撰集を手がけた。
弥彦山の周辺 / 西蒲原郡
新潟市に鳥屋野潟、東どなりの豊栄市に福島潟が残ってゐるが、新潟は昔は秋田県の八郎潟のやうな大きな潟だったのだらう。地名から想像すると、北の豊浦町から弥彦山の東の月潟村あたりまで入江があり、中ほどの新津市あたりが良い港だったのだらう。弥彦山の南の山を国上くがみ山といふが、「くが」といふ地名は、水上から見て目印となるやうな地をいふらしい。
○ 足引の国上くがみの山の山吹の 花の盛りにとひし君はも 良寛
弥彦山の東から東北には越後獅子と毒消売りの本拠地がある。蒲原郡月潟村は、戦後美空ひばりの歌に「笛に浮れて逆立ちすれば」と歌はれた越後獅子の本拠地である。越後獅子は子供ばかりの獅子舞の曲芸で諸国を歩いたが、子供たちは皆普通の農家の子であったといふ。西蒲原郡巻町には宮城まり子の歌に「わたしゃ雪国薬売り」と歌はれた毒消の里がある。こちらは未婚女性による行商で、ゴム紐などの日用品も売り歩いた。
越後一宮の弥彦神社は、古代からの土地の神である。
○ 弥彦いやひこおのれ神さび青雲の 棚引く日すら小雨そぼ降る 万葉集
越後の親鸞 / 新潟市ほか
建永二年(1207)親鸞は越後へ配流となった。新潟で親鸞が法話を説かうとしたとき、まともに聞く人もなかった。そこで親鸞は竹の杖を地面に突き刺して歌をよんだ。
○ この里に親の死したる子はなきか 御法の風になびく人なし 親鸞
すると杖から根を生じて竹林ができた。挿した杖は下向きだったので、その一本は逆さまの枝をつけたといふ。「西方寺の逆さ竹」といふ(新潟市鳥屋野 西方寺)。
さて、親鸞が赦免となって越後を去るときの宴の席で、別れを惜しむ里人が鮒を焼いてすすめると、親鸞は鮒を食べずに歌を詠んだ。
○ わが真宗の御法仏意に叶ひなば この鮒かならず生き返るべし 親鸞
そしてその鮒を山王神社の池に投げ入れると、鮒は生き返って泳ぎ出したといふ。(西蒲原郡黒崎村 山王神社)
常安寺の杖梅 / 栃尾市
永禄(1558〜70)のころ、寺を開いた門察和尚のところへ、ある日、老翁が入門を乞うてきたので、和尚はそのしるしの書付け(血脈)を授けた。老翁は大喜びで境内を浮かれ廻り、庭の築山のもとに杖を突きさすと、そこから清水が湧き出した。さらに塀のわきに杖を挿して歌を詠んだ。
○ 植ゑ置きし梅の主を人問はば 自ら在ます神とこたへよ
老翁はそのまま去ったが、自在神とは、菅原天神のことである。翌朝、杖は青葉をつけた梅の木となってゐたといふ。
佐渡の順徳院 / 佐渡
承久の変で佐渡へ移られることになった順徳院は、佐渡へ向かふ船の上から、不運にも小刀を海に落とされた。その無念さを御身になぞらへて御歌を詠まれた。
○ つかの間も身もはなたしと思ひしに 海の底にもさや思ふらん 伝順徳院
すると竜神があらはれ、院に刀を献じたといふ。
佐和田町二宮にくうの二宮明神は順徳院の皇女の忠子姫をまつるといふ。忠子姫の歌が伝はる。
○ またも見むしづが五百機織りはしの をりな忘れそ山吹の花 二宮
○ 青柳の糸引き添ふるはた川は 波の綾織るひまやなからむ 二宮
安寿と厨子王と母 / 佐渡
安寿や厨子王と生き別れになり、目が見えなくなった母は、佐渡の鹿ノ浦に売られ、気がふれて、毎日悲しげな歌を歌ひながら鳥を追ひかけて暮らしてゐたといふ。
○ 安寿恋しやほうやれほ 厨子王恋しやほうやれほ
 鳥も生あるものなれば 疾う疾う逃げよ追はずとも
村の子どもが、悪戯に「安寿です、厨子王です」とからかった。母はそれが嘘とわかると、怒って棒きれを振り回した。やがて本当の安寿と厨子王が母の前に現はれたが、母は既にすっかり狂ってしまってゐて、振り回した棒きれが安寿に当たって、安寿は死んでしまった。驚いて正気に戻った母は、厨子王とともに中の川の上流に行き、安寿を葬った。死んだ安寿の涙は、毒になって中の川を流れたといふ。
○ 片辺 鹿の浦 中の水は飲むな 毒が流れる日に三度
安寿を葬った後、母が金泉村の泉で目を洗ふと、目が開いた。厨子王と母は感謝をこめてここに地蔵を建て、「眼洗ひ地蔵」といはれた。
村雨の松 / 佐渡
むかし佐渡の両津にお松といふ美しい女がゐた。両津橋のたもとで夜毎男を惑はしたが、なぜか誰にも肌を許すことはなかった。そこでお松のからだには欠陥があるといふ噂になった。お松といちばん親しくしてゐた番所の若者が、ある晩お松に言ひ寄ると、「そんなに思ってくれるなら、わたしを背負って川を渡ってください」といふので、お松を背負って川に足を踏み入れた。翌朝、若者は川原で死体となって発見された。皆は、お松がからだのことを知られるのを恐れて殺害したに違ひないとささやきあった。
お盆の祭の日、若者の一団がどかどかと両津橋に来て、お松を担ぎ上げて、橋の上からお松を逆さ落しに川へ投げ入れた。
○ お松むごいもんだ御番所の橋で 落とす釣瓶の逆落し
それ以来、御番所の黒松にはお松の霊が宿り、悲しげな泣き声を出したといふ。この声を耳にしたものは必ず橋から落ちて死んだともいふ。いつもしぶきに濡れてゐることから「村雨の松」といふ。
諸歌 / 佐渡
林不忘(丹下左膳の作者)は佐渡の生れで、本名は長谷川海太郎といふ。命名のときに父の淑夫が詠んだといふ一首。
○ たをたをと波にただよへるただ中に 生まれし男の子名は海太郎 長谷川淑夫 
 

 

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親不知(おやしらず) / 新潟県西頸城郡
境さかい川を渡り越中国から越後国に入った近世の北陸道は市振いちぶり、外波となみ、歌うた、青海おうみの宿駅を経て糸魚川いといがわに至る。市振から青海までは、古来北陸道一の難所として知られる親不知・子不知である。飛騨山脈の北端が断崖となって日本海になだれ落ち、親不知の三町四〇間と駒返りという地名を残す子不知五町は大波の時には通行不能であった。
古代北陸道は越中国佐味さみ駅から神済かんのわたり(現境川)を越えて越後国最初の駅であった滄海(青海)に至った。神済以東へは親不知などの断崖を避け、舟行、あるいは汀伝いをたどり、波風の荒いときには内陸の上路あげろを通る山往来が利用されたと推定され、佐味駅と滄海駅には、難所であったため他駅より三疋多い八疋の駅馬がおかれた。
近世北陸道の宿駅制は江戸時代初期に確立したが、市振―青海間には外波・歌に間宿あいのしゅくが設けられ、青海から市振への荷は歌で、市振から青海への荷は外波で継ぎ送った。加賀金沢藩前田家の参勤交代路でもあり、加賀街道とも称された。
神済とは越中国と越後国の境をなす境川の古名で、『越後名寄』堺川の項に「国堺ニテ、川ヲ越レハ越中ノ国也。船ニテ渡ル。流レ早ク、矢ヲ突斗也。(中略)常サヘ洪水ノ時ニハ甚危シ、容易ニスヘカラズ。河近クニ玉ノ木杓有。程近ク御関所有、市振ノ駅也」とある。その市振関所は市振集落の西はずれ、南には山が切立ち、北には日本海が迫る関所には恰好の地に設置された。慶長三年(一五九八)堀秀治が春日山城(現上越市)城主となった時に設け、加賀藩境番所に対したという(『西頸城郡史』)。天和三年(一六八三)の市振村検地帳によると、御番所屋敷として二五間に二四間、二反歩、遠見御番所として二三間半に九間、七畝一歩の二つが併記されている。
越中側の境番所について『越中志徴』によれば、関所を設けたのは上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いのころ、武田方へ塩が渡らぬように守ったのが起こりという。慶長一九年(一六一四)に関所が設置されたといわれ、境川を隔て東へ一千五〇〇メートルで市振関所である。現在、市振小学校にあるエノキの大木が市振関所の名残である。
市振から西に、浄土崩じょうどくずれ、親不知、子不知と北陸街道きっての難所が続く。多くの地名や伝承が残り、雄大な景観によって県指定名勝とされている。
浄土崩は親不知難所の西口にあたり戦略上の要衝である。『承久記』に「市降浄土」とあり、越中にいた朝廷軍宮崎左衛門尉定範の先手が市振浄土に屯したことがみえる。また寛正六年(一四六五)善光寺に詣でた尭恵の『善光寺紀行』に「ゆきゆきて越後国の海づら。山陰の道嶮難をしのぎ。浄土といふ所に至りぬ。(中略)爰を去てゆけば。すなはち親しらずになりぬ」とある。その親不知は波除観音・大フトコロ・波除不動・走り込み・大崩れ・避難岩などの名があり、海賊部落の伝説が残る。源平合戦のとき、京都から落ちのびてきた池大納言平頼盛の妻が子供を大波にさらわれ「親しらず子はこの浦の波まくら越路のいそのあわと消えゆく」と詠んだのが地名の由来という。
長享三年(一四八九)親不知を越えた京都相国寺の僧万里集九は『梅花無尽蔵』に「有父不知子不知之嶮難、余平生所耳而已、待波瀾之回急走過、波吼崖崩頑石欹、伝聞父子不曾知、扶桑第一嶮難地、今日初嘗摩脚皮」と記し、波を除けて海岸を通り抜けるのに足をすりむいた様子が伺える。親不知を越えると外波集落があり、承元元年(一二〇七)越後国府へ流罪となった親鸞は道中親不知の難所を越え、外波浦から船に乗ったとする説もある。集落の南東に大雲だいうん寺があり、親鸞宿泊に因む逸話が残る。市振を起点とした北陸道一の難所は、日本海に面して細長く延びる越後国の西端にふさわしい逸話と景観をもつ。
元禄二年(一六八九)七月一二日『奥の細道』の途次にある芭蕉は「越中の国一ぶりの関に到」り桔梗屋という宿に泊まった。「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば」身を横たえ、新潟の遊女二人のあわれな語らいをもれ聞く。翌日同行を懇願されたが断り、「哀さしばらくやまざりけらし」として「一家に遊女もねたり萩と月」と詠んだ。 
秋山(あきやま) / 新潟県中魚沼郡津南町・長野県下水内郡栄村
秋山郷は、新潟県中魚沼郡津南つなん町より信濃川(上流は千曲川)の支流中津なかつ川を渓谷に沿って溯り、長野県下水内しもみのち郡栄さかえ村に入り、中津川の支流と源流である雑魚ざこ川・魚野うおの川の合流点に至る間の峡谷に散在する一五の集落を含んだ信越国境の地域をいう。岐阜県の白川しらかわ郷、宮崎県の椎葉しいばなどとともに平家の落人村といわれている。文政一一年(一八二八)越後の人鈴木牧之はこの地を訪れたが、その「秋山記行」の自序には
世挙て、信越の境秋山をさして平家の落人と唱来たれど、平氏は何れの後胤と云ふ其素性だに知るものなし
とあり、探訪の動機が歴史的関心に根ざしたものであることを暗示する。
秋山郷の一部は、平安時代から中世末に至るまで志久見しくみ郷に属していた。志久見郷の文献上の初出は、建仁三年(一二〇三)九月二三日、鎌倉幕府が中野能成なる者へ以前のように「信濃国春近領志久見郷」の地頭職を安堵したという文書である。中野氏は平安時代末期には信濃国高井郡の北部に勢力をもった土豪で、その所領は「へいけ(平家)の御下文」をうけており、のち木曾義仲、さらには鎌倉幕府の御家人となった家柄である。それは、文永年間(一二六四‐七五)に中野氏のあとを譲り受けてこの地を領有した市河氏の伝える市河文書によって、推測されている。また同文書の寿永三年(一一八四)三月六日、源頼朝の弟阿野全成が中野助弘に与えた下文では、「信濃国志久見山」と記している。
志久見山は、平安時代から鷹が巣を営む山、巣鷹山の地域であった。巣鷹山は貢租の対象となる鷹の生産のため設けられたもので、元来入山禁止の留山とめやまである。一方これに対して住民の農耕・居住などのため、巣鷹山のうちで必要個所には入山を許した。これを明山あけやま(「あきやま」とも)という。明山は鷹の営巣と住民の必要によるため散在し、かつ境域はつねに変動していたといわれている。ちなみに宝暦九年(一七五九)の「木曾雑話」には、「木曾惣山、三ヶ村山共、御留山、御巣山之外は都て明山と相唱、御停止木、遠慮木之外は其村方より屋作木、薪木に伐取」と記されている。
巣鷹山と明山の境界をめぐる争いのことが、市河文書の寛喜元年(一二二九)の佐衛門少尉兼政書状ならびに守護北条重時御教書にみえる。これは、志久見山の領主中野能成と隣郷計見けみ郷の領主木島兵衛尉との間で、鷹の子の盗難をめぐって行われたものである。とくに守護北条重時の御教書の端裏書に「あけ山の事」とあり、書面には
兼ねてまた志久見の内の山を方々より堺を越し、自由に任せ狩などをし、狼藉あるべからざるの由、下知せしめ給ふべき旨候なり
と記されている。これは裏返していえば、従来志久見山が境界不分明の地あるいは変動性のある地であって、出入自由の慣習があったところとも受けとれる。そこで鷹の子盗難事件は、留山である巣鷹山と、これに対する明山のもつ性質に帰因するものと考えられる。元亨元年(一三二一)の市河盛房の子助房への自筆譲状にも
あけ山ハ往古よりさかいをたてわけさるあひた、いまはしめて立にくきによりて、こあかさわ(小赤沢)十郎ニたふよりほかに、兄弟ともにもわけあたゑぬ也、さいもくとり、れうしなといれんニ、わつらいをいたすへからす、
とある。すなわち、「あけ山」はむかしから境を立てずにきたため、いまこと新たに境を設け、分割配分はしない。また材木とりや猟師を入れて紛争を起さないようにと、配慮されていることがわかる。そして、ここでいう「あけ山」とは、さきの北条重時御教書にみられる「あけ山の事」とあわせ考えると、「あけ山」という土地の固有名と、いわゆる明山の性質をもつ土地という意味を兼ねそなえているともみられる。
ところで明山の土地利用はいかなるものであったろうか。昭和二六年(一九五一)の調査によると、秋山郷では全農家の七四パーセントが焼畑耕作に従事していた。秋山では焼畑のことをカンノといい、原野をきり拓くことをカンノキリ、これを焼くことをカンノヤキと称していて、カンノヤキのころは沢のあちこちに煙が上ったという。
焼畑のことは「秋山記行」にも詳しくその方法が記されている。焼畑耕作では耕地を次々と移動するため、秋山では江戸時代まで永久耕作地がほとんどなかったと推測されている。したがって耕地は徴税の対象とはなりにくく、また普通の農村にみられるような検地帳・土地名寄帳の類も存在しなかった。
なお、下水内郡栄村箕作みつくりに残る元和八年(一六二二)八月の島田文書には、「為秋山役、檜物・札板・しな縄以下御用之時者、此印判可遺候条」とあるように、秋山役と称して材木の伐取は、代官の証判なくしてできなかった。 
ヤツカハギ
越後國風土記曰 美麻紀天皇御世 越國有人 名八掬脛其脛長八掬 多力太強 是土雲之後也 其屬類多(釋日本紀卷十)
越後の国に住むヤツカハギという土蜘蛛の伝承です。脛の長さがヤツカ(拳八つ分)というわけですが、私は五つ分ぐらいだったのでかなり足が長いということになるでしょう。
まあそれだけの話なのですが、土蜘蛛伝承というのは私が現在追っている台湾原住民の小人伝承と関係がある、と一時期考えられていました。
他の伝承では「洞窟に住んでいる」などと言われることもありますが、台湾の小人も洞窟に住んでいることが多い。少なくとも小人伝承が最も豊富であるサイシャット族では小人は洞窟に住んでいました。また「力が強い」というのも台湾小人伝承でよく語られる小人の特徴です。
しかし、台湾の小人は「小人」と翻訳されるぐらいですから小さいわけです。一メートルから70センチぐらい、というのが多いので、ヨーロッパ的な小人や日本の小さ子譚の代表のように言われる一寸法師、或はスクナヒコナなどと比べてもずいぶん大きいのですが、それにしても人間に比べると小さい。
にもかかわらず土蜘蛛伝承との関係性が言われていたというのは、所謂「先住民伝承」というつながりからでしょう。土蜘蛛伝承は先住民伝承でもあります。そして土蜘蛛伝承と東北などに濃厚に伝わっている山人伝承を結びつけて、「日本には先住民がいた」という議論を展開したのが柳田國男でした。
その議論の過程ではアイヌのコロボックル伝承なども言及されていますが、コロボックルは確かに小人です。「ならば台湾の小人も関係あるだろう」。当時柳田國男の権威たるやほとんど日本民俗学の始祖神的な扱いだったと思われ、彼の取り巻き達は台湾の小人伝承を知ってすぐに柳田説に迎合しようとした・・・そういう想像はできます。
しかし、土蜘蛛伝承にしても台湾の小人伝承にしても、先住民というかどうかはともかく、異民族伝承であるというのは事実です。その意味ではコロポックルも異民族伝承。
だとすると、興味深いのは、「何故日本の山中異民族は長身だと考えられ、アイヌと台湾の異民族は小人だと考えられたのか?」ということです。
この辺、台湾の小人伝承もそこそこヴァリエーションがあるのであまり断言は出来ませんが、小人の場合は「呪術」「呪詛」の能力を持っているといわれる場合があります。コロポックルも立ち去り際に呪詛をかけて十勝平野を不毛の土地に変えた、などという話があります。
逆に土蜘蛛の場合は長身であるという点が強調される。そしてそれに対するヤマト王権側は呪術的な攻撃で土蜘蛛を殺したりします。
この辺のねじれ具合。「過去の異民族」に対する観念の違い、ひいては語り手自らの正統性の違いが横たわっている気もします。 
石船神社 (いわふねじんじゃ) / 新潟県村上市
創祀年代は不詳。社伝によると大化四年(648)、蝦夷征討の前進基地として磐舟柵が置かれた頃には、石の小祠があったらしい。
後、大同二年(807)、秋篠朝臣安人が北陸道観察使としてこの地に下向した際に、越後国北方の鎮護の神として京都の貴船神社の祭神を勧請し、貴船大明神と称したが、その後、正徳四年(1714)八月二十八日旧号である石船神社に戻したという。
だが、土地の人々には、明神さまと呼ばれている。
祭神は、上記のように岩船社としての饒速日命と貴船社としての水波女命・高靇神・闇靇神。饒速日命は、天磐船にのって天降った神。
ある年の冬の淋しい晩、はるか沖合から、異様な石舟に乗った旅人が浜へ近づき、藤の蔓に掴まって上陸。旅人は一軒の家を訪ね、一夜の宿を頼むが、鮭の酢漬つくりに忙しいその家では旅人に耳を傾けはしなかった。別の家を訪ねると、その家の妻は身篭もっていたが旅人を心づくしのもので饗してくれた。翌朝、冬には珍しく晴れ渡った日であった。今日こそは大漁であろうと漁へ向う村の漁民達に、旅人は、今日は不漁なり、出るだけ骨折りなりといい、その通り、漁より帰った漁民の魚籠は軽かった。その翌朝、近頃になく海は荒れた。漁民達は誰一人沖に出ようとしなかったが、旅人は、今日こそは漁あらん、出漁してみよといい、半信半疑の漁民達は、不漁覚悟で沖に出てところ、魚籠を重くして村に帰ってきた。
それからというもの、漁民達はこの旅人にその日の漁の如何を訪ねるようになり、旅人が去る時、もし漁不漁の事を聞きたからば山上の観音を拝すべし、然る時は自ら体得することあるべし、と一言を残した。村人は社を建て篤く祀ったという。
この昔話の前半部分は、武塔神の話に良く似ている。昔の神は、半分を殺し、半分を生かすものだったのかもしれない。が、話の後半部は、村人全体に対して加護を与えている。観音信仰との混合によって、話が変質してしまったような感じ。
由緒1
…神さまが天の石船〜あめのいわふね〜に乗りおいでになられた… という日本神話を伝説に、石船神社〜いわふねじんじゃ〜は、郡内(村上市・岩船郡)総鎮守の御社として、飛鳥時代以前よりつづく一千三百年を超える歴史を有しております。平安時代大同二年(807年)北陸道観察使秋篠朝臣安人下向の際に社殿を建立し越後國の北の守護神として貴船神社の御祭神をあわせ祀りまして現在に至るかたちをつくり、以降、明神様〜みょうじんさま〜と称されて広く信仰をあつめてまいりました。延喜式神名帳(927年)には越後國磐船郡の筆頭に記載されており、この圏域の有力者、平林城主、色部氏、本庄氏、歴代村上藩主にも当庄の鎮守の御社として篤い保護をうけていることがさまざまの文献からもうかがいしれます。明治期最初の社格制度施行時、当神社は國幣中社弥彦神社に次ぐ新潟県内で最初の縣社に列せられました。
御祭神 饒速日命(にぎはやひのみこと) / 罔象女命(みずはのめのみこと) / 高靇神(たかおかみのかみ) / 闇靇神(くらおかみのかみ)
由緒2
石船神社(イワフネジンジャ)は、平安時代、醍醐天皇の延喜年間の勅命によって定められた法制四部のひとつ延喜式神名帳(九二七年)に、越後國磐舟郡筆頭のお社として記載されており、古くから郡内広く信仰されてまいりました。
御祭神の饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます。また水波女命・高靇神・暗靇神は京都の貴船神社の御祭神で、おもに水や舟を司ります。現在でも、明神様と呼ばれるのは、貴船大明神に由来いたします。
日本書記、孝徳天皇の条に、大化三年(六四七年)に淳足柵が、翌四年には磐舟柵が蝦夷征討の前進基地として築かれたとあります。既にこの頃から、磐舟という地名が存在しており、社伝にも石祠があったといわれます。この磐舟柵の築かれた場所に関しては、学問的には未だ解明されてはおりませんが、この神社の丘陵地一帯にその遺構が眠っているものと思われます。また、眼下に流れる石川はかつて琵琶潟と呼ばれた潟の名残であり、これも日本書記、斉明天皇の条で、朝廷に遣わされた越の国守阿倍比羅夫が、蝦夷征討のため百八十艘の軍船を率いて出発した、という史実の根拠地として可能性が高いと思われます。現在、地名として残っている岩船郡は磐舟柵・石船神社がもととなって成立したのです。
その後、大同二年(八〇七年)秋篠朝臣安人が北陸道観察使としてこの地に下向した際に、社殿を建立し、越後國北方の鎮護の神として京都の貴船神社の御祭神を勧請したと伝わり、鎌倉時代以降は平林城主、色部氏、江戸時代以降は歴代の村上藩主にも崇敬されました。
正徳四年(一七一四年)宣旨により正一位の神階が授けられており、明治五年には県内でも二番目に縣社に列せられました。
例祭日は十月十八・十九・二十日で、今日のように御神輿と御舟をはじめとする屋台で賑わうようになったのは江戸時代中期頃からです。昭和六十二年、この岩船まつりが県無形民俗文化財に指定されました。
神社の社叢はヤブツバキの群生地として、昭和三十三年、県天然記念物にも指定されております。
或る年の冬の淋しい晩であった。遥か沖合から、異様の舟で異様の人が濱を目指して漕いで来る。見れば、珍らしい石の舟に乗っている人は、如何にも神々しい姿であった。舟を乗り捨てると、其の人は藤のつるに掴まり、漸く濱の村に上がった。其の旅人は一軒の家を訪ね一夜の宿を頼むが、鮭の酢漬つくりに忙しい其の家では旅人に耳を傾けはしなかった。旅人が別の家を訪ねると、其の家の妻は身篭もっていたが旅人を心づくしのもので饗してくれた。
翌朝、冬には珍しく晴れ渡った日であった。今日こそは大漁であろうと村の漁民達は沖に出ようとした。すると旅人は、今日は不漁なり、出るだけ骨折りなり、と云う。此の意外の言にも漁民達は耳を傾けなかった。しかし漁より帰った漁民の魚籠は軽かった。
其のまた翌朝、近頃になく海は荒れた。漁民達は誰一人沖に出ようとしなかった。その時例の旅人は、今日こそは漁あらん、出漁してみよ、と云う。半信半疑の漁民達は前日の事もあり、不漁覚悟で沖に出てみた。然るに沖はそれほど荒れてはおらず、魚籠を重くして濱の村に帰ってきた。それからというもの濱の村では此の不思議が喧傳され、漁民達はこの旅人にその日の漁の如何を訪ねるようになった。そして其の旅人の云うことが百発百中であることに何人も驚き、果てはこれこそ漁の神ではあるまいかと、崇敬下へも置かなかった。そればかりか其の旅人に製塩・農耕・養蚕等の万事について迄、遠く訪ねて来る者もあった。
暫くして例の旅人は此の地を去ることになった。村の人々は、とどまってほしいとたって願ったけれどもそれはできない相談であった。旅人が、今後若し漁不漁の事を聞きたからば山上の観音を拝すべし、然る時は自ら体得することあるべし、と一言を残し、飄然として此の村を何處ともなく去った。其の後、漁民達は出漁毎に其の観音を詣でたが不思議に其の日の出来が首肯かれた。人々は先の旅人が今更に神であったことに心附き、社を建て厚く之を祀った。
これが、今の石船明神であって、磐舟(岩船)の名は勿論、神様が石の舟でこの地に漕ぎ附けた事から名づけられたものです。また此の言い伝えから、神様はお産を嫌いませんし岩船の人達も神様がお掴まりになった藤のつるを大切にし、焼かないことにしています。そして石川にのぼった鮭をとりませんし、鮭の酢漬けもつくりません。  
岩船大祭 / 新潟県村上市
お船様はなぜ山に登るのでしょうか
「げにやめでたき神代の昔 蜻蛉洲(あきつしま)に宮始まりて…」(本当にめでたい 神様がおられた昔 日本の国にお宮様が始まって)と木遣りの声が石船(いわふね)神社の杜(もり)にしみ通って流れます。
10月19日、夜もおそくなったころ、先太鼓を先頭に岸見寺の若い衆にお船様はかつがれ、お宮のある明神山を上っていきます。岩船大祭のクライマックスです。
なぜ、船が山に登るのでしょう。船は本来、海や川に浮かぶものですが、岩船のお船様は山に登ります。このような神事を探してみました。大阪府の磐船神社に同じような神事が昔あったと言われております。この大阪の磐船(いわふね)神社と岩船の石船神社は、磐と石の文字の違いはあっても同じ「いわふね」と読みますから、何らかの関係があったのではないでしょうか。
大阪の磐船神社と石船神社
その関係について、大阪の磐船神社の神主さんにうかがいました。
磐船神社は、物部(もののべ)氏の神社であったと言われております。物部氏は聖徳太子の時代以前に大きな力をもった大和朝廷の豪族でした。物部氏は大和朝廷内の争いに敗れ全国に散っていきました。その一つがこの岩船の地に来ていたのではないでしょうか。その人たちがふるさとをしのんで物部氏の祖先神を岩船の地に祀っていたのではないでしょうか。
大阪の磐船神社と岩船の石船神社は同じ神様で饒速日命(にぎはやしのみこと)が中心に祀られています。饒速日命はどんなことを司る神様なのでしょうか。饒速日尊は、神話によるとイサナギ・イザナギの命の神様が地上に降りてくる前に地上にやってきた神様でした。岩船の町から神社のある明神山をみると奈良盆地にある天香具山ににているような気がします。
そして、大化4年(648年)に阿倍野比羅夫(あべのひらふ)が率いる強大な軍隊の一部がやってきて砦をつくり、「磐舟柵」(いわふねのき)と呼んだのではないでしょうか。 
石船の地名
648年に「磐舟柵」が設けられた場所であることから、「岩船」という地名ができたと思っている人もいるのではないでしょうか。阿倍野比羅夫が岩船の地に来たとき乗ってきた船が今まで岩船の住人が見たこともないくらい大きくてがっちりしていて「岩のような船」と思えたところから、「岩船」という地名になったという説もあります。しかし、そのはるか以前から「岩船」の地名があったため、「磐舟柵」と名付けられたようです。
全国には、他にも「岩船(岩舟)」という地名が残っている場所があります。栃木県岩舟町、島根県安来市岩舟(岩舟古墳)、茨城県常北市岩船、長野県中野市岩船などです。「岩船(磐船)神社」となると、20社くらいにもなります。「いわふね」の文字は違いますが、その名にはどんな由来があるのでしょうか。「いわふね」という名の残っているところには、必ず物部氏や「天磐船(天磐樟船)(あめのいわくすぶね)」にかかわる話が残っています。「岩船」の名前の由来は、日本書紀で饒速日命にかかわる神話に出てくる「天磐船(天磐樟船)」からきているようです。村上市、岩船も、その例外ではありません。
4〜5世紀ごろ、物部氏たちが越後の地に来ました。自分たちの故郷である大和を遠く離れた彼らは、この地にも土着して地方の有力部族となっていきました。そして、自分たち物部氏一族が神とする饒速日命をお祀りした神社をつくりました。そのような神社は全国にたくさんあり、物部神社や磐船神社と名付けられました。岩船では、その神社の名前が「岩船」という地名になり、現在まで残っていたのではないかと思われます。
これが本当なら、「岩船」の名付け親は物部氏ということになります。日本史を勉強すれば誰でも知っている物部氏が、こんなところで岩船の地とかかわりがあるなんて驚きですよね。
石船神社のいわれ
石船神社の神様は、どんな神様なのでしょうか。「石船神社の神様は海の神様で、女の神様だ。」というのを聞いたことがある人がいると思いますが、本当なのでしょうか。
まず、一つめは、饒速日命です。これは、物部氏が軍事的な意義から祀られたものと考えられます。饒速日命は、武神であると言われていますが、この神様は高天原から船で降りてきたので、「船の神様」「海上交通の神様」とも言われています。
二つめは、水神や船に関する祭神三柱(水波女命(みずはめのみこと)、高お神(たかおかみ)、闇お神(やみおかみ))です。水波女命は水の神様、高お神(たかおかみ)は止雨(晴天)の神様、闇お神(やみおかみ)は祈雨の神様です。これは、807年、秋篠朝臣安人(あきしのあそんやすひと)が北陸道観察使として岩船の地にやってきて石船神社を建立して貴船大明神(きふねだいみょうじん)とすることにした時、これらの三柱の神様も一緒に祀(まつ)ったと伝えられています。
石船神社は、最初は物部氏が自分たちの祖神をお祀りしたことからつくられたのでしょうが、岩船の人々の生活が昔から水や船にかかわっていたため、神社の主神も海や水にかかわるものに変わってきました。そして、今では、岩船の人々の生活も多様になったため、氏神(うじがみ)信仰もさらに多様になってきました。
現在、10月19日の昼、祭礼巡行の途中でお御輿の安息場所である「第二御旅(浜のご旅所)」で行われる神事では、海上安全、大漁満足(だいりょうまんぞく)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)などが祈願(きがん)されます。
お船様信仰
お祭りと言えばふつう、ご神霊がお神輿に移され、祭礼巡行の中心となります。しかし、岩船大祭は、他の祭りと少し違っています。それは、お神輿ではなくお船様が祭礼巡行の先頭となっているところです。
このような祭礼巡行が行われるところは、珍しいと思われます。お船様に遷(うつ)る神様とお御輿に乗る神様は、同じでしょうか。
日本書紀によると、曉速日命が天より降りるときに用いる乗り物が「天磐船(天磐樟船)」と言われるものです。これは、神の世界と人間の世界を往来するときに用いられたものです。それは、「くすの木で作った岩のように丈夫な船」という意味なのだそうです。その船に乗って饒速日命が天からどの地に降りたのかは、日本書紀には書いてありません。古代の人々は、山に神が宿ると信じていました。石船神社のある明神山は海岸部にあり、しかも陵(みさぎ)のような円い巨大なまんじゅうのような形をしています。古代の人々が神様が降りてくる聖地だと考えるのに、まさにふさわしい場所だったと思われます。また、人々は、神霊の世界が海の彼方にあって、その船に乗ればその岸に到着できると考えていたようです。
石船神社には、昔から神様が神様の世界から人の世界に降りてきたときのための船として、「明神丸」が祀ってあります。これがお船様で、石船神社の宝船となっています。この近郊では、桃崎浜の荒川神社と瀬波浜町屋台に、お船様が残っています。これも、船魂信仰の表現の一つと思われますが、石船神社のお船様のようにご神霊がお移りになったというものではなく、飾りものという意味合いだけのものです。
例祭とは、1年に一度神様が御神輿におうつりになり町をまわることを言うわけですが、人々の側からみると、1年に一度、神様を自分たちの住んでいる地区にお招きする行事と言っていいでしょう。
これによって、人間が神様をより身近なものに感じ、神と人間との一体感をつくろうというものです。石船神社のお船様は、おしゃぎりのない時代から、岩船大祭でご神霊がお遷りになる乗り物として使われ、祭礼巡行の先頭となってきました。船にも神様を宿らせて、船のお守りにしたわけです。お船様を乗せるのは、岸見寺町のおしゃぎりです。10月15日夜、町内の中で、「当宿」(とうやど)と言われるその年の当番の家にお船様が石船神社から下がってきます。そして、お船様の掃除や飾り付けをして、19日の朝、石船神社へ御霊を迎えに上っていくのです。神社では、「遷霊式」(せんれいしき)と言われる御霊遷(みたまうつ)しの神事が行われると、「御幣」(ごへい)をお船様に乗せます。
お船様にお遷りになる神様は、饒速日命、水波女命、高零神、闇零神の4柱の神様です。しかし、江戸時代になってお神輿が神社に奉納されると、そのお神輿にご神霊をお移しになるようになりました。だから、お船様が昔のように19日の朝神社に上ってきたときは、「神様、どうぞ町をご覧になってきてください」というような意味の祝詞(のりと)を宮司さんがとなえるそうですが、今のお船様には神様がお移りになってはいません。今でも昔の名残から、お船様がお神輿より先になっているわけです。
また、たくさんの生きた馬がご神馬として祭礼巡行に参加していた頃、町の安全上ご神馬をお神輿とともに巡行の先頭に移動できなかったというのも、お船様が先頭のままになった理由の一つとなっているようです。しかし、岩船の人々の深い船への深い信仰から、「お船様には神様が乗っている」と信じている人が多いのです。 
おしゃぎり小袖の由来
現在、上大町以外のしゃぎりに乗る子どもの衣装には、女の子が着る着物地が使われています。岸見寺町のしゃぎりに乗る子どもの衣装は、振り袖を着ます。なぜ、女の着物を着るようになったのでしょうか。
平安時代ころから神様を喜ばせお慰みするものとして、田楽(でんがく)が発たちしてきますが、その田楽で踊って歩く「ねりもの」の衣装と、先太鼓やおしゃぎりの乗り子の衣装もたいへん似ています。このへんとも、つながりがあるようです。
また、青森ねぶた祭りで、ねぶたの前に踊って歩く「はねと」の衣装と、岩船大祭での先太鼓やおしゃぎりの乗り子の衣装がたいへん似ています。これは、北からの祭り文化が伝わってきて根付いたと言えます。
逆に、おしゃぎりは、西(京都)からの祭り文化が伝わって根付いたものだと言えます。このように、岩船大祭では、北と西の両方の祭り文化が合わさった祭りであると言えます。
祭りが豪華になってくると、祭りの衣装も豪華になってきます。江戸時代が過ぎて殿様の時代が終わると、裃もおしゃぎりの乗り子の衣装に取り入れられるようになりました。 
茨木童子の里(いばらきどうじのさと) / 新潟県長岡市軽井沢
茨木童子の生まれは、その名前から大阪府茨木市と目されるところが多いが、有力な場所として新潟県も挙げられる。
長岡市(旧・栃尾市)軽井沢が茨木童子の出身地であり、美少年だったと言われる。若い娘から言い寄られるのを案じた親によって弥彦神社に預けられるが、実家に残されていた「血塗りの恋文」を見つけて鬼と化したとされる(このあたりは越後の酒呑童子の来歴と同じ展開)。やがて同じ越後出身の酒呑童子と意気投合、術に勝る酒呑童子を兄貴分として数々の悪事を重ね、やがて京都の大江山まで移動することになったと伝わる。
現在、軽井沢の集落には茨木童子を祀る神社があり、「稚児清水」という湧き水がある。茨木童子と酒呑童子はこの水を飲んで、兄弟の契りを交わしたとされる。また軽井沢には茨木姓の家が多くあり(茨木童子の生家の子孫が未だに現存する)、これらの家では節分に豆をまかない習慣が残されていたり、茨木童子が鬼に化身した際に破風から出ていったために破風を設けないという。人並み外れた知勇の持ち主として、この地では信仰の対象となっているわけである。
乙和池(おとわいけ) / 新潟県佐渡市山田
大佐渡スカイラインの途中、車で進入するのが躊躇われるほど細い道をさらに奥へ1km弱ほど進むと、乙和池がある。周囲は鬱蒼とした森に囲まれており、青みがかった池の中央には日本最大規模の高原湿原性浮島がひっそりと佇む、神秘的という言葉しかない美しい池である。
この池には蛇婿入りの典型と言える伝説がある。この池のある山の麓に長福寺という寺がある。その寺に昔、一人の美しい女性がやって来て、そのまま下働きをするようになった。どこの者か素姓は分からなかったが、名は“おとわ”といった。
ある時、おとわは山へ山菜を採りに行った。いつしかおとわは女人禁制とされる場所の近くまで来てしまっていた。慌てて帰ろうとして足を滑らせたので、やむなく近くの小さな池で腰巻の裾に付いた泥を洗い落としていた。すると小さな池がみるみる大きくなり、おとわのいる場所だけが浮島のようになると、池の主を名乗る大蛇が現れて「池の主となれ」と言ってきた。驚くおとわは大蛇に泣く泣く頼み込んで、3日間だけ猶予をもらい、長福寺へ戻ったのである。
3日後、おとわは決心すると、再び山へ向かった。すると遠くから蹄の音がして、白馬に乗った貴公子がやって来ると、おとわを鞍の前に乗せてそのまま山へと駆け上っていったのである。それから7日間は山は霧に閉ざされ、最後の日には大雨となった。その後村人が山の池へ行くと、池には新しい浮島が出来ていた。人々は池の主が代わったので浮島が出来たのだろうと噂した。そしておとわが池の主の許へ発った日には、供物を池に捧げる祭りを執りおこない、今でも祭りは続けられている。
観音寺 小倉大納言の墓(かんのんじ) / 新潟県佐渡市鹿伏
佐渡島は、政治的あるいは思想的な事案で流罪となった者が流された島である。彼らの多くは当代一流の学識を持った文化人であり、佐渡の地に高度な文化をもたらした。そして再び罪を赦されて島を離れた者もあれば、この地に骨を埋めた者もある。小倉大納言実起は、政争に敗れて佐渡に流され、生涯を終えた人物の一人である。
罪を得る数年前までは、小倉大納言は朝廷内でもとりわけ重要な人物であった。娘が霊元天皇の一宮を生み、中宮に子ができなければ次代の天皇とする約束まで朝廷と幕府の間で出来ていた。つまり将来は天皇の外祖父となれる可能性があったわけである。ところが、約束を交わしていた後水尾上皇と徳川家綱が相次いで亡くなると、霊元天皇が五宮に皇位を継がせて、一宮を出家させようと画策を始める。そして延宝9年(1681年)、一宮の出家が決定。それに対して小倉大納言は一宮を屋敷に匿って勅命を拒否したのである。騒動は約半年続き、最終的に武力で制圧した天皇は幕府に処分を要請し、小倉大納言は勅命違反の罪を得て、息子の公連・季伴と共に佐渡へ流罪となったのである。
佐渡に流されてからの小倉父子は、比較的自由に行動することが認められており、和歌に通じていたために地元の者に和歌や漢詩などを教授したとされる。しかし、実起と公連は流罪後わずか2年ほどで病没してしまうのである。
小倉父子の墓は相川の町に近い観音寺にある。罪人の身分で亡くなったためであろうか、墓地の片隅にある墓は大変質素なものであり、墓石は風化が激しくてほとんど文字を読むことは出来ない。案内標示がなければ、全く気付くこともないかもしれない。
小倉実起 / 1622-1684。正二位大納言。明治14年(1881年)に天皇の命により、実起をはじめ公連・季伴・中納言典侍(一宮の生母)の4名は、京都の上御霊神社の相殿に祀られた。明治天皇の子女が相次いで亡くなったことを祟りと見なし、政争によって皇室に恨みを持った小倉親子を“御霊”として祀ったとされる。小倉親子の祟りとは「七代にわたって中宮(皇后)の生んだ子を天皇の地位に就かせない」とされている。実際、霊元天皇によって天皇の座に就いた東山天皇から7世代にわたって10人が天皇となったが、いずれも庶子である(7世代目に当たるのが明治天皇)。8世代目となった大正天皇になって、ようやく皇后の生んだ子が天皇となっている(後の昭和天皇)。ただし中宮を立てない状態で、次位の女御の生んだ子が天皇となるケースもあり、どこまで意識された祟りであったかは微妙である。
観音寺 仏海上人即身仏(ぶっかいしょうにんそくしんぶつ) / 新潟県村上市肴町
「日本最後の即身仏」と言われる仏海上人の即身物が安置される寺院である。
仏海上人は文政11年(1828年)に村上の町に生まれ、16歳の時に湯殿山注連寺に入門、30代半ばに湯殿山仙人沢で荒行をおこなう。その後は本明寺の住職をはじめ、この観音寺の住職を務め、明治36年(1903年)に76歳で永眠、境内奥にて入定した。
この最後の即身仏については、法律という大きな壁が立ちはだかった。上人は生前から土中入定の準備をおこなっていたが、県からの指導で、結局亡くなってからの入定を余儀なくされた(生きたまま入定することは法的には自殺であり、周囲にも自殺幇助で拘束される怖れがあったため)。さらに30年後に掘り出すよう遺言がなされていたが、こちらも墳墓発掘禁令によって延び延びとなり、昭和36年(1961年)にようやく「発掘調査」の名目で掘り出されることとなった。そのためか、掘り出された即身仏はほとんど崩れ落ちてしまっており、新潟大学で修復された後に安置となった。近代化という波に翻弄された即身仏であると言えるだろう。
なおこの観音寺の山門には振袖地蔵と呼ばれるお地蔵さんがある。ある六部が恐山で火車に乗せられた若い女の幽霊に出会う。女には罪科はないが、親の強欲のために責め苦を受けており、改心をして欲しいと訴えた。六部は承知したが、これが真実であると証明するための物が欲しいと言うと、娘の幽霊は着物の片袖を与えた。そして村上にある親元を訪ねて事の次第を伝え、片袖を見せると、親もその事実を認めてこの地蔵を供養として建立したという。
賽の河原(さいのかわら) / 新潟県佐渡市願
佐渡島の北西の突端近く、大野亀と二ツ亀という景勝地に挟まれる位置に賽の河原がある。願(ねがい)という名の集落から海岸線に沿って遊歩道を約1q弱ほど歩いて行く。集落から賽の河原は全く見えない。それどころか、陸地から接近した場合、ほんの手前に行くまで全容を垣間見ることも出来ない。海に向かってだけポッカリと口を開けている海蝕洞穴が、佐渡の賽の河原なのである。
波と風の音しか聞こえてこない洞穴の中には、多数の地蔵が置かれて、さまざまなお供えが見られた。そして石ころだらけの浜辺には、明らかに人工的な石積みがなされていた。余計なものは何もない。ただひたすら鎮魂と祈りを捧げる場所なのである。
この賽の河原にまつわる伝承は、いずれも奇怪な話である。「賽の河原にあるものを持って帰ってはならない」という。それは石一つでもいけない。持って帰ると必ず家に不幸なことが起こるのだという。また「積み石を崩しても、翌日になるとちゃんと元通りになっている」とのこと。亡くなった子供の霊が夜中の内に積み直しているのだという。
宗龍寺 龍宮の鐘(そうりゅうじ) / 新潟県上越市名立区名立小泊
寛延4年(1751年)、越後国高田を中心とした大地震が起こった。この地震では高田城下をはじめ約1000〜2000人が死んだとされるが、とりわけ被害が酷かったのが小泊村であった。いわゆる“名立崩れ”と呼ばれる、海岸段丘がほぼまるごと崩落するという大惨事が起こっている。現在でも名立崩れの跡を確認することは可能であり、幅1km、高さ100m以上の台地部分が崩落したことが分かる。
記録によると、小泊村にあった91軒のうち3軒を除いて全てが土砂に押し流され、海中に沈んだ。そして406名が亡くなったとされ、村は壊滅状態となったのである。再び元の村の状態に戻ったのは幕末から明治にかけて頃。100年以上の時を経てようやくであった。
名立崩れの悲劇を今に伝える遺物が宗龍寺にある。高さ約1mほどの梵鐘であるが、数奇な運命をたどって現在に至っている。
名立崩れから数十年ほど経った頃、この付近の海の中から奇妙な海鳴りがするという噂が立った。その不気味な音に人々は「名立崩れで海中に沈んだ人々の無念の声である」とか「海の神様の怒りの声だ」と信じて、ほとんど近寄ろうとしなかった。明治の初め頃になって、ある者がその音の正体を確かめようと海に潜ってみたところ、海の底の岩に挟まれて沈んでいた梵鐘を見つけたのであった。潮流の加減によって梵鐘が鳴っていたのである。人々はこれを引き揚げて、再び宗龍寺に奉納した。そして名立崩れで沈んだ鐘が奇跡的に元に戻ったのは、乙姫が奉納したためだとされ、この梵鐘は「龍宮の鐘」と呼ばれるようになったのである。
それから時が経ち、戦時中に金属供出の危機が訪れたが、この梵鐘の由来を知る地元名士が奔走して供出延期を勝ち取り、ついに終戦を迎えたという逸話も残る。
龍宮の鐘は、名立崩れによって流された時の衝撃で、本来64個あるべき乳(梵鐘上部にあるイボのような突起物)が27個欠けている。しかし桃山時代以前に造られたとされる梵鐘は音色も良く、除夜の鐘として時折鳴らされることもあるらしい。
名立崩れ
古文書や地質学の面からこの大崩落の全容は明らかになっているが、この大災害が起こった時の伝説が今でも残っている。空が大火事になったように赤くなったり、昼というのにどんよりと暗くなったりする日が続いていた折、ある旅の僧が小泊の村に訪れた。村人が天気の異変について尋ねると、僧は「古来よりこういう異変がある時は、天地がひっくり返り、村が丸ごと飲み込まれる前兆」だと答えた。村人はそれを聞いて怒り出して僧を追い払ったが、お今という娘だけはそれを信じて、僧の言う通り、その夜に村を逃げ出した。そしてその夜、名立崩れが起こり、村人の中でたった一人生き延びたお今がこの惨事を役所に伝えたのだと言われる。現在、宗龍寺のすぐ近くに名立崩れで亡くなった人々のための慰霊碑「名立崩れ受難者慰霊碑」がある。
童女石(どうじょいし) / 新潟県胎内市下赤谷
胎内市には「越後胎内観音」という、青銅製の観音としては日本一の像がある。これは昭和42年8月に起きた羽越水害の犠牲者の冥福を祈ると共に国土の安全や平和の祈念を込めて、昭和45年に建立されたものである。そして、この観音像を祀る地に不思議な石が安置されている。
昭和46年、この胎内観音に参拝した新潟市在住の男性が、近くで石を拾い持ち帰った。泥を落とすと、おかっぱ頭の少女の顔とはっきりと分かる石の模様が浮かび上がっていることに気付いた。おそらく先の水害で亡くなった人の念が浮かび上がったものと感じた男性は、この石を胎内観音にある帰林殿に納めたのである。これが童女石と呼ばれる石の来歴である。
大きさは大人の拳2つ分、それほど大きいものではない。また童女の顔の模様も数センチ四方のものであるが、ただ非常に鮮明なものである。またこれを見た地元の女性が、羽越水害で行方不明となった少女によく似ているという証言をしており、この石は奇怪な心霊現象として広く知られるところとなったのである。
だがこの帰林殿を訪れ、大切に安置されている姿を見ると、興味本位の恐怖感よりもむしろ荘厳な神秘を感じるところが大きい。石の模様を水害で亡くなった少女の霊の表象であると、多くの人が信じて祀っている事実そのものが、心霊現象であるか否かの論議を越えて、災害の記憶を後世に残そうという大きな意志を感じさせるのである。この童女石はまさしく“水害の伝承”として語り継がれるものなのである。
猫又稲荷(ねこまたいなり) / 新潟県上越市大町
正式名称は土橋(つちはし)稲荷神社。猫又稲荷と称するのは、次のような伝説が残されているためである。
天和年間(1681-1684)の頃、重倉山というところに化け物が住み着き、里に下りてきては家畜ばかりか人も襲い危害を加えていた。そこで人々は高田郡代所へ訴え出て、岡当治郎兵衛が役人を引き連れて退治に向かった。中ノ俣という場所で化け物と遭遇して戦うが、矢も鉄砲の弾も撥ね返すような身体で、全く歯が立たない。そこへ中ノ俣に住む吉十郎という男が退治を申し出てきた。単身で挑んだ吉十郎は長い死闘の末、遂に化け物を仕留めたのである。しかし自身も深手を負い、息絶えてしまったのである。
退治された化け物は郡代所の前に置かれ、人々が見物に来たが、子牛ほどの大きさの猫であった。この後、化け猫の死骸は埋められて、その上に稲荷神社が建てられた。それが土橋稲荷であり、猫又稲荷の別名の由来である。ただし現在は猫又にまつわる痕跡は何一つ残されていない。
婆々杉(ばばすぎ) / 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦
越後一ノ宮・弥彦神社の北隣にある弥彦競輪のさらに北隣に位置する宝光院の境内にあるのが婆々杉である。樹高約40m、幹周り約10m弱の巨木は玉垣に囲まれており、威容を誇っている。
この巨木の名の由来であるが、越後を中心に各地に伝承される“弥三郎婆”にちなんで付けられている。それぞれの地方によってさまざまな妖怪伝承が入り混ざったバリエーションを持つ伝説の主人公であるが、大まかには次の3つの出自がある。
猟師をしていた弥三郎には年老いた母がいたが、あるとき生まれたばかりの孫の子守をしている最中に、可愛さのあまりに赤子を食ってしまった。そのために老母は鬼と化し、子供を攫って食い殺したという。食人行為から鬼と化してしまったというパターン。
弥三郎という者が狼に襲われて逃げると、狼は首領である弥三郎婆を呼び出す。勇をふるった弥三郎は鉈で怪物の腕を切り落とし、それが元で弥三郎婆の正体が知れてしまったという。いわゆる“千疋狼”の伝承を色濃く残すパターン。
承暦3年(1079年)、弥彦神社造営の棟上げ式が行われたが、その時に社家である鍛冶匠・黒津弥三郎と工匠の間でいさかいが起こった。結局論争に敗れた黒津家では、弥三郎の母親がその怒りの念からついには鬼と化して、さまざまな悪行を繰り返したという。弥彦神社との関連性を示すパターン。
いずれにせよ、弥三郎婆は子供の捕まえて喰らうという鬼婆として広く知られている。また悪行以外には、世話になった村の若者のために嫁を見つけて(嫁は大阪の鴻池家から攫ってきた)、最終的に裕福にさせてやることもしている。そして悪行の限りを尽くした後に、弥三郎婆は改心して“妙多羅天女”という神になり、子供の守護神や縁結びの神として祀られることとなる。とにかくさまざまな伝説が取り混ぜられて形成されていることが分かる。
婆々杉についての伝承では、弥三郎婆はこの木に死体を引っ掛けて見せしめにしたとも言われ、またこの木の下で改心して妙多羅天女となったとも伝わる。現在でもこの木の下には妙多羅天女を祀る祠が置かれている。
弥三郎婆の伝説に含まれる伝説 / 人を食ったことがきっかけで鬼と化すのは“鬼婆”の伝承そのものである。また弥三郎婆が手を切り落とされ、それを取り戻そうとする展開は“茨木童子”の伝承を彷彿とさせる(茨木童子と酒呑童子は越後の出身であるという説も存在する)。さらに狼の群れを率いる、老婆に化けた怪物という設定は“千疋狼”の伝承の典型である(弥三郎婆の出自の1つである黒津家が“鍛冶匠”であることも関連があるかもしれない)。そして婆杉のある宝光院に残されている縁起では弥彦神社の神意によって妙多羅天へと改心するくだりがあり、神社の神威を示していると言える(宝光院は、廃寺となった弥彦神社の神宮寺の流れを汲む寺院である)。その他にも、妙多羅天女と鬼子母神との共通点なども挙げることが出来る。
人柱供養堂(ひとばしらくようどう) / 新潟県上越市板倉区猿供養寺
上越の奥深くにあるこの地区は、古くから地滑り災害が多発している。この人柱供養堂も、その地滑りの災害を防ぐために命を賭した人物を祀るために建てられたものである。
猿供養寺地区には以下のような伝説が残されている。ある盲目の旅僧が信州から越後へ抜けようとしてこの近くの峠を通りがかった時、大蛇たちがこの辺り一帯で地滑りを起こして住処の池を作ろうという密議をしているところに出くわした。運悪く大蛇に見つかった旅僧は、この密議を口外しないと誓わされて解放された。しかし、猿供養寺での地滑りの惨状を知った旅僧は大蛇の密議を暴露して、大蛇のはかりごとを妨害した。そして最後に残された妨害である「人柱を立てる」ことを成就させるため、大蛇の秘密を漏らして既に命を狙われている自らを人柱とするように頼み、そして埋められた。このことによって、大蛇たちのはかりごとは叶わず、この地区における地滑りは起こらなくなったという。
ここまでの話であれば、全国に各地に残された人柱伝説と同じようなものであったが、昭和12年(1937年)3月、この伝承が残る土地で客土採掘中に大甕が発見され、その中に座禅を組んだ状態の人骨を確認したのである。そして昭和36年(1961年)に、この人骨が関西系の40〜50歳の男性のものであることが分かり、この人柱伝説が事実であることと確かめられたのである。
現在のお堂は平成になってから建て直されたものであり、隣接して「地すべり資料館」という自然科学系資料館がある。またこの人柱供養堂は地滑りを食い止めた僧を祀るということで、合格祈願(「すべらない」ということ)のお守りを授与しているとのこと。
真浦霊蹟(まうられいせき) / 新潟県佐渡市真浦
鎌倉幕府に対する重ねての諫言などにより日蓮は捕らえられ、龍ノ口において斬首に及ぶも、奇瑞によって九死に一生を得て、佐渡に流罪となる。文永8年(1274年)のことである。それから約4年間、日蓮は佐渡の地に留まる。
その間に、日蓮が予言していた外敵の襲来が実際に起こり(文永の役における元・高麗の襲来)、初めは過酷であった流人生活も、幕府によって寛大なものとなった。そして文永11年(1277年)の3月、ついに赦免の知らせが届く。そこで日蓮は真浦へ赴き、そこから対岸の寺泊に船を出すこととなった。
まだ月明かりが残る頃、日蓮を乗せた船は沖へと進んでいった。真浦の浜には、日蓮に帰依した多くの弟子達が別れを惜しんで題目を唱える。それに応じるかのように、船上の日蓮も題目を唱えると、海面のさざめく波が月光に映え、それが“南無妙法蓮華経”の題目の文字となって見えたのであった。それ以降、深く信心する者が月明かりの下でこの地の海面を見ると、波間に題目が見えるようになったという。この奇瑞により、真浦の地には波題目の碑が建てられ、日蓮聖人の聖蹟として信仰の対象となっている。また近くには、日蓮が風待ちのために一夜を明かしたという洞窟や、帰依者の子孫が建立した日蓮堂がある。
龍ノ口法難 / 日蓮の四大法難の一つ。幕府への諫言を口実に捕らえられた日蓮は佐渡流罪を命ぜられるが、秘密裏に鎌倉郊外の龍ノ口刑場で斬首する手筈となった。そしてまさに首を斬ろうとした時、江ノ島方面から“光り物”が飛来し、処刑は中止となった。その後、命令通り日蓮は佐渡へ流罪となる。
目洗い地蔵(めあらいじぞう) / 新潟県佐渡市達者
説経節で有名な『山椒大夫』の最終場面は佐渡の地である。安寿と厨子王の二人の子供と引き離された母親が人買いに売り飛ばされたのが佐渡であり、悲しみのあまりに盲目となってもなお二人の身を案じて、米をついばみにくる雀を追い払いながら二人の名を歌い続けている。そこへ帝によって取り立てられた厨子王が、母の噂を聞きつけて佐渡を訪れて再会するのである。
佐渡島にも安寿と厨子王の伝説は残されているが、有名なあらすじとは異なる展開となっている。
安寿と厨子王の二人は山椒大夫の手から逃れることに成功し、帝によって父の名誉も回復した後、売られた母親を探しに佐渡に辿り着く。ところが佐渡の島は思いのほか広く、二人は手分けして母の行方を尋ねたのである。最初に母を見つけたのは姉の安寿であった。盲目となって鳥を追い払う母の姿を見て安寿は思わず駆け寄るが、日頃から島の子供から同じようなことをされていた母は、いつもの悪戯と思って棒で安寿を打ち据えたのである。すると当たり所が悪く、安寿は死んでしまう。安寿の供の者に聞いて、実の娘を誤って死なせてしまったことを知った母は、泣く泣く遺骸を浜の近くに葬ったのである。そしてせめて厨子王とだけは声だけでも交わしたいと、供の者に頼んで厨子王の許へ案内してもらうのである。
一方、厨子王も母の居場所を知って相川の町から北へ向かった。そして二人は途中で巡り会い再会を果たしたのである。その時二人は「達者で会えて良かった」と言葉を交わしたので、この地は“達者”と呼ばれるようになったという。さらに、厨子王が近くの清水で母の目を洗うと、目が見えるようになったのである。そこでこの清水は眼病に霊験あらたかということで、いつしか湧き水の場所に目洗い地蔵が祀られるようになったのである。
目洗い地蔵のある場所には、今でも清水が湧き出ている。そしてそのそばに「安寿地蔵堂」が建てられ、地元の人によって清水を利用した風呂が開放されている。
『山椒大夫』 / 無実の罪で筑紫に流された陸奥国の太守・岩城判官を追って、妻と二人の子供(安寿と厨子王)が旅に出るが、途中の直江津で人買いに騙され、母は佐渡へ、子供達は丹後の山椒大夫に売られる。二人は下僕となってこき使われ虐め抜かれ、遂に安寿は自らの命を絶って厨子王を逃がす。国分寺の住職の助けもあって京へ行った厨子王はやがて帝の目にとまり、父の罪を赦され、さらに太守となる。そして山椒大夫らを成敗し、佐渡へ行って母と再会する。
山姥の里(やまんばのさと) / 新潟県糸魚川市大字上路
富山県との県境に上路(あげろ)という集落がある。この地が、世阿弥作の謡曲『山姥』の舞台である。
今日の都に曲舞を得意とする“百万山姥”と呼ばれる白拍子がいた。ある時善光寺へ行こうと旅をして、この上路の地までやってくると日が暮れてしまう。すると一人の婦人が宿を貸し、白拍子に山姥の舞を所望する。そして自分は山姥の霊であると明かし、白拍子が山姥の真性を心得ていないことを恨めしいと伝える。約束通り白拍子が舞い始めると、真の姿の山姥が現れ、その生き様を物語り、山廻りの様子を見せるといずこともなく消え去ってしまう。
山間にあって人を襲うという化け物然としたイメージとは全く異なる、むしろ教養高く、山の精霊や仙境の住人のような印象すら与える存在であると言えるだろう。この山姥を祀る神社や伝承の物件が、上路にはいくつか点在しているのである。
山姥が住んでいたという洞穴は相当山奥になるが、神社は里に置かれている。そして神社のすぐそばには「金時のぶらんこ藤」と呼ばれる太い藤蔓があり、また「金時の手玉石」や「山姥の日向ぼっこ岩」が道路脇にある。おそらく“山姥=坂田金時の母”というイメージによって後世に後付けされた伝承も多分にあるようだが、この上路の山姥は基本的に気性の穏やかな、神に近い存在であり続けたのだと想像できる。
坂田金時 / 生没年不詳。幼名は金太郎・怪童丸。源頼光の四天王の一人。相模国の足柄山で、山姥の子として生まれたという伝承を持つ。赤い龍が雷鳴と共に訪れた夢を見た山姥が身ごもったとされ、雷神の子であることが暗示されている。 
金田新田(かねたしんでん) / 新潟県佐渡郡小木町
佐渡島南西に突出た小木おぎ半島の中央部の台地、見崎野みさきのにある。小木半島はたんに岬とも呼ばれ、見崎・三崎とも記す。半島の北側は外岬そとみさき、南側は内岬と称し、自然集落はほとんど外岬・内岬の澗まと呼ばれる小さな入江ごとに成立し、江戸時代には一六カ村(すべて現小木町)を数えた。見崎野はこれら集落の後背地にあたり、その山野は一六カ村組合の入会地であった。
近世以前、この山野は羽茂本郷はもちほんごう(現羽茂町)に拠点をおく地頭羽茂本間氏(羽茂殿)と吉岡よしおか(現真野町)に拠点をおく地頭吉岡本間氏(吉岡殿)の共同の牧場として利用されていた。このことで地元岬の人々の山野の利用に制限をうけたときには、野面公事のもくじ役に任ぜられた木野浦きのうら(一六カ村の一)の者が、岬の人々と羽茂殿・吉岡殿の間の調整役をつとめていた。万治元年(一六五八)の木野浦区有文書の伝えるところによると、羽茂殿・吉岡殿は、岬の人々の願いで馬留の土井を掘り、村人の利用地との境としたが、それでも馬を留めることができなかったので、期限を切って馬をつなぐことになった。そのかわり、馬の飼料代を岬の人々から徴収することにした。飼料代を徴収し、羽茂殿・吉岡殿に納めるのも野面公事役の仕事であり、公事役として給恩を得ていたという。
さて同文書によると、この年、宿根木しゅくねぎ村と田野浦たのうら村(いずれも一六カ村のうち)との間で山争論があったが、事件のあらましは、木野浦の「野むくし」(野面公事)によって佐渡奉行所に報告されている。中世以来の慣習が、近世に入ってもしばらくはつづいていたのである。しかし、この争論の際に田野浦村の者が馬留の土井を切り崩し、「野むくし」が奉行所に対して元通りにして欲しいと願い出ている。この馬留の土井の破壊行為は、岬の人々が中世的慣行を自ら崩すことを象徴しているようにもみられる。
この山野に金田新田が一村として成立したのは天保一二年(一八四一)である。開発人は松まつヶ崎さき(現畑野町)の廻船業者多右衛門(金田六左衛門家)で、当時佐渡奉行所の蝋燭請負人をしていた。文政一三年(一八三〇)の金田六左衛門家文書によると、多右衛門の趣旨は佐渡国産の蝋実が少なく、他国から高値で買い入れているが、生蝋にする櫨はぜの種子を買って広大な見崎野で生産すれば、国産の品物にもなりうるし、結果的には佐渡国にとって節約となるというものであった。
多右衛門がこのように考えた背景にはどのような事情があったのであろうか。『佐渡近世史年表』をみると、宝暦九年(一七五九)に奉行所から各村へ、酒・塩・茶・たばこ・布・木綿その外一切の道具器物は、品が悪いといって他国から買い栄耀してはならない。金が国外へ流出するから、下品であっても島内産を使うこと、などの箇条書の触れが出されている。翌一〇年には他国から入る品には高い関税をかけ、佐渡から出る蓙苫莚塩魚干魚の類いには税を軽くするという役銀改めが行われた。やがて明和四年(一七六七)、不作による国中大騒動が起こり、天明・天保の飢饉が佐渡を襲っている。佐渡一国の経済不況をなんとか乗り切らねばならないという時期であったのである。
さて開発するにあたっての大きな問題は、この山野が入会地としての一六カ村の慣行が長い間つづいてきたという点であった。当時奉行所には見崎野一七四町八反歩のうち三分の一を残して御林に取立てる計画があり、村々からは野山が狭くなって生活に困るという訴えが出ていた。そこで試しに一七町歩を御林とし、年を追って村方に支障がないことが明らかとなれば、全体を御林にするということであった。多右衛門が櫨を植えたのは、まずこの御林取立のつもりの一七町歩においてであった。
天保二年、多右衛門は野山の一部を放棄した一六カ村組合の村々へ野役米を代償として支払うことで開発の同意を得ている(金田六左衛門家文書)。いっぽう開墾地へは、住宅の提供と、耕地は開発した本人がつくるという条件で百姓を募集した。こうして開発された耕地からの収穫物は、天保一〇年には櫨の実一五石をはじめ、麦・粟・蕎麦・ひえ・大豆・えん豆・大根・きび・小豆・たばこが書上げられ、五二貫文の利益が出たと奉行所に報告された(同文書)。
多右衛門について、渡部次郎氏の「佐渡国小木港の社会経済史的研究」には、「彼の性格は剛毅であった。旺盛な彼の企業心がよくこれを物語っている。奉仕・廉直が彼の美徳であった。文政五年の不作の際に、米銭を散じて困窮者を救い、佐渡奉行所から白銀十枚を賞与された」と伝えている。 
    瞽女唄 
 
富山県 / 越中

 

静岡山梨長野新潟富山石川福井岐阜愛知

立山に降り置ける雪を常夏に 見れども飽かぬ神ながらならし 大伴家持
立山・雄山神社 / 中新川郡立山町
大宝元年(701)、景行天皇の後裔であるといふ越中国司・佐伯有若の子、有頼少年が山に狩りに行き、白鷹に導かれて熊を追って岩窟に至ると、どこからか神の声が聞えた。「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或いは鷹となり、或いは熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」。この雄山の神の神勅により、開山されたのが立山であり、雄山の神をまつったのが雄山神社であるといふ。有頼少年は末社の若宮にまつられてゐる。
○ 立山たちやまに降り置ける雪を常夏に 見れども飽かぬ神ながらならし 大伴家持
月訪ひの桜 / 下新川郡宇奈月町
宇奈月うなづき町浦山の鶏野けいや神社に「月訪ひの桜」といふ桜があり、大伴家持が植ゑたものといふ。
○ 鶏とりの音も聞えぬ里に夜もすがら 月よりほかに訪ふ人もなし 伝大伴家持
大伴家持 / 高岡、新湊、氷見、大門
大伴家持は、天平十八年(745)から天平勝宝三年(754)までの九年間、越中守として国府(今の高岡市伏木)に赴任し、数多くの歌を残してゐる。国府に近い今の新湊市付近の海を、奈呉なごの海といひ、古代から栄えた港があった。
○ あゆの風いたく吹くらし奈呉なごの海人あまの 釣する小舟こぎ隠る見ゆ 大伴家持
新湊市の放生津ほうしょうつ八幡宮の宮司家の大伴氏は、家持の子孫であるといふ。家持が在任中、宇佐八幡神を勧請したのがこの八幡宮の始りといはれ、もとは「奈呉八幡宮」と称したが、放生会(殺生を忌んで夏に魚を放つ儀式)が行なはれてから放生津の地名がおこり、社名ともなった。
射水郡大門町の豪族の真田家を家持が訪れたとき、真田家は清水川の葦附(海苔のやうなもの)を調理してもてなしたといふ。そのときの家持の歌。
○ 雄神川紅くれなゐ匂ふ少女をとめらし 葦附あしつき採ると瀬に立たすらし 大伴家持
家持と真田家の娘の深雪の間に生まれた子は、為信といひ、越中大伴氏の初代となった。また、家持とともに赴任した子、明麻呂が家臣とともに越中に残って大伴氏となり、後、北海道へ移ったともいふ。
氷見市周辺には、大伴家持ゆかりの物を御神体とする神社も多い。氷見市大浦の「日の宮神社」は、家持の玉と鏡を御神体とする。大浦は往時「耳浦」といったらしい。
○ 久米山の木の間さやかに照らせるは 耳浦につく有明の月 伝大伴家持
高岡市上牧野には南北朝のころ、宗良親王が三年ほど住んだといふ。有磯海とは越中の沖の広い海をいふ。
○ 有磯海ありそうみの浦吹く風もよわれかし いひしままなる浪の宵かは 宗良親王
○ 今はまた訪ひ来る人も奈呉の海に しほたれて住むあまと知らなん 宗良親王
雀の長者
呉羽山麓・長岡村の雀の長者と、礪波郡別所の七山長者とが、お互ひの財宝の自慢をしあったとき、なかなか勝負がつかないので、宝の隠し場所を当てる賭けをすることになった。二人は謎かけ歌を示した。
○ 一月また一月 両月ともみな半遍 何ほどの無量のつみかあるとても
 みのほどまゐれ 助けたまふぞ 七山長者
○ うるし千杯種千杯 黄金の鶏がひとつがひ
 朝日かがやく夕日さす みつはうつぎの下にある 雀の長者
雀の長者は、歌の謎を見破られて隠し場所を当てられ、全財産を取られて一夜のうちに滅びたといふ。
山田男と白滝姫 / 婦負郡山田村
婦負郡山田村に山田温泉がある。昔この村のある男が、京の公家の家に奉公に出て、屋敷の庭を掃いたり薪を割ったりして仕へてゐた。家には白滝姫といふ美しい娘がゐた。男がある日、風呂をわかしたところ、白滝姫が入らうとして熱いとわかり、男は桶で水を運んだ。その水がこぼれて姫の袖を濡らした。そこで姫が歌を詠んだ。
○ 雨さへもかかりかねたる白滝に 心かけたる山田男をの子よ 白滝姫
すかさず山田男は歌を返した。
○ 照り照りて苗の下葉にかかるとき 山田に落ちよ白滝の水 山田男
姫は、山育ちの男が意外にも見事な歌を返したのに感心した。この歌が縁で、男は身分を越えて姫との結婚を許され、故郷に帰り、姫と終生仲睦まじく暮らしたといふ。姫の輿入れのとき京から持参した二枚の鏡のうちの一枚は、山田村の鎌倉八幡宮に今もあるといふ。「山田」といふ地名の各地に似た話があり、他所では姫が泉に入水する悲恋の話が多い。群馬県桐生市(旧山田郡)では、白滝姫が機織を伝へたとされる。
佐々成政 / 富山
天正のころ、越前越中の一向一揆の鎮圧の功績を織田信長に認められ、富山城主となった佐々成政に、早百合といふ愛妾があった。あまりの溺愛ぶりに他の側女たちが嫉妬し、早百合と家臣の岡島某とが密通したとの噂を宣伝した。これを聞いて怒り狂った成政は、二人を神通川(磯部町)の榎に逆さ吊りにして斬り殺した。早百合の怨霊は国中をさまよひ歩き、立山の黒百合の花となったといふ。
成政は、本能寺の変の後、秀吉に従ふことをよしとせず、三河の徳川家康に同盟をはたらきかけるために、冬の立山を越えて三河に赴いたが、成果はなかったやうだ。
○ みすず刈る信濃路さして一百騎 佐々成政の越えし峠か 川田順
五箇山
五箇山ごかやま地方の民謡の「麦や節」は、明治のころまで「輪島」と呼ばれた唄で、輪島素麺で知られる能登の粉挽き唄が移入したものであることは確からしい。五箇山地方は、加賀藩の流刑地でもあったことから、輪島出身のお小夜といふ遊女が流罪となって、この地に来て伝へた唄ともいふ。お小夜の悲恋の話も伝はる。平家落人伝説もある。
○ 麦や菜種は二年で刈るが 米はお禄で年はらみ 麦や節
○ 屋島出る時ゃ涙で出たが 住めば都の五箇の山 麦や節
諸歌
○ 小矢部川雪解けをもる吾妹子の 矢羽根紫袂香ふも 棟方志功 
 

 

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越 / 越前・越中・越後の国の総称。北陸道。
○ かりがねは歸る道にやまどふらむ越の中山かすみへだてて
○ たゆみつつそりのはや緒もつけなくに積りにけりな越の白雪
○ あらち山さかしく下る谷もなくかじきの道をつくる白雪
○ ねわたしにしるしの竿や立ちつらむこひのまちつる越の中山
○ しほそむるますをのこ貝ひろふとて色の濱とはいふにやあるらむ
○ わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山
○ 月はみやこ花のにほひは越の山とおもふよ雁のゆきかへりつつ
「越の中山」越後の国の妙高山説が有力ですが、越前との説もあります。
「あらち山」有乳山。近江と越前の国境にある。越前の歌枕。愛発(あらち)山は当て字。
「色の濱」福井県敦賀市色浜。
「しら山」注解では「加賀」とあるも、越の白山だと思われます。石川県、富山県。福井県などにまたがる山で、越前の歌枕です。 
磯部の一本榎(いそべのいっぽんえのき) / 富山県富山市安野屋町
護国神社のそば、神通川に沿って流れる松川は桜並木で有名であり、「磯部のさくら」と彫られた碑が建てられている。そのすぐそばに1本の榎が植えられている。これが磯部の一本榎と呼ばれ、怪異の伝説が残されている。
織田信長配下であった佐々成政は越中の大名であったが、柴田勝家と共に羽柴秀吉と敵対関係にあった。賤ヶ岳の戦い後、秀吉に与する大名に囲まれた成政は、徳川家康に接近して打倒秀吉を画策した。ところが天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いで突如秀吉と家康は和睦する。慌てた成政は家康説得のために、蛮行に近い行動を取った。越中から真冬の立山・北アルプス連峰を縦走して信濃を抜けて、浜松にいる家康に直談判をしようとしたのである。この(さらさら越え)と呼ばれる行動も虚しく、成政の再挙要望を家康は拒否、失意のうちに成政は富山に戻っていった。
ところが富山に戻った成政は信じられない噂を聞く。最も可愛がっていた側室の小百合が小姓・竹沢熊四郎と不義密通、懐妊している子も竹沢のものというのである。怒りに駆られて熊四郎を斬り捨てると、成政は小百合の髪を掴んで神通川のほとりの榎の木まで引きずっていき、髪を逆手に持ち上げてそのまま吊し斬りにしたのである(一説では榎に縄で宙づりにして斬り刻んだとも)。無実の罪で殺される小百合は歯を噛み砕き、血の涙を流して「悪鬼となって、数年のうちに子孫を殺し尽くして家名断絶させる」と罵り叫んだという。また「立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する」とも言ったという。
その後、この榎には怪異が起こるようになった。風雨の夜、この付近に女の生首と鬼火が現れ、それは「ぶらり火」と呼ばれるようになった。またこの榎の下を「小百合、小百合」と七回呼びながら回ると、小百合の亡霊が現れるとも伝えられた。
小百合を斬殺してから佐々家は凋落、成政は秀吉に降伏して越中の太守から秀吉の御伽衆となった。そして後に肥後一国を与えられるが、国人一揆を誘発した罪によって摂津の尼崎で切腹。天正16年(1588年)、小百合が殺されて僅か4年足らずの出来事であった。
小百合斬殺とその後の怪異については、実は、その後に越中の支配者となった前田家が統治の手段として流した噂話であるとの説もある。明治の頃まで人魂が出ると言われた一本榎であるが、戦災によって焼き払われてしまい、現在あるものは2代目ということである。また榎のすぐそばには小百合の霊を慰めるべく早百合観音堂がある。
佐々成政 / ?-1588。織田信長配下の黒母衣衆の一人。柴田勝家の与力となり、本能寺の変の時には越中一国の太守であった。勝家と共に秀吉に対抗するが、最終的には降伏する。その後秀吉から肥後一国を与えられるが、統治に失敗(最も一揆の起こりやすい国を任せて滅ぼす、秀吉の陰謀とも言われる)、切腹を命ぜられる。
さらさら越え / 日本の登山史上の偉業とされる、厳冬の立山・北アルプス縦走。豪雪エリアのザラ峠を越えたとされるため、この名が付けられたとも。佐々成政以下約50名ほどで出発したとされるが、辿り着いたのは約10名ほどであったと言われるほど厳しい走破であったという。そして往路だけではなく、復路も同じルートを取って富山に戻ったと推測される。またこの時、峠のあたりで人家を発見、中には源平の合戦で名を馳せた平景清と五十嵐(平)盛継がおり、彼らに世の移り変わりを教え、また彼らから信濃へ抜ける道を教えてもらったという伝説がある。さらにこのさらさら越えに関連して、成政の埋蔵金が立山山中のどこかにあるという伝説も残されている。
小百合の「黒百合伝説」 / 小百合が立山の黒百合に呪詛を託したとされるが、『絵本太閤記』では次のような逸話がある。秀吉に降伏した後に大阪に移ってきた成政であるが、ある時、秀吉正室の北政所に黒百合を献上した。北政所は珍しい花と聞いて、茶会を催して披露してみせて自慢した。ところが数日後、側室の淀君の茶会に招かれると、同じ黒百合が他の花と混じって無造作に生けてあるのを見た。噂をどこかから聞きつけた淀君が内密に取り寄せたものだったが、これを見た北政所は激怒し、ことあるたびに成政を悪し様に言い続けた結果、ついに肥後での失政を問われて死を迎えたという。また僅か3年ほどの間に失脚し断絶した佐々家の凋落そのものが、小百合の祟りのせいであるという説もある。
お小夜塚(おさよづか) / 富山県南砺市小原
世界遺産登録の五箇山にある。しかし合掌造りの集落とは異なる地域で、一時代昔の農村風景と言ってもおかしくないような場所にある。
五箇山は今でも秘境という印象があるが、昔から人が通えないような土地として、加賀前田家の流刑地にされていた。この塚の主のお小夜も、加賀藩の罪人としてこの地に連れて来られた一人である。
お小夜は能登門前町の貧農の家に生まれ、13歳の時に近くの輪島にある素麺屋へ奉公に出された。そして18で年季を終えて実家に戻ると、今度は金沢の遊女に売られてしまう。
当時の金沢では遊郭の営業は認められていなかったが、お小夜の雇い主は、加賀藩士の高崎半九郎らと結託して密かに出会茶屋を経営していた。それが発覚したため高崎らは流刑、商人らも極刑などに処せられたのであった。そして店で働いていたお小夜ら遊女20名も流罪と決まったが、決まった流刑先が輪島であったため、お小夜だけは郷里に近いという理由から、一人五箇山への配流となったのである。元禄3年(1690年)、お小夜が21歳の時であった。
五箇山でのお小夜の待遇はそれほど過酷ではなかった。監禁されることもなく、集落内は出歩ける自由もあった。そのうちお小夜は遊郭で習った歌や踊り,三味線などを村人に教えるようになる。村人も彼女の技芸に憧れ、そしてお小夜も集落になじんで暮らすようになったという。
比較的自由な生活をしていたお小夜は、村の若者・吉間と恋仲となった。しかし子を身籠もってしまったため、状況は一変する。流刑の身の者と集落の者が結婚することも子をなすことも御法度であった。このままでは村にも累が及ぶと思い悩んだお小夜は、とうとう庄川へ身を投げて死を選んだのである。
現在、五箇山に伝わる民謡に“お小夜節”がある。お小夜の不幸を哀れんだ村人達が歌い出したものであるという。さらに五箇山の代表的民謡の“五箇山麦屋節”も一説では、輪島の素麺屋で覚えた歌をお小夜がもたらしたものであるとも言われている。「民謡の宝庫」と呼ばれる五箇山にあって、お小夜はなくてはならない人物なのである。 
五箇山 / 集落の始まりは、倶利伽羅峠の戦いで源氏に敗れて逃げ落ちた平家の落人であると言われる。また南朝遺臣が現在残されている風習をもたらしたともされる。江戸時代は加賀藩の所領となり、流刑地であると共に煙硝の生産地として外との接触が極力抑えられてきた。平成7年(1995年)に合掌造りの集落として白川村と共に世界文化遺産登録。
如意の渡し(にょいのわたし) / 富山県高岡市伏木
高岡市伏木はかつて越中国の国府が置かれた土地である。後に小矢部川の河口付近で海運も盛んになった。この河口には、昔から如意の渡しと呼ばれた渡し船があった(平成21年に廃止)。
兄の頼朝から追われる身となった源義経一行は、奥州への逃避行の際に、この伏木から渡し船に乗ろうとした。ところが、舟守の平権守は義経主従ではないかと疑念を持ち尋問をした。それに対して弁慶はとっさに「この者は白山から連れてきた御坊であり、義経と間違われるのは心外である」と言うと、扇で散々義経を打ち据えたのである。これによって権守の疑念は晴れ、無事に対岸へ渡ることが出来たという。
この逸話は『義経記』に記されているが、いつしか安宅の関での話とされるようになり、歌舞伎の『勧進帳』や謡曲の『安宅』の創作によって、この地で起こった逸話であることがますます忘れ去られてしまった感がある。
現在、渡し船が運航されていた場所には、義経を打ち据える弁慶の像だけが残されている。
『義経記』 / 室町時代初期に成立したとされる。源義経の生涯を描いた作品であるが、多分に創作的伝承で彩られているため、史料的価値は低いとされている。
安宅の関 / 石川県小松市にある史跡。加賀国守護の富樫氏が設けた関所とされる。歌舞伎『勧進帳』では、関守の富樫泰家が義経一行を見咎めるが、弁慶が機転を利かせて偽の勧進帳(ここでは東大寺再建のための資材を集める趣意書)を読み上げ、さらに疑念を晴らすために義経を金剛杖で打ち据える。富樫は義経主従であることに気付いているが、その心情を慮ってわざと見逃すという展開となる。
義経岩 / 富山県高岡市太田
平家追討に成功した直後より、源義経は兄である頼朝と対立し、やがて全国に追捕の令を出されるに至って京都より脱出、奥州藤原氏を頼って逃避行をおこなう。この時に辿った経路は諸説あるが、最も有力なものが北陸道を山伏・稚児姿で東大寺再建の勧進をおこなうと見せかけて北上したとされるものである。それ故、石川から富山にかけてさまざまな義経伝説が残されることになる。この義経岩もその有名なものの一つに挙げられる。
越中にまで辿り着いた義経一行であるが、この海岸で急な雨に遭ってしまった。そこで弁慶が大きな岩を持ち上げ、一行が雨宿りできるようにしたというのが、この義経岩である。実際、この巨石は海岸に面した部分が大きくせり出しており、人が雨宿りをするには十分なスペースがある。また岩の頂上には義経神社が設けられている。
このあたりの地名である雨晴(アマハラシ)は、この義経一行の伝承に由来するものであり、地名の方が後から付けられたケースの1つである(雨晴の名称が文献に現れるのは江戸中期ということらしい)。そして現在雨晴は、海から立山連峰を臨む絶好の景観地として名を馳せている。 
流刑小屋(るけいごや) / 富山県南砺市田向
江戸時代、五箇山の地は加賀藩・前田家の領地であった。人もほとんど行き交うことも出来ないこの地は、やがて加賀藩の流刑地として利用された。特に庄川の右岸一帯は山と川によって隔絶された場所であり、罪人が逃げ出すことがほぼ不可能であった。それ故加賀藩は庄川に橋を架けることを禁じ、人の行き来を極端に制限して流刑地としたのである。五箇山に初めて流人が送られてきたのは寛文7年(1667年)のこととされ、以降幕末まで約150名の流刑者があったと記録されている。
この庄川右岸に位置する田向も流刑地とされた7つの集落のうちの1つであり、かつて加賀藩が使用していた流刑小屋が現存する。明和5年(1769年)に起きた大火の後に造られたものとされ、明治以降は物置小屋として利用されていたという。昭和38年(1963年)に雪で倒壊するが復元されて、現在に至る。
流刑小屋の大きさは、間口2.7m、奥行3.6mで、約6畳の広さがある。中は板敷きで、便所が付いている。戸口はあるが流人の収容と釈放の時以外は鍵が掛けられ、食べ物の受け渡しは柱に開けられた穴からおこなうことになっている。
この流刑小屋は「お縮り小屋(おしまりごや)」と呼ばれ、かなり重罪の流人が入るところであった。通常の場合、流人は流刑となった集落内であればある程度の自由な活動は認められており、村人との交流もあった。しかしこのお縮り小屋に入れられる者は、この外に出ることは許されず、村人との接触も食事の受け渡しのみという厳しいものであった。さらの重罪の者はこの小屋の中にしつらえられた檻の中に入れられ、全くの自由を奪われたとされる。 
 
 
石川県 / 加賀、能登

 

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誰かもと織りそめつらむ賀よろこびを 加ふる国のきぬのたてぬき 道興
羽咋の海 珠洲の海 / 羽咋市、七尾市
むかし大己貴命と少彦名命が能登国をめぐり、土地の多気倉長た け くらなが命と力を合せて能登の国作りをした。のち少彦名命の霊は神石にこめられて宿那彦神像石神社(七尾市黒崎町)にまつられ、大己貴命は気多けた神社(羽咋市)にまつられた。天平二〇年に越中守の大伴家持が陸路、志雄しをの里を通って、気多の神に詣でたときの歌がある。
○ 志雄路しをぢからただ越え来れば羽咋はくひの 海朝凪したり船楫ふなかぢもがも 大伴家持
付近には釈迢空師弟の墓所もある。
○ 気多けたの村若葉黒ずむときに来て 遠海原の音を聞きをり 釈迢空
○ 春畠に菜の葉荒すさびしほど過ぎて おもかげに師をさびしまんとす 折口春洋
伊夜比盗_社大伴家持が能登の長浜の浦(七尾南湾)を訪れたときの歌。
○ 珠洲すすの海に朝開きして漕ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり 大伴家持
家持と長浜の長者の娘の子孫が小林家だといふ。
七尾湾に浮かぶ能登島の伊夜比唐「やひめ神社の神(越後の弥彦の神の后神といふ)は、島の良材を以て船材を伐り出すことを教へた神といふ。
○ とぶさ立て船木きるといふ能登の島 山今日見れば木立繁しも 大伴家持
蝉折の笛 / 珠洲市 須須神社
桓武平氏のうち高望たかもち王系の平清盛は、平氏としては傍流であったので、嫡流の高棟王系の時子を妻にして支配基盤を広げた。時子の弟の平時忠は、壇ノ浦の戦の後は、能登の大谷(珠洲市大谷町)への流罪となった。
○ 白浪の打ち驚かす岩の上に 寝いらで松の幾夜経ぬらむ 平時忠
ここへ都落ちの源義経が、安宅(あたか)の関を越えて船で着いた。義経は時忠の家に一泊し、船出のときには時忠の娘の蕨姫も同船した。船が須須の浦にさしかかると、海が大荒れとなった。義経は須須すすの神に祈って難をのがれることができたので、須須の神に蝉折せみをれの笛を奉納した。
○ うきめをば藻塩とともにかきながし 悦びとなるすすの岬は 源義経
この笛は鳥羽天皇が唐の国王から贈られたもので、源頼政や高倉天皇を経て義経の手に入り、須須神社に今も伝はる。平時忠の子孫が、能登の豪商時国ときくに家だといふ。時国家は、鎌倉から江戸時代にかけて多数の北前船を所有して貿易をなし、諸産業を多角経営して繁栄を極めた。
福浦の腰巻地蔵 / 羽咋郡富来町
北前船で賑はった能登の富来とぎ町、福浦の港には、遊女の街が栄えた。遊女のことを土地の言葉でゲンジョといった。むかし一人のゲンジョが、なじみの客との別れを惜しみ、少しでも長く港に留めるために、海辺の地蔵さまに腰巻を掛けた。すると海が荒れ、船は出帆をとりやめたといふ。腰巻地蔵といふ。
○ 能登の福浦の腰巻地蔵は けさも船出をまたとめた 野口雨情
久江の道閑 / 鹿島町久江
寛文六年(1666)能登の久江くえ村に検地実施のおふれが出たとき、領主・長連頼の家臣・浦孫右衛門は隠し田を持ってゐた。発覚を恐れた孫右衛門は、百姓たちを扇動して検地中止の請願をさせようとしたが、人徳のある庄屋の道閑を代表に仕立てなければ、中止の請願など通るまいと考へた。煽られた百姓たちは道閑に頼みこみ、道閑はやむなく請願に動いた。しかし逆に騒動の首謀者として捕へられ、磔の刑に処せられた。
○ 消えてゆくあとに形あり霜柱 道閑(辞世)
のち、孫右衛門の一味は捕へられ、事件の真相が明らかにされたが、村へは検地による田の没収もなく、村人たちは「久江の道閑さま」と慕ひ尊敬しつづけたといふ。
○ おいたはしや道閑さまは七十五村の身代はりに 臼すり唄
白山信仰 / 白山比盗_社
白山は養老元年(717) に僧泰澄による開基といはれ、平安時代の末ごろからは修験道の霊場として栄えたが、一向宗や曹洞宗の拡大により衰退した。麓の石川郡鶴来町の白山比唐オらやまひ め神社が、加賀国の一宮、白山本宮とされる。
○ 君が行く越の白山しらねども ゆきのまにまに跡はたづねん 藤原兼輔
近世以降、諸国の白山社は、養蚕と機織の神としての信仰も集めた。
○ 誰かもと織りそめつらむ賀びを 加ふる国のきぬのたてぬき 道興
篠原の実盛塚 / 加賀市篠原、小松市
治承四年(1180)、木曽に挙兵した源義仲は、北陸路を制覇し、越中から京へ進軍しようとしてゐた。平家方の斎藤別当実盛は、老齢の身ではあったが、故郷の越前を守るべく、寿永二年(1183)加賀から越中へ入らうとした。だが、倶利迦羅くりから峠で義仲の軍の前に大敗し、加賀国篠原で手塚太郎と一騎打ちの末、討死した。その首が義仲に届けられると、義仲は実盛の首に間違ひないと思ったが、髪が黒いのを不審に思った。そこで近くの池で首を洗はせると、染めてゐた黒髪が白髪に変った。七十三才の老将の心構へに、源氏の武士たちは深い感銘を受けたといふ。実盛の兜は、多太ただ(八幡)神社(小松市)に納められたといふ。
○ 無残やな兜の下のきりぎりす 芭蕉
実盛は稲の切り株に足を取られて討たれたともいひ、それ以来実盛の霊は蝗いなごなどの害虫となって農民を悩ますので、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた。
加賀百万石 / 金沢市
金沢は、加賀・能登・越前の三国を領した前田氏の城下町である。町の中央を犀川が流れる。
○ 母恋し夕山桜峰の松 泉鏡花
○ ふるさとは遠きにありて思ふもの そしてかなしく歌ふもの…… 室生犀星
金沢市内の兼六園の中に金沢池がある。むかし芋掘藤五郎といふ男が、山で芋を掘るかたはら、ときどき砂金を掘ってゐた。その砂金を池で洗って取り出したことから金沢池の名がついた。藤五郎は、加賀介藤原吉信の末裔といふ。
諸歌
○ 朝顔や釣瓶とられてもらひ水 千代女
山中温泉は、行基が開いたといはれ、蓮如なども立ち寄ったといふ。
○ 山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ 芭蕉 
 

 

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加賀 / 加賀の国、現在の石川県。
○ 波よする竹の泊のすずめ貝うれしき世にもあひにけるかな
○ わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山
「竹の泊」石川県江沼郡にあるといいます。
「しら山」注解では「加賀」とあるも、越の白山だと思われます。石川県、富山県。福井県などにまたがる山で、越前の歌枕です。 
いぼとり石(いぼとりいし) / 石川県金沢市兼六町
金沢一の観光名所である兼六園の南に隣接する金澤神社。その鳥居のそばにある放生池のほとりに、いぼとり石がある。駒札があるのでそれと判るが、なければただの庭石としか見えない。
この石は元からこの地にあったわけではない。この石は、はじめ能登鹿島郡町屋村(現在の七尾市中島町屋)にあったが、前田家12代藩主夫人が兼六園の梅林近くに取り寄せ、さらに現在地へ移動させたものである。金澤神社によると、この町屋村には“いぼ池”という名の池があり、そこの石でこするとイボが取れるという言い伝えがあるらしい。
このいぼとり石は一抱えほどの大きさで、表面が滑らかであり、本当にイボを取るためにこすり続けられているのではないかと思わせる雰囲気がある。それを裏付けるような話が、明治27年に出された『金沢市内独案内』という書籍に残されている。とある遊郭の女郎の陰部にイボが出来た。困り果てて、いぼとり石で一両回こすってみると、イボは跡形なく取れてしまったという。金澤神社周辺は、明治7年に兼六園が公園として開放されるまでは一般人が立ち入ることが禁じられていた場所であるので、この話が事実として成立するためには、明治以降に起こったとされなければならないはずである。つまりこのイボ取り信仰は明治期まで続いていたとみなしていいだろう。
金澤神社 / 創建は寛政6年(1794年)。11代藩主・前田治脩(ハルナガ)が兼六園内に藩校を設立し、家祖である菅原道真を祀ったことから始まる。12代藩主・斉広の時に火難除けなどの神も合祀した。歴代藩主が兼六園散策の折りに藩内の安寧を祈願したとされる。兼六園開放までは、年2回の例祭の時に婦女子のみ参拝を許されていた。
岩井戸神社 猿鬼(いわいどじんじゃ さるおに) / 石川県鳳珠郡能登町当目
岩井戸神社は別名「猿鬼の宮」と呼ばれる。旧柳田村の伝説として伝わる猿鬼を祀ったとされるためである。
昔、このあたりで猿鬼という化け物が18匹の鬼を従えて、周辺の田畑を荒らし、娘を攫ったりと暴れ回っていた。かつて猿鬼は、大西山に住む善重郎という猿の手下であったが、棟梁の目を盗んで悪さを繰り返したので追い出され、いつしか化け物に変じたともいわれる。とにかく村人は猿鬼を大いに恐れ、隠れるように住んでいた。
やがて猿鬼の悪行は神々の知るところとなり、神々の集まる出雲で相談がおこなわれた。最終的に能登のことは能登の神が処するということで、大将に一の宮・気多大社の気多大明神が、副将に三井の大幡神社の神杉姫が選ばれ、猿鬼退治が始まった。
猿鬼は当目にある岩屋堂という洞窟に潜んでおり、そこを襲ったが、放たれる無数の矢をかわし、さらには手足や口を使って矢を受け止める始末。全く勝負にならなかった。神々は一旦引き揚げ、新たな策を考えた。すると「白布で身を隠し、筒矢を射よ」という声を聞いた。早速準備をすると、神杉姫が白布を使って洞窟の前で踊ってみせ、猿鬼たちはそれにつられて岩屋から出てきた。戦いが始まり。気多大明神が放った筒矢を猿鬼が受け止めると、筒の中に入っていた毒矢が飛び出して猿鬼の左目を突いた。慌てふためいて猿鬼はオオバコの汁で傷を洗うと、洞窟に逃げ込もうとした。それを追った神杉姫が名刀・鬼切丸で見事に猿鬼の首を刎ねて、神々が勝利したのである。
岩井戸神社の境内には、猿鬼が隠れ住んでいたという岩屋堂が現存する。今は窪みのような穴が残っているだけだが、昔は海まで通じていたと言われ、海の荒れた時には洞窟からイカが出てきたという伝説も残る。また、この周辺には猿鬼との戦いの時の伝承が地名として残されており、「当目」は猿鬼の目に矢が刺さった所、「大箱」は猿鬼が目の治療をした所、「黒川」は猿鬼の首を刎ねた時の血が流れた所など、かなりの数のゆかりの地がある。
金城麗澤(きんじょうれいたく) / 石川県金沢市兼六町
兼六園に隣接する金澤神社のそば、大きな四阿風の建物がある。「金城麗澤」の額が掲げられており、屋根の天井には小さいながらも竜の絵が描かれている。そしてこの建物の下から滾々と水が湧き出ている。これが金沢の地名の由来となった金城麗澤である。
金城麗澤は加賀藩12代藩主の前田斉広(なりなが)がこの地に竹沢御殿を建てた時に整備されたものであるが、水源地としては相当昔から湧いていたものであり、金沢のもう1つの発祥の伝説となる、芋掘り藤五郎とも大いに関係している。この水源こそが、藤五郎が掘った芋を洗った場所であり、大量の砂金が取れた場所であるとされている。それ故にこの地は「金洗い沢」と呼ばれるようになり、それが転じて金沢の名称となったとも言われている。
芋掘り藤五郎 / 加賀国の山科に住んでいた藤五郎は、貧しくも山芋を掘って生計を立てていた。ある時、大和の長者の姫が観音菩薩のお告げによって藤五郎に嫁いできた。姫は砂金の入った袋を手渡して買い物を頼んだが、藤五郎はそれを鴨を捕るために投げつけて、結局手ぶらで帰ってきた。金のありがたみを知らない藤五郎に怒る姫に対して、藤五郎は芋を洗って砂金を見せた。姫はそれが金という価値あるものと教え、夫婦は大金持ちになったという。この物語は全国各地に散見できる伝説であり、金沢独自の伝承ではない。
首洗池(くびあらいいけ) / 石川県加賀市柴山町
寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、篠原の地で軍勢を立て直し、再び木曽義仲軍と矛を交えた。しかし木曽軍の勢いはとどまるところを知らず、敗走の憂き目となった。その中にあって、大将と思しき出で立ちで奮戦する平家の武者が一騎。それを見た義仲の家臣・手塚光盛が一騎打ちを申し入れると、武者は名乗りを敢えてせず挑み掛かってきた。だが、手塚によって討ち取られてしまったのである。
首実検をおこなった義仲は、その武者が、自分が幼い頃に命を助けてくれた斎藤別当実盛であると認めた。しかしその髪は黒く、70を越えているはずの実盛とは思えなかった。そこで近臣の樋口兼光に尋ねると、かつて実盛は「年老いて戦に出る時は髪を黒く染めて、老人と侮られないようにしたい」と申していたという。そこで首を洗わせると、果たして髪は白くなり、実盛であると確かめられた。義仲は涙を流し、実盛の甲冑を多太神社に奉納したのである。
篠原の古戦場には斎藤実盛にまつわる遺跡が点在する。実盛の首を洗ったとされる池も現存する。池のほとりには、首実検をする木曽義仲・樋口兼光・手塚光盛の中央に、実盛の兜が置かれた銅像が作られている。
斎藤実盛 / 1111-1183。越前生まれの関東の武将。源義朝に属していたが、源義賢とも親交があったため、その遺児である義仲を助けて木曽に送り届けた。平治の乱より後は関東の有力武将として平家に属し、源頼朝の挙兵後も平維盛の後見として平家軍に従った。富士川の戦いで味方が戦わずして敗走したことを恥とし、故郷に近い篠原の合戦で討ち死にを覚悟して、手塚光盛に討たれる。実盛討ち死にの際、騎乗の馬が稲の切り株につまずいたとされ、その怨みから実盛は死んで後に稲を食い荒らす害虫となったという伝承がある。ウンカのことを実盛虫と呼ぶのは、このためだと言われる。
手塚光盛 / 木曽義仲の家臣。粟津の戦いでは、最後まで義仲に従った騎馬武者の一人とされるが、戦死。漫画家の手塚治虫は、光盛の子孫であると称している。
実盛塚(さねもりづか) / 石川県加賀市篠原町
倶利伽羅峠の戦いで惨敗した平家を木曽義仲がさらに痛撃を加えたのが、加賀国の篠原であった。この篠原の合戦で敗れた平家軍は京都に逃げ戻り、一月の後に木曽義仲は入京を果たすのである。
この篠原の戦いでは、関東出身の平家方の武将が多く加わり討死している。とりわけ有名なのが斎藤別当実盛である。実盛は、かつて源氏に属していた頃、木曽義仲の父・源義賢が討ち取られた直後に義仲を匿って木曽へ送り届けた、いわば命の恩人であった。しかし、今は平家方の一介の武将として、地盤としていた関東を追われて北陸の戦陣に身を投じていた。既に73という老齢に達しており、この戦いを最期の一戦と覚悟していた実盛は、侍大将のみが着用できる錦の直垂を身につけ、さらに老齢であることを隠すために白髪頭を黒く染めて戦いを迎えた。
味方が総崩れとなったところで実盛は殿を務め、手塚太郎光盛によって討ち取られる。最後まで名乗りを上げず、首実検の時になって初めて実盛であったことが分かったという。この老将の首級に、総大将の義仲は昔を思い出して涙したと伝えられる。
斎藤実盛の討死した場所と言われるところには大きな塚が築かれている。応永21年(1414年)、北陸地方で布教をしていた時宗の14世遊行上人・太空が潮津道場(加賀市潮津町)で別事念仏会をおこなっている最中に白髪の老人が現れ、十念を授かるとすぐにその場から立ち去ってしまうという出来事があった。直後からその白髪の老人が斎藤別当実盛の幽霊だという噂が立ち、太空上人は実盛が討死した塚を訪れて回向をおこなったのである。それ以降、時宗の遊行上人が新しく代替わりすると必ず実盛塚を訪れて回向をおこなう風習が今も続くことになる。さらにこの幽霊の話は京都にまで伝わり(醍醐寺座主・満済の日記にも記載されている)、おそらくそれを伝え聞いたであろう世阿弥によって「実盛」という謡曲が作られとされる。
斎藤実盛 / 1111-1183。越前の生まれ。武蔵国長井庄(現・埼玉県熊谷市)を本拠とする。源義賢に属し、義賢が源義平(義朝の長男、頼朝の長兄)に討たれた後に、遺児である義仲を木曽に送り届ける。平治の乱までは源氏に属するが、それ以降は関東における平氏の有力武将となる。頼朝挙兵後も平氏の武将として残り、富士川の戦い以降は平維盛に属して転戦。倶利伽羅峠の戦いを経て篠原の合戦で討死。
謡曲「実盛」 / 世阿弥作。遊行上人が篠原で連日説法をしていると、老人が欠かさず現れる。しかし上人以外にはその姿が見えない。上人が老人に素性を尋ねると斎藤実盛の亡霊であり、成仏できないことを告げる。上人が回向を始めると、実盛の亡霊が現れ、首実検のこと、錦の直垂のこと、手塚太郎に討ち取られたことを語り、やがて消えていく。
須須神社(すずじんじゃ) / 石川県珠洲市三崎町
三崎権現とも呼ばれ、能登半島の先端部分にほど近い場所にある。10代崇神天皇の御代に創建と伝えられ、東北鬼門日本海の守護神として海上交通の要衝の役割を果たしている。須須神社の奥宮のある山伏山は海上からのランドマークとして最適であり、信仰と共に航行の目標とされてきた。また平安時代には、海上で異変があれば直ちに狼煙が上げられ、都まですぐさま伝達される仕組みになっていたとも伝えられる(現在でも、半島の先端には「狼煙町」という地名が残る)。
須須神社には「蝉折の笛」という名笛がある。鳥羽上皇の時代に宋の皇帝から贈られてきたと伝わる笛であるが、奉納したのは源義経とされる。
兄の頼朝から追われ、奥州藤原氏を頼って落ち延びる際、義経一行は須須の沖合で時化に遭遇する。義経が神社に祈るとたちまち嵐が止んだので、船を岸に着けて参拝。お礼として蝉折の笛を奉納したという。その時、弁慶も「左」と銘が彫られた守り刀を奉納している。いずれも神社の宝物館に保管されているが、義経一行の奥州落ちのルートを考察する上で、非常に重要な物証となっている。
宗泉寺 ミズシの墓(そうせんじ みずしのはか) / 石川県羽咋郡志賀町堀松
志賀町にある宗泉寺には「ミズシ」の墓と呼ばれるものが残されている。山門を入って本堂へ向かう途中の左手、とりたてて他に何もない場所に五輪塔の一部が置かれてあるが、墓であるという。「ミズシ」とは加賀・能登あたりで河童のことを指すが、この墓は近くにある淵端家の者が建てたと言われている。
慶長年間(1596〜1615年)のこと、淵端家の主人が馬を米町川に連れて来て水浴びをさせていると、いきなり馬が走り出した。屋敷に戻ってきた馬を見ると、尻尾に一匹のミズシがしがみついていた。おそらく馬の尻子玉を取ろうとして失敗したのだろうと推察した主人は、ミズシを取り押さえると屋敷のタブの木に縛り付けて折檻をした。陸の上に引き揚げられたミズシは全く力が出せないために、「秘伝の薬の作り方を教えるから助けてくれ」と命乞いを始めた。主人は殺すつもりまではなかったので、願いを聞き入れて薬の調法を紙に書かせると、縄を解いて解放してやったという。
その後、この薬を売り出したところ「ミズシのねり薬」ということで評判となって、家業が繁栄したという(疳薬として平成に入る頃までは売られていたと言われている)。またしばらくの間は、ミズシが川魚を魚籠に入れてタブの木に引っ掛けておいていったともいう。
以前地図に「疳薬本舗」と表示のあった場所には、かつて薬店を営んでいた名残のある家があった。そしてその家の前には、現在でも注連縄の張られた古木がある。おそらくそれが河童を縛り付けたタブの木なのだろう。
動字石(どうじせき) / 石川県鹿島郡中能都町石動山
石動(いするぎ)山は泰澄によって開山された、北陸では白山と並ぶ一大霊地であった。かつては衆徒3000人を抱える天平寺があり、幾度も戦火によって焼失したが、加賀藩の庇護の下で栄えていた。しかし明治の廃仏毀釈によって寺院は徹底的に破却され、今では伊須流岐比古神社が残されているだけである。現在は、国の史跡に指定され、寺院の発掘調査がおこなわれて整備が進んでいる。
この石動山は、泰澄による開山以前から信仰の山であったとされる。その象徴が動字石である。この石は別名を「天漢石」と称し、天から降ってきた星が石と化したものであると伝えられる。この石が山に落ちてきた時に山全体が揺れ動いたことから「石動」という名が出来たともされている(泰澄が開山するまでは山が振動していたともされる)。神社の境内から少し離れた場所にあるが、石そのものが信仰の対象であることが分かるように祀られている。
しかしながら科学的な調査によると、この動字石は隕石ではなく、安山岩であることが判明している。
伏見寺(ふしみじ) / 石川県金沢市寺町
金沢の寺町寺院群の1つである。開基は芋掘り藤五郎とされ、藤五郎ゆかりの寺として有名である。
芋掘り藤五郎は、奈良時代にこの地に住んでいたとされる伝説の人物であり、山芋掘りと生業としていた。ある時、初瀬の観音菩薩の夢告に従って、大和国の長者が姫を伴ってやって来て婿とした。貧しいながらも2人は仲良く暮らしていたが、姫の実家から送られてきた金を藤五郎は鳥を捕るために投げつけてしまう。金の価値を知らない藤五郎を嘆く姫であったが、藤五郎はそれが山芋を掘ればいくらでも出てくるものだと告げる。かくして2人は大量の砂金を手に入れ長者となったのである。また藤五郎が掘った芋を洗った沢を「金洗いの沢」と呼んだことから、この一帯を金沢と呼ぶようになったとも言われる。
伏見寺は、信心深い藤五郎が集めた砂金を使って仏像を造って、自らが住んでいた山科の里に近い伏見に建立した寺である。さらにその仏像を開眼供養したのが行基であるため、現在でも行基山伏見寺としている。境内には芋掘り藤五郎の墓があり、堂内には平安前期の阿弥陀如来像が安置されている。
妙慶寺(みょうけいじ) / 石川県金沢市野町
金沢の寺町寺院群の一角にある妙慶寺は、前田利家の家臣であった松平氏に伴って越中から移転してきて現在に至るが、周辺で大火が起こっても類焼しないとされている。 5代住職の向誉上人が近江町市場を通りがかった時、人々が何かを取り囲んで騒いでいる。気になって覗くと、1羽のトンビを捕まえて殺そうとしている。聞くと売り物の魚を盗ったところを捕まえたのだという。憐れに思った上人は、人々に掛け合ってトンビを譲ってもらい逃がしてやったのである。
その夜、上人の枕元に天狗が現れた。助けたトンビは実はその天狗が化身したものであり、命を助けてもらったお礼がしたいと言う。しかし上人は特に望むものはないと答える。そこで天狗はいつまでも寺が続くように守護しようと言って、八角形の板を取り出して鋭い爪で何かを刻み始めた。
翌朝目覚めた上人は、枕元に八角形の板を見つけて、天狗が現れたのは夢ではないことを悟った。板の両面にはそれぞれ「大」と「小」の文字が刻まれていた。上人はそれを庫裏の柱に掛けて、大の月の時は「大」の面、小の月の時は「小」の面が表になるようにした。それ以降、妙慶寺は“天狗さんの寺”と呼ばれるようになり、火災に巻き込まれることはなくなくなった。そしてそれにあやかるように、金沢の町の商家などでは八角形の板を模した“大小暦板”を火難除けとして飾るようになったとされる。ちなみに実物の暦板は非公開、檀家のみ見ることが出来るとのこと。
モーゼの墓 / 石川県羽咋郡宝達志水町河原
モーゼの墓は「モーゼパーク」の名前で、完全に観光地化している。この墓は、実は“三ツ子塚古墳”というれっきとした正式名称のある古墳である。この古墳は名前のごとく3つの墳墓が並んでいるが、その真ん中の一番大きな墳墓がモーゼの墓と目されているわけである(ちなみに残りの2つの墳墓は、妻である皇女と孫のものであるとされている)。問題の古墳の頂上へ行くと、(神人モーセロミユラス魂塚)と書かれた、古びた柱がぽつねんと立っている。
モーゼが日本へ来たのは、あの『旧約聖書』の中に記載されている波瀾万丈の半生の後のことであり、シナイ山から天浮舟(UFOの一種?)に乗って、押水にある宝達山に降り立ったという。そして時の天皇に拝謁し、その姫をめとり、500余歳の長寿を全うしたという(あるいは、あの十戒を受けたのは宝達山であったという説まで出てくる)。
このとんでもない説をブチ上げたのは、キリストの墓が日本にあると説いたのと同じ古文書『竹内文書』である。ただしキリストの墓と比べると証拠が明らかに少ない。モーゼが降り立ったという宝達山にある宝達神社に“菊の御紋”があったとか、終戦直後にアメリカ軍が調査に来たとか、近くから異常に大きな人間の骨が出てきたとか、とにかく未確認の情報は錯綜している。だが客観的な状況証拠はない。
モーゼ / 『旧約聖書』の“出エジプト記”に登場する、古代イスラエルの指導者・預言者。神の啓示を受け、エジプトにいて虐待を受けていた多くのヘブライ人を「約束の地」へ導く使命を与えられる。そして退去の時、追ってくるエジプト軍に対して紅海を二つに割って渡り歩いて逃れる奇跡を起こす。その後放浪は続くが(餓え苦しむ時には天より“マナ”が降ってくる奇跡も)、シナイ山で神より「十戒」を授かる。そして「約束の地」に入ることなく120歳で没する。
『竹内文書』 / 武内宿禰の孫にあたる平群真鳥が、25代武烈天皇の勅命を受けてまとめた文書とされ、真鳥の子孫を称する竹内巨麿が昭和3年に公開。神武天皇以前にも100代に及ぶ皇統があり世界を治めていた(宇宙生成よりも早くから存在したことになっている)、また歴史上に名を残す宗教指導者は全て日本で修行し、天皇に仕えたとする。キリストだけではなく、モーゼや釈迦も来日していることになっている。当然であるが、偽書として黙殺されている。 
舳倉島(へぐらじま) / 石川県輪島市
能登半島の北端近く、輪島港の北方二〇‐二五キロの日本海上に七ななツ島がある。北部の大島・狩又かりまた島・竜島群と、南部の荒三子あらみこ島・烏帽子えぼし島・赤島・ 御厨みくりや島群に分かれる。森田柿園の『能登志徴』によると、古くは一つの島であったが波濤によって失われ、島根の巌石が七つ残ったという。さらに北方約二五キロ、北緯三七度五一分、東経一三六度五五分の位置に、ほぼ楕円形の舳倉島がある。周囲約七キロ、面積は一・一五平方キロ、面積に比して海抜が約三五‐六〇メートルと高い七ツ島と異なり、最高点は海抜一二・四メートルと低い。海岸線は複雑で、北岸と西岸は断崖が海に迫って板状節理を形成する。
島の歴史は古く、弥生時代前期の深湾洞ふかわんどう遺跡や、古墳時代前期から平安時代にかけての製塩土器などを出土した舳倉島シラスナ遺跡がある。七ツ島・舳倉島近海は好漁場として知られ、タイ・ブリ・カツオ、海藻類、アワビ・サザエなどの漁獲物は輪島港に水揚げされる。
越中守大伴家持が「沖つ島い行き渡りて潜かづくちふ鰒珠もが包みて遣らむ」(『万葉集』第一八)と詠んだ「沖つ島」は舳倉島のことであろう。『今昔物語集』巻二六第九には、加賀の人が猫ノ島に漂着して島の主のヘビを助け、来襲したムカデを退治した話が載り、「近来モ遥ニ来ル唐人ハ先、其島ニ寄テゾ、食物ヲ儲ケ、鮑・魚ナド取テ、ヤガテ其島ヨリ敦賀ニハ出ナル」と記される。また同書巻三一第二一に「能登ノ国ノ息ニ寝屋ト云フ島ナリ、其ノ島ニハ、河原ノ石ノ有様ニ、鮑ノ多ク有ナレバ、其ノ国ノ光ノ島ト云フ浦有リ、其ノ浦ニ住ム海人共モハ、其ノ鬼ノ寝屋ニ渡テゾ鮑ヲ取テ国ノ司ニハ弁ケル、(中略)亦其ヨリ彼ノ方ニ猫ノ島ト云フ島有ナリ」とあって、鬼ノ寝屋島とその沖合に猫ノ島があること、いずれもアワビ採りを業とする海士の漁場であったことなどが知られる。光ノ島は輪島港の西方にある光浦町と考えられるので、鬼ノ寝屋島は七ツ島、猫島は舳倉島にあたる。
現在舳倉島は海士あま町に所属するが、江戸時代には七ツ島とともに名舟なぶね村が領有し、アワビのほか黒海苔・ワカメ・イゴなどを採集したり、網漁を行って島役銀を納めていた。とくに黒海苔は加賀藩への献上品で、村民は御下行米を与えられて冬季の二〇日程逗留したようである。島には萱葺の海苔干立小屋が建てられていた。ほかに七ツ島ではトド猟も盛んで、寛政四年(一七九二)のピーク時には三八二頭、油四五二樽(二斗入)を産している(名舟区有文書)。名舟村の七割(「三箇国高物成帳」加越能文庫)という高率年貢も、こうした両島での稼ぎがあったことによる。
寛永年間(一六二四‐四四)のはじめ頃(一説には永禄年間)筑前宗像むなかた郡鐘崎かねざき(現在の福岡県玄海町)から海士が来住し、慶安二年(一六四九)鳳至ふげし町に居を定めた(現在の海士町)。江戸中期以降舳倉島付近での漁業権をめぐって、名舟村との間で争論が頻繁に起きた。はじめ一一八匁であった名舟村の島役は、寛永一一年から「あま舟入中ニ付而半役御捨免」とされた(「小物成万事指上帳」上梶文書)。海士町民は慶安元年(一六四八)から御菓子熨斗・長熨斗を御用鮑として藩へ上納している。やがて名舟村は舳倉島から撤退し、三月から九月まで海士町の海士が渡島して生活したという。島内には仮家百姓約一〇〇軒があった。七ツ島でも文化六年(一八〇九)から、八十八夜より二五日間は両村町同時猟業、二六日目から夏土用まで名舟村トド猟、その後は海士町猟とされた(名舟区有文書・『能登志徴』)。
島の南西端近くに奥津比口ヘンに羊神社が鎮座する。一〇世紀に成立した『延喜式』神名帳に載る鳳至郡の同名社に比定され、祭神は田心姫命(明治神社明細帳)、市杵島姫命(宝暦四年拝殿棟札)など諸説ある。大伴家持が先の短歌とともに詠じた長歌に「珠洲の海人の沖つ御神に渡りて」とみえ、海士等の崇敬を受けてきた。神社に近い海岸のシラスナ遺跡からは、前掲の土器類のほか貝殻・魚骨、ウシを含む獣骨が採集されている。土器のなかに塗彩土器が比較的多いこと、内陸から運ばれたと考えられる牛骨が検出されたことなどから、同所で何らかの祭祀儀礼も行われた可能性がある。
奥津比口ヘンに羊神社は江戸時代には名舟村民が護持していたと思われるが、鐘崎の海士が故郷の宗像大社の沖ノ島(現在の福岡県大島村)にみたて、宗像三神の一神である市杵島姫命を崇敬するようになったのであろう。
一方、奥津比口ヘンに羊神社の祭神が宗像三神に含まれること、同じく式内辺津比口ヘンに羊へつひめ神社に比定される輪島港に近い重蔵じゅうぞう神社の祭神に、宗像三神の田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命があることに注目する考えがある。重蔵神社と奥津比口ヘンに羊神社を線で結び、線上の七ツ島を中津島即ち中津宮と考え、宗像神社の辺津宮(玄海町)、中津宮・沖津宮(以上大島村)の関係との類似性が指摘されている。『今昔物語集』の説話からもうかがわれるように、古代の早い時期に大陸との交流が盛んであった能登半島において、日本海を渡り、対岸に向かう航路の守護神としての位置を占めていたとも考えられる。 
牛首・風嵐(うしくび・かざらし) / 石川県石川郡白峰村
加賀・越前・美濃の三国にまたがる霊峰白山はくさんは、「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山三国一じゃよ」と民謡に歌われる。白山信仰でも名高く、その名が示すように神々が座す白きたおやかな峰として知られ、その西麓に白山にちなんだ村名をもつ白峰しらみね村が広がっている。現在の石川郡白峰村の中心は、かつて東洋一のロックフィルダムとして偉容を誇った手取川てどりがわダムの貯水湖上流部に位置する大字白峰である。この地には、古くから牛首うしくび・風嵐かざらしという二つの村が成立していた。
白山の開創には諸説あるが、「泰澄和尚伝記」によると、養老元年(七一七)「越の大徳」とよばれた泰澄が山頂に登り、神々を拝したのが開山と伝えられる。天長九年(八三二)には白山三馬場が開かれ、白山信仰の拠点となるが、白山の縁起である「白山之記」は「三ヶ馬場者、加賀馬場・越前馬場・美乃馬場ナリ、加賀ノ馬場ハ本馬場也」と記し、加賀馬場の優越性を強調している。これが「加賀の白山」とよばれる由縁である。馬場とは白山禅定道(登山道)の起点、すなわち里宮(遥拝所)の所在地のことで、加賀馬場は白山本宮・白山寺(現石川県鶴来町の白山比口へんに羊神社)、越前馬場は白山中宮平泉へいせん寺(現福井県勝山市)、美濃馬場は白山本地中宮長滝ちょうりゅう寺(現岐阜県白鳥町)であった。
牛首・風嵐両村にも、泰澄にまつわる伝承がある。幕末の成立とされる白山麓十八ヶ村留帳(織田文書)によると、泰澄は養老元年に風嵐村を、同二年に牛首村を開いたとされ、古刹林西りんさい寺(現白峰村)の縁起などは、泰澄が白山麓に牛頭天王を祀る薬師堂を創立、同地を「牛頭」と称したとする。一方、浄光じょうこう寺(現白峰村)に伝わる「白山禅定本地垂迹之由来」は、同年泰澄が岩根いわね宮を建立、この地が風も嵐も激しかったので、風嵐と名付けられたとしている。さらに興味深いのは、天平宝字八年(七六四)の朝廷内のクーデターで敗れ、近江国三尾みお崎(現滋賀県高島町)で斬罪に処せられた(「続日本紀」同年九月一八日条)はずの恵美押勝が脱出に成功、越前の越知おち山で泰澄に出会って出家し、牛首に身を隠して林西寺を開いたという伝承である(林西寺縁起)。しかし牛首・風嵐の地は、白山本宮から尾添おぞう川に沿って登る加賀馬場禅定道、平泉寺から越前・加賀国境を経て手取川最上流部の市いちノ瀬せ(現白峰村)に至る越前馬場禅定道のルートからはずれており、泰澄との関連を強調する伝承は、むしろ白山争論において、自らの立場を有利に導こうとする意図のもとに生み出されたものかもしれない。
白山信仰が盛んになるにつれ、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などをめぐる対立が顕在化し、長期にわたる白山争論と江戸時代初期の白山麓十八ヶ村の成立を招くことになる。天文一二年(一五四三)平泉寺の寺衆と結んだ牛首・風嵐両村は、権現堂造営を行ったが、これは白山山上のものと思われる。これに対し、白山本宮長吏が異議を唱えたのに端を発し、争いは両村と尾添村(現石川県尾口村)との間の白山諸堂造営に関わる杣取(木材の伐採)権争いへと発展した。
その一方で、加賀・越前の一向一揆を鎮圧した織田信長の家臣柴田勝家の手によって、手取川沿いの牛首・風嵐・島しま・下田原しもたわら(現白峰村)、深瀬ふかぜ・鴇とヶ谷たに・釜谷かまたに・五味島ごみしま・二口ふたくち・女原おなはら・瀬戸せと(現尾口村)、大日だいにち川上流部の新保しんぽ・須納谷すのだに・丸山まるやま・杖つえ・小原おはら(現石川県小松市)の十六ヶ村は、加賀国から越前国の所属へと変更された。江戸時代に入り、この十六ヶ村が親藩の越前福井藩領から幕府領福井藩預地へと推移したのに対し、尾添・荒谷あらたに(現尾口村)の二村は外様大名の加賀藩領となった。
明暦元年(一六五五)加賀藩前田家の白山山上堂社建立発願により尾添村に杣取が命じられ、再び牛首・風嵐両村との争いが勃発し、加賀藩と福井藩との藩境争いに拡大していった。「白山争論記」は、「十六ヶ村之者を相催シ、弓・鉄砲を持、石倉をつき、はり番を置、加州より之建立ヲ妨可申由、理不尽之裁許ニ御座候」と、加賀藩が越前側の行為を幕府に訴えた様子を記している。争論はその後も決着せず、寛文八年(一六六八)幕府は前記十六ヶ村と尾添・荒谷の二村を収公することで、解決を図った。これが幕府直轄領の白山麓十八ヶ村の成立で、加賀藩は「加賀の白山」の名称を失うことになった。
しかし争いは止まず、牛首・風嵐側は比叡山延暦寺・平泉寺と、尾添側は高野山金剛峯寺・白山寺との関係を強め、争論はたびたび繰り返された。寛保三年(一七四三)幕府は改めて裁定を下し、白山山頂の支配権をすべて平泉寺に与え、「加賀の白山」の呼称は名実ともに失われた。白山争論は、境界や寺社の利権などをめぐる問題が複雑に絡み合った争いであったが、実質的には杣取をめぐる村々の生活権に関わる問題でもあったといえよう。
越前国所属の十六ヶ村は廃藩置県を経て、のち福井県所属となるが、石川県側の強い誘いによって、明治五年(一八七二)石川県能美のみ郡に越県編入され、再び「加賀の白山」が甦った。なお、白峰村が能美郡から現在所属の石川郡に編入されたのは、昭和二四年(一九四九)のことである。 
    勧進帳・安宅関
    じょんから  
 
福井県 / 越前

 

静岡山梨長野新潟富山石川福井岐阜愛知

山を切る剣を峰に残し置きて 神さびにけり気比の古宮 行遍
気比神宮 / 敦賀市曙町
気比けひ神宮は、気比大神(伊奢沙別いざさわけ命)ほかをまつる。十代崇神天皇の御代に、敦賀の港に来たといふ任那の王子・都怒我阿羅斯等つぬがあらしと命が、境内の角鹿つぬが神社にまつられてゐる。敦賀の港は畿内と大陸をむすぶ要地であった。末社に式内社・剣神社などもある。
○ 山を切る剣を峰に残し置きて 神さびにけり気比の古宮 行遍
○ 敦賀の蟹記紀の古謡に生きつぎて 渤海びとら船寄せし港 窪田章一郎
花筐 / 武生市味真野
越前の味真野あぢまの(武生市)に住んでゐた応神天皇五世の孫、男大迹をほど王は、皇位の継承者に決まったので都へ上った。継体天皇である。しばらくして故郷の妃の照日前てるひのまへのもとへ、天皇の文と花籠が届けられた。恋しさをつのらせた照日前は、侍女を連れて都へ旅立ち、天皇の前で舞ひ狂ったといふ。(謡曲・花筐)
○ 味真野に宿れる君が帰り来む 時の迎へを何時とか待たむ 狭野茅上娘子
右の歌は、天平のころ越前へ流罪になった中臣宅守の新妻、狭野茅上娘子が都で詠んだ歌。
しらきと川 / 南条郡今庄町 日野川
福井平野を流れる九頭竜くづりゅう川、足羽川、日野川は、継体天皇が開いたといふ伝説がある。日野川は、南条郡今庄町を流れ、別名を白鬼女しらきじょ川、しらきと川ともいったらしい。
○ 里の名もいざしらきとの橋柱 立ち寄り問へば波ぞ答ふる 道興
白鬼女川の名は、上流の美濃国境にある尸羅しら池(夜叉池)に由来する。むかし美濃国の安八あはち太夫の娘が、この池の大蛇に嫁いで雨をもたらしたといふ伝説があり、周辺の村から雨乞には笹舟に紅粉や白粉を乗せて池に流したといふ。
東尋坊 / 坂井郡三国町
越前の平泉寺(勝山市)に、東尋坊といふ乱暴者の悪僧がゐた。西方浄土といふ教へに背き、「我は東方を尋ねん」と言ひ、東尋坊と名告った。他の僧との争ひも絶えず、養和二年(1182)に、武術の達人でもあった僧の覚念に、海辺の崖から突き落とされて死んだ。東尋坊の怨みは様々な怪異を引き起こしたが、ある僧が海に歌を投げ入れると、怪異は治まったといふ。
○ 沈む身のうき名をかへよ法の道 西を尋ねて浮かべ後の世
平泉寺は白山社の別当寺の一つだったが、一向宗の拡大とともに衰退し、今は白山社のみが残る。
○ 野菊むら東尋坊に咲きなだれ 高浜虚子
吉崎 肉づきの面 / 坂井郡金津町 吉崎御坊
越前国は、吉崎(板井郡金津町)に蓮如上人が吉崎御坊を建てて以来、一向宗(浄土真宗)の盛んな土地柄となった。
むかし吉崎の近くの村に、清きよといふ百姓の妻がゐた。夫の与三次や子に先立たれ、与三次の母と二人暮しだった。いつの頃からか、蓮如の教へを受けて吉崎御坊に通ふやうになったが、老母はそれが面白くない。母は嫁をおどして信心を止めさせようと考へ、先祖伝来の鬼の面をつけて、吉崎へ出かける嫁を、途中の竹薮で待ちかまへてゐた。嫁は突然に現はれた鬼女を見て、怖れおののいたが、じっと心を静めて、言葉を口ずさんだ。
○ 食はまば食め 喰らはば喰らへ 金剛の他力の信はよもや食むまじ
さうして念仏を唱へながら、吉崎へ向かった。
家へ帰った老母は、鬼の面をとらうとしたが、顔にぴったり付いて離れない。悔いてどこかへ隠れようにも足は動かず、我が身を恥ぢて自害しようにも手は動かず、ただ苦しんでゐた。そこへ嫁が帰ってくると、母の姿に仰天したが、とっさに一部始終を理解し、母に念仏をすすめた。母はその通りに「南無阿弥陀仏」の念仏を唱へると、面ははがれ、手足も動くやうになったといふ。それ以来、母も上人の教へを受けるやうになったといふ。面は上人に預けられ、今も吉崎の願慶寺(他の寺ともいふ)にあるといふ。
諸歌
○ 肉身を変へず仏になることはただわが家の座禅なりけり 道元
幕末の蘭医、笠原白翁が種痘輸入のため長崎へ旅立つときの歌。
○ たとへわれ命死ぬとも死ぬまじき 人ぞ死なさぬ道ひらきせむ 笠原白翁
福井市照手町出身の歌人
○ 膝いるるばかりもあらむ草の屋を 竹にとられて身をすぼめをり 橘曙覧
小浜出身の幕末の国学者
○ 吹くとしもなき春風を追手にて うまし小浜に舟競ふなり 伴信友
八百比丘尼 / 小浜市
八百比丘尼はっぴゃくびくには、室町ごろに北陸路など諸国を渡り歩いた尼僧で、八百歳も生きたといはれ、しかし、その容貌は十五、六歳にしか見えなかったといふ。人魚の肉を食べたことで長寿になったと言はれ、村々を巡り歩いては、源平のいくさなどを自分の見たこととして語った。 小浜の八百姫明神は、八百比丘尼をまつったもので、里の子供のお守り袋の中身は、八百比丘尼のお姿であるといふ。小浜の姫神の歌も伝はる。
○ 若狭路やしらたま椿八千代経て またも越えなむ矢田坂かは
小浜の空印寺境内に八百比丘尼が篭って成仏したといふ洞がある。この洞穴は丹後の国まで通じてゐたともいふ。
手杵祭 / 小浜市
千二百年ほど前、小浜・矢代の浜に、異国の船が漂着した。乗ってゐたのは唐の王女と八人の侍女で、美しい衣装や財宝を積んでゐた。一部の里人らは、餅つきの杵で九人を殺し、財宝を奪った。以来、変異や悪病が続いたので、漂着した船材で堂を建て、観音さまや弁天さまをまつると悪疫は止んだ。三月四日の矢代の手杵祭の踊りは、杵の所作を真似たものといふ
○ てんしょうの着きたるぞ 唐船の着きたるぞ 福徳や 
 

 

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若狭国一宮
風土記云 昔 此國有男女 爲夫婦 共長壽 人不知其年齡 容貌壯若如少年 後爲神 今一宮神是也 因稱若狹國云々(倭漢三才圖會七十一)
若狭一宮の伝承。福井県小浜市です。ある夫婦が非常に長寿であって、しかもその容貌は若者のようであった、そういう内容です。
不老長寿。八百比丘尼伝承とも通じる伝承ですが、こちらは神となっている。夫婦だったからこそかもしれません。
北陸に集中的に不老不死伝承や常世国伝承が存在しているのはなぜなのか?
現在では若狭彦=彦火火出見、若狭姫=豊玉姫と見なされているようですが、後付でしょう。とは言え神社の文様は「宝珠に波」とのことで、所謂シオミチノタマ・シオヒノタマが想起される、と書かれています。でも海の呪宝、或は海神の神体が珠や石であることは九州から関東まで見られることです。つまり、上記風土記逸文には全く触れられていませんが、やはり若狭彦・姫の長寿には海の呪力が関わっているらしい。
社伝が引かれていますが、二神は遠敷郡下根来村白石の里に現れたとか。そして姿は唐人のようであったといいます。
浦島伝承のところでちょっと触れましたが、「伝承に中華風の装いが施されるのには理由がある」という私の発想はここでも間違っていないと思われます。
つまり、不老長寿の源である海中異界は、この世とは違う異国風の世界である、という発想があるのだと思うのです。そして当時の日本人にとって異国風と言えば古代中華的な世界であったと。
「白石」なる土地に示現したといいますが、白い石が変化したとかそういう民間伝承があると面白くなってくるのですが。
・この神社の神宮寺である若狭神宮寺には東大寺二月堂「お水取り」神事に先立って、「お水送り」神事がある。これは東大寺に旅行に行ったときにもちょっと調べました。
・東大寺ついでに、というわけでもないのでしょうが、良弁杉伝承の良弁も同地の出身?良弁が「鵜の瀬」の水を懐かしんだことから、上記の「お水送り」をするようになった。などという伝承もあるようです。(小浜市HP)
・この若狭彦神社がある福井県小浜市の空印寺には「八百比丘尼入定の洞窟」というものがある。
やはり八百比丘尼伝承の一つの中心地であるようです。
かたや人魚の肉、かたや宝珠に波&唐風の装い。雰囲気が違う気もしますが、深いところでつながりがありそうです。 
敦賀(つるが) / 福井県敦賀市
本州日本海側のほぼ中央に位置する敦賀は天然の良港で、背後は琵琶湖水運を通して京畿に連絡し、古くから交通上の要衝であった。
古く角鹿と記され、「つぬが」または「つのが」と訓まれた。『古事記』仲哀天皇の段は次のような地名説話を載せる。角鹿の仮宮で、仲哀天皇の太子(応神天皇)の夢にこの地の伊奢沙和気いざさわけ大神が現われ、「私の名をあなたの名としたい」と言った。太子が承知すると、翌日、浜一面に鼻を打たれたイルカが贈物として寄せられていた。そこでこの贈物(食物)にちなんで大神を御食津みけつ大神と呼び、イルカの血が臭かったために浦を血浦と称し、これが都奴賀つぬがになったという。
また別に『日本書紀』垂仁天皇二年条の注によれば、崇神天皇の世に意富加羅おおから国の王子都怒我阿羅斯等つぬがあらしとが越国こしのくにの笥飯けひ浦に来着したが、額に角があったのでこの地を角鹿と称したという地名説話もある。御食津大神はのち気比けひ大神と言われるようになるが、当地に鎮座する気比神宮は気比大神を祀ったのに始まると伝える。
敦賀津はこの都怒我阿羅斯等の来着の話からも、古くより対外的な門戸であったことが推測される。六世紀後半から七世紀前半にかけて高句麗使が渡来し、神亀四年(七二七)から渤海使が越の国を表玄関として入貢しているが、敦賀には松原客館が設けられて、渤海の客人を迎えた。渤海使は三五回の来日のうち北陸へは一六回至り、高級毛皮や人参・蜜などを将来した。客館は平安時代には気比神宮司の管理下にあった。長徳元年(九九五)には宋商朱仁聡一行が若狭から敦賀に至り、僧源信が京から下って彼に会っているが、敦賀の情報は都へいち早くもたらされたのであろう。
『日本霊異記』中巻に載る「閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁」には、聖武天皇のとき奈良の人楢磐嶋が、大安寺の銭三〇貫を借りて「都魯鹿つるが津」で商品を購入する話がみえる。敦賀の商港としての名声は、中央にも高かったと思われる。
平安遷都後も北の玄関口としてますます発展、北国諸国の官物はここに集中して陸路で近江国塩津(現滋賀県伊香郡西浅井町)へ運ばれ、湖上を大津へと輸送された。敦賀津通過の物資には通行税(升米)が課せられた。乾元二年(一三〇三)には気比升米の名目で気比神宮の所得としている。またこの頃後宇多上皇は升米五ヵ年分を奈良西大寺四天王院・京都伏見醍醐寺・京都祇園社三方修造料に寄せるなど、寺社の修造の資にもあてられた。
宝町時代、敦賀津には水運の機関として「舟座」があり、川舟・河野屋の二座に分れ、朝倉氏の保護を受ける反面、公事銭を上納した。川舟座は若狭・丹後および越前の浦々、また近江に出て塩・四十物あいもの(干魚・塩魚類)などの海産物を売買する特権を持ち、河野屋座は敦賀湾の東岸にある南条郡河野浦(現河野村)との間で運漕と塩・魚類の買付などに当たる特権を持っていた。
文亀年間(一五〇一‐〇四)朝倉景冬・貞景・教景は川舟座保護策をとり、他国の商人に自国の舟座が支配されることを防いで、領国経済の維持・確立を図っている。
戦国時代から江戸時代初期にかけて産業・経済が発達し、市場も全国的規模に発展した。この時期日本海海運では、敦賀湊が同じく現福井県の小浜湊とともに北陸・北国と京都を結ぶ重要な役割を占めた。道川三郎左衛門・高嶋屋伝右衛門などは、この海運における主導的地位にあった豪商である。しかし寛永年代(一六二四‐四四)以降、これら豪商の海運活動は衰え、やがて新興の廻船業者が台頭するとともに問屋が多く成立した。
中世以降、敦賀津を中心に敦賀津内町が形成される。元和の一国一城令で敦賀城が破却されてからは、従来の気比神宮の門前町的性格、金ヶ崎城や敦賀城の城下町的性格は消えて湊町一色の町柄となり、敦賀町の最盛期と思われる寛文年間(一六六一‐七三)には町数四一、家数二千九〇三、人口一万五千一〇一を数えた。西鶴の『日本永代蔵』からも、その繁栄の様子をうかがうことができる。
越前の国敦賀の港は、毎日の入船判金一枚ならしの上米ありと云へり、淀の川舟の運上にかはらず、万事の問丸繁昌の所なり、殊更秋は立つづく市の借屋目前の京の町、男まじりの女尋常に其形気北国の都ぞかし、旅芝居も爰を心かけ、巾着切も集まれば、今時の人かしこく、印籠ははじめからさげず、(下略)
しかし瀬戸内海を通って大坂へ直行する西廻航路が定着すると、敦賀は次第に沈滞に向って行った。 
神の足跡(かみのあしあと) / 福井県福井市小丹生町
越前海岸の海岸線に沿って延びる国道305号線に面した崖にある一対の奇岩である。大きさは縦5m、横2m。人の足形と言われれば間違いなくそのように見える2つの岩がきちんと揃えられている。向かって左側が「足袋形」、右側が「草鞋形」とされ、次のような伝承が残されている。
昔、この地区を大干魃が襲い、幾十日も雨が降らないために田畑に水が行き渡らなくなった。村人総出で雨乞いをしたが、それでも一向に雨は降らなかった。そこで村人全員で氏神様である春日神社で夜通しの祈願をした。
そして翌朝、村人が神社から出てみると、田畑は水で潤い、川にも水の流れが戻っていたのである。さらに驚くことに、神社裏の崖に大きな足跡が付いていた。村人は、願いを聞き届けた神様が、夜を徹して海から水を汲み上げて土地に水を授けてくれた。きっとその時に崖に足を置かれたものと考えたのである。
願慶寺/吉崎寺(がんけいじ/よしざきじ) / 福井県あわら市吉崎
越前と加賀の国境にある吉崎は、浄土真宗中興の祖である蓮如が畿内より移り、“吉崎御坊”として北陸布教の拠点となった地である。この吉崎御坊における霊験譚として有名なのが「嫁威し肉付きの面」と言われる話である。
毎夜吉崎へ蓮如の説法を聞きに行く嫁を快くなく思う姑が、ある時鬼の面を被って脅したのであるが、その面が顔に付いてしまい取れなくなってしまった。己の邪心を悔いた姑は、嫁と息子に連れられて吉崎に赴いて蓮如の前で懺悔、そして改心を確かめた蓮如が南無阿弥陀仏を唱えると面が取れたという。人の悪心から起こる業の恐ろしさ、念仏の霊験あらたかさ、そして蓮如の徳の高さを喧伝し、真宗布教の説教として絶大な効果があったことは疑う余地がないところである。
この肉付きの面が納められているのが、大谷派の願慶寺と本願寺派の吉崎寺である。どちらも拝観料は500円、いわゆる絵解きを聞きながらの拝観となる。
願慶寺では、座敷に上がって座りながらの拝観となる。こちらの面は憤怒の相の鬼面である。一方の吉崎寺では、博物館よろしくガラスケース越しの拝観となる(しかも感知センサーで自動的に御簾が上がって御対面となる)。こちらはおそろしいと言うよりは薄気味悪い印象を与える面である。いずれも絵解きによる霊験譚を聞きながら、そして信心に対する功徳に感じ入りながらの拝観であり、これ自体もなかなか趣があって良いものであると思った。
蓮如 / 1415-1499。真宗本願寺第8世門主。父は7世門主存如。最初近江で布教するが、比叡山による迫害のために吉崎へ移転。そこで布教活動をおこない、爆発的に信者を獲得する。その後戦乱に巻き込まれたために京都に戻り、本願寺教団を強固なものとする。「御文」「御文章」と呼ばれる法語を出して、浄土真宗の教義を確立させる。
吉崎御坊 / 文明3年(1471年)に蓮如が、朝倉敏景の帰依を受けて興した。文明6年(1474年)に出火により本坊が焼失。その後も朝倉氏との対立からたびたび戦火に遭い、最終的に織田信長によって完全に破却された。江戸時代になって大谷派・本願寺派によってそれぞれ吉崎御坊が建てられ、現在に至る。
大谷派・本願寺派 / 織田信長と和睦して隠遁した11世門主・顕如が、豊臣秀吉によって京都に招かれ本願寺を建立。その跡を三男の准如が継ぐ。そして慶長7年(1602年)に長男の教如に対して徳川家康が寺院を寄進して、本願寺教団は2つの派に分裂する。准如の流れを汲むのが本願寺派(西本願寺を拠点とする)、教如の流れを汲むのが大谷派(東本願寺を拠点とする)である。分裂については、徳川家康による教団弱体化が目的であるとも言われており、政治的な背景によるところが大きい。教義そのものの内容については、大谷派・本願寺派とも同じである。
北ノ庄城址 柴田神社(きたのしょうじょうし しばたじんじゃ) / 福井県福井市中央1丁目
天正3年(1575年)、越前の一向一揆を鎮圧した柴田勝家は、織田信長より越前国を与えられると、対北陸制圧の拠点として北ノ庄に居城構えた。これが北ノ庄城である。天守は九層であったと言われ、安土城に匹敵する居城であったとされる。だが、この城は完成を見ないまま落城する。
本能寺で織田信長が弑されると、逆臣の明智光秀を討った羽柴秀吉が台頭、筆頭宿老であった柴田勝家と対立するようになる。元来仲の悪かった両将は対立、雌雄を決せざるを得ない状況となる。そして織田家の家督争いをする次男の信雄と三男の信孝の争いも相まって、遂に天正11円(1583年)賤ヶ岳の戦いが始まる。一旦岐阜平定に兵を動かした秀吉の隙を突いて勝家軍は攻勢に出るが、秀吉はわずかの時間で取って返して激戦となる。ところが、ここで勝家の与力であった前田利家が戦線離脱したため,形勢は一気に秀吉に有利となり、勝家軍は総崩れとなり、北ノ庄へ退却したのである。
北ノ庄への退却の折、勝家は敗北の原因を作った前田利家と直接対面している。しかし勝家は利家に対して長年の与力への謝意を示したものの、決して恨み言の一つも漏らさなかったと伝えられる。さらに秀吉に降って、北ノ庄攻めの先陣を買って出るように勧めたともされる。また北ノ庄へ戻ってからも、妻のお市の方や家臣に対して生き延びるよう諭したという。だが、お市の方をはじめ、近臣は勝家と運命を共にすることを選んだのである。
賤ヶ岳の敗戦から3日後、羽柴軍は北ノ庄に攻め入った。勝家は、お市の方を一突きで手に掛け、自ら腹を十文字に掻き切って果てた。そして北ノ庄城は灰燼に帰したのである。
北ノ庄城の跡地に、その後福井城が建てられたが、城内に勝家とお市の方を祀った小祠があったと伝わる。明治23年(1890年)、市民らの発意によって、その小祠のあった場所に建てられたのが柴田神社である。現在ではお市の方の娘を祀る三姉妹神社やゆかりの人物の像が建てられている。
千束一里塚(せんぞくいちりづか) / 福井県あわら市花乃杜
旧北陸街道に設置された一里塚である。かつては道の両脇に塚があったが、昭和24年(1949年)に東側の塚が取り壊され、現在は西側のものだけが残っている。この一里塚には、「千疋狼」説話の類型である「馬面の赤猫(ばべんのあかねこ)」伝説が残されている。
千束の一里塚のあたりで、旅人が何ものかに喉笛をかみ殺されるということが度々起こった。加賀藩のある侍が、正体を見極めてやろうと一里塚の欅の木の上に登って様子を探ることにした。夜更けになると、どこからか数匹の猫が集まって踊り始めた。そして「“ばべんのばば”はまだか」と言い出した。やがて金津の宿の方から大きな赤猫が現れた。猫たちの様子から、あれが“ばべんのばば”であるのが分かった。しかしふとしたことで自分が木の上に潜んでいることがばれてしまったらしく、猫が樹上を見上げて威嚇を始めた。そのうち“ばべんのばば”が木を伝い登りにじり寄ってきた。侍は脇差しを振り下ろすが、固い金属の物に当たっただけであった。さらに数太刀浴びせると手応えがあり、叫び声を上げて猫たちは逃げ散ってしまったのである。
翌日、侍は金津の宿場町へ行き“ばべんのばば”について尋ね廻った。すると“ばべん”は「馬面」という人の名であり、その家には赤猫が飼われているのが判った。侍は馬面家へ行き、事情を話した上で飼い猫を斬り捨てたのである。飼い猫の背中には生々しい刀傷がついていたという。その後、祟りを恐れた人々が白山神社を建てたとされる。
『日本の伝説』によると、旧・金津宿には「馬忠」という呉服屋があり(同花乃杜地区に現存)、その隣に馬面家の本家が営んでいた宿屋があったとのこと。
玉川洞窟観音(たまがわどうくつかんのん) / 福井県丹生郡越前町玉川
現在は海沿いのコンクリート製のトンネル内部に安置されているが、平成の初め頃までは天然の洞窟内に安置されていた。現在のお堂は非常に厳かな雰囲気で、空気がピンと張り詰めている感じがした。線香・蝋燭代に100円が必要。
かつて泰澄が山からこの海あたりを眺めていると、海中に光るものがある。漁師に頼んで引き上げてもらうと、それは十一面観音像であった。それを祀ったのが、この玉川洞窟観音であるとする。その後、黄金の像であると勘違いした泥棒に盗まれたが、里のはずれまで来たら仏像が急に重くなってしまって、結局そこへ放置して逃げてしまったという伝説も残る。実際、幕末と明治の中頃に盗難に遭っているが、いずれも無事に戻ってきたという。
泰澄 / 682-767。越前の生まれ。大宝2年(702年)に文武天皇より国家鎮護の法師に任ぜられる。養老元年(717年)に白山に登頂し白山修験道を開く(白山権現は十一面観音の垂迹とされる)。
土御門家墓所(つちみかどけぼしょ) / 福井県大飯郡おおい町名田庄納田終
名田庄の地は南北朝時代から土御門家の所領となっている。文和2年(1355年)にこの名田庄が泰山府君祭料として土御門有世に与えられたのが、土御門家との関係の始まりとされる。
土御門家は元は安倍家。祖先を安倍晴明として、代々陰陽道を能くして朝廷に出仕してきた。有世の代以降も名田庄との関係は続くが、応仁の乱(1467年)によって京都の町が戦乱の中心となったため、住まいをこの名田庄に移したのである。これが有世の曾孫に当たる、土御門有宣が当主の時である。それから有春、有脩の3代に渡って隠棲したのである(ただし陰陽頭として度々京都へも赴いている)。そのため、名田庄には有宣・有春・有脩の3人の墓が残されている。
その後、土御門家は有脩の子・久脩の代になって京都に戻ることになり、さらに泰福の代に陰陽道宗家として全国の陰陽道を支配して陰陽師を統括、陰陽寮で天文学や暦の作成を司った。さらに泰福は山崎闇斎の垂加神道を学び、独自の土御門神道を打ち立てた。
明治3年(1870年)陰陽寮は廃止となり、土御門家は天文学と造暦の権限を失い、陰陽道そのものも表舞台から消え去ることとなる。だが陰陽道の系譜は土御門神道として残ることとなり、現在、「天社土御門神道」の名で名田庄にその本庁がある。そしてその儀式を執り行う天壇もこの地にある。
土御門家 / 有世(1327-1405)を初代とするが、土御門の名を名乗るようになったのは有宣(1433-1514)の代と言われる。有宣・有春(1501-1569)・有脩(1527-1577)の時代は名田庄に隠棲。久脩(1560-1626)の代に京都へ戻り、徳川家康より「陰陽道宗家」の認可を受ける。
山崎闇斎 / 1619-1682。朱子学者。神道にも通じ、それらの思想を集大成した垂加神道を提唱する。
垂加神道 / 朱子学の宇宙観を『日本書紀』神代巻に求め、天照大神を崇拝、その直系子孫である皇室を護持することが神道の本分であると説く。この思想は後の国学や水戸学に影響を与え、幕末の尊皇攘夷運動にまで受け継がれることとなる。
天魔ヶ池(てんまがいけ) / 福井県福井市足羽上町
福井平野の中心部にある小高い山が足羽山である。現在では市民の憩いの場となっている場所であるが、古墳群が発見されているように、地理的にも特別な場所であるとされていたようである。この足羽山の一画に福井市自然史博物館がある。その玄関近くにあるのが天魔ヶ池である。
この池の由来であるが、『角川地名大辞典』によると、朝倉氏が越前を治めていた頃、空に天蓋が掛かっていたのを寺宝院の僧が祈祷によっておろしたことから「天蓋ヶ池」となり「天魔ヶ池」と呼ばれるようになったという。
天魔ヶ池は日本史の表舞台に一度だけ登場する。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は居城である北ノ庄城へ退却する。それを追ってきた羽柴秀吉はこの天魔ヶ池を中心に陣を構え、北ノ庄城を落城させたのである。ここに陣を構えた理由は、おそらく城を俯瞰できる地理的な要因が主であると考えられる。
足羽山 / 「足羽」の名称は明治以降に付けられたものであり、江戸時代には「愛宕山」と呼ばれていた。現在は自然公園となっている。山そのものが笏谷石という凝灰岩で出来ており、良質の石材として最近まで切り出されていた。またこの石を石材として使用し始めたのが第26代継体天皇であるとされ、足羽山の高台にその石像が置かれている。
賤ヶ岳の戦い / 本能寺の変で死んだ織田信長の相続争いによって起こる。信長の次男・信雄と三男・信孝に、それぞれ羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の有力家臣が味方し覇を競った。近江国の賤ヶ岳で羽柴・柴田両軍が激突。敵陣に深入りした柴田軍を羽柴軍が攻撃、また柴田方の前田利家らが戦線を離脱したため勝敗が決着する。柴田勝家は、居城の北ノ庄城に退却するが、翌日には妻のお市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城炎上する。
燈明寺畷新田義貞戦没伝説地(とうみょうじなわて にったよしさだ せんぼつでんせつち) / 福井県福井市新田塚町
建武3年(1336年)の湊川の戦いに敗れ京都に戻った新田義貞は、攻め込む足利尊氏の入京に際しさらに北陸へ退却する。そして越前で守護職の斯波高経と激戦を繰り返すことになる。
最初の拠点である金ヶ崎城を落とされるものの、巻き返しを図って越前府中を奪い取り、さらに金ヶ崎城も奪還に成功する。その中で延元3年(建武5年:1338年)7月2日、寝返った平泉寺衆徒を討ち果たすべく、義貞は味方の督戦に向かった。その数わずか50騎ばかり。ところが燈明寺畷に来たところで、敵の援軍300騎と遭遇し乱戦。その最中に馬を射られて落馬、起きあがったところを眉間に矢を受けて戦死するのであった(討ち取った側も首級を取ってからようやく義貞であると気付くほどの、偶発的な戦いであったという)。
そして月日が経ち、明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が古い兜を掘り当てた。芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がそれを新田義貞着用の兜と鑑定した。これを受けて、藩主の松平光通はこの発見の地を義貞戦没地と認定し、碑を建てたのである。そしてこの地は「新田塚」という名で呼ばれるようになったのである。
明治3年(1870年)、戦没地に新田義貞を祀る祠堂が建てられ、同9年(1876年)には義貞を祭神とする藤島神社が建立され、掘り出された兜は神社に奉納された。後に藤島神社は現在地に移転し、現在は祠堂だけが新田塚に残されている。
兜の真贋であるが、甲冑研究の第一人者である山上八郎によると、藤島神社に奉納されたものは戦国期の特徴を持つものであり、新田義貞が着用した可能性は極めて低いとされる。ただ兜が土中より掘り出されたという事実自体はあったとする見解を示している。
新田義貞 / 1301-1338。姓については、源義家の四男・源義国の子である義重が新田姓を名乗ったのが始まりとされる。鎌倉幕府に反旗を翻して関東で挙兵、幕府を直接滅亡させる大功を立てる。しかし後醍醐天皇の建武の新政においては、常に足利尊氏に後れを取る扱いを受け、対立。尊氏が後醍醐天皇を裏切った際は、天皇方に味方して南朝の有力武将となる。
福井藩 / 藩祖は、徳川家康の次男・結城(松平)秀康。光通は4代藩主である。徳川家は新田氏を祖先と称しており、藩主による義貞戦没地の認定は、このような事情も作用していると十分考えられるだろう。
平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ) / 福井県勝山市平泉寺町
泰澄によって養老元年(717年)に開かれた。白山神社の名の通り、この地は白山信仰の拠点の1つであり、越前から白山山頂への登山口となっている。そして時代を経て室町期には、白山神社の別当寺であった平泉寺は。四十八社、三十六堂、六千坊、そして僧兵八千人という巨大な宗教都市と呼べるだけの勢力を持つに至ったのである。しかし越前一向一揆と戦い、天正2年(1574年)に焼き討ちに遭って、壊滅状態となってしまう。
その後豊臣秀吉の庇護、さらに福井藩と勝山藩の保護によって復興するが、最盛期の状況にまでは回復することはなかった。寛政8年(1688年)に幕府の裁定によって、白山山頂が平泉寺陵と認定されている。
現在も、最盛期だった時代の平泉寺の発掘調査がおこなわれており、境内の遺構が多数発見されている。また名勝や国史跡の指定も受けている。
泰澄 / 682-767。越前の生まれ。大宝2年(702年)に文武天皇より国家鎮護の法師に任ぜられる。養老元年(717年)に白山に登頂し白山修験道を開く。その後全国を回り、各地の山岳信仰と関わりを持ったとの伝承が残る。
白山信仰 / 白山を御神体とする信仰。泰澄が白山登頂をした際、池より九頭竜王(十一面観音の垂迹)が現れ、自らを伊弉冉尊の化身、妙理大菩薩、白山明神と名乗ったことから始まる。越前・加賀・美濃の3箇所に登山口があり、室町時代に隆盛を極めた。戦国時代になると、加賀・越前の白山信仰の拠点は一向一揆によって焼き討ちされ、かつての勢いを失った。
八百比丘尼入定洞(やおびくににゅうじょうどう) / 福井県小浜市男山
全国津々浦々に点在する伝説の一つに(八百比丘尼)にまつわる話がある。人魚の肉を食べてしまったために不老不死となり、それ故に無常を感じて剃髪し、最後は800歳まで生きながらえたという伝説である(本当は“不老不死”なのだから死ぬのはおかしいのだが)。その伝説の最も有力な出処がこの小浜にある。彼女はこの小浜にあった高橋長者の娘であり、16歳の時、長者がとある知り合いの宴会でもらった人魚の肉(一説には九穴の鮑)をこっそり食べてしまったのが伝説の始まりである。
小浜藩酒井家の菩提寺である空印寺の境内に(八百比丘尼入定洞)という洞窟がある。八百比丘尼の生没年で最も有力な説は、白雉5年(654)に生まれ、宝徳3年(1451)に京都を訪れ、その後に小浜へ戻って800歳で入定(要するに即身成仏)となる。その入定した場所が、空印寺のそばのこの洞窟ということになるらしい。
この洞窟自体にも不思議な話が残されている。江戸時代に空印寺の住職が洞窟の奥へと入っていったところ、出口があって、丹波の山中に出てしまったというのである。現在は落盤のために入り口からすぐのところで塞がっているらしい。
空印寺 / 戦国時代には城館であったが、小浜藩初代京極氏が菩提寺として泰雲寺を建立する。京極氏移封後に入ってきた酒井氏も菩提寺として、建康寺と改称する。さらに次代藩主により、建康山空印寺という名となり、今に至る。寺そのものと八百比丘尼との直接的な関係はないと言える。
高橋長者 / 東勢村(現・小浜市東勢)にいたとされる長者、権太夫のこと。長者が人魚の肉をもらったいきさつには、上の宴会の逸話と共に、小浜では海中にある蓬莱国に招かれ、帰宅の際に箱に入れて持ち帰るよう勧められたとされる。
八百比丘尼の生没年 / 宝徳元年(1449)5月にに京都に八百比丘尼が若狭からやって来て見物料を取って見世物をやったという記録が、中原安富『安富記』や瑞渓周鳳『臥雲日件録』にある。生年については、この年から800年前ということで定まった感がある。また江戸時代にも八百比丘尼が見世物に掛かったが、この時も約800年前の奈良時代の生まれとされたという。
八百姫神社(やおひめじんじゃ) / 福井県小浜市青井
小浜には八百比丘尼ゆかりの地がもう一つある。それが空印寺からそれほど遠くない場所にある神明神社の摂社である(八百姫神社)である。この地は八百比丘尼が一時滞在した場所で、この神社は八百比丘尼を祀っていると言われている。
ところが八百姫神社に祀られているのは八百比丘尼ではなく、(八百姫)という全く別の人物なのである。ただ、この八百姫の出自も相当不思議なものなのである。八百姫は九州北部にある皇室ゆかりの一族の出身である。建保元年(1213)に「海に出て、船が着いた場所に宮を建てよ」という伊勢神宮のお告げを聞き、供と一緒に船を出してたどり着いたのが、小浜の青井という所。そこに神社を建て(伊勢神宮のお告げで建てたアマテラスを祀る宮、すなわち“神明神社”である)、12人の子供を産んだという。
八百比丘尼の有力な生年として雄略年間(456〜479)がある。それから800年を加算すると1256〜1279年。八百比丘尼の最晩年と八百姫の存命期間がまさに一致する。そして不老不死の妙薬である人魚の肉を16歳で食べた八百比丘尼は、当時の容姿のままであったという。そして小浜の地で12人の子供を産んだ八百姫も、漂着当時は20歳になっていなかったはずである。奇妙な一致なのかもしれない。
神明神社 / 天照大神と豊受姫命を祀る。丹後国真奈井にあった神を伊勢度会に分霊する途中で、一時的に社を造ったのが始まりとされる。雄略天皇21年(477)創建。ここでも八百比丘尼と八百姫との微妙な関係が見えてくる。  
    日本海の漆文化 
 
岐阜県 / 飛騨、美濃

 

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とにかくに物は思はず飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に
位山の神
むかし雲の波をかきわけて天津船あまつふねに乗って位山くらゐやまに天降った神があった。この位山は、高山盆地から南に望む位山のことともいふが、長野県境の乗鞍岳のことともいふ。飛騨地方ではこの神は神武天皇に位を授けた神とされる。この神の姿は、身体が一つで頭が二つ、手が四つで足が四つの巨人で、両面宿難りょうめんすくなと呼ばれ、水無神のことだともいふ。仁徳天皇紀に、武振熊たけふるくまに滅ぼされた飛騨ひだの宿禰すくねの話があり、この神のことだらうといふ。(坂口安吾・安吾新日本地理)
○ 位山峰までつける杖なれど 今よろづ代の坂のためなり 大中臣能宣
飛騨の位山の櫟いちひの木は、笏の材料として古代から皇室に献上される。
水無神社の神馬 / 高山市
昔ある秋に、村の作物がたびたび喰ひ荒らされた。村人は、田畑を荒らすのは水無神社の神馬ではないかと噂した。なるほど左甚五郎の彫った馬は生気に満ち、今にも暴れ出しさうであった。しかし神社の神馬を破壊するわけにはいかない。噂は神官の耳にも達した。神官は村人の不安を察して、名工を呼んで神馬の両眼をくりぬき、目が見えぬやうにした。これ以来、田畑が荒らされることはなくなったといふ。
○ 宮作る飛騨の匠の手斧の音 ほとほとしかるめをも見しかな 拾遺集
水無神社は、水無みなしの神をまつる飛騨一宮。
飛騨の匠
右のやうに飛騨にはさまざまな名工の伝説がある。大和朝廷は飛騨には他の税を免除して工人の徴用だけを求めたといふ。鎌倉時代の末に長滝寺(郡上郡白鳥町)などを手がけた藤原宗安といふ人は、飛騨権守ともいはれ、江戸時代の大工たちに崇敬された。大工たちは藤原宗安の肖像画を秘蔵し、その絵には次の歌が書かれてあった。万葉集(2648)に類似の歌がある。
○ とにかくに物は思はず飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に 
飛騨総社 / 高山市神田町
飛騨総社は国府の近い地に飛騨国内の神々をまつった古社である。
文化三年(1808)『飛騨総社考』を著した国学者の田中大秀は、社地の荒廃を歎き、飛騨の人々に再興の志を募って、新しい社殿の造営を成し遂げた。
○ 国の内の神坐せいつかしも 昔にかへす時をこそまて 田中大秀
○ いにしへのあとのまにまに国つ神 集へまつれる今日の貴さ 田中大秀
養老の滝 / 養老郡養老町
霊亀三年(717) 元正天皇が美濃国に行幸されたとき、多度山に美泉が発見された。この水は、飲めば若さを取り戻す霊泉といはれ、天皇はこれを瑞祥として元号を「養老」と改元された。養老郡養老町の養老の滝である。一種の鉱泉だったといはれるが、後に酒が湧き出たといふ伝説に変ってゐる。
○ 古いにしへゆ人の云ひ来ける老い人の 変若をつとふ水そ名に負ふ滝たぎの瀬 大伴東人
不破の関 / 不破郡関ヶ原町松尾地区
壬申の乱のとき、美濃から近江へ入る手前の藤古川(藤川)の両岸に、大海人皇子の軍と大友皇子の軍が対峙したといふ。乱後に律令制度が整備され、ここに不破ふはの関が設けられた。川は「関の藤川」と呼ばれた。
○ 美濃の国関の藤川 絶えずして君に仕へん よろづ代までに 古今集
この関は比較的早い時期の平安時代の始めには廃止となったらしい。
京のやんごとなきお方が富士詣での折りに諸国の歌枕を訪ね歩きたいとの計画を聞いた美濃国司は、不破の関が荒れてゐることを恥ぢて修理させた。ところが待てど暮らせど貴人は到着せず、気づかずに通り過ぎたと思ひ、国司は歌を詠んだ。
○ 葺き替へて月こそ漏らね板びさし とく住みあらせ不破の関守
当時の京の人にとっては、不破の関といへば荒れ果てたイメージがあり、さうでなくなった関所では趣きがないとして通り過ぎたらしい。
青墓の宿 野上の里 / 大垣市青墓、野上
東山道不破の関を過ぎて東の青墓あをはかの宿は、平安末期頃には遊女や傀儡くぐつの芸人たちで賑はった町である。青墓は後白河院の今様歌にも読まれ、また源氏と縁が深く、保元の乱に敗れた源為義、平治の乱に敗れた義朝が隠れ住み、それぞれ青墓長者の娘との間に子を設けてゐる。
○ ひと夜見し人のなさけはたちかへり 心に宿る青墓の里 慈円
青墓の西の野上の里にも遊女の伝説がある。むかし野上長者の家に花子といふ遊女がゐて、京から東国へ向ふ吉田少将と一夜の契りを結び、再び逢ふ約束に、互の扇を交換した。以来花子は自室に籠ってゐるばかりなので、長者に追ひ出され、気がふれてさまよひ歩き、京で少将と再会したといふ。
○ 一夜かす野上の里の草枕 結び捨てける人の契りを 藤原定家
結神社 / 安八郡安八町西結町屋
    小栗判官・照手姫・餓鬼阿弥
揖斐川東岸の安八あはち町にある結むすぶ神社は、川の渡しの地にまつられ、また縁結びの神としても信仰されてきた。
○ 守れただ契り結ぶの神ならば 解けぬ恨みにわれ迷はさで 十六夜日記
○ 世の人の仇を結ぶの神なりと 祈らば心解けざらめやは 一条兼良
むかし小栗判官と別れた照手姫てるてひめがここに参詣して判官に再会したといふ伝説があり、照手姫の宮ともいはれた。
笑ひ地蔵 / 安八郡墨俣町
西行法師が弟子の西住とともに美濃国を訪れたとき、村雨に遇ひ、近くの小堂に雨宿りした。居合せた里人がいふには、この堂の地蔵尊は、墨股川(長良川)の橋柱はしはしらが水中で夜毎に光ってゐたので地蔵菩薩に彫刻したものなので、霊験が多いのだといふ。そこで西住が詠んだ。
○ 朽ち残る真砂の下の橋はしら またさま変へて人渡すなり 西住
すると地蔵尊が微笑んだので「笑ひ地蔵」と呼ばれるやうになったといふ。各地に似た話がある。橋柱とは、橋を支へる支柱ではなく、橋の真下の川底に呪的な意味で埋められた柱である。人柱の伝説も、後の人が橋柱の意味を想像してゐるうちに出来上がったものらしい。
苧がせ池 / 岐阜市
むかし尾張の福富新蔵といふ侍が三河の本宮山(愛知県一宮町)に登ったとき、白髪の鬼女が現はれた。新蔵が鬼女に向って矢を射ると、不意に暗雲が立ちこめて闇となった。しばらくして雲が晴れ、辺りを見まはすと鬼女の姿はなく、血が点々と落ちてゐたので、そのあとをたどって行くと、木曽川近くの余野村(愛知県丹羽郡大口町)の小池与八郎の家に着いた。小池とは旧知の間柄であり、新蔵は事のいきさつを話した。そして風邪で寝込んでゐるといふ小池の妻玉女を見舞はうとすると、寝屋の障子に赤々と血で一首がしたためてあった。
○ 求めなき契りの末のあらはれて 今こそ帰る古里の空 玉女
部屋の外にも血が落ちてをり、血の跡をたどると、木曽川を越えて広沼に至り、沼には血に染まった苧がせ(麻糸の束)があった。女は竜神の化身だったのである。それ以来、広沼を苧がせ沼といふやうになったといふ。美濃国稲葉郡(岐阜市)の伝説である。
喪山 / 美濃市大矢田
むかし天稚彦あめのわかひこ(天若日子)は、ある日、庭先の不審な雉子を矢で射ると、その矢が天から戻って来てその返し矢に当たって死んだ。妻の下照姫したてるひめの泣き叫ぶ声は天まで響いたといふ。葬儀のとき、下照姫の兄の味鋤高彦根あぢすきたかひこね神が喪屋を弔ふと、高彦根神は死んだ天稚彦と容貌がよく似てゐたので、天稚彦の親族は、天稚彦が生き返ったやうだといった。さういはれた味鋤高彦根神は、死人と間違へられたことを怒り、喪屋を足で蹴飛ばすと、喪屋は空を飛んで美濃国の藍見川の川上に至り、それが今の喪山(美濃市大矢田)であるといふ。喪山にまつられてゐた喪山天神社(祭神・天若日子命)は、北方の天王山の麓の楓谷の大矢田神社(牛頭天王社)の境内社として移転された。楓谷にはヤマモミヂ樹林がある。
○ 飛ぶ鳥の羽うらこがるる紅葉かな 支考
東常縁 / 郡上郡大和村 篠脇城
篠脇城の東氏は、もと下総千葉氏の分れで、将軍源実朝の歌の弟子でもあった。東胤行の代から郡上郡の領主となり、胤行は藤原定家の孫娘を妻とし、勅撰集の選者にもなった。その子の(平)行氏も続拾遺和歌集などに多数の歌がある。室町時代には東常縁が出た。
応仁の乱の勃発のころ、常縁が関東に出征した留守中に、美濃守護代の斎藤妙椿に篠脇城を奪はれてしまった。手段を選ばぬ行ひがまかり通る時世を嘆いて、常縁は歌を詠んだ。
○ あるが内にかかる世をしも見たりけり 人の昔の尚なほも恋しき 東常縁
妙椿も多少は歌道をこころざす人なので、この歌を知って城を返したといふ。
常縁は細川家から歌学の秘伝の古今伝授を受け、さらにそれを飯尾宗祇が篠脇城に来た折りに伝へた。そのとき常縁と宗祇は妙見社(明建神社)の境内で連歌を詠み交した。
○ 花さかりところも神の宮居かな 桜ににほふ峰の榊葉 常縁/宗祇
常縁は宗祇を見送るとき、小駄良川(八幡町本町)のあたりで歌を詠んだ。
○ 紅葉ばの流るる竜田白雲の 花のみよしの思ひ忘るな 東常縁
この地は、宗祇清水(白雲水)といふ名所になってゐる。
諸歌
○ 山椿咲けるを見ればいにしへを 幼きときを神の代を思ふ 坪内逍遥 
 

 

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美濃 / 美濃の国。現在の岐阜県南部にあたる。 
美濃の國にて
○ 郭公都へゆかばことづてむ越えくらしたる山のあはれを
飛騨 / 飛騨の国。現在の岐阜県北部にあたる。
○ まさきわる飛騨のたくみや出でぬらむ村雨すぎぬかさどりの山 
飛騨国国号
風土記云 此國本美濃内也 往昔 江州大津 造王宮時 自此郡 良材多出 而負馬駄來 其速如飛 因改稱飛駄國(倭漢三才圖會七十)
飛騨の国はもともと美濃の一部であったが、近江大津に王宮を造ったとき、ここから良い材木がたくさん出てそれを馬に背負わせて運んだところその速さはまるで飛ぶようだった。だから飛騨。という伝承です。近江大津宮、ということは天智天皇の時代の話でしょうか?7c後半?しかしここから「壬申の乱」→天武天皇誕生→飛鳥浄御原宮遷都という流れを考えると古代史において画期の時代の舞台だったともいえるのかも。
飛騨の匠に関わる伝承群があります。
『辞典』にも「飛騨の工匠」の項目がありました。棟上に行われる作法の由来譚です。「屋棟に弓を立てて五色の幡をたて、機織道具、女の髪毛、化粧道具などを供える」と書かれていますが、こんなことするのでしょうか。柱を短く切ってしまった飛騨の匠が妻や娘に解決方法を教えてもらい対処したものの、それを恥じて妻娘を殺してしまった、そういう話。『辞典』に紹介されている事例は、群馬・宮城・千葉・山梨・鳥取・岡山と本州各地にあるようです。
飛騨地方から多くのたび大工が出たのは本当らしいです。『辞典』では「彼らを束ねる拠点が各地にあって、互に連絡を取り合って、鬼門などの建築上の俗信とともにこの伝説を普及させた」とかかいてありますが、こんな不気味な伝承を自分達で広めたというのはちょっと疑問です。確かに類型性があるので、ある種の情報源から広まった可能性は高いですが、意外と江戸時代辺りに何らかの書物とかで広がったのかもしれませんよ?
普通に考えると飛騨の匠を受け入れる側が「なぜ化粧道具や機織道具を供える必要があるのか?」と不思議に思って考え出した可能性が高い気もします。私も疑問だ。
ところで、「木」「飛ぶように速い」から連想するのは、「枯野」をはじめとする古代の巨木伝承です。飛騨の国に巨木があったなどという伝承はここにも書かれていません。
普通巨木伝承というのは、「雲に届くほど高かった」とか「天を支えていた」「天界への道だった」などといわれることが多いのですが、日本の場合は垂直方向へはほとんど注意が向かず、「影が○○から××まで覆った」とか「切られた跡に船にしたら早かった」などという水平方向へ注意が向くことが多いのです。
さらに「三十三間堂棟木の由来」では、切られた柳の木が飛ぶように京都に着いたという話があったように思います。この柳は女になって人間と結婚し子供を生むのですが、その子供が指揮を取り始めたとたんに動き出した。この伝承は寺社縁起の一種だと思われるので、仏教への信仰を促す意味合いが強いはず。つまり柳は仏教に帰依するために三十三間堂の棟木になった。 
帰雲城埋没地(かえりくもじょうまいぼつち) / 岐阜県大野郡白川村保木脇
戦国時代、現在の白川郷一帯を領有していたのは内ヶ島家という豪族であった。その一族が居城としていたのが帰雲城である。
内ヶ島一族がこの白川郷を領有するのは寛正年間(1461〜1466年)頃とされる。内ヶ島氏は足利家の奉公衆であり、8代将軍・足利義政の命によって赴任したとされる。以後、白川郷に勢力を持つ一向宗の正蓮寺と対立・和解をする以外には大きな戦いもなく、また領地を広げるようなこともなかった。だが4代目の内ヶ島氏理の代になって、ようやく歴史の波がこの地にも押し寄せてきた。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉は配下の金森長近に飛騨攻略を命じた。飛騨の大半を治める姉小路(三木)自綱は越中の佐々成政と組んで抵抗。内ヶ島氏理もその同盟に加わり、越中に援軍するなどの軍事行動を取る。しかし金森軍は姉小路家の居城を攻め落とし、また佐々成政も秀吉に恭順してしまった。さらに居城の帰雲城も越中遠征中に内応によって金森軍の手に落ちてしまったため、内ヶ島氏理はやむなく金森長近の許を訪れて和睦、金森氏に臣従することで所領安堵となったのである。
同年11月29日。和睦による所領安堵を受けて、帰雲城では祝宴が開かれた。城主をはじめ、内ヶ島一族郎党が全員集まっての宴であった。ところがその夜半、突如悲劇が起こる。天正地震と呼ばれる大地震が発生、帰雲山が崩落し、帰雲城とその城下町は土砂に埋まってしまったのである。これによって帰雲城は、内ヶ島一族と共に一夜にして歴史から消えることになる。
現在、国道156号線の脇に“帰雲城埋没地”として城址の碑や帰り雲神社などがあるが、これは田口建設という採石業者の社長の夢枕に内ヶ島氏の武将が現れたことが発端で造られた施設であって、あくまで比定地でしかない。帰雲城とその300軒余りの家があったとされる城下町は跡形もなく土砂に流され、その所在地は全く不明のままである。また、白川郷一帯は金銀の産出地であり、内ヶ島一族がこのやせ細った土地に勢力を張れたのは金鉱を掘り当てていたためと考えられ、その蓄えられた金銀が地震によって埋まってしまっているという「埋蔵金伝説」も残っている。
金森長近 / 1524-1608。織田家家臣。賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に臣従。秀吉の飛騨討伐の主力として活躍し、平定後に飛騨一国を領し、高山に居城を置く。関ヶ原の戦い以降、飛騨高山藩の祖となる。
姉小路(三木)自綱 / 1540-1587。飛騨国司の姉小路の名跡を継ぎ、さらに三木氏の家督を継ぐ。はじめは上杉謙信と、謙信死後は織田信長と手を組み、飛騨国統一を図る。本能寺の変後に飛騨を統一するが、柴田勝家・佐々成政に味方したために、賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に攻められ敗北。一族はことごとく自害、自らは京都に幽閉された後に没する。
佐々成政 / 1536?-1588。織田家家臣。黒母衣衆に抜擢、初期から鉄砲隊を率いるなど武功を挙げる。北陸方面を指揮する柴田勝家の与力として越中一国を領する。柴田勝家と共に羽柴秀吉と戦うが、降伏。
天正地震 / 天正13年11月29日(1586年1月18日)発生の地震。美濃を震源として、東海・近畿・北陸に大きな被害をもたらす。上記の帰雲城埋没の他、美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、近江の長浜城が半壊する。また京都の三十三間堂の仏像が600体以上倒れるなどの被害。伊勢湾で津波(若狭湾でも津波とされるが誤記録の可能性あり)。マグニチュードは推定で8前後とされる。
源氏橋(げんじばし) / 岐阜県養老郡養老町明徳
平治元年(1159年)、源義朝は京都で平清盛に敗れると、勢力圏である関東へ逃れるべく東へ向かった。途中で息子達とも散り散りになりながらも、何とか美濃国の青墓(現・大垣市)にまで辿り着く。青墓では、源氏と姻戚関係を持つ大炊兼遠に匿われることになる。しかしさらに東へ逃れるために、乳兄弟の鎌田政清の舅である長田忠致を頼って川を下ろうとした。そこで義朝主従が柴舟に乗ったのが、この源氏橋のたもととされる。
現在では人が乗る船など浮かべることも出来ないような小川に、石造りの橋は架けられている。そして源氏の名にふさわしく、その家紋である笹竜胆が橋に彫られている。
偶然、この橋をよく知る古老の話を聞くことが出来たが、かつてはもう少し離れた場所に橋があったのだという。その移転に際して、橋のほかに、義朝が鎧を掛けたとされる鎧掛け榎も植え替えたが、結局枯れてしまったとのこと。さらに弁当の箸の代わりに使った蘆が後に生い茂ったという蘆塚をもとに植えられた蘆も。結局根付かないまま朽ちてしまったという。今は、石造りの橋と、移動させた当時に掲げられた案内板が残るだけである。
源義朝 / 1123-1160。河内源氏の棟梁。東国に下って、当時凋落していた源氏再興をめざす。保元の乱で平清盛と共に勢力を得るも、3年後の平治の乱で敗北。尾張国の野間で、家臣だった長田忠致に暗殺される。後に鎌倉幕府を興す源頼朝は遺児。
大炊兼遠 / 1105-1161。青墓宿の長者。祖先は天武天皇の家臣で、壬申の乱の功績で美濃国に在するようになったとされる。娘が源義朝の側室となったため、源氏とは姻戚関係になる。
鎌田政清 / 1123-1160。源義朝の家臣。母が義朝の乳母であったため、乳兄弟となる。平治の乱後、舅の長田忠致を頼るが、主人の義朝は暗殺され、自らも酒を呑まされた上に殺される。妻(忠致の娘)は政清が殺されたのを知ると、川に身投げして死んだという。
護国之寺(ごこくしじ) / 岐阜県岐阜市長良雄総
護国之寺は天平18年(746年)に聖武天皇の勅命によって建立された古刹である。県や市の重要文化財を多く所有しているが、中でも“金銅獅子唐草文鉢”は奈良時代の作とされる、国宝指定の名器である。この鉢にまつわる伝承は、この古刹建立にも大いに関係する。
聖武天皇が奈良の都に総国分寺として東大寺を建立を欲し、大仏造立の詔を出したのが天平15年(743年)のことである。そこで全国に使者を遣わして、然るべき仏師を求めることとなった。美濃国へ派遣された使者は、ある夜、夢の中で「明日東へ行って、一番最初に出会った者が、おまえが探し求める仏師である」というお告げを聞く。翌朝、使者が最初に見かけたのは一人の童子であった。日野金丸(ひのきんまろ)と名乗った童子は、使者の求めに応じて土をこねて見事な仏像を造って見せた。そこで使者は金丸を伴って奈良へ戻り、大仏建立の任に当たらせたのであった。
天平勝宝4年(752年)ついに大仏は完成し、落慶法要が執りおこなわれた。その時、紫雲が現れ、美しい音楽が流れてくると、空から一つの鉢が舞い降りてきた。そして「これは釈尊が使われていた鉢である。大仏造立を称えてこれを授けよう」という声がした。そこで聖武天皇はこの鉢を、大仏建立に功績のあった金丸に与えたのであった。
その後、故郷に戻った金丸は雄総に寺を建てて、この鉢を納めた。そしてその死後に千手観音菩薩像に変化して、この寺の本尊となったという。
聖武天皇 / 701-756。第45代天皇。光明皇后と共に仏教に篤く帰依し、全国に国分寺・国分尼寺、平城京に東大寺を建築して、仏教による国家安寧を図った。
東大寺大仏 / 盧舎那仏(華厳宗における“宇宙の中心に位置する仏”。真言宗で言うところの大日如来である)。天平17年(745年)より造られ、天平勝宝4年(752年)に開眼供養(仏に魂を入れる儀式)が執りおこなわれた。高さ約15m、重さ250t。後に2度の戦火によって焼失するが、その都度再建される。現在の大仏は、元禄4年(1692年)に完成したものである。
櫻山八幡宮 狂人石(さくらやまはちまんぐう きょうじんせき) / 岐阜県高山市桜町
高山にある櫻山八幡宮は、秋の高山祭りで有名な神社である。その起源は古く、仁徳天皇の御代、飛騨一帯で猛威を振るっていた両面宿儺(りょうめんすくな)を退治するため征討軍が組まれ、必勝祈願のため難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)が先の帝である応神天皇(八幡神)を祀ったのが始まりとされる。
江戸期に入り、高山領主となった金森氏により元和9年(1623年)に再興され、高山北部一帯を氏子と定めて鎮守となす。このように由緒正しく且つ町の人々の信仰を集める神社であるが、その境内末社である秋葉神社の神殿脇に不自然な形の巨石が置かれている。それが狂人石である。
最近立てられた駒札によると、この神域や境内を汚す行為をした者がこの石に触れるとたちまち発狂してしまうという古来よりの言い伝えがあるらしい。神域を汚す者に対して神罰を下すという伝承は限りないほどあるが、具体的に<石に触れると発狂する>という伝承は他に例がなく、またその実物が現存するという話は聞いたことがない。
両面宿儺 / 『日本書紀』仁徳天皇65年の記録にある、飛騨地方の蟠踞した異人。1つの胴体に顔が2つあり、それぞれ4本の手足を持つとされる。正史においては悪の存在であるが、飛騨地方では地域の開拓者的存在として英雄視されている向きがある。
難波根子武振熊命 / 神功皇后に仕えた将軍とされる。神功皇后に謀反を起こした忍熊王をを打ち破る、飛騨の凶賊である両面宿儺を滅ぼすなどの功績を挙げる。和迩氏の祖先とされる。
金森氏 / 初代・長近が天正14年(1586年)に入国。関ヶ原の戦いの功績により、江戸幕府以降も飛騨一国を領国とする。櫻山八幡宮再興時の領主は3代・重頼。6代・頼時の時、元禄5年(1692年)に高山から出羽国上山へ転封となる。それ以降、飛騨国は幕府の直轄地として代官が置かれた。
蛇穴(じゃあな) / 岐阜県郡上市和良町野尻
その名の通り、かつて大蛇が棲んでいたと言われる穴。鍾乳洞の東端にあたり、奥行き25mの洞穴であり、そこから湧き出る水は岐阜県名水50選に指定されている。
昔、この穴には乙姫様(龍神・大蛇)が住んでおり、村人が行事で膳や椀が必要になると、この穴の前に希望の人数を書いた札を置いておく。すると翌朝には人数分の膳や椀が揃えてあったという。
ある時、村人が鼓を5つ貸してもらった。ところがあまりに珍しいものなので、1つを隠して4つだけを返した。するとその年はひどい日照りで、田畑の水は涸れ、土地がひび割れるほどになってしまった。乙姫様の怒りと思った村人は、早速雨乞いをおこなった。やがて黒雲が湧いて激しい雷雨が降ったが、今度は辺り一帯に落雷があり、たちまち火の手が上がりだした。さらに蛇穴からは大蛇が這い出してきたかと思うと、黒雲を目指して空に飛び立っていったのである。それ以来、いくらお願いをしても椀も膳も出てこなくなったという。
貸し椀伝説 / 全国各地に見られる伝説の類型。水場において、膳椀を人数分貸し出して欲しいと頼むと、その通りのものが貸し出せた。しかし村人の誰かがその1つを返さなかったために、その後は頼みを聞いてくれなくなるという展開である。
血洗池跡 血洗神社(ちあらいいけあと ちあらいじんじゃ) / 岐阜県中津川市阿木字血洗
『古事記』によると、三貴神(天照大神・月読尊・素戔嗚尊)は黄泉の国から戻ってきた伊弉諾尊が禊ぎをして誕生したことになっている。ところが『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊による“神産み”の中で誕生した、即ち伊弉冉尊が生んだという設定になっているのである。
恵那山には、この『日本書紀』の内容に基づいて、次のような伝承が残っている。恵那の地名は、伊弉冉尊が御子を生んだ際に出た胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤)を埋めた山という意味で付けられたとされるのである。そして恵那山の麓に位置する血洗池で、伊弉冉尊は産穢を洗い清めたとされるのである。さらに、伊弉冉尊は出産に後に岩に腰を掛けて一息ついたので、このあたりを“安気の里”と呼び、それが現在の阿木の地名となっているという。
血洗池はそこそこ大きな池であったが、土砂の流入によって縮小され、昭和時代には完全に埋まってしまったとされる。昭和の終わりに頃に国道363号線が整備された時に、この池の跡も整備され、近くにあった伊弉冉尊が腰掛けたとされる岩も移し替えられている。
血洗池のそばには血洗神社と呼ばれる神社があったが、現在は少し離れた場所に移設されている。祭神は天照大神であり、安産のご利益があるとされている。
照手姫水汲井戸(てるてひめみずくみのいど) / 岐阜県大垣市青墓町
説経節で有名な『小栗判官』の物語ゆかりの地が大垣市内にある。
小栗判官の許嫁となった照手姫であるが、父の横山大膳がこれを憎んで判官を毒殺、照手を相模川に沈め殺そうとする。川に流されただけで命拾いした照手は、村君太夫に救われるが、嫉妬した姥に売り飛ばされ諸国を転々とし、最後に美濃国青墓宿の万屋に買われた。
万屋の主人・君の長夫婦は照手に常陸小萩という名を付け、遊女として客を取るように迫る。しかし小栗への貞節を守ろうとする照手はそれを断り、代わりに下水仕として16人分の仕事をこなすことを命ぜられる。一度に馬100頭の世話をさせられ、さらに馬子100名の飯の支度をさせられた。さらに笊で水を汲むように強要されるなどの無理難題を押しつけられ、3年の月日を過ごしたという。その照手媛が水仕事に使っていたという井戸が残されている。かつてこの付近に青墓宿の有力者の屋敷があったものと思われ、それがいつしか『小栗判官』の物語と結びついたのであろうと推測できる。
やがて、蘇生したものの生ける屍のようになった小栗は餓鬼阿弥と呼ばれ、道行く人々に車を曳いてもらいながら熊野へ向かう。そして青墓の万屋の前に辿り着く。車を曳けば仏の功徳になると知った照手は、君の長から5日の暇をもらい、お互いの素性も知らぬまま、狂女のなりをして大津まで車を曳いていくのであった。
小栗判官 / 室町時代に常陸国にあった豪族・小栗氏がモデル。二人の出会った相模や、車曳きで辿り着いた熊野などに伝承が複数存在する。
説経節 / 語り物の文芸であり、仏教の教義(主に因果応報)が色濃く入った物語を節回しを付けて披露した。有名なものとして、『小栗判官』『山椒大夫』『苅萱道心』『俊徳丸』などがある。
念興寺 鬼の首(ねんこうじ おにのくび) / 岐阜県郡上市和良町沢
この寺には「鬼の首」と呼ばれる、頭部より2本の角の生えた頭蓋骨が安置されている。寺伝によると、元禄7年(1694年)に粥川太郎右衛門の死去に伴って寺に納められたとのこと。この太郎右衛門は、この鬼を退治した藤原高光の子孫であるという。
天暦年間(947〜957年)、この地の近くにある瓢ヶ岳(ふくべがたけ)を根城に付近を荒らし回った鬼があった。その知らせを聞いた朝廷は藤原高光を派遣し、高光は見事にその鬼を退治したと伝えられる。
鬼の首は本堂内の厨子に安置され、住職の説法を聞きながら拝観する(拝観料250円。法事などで拝観不可の場合も)。頭蓋骨は普通の人間より一回りほど大きいように見え、生えている角以外も何かしら異形の雰囲気を漂わせている。そして撮影は一切禁止。これには、かつて漫画家・永井豪が『手天童子』取材のために写真撮影をしたが、その直後から周囲で異変が頻発したため、写真を寺に納めたところ怪異が収まったという逸話が発端であるとまことしやかに言われている。
藤原高光 / 939-994。右大臣・藤原師輔の八男。和歌に優れ、三十六歌仙の一人とされる。応和元年(961年)に、父の死を契機に出家、同母弟の尋禅(後の慈忍和尚)の元で良源(元三大師)に師事する。後に比叡山を離れ、多武峰に移り住む。
この地方において最も流布している高光の伝説では、高賀山で「さるとらへび」という怪物(頭は猿、胴は虎、尾は蛇という、鵺の怪物と同じ姿)を退治し、高賀六社を創建したとされる。
東首塚・西首塚(ひがしくびづか にしくびづか) / 岐阜県不破郡関ヶ原町関ヶ原
慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは「天下の分け目の戦い」と呼ばれる合戦である。関ヶ原の地に布陣した兵数は、東西両軍を合わせて約17万人。わずか半日の戦闘であったが、約8000人の死者が出たと言われている。
関ヶ原の勝者である徳川家康は現地で首実検をおこなった後、多くの遺体の処理を、この地を治める竹中重門に供養料千石を与えて命じた。そこで造られたのが東首塚と西首塚であるとされる。
東首塚のある場所には、家康が首実検した際に首級の汚れを落としたという首洗いの井戸があり、また昭和6年(1931年)に史跡に指定されて後に移築された護国院大日堂と唐門がある。対して西首塚は胴塚とも呼ばれ、あるいは東西両軍の武将に分けて葬られた首塚であるとも言われる(実際のところは、東西どちらの兵であったか分からない者が大半であったと伝えられる)。どちらの首塚もよく整備されており、今なお供養が丁重に執り行われていることが分かる。
関ヶ原は多数の死者が出た場所であり、この2つの首塚以外にも遺体を埋めた場所が複数あると推測される。実際、明治になって敷設された東海道線の工事の際に、多数の白骨が掘り出されたという記録も残されている。
藤波橋(藤橋)(ふじなみばし ふじはし) / 岐阜県飛騨市神岡町東町
神岡町の中心部を流れる高原川に架かる藤波橋は、昭和5年(1930年)に完成した鉄橋である。赤く塗られたその姿は場違いなほど目立つ存在でもあり、それでいて町のシンボルとしてしっくりと町並みに溶け込んでもいる。この橋があった場所には、かつて“藤橋”と呼ばれた藤蔓で造られた橋があったという。そしてこの橋を舞台にし、かつてこの土地で起きた悲劇を伝える謡曲「藤橋」が残されている。
原本は田中大秀らによって書かれたとされ、昭和8年(1933年)に謡本「藤橋」として発刊。地方で作られた謡曲として平成15年(2003年)に神岡町文化財指定を受け、同18年(2006年)に飛騨能「藤橋」として完成披露されている。
一人の僧が舟津の里(今の神岡町)を訪れ、藤橋の景色に見とれている内に日が暮れたために、近くの家に宿を求めた。その家の女主人は、縁の人のために経を上げて欲しいと頼んだ。
かつてこの辺り一帯を治めていたのは江馬時盛という豪族であった。ある年の盆の夜に酒宴を開き、館に家来などを招いた。その時に時盛の妻の明石は舞を披露し、宴は大いに盛り上がった。しかしその夜更け、時盛の寝所に賊が押し入り、時盛と妻の明石を刺殺したのである。それは父である時盛と対立する嫡男の輝盛の策略だったのである。
涙ながらに昔の話をする女主人を不憫に思った僧が名を尋ねると、時盛の妻の明石の亡霊であると正体を明かす。事の真相を知った僧は非業の死を遂げた夫妻のために、夜通し経を読んだのである。
やがて夜が明けようとする頃、明石が江馬の館で舞を披露した時の衣装を身につけ、再び僧の前に現れた。僧の読経によって成仏することが出来た礼として、明石は一差し舞を披露すると、いずこともなく姿を消したのである。
田中大秀 / 1777-1847。国学者。飛騨高山の富裕な薬屋の長男として生まれる。本居宣長晩年の弟子であるが、生涯のほとんどを飛騨高山で過ごし、古典研究や神社再興などを手がける。
江馬氏 / 戦国時代に、飛騨国北部の高原郷(現在の神岡町周辺)を拠点とした豪族。姉小路(三木)氏と飛騨国の覇権を争い続けた。江馬時盛(1504-1578)は武田氏と手を結ぶことで勢力拡大を図るが、嫡男の輝盛(1533-1582)は上杉氏を推すために度々衝突したとされ、ついには父を暗殺するに至る。しかし、織田氏を後ろ盾とした姉小路氏が次第に勢力を増してきて、江馬氏は徐々に衰退。最後は姉小路氏との八日町の戦いで、当主の輝盛が討ち死にしたため江馬氏は領地を失う。これにより姉小路氏の飛騨統一が完成する。その後羽柴秀吉の飛騨攻めの際に、輝盛の嫡男の時政(?-1585)が羽柴勢に属して活躍するが、旧領復帰は果たせず、逆に反乱を起こしたために自害に追い込まれ、江馬氏は滅亡する。
二つ葉栗(ふたつばぐり) / 岐阜県高山市清見町三日町
昭和32年(1957年)に岐阜県天然記念物に指定された栗の木である。「二つ葉」の名の通り、葉が2つに分かれるという変わった木であり、葉の付け根から分かれる場合もあれば、葉の中ほどで二つに割れてY字のような形になるものもある。このような不思議な葉の形になる原因についての伝説が残されている。
牧口という集落に源次という男がいた。他人の土地のものを勝手に盗ったりするので、村の者から随分と嫌われていた。ある時、隣家の者が立山へ参拝に行ったのをこれ幸いに、薪を持ち去っていった。その途中、源次は風で頭巾を飛ばしてしまい、探したが見つけることが出来なかった。
数日後、隣家の者が源次を訪ねてきた。立山で源次に会ったという。薪を背負った源次が正面から近づいてきたかと思うと、突然、体勢を崩すと煮えたぎる地獄に落ちてしまったというのである。そして隣家の者は、証拠にとその時拾い上げた頭巾を見せた。それは薪を盗んだ時になくした頭巾であった。これにはさすがの源次も恐れをなし、前非を悔いて真人間になることを誓った。それ以降、盗みを働くこともせず、さらには人助けもおこなって善行を積み、念仏を毎日唱える生活を続けたという。
そして年月が過ぎて宝暦11年(1761年)の冬、いよいよ臨終という時に、源次は「もし家の前の栗の木の葉が二つに割れるようになったら、その時は私が極楽へ行ったものと思って欲しい」と告げて亡くなった。その翌年から、その栗の木の葉は葉先が割れるようになったという。
丸山神社 鮒岩(まるやまじんじゃ ふないわ) / 岐阜県中津川市苗木
中津川は巨石が点在するエリアである。その中でも最も奇異なる形の巨石といえば、この鮒岩にとどめを刺すと断言して間違いない。平野部にちょこんと置かれたような小山の中腹部分に、その岩は据えられるようにしてある。
ある意味人工的と言われてもおかしくないような小山そのものが、丸山神社の敷地である。その小山の南側に鮒岩はある。長さ約12m、高さ約6mの巨石であり、かなり遠くからでも目視できる。そして誰が見ても、尾ヒレを持ち上げた魚(あるいはクジラ)にしか見えない。その巨石がバランスよく石の台座に乗っかっているのである。
この鮒岩については、超古代文明の人工物ではないかという説もある(少なくともこの場所に人為的に移動させたという説もある)。この丸山神社の境内には他にも相当な巨石がゴロゴロ転がっているが、ここまで奇妙な形の石は見当たらない。またこの神社自体も古い記録が残っておらず、この鮒岩との関係も全く不明である。そもそもこの巨石そのものが祭祀などの信仰の対象となっているとの有力な見解もなく、まさに謎に包まれた岩なのである。
御首神社(みくびじんじゃ) / 岐阜県大垣市荒尾町
祭神は平将門の御神霊。関東を根城にして歴史に名を残した平将門が東海地方に祀られているのには、次のような伝承がある。
討ち取られた将門の首は京都に運ばれてきて晒し首となったのだが、何ヶ月経っても一向に朽ち果てることもなく、それどころか切り離された胴体を求め、さらに一戦を交えようという勢いで罵り続けていた。そしてある時、首は胴体を求めて東に向かうべく、宙高く舞い上がって京都を去って行ったのである。
美濃国の南宮大社では、将門の首が関東に戻ればまた大乱が起こると怖れて祈願をおこなった。すると大社に座する隼人神が弓を構え、東へ向かって飛んで行く将門の首を矢で射落としたのである。
首は荒尾の地に落ち、そして再び関東へ行かないようにこの地に祀ることで将門の御霊を慰めた。これが御首神社の始まりと伝えられている。
首を祀る神社ということで、首から上の諸祈願に霊験あらたかと言われ、近年では合格祈願の神として知られる。また祈願の際には絵馬ではなく、帽子やスカーフなど首から上に身につけるものを奉納する者も多くあるとのこと。
南宮大社 / 美濃国一之宮。主祭神は金山彦命で、全国の鉱山・金属業の総本宮とみなされている。 南宮大社の境内摂社に隼人神社があり、その社の前には矢竹が植えられている。この神社の祭神は火闌降命で、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の間に出来た三人兄弟の真ん中神である(上の兄は海幸彦、弟が山幸彦となる)。
夜叉龍神社(やしゃりゅうじんじゃ) / 岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内川上
祭神は夜叉龍神。この地からさらに10kmほど北上したところに登山道がある夜叉ヶ池の主であり、また龍神の嫁となった夜叉姫を祀る。
正保4年(1647年)、大垣藩主の戸田氏鉄はこの地を訪れ、夜叉ヶ池の伝説を聞いて感銘し、夜叉姫の髪洗池のほとりに夜叉龍神社を建立したのが始まりである。その後治水の神として大垣藩の崇敬を受ける。しかし明治28年(1895年)この付近一帯襲った鉄砲水によって神社は流失する(この時に夜叉姫の髪洗池もなくなってしまう)。
しばらく御神体などは別の場所に安置されていたが、昭和9年(1934年)に揖斐川電工株式会社が川上発電所を開設する際に、治水の神、村と会社の平安隆盛を祈願するために復興されたのである。揖斐川電工株式会社は,現在ではイビデンという会社名で電気機器製造メーカーとして存続しているが、現在でもこの夜叉龍神社へ役員が参詣しているという。
夜叉ヶ池伝説 / 弘仁8年(817年)、美濃国を大干魃が襲った。窮した郡司の安八太夫安次は、小さな蛇を見つけると「雨を降らせてくれるなら、娘をやろう」とつぶやいた。するとその夜の夢枕に小蛇が現れ「私は龍神である。望み通り雨を降らせる代わりに娘をもらう」と言うと、たちまち雨が降り出した。翌日、龍神は若者に姿を変じ、安八太夫の許を訪れる。太夫は事の子細を3人の娘に告げると、末娘が「ならば」と承諾した。そして娘は若者と共に揖斐川の上流へと向かったのである。そしてしばらく後、娘を案じた安八太夫は揖斐川の上流へ行き、さらに山の上の池を訪れて娘の名を呼ぶと、既に龍の姿に変じた娘が現れ今生の別れをした。その後、安八太夫は龍となった娘を祀る祠を池(奥宮)と自宅(本宮)に建てた。そして池は、娘の名を取って夜叉ヶ池と呼ばれるようになったという。
戸田氏鉄 / 1576-1655。徳川家康の近習として仕える。関ヶ原の戦いの後、膳所藩、尼崎藩を経て、寛永12年(1635年)大垣へ転封となる。大垣藩時代には新田開発と治水に尽力し、藩の経済基盤を作り上げた。そして明治維新に至るまで、戸田氏が大垣藩を領することとなる。 
 
 
愛知県 / 尾張、三河

 

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愛知潟 潮干にけらし 知多の浦に朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
真清田神社 / 一宮市
一宮市の真清田ますみだ神社は、尾張氏の祖神・火明命ほあかりのみことをまつる尾張国の一宮とされる。
むかし赤染衛門の夫の大江匡衡が、尾張守として赴任してゐたころ、尾張国で何かの理由により里人らが腹を立てて種を蒔かずに干してゐた。赤染右衛門が真清田神社に歌を献納すると、農民は田作りにもどったといふ。
○ 賎しづの男をの種ほすといふ春の田を作りますだの神にまかせむ 赤染衛門集
川の洲だった地に開墾された田に蒔かうとしたのだらうか。
玉の井の霊泉 / 葉栗郡木曽川町玉の井 加茂神社
木曽川町の加茂神社の境内に、古代からの清水があり、「玉の井の霊泉」といふ。聖武天皇が光明皇后の病気平癒のためにここに神宮寺を建てたといふ。
○ 思ひつやみたらし川にせしみそぎ 忘れぬ袖の玉の井の里 飛鳥井雅経
○ 汲み見れば遠きむかしのおもかげは 心にうつる玉の井の水 秋隆
阿波手の森 / 海部郡甚目寺町上萱津
むかし陸奥信夫しのぶの里の藤姫は、京にゐる父を尋ねて、夫とともに尾張の萱津の宿まで来たが、病のために死んだといふ。十六才であった。後日ここへ京の父が訪れて供養したが、逢ふことができなかったことから、以来「あはでの森」といふ。
○ 忘るなよ我が身消えなば後の世の 暗きしるべに誰を頼まん 藤姫
○ 嘆きのみ繁くなりゆく我が身かな 君にあはでの森にやあるらん 相模
琵琶が池 / 愛知郡西枇杷島町
むかし藤原師長もろながといふ人が、無実の罪で、愛知郡井戸田の里(名古屋市瑞穂区)に流されて来た。師長は、なにごとも諦めた寂しい暮らしの中で、琵琶を弾くことだけが慰めだった。そのうちに里長さとをさの娘の横江よこえと親しくなり、結婚しようとも思った。そんなとき都から使ひが来て、無実の罪が晴れたので都に戻るやうにとのことだった。師長は横江のことで悩んではみたが、けっきょく形見の琵琶を横江に預け、都へ去って行った。悲嘆した横江は、師長の後を追ひかけたが、枇杷島ひ ば しま川まで来て、届かぬことと悟り、歌を詠んで川の傍らの池に身を投げて死んだ。
○ よつの緒の調べあはせて三つ瀬川、沈み果てしと君に伝へよ横江
横江の胸には、形見の琵琶がしっかりと抱かれてゐたといふ。いつしかその池は、琵琶が池と呼ばれるやうになった。横江は小場塚村(西枇杷島町小場塚)の琵琶塚に葬られたといふ。藤原師長は琵琶の名手で、保元の乱に関って土佐へ配流ともなった。
熱田 / 名古屋市熱田区
熱田の西にあった入江を愛知潟といった。アユチは東風の意味である。
○ 愛知潟 潮干にけらし 知多の浦に朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ 万葉集
○ 桜田へ鶴鳴き渡る鮎市潟 潮干にけらし鶴鳴き渡る 高市黒人
熱田から東南の入江は、鳴海潟といった。
○ 浦人の日の夕暮になるみ潟 帰る袖より千鳥啼くなり 通光
むかし日本武やまとたける尊の東征のとき、熱田の尾張国造家を宿とし、国造の娘の宮簀姫みやずひめと夫婦の契りをした。そして熱田を出た日本武尊は、船で鳴海潟を渡って行ったといふ。
○ 鳴海らを見やれば遠し直楫ひたかぢに この夕潮に渡らへむかも 熱田大神縁起
大高村(名古屋市緑区)の火上姉子ひかみあねこ神社は、宮簀姫をまつる。大高は古代には日高といったといふ。右の歌の直楫は日高路とも読めるが、東路の意味かもしれない。日本武尊がのちに甲斐の酒折宮で宮簀姫を偲んで詠んだといふ歌もある。
○ 愛知潟 火上姉子は吾こむととこさるらむや あはれ姉子を 熱田大神縁起
伊勢国で世を去った日本武尊は、白鳥となって熱田の地に飛来したといふ。名古屋市熱田区白鳥町に白鳥塚がある。
○ 敷島の大和恋ひしみ白鳥の 翔りいましし跡処これ 本居宣長
日本武尊の草薙の剣をまつったのが熱田神宮である。
熱田の二十五丁橋 / 名古屋市熱田区
○ 宮の熱田の二十五丁橋で 西行法師が腰を掛け 東西南北眺むれば
 これほど涼しいこの森を 誰が熱田と名を付けた 名古屋甚句
西行法師が出家して東国の旅に出たとき、夏のある日、熱田の二十五丁橋のたもとまで来て休息をとり、歌をよんだ。
○ かくばかり木陰すずしき宮立ちを 誰が熱たと名づけ初めけむ 西行
するとどこから歌が返ってきた。
○ やよ法師 東の方へ行きながら など西行と名告り初めけむ
西行はきまり悪さうにして、そそくさと立ち去ったといふ。この橋は、二十五枚の石板を並べた太鼓橋で、神宮をめぐる堀にかけられてゐた。
○ ます鏡てる日の影も知らぬまで 熱田の森は繁らひにけり 海量
神戸節 / 名古屋市熱田区
寛政の頃、熱田神宮の門前の神戸かうど町に私娼がおかれ、女たちを「おかめ」といった。
○ おかめ買ふ奴ぁあたまで知れる 油つけずの二つ折り
 そいつはどいつだ どどいつどいどい 浮世はさくさく
この歌は神戸節と呼ばれ、江戸でも大流行した。この歌をヒントに都々逸坊扇歌は「どどいつ」を完成させたといはれる。今の名古屋市熱田区伝馬町が、神戸節発祥の地とされる。
野間の長田親子 / 知多郡美浜町野間
平治の乱に敗れた源義朝は、東国へ下向の途中、野間に住む臣下の長田忠致の館を宿とした。しかし義朝は湯殿に入ったところを、長田に謀殺された。長田の親子は義朝の首を都の平氏に献上して褒賞を乞うたところ、主君を裏切った者が信用されるはずもなく、壱岐守を与へられただけだった。義朝の遺児、頼朝の挙兵後は、昔を詫びて家来にしてもらったが、そのとき頼朝は「手柄あらば美濃尾張を与へん」と言った。平氏を滅ぼしてのち、頼朝は父の供養のため野間の大御堂寺に七堂伽藍を寄進した。このとき長田親子を捕へてかう言った。「身の終りを与へん」。かうして長田親子は張付けにされて処刑されたといふ。長田親子の辞世の歌といふのがある。
○ 長らへて命ばかりはいきのかみ みのをはりをば今ぞ給はる 長田親子
織田信孝 / 知多郡美浜町野間
本能寺の変ののち、信長の後継争ひに敗れた織田信孝は、羽柴秀吉に追ひ詰められ、岐阜城を捨てて、尾張の内海を経て野間まで敗走して、辞世の歌を残して自刃した。(天正十一年)
○ 昔より主をうつみの野間なれば、報いを待てや。羽柴ちくぜん 織田信孝
野間は、源義朝が逆臣の長田親子に殺害された地でもあった。信孝が割腹して腸を投げ付けたといふ掛軸は、梅の花を描いたもので、安養院に伝はるといふ。
○ 主を切り聟を刺ころすは美濃尾張(身の終り) 昔は長田今は山城
(長田=長田長致は女婿の源義朝を謀殺した。山城=斎藤山城守道三の国盗りを指す)
八橋 / 知立市八橋町
    八ツ橋
伊勢物語の主人公が東下りのとき、三河国の八橋といふところを通った。川が蜘蛛の手足のやうに複雑に流れて、橋が八つ架かってゐるので、八橋といふらしい。杜若が多く咲いてゐたので、「か、き、つ、ば、た」の五文字を五句の始めに置いて、旅の心を詠んだ。
○ から衣きつつ馴れにしつましあれば はるばる来ぬるたびをしぞ思ふ
主人の歌に一同は涙にかきくれたといふ。
八つの橋がどのやうな配置で架かってゐたかは不明だが、尾形光琳は「八橋屏風絵」に折れ曲って互ひ違ひに架かる八枚の板橋を描いた。
○ 来ぬ人をまつやつ橋の食ひ違ひ 元禄ごろの川柳
犬頭糸伝説 / 安城市
安城市の矢作やはぎ川の西岸地域を、もと藤野郷といひ、藤の名所でもあり、絹糸の産地として知られた。
○ 紫の糸くりかくと見えつるは 藤野の村の花盛りかも 宗国 夫木集
むかし三河国の郡司に新しい妻ができたので、古い妻の家には通はなくなった。古い妻の家はそのころから貧しくなり、飼ってゐた蚕も一匹を残して皆死んでしまった。残りの一匹さへも白犬に喰はれてしまったが、虫一匹のために犬を叱りつけるべきでないと、ただ悲しんでゐると、犬の鼻の穴から二本の糸が出てきた。引いても引いても糸は出てきて、十束、百束と増え、四五千束になったときに犬は死んだ。妻は桑畑に犬を葬って祠を建ててまつった。その糸は白く輝き、この世のものとは思へぬ美しい糸で、都に献上されて天皇の装束に織られたといふ。郡司も元の妻のところに戻り、幸福に暮らしたといふ。(今昔物語)
犬をまつった祠が、犬頭神社(岡崎市上和田町)となったらしい。
浄瑠璃姫 / 岡崎市明大寺
むかし源義経が奥州下向のとき、三河国の矢作やはぎ長者の家の近くを通ると、夕暮にどこからか美しい琴の音色が聞えてきた。琴の音にあはせて義経が笛を吹きながら歩いて行くと、長者の娘、浄瑠璃姫の家の窓の下に行き着いた。姫は義経を部屋に導き入れ、いつまでも曲を和してゐたが、翌朝、義経が旅立つとき、再会の約束に「薄墨」と名づけたその笛を姫に預けて別れた。しかし義経は奥州衣川で戦死し、その知らせを聞いた浄瑠璃姫は、菅根川に身を投げて死んだといふ。この話が「浄瑠璃物語」として語られ、浄瑠璃の起源となった。
○ 笛の音は垣根ごしから問薬とひぐすり (川柳)
奥三河
南設楽郡鳳来町の鳳来寺に、むかし矢作長者が子授けの願掛けをすると、薬師瑠璃光如来が白鹿となって現はれ、珠を授けた。月満ちて生まれたのが浄瑠璃姫であるといふ。浄瑠璃姫は、白鹿の子なので足の指が二本しかなく、母は足袋を考案して姫にはかせたといふ。
北設楽郡の花祭は、霜月神楽ともいひ、もと旧暦十一月に行なはれ、翌年の豊作を予祝するものといふ。花山院の御霊をとむらふともいふ。
○ 熊野山 切目が森のなぎの葉をかざしになして御前まゐるら 神詠
○ いやはてに鬼はたけびぬ怒るとき かくこそ古へびとはありけり 釈迢空
姫街道 / 豊川市御油
東海道は、豊川市御油ごゆの先で、浜名湖の南の海路を通る東海道と、北の山路を通る姫街道が別れる。ある特定の場所で男女が別の道を行くのは、古代からある習俗で、ここの道を古くは「二見の道」と呼び、万葉歌にもある。
○ 妹いもも吾も一つなるかも三河なる 二見の道ゆ別れかねつる 高市黒人
引馬野 / 飯郡御津町
三河湾(渥美湾)にのぞむ宝飯郡御津町御馬の引馬神社の付近を「引馬野ひきまの」といったらしい(引馬野は静岡県浜松市付近ともいふ)。大宝二年十月、持統上皇の三河行幸に従った長奥麻呂の歌に詠まれる。
○ 引馬野ひきまのに匂ふ榛原はりはら入り乱れ 衣匂はせ旅のしるしに 長奥麻呂
このときの持統上皇の行宮は、少し内陸へ入った音羽町赤坂の宮道天神社の地に建てられたといふ。亡くなった皇子の草壁皇子が滞在したことのある地であるらしい。
同じ行幸の時に高市黒人の詠んだ歌。
○ いづくにか船泊てすらむ安礼あれの崎 漕ぎ廻たみ行きし棚無し小舟 高市黒人
この行幸の二か月後に持統上皇は崩御されてゐる。
諸歌句
○ 鷹一つ見つけてうれし伊良虞崎 芭蕉
○ 名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ…… 島崎藤村 
 

 

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尾張国号
風土記云 日本武尊 征東夷 還到當國 以所帶劒 藏于熱田宮其劒 原出於八岐巨蛇尾 仍號尾張國(倭漢三才圖會七十一)
ヤマトタケルが東夷征伐から帰還し、熱田の社にヤマタノオロチの尾から出た剣を収めたので、尾張国という名前になった。
『故事類苑』尾張国名称には『和訓栞』が引用されていますが、それによると知多半島が尾のように張り出していることから名前がついたとしています。現在愛知県の地図を見ると半島が二つ海に張り出していますが、西の方知多半島は元尾張国、東の方渥美半島は元三河国なわけです。日本の地名において、奈良京都の方向、或はそちらに近いほうが「上」と呼ばれることは、『下総国風土記』逸文のところでも確認しました。ということは、尾張国の「頭」は岐阜に近いほうであり、知多半島はまさしく「尾」に当ると言えるでしょう。
また「一説には小墾=おはり」とも書かれています。開墾した土地ということらしい。奈良県明日香村に「小墾田宮」という遺跡がありますが、雷丘から発見された土器には「小治田宮」ともあるそうです。で、尾張も「小冶田宮」と同時期の七世紀ごろの木簡には「尾治」と記されていたようですから、「小墾」説も信憑性が高そうです。小針村という地名があったことから「小墾田」→「小針」→「尾張」という推測もあるようです。
他にも式内社の名称などから「尾張」という国の国号の由来についていろいろと推測されているようですが、定説は無いようです。
しかし同じく『故事類苑』に引用されている『諸国名義考』上に面白い説が載っていました。
そこには「尾張とは『古事記』出てくる天之尾羽張から来ているのではないか?」と書かれています。「天之尾羽張」別名「伊都之尾羽張」はイザナギがカグツチを切った剣であり、剣の神タケミカヅチやフツヌシが生じるきっかけを作った元祖「剣の神」とも言えるような霊剣なわけです。「尾羽張」とは剣先が広く張り出していることらしい。
また尾張氏の祖神は天火明命ですが、これは『先代旧事本紀』では物部氏祖神のニギハヤヒとも同一視される神だったりします。尾張氏と物部氏の関係については良くわかりませんが、あるものは「関係深い」としています。物部氏は武器を管理する氏族であり、かつまた鉄器の生産と関わり深いとされている。
まあ推論としても少々迂遠過ぎる気がしますが、尾張という地名や尾張氏の来歴を考えると、この国に草薙剣が祀られたのも意味があることなのかもしれません。
天火明命の子は天香山命という名前です。
天火明は記紀にも登場する神であり、地方氏族が権威付けの為に引っ張ってきたという可能性も強い気がします。しかし天香山命は記紀には登場しない。つまり尾張氏独自の伝承から発した神である可能性もある。
でもなぜ「香山」なのか?普通古代文献で「香山」と言ったら、奈良県にある大和三山の一つ「香具山」を指します。そういえば、前回の記事で触れたヤマトタケルの歌にも「天香具山」と歌いこまれている。
尾張国或は尾張氏と中央との関係性については複雑なものがありそうです。尾張氏は壬申の乱で大海人皇子=天武天皇側につき、功績を挙げたとも。また尾張氏は熱田神宮宮司家でもありますが、住吉大社宮司家津守氏や籠神社宮司家海部氏とも同族らしいです。 
尾張
○ 波あらふ衣のうらの袖貝をみぎはに風のたたみおくかな
「衣の浦」愛知県知多郡にある入江。名古屋港の東に衣浦港があります。
「なるみ」尾張の歌枕。「鳴海の海」「鳴海潟」として詠まれる事が多い。また、「鳴海の浦」から「鳴海のうらみ」と詠むのがバターン化されたようです。 
三河 / 国名。現在の愛知県東部。
○ 出でながら雲にかくるる月かげをかさねて待つや二むらの山
○ こぎいでて高石の山を見わたせばまだ一むらもさかぬ白雲
○ さみだれは原野の澤に水みちていづく三河のぬまの八つ橋
○ 朝風にみなとをいづるとも舟は高師の山のもみぢなりけり
○ 波もなし伊良胡が崎にこぎいでてわれからつけるわかめかれ海士
いらごへ渡りたりけるに、ゐがひと申すはまぐりに、あこやのむねと侍るなり、それをとりたるからを、高く積みおきたりけるを見て
○ あこやとるゐがひのからを積み置きて寶の跡を見するなりけり
○ いらご崎にかつをつり舟ならび浮きてはかちの浪にうかびてぞよる
二つありける鷹の、いらごわたりすると申しけるが、一つの鷹はとどまりて、木の末にかかりて侍ると申しけるを聞きて
○ すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山歸りかな
○ はし鷹のすずろかさでもふるさせてすゑたる人のありがたの世や
「二むら山」二村山。 三河の歌枕。尾張と三河の国境に位置するので尾張の歌枕ともいう。丹波にも同名の山があるという。また山家集では近江にもあったと解釈できる歌がある。
「原野の澤」
「八つ橋」「八つ橋」は現在の愛知県知立市八橋。原野とともに伊勢物語からの名所といわれます。「高師の山」三河の歌枕。愛知県豊橋市にある高足山のこと。標高60メータという低い丘。
「伊良湖」三河の歌枕。愛知県渥美半島の突端にあります。 
熱田社の由来
尾張國風土記曰 熱田社者 昔 日本武命 巡歴東國還時 娶尾張連等遠祖宮酢媛命 宿於其家 夜頭向厠 以隨身劒 掛於桑木 遺之入殿乃驚 更往取之 劒有光如神  不把得之 即謂宮酢姫曰 此劒神氣 宜奉齋之 爲吾形影 因以立社 由郷爲名也(釋日本紀卷七)
熱田神宮の起源伝承と言っていいでしょうが、『古事記』の記事とはちょっと違います。
記では、結婚に当ってヤマトタケルがミヤズヒメの着物の裾に月経の血がついているのを見つけて、それを歌に詠みます。それに対してヤマトヒメがうまい?返歌を返して、やはり結婚=性交することにしたという流れです。上記逸文の記事の「厠へ行ったら〜」という部分はありません。しかし剣は残していきます。そしてヤマトタケルは死に、ミヤズヒメは熱田神宮を建立します。
『古事記』の伝承をそのまま社殿にしてもよさそうなものではありますが、それ以外の、恐らく熱田神宮独自の伝承が上記のものなのだと思われます。なぜなら『古事記』の伝承は「不毛」であることを主題としており、そのまま社伝とするにははばかられたからでしょう。
記の伝承では月経中に性交を行ったことが書かれていますが、古代社会ではこれをタブーとしている文化も多いそうです。また現代医学の知見からみても避けた方がいいという意見が多数のよう。
さらに、月経中の性交では女性が妊娠する可能性は他の時期より低いらしい。ミヤズヒメがヤマトタケルと結婚することには神婚的な意味があるわけですが、子供が生まれないならそれは不毛な結婚でしかありません。
また剣を置いていくことはヤマトタケルの男性性というか勇猛さというか戦士としての核心的なモノを捨て去ってしまうことになる。王権の象徴でもあります。
この部分からヤマトタケルが死ぬ部分まで、小説的な読み方をすると「剣を持っていたら伊吹山の神にやられることもなかったのに、どうして剣を置いていってしまったのか・・・」と思う部分ではありますが、まあミヤズヒメに対する約束の証としておいて行ったと考えるべきかとも思います。古代においてはタブーであり、かつ妊娠可能性の少ない月経中の交わりだったわけですから、本当の意味で結婚=子供を残すことを考えるならばこのままというわけにはいきません。
一方逸文の伝承は、剣と桑の木を小道具として象徴的なレベルでの男神と女神の交合を語っていると見ていいでしょう。
剣の男性性についてはたぶんいろいろな人が言っていると思われます。桑の女性性は間に蚕と機織を入れれば容易に想像できます。
厠について、フロイト・ユングのような解釈「トイレや排泄行為は全てセックスの象徴である」という話を持って来てもまあいいでしょうが、どちらかというと「蚕の神」と「厠の神」という中国古代の信仰と関係があるかも?という方向性で追求したいところです。厠の女神「紫姑」は蚕の神としても信仰されています。 
阿豆良の里
尾張國風土記中|卷曰 丹羽郡 吾縵郷  卷向珠城宮御宇天皇世 品津別皇子 生七歳而不語 旁問群臣 無能言之 乃後皇后夢 有神告曰 吾多具國之神 名曰阿麻乃彌加都比女 吾未得祝 若爲吾宛祝人 皇子能言  亦是壽考 帝卜人覓神者 日置部等祖建岡君卜食 即遣覓神時 建岡君到美濃國花鹿山 攀賢樹枝 造縵誓曰 吾縵落處 必有此神 縵去落於此間乃識有神 因竪社 由社名里  後人訛言阿豆良里也(同右卷十)
垂仁天皇の皇子ホムツワケは七歳になっても口をきけなかったが、後に皇后の夢に神がお告げをした。神は自分は多具の国の神、アマノミカツヒメであるといい、祭祀者を要求し、それが叶えば皇子は話が出来るようになり寿命も延びるという。天皇は日置部祖健岡君に占いをさせたが、健岡君は美濃国花鹿の山に行って榊の枝でかづらを作り、「これが落ちるところに神がいるだろう」という誓約をした。かづらは飛んでここ(尾張国あづらの里)に落ちたので、社を立てた。この社名から里に地名をつけた。「あづら」とは「かづら」が訛ったものである。
ホムツワケ(ホムチワケ)の話は記紀神話にも登場する伝承ですが、伝承中に登場する神は記では「出雲大神」ということになっています。紀では神は介入しない。一方、『出雲風』ではホムツワケではなく、アジスキタカヒコが主役となった同様の話があり、祖神(大国主)の夢に神のお告げがあって話せるようになったとしています。しかし神の名前は不明。
アマノミカツヒメというのは『出雲風』秋鹿郡伊農(いぬ)郷の地名起源伝承にも登場する神で、『辞典』では上記伝承の女神と同じ神であるとしています。しかし伊農郷の地名起源も「ヒメ神がここに来た時、『伊農波也(夫神の名前が伊農)』と叫んだから名前がついた」というだけの伝承で、実態は一切不明です。名前から推察するにミカとは「甕」のことで水がめと関係がある女神です。その夫神「アカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコト」については、元ネタにしてる平凡社ライブラリー『風土記』出雲秋鹿郡伊農郷の註によると、砂鉄の神でアジスキタカヒコと同じ鉄の神ではないか、と書かれています。
ホムツワケ伝承については私も少し調べたことがありますが、面白い伝承であるためか切り口がいろいろあります。「出雲系の神の祟りで子供の口がきけなくなった」という部分に注目する研究者もいるようですが、それは『古事記』ホムチワケ伝承においては重要だけれども、同話型全てに共通するポイントではありません。あくまでも、個別の神社起源伝承として読むべきでしょう。そうすることで、それぞれの伝承の方向性のようなものも見えてくるはずです。 
この神社ですが、愛知県一宮市あずらというところに「阿豆良神社」という社があるようです。また誓約をした美濃の花鹿山にも花長上神社があり、どちらも祭神はアマノミカツヒメで式内社。
あと気になるのは日置部祖健岡君という人物です。日置部について『日本書紀』では一箇所だけ出てきます。垂仁天皇39年に皇子イニシキイリビコが奈良県石上神宮に剣を納め、祭祀を行った記事。
日本史用語では「部民制」というそうですが、律令以前にあった職掌集団または王宮豪族などに所属する集団をいうそうです。日置部は前者に当るのだと思います。上記紀の記述では日置部とともに多くの職掌集団が列挙されています。ちなみに『続日本紀』で「日置」を検索すると「日置造」(ひおきのみやつこ)を冠する人物が何名かヒットしますが、「造」は「連」とともに、或は「連」の下で王権の格職掌を担当した集団だったようですから、やはり職掌から名付けた名称なのだと思います。
では「日置」とはどんな職掌なのかというと、『辞典』では「日置大舎人部」が宮廷の暦、天皇の伝記を伝えているとしていますが、出典は不明。折口の『日本文学の発生』からの引用のようですが、もちろんそこでも引用は不明です。まあしかし字面から見ても太陽やそれを基準とした暦と関係があることはわかります。「日(祭日などの特別な日)を置く」。また『辞典』「太陽信仰」の項目では『延喜式神名帳』に登場する「日置神社」にも注目しています。実は名古屋市にも式内社の「日置神社」があります。まあ今回の伝承とは関係ないようですが。
つまり「日置部祖健岡君」はもともと祭祀を司る部民の出身であるわけで、神を明らかにするには妥当な人選であったわけです。
後半部、カヅラを飛ばして神の居場所を探し出す方法は、『肥前国風土記』姫社(ヒメコソ)の祭祀起源と同じです。『肥風』ヒメコソの方では「幡」を飛ばして神を探します。
「糸曼」の意味ですが、「垂幕の布・模様飾りの無い絹」などと『漢字源』には出ています。しかしここでは「榊の枝を折り取って」造ったとしていますから、絹でないのは確か。榊の枝を幕っぽく大きな布状に編み上げた、ということなのでしょうか?
まあ何にしても、それが神を見つけ出す祭具なわけです。布状のものが神証しの祭具になるというのはやはり女神だからだと思います。ヒメコソの方では、幡で神の場所を知った後、更に祭祀者が織機が舞う夢を見て女神であることがわかる、という筋立てになっています。
「阿豆良神社」縁起。後半はホムチワケ伝承よりもヒメコソのほうが近縁性が高いと思われます。「人に害を与えることで祭祀を要求する神」という意味で。
では何故前半部にホムチワケ伝承が登場するのか?単純に『古事記』に権威を求めたという理由もあるでしょう。またこの辺に出雲系の信仰が存在していた可能性が考えられます。祭神アマノミカツヒメは記紀に出典がなく『出雲国風土記』にしか登場しない神ですから。 
川島の社と白い鹿
尾張國風土記云 葉栗郡 川嶋社在河沼郷|川嶋村 奈良宮御宇(聖武)天皇時  凡海部忍人申 此神化爲白鹿 時々出現 有詔 奉齋爲天社(萬葉集註釋卷第一)
神が白い鹿となって現れるというので、社を立てた、という伝承です。
聖武天皇の話となっていますが、「東大寺・・・鎮守は春日大社・・・春日大社の神使は鹿」という連想は容易です。また白鹿ではなかったと思いますが、皇后である光明皇后は鹿から生まれたという民間伝承もあります。
白鹿に限定しても、色々な神話伝承があります。
・ 瑞祥獣。
・ 鹿は五百歳で白くなる=長寿。
・ 「百=白」「鹿=禄」で俸禄の多いことを願う「百禄図」。
・ 蒼い狼と結婚してモンゴルの祖になる。
・ 満族の「白鹿額娘」。
・ 台湾サオ族の移住伝承。
・ ヤマトタケルがあった信濃の坂の神。
・ 鎌倉円覚寺白鹿洞。
川嶋神社は『延喜式』神名帳にも載っているようですが、木曽川の氾濫によって移転を繰り返したために現在では「式内社川嶋神社」であると推測される神社が四つもあるそうです。葉栗郡は尾張の北西にあった郡なので、その四つの神社も一つは愛知県江南市で、他三つは岐阜県各務原市にあるようです。
愛知の神社は「川島神社」で名称は最も近い上に社伝では聖武天皇の時に創建となっています。しかし祭神が江戸時代は牛頭天王で、現代はミヅハノメです。
凡海氏について調べてみましたが、『続日本紀』では二人しかヒットせず。養老五年従七位下に凡海氏の人物がいるという記述がありますから、後の聖武天皇の時代でも天皇に従う地位にあった可能性は高そうですが、白い鹿との関係性は不明です。
結局良くわからないということに落ち着きそうですが、ここでの白い鹿は聖武天皇の徳治を寿ぐ「瑞祥獣」ということになるのかもしれません。
あと凡海連にはアラカマという人物がいますが、大海人皇子=天武天皇の育成に関わったともいわれています。尾張国号のところでもチラッと書きましたが、尾張氏の台頭は天武天皇を支持したことが大きいようですから、やはり重なるところがありますし、その絡みで凡海氏も尾張に進出していたということもあるでしょう。
その凡海氏が天武の曾孫である聖武天皇に尾張に居ます白鹿の神の存在を奏上した。ずいぶん遠回りな推測ですが、そんな感じであまり現地の信仰とは関係なかったのかもしれません。
追記 「白鹿」
・ 東三河の浄瑠璃御前 / 長者が薬師如来に子授けを願ったところ、薬師は夢に白鹿となって現れ、後に浄瑠璃御前が生まれた。御前の足には指が二つしかなかったので布で隠していた。※和泉式部にも鹿の子であるという伝承があるようで、やはり足袋で隠したという話があるようです。光明皇后にもあります。
・ 静岡市の龍爪権現 / 武田の落ち武者が山で白鹿を射て、高熱に犯される。神託によって龍爪権現を開く。
・ 宮城県仙台市・福島県に伝わる赤城・日光の神々の戦い / 日光の神が白い鹿となって万二郎・万三郎兄弟に助勢を求める。その功によって日本中の山で狩をしても良いという免許を得る。※中国ヤオ族には犬始祖が皇帝を助けたので、狩の免許をもらったという話があります。
・ 東京都青梅市の御嶽山大口真神伝承 / 御嶽山で白鹿に会い道に迷ったヤマトタケルを白狼が導いたので、大口真神として祀った。火災盗難除けの神。木曽御嶽神社に狼が祭られているのかどうかは不明。 
藤木田
昔(むかし)、尾張ノ國ニ春部郡(カスガベノこほり)ニ國造(クニノミヤツコ)、川瀬連(カハセノムラジ)ト云ケル物(者)、田ヲ作リタリケルニ、一夜ノ間ニ藤(はぎ)オ(生)ヒタリケリ。アヤ(恠)シミオソ(怖)レテ、切棄(キリすつ)ルコトモナカリケルニ、其ノ藤(はぎ)、大ニナリニケリ。其ノ故ニ此ノ田ヲバハギタ(藤田)ト云(いふ)ト云ヘルトヤ。此ノ事ヲ菅清公卿ノ尾州記ニ云ヘルニハ、其(ノ)藤(はぎ)漸(ヤウヤク)大如樹。遂號藤木  俗云波木 田ト云ヘリ。(同右第三)
田に一夜にして藤が生えたという伝承。
『辞典』には「一夜松」という項目があります。
松は二つ。福岡県にある菅原道真が植えた松、福井県敦賀市手筒山の新田義貞が隠れたという松原。『播磨風』神功皇后帰還において萩が一夜にして生い茂ったという話があり、千葉県印旛郡では傾いたり倒れていた松が一夜に起き上がったたという伝承があるそうです。
一夜にして成長する蛇の伝承もありますが、それは蛇が神聖性を持っていることを表している。ここでも川瀬連は恐れてそのままにしています。
この藤木田、現在どこにあるのか不明です。「春部郡」は東西に分割され、さらに現在複数の行政区にまたがっています。
「川瀬連」は『新撰姓氏録』では和泉国に「川瀬造」とあるのと同族だと思いますが、尾張に勢力があったかは不明。
藤はつるが延びる姿から蛇の隠喩であるという話があります。谷川健一氏の『諏訪大明神絵詞』に関する分析でそんなことを言っていた気がします。
そこではタケミナカタが洩矢神と戦うに当って藤の枝を武器として使ったとある。また諏訪地方の土着の神としてミシャグチ神という神が存在していたことが指摘されています。ミシャグチは蛇体の狩猟神で東日本で広く信仰されていたとか。
タケミナカタと洩矢神とミシャグチ神の関係性について詳しいことは良くわかりませんが、対立したという伝承がある一方で、諏訪信仰の下に重層化したとも考えられます。
で、藤が蛇であるという発想に妥当性があるのだとすると、『常陸国風土記』夜刀神の伝承とも似通ってきます。あちらでは皇軍が夜刀神を追い出してしまいますが、ここでは人間側が神を恐れて開発をやめる伝承になっていると言えるでしょう。 
宇夫須那社
尾州(びしう)葉栗郡(ハグリのコホリ)、若栗(ワカグリ)ノ郷(さと)ニ宇夫須那(ウブスナ)ノ社(やしろ)ト云フ社アリ。廬入姫(イホイリヒメ)ノ誕生(たんじやう)産屋之地(うぶやのち)ナリ。故ニ以テ號爲社(やしろのなとなすと)云(い)フ。(塵袋第二)
葉栗郡とは現在の一宮市葉栗地区のことだそうです。式内社のようですが、青木宮という宮殿が近くにあり、それを遷座したものがこの神社だという伝承があるようです。
廬入姫は「五百入」とも書くようですが、景行天皇の皇女。この神社と同じく一宮市に「大毛神社」という式内社があるとのことですが、その地名は「五百入塚」で、古跡に「庵入塚」「景行天皇墓」などがあるとのことで、どうもこの地域に景行天皇とその皇女にまつわる伝承群が存在していたらしいことがうかがえます。
紀では景行天皇と八坂入媛の間の子として、八番目に「五百城入姫皇女」の名が見えます。二人目の子「五百城入彦」と対に為る名前です。また母親は違いますが「五百野皇女」という女子は景行天皇二十年にアマテラスの祭祀者となっています。
景行天皇には数多くの皇子皇女がいて各地に封じられているのですが、五百城入彦はヤマトタケルやワカタラシヒコ(成務天皇)とともに景行天皇の下に留まっているとの事。ヤマトタケルは各地に遠征して土着の勢力や地方神と戦いました。ワカタラシヒコ=成務天皇は天皇になってからの事績が妙に少なくて、王権神話的にその役割が定かではないのですが、名は体を表すと考えるならば「務めを成した」、つまり行政的な意味でやるべきことをやったということになるのだと思います。
ではイオキイリビコにはどんな存在意義があるのか?私は「五百」に何か意味があるのかもと思っています。『日本書紀』から幾つか事例を拾ってみましょう。
「八坂瓊之五百箇御統」(天安川誓約段・アマテラスの装身具)
「天香山之五百箇真坂樹」(天岩戸段)
「丹生川上之五百箇真坂樹」(神武紀・諸神祭祀)
もちろん他にもあります。単に数が多いことを強調する意味もあるでしょう。しかしただの数字とはやはり思えません。祭祀に用いられる事物に冠される名称なのだと思います。というか「五百城入彦」の母親が「八坂入媛」というのも「八坂瓊之五百箇御統」から発想された名前である可能性もあります。またもしかすると「五百」だけではなく「五十」も同様の性格があるかもしれません。垂仁天皇の皇子イニシキイリヒコも祭祀者でした。記紀における数字の意味、誰か研究している人がいるかもしれませんが、私は知りません。
余談ですが、上記の推測が妥当であるならば、デュメジルの三機能には当てはまりませんが、景行天皇が手元に残した三人の皇子はある意味「古代における主権の三要件」ともいえるような「軍事力・行政・祭祀」をそれぞれ司っているような気もしてきます。
さて「五百」に「祭祀に関わるモノ」という意味づけがあるならば、五百城入姫も単なる皇女ではなく祭祀者であるという意味合いがあると言えると思います。腹違いの妹である「五百野皇女」もアマテラスの祭祀者ですし。
さて、伊勢神宮の祭祀者は「斎宮」と呼ばれますが、人選が終わった後に「野宮」に入って一年間暮らします。今も京都の嵯峨野に「野宮神社」というのがあります。しかしこの「野宮」、実は一人の斎宮ごとに壊されたそうです。次の斎宮の時にはまた新たに建てる。
これにどんな意味があるのかはそれ自体大問題ですが、まあ「産屋」の意味があるからでしょう。出産は穢れだから燃やすというのは後付の説明かもしれませんが、やはり「生まれること」の神聖性が重視されていたのだと考えることが出来るでしょう。
「庵入姫」という名称ですが、この「庵」とは草木竹を材料とした質素な建築。つまり産屋も「庵」の一種なわけです。「野宮」という名称も「野にある簡素な宮」という意味でしょう。もともと一回ごとに壊されるはずの産屋が神社として残るのは京都野宮神社と同じく、神聖な子供が生まれる特別な場所だったからです。
しかし、うぶすなの社が野宮神社と違うのは、祭祀者がどこか他の神を祭祀していたということが問題になっていないというところです。野宮は伊勢の祭祀者が篭る場所だったから神聖性を帯びました。しかしうぶすな社は「庵入姫」が生まれたということだけが祭祀の起源になっている。
上に「五百」の解釈から祭祀に関わる意味があるのではないかと推論を書きました。それはそれで妥当性はあると思いますが、では祭祀者たる「庵入姫」は何を祀っていたのか?それは伝承では全く問題にされていないんですよ。
非常に短い伝承でしたが、探ってみると結構深い問題とつながっていました。巫女による祭祀と巫女自体の神聖化はアマテラス女神信仰の成立とも関係があります。また尾張と関わりが深いヤマトタケルの地味な妹が尾張で信仰されているというのも興味深い。 
星石
尾張風土記ニ尾張國玉置山(たまおきやま)に一石あり。赤星(あかぼし)の落(おつ)る處也。梺(フモト)に星池(ほしいけ)といふあり。星常に此池に宿(やど)ると。怪石(くわいせき)一ツあり。星の化せし石也と。今猶、時々、星、此山に落(オツ)るといへり。(雲根志卷之三)
日本では星の神話・信仰は比較的少ないです。記紀神話ではアマツミカホシぐらいしかいない。スサノオ金星説をとっても二柱の神しかいない。民間では七夕にまつわる伝承が考えられます。後は妙見信仰でしょうか?私が見たのは行基にまつわる井戸でしたが、日蓮伝承にも星の伝承があります。仏教における星の信仰というのはあるのかもしれませんが、インド神話で星の神がいたかどうかは定かではありません。
名古屋市
星崎の浦にある星の社は、むかし星が落ちて石となった場所なのでそう名付けられた。その石はいま南野の民の長の家にある。いままた熱田の神を近い所に祀ったところ、7つの星が光を放って降ったので星崎の庄と呼ばれる。※今回の伝承に位置的にも内容的にも近いです。またお寺ではなく神社の信仰。やはり細々とではあっても星の信仰があったことがわかります。
千葉県安房郡
・ 西春法師は死後、星になって現れた時には海が時化る時なので、船を出さないようにと言い残した。
・ 西春法師の魂が星になって布良星と呼ばれるようになった。これが時化を予告してくれるとして、地元の漁師に信仰されるようになった。
この「西春法師」は江戸時代の人らしいです。三十一歳にして木食戒(穀断ち・火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)300日を達成したという高僧。メラ星と読むらしい。人が死んで星になる伝承は多々ありますが、この場合有徳の僧が死後も人々を守るという内容で実際に漁師達の間では役に立っている。しかし一方で、このメラ星は海で遭難した漁師達の霊が宿っていて、漁師達を連れに来るという伝承もある。
「悪星」つまり不吉な意味をもった星の伝承が非常に多い。しかし「あの星が出ると悪いことが起きるから○○した方がいい」という語り口をとれば「危険を教えてくれるありがたい星だ」ということでプラスのイメージを帯びることもありえるわけです。 
大呉里
尾張國ニ大呉(オホクレ)ノ里ト云フ所アリ。舊記ニハ大塊(おほくれ)トカ(書)ケリ。根元(こんげん)ヲタヅ(尋)ヌレバ、卷向日代(マキムクのヒシロ)ノ宮ノ御宇(みよ)ニハ、天皇、國ニオハ(坐)シマシケル時(とき)、西ノ方ニ大(おほき)ニモノヽワラ(笑)フコヱ(聲)ノシケレバ、アヤ(恠)シミオド(驚)ロキ給ヒテ、石津田(イシツダ)ノ連(むらじ)ト云フ人ヲツカ(遣)ハシテ、ミ(見)セラルヽニ、カホ(顏)ハ牛ノゴト(如)クナルモノヽアツ(集)マリテワラ(笑)ヒケルコヱ(聲)ノオビタ(夥)ヾシカリケルヲ、此ノ石津田(いしつだ)スコシモオソ(怖)ルヽ心ナクシテ、劒ヲ拔テ一々ニ切(きり)テケリ。自是(これより)其ノ所ヲバ大斬(オホ=キリ)ノ里ト云ヒケルヲ、後ニ謬(あやまり)テオホクレトハ云ヒナセルトカヤ。(『塵袋』第五)
大呉の所在地はやはり不明。石津田連も『新撰姓氏録』にはありません。しかし石津連はあります。和泉国神別天孫天穂日命野見宿祢の孫とのこと。藤木田川瀬連も和泉でしたが、和泉と尾張、何か関係があるのでしょうか。ちなみに地名としては美濃国和泉国に「石津」がありますが、その由来は不明です。
「天狗の高笑い」という伝承がたくさんあります。山の中で突然何処からか大きな笑い声が聞こえたら、それは天狗の笑い声だ。そういう伝承ですが、特にだからどうしたという話ではありません。山の中での音の拡大とその気味悪さを天狗のものであると説明しただけのようです。
後段石津田連は牛の顔をしたものが笑っているのを発見しますが、「牛が笑う」というのは何か象徴的な意味があるのでしょうか?韓国のことわざでは「くだらないこと」という意味だそうですが。
かつて牛は使役獣でした。『辞典』に載る「牛石」に上がっている事例は人やものを運ぶ牛か農耕に関わる牛に関わるものです。その中に愛知県額田郡の事例が載っていますが、これは雨乞いに関わるものです。背中を水で洗うと雨が降る。中国の水の神に牛が多かったことを思い出します。牛鬼も自ら現れる妖怪です。
牛が水の神・水の妖怪としての性格を持っているとすると、その性格は蛇神とも通じるはずです。地域性の問題です。牛の水神信仰と蛇の水神信仰の分布には地域による偏差があるかもしれませんが、今のところ調べたことはありません。
そのように考えていくと、この伝承が『常陸国風土記』夜刀神伝承と良く似ているということに気付きます。朝廷によって妖怪視され、討伐される地方の神々。そういう構図です。たくさん群がっているというのも良く似た描写です。 
朝日神社 / 愛知県名古屋市中区錦三丁目
愛知県西部の尾張地方の神社建築で最も特徴的なものが「蕃塀」である。地元では「不浄除け」と呼ばれており、参道の入口あたりに衝立のように設けられ、入口から拝殿や本殿が直接見られないような仕組みになっている。
名古屋の中心地にある朝日神社にも、この蕃塀がある。かつては清洲城下の朝日郷にあったものを名古屋築城に合わせて移築した神社である。現在ある蕃塀は江戸時代中期に作られたものであり、戦時中にも被災せず現在に残されたものである。この透かし塀が建てられたのは、この神社の斜め向かいに尾張藩の牢屋敷があり、罪人が引き立てられるのを神様に見せたくないという理由があったと伝えられている。
円福寺 八百比丘尼堂(えんぷくじ やおびくにどう) / 愛知県春日井市白山町
八百比丘尼にまつわる伝承は、福井県小浜市をはじめとして全国各地に存在する。春日井市にある円福寺も、また八百比丘尼の生誕地として伝承を残している。
円福寺の創建は養老7年(723年)。その頃は、この周辺は海に面しており、漁が盛んにおこなわれていたという。ある時一人の漁師が、首から上が人間という不思議な魚を捕らえてきた。村人が大騒ぎをしているうちに、その不思議な魚の肉を食べてしまった少女があった。少女はその後絶世の美女となるが、その容貌は全く年を取らないままとなり、ついに800年間も生き長らえた。そして世をはかなんで剃髪し、寺の裏山にある横穴に入定したという(この横穴は小浜にある空印寺の八百比丘尼入定洞と繋がっているとも言われる)。またあるいは、世をはかなんで剃髪してから諸国を遍歴、ついには若狭小浜の空印寺にて洞穴に入定したとも言われる。
現在、円福寺の観音堂へ上る参道の途中に、小さなお堂がある。これが八百比丘尼を祀る堂であるとされる。長寿延命は勿論、年月を経て多くの男性を夫に持ったとの伝承から縁結びの御利益もあるとのことである。
大直禰子神社(おおただねこじんじゃ) / 愛知県名古屋市中区大須
名古屋の中心街の一角にあるこの神社は、大和一の宮・大神神社の初代神主である大直禰子(大田田根子:おおたたねこ)を祭神とし、家内安全・無病息災に霊験あらたかとする。しかし、この神社は「おからねこ」としての方が名が通っている。
「おからねこ」の由来については『尾張名陽図会』によると、昔、鏡の御堂と呼ばれるお堂があって、そこには本尊がなく、三方の上に狛犬(お唐犬)の頭が一つ置かれていた。それを「おからねこ」と呼んでいたという。またその後、お堂もなくなりこの狛犬の頭も行方知れずとなったが、お堂のそばにあった大榎が残り、その大榎も枯れて根だけが残ったのを「お空根子」と呼んだともいう。
さらに『作物志』によると、上のような奇談めいた話ではなく、まさに妖怪変化として「おからねこ」が存在したとされる。その姿は、牛や馬を束ねたほどの大きさ、背中に数株の草木が生えており、いずれの時から過去の場所から動くことなく居続け、一声も吠えず、風雨も避けず、寒暖も恐れないとされている。人々の願いを叶えてくれることは著しいが、その名前を知っている者はなく、その姿が猫に似ているので「御空猫」と呼び習わしているとしている。
この伝承が広く言い伝えられているせいか、本来は全く関係のない猫を祀る神社であると誤解されているところがあり、駒札にも猫とは無縁である旨の断り書きがある。(と言いつつ、写真にあるように、1匹の猫が出迎えてくれたわけだが)
大直禰子(大田田根子) / 10代崇神天皇の御代に疫病が大流行した時、天皇の夢枕に大神神社の祭神である大物主神が現れ、自分の子孫である大直禰子に祀らせよと伝えた。そこで天皇は大直禰子を探し出して大神神社の神主としたところ、疫病は収まったと言われる。その後、大直禰子も三輪氏の祖として祀られ、大神神社の摂社・大直禰子神社(若宮社)の祭神となっている。無病息災に霊験あらたかとされるのは、この出自によるものであると考えられる。
『尾張名陽図会』 / 尾張藩士であった高力猿猴庵(1756-1832)作の。名古屋近辺の名所図会。奥付はないが、文政年間(1818-1832)に著述されたものであると推測される。
『作物志』 / 尾張の読本作家であった石橋庵真酔(1774-1847)の作品。序文に文化4年(1807年)の冬とある。
金時塚(きんときづか) / 愛知県豊川市平井町
頼光四天王の一人である坂田金時の墓と伝わるものが、豊川市にある。
源頼光は、ある時、坂田金時らを率いて東国の朝敵を討ちに行った。途中、この地に立ち寄り、平井にある東林寺に朝敵征伐を祈願したという。これが縁となり、東林寺には坂田金時の念持仏が安置され、さらにこの東林寺のそばに金時の墓(塚)が作られたという。
坂田金時 / 源頼光四天王の一人。幼名を金太郎。足柄山で生まれたとされる。史伝としては、寛弘8年(1012年)に美作国にて病死したとされる(現在もその地には坂田金時の墓と称するものがある)。
恋の水神社(こいのみずじんじゃ) / 愛知県知多郡美浜町奥田中白沢
“恋の水”という変わった名前を持つが、その名の由来には熱烈な愛にまつわる話は残されていない。
第19代・允恭天皇の御代、東方に霊泉ありとの大神神社の神託があり、藤原仲興という者を熱田神宮に使いにやった。熱田神宮のお告げによりさらに南に進み、ようやく神水を発見した。仲興は土地の者に地名を聞くが、誰も知らぬと答えたので、知らぬ沢と名付けた。そして「尾張なる 野間の知らぬ沢 踏み分けて 君が恋しし 水を汲むかな」という歌を詠んだ。このことにより、この水は“恋の水”と呼ばれるようになったのである。
その後、天平4年(732年)に聖武天皇の后・光明皇后が病に倒れた時にこの水を求め、后の病気が快癒したとも言われる。それ故に、この恋の水は万病に効く神水として知られるようになった。
さらに時代が下って、桜町大納言成範の娘・桜姫は、家臣の青町と恋に落ち、家を追い出される。二人は北山に居を構えて慎ましく暮らしていたが、やがて青町は不治の病に冒される。桜姫は夫を救うために恋の水を求めて旅立ち、野間の地に辿り着く。そして土地の者に恋の水の場所を尋ねるが、その者は「あと三十五里ある」と嘘をついた。しかし桜姫はその言を真に受け、そのあまりの遠さに嘆き、その場で悶死してしまったという。恋の水神社の北、200mばかりの場所に桜姫の墓があるという。
恋の水神社は、その「恋」の名前と桜姫の伝説に基づき、今では縁結びの神として知られる。実際、かなり辺鄙な場所にも拘わらず、複数のカップルが訪れて祈願をしていた。
桜町成範 / 1135-1187。保元の乱で活躍した藤原信西の三男。伝説では大納言とあるが、実際の官位は中納言。藤原姓であるが、自邸に桜を多く植えていたことから「桜町」と呼ばれる。娘には、高倉天皇の寵愛を受けたために平清盛の逆鱗に触れ、出家させられた小督がいる。
浄瑠璃姫供養塔(じょうるりひめくようとう) / 愛知県岡崎市康生町(浄瑠璃姫供養塔) / 愛知県岡崎市吹矢町(成就院) / 愛知県岡崎市矢作町(誓願寺) / 愛知県岡崎市康生通西(浄瑠璃寺) / 愛知県岡崎市明大寺町(六所神社) / 愛知県岡崎市十王町(三河別院)
『浄瑠璃物語』またの名を『十二段草子』という物語がある。
三河の矢作に居を構える兼高長者の許に、京から平泉へ向かう金売り吉次の一行が宿泊する。その中には、元服したばかりの源氏の御曹司・義経の姿もあった。
宴席で歓待の琴を弾いたのは、長者の娘・浄瑠璃姫である。姫は、年老いた両親が鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈願して授かった一人娘であった。その琴の音に合わせて、義経は親の形見である薄墨の笛の音を奏でた。二人は初対面であるにもかかわらず、その場に互いに引かれあう。そして一夜の契りを結ぶのであった。
しかし義経が金売り吉次の一向に加わっていたのは、源氏再興の大願を果たすために平泉の藤原秀衡にまみえるためであった。先を急ぐ旅の身、義経は薄墨の笛を我が身の代わりにと浄瑠璃姫に渡し、東へと旅だって行った。しかし浄瑠璃姫の思いは断ちがたく、ついには義経の後を追って家を飛び出し、東へ向かって行った。
蒲原の宿まで来た浄瑠璃姫は、正八幡のお告げで義経の消息を知ることができた。しかしそれは義経が病を得て亡くなったというしらせ。駆けつけた浄瑠璃姫は愛しい人のために祈願をし、ついに義経は蘇生するのであった。
この男女の純愛と仏の加護に彩られたストーリーは、やがて独特の節回しをつけて語られるようになる。これが発展して出来たのが、のちの「浄瑠璃」という音曲である。
兼高長者の矢作の宿があった岡崎では、別の浄瑠璃姫の悲恋の物語がある。義経の後を追った浄瑠璃姫であるが、結局会うことは叶わず、矢作に引き返してくる。しかし長者は家に戻ることを許さず、姫は近くに草庵を建てて住まうこととなった(あるいは長者によってなかば幽閉されたとも)。そこでも姫の義経への思いは消えることなく、ついには会えぬ身の辛さ故か、川へ身を投げて亡くなったという。それから間もなく、義経は源氏の大将として京へ上る途上、矢作の地を訪れて姫の最期を知ったのである。(『浄瑠璃姫物語』でも浄瑠璃姫は矢作で亡くなり、死後に義経が訪れる展開となっているが、そこでは病死ということになっている)
浄瑠璃姫の遺跡は岡崎の各所に点在する。姫の草庵の跡は、後に岡崎城の敷地となり、その後公園化された一角に浄瑠璃姫供養塔が置かれている。また、姫が入水した川のそばには成就院という寺が建立され、そこに浄瑠璃姫の墓がある。またその墓地のすぐそばには浄瑠璃が淵という小さな公園が残されている。さらには兼高長者の住まいがあったといわれる場所には、誓願寺が建てられ、そこにも浄瑠璃姫を祀る墓が作られており、また薄墨の笛も寺宝として残されている。
浄瑠璃姫の草庵跡には、かつて浄瑠璃寺と呼ばれる寺院が建てられたが、岡崎城の築城の際に現在の場所に移転している。また義経が浄瑠璃姫から形見にもらった麝香を埋めたとされる麝香塚に用いられたとされる石が、六所神社の大鳥居の脇にある高宮神社石碑の礎石になっているという。そして浄瑠璃姫が観月の宴を開いたとされる観月荘跡の碑が、三河別院にある。
『浄瑠璃姫物語』『十二段草子』 / 室町時代前期、15世紀頃に成立。それまでの語り物が『平家物語』などの軍記物が中心であったのに対し、男女の恋愛を中心に作られたこの話は画期的であり、その後の新しい音曲へと展開していくことになる。ただ演ずる琵琶法師によって様々な脚色がなされているため、大筋の話は同じであるが、細部にかなり異なった部分がある。
戦人塚(せんにんづか) / 愛知県豊明市前後町仙人塚
永禄3年(1560年)5月19日、駿河の太守・今川義元は織田信長の奇襲を受けて戦死する。世に言う「桶狭間の戦い」である。この桶狭間の古戦場と目される場所が豊明市にあり、緑地公園化されている。その場所から北東へ数百m行ったところに戦人塚がある。
桶狭間の戦いで敗死した今川方の将兵の数は約2500名とされている。この遺体を埋葬したのが、近くの曹源寺の住職であった快翁龍喜であった。塔頭の明窓宗印に命じて村人を動員して各所に塚を造り、戦死者を埋葬したと伝わる。当初は駿河塚と呼ばれていたという。その後、塚の多くの宅地化され消滅したが、この塚だけは代表的なものとして残された。現在塚の上にある供養碑は、元文4年(1739年)に百八十回忌の供養として建てられたものである。現在でも、毎年合戦のあった日を忌日として、曹源寺が法要をおこなっている。
「桶狭間」の位置 / 有名な桶狭間の戦いであるが、正確な位置については諸説ある。上記の豊明市は今川義元の墓があるため、古戦場として最も有力であるとされている。しかし「桶狭間」の地名が残されている名古屋市緑区にも古戦場とされる地があり、戦場がどこであったかを決定付けるまでには至っていない。
大鷲院(だいじゅういん) / 愛知県豊田市新盛町
“日本三大猫騒動”といえば、鍋島騒動、有馬騒動、そして岡崎の猫騒動となる。鍋島と有馬の猫騒動は史実に基づいた部分があり、藩主が怪異に巻き込まれるなどのまことしやかなお家騒動によって構成されている。しかし岡崎の猫騒動はあくまで創作であり、文政10年(1827年)に歌舞伎の演目として鶴屋南北が作った『独道中五十三駅』に登場するエピソードがその中核となっている。
この『独道中五十三駅』は、元々しっかりとしたストーリーがある作品ではなく、各場面ごとに趣向を凝らした演出で人気役者(初演では三代目尾上菊五郎)が活躍することが目的で作られている。そのために芝居に掛かるたびに内容が少しずつ変更されることになるのだが、岡崎の化け猫のくだりだけは人気が高く、繰り返し演目に取り上げられている(それでもディテールは相当書き換えられている)。
お袖は、姉のお松を捜して乳飲み子を抱えて夫と共に旅に出る。途中、岡崎で休むところを探していると、幼なじみのおくらに出会い、宿場はずれの古寺に案内される。そこには十二単を着た亡き母がいた。実はその亡き母親は化け猫であり、行灯の油を舐めている姿を見てしまったおくらを殺す。一方のお袖と夫は、お松の幽霊と出会い、夫の前の思い人がお松であり、その思い人が姉とは知らずに嫉妬してお袖が呪いを掛けたのがきっかけで死に至ったことを知る。事が露見して離縁を言い渡されたお袖はその場で亡くなってしまうが、その時障子の奥から手が伸びて、お袖の遺体と乳飲み子を引きずり込んでしまう。そしてお袖の老母は夫の前で化け猫の正体を現し、自分が猫石の精とお松の怨念が合体したものだと言い放って消え失せる。あとは猫の形をした巨石と茅原が残るのみ。そこへお松の遺体が運び込まれると、一転、猫石は再び化け猫に化身して、遺体を引っ掴むとそのまま宙を舞って消え去ってしまう。
この荒唐無稽な展開であるが、モチーフとなるような伝承が旧・足助町にある。曹洞宗の古刹である大鷲院である。この寺の裏山は霊場として整備されているが、多くの巨石が点在している。その中での最も大きな石の1つとされる八丈岩に、化け猫にまつわる伝承が残されている。
大鷲院の住職が、檀家の葬儀に行ったときのこと。空に突然暗雲が立ちこめ、嵐となった。いきなり住職は棺にまたがり、ある一点を睨み上げた。すると天空から化け猫が棺めがけて襲いかかってきたのである。住職が払子で顔面に一撃を加えると、化け猫は退散し、嵐は止んで嘘のように天候が回復した。寺に戻ると、飼い猫が顔を腫らしていた。先ほどの化け猫の正体がこの飼い猫であると悟った住職は、飼うことが出来ぬと追い払った。猫は裏山に行き、この八丈岩に足跡を残していずこともなく消えていったという(あるいは住職がこの八丈岩に封じ込めたとも)。
大鷲院の化け猫伝承と「岡崎の猫」に登場する化け猫とは、遺体を狙ったり宙を飛び交う能力があるということで同種のもの(おそらく“火車”と分類される妖怪の類)であると想像できる。また猫石と八丈岩にもかなりの共通の役割があることもうかがうことが出来る。大南北が意図して組み入れたのか、あるいは偶然の産物なのか、それを明瞭に示す資料はない。
『独道中五十三駅』(ひとりたびごじゅうさんつぎ) / 文政10年(1827年)初演。四世鶴屋南北作。初演の内容では、化け猫が登場するのは鞠子宿となっている(鞠子と岡部の宿の間にある宇津ノ谷峠に「猫石」も存在している)。推測するに、岡部と岡崎の宿場名が混同して、いつしか岡崎の化け猫話として定着したのであろう。また岡崎宿のはずれにある古寺は無量寺と称され、この名前を持つ寺院も実際に宿場はずれとおぼしき場所に存在する。ちなみに同じ南北の作品である『東海道四谷怪談』は文政8年(1825年)初演。また他の化け猫騒動の歌舞伎演目は、嘉永6年(1853年)に公演予定するも中止となった『花埜嵯峨猫魔稿』(鍋島猫騒動)、明治13年(1880年)初演の『有松染相撲浴衣』(有馬猫騒動)がある。
鶴屋南北(四世) / 1755-1829。歌舞伎狂言の作者。45歳で立作者となり、それ以降、数多くの作品を発表する。特に怪談物で名を成す。
大通寺 おとら狐(だいつうじ おとらきつね) / 愛知県新城市長篠
おとら狐は、長篠城の鎮守の稲荷に住んでいた狐であり、よく人に取り憑いたとされる。“おとら”という名も、取り憑いたことが最初に確認された時に取り憑いた娘の名前から取られている。
左目と左足(後脚か?)を負傷した容姿が特徴的であり、おとら狐に取り憑かれた人は、左目から大量の目やにを流し、左足を引きずるようになるという。その他にも超人的な動きをみせたり、生の魚を食らうなどの狐憑き特有の行動も取るが、おとら狐の憑依には左目と左足の異常が加わることになる。
伝承によると、左目を負傷したのは、天正3年(1575年)の長篠の合戦の時に城で戦いを見物していたら、鉄砲の流れ弾が当たったためだという。左足については諸説あり、長篠城内で軍議を盗み聞きした時に障子に影が映って城主に斬られたとも、長篠に住んでいた林藤太夫という弓の名人に射られたとも、信州犀川で昼寝していたときに狩人に狙い撃ちされたとも言われている。
長篠の合戦の後に長篠城は廃城となり、打ち捨てられたために、おとら狐は怒って近在の人に取り憑くようになったという。その初めが、城の近くに住む分限者の娘・おとらであった。それ以後も近在の者に取り憑いては、長篠の戦いの様子を語ったり、自分の身の上話をしたらしい。またおとら狐には孫娘がいて、この狐も“おとら”を名乗り、20世紀初頭ぐらいまで人に取り憑いたという。
おとら狐を祀る城藪稲荷神社は長らく長篠城本丸跡にあったが、平成18年(2006年)に大通寺の一角に移転している。
東向寺 今川義元首塚(とうこうじ) / 愛知県西尾市駒場町榎木島
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて海道一の弓取りと呼ばれた今川義元は、織田信長の奇襲によって討ち死にした。討ち取られた首級は、翌日には首実検を経て織田軍によって須ヶ口に晒された。
それを取り戻したのは、今川家の重臣・鳴海城を守備していた岡部元信である。今川勢敗退の後も城を守っていたが、交渉の末、城を明け渡す交換条件として首級を受け取ったのである。
首級を受け取った元信は、そのまま本拠地である駿府へは戻らず、今回の戦いで自らの戦功がないとの理由で、刈谷城に攻め込んで城主の水野信近を討ち取っている。そのせいもあってか、義元の首級は腐敗が進んでしまい、結局、西尾にある東向寺で埋葬したのである。
東向寺は、義元の叔父にあたる徳順上人は第4代住職を務めており、義元とは非常に縁のある寺院であった。おそらくそれを知って元信はこの地に首級を埋葬したのであろう。さらに元信は墓守として2名の武将を現地に留めおいた。そのうちの1名が今村氏で、東向寺の大檀家であったという。
今川義元の首塚は、一般の檀家の墓地とは異なる丘の上に安置されている。海道一の弓取りとまで呼ばれた太守としては、あまりにも小さな塚である。ただ首塚の周囲には数基の墓があり、これらは義元の従者の墓とも、桶狭間の戦いで戦死した武将の墓とも言われている。
岡部元信 / ?-1581。今川家の有力武将。桶狭間の戦いでの行動は上にある通り。武田家による侵攻によって今川家が滅ぼされた後は、武田家の武将として活躍する。高天神城の守将となるも、徳川家の攻撃により落城、討ち死にする。
七ツ石(ななついし) / 愛知県一宮市大和町戸塚
住宅地の一角に場違いなように18個の巨石がある。これが七ツ石である。別名を剣研石(けんとぎいし)という。『尾張名所図会』にも現在と同じ様子で描かれており、昔から有名な伝承地であったと言える。
東征から戻ってきた日本武尊はしばらく尾張に滞在し、東征前に約束を交わしていた宮簀媛と結婚する。そして伊吹山に荒ぶる神があることを聞いて、それを退治しようと、草薙剣を宮簀媛に預けて旅立った。その途上、日本武尊は自分の持っていた剣を研いだという。その研いだ石が七ツ石である。
これらの石の一部は、表面が平滑に加工されている痕跡を残しており、自然石ではないことは明らかである。おそらく昔の人々は、その滑らかな平面を見て“砥石”を連想し、この地にあった英雄と結びつけたのであろうと推測出来る。しかし現在の研究では、これらの石は横穴式石室を破壊し、放置したものであるという説で落ち着いている。
草薙剣と宮簀媛 / 伊吹山の神によって病を得た日本武尊は、その後尾張の宮簀姫の許へは戻らず、伊勢の能褒野で亡くなる。そのため宮簀媛は草薙剣を祀るために社を設ける。それが現在の熱田神宮である。
野間大坊(のまだいぼう) / 愛知県知多郡美浜町野間
正式な名前は「大御堂寺(おおみどうじ)」であるが、野間大坊の方がことのほか有名である。この地は、平治の乱で敗れて逃げ落ちた源義朝が暗殺された地であり、野間大坊に義朝の墓がある。
平治元年(1159年)、戦に敗れた京都から逃げ延びた源義朝は、わずかな近臣と共に東国を目指していた。そして共に落ち延びていた鎌田政清の舅に当たる、長田忠致の住む野間に辿り着く。ところが忠致と息子の景致は、平家の恩賞目当てに裏切りを果たし、義朝の入浴中に暗殺する。
こうして非業の死を遂げた義朝の墓であるが、平家の世にあって荒れるに任せていた。それを見かねたのが平康頼であり、墓を整備して小堂を設け、田を寄進して供養するように計らった。そして平家滅亡後の建久元年(1190年)には、息子の源頼朝が上京の折に野間の地を訪れ、父の墓参をおこなっている。この頃から「大坊」と呼ばれるような立派な伽藍を備える寺院となったようである。その後も武門の棟梁の終焉の地として、武家の手厚い庇護を受けることになる。
源義朝の墓には、埋め尽くすように卒塔婆が置かれている。卒塔婆は木刀の形をしているが、これは義朝暗殺の時に「木太刀の一本もあれば」と言い残して絶命したという故事にちなんでいる。またこの墓の近くには義朝の首を洗ったという血の池がある。この池は、国に変事が起こる時には、池の水が血の色に染まるという言い伝えがある。
源義朝 / 1123-1160。河内源氏の棟梁。源頼朝の父。父の代に京都での勢力を弱めるが、東国で武士団をまとめ上げ盛り返す。保元の乱(1156年)には平清盛と共に戦功を上げるが、後に対立。平治の乱(1159年)に源平の間で戦となるが、敗れる。
鎌田政清 / 1123-1160。母親が源義朝の乳母であったため、幼少時より乳兄弟として義朝のそば近くに仕える。義朝暗殺と同時に、長田景致に殺される。墓は妻(長田忠致の娘)と共に義朝の墓のそばにある。
長田忠致 / ?-1190?。尾張の野間を本拠とする。頼って来た、主の源義朝と婿の鎌田政清を暗殺し、平家方に寝返る(政清の妻であった娘は、その直後に自害したと言われる)。源頼朝挙兵の際に源氏方に戻るが、頼朝からは「働き次第で美濃尾張を与える」との寛大な扱いを受けて奮戦するも、平家滅亡後は主殺しの罪で捕らえられ酷い方法で処刑されたという。捕らえられた時、頼朝からは「約束通り“身の終わり”を与える」と言われたとも。
平康頼 / 1146?-1220。平清盛の甥である平保盛の家臣。保盛が尾張国司となった際、目代として当地に赴任。その時に義朝の墓を修繕した。この噂が京都まで聞こえると、後白河上皇のそば近くに取りたてられる。その後、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として捕縛され、鬼界ヶ島に流されるが、赦免される。遠島の時に出家をしていたが、鎌倉幕府成立後、源頼朝より阿波国の保司に任ぜられたとの記録も残る。
福田寺 武田信玄の墓(ふくでんじ) / 愛知県北設楽郡設楽町田口
武田信玄は、元亀4年(1573年)の野田城攻めの際に病を得て、西への侵攻から一転して甲府へ戻る途中、信州の駒場で亡くなったとされる。しかし自らの死を隠すことを遺命としたために、その撤収の最中のいつどこで亡くなったのかは明らかにされていない。そのためか、奥三河から信州にかけての何箇所かに、武田信玄の死にまつわる伝承地が残されている。設楽町にある福田寺にも、武田信玄の墓と称するものが残されている。
福田寺に伝わる話としては、信玄は野田城攻めの時に病が重くなって甲州へ戻る途中、この福田寺に立ち寄ったが、ここでさらに重篤となって病没したとされる。ただ寺伝などの古文書は焼失しており、あくまで伝承の域を出ない。
信玄の墓と呼ばれるものは、屈指の戦国大名のものとは思えないほど小さく簡素なものである。またそのそばには馬場美濃守の供養塔もあるが、こちらもかなり小さなものである。
信玄の転回のルート / 信玄が西上から転回した野田城、そして死去の地として最も有力な信州駒場(現・長野県阿智村)を直線で結ぶと、福田寺のある設楽町近辺がその途上にあることが判る。この地で病没したかは不明ではあるが、信玄の本隊がこの福田寺に立ち寄った可能性は少なからずあると考えるべきであろう。
馬場美濃守 / 1515-1575。馬場信春あるいは信房。武田四天王の一人で、信玄時代は主力の騎馬隊を率いて武功をあげる。天正3年(1575年)の長篠の戦いで総崩れの武田勢にあって最後まで戦い、殿軍として総大将の勝頼の退却を見届けた後、敵軍に突撃して討ち死。
法蔵寺 近藤勇首塚(ほうぞうじ) / 愛知県岡崎市本宿町寺山
行基による開基と伝わる古刹である。室町期に、徳川氏の始祖である松平親氏が再建して菩提寺とした。そしてその後、幼い頃の徳川家康(竹千代)が読み書きを学んだ寺とされる。
この寺の境内には、新撰組の局長であった近藤勇の首塚と称されるものがある。慶応4年(1868年)4月に江戸の板橋で斬首された近藤勇の首は塩漬けにされて京都に運ばれて、三条大橋西詰に晒された。しかし3日後には首は隊士の一人に持ち去られて、行方知れずとなっている。
伝承によると、近藤の首は、新京極裏寺町にある宝蔵寺の住職・称空義天の許に届けられたとされる。首を奪還したのは新撰組の斎藤一(法蔵寺に残る逸話では、新撰組の“山口”なる人物が首を持ってきたとされ、斎藤一の別名・山口二郎と目されている)。しかし称空義天が直前に法蔵寺の住職となっていたため、最終的に法蔵寺に首が届けられたという。
この時期は当然、徳川家は朝敵とされており、さらに近藤勇自身も罪人として処刑されていたため、墓碑にあたるものは土中に埋められ、その存在は秘密とされてきた。ところが昭和33年(1958年)に、裏寺町の宝蔵寺の本山にあたる誓願寺の史料から近藤の首の顛末が明らかになり、法蔵寺で調査の結果、墓碑の台座などが見つかった。台座には新撰組の土方歳三らの名が刻まれており、ここが首塚であるとされたのである。
しかし、この首塚が間違いなく近藤勇の首を供養したものであるかについては、多くの疑問がある。
首を奪っていった人物は斎藤一とされているが、首が京都三条に晒された当時、彼は会津軍の一員として白河付近で官軍と戦っていたという記録が残っている。つまり彼が直接京都へ赴くことは不可能ということになる。
また法蔵寺で見つかった墓碑の台座に刻まれた名前は、土方歳三以外には新撰組の関係者はいない。他の名前は、近藤勇が斬首された当時に、土方と共に宇都宮で官軍と戦っていた伝習隊や回天隊に属していた人物ばかりである。なぜ彼らが近藤の首塚供養の台座に名を刻むことになったかの経緯は不明である。さらに言えば、この台座に刻まれた年号が“慶応3年”であったという話もある(現在はその部分が判読不能になっている)。
謎の多い首塚であるが、現在では塚以外にも近藤勇の胸像などが設置され、新撰組ファンの参拝も多いらしいとのこと。
松平親氏 / 生没年不詳。室町時代初期から中期頃の人。新田源氏世良田氏の末裔とされ、徳阿弥という名で三河へ流れてきて、松平氏の婿養子となって、地盤を築いたといわれる。しかし、親氏の記録は江戸時代以降に書かれたものばかりであり、当時の史料では全く出てこないために、実在を疑う向きもある。
近藤勇 / 1834-1868。武蔵国多摩郡の生まれ。天然理心流剣術道場・試衛館で剣術を修める。浪士組に参加して京都へ赴き、後に新撰組局長となる。池田屋事件をはじめとして、京都の討幕派の掃討に貢献。鳥羽伏見の戦いより後は幕府軍として戦うが、甲州で敗北、さらに流山で官軍に包囲されたために出頭して捕縛される。板橋にて刑死。なお胴体は引き取られ、郷里の龍源寺に葬られたとされる。
斎藤一 / 1844-1915。新撰組三番隊隊長。新撰組結成初期に入隊したとされ、その後は隊と共に行動する(一時期離隊するが、これは敵情勢を探るためとされる)。近藤勇が流山で出頭した後は、隊を率いて会津へ移動して戦闘に参加する。土方歳三が会津を離れた後も会津に残って、若松城開城まで抗戦する。会津藩士らと共に斗南藩へ移動、さらに東京へ行き警視庁に奉職し、警察隊として西南戦争に参加。松平容保以下の会津藩の人々とは生涯交流があったとされる。
土方歳三 / 1835-1869。新撰組副長。近藤勇とは同郷で、姉婿との縁で試衛館にて邂逅する。その後浪士組から新撰組結成まで近藤と共に行動する。近藤が局長になると、副長として隊の規律を徹底させ“鬼の副長”と呼ばれた。近藤が流山で出頭した後は、江戸に行って助命交際をおこない、さらに江戸城開城と共に江戸を抜け出して宇都宮で官軍を撃破して、会津に入る。会津から仙台へ赴いて榎本武揚と合流して函館へ行き、五稜郭にて戦死。
間々観音(ままかんのん) / 愛知県小牧市間々本町
正式な名称は飛車山龍音寺。しかし間々観音の名称の方が有名であり、さらに言えば、地元では「おっぱい観音」の方が通りがよい。日本唯一の「お乳の寺」とも言われている。
通りに面した山門はとりたてて珍しいものではないが、ひとたび境内に入ると、その通り名を実感させられる。まず手水場には巨大な2つの乳房があり、その前に立つとセンサーで両乳首から水が勢いよく飛び出す。境内にはさらに慈乳観世音という名の像があり、これまた乳首から水を出し続けている。そして圧巻は観音堂横にある絵馬堂であり、紙粘土で作られたと思しき2つの乳房が絵馬に貼り付けられて奉納されている。しかも絵馬に書かれた願い事は、母乳の出を良くしてほしい、胸が大きくなりたいといった、女性の切実な願いばかり。さすがに「おっぱい観音」の通り名は伊達ではない。
この寺の本尊は、弘法大師の持仏であったと言われる千手観音像である。創建は明応元年(1492年)。はじめはすぐそばにある小牧山にあったが、織田信長の命によって現在地に移転した。そして江戸時代初期には、既に「乳の霊験あらたか」との記録が残されている。
村のある女が子供を産んだが、その直後に夫が病死。女は日々の生活に思い悩み、乳が出なくなってしまった。村の者が米を与えて助けたが、女はその米を自分のために食べず、乳の出が良くなるように観音堂へ参拝して供えた。そして観音堂から戻ると、途端に乳が張って母乳が出るようになったという。これ以降、間々観音は乳の霊験あらたかと言われるようになったとのことである。
無量寿寺(むりょうじゅじ) / 愛知県知立市八橋町
無量寿寺は慶雲元年(704年)に慶雲寺という名で建立されたのが始まりとされる。一時衰退したが、文化9年(1812年)に方巌和尚によって現在ある寺院となった。
無量寿寺にも、方巌和尚が造った庭園があるが、八橋町は古来より杜若(かきつばた)の名勝で知られる。とりわけ有名とされるのが、在原業平にちなむ逸話である。『伊勢物語』九段によると、東下りの最中に主人公(業平)は八橋の地やって来た。連れの者が、名物である“かきつばた”の文字を各句の頭に置いて歌を詠んで欲しいと頼んだ。そこで男は「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」という歌を詠む。これによって八橋は歌枕としても有名となった。
無量寿寺には業平ゆかりのものが多く残されている。本尊の聖観音像は業平の作と伝わっており、この本尊の両脇には業平本人の像、その両親の像が安置されている。また境内には業平竹やひともとすすきなど、業平ゆかりの縁結びの草木がも植えられている。
さらに境内には、古い宝篋印塔がある。これは東下りの業平を追って都からはるばるこの地にやって来た杜若姫の供養塔であるとされる。杜若姫は小野篁の娘とされ、業平に恋い焦がれて後を追ってきたがつれなくされ、悲しみの余りにこの地の池に身を投げて亡くなったという。
またこれらの八橋における業平の故事を秋元嵎夷が記した文章を刻んだ亀甲碑(八橋古碑)が境内にある。この碑に刻まれている文を誤らずに読みきることが出来ると、台座の亀が動き出すという伝説が残されている。
そしてこの八橋という地名であるが、細い川に橋板を稲妻のように繋ぎ並べてできた橋から採られたものであるが、その橋の成り立ちには次のような伝説がある。
仁明天皇の頃、この地がまだ野路という地名であった頃に、二人の幼子を抱えた若い寡婦があった。ある時、薪を拾おうと、蜘蛛の手のように枝分かれした川を渡った。すると幼子も後を追って付いて来る。危ないので帰るように言うまもなく、幼子は川の深みにはまりそのまま溺れて亡くなってしまった。いっぺんに子供を失った寡婦は生きる希望を失い尼となるが、やがて子が溺れた川に橋を架けることを思いつく。そして承応9年(842年)に、流木を繋ぎ合わせるようにして8つの川にそれぞれ橋が架けられた。その形から八橋という名が付けられ、それがそのまま地名となったのだという。
方巌和尚 / 1759-1828。福岡藩の士分の生まれ。京都の妙心寺で修行し、その際に煎茶に傾倒する。江戸に出て“売茶翁”を名乗り、煎茶を売る。その後、八橋の地に定住し、在原寺や無量寿寺を再建する。八橋売茶翁とも呼ばれる。
在原業平 / 825-880。桓武天皇の孫にあたる。『伊勢物語』に登場する主人公は業平がモデルとされている。八橋で詠まれたとされる上の歌は『古今和歌集』にも撰せられている。
秋元嵎夷 / 1688-1752。儒学者。荻生徂徠の弟子で、三河岡崎藩に仕えた。亀甲碑に刻まれた文章は寛保2年(1742年)の作とされる。
桃太郎神社 / 愛知県犬山市栗栖
桃太郎伝説といえば岡山が最も有名であるが、その他にもいくつか桃太郎が存在したという伝説を持つ地域がある。犬山もその中の1つであり、そのシンボルとして桃太郎神社がある。
桃太郎神社が現在の地に遷ってきたのが昭和5年(1930年)。創建はそれを遡ること数百年と言われており、それなりに古い神社である。しかし現在の神社は、奇抜すぎるオブジェに囲まれて独特の雰囲気を醸し出している。また珍品と言うべき鬼関連の宝物が展示される宝物館もある(入場料200円)。言うなれば、ある種のテーマパークにも似た雰囲気である。
祭神は大神実命。桃太郎はその化身であるとされる。現在社殿がある場所に、昔、お爺さんとお婆さんが住んでおり、ある時お婆さんが横を流れる川(木曽川)で桃を拾い、桃太郎を授かる。大きくなった桃太郎は、ある時、鬼ヶ島(岐阜県可児市にある)の鬼の乱暴狼藉を聞き、退治することを決意。お供に犬(犬山出身)、猿(猿洞出身)、雉(雉ヶ棚出身)を引き連れて、鬼ヶ島へ向かった。途中で鬼との遭遇戦があり(現・取組)、さらに鬼ヶ島へ船で渡り(現・今渡)、散々鬼を打ちのめして凱旋する。凱旋の途中では酒を振る舞われ(現・酒倉)、村人から祝いを受けたり(現・坂祝)する。そして鬼の差し出した宝物を積んで戦勝を報告した(現・宝積寺)という。
その後、お爺さんとお婆さんが亡くなると、桃太郎は不意に山に入って姿を消す。その山は次第に桃の形に似てきたので桃山と呼ばれるようになり、村人は桃太郎を祀る神社を麓に造ったとされる。
少々こじつけめいているが、近隣の地名を組み合わせることで桃太郎伝説を作り上げており、まんざら全く根拠のない話ではないという印象である。現在、桃太郎神社は子供の成長を願う神社として崇敬を集めている。
大神実命(おおかむづみのみこと) / 伊弉諾尊が黄泉の国で鬼に追われた時、桃の実を投げつけて難を逃れた。そこで伊弉諾尊は、この桃にオオカムヅミの神名を与えたとされる。桃は古来より仙木であり、魔除けにも使われる木であった。その由来によって、桃を神格化したものである。 
 
 

 

中山道歌枕
佐野の舟橋 / 群馬県高崎市上佐野町
川に舟を並べ、上に板を敷いた仮橋が都人にとってはロマンチックな橋と見えたのだろう。多くの歌人が「佐野の舟橋」を題材に詠んでいるが、恋歌が多いようだ。
○ 上毛野佐野田の苗の群苗に事は定めつ今はいかにせも 万葉集
○ 上毛野佐野の舟橋取り放し親はさくれど吾はさかるがえ 万葉集
○ いつみてかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋 和泉式部続集
○ 東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなさ 後撰 
波己曽山(妙義山) / 群馬県安中市・富岡市・下仁田町 
今はこの名称の山は無いが、妙義神社の古称が波己曽社であったことから、妙義山が波己曽山ではないかと云われている。
○ 草枕夜やふけぬらん玉くしげ波己曽の山は明けてこそ見め 能因集
○ かうづけや波己曽の山のあけぼのに二声三声鳴くほととぎす 信生法師集 
碓氷の山 / 群馬県安中市・長野県軽井沢町
中山道最大の難所である碓氷峠だが、古代より東国と都を結ぶ重要な街道の一部であった。碓氷峠の見晴台に万葉歌碑が据えられている。
○ 日の暮れに碓氷の山を越ゆる日はせなのが袖もさやに振らしつ 万葉集
○ ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも 万葉集・防人の歌
○ 白妙に降りしく雪の碓氷山夕越えくればしかも道あり 宝治百首・定嗣
○ 山の名は碓氷といえどいくちしほ染めて色濃き峰の紅葉葉 千曲の真砂
○ 妻とふたり 碓氷の坂を とほりたり 落葉松の葉の 落ちそめしころ 斉藤茂吉 
浅間山 / 長野県・軽井沢町・御代田町・群馬県嬬恋村
平安時代と江戸時代に大噴火を起こし、甚大な被害をもたらした浅間山であるが、都人は、浅間山の煙を歌の材料にしてしまったようだ。 
○ 信濃なる 浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の 見やはとがめん 伊勢物語・在原業平
○ 雲はれぬ浅間の山のあさましや人の心を見てこそ止まめ 古今和歌集
○ 信濃なる浅間の山も燃ゆなれば富士の煙のかひやなからん 後選和歌集
○ いつとなく 思いに燃ゆる我が身かな 浅間の煙しめる世もなく 西行
○ 吹き飛ばす石も浅間の野分哉 芭蕉 
千曲川 / 甲武信ケ岳を源流とし、新潟県に入ると信濃川となる。
暴れ川として旅人を悩ませた川であるが、都人には 千曲 という響きが良かったようだ。
○ 信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ 万葉集
○ 君か代は千曲の河のさざれ石の苔のむす岩と成つくすまで 式子内親王
○ ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰のしら雪 順徳院
○ 千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む 島崎藤村 旅情より一部抜粋 
望月の牧 / 長野県佐久市望月
平安時代、朝廷に献上する馬を飼育する 望月の牧 は名馬の産地として全国にその名をとどろかせており、多くの歌人が、望月を題材にした歌を残している。
○ 逢坂の関の清水に影見えて いまやひくらむ 望月の駒 拾遺和歌集・紀貴之
○ あづま路をはるかに出づる望月の 駒に今宵は逢坂の関 源仲正
○ 嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒 藤原定家・新古今集
○ 望月のこまよりおそく出でつればたどるたどるぞ山は越えつる 後撰 
諏訪海(諏訪湖) / 長野県岡谷市・諏訪市・諏訪郡下諏訪町
御神渡りで有名な諏訪湖であるが、平安時代からすでに都人は「おみわたり」を題材にした和歌を詠んでおり、魅力的な現象と捉えていたようだ。
○ 諏訪の海の氷の上の通ひ路は 神の渡りて解くるなるけり 源顕仲
○ 諏訪の海や氷を踏みて渡る世も神し守らば危ふからめや 宗良親王
○ 春をまつすわのわたりもあるものをいつをかきりにすへきつららそ 西行
○ 東なる諏訪のみわたりいかならん こほらぬ西もあやうかるへき 藤原為家 
木曽の桟 / 長野県木曽郡上松町上松桟
「木曽のかけはし太田のわたし、碓氷峠がなくばよい」と詠われたほど難所の「木曽の桟」であるが、危ういものに興味津々の都人にとっては格好の題材であった。
○ 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば 西行
○ わけくらす木曽のかけはしたえだえに行末深き峰の白雲 藤原良経
○ なかなかに言ひもはなたで信濃なる 木曽路のはしのかけたるやなそ 源頼光
○ 桟やいのちをからむ蔦かづら 芭蕉 
寝覚めの床 / 長野県木曽郡上松町寝覚
木曽川の激流が創りだした渓谷美は中山道随一。浦島太郎が玉手箱を開けて目を覚ましたことが地名の由来とか。古来から多くの歌人に詠われた歌枕であった。
○ 谷川の音には藤も結ばじを目覚めの床と誰が名つくらん 近衛摂政家照公
○ 浦嶋のよはいをのべよ のりの師は ここに寝覚の床うつして 綾小路宰相有長
○ 岩の松ひびきは波にたちはかり旅の寝覚ノ床ぞ淋しき 貝原益軒 
○ 桟の名は残れども命をからむ蔦もなく寝覚の床のあさ衣木曽の川波静かなり 鉄道唱歌 
青墓 / 岐阜県大垣市青墓町
青墓は、平安末期から鎌倉時代にかけて東山道の宿場として大変賑わった宿場で、保元物語や平治物語にも登場するが、今は「中山道 青墓宿]と記された標柱がさびしげに立っているだけである。
○ 一夜見し 人の情にたちかえる 心もやとる 青墓の里 慈円 
垂井の泉 / 岐阜県不破郡垂井町垂井
木曽路名所図会に「この清水は特に清冷にして味ひ甘く寒暑の増減なしゆききの人渇をしのぐに足れり・・・・」と記されており、垂井清水(垂井の泉)が大きく描かれている。今も滾々と湧き出る清水は清冷なり。
○ あさはかに 心なかけそ 玉すたれ たる井の水に袖もぬれなむ 一条兼良
○ 昔見し たる井の水はかわらねど うつれる影ぞ 年をへにける 藤原隆経朝臣
○ 我が袖の しずくにいかがくらべ見む まれにたる井の 水の少なさ 参議為相卿
○ 葱白く洗いあげたる寒さかな 芭蕉 
不破関(ふわのせき) / 岐阜県不破郡関ヶ原町松尾
壬申の乱(672)の翌年、天武天皇は不破道の重要性から関を設置し通行人の取調べを開始したが、延暦8年(789)には関が閉鎖され関守が置かれるのみとなった。このころから歌枕として多くの人に知られるようになっている。
○ 不破の関 朝こえゆけば霞たつ 野上のかなたに鶯ぞなく 藤原隆信
○ 人住まぬ 不破の関屋の板庇 あれにし後は ただ秋の風 藤原良経
○ あられもる不破の関屋に旅寝して夢をもえこそとほさざりけり 大中臣親守
○ 秋風や藪も畠も不破の関 芭蕉 
関の藤川(現藤古川) / 岐阜県不破郡関ヶ原町
壬申の乱(672)で大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)がこの川の両岸で対峙したと云われている。また、かつては不破関の近くを流れていたことから「関の藤川」と呼ばれ、多くの歌人が詩歌に詠んでいる歌枕でもある。
○ 美濃の国 関の藤川絶えずして 君に仕えんよろず代まで 古今和歌集
○ 我ことも君に仕えんためならで渡らましやせきの藤川 阿仏尼 (十六夜日記)
○ 神代より道ある国につかへける契りもたえぬ関の藤川 九条道家
○ 吹出でて風はいぶきの山の端にさそひて出づる関の藤川 西行 
伊吹山 / 岐阜県と滋賀県の県境
詠まれている 「さしも草の伊吹山」 は、美濃・近江国境の伊吹山とも、下野国の伊吹山(今はこの名の山は無い)ともいわれているが、都人にとっては近江の伊吹山の方が身近だったのではないだろうか。
○ さしも草 もゆる伊吹の 山の端の いつともわからぬ 思ひなりけり 藤原頼氏
○ かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方
○ 今日もまた かくや伊吹のさしも草 さらば我のみ もえやわたらん 紫式部
○ 思いだに かからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしぞ 清少納言
  注:さしも草→艾(もぐさ)  
醒ヶ井(さめがい) / 滋賀県米原市醒ヶ井
「古事記」「日本書紀」にも登場する「居醒の清水」から由来した醒ヶ井は、東山道時代からの宿駅で、多くの旅人が立ち寄り歌を詠んでいる。
○ むすぶ手に 濁る心をすすぎなば 浮き世の夢やさめがいの水 阿仏尼
○ 水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん 西行
○ わくらばに 行きて見てしか 醒が井の 古き清水に やどる月影 源実朝
○ 旅やどり 夢醒ヶ井の かたほとり 初音も高し 鶯が端 能因法師  
不知哉川(現 芹川)(いさやがわ) / 滋賀県彦根市大堀町
 鳥籠山(現 大堀山)(とこのやま) / 滋賀県彦根市大堀町
中山道を横切る不知哉川(現 芹川)は、犬山郡の霊仙山を源とし、彦根市を通って琵琶湖に注いでいる。鳥籠山という山名は今は無いが、芹川と中山道が交わる地点の小山(大堀山)ではないかと云われている。不知哉川(いさやがわ)と鳥籠山(とこのやま)はセットで詠われることが多い。場所は諸説あるが現芹川と大堀山ではないかと言われている。
○ 淡海路の 鳥籠の山なる不知哉川 日のころころは 恋つつもあらむ
○ 犬上の鳥籠の山なる不知哉川 不知とを聞こせわか名告らすな   
○ あだに散る 露の枕に ふし侘びて 鶉鳴くなり 床の山 俊成卿女
○ ひるがをに昼寝せうもの床の山 芭蕉 
老蘇森(おいそのもり) / 滋賀県蒲生郡安土町東老蘇  
万葉の昔から和歌に詠まれてきた名高い森で、森の奥深くには奥石神社が鎮座している。また、東山道/中山道を行き交う多くの旅人が足を留め、旅の疲れを癒した森でもある。
○ 東路の 思い出にせむほととぎす 老蘇の森の夜半の一声 大江公資
○ のがれえぬ 老蘇の杜の紅葉ばは ちりかひくもるかひなかりけり 兼好法師
○ 夜半ならば おいそのもりの郭公 今もなかまし 忍び音のころ 本居宣長
○ 身のよそに いつまでか見む東路の おいそのもりに ふれる白雪 賀茂真淵  
鏡山(かがみやま) / 滋賀県蒲生郡竜王町  
鏡山は標高385mのなだらかな山だが近江名山の一つに数えられ、遠く万葉の昔から多くの歌人に詠われてきた。
○ 鏡山 君に心やうつるらむ いそぎたゝれぬ 旅衣かな 藤原定家
○ 花の色を うつしとどめよ 鏡山 春よりのちの 影や見ゆると 坂上是則
○ うち群れて いざ我妹子が鏡山 越えてもみじの 散らむ影見む 紀貫之
○ くしげなる 鏡の山を越えゆかむ 我は恋しき 妹が夢見たり 大伴家持 
野洲川(やすがわ) / 滋賀県
甲賀市・湖南市・栗東市・野洲市・守山市  鈴鹿山系の御在所山から流れ出た水は、滋賀県南部を流れて琵琶湖に注いでいる。河口はかつて派川が八つの州を造っていたことから「八州川」と呼ばれていたが、いつの頃からか野洲川となった。
○ 天の川 安の川原に定まりて 神の競ひは 禁む時無きを 万葉集
○ 我妹子に またも近江の安の川 安寐も寝ずに 恋ひ渡るかも 万葉集
○ うち渡る 野洲のかわらになく千鳥 さやかにみえぬあけぐれの空 源頼政
○ 近江路や 野ぢの旅人急がなむ やすかはらとて遠からぬかは 西行 
野路の玉川 / 滋賀県草津市野路町  
「野路」は平安から鎌倉時代にかけて栄えた宿場で、ここに湧く泉は多くの旅人の喉を潤してきたという。その泉の水が流れる「野路の玉川」は日本六(む)玉川の一つとして歌枕に詠まれた名勝であった。また萩の名勝としても知られ、 萩の玉川 として「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵でも紹介されている。
○ あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり 源俊頼
○ さをしかの しからむ萩の秋見へて 月も色なる 野路の玉川 新拾遺集・仲光 
瀬田の唐橋(からはし) / 滋賀県大津市瀬田  
琵琶湖に架かるこの橋は「瀬田の長橋」とも「瀬田の唐橋」とも呼ばれ、交通・軍事の要衝で、何度も戦乱の舞台となっている。一方、近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三名橋の一つでもある。
○ まきの板も苔むすばかり成りにけりいくよへぬらむ瀬田の長橋 新古今
○ 望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに 平兼盛
○ ひき渡す瀬田の長橋霧はれて 隈なく見ゆる望月の駒 藤原顕季
○ 五月雨にかくれぬものや勢多の橋 芭蕉 
琵琶湖(びわこ)/近淡海(ちかつあわうみ)/鳰海(におのうみ)
  滋賀県/米原市/彦根市/草津市/大津市他
古代には、都から近い淡水の海ということで近淡海(ちかつあわうみ)と呼ばれていたが、のちに鳰(かいつぶり)が沢山いたことから鳰海(におのうみ)とも呼ばれていた。琵琶湖と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからである。
○ 淡海の海夕波千鳥汝なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 柿本人麻呂
○ 鳰の海や霞のをちにこぐ船の まほにも春のけしきなるかな 式子内親王
○ 石山や鳰の海てる月かげは 明石も須磨もほかならぬ哉 近衛政家
○ 鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり 藤原家隆 
逢坂(おうさか) / 滋賀県大津市大谷  
山城と近江の国境にある峠道で、東海道、東山道から都に入る交通の要衝であった。古代より関所が置かれており、別れなければならない場所であるのに「逢う」という字が含まれていることから、どういうわけか都人には好まれたようで多くの歌人が詠っている。
○ これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸 
○ 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ 清少納言
○ 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな 三条右大臣
○ 逢坂の 関に流るる岩清水 言はで心に思ひこそすれ 読人知らず
○ わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ 西行 
鴨川(かもがわ) / 京都府京都市    
京都の代表的な川で、桟敷岳(さじきがだけ)を源とし京都市街を流れ下って淀川に合流。上流部を賀茂川とも称しているが、古くから、多くの歌人が鴨川(賀茂川)を題材にして詠っている。
○ 鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我れは今ならずとも 万葉集
○ 誰がみそぎ同じ浅茅のゆふかけてまづうちなびく賀茂の川風 藤原定家
○ みそぎする賀茂の川風吹くらしも涼みにゆかむ妹をともなひ 曾禰好忠
○ ちはやぶる賀茂の社の木綿襷(ゆうだすき)一日も君をかけぬ日はなし 読人不知 
 

 

古代三関
三関 (さんげん、さんかん)
古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の三つを指したが、9世紀初頭に相坂関(近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わった。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれた。
三関には鼓吹軍器、すなわち兵器類が常備され、必ず複数の国司四等官が関を守護するため常駐する規定があった。この常駐四等官は城主とよばれ、非常事態に備えていた。
非常事態が発生すると、朝廷は三関に固関使(こげんし)を派遣する。この際、蔵司が保管する関契とよばれる割符の左符が固関使に与えられ、三関で国守によって保管されていた右符と照合を行なう。これが一致すると非常事態と認められ、関が閉鎖された。これを固関と呼ぶ。非常事態が解消した後の解関(開関)も同様の手続きによった。
関を閉鎖するのは東国から畿内への侵入を防ぐ為である。特に中央で非常事態が発生した折に、その期に乗じての東国から畿内への侵入を防ぐ目的である。また中央の謀反者の東国への逃走を防ぐ目的もあり、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では、愛発関を閉じる事で仲麻呂が息子のいる越前国へ逃げる事を防いだ。
歴史
三関の設置時期は天武天皇元年(672年)ないし、同2年(673年)とされる。その前後の壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が初動で不破道を塞ぎ、優位に立ったことが知られている。このように天武天皇として即位した大海人皇子自身の戦訓も踏まえて、8世紀初頭の大宝令により三関が警察・軍事の機能を兼備することが法的に規定された。和銅年間には勅命によって三関国の国守に仗(武官)2人が配属されている。
養老5年12月7日(722年1月2日)の元明太上天皇の崩御の際、初めて固関が行なわれた。その後、天皇や太上天皇の病気・崩御、および長屋王の変や藤原仲麻呂の乱や薬子の変などの争乱で固関使が派遣されている。
平安京遷都に先立つ延暦8年7月14日(789年8月13日)、桓武天皇の勅により、不破関および鈴鹿関・愛発関の三関は突然停廃された。兵器は国府に移し、館舎などは便郡に移築するよう命じられた。しかし完全には放棄されず、引き続き三関は機能していた。
延暦25年(806年)の桓武天皇の崩御や、弘仁元年(810年)の平城上皇による奈良還都の策謀の際には、三関固守の命令が出された。なお前者では三関に愛発関ではなく、新都の置かれた山城国を防備する相坂関が入っている。その後も、承和7年(840年)、貞観13年(871年)、元慶8年(884年)などの固関が『六国史』に記録されている。以降は『儀式』や『西宮記』などの規定通り、天皇の崩御や摂政・関白の死去などに際して固関が行なわれた。平安時代中期にあたる10世紀後半以後の固関は儀式的になっていったが、近世においても江戸時代後期の天保年間まで続けられた。 
古代三関と「勿来関」の地名由来
古代三関(さんげん)は、北陸道の「愛発関」、東山道の「不破関」、東海道の「鈴鹿関」だが、いずれも近江国から東国への出口に位置しており、古代近江朝を守るための軍事目的で設置されたといわれている。その地名由来はその関跡とともに不明な点が多い。「愛発(あらち)関」の跡は不明だが、滋賀県と福井県境をいく疋田街道の要所に置かれていたことは間違いない。「あらち」とは「あらし」と同じく、山の急斜面の意味である。美濃国不破郡に置かれたので、「不破(ふわ)関」としたのだが、「ふわ」とはふわふわ、ぶわぶわした湿地の意味だ。この関跡は発掘調査され、全貌が明らかになりつつある。「鈴鹿関」跡もはっきりしないが、最近亀山市関町にその候補地が見つかった。関という地名が暗示してはいるが、果たして真実か。「すずか」は伊勢国鈴鹿郡からきているが、その意味は茫洋としてつかめない。語源辞典では、笹の生える土地、急傾斜地、遊水池とか、いろいろの説明がしてあるのだが。                                        ところで、三関といえば「奥州三古関」がある。福島県いわき市の東海道「勿来(なこそ)関」は、蝦夷の南下を防ぐ施設として、蝦夷よ「来る勿(な)かれ」という意味で「なこそ」としたとまことしやかにささやく人がいるが、それは違います。現地へ行って分かったことは、そこにある「文学歴史館」なるものを見るにつけ、どうもこの関は架空の産物ではないかということだ。そこに古くからある「名古曽(なこそ)」という地名に目をつけた江戸時代の平藩が、歌枕で有名な「勿来」はここだとばかりに「碑」を立てて観光客を引き寄せようとしたに違いない。今の勿来関跡は、海岸の高い丘の上にあり、街道が通過していたとも思われない。名古曽は、なだらかな海岸の狭い平坦地を表す地形用語で、現地にふさわしい福島県白河市の「白河関」は社川の谷平野にその関跡が比定されており、その地名由来は「白川」と同じく、澄んだ清流の意味だ。北陸道「鼠ヶ関」は、越後と出羽の国境、山形県鶴岡市にある。「ねず」は嶺(ね)と接尾語の「つ」なのか、ねちねちした土地なのか、ねじ曲がったところ、といろいろ考えられるが、現地をよく見てみないとわからない。 
「関東」「関西」名の由来
関東、関西の関は、「関所」という意味で、古くは東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関から東西。という意味です。この中の「不破の関」が関ヶ原にあったわけです。(関ヶ原=関のある原っぱ)この三関所は、672年の壬申の乱の経験から翌673年に天武天皇が定めたとされています。もちろんその以前から各地の街道に軍事上の目的から関所を作っていた記録があります。
その後、平安時代に北陸道の愛発関は逢坂関に変わって、以東が関東になり、この時代にはすでに関東・関西という言葉を見ることができますが、「関の東西」ですから、東日本、西日本という感覚の区分であったわけです。この時代から、現在の関東地方(よりやや広いが)を指す言葉として「坂東=ばんどう」が登場します。
鎌倉時代になると、区分線がやや東に移り、遠江から三河・信濃・越後国の律令国の境界が東西の区分になり、大体鎌倉幕府の直接統治がされていた場所が関東になり、奥州=東北地方も関東となります。
その後、徳川家康の関東入府によって、箱根峠、小仏峠、碓氷峠が関東の境となり、関八州とか、関東十カ国という範囲が関東になって行きます。 
御在所山の名の由来
古くから御在所山の名のおこり、いわれには次のようなはなしが伝えられています。
垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の神霊を奉じて、大和の笠編(かさぬい)の宮から伊勢の五十鈴川の川上へお遷しするとて長い旅をされました。そのとき桑名の野代(のしろ)から亀山へと向かわれる途中、菰野あたりで一時、仮の屯宮を設けられたことから御在所、すなわち御在所山とよばれるようになったと。
これは菰野の里に伝わる単なるはなしですので、その大本(おおもと)の神宮に伝わる「倭姫命世記」と「神宮儀式帳」から、倭姫命の歩まれた巡幸の道すじをたどって見たいとおもいます。
初代の神武天皇から三十二代目の崇峻天皇までは神話の時代で、三十三代推古天皇からが日本の有史のはじまりと言われています。その倭姫命は第十一代の垂仁天皇の皇女ですので、二千年も昔のはなしになります。
まず最初の大和の1御諸(みむろ)の宮は、いまの桜井市三輪山の麓、檜原神社といわれ、そのあたりに皇居もあったようです。2宇陀の阿貴(あき)の宮、そして初瀬街道を歩まれて、榛原の3佐々波多(ささはた)の宮、そして伊賀の4穴穂の宮、5柘植(つみえの)宮、伊賀から近江へ向われて6淡海(おうみ)の坂田の宮、そして関ヶ原は不破の関を越えられて美濃国の7伊久良(いくら)の宮へ。ここからは川舟を使われて、伊勢国へ8桑名の野代の宮へ上陸されました。そして伊勢の野を進まれて9小山(こやま)の宮へ。それからは伊勢路をI藤方片樋(ふじかたかたひ)の宮、J飯野の高宮、K多気の佐々牟江(ささむえ)の宮、L磯(いそ)の宮、M家田田上(やだのたがみ)の宮、N度会(わたらい)の五十鈴川上の宮と進まれています。
このほか甲賀の日雲の宮、尾張の中島の宮、多気の滝原の宮との異説もありますが、おおよそ十五ヶ所の順に旅を経られて、今の五十鈴川のほとり神路山に宮居を定められました。
この巡幸の経路においても鈴鹿山地の近江の坂田の宮から、伊吹山の麓、不破の関を通り、美濃の伊久良の宮ではこの国の国造や県主から舟二隻の献上を受け、ここから揖斐の大河を舟で川下しもの桑名まで下り、野代に上陸されたようであります。太古の昔は野代まで伊勢の海が進入していたようです。
野代の宮からは御衣野(みその)、古浜、笹尾、鳥取、北大社、南大社、市場、中野、川北、下村、宿野と歩まれて、それからは三滝川沿いに上られ、いまの湯の山駅西の江田の神明あたりに足をとめられて仮屯宮を設営されたように思われます。その屯宮跡か、江田神明社が明治末までありました。宮の前の三滝川は御幣川とよばれたこともあり、この辺の景色は倭姫命の時代と、今もそう変わりはないはずです。
菰野からは宿野峠を越えて坊主尾、青木、伊舟、川崎、岩森、椿世(つばいそ)そして亀山の野村、鈴鹿川の北岸に足を止められて、仮屯宮をされたようです。その跡がいまの忍山神社です。
ここから西へ登れば鈴鹿の関、そして天下の険の鈴鹿峠、千年の昔もいまも変らぬ交通の要所です。
地図を広げていただくと、桑名の野代の宮から亀山の忍山宮の関に間に、菰野の里がちょうど中間に位置しています。そして西の国と東の国に背で分ける鈴鹿山地の中心に、御在所山はどっかりと鎮まっています。なお、倭姫命が最も愛された甥の日本武尊が東国出征から帰り、鈴鹿の能褒野で亡くなられたという物語も、なにか繋がりがあるように思われます。
伊吹山
○ 今日も又かくや伊吹のさしも草さらば我のみもえや渡らむ 和泉式部
○ くれ舟よあさづまわたり今朝なせそ伊吹のたけに雪しまくなり 西行
○ 知られじな霞のしたにこがれつつ君にいぶきのさしも忍ぶと 定家
○ 秋をやく色にぞ見ゆるいぶき山燃えてひさしき下のおもひも 定家
○ 其ままよ月もたのまじ伊吹山 芭蕉
○ 折々に伊吹をみては冬ごもり 芭蕉
○ 木枕の垢や伊吹に残る雪 丈草
○ 伊吹には雪こそ見ゆれ大根引 支考
○ 天霧ふ息吹の山は蒼雲のそくへにあれどたゞにみつるかも 節
○ おもおもと雲せまりつつ暮れかかる伊吹連山に雪つもる見ゆ 茂吉
○ 萍に伊吹見出でて雨上る 普羅
○ 伊吹嶽残雪天に離れ去る 誓子
○ 藁塚も屋根も伊吹の側に雪 多佳子
○ 伊吹嶺は流石雲居て秋の晴 たかし
○ 撫子や母とも過ぎにし伊吹山 草田男
○ 伊吹山他山に雪を頒け惜しむ 誓子
○ 青伊吹どこかにヤマトタケルの道 誓子
○ 枯蓬伊吹の颪すままにあり 青畝 
鈴鹿関1
伊勢国にあった古代東海道の関所である。三関のひとつ。701年(大宝元年)に創設され、789年(延暦8年)7月に廃された。しかし、その後も即位、大喪、反乱のある際には(時代が下るにつれて儀礼化が進んだものの)かならず三関を警護し、このときは南の伊賀路すなわち加太越を通った。光孝天皇の886年(仁和2年)、鈴鹿山の新道(阿須波道)が開かれた。すなわちこれが鈴鹿峠である。関址は、三重県亀山市関町新所とする説が有力。2006年同所の観音山公園から北辺城壁と見られる築地が発見され、発掘調査が続いている。
鈴鹿関2
702年に置かれた三関の一つ、鈴鹿関がこの峠(峠道)に比定される。正確な場所は不明だが現在の関町付近にあり、また何度か場所を移したとするのが通説であるという(のちの東海道の関は、もちろん関町に置かれた)。都への異族の侵入を防ぐという役割を考えたとき、峠という地形的な境=国境よりも前進した位置に置かれていたであろうことに、「峠の民俗地誌 -境をめぐって-」の著者は注目している。初期の東山道はこの峠の北にある加太越え(倉歴越)であったが、仁和2年(886)に阿須波道が開かれ、鈴鹿峠経由となった。それ以前の延暦8年(789)には三関は廃止されている。鎌倉時代の東海道は東山道と同じく美濃国府を通るものだったが、江戸時代になって再び伊勢回りとなり、現在の国道1号もほぼこれにしたがっている。(「峠の道路史」)
鈴鹿峠越え
近江国と伊勢国の境、東海道を往来する旅人はこの境に横たわる鈴鹿山脈を越えねばならない。標高378mの鈴鹿峠越えである。古代の東海道は伊勢国の鈴鹿関から加太越えで伊賀へ抜けるルートだったが、平安時代の仁和2年(886年)鈴鹿峠越えの新道(伊勢大路・阿須波道)が開かれて以来、こちらが東海道の本道になった。鈴鹿峠の近江側はなだらかな直線状の坂道に対し、伊勢側は峻険な斜面に敷設された八町二十七曲がりと呼ばれるつづら折れの難路で、東の箱根・西の鈴鹿と並び称される峠越えの難所だった。また、鈴鹿峠一帯は山賊が出没することで知られ、旅人にとってはその恐怖に耐えながらの峠越えとなり、このことも難所と呼ばれた所以の一つなのだろう。峠付近には鏡のような岩肌を持っていたという鏡岩があり、山賊は峠を登ってくる旅人を岩肌に映し見ては襲っていたとの伝説も。鏡岩が”鬼の姿見”とも称される所以である。
鈴鹿山
○ 鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらん 西行
○ えぞ過ぎぬこれやすずかの関ならむふりすて難き花の蔭かな 定家
○ 秋は来て露はまがふとすずかやまふる紅葉ばに袖ぞうつろふ 定家
○ 伊勢は照る馬子の鈴鹿は花ぐもり 許六
○ 鈴鹿よりあちらは白し神無月 支考
○ 稲づまや浮世をめぐる鈴鹿山 越人
○ おそろしき鈴鹿もいまや初紅葉 涼菟
○ 華を踏て岩に角なし鈴鹿山 暁台
○ ふると見し鈴鹿の山ははれにけり日影うら照る夕立の雲 子規
○ 馬子哥の鈴鹿上るや春の雨 子規
○ 鶯や馬子を相手の鈴鹿越 子規
○ 夕立の鬼も降るかと鈴鹿山 子規
○ ふらばふれ雪に鈴鹿の関こえん 子規
○ 鈴鹿嶺の南に春の障子かな 楸邨
鈴鹿峠の鏡岩 (すずかとうげのかがみいわ)
三重県と滋賀県の境にまたがる標高378mの鈴鹿峠は、仁和2年(886年)に開通した古い峠であり、箱根峠と並ぶ東海道有数の難所として有名である。
鈴鹿峠の南西側急斜面上に三重県指定天然記念物「鈴鹿山の鏡岩」がある。別名「鬼の姿見」といい、立烏帽子という鬼女が鏡代わりに使った岩だといわれる。山賊がこの岩で待ち伏せしていて、鏡岩に映った旅人を襲ったという伝説もある。かつてこの岩には一面に青黒く光る鏡肌(硅岩が断層によってこすれたもの)があったらしいが、明治初年の山火事により岩が損傷し色も赤褐色に変わってしまい、後の風化・採取なども影響し現在では明瞭な鏡肌は認め難くなっている。
鏡岩から北100mの茶畑から平安時代の土師器片417点、須恵器片14点が見つかっており、非実用的な小皿が大半を占めることと立地環境から峠神祭祀遺跡と考えられている。峠神が降臨したのが鏡岩ではないかと見る向きもあるようだが、土器群が鏡岩の手前から出土しているなら肯けるが、土器群の出土地点からは直接鏡岩を拝むことはできず、これら土器祭祀が鏡岩を志向していたかどうかは判断保留したい。
『勢陽五鈴遺響』(1833年完成)によると「鏡石ト云巨石アリ毎二月八日土人注連ヲ牽キテ不潔ヲ避ク」という記述がある。
永仁2年(1294 年)に鈴鹿峠の北にそびえる三子山から鏡岩の近くに田村神社が遷座し、鏡岩から田村神社の一帯を「たまや」と呼んでいたという。少なくとも中近世のある時期から、鏡岩が神聖視の対象であった可能性がある。
鏡山
○ 花の色をうつしとゞめよ鏡山春よりのちの影や見ゆると 是則
○ 鏡山山かきくもりしぐるれど紅葉あかくぞ秋は見えける 素性法師
○ うち群れていざ吾妹子が鏡山越えて紅葉の散らむ影見む 貫之
○ みがきける心もしるく鏡山くもりなき世にあふが楽しさ 能宣
○ ほとときすなくねのかげしうつらねば鏡の山もかひなかりけり 俊頼
○ 光をばさしかはしてや鏡山みねより夏の月はいづらん 俊頼
○ 鏡山こゆる今日しも春雨のかきくもりやは降るべかりける 恵慶
○ うれしくも鏡の山をたてをきて曇なきよの影をみるかな 俊成
○ 鏡山ひかりは花の見せければちりつみてこそさびしかりけれ 親隆
○ さざ波やちりもくもらずみがかれて鏡の山をいづるつきかげ 定家
○ 鏡山夜わたる月もみがかれてあくれどこほるしがのうら波 定家 
不破関1 (ふわのせき)
古代東山道の関所である。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。三関から東は東国または関東と呼ばれた。
672年に発生した壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)の命により美濃国の多品治によって「不破の道」が閉鎖される。この近辺が激戦地となっている。よく誤解されるが、壬申の乱で閉鎖されたのは「不破の道」であり、不破関ではない。
673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置される。
701年(大宝元年)、大宝律令によって正式に定められる。
789年(延暦8年)、天皇・太上天皇の死や病などを契機として三関封鎖され、廃止される。非常時に関の封鎖を命じる「固関」(こげん)の儀式が江戸時代まで続いた。徳川幕府により東山道が中山道として整備されたころと推測される。その以前から関所の機能はなくなっていた。
不破関2
不破関は672年壬申の乱後、律令体制の整備に伴って(8世紀初め)に設置されました。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つとされています。
関の機能については畿内(滋賀県からは大和政権の支配下)に入る侵入者をチエックする目的であると考えがちですが、壬申の乱で大海人皇子が美濃・尾張で兵力を蓄えたことなどから、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐ機能があったと考えられています。
不破関北限土塁不破関の構造については、昭和49年から52年に掛けて岐阜県教育委員会が実施した発掘調査により明らかになっています。西側は藤古川を利用し、三方を土塁で囲んだ約10haが関の範囲になっており北側の土塁は現存しています。
また、東山道に接する形で掘立柱建物群が確認されており、その構造や規模は判明しませんでしたが、この付近に多くの瓦が出土することから、関の中心施設はここに位置していたと考えられています。
不破関は延暦8年(789)年に関の機能が停止されましたが、その後、鎌倉時代には通行料(関銭)を取っていたことも明らかになっています。江戸時代にかけては、歌に詠まれることが多くなり、松尾芭蕉は野ざらし紀行の中で「秋風や藪も畠も不破関」という句を残しています。
不破の関
○ 関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを 家持
○ 不破の関あしみを駒におしへゆくこゑ許こそかすまざりけれ 俊頼
○ 人すまぬ不破の関屋の板廂あれにしのちはただ秋の風 良経
○ 秋風や藪も畠も不破の関 芭蕉
○ 不破のあれ芭蕉に見るや後の月 也有
○ 蕎麦の花真昼に暮ぬ不破の雨 暁台
○ 不破の雪さながら昼の色ならず 暁台
○ 行秋や不破の関屋の臼の音 内藤鳴雪
○ 枯薄ここらよ昔不破の関 子規
○ 炉塞や不破の関屋の一かすみ 蛇笏
○ 雪折の藪の離々たり不破の関 青畝
○ 蝶踏んで身の匂はずや不破の関 楸邨
不破姓の由来
一説に、古代(古墳時代)青銅器の部族を渡来系の鉄器・鉄剣を持つ部族が戦力で青銅器部族を圧倒して打ち破った。奈良・倭国部族に属した鉄器・鉄剣を製造出来る「金山彦命」は「戦で破れない」の代名詞となり、後に「不破」の姓を賜った・・とある。金山彦命(一族)は後年「不破の関」の関守となり、不破郡関ケ原から垂井・大垣・安八・神戸・養老・墨俣にいたる広範囲を治める見野命(美濃領主)として、現在の岐阜県 西濃地域を領地としていた。鉄器は金生山・垂井・関が原・養老にかけて鉄鉱石を掘り出し、出雲・播磨・美作の「タタラ製鉄」に比肩する、倭の国(大和時代以前)の鉄器製造に当たった「渡来系」の人々が祖先と思われる。金山彦命は「金気一切を司る神」として倭の公権力より認知された金属精錬の神として、先の多くの神々を集積したものであろうか。青銅器以来の新しい「製鉄の神」として「金山彦命」の「神名・命」をあたえられたのではないか。この時代は文字の無い古墳時代後期ではないかと推測されるが、本当の時代は想像の域を出ない。
不破神社 / 大海人皇子の足跡
不破神社の祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)、木花佐久夜姫=(宮崎県宮崎市大字熊野に木花神社)に祭られています)ともいう。天神迩迩芸命(ニニギノミコト)はこの地で国神大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘、木花佐久夜姫(コノハナサクヤヒメ)をみそめられ結婚されたが、そのご懐妊について天神迩迩芸命からあらぬ疑いをかけられた。そこで姫はその疑いをはらし天神も御子である事を立証しようと、出産に当って戸の無い産屋を建てさせ粘土で塗りふさぎ火をかけて三皇子を次々にお産みになった。
その火の真盛りにお生まれになった御子は火照命(ホデリノミコト)、次の子は火須勢理命(ホスセリノミコト)、火が衰え鎮まる時に火遠理の命またの名を日子穂穂手見命(ヒコホホデノミコト)(この辺りは 日向神話(ひむか神話)神々の系図を参照下さい)が生まれ給うた。このご兄弟の神々は神話にある山幸彦(彦火々出見尊(山幸)(諱 櫨津気根:ウツキネ)、海幸彦で、弟の山幸彦(日子穂穂手見命)は、兄神の釣針を探しに海津国に行き、海神の娘豊玉姫を妃にして帰られた。
宇治拾遺物語にある「大海人皇子を救った墨俣の女」は、上宿の村社(不破神社)にお祀りしてある不破明神の化身であるといわれています。
大海人皇子は壬申の乱の折、長良川の辺で、娘に盥で助けられたとしても、この墨俣が大海人軍の戦力として協力した見野(美濃)の不破氏の領地であり、不破氏の一族の協力と戦功を称えて「不破神社」と名付けたのかも知れない。この木花咲耶姫命が何故墨俣・上宿の街道に「不破神社」として祭られたのか。
墨俣・上宿の不破神社の伝承によると、壬申の乱のおり、大海人皇子=「東宮大皇弟」の所領地が尾張・伊勢・桑名から安八評(ごおり=後の郷)後の美濃一帯の豪族が大海人皇子のために衆参し、味方した。大海人皇子が足が疲れて安八の湯に浸かり、気力回復して墨俣に差し掛かった折、大友皇子(弘文天皇=近江朝廷)は大海人皇子の軍に備えて長良川・木曽川の船を全て徴用して、軍備を固め、兵を集めていた。
まさに両軍が激突しようとしている折、川の辺で洗濯している娘があり、大海人皇子『渡河するために船借りたい』と申し出たところ娘は身分清らかにして、訳のある方と見破り
娘『このほど、朝廷の戦人が来て、反乱軍が船を使って、大津の都に攻め込むため、この辺りのすべて船をお目仕上げになりました。今にも御咎めの巡視が来るやも知れません。この盥を使って後ほど川をお渡りいただきますが、まずはこの盥(たらい)の中に身をお隠しあそばせ』と言上。
大海人皇子は川面に身を潜ませ盥を被る。娘はさり気無く、盥の裏底に洗濯物を積み重ね、盥の裏底を使って洗濯を続けていると、そこへ、近江朝廷方の軍勢が押し寄せ、
近江朝廷方の戦人『ここいらに怪しき謀反の輩が来なかったか』
娘『先ほどそれらしき人方々が船を捜しにが来られました。この辺りの村々には舟の無いことを申し上げたら、「仕方なし。信濃に援軍を求めに向かう」と申されて、急ぎ発たれました。今頃、信濃路に差し掛かっている頃でしょう』
戦人『うーむ、一刻もぐずぐずして居れぬ。速く大津へ御注進!!』
これを盥の中に身を潜ませて、そのやり取りをつぶさに聞いていた大海人皇子『危ういところを良く助けてくれた。この恩は忘れぬ。この辺りで味方の手勢を集めたいが、助けてはもらえないか』
と言ったところ、この見野の土地は東ノ宮(大海人皇子)が領主であったため、 娘はこの辺りの村々から兵士を集め、大海人皇子の軍に加勢かする2、3千人の兵が集まった。兵を集めてくれた礼を言うと、娘は『いえいえ』と言って笑顔で、何処へとは無く立ち去った。この兵を中核にして尾張、信濃からの加勢の兵を合わせて、大津の近江朝廷を打ち滅ぼした後、この川辺にいた「娘」のことを村人に尋ねたところ、誰もこの娘のことを知らず、村の古老にこの「娘」が「木花咲耶姫命の化身」であった・・・ということを聞き、この地に「不破神社」を建立したとの言い伝えがあります。
壬申の乱の折り、大海人皇子は 不破の関辺りに「不破宮」として仮の「宮」を建て、軍の本陣を置いていた。(この仮宮を置いたため、大海人軍が戦勝した折、一度は倭京で大負し、背走していた大伴吹負が軍勢を立て直し、當麻(たいま)の衢で大友皇子の近江軍の壱伎史韓国の軍と衝突。勇士・来目(くめ)らの功により近江軍を大破し、倭京を平定。諸将は不破宮に参向。この木花咲耶姫あたりは史実(日本書紀)と神話や説話(古事記や今昔物語後の宇治拾遺物語)が入り乱れ、話しの辻褄が合わない。「木花咲耶姫命の化身」と言う話しは如何にも突飛である。
むしろ、大海人皇子が不破の関あたり一帯で壬申の乱の折、大海人軍の戦力として協力した見野(美濃)の不破氏の戦功を称えて「不破神社」と名付けた・・・と言う方が理に適うかも知れない。
木花咲耶姫命と不破を結ぶ線は木花咲耶姫命が生んだとされる彦火火出見命[ホホデミノミコト] (彦火々出見尊(山幸)(諱 櫨津気根:ウツキネ)が、仲山金山彦神社[ナカヤマカナヤマヒコ]=南宮大社の祭神になっている以外に今のところ見当たらない。 
逢坂関 (おうさかのせき、あふさかのせき) 
山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、会坂関などとも書く。東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。
近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。
大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年12月3日(895年12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。
逢坂関は鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。しかし、貞治6年(1367年)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、侍所頭人の今川貞世によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・京都市山科区)とともに焼払われた。その後、逢坂関は再設されたが、寛正元年(1460年)に伊勢神宮造替のために大津に新関が設置された際には、大谷・逢坂の両関が一時廃されており、経済上の理由から室町幕府が園城寺の関を支配下に置こうとしたと考えられる。なおその後も逢坂関は存在し、応永25年(1418年)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。
文学への登場
逢坂関は歌枕としても知られ、百人一首でも二つの歌で詠まれている。
○ これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸(第十番)
○ 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(第六十二番)
また、枕草子の「関は」の段には「逢坂、須磨の関、鈴鹿の関」と記されている。
上方落語の伊勢参宮神乃賑(通称『東の旅』)では、当所の名物である『走り井餅』が絡む「走り餅」という噺がある。
逢坂山 (あふさかやま)
○ かつこえて別れも行くか逢坂は人だのめなる名にこそありけれ 貫之
○ 音羽山おとにききつつ逢坂の関のこなたに年をふるかな 元方
○ 相坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒 貫之
○ 別ゆく今日はまどひぬ相坂は帰来む日の名にこそ有けれ 貫之
○ 走り井のほどを知らばや相坂の関引き越ゆる夕かげの駒 元輔
○ 風寒くなりにし日より逢坂の関の岩井は水草ゐにけり 好忠
○ 行くかたをながめもやらんこの秋は逢坂山を露な隔てそ 源氏物語・榊
○ 逢坂の関やいかなる関なれば繁きなげきの中を分くらん 源氏物語・関屋
○ 逢坂の杉まの月のなかりせばいくきの駒といかでしらまし 匡房
○ 相坂の関の杉原下晴れて月のもるにぞまかせたりける 匡房
○ ときしもあれなきあふさかの杉が枝に山ほとゝぎす関かたむなり 俊頼
○ 夏くればゆきかふ人を逢坂の関は清水にまかせてぞ見る 俊頼
○ 音羽山もみち散るらし逢坂の関の小川に錦をりかく 俊頼
○ 望月の駒ひく時は逢坂の木の下やみも見えずぞありける 恵慶
○ わきて今日逢坂山の霞めるはたち遅れたる春や越ゆらん 西行
○ 逢坂の山ほととぎすなのるなり関守る神や空に問ふらむ 源師時
○ もみぢ葉を関守る神に手向けおきて逢坂山を過ぐるこがらし 藤原実守
○ 有明の月も清水にやどりけりこよひは越えじ逢坂の関 藤原範永
○ 逢坂の関には人もなかりけり岩間の水のもるにまかせて 祝部成仲
○ 逢坂の関の杉むら過がてにあくまでむすぶ山の井の水 式子内親王
○ 枝しげみ杉の木陰にきえやらで雪さへとまるあふさかのせき 定家
○ いまはとて鶯さそふ花の香にあふさかやまのまづかすむらむ 定家
○ しるしらぬ相坂山のかひもなし霞にすぐる関のよそめは 定家
○ 今よりのゆききも知らぬ逢坂にあはれなげきの関を据ゑつつ 定家
○ 君になほあふ坂山もかひぞなきすぎのふる葉に色し見えねば 定家
○ 山桜花のせきもるあふさかは行くもかへるもわかれかねつつ 定家
○ 逢坂の往来にたつる鳥のねの鳴く鳴くをしきあかつきぞなき 定家
○ 逢坂はかへりこむ日をたのみにて空行く月のせきもりぞなき 定家
○ 逢坂の杉のこかげに宿かりて関路にとまる去年の白雪 良経
○ しばしこそ小川の清水むすびつれ月もやどりぬ逢坂の関 良経
○ 逢坂の山こえはててながむればにほてる月はちさとなりけり 良経
○ 音羽山やまおろし吹くあふ坂の関の小川はこほりしにけり 実朝
○ 逢坂の関のやまみちこえわびぬきのふもけふも雪しつもれば 実朝
○ 名にしおはばいざたづねみん逢坂の関路に匂ふ花はありやと 実朝
○ たづね見るかひはまとに逢坂の山路に匂ふ花にぞありける 実朝
○ 逢坂のあらしの風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき 実朝
○ 逢坂の関のせきやの板廂まばらなれはや花のもるらん 実朝
○ 逢坂は関の跡なり花の雲 嵐雪
○ 春風や逢坂越る女講 一茶
○ よそにきく逢坂山ぞうらめしきわれは雲居のとほき隔てを 一葉
○ 春逝きし逢坂山の白き路きのふもけふもひたに乾ける 茂吉
○ ひるがへる萌黄わか葉や逝春のひかりかなしき逢坂を越ゆ 茂吉
○ 逢坂をわが越えくれば笹の葉も虎杖もしろく塵かむり居り 茂吉
○ あふさかの関の清水ははしり出の水さへもなし砂ぞかわける 茂吉
愛発関 (あらちのせき) 
近江国と越前国の国境に置かれた関所。東海道の鈴鹿関と東山道の不破関とともに三関の1つであった。詳細な位置は確定していないが、福井県敦賀市南部の山間部の北陸道沿いなどにあったと考えられている。候補としては、
1. 近江国からの山中越と深坂越が一つになった後に設置されたとの推定から敦賀市疋田にあった。
2. 敦賀平野への出入口である敦賀市道口にあった。
の2つが挙げられる。文書の記録や発掘調査、および近年の研究により現在では敦賀市疋田が有力とされる。
天智天皇の頃に近江宮を東国から防衛するために設けられたとされ、郡衙や軍団と同等以上の規模だったと考えられる。天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂が反乱を起こした際には、息子のいる越前国への逃走を防ぐために関が閉じられた。その後、延暦8年(789年)に廃され、弘仁元年(810年)の薬子の変では愛発関を閉じた記録はなく、代わって近江国の相坂関に連絡が行っており、この頃には完全に廃止されていたとされる。
愛発関と恵美押勝の乱
越前の愛発山に置かれた関である愛発関は、美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関と並んで、三関の1つとして最も重視された関です。関は主要な国境に置かれ、浮浪・逃亡という不法な交通を取り締まったり、治安の維持にあたりました。なかでも三関は最重要な関と位置づけられていたのです。それらは天皇の死去や乱のおこった時には閉じられ(これを固関という)、交通を制限し内乱の拡大を防止しました。愛発関がその威力を最も発揮したのが、奈良時代の764年(天平宝字8)9月におきた恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の時です。
淳仁天皇と親密で、当時正一位大師(太政大臣)という最高の地位にあった押勝ですが、天変地異が相次いでおこり社会不安が深まり、さらに孝謙太政天皇と結んだ僧道鏡がしだいに台頭し政権基盤がゆらいでくると、危機感をいだき、ついにクーデターをおこします。そして天皇の権力を象徴する駅鈴・内印を奪おうとしますが失敗し、近江をめざして都を離れました。政府はさっそく、三関を閉じる三関固守という措置を取りました。近江は古くから藤原氏との関係が深かった国です。ところが政府軍に先回りされ、勢多橋を焼かれたため、押勝は瀬田川の東にあった国府に行けなくなり、仕方なく湖西を越前に向けて北上することになったのです。当時、越前の国守は押勝の息子の辛加知でした。越前はにわかに緊張してきました。 しかし政府軍は再び先回りし、辛加知を殺し愛発関を押さえました。おそらく湖東を走ったのでしょう。そうとは知らずに愛発関に来た押勝軍は行く手を阻まれ、あわてて退却を余儀なくされます。再度体勢を立て直して愛発関をめざしますが、多くの犠牲を出し、さらに近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘でも敗れます。進退窮まった押勝は船で湖上に逃げますが、結局捕えられ高島町勝野の乙女ケ池のあたりで、妻子従者ともども斬首されました。わずか1週間の出来事でした。
愛発関は、今の敦賀市疋田を通る道筋にあったとみられていますが、若狭からのルートである同市の関峠にあったのではないかとの見解も出されています。今後の調査によっていずれ位置が確定する日がくるでしょうが、不破関などから復原できる当時の関の構造からすると、1つの道を押さえるだけでなく、複元の道に大関・小関が置かれるという複合的構造をしており、その全体を愛発関とよんでいたと考えた方がいいでしょう。 
 
 
近畿地方  
    西国札所巡り (西国観音巡礼・西国三十三ヶ寺札所巡り)
三重県 / 伊勢・志摩・伊賀

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

神風の伊勢の国は、常世の頻浪しきなみ寄す国。傍国かたくにの美うまし国
伊勢国
神武天皇の大和入りの後、天皇の命を受けた天日鷲あめのひわし命(天日別あめのひわけ命)が、伊勢の国を平定した。そのとき、伊勢国にゐた伊勢津彦い せ つ ひこは、強風をおこし、潮を吹き上げ、波に乗って東へ去ったといふ。天日鷲命は、宇治山田付近の村長の大国玉命の娘・弥豆佐々良みつささら姫を妻とした。これが度会わたらひ氏の祖先である。(風土記逸文)
伊勢津彦は信濃国水内郡へ遷ったともいふ。度会氏は豊受神宮(外宮)の禰宜である。
○ 片削かたそぎの千木ちぎは内外にかはれども 誓ひは同じ伊勢の神風 度会朝棟
右の歌は伊勢神宮の内宮と外宮の千木の片削の向きが異なることを詠んだもの。
伊勢神宮 / 伊勢市
○ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り 芭蕉
○ 神風の伊勢の浜荻折りふせて 旅寝やすらんあらき浜辺に 新古今集
○ 天照す月の光は神垣や ひくしめ縄の内外ともなし 玉葉集
○ 神風や二つの宮のみや柱 一つ心に世を守るらし 達智門院
伊勢詣り / 伊勢市
○ 春めくや人さまざまの伊勢まゐり荷けい
徳川時代には全国的に伊勢参りが盛んになった。中でもほぼ六十年に一度、数百万人が移動したといふ「お蔭参り」の年は、宿などの施しがあったお蔭で少ない費用で旅ができたといふ。関東東北では、犬の首に「伊勢参宮」と書いた袋を下げて初穂料を入れておくと、旅人たちの親切によって犬は伊勢まで歩き、神宮で袋におふだを入れてもらって故郷に帰ることができたといひ、「犬の伊勢参り」といはれた。
普通は、村の代表が村の費用で代参して「大神宮様」または「おはらひ」と呼ぶおふだを村の戸数ぶんだけいただいて帰った。組織的にも村祭の延長上の行事であり、村の鎮守社の前では、村に残った者が、代参者の旅の無事を毎日祈った。代表に選ばれた青年たちにとっては、参宮の旅は、村の成人儀礼を兼ねる場合もあった。諸国の一宮は必ず詣で、民衆の教養ともなっていった。
また伊勢からは御師と呼ばれる旅の神職が村々を訪れておふだを広めた。かうして大神宮様のおふだは、江戸時代から全国民くまなく行き届いてゐた。現在でも多くの国民が年末に鎮守社を通しておふだを受けてゐる。
伊勢音頭 / 伊勢市
○ 伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ 伊勢音頭
伊勢音頭に唄はれる「津」とは、港町としても栄えた伊勢市の港のことである(県庁所在地の津市のことではない)。伊勢音頭は、二十年に一度行はれる式年遷宮の御用材を運ぶときの木遣り唄から起こったといふ。それが古市などの花街での座敷唄になり、伊勢参りの道中唄にもなって、その曲や節は全国各地に持ち帰られ、諸国の民謡に影響を与へたといふ。
伊勢音頭の元歌は、伊勢の比丘尼びくにらが歌った「間あひの山節」だともいふ。間の山とは、外宮と内宮の間の尾部坂のことで、ここで女芸人が唄を唄ひ、三味線のばちで旅人の投げる銭を受けたといふ。お杉、お玉といふ女性の名が伝説化してゐる。
○ いにしへのお杉お玉が面影を うつせし女の二上(にあ)がり調子 東海道中膝栗毛
志摩国
太古に伊勢国と三河国の間の海に大きな島があり、志摩国といったが、島がほとんど海中に没したために、伊勢国の東を分割して志摩国としたとの伝説もある。
○ 旅ごころもろくなり来ぬ志摩の はて安乗の崎に燈の明り見ゆ 釈迢空
「御食みけつ国、志摩」といはれ、皇室や神宮に献じる海産物の産地とされた。
松阪の一夜 / 松阪市
本居宣長は伊勢松阪の木綿問屋に生まれたが、十一歳で父を亡くし、医学を志した。小児科を開業するかたはら、賀茂真淵らの歌学や国学にも親しんでゐた。宝歴十三年(1763)に、松阪の旅館に真淵を訪ねたことは、「松阪の一夜」として知られる。このとき既に万葉研究の業績をあげてゐた真淵は、宣長に古事記の研究を強くすすめた。以後三十五年をかけて『古事記伝』が完成される。古来の日本のこころを窮めようとした学問は、国学と呼ばれた。寛政二年に還暦を迎へた本居宣長の歌。
○ 敷島のやまと心を人問はば 朝日に匂ふ山さくら花 本居宣長
宣長は享和元年に没したが、前年に遺書をしたため、墓地は伊勢湾を東に望む山室山とし、葬式の細かなやりかたまで書き記してあったといふ。
○ 今よりははかなき世とは嘆かじよ 千代の棲家を求め得つれば 本居宣長
○ なきからは何処の土に成りぬとも 魂は翁のもとに往かなむ 平田篤胤
おほをそどり
雄烏を失った雌烏が、巣を捨てて他の雄と飛び回ってゐるうちに、卵を腐らせてしまふ。それを見てゐた伊勢の郡司は歌を詠んで出家する
○ 烏とふおほをそ鳥の心もて うつし人とは何名告るらむ
隼総別王と雌鳥王 / 一志郡美杉村川上 若宮八幡神社
仁徳天皇のころ、謀反の疑ひをかけられた隼総別はやぶさわけ王と雌鳥めとり王は、大和国宇陀郡の山を越えて伊勢をめざして逃亡した。
○ 梯立はしだての岨さかしき山も我が妹いもと 越えさり行かば安むしろかな 隼総別王
古事記では、二人は、宇陀郡の曽爾そに村で討たれたといふが、日本書紀では伊勢国一志郡に入って討たれたといひ、一志郡の伝承では雲出くもづ川の中流の瀬戸ヶ淵(白山町)といふところだといふ。この近くに夫婦窟といふ石を畳ねた窟があり、隼総別王と雌鳥王の墓ではないかと本居宣長はいふ。または、二人の首は、もつれ合ひながら雲出川を遡り、八知から柳瀬を経て、今の美杉村川上の地で拾はれて、若宮八幡に祀られたといふ。
若宮八幡神社は、雲出川の水源地に鎮座し、仁徳天皇と磐之媛いはのひめ皇后を主祭神とし、雨乞や武道、修験道などの信仰がある。歌人・国文学者の岡野弘彦は、ここの宮司家に生まれた。その著作で岡野家に伝はる正月の若水汲みの歌が紹介されてゐる。
○ 今朝汲む水は福くむ水くむ宝くむ 命長くの水をくむかな

天武天皇のころ、皇女の十市皇女が伊勢神宮へ参拝したとき、雲出川の下流の八太といふところ(一志町)で、従者が詠んだ歌。
○ 川上の湯津岩群ゆついはむらに草むさず 常にもがもな常乙女にて 吹黄刀自
藤原千方の反乱 / 一志郡
天智天皇の御代に、伊賀・伊勢の二国で、藤原千方ちかたが反乱軍を起した。千方は、金鬼、風鬼、水鬼、蔭形といふ四鬼(四人の怪人)を配下に、都などでも変幻出没を繰返し、朝廷も手をこまねいてゐた。そこで紀友雄が勅命を戴いて当地に赴いた。
友雄は、和歌を書いた紙を矢につけて射たといふ。
○ 土も木も我が大王の国なるを いづくか鬼のすみかなるらん 紀友雄
すると四鬼はこれを読んで、己が住むべき国ではないと、たちまち本物の鬼に化生して、奈落に落ちたといふ。その穴の跡は今も四つ残ってゐて、四つとも風が吹き抜け、どこかでつながってゐるらしい。今の名賀郡青山町付近だといふ。
首謀者の藤原千方は、家城いへき(白山町)付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしてゐるところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ。千方は首を切られ、その首は川を遡って、川上の若宮社(前出)の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたといふ。
この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関はる行事も多いといふ。
阿漕が浦 / 津市
阿漕あこぎヶ浦は、津市の東方の海をいふ。この海は伊勢神宮の神に供へる魚をとる場所なので、一般民には禁漁とされた。昔、ある漁夫が、この禁を破って魚を獲った。味をしめてか、たびたびの密漁を行ったので、遂には人に知られることになり、漁夫は捕らへられたといふ。
○ 逢ふことを阿漕の島に曳く鯛の たびかさならば人も知りなん 古今和歌六帖
○ 伊勢の海阿漕が浦に引く網も たびかさなれば人もこそ知れ 源平盛衰記
また、阿漕の平太といふ漁師が、母の難病にきくといふ魚をこの海で取ったために、殺されたといふ浄瑠璃の話もある。「阿漕」といふ言葉は、憐れさを離れて今はしつこく貪欲なことをいふやうになった。
鈴鹿山 / 鈴鹿郡
近江から伊勢に抜ける鈴鹿山は、平安初期には、逢坂、不破とならぶ三関の一つとされた。難所と知られ、たびたび山賊が出没し、坂上田村麿の山賊退治の伝説もある。
○ 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて いかになりゆく我が身なるらむ 西行
○ 坂は照る照る鈴鹿は曇る あひの土山雨が降る 鈴鹿馬子唄
鈴鹿郡関町は、古代の鈴鹿関のあった地で、東海道の宿場町としても栄えた。参宮街道へも通じてゐた。関町の深川屋の「関の戸」といふ菓子を詠んだ歌がある。
○ ふりし名をここにとどめて鈴鹿山 世に音高き関の戸の餅 加茂秀鷹
尾津の一つ松 / 桑名郡多度町
日本武尊が東征に出たとき、尾津崎の松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけてそのまま置き忘れて出発した。帰還のとき、再びこの地に立寄ると、松の木にかけた剣が、そのままあるのを御覧になって、感じ入って歌を詠んだ(古事記)。
○ 尾張に直ただに向へる 尾津の前なる一つ松 吾兄あせを
 一つ松人に在りせば 太刀佩はけましを衣着せましを 一つ松 吾兄を 日本武尊
尾津をつとは、桑名郡多度町戸津の地とされ、尾津神社がまつられてゐる。歌に「尾張に直に向へる」とあるやうに、ここの東には伊勢湾が入り込み、その入江の対岸が尾張の熱田であった。江戸時代でも東海道の桑名・熱田の間は船で渡った。
日本武尊の終焉地となった能煩野のぼのとは、鈴鹿川の北の広い範囲をいふ。終焉の地の候補地は複数あるやうだ。亀山市能褒野町(能褒野神社)、鈴鹿郡鈴峰村(建備神社)、鈴鹿市石薬師町等。
○ はしけやしわぎへの方ゆ雲居立ち来も 日本武尊
猪田神社 / 上野市猪田
猪田ゐた神社は、伊賀国造の武伊賀津別たけい が つ わけ命をまつる。
社殿の東方にある真名井は、垂仁天皇の皇女・倭姫命が、伊勢神宮の鎮座すべき地を求めて、天照大神を奉じて神戸の穴穂の宮に滞在されたときに掘られた深い井戸で、「天の長井」ともいふ。この水を浴びれば諸病に効能ありといふ。
○ すむ鶏かけはここもいがとの神風や 伊勢より通ふ天乃真名井田 度会家行
○ 久かたの天の長井田くむ賎しづが 袖のつるべの縄のみぢかさ 西行法師
射手神社 / 上野市長田
射手いて神社は猿田彦神をまつる。天武天皇の瑞夢により、射手山(島原駅の南)に創祀されたのが始りといふ。出家してまもない西行法師が伊勢に住んでゐたころの歌。
○ あづさ弓引きし袂もちからなく 射手の社に墨染の袖 西行法師
芭蕉 / 上野市
松尾芭蕉は今の上野市赤坂町に生まれた。父は阿山郡柘植郷(伊賀町)の人といふ。
○ 古里や臍の緒に泣く年の暮れ 芭蕉
○ 山里は万歳遅し梅の花 芭蕉
同郷の弟子の服部土芳の新しい庵を訪れて、芭蕉が詠んだ句。
○ みの虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉
服部は、右の師の句から蓑虫庵と名づけ、土芳と名告ったといふ。
○ さを鹿のかさなり臥せる枯野かな 土芳
土芳は服部家に養子に入ったのだが、服部氏とは、阿拝郡服部郷に興った氏族で、服部半蔵などとも無関係ではないのだらう。柘植を名告る忍者も多い。
○ 限りなく思ふ心をつげの山 やまくちをこそたのむべらなれ 松葉集
名賀郡 名張市ほか
名賀郡青山町には四鬼の伝説がある(前掲、藤原千方の反乱)。青山町阿保あぼは、大和の初瀬街道から参宮街道へ続く要地で、近世の宿場町として栄えた。
江戸川乱歩は名張市新町の出身。
○ うつし世は夢よるの夢こそまこと 江戸川乱歩
種まき権兵衛 / 北牟婁郡
旧紀伊国北牟婁郡の上村権兵衛は鉄砲の名人で、畑ももってゐたが、おもに山で狩りをして暮しを立ててゐた。あまり畑に出ないものだから、子どもの歌に歌はれた。
○ 権兵衛が種まきゃ烏がほじくり……
そのころ天倉山に大蛇が住み、村の畑や家畜を荒らした。権兵衛は村のために鉄砲をもって山に入った。権兵衛の笛の音に誘はれて大蛇が現はれると、権兵衛は蛇ののどもとに二発三発と鉄砲を撃ち、大蛇は息絶えた。権兵衛はこのとき蛇の毒気にあてられたのがもとで、病気になり、元文元年(1736)に大往生をとげたといふ。 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

伊勢1 / 国名。現在の三重県のほほすべてを占める。伊勢神宮がある。
おなじこころを、伊勢の二見といふ所にて
○ 波こすとふたみの松の見えつるは梢にかかる霞なりけり
伊勢のにしふく山と申す所に侍りけるに、庵の梅かうばしくにほひけるを
○ 柴の庵によるよる梅の匂い来てやさしき方もあるすまひかな
伊勢にまかりたりけるに、みつと申す所にて、海邊の春の暮といふことを、神主どもよみけるに
○ 過ぐる春潮のみつより船出して波の花をやさきにたつらむ
伊勢にて、菩提山上人、對月述懐し侍りしに
○ めぐりあはで雲のよそにはなりぬとも月になり行くむつび忘るな
○ 伊勢嶋や月の光のさひが浦は明石には似ぬかげぞすみける
新宮より伊勢の方へまかりけるに、みきしまに、舟のさたしける浦人の、黒き髪は一すぢもなかりけるを呼びよせて
○ 年へたる浦のあま人こととはむ波をかづきて幾世過ぎにき
世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
○ 鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになり行く我身なるらむ
高野山を住みうかれてのち、伊勢國二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、よみ侍りける
○ ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
伊勢にまかりたりけるに、太神宮にまゐりてよみける
○ 榊葉に心をかけんゆふしでて思へば神も佛なりけり
○ 宮ばしらしたつ岩ねにしきたててつゆもくもらぬ日の御影かな
伊勢の月よみの社に參りて、月を見てよめる
○ さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月よみの森
修行して伊勢にまかりたりけるに、月の頃都思ひ出でられてよみける
○ 都にも旅なる月の影をこそおなじ雲井の空に見るらめ
伊勢のいそのへちのにしきの嶋に、いそわの紅葉のちりけるを
○ 浪にしく紅葉の色をあらふゆゑに錦の嶋といふにやあるらむ
伊勢のたふしと申す嶋には、小石の白のかぎり侍る濱にて、黒は一つもまじらず、むかひて、すが嶋と申すは、黒かぎり侍るなり
○ すが島やたふしの小石(こいし)わけかへて黒白まぜよ浦の濱風
○ さぎじまのごいしの白をたか浪のたふしの濱に打寄せてける
○ からすざきの濱のこいしと思ふかな白もまじらぬすが嶋の黒
○ あはせばやさぎを烏と碁をうたばたふしすがしま黒白の濱
伊勢の二見の浦に、さるやうなる女(め)の童どものあつまりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに
○ 今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
○ 塩風にいせの濱荻ふせばまづ穗ずゑに波のあらたむるかな
伊勢より、小貝を拾ひて、箱に入れてつつみこめて、皇太后宮大夫の局へ遣すとて、かきつけ侍りける
○ 浦島がこは何ものと人問はばあけてかひある箱とこたへよ
○ 福原へ都うつりありときこえし頃、伊勢にて月の歌よみ侍りしに
○ 雲の上やふるき都になりにけりすむらむ月の影はかはらで
伊勢に斎王おはしまさで年經にけり。斎宮、立木ばかりさかと見えて、つい垣もなきやうになりたりけるをみて
○ いつか又いつきの宮のいつかれてしめのみうちに塵を払はむ
海上明月を伊勢にてよみけるに
○ 月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして
五條三位入道のもとへ、伊勢より濱木綿遣しけるに
○ はまゆふに君がちとせの重なればよに絶ゆまじき和歌の浦波
伊勢にて~主氏良がもとより、二月十五の夜くもりたりければ申しおくりける         
○ こよひしも月のかくるるうき雲やむかしの空のけぶりなるらむ (氏良)
伊勢に人のまうで來て、「かかる連歌こそ、兵衞殿の局せられたりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」と語りけるを聞きて
こころきるてなる氷のかげのみか
伊勢にて
○ 波とみる花のしづ枝のいはまくら瀧の宮にやおとよどむらむ  
伊勢国2 (いせのくに)
阿漕浦(あこぎのうら) 三重県津市阿漕町の海岸。
○ 伊勢の海阿漕が浦に引く網もたび重なれば人もこそ知れ(源平盛衰記)
五十鈴川(いすずがは) 伊勢神宮の内宮宮域を流れ、二見が浦に注ぐ。
○ 君が代は久しかるべしわたらひや五十鈴の川の流れ絶えせで(大江匡房 新古今)
伊勢(いせ) 旧国名。
○ 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに(大伯皇女 万葉集)
一志浦(いちしのうら) 三重県一志郡の雲出・三渡川河口付近。
○ 伊勢島や一志の浦の海人をとめ春を迎へて袖やほすらん(後鳥羽院)
麻生浦(おふのうら) 未詳。大淀の浦と同一とする説もある。
○ おふの浦に片枝さし覆ひなる梨のなりもならずも寝て語らはん(古今)
大淀(おほよど) 三重県多気郡明和町あたり。
○ 大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへる波かな(伊勢物語)
小野の古江 不詳。大淀と同じ場所する説がある。
○ 伊勢の海のをののふるえに朽ちはてで都のかたへ帰れとぞ思ふ(源俊頼 金葉)
神路山(かみぢやま) 伊勢神宮南方の山。
○ 神路山月さやかなる誓ひありて天の下をば照らすなりけり(西行 新古今)
鈴鹿山(すずかやま) 国道一号線鈴鹿トンネル付近一帯の山。
○ 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらん(斎宮女御 拾遺)
鈴鹿川(すずかがは) 鈴鹿峠から伊勢湾に注ぐ。
○ ふりすててけふは行くとも鈴鹿川やそ瀬の波に袖はぬれじや(源氏物語)
月読(つきよみ) 伊勢神宮の別宮月読宮をさす。
○ さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月読の森(西行 新古今)
長浜(ながはま) 未詳。
○ 君が代はかぎりもあらじ長浜の真砂の数はよみ尽くすとも(古今)
涙川(なみだがは) 松阪市内を流れ、一志の浦に注ぐ。
○ 涙川船出やせまし伊勢の海の三河へ渡る湊たづねて(大中臣輔親)
二見浦(ふたみのうら) 三重県度会郡二見町。
○ ます鏡二見の浦にみがかれて神風きよき夏の夜の月(定家)
御裳濯川(みもすそがは) 五十鈴川に同じ。
○ 君が代は尽きじとぞ思ふ神風や御裳濯川のすまんかぎりは(源経信 後拾遺)
宮川(みやがは) 大台ヶ原山より伊勢湾に注ぐ。
○ 宮川の春たつ空の初風にうちいづる波の花や散るらん(後鳥羽院)
山田原(やまだのはら) 伊勢神宮外宮の鎮座地一帯。
○ 聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立ち(西行 新古今) 
みもすそ川 / 伊勢市内を流れる川。神宮の神域を流れる清流。
五十鈴川 / 御裳濯川の別名。
御裳濯川のほとりにて
○ 岩戸あけしあまつみことのそのかみに櫻を誰か植ゑ始めけむ
みもすそニ首
○ 初春をくまなく照らす影を見て月にまづ知るみもすその岸
○ みもすその岸の岩根によをこめてかためたてたる宮柱かな
公卿勅使に通親の宰相のたたれけるを、五十鈴の畔にてみてよみける
○ いかばかり凉しかるらむつかへきて御裳濯河をわたるこころは
○ 流れたえぬ波にや世をばをさむらむ~風すずしみもすその岸
御裳濯川歌合の表紙に書きて俊成に遣したる
○ 藤浪をみもすそ川にせきいれて百枝の松にかかれとぞ思ふ
返事に歌合の奧に書きつけける       
○ ふぢ浪もみもすそ川のすゑなれば下枝もかけよ松の百枝に (俊成)
神路山 / 伊勢神宮のある山。
高野山を住みうかれてのち、伊勢國二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、よみ侍りける
○ ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
神路山にて
○ 神路山月さやかなる誓ひありて天の下をばてらすなりけり
○ ~路山松のこずゑにかかる藤の花のさかえを思ひこそやれ (定家)
○ かみじ山君がこころの色を見む下葉の藤の花しひらけば
○ ~路山みしめにこもる花ざかりこらいかばかり嬉しかるらむ
○ ~路山岩ねのつつじ咲きにけりこらがまそでの色にふりつつ
二見・ふたみ / 三重県伊勢にある町。古くから有名。
おなじこころを、伊勢の二見といふ所にて
○ 波こすとふたみの松の見えつるは梢にかかる霞なりけり
高野山を住みうかれてのち、伊勢國二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、よみ侍りける
○ ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
伊勢の二見の浦に、さるやうなる女(め)の童どものあつまりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに
○ 今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
○ 箱根山こずゑもまだや冬ならむ二見は松のゆきのむらぎえ
○ 月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして
立石崎 / 二見浦の夫婦岩のこと。夫婦岩を立石という。
○ 逆艫おす立石崎の白波はあしきしほにもかかりけるかな
宮川 / 大台ケ原を源流として伊勢湾に注ぐ川。
○ ながれいでて御跡たれますみづ垣は宮川よりのわたらひのしめ
宮川歌合と申して、判の詞しるしつくべきよし申し侍りけるを書きて遣すとて
○ 山水の深かれとてもかきやらず君がちぎりを結ぶばかりぞ (定家)
宮川歌合の奧に
○ 君はまづうき世の夢のさめずとも思ひあはせむ後の春秋 (定家)
鈴鹿 / 三重県北部にある地名。
世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
○ 鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになり行く我身なるらむ
○ ふりず名を鈴鹿になるる山賊は聞えたかきもとりどころかな
山田の原 / 伊勢神宮外宮近くの地名。
○ よろづ代を山田の原のあや杉に風しきたててこゑよばふなり
桜の宮 / 朝熊山山腹にある朝熊神社の摂社。
○ 神風に心やすくぞまかせつる桜の宮の花のさかりを
風の宮 / 伊勢神宮内宮の中の一宮。
○ この春は花を惜しまでよそならむこころを風の宮にまかせて
麻生の浦 / 伊勢の歌枕ですが場所は不詳のようです。三重県多気郡にある大淀海岸あたりとも、鳥羽市浦村町にあると麻生の浦とも言われ
○ 心やる山なしと見る麻生の浦はかすみばかりぞめにかかりける
内宮 / 伊勢神宮の内宮。宇治は近くの地名
内宮のかたはらなる山陰に、庵むすびて侍りける頃
○ ここも又都のたつみしかぞすむ山こそかはれ名は宇治の里
あひの中山 / 不明。伊勢市宇治の近くにあるという。ほかにも駿府などにある。
○ 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
いせじま / この歌の(いせじま)は九州にあると解釈できます。
○ いせじまやいるるつきてすまうなみにけことおぼゆるいりとりのあま
その他の伊勢の歌
○ 黒髪は過ぐると見えし白波をかづきはてたる身には知るあま
○ 宮はしらしたつ岩ねにしきたててつゆもくもらぬ日の御影かな
○ 神風にしきまくしでのなびくかな千木高知りてとりをさむべし
○ 宮はしらしたつ岩ねにしきたててつゆもくもらぬ日の御影かな
○ 千木高く神ろぎの宮ふきてけり杉のもと木をいけはぎにして
○ 世の中をあめのみかげのうちになせあらしほあみて八百合の神
○ いまもされむかしのことを問ひてまし豊葦原の岩根このたち
○ 神人が燎火すすむるみかげにはまさきのかづらくりかへせとや
○ 朝日さすかしまの杉にゆふかけてくもらず照らせ世をうみの宮
伊勢で詠んだ歌
八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふにぞとて、泣き給ひけると聞きて
○ 夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし 
○ 遠く修行しけるに人々まうで來て餞しけるによみ侍りける
○ 頼めおかむ君も心やなぐさむと歸らむことはいつとなくとも
返し二首 後日に送る
○ 和歌の浦に汐木かさぬる契りをばかけるたくもの跡にてぞみる
○ さとり得て心の花しひらけなばたづねぬさきに色ぞそむべき
○ 結び流す末をこころにたたふれば深く見ゆるを山がはの水
○ 春秋を君おもひ出ば我はまた月と花とをながめおこさむ
伊勢国号 その一
伊勢國風土記云 夫伊勢國者 天御中主尊之十二世孫 天日別命之所平治天日別命 神倭磐余彦天皇 自彼西宮 征此東州之時 隨天皇到紀伊國熊野村 于時 隨金烏之導  入中州而 到於菟田下縣 天皇勅大部日臣命曰 逆黨膽駒長髓 宜早征罰 且勅天日別命曰 國有天津之方 宜平其國 即賜標劒 天日別命 奉勅 東入數百里 其邑有神名曰伊勢津彦  天日別命問曰 汝國獻於天孫哉 答曰 吾覓此國 居住日久 不敢聞命矣 天日別命 發兵欲戮其神 于時 畏伏啓云 吾國悉獻於天孫 吾敢不居矣 天日別命問云 汝之去時  何以爲驗 啓曰 吾以今夜起八風吹海水 乘波浪將東入 此則吾之却由也 天日別命整兵窺之 比及中夜 大風四起 扇擧波瀾 光耀如日 陸海共朗 遂乘波而東焉 古語云神風伊勢國  常世浪寄國者 蓋此謂之也(伊勢津彦神 近|令住信濃國)天日別命  懷柔此國 復命天皇 々々大歡詔曰 國宜取國神之名 號伊勢 即爲天日別命之封地國 賜宅地于大倭耳梨之村焉(或本曰  天日別命奉|詔 自熊野村直●●入伊勢國 殺戮荒神 罰平不遵 堺|山川定地邑 然後 復命橿原宮焉)(萬葉集註釋卷第一)
神武天皇の命により天日別命が伊勢津彦を伊勢から退去させたという話です。伊勢津彦は大風を起して波を立てて東に去ったといいます。
「光耀如日」という部分を見ると伊勢津彦が伊勢地方の原初的な太陽神であった可能性があります。その後信濃に住んでいるという説も紹介されていますが、伊勢津彦が信濃にいるというのも奇妙ではあります。タケミナカタはどこへ行ったのか?本居宣長はこの伝承が「国譲り」のタケミナカタ逃走譚と類似している、風神的な性格がうかがえる、としてタケミナカタと同一視しています。
古代においては信濃国自体が反中央勢力であるという認識があったのかもしれません。ヤマトタケルも信濃でやられましたし。
『辞典』によると『播磨風土記』揖保郡伊勢野の地名由来も「伊勢津比古・伊勢津比売」二神の名前からとったといいます。大国主と同一視されることがある伊和大神の子とされていることから、出雲系の神という説があります。また『旧事本紀』などでは武蔵国造の祖とされています。
現状の研究水準から考えるに、「出雲系」というのはそういう神々の範疇が古代社会にあったというよりも、各地の土着神を出雲の神々の系譜にまとめたものととらえるべきだと思います。「抵抗勢力として想定された集団」といってもいいかもしれません。やはり伊勢地方の土着神という理解で問題ないでしょう。
しかしその太陽神的な性格を持った伊勢津彦を追い出したのが天日別というこれまた太陽と関係ありそうな神であるというのはなかなかに興味深いです。
天日別は斎部の祖である天日鷲と同一視されることもあるようですが、この辺議論があるようです。名前も非常に似ていますが、手元に資料がないので何とも言えません。
『伊勢国風土記』逸文には幾つか登場する名前で外宮の祭司家渡会氏の祖神ともされています。しかし記紀ではヒットしません。ということはこの神も実は在地性の高い神格である可能性があります。
「ワケ」の名称について。皇子の中で特に地方に領土を持ったものをいう称号であるという。しかしワケの名を持つ天皇も六人いるらしい。景行天皇や応神天皇など。また「ワケ」という名称の神を祀っている神社は東海道・東山道に多いらしい。継承権のない皇子で将軍として各地を制圧し領地を得た者が「ワケ」名称を持っているということを前面に出しています。天日別にもそういう面はあります。伊勢に領土を得たわけではありませんが、「賜宅地于大倭耳梨之村焉」とある。しかし耳成山付近にこの神の伝承が伝わっているのかどうかは不明です。
これ以後あくまで私の推測ですが、「ワケ」というのは「別」「分」であり、区別するという意味があるのではないでしょうか?そして「日を区別する」というのは「日知り」に通じるのではないかと。一方で伊勢の地が土着の太陽神である伊勢津彦から皇祖神天照に移行する、その区別を行った神であることを表した神名のようにも思います。
「ワケ」名称に関する研究資料が手元にないので肝心のところで推測になってしまいますが、「ワケ」神たちの神社が東国に多いのは、天皇勢力の最前線を記す存在だった可能性もあるのではないかと思います。まさに「区別をつける神々」ということで。 
伊勢国号 その二
伊勢
伊勢の國の風土記に云(い)はく、伊勢と云(い)ふは、伊賀(いが)の安志(あなし)の社(やしろ)に坐(いま)す神、出雲(いづも)の神の子、出雲建子命(いづもたけこのみこと)、又(また)の名は伊勢都彦命(いせつひこのみこと)、又(また)の名は櫛玉命(くしたまのみこと)なり。此の神、昔、石もて城(き)を造りて此(ここ)に坐(いま)しき。ここに、阿倍志彦(あへしひこ)の神、來奪(きうば)ひけれど、勝(か)たずして還(かへ)り却(さ)りき。因(よ)りて名と爲(な)す。
伊勢という地名の起源は伊勢津彦にある。それはこの伝承でも同じなのですが、伊勢津彦について説明が詳しくなっています。
伊勢津彦が伊賀の社にいるというのは、伊賀が元は伊勢国の一部だったからだと思います。「安志社」というのは式内社「伊賀国穴石神社」、現「都美恵神社」と同定されているようですが、現在の祭神は伊勢津彦ではありません。「出雲民族が移住してきた」みないな解説もあるようですが、上の伝承に依拠した推定のようです。
伊勢津彦は「出雲の神の子」であり、「出雲建子命」「櫛玉命」という別名があると書かれています。
王権に対立する地方勢力の神々が「出雲」に結び付けられる。そういう仮説が妥当であるならば、伊勢津彦もまさしくその一例だと言えるでしょう。
別名として挙げられている「出雲建子」はヤマトタケルと対立した「出雲建」を早期させますし、「櫛玉命」の「櫛玉」は神武東征以前に大和に天下っていたという「饒速日命」の名に冠させることもあります。
「阿倍志彦の神」については伊賀一宮「敢国神社」と関係があるのではないかと言われているようです。
この敢国神社の祭神は「大彦命」。阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖とされている人物です。「阿部」と関係があるという意味では、この同定もありえるでしょう。諏訪との関係もあるようでなかなか興味深い神社です。甲賀三郎とか。
私が気になるのは、ここでもやはり「外来・在地」の戦いが語られていることです。まずそもそも伊勢津彦が外来のようです。そこへ阿部志彦が攻めてきたけれども、勝てずに去ったとされています。「だから神の名から国名をつけた」、つまり伊勢津彦が占有を確定したのでその名をとったという話です。
「天皇王権が各地を征服するに当って、在地の神と争う伝承が語られる。」これは比較的わかりやすいのですが、
「その在地の神も他の神と土地を争っていた」という伝承も各神社の社伝などには結構あるのかもしれません。諏訪明神とモリヤ神などもそうです。
これはどちらが古いのか?内容のつじつまを考えると「在地神の占有確定→天皇王権勢力への交代」となりますが果して本当にそうなのでしょうか?
「外来王」「外来神」的発想が古代地方共同体の時代からずっとあったのか?それとも天皇王権(=外来王)の伸張から遡って考えられたから生じた伝承なのか?客観的に見ていく必要がありそうです。
その上、各地神社の神々は神仏習合期には仏の垂迹と考えられたり、護法神化していくわけですから、この「外来・在地」の対立と融和、交代の伝承というのは古代からずっと続いている傾向なのかもしれません。 
瀧原神宮
伊勢(いせ)の國の風土記に曰(い)はく、倭姫命(やまとひめのみこと)、船に乘りて度會(わたらひ)の上河(かみつかは)に上(のぼ)りまして、瀧原(たきはら)の神の宮を定(さだ)めたまひき。
瀧原宮は三重県度会郡大紀町に現存する神社で、「御船代」というご神体を入れる特殊なものが存在しているとの事。杉の巨木が多く生育する地域との事で、「巨木と船」という古代樹木信仰との関連を想像させます。また瀧原宮には「瀧原宮」と「瀧原並宮」の二つがあるそうですが、何が違うのか良くわかりません。
真奈胡神(まなごかみ)という神がヤマトヒメを出迎えたという伝承もあるようで、地主神的な性格があるのかもしれません。
『倭姫命世記』によると、ヤマトヒメは一度この地をアマテラスの神宮として、それから更に現在の伊勢神宮の位置に移ったとの事。つまり元伊勢でもあるわけですが、「別宮」とも言われています。祭神は天照大御神御魂で、「瀧原宮」には「和御魂」、「瀧原並宮」には「荒御魂」が祭祀されているそうです。
『辞典』「太陽神話」の項目は松前健先生がまとめたんじゃないかと思っていますが、そこには福岡県浮羽郡珍敷塚古墳壁画の「太陽の船」の絵も載せられています。「太陽の船」の発想は東南アジア・オセアニア・ユーラシア大陸南岸沿いに分布し海洋民族的な信仰文化の産物であるとしています。
上記「御船代」にも言及していますが、その他ヒルコ・蚕の神の金色姫・大隈正八幡宮の大比留女・照天姫など太陽神的性格を持った物がうつぼ舟で流される話も日の神を船で送迎する儀礼から出たものだろうと指摘しています。古代海部の信仰か、とも。
プユマ族の神話などを見るに、「うつぼ舟」の伝承が必ず太陽信仰と結びついていると考えるのは避けた方が良いような気もしますが、「女性」が流されることが多い点は注目に値すると思います。 
八尋機殿・服機社・麻績郷
八尋機殿・建郡
風土記に云(い)はく、機殿(はたどの)を八尋(やひろ)と號(なづ)くるは、倭姫命(やまとひめのみこと)、太神(おほかみ)を齋(いつ)き奉(まつ)りし日、作(つく)り立(た)てしなり。此の神の邑(むら)を又、郷(さと)に號(なづ)く。大同本紀(だいどうほんぎ)に載(の)せて具(つぶさ)なり。又曰(い)はく、難波(なには)の長柄(ながら)の豐碕(とよさき)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)の丙午(ひのえうま)のとし、竹連(たけのむらじ)・磯=部直(いそ=べのあたひ)の二氏(ふたうぢ)、此の郡(こほり)を建(た)てき。
服機社
神服機殿(かむはとりどの)。倭姫命(やまとひめのみこと)、飯野(いひの)の高丘(たかをか)の宮に入りまし、機屋(はたや)を作(つく)りて大神の御衣(みぞ)を織(お)らしめたまひき。高丘(たかをか)の宮より磯(いそ)の宮に入りまし、因(よ)りて社(やしろ)を其の地(ところ)に立てて、名づけて服織(はとり)の社(やしろ)と曰(い)ふ。(倭姫命世記裏書)
麻績郷
麻績(をみ)の郷(さと)と號(なづ)くるは、郡(こほり)の北に神あり。此の神、大神の宮に荒妙(あらたへ)の衣(みぞ)を奉(たてまつ)る。神麻績(かむを=み)の氏人等(うぢびとたち)、此の村に別(わか)れ居(を)りき。因(よ)りて名と爲(な)す。(倭姫命世記裏書)
全てヤマトヒメによる機織の記事です。それ自体は神の衣を織る神女の祭祀ということで、古代日本では普通に行われたものでしょう。
もちろん「神の衣を織る」ことが祭祀として一般的であるかどうかはやはり考える必要があります。折口の「水の女=タナバタツメ」論の影響力はかなりのものがあると思いますので。
台湾原住民の服装は信仰に関わるモチーフを服に織り込むことは一般的ですが、「神の為に服を作る」「祭祀で神衣を用いる」というのは一般的ではないように思います。少なくとも私が見た祭などで衣がわかるようにおかれているというのはなかったような気がします。『慣習調査』パイワン族篇によると五年祭においては糸を通した針を祭具として用いるようですが、それは女性の祖霊に対するもので、男性祖霊に模造の弓矢などを供えることと対になっています。沖縄の来訪神などは葉っぱずくめですし、神をどこまで人間的にとらえるか?という問題なのかもしれません。
或は「服を作る」という作業自体の本質とは何か、ということでしょうか?服を着ることは神話的に見て、人間が自然の状態から文化の状態へ移行することです。ということは「神が服を着る」ことも元来荒ぶる性格を持つ自然神を人間的な神へと祀り和めようという意味があるのかもしれません。
『倭姫命世記』
「『倭姫命世記』では垂仁天皇25年(紀元前5年)、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。倭姫命は翌垂仁天皇26年(紀元前4年)、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。」
機殿神社の項目に載っているものですが、別名を含めて神衣を織る神社の名がたくさん書いてあってわかりにくい。しかし場所を考えると麻積と飯野高丘の二つのみたいです。
前者は現在の神麻続機殿神社、後者は神服織機殿神社、ということでいいのでしょうか?位置が変っている可能性はあります。「両機殿」とも言われるようで、「御衣奉織行事」通称「おんぞさん」と呼ばれる行事が毎年5月と10月に行われるそうです。前者が「和妙」という絹織物を作り、後者は「荒妙」という麻織物を作っているそうです。
この神事、詳しいことは調べてみないとわかりませんが、「素材の違う二種類の衣を神に捧げる」というのは興味深いです。
「和妙」と「荒妙」は「和御魂」と「荒御魂」に対応するものと考えていいでしょう。
織手の性別は「和」が女性で「荒」は男性、ということですが「和」の方は男性から女性になったりもしていてよくわかりません。しかし『倭姫命世記』によると「和妙」天棚機姫神の孫の八千々姫命がはじめて織り上げたそうです。ヤマトヒメ自身が織ったわけではないのです。
このアマテラスにまつわる「和」と「荒」の区別は構造分析における「文化」と「自然」と似通った感じもします。ただ当て嵌めにこだわりすぎると大きな間違いを起こす可能性があるので気をつける必要がありそうです。
確かに、絹の「和妙」と麻の「荒妙」では絹の方が文化的なレベルが高いような気もしますが、製造過程で自然の影響を受けやすいのは実は絹の方でしょう。蚕頼りですし。
また「和」は女性が織り、「荒」は男性が織るということならば、一般的な構造分析で言うところの「男は文化で、女性は自然」とは異なっているといえます。まあ「一般的な構造分析」というのも怪しいものですから、そこは日本独自の構造を探るべきだと思います。また高度に複雑化・専門化した神社祭祀においては、一般的な男女の職掌観ほど単純ではないのかもしれません。 
渡会郡
風土記曰 夫所以號度會郡者 畝傍樫原宮御宇神倭磐余彦天皇 詔天日別命 覓國之時 度會賀利佐嶺 火氣發起 天日別命 視云此小佐居加毛使遣令見 使者還來申曰  在大國玉神 賀利佐到于時 大國玉神 遣使奉迎天日別命 因令造其橋 不堪造畢于時到 令以梓弓爲橋而度焉 爰大國玉神 資彌豆佐々良姫命參來 迎相土橋郷岡本邑 天日別命觀地出之  參會曰 刀自爾度會焉 因以爲名也¥B(倭姫命世記裏書)
神武天皇は天日別命を派遣し国を探していた。天日別は度会の山に煙が立っているのを見て、使いを出すと大国玉神がいることがわかった。大国玉神は天日別を迎えようと橋を作らせたが、その端ができる前に天日別が来てしまったので、梓弓を橋とした。大国玉はミヅササラヒメを連れてきて土橋郷岡本村で迎えた。天日別は国見の為にここに来ていたが、ミヅササラヒメに出会って「ちょうど渡り会った」と言ったのでそれを郡の名とした。
大国玉はこの地方の地主神で、『延喜式』神名帳には大国玉比古・大国玉比売とあるそうです。天日別命、再び登場です。
先にあげた伊勢国号の由来譚とあわせて考えると非常に複雑なことになっています。外来・土着・祭神・祭祀者が交錯する伝承群だといえるでしょう。
上の伝承では天日別は地主神の娘と結婚することになっています。その子孫といわれている渡会氏はアマテラスを祭祀するトヨウケヒメの祭祀者になる。そしてアマテラスもトヨウケヒメも外来の神です。ミヅササラヒメは伊勢津比古の娘ということになっています。
天日別についてはやはり良くわかりません。天日鷲と同一であるという説と別であるという説がある。アメノミナカヌシ十二世の孫とも言われますし、『姓氏録』ではアメノソコタチの孫とも言います。『姓氏録』では伊勢朝臣(伊勢国造?)の祖ということになっていますが、「伊勢朝臣」を使い出しのが中臣伊勢老人というならその祖は中臣氏ということになりませんかね?渡会氏(旧磯部氏)は伊勢国造と同系統といいながら祖神は「天牟羅雲命」ともいうし。
大国玉はいかにも地主神っぽい名前をでっち上げた感じもしますが、それに当る集団はあったと考えることも出来そうです。そして迎える神は伊勢津比古であった可能性もある。或は、伊勢津比古は元は地主神の立ち位置で、来訪する太陽神を祀っていたのかも?
どちらにしてもミヅササラヒメは太陽神の祭祀者の位置にいた女性の神格化であった可能性が高いです。
父娘が外来の神を祭祀する形。ヒコヒメ祭祀の一形態と考えてもいいでしょう。私が以前研究していた三輪山信仰では崇神帝−モモソヒメがセットでした。オイ−オバ関係。賀茂社起源ならばタケツノミと玉依日売で、父娘関係。
そのヒコヒメ祭祀がどのようにアマテラス祭祀に変化していくのか?私が箸墓伝承の研究をした時は『日本書紀』崇神天皇条を丹念に読むことでその変化を考察しましたが、伊勢の場合は記紀の伊勢神宮創始伝承・風土記逸文や『倭姫命世記』その他の伊勢側の文献も読み込む必要がありそうです。しかし三輪山信仰の研究と違って、伝承が分散しているので客観的に考察するのは骨が折れそうです。
しかし、最終形態は「アマテラス−斎宮(&荒木田氏)・トヨウケオオカミ−渡会氏」という祭神−祭祀者関係ということになる。それだけは確かです。ヒコヒメ制からはかなり遠い形ですが、その過程をバラバラで一見矛盾しているように見える伝承群が伝えているはずです。まあ伊勢側文献が手元にないので今は手も足も出ませんが。
しかし、総入れ替えされてしまったように見える最終形態でも渡会氏だけはかろうじて在地の信仰とつながっていると言えます。「在地神の娘ミヅササラヒメの子孫」という伝承があるわけですから。
「在地のヒコヒメによる在地神祭祀」という単純形態からの極端な複雑化は何故怒ったのか?これは天皇王権の根源に関わる問題だと思われます。
天皇にとってアマテラス祭祀は祖神祭祀になるわけですが、それを伊勢の太陽神に交代させてヒメ祭祀を継続するだけに留まらず、アマテラスを祭祀する神=トヨウケオオカミを外部から持って来て、渡会氏に祭祀させるというのは非常に手が込んでいます。更にその渡会氏自体が外部から来て在地のヒメと婚姻して生じた血筋であるというのですから、もう複雑すぎます。
その「アマテラス祭祀の複雑化」は、私の見るところ「神と距離をとる」という天皇王権独特の傾向によっていると思われますが、これについては私の天皇王権論の核心部分なので今後も追及していかなけれはいけないところです。
天日別はその中の駒の一つに過ぎないわけですが、一方で伊勢という土地ともつながりを持っている。桑名宗社という神社に祭られているそうですが、共に祀られている春日神社への信仰のほうが強く、天日別への信仰は薄いようです。 
五十鈴
五十鈴(いすず)と曰(い)ふは、風土記に云(い)はく、是(こ)の日八小男(やをとこ)・八小女等(やをとめたち)、此(ここ)に(こぞ)り逢(あ)ひて、〔シ西〕樹接(いすすきまじ)はりき。因(よ)りて名と爲(な)す。(萬葉緯所引神名祕書)
「いすすきまじはりき」から「五十鈴」という地名が生じたという話。「[シ西〕樹接」自体の意味が良くわかりません。
五十鈴川はヤマトヒメが衣の汚れを洗ったという伝承がある川で、「御裳濯川(みもすそがわ)」という異名もあるそうです。
また「五十鈴」については奈良県天河神社に伝わる神器とある。天岩戸神話でウズメノミコトが持って舞った神代鈴と同様だとか。
『古事記』では神武后妃イスケヨリヒメの別名を「ホトタタライススキヒメ」としていますが、その「イススキ」と関係があることは確かでしょう。普通は「慌てて」「狼狽して」と解釈されると思いますが、上記の場合その解釈はどうなのか?
男女の交合を表す単語であるというのは恐らく間違いないようですが、それを五十鈴川の名称起源とするということは、性的な秘儀があったということを匂わせているのかも?八人の若い男女で。
というと何か怪しい方向に行きそうではありますが、まあ歌舞の類で演劇的な表現としてはありえたかもしれません。「樹接」という字面もそれに似た感じはありますし。
「五十」について、以前祭祀と関係する数字か?という推論を立てましたが、「イススキ」という音だけでなく、「五十鈴川」という名称自体が神聖性を帯ていると考えられたと思われます。
単純に「濯ぎ」=「ミソギ」の川という解釈でももちろんありえるとは思いますが、八男女の交わりは歌垣も想起させます。 
五十鈴川
五十鈴川の清らかな流れのほとりに立つことは、伊勢参りに欠かせない、ささやかな歓びの一つである。
内宮の大鳥居を潜れば、五十鈴川をまたぐ宇治橋の上である。橋を渡り終え、白い砂利の敷き詰められた明るい参道をしばらく行くと、一ノ鳥居を潜る。ここから森は鬱蒼と濃くなるが、右手に五十鈴川の御手洗場(みたらいば)へ下る道が分かれている。
橋の上から眺めた美しい川が、再び眼前に現れる。参拝者は大きな切石で造られた石段を降りて、たやすく河畔に立つことが出来る。澄んだ川水が敷石の岸すれすれの高さに水位を湛えて流れている。ほとんど波立つこともなく、底の小石まで明瞭に見透かせる。その水は今にも溢れて靴を濡らしそうであるが、何故か溢れることはない。
それはかくの如く人工的に整備され統御された川であるが、太古の森に包まれて、決して違和感を感じさせない。人工の極致、構成美の極致が、そのまま最も簡素な佇まいをとり、自然と共存している。それが伊勢神宮だからである。
その川の岸辺にうずくまり、川水に手を差し入れて洗うことは、伊勢参りに欠かせないささやかな、いや大きな歓びの一つである。

垂仁天皇二十五年三月十日、倭姫命は天照大神の鎮座地を求め、大和纏向(まきむく)の珠城(たまき)の宮を旅立った。菟田から近江の国に入り、美濃の国を経て伊勢に至った時、大神のお告げを得る。
この神風の伊勢の国は、常世の浪のしき浪のよする国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。この国に居らむとおもふ。
姫命は教えのままに、斎宮(いはひのみや)を五十鈴川のほとりに建てた。
以上が伊勢内宮の創建を語る日本書紀の記事の要約である。
また「倭姫命世記」という書は、姫命がこの川で裳裾の汚れを濯いだとの伝承をつたえている。このことから、五十鈴川は御裳濯川(みもすそがわ)とも称されるようになったのである。
この川が和歌にさかんに詠まれるようになるのは、平安時代も半ばを過ぎてからのことである。太古神秘の霧のうちに深々と隠れていた大神宮の御手洗川(みたらしがわ)が、文人たちの歌によってすがたをあらわしたとき、それはやはり悠久の「君が代」を象徴し讃えるものとしてであった。
○ 君が代は久しかるべしわたらひや五十鈴の川の流れ絶えせで([新古今]大江匡房)
○ 君が代はつきじとぞ思ふ神風や御裳濯川のすまんかぎりは([後拾遺]源経信)
○ 神風や五十鈴の川の宮ばしら幾千代すめとたてはじめけむ([新古今]藤原俊成)
○ 朝日さす御裳濯川の春の空のどかなるべき世の気色かな([風雅]後鳥羽院)
○ 万代の末もはるかに見ゆるかな御裳濯川の春の明けぼの(後鳥羽院)
○ 立ちかへる世と思はばや神風や御裳濯川のすゑのしら波([玉葉集]慈円)
武士の世に至って、皇太神宮への信仰は大きな広がりと高揚を見せた。澄み切った平明な境地を理想とするようになっていた中世の歌人たちは、五十鈴川の穏やかな清流と、流れに映る澄んだ月の光を好んで詠じた。それら風雅な歌々のうちには、やはり神代への憧憬と、現世の平和への祈りが籠められていたのである。
○ やはらぐる光りにあまる影なれや五十鈴川原の秋の夜の月([新古今]慈円)
○ 五十鈴川神代の鏡かけとめて今も曇らぬ秋の夜の月([続後撰]藤原為家)
○ 我がすゑの絶えず澄まなむ五十鈴川底にふかめて清き心を([続後撰]後嵯峨院)
○ 五十鈴川たえぬ流れのそこ清み神代かはらず澄める月影([続千載]伏見院)
○ 水上のさだめし末は絶えもせず御裳濯川の一つながれに([風雅]花園院)
○ 淀みしもまた立ちかへる五十鈴川ながれの末は神のまにまに([風雅]光厳院)
伊勢外宮
近世以降、伊勢信仰はわが国庶民の隅々にまで浸透し、「おかげまいり」「ぬけまいり」といった熱狂的な参拝者の大群を見るに到ったことは、今さら言うまでもあるまい。歌人文人たちも例外ではない。生涯伊勢に憧れつづけた福井の人橘曙覧(たちばなのあけみ)は、文久元年、五十の秋にようやく念願を果して伊勢に参詣し、五十鈴川のほとりで次のような感慨を詠んでいる。
○ 五十鈴川先づすすぎてむ年まねくまゐでこざりし己が罪とか
永年伊勢参りを果たし得なかったことを「おのが罪」とし、その罪をまず五十鈴川で濯ごう、というのである。次のような歌を詠んだこともある曙覧であった。
○ 吹く風の目にこそ見えね神々はこの天地あめつちに神づまります

五十鈴川は多くの歌人たちに深い感動をもたらし、あるいは深い憧憬を以て仰がれ、あまたの秀歌を生んでいる。削るには惜しい歌が多いので、いくつかを以下に掲げてこの頁を閉じたい。
○ いかばかり涼しかるらん仕へきて御裳濯川を渡る心は(西行)
○ ながむれば広き心もありぬべし御裳濯川の春のあけぼの(慈円)
○ 神も知れ月すむ夜半の五十鈴河ながれて清き底の心を([新後撰]覚助法親王)
○ 照らし見よ御裳濯川に澄む月もにごらぬ波の底の心を(後醍醐天皇)
○ 五十鈴川すずしき音になりぬなり日もゆふしでにかかる白波(香川景樹)
○ いすず川影見る水も底すみて神代おぼゆる峯の杉むら(本居宣長)
○ 五十鈴川あらたにうつる神垣や年ふる杉の影は変らず(同上) 
神路山
奈良や京都から伊勢をめざし、伊賀の山地を越えた古人にとっても、広漠とした伊勢の野で最初に出逢う山がこの神路山であった。山々に囲まれて暮らしていた古京の人の目に、神路山の緑はさぞ懐かしく清々しく映ったに違いない。

治承四年、源平争乱のさなか、高野山を出た西行法師は伊勢に移り、二見浦の山中に庵を結んだ。すでに六十を越えていた法師であったが、この地で伊勢の神官荒木田満良らと親交をむすび、その詩想はいっそうの深みと清澄さを加えたように思われる。
○ 深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風(千載集)
○ 神路山岩ねのつつじ咲きにけり子らが真袖の色に触りつつ(夫木)
○ 神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり(新古今)
西行を称賛し追慕してやまなかった二人の歌人、後鳥羽院と藤原定家には、上にあげた最後の歌に和したかのような詠がある。
○ ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空を出でむ月かげ(後鳥羽院[新古今])
○ 照らすらん神路の山の朝日かげあまつ雲居をのどかなれとは(定家)
神路山の上から天下をあまねく照らすさやかな月の光を詠んだ西行の歌を受けて、定家は神路山を照らす朝日を歌い、雲上界―宮廷―の悠久平穏なることを祈ったのである。神路山は一名天照山(あまてるやま)とも呼ばれた。
神路山に親しんだ歌人としては、伊勢松坂の人、本居宣長の名も逸することはできまい。
物いはば神路の山の神杉に過ぎし神代のことぞ問はまし 
神路山の杉の木にてつくれるしをりに
神路山すぎぬるほどのしをりあればこれより奥は明日もふみ見ん
深くとも奥も踏みみむ神路山杉のしづ枝をしをりにはして
かみぢ山おく深くとも杉が枝のしをりしあらば踏みはまよはじ
いくら深くとも、踏み入って奥を見よう、神路山の杉の下枝を枝折にして。それさえあれば、道を踏み迷うことはあるまい…。
このように詠んだ決意は、古事記の訓釈に生涯を賭した宣長の学問人生をおのずから象徴しているように思われる。
国のすがたは かはるとも
大義にかはり あらめやも
桜わかばに ひかりみち
けふ梅雨霽れの 神路山(西条八十「桜わかば」) 
伊雑宮(いざわのみや) / 三重県志摩市磯部町上之郷
伊勢神宮内宮の10ある別宮の1つであり、志摩国一の宮である。遙宮(とおのみや)と呼ばれ、瀧原宮と共に古来より尊崇を集めてきた。倭姫命が内宮を建てた後に神饌を奉納する場所を求めて志摩国へ赴き、この地を選定して伊雑宮を建立した、と伊勢神宮では採っている。その他にも、当時の志摩国で唯一水田耕作が可能だった土地であるため、また海女などの漁労関係者の崇敬が篤く海との関わりから成立したとも言われている。
伊雑宮の神事として最も有名なものは,6月におこなわれる“御田植祭”である。これは日本三大御田植祭とされ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。この日は志摩の海女は海に潜ることを禁忌とし、伊雑宮に参詣することとなっている。また伝承として、この日には伊雑宮へ“七本鮫”と呼ばれる七匹の鮫が的矢湾から神路川を遡って大御田橋のところまで参詣に来ると伝えられる(ただしある年、伊雑宮から帰る途中の1匹を漁師が銛で突き殺してしまったために、その後は6匹で参詣に来るという)。この鮫は伊雑宮のお使いであるとも、龍宮からのお使いであるとも言われており、伊雑宮が海との関わりを大いに持つとされる所以となっている。
さらに伊雑宮にまつわる伝承では、龍宮へ行ってきた海女が木箱をもらってきて、箱を開けずに大切にしていたら家は代々繁盛、もし開けたら祟りを為すと言われたという。戒めを破って箱を開けると、中から大きな蚊帳が出てきた。驚いて元に戻そうとするが、箱に入りきれず、とうとう伊雑宮へ蚊帳と箱を奉納したという。その海女の家はほどなく途絶え、その土地に住む者も不幸が続いたとされる。
また伊雑宮については、歴史的な事件によってミステリアスな噂が今なお続いている。延宝7年(1679年)、江戸で発見された『先代旧事本紀大成経』には、伊雑宮こそが日神(天照大神)を祀る社であり、内宮は星神、外宮は月神をそれぞれ祀ると書かれていたのである。この内容は伊雑宮の神官が主張していた説であったが、伊勢神宮から幕府へ訴えがあり、翌々年にこの本は“偽書”であるとされて発禁処分となった。そしてこの書を書店に持ち込んだとされる永野采女と潮音道海、作成を依頼した伊雑宮の神官が罰せられたのである。しかしこの書物はその後も読み継がれ、垂加神道にも影響を与えた結果、現在でも“真書”であると信じられることがあり、オカルティックな言説がいまだに流布するところとなっている。
倭姫命 / 第11代垂仁天皇の第四皇女。第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命の後を継いで、天照大神の依代(御杖代)として諸国を回り、神託により伊勢国に皇大神宮(現在の内宮)を創建する。伊勢神宮に奉仕する斎宮の祖とされる。また甥にあたる日本武尊が東征の折、天叢雲剣を授けた。
『先代旧事本紀』(せんだいくじほんき) / 天地開闢から推古天皇の治世までが書かれた歴史書。序文に聖徳太子と蘇我馬子が著したと書かれているが、実際には9世紀頃の作とされる。度会神道・吉田神道において、記紀と並んで“三部の本書”とされ、重要視される。江戸時代には『大成経』などの偽書も多く出回り、江戸中期にはこの書物自体も偽書であるとする学者も現れた。
恵利原の水穴(えりはらのみずあな) / 三重県志摩市磯部町恵利原
別名は「天の岩戸」。天照大神が隠れた場所とされている。しかし実際は、日量31000トンの水が湧き出る源泉であり、志摩エリアの上水道源である神路ダムの源流である。また環境省の名水百選にも入っている。
深い木立の中にあって、神話の伝承地と言われなくとも、非常に清浄な印象がある。水穴からは清水と共にかなりの冷気が常に吹き出しており、真夏でもかなりひんやりとする。また水穴のそばには禊滝があり、滝行をおこなう人もかなりあるという。
天の岩戸 / 弟神の素戔嗚尊の狼藉を悲しんだ天照大神が天岩戸に閉じこもってしまい、世界は闇に包まれてしまった。そのため神々は相談して、天岩戸の前で大騒ぎして天照大神の気を引いて岩戸から引っ張り出したという神話。
鍵屋の辻(かぎやのつじ) / 三重県伊賀市小田町
寛永11年(1634年)11月7日早朝、伊勢街道と奈良街道の交わる鍵屋の辻で、後に“日本三大仇討ち”と言われる鍵屋の辻の決闘が起こった。討ったのは渡辺数馬と助太刀の荒木又右衛門など、討たれたのは河合又五郎らである。
講談や歌舞伎の世界では「荒木又右衛門の三十六人斬り」として有名な事件であるが、実際は又五郎側の人員は11名、又右衛門が斬ったのも2名のみである。ただ河合甚左衛門(大和郡山藩剣術指南役:又右衛門の上役、又五郎の叔父)と桜井半兵衛(尼崎藩槍術指南役、又五郎の妹婿)という助太刀の武芸者を倒している。また仇討ちの中心である、数馬と又五郎の果たし合いは、お互いが真剣での勝負に不慣れであったために、決着が付くまでにおよそ5時間かかったとされる(数馬の剣が又五郎の腕を少し切ったところで、又右衛門がとどめを刺す)。
現在の鍵屋の辻は史跡公園となっており、茶店が復元されていたり、資料館がある(有料)。また資料館の庭には河合又五郎首洗いの池がある。
日本三大仇討ち / 「鍵屋の辻の決闘」の他には「曽我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」となる。
鍵屋の辻の決闘の顛末 / 岡山藩主・池田忠雄の寵童であった渡辺源太夫(数馬の弟)に思いを寄せた河合又五郎が拒絶にあったために、源太夫を斬殺して出奔。江戸に逃げた又五郎は旗本安藤家にかくまわれ、返還を求めた池田家と対立、直参旗本と外様大名を巻き込む騒動となる。その中で藩主・忠雄が急死。その間際に仇討ちを厳命したために数馬は藩を離れて、姉婿の荒木又右衛門を頼る。その後、大和郡山に身を隠していた又五郎は、江戸に戻るべく大勢の護衛に囲まれて上京。そして鍵屋の辻で待ち伏せていた数馬らに討ち果たされる。旗本安藤家と池田家は因縁の家柄であり、長久手の戦いで忠雄の祖父・恒興と伯父・元助を討ったのが、安藤宗家の直次である。自分より目下の身内の仇討ちをするのは異例であるが、藩主・忠雄の遺命の性格が強く、なかば上意討ちの感もある。数馬は仇討ち後、池田家(鳥取藩)に帰参している。
荒木又右衛門 / 1599-1638。伊賀出身。父親が渡辺数馬の父とほぼ同時期に池田家に仕えたため、懇意の間柄となる。数馬の姉を嫁としており、二人は義兄弟となる。仇討ち事件が起こった当時は、大和郡山藩の剣術指南役(上役に鍵屋の辻で戦った河合甚左衛門がいる)。決闘後は鍵屋の辻を領有していた津藩の藤堂家の客分として4年間あった。そして鳥取藩の池田家に請われて鳥取へ赴くが、そのわずか16日後に死去したとされる。急死については、河合家の復讐を避けるため身を隠した、あるいは死去したことにして郷里へ戻ったなどの諸説もある。
多度大社(たどたいしゃ) / 三重県桑名市多度町多度
伊勢国の二の宮とされ、北伊勢地方の総鎮守と言われる。特に主祭神が天照大神の第三子の天津彦根命という点、また伊勢神宮参拝のための街道沿いに鎮座している点から、北伊勢大神宮とも呼ばれるほどの崇敬を集めている。実際、多度大社へ参拝しなければ、伊勢神宮参拝も片参りであるという俗謡も存在する。
多度大社はまた多度両宮とも称するが、本宮である多度神社と共に、別宮である一目連神社も多くの崇敬を集めているためである。一目連神社の祭神は天津彦根命の子である天目一箇命であるが、本来は片目の竜であり、天候、特に雨と風を司る神であるとされている。
多度大社が創建される以前は、その奥にある多度山が信仰の対象となっていたとされる。この山は伊勢湾海上からよく見える山であり、おそらく海で生業を立てていた人々は、その海の具合を多度山の状況で予測していたのではないかと考えられている。それが天候を司る神を後年に神社に祀った背景にあると考えることが出来るわけである。
この一目連神社の社殿であるが、扉がない。これは龍と化した神がいち早く神威を示すために、自由に出入り出来るようにするためとされている。このように激しい一面を見せる神である故にか、伊勢湾岸一帯の地方では、一目連の神が神殿を出て活動すると大風になると言い伝えられている。
天津彦根命 / 素戔嗚尊が高天原を訪れ、天照大神に対して悪心を抱いていない証として、互いの持ち物を交換することで生まれた8人の御子神(八王子社の祭神)の一人。天照大神の御子神は男5人であり、その3番目の子が天津彦根命である(素戔嗚尊の御子神は女3人。宗像三女神である)。天津彦根命の名はこの部分でしか登場しない。ただし多くの地方豪族がこの神を一族の祖神として崇めており、多度大社のあるあたりを治めた桑名首(くわなのおびと)もそのうちの一つである。
天目一箇命 / 製鉄・鍛冶の神とされ、片目の神とされる(鍛冶の仕事で片目を失明することが多いためと考えられる)。
道観塚(どうかんづか) / 三重県名張市赤目町一ノ井
かつて一ノ井の里に道観長者と呼ばれる者がいた。近隣に広大な田畑を持つ長者であったが、強欲で領民を苦しめながら贅沢に耽っていた。
ある時、突然長男が急な病で亡くなると、立て続けに家族が死んでしまった。その悲惨な死を目の当たりにした長者は、ようやく仏心に目覚めた。しかし時既に遅く、長者自身も死の床にあった。そこで長者は遺言として、再建される東大寺に私有地を寄進し、二月堂でおこなわれる修二会に使われる大松明を欠かさず調進することとしたのである。
東大寺のお水取りのクライマックスとも言える大松明は、現在でも途切れることなく、この一ノ井の里から調進されている。大松明は近所にある極楽寺に集められ、道観の墓とも言われる道観塚の前で調進の報告と供養がおこなわれた後、3月12日(お水取りの日)に東大寺に運ばれる。昔は片道30km以上の道のりを歩いて運んだという。運ばれた大松明は二月堂に安置され、翌年のお水取りで使用されることとなる。
修二会 / 天平勝宝4年(752年)から中断されることなくおこなわれている、東大寺の行事。二月堂の本尊である十一面観音へ日常に犯す罪を懺悔する。3月12日が若狭井から汲み上げた水を本尊にお供えする「お水取り」であるが、修二会そのものは1日より13日まで毎日執り行われる。一ノ井の里から運ばれた大松明は12日から使われる。
東大寺再建 / 東大寺が再建されたのは2回。治承4年(1181年)平重衡による焼き討ち、永禄10年(1567年)松永久秀による兵火によって焼失した後に為されている。道観長者の伝承における東大寺再建は最初の方であり、建久元年(1190年)に大仏殿落慶法要が営まれているので、その頃以来約800年、欠かさず調進がおこなわれていると考えられる。
波切神社(なきりじんじゃ) / 三重県志摩市大王町波切
岬の先にあり、大王の産土神である韋夜権現(いやごんげん)などを祭神としている。台風の影響を考慮して現在はコンクリート造りの社殿あるが、その起源はかなり古いものとされている。この神社の最も有名なものが「わらじ祭り」と呼ばれる、わらじ曳き神事である。
この神事には、ダンダラ法師(ダイダラボッチ)にまつわる伝説が残されている。
大王崎の沖にある大王島に、ダンダラ法師という一つ目・片足の巨人が住み着いた。そして時々大王崎にやってきては、悪事の限りを尽くした。困った村人は、産土神である韋夜権現に祈願した。ある時、ダンダラ法師が大王崎に現れると、浜辺で大きなむしろを編んでいる者がいる。不思議に思ってダンダラ法師が尋ねると、村にいる巨人のぞうりを編んでいるとの答え。さらに浜辺を行くと、大きな竹籠(魚を入れる巨大な魚籠)が置いてある。また尋ねると、それは村にいる巨人の煙草入れと答える。さらに浜には大きな布のようなもの(魚を捕る網)が干してある。これも尋ねると、村にいる巨人の褌だと言われる。ダンダラ法師はここにきて、この村にいるという巨人の大きさに恐れをなした。自分より遥かに大きい巨人がいるところで悪事を働けば、とんでもないことになると。ダンダラ法師は、その足で大王崎から逃げ出したという。
大王崎では、今後もダンダラ法師が舞い戻らないように、巨大なぞうりを編んで、それを海に流す習慣が続いた。これが波切神社のわらじ曳き神事の始まりと言われている。
花の窟神社(はなのいわやじんじゃ) / 三重県熊野市有馬町上地
『日本書紀』によると、イザナギ・イザナミの両神は国産みのあと神産みをおこなうが、その中で火の神カグツチを産んだところでイザナミが女陰を焼かれてしまい、それが元で亡くなってしまう。怒ったイザナギはカグツチを斬り殺し、そして紀伊国の熊野有馬村にイザナミを葬ったとする。これが花の窟の始まりであるとされる。
花の窟という名前は、イザナミの墓所に村の者が花を捧げ御霊を慰めたことから始まる。現在では花窟神社として“日本最古の神社”と名乗っているが、実際には本殿や拝殿などの建造物はなく、神社というイメージからはほど遠い。むしろいまだに神を埋葬した場所として自然崇拝の形が残っていると言うべき状態である。実際、この花の窟の近くには産田神社という、イザナミが亡くなったと比定される地に古社が存在している。この花の窟はあくまでイザナミの陵墓であるという認識の方が正しいのかもしれない。
花の窟は、玉石が敷かれた遙拝所があるだけである。そして御神体となる巨石が目の前にある。ただしその巨石が半端なものではない。高さは約70m、間近で見ればただの石の壁である。そして同じ場所に高さ約12mの巨石があり、こちらはカグツチを祀る王子の岩屋とされる。つまり、この地はイザナミを葬っただけではなく、イザナミを死に追いやった子供も一緒に葬ったということになる。
イザナミの墓所 / 『日本書紀』ではこの花の窟を墓所としているが、『古事記』では比婆山(島根県安来市)に葬ったとされる。現在では、この比婆山が正式な墓所とされている。
カグツチ / 火の神とされる。この神話は、火という利器を得るために多くの犠牲があったことの寓意であるとみなすことが出来る(ギリシア神話でも、人類に火をもたらしたプロメテウスは、ゼウスによって半永久的な責め苦を負わされることになる)。カグツチはイザナギによって切られるが、そこから多くの神々が生まれることになる。
松阪の石灯籠(まつさかのいしどうろう) / 三重県松阪市大黒田町新田
江戸時代、この灯籠のところで行き倒れになった男がいた。助けを求めたが誰も助けようとしなかったため、「触りたくなかったら、触らなくてもいい」と言い残して男は亡くなった。それ以降、この灯籠に触れると祟りがあると言われるようになった。『松阪市史』によると、弘化4年(1847年)に現在地に灯籠が建てられたという記録があるが、それ以前については定かではないため、果たしてこの伝承が事実であるかは分からない。
まさに交差点に取り残された格好の灯籠である。しかも祟りがあることを示すかのように、何本もの卒塔婆が立てられている。“燈籠有縁犠牲者”と書かれているから、やはりここで亡くなった人がいると見ていいだろう。灯籠自体も傾いており、頻繁に接触事故などが起こっているのが分かる。それでも移動させないところを見ると、やはり曰く因縁の物件なのだろう。
日本武尊御血塚社(やまとたけるのみことおちづかしゃ) / 三重県四日市市采女町
伊吹山で山の神を侮ったために病に倒れた日本武尊は、養生しつつも疲れ切った身体で、大和国を目指して歩を進めていた。やがて伊勢国に入ると、急な坂にさしかかり、杖を突きながら登り切った。この時、日本武尊は「吾が足は三重の勾がりの如くして、はなはだ疲れたり(私の足は三重に折れ曲がったようになって、非常に疲れた)」と言ったという。
この坂は後に「杖衝坂」と呼ばれ、旧東海道でも有名な急坂として知られるようになった。そしてこの近辺は日本武尊の言葉から「三重郡」と呼ばれることとなり、現在の三重県の由来となっている。
そして杖衝坂を登り切ったところに御血塚社がある。衰弱した身体で坂の上に辿り着いた日本武尊が、足下を見ると出血していたので、この場所で血を洗い落として止血したとされる。
日本武尊 / 第12代景行天皇の第二皇子。熊襲・出雲を制圧した後、東征をおこなう。東征後に尾張国に戻ると、伊吹山の神を退治に行くが昏倒。その後回復するが衰弱が激しく、大和国へ帰還する途中、能褒野で亡くなったとされる。『古事記』では、伊吹山から帰還する途上の様子を描き、各地の地名の由来となるエピソードを記している。杖衝坂もその中に1つである。なお『古事記』の記述では、「三重」のエピソードはこの坂とは異なる場所のように書かれているが、伝承としてはセットとして流布している。 
 
 
滋賀県 / 近江

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

淡海あふみの海夕波千鳥汝なが啼けば 心もしのに古いにしへ思ほゆ 柿本人麻呂
余呉湖
琵琶湖の北に余呉湖といふ小さい湖がある。むかしこの湖に、天から織女が舞ひ降りて水浴びをしたとき、きりはた太夫といふ男が天の羽衣をどこかへ隠してしまった。天へ帰れなくなった織女は、太夫の妻となって、一児が生まれた。その子も大きくなったある夜、母が天を眺めながらため息をもらすと、子は母のために羽衣を捜し出して来た。そして母がいふには、年に一度、七月七日に湖の水を浴びて待てば、必ず逢ひに来ると約束して、天に帰って行った。 
○ 余呉の湖きつつなれけん 乙女子が天の羽衣ほしつらんやは 曽丹集
天正十一年の賎ヶ岳の戦では、柴田勝家は柳ヶ瀬峠に、羽柴秀吉は木之本に陣を構へた。
竹生島、伊吹山
むかし夷服いふき岳(伊吹山)と浅井岳が高さを競ったとき、浅井岳が頭を斬られて、頭の部分が琵琶湖に落ちて竹生島ちくぶじまとなったといふ。浅井岳の浅井比売命は都久夫須麻つくふすま神社にまつられる。
○ 目に立てて誰か見ざらん竹生島 浪にうつろふ朱の玉垣 隆祐
竹生島には弁天様がまつられてゐる。源平の争乱のころ、平経正がここに参篭し、名器「仙童の琵琶」を借りて、弁天様の前で上弦石上の曲を夜通し奏でた。すると白龍(白狐ともいふ)に姿をかへた神が現はれたといふ。
○ ちはやふる神に祈りのかなへばや しるくも色のあらはれにけり 平経正
竹生島の周囲には大鯰が棲み、中秋の名月のころに、島の北に大群が集まって踊り狂ふのは、弁天さまが招き寄せたものといはれる。
○ 月の出も間近かるべし鯰つる 沼の面白く水明りせり 若林健二
伊吹山は、古代からお灸の原料の艾もぐさなど、薬草の産地だった。
○ かくとだにえやは伊吹のさしもぐさ さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方
織田信長もここに海外の薬草を植ゑ、広大な薬園をつくったといふ。
浅妻舟 / 坂田郡米原町朝妻
朝妻(米原町朝妻)は、琵琶湖の東にそそぐ息長川の河口に開けた古代の港町であった。慶長のころに米原の港ができるまでは、「本朝遊女の始まりは、江州の朝妻、幡州の室津」(好色一代男)といはれたほどの繁昌をきはめた。町の遊女を歌ふのに浅妻舟といふ言葉もできた。
○ おぼつかな伊吹颪の風さきに 浅妻舟あさづまねは逢ひやしぬらん 西行
○ この寝いぬる浅妻舟の浅からぬ 契りを誰にまた交はすらむ也 足軒通勝卿
柳の下の繋舟に、金烏帽子に水干を着けた白拍子が、鼓を持って乗る浅妻舟の絵は、浮世絵などの画題としても好まれた。米原町磯崎神社付近の琵琶湖を歌った万葉歌。
○ 磯の崎漕ぎたみゆけば淡海の海 八十のみなとに鶴さはに鳴く 高市黒人
法界坊 / 彦根市
近江国彦根の上品寺の住職の子に生まれた法界坊は、八つのときに父に死なれ、諸国へ修行の旅に出た。十年後に故郷に戻ってみると寺は荒れ放題、再建のための寄付金集めに再び旅に出た。江戸では新吉原、扇屋の遊女・花里がこの若いお坊さんの志に感銘し、廓内の寄付を取りまとめてくれた。花里は志半ばで他界したが、妹いもうとの花扇が残りを集め、立派な釣鐘が完成して、法界坊はそれを持って寺へ帰った。数日後、法界坊の夢に花里が現はれ、朝起きると枕もとに観音像が置かれてゐたといふ。
○ はれの間や浅茅ヶ原へ客草履 遊女花里
井伊直弼 / 彦根市
開国問題で揺れ動いた幕末のころに彦根藩主となった井伊直弼は、攘夷派と対立し、幕府大老に就任後、二年で江戸城桜田門外で暗殺された。
○ 近江の海磯打つ浪のいくたびも 御世に心をくだきぬるかな 井伊直弼
明治以後の物語類の中では、崩壊しつつある幕藩体制の中で苦悩しながらも思ひ切った断行をする人として描かれる。
蒲生野 / 八日市市
むかし天智天皇が近江国蒲生野がま ふ ので遊猟されたとき、額田王と大海人皇子が詠んだ歌がある。
○ あかねさす紫野ゆき 標野しめのゆき 野守は見ずや 君が袖振る 額田王
○ 紫の匂へる妹いもを憎くあらば ひと妻ゆゑにわれ恋ひめやも 大海人皇子
蒲生野は八日市市船岡山付近といひ、八日市市はその名の通り古代の市が栄えた地で、市の神をまつった市神神社がある。ここを流れる愛知川の上流に木地師の里がある。
鏡山 / 蒲生郡竜王町
九代将軍足利義尚(日野富子の子)が、応仁(1467--69)のころ近江で炎天下に行軍中、歌を詠むと、涼風が吹き五万の兵も生気をとりもどしたといふ。
○ 今日ばかり曇れ近江の鏡山 旅のやつれの影の見ゆるに 足利義尚
鏡山は蒲生郡竜王町にある。義尚は長享元年(1473)に近江守護の六角氏を征伐するために出陣したが、近江で病死した。
三上山 俵藤太の百足退治 / 野洲郡野洲町三上山
延喜十八年(918)、俵藤太が瀬田の唐橋を通らうとすると、橋の上に大蛇が寝そべってゐた。藤太が大蛇を跨いで進まうとすると、大蛇は訴へた。自分は琵琶湖に住む大蛇だが、三上山の大ムカデのために、一族が滅ぼされようとしてゐると。そこで藤太は、大蛇の巻き起こす水柱に乗って三上山へ飛んで行き、唾をつけた矢で百足を退治したといふ。
○ 千早振る三上の山の榊葉の 栄えぞまさる末の世までに 能宣
草津名物 姥が餅 / 草津市
草津の代官佐々木某の姥が、主君の死後に遺児を育てるために、餅を売って養育費を稼いだといふ。姥が餅といふ。
○ 出船召せ召せ 旅人の乗り遅れじとどさくさ津 お姫様より先づ姥が餅
大津の義仲寺 / 大津市馬場
木曽義仲が木曽で挙兵したとき、山吹といふ名の木曽の女が女兵として従った。山吹はふとしたことから義仲の寵愛を受けることになったが、義仲は京を制圧してからは都の女に溺れるやうになり、山吹は身も心もやつれるばかりだった。義仲一党は京に五ヶ月ゐただけで都落ちとなり、病床の山吹もひとり都を後にしたが、大津まで来て息絶えたといふ。
○ 木曽どのをしたひ山吹ちりにけり
○ 木曽殿と背中あはせの寒さかな 芭蕉

○ さゝ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山さくらかな 平忠度
○ 春がすみ志賀の山越えせし人に あふここちする花桜かな 能因
唐崎の松 / 大津市
近江の坂本(大津市)に築城した明智光秀が、唐崎の松の枯れたのを惜しんだ歌。
○ われならで誰かは植ゑむ一つ松 心して吹け志賀のうら風 明智光秀
三条西実隆が志賀の唐崎の松が枯れかかってゐたのを見て、歌を書いて松に掛けると、まもなく青々とした葉を付けるやうになったといふ。
○ 花の咲くためしもあるをこの松の ふたたび青き緑ともがな 三条西実隆
近江八景
江戸時代に太田蜀山人が長崎への旅の途中、瀬田橋で駕篭かきと問答して、近江八景を一首に詠んで駕篭賃を只にしたといふ。
○ 乗せたから先はあはづかただの駕篭 比良石山やはせらせてみい 蜀山人
近江八景は、瀬田の夕照、唐崎の夜雨、粟津の晴嵐、堅田の落雁、比良ひらの暮雪、石山の秋月、矢橋やばせの帰帆、三井みゐの晩鐘。
布袋丸 / 大津市 石山寺
むかし存如上人が石山寺に詣でたとき、ある女性とめぐりあひ、男の子が生まれたので、布袋丸と名づけた。布袋丸が六歳のとき、母は、「鹿の子の小袖と絵姿、これがある場所がわたしの浄土です」と謎のことばと歌を残して、いづこかへ去って行った。
○ 恋しくばたづね来てみよ唐橋の 石立つ山は母のふるさと
布袋丸はひたすら修行を重ね、蓮如と名告る立派な僧になった。三十二歳のときに北陸行脚の途中、立ち寄った石山寺で見なれた鹿の子の小袖と絵姿を見つけた。幼い日に別れた母は、石山の観世音菩薩だったことを悟り、念珠を供へたといふ。
石山寺では、紫式部が籠って源氏物語を書き始めたといふ伝説がある。
愛護の若 / 比叡山
    愛護若
京の左大臣の二条清平にははじめ子が無く、夫婦で初瀬観音に数日篭もって祈願して授かった子が、愛護の若である。若は十三才で母を亡くし、後妻の邪恋による怨みを買って殺されさうになり、猿や鼬に助けられて家を出たあとは、数奇な運命をたどることになった。四条河原の革細工職人や、粟津の商人・多畑之助兄弟らの力添へでなんとか命をつなぎながら、叔父である帥そちの阿闍梨あじゃりを頼って比叡山に登った。しかし誤解がもとで叔父にも見はなされ、若は穴生の里の飛竜ヶ滝に身を投げて死んだといふ。このとき傍らの松に掛けてあった若の小袖に、歌が残されてあった。
○ かみくらや飛竜が滝に身を投げる 語り伝へよ松のむら立ち 愛護の若 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

近江 / 「近(ちか)つ江」で山城の東の国名。浜名湖のある遠江は「遠つ江」。
志賀 / 琵琶湖西岸の町。
○ 春風の花のふぶきにうづもれて行きもやられぬ志賀の山道
○ ちりそむる花の初雪ふりぬればふみ分けまうき志賀の山越
○ 風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎
○ 思ひ出でよみつの濱松よそだつるしかの浦波たたむ袂を
○ ほととぎすなきわたるなる波の上にこゑたたみおく志賀の浦風
比良 / 比叡山北側の連山を指します。
○ 晴れやらでニむら山に立つ雲は比良のふぶきの名殘なりけり
寂然入道大原に住みけるに遣しける
○ 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
花雪に似たりといふことを、ある所にてよみけるに
○ 比良の山春も消えせぬ雪とてや花をも人のたづねざるらむ
○ 思へただ都にてだに袖さえしひらの高嶺の雪のけしきは (寂然)
逢坂・あふさか・あふ阪 / 近江と山城を隔てる山。三関のひとつ、逢坂の関があった。
春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に具してまかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て
○ わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
○ 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の關
野洲 / 琵琶湖東岸にある地名。野洲川が流れる。
○ 近江路や野ぢの旅人急がなむやすかはらとて遠からぬかは
○ ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとなきかたにゆく心かな (慈鎮)
しがらき / 信楽。滋賀県南部の地名。聖武天皇の「信楽の宮」や信楽焼で有名。
    茶の湯と信楽焼
○ 春あさみ篠(すず)のまがきに風さえてまだ雪消えぬしがらきの里
○ しがらきの杣のおほぢはとどめてよ初雪降りぬむこの山人
から崎 / 唐崎。大津市にある地名。琵琶湖に面している町。(から崎)と相模の
(あしがらの山)では距離的にあわず、意味不明。松屋本では五句は(しがらきの山)とある。
○ 雪とくるしみゝにしだくから崎の道行きにくきあしがらの山
伊吹 / 伊吹山。近江、美濃の国境にある山。
あさづま / 琵琶湖東岸にあった朝妻の港。
○ おぼつかないぶきおろしの風さきにあさづま舟はあひやしぬらむ
○ くれ舟よあさづまわたり今朝なせそ伊吹のたけに雪しまくなり
余呉の湖 / 余呉湖。琵琶湖の北にある。ここにある賤ヶ岳は古戦場として有名。
○ 余吾の湖の君をみしまにひく網のめにもかからぬあぢのむらまけ
篠むら / 不明。篠原の誤記の可能性あり。
三上が嶽 / 滋賀県野洲町にある三上山のこと。近江富士。俵藤太のムカデ退治伝説がある。
○ 篠むらや三上が嶽をみわたせばひとよのほどに雪のつもれる
つくまの沼 / 筑摩の沼。滋賀県坂田郡にある沼。
○ 折におひて人に我身やひかれましつくまの沼の菖蒲なりせば
篠原 / 篠の生えている原という意味。滋賀県野洲郡に篠原の地名がある。
○ 篠原や霧にまがひて鳴く鹿の聲かすかなる秋の夕ぐれ
あらち山 / 有乳山。近江と越前の国境にある。越前の歌枕。
○ あらち山さかしく下る谷もなくかじきの道をつくる白雪 
近江2
朝妻(あさづま) 坂田郡米原町の天野川河口南岸。古代から湖東の港として栄えた。
○ 恋ひ恋ひて夜はあふみの朝妻に君もなぎさといふはまことか(藤原為忠「新続古今集」)
安曇(あど) 高島郡安曇川町。琵琶湖に注ぐ安曇川の河口は三角州をなし、湊として栄えた。
○ 高島の安曇白波は騒けども我は家思ふ廬り悲しみ(「万葉集」巻七)
粟津(あはづ) 大津市膳所(ぜぜ)から瀬田橋付近。東国へ向かう交通の要地。
○ 関越えて粟津の杜のあはずとも清水に見えし影を忘るな(読人不知「後撰集」)
伊香山(いかごやま) 伊香郡の賤が岳の南嶺かと言う。余呉湖に臨む。
○ いかご山野べにさきたる萩みれば君が宿なる尾花しぞ思ふ(笠金村「万葉集」)
不知哉川(いさやがは) 大堀川(芹川)の古名かという。犬上郡の霊仙(りやうぜん)山に発し、正法寺山の南西を流れ、彦根市で琵琶湖に注ぐ。「いさや」と掛詞になることが多い。
○ 犬上(いぬかみ)の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川いさとを聞こせ我が名のらすな(「万葉集」巻十一)
石山 滋賀県大津市。観音信仰で名高い石山寺がある。
○ 都にも人や待つらん石山の峰にのこれる秋の夜の月(藤原長能「新古今集」)
伊吹山(いぶきやま) 岐阜県との県境をなす伊吹山地の主峰。標高1377メートル。古生代石灰岩よりなり、全山が草原をなして特異な山容を見せる。艾(もぐさ)の名産地。また倭建命の伝説などでも名高い。
○ かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(藤原実方「後拾遺集」)
打出(うちで)の浜 大津市松本・馬場(ばんば)あたりの浜の古名。
○ 近江なる打出の浜のうちいでつつ恨みやせまし人の心を(読人不知「拾遺集」)
老蘇(おいそ)の森 蒲生郡安土町老蘇の奧石(おいそ)神社の森。時鳥を詠み込むことが多く、また「老い」と掛詞になって老年述懐の歌がよく詠まれた。
○ 東路(あづまぢ)の思ひ出にせんほととぎす老蘇の森の夜半の一声(大江公資「後拾遺集」)
逢坂(あふさか) 現代仮名遣いでは「おうさか」となる。相坂・合坂などとも書く。山城・近江国境の峠道。畿内の北限とされ、関が設けられていた。ここを越えれば東国であった。相坂・合坂などとも書く。山城・近江国境の峠道。畿内の北限とされ、関が設けられていた。ここを越えれば東国であった。「逢ふ」という語を含みながら、人との間を隔てる関であるというパラドックスが王朝人に好まれ、さかんに歌に詠まれた。
○ これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも相坂の関(蝉丸「後撰集」)
○ 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(清少納言「後拾遺集」)
○ 逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之「拾遺集」)
○ 逢坂の関の岩かどふみならし山たちいづる桐原の駒(藤原高遠「拾遺集」)
○ 鴬の鳴けどもいまだ降る雪に杉の葉白き逢坂の山(後鳥羽院)
○ 逢坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら(宮内卿「新古今集」)
近江(あふみ) 旧国名。淡水湖を意味する淡海(あはうみ→あふみ)に由来する。現在の滋賀県。「逢ふ」「逢ふ身」と掛詞になることが多い。
○ けふ別れあすはあふみと思へども夜やふけぬらん袖のつゆけき(紀利貞「古今集」)
○ たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり(河野裕子)
近江(あふみ)の海 「淡海の海」とも書かれる。琵琶湖の古称。単に淡海とも言い、また浜名湖を「とほつあふみ」と呼ぶのに対し「ちかつあふみ」(京から近い淡水湖、の意)とも言った。別名「鳰(にお)の海」。
○ 淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(人麻呂「万葉集」)
琵琶湖 (びわこ) 単に淡海(あふみ・おうみ)とも言い、「淡海(近江)の海」とも言う。また浜名湖を「遠つ淡海」と呼ぶのに対し「近つ淡海」(京から近い淡水湖、の意)とも言った。「鳰(にほ・にお)の海」の古称もある。形が琵琶に似ていることから琵琶湖と呼ばれるようになるのは、近世以降のことである。
○ 鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな(式子内親王「新勅撰集」)
○ にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし(西行)
○ 鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(家隆「新古今集」)
○ 鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん(俊成女「玉葉集」)
大津 大津市。琵琶湖南岸の港として賑わった。天智天皇は天智六年(667)、この地に遷都した。
○ 我が命ま幸(さき)くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波(穂積老「万葉集」)
息長川(おきなががは) 天野川の古名。伊吹山麓に発し、米原町の北、朝妻筑摩の地で琵琶湖に注ぐ。
○ にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも(馬国人「万葉集」)
陪膳(おもの)の浜 大津市膳所の湖浜の古称。大津宮に都があった時、この地に御厨(みくりや)が置かれたことに由来する地名。
○ とどこほる時もあらじな近江なる陪膳の浜の海人のひつぎは(平兼盛「拾遺集」)
鏡山 蒲生郡竜王町と野洲郡野洲町の境にある山。鏡神社が鎮座し、古来信仰の対象であった。鏡に見立てて歌が詠まれることが多い。
○ 近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は(大伴黒主「古今集」)
堅田(かたた) 大津市本堅田町・今堅田町・衣川町のあたり。平安時代には「堅田の渡し」があった。今は琵琶湖大橋が架かる。
○ さざ波やよるべも知らずなりにけり逢ふはかたたのあまの捨舟(道玄「新続古今集」)
蒲生野(がまふの) 歴史的仮名遣いでは「がまふの」。近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる野。万葉集の額田王の名歌「あかねさす紫野ゆき…」はこの地で催された薬狩の際に詠まれた。
○ 蒲生野の標野(しめの)の原のをみなへし野守に見すな妹が袖ふる(大江匡房)
唐崎(からさき) 「辛崎」「辛前」「韓崎」とも書かれる。大津市唐崎。琵琶湖の西岸で、港があった。夏越祓(なごしのはらえ)や賀茂斎院退下の際の禊(みそぎ)の地。松と月の名所。
○ 楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎さきくあれど大宮人の舟待ちかねつ(人麻呂「万葉集」)
○ 氷りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大江匡房「詞花集」)
朽木(くつき)の杣(そま) 『歌枕名寄(なよせ)』によれば、近江国甲賀郡の歌枕。京都への木材の供給地であったらしい。
○ 花咲かでいく世の春にあふみなる朽木の杣の谷の埋れ木(藤原雅経「新勅撰集」)
こだかみ山 己高山・小高見山などと書く。伊香郡木之本町木之本の東にある山。山岳仏教の霊場として栄えた。
○ ころも手に余呉(よご)の浦風さえさえてこだかみ山に雪降りにけり(源頼綱「金葉集」)
醒井(さめがゐ) 坂田郡米原町醒ケ井の清水。古事記の倭建命の伝説に因む名。動詞「醒め」と掛詞になる場合が多い。
○ わくらばに行きて見てしか醒が井の古き清水にやどる月影(源実朝)
塩津山(しほつやま) 琵琶湖最北部にあたる塩津湾の奧にある港、塩津から、福井県敦賀市へ越える塩津越えの山。
○ 塩津山打ち越えゆけば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも(笠金村「万葉集」)
志賀 琵琶湖西南岸、南志賀地方。西に比叡山を望む。三井寺・日吉大社など多数の寺社があり、都からの参拝で賑わった。「志賀の都」は大津京を指す。桜の花園があり、よく歌に詠まれた。
○ 楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(人麻呂「万葉集」)
○ 明日よりは志賀の花園まれにだに誰かはとはむ春のふるさと(藤原良経「新古今集」)
志賀の唐崎(しがのからさき) 「辛崎」「辛前」「韓崎」とも書かれる。大津市唐崎。琵琶湖の西岸で、港があった。夏越祓(なごしのはらえ)や賀茂斎院退下の際の禊(みそぎ)の地。松と月の名所。
○ 八隅しし吾が大王の大御船待ちか恋ひなむ志賀の辛埼(舎人吉年「万葉集」)
○ 楽浪ささなみの志賀の唐崎さきくあれど大宮人の舟待ちかねつ(人麻呂「万葉集」)
○ 氷りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大江匡房「詞花集」)
○ 夜もすがら浦こぐ舟は跡もなし月ぞのこれる志賀の辛崎(丹後「新古今集」)
信楽(しがらき) 滋賀県甲賀郡信楽町。深い山に囲まれた狭小な盆地であるが、天平時代、聖武天皇により紫香楽宮(しがらきのみや)が営まれた。有名な大仏建立の詔は天平十五年(743)、この地で発布されたものである。甲賀寺での盧舎那仏(るしゃなぶつ)造立に情熱を傾けた聖武天皇は十七年正月、ここに都を移す。しかし遷都直後から山火事や地震など災異が続出し、同じ年の五月には奈良に還都した。わずか四ヶ月ばかりの短命な都に終わったのである。万葉集にこの地を詠んだ歌はないが、平安時代以後、物寂しい山里として冬や浅春の景が好んで詠まれるようになった。
○ 春たちて程は経ぬらし信楽の山は霞にうづもれにけり(源重之)
○ きのふかも霰あられ降りしは信楽の外山とやまの霞春めきにけり(藤原惟成「詞花集」)
○ むら雲のと山の峰にかかるかと見ればしぐるる信楽の里(平経正「新勅撰集」)
○ 春浅みすずの籬まがきに風さえてまだ雪消えぬ信楽の里(西行)
信楽町は今では信楽焼で全国にその名を知られている。信楽高原鉄道の駅を降りれば、狸の置物などを並べた陶器店が櫛比(しっぴ)する。この地での陶器製造が考古学的に確認できるのは中世以降とされ、信楽焼が注目されるのは、茶道が興隆した室町時代以降のことである
篠原 野洲郡野洲町大篠原あたり。旅の歌として「野路(のぢ)の篠原」が詠まれることが多い。
○ うちしぐれふる里思ふ袖ぬれて行くさき遠き野路の篠原(阿仏尼「十六夜日記」)
瀬田 大津市瀬田。この地で琵琶湖に架かる橋は「瀬田の長橋」「瀬田の唐橋」と呼ばれた。交通の要衝で、古来たびたび戦乱の舞台となった。
○ 望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに(平兼盛)
高島 高島郡。琵琶湖西岸。
○ いづくにか我は宿らむ高島の勝野(かちの)の原にこの日暮れなば(高市黒人「万葉集」)
田上(たなかみ) 大津市田上町。田上山は、奈良時代、宮殿の建築用材の産出地であった。また瀬田川に合流する田上川は網代(あじろ)の名所。
○ 月影の田上川にきよければ網代に氷魚(ひを)のよるもみえけり(清原元輔「拾遺集」)
筑摩(つくま) 坂田郡米原町。古く、御厨(みくりや)があり、宮廷に神饌の料を貢進した。筑摩神社は四月八日の鍋冠(なべかむり)祭で名高い。近在の女は関係を結んだ男の数だけ土鍋を奉納し、偽ると祟りがあるとされた。
○ いつしかも筑摩の祭はやせなむつれなき人の鍋の数見む(読人不知「拾遺集」)
鳥籠山(とこのやま) 彦根市西方の丘陵。正法寺町の正法寺山とする説がある。
○ 淡海道の鳥籠の山なる不知哉(いさや)川日(け)のこのごろは恋ひつつもあらむ(斉明天皇「万葉集」)
長等山(ながらやま) 大津市。山麓に三井寺がある。桜の名所。助詞「ながら」と掛詞になることが多い。
○ さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(読人不知「千載集」)
鳰(にほ)の海 現代仮名遣いでは「におのうみ」。琵琶湖の古称。鳰はカイツブリのこと。
○ 鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな(式子内親王「新勅撰集」)
野路(のぢ)の玉川 六玉川(むたまがわ)の一つ。草津市を流れ琵琶湖に注ぐ十禅寺川かと言う。
○ 明日も来む野路の玉川萩越えて色なる波に月やどりけり(源俊頼)
比叡山 京都市と大津市の境を南北に連なる山。叡山とも。天台宗総本山延暦寺がある。延暦年間、最澄がこの山に一乗止観院を建立したのがその始まりであった。
○ 阿耨多羅(あのくたら)三みやく三菩提(さんぼだい)の仏たち我が立つ杣(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ(最澄[新古今])
○ おほけなくうき世のたみにおほふかな我が立つ杣に墨染の袖(慈円[千載])
○ 大比叡おほひえやをひえの山も秋くれば遠目も見えず霧のまがきに(曾禰好忠)
○ 大比叡やむかしの杣木こゑかすみいまも高ねに春風ぞふく(正徹)
○ 大比叡やをびえの雲のめぐり来て夕立すなり粟津野の原(賀茂真淵)
○ 大比叡やをひえのおくのさざなみの比良の高根ぞ霞みそめたる(香川景樹)
日吉大社(ひよしたいしや) 大津市坂本にある古社。比叡山延暦寺の鎮守。古くは日枝(ひえ)の社とも言った。広大な境内には、上七社・中七社・下七社の計二十一社を中心に、百八社の神を祀る(境外にも百八社がある)。西本宮には大国主命を、東本宮には大山咋(おおやまくい)命を祀る。
○ わがたのむ七の社のゆふだすきかけても六の道にかへすな(慈円「新古今」)
○ やはらぐる光さやかに照らし見よ頼む日吉の七のみやしろ(藤原定家)
○ 大空の星のくらゐもひとつにて君をぞまもる七の神垣(頓阿)
比良(ひら) 滋賀郡志賀町北比良・南比良あたりの地。琵琶湖西岸。古く舒明天皇の宮があった。西方の山々を「比良の山」と総称する。
○ 我が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな離(さか)りさ夜更けにけり(高市黒人「万葉集」)
○ 花さそふ比良の山風吹きにけりこぎゆく舟の跡見ゆるまで(宮内卿「新古今集」)
真野(まの) 大津市真野町。琵琶湖西岸。今堅田で琵琶湖に注ぐ真野川の下流にあたる。入江をなし、尾花(薄)の名所。
○ うづら鳴く真野の入江のはま風に尾花なみよる秋の夕暮(源俊頼「金葉集」)
三井寺(みゐでら) 滋賀県大津市の琵琶湖南西岸、長等山の中腹にある、天台寺門宗の総本山。三井寺は通称で、正しくは園城寺(おんじょうじ)と言う。天安二年(858)、円珍により延暦寺別院として発足したが、その後対立して分離した。延暦寺を山門と呼ぶのに対し、寺門と呼ぶ。
三井寺焼けて後、住み侍りける坊を思ひやりてよめる
○ 住みなれし我が古郷はこの頃や浅茅が原に鶉なくらむ(行尊「新古今集」)
○ 逢坂の小関をゆけば長等山三井寺わたりなくほととぎす(蓮月尼)
三尾(みを) 水尾とも書く。高島郡。
○ 思ひつつ来れど来かねて三尾の崎真長(まなが)の浦をまたかへりみつ(碁師「万葉集」)
三上山(みかみやま) 野洲郡野洲町にある山。三神山・御神山・御上山などとも書く。近江富士とも呼ばれる美しい山容。
○ 浅みどり三上の山の春霞たつや千歳のはじめなるらん(大江匡房)
水茎(みづくき)の岡 近江八幡市水茎(すいけい)町にある岡。上代、「水茎の」は「岡」に掛かる枕詞で、古今集などに見える「水茎の岡」が地名かどうかは疑わしいが、『八雲御抄』は「水茎岡」を近江国の歌枕としている。
○ 水茎の岡の葛(くず)原吹きかへしころも手うすき秋の初風(藤原定家)
三津(みつ) 大津市下坂本町あたりの琵琶湖岸。
○ ほととぎす三津の浜辺に待つ声を比良のたかねに鳴き過ぐべしや(俊恵)
守山(もるやま) 守山(もりやま)市。東山道の宿。動詞「守る・漏る」と掛詞になることが多い。
○ 白露もしぐれもいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり(紀貫之「古今集」)
野洲川(やすがは) 三重県境の御在所山に発し、三上山麓を流れて琵琶湖に注ぐ川。
○ うち渡る野洲の河原になく千鳥さやかにみえず明けがたの空(源頼政)
ゆるぎの森 「万木の森」などと書かれる。高島郡安曇川町。与呂伎(よろぎ)神社あたりを中心とした森。
○ 高島やゆるぎの森の鷺すらもひとりは寝じと争ふものを(「古今六帖」)
余呉(よご)の湖(うみ) 琵琶湖の北、伊香(いか)郡余呉町にある湖。「伊香(いかご)の小江(おうみ)」「伊香の海」とも呼んだ。天の羽衣伝説がある。
○ 雲晴るる比良山風に余呉の海の沖かけてすむ夜半の月影(藤原公重) 
セオリツヒメ
八張口神社
近江(あふみ)の風土記に曰(い)はく、八張口(やはりぐち)の神の社(やしろ)即(すなは)ち、伊勢(いせ)の左久那太李(さくなだり)の神を忌(い)みて、瀬織津比(せおりつひめ)を祭(まつ)れり。云々(創禊辨)
八張口神社は伊勢のサクナダリ神を忌んで、セオリツヒメを祀っている。という内容ですが、原文は以下のような漢文です。
「近江風土記曰八張口神社即忌伊勢左久那太李神所祭瀬織津比〔口羊〕也」
註によると「忌伊勢」という意味自体不明とのことですが、「イミイセサクナダリ」自体が神名かもしれません。或はそもそも神の名前ではなく、「伊勢を忌んで、さくなだり」。「サクナダリ」は動詞かも。まあこの辺、高名の注釈者たちですら解釈できなかった部分だと思うので、私が四の五の考えても詮無きことです。
聞いたことがない神社ですが、滋賀県大津市大石桜谷にある佐久奈度神社とのこと。
「佐久奈度神社は天智天皇御宇8年 勅願により中臣朝臣金連が当地において、祓 を創し祓戸大神四柱を奉祀した。当地は八張口、桜谷と呼ばれ、天下の祓所として 著名で、大七瀬の祓所のひとつである」文献としては『文徳実録』『三代実録』にも記載があるようです。
天智天皇が中大兄皇子という。飛騨のところでも出てきた大津宮遷都をはじめ、天智天皇の事績にはどうもいろいろな疑問があるようです。特に前帝斉明天皇の死後六年半も天皇に即位せずに称制を行ったことは古代史の謎だとか。あと大化の改新は実は天智=中大兄皇子が中心人物ではなくて、むしろ蘇我氏側に近かったので失脚したとかいう新説もあるそうです。『日本書紀』に改竄の後があるとか?あと大海人皇子=天武天皇は天智の弟じゃないとか?
さて八張口神社に戻って。天智八年、天智帝が正式に皇位を継承したのが天智七年(668)ですから、その翌年です。社伝が正しいとすれば、即位の翌年に「祓」に関係する神社を作ったということになります。
文中にもあるセオリツヒメですが、これは大祓祝詞にも登場する神です。その他三柱の神々も同じく「祓」の神々。「大祓」とは六月と十二月に行われる神事で罪や穢れを祓うための神事。となると気になるのは、何だって即位した翌年にそんなマイナス思考な神社を作るのか?ということです。せっかく何年も待ってやっと即位したのに、もっと威勢の良い神社(?)を建ててもよさそうなものです。  
「遷都」と「マイナス思考」と言えば桓武天皇ですね(?)平城京遷都は御霊信仰と深い関係があります。祟りを恐れて早良親王に「崇道天皇」という天皇名を与えたりしています。そして、系譜を見て気がつきましたが、桓武天皇は天智天皇の曾孫です。
だからどうしたと言う話ではありますが、要するに天智天皇の即位引き伸ばしも、大津宮遷都も、もしかすると曾孫桓武帝の場合と同じように、公私共にかなり無理やりなこと行ったが為に、それから逃れるべく行われたのではないか?逃れるというのが言い過ぎだとすれば、別に心機一転でもかまいません。
即位引き延ばしの原因は多様ですが、「いろいろ大変だったんだよ」という意味では同じです。周囲の状況が許さなかったにしろ、自粛したにしろ、普通の継承ができなかったことは確かです。そしてそれは穢れにつながる。通常「ケ」以下の状態が「ケ枯れ」です。だからこそ穢れを祓うために大祓の神々を祀る必要があった。まあそんな感じではないでしょうか?
さらになぜ「伊勢を忌む」のか?ということですが、セオリツヒメはアマテラスの荒御霊とされることがあることとも関係ありそうです。兵庫県西宮廣田神社の祭神は「現行=アマテラス荒御霊・戦前=セオリツヒメ」とのこと。また出典不明ですが、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮祭神も廣田と同じく元はセオリツヒメ、という話もあるとか。
伊勢を「忌む」のは天智天皇が皇統に対して何らかの間違いを犯したと意識していたからかもしれません。そして、アマテラスの荒御霊を鎮めるべく、或はそれを同一視されることもあるセオリツヒメを祀ることで、自らの罪を清めた・・・
竹生島
又云 霜速比古命之男 多々美比古命 是謂夷服岳神也 女比佐志比女命 是 夷服岳神之姉 在於久惠峯也 次淺井比命  是夷服神之姪 在淺井岡也 是 夷服岳與淺井丘 相競長高 淺井岡 一夜高 夷服岳神 怒拔刀劒  殺淺井比賣 々々之頭 墮江中而成江島 名竹生島其頭乎(帝皇編年記)
琵琶湖の竹生島に関する由来譚。
二つの山が高さを競い合って、浅井山が一夜にして急に高くなったので夷服山の神が怒って剣で浅井姫の首を切り落とした。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったという話。
「山の背比べ」系の伝説というのは結構いろんなところにあります。『辞典』によると以下の通り。
・ 駿河足高山は富士山と背比べをするために「もろこし」から渡ってきたが、足柄山の明神が生意気だと蹴り崩したので裾野は広いのに山の頭が無く低い。また園山のかけらで海岸に出来たのが浮島ヶ原。
・ 富士山と八ヶ岳。山頂に樋を渡して水を流すと富士山の方に流れたので富士は起こって八ヶ岳を叩き、八ヶ岳は低くなった。
・ 伯耆大山と韓山。韓山は韓から背比べのために来て、大山より高かったが、大山が木靴をはいたまま頭を蹴飛ばしたので低くなる。
・ 阿蘇山と猫岳。猫岳が常に挑戦したので、阿蘇山は岳の杖で何回も頭を叩くと猫岳の頭はでこぼこになり低くなった。
台湾の原住民にも山の高低を説明する伝承はあります。パイワン族が伝える大武山の伝承です。こちらは「叩いた」とか「首をはねた」といったものではなく、「一緒に低くなろう」と相手を騙すのでちょっと違いますが。
『辞典』の諸例を見るとこの伝承がある山々は各地域で信仰されている聖山です。台湾中央山脈南部に位置する大武山もパイワン族の発祥地とされることがあり、やはり聖山です。昔話っぽい戦いですが、それはこの伝承内では山自体が背比べをするからであって、或は日光と赤城山のように背景には「神々の戦い」というような観念があったのかもしれません。
竹生島自体にもいろいろな伝承が存在しています。
『竹生島縁起』(931年成立)によると景行天皇十二年八月に一夜のうちに生成したといいます。これは竹生島とともに日本三大弁財天に数えられている江ノ島と同様です。奇妙な一致ですが、弁財天信仰において同じような伝承が共有されていたのかもしれません。或は仏典とか?
またこの島には「竹生島神社(都久夫須麻神社)」と「宝巌寺」がありますが神仏分離以前は一つだったそうです。その由来譚も上記『竹生島縁起』によると聖武天皇の夢にアマテラスが現れて、弁天の聖地であるから寺院を建立せよと託宣し、行基が創建したものだとか。基本仏教ベースの伝承のようです。
しかし社伝によると雄略天皇の時に浅井姫命を祭神にした神社が作られたとも。また、昔読んだので確かではないのですが、竹生島のそこには竜が住んでいるという伝承もあったと思います。そしてそれは日本そのものを支えていると・・・黒田日出男氏『龍の棲む日本』に詳細はあったかと。松浦佐用姫伝承。大蛇の人身御供になったが、逆に大蛇を成仏させて自身が弁財天になった、というもの。
『辞典』には『発心集』巻三にも載る「仙童の琵琶」という説話が紹介されています。
奈良松室の僧は稚児を寵愛していた。稚児は学問はせず法華経ばかり唱えていたが、14、5歳で急に死んだ。時経て僧が山で薪を取っていると稚児に出会った。稚児は読経の仙人になったので人間界にはいけないという。三月十八日に竹生島で仙人が集って音楽をすることになっているので琵琶を借りたいという。僧は琵琶を貸し琵琶湖に行って見ると音楽が聞こえ、琵琶は返ってきた。しかし僧はその琵琶を竹生島の権現に献じた。
僧侶と稚児の話ですが、これも江ノ島にもありました。この共通性はいったいなんなのか?やはり日本の弁財天信仰は共通の素地があるのかもしれません。それが日本国内の共通性なのか、或はインドのサラスバティーまで遡ることができるのか? 
「竹生島縁起」
「竹生嶋縁起」(護国寺本)
護国寺本『諸寺縁起集』より。書写年代は1344年頃。底本は不明だが、1235年以後。文末に「承平元年」(931年)とある。
孝霊天皇の御代に、霜速彦命の三子、気吹雄命、坂田姫命(浅井姫命脱か)、ともに豊葦原の國に天降り、気吹雄命と坂田姫命は坂田郡東方に行って、浅井姫命は浅井郡北方へ行った。
浅井姫命は気吹雄命と勢力を競い合い、更に北に行って海中に座した。海に下る音がつふつふ(都布)と鳴ったので、「つふふ(都布夫)嶋」という。
この神は水泡を凝結させて岩と為し、魚を召して石をを運ばせた。今魚崎というのは魚が集まったところである。また鳥を召して木の種を落として植えさせた。今もなお鳥が集まる高い岩がある。時間をかけて林となったが最初に竹が生えたので竹生嶋という。
海龍が来て嶋を七めぐりしておさえている。尾を噛んでいる。一めぐり毎に神が洗われ、八方に住んでいるが、これが今の大神と七所神子である。
また他の人が言うには、この海には大鯰がいて、長さは千丈もあり、この嶋に巻き付いている。尾を噛んでいる。難波の海に大蛇がいて長さは数丈、宇治川を上ってこの嶋の上に来たり、嶋に来た人々を飲み込んだ。大蛇は尾に大きな松を生やしていた。首を海岸に垂らして水を飲むんでいたところ、大鯰が首をあげて大蛇の頭に食らいついた。これを引きずり込もうとすると、大蛇の尾についていた松は神崎浜へ飛んでいった。蛇の力は弱く龍にはかなわない。だから小神という。この蛇がいたところは今は虫尾というところである。
成務天皇の時、神は島の辺に現れて岩の姿になった。そこを通る船はおかしくなってしまい、仰ぎみて祈らない者の舟は取られて島に上げられてしまう。越國の人客古麻呂は大甕に酒を造り舟に乗せて海を渡っていたが、神に甕を空から取られてしまい、その甕は岩の上に置かれ、舟が動かなくなってしまった。古麻呂は幣を捧げて、私と私の子孫は代々神に仕えますから、島の神よ、この難を助けてくださいと祈った。すると神は舟を動くようにしてやった。しかし甕はいまも石の上にある。このために客氏が神の祝になって代々神に仕えている。舟で行く人はこの島に泊まると知弁が自ずから身に付いたので、後の人はこれを「智就」と言った。神は知恵と富貴を与えるので、「智富嶋」というようになったのである。
天平三年中臣恵美が反乱を起こしたので天皇は将軍伴涼太を遣わした。高島郡勝野浜で戦い、中臣兵は舟で東に向かって敗走したが、伴涼太が竹生島の神に祈ったところ、東風が吹いて中臣の舟が戻ってきた。伴涼太はこれを天皇に奏上すると天皇は神に従五位上勲八等を与えた。これがこの神が天皇に知られるようになった初めである。
同十年行基が来て草庵を作って修行した。四天王像を作って小堂に安置した。
勝宝元年、元興寺の泰平、東大寺の賢円二人が竹生島で勤行した。
同二年、神が泰平の童子穂積有本丸に神懸かりして、私が住んでいる乾宮では遠くて法を聞くことができないので、私の社を移して巽宮を作ってほしいと託宣があった。泰平、賢円は神託に従って巽宮に移した。今の御祭所宮崎はこれである。
以下僧侶や浅井家の人々などの仏教徒が観音像を奉る、食堂を作る、鐘を作る、などの仏教化の事績が続きます。
「竹生嶋縁起」(『群書類従』本)
応永22年(1415年)と奥書があり、『諸寺縁起集』記載の縁起と同じ内容が多い。しかしいくつかこちらにしかない伝承があります。
・ 行基が来たとき神が現れてこの島は金輪際より生えている金剛宝座石であると告げる。行基が持ってきた竹杖を地面にたてて、この地が三宝の地であるならば竹が生長するようにととなえたところ、竹が茂ったので「竹生島」という名前になった。
・ 海龍が大鯰に変化した。
・ 神が作った岩は「鷲岩屋」というが、これは霊鷲山を表している。
・ 役行者が来たことがあり、行者が作った卒塔婆がある。
・ 龍女?
・ 伝教大師の前に大弁財天女が現れて、竹生島に祭られた。
・ 慈覚大師が弁財天に誓約して立像を作って島に安置した。
・ 慈恵大師は母が観音に子宝を頼んだところ、夢に海の中に座り虚空に向かい、懐を開いて日光を受け入れたところ懐妊した。この島の弁財天の化身である。
・ 十五童子
・ 『渓嵐集』には琵琶湖は琵琶の形、竹生島は手、小島はばちであるという。
浅野姫が湖に潜水していることは確かですが、湖底の土を取ってくる、とはいいません。水泡を凝結させて礎となる岩を作り、あとは魚に石を運ばせ、鳥に木を植えさせる。
エリアーデが論じた潜水神話とはちょっと違います。「自然増殖する土」のモチーフが欠落している。「水泡が岩になる」というのは得意なモチーフですが、なぜだか日本では普通にありそうな気もします。ちょっと「さざれ石の巌となりて」を思い出します。
また島を安定させるために鳥に命じて植物の種を植える、さらにその中でも重要なのが竹であるというのは地名起源神話としてだけではなく、竹という植物の持つ「陸地生成能力」という意味で逸文版の「因幡白兎」伝承と共通するイメージがある気がします。ウマシアシカビヒコジとかとも関係があるでしょう。
しかしここでは自然生成ではなくて、浅井姫という創造神が島造りとしています。初めに浅井姫が潜ったという伝承がありますが、気吹雄命と争うために湖に潜るというのは意味がよくわかりません。しかし潜水時の音に意味があるという伝承はサルタヒコにもあります。あっちはおぼれてますが。あとその音ですが、「都布」とありますが、「都久」の間違いじゃないかと思います。ツフじゃチクブに遠すぎますし、竹生島にある神社の名前は「都久夫須麻神社」ですから。この部分、エリアーデがいうところの潜水神話の第一段段階ー神が自ら潜水して土を持ってくる伝承ーの名残、と考えることもできるでしょう。で、魚や鳥に命令を下すというのはエリアーデがいう第二段階です。二元論のモチーフはありません。いや、気吹雄と浅井姫が争っているのは別に善悪二元論ではないですし、気吹雄は竹生島生成には全く関与していません。
竹生島生成には『近江國風土記』逸文にも採用されている伝承が有名です。浅井山と伊吹山が高さを争っていて、浅井山が一夜にして高くなったので、伊吹山が怒って浅井山の首をはねてしまう。その浅井山の首が竹生島になった。この伝承については以前書きました。
「浅井山と伊吹山の対立」、このモチーフはかなり古代からあったということなのでしょう。やはりそれぞれを拠点、あるいは信仰対象としていた集団同士の確執を表した伝承である、とか言われているのかもしれません。そんなに単純かどうかはわかりませんが、伊吹山の神はヤマトタケルを殺した神であるというのはおさえておくべきだと思います。あと、「伊吹颪」というのがあるそうです。ヤマトタケルが雹に打たれて死んだというのは或いはこの伊吹颪のせいかもしれません。さらに伊吹山は「全山ほとんど石灰岩」らしいですが、これがどんなイメージを作り出すのか、ちょっとわかりません。でもということは伊吹山辺りまで湖があった、ということでしょうか?結構遠いですが。位置関係としては浅井は琵琶湖北東沿岸地域で、伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境です。
「縁起」と風土記逸文はずいぶん内容が違いますが、共通しているのは「竹生島は浅井と関係がある」ということです。まあ位置的には当たり前といえば当たり前です。
浅井と伊吹の対立というのは、或いは伊吹颪と関係があるのかもしれません。伊吹山から吹きおろす寒風は浅井の人々にとっては厳しいものだった。ヤマトタケルですら死に至らしめるほどの寒風です。浅井姫の首を切ったというのもそういう意味があるのかもしれません。で、浅井の人々の信仰は琵琶湖に浮かぶ竹生島へ向かうというわけです。
上記二つの伝承以外に、『先代旧事本記』では景行天皇12年に湖が燃えて、湖底から竹生島が湧き出たとされています。
また民間では竹生島は湖水に浮かんでいるという伝承があります。もとは三つの島からなっていたが、二島が流されてしまったというのです。中国の蓬莱山伝承とまるっきり一緒です。しかも竹生島の近くの離れ小島が流されないように三月三日には「島つなぎの式」という儀礼が行われていたそうです。
「縁起」と「風土記逸文」の伝承では「浮島」伝承と矛盾しませんが、「旧事本記」と『群書類従』本に載る「金輪際から生えている」という伝承、或いは鯰伝承からみると「浮島」はありえないという、非常に面倒なことになっています。
「島の湧出」伝承は神奈川江ノ島などにもありますが、「旧事本記」は平安初期成立という古い資料ですから、仏教的な観念ではなさそうです。しかし上にも書いたように「縁起」の潜水型的伝承も記紀神話に通じるような世界観です。
竹生島には、龍=鯰・鯰と大蛇・行基・仏教帰依伝承など、竹生島にまつわる伝承は数多く、それぞれに興味深いです。『日本伝奇伝説大事典』には以下のような伝承も載っていました。
・ 竹生島の神は姉妹龍神の妹神で、瀬田に住む姉神が毎日この島へ通ってくる。
・ 越前の漁夫が竹生島の根を見ようと潜ってみると無数の大鯰がうごめいていた。
・ 『和漢三才図会』によると八月中旬月明かりの夜、島の北岸に数千の鯰が跳ね回っている。
・ 能。醍醐天皇が竹生島参詣で女と翁にあう。弁財天と龍神。 
竹生島生成伝承
1 「竹生島生成伝承」と「山の背比べ」
『日本伝奇伝説大事典』「山の背比べ」の項目にも『近江國風土記』逸文が引かれています。岩波古典文学大系『風土記』でも「山の背比べ伝承か?」と註がついています。
確かに『風土記』逸文でも「竹生島縁起」でも伊吹山と浅井岡の対立が語られています。なので、私も前にこの逸文について記事を書いたときには「山の背比べ」伝承を挙げましたし、一つ前の記事でも言及しました。
しかし、よくよく考えると、そもそも「浅井岡」とはどこなのか、実はわかっていません。伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にある山で、これは疑いがないわけですが。
「山の背比べ」伝承について『伝奇伝説大事典』が挙げている事例は、私が前に挙げた事例と同じく、「二つの山の高低の由来」が主題です。でも、この竹生島生成伝承では二つの山のうち一つはその存在すらあやふやなのです。
「浅井岡」というからには、伊吹山山系の山々の一つではなく、「浅井」地方にあった丘と考えるべきでしょう。しかしそんな丘は存在しない。ということは、この伝承の主題は「二つの山の高低の由来」ではないということになります。
そう、この伝承の主題はそのものズバリ、「竹生島生成」です。何を当たり前のことを、と言われてしまいそうですが、いわゆる日本民俗学における伝承文学研究では研究者が考え出した話型に引きずられて、伝承個別の意義が等閑視されてしまうというのは実によくあることなのです。
「蛇婿伝承は神聖な結婚で神聖な子供が産まれるのが基本型」と決めてしまうと他のタイプは「後の時代の変化型」とか言われてしまうわけです。
この問題結構根が深いですが、現在の研究潮流的にはどうなっているのか?私もよく知りません。
「類似タイプの多いもの」「(柳田がいうところの)神話的なもの」が「話型の基本型」とされてしまうことが多いと思いますが、それだと私が主に研究している記紀風土記の神話や寺社にまつわる縁起伝説の類は実は少数派になってしまうことが多かったりするのです。なぜだろう?具体的なコトモノトコロに結びつけられる個別的な伝承が多いからでしょうか?
2 「一夜湧出」型竹生島生成伝承
竹生島生成伝承をそのものとして見ると、確かに山の対立が物語の発端ではありますが、結論としては竹生島生成を語っているわけで、「山の背比べ」伝承とは大きく異なります。
視点を変えると「竹生島の生成を語るのにどうして伊吹山が出てくるのか?」という問いかけもありだと思います。
前に挙げた竹生島生成伝承には伊吹山に言及しない、「一夜湧出」型もありました。『先代旧事本紀』景行12年の記事です。まあこれも景行天皇の時代=ヤマトタケル東征と関わって、やはり伊吹山に関係があると言えるかもしれませんが、ちょっと無理があると思います。記紀、というか古代天皇王権側の「我々が近江国と積極的に関わるようになるのは景行天皇の頃から」という「歴史観」によっている、その程度の関係性ではないでしょうか?
これはこれで一種の神話です。王権との関係性を説く神話。遠野における「大同年間」と同じような意味で。滋賀県下の伝説や寺社縁起を集めて、どのぐらい「景行という時代」に言及があるか調べてみないとわかりませんが。
「湖東地域の王権との関係性を伝承から考える」などというテーマはちょっと手に負えないので、「一夜湧出」型竹生島生成伝承は今回はパス。ストーリー性のない短い伝承ほど研究するためには類似例の収集と大枠の設定が必要になるのです・・・
そうなると、風土記逸文「浅井姫の首」と「縁起」の「浅井姫の島作り」が今回の考察対象ということになります。
3 『近江國風土記』逸文
この伝承では伊吹山の神と浅井岡の神の争いが語られます。
伊吹山は男神、浅井岡は女神で、両者はオジーメイ関係にあるといいます。山の争いであるとともに、家族内での争いという様相があるわけです。ちなみに、二つの「竹生島縁起」のうち、『群書類従』本は二人を兄妹としていますが、より古い記録と思われる護国寺本では浅井姫と伊吹山の神は親族関係が言われていません。
その争いの中で、浅井岡が一夜にして高くなる。「一夜にして高くなる」というのは普通の「山の背比べ」伝承には普通はないモチーフで、むしろ先に挙げた竹生島の「一夜湧出」と同じです。
「山」と「岡」ですから、普通は山の方が高いですし、伊吹山は男であり、世代も上ですから、浅井岡がそれよりも低いのは当たり前です。にもかかわらず、下の世代の女性が上の世代の男性よりも高くなった。
山に性別があるというのは大和三山伝承などでも言われることですが、ここでは伊吹山が浅井岡の首を切り落とすことの理由になっているとも考えることができます。「メイがオジよりも急に背が高くなった」ことが物語に展開を生むわけです。
首をはねるとありますが、はねた首が何かに変化する伝承というのは、『伝奇伝説』「山の背比べ」にも事例が載っています。富士山と愛鷹山の背比べですが、足柄山(明神)が介入して、愛鷹山の頭を蹴り砕き、その破片を集めて海岸の細い陸地にしたとか。浮島が原。
愛鷹山がどんな山か知りませんが、山頂が平たく見える山は「頭がなくなった」などといわれる可能性があります。
湖の中の島。日本にどのぐらいあるのか知りませんが、私が実際に行ったことがあるのは台湾日月譚のサオ族の聖地ラルーと雲南省撫仙湖孤山です。
ラルーには生成伝承はなかったと思います。サオ族の起源伝承は移住伝承なのですが、彼らが南部から移住してきたときにはすでにラルーは存在していました。
撫仙湖には悪竜と神仙が戦う伝承があります。悪竜が洪水を起こそうとして川をせき止めるために近くの山を削りとったものの、良い龍神が鶏に変化して鳴いたために、悪竜は朝になったと勘違いして、その山を湖に放り込んで逃げたといいます。山が擬人化されている訳ではないので、「首を切った」とは言わないものの、湖近くの山が湖中に落ちて島になったという観念は竹生島と近いものがあります。
ラルーと孤山はどちらも湖中島で聖地です。野本先生の聖地論に「湖中島」はありませんが、「川中島」はあります。水に囲まれた=水垣の地は聖地になりうる。三輪=水輪にもその観念がある。
次に「首を切る」或いは「切られた首」ですが、『神話論理』に引かれたアメリカ原住民の伝承では月になったりします。馘首の風習があった台湾原住民の神話に切った首が何かになったという伝承があったかどうか、すぐには調べられませんが、馘首自体は単なる戦争の結果ではなく、村落の豊饒と関係付けられて祭祀対象となります。日本では・・・蘇我馬子の首のような首塚伝承がありますが、これ農耕祭祀とかと関係あるのかなあ?雨乞いとか?
もう一つ「オジがメイを殺す」というモチーフがありますが、これについてはさらに類似伝承が思いつきません。家族殺しまで広げると「父が子を殺す」なら火神殺害、「嫁を殺す」なら嫁殺し田、ぐらいでしょうか。「男が女を殺す」なら「保食神殺し」。何にしてもオジの伊吹山が浅井姫を殺してしまうというのは残酷ですが、ここでは逆に殺害の動機として、あえて「オジメイ」関係になっているような気もします。つまり家族であり、世代の別があるからこそ、負けたオジの方がかんしゃくを起して殺害に至る、というわけです。
私は、この「殺害」はやはり死体化生の観念と関係があるのかなあと思います。まあ死体化生にしても、日本には穀物起源神話はありますが、世界創造神話はないのですが。「死体化生型地形由来伝承」とでも言っておきましょうか?
穀物起源神話における死体化生は基本的には「死と豊饒」という逆説的抽象的な思想から生じています。切り落とされた「首」というと今の感覚では恐怖しか感じませんが、オセアニアでは椰子の実になったり、ベトナムではパイナップルになったりもしますから、やはり単なる「死」ではなくそこから何かが生じます。
ただ、竹生島信仰を支える側では気持ちが良い伝承ではないでしょう。死が豊饒をもたらすというのは神話的には普遍的真理の表現ですから、世界の創世や穀物果物の起源としてはあり得ます。でも自分が拝んでいる対象が「首」だというのでは、ちょっと「なまなましすぎる」。
「縁起」は竹生島を信仰する人々が書いた文章だと考えるのが妥当だと思いますが、そこでこの「浅井姫の首」伝承が採用されなかったのはある意味当然だと思います。
4 「竹生島縁起」
次は「竹生島縁起」について考えてみましょう。
ここでも山の争いが言われますが、高さを競い合っているようにも見えません。浅井姫は琵琶湖に潜ってますから。
浅井岳の神が湖底に潜る。・・・なぜ湖底に潜るのか?正直よくわかりませんが、猿田彦が貝に手を挟まれて溺れるの伝承を思い出しました。関係ありそうな気がするのですが。
ともかく浅井姫は竹生島を作ります。なぜ竹生島を作るのか?山の争いと何の関係があるのか?原文には伊吹の神と浅井姫は「勢を競いて、力を争う」とあります。高さの争いではない・・・領地の争い、ですか?だとしたら、竹生島を作ることは領地を増やすことになりますが、領地と言うほど広い島でもありません。
ところで竹生島生成は浅井姫が土台を作って、魚が石を運び、鳥が植物の種を運び、竹が生えたことによって完成します。琉球の島建てにも似ている。
この部分はそれぞれ魚崎や鳥が集まる岩山、竹生島の名称の由来である竹と単なる説明にもですが、実は結構重要だと思います。それはこの島の「豊饒性」の現れだと思われるからです。
竹生島の動植物相について詳しい資料は手元にありませんが、巨大な琵琶湖において、その存在は景観的にも自然環境的にも大きなアクセントになっていると思われます。広い琵琶湖で鳥が休むには良い場所でしょう。それによって現実的にも植物相は多様になるでしょうし、虫も住むでしょうし、それをねらって魚もくるでしょうし。小さな島でありながら動物が集まる、ある意味琵琶湖の豊饒性を凝縮したような場所となるはずです。また特に竹を強調している。竹は林立しますし、成長も早い。生命力を感じる植物です。
竹生島に対する信仰も多様ではあると思います。調べ始めると切りがなくなりそうなのでやめておきますが、やはり農耕に必要な水を供給する「琵琶湖の神」という意味も大きいと思います。だからこそ龍が住み着いているとされたり、水の神弁財天であるとされたり、酒甕を強制没収したりするのです。
一方、伊吹山の山容は三合目以上は草地らしい。麓には針葉樹広葉樹の林が広がっているそうですが、山そのものに高い木は生えていません。1377mの三合目ですから、木が生えないほど高いとは思えないのですが、実際の写真を見ても木といえるほどの木は生えていないようです。恐らく、ほとんど石灰岩で出来ているという特殊な土壌とも関係があるのでしょう。
伊吹山には伊吹童子つまり鬼の伝承があります。また伊吹山の神はヤマトタケルも殺す。逆にヤマトタケルが鬼を殺す伝承もあります。なんにしても「恐ろしい神/鬼が住むところ」であるというのは確かです。伊吹山、古代においては「荒れた土地」「不毛な土地」というイメージがあったのではないか?含む「伊吹颪」。
平安期になるとモグサなど薬草が有名になるようですし、実際に固有の高山植物も豊富だそうですが、遠くからみるとわからないような気がします。私が見つけた遠景写真は冬のものが多いのですが、山頂には雪が積もり山腹は黒に近い灰色です。
さて以上のような考察の結果、この竹生島伝承は実は「伊吹山VS竹生島」という構図なんじゃないかな?と思えてきました。
伊吹山と竹生島
陸地の高山:湖中の島
高木なし:竹が生える
動物が少ない?:動物が多い
大きいが不毛:小さいが豊か
高さを強調:深さを強調
こんな感じに対比できます。
浅井地域はかなり古くから人が住み豊かな土地だったようですが、その豊かさは主として西の琵琶湖によるものだったと思います。一方東の伊吹山は高いけれども遠くからみると一見不毛に見えます。
そうなるとこの伝承は「富士と筑波」伝承と類似性があるように思えてきます。二つの土地の相違を説明するための伝説というわけです。
それぞれ、話型は全く異なっているわけですが。
富士山と筑波山・・・異人歓待による説明
伊吹山と竹生島・・・死体化生or女神の生成
「富士と筑波」は高さでは圧倒的に富士山ですが、筑波山の豊かさを説明する神話になっています。
竹生島起源伝承は、話型こそ「山の背比べ」のようですが、実は「富士と筑波」と同じように「不毛と豊饒の対比」を語る伝承だったのではないかと思います。
『伝奇伝説大辞典』「山の背比べ」の項目では、背比べをする山とそれを見る「視点」がどこにあるか、ということを解説していますが、この竹生島生成伝承にもそういう見方は有効でしょう。
湖面に浮かぶ竹生島と寒風吹きすさぶ伊吹山。竹生島生成伝承はその二つの対照的な景観に挟まれた湖東地方に成立したものだと思われますが、心情的には竹生島に愛着を抱いていたのかなあと思います。
5 竹生島生成以後の諸伝承
・ 後に世界観が広がると、湖南系の龍の伝承が混入したか龍の伝承が生じ、また竹生島の鯰と難波の大蛇の対立伝承、日本海側=越國の祝伝承が生じた。
・ 併せて仏教的世界観が浸透し始めると、機内から行基伝承、或いは伊吹山へは役行者伝承が入り、それが竹生島伝承にも組み込まれる。上の鯰と大蛇の対立も仏教信仰浸透の過程で生じた可能性あり。
・ さらに琵琶湖周辺世界において比叡山信仰の影響力が高まって竹生島と比叡山僧侶の関係を示す伝承が多くなるか?
・ 「竹生島が日本のへそであり、地震の発生源である」といった伝承は関東が政治的に重要度を増してきた中世以降では?
もちろん、生成伝承以外の伝承は時間的な前後関係は不明瞭です。しかし竹生島生成伝承は在地の伝承だと思います。
・・・まあとは言え、「伊吹山の不毛」というのは良くわかりません。実際に見たことはありませんから。ただ、西に湖、東に山というのは結構コントラストが強い気がします。 
竹生島生成伝承 追記
前回は『帝王編年紀』の「首切り伝承」と縁起の「島作り伝承」を対置させて扱いましたが、実は後者の伝承はよく読むと二つの部分に分かれている。浅井姫が北の海に沈んだ部分と島作りの部分です。
浅井姫の潜水と猿田彦が溺れた伝承の類似姓についてはすでに言及しましたが、この辺もっとつっこめるかもしれません。
それは「水死者に対する信仰」という視点です。まあ浅井姫が水死したとは言っていないので、あくまで想像で飛躍させた上で、ということになりますが、「首に対する信仰」を考えるよりも、「水死者に対する信仰」を考えた方が日本的な気もします。
水死者を「えびす」などと呼んで豊漁を願う観念というのがあるそうなので、その辺も関係あるでしょう。・・・でも竹生島生成伝承では漁についての言及がないので、ちょっと弱い気もします。
一方で水死者が竜蛇となる伝承群とは相性がいいかもしれません。
壇ノ浦で入水した安徳天皇ですが、「ヤマタノオロチの生まれ変わり」という伝承があるそうです。スサノオに奪われた草薙剣を取り返した、というのです。もちろん入水後草薙剣が発見できなかったということから生じた伝承です。ただ、安徳天皇は後の水天宮信仰において祭神とされどちらかと言えば水害避けや海難避けの祈願対象とされるようです。荒ぶる水の神というわけです。最近読んだ小馬徹氏の論文によると河童とも関係あります。河童も秋田や青森では「ミズチ」的な呼ばれ方をするようなので、やはり蛇=水神伝承とも源を同じくして、それに猿水神のイメージが重なったのでしょう。
そして当然全国に伝承される蛇婿入り伝承と嫁入りして竜蛇身となった女神に対する伝承とも関係します。「婚姻」の部分が強調されすぎる傾向がありますが、これだって入水の一種です。人身御供の説話的表現である可能性すらあります。その代表格である夜叉ヶ池は岐阜県ですから琵琶湖からはすぐそこです。
水死者が川の神になるというのは中国の河伯でもそうなのですが、「豊穣をもたらす水の主」というイメージが強いかというとそうでもなく、やはり「河伯娶婦」といって人身御供をして氾濫を治めるなどの習俗もあったようです。まあ黄河の神ですから氾濫も多かったはずなので、ありえることです。また射日のゲイが河伯を射て左目を傷つけたという伝承もあります。
・・・やはり潜水することと、水死はつながらないのか?
また生成伝承ではありませんが、祭祀起源伝承で言及される「船をとどめる」神というのは風土記に頻出する交通妨害の神との関係姓も伺わせます。
古代における山越えの困難を説明した伝承ですが、これらの伝承は後にそこで死んだ死者の祟りとして再解釈されていく可能性が高い気がします。大物主信仰が御霊信仰に取って代わられたような感じで。
まあ竹生島生成伝承の場合は比較対照として言及される伊吹山のほうが逆に鬼の住処として著名なわけですから、他の交通妨害の神の伝承とは次元が違うのは確かですが、神が祭祀を要求する一つの方法として交通妨害のモチーフがあるというのは確かだと思います。
琵琶湖と龍。
湖南三井寺を中心に伝わる蛇女房がその代表格ではあります。浅井姫も女神ですし。
しかし竹生島のある湖北・湖東北部とはちょっと距離を感じるのも事実。三井寺蛇女房伝承には死のイメージがないからです。
この辺どう交わるのか?琵琶湖と言っても広いですし、時代によっても多地域との交流の流れに強弱があるような気もします。 
湖北の伝説 その一
竹生島生成伝承とは関係なくなっている、という指摘は当たりません。竹生島に言及しない伝承でも、その近くで竹生島伝承と並んで語られてきた伝承には様々な共通点や対比関係があるはずです。
なぜなら伝承とは孤立して成立するものではなく、その場所の世界観に組み込まれているからです。まあ、もちろん関係ありそうなものだけです。キーワードは琵琶湖・水・女・龍蛇、あたりかな?
ということで、「湖北の伝説」。種本は『近江の伝説』です。
一般に「湖北」とは米原あたりから北の方を指すようで、私が思っていたよりも「東」な感じです。『近江の伝説』では竹生島はここに入っているのですが、西の方には別の伝承があったりするかもしれません。それはまた後で。
この地域、やはり北陸との交通路に当たるようです。竹生島祭祀伝承で越の人が登場するのも頷けます。
長浜天満宮境内にある「目建解の墓」。長野の猿神退治と同型の伝説。あちらは「しっぺいたろう」でこちらは「目建解」が犬の名前です。・・・どちらも変な前ですが、何か意味があるのでしょうか?というかそもそも日本の伝統的な動物個体名称についてほとんど知識がありません。
「この神社に怪物が現れるので毎年人身御供で娘を出していた。その期日が近づいたある夜、ある旅人は湖から怪物があがってくるくを見て、後を付けると境内で歩きながら『メタテカイに喋るな』とつぶやいている。翌日旅人が村人にそれを告げると、それは浅井の野瀬の長者が飼っている犬だろうという。人身御供の日にその犬を連れて神社でまっていると怪物があがってきた。すると目建解は怪物に飛びかかってかみ殺した。怪物は年経た川獺だった」
人身御供・外部者の協力・怪物が怖がる犬・・・と、猿神退治とほぼ共通するモチーフを持っていますが、やはり琵琶湖湖畔、怪物は川獺になってます。
不明な点も幾つか。
・ 村人はなぜ人身御供を出すか?
・ 旅人はその後どうなった?
・ 川獺はその後祭祀されたのか?
ともあれ、琵琶湖が単なる「豊饒の海」というだけではない、ということはわかりました。
竹生島についても幾つか伝承が載っています。
「浮島で下は湖底につながっていないという説がある。越前の漁夫が潜水してその元を確かめに。人々は下に龍がいて、潜った人は帰ってこないからやめろと止めた。でも行く。午前十時開始で戻ってきたのは日暮れ時。龍はいないが巨大なナマズが群れていたと」
浮島モチーフについては前にも書きましたが、ここではそれに挑んだ漁師の話。やはり越の人。「龍ではなく鯰」というのもどっかで変化があったはずで、これについては『龍の住む日本』にも何か書いてあったはずです。北陸と関係あるのか?それとも全国的な流行か?
朝から夕方まで潜っていたというのは海中異界モチーフでしょうか?
「琵琶湖には鯰がたくさんいる。竹生島の弁財天は鯰がお気に入りで、中秋の名月の夜は島の北岸の砂浜の上へおびただしい鯰が上がってきて跳ね回る」
弁財天は蛇、というのが実は通説で、鯰はイレギュラーです。江ノ島も蛇。中秋の名月と鯰というのもどんな関係姓があるのか不明ですが、中秋自体が農耕祭儀的な意味合いが強いことを考えると、「地震鯰」以前或いは同時に農耕との関係もあったかもしれません。
朝日山東山麓。白装束をまとった男たちが夜中に松明を持ってこの山に登り湖の方を向いて雨乞いをした。ここの豪族・阿閉(あつじ)貞大は明智光秀に荷担したので秀吉に滅ぼされたが、夫人は湖へ身を投げ、その怨念は大蛇となって雨を降らせた。雨乞いはその大蛇に対して行った。
宮田先生が聖研究で言及していたかもしれません、この朝日山。この地方、長浜城があったせいか秀吉に絡む伝承が結構あるようですが、この伝説はもっと古い起源がありそうです。
「入水した女が龍蛇になる」系の伝承。やはり琵琶湖の神は女で蛇。もちろん仏教的なイメージもありますが、この辺の地域ではむしろ民間神話として機能していたと考えていいでしょう。
野田沼。朝日山と琵琶湖の間にある沼。やはり大蛇が住んでいて、昔はこれに雨乞いをする習慣があった。朝日山城主の姫が嫁ぎ先から里帰りをして、寝所で休む時、家来たちには襖を開けぬようにといいつける。家来の一人がのぞいてみると姫は大蛇の姿でとぐろを巻いていた。姫はそのまま山をかけ降りてこの沼に入水したという。
・・・先の阿閉夫人の話と似ている。というかこちらの方が民俗的です。里帰りで邪心になってしまうというのは、「故郷に帰って気がゆるんで正体を現した」と考えるべきなのでしょうか?それとも、嫁ぎ先がどこかわからないですが、そっちとの関係から蛇体になったのか?
朝日山の話は「女が入水して蛇になる」。野田沼の話は「女が蛇になって入水する」。話型は違いますが、結論は同じ。「雨乞いの神の起源譚」です。
湧出(ゆるぎ)山。昔、唐川の里に由留伎という凛々しい若者がいたが、余呉の里の賤(しず)という娘が慕っていた。しかし娘は病気で死ぬ。するとその夜激しい風雨があって、地鳴りがした。一夜あけてみると余呉の里は湖に変わってしまった。そして唐川の里の北側には一つの丘が湧き出た。丘が余呉川をせき止めて大きな湖ができたが、底には一匹の大蛇がすんでいた。それは賤の化身らしく、唐川近く湧出山の麓に姿を現す。ある時弘法大師がこれを聞いて賤の霊をを回向して、丘の西端を切って水を南へ流したので、湖は元の沃野となった。そのとき賤の霊を湖の北側へ鎮めたので、その山を賤ヶ岳と呼ぶようになった。
・・・また女の蛇です。ちょっと安珍清姫型の話です。入水はしませんが、女は死後蛇になる。男がどうなったのか不明ですが、名前が一緒ですから、山になったと見る方がいいのかも。あと余呉湖の起源伝承でもあります。
嫉妬深い女が蛇になるというのは普通の仏教的転生感ですが、ポイントはその霊が最後には救済されるということでしょう。女人往生的な話ですが、弘法大師が登場している点もその要素はよく出ている。
ところでこの話、竹生島生成伝承「首切り」型とちょっと似ています。
一夜に山が成長し、湖ができたこと、しかしそれがそのままにならずに新たな地形の創出を語ることです。
湧出山と賤ヶ岳。距離は5キロもありません。実際に行ってみないとわかりませんが、山・岳と名付けられているのですから少なくとも周囲よりは高いのでしょう。その二つの山の恋物語である、というのがこの伝承の意味なのだと思います。
湧出山の近くにある石作玉作神社。この地域は玉造の里だった。
ある時、伊吹の主伊吹三郎がやってきて、玉を磨いている美しい娘を見初めたが、娘は里の長の息子と許嫁だった。しかし伊吹三郎は怪力の暴れん坊なので、父は困ってしまう。父と里の長はともに困ってしまったが、結論は先延ばしにした。三郎はおとなしく帰ったが、三年たってもはっきりしないので、怒って岩を投げ始め玉作りの里へ降り注いだ。娘玉姫はついに決心して伊吹三郎の元へいくことにした。その後岩の雨はやんだ。
さて、ここでも伊吹山の鬼が登場。鬼とは言ってませんが、岩の雨を降らせるなんて普通の人間じゃありません。
竹生島生成伝承で浅井姫の首を切った伊吹山。女をよこせと岩の雨を降らせる伊吹山。やはり伊吹山のイメージはかなり恐ろしいです。
またこの伝承からも琵琶湖沿岸湖北地域の人々の世界観には伊吹山がしっかり組み込まれているのがわかります。
ならば、「西の竹生島と東の伊吹山」という私が机上で考えた対比もあながち空事とも言えないでしょう。さらに「女と男」という対比も成り立つかもしれません。琵琶湖やその周囲に点在する湖沼には女が、山には男が配される。
「山の神は女神である」という民俗学的テーゼは山深い土地のものです。一方「海の神は女神である」とも言いますがこちらは海岸沿いの漁村の話でしょう。これは逆転しているようで共通している。「人間界」である村落とそれに対立する「異界」という山、或いは海。山村ならば山が「異界」で、漁村ならば海が「異界」、そして「異界」の主は「女神」というわけです。
近江ではどうか?やはり琵琶湖が「異界」なのでしょうか?しかし周囲の対して高くもない山々も聖地が多い気がします。湖北では伊吹山、湖南では三井寺、湖西では比叡山など。
これはやはり琵琶湖との対比によっているのでしょう。そして「湖は女、山は男」という対比が生じている、と予想。海辺の漁村と近そうですが、湖は海ほど絶対的な異界ではないので、琵琶湖周辺の湖沼にも小さな「水の女」たちが住み着くことになったのだと思います。 
湖北の伝説 その二
浄信寺木之本地蔵。
難波海中から出現した地蔵菩薩像で、天武天皇が霊夢を得て薬師寺の僧に取りに行かせたというもの。それを仏教教化が進んでいない僻地へということで湖北まで持ってきたとか。
眼病に霊験があって、境内の蛙は人々に自分の目を与えるので皆片目であると信じられているとか。
片目の魚伝承を想起させますが、この琵琶湖では龍も自分の子供や乳母のために目をくり貫いたりします。
この「人間のために目をくり貫く動物」というモチーフは仏教教典にあるものなのでしょうか?例えば高僧が不況のために目をくり抜いた、とか?それとも民間のモチーフなのでしょうか?中国とかにもあるのかなあ?
この仏像。弘法大師が修復していたときに寺前の湖中から賤という悪龍が童女の姿で現れて大師に帰依したという伝承もあるそうです。これも賤ヶ岳の起源伝承ですが、琵琶湖の龍は良いのも悪いのも女性です。考えてみれば中国白蛇伝も湖で女性です。
余呉湖羽衣伝説。民間では桐畑太夫が天女と結婚しますが、その子が菅原是善に養われて道真となったという偉人の出生譚になっていたりします。
風土記逸文では氏族起源神話ですが、民間では偉人出生譚。この変化はなかなか面白いです。この地域菅原氏と何か関係があるのでしょうか?
湖畔には「衣掛け柳」があるそうです。
桐畑太夫についてはもう一つ伝承が乗っています。
もう一人の子供は菊石姫といって、成長するに従って蛇身となった。このまま地上にとどまることはできないと考えて、乳母に片目を与えて余呉湖へ入っていった。菊石姫の目玉は龍の目玉だと評判になって都の貴人に取られてしまい、もう片方の目も献じるようにと迫られる。乳母は菊石姫を呼ぶと蛇身になり果てた姫が現れて残った目も乳母に与えた。姫は昼夜がわかるように堂を立てて鐘を突いてくれるように頼んだ。桐畑太夫は湖周辺の七つの森に鐘堂を立てて朝夕に突かせたという。
新羅の森の湖畔には「菊石姫の目玉石」と「枕石」があり、枕石は干魃の時に陸に引き上げて祈ると雨が降るという。
異類婚要素がないことをのぞけば、ほとんど「三井の晩鐘」と同じ伝承です。どうも琵琶湖はこういうのが多いです。琵琶湖の伝承が近隣の湖沼についても縮小再生産されているように見えます。あくまでも「そう見える」だけで、各湖沼にまつわるバラバラの伝承が、琵琶湖の伝承に集約されていった可能性もありますが。
それと、雨乞い。琵琶湖周辺にも雨乞い伝承が結構あるというのは実は非常に意外です。灌漑技術が進んだのは結構最近のことなのでしょうか?
狼の社、は飛ばして、虎御前山。みごもって白い小蛇を生んだ美しい姫が、小野山の麓の池に身投げして死んだ。虎御前とはその姫の名前。
これは女が蛇になったわけではないです。どうやって妊娠したのか書いていませんが、蛇を生んだことを恥ずかしく思って死んだということでしょう。信仰儀礼などは記載がありません。
玉泉寺・良源産湯の井。良源は天台宗中興の祖で、慈慧大師。正月三日に死んだので元三大師とも呼ばれるそうですが、その元三大師の姿であるとして二本の角がある鬼のような絵が護符として用いられているそうです。どこかで写真を見たことがありますが、中国古代黄帝と戦ったシユウの図像にものすごく似ていた気がします。
この良源、母が病に伏したとき看病に戻ってきたものの修行中の身で長居するわけにもいかないので、木像を彫って「私の変わって母を看病せよ」と申しつけたところ本当に生きた人形のように動き出したという。この木像は「無言の大師」として玉泉寺の本尊となっていたが、信長に焼かれた。
仏像そのものに霊力があるという話は結構多いのですが、これも本当に仏教的な観念なのか怪しいです。
今回は蛇関係の伝承三つ。やはり多いです。
ところで、『近江の伝説』は前半が紀行文的な伝説紹介、後半にいくつか主要な伝説がまとめられています。まあ当然のように、調査地や調査時期や調査対象は全く書かれていない上に、どうも選者の知識でいろいろ付け加えているようなですが、そこの「余呉の湖の天女」の冒頭に興味深い伝承が紹介されています。
「ある夜急に大地が裂けて琵琶湖ができた。その削り取られた土が駿河でせり上がって富士山になった。しかしその富士山はちょっと不格好だったのでもう一度地が裂けて、その土が加わり今のきれいな富士山になった。この二度目に裂けた土地が今の余呉湖になった。その二度目時余った土が湖東の三上山になった。それと関係がある習俗。他国の者が富士詣でをしているとき山があれるた時は「近江生まれの者はいないか?」というと嵐がやむという。それで富士登山では近江出身者を雇って登るという習慣ができた。」
とまあこんな伝承です。日本一の富士山と日本一の琵琶湖を関連づけた神話的地学ともいうべき解釈ですが、これはもちろん比較的新しい伝承だと思います。
しかし一方で、「湖と山」を関連づけているという意味では琵琶湖周辺の世界観に即した伝承だといえると思います。 
湖北の伝説 その三
三島池。別名比夜叉池。
ある年干天が続いて干上がったので領主佐々木秀義が占わせると人柱を立てるようにとお告げあった。しかしそれに応じる人はいない。秀義の乳母比夜叉御前が機を織っていると外で村人が人柱の話をしているを耳にした。比夜叉御前は機を持ったまま池に行ってわずかに残っている池の中心の水に沈んでいった。その夜池は不思議な音を発して、翌朝になると水が満ちていた。
池の西岸にある三島神社は佐々木源氏の本拠であるが、その神社から少し離れたところに比夜叉御前の供養塔と伝えられる石塔がある。今も雨の日に池の畔を歩いていると池の底から微かな機音が聞こえるという。
伊吹山は岐阜県との県境にある山ですが、それと琵琶湖との間にあるのがこの三島池=比夜叉池。岐阜県には夜叉ヶ池がありますが、名称的にも関係はありそうです。機織りが重要な要素になっている点も同じですが、あちらは蛇婿伝承、こちらには蛇婿の姿はありません。分類的には機織淵型の伝説。
夜叉ヶ池の場合は池の主である蛇=自然の力を人間がどのように制御するのかというのが主題ですが、こちらでは領主とその乳母という人間界の社会的紐帯が自然の力を制御しうるというのが主題。しかしどちらも人間側の権力者(長者・領主)がその身内を差し出すことで自然の制御に一役買っているという観念を示したものだという点では同じです。
そしてここでもやはり干魃が起きています。
旧中山道醒井(さめがい)
伊吹山で毒霧にまかれたヤマトタケルはここの泉で正体を取り戻した。ヤマトタケルの腰掛け石や蟹の甲羅ににた「蟹石」があり。ヤマトタケル伝承になっていますが、泉の話。この泉の水を町の中に引き込んで洗いものなどに使っているそうです。いかにも近江。
泡子塚。
昔ここに茶店があって器量よしの娘がいたが身持ちが悪く、妊娠してしまった。西行が休んだことがあったので、娘は西行が飲んだ茶の底に残った泡をすすったら妊娠したと主張する。その男の子を泡子と呼んで育てていたが、一年後西行がまた来たので、娘の両親は事情を告げて子供を見せた。西行が、我が子ならば泡に戻れと言い、「水上は清き流れ醒井に浮世の垢をすすぎてやみん」と歌うと子供は泡になって溶けてしまった。
崖下に西行水という泉があり、五輪石塔が立っている。
どうして西行にはこういう奇妙な伝承が多いのでしょうか?人造人間の話とか。でもどちらも「人間になりきれなかった話」ではあります。武士から僧侶に転身したことと関係があるのでしょうか?
「なめて妊娠する」。他に知っているのは高僧の尿をなめて鹿が妊娠し光明皇后を生んだという話ぐらいですが、あちらは普通にどころか皇后にまでなっている。
一種の感精神話なのですが、人間×人間であるこの伝承では失敗し、動物×人間の光明皇后出生譚では偉人の出生譚になる。
伊吹山。
伊吹三郎は巨人。「伊吹童子」によると伊吹三郎の子伊吹童子が山中の不老不死の霊草の露をなめて通力自在となり、雲を起こして西方へ飛んで酒呑童子になった。
・・・伊吹童子が酒呑童子だったのか。知りませんでした。しかしそうなると伊吹山はいよいよ鬼の山ということになります。日本を代表する英雄であるヤマトタケルが死ぬにはある意味最高の舞台と言いましょうか。
伊吹山は固有の植物の宝庫であり、薬草が多いというのは前にも書きました。しかし、ならば楽園的な想像をしても良さそうなものですがそうはならなかった。この辺、歴史的に重層化した伝承の変遷がありそうですから、酒呑童子関係の研究などを追わないとわからないかもしれません。
しかし伊吹童子以前に伊吹三郎がいるというのは注意しておくべきでしょう。前回での岩を雨のように投げつける悪役として登場しましたが、巨人であるなら、なるほどそういうこともできるでしょう。やはり伊吹颪の人格化でしょうか?
伊吹山は三合目以上は木が生えません。草ばかり。夏は遠景写真でも緑に見えますが、冬は雪も降るし、全体的に灰色です。紅葉の期間とかない分、他の山よりも暗い感じになるのは早いかもしれません。
山頂にはヤマトタケルの像が立っているそうですが、髭を蓄えた老人の姿だそう。「ヤマトタケルは実は死んでいないで、この地を守っているのだ」的な伝承でもあったのでしょうか?
天人女房
古老傳曰 近江國伊香郡 與胡郷 伊香小江 在郷南也 天之八女 倶爲白 鳥 自天而降 浴於江之南津 于時 伊香刀美 在於西山 見白鳥  其形奇異 因疑若是神人乎 往見之 實是神人也 於是 伊香刀美 即生 感愛 不得還去 竊遣白犬 盜取天羽衣 得隱弟衣 天女乃知 其 兄七人 飛昇天上  其弟一人 不得飛去 天路永塞 即爲地民 天女 浴浦 今謂神浦是也 伊香刀美 與天女弟女 共爲室家 居於此處 遂生男女 男二女二 兄名意美志留 弟名那志登美  女伊是理比 次名奈 是理比賣 此伊香連等之先祖是也 後 母即捜取天羽衣 着而昇天 伊香  刀美 獨守空床 詠不斷(帝皇編年記)
その一、話型について
・ 羽衣を見つけて一人或は子供をつれて帰ると「離別型」
・ 天女の教えによって竹瓜などの植物によって天界につくのが「再会型」
・ その後天女の父から難題を出されると「難題型」・・・これは再び夫婦になるハッピーエンド。
・ 最後の難題に失敗し天の川が生じて、隔てられると「難題七夕型」
その二、三つの特徴
・ 鶴・白鳥・白鷺などの白い鳥は神の使いとされる。欧米の「スワンメイデン」。
・ 日本の伝承は天女や織姫のイメージが強い。これは中国の牽牛織女と関係。
・ 天女は稲作と関係。豊穣の女性。上記「再会型」以下の伝承モチーフから。
その三、国内の主な伝承地
・ 静岡県三保の松原・滋賀県伊香郡余吾湖・鳥取県東伯郡羽衣石(うえし)
その四、中国などとの比較
・ 最古の事例は4c『捜神記』「毛衣女」で子連れ離別型。
・ 『敦煌本捜神記』(唐末?)では夫ではなく子供が天に登る難題型で最後は宰相になるという始祖伝説に近いもの。
・ 沖縄ノロ・ユタの由来譚。
・ 牽牛織女の最古の記載は『詩経』で、『捜神記』では婚姻譚が語られる。七夕型は東アジア特有。
その他
・ 世界的に最も広く分布し、最も古い伝承の一つといわれる。
・ 中国神話研究の発展により、日本の研究も進むか?
上記のまとめを見てもわかるように結構調べつくされている伝承です。論文は多いですが、議論の幅は小さい感じでしょうか?私も去年『捜神記』の毛衣女について書きましたが、踏み込めませんでしたし。
この逸文はあまりに綺麗にまとまっていて切り口が見当たらない感じなのです。「典型的」過ぎるというか?とはいえこの伝承を「典型的だ」と思ってしまう辺り研究者の先入観でしかないわけです。だから切り口が欲しい。
それで思いついたのが、「鶴女房」との比較です。まず発端が違います。あちらは報恩譚ですが、こちらは人間側から服を盗むというモチーフがあります。さらにあちらは立ち去るきっかけが「見るな」の禁を破ったからということになっていますが、こちらは羽衣が見付かったから。つまり「鶴女房」は自らやってきたので立ち去るためのプロットが必要になるのに対して、「天人女房」は羽衣さえ見付かってしまえば結局帰っていくわけです。「難題型」のように相思相愛の場合も天女は天に帰るわけですが、これは天界に父母が想定されているからです。人間界を立ち去る理由はやはり既にあるわけです。
白鳥は確かに古代でも霊的な存在ではあります。ヤマトタケル伝承然り、ホムチワケ伝承然り、稲荷起源伝承然りです。しかし此等の例に登場する白鳥が人格的な神そのものであるのかというとちょっと微妙です。トヨタマヒメが出産の時にワニになったとか、モモソヒメが櫛笥を開けたら蛇の姿の大物主がいたなどという神−動物関係とは異なっている。また両者は「見るな」の禁、或は「見ても驚くな」という「鶴女房」に近いモチーフを持っている。つまり後世に流行する動物異類婚姻譚の方に近縁性があるわけです。
また白鳥に含まれる「鶴女房」が基本的に始祖伝承にならない離別型というのも白鳥の神聖性について考えさせられる点の一つです。報恩モチーフのあるなしに関わらず、狐女房は始祖伝承につながりうるからです。導入部の相違に関わらず、狐の場合はその霊性に疑問の余地が無い。しかし鶴女房はある意味普通の異類婚姻譚でしかないわけです。その意味では天人女房はやはり「天女」であって、鳥ではない。
それにしても「天女」というのはそもそもなんなのでしょうか?この逸文では「神人」という漢字が使われているわけですが、神ならば「××比売尊」なりの名称があってしかるべきだと思います。始祖伝承ならなおさらです。先の竹生島由来譚で登場した浅井姫尊は首を切られるというひどい仕打ちを受けるわけですが、浅井氏の氏神にもなっていて、しっかり名前も残っている。
上に「天界に父母が想定されている」と書きましたが、それは誰ですか?民間伝承ではあるのかもしれませんが、少なくとも始祖伝承であるこの逸文では言及されません。『必携』天人女房項筆者の加藤先生は「日本の天人女房譚は牽牛織女伝承の影響が強い」と書いていますが、ここでは織女が天帝の娘であるなどという話は登場しません。確実に来ていたと思うのですが。
少なくともこの逸文においては「鳥女房」から変化したと考えるのも無理があり、一方で牽牛織女系の天界での出来事も採用されていないということです。このように見るとこの逸文における「天女」とは本当にあいまいな存在です。天界に出自があると語られるわけでもないし、鶴女房のような純粋な動物婚姻譚とも違う。
天女は天に属する存在ですから、人間界やってくるために白鳥になる。これはたぶんあまり注意されないと思いますが、伊香刀美は白鳥を見て「其形奇異 因疑若是神人乎」と思うわけです。怪しいと思うことが出来るということ自体、実は伊香刀美がただの人ではないことを表している。伊香連は中臣系の氏族らしいので、その辺を考慮する必要もあるでしょう。
天女は沐浴時には羽衣を脱ぎます。そして伊香刀美がそれを奪う。ここでは白い犬に奪わせるとなっていますが、自ら盗む場合もあるでしょう。白い犬というのも霊性を持った動物かもしれませんが、まあ深追いすると他の諸事例と抵触する可能性が高いのでやめておきましょう。しかし一つ言えることは、天女の羽衣を奪うことはその霊性を奪うことであり、一方でその野性性を奪うことでもある。天女と「野生」などとあまり関係が無いように見えるかもしれませんが、人の手では飼育できない「渡り鳥」である白鳥は属性としてはやはり「野生性」であるわけです。そしてそれを奪うために媒介者となる「霊性のある家畜」。牽牛に知恵を授けるのも会話のできる牛でした。自分で盗む場合はその辺の構造的な思考が省かれているわけですが、それが過程や結末部にどのように影響を与えるのか、あるいは与えないのかは、他の事例を広く当ってみる必要性があるでしょう。
次の一文が気になります。「沐浴していた浦を民は神浦と呼んだ。夫婦となってここに住んだ」。「ここ」とは神浦でしょうか?あえてその場所に住んだのか?だとするとこれは「神婚」という雰囲気が強い気がします。家に連れ帰ったのではなく、新たに家を作ったのだとすれば。
そして四人の子供が生まれるわけですが、これが伊香連の祖であると。伊香刀美の子から伊香連が発しているわけです。男二人女二人という産み分けはきれいな感じです。
しかし天女は衣を探し出して天へ帰ってしまう。伊香刀美は後には悲しんで結婚しなかったという話がついていますが、この一文実は重要でしょう。つまり伊香連は紛れも無く天女の子孫であるということを強調しているわけです。後妻がいなければ、その他ではありえない。
鶴女房は本性を見られたので離別しますが、天女は始から素性が割れているので離別の理由にはなりません。しかし衣の冷静を回復すれば離別します。しかも古代の事例では天界という背景は存在していないので天界に探しに行くという展開は既に封じられている。話はここで終わるのです。天の神様の娘、などと語る事例で単純な離別型というのは民間ではあるのか?気になるところですが、どうでしょう?
天女と鶴の相違は以下の通り。
天女(仮の姿が白鳥)・鶴(仮の姿が女)
羽衣があれば離別・羽で夫の為に機を織る
仮の姿が回復できれば離別・本当の姿が見られると離別
奈具社のところで言及したサイシャット族の雷女も天から下って人間と結婚しましたが、こちらは羽衣などというちゃちな道具は登場しません。まあ雷は地上に落ちるものですから、必要ないともいえますが。こういう事例も含めて考えると、羽衣が登場すること自体、やはり中国古典の影響は非常に強いと言えるでしょう。
しかし天界が登場しないのは、やはり天皇家あるいはそれに従ってきた天津神系の氏族の系譜と抵触するからでしょう。中国式の王宮のような天界は日本ではありえないですし、由緒ある神の娘が地方豪族と直接結婚してしまうことになるとあまりに血統の血筋が高まってしまうからです。強い男系社会である中華圏では女系の血統はあまり重視されませんが、弱い男系・時に双系的でさえある日本社会では女系の血統も神聖性の数のうちに入るはずです。だからこそ天孫たちは山神・海神・土地の神の娘達と結婚するわけですから。
ところで、余吾湖を「小江」というのは琵琶湖を「大江」と言ったことと対になる呼称のようです。また余吾湖には「桐畑太夫」という人物にまつわる伝承群があるようで、民間伝承ではこの桐畑太夫が天女と結婚し、菅原道真を生んだというヴァリアントがあるそうです。
さらに、桐畑太夫には菊石姫という娘がいて、それが余吾湖の龍神になって旱魃を救ったという伝説もあるとか。乳母に目玉を渡し、盲目になったので寺院を建てて時を知らせたという、琵琶湖三井の晩鐘伝承と同じモチーフもあります。 
老蘇森(おいそのもり) / 滋賀県蒲生郡安土町
琵琶湖東岸に広がる滋賀県の穀倉地帯、湖東ことう平野のほぼ中央部に奥石おいそ神社が鎮座する。老曾森とも記す老蘇森は、この奥石神社の社叢にあたり、古くから都人に知られた歌枕であった。現在、奥石神社のすぐ北側を並行して走る東海道新幹線と国道八号により森は分断されて、規模はいくらか縮小したものの、かつての森厳としたたたずまいは失われていない。
文和二年(一三五三)七月、美濃へ向う二条良基は「おいその森といふ所は、ただ杉のこずゑばかりにて、あらぬ木はさらにまじらず」と、街道よりの景観を記しており(『小島のくちすさみ』)、中世には杉の単相林だったものであろうか。しかし、文化二年(一八〇五)に成立した『近江名所図会』では杉・松・広葉樹などが混淆する社叢として描かれていて、現在の姿は名所図会のそれに近い。
奥石神社は現在、天児屋根命を祀る。しかし、古くは竈大明神などと称され、火除の神として崇められたという。やがて竈に釜の字があてられ、さらに近世には鎌の字に取り替わって鎌大明神・鎌宮神社などと記し、狩猟神・農業神としての信仰が色濃かったとされる。もっとも元来は、北方にそびえる繖きぬがさ山(標高四三二・七メートル)を神体山とし、同山の山頂を遥拝する地に建てられた里宮であったろうと考えられている。
至徳元年(一三八四)九月の奥書をもつ「奥石神社本紀」(奥石神社文書)は奥石神社・老蘇森の由来について次のように記している。孝霊天皇五年、近江国の地面が裂け、水が湧き湖のようになって土地は荒廃した。この未曾有の災害の拡大を防ごうとした石辺(石部)大連は松や杉の苗を植えたところ、神助によってたちまちにして森となり、地を固めたという。老蘇森の始まりで、大連は神恩に感謝して森に神壇を築き大歳神御子を祀った。これが奥石神社の草創という。大連は齢百数十歳を超えても、壮年をしのぐほどであったため、老いが蘇えるの意で老蘇の字があてられたのだと伝えている。
万寿元年(一〇二四)相模守に任じられた大江公資は任国下向の途次、当地に立寄り「あづまぢのおもひでにせんほととぎす おいそのもりのよはの一こゑ」と詠じている(『後拾遺和歌集』)。公資の歌にあるように、老蘇森はホトトギスに掛けて歌われることが一般であった。しかし、老蘇の表記から、やがて思い出・老いの哀しみなどと結びつけて詠み込まれることも多くなったようである。
前述のように東海道新幹線・国道八号は老蘇森を分断しているが、この湖東の沃野を貫く両幹線路の道筋は、旧中山道(古代には東山道、中世には東海道とよばれていた)を踏襲している。当地から南西へ約一五キロ、旧中山道の南方、現蒲生郡竜王りゅうおう町と野洲やす郡野洲町の境界にそびえる鏡かがみ山(標高三八四・六メートル)は、山容の美しさもあって、古来、近江名山の一つに数えられ、元暦元年(一一八四)九月に近江国司が注進した『近江国注進風土記』にも載る名所である。山名が我身を映し出す鏡に通じるところから、老蘇森と同様に、老いの感慨を込めて歌に詠まれることも多く、『古今和歌集』に載る「鏡山いざ立ちよりて見てゆかむ 年へぬる身はおいやしぬると」の歌は著名である。
中世、東海道を往来する旅人は、この趣の相通う、近接する二つの名所を一組の歌枕と感じとっていたのであろうか。『金葉和歌集』にみえる「かはりゆくかがみの影をみるからに おいそのもりのなげきをぞする」(藤原師資)などは、両所を重ね合わせたイメージを喚起させる。
ところで『梁塵秘抄りょうじんひしょう』には「近江にをかしき歌枕」として「老曾轟蒲生野布施の池…」と一〇ばかりの地名をあげ、老蘇森は、筆頭に記されている。また「をかしき歌枕」の半数ほどは老蘇森や鏡山と同じくかつての蒲生郡内の地に比定される。
湖東平野の中央を占めていた旧蒲生郡の郡域は近江国でも最も早く開かれた土地である。そして、この早期開発を担ったのは渡来人のもたらした高度の技術であったと考えられている。旧蒲生郡内の地名や古寺には渡来人との色濃いつながりを示す説話や伝承が数多く残るが、『梁塵秘抄』に載るこの歌の作者も、蒲生郡内の地名にあるいは異国のひびきを嗅ぎとって、「近江にをかしき」と歌ったのかもしれない。 
安閑神社 神代文字の石(あんかんじんじゃ・じんだいもじのいし) / 滋賀県高島市安曇川町三尾
旧・安曇川町は、第26代継体天皇の生誕地であり、古代史において非常に特異な地位を占めている。言うならば、大和政権の長である天皇家と密接に関わりを持つ大豪族が近江近在に勢力を伸ばしていたことになる。この安曇川地区で、さらにその古代史のロマンを掻き立てる物件がある。継体天皇の長子である安閑天皇を祀るとされる“安閑神社”が町内にあるのだが、その境内に置かれているのが、国内でも非常に珍しい“神代文字の石”である。(ただし、この石について言えば、文字として刻まれたにしては非常にバランスが悪いため、識者によってはこれを(ペトログリフ)であると考える場合も多い)
この神代文字が刻まれた石は元から神社にあったわけではなく、この周辺にあったものを移動させてこの神社に置いたものであり、それ以前の出自というものは全くの不明である。また隣に置かれている石は(力石(水口石))と呼ばれており、神代文字の石とは全く時代も内容も異なるが、不思議な伝承を残しているものである。
継体天皇 / 450?-531。第26代天皇。記紀によると、応神天皇5世の子孫であり、父が早くに亡くなったために安曇川を離れ、母の故郷である越前で成長する。506年に25代武烈天皇崩御となるが後継がおらず、大連・大伴金村の要請により即位する。ただし、皇室との血縁の薄さ、即位後20年近く大和に都を定められなかったなど、いわゆる王朝交代があったのではないかとの疑問も残る。
神代文字 / 漢字伝来以前に日本にも文字が存在していたという思想的背景から実在が推測されている文字である。その存在の根拠となるのが、漢字伝来よりも古くから卜占が行われているという記述が『日本書紀』にあり、占いを記録するために文字が必要であると説くようになったためである。しかし、各地に残されている神代文字と称するもののほとんどは室町期以降に公にされたものばかりであり、後世の神道家によって捏造されたとする向きの方が主流である。
ペトログリフ / 文字ではなく線刻された紋様であり、古代人が残した意匠であるとされる。文字としての意味の体系はないが、何らかの意図を持って刻まれた内容であり、これらは環太平洋エリアではかなり多く残されているとされる。
力石(水口石) / 『古今著聞集』に、高島郡石橋という場所に“大井子”なる怪力の美人がおり、田の水争いが起こった時に巨大な石で水を堰き止めた。その石は大きくて大人が何人がかりで持ち上がらなかったという。この堰き止めた石が力石とされる。また同じく、越前から京へ相撲の節会に参加するためにやってきた佐伯氏長に、大井子が相撲の手ほどきを教えたという話も残っている。
石山寺(いしやまでら) / 滋賀県大津市石山寺
西国三十三所観音霊場の13番札所。如意輪観音を本尊とする。「石山」の名称は、珪灰石と呼ばれる巨大な岩の塊の上に本堂があることから名付けられた。これらの特徴はことごとく、この寺の縁起にまつわるものとなっている。
天平19年(747年)、東大寺大仏を鍍金するために大量の黄金が必要となった。聖武天皇は黄金が得られるよう、良弁に吉野の金峯山で祈らせた。すると夢の中で、近江の湖南に観音菩薩を現れる地があるので、そこで祈るよう告げられる。良弁は石山の地に至り、巨岩の上に如意輪観音を置き、そこに草庵をこしらえた。すると、陸奥国で黄金が産出されたのである。ところが、如意輪観音が岩から離れなくなってしまい、良弁はやむなくそこに覆い堂を創建した。これが石山寺の始まりとされる。
平安時代になると、石山寺は観音信仰の主要な霊場となる。いわゆる「石山詣で」である。宮廷の女官を中心に、観音堂に参籠して一夜を読経をして明かすことが流行した。とりわけ有名なのは紫式部で、この石山詣での際に『源氏物語』の構想を得たと言われており、本堂の一角には、着想を得て物語を書き始めた場所という“源氏の間”と呼ばれる小部屋がある。その他にも清少納言や和泉式部など、女流文学の有名人が作品内で石山寺について言及している。
良弁 / 689-774。幼い時に鷲にさらわれ、二月堂の杉の木にぶら下がっていたところを助けられ、僧となったという逸話を持つ。東大寺の前身である金鐘寺を聖武天皇より与えられ、その後、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となる。
龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ) 雲住寺 百足供養堂(うんじゅうじ むかでくようどう) / 滋賀県大津市瀬田
近江八景の1つに数えられる景勝地であり、京の都にとって軍事上の要衝でもある瀬田唐橋にまつわる伝説で最も有名なものは、俵藤太の百足退治である。これにまつわる伝承地が唐橋の東端にある龍王宮秀郷社と雲住寺である。
瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。
さらに時代が下って寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。
さらにこの神社の隣にあるのが、雲住寺である。創建は応永15年(1408年)、蒲生郡に城を構えていた蒲生高秀によって建てられている。高秀も俵藤太から数えて15代目の子孫であり、先祖の功績のあった場所に追善供養のために寺院を建立したのである。さらにこの境内には百足供養堂があり、藤太によって退治された百足を供養している。この地に伝説の当事者が全て祀られているという格好になるわけである。
俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。
闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。
その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。
俵藤太 / 生没年不詳。歴史上の名は藤原秀郷。俵の苗字は「田原」という土地を領有していたために名乗ったものであり、藤太の名は「藤原一族の長子(太郎)」という意味である。藤原北家の魚名流の末裔とされるが、実際は下野国の土豪ともされる。関東で乱を起こした平将門を討った功により下野守・武蔵守、鎮守府将軍となる。百足退治の伝説は、室町時代に成立した『俵藤太物語』によって完成。前半は百足退治の話、後半は平将門征伐の話となる。将門討伐の際、龍神が将門の弱点を教え、三井寺の本尊の加護があったことなどが描かれる。秀郷社の説によると、百足退治の伝説は、平将門の乱を制した史実のアナロジーが多分に含まれているともされ、大百足は京都へ攻め上ってきた将門とその大軍勢であるとしている。特に象徴的な部分は、大百足も将門も藤太によって同じ箇所を射抜かれて倒されている点である(上の紹介では眉間。この神社では左目としている)。また瀬田唐橋のある近江国は、当時の行政区割りでは東山道に属しており、藤太が本拠として将門と戦った下野国と同じエリアにあたる。
蒲生氏 / 藤原秀郷を祖と称する一族は多くあり、蒲生氏もその中の1つである。蒲生氏は戦国時代に南近江の六角氏の客将となり、さらに賢秀・氏郷親子の時代に織田信長に仕える。その後も徳川幕府の大名として存続するが、寛永11年(1634年)に蒲生忠知の死去に伴い、無嗣廃絶となっている。ちなみに蒲生氏郷の養妹が南部家へ嫁ぐ時にも「先祖が百足退治に使った矢の根」を持参しているとお記録があり、秀郷をの子孫であることを非常に意識していたことが分かる。
三上山 / 滋賀県野洲市にある山。近江富士の名を持つ。頂上には磐座とされる巨石があり、孝霊天皇の御代には祭祀が執りおこなわれていたとされる。麓には明神大社の御上神社がある。
三井寺の釣り鐘 / 近江八景の1つ「三井の晩鐘」として数えられる。初代の鐘は、後に弁慶が強奪して比叡山へ引きずり上げて持ち運んだ。しかし撞くと「いのう(帰ろう)」と音がするので、起こった弁慶が谷底へ投げ捨ててしまい、多くの傷痕が付いてしまったという伝説を持つ。
蟹塚(かにづか) / 滋賀県甲賀市土山町南土山
東海道五十三次の49番目の宿である土山は、江戸から発って鈴鹿峠を越えた位置にある宿場である。この地の名物として古くからあるのが“蟹ヶ坂飴”である。万治年間(1658〜1661)に成立したとされる浅井了意の『東海道名所記』にもその名が記されている。そして同時にこの“蟹ヶ坂”という地名にまつわる怪異譚も書かれている。
昔、鈴鹿山麓に一丈(約3m)もの大きさの化け蟹が住みつき、近隣の人や動物、さらに旅人を襲っていた。ところがある時、京より恵心僧都源信がこの地を訪れ、大蟹に引導を渡したのである。恵心僧都は蟹と向き合うと真言を唱え、さらに『往生要集』を説いた。すると蟹はこれまでの悪行を悔いたのか、涙を流し自らの甲羅を8つに割裂くと溶けて消えてしまったのである。
恵心僧都は8つに割れた甲羅を埋めて塚を造った。不思議なことに、塚を造ると、蟹の流した血が固まって8つの飴のようなものに変じた。恵心僧都はそれを竹の皮に包み、蟹の難がなくなったことを村人に示したのである。
蟹ヶ坂飴は現在でも作られており、道の駅そばで買い求めることが出来る。飴は平たい丸形をしており、蟹の甲羅を模したものとされる。また厄除けの効があるとも伝えられている。
また国道1号線から狭い道にそれ、奥に入っていくと、蟹を埋めたとされる蟹塚も現存する。
浅井了意 / 1612-1691。仮名草紙作家であり僧侶でもある。数多くの仮名草紙を書く。『御伽婢子』は中国唐代の怪異譚を翻案したものや民間の怪談話を集めた作品で、後代の怪談集に影響を与えた。
恵心僧都源信 / 942-1017。良源(元三大師)の弟子として比叡山の横川で修行をする(そのため別名“横川の僧都”とされる)。『往生要集』を著し、現在に至るまでの地獄極楽のイメージを確立させ、後の浄土信仰の流れに大きな影響を与えたとされる。また同時代の『源氏物語』などにも“横川の僧都”という名で、彼をモデルとした人物が登場している。
鬼室神社(きしつじんじゃ) / 滋賀県蒲生郡日野町小野
江戸時代までは「西の宮」と呼ばれていた神社であるが、その境内から“鬼室集斯(きしつしゅうし)墓”と彫られた八角柱が出土したことから、現在の名前に変えられたという。
鬼室集斯は百済からの渡来人である。来日したのは、天智天皇2年(663年)。白村江の戦いで倭が唐・新羅連合軍に大敗した後であるとされる。百済滅亡後に再興を期して立ち上がった鬼室福信の子あるいは近親と言われ、百済国内においては最高位の官僚であった。この時日本へ亡命した百済人は数百名に及び、『日本書紀』によると、彼らは後に天智天皇の命によって近江の蒲生郡に移住している。発見された墓碑には朱鳥3年(688年)の元号があるので、20年以上もの長きにわたって日本で亡命生活を送っていたことになる。その間、学職頭という地位にも就いているが、滅亡した国に対する想いはどのようなものであったかは記録にはない。
鬼室集斯の墓は、神社本殿の裏側に今も安置されている。
白村江の戦い / 660年に新羅によって滅ぼされた百済であるが、その直後から再興運動が盛んとなり、親交のあった日本へ援助の申し入れがあった。中大兄皇子(天智天皇)は申し出を受け入れて663年に援軍を送るが、大敗する。これによって百済再興運動は終息し、また日本も朝鮮半島から撤退することになる。
鬼室福信 / 百済の王族。百済滅亡後に旧臣を集めて抵抗運動を繰り広げる。日本へも援助を申し入れ、当時日本に滞在していた王子の帰国と、軍事援助を実現させる。しかし、王子から謀反の疑いを掛けられて殺される。福信の死によって再興運動への求心力が一気に落ち、直後の白村江の戦いの惨敗につながったともされる。
小姓ヶ淵(こしょうがふち) / 滋賀県東近江市蒲生寺町
琵琶湖に注ぎ込む川の1つである日野川の支流に、佐久良川がある。この川には日本で最初の人魚の記録がある。『日本書紀』によると、推古天皇27年(619年)4月「蒲生河に物有り。その形人の如し」とあり、これが日本における人魚に関する最初の記録ということになる。そして佐久良川にある小姓ヶ淵には、さらに具体的な人魚にまつわる伝説が残されている。
ある年、田畑の水が干上がるほどの酷い大干魃が起こった。村人は蒲生河(今の佐久良川)から水を汲み上げて何とか作物を育てていたが、それもままならないほどであった。ところが、小姓ヶ淵だけは満々と水があり、底が見えるほど水を汲んでも翌日には元通りになっていて、村人はこの不思議な状況に感謝したのであった。
村の若者の一人がこの謎を探ろうと、夜中に小姓ヶ淵に来てみると、そこには3人の者の姿があった。それは小姓ヶ淵の近くの観音堂に住む尼僧に仕える、3兄妹の小姓であった。しかしよく見ると、彼らの姿は人間のようではなく、尾のようなもので水を掻い出して淵を満水にしていたのである。若者はこの不思議な光景について誰にも話をしなかったが、得体の知れないものがいるという噂は村中に広まっていった。そこで村人はその正体を確かめるために、夜中に淵へ行って投網をして一人を捕まえたのである。そして捕らえたものを見ると、それは人と魚のあわさった姿をした人魚だったのである。
その後、この人魚はミイラとされ、所有者を替えながら各地を転々とする。しかしある時、所有者に不幸が続けて起こったため、思うところがあって、このミイラを小姓ヶ淵に近い願成寺(がんじょうじ)に納めたという。以後、この人魚は願成寺にある(ただし現在は非公開)。
そして他の人魚についてもそれぞれ、佐久良川を遡った日野で殺されて人魚塚に葬られた、回国中の弘法大師に付いていき、高野山の麓の学文路苅萱堂にミイラとなって安置された(拝観可)、という結末になっている。現在、小姓ヶ淵に架かる橋のたもとには“人魚園”という小さな児童公園があり、小姓ヶ淵の伝説を記した石碑がある。
願成寺 / 東近江市川合町にある、曹洞宗の寺院。聖徳太子の発願で建立されている。願成寺の伝説によると、小姓ヶ淵の伝説に登場する尼僧はこの寺の庵に住む者であり、その許で働く小姓は一人だけであるとされている。そして、美しい尼僧に仕える身であったために村人からの嫉妬を受け、佐久良川あたりで姿を消すので、投網で捕らえてみると人魚であったということになっている。その後、ミイラとなって見世物にされていたが、縁あって願成寺に戻されたのだという。
清涼寺・七不思議(せいりょうじ) / 滋賀県彦根市古沢町
彦根の町は、関ヶ原の戦い直後に徳川四天王の一人・井伊直政が移封され、彦根城を中心として発展した。それ以前は、現在の町を見下ろす位置に佐和山城があり、石田三成が統治していた。佐和山城は関ヶ原の戦い直後に落城し、その後の彦根城建設のために石垣の多くも持ち去られ、また江戸幕府にとっての逆賊である石田三成の居城として歴史の舞台からは完全に抹殺された。その佐和山城趾のふもとにあるのが、清涼寺である。
この寺には“七不思議”と呼ばれる怪現象が伝えられている。まず、この土地の前の所有者であった石田家重臣・島左近にまつわる不思議が4つ。(左近の南天)は、島左近が愛でた南天の木が残っており、それに触れると腹痛を起こす。(壁の月)は、左近の居間を寺の方丈としたが、その壁に月形の影が浮かび出てきて、壁を塗り替えても浮き出てくる。(唸り門)は左近邸の表門を山門としたが、大晦日になると風もないのに低い唸り声のような音がしたらしい(現物は江戸時代に焼失)。(洗濯井戸)は、左近が茶の湯に使用した井戸であり、汚れ物をひたしておくと一晩で真っ白になったという。
残りの3つはかなり奇怪な話である。関ヶ原の戦いの後、井伊家の家臣が佐和山城での戦利品を虫干ししていると、佐和山の方角から黒雲が湧き起こり、戦利品が風で持ち去られたという(佐和山の黒雲)。本堂前のタブの木は佐和山城築城以前からある樹齢数百年のもので、夜な夜な女性に変化しては参詣者を驚かせたという(木娘)。墓地の一角にある池で、佐和山城落城の折りに多くの人の血が流れ込み、それ以来夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が浮かび上がるという(血の池)。
言い伝えを検証すると、この七不思議はすべて関ヶ原の戦いに密接に関係する。実際、寺の境内は、島左近の住居があった場所とされており、寺自体も初代藩主井伊直政が関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が元で亡くなり、その菩提を弔うために建立されたものである。そしてこの清涼寺が藩主井伊家の菩提寺として、多数の人間の血が流されたばかりの1602年に建立された事実に、大きな謎が隠されているように感じるところである。
佐和山城 / 豊臣政権下、五奉行の一人である石田三成が統治する。1600年の関ヶ原の戦いで三成が敗走した直後、徳川方の兵が城を急襲する。主力は関ヶ原で壊滅していたが、三成の父・政継らが奮戦。しかし裏切りもあって3日で落城し、城兵やその家族はことごとく討ち死にか自害となった。新たな領主となった井伊直政は、人心の刷新のために佐和山城を徹底的に破却し、彦根城建築を進める(破却の徹底ぶりは、直政の死を三成の呪いとみなしてのためという説も残っている)。
島左近 / 1540-1600。本名は清興。石田三成の臣下であり、4万石の禄高の時に2万石の俸禄を持って仕官したとされ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われた。関ヶ原の戦いの時には石田軍の主力として大いに奮戦するが、鉄砲による狙撃で負傷、最後は敵陣へ突撃して討ち死にとなる。しかし遺体が見つからず、その後も生き延びたとの噂が残っている。
蝉丸神社(せみまるじんじゃ) / 滋賀県大津市逢坂一丁目(関蝉丸神社上社・下社) 滋賀県大津市大谷町(蝉丸神社)
これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関 
『百人一首』の中でも最も有名な歌の1つであるが、この歌の詠み手である蝉丸も、札に描かれた特異な風貌から印象深い人物となっている。
しかし、この蝉丸は平安前期頃の人物というだけで生没年も不詳、そしてその素性も謎に包まれている。分かっているのは、盲目の琵琶の名手であり、逢坂の関に世捨て人のように暮らしていたということだけである。出自については、次の逸話から主に2つの説に分かれているが、いずれも伝説の域を出ないものである。
『今昔物語』には次のような物語がある。管弦の名手であった源博雅は、逢坂の関に庵を結ぶ蝉丸という者が宇多天皇の皇子であった敦実親王の雑色(下人)であり、親王の下にあって琵琶を習い覚えて名手であることを聞きつけた。この蝉丸だけが知っているという秘曲の流泉・啄木を是非聞いてみたいと思い、博雅は逢坂山に通い詰める。そして3年経った名月の夜、蝉丸の言葉をきっかけにして2人は芸道について語り合い、博雅は琵琶の秘曲を伝授されるのである。
能楽の『蝉丸』では次のような話となる。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子であったが、生まれつきの盲であったため、逢坂の関に粗末な庵を与えられて捨てられる。前世の報いのため、来世の幸せのために、従容と運命を受け入れる蝉丸。そこへ一人の狂女がやってくる。生まれつき髪の毛が逆立って櫛が通らない異形故に遠ざけられ狂乱した、蝉丸の姉宮である逆髪宮であった。逆髪は琵琶の音色に惹かれて庵を訪ねると、そこには弟宮の蝉丸があった。薄幸の姉弟はそこで互いの不運を嘆き、慰め合う。しかし時が来て、逆髪宮は別れを告げて、いずこともなく去っていってしまう。
現在、逢坂の関周辺には蝉丸を祀る神社が3つある。関蝉丸神社はその名前から分かる通り、塞の神(道祖神)の性格も持っており、上社には、道祖神である猿田彦命も祀られている(下社は豊玉姫命)。ただこれらの神社は、盲目の琵琶法師の嚆矢とする蝉丸が祀られているために、音曲芸道の神の性格が非常に強く、平安時代中期には全国の音曲芸道の勅として、蝉丸神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
源博雅 / 918-980。醍醐天皇の孫。管弦の名手として知られ、蝉丸との逸話の他にも、朱雀門の鬼から名笛を貰い受けたり、羅城門から琵琶・玄象を探し出したりするなど、音曲にまつわる伝説がある。
逆髪宮 / 醍醐天皇の第三皇女とされるが、全くの架空の人物(蝉丸は勅撰和歌集に数首採用されるなど、素性は不明ではあるが実在の人物であるとされる)。逆髪という名については「坂上」あるいは「坂神」のメタファーとみなすことも可能である。
長久寺・お菊の墓(ちょうきゅうじ・おきくのはか) / 滋賀県彦根市後三条
あのお菊さんの幽霊が出るという「皿屋敷」伝説は、全国で約50箇所ほどあるらしい。その中の1つが彦根に残されている。しかも、問題の“お皿”まで保存されているというから、驚きである。
彦根藩の譜代藩士である孕石(ハラミイシ)家の嫡男・政之進と、そこへ奉公する足軽の娘・お菊は相思相愛の仲であった。ところが、政之進には亡くなった親が取り決めた許嫁がいた。しかもお菊と政之進とでは身分が違いすぎる。そこで思い余ったお菊は、孕石家の家宝である、藩主拝領の10枚組の皿の1枚を割ってしまう。家宝の皿を割ることで、家か自分かどちらが大事なのかを確かめたかったのである。政之進は最初、お菊の過ちであると思い、その罪を許した。だが、割ったのが 自分の本心を知るための手段であるとわかった政之進は、残り9枚の皿を刀の柄で叩き割り、お菊を手討ちにした。そして自らも仏門に入り、お菊の冥福を祈ったという。
上の伝説を読んで、違和感を覚えた人もいるかもしれない。“お菊”という名前の女性と“皿を割る”という行動、そして“奉公していた女性を手討ちにする”ことだけが共通点で、後は全く通説とは違う話なのである。
この話であるが、実にディテールが詳細であり、却って本物の「皿屋敷」伝説の方が陳腐なものに感じるほどである。実際に彦根藩には孕石家が存在し(しかもかなり上級の家柄)、政之進の代で本家は断絶し、跡を継いだ分家が今も続いているらしい。また長久寺の 無縁墓の中にはお菊さんの墓が存在している(本来は長久寺の末寺にあったのだが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、現在この地に安置されている)。そして何と言っても、この悲劇の元になった皿が存在するのである。
現存する皿は全部で6枚。話によると、残っているはずの3枚は展示会などで貸し出している最中になくなってしまったとのこと。由来としては、関ヶ原の合戦の時に藩主井伊直政が徳川家康から拝領し、大阪の陣で孕石家の当主が褒美で頂いたことになっている。時代的なものを考えると、相当立派な作りの皿であるこ とがわかる。
さらにこの寺には、お菊さんの供養のために、藩主正室以下、江戸屋敷にいた女性292名の名を連ねた寄進帳が存在する。かなり身分の低い者のために、これだけの人数の者が供養のための記帳をするのは、きわめて珍しい。言い換えれば、それだけの手厚い供養が必要な“事態”があった証拠ではないかと推測できる物件なのである。
お菊の皿 / 長久寺に保管されているが、通常は非公開。予約をすれば拝観可とのこと。
天女の衣掛柳(てんにょのころもかけやなぎ) / 滋賀県長浜市余呉町川並
余呉湖の北岸に沿うようにある県道33号線の脇にある巨木である。マルバヤナギという種類のもので、一般的なイメージの柳とは随分違う印象を受ける。高さは11m、幹周りは約4mである。この木が余呉に残る羽衣伝説の舞台となる。
日本各地に天女の羽衣伝説が残されているが、この余呉湖に伝説は最も古いものであるとされている。『帝王編年記』養老7年(723年)条の記載によると、この余呉の湖に白鳥の姿で舞い降りた八人の天女が水浴びをしていたところ、この土地に住む伊香刀美(いかとみ)という男が天女に恋を抱き、柳の木に掛けてあった羽衣を一枚だけ白犬に盗み取らせた。異変に気付いた天女は羽衣をまとって空へ逃げたが、一人だけ羽衣を盗まれた天女だけは逃げることが出来ず、泣く泣く伊香刀美の妻となったのである。やがて二人の間には二男二女が誕生したが、天女はついに羽衣が隠されている場所を探し当てると、身にまとってそのまま天に昇っていったである。それを知った伊香刀美はただ天を見上げて溜息をつくばかりであったという。そしてこの残された子供達が、この地を支配した伊香氏の祖となったとされる。
さらに余呉湖には、もう一つの羽衣伝説がある。
川並の漁師である桐畑太夫は、ある時芳しい匂いに惹かれて柳の木のところへ来てみると、珍しい薄物が掛かっていた。それを手に取ったところで、美しい天女が現れ羽衣を返してほしいと請われた。しかし太夫はそれを返さず、とうとう天女は彼の妻となることになった。そして夫婦の間には一人の男子が生まれ、陰陽丸と名付けられる。月日が経ったある時、子守の歌を聞いて、天女は羽衣が裏庭の藁の下に隠されていることに気付いた。羽衣を身にまとうと、天女は天へ昇っていったのである。
妻がいなくなって嘆く桐畑太夫は、しばらくして夢を見た。そして夢の中で天女が指図したとおりにすると、太夫も昇天してしまうのである。一人取り残された3歳の陰陽丸は石の上で泣き続けた。そこに通りがかった菅山寺の尊元阿闍梨は子供の泣き声が法華経のように聞こえたので、不思議に思って寺に連れて帰り養育したのである。やがて利発な子供に成長した陰陽丸は、菅山寺を参詣した菅原是善の目にとまり、養子となって京へ上ったのである。
『大日本地誌大系』に記載されている伝承では、この陰陽丸こそが、後の菅原道真になったのだとしている。
『帝王編年記』 / 鎌倉末期に編纂された史書。ここに記された羽衣伝説の記述については、和銅6年(713年)に編纂がおこなわれた『近江国風土記』の本文をそのまま掲載したとされている。
『大日本地誌大系』 / 江戸幕府が編纂した、日本全国の地誌の集成。近江国については『近江輿地志略』の名で膳所藩士の寒川辰清が享保19年(1733年)に完成させている。
人魚塚(にんぎょづか) / 滋賀県蒲生郡日野町小野
日本で最初の人魚にまつわる記録は『日本書紀』にある。推古天皇27年(619年)4月「蒲生河に物有り。その形人の如し」という記述があり、現在の佐久良川に出現したとされる。現在でもこの川の“小姓が淵”という場所には人魚伝説が残されており、3匹の人魚が小姓に化けて暮らしていたという。
この佐久良川を遡った日野町小野には人魚塚と呼ばれるものが存在する。この塚は、小姓が淵に棲んでいた3匹の人魚の1匹を葬ったものであるとされている。この当時、人魚は悪疫をもたらすものとして忌み嫌われており、1匹が佐久良川を遡ってきたのも小姓が淵から逃げてきたのだとも言われる。そしてこの場所まで逃げてきたが、結局、聖徳太子に捕獲され退治されたのだという(あるいは地元の村人によって殺されたのだとも)。
別伝によると、琵琶湖の主である大鯉と投身自殺した女の間に生まれた人魚が醍醐天皇に取り憑いたが、退治されてこの塚に埋められたとされる。後にその肉が「不老不死の妙薬」として珍重される人魚であるが、平安時代中期までは災厄をもたらす禍々しい存在であったと言えるだろう。
小姓が淵の人魚 / この淵にいたとされる3匹の人魚は兄と妹とされている。蒲生川を遡って人魚塚に埋められたもの以外については以下の通りとなる。1匹は小姓が淵で捕らえられミイラとされて、蒲生町の願成寺に安置されている(非公開)。もう1匹は通りがかった弘法大師に助けられてミイラとなり、学文路の苅萱堂に安置されている(拝観可)。
醍醐天皇 / 885-930。第60代天皇。藤原時平と菅原道真を左右大臣に置くなどして、延喜の治と呼ばれる親政をおこなう。後に道真を退けた故の祟りに見舞われ、清涼殿落雷事件より体調を崩して崩御する。
平家終焉の地(へいけしゅうえんのち) / 滋賀県野洲市大篠原
平家終焉の地はほとんど国道8号線に面した場所にあると言ってもよいが、案内板がなければまず気付くことはないぐらいひっそりとしている。ここには、この地で斬首された平家の長者・平宗盛とその嫡男・平清宗の胴塚が残されている。
『平家物語』における宗盛の人物像は、まさに愚鈍そのもの。偉大な父・清盛、優秀な兄の重盛、弟の知盛の才能と対比させる目的もあるが、徹底的に無能ぶりを書き立てている。
源平最後の戦いである壇ノ浦の戦いにおいても、宗盛は終始狼狽えるだけで、結局入水もままならぬために家来に海に突き落とされている。しかも泳ぎが達者であったために、清宗と共に沈むことなく浮かんでいたところを源氏方に捕縛されてしまう。さらには平家の総大将として鎌倉に送られて源頼朝と対面するが、この場面でも出家したいなどと言い募って助命を請い願い、周囲の御家人から嘲罵を浴びることになる。
結局京都へ再護送されることとなった親子は、その途中、護送の責任者であった源義経の命によって篠原の地で斬首された。この処刑の際には、宗盛の幼い次男らの男児も斬首となっている。この平家の嫡流の処刑によって正統の血脈が途切れたため、この地が平家一門の終焉の地とされるのである。
この胴塚の真正面には小さな池があり、平宗盛首洗いの池とされている。また処刑がおこなわれて以降、この池に棲む蛙は鳴かなくなったため“蛙鳴かずの池”とも呼ばれるようになったという。
平宗盛 / 1147-1185。平清盛の三男(正室・平時子の長男)。官位は従一位内大臣。嫡男の重盛の死後、平家の長者(棟梁)となる。清盛死後の平家凋落の象徴的存在となる。最後は自害しきれず捕虜となり、斬首された。『平家物語』『源平盛衰記』では傲慢で無能な人物として描かれており、当時の記録でも武家の棟梁としては器量の低い人物とみなされていた。しかし一方で家族に対する情愛の深さをうかがわせる逸話も残っている。
平清宗 / 1170-1185。平宗盛の嫡男。官位は正三位右衛門督。壇ノ浦の戦いにおいて父と共に捕らえられ、鎌倉へ護送。父が斬首された同日に草津で斬罪となる。 
狩籠の丘(かりごめのおか) / 滋賀県大津市坂本本町
(比叡山四大魔所)という言葉は、実は比叡山の公式本の中にはない。あるのは(三大魔所)のみである。なぜか一箇所だけが公式の見解としては省かれているのである。その理由はただ一つ、そこが最も危険かつ強烈であるためである。その場所こそが“魑魅魍魎狩籠の丘”なのである。
当然のことながら、狩籠の丘に関する情報は少ない。その由来であるが、比叡山の開祖である伝教大師最澄が、都の南東(巽)にいた魔物を狩り、北東(艮)に埋めたという伝説がある。都の南東がどこであるかは明確ではないが、最澄ゆかりの北東の地といえば比叡山であることはほぼ断定できるだろう。
しかし、由来以上に少ないのが場所に関する情報である。正直なところ、火坂雅志氏の著書『魔界都市・京都の謎』だけが頼りである。それによると、狩籠の丘は西塔エリアの近く、比叡山ドライブウエイに面して、芝生が植えられた広場のような場所ということになっている。
そして最大のポイントは、高さ1メートルほどの錘形をした3つの石が約9メートル間隔で置かれており、その3つを直線で結ぶと正三角形となり、その中心に魔物が封印されているというのである。ちなみに千日回峰行をおこなう僧が真夜中にこの地を通り過ぎる時、必ずこの場所で提灯の蝋燭を取り替え、古い蝋燭をこの石のそばに置いて法華経を唱えながら去るとのこと。
最澄 / 766-822。諡号は伝教大師。788年に比叡山に一乗止観院(現在の根本中堂)を創立する。その後、遣唐使留学生として唐に渡り、天台教学学んで、天台宗を開く。
元三大師御廟(がんさんだいしみみょう) / 滋賀県大津市坂本本町
初期の比叡山の発展に功績のあった僧といえば、開祖である伝教大師最澄、天台密教の完成者である慈覚大師円仁、そして天台中興の祖といわれる慈慧大師良源(元三大師)である。この三人には数々の逸話・伝説があるが、とりわけ比叡山にゆかりのある逸話を多く持つのが良源である。
比叡山の横川(ヨカワ)は良源が長く修行を積んだ地であり、そこには元三大師堂(四季講堂)と呼ばれるゆかりの堂がある。その裏手の奥に “元三大師御廟”がある。ここが(比叡山四大魔所)の一つなのである。元三大師の墓所は、開祖伝教大師の墓所と区別するために(みみょう)と呼ばれている。なぜそこまでして(御廟)という言葉にこだわるのか。それはこの廟所が比叡山にとって非常に重大な意味を持っているからなのである。
元三大師の墓所の奥はただ切り立った崖であり、ここから先には何もない。しかも京都から見ると北東の位置にある。つまりこの御廟は比叡山の最果ての地であり、京都の鬼門に当たる比叡山の、そのまた鬼門に当たる横川の、更にはその最も鬼門に当たる場所にあるのである。要するにこの地は鬼門中の鬼門であり、魔なるものを封じる最前線ともいうべき場所なのである。
良源はこの地に葬られることを望み、また遺言として墓所は荒れるに任せるように言ったという。彼は自分が葬られる場所がどのような意味を持つ場所かを理解し、そしてそこに葬られる自分の役目を全うすることを誓ったのである。それは自らを魔なるものとし、魔をもって魔を抑えることを意味するのである。
足繁く人が訪れる場所でないにもかかわらず掃き清められた御廟の周囲と、名もない草木が生えるに任せた墓所とのコントラストは、ある種の凄まじさを覚えるに十分であった。
良源 / 912-985。第18代天台座主。諡号は慈恵大師であるが、元三大師の名の方が有名(この名は良源が正月三日に亡くなったことから付けられている)。別名、角大師・豆大師(後述)。焼失したままの諸堂を復興させ、僧制を新たにし(自衛のための僧兵の制はこのときできたとされる)、また横川を東塔と西塔に並ぶ修行の地とした。源信(後の恵心僧都)、尋禅(後の慈忍和尚)などの四哲をはじめとして弟子の数は三千と言われ、日本仏教の隆盛にも貢献している。おみくじの元祖ともされている。
角大師 / 元三大師は別名“降魔大師”とも呼ばれている。ある時、疫病神が現れたが法力をもって退散させた。しかし疫病から民を救う必要を感じた大師は全身が映る鏡を持ってこさせてその前で瞑想すると、鏡に映った姿が変化して骨ばかりの鬼の姿となった。その姿を弟子の一人(慈忍和尚といわれる)に描かせ、それを護符として配ったという。これが(角大師)と呼ばれる護符である。自らが魔となり、魔をもって魔を制する実践例というべき逸話である。
豆大師 / 元三大師の別称。朝廷へも出入りしていた元三大師であるが、容姿端麗であったため女官達が一目見ようと押し寄せてくる。そこで彼は法力を使って小さな魔物となって女官達を避けたという。これが(豆(魔滅)大師)の由来らしい。豆大師の護符は元三大師の姿を三十三体(これは観音菩薩の三十三変身に通じるらしい)かたどったものである。
おみくじ(元三大師堂) / 最初に僧に対しておみくじを引く目的(願い事など)を語ってから、おみくじを受ける。そして受け取ってから、僧よりこのおみくじの意味を説かれることになる。一般的なおみくじのスタイルとはかなり異なっている。
慈忍和尚廟(じにんかしょうびょう) / 滋賀県大津市坂本町飯室谷
比叡山四大魔所の一つ、慈忍和尚廟は比叡山の中心地・三塔からかなり外れた場所にある。比叡山の一番奥にあたる横川から 坂本方面へ下ること約2キロのところに飯室谷という場所がある。飯室谷は“延暦寺五大堂”の一つである飯室谷不動堂があり、観光スポットとなった三塔と比べると小規模ではあるが、比叡山では重要な場所と目されている。その地に慈忍和尚廟はある。
慈忍和尚は僧名を尋禅といい、18代天台座主である慈慧大師(元三大師)の高弟であり、後に19代の天台座主となった人物である。座主に就いてからも修行に明け暮れ、その姿は多くの僧の励みになったという。
そのような名僧の墓所が(魔所)として挙げられているのか。それには次のような伝説がある。
自らも修行三昧であった慈忍和尚は亡くなってからもことのほか戒律に厳しく、一つ目で一本足の妖怪と姿を変えて、『山僧よ、僧の本分を忘るるなかれ』ということで夜な夜な破戒の僧を見つけては鉦を叩いて脅しつけ、山から下りざるを得ないようにさせたというのである。つまり比叡山の格式を守るために“魔道の者”として妖怪の姿へ変化させたのである。自らを魔道に貶めつつ、比叡山を守り固めようとするその凄まじい思いは何とも言い難いものがある。それ故、畏敬の念を持って慈忍和尚廟は聖域となり、また魔所となったわけである。
東塔の根本中堂を少し下ったところに総持坊という寺院がある。その坊の玄関にある額を見上げると、そこに“一眼一足”の妖怪の姿が描かれている。これが慈忍和尚の変わり果てた姿である。そして玄関の脇には慈忍和尚が山を回る際に使った杖が立てかけられてある。
尋禅 / 943-990。第19代天台座主。諡号は慈忍。藤原師輔(右大臣。兼家・道兼の父、道長の祖父)の十男。母は雅子内親王(醍醐天皇皇女)。父の縁で良源(元三大師)の弟子となり、良源の死後に天台座主となる。
天梯権現祠(てんだいごんげんほこら) / 滋賀県大津市坂本本町
比叡山の魔所である天梯権現の祠は東塔根本中堂を下ったところにある。今でこそ比叡山へは交通の便に事欠かないが、かつてはいくつかのルートの山道が唯一の交通手段であった。この天梯子権現のある場所も、坂本から根本中堂に至る『本坂』と呼ばれる重要ルートに面している。 いわば、この魔所は今でこそ観光ルートから外れた場所にあるが、かつては比叡山の表参道に近い場所にあったわけである。
根本中堂から山を下るように一本の道が延びている。これが天梯権現へ通じる道、本坂である。一応かつての幹線道路であるが、完璧な山道である。程なくして、一度転げ落ちたら止まらないのではないかというぐらい急な坂に出くわす。そして、それを下りきったところにようやく天梯権現の目印になる(亀堂)が姿を現す。
亀堂と言っても、ほとんど打ち捨てられたような堂宇一つである。本来は聖尊院堂という名なのであるが、そばにある『薬樹院之碑』という立派な石碑の下の部分に亀の像があるためにその名で通っているようである。亀堂からは天梯権現へは人の歩く道ではなく、獣の歩く道しかない。辛うじて人工的に切り開かれた獣道を頼りに歩を進める。しばらくすると、天梯権現へ向かっていることを示す石仏群が見えてきた。しかし、ここから先は獣道すらなくなる。山の斜面に風化したような石段らしきものがあるので、多分道であろうとい うことでその急な山の斜面を登る。そして斜面を一気に登り詰めたところに天梯権現祠があった。
この祠のある小高い丘には、昔から“天狗が棲んでいる”と言われていた。そしてこの小山にある大きな杉の木の上に立ち、この比叡山と中国の天台山との間を行き来していたという。実際ここの祠に祀られている神は“天梯”つまり“天への梯子”という意味の名を持っているのである。
かつてこの地には本殿や拝殿を持った社殿があった。しかし織田信長の焼き討ちに遭い、その後は小さな祠が建てられただけであるという。それが現在の祠である。そしてその社殿があった当時からこの地は魔所として畏敬の念を持って見られ、この小山の枝一本、小石一個も持ち出すことを禁じられていたそうである。
坂本から根本中堂へ抜ける山道『本坂』はその名の通り、比叡山の表参道であった。だが、京都から見ればこの幹線道は鬼門を貫いているのである。だから“魔を以て魔を制す”ものをここに配したのだと推測する。
天台山 / 中国浙江省(省都は杭州)にある霊山。後漢時代から道教の聖地であったが、4世紀頃から仏教寺院が多く建てられた。575年に天台宗の開祖・智がここで宗派を確立させる。日本の天台宗の開祖である最澄も、この天台山で教えを学んでいる。 
 
 
京都府 / 山城、丹後、丹波

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

千葉(ちば)の葛野(かづの)を見れば 百千足(ももち)たる家庭(やには)も見ゆ 国の秀ほも見ゆ 仁徳天皇
    西行の生涯
    やまとうた・定家
    京おんな
賀茂社
賀茂建角身かものたけつのみ命は、またの名を八咫烏や たがらすといひ、神武天皇を熊野から大和国へ案内したあと、大和の葛城山に住んだ。その後、山城国へ移り、葛野川(桂川)と賀茂川の合流する岸から賀茂川を見遥かして、「狭く小さかれども、石河の清き川なり」と言ったので、「石河の瀬見(狭見)の小川」といふ名がついた。そして賀茂川の上流に移り住んだ。
賀茂建角身命の娘の玉依媛たまよりひめが、ある日、石河の瀬見の小川の辺で神遊をしたとき、丹塗にぬり矢やが川上から流れて来た。媛がこれを拾って家の床の辺に挿し立てて置くと、その日から媛はだんだんと胎んできて、男子が生まれた。年月を経てこの子が成人したとき、祖父の賀茂建角身命は、多くの神々を招いて盛大な祝宴を開き、孫に言った。「汝の父と思はむ神にこの酒を飲ましめよ」と。するとその子は、屋根を突き破って天に昇って行ったといふ。それで、その子の父は雷神であることがわかったといふ。(風土記逸文)
○ 我がたのむ人いたづらに成し果たば また雲分けて昇るばかりぞ 神詠
○ 君を祈る願ひを空に見てたまへ わけいかづちの神ならば 神賀茂重保
父が雷神であったことから、その子は賀茂別か ものわけ雷いかづち命と呼ばれ、賀茂別雷神社にまつられた。母の玉依媛と祖父の賀茂建角身命は、賀茂御祖かものみおや神社に祀られてゐる。
○ 人も皆かつらかざして千早振る 神のみあれにあふ日なりけり 紀貫之
○ 忘れめや葵を草に引きむすび かりねの野辺の露のあけぼの 式子内親王
○ 君が世も我が世も尽きじ石川や 瀬見の小川の絶えじと思へば 源実朝
初午 / 伏見稲荷神社
むかし秦氏の先祖の伊呂具いろぐといふ人が、餅を的に矢を射ると、餅は白鳥となって飛び翔り、山の峯に留まった。そこにイネが成り生ひたので、稲荷社をまつったといふ。和銅四年二月初午はつうまの日のことである。
○ 如月きさらぎや今日初午のしるしとて 稲荷の杉はもとつ葉もなし 夫木抄
和泉式部が伏見稲荷社にお詣りに行く途中、にはか雨に降られたので、通りかかった若い牛飼の着てゐた襖あをといふ上着を借りた。数日後、牛飼が式部の家を訪れて、家の者に歌を書いたものを差し出した。
○ 時雨しぐれする稲荷の山のもみぢ葉は あをかりしより思ひ初めてき 牛飼
歌を見て心をうたれた式部は、牛飼を部屋に入れたといふ。
神泉苑
平安京の大内裏の東南に隣接して造られた神泉苑には、冬にも涸れぬ湧泉があったといふ。ある年、都を襲った大旱魃のとき、空海が天竺の善女竜王を勧請して池を掘り、雨乞の祈祷をして以後は、雨乞の祈祷所となった。この池のほとりで小野小町が詠んだ雨乞の歌がある。
○ ことわりや日の本なれば照りもせめ さりとてはまたあめが下かは 小野小町
静御前が源義経に見初められたのも、ここで雨の祈りの舞を舞ったときだといふ。
逢坂山
むかし雅楽の名手といはれた源博雅は、蝉丸の秘曲の伝授を乞ふために逢坂山に夜毎に三年間通ひ続けた。三年目の八月十五日、次の歌を詠じて琵琶を弾くと、伝授を認められたといふ。
○ 逢坂の関の嵐のはげしきに しひてそひたる世を過ごすとて 源博雅
逢坂山に住んだ盲目の琵琶法師、蝉丸の有名な歌。
○ これやこの行くもかへるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
人康親王 / 山科区
五四代仁明天皇の第四皇子の人康親王(光孝天皇の弟)は盲目であった。詩歌管絃にすぐれ、山科に住んで、世の盲人たちに琵琶や朗詠を教へ、生活の道を与へた。集まって来た人々に対し「わが道に当たる」と言はれたことから、盲人の芸能集団を「当道」と呼ぶやうになったといふ。この地を流れる川は、親王にちなんで四宮川といふ。
山科の親王の御殿に藤原常行が庭石を献上したとき、ともに訪れた在原業平の歌。
○ あかねども岩にぞかふる色見えぬ 心を見せむよしのなければ 在原業平
没後、親王は天夜尊あめのよのみことの名で盲人たちにまつられた。人康親王を祖とする琵琶法師は多く、蝉丸は親王に最もよくお仕へした人物なのだともいふ。
惟喬親王 / 左京区上高野小野
○ 里遠み 小野の篠原分けてきて 我もしかこそ声も惜しまね 源氏物語夕霧
五五代文徳天皇の第一皇子、惟喬親王は、比叡山麓の小野の地に隠棲し、小野宮とも呼ばれた。在原業平と親しくし、業平が冬の雪の日に親王を訪ねたこともある。(伊勢物語)
○ 忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて君を見むとは 在原業平
○ 夢かとも何か思はむ浮世をば そむかざりけむ程ぞくやしき 惟喬親王
二人は河内の交野かたのでも狩りなどをともに楽しんだ(大阪交野を参照)。親王はのちに近江国愛知川上流の小椋庄へ移り、木地師に轆轤ろくろ挽きの方法を教へたといふ。京都市北区紫野雲林院町の玄武神社は、惟喬親王をまつったものである。
源頼政の鵺退治
平安時代の末、幼くして即位された近衛天皇のころ、天皇は毎夜丑の刻に怯えられることがあった。怪しいもののけの仕業らしい。そこで源頼政が召された。頼政は、山鳥の尾で矧いだ矢二筋を携へ、一族の井の早太とともに、夜を待って東三条の森に出かけた。
夜が更けて月夜を俄かに黒雲が覆った。頼政が八幡大菩薩を祈って矢を射ると、確かな手応へがあった。落ちた場所に急いで、井の早太がとどめを刺した。雲が晴れて弓張りの月が照らすと、その怪物の姿は、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、喘ぎ鳴く声は鵺ぬえに似てゐたといふ。天皇は頼政を褒めて、師子王といふ名の剣を賜り、宇治左大臣頼長に託した。左大臣が頼政に連歌を詠み掛ける。
○ ほととぎす 名をも雲居にあぐるかな 藤原頼長
頼政は次のやうに付けて、剣を受けた。
○ 弓はり月の射るにまかせて 源頼政
その怪物はうつほ舟で流したといふ。
その後、二条天皇の応保のころ、鵺といふ怪鳥が、禁中で鳴き叫んで天皇を悩ませたので、再び頼政が召された。夕暮れの五月闇のなかで、鵺は一声しか鳴かない。そこで頼政は、まづ大鏑を射上げ、その音に鵺が驚いて声をあげたところを射落とした。天皇は褒美の御衣を賜はるに、右大臣公能を遣はした。公能が頼政に詠み掛ける。
○ 五月闇名をあらはせる今宵かな 藤原公能
頼政が付ける。
○ たそかれどきも過ぎぬと思ふに 源頼政
後世に、鵺の声が聞えたときに災ひをのがれるための、まじなひの歌がある。
○ こちみ鳥我かきもとに鳴きつなり 人まで聞きつ。ゆくたまもあらじ 拾芥集
諸歌
○ 忘れずば神もあはれと思ひ知れ こころつくしの古いにしへの旅 民部卿局
祇園天王社(八坂神社)
○ 神の代の八坂の郷さとと今日よりぞ 君が千歳は数へ始むる 為家 夫木抄
京都市東山区祇園町、白川河畔
○ かにかくに祇園は恋し寝るときも 枕の下を水のながるる 吉井勇
寂光院
○ 思ひきや深山の奥に住居すみゐして 雲井の月をよそに見んとは 建礼門院
鞍馬寺
○ 遮那(しゃな)王が背くらべ石を山に見て わがこころなほ明日を待つかな 与謝野寛
石清水八幡宮
○ 石清水松かげ高くかげ見えて 絶ゆべくもあらず万代までに 紀貫之
宇治
○ わが庵は都の辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師
灰屋紹益
灰屋とは、南北朝のころから藍染め用の紺灰の商ひで巨大な富を築いた豪商佐野家の屋号のことである。徳川時代の始めの当主、灰屋紹益は、諸芸にも通じて貴族との交流も広く、六条柳町の遊女、吉野太夫をめぐって、のちの関白近衛信尋と争ひ、大夫を正妻に迎へたといふ。
○ 花咲いた後は灰屋に散る吉野
山崎の油 / 乙訓郡大山崎町
平安時代の末ごろ、乙訓郡大山崎の地に、山崎長者と呼ばれた石清水八幡宮の神人組織が住み、油を絞るための「しめ木の具」を考へ出して、荏胡麻を製造したのが、「山崎の油」の始りといふ。この組織は大山崎油座ともいふ。山崎八幡宮をまつるとともに、石清水八幡宮の雑務をこなし、禁中や八幡宮へ油を納める代はりに、油の製造販売を独占した。諸国の油業者からは税を取り立て、油業者たちは、山崎八幡宮の許可なくして油の売買はできず、関所を通ることも罷りならなかったといふ。
○ 宵ごとに都に出づる油売り ふけてのみ見る山崎の月 職人尽歌合
宇治の橋姫 / 宇治市宇治橋
孝徳天皇の大化二年に初めて宇治橋が架けられたとき、宇治川上流の桜谷の瀬織津比売せおりつひめの神を、橋上に祀って祠を建てた。祠はのちに橋の西の土地に移され、明治までは橋の架け替へごとに新しい神殿が造られたといふ。橋姫神社といふ。
○ さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫 古今集
○ あじろ木にいさよふ浪の音ふけて 独りや寝ぬる宇治の橋姫 新古今集
○ 橋姫の紅葉かさねやかりてまし 旅寝は寒し宇治の川風 蓮月集
宇治茶 / 宇治市
室町時代の初めに、明恵といふ僧が、茶の栽培地を求めて各地をめぐり、宇治郡大和田の里に来たとき、馬に乗って畑を歩き、駒の蹄のあとに茶の種をまくことを里人に歌で教へた。
○ 栂山の尾の上の茶の木分け植ゑて あとぞ生ふべし駒の足影 明恵
この茶園は駒蹄影園と名づけられた。宇治茶の宇治七名園を詠んだ歌もある。
○ 森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日につづく枇杷とこそ知れ
井手の玉川 / 綴喜郡井手町
天平のころ、山城国の奈良街道に面した井手の地に、左大臣橘諸兄の別邸があった。井手左大臣とも呼ばれた諸兄は、この地に井手寺をつくり、庭に山吹を植ゑ、水を湛へて建築をすすめたが、寺供養の日に思はぬ讒言にあって失脚し、庭を見ることもなく病の床に臥したといふ。それを哀れんで孫の橘清友が歌を詠んだ。
○ 蝦鳴く井手の山吹散りにけり 花の盛りに逢はましものを 橘清友
木津川にそそぐ玉川と奈良街道の交差するところを井手の渡しといふ。渡しを通る旅人は、川の水を玉水とほめたたへ、手に汲んで飲み、旅の幸を祈った。
○ 山城の井手の玉水手に汲みて 頼みし甲斐もなき世なりけり 伊勢物語
天橋立 / 宮津市橋立
むかし伊邪那岐いざなき命が、国生みを終へたので、天上の高天原たかまのはらに通ふために梯子を立てた。ところが命がうっかり寝てゐる間に、梯子は海に倒れてしまった。これが丹後の宮津湾にある天の橋立となったといふ。(風土記逸文)
○ 神代よりかはらぬ春のしるしとて 霞わたれる天の橋立 続後撰集
○ そのかみに契りそめつつ神代まで かけてぞ思ふ天の橋立 細川藤孝
この地は天と地の交じはる霊地として、古代から信仰されてきた。京の小式部内侍が、丹後にゐた母の和泉式部のことを詠んだ歌。
○ 大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず。天の橋立 小式部内侍
天の羽衣 / 中郡峰山町
中郡峰山町の比沼麻奈為ひぬまなゐ神社の付近に、むかし真名井と呼ばれた泉があった。この泉で八人の天女が水浴びをしてゐたとき、子のない老夫婦が一人の天女の羽衣を隠した。天女はしばらく夫婦の養女となって酒の醸造法を教へたりしたが、天に帰らねばならないときが来た。天女は老夫婦の家を出はしたが、天に帰る方法を忘れてしまってゐた。
○ 天の原ふりさけ見ればかすみ立ち 家路惑ひて行方知らずも
天女は村々をさまよひ、今の竹野郡弥栄町船木あたりに留まり、奈具なぐ神社にまつられた。
浦島太郎 / 宮津市日置 竹野郡網野町
    玉手箱
むかし日置の里(宮津市日置)に浦島太郎といふ漁師があった。ある日釣り上げた亀は、異界の姫と化して、太郎を常世の国へ案内する。
○ 常世辺に雲立ちわたる水の江の 浦島の子が言こと持ちわたる 浦島子
○ 大和辺に風吹き上げて雲離れ 退そき居りともよ吾わを忘らすな 亀姫
○ 水の江の浦島の子が箱なれや はかなくあけて悔しかるらむ 丹後風土記
○ 君に逢ふ夜は浦島が玉手箱 あけて悔しきわが涙かな お伽草子
竹野郡網野町の網野神社は、もと浦嶼うらしま大明神といひ、彦坐ひこまし王(日下部くさか べ氏の祖)とともに、浦島子の神をまつる。近くに水江の地名もある。

舞鶴の田辺城を石田三成の軍に包囲され、篭城の覚悟を決めた細川幽斎は、万一に備へて家宝の歌論書の古今伝授の箱を、一時烏丸光広に預けた。戦ひが終ってのち、箱を返すときの光広の歌。
○ あけて見ぬかひもありけり玉手箱 ふたたびかへる浦島の波 烏丸光広
幽斎のこたへた歌。
○ 浦島や光をそへて玉手箱 あけてだに見ずかへす波かな 細川幽斎
蛭児神社 / 熊野郡久美浜町湊宮
蛭児ひるこ神社は、もと日留居ひるこ大明神といひ、漁業と航海の神とされる。御祭神は、天津日高あまつひこ彦ひこ穂穂出見ほほでみ命(山幸彦)で、国生み神話に出て来る水蛭子ひるこではないらしい。
○ 神風や朝日の宮の宮うつし 影のどかなる代にこそありけれ 源実朝、玉葉集
天照玉命神社 / 福知山市今安
福知山市の天照玉命あまてるたまのみこと神社の御祭神は天火明あめのほあかり命で、成務天皇の御代に丹波国造の大倉伎命がその祖先を祀ったものといふ。
○ 大江山昔のあとの絶えせぬは 天照神あまてるかみもあはれとや見む 丹波忠重朝臣
明智光秀 / 福知山市中 御霊神社
織田信長の家臣の明智光秀は、近江坂本城を居城にして丹波国をも平定し、天正八年(1580)には丹波の亀山(亀岡市)に亀山城を築き、京の東西を占める近江・丹波に勢力を広げた。天正十年六月の本能寺の変では、亀山城から出陣して信長を攻めた。丹波での光秀は、善政を施した教養ある武将だったといふ。福知山では横山城を修造し、由良川の堤防工事を完成させた。
福知山市中の御霊神社は、明智光秀の霊をまつって建てられたものであるが、事情により食物の神である保食神を併祀することになったのだといふ。
○ 福知紺屋町 御霊さんの榎 化けて出るげな古狸 福知山音頭
福知山音頭に歌はれた榎とは、今も御霊神社の旧社地にあり、天明の大飢饉には、木の葉を払ひ落として食用にしたといふ。
大江山
    酒呑童子
大江山の酒呑しゅてん童子が、毒入りの酒を盛られたときの歌。
○ 都よりいかなる人の迷ひ来て 酒や肴のかざしとはなる 酒呑童子
○ 年を経て鬼の岩屋に春の来て 風や誘ひて花を散らさん 渡辺綱 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

山城国 (やましろのくに)
県井戸(あがたのゐど) 京都御苑の西北部、宮内庁京都事務所の裏側にある。蛙や山吹と詠まれることが多い。
○ 蛙(かはづ)鳴く県の井戸に春暮れて散りやしぬらむ山吹の花(後鳥羽院[続後撰])
朝日山(あさひやま) 宇治橋の東約一キロにある山。
○ ふもとをば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな(藤原公実[新古今])
愛宕山(あたごやま) 京都市右京区の嵯峨野の西北。
○ 愛宕山しきみの原に雪つもり花つむ人の跡だにぞなき(曾禰好忠)
化野(あだしの) 嵯峨・小倉山の東北麓。埋葬地。
○ 暮るる間も待つべき夜かはあだし野の末葉の露に嵐たつなり(式子内親王[新古今])
嵐山(あらしやま) 京都市右京区。桂川沿岸。桜・紅葉の名所。
○ 吹きはらふもみぢの上の霧晴れて峰たしかなる嵐山かな(定家)
有栖川(ありすがは) 京都市北区紫野の船岡山の東に発し、賀茂斎院の傍を流れ、堀川に注ぎ込む川を言った。
○ 有栖川いつきの庭の秋の花千代をかねたる松虫の声(俊成)
一条戻り橋 平安京一条大路の堀川にかかる橋。渡辺綱の鬼退治伝説でも有名。
○ いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人のいふらん(和泉式部)
泉川(いづみがは) 木津川の古名。鈴鹿山脈に発し、巨椋池に注いでいた。
○ みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ(兼輔[新古今])
井手(いで) 綴喜郡井手町大字井手。橘諸兄の別荘があった。山吹や蛙と取り合わせる。
○ 春深み井手の川波たちかへり見てこそゆかめ山吹の花(源順[拾遺])
稲荷山(いなりやま) 伏見稲荷近くの山。
○ ひとりのみ我が越えなくに稲荷山春の霞のたちかくすらん(貫之)
入野(いるの) 京都市西京区大原野上羽町の地という。入野神社がある。
○ 道とほみ入野の原のつぼすみれ春のかたみに摘みて帰らん(源顕国[千載])
石清水(いはしみづ) 八幡市。石清水八幡宮がある。
○ 石清水きよき心を峰の月照らさばうれし和歌の浦風(後鳥羽院)
石田(いはた)の小野 京都市伏見区石田(いしだ)から日野にかけて。
○ 霧はれてあすも来て見んうづら鳴く石田の小野はもみぢしぬらん(順徳院)
宇治(うぢ) 宇治市。宇治川、宇治橋参照。
○ 我が庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(喜撰[古今])
宇治川(うぢがは) 琵琶湖に発した瀬田川が宇治に入って宇治川と呼ばれる。
○ もののふの八十氏川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(人麿[万葉])
宇治橋(うぢばし) 宇治川にかかる橋。橋姫信仰でも有名。
○ さむしろに衣片敷き今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫([古今])
梅津(うめづ) 京都市西京区梅津。近くに梅宮大社がある。「梅津川」はこのあたりの桂川をいったか。
○ 梅津川岩間の波のたちかへり春の花かとうたがはれつつ(曾禰好忠)
瓜生山(うりふやま) 京都市左京区北白川の東北。
○ ゆく人をとどめかねてや瓜生山峰たちならし鹿も鳴くらん(藤原伊尹)
大荒木の森 所在地は諸説ある。桂川の河川敷にあった森か。万葉集の大荒木野は奈良県五條市。
○ 大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし([古今])
大井川(おほゐがは) 大堰川とも書く。桂川の上流、嵐山の麓あたりをいう。紅葉の名所。
○ 色々の木の葉ながるる大井川しもは桂のもみぢとや見む(忠岑[拾遺])
大内山(おほうちやま) 右京区にある仁和寺の北。御室山ともいう。宇多法皇の御所をさすこともある。
○ 白雲のここのへに立つ峰なれば大内山といふにぞありける(藤原兼輔[新勅撰])
大江山(おほえやま) 西京区大枝。大枝山とも書く。山城・丹波国境にあたった。
○ 大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立(小式部内侍 [金葉])
大沢池(おほさはのいけ) 右京区嵯峨。嵯峨院の庭園池であった。
○ 大沢の池のけしきは古りゆけどかはらず澄める秋の月かな(俊成)
大原(おほはら) 左京区北部。比叡山の西北麓。炭焼の煙や雪との取り合わせが多い。
○ 日数ふる雪げにまさる炭竈(すみがま)の煙もさびし大原の里(式子内親王[新古今])
大原野(おほはらの) 西京区、小塩山の麓。藤原氏の氏神、大原野神社がある。
○ 大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ(業平[古今])
小倉山(をぐらやま) 嵐山北西の山。紅葉の名所。藤原定家の山荘があった。万葉集の「をぐらの山」は奈良。
○ 夕づく夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらん(貫之[古今])
小塩山(をしほやま) 大原野神社の西の山。
○ 小塩山松の上葉にけふやさは峰のうす雪花と見ゆらん(紫式部)
音羽山(おとはやま) 京都市と大津市の市境にあたる。ここを越えると逢坂山。音羽川、音羽の滝も歌枕。
○ 音羽山けさ越え来ればほととぎす梢はるかに今ぞ鳴くなる(紀友則[古今])
小野(をの) 山城国愛宕郡小野郷。現在の京都市左京区高野・修学院から八瀬・大原におよぶ地域という。惟喬親王隠棲の地。
○ 深山木を朝な夕なにこりつめて寒さをこふる小野の炭焼(曾禰好忠[拾遺])
笠置山(かさぎやま) 相楽郡笠置町の木津河畔にそびえる山。弥勒信仰の霊場。
○ 五月雨は水上まさる泉川笠置の山も雲隠れつつ(藤原俊成)
笠取山(かさとりやま) 宇治市北東部の山地。紅葉の名所。
○ 雨ふれば笠取山のもみぢ葉は行き交ふ人の袖さへぞてる(壬生忠岑[古今])
鹿背山(かせやま) 相楽郡木津町・加茂町の境の山。
○ 都いでて今日みかの原いづみ川かは風さむし衣かせ山([古今])
桂川(かつらがは) 京都市南西部を流れ、鴨川を合わせて宇治川に合流、淀川に注ぐ。
○ 天雲のはるかなりつる桂川袖をひでても渡りぬるかな([土左日記])
賀茂(かも) 京都市北区上賀茂。あるいは上賀茂・下鴨神社をさす。
○ ちはやぶる賀茂のやしろの姫小松よろづ世経(ふ)とも色はかはらじ(藤原敏行[古今])
賀茂川(かもがは) 北山に発し、下鳥羽で桂川に合流。加茂川・鴨川とも書く。古く「瀬見の小川」とも呼ばれた。
○ みそぎする賀茂の川風吹くらしも涼みにゆかむ妹をともなひ(曾禰好忠)
祇園(ぎおん) 京都市東山区。八坂神社の旧名祇園社に由来する。
○ 逢坂の杉より杉に霞みより祇園精舎の春のあけぼの(俊成)
北野(きたの) 北野天満宮とその周辺。
○ ちはやぶる神の北野に跡垂れてのちさへかかる物や思はん(定家)
衣笠(きぬがさ) 京都市西北郊、衣笠山麓一帯。北山とも称される。金閣寺・竜安寺などがある。
○ 春雨に衣笠山を来てみればいとども濡るる我が袂かな(源国信)
貴船(きふね) 京都市左京区北部、貴船川に沿った集落。賀茂川の水源にあたり、貴船神社が祀られている。
○ いく夜われ波にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ(良経[新古今])
清滝(きよたき) 右京区嵯峨清滝。
○ 降りつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水のしら波(西行[新古今])
清水(きよみづ) 東山区清水。坂上田村麻呂発願の清水寺で有名。
○ 清水の山ほととぎす聞きつればわが故郷の声にかはらぬ(藤原元真)
久世(くせ) 城陽市久世および京都市南区久世(くぜ)。
○ 山背の久世の鷺坂神代より春ははりつつ秋は散りけり([万葉])
鞍馬(くらま) 京都市左京区北部、鞍馬川沿いの地。毘沙門天を本尊とし、京都北方を守護する鞍馬寺がある。古今集の「くらぶ山」は鞍馬山のことという。
○ 秋の夜の月の光しあかければくらぶの山も越えぬべらなり(在原元方[古今])
栗栖野(くるすの) 愛宕郡栗栖郷(現京都市北区)。または宇治郡小栗郷(現京都市山科区)ともいう。
○ 春もみる氷室のわたりけを寒みこや栗栖野の雪のむら消え(源経信)
木幡(こはた) 宇治市木幡。
○ 山科の木幡の山を馬はあれど徒歩(かち)より我が来し汝(な)を思ひかねて([万葉])
衣手の森(ころもで  もり) 京都市西京区、松尾大社の付近という。同大社の摂社、衣手社が鎮座していた森。
○ 山姫のもみぢの色をそめかけて錦とみする衣手の杜(相模)
嵯峨(さが) 現在の右京区嵯峨を中心として広がっていた野。嵯峨天皇の山荘は、のちの大覚寺。
○ 花を見し秋の嵯峨野の露の色も枯葉の霜にかはる月影(俊成卿女)
白川(しらかは) 比叡山から流れ出て京都の街中(現左京区)を流れる川。川砂が白いことからこの名がついたという。白川の滝は桜の名所。
○ 影きよき花の鏡と見ゆるかなのどかにすめる白川の水(源有仁[千載])
芹川(せりかは) 小倉山麓から大堰川に注ぐ。嵯峨天皇や光孝天皇の芹川行幸で著名。
○ 芹川の波もむかしにたちかへりみゆき絶えせぬ嵯峨の山風(良経)
糺(ただす)の森 賀茂川と高野川が合流する川洲に出来た森。下鴨神社がある。禊払いが行なわれた霊所。
○ 木綿(ゆふ)かくる糺の森にみそぎして千とせの秋の初めをぞ待つ(藤原為家)
常盤山(ときはやま) 右京区常盤。太秦の北の丘陵地。「ときは」は常緑、および永久不変の意。普通名詞とみられる用例も少なくない。
○ もみぢせぬ常磐の山は吹く風の音にや秋を聞きわらるらん(紀淑望[古今])
戸無瀬(となせ)の滝 嵐山麓、天竜寺の背後にある滝。また大堰川の急流部分を戸無瀬川とも称した。
○ 嵐吹く山のあなたのもみぢ葉を戸無瀬の滝に落としてぞ見る(源経信)
鳥羽(とば) 南区上鳥羽から伏見区下鳥羽にかけての地。低湿地で、古く狩場とされた。
○ 大江山傾く月の影さえて鳥羽田の面に落つる雁がね(慈円[新古今])
鳥部山(とりべやま) 東山区の京都女子大の裏手、阿弥陀が峰をいう。鳥辺野はその裾野。火葬の地。
○ 鳥部山谷の煙のもえ立たばはかなく見えし我と知らなむ([拾遺])
中川(なかがは) 左京区下鴨の糺の森付近で賀茂川から分流し、二条付近で鴨川に注ぐ。鎌倉時代以降、今出川と呼ばれた。
○ 恋ひて泣く涙に影は見えたるを中川までもなにかわたらん(和泉式部)
双ヶ岡(ならびがをか) 右京区仁和寺の南、妙心寺の西の丘。「ならびの岡」。兼好が晩年住んだ。
○ おぼつかなならびの丘の名のみしてひとりすみれの花ぞつゆけき(建礼門院右京大夫)
鳴滝(なるたき) 右京区の福王子神社周辺。御室川が流れ、滝がある。
○ 落ちまさるわが涙にしくらぶればかの鳴滝も名のみなりけり(相模)
はづかしの森 伏見区羽束師志水町にある羽束師坐高御産日(はつかしにいますたかむすび)神社の森。
○ 忘られて思ふ歎きのしげるをや身をはづかしの森と言ふらん([後撰])
柞(ははそ)の森 相楽郡精華町祝園(ほうその)の祝園神社の森。
○ はぐくみし梢さびしくなりぬなり柞の森の散りゆく見れば(源俊頼)
氷室山(ひむろやま) 一般に氷室のあった山を呼ぶが、歌枕となったのは鷹峯西方の栗栖野氷室山であろうという。ただし左京区上高野の小野氷室跡のある氷室山を詠んだ歌もある。
○ みなづきの空のけしきも変はらねどあたり涼しき氷室山かな(源顕仲)
平野(ひらの) 京都市北区の平野神社とその周辺。
○ おひしげれ平野の原のあや杉よこき紫にたちかさぬべく(清原元輔[拾遺)
広沢池(ひろさはのいけ) 右京区北嵯峨にある池。月見の名所。
○ なべて世に月は見るとも広沢の清き流れを誰か伝へん(寂蓮)
深草(ふかくさ) 平安京の南郊、現在の伏見区の中央部あたり。古く葬送の地。
○ 年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなん([伊勢物語])
○ 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(俊成[千載])
伏見(ふしみ) 平安京の南郊。伏見稲荷・御香宮神社などがある。名水の地。
○ 夢かよふ道さへ絶えぬくれたけの伏見の里の雪の下折れ(藤原有家[新古今])
船岡(ふなをか) 京都市北区、紫野にある丘。
○ 船岡に若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ(清原元輔)
松の尾山(まつのをやま ) 西京区の北部、松尾大社の背後の山。
○ 玉垣は朱(あけ)もみどりもうづもれて雪おもしろき松の尾の山(西行)
松ヶ崎(まつがさき) 左京区。高野川の西。松や鶴、氷室などを詠み込んだ歌が多い。
○ たなびかぬ時こそなけれ松もなき松が崎より見ゆる白雲(貫之)
瓶原(みかのはら) 相楽郡加茂町の盆地。泉川の北にあたり、奈良時代、聖武天皇により恭仁京が造営された。
○ 長月の十日あまりのみかの原川波きよくやどる月影(藤原家隆)
美豆(みづ) 京都市伏見区淀美豆から久世郡久御山町御牧一帯。皇室の牧場があった。
○ さみだれは美豆(みづ)の御牧(みまき)の真菰草(まこもぐさ)刈りほす暇(ひま)もあらじとぞ思ふ(相模)
紫野(むらさきの) 京都市北区の船岡山東北一帯。遊猟地。万葉の額田王が詠んだ「紫野」は別。大徳寺・今宮神社などがある。
○ わが宿の松にひさしき藤の花むらさき野には咲きやしぬらん(壬生忠見)
山科(やましな) 京都市山科区。天智天皇陵がある。古来、寺院が多い。
○ はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを(藤原定方)
淀(よど) 京都市伏見区。桂川・宇治川・木津川の合流点で、水上交通の要衝。
○ まこもかる淀の沢水雨ふれば常よりことにまさる我が恋(貫之[古今]) 
泉川・瓶原 (いづみがは・みかのはら)
みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ(兼輔「新古今」)
泉川は、京都府の南部を流れ、淀川に合流する木津川の古名である。現在の相楽郡木津町のあたりで川は大きく北へ屈曲しているが、その少し手前、流れに沿ってひらけた平地を瓶原(みかのはら)と言った。
こから南へ一山越えれば奈良である。奈良時代の泉川は平城京を難波と結ぶ交通の大動脈であった。
瓶原は山水の景観にも恵まれていたので、平城遷都後まもなく、泉河畔の地に離宮が営まれた。聖武天皇は皇太子時代からこの地を好み、たびたび滞在されたが、天平十二年(740)の藤原広嗣の乱に端を発した彷徨の末、ここを都と定められた。恭仁京(くにきょう)である。わずか四年にも満たない短命の都であったが、万葉集には少なからぬ恭仁京讃歌が収められている。
○ 山背の 久迩くにの都は 春されば 花咲きををり 秋されば もみち葉にほひ 帯おばせる 泉の川の 上かみつ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し あり通ひ 仕つかへまつらむ 万代よろづよまでに  楯並たたなめて泉の川の水脈みを絶えず仕へまつらむ大宮所(巻十七)
天平十三年二月、右馬頭境部老麻呂が詠んだ新都讃歌である。山を彩る花と紅葉、その山を帯のように巡って流れる川、その川に渡された橋をうたい、水脈が絶えないように都が万代にわたって続くことを予祝している。
当時右大臣橘諸兄のもとで宮廷歌人的な活躍を見せていた田辺福麻呂にも、この地を詠んだ歌は多い。やはり泉川は忘れずに詠み込まれている。
○ 泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮どころ移ろひゆかめ(巻六)
○ 狛山こまやまに鳴く霍公鳥ほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず(巻六)
二首目は、ほととぎすも通えないほど川幅が広い、と泉川を誉め讃えているのである。往時、泉川の水量は今よりも遥かに豊かであった。
狛山と泉川
天平十六年、聖武天皇は大仏造立の適地を求めてさらに紫香楽(しがらき)の地へと都を遷し、同年の山火事と地震によって平城旧京へ還都することになる。この時恭仁京も打ち捨てられたのである。
以後、瓶原の地はひっそりと時の流れの中に埋没していった。今この土地を訪れれば、宅地化の波は押し止めようがないとしても、泉川はゆったりと青波を湛えて流れ、瓶原には野の花が咲き乱れている。華やかな天平の都がかつて存在したとは到底信じられない、のどかな田園の風景が広がるばかりである。
○ 泉川かは風寒し今よりや久迩の都は衣うつらん(宗尊親王)
○ 泉川いつより人のすみたえて久迩の都は荒れはじめけん(源兼氏)
鹿背山と泉川
福麻呂の歌に詠まれていた狛山は泉川北岸の山であるが、南岸には鹿背(かせ)山という山が横たわる。「鹿背」は宛て字であろうが、じっさい地面にうずくまった鹿の背のように見えぬこともない独特の山容で、枕草子にも「山は をぐら山。かせ山。三笠山」とあり著名である。次の古今集の歌は、王朝びとに愛誦された一首であった。
○ 都いでて今日みかの原いづみ川かは風さむし衣かせ山(読人不知「古今」)
瓶原の「みか」に「見」、泉川に「出づ」、鹿背山に「貸せ」を掛けた、リズミカルな言葉遊びの楽しい歌である。瓶原・泉川は、その名前自体から喚起されるイメージの美しさもさることながら、掛け詞に用いやすい点でも歌枕としての要素を十分に備えていたのである。
○ みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらん(兼輔)
○ 時わかぬ浪さへ色にいづみ川ははその杜に嵐ふくらし(定家)
○ つつみあまる袖の涙の泉川くちなむ果てはころもかせ山(源家長)
泉川
また泉川は、夏の炎暑にあって涼しさを呼び起こす景物としても用いられるようになる。「いづみ」という名の喚起する清冽なイメージとともに、上記の古今読人知らずの歌「かは風さむし衣かせ山」の反響を見出すことができるだろう。
○ 泉川かは波しろく吹く風に夕べすずしき鹿背山の松(後鳥羽院)
○ 泉川かは波きよくさす棹のうたかた夏をおのれ消けちつつ(定家)
定家の歌の「うたかた」は水泡であるが、棹の起こす波の泡がたちまち消えてゆくイメージに「うたかた夏」(はかない夏)が去ってゆく季節感を重ねて、あざやかな印象を残す。
俊成卿女の次の歌は、泉川の波に夏の月を映して、一抹の清涼感を与えることに成功しているように思われる。
○ 月影も夏の夜わたる泉川河風凉し水のしら波(俊成女)
また三条西実隆は、夏から秋へ移る頃おい、山々の緑を映す川面と、その上を渡る夕風の涼しさを印象深く詠いあげた。
○ ははそ原いつはた色にいづみ川緑もすずし水の夕風(三条西実隆)
これが晩秋や冬に舞台を移せば、冷涼とした寂びで風景を包むことになるだろう。
○ みかの原山風吹けばいづみ川紅葉ぞ色にわきて流るる(源有俊)
○ 狛山こまやまのあらしや寒き泉川渡りを遠み千鳥鳴くなり(宗尊親王)
○ 泉川水の水曲みわたの柴漬ふしづけに柴間もこほる冬は来にけり(藤原仲実)
三首目、「ふしづけ」は、冬の間、川に柴を束ねて沈め、魚を獲る仕掛けをいう。その小枝の隙間に氷が張るという微小なイメージの内に冬の到来を感じ取っている。これも「川風さむし」と詠われた歌枕泉川を効果的に用いた例であろう。 
浦嶼子 
言わずと知れた浦島太郎の話です。『釈日本紀』の本分は長すぎるので省略。気になるのは以下のような点でしょうか?
・丹後国与謝郡日置里は現在の宮津市ですが、筒川村は現在の伊根町。分離したということでしょうか。伊根町には浦島神社があって浦嶼子を筒川大明神として祭っているとか。ちなみに同町新井には徐福伝説のある新井崎神社あり。
・ウラシマコは日下部首の先祖。日下部氏はサホビコから発しています。『辞典』では日下部氏の始祖伝承だったのではないかとしていますが、その割には伝承のラストから考えてつながりが難しいか。むしろ祭祀の起源かな?
・五色の亀が釣れて、その亀自体が姫になるカメヒメ型。「五色の亀」「天上の仙家」「蓬莱山(とこよのくに)」「七人童子=昴星」「八人童子=畢星(あめふり)」「仙都・仙人」「狐は自分の古巣の山の方を頭にして死ぬ」など大陸の文献から入ったかと思われる言い回しが多数。
・最後に五歌。全て短歌形なので、この部分は新しいかも?
まず日下部氏の氏族伝承であるという点ですが、まあありえるでしょう。下は雄略天皇紀の記事ですが、この伝承がなぜ唐突に雄略紀に語られるのか昔から不思議ではありました。
《雄略天皇二二年(戊午四七八)七月》秋七月。丹波国余社郡管川人水江浦嶋子、乗舟而釣。遂得大亀。便化為女。於是浦嶋子感以為婦。相逐入海。到蓬莱山、歴覩仙衆。語在別巻。
ただ日下部氏の伝承として考えると、実は関係はあるのです。
雄略帝は即位に当って市辺押磐皇子(いちへのおしはのみこ)を殺しましたが、その子供であったオケ・ヲケ王を守って丹波へ逃げたのが日下部連使主(おみ)だったわけです。
つまり雄略時代、日下部氏は丹後の国にいたわけですが、その日下部氏のウラシマコが海に入って蓬莱山へ行き仙人にあったというのは、日下部氏自身とその守護するオケ・ヲケ王が祝福を受けたことを表しているのではないかと思うわけです。だから上に引用した雄略22年の記事にはウラシマ伝承の後段が省かれているのではないか、と。
まあ上記のような想像が成立するためには「ウラシマコが日下部氏の人間であるということが一般に認識されていなければならない」というのが必要ではあるのですが。
上にも書きましたが『釈日本紀』の浦島伝承からして、どうも大陸くさいムードはあります。ただ「大陸の雰囲気をまとうことが伝承の本質とあっていた」とも考えられる。
蓬莱山というのは中国の伝承では東海に浮かぶ仙人たちの住む山。徐福はその山へ不老不死の薬を求めて旅立ち帰ってこなかったといいます。ただ「日本にたどり着いた」という言い方がはっきりと現れるのは五代後周(951−960)の文献かららしいので、ここで議論している時代ではまだ徐福がたどり着いた土地=日本という認識は微妙。
中野先生もこの蓬莱伝承については幾つか書いていますが、例によって昔読んだ&手元に無いので良く覚えていません。ただ「異界では時間の流れが速い」というモチーフは、中国では蓬莱山伝承=海中異界伝承ではなく山中異界伝承に多いと書いてあったように思います。そして時代的にはむしろ記紀以前になる南朝陶淵明の『桃花源記』には『釈日本紀』にある「異界では時間の流れが速い」モチーフが現れているわけです。
『辞典』ではこのモチーフは外来だと切り捨てています。もちろんその可能性はあります。ただ「海中異界は日本的である」というテーゼが成立するならば、そこに大陸的な山中異界譚の典型である「桃源郷」伝承のモチーフが融合しやすいというのはありえることです。
雄略紀では時間モチーフはカットされていますが、記紀成立当時既に時間モチーフを伴ったタイプが有名であったとすれば、「ウラシマコ」という名前が出ただけで想起されたでしょう。ならば「異界から戻ってみたら時代が変わっていた」という話は、「オケ・ヲケ王の帰還」という物語ともつながっていくわけです。
まあ、そこまで考えて雄略紀にこの話を入れたのだとしたら、それはかなりすごい「伏線」です。教養豊かな記紀の編纂者たちの仕事か?はたまた、語り手たちの潜在的な神話的思考の賜物か?
『万葉集』など古代でも文献資料はありますから、そういうのも比較してみる必要がありそうです。
丹後以外の地域でも伝説化しているそうです。神奈川県西蓮寺の浦島太郎塚・足洗井・腰掛石。木曽の寝覚床。 
天橋立
丹後國風土記曰 與謝郡 郡家東北隅方 有速石里 此里之海 有長大前長一千二百廾九丈 廣或所九丈|以下 或所十丈以上廾丈以下 先名天椅立  後名久志濱 然云者 國生大神伊射奈藝命 天爲通行 而椅作立 故云天椅立 神御寢坐間仆伏 仍恠久志備坐 故云久志備濱 此中間云久志 自此東海 云與謝海 西海云阿蘇海  是二面海 雜魚貝等住 但蛤乏少(釋日本紀卷五)
日本三景天橋立に関する伝承です。意外にも浦島太郎伝承とほぼ同じ場所なんです。
イザナギが天に通うために使ったのが天橋立で、寝ている間に倒れたので、「これは不思議(クシビ)だ」と言った。だからクシの浜と。
『辞典』にも引かれていますが、神が天に通うために橋を使うというのは、『播磨国風土記』印南郡八十橋にもある伝承です。
恐らく、橋を想起させるような地形だの石だのがあり、それが天地を結ぶ橋であったと考えられたのでしょう。日本には天地分離神話自体あまりはっきりとしたものはありませんから、天地をつなぐ天柱だの巨木だのの伝承もあまりない。天地の分離を語る神話ではなく、地形の起源を語る伝説に落ち着いてしまうのでしょう。
後段海についての記述がありますが、蛤が少ないとあります。これは本当なのでしょうか?蛤は川が流れ込んでいる浜辺に多く棲息するらしいですが、天橋立にも野田川という川が流れ込んでいるようですし。
「うむぎ」という古語の語源が不明なので、ちょっと自信が無いのですが、「蛤」という漢字をみてもわかるように、蛤は二枚貝の代表として使われることが多いようです。 
奈具社
奈具社の起源伝承。
比治山頂の真奈井に降りてきた八人の天女のうち、和奈佐老夫・和奈佐老婦夫妻に衣を隠された一人だけが地上に残った。天女は万病に効く霊酒を作ることが出来たので、夫婦の家は富み栄えたが、十余年後夫婦は天女を我が子ではないから立ち去れと追い出す。天女は人間界に長く住んだせいで天界に帰ることができず、放浪する。「心が荒潮のように騒ぎ立つ」と言った土地は「荒塩村」、槻の木にすがって泣いた場所は「哭木村」、「ここまで来て心が和んだ」と言った場所は「奈具村」となった。この神は竹野郡奈具社の豊宇賀能売命である。
序盤は典型的な天人女房型でありながら、妻になるのではなく養子となっています。後半は高貴な存在が苦しい漂白を続けるという所謂貴種流離譚です。
神の起源伝承なわけですが、何かしらご利益があっての祭祀起源ではなく、神自身の魂を慰めるという鎮魂的な信仰の開始を語っています。この神社は現在の京丹後市弥栄町舟木にあったそうですが、既に社殿は存在していないとの事。
ところで、そこから南西へ20キロぐらいでしょうか?京丹後市のHPによると山中に乙女神社という神社があるそうで、こちらは天女と猟師が結婚し、その子孫であると伝える家もあったとか。そこにお参りすると美女がうまれるそうです。
つまりごく近くに通常の天人女房譚が存在している。奈具社の伝承を話型として捉えて設定できるものか、考えてみる必要があるでしょう。天人養女型?ともいえる事例が全国的にどれほど採集できるのか?天女が天に帰ることができない。或は異界の存在が人間界に留まって神となるという伝承についても考える必要がありそうです。たとえ単独例であったとしても、いや、単独例であるならばなおさら興味深い事例であると言えるでしょう。
しかし話の分析についてはあまり良い発想は浮かびません。天人女房譚に引きずられてしまうからでしょうか?近くに典型的な天人女房譚を伝える神社があるとなればなおさらです。
ならば、ということで、『辞典』の「貴種流離譚」の項目を読み返してみました。すると、「記紀における神の人間界での流離にはまだ悲哀があまり打ち出されていない」とか「奈良平安期に大陸からの文献に刺激を受けて文学性が高まる」とか「一つの絶頂は『源氏物語』須磨明石」などと書かれていましま。なるほど。でもこれじゃ冷静に読んでみると日本独自とも古代から続くとも言えないじゃありませんか?
しかし、ということは「奈具社」の伝承は古代的とはいえないということになります。ならば、むしろ近縁性が近いのは古代的且普遍的な神話である天人女房譚よりも、中世の寺社縁起ということを考えてもいいはずです。
中世の寺社縁起。興味はあるもののなかなか本格的に取り組む機会が無いのですが、その程度の知識でまとめてみると以下のような感じでしょうか?
1 主人公は神仏の申し子。
2 継子いじめ或は正妻との確執などにより流浪したり殺されたり。
3 最終的には神として現れる。
奈具のトヨウカメは神仏の申し子ではありませんが、天女です。つまり神聖性を帯びた存在である。1はこれによって置換可能でしょう。無理やりとは言え養女であるという立場から2の継子いじめ的な要素もある。そして神として祭られる。
つまり「奈具社」伝承は中世寺社縁起の先駆け的な事例であると位置付けることが可能だということになると思います。また中世寺社縁起では主人公が神仏を熱心に信仰していたなどという「厚い信仰」が神になる理由になっていると思われますが、「奈具社」伝承では「天人のこころざし」なるちょっと何処から出てきたのかわからないような道徳性?が神として現れる理由になっているようです。序盤盗んだ羽衣を返して欲しいといった天女と老夫婦の会話はその辺を示すためのものだと考えれば違和感が軽減されると思います。
しかし「天人のこころざし」などという物言いが後付的に見えることは変りません。その意味ではやはり既に古代を脱しているのかも。しかし2の要素に当るものというのはヤマトタケルと父景行天皇との確執などもあるでしょう。そもそも継子いじめ自体民間的なモチーフですし、「家族関係の不和」というのは普遍的な問題として存在している。それを通じて「天女が神になる」という辺りが、実はこの伝承の、あるいは中世寺社縁起の神話的な側面なのかもしれません。
どういうことかというと、超人的な能力を持つ異人或は英雄というのはそれだけでは両義的な存在だからです。彼らは人間と接することで、人間に恩恵を与えることで神になる。文中に御利益などはかかれていませんが、実際の信仰の文脈ではやはり意識されたと思います。
中世寺社縁起では人間に恩恵を与えるという部分が薄く、それが「自身の信仰の功徳」に置き換わっているのかもしれません。信仰を促すための物語という側面が強いですから。
さてここまでくると分析に入れそうな気がします。
A 天女は八人で山中の泉に降り立った。
B 天女は老夫婦と家族になり霊酒を作り、それを高いお金で売ったので老夫婦は裕福になった。
C 天女は家を追い出され、各地を遍歴し、神となった。
物語はABCと進みます。
天女の境遇は、「多くの天人の一人」→「家族の養女」→「一人」と変化する。
天女の恩恵は、「なし」→「家族を裕福に」→「農耕神トヨウカメに」と変化する。
つまり、天女自身が孤独になっていくのに反比例して、天女の恩恵を受ける人々は実は多くなっているのです。だからこそ神として祭られる。
霊酒は万病に効きますが、それは高く売っていたもので、それではお金の無い人々には行き渡りません。またそのお金を得た老夫婦も富を独占し、天女自体も疎ましくなって追い出してしまう。
しかしその理不尽を経験することによって天女は単に霊力がある異人であることをやめて神となるわけです。各地を遍歴するというのも貴種流離譚の文脈で捉えるとどうにも文学色が強くなってしまいますが、信仰の広がりを表していると見てとることも出来るでしょう。村の地名起源が特定の神と結びついているというのはその村がその特定の神を信仰していなければありえないことです。
さて話は一気に飛びますが、台湾原住民サイシャット族にココヨワウという女神がいます。雷女などと訳されることが多いですが、農耕神でもある。
彼女はサイシャットの男性と結婚して農作業を手伝いますが、台所仕事は一切しません。そういう約束でした。しかし岳父にむりやり命じられる。彼女は仕方なくそれに従うと鍋に触れたとたんに大きな音とともに消え失せてしまった。そんな話です。
この伝承と奈具社の伝承ではずいぶんと時空に隔たりがありますが、異界からやってきた異能の存在が人間と家族になり、それを助けたものの、人間側が次第に粗略な扱いをするようになった、という共通点があります。そしてどちらもその後神として祭られる。ココヨワウは人間界に留まらないので、奈具社伝承とは違いますが、そもそもサイシャットには神社的なものは基本的にはありません。
貴種流離譚からではこの類似性はあまり気がつかないでしょう。異界からやってきた存在は人間と接することで神として信仰されるようになるのです。
貴種流離譚は文学的な意味での「人の流離(悲劇性)」から古代の信仰としての「神の去来」を遡って考えているような節がある。むしろ、よくよく考えてみると新約のイエスが完全な「貴種流離譚」だったりしそうです。
それにしてもこのトヨウカメ。酒の神であり、穀物神であり、病を治す神である。なんとなく大国主と被ります。その意味では北陸的な神といえるかもしれません。しかし一方でトヨウカメとは伊勢神宮外宮の神でもある。国家レベルでは、この辺の信仰を通して日本海側・畿内・太平洋側という神々の交流が見えてくるかもしれません。
貴船神社 / 京都府京都市左京区
式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから濁らず「きふね」という。水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。古来より、晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、このことから絵馬が発祥したとも言われる。
また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルや女性で賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。ただし「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には丑の刻であるかどうかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に本来の意味が変質したものと思われる。
創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。
白鳳6年(666年)に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀に、延暦15年(796年)、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。
『延喜式神名帳』には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として記載され、名神大社に列している。後に二十二社の一社とされ、保延6年(1140年)に最高位の正一位の神階を授けられている。
永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた。
船形石(ふながたいし)
奥宮本殿の西側にあり、船の形をした石組み。 貴船神社創建伝説によると、約1,600年前(第18代反正天皇の御代)初代神武天皇の皇母・玉依姫命が大阪湾に御出現になり、水の源を求めて黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流・現在の奥宮の地に至り、水神を祀り「黄船の宮」と称された。その黄色い船は人目に触れぬよう石で包まれたという。古くから、船乗り達から「船玉神」として信仰され、現代でも船舶関係者等からの尊信がことさら篤い。古来、日本人は川上への憧れがあった。「澄む」という字は、「川を登る」と書くように、川上は清浄な場所であり、モノを生み出す神秘の処であった。それは「水を飲む時には源を思え」といわれるように、ものと心を大切にする、報恩反始の精神につながっていく。貴船神社創建に関わるこの伝説も、このような遡源(そげん)思想が根底にあり、万物の根源である水に対する信仰と相まって、貴船信仰として全国に広がっていったのであろう。
本宮には船形をした「石庭」が、中宮には「天の磐船」があり、本宮、中宮、奥宮とそれぞれの社に船が揃う。 奥宮の「船形石」の伝説に見られるように、神様の乗り物として神聖視され、貴船神社と「船」との関わりは深い。「貴船」を象徴するように、神が宿るすべての境内地に「貴い船」が配されているのが特徴である。
つつみが岩
貴船特有の貴船石。古代の火山灰堆積の模様を表す水成岩で、紫色に輝き、色調・形状ともに秀でた名石。大昔、貴船・鞍馬は海底火山であったことがたくさんの化石から証明されている。枕状溶岩もそれを証明するひとつで、海底火山の活動によって流れ出した溶岩が海水で冷やされ固まり、これがいくつも重なって枕状になる。庭石の名石で知られる貴船石も溶岩で、この「つつみが岩」もよく見ると枕状が確認できる。
天の磐船
貴船の山奥で見つけられた見事な船形の自然石。平成8年(1996)3月に貴船神社に奉納され、結社の御祭神、磐長姫命(いわながひめのみこと)の御料船として結社境内に納められた。古くは、「船」は唯一の交通機関であり、人と人、文化と文化を結びつけるという大切な役割を担うことから、えんむすびの信仰と深い関わりがある。
宮には船形をした「石庭」が、奥宮には「船形石」があり、本宮、中宮、奥宮とそれぞれの社に船が揃う。 奥宮の「船形石」の伝説に見られるように、神様の乗り物として神聖視され、貴船神社と「船」との関わりは深い。「貴船」を象徴するように、神が宿るすべての境内地に「貴い船」が配されているのが特徴である。
ご神木の桂
根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がっている。まるで御神氣が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て、貴船神社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁である。貴船は古くは「氣生嶺」または「氣生根」とも書かれていた。大地のエネルギー「氣」が生ずる山、「氣」の生ずる根源の地という意味である。神道では、体内の氣が衰えることを「けがれ(氣枯れ)」といい、古来、当宮に参拝する人は皆御神氣に触れ、氣力の充実することから運気発祥(開運)の篤い信仰がある。
貴船神社の特徴として非常に興味深いのは、本宮・奥宮・中宮(結社)のすべての境内に御神木として巨大なカツラがそびえていることである。奥宮の本殿北側には、京都市指定の天然記念物となっているカツラもある。
石庭
古代人が神祭りを行った神聖な祭場「天津磐境(あまついわさか)」をイメージして、昭和の作庭家の第一人者、故・重森三玲氏によって作庭された。
三玲の言葉から 「石組は従来の鑑賞本位の庭園石組と違って、その姿が原始的なものであり、神を尊崇して神聖な場所を作るために組み並べられるものだけに、無技巧の技巧ということを本来の内容とした。」
(『京の庭を巡る』から抜粋) 神の宿る空間、「原始の庭」を作ろうとして自らの作意を捨て、ただ感じるままに、ただ閃くままに体を動かし、門弟たちを指揮した。昭和40年(1965)9月2日から3日までのわずか2日間で完成させたのである。この石庭は全て貴船石で石組されているのが特徴で、庭全体が船の形になっている。中央の椿の樹がマスト(帆柱)で、神が御降臨になる樹、いわゆる籬(ひもろぎ)でもある。貴船石は2億数千年前に海底に噴出した火山岩系の玄武岩質の石で、貴船川から産出する貴船石は緑、色や紫色の美麗な水成岩で、庭石、盆栽石の名石としてその数も少なく珍重されている。
しかし各地に散逸したため、この石を保存する目的もあり、三玲氏に作庭を依頼したのである。
中宮には「天の磐船」が、奥宮には「船形石」があり、本宮、中宮、奥宮とそれぞれの社に船が揃う。 奥宮の「船形石」の伝説に見られるように、神様の乗り物として神聖視され、貴船神社と「船」との関わりは深い。「貴船」を象徴するように、神が宿るすべての境内地に「貴い船」が配されているのが特徴である。
鏡岩
貴船山の中腹にある、太古の伝説を秘めた鏡岩。いくつかの大きな岩が積み重なり、中央が室となっている。磐座(いわくら)と呼ばれ、神社(社殿)ができる以前の古代の祭場であったと考えられる。太古の昔、貴船大神が丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に、この鏡岩に天上から天降ってこられたとの伝説が残っている。それゆえに神聖な岩であり、現在は禁足地となっていて行くことも出来ず、誰も間近に見ることは出来ない。
まさに貴船の旧跡、伝説の場所である。 
石船神社(いわふねじんじゃ) / 京都府京田辺市
建築年代など不詳。もとは八王神の社(はちおうじんのやしろ)といった。言い伝えでは饒速日命が天磐船(あまのいわぶね)に乗り、この地の櫂峰(かじがみね)に降臨し、そのあと河内の哮峰(たけるがみね)に天降り(あもり)、大和国鳥見(やまとのくにのとみ)白庭山に遷ったとされる。その降臨地にちなんで奉祀されたのが岩船神社である。 北の山原には船石と伝わる石があり、また船を繋ぎとめたといわれる松が櫂峰つづきの大将軍の山上にあったが、今は枯れて古株だけが残っている。明治6(1873)年、村社となり、明治14(1881)年、岩船神社とあらためられ、現在は石船神社と表記。 
雨乞い地蔵(あまごいじぞう) / 京都府城陽市観音堂
田園風景が広がる中に、小さな蓮池がある。その池に水没しかかったような屋形がある。この中に収められ、常時水没しているのが雨乞い地蔵である。水面から中をのぞき込んでも、全く地蔵の姿は見えない。
この池は常楽池と呼ばれ、近所にある常楽寺所有のものである。昔から、このあたりの村人は日照りが続くと、この雨乞い地蔵を池の中から引き揚げて、雨乞いの祈祷をおこなったという。祈祷の仕方は、竹4本を立て、注連縄を張って祭壇を作り、常楽寺の住職を招いて“水天龍王に雨を祈る”と書いた卒塔婆を立てるという手順。この地蔵は水が大好きなので、水の中から引き出されて乾いてしまうと水を求めて雨を降らせるというのである。ただしほどよいところで地蔵を池の中に戻さないと、延々と雨を降らし続けて洪水になるとも言われている。
最近でも雨乞いの儀式がおこなわれ、平成6年(1994年)8月におこなわれた際にはNHKで放映された。その時は昼間に執りおこなわれたが、夕方には雨乞いの甲斐あってか、雨が降り出したとのことである。
宇良神社(うらじんじゃ) / 京都府与謝郡伊根町本庄浜
浦嶋子の出自として最も説得力のあるのがこの宇良神社である。最近では“浦嶋神社”の方が通りがいいが、正式名称はこの名前である。
この神社の祭神は筒川大明神、すなわち浦嶋子である。この大明神の名は淳和天皇によって825年に贈られたものである(この時勅使として遣わされたのが小野篁である)。神社の縁起によると、浦嶋子が絶世の美女に誘われて“常世の国”へ行ったのが478年、帰ってきたのが825年とされる。
浦嶋子という名が最初に登場するのは『日本書紀』の雄略天皇22年の記述。「瑞江(水江)の浦嶋子という人が釣りをして亀を得る。その亀は美女に変身し、浦嶋子はその美女を妻として海に入り、蓬莱へ行って仙人を見た。これは別巻に書いてある」。この“別巻”は『丹後国風土記』を指し、ここに詳細が書かれている。
宇良神社から少し東に面白いものが残されている。浦嶋子が常世の国から帰還してきた穴と呼ばれる“龍穴”である。表示板がなければ通り過ぎてし まうほどの、本当に小さな横穴である。舟で常世の国へ行ったのだから、海から帰ってきたとばかり思い込んでいたのだが、この帰還場所は意外な盲点であった。
『丹後国風土記』における浦島伝承と矛盾点 / 筒川の子、水江浦嶋子は美男子であったが、ある時三日三晩釣りをして五色の亀だけが捕れた。その亀は絶世の美女に変化し、天上仙家の者と名乗り、求愛する。そして嶋子に眠るように言うと、あっという間に海中の島へ連れて行った。娘は両親と共にそこで嶋子を歓待し、俗世と仙界について語る。三年の月日が流れ、嶋子はやはり俗世に戻りたいと告げると、「戻る気があれば、決して開けるな」と言って玉匣を渡した。俗世に戻ると辺りは一変しており、嶋子は海に出て還らぬ者とされていた。悲嘆する嶋子が玉匣を開けると、瞬く間に消えてしまった。しかしながらこの『風土記』は713年に編纂の命が下っており、825年に帰還した説に従うと、時間が矛盾することになる。
志古淵神社(しこぶちじんじゃ) / 京都市左京区久多中の町
安曇川流域には「しこぶち」という名の神社が7つある。その中で唯一京都府域にあるのが、久多の志古淵神社である。この7つの神社には河童にまつわる伝説が残されている。
志古淵さんという筏乗りの名人がいた。ある時、子供を乗せて筏で川を下っていたが、一人の子供の姿が見えなくなった。川をせき止めて探してみると、河童が息子を抱えて岩陰に隠れていた。川をせき止められて水場を失った河童は命乞いをした。そこで志古淵さんは、菅笠をかぶり、蓑をつけて、蒲の脚絆をを巻いて、草鞋を履き、コブシの竿を持った筏乗りには決して悪さをしないと誓わせて助けてやった。それから安曇川流域の筏乗りは皆、志古淵さんと同じ格好で筏に乗るようになり、事故もなくなったという。そこで志古淵さんを筏の神様として神社に祀ったのである。
別の話では、息子を助けるために河童と交渉して、年に3人だけ人の子をやると認めてしまった。そのために、安曇川流域では毎年3人の水死人が出るようになったともいう。
嶋児神社(しまこじんじゃ) / 京都府京丹後市網野町浅茂川
網野町には浦島太郎の原型である(浦嶋子)にまつわるさまざまの場所がある。嶋児神社はまさに漁港の突端にある。石造りの鳥居は幹線道路に覆い被さらんばかりの大きさなのであるが、神社そのものは恐ろしいぐらい小さい。
だが驚くのは、境内すら満足にないにもかかわらず、数々の巨大な奉納物が置かれているのである。特に度肝を抜かれるのは、脇に置かれた“亀にまたがり竜宮城へ行く浦島太郎”の石像である。その大きさは神社 の本殿より大きい。そしてこれらの奉納は全て長寿を祝い、祈願するものである。玉手箱を開けて老人になってしまったという悲劇的な結末にもかかわらず、なぜか浦嶋子は不老長寿の神様の扱いになっている。
この嶋児神社の周辺には、浦嶋子の行動範囲を知ることができるさまざまな言い伝えがある。神社の脇にある自然の干潟は(釣溜)と呼ばれ、ここに浦嶋子は 自分が釣った魚を放していたといわれる。ちなみにここで魚を捕ることは良くないこととされている(浦嶋子は不老長寿とともに豊漁の神様でもあるのだ)
さらにこの神社の対岸に当たる場所には(福島)と呼ばれる小さな島がある。ここにも浦嶋子の伝説があり、この 島で彼は乙姫と逢瀬を重ねていたという。さらに(西浦島神社)という神社があり、乙姫を祀っている。
この嶋児神社以外にも、網野町には浦嶋子を祭神として祀っているという神社がある。この網野でもっとも大きな神社である(網野神社)、そして山手の方に ある(六神社)。網野と一口に言っても、港を中心とするかなり限定された場所である。信仰の対象として拡大されなかったという面もあるが、逆に限られた地域にしか出現しない浦嶋子という実在の人物にはリアリティーというものを感じてしまう。
丹後の浦嶋伝説 / 一般に知られている「浦島太郎」の物語は、室町時代に成立した『御伽草子』によるものである。その原型となったのが『丹後国風土記』の逸文であり、水江の浦嶋子なる人物の伝承が記録されている。『日本書紀』にも、浦嶋子に関する記述があり、竜宮へ行ったのは雄略天皇22年(476年)とされている。水江と呼ばれる地区は、網野町ではなく伊根町にあり、その地には浦嶋子を祭神とする宇良神社(浦島神社)がある。
網野神社 / 祭神は、水江日子坐王・住吉大神・水江浦嶋子神。日子坐王は9代開化天皇の皇子であり、丹波・丹後の国造りをおこなったとされる。浦嶋子同様“水江”の名が付いており、もしかすると先祖に当たる者という認識があったかもしれない。
六神社 / 祭神は、天児屋根命・浦嶋太郎・嶋子神・島垂根命・伊満太三郎(嶋子の弟)、綿積乙女命(乙姫)。
皺榎・浦嶋子住居跡(しわえのき・うらしまこじゅうきょあと) / 京都府京丹後市網野町網野
浦島太郎といえば、日本の昔話の中でも最もポピュラーなキャラクターの一人である。 だが浦島太郎は、実在したとされる人物が明確に投影されているのである。それが『丹後国風土記』に登場する(浦嶋子(ウラ・シマコ))という人物である。
網野町には、この浦嶋子が実在していたとされる跡が残されている。海岸線から少し奥まったところにある“皺榎”と呼ば れる、一風変わった名で呼ばれる不思議な木がある。そしてその木のすぐそばにはかなり広い空き地があり、そこに浦嶋子の住居があったと言われている。
実際の浦嶋子も浦島太郎同様、乙姫のもとに通ううちに数百年が経ち、もはや誰一人として自分を知る者がないことを悲観して、例の玉手箱を開けてしまう。 そして老いさらばえた自分の姿を見て嘆き、できてしまった皺をちぎっては、家のそばにあった榎の木に投げつけた。そのため、この榎の木の幹には深く刻まれた無数の皺のような跡が残っているのだという。
この土地に隣接するようにあるのが“古墳”。しかもこの丹後地方でも有数の規模を持ち、かなりの量の出土品があるという。国家が編纂した『風土記』の中に記載されるほどの人物である。高位の人物ではないにせよ、地元ではかなりの有力者の一族に属していたことは間違いない。そのような浦嶋子の存在とこの古墳とが妙にだぶるのである。
『丹後国風土記』 / 完本ではないが、浦島伝承をはじめとする文書が残されている。風土記編纂の命が出されたのが713年であるので、8世紀中頃にはまとめられたものであると考えられる。
銚子山古墳 / 全長198mの、日本海側最大の前方後円墳。5世紀前半に作られたものと推定される。大和政権初期にあったと推測される“丹後王国”の支配者の墳墓であるとも、四道将軍の一人である丹波道主命の墓とも言われている。
新井崎神社(にいざきじんじゃ) / 京都府与謝郡伊根町新井
秦の始皇帝の命により(蓬莱)の地を探索した徐福であるが、日本各地にはその徐福が上陸し、滞在したとされる土地がいくつもある。伊根町にある新井崎という小さな漁村にも、徐福上陸の伝説が残されている。
元来、丹後地方には大和朝廷とは全く系統の異なる独立したクニが存在し、中国大陸などとも交易をしていたのではないかと考えられている。従って、この丹後の地に徐福一行がたどり着く可能性は低くない。
海に面する位置に建てられた新井崎神社には、徐福が祭神として祀られている。伝承によると、漂着した徐福一行はこの土地に定住し、さまざまな産業技術を地元に人間に教えたとされる。つまりこの地域の国造りに大いに貢献したことによって、産土神として祀られることとなったようである。またこの新井崎の沖合にある沓島と冠島の名は、神仙思想における死の象徴を意味しており、おそらくそれなりの身分の者がここで亡くなったことを意味するのであると推測出来る。
新井崎神社のすぐそばには、徐福が上陸した際に休んだとされる岩場がある。またそこから船が着いたとされる場所が臨めるのだが、その場所は断崖絶壁であり、常識的に考えて大人数を乗せた船が接岸できるようなところではないように感じた。想像を逞しくすると、この土地へ漂着した中国人は存在したが、徐福本人ではなく、彼の功績を知って同じ目的でやった来た別人であった可能性もあるだろう。ただ最終的に、この地へ渡来してきた人物は産業を伝え、神と称せられる存在となったことは間違いない。
徐福 / 『史記列伝』によると、徐福は秦の始皇帝に対して「東方にある蓬莱に不老不死の霊薬がある」と具申し、それを取りに行くことを命ぜられる。その出発の際に、若い男女3000人、数多くの技術者、五穀の種を持って出た。しかし、出発した後は帰還することはなかったとされる。ただし『史記本記』では、始皇帝に具申して金品を賜った後、それを着服して渡海はしなかったという、ペテン師扱いとなっている。
沓と冠の意味 / 道教の「尸解仙」という考えでは、死に際して沓と冠を残して地上より消滅して仙人になるという。この思想を反映して沓島・冠島の名は付けられたと考えてよい。なお、冠島は別名「常世島」あるいは「竜宮島」と言われており、死にまつわる聖地であったとも考えられる。なお、沓島は大本教が明治期に渡島し、宗教的儀式をおこなっている。また冠島はオオミズナギドリ繁殖地として全域が天然記念物となっている。どちらも原則的に渡島できない。
念仏石(ねんぶついし) / 京都府木津川市市坂幣羅坂
京都と奈良の県境、旧国道に面した場所に3つのお堂が並んである。その一番左側のお堂の中には、大きな石が1つだけ置かれている。それが念仏石と呼ばれるものである。
建久6年(1195年)、東大寺大仏殿落慶法要の折り、導師の一人として招かれた法然は、念仏のことのみ説法して京へ戻ろうとした。そのことに不満を持った人々は奈良から法然を追い掛けて、ようやく国境で追いついた。
「なぜ念仏の話だけで、法相・華厳などの他宗派の教義について触れなかったのか」との問いかけに対して、法然は念仏がいかに勝れていてその功徳が重いかと説明し、紙に南無阿弥陀仏の名号を書き、そばにあった大石と天秤で量ってみた。法然が念仏を唱えると、徐々に大石の方が上にあがっていき、紙の方が下へさがっていったのである。それを見て、人々は念仏の功徳を悟ったということである。
天秤に掛けられたその大石が念仏石であり、そしてその時に法然が書いた名号は、近くにある安養寺に安置されている。
左馬(ひだりうま) / 京都府綴喜郡井手町井手株山
昭和28年(1953年)の南山城水害で、玉川沿いの対岸から巨石が転がり落ちてきた。推定数百トン級のものである。元々この岩には、大きさが約1メートル四方の馬が彫られており、駒岩と呼ばれていた。
この岩に馬の絵が彫られたのは保延元年(1137年)、川の治水や水争いを防ぐためであったと伝えられる。ところが、この彫られた馬が右半身ということから、おそらく左利きの職人が彫ったものであると言われだし、左利きなので「器用」という連想から江戸時代頃には芸事上達の神として信仰されてきた。さらに左馬は馬の字を反対に書くことで表記できることから、「うま」を「まう」と掛けて「舞う」、即ち女性の芸事上達を祈願するようになったとされている。
大水害で転がり落ちた際に、左馬の彫刻は地面の底側になってしまったが、地元の人々の努力で左馬のある部分が掘り下げられて、今ではしゃがみ込むような体勢で見ることが出来る。
夜叉ばあさんのムクノキ(やすあばあさんのむくのき) /京都府城陽市寺田
この寺田近辺では、国道24号線の一筋東側の道は奈良街道(大和街道)と呼ばれる古道であるが、嫁入り行列は通ってはいけないという伝承が残されている。それが“夜叉婆さん”にまつわる伝承である。
昔、寺田村の庄屋に娘がいた。年頃になったので他家に嫁いだが、離縁されて戻ってきた。庄屋の娘だから、また縁付いて余所へ嫁にもらわれるが、同じく離縁される。そうこうしているうちに、離縁されることが7度も続いた(あるいは13度とも)。よほどの悪縁なのだろうと、周囲の者もいつしか娘のことを“夜叉”と呼ぶようになった。娘は結局、観音堂の堂守となって一生を終えたとも、あるいは街道の四つ辻にある玉池に身投げして死んだとも言われる。それ以来、この四つ辻辺りを嫁入り行列が通ると縁付かないとされ、避けて通ることが習慣となったという。その習慣は戦前まで残っていたとの記録もある。
娘が離縁され続けた理由は、容貌というわけではなく、むしろ気が強くて男勝りだったためであると伝えられる。才走ったところがあったとか、当時の女性の美徳とされる慣習に従わなかったとか、型破りな性格が災いしたものであるらしい。
この“夜叉”と呼ばれた娘の墓と称する供養塔はこの四つ辻のそばに置かれ“夜叉塚”と呼ばれていたが、明治の初め頃に移転され、現在では寺田の共同墓地の中にある。しかし、平成の初め頃になって、この四つ辻のそばにある椋の木にある瘤が、見ようによっては老婆の顔に見えるという噂が広まり、いつしか四つ辻の“夜叉”伝説と結びついて「夜叉ばあさんのムクノキ」と呼ばれるようになる。そして平成13年(2001年)には城陽市の名木・古木に登録されるまでになった。この木自体が“夜叉”の伝説に関係あるわけではないが、この古い伝説を現代に甦らせ、新たな伝説を作り出すことになった好例である。 

 

石座神社・山住神社(いわくらじんじゃ・やまずみじんじゃ) / 京都市左京区岩倉上蔵町(石座神社) 京都市左京区岩倉西河原町(山住神社)
平安京は呪術による数々の防衛ラインが敷かれた魔界都市である。一番有名なのは“鬼門・裏鬼門”や“四神相応”といった陰陽道的な仕掛けであるが、それ以外にも仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けがある。それが“四つの岩倉”と呼ばれるポイントである。
巨大な岩石を“磐座”と称して祭壇として使用したり、それ自体を崇拝する習慣があった。平安京造営時に桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座”を掘り出し、その下に一切経を埋めたという。古来よりパワースポットとして利用されてきた場所に仏教の経典を納めることで京都の町全体を守護させようという目的であったことは明らかである。そして性質の違いから、古来よりの“磐座”はなく“岩倉”という名称を使用するに至った訳である。
“岩倉”という文字を見てピンと来るのが、左京区にある“岩倉”というエリアである。この地はまさに桓武天皇が経典を納めた4つの岩倉のうちの“北の岩倉”にあたる。しかも経典を納めた巨石が残されているのである。
岩倉エリアの産土神として祀られているのが、石座神社である。漢字こそ違うが、まさに“いわくら”と読ませる神社である。ところがこの神社には 肝心の巨石がない。実はこの神社が(石座神社)と呼ばれるようになったのは明治になってからのことなのである。
今の石座神社から少し南へ行ったところに“山住神社”という神社がある。この神社には本殿がない。あるのは巨大な岩である。つまりここが本来の“石座神社”である。そもそも巨石そのものが御神体であったのだが、天禄2年(971年)に大雲寺創建に伴ってこの御神体の鎮守社が勧請され、長徳3年(997年)に岩倉エリアの鎮守はこの新しい神社に移されたのである。それが現在の石座神社なのである。しかし明治時代に入るまでは、巨石がある神社の方が“石座神社”と呼ばれ、鎮守社となった神社は“八所明神”と呼ばれていたのである。
現在“山住神社”は石座神社の御旅所としての地位にある。この2つの神社の変遷を見ていると、自然信仰から神社としての形式(社格)主義への流れが手に取るようにわかるように思う。
鬼門・裏鬼門 / 魔物が進入してくる方角であり、そこに魔除けを置くことで封じる。鬼門は北東(艮:うしとら)の方角。裏鬼門はその反対の南西(坤:ひつじさる)の方角。京都の場合、鬼門に比叡山延暦寺を置き、裏鬼門には石清水八幡宮(または城南宮)を置く。
四神相応 / 東西南北を司る神と、それに相応しい地勢。この条件に適した土地であれば、土地の相が良いとされる。東は“青龍”で川。西は“白虎”で大道。南は“朱雀”で湖沼。北は“玄武”で山。京都の場合、東は鴨川、西は山陰道、南は巨椋池(現存せず)、北は船岡山となる。
四岩倉 / 北は石座神社(現・山住神社)、東は大日山(粟田口あたり。現存せず)、南は明王院不動寺(五条松原付近。現存)、西は金蔵寺(大原野付近。現存)
乙が森・花尻の森(おつがもり・はなじりのもり) / 京都市左京区大原草生町(乙が森) 京都市左京区大原戸寺町(花尻の森)
大原の里に残る、一人の女性の悲しい伝説がある。
大原の里を縦断する幹線道路は、近年“鯖街道”と呼ばれ、若狭と京都を結ぶ往還であった。ある時、大原に住むお通という娘が、この往還を利用する若狭の殿様に見初められた。玉の輿となったお通は、殿様と共に若狭へ下った。ところがしばらくすると、お通は病を得て、殿様の寵愛を失ってしまう。そればかりか、暇を出されて大原の里に帰されてしまったのである。悲観したお通は大原川の女郎淵に身投げし、ついにはその妄執によって蛇体へと変化したのであった。
やがて若狭の殿様は上洛のためにこの大原の里を通過することとなる。それを知った蛇身のお通は川を下り、花尻橋のたもとまで殿様の行列を追い、遂に襲いかかったのである。しかしその危急に松田源太夫という侍が大蛇に立ちふさがり、返り討ちにする。大蛇は無残にも首と尾を打ち落とされ、恨みを晴らすことなく死んでしまったのである。
だがお通の恨みは消えることなく、その日から雷雨が続き、どこからか悲鳴が聞こえるようになった。里の者は恐れをなし、大蛇の首を乙が森に、尾を花尻の森にそれぞれ埋めて供養したのである。そしてそれから大原の蛇祭が始められ、乙が森と花尻の森に、藁で出来た蛇の頭・胴・尾が奉納されるようになったという。
現在、乙が森には龍王大明神と刻まれた石碑が建てられており、大蛇を祀る場所として特別な場所となっている。一方花尻の森は、このお通の伝説以外に、大原の里に隠棲した建礼門院を監視するために、源頼朝が派遣した松田源太夫という御家人の屋敷跡であるという話が残されている。また近くの江文神社の御旅所ともなっている。
建礼門院 / 1155-1214。平清盛の娘。高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生む。しかし平家の没落と共に京都を離れ、壇ノ浦の戦いの際に入水を図るが囚われの身となる。京都で出家、安徳天皇と平家一門の菩提を弔うために大原の寂光院に隠棲する。『平家物語』の終巻では、お忍びで大原を訪ねてきた後白河院が建礼門院と対話する場面が描かれている。
更雀寺(きょうじゃくじ) / 京都市左京区静市市原町
藤原実方という人物がある。あるとき殿中で藤原行成と口論となり、怒りにまかせて行成の冠を投げ捨ててしまった。その一部始終を見ていた一条天皇は「歌枕を見てこい」と言って実方を奥州へ左遷したのである。
それから3年後、実方は奥州で客死する。馬に乗っていた実方が笠島道祖神社の道祖神をけなしたために神の逆鱗に触れ、馬もろとも蹴り殺されたと伝えられている。一説では落馬が原因で死んだとも伝えられている。いずれにせよ、京都の土を踏むことなく亡くなったのである。
実方が奥州で客死したという知らせが京都へ伝わったちょうどそのとき、清涼殿に一羽の雀が舞い降りて膳の飯をついばむと、さらに藤原氏の私学校である勧学院へ舞い降りてそのまま息絶えてしまった。それを聞いた人は“京都へ帰りたかった実方の一念が雀となって戻ってきたのであろう”と噂しあったという。そして勧学院に(雀塚)なるものを建てて、実方の霊を慰めたという。
妖怪ファンなら、上のエピソードをご存じの方は多いはず。鳥山石燕の(入内雀)こそがこの話をもとに描かれた妖怪なのである。
雀塚は勧学院に建てられたのだが、後に勧学院跡(四条大宮西側)にできた更雀寺に祀られていた。しかし、昭和52年に四条大宮のターミナル化に伴い、左京区の静原に移転することとなり、雀塚も同時に移転した。
藤原実方 / ?-999。左近衛中将。中古三十六歌仙の一人であり、その歌は百人一首にもおさめられている。また清少納言とも恋歌のやりとりをし、あの光源氏のモデルの一人とも言われるほどの才色兼備の人物であったという。
小町寺(こまちでら) / 京都市左京区静市市原町
洛北の市原は小野一族の所領地であった。その地に(小町寺)という通り名の寺院がある。正式な名は(補陀洛寺(フダラクジ))。小野小町終焉の地として知られ、小町の晩年からその死後にまつわるさまざまな伝承の史蹟がある。
伝説によると、小町は京都や地方を転々としていたが、晩年は小野氏の所領である市原に居を定めて暮らしていたという。ある時、井戸の水に映った自分の姿を見て愕然とする。そこに映った姿は、もはや昔の美貌とは懸け離れた老婆の姿であった。その醜く老いさらばえた姿を嘆き悲しみ、小町はこの地で亡くなるのである。実際、この小町寺の境内には『姿見の井戸』という湧き水の跡がある。
さらにこの小町寺には“小野小町老衰像”というストレートな名前の像が安置されている。顔の表情から女性であると認識できるが、絶世の美女と言われた小町のイメージをその像から思い浮かべることはまず無理である。むしろその容姿から想像されるのは、三途の川の番人である“脱衣婆”である。
しかし、無常さという意味で(姿見の井戸)を越える逸話がこの寺には残されている。死んだのち、小町の遺骸は埋葬されず放置されていた。ある時、その辺りを僧が通りかかると「あなめ、あなめ(ああ、目が痛い)」という声が聞こえる。不審に思って声のする方へ行くと、一つの髑髏が転がっており、その目の穴からすすきが生えていた。その髑髏の主が小町だったのである。
小町寺の境内の一角に、髑髏が転がっていた場所が特定されている。しかもそこは今でもなお、すすきが生えてくる。(穴目のすすき)と呼ばれるその逸話は、死んでなお不遇であった小野小町を象徴するものである。
『通小町(カヨイコマチ)』という能の演目がある。鞍馬に滞在する僧のもとへ若い女性が毎日訪れる。名を聞くと「小野とは云わじ、すすき生いたる…」と答えて消える。思い当たる節があり、市原にある小野小町の墓所に赴き供養する。そこへくだんの女が現れて受戒を頼むが、男が現れ妨害しようとする。女は小野小町の亡霊、男は小町への百夜通いを果たせずに死んだ深草少将の亡霊であった。成仏しようとする小町と、愛憎の世界に留まろうとする少将。 僧は二人に受戒を勧め、少将に百夜通いの様子を再現させる。そして二人は悟りを開き、成仏する。
この世阿弥が作り上げた演目によって、市原は小野小町終焉の地として知られるようになる。
小野小町 / 生没年不詳。出羽郡司・小野良真(小野篁の息子)の娘とされている。歌人として名高いが、その素性については諸説あって不明な点が多い。また生誕・死没にまつわる伝承地が全国各地にある。
深草少将 / 小野小町に求愛するが、百夜通うことを条件に出されたため、小町の屋敷へ通い詰める。しかし最後の日に雪の中に倒れて亡くなる。だが、深草少将は、世阿弥などが小町を主人公にして作った能の作品で登場させた架空の人物である。(モデルとなった伝承は以前よりあったようだが、“小町の百夜通い”という形に完成させたのは世阿弥であるという)
深泥ヶ池(みぞろがいけ・みどろがいけ) / 京都市北区上賀茂深泥池町
周囲約1500メートルの池であり、氷河期から生き残っている生物もおり、生物群集が天然記念物として指定されている。学術的にも貴重なエリアであるが、多くの伝承が残されている池でもある。その名の由来であるが、行基がこの池から『弥勒菩薩像』を発見したことから始まるらしい(あるいはここに深泥池地蔵堂を置いたという伝承から)。一般的には、泥が大量に堆積している底なしの池という意味から「みどろがいけ」と呼ばれているが、伝承的な側面から言えば、弥勒や地蔵という音から「みぞろがいけ」と呼ぶ方が正しいようにも感じる。
この地はちょうど洛中から鞍馬街道へ向かう分岐点であり、まさに人里から異界への境界線上であるという認識があったようである。そして“鬼が出てくる穴”というものが存在していたという。その出現してくる鬼を退治するために、始まったのが『豆まき』であるというのである。
昭和初年頃には(豆塚)なるものがあった言われているが、今ではその所在していた場所すら不明である。一説によると、深泥ヶ池から少し離れたところにある深泥ヶ池貴船神社の境内にそれがあったと言われている。
深泥池地蔵 / 深泥ヶ池の畔には明治の廃仏毀釈の頃まで地蔵堂があった。この地蔵は“六地蔵”の一つで、京都からそれぞれのエリアの主要な街道を抜ける場所に置かれていた(現在でもこの六地蔵は全て残っており、8月下旬に“京都六地蔵巡り”と称して参拝が続けられている)。深泥池にあった地蔵は、現在、上善寺に移転して鞍馬口地蔵と呼ばれている。
妙満寺霊鐘(みょうまんじれいしょう) / 京都市左京区岩倉幡枝町
現在は岩倉の地にある法華宗の妙満寺であるが、康応元年(1389年)の創建当初は、六条坊門室町にあった。その後、江戸時代初期までに市中を何箇所か移転、現在地には昭和43年(1968年)に移転している。
この寺の宝物館に納められている霊鐘がある。高さ105cm、直径63cm、重さ250kgの大きさで、小柄な人間であれば何とか中に収まる程度のものである。この鐘が妙満寺で保管されるようになったいきさつは、まさに鐘の持つ曰く因縁の深さによるものであると言える。
元をただせば、この鐘は紀伊国の道成寺のものであった。道成寺と言えば、安珍清姫の伝説で有名である。延長6年(928年)、紀伊国真砂の庄司の娘・清姫は、奥州白河の僧・安珍に懸想する。安珍は熊野詣でが終わった後で再会を約束するが、そのまま逃走。後を追った清姫は、妄執によって蛇身と化し、道成寺の鐘に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺すという伝説である。道成寺では、新たに鐘を造ろうとするが、清姫の怨念のせいかことごとく鋳造に失敗する。結局、二代目の鐘が出来たのは、事件から400年ほど経った正平14年(1359年)のことであった。
鐘の供養が盛大におこなわれた時、一人の白拍子が舞を披露すると鐘がいきなり落ち、白拍子も蛇身となって消えてしまったのである。それから鐘を撞いても濁った音しかしなくなり、さらに疫病が流行るなどしたために、清姫の祟りであるとして遂に鐘を山中に打ち棄ててしまったのである。(この鐘供養の時の事件が、歌舞伎などで有名な『娘道成寺』の逸話である)
それからさらに200年以上の時を経た天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州攻めがおこなわれた。その際に打ち棄てられた鐘を発見したのが、秀吉配下の武将・仙石久秀であった。久秀は、これを合戦の合図に使う陣鐘にしようと思い立ち、戦利品よろしく京都に持ち帰ることにした。ところが、京洛の近くまで来た時に、鐘を乗せた荷車が重さのために坂を登り切れず、やむなく土中に埋めてしまったのである。
結局、天正16年(1588年)この鐘を妙満寺に直接納めたのは、土中に埋められた鐘の近くの集落に住む者達であった。鐘が埋められてからよからぬ出来事が頻発したために、経力第一と言われた法華経で供養をしてもらおうとしたのである。引き取った妙満寺では、貫首の日殷大僧正が供養をおこない、遂に元の美しい鐘の音を取り戻したという。
後年、道成寺物を演じる役者が妙満寺に参詣、この鐘に舞台の無事や芸道成就の祈願をするようになり、現在でも多くの関係者が訪れるという。また平成16年(2004年)に、数奇な運命を辿った鐘は、400年ぶりに道成寺に里帰りを果たしている。
仙石久秀 / 1552-1614。戦国時代の武将。豊臣秀吉に早くから付き従い、淡路攻略などの戦功を挙げる。しかし九州攻めの際には大敗を喫して、本領まで逃げ帰るという失態を見せて改易。その後小田原城攻めの功績で大名に復帰する。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、小諸藩初代藩主となる。
相槌稲荷神社(あいづちいなりじんじゃ) / 京都市東山区中之町
三条神宮道(平安神宮へ至る道)を東へ少し行ったところに、相槌稲荷の参道の入り口がある。参道といっても本当にこぢんまりしたもので、下手をするとついうっかりと通り過ぎてしまうかもしれない。実際この参道は私道であり、この奥には数軒の家が軒を並べている。
『小鍛治』という謡曲がある。三条粟田口(この稲荷は三条通に面して、真向かいが粟田神社である)に住む、小鍛冶宗近という刀鍛冶が天皇の勅命を受けて守り刀を打とうとする。しかし、刀鍛冶を手伝う者がいない。
宗近は伏見稲荷に祈願し、ある若者と出会う。その若者が鍛冶の手伝いをしてくれ、見事な刀ができた。その若者の正体は狐であり、その刀は(小狐丸)という名で呼ばれるようになった。
相槌稲荷はこの鍛冶の手伝いをした狐を祀っており、火の用心の効験があるという。また謡曲をはじめ、歌舞伎や能でも上演される有名な演目であるため、そのゆかりの地ということで演者がお参りに来ることもあるらしい。
小鍛冶宗近 / 平安時代の刀鍛冶。三条に住まいがあったため「三条宗近」とも。生没年は不明であるが、上記の伝承は一条天皇の御代(986-1011)とされている。祇園祭の長刀鉾の上に取り付けられている大長刀は、宗近が八坂神社に奉納したものである。天下五剣の“三日月宗近”が代表作(国宝)。
小狐丸 / 伝説の名刀。実在していたと言われているが、現在は所在不明。同名の刀はが現存するが、上記伝承のものとは異なる。
明智光秀首塚(あけちみつひでくびづか) / 京都市東山区梅宮町
天正10年(1582年)、本能寺の変で天下を握った明智光秀であったが、わずか11日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ討死する。最期は、わずか10名ほどの供回りを従えて居城に落ち延びる最中に、小栗栖の竹藪で土民の手に掛かって致命傷を負い自刃するという悲劇的なものであった。
自刃した光秀を、家臣の溝尾茂朝が介錯したところまでは諸説一致するのであるが、その後の首級の顛末はまちまちになっている。茂朝が居城の坂本へ持ち帰ったとも、難を逃れるために一時土中に埋められたとも、さらには秀吉方の手に落ちて刑場などに晒されたともされる。その中で三条白川橋を南に下ったあたりに、明智光秀の首塚とされるものが残されている。
『京都坊目誌』によると、隠されていた首級は発見された後に胴体と繋ぎ合わせて、粟田口刑場に晒されたらしい。そして現在の蹴上辺り(西小物座町)に、他の将兵の首と共に埋められたとされる。それから時を経て、明和8年(1771年)になって、光秀の子孫と称する、能楽の笛の演者をしていた明田利右衛門という人物が、その場所にあった石塔をもらい受けて自宅近くに祀った。さらに明治維新後に現在地に移したという。
現在の首塚には、弘化2年(1845年)に造られた五重石塔、明治36年(1903年)に歌舞伎役者の市川団蔵が寄贈した墓、そして小祠がある。祠の中には光秀の木像と位牌が納められており、かつては衣服の切れ端や遺骨などもあったとされる。これらを管理しているのは、首塚に入る路地の角にある“餅寅”という和菓子屋。この店では、桔梗の紋が入った“光秀饅頭”なる銘菓が売られている。
明智光秀 / 1528-1582。明智氏は美濃の守護・土岐氏の支流。各地を転々とするも、織田信長の武将として頭角を現す。本能寺の変で織田信長を弑するが、その動機は謎とされる。山崎の合戦の直後に敗死したとされるが、一説では、後に徳川家康らに仕えた天海僧正が同一人物であるとも言われる。
溝尾茂朝 / 1538-1582。通称・庄兵衛(勝兵衛)。明智光秀の家臣として初期より仕える。小栗栖で光秀の介錯をし、その首を居城の坂本まで持ち帰った後に自害したとされる。
粟田口刑場跡(あわたぐちけいじょうあと) / 京都市山科区厨子奥花鳥町
“京の七口”の1つ、粟田口は東海道から京都の町への入り口にあたる。そして、このような大きな街道筋の町外れには決まって刑場が置かれていた。刑場は言うならば一罰百戒の見せしめの場であり、町外れの往来の多い道のそばに置かれることになる。
粟田口刑場は江戸時代より前から刑場として機能していたとされ、約15000人ほどが処刑されたと推測されている。有名なところでは、天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒された。また京都のキリシタンを処刑した記録も残る。さらに江戸時代には毎年3回この地で処刑が公開された。そして刑死者の供養として、京都の各宗派寺院が1000人ごとに供養碑を建てたという。その数は幕末までに15基に及ぶ。しかしこれらの供養塔は明治の廃仏毀釈によって撤去され、石材として転用されてしまってほとんどが失われてしまった(一部は日ノ岡に復元されている)。
旧東海道の九条山あたりを行くと、途中、道路の法面がコンクリートで全く覆われていない場所に出くわす。その土手になって部分の上を見ると、「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれた2つの石碑が建っている。ここが粟田口刑場跡である。
粟田口の刑場は明治維新後に廃され、明治5年(1872年)に舎密局の申請で京都府によって同地に粟田口解剖場が置かれた。記録によると、解剖場は四面がガラス張りの建物で、翌年に刑死した4名の解剖がおこなわれて多くの医師がその様子を参観したとされる。しかしその年には解剖場は病院に移転となり、この土地は忌み地として残されたのである。現在刑場跡に残されている2つの石碑は、この解剖場時代の供養塔である。
京の七口 / 実際には7箇所よりも多くあり、粟田口・鞍馬口・荒神口・大原口・丹波口・東寺口・長坂口・鳥羽口・五条口・竹田口・伏見口などが挙げられる。
舎密局(せいみきょく) / 大阪と京都に設置された、応用化学を中心とした教育・勧業機関。後に学校機関として発展的に廃止される。
御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ) / 京都市左京区聖護院円頓美町
平安神宮の北側に位置する小さな神社である。元々この辺り一帯は“聖護院の森”と呼ばれており、この御辰稲荷もその森の中に建てられたという。
宝永年間(1704-1710年)、東山天皇の側室・新崇賢門院の夢枕に白狐が現れ、「禁裏御所の辰の方角(南東)に森があるので、そこに祀ってほしい」と言って消えてしまった。翌朝人に尋ねると、御所の辰の方角に森と言えば“聖護院の森”であろうということで、さっそく森の中に祠を建てた。これが今の御辰稲荷の始まりとされている。当然のことながら、名前の由来は“辰”の方角という神託を受けたことにある。
御辰稲荷のご利益といえば、芸事上達である。『辰』という字が『達』に通じるということ、そして祀られている狐が琴が上手ということで、色街の芸妓さんらも多数お参りするらしい。実際、ここの御辰狐は“風流狐”として宗旦狐と共に童歌にまで歌われており(「京の風流狐は、碁の好きな宗旦狐と琴の上手な御辰狐」)、かつて聖護院の森を通ると琴の音が聞こえたという話まで残っている。
御辰稲荷の境内には“福石大明神”という摂社がある。かつて、この御辰稲荷を信仰していた貧しい夫婦が百日の願掛けをした。満願の日にふと境内で寝てしまい、目が覚めると黒い小石を握りしめていた。授かり物としてそれを神棚に祀ると、その後可愛らしい女の子が生まれ、その娘がとある大名家の側室となり、親子共々幸せに暮らしたという話が残っている。『達』という字は、芸事だけではなく、全ての願望を成就させる力がある訳である。 
新崇賢門院 / 1675-1710。第113代・東山天皇の典侍。第114代・中御門天皇をはじめ、東山天皇との間に5皇子1皇女をもうける。
宗旦狐 / 相国寺に住んでいた狐。千宗旦(千家3代目)に化けて茶席に現れることが多かったため、その名が付いた。江戸時代の終わり頃まで生きていたらしいが、お礼に頂戴した鼠の天ぷらを食べて神通力を失った途端、犬に襲われ、井戸に飛び込んで死んだという(異説あり)。
鎌倉地蔵 真如堂(かまくらじぞう しんにょどう) / 京都市左京区浄土寺真如町
真正極楽寺。通称、真如堂と呼ばれる古刹が北白川の辺りにある。かなり広い境内であるが、その中でも一番目立つのが三重塔である。そしてその脇に少々古びた地蔵堂がある。ここに安置されているのが鎌倉地蔵という、大変な奇縁を持つ地蔵である。
実はこの地蔵は(殺生石)でできている。(殺生石)といえば、九尾の狐が退治された成れの果てであり、那須の地にあって絶えず毒煙を吐き続けたという、あの怪石中の怪石である。しかし、室町時代の頃にその祟りを鎮めるために玄翁和尚によって叩き割られた。そしてこの(殺生石)の破片は全国各地、北は福島から南は九州まで飛び散ったのだが、玄翁和尚はその残った破片の一部で(殺生石)によって亡くなった者を供養する意味で一体の地蔵を造ったという。それがこの“鎌倉地蔵”なのである。つまり日本でただ一つ(殺生石)というとんでもない材質の石によって造られた地蔵であり、全国に点在する(殺生石)の中でも最も素性の明らかな破片であると言えるだろう。
この(殺生石)でできた地蔵がなぜ“鎌倉地蔵”と呼ばれるのかというと、この地蔵が最初は鎌倉に安置されていたためである。ところが、江戸時代のはじめに幕府の作事方大棟梁である甲良豊前守の夢枕にこの地蔵が立ち、京都の真如堂へ衆生済度のために移転させよという。もとよりこの地蔵を信仰していた豊前守はただちにこの地蔵を京都へ移し、この逸話にちなんで“鎌倉地蔵”と呼ばれるようになったという。
真如堂 / 一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)によって興された寺院であり、安倍晴明とも非常にゆかりのある寺院である。その後、応仁の乱の時には東軍の陣所となって戦火に焼かれ、京都の各地を転々と移動する。元禄6年(1693年)に現在地に移転された。衆生済度、特に女人救済の寺として名高い。
殺生石 / 白面金毛九尾狐が倒され、化身したとされる石。石から毒を発し、近寄る鳥獣を殺し、周囲には草木一つ生えない。至徳2年(1385年)に玄翁和尚が打ち砕き、その破片は「高田」と呼ばれる地域に飛び散ったとされる。現在も栃木県那須町にある。
玄翁 / 1329-1400。曹洞宗の僧。殺生石を打ち割った伝承から、金槌のことを玄翁と呼ぶようになったという。
甲良豊前守 / 初代・宗広(1574-1646)は日光東照宮造営の大棟梁となる。以降、代々の当主が豊前守を名乗る。真如堂が現在地に置かれた頃の当主は3代目・宗賀。
西福寺(さいふくじ) / 京都市東山区松原通大和大路東入ル轆轤町
鴨川沿いから松原通(昔の五条通)を東へ進んでいくと、そこは現世と冥界との境界である“六原”にたどり着く。かつては“六波羅”と書かれ、その名の由来は“髑髏原(ドクロハラ)”であると言われている。さらにこの近辺の町名は轆轤(ロクロ)町、髑髏の転訛であることは疑う余地もない。かつてこの地は京都の東の葬送地である鳥辺山に通じる入り口であり、(六道の辻)と呼ばれていた場所である。現在では石碑が建てられており、そのそばに建つのが西福寺である。
西福寺は弘法大師がこの地に地蔵堂を建て、自作の地蔵を安置したところから始まる。弘法大師に深く帰依していた壇林皇后(嵯峨天皇皇后)はたびたびこの地を参詣していた。そして皇子(後の仁明天皇)の病気平癒を地蔵に祈願したところ回復したため、この地蔵は“子育て地蔵”と呼ばれるようになったという。
この寺で最も有名なものは寺宝である(壇林皇后九想図)である。壇林皇后は非常に心清らかで、また美貌の持ち主であった。だが、その死にあたって「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残した。そして完成したのがこの(九想図)である。つまりこれは人が死に、死骸が朽ち果て、やがて土に還る までを表した、凄まじい絵なのである。この絵は六道参りの時期(8月上旬)の3日間だけ公開される。そのむごたらしさは言うまでもないが、眺めているうち に“人の世の空しさ”が胸に迫ってくる。実際、この絵は“無常”を絵解きしたものであり、ここまでストレートにやられると、もはや言うべき言葉を見つけることもできない。
六道 / 仏教用語で天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の輪廻を指し、現世と冥界の行き来を示すものである。「六道の辻」とは、現世における冥界への入り口、即ち、野辺送りの出発地点と言うべき場所である。
檀林皇后 / 786-850。嵯峨天皇皇后。檀林皇后の遺体が晒された地は「帷子ノ辻」と呼ばれている。
九想図(九相図) / うち捨てられた遺体が変化していく様子を9つの段階に分けて描いた絵。西福寺の場合(死去→死体膨脹→腐乱→蛆が湧く→鳥獣が食らう→一部白骨化→白骨化→骨が散乱→塚が建つ)という変化となる。絵のモデルとなるのは、檀林皇后や小野小町といった、美人の誉れの高い女性とほぼ決まっている。
将軍塚(しょうぐんづか) / 京都市山科区厨子奥花鳥町
地元では夜景デートコースの最高ロケーションとして知られている将軍塚である。だがとにかく自動車以外のアクセス方法が厳しく、東山ドライブウエイ(二輪厳禁)を登っていくか、粟田神社からの山道を行くかしかたどり着く方法はない。地理的に言えば、知恩院の裏山にあたる華頂山の山頂である。
一般に「将軍塚」というと駐車場のそばにある展望台を指すのであるが、実際にはそこには(将軍塚)はない。そこから少し離れたところにある青蓮院門跡の飛び地である大日堂がある。その庭園の中に(将軍塚)はある。
将軍塚は直径約10メートル強の円形の塚である。この塚の下には、甲冑を身にまとい矢を持った、高さ八尺(約2.4m)の土偶が西の方を向いて埋められている。まだ平安京が造営される前、和気清麻呂は桓武天皇を伴ってこの地を訪れ、長岡京の換わりにこの地に都を造営するように進言したと言われる。そして平安京が造営される時に、この塚を京都守護のために作らせたという。
将軍塚は桓武天皇が仕掛けた怨霊封じのシステムの一つであるのは間違いない。だが他のシステムとは違い、将軍塚は単独の形でセットされている。そしてそのシステム機能は思わぬ形のものなのである。
朝廷の記録によると、1156年と1179年の2回、この将軍塚が鳴動したというのである。1156年は保元の乱(武士勢力が朝廷を牛耳る端緒)、1179年の翌年は治承の乱(源頼朝の挙兵、武士政権誕生の端緒)という大きな事件が起こっている。しかもこれらの事件に共通なのは(朝廷の威信の凋落)である。つまり将軍塚は朝廷に危機が訪れる時に鳴動する、いわば警報装置なのである。
その後も何度か将軍塚は鳴動したと言われており、直近の報告ではあの太平洋戦争が起こる直前にも鳴動したとされている。
和気清麻呂 / 733-799。民部卿。宇佐八幡宮神託事件で功績があり、桓武天皇在位の頃には中央の役職に就く。平安京造営の進言をおこなう。
大将軍神社(たいしょうぐんじんじゃ) / 京都市東山区三条通大橋東三丁目下ル長光町
桓武天皇が平安京を造営した時に、都の守りとして荒ぶる神(その正体は素戔嗚尊)を各方角に置き、それぞれを「大将軍」として祀った。この大将軍神社はこの4つのうちの東の守りとされている。
この地には、後に関白・藤原兼家の屋敷が置かれ、「東三条殿」という名で呼ばれるようになる。さらに、かつての京都の東の入り口である粟田口に通じる三条通に面しており、魔物を抑える魔界のシステムであると同時に、地理上の東の要衝であったと考えられている。
このような由緒正しい神社であるが、取り立てて何か変わったものがあるという訳でもない。ただ一つ、本殿の内陣部分から(御神木)が勢いよく伸びているのだけは何か圧倒されるものがある。この御神木であるが、樹齢800年と言われており、この神社の古さを物語っている。
先程来から挙げられている「東三条」という地名であるが、実はこの辺り一帯は東三条の森と呼ばれる、鬱蒼とした森になっていたそうである。そしてその森こそが、かつて天皇を悩ませた“鵺”の怪物の住処なのである。そのためこの御神木はその森の名残として認識されている。(ただし樹齢800年とすれば、この御神木が生える前に鵺退治があった計算になるのだが)
大将軍神社 / 大将軍は陰陽道における方位神(元は金星にまつわる星神)。さらに牛頭天王の息子であり、素戔嗚尊を同一視されている(ただし後に牛頭天王と素戔嗚尊は習合する)。桓武の天皇の建てたとされる4つの大将軍神社は、現在、以下の場所にある。東−東三条、西−西大路一条の大将軍八神社、南−藤森神社の境内社、北−西賀茂大将軍神社。
藤原兼家 / 929-990。摂政・関白・太政大臣を歴任する。兄・兼通との不仲、花山天皇の退位にまつわる奸計など、逸話に事欠かない。藤原氏による摂関政治を確立させ、摂関の地位を直系の子孫で独占した。
忠盛灯籠(ただもりとうろう) / 京都市東山区祇園町 八坂神社境内
八坂神社本殿の東側に、柵に囲まれてある古びた灯籠がある。これが忠盛灯籠である。忠盛とは、平家の棟梁であった平忠盛のことを指し、その武勇にまつわる伝説が残されている。
『平家物語』巻之六によると、五月のある雨の夜、白河法皇が愛妾の祇園女御の許へ訪れようと、八坂神社の境内を通りがかった時のこと。法皇一行の前方に光るものが見えた。薄ぼんやりと見えるその姿は、銀の針で頭が覆われ、手に光る物と槌を持った不気味なものであった。鬼であろうと恐れおののいた法皇は、すぐに供回りの者にこの物の怪を討ち取るように命じた。
命を仰せつかったのは平忠盛。しかし忠盛は、すぐに打ち掛かろうとはせず、まずそのあやかしの様子を探り、頃合いを見計らってたちどころに生け捕りにしたのであった。
鬼と思っていた者の正体は、雑用を務める老僧で、油の入った瓶を持ち、土器に火を入れて、境内の灯りをともして回っていたのであった。頭に生えた針は、雨除けにかぶっていた藁が火の光に当たって輝いたように見えていただけであった。
無益な殺生を防いだ忠盛の思慮深さに人々は感嘆し、その後、法皇は祇園女御を忠盛に与えたのであった。その時既に女御は懐妊しており、生まれた子が後の平清盛になると物語では説明している。忠盛灯籠は、この逸話の時に老僧が火を入れようとしていた灯籠であるとされている。
平忠盛 / 1096-1153。伊勢平氏の棟梁。白河・鳥羽の院政体制の中で、北面の武士(院の警護を司る)の中心的役割を果たす。また伊勢平氏として初めて昇殿を許され、瀬戸内海一帯に勢力を拡大して宋との貿易を成功させるなど、子の清盛の代での政権確立の基盤を造り上げた。
祇園女御 / 生没年も素姓も未詳。白河法皇の愛妾。女御という身分で呼ばれているが、通称である。鳥羽天皇の中宮となる待賢門院を養女として育てる。院の近臣であった平忠盛は、父の代より祇園女御に仕えていた。また上の逸話では平清盛の実母とされているが、一説には妹の子であり、猶子としたともされる。
知恩院 七不思議(ちおんいん ななふしぎ) / 京都市東山区林下町
浄土宗の総本山である知恩院には「七不思議」と呼ばれる不思議なものがある。
1.鶯張りの廊下…歩くと“キュッキュッ”という音がして、その音が鶯の声に似ているので、その名が付いた。
2.白木の棺…三門を建てた五味金右衛門は建築費超過の責を負って夫婦共々自害。三門の上に空の棺が納められ、その上に夫婦の木像が安置されている。
3.忘れ傘…御影堂の軒下に置かれた唐傘。左甚五郎が魔除けとして置いたとされるが、実はもう1つの言い伝えがある(下記参照)。
4.抜け雀…襖に描かれた雀があまりによく描かれていたために、生命を宿してどこかへ飛び去ってしまった。
5.三方正面真向の猫…狩野信政筆の猫の絵。親猫がどこから見ても真正面を向いているように見える。
6.瓜生石(ウリュウセキ)…この石から一夜にして瓜の蔓が伸び、実が成ったという。しかもその実には(牛頭天王)の文字があったという。
7.大杓子…巨大な杓子。重さが約30キロもある。三好晴海入道が大阪夏の陣で得物としていたとも言われる。
このうち実物が見られるのは1・3・6・7だけ(7は有料拝観部分にあり)。4と5は有料拝観部分に模写されたものが展示されている。そして2は三門の特別拝観時以外は実物を見ることはできない。
知恩院七不思議の一つ、瓜生石。知恩院境内ではなく、黒門前のT字路のど真ん中にある(かなり交通量の多いところである)。常識的に考えると、往来の邪魔になって当たり前の場所にあるのだが、なぜか違和感がない。多分知恩院が建立される前からこの土地にあるものだからだろうか。この石は地中深くにまで達しており、地球の中心まで届いているという言い伝えもある。
知恩院七不思議の中でも最も有名なものは(忘れ傘)であろう。これは知恩院の中でも最も大きな建造物である御影堂の右端部分の軒下に今でもある。
忘れ傘を置いたのは左甚五郎であるという言い伝えが、最もポピュラーな伝承である。なぜ忘れたのかという理由であるが、本当に彼が忘れてしまったという、何ともとぼけた話もある。しかし有力な説としては、完全な形で完成させてしまうと建物は潰れる一途をたどるというので、わざと未完成部分を造ろうとしてこの傘を置いたのいうのがある。
だが、この傘を巡る伝説にはもう一つ、妖怪めいたものがある。
御影堂建立を行っていた頃(徳川三代将軍家光の治世)、満誉霊厳和尚が説教をしていると、雨の日にもかかわらず一人の禿頭(かむろあたま)の童子が説教に聞き入っている。しかも、そのおかっぱ頭の髪を濡らしながらである。
気になった和尚は、説教が終わるとその童子を呼び止めて名を尋ねた。するとその童子曰く「私は実は狐で、この御影堂が建った場所に住処を持っておりました。ところがお堂が建ったために居れなくなり、恨んでおりました。仕返しをしようと思い童子に化けましたが、お説教を聞いているうちに自らの非を悟りました」
それを聞いた和尚は、ずぶぬれの童子に傘を渡してやり、「霊力のある狐ならばこの寺を守って欲しい。その証にその神通力を見せてくれないか。そうすればおまえのために祠を建てよう」と言う。翌日、御影堂の軒下に、昨日童子に貸し与えた傘が置かれていた……それが忘れ傘であるという。
後に霊厳和尚は狐との約束を果たすために、勢至堂の近くに祠を建てた。そして初めて童子と会った時に一番印象に残った「濡れた髪」から濡髪祠と名付けたのである。
濡髪祠は、知恩院の最深部にあたる勢至堂(この一帯は開祖法然上人臨終の地であり、御廟など臨終にまつわる言い伝えのあるものがいくつかある)の墓地を通り抜けた、最も奥まったところにある。そばには歴代門跡の墓、そして正面には千姫の墓がある。
勢至堂のそばにある、法然上人入寂時に不思議が起こった場所2つ。
入寂時に賀茂大明神が降臨されたと言われる影向石(ヨウゴセキ)。そして入寂時に水がわき出たという紫雲水(シウンスイ)。共に知恩院七不思議には入っていないが、結構不思議なことがあった伝説の場所である。
知恩院 / 浄土宗の開祖・法然が後半生を過ごした場所に建てられた、浄土宗総本山。現在のような大伽藍が建てられたのは江戸時代になってからであり、浄土宗の宗徒であった徳川家康が建設を命じ、以降火災による修繕も含めて家光の代までに完成させた。
左甚五郎 / 伝説的大工棟梁。日光東照宮をはじめ、数々の寺社建築や彫刻物の作者として伝承されているが、その実在はかなり疑問視されている。
霊厳 / 1554-1641。知恩院32世。門主在任中に大火によって堂宇のほとんどが焼失するが、幕府の助力を受けて再建を完遂させる。
六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ/ろくどうちんのうじ) / 京都市東山区松原通東大路西入ル小松町
    六道の辻
六道の辻から松原通をさらに東へ行くと、そこに珍皇寺がある。普段は本当にひっそりとした寺であるが、8月7日から10日までの4日間、今までの静寂とはうってかわって老若男女が列をなしてこの寺を訪れる。京都の夏の風物詩(六道参り)である。京都に古くからいる人々は、この行事からお盆をスタートさせるのである。京都ではこのご先祖の精霊を「おしょらいさん」と呼び、この「おしょらいさん」を迎えに行くのが(六道参り)である。参り方の大まかな手順であるが、まず(迎え鐘)を鳴らし、そして線香でお清めした水塔婆をあげるのである。これで「おしょらいさん」は各家へ帰ってくるのである。
(迎え鐘)の鐘楼はお堂になっており、撞木を引っ張るための綱だけが外に出ている。鐘の姿を見ることはできない。この鐘には不思議な逸話が残されている。
この寺を建立した慶俊は鐘を鋳造したのだが、遣唐使の一員として唐へ渡ることになった。そこで弟子たちにこの鐘を地中深く埋めて3年後に掘り起こすように命じた。ところが弟子たちは命に背いて2年経ったところで掘り出してしまった。唐にあった慶俊はこの鐘がうち鳴らされた音を聞き、「惜しいことをした。 3年間地中に埋めておけば人が撞かなくとも独りでに鳴ることのできる霊鐘であったのに」と言ったという。
(六道参り)と共にこの寺の逸話として有名なのが、小野篁に関するものである。この寺には本尊以外に祀られている像がある。それが篁堂にある小野篁作の閻魔大王像であり、隣に並べられた小野篁像である。
小野篁は平安時代初期の貴族で、嵯峨天皇に仕え、参議にまで昇進した歴史上の人物である。しかし小野篁と言えば、冥府の役人の肩書きを持つという逸話がもっとも有名である。
右大臣藤原良相(ヨシミ)は病で死に、ただちに地獄の役人に捕らえられてしまった。そして冥府で閻魔大王の裁きを受けようとした時、そのそばにいた冥官が大王に申し出た「この大臣は非常に高潔な人物です。私に免じてお許し下さい」。良相が顔を上げると、その声の主は篁であった。そしてその助言に より良相は生き返ることができた。後日、内裏で篁に出会った良相が礼を述べると、「かつて私を弁護していただいたお礼です。ただこのことはご内密に」という返事であり、良相はますます畏れたという。
また藤原高藤に暴力を振るわれた直後、高藤は人事不省に陥った。しばらくして息を吹き返したが、篁の姿を見ると平伏し「閻魔庁へ行ったら、第二の冥官の位置に篁が座っていた」と言った。本人は隠していたようではあるが、当時の都の人々は篁が昼は内裏に仕え、夜は閻魔庁で仕事をしていると信じていたようで ある。
小野篁が地獄へ毎晩通っていた通勤路が、この珍皇寺にある井戸である。一般には公開されていないが、遠くからであれば見ることは可能である。どこにでもあるような井戸であるが、ここから篁が閻魔庁へ行っていたのかと思うと、何だか不思議な気分になる。
慶俊 / 生没年不詳。天平勝宝8年(756年)律師となるが、道鏡によってその座を追われる。道鏡の失脚後に復帰。天応元年(781年)に愛宕山を賜り、月輪寺を再興する。
小野篁 / 802-853。父は小野岑守。孫に小野道風・小野小町がいる。嵯峨天皇以降歴代の天皇に仕え、参議にまで昇進、(野宰相)の異名を持つ。その文才は広く知られ、「無悪善」と「子子子子子子子子子子子子」の謎かけを解いたことでも有名である。また180p以上の大男で武芸にも秀でていた。かなり激情家の傾向もあり、遣唐副使に任命されながらも、正使の理不尽な要求に反発して乗船せず、隠岐に流されたりもしている。
藤原良相 / 813-867。父は藤原冬嗣、兄は藤原良房。仏教に厚く帰依し、また人の面倒見も良く、人望の厚い人柄であったとされる。上記の逸話では右大臣となっているが、実際には篁の死後に昇進している。
藤原高藤 / 838-900。祖父は藤原冬嗣。父が若くして亡くなったため、前半生は官位の昇進はほとんどなかった。ところが、娘の夫である源定省が皇族に復帰して即位した(第59代・宇多天皇)ため、官位昇進が進む。最終的に第60代・醍醐天皇の外祖父となり内大臣に任ぜられる。妻の宮道列子との出会いは『今昔物語』にも伝えられ、直系の子孫である紫式部『源氏物語』における“明石の君”のモデルであるともされる。
人喰い地蔵 積善院(ひとくいじぞう せきぜんいん) / 京都市左京区聖護院中町
かつて東山丸太町一帯は“聖護院の森”と呼ばれる大きな森であった。今ではその“聖護院”の名だけが残るだけで、森どころかまとまった雑木林すら周囲には見当たらない。この一角には、修験道の一大本拠地である聖護院門跡がある。そしてその広大な敷地の東端にあるのが、積善院準提堂である。
この境内の奥に、他の名もない地蔵と共に安置されているのが(人喰い地蔵)である。この地蔵であるが、もとよりこの積善院に安置されていたものではなく、聖護院の森の中に野ざらしの状態であり(場所は現在の京大病院の付近であると言われている)、明治になってから積善院に安置されて現在に至っている。
無病息災の効験があるとされており、「人喰い」の名前とは裏腹な非常に柔和な地蔵である。それもそのはずで、“人喰い地蔵”とは通り名であり、実際には正式な名前が付いているのである。
保元元年(1156年)に起きた保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇は、世を怨むあまり、生きながらにして魔界の住人となり、死んだ後には京の都に悪疫・大火・大乱を起こす魔王となった。そのような災厄をもたらす崇徳院の霊を慰めるために、京の町の人々は一体の地蔵を造り、聖護院の森の中に祀ったという。それがこの地蔵なのである。
それ故この地蔵の正式名称は<崇徳院地蔵>という。ところが、この“すとくいん”という名前がいつの間にかなまってしまってできた新しい名前が“ひとくい”地蔵という訳なのである。
聖護院 / 白河上皇の熊野参詣の先達を務めた増誉大僧正が「聖体護持」の名を取って賜ったのが始まり。増誉はその後、修験者の統括を命ぜられ、聖護院は修験道の本拠、山伏の寺となる。積善院は修験僧の統括を門跡に代わっておこなった僧坊であり、準提堂とは明治初年に合併した。
崇徳院 / 1119-1164。第75代天皇。保元の乱で敗れ、讃岐に配流される。赦免が叶わないことを知り、大魔縁となることを宣言し薨去。最終的に御霊が京都に戻るのは、白峯神宮が京都に創建された明治元年(1868年)である。
魔王石(まおういし) / 京都市東山区本町十五丁目
京都五山の第四位に当たる東福寺は、かなり大きな敷地を有する。そして紅葉で有名な通天橋をはじめとする見どころも多い。その観光スポットの一つである三門のそばに、寺院のはずなのになぜか鳥居が並んだ場所がある。ここが東福寺の鎮守社にあたる(五社成就宮)である。
この神社の名の由来であるが、石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の5社の神を祀っているために名付けられたものである。その本殿に行くためには、鳥居に囲まれた参道を登っていかなくてはならない。そして間もなく本殿というところでちょっとした広場がある。そこにはなかなか不思議なものが建っている。十三重の石塔(重要文化財)である。現場には特に何の立て札も立てられていないが、公式HPによる と東福寺創立祈願のために建てられたものらしく、相当古いものらしい。そのような場所に、さらにそこには(魔王石)と呼ばれる石を祀った祠がある。
実は、この十三重の石塔の正式名称は「比良山明神塔」、即ち比良山の魔王(天狗)を祀ったものである。東福寺を建立したのは九条道家だが、それに着手する前、病に伏せっていた時に、家来の女房に「藤原の祖先」を名乗る比良山の魔王が憑いて、道家の病の元凶を教え、病を癒したとされる。このような由来のせいか、厄除けを祈願すると良いらしい。
東福寺 / 嘉禎2年(1236年)に九条道家が建立を発願。東大寺と興福寺から名前を取る。建長7年(1255年)完成。
九条道家 / 1193-1251。摂政・関白・左大臣を歴任。鎌倉4代将軍・藤原頼経の実父。鎌倉幕府と関係が深く(実母は源頼朝の姪)、承久の乱後に朝廷の実権を握る。
耳塚(みみづか) / 京都市東山区茶屋町
東大路七条近辺には豊臣秀吉にまつわる場所が散見される。この(耳塚)もその中の一つである。
天下統一を果たした秀吉の次なる矛先は朝鮮であった。秀吉は大軍を朝鮮へ送り込んだが、そこで日本の各武将は論功行賞のための証拠品として、朝鮮や明の兵士の耳や鼻を切って塩漬けにして日本へ持ち帰った(残虐といえば残虐だが、当時の日本として は戦場の慣習だった)。その数は約12万6千と伝えられている。それらを集めて供養するようにと、慶長2年(1597年)に秀吉が命じて造らせたのが、この耳塚なのである。そしてその年に盛大な施餓鬼供養をおこなっている。 
目疾地蔵(めやみじぞう) / 京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町
四条大橋から南座と同じ側の道をさらに東へ足を運ぶと、小さな口がポカリとあいた空間に出くわす。そこが目疾地蔵がおられる仲源寺の入り口である。
ここのお地蔵さんは「目疾地蔵」と呼ばれている通り、眼病に効くご利益がある。しかし、最初はそのような名で呼ばれていなかったという。
鎌倉時代、この寺のあたりまでが鴨川の河原であった。安貞2年(1228年)に鴨川が氾濫した時、霊告によって洪水を未然に防いだということで、お地蔵さんを安置した。その当時は(雨止地蔵(アメヤミジゾウ))と呼ばれていたのである。
ところが、この大きなお地蔵様の両眼には玉石が嵌め込まれており、お堂の外から暗い中に鎮座されるお地蔵さんを見ると、目が潤んで見える。江戸時代には鴨川の氾濫も少なくなり、(雨止み)の霊験が忘れ去られ、その特徴ある目から(目疾)と転訛されたようである。
血天井 養源院(ちてんじょう ようげんいん) / 京都市東山区三十三間堂廻り町
三十三間堂の東に道を挟んで隣接する寺院。現在は浄土真宗であるが、戦前までは天台宗の寺院であった。創建は文禄3年(1594年)。豊臣秀吉の側室・淀君が、父の浅井長政・祖父の浅井久政の二十一回忌供養のために建てたのが始まりである。養源院という名も、長政の院号から取られたものである。その後焼失するが、元和7年(1621年)に徳川秀忠の正室である崇源院(淀君の実妹)が再建する。浅井家の血を受け継ぐ娘が権力の中枢に位置したことによって造られた寺院であるのは、言うまでない事実である。そのため、崇源院による再興の後は徳川氏の菩提所となっている。
再建にあたって本堂として、伏見城の遺構が移築されている。それと共に持ってこられたのが“床板”である。伏見城は、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦として、籠城する徳川勢が全員自刃して落城している。この時に自刃した鳥居元忠以下の将兵の血痕が染みついた床板を、供養のために本堂の天井板にしたのである。これが有名な“血天井”である。今なお、倒れた城兵達の姿がはっきりと血でかたどられている。また雨の日になるとより一層その血の跡が浮き出てくるという噂もある。
鳥居元忠 / 1539-1600。徳川家康が今川の人質時代からの側近。伏見城の戦いの際ははじめから討死を覚悟しており、家康に対する忠勤ぶりは際立っていたとされる。
伏見城の戦い / 上杉討伐のために徳川家康が不在となると、西軍の石田三成などが挙兵。4万の大軍で、伏見城から退去しない徳川方の守備隊1800を攻撃する。戦闘は約10日間続き、籠城方の妻子を捕縛して内応を強要してようやく落城させる。鳥居元忠以下の将兵約360名は、落城の際に自刃する。
羅刹谷(らせつこく) / 御壺瀧大神:京都市東山区今熊野南谷町
京都にかつて“羅刹谷”という恐ろしげな地名があった。恵心僧都源信が今の東福寺と泉涌寺の間にある渓谷を歩いていると、どこからともなく絶世の美女が現れた。美女は源信を誘うと、谷の奥の住処へ連れて行った。そしていよいよその本性を現す。外見は美女であるが、その本性は人を喰らう鬼“羅刹”であった。しかし源信は最初から美女の正体を見破っており、しかも仏道に精進する高僧であるために羅刹は食うどころか触れることもできない。やむなく源信を谷の外まで帰したという。
こんな凄いエピソードがありながら、現在では“羅刹谷”という名は残っていない。『都名所図会』にあたって、この話の出典が虎関師錬の『元亨釈書』であり、正式には“らせつこく”と読むということもわかった。さらに地図を見てようやく二つの大寺院の間に渓谷らしきものがあることに気付いた。とにかく現地へ行ってみて、それらしき痕跡のものを探すしかないようである。
だが当然のことであるが、現在において羅刹が住んでいるはずもなく、民家が建ち並んでいるだけの閑静な場所である。だが、丘を迂回するようにできた細い舗装道路を山の奥の方へ歩を進めると、やはり細い川のせせらぎが聞こえる。“渓谷”があるのだ。そしてそのせせらぎの音は滝の音だったのである。
(白髭大神)とある神社は、完全に寂れた場所であった。唯一整備されていると言っていいのが、“白髭の滝”と呼ばれる滝と、岩屋の中に作られた“御壺瀧大神”だった。岩屋を見た瞬間、羅刹の住処を連想した。それだけこの神社は異彩を放っている。たとえこの場所が羅刹谷と関連がないとしても、この雰囲気だけはその当時の怪しい感触を示すものであると感じた。
結局、周辺をうろついたが痕跡らしいものはなかった。ただそれとなく感ずるところもあった。第一日赤病院裏手から市立日吉ヶ丘高校の周囲を巡り、京都国際高校に至るまでの道のり。これが現在の“羅刹谷”を示す道だと推定するが、いかがだろうか。
恵心僧都源信 / 942-1012。天台宗の僧。師は良源(元三大師)。『往生要集』を著し、浄土信仰に多大な影響を与えた。
『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ) / 元亨2年(1322年)に完成。伝来から鎌倉時代までの仏教通史。虎関師錬は臨済宗の僧で、東福寺・南禅寺の住持などを務めた。
安倍晴明墓所(あべのせいめいぼしょ) / 京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町
稀代の陰陽師・安倍晴明の墓は複数ある。その力を利用されるのを恐れたために、本当の墓所がどこか判らないようにさせるのが目的だったとも言われている。しかし、さすがに現在はそのような負の利用を考える者もいないのか、“公式”の墓所が定められている。
場所は京都でも有数の観光地である嵐山。渡月橋から大堰川沿いに三条通を行き、小さな川の流れる小道へ折れ曲がる。ここまで来ると、観光地とは目と鼻の先だが、全く喧噪というものを感じなくなる。さらにその小道を奥へ行くと、長慶天皇陵の脇に墓所が見える(ちなみにこの長慶天皇であるが、安倍晴明とは全く関係のない、室町時代初期、南朝第3代の天皇である。しかもこの陵は昭和19年に長慶天皇ゆかりの天竜寺塔頭跡地にできたものである。従って陵よりも墓所の方が先にあったと考えられる。実際、この墓所は“晴明塚”として中世よりあったとされている)。
もともとこの土地は天竜寺の所領であったそうで、多分晴明の墓所も天竜寺の塔頭の1つにあったものと思われる。しかし、年月が経ち荒廃が進んだために、最終的にこの土地を晴明神社が譲り受けて“公式”の墓所と定めたのである。墓所に刻まれた年を見ると、昭和47年(1972年)のことのようである。かなり新しい。
安倍晴明 / 921-1005。従四位下播磨守。陰陽道を極め、時の天皇や摂関家より信任が厚かった。死後間もなく屋敷跡は晴明神社になるなど、陰陽道による術によって神格化された。
京都の安倍晴明墓所 / 嵐山以外にも、五条河原の中州や鳥羽街道の竹藪も伝承されていたが、この2つの遺跡は全く痕跡もなくなっている。京都に残されたのはこの嵐山の墓所だけである。
いさら井(いさらい) / 京都市右京区太秦蜂岡町
(日猶同祖論)という摩訶不思議な説が存在する。かいつまんで言うと、日本人とユダヤ人とは祖先が同じである、日本人の祖先は“消えたイスラエル十部族”の末裔である、という気宇壮大な思想である。
渡来人の秦氏の本拠地であった太秦(ウズマサ)の地も、実は(日猶同祖論)の有力な証拠が点在する場所として知られている。提唱者は景教(ネストリウス派キリスト教)研究の世界的権威である佐伯好郎。彼は、古文書の記載から秦氏の祖先が古代キリスト教を信仰していたユダヤ系の民族であるとし、その名残が太秦の地に残っているとしたのである。
その重大な証拠の一つが(いさら井)と呼ばれる井戸の名前なのである。秦氏が建立した広隆寺の西側、現在はちょうど観光客用の駐車場になっている場所の脇にある細い道を入っていくと、この井戸がある。今はもう使われなくなっているが、隠れた史蹟として残されているようである。
佐伯博士によると“いさら井”は“イスラエル”がなまったものという。なるほどと思わせる説なのだが、ところが“いさら”という言葉がちゃんと存在しているのである。“いさら”とは“少ない”という古語であり<“いささか”と同じ語源>、“いさら井”とは“水の量が少ない井戸”という意味なのである (『広辞苑』にも記載されてます)。夢とロマンをとるか、現実路線をとるか、微妙なところである。
日猶同祖論 / 最初に唱えたのが、幕末の日本へやって来たイギリス人のマクレオドであるが、彼は、日本の神道の中に日本人がイスラエルの民の末裔である証拠を発見した(神社建築の類似性・八咫鏡に刻まれた文字など)。その後、日本人学者によってさまざまな“ユダヤとの接点”が発見された訳である。例えば青森県戸来村にある(キリストの墓)や石川県押水町にある(モーゼの墓)、更には安倍晴明の(五芒星)までかなりの数にのぼる。
消えたイスラエル十部族 / ダビデ・ソロモン王の時代に栄華を極めた王国が南北に分裂、イスラエル十二部族のうちの十部族が北にイスラエル王国を興す。そしてBC722年にイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされるが、その後この十部族は歴史上完全に姿を消す。この史実が謎を生むことになる。
景教 / 古代キリスト教の一派であるネストリウス派キリスト教の中国での呼び名。431年に宗教会議において異端とされた後、東へ伝播して中国では唐の時代に伝えられた。しかし佐伯好郎によると、渡来人である秦氏によって日本に伝えられた形跡があるとされる。
佐伯好郎 / 1871-1965。言語学者。景教研究で国際的な名声を得る。日猶同祖論を展開、特に秦氏の本拠地である太秦にその痕跡を求めた(ただしこの説はアカデミズムの世界では無視されている)。
梅宮大社(うめのみやたいしゃ) / 京都市右京区梅津フケノ川町
四条通をひたすら西へ行き、いよいよ桂川へさしかかろうとする手前に梅宮大社前という表示が見える。
梅宮大社は“酒”の神である。実際中門の上には酒の菰樽がずらりと並べられており、由来を見てもここに祀られている神様が子をなした時に酒を造って祝ったという言い伝えがあり、それが酒造りの神様として奉られることになったようである。そしてもう一つ、この言い伝えから“安産”の神とされている訳である。
この神社には子授けのための不思議なものがある。それが(またげ石)である。本殿の中にあり、本殿外からの見学は可能であるが、この石をまたぐことは“ご夫婦で子授けのご祈祷をなされた方に限ります”ということである。
平安初期、壇林皇后が何とかして皇子を授かりたいということで(またげ石)をまたぎ、実際に後の仁明天皇をお産みになられたという故事が残っている。またこの神社本殿前の白砂を床に敷いて出産に及び、無事安産であったとも伝えられている。とにかくこの故事以降、この神社は子授け・安産の神として有名になったのである。昭和に入ってからも、有名映画スターがたびたびこの地を訪れて子宝に恵まれたという話が残っており、結構御利益はある様子である。 
檀林皇后 / 786-850。橘嘉智子。嵯峨天皇の皇后。嵯峨天皇の間には二男五女の子供が生まれている。
大酒神社(おおさけじんじゃ) / 京都市右京区太秦蜂岡町
太秦(うずまさ)の地は(日猶同祖論)の有力な証拠を多くも持っているといわれている。とにかく、この地を最初に治めた秦氏自体がユダヤと大いに関連性があるとされているからである。秦氏は朝鮮から渡ってきた渡来人である。彼らは秦の始皇帝を祖とする一族であると名乗り、直接の先祖(つまり最初に日本に来た者)は弓月君<ゆづきのきみ>としている。しかし、その先祖の名に大きな意味がある。
『新選姓氏録』に14代仲哀天皇の時代に弓月国から使者(弓月君の父に当たる功満王)が来たとあり、それが秦氏の先祖であるとされているのである。その弓月国こそ、シルクロードを経由してユダヤの末裔が建国した“原始キリスト教の国”なのである。そして彼らが最終的に本拠地とした太秦も(大秦)の文字をはめたのだろうという説がある。(大秦)とは、(ローマ)の漢字表記である。
この太秦の地の土地神としてあるのが大酒神社である(祭神は始皇帝・弓月王・秦酒公)。元々この神社は広隆寺の寺内社であったのだが、明治の神仏分離政策で分離させられた。
この神社の名であるが、現在では(大酒)となっているが、かつては(大避)あるいは(大闢)とされていた。この(大闢)は中国では(ダビデ)を意味する。つまり、この神社の名前はユダヤの王を表しているのである。これが太秦における(日猶同祖論)最大の拠り所とされている部分である。
さらにこの神社の祭りとして有名なのが“牛祭り”である。“摩多羅神”なる神様が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという、摩訶不思議な祭りである。秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には(ミトラ教)なる教えがあり、その最高神であるミトラ神が実は牛の頭を持つ神として伝えられている。そのため、多くの研究家はこの祭りをミトラ教信仰の名残と推察している。
弓月国 / 3世紀から6世紀にかけて、現在のカザフスタン国内に存在していた国。原始キリスト教を信仰していたとされ(日猶同祖論で主張される“ネストリウス派キリスト教”は5世紀頃になって東播したとされるので、整合性に欠ける)、秦氏の祖である弓月君がキリスト教を信仰し、日本に持ち込んだ可能性があるという説がある。
弓月君 / 『日本書紀』によると、応神天皇14年に百済にあり帰化を希望するが、新羅の妨害があって、16年に来日。秦の始皇帝の末裔であると名乗っている。その後一族は、仁徳天皇の代に秦姓を賜り、雄略天皇の代に太秦の地を賜る。
『新選姓氏録』 / 弘仁6年(815年)に編まれた、古代氏族の名を集めた書籍。約1200の姓が記載されている。
ダビデ / イスラエルの初代王サウルに仕え、後に王位を継承する。エルサレムに都を置き、息子のソロモン王の2代にわたり繁栄を築く。
ミトラ教 / 起源はインド・イランのアーリア人の信仰に遡る。ギリシア・ローマに広まった頃には秘儀の宗教となっており、牡牛を屠る儀式をおこなっていたとされる。一時的にローマ帝国で爆発的に流行したが、キリスト教が国教化されて急激に衰退する。秘教であったこと、キリスト教徒によって徹底的に破壊されたことによって、ミトラ教の全容は明らかではない。一方で、ミトラは「弥勒」の名称で別の信仰対象とされていくことにもなる。
首塚大明神(くびづかだいみょうじん) / 京都市西京区大枝沓掛町
京都市内から亀岡へ抜ける国道9号線。その2つの町ををつなぐ境に、老ノ坂(オイノサカ)峠と呼ばれるところがある。かつて本能寺の変の際、明智光秀がここから反転したという、まさに京都の西の境界にあたる場所である。
この老ノ坂峠、ちょうどトンネルの手前あたりに、ほとんど気づかぬぐらい細い間道が9号線から伸びている。大型車はまずは入れないだろうというほどの道である。その道を通り、いかにも谷間の農家が点在する景色を両脇に見やって、数百メートル入った突き当たりに首塚大明神がある。
この大明神周辺は美しく整備されている。というよりも、すべてが新しいものでできていると言うべきであろう。碑に刻まれた文言を読むと、どうも昭和60年頃に宗教法人として認可されている。
しかし、この首塚にまつわる伝説は非常に古い。その名のごとく、ここにはある者の首が埋められているという。実はこの“首”こそ、大江山に住んでいた(酒呑童子)の首なのである。
源頼光と四天王は無事に酒呑童子を討ち果たし、その首を持って京の都に凱旋することになった。そしてこの境界の老ノ坂峠で休んでいた時、鬼の首は不浄なので都に入れるなと子安地蔵のお告げがあった。四天王の一人、坂田金時はそれを無視して持ち上げようとしたが、どのようにしても首が持ち上がらない。仕方なく、ここに酒呑童子の首を埋めて塚を作ったのが始まりという。
酒呑童子は頼光に首を切られる時に今までの前非を悔いて、首から上に病ある者を助けると約束したという。それ故、この大明神は首から上の病(頭の悪いのも含まれるみたいだ)に霊験あらたからしい。
酒呑童子 / 史上最も有名な鬼とされる。越後または近江の出身と言われ、大江山に居を構えて、たびたび都へ現れて略奪を繰り返した。そのため源頼光と四天王によって倒された。
大江山 / 酒呑童子が住んだ大江山は、一般に現・福知山市にある大江山とされているが、都へたびたび出没している点を考えると距離的な問題がある。そこで山城と丹波の境界である大枝(おおえ)こそが、酒呑童子の本拠ではないかという説も有力となっている。
坂田金時 / 源頼光四天王の一人。幼名は金太郎。足柄山で生まれ、鉞をかついで、熊と相撲を取った怪力の童子とされる。頼光に見出されて四天王に加わる。上記の逸話は、金時の生みの母親が山姥であったという伝承に由来していると考えられる(山姥もまた鬼の能力を持つ異形の存在)。
宅間塚(たくまづか) / 京都市右京区鳴滝宅間町
国道162号線(周山街道)にある三宝寺橋南詰にいくつかの碑が置かれている。これが宅間塚であり、宅間勝賀の終焉の地とされる。
絵仏師の宅間勝賀は、栂尾高山寺の明恵上人に深く帰依していた。この頃、明恵上人の法要を聴聞するために、春日明神と住吉明神がしばしば訪問すると言われていた。それを聞いた勝賀は、是非その二神の姿を絵に残したいと思い、上人にその場に居合わせたいと懇願した。しかし二神の姿は上人以外には誰にも見えず、おそらく普通の人間が見ることが出来たとすれば、神罰が下って死に至るのではないかと諭した。それでも勝賀は構わないと言ったため、二神はその志を汲んで、ついに勝賀が居合わせる前にも姿を見せたのである。
春日明神と住吉明神の姿を絵にした勝賀は、喜び勇んで栂尾を辞して京へ戻っていった。ところがその途中、この場所で落馬するとそのまま絶命してしまったのである。やはり二神を見てしまったために神罰を受けたのである。
その後、この地に宅間勝賀の墓が作られ、さらには終焉地であることを示す石碑も建てられたのである。
宅間勝賀 / 生没年未詳。従来の仏画に宋画の技法を取り入れた宅間派の祖の一人。平安末期から鎌倉初期に掛けて、神護寺や東寺の修造事業で筆を振るったとされる。代表作は東寺収蔵の「十二天屏風」(国宝)。
明恵 / 1173-1232。華厳宗中興の祖。建永元年(1206年)に後鳥羽上皇より栂尾の地を賜り、高山寺を創建する。学理より戒律の実践、釈迦への回帰(天竺渡航を企図したことも)、華厳密教の教えの構築、若き日に求道のために右耳を切り落とすなど、仏教の革新を行動に示し続けた。また19歳から死の前年まで己の見た夢を記録し続けたことでも有名。
月読神社(つきよみじんじゃ) / 京都市西京区松室山添町
松尾大社の境外摂社という社格を持つ月読神社であるが、実は過去の社格を確認すると、並みの神社ではないことがわかる。それどころか、古代史の謎の一端をかいま見せてくれる。
月読神社の祭神は月読尊である。天照大神の弟神であり、素戔嗚尊の兄神である。天照大神が太陽神であるのに対して、月読尊はその名の通り月神である。そしてこの月読神社の本社はなぜか京都から遠く離れた壱岐島にあり、海神の性格も併せ持つ神とされている(月の満ち欠けと潮の干満との関係から来ているのだろう)。
『日本書紀』によると、顕宗天皇3年(487年)に任那へ派遣された阿閉臣事代(アベノオミコトシロ)に月読尊が憑依して、山城国に神社を創建したとある。京都でも最古の部類に入る神社である。そして斉衡3年(856年)に現在の地に置かれ、貞観元年(859年)の記録では松尾大社に次ぐ高位に叙されている(当時としては、稲荷や貴船よりもはるかに高位)。
この月読神社に関わる人物として神功皇后がいる。身重だった神功皇后は月神の託宣を受けて、神石をもって腹を撫で、 無事に男児(後の応神天皇)をお産みになったという。その石がこの月読神社にある。その名も月延石(つきのべいし)。神功皇后の伝説と、“月のもの”が延びるという名前から、安産のご利益があるとされている。昭和の頃の写真を見ると月延石は3つあったのだが、現在はいつの間にか1つだけになってしまっている。
月読尊 / 黄泉の国から逃げ帰った伊弉諾尊が、身を清めた時に天照大神・素戔嗚尊と共に生まれてきた神。『古事記』ではこの話以外の記述はなく、『日本書紀』では保食神が饗応するために口から飯を出したのを見て、怒りにまかせて殺してしまったため(この死体から農作物が出来る)、姉である天照大神が怒り、太陽と月とは一緒に現れることがなくなったとされる。これ以外に登場することはなく、その存在感は非常に薄い。
鳴滝(なるたき) / 京都市右京区鳴滝蓮池町
国道162号線(周山街道)は福王子交差点から御室川と並行するようにして北上するが、その付近一帯が鳴滝と呼ばれている。このあたりでは、御室川も鳴滝川と呼ばれることが多い。
酒屋の隣に、川岸へ下りて行く路地がある。そこにある小さな滝が鳴滝であり、この一帯の地名の元となった滝である。平安時代にはこの滝は禊の場ともなっていてそれなりに有名な場所であったようだが、この名前が付けられた由来には、不思議な伝説が残されている。
昔、ある雨上がりの午後のこと。村人はこの小さな滝がいつもとは違って大きな音を立てて流れていることに気付いた。不思議に思い、寺の住職に訳を尋ねたが、住職も分からない。ただ不審に思うところがあり、村人に高台に一時避難するように言った。するとその夜、突然大水となり、家や田畑が流されたのである。さいわい村人は全員高台にいて命を落とした者はなかったが、この災害を長く記憶に留めるためにこの滝を鳴滝と呼び習わし、この付近一帯も鳴滝の里と呼ばれるようになったという。
御室川は古来より暴れ川とされ、普段は水量が少ないが、ひとたび大雨になると突然堤防が決壊するほどの水が流れる川であった。実際、近年でも大雨で家屋が浸水した記録がある。
そして鳴滝付近には、たびたび起きた大水の記憶を残しているものがある。それは“洪水”という苗字。今でも鳴滝の地には“洪水さん”という家がが何軒かあるという。 
蛇塚古墳(へびづかこふん) / 京都市右京区太秦面影町
蛇塚古墳は京都府内最大の横穴式石室をもつ前方後円墳であるとされる。しかしながら現存するのは石室だけであり、あの鍵穴の形をした墳丘があるわけではない。もしあったとすると、その石室の大きさから長さ約75mほどはあったと推測されている。地図を見ると住宅に囲まれてしまっているが、その宅地が前方後円墳の形を残しており、その大きさは今でもある程度想像することが可能である。
むき出しになっている石室の大きさは全長約18m、玄室(遺体を安置する部屋)の床面積は約25.6uもあり、明日香村にある石舞台古墳とほぼ同じ規模である(全国第4位の大きさ)。この古墳のある太秦は、渡来人を祖に持つ秦氏の拠点であり、この古墳も秦氏の首長のものであると推測されている。造られた時代から、秦氏最盛期の首長である秦河勝の墓ではないかとも言われている。
“蛇塚”という名であるが、古来よりこの玄室に多くの蛇が住んでいたという言い伝えから、そのような名になったとされている。また後年、おしげという名の女賊がこの蛇塚を根城にし、三条通を行く旅人に狙って追い剥ぎをしていたという伝説も残されている。
石舞台古墳 / 奈良県明日香村にある史跡。蘇我馬子(551?-626)の墓であると推断されている。
秦河勝 / 6世紀末から7世紀前半頃の人。聖徳太子の側近であったとされ、太秦に広隆寺を建築するなど、この地を本拠としていた。
松尾大社(まつのおたいしゃ) / 京都市西京区嵐山宮町
四条通を西へ進み、桂川と交わる松尾橋を渡りきると、巨大な鳥居が見える(京都で2番目の大きさとのこと)。これが松尾大社の一番最初の入り口である。
松尾大社の起源は平安京より古い。この地に住み着いた秦氏が大宝元年(701年)に建てた神社であるが(明治時代になるまで松尾大社の神官は秦氏が務めていた)、実際はそれ以前から山自体が信仰の対象となっていたらしい。いわゆる「磐座(イワクラ)」と考えられる巨石が裏山にある。それ故、松尾大社は京都で一番古い神社であるとされている。だがそのような古さだけではなく、松尾大社は平安京設営にあたって非常に重要な役割を果たしている。
平安京以前に京都の地にあった大きな神社は賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)と松尾大社の三つであったという。最初の大内裏は賀茂神社と松尾大社を直線で結んだ真ん中辺りに造営されたのである。というよりも、賀茂神社が大内裏の鬼門の位置、松尾大社が大内裏の裏鬼門の位置と言った方が正しい。それ故か「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称される。
この神社の祭神に(大山咋神(おおやまくいのかみ))がおられるが、この神様は松尾の山の神であると同時に比叡山を支配する神であるという。想像をたくましくすれば、<鬼門:賀茂神社・比叡山−裏鬼門:松尾大社・松尾山>という図式が成り立つ可能性があるのかも知れない。
秦氏との関連が深い松尾大社は良い水が湧き出る場所としても知られ、醸造の神様としてその名を知られるようになる。特に(亀の井)と呼ばれる湧き水は、それを醸造の際に入れると酒が腐らないと言われ、日本全国からそれを求めて酒造家が参拝に来る。また松尾大社にとって“亀”は縁深い存在であり、この山の 谷で奇瑞をあらわした亀が見つかり、元号が(霊亀)とされたという記録も残っている。
秦氏 / 渡来人系の豪族。応神天皇の頃に弓月君(ユヅキノキミ)が朝鮮半島より渡来したのが祖となる。現在の京都市右京区太秦などを本拠とする。また京都都市伏見区深草にも拠点があり、伏見稲荷大社も秦氏が創建したとされる。人物としては、聖徳太子を補佐したとされる秦河勝が最も有名。
御髪神社(みかみじんじゃ) / 京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町
日本で唯一の髪の神社という御髪神社は、昭和36年(1961年)に京都市の理美容業界関係者によって創建された新しい神社である。祭神は藤原采女亮政之、髪結職の祖とされる人物である。御利益は言うまでもなく,髪の毛に関するものであり、理美容関係者の崇敬は篤い。また願い事をしながら切った髪の毛を献納する祈祷があり、境内には髪の毛を納めるための髪塚もある。
藤原政之の父・基晴は亀山天皇に仕える北面の武士であったが、宝刀・九龍丸の紛失事件の責任を取って職を辞し、政之を伴って宝刀探索の旅に出る。その頃蒙古の襲来に備えて多くの武士が長門国下関に集結しており、刀の手掛かりを求めてその地に赴いた。そこで生計を立てるために、新羅人から習ったのが髪結いの技術。下関に本邦初の髪結所を開いて、客を取りだしたのである。やがて父の基晴は亡くなるが、遺志を継いだ政之は宝刀の所在を見つけて朝廷に奉還。そして後に鎌倉へ赴き、京風の髪結職として鎌倉幕府に仕えたという。
京都は政之にとっては故郷であるが、髪結職としては縁が薄い場所である。ただ御髪神社がある場所のすぐそばには、亀山天皇の火葬地である亀山公園があり、この縁で神社創建がなされたという。 
藤原政之 / ?-1335。下関での店構えには特徴があり、亀山天皇と祖先の藤原氏を祀る祭壇があって“床の間のある店”と呼ばれるようになり、いつしかそれが“床屋”の名称となったとされる。そのため下関には「床屋発祥の地」の碑が建てられている。その後、弘安元年(1281年)に鎌倉へ赴いたとされ、その時期には宝刀を朝廷に納めていると考えられる。
亀山天皇 / 1249-1305。第90代天皇。在位は1260-1274。在位中より元のフビライより度々国書が送られており、上皇となってから起こった元寇の際には“敵国降伏”の祈願を伊勢神宮などでおこなう。
藤森神社(ふじのもりじんじゃ) / 京都市伏見区深草鳥居崎町
京都教育大学に隣接する地に藤森神社はある。この神社は相当古い歴史を持っており、神功皇后が新羅より凱旋した際に旗や 武具を納めたのが起源とされている(境内には神功皇后の旗塚なるものがある)。そのためか、この神社は素戔嗚尊・日本武尊・武内宿禰など武神が多く祀られており、端午の節句に武者人形を飾る風習の発祥の地であるとされている。
さらに東殿には天武天皇と舎人親王、西殿には早良親王・伊予親王・井上内親王が祀られている。古文献によると三つの社が合祀されてできた神社だとも言われている。
ちなみに早良親王に関していうと、他の神社のように御霊信仰のみで祀られているのではない。蒙古が攻めて来るという噂が流れ、早良親王がこの地で戦勝を祈願して出陣したとの言い伝えがあり、武神としての性格も帯びているのが異色である(ちなみ境内には(蒙古塚)というものがある)。
この神社の摂社である大将軍社は、平安京造営の際に桓武天皇が設けた四つの大将軍社の一つであるとされる(南の方角)。この境内社も別の土地から移されてきたものであるとも推測できるだろう (古文献によると、南の大将軍社だけは所在不明であるとされていた時期があるという)。この大将軍社自体は室町幕府6代将軍足利義教の命によって建てられた重要文化財である。
複数の社が集められて形成されていると言ってよい経緯はあるにせよ、現在の藤森神社と言えば“勝負事の神様”。特に駈馬(かけうま)神事などの縁もあって、競馬の神様のような扱いを受けている(この神社と京都競馬場は京阪京都線で一直線で行ける)。
舎人親王 / 676-735。父は天武天皇。720年に『日本書紀』を編纂し奏上する。政治家としても初期の聖武天皇を長屋王と共に補弼し、藤原光明子の立后を画策した。藤森神社では『日本書紀』編纂をおこなった“学問の神”として位置付けられている。
早良親王 / 750-785。光仁天皇の皇子、桓武天皇の同母弟。桓武天皇即位の時に立太子されるが、藤原種継暗殺に連座して廃される。無実を訴えて絶食し、配流途中で憤死。その後祟りをなし、祟道天皇と追号される。早良親王が蒙古を撃退したのは天応元年(781年)とされるが、正式な記録は残されていない。
大将軍神社 / 桓武天皇が、王城鎮護のために東西南北に置いた4つの神社。東は東三条、西は西大路一条、北は大徳寺門前(西賀茂)にある。南の大将軍神社のみ、平安京の位置から考えるとかなり距離が離れている。
羅城門跡(らじょうもんあと) / 京都市南区唐橋羅城門町
平安京の正門と言うべき羅城門であるが、石碑一つあるのみで全く痕跡がない。
怪異の舞台としての羅城門は、既に大門としての役目を放棄した後の時代、平安中期以降に輝きを増す。二階部分にあたる楼上に鬼が棲みつくようになったのである。そして鬼達は人間界の達人と邂逅するのである。
文章博士・都良香が羅城門を通った時、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした。良香がこの詩のことを菅原道真に語ると「下句は鬼の詞だ」と言ったという。(『十訓抄』より)
三位・源博雅は、清涼殿から持ち去られた琵琶の玄象の音色を辿って羅城門に行き当たった。音曲が人間の奏でるものではないと悟ると、曲が終えるのを待って呼びかけた。すると縄に結わえられた玄象が降ろされたという。(『今昔物語』より)
頼光四天王の一人・渡辺綱が酒宴の余興で羅城門を訪れた時、上から兜を掴まれた。その掴みかかった腕を一刀の下に切り落とした。腕を切り落とされた鬼は、酒呑童子の副将であった茨木童子であったとされ、七日後にその腕を取り戻したという。(『御伽草子』より)
これだけ錚々たる逸話がありながら、なぜかその実物だけは存在しない。とにかく往時を偲ぶものは何一つない。しかも周辺はもはや住宅地になってしまっているから、再建もままならないところである。
羅城門 / 平安京造営の際、朱雀大路(現・千本通)と九条通の交差する位置に建てられた大門。洛中と洛外を分ける。弘仁7年(816年)に大風のための倒壊したが再建。さらに天元3年(980年)に暴風雨で半壊、それ以降改修されることなく、荒れるがままとなる。
都良香 / 834-879。文章博士。漢詩に優れ、後世の逸話でも漢詩にまつわるものが残されている。
源博雅 / 918-980。醍醐天皇の孫。雅楽に優れ、管弦とも名手であった。上記の逸話以外にも、朱雀門の鬼から名笛を得た話も残る。
渡辺綱 / 953-1025。源頼光四天王の筆頭。本来は源姓であったが、摂津渡辺に住んだため渡辺姓を名乗る(渡辺氏の祖)。上記の羅城門の逸話は、一条戻り橋の逸話を焼き直ししたものである。
稲住神社(いなずみじんじゃ) / 京都市下京区梅小路石橋町
梅小路の梅林寺・円光寺のすぐ北側にある神社である。この神社の祭神は安倍晴明であるが、呪術者としての側面ではなく、天文学者の始祖として祀られている。要するに晴明の子孫である土御門家の庇護下にあったと考えられる神社である。
神社の名の由来であるが、昔この辺りに近隣の農民が稲束を積んでいたので「稲積み」、それが転訛して稲住となったという。安倍晴明とは全然関係ないところから名付けられている。単に安倍晴明が祭神となっているだけで、他には何の関連性もないのかもしれない。
なお、境内には魔王尊を祀る社(古い木の切り株がある)もあるが、稲住神社とは直接関係ないとのこと。
岩神さん(いわがみさん) / 京都市上京区上立売通浄福寺東入ル大黒町
千本上立売を東に入ったところ、そこはちょうど西陣と呼ばれる一帯に当たる。そこにぽつねんと大きな岩が置かれている。それが「岩神さん」である。
今でこそ申し訳程度に囲まれた巨大な岩が置かれているだけであるが、江戸時代には“岩神社”と呼ばれ、それを祀る寺院もあったらしい。だが、たび重なる大火によって堂宇は焼かれ、明治に入った直後に廃寺となり、岩だけが取り残される形で今日に至ったいるという。江戸時代には(授乳)のご利益があり、若い女性の参拝が絶えなかったといわれている。ちなみに当時あった寺院の名は“有乳山岩神寺”。
この岩がこの地にある由来は次の通りである。
元々この岩は二条堀川あたりにあったのだが、二条城建築に伴って転々と居場所を変えた。寛永の頃、後陽成天皇の女御・中和門院の御所内(現在の二条城あたり)にあった池から夜ごと泣き声が聞こえる。調べてみると、池のほとりある岩が泣いているらしい。また小僧に化けて怪事をなしたともいう。ということで手を焼いていたところ、真言宗・蓮乗院の僧がこの岩を譲り受けて、現在の地に祀ったのが、「岩神さん」の始まりというのである
なぜこの岩が泣いたり喋ったりするのかというと、さらにそれをさかのぼる伝説がある。平安時代、現在「岩神さん」がある付近に藤原時平の屋敷があり、この岩には時平の乳母の霊が宿っているというのである。この乳母の霊であるが、どうやら時平の政敵であった菅原道真が嫌いらしく、北野天満宮へ参る者が通りかかると祟りをなしたという。そのため、ここを通って北野天満宮へ行く者はなくなったらしい。
さらに江戸時代末には、この辺りに禿童の姿をした妖怪が現れて通行人に悪さをしたらしい。そこで地元の人々がこの「岩神さん」に祈ったところ、妖怪は現れなくなったという(一説では、この妖怪自体が岩の化身であったとも)。
中和門院 / 1575-1630。近衛前子。豊臣秀吉の猶子として後陽成天皇の女御となる。後水尾天皇の生母。
藤原時平 / 871-909。藤原基経の長男。醍醐天皇の治世に左大臣となる。その時の右大臣が菅原道真。政治的にはことごとく対立する間柄であったと言われる。時平は道真を讒言によって追い落とし、その後醍醐天皇の親政(延喜の治)を支えるも、39歳にて死去。若死に故に道真の祟りと噂された。
円光寺(えんこうじ) / 京都市下京区梅小路西中町
安倍晴明の子孫である土御門(つちみかど)家は、七条御前通を南へ下がったところに邸宅を構えていた。その邸宅跡に建てられたのが円光寺である。菩提寺である梅林寺とは通りを挟んで斜め向かい、ほんの十数メートルほどの距離である。
円光寺も梅林寺同様に、一般公開されている寺院ではない。その庭園の一角に渾天儀の台石が置かれているのである。実際に土御門家の邸宅で天体観測が行われたという文献があるということで、もしかすると本当に観測道具として使っていたものなのかもしれない。
土御門家 / 安倍晴明から数えて14代目の有世(1327-1405)を祖とする。実際に土御門を公式に名乗るようになったのは有脩(1527-1577)の頃とされる。応仁の乱以後若狭国名田庄に下っていたが、久脩(1560-1625)の代に徳川家康の命によって京都に戻り、陰陽道宗家と認められる。泰福(1655-1717)の代に全国の陰陽師の支配と免許の権限を得て、また土御門神道を確立する。
鉄輪井戸(かなわのいど) / 京都市下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町
昔、堺町松原下ルに夫婦が住んでいた。ところが夫が浮気をし、嫉妬深い妻は怒り狂い、ついには呪いの願掛けに走った。顔に朱をさし、身体に丹(赤色の絵の具)を塗り、頭には鉄輪(三本の足を持つ鉄の輪)をかぶり、その三本の足には蝋燭、口に松明をくわえ、丑の刻に向かう先は貴船神社……
呪詛の満願は七日であったが、その六日目に女はついに力尽きたのか、自宅近くの井戸のそばで息絶えていた。哀れに思った者がかぶっていた鉄輪を塚と見立てて葬り、やがてその井戸は「鉄輪井戸」と呼ばれるようになった。
そして一つの伝説が生まれた。この「鉄輪井戸」の水を飲ませると、どんな縁でも切れるという。その噂は広く知られるようになり、多くの人が水を求めてこの地を訪れたということである。
室町時代後半になって、鉄輪井戸の伝説は完成を見る。
夫の浮気に嫉妬した女は、呪い殺すために貴船神社へ丑の刻参りを行う。数日後、異変を感じた夫は陰陽師・安倍晴明を頼って逃げ込む。晴明は等身大の人形を作り、呪術を駆使する。そこへ鬼と化した女が現れるが、結局神々の力で退散してしまう。
この話は、能楽の謡曲として広く知られるようになり、またここに登場する鉄輪の女は“丑の刻参り”のオリジナルとして、その姿形は語り継がれることになる(そのルーツを辿ると「橋姫伝説」に行き着くことになる)。
ここまで有名な鉄輪井戸であるが、ところが、簡単には見つからない。『鐵輪跡』と刻まれた碑だけが頼りである。そして井戸は民家の敷地内にある。個人の表札が掲げられた格子戸をくぐり、更に奥へ約10メートル入った場所である。
井戸は既に金網に覆われ、もはや縁切りの水は汲めない状態にあるようである。だが、その井戸の上には鉄輪の由来書が置かれ、更に水に関する注意書きが置かれてあった。ということは、今でも縁切りのためにわざわざ足を運ぶ人間が存在する訳である。
江戸時代になって、縁切りの鉄輪井戸ではよろしくないということで、その隣に稲荷明神が祀られるようになった。その御利益は「縁結び」。強力な縁切りの効果は、逆に強力な縁結びに通じるという発想である。だが、その稲荷神社も江戸末期には焼け落ち、町内の総意のもとで昭和に入ってようやく再建されることになった。そしてそのときにも、夫婦和合・福徳円満の神として祀られた。その名を命婦(みょうぶ)稲荷神社という。
橋姫伝説 / 『平家物語』の“剣の巻”にある逸話。鬼女になりたいと貴船社に祈った女が、宇治川に21日間浸かれば鬼女になれるとの神託を受けて実行し、本当に鬼女と化した(上に挙げる装束は貴船ではなく、宇治川へ向かう時のものである)。その後、鬼女は都に舞い戻り人々を殺害し、暴れ回った。頼光四天王の一人・渡辺綱は夜半一条戻り橋で女性と会うが、それが鬼女であり、綱は襲われるものの片腕を切り落として難を逃れる。つまり、この鬼女が茨木童子と同一の鬼であるということになる。ちなみに、丑の刻参りで有名な“五寸釘と藁人形”は後世の約束事(おそらく江戸時代以降の習慣)であり、謡曲の『鉄輪』も含めてこれらのアイテムは出てこない。
閑臥庵(かんがあん) / 京都市北区烏丸通鞍馬口東入ル新御霊口町
烏丸鞍馬口から東へ少し行ったところにあるのが、黄檗宗の尼寺である閑臥庵である。しかし、ここの寺で最も有名な伝承はは(鎮宅霊符神(チンタクレイフシン))にまつわるものである。
この(鎮宅霊符神)であるが、道教の流れを汲み、陰陽道最高の神とされる。すなわち北辰(北極星・北斗七星)を表す神であり、仏教世界の妙見菩薩と同体と見なされている(妙見信仰も北極星に対する尊崇から生まれてきたものであるとのこと)。しかし、なぜ禅宗の一派である黄檗宗の寺院の境内に陰陽道の神が祀られるようになってしまったのだろうか。
江戸時代初期、後水尾法王の枕元に鎮宅霊符神が立ち「我を貴船の奥の院より洛中へ勧請せよ」との神託を顕した。そして後水尾法王の子、霊元天皇が現在の地に寛文11年(1671年)に遷座せられたのがこの鎮宅霊符神の御廟である。そして開山したのが黄檗山万福寺の住職・千呆禅師ということになる。
この(鎮宅霊符神)であるが、平安時代中頃に方除・厄除として貴船に置かれたものである。この開眼をしたのが、当時の陰陽師である安倍晴明であると言われる。つまりここの神様は安倍晴明ゆかりの神なのである。そして彼の足跡を残すかのように刻まれているのが、六芒星(晴明九字)であり、五芒星(晴明桔梗)である。六芒星は本廟の正面にある石炉に刻まれ、五芒星は本廟脇にある狛犬の台座に刻まれている。いずれも陰陽道のシンボルであり、ここの神が陰陽道に繋がるものであることを如実に示している。(六芒星の石炉は現在五芒星に直されている)
しかしながら閑臥庵の最大の魅力はこの伝承ではなく、むしろ黄檗宗ゆかりの精進普茶料理である。完全予約制で現在も料理を提供している。
後水尾天皇 / 1596-1680。第108代天皇。在位中に禁中並公家諸法度を出される、また中宮に徳川秀忠の娘和子(東福門院)が入内するなど、幕府からの圧力を受けた(ただし和子は幕府の介入に対して緩衝剤の役割を果たしている)。1627年に紫衣事件での幕府の対応に抗議して譲位する。その後は明正・後光明・後西・霊元の4代天皇の時代に院政をおこなう(和子の意向もあって幕府は黙認)。最後まで幕府の朝廷介入に対して抵抗し続けている。
霊元天皇 / 1654-1732。第112代天皇。譲位された直後は父・後水尾法王の院政に従っていたが、法王の死後は親政を執る。父以上に幕府との距離を置き、強引な政治を行っている。また後に院政を開始し、幕府との確執を大きくしていった。
観音寺 百叩きの門(かんのんじ ひゃくたたきのもん) / 京都市上京区七本松出水下ル三番町
豊臣秀吉の隠居所として建てられた伏見城であるが、慶長の大地震と関ヶ原の戦いの前哨戦(伏見城の戦い)によって初期の建築物は灰燼に帰したとされる。しかし徳川家康によって再建され、元和9年(1623年)に廃城となるまで、京都と大阪の中間にある要衝として機能した。そして廃城後、城は解体され各地の築城や寺社建築に流用されることとなったのである。
慶長12年(1607年)に一条室町に創建されたとされる観音寺であるが、その後の大火によって記録が失われ、現在地にいつ頃移転されたかなどは不明である。ただこの寺の山門は伏見城の遺構と伝えられており、その由来と伝承は少々奇怪なものである。
山門の扉はクスノキの一枚板から出来ているのだが、伏見城において牢獄の門として使用されていたと伝えられる。罪人は釈放される時に、この門前で刑罰の一つである“百叩き”を受けて解き放たれたと言われ、そのためにこの門は“百叩きの門”と呼ばれるようになったという。
さらに伝説では、移築されて間もなく、夜にこの門前を通ると、どこからともなく人の泣き声が聞こえたという。そのために夜間に人通りが絶えてしまった。住職が調べてみると、門に造られた潜り戸が風のせいで自然に開け閉めされ、それが人の泣き声のように聞こえることが分かった。しかし住職はそれを門前で処罰された罪人の恨みがなすものであると考え、100日間の念仏供養の末に泣き声を封じたとも、あるいは潜り戸を釘で打ちつけて開かなくしてしまったという。
山門は現在も残っており、“出水七不思議”の1つとされる。ただし泣き声を耳にする者は既にない。
出水七不思議 / 出水六軒町通から七本松通までの周辺にある七不思議。光清寺の浮かれ猫絵馬、華光寺の時雨松、観音寺の百叩きの門、地福寺の日限薬師、五劫院の寝釈迦、極楽寺の二つ潜り戸、善福寺の本堂。
石像寺・釘抜き地蔵(せきぞうじ・くぎぬきじぞう) / 京都市上京区千本通上立売上ル花車町
家隆山光明遍照院石像寺。と言ってもピンと来る人はまずいないが、(釘抜地蔵さん)と言えば、そのユニークな絵馬でなかなかの知名度のある寺院である。
千本今出川を少し北へ上がったところに、小さな山門と言うべき門がある。しっかりと見ておかないと通り過ぎてしまうほど、何の変哲もない門である。しかし、一歩その中へ入ると、手狭とも思える境内はまさに異空間である。いつ行っても線香の煙が立ちこめ、必ず参拝者がいる。そして圧巻なのが、本堂の壁面などに所狭しと飾り立てられたお礼参りの奉納絵馬である。奉納絵馬は全て同じデザイン。実物の釘抜きと八寸釘がセットになって板に打ち付けられている。
弘治2年(1556年)頃、近隣に紀伊国屋道林という商人がいた。ある時急に両手が痛み出し、何をやっても効き目がない。わらをもすがる思いでこのお地蔵さんに願を掛けた。そして満願の日、夢枕にこのお地蔵さんが現れた。“おまえの両手の痛みは、前世において人を恨み、人形を作ってその両手に八寸釘を打ち込んだことの報いである。しかし神力を持ってそれを取り除いた”とお地蔵さんは語り、抜き取った釘を見せた。そこで夢から覚めた道林が慌てて地蔵堂へ赴くと、お地蔵さんの前に血に染まった2本の釘が置かれてあったという。
これが(釘抜地蔵)の由来である。このお地蔵さんのご利益は単に前世の因縁を取り除くだけではなく、ありとあらゆる苦痛を取り除くという絶大なものである。ただしこの解釈は“釘抜き=苦を抜く”という語呂合わせから来るものである。だが、こういうところが庶民の信仰の純粋な部分だと言えるだろう。
光清寺 浮かれ猫絵馬(こうせいじ うまれねこえま) / 京都市上京区出水通六軒町西入ル七番町
光清寺は寛文9年(1669年)、伏見宮貞致親王が生母の菩提を弔うために建立したものである。その後焼失するが、再建。宮家ゆかりの寺院であるため、宮准門跡に列せられる。
境内には宝暦年間(1751〜1763)に旧伏見宮邸から移築されたという弁天堂がある。そこに掲げられているのが、経過年で色が落ちていて、さらにガラスの反射などで見にくくなっているが、牡丹に三毛猫の絵馬である(その後退色が激しいため本堂に安置。現在弁天堂には複写が飾られている)。これが“出水七不思議”の1つとされる「浮かれ猫絵馬」である。
江戸時代後期頃、この寺の近くにある遊郭(五番町)から夕刻になると三味線の音が聞こえてくる。その音色に合わせるように絵馬の猫が浮かれ出てくると、女性に化けて踊り始めるようになった。それを見た人達が騒ぎ出して大事になると、住職はそれを不快に思い、法力をもって猫を封じ込めてしまったのである(あるいは金網で絵馬を覆ってしまったとも)。
すると、その夜のこと。住職の夢枕に、衣冠束帯姿で威儀を正した武士が現れ「私は絵馬の猫の化身であるが、絵馬に封じ込められて非常に不自由な思いをしている。今後は世間を騒がすようなことはしないので、どうか許してもらいたい」と懇願した。住職も哀れに思い、戒めを解いたという。
このような伝承が残るため、この弁天堂は芸事、特に三味線の上達に御利益があると言われ、昔は遊郭あたりの芸妓がよく祈願をしていたとされる。
出水七不思議 / 出水六軒町通から七本松通までの周辺にある七不思議。光清寺の浮かれ猫絵馬、華光寺の時雨松、観音寺の百叩きの門、地福寺の日限薬師、五劫院の寝釈迦、極楽寺の二つ潜り戸、善福寺の本堂。
五番町 / 上七軒管轄の遊郭として、西陣の職人相手に発展する。現在は、一部家屋に名残はあるが、営業しているお茶屋などは残っていない。水上勉の『五番町夕霧楼』で有名。
膏薬図子 神田神宮(こうやくのずし かんだじんぐう) / 京都市下京区四条通新町西入ル下ル新釜座町
自転車がなんとかすれ違える程度の細い路地。四条通に面しているが、一旦路地へ入ると喧噪とは全く無縁の地となる。
「膏薬図子」という奇妙な名であるが、これはこの地に空也上人が供養のための念仏道場をおいたことが由来だという。「空也供養(くうやくよう)」が転訛して「膏薬」となったという訳である。ちなみに「図子」は「小路」よりも狭い路地の意味とのこと。つまり「膏薬図子」は空也上人が供養のために開いた土地にできた路地ということになる。
この狭い路地の途中、一軒の家を借りるようにして、小さな祠が安置されている。これが空也上人の供養を必要としたものの正体なのである。屋内に丁重に置かれた、ちっぽけな祠こそが京都の神田明神なのである。そして祭神はいうまでもなく、平将門である。
関東で乱を起こした将門は討たれ、その首は京都に持ち帰られて四条河原辺りに晒されたという。この首が晒された場所が、実はこの祠の置かれた場所であるというのである。
その後将門の首は胴体を求めて関東へ飛び去っていくのだが、やはり京都への怨みが強いのか、空也上人が晒し首のあった場所に念仏道場を建てて供養することになる。さらに将門を祀る祠としてこの神田神宮が建てられたのである。(一説では、京都のこの神田神宮の方が本家にあたるとのこと)
平将門 / 903-940。常陸国の猿島で討ち死にした平将門の首は、その後京都で晒される。晒された場所は四条河原とも七条河原とも言われる。斬られた首を晒す獄門の刑が処せられたのが、史実としてはこの平将門が最初である。現在の膏薬図子の位置は鴨川の河原からかなり離れているが、ここでも首が当地まで飛んできたという伝承が残されている。
空也 / 903-972。“市聖”と称される。南無阿弥陀仏の名号を唱え、市井を回って社会事業をおこなったとされる。京都での活動は940年前後とされている。
白峯神宮(しらみねじんぐう) / 京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町
創建は明治元年(1868年)。京都の中では最も新しい神社の一つであると言えるだろう。しかし、祭神は崇徳上皇と淳仁天皇である、明治天皇の勅願ということで戦前の社格は最上位・官幣大社である。
この神社の名前の由来は崇徳上皇崩御の地である白峰山からとったものであり、公式の形で崇徳上皇の霊が京都へ戻ってこられたことを意味する。崇徳上皇と言えば史上最強の祟り神とされ、生きながらにして魔王となることを宣言した人物である。その祟りの凄まじさは、死の直後から起こった源平の合戦を鑑みれば納得できる。
だが、なぜ幕末から維新にかけての動乱期に崇徳上皇の御霊を京都へ奉還してきたのか。表向きは孝明天皇の発案、明治天皇の勅願となっているが、実際には、政治的な意図があると言われている。一つは維新の動乱が崇徳上皇の魔力によって引き起こされたものであることを強調するため、そして一つは崇徳上皇の 祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が、京都に帰っていただくことで上皇と和解、主権を取り戻したことを暗に示そうとしたためであると考えられる。
新しい神社を創建するということで選ばれた土地は、堀川今出川東入ルの飛鳥井家の邸宅跡であった。飛鳥井家は“蹴鞠”の宗家であり、その邸宅には(鞠の精)を祀った精大明神があった。この神社は鎮守の神という訳で、白峯神宮創建後もその敷地内に置かれることになった。
球を扱う神様だからということで、精大明神のある白峯神宮は(球技の神様)に変身してしまった。かつてはパチンコに御利益があると言われ、今や「蹴鞠は日本のサッカーの原点」ということでサッカーの神様にもなってしまった。
さて、この(鞠の精)であるが、藤原成通という人物が千日に渡る蹴鞠修行を果たした直後に現れた三人の神様で、猿のような童子の姿をしていたとされる(名前は夏安林・春陽花・桃園と名乗る)。この精のおかげで、成通は神業級の蹴鞠が出来たという。
崇徳上皇 / 1119-1164。第75代天皇。上皇となるも実子が天皇となれなかったため院政をおこなえなかった(天皇の直系尊属でなければ院政はできなかった)。実弟の後白河天皇の時に保元の乱を起こし、敗北。讃岐へ配流となる。京都への帰参が許されないこと知り、大魔縁となると宣告して薨去。陵墓も讃岐白峰山にある。
淳仁天皇 / 733-765。第47代天皇。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の直後、仲麻呂と関わりが深い理由で孝謙上皇によって廃位、淡路に配流される(孝謙上皇は称徳天皇として重祚)。翌年淡路にて薨去。淡路廃帝と呼ばれる。明治3年、明治天皇によって追号を受け、同6年に白峯神宮に合祀される。
藤原成通 / 1097-1162。正二位・大納言。“蹴聖”と称される蹴鞠の達人。蹴鞠をしながら、10人の侍の肩の上を渡ったが、誰一人として重さを感じた者がいなかった。台盤の上で蹴鞠をしたが沓の音すらなく、鞠の音だけしかしなかった。清水の舞台の欄干の上を蹴鞠をしながら往復した。といった数々の蹴鞠にまつわる伝説を残す。上記の鞠の精との邂逅は『古今著聞集』にある。
飛鳥井家 / 蹴鞠の飛鳥井流師範を家業とする一族。飛鳥井雅経(1170-1221)を祖とする。祖父の難波(藤原)頼輔が藤原成通の教えを受け継いで蹴鞠の名人であった。
神泉苑(しんせんえん) / 京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町
堀川御池を西へ歩いて数分。ちょうど二条城の南側に神泉苑がある。元々はかなり広大な土地であり(二条城の南の通りを歩くと、かつての神泉苑の規模を示す石碑がある)、禁苑として天皇や貴族が足を運んだ場所、宗教的行事が行われた場所でもある。
ここの池は平安京造営の時からあるもので、1200年前から唯一残る平安京の遺跡である。それと同時に、この池は数々の伝承・伝説・記録に彩られた場所なのである。有名なところでは、小野小町がここで雨乞いをしたとか、日本初の御霊会がとりおこなわれたとか、醍醐天皇が鷺に官位を与えたとか、鵜が池から太刀をくわえて出てきて白河天皇に差し出したとか、源義経が静御前を見初めたとか、とにかく話題には事欠かない。
しかし、最大の逸話といえば、空海と守敏の雨乞い祈祷にまつわる話であろう。
弘仁15年(824年)、京都の町は干魃に苦しめられていた。そこで勅命が下り、空海と守敏が祈雨の修法を行うこととなる。最初の守敏は何とか雨を降らすことができた。そして空海の番になると雨が降らない。そこで空海が探りを入れると、守敏が龍神を封じ込めているではないか。ならばと空海は善女龍王を天竺より勧請し、見事に大量の雨を降らせたのである。
神泉苑の池にある中島には、空海が勧請した善女龍王社がある。一見、これが神泉苑の本殿であるように思うが、実は神泉苑は真言宗の寺院である。しかしながら池の周辺には弁天堂もあって、やはり水の神様がここの主役と言うべきかもしれない。
善女龍王社の前に小さな祠が置かれている。この何の変哲もない祠であるが、何と日本でここだけという(徳歳神)が祀られているのである。この祠はその年の恵方(幸運の方角)へ向かうように、毎年台座の上で廻されるのである。実際に台座を見ると動かされた跡が残っており、また台座の下には四方から拝めるような工夫がなされていた。それにしても毎年位置が移動する祠というのは、多分ここだけなのではなかろうか。
小野小町の伝説 / 『雨乞小町』という謡曲(現存せず)によると、ある大干魃の年、高僧が祈祷をおこなっても効果がなく、帝の勅命で小野小町が「ことわりや日の本なれば照りもせめ さりとてはまた天が下かは」との雨乞いの歌を詠んだところ、大雨が降ったという。
御霊会の伝説 / 非業の死を遂げた者(特に政争で敗れ無念を残して死んだ者)が祟り、天変地異を引き起こすと考えるのが御霊信仰。それを防ぐためにおこなわれた儀式が御霊会。貞観5年(863年)5月に神泉苑で執り行われたのが嚆矢とされる。さらに貞観11年(869年)の御霊会では66本(日本の国の数)の鉾を立てて執り行った。これが後の祇園祭となっていく。
醍醐天皇の伝説 / 神泉苑の池に一羽の鷺があるのを見た天皇が、それを捕らえるように命じた。命ぜられた役人が鷺に向かって「勅命である」と言うと、鷺はおとなしく捕らえられた。天皇はそれを聞き、神妙であると、この鷺に五位の位を授けた。これが“ゴイサギ”の名の由来となった。
白河上皇の伝説 / 上皇が神泉苑で宴を開いた際に鵜漁を見学した。その時に鵜が池の中から太刀を拾い上げた。上皇はそれを霊剣として“鵜丸”という名を付けて秘蔵した。この剣は後に崇徳上皇から源為義に下賜された。
静御前の伝説 / 寿永元年(1182年)後白河上皇が雨乞いのために、神泉苑で白拍子100人を集めて舞を踊らせた。99人まで舞うものの雨は降らず、最後の静御前が舞うと黒雲が湧き上がり雨が降ったという。この時源義経もその場におり、静御前を見初めたと言われる。
守敏 / 生没年不明。823年に嵯峨天皇より西寺を与えられる(同じ時に東寺を与えられたのが空海)。空海とは折り合いが悪く、この雨乞いで敗れた後に、空海の命を狙う。
善女龍王 / 八大龍王の一柱である娑羯羅龍王の第三王女。空海によって“清瀧権現”と名付けられ、密教の守護神として祀られている。
神明神社(しんめいじんじゃ) / 京都市下京区綾小路通高倉西入ル神明町
鵺退治で有名な源三位頼政が、その鵺を退治する前にこの神社へ祈願し、見事成就したためこの神社へ2本の鏃(やじり)を奉納したとされる。
場所は烏丸綾小路を東へ入ったところ。普通の民家が建ち並ぶ中に取りまぎれるように鳥居がある。神社というよりも大きな祠が祀ってあるという方が正しいかもしれない。問題の鏃であるが、今ではこの神社の宝となっており、年に1回だけ公開されているという。
源頼政 / 1104-1180。源氏として破格の従三位に叙せられたため“源三位”とも言われる。源氏ではあるが、平清盛の信を得て平氏政権下においても厚遇された。しかし以仁王の打倒平家の挙兵に加わり、宇治平等院で敗死。鵺退治については、先祖である源義家が弓で魔物を退散させた故事にちなんで、一門で武名高い頼政が指名されたことになっている。
晴明神社(せいめいじんじゃ) / 京都市上京区堀川通一条上ル晴明町
この神社が創建されたのは1007年、晴明の没後2年、一条天皇の勅命であったと伝えられており、安倍晴明が生前にいかに特殊な能力を発揮していたかが察せられる。建てられたのは晴明旧宅地であるとされる(その後の研究によって実際の屋敷は、神社の南東に当たる京都ブライトンホテル駐車場付近であったとされている)。この地は当時の御所の鬼門に当たる位置であり、当然のことながら御所を守護する意味合いが強いと考えられている。いずれにせよ、この神社は 魔界のものから京都(朝廷)を防衛するためのシステムとして建てられたものと見て差し支えないと思う。
この神社の祭神はいうまでもなく、安倍晴明である。そして彼以外の祭神は祀られていない。さらに末社は稲荷神社だけという、非常にシンプルな神社である。そしてこの神社の社紋は、あの有名な(五芒星)である。この紋は神社の至る所にあり、社殿にも燦然と輝いている。この(五芒星)であるが、晴明の名にちなみ(晴明桔梗)とか(セーマン)という名で呼ばれてもいる。まさに陰陽道を象徴する紋章である。
また晴明神社の中に(晴明井戸)と呼ばれる井戸がある。この井戸から汲み出される水は霊験あらたかであり、いかなる病気にも効くということで“晴明水”と呼ばれている。この水で千利休が茶を点てたことがあるとも伝えられている。
安倍晴明に関する数々の超能力は、後世の説話集を中心に語られている。果たしてどこまでが真実であるかはわからないが、簡単に列挙してみる。
○ 十歳の頃、師である賀茂忠行のお供をしていた時、前方に鬼の群れがあるのに気づき、危機を逃れた。忠行はその天賦の才能を見抜き、陰陽道の全てを教授した。(『今昔物語』より)
○ 花山天皇の電撃的な退位の際、天皇が晴明の屋敷の前を通りがかると「帝が退位する兆しがあるので、式神に様子を見させよ」との晴明の声がして、誰もいないのに屋敷の門が開いた。(『大鏡』より)
○ 晴明は十二神将を式神として使役していたのだが、妻がその容貌を恐れたために、屋敷のそばの一条戻り橋の下にそれらを隠し置き、必要あればそれらを呼び出していた。(『今昔物語』より)
○ 蔵人の少将が烏の糞をかけられるのを見た晴明は、それが呪詛であることを見抜き、呪詛返しを行った。すると翌日に呪詛を行った陰陽師が死んだという知らせがあった。(『宇治拾遺物語』より)
○ 藤原道長に対する呪詛が門に仕掛けられているのを見抜き、さらに仕掛けた者を探すべく紙を白鷺に変えて飛ばし、道摩法師を捕らえた。(『宇治拾遺物語』『十訓抄』より)
○ 播磨からやって来た陰陽師が術を挑んだが、その素性を見抜き、さらに彼の式神を隠すなどして散々な目に遭わして、降参させてしまった。(『今昔物語』より)
○ 仁和寺で、他の公卿から陰陽道の術を見せて欲しいとせがまれ、近くにいた蛙を手を触れることなく潰してしまった。(『今昔物語』より)
安倍晴明 / 921-1005。賀茂忠行に付き陰陽道を学ぶ。その才能によって天文博士となり、占いの術者として歴代の天皇に仕える。また藤原道長からも信任が厚かったとされる。最終的に従四位播磨守の地位を得る(天文博士は正七位の官位。相当な官位に就いている)。伝承は数知れず、その出自から伝説に彩られている。
晴明神社の稲荷社 / 安倍晴明の母親は、和泉の葛葉姫という狐であるという伝承がある。晴明神社にも稲荷社があり、この故事に倣って勧請されたようにも見えるが、実際には、明治維新の頃に“人神である”ことで存続が危ぶまれたために、近隣の稲荷社を敷地に勧請したとのこと。
五芒星 / 5本の等しい直線でできた星形。中央に正五角形、その正五角形の各辺を一辺とする、合同な二等辺三角形でできている。この星形の5つの頂点が陰陽道の根本的思想である“天地五行(木・火・土・金・水)”を具象化したものであると言われ、晴明自身が作り出したとされる。ちなみに大日本帝国軍の軍服にはこの(五芒星)が縫いつけられている。魔除け(弾除け)の意味が込められているという。
頂法寺・六角堂(ちょうほうじ) / 京都市中京区六角通東洞院西入ル堂之前町
聖徳太子が創建という、平安京以前からここにある古い寺院である(正式には紫雲山頂法寺。六角堂という名前はそのお堂が六角形をしているところからきたという)。
かつて聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めて山背(やましろ)へ来たが、一服しようと近くの泉で水浴びをした。いつも首からかけていた如意輪観音像をそばの木に引っかけていたのだが、水浴びを終えていざ取ろうとするとそれが取れない。そこへ通りがかった農夫に「その木の上に紫色の雲が見える」と言われ、 太子はこの木が霊木であることを悟った。そしてこの木を切って如意輪観音を納めたのが、六角堂の起こりと言われる。
またこの泉から名付けられた塔頭が「池坊」であり、六角堂の管理をおこなうと共に、華道家元として現在に至る。
ここには平安京建設の基準点となった「へそ石」がある。このへそ石を中心として平安京の東西南北の道はできたという。しかしこの建設の際、六角堂は東西に延びる道の妨げとなってしまう。そこで天皇の勅使が「できれば南北どちらかへお動き下さい」と祈ったところ、六角堂は北へ少し動いて、道が貫通できたという。何とも不思議な伝説である。
へそ石は六角堂の正面に当たる場所にある。昔の写真を見ると金網が張られ無愛想な感じであったが、今は周囲を敷石で飾られ、六角形のロープが張られた状態で見やすいようになっている。そういうと、へそ石自体も六角形をしている。
六角堂の真正面、へそ石の隣に立派な柳の木がある。一名「地摺れの柳」、通称「縁結びの柳」である。
六角堂に深く帰依していた嵯峨天皇があるとき「姿も心も類い希なるほど美しい女性を妃として与えて欲しい」と祈願した。すると、夢の中に如意輪観音が現れ「すぐに勅使を六角堂に差し向けるが良い。御堂の前にある柳の木の下に女人有り。宮中へ入れるべし」とのお告げがあった。早速六角堂へ勅使をやると、本当に柳の木の下に美しい女性が一人いた。そこで妃としたが、多くの人からあがめられるほどの女性であったという。
聖徳太子と四天王寺 / 『日本書紀』によると、聖徳太子が物部守屋を倒した時に四天王を刻み、「戦に勝ったならば、四天王を安置する堂宇を建てる」祈願をしたことから、四天王寺は建立されている。建築を開始したのは593年のことなので、この伝承もその時のものと考えられる。
池坊 / 聖徳太子が沐浴した泉にちなんで名付けられた塔頭。この池坊の僧が六角堂の本尊である如意輪観音に花を供える役目を担っており、室町中期頃に池坊専慶(小野妹子の末裔と言われる)が花生けで有名となる。その後、池坊を華道家元として様式が確立され、現在に至る。
嵯峨天皇 / 786-742。第52代天皇。三筆の一人。嵯峨天皇の夫人は約20名ほどおり、具体的には誰を指した伝承であるかは不明である。ただし皇后である檀林皇后は類い希なる美女であると言われており、おそらくそれが念頭にあっての伝承であると考えるべきだろう。
椿寺(つばきでら) / 京都市北区一条通西大路東入ル大将軍川端町
正式名称は昆陽山地蔵院。行基が摂津国の昆陽池(現:兵庫県伊丹市)のほとりに建立したのが始まりであり、平安期に衣笠山の付近に移転した。時代が下り、室町幕府3代将軍・足利義満が鹿苑寺に金閣を建立した余材をもって再建され、さらに豊臣秀吉によって現在地に移転された。
「椿寺」の通称であるが、これには豊臣秀吉が絡む。天正15年(1587年)に北野大茶会を開いた秀吉は、この時“五色八重散椿”という椿の名木を寄進した。そのため、後世に「椿寺」の名が付けられた。この名木であるが、その出自は加藤清正が朝鮮出兵の折に蔚山城より持ち帰ったものとされる。ただし、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は北野大茶会の5年後から始まっており、加藤清正が蔚山にあったのは慶長2年(1597年)以降なので、年代的には合わない(さらに言えば、加藤清正が蔚山から帰国した時には、既に秀吉は死去しており、ますます辻褄が合わなくなる)。この名木は昭和58年(1983年)に枯死し、現在は樹齢100年を超える2代目の散椿が植わっている。
地蔵院の名の通り、地蔵菩薩像が安置されている。行基作とされるが、別名「鍬形地蔵」と呼ばれる。
この大将軍村に庄兵衛という百姓がいた。ある年は日照りが続いたが、庄兵衛は自分の田にだけ水を引いて、他の者へ水を回さなかった。ある時、見慣れない僧がやって来て、水を他の田にも回すよう諭した。ところがそれを聞いた庄兵衛は、怒りにまかせて僧に額を鍬で打ちつけた。傷を負った僧は何も言わずその場を立ち去る。不審に思った庄兵衛はその後を追っていくと、僧は地蔵院の門前で姿を消した。境内の堂内を見た庄兵衛は、その中に置かれた地蔵の額から血が流れだしている姿を見て、全てを悟った。それ以降、庄兵衛はわがままを言うことなく、他の村人と仲良く暮らしたという。
鵺大明神(ぬえだいみょうじん) / 京都市上京区智恵光院通丸太町下ル主税町
二条城の北西にある児童公園のそのまた北西に小さな社がある。ちょうど真向かいにNHKの京都放送局があるところ。この小さな社が鵺大明神である。
今から850年ほど前の平安末期。丑の刻頃になると、東三条の森の方から黒雲が湧き上がり、御所の上空を覆い尽くした。しかもその黒雲からは妖しげな鳥 の声がする。高倉天皇(一説には近衛天皇)はその不気味な声のために心労甚だしく、ついにその怪鳥を退治するよう源頼政に命じたのである。
真夜中、いつものように黒雲が湧き上がってくると、頼政は弓をつがえて黒雲目掛けて矢を放つ。すると雲の中から何かが落ちて来るではないか。従者の猪早太がそれにとどめを刺してみてみると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という怪物であった。
この怪物が<鵺>と呼ばれるものなのであるが、実はこの怪物には本当の名前はないのである。天皇を悩ませてきた怪物の鳴き声が鵺という鳥にそっくりだったので、勝手に鵺という名前で呼ぶことになったのである。ただしこの鵺という鳥の鳴き声は元来忌むべきものと見なされており、その点では妖しい存在の代名詞には適任だったのだろう。
この怪物が空から落ちてきて、さらに頼政が血の付いた鏃(やじり)を洗ったとされるのが、この社の隣にある“鵺池”である。
鵺池は児童公園の一角にあり、その石が積まれた形から、馬蹄形をしているのが判る。
鵺大明神のそばには全文漢文で刻まれた「鵺池碑」があり、先祖である源頼政の功績を顕彰している。しかし、この鵺大明神は大変新しいもので、昭和9年に鵺池のある二条公園が整備された時に同時に祀られたものであるという。
源頼政 / 1104-1180。源氏として破格の従三位に叙せられたため“源三位”とも言われる。源氏ではあるが、平清盛の信を得て平氏政権下においても厚遇された。しかし以仁王の打倒平家の挙兵に加わり、宇治平等院で敗死。鵺退治については、先祖である源義家が弓で魔物を退散させた故事にちなんで、一門で武名高い頼政が指名されたことになっている。
鵺池碑 / 碑には「元禄庚辰(1700年)に京都所司代の松平紀伊の家臣が建てた」ことが記載されており、篠山藩の松平信庸の時であると判る。この地は江戸期においては京都所司代の敷地内であり、池もその屋敷の中にあったものとされる。ただ鵺にまつわる伝承はしっかりと残されていたと言えるだろう。
梅林寺(ばいりんじ) / 京都市下京区梅小路東中町
安倍晴明を始祖とする安倍氏は、江戸時代になると土御門家として梅小路一帯(JR西大路駅北側)に屋敷を構えることになる。
梅林寺は、土御門家の屋敷のすぐそばにある土御門家の菩提寺である。つまり安倍晴明の直系子孫の墓が並ぶところである。ちょうど本堂の真正面にある中庭には、土御門家ゆかりの遺構がある。天球儀の台石である。水平な石の台の上には十文字に溝が掘られており、それぞれが正しい東西南北を指している。この台石の上に天球を置いて、天体観測(つまり暦作りなど、陰陽師としての仕事)をしていた訳である。
本堂の裏手には、一般の檀家の墓と混じって、土御門家歴代の墓がいくつかある。しかし、墓は一カ所に集められることもなく、他の墓に紛れ込むよ うにあまり広くない墓所に点在している。ただ一つだけまとまりがあるのは、墓碑に刻まれた名が「土御門」ではなく、すべて「安倍」という点である。
写真にある墓の主である安倍泰邦は、宝暦5年(1755年)に<宝暦暦>なる新しい暦を作成した陰陽頭である。そして梅林寺にある天球儀台石の側面には(土御門泰邦製)という文字が刻まれている。つまりこの台石は彼が暦の作成のために造ったものである可能性が高いと言えるだろう。
なお梅林寺は観光寺院ではないので、拝観の際には予約が必要です。
土御門家 / 安倍晴明から数えて14代目の有世(1327-1405)を祖とする。実際に土御門を公式に名乗るようになったのは有脩(1527-1577)の頃とされる。応仁の乱以後若狭国名田庄に下っていたが、久脩(1560-1625)の代に徳川家康の命によって京都に戻り、陰陽道宗家と認められる。泰福(1655-1717)の代に全国の陰陽師の支配と免許の権限を得て、また土御門神道を確立する。
土御門泰邦 / 1711-1784。泰福の代に、幕府は貞享暦の実質的作成者である渋川春海を幕府天文方として採用し、暦の作成権を土御門家から取り上げる。それに対抗したのが泰邦であり、宝暦暦を作成して再度朝廷に作成権を取り戻した。ただしこの宝暦暦は精度が低く、実施数年で修正が加えられた。
班女塚(はんじょづか) / 京都市下京区室町通高辻西入ル繁昌町
京都のビジネス街から歩いて数分、室町高辻というところに目的の塚はある。結構奥まったところに位置しているのだが、この塚に関する道標は一切ない。
この塚の由来は『宇治拾遺物語』に詳しくある。
この辺りに昔、長門前司の2人の娘が住んでいた。姉は既に嫁いでいたが、妹の方はまだ結婚もせず厄介になっていた。その妹が病で死んだので、棺桶を鳥辺野へ運んでいった。だが、気が付くと棺桶は空っぽ。消えた遺体を探して戻ってみると、玄関先に遺体がある。翌日再び運ぶと 遺体が消えて、また玄関先に置かれていた。しかも今度は遺体を動かすことができない。多分この地に葬って欲しいのだろうということで、この地に埋めてしまった。その後、姉もこの地を去り、人々も気味悪がって去ってしまい、この辺りは誰も住む者がなくなったということである。
誰も訪れることもなさそうな場所に、小さな祠とその後ろに大きな岩が鎮座している。これが班女塚である。この塚は男性と縁のなかった女性を慰めるために設けられた塚であり、それ故、未婚の女性がこの前を通れば破談となるという言い伝えがある。
班女塚は通りから離れた場所にひっそりとあるのだが、「班女」という名に通じるということで、すぐそばの通りに面した場所には「繁盛神社」という、まことに御利益のありそうな神社が建っている。弁財天が祀られているが、この神社自体もかなり古くからこの地にあると言われている。
『宇治拾遺物語』 / 13世紀前半頃に成立した説話物語集。この班女塚の話は、第三巻の「長門前司女 葬送の時本所にかえる事」として記載されている。
班女 / 紀元前1世紀頃の中国(前漢)の女性。班ul(ハンショウヨ)。前漢11代皇帝・成帝に寵愛されるが、後にその寵を失い、失意の内に皇帝の許を去る。寵愛を失った女性の象徴として、しばしば詩の題材とされた。班女塚の名前もおそらくそのイメージから名付けられたものであると想像する。
弁慶石(べんけいいし) / 京都市中京区三条通麩屋町東入ル弁慶石町
京都の繁華街寺町三条からさらに西へ進み、麩屋町(フヤチョウ)通りとの辻にその石はある。何かの石碑であるかのように、ビルの敷地内に美しく飾られている。
“弁慶石”という名の通り、この石の謂われには武蔵坊弁慶の存在がある。だが決定的な由来は判然としないという。
由来書きによると、この石は奥州衣川から運ばれてきたものであるという。衣川と言えば、いわずと知れた弁慶終焉の地である。この石は衣川で弁慶が愛玩していたものと言われている。この石が「京都に帰りたい」と泣き、熱病が蔓延するために、室町期に京都へ運ばれたらしい。しかし、なぜ三条京極付近に置かれたのか、全く見当がつかない(幼少の頃ここに住んでいたとも言われているが)。
しかし他の説に耳を傾けると、この石は鞍馬口にあったものが洪水でこの地に流れ着いたとも、弁慶が比叡山からぶん投げたとも言われている。そればかりか“弁慶石”なるものが京都には複数あったという説まである。
男の子がこの石を触ると力持ちになるという言い伝えが、古くから残されている。しかし現在の地に置かれたのは、実は昭和になってからである。しかも有志が勧請してここへ持ってきたにもかかわらず、長らくガレージの前に庭石よろしく無造作に置かれてあり、このように史跡扱いされるようになったのは、このビルが出来た時からである。
武蔵坊弁慶 / ?-1185。源義経の忠臣。『吾妻鏡』に名が記載されているので実在の人物であるとされるが、その事跡のほとんどは伝説である。しかしその伝説は全国各地に多く残されている。
京都に残る伝説では、比叡山の僧時代に千本の刀を奪う大願を立て、最後に五条大橋で源義経に臣従する話が有名である。
報恩寺(ほうおんじ) / 京都市上京区小川通寺之内下ル射場町
西陣の一角にある浄土宗の名刹である報恩寺。この寺は「鳴虎」という有名な絵があることで、通称として(鳴虎報恩寺)として知られている。
しかし、この寺にはもう一つ有名なものがある。それが梵鐘である。この鐘は平安時代後期の作で、重要文化財に指定されている。特に歴史的な価値があり、 説明書きによると、全面梵字が刻まれた珍しい鐘であり、室町時代には管領畠山持国が陣鐘として使用し、また豊臣秀吉もこの鐘を愛玩したとされている。まさに由緒正しい梵鐘である。
しかしこの鐘は別名(撞かずの鐘)と言われる。この別名に関して、実は怪異があるのである。
江戸時代の頃、この寺の近くにあった織屋(織物業を営む店)に15才の丁稚と13才の織女(おへこ)がいた。ところがこの二人が仲が悪い。顔を合わすたびに口喧嘩が絶えず、近所でも有名であった。
ある時、毎夕撞かれる報恩寺の鐘の数のことで2人は言い争いになる。丁稚は8つと言い、織女は9つと言い張る。そこで確かめて、負けた方が何でも言う通りのことを聞くこととなった。丁稚は前もって報恩寺の寺男に数を尋ねて9つだと言われるや、その日だけ8つにして欲しいと頼み込んだ。そしてその日、報恩寺の夕べの鐘は8回で鳴り終わった。
翌朝、報恩寺の鐘楼に首をくくって死んでいる織女が発見された。そしてそれ以降、鐘を鳴らすとその織女の幽霊が鐘楼に現れ、不吉なことが起こるようになった。そこで織女の供養をし、鐘を撞くのをやめてしまったという(現在でも、大法要と除夜の鐘以外では撞かれることがないという)。
畠山持国 / 1398-1455。室町幕府管領。山城国などの守護。嫡子がなく、晩年は家督争いの火種を残してしまう。庶子の義就と甥の政長とのお家騒動は応仁の乱の原因となった。
宝鏡寺(ほうきょうじ) / 京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町
非常に格式の高い尼寺であり、開祖は後光厳天皇の皇女であった恵厳禅尼、そして歴代の門跡の多くは皇女であるという。それ故、宝鏡寺は別名“百々御所(どどごしょ)”とも言われる。そして今では“人形の寺”として、その名を知られるようになっている。
宝鏡寺が一般に公開されるのは、春と秋の2回。人形展として寺に納められた人形を展示する時だけである。
江戸初期、22代門跡の本覚院(後西天皇の皇女)が愛玩していた人形“万勢伊(ばんぜいい)様”は魂が宿り、夜な夜な寺内を夜回りしたと言われている。現在では魂が抜かれており、そのような行動を取ることはないとされているが、万勢伊様とお付きの2体の人形“おたけさん”と“おとらさん”はこの人形展で拝見できる。
矢田寺 地獄地蔵(やたでら じごくじぞう) / 京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町
京都の繁華街のど真ん中、寺町三条を少し上がったところに矢田寺という寺がある。いかにも繁華街にありそうな外見であるが、実はこの寺は非常に不思議な伝説を持つ寺である。
まだこの寺が奈良の地にあったときのこと。この寺の住職である満慶上人はある人物の訪問を受けた。その人物は、昼は朝廷の役人、夜は地獄の役人として有名な小野篁である。篁は、閻魔大王が菩薩戒を受けたいという依頼を受けて、懇意であった満慶上人を訪ねたのである。こうしてふたりは六道珍皇寺の井戸から地獄へ向かったのである。
地獄で閻魔大王に菩薩戒を与えた満慶上人は、ついでに篁と共に地獄巡りを行った。そして焦熱地獄の所まで来ると、そこに一人の僧がいるのに気がついた。
地獄にいる僧とは一体どのような者なのか。満慶上人はいぶかしんで僧に問うと、「私は世の多くの人が苦しむ身代わりとなっている」と答え、その本性である地蔵菩薩の姿となったという。地獄から戻った満慶上人は、この僧の姿を似せた像を造り、本尊として祀ったという。
本堂の奥、ガラス戸の隙間から見えるのが、本尊の地蔵菩薩である。地獄で出会った地蔵菩薩ということで「地獄地蔵」、あるいは人々の身代わりとなっていることで「代受苦地蔵」と呼ばれている。焦熱地獄で見かけた印象からか、この地蔵菩薩は火焔に包まれている(隙間にある赤く波打っているのが火焔の彫刻で ある)。昔は不動明王のように背中に背負っていたのだそうだが、いつの間にか本尊の前に置かれるようになった。火に強いお地蔵様ということかもしれないが、天明年間に起こった大火のときに、罹災した人々を救ったという伝説も残っている。
本堂の前に梵鐘がある。この鐘こそが、六道珍皇寺にある(迎え鐘)に対して(送り鐘)と呼ばれるものである。お盆のはじまりのときに精霊の迎えの合図として鳴らすのが珍皇寺の鐘であり、お盆の終わり(つまり8月16日)に冥土へ精霊を送るために突かれるのがこの(送り鐘)である。
満慶上人 / 大和郡山にある矢田寺(正式名:矢田山金剛山寺)の住持。京都五条に別院を建て、地蔵菩薩を祀る(これが今の矢田寺)。満慶は地獄からの帰りに、閻魔大王から小箱をもらう。その中には白米が詰まっており、使っても減らなかったという。この伝説から「満米(マンベイ)上人」とも言われるようになった。
小野篁 / 802-857。参議。野宰相の異名を持つ。政務にも明るく、また文才は天下無双と言われた。数々の伝説を持ち、特に地獄の冥官として閻魔大王に仕えた話は、生前から噂されていたものであるとされる。
地蔵菩 / 六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を輪廻して衆生を救済する菩薩。特に浄土信仰が強まり、地獄からの救済を求める人々によって信仰された。また最も弱い存在である子供の守護者として崇敬された(賽の河原地蔵和讃)。
橋姫神社(はしひめじんじゃ) / 京都府宇治市宇治蓮華
橋姫神社の祭神は“宇治の橋姫”である。だが橋姫の伝承を語ろうとする時、あまりにも違いすぎる性格故に困惑する。
最も有名な伝説と言えば、(丑の刻参り)の原型とされるもの、自らの意志によって鬼女と化して人々を恐怖に陥れたという伝承がある。ところが全く正反対の橋姫も存在し、夫を龍神に奪われるが、それでも夫を思い続ける“橋姫”の伝承も残っている。
橋姫神社は宇治橋西詰から歩いて1分程度の場所にある。御利益はと言えば、やはり最初に取り上げた伝説のインパクトがあまりにも強いせいか、やはり“縁切り”である(実際、婚礼の行列はこの神社や宇治橋を通るのを避けていたという慣習がある)。
ところが。この橋姫神社の発祥を考えると、また別の姿が顕わになる。
平成に建て替えられた宇治橋であるが、その途中に一部分出っ張った場所がある。この場所は(三の間)と呼ばれ、かつて豊臣秀吉がここから茶の湯の水を汲んだと言われている(今でも行事として行われている)。実はこの出っ張った部分こそが、橋姫神社が最初にあった場所なのである。つまり橋姫は宇治橋を守護する神なのである。時代背景を考えると、オリジナルの“橋姫”はこの宇治橋の守護神である可能性が高いだろう。
『平家物語』による橋姫 / ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして7日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川 に21日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は髪を松脂で固めて5つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその3本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。そして念願通り、人々を取り殺したという。さらに室町期に後日談が作られ、この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。このあたりの伝承や創作から謡曲『鉄輪』が作られ、丑の刻参りに繋がっていったと見るべきである。
『山城国風土記 逸文』による橋姫 / つわりがひどい橋姫は、夫に海草を採ってきて欲しいと頼む。そして夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて婿に迎えてしまう。そして3年経ってようやく夫の所在を尋ね当てる。夫は竜宮の火で作られたものを食べることを嫌い、老女の家に食事に来るという。そこで二人は再会するが、泣く泣く別れることになる。その後、夫は橋姫の元に戻ってきた。このときに夫が詠んだとされる歌が、詠み人知らずとして『古今和歌集』に収められている。「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」この悲劇のヒロインの流れを汲むのが『源氏物語』第四十五帖(橋姫)に登場する大君と中の君であると推察できるだろう。
宇治橋 / 大化2年(646年)に架けられた日本最古の橋。奈良元興寺の僧・道登が作ったとされる(宇治橋断碑では道昭によるとなっている)。その際に上流にあった瀬織津媛を祀り、それを橋姫神社としている。
道登・道昭 / 道登は、大化元年に僧旻らと共に十師(国家政策としての仏教推進の最高指導者)に任ぜられる。また大化から白雉への改元にも進言をおこなっている。道昭は、宇治橋架橋の後に唐に渡り、玄奘三蔵の直弟子となる。帰国後に玄奘の教えである法相宗を開く。弟子に行基など。(629-700)
末多武利神社(またふりじんじゃ) / 京都府宇治市宇治又振
小社ではあるが、それなりに整えられた神社である。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文を祀る。
忠文は藤原式家の出身で、長らく国司などの地方官を務めた後、高齢ながら参議となった。そしてその直後の天慶3年(940年)に起こった平将門の乱にあたって、征東大将軍として朝廷軍の最高指揮官に就任するのである。ところが、忠文らが関東に到着する前に、平将門が藤原秀郷・平貞盛によって討ち取られる事態となる。
徒労に終わった遠征から帰ると、さらに問題が起こる。乱鎮圧の恩賞を巡って、戦闘に参加しなかった忠文の処遇をどうするかで公卿の意見が割れたのである。中納言・藤原師輔は恩賞を与えるべきであると意見したのに対し、大納言・藤原実頼は戦っていないから恩賞を与えるべきではないと主張した。結果、実頼の意見が通り、忠文は恩賞に与ることが出来なかったのである。
これを恨みに思い続けて忠文は亡くなったのか、その後、実頼に不幸が訪れる。忠文が亡くなった直後、村上天皇の女御であった娘が、子をなさないまま死去。同年、さらに嫡子の敦敏が病死。これによって忠文は“悪霊民部卿”とも呼ばれることとなり、その慰霊のために建てられたのが末多武利神社である。同時代の菅原道真・平将門と比べると強大ではないが、れっきとした祟り神である。
藤原忠文 / 873-947。藤原式家の出身。天慶3年(940年)に参議。その直後に平将門の乱平定のために征東大将軍に任ぜられるが、到着前に乱が終わったため恩賞も受け取れなかった。翌年、藤原純友の乱平定のために征西大将軍に任じられ、純友を捕縛する。その後、民部卿となる。
藤原実頼 / 900-970。藤原忠平の嫡子。氏の長者として摂政・関白・太政大臣を歴任。しかし村上天皇の女御であった娘の述子が子をなさないまま死去、対して弟の師輔の娘・安子が村上天皇の子(後の冷泉・円融天皇)をなしたため、政治の実権は師輔の家系に奪われていった。この実頼系の凋落は藤原忠文の祟りによるものとされている。また実頼の嫡子である敦敏の死去も忠文の祟りとみなす場合もあるが、敦忠の実母が藤原忠平の娘であるため、菅原道真の祟りによる短命との見方もできる(道真は忠平の讒言によって大宰府左遷となった)。
頼政塚(よりまさづか) / 京都府亀岡市西つつじヶ丘町
鵺退治で有名な源三位頼政であるが、いわゆる“正史”の中でも彼の勇名は刻まれている。
1180年4月、有名な以仁王の平家打倒の令旨が出された。それに一番最初に応えたのが頼政である。だが翌月、奈良へ逃れようとする以仁王と共に、頼政は宇治で平家軍に追いつかれる。そして宇治川をはさんだ戦いが繰り広げられることになる。結局、多勢に無勢のまま頼政の軍勢は押し切られ、頼政は宇治平等院で自刃して果てることになる。
この頼政の遺体のその後については、諸説ある。首実検をおこなったという書物もあれば、家来が首を隠してしまったという話も残っている。そのような中で、頼政の首塚と伝えられる塚がある。しかも宇治からかなり離れた亀岡市内にである。
国道9号線を走っていると(頼政塚)という名の交差点に出くわす。ここを折れると小高い丘の上に頼政塚はある。伝承として、源頼政の家来がここまで首を運び埋めたと言われている。この地のすぐそばにある“矢田”という土地を、頼政は鵺退治をした時の褒美として拝領しているのである。多分頼政にとってこの地が自刃の場所から最も近い私有地だったのだろう。
そして無念の死を遂げた者の(首塚)と言われるだけに、この塚に無礼なことをすると祟りがあるという。実際訪れた日にも、設備の何かを破壊した者への警告文が貼られ“手足が麻痺し、やがて命に関わることになる。過去にも命を落とした者がある”と書かれてあった。真偽はともあれ、そのような内容の文が堂々と出されていることに、この塚への畏敬の念が並々ならぬことがうかがわれた。
以仁王 / 1151-1180。後白河天皇の第三皇子。平氏政権下において皇位継承争いに敗れ(弟である高倉天皇が譲位される)、親王宣下もおこなわれなかった。1180年に平家打倒の令旨を全国の源氏に送り反旗を翻すが、事前に露見。園城寺に逃げ込み、さらに奈良へ落ち延びる際に光明山鳥居で戦死。 
瀬織津比梼G文(七瀬と八瀬) 

森は、殖槻の森。石田の森。木枯の森。転寝の森。磐瀬の森。大荒木の森。たれその森。くるべきの森。立ち聞きの森。ようたての森といふが耳にとまるこそ、あやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、なにみ゛とにつけけむ。   「枕草子(第百九十三段)」
「枕草子」では、何度か泊瀬詣でをしている中、その時の印象を綴ったのが、この「第百九十三段」となる。泊瀬大化の改新以降、更に盛んになった寺院建設の中、山や森の木が伐採され、森であった場所が名ばかりになったのを嘆いた清少納言の記述であった。
伐採禁止令の最古の記録は「日本書紀」天武天皇5年「勅すらく、「南淵山・細川山を禁めて、並に蒭薪ること莫れ。叉畿内の山野の、元より禁むる所の限りに、妄に焼き折ること莫れ」とのたまふ。(676年五月)」とある。これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされている。天武天皇の伐採禁止令は、一部の地域であったが、その後も、伐採が広がった為に土砂崩れが頻繁に起き、この災害は木を伐採した為だと理解した朝廷は、山の樹木の伐採禁止令を発布した。
長谷寺縁起に見られる図には、まだ観音堂が建てられる以前の様子と、観音堂が建立されて後の図の両方がある。長谷寺の開山は伝説の域を出ないようだが、清少納言の生きていた時代には既に長谷寺は建っていた。この図には、山には神霊が溢れ、その泊瀬山の木を伐って十一面観音が彫られようとする様が描かれている。
長谷寺が山の頂に建立されると、山々に溢れていた神霊は影を潜め、長谷寺の周りには以前こんもりとした緑の山だったものが、ボコボコの岩山に変わっているように見える。これは開山に伴って、山の樹木を伐採した影響を描いているものだろう。樹木には神が宿るとされた古代、その樹木が伐採され、観音像などに変わった時から、神は仏に納められたのであろう。仏教が布教され始めてから、こう説かれた「この樹木には神が宿る。その神が宿った樹木から仏様を掘り上げるというのは、神と仏が一体である。」と。
ところで、兵庫県の井関三神社に、瀬織津比唐ェ祀られている。当初は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊祀られていたが、後から中垣内の庄屋八瀬氏により、弘治元年(1555年)山城国京都より勧請合祀。そま八瀬氏の足跡は、京都府愛宕郡八瀬村に辿り着く。京都より勧請された瀬織津比唐ヘ、どこから来たのだろうか?上記の地図を見ればわかるように八瀬村は比叡山に隣接する小さな村だ。「洛北誌(旧京都府府愛宕郡村志)」で八瀬村を見ると、神社は一つしか紹介されていない。それは天満宮社で、他にも境内社がいくつかあるだけだが、そこに瀬織津比唐フ名前を見付ける事が出来ない。
ところで八瀬は「やつせ」と読むが、別に「はつせ」とも読むらしい。この地名の成り立ちは八瀬川があり、八つの瀬から来ているか、それとも八は数多き意であるからか、それとも「八」は「いや」の義であるから云々とあるが、実はそれ以前は「七瀬」と呼ばれていたようである。
また気になるのは、徳川綱吉時代に日光からの願により「山門結界之儀」を定めたと云う。それは「女人牛馬令往来、浄界就及汚濁、依日光准后御願…一切不可入」とあり、これによって山に入って薪などを刈取り商売にしていた八瀬村の村民は仕事を失う事になった。これは境争いから端を発したようであるが、何故に日光准后が口を挟んで来たのかは理由が記されていない。ただこれによって、八瀬村から比叡山にかける山は、不浄を嫌う山となった。
琵琶湖を水源とする宇治川を中心に広がる「大七瀬祓所」は、琵琶湖畔の佐久奈谷から始まった。佐久奈谷は桜谷であり、天智天皇以前に桜明神と云われた瀬織津比唐ェ祀られていた。琵琶湖の大津に都を構えた天智天皇時代に、水による祓の力が推奨されたのか、天智天皇の命を受け中臣氏が「大祓祝詞」を完成させた。それから京都に広がる「大七瀬祓所」が制定された様であった。ここで考えるのは何故に七瀬であったかだ。
七瀬祓の成立は10世紀後半の様で、それほど古くは無い。「河海抄」では七瀬を「難波 曩太 河股(摂津) 大嶋 橘小嶋(山城) 佐久奈谷 辛崎(近江)」としている。その七瀬祓とは、陰陽師による人形に罪穢を移して七瀬の祓所で流す事をであったらしい。陰陽師の人形は、河童の説ともなった一つであった。
ところが「山城国風土記」には「宇治の滝津屋は祓戸なり。」とある。つまり10世紀後半に制定された七瀬祓所とは別に祓所はあったという事になる。その滝津屋は「万葉集3236」に詠われている。
「…山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の橋 滝津屋の 阿後尼の原を 千歳に闕くる事無く、万歳にあり通はむと 石田の社の 皇神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を」と。
また「万葉集3240」には、こうも詠われている。
「大君の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 早き瀬を 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡りの たぎつ瀬を 見つつ渡りて…。」と。
ここでの「ちはやふる」は「宇治」の枕詞となり、それだけの激しい流れであったようだ。その宇治の激流を「たぎつ瀬」と表現している事から、琵琶湖から流れる宇治川は、まるで滝のようであったという事だろう。それ故だろうか、宇治の橋姫神社に瀬織津比唐ェ祀られたのは。その「ちはやふる宇治川」が滝と見做され、その滝の水による穢祓が七瀬祓として定着したのたろう。そのちはやぶる宇治川は支流を経て広がっている。つまり京都全体に広がる水系が滝による祓所と見做された可能性はある。 

万葉集で「たぎつ瀬」と表現された宇治川は、瀬田川→宇治川→淀川と名前を変えて大阪湾へと流れ込んでいる。そしてこの琵琶湖を水源とする宇治川であり淀川の支流の数は、日本一という事だ。つまり、京都を含める近畿地方は、この水系が毛細血管のように張り巡らされている。
「古事記」を読むと、伊弉諾と伊弉弥は日本列島である島々を生んだ後に、その島々を水で巡らせるかの様に、海神を生み、いくつもの水神を生み出している。これはつまり、日本列島の島々の禊を意味しているのではないだろうか。禊の原型は海水に浸る事から始まったようだが、どちらにしろ水の霊力に頼っての禊祓である。つまり、人が住む為に、その地を浄化するという意味で、誕生した日本列島を水で取り囲んだと考えて良いかもしれない。
この宇治川水系を含む京都は、794年の桓武天皇時代に山背国、葛野・愛宕両郡の地に、唐の都長安に見倣い造られた平安京という帝都であった。その平安京は、夢枕獏「陰陽師」で「四神相応の都」として一躍有名になったが、田中貴子「安倍晴明の一千年」によれば、「四神相応」という熟語自体は12世紀になって造園法の「作庭記」によって記されているのが最初であるという事だ。田中貴子はその代り「伊勢物語」の注釈書である「和歌知顕集」を紹介している。
「この所聞きしよりは、見るはまさりたりければ、賀茂大明神を鎮守として、我が王法のすゑたへざらんかぎりは、末代にもこの宮こをほかへうつすべからず、と御心に祈請しつつ、土にて八尺の人かたを造りて、くろがねをもて鎧をし、ひをどして着せつつ、あしげなる馬の大なるに乗せて、王城を長く守護せよとて、東山阿弥陀が峰といふ所に、西に向かへて高く埋ませ給てけり。天下にわづらひあらんとては、かの塚、今も騒ぎはべるなり。」
つまり平安京は、賀茂大明神を土地の守りとしているという事。宇治川は確かに現在、京都府を流れるものの、平安京当時は属していない。ただ、桂川・賀茂川・宇治川が合流し淀川となっている為、その川の繋がりを意識した場合、一大水脈が京都全体を覆っているのがわかる。そう京都は、水の都と言っても良いのだろう。その平安京を守る賀茂は、八瀬のある愛宕(おたぎ)郡に属している。
「山城国風土記逸文」に、下記の話が伝えられている。
「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢川上より流れ下りき。乃ち取りて床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を堅て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七晩夜楽遊したまひて…。」とある。
この文には、七と八という数字が綴られている。七も八も聖なる数字であり、七は世界的にも聖なる数字となっており、日本国においては「神世七代で始まる国(日本書紀)」とされている。八は多いという意味を有し、つまり「山城国風土記逸文」には八を散りばめた神世の宴が繰り広げられている様を表している。
また七といえば、平安京は長安の都に倣って築かれた帝都であるが、中野美代子「仙界とポルノグラフィー」によれば、その長安には北斗七星の呪術が施されていると云う。陰陽五行においての北斗は北であり、水を意味する。京都では死者を葬る時、七曜星形に並べた七個の丸い餅を七段、合計49個積んで供える風習が未だに残っているのは、京都には北斗七星を含んだ妙見信仰が根付いているという事ではなかろうか。北斗は死を司ると云われ、それに関連する七と云う数字は不吉な数字にもなる。仏事における七という数字は、初七日に始まり7×7=49として、四十九日の法要があり、7回忌、17回忌、27回忌など、7と云う数字を絡め、非常に死の匂いを感じる。
福永光司「道教と古代日本」での一節に「宇宙の最高神・天皇大帝である唯一絶対性の故に同一視され、この天皇大帝の住む天上世界の宮殿が紫宮もしくは紫微宮(紫宸殿)と呼ばれるに至る。」とある。上記の画像「妙見曼陀羅」を見ると中心に紫微宮がおかれ、それが下界と接するのが瀧であり水であり、水の女神のようである。それは延暦15年(796年)に桓武天皇が大衆が北辰を祀る事を禁じた勅令を見ても、いかに桓武天皇が妙見を信仰していたかわかるのである。
平安京は葛野郡と愛宕郡の地に築かれた帝都であるが、先に紹介した八瀬は愛宕郡にある。愛宕郡の八瀬は比叡山の麓と成る。その比叡山は「歓心寺縁起実録帳」によれば"北斗七星降臨の霊山"とて伝わり、恐らく桓武天皇はその比叡山を意識して、都を築いたのだろう。
九州における妙見とは、水神である。妙見曼陀羅を見てもわかる通り、妙見と水とは切っても切れない縁となっている。七は死の匂いがするとは書いたが、平安京を築いた桓武天皇は「近江大津の宮において制定された永遠不変の律令に従って万機を総攪する。」と宣言している。近江大津宮とは、父である天智天皇の築いた、未だ謎の都である。律令に従うとしているのは、その父である天智天皇の法体系を継承するという意味であり、恐らく桓武天皇は律令だけでなく、天智天皇の信仰の意識をも受け継いだのであると考える。何故なら、天智天皇時代に作られたのは「大祓祝詞」であり、その祝詞には天津罪、国津罪という、あらゆる罪に対する事が記されている。それを水の力によって流す、つまり罪や穢れを浄化しようという考えをも継承したのだと考える。
比叡山の麓の八瀬は、かって七瀬と呼ばれていた。七瀬が、いつの間にか数多い瀬を意味して八瀬となったとする説もあるが、その変遷の過程は曖昧であると思う。ただ七も八も、先に記した様に聖なる数字となる。七は妙見などの星に繋がり、八は多くの神々に繋がる。考えようによっては、七を以て八を支配するとも考えられる。その八瀬には天満宮が祀られているが、その創建は「洛北誌」によれば、道真公が幼少の頃であると云う。つまり菅原道真が怨霊になる以前であると云う。考えてみれば、今でこそ天満宮とは菅原道真の代名詞となるのだが、要は天満宮とは天神を祀るものである。後に菅原道真が天神として祀られたに過ぎないのだ。
それでは次は「瀬織津比梼G文(七瀬と八瀬)其の一」で紹介した長谷寺に戻って、泊瀬=八瀬の意味と天神などについて言及し終としよう。 

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
玉敷きの都の内に、棟を並べ、いらかを争へる、高き、卑しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは、こぞ焼けて、ことし造れり。あるいは、大家滅びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり、残るといへども、朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。   「方丈記 序文」

長谷観音へ行こうと思ったが、少々寄り道を。上記は有名な「方丈記 序文」で、これは水の流れを人の動きに捉えての文章というのは広く知られている事。先に京都は水の都であり、水の霊力に頼ったのではないかと書いたが、人の流れは水の流れでもあると考えれば、京都には別の呪力が施されている可能性があるのかもしれない。
実は、平安時代後期の「大鏡」には、こういう一節がある。
「小一条の南、勘解由の小路には石だゝみをぞせられたりしが、まだ侍ぞかし。宗像の明神おはしませば、洞院小代の辻子よりおりさせ給しに、あめなどのふるひのれうとぞうけたまはりし。凡そその一町は人まかりありかざりき。」
洞院は東洞院の略で、南北に通じる路らしい。小代は、小代小路で、ともかく平安京に巡っている小路や辻に宗像明神がいるという事となっている。洞院小代の辻子は、東洞院大路と小代小路とを結ぶ東西の通路で「延喜式」の規定にない小路であり、宗像の神を祀る為に開かれたとされている。その宗像明神は「三大実録」によれば、貞観元年(859年)に筑前国から勧請されたようだ。平安京が造られてから、65年後の事となる。平安京の路は碁盤目の様になっており、これもまた京都全体に広がる川のようである。その川の様な平安京の内部に、水神である宗像神が祀られている。
この宗像神は「平安通志」によれば「皇居御内ニアリ、田心姫、湍津姫、市杵嶋姫命を祀ル、此地古昔小一條ト云フ、初藤原冬嗣宗像ノ教ニヨツテ此ニ居リ、社ヲ建テ祀ル、小一條宗像是ナリ」
この神社は筑紫より勧請され現在、京都御苑内の南西の林中にあると云うが「花山院家記」には、こう記されている。
「此所往古之霊地遷都以前之旧第也聖徳太子摂政之時衆星飛降現千霊石上其後有宗像大神之告閑院左大臣冬嗣公居干此」
つまり、この宗像大神を祀る地は、遷都以前から星が降って神霊が宿っている地であるという。元々神霊が宿る地に、後から宗像神を勧請したという事。遷都以前に星が降ったと云う地は、他に比叡山がある。恐らく時代的に、降った星とは北斗であり、北辰、つまり妙見神であったろう。そこに水神としての宗像神を勧請したのだが、それはつまり、星が降った地の神霊と水神である宗像の神との繋がりがあったからに違いないだろう。
また同じ時期に、桂川沿いに櫟谷宗像神社が勧請されているが、この櫟谷宗像神社には田心姫と市杵嶋姫命の二柱の神だけの勧請で、もう一柱の神は、渡月橋側にある大井神社で、この大井神社の神を含めて宗像三女神となると、櫟谷宗像神社の社伝にあるのだが、大井神社に祀られている神は、湍津姫では無くて八十禍津日神の分割神であり、つまりその正体は瀬織津比唐ナあった事。この水神である瀬織津比唐ヘ遠野においては妙見神と結び付けられる事から、恐らく京都御苑の星が降臨した地に鎮座していた元々の神とは、瀬織津比唐ナは無かったろうか?
そうであるならば、天智天皇時代に琵琶湖の佐久奈谷に鎮座していた桜明神と呼ばれた瀬織津比唐ェ、その水の穢祓の能力から天智天皇時代に佐久奈度神社を創建し、「大祓祝詞」が造られ、橋姫神社に分霊され、そして水の穢祓の力によって、京都から宇治川経由で合流した淀川を伝い、摂津にまで七瀬の祓所が制定された。そして今度は、遷都された平安京に、水の流れを人の流れに見立てて、その穢祓の霊力を施そうとしたのではなかろうか? 

大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に、遠野を統治した阿曽沼が通ったという長谷寺がある。本尊は十一面観音で、開基は僧の道明とされる日本でも有数の観音霊場として広く知れ渡っている。何故に長谷寺と呼ぶかについては、現在初瀬山と呼ばれたものは、かつて泊瀬と表記されていたが、その泊瀬山からの谷は長い谷だったので「長谷(ながたに)の泊瀬」と呼ばれていたものが、長谷という枕詞の方が主となり、長谷を「はつせ→はせ」と読むようになったという。
ところで泊瀬はというと、地名からは「初めの瀬」だから初瀬(泊瀬)という簡単な意味もあるが、泊瀬山を蛇に見立て「蛇つ背(はつせ=蛇の背)」であるとか、初瀬川を蛇に見立て「蛇つ瀬」ともされている。しかし、泊瀬の枕詞である「隠國の」は、この地が神祀りの地=葬送の地であった事を意味するとも云われる。かつて竃が非業の死を遂げた者を祀るとされ、宮城県の塩竈神社に祀られる神が誰か?と書き、九頭竜を祀る戸隠神社もまた、天照大神の隠れた天岩戸の岩戸を天手力男神の手によって、九頭龍は隠されてしまった。その様に、この「隠國の泊瀬」もまた、同じ様な雰囲気を漂わせている。
その泊瀬の地は、雄略天皇時代に長谷朝倉宮が置かれたとされ、天武天皇の代には長谷斎宮が置かれたとされるが、その天武天皇の病気平癒を願って長谷寺が建立されたともされている。それほど重要な地が泊瀬であったようである。その長谷寺に奥の院と称する瀧蔵神社というものがある。古来より信仰が深い神社で「長谷寺へ参詣しても当社(瀧蔵神社)へ参詣しなければ御利益は半減する。」と云われている。
その瀧蔵神社の祭神は伊弉諾、伊弉弥、速玉尊の三柱が祀られているが、その祀られた時期は不明とされている。ただ元々は瀧蔵神という地主神が主神であったようだ。この瀧蔵神社は「今昔物語」の「瀧蔵礼堂倒数人死語第四十二」に登場している。瀧蔵の礼堂が地震で崩落し多くの死者が出たが、神と観音の加護を得て助かったとあるが、この時点で長谷寺の十一面観音だけでなく、瀧蔵神の力の権威も伝わっていたという事だろう。
鎌倉時代の編纂された「長谷寺験記」によれば、菅原道真が泊瀬の地に現れ、地主神であった瀧蔵神から社地を譲られ鎮座し与喜天満宮となったそうだ。
「我昔ヨリ此山ノ地主トシテ此河上ニ住キ。…我静ニ本居山ニ隠遁シテ遠ク此伽藍ヲ守リ、大聖値遇シ奉ント思。願ハ此山ヲ以てテ君天満天神に譲奉ル。」
今では天神様といえば菅原道真となるのだが、真壁俊信「天神信仰の基礎的研究」を読むと、その道真が非業の死を遂げたのが延喜三年(903年)であり、そのすぐ後に「菅家伝」が編纂され「あらひと神」として、全国の天神社に菅原道真が広まって行ったようだ。その影には比叡山延暦寺、つまり天台宗の後押しがあったようである。人が神として祀られる場合の大抵は、怨みを抱いて死んだかどうかであり、菅原道真は落雷と云う偶然が重なり、その生々しい怨みの現象が「あらひと神」として、今までの天神を追い払い、新たな天神として鎮座したのであった。これはつまり、今まで天神として祀られていた神々が、仏教である天台宗によって祭神の変更が成されていったという事だろう。それが現代となっても、菅原道真の座は揺るぎそうにない。
更に「長谷寺験記」には瀧蔵権現の化身は女となっている。白介という男が観音の使いである童子の教えに従い、最初に出逢った女性を妻とし長谷寺を建立したのだが、その9年後に本尊である十一面観音の左手が忽然と消えた夜半に「是長谷山ノ地主瀧蔵権現也。」と正体を明かす。
これとは別に「長谷寺密奏記」には、泊瀬の五神が鎮座しているとされている。その神々は、天照大神、天児屋、太玉、手力雄、豊秋津姫となっているが、その中の天手力雄神は、長谷寺への参道から北側の狭い路地を入ると、初瀬川にかかる朱塗りの橋があり、その橋を渡ると天手力雄神が祀られる長谷山口坐神社があるという。その長谷山口坐神社は山口の水の神とし、また祈雨の神として朝廷から深い崇敬を受けた神社で、それが瀧蔵神が菅原道真に場所を明け渡した与喜天満宮でもある(玄松子の記憶より)。その天手力雄神の鎮座した理由は、天照大神の勅命を受けてのものだった。それは「長谷寺験記 序文」に記されている。
天照太神宝石ノ瑞光ヲ御覧ジテ天手力雄ノ神ニ勅シテノタマハク。「此ノ山ハ我ガ本有相応ノ地…我山ヲ崇メムト共ニ此山を治シテ君臣ヲ守リ国土ヲ治セヨ」ト云。則天手力雄ノ命、深ク神勅受テ永ク此山ニ住シ、鎮護国家ノ崇神トシテ天照大神ノ冥慮ヲ本願上人ニ告ゲ、伽藍ヲ立ツ。
ここでの天手力雄神は、まるで戸隠神社のそれと似通っている。天手力雄神を祀る神社は、全国にそう多くは無い。その天手力雄神の役割とは、戸隠神社と同じように国津龍である九頭龍を、天手力雄神の持つ力で封印しているかのようである。となれば、遠野の領主であった阿曽沼は、「九頭竜信仰と遠野と早池峰の神」書いたように長谷観音を参詣した後に戸隠神社に参詣しているという事は、天神でもあり、瀧蔵神としての地主神は戸隠神社と関連があるのかと思われる。長谷寺には、瀧蔵権現を本社として本堂脇に地蔵・虚空菩薩・薬師が祀られており、それを新宮三社というが、江戸時代の僧である隆慶「豊山伝通記」には、こう記されている。
「此神三社アリ。第一殿新宮権現。第二殿瀧蔵権現。第三殿石蔵権現。曰総名瀧蔵権現。日本記等無載此神。」
この「日本記等無載此神」という意味は「記紀」に載っていない神名であるという事だ。ここで「古事記」「日本書紀」などを引き合いに出し、瀧蔵権現の本当の神名を意図している。現在、瀧蔵神社に祀られる祭神は、先に紹介したように伊弉諾、伊弉弥、速玉尊の三柱となっており、過去の縁起から登場する神名を拾ってみても「記紀」に全て載っている神名しか登場していない。瀧蔵神は女神であるが、長谷観音である十一面観音と表裏一体であり、名の示す通り滝神でもあり、山口の水の神とし、また祈雨の神である瀧蔵神の本当の名は?…導き出される神名は瀬織津比唐ナしかないだろう。
遠野を統治した阿曽沼氏の参詣は、長谷観音→戸隠神社→熊野本宮であった。既に熊野の那智の滝に坐すのは、養老年間の記録から熊野から運ばれてきた熊野神であり那智の瀧神であった瀬織津比唐ナあった事はわかっている。つまり、阿曽沼氏は遠野を統治するにあたって、その遠野の地主神である瀬織津比唐崇める為、いや鎮める為の手段を学ぶものであったのだろう。
ところで諸説様々な「泊瀬・長谷・初瀬・八瀬」だが、全て「はつせ」と読む。「長谷寺縁起文」には、その「はつせ」の意味が記されてあった。
「天人所造之毘沙門天王。古人喚為 天霊神。雷取登 空之時、御手宝塔流而泊 此山麓三神里神河瀬。」
つまり、天人所蔵の毘沙門天像を雷神が奪って空に昇る時、手から落ちた宝塔が流れ留まった故から「泊瀬」といい、その場所は「神河瀬」であるという。
中野美代子「仙界とポルノグラフィー」で、9世紀唐末の「西陽雑爼」には「龍の頭上には博山の形をしたものが一つあり、尺木と名付ける。龍は、尺木が無ければ天に昇る事が出来ない。」と記されている。それはつまり、龍が天に昇る時は依代が必要であるという事らしい。それは神の宿った樹木であるのだが、「長谷寺縁起文」に登場し依代となったのは神の憑依した樹木で造られた毘沙門天像である。陰陽の和合を示せば、毘沙門天の妻であるとされたのは、蛇神とも結びつけられるラクシュミー(蓮女)である吉祥天女であろう。恐らく雷神となった吉祥天女が夫である毘沙門天を抱いて天に昇ったと云う意味を持っているものと考える。
遠野に伝わる三女神伝説には蓮華が登場し、それを手にした女神は早池峯の女神である水神でもある瀬織津比唐ニなる。その瀬織津比唐ヘ、養老年間に国家鎮護の為に、熊野から運ばれてきた。そしてまた、国家鎮護の為に坂上田村麻呂によって運ばれて来たのが毘沙門天であった。この瀬織津比唐ニ毘沙門天の力によってか、蝦夷国は平定されたのだった。そして泊瀬の地での龍が天に昇る為の依代となる樹木とは、神が宿った樹木から彫られた長谷観音像であろう。それ故に「今昔物語」で、長谷観音と瀧蔵神が表裏一体の様に語られたのだろう。
つまり「はつせ」とは「神の鎮座する河瀬の意味」であり、愛宕郡の北斗七星が降った霊山である比叡山の麓の八瀬は本来「はつせ」であったのは、その地が「神の河瀬」であったからだろう。八瀬に祀られる天満宮に祀られる祭神は、菅原道真以前は、純粋な雷神であり水神である瀬織津比唐ナは無かったろうか?兵庫県の井関三神社に祀られる瀬織津比唐ヘ八瀬村出身の八瀬氏が、菅原道真が祀られる以前の天満宮から瀬織津比唐分霊したものでは無かったのかと思えるのだ。 
  
 
奈良県 / 大和

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山隠れるやまとし美はし 倭建命
猿沢の池 / 奈良 興福寺
平城天皇は、平安遷都をした桓武天皇の皇子で、退位後は古都の奈良に移られた。
○ ふるさととなりにし奈良の都にも 色は変らず花は咲きけり 平城帝
むかし平城の帝に仕へた采女うねめが、帝の寵愛の乏しいことを嘆いて、奈良の猿沢の池に身を投げたといふ。これを聞いた帝は、池の畔を訪れて采女を偲び、采女の慰みに、同行の人々に歌を詠ませた。そのとき人麻呂が詠んだといふ歌。
○ 吾妹子わぎもこのねくれた髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞかなしき 柿本人麻呂
それに応へて帝が詠まれた歌。
○ 猿沢の池藻つらしな吾妹子が 玉藻かづかば水ぞ干ひなまし 平城帝
帝はここに采女の墓を作らせたといふ。(大和物語)
平安時代に柿本人麻呂が登場する話になってゐるが、万葉集二十巻が平城帝の御代に最終的に完成されたことを暗示するものとの解釈もある。
春日神社 / 奈良市
春日山には古くから鹿島の神がまつられてゐたが、奈良時代に、鹿島の武甕槌たけみかづち命を主に四柱の神をまつった春日神社が造営され、藤原氏の氏神とされた。摂社の浮雲社が古くからの鹿島の社の場所ともいふ。
○ 鹿島より鹿かせぎに乗りて春日なる 三笠の山にうきくもの宮 春雨抄
○ この冬も老いかかまりて奈良の京 薪の能を思ひつつ居む 釈迢空
柳生の里 / 奈良市
奈良市の北東に柳生の里がある。父から柳生新陰流の剣術を受け継いだ柳生宗矩は、幕府の兵法師範として徳川家光から一万石を賜ったといふ。
○ 山住みのうきに心を慰むは とお(ママ)ぢの寺の入あひの鐘 柳生宗矩
○ 住める代を久しかれとてたとへ置き 松と鶴との歳や重ねん 柳生十兵衛三巌
三輪の糸 / 桜井市三輪 大神神社
むかし三輪の里に住んでゐた活玉依姫いくたまよりひめのもとへ、毎晩訪ねてくる身分の高さうな若者があった。姫はやがて懐妊したが、男の素性がわからないので、父母が智恵を授けて、一本の麻糸を男の袴に縫ひ付けておいた。明くる朝に糸を見ると、糸は鍵穴から外へ出て、道に向かって延びてゐた。更に糸をたどって行くと、三輪の神の杜の中へ続いてゐた。それで、三輪の神の子を懐妊したことを、一家は喜んだといふ。(大和物語)
○ わが庵は三輪の山もと恋しくは 訪とぶらひ来ませ杉立てる門 古今集
○ うま酒三輪の殿の朝戸にも 出でて行かな三輪の殿戸を 古語拾遺

紀伊国屋文左衛門が破産後に三輪で詠んだといふ狂句。
○ そうめんのふしや孟母の玉襷紀 伊国屋文左衛門
海石榴市 / 桜井市
海石榴市つばいちは、わが国最古ともいはれる市で、三輪山の南麓の初瀬川べり(桜井市金屋)にあったといはれる。つばいちとは椿市の意味で、山の民が持参した山づと(土産)の椿の木を市に植ゑ立て、山姥がまづ鎮魂の歌舞をして、里の民と交流したものが起源といはれる。木の種類は市によって異なるが、市には必ず何かの木が植ゑられたらしい。ここで物の交換が行なはれ、やがて市として発展していった。市は、歌垣の場でもあり、片歌の交換などから、文学的な短歌の形式が形成されていったともいふ。
○ 海石榴市の八十のちまたに立ちならし 結びし紐を解かまく惜しも 万葉集
○ 紫は灰さすものぞ海石榴市の 八十のちまたに逢へる子や誰 万葉集
(「灰さす」とは紫の染色法をいふ)
影姫 / (海石榴市)
むかし武烈天皇が皇太子だったころ、物部麁鹿火あらか ひの娘の影姫と、海石榴市の歌垣で逢ふ約束をした。歌垣の庭で、太子は影姫の袖をとり、足踏みをして歌った。
○ 琴頭ことがみに来寄る影姫玉ならば 吾が欲ほる玉のあはび白玉 武烈天皇
そこへ平群鮪へぐりのしびといふ男が現はれた。太子は、鮪と歌のやりとりをしてゐるうちに、鮪が影姫と既にただならぬ関係にあることを悟った。太子は、鮪とその父が普段から無礼な態度だったことを思ひ出し、怒りを爆発させ、大伴の兵に命じて鮪を奈良山まで追ひかけて討ち取らせた。あとを追ひかけて鮪のなきがらを見た影姫は、悲しみ泣き狂ったといふ。
○ 石上いそのかみ布留ふるを過ぎて 薦枕こもまくら高橋過ぎ 
 物多ものさはに大宅おおやけ過ぎ 春日はるひ 春日かすがを過ぎ、
 妻隠つまごもる小佐保をさほを過ぎ 玉笥たまげには飯いひさへ盛り
 玉もひに水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影姫あはれ (日本書紀)

さて、海石榴市は、推古天皇の御代には、隋の使節をここへ迎へ、歓迎の宴とともに経済交渉も行なはれたといふ。延長四年(926)の初瀬川の大洪水以後は、市の中心は三輪に移された。三輪市には、市の守護神として恵比須神社(桜井市三輪)がまつられてゐる。
小泊瀬山 / 桜井市
むかしある娘が、父母に知らせずに恋しい男と契った。男は娘を得はしたものの、娘の親のことを考へると、どうももの怖ぢしてしまひ、通ふことをためらってゐたので、女は歌を男に贈り届けたといふ。(万葉集)
○ 事しあらば小泊瀬山の石城にも 隠こもらば共にな思ひわが夫せ 万葉集

初瀬川の上流の宇陀郡は、大和から東国への街道筋にあたる
○ 阿騎の野に宿る旅人打ち靡き 寝も寝らめやも古へ思ふに 柿本人麿
耳無池 / 橿原市
むかし、縵児かつらこといふ美しい娘に、三人の男が求婚した。縵児は「三人の心は石のやうに変ることのない貴いものだといふのに、女の身は露のやうにはかないものです」といって、耳無の池に身を投げた。それを知った三人の男は、声を上げて泣きながら、歌を詠んだ。(万葉集)
○ 耳無の池し恨めし吾妹児わぎもこが 来つつ潜かづかば水は涸れなむ 万葉集
○ あしひきの山縵の児今日行くと 吾に告げせば帰り来ましを
○ あしひきの山縵の児今日のごと いづれの隈を見つつ来にけむ
天の香具山
○ 大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は
 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 万葉集 舒明天皇
哭沢の杜 / 橿原市木之本町
泣沢女なきさはめの神は伊邪那岐いざなき命の涙から生まれたといふ神で、死者の霊の復活や、病気をなほす神とされる。都多本神社(橿原市木之本町)などにまつられる。高市皇子の病気平癒を祈る桧隈女王の歌。
○ 哭沢の杜にみわ据ゑ祈れども 我がおほきみは高日知らしぬ 桧隈女王
飛鳥坐神社 / 高市郡明日香村
高市郡明日香村の飛鳥坐あすかにます神社は、事代主ことしろぬし神ほかをまつる。
○ 飛鳥井に宿りはすべしをけ蔭もよし 御水もよし御秣もよし催馬楽
釈迢空(折口信夫)の母方の祖父は、飛鳥坐神社の神官だった。
○ ほすすきに夕雲ひくき明日香のや わがふるさとは灯をともしけり 釈迢空
久米の仙人 / 橿原市
むかし吉野に久米といふ男が仙術の修行をしてゐた。久米が飛行の術を会得して空を飛んでゐると、吉野川の岸で洗濯をしてゐる女が見えた。女の裾がめくれてふくらはぎが見え、これを見た久米は神通力を失って墜落してしまった。
○ 久米と黒主洗濯で名を汚し 江戸川柳
久米はこの女と夫婦となり平凡に暮らしてゐたが、新都造営の夫役に出たとき、仙術を利用して吉野の材木を素早く運んだことから、褒賞を賜り、それをもとに久米寺(橿原市)を開いたといふ。
葛城 / 御所市
神武天皇即位の地のカシハラは、御所ごせ市柏原かしはらの地だらうと、鳥越憲三郎はいひ、「葛城王朝説」を証明した(鳥越『神々と天皇の間』朝日新聞社)。地名辞書その他によると、所在地としては古くからとなへられてゐたやうで、また橿原は柏原とも表記され、南朝の後村上天皇の御製にもある。
○ 高みくらとばり掲げて柏原かしはらの 宮の昔もしるき春かな 後村上天皇
大和三山を見下ろす葛城台地の奥に鎮まる高天彦たかまひこ神社(御所市)の由緒にも、「葛城王朝」の語が見え、「本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊たかみむすひ尊を奉斎する名社であります」と書かれる。高天彦神社の「背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて高天原と呼び、その名称が神話として伝」はったとも書かれる。
○ 葛城の高間たかまの草野かやのはやしりて 標しめささましを今ぞくやしき 万葉集
葛城一言主大神 / 御所市
むかし雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、天皇と同じ姿をして歩いてゐた人があった。天皇が不審に思って名を問ひただすと、その人は「吾は悪事も一言、善事も一言に言ひはなつ神、葛城の一言主ひとことぬしの大神ぞ。」といった。これを聞いた天皇は、
○ 恐かしこしや我が大神現うつし臣 かくあらむとはさとらざりきを
と言って、弓矢などを献上すると、一言主大神は、手を打ってそれを受けとり、ともに狩りを楽しんだといふ。(古事記)
○ み狩する君かへるとて久米川に 一言主ぞ出でませりけり 夫木抄
この神は御所市の葛城一言主神社にまつられる。里人には「いちごんさん」と呼ばれ、一言ひとことだけ願ひを叶へてくれるといふ信仰になってゐる。二代綏靖天皇の葛城高岡宮址が近くにある。
葛木坐火雷かつらぎにますほのいかづち神社(笛吹神社)の歌。
○ 笛吹の社の神は音に聞く 遊びの岡やゆきかへるらん 藻塩草
中将姫 / 北葛城郡当麻町 当麻寺
むかし右大臣藤原豊成に、中将姫といふ娘があった。姫が九歳のころ、継母の照夜の前は家来の山下藤内に姫を殺害するやうに命じた。藤内の子の小次郎は、偶然この話を知ってしまひ、悩んではみたがやはり姫を護らうとして、屋敷に忍び込まうとする父に斬りかかった。しかし逆に父に殺されてしまった。
○ しねばとて心残りはなかりけり 忠と孝とに覚悟しぬれば 山下小次郎
姫は、十六歳で当麻寺の尼僧となった。お告げにより蓮茎を集めて糸を抜き、染井の井戸にひたして桜の木にかけると糸は五色に染まった。この糸を使って日夜機を織り続け、気がつくと一丈五尺四方の大曼陀羅が織りあがってゐたといふ。

当麻寺の裏の二上山を詠んだ歌。
○ うつそみの人にある吾や今日からは 二上山をいろ弟せとわが見む 大伯皇女
立田越え
むかし葛城に住む男女があったが、生活が貧しくなり、男はこの女を捨てて、河内国高安の女のもとに通ふやうになった。女はそれを知ってか知らずか、毎晩、男の夜の山越えを気遣ふ歌を歌ってゐた。
○ 風吹けば沖つ白波たつた山 夜半にや君が一人越ゆらむ 古今集
陰でこれを聞いた男は、河内へ通ふのをやめて元の女に戻ったといふ。(大和物語)
女は毎晩髪を洗って、気持を冷やしてゐたともいふ。
○ 春柳葛城山に立つ雲の 立ちてもゐても妹いもをしそ思ふ 万葉集
竜田の神、広瀬の神 / 生駒郡三郷町、北葛城郡河合町
天武天皇のころ、美濃王の佐伯広足をつかはして、竜田の社に風神かぜのかみをまつらせ、また間人はしひと大蓋をつかはして川の合流する広瀬に大忌神おほいみのかみをまつらせたといふ。竜田風神祭と広瀬大忌祭は風と水の神をまつることによって農耕の豊饒を祈るものといふ。
○ から錦あらふと見ゆる竜田川 大和の国の幣ぬさにぞありける 兼輔集
○ みそぎして神の恵みも広瀬川 幾千代までかすまむとすらむ 千五百番歌合
片岡山 / 生駒郡王寺町
推古天皇二一年十二月、聖徳太子が片岡山を巡遊されたとき、道端に乞食こつじきのやうな、しかしどことなく気品をただよはせる男が臥してゐた。そこで太子は歌を詠まれた。
○ しなてるや片岡山に飯に飢ゑて ふせる旅人あはれ親なし 聖徳太子
男は返し歌を詠んだ。
○ いかるがや富の小川の絶えばこそ わが大君の御名を忘れめ 
太子は自分の衣装を脱いで与へ、食物も与へて帰ったが、男は翌日に死んだ。太子は、人を使はして男を手厚く葬らせた。ところが、葬儀のとき棺の中に男の遺体は無く、太子の衣装があるのみだったといふ。里人は、死んだ男は達磨大師の化身だとして、棺だけを葬り、達磨塚を築いて寺を建てた。寺には太子が自ら刻んだ達磨大師の像を安置したといふ。

法隆寺の夢殿を詣でたときの歌。
○ 王おほきみの御名をば聞けどまだも見ぬ 夢殿までにいかで来つらん 道長 扶桑略記
つみのえ / 吉野
むかし吉野の味稲あぢしねといふ漁夫が、谷川で梁を打ってゐると、川上から柘つみの枝が流れてきた。枝は仙女と化し、男は仙女と結婚したといふ。(万葉集)
○ 霰ふり吉志美きしみが岳を険さかしみと 草取りかねて妹いもが手を取る 万葉集
○ この夕べ桑つみのさ枝の流れ来ば 梁は打たずて取らずかもあらむ 万葉集
吉野水分神社 / 吉野町吉野山
吉野水分みくまり神社は、大和盆地の水源をつかさどる神・天之水分あめのみくまり大神をまつる。俗に「子守明神」の名で幼児の守護神とされるのは、社記によれば数柱の祭神が親子の神だからといふ。本居宣長の父母は、三度当神社に詣で、子の宣長を授かったといひ、宣長自身も京と松坂の往復の折りによく参詣した。
○ 吉野山花は見ぬとも水分みくまりの 神のみ前ををろがむがよさ 本居宣長
○ 水分の神のちかひのなかりせば これのあが身は生れこめやも 本居宣長
浄見原神社 / 吉野町南国栖
壬申の乱のときに天武天皇が住んだ地に、天皇をまつる浄見原きよみはら神社が建てられた。
○ 乙女子が乙女さびすも唐玉を 乙女さびすもその唐玉を 天武天皇
持統天皇(天武天皇の皇后)の行幸のときに柿本人麻呂が歌を詠んだ。
○ 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆる事無くまたかへり見む 柿本人麿
吉野には神武天皇以前に国栖くずと呼ばれた土着民があり、朝廷の行事に鮎や栗などの山の幸を献上し「国栖の奏」といふ歌笛を奏した。国栖奏は現在も浄見原神社に伝はる。
○ かしのふに横巣よくすを作り 横巣にかめる大神酒おほみき 甘うまらに聞こしもち食せ
 まろがち国 栖奏の歌(応神紀)
吉水神社 / 吉野町吉野山
文治元年(1185)源義経は、京を追はれて一時吉野に潜んだ。今の吉水よしみづ神社の地である。やがて義経は奥州へ旅立ち、静御前とはここで別れたといふ。静御前が鎌倉に連行されて鶴岡八幡宮で舞ったときの歌。
○ 吉野山峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき 静御前
吉水神社は古くは吉水院といふ名の修験の寺だったが、南北朝時代に後醍醐天皇がここに行宮を置いたことから、明治初期に後醍醐天皇をまつる神社となった。
○ 花にねてよしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音 後醍醐天皇
文禄三年には豊臣秀吉が、ここで盛大な花見の宴を催したこともある。
○ 年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな 豊臣秀吉
吉野の神
十津川村玉置川の玉置神社(玉置山)の弓神楽は、本木といふ木で作った白い弓矢を持ち、巫女の衣装をつけた男子の神子が奏する珍しい舞楽で、白河院の御前でも奉納されたといふ。
○ 熊野なる玉置の宮の弓かぐら つる音すれば悪魔しりぞく 弓神楽の歌
東吉野村の丹生川上神社は、水の神の罔象女みつはのめ神をまつり、天武天皇の御代の創建といふ。祈雨のときは黒毛馬を、雨を止めるには白馬を奉納するといふ。
○ この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空 後醍醐天皇
黒滝村粟飯谷の粟飯谷妙見神社(稲荷神社)は、子安神、宇迦之御魂神ほかをまつり、安産の神ともされる。幕末の国学者の歌。
○ うみの子をうら安かれと守るこそ 神のみたまのしるしなりけれ 鈴木重胤 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

大和
三笠山 / 奈良市の東部の山。若草山の別名。
○ 三笠山春はこゑにて知られけり氷をたたく鶯のたき
○ 光さす三笠の山の朝日こそげに萬代のためしなりけれ
○ 三笠山月さしのぼるかげさえて鹿なきそむる春日野のはら
○ 春日にまゐりたりけるに、常よりも月あかくあはれなりければ
○ ふりさけし人の心ぞ知られける今宵三笠の山をながめて
○ 奈良の法雲院のこうよ法眼の許にて、立春をよみける
○ 三笠山春をおとにて知らせけりこほりをたたくうぐひすの瀧
立田川・立田山・立田姫 / 奈良県西部、生駒山東側にある地名。紅葉の名所。
○ 立田川きしのまがきを見渡せばゐせぎの波にまがふ卯花
○ 立田山月すむ嶺のかひぞなきふもとに霧の晴れぬかぎりは
○ 立田やま時雨しぬべく曇る空に心の色をそめはじめつる
○ 立田姫染めし梢のちるをりはくれなゐあらふ山川のみづ
葛城 / 奈良県の南西部一帯を指す地名。山は大阪と奈良を隔てる。
かつらぎを尋ね侍りけるに、折にもあらぬ紅葉の見えけるを、何ぞと問ひければ、正木なりと申すを聞きて
○ かつらぎや正木の色は秋に似てよその梢のみどりなるかな
高野へまゐりけるに、葛城の山に虹の立ちけるを見て
○ さらにまたそり橋わたす心地してをぶさかかれるかつらぎの嶺
○ よる鳴くに思ひ知られぬほととぎすかたらひてけり葛城の~
秋しの / 秋篠。奈良市北部の地名。秋篠寺がある。
○ 秋しのや外山の里や時雨るらむ生駒のたけに雲のかかれる
○ 初雪は冬のしるしにふりにけり秋しの山の杉のこずゑに
いそのかみ / 石上。奈良県天理市付近の地名。石上神宮がある。
○ いそのかみ古きすみかへ分け入れば庭のあさぢに露ぞこぼるる
○ いそのかみ古きをしたふ世なりせば荒れたる宿に人住みなまし
いはれ / 磐余。高市郡などにわたる古い地名。
○ いはれ野の萩が絶間のひまひまにこの手がしはの花咲きにけり
○ ねざめつつ長き夜かなといはれ野に幾秋までも我が身へぬらむ
かつまた / 勝間田。奈良市七条にある池。現在は大池と呼ぶ。
○ 水なしと聞きてふりにしかつまたの池あらたむる五月雨の頃
○ 水なくて氷りぞしたるかつまたの池あらたむる秋の夜の月
春日野 / 春日大社付近の平坦部。奈良公園の一部。
○ 春日野は年のうちには雪つみて春は若菜のおふるなりけり
○ 三笠山月さしのぼるかげさえて鹿なきそむる春日野のはら
ふる野 / 布留野。天理市石上辺りの古い地名。
○ 春雨のふる野の若菜おひぬらしぬれぬれ摘まん籠(かたみ)手ぬきれ
さほ / 佐保。奈良県北部を流れる川。多くの歌に詠まれている。
○ 見渡せばさほの川原にくりかけて風によらるる青柳の糸
初瀬 / 桜井市などの初瀬川の流域を指す。長谷寺で有名。
○ 郭公ききにとてしもこもらねど初瀬の山はたよりありけり
たかまの山 / 高間山。葛城山の中に高間山と呼ばれている峯があります。
○ 聞きおくる心を具して時鳥たかまの山の嶺こえぬなり
ひろせ河 / 奈良県葛城川の別称。
○ ひろせ河わたりの沖のみをつくしみかさそふらし五月雨のころ
あおね山 / 青根山。奈良県吉野にある山。
○ あをね山苔のむしろの上にして雪はしとねの心地こそすれ
宮滝川 / 吉野宮滝付近での吉野川の別称。紀伊川となる。
りうもんにまゐるとて
○ 瀬をはやみ宮瀧川を渡り行けば心の底のすむ心地する
宮川 / この歌の「みや川」は吉野国栖あたり流れる川を指します。別の「宮川」は大台ケ原から三重県の方に注ぐ川。 
○ 瀧おつる吉野の奥のみや川の昔をみけむ跡したはばや
ふたかみ山 / 二上山。大阪と奈良を隔てる山。当麻寺の背後の山。峯が二つに分かれた山という意味もある。越中の歌枕でもあり、この歌は大和か越中か不明。
○ 雲おほふふたかみ山の月かげは心にすむや見るにはあるらむ
黒髪山 / 大和の歌枕。奈良市北端にある興福寺の山という。備中、下野にもある。  
○ ながむながむ散りなむことを君もおもへ黒髪山に花さきにけり
大峰山中の歌
みたけ / 御嶽。吉野の大峰のこと。
さうの岩屋 / 大峰の国見山の笙の岩屋。行尊が籠もっていたところ。
みたけよりさうの岩屋へまゐりたりけるに、もらぬ岩屋もとありけむ折おもひ出でられて
○ 露もらぬ岩屋も袖はぬれけると聞かずばいかにあやしからまし
をざさ / 山上岳にある小篠の泊のこと
をざさのとまりと申す所に、露のしげかりければ
○ 分けきつるをざさの露にそぼちつつほしぞわづらふ墨染の袖
大峰 / 吉野金峰山をいう。大峰山という固有の山はなし。吉野から熊野にいたる山の総称。 
しんせん / 下北山村の深仙宿。
大峯のしんせんと申す所にて、月を見てよみける
○ 深き山にすみける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし
○ 嶺の上も同じ月こそてらすらめ所がらなるあはれなるべし
○ 月すめば谷にぞ雲はしづむめる嶺吹きはらふ風にしかれて
をばすて / 川上村の伯母が峰。
をばすての嶺と申す所の見渡されて、思ひなしにや、月ことに見えければ
○ をば捨は信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ
こいけ / 下北山村の小池の宿。
こいけ申す宿(すく)にて
○ いかにして梢のひまをもとめえてこいけに今宵月のすむらむ
ささ / 天川村の小篠の宿。
さゝの宿(すく)にて
○ いほりさす草の枕にともなひてささの露にも宿る月かな
へいち / 下北山村の平地の宿。
へいちと申す宿(すく)にて月を見けるに、梢の露の袂にかかりければ
○ 梢なる月もあはれを思ふべし光に具して露のこぼるる
あずまや / 十津川村の四阿の宿。
あづまやと申す所にて、時雨ののち月を見て
○ 神無月時雨はるれば東屋の峰にぞ月はむねとすみける
○ かみなづき谷にぞ雲はしぐるめる月すむ嶺は秋にかはらで
ふるや / 十津川村の古屋の宿。
ふるやと申す宿(すく)にて
○ 神無月時雨ふるやにすむ月はくもらぬ影もたのまれぬかな
平等院 / 小篠の宿に平等院(園城寺塔頭の円満院の別称)の名が記された卒塔婆があった。
平等院の名かかれたるそとばに、紅葉の散りかかりけるを見て、花より外にとありけむ人ぞかしと、あはれに覺えてよみける
○ あはれとも花みし嶺に名をとめて紅葉ぞ今日はともに散りける
ちくさ / 下北山村の千種岳のこと。
ちくさのたけにて
○ 分けて行く色のみならず梢さへちくさのたけは心そみけり
ありのとわたり / 山上岳付近の修行所。
ありのとわたりと申す所にて
○ 笹ふかみきりこすくきを朝立ちてなびきわづらふありのとわたり
行者がへり / 大峰山中の行者還岳のこと。
ちごのとまり / 稚児の泊。上北山村にある。
行者がへり、ちごのとまりにつゞきたる宿(すく)なり。春の山伏は、屏風だてと申す所をたひらかに過ぎむことをかたく思ひて、行者ちごのとまりにても思ひわづらふなるべし
○ 屏風にや心を立てて思ひけむ行者はかへりちごはとまりぬ
三重の瀧 / 熊野の三重の瀧説、大峰山中の瀧説がありますが、
三重の瀧をがみけるに、ことに尊く覺えて、三業の罪もすすがるる心地してければ
○ 身につもることばの罪もあらはれて心すみぬるみかさねの瀧
轉法輪のたけ / 大峰山中の「平治の宿」の南にある「転法輪岳」のこと。2013/09/09訂正加筆。
轉法輪のたけと申す所にて、釋迦の説法の座の石と申す所ををがみて
○ 此處こそは法とかれたる所よと聞くさとりをも得つる今日かな 
大口真神原
むかし明日香の地に老狼在て、おほく人を食ふ。土民畏れて大口の神といふ。
「大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに」(舎人娘子『万葉集』巻八1636)
「近くに家がないので、雪よ、あまり降ってくれるな」という意味の歌ですが、「大口真神原」は飛鳥寺付近だと言われています。当時は茅に覆われていて、狼が出没したのだろう、と。確かに合理的な説明ではありますが、よくよく考えてみると飛鳥寺付近というのに根拠はあるんでしょうか?「大口の真神」が狼を表すというのは、基本的には疑義のないことでしょう。アイヌでも「大きな口の神」と呼んでいたそうです。
伝承地は東京都青梅市。
「日本武尊東征の際、御嶽山付近を通りかかった折、深山の邪神が白鹿に化けて、散々尊を悩ました。尊は占いして、鹿が山鬼であることを知り、山蛭を鹿に投げつけると、目に当たって死に、鬼神は正体を現した。深山で道に迷った際に尊を導いた白い狼には、山に留まって火災盗難を防ぐよう命じ、以後、狼は御嶽山の大口真神として祭り上げられたという」
ヤマトタケルを導いた狼が祀られ、「大口真神」と称されるようになったことが解ります。
奈良県宇陀郡の伝承です。
「お亀という美人の人妻がいた。毎夜草履が湿るので夫が尋ねると、亀山の池に遊びに行くのだという。お亀は子どもを残して池に行ってしまった。夫は困って池に行くと、お亀が現れて赤子に乳を飲ませ、もう来るなと言った。子どもが泣くので夫がまた池に行くと、今度は大蛇が大口を開けて追ってきた。その場所を大口と言う。男は家に戻るとすぐ死んだ。その池をおかめが池とも呼ぶ」
こちらは大口という地名の起源伝承ですが、狼ではなくて大蛇ということになっています。
そこで、「大口」という地名の由来について調べて見ると次のような解説がありました。
1 入江・湾
2 海峡
3 「朽ちる」で、崩れやすい崖のある地形
4 「くちゃくちゃ」で、湿地帯
1・2は分かりやすいですが、3・4は定説なのでしょうか?私も一時期地名について興味を持っていたことがありますが、どこまでが合理的な説明でどこからがこじつけなのかわからないところがあります。
ただ飛鳥で、「崩れやすい崖のある地形」というと「鬼の俎板・雪隠」を思い出します。鬼が住んでいて通行人を捕え食べたという伝承です。確かに「崩れやすい」と言えると思います。なぜなら上部に合った石棺が崩れた結果が、俎板・雪隠伝承を伴う石造物の由来なのですから。更に、「鬼の俎板・雪隠」伝承は「通行を妨害する神」の系統にある伝説でもあり、その土地の危険性を述べる意義もあったはず。
もちろん鬼の俎板雪隠は「大口真神原」から結構距離がありますから、関係があるとも思えません。また大口が地名だとしても「原」とありますから、崖の意味はないでしょう。地名由来4の「湿地」の可能性も考えては見ましたが、少なくとも現状では明日香村が湿地であったとは思えません。 
深仙宿・前鬼(じんぜんのしゅく・ぜんき) / 奈良県吉野郡下北山村大字前鬼
紀伊山地の中央を占める大峰おおみね山脈は北は桜の吉野山におこり南は十津川村の玉置たまき山に至る。その間に大天井おおてんじょうヶ岳・山上さんじょうヶ岳・稲村いなむらヶ岳・大普賢だいふげん岳・行者還ぎょうじゃがえり岳・弥山みせん・仏経ぶっきょうヶ岳・明星ヶ岳・七面しちめん山・仏生ぶっしょうヶ岳・孔雀岳・釈迦ヶ岳・大日だいにち岳など一五〇〇‐一九〇〇メートルの峻峰が山列をなし、「近畿の屋根」「大和アルプス」ともよばれる。この急峻な山々を対象として奈良朝末―平安初期から役行者を開祖と仰ぐ修験道が発達した。平安中期には藤原道長ら貴族階級の御嶽詣が盛行し、寛治四年(一〇九〇)の白河上皇の熊野詣に至って頂点に達する。
山岳信仰の対象としての大峯山おおみねさん・金峯山きんぶさんの称呼は、いま全く混用されているが、歴史的には山上ヶ岳の南五・五キロにある小篠おざさ宿までが金峯山、小篠から南が大峯山である。大峯山を縦走する修行を大峯奥駈けといい、南の熊野から入り北進して吉野山で終わる修行を順峯じゅんぶ、吉野から南へ進む修行を逆峯ぎゃくぶという。また、峯中には行者道にそって、大峯七十五靡なびきとよばれる七五の行場がある。
七十五靡三八番の行場深仙宿は釈迦ヶ岳の南、大日岳との間の平坦地で、標高約一五〇〇メートル。中世以来多くの修験者・僧俗の参籠地として栄えた。「金葉集」巻九に、「大峯の神仙(深仙)といへる所に久しう侍りければ、同行ども皆かぎりありてまかりにければ心ぼそきによめる」として僧正行尊の歌を載せ、「山家集」には、西行の「大峯のしんせんと申す所にて月を見てよみける」歌に、
深き山にすみける月を見ざりせば 思出もなき我が身ならまし
がある。また、「千載集」巻一七にみえる歌の詞書に「前大僧正覚忠御たけ(金峯山)より大峯にまかり入りて、神仙といふ所にて金泥法華経の書奉りて埋み侍るとて、五十日ばかりとどまりて侍りけるに、房覚熊野のかたよりまかり侍りけるにつけて云ひおくりける」とある。奥山に五〇日も参籠するもののあったことや、その人に歌をことづけることができるほど、深仙宿を通過する行者の多かったことが察せられる。
畔田伴存の「吉野郡名山図志」には、幕末期、板葺板壁の家二軒・鳥居・聖天社・護摩堂・香精水・水神社・三間に五間の御殿があったと記されている。
深仙宿の南、太古の辻から尾根を離れて東へ下ると、七十五靡二九番の宿前鬼である。釈迦ヶ岳に発した前鬼川が村の東側を曲流して前鬼口で北山きたやま川に入る。標高約八〇〇メートル。平安中期ごろすでに開けていた村で、役行者に従った前鬼・後鬼の子孫と伝えられる五鬼熊ごきぐま(行者坊)・五鬼童ごきどう(不動坊)・五鬼上ごきじょう(中之坊)・五鬼継ごきつぐ(森本坊)・五鬼助ごきじょ(小仲坊)の五家がそれぞれ宿坊を営んで、奥駈け入峯の先達をつとめた。彼らは代々役行者の教えを祖述しつつ、山伏に随身給仕して、峯中の宿で汲水・採薪・食事の準備等を行ない、奥駈けの荒行を裏から支えた。また、前鬼は深仙宿の食糧補給基地でもあった。
慶長一九年(一六一四)の大坂冬ノ陣に、大峯五鬼の中の善鬼(名助)が大坂城に籠ったといい、北山一揆にも前鬼の五鬼が主導的地位にたったと伝えられるので(駿府政治録)、ここに定住した山人たちが、ある意味では、地侍的な性格をもっていたことも推察される。
江戸時代の郷帳には前鬼の名は現れない。「吉野郡名山図志」等の記録や紀行によって村のようすをうかがうと、「善城(前鬼)村 五坊在、外ニ祈祷寺壱ヶ寺、毎月六日之日には五鬼坊此堂ニ而祈祷在と云」とあるほか、年一、二度前鬼五家の人々が揃って釈迦ヶ岳から大峯奥通を山上に出る習わしがあり、とくに小篠大護摩には日帰りで八里の道を往復したという。さらに「善鬼は米穀諸物池山池原村より人足出で日々往来す。多くは女人足也。善鬼村まで女往来あれどそれより上は女人禁制也」等とある。
明治九年(一八七六)の調べでは田一町六畝八歩、畑九反九畝一九歩、宅地二反七畝一八歩を所有し、戸数七戸・社一戸・寺五戸(天台宗)・釈迦堂・本堂・灌頂堂・祖師堂・籠堂、計一八戸、人数三一人、牛四となっている。これより以前の明治二年三月に、修験道五坊は京都の聖護院しょうごいんの所轄を離れ、同六年三月天台宗に所属した。
明治一六年の「村誌」(奈良県立図書館蔵)には、
本村ハ吉野郡ノ南端北山郷ト十津川郷トノ中間ニ在ル一小村ニシテ何レニ属スト云事ナク一箇独立シ、古ヘ前牛山ト云ヒ、中古以来前鬼ト改メ、亦タ近ク明治五年ニ至テ初テ奈良県ノ命令ニ因テ本郡第十五大区廿六小区ニ編入ス、而テ当山ノ附属地二ヶ所ヲ併セ惣称シテ前鬼村ト呼フ。
と記す。現在は小仲坊(五鬼助)のみ残り、他は退転した。 
采女神社(うねめじんじゃ) / 奈良県奈良市橋本町
奈良観光のポイントの1つと言うべき猿沢の池のほとりにひっそりと建つ神社である。町中にあって見過ごしそうな小社であるが、その社の姿に違和感がある。鳥居のある正面から見ると、社殿が完全に後ろ向きになってしまっている。猿沢の池に背を向けて社殿が建てられているのである。実はこの奇妙な配置には、ある伝承が残されている。
『大和物語』によると、奈良に都があった頃、ある帝が一人の采女を寵愛した。しかし時が経ち、やがて采女は顧みられなくなった。帝の愛を失った采女はそれを悲観して、猿沢の池のほとりの柳に衣を掛けて、そのまま入水してしまったのである。この霊を慰めるために建てられたのがこの社であるが、ところが采女の霊は、自分が身を投げた池を見るのは忍びないとして、一夜のうちに社殿を反対に向けてしまったという。
この采女の伝説は今でも語り継がれており、毎年中秋の名月の日には例祭が執りおこなわれる。
采女 / 天皇や皇后に近侍して食事などの世話をおこなう女官。飛鳥時代には既に、地方の豪族の子女を遣わして采女としていた。他の伝承によると、この猿沢の池に身を投げた采女は安積(現・福島県郡山市)出身の者とされ、郡山市では「うねめ祭り」が毎夏おこなわれている。
『大和物語』 / 10世紀頃成立した歌物語集で、『伊勢物語』と並び称される。173の話よりなる。
かえる石(かえるいし) / 奈良県奈良市中院町
現在、奈良の元興寺に安置されているかえる石であるが、この石は、江戸時代に奇石にまつわる話を集めた『雲根志』に“大阪城の蛙石”として載せられるほど有名な石である。その形状が蛙に似ているということで名付けられたことは疑いないところであるが、その数奇な歴史は、名前に似合わず非常に恐ろしいものである。
元々この石は、河内の川べりにあった殺生石であったと言われている。それを豊臣秀吉がたいそう愛でて、大阪城に運び込んだところから因縁が生じる。大阪城落城の際に、亡くなった淀君の遺骸をこの蛙石の下に埋めたとされ、そのために淀君の怨念がこの石に籠もったと言われる。
その後時を経てこの石はいつの間にか大阪城の乾櫓の堀をはさんだ対岸に置かれる。ここからさらに陰惨な言い伝えが広まっていく。この石のあるところから大阪城の堀に身を投げる者が後を絶たない。あるいはこの石の上に履き物を置いて身を投げる者が多く出る。さらには大阪城の堀に身を投げて死んだ者は必ずこの石のそばに流れ着くとも言われるようになる。要するに、大阪城の堀で死ぬ者は必ずこの蛙石に絡んでいくことになり、まさに死の象徴と言うべき都市伝説に発展した、実に不吉な石となったのである。
そのような石がなぜ奈良の元興寺に安置されたのかは詳細はつまびらかではないが、第二次世界大戦の折の混乱で行方不明となったものが、昭和31年に元興寺に引き取られたことが記録に残っている。名の通った寺院の境内に置かれるとあって、当然過去の悪因縁やそれにまつわる諸霊の供養をおこなっているとのこと(現在でも毎年7月7日に供養が執り行われている)。それ以降は、災いをもたらす石のイメージのを払拭がなされ、“福かえる”や“無事かえる”の語呂合わせで、元興寺の縁起物として位置付けられている。
元興寺 / 蘇我馬子が創建した最古の寺院である法興寺(飛鳥寺)が前身。南都七大寺として栄えるが、中世以降に衰退。現在は元興寺の一僧坊であった極楽坊本堂が世界遺産に登録されている(極楽坊の屋根瓦の一部は飛鳥時代のものである)。「元興寺の鬼(ガゴゼ)」の伝説も残されている。
『雲根志』 / 木内石亭(1725-1808)が採取した奇石標本(石器・化石も含む)を分類・考察した書物。1773年から1801年に掛けて大阪で出版された。石亭は弄石家として国内の鉱物学・考古学の先駆的役割を果たした石の大家。
淀君 / 1569-1615。浅井長政の長女、豊臣秀吉の側室。嗣子・秀頼を生み、大阪城に留まる。江戸に幕府を開いた徳川家康と対立し、大阪冬の陣・夏の陣を戦う。最期は大阪城内にて自害とされるが、遺体は発見されていないため、生存説も残る。
葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ) / 奈良県御所市森脇
葛城の地は大和朝廷の黎明期における中心地であったとされる。いわゆる“欠史八代”と呼ばれる綏靖〜開化天皇までの時代 には宮が置かれていたとされる。また葛城一族は武内宿禰を祖として鴨・蘇我・巨勢氏などの有力豪族に分かれていった。いわゆる古代日本史の大きな鍵を握るエリアなのである。
この葛城一族の神とされるのが(一言主神)である。ところがこの神様はかなり出自が怪しいのである。一言主神は雄略天皇との遭遇という有名なエピソードで初めて登場する。しかもこのエピソードは不思議な変遷を辿るのである。
『古事記』によると、葛城山で雄略天皇は自分たちと全く同じ格好の集団と出会う。そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、供の者の衣服まで差し出したという。
ところが、『日本書紀』になると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだことになる。天皇と神とが対等の立場で描かれることになる。
さらに『続日本紀』に至っては、雄略天皇は事もあろうに、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したのである(ここまで遠くに流刑となった神は他にはいない)。
ではなぜここまでこの神に対する天皇の態度が変貌したのだろうか。古代の最大勢力を保っていた葛城氏が滅びるのは、雄略天皇の時代である。天皇による武力制圧である。その事実を神話ではあるが、大仰に書ける環境が整ったというのが真実である。
欠史八代 / 綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の2〜9代の天皇は、実在していなかったという古代史の説。初代神武と10代崇神の和名が同じであることなどから多く支持されている。逆にこれらの天皇は葛城地方にあった王朝に属し、崇神以降とは一線を画する政権であったとする実在説もある。
一言主神 / 神代の記述には現れず、雄略天皇の事項で初めて登場する神。扱いが粗略になっていく展開は、上に書いたままである。さらに『日本霊異記』では、醜い顔の神であり、役行者に使役される身分にまで貶められている。おそらくこの一言主神は事代主命と同じ神であると推測される。『古事記』において事代主は大国主命の息子として国津神のサイドに組み込まれてしまったため、葛城氏系の祖神を新たに創出する必要性があって登場したのであろう。現在では、一言であればどんな願いでも叶えてくれる神として信仰を集めている。総本社がこの葛城一言主神社となる。
『続日本紀』 / 延暦16年(797年)に完成。『日本書紀』に続く勅撰史書。この時代には葛城系の貴族は賀茂氏を除きほとんどが没落しており、代わって三輪系(崇神天皇後の政権エリア)の藤原氏が台頭している。このあたりの政治的な権力バランスが、一言主の扱いに影響していると言える。
元興寺(がんごうじ) / 奈良県奈良市中院町
寺の起こりは、蘇我馬子が飛鳥の地に建立した、日本最初の本格的寺院である法興寺(現在の飛鳥寺)である。養老2年(718年)、当時の都であった平城京に移転、ここで現在の元興寺の名に改称する。元興寺は南都七大寺として朝廷の保護を受けていたが、平安時代末期には衰退。唯一、智光曼荼羅を有する極楽坊だけが浄土信仰の影響を受けて発展していった。現在“元興寺”という名称で世界遺産登録されている寺院はこの極楽坊であり、かつての広大な境内の殆どは失われてしまっている(極楽坊から100mほど離れた場所には「元興寺塔跡」など、かつて元興寺を形成していたとされる史跡がある)。
“元興寺”の名は単に寺院の名称で使われるだけではなく、“がごじ”や“がごぜ”と読ませて「お化け」や「鬼」を総称する言葉としても認知されている。これは『日本霊異記』に記載されている道場法師にまつわる逸話からできているとされる。
道場法師は尾張国の生まれてあるが、落ちてきた雷を父親が助けたお礼に生まれてきた子であり、大力の持ち主であった。敏達天皇在位の頃、元興寺の童子となったが、鐘楼で童子が何人も殺されるという怪事が発生し、鬼の仕業であるとされた。そこで大力の童子が退治を申し出て、鐘楼で待ち受けた。そして現れたあやかしを捕らえ、夜が明ける頃まで散々その髪を引きずり回し、とうとう引き剥がしてしまったのである。あやかしは逃がしてしまったが、血痕が残っており、その跡を追っていくと、ある墓の前に辿り着いた。それはかつて元興寺で働いていた下男のものであり、生前から悪い噂の絶えなかった人物であった。そして引き剥がされた頭髪は寺宝となっているという。
元興寺極楽坊 / 「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録されている。本堂などは国宝に指定。本堂に使われている瓦の一部は飛鳥時代のものであり、日本最古の瓦である。また禅室(僧坊)の木材の一部は、年輪年代測定法の結果、582年に伐採されたものがあるということが判った。
智光曼荼羅 / 元興寺の僧・智光(709?-780?)は、同僚の頼光(礼光)の死後、夢の中で彼が阿弥陀の極楽世界にいることを知らされ、さらに阿弥陀の極楽浄土の様相を教えられた。そこで描かれたのが智光曼荼羅である。智光にまつわる伝説として、行基に対する嫉妬から急死するが10日後に蘇生。地獄で閻魔大王から行基の件で叱責されたとして、蘇生後に行基に謝罪をしたという。
道場法師 / 生没年不詳。『日本霊異記』によると、雷神の申し子として大力を授かり、生まれた時は頭に蛇が巻き付いていたとされる。また10歳頃に上洛して王族の者と力比べをして勝ち、その後元興寺の童子となって鬼を退治、さらに優婆塞(在家の仏道修行者)の時代には、大力で元興寺の田の引水に関する妨害を排除する。その後、出家して道場法師と名乗った。その後故郷である尾張(現・名古屋市)に尾張元興寺を建立している。なお第30代敏達天皇は572-585年頃の在位であるとされている。
“がごぜ” / 江戸時代には、関東から西日本一帯で「お化け」や「鬼」を総称する言葉(幼児語)として使われていた。言葉の起源として「元興寺の鬼」の伝説が挙げられるが、柳田國男は『妖怪談義』で、「がご〜(咬もう)」という音から派生したものであると考え、元興寺由来説を否定している。
北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと) / 奈良県奈良市川上町
東西に38メートルの長さを持つ建物である。中は18の部屋に仕切られており、1つあたりの部屋の広さは約2畳ほどのものである。これが鎌倉時代に建てられた、癩者(現在のハンセン氏病患者)救済・保護の施設、北山十八間戸である。
建設に携わったのは、忍性である。忍性は「文殊菩薩はこの世に貧者・病者の姿となって現れる」という文殊信仰に従って救済事業を展開した。寛元元年(1243年)に出来た北山十八間戸もその事業の1つとして建設されたとされる(一説では、悲田院や施薬院を作って貧者救済をおこなった光明皇后にまで起源を求めるともされている)。
この近辺は忍性の救済活動の拠点の1つであり、若き頃の忍性は、奈良坂に住む癩者のために数年間毎日のようにおぶって奈良の町まで往復していた。その癩者が亡くなる時「再生したら、徳に報いるために召使いとなります。その証として顔に瘡を残します」と言った。後年、門弟の一人に顔に瘡のある者があり、忍性はその癩者の生まれ変わりであると信じていたという。
癩者に衣食住を提供していた北山十八間戸は、松永久秀による東大寺焼き討ちの時(永禄10年:1567年)に全焼するが、後に再建され、元禄6年(1693年)に現在地に移された。そして明治になって廃されるまでに約18000人を収容したと記録されている。
忍性 / 1217-1303。真言律宗の僧。師である叡尊と共に、奈良を拠点に非人救済をおこなう。後に鎌倉へ下向、執権・北条重時らの信頼を得て、極楽寺において非人救済をおこなう。
光明皇后 / 701-7601。藤原不比等の娘。聖武天皇皇后。深く仏教に帰依し、悲田院・施薬院の造営などの慈善事業をおこなう。また重傷の癩者の膿を自ら吸い出すと、その癩者は如来の化身であったという、非人救済にまつわる伝説などが残る。
吉備塚(きびづか) / 奈良県奈良市高畑町 奈良教育大学構内
奈良教育大学のキャンパス内にある、直径約25m、高さ3mの古墳である。吉備塚という案内板がなければ、おそらくただの小さな丘の一部であるとしか見えないだろう。考古学的な発掘調査が平成になってからおこなわれ、平成16年(2004年)には2つの木棺と太刀が見つかり、6世紀頃の古墳であるとされている。
吉備塚という名は、この古墳が吉備真備の墓であるとされてきたことによる。江戸時代の古文書に名前が残されており、既にこの頃には定着した伝承だったと推測される。そしてこの伝承と共に、祟りの噂が常につきまとっていた。江戸時代の頃は田んぼの中にあった墳丘であるが、触れると祟ると言われた。その噂はさらに明治時代にまで残り、明治42年(1909年)にこの地に陸軍第53歩兵連隊が駐屯した時も、塚を崩そうとすると病人が出るなど異変が起こったために、結局そのまま放置され続けたのである。平成の発掘調査で棺が出土したことで、この塚が全くの未盗掘であったことが実証され、祟りの伝説が延々と言い伝えられてきたことを裏付けた格好になったと言えるだろう。
吉備真備 / 695-775。備中国の生まれとされる。遣唐留学生として17年間唐にあって学問を修める。帰国後は聖武天皇の下で昇進を重ねる。藤原仲麻呂が政権を握ってからは冷遇されるが、乱によって仲麻呂が排除されると、再び中央政界に復帰。最終的に地方出身者として異例の右大臣にまで登りつめた。高齢により右大臣職を辞した後の様子は伝わっておらず、どこで死去したかも不明。
首切地蔵(くびきりじぞう) / 奈良県天理市田井庄町
奈良には“ジャンジャン火”と呼ばれる怪火が現れたという。ただし怪火であればどのような場合でも“ジャンジャン火”と呼び習わしていたようであり、地域によって伝承の内容が異なることが多い。
天理大学の南東角の交差点にある地蔵堂には、胴体と首とが真っ二つになった地蔵が安置されているが、このような姿になった由来にも“ジャンジャン火”が登場する。
この場所から南東に行った場所に龍王山という山がある。戦国時代の末期に、その山腹に龍王山城があった。この城は大和の小領主である十市氏が治めていたのだが、敵対する領主(筒井氏とも松永氏とも)によって攻め落とされた。十市氏の武者達が「残念、残念」と言って自害して果て、その怨念が火の玉となって飛び回ったのが“ジャンジャン火”であるとされる。そしてその火を見ると、病気になるとか死ぬとか言われ、大変恐れられたのである。
昔、大晦日の夜に、このあたりに住む庄右衛門という浪人がこの地蔵堂で休んでいると、いきなりジャンジャン火が飛んできた。恐れおののいた庄右衛門は、手にした提灯で防いだが役に立たず、とうとう刀を抜いて辺り構わず振り回した。しかしもはやどうすることも出来ず、最後には庄右衛門は黒焦げになって死んでしまったという。さらに翌日になると、庄右衛門の焼死体にはびっしりと奇妙な虫が付いていたという。そして庄右衛門の刀が当たったためか、地蔵堂にあった地蔵の首が見事に斬り落とされていたのである。それ以来、この地蔵は首切地蔵と呼ばれるようになったとのこと。
ジャンジャン火 / 奈良地方に現れた怪火であるが、いくつかの異なる伝説がある。
1.心中した夫婦を大安寺と白毫寺に別々に埋葬してしまったため、雨の降る夜に両方の墓地から火の玉が飛んできて、夫婦川のあたりで絡み合って戻るという行動を繰り返す。いつまでも見ていると、火の玉が追い掛けてくるという。
2.龍王山にある十市氏の城跡に向かって、雨の降りそうな夜に「ホイホイ」と呼びかけると、ジャンジャンと唸りを上げて火の玉が飛んでくる。見た者は数日熱にうかされるという。あるいは呼んだ者を取り殺すという。また山へ退治に行った者が兜に咬みつかれて死んだとか、蜘蛛の糸のようなものに巻かれて死んだとも伝わる。
3.大和郡山藩の家老の息子と百姓の娘が打合橋で逢い引きしていたのがばれ、息子が橋で斬首され、同時に娘が橋の下で自害した。それ以来、毎年その日になると打合橋に2つの火の玉が現れてジャンジャンと音を立てて舞ったという。
十市氏 / 筒井氏・古市氏・越智氏と共に大和国の有力国人衆であった。十市遠忠(1497-1549)の時代に最盛期を迎える。遠忠の死後は筒井氏に攻められて衰退したため、新たに大和に進出した松永久秀と組むなどして対抗。その後は筒井・松永両派に一族が分裂して反目する。最終的に松永久秀の滅亡後に筒井氏の傘下に入る。
蜘蛛窟(くもくつ) / 奈良県御所市高天
葛城の地で土蜘蛛にまつわる史蹟が二ヶ所ある。一つは葛城一言主神社の境内にある(土蜘蛛塚)。もう一つが高天彦神社のそばにある(蜘蛛窟)。前者は遺骸を埋めた塚であり、後者は住処の跡とされている。
葛城一言主神は葛城の土地神であり、また高天彦神社は葛城氏の祖先を祀る神社である。つまり二つの土蜘蛛の塚は葛城氏ゆかりの聖地のかたわらに置かれているのである。このことから“土蜘蛛”と呼ばれ排除された一族は、葛城氏と同族であり、ここへ東征してきた神武天皇 に与することを潔しとしなかった者達であると想像することはやぶさかではないだろう。
高天彦神社 / 主たる祭神は葛城氏の祖神である高皇産霊尊(タカミムスビ)。延喜式内社の名神大社(最高位)に列せられる。
頭塔(ずとう) / 奈良県奈良市高畑町
古い民家が建ち並ぶ町の一角にある遺跡である。入口の鍵を管理されている民家へ声を掛けて、拝観料を払い、中に入る。入口は周囲の民家に合わせたように木の格子戸、そこからコンクリート製の階段を上ると、いきなり異空間に迷い込んだかと錯覚に陥るような場所に至る。そこにあるのは、紛れもない“階段ピラミッド”である。これが頭塔である。
頭塔は、一辺約30mの方形、高さ10mの七層の階段状に重ねられた建造物である。ただし日本国内では殆ど見ることの出来ない構造の塔であり、それだけにその姿は奇異と言うしかない。
造られたのは神護景雲元年(767年)。東大寺の僧・実忠が造営に関わったとされる。大正時代に史跡に指定。各層には線刻された石仏が安置されており、そのうち22基は重要文化財に指定されている。昭和時代の調査を経て、現在見られるようなものに復元修復された(入口側の一部は修復せず、現状保存)。
“頭塔”という名であるが、おそらく“土塔(どとう)”と呼んでいたものが訛ったものと推測される。ただ“頭”の文字を当てたことには、奇怪な伝説が残されている。
この塔は、聖武天皇に仕えた僧・玄ムの首が埋められた墓である。玄ムは政争に敗れ、大宰府に左遷されたが、その翌年に亡くなった。しかしその死は凄惨なもので、観世音寺造立供養の導師として読経している最中、いきなり黒雲より大きな手が伸びて玄ムの首をねじ切ってしまう。そして後日、その首は奈良の興福寺に落ちてきたという。これは、玄ムを排除しようとして兵を挙げて敗死した藤原広嗣の怨霊のなせるものであると言われている。
実忠 / 726-?。良弁(東大寺初代別当。幼少時に鷲にさらわれたという伝説がある)の弟子。東大寺の造営や財政を担当する。東大寺二月堂の修二会(お水取り)を始めたと伝えられる。
玄ム / ?-746。遣唐使僧として入唐し、玄宗皇帝より紫衣を下賜される。帰国後は藤原宮子(聖武天皇の母)の病気を治したことで天皇の寵を得て出世。橘諸兄の政権では、吉備真備と共に政治の実権をにぎった。その後、藤原仲麻呂の台頭によって、大宰府にある筑紫観世音寺別当に左遷。翌年死亡。墓(胴塚)は観世音寺の脇にある。政権の中枢にあった頃より多くの批判を浴び、藤原広嗣の乱も吉備真備・玄ムの排除が目的であった。正史である『続日本紀』には、その突然の死が“広嗣の祟り”であると明記されている。また藤原宮子や光明皇后とも性的な関係があったのではという伝説も残されており、悪僧との印象が強い。
田道間守の墓(たじまもりのはか) / 奈良県奈良市尼辻町西池
第11代垂仁天皇陵とされる宝来山古墳は、全長227mというかなり大きな前方後円墳である。この古墳に寄り添うように水辺に浮かぶ小さな島(円墳)がある。これが田道間守の墓と呼ばれているものである。
田道間守は垂仁天皇の忠臣とされ、その名は記紀にも記載されている。新羅の王子で日本に渡来した天日槍の子孫であり、但馬国の出自とされる。垂仁天皇90年の時、不老不死の霊菓である“非時香具菓(ときじくのかぐのこのみ)”を常世の国で求めてくるように命じられた田道間守は、中国大陸へ渡り、10年間掛けてようやくその実を持ち帰ったのである。
ところが帰り着いてみると、垂仁天皇は1年前に亡くなっていた。悲嘆に暮れる田道間守は、持ち帰った非時香具菓の半分を御陵に眠る垂仁天皇に捧げ、その陵の前で慟哭しそのまま死んでいったとされる。
古墳の濠にある島なので人造物であることは間違いないが、古墳と同時期に造られたものであるかの確証はない。慶応3年(1867年)に朝廷と幕府に献上された『文久山陵図』にはこの墓は描かれておらず、またそれ以前にこの墓について言及した記録もなく、いつ造られたものなのかは謎に満ちている。ただ垂仁天皇の御陵に寄り添うことのできる唯一無二の人物が田道間守であることだけは間違いないところなのであろう。
垂仁天皇 / 第11代天皇。在位は99年に及び、長寿を保ったとされる(『日本書紀』では140歳で没とされる)。皇后の父は、四道将軍として丹波を治めた丹波道主命。また垂仁天皇3年に、田道間守の祖である天日槍が来朝している。
天日槍(アメノヒボコ) / 記紀に登場する新羅の王子。赤い石が化身した娘と結婚したが、喧嘩をしたために妻が故郷の日本に逃げ帰ってしまい、それを追って来日したとされる(『古事記』による)。また垂仁天皇3年に神宝を持って来日したとされる(『日本書紀』による)。いずれにせよ来日後は但馬国に定住した。
非時香具菓 / 田道間守が持ち帰った霊菓は、橘の実であるとされている。ただし橘の木は日本固有の柑橘類の種であることが判っている。またこの霊菓をもたらしたことで、田道間守は「菓子の祖」(昔は果物も菓子とみなされていた)とされ、中嶋神社の祭神として和菓子業者より崇敬を受けている。
『文久山陵図』 / 戸田忠至が慶応3年(1867年)に朝廷と幕府に献上した絵図。戸田は宇都宮藩家老で、幕府による天皇陵修復の実質責任者。文久年間におこなわれた、畿内などにある47の御陵についての修復の様子を、修復前と修復完成の両俯瞰図で示したもの。
土蜘蛛塚(つちぐもつか) / 奈良県御所市森脇
葛城一言主神社の本殿横には、申し訳なさそうに(土蜘蛛塚)がある。木々で覆われ、さらに寄進者名を記した看板で正面からは臨めないようにされている(どう見ても意図的に隠されているとしか言いようがない)。
この地域の“葛城”という名前は、神武天皇がこの地域にいた先住民を“葛”でひっくくって退治したという伝承から付いたとされている。この先住民が、手足が長いために“土蜘蛛”と言われているのである(このエリアより北ではあるが、神武天皇に逆らった神として長髄彦(ナガスネヒコ)がいる。ネーミング的には同じ発想のようである)。この名は、天皇家にとっては目障りな存在としての“まつろわぬ民”の総称でもある。
この神社にある土蜘蛛塚であるが、神武天皇が捕らえた土蜘蛛を頭・胴・足の3つに切って埋めた場所であるとされる。
長髄彦 / 神武東征の時に最後まで抵抗した、畿内の豪族の長。先に降臨した饒速日命に妹を嫁がせており、それ故に神武の要求に従えなかった部分もある。最後は、饒速日命によって殺害される。ただし長髄彦自身が“土蜘蛛”と称されたことはない。
天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ) / 奈良県吉野郡天川村坪内
開基は役行者とされる。大峯山の開山の際にこの地に勧請、大峯の最高峰である弥山の鎮守として祀られた(弥山の頂上には奥宮が鎮座する)。その後大峯山で修行をおこなった空海も、この天河の地を修行の中心としたという。
現在では、日本屈指のパワースポットとして紹介されており、主祭神である弁財天が芸能の神であることから音楽家をはじめとする芸能関係者の崇敬を集めている。実際、境内には「天石」と呼ばれる、天から降ってきたとされる岩が4つあり、神社が創建される前から磐座を中心とした自然信仰があったと推測出来る。
また、この神社には古来より独特の神器が存在する。天照大神が天の岩戸に籠もった時に、天鈿女命が使ったとされる神代鈴と同じものとされる「五十鈴」である。ある意味、天河大弁財天社のシンボルマークというべき存在である。
面塚(めんづか) / 奈良県磯城郡川西町結崎
結崎面塚公園として整備された一角にある塚である。
室町時代の初め頃、この地に結崎清次(ゆうざき・きよつぐ)という猿楽師がいた。当時、大和には“大和四座”という猿楽をおこなう座があり、清次はその1つの結崎座を率いていた。
ある時、京都で御前演奏がおこなわれ、清次もそれに出ることになった。そこで成功を祈願して、近隣の糸井神社へ日参したところ、不思議な夢を見た。天から翁の面と一束のネギが降ってくる夢である。そこで夢に見た場所へ行ってみると、実際に面とネギが落ちていた。奇瑞であると思った清次は、御前演奏でその面をつけて舞をしたところ、大いにお褒めの言葉をあずかったという。また一緒に落ちていたネギはこの地で栽培されるようになり、“結崎ねぶか”の名で特産物となった。
この結崎清次こそが、後に観世座を興し、足利義満の庇護の下で能楽を大成した観阿弥清次その人である。この縁で昭和11年(1936年)に面塚の隣に「観世発祥之地」の碑が建てられている。
また一説によると、天から翁の面とネギ一束が降ってきたのを村人が見つけ、面を埋めたところが面塚であるという伝承も残っている。
大和四座 / 大和猿楽を代表する4つの座。それぞれ能楽の名家へと発展していく。結崎(後の観世)、外山(後の宝生)、円満井(後の金春)、坂戸(後の金剛)。
観阿弥 / 1333-1384。大和四座の結崎座で活躍した後に京都に進出し、足利義満をはじめ上流階級の者の支持を得る。猿楽に加え、当時流行した田楽などの要素を取り入れ、能楽を大成したとされる。実子の世阿弥はこの結崎の地で生まれたと考えられている。 
 
 
和歌山県 / 紀伊

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

山々の木々の栄えを木の国の 栄えと守る伊太祁曽いたきその神 本居大平
白鳥の関 / 和歌山市湯屋谷 旧中山村
むかし近江国にある夫婦が幸せに暮らしてゐたが、ある朝目覚めると、妻の姿はいづこともなく消え失せ、ただ枕もとに手束た つか弓ゆみが置いてあるだけだった。男はこの弓を妻の形見と思ってしばらく暮らした。ある日、弓は白鳥の姿に変って飛び立ち、男がどこまでも追ひかけて行くと、紀伊国に至り、白鳥は人の姿になって歌を詠んだといふ。
○ あさもよひ紀の川ゆすり行く水の いつさやむさやいるさやむさや
手束弓とは十握とつかの大きな弓のことで紀の関守が持つものといふ(風土記逸文)。万葉集などにも歌はれる。
○ 吾が背子せこが跡履み求め追ひ行かば 木の関守いとどめなむかも 笠金村
○ あさもよひ紀の関守が手束弓 ゆるすときなくまづゑめる君 袖中抄
伊太祁曽神社 / 和歌山市
伊太祁曽いたきそ神社は、素戔嗚すさのを尊の子の五十猛い たける命とその妹神いものかみ、大屋津姫命、抓津姫命の三柱をまつる(五十猛命一柱ともいふ)。この三神は、父神とともに大八洲の国に天降って島々に樹の種を播き、国々を奥深い森となして、紀伊国に遷り鎮まったといふ。紀伊国造のまつる神だともいふ。
○ 天なるや八十の木種こだねを八十国に まきほどこしし神ぞこの神 本居大平
○ 山々の木々の栄えを木の国の 栄えと守る伊太祁曽の神 本居大平

親神の須佐之男すさのを命(素戔嗚尊)は、須佐神社(有田市千田 旧保田村)などにまつられる。
○ 朝もよし紀路のしげ山分けそめて 木種まきけん神をし思ほゆ 本居宣長
玉津島神社 / 和歌山市和歌浦
和歌の神ともいはれる玉津島神社は、もと玉出たまづ島といったらしい。
○ 年を経て波の寄るてふ玉の緒に 抜きとどめなん玉出づる島 宇津保物語
むかし聖武天皇が紀州に行幸されたとき、玉津島神社の背後の奠供てんぐ山に登られ、和歌浦の海の眺望を賞でて「明光浦」の名をつけられたといふ。そのときの従者の歌。
○ 玉津島見れども飽かず如何にして 包み持ち行かむ見ぬ人の為 藤原卿
聖武天皇はたびたび紀州に行幸され、神亀元年(724)のときには、山部赤人が鹽竃神社付近で詠んだ歌がある。鹽竃神社は、元は玉津島神社の祓所であったといふ。
○ 和歌の浦に潮みち来れば潟を無み 葦辺をさして鶴鳴きわたる 山辺赤人
いさな取り
新続古今集の玉津島明神を歌った歌。允恭紀にもある。
○ とこしへに君も逢へやも鯨いさな取り 海の浜藻の寄るときどきを 新続古今集
「いさなとり」は海にかかる枕詞とされ、いさなは鯨の古語である。季節を定めて近海に現はれる鯨は、海の豊漁をもたらす神とされた。実際に鯨は餌となるべき小魚の群を追って近海に現はれることが多く、集まった魚の群が豊漁をもたらしたのである。捕鯨が行なはれるときも、食肉用、鯨油用、その他、鯨は全ての部分が無駄なく利用され、鯨は一頭捕れば七浦が栄えるともいはれた。新宮市三輪崎の八幡神社の鯨踊は、鯨の捕獲と豊漁を祝ふ祭であり、鯨の供養の祭でもあった。鯨を供養した塚は全国にある。アメリカでは油とひげ以外を全て廃棄した長い乱獲時代の反省もあり、石油やプラスチック製品で代用できるやうになって捕鯨が全面禁止され、これが欧米主導による国際標準とされた。太地町には鯨博物館がある。
竃山神社 / 和歌山市和田
神武天皇の兄の五瀬いつせ命は、河内の孔舎衛くさか(草香)坂で長髄彦ながすねひこの軍と戦ひ、流れ矢に当たって負傷した。船で紀州の雄水門に至るころ傷が悪化して亡くなり、竃山かまやまの地に葬られた。その地に五瀬命をまつったのが竃山神社である。
○ をたけびの神代のみ声思ほへて 嵐はげしき竃山の松 本居宣長
藤白神社 / 海南市藤白
斉明天皇が紀の湯(白浜湯崎)に行幸された時、旅の無事を祈ってまつった神が、藤白ふぢしろ神社の始りといふ。そのゆかりで境内社として有間皇子神社がある。有間皇子は紀州の旅の途中で亡くなった皇子である。
○ 家にあれば笥けに盛る飯を草枕 旅にしあれば推の葉に盛る 有間皇子
聖武天皇の玉津島行幸の際、僧の行基を藤白神社に参詣させて、皇子誕生を祈願したところ、高野皇女(称徳天皇)がお生まれになった。その縁で光明皇后から社領を賜って以来、「子授け・安産・長寿」の神として信仰を集めた。その後、熊野三山の遥拝所とされ、熊野九十九王子のうち藤白王子をまつり、藤白若一王子社とも呼ばれた。
粉河寺 / 那賀郡粉河町
○ 父母の恵みも深き粉河寺こかはでら 仏の誓ひたのもしの身や 詠歌
むかし素意法師がまだ出家してゐなかったころ、粉河の観音に参篭して、どの地で修行して往生をとげるべきかと祈ったところ、内陣より歌が聞えたといふ。
○ 花衣かざらき山に色替へて 紅葉の外に月を眺めよ 玉葉集
かざらき山(風猛山)は、粉河寺の背後の山のことである。
石堂丸 / 高野山
筑紫の加藤左衛門氏繁は、ある年の花見の宴で、ふと無常を感じ、歌を残して都へのぼり仏の道に入った。
○ ましらなく深山の奥に住みはてて なれゆく声や友と聞かまし
筑紫ではまもなく子の石堂丸が生まれた。父氏繁は十三年間の修行の後ち、高野山に入った。そのころ、石堂丸は母と連れ立って、父に会ふために高野山への旅に出た。高野山は女人禁制のため、母はふもとの村に残り、石堂丸一人で山にのぼった。高野山には三千の寺と二万人の僧がゐるといふ。道行く僧のすべてに父の名を告げて聞いても、知るものはなかった。ある日、ふと声をかけた僧に、父は既に死んだと告げられた。苅萱かるかや道心と名告るこの僧こそ、実は父氏繁だったのである。修行の身の父は、父と名告ることもできず、他人の墓を自分の墓と教へることしかできなかった。石堂丸は教へられた通り墓詣りをすませ、山をおりると、母は病のため世を去ってゐた。すべてを失った石堂丸は、ふたたび高野山にのぼり、苅萱道心に弟子入りを乞ひ、実の父とも知らず、苅萱のもとで修行を続け、高野山で一生を終へたといふ。
○ 父母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉
○ 忘れても汲みやしつらむ旅人の 高野の奥の玉川の水 弘法大師
糸鹿山 / 有田市糸我町
有田市糸我町中番の稲荷神社には、京都の伏見に稲荷の神が降臨した一七〇年前に、稲荷の神が現はれて豊作をもたらしたといふ。
○ 熊野道のいと高山のこなたなる 宇気うけの女神の森の木々に
 御饗みあへ盛りなす雪野おもしろ
右の歌の「宇気の女神」は稲荷神のこと、「いと高山」か縮まって糸鹿いとか山となったといふ。
白河院の熊野御幸の折り、紀伊国の糸鹿坂に輿をとどめて、しばし休息された。そのときお伴の平忠盛が、近くに根を伸ばしてゐたぬかご(山芋の子)を掘って献上した。
○ いもが子は這ふほどにこそ成りにけり(妻の子は這ふほどに成長しました)
白河院のこたへた歌。
○ ただもりとりて養ひにせよ (忠盛が育てよ)
歌に詠まれた子とは、平清盛のことである。平氏は、厳島の神とともに熊野の神を深く信仰し、源氏の八幡神崇敬と対抗するかのやうであったといふ。
宮子姫 / 道成寺
むかし日高郡地方の海女の宮子姫は、藤原不比等の養女となり、文武天皇の后となって聖武天皇をお生みになったといふ。宮子姫の請願により、紀道成きのみちなりが建てたのが道成寺(日高郡川辺町)だといふ。聖武天皇の紀伊行幸のときに従者が由良ゆらの岬(日高町付近)で詠んだ歌。
○ 妹いもがため玉を拾ふと紀伊の国の 由良の御崎にこの日暮しつ 藤原卿
道成寺 / 日高郡川辺町
醍醐天皇のころ、奥州白河に安珍といふ僧があり、毎年の熊野詣の折り、紀州牟婁郡の真砂庄司の家を宿としてゐた。この家に清姫といふ幼い女の子があり、ある年、安珍が宿を借りたとき、戯れの話に、妻にして奥州へ連れて帰らうなどと言ったことがあった。この言葉を幼い女の子は心に深く刻みこんでゐた。
延長六年秋、安珍がこの家に泊ったとき、十三歳になった清姫が、寝床に忍び込んで来て結婚を迫った。安珍は熊野の参詣を終へてからもう一度立ち寄るからと、歌を交はして旅立った。
○ 先の世の契りのほどをみ熊野の 神のしるべもなどか無からむ 清姫
○ み熊野の神のしるべと聞くからに など行く末の頼もしきかな 安珍
安珍は修行の身で結婚などできず、後悔の念にかられた。清姫は、なかなか帰らない安珍を捜しにさまよひ歩いた。道行く人に尋ねると、すでに安珍は牟婁を離れて逃げようとしてゐた。必死の形相で追ひかける清姫は、蛇体となって切目川、天田川を一気に渡り、道成寺へ至って安珍が釣鐘の中に隠れると、釣鐘を七巻きに巻いて怒り狂ひ、激しい炎で鐘もろとも溶かして灰にしてしまった。蛇はそのまま入り江に沈んで行方はわからなくなったといふ。
○ 恐ろしな胸のおもひに沸きかへり 惑ひし鐘も湯とやなりけん 似雲法師
岩代の松 / 日高郡南部町西岩代 西岩代八幡神社
謀反の疑ひをかけられ、紀伊国牟婁温泉に呼び出された有間の皇子は、旅の途中で行く末を祈り、松の枝を結んだ。
○ 岩白いはしろの浜松が枝を引き結び 真幸まさきくあらばまたかへり見む 有間皇子
南方熊楠
和歌山市に生まれた南方熊楠みなかたくまくすは、明治のころ世界を巡って植物学、博物学を究め、西洋の民俗学の紹介も手がけた。紀州の材木をねらった大阪商人が大賛成した神社合祀令には、反対の行動をとった。晩年は田辺市に住み、南紀の植物研究に没頭し、昭和四年の天皇行幸のときに御言葉を賜った。
○ 一枝も心して吹け沖つ風 天皇すめらみことのめでまし森ぞ 南方熊楠
昭和三十七年、再び南紀を行幸された昭和天皇の御製。
○ 雨にけぶる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ 昭和天皇
熊野三社
日本書紀に、伊弉冉いざなみ尊が亡くなったとき、紀州熊野の有馬村に葬られたとある。今の三重県熊野市有馬町の浜辺をいふ。ここから常世へ渡ったのであらう。伊弉冉尊は夫須美神ふ す みのかみの名で那智神社にまつられる。
○ 那智なちの山はるかに落つる滝つ瀬に すすぐ心の塵も残らじ 式乾門院御匣
平安時代以降、南へ向かふ海岸は聖地とされ、南方海上にあるといふ観音の浄土、補陀落世界へ往生しようとする信仰(補陀落渡海ほ だ らくとかい)が広まった。実際に那智山や土佐の室戸岬などから船で出帆した僧が多数あった。鎌倉以後は僧が入水往生することも増えた。補陀落とはインド南部の伝説の国ともいふが、熊野から常世国に渡った神々などの信仰の変化とみることができる。
○ ふだらくや岸打つ波はみ熊野の 那智のみ山にひびく滝つ瀬 御詠歌
黄泉国よ みのくにを訪れた伊弉諾いざなき尊が、うけひ(盟)をしたときに唾の中から速玉之男はやたまの をが生まれた。唾は、髪や爪などと同様にそれを捧げて誓約のしるしとしたり、また男女間などで交換したりする。相撲の力水や寺社参拝時の手水は、口に含んで吐き出すといふ行為を伴ふが、唾と関係するのかもしれない。速玉之男をまつったのが、熊野速玉神社(新宮)である。
○ 千はやぶる熊野の神のなぎの葉を からぬ千年ちとせのためしにぞ引く 藤原定家
伊奘諾尊が禊みそぎをしたときに鼻から生まれたのが素戔嗚すさのを尊である。素戔嗚尊は、木の種を植ゑて紀州に留まった神で、家都御子神け つ み このかみの名で熊野坐くまのにます神社(本宮)にまつられる。
○ 岩にむす苔ふみならすみ熊野の 山のかひある行く末もがな 後鳥羽院
本宮は熊野川の上流の川の中州にまつられてゐたが、明治二二年の洪水で社殿が流され、川の西岸に再建されたといふ。このときの洪水の原因は、上流域の森林の乱伐が原因であると断定され、森林保護の政策もとられた。昭和以後の各地の洪水では、木の神への畏敬が薄れたためか、正しい原因を考へなくなってゐるやうだ。 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

紀伊1
熊野 / 和歌山県南東部から三重県南部にかけての地域。熊野三社ががあり、古来、信仰を集めている。
○ みくまのの濱ゆふ生ふる浦さびて人なみなみに年ぞかさなる
熊野二首
○ 三熊野のむなしきことはあらじかしむしたれいたのはこぶ歩みは
○ あらたなる熊野詣のしるしをばこほりの垢離にうべきなりけり
五月会に熊野へまゐりて下向しけるに、日高に、宿にかつみを菖蒲にふきたりけるを見て
○ かつみふく熊野まうでのとまりをばこもくろめとやいふべかるらむ
承安元年六月一日、院、熊野へ參らせ給ひけるついでに、住吉に御幸ありけり。修行しまはりて二日かの社に参りたりけるに、住の江あたらしくしたてたりけるを見て、後三條院の御幸、神も思ひ出で給ふらむと覺えてよめる
○ 絶えたりし君が御幸を待ちつけて神いかばかり嬉しかるらむ
夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所にすずみて、下向しける人につけて、京へ同行に侍りける上人のもとへ遣しける
○ 松がねの岩田の岸の夕すずみ君があれなとおもほゆるかな
熊野へまゐりけるに、やかみの王子の花面白かりければ、社に書きつける
○ 待ちきつるやかみの櫻咲きにけりあらくおろすなみすの山風
熊野へまゐりけるに、ななこしの嶺の月を見てよみける
○ 立ちのぼる月のあたりに雲消えて光重ぬるななこしの嶺
寂蓮、人々すすめて、百首の歌よませ侍りけるに、いなびて、熊野に詣でける道にて、夢に、何事も衰へゆけど、この道こそ、世の末にかはらぬものはあなれ、猶この歌よむべきよし、別當湛快三位、俊成に申すと見侍りて、おどろきながら此歌をいそぎよみ出だして、遣しける奥に、書き付け侍りける
○ 末の世もこの情のみかはらずと見し夢なくばよそに聞かまし
○ 熊野御山にて両人を戀ふと申すことをよみけるに、人にかはりて
○ 流れてはいづれの瀬にかとまるべきなみだをわくるふた川の水
熊野に籠りたる頃正月に下向する人につけて遣しける文の奥に、ただ今おぼゆることを筆にまかすと書きて
○ 霞しく熊野がはらを見わたせば波のおとさへゆるくなりぬる
後の世のものがたり各々申しけるに、人並々にその道には入りながら思ふやうならぬよし申して   
○ 人まねの熊野まうでのわが身かな (靜空)
○ 霞さへあはれかさぬるみ熊野の濱ゆふぐれをおもひこそやれ (寂蓮)
那智 / 熊野にある地名。那智大社、那智の滝がある。
○ 雲消ゆる那智の高峯に月たけて光をぬける瀧のしら糸
那智に籠りし時、花のさかりに出でける人につけて遣しける
○ ちらでまてと都の花をおもはまし春かへるべきわが身なりせば
奈智に籠りて、瀧に入堂し侍りけるに、此上に一二の瀧おはします。それへまゐるなりと申す住僧の侍りけるに、ぐしてまゐりけり。花や咲きぬらむと尋ねまほしかりける折ふしにて、たよりある心地して分けまゐりたり。二の瀧のもとへまゐりつきたり。如意輪の瀧となむ申すと聞きてをがみければ、まことに少しうちかたぶきたるやうに流れくだりて、尊くおぼえけり。花山院の御庵室の跡の侍りける前に、年ふりたる櫻の木の侍りけるを見て、栖とすればとよませ給ひけむこと思ひ出でられて
○ 木のもとに住みけむ跡をみつるかな那智の高嶺の花を尋ねて
吹上 / 紀伊の紀ノ川口にある砂浜。歌に多く詠まれている。
○ なみかくる吹上の濱の簾貝風もぞおろす磯にひろはむ
小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分けおはしたりける、ありがたくなむ。歸るさに粉河へまゐられけるに、御山よりいであひたりけるを、しるべせよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんといふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へおはしけり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。さりとてはとて、吹上に行きつきたりけれども、見所なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふにも似ざりけり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ傳へられたるものをと思ひて、社にかきつけける
○ あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
○ 苗代にせきくだされし天の川とむるも神の心なるべし
かくかきたりければ、やがて西の風吹きかはりて、忽ちに雲はれて、うらうらと日なりにけり。末の代なれど、志いたりぬることには、しるしあらたなることを人々申しつつ、信おこして、吹上若の浦、おもふやうに見て歸られにけり。
和歌の浦 / 和歌山市南西部にある地名。万葉集から詠まれている。
五條三位入道のもとへ、伊勢より濱木綿遣しけるに
○ はまゆふに君がちとせの重なればよに絶ゆまじき和歌の浦波
○ 家の風吹きつたふとも和歌の浦にかひあることの葉にてこそしれ (藤原公能)
○ 濱木綿にかさなる年ぞあはれなるわかの浦波よにたえずとも (尺阿)
かくかきたりければ、やがて西の風吹きかはりて、忽ちに雲はれて、うらうらと日なりにけり。末の代なれど、志いたりぬることには、しるしあらたなることを人々申しつつ、信おこして、吹上若の浦、おもふやうに見て歸られにけり。
しららの浜 / 紀伊、西牟婁郡にある浜。
○ はなれたるしらゝの濱の沖の石をくだかで洗ふ月の白浪
○ なみよするしららの濱のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな
○ 月かげのしららの濱のしろ貝は浪も一つに見えわたるかな (詠み人知らず)
新宮 / 紀伊熊野にある地名。
新宮より伊勢の方へまかりけるに、みきしまに、舟のさたしける浦人の、黒き髪は一すぢもなかりけるを呼びよせて
○ 年へたる浦のあま人こととはむ波をかづきて幾世過ぎにき
いはしろ / 磐代。紀伊の国日高郡にある地名。有馬皇子の歌にもある。
○ いはしろの松風きけば物を思ふ人も心はむすぼほれけり
千里 / 磐代にある海岸。
○ 思ひとけば千里のかげも数ならずいたらぬくまも月はあらせじ
いとと山 / 糸鹿山。紀伊、有田郡にある山。岩波以外は「いとか山」表記。
○ いとと山時雨に色を染めさせてかつがつ織れる錦なりけり
雲鳥 / 那智の北にある山。
○ 雲鳥やしこき山路はさておきてをくちるはらのさびしからぬか
くま山岳 / 紀伊にあるといわれています。
○ ふもと行く舟人いかに寒からむくま山嶽をおろすあらしに
しほさきの浦 / 不明。和歌山県東牟婁郡潮岬説、淡路島の塩崎説などあり。
○ 小鯛ひく網のかけ繩よりめぐりうきしわざあるしほさきの浦
まくに / 不明。紀伊の国、那賀郡真国の可能性あり。
○ 杣くたすまくにがおくの河上にたつきうつべしこけさ浪よる 
紀伊2
磯間(いそま)の浦 所在未詳。平安時代以後、紀伊国の歌枕とされた。
○ 月読(つくよみ)のひかりを清み神島の磯間の浦ゆ船出す我は(万葉)
○ あづさ弓磯間の浦にひく網のめにかけながら逢はぬ恋かな(定家)
糸鹿山(いとがやま) 有田市糸我(いとが)町の南の山。旧熊野街道沿い。
○ 足代(あて)過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで(万葉)
○ いとか山くる人もなき夕暮に心ぼそくもよぶこ鳥かな(前斎院尾張 金葉)
妹(いも)が島 所在未詳。万葉集の用例は和歌山市加太の沖の友ヶ島の古名かという。形見の浦と共に詠まれることが多い。
○ 芦刈船沖漕ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴(たづ)かける見ゆ(万葉)
○ 風寒み夜のふけゆけば妹が島形見の浦に千鳥なくなり(実朝)
妹背山(いもせやま) 妹山(いもやま)と背山(せのやま)を併せて言う。伊都郡と那賀郡の境。
○ 大穴牟遅(おほなむぢ)少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背の山は見らくしよしも(万葉)
○ 流れては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中(古今)
磐代(いはしろ) 日高郡南部町岩代。旧熊野街道沿い。有間皇子の「結び松」の歌で古来名高い。
○ 磐代の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまた帰り見む(有間皇子 万葉)
○ 行末はいまいく夜とかいはしろの岡のかや根に枕結ばん(式子内親王 新古今)
音無川(おとなしがは) 熊野本宮のそばで熊野川に合流する。
○ 音無の川とぞつひに流れ出づるいはで物思ふ人の涙は(元輔 拾遺)
○ はるばるとさかしき峰を分けすぎて音無川をけふ見つるかな(後鳥羽院)
音無の里(おとなしのさと) 音無川流域の里。
○ こほりみな水といふ水はとぢつれば冬はいづくも音無の里(和泉式部)
神倉山(かみくらやま) 新宮市の西。中腹にゴトビキ岩と呼ばれる大岩があり、古来信仰された。
○ み熊野の神倉山の石たたみのぼりはてても猶祈るかな(西園寺実氏)
紀の川(きのかは) 吉野川が紀伊国に入ると紀ノ川と呼ばれる。
○ 人にあらば母が愛子(まなご)ぞあさもよし紀の川の辺(へ)の妹と背の山(万葉)
切目山(きりめやま) 日高郡印南町の南端の狼煙(のろし)山かという。旧熊野街道沿い。
○ 切目山行き返り道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ(万葉)
○ 見わたせばきりべの山もかすみつつあきつの里も春めきにけり(平忠盛)
熊野(くまの) 紀伊半島南部、牟婁(むろ)地方一帯の総称。
○ 岩にむす苔ふみならす三熊野の山のかひある行末もがな(後鳥羽院[新古今])
○ ちはやぶる熊野の宮の葱(なぎ)の葉をかはらぬ千代のたとへにぞひく(藤原定家)
○ み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(人麻呂 万葉)
○ 熊野川くだす早瀬のみなれ棹さすがみなれぬ波の通ひ路(後鳥羽院 新古今)
黒牛潟(くろうしがた) 海南市船尾(ふのお)・黒江・日方あたり。湾内に黒牛に似た大岩があったという。
○ 黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも(万葉)
○ 黒牛潟こぎいづるあまの友船はすずき釣るにや波間わくらん(源顕仲)
高野山(たかのやま) 伊都郡高野町の高野山(こうやさん)。真言密教の霊場で、山上に真言宗総本山金剛峰寺がある。
○ 暁を高野の山に待つほどや苔のしたにも有明の月(寂蓮 千載)
雑賀(さひが) 和歌山市南部、今の和歌山南港あたりの海岸。
○ 紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の灯し火波の間ゆ見ゆ(藤原卿 万葉)
佐野の渡り 新宮市三輪崎。ただし中世以来、大和の歌枕と見る説が多く、他に上野国説などもある。
○ 苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(長意吉麻呂 万葉)
○ 駒とめて袖うちはらふ影もなし佐野の渡りの雪の夕暮(定家 新古今)
白良(しらら)の浜 今の白浜海岸。
○ 波たてる松はみどりの色なるをいかで白良の浜といふらん(大中臣能宣)
玉津島(たまつしま) 和歌山市の和歌の浦にある島。現在は妹背山と呼ばれている。三断(さんだん)橋で陸地と結ばれている。近くの玉津島神社には稚日女尊(わかひるめのみこと)・神功皇后・玉津島姫を祀る。玉津島姫は衣通郎姫と同一視されて和歌の神とされ、歌人たちに崇拝された。
○ やすみしし 我ご大王の 外(と)つ宮と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干(ひ)れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(赤人)
○ 玉津島絶えぬながれをくむ袖に昔をかけよ和歌の浦浪(良経)
○ 年ふれど老いもせずして和歌の浦にいく代になりぬ玉津島姫(津守国基)
名草(なぐさ) 和歌山市南部。名草山麓には紀三井寺がある。「慰む」を掛けて詠むことが多い。
○ 名草山言(こと)にしありけり吾が恋ふる千重の一重も慰めなくに(万葉)
○ もの思ふを名草の浜の岩千鳥なぐさむだにぞ鳴きまさりける(藤原兼輔)
名高(なだか)の浦 海南市名高。黒江湾と呼ばれていた海湾。
○ 紫の名高の浦の真砂地(まなごつち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ(万葉)
那智(なち) 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町。落差約百三十メートルの那智の滝があり、その近くには熊野三山の一つ那智大社、そして青岸渡寺が並ぶ。花山院はで那智山で修行したと伝わり、二の滝の上流に行在所跡がある。のち西行はそこを訪ねて「木のもとに住みける跡を見つるかな那智の高嶺の花を尋ねて」と詠んだ。
○ 石走る滝にまがひて那智の山高嶺をみれば花の白雲(花山院)
○ 雲かかる那智の高嶺に風ふけば花ぬきくだす滝の白糸(源仲正)
○ 山深くさぞ高からし都まで音にきこゆる那智の滝つせ(藤原為家)
○ 補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のを山にひびく滝つ瀬(御詠歌)
○ 天の原雲なき空の雪と雨ととはに見せたる那智の大滝(佐伯長穂)
○ 三とせ待つまの中の苦しさ山伏は那智のみ山をすみかにて(後土御門院)
花の窟(いはや) 熊野市有馬町。イザナミとカグツチを祀る。
この浜の人、はなの岩屋のもとまで着きぬ。見ればやがて岩屋の山なる中をうがちて、経を篭め奉りたるなりけり。これは弥勒ほとけの出でたあはむよに、とり出で奉らむとする経なり。天人つねに降りて供養し奉るといふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。そとばの苔に埋れたるなどあり。側にわうじの岩屋といふあり。たゞ松の限りある山なり。その中にいとこきもみぢどもあり。むげに神の山と見ゆ。
天人のおりて供養し奉るを思ひて、
○ 天つ人いはほをなづる袂にや法のちりをばうち払ふらむ(増基法師『いほぬし』)
○ 木の国や花のいはやに引縄の長くたえせぬ里の神わざ(本居宣長)
○ 神無月春ごこちにもなれるかな花の岩屋に花祭りして(加納諸平)
吹上(ふきあげ) 和歌山市西南部から紀ノ川河口一帯の地という。
○ 秋風の吹上にたてる白菊は花かあらぬか波の寄するか(道真 古今)
○ 月ぞ澄むたれかはここに紀の国や吹上の千鳥ひとり鳴くなり(良経 新古今)
藤白(ふじしろ) 海南市藤白。旧熊野街道沿い。急峻な坂がある。有間皇子が処刑された地。
○ 藤白の御坂(みさか)を越ゆと白たへの我が衣手は濡れにけるかも(万葉)
○ 藤代や山の端かけて秋風の吹上の波に出づる月影(雅経)
三穂の浦 日高郡美浜町三尾。
○ 風早の三穂の浦廻(うらみ)の白つつじ見れども寂(さぶ)しなき人思へば(河辺宮人 万葉)
湯の峰 熊野本宮大社の南西。古来の湯治場。小栗判官が病を癒した伝説でも有名。
○ 熊野路や雪のうちにもわきかへる湯の峰かすむ冬の山風(正徹)
由良(ゆら) 日高郡由良町。「由良の岬」は未詳だが、由良港の北、神谷(かみや)崎とする説がある。
○ 妹がため玉を拾(ひり)ふと紀の国の由良の岬にこの日暮らしつ(万葉)
○ 紀の国や由良の湊に拾ふてふたまさかにだに逢ひ見てしがな(藤原長方 新古今)
和歌の浦 和歌山市和歌浦。
○ 若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る(赤人 万葉)
○ はるばるといづち行くらん和歌の浦の波路に消ゆるあまの釣舟(藤原清輔)
○ 和歌の浦や沖つ潮合に浮び出づるあはれ我が身のよるべ知らせよ(家隆 新古今)
○ 和歌の浦や凪ぎたる朝のみをつくし朽ちねかひなき名だに残らで(定家)
○ なびかずは又やは神に手向くべき思へば悲し和歌の浦浪(後鳥羽院)
○ 我が世にはあつめぬ和歌の浦千鳥むなしき名をや跡に残さん(伏見院)
○ 横走る蟹を払ひて和歌の浦の道すぐにしもゆく世ならばや(木瀬三之)
○ ゆく年は波とともにやかへるらん面変はりせぬ和歌の浦かな(祝部成仲 千載)  
万葉集 / 磐代
後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞
後(のち)見(み)むと 君(きみ)が結(むす)べる 磐代(いはしろ)の 子松(こまつ)がうれを 又(また)見(み)けむかも
後に見ようと 皇子が結んだ 岩代の 小松の木末を また皇子は見たであろうかなあ

題詞に「大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首[柿本朝臣人麻呂歌集中出也]」とあり、前の「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」(143・144)と同じく、大宝元年(701)9月から10月にかけての持統太上天皇・文武天皇同行の紀伊国行幸時に結び松を見て詠まれた歌であることが分かる。また、題詞下の[小字注]によって、この歌は柿本朝臣人麻呂の歌集にある歌であると知れる。
「磐代」は、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。白浜温泉に近く、当時は熊野にも通じる交通の要所で、海を見晴るかす位置にあり、旅人が木の枝や草を結んで旅の安全を祈った場所であった。 
(「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」の二首目)
磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念 未詳
磐代(いはしろ)の 野中(のなか)に立(た)てる 結(むす)び松(まつ) 情(こころ)も解(と)けず 古(いにしへ)念(おも)ほゆ
岩代の 野中に立っている 結び松(その松の枝は今も解けずにあるが) (それを見る)私の心も結ぼれて解けず 昔のことが(悲しく)思われる

「磐代」は現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。
「結び松」は「小枝を結び合わせた松」をいう。松の小枝を結び合わせるのは、魂を結び込めて命の無事を祈る古代呪術の一つで、後には、誓いをかけたり、契を結んだりしたしるしにした。「野中に立てる結び松」は、前歌「崖の松が枝」とあったのと同じ松を指す。有間皇子の結び松の遺跡と言われる辺りは前方が崖になっており、背後は野と言ってもさしつかえない所である。「結び松」は、実際に枝を結んだ松を見て呼びかけた表現と考えられる。有間皇子が結んだ当時のままであったとは思えないが、意吉麻呂は、そのまま解けずにあるものと信じて詠んだものであろう。 
磐代乃 <崖>之松枝 将結 人者反而 復将見鴨
磐代(いはしろ)の 崖(きし)の松(まつ)が枝(え) 結(むす)びけむ 人(ひと)は反(かへ)りて 復(また)見(み)けむかも
岩代の 崖(がけ)の松の枝を 結んで(無事を)祈った 人(有間皇子)は立ち帰って 再び見たであろうか

題詞に「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」とあり、本歌と次歌(144番歌)は、「長忌寸(ながのいみき)意吉麻呂(おきまろ)が、結び松を見て哀(かな)しび咽(むせ)んで作った歌二首」であることが分かる。長忌寸意吉麻呂は、57番歌の作者(長忌寸奥麻呂)として既出。文武天皇時代の官人で、大宝元年(701)9月から10月にかけての持統太上天皇・文武天皇同行の紀伊国行幸に従駕しており、その途中岩代通過の際に、有間皇子の結び松と伝えられる松を見る機会があり、悲劇的最後を遂げた皇子を偲んで詠んだのが本歌であると考えられる。斉明4年(658)11月の有間皇子の事件からは、およそ43年の歳月が流れているが、衝撃的な事件として語り継がれていたことをこの歌は示している。本歌が、有間皇子の詠んだ141番歌「磐白の濱松が枝を引き結び真幸く有らば亦還り見む」を踏まえていることは明らかであろう。
「磐代」は「磐白」と同じ地名で、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。
「崖」の字は、「岸」と同じく「きし」と訓み、共に現在の「がけ」の意味を表す字であった。後に「きし」には専ら「岸」の字を宛てて、「陸地が川・湖・海などの水に接したところ。みずぎわ。なぎさ。」を意味するようになり、「がけ」に「崖」の字を宛てて、「山や岸などが険しくそばだっている所。きりぎし。」を意味するようになった。 
磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
磐白(いはしろ)の 濱松(はままつ)が枝(え)を 引(ひ)き結(むす)び 真(ま)幸(さき)く有(あ)らば 亦(また)還(かへ)り見(み)む
岩代の 浜の松の枝を 引き結んで(無事を祈るが) 幸いに無事であったなら また立ち帰ってこの松を見よう

題詞には「挽歌 / 後岡本宮御宇天皇代 [天豐財重日足姫天皇 譲位後即後岡本宮] / 有間皇子自傷結松枝歌二首」とある。一行目の「挽歌」は234番歌までかかり、二行目の「後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇のみ代 [天豐財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめの)天皇(すめらみこと) 譲位の後に、後の岡本の宮に即(つ)きたまふ]」は、146番歌までかかる。そして三行目「有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」は、141・142番歌の二首にかかることは言うまでもない。141番歌に詠われている岩代は、紀の温泉(現在の白浜温泉)の手前約20キロの所で、有間皇子は、斉明3年(657)9月に療養の為に出かけた時と同4年11月捕えられて護送された時と、2回、紀の温泉に行っているから、その往復で4回岩代を通っている。141・142番歌に関しては、皇子の実作とする説と、第三者の仮託とする説とあり、皇子の作とする説にも、皇子が捕えられて紀の温泉に護送されて行く途中で詠んだとする説と斉明3年の紀の温泉への旅の途中詠んだと解する説とがある。『萬葉集』編纂者の考えを素直に受け取るとすれば、捕えられて護送される時の歌ということになろう。なお、有間皇子の事件については9番歌の所で詳細に述べたのでここでは割愛する。
「磐白(いはしろ)の」は、「磐代」と同じ地名で、現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。 
君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
君(きみ)がよも 吾(わ)がよも知(し)るや 磐代(いはしろ)の 岡(をか)の草根(くさね)を いざ結(むす)びてな

斉明天皇が紀温泉(きのゆ)へ行幸された折に詠まれた歌。
「君之齒母」は「君(きみ)がよも」と訓む。この「君」が誰を指すかということでは中大兄皇子だとする説が定説と言って良い。当時の「巫祝の長」と言えば、斉明天皇か中大兄皇子ということになる。この作者をもし斉明天皇だとすれば「君」は自ずと中大兄皇子ということになるが、作者を間人皇女(はしひとのひめみこ)と考えると、「君」は斉明天皇とも中大兄皇子とも見ることができることになる。
「磐代」は現在の和歌山県日高郡みなべ町岩代。 
淡嶋神社(あわしまじんじゃ) / 和歌山県和歌山市加太
全国にある淡嶋神社・粟島神社の総本社である。社殿や境内には所狭しと奉納された人形が並べられており、3月3日には「雛流し」の神事が執り行われることでも有名である。また淡嶋神社は婦人病治癒、裁縫上達、安産祈願などの、女性にまつわる事柄に霊験のある神として信仰を集めている。
淡嶋神社の起こりは、神功皇后の三韓征伐の帰途、瀬戸内海で嵐に遭遇した時に、「船の苫を海に投げ入れ、その流れに従って船を進めるように」というお告げによって友ヶ島にたどり着き、そこに祀られていた少彦名命と大己貴命に宝物を奉納したことによる。その後、仁徳天皇が友ヶ島へ立ち寄った際にその逸話を聞き、対岸の加太に社殿を造ったとされる。それ故に、この淡嶋神社の祭神は少彦名命・大己貴命・神功皇后となっている。特に医薬の神である少彦名命を主祭神として、淡嶋神社の数々のご利益を説いている。
また人形供養以外にも不思議な風習がある。境内奥の末社では、婦人の下の病気を防ぐ願掛けとして、身につけていたパンツを奉納する。そのためこの末社では、絵馬と同じようにビニル袋に入れられたパンツが鈴なりになっている。境内の人形と同じく、或る意味、圧巻である。 
淡島神 / 一般に知られている淡島神の伝承には、少彦名命と同一視する以外に、住吉神の后となったが婦人病に罹ったために淡島へ流されてしまった、天照大神の6番目の御子神であるとする説もある。
浮島の森(うきしまのもり) / 和歌山県新宮市浮島
新宮の市街地にある、国指定の天然記念物である。その名の通り水に浮かぶ島であり、縦横約100mほどに仕切られた沼地の上に現在も浮かんだ状態であるという。
この森はいわゆる泥炭で形成されており、水辺に生えていた木々の朽ちたものが水面に溜まって泥炭となり、さらにその上に樹木の種子が落ちて森が作られたと考えられている。かつては風に強い日や森の上で乱暴に走るなどすると本当に移動したと言われるが、現在は沼の底に“座礁”したために動かなくなってしまっている。
森そのものも稀に見る奇異な植生群であるが、さらにここには有名な伝説が残されている。
昔、この森の近くに“おいの”という美しい娘がいた。ある時、父と共にこの森へ薪を拾いに来たのであるが、弁当を食べる段になって箸を忘れてきたことに気付いた。おいのは箸の代わりになる“カシャバ(アカメガシワ)”の枝を求めて、森の奥へ入っていった。ところがいつまで経っても戻ってこないために父も森の奥へ行くと、一匹の大蛇においのが飲み込まれそうになっているところに出くわす。父は必死になって助け出そうとするが、とうとう娘は蛇に飲み込まれるようにして沼の底に沈んでいったという。
今でも、おいのが引きずり込まれた跡とされる“蛇の穴(じゃのがま)”と言われる場所が森の中にある。このぽっかりと開いた穴は、10mの竿でもなお底に届かないとされる。そして「おいの見たけりゃ 藺の沢(いのど)へござれ おいの藺の沢の 蛇の穴へ」という俗謡も広く知られている。さらにこの伝説をモチーフとして書かれたのが、上田秋成の『雨月物語』に収められた「蛇性の淫」である。
「蛇性の淫」 / 新宮の網元の次男であった豊雄は、若い未亡人である真女児に魅入られ、婿になって欲しいという願いを聞き入れ、約束の証として太刀をもらう。しかしそれが熊野速玉神社の宝物であったために豊雄は罪人扱いされ、疑いを晴らすために真女児の宅を訪れるが、そこは廃屋であり、姿を見せた真女児も雷鳴と共に消えてしまう。その後、大和の兄嫁を頼った豊雄は、そこで再び真女児に出会い、ついには夫婦となる。ところが花見に訪れた吉野で、真女児は正体を見破られ、滝に逃げ込んでしまう。再び紀伊に戻った豊雄は、芝の庄司の娘である富子と結婚する。その富子に真女児が取り憑き、復縁を迫る。それに対して調伏を試みた鞍馬寺の僧が取り殺され、そして芝の庄司が頼んだ道成寺の住職によって真女児は封じ込められる。物語の発端を新宮にしている点でモチーフがあるとするが、実際には道成寺の安珍清姫伝説に着想を得ていると言ってよい内容である。
小栗判官車塚(おぐりはんがんくるまづか) / 和歌山県田辺市本宮町湯の峰
説教節で有名な小栗判官の物語は、相模国で毒殺され蘇生した小栗判官が餓鬼阿弥と呼ばれる不具の身体となりながらも、「熊野の湯に入れて元の身体に戻せ」との閻魔大王のお告げを聞いた遊行寺の上人が土車を仕立てて餓鬼阿弥の乗せ、人々に曳かれて湯の峰温泉まで辿り着かせる(途中、美濃の青墓から大津までは、妻となる照手姫が正体を知らずに、亡き夫の供養祈願のためにと車を曳くことになる)。そして49日間の湯治によって小栗判官はついに元の身体となるのである。
湯の峰温泉から熊野大社本宮に通じる道の途中に、車塚と呼ばれるものがある。これが餓鬼阿弥(小栗判官)を乗せてはるばる熊野まできた土車を埋めたところと言われている。ただこの碑の銘には永和2年(1376年)とあり、小栗判官のモデルとなった常陸の豪族・小栗助重の生没年(1413-1481)とは異なっている。
男水門(おのみなと) / 和歌山県和歌山市小野町
神武東征の折、4人兄弟のうち末弟と共に東征に加わったのは、長兄の五瀬命(いつせのみこと)である。しかし、浪速国の白肩津に上陸するとすぐに長髄彦の軍勢と戦い、五瀬命は長髄彦の放った矢によって肘を負傷、東征軍も一旦海上に退却することとなってしまった。
そこで五瀬命は「我々は日の神の御子なので、日に向かい、東に向かって戦うのはよくない。日を背にして、西から戦いをしよう」と言い、浪速津から紀国へ、南の方へと船を動かした。しかし五瀬命の矢傷は酷くなり、紀国に上陸すると、とうとう亡くなってしまったのである。最期の時を迎える際、五瀬命は「卑しい者の放った矢の傷で死ぬのか」と雄叫びを上げたという。そのため、この上陸地を男水門(おのみなと)と名付けたのである。そして亡骸は竃山に葬られたのである。
和歌山市内に、この男水門の比定地がある。水門吹上神社の境内に神武天皇男水門顕彰碑が建っている。この水門吹上神社の由緒は、五瀬命とは特に関連なく、海上に光るものがあり、波に打ち上げられるとそれが戎像であったので祀ったのが始まりとしている。
男水門の比定地 / 和歌山市に近い、大阪府泉南市にある男神社(おのじんじゃ)も「おたけびの宮」として、比定地とされている。
学文路苅萱堂(かむろかるかやどう) / 和歌山県橋本市学文路
高野山の麓にある学文路には『石童丸』の話で有名な苅萱堂がある。
平安末期、筑紫の領主だった加藤左衛門尉繁氏は、妻と愛妾の本性を垣間見て己の欲心の業深さを悟り、家を捨て出家する。 一方、愛妾の千里ノ前は男子を産み、石童丸を名付けた。石童丸が14歳の時、旅の僧から父に似た人を高野山で見たという話を聞き、母と共に出立して学文路に着く。しかし高野山は女人禁制の地であるため、母を宿において石童丸は単身高野山へ行く。行き会った僧に父のことを尋ねるが、実はその僧こそが父である苅萱道心であった。しかし苅萱道心は父とは名乗らず、既に父は亡くなったと石童丸に告げる。そして学文路に戻った石童丸は、母の急死の報に接する。身寄りを失った石童丸は再び高野山へ登って苅萱道心の仏弟子となり、親子の名乗りを上げることなく共に仏道に仕えたという。
学文路苅萱堂は、石童丸ゆかりの堂として建立されたが詳細は不明。石童丸、苅萱道心、千里ノ前、玉屋主人(石童丸親子が宿泊した宿の主人)の座像が安置されている。昭和の終わり頃には廃寺となりかけたが、石童丸の物語を後世に伝えるべく、保存会によって平成4年(1992年)に再建された。隣接する西光寺が管理をしている(拝観も西光寺が受け付けている)。
苅萱堂には、石童丸ゆかりの宝物が所蔵されており、これあらは一括して和歌山県の有形文化財に指定されている。「夜光の玉」などの秘宝があるが、とりわけ有名なものが人魚のミイラである。このミイラは見ると若返るという言われており(人魚の肉を食べると不老不死となる伝説から生まれた俗信であろう)、千里ノ前の父である朽木尚光が所持、千里ノ前が大切に持っていたものとされる。しかしこの人魚の出自は、さらに古いものである。
推古天皇27年(519年)に近江国の蒲生川で人魚が捕獲されたと『日本書紀』にあるが、その時に捕らえられた人魚の兄妹とされている。川のそばにある尼僧の許に訪れていた3人の小姓の正体が人魚であり、一体は蒲生川で捕らえられてミイラとされて地元の願成寺に安置され(非公開)、一体は蒲生川を遡った日野で殺され(現在人魚塚がある)、そして最後の一体は通りがかった弘法大師のお供をして高野山に行ったという。この最後の一体が、苅萱堂に安置されているミイラであるという。
鎌八幡宮(かまはちまんぐう) / 和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷
明治42年(1909年)に丹生酒殿の神社に合祀されて境内社となっているが、鎌八幡宮の創建は高野山開山の歴史も関係する。
八幡宮の名称から分かるように、起源は神功皇后の伝承にまで遡る。三韓討伐の際に神功皇后が用いたとされる幟と熊手がこの神社の御神体であるという。この御神体ははじめ讃岐国の多度津辺りにあったのだが(この当時は熊手八幡と称していた)、弘法大師が高野山を開山した時についてきたために、この地に祀られることになった。そして依り代として櫟(いちい)の木を祀ったのである。
鎌八幡宮は現在も社殿はなく、鳥居の奥には一本の大きな櫟の木があるだけである。しかもその木には無数の鎌が打ち込まれている。この奇観こそが鎌八幡宮の名の由来である。『紀伊続風土記』によると、櫟の木に鎌を打ち込むことで、これを献じて祈願成就を願う。そして成就する場合は鎌がさらに深く食い込んでいき、叶わない場合はそのまま木から外れ落ちるという不思議なことが起きるとされる。現在でも古く錆び付いた鎌に混じって、新しく祈願のために献じられたと思しき鎌が散見できる。
丹生酒殿神社 / 主祭神は丹生都比売命。天照大神の妹神とも、紀ノ川水系の水神であるともされる。また高野山開山とも深く関わる高野神の母神であるともされる。酒殿神社の名称は、丹生都比売命が紀ノ川の水を使って酒を醸したとの言い伝えによる。
『紀伊続風土記』 / 天保10年(1839年)に完成した、紀州藩編纂の地誌。その詳細な記述により、紀州地方の地誌研究の第一級資料とされる。
清姫の墓(きよひめのはか) / 和歌山県田辺氏中辺路町真砂
有名な「安珍・清姫」の話は、熊野詣から端を発する話であり、熊野古道にその伝承地が残る。
奥州の僧であった安珍は毎年熊野詣をおこなっており、毎年のように真砂にある庄司の館を宿としていた。その館の娘の清姫がまだ幼い時に駄々をこねたことがあったが、それをなだめるために安珍は「良い子にしていたら嫁にしよう」と口約束をした。それを本気にした清姫は年頃になって、その約束を果たすように安珍に迫る。困った安珍は「熊野参詣が終わったら戻ってくる」と嘘をつき、帰り道に真砂に寄らずそのまま奥州に戻ろうとした。他の人からの話で安珍の行動を知った清姫は悔しさのあまり後を追い掛け、やがてその邪念から蛇身へと変化し、ついに道成寺にたどり着いて、鐘の中に隠れた安珍もろとも焼き殺してしまうのである。
清姫が住んでいたとされる真砂の地には、清姫の墓と呼ばれるものがある。この地の伝説では、清姫は、真砂の庄司藤原左衛門之尉清重の娘であるが、その母親は清重に命を救われた白蛇であるとされる。そして安珍が清姫に言い寄るものの、障子に映った清姫の影が蛇であることに気付いて逃げ出す。これに世をはかなんだ清姫は淵に身を投げて亡くなるが、その安珍を思う情念が蛇に化身して道場寺まで追い詰めたとされる。これが延長6年(928年)の出来事とされ、清姫の墓がある場所が庄司の館、そのそばにある淵が清姫が身を投げた場所(清姫渕)と言われる。
真砂の庄司家 / 清姫の実家である庄司家は熊野本宮の禰宜職にあり、父の清重が3代目にあたる。この清重の代の時に真砂の地の荘官として移ってきたとされる。その後、庄司家は小領主としてこの土地を治めていたが、天正13年(1586年)豊臣秀吉の紀州攻めの際に一族ことごとく滅びたという。
興国寺(こうこくじ) / 和歌山県日高郡由良町門前
興国寺は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の近臣であった葛山五郎景倫が安貞元年(1227年)に実朝の菩提を弔うために建立した西方寺より始まる。
景倫は、実朝暗殺の後に高野山で出家し、名を願性と改めた。そして同じ近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、供養に勤めていた。その忠義を聞いた実朝の実母・北条政子から由良の地頭職を賜り、寺院を建立したのであった。
願性は、宋の雁蕩山に埋葬して欲しいという主君の生前の願いを叶えるため、高野山金剛三昧院で知り合った心地覚心の渡宋を援助し、分骨を依頼した。さらに正嘉2年(1258年)には、宋より帰国した覚心を開山として寺に招いた。
覚心は宋において禅を学んだが、同時に副産物を日本にもたらし、それらは興国寺を通じて全国に広まっていったのである。1つは金山寺味噌と、その製造過程から出る水分を精製することで作られた醤油。もう1つは普化宗と尺八である。この由良の地は醤油発祥の地とされており、また普化尺八を継ぐ者はこの興国寺で受戒する決まりとなっている。
天正13年(1585年)、興国寺は豊臣秀吉の紀伊攻めの中で伽藍の大半を焼失する。それを再建したのは関ヶ原の戦い後に紀州を領した浅野幸長であるが、不思議な伝承が残されている。興国寺再建のために全国各地に寺僧が勧進して回ったのであるが、その中の一人が赤城山の天狗と出会い、その強い志を知った天狗達が一夜にして堂宇を再建したというのである。この伝説から、興国寺境内には天狗堂があり、巨大な天狗の面が安置されている。
源実朝 / 1192-1219。鎌倉幕府3代将軍。兄の頼家の追放により、12歳で将軍となる。和歌や蹴鞠などの京風の文化を愛した。やがて政治的に京都の朝廷と鎌倉の御家人の圧力の板挟みとなって、厭世的となる。右大臣拝賀のために訪れた鶴岡八幡宮で、甥の公暁によって暗殺される。実朝の宋への想いは、健保4年(1216年)に宋の工人・陳和卿と対面した時、陳から実朝の前世が医王山の長老であるとの発言があり、それを真に受けた(実朝自身が体験した夢告と内容が一致していたと言われる)こtから急速に膨らんだとされる。実際、実朝は渡宋を決意し、陳に対して唐船を建造させている(最終的に船は海に浮かべられずに朽ち果てた)。
願性 / ?-1276。俗名は葛山景倫。源実朝の近習であり、実朝の宋への渡航を実現させるために博多にあった時に、実朝暗殺の報を聞く。その足で高野山に上り、出家。実朝の菩提を弔い、北条政子より由良荘の地頭職を任ぜられる。由良の地に西方寺(後の興国寺)を建立する。
心地覚心 / 1207-1298。臨済宗の僧。高野山の金剛三昧院で退耕行勇に師事。建長元年(1249年)に宋へ渡り、6年間各地で修行する。正嘉2年(1258年)以降は由良西方寺の住職。亀山上皇の帰依を受け、法燈禅師の法号を授かる。
金山寺味噌 / 心地覚心が宋より帰朝した際にもたらした食品。大豆、大麦に刻んだ野菜を合わせて熟成させたもの。「径山寺」と表記する(径山寺は覚心が宋滞在中に参詣した寺院)。この味噌を製造する過程で出てくる水分をもとに作られたのが醤油の始まりとされ、湯浅が発祥の地とされる。
普化宗 / 唐の時代の禅僧・普化和尚を開祖とする禅宗の一派。心地覚心が帰朝の際に伴ってきた4名の居士によって日本にもたらされた。そして興国寺内に普化庵が設けられ、ここを起点に広まっていった(このため、日本における普化宗の元祖は覚心とされている)。普化宗は尺八を法器とみなし、江戸時代になると幕府の認可を受けて虚無僧が活動する。明治時代になると、幕府とも繋がりのために普化宗は解体されてしまう。
浅野幸長 / 1576-1613。父は豊臣時代の五奉行の一人、浅野長政。関ヶ原の戦いでは、石田三成憎しで東軍に属す。加藤清正と共に関ヶ原以降も豊臣秀頼への忠誠を尽くしていたため、死去の際は毒殺との噂も流れた。浅野家は元和5年、2代藩主・長晟の時に和歌山から広島へ転封となる。
高野山 奥の院(こうやさん おくのいん) / 和歌山県伊都郡高野町高野山
高野山の奥の院が聖地とされるのは、参道の最も奥まった御廟に空海がいるからである。空海は835年3月21日、この高野山において(即身成仏)した。つまり、生きたまま仏となったのである。入定する際、空海は真言を唱えながら、大日如来の印を結び、結跏趺坐の状態だったという。そして今でもこのままの姿で 国家鎮護のためにあるという(実際今なお、毎朝食事が供せられる)。まさしく聖地の中の聖地である。
この奥の院にも不思議な伝説・伝承のものがある。武田信玄親子の墓所の横にあるのが“大師腰掛け石”である。空海がここに腰を下ろしているうちに窪んでしまったという逸話が残っている。果たして丸いくぼみになっており、何らかの事情で磨滅した石であることが判る。さすがに腰掛けるだけで出来るようなものではない。
一之橋から御廟に至る参道の途中に中之橋が架かっている。その橋のすぐそばには“汗かき地蔵”と“姿見の井戸”という伝説を持つ二つの物件がある。“汗かき地蔵”は罪多き人の代わりに地獄の業火を受けて汗をかくのだそうである。しかも巳の刻(午前10時前後)に汗をかくという言い伝えがある。
そして高野山七不思議の一つとされる“姿見の井戸”であるが、その井戸の水は眼病に効くという。さらにこの井戸を覗き見て、もし自分の姿が見えなかったら、三年以内に死ぬということらしい。
御廟に架かる橋から奥は(聖地)であり、写真撮影も一切禁止である。この橋の下を流れる 玉川に住む魚にも、伝説は残されている。空海がこの地を訪れた時、一人の猟師がこの川の魚を串刺しにして焼こうとしていた。それを憐れんで魚を川に解き放つと、再びそれは生命を取り戻して泳ぎだしたという。そのため、現在でもこの川を泳ぐ魚には串が刺さっていた部分が斑点として残されている。
そして御廟はまさに異様な雰囲気であった。御廟の手前にある燈籠堂には、所狭しと飾られた灯籠に灯りがともされ、読経の声が響き渡る。この世で最も浄土に近い場所と言われるだけの荘厳な雰囲気である。
空海 / 774-835。真言宗の開祖。諡号は弘法大師。讃岐国に生まれ、若くして数々の霊場霊山にて修行に励んで出家、31歳の時に留学生として唐で真言密教を伝授される。2年後に帰国、43歳の時に高野山を建立。50歳の時に救王護国寺(東寺)を建立。62歳で高野山にて入滅。全国各地に伝承を持つ。
高野山 壇上伽藍(こうやさん だんじょうがらん) / 和歌山県伊都郡高野町高野山
高野山といえば空海の開いた真言宗の総本山であり、標高900mの山頂にある要塞のような宗教都市である。その中核は金堂・根本大塔をを中心とする“壇上伽藍”である(このエリアの管理は金剛峯寺がおこなっている)。このエリアは特に観光の中心地でもあり、取り立てて説明の必要もないだろう。だが、ここには高野山開山にまつわる伝承の物件がある。
遣唐使として唐にあった空海は、帰国の直前に「有縁の地を探す」べく、法具である三鈷杵(さんこしょ)を海上はるか遠くへ投げ飛ばしたという。そしてその三鈷杵は高野山の松の枝に引っ掛かっていたため、その地を真言密教の修行場としたのであった。
この松は現在でも受け継がれており、金堂と御影堂の間に植えられている。この松には非常に顕著な特徴があり、三鈷杵が引っかけられたために、松葉が三つに分かれている(普通の松は二つに分かれている。ちなみにこの松の葉も多くは二つに分かれており、三つに分かれているものはそれほど多くないという)。この三つに分かれた松葉を見つけだし、それを持っていると幸運が訪れるらしい。
空海がこの高野山に修行の場を開くに当たっては、もう一つの伝承がある。空海がこの地を訪れた時に、高野山へ導いた者があった。それは黒白二頭の犬を従えた狩場明神(高野明神)であった。狩場明神は、この高野山を護る丹生都比売大神(丹生明神)の御子神である。 空海は高野山を嵯峨天皇から賜ったことになっているが、実質的にはこの二神から譲られた形になっている。
壇上伽藍の西端に御社(みやしろ)と呼ばれる、丹生明神と高野明神を祀る神社がある(十二王子百二十伴神も同じく祀られている)。記録によると、空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。鎮守社であるから最初に建立するのが当然と言えば当然なのだが、壇上伽藍の一角に、しかも主要な堂宇に比肩する大きさを持つ社を見るにつけ、それだけこの二神に対する畏敬を感じざるを得ない。
金剛峯寺 / 現在は、真言宗の管長が住む総本山寺院のみを指しているが、明治より前は高野山の伽藍の総称として使われていた。壇上伽藍を管理しているのはそういう事情から来ている。
三鈷杵 / 法具である金剛杵の一種。金剛杵は柄の両端に槍状の刃が植えられており、インドの神の武器が原型となっている。煩悩を討ち滅ぼし、菩提心を示すものとされる。三鈷杵はその金剛杵の刃の部分が3つに割れているものを指す。空海が投げた三鈷杵は現存、重要文化財である。
丹生明神 / 丹生という名称は、古来、丹=辰砂(朱砂:朱の原料)を扱う一族に付けられたものであり、丹生明神はその守神となる(総本社である丹生都比売神社は、伊都郡かつらぎ町にある)。辰砂は後に水銀精製になくてはならない原料となる。高野山一帯もこの辰砂の採れるエリアである。
高野明神 / 狩場明神とも言われる、丹生明神の御子。その姿は猟師の衣装であり、山中を分け入って歩く者を表していると思われる。丹生明神の御子という立場から、高野明神は丹生一族そのものの象徴ではないかと考えられる。
ゴトビキ岩 神倉神社(ごとびきいわ かみくらじんじゃ) / 和歌山県新宮市神倉
現在は熊野速玉大社の境外摂社という扱いとなっているが、神倉神社はこの周辺でも古社の一つとして数えられる神社である。
記紀によると、神武東征の時、紀伊に上陸した神武天皇の下へ高倉下(タカクラジ)という者が神剣フツミタマを献上したとされる。この剣は高天原より霊夢によって遣わされたものであり、これによって神武東征は成功することになる。この剣を献上した高倉下がこの神倉神社の祭神である。
さらに時が下り、熊野信仰が盛んになると、熊野三神が諸国を巡り阿須賀神社に鎮座する前に降臨した地として神倉神社が挙げられるようになる(『熊野権現垂迹縁起』による)。要するに、熊野の神が現在の大社に鎮座する前の前、神々がこの鎮座する土地に最初に現れた場所と認定されたのである。この神社がいかに重要な地位を占めるかが分かる伝承である。
この神社の御神体がゴトビキ岩である。ゴトビキとはこの地方の言葉で“ガマガエル”を意味する。岩そのものが蛙の姿に似ているせいであろう。この岩が小高い山の頂上に鎮座しているのである。まさに巨石を磐座とみなし、それを崇拝する自然信仰がそのまま神社の形態を取っていると言うべきであろう。またこの岩を神武天皇が東征の際に上ったとされる天磐盾(アメノイワタテ)とみなすという説もある。
この神社がいかに崇敬を受けていたかの一つの証左として、このゴトビキ岩までつけられた石の階段がある。源頼朝が寄進したという、自然石で組み上げられた階段は全部で538段。非常に急で険しい階段である。例大祭ではこの急峻な階段を闇夜の中で松明片手に一気に駆け下りるという神事がおこなわれる。その後で、阿須賀神社を経由して熊野速玉大社を巡る神事であり、おそらく神の降臨を表現するためにおこなわれるようになったものではないかと推察する。
高倉下 / 高倉下が見た霊夢は、アマテラスとタカミムスビが争乱を鎮めるためにタケミカヅチを遣わそうとすると、フツミタマの存在をタケミカヅチが進言し、倉の中にその神剣を置くと告げられたという内容である。高倉下はまた天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一とされ、その名前で尾張氏の祖先、弥彦神社の祭神とされている。
フツミタマ / 布都御魂。神武天皇による大和平定後は、物部氏の祖である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト。アマノカグヤマノミコトとは兄弟神にあたる)によって管理される。崇神天皇の代になって、石上神宮の御神体となる。明治時代に禁足地から発掘され、現在は神殿に祀られている。
小山塚(こやまづか) / 和歌山県和歌山市太田
天正13年(1585年)、羽柴秀吉は一説10万もの兵を自ら率いて紀伊国を攻めた。敵対する根来・雑賀衆を討伐するためである。首尾よく根来寺を制圧した秀吉の軍勢は、雑賀衆の残党約5000が立て籠もる太田城を取り囲んだ。
太田城は、現在の和歌山の市街地にあった、かなり強固な城であった。さらに雑賀衆の鉄砲隊がおり、数を頼りに攻めるにせよ、かなりの被害を覚悟しなければならなかった。そこで、緒戦で53名の戦死者を出した後、秀吉は水攻めで城を落とすことに決めた。そして城を囲むように、総延長6kmにも及ぶ堤防をわずか6日間で築き上げた(従事者は延べ46万人とも伝わる)。
日本三大水攻めと言われる攻防戦であるが、堤防の一部決壊によって守備をしていた宇喜多勢に多数の溺死者が出たり、城攻めに安宅船を使うものの不首尾に終わったりなどの出来事があったが、約1ヶ月後に城側が降伏して決着が付いた。(籠城していた多くの農民については助命し、すぐに耕作が可能な状況にしてやったとされる。ただその際に、武器の所持を禁止しており、これが「刀狩」の嚆矢とされている)
降伏の条件は、城主の太田左近以下53名の自害であった。これは城攻めの緒戦で戦死した者と同じ数にしたとも言われている。自害した者の首は晒された後、3箇所に分けて埋葬された。その1つがこの小山塚である。現在ある碑は昭和27年(1852年)に建てられ、その後の区画整理によって昭和60年(1985年)に現在地に移転した。隣にある来迎寺がかつての太田城の本丸に位置すると伝えられている。しかし既にこの周辺は住宅地となっており、城跡の痕跡すら存在していないのが現状である。 
日本三大水攻め / 備中高松城攻め、紀伊太田城攻め、武蔵忍城攻め。前の2つは羽柴秀吉によるもの、忍城攻めは石田三成によるものである。
鈴木屋敷(すずきやしき) / 和歌山県海南市藤白
全国で2番目に多い姓と言われる鈴木氏であるが、この姓の発祥とも言うべき地がこの鈴木屋敷である。
鈴木氏は熊野三党の一つとして、熊野神社と深く関わりを持つ一族である。平安期に熊野の地から藤白へ移住し、その地の王子社(現在の藤白神社)の神官を代々務めた。この一族が熊野信仰の普及のために全国各地を訪れ、多くの分家をつくり、信仰者に姓を与えたことによって、鈴木姓が全国に広まったとされる。
鈴木屋敷は藤白神社の敷地内にあり、代々の鈴木氏の本家が居住していた。またこの屋敷の敷地には義経弓掛松があり、源義経が熊野詣でをした際に何度か訪れているとされる。実際、義経の家来の鈴木三郎重家は鈴木家の当主であり、また義経四天王の一人で弓の名手とされた亀井六郎重清は重家の実弟である。
鈴木氏 / 本姓は穂積氏。穂積氏から熊野三党と呼ばれる、鈴木・榎本・宇井氏が起こる(この三党が熊野信仰の象徴である八咫烏の三本足に当たるとも言われる)。平安期に藤白の地に移ってきた藤白鈴木氏が、鈴木姓の総本家であるとされる。ただし昭和17年(1942年)、122代目当主の死によって総本家は断絶している。
闘雞神社(とうけいじんじゃ) / 和歌山県田辺市東陽
地元では“権現さん”の名で通っている神社。創建は允恭天皇8年(419年)とされ、熊野権現を祭神として田辺宮と呼ばれた。しかしこの神社が発展するのは平安時代末の頃からとなる。熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を祀り、さらに熊野別当であった湛快が田辺の地に移り住んで田辺別当として独立することによって、熊野三山の別宮的存在となっていったのである。実際、田辺の地は熊野古道の大辺路(海側ルート)と中辺路(山間ルート)の分岐点であり、熊野詣での際にこの神社で遙拝を済ませて帰途に就く者も少なくなかったと言われる。
現在の名称である“闘雞”の由来は、湛快の子である湛増による。源平の合戦の折、熊野別当として周辺に勢力を拡大し、熊野水軍を率いる湛増に対して、源氏・平氏方いずれからも協力を求められた。そこで湛増は神社で闘鶏をおこなって、源平いずれに味方するかを決めたといわれる。『平家物語』によると、いずれに味方するか迷った時に熊野権現に祈りを捧げると「白旗(源氏)につけ」との託宣があった。さらに社地にあった鶏を紅白に7羽ずつに分けて戦わせたが、ことごとく白側の鶏が勝ったため、ここに及んで湛増は源氏方への味方を決めたとされる。そして熊野水軍は源氏の援軍として壇ノ浦の合戦に参加。平氏を滅ぼす功績を挙げたのであった。これにより闘雞神社という名が付いたとされる。
また湛増の息子の一人が武蔵坊弁慶であるとの伝説もあり、境内にはそれらの銅像もある。
熊野別当 / 熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を統轄する役職。この3つの神社が“熊野信仰”として一体化された平安期頃から設けられたとされる。世襲制であるが、後に新宮別当家と田辺別当家などに分裂する。湛増らが活躍した鎌倉幕府成立期が最盛期であり、血縁や戦功によって鎌倉幕府の地頭職を得るなどして勢力を拡大させた。南北朝時代には衰退。
湛快 / 1094-1174。第18代熊野別当。熊野詣での要衝である田辺へ進出して田辺別当となる。平治の乱が起こった時に別当職であった湛快は、平清盛に助言して勝利へ導いたとの伝説があり、平家との結びつきが強かったとされる。
湛増 / 1130-1198。第21代熊野別当。父からの縁で平家に味方するが、後に源氏に与する。妻の母は新宮別当家の鳥居禅尼(源為義の娘、源行家の姉に当たる)。壇ノ浦の戦いでは熊野水軍200艘を率いて参戦して勝利に貢献、後に鎌倉幕府より地頭職を認められる。息子に一人が武蔵坊弁慶であるとされるが、史実としては未確認。 
 
 
大阪府 / 河内、摂津、和泉

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

天の下のどけかるべし難波潟 田蓑の島に御祓しつれば 津守経国
八十島祭 / 難波
八十島祭やそしままつりとは、天皇の即位礼の翌年に行なはれた皇位継承の儀式の一つで、平安時代から鎌倉中期まで行なはれた。難波(大阪市北区・福島区のあたり)には大小多数の島々があり、これらの島々を大八洲おほやしまに見立て、島々の霊を招き寄せて大八洲の主としての天皇の資格を祝福するものといはれる。後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○ 天の下のどけかるべし難波潟 田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○ おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あはしま
 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
長柄の人柱 / 大阪市淀川区東三国町
むかし難波の入り江は八十島といはれたほど州が多く、そこに架けられた橋はよく流された。推古天皇の御代に、垂水たるみの里と長柄ながらの里のあひだに、橋を掛け直すことになったといふ。二度と流されることのないやうにと、垂水長者の岩氏いはじは、袴に継ぎのある者を人柱にすべしと進言した。ところが言ひ出した長者自身が継ぎ袴を着けてゐたため、人柱となったのである。
橋が無事に完成してのち、長者の娘は、北河内の甲斐田かひた長者に嫁いだが、いつまでたっても口をきくことができなかった。とうとう垂水の里に帰されることになって、里近くの雉子畷きぎしなはてまで来たとき、一羽の雉子が鳴き声をあげて飛び立った。甲斐田長者がこの雉子を射ると、それを見てゐた妻が突然歌を詠んだ。
○ ものいはじ父は長柄の橋柱 鳴かずば雉子きじも射られざらまし
夫は妻が口をきけるやうになったことを喜び、甲斐田の里へ連れ戻って、幸せに暮らしたといふ。
『神道集』によると、垂水長者が人柱になったとき、その妻は幼児を背負ったまま川に身を投げたといふ。そのとき歌を残した。
○ ものいへば長柄の橋の橋柱 鳴かずば雉子のとられざらまし
この妻は橋姫と呼ばれ、里人は橋姫をあはれんで橋姫明神をまつったといふ。
水神の信仰には古く母子神が関ってゐるらしい。柳田国男によれば、各地の沼や河辺に伝はる竜神と人身御供の話は、類似の話が多く、諸国を巡遊した山伏や比丘尼びくにによって広まった物語であって、歴史的事実を伝へるものではなからうといふ。
難波の橋姫
むかし都を離れて難波に住んでゐた中将があった。二人の妻があったが、本妻の宇治の橋姫は、長くつはりで苦しんでゐた。七色のわかめが効くといふので、それを求めて中将は、難波の海に出たが、そのまま三年たっても帰らなかった。
橋姫が夫をさがして夕暮の浜辺をさまよってゐると、一軒の家があった。家に入ると、老婆があり、老婆の話に、中将は竜宮に行って婿になったと聞かされた。老婆は、今夜中将が来るので迎へにゆくといひ、橋姫に火にかけた鍋の中を決して見てはいけないと言ひ残して部屋を出た。橋姫が言ひつけ通りに待ってゐると、隣の部屋で酒盛りの声がする。老婆が現はれて、橋姫に隣の部屋を覗かせると、もののけの宴の中で、やつれた姿の夫が、歌ばかり繰り返して歌ってゐた。
○ さむしろに衣かたしき今宵もや 我を待つらむ宇治の橋姫 古今集
かうして老婆のはからひで、橋姫と中将は、涙の対面を喜びあったが、中将は身の不遇を嘆き、再会を約束してその日は別れることになった。
橋姫は、夫に逢へた喜びを、中将の別の妻に語った。するとその妻も一人で浜の老婆の家に出かけた。ところが妻は「鍋を見るな」の言ひつけも守らず、中将の「さむしろに」の歌に、橋姫ばかりに思ひを寄せてゐると嫉妬し、老婆の家を飛び出した。門の外に出て振り返って見ると、今まであった家は消えてなくなり、ただ砂浜の上に板屋貝が一つあるのみだったといふ。中将は二度と戻らず、橋姫は別の妻に語ったことを悔やんだといふ。
○ ちはやぶる宇治の橋姫汝なれ をしぞあはれと思ふ年の経ぬれば 奥儀抄
蘆刈 / 難波
摂津国、難波に若い夫婦がゐた。何かの原因で収入を断たれ、仕へてゐた者も去り、屋敷は荒れ放題で、将来を案じる毎日だった。男は、若い妻の貧しい姿を見るに忍びず、「汝は京に上って宮仕へをせよ」と言ひ、再会を約束して二人は別れることになった。
妻は京の貴族の家に仕へることができたが、夫のことを忘れず、たびたび故郷に手紙を出すが、一度の返事もなく、夫の行方は杳として知れなかった。そのうちに家の北の方が亡くなると、女は貴族の妻に迎へられた。幸せな暮らしではあったが、やはり摂津のことは気になってしかたがない。あるとき難波の祓への行事を知り、それを口実に別れた夫を捜しに難波に出かけた。
難波のもと居た家は跡もなく、捜しあぐねて日も暮れかかるころ、車の前を蘆刈あしかりの男が横切った。乞食のやうないでたちだったが、別れた夫に似てゐる。伴の者に、男の葦をすべて買ひ上げるやうに言ひ、男を呼び寄せた。近寄る男の顔は、別れた夫に間違ひなく、涙があふれ、男に食物と衣服を与へるやうにいった。そのとき、車の下簾の陰から、女の顔が、男の目に入った。別れた妻の顔である。男は自分のみすぼらしい姿をみじめに思ひ、その場に葦を投げ棄てて逃げ出した。近くの家に飛びこんで竃の陰に隠れた。伴の者がやうやく探し出したが、声をかけてもそこを動かず、ただ硯と墨を乞うて歌を書いて渡すだけだった。
○ 君なくてあしかりけると思ふにも いとど難波の浦ぞすみうき
歌を受け取ると、女はよよと泣いて、自分の衣服を脱いで与へ、歌を書き添へて、京へ去っていったといふ。
○ あしからじとてこそ人の別れけめ 何か難波の浦もすみうき 大和物語
曽根崎天神 / 北区
曽根崎は、上古には曽根州そ ねのしまと呼ばれた孤島だった。島に一小祠があり、難波八十島祭の一つの往吉住地曽祢の神をまつったことから曽根州の名となったといふ。
延喜元年、菅原道真が筑紫への道すがら、この曽根崎を過ぎたとき、路ばたの草の露が袖を濡らしたので、歌を詠んだ。
○ 露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思ひ出づれば 菅原道真
この歌から曽根の神は「露つゆ天神社」と呼ばれ、のちに道真の霊が合祀された。梅雨入りのころ境内から清水が涌き出たので「梅雨つゆの天神」といったともいふ。地名から「曽根崎天神」とも呼ばれ、近松門左衛門の「曽根崎心中」(お初徳二郎)の舞台となったことから「お初天神」とも呼ばれる。上田秋成は曾根崎生まれ。
道明寺天満宮 / 藤井寺市道明寺
菅原道真公が太宰府へ赴任するとき、難波から内湾を通って南河内の道明寺(藤井寺市)へ向かふ船の中で歌を詠んだ。
○ 世につれて浪速なには入江もにごるなり 道明らけき寺ぞ恋ひしき 菅原道真
道明寺に住む伯母の覚寿尼に、暇乞ひをするために立ち寄ったのである。一泊して、まだ夜の明けぬころ、鶏が鳴いた。
○ 鳴けばこそ別れも憂けれ鶏とりの音の 聞えぬ里の暁もがな 菅原道真
早く鶏が鳴いたため、道真は、不満足な思ひで旅立つことになった。以来、里人は鶏を飼はず、今も鶏の肉を食べないといふ。「鶏が鳴けば神は帰らねばならぬ」(折口信夫)といふ古代の信仰が考へられる。また同族の土師氏がまつったともいふ埼玉県の鷲宮神社など、土師氏菅原氏と鳥との縁も想像される。道真公は道明寺天満宮にまつられてゐる。
交野 / 枚方市 片埜神社
垂仁天皇の皇后の葬儀のときに埴輪を考案した野見宿禰の みのすくねは、土師臣はにしのおみの姓を賜り、河内国に所領を賜った。河内の土師一族は、その氏神として片埜かたの神社(枚方市)を創祀し、出雲国の祖神の素戔嗚尊をまつった。後世に土師氏の後裔の菅原道真が合祀された。
野見宿禰が埴輪を造って古墳の副葬品として以来、殉死の制が廃止されたといはれてゐたが、わが国に殉死の史実が確認されないことから、殉死廃止の話は大陸の説話を習合したものと考へられてゐる。
交野かたのの地は、遊猟の地、桜の名所として知られ、伊勢物語では惟喬親王と在原業平が、渚の院の桜や、天の川をめでた話が伝はる。
○ 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
○ 狩り暮らし棚機女たなばたつめに宿借らむ 天の河原にわれは来にけり 在原業平
草香江
古代には河内国の中央部まで入江が入り込み、この入江に淀川と大和川が流れこんでゐた。この内湾を、草香くさか江とも河内湾とも呼んでゐる。
○ 草香江くさかえの入江の蓮はちす花蓮 身の盛り人羨ともしきろかも 赤猪子
大和川は、宝永元年(1704)に現流域に付け替へられ、西流することになった。
江口の遊女 / 東淀川区
今の淀川と神崎川の分岐点付近に、江口といふ古くから栄えた港があり、遊女の伝説もある。
むかし西行法師が江口の里で宿を乞ふと、その家から「妙の君」と名告る遊女が現はれ、ここは僧の泊まるところではないのでと断ってきたので、西行は歌を詠んだ。
○ 世の中を厭ふまでこそかたからめ かりの宿りを惜しむ君かな 西行
妙の君は、さらに歌で断った。
○ 世をいとふ人とし聞けばかりの宿に 心とむなと思ふばかりな 妙
西行は、妙の君の歌に感心し、そこを引き下がって他の宿を求めたといふ。妙の君はのちに寺を建て、死ぬときは普賢菩薩の姿になって天に昇ったといふ。
後世のこと、ある旅僧が江口の里を訪れると、積塔があるので、里の男にその言はれを尋ねてみると、遊女の墓だといふ。僧は、伝説の西行法師の歌を思ひ浮かべた。するとどこからか女が現はれて、遊女妙の君の歌を口にした。女は自分が妙の化身だと述べた。(謡曲・江口)
住吉神社 / 住吉区
住吉すみよし神社は、神功皇后の新羅征伐のときにまつられたといひ、航海安全と軍の神として信仰されてきた。古くから歌垣も開かれ、万葉時代には、その集ひを「墨江すみのえの小集楽をずめ」といった。
むかし田舎のある夫婦が、住吉の歌垣の集ひに参加したとき、妻の美しさが他のどの女よりも増して一番だったものだから、男はますます妻のことを愛しく思ひ、歌を詠んだ。
○ 住吉すみのえのをづめに出でてまさかにも 己妻おのづますらを鏡と見つも 万葉集
住吉の神は、和歌の神としても信仰され、和歌三神とは、住吉の三神(上筒之男うはつつの を 命、中筒之男命、底筒之男命)のことともいひ、住吉と玉津島明神と天満宮のことだともいふ。
○ 標しめ結ひてわが定めてし住吉の 浜の小松はのちもわがまつ 余明軍
社地の西方は浜になってゐたが、時代とともに浦は浅くなり、慶長のころから、干拓や新田開発が盛んに行はれた。
○ 住吉の新田ふえて年々に あとずさりする岸の姫松 太田南畝
蟻通明神 / 泉佐野市長滝字蟻通 蟻通神社
蟻通ありとほし神社(泉佐野市)は大名持おほなもち命をまつる。
むかし紀貫之が、和歌の神で知られる紀州の玉津島神社を参詣した帰りのこと、和泉国で急に日が暮れて雨模様となり、馬が死にさうになった。その土地の神である蟻通し明神のなせるわざであると聞いて、次の歌を読んで奉納すると、馬は回復したといふ。
○ かき曇りあやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは 紀貫之
(有りと星、蟻通し をかける)
次のやうな伝説もある。
むかし唐から七曲りの細穴を抜いた玉が贈られて来たが、誰もこの穴に緒を通すことができなかった。ある老夫婦の智恵により、蟻の腰に糸を繋ぎ、蜜を反対側の穴の口に塗って蟻を這はせ、見事に糸を通すことができた。それ以来わが国でも老人を大切にするやうになったといふ。この老夫婦に孝養を尽くしてきた某中将は、のちに神と崇められ、蟻通の明神にまつられたといふ。
○ 七曲に曲れる玉の緒を抜きて ありとほしとも知らずやあるらん 中将の神
信太の狐 / 和泉市葛葉町 信太森神社(葛葉稲荷神社)
    葛の葉の子別れ
摂津国の安倍保名あ べのやす なは、ある日、和泉国信太しのだの森で狩人に追はれた狐を助けたことがある。恩を感じた狐は女の姿となり、「葛くずの葉」と名告り、保名の妻となって一児をまうけた。ある日、庭の菊の花に見とれて狐の本性を子どもに悟られてしまひ、狐は歌を書き残して去っていった。
○ 恋しくばたづね来てみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉
母をたづねたその子は、狐から霊力を授かったといふ。この子が、のちの陰陽の頭、天文博士の安倍晴明であるといふ。
諸歌
○ 嬢子らにをとこ立ち添ひ踏みならす 西の都は万代の宮 続日本紀
堺市甲斐町うまれの歌人の歌
○ 海恋し潮の遠鳴りかぞへては 少女となりし父母の家 与謝野晶子 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

河内 / 国名。畿内の一国。淀川の内という意味がある。
天の川 / 河内の国北河内郡にある地名。
○ 天の川名にながれたるかひありて今宵の月はことにすみけり
○ みをよどむ天の川岸波かけて月をば見るやさくさみの神
天王寺へまゐりけるに、片野など申すわたり過ぎて、見はるかされたる所の侍りけるを問ひければ、天の川と申すを聞きて、宿からむといひけむこと思ひ出だされてよみける
○ あくがれしあまのがはらと聞くからにむかしの波の袖にかかれる
(以下の歌の「天の川」は固有名詞ではなくて、天体の天の川を指しています。)
○ 天の河けふの七日は長き世のためしにもひくいみもしつべし
○ ふねよする天の川べの夕ぐれは凉しき風や吹きわたるらむ
○ 棚機のながき思ひもくるしきにこの瀬をかぎれ天の川なみ
○ 苗代にせきくだされし天の川とむるも神の心なるべし
○ おなじくは嬉しからまし天の川のりをたづねしうき木なりせば
○ 天の川流れてくだる雨をうけて玉のあみはるささがにのいと
よこ野 / 横野。河内の国、中河内の横野説、尾張の国中島郡の横野説があります。
○ 菫さくよこ野のつばな生ひぬれば思ひ思ひに人かよふなり
弘川 / 河内の国、南河内。西行法師は1190年2月16日、弘川寺にて入寂。 
和泉の国1
高石 / 現在の高石市。大阪湾に面していて、和泉の国の北部。ほかに愛知県渥美郡高師町、遠江に高師の山が詠まれている。
○ こぎいでて高石の山を見わたせばまだ一むらもさかぬ白雲
○ 朝風にみなとをいづるとも舟は高師の山のもみぢなりけり
ふけゐ / 和泉の国、泉南郡の海岸。
○ 千鳥なくふけゐのかたを見わたせば月かげさびし難波津のうら
しのだの森 / 和泉の国の名所。阿倍保名の「葛の葉」伝説で有名。
○ 秋の月しのだの森の千枝よりもしげきなげきや隈になるらむ
○ もの思へばちぢに心ぞくだけぬるしのだの森の枝ならねども 
和泉の国2
蟻通神社(ありとほしじんじや) 泉佐野市長滝。旧熊野街道沿い。
○ かきくもりあやめもしらぬ大空にありとほしをば思ふべしやは(貫之)
信太(しのだ)の森 和泉市葛の葉町の葛之葉稲荷神社の森という。
○ 和泉なる信太の森の葛の葉のちへにわかれてものをこそ思へ([古今和歌六帖])
○ 恋しくはたずね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉([芦屋道満大内鑑])
○ くまもなく信太の森のしたはれて千枝の数さへ見ゆる月影(藤原実能[詞花])
○ 日をへつつ音こそまされ和泉なる信太の杜の千枝の秋風(藤原経衡[新古今])
○ 風さはぐ信太の森の夕立に雨を残して晴るる村雲(西園寺実氏[新後撰])
○ 夕立の名残久しきしづくかな信太の杜の千枝の下露(伏見院[風雅])
高師(たかし)の浜 高石市の海浜部。
○ 大伴の高師の浜の松が根を枕(ま)きて寝(ぬ)る夜は家し偲はゆ(置始東人)
○ 音に聞く高師浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ(紀伊)
吹飯(ふけひ)の浦 泉南郡岬町。現在の深日(ふけ)港あたり。
○ 時つ風吹飯の浜に出でいつつ贖(あか)ふ命は妹がためこそ(万葉)
○ 潮みてば磯こす波にあらはれて吹飯の浦に千鳥鳴くなり(源俊頼)
○ さ夜千鳥ふけひの浦におとづれて絵島が磯に月かたぶきぬ(藤原家基 千載)
摂津1
「摂津」国名。現在の大阪府北部と兵庫県南東部にあたる。「津の国」ともいう。
津ノ国・難波・難波潟・難波江・難波津 / 現在の大阪市一帯の古い名称
難波わたりに年超えに侍りけるに、春立つこころをよみける
○ いつしかも春きにけりと津の國の難波の浦を霞こめたり
○ 水わくる難波ほり江のなかりせばいかにかせまし五月雨のころ
○ 露のぼる蘆の若葉に月さえて秋をあらそふ難波江の浦
○ 難波がた月の光にうらさえて波のおもてに氷をぞしく
○ 難波江の入江の蘆に霜さえて浦風寒きあさぼらけかな
○ 津の國の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり
○ 霜にあひて色あらたむる蘆の穗の寂しくみゆる難波江の浦
○ 津の國の芦の丸屋のさびしさは冬こそわきて訪ふべかりけれ
○ 難波潟波のみいとど數そひて恨のひまや袖のかわかむ
○ 難波潟しほひにむれて出でたたむしらすのさきの小貝ひろひに 
○ 千鳥なくふけゐのかたを見わたせば月かげさびし難波津のうら 
○ 難波江の岸に磯馴れてはふ松をおとせであらふ月のしら波
○ 何となく都のかたと聞く空はむつまじくてぞながめられぬる
わた / 和田。現在の神戸市兵庫区和田か?
六波羅太政入道、持經者千人あつめて、津の國わたと申す所にて供養侍りける、やがてそのついでに萬燈會しけり。夜更くるままに灯の消えけるを、おのおのともしつきけるを見て、
○ 消えぬべき法の光のともし火をかかぐるわたのみさきなりけり
ながら / 長柄。淀川河口近くの地名。歌枕として名高い。
長柄を過ぎ侍りしに
○ 津の國のながらの橋のかたもなし名はとどまりてきこえわたれど
天王寺 / 摂津の国の地名。近くに四天王寺がある。
同行に侍りける上人、月の頃天王寺にこもりたりと聞きて、いひ遣しける
○ いとどいかに西にかたぶく月影を常よりもけに君したふらむ
天王寺へまゐりけるに、片野など申すわたり過ぎて、見はるかされたる所の侍りけるを問ひければ、天の川と申すを聞きて、宿からむといひけむこと思ひ出だされてよみける
○ あくがれしあまのがはらと聞くからにむかしの波の袖にかかれる
天王寺にまゐりけるに、雨のふりければ、江口と申す所に宿を借りけるに、かさざりければ
○ 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
天王寺へまゐりたりけるに、松に鷺の居たりけるを、月の光に見て
○ 庭よりも鷺居る松のこずゑにぞ雪はつもれる夏のよの月
天王寺へまゐりて、龜井の水を見てよめる
○ あさからぬ契の程ぞくまれぬる龜井の水に影うつしつつ
中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、天王寺より下向しけるついでに、西住、淨蓮など申す上人どもして見けるに、いとあはれにて、各述懐しけるに
○ 折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
俊惠天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐり歌よみけるに具して
○ 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
住吉・住之江 / 大阪市住吉区及び住江区。大和川沿いにあり、住吉神社は和歌の神様。
○ かずかくる波にしづ枝の色染めて神さびまさる住の江の松
○ 波にやどる月を汀にゆりよせて鏡にかくるすみよしの岸
人々住吉にまゐりて月を翫びけるに
○ 片そぎの行あはぬ間よりもる月やさして御袖の霜におくらむ
俊惠天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐり歌よみけるに具して
○ 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
塩湯 / 神戸市北区の有馬温泉のこと
しほ湯にまかりたりけるに、具したりける人、九月晦日にさきへのぼりければ、つかはしける。人にかはりて
○ 秋は暮れ君は都へ歸りなばあはれなるべき旅のそらかな
しほ湯出でて京へ歸りまうで來て、古郷の花霜がれにける、あはれなりけり。いそぎ歸りし人のもとへ又かはりて
○ 露おきし庭の小萩も枯れにけりいづち都に秋とまるらむ
三島 / 大阪府高槻市三島江のこと。
○ 我が戀は三島が沖にこぎいでてなごろわづらふあまの釣舟
○ 風吹けば花咲く波のをるたびに櫻貝よるみしまえの浦
御津 / 難波の津の美称。40ページ歌は山城の「美豆」説あり。
○ かり殘すみづの眞菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
○ みな底にしかれにけりなさみだれて水の眞菰をかりにきたれば
須磨 / 神戸市須磨区。当時、須磨に海の関所があった。 
○ あはぢ潟せとの汐干の夕ぐれに須磨よりかよふ千鳥なくなり
○ 月すみてふくる千鳥のこゑすなりこころくだくや須磨の關守
みなと川 / 湊川。兵庫県神戸市兵庫区。
○ みなと川苫に雪ふく友舟はむやひつつこそ夜をあかしけれ
水無瀬川 / 大阪府三島群を流れる川。水のない川という意味もある。
○ 水無瀬河をちのかよひぢ水みちて船わたりする五月雨の頃
なるを / 鳴尾。兵庫県西宮市鳴尾町。
初秋の頃、なるをと申す所にて、松風の音を聞きて
○ つねよりも秋になるをの松風はわきて身にしむ心地こそすれ
こや / 昆陽 現在の伊丹市昆陽。池は行基が開削した人造池。
○ さゆる夜はよその空にぞをしも鳴くこほりにけりなこやの池水
真野 / 神戸市長田区真野町。近江の真野説もある。
○ 分けかねし袖に露をばとめ置きて霜に朽ちぬる眞野の萩原
桜井 / 現在の大阪府三島郡島本町桜井。
○ 小ぜりつむ澤の氷のひまたえて春めきそむる櫻井のさと
夢野 / 武庫郡。現在の神戸市兵庫区。湊川の西あたり。
○ 夜を残す寢ざめに聞くぞあはれなる夢野の鹿もかくや鳴きけむ
芦屋 / 武庫郡。兵庫県芦屋市。
○ 波たかき芦やの沖をかへる舟のことなくて世を過ぎんとぞ思ふ 
摂津2 (つのくに)
芥川(あくたがは) 大阪府高槻市を流れる。『伊勢物語』の主人公が二条の后をつれて逃げた挿話で有名。「飽く」をかけて用いられることが多い。
○ はつかにも君をみしまの芥川あくとや人のおとづれもせぬ(伊勢)
浅沢小野(あさざはをの) 大阪市住吉区千躰町・沢之町あたりにあった低湿地。
○ 思ひかね浅沢小野に芹つみし袖のくちゆくほどを見せばや(式子内親王)
芦屋(あしや) 兵庫県芦屋市あたり。古くは万葉の菟原処女の伝説がある。伊勢物語八十七段より「あしやの里」が歌枕となった。「芦屋の沖」もよく歌に詠まれた。
○ はるる夜の星か河辺のほたるかもわがすむ方にあまのたく火か([伊勢物語])
○ はるかなる芦屋の沖のうき寝にも夢路はちかき都なりけり(俊成)
有馬(ありま) 神戸市北区有馬町。古くから温泉が出、皇族・貴族の保養地だった。
○ 有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする(大弐三位[後拾遺])
生田(いくた) 神戸市中央区三宮の生田神社とその周辺。『大和物語』の生田川伝説などで名高い。
○ 秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草(定家)
猪名野(ゐなの) 兵庫県伊丹市東部から尼崎市東北部にかけての野。荒涼とした原野として多くの歌に詠まれた。
○ しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧たちぬ宿りはなくて([万葉])
大江(おほえ)の橋 大阪市東区京橋二丁目。「大江の岸」も歌枕。
○ 遥かなる大江の橋はつくりけん人の心ぞ見えわたりける(源俊頼)
草香江(くさかえ) もと河内平野をみたし、生駒山麓まで広がっていた広大な入江。「難波潟」に同じ。
○ 草香江の入江にあさる葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友なしにして(旅人 万葉)
昆陽(こや) 伊丹市昆陽。行基の造った池がある。菖蒲・杜若、鴛鴦(おし)などを詠み込んだ歌が多い。
○ 津の国のこやとも人を言ふべきにひまこそなけれ葦の八重葺き(和泉式部)
桜井(さくらゐ) 大阪府三島郡島本町桜井。水無瀬も近い。桜の名所として詠まれた。
○ 秋風の吹くに散りかふもみぢ葉を花とや思ふ桜井の里(藤原実方)
五月山(さつきやま) 大阪府池田市に同名の山があるが、普通名詞とする説が多い。
○ 五月山こずゑを高みほととぎす鳴くねそらなる恋もするかな(貫之[古今])
さび江 所在不詳。神戸市兵庫区佐比江町あたりかという。
○ 年を経て濁り絶えせぬさび江には玉もかへりて今ぞすむべき(忠岑[後撰])
須磨(すま) 神戸市須磨区の海岸。古来製塩の地であったが、貴人の流謫あるいは隠棲の地としても名高い。ことに『源氏物語』以後、さかんに歌に詠まれた。
○ わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ(在原行平[古今])
住吉(すみよし) 大阪市住吉区。上代より朝廷の港。古くは「住の江」。
○ 住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波(躬恒[古今])
高津の宮 仁徳天皇が難波に造営した宮。
○ あはれさはふりゆくままに添へてけり高津の宮の春のあけぼの(慈円)
玉川(たまがは) 高槻市を流れる、淀川の支流。
○ 見渡せば波のしがらみかけてけり卯の花咲ける玉川の里(相模[後拾遺])
田蓑(たみの)の島 大阪市の堂島川の田蓑橋付近かという。
○ 雨により田蓑の島をけふ行けど名にはかくれぬものにぞありける(貫之[古今])
鼓(つづみ)が滝 兵庫県川西市の猪名川の渓谷にあった滝。同名の滝は肥後国にもありこれも歌枕。
○ 音に聞く鼓が滝をうちみれば川辺にさくや白百合の花(伝西行作)
津の国 旧国名。摂津国。今の大阪府と兵庫県の一部。「津」は港のこと。
○ 津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり(西行[新古今])
角(つの)の松原 西宮市松原町一帯。
○ わぎもこに猪名野は見せつ名次山(なすきやま)角の松原いつか示さむ(高市黒人[万葉])
津守(つもり) 大阪市西成区に地名が残る。難波津のそば。
○ はるばると津守の沖を漕ぎゆけば岸の松風遠ざかるなり(九条兼実[千載])
遠里小野(とほさとをの) 大阪市住吉区から堺市にかけての丘陵地。
○ 君が代は遠里小野の秋萩も散らさぬほどの風ぞ吹きける(俊成)
長居の浦 大阪市住吉区長居。
○ 沖つ波たち別るとも音に聞く長居の浦に舟とどめすな(崇徳院)
長柄(ながら)の橋 淀川にかかっていた橋。現在は都島区の新淀川にかかる橋を長柄橋と呼ぶ。
○ 難波なる長柄の橋も尽くるなり今は我が身を何にたとへむ(伊勢[古今])
灘(なだ) 神戸市灘区・東灘区あたりの海岸。塩焼を詠むことが多い。
○ 芦の屋の灘の塩焼いとまなみ黄楊(つげ)の小櫛もささず来にけり([伊勢物語])
難波(なには) 大阪市の上町台地一帯をいった。難波津は古来朝廷の主要港で、宮都も度々造営された。
○ わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はんとぞ思ふ(元良親王)
難波潟(なにはがた) 草香江に同じ。多く葦が詠み込まれる。
○ 難波潟みじかき葦のふしの間もあはでこの世を過ぐしてよとや(伊勢[新古今])
鳴尾(なるを) 西宮市鳴尾町にその名を留める。白砂青松の海岸だったらしく、松、ことに「鳴尾の一つ松」を詠み込むことが多い。
○ 明日よりも恋しくならば鳴尾なる松の根ごとに思ひおこさん(源俊頼)
西の宮 西宮市。戎信仰の総本山、西宮えびす神社がある。
○ 柴小舟まほにかけなせゆふしでて西の宮人風祭しつ(源俊頼)
布引(ぬのびき)の滝 神戸市中央区葺合町。
○ 天の川これや流れの末ならん空より落つる布引の滝([金葉集])
広田(ひろた) 西宮市広田町とその周辺。天照大神の荒魂を祀る広田神社がある。
○ 今日まではかくて暮らしつ行末を恵みひろたの神に任せん(藤原頼実)
堀江(ほりえ) 大阪市内を流れる大川にあたる。仁徳天皇が開削した人工河川。
○ 命あらばまた帰りこむ津の国の難波堀江の葦のうら葉に(大江嘉言[後拾遺])
待兼山(まちかねやま) 豊中市待兼山町にある小丘。
○ 夜をかさね待兼山のほととぎす雲居のよそに一声ぞ聞く(周防内侍)
真野の榛原(まののはりはら) 神戸市長田区真野町とその周辺。もと大きな池があり、水辺に榛の林があった。
○ いざ子ども大和へ早く白菅(しらすげ)の真野の榛原手折りてゆかむ(高市黒人[万葉])
三島江(みしまえ) 草香江とつながっていた入江。現在の高槻市の淀川沿岸。
○ 三島江や露もまだひぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く(源通光[新古今])
御津(みつ) 難波の港。朝廷の港だったので、「御」を付す。
○ いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(憶良[万葉])
水無瀬(みなせ) 三島郡島本町。後鳥羽院の水無瀬殿があった。
○ 見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ(後鳥羽院[新古今])
湊川(みなとがは) 六甲山地より大阪湾に注ぐ。
○ 湊川夏の行くては知らねども流れてはやき瀬々のゆふしで(順徳院[風雅])
敏馬(みぬめ) 神戸市灘区岩屋中町の敏馬神社とその周辺。
○ 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ(人麿[万葉])
武庫(むこ) 兵庫県東部の武庫川河口とその周辺の沿岸部。西国からの畿内の入口にあたり、渡船場があった。
○ たまはやす武庫の渡に天づたふ日の暮れゆけば家をしぞ思ふ([万葉])
夢野(ゆめの) 神戸市兵庫区。『摂津国風土記逸文』に夢野の鹿の伝承がある。
○ 夜をのこす寝覚に聞くぞあはれなる夢野の鹿もかくや鳴くらん(西行)
依網(よさみ)の原 大阪市住吉区庭井から松原市天美にかけての地。依羅とも書く。
○ 明けわたる依網が原に伏す鹿の一声なきて山に入りぬる(寂身)  
住吉
攝津の國の風土記に曰はく、住吉と稱ふ所以は、昔、息長足比賣の天皇のみ世、住吉の大神現れ出でまして、天の下を巡り行でまして、住むべき國を覓ぎたまひき。時に、沼名椋の長岡の前、前は、今の神の宮の南の邊、是れ其の地なりに到りまして、乃ち謂りたまひしく、「斯は實に住むべき國なり」とのりたまひて、遂に讚め稱へて、「眞住み吉し、住吉の國」と云りたまひて、仍ち神の社を定めたまひき。今の俗、略きて、直に須美乃叡と稱ふ。
「すみのえ」とは「澄みの江」が元のようです。でも平安期ぐらいには既に漢字の読みから「すみよし」と呼ばれていたとか。この逸文は鎌倉末期成立とされる『釈日本紀』に引用されているものなので、既に「すみよし」の読みが定着している頃です。
『古事記』において、住吉=ツツノオ三神は伊邪那岐禊の段で「ヤソマガツヒ・ナオマガツヒ」「カムナオヒ・オホナヒヒ・イヅノメ」の後に底・中・上のワタツミと共に生まれています。禊の水ですから、当然きれいな水でなければなりません。その意味ではツツノオ三神が「すみのえ」に住んでいるのは正しい。
しかしこの伝承では「すみのえ」の方が新しい変化で、「すみよし」のほうが元であるとしています。
住吉三神は上にも書いたようにワタツミと共に誕生しますが、それゆえに海の神・航海神とされることが普通です。「ソコワタツミ・ソコツツノオ」「ナカワタツミ・ナカツツノオ」「ウワワタツミ・ウワツツノオ」という感じで登場しています。
ツツノオの名前の意味については、「津」から普通に海の神とするもの、「つつ」は星の意味で金星とかオリオンの三ツ星とか航海の目印になる星の神格化かとか言われています。
ただ「津」だと「底の津」とか意味不明になりますから、やはりすんなり受け入れるわけにはいきません。また星の意味だというのも古語の用例的にはあまり確証はないようです。宵の明星を「ゆうづつ」というようで、ツツノオも金星の意味なのではないかという推測が生じるようですが、「つつ」が一般的な星の意味を示す事例はないとか。
『古事記』火神殺害段には「磐筒之男」という神が生じていますが、何か関係がありそうな気もします。火神殺害では火神の体の各部位から多種の「ヤマツミ」が生じ、その血液からは一見雑多な、でも何となく鉱物資源や地下水と関係ありそうな神々が生じています。タケミカヅチもここで生まれていますが、当然刀剣の神ですから鉱物の神とも言えます。
ヤマツミと同時に生じた神々が何らかの資源(人間の文化に寄与する自然物)であるとするならば、ワタツミと同時に生まれた神にもそういう性格がある可能性があります。
しかし海の資源と山の資源では歴史が違います。現在ではメタンハイドレートやレアメタルなど海底資源に強い関心がもたれていますが、当然古代ではそんなものわかりません。装身具、例えば管玉などの材料としては海岸で採取されるものもあるそうですが、海の底まで潜って取るようなものは珊瑚ぐらいか?珊瑚なんてそんなに昔から撮っていたのでしょうか?ギリシャ神話には既に珊瑚の起源伝承があるそうですが、ペルセウスが殺したメデューサの血が海に入って珊瑚になったとも。
航海神というなら宗像三女神の方が明らかにそれっぽいと言えます。沖・中・辺と水平的な距離を表している。でもワタツミと一緒に生じているわけですから、海に関係する神だと考えるのが普通。また神功皇后三韓征伐伝承に登場し、まさに海の神っぽい神助を与えているわけですから、そこを否定するのは難しいでしょう。
上に描きましたが、ヤマツミと同時に生まれる神は「山から生じる文化の神」です。それに構造的に対応するならばワタツミと同時に生まれる神は「海から生じる文化の神」ということになるはず。或は「ヤマツミ・ワタツミ」は「山海の自然的な面を表す神」で、それと同時に生まれた神は「山海の文化的な面を表す神」だとも言えます。
そして神代においては文化的な神はすなわち王権側の神だということになります。ヤマツミと同時に生まれた神の内でタケミカヅチを中心に据えるなら、それは「アマテラスを助ける軍神」であり、ツツノオは「神功皇后を助ける軍神」ということになります。
ワタツミ・ツツノオが産れた後にアマテラス等三皇子神が産れていることも注意すべきでしょう。穢れを払い、禊によって生まれた神ですが、新たな神を生み出すその先ぶれとなる神だともいえる。仲哀天皇の死と神功皇后摂政期にツツノオが現れるというのはその構造的な対比においても意味がありそうです。
と、まあ色々書いてきましたが、きっと全部今までに言われていることなんだろうと思います。記紀の神々についての研究はとてつもなく層が厚いですから。また神の名前が列挙されている所は神話研究的にどう切り込んだらいいのか正直明確な方針がありません。
ということで、自然神としてのワタツミに対して、文化神或は王権守護神としての海の神というのを考えてみたわけですが、これについては神功皇后条をもっと読み込んでみなければならず、それにしても江戸・戦前の研究を含めると星の数ほどありそうな論文を読まなければならないので現状では手が出ません。
また神功皇后と応神天皇との位置づけというのは、なかなか微妙なものがあります。その辺、記紀全体の王権論の中で位置づけて行く必要があると思います。 
「夢野の鹿」 その一
夢野
攝津の國の風土記に曰はく、雄伴の郡。夢野あり。父老の相傳へて云へらく、昔者、刀我野に牡鹿ありき。其の嫡の牝鹿は此の野に居り、其の妾の牝鹿は淡路の國の野嶋に居りき。彼の牡鹿、屡野嶋に往きて、妾と相愛しみすること比ひなし。既にして、牡鹿、嫡の所に來宿りて、明くる旦、牡鹿、其の嫡に語りしく、「今の夜夢みらく、吾が背に雪零りおけりと見き。又、すすきと曰ふ草生ひたりと見き。此の夢は何の祥ぞ」といひき。其の嫡、夫の復妾の所に向かむことを惡みて、乃ち詐り相せて曰ひしく、「背の上に草生ふるは、矢、背の上を、射む祥なり。又、雪零るは、白鹽を宍に塗る祥なり。汝、淡路の野嶋に渡らば、必ず船人に遇ひて、海中に射死されなむ。謹、な復往きそ」といひき。其の牡鹿、感戀に勝へずして、復野嶋に渡るに、海中に行船に遇逢ひて、終に射死されき。故、此の野を名づけて夢野と曰ふ。俗の説に云へらく、『刀我野に立てる眞牡鹿も、夢相のまにまに』といへり。
鹿という動物は情愛に富む動物であるという見方は中国にもあります。台湾原住民の神話でも鹿と人間との婚姻譚があります。台湾原住民の伝承には意外にも異類婚姻譚が少ないのですが、蛇婿伝承を除くと一番事例が多いのは鹿婿伝承だと思います。特にプユマ族では牡鹿と娘との純粋な恋愛譚になっていて、トンボ玉の由来譚として語られています。
『日本伝説語彙』「鏡井戸」の項目には次のような伝説が引かれています。
「この村に鹿野の里と夢野の里という部落がある。奈良朝の頃、春日神社のある牡鹿が姿を隠し、牝鹿がその後を慕ってこの村に来て、この井戸を覗き、自分の影を牡の鹿と思って飛び込んで死んだ。それからこの井戸を鏡の井戸と呼び、鹿が飛び込んだ日の十一月十五日をオシタキ祭りといい、昔はいっさい魚を食べなかったという。井戸は今はない」
『風土記』逸文の「夢野」は現在の神戸市兵庫区の話ですが、この話は宝塚市のものらしいです。ここの春日神社は奈良のそれを想定していると考えて良いと思いますが、その鹿が失踪した牡鹿を追ってこの地に来て、井戸に飛び込んで死んだと言います。
「井戸に移った自分の姿を恋する相手と見間違い、井戸に飛び込んで死ぬ」。これと全く同じモチーフはちょっとすぐには思いつきませんが、安積沼の伝承では「井戸に移った自分の年老いた姿を嘆いて井戸に飛び込んで死んだ」という事例はあります。
まあ動物が自殺するということ自体普通はあまりないですし、井戸の自分の姿を恋人だと見間違えるとか所詮獣、と言えなくもないですが、やはり鹿は情愛豊かな動物だということは言えると思います。
宮城県石巻市には次のような伝承があります。
「牧山の南の岩山の洞窟。間口12メートルばかり、数10人が入れる。昔、牝鹿が牡鹿に会った所とされ、長さ1メートルほどの鹿石が二つあり、神鹿が化したという。踏まずの石とも」
鹿が石に化したと言いますが、恋人二人が変身したという話なら『常陸国風土記』童女子松原の伝承があります。まさか関係あるとは思えませんが、並んだ二つの岩を見立てるに牡鹿女鹿をもってするというのは鹿そのもののイメージが背景にあるということは言うまでもないでしょう。
「鴛鴦夫婦」などという言葉が示すように、動物の生態をもって人の性格や人間関係を示すということはよくあるわけで、それが所謂動物昔話のように、動物が主役になる物語を作るきっかけになると思われるわけですが、この「夢野の鹿」伝承については正直普通の動物昔話とは違うような気がします。
まず単なる夫婦の話ではなくて三角関係になっているということ。正妻と妾という観念自体が動物ではありえない。嫉妬というのも動物の感情としては複雑すぎるでしょう。また正妻の牝鹿が偽りの夢合せをした結果本当に牡鹿が死んでしまうという件。そもそも鹿が夢を見る?その夢を夢合せする?しかも嘘の夢合せが現実になる?動物昔話としては複雑すぎじゃないでしょうか?
「夢野の鹿」の類話は仁徳紀三八年にもありますが、そこでは三角関係は語られず鹿の夫婦の会話ということになっています。江戸中期の随筆『斉諧俗談』に載る夢野の話、こちらも単純に「牡鹿の夢を牝鹿が悪い兆しだ言い、その通りになった」としていて、三角関係はありません。
遠野三山伝承の花のモチーフ。
「眠っているときに花を得た娘が早池峰山の女神となる」という前提だったはずなのに、末の妹がその花を盗んで早池峰山の女神となってしまいます。この伝承については夢の中の話なのか違うのか、議論が分かれるところだとは思いますが、神のお告げを人為で変更していることは確かです。
また法隆寺の百済観音=夢違観音の信仰なども関係があるかもしれません。いつからある信仰なのか分かりませんが、夢殿と関係があるなら結構古いかもしれません。
でもまああまり似てはいません。地道に「夢」にまつわる伝承を集めるしかなさそうです。
『辞典』には「この地方に伝わっていた鹿の贄祭の縁起話ではないか」とあります。恐らく柳田の説だと思われますがどうでしょうか?
柳田がいうところの「贄祭」なるものが日本の神祭りにおいてどれだけ普遍的なものなのか判断しかねます。『一つ目小僧その他』は片目の魚などを始め、特殊な動物は全部「贄」と言っていたような気もしますので。また「恋愛と嫉妬」という人間臭い話の内容を見て、生贄の起源潭というのはちょっと変な気もします。
しかし「狩られる動物が一人称で語る」アイヌのカムイユカラのような話だった可能性はあるかもしれません。だとすると鹿が祭祀の対象になる。上で言及した「鏡井戸」伝承は、「鹿が飛び込んだ日の十一月十五日をオシタキ祭りといい、昔はいっさい魚を食べなかった」という祭祀起源伝承になっていますから、可能性はあると思います。
※「オシタキ祭り」というのは「おひたき祭」というものらしい。京阪地方で行われる火祭りらしいですが、それと鹿・魚食禁忌にはどんな関係があるのか?不明です。 
「夢野の鹿」 その二
「夢野の鹿」について『日本書紀』仁徳三八年に以下のような記述があります。
「天皇与皇后居高台而避暑。時毎夜、自菟餓野有聞鹿鳴。其声寥亮而悲之。共起可憐之情。及月尽、以鹿鳴不聆。爰天皇語皇后曰。当是夕而鹿不鳴。其何由焉。明日、猪名。県佐伯部献苞苴。天皇令膳夫以問曰。其苞苴何物也。対言。牡鹿也。問之。何処鹿也。曰。菟餓野。時天皇以為。是苞苴者必其鳴鹿也。因語皇后曰。朕比有懐抱。聞鹿声而慰之。今推佐伯部獲鹿之日夜及山野。即当鳴鹿。其人雖不知朕之愛、以適逢〓獲。猶不得已而有恨。故佐伯部不欲近於皇居。乃令有司、移郷于安芸渟田。此今渟田佐伯部之祖也。俗曰。昔有一人。往菟餓、宿于野中。時二鹿臥傍。将及鶏鳴。牝鹿謂牝鹿曰。吾今夜夢之。白霜多降之覆吾身。是何祥焉。牝鹿答曰。汝之出行。必為人見射而死。即以白塩塗其身。如霜素之応也。時宿人心裏異之。未及昧爽。有猟人以射牡鹿而殺。是以時人諺曰。鳴牡鹿矣。随相夢也。」
仁徳帝と新たに皇后となった八田皇女が鹿の声を聴いていましたが、或日その声が聞こえなくなる。するとその日の食事に鹿肉が出て、料理担当だった佐伯部がその鹿を使ったことが分かりました。それで佐伯部は安芸国に左遷されてしまいます。
その後に「夢野の鹿」のヴァリアントが語られるわけですが、ここでは三角関係は言われず、単なる鹿の夫婦の話になってます。
「夢野の鹿」は仁徳紀のものが巷間に伝わったようです。例えば江戸時代の地誌類でも仁徳紀ものが直接引用されています。つまりヴァリアントに乏しい。『斉諧俗談』の伝承は仁徳紀中の「一人」が大友黒主ということになっていますが、それ以外はやはり仁徳紀ものとほぼ同じです。
「湊川の近くに夢野という所がある。伝えによると、昔、大伴黒主がこの地に寓していた時、ある暁に2匹の鹿が問答しているのを聞いた。牡鹿が、夢で背中に霜が降るのを見たというと、雌鹿は、それは悪い夢である、おそらく人に殺される兆しだろうと答えた。黒主は怪しんでこれをうかがっていたところ、猟師が来て牡鹿を捕らえて殺した。これより夢野と呼ぶという」
ここでも三角関係は語られず、牡鹿と雌鹿の話になっています。こうなってくると、そもそも「夢野の鹿」伝承は三角関係が伴ったモノだったのか疑問が生じます。しかし一般には『風土記』の伝承の方が在地のものでより古いと考える研究者が多いのも事実。
逸文は『釈日本紀』からの採用ですが、時代は大体鎌倉末期。でも基本的には本当に逸文の可能性が高いとされていますから、なかなか難しいところです。 
万葉集 / 難波
昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
昔者(むかし)こそ 難波(なには)ゐなか[田舎]と 言(い)はれけめ 今者(いま)京(みやこ)引(ひ)き 都(みやこ)びにけり
昔こそ 難波田舎と 言われもしたであろうが 今、都を引き移して 実に都らしくなったものだなあ  

題詞に「式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首」とあり、訓み下すと「式部卿(しきぶのきやう)藤原宇合卿(ふじはらのうまかひのまへつきみ)、難波(なには)の堵(みやこ)を改(あらた)め造(つく)らしめらえし時に作る歌一首」ということになる。式部卿は、式部省の長官で、文官の人事・養成・大学の管理などを担当する正四位下相当の官職である。作者の藤原宇合は、藤原不比等の第三子で、式家の祖。72番歌の作者として既出だが、ここでその略歴に付いて、阿蘇『萬葉集全歌講義』の記すところにより詳しく見ておこう。
霊亀二年(716)八月、遣唐副使に任命され、同月、正六位下から従五位下を特授され、養老元年(717)入唐、翌二年十二月に帰京した。養老三年正月、正五位下に昇叙。同年七月には、常陸守正五位上で安房・上総・下総国を管轄する按察使となる。同五年正月、長屋王の右大臣就任に伴い一挙に正四位上に昇叙。神亀元年(724)四月、蝦夷が反乱して陸奥国大掾が殺害されると、式部卿持節大将軍として蝦夷征討にあたった。翌二年閏正月に、征夷の功により従三位、同三年十月に式部卿従三位で知造難波宮事となる。天平三年八月に参議。同四年八月、西海道節度使に任ぜられる。同六年正月、正三位に進んだが、九年八月五日、病により薨。時に、参議式部卿兼大宰師正三位。四十四歳。歌は六首。巻一・七二。巻三・三一二(本歌)。巻八・一五三五。巻九・一七二九〜三一。懐風藻に、五言詩四首、七言詩二首。経国集に賦一首。
右の引用中に「知造難波宮事」とあるのは、後期難波宮造営の事をつかさどる官職をいう。本歌は、難波宮造営の任務を無事果たした折に詠まれた歌であり、作者の満足感が軽妙な言葉使いから伝わってくるようである。なお、後期難波宮は、天平十六年(744)二月から十七年二月まで皇都であった時期を除いて、延暦十二年(793)まで、平城京の副都として使用された。題詞に「難波堵」とある「堵」の字は、「かきね。かき。かこい。」の意であるが、これを都の意に用いたのは、32番歌の題詞に「旧都」を「舊堵」と記したのと同じ用字。
「難波居中跡」は、「難波という田舎」の意。平城京のみやびな環境を喜ぶ都人が、難波を田舎と軽蔑して言った言葉。 
磐船神社1 / 大阪府交野市私市
祭神 饒速日命(ニギハヤヒ)
社頭の由緒書には、祭神・ニギハヤヒの降臨神話のあとに、『当神社は、ニギハヤヒ命が乗ってこられた天磐船(アメノイワフネ)をご神体として祀り、古来より天孫降臨の聖地として崇拝されている。当神社の創祀年代はつまびらかではないが、磐座(イワクラ)信仰という神道最古の信仰形態と伝承の内容から、縄文から弥生への過渡期にまで溯ると考えられている。物部氏を中心として祭祀がおこなわれていたが、物部本宗の滅亡(587)後、山岳仏教や住吉信仰などの影響を受けるようになり、平安時代には「北嶺の宿」と呼ばれ、生駒山系における修験道の一大行場として変貌を遂げるようになり、云々』とある。
天孫降臨といえば、記紀神話では天孫・ニニギ尊が日向の高千穂峰に天降ったとするが、物部氏系の古史書・「先代旧事本紀」(センダイクジホンキ、9世紀後半編纂か)では、『ニニギの兄に当たるニギハヤヒが、アマテラスの命をうけて天磐船に乗り、十種の宝物(マジナイの道具)を携えて河内国の川上の哮ガ峰(タケル-orイカル-ガミネ、)に天降った。その後、大和の鳥見(トミ)に移り、長髄彦(ナガスネヒコ)の娘を后として御子・ウマシマジをなしたが、早くに亡くなられた。云々』(大意)とあり、その降臨の地・河内国・川上の哮ガ峰が当神社の辺りとされている。
ニギハヤヒとは、神武東征に先立って天降り、難波津の日下で神武軍を悩ませたナガスネヒコが奉じていた天神の御子で、最後には、抵抗するナガスネヒコを誅殺して神武天皇に帰順したとされ、初期大和朝廷で蘇我氏とともに朝政を二分していた物部氏の祖とされる(日本書紀・神武紀)。
その物部氏が、自家は天皇家に匹敵する由緒を持つとして編纂したのが先代旧事本紀といわれ、記紀とは異なる物部氏独自の神話伝承を記すところが特徴で、物部氏にかかわる古代の鎮魂儀礼などを知るうえで貴重な資料とされている。
旧事本紀で天孫ニニギに先だって降臨したニギハヤヒが、記紀では4代あとの神武紀に出てくるのは時代的に平仄があわないが、そこが神話であろう。なお旧事本紀は、記紀・古語拾遺などを取り混ぜて作られた後世の偽書との説もある。 
磐船神社2
磐船神社は御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された記念の地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ばれているところです。御神体は命の乗ってこられた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をした巨大な磐座(いわくら)で、初めて訪れた人々は皆一様にその威容に圧倒されるといいます。
当社は大阪府の東北部、交野市私市(かたのし きさいち)にあり、奈良県生駒市に隣接する、生駒山系の北端、まさに河内と大和の境に位置します。境内を流れる天野川は、10キロほどくだって淀川に注ぎ込みます。この天野川にそって古代の道ができ、「上つ鳥見路」と名付けられ、後世には「磐船街道」とか「割石越え」と呼ばれるこの道(現在の国道168号線)は現在の枚方と奈良の斑鳩地方をむすび、さらには熊野にまで続く道でした。瀬戸内を通り大阪湾に到着した人々や大陸の先進文化は、大和朝廷以前にはそこから淀川、天野川を遡りこの道を通って大和に入るのが最も容易であったと思われます。
またその一方で、古代からの日本人の巨石信仰にも思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域でありました。そしてこの地に出現された饒速日命はまさに天から降臨された神様であり、長髓彦などの豪族たちをはじめ、大和の人々から天神(あまつかみ)として崇敬を集めたのであり、命のお伝えになられた文化が大和河内地方を発展させたものと思われます。そして当社は、天神として初めて大和河内地方に降臨された饒速日命の天降りの地として信仰されてきました。
磐船神社と物部氏
古代における当社の祭祀は饒速日命の子孫である物部氏(もののべし)によって行なわれていました。その中でも特に交野地方に居住した肩野(かたの)物部氏という物部の一族が深く関係していたと思われます。この一族は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末〜4世紀の前方後円墳群はこの一族の墳墓と考えられており、相当有力な部族であったようです。また饒速日命の六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の住居が現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝承され、森古墳群中最大最古の古墳の被葬者はこの方ではないかとする説が有力です。
神仏習合の時代
物部守屋公が蘇我氏との崇仏・排仏論争に破れ、物部の本宗家が滅びるとともに交野地方の物部氏の勢力も一掃されることとなります。このため当社の祭祀も衰退を余儀なくされますが、当社を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人達が共同で祭祀を行ってゆくようになりました。 その後、生駒山系を中心とする修験道や山岳仏教が盛んになると、当社もその影響を受けることとなり、修験道北峯の宿・岩船の宿としてその行場に組み込まれてゆきます。
また、平安朝になると交野が貴族の御狩り場や桜狩りの名所となり、歌所ともなります。そして歌の神様でもあり、航海の神様でもある住吉信仰が広まり、当社も御神体天の磐船のそばの大岩に住吉四神がお祭りされるようになります。この理由についてはお互いに船と関係の深い事により結びついたとも、「新撰姓氏録」という典籍によると、住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫にあたり、その関わりで物部氏滅亡以後、住吉四神が祀られたとも考えられています。(住吉大社と当社の関係は意外と深く、「住吉大社神代記」という古典には、「膽駒神南備山(いこまかんなびやま)本記 四至(中略)北限饒速日山」として、当社(=饒速日山)を、住吉大社の所領であるかあるいは住吉大神と縁の深い「生駒山」北の境界として、記していることは興味深いものがあります。)鎌倉時代にはこの住吉の神の本地仏としてその大岩に大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏が彫られ、四社明神として知られています。その後四社明神の祀られた大岩の前に御殿が建てられ、現存はしていませんがその屋根や柱を立てた穴らしい跡が岩に残っています。また境内の大岩には不動明王が彫られ、「天文十四(1545)年十二月吉日」の銘が彫られ、神仏習合の色合はますます強まりました。
近世以降
近世に入ると当社は先の四村の宮座による共同の祭祀が定着して行なわれていましたが、度重なる天野川の氾濫による社殿、宝物などの流失が続き、神社の運営は困難を極めました。そして江戸時代宝永年間(1704〜7年まで)に四村宮座の争いから、各村御神霊をそれぞれ神輿にのせて持ち帰り、それぞれの村に新たに社殿を設け氏神として祀りました。このため当社は荒廃を余儀なくされます。しかしその後も村人たちの努力により饒速日命降臨の地としての伝承は守られ、明治維新後多数の崇敬者の尽力により復興されました。また日本中に吹き荒れた排仏毀釈運動の影響もなく神社境内の仏像も無事保護され、神仏習合をそのまま今に残しております。 
磐船神社 / 南河内郡河南町平石
磐船神社は山中にあり、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊及び天照大神・高皇彦靈神・表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫・應神天皇・可美眞手命・御炊屋姫命・大山祇命を祀れり。其の地を哮ケ峰といふ、其の哮ケ峯といへるは、舊事紀天孫本紀に「天祖以天璽瑞寶十種、授饒速日尊、則此尊稟天神御祖詔、乗天磐船而天降、坐於河内國河上哮峰」と見ゆる哮ケ峰なりと傳へ、其の乗り給ひし天磐船なりといへるは社辺の所々にあり。石形船の如く艫○を備へて、其の大なるものは長さ約七間にも及べり。 又其の西方一町許にして浪石といへるありて、石頂に浪の吹きよせたる形あり、石は何れも其の形に依りて名づけられしものならん。
哮ケ峰といへるは、北河内郡星田村大字星田にもあれば、その何れが饒速日尊の天降りありし哮ケ峰なるかは明ならざれども、社は式内社の名を逸したるものならんかとの説もありて、其の勧請せられしは久しき以前にありしものなるかの如くに想はる。
然れども久しく高貴寺の鎮守となり来たりて、社記の傳はらざるに至りしは惜むべし。明治維新後の神仏分離に依りて高貴寺と分れ、同五年村社に列し、同四十四年五月二十九日神饌幣帛料供進社に指定せらる。
境内は壹千六百壹坪を有し、本殿・弊殿・拝殿・寶庫を存し、未社数座あり。氏地は本地及び河内村大字持尾にして、例祭は十月十七日なり。 
磐船伝承地
磐船とは、文字どおり岩で造られた神の船の意味ですが、歴史書には神々が天降る際に乗られた天の磐船などとも登場し、本来は磐楠船=磐のように堅固な楠の船だったともいわれます。難波の上町台地と生駒山・葛城の山ろくに伝わる謎の磐船・岩船の伝承地を探ってみることにします。
石田神社の岩船伝承 / 東大阪市岩田町
若江岩田駅の西方、近鉄奈良線のすぐ北側に大きな楠の鎮守の森が岩田村の氏神の石田神社です。
石田と書いて「いわた」と読み、平安時代の記録『延喜式』に記された河内国若江郡二十二座の内の一社で、誉田別命(15代応神天皇)・帯仲彦命(14代仲哀天皇)・息長帯姫命(神功皇后)の三神が祀られています。
伝えによると、欽明天皇の代(6世紀)にこの地に岩船があり、三神がその上に出現されたことから、神社として奉祀するようになったといわれます。謎の岩船については、神社の80m程北側の水田の中に、二つの円い塚が隣接して存在し、東側の塚は「幸神塚」と呼ばれ、西側は「無名塚」でした。大きさは共に高さ5m程もある大きな塚といい、幸神塚は塞の神を祀っていた所で、二つの塚はこの地を支配した有力者の陵墓だといわれていたようです。
さらにこの塚のまわりを開墾した際、船に似た長大な岩があって、その長さは東塚から西塚まで達する長さ40mほどの巨大な石で、この不思議な巨岩は、古代の岩船が難破して沈没したものだとも伝えられています。
現在、二つの塚は消滅し、地下に埋没する巨大な岩船は共に見ることができませんが、神社の所在する瓜生堂遺跡東北端で行われた近年の発掘調査では、地下から古墳時代の円筒・形象埴輪片などが多数出土していて、周辺には古墳が群集していたようで、古墳の石室などが埋没していることも考えられます。 
生駒山に望む河内平野の中央、石田神社に伝わる謎の岩船の伝承は、こうした古墳群を造った豪族たちと、新羅征伐を成し遂げ、住吉大社とも関係の深い祭神である神功皇后や御子の応神天皇たちの深い歴史のつながりの中から誕生したものかもしれません。 
(資料)石田神社 『大阪府全誌』より
石田神社は西方字宮の前にあり、延喜式内の神社にして誉田別命・帯仲彦命・息長帯姫命の三座を祀りしが、後天照大神・天児屋根命を配祀せり。社傳にいふ、欽明天皇の御宇此の邊の田甫の間に岩ありて、三神其の上に現れ給ひしより、初めて社壇を築きて奉祀せるものなりと。俗に八幡宮と稱し、明治五年村社に列せらる。境内は八百七十参坪を有し、本殿・拝殿を存す。末社に稲荷神社あり。氏地は本地及び大字瓜生堂にして、祭日は十月十五日なり。
(資料)幸神塚及び無名塚 『同』
同社の北方四十間許を距てたる水田中に二箇の塚あり。東なるを幸神塚といひ、西なるは無名の塚なり。今は何れも高さ五尺位なる圓錐形の小塚なれども、四五十年前までは現在の三倍大のものなりしと。傳説に依れば、幸神塚は昔塞の神を祀りし舊地なりといひ、他の一説にはいふ、両塚はもと本地の氏神を葬りし一大陵墓たりしが、後開拓して水田と爲すに際し、二人の所有者は各其の所有地上に記念として一箇宛の塚を残したるものなりと。更に一説あり、其の説に依れば之を開墾する時は船に似たる長大の岩石ありて、其の長さは東塚より西塚に達し、全長貳拾餘間に及ぶ、是れ上古航海せる石舟の難破して沈没せるものなりと。石田神社の記事中に岩船ありと見ゆる岩船は、此の石舟のことを指せるものならん。往時之を開墾せしものありしに、大盤石のあるを見たるも、暴雨忽然として起り、咫尺晦瞑、其の場に気絶せりといふ。
小橋の磐船伝説 / 大阪市天王寺区小橋町
石田神社の真っすぐ西、大阪市内は鶴橋駅の西北にあたる上町台地(高津丘)の東側にも、古くは磐船山と呼ばれ、ここにも巨大な磐船が埋もれているとの伝承が残されています。小橋(おばせ)の里は、天児屋根命の末裔の中臣氏族で神功皇后からこの地を授けられたという大小橋命(おおおばせのみこと)ゆかりの地で、小橋には字名として「岩船」の名が残されています。江戸時代の『摂津名所図絵』には比賣許曾(ひめこそ)神社方面から小橋村-味原池-産湯清水稲荷のある小高い丘とその手前には木の生えた低い「磐舩山」が描かれています。
古代の磐船山から高津の一帯は、上町台地上を境に東は玉造江に臨む東成郡、台地西側は大阪湾を望む西成郡にあたり、周辺には仁徳天皇ほかを祀る高津宮や、住吉の神々と関わり深い生国魂神社(祭神-生嶋神・足嶋神)など難波の重要な神社があります。産湯清水稲荷神社のある小橋公園の背後にもとあった小高い丘は、もと愛来目山(法蔵山)と呼ばれ式内社の比賣許曾神社(祭神-下照比売命)の旧鎮座地との説がある所で、天正年間に織田信長の石山本願寺攻めの頃に火災を受けて焼失したため、鶴橋駅の東方、旧東小橋村の摂社牛頭天王祠の場所へ移されたのが現在の神社と言われます。
また北方の玉造に近い宰相山公園の周辺は、もと姫山と呼ばれ、応神天皇の代に新羅の女神の阿加流比売(あかるひめ)が、夫神の天日矛(あめのひぼこ)からのがれて難波にたどり着き、留まった「比売島」の場所ともいわれ、その比売神は「比売碁曾神」になったといいます。周辺は、4〜5世紀にかけた古代史上、大きな謎を秘めた地域にあたっているといえます。ところで、磐船山の旧跡は、江戸時代には小さな丘をなし、別名「下至土野原」(げしどのはら)と呼ばれていたようです。
『摂津国風土記』の逸文には、高津の名のいわれとして、天稚彦(あめのわかひこ)が天降った時、天の探女(あめのさぐめ)の神は、天の磐船に乗ってここまできて、そこに泊まったことから高津という、と記されています。天稚彦は、大己貴神(おおなむちのかみ)つまり出雲の国の大国主命の娘である下照比売の夫神であり、天探女は下照比売あるいは侍女とも見られていていることもあって、古代の高津・味原・小橋の地域一帯は、まさに下照比売伝承の霊地であったといえるでしょう。
比賣許曾神社の縁起には「本宮の東方に天の磐船あり、上古は地上にあったが天長3年(826)の6月、洪水により周辺の丘の土が崩れて、磐船が埋没することになったため、下至土野原(げしどのはら)と言うようになった」と記されているという。
周辺は、江戸時代の元禄の頃から 開墾されて田園に変わり、井戸を約13m程掘ったところ、平坦な巨石に突き当たり、周辺のどこを掘ってみても一つの磨かれた磐石であったという。その巨大な磐船については、永久6年(1161)成立、三善為康の編纂した『朝野群載』によると、長さが約70m、幅約35m、石には凹凸があって宝珠が置かれ、如意珠と名付けたこと、磐船は東北の方角を向き、地上には祠があって石の霊を祀っていたことなどが記されています。
上町台地の磐船は、東方の住吉大社の神領(神南備山)であった生駒山地に向けられていたのか不明ながら、その伝承は、渡来の女神阿加流比売あるいは下照比売と、住吉三神と神功皇后を祀る住吉大社の創祀、あるいは古代難波で行われた祭祀と深い関係をもって成立したのかもしれません。
(資料) 磐舩舊蹟  『摂津名所図絵』より
小橋村の西南田圃の中に一堆の丘あり 字を下至土野原(げしどのはら)といふ 土人は俗に磐舩山とよぶ 是則天探女命 磐舩に乗て天降り給ふ時 其とど満りし地也とぞ 故に高津といふ名あり 下至土野原といへるは かの磐舩土中に鎮座し給ふ よって下至土と作り 古れ比賣古曽大神の御正躰也 磐舩土中に蔵(かく)れ満しましいる よって比賣語曽といふ 風土記に天探女乗磐舩到于地 以天磐舟泊故號高津云々 万葉の註これに同じ 社家註進記云人皇十一代垂仁帝御宇 神石美簾の天女と化し こに蔵れたるより比賣古曽と宣ふ これを俗に姫蔵(ひめこそとも書く 又順徳院の八雲御抄にも阿免のいはふねの泊る所を高津といふとそ記し給ふ 又朝野羣載日 摂津国東方於味原有石舩 往年下照姫神垂跡云々 其磐舩四十尋餘 亘二十尋餘 石中有凹凸 置中央寶珠一顆 名日如意珠 其舩向東北侍智者 揺動其上有祠 祭祀石霊 云々 
(資料)比賣許曽神社 『同上』
味原郷小橋村にあり 延喜式日東成郡比賣許曽神社名神大月次相嘗新嘗 三代実録日貞観元年正月授従四位下 今小橋村生産神とす 例祭正月十二日比賣許曽祭 五月五日菖蒲刈神事 
十一月二十五日橋掛の神事
祭神 下照比賣命 大巳貴命の御女にて天稚彦命の妻 味耜高彦根命の妹なり 亦の名稚国玉媛或ハ天探女とも號す 神代に天磐舩に駕給ひ此地に天降給ふにより高津と号したる
末社 阿遅速雄祠 若宮と称す 大葉外祠 高津八幡宮 玉敷祠 牛頭天王祠 天満宮 神木賢木殿當社の鎮座は年暦久遠にして詳なら・・・
(資料)姫山と比賣島松原  『大阪府全誌』より
三光神社の所在地たる姫山は、比賣島松原の遺稱ならんか。
比賣島は摂津風土記に「比賣島松原者、昔輕島豊阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有女神、遁去其夫、来暫留住筑紫伊岐乃比賣島、乃日此島者猶是不遠、若居此島男神尋来、乃更遷来停此島、故取本所住之地名以爲島號」と見ゆるもの是れにして、其の遁れ来りし女神は阿加流比賣なり。
阿加流比賣の留りたる所は同記のみに依れば、一見四方環海の島なるが如し。
舊志に西成郡の稗島を以て之に擬するは、同地が島なりしと島名の姫島たりしとに依れり。
然るに古事記に依れば阿加流比賣は難波に留りて比賣碁曾神となると記し、且、其の後を追ひ来れる夫の天日矛は、将に難波に入らんとして其の渡の神に塞へられ、入ることを得ずして多遅麻國に去れりと見ゆれば、其の留りし所は難波渡よりも内部ならざるべからす。 
難波渡は已に第三聯合の條に於て記せしが如く、同聯合に属する難波碕の北邊なる天満川の邊なりしこと明なり。
是れに依りて見れば阿加流比賣の留りし比賣島松原を稗島なりとするの説は誤れり。稗島にも姫島の稱ありしも、姫島といへるは小島の愛らしさを呼びたるより起れるの稱にして、三軒家に於ける勘助島の舊名も姫島なり。
されば単に姫島の名のみに依りて之を風土記の比賣島の松原なりしとは断ずべからず。然るに此の地は天満川以内なるのみならす、高津丘の東部にありて玉造江に瀕しければ、難波渡を経て此に留り、其の地に松林繁茂し、且水邊にして島地の観ありしが爲め、舊住地の名を之に命じて比賣島の松原と呼び、其の稱残りて後世に姫山の名を傳へしものならん。 
附近なる小橋里に式内の比賣許曾神社ありしが爲め、或は同社に因みて此の地に姫山の稱ありしが如く見ゆるも、同社の奮地にあらざるを以て同社とは関係なし。
阿加流比賣の留り居りしは此の地なるも、其の祭られたるは舊住吉郡の平野郷なり、居所と祭地との異れるが爲め、復た或は此の地を其の舊地たる比賣島の松原ならざるべしとの疑を生ずるあらんも、古来祭られたる人にして居地と祭地との同所ならざるもの少からず、阿加流比賣を祭れる平野郷は其の居地たらざれども、其の居地たりし此の地とは遠からず、往時に於ける廣き難波の内たりしなるべし。
かつ此の地の比賣島たらしことの傍証とすべきものあり、即ち左に掲記する中臣宮處氏の本系帳是れなり。其の記事に依れば、大小橋命を比賣島の東南方なる猪甘津の邊に葬るとせり。大小橋命は小橋里の條に記するが如く、小橋里に生れて其の地に住したる人にして、其の付近なる猪甘津に葬られ、其の墳は今の鶴橋町大字岡に現在せり。
本系帳の記事は此の墓地の所在を示したるものなるを以て、付近の名地を標準の基礎に置きたるものなり。故に其の比賣島は小橋里・猪甘津と程遠からざる附近に求めざるべからず。
此の目的を以て同本系帳に記せる方位を逆に取り、大小橋命の墳より西北に當れる比賣島を求むれば、此の地を措いて之に擬すベきものなし。
加之阿加流比賣の後を追ひ来れる天日矛を、古事記には應神天皇の段に記せるも、日本書紀には垂仁天皇三年の條に記し、古事記傳には垂仁天皇の御宇よりも尚往昔のことならんとせり。
古事記傳の説の如くんば、阿加流比賣の遁れ来りし當時にありては、稗島の姫島は其の未だ存在せざりし時代なりしやも知るべからず、かく観じ来れば、阿加流比賣の留りし難波の比賣島の松原を此の地なりとするは、最も穏當の推定には非ざるか。穏當の推定なりとせば、古事記に見ゆる仁徳天皇の豊楽を爲さんとして行幸し給ひし時に、雁の卵を生みし事ある日女島も此の地には非ざるか、尚後の精査を俟つになん。
(資料)中臣宮處氏本系帳考詮
中臣連大小橋臣命者、志賀之高穴穂宮治天下天皇命之御世、誕生於浪速國大縣之味原里 家牒云、那美波夜能久邇淤保賀多能阿台布能佐登 而、石村之豊櫻宮治天下天皇之御世、被賜中臣職、至于浪速之高津宮、治天下天皇命之御世 参御也 仕奉而薨去、故葬祭於同縣  家牒云、淤自阿賀多 比賣島之在東南方、猪甘津邊也、    
(資料)産湯稲荷 『大阪府全誌』
清水の上に産湯稲荷神社あり、豊玉明神を祀る、比賣許曾神社の境外未社なり。傍社の白狐明神は豊玉明神の臣にして、其の狐よく歌を作りて之を書し、祀官今に其の書を蔵せりと。此の邊には狐穴多く俗に狐谷と呼べり。
(資料)山下清水 『同上』
又山下清水は小橋元町字岩船の百十四番地の一なる舊寂聞院の址にあり、前記の如く大坂六清水の一たりしも、今は僅に古井を残せるのみ。
(資料)法蔵山・比賣許曾神社の舊地 『同上』
法蔵山と呼べるは、産湯清水の上なる丘状を爲せる所にして、もと愛来目山と稱せしが、孝徳天皇の白雉二年冬十二月晦味經宮に多くの僧尼を集めて一切経を讀ましめ給ひしとき、其の経机彿具等を此の山に蔵められしより此の名起れりと。
比賣許曾神社の鎮座あし所なりしが、天正年間織田信長の石山本願寺を攻むるに及び、其の兵燹に罹りしかば、村中の父老漸く神璽を護して今の東成郡鶴橋町大字東小橋なる摂社牛頭天王祠に遷座しまゐらせ、其の舊地は従来除地たりしも、慶長十二年十月の検地に際して年貢地となれりといふ。
社は大己貴命の女にして味耜高彦根命の妹なる下照比賣を祀りしが爲め、附近には其の兄君なる高彦根命に因める高彦崎又は大葉刈山等の名を爲し、前者は味原池の東にありて命の降臨地なりと傳へ、後者は味原池の西にありと云ひ、なほ味原郷の名も命の味耜の字に象りしものなりとせり。
(資料)磐船の舊蹟 『同上』
磐船の舊蹟は小橋元町の南端にあり、今も字を岩船と稱す。里人は磐船山といひ、一に下至土野原とも呼べり。
もと一堆の丘なりしと傳ふれども、今は人家の敷地となれり。摂津風土記に「天探女乗磐船到于此、以天磐船泊、故號高津」と見ゆる磐船の泊りし所なり。
摂津名所図會等に天探女を下照比賣の別名なりと記せるは誤れり、天探女は下照比賣の侍女なるべし。故に風土記に天探女の此に至りしと記せるは、下照比賣の天探女を具して天降らせしものと見ざるべからず。即ち此の地は下照比賣降臨の靈地にして、高津の地名も是れより起り、下照比賣を比賣許曾神社と祀られしも之れが爲めなるべし。
同社縁起に依れぼ「本宮の神垣のひんがしのかたに天の磐船あり、上古は地上にありといへども、人王五十三代淳和天皇の天長三丙午年夏六月、大雨洪水して、愛来目山・大小橋山・高津岳等土砂漲落ちて、磐舟土中に沈淪し侍る、是れよりして人呼で磐船土の下に要るの故に下至土野原と云ふ」と録し、風月抄には「人王八十三代土御門院御宇承元三己巳年四月、藤原光俊仍高日賣神靈告、磐船四隅開戸、名日味原縣、此時神石之四面以石墻構之、于時呼人日下至土野原」と載せ、朝野群載には「摂津国東方於味原有石船、往年下照姫神垂跡云々、其磐船四十尋餘亘二十尋、石中有凹凸、置寳珠一顆、名號如意珠、其船向東北、待智者揺動、亦其上有叢祠祭祀石靈」と記せり。
摂津名所図會に掲げられたる村老味原氏の談に依れば、元禄年中より此の地を開墾して田園となし、耕作の用水にとて井を掘る、其の時七尋斗りも穿ちしに、平面の大石○穿銚○に當る、又其ほとりこゝかしこを掘りぬれども、何地もみな同石にてみがき立たる石あり、彼井を掘りし者忽病を受けて悩亂す、磐船といふ事もいまだしらざりし時なれば、人々驚き恐怖して井を掘る事をそれより止めしとなん。
萬葉  久方のあまの探女かいはふねのはてし高津はあせにけるかも  角麻呂
清雅  磐舟のいしの大船に棹さして行末なかく漕渡るらん      同
交野の天の磐船伝説 / 大阪府交野市私市
生駒山地の東側、四條畷市田原一帯の水を集めて交野の地域を流れ下る天の川の途中、文字どおり磐船峡谷に天の磐船の伝承地があります。交野の私市から渓谷に沿って磐船街道(国道168号)を進み、田畑と丘が広がる田原地域の入口附近に鎮座する磐船は、天の磐船と呼ばれる20mにも達する巨大な石を御神体としています。
神体石の周辺近くには多数の巨岩のほか舟形の石や、石の側面に鎌倉時代ごろに彫られたといわれる大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四体の仏像が彫られた石もあります。
この他、両側の山の崖面にも多数の巨岩が点在し信仰の対象となっています。
天の磐船は、『先代旧事本紀』に「饒速日尊、天神御祖の詔をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す。さらに大倭国鳥見白庭山に遷り坐す。いはゆる天磐船に乗り大虚空(おおぞら)を翔行きて、この郷を巡りみて、天降り坐す、すなはち虚空見日本国(そらみつやまと)といふは是なり」と登場します。
十種の神寶を授けられ、天空を飛ぶ天の磐船で河内国の河上にある哮峯に天降られたと書かれています。
祭神の饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名を天火明命(あめのほあきのみこと)といい、神武天皇の東征・大和平定に先立ち、
生駒山系の哮ヶ峯に天降り、鳥見の白庭山へ移ると共に在地豪族の長髄彦の妹の三炊屋姫を妃とし、やがて河内・大和を中心に勢力を伸ばした物部氏の祖神にあたります。
天の川沿いの交野山ろく一帯は、一族の交野物部の本貫地であると共に、生駒山東麓の田原周辺にかけた天の川流域に沿って、住吉大神を祀る住吉神社が多数鎮座します。
また磐船神社の御神体である天の磐船石の表面には「住吉大明神」の神名を彫り、祭神は表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神と神功皇后を祀っているといいます。
天降ったという哮ヶ峰については、神社の西北、府民の森星田園地のロッククライミングウォールの背後の岩山が、一般的には哮峰といわれています。
『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」には、垂仁天皇と仲哀天皇が住吉大社へ神領として寄進した生駒山の北限の地として饒速日山の名が登場することなどから、交野の磐船峡谷に残る謎の磐船伝説は、物部氏の始祖神話だけでなく、日本の建国神話あるいは住吉大神の世界・日神崇拝に大きくつながっていくようです。
なお、東大阪市日下の生駒山北嶺にも哮ヶ峰・饒速日山があり、山ろくの石切には、同じく饒速日命を祀る石切剱箭神社があります。
(資料)磐船・岩船神社 『大阪府全誌』より
大字私市
本地は古来交野郡に属し、私市村と称す。字地に川原西の町・川原東の町・小路・畑西の町・畑東の町・馬場・坂口・院殿といへるあり。
村名の私市は私部市の略にして、大字私部と同じく何れの時にか后邑たりし遺称ならんか。東南に山脈展列し、青嶂峩々として其の一峡を爲せる所に、星田村より天の川落ち来通じ、緩急 回嵒石悉く詭譎変幻を極め、一大巌之に跨れり。
謂ゆる磐船是にして高さ六丈・長さ五丈、其の形船の如し。即ち岩船神社の神体にして、表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命を祀る。
境内は壹百貳拾五坪、無格社にして祭日六月三十日なり。傳え云ふ、饒速日尊の天津御祖の詔を稟けて、十種の神寶を授かり、哮峯に降り給ひし時に用ひられし天磐船なりと。
背面に加藤肥後守の五字を勒せり、其の縁由は詳ならざれども、大坂築城のとき、清正は此の石を輸送せんとして名字を勒せしも、動かざりければ、終に其の儘になりしとの傳説あり。
(資料)磐船の記事 『南遊紀行』より
「岩舟とは大磐方十間も有へし、長くして舟の形ににたり、谷によこたわれり、其外家のごとく橋のごとく、或は横はり或は側たてる大石多し、岩船石の南の面をけつり、住吉明神の字を彫りつけて麁布の戸帳を掛たり、其南の大石には不動を刻付たり、六月晦日に爰に参詣の人多しと云ふ、磐船石の下を天川流れ通る奇境也、凡大石は何地にも多けれ共、かくのごとく大石の多く一所にあつまれる處をいまだ見ず、」
葛城山ろく平石の磐船伝説 / 大阪府南河内郡河南町
当麻へ通じる竹内峠がとおり、推古天皇陵・風の神を祀る科長神社などがある南河内郡太子町の南方、河南町平石(旧河内国石川郡)の山間部にも哮ヶ峰と磐船の伝承地、磐船神社があります。
平石は、修験道の祖といわれる役行者の修行の地、葛城山嶺の北にそびえ久米の岩橋伝説で知られる岩橋山の西ろくにあたります。
神社は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のほか、天照大神・高皇彦靈神・住吉三神・息長足姫・應神天皇・可美眞手命・御炊屋姫命・大山祇命を祀っています。
神社の東側の尾根突端は、山ろくから見れば三角形の神奈備山で、哮ヶ峰と伝えられていて、交野の磐船神社と同じく旧事紀の「饒速日尊天神御祖の詔をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す」の哮ヶ峰といいます。
『河内名所図絵』には、この地を神下山といい、神籬を樛祠(とがのやしろと名付けると記されています。乗っていた天磐船だと伝える石が 山中〜社殿の周辺に多数ありますが、写真上方に見える巨石の一つは船形に近く、長さは約13mほどあります。
(資料)磐船神祠 『河内名所図絵』より 
葛城山の山中にあり。平石、持尾両村の生土神とす。例祭、六月廿三日、九月七日。〔旧事紀〕日、饒速日尊、天神御祖の詔を禀て、十種の神宝を授り、天磐舩に乗て、河内国河上哮峯に天降り、即、大和国鳥見白庭山に遷座し給ふと云云。
因之、此地を神下山といふ。神籬を樛祠(とがのやしろ)と号く。左右に摂社あり。八幡宮、若宮、山神、滝宮、これは、当山の南、横尾滝の霊神をこゝに祭る。大和の鳥見丘は、三輪の南、外山村の東上み方にあり。〔大和名所図会〕に委く出せり。
磐船
社頭の所々に見へたり。舩の形に似て艫○*(舟+益)ありて凹なり。土人日、此山中に四十八箇所ありとなん。
浪石
社頭の西壱町計にあり。石頂に浪の吹よせたる形あり。故に名とす。           
(資料)磐船神社 『同上』
磐船神社は山中にあり、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊及び天照大神・高皇彦靈神・表筒男命・中簡男命・底筒男命・息長足姫・應神天皇・可美眞手命・御炊屋姫命・大山祇命を祀れり。
其の地を哮ケ峰といふ、其の哮ケ峯といへるは、舊事紀天孫本紀に「天祖以天璽瑞寶十種、授饒速日尊、則此尊稟天神御祖詔、乗天磐船而天降、坐於河内國河上哮峰」と見ゆる哮ケ峰なりと傳へ、其の乗り給ひし天磐船なりといへるは社辺の所々にあり。石形船の如く艫○を備へて、其の大なるものは長さ約七間にも及べり。
又其の西方一町許にして浪石といへるありて、石頂に浪の吹きよせたる形あり、石は何れも其の形に依りて名づけられしものならん。
哮ケ峰といへるは、北河内郡星田村大字星田にもあれば、その何れが饒速日尊の天降りありし哮ケ峰なるかは明ならざれども、社は式内社の名を逸したるものならんかとの説もありて、其の勧請せられしは久しき以前にありしものなるかの如くに想はる。
然れども久しく高貴寺の鎮守となり来たりて、社記の傳はらざるに至りしは惜むべし。
明治維新後の神仏分離に依りて高貴寺と分れ、同五年村社に列し、同四十四年五月二十九日神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は壹千六百壹坪を有し、本殿・弊殿・拝殿・寶庫を存し、未社数座あり。氏地は本地及び河内村大字持尾にして、例祭は十月十七日なり。
いずれにしても、難波・河内一帯と東側に連なる生駒・二上・葛城山系周辺にかけた広大な地域は、古くは物部氏の勢力地域、のちには住吉大社の神領地であり、各地には百済・新羅からの渡来氏族であれていた。磐船などの伝承がどのように各地に残されてきたのか、その謎解きは大きな古代史のロマンといえるでしょう。 
岩船(いわふね)
あらすじ
時の帝が摂津国(大阪府)住吉の浦に、新たに浜の市を開き、高麗や唐土の宝物を買い取るようにとの宣旨を下されます。そこで、命を受けた勅使が住吉へ下向します。すると、そこへ姿は唐人ながら、日本語を話す一人の童子が、銀盤に宝珠を乗せて現れます。勅使が不審に思って問いかけると、童子はめでたい御代を寿いで来たと告げ、また、この宝珠も君に捧げたい、龍女の珠とでも思っていただければありがたいと言います。そして、住吉の浜に立ついろいろな市のことなどを語ります。また、このあたりの景色をめで、さらに天がこのめでたい代をたたえて、極楽の宝物を降らすために、岩船に積み、今、ここへ漕ぎ寄せるところだと言います。そして、自分こそは、その岩船を漕ぐ天ノ探女であると明かして消え失せます。
続いて、海中に住む龍神が、宝を積んだ岩船を守護するために現れます。そして、龍神は八大龍王達も呼び寄せ、力を合わせて岩船の綱手を引き寄せ、住吉の岸に無事に到着させます。山のように積まれた金銀珠玉は、御代の栄を寿ぐように光輝きます。
詞章
〔ロンギ〕千代までと聞こうる市の.数々に。聞こうる市の数々に。四方の門辺に人さわぐ。住吉の浜の市。宝の数を売るとかや。春の夜の一時の。千金をなすとても。例えはあらじ住吉の。松風値なし。金銀珠玉いかばかり。千顆万顆の玉衣の。浦は津守の宮柱。立つ市やかた数々に。まがきも続く片そぎの。み戸しろ錦綾衣。頃も秋立つ夕月の。影に向こうや淡路潟。絵島が磯は斜めにて。松の木間行く捨小舟。寄るか。出づるか。住吉の。岸打つ浪はぼうぼうたり松吹く風はせっせっとして。ささめごとかくやらん。その四つの緒の音を聞きし.潯陽の江と申すとも。これにはよも増さじ.面白の浦のけしきや。
〔キリ〕宝をよする波の鼓。拍子を揃えてえいやえいや。えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていとうの拍子を。打つなりやさざら波、えめぐりめぐりて住吉の松の風。吹き寄せやえいさ。えいさらえいさと。押すや唐艪の。押すや唐艪の潮も満ち来る。波にのって。八大龍王は。海上に飛行し。御船の綱手を手に繰りからまき。潮にひ引かれ。波にのって。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧げ物。運び出だすや心のごとく。金銀珠玉は降り満ちて。山のごとくに津守の浦の。君を守りの神は千代まで。栄うる御代とぞ.なりにける。 
安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ) / 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町
安倍晴明の先祖は、あの安倍仲麻呂であると言われている。伝承によると、唐より陰陽道の知識をもたらしたとされる吉備真備は、異国で客死した阿倍仲麻呂の霊の導きによってこの貴重な知識を持って帰国することができたとされている。安倍家そのものが陰陽道と浅からぬ縁を持っているわけである。
ところが晴明の父である安倍保名は既に朝廷に出仕するだけの身分ではなく、大阪に居を構える一土豪(しかも伝承によるとその所領すらも謀略によって奪われている)に没落してしまっている。そのため誕生から幼少時代までは、大阪が晴明伝説の主たる地になっている。特に阿倍野はその名の通り、安倍氏の所領であり、ここに晴明誕生の地として安倍晴明神社がある。
大阪の晴明伝説に絶対欠かせないのが、晴明の母親である葛乃葉姫=白狐である。この狭い神社に入ると、いきなり摂社に出くわす。泰名稲荷神社である。父親の名前(通称は“保名”)を冠した稲荷神社である。さらには最近 造られたと思われる狐の像まである。
そして生誕の地ということで、お約束とも言うべきか、産湯に使った井戸の跡が残されている。とにかく狭い境内の中に“安倍晴明誕生の地”という印象を与える数々の遺跡が並べられている。
神社の創建は安倍晴明没直後の1007年。江戸時代まではかなり格式のある神社であったらしいが、幕末から明治初期にかけて荒廃し、一時社殿すらなかったような状態だったらしい。そして大正時代に、すぐ近くにある安倍王子神社の末社という形で再興され、現在に至るとのこと。
阿倍仲麻呂 / 701-770。霊亀2年(717年)遣唐留学生として唐に赴き、玄宗皇帝に仕えて官位を昇進する。最終的に大都督にまで昇進するが、帰国叶わず客死する。
陰陽道にまつわる伝承は『吉備大臣入唐絵巻』などにあり、陰陽道の秘本である『ホキ内伝』を得るために唐に渡るが、安禄山らの陰謀により憤死。後に同じ命を受けて入唐した吉備真備を助けるべく幽鬼となって出現、数々の無理難題を解く鍵を真備に授けて、秘本を得ることに成功させる。(実はこれは完全な脚色であり、仲麻呂と真備は同じ時に遣唐使として派遣され、真備の方が先に帰国している)
阿倍王子神社 / 仁徳天皇の頃に創建。安倍氏の氏神として祀られるが、後に熊野信仰が盛んとなり、その街道沿いにあることから王子社の1つとされる。現在大阪に残る唯一の王子社。
茨木童子貌見橋(いばらきどうじすがたみはし) / 大阪府茨木市新庄町
今では茨木市のシンボルキャラクターとなっている茨木童子であるが、その名の通り、昔からこの茨木が出身地であるとされている。
伝説によると、茨木童子は摂津の水尾村(現・茨木市水尾)の生まれであり、生まれ落ちた時には既に歯が生え揃い、すぐに自分の足で歩くことが出来たという。そのため生みの母は怖れのあまり亡くなり、父親は茨木村の外れに置き去りにして捨ててしまった。
その幼子を拾い育てたのが、近くの床屋であった。成長して床屋の手伝いをするようになった茨木童子であるが、ある日、誤って客の顔を剃刀で切ってしまい、慌てて流れ出た血を舐めたところその味に魅了されてしまった。それ以降、わざと客の顔を切ってはその血を舐め続けたのである。当然のことながら評判は悪くなり、結局床屋に怒られるようになった。
ある夜、顔を洗おうと近くの川へ行った茨木童子が、ふと橋の上から水面に映る自分の姿を見た。その容貌はまさに鬼そのものであった。驚いた茨木童子は床屋には戻らず、そのまま丹波の大江山まで行き着き、酒呑童子の家来となるのであった。
茨木童子が己の容姿に気付いたとされる橋がかつてはあったのだが、現在は存在しない。既に川も埋められており、民家の軒下にその跡を示す碑があるだけである。
茨木童子の出生地 / 出生地には3説ある。摂津の水尾村、同じく摂津の富松村(現・兵庫県尼崎市)、そして越後の軽井沢村である。摂津の2箇所については、生まれた直後に茨木村に捨てられたとされ、そこから茨木童子の名が付けられたとされる。対して越後の方はその土地に住む茨木氏の出身であるとされる(越後説では、酒呑童子も越後の出身ということになっている)。
葛葉稲荷神社(くずのはいなりじんじゃ) / 大阪府和泉市葛の葉町
安倍晴明伝説の第一幕と言うべき地である信太の森にある神社である。この信太の森に祀られていたのが五穀豊穣の神である “保食神”であり、和銅年間(708-715)に元明天皇が祭事を行ったことが記録されている。その後この森には白狐が棲むとされ、稲荷神社が置かれるようになったらしい。安倍晴明の伝説がなくとも、かなり由緒正しい神社であることは間違いない。
この葛葉稲荷が安倍晴明と密接に関わっていく伝説は『蘆屋道満大内鑑』という浄瑠璃で完成され、特に“信太の子別れ”に集約されている。それによると、 没落し阿倍野に住んでいた安倍保名は、家名再興のために信太の森を通って聖神社に参詣していた。ある日その森の中で保名は傷ついた白狐を助け、自らもそれが原因で怪我を負った(狐狩りをしてさらに保名に危害を加えたのが、後に安倍晴明と死闘を繰り広げる蘆屋道満の弟という設定)。怪我をした保名を介抱したのが葛乃葉姫であり、それが縁で二人は結ばれ、童子丸という名の一人の男子をもうけた。
ところが童子丸が5歳の時、葛乃葉姫はうたた寝をしていて、その正体である白狐の姿を息子に見られてしまった。そして“恋しくば尋ねきてみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉”という一首を障子に書き残して去っていった。その後信太の森に帰った白狐は、夫と子供のことを思い続けて石になってしまったとも(葛葉稲荷神社にはこの霊石が安置されている)、母を慕って信太の森にやってきた童子丸(後の安倍晴明)に秘術を授けたとも言われている。いずれにせよ、定めによって母子が別れ別れになるくだりが、芝居として絶大な人気を博したのは言うまでもない。
葛葉稲荷はJRの駅から徒歩3分ほどのところにある。もはや“信太の森”と呼ばれるような広大な森は存在せず、神社の周辺に緑が残っているだけである。境内には白狐が葛乃葉姫に化身した時にその姿を映したとされる井戸があったり、夫婦円満に効験のある楠の木があったり、ある種かなりにぎやかな場所である。
『蘆屋道満大内鑑』 / 「あしやどうまんおおうちかがみ」。享保19年(1734年)初演。竹田出雲作の浄瑠璃。信太妻物(葛葉伝説を扱った芝居・音曲の類)の代表作と言われる。
信太の名称 / 狐の好物が油揚げということで、油揚げを使った料理を指して「信太」と呼ぶ。信太鮨、信太巻など。
雉子畷(きじなわて) / 大阪府吹田市垂水町
大阪の長柄橋に残る人柱伝説にまつわる伝承地である。
嵯峨天皇の弘仁3年(812年)とも、推古天皇の21年(613年)であるとも言われる。長柄橋の架橋工事は困難を極め、とうとう人柱を立てることとなった。しかし人選がなかなか決まらないために、垂水に住む長者の巌氏(いわじ)に相談したところ、「袴に継ぎのある者を人柱にすればよい」という話でまとまった。ところが、袴に継ぎのある人物は、巌氏自身しかいなかった。このため、言い出した巌氏が自ら人柱となる羽目になったのである。そしてこの人柱によって、長柄橋はようやく完成となった。
巌氏の娘に光照前(てるひのまえ)という者があった。父が人柱になって以降、人前で口をきくことがなくなってしまった。その娘が請われて河内国禁野の徳永家へ嫁したのであるが、婚家でも一切口をきかないためについには実家へ帰されることになる。
夫に連れられていく途中、どこからか雉の鳴き声がする。その声を手掛かりにして、夫は持っていた弓矢で雉を射殺した。それを見た時、光照前は悲しみのあまり
ものいわじ 父は長柄の 橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし
と詠ったのである。それを聞いた夫は、妻が口をきかなかった真意を悟り、実家へ送り帰すことなく、二人して我が家へと戻ったという。そしてその時に射た雉を埋めたというのが、この雉子畷のあたりであるとされる。また光照前は夫に先立たれた後に出家して不言尼と名乗り、父の菩提を弔ったという。
この伝承が後の「雉子も鳴かずば撃たれまい」という諺の由来の一つとなったと伝えられる。
首斬地蔵(くびきりじぞう) / 大阪府阪南市石田
天正13年(1585年)、豊臣秀吉は根来寺・雑賀衆勢力一掃を目指して紀州攻めをおこなった。この時、この地にあった道弘寺などのいくつかの寺院も根来寺に味方して、秀吉に抵抗を試みた。しかし圧倒的な兵力を持つ秀吉軍によって、寺僧はことごとく首を刎ねられてしまったのである。
地元の者は、これらの僧の首を集めて葬り、その上に石地蔵を置いて冥福を祈ったという。これが首斬地蔵の由来である。現在でも多くの者が参拝にやってくるお地蔵さんである。
金剛院 蜂塚(こんごういん はちづか) / 大阪府摂津市千里丘
金剛院の歴史は古く、創建は天平勝宝も頃(749〜757年)に行基がこの地に開いたとされる。霊光を探してこの地を訪れた行基を、老翁が珍菓で供し「この地は霊地である故に、ここに寺を建てるがよい」と言って天に消えたため、はじめは味舌(ました)寺としていた。しかしその後、境内にある蜂塚にまつわる霊異があったために、今では蜂熊山蜂前寺(はちくまさん・ぶぜんじ)という名になっている。
崇徳天皇の治世(1123〜1142年)の頃、この地一帯を賊が荒らし回った。村の者(あるいは官兵)が賊に対して防戦するも次第に追い詰められ、最後にこの寺の本堂に逃げ込んだ。しかし命運尽きたと悟ると、蜘蛛の巣に掛かっていた蜂を助けて、本尊の薬師如来に善根を施したことを示した上で勝利を祈念した。すると、本堂が鳴動するや数万ものおびただしい蜂が出現して、賊を退治してしまった。そしてその時に死んだ蜂を集めて、塚に葬ったという。
異説では、この蜂による霊異は南北朝の頃とも、応仁年間(1467〜1468年)とも言われる。蜂塚は現在でも本堂裏にひっそりとある。
大織冠神社(たいしょくかんじんじゃ) / 大阪府茨木市西安威
大織冠は、大化3年(647年)に制定された冠位の中で最上位のものである。約40年ほどだけ使用された冠位であるが、この官位を授けられた人物は歴史上ただ一人、藤原鎌足のみである。それ故に「大織冠」の名は、藤原鎌足の別称となっている。
鎌足は亡くなると、所領のあった摂津の安威に埋葬されたと言われている(後に大和の多武峰に改葬されたとされる)。その埋葬地と目されたのが「将軍塚」という古墳であり、江戸時代にはここに祠を建てて崇拝した。子孫である九条家は毎年使者を送り、反物2000疋を奉納していたとされ、正式な藤原鎌足の埋葬地と認められていた。その後に古墳は宅地造成のために取り壊されたが、石室などは移築され、現在でも祠は横穴式の石室の奥に安置されている。
昭和9年(1934年)、京大の地震観測所工事の際に発見された阿武山古墳から、多くの装飾品が納められた男性の人骨が見つかった。皇族の可能性が高かったため埋め戻されたが、昭和57年(1982年)に被葬者のX線写真の存在が明らかになり、調査の結果、重篤な骨折箇所があり、金糸の冠を着用していたことが判った。これらの状況から、この阿武山古墳に葬られた人物が藤原鎌足である可能性が非常に高くなったのである。しかしそのような結果にもかかわらず、大織冠神社は藤原鎌足古廟として今なお崇められている。
藤原鎌足 / 619-669。生前は中臣鎌足と称す。中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我氏を滅ぼし、政権の中枢に入る。死の直前に天智天皇より、藤原の姓と大織冠を授けられる。
鵺塚(ぬえづか) / 大阪府大阪市都島区都島本通3丁目
仁平3年(1153年)、夜ごと東の空より黒雲が湧き上がり御所を覆い尽くすと、そこから不気味な鳴き声が聞こえてきた。近衛天皇はその声に怯え、源頼政に退治を命じた。そして矢を射たところ落ちてきたのが、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物であった。これが世に言う「鵺」である。
殺された鵺の死骸は丸木舟(うつろ舟)に乗せられて川に流されたと記されており、その辿り着いた先が都島の鵺塚であるという。大阪の名所を記した『蘆分船』によると、滓上江村(かすがえむら)の母恩寺のそばに塚があり、頼政が射抜いた鵺をうつろ舟に押し込めて淀川に流した。すると浮洲に引っかかって止まり、そのまま死骸は朽ちたとされる。また『摂津名所図会』では、鵺の死骸を埋めたのが塚であるとしている。
その後、塚は明治3年(1870年)に大阪府が改修し、現在地に置かれた。そして昭和32年(1957年)には地元住民により祠が建てられ、現在に至っている。お供え物や清掃道具などからして、地元で大切に保護されているようである。
そして特筆すべきは、案内にある“大阪港紋章”である。この大阪港紋章のサポーター(盾の部分を支える動物など)として採用されているのが、鵺なのである(ただし胴は獅子となっている)。昭和60年(1985年)制定のものであるが、大阪港ゆかりのモンスター(このサポーター部分は、西洋でも幻獣が採用されることが多い)ということで公式に認知されていると考えても良いのかもしれない。
源頼政 / 1104-1180。源氏として破格の従三位に叙せられたため“源三位”とも言われる。源氏ではあるが、平清盛の信を得て平氏政権下においても厚遇され た。しかし以仁王の打倒平家の挙兵に加わり、宇治平等院で敗死。鵺退治については、先祖である源義家が弓で魔物を退散させた故事にちなんで、一門で武名高 い頼政が指名されたことになっている。
頼政の鵺退治 / 鵺塚の案内板にある「仁平3年、近衛天皇の御代」を採用しているが、他にも高倉天皇の御代であったともされる。
『蘆分船』 / 延宝3年(1675年)刊行。大阪の名所を案内した書籍としては最も古いものとされる。
『摂津名所図会』 / 寛政8年(1796年)刊行。名所図会の先駆けとなった『都名所図会』の吉野屋為八が出版に携わっている。
服部天神宮(はっとりてんじんぐう) / 大阪府豊中市服部元町
菅原道真の伝承地にある神社であるが、その創建はさらに遡る。「服部」の地名で判るように、この地は渡来人の秦氏が集団で居住した場所であり、その頃には医薬の神である少彦名命を祀る祠があったとされている。これが服部天神宮の前身である。
時を経て延暦2年(783年)、川辺左大臣と呼ばれた藤原魚名は大宰府へ左遷となって下向する途中、この地で病に倒れ亡くなった。そして少彦名命を祀る祠のそばに、魚名の墓が建てられたのである。
それから約100年後の延喜元年(901年)、やはり大宰府へ左遷の身となった菅原道真がこの地を通りがかった時、持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなった。里人の勧めで少彦名命の祠に祈願し、併せて魚名の墓である五輪塔にも祈願したところ、脚気はたちどころに治り、無事に太宰府に到着できたのである。
その後、少彦名命を祀る祠に菅原道真も祭神として名を連ね、服部天神宮として大いに栄えたという。特に菅原道真の伝説〜「足の神様」として有名であり、現在でも草鞋を奉納して祈願する人が絶えないという。また道真と奇縁で結ばれた形の藤原魚名の墓も境内に安置されている。
少彦名命 / 大国主命の国造りの際に来訪した、小さな神。国造りの協力神であり、医薬の神、温泉の神、まじないの神など様々な側面を持つ神である。この神社にある「天神」の名称は、少彦名命によるものである。
藤原魚名 / 721-783。藤原北家(藤原房前の息子)。左大臣まで昇進するが、突如解任され、大宰府へ左遷となった。桓武天皇即位直後に起きた、氷上川継の乱(天智天皇の血筋である桓武に対して、天武天皇の系統に繋がる川継が謀反を企てた事件)に連座したものと言われている。
水無瀬神宮(みなせじんぐう) / 大阪府三島郡島本町広瀬
元々は後鳥羽上皇の離宮があった場所に建立された。承久の乱によって隠岐に流された上皇の遺勅によって、仁治元年(1240年)に御影堂が建立され、上皇を祀ったことから始まった。その後明応3年(1494年)に隠岐より上皇の御霊を迎えている。さらに明治6年(1873年)に、承久の乱によって同じく配流された土御門上皇・順徳上皇もそれぞれ配流先である土佐と佐渡より御霊を迎えて合祀した。その際、それまでの仏式から神式に祀り方を変えている。
境内への入り口に、桃山時代に創建の神門がある。この柱に金網が施してある部分があるが、ここに石川五右衛門の手形が残されているという。
水無瀬神宮にある名刀を盗もうと思い立った五右衛門であるが、いざ神殿に忍び込もうとすると、神門から中に入ることが出来ない。結局、神威によって門内に立ち入ることすら出来なかった五右衛門は、神門に手形のみを残して立ち去ったという。
後鳥羽上皇 / 1180-1239。安徳天皇の異母弟。安徳帝が平家と共に西国へ落ち延びたために、即位する。鎌倉幕府に対しては3代将軍・実朝を取り込んで安定を図るが、実朝暗殺後は対立。承久3年(1221年)に執権・北条義時追討の院宣を出すが、大敗を喫して隠岐に配流となる。藤原定家に『新古今和歌集』編纂を命じるなど歌人としても評価が高く、また刀剣を打つことを好んだとされる。
土御門上皇 / 1196-1231。後鳥羽天皇の第一皇子。承久の乱には関係していなかったが、実父である後鳥羽上皇配流のため、自ら志願して土佐配流となる(後に阿波へ移動)。
順徳上皇 / 1197-1242。後鳥羽上皇の第三皇子。父以上に倒幕の意志が強かったとされる。佐渡において病に倒れると、京に戻れる希望がないので存命は無益とし、断食をおこない自ら死を選んだという。
石川五右衛門 / ?-1594。京都三条河原で処刑されたことが、史料によって裏付けられており、実在の人物であるとされている。ただ大盗賊として数多くの伝説によって有名であり、歌舞伎や浄瑠璃などの演目にもたびたび登場している。 
 
 
兵庫県 / 摂津、播磨、丹波、但馬、淡路

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝ざめぬ須磨の関守 源兼昌
生田川(乙女墓) / 神戸市中央区
摂津国、今の神戸市中央区を流れる生田川の伝説である。
葦屋あしやの菟原うなひ少女をとめは、八つの祝ひのときから、今の美しい黒髪を束ねる年まで、普通の少女とは異なり、木綿紙垂ゆふしでの前で隠もりきりの生活をしてゐた。その美しい姿を見たいと思ひ悩む男たちは、幾重もの玉垣の数より多かったといふが、中でも千沼ちぬ男をとこと菟原男の二人は、潔斎の仮屋を焚く炎のやうな情熱で、競って求婚して来た。二人はお互ひに、焼太刀の柄を握りつぶすかのやうに構へて、白檀弓まゆみを取り、靫を背負って、水の中でも、火の中でも、相争った。
少女が母に語るには「この年の結婚を祝ひ定められた私とはいへ、二人の男の争ふ様子を見れば、たとへ生きてゐても、結婚はできません。黄泉よみの国でお待ちしてゐます」と、水底の声のやうにひっそりと言ひ残して、泣きながら入水した。千沼男は、その夜の夢で少女の死を知り、後を追った。後れをとった菟原男は、天を仰いで泣き叫び、足摺りして歯ぎしりし、同輩に負けじと、小太刀を身につけて盛装し、長い葛をたどるやうに後を追った。
少女の親族たちが集まり、長き世の形見に語り継がうと、少女塚をとめづかを築き、その左右に男塚を二つ築いてとむらったといふ。
塚の前でこの話を聞いた私(高橋虫麻呂)は、身内のことではないはずなのに、今が新喪の如くに、声を出して泣いてしまったのだ。(以上は万葉集の口語訳)
○ 葦の屋の菟原少女が奥津城おくつきを 行き来と見れば哭ねのみし泣かゆ 高橋虫麻呂
別の話では、少女の親は、二人の男に、生田川に浮かぶ水鳥を射た者と娘を結婚させると約束した。二人の男が同時に矢を射ると、一人の矢は水鳥の頭を射抜き、一人の矢は尾を射貫いた。そのために少女は更に思ひ悩み、歌を残して生田川に身を投げて死んだ。
○ 住みわびぬ我が身投げてむ津の国の 生田の川は名のみなりけり
二人の男も身を投げ、一人は少女の足を、一人は手を取ったまま死んだといふ。(大和物語)
布引の滝 / 神戸市中央区
神戸市の布引ぬのびき山の中腹にある布引の滝は、西国街道や海上からも望める名勝として知られ、末は生田川にそそぐ。
○ 晒しけんかひもあるかな山姫の たづねてきつる布引の滝 栄花物語
○ 久かたの天つ乙女の夏衣 雲井にさらす布引のたき 藤原有家
源義朝の長男義平は、悪源太義平と呼ばれるほどの荒武者で、平治の乱でも勇名をはせたが、この乱では平氏に敗れ、義平は捕はれて五条河原で打ち首となった。処刑の際、首斬り役の難波常俊に向かって「雷となって怨み殺さん」と叫んだ。その年の七月七夕の日、清盛の病気全快の祝が布引の滝でおこなはれたとき、突然黒雲が立ち込め、稲妻の轟音とともに、雷がおち、難波常俊は焼け死んだといふ。
大輪田の泊 / 神戸市兵庫区
福原(兵庫区)は、かつて平清盛らの別荘があった地で、一時は福原遷都も行なはれた。ここの港は大輪田泊おほわ だのとまりといひ、古代からの港で、清盛以後、日宋貿易の拠点ともなった。都落ちとなった平氏は、この港から一ノ谷を経て、西へ敗走して行った。
○ 浜清み浦うるはしみ神代より 千舟の泊つる大輪田の浜 田辺福麿集
福原の西、長田区駒ヶ林町の駒林神社には、延元元年(建武三年)、新政府に反逆した足利高氏が京を追はれ九州に下るときに参詣して詠んだ歌があり、高氏はこの浜から船出した。
○ 今向かふ方は明石の浦ながら まだ晴れやらぬ我が思ひかな 足利高氏
夢野の鹿 / 神戸市兵庫区
今の神戸市兵庫区の夢野に、むかし鹿が住んでゐて、妻に内緒で淡路島の別の牝鹿のもとへ通ってゐた。ある夜、鹿は、背にすすきが生へ、雪が積もった夢を見た。妻は、夢占ひをして、不吉なので島へは通はぬやうに言ふが、鹿は恋慕を押さへられず、海を泳いで渡る途中で射殺されたといふ。(播磨国風土記)
○ 夜を残す寝覚めに聞くぞあはれなる 夢野の鹿もかくや鳴くらん 西行
松風と村雨 / 神戸市須磨区
むかし在原行平は、晩年に須磨に流され、淋しい生活をおくったといふ。
○ わくらばにとふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつわぶとこたへよ 在原行平
行平が須磨の月見山(稲葉山)を眺めながら浜を歩いてゐると、二人の汐汲みの娘に声をかけられた。名を聞くと姉はもしほ、妹いもうとはこふぢと答へた。家を聞くと歌で答へた。
○ 白波の寄する渚に世を過ごす 海女の身なれば宿も定めず
このとき急に風が吹き雨が降ってきたので、三人は近くの観音堂の廂を借りて雨宿りをした。行平は二人を気に入って「松風」「村雨」の名を与へた。姉妹は月見山の北の多井畑村の村長の娘で、行平の身の回りの世話をすることになった。期間を終へて行平が都へ帰ったのちも、姉妹は観音堂のかたはらの庵で幸薄い生涯を送ったといふ。
○ 立ち別れ稲葉の山の峰に生おふる まつとし聞かば今帰り来む 在原行平
○ 三瀬川みつせがは絶えぬ涙のうき瀬にも 乱るる恋の淵はありけり 松風
須磨の関 / 神戸市須磨区
須磨は、摂津(畿内)と播磨との国境にあり、山陽道の関所が置かれた。
○ 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝ざめぬ須磨の関守 源兼昌
源平の古戦場、一ノ谷のある神戸市須磨区で療養中の正岡子規が、熊谷直実に討たれた平敦盛を詠んだ歌。
○ 夏の日のあつもり塚に涼み居て 病なほさねばいなむとぞ思ふ 正岡子規
伊邪那岐神宮 / 淡路島一宮町
伊邪那岐命、伊邪那美命の二神がおのごろ島で結婚され、大八洲の国を生んだとき、最初に生まれたのが淡路島とされる。二神は淡路島の津名郡一宮町の伊邪那岐神宮にまつられる。
○ 大八洲ここに肇まる一の宮 我ひれふして涙とどまらず 永田青嵐
淡路人形 / 淡路島
淡路人形浄瑠璃は、海神えびす神をまつる漂泊の傀儡集団が、室町ころから広めたものといはれる。阿波の蜂須賀公の手厚い庇護を受けた。
○ 傀儡師波の淡路の訛かな 永田青嵐
速鳥 / 明石市
むかし仁徳天皇の御代に、明石の泉のそばに楠の大木があり、朝日にはその蔭は淡路を覆ひ、夕日には難波の高津宮たかつのみやを蔭とした。楠は伐られて船に造られたが、舟は一楫に七浪を越えて飛ぶやうに走り、速鳥はやとりと名づけられた。明石の泉の水を毎日高津宮に届けたが、次第に速度が遅くなり、間に合はなくなったので、中止になったといふ。
○ 住吉の大倉向きて飛ばばこそ 速鳥といはめなにか速鳥 風土記逸文
柿本神社 盲杖桜 / 明石市
明石の柿本神社は、柿本人麻呂をまつり、仁和年間(885-9)の創建といふ。
○ ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ (古今集) 柿本人麻呂
むかし柿本神社に、筑紫からある盲人が参篭して、目が明くやうに祈った。そして七日目の満願の日に歌を詠んだ。
○ ほのぼのとまこと明しの神ならば ひと目は見せよ人麻呂の塚
すると一瞬だけ目が開いたが、すぐに閉ぢた。「ひと目は」の文句が悪かったのだと思ひ、再び七日間籠って歌を詠みなほした。
○ ほのぼのとまこと明しの神ならば われにも見せよ人麻呂の塚
今度は間違ひなくはっきりと目が開いたので、もはや不要となった杖を、社前に突き刺して帰って行った。杖は桜の枝で作られてゐた。やがてその杖から根が生へ、芽が吹いて、花が咲いた。「盲杖桜」といふ。
高砂の松 / 高砂市
播磨国、高砂の浜に高砂神社が最初にまつられたころ、境内に一本の松が生へてきた。松は根は一本だが、幹は雌雄二本に別れてゆき、御神木とあがめられた。あるとき、伊奘諾・伊弉冉の二神が現はれ、「今よりこの松に魂を宿して、世に夫婦の道を示さん」と告げられてから、「相生あひおひの松」と呼ばれるやうになった。
○ 高砂やこの浦舟に帆を上げて 帆を上げて 月もろともに出で潮の
波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎてはや住江につきにけり謡曲高砂
○ たれをかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに 藤原興風
お夏清十郎 / 姫路市
姫路の宿屋但馬屋たぢまやにお夏といふ娘がゐた。宿屋の手代の清十郎と恋仲となったため、主人は清十郎をクビにしてしまった。お夏は清十郎を追って家出をするのだが、清十郎は主家の娘をかどはかした罪で捕へられてしまふ。
近松門左衛門の脚色では、二人の仲を妬んだ番頭に盗みの疑ひをかけられ、清十郎は誤って番頭を殺し、お夏とともに逃亡の果てに重罪で捕へられるのである。お夏は子どもの戯れ歌に発狂し、港に身を投げて死んだ。
○ 清十郎殺さばお夏も殺せ 生きて思ひをさしょよりも (同じ刃でもろともに)
室津の遊女 / 揖保郡御津町
室津は遊女発祥の地ともいはれ、古代から江戸時代までにわたって繁栄を極めた。平安末期のころ、花漆といふ名の遊女は、唐人からもらった財宝を天皇に献上したところ、数々の宝を賜り、それをもとに室津に五つの寺を建てたといふ。
○ 花漆ぬる人もなき今宵かな 室ありとても頼まれもせず 花漆
建永二年(1207)、法然上人が、七十四歳で讃岐へ流されるとき、室津の港で一人の遊女に出会った。遊女は、友君といひ、かつては山吹の名で木曽義仲の寵愛をうけ、流浪の果てに、その罪深き身を嘆いて救ひを求めてきたのである。法然は女を哀れんで念仏の功徳を説き、歌を書いて与へた。
○ 仮そめの色のゆかりの恋にだに あふには身をも惜しみやはする 法然
感激する友君の求めに応じて、自身で刻んだ頭像をも与へ、法然は港を出ていった。友君はこの頭像に胴体をつけようと、粘土をこね、月日をかけて何度もつくり直して法然上人の像を完成させた。この像は今も室津の浄雲寺に残ってゐる。
諸歌
○ 幼な名を人に呼ばれてふるさとは 昔にかへる心地こそすれ 柳田国男
竜野市
○ 夕焼け小焼けの赤とんぼ 負はれて見たのはいつの日か 三木露風
○ しんじつの秋の日てればせんねんに 心をこめて歩まざらめや 三木清
赤穂市
○ 月影のいたらぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞすむ 浅野内匠頭
氷上郡
氷上郡春日町黒井の兵主(ヒョウズ)神社に、慶長十年、関白となった左大臣近衛信尹が参詣し歌を献じてゐる。信尹の母は、土地の波多野氏の娘で、信尹は九才まで黒井村で育った。
○ 祈るかひあるにつけても藤原に かかる契りや春日部の郷 近衛信尹
田捨女でんすてじょは、柏原かいばら(柏原町)の代官の娘に生まれた。
○ ゆきのあさ二のじ二のじのげたのあと 田捨女
出石神社 / 出石郡出石町宮内
但馬一宮の出石いづし神社は、丹波道主たにはのみちのぬし命と多遅麻比那良岐たぢまひならきとが相はかって、天日槍あめのひほこ命を祀った古社である。この神は、古代の泥海であった豊岡盆地の北の岩山を開いて濁流を日本海に流し、豊沃な平野を開拓したといはれ、また鉄の文化を伝へた神といはれる。
○ 但馬なる出石の里のいつしかも 恋しき人を見てなぐさまむ 懐中抄
糸井の里 / 朝来郡和田山町
但馬は古代の絹糸の名産地で、糸井川の流れる朝来郡和田山町あたりを詠んだ歌がある。
○ 妹いもがくる糸井の里のたまき山 よるよる此に宿りぬるかな 為家 夫木抄
和田山町大字寺内の佐伎都比古阿流知さ き つ ひ こ あ る ちの命みこと神社は、垂仁天皇の御代に但馬国に滞在した新羅王子・天日槍を助けたといふ前津耳まへつみみをまつる。
○ 但馬糸のよれど思はぬ思ひをば 何のたたりにつきて祓はむ 六帖 
 

 

三重滋賀京都奈良和歌山大阪兵庫

明石 / 兵庫県南部にある都市。明石海峡に臨む。源氏物語でも出てくる地名。
○ なべてなき所の名をや惜しむらむ明石はわきて月のさやけき
○ 月さゆる明石のせとに風吹けば氷の上にたたむしら波
○ 月を見て明石の浦を出る舟は波のよるとや思はざるらむ
○ 夜もすがら明石の浦のなみのうへにかげたたたみおく秋の夜の月
○ 伊勢嶋や月の光のさひが浦は明石には似ぬかげぞすみける
明石に人を待ちて日數へにけるに
○ 何となく都のかたと聞く空はむつまじくてぞながめられぬる
播磨 / 播磨の国のこと。山陽道にあり摂津の国の西。
○ はりま潟灘のみ沖に漕ぎ出でてあたり思はぬ月をながめむ
○ 播磨路や心のすまに關すゑていかで我が身の戀をとどめむ
播磨書寫へまゐるとて、野中の清水を見けること、一むかしになりにける、年へて後修行すとて通りけるに、同じさまにてかはらざりければ
○ 昔見し野中の清水かはらねば我が影をもや思ひ出づらむ
高砂 / 兵庫県南部、加古川河口にある都市。
○ 高砂のをのへをゆけど人もあはず山ほととぎす里なれにけり
○ 浪にしく月のひかりを高砂の尾の上のみねのそらよりぞ見る
飾磨 / 姫路市南部の地名。
○ なき名こそしかまの市に立ちにけれまだあひ初めぬ戀するものを
つたのほそ江 / 姫路市の船場川河口にある。万葉集でも読まれている。播磨風土記に記載。
○ 流れやらでつたのほそ江にまく水は舟をぞむやうさみだれのころ  
淡路 / 淡路の国。瀬戸内海東端にある島。現在は兵庫県
○ 淡路がた磯わのちどり聲しげしせとの鹽風冴えまさる夜は
○ あはぢ潟せとの汐干の夕ぐれに須磨よりかよふ千鳥なくなり
○ 千鳥なく繪嶋の浦にすむ月を波にうつして見る今宵かな
○ あはぢ嶋せとのなごろは高くとも此汐わたにさし渡らばや
○ 小鯛ひく網のかけ繩よりめぐりうきしわざあるしほさきの浦
「絵島の浦」淡路島北端の津名郡岩屋町にある景勝地。明石の対岸に位置する。
「しほさきの浦」不明。和歌山県潮岬説がある。淡路島南端の潮崎説が有力。 
鹿皮を着た人
淡路國風土記云 應神天皇廾年秋八月 天皇淡路島遊獵時 海上大鹿浮來 則人也 天皇召左右詔問 答曰 我是日向國諸縣君牛也 角鹿皮着 而年老 雖不與仕 尚以莫忘天恩  仍我女髮長姫貢也 仍令榜御舟矣 因之 此湊曰鹿子湊 云々(詞林采葉抄第七)(参考)
応神天皇が淡路島で狩をしたときに鹿が泳いできたが、これは実は人だった。その人は自分は日向諸県の君牛と名乗り、角のある鹿の皮を着ていた。自分は年老いて仕えることが出来ないが、娘の髪長姫を献上したいと申し出た。それでこの港を鹿子の港と言うようになった。
地名起源伝承ですが、淡路の話なのに日向の人が出てくるのは不思議です。註はこの伝承は応神紀十三年の記事に基づくもので、地名起源とは無関係であるといっています。
では『日本書紀』の記述はどうかというと、ほとんど同じだったりします。
一に云はく、日向の諸縣君牛、朝庭に仕へて、年既に耆奄いて仕ふること能はず。仍りて致仕りて本土に退る。則ち己が女髮長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇、淡路嶋に幸して、遊獵したまふ。是に、天皇、西を望すに、數十の麋鹿、海に浮きて來れり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右に、謂りて曰はく、「其、何なる麋鹿ぞ。巨海に泛びて多に來る」とのたまふ。爰に左右共に視て奇びて、則ち使を遣(つかは)して察しむ。使者至りて見るに、皆人なり。唯角著ける鹿の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰はく、「誰人ぞ」といふ。對へて曰さく、「諸縣君牛、是年耆いて、致仕ると雖も、朝を忘るること得ず。故に、己が女髮長媛を以て貢上る」とまうす。天皇、悦びて、即ち喚して御船に從へまつらしむ。是を以て、時人、其の岸に著きし處を號けて、鹿子水門と曰ふ。凡そ水手を鹿子と曰ふこと、蓋し始めて是の時に起れりといふ。
と言うことは、註はこの記述を「淡路島とは関係ない、こじつけだ」としているというわけですが、淡路島にまつわる話を日向諸県君牛にこじつけたという可能性だって無きにしも非ずです。というか、そもそも「牛が鹿皮を着ている」というのがおかしいし。
鹿皮を着る、或は鹿の姿を真似るというのは私が知る限りでは、二つほど事例があります。
一つは岩手・宮城県の「鹿踊り」。東北からの分れで愛媛宇和島にも「八鹿踊り」と言うのがあるそうです。
もう一つは京都革堂。本当の名前は行願寺で天台宗。1004年行円上人によって開かれる。この上人、ある日山で鹿を射ますが、これが妊娠した鹿だった。後悔した上人はいつもその鹿の皮をまとって憐れみの気持ちを表し、人々からは「皮の聖」と呼ばれたとか。
『事典』の「鹿踊り」の解説には「狩人たちが鹿の群れの踊り狂うのを実演したのが起こりという空想的起源もあるが、狩の信仰祭儀や鹿供養の意味が結びついたのだろう」と書かれています。私としては狩人の実演というのも棄てがたい説です。中国東北少数民族の満州族やオロチョン族には鹿に関する伝承が結構あります。事例を見れば、鹿を狩る狩人たちが鹿を信仰しているというのも決して矛盾するものではないことがわかるでしょう。
あとは淡路島という場所の特殊性についてです。応神天皇二二年、允行天皇十四年には天皇が淡路で狩をした記事がありますが、ここには鹿が多いとあります。やはり狩猟伝承として、鹿にまつわる伝承があったのでしょう。また淡路は天皇にとって狩猟場だったようです。反正天皇は「淡路宮」で生まれたと言います。 
芦屋鵺塚(あしやぬえづか) / 兵庫県芦屋市浜芦屋町
京都で退治された謎の怪物(鵺)は、死んでもなお謎の存在であった。鵺の死骸を埋めた場所というのが何カ所もあるのだ。その一つがこの芦屋の鵺塚である。
一説によると、鵺の死骸は悪疫を招くということで丸木船に乗せて川に流してしまったらしい。そしてその死骸はどうやら大阪の都島に漂着したようである(ここにも(鵺塚)が存在する)。しかしここでも悪疫をもたらしたということで、更にまた舟に乗せられた死骸は流されることになった。最終的に漂着したのが、この芦屋の浜であったという訳である。
芦屋の浜に打ち上げられた鵺の死骸であるが、やはりここでも祟りを起こし、悪疫をまき散らしたらしい。この付近の人々は祟りを恐れて、鵺の死骸を丁寧に葬った。それが(鵺塚)なのである。芦屋の浜から他所へ鵺が流れ着いたという話を聞かないから、多分鵺はここで本当に埋められた可能性が高い。 
鵺 / 頭は猿、身体は狸、手足は虎、尾は蛇という妖怪。近衛天皇(あるいは二条天皇・鳥羽天皇)の御代に夜な夜な御所の上空に現れ、天皇はその障気で体調を崩した。そこで源頼光の子孫である源頼政が弓矢をもって退治したという。この芦屋に鵺の死骸が漂着したと記しているのは『平家物語』である。
敦盛塚(あつもりづか) / 兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町
『平家物語』の中でも最も有名な逸話であり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛の最期の場面であろう。
寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決した。不意を突かれた平家軍は堪えきれず総退却、舟で沖へ敗走し始めた。先陣を切ったものの戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の熊谷直実は、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけた。身なりからいって平家の公達であることは間違いない。直実が声を掛けると、敵将も引き返して一騎打ちとなった。
直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せた。そして首を切ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る若者であった。ちょうど自分の息子と同じぐらいに見えた。直実が名を尋ねると、若者は「名乗りはしない。首実検すればわかること」と答える。殺すに忍びないと、逃がそうと考える直実。しかし味方の騎馬が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになる。後世の供養を誓うと、涙ながらに直実は若者の首を取ったのである。そしてその腰にある笛を見て、敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であると気づき、戦の世の無常を悟るのであった。
一ノ谷の古戦場のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔がある。これが平敦盛の胴塚とされる敦盛塚である。高さ3.5mという大きな塔であり、室町時代に供養塔として建てられたとされる。一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられている。また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛・青葉の笛が収蔵されている。 
平敦盛 / 1169-1184。父は平経盛。平清盛の甥にあたる。従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれた。笛の名手とされ、愛用の青葉の笛は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものである。この一ノ谷の合戦が初陣であった。なお2人の兄(経正・経俊)も一ノ谷の合戦で討死している。
熊谷直実 / 1141-1207。武蔵国熊谷の御家人。源頼朝の挙兵直後より源氏方となり、各地を転戦する。一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取る功績を挙げるが、同時に戦いの無常を知り、徐々に仏門への帰依の念を強めていったとされる。建久3年(1192年)に相続争いの裁定を不服として出奔、翌年、浄土宗開祖・法然の弟子となって出家、名を蓮生とする。その後は浄土宗の普及に努める。
須磨寺 / 仁和2年(886年)建立。一ノ谷の古戦場の近くにあり、平敦盛の首塚をはじめ、源平合戦ゆかりの寺として有名。最近では、境内の庭に敦盛と直実の逸話をモチーフとした銅像も造られた。
いぶし晴明宝篋塔(いぶしせいめいほうきょうとう) / 兵庫県佐用郡佐用町甲大木谷
この宝篋塔は言うまでもなく、安倍晴明にまつわる碑である(なお“いぶし”は“猪伏”と書き、この周辺の古名とか)。なぜこのような場所に晴明の碑、しかも宝篋塔という墓があるのか。この佐用町に残る言い伝えによると、晴明はある目的のためにこの地を訪れたとある。それは“蘆屋道満抹殺のため”というのである。
蘆屋道満といえば安倍晴明のライバルであり、藤原道長暗殺を頼まれたが、それを晴明によって見破られ、播磨国に追放された人物である。道満が追放された地がこの佐用町であり、追放後も道満は道長殺害の呪法を行っていたのである。そしてそれを察知した晴明が呪法を止めさせるためにこの地へ来たというのである。
作用にやってきた晴明はそこで道満と死闘を繰り広げたらしい。死闘といっても直接矛を交えるのではなく、あくまでも呪術による闘いである(ただし直接的に肉体を傷つけるようなものであったようだが)。そして両者はこの地に倒れ、いまだに対峙するように晴明塚と道満塚の二つがわずか数百メートルの位置関係で向き合っている。
いぶし晴明塚宝篋塔は、この周辺の人々にとってかなり重要な信仰対象になっているようである。毎年この場所で祭りが行われ、集落の人々は一晩中踊り明かしたらしい。また、この宝篋塔の脇には(晴明堂)という堂宇があり、地蔵などが置かれてある。
姥が石(うばがいし) / 兵庫県姫路市本町 姫路城内
姫路城天守閣の近く「ほの門」あたりの石垣に、1箇所だけ金網で覆われている部分がある。これが姥が石と呼ばれ、次のような伝説が残されている。
天正8年(1580年)に播磨国を平定し、黒田孝高から姫路城の地を移譲された羽柴秀吉は、わずか1年ほどの間に3層の天守閣を持つ城を築きあげた。しかし着工当初は思うように石垣となる石が集まらず、難儀していた。その時、城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がその噂を聞き、これだけでも使って欲しいと、家にあった古い石臼を差し出したのである。感激した秀吉は早速この石臼を石垣に組み込んだ。するとこの話は評判となり、町の者が進んで石材を寄進しだし、城が完成したと言われる。
姫路城 / 正平元年(1346年)に赤松貞範による築城を嚆矢とする。その直後より城代として小寺氏が居城とする。大規模な城となったのは、戦国末期の黒田重隆(黒田官兵衛の祖父)の頃であるとされる。羽柴秀吉が姫路を拠点としていたのは、播磨平定から賤ヶ岳の戦い直後までの約3年間である。現在の天守閣などの城構えは、関ヶ原の戦いの後に姫路城主となった池田輝政によるものである。
お菊井戸(おきくいど) / 兵庫県姫路市本町 姫路城内
姫路城内の上山里(かみのやまさと)と呼ばれる広場にあるのがお菊井戸である。その名の通り『播州皿屋敷』の伝承地となっている。
江戸期に作られたとされる『播州皿屋敷実録』では、播州の怪談話は次のように語られる。永正元年(1504年)姫路城主の小寺豊職が亡くなり、嫡子の則職が18歳で跡を継いだ。家老の青山鉄山はこの機に乗じて城を乗っ取ろうと画策、花見の宴での毒殺を企む。鉄山の動きに不審を感じた忠臣の衣笠元信は、妾のお菊を下女として鉄山の許に送り込んだ。やがてお菊は、父の企みを諫めて幽閉された息子の小五郎から暗殺の秘密を聞き、元信らがあわやのところで主の則職を救い出した。しかし鉄山と呼応して姫路を攻めた浦上氏によって則職は城を手放し、鉄山が姫路の主となった。
暗殺の企みが露見したことを訝しむ鉄山は、町坪(ちょうのつぼ)弾四郎に内偵を命じる。そして下女のお菊が張本人であることを突き止めるが、弾四郎は元より懸想していた相手だったために、妾になるように迫る。だがお菊はそれを拒絶。怒った弾四郎は意趣返しとばかりに、お菊が管理している小寺家家宝の“こもがえの具足皿”10枚のうち1枚を隠したのである。皿がないことが判ると鉄山はお菊を手討ちにしようとするが、弾四郎が取り持ってお菊を連れ帰り、言うことを聞くように松の木に縛りつけて折檻した。だがそれでも拒絶するお菊。遂に弾四郎は業を煮やして、お菊を殺し死体を井戸に投げ捨てたのである。やがて夜になると、屋敷の井戸から「一枚、二枚……」と皿を数えるお菊の声がするようになり、さらに怪異が続いたために、この地は皿屋敷と呼ばれるようになったという。
その後、元信らの忠臣が結集して姫路城は奪還され、青山鉄山は元の居城に逃げ込むが敗死。父の所行を恥じた小五郎は自害する。そして町坪弾四郎は、ぬけぬけと自分が隠し持った家宝の皿を手土産に帰順を請うが、逆に捕らえられ、お菊の二人の妹に討たれたという。さらに小寺家はお菊の忠節を讃えてお菊大明神を建立したのである。
史実と照らし合わせるとかなり矛盾の多い物語であるが、これを元にした人形浄瑠璃『播州皿屋敷』が寛保元年(1741年)に大阪で上演され、一躍有名になった。ただこの物語の原型となったであろう話が、天正5年(1577年)に出された『竹叟夜話』にあり、それによると嘉吉年間(1441〜1443)の出来事であるという。
いずれにせよ、江戸番町の話と共に「皿屋敷伝説」の双璧とされる播州皿屋敷の伝承地として残される数少ない遺跡である。ただ姫路城内の配置から考えると、この井戸は実は城主の居住する御殿と繋がっており、いざという時の脱出用の抜け穴であるとの説もある。皿屋敷の伝説が伝えられるのは、怪異譚を流布させることで出来るだけ人を近づけないようにするためだったとも言われる。
姫路城 / 正平元年(1346年)に赤松貞範による築城を嚆矢とする。その直後より城代として小寺氏が居城とする。大規模な城となったのは、戦国末期の黒田重隆(黒田官兵衛の祖父)の頃であるとされる。現在の天守閣などの城構えは、関ヶ原の戦いの後に姫路城主となった池田輝政によるものである。
小寺則職 / 1495-1576。小寺氏は室町期の播磨守護職の赤松氏の支流であり、赤松氏の有力家臣であった。史実では、豊職は祖父で延徳3年(1491年)に死去、父の政隆は享禄2年(1529年)に、同じ赤松氏の有力家臣であった浦上氏との戦いにおいて討死している。則職は享禄4年の大物崩れの戦いで赤松氏と共に浦上氏を壊滅させる。その後、則職が子の政職に家督を譲ると、次第に小寺氏は赤松氏と距離を置き、西播磨の小大名として独立していくことになる。
『竹叟夜話』 / 天正5年刊。播磨国永良庄に住む永良竹叟が著す。そこの書かれている皿屋敷伝説の原型と考えられる話は、以下の通りである。嘉吉の乱(1441年)で赤松氏が一時的に滅びた後、播磨守護となった山名氏は、播磨の青山に家老・小田垣主馬助を置いた。主馬助は好色で、花野という妾を屋敷に囲っていた。そして出入りの郷士・笠寺新右衛門は花野に懸想したが相手にされなかった。それを恨みに思った新右衛門は、山名氏から拝領した小田垣家の家宝である“鮑貝の五つ盃”の1つを隠して、その罪を花野になすりつけた。さらに花野を松の木に縛りつけて折檻し、それでもなびかないために遂には斬り殺してしまったという。それ以降、花野の怨念が仇をなしたといい、縛りつけた松は“首くくりの松”と呼ばれた。嘉吉の乱後に山名氏の播磨国守護代となったのは太田垣主殿佐であり、史実とほぼ一致する内容である(太田垣が守護代として青山にいたのは2年間であり、その後赤松氏によって追われている)。もしこれが原形の話であれば、番町皿屋敷とは異なる伝承の系統が存在することになると言えるだろう。
上立神岩(かみたてがみいわ) / 兵庫県南あわじ市沼島
淡路島の土生港から連絡船に乗って約15分ほどで沼島(ぬしま)に到着する。そこからさらに30分ほど歩いて港と反対側の海岸線に辿り着く。切り立った絶壁のそばに屹立している、高さ30mあまりの巨岩が上立神岩である。
記紀によると、伊弉諾尊と伊弉冉尊の両神は、天の沼矛で青海原を掻き回して引き上げたところ、矛の先からしたたり落ちた滴が固まって島が出来たという。それが“おのころ(自凝)島”である。両神はその地に降り立って夫婦の契りを結んで国産みをおこなったとされる。そして最初に出来た島が淡路島であり、そこから順次日本の島々が造られていくことになる。
伝承によると、淡路島にくっつくようにして浮かぶ沼島こそが、両神が最初に降り立った“おのころ島”であるとされている。そして上立神岩は、夫婦の契りを結んだ両神が国産みをする際に使った“天の御柱”であるとされる。両神はこの柱の周りをそれぞれ左右から回り、巡り会ったところで結び合うこととして国産みをおこなったのである。
また『和漢三才図会』では竜宮城の表門にあたるとも言われている。いずれにせよ、その奇観から神秘的なものを感じるところの強い巨岩である。
伊弉諾尊と伊弉冉尊の国産み / 『古事記』によると、国産みは、伊弉冉尊の“成り合わざる処(女陰)”を伊弉諾尊の“成り余れる処(男根)”で刺して塞ぐ(性交する)ことによっておこなわれるとされる。また『日本書紀』には、最初両神が交わろうとしたがやり方が分からず、鶺鴒が頭と尾を動かす様子を見て交わり方を知ったとも書かれている。性交によって国産み、さらに神産みをおこなったことが分かる。また初めて天の御柱を回って出会った時に、先に女性の伊弉冉尊が声を掛けてしまったために、蛭児と淡洲が生まれてしまったともされている。
おのころ島 / おのころ島であると言われる地は沼島以外にもあり、淡路島の北端にある絵島、自凝島神社のある淡路島、淡路島の西にある家島が比定されるという。
『和漢三才図会』 / 大阪の医者であった寺島良安が編集、正徳2年(1712年)に成立する。全105巻の類書(百科事典)であり、図入りで森羅万象の事項について解説している。
空鉢塚(からはちづか) / 兵庫県高砂市竜山
東播州地方には古刹がいくつかあるが、これらの開基とされるのが法道仙人である。行基・空海・慈覚大師のように全国各地にその開基とされる寺院があるわけではなく、法道仙人の場合はこの東播州のエリアにほぼ限定されていると言ってもいい。
法道仙人は“仙人”と名が付くが、インドの僧とされている。ただ謎の部分が多く、6〜7世紀頃朝鮮を経由して来日したとされる(来日の際に牛頭天王が共に来て、姫路の広峯神社に祀られ、さらに京都祇園の八坂神社に祀られるようになったという伝説もある)。そして超人的な術を会得していたと言われる。特に有名なのが、仙人が持っていたとされる鉄鉢であり、この鉢を自由自在に飛ばして米や食料などのお布施を受けていたとされる。それ故に別名を空鉢仙人とも言う。
ある時、朝廷への年貢米を積んだ船が沖合を通りがかった。するといつもの如く法道仙人の空鉢が飛んできた。しかし船主は、朝廷へ献上する米なので布施にすることが出来ないと言って聞かせた。すると空鉢は山の方へ引き返していったのだが、それに付いていくように積み荷の米俵がどんどんと宙を飛んでいき始めた。仰天した船主は必死に空鉢と米俵を追い掛けて山へ登っていった。結局、法道仙人の籠もる法華山まで行き着いた船主は訳を話すと、仙人は再び米俵を飛ばして船まで返したという(しかし一俵だけは途中で落ちてしまい、その地は米田(米堕)と呼ばれるようになったとのこと)。
かつては海を見下ろしていたであろう竜山の中腹あたりに、空鉢塚という碑がある。法道仙人はこのあたりの岩の上に空鉢を置いて、沖を通る船に布施を請うたとされている。またこの碑を設計したのは、江戸時代の絵師・曾我簫白の弟子であった、高砂在の簫月である。
神呪寺(かんのうじ) / 兵庫県西宮市甲山町
828年、淳和天皇の第四妃である如意尼(真井御前)が開いたとされる、真言宗の寺院である。本尊は如意輪観音、日本三如意輪とも称される。その寺名であるが、「神を呪う」と書かれるが、実際には“じんしゅ”と読み、“真言”と同じ意味を持つ言葉である。また開基には空海も深く関わっており、“甲山大師”と通称されている。しかし、この寺院の背後に控える甲山こそが、このエリアの信仰の中心であることは疑いのないところである。
甲山は、その形がヘルメットに似ているためにその名が付いた、あるいは神功皇后が兜をこの山に埋めたという伝説からその名が付いたとされる(埋めたものは如意宝珠であるともされる)。つまり神功皇后の時代より聖地として認知されてきた場所である。
最近になって、この山の中で(牛女)に出くわしたという噂があり、また境内にはそれを彷彿とさせる謎の巨石が置かれている(ただしこの巨石がどうのような目的で置かれているのかは全く定かではない)。
真井御前 / 802〜835。丹後一ノ宮・籠神社の宮司、海部氏の娘。10歳の折に京都頂法寺六角堂に入り、如意輪観音に帰依する。20歳の時に淳和天皇に見そめられて第四妃となるも、6年後に出奔。甲山に草庵を結び、空海により出家、如意尼と称する。835年3月20日に遷化。翌日、高野山にて空海入定。空海との間には師と弟子との関係以上のものがあるのではないかと憶測される。
神功皇后 / 14代仲哀天皇の皇后。渡韓伝説など、当時の大和朝廷における軍事政策の象徴とも言える存在である。甲山での伝承も、この三韓出兵からの帰還の時のものであったと推測される。
鯉石(こいいし) / 兵庫県伊丹市仙僧
文化年間(1804-1818)のこと。有岡城があった土地に畑を持つ材木屋新兵衛が、耕作の邪魔になると大石をどけてみた。するとその下から生きたままの鯉が現れた。
不思議に思い、鯉を一旦家に持ち帰ったが、龍の化身ではないかとして猪名野神社の弁天池に放してやった。そして大石の方は、彫ったように鯉の姿が残されており、こちらは役所に届けて庭石として引き取られたとされる。
現在、この鯉石は伊丹市博物館の玄関前の庭石として置かれている。案内板があるのでそれと判るが、とりたてて普通の庭石という風情である。この鯉石の隣には“行基石”と呼ばれる石もあり、東大寺建立の際に六甲山から運ばせていた石とも言われている。
有岡城 / 伊丹城と呼ばれていたが、荒木村重が攻め落として有岡城と改称する。後に村重が織田信長に反旗を翻したために落城。天正11年(1583年)廃城。現在のJR伊丹駅周辺にあった。
猪名野神社 / 有岡城の北端に位置していた神社。現在でも土塁の遺構が残る。
残念さんの墓(ざんねんさんのはか) / 兵庫県尼崎市杭瀬新町
元治元年(1864年)京都で禁門の変(蛤御門の変)が起こった。わずか1日の戦闘であったが、薩摩・会津の軍勢によって敗れ去った長州の兵は西へと潰走するが、中には幕軍によって捕らえられたり、小規模な戦闘によって戦死する者も少なくなかった。
尼崎藩内でも一人の長州兵が捕らえられ、牢に入れられた。しかし取り調べの最中に「残念、残念」と言って牢内で自害して果ててしまったという。この人物の名は山本文之助と言い、この話を聞いて哀れに思った里人によって墓が建立され、“残念さん”と呼ばれている。今では「1つだけ願いを叶えてくれる」と言われ、近隣の信仰を集めている。
“残念さん”という名前であるが、一種の流行神のようなものであり、幕末期に非業の死を遂げた者への同情が、反幕府の風潮と合体して爆発的な信仰となったものとされる。尼崎の残念さんの墓についても、藩による墓参の禁止令があったにも拘わらず、参詣する人は絶えなかったという。また尼崎以外にも“残念さん”と呼ばれる墓碑などがある。 
禁門の変 / 京都から追放となった長州藩が、実力行使によって追放撤回を狙ったとされる戦い。最終的に長州は多大な犠牲を払いながら完敗、さらに禁裏に向けて発砲したために朝敵とみなされる。
鷲林寺(じゅうりんじ) / 兵庫県西宮市鷲林寺町
西宮市の甲山周辺には(牛女)の伝説がまことしやかに噂されているが、鷲林寺もその噂の一端を担っている。
木原浩勝氏の『都市の穴』によると、某テレビ番組でこの寺にある洞穴が(牛女)の居場所だというでっち上げがなされたということである。この洞穴であるが、八大龍王が祀ってある祠であり、牛とは何の因果関係もない。多分(牛女)の伝説のひとつに“牛女は祠に封印されていた怪物である”という説があり、これを再現できる場所としてクローズアップされたのであろう。祀ってあるものが違うので、明らかなガセネタである。
だが、根も葉もないでっち上げかと言われると、そうでもないようである。鷲林寺のHPによると、以前からこの寺に怖いもの見たさに真夜中徘徊する連中があったそうである。ただし、寺側が「引っ越しました」という張り紙をしたらばったりと人が来なくなったらしく、これもある種の都市伝説的な奇談として注目すべき内容である。
この寺には(武田信玄の墓)と伝わる七重石塔があるが、なぜ遠く離れたこの地に墓があるのかは謎である。しかもその様式から石塔は鎌倉時代の作とされており、年代的に全く辻褄が合わない。
鷲林寺 / 真言宗の寺院。開基は弘法大師とされ、833年に建立。織田信長に反旗を翻した荒木村重の乱の際に焼失(この時の兵火から逃れた僧侶が有馬温泉で宿を開いたという伝説も残る)。その後小堂で本尊を護り、昭和時代になってから復興する。
牛女 / 西宮市周辺、特に甲山一帯には、戦前から(牛女)に関する噂があるという。小松左京氏の『くだんのはは』はこの噂をベースにした小説だと言われ(当然ながらフィクション)、まことしやかに伝えられた(牛女)の姿を見事に顕している。個人的な見解を敢えて言うと、(牛女)は牛頭人身の怪物であり(ミノタウロスの女版である)、もう一種の怪物である(件:くだん)は人頭牛身である。時々この周辺で(牛女)が四つ足で猛スピードで追いかけてくるという目撃情報があるが、これは完全な誤謬であると声を大にして言いたい。まあ、“路上を四つん這いで追いかけてくる霊”という特殊なイメージとだぶってしまったのだろう。やはり(牛女)と(件)とは別の種の怪物とみなすべきだと思う。
木原浩勝 / 怪異収集家。この周辺での(牛女)に関する目撃談について『新耳袋第一夜』などに書いている。また興業に使われていたとされる(件)の剥製も所有している。
八大龍王 / 仏法を護る八部衆の一つである龍衆に属する八王のこと。古代インドの蛇神ナーガに由来しており、古来より雨乞いの神として崇められている。鷲林寺にある八大龍王の祠は、その昔、兵火を避けるために僧侶が有馬まで掘り進めた洞穴であるとされている。
平重衡とらわれの松跡(たいらのしげひらとらわれのまつあと) / 兵庫県神戸市須磨区須磨寺町
山陽電鉄・須磨寺駅を出ると、すぐ目の前に小さな石碑と祠がある。かつてここに大きな松の木があり、平重衡とらわれの松と呼ばれていた。
平重衡は平清盛の五男。明朗な性格であり、その容姿は牡丹の花と喩えられるほどであり、まさに平家の公達の典型と言うべき人物である。
一方で武将としても並々ならぬ力量を見せている。以仁王の挙兵に対して主将として参戦して鎮圧。そして有名な南都焼き討ち。墨俣川の戦いでは主将として源行家軍を撃破。水島の戦い・室山の戦いでは木曽義仲勢を追い落として勢力を回復kさせている。対源氏の戦いでは無敗を誇る活躍を見せている。そして迎えたのが一の谷の戦いであった。
兄の知盛の副将として生田の森に陣取っていたが、源義経の奇襲で総崩れとなった。陣を離れた重衡は乳母子の後藤兵衛盛長と共に西へ逃れようとし、それを梶原景季と庄高家が追いすがる。だが重衡主従の馬は名馬であり、追いつきようがない。そこで景季が遠矢を放つと、それが重衡の馬の尻に命中した。ところが、替え馬に乗っていた後藤盛長は、重衡を置き去りにしてそのまま馬に乗ったまま西へ逃走してしまったのである。取り残された重衡は、入水しようとしたが浅瀬のために果たせず、鎧を脱ぎ捨てて自刃しようとした。その時、庄高家が重衡に追いつき、生け捕りにしたのである。
虜囚となった重衡は、その身に起こった不幸を嘆きつつ松の木のたもとにあった。憐れに思った村人は、重衡に名物の濁り酒を勧めた。すると重衡は「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまで飲むこそ 濁酒なれ」と一首詠んだという。
生涯初の敗戦で生け捕られた重衡は、後に鎌倉に送られるが、南都焼き討ちの一件で南都僧兵に引き渡され斬首となっている。 
南都焼き討ち / 治承4年(1180年)に、平氏政権に対抗する興福寺衆徒を鎮圧するが、その時に放たれた火によって興福寺や東大寺が全焼。多くの僧が焼死し、東大寺の大仏が焼け落ちた事件。平家の非道の中でも最たるものとして非難され、主将であった平重衡は南都僧兵の憎悪の的となった。しかし寺院を灰燼に帰する目的で火をつけたとはされず、暖を取るための火が延焼した失火説、あるいは近隣の民家を焼き払うだけの放火であったと推察されている。
後藤兵衛盛長 / 生没年不詳。『平家物語』によると、重衡を見捨てて逃亡した後、尾中の法橋の許に身を寄せていた。その後、訴訟のために京都に上った時、「三位中将(重衡)を見捨てた恥知らず」と多くの者に誹られたという。(乳母子は、主人との結びつきが強い側近中の側近であり、命に替えても主人を守ることが当然とされていた)
平忠度腕塚(たいらのただのりうでづか) / 兵庫県神戸市長田区駒ヶ林
平清盛の異母弟・平忠度は、平家の中にあって武勇にも優れ、また藤原俊成に師事し歌道にも秀でた才能を見せた、ある意味平家を代表する人物である。この勇将も一ノ谷の合戦で討死している。
一ノ谷の西側の大将軍であった忠度は、敗色が濃くなっても慌てず、100騎ほどでゆっくりと退却していた。そこへやって来たのは、源氏方の岡部六弥太忠澄である。忠澄の問い掛けに「味方である」と言ってやり過ごそうとしたが、お歯黒をつけていることが判り、忠澄が一騎打ちを仕掛けてきた。敵の襲来に忠度以外の騎馬武者は、寄せ集めであったため散り散りに逃げてしまった。だが、忠度の力は凄まじく、忠澄を馬から引きずり落としてねじ伏せてしまったのである。仕掛けたはずが却って窮地に陥った忠澄であるが、まさに首を掻き切られようとした時、その郎党が駆けつけて忠度の右腕を肘から斬り落としたのである。
片腕となった忠度はもはや覚悟を決め、左腕一本で忠澄を投げ捨てると、西の方を向いて念仏を唱えた。そして忠澄は念仏が終わるやその首を刎ねたのである。
ところが忠澄は、敵将が身分のある者とは判ったが、名を知らなかった。そこで箙に結わえられていた文を見つける。そこには『行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげを やどとせば 花やこよひの あるじならまし』と歌が詠まれ、忠度の名が書かれていた。忠澄が薩摩守忠度を討ち取ったことを大声で告げると、周囲の敵味方は誰もがその死を惜しんで涙したという。
細い路地のさらに奥まったところに、平忠度の腕塚と言われるものがある。切り落とされた右腕を埋めた場所とされ、十三重の石塔が軒すれすれに置かれている。この腕塚からそれほど離れていない場所には忠度の胴塚もある。腕を斬られたために命を落とした武将を哀れむ気持ちが、胴と腕とを別々に埋めて供養するという行為になったのだと感じるところがある。
平忠度 / 1144-1184。薩摩守。紀伊の熊野で生まれ育ったとされ、妻は熊野別当・湛増の妹とされる。源氏との主立った戦いに参戦している。歌人としても名高く、勅撰和歌集に11首採用されている。
藤原俊成 / 1114-1204。歌人。子息の定家をはじめとして多くの歌道の門下を輩出。後白河院の勅命により『千載和歌集』を編纂する。『平家物語』では忠度との最後の別れが描かれており、一門と共に都落ちする忠度が俊成の屋敷を訪れ、自作の歌を100首あまり巻物にしたものを手渡し、勅撰和歌集編纂の折に、相応しいものがあれば入れてもらいたいと託した。その後『千載和歌集』編纂時に、入れるべき歌はいくつかあったが、忠度が逆賊となったために“詠み人知らず”として一首だけ採用したのである。
岡部六弥太忠澄 / ?-1197。頼朝の挙兵時に源氏方に加わる。平家との戦い、源頼朝上洛、奥州遠征などにも加わっているが、平忠度を討ち取った以外には、とりたてて事績は残されていない。所領に平忠度を供養する目的の五輪塔を建てている。
立石の井(たていしのい) / 兵庫県明石市立石
昔、明石の岸崎(きさき)に西窓后(せいそうこう)と東窓后(とうそうこう)という名の二人の美しい妃がいた。それに懸想したのがこの近くの海に住む大蛸で、二人を付け狙っていたという。
その話を聞いた浮須三郎左衛門という武士が、時の帝に退治を願い出て許された。しかし大蛸はその足が2里から3里という大きさで、到底海の中では分が悪い。そこで三郎左衛門は一計を案じ、巨大な壺を用意して海に沈めた。すると大蛸は計略通り壺の中に入ってしまう。頃合いを見て海から引き出し、大蛸が出てくるところを三郎左衛門は斬りまくる。足を斬られた大蛸は、たまらず北の方へ逃げていった。そして途中で山伏に化けると、さらに北東へと逃亡する。
しかしそれを追い掛けた三郎左衛門は、とうとう山伏に化けた大蛸を林神社の東側に追い詰めて、一刀のもとに斬り伏せた。すると山伏は石と化して動かなくなってしまったのである。三郎左衛門はこの功績によって源時正の名を与えられ、村人は大蛸の霊を林神社に合祀したという。
この大蛸が化身した石が立石と呼ばれるようになり、その後、その石のそばから清水が湧き出てくるようになった。さらに時を経て、いつの間にか立石そのものはなくなってしまったが、井戸だけが残されることとなったのである。それが立石の井である。
ちなみにこの浮須三郎左衛門が大蛸をおびき寄せるために仕掛けた策略が、今の蛸壺漁の嚆矢であるとも言われている。ただし『播磨鑑』という本では、化け物は蛸ではなく鱏(エイ)であるとし、明石の近くにある江井ヶ島の名の由来にまつわる伝説としている。
長明寺(ちょうめいじ) / 兵庫県西脇市高松町
長明寺には、全国でもここだけという“鵺退治像”というものがある。この周辺は鵺退治をした源三位頼政の所領地であり、それ故、頼政ゆかりの地がここには多く存在している。頼政を祀る廟があり、その愛妾であった菖蒲御前の廟もある。さらに館跡なども残っているという。
鵺退治像は本堂のさらに奥に当たる場所、ちょうど頼政公の廟の近くにある。かなり巨大なモニュメントである。特に頼政公は相当大きい。まあ、頼政公ゆかりの土地だから、主役はあくまで頼政公である。
長明寺を出て少し歩くと、“鵺野橋”という名の橋にたどり着く。現在架けられている橋は非常に新しいものであるが、その脇には“鵺野橋”という字が彫ってある、かなり古い橋の欄干がある。この周辺ではほぼ唯一と言っていい、古くからある鵺関連の地名である。
その橋の脇にちょこんと残されている竹藪がある。この竹藪の竹が、鵺退治に使われた矢の材料であるというのである。それ故にこの竹藪が残され、そばに架かる橋に“鵺”という名を入れたのであろう。
さらにこの橋のすぐそばには頼政公ゆかりの建物がもう一つある。それは小さな神社なのであるが、言うまでもなく(八幡宮)である。さすが源氏ゆかりの人物という訳である。
頼政の鵺退治 / 今から850年ほど前の平安末期。丑の刻頃になると、東三条の森の方から黒雲が湧き上がり、御所の上空を覆い尽くした。しかもその黒雲からは妖しげな鳥の声がする。高倉天皇(一説には近衛天皇)はその不気味な声のために心労甚だしく、ついにその怪鳥を退治するよう源頼政に命じたのである。真夜中、いつものように黒雲が湧き上がってくると、頼政は弓をつがえて黒雲目掛けて矢を放つ。すると雲の中から何かが落ちて来るではないか。従者の猪早太がそれにとどめを刺してみてみると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎というとんでもない怪物であった。
蘆屋道満塚宝篋塔(あしやどうまんづかほうきょうとう) / 兵庫県佐用郡佐用町乙大木谷
蘆屋道満は播磨国の出身であり、安倍晴明と同時期にいたとされる陰陽師である。史実として、蘆屋道満という特定の人物がいたかの真相は定かではない。だが、安倍晴明が活躍していた時期に“播磨出身の陰陽師”が京都の政界で暗躍していたことは疑いないところである。
『宇治拾遺物語』によると、蘆屋道満(道摩法師)は左大臣・藤原顕光の依頼により、時の権力者藤原道長の暗殺(呪殺)を試みるが、安倍晴明によって阻止され、播磨国へ追放となった。その追放先が佐用だったのである。しかし、佐用に追放された道満であったが、なぜかここでも彼は道長呪殺を試みていた。この呪法を行っていた場所が、まさにこの道満塚のある丘の頂上だったのである。そして、その呪詛を止めるために京都からやって来た安倍晴明とこの地で死闘を繰り広げたのである。
この道満塚の建つ小山に向かい合うようにある丘の上には、安倍晴明を祀る塚が建てられている。かつてはこの両方の塚で祭りがおこなわれていたが、現在は晴明塚のみで執り行われているという。
播磨の陰陽道 / 陰陽道の思想は中国から伝来してきたものである。当時の朝廷は当然“官学”としてこの陰陽道を取り入れた。それと同時に遣唐使として派遣された学僧が個人的に陰陽道を修得してきたはずである。このような学僧が播磨に多数存在していた可能性が高い。それを如実に表す実例が、姫路にある広峰神社である。この神社の祭神は陰陽道に最も縁の深い牛頭天王であり、京都の祇園社はこの神社から牛頭天王を勧請してきたという。この一例だけでも、この周辺が陰陽道の先進地域であることがわかるだろう。京都における“播磨の陰陽師”の役目は、公の陰陽師がやらない仕事、即ち政敵などの呪殺であったと推測される。
『宇治拾遺物語』(道摩法師の話) / 時の権力者藤原道長は、ある外出の折に、飼っていた犬がしきりに門の前で止めようとするのを不審に思った。そこで安倍晴明に占わせてみると、土中から呪物が出てきた。自分以外には道摩法師しか知らない術という晴明は、術を使って道摩法師を見つけだす。法師は連行されると、左大臣・藤原顕光の依頼で術を施したことを白状した。結局、法師は播磨国へ追放となった。
能福寺 平相国廟(のうふくじ へいしょうこくびょう) / 兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町
最澄が建立した能福寺は、平清盛と切っても切れない縁で結ばれている。太政大臣を辞して福原(今の神戸)に拠点を移し替えた清盛は、この地で出家する。その出家した場所が能福寺である。さらに清盛が京都で亡くなり荼毘に付された後、能福寺の住職・円実法眼がその遺骨を持ち帰り、その寺領内にあった八棟寺に廟を造営したとされる。
しかし廟完成直後に福原の町は焼き払われ、廟の存在は忘れ去られてしまった。新たに清盛を慰霊するものが出来たのが、弘安9年(1286年)、時の執権・北条貞時が建立した十三重の石塔(清盛塚)であり、能福寺内に墓と称するものが造られることはなかったのである。
ところが、昭和55年(1980年)になって平清盛の800年忌を機に、能福寺内に清盛の墓を再建する運びとなり、完成したのが平相国廟である。中央にあるのが、上記清盛塚を模した十三重石塔。そして右側は、清盛の側近の一人であり、能福寺住職として遺骨を兵庫に持ち帰った円実法眼の宝篋印塔。左側は、清盛の甥であり、平家滅亡後は幕府・朝廷より崇敬され、源平の合戦で焼かれた能福寺を再興した忠快法印の九重塔供養塔である。
また能福寺には、戦前には三大大仏として信仰を集めた「兵庫大仏」、大政奉還後初の外交問題となった神戸事件の責任を取って切腹した滝善三郎の墓など、歴史的見所が多くある。
平相国 / 平清盛のこと。“相国”は太政大臣の唐名であり、平相国とは平家の太政大臣という意味になる。
清盛塚 / 清盛の遺体は京都の愛宕寺(現在の六波羅蜜寺の近く)で荼毘に付され、円実法眼が遺骨を運んで、兵庫の経ヶ島に埋めたとされる。清盛塚はそのため長年の間、清盛の墓とされてきた。しかし大正11年(1922年)の道路拡張工事による移転の際に調査したところ、遺骨は見つからず、墓では亡く供養塔であると判明している。
夫婦岩(めおといわ) / 兵庫県西宮市鷲林寺町
(牛女)関連の2つの寺院、鷲林寺と神呪寺のちょうど真ん中を六甲へ抜ける道が縦貫している。そしてこの2つの寺院へ別れる道のほんの少し手前に、車線を分断するかのように巨大な岩がある。まさしく“何らかの理由によって取り除くことができなかった岩”である。
正式名称を夫婦岩という。しかしこの岩の最もインパクトのある通称は“おめこ岩”、関西弁で女性器を指す言葉である。おそらくこの巨岩が真っ二つに裂けているところからその名が付いたものと推測される。この六甲山周辺は奇岩・巨岩が多くあり、ある意味この種の岩石の宝庫である。おそらく山頂付近より転がり落ちてきたものであることは間違いない。
この夫婦岩は、やはり不気味な噂に彩られている。道を作るのに邪魔だといってどかそうとしたら死傷者が出た。この岩に触ったり悪戯をすると怪我や病気をする。かなりまことしやかに言われている噂のようである。
そして(牛女)に関係する怪情報もあった。真夜中にこの岩の上で誰かが怪しげな踊りをしていた。よく見るとその顔は牛で、赤い着物を着ていたというのである。あるいは、この岩に悪戯をしようとすると、いきなり長い髪の女性が四つん這いになって追いかけてくるらしい(これは(件)に似た(牛女)の情報である)。
…と取材した時は県道のど真ん中に鎮座していたのだが、安全対策のために県道を西にずらして、夫婦岩を道路脇にやる工事がおこなわれるという。新聞記事によると、地元古老の証言として「1938年に阪神水害の復旧工事で国が岩を爆破しようとしたら、工事関係者が急死した」という話が残っているらしい(公式な記録には記載なし)。また関係者によると、道をずらす案は出たが、岩をどかす意見はなかったという。祟りの伝承は生き続けている。
鑓飛橋(やりとびはし) / 兵庫県佐用郡佐用町乙大木谷
安倍晴明と蘆屋道満の死闘とはお互いが直接戦う形ではなく、術によって式神を使って攻防するものであったとされる。その死闘の最中にお互いが投げ合った鑓がぶつかって落ちたとされる場所があるという。それが(鑓飛橋)である。
鑓飛橋は難の変哲もない橋であった。別に何か表示板がある訳でもなく、多分気をつけて橋の欄干を見ていなかったら、橋の名前そのものすら気づかないほどである。
淀洞門(よどのどうもん) / 兵庫県豊岡市竹野町
竹野海岸切浜にある海蝕洞である。高さ15m、奥行き約40mの大きさで、岩の亀裂を波が浸蝕して作られたものであるとされる。
伝説によると、この洞門に「淀の大王」と呼ばれる鬼の集団が住み着いて、近隣で暴れ回っていた。出雲へ帰る途中にその話を聞いた素戔嗚尊が、この地に立ち寄って鬼の集団を征伐したという。現在でも、この洞門周辺には、この時の素戔嗚尊の行動を示す地名が残されている。
雪見御所跡(ゆきみのごしょあと) / 兵庫県神戸市兵庫区雪御所町
“目競(めくらべ)”という妖怪がある。
この名は、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に初めて現れるものであるが、書かれてある内容は『平家物語』の巻第五にある“物怪之沙汰”の一部である。
平清盛入道が福原の邸宅にあった時。朝、寝所から妻戸を開いて中庭を見ると、しゃれこうべが無数にあり、それがあちらこちらを転げ回っていた。清盛は人を呼ぶが、誰もやってこない。そのうちしゃれこうべは一つにまとまりだし、やがて十五丈ほどの大きな山のようになった。さらにはそこから大きな目玉が無数に現れ、清盛を睨みつけた。それに対して、清盛も慌て騒がず、仁王立ちで睨み返したのである。そうしているうちに、しゃれこうべは溶けてなくなるように跡形もなく消えてしまったという。
平清盛が福原に滞在中に住んでいた屋敷は、雪見御所と呼ばれていた。おそらくその邸宅が舞台と設定されたであろうことは想像に難くない。現在、雪見御所跡の碑が神戸市立湊山小学校の北西角に建てられているが、遺跡調査によると、この小学校の建っている所が雪見御所の庭園であったとされている。
この妖怪・目競の絵で有名なものに、月岡芳年の『新容六怪撰 平相国清盛入道浄海』があるが、これは庭に降り積もる雪を髑髏と見立ててその怪異を表現しているが、これは“雪見御所”の名を念頭に置いてイメージされたものであると考えてもよいのではないかと思う。
福原 / 平清盛が福原を拠点にして住むようになったのは、仁安3年(1168年)。太政大臣を辞して出家した直後からであり、その時に雪見御所は建てられている。福原は清盛が建設した大輪田泊を見下ろす高台に造営されている。そして治承4年(1180年)に周囲の反対を押し切って福原へ遷都するが、半年ほどで京都に還幸となった。その後福原は木曽義仲によって全て焼き払われている。
月岡芳年 / 1839-1892。幕末から明治にかけての浮世絵師。歴史・武者・妖怪・美人画などの画題を得意とした。特に無惨絵では『英名二十八衆句』の傑作がある。  
 
 
中国地方  
鳥取県 / 因幡、伯耆

 

鳥取島根岡山広島山口

立ち別れ稲葉の山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む 在原行平
因幡の兎 / 鳥取市
鳥取市の千代せんだい川の西の地域を、古くは高草たかくさ郡といった。高草とは竹のことである。昔この地の竹林に、老いた兎が住んでゐた。あるとき千代川の大洪水がおこり、竹林は根こそぎ流されたが、兎は竹につかまって漂流し、隠岐島に流れ着いたといふ。この兎が、のちに大国主命に助けられる因幡の兎である。(風土記逸文)
○ 鰐わにの背に似たる岩見ゆ蒲がまならぬ 浪の花ちる気多けたの岬に 北里蘭翁
因幡国府 / 宇倍神社岩美郡国府町
むかし仁徳天皇のころ、老齢の竹内宿禰たけうちのすくねが因幡国を訪れ、二つの沓を残したままどこかへ姿を消したといふ。その地に建てられたのが、岩美郡国府町の宇倍神社(因幡国一宮)であり、竹内宿禰をまつってゐる。近くに因幡国府跡があり、万葉時代には大伴家持が因幡守として赴任した。家持が因幡で新年を迎へたときの歌が、万葉集の巻末にある。
○ 新しき年の初めの初春の今日降る 雪のいや頻しけ吉言よごと 大伴家持
○ ふる雪のいやしけ吉事ここにして 歌ひあげけむ言祝ことほぎの歌 佐々木信綱
国府の北の稲葉山は、在原行平が斉衡四年に因幡守として赴任したときに、歌に詠まれた。故郷の大和国葛城に残してきた母へ贈った歌といふ。
○ 立ち別れ稲葉の山の峰におふる まつとし聞かば今帰り来む 在原行平
鳥取部 / 鳥取市
古代の部民の鳥取部とっとりべが、鳥取郷(鳥取市)に住んで、その沼沢地帯で鳥を取ったらしい。垂仁天皇の御代に、言葉をしゃべらぬ皇子の本牟智和気ほむちわけ王のために鵠くぐひを追ひかけた山辺やまべの大鷹おほたかは、因幡国で向きを変へて、更に東へ追ったといふ。後世、鳥取地方の初春の祝狂言で歌はれる「さいとりさしの歌」は、殿様の鷹狩の餌にする小鳥をとるときの歌といふ。
○ 一つひよどり 二つが梟ふくろふ 三つ木菟みみずく 四つが夜鷹
 五ついるかに 六つが百舌鳥もず 七つ長尾に 八つが山鳥 
 九つ駒鳥 十で鳶とび さいとりさしの歌
湖山池 / 鳥取市
鳥取市の西方の湖山こやま池の周辺を「霞の里」といった。和泉式部の生誕地ともいひ(ただし伝承地は諸国にあり)、式部は父の大江定基が因幡守だったときに生まれたともいふ。
○ 春来れば花の都を見てもなほ 霞の里に心をぞやる 和泉式部
むかし湖山長者が、山に登って領地の田植風景を見てゐると、植ゑきらぬうちに日が沈みかけたので、山の上から扇で夕日を仰いで日没を止めたといふ伝説もある。日を動かしたために神の怒りにふれ、山が沈没してできたのが湖山池だともいふ。湖山長者が建てた摩尼寺のある摩尼山からは、彼岸の中日に限って夕日が後戻りするのが見えるともいふ。
諸歌
○ 敷島の歌のあらす田あれにけり あらすきかへせ歌のあらす田 香川景樹
江戸後期の蘭学者、稲村三伯は鳥取藩医の養子となり江戸へ出て蘭和辞典を作った。
○ いく薬くすしき種のひとくさを 豊葦原にまきし人これ 稲村三伯
鳥取砂丘を有名にした歌(大正十二年)。
○ 浜坂の遠き砂丘の中にして さびしき我を見出でけるかも 有島武郎
倭文神社 / 鳥取県東伯郡東郷町
倭文しとり神社(伯耆国一宮)は、健葉槌たけはづち命、下照姫したてるひめ命をまつる。健葉槌命は、当地で倭文しづをりを広めた倭文部しとりべの祖神である。下照姫命は大国主命の娘神で、出雲から移り住んだとされ、倭文神社の経塚は、下照姫の墓ともいふ。
○ 天なるや弟棚機おとたなばたの 項うながせる 玉の御統みすまる
 御統に 穴玉はや み谷 二渡ふたわたらす 
 阿遅志貴あぢしき高彦根神たかひこねのかみ 下照姫
阿遅志貴あぢしき高彦根神とは下照姫の兄であり、死んだ姫の夫の天稚彦あめのわかひこと間違へられて泣き叫んだ神である。「み谷二渡らす」とは蛇体であったらしい。
後醍醐天皇と瓊子内親王 / 米子市車尾
元弘二年、隠岐島へ向かはれる後醍醐天皇の一行は、車尾くつも村(米子市車尾)の深田長者の家を宿として、数日の滞在をされた。そのとき天皇の詠まれた御歌。
○ 春の日のめぐるも安き尾車の うしと思はで暮らすこの里 後醍醐天皇
御出発のとき、守護職の佐々木某は、お伴の女房が連れてゐた童女に不審を抱いた。童女は身分の低いいでたちではあったが、女房の娘ではなく、皇女の瓊子たまこ内親王であった。鎌倉幕府の沙汰では同行が許されたのは、わづかの女房蔵人だけであり、まして皇族がともに行くことができるものではなかった。天皇は、内親王を車尾に残して隠岐へ旅立たれた。
瓊子内親王はこのとき十六歳で、さる上人のもとにあづけられた。天皇が京に還られて建武の新政を興されてのちも、この地に留まって尼僧となり、天皇から領地を賜って安養寺を開基されたといふ。瓊子内親王と同母兄の尊良親王との歌のやりとりが、新葉和歌集にある。出家の身が羨ましいといふ兄を激励されてゐる。
○ いかでなほ我もうき世をそむきなむ うらやましきは墨染の袖 尊良親王
○ 君はなほそむきなはでぞとにかくに 定めなき世の定めなければ 瓊子法内親王
元弘三年、山陰の豪族名和なわ長年が、船上山で賜った後醍醐天皇の御製。
○ 忘れめやよるべも波の荒磯を み船の上にとめし心を 後醍醐天皇
大山 楽楽福の神 / 日野郡溝口町
○ 大山は雲の上にて海原に 沈み果てたる日に照れるかな 山下陸奥
修験の山、大山の西麓に、楽楽福神社がある。吉備津彦命の父である孝霊天皇が、伯耆に行幸のとき、鬼住山の鬼を退治された。のちこの地に崩御されて、笹で屋根を葺いた社殿にまつられたといふ。ささふくは、「砂鉄ささ吹く」の意味で、古代の製鉄神だともいふ。
○ たたら内では金屋子神 宮のかかりを見たならば 金の御幣が舞ひ上がる 番子歌
三朝温泉 / 東伯郡三朝町
源義朝の家臣の大久保左馬之祐が、源氏再興のために三徳山(三朝町東部)の三仏寺に参篭したときに、夢によって発見したのが三朝みささ温泉であるといふ。
○ 泣いて別れりゃ空まで曇る 曇りゃ三朝が雨となる (三朝小唄) 野口雨情 
 

 

鳥取島根岡山広島山口

伯耆国 国号の由来
或書に引る風土記には、手摩乳・足摩乳が娘、稻田姫、八頭の蛇の呑まむとする。故に、山中に遁げ入りき。時に、母遲く來ければ、姫、「母來ませ母來ませ」と曰ひき。故、母來の國と號く。後に改めて伯耆の國と爲す。云々
「伯耆」という地名の由来譚ですが、「ほうき」ではなく「ははき」という読みの由来です。「母来ませ」という呼びかけが「ははき」になったということですが、どうしようもなくこじつけ感があります。
記紀のヤマタノオロチ伝承を素地にした伝承かもしれませんが、スサノオが登場しないというのは注目すべきでしょう。伯耆国は出雲のすぐ近くで、人物名称など記紀との関連性も強そうですが、スサノオが登場しない。しかもテナヅチ・アシナヅチもイナダヒメとともにヤマタノオロチに追われているのです。
記紀の伝承から発想された可能性は強いですが、それにしても原初的な蛇神に対する人々の恐怖が現れている伝承です。
ヤマタノオロチに対する恐怖=自然に対する恐怖が前面に出ているという伝承で、その意味では英雄スサノオの活躍よりも荒れ狂う自然を表現したヤマタノオロチという在地の神に焦点が当てられています。地元ではスサノオなしの伝承もありえたのかもしれない、とも思います。 
スクナヒコナと粟
伯耆の國の風土記に曰はく、相見の郡。郡家の西北(いぬゐ)のかたに餘戸(あまりべ)の里あり。粟嶋あり。少日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實りて離々(ほた)りき。即ち、粟に載りて、常世の國に彈(はじ)かれ渡りましき。故、粟嶋と云ふ。
「伯耆」は「ほうき」と読みます。私が使っているテキストには「ははき」とふってあります。鳥取県の中西部を指すそうです。鳥取県米子市彦名町に「粟島」という丘があり、粟島神社があります。ここは江戸時代までは本当に島だったそうで、まあ海岸近くにある島ということで野本寛一先生的にも信仰対象としてはもってこいの場所だったようです。
スクナヒコナは去来する神であり、死んで生き返る神であり、穀霊であり、酒の神であり、大国主とともに国を作った神であり、医療の神であり、岩石洞窟に祭られる神であり、カミムスヒやタカミムスヒの御子神であり、そして何といっても体の小さな神です。
この神について本格的に研究したことが無いので良くわかりませんが、比較研究的にも非常に興味深い神ではあります。恐らく原初的には穀霊信仰ということに行くつくのだと思っていますが。
しかし考えてみると、スクナヒコナを穀霊と見なすことができる神話においてはほとんど常に粟と関わって語られているように思います。「粟霊」です。
その意味では稲作以前の古い神と考えることも出来るでしょうし、或は稲作が定着してからも粟作を重視していた地域の神であるという見方もあるかもしれません。また王権論的に考えると稲が天皇王権と深く結びついているのに対して、粟の神が大国主とともに国造りをして、さらに立ち去ったことは「国譲り神話」によって語られた不可逆的な変化と結び付けられているのかもしれません。具体的には「主要穀物の交代」という変化です。
鳥取県米子市粟島神社には八百比丘尼伝承も伝わっています。
「その昔、この辺りの漁師の集まりで珍しい料理が出たが誰も気味悪がって食べず、ひとりの漁師が家に持ち帰ったのを何も知らない娘が食べてしまいました。その肉は何時まで経っても寿命が来ないと言われている人魚の肉だったのです。何時まで経っても18歳のまま変わらないその娘は世をはかなみ、尼さんになって粟島の洞窟に入り、物を食べないで寿命の尽きるのを待ちました。とうとう寿命が尽きたときの年齢は八百歳だったので八百比丘(はっぴゃくびく)さんと呼んで延命長寿の守り神として祀られるようになりました。その洞穴は「静の岩屋(しずのいわや)」と呼ばれています」
常世の神の社に不老不死の伝承があるというのは非常に意味深です。日本海側にはこのような八百比丘尼伝承が多く伝わっています。福井の若狭比古神社などとも関係があるでしょう。
常世に関係する文献や民間伝承は谷川健一氏『常世論』に詳しいですが、私がこれを読んだのは大学時代ですのでほぼ完全に忘れ去っています。まあ沖縄のニライカナイと比較していたのは確かですが。でも沖縄ニライカナイ伝承にもこのような不老不死伝承は存在しているのでしょうか?
しかし「死んで再生する」ことと「不老不死」の間にはちょっと飛躍があるような気もします。
「不老不死」は始皇帝の時代から大陸では存在する観念で、後世でも道教によって追求されてきましたが、それがなぜ日本の民間では「世をはかなむ」ということになってしまうのでしょう?中華皇帝も追及した永遠の命を手に入れたにもかかわらず、何故娘は出家してしまうのか?
『捜神記』では不老不死を手に入れた人物は基本的には皆仙人になってしまいます。仙界の描写などはあまり無かったと思いますが、基本的には神かそれ以上の存在になり、それをはかなんだりはしていないような気がします。
この辺の感覚は仏教の受容の仕方などとも関係がありそうです。 
白兎
因幡ノ記ヲミレバ、カノ國ニ高草ノコホリアリ。ソノ名ニ二ノ釋アリ。一ニハ野ノ中ニ草ノタカケレバ、タカクサト云フ。ソノ野ヲコホリノ名トセリ。一ニハ竹草ノ郡ナリ。コノ所ニモト竹林アリケリ。其ノ故ニカク云ヘリ。(竹ハ草ノ長ト云フ心ニテ竹草トハ云フニヤ。)
其ノ竹ノ事ヲアカスニ、昔コノ竹ノ中ニ老タル兎スミケリ。アルトキ、ニハカニ洪水イデキテ、ソノ竹ハラ、水ニナリヌ。浪アラヒテ竹ノ根ヲホリケレバ、皆クヅレソンジケルニ、ウサギ竹ノ根ニノリテナガレケル程ニ、オキノシマニツキヌ。又水カサオチテ後、本所ニカヘラント思ヘドモ、ワタルベキチカラナシ。
其ノ時、水ノ中ニワニト云フ魚アリケリ。此ノウサギ、ワニヽイフヤウ、「汝ガヤカラハ何ホドカオホキ」。ワニノイフヤウ、「一類オホクシテ海ニミチミテリ」ト云フ。兎ノイハク、「我ガヤカラハオホクシテ山野ニ滿テリ。マヅ汝ガ類ノ多少ヲカズヘム。コノシマヨリ氣多ノ崎ト云フ所マデワニヲアツメヨ。一々ニワニノカズヲカズヘテ、類ノオホキ事ヲシラム」。ワニ、ウサギニタバカラレテ、親族ヲアツメテ、セナカヲナラベタリ。其ノ時、兎、ワニドモノウヘヲフミテ、カズヲカズヘツヽ竹ノサキヘワタリツキヌ。
其ノ後、今ハシヲホセツト思テ、ワニドモニイフヤウ、「ワレ、汝ヲタバカリテ、コヽニワタリツキヌ。實ニハ親族ノオホキヲミルニハアラズ」トアザケルニ、ミギハニソヘルワニ、ハラダチテ、ウサギヲトラヘテ、キモノヲハギツ。(カクイフ心ハ、兎ノ毛ヲハギトリテ、毛モナキ兎ニナシタリケリ。)
ソレヲ大己貴ノ神ノアハレミ給テ、ヲシヘ給フヤウ、「カマノハナヲコキチラシテ、其ノウヘニフシテマロベ」トノ給フ。ヲシヘノマヽニスルトキ、多ノ毛モトノゴトクイデキニケリト云ヘリ。ワニノセナカヲワタリテカゾフル事ヲイフニハ兎踏其上讀來渡(ヨムデキタリワタル)ト云ヘリ。 (塵袋第十)
所謂因幡の白兎伝承です。記紀ではオホナムチの側から書かれているので、出来事は白兎が語る形式になっていますが、ここでは白兎がメインです。
記紀との関係性で言うと、「1こちらが古く、在地の伝承である」「2記紀が古くそれを引用したものである」という二つの見方が考えられます。これを決するのはなかなか難しいのですが、「当該地域の伝承を記紀が利用し、再び当該地域に受け入れらた」という感じかもしれません。
ではなぜ記紀がこの伝承を使う必要があったのかというと、簡単に思いつく答えは「オホナムチの医療神としての性格を描くため」ということになるでしょうか。もちろんそれは大いにあるでしょう。
しかしそれだけではやはり面白くない気もします。というか兎を治療する必要があるのでしょうか?怪我人が登場してそれを治療するということでいいのでは?そもそも動物昔話のような話が国造り神話の冒頭に置かれているのは何故なのか?
私は出雲神話はあんまり調べたことが無いのであまり自信はありませんが、オホナムチという英雄神の性格を叙述する伝承であるとともに、国造りという彼の事業そのものにも深く関わる伝承のような気がします。その意味ではこの伝承の次に語られる「八十神の迫害」の段との類似性も考える必要があると思われます。毛をむしられた兎はオホナムチによって助けられ、全身にやけどを負ったオホナムチはカミムスヒによって助けられる。
あまり記紀との関係を深追いするとぼろが出るので、上記伝承の分析に入りましょう。結論を先に言えば、この伝承の意味は「陸と海の弁証法」だと思われます。
高草という地名の起源として竹林があったとされていますが、分類学的にも草なのか木なのかという議論があるそうで、近縁種は草が多いとか。冒頭洪水(津波?)によって竹林が流されたとありますが、これは『古事記』にはない記述です。記では単に「オキノシマから浜へ渡りたかった」と書かれているだけですが、この伝承ではその理由が書かれているわけです。でも竹林に兎というのは何か似合いません。
竹の繁殖力の強さは私自身の経験からもわかります。竹林は土を掘るのも大変です。しかし地滑りなどには弱いそうなので、地下茎を覆っている土を持っていかれは流されてしまうでしょう。しかしそれにしても海の近くに竹林というのも少ない気がしますので大きな津波だったはずです。つまり陸と海の境目がなくなってしまった状態。原初の洪水神話を思わせるような混沌です。
一見確固たる陸地であった竹林の老兎は洪水でオキノシマへと流されてしまいます。そして帰るべく考えたのがワニを騙すことだったのです。同じモチーフはアフリカやインドネシアにもあるとか。インドネシアの民間伝承ではワニと鹿で語られるそうですが、数を数える行為にも何かしら象徴的な意味があるのかもしれません。
とりあえず言えるのはワニは島から浜まで並ぶほど多いのに対して、兎は一匹しかないということです。海側が量的に優勢であると。また陸の動物が海の動物を騙そうとして失敗し、襲われるわけですが、これは海と陸の二度目の対決だと考えることが出来るでしょう。そして陸の動物の特徴である毛皮をはがれてしまいます。洪水の猛威によって竹林が水浸しになってしまったことと、兎が毛皮をはがれてしまったことは象徴的には同じ意味があるでしょう。
そこにオホナムチ登場ですが、彼は蒲の花をしごいて散らしてその上に横たわるようにと教えます。蒲の花粉「蒲黄」は実際に薬になるそうなので、医療神の面目躍如と言ったところでしょうか?それに付け加えていうならば、蒲は池沼付近に生える水辺の植物です。つまり陸地の竹は洪水には太刀打ちできませんでしたが、水辺の蒲は兎を治療することが出来る、ということです。
海と陸という対立、洪水津波による混沌、水棲動物と陸棲動物の対立、陸棲動物は半水半陸性の植物によって治療される。「海と陸の弁証法」です。
この記事は高草の地名由来として風土記を引いているだけなので、兎が回復したあとの事は良くわかりません。記のように「兔神」の由来譚だった可能性もあります。この地域には白兎神社なるモノもありますから。しかしこの記述だけではその意義までは推測できません。
一方この伝承が、多少改変された状態で古事記に載っているのはなぜかというと、やはり「海と陸地の弁証法」が「水辺」に行き着くからです。もっと言うならば彼が根の国訪問後に作り上げる「葦原中国」の素地になる伝承だからです。
上にもチラッと書きましたが、記で「白兎」伝承の後に来る「八十神迫害」伝承では、オホナムチは自ら瀕死の重傷を負ってしまいますが、それを助けたのはキサガイヒメ・ウムギヒメという二枚貝が神格化した女神でした。やはり「水辺=海辺」に行き着く。
白兎神話と八十神神話はどう考えても全く類似性がありませんが、しかしオホナムチ神話・国造り神話という古事記の文脈の中で並べられることによって、連想によって新たな神話的なメッセージが浮かび上がる可能性があると思います。「海と陸の弁証法」なんていうのは所詮私の浅知恵による名付けでしかありませんが、一連の物語として読めば「さっきは兔を治療してやったオホナムチが、今度は治療される側になっている」「海の話から山の話になった」ぐらいの事は誰でも思うことです。
オホナムチ=オホクニヌシ伝承は王権神話である記紀からするとどうしてもわき道になりますが、国造りの神という意味では創造神に近い存在のはずです。しかし皇統にはつながらないし、物語のモチーフを見るとどこか英雄神話的なところがあるような気がします。それに対して「国生み」と皇孫による「神婚による各界統治」は「生む」ことによって創造し、統治する。
因幡の白兎を調べたところ、和邇=ワニ派がすごく頑張っているようですが、最近はこういう流れなのでしょうか? 大阪でワニの化石も出たそうで、まあ確かに可能性はあると思います。でも「因幡の白兎」では「数が多い」という設定になっているので、「たまに海流にのってやってきた」程度の話では兔と対等に説話に登場するような凡庸=普通なイメージに落ち着くとは思えません。とは言え、日向神話では和邇=ワニのほうがしっくりくるというのも事実です。でも海にワニで海神宮を往来するとかならば、それこそ大量にワニの化石があるような気もします。 
武内宿禰
因幡國風土記云 難波高津宮仁徳|天皇 治天下五十五年春三月  大臣武内宿禰 御歳三百六十餘歳 當國御下向 於龜金双履殘 御陰所不知 (蓋聞 因幡 國法美郡宇部山麓 有神社 曰宇部神社 是武内宿禰之靈也 昔 武内宿 禰 平東夷  入宇倍山之後 不知所終) (萬葉緯所引武内傳)
13代成務天皇と同年同日生まれで、16代仁徳天皇の御世まで、300年ぐらい生きたという、長寿の人。その人が因幡の宇部神社で履物を脱いで姿を消したという伝承です。宇部神社後方の亀金山には現代にも「双履石」という石があるとか。まあ調査によると古墳石室の一部が露出したものだそうですが。奈良の鬼の俎・雪隠みたいなものですか。
宇部神社は因幡国一宮で、神官は伊福部氏。武内宿禰とは系譜的に関係ない氏族なので、武内宿禰を祭神とするというのは後代の付会で、元は伊福部氏の祖神を祭っていたのだろうと言われているとか。ただ伊福部氏は一時離職したことはあるものの明治まで神主職を勤めたとか。つまり伊福部氏が自ら武内宿禰信仰を受け入れたということです。やはり長寿祈願の神社だそうです。
伊福部氏は武内宿禰とは全く関係が無い。武内宿禰側も父母・子孫ともに日本海側とは関係が無い。ではなぜ宇部神社の祭神が武内宿禰なのか?
で、思い出すことといえばやはり八百比丘尼伝承です。長寿つながりといいますか。或は浦島伝承とも関係があるかもしれません。長寿の人が仙人になるときに何かを残す、という伝承が『列仙伝』辺りにあって、それを利用した伝承かもしれません。
まあ民間でも、例えば遠野の「寒戸のババ」伝承なんかでは、神隠しにあったとき靴だけ残されていたなどといわれるので、「靴を残す」モチーフには人間界を離れたことを表す意味があるのだと思います。 
宇倍神社(うべじんじゃ) / 鳥取県鳥取市国府町宮下
因幡国一の宮である宇倍神社は、日本史上最初の宰相である武内宿禰を祭神として祀る神社である。360歳の長命を維持した人物であることから長寿のご利益、さらにこの宿禰の肖像と宇倍神社の拝殿が紙幣に度々採用されたため(伝説的廷臣とそれを祀る神社の組み合わせ図案として初めて採用された)に金運のご利益もあるとされる。
この神社が武内宿禰を祀っている理由は明白である。この地が宿禰の終焉の地であるからである。朝廷に250年近く仕え、既に360歳となっていた宿禰は因幡国へ下向し、沓だけを残して行方不明となってしまった。まさに昇天してしまったのである。このあたりの記述も彼の神懸かり的存在に由来していると思われるが、この脱ぎ捨てられた沓が石となって、この神社の境内に残されているのである。
本殿裏手に“亀金岡”と呼ばれる小さな丘がある。その頂上に“双履石(そうりせき)”という一対の石がある。これが沓が石化したものである。この双履石から本殿が見下ろすことができる。つまりこの双履石は本殿の奥に位置する、この神社で最も重要な存在であることを示していると言えるだろう。
武内宿禰 / 日本史上最初の宰相、古代有力豪族(葛城・平群・蘇我・巨勢)の祖、五代の天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)並びに神功皇后の補弼、そして360歳という長寿を保った。特に神功皇后の三韓征伐において中心的役割を担う。ただしその長命の記録故に非実在説もある。
双履石 / 道教の「尸解仙」という考えでは、死に際して沓と冠を残して地上より消滅して仙人になるという。武内宿禰が沓を残して昇天したとする伝承には、この神仙思想の影響が色濃く残されていると見てよいだろう。
圓流院(えんりゅういん) / 鳥取県西伯郡大山町大山
大山は山陰地方を代表する霊場である。この霊峰に大山寺という寺院がある。明治の廃仏毀釈によって大きく衰退したが、江戸時代には寺領3000石を幕府より安堵され、42の支院を持つ大寺院であった。現在では10の支院が残っているが、その中で最も有名なのが圓流院である。
圓流院は江戸時代に建立された支院の1つである。創建から200年以上経ち、平成21年(2009年)に再建された。その時以来、院内の天井画の画題として“妖怪”を選んだことが評判となり、観光客を集めることとなったのである。
寺社の天井に絵が描かれることは珍しくない。天井を格子状に仕切ってそこに様々な花鳥風月の絵を描くこともよくある。しかし妖怪を描くことはかつてないことである。
絵師は、同じ鳥取出身の水木しげる。天井には全部で110枚の絵がはめ込まれているが、そのうち「阿弥陀浄土」と「補陀落浄土」の2枚の絵以外は全て妖怪が描かれている。そしてその天井の中心部にある絵は、大山の守護神である烏天狗(伯耆坊)となっている。(ちなみに108体の妖怪については、有料のリーフレットで確認できる)
この天井画の拝観方法も変わっており、最も見やすい体勢、すなわち床に仰向けに寝転がって天井をゆっくりと眺めることになる。天井全体を俯瞰するように見るのも良し、お気に入りの妖怪と対話するように見るのも良し。とにかく良い意味で“寺らしからぬ”光景である。
岡益の石堂(おかますのいしんどう) / 鳥取県鳥取市国府町岡益
岡益の石堂の姿は、風化を防ぐために覆屋の内にあって全容が見えない状態であるが、台石の中央にすっくと立つエンタシスの柱と、さらにそれを四方から囲む壁面から成る。さらに忍冬の紋様などが彫られており、東アジア圏の文化の影響を色濃く残している。だが、日本はおろか朝鮮や中国にも類例を見ないその容姿は、その建築目的すら想像できないほど奇異である(地元の研究者によると、仏教文化との関連性が強いのではないかとのこと)。
この構造だけでもミステリアスなのであるが、それに輪を掛けるようにこの建造物は安徳天皇の“陵墓参考地”として宮内庁の指定を受けているのである。安徳天皇といえば、1185年に壇ノ浦の合戦で入水して亡くなったとされている。だが平家の落人伝説と同じように、安徳天皇も海中から救い出されて、隠れ里のような土地に住み着きそこで亡くなったという伝説が各地に伝わっている。その中の一つが、この石堂なのである。結局のところ安徳天皇はこの地でも夭逝している。病死だったらしい。
この岡益の石堂から2キロほど離れた場所に「新井(にい)」という集落がある。そこには“新井の岩舟”という 古墳がある。伝承によると、これが安徳天皇の祖母で、同じく壇ノ浦で入水したはずの二位の尼の墓であると言われている(単に“新井=二位”ということらしいが)。どうやら安徳天皇の一行は、全てこの地で終焉を迎えたことになっているようである。
ただし、岡益の石堂は7世紀頃のものであり、新井の岩舟も古墳時代のものであると確認されている。それ故に、これらの遺物が学術的に安徳天皇にまつわる伝説と結びつくということはほとんどない。
安徳天皇 / 1178-1185。第81代天皇。祖父は平清盛。2歳で即位したため、実験は平氏一門が握っていた。最期は壇ノ浦の戦いで、祖母である二位の尼に抱かれて入水。遺体は翌日引き上げられるが、密かに落ち延びたとする伝承が西日本一帯で伝えられる。
二位の尼 / 1126-1185。平清盛の妻、平時子。宗盛・知盛・徳子(建礼門院)の母。清盛と共に出家。従二位の官位を授かっているため「二位の尼」と呼ばれる。清盛死後は平氏一門の支柱となるが、最期は壇ノ浦の戦いで、安徳天皇を抱えて入水。
鬼の碗(おにのわん) / 鳥取県岩美郡岩美町岩井
岩美町岩井には1300年の歴史を持つ岩井温泉がある。そこから少し離れたところに旧・岩井小学校跡がある。奈良時代、この地には大寺院があったとされる。弥勒寺、通称「岩井廃寺」と呼ばれている。今でもここには建物に使われた礎石が残されている。中でも三重塔の心礎石は横が3m63cmの日本最大級の礎石であり、その中心部に幅が77cm、深さ33cmの孔が掘られてある。その異様ぶりから、土地の人々はこの石を「鬼の碗」と呼び慣わしているという。
特に珍しい言い伝えがあるわけではないが、特別な名前で呼んでいただけのことはある、何かしらの不思議ぶりを感じさせるところがある。
後醍醐天皇 御腰掛岩(おこしかけのいわ) / 鳥取県西伯郡大山町御来屋
元弘元年(1331年)、倒幕をめざして挙兵に及んだ後醍醐天皇は、鎌倉幕府の圧倒的な兵力の前に捕縛され、そして翌年、隠岐に流罪となった。しかし天皇の意志は強く、1年後には隠岐を脱出して再挙兵をめざしたのである。
後醍醐天皇が再起を果たすために手助けしたのは、伯耆国名和で海運業をしていた名和長年であった。そこで隠岐から脱出した天皇を乗せた船は、名和の地に到着する。やはり天皇といえども流罪となった者の決死の脱出行である。名和の湊に辿り着いた天皇は船から下りると、波打ち際の岩に腰を掛けて人心地ついたとされる。これが後醍醐天皇御腰掛岩の由来である。
現在では岩は港の岸壁から少し陸の奥まったところに置かれているが、これは移動させたのではなく、漁港の護岸改修などで陸に上がったように見えるだけであるとのこと。後醍醐天皇の倒幕実現の第一歩は、変わりなく今に受け継がれている。
後醍醐天皇 / 1288-1339。第96代天皇。持明院統と大覚寺統による天皇の交互即位が鎌倉幕府主導でおこなわれていることに不満を持ち、倒幕を志したとされる。正中の変、元弘の変を経て隠岐に流罪。脱出後は、足利尊氏などの御家人が幕府に反旗を翻すなどしたため倒幕に成功する。そして天皇親政の建武の新政を進めるが、次第に武家勢力の不満に対処できず、足利尊氏の裏切りによって、吉野に逃れ南朝を興す。
名和長年 / ?-1336。伯耆国の侍。海運業を営む悪党とされ、経済的にも富裕であったとされる。後醍醐天皇の隠岐脱出を支援し、天皇を立てて船上山の戦いに勝利して、京都まで同道する。建武の新政では政治にも参画した。湊川の戦い直後に京都で起こった戦いにおいて戦死。
湖山池(こやまいけ) / 鳥取県鳥取市
湖山池は周囲約18km、「池」と名が付くものの中で日本最大規模を持つ。元々は日本海に面した入り江湾であったが、砂の堆積によって海と分断され湖沼となったものとされる。しかしこの池には“長者伝説”の中でもひときわ有名な湖山長者にまつわる伝承が残る。
湖山長者はこの辺り一帯で一番の大金持ちであり、1000町歩もの田んぼを所有していた。そして毎年のように、近在の者をかき集めて1日で田植えを済ませてしまう習わしであった。ある年のこと。いつものように順調に田植えがおこなわれていたが、子供を逆に背負って歩く猿があぜ道を行き来するのに大勢の者が見とれてしまい、かなり遅れを取ってしまった。もう日没になろうとしているのに、まだ田植えだけは終わらない。この様子を見ていた長者はお気に入りの金の扇を持ち出すと、太陽を招き戻したのであった。これによって無事に田植えを日没までに完了させることが出来たのである。
そして翌日、長者が田んぼへ行ってみると、田んぼは消えてなくなって、代わりに大きな池が出来ていた。人々は、長者が太陽を呼び戻した罰として池になってしまったのだと言い合った。その池が湖山池なのである。
湖山池には大小いくつかの島がある。その中に猫島と呼ばれる小島があり、そこには猫薬師というお堂がある。この猫薬師も湖山長者にまつわる伝説である。
かつて湖山長者が祈願していた薬師如来があったが、近在の者が堂を建てて浄西坊という者がお勤めをしていた。ある時、仏様の下の方に光るものがあったので調べてみると、赤毛の猫のミイラが出てきた。その猫の目が光っていたのである。さらにその夜、浄西坊は猫の夢を見る。
夢に出てきた猫は、自分が湖山長者の飼い猫であったこと、そして長者の田んぼが一夜にして池にかわった時に溺れ死んでしまったこと、さらにはその死骸が小島に打ち上げられて干涸らびてミイラになり、そのためにその小島が猫島と呼ばれるようになったことを告げた。猫は長者から信心することを教わったことで、動物の身でありながら仏になることを許されたので、この薬師如来にお仕えして人々に利益を授けたいとも言ったのである。
浄西坊はここで夢から覚めると、以前に堂に住みついた赤毛の猫のことを思い出した。その猫は人間のように薬師如来に手を合わせていたが、それが湖山長者の愛猫の霊であり、今度はミイラとなって現れたのだと悟ったのである。そこでミイラを丁重に厨子に収めて、薬師如来と共に祀ったのである。
これ以降、この薬師如来は“湖山の猫薬師”と呼ばれるようになった。このお堂の護符は鼠封じに効くとされ、また失せ物がある時は祈祷してもらうと良いとされている。
長者伝説 / 貧しい者が仏の加護などで富裕となる話。また逆に富裕の者がふとしたことから没落していく話の総称。湖山長者の伝説は、長者の驕りによって没落する話の典型例である。長者が太陽を呼び戻すというパターンは、音戸ノ瀬戸での開削工事での平清盛の伝説にも見られる。
楽楽福神社(ささふくじんじゃ) / 鳥取県西伯郡伯耆町宮原
“ささふく”という名前の由来は、“砂”即ち砂鉄をたたら吹きで製鉄することを意味するとされる。つまり、古来より中国山地一帯で盛んにおこなわれていた製鉄を神聖視して祀った神社であるとされる。しかし、一方でこの神社の祭神である孝霊天皇にまつわる伝説にもまつわるとされる。
神社の近くに鬼住山という名の山があり、そこを根城にして暴れ回っていた鬼の集団があった。この地を訪れた孝霊天皇はその話を聞き、早速鬼を退治することを決めた。鬼住山の隣にある笹苞山に陣を築いて、敵を見下ろす形で対峙した。まず献上された笹巻きの団子を3つ置いて鬼を誘い出すと、鬼の兄弟の弟・乙牛蟹を射殺すことに成功した。しかし兄の大牛蟹は降伏するどころか、手下を率いてさらに激しく抵抗して暴れ回ったのである。
事態が膠着しているさなか、天皇は霊夢を見る。天津神が枕元に立ち「笹の葉を刈って山のようにせよ。風が吹いて鬼は降参するであろう」と告げたのである。天皇はお告げに従い、笹の葉を刈って山のように積み上げた。すると3日目に南風が吹き荒れて、笹の葉はまたたく間に鬼住山に飛んでいった。天皇が敵陣へ軍を進めると、そこでは笹の葉が全身にまとわりついて狼狽える鬼達がいた。そこに火をつけるとあっという間に燃え広がり、天皇は一兵も欠けることなく勝ちを収めたのである。
破れた大牛蟹は、蟹のように這いつくばって命乞いをした。そして手下となって北の守りをすることを約束したのである。人々は喜び合い、奇瑞を示した笹の葉で屋根を葺いた社殿を造り、天皇を祀ったのである。これが今の楽楽福神社の始まりであるとされる。またこの鬼退治が、日本最古の鬼にまつわる伝承であるとされている。
楽楽福神社の境内には、孝霊天皇の墓とされる墳丘が残されている。土地の伝説によると、鬼退治を推敲した後も天皇はこの地に崩御するまで留まったという。
日本最古の鬼伝説の残る土地ということで、大牛蟹をモチーフとした巨大像が、鬼住山の対岸の丘に造られている(元は鬼関連のミュージアムだったが閉館)。また鬼住山の北にあり、降伏した鬼達が守ったという鬼守橋には、名前にちなんで鬼のオブジェが置かれている。
孝霊天皇 / 第7代天皇。ただし“欠史八代”と呼ばれる、実在が非常に疑問視される8天皇のひとりである。皇子に吉備津彦命と稚武彦命という“桃太郎伝説”のモデルとなった2人がおり、孝霊天皇の鬼退治伝説もこれと関連があると考えてよい。またこの鬼退治の伝説は、製鉄に使う砂鉄の所有をめぐって、吉備氏(孝霊天皇)と出雲氏(大牛蟹)が争った史実に基づくとも考えられる。
大岳院 里見忠義の墓(だいがくいん さとみただよしのはか) / 鳥取県倉吉市東町
創建は慶長10年(1605年)。関ヶ原の戦いでの功績で米子を領した中村家一門の重臣・中村栄忠が父の菩提を弔うために建立した(大岳院の名は父の院号から取られている)。しかし中村家は嗣子がいなかったため改易となり、しばらくこの地は幕府直轄地の天領となる。
慶長19年(1614年)に倉吉藩という名目で同地を領有することになったのは、安房等12万石の国持大名であった里見忠義である。当時の幕府を揺るがした大久保長安事件の余波を受けての処分で、3万石に減封の上で領地替えという形でおこなわれた。しかし実際にはわずか4000石しか与えられず、事実上の改易状態であったという。
倉吉の神坂町(現在の東町あたり)に居を構えた忠義は曹洞宗であったため、同宗派の大岳院に3石余りの土地を寄進したり、また周辺の社寺の再建などを手がけるといった、領主としての役目を全うするような動きをみせていた。
しかし元和3年(1617年)になると、因幡伯耆は池田家が治めることとなり、倉吉の土地も召し上げられ、忠義にはわずか百人扶持のみが与えられた。追い打ちを掛けるように、倉吉の町中から郊外へ移住させられ、さらに辺境にまで追いやられたのであった。領地召し上げの頃より病気がちになったとされる忠義は、元和8年(1622年)に29歳で病死する。これにより安房の名族里見氏は歴史から消えることになる。
忠義は遺言により大岳院に葬られたが、死から3ヶ月ほど後に、最後まで付き従っていた家臣の8名が殉死する。彼らも大岳院に葬られ、現在では忠義を守るように墓が置かれている。この8名の家臣の戒名には、忠義の戒名から取られた「賢」の文字が入れられており、そのことから“八賢士”と呼ばれるようになった。そのためこの8名の殉死が、後の滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の主人公達のモチーフとなっているのではないかとされている。
里見氏 / 鎌倉時代より御家人の家柄であり、室町中期以降に安房を拠点とする。戦国時代は主に後北条氏と対立し、たびたび戦がおこなわれる。豊臣秀吉の関東攻めの時には、安房・下総・上総を領有していたが、拝謁が遅れたために安房一国に減封。これ以来、関東に入府した徳川家康と懇意になる。関ヶ原の戦いの功績により12万石を得るが、大久保長安事件の連座によって没落する。忠義には3人の男子があったとされ、子孫はそれぞれ他家に出仕や下級旗本として存続するが、実子であるかには疑念の余地がある。
大久保長安事件 / 幕府の勘定奉行であった大久保長安が私的に蓄財をおこなったと死後に露見し、慶長18年(1613年)に一族が処刑された。この事件をきっかけに政争が起こり、翌年には、長安の後ろ盾となっていた小田原藩の大久保忠隣が改易処分となった。里見忠義は正室が忠隣の孫娘であったことから連座した(その他違反行為もあったとされる)。しかし移封の最大の目的は、関東に唯一ある外様大藩であるため、口実を設けて排除しようとしたのではと推測されている。
『南総里見八犬伝』 / 滝沢馬琴の代表作であり、伝奇物語の傑作。刊行より28年の歳月を掛けて天保13年(1842年)に完結する。全98巻。物語は、安房里見家の勃興からはじまり、息女の伏姫と霊犬八房の縁によって結ばれた8人の“犬士”の活躍を描く。
人形峠(にんぎょうとうげ) / 鳥取県東伯郡三朝町木地山
ウラン採掘で有名な人形峠であるが、現在は現役の道路としての役割はほとんど終えている。本線から脇道にそれるように山道を登っていくと、鳥取・岡山の県境に峠がある。この奇妙な名前の由来には、妖怪が関連している。昔、この峠を越える者の多くが戻ってこなかった。化け物がいるのではということで、ある木地師が若い娘の木像を作り、峠に置いて待ち伏せした。すると、どこからともなく大蜘蛛が現れ木像にかみついたが歯が立たず、そこを村人総出で攻撃して殺したという(あるいは大きな蜂という説もある)。それからこの峠は“人形峠”と呼ばれるようになったとか。
白兎神社(はくとじんじゃ) / 鳥取県鳥取市白兎
『因幡の白うさぎ』の話と言えば、神話に興味のない人でも一度は聞いたことのあるポピュラーな伝説である。
ひょんなことから沖の島にながされた兎は、鰐(=鮫)をだまして岸にたどり着こうとしたが、計略がばれて皮を剥かれてしまう。そこへ大勢の神様がやってきて、元の姿になるには海の水に浸かった後で吹きさらしの場所で風に当たると良いと教えられる。しかしそれは逆効果で、さらにひどい状態なったところで、荷物を担いだ一人の神様に出会う。その神様は、池の水に浸かった後で蒲の穂を全身にまぶして横になっていれば良いと教えた。そして兎はその教えを実行し、元の姿となった。その正しいことを教えてくれた神様は後の大国主命であり、兎の予言通り、この直後に八上姫と結婚することとなったという。
この伝説の舞台として現存するのが、白兎海岸であり、そのすぐそばにある白兎神社である。伝説では、かなり頭が悪くて悲惨な目に遭う兎であるが、大国主命が八上姫と結婚すると予言したから、縁結びの神として祀られている(また皮膚病の神とも)。
この境内には、実際に兎が身体を洗ったという池が存在する。どのような気象条件であっても水位が変化しないことから“不増不減の池”と呼ばれている。
この神社の一番の見どころは、本殿の台座である。この神社の本殿を支える台座には菊の文様が施されている。菊の紋章と言えば、言わずと知れた天皇家の御紋である。花びらの枚数こそ違うが(ここの台座は28弁、天皇家は16弁である)、全国的に見ても、菊の紋章を台座に使用している神社(多分他の建造物も含めて)はないと言ってもいいだろう。それゆえ、神話伝説と相まって、この神社が天皇家と何らかの関連があるのではないという憶測が出てくるわけである。
八上姫 / 因幡の八上の郷(現・鳥取市河原町)にあった姫。その美しさを聞いた八十神(大国主命の異母兄弟達)が求婚するが断られ、大国主命の求婚を受け入れる。子供をもうけて出雲へ伴って行くが、正妻の須世理姫の嫉妬にあって、因幡へ帰国する。最後は八上の郷で没する。地元の売沼神社に祀られている。
本願寺 龍宮の釣鐘(ほんがんじ りゅうぐうのつりがね) / 鳥取県鳥取市寺町
鳥取にある浄土宗の本願寺は、豊臣家臣の宮部継潤が開基である。継潤が帰依していた丹後国久美浜の本願寺住職の幻身和尚を招いて建立されている。この移設にまつわるとされる不思議な話が残されている。
天正年間(1573-1592年)の頃、和田五郎右衛門範元という浪人が、塩俵を馬に乗せて伏野の浜を歩いていた時のこと。突然海中から女が姿を現した。女は小さな鐘を小脇に抱えており、これを本願寺に届けて欲しいと頼んだ。範元が断ると、女は重ねて「私はこの下の龍宮に住む者だが、本願寺の阿弥陀仏が海の中におられた時に魚や貝にまで慈悲を施していただいた。そのお礼として鐘を差し上げたいのだ」と言う。それを聞いた範元は深く感ずるところがあって、本願寺へ鐘を届けると約束した。そして寺へ持参したところ、小さな鐘は見る間に大きくなって巨大な梵鐘に変わったのである。このような不思議から、この鐘は“龍宮の釣鐘”と呼ばれ寺宝となった。そして海からやって来た証拠として、鐘には鮑がくっついているという。
本願寺の本尊である阿弥陀仏も、上の伝承にある通り、一時期海中に没していた。これは丹後から因幡へ移る際に沈んだとされており、丹後国宮津での海中から光を発したことで見つかった阿弥陀仏は、宮部継順の要請によって本願寺に戻された。ただそれ以降、梅雨頃になると全身から汗をかいたように濡れそぼったために“汗かき阿弥陀”と呼ばれている。また一説によると、釣鐘の方も丹後から移す際に同じように船から落ちて沈んだものであるとも言われている。
釣鐘は平安時代前期に造られた希少なものであるとされ、国の重要文化財に指定されている。また昔から鐘にはひびが入っていて鳴らせないが、それを撞くと大水が起こると伝えられ、別名“鳴らずの鐘”とも言われている。本願寺の山門は龍宮門であり、上部が鐘楼となっているが、現在は鐘はそこにはなく、鳥取市歴史博物館やまびこ館に展示されている。
宮部継潤 / 1528-1599。比叡山で修行した山法師で、元は浅井氏に属していたが、小谷城攻めの途中に羽柴秀吉に寝返り配下となる。秀吉の中国攻めで活躍し、本能寺の変の頃には鳥取城代として山陰地方の主力となる。豊臣政権下でも鳥取5万石(最終的には8万石余)の城主となり、山陰勢を率いて九州や小田原にも転戦する。
耳塚(みみづか) / 鳥取県岩美郡岩美町岩常
岩美町岩常は、南北朝時代に因幡国の守護所として栄えた。交通の要衝であり、かつ金銀をはじめとする鉱山が近くにあったためとされている。現在ではのどかな田園地帯が広がる土地であるが、その一角に耳塚と呼ばれる石碑がある。伝承によると、この塚が造られたのは、この南北朝時代の頃であるとされる。
伯耆・出雲守護として山陰一帯に勢力を伸ばしていた山名時氏は、足利尊氏・直義兄弟の争い(観応の擾乱)に乗じてさらに領土拡張を画策し、反尊氏派の一大勢力として京都へ侵攻して戦いを繰り広げた。正平10年(1355年)には3度目の京都奪取を試み、5000の兵を率いて八幡に出陣するが、結局、多数の犠牲を払いながら撤退せざるを得ない状況となった。時氏の配下だけでも侍84名、郎党263名もの戦死者があったという。
これら347名の戦死者を本拠の岩常において供養したのが、耳塚である。この時、時氏は遺骸を持ち帰る代わりにその全ての耳を切り取り、全員の名を書き記して岩常に送って葬ったとされる。現在では葬ったとされる寺院は跡形もなく、ただ石碑が残されているだけである。その石碑も、元禄7年(1694年)に再興されたものである。
山名時氏 / 1303-1371。鎌倉幕府の御家人。足利尊氏の母とは従兄弟の間柄となることから、尊氏に与して鎌倉幕府を倒す。塩冶高貞に代わって伯耆・出雲の守護となる。観応の擾乱以降は領地問題から反尊氏派(南朝方)となり、たびたび尊氏派と戦う。混乱が収まると幕府に帰順し、5カ国の守護となり山陰一帯の勢力を伸ばした。
観応の擾乱 / 足利尊氏の弟・直義と、足利家執事の高師直との対立から始まる。多くの有力守護が利権争いから両陣営に与し、さらに対立のあまり、本来仇敵であった南朝方とも手を組むなどして政治的な混乱が生じる。高師直の排除、足利直義の死後も、西国の足利直冬の蜂起や山名時氏と佐々木道誉の対立などによって混乱は続く。最終的に正平18年(1363年)に山名時氏と大内弘世が幕府に帰順して収束した。
幽霊滝 滝山神社(ゆうれいだき たきさんじんじゃ) / 鳥取県日野郡日野町黒坂
小泉八雲の『骨董』に収められている「幽霊滝の伝説」は、八雲怪談の中でも最も恐ろしく残酷な結末を迎える作品である。
ある冬の夜、黒坂の麻とり場で女たちが怪談話に興じていた。話は盛り上がり、誰か幽霊滝へ行ってみてはということになった。そこで安本勝という女が、皆の取った麻をもらうかわりに行こうと言いだし、その行った証拠に賽銭箱を持って帰ってくることにした。
お勝は赤子を背負ったまま滝へ向かった。誰も通らない夜道を駈けて行った。そして目当ての賽銭箱を水明かりの中に見いだすと、手を伸ばした。
「おい、お勝さん」突然、滝から声がする。お勝は動きを止める。「おい、お勝さん」再び怒気をはらんだ声がした。しかし気丈なお勝は賽銭箱を掴むと、そのまま麻とり場まで駆け戻っていったのである。
戻ってきたお勝を、皆が称賛した。麻は全てお勝のものとなった。そしておぶった赤子を降ろそうとして、背中がぐっしょり濡れていることに気付いた。血まみれの赤子の着物が床に落ちた。赤子の首は、もぎ取られていた。
現在でも、この怪談の舞台となった幽霊滝は存在する。県立公園の駐車場から、整備された遊歩道を500mほど行った奥に滝山神社がある。その脇に幽霊滝がある。正式な名称は竜王滝。ただし八雲の怪談に登場するあやかしについては「天狗」と言い伝えられている。そしてこの滝については“2歳にならない赤子をこの滝に連れてきてはいけない”という禁忌が存在したとも言われる。 
 
 
島根県 / 出雲、石見、隠岐

 

鳥取島根岡山広島山口

八雲立つ出雲八重垣 妻籠ごみに八重垣つくる その八重垣を 古事記
国引き
太古には島根半島は東西に細長い独立の島だったらしい。この内海を野津左馬之助は素尊水道と名づけた。斐伊川ひのかはは北流してこの水道に注いでゐたが、長い年月の間に、川の堆積物や海面の後退によって、次第に平野部が広がって行った。やがて出雲平野ができて島は陸続きとなり、歴史時代に入った。島が次第に近づいて行ったさまは、国引き神話を思はせる。斐伊川は平野部を西流して日本海に注いでゐたが、寛永十三年(1636)の大洪水によって東流し、以来東の宍道しんぢ湖の干拓が進んだ。
○ 国引ける神のゑいざや今も見ん 綱手つなでなるてふ薗の松山 村田春海
「薗の松山」とは、半島の西の付け根の「薗の長浜」のことで、八束や つか水臣みづおみ津野つの命といふ巨人が島に綱を掛けて国引きをしたときの綱の名残りだといふ。
出雲大社(杵築大社) / 簸川郡大社町
出雲大社は大国主神をまつり、古くは高さ十六丈の天を突くやうな巨大な社殿だったらしい。
○ やはらぐる光や空に満ちぬらん 雲に分け入る千木ちぎの片そぎ 夫木抄
崇神天皇の御代に、兄の留守中に出雲大神の神宝を朝廷に献じた飯いひの入根いりねは、兄の振根ふるねの怒りを買って殺された(日本書紀)。出雲が大和政権に組み入れられたことを意味するやうだ。兄が祭祀の責任者で、弟が政治の責任者だったのだらう。死んだ弟の入根を憐れんで歌はれた歌が、塩冶郷(出雲市南西部)に伝はる。
○ やつめさす出雲建たけるが佩はける太刀 つづら多さは纏まきさひなしにあはれ
この歌からすると、出雲の神宝は刀剣であったやうだ。似た歌が古事記にもあり、倭建命が出雲建を倒した話になってゐる。
素戔嗚尊
むかし八俣大蛇を退治された素戔嗚すさのを命は、須賀の地で、「吾ここに来まして、我が心すがすがし」とおっしゃって、ここに宮を御造りになった。このとき美しい雲が立ちのぼるのを御覧になり、御歌を詠まれた。
○ 八雲立つ出雲八重垣 妻籠ごみに八重垣つくる その八重垣を
斐伊川支流の山間の大東町須賀に、須我神社が祀られてゐる。東隣の八雲村には熊野神社{大社}がある。松江市南部の八重垣神社は、もとは佐久佐さくさの神(媒女さくさめの神)をまつってゐたが、中世に須我神社の神を合せてまつり、今の社名になったといふ。さくさめとは酒醸女の意味といふ。
○ 神の世の昔をかくる色なれや 白ゆふ花のさくさめの森 水無瀬氏成
熊野神社 / 八束郡八雲村
熊野神社{大社}の御祭神は「伊射那伎日真名子いざなきひまなご加夫呂伎かぶろき熊野大神櫛くし御気野みけの命」、すなはち素戔嗚尊の別名とされる。クマはカミ(神)の転であるともいふ。
出雲国造の子孫の出雲大社宮司・千家せんげ家では、代替はりのときに熊野神社から神器の火鑽臼と火鑽杵を拝戴する儀式がある。出雲大社ではこれらの神器で神火を鑽り出して、神への神饌が調理され、神と宮司がともに食する。古代の出雲国造が国造の職につくときに行なはれたことが、古式のまま現在に継承されてゐる。十月十五日の鑽火祭きりびまつりには、出雲大社宮司は、神歌と琴に合はせ百番の榊舞を納めるといふ。
○ すめかみをよきひにまつりしあすよりは あけのころもをけころもにせむ
国府 / 松江市
出雲守として国府(松江市大草町)に赴任した門部王が故郷をしのんだ歌(万葉集)。
○ 意宇おうの海の川原の千鳥汝が鳴けば わが佐保川の思ほゆらくに 門部王
○ 意宇の海の潮干の潟の片思ひに 思ひや行かむ道の長手を 門部王
神在月 / 六所神社・佐太神社
十月になると全国の神さまが出雲へ集り、諸国では神が居なくなるので、十月を神無月といふ。逆に出雲では神有月かみありづきといふ。出雲へ来た諸国の神々は、最初に国府近くの六所神社(松江市大草町)に集まり、次に佐太さだ神社(八束郡鹿島町)へ行かれるといふ。六所神社で国司の参拝風景を見た出雲大社権宮司の歌。
○ 国司くにづかさ袖うちはへてまつりけむ 神の斎庭ゆにはの思ほゆるかな 清水真三郎
佐太神社は、佐太大神(猿田毘古さるだびこ大神)をまつる古社である。
○ 出雲なる神在月のしるしとて 龍蛇の上る江積津の浜 古歌
神々は、こののち出雲大社へ向かはれるらしい。
松江の菓子
松江藩主、松平不昧は茶や菓子を好んだので、城下の菓子屋はこぞって新しい菓子を考案して献上し、また土地の名産ともなっていった。
風流堂の「山川」(竿状の紅白の落雁)
○ 散るは浮き散らぬは沈む紅葉ばの 影は高雄の山川の水 松平不昧
彩雲堂の「若草」
○ 曇るぞよ雨ふらぬうちに摘んでおけ 栂の尾山の春の若草 松平不昧
三栄堂の「菜種の里」(寛政元年)
○ 春菜さく野辺の朝風そよ吹けば 飛びかふ蝶の袖そかすそふ 松平不昧
白鹿山 / 松江市奥谷町 田原神社
松江城の北方の松江市奥谷町にある田原神社では、むかし祭礼の日は定めず、仲春のころ神主や氏子が宮籠りをして幾日か祈ると、必ず「北山」から二頭の白い鹿が現はれた。この鹿を神前に供へて歌舞をした。
○ 年ごとの今日の祭を告ぐ鹿に 月の白幣掛くる氏人 社伝の神楽歌
北山とは松江市北部の白鹿山のことだらう。白鹿山は白い神鹿が住むといはれ、近くには「鹿みち」の地名や「鹿の足洗ひ池」といふ泉がある。
山中鹿之介 / 能義郡広瀬町
戦国大名の尼子氏の居城の富田とだ城(月山城)は今の能義郡広瀬町の地にあった。尼子氏の家臣、山中鹿之介は少年時代からの剣の達人で、数々の一騎打ちを演じるなど、戦国の世にその名をとどろかせた豪勇だった。しかし毛利氏の勢力の前に、尼子氏は衰退を余儀なくされた。永禄八年(1565)、富田城を毛利の大軍に包囲され、山の端にかかる三日月を見て、鹿之介は「三日月よ吾に七難八苦を与へたまへ」と唱へ、闘志をふるひ立たせた。このとき二十一歳。
○ 憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん 山中鹿之介
翌年富田城は落城、鹿之介はその後も主家再興のために愛用の三日月の兜とともに孤軍奮闘を続けたが、天正七年備中の高梁川で戦死した。
諸歌
○ 関の五本松一本切りゃ四本 あとは切られぬ夫婦松
松江の小泉八雲旧居
○ 喰はれもす八雲旧居の秋の蚊に 虚子
浮布の池 / 太田市
太田市三瓶町池ノ原にある「浮布の池」は、三瓶山の噴火で堰き止められてできた湖である。むかし池の原の長者の娘の迩幣姫に へ ひめが、美しい若者に誘はれ、この池に身を投げた。若者は池に棲む大蛇であったといふ。姫の着てゐた衣が水面から浮きあがるかのやうに湖水が白く見え、浮布の池の名となった。池の中の島に迩幣姫にへひめ神社がまつられてゐる。
○ 身はかくてうきぬの池のあやめ草 引く人もなきねこそつきせめ 藤原知家
諸歌
○ 大汝おほなむぢ少彦名すくなひこなのいましけむ しづの岩屋は幾世経ぬらむ 生石真人
石見銀山(大森鉱山)
太田市大森に戦国時代に銀山が発見され、銀山防衛のための山吹城が築かれた。
○ 城の名もことわりなれやまぶ(坑道)よりも 掘る白銀を山吹にして 玄旨
袂の里 / 浜田市
浜田市生湯町の「袂たもとの里」は和泉式部ゆかりの地で、生誕地との伝承もある。
○ うき時は思ひも出づる石見がた、袂の里の人のつれなさ和泉式部
烈女お初 / 浜田市
享保のころ、浜田藩の江戸屋敷で、岡本道女といふ娘が腰元として働いてゐた。ある日道女は、急ぎの用があって、人の草履を履き違へてしまった。草履の持ち主は落合沢野といふ老女のもので、怒った沢野は道女を草履で打ちすゑた。道女もそこは武士の娘、死んで汚名をはらさうと、辞世を詠んで自害した。このとき二一才といふ。
○ 藤の花長き短き世の中に 散り行く今日ぞ思ひ知らるる 岡本道女(辞世)
道女の召使のお初(松田察)は、主人の無念さを思ひ、沢野に対して仇討を決行した。このお初の行ひは、お咎めを受けるどころが、かへって忠節を賞賛され、道女の後継に召し抱へられたといふ。歌舞伎「鏡山旧錦絵」に作られた。
○ 浜田育ちは気立てがちがふ 烈女お初の出たところ
柿本神社 / 益田市上高津町
石見国小野郷は、古代の小野氏の一族が住んだ地といひ、小野氏の分かれが、柿本氏である。柿本人麻呂は、石見の小野郷に生まれともいひ、天武三年に石見守に任ぜられたともいふ。人麻呂は石見国の鴨山で没した。
○ 鴨山の岩根し枕ける吾をかも知らにと 妹いもが待ちつつあるらむ 柿本人麻呂
この歌にある鴨山とは、益田市高津の沖にあった鴨島のことで、人麻呂の死後、勅命によってここに社殿が建立されたといふ。のち万寿三年(1026)の断層地震により、島は海中に陥没した。このとき人麻呂公の神像が松崎に漂着し、ここに社殿が再建されたが、延宝九年(1681)、亀井藩主により現在地の高津に移して再建された。
江津市黒松の海岸を、底干浦といひ、人麻呂夫妻の歌が伝はる(八重葎)。
○ 天地の底干の浦に我ごとく 君に恋ふらん人はさねあらじ 伝依羅娘子
○ みち潮の底干の浦にくらぶれば 我が衣手は猶や沈まん 伝柿本人麻呂
諸句
○ それゆゑに津和野なつかし鴎外忌 虚子
ちぶり神 / 隠岐郡西ノ島町浦郷 由良比女神社
隠岐の西ノ島町の由良比女ゆらひめ神社は、由良比女命をまつる。この神は「ちぶり神」ともいはれ、海上安全守護の神として信仰されてきた。隠岐国の一宮。
○ わたつみのちぶりの神に手向けする ぬさの追ひ風やまず吹かなん 土佐日記
○ 行く今日も帰らんときも玉鉾の ちぶりの神を祈れとぞ思ふ 袖中抄
隠岐神社 / 隠岐郡中ノ島
隠岐神社は中ノ島(海士町)の後鳥羽上皇の御廟にまつられた。
○ 髪挿かざし折る人もあらばや事問はむ 隠岐のみ山に杉は見ゆれど 後鳥羽上皇
 

 

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海潮・牛尾(うしお) / 島根県大東町
宍道湖の南方、島根県大原郡大東町のほぼ中央に位置する海潮温泉は、山間の静かな名湯として知られる。天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』によると、大原郡海潮郷はかつて「得塩」といわれ、神亀三年(七二六)に海潮と改称したという。同書には海潮郷について「東北のかた、須我の小川の湯淵の村の川中に温泉あり」と記され、これが現在の海潮温泉といわれる。
中世には海潮温泉一帯は皇室領庄園の淀よど庄となっており、海潮の地名は史料に登場しなくなる。杵築きづき大社(出雲大社)の文永八年(一二七一)の三月会相撲舞頭役結番帳(千家家文書)には、中沢氏が地頭を勤める淀本庄と鴛谷氏が地頭を勤める淀新庄がみえ、当時の淀庄は本庄と新庄に分割されていた。そして嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には智恵光ちえこう院(現京都市上京区か)領および蓮華心れんげしん院(現京都市右京区)領としての淀庄がみえ、興国元年(一三四〇)六月二五日には後村上天皇が淀本庄十分の一地頭職を菅孫三郎義綱の後継者に与えている(「後村上天皇綸旨」内神社文書)。
それでは海潮の地名は完全に消滅してしまったのだろうか。ここに興味深い文言がある。正和元年(一三一二)七月七日の六波羅下知状案(集古文書)にみえる「出雲国淀本庄号牛尾庄」がそれである。この下知状案によると、淀本庄は牛尾庄とも称され、鎌倉幕府は承久の乱の恩賞として中沢真氏に牛尾庄の地頭職を与えている。また嘉元四年六月一二日の関東下知状案(同文書)には中沢真氏から子息の真直に牛尾庄が譲られたことが記されており、表記の違いこそあるものの「うしお」の地名が存続していたことが知られる。
ところで淀と牛尾という呼称の相違はなぜ生じたのだろう。その理由を推測すると、庄園名を使用する主体の違いに起因するように思われる。なぜなら前述のように淀庄・淀本庄などの呼称を庄園領主側が使用したのに対し、在地支配をめざす地頭中沢氏がもっぱら牛尾庄の呼称を使用していたと考えられるからである。さらに推測を加えるなら、庄園領主側は地元で使われていた地名を無視し、淀の地名を押しつけたのではなかろうか。一般的に淀の地名で思い出されるのは、古代・中世の京都の外港として機能した山城国の淀(現京都市伏見区)で、淀は『五代集歌枕』にあげられる歌枕でもある。これに対し、牛尾の地名は古代の海潮郷を継承しており、地元で使用されていた地名としての可能性が高い。
残念ながら史料上の制約から、当時の庄民がこの地を何と呼んでいたかは不明である。しかし戦国時代になるとその呼称はほとんど牛尾となっていたらしい。これを裏付ける傍証として、永禄五年(一五六二)七月一八日に毛利元就が牛尾のうち七〇〇貫の地を山内隆通に与え(「毛利元就判物」内神社文書)、同一三年四月一四日には毛利輝元らが尼子方の牛尾弾正忠が籠る牛尾要害を攻撃したとの記録がある(「毛利元就書状」毛利家文書)。さらに天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領知付立(吉川家文書)には「七百貫 牛尾、内百貫新庄分三沢へ抜之」と記され、淀新庄の名を継承した新庄しんじょうの地名が登場するが、すでに淀の冠称ははずされている。
こうした領主と地元による庄園の呼称の相違は全国的なものなのだろうか。太田浩司氏は滋賀県長浜ながはま市域の庄園について、一五世紀に入るとそれまで庄園領主が使用していた呼称に対し、村落側が使用する呼称が優越するようになるとして、山城石清水いわしみず八幡宮領細江ほそえ庄が八幡はちまん庄、京都祇園社領坂田さかた保が祇園保、奈良興福寺(山階寺)領坂田庄が山階やましな庄に変化した経緯を紹介している(「荘園の名が変わること」『息長里郷土資料館研究紀要』六)。古代・中世の長浜市域は近江国坂田郡に所属し、庄園や保などが密集する地域であった。こうした状況下にあって、庄園名である細江は古代の郷名を継承しており、坂田は郡名であった。太田氏は細江・坂田という呼称は庄園領主にとっては別に問題ないが、庄民にとっては庄園の密集地帯であるがゆえに、誰が領主で、どこの地域を指すのか分らないという問題を生み出すとしている。そのため地元では八幡・祇園・山階といった領主の名前を付けてそれぞれの庄園を区別し、一五世紀以後活発となる村落の台頭に伴って、地元が使う地名が領主のそれを圧倒していくと述べている。
地元で使用されていたとみられる地名が出雲の場合(風土記の時代からの地名)と近江の場合(庄園の領主名が地名となる)では異なるが、いずれの場合も地元側の地名が領主側のそれを淘汰したことは間違いなかろう。こうした現象は一部地域の特徴であったかもしれないが、海潮の呼称は地元の地名とその土地に住む人々との結び付きの強さを物語っている事例と考えられるのではなかろうか。 
天が淵(あまがふち) / 島根県雲南市木次町湯村
高天原の混乱に陥れた素戔嗚尊は地上に追放された。降り立ったのは、出雲国の斐伊川の上流であったという。そして上流から流れてきた箸を見つけて人がいることを知ると、さらに上流へ向かった。そこで出会ったのが、さめざめと泣く足名椎・手名椎の老夫婦と、末娘の奇稲田姫。素戔嗚尊が訳を尋ねると、八岐大蛇という怪物が生け贄を求めてきたため、今まで7人の娘を差し出し、いよいよ最後に残った娘を捧げなければならないという。それを聞くと、怪物を退治して娘を嫁にもらおうと申し出た。そして素戔嗚尊は策を講じて八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を妻に迎えたのである。
有名な八岐大蛇伝説であるが、この怪物が住処としたのが、斐伊川にある天が淵である。現在では国道314号線が川に沿って通じており、天が淵のある場所はちょうど小公園のようになって整備されている(国道から階段を使って淵近くまで下りることが出来る)。
八岐大蛇 / 8つの頭と8つの尾を持つ怪物。『日本書紀』では“八岐大蛇”と書かれているため蛇の怪物と解釈されているが、実際ははっきりしない。その容姿から支流を持つ川の象徴と考えられ、素戔嗚尊による退治を川の治水と捉える説がよく取り上げられる(助けたのが奇稲田姫であり、“稲”=農耕地を川の氾濫から守ったという発想である)。またその尾から“天叢雲剣”を取り出したとあるため、中国山地に勢力を持った製鉄集団と関わりのある存在という説もある。
荒法師(あらほうし) / 島根県安来市広瀬町
月山富田城趾から少しばかり離れた、耕作地の脇にある。車道に面して案内板もあるので見落とすことはないが、それらが無ければ気に留めることもないほど小さく古びた五輪塔である。これは塩冶掃部介の墓であると言われている。
文明16年(1484年)出雲国の守護代を任されていた尼子経久は、守護の京極政経の命に背いたために守護代解任と月山富田城追放という憂き目に遭う。この経久に代わって新たに守護代として月山富田城に入ったのが塩冶掃部介である。
しかし実力のある経久は早々に城の奪還を試みる。翌々年の文明18年(1486年)の元旦、正月恒例の万歳行事に紛れて城に入った味方が奇襲をおこない、あっさりと城は落ちてしまった。その時、塩冶掃部介は妻子を殺すと自害して果てたという。
塩冶という姓から、出雲の有力豪族であり、守護代に任ぜられてもおかしくないだけの家格であることはうかがい知れるが、当時の史料からは該当する人物名は出てこない。それ故、実在を疑問視する向きもあるが、その無念の思いを残した墓だけは実在する。“荒法師”という名は塩冶掃部介の別称であるとされ、地元ではこのように呼ばれている。そしてこの墓をみだり触るなどすると祟りがあるとされ、いまだに路傍に置かれたままとなっている。
塩冶掃部介 / ?-1486。上記にあるように出自不明の部分が多い人物であるが、意外なところにその名が記されている。上田秋成の『雨月物語』にある「菊花の約」の主人公の一人である赤穴宗右衛門を軍学の師とし、密偵として遣わしたのが塩冶掃部介であり、また宗右衛門の身に起こる悲劇が、尼子経久による月山富田城の奪回と塩冶掃部介の謀殺に端を発するという設定になっている。
尼子経久 / 1458-1541。月山富田城を本拠とする出雲守護代の家に生まれ家督を継ぐが、一時期その職を剥奪され浪人となる。後に守護代に復帰、さらに京極氏から独立して領国経営にあたり、山陰一帯を支配する戦国大名に成長する。最大時には11カ国を領有したとされる。
犬島・猫島(いぬじま・ねこじま) / 島根県浜田市国分町
石見畳ヶ浦は、地震によって隆起した海蝕台などを中心とした海岸景勝地である。そのエリアに、周囲50mほど高さ30mほどの尖った槍のような2つの島がある。それが犬島・猫島と呼ばれる島である。この島の名前の由来は、なかなかスケールの大きな話による。
石見に出来た国分寺は伽藍が巨大で、その建物の影が遠く唐の国にまで及んで、日陰になる土地では農作物が不作になるほどであった。これを知った唐の赤猫は、不作にあえぐ民衆のために、日本へ渡ってこの国分寺を焼き尽くそうと考えた。ところが、日本にたどり着いた赤猫に敵が現れた。日本の忠犬が、赤猫の企みを阻止すべく襲いかかってきたのである。追い回す忠犬と、振り切ろうとする赤猫。とうとう進退窮まった赤猫は冬の寒い海に飛び込み、それを追って忠犬も海に飛び込んだ。すると寒さのあまり、2匹とも固まって島になってしまったのである。
猪目洞窟(いのめどうくつ) / 島根県出雲市猪目町
昭和23年に漁港の改修工事をおこなった際に、堆積物を取り除いて発見されたのがこの猪目洞窟である。考古学的には弥生時代の人骨や交易に使われていた装飾品などが発掘され、文化財としても貴重なものである。だが、伝承の世界においてもこの洞窟は特筆されるべき存在なのである。
『出雲国風土記』によると、この洞窟は“磯より西の方に窟戸あり。高さ広さ各六尺許なり。窟の内に穴あり。人入ることを得ず。深き浅きを知らず。夢にこの磯の窟の辺りに至る者は必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と号くるなり”と記されている。つまりこの世とあの世を結ぶ境界、 そして“死”を意味する場所なのである。
洞窟は、はっきり言って相当な大きさである。入り口は縦横30メートルとあるが、実際に当初の目的通り漁船や 漁具を置く場所になっている。しかしその奥は、子供がようやく入れるかどうかというほど狭く、そして漆黒の闇が支配している。まさに“死の世界への入り口”としての圧倒的な存在感である。(黄泉の国への入り口として「黄泉比良坂」があるが、この猪目洞窟の方が断然恐怖感がある)
洞窟の奥は約50メートルの奥行きになっているらしい。だが、ある噂ではさらに奥へ入っていくことができ、とある場所へ出ることができるという。
『出雲国風土記』 / 和銅6年(713年)に編纂の命があり、天平5年(733年)に完成。最も完全な形で後世に伝えられた風土記である。猪目洞窟については宇賀郷の項に記載されている。
月照寺(げっしょうじ) / 島根県松江市外中原町
元は洞雲寺という禅寺があったが、寛文4年(1664年)に松平家初代藩主の松平直政によって再興された。その時に浄土宗に改められ、直政の生母・月照院の位牌安置所となったことから、月照寺という名となった。さらに直政自身も葬送の地とするよう遺命したため、それ以降は松江藩松平家の墓所となった。現在でも、藩政時代に亡くなった全9代の藩主の墓所があり、国の史跡に指定されている。
6代藩主の松平宗衍の廟所には、天骭寿蔵碑という巨大な石碑が置かれている。その台座には大人の背丈ほどの高さもある、巨大な亀の石像がある。この大亀にまつわる奇怪な伝説が残されている。
寿蔵碑は、個人の業績を刻み、生前に顕彰する目的で造られる。この碑も安永7年(1778年)に宗衍50歳の時に、当時藩主であった長子の治郷によって造られたものである。材質の良い石ということで、久多見(松江より西に約30km離れた地)より取り寄せ、月照寺への運搬のために船を使い、境内にまで新たに水路を築かせているほどの大掛かりなものであった。
ところがある時から、この大亀の石像が夜な夜な動き出して、境内の池の水を飲み、果ては「母岩恋し、久多見恋し」と城下に繰り出して、人を食い殺すということまでし始めた。困り果てた住職は、ある夜、大亀に向かって説法をするが、亀は「私にもこの奇行を止めることが出来ません。住職にお任せします」と返答した。そこで住職は亀の背中に巨大な石碑を置き、二度と動き出さないように封じたという。
上の伝説は、小泉八雲の『知られざる日本の面影』で紹介されているものだが、別の話も残されている。それによると、月照寺の池にいた亀が妖力を身につけ、夜な夜な町を徘徊して人を襲って喰らうことをした。そこで住職は、藩主の廟所に大亀の石像を安置し、その法力で亀を封じたという。
ちなみに石碑の下に置かれる、亀の形をした台座は亀趺(きふ)と呼ばれ、中国では高位高官の墓碑などに用いられ、日本でも江戸時代以降に使われるようになったとのこと。亀趺と呼ばれているが、その正体は亀とは全く違う、想像上の霊獣・贔屓である。
松平宗衍 / 1729-1782。松江藩松平家第6代藩主。逼迫した藩財政を立て直すため親政をおこなう。一時的に経済は回復するが、相次ぐ災害と比叡山山門修築により破綻。明和4年(1767年)に隠居。一説では経済破綻の失政の責を負ったためと言われる。隠居後は奇行に走るようになり、若い侍女の背中に花模様の入れ墨を施し、薄物の着物からそれが透けて見えるのを楽しむなどのおこないがあったという。
松平治郷 / 1751-1818。松江藩松平家第7代藩主。松江藩の財政危機を乗り切り蓄えを増やすも、その後の道楽により再び財政を悪化させる。江戸期を代表する茶人で、不昧の名で知られ、文化都市・松江の基盤を作り上げたことでも有名。
贔屓 / 中国の伝説上の霊獣。龍が生んだ9匹の霊獣の1つとされる(竜生九子)。姿は亀に似ており、重きを負うことを好むとされ、そのため土台や台座の装飾に用いられることが多い。
松江城(まつえじょう) / 島根県松江市殿町
松江城は、関ヶ原の合戦の功績で出雲を領国とした堀尾氏によって築かれた城である。着工は慶長12年(1607年)、天守閣完成は慶長16年(1611年)である。この天守閣建設には人柱伝説が残されている。
天守の着工を始めると、何度も石垣が崩れる箇所がある。そのため工事を成功させるためには人柱が必要であるということで話がまとまり、その犠牲者を選ぶために城下で盛大に盆踊りを催したのである。そして踊りの輪の中で最も美しく踊りの上手な娘を見つけ、有無も言わさず捕らえるとそのまま生き埋めにしてしまったという。しかしそれ以来女の幽霊が現れるという噂が立ち、また城下で盆踊りをおこなうと天守閣が鳴動するということで、松江では盆踊りが禁じられたとされる。さらに城の完成を待たずに、藩主の祖父で実質的な統治者であった堀尾吉晴は病死(息子の忠氏は着工前に死去)。そして残された藩主の堀尾忠晴も実子に恵まれることなく、寛永10年(1633年)に33歳で亡くなったために、堀尾家は無嗣断絶となってしまった。その次に出雲の太守となった京極忠高もわずか3年後に無嗣のまま死去し、断絶してしまう。
ところが、次の松江藩を継いだ松平直政の時に、人柱伝説は意外な展開となる。赴任後初めて天守閣の最上階、天狗の間に登った直政の目の前に、忽然と死に装束の女の幽霊が現れた。そして直政に向かって「この城はわらわのもの」と言い放った。それに対して即座に「ならば、このしろをくれてやろう」と返答したという。
そして次の日、直政は天狗の間にあるものを用意させた。それは三宝に乗せた魚のコノシロであった。翌朝、天狗の間に登ると、コノシロは三宝ごとなくなっていた。家臣達が方々を探すと、三宝だけが別の櫓で見つかったが、コノシロだけはとうとう見つからなかった。それ以来、女の幽霊は姿を現さなくなり、噂も消えてしまったという。
実は、この人柱伝説の重要な舞台となった場所は判明している。天守の南東側にあった“祈祷櫓”と呼ばれるところである。松江城が出来る前この場所には荒神を祀った塚があったとされ、これを他所に移して櫓を建てたが“たびたび石垣が崩れた”ために、この櫓で祈祷がおこなわれたとされている。さらに、松平直政の伝説で、三宝が見つかったのもこの櫓なのである。おそらく人柱となった娘はこの辺りに埋められたのであろうと推測されるわけである。
この人柱伝説とは別に、築城の際に起こった怪奇な伝説がある。
築城が進んだある時、石垣が崩れた。不審に思った堀尾吉晴が調べさせたところ、石垣の下の土中から、槍の穂が刺さったままのしゃれこうべが出てきた。そこで、これを丁重に葬ると、その後は変事は起こらなくなったという。さらにこの掘り出された場所から水が湧き出てきたために井戸を作り、これを“ギリギリ井戸”と呼ぶようになったという(“ギリギリ”とは、地元の方言で“つむじ”を指す)。今では井戸はなく、その跡地だけが示されている。
堀尾吉晴 / 1544-1611。早い時期より羽柴秀吉付きの武将となり、最古参の一人として信任を得る。豊臣政権では中老として政務にあたる。関ヶ原の戦いの前年に、忠氏に家督を継がせて隠居。忠氏急死後は、孫の忠晴の後見として執政した。松江城完成とほぼ同時期に死去。
堀尾忠氏 / 1578-1604。関ヶ原の戦いの前年に家督を継ぎ、関ヶ原の戦いの功績により出雲・隠岐24万石を与えられる。居城を月山富田城から松江に移すことを決めたのは忠氏とされる。領内検分の際に神魂神社の禁足地に単身入り込むが、戻ってきた時には既に顔色を失い、そのまま病床に就きほどなく病死する。一説では禁足地でマムシに噛まれたとされる。小泉八雲の書いた人柱伝説の中では、人柱にされた娘は全部で3人であり、堀尾氏が3代で断絶したのはその祟りであるとしているが、実際には忠氏は松江城着工前に亡くなっている
松平直政 / 1601-1666。徳川家康の次男・結城(松平)秀康の三男。兄である松平忠直の下で大坂夏の陣に奮戦し、独立した大名となる。寛永15年(1638年)に出雲18万石の太守となる。その後明治維新まで松平家が松江藩主として続く。
美保神社(みほじんじゃ) / 島根県松江市美保関町美保関
祭神は、事代主神と三穂津姫命。事代主神は出雲の大国主命の御子神であり、三穂津姫命は大国主命の妻であるが、この二神は実の親子とはされていない。
この美保関の地は、記紀の「国譲り」神話の舞台の一つとされている。高天原からやって来た武甕槌命(建御雷神)が国譲りを迫った時、大国主命は、まず息子の事代主神の返事を聞くようにと答えた。ちょうどその頃、事代主神は美保に来て魚釣りをしていた。そこで熊野諸手船に使者を乗せて遣わし、その意向を尋ねると、事代主神は「承知した」と言った。そして船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に変えると、その中に隠れてしまったのである。
美保神社の重要な祭礼である、諸手船(モロタブネ)神事と青柴垣(アオフシガキ)神事は、この国譲りの場面を再現したものであるとされる。12月3日におこなわれる諸手船神事は、2艘のくり舟に乗った氏子が競い合うように船を漕ぎ、事代主神に意見を尋ねに行く場面を再現している。また4月7日におこなわれる青柴垣神事は、氏子の代表である当屋が物忌潔斎・断食を経て、青柴垣をこしらえた船に乗って港を一回りするものである。
またこの国譲りの神話において、事代主神は釣りをしていたとされるため、豊漁の神とされる。そして「えびす様」として大いに信仰されている。七福神の絵に見られる、右手に釣竿、左手に鯛を抱えた姿は事代主神の故事にちなんだものである。
国譲り神話 / 事代主神は国譲りを承諾したが、もう一人の御子神であった建御名方神は武甕槌命に対抗して力比べをして敗れ去り、諏訪まで逃げて降伏する。そしてこの二神の承諾によって、最終的に大国主命は国譲りをおこなう。事代主神は初めに国譲りを承諾した神として託宣の神であり、また皇室にとっての守護神とされている。
えびす神 / 本来は「海の向こうからやってくる、稀に現れる外来物」に対する信仰から生まれてきた神であると考えられる。それが国譲り神話の際の事代主神の魚釣りと海の神が結びつけられて同一視された。また父神である大国主命が大黒様と同一視されたために、親子の神であるとも言われる。美保神社は事代主神を主祭神としており、全国のえびす神社の総本宮となっている。ただしイザナギとイザナミの国造りの際に生まれた「蛭子命」をえびす神とみなす場合もあり(蛭子命は最終的に流し捨てられたため、「海からやってくる稀な外来物」を想起させる)、その系統は西宮神社を総本宮としている。
黄泉比良坂(よもつひらさか) / 島根県松江市東出雲町揖屋
黄泉比良坂と言えば、ある程度神話に通じている者ならば、この名称が現世と冥界との境界線の名であることはわかるであろう。『古事記』によると、妻のイザナミに会いに黄泉の国へ訪れたイザナギは、約束を破ったために腐り果てた死体のイザナミを見てしまう。怒ったイザナミはイザナギを追いかけ、イザナギは命からがら黄泉の国を脱出する。そしてこの世とあの世の境界線に大岩(千曳の岩)を置き、行き来出来ないようにしたという。 この伝説の地が黄泉比良坂なのである。
現地に到着すると、まず目に付くのが伝承地として認定されたことを示す碑である(設立は昭和15年、紀元2600年である)。そして奥にある千曳の岩へと近寄っていく。
想像していたのは、大きな岩にふさがれた洞窟のようなものの存在であった。しかし、岩の向こう側には林のようなものが広がっているだけであり、特に何か 変わったものがあるわけではない。どうも黄泉の国の入り口は、洞窟のようなものではなかったらしい。
ちなみに、この黄泉比良坂の近くには、イザナミを主神とする揖夜神社がある。とにかくこの辺りには“死”にまつわる伝説があったことは間違いないところのようである。
黄泉の国 / 日本神話における、死者の住む土地を指す。現世とは黄泉比良坂によって繋がっている。通常地底にあると考えられるが、『古事記』ではイザナギは黄泉比良坂を下って逃げたと思われる記述もある。別名「根の国」。(ただし両者を別世界とみなす説もあり)
揖屋(いや)神社 / 主神は伊弉冉尊(イザナミ)など。イザナギとイザナミが千曳の岩を挟んで最後に言葉を交わすのだが、その地を『古事記』では伊賦夜(いふや)坂とする。この「いや」の名称は他にも「熊野」の漢字を当てる。熊野三社がある和歌山県は、根の国に比定されている土地であり、いずれにせよ「死」にまつわる語であると推測出来る。 
 
 
岡山県 / 備前、備中、美作

 

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まかね吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ 古今集
吉備津彦命 / 岡山市
出雲と並ぶ古代王国を築いた吉備国は、古代からの鉄の産地で、「真金吹く」といふ枕詞は、製鉄の様子からきた言葉といはれる。
○ まかね吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ 古今集
吉備の中山とは、備前と備中の境の山で、左右に吉備津神社と吉備津彦神社がある。備前国と備中国の一宮が寄り添ってゐるが、もとは一つの吉備国であった。
吉備津神社の御釜殿の竃の下には、むかし吉備津彦命が退治した鬼の首が埋めてあるといふ。その上で釜鳴神事と呼ばれる占の神事が現在も行なはれる。桃太郎の伝説もある。
○ 古の人の食めさせる吉備の酒 病めば術無し 貫簀ぬきす賜たばらむ 万葉集
○ 餅雪や日本一の吉備だんご
牛窓 / 邑久郡牛窓町
むかし神功皇后の船が吉備の沖を通ったとき、海中から牛が現はれ、船を転覆させようとした。神に祈ると、住吉の神が翁の姿で現はれて、角をつかんで牛を転ばした。そこでこの土地を牛転うしまろびといったが、のち牛窓うしまどとなった。(風土記逸文)
○ 牛窓の波の潮騒 島響とよみ 寄せてし君に 逢はずかもあらむ 万葉集
大陸から移住した人が、祭のときに故国のやりかたで牛を殺して土地の住吉の神に捧げたことを物語るものともいはれる。
二万の里 / 吉備郡真備町
斉明天皇の御代、百済救援のための兵を吉備国で募集したところ、吉備郡のある村から二万人の兵が集まった。天皇はこれを喜ばれて「二万の里」の地名を賜った。しかし天皇が筑紫で崩御されたため、二万の兵は筑紫からそのまま引き返したといふ。(風土記逸文)
○ 貢ぎ物運ぶよほろを数ふれば 二万の里人数そひにけり 藤原家経
吉備の児島
○ 大和路の吉備の児島を過ぎて行かば 筑紫の児島思ほえむかも 大伴旅人
児島半島は、「吉備の児島」と呼ばれた島だった。本土との間に瀬戸内の航路が開けてゐたが、高梁川などの堆積作用と海面の後退により遠浅となり、江戸時代の初めごろから干拓が進んで陸続きとなった。それ以来、半島南端の下津井港が、港町として栄え、参勤交代の大名の船や、金比羅参りの船などで賑はった。
○ 下津井港は入りよて出よて 真艫まかぢ巻きよで間切りよて 下津井節
小野小町の難病 / 倉敷市
京の都で、あるとき小野小町が皮膚病を患ひ、顔が腫れ物だらけになってしまった。倉敷の法輪寺に詣でて祈りを続けたが、いっこうに良い兆しは見えなかったので。歌を詠んだ。
○ 南無薬師諸病悉除の願立てて 身より仏の名こそ惜しけれ 小野小町
七日目は小雨だったので蓑笠を着けてお詣りをすると、どこからか歌が聞えてきた。
○ 村雨はただひとときのものぞかし おのが蓑笠(身の瘡)そこにぬぎおけ
小町が蓑笠を脱いで傍らの松の枝に掛けると、顔の腫れ物はたちまち消えてなくなった。このとき小町が自分の顔を映して見た井戸が、寺の裏山に今も残る「小町姿見の井戸」である。これに似た話は全国にあり、和泉式部の話(日向国など)になってゐる場合が多い。
高松城水攻 / 岡山市
毛利氏を屈伏させようと中国進攻を進めてゐた羽柴秀吉は、備中高松城に川の水を流して攻撃した。天正十年(1482)高松城主の清水宗治は、配下の武士の助命を条件に降伏、自刃を決意した。そのころ本能寺の変の知らせが入り、秀吉は急拠毛利氏側との講和を受入れ、清水宗治は自決した。
○ 浮き世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して 清水宗治(辞世)
備中松山城主、三村元親が毛利元就に攻められて自害したときの辞世。
○ 一たびは都の月と思ひしも 我まつ夏の雲にかくるる 三村元親
主基の国
備中国は大嘗祭でしばしば主基国に選ばれてゐる。
天慶九年 財井 宝福寺(雪舟の居た寺)
○ 吉備の国たから井をきて植ゑし田の まづ大嘗にあひあけるかも 
永承元年鳥羽(倉敷市)
○ 牧の駒鳥羽とりはの島の夏草は なつけてのちのみまくさに刈れ
長和五年上房郡北房町 高岡神社
○ はふり子が祈るもしるく高岡の 社の神も君を守れる 善滋為政
永承三年柏島 乙島(倉敷市)
○ しじに生ふる柏の島の青柏 祈りわたりて卯月にぞ採る 藤原家経
○ 天のはら明けて戸島を見渡せば 渚静かに波ぞ寄せくる 藤原家経
玉島 / 倉敷市
右の柏島、乙島は、倉敷市玉島地方にあった島である。玉島地方は、もとは幾つかの小島が並ぶ浅い海で、江戸時代の初めに干拓がなされた。柏島には柏島神社、乙島には戸島神社がまつられる。
備中松山藩主の水谷勝隆が、玉島の海の干拓を始めるにあたり、氏神である出羽の神を勧請して新開地の守護神とした。今の羽黒山の羽黒神社(倉敷市玉島中央町)である。以来、玉島は、瀬戸内の商港として栄えた。江戸中期の玉島出身の歌人の歌。
○ 民の戸をまもるや世々の羽黒山 かげしく海のふかきちかひに 澄月
諸歌
○ 放たれし野辺のくだかけ岡山の 大城恋しく朝夕に啼く 平賀元義
・人見絹枝 岡山県出身陸上選手
○ 草深き道の彼方の辻堂の 小さきあかしをなつかしく見る 人見絹枝
久米の皿山 / 津山市
西日本に広く伝はる昔話である。
娘は、継母の言ひつけで、毎日川で洗ひものをさせられた。ある日、娘が川で笊(ざる)を洗ってゐると、殿様が馬で通りかかった。殿様は一目で娘を気に入り、妻に迎へることにした。殿様が娘の家を訪ねると、継母が二人の娘を前にして、実の子である妹いもうとを推薦するのである。そこで殿様は、盆に皿を置き、皿に塩を盛って松を植ゑ、姉妹に歌を詠ませた。妹いもうとが詠んだ歌はこんなものである。
○ 盆の上に皿ある 皿の上に塩ある 塩の上に松ある
次に継子の姉が詠んだ。
○ 盆さらや さらてふ山に雪ふりて それを根として育つ松かな
姉の勝ちとなり、姉娘は駕篭で揺られて、お輿入れとなった。娘の里にある山を、皿皿山と呼ぶやうになったのは、このときからであるといふ。
○ 美作や久米の皿山さらさらに わが名は立てじ万代までに 古今集
古今集の歌の「久米の皿山」は、津山市中島の佐良山を歌ったものといふ。
院ノ庄 / 津山市神戸
元弘二年、後醍醐天皇が隠岐へ向かはれる途中、久米郡柵原やなはら町の大宮神社(祭神・猿田彦命)の前に輿をとめ、傍らの桜の花を愛でたといふ。この桜はのちに「御幸みゆき桜」と呼ばれた。
○ 春来れば桜咲くなりいにしへの すめらみことのいでましどころ 平賀元義
そのころ児島高徳は、院ノ庄の行在所に先まはりし、館の前の桜の幹に
○ 天勾践を空しうするなかれ 時に范蠡なきにしもあらず
の詩を刻んだといふ。この地は今の津山市神戸のあたりで、美作の守護職の館が行在所とされた。館跡には明治二年に後醍醐天皇をまつる作楽さくら神社が創建された。
○ 跡見ゆる道のしをりの桜花 この山人の情けをぞ知る 六条少将
蛇淵
作州高貴山菩提寺城の城主、菅原実兼は、寺に参籠中に美しく高貴な姫君と知りあった。妻として迎へ、子の太郎をまうけたが、ある嵐の夜、妻は一首を書き残して姿を消してゐた。
○ 恋しくば那岐の谷川棲む身なり 変る姿も一目さはるな
妻恋しさに実兼が那岐谷の蛇淵を訪ねると、青々とした水底に巨眼を光らせて蠢いてゐる大蛇を見た。美しい妻は大蛇の化身だったのである。
大歳神社 / 真庭郡新庄村
寛永十五年、出雲国造職の北島氏が京へ上るとき、美作国へ入って新庄宿で暴風雨に遭遇した。雨風を避けようと大歳神社の前まで来ると、神門は固く閉ざされてゐた。国造職が困ってゐると、どこからか声が聞え、鍵がはづれて扉が開いた。国造職は大いに感じるところがあって歌を詠まれた。
○ 火をえらび水を清むるみつぎもの 風にまかせてそなへてぞ置く
のち国造職からは神社に特別の奉賽があったといふ。
鳥取県から新庄村へ入る四十曲峠は、その名の通りのつづら折りの道が続く。
○ 名だたるもうべなりけりな伯耆山 この世に知らぬつづら折り道 出雲路日記 
 

 

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備前 / 備前の国。現在の岡山県南東部に当たる。
備前國に小島と申す島に渡りたりけるに、あみと申すものをとる所は、おのおのわれわれしめて、ながきさをに袋をつけてたてわたすなり。そのさをのたてはじめをば、一のさをとぞ名付けたる。なかに年高きあま人のたて初むるなり。たつるとて申すなる詞きき侍りしこそ、涙こぼれて、申すばかりなく覺えてよみける
○ たて初むるあみとる浦の初さをはつみの中にもすぐれたるかな
ひゝしぶかはと申す方へまかりて、四國の方へ渡らんとしけるに、風あしくて程へけり。しぶかはのうらたと申す所に、幼きものどもの、あまた物を拾ひけるを問ひければ、つみと申すもの拾ふなりと申しけるを聞きて
○ おりたちてうらたに拾ふ海人の子はつみよりつみを習ふなりけり
まなべと申す島に、京よりあき人どものくだりて、やうやうのつみのものどもあきなひて、又しはくの島に渡りてあきなはんずるよし申しけるを聞きて
○ まなべよりしはくへ通ふあき人はつみをかひにて渡るなりけり
串にさしたる物をあきなひけるを、何ぞと問ひければ、はまぐりを干して侍るなりと申しけるを聞きて
○ 同じくはかきをぞさして干しもすべきはまぐりよりは名もたよりあり
うしまどの迫門に、海士の出で入りて、さだえと申すものをとりて、船に入れ入れしけるを見て
○ さだえすむ迫門の岩つぼもとめ出ていそぎし海人の気色なるかな
沖なる岩につきて、海士どもの鮑とりける所にて
○ 岩のねにかたおもむきに波うきてあはびをかづく海人のむらぎみ
西國へ修行してまかりける折、小嶋と申す所に、八幡のいははれ給ひたりけるにこもりたりけり。年へて又その社を見けるに、松どものふる木になりたりけるを見て
○ 昔みし松は老木になりにけり我がとしへたる程も知られて
ひひ / 日比。岡山県玉野市日比のこと。
しぶかは / 渋川。岡山県玉野市渋川。日比の少し西にある地名。 
しぶかはのうらた / 渋川の浦か渋川の浦田か不明。どちらにしても渋川にある村のこと。
小島 / 児島。岡山県南部にある地名。もともと島でしたが、17世紀に陸地とつながりました。
まなべ / 真鍋。岡山県笠岡市に属する瀬戸内海の小さな島。
しはく / 塩飽。岡山県と香川県にはさまれた瀬戸内海の島々のことです。
うしまど / 牛窓。岡山県邑久郡牛窓町のこと。海上交通の要衝として栄えました。
備中 / 備中の国。現在の岡山県西部に当たる。
○ さえ渡る浦風いかに寒からむ千鳥むれゐるゆふさきの浦
「ゆふさきの浦」 現在の岡山県倉敷市玉島勇崎
牛の水怪
神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまひき。故に其の處を名づけて牛轉と曰き。今、牛窓と云ふは訛れるなり。(『本朝神社考』六)
備前国は吉備国を三分割した中でもっとも東にある地域です。岡山兵庫に香川小豆島辺りを加えた地域。牛窓は岡山県に属する港町だそうです。牛窓神社は古墳などを伴う古い神社で現在は応神帝神功皇后などを祭神とする八幡社とのことですが、地元では「牛窓明神」と呼び習わしてきたとか。在地神が起源なのは確かのようです。
すぐに思い出したのは牛鬼ですが、やはりありました。岡山の牛鬼伝説はまさにこの牛窓に伝わるもので、上述の伝承とほぼ同じもののようです。神功皇后は三韓征伐の往路で塵輪鬼という八つの牛頭を持つ怪物がいたので射殺した。また戻ってくる時には成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼となって現れたが、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばした。往路復路ともに塵輪鬼の死体から島が出来たという。
事例で興味深いのはやはり住吉神が神功皇后を助けているという点でしょう。記紀に従った、というよりも瀬戸内海における住吉神の信仰はかなり広域に、しかも地元の安全航海を願う信仰とも合わさって深く根付いていたのだと思われます。
また岡山という場所的にも、住吉信仰圏かなと思います。北九州が近くなると宗像三女神信仰圏と考えられそうです。
牛の水神、或は水怪伝承というのは中国の文献に遡って考察する以外にはないかと思います。そして蛇の水神伝承との比較も必要になるでしょう。地域的な偏りなどはないのか気になるところです。 
雲居寺 お花観音(うんごじ おはなかんのん) / 岡山県新見市新見
雲居寺の墓地に一体の千手観音の石像がある。これが「お花観音」と呼ばれる石像である。
新見に藩庁ができたのは元禄10年(1697年)のことである。初代藩主は関長治。この治世の間(1697-1725)の話となる。
新見藩の家老職にあった大橋某の屋敷に奉公していたお花は、その美貌と性格から家老の寵愛を受けるようになった。それに対して正室は嫉妬の鬼となったが、平静を装い、お花を嫡子の子守役としてそばに置いていた。ある時、家老が留守の間に、お花は抱いていた嫡子を誤って落としてしまう。正室は日頃の怨みとばかりにお花を折檻し、ついには女陰を抉り出して殺し、古井戸に投げ込んでしまった。
それ以降、大橋家にはお花の亡霊が現れ、また家鳴りなどの怪事が続いたために、お花の供養にと一体の観音像を大橋家の墓所に建立したのである。今では、縁結びや夫婦和合、また女性の下の病気平癒にご利益があるとされている。
小野小町姿見の井戸(おののこまちすがたみのいど) / 岡山県倉敷市二日市
岡山にある小野小町伝承では、小町は備中国都窪郡清音村(現・総社市)の守護であった小野常澄の娘とされる。その美貌故に都に上って宮仕えをしていたが、ある時、悪性の瘡に罹ってしまった。一向に治らないために郷里に戻り、同族の小野春道の許に赴き、日間山法輪寺の薬師如来に願掛けをした。そして毎日寺の裏山にある井戸に自分の顔を映していたという。7日目になって、天の声を聞いた小町が井戸に顔を映すと、瘡はすっかり取れて全快していた。その後、小町は里に残り尼となって余生を過ごしたといわれる。
現在、法輪寺の裏手に、小公園のような形で井戸は整備されている。実際は、井戸というよりも、湧水のある小さな泉という感じである。
小野小町 / 生没年不明。平安時代初期に実在したとされるが、出身地も含めて謎に満ちている。六歌仙の一人、また絶世の美女として数多くの伝説を残す。
小野常澄・小野春道 / 常澄は小野小町の父親として名前が挙がるが、その出自に関しては不明。また春道についても、歌舞伎十八番の『毛抜』に登場するが、小野小町の三代目という設定になっており、歴史的には不明な点が多い。
生石皇様(おんじのうさま) / 岡山県浅口市六条院中
六条院中エリアに「生石」という名のバス停がある。そのバス停から目と鼻の先にある植え込みの中に、小さな石置かれている。これが生きている石と言われる、生石皇様である。
御後園(現・後楽園)造営の際に庭園を飾る石として、この地を通りがかった藩主によって見いだされ、岡山城下に持ち運ばれていった。するとその夜から「生石にいのう(帰ろう)、生石にいのう」泣き出した。これに怒った藩主が手討ちにすると、血を吹き出した。この奇怪な出来事のために「生きている石」とみなされて、急ぎ元の場所に戻され、村人によって大切に扱われるようになったという。
後楽園 / 日本三大名園の一つ。着工されたのは貞享4年(1687年)であり、当時の藩主は池田綱政である。生石皇様の案内板には「池田光政」とあるが、綱政の父にあたる先代藩主であり、着工時には既に亡くなっている。また造営の責任者は、光政の時代より土木事業に辣腕を振るっていた代官の津田永忠が当たっている。
カワコ石(かわこいし) / 岡山県真庭市蒜山中福田
米子自動車道の蒜山インターチェンジを降り、道なりに国道482号線を湯原方面に走ること約2キロ、蒜山の玄関口と言える旧・川上村に入る。旧役場を過ぎると中福田地区になるが、この地には河童にまつわる二つの有名な伝承が残されている。
地区を流れる川に架かる橋のたもとに、“カワコ(河童)石”と呼ばれる石がぽつねんと置かれている。人の背丈よりもやや高いぐらいで、しかも細長く尖っているという感じの石である。
現地で紹介されている伝承によると、昔、このあたりで悪さをする河童がいたのだが、ある時に捕まえられて二度と悪さをしないという誓いを立て、その証にこの石に手形を押し、この石が倒れる時まで戻ってこないとして去っていったという。残念ながらこの河童の手形はほとんど目で確認することは出来ない。
また別の伝承としては、湯原にあった玉沢屋という運送業の者が馬をこの川で休めていた時に、河童が馬を引きずり込もうとしたが失敗、逆に囚われの身となった。河童は命乞いをして、傷の妙薬を製法を教えるとして、その証文として石に手形を押したという。
田倉牛神社(たくらうしがみしゃ) / 岡山県備前市吉永
野上牛頭天王宮という名でも呼ばれている神社である。元々は牛頭天王を祀る神社であったが、農業振興として岡山藩が牛を飼うことを奨励、それによって牛馬の病気平癒を祈願する神社と変貌していったようである。現在では牛馬に関する願い事だけではなく、一般的な大願成就にもご利益は拡張されている。時代の変化に応じて、祈願の対象が変化することは決して悪いことではない。
この牛神社の祈願の仕方は非常に変わっている。鳥居そばで備前焼の小牛像を一体分けてもらう。それを神座(頂上部分に石の牛が置かれているが、これがこの神社の御神体となる)にお供えして、そこから別の小牛像を借り受けて持ち帰る。そして大願成就のあかつきには、借り受けた像と共にさらにもう一体の子牛像をお供えするのである。そのために神座はこの陶製の子牛の像が小山のように積み重ねられている。その数は10万とも20万とも言われる。
牛頭天王 / 薬師如来が化身した神、素戔嗚尊と同一神とされる。祇園精舎の守護神とされるが、その出自は不明な点が多い。疫病神としての性格が強く、それを祀ることによって病気平癒の神とみなすところが大である。京都の八坂神社の祭神として有名であるが、姫路の広峰神社から勧請されている。
鼻ぐり塚(はなぐりづか) / 岡山県岡山市北区吉備津
備前一の宮・吉備津彦神社と備中一の宮・吉備津神社を結ぶ古道のちょうど中間あたりにあるのが、福田海本部である。そこに畜霊供養の鼻ぐり塚がある。
大正14年(1925年)に創設された塚には、全国各地から贈られてきた“鼻ぐり”が奉納されている。鼻ぐりとは牛の鼻輪。病死したり屠殺された牛が残すことの出来る唯一の形見と言うべき鼻ぐりを供養することで、人のために奉仕し尽くして一生を終える畜類への感謝の念を忘れないというのが、創設の趣旨である。そして集められた鼻ぐりの数は700万個にも及ぶという。
鼻ぐり塚は、元々あった円墳を利用して作られている。横穴式の石室内には、真鍮製の鼻輪を溶かして造られた、阿弥陀の宝号を刻んだプレートが収まっている。そして墳丘には大量の鼻ぐりが積み上げられており、その正面部分には馬頭観音が置かれている。さらには牛と豚の像もあり、その様子は見る者を圧倒する。
福田海(ふくでんかい) / 中山通幽(1862-1936)が明治41年(1908年)創設した宗教。福田とは布施をおこなうことで功徳を得るという仏教思想であり、特に社会救済に重きを置いている。福田海は陰徳積善の功徳を唱え、放置された無縁墓を集めて供養する実践をおこなっている(京都の化野念仏寺の千灯供養、滋賀の石塔寺の供養塔群も、通幽の事業である)。
馬頭観音 / 観音菩薩の変化身の1つとされるが、観音の中では唯一の忿怒相である。頭上に馬頭を戴いているために付けられた名であるが、その名によって牛馬の神として信仰されている。また路傍の動物供養塔に刻まれることも多い。
鯢大明神(はんざきだいみょうじん) / 岡山県真庭市豊栄
湯原温泉の旅館街から少し離れたところに、湯原オオサンショウウオ保護センター(はんざきセンター)がある。そのそばにあるのが鯢大明神である。
鯢はオオサンショウウオの別名である。オオサンショウウオは体長が1mを越すものも多く(センター内には1.6mの剥製が展示されている)、世界最大の両生類とされる。また寿命も人間並みはあり、中には100年以上飼われた記録も残る。鯢という名は、その生命力の高さから、半分に裂かれても生きているという意味が由来であると言われている。外見の異様さも相まって、ある種の化け物じみた雰囲気があるのは間違いない。
日本で唯一オオサンショウウオを祀る鯢大明神の創建の伝承も、化け物退治から始まる。
湯原の町を流れる旭川の、現在祠がある場所あたりは龍頭ヶ淵と呼ばれていた。この淵には、長さ三丈六尺(約11m)胴回り一丈八尺(約6m)という巨大な鯢が住み着いており、通りがかった牛馬や人を引きずり込んで食っていたという。文禄元年(1592年)頃のこと、近在の三井彦四郎という若者がこの化け物を退治しようと、短刀を口に咥えると淵に飛び込んだ。やがて川の水が赤く染まり、鯢が浮かび上がってきたと思うと、その腹を割き破って彦四郎が無事な姿で現れた。見事に化け物を退治したのである。
しかしそれからというもの、奇怪な噂が流れるようになった。夜中になると、彦四郎の家の戸が叩かれ、号泣する声が聞こえるというのである。村人はそのあやかしを恐れて、だんだんと三井家と疎遠になっていった。さらに三井家の人々も次々と亡くなり、ついには一家は断絶してしまった。さらに村にも様々な災いが起こり、ここに至って村人は退治した鯢の霊を慰める必要を感じ、淵のそばに祠を建てて鯢の霊を祀ったのである。これが鯢大明神のはじまりである。そして三井彦四郎の墓も近くに建立されている。
現在でも湯原ではオオサンショウウオが生息しており、保護されたものはオオサンショウウオセンターで飼育されている。また、8月8日には“はんざき祭”が催され、化け物鯢を模した山車が温泉街を練り歩く行事がある。
湯原温泉 / 美作三湯の1つ。共同露天風呂である“砂湯”は西の横綱と格付けされるほどであり、古来よりの伝統を持つ。
備中高松城趾(びっちゅうたかまつじょうし) / 岡山県岡山市北区高松
備中高松城と言えば、羽柴秀吉による水攻め、そして本能寺の変の際に毛利方と行われた和戦駆け引きの場として名高い場所である。現在は天守閣こそ再建されてはいないが、緑地公園化され、かなり整備された状態で保存されている。そしてその一角に公園に は不釣り合いな供養塔が建てられている。それがこの城の最後の城主で、秀吉との講話の折に見事な散り際を見せた清水宗治の首塚なのである。
この公園周辺には清水宗治の自刃にまつわる碑がいくつかある。公園近くの民家の庭先に“胴塚”と称される碑もある。また公園から少し離れた場所には“清水宗治自刃の地”ということで供養塔が建てられている。そして自刃の際に、宗治の従者二人が「先に三途の川でお待ち申します」と言って刺し違えて殉死した場所が残されている。“ごうやぶ”と呼ばれ、現在でもぽつねんと目印のためか、一本の木が立っている。往時を偲ぶ物は少ないが、名将への崇敬は決してすたれていないのである。
備中高松城の戦い / 天正10年(1582年)、織田方の羽柴秀吉と毛利方の清水宗治との戦い。湿地帯にある高松城を攻めるため、羽柴軍が堤防を築き、水攻めをおこなったことで有名である。城は、水の中に孤立し、援軍や物資の補給の見込みがないために、和睦を決意。城将である清水宗治が切腹することで、城兵の助命を願い出る。一方の羽柴側は、本能寺の変での主君信長の死を知り講和を受け入れ、清水宗治の切腹を見届けると、中国大返しをおこなった。
清水宗治 / 1537-1582。はじめは備中の三村氏に仕えるが、後に毛利氏に仕える。備中高松城主として織田方の羽柴秀吉と対峙、水攻めにより和睦するが、城兵の助命のために自刃する。その後、秀吉から「武士の鑑」と賞賛された。 
 
 
広島県 / 備後、安芸

 

鳥取島根岡山広島山口

もみぢ葉のあけのまがきにしるきかな おほ山姫のあきの宮居は 今川了俊
疫隈の里〜鞆の浦
むかし素戔嗚尊が、武たけ塔あららき(ぶとう)の神と名告って旅をしたとき、備後国の疫隈の里で一夜の宿を求めた。里には兄の蘇民そみん将来と弟の巨旦こたん将来が住み、富裕な弟の巨旦は宿を貸すことを断ったが、貧しい兄の蘇民は粟柄あはがらを敷いて座敷をつくり、粟飯で神をもてなした。年を経て蘇民の家を訪れた武塔神は、茅の輪を腰につけることを教へ、茅の輪の霊験によって蘇民の一家は疾病を免れたといふ(備後国風土記逸文)。その茅の輪は、夏越の大祓の「茅の輪行事」のもとともなり、家の戸口に「蘇民将来子孫之門」「蘇民将来子孫繁昌也」と書いた護符などを掲げて魔除けとする習俗もうまれた。疫隈の里とは諸説があるが、福山市の沼名前ぬ な くま神社の地ともいふ。ここの海は、鞆の浦といひ、瀬戸内の重要な航路だった。
○ 吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど見し人そ無き 大伴旅人
能地の浮き鯛 / 三原市
むかし新羅へ向かふ神功皇后の船が、能地のうぢ(三原市)の瀬戸を通ったとき、鯛の群れが船に寄ってきた。幸先の良いことだと皆で喜び、海に樽酒をふるまったので、鯛は酒に酔って浮かび上がったといふ。以来、春になるとこの海では鯛が浮かぶのだといふ。春に産卵のために瀬戸内に戻ってきた鯛が、ここの狭い海峡で潮流の変化に遭遇し、一瞬浮き袋の調節機能がうまく働かなくなるらしい。今は鯛そのものが減って来ないさうだ。(末広恭雄「魚と伝説」)
○ 春来ればあちかた海の一かたに 浮くてふ魚の名こそ惜しけれ
○ 水底に酒瓶ありと聞くからに 浮きたいよりはこちゃ沈みたい 茶山
むかし能地の漁民は、船を家として船上生活をし、平家の落人との伝説もあった。
こしき天神 / 三原市沼田東 沼田神社
菅原道真が筑紫下向の折り、沼田ぬた川を少しのぼった沼田村(三原市沼田東)に滞在し、乾飯ほしいひをこしきで蒸して食べた。道真が置き忘れたこしきをまつったのが「こしき天神」(沼田神社)であるといふ。近くには道真が掘った井戸があったといふ。
○ 我いのるたのみもことに真清水の 浅かるまじき恵みをぞ待つ 菅原道真
沼田の地は、平家の沼田某らが逃げ隠れた地で、源氏ののりつね朝臣に攻撃されて全滅したといひ、田畑を耕すたびに遺骨が出たといふ話もある。(了俊道行振)
○ 袖ぬらすならひも悲しあやめかる 沼田の田の草今日はとりつつ 今川了俊
今櫛山 / 比婆郡西城町
むかし大富山城に、照日姫といふ美しい姫があった。永禄のころ(1558- 70)のある春、姫は下女たちと連れ立って中野村の岩津山胎蔵寺に花見に出かけた。皆で花に見とれてゐると、若く美しい侍が近寄って来て、桜の枝に短冊をつけて差し出した。侍は東左近といふ名で、姫に一目惚れしたのである。短冊には歌がしたためてあった。
○ 我が恋は岩津の山の桜花 言はず散りなんことの悲しき 東左近
気品ある若者に恥ぢらひながら、姫は歌を返した。
○ 思へども我も岩津の花なれば さそふ嵐に散らざらめやは 照日姫
以来、姫と左近は人目を忍ぶ恋に落ちていった。ところがまもなく、父君のはからひで、姫は三河内村の双子山城に嫁ぐことが決まってしまったのである。姫は父君のいふままに嫁いではみたが、左近のことが忘れられず、すぐに大富山城に帰って来てしまった。それでも母君にさとされて、再び三河内村へ行くことになった。
その途中、姫は、朝日山の頂上の池のそばの弁天さまにお詣りしたいと言ひ出した。一行が険しい山を登り、どうにかお参りをすませ、一息をついたすきに、姫はそばの池に身を投げてゐた。突然、雷雲が起り、あたりは暗闇となって大雨を降らし、池の水が空に巻き昇って大蛇が姿を現した。下女たちは、ある者は逃げ出して山を転げ落ち、残った者はその場で気絶した。明くる日、池の辺には姫の櫛だけが残されてゐたといふ。このことから、朝日山は、今櫛山といふやうになった。
安芸の宮島、宮うつし貝 / 佐伯郡宮島町
安芸の宮島(厳島)にまつられてゐる厳島神社は、平清盛が安芸守となったころから、平家一門の篤い崇敬を受けた。宮島の北端を聖ヶ崎といふ。
○ よもの海浪しづかなる時にあひて 聖ひじりヶ崎を今日見つるかな 曼珠院法親王
○ 遠島の下つ岩根の宮柱 波の上より立つかとぞ見る 細川幽斎
安芸の宮島は、潮が満ち引きする浜に大鳥居が立ち、その洲には白い貝が棲み、その貝は鳥居の姿を紋章のやうにうつし出してゐるといふ。宮うつし貝といふ。
○ ところから波の白木綿(しらゆふ)かけまくも かしこき神の宮うつし貝
厳島の合戦 / 佐伯郡宮島町
天文二十四年、周防国から陶晴賢すゑはるかたの二万の兵が厳島に侵攻したが、毛利元就は四千の兵でこれを打ち敗った。毛利氏は村上水軍を味方につけたといひ、以後中国地方の大大名となっていった。陶晴賢はこのとき辞世の歌を残して自害した。
○ 何を惜しみ何を恨まん元よりも この有様の定まれる身に 陶晴賢(すゑはるかた)
音戸の瀬戸 / 安芸郡音戸町
呉市と倉橋島の間の音戸の瀬戸は、幅が狭く、潮の速さは滝の如しといふ。
○ ふなだまの幣ぬさも取りあへず落ち激たぎつ 早き潮うしほを過ぎにけるかな 鹿苑院
○ 船頭可愛や音戸の瀬戸で 一丈五尺の櫓が弱る音戸の 舟唄
この瀬戸は、むかし平清盛が厳島の神と約束して掘り開いたといふ。掘り終らぬうちに日が沈みさうになったので、清盛は日招ひをき山にのぼり、太陽に向かって扇を振って日を招き、日没を留めさせたといふ。高田郡吉田町の田植歌にも歌はれる。
○ 音戸の瀬戸を切り抜く清盛こそは日の丸の扇で御日を招をぎもどいた
田植を一日で植ゑ終らないときに長者が扇で夕日を戻したといふ話は、諸国に多い。昔は田植に吉い日と悪い日が決まってゐたため、一日で植ゑなければならないことも多かったらしい。
おほ山姫 / 広島市安芸区瀬野
広島市と東広島市の境の瀬野峠は、大山ともいふ。
○ もみぢ葉のあけのまがきにしるきかな おほ山姫の秋の宮居は 今川了俊 
 

 

鳥取島根岡山広島山口

安芸 / 国名。現在の広島県の西部。
志することありて、あきの一宮へ詣でけるに、たかとみの浦と申す所に、風に吹きとめられてほど經けり。苫ふきたる庵より月のもるを見て
○ 波のおとを心にかけてあかすかな苫もる月の影を友にて
「あき」安芸の国のこと。
「一宮」宮島の厳島神社のこと。
「たかとみの浦」不明。  
蘇民将来
備後國風土記曰 疫隅國社 昔 北海坐志武塔神 南海神之女子乎與波比爾出 座爾日暮 彼所將來二人在伎 兄蘇民將來 甚貧窮 弟將來富饒 屋倉一百在 伎 爰武塔神  借宿處 惜而不借 兄蘇民將來借奉 即以粟柄爲座 以 粟飯等饗奉 爰畢出坐 後爾經年 率八柱子還來天詔久 我將來之爲報 答 汝子孫其家爾在哉止問給 蘇民將來答申久  己女子與斯婦侍止申 即詔久 以茅輪 令着於腰上 隨詔令着 即夜爾 蘇民之女子一人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎 即詔久 吾者 速須佐雄能神也 後世爾疫氣在者  汝蘇民 將來之子孫止云天 以茅輪着腰在人者 將免止詔伎(釋日本紀卷七)
備後国とは現在の広島県の東半分で吉備国の西の方。伝承としては病気除けの茅の輪の起源伝承でもあります。京都八坂神社の起源でもある。
「兄の蘇民将来と弟の蘇民将来」って、同じ名前なのかと。『事典』によると『廿二社註式』では弟の名を「巨旦将来」としているそうなので、私が以前読んだ文献は『釈日本紀』ではなく『廿二社註式』のほうだったのかもしれません。しかし兄弟ともに「蘇民将来」では「蘇民将来の子孫」という唱え言が意味を成しません。それと「蘇民・巨旦」だったとしても、兄弟に共通する「将来」が違う名前の後についているのはおかしい気がしませんか?「将来」は名前ではないのでは?でも姓が名前の後に来る名乗りというのは古代日本において存在するのか?台湾原住民の名称は父子連名が多いですが、父の名前が自分の名前の後に来ます。この辺指摘している人がいるのかいないのかわかりませんが、二人蘇民将来にしろ蘇民巨旦将来にしろ、日本人の名前としてはおかしい気がします。ちょっと調べたところインドでは個人名が前で父の名、或は家族名は後と言うのが普通らしいので(地域によって違うようですが)、やはりインド起源の神話が漢訳仏典か何かを経由して日本に入った可能性が高いのかもしれません。
実はこの疑問は「武塔神」という起源の知れない神の出自に関する考察とも関係しています。
註では「秘密心点如意蔵王陀羅経」という仏典に載る「武塔天神王」が「武塔神」であるという説が引かれています。つまりインドの神であるという可能性があるわけです。
あと朝鮮の巫女「ムーダン」と関係あるという説も有ります。武塔神はスサノオだと名乗っていることもあって、朝鮮由来だと言いたがる研究者もいるのだとは思います。
その他、托塔天王と関係があるという説も。この伝承は『昔話伝説必携』にも取り上げられていますが、研究の展望としてはやはり上記のような異国風の名称の由来を調べることが挙げられています。
ということで、どうも注釈レベルで解決できていない感があるこの蘇民将来伝承。「事典」では他の切り口を提示しています。
『常陸国風土記』に載る「富士筑波の話」或は民間の「大師水」のような神の巡行譚−神を歓待するものは祝福され、そうしない者は罰せられるという話−に起源があるということです。
『必携』では「大歳の客」や「隣の爺型(良い爺と悪い爺)」とも関係があると言っています。
ただこの種の伝承は中国民間にもたくさんあります。土地陥没伝承につながることもありますが、儀礼習俗の起源譚としては端午蓬の起源譚があり非常に良く似ていると思います。少なくとも私が読んだ事例は「富士筑波」の話よりもよほど似ています。
では蘇民将来伝承は神から話型まで全部輸入されたもので、独自性はないのかというと勿論そんなことはないでしょう。
まず武塔神が求婚の為に北の海から南の海にやってきたと言っている。これは他の事例にはない特異なモチーフで、数年経って帰ってきた時に八柱の子供を連れていたこととも合わせて考えると、非常に興味深い。つまり単純な神を歓待しただけではなく、求婚に来た神を助けて神に子供がたくさん出来たという話でもあるのです。疫病から身を守る話は子孫を護る話でもある。
弟将来の家に女の子がいるという設定ですが、これも女性を守ることが子孫を護ることになるという発想から生じているのかもしれません。そういえば中国民間端午の蓬起源伝承でも女性が重要な役割を担っています。
武塔神の名前について由来を追うことは確かに大切ですが、私はそれよりも「何故異国風の名前なのか?」ということに興味があります。
疫病を起す神としては大和の大物主神がありますが、それとはちょっと違っています。大物主は疫病を起して民を殺しますが、祭祀を要求するのは外部からやってきた天皇に対してです。もちろん実際に祭祀するのは子孫のオオタタネコなのですが、天皇が介在することで始めて解決するというちょっと複雑な構造になっています。
しかし将来伝承においては、疫病神の外来性が強調される。異国風の名前は「疫病は外部からやってくる理不尽な災厄である」という考え方の現われだと思われます。
大物主伝承と武塔神伝承を比較すると、以下のような違いがわかります。
大物主伝承(武塔神伝承)
土地の神(外来の神)を外来の天皇(土地の人)が敬わないために疫病が発生する。外来の天皇(土地の人)が祭祀をすると(歓待すると)疫病が収束する(免れる)。
もちろん差異も大きいです。大物主の場合は疫病以外にも農業に被害を与えたりする強大な祟り神ですから。しかし疫病というのが他者である神が起したものであるという発想は一致しているでしょう。
大物主の疫病神としての性格は継続的なものではないのではなく、祭祀されればむしろ守護神と化していく。外来王自体がその土地に定着して本来の土地の神へと戻っていくわけです。
しかし武塔神は恐ろしい神としての様相を残していて、茅輪の習俗は全国的に広がっていきます。それは定住農耕社会にとって疫病と言うのが基本的には外来のものであるという事実からの発想だからでしょう。
だからこそ祇園社は由来のはっきりしない神であるにもかかわらず、平安の都人に熱烈に信仰されるようになったのだと思われます。
1 祇園の牛頭天王ですが、地獄の獄卒のようでもあり仏教或はインド由来の可能性は高いです。また知り合いの先生に見せてもらったのですが、ワ族の仏教寺院から譲ってもらったという絵画にも牛頭人身の絵が描かれていました。
2 茅の輪について。茅は人が住んだり耕作したりする「こちら側」と森林などの深い自然「あちら側」の境界に棲息する植物です。それを身につけることで「あちら側」の脅威から身を守ることが出来ると考えられるようになったのは、茅が境界性という意味を持つ植物だからだと思います。
また単に雑草といっても、非常に繁茂しやすい強い植物で、群生します。それに草の中では薄(同じかも)や葦の次に大きいんじゃないかと思います。つまり「生命力」を感じられる植物であるというのは確かでしょう。 
吾妻子の滝(あづまこのたき) / 広島県東広島市西条町御薗宇
西条町一帯には、源頼政の愛妾・菖蒲の前にまつわる伝承地が点在する。
平家に叛旗を翻した源頼政は、宇治川の戦いで自刃する。残された菖蒲の前は、3歳になる頼政の遺児・種若丸、家来の猪早太と共に西国に逃れた。そして安芸国賀茂郡にあった滝まで辿り着いたのである。しかし長旅の疲れのために種若丸はこの地で病を得て、そのまま病死。平家に見つかることを恐れた菖蒲の前は滝のそばに我が子の遺体を埋めたのである。そして我が子を偲び
吾妻子や 千尋の滝と 荒れ果てた 広き野原の 末や知るらん
と詠った。そのため、この滝は“吾妻子の滝”と呼ばれるようになったという。
吾妻子の滝は、現在、公園化されている。滝の落差は約15m、落ち口の幅が35mという非常に幅広の滝であり、なかなかの景色である。今でも滝の上には観音堂があり、種若丸の墓と言われる宝篋印塔が安置されている。
源頼政 / 1104-1180。清和源氏の出であるが、平治の乱で平清盛に味方する。平氏政権下で従三位にまで昇進する。鵺退治の伝説で有名であり、この退治の時に供をして鵺にとどめを刺したのが猪早太、そしてこの功績によって菖蒲の前を愛妾としたとされる。最期は宇治の平等院で自刃。
吉川興経首塚(きっかわおきつねくびづか) / 広島県山県郡北広島町中山
吉川興経は、安芸の国人・吉川氏の14代当主である。当時の吉川氏は安芸北部に地盤を持つ有力な豪族の一人であり、毛利氏と同様に、中国地方の覇を争う大内氏と尼子氏の抗争の渦に巻き込まれた。興経は武勇でその名を馳せ、強弓の使い手として怖れられていたという。ただし政治的な器量に欠けており、特に天文11年(1542年)の尼子攻めの最中に味方の大内氏を裏切り、全軍総崩れの大敗のきっかけを作って、周囲の信望を失う。そしてこの一件で家臣団も姻族である毛利方になびき、毛利元就の次男・元春を養子に迎えることになる。さらに天文19年(1550年)、興経は強制的に隠居とされ、さらに元春擁立の後顧の憂いを断つために隠居所にて暗殺されるのである。享年42歳(あるいは32歳とされる)。
興経の墓は、暗殺された隠居所であった場所にあるが、その首塚は吉川氏の菩提寺であった常仙寺の跡にある。伝承によると、興経の首は隠居所からはるばる愛犬によって運ばれてきたという。実際、この首塚のそばには「犬塚」と呼ばれる小さな塚が残されているが、不思議なことに、この犬塚の方が興経の首塚よりも上に作られている。だが、これにも伝説が残されており、首をくわえてきた犬はこの場所で息絶え、その時に首が転がり落ちてしまったために、今のような位置関係になってしまったのだと。
吉備津神社(きびつじんじゃ) / 広島県福山市新市町宮内
備後一の宮として崇敬を集める。土地の人々は親しみを込めて「一宮さん(いっきゅうさん)」と呼び慣わす。
大同元年(806年)に吉備国が備前・備中・備後の3国に分けられた時に、吉備国一の宮であった吉備津神社を勧請して創建されたものとされる。祭神は、吉備国を平定して治めた吉備津彦命を主祭神として、孝霊天皇(吉備津彦命の父)、細媛命(孝霊天皇皇后、実母ではない)、稚武彦命(吉備津彦命の弟)が祀られている。
数多い摂社・末社の中に、櫻山神社がある。祭神は桜山茲俊、他二十三柱。桜山茲俊は、後醍醐天皇の笠置山挙兵、楠木正成の赤坂城挙兵に呼応して、吉備津神社近くの桜山城で挙兵し、瞬く間に備後半国を手中に収める。しかし近畿での挙兵が失敗に終わるとの報によって兵力は四散。元弘2年(1332年)に吉備津神社に立て籠もると、妻子を刺殺し、社殿に火をかけて郎党23名と共に自刃した。明治になって南朝の忠臣として評価され、吉備津神社の境内に櫻山神社が創建されたのである。
桜山茲俊 / ?-1332。『太平記』にのみ、その名前が残る。後醍醐天皇・楠木正成に呼応して挙兵した者があるのは確かのようであるが、それが“桜山茲俊”であったかは、疑問視する向きもある。
光明坊(こうみょうぼう) / 広島県尾道市瀬戸口町御寺
瀬戸内海に浮かぶ生口島にある寺院である。開基は行基とされ、平安末期に隆盛を誇った。後白河法皇は生口島の荘園を寄進するなどの保護をしており、かつてはかなりの堂宇があったとされている。
都から遠く離れた地にあった大寺院ということで、隠棲の地としてうってつけであったのだろうか。法皇との縁によってこの地を終の棲家としたのが、法皇の息女の如念尼公であった。そしてこの如念尼公の縁にすがり、この地に訪れたのが松虫・鈴虫の姉妹であった。
松虫・鈴虫姉妹は後鳥羽上皇の寵妾であったが、世の無常を知って出家を決意。法然上人の高弟であった安楽上人と住蓮上人によって尼となった。しかし事態を知った上皇は激怒して両上人を処刑、師の法然上人も讃岐に配流としたのである。一方の松虫・鈴虫は追っ手を逃れ、最終的に光明坊に隠れ住むこととなったのである。
さらにこれらの縁あって、如念尼公の招きに応じて、讃岐配流途上の法然上人もこの地にしばらく逗留している。このため、光明坊は真言宗の寺院であるにも拘わらず、法然上人の事績にまつわる伝承が複数残っている。
境内西側には四基の五輪塔が並び、それぞれ法然上人・如念尼公・松虫・鈴虫の墓と称されている。さらにその隣には大きくねじ曲がった白檀の木がある。これは法然上人が使っていた杖が根付いたものであるとされる。
法然上人がこの地を去った後、根付いた杖の木はみるみる生長し、あっという間に巨木となった。ところが大きくなりすぎて、近隣の田に日が差さなくなってしまった。そこで村人は相談して仕方なく伐ることに決めた。ところが翌朝見に行くと、木は境内の方にねじ曲がって、田に日が当たるようになっていたという。
他にも“法然上人流血の尊像”と呼ばれるものがある。法然上人自作の像があったが、京都・黒谷の要請で寄贈した。その後、住職の夢枕に法然上人が現れて、像を造って欲しいと頼まれる。檀家のものが仏師を探しに出ると、同じ夢を見て生口島にやって来た仏師と巡り会い、像を造ってもらった。その際、像の喉元にノミを当てると鮮血が流れ出たという。
後白河法皇と如念尼公 / 後白河法皇(1127-1192)は第77代天皇。30年以上にわたる院政を敷き、源平の動乱の時代を乗り切った。法皇には6人の皇女があるが、如念尼公とされる人物はいない。しかし法皇存命中に出家し、また呪詛の嫌疑を受けて都から追放されそうになった、三女の式子内親王(1149-1201)がおり、モデルとなった可能性がある。
松虫・鈴虫 / 後鳥羽上皇(1180-1239)の寵妾であったが、建永元年(1206年)に松虫19歳、鈴虫17歳で出家する。この事件を機に後鳥羽上皇は浄土宗弾圧をおこない、出家を手伝った安楽上人と住蓮上人を死罪に処し、その師の法然上人を讃岐に流罪とした。光明坊の寺伝によると、松虫は36歳、鈴虫は45歳でこの地で亡くなったとされる。
法然 / 1133-1212。浄土宗の開祖。松虫・鈴虫事件に連座し、75歳の時に流罪となる。4年後に罪を赦されて京都に戻る。
國前寺 稲生武太夫の墓(こくぜんじ いのうぶだゆう) / 広島県広島市東区山根町
日蓮宗の寺院で、広島藩浅野家2代藩主の浅野光晟の正室・満姫が帰依したことから、浅野家の菩提寺となる(その後、幕府禁制の不受不施派であったために菩提寺ではなくなる)。現存する本堂と庫裏はその当時に建てられたもので、原爆の爆風によって傾いたものの修復され、国の重要文化財として指定されている。
國前寺と言えば、1月7日におこなわれる「稲生祭」で有名である。
稲生武太夫は、三次に住んでいた16歳の時に、肝試しに比熊山に登った直後から、屋敷に化け物が毎夜現れて脅かされる。ところが全く動ずることなく、一ヶ月後にとうとう魔王・山ン本太郎左衛門(山本五郎左衛門)が現れて武太夫の勇気を褒めて木槌を授けたという。この時の怪異譚は『稲生物怪録』として残されており、広く世に知られている。そして國前寺には、武太夫が授かったとされる木槌が残されており、この「稲生祭」の日にのみ公開されるのである。
さらには、本堂裏手の一画に稲生武太夫の墓がある。いくつかの墓碑などと共にある五輪塔がそれである。しかし特に案内板もなく、ひっそりと佇んでいるという風である。
稲生武太夫 / 1735-1803。三次藩御徒組として12石4人扶持の藩士であったとされる(実際は、広島浅野藩の支藩であった三次藩は、享保5年(1720年)に藩主夭折のため廃藩となっている)。後に旧三次藩士は広島へ移転し、浅野本家に仕えている。自身が寛延2年(1749年)に体験した怪異を記録した『稲生物怪録』を記す。
浅野光晟 / 1617-1693。広島藩2代藩主。次男であるが、正室の子であるため家督を継ぐ。その際、庶兄の長治は5万石を分与され、三次藩を起こす。
才蔵寺(さいぞうじ) / 広島県広島市東区東山町
才蔵寺は、関ヶ原の戦い直後に広島を領した福島正則の家臣・可児才蔵吉長を祀っている。境内には、甲冑をまとって槍を持つ才蔵の像があり、彼の墓と言われる石碑もある。そしてその碑の前には“ミソ地蔵”の名を持つ地蔵がある。ご利益は脳病全快・知能啓発など、頭にまつわるものとなっており、その祈願の方法が非常にユニークなものとなっている。
まず願い事を書き、それを味噌の入った袋に貼る。その袋を地蔵の頭の上に乗せて拝み、さらに今度は自分の頭の上に乗せてお願いをして、味噌を奉納するのである。いつの時代からこのような方法になったのか分からないが、初めは墓の後ろに生えてきた竹の葉に脳病全快のご利益があり、祈願回向の際に味噌を奉納する習わしであったとされる。現在では、受験合格祈願に多くの者が訪れる。
可児才蔵は剛の者として名を馳せ、特に関ヶ原の戦いでは敵の鎧武者の首を20も挙げる活躍を見せ、徳川家康から激賞されている。そして戦巧者で知恵のある武将としても周囲から敬慕されていたという。
味噌と才蔵との関わりあいであるが、才蔵の好物が味噌であったとか、味噌の効能を才蔵が大いに喧伝して味噌造りを奨励したなどの伝承もあるが、知勇を兼ね備えた剛将の面目躍如と言うべき伝説がある。
元和5年(1619年)、福島正則の広島藩は些細な落ち度が発端で改易処分となる。その幕府のやり方を理不尽として、可児才蔵は数十名の同士と共に小城に立て籠もって抵抗を始めた。新たに広島藩主となった浅野家は城を攻めるが、石垣を登る兵に煮えたぎる味噌汁を掛けて撃退するなどして降伏しない。ついに浅野家は兵糧攻めを始めるが、ここで才蔵は対抗策を立てた。城山にあった地蔵さんに笹の葉を供え、さらにその上に米と味噌を乗せて祈ると願いが叶うという噂を広めた。多くの者はそれを信じて多くの米と味噌が集まった。これによって兵糧を確保した才蔵らは存分に抵抗を続け、いつの間にか小城から姿をくらましてしまったという。
可児吉長 / 1554-1613。尾張の出身で、斉藤氏をはじめ織田家・豊臣家の有力武将に仕え、最後は福島正則の家臣となる。宝蔵院流の槍を胤栄から学び、槍の名手とされる。また合戦では最前線で敵を討ち取ること多数で、首級を持ち歩けないために、旗指物であった笹の葉を敵の口にくわえさせて、自ら取った首の目印とした。そこから“笹の才蔵”という異名を取った。最期は、信仰する愛宕権現の縁日に死ぬと予言し、当日甲冑を身にまとって腰掛けた状態で亡くなったという(上にあるミソ地蔵の伝説は、才蔵の没年と福島家の改易の年にずれがあるため、史実ではない)。墓は西国街道沿い(現在の才蔵寺辺り)に設けられたが、西国大名が参勤交代の折に前を通りがかると、名のある武士は下馬して花と水を手向けたと言われる。
ささやき橋(ささやきばし) / 広島県福山市鞆町後地
鞆の浦にある石畳の道の途中にある橋である。ただし2歩もあれば渡りきってしまうほどの短さであり、おそらく欄干がなければ全く道の一部と思って通り過ぎてしまうような橋である。
第15代応神天皇の頃、百済より王仁博士が来日。一行を乗せた船が鞆の浦に到着した。朝廷はこの賓客をもてなすため、接待官として武内臣和多利、官妓として江の浦を当地に派遣した。ところが、この二人は仕事で何度も会ううちにすっかり恋仲となってしまったのである。橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲はやがて上官の知るところとなり、密会を止めるように忠告された。しかしそれを止めることが出来なかった二人は罪を問われ、お互いが抱き合えないように後ろ手に縄で縛られると、そのまま海に沈められてしまったのである。
ところが、和多利と江の浦が密会していた橋のたもとで、夜ごと二人がささやきあう声が聞こえるという噂が立った。そしてその橋はやがて“ささやき橋”と呼ばれるようにあったという。
鞆の浦 / 古代より潮待ちの港として栄える。『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が残されている。
王仁 / 『日本書紀』によると、応神天皇15年に百済より日本に来る。また『古事記』によると、『論語』と『千字文』を日本にもたらしたとされ、日本に漢字と儒教を持ち込んだ最初の人物であるとされる。
千光寺 玉の岩(せんこうじ たまのいわ) / 広島県尾道市東土堂町
尾道の観光ガイドの表紙を飾る最も有名な光景が、この千光寺から海を眺めたものであろう。尾道観光の象徴であるといっても過言ではない。
千光寺は山肌にへばりつくように建てられており、その境内には多くの巨岩がある。そのいくつかには名前が付けられており、それぞれ曰くの伝承がある。中でも“玉の岩”と呼ばれる巨岩には、寺名にまつわる伝承が残されている。
“玉の岩”という名の通り、かつてはその岩の上に如意宝珠があり、夜ごと光を放ち、それは海からもはっきりと見えるほどであったという。ある時、異国人がこの寺を訪れて、この岩を買い取りたいと申し出た。住職は断ったが、異国人はそのやりとりから、住職はこの玉のことを知らないと確信した。そして岩に登ってその玉を盗み出したのであった。しかし玉を持って帰る途中、海にそれを落としてしまったという。
この玉の岩にある如意宝珠が光り輝くことから「大宝山千光寺」、また玉が沈んだ辺りを「玉の浦(現在の尾道港)」と呼ぶようになったとされる。高さ15mの“玉の岩”の天辺には、かつて宝珠があったことを示す窪みが今でもある。また、この宝珠の光を反射させて海を照らしていたとされる「鏡岩」の伝承があったが、平成12年(2000年)にその所在が明らかになっている。おそらく海上の要衝にあって、灯台の役目を果たしていた時期があったものと推察できる。
バタバタ石(ばたばたいし) / 広島県広島市中区大手町
“畳叩き”という名の妖怪がある。
夜中に畳を棒で叩くような音がするが、しかしその姿や正体は分からない。この怪現象は主に西日本で伝承されており、“バタバタ”という名で呼ばれることが多いという。
広島城下でもこの“バタバタ”と呼ばれる妖怪が現れたという記録が残されている。宝暦8年(1758年)、広島城下で最大規模の火災が発生した。その大火の後から怪現象が起こるようになったと言われる。冬の雨北風が噴出する時、筵や畳を叩くような音がするという。結局、このあたりにある、触ると痕が出来る伝わる石の精の仕業であるとされ、人はこれを“婆多婆多”と呼んだ。そしてこの妖怪が宿るとされる石を“バタバタ石”と呼んだ。
またバタバタ石の中から小人が現れて石を叩いているのを見かけた人があり、捕まえようとすると石の中に逃げ込んでしまったという。さらにこの石を持ち帰ったところ、顔に石と同じような痣が出来たために、元の場所に戻したところ痣が消えたという話も残されている。
バタバタ石があったのは六丁目という場所であり、現在の鷹野橋あたりであるとされる。タカノ橋商店街はこの伝説をもとに、商店街のシンボルとしてバタバタ石を置き、その名にちなんだ祭りをおこなっている。現在のバタバタ石は、一見道祖神のような、二人の子供が彫られたものになっている。おそらく石の精を模したものであると考えられる。
八反坊(はったんぼう) / 広島県庄原市東城町粟田
庄原市東城町の粟田という所に、江戸時代の初め、八反坊という年貢の割り当てを決める役を務めた人がいた。年貢に関する事柄で貧しい者の味方をしたために、庄屋に無実の罪を着せられ、獄死(一説には餓死)したという。その八反坊の遺言が「庄屋の家の見える丘に墓を建ててほしい」というものであり、墓が出来てからは庄屋の家にはさまざまな災厄が降りかかり、ついには血縁の者が絶えてしまったという。(中岡俊哉氏によると、庄屋の一族の血縁が絶えたのは昭和に入ってからのことになるということである)
八反坊はまさしくその来歴からわかるように、正真正銘の「祟り神」である。しかし、強力な「祟り神」は転じて強力な「護り神」となりうる。現在では、八反坊も自らの呪いを成就させることで、大願成就の神として祀られる存在となっているようである。
弥山(みせん) / 広島県廿日市市宮島町
宮島は厳島神社をはじめとして多くの神社仏閣が建ち並ぶ聖域であるが、その原点はこの島の中央部にそびえる弥山の存在である。伝承によると弥山を開いたのは弘法大師、大同元年(806年)のこととされているが、それ以前より信仰の対象となっていたと考えるべきである。標高535mの頂上付近には数多くの奇岩や巨岩があり、その山の形が須弥山に似ていることから「弥山」という名が付いたとされるなど、古来より自然崇拝に由来する山岳信仰がおこなわれていたと考え得る条件もある。
現在、弥山の頂上付近にあるのは、大聖院の本堂・霊火堂・三鬼堂などの伽藍と御山神社である。大聖院は弘法大師の開山とされている。特に霊火堂には、弥山七不思議の1つ「消えずの霊火」がある。この霊火は弘法大師が弥山を開山した際に焚かれた護摩の火を昼夜分かたず燃やし続けているもので、広島平和記念公園にある平和の灯の元火ともなっている。また、この火で沸かされた茶釜の湯は霊水と言われる。
三鬼堂は、弘法大師が開山の際に勧請したとされる三鬼大権現(サンキダイゴンゲン)を祀る。三鬼大権現は追帳鬼神(ツイチョウキシン)・時眉鬼神(ジビキシン)・魔羅鬼神(マラキシン)の三神であり、大小の天狗を眷属に従える、神通力に長けた鬼神である。元は同じ山頂付近にある御山神社に祀られていたが、神仏分離令によって三鬼堂に遷された経緯がある。
大聖院から頂上の奇岩を巡るコースから少し外れたところに、御山神社(ミヤマジンジャ)がある。ここが厳島神社の奥宮であり、主祭神である宗像三女神がこの地に降臨した場所であると言われる。
弥山七不思議 / 「消えずの霊火」・「干満岩」海の干満に合わせて穴にある水が増減する・「曼陀羅岩」弘法大師が書いた文字を彫った大岩・「錫杖の梅」弘法大師が立てかけた錫杖から生えた梅・「竜灯の杉」現存せず・「時雨桜」現存せず・「拍子木の音」深夜に人のいない場所から拍子木の音がする
宗像三女神 / 『古事記』において、天照大神と素戔嗚尊のが誓約をおこない、素戔嗚尊の十拳剣から化生した神。多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命。宗像大社の祭神であり、海上交通安全の神である。厳島神社に祀られているのも、海上交通の神であるためと考えられる。
耳明神社(みみごじんじゃ) / 広島県尾道市因島町土生町
因島にある大山神社の境内社。全国でも珍しい耳の神様であり、祈祷も出来る。孫の耳が聞こえなくなったために、お祖母さんがこの神社に「耳を治してください」と祈願したところ、だんだんと聞こえるようになったことから信仰を集めるようになったと言われている。
参拝の作法が変わっており、「耳明さん、耳明さん」と唱えながら、社の右の柱をこぶしで軽く叩くのを3回繰り返してから願い事をすることになっている。また耳の形に似ているということで、祈祷の時にはさざえを奉納するしきたりもある。その際には、さざえの殻に酒と米を入れたものをお供えする。
大山神社 / 宝亀4年(773年)に大三島の大山祇神社から分霊、創建された。因島最古の神社とされる。主祭神は大山積神。土木の神として崇敬を集める。
若胡子屋跡(わかえびすやあと) / 広島県呉市豊町御手洗
瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の東端にある御手洗は、かつて西国大名の参勤交代から西回り航路の廻船までが風待ち・潮待ちをする港町として栄えた。今でこそ鄙びた風景であるが、その歴史を感じさせる町並みは、重要伝統的建造物群保存地区として指定されている。
その建物の中でもひときわ立派なものが、若胡子屋という待合茶屋の跡である。主屋の梁に屋久杉を使うなどの贅をこらした店構えもさることながら、最盛期には遊女や芸妓を100名以上抱えていたという繁盛ぶりであったと言われる。現在では御手洗地区の資料館のような扱いとなっており、中を自由に見学できる。その建物の片隅、おそらく店の正面からは見えないような位置に、狭い階段が取り付けられている。これを上ったところは、店に出る女達の控えの間であったとされる。そしてこの部屋の壁の一部だけは、若胡子屋が営まれていた頃のまま残されている。
……ある時、一人の花魁が店に出る準備をするために、この部屋で身繕いをしていた。お付きの禿(かむろ)がお歯黒の鉄漿を用意する。ところが、今日に限って上手く付けることが出来ない。そのうち座敷からは呼び出しが掛かる。焦れば焦るほど、さらにお歯黒は上手くいかない。遂に苛立ちを爆発させた花魁は何を思ったのか、いきなり煮立った鉄漿を、そばに控えていた禿の口に注ぎ込んだのである。
どす黒い血を吐き出し、のたうち回る禿。焼けただれた喉から声にならない悲鳴を絞り出しながら、血まみれの手を壁に這わせて立とうとするが、やがて力尽きてその場で事切れてしまった。結局、花魁はお咎めなし、小さな骸だけが夜陰に紛れて店の外に運び出されただけであった。
ところが次の日から、その花魁が部屋で支度をして鏡の前に立つと、死んだ禿の姿が映り込むようになる。さらに「お歯黒つけなんしたか」という禿の声を聞くに至り、花魁は店を出て、四国八十八箇所巡りをして禿の霊を慰めたという。……
この“女郎鉄漿事件”の舞台が、この若胡子屋の2階の部屋であり、不自然な形で昔の壁面が残されている部分には、死んだ禿が付けた血染めの手形がうっすらと見えるという。さらにがらんとした部屋の隅には、禿の霊が映し出されたという鏡が置かれている。
若胡子屋の裏庭には、なぜか一基だけ墓石がある。八重紫と墓石に刻まれているが、この八重紫こそが、上の事件を起こした花魁であるとまことしやかに伝えられている。
若胡子屋 / 享保9年(1724年)に、広島藩より茶屋の営業許可を受ける。現在の建物はこの時期に出来たものとされる。明治になって、回船業の衰退と共に廃業となった。また若胡子屋には、店の抱える遊女は99名が上限で、新しく1名増えると、必ず店の遊女が1名死んで99名となってしまうという伝説も残されている(この禿の祟りという説もある)。 
 
 
山口県 / 周防、長門

 

鳥取島根岡山広島山口

我命わぎのちを長門の島の小松原 幾代を経てか神さび渡る 万葉集
熊毛の神 / 熊毛郡熊毛町
熊毛郡は古代周防すはう国の中心部であるといふ。式内社の熊毛神社は、熊毛町の熊毛神社のほかいくつか候補地があるやうだが、三毛入野みけいりの命(熊毛の神)をまつるといふ。三毛入野命は、神武天皇の次兄にあたり、日向国を出て東征の途中、船が周防の海で暴風雨に遭ったとき、身を海中に投じて、船の安全をはかった航海の守護神とされ、また穀物の神ともいふ。
○ 沖辺より潮満ち来らし 韓からの浦に求食あさりする鶴たづ 鳴きて騒きぬ 万葉集
熊毛町の北部の八代には、現在も鶴の飛来地がある。
○ 籾拾ふ鶴のまどゐを乱すまじ 松野自得
釜戸の関、祝島 / 熊毛郡上関町
室津半島の南に浮かぶ長島(上関町)は、竃島ともいひ、古くは海駅が設けられ、釜戸かまどの関があった。
○ 朝凪にあまの刈るてふ藻塩草 たくや釜戸の関といふらん 足利義満
長島の西の祝島に、天平八年に遣新羅国使が立ち寄って詠んだ歌が、万葉集にある。
○ 家人は帰り早来と いはひ島斎いはひ待つらむ 旅行くわれを 万葉集
○ 草枕旅行く人をいはひ島 幾代経るまで斎ひ来にけむ 万葉集
祝島には海上守護の神として宮戸八幡宮がまつられてゐる。
周防のみたらし / 光市
むかし室積(光市)の普賢寺で、性空上人が、生身の普賢を拝み奉りたいと祈ったところ、七日目に童子が現はれていふには、「室の遊女長者を拝め」と言った。上人が室に出かけると、遊女長者は上人に酒を勧めて、歌を歌った。
○ 周防のみたらしの沢辺に風の音つれて 
他の遊女たちが囃した。
○ ささら浪立やれ
上人が目を閉ぢると、遊女長者は普賢菩薩となって眉間から光を放ち、かすかな声でお経をつぶやいた。目を開くと、もとの遊女の姿でみたらしの歌を歌ってゐたといふ。三十一文字の歌も伝はる。
○ 周防のむろつみの中なるみたらひに風は吹かねどささら波立つ
室積の浦は、平安時代の末、鹿ヶ谷事件で鬼界が島へ流罪を言ひ渡された平康頼が、船で護送される途中しけにあひ、仮泊したところである。このとき康頼は、普賢寺の僧をたづねて出家し、性照の名をもらった。
○ つひにかく背きはてける世の中は とく捨てざりしことぞ悔しき 平康頼
康頼は、のち許されて、鬼界が島から京へもどったといふ。
防府 / 防府市
防府市には、周防国府があった。一宮の玉祖神社の祭神一座は玉祖命で、玉造連の祖とされる。他の一座は不詳だが、祭には常に二座分の御供物を献るしきたりだといふ。
防府天満宮は古く松崎天神社といひ、菅公没後最初に建てられた天満宮だといふ。近くの松の山を「くはの山」といひ、浜では塩が焼かれた。
○ 花すすきまそほの糸を乱すかな しづが飼ふこのくはの山風 今川了俊
防府市出身の俳人の句。
○ 雨ふる故郷ははだしであるく 種田山頭火
仁壁神社 / 山口市大字宮野神織機
山口市の仁壁にかべ神社は、もと仁戸宮に へのみやといった。「にへ」とは新穀の意味で、秋の初穂を神にたてまつったことに由来する名なのであらう。
○ 民安き秋のまもりや稲の宮 細川輝元
鎮座地は大字宮野神織機で、地名から察するに養蚕や機織も盛んだったのだらう。
忌の宮 / 下関市長府宮ノ内
下関市の忌宮いみのみや神社は、仲哀天皇と神功皇后をまつる。ここは九州を平定された仲哀天皇の穴門豊浦宮あなとのとゆらのみやの跡である。天皇は筑紫の香椎宮か しひのみやで崩御され、長府のこの地に埋葬されたといふ。皇后は新羅に出兵され、帰国して天皇の霊をここに鎮めまつったといふ。
○ 遥々とから(韓)ををさめて忌の宮 いみじかるべき大御稜威おほみいつかな 高崎正風
犬鳴山 / 豊浦郡豊浦町
景行天皇が豊浦の安須波あすはの原をお通りになったとき、犬鳴山の姫菖蒲に魅せられて、往いぬことが出来なかったといふ。往ぬこと無きから犬鳴山(稲城山)の名がついたとされる。
○ 長門なる稲城山の姫あやめ 時ならずして如月きさらぎに咲く
この地には福徳稲荷神社(豊浦郡豊浦町宇賀)がまつられてゐる。
平家の伝説 / 下関市 壇ノ浦
下関の赤間神宮は、壇ノ浦に入水された安徳天皇をまつって創建された神社である。幕末までは阿弥陀寺といふ寺で、ここで足利三代将軍義満が、平家蟹なるものを見て詠んだ歌がある。
○ 過ぎし世のあはれに沈む君が名を とどめ置きぬる門司の関守 足利義満
三年寝太郎 / 厚狭郡 寝太郎荒神
厚狭あさ郡山陽町あたりに、むかし寝太郎といふ男が住んでゐた。働くことをせず、三年三月のあひだ寝て暮らして、蓄へをすべて食ひつぶしたといふなまけものだった。ところが寝太郎は、厚狭川の中流の柳瀬の堰から水路を引くことを考へ、それを実行して、のちに千町せんちょうヶ原と呼ばれた厚狭盆地の美田地帯を作ってしまったのである。寝太郎は、厚狭駅の南の寝太郎荒神にまつられてゐる。
○ あさもよし さ寝てし居れば 三月つき三とせに流る ゆふ襷かな
荒神とは、竈の神を意味することも多いが、中国地方では、土地や家の守り神でもあり、農業や路傍の神でもあり、関東の稲荷様に似たものらしい。真言宗の影響で広まったともいふ。
涙松 / 萩市大屋
萩の城下を出て山口街道を行く途中に松並木があり、旅人が別れを惜しむ場所なので、涙松と呼ばれた。安政六年、江戸伝馬町の獄へ送られる吉田松陰が、ここを通ったとき、詠んだ歌。
○ 帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほ濡るる涙松かな 吉田松陰 
 

 

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鳴門(なると) / 山口県玖珂郡大畠町・同大島郡大島町
岩国から柳井やないへ瀬戸内海を左に眺めながら南下すると、海上に一際大きな屋代島やしろじまが迫ってくる。屋代島は周防大島とも呼ばれ、柳井の手前大畠おおばたけで本土に最も接近する。このあたりの海峡を鳴門あるいは瀬戸と称し、鳴戸・鳴渡・迫戸・迫門とも書かれてきた。近世、行政的には神代こうじろ村(現玖珂郡大畠町)に属したが、一般には大島の鳴門・大畠の鳴門と呼ばれてきた。
『古事因縁集』に「周防大島大畠ノ瀬戸ハ阿波ノ鳴門ノ如ク、潮ノ満干ニ鳴音天地ニ響キ、水曲大ニシテ車ヲ廻スガ如シ」と記され、鳴門の由縁と情景をうかがうことができる。
鳴門は古くから多くの人々によって歌に詠まれてきた。『万葉集』巻一五に、
大島の鳴門を過ぎて再宿ふたよを経て後に、追ひて作る歌二首
これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に 玉藻刈るとふ海人あま娘子をとめども
右の一首は田辺秋庭のなり
波の上に浮寝せし夜よひ何あど思へか 心こころ悲がなしく夢いめに見えつる
とある。また『後撰和歌集』巻九に
女につかはしける
人しれず思ふ心はおほしまの なるとはなしに歎くころかな
『続古今和歌集』第一八に、題しらずとして、
思ふことなほしき波に大島の なるとはなくて年の経ぬらむ
『夫木和歌抄』巻二一に、藤原在氏の歌として、
おほしまのなみだのかけぢに汐満ちて けふは鳴門に泊りぬるかな
など多く、『万葉集』に倣ってか、大島の鳴門と詠まれたものが多い。
『万葉集』に「名に負ふ鳴門の渦潮」と詠まれたように、早くから瀬戸内航路の難所として知られていた。『古事因縁集』の記す満干時の激しい潮流に加えて、多くの岩礁があったらしく『玖珂郡志』は、刑三郎礒、中礒、重石、テマリ岩、坊主石、メウト岩、通り洲などをあげている。
『陰徳太平記』はその様子を、
大畠ノ東ナル迫戸ハ、阿波ノ鳴門ニ待たいシテ、龍宮ノ西門ニ当リ、山陽西海ノ万水此所ニ朝宗シ、怒濤奔流蹴呉天陥巫峡、氷岸横飛、雪崖傍射、両岩相撃遑々遉噤X、水渦盤旋タル、其深キ事無底ノ谷ニヤ通スラン、坤輪際ニヤ至ラン、鳥惧龍驚、舟人目眩、漁子心寒、阿波鳴門ニ勝ハスルトモ劣ルベキニ非ズ、
と描写している。康応元年(一三八九)三月、厳島に詣でた足利義満一行は、筑紫をさしてさらに下向したが、鳴門夜航の危険を避けて神代海上で停泊し一夜を過した後に通っている(「鹿苑院殿厳島詣記」)。
鳴門を西航する船にとって、おおよそ真西に当る伊保庄いほのしょうの峰に、漁民や航海者の信仰を集める般若寺(現熊毛郡平生町)がある。『巌邑志』によれば、用明天皇の皇女般若は筑紫真野から都に向う途中、この鳴門で遭難し、亡くなったという。用明天皇は般若の死を悲しみ、伊保庄の峰に御陵を築き、般若寺を建立したと伝える。般若寺は般若姫の菩提を弔うのみでなく、鳴門を航行する船の目標となって安全に通過できるようにとの願いによって、伊保庄の峰が寺地に選ばれたという。『巌邑志』は「所モ多キニ彼山ニ建給事ハ、永世鳴門ノ迫門ヲ越船ノ水標ト為シ、可乗塩路ヲ知ラシメテ、盤渦逆浪並海中ノ大皷ニモ不当、末代舟人ノ安穏ニ此迫門ヲ可通トノ御恵ニテ」と記す。
般若寺には毎年一二月晦日の夜、鳴門の底より龍燈が登るという(『防長風土注進案』)。
鳴門の両岸に位置する神代の鳴門神社や、小松こまつ(現大島郡大島町)の飯の山に鎮座して鳴門で水死した者の供養に建てられたと伝える五重の小石塔のある大多麻根おおたまね神社にも、般若姫伝説や龍燈伝説があり、漁民や航海者の信仰を得ている。かつて般若寺とともに、鳴門航行の目標としての役割を担っていたものと思われる。
鳴門の西端部に周囲一里ほどの笠佐島かささじま(現大島郡大島町)が浮ぶ。天明の頃の開発と伝え、現在二十数戸の小集落がある。全戸が浄土真宗で遠崎とおざき(現玖珂郡大畠町)の妙円寺の檀家。「かんまん宗」の島といわれ、方角・日柄の禁忌が全くなく、神棚や位牌も安置しない。火葬に付したあとの骨の一部を西本願寺の大谷本廟へ納めるだけで、墓もつくらないという。因みに「かんまん」とは「気にしない」「かまわない」という意味の方言で、浄土真宗の宗風をさしたという。
鳴門を隔てた大島と本州との交流は、小松・柳井・大畠などが玄関口となった。近世、小松湊では常設の萩藩の御用船一艘のほか、大勢の小船持ちがその役割を担っていた。これら海に生活をした人々にとって、最も危険であった鳴門に、現在では大畠と小松を結ぶ大島大橋が架けられ、鳴門遭難の悲しい話もなくなった。 
赤間神宮(あかまじんぐう) / 山口県下関市阿弥陀寺町
寿永4年(1185年)3月24日、権勢を誇った平家一門は壇ノ浦に滅亡し、幼帝・安徳天皇は祖母の二位の尼に抱きかかえられ入水する。その御霊を慰めるために建久2年(1191年)に創建されたのが御影堂(阿弥陀寺)である。その後、明治となってから神仏分離令によって阿弥陀寺は廃され、安徳天皇を祭神とする天皇社ができる。そしてその社が改称され赤間神宮となる。さらに境内にあった御陵が安徳天皇陵として治定された(あくまでも有力な比定地である。伝承では各地に安徳天皇が落ち延びたとされる場所があり、そこにもいくつかの宮内庁管理の陵がある)。
赤間神宮の神門は“水天門”と呼ばれ、竜宮城を模して作られている。これは二位の尼が安徳天皇と共に入水する際に「浪の下にも都の候ぞ(波の下にも都がございます)」言ったことに由来する。
さらに境内には“七盛塚”と呼ばれる、壇ノ浦に散った平家一門14名の墓がある。天明年間(1781-1789)に、海峡に嵐が続いて船の行き来ができなくなった時、真夜中になると海上をさまよう平家の武者や女官の亡霊が目撃されたため、祟りであると考えた地元の人々によって平家一門の墓が集められ、そして墓を京都の方角に向けて供養をしたところ嵐は収まったという。そしてそのそばには「耳なし芳一」で有名な“芳一堂”がある。
赤間神宮がまだ阿弥陀寺であった頃、芳一という名の盲目の琵琶の名手があった。ある夜、侍がやってきてある貴人の前で琵琶の曲を披露せよという。請われるまま琵琶を弾き語り、また次の夜も呼ばれるまま赴いた。それが毎夜続くため、寺の者が後を追うと、芳一は平家の墓の前で琵琶を弾き語っていたのである。琵琶の腕を見込まれて亡霊に取り憑かれたと察した住職は、芳一の全身くまなく経文を書き、呼ばれても返事をするなと命じた。夜が更けて亡霊がやってくるが、芳一は声を出さない。経文が書かれているために亡霊には芳一の姿が見えなかったが、宙に浮いた両耳を来訪した証としてむしり取っていった。……翌朝、耳をなくし気を失っている芳一を見て、住職は耳にだけ経文を書き忘れたことに気付いたのであった。それからこの噂が広まり、芳一はさらに名声を上げたという。
赤間神宮は、平家滅亡に端を発して創建され、その悲しい伝説を今もなお擁しているのである。
安徳天皇 / 1178-1185。第81代天皇。数え3歳で即位し、8歳で崩御。母は、平清盛の娘の建礼門院徳子である。
二位の尼 / 1126-1185。平時子。平清盛の正妻。従二位の地位にあったため“二位の尼”と称される。
安徳天皇陵 / 宮内庁管理の参考地は、山口県下関市(阿弥陀寺陵とは別の場所)、鳥取県鳥取市、高知県越知町、長崎県厳原町、熊本県宇土市にある。それ以外にも、大阪府・鳥取県・徳島県・鹿児島県などにも分布している。
七盛塚の14名 / 知盛(清盛の四男)・経盛(清盛の次弟)・教盛(清盛の三弟)・教経(教盛の次男)・資盛(重盛の次男)・清経(重盛の三男)・有盛(重盛の四男)・忠房(重盛の六男)・家長(家臣)・忠光(家臣)・景経(家臣)・景俊(家臣)・盛嗣(家臣)・二位の尼。全員が壇ノ浦で亡くなっているのではなく、清経は豊前で自害、忠房・忠光・盛嗣は壇ノ浦後に刑死となっている。
鯨墓(くじらばか) / 山口県長門市通
長門市仙崎から橋を渡り、青海島(おうみしま)の東端まで行くと、古式捕鯨が盛んであった通(かよい)という漁港に着く。その少し高台になった、清月庵観音堂の境内に鯨墓がある。
元禄5年(1692年)に建てられた墓には、明治の初め頃までに捕らえられた鯨の胎児が約70頭ほど埋葬されている。墓の願主は、この地の捕鯨の組頭3名。そしてこの墓を建てるように進言したのは、近くにある向岸寺の5世住職・讃誉上人であったという。
この鯨墓には「南無阿弥陀仏」の六字名号の下に次のような文言が刻まれている。
業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証仏果
(前世の因縁で宿業が尽き果てて捕らえられた鳥獣は、放してやったところで生きてはゆけない。故に成仏できる人間の中に取り入れられて、同化して仏果(成仏)をするのがよい)
生活のために鯨を捕らねばならぬ、しかしそのために罪のない胎児までも殺生することを悲しみ、人に等しい弔いの気持ちを示して成仏を願う文言であると解釈したい。
この鯨墓建立に寄与した讃誉上人が住持を務めた向岸寺には、この鯨墓と同じくして作られた鯨位牌、捕らえた鯨に戒名を与え記載した鯨鯢過去帖が存在する。そして明治以降捕鯨が廃れた(一説ではアメリカなどの捕鯨船が日本近海で乱獲したためと言われる)後も、毎年鯨のために回向をおこなっている。
栗山孝庵女刑屍体腑分之跡碑(くりやまこうあんじょけいしたいふわけのあとひ) / 山口県萩市椿
萩往還は、長州藩の藩庁のあった萩から山口を経て防府に至る、約50kmの街道である。長州藩にとって最も重要な街道の1つであり、古くから整備されて多くの往来があった。こういう街道の、城下から少し離れた場所にはおおよそ処刑場があった。萩往還もその例に漏れず、大屋刑場があった。
道の駅萩往還から数分の場所に刑場跡がある。名残としてその場所にあるのは、供養のために作られた大きな地蔵と、大きな石碑である。この石碑が「栗山孝庵女刑屍体腑分之跡」と呼ばれるものである。
日本で最初の腑分(人体解剖)は、宝暦4年(1754年)、京都の漢方医・山脇東洋らによるものであった。そして4年後の宝暦8年(1758年)に2番目の腑分をおこなったのが、栗山孝庵である。その時は男性の遺体を使ったのであるが、翌年の宝暦9年に、日本で最初の女性の解剖をおこなったのである。この偉業を讃えるために造られたのが、この大屋刑場跡にある石碑なのである。
記録によると、腑分に使われた罪人の素性ははっきりしている。萩城下の川上村の百姓・久衛門の妻の阿美濃(おみの)という女性である。処刑された時の年齢は17であった。暴力に耐えかねて夫を殺した罪ということで、本来は磔刑となっていたのであるが、内臓が傷つくという理由から、孝庵が藩に働きかけて斬首刑に変更してもらったという。
栗山孝庵 / 1731-1791。毛利家の侍医を務める。山脇東洋の高弟であり、腑分を積極的におこなったのも、東洋の影響が大きかったと考えられる。
禅師河童(ぜんじかっぱ) / 山口県美祢市秋芳町秋吉
秋芳洞へ通じる土産物屋の通りに変わったオブジェがある。一人の僧侶を取り巻くように数体の河童がいる銅像である。これがこの地域に伝わる「禅師河童」を顕彰する像である。
正平9年(1354年)、この地方を大干魃が襲った。水がなくなり田畑は枯れてしまった。この災害に、自住寺の寿円禅師は21日間の雨乞祈願を発願し、瀧穴(現在の秋芳洞)に籠もった。
一方、この瀧穴にある龍が淵に住む河童がいた。この河童も大干魃には勝てず、川で魚が捕れなくなり、とうとう殺生禁断の自住寺の放生池の鯉を一匹失敬してしまったのである。その直後から、住職の寿円禅師が瀧穴に籠もって祈祷を始めたので、河童は鯉を捕ったことを咎めて呪いを掛けているものと勘違いをした。そこで寿円禅師の祈祷の邪魔をするが、禅師は一向に相手にしない。そのうち河童はその一心さに心打たれ、自ら仏弟子と称して禅師の手伝いをするようになった。
そして満願の日、禅師の祈りが通じたのか、朝から一天かき曇り大雨となった。瀧穴の中で激しい雨音を聞き取った禅師は大願成就を悟ると、自らの命を天に捧げるために龍が淵の激流に身を投げたのであった。それを見て驚いたのは河童である。禅師を助けようと淵に飛び込んだが、急な大雨で激流となった川で禅師を流さないように守るだけで精一杯。そしてもがいているうちに二つの影は濁流の吞まれていった。
そして数日後。自住寺近くの川で、村人は寿円禅師の遺体を見つけた。そしてそのそばには河童の死体もあったが、村人が禅師の遺体を引き揚げるのを見届けると、安心したかのようにそのまま川下へ流れていったという。村人は河童の行いを知るに至り、禅師河童と名付けてその徳を称え、厚く弔ったという。
寿円禅師の遺体は荼毘に付され、その遺骨と灰を土に練り込んで禅師の姿を模した塑像(遺灰像)が造られた。現在、この像は秋芳洞入り口のそばにある開山堂の中に安置されている。
大寧寺 大内義隆の墓(たいねいじ おおうちよしたか) / 山口県長門市深川湯本
大寧寺は応永17年(1410年)に創建された、長門国屈指の古刹である。天文20年(1551年)にこの地で起きた“大寧寺の変”は、戦国時代の下剋上を象徴する事件として有名である。
西国随一と言われた大内義隆は、中国地方ばかりではなく、天文年間の初めには九州にも版図を拡大する勢いであった。しかし天文11年(1542年)に、山陰に勢力を持つ尼子氏に大敗してから、軍事はおろか内政までも顧みることなく遊興に明け暮れていた。やがて筆頭家老で武断派の陶隆房(後の晴賢)と義隆の近臣である文治派の相良武任が衝突。隆房は義隆の言動に対して不信を極め、謀反を企てるようになった。しばらくして謀反の噂は公然のものとなったが、義隆はそれを特に気にするようなこともなく、均衡状態が続いた。
天文20年8月末、陶隆房は兵を挙げて、居城のある山口へ向かい、大内家の多くの武将は隆房の行動に同調した。対して義隆は、陶軍の山口到着の前日まで酒宴を開くなどして、全く無防備の状態。主立った家臣で味方となったのは冷泉隆豊のみで、わずか1日で山口を追われた。さらに船で逃れようとするが嵐のために叶わず、深川にある大寧寺に逃げ込んだのである。
大寧寺に残る逸話では、寺に着いた義隆は顔を洗おうと兜を脱いで池のほとりに立ったが、自分の姿が池に映っていないことに気付くと同時に死を覚悟したとされる。そして義隆は隆豊と共に大寧寺住職より戒名を授かり、翌日、境内で自害して果てた。義隆を介錯した隆豊も、経蔵に立て籠もると割腹し、その腸を投げつけて最期を遂げたという。
大寧寺本堂裏山の頂上付近に、大内義隆の墓と最後まで付き従った家臣の墓、さらにはこの謀反の際に山口に滞在して命を落とした三条公頼の墓がある。大寧寺はこの乱によって焼失するが、後にこの地を支配した毛利氏によって再興され、長州藩時代も引き続き崇敬を受けている。
大内氏 / 百済の聖明王の三男・琳聖太子を祖とする。はじめは多々良氏と称し、周防介として周防国を実効支配し、御家人となる。南北朝時代に、室町幕府に味方する代わりに周防・長門2カ国の守護職を得る。それ以降有力守護大名として栄える。
大内義隆 / 1507-1551。周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前の守護。大寧寺の変の印象のため文弱とされるが、治世の前半は戦国大名として大内氏の最大版図を得るなどの力量があった。文化保護にも篤く、居城の山口には京都から下ってきた公家が多く滞在して、文化が発達した。また渡来してきたザビエルとも謁見し、布教を認めている。
陶晴賢 / 1521-1555。大内氏の重臣。大寧寺の変で大内義隆を自害に追い込み、実質的に遺領を支配する。しかし大内家臣団をまとめきれず、さらに台頭してきた毛利元就の謀略により厳島の戦いで敗死する。
大内氏のその後 / 義隆の嫡男・義尊は義隆自害の翌日に捕らえられて殺害される(享年7歳)。次男・亀鶴丸(義教)は母方の実家が陶方であったために助命される。そして大内家の当主は、大友宗麟の弟で、義隆の猶子となっていた義長が、陶晴賢に担ぎ出されて収まった。しかし厳島の戦いで晴賢が敗死すると、後ろ盾を失って毛利元就に攻められて自害する。ここに大内氏は滅亡する。大内義長が自害した直後に義隆の次男の義教が大内家臣に担ぎ出されて抵抗するが、処刑。さらにその2年後、大友氏に寄食していた大内一族の大内輝弘が、大友宗麟の策によって周防国内で挙兵するが、こちらも鎮圧された。最終的に、大内領の周防と長門は毛利氏のものとなった。
二尊院 楊貴妃の墓(にそんいん ようきひのはか) / 山口県長門市油谷
楊貴妃は唐の玄宗皇帝の寵愛を受け、その結果、国が傾くほどの混乱(安史の乱)が起こってしまう。その責に負わせるかのように、楊貴妃は逃亡のさなかに殺され、その生涯を終える。これが史実である。ところが、楊貴妃は中国で死んだのではなく、日本に亡命してきていたという伝説が残されている。
長門市にある二尊院には、楊貴妃の墓と呼ばれる五輪塔が残されている。土地の伝承によると、玄宗皇帝の悲嘆を察して、楊貴妃は殺されることなくうつろ舟に乗せられて海に流され、やがて長門の地に漂着する。しかし間もなく当地で亡くなり、埋葬されたというのである。
その後、玄宗皇帝の夢枕に楊貴妃の霊が現れ、日本に漂着して亡くなったことを伝えた。そこで追善供養のために、唐の秘仏である釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を日本に送ったのである。しかし、楊貴妃が日本のどこで亡くなったのかが分からないため、この仏像は都の寺院に長らく置かれていた。やがて楊貴妃の墓が長門にあることが判り、二仏も長門へ移す命が下るが、長年都に置かれていたことから長門へは名仏師が模刻したものを渡すことになった。これが現在もある二尊院の本尊である。
二尊院は寺伝によると大同2年(807年)に最澄が建立したとされ、楊貴妃の生きていた時代よりも後の時代に建てられたものである。また玄宗皇帝が二仏を日本へ送り届けたという話もなく、また都(京都または奈良)にそのような由来を持つ寺院はない。おそらくさまざまな言い伝えが重なり合ってできた伝承なのだろうが、ただ非常に不思議な魅力に溢れるものであることは間違いない。現在、二尊院周辺はちょっとしたテーマパークのような小公園になっている。
楊貴妃 / 719-756。玄宗皇帝の寵姫。皇帝が楊貴妃の親族を高官にしたり、寵愛のあまり政治を顧みなくなったことから世情が乱れ、やがて安史の乱を引き起こす元凶とされた。絶世の美人とされ、絵画や文学などで題材として取り上げられることが多い。
玄宗 / 685-762。唐の第6代皇帝。治世の前半は善政を敷き、唐の最盛期を迎える。しかし後半は楊貴妃を寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こすなどした。
安史の乱 / 755-763に起こった大規模な反乱。楊貴妃の従兄で宰相である楊国忠と、節度使(地方統括者)の安禄山との皇帝の寵を競う対立から起こる。強大な軍事力を持つ安禄山が首都を奪取、政権を崩壊させる。楊国忠は逃走中に殺害され(直後に楊貴妃も殺される)るが、乱は治まらず、安禄山の死後は部下の史思明が反乱を継続する。
萩城址(はぎじょうし) / 山口県萩市堀内
萩城は長州藩毛利家の居城であり、日本海に面した指月山一帯に造られた城である。
豊臣政権下では120万石を誇った毛利家であるが、関ヶ原の戦いで立場は一挙に悪くなる。西軍の総大将に当主の毛利輝元が担ぎ上げられたが、その裏で東軍とは戦わず本領安堵の約束を徳川家に取り付けていた。ところが、実際には長門・周防の2カ国のみ、36万石にまで大幅な減封を余儀なくされたのである。さらに新しい居城の建築を幕府に打診したところ、候補地の中で最も遠隔地となる萩を指定された。これらの仕打ちに対して毛利家では、常に幕府に対して恨みを持ち続けたと言われる。
その恨みの深さを知らしめる伝説がある。
萩城は慶長9年(1604年)から築城が始まり、強制的に隠居させられた毛利輝元は、着工したばかりのその年に居を構えている。そして翌年の正月以降、以下のような新年の挨拶が取り交わされたという。
主席家老が藩主に対し「今年はいかがで……」と問い掛け、藩主が「時期尚早じゃ」と答える。たったこれだけのやりとりであるが、秘中の秘とされ、確証のない噂だけが流れた。家老の問い掛けは「幕府を討つのは今年か」という意味であり、それに対して藩主は「まだだ」と答えるのである。この秘密の儀式は毎年萩城内で続けられたという。
元治元年(1864年)正月。前年に攘夷を決行し、さらに京都から追放されて幕府との対決に舵を切っていた長州藩の新年の挨拶は、今までのものとは異なっていた。毛利家伝来の大鎧を身に着けた藩主・毛利敬親と、具足を着けた家臣一同の間には、例の問答をおこなう必要はなかった。ただ、前年に藩主は山口に政庁を移転しており、萩城内の出来事ではなかったのである。
毛利輝元 / 1553-1625。毛利元就の長子・隆元の嫡男。父の隆元急死のため、祖父より家督を継ぐ。豊臣政権下では五大老の一人となる。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として大阪にあったが、最終的には一戦も交えないまま徳川家に降伏する形となった。領地減封の際に隠居。関ヶ原の戦いにおける一連の行動から暗愚と評される。
毛利敬親 / 1819-1871。長州藩第13代藩主。村田清風・周布正之助らを登用して藩政改革に成功して雄藩の基盤を作る。また高杉晋作などの有能な若者を取り立てて、一気に倒幕を推し進めた。明治維新後は藩主として版籍奉還をおこない、直後に隠居する。
平家の一杯水(へいけのいっぱいみず) / 山口県下関市前田
国道9号線沿いに案内があり、階段を使って浜辺へ下りると、鳥居と覆い屋のある井戸がある。これが平家の一杯水と呼ばれる伝承地である。
寿永4年(1185年)平家は壇ノ浦で滅亡する。その戦いのさなか、平家方の武将の一人が傷つき、壇ノ浦の浜辺に命からがら辿り着いた。喉が渇いて辺りを見回すと、少しばかり水が湧いているところがあった。武将は手のひらで水をすくうと、一口喉を潤した。その味はまさに甘露であった。あまりの上手さに夢中でもう一杯と水を口に含んだ途端、今度は吐き出した。水は先ほどとは打って変わって全くの塩水となっていたのである。
現在でもこの湧水はあり、元日の若水は近くの赤間神宮に供えられるという。
麻羅観音(まらかんのん) / 山口県長門市俵山
男根崇拝をはじめとする性に絡む信仰は、多産や豊穣を祈る祭りと繋がり、あけっぴろげな大らかさに溢れた、いわゆる「陽」の要素を前面に押し出した雰囲気を持つ。しかしこの麻羅観音は、国内屈指の男根崇拝の地とされながら、その由来は陰惨である。
天文20年(1551年)、西日本最大の戦国大名であった大内義隆が、重臣の陶晴賢(当時は隆房)の謀反によって自害するという大寧寺の変が起こった。これによって一族は詮議を逃れるために潜伏を余儀なくされた。義隆の末子の歓寿丸も5歳であったが、当然追っ手が迫り、翌年には俵山に潜伏しているところを発見されて討ち取られた。しかし女装をしていたため、男児である証拠として男性器を切り取って陶晴賢に報告されたのである。
その後、惨い最期を遂げた歓寿丸を哀れに思った村人が観音堂を建てたという。境内に林立する男根は、男性器を失った歓寿丸に対する供養から始まったのではないかと推測するが、今では珍スポットとしての知名度が高くなってしまった感がある。
大内義隆 / 1507-1551。周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前の守護。本拠地である山口は、戦乱の京都を逃れた公家によって文化が発達、またザビエルも来訪する屈指の都市であった。しかし対立する尼子氏との戦いで大敗して後、厭戦気分となって政務を怠り、ついには重臣の陶晴賢の謀反を引き起こすこととなる。大寧寺にて自害。
陶晴賢 / 1521-1555。大内氏の重臣。武断派であり、厭戦気分となった主君の義隆と相容れなくなって謀反を起こす。義隆を排除した後は、大友氏から養子の大内義長を立てて臣従する形で領国支配をするが、最終的に厳島の戦いで毛利元就に敗れて敗死。
大寧寺の変 / 大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって大寧寺で自害した事件。義隆の嫡男・義尊は義隆自害の翌日に捕らえられて殺害される(享年7歳)。次男は母方の実家が陶方であったために助命(変の6年後、大内義長が自害した直後に旧臣によって大内家当主として担ぎ出されるが、鎮圧され処刑)。伝承に登場する歓寿丸については、その実在は不明である。ただいずれの子供も無残な最期であると言ってよい。 
 
 
四国地方  
    四国札所巡り (四国八十八箇所)
    札所巡り考
徳島県 / 阿波

 

徳島香川愛媛高知

昔より浪華なにはいろ里の阿波大尽だいじん、国びと藍を植ゑて富みにき中村憲吉
大麻比古の神 / 鳴門市大麻町
神武天皇の御代に、天太玉あめのふとだま命(大麻比古神) の孫の天富命あめのとみのみことが、阿波国に渡り、麻楮を栽培して麻布木綿を生産した。その守護として先祖の大麻比古神をまつったのが、阿波一宮の大麻比古神社(鳴門市大麻町)である。配祀の猿田彦大神は、古くより大麻山の峯(奥宮)に鎮座してゐた神といふ。
天太玉命は、天照大神が天岩戸に籠られたときに白和幣しろにぎてを納めて祝詞を奏上した神である。その白和幣を作ったのは天日鷲神あめのひわしのかみで、麻殖神をゑのかみとも呼ばれ、徳島市の忌部いんべ神社にまつられ、阿波の忌部氏の先祖とされる。忌部氏は中臣氏とともに大和で宮廷祭祀を司り、紀伊、讃岐、出雲などに移住した忌部一族は、祭祀の神宝や神具を調製した。
鳴門市大麻町には、四国八十八ヵ所一番札所の霊山寺がある。
○ 霊山りょうせんの釈迦の御前に巡り来て よろづの罪も消え失せにけり 御詠歌
四国には、成人した男女は必ず一回は遍路の旅に出なければならないとされた村も多かった。
阿波の鳴門
むかし一条天皇の御代に、阿波の鳴門が鳴動してとどまることがなかったといふ。歌を詠んでそれを鎮めたといふ話が伝はる(岩手県「横山の禰宜」参照)。
○ 山畑に作りあらしのえのこ草 あはのなるとは誰かいふらん 奥州横山の神官
○ えのこ草種はおのれとなるものを あはのなるとは誰かいふらん 和泉式部
鳴門市撫養町は、貝合かひあはせに使ふ蛤の名産地だった。
○ 便りあらば撫養むやのはまぐりふみ見せよ はるかなるとの浦にすむとも 源宗光女
土御門院 / 板野郡土成町 御所神社
承久の変で父帝の後鳥羽院が隠岐へ流されると、御子にあたる土御門つちみかど院は自らすすんで土佐へお移りになり、さらに阿波国にお移りになった。阿波の吉田の御所屋敷に行宮を営まれた。その地(板野郡土成町宮川内)に院の霊をまつったのが御所神社である。
○ 吹く風の目に見ぬかたを都とて しのぶも苦し夕暮れの空 土御門院
○ 埋うづもるる木の葉の下のみなし栗 かくて朽ちなむ身をば惜しまず 土御門院
阿波十郎兵衛 / 徳島市
むかし阿波十郎兵衛は、盗賊に奪はれた主家の宝刀を捜すため、自ら盗賊になって大坂に出た。数年後、その十郎兵衛の家に、故郷から娘のおつるが巡礼姿で親を探しに来たが、妻のお弓は、わが子が盗賊の子と人に知れるのを恐れて、母と名のらずに娘を帰したといふ。(傾城阿波の鳴門)
○ 巡礼の稚児に逢ひたる花野かな 渡辺霞亭
右の句は、徳島市川内町宮島の阿波十郎兵衛屋敷の跡の句碑から。
阿波の殿様 / 徳島市
天正十三年、関白に就任した羽柴秀吉は、四国を統一したばかりの長宗我部ちょうそ か べ氏を敗って四国を平定し、臣下の蜂須賀家政が阿波を領した。徳島城が築かれ、それを祝って町民が踊ったのが阿波踊りの始りといふが、実際はもっと後世のものらしい。
○ 阿波の殿様 蜂須賀公が 今に残せし阿波踊り 阿波踊り
徳島市中常三島町の神明社は、以前は城山の頂上にまつられてゐたが、蜂須賀公のときに現在地に移されて、城の守り神となった。神明社の御神木の真柏は、ヒノキ科のミヤマビャクシンといふ常緑樹で、縁結びの神木といはれる。
○ 神明に誓って祈る願ひなら 縁を結びの庭の真柏まがしは

徳島市は昔の加茂郷の地で、海神の娘・豊玉姫と結婚した鸕鷀 草葺不合う がやふきあへず命の歌に歌はれる「かもとく島」は、加茂郷徳島の地だともいふ。
○ 沖つ鳥鴨とく島に我が率寝ゐねし妹いもは忘れじ 世のことごとに 鸕鷀 草葺不合命
諸歌
○ 万巻の書ふみ焼けつきて 石門とまき垣のみぞ残りたるはや 井上羽城
小松島市金磯町 明治期の国学者
○ 貝ひろふ磯辺つづきの小松原 かすむところに鴬ぞ鳴く 小杉榲邨
鯖大師 / 海南町鯖瀬 八坂山鯖瀬大師堂
海部郡海南町付近の海岸は複雑に入り組み、八坂八浜と呼ばれる風景美をほこるが、路行く者には大変な難所だった。むかし四国を巡ってゐた弘法大師がここを歩いてゐると、鯖を積んだ馬をひく馬子が通りかかった。大師さまがその鯖の一匹を乞うたところ、馬子は乞食坊主にやる鯖はないと、そっけなく通り過ぎようとした。そこで大師さまが一首を詠んだ。
○ 大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれで馬の腹病む 弘法大師
すると坂道を登らうとした馬は、たちまち腹痛をおこして立ち往生してしまった。馬子は驚いて、あの有名な弘法大師さまに違ひないと詫びて鯖を献上すると、大師さまがまた詠んだ。
○ 大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹止む 弘法大師
これで馬の腹痛が止んで、元通りに歩き出したといふ。大師さまが鯖を海に投げ入れると、鯖は生き返って泳ぎ去ったといふ。同類の話は諸国にある。
祖谷のからうた姫 / 西祖谷山村 若宮神社
平家の落人の村といふ西祖谷山村には、南北朝のころ土佐の幡多郡有井荘に流された尊良親王の妃加良歌か ら うた姫の伝説がある。当地の話では、姫は親王の後を追って赤子を抱いて阿波へ渡り、陸路土佐をめざしたが、祖谷の地で吾が子を死なせた。この地に吾が子を葬り、更に土佐へ行ったが、既に親王は九州へ渡ったあとだった。再びもと来た道を戻り、わが子の墓所のある祖谷の里でちからつきて死んだといふ。母子は若宮神社にまつられた。
○ 心なき雲こそ渡れ鳥すらも い行きはばかる峰のかけ橋
○ 祖谷のかづら橋ゃ蜘蛛の巣のごとく 風も吹かぬにゆらゆらと 祖谷の粉挽唄
祖谷のかづら橋は、十丈余の谷に藤蔓だけで作られた橋で、里人は危険を恐れて下を渡ったといふ話もある。
○ 辺りにはたえず平家の物語 いとおもしろき琵琶の滝つ瀬 浪花桃苗
○ 見るからに渡るも嫌(祖谷)のかずら橋 身もはいかかる心地こそすれ 浪花桃苗
 

 

徳島香川愛媛高知

あま塚(あまづか) / 徳島県鳴門市里浦町
あま塚は、鳴門の海岸近くの路地裏にひっそりとある。案内板はあるが、自動車で進入するのをためらうような場所にある。
案内板によると、このあま塚と呼ばれるお堂には、清少納言の墓が安置されている。地元の言い伝えでは、清少納言はこの地で亡くなったという。しかもその最期は非常に悲惨なものであり、地元の漁師に辱めを受けた末に、海に身を投げて死んだとされている。
しかしながら、このあま塚には別の伝説が残されている。『日本書紀』の允恭天皇の巻に登場する、海士の男狭磯(おさし)の墓であるという説、また遠流となった土御門上皇の火葬塚(天塚)であるという説もある。いずれも“あま”という名前から連想される伝承と言うべきであろう。
清少納言 / 966?-1025?。父は清原元輔。中宮定子の女房として宮中に仕え、才媛として知られる。中宮の死後は宮中を去り、その後の行動についてはほとんど資料がない。鎌倉期には「才のある女性は不幸」という考えのやり玉に挙がり、悲惨な末路を遂げたという伝承が残される。
男狭磯の伝説 / 允恭天皇が淡路で狩りをした時、明石の海底にある真珠を差し出すように神託があった。全国から海士が集められ、その中にあった男狭磯が見事に海底の大鮑を引き上げた。しかし男狭磯はその際に死んでしまい、さらなる神託によって天皇の命で墓が築かれたという。
土御門上皇 / 1196-1231。第83代天皇。後鳥羽天皇の長子として3才で即位。その後15才の時に、弟の順徳天皇に譲位。承久の乱で後鳥羽・順徳上皇が遠流と決まると、関与していないにもかかわらず自ら申し出て土佐に流される。その後阿波に移され、その地で崩御。実際の火葬地とされているのは、同じ鳴門市内の阿波神社境内である。
おっぱしょ石(おっぱしょいし) / 徳島県徳島市西二軒屋町
徳島市内のかなり中心地に、墓が無造作に並んでいる小高い丘がある。無縁寺の墓地である。その一角に“おっぱしょ石”という奇妙な石がある。
一般的な伝承であるが、昔「おっぱしょ」と声を出す石があったという。ある時その前を相撲取りが通りかかると、例のごとく石が喋る。そこでおぶってやったところ、石がだんだんと重くなってきて、とうとう我慢できなくなって放り投げたところ、その石は真っ 二つに割れてしまった。
イメージからすれば「おっぱしょ石」は丸い大きな石という感じなのだが、現地へ行ってみると、『南無妙法蓮華経』と刻まれた板碑である。しかもそれ自体は伝承通り真っ二つになっていて、セメントで繋がれている。だが一説によると、本当の「おっぱしょ石」はその板碑のすぐそばにあった別の石だとも言われている(残念ながらその石は今は所在不明とのこと)。
「おっぱしょ」という方言 / 徳島地方の方言で「おぶってくれ」という意味になると一般的に解説されているが、実際には「おぶってやろう」というニュアンスの方が自然であるとも言われている。このあたり怪異そのものの根本に関わる内容であり、非常に話がややこしい部分でもある。
お松大権現(おまつだいごんげん) / 徳島県阿南市加茂町不ケ
「日本三大怪猫伝」といえば、肥前鍋島・久留米有馬ときて岡崎の化け猫を挙げることが多いが、岡崎の話は全くのフィクションであるので、史実との兼ね合いで言えばやはり阿波の化け猫騒動の方がしっくりくるだろう。この騒動の中心となったのが阿南市にあるお松大権現である。まさに猫尽くしの場所であり、境内所狭しと猫の置物が並べられ、屋根の上にも魔除けの猫、さらには紋所まで猫である。
貞享年間(1684〜1687年)、加茂村の庄屋・惣兵衛は不作の村を救うために私有地の五反の田地を担保にして、富商の野上三左衛門から金を借りた。惣兵衛は期日前に金を返したが、道すがらのことでその場で証文を受け取らず、その直後に病死する。
惣兵衛の妻のお松は三左衛門に証文を返すように催促するが、三左衛門は金を返すどころか、逆に金を受け取っていないと主張して五反田地を奪い取る。お松は奉行の長谷川越前に訴え出るが、美貌に目を付けた越前に言い寄られるも拒絶、さらに三左衛門も賄賂を送っていたために、結局理不尽な裁定しか下されなかった。
思い余ったお松は最後の手段として藩侯に直訴。しかしそこでも願いは叶わず、死罪となってしまった。死に際してお松は愛猫の玉(三毛)に遺恨を伝え、その後、三左衛門と奉行の許に怪猫が現れるなどの怪異が相次いで起こり、ついには両家とも断絶してしまったという。
他の化け猫騒動と違うのは、阿波の騒動だけは遺恨を晴らすことに成功している点である。そのためなのか、神として祀られているのはここだけである。今なお訴訟必勝などの勝負事の神として信仰を集めていると言える。
ちなみに、この話の発端となった「五反田地」であるが、その後も開墾すると変事が起こるために更地となっており、現在は参拝者の臨時駐車場という名目で神社が所有している。
金長大明神(きんちょうだいみょうじん) / 徳島県小松島市中田町
「阿波狸合戦」の一方の総大将である金長狸を祀った神社である。
日開野の染物屋・茂右衛門が助けた金長狸は店のために能力を発揮するが、無位無官であるため、津田浦の六右衛門狸の下で修行をする。金長の才覚を認めた六右衛門は娘婿になって跡を継ぐよう頼むが、金長は日開野に戻ることを望んで辞退。身内にならなければ危険な存在と思った六右衛門は闇討ちをするが、取り逃がす。子分を殺された金長は仇討ちを呼びかけ、さらに娘の諫死に逆上した六右衛門も遺恨を含み、阿波国の勢力を二分する戦いが三日三晩続いたのである。戦いの結果、総大将同士の一騎打ちとなり、六右衛門は討死。しかし金長も深手を負って日開野の茂右衛門の許で絶命する。
金長の死後、茂右衛門はそれを丁重に祀り、弘化5年(1848年)に正一位にまで上りつめたのである。しかしながら、現在の金長神社は茂右衛門が祀ったものではなく、意外なところから興ったものである。
この「阿波狸合戦」が全国的な知名度を持つようになったのは、昭和14年(1939年)の新興キネマによる映画「阿波狸合戦」のヒットによるところが大きい。新興キネマは当時倒産の危機にあったが、この映画の大ヒットで息を吹き返した。そこで御礼ということで、日峰神社の境内社として金長神社本宮を創建したのである。
新興キネマはその後大映と社名を改めるが、戦後もこの“狸もの”を製作してヒットを続けていき、昭和31年(1956年)に当時の社長であった永田雅一が100万円を寄付して、金長奉賛会設立と共に、日峰山の南の現在地に金長大明神を建立したのである。ご利益は勿論と言うべきか、商売繁盛と芸能上達である。
児啼爺の像(こなきじじいのぞう) / 徳島県三好市山城町藤川谷
『ゲゲゲの鬼太郎』の主要キャラクターとして有名な“こなきじじい”であるが、あの特徴的な姿形は、水木しげる氏の創作によるものである。実際はあのような姿をした妖怪が存在していたというわけではない。
ただ妖怪としての“こなきじじい”の出自は、ある意味かなり確かなものとしてあったと言える。柳田國男の『妖怪談義』の中で、徳島県の山間部の妖怪と紹介されており、ある種のお墨付きが付いているためである(しかし実際は、さまざまな伝承が混ざり合って出来たものであり、現在ある“こなきじじい”のカテゴリーも柳田の『妖怪談義』で初めてまとめられたとの指摘もある)。有名妖怪で出現場所などの出自が明らかになっているケースは少なく、そのため平成13年(2001年)に伝承発祥地と認定された山城町に石像が置かれた。
八倉比売神社(やくらひめじんじゃ) / 徳島県徳島市国府町矢野
正式名称は、天石門別八倉比売神社。祭神は大日霊命(おおひるめのみこと)、即ち天照大神である。そしてこの神社の古文書には、天照大神の葬儀の詳細が記されており、おそらく八倉比売とは天照大神の別称ではないかと推察される。
また八倉比売神社は延喜式において明神大社として挙げられており、さらに言えば、延久2年(1070年)の太政官符には「八倉比売神の祈年月次祭は邦国の大典なり」と明記し、奉幣を怠った阿波国司を叱責している。時の朝廷にとっても非常に重要な神社であることがうかがえる内容である。
そして、この地は阿波国の国府が置かれた場所であると同時に、縄文期から古墳時代にかけての遺跡も多く残されている(このエリア一帯が阿波史跡公園として整備されており、神社もその公園の中にある)。八倉比売神社の御神体は鎮座している杉尾山であるとされているが、この山を含む気延山一帯には約200もの古墳が存在している。実は、八倉比売神社も古墳の上に建てられており、前方後円墳の前部分に社殿が、そして後ろにあたる円墳部分は奥の院となっている。この奥の院には、五角形の石積みの祭壇が置かれ、その上には“つるぎ石”と呼ばれる石が収められた祠がある。この祭壇は一説によると“卑弥呼の墓”であり、この阿波一帯こそが邪馬台国であると言われている。真偽はともかく、この青石で造られた祭壇の異質ぶりは一見の価値があるだろう。 
邪馬台国四国説 / 邪馬台国が徳島にあったという説については、昭和51年(1976年)に発刊された『邪馬壱国は阿波だった』において本格的に紹介された(邪馬「臺」国ではなく、誤字とみなされていた「壹」にすることで“やまい”と読ませて、阿波との関連性を高めている)。四国説では、天照大神=卑弥呼とみなし、高天原も阿波にあるという展開となっている。また「魏志倭人伝」に記載されている方角や距離などの条件に最も合うのが四国であるということも、根拠としている。 
 
 
香川県 / 讃岐

 

徳島香川愛媛高知

金刀比羅の宮はかしこし 船びとが流し初穂をささぐるも 吉井勇
讃留霊王 / 坂出市
景行天皇の御代に、讃岐の海で大魚が荒れ狂ひ、多くの船を沈めたので、皇子の神櫛かみくし王が讃岐国に派遣された。王は、多度津のあたりから櫛梨川(金蔵寺川)をのぼって船を櫛梨くしなし山に泊め、船磐ふないは大明神をまつって戦捷を祈った。海に戻って首尾良く大魚を退治した後、王は城山(坂出市府中町)に居城を築き、国造に任命された。王は、没後に国府の鎮守の城山神社にまつられ、讃留霊王とも呼ばれた。王の子孫が、讃岐氏、酒部氏である。王はまた櫛梨山に葬られたともいひ、櫛梨神社(仲多度郡琴平町下櫛梨)がある。櫛梨とは酒成くしなしの意味で、酒造の祖でもある。
金比羅の神 / 仲多度郡琴平町
琴平町の金刀比羅ことひら宮は大物主大神を祀り、象頭山ぞうづさん金比羅こんぴら大権現ともいひ、「海上安全、大漁満足」の神として信仰されて来た。
○ おんひらひら蝶も金比羅参りかな 一茶
○ 偶然たまたまの紅葉祭に逢ひけるも 虚子
酒樽を川に流すと、拾った舟はその酒樽を金刀比羅宮への初穂として届けなければならないといふ「流し樽」の風習がある。波に転がされた酒は実に美味といふ。
○ 金刀比羅の宮はかしこし 船びとが流し初穂をささぐるも 吉井勇
象頭山の清少納言塚 / 仲多度郡琴平町
讃岐の象頭山の鐘楼のそばに、塚があり、「清少納言の塚」といはれた。むかし寺でこれを移転しようと思ひ立ったころ、僧侶の夢に女が現はれて歌を詠んだ。
○ 現つなき跡のしるしを誰にかは問はれんなれど、ありてしもがな
この歌により清少納言の墓に間違ひないとわかり、そのまま手をつけぬこととしたといふ。諸国に似た話があり、甲斐国韮崎では赤染衛門の話になってゐる(「なき跡のしるしとなればそのままに訪はれずとてもありてしもがな」)。
崇徳院 / 坂出市
保元の乱ののち、崇徳すとく院は讃岐の松山郷(坂出市)に移られた。
○ 浜千鳥あとは都に通へども 身は松山にねをのみぞなく 崇徳院
長寛二年(1164)に四十六歳で崩御されたあと、讃岐白峰陵(坂出市)に葬られた。以後、京の都は源平がしのぎをけづる乱世となり、崇徳院の亡霊によるものと恐れられた。崇徳院は白峰神宮など、讃岐の多くの神社にまつられてゐる。
玉の浦の海女 / 大川郡志度町 志度寺
藤原鎌足の追福のため奈良の興福寺の釈迦像が作られたとき、像を飾る玉を運ぶ途中の遣唐使の船が、讃岐の玉の浦で沈没した。藤原不比等は、大急ぎで奈良から玉の浦へ来て、玉の捜索を指揮した。そのころ不比等は一人の海女を妻として、子(藤原房前)を設けた。玉は、妻の海女が海中で発見したが、海女は海中で竜王に襲はれたとき、自分の乳房ちぶさを切ってその中に玉を隠して逃げた。海女はどうにか岸にたどりつき、玉を手渡すとそのまま息絶えたといふ。海女の墓は志度寺にあり、玉は奈良興福寺の釈迦像の眉間に埋め込まれた。次の歌の房前は地名である。
○ 汐みちて島の数添ふ房前の入江 入江の松の村立むらだち
○ 珠のある水底見ばや三日の海 弄花
大蓑彦神社 / 寒川郡寒川町石田
寒川町の大蓑彦おほみのひこ神社は、蓑神みのかみ明神とも呼ばれ、初めて蓑を作った神といはれる。一説に素戔嗚尊のことともいふ。水霊神でもあり、大水上神おほみなかみのかみともいふ。この大水上神の子に寒川比古命、寒川比女命がある。神社の北方に寒川渕といふ泉があり、寒川郡の郡名にもなった。
○ 唐衣からごろもぬふ寒川も青柳の 糸よりかくるころは来にけり 西行 懐中抄
弘法大師 / 善通寺
善通寺市の善通寺は、弘法大師空海誕生の霊地である。この寺は、空海の父佐伯善通の館跡に、大同二年から六年の歳月をかけて空海が創建したといふが、古く白鳳期から佐伯氏の氏寺があったらしい。空海が修行した我拝師山(若林山)は、山の形から「筆の山」ともいはれる。
○ 筆の山にかきのぼりても見つるかな 苔の下なる岩の景色を 西行
一夜庵 / 観音寺市
宗鑑は近江の武家の生れで、若き日に京で将軍足利義尚に仕へたが、義尚の死後、出家して僧となった。山城国山崎に住んで連歌などに親しみ、俳諧の祖とまでもいはれた。
享禄元年(1528)、宗鑑は西国行脚の帰途に興昌寺(観音寺市)に立ち寄り、この場所を気に入って庵を結んで住むことにした。居間の短冊に、一風かはった歌が書かれてあった。
○ 上は去り中は昼まで下は夜まで 一夜泊りは下下の下の客 宗鑑
庵には連歌を志す者が多く訪れたが、「下下の下の客」と書かれてあっては、泊まって行くものはなかったといふ話だが、宗鑑の本心は、堂々と泊まって行く客を期待したらしい。この歌から「一夜庵」と呼ばれた。天文二十二年、八十九才でこの地に没した。
○ 宗鑑はどこへと人の問ふならば ちと用ありてあの世へと言へ 宗鑑(辞世)
日柳燕石 / 琴平町
琴平町榎井の加島屋といふ質屋に生れた日柳燕石は、勤王家でもあった父の遺産を背景に花街に出入りするうちに「加島屋の親分」と呼ばれるやうになり、博打打ちになっていった。博打は開いても、自分では打たずに、傍らで酒を飲みながら書を読みふけったといふ。勤王の士との交際も広く、多くの侍をかくまったりした。高杉晋作をかくまった罪で投獄されたが、明治元年に出獄し、そのときの祝の歌(都々逸)。
○ いせ海老の腰はしばらくかがめて居れど やがて錦の鎧着る 日柳燕石
諸歌
○ 玉虫のたてし扇を射落せし ほまれは那須の与一宗高
三豊郡三野町の弥谷寺の門前の茶屋で、漫画家つげ義春が戯れに詠んだ句。
○ 野の仏錫杖しゃくじょうもつ手に花一輪 つげ義春
順礼中に古泉千樫の訃報に接して(場所は高知県室戸岬)
○ なき人のけふは七日になりぬらむ 遇ふ人もあふひともみな旅人 釈迢空 
 

 

徳島香川愛媛高知

四国
四國のかたへ具してまかりたりける同行の、都へ歸りけるに
○ かへり行く人の心を思ふにもはなれがたきは都なりけり
ひひしぶかはと申す方へまかりて、四國の方へ渡らんとしけるに、風あしくて程へけり。しぶかはのうらたと申す所に、幼きものどもの、あまた物を拾ひけるを問ひければ、つみと申すもの拾ふなりと申しけるを聞きて
○ おりたちてうらたに拾ふ海人の子はつみよりつみを習ふなりけり
そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四國のかた修行しけるに、又歸りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日の夜まゐりて幣まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎてまゐらせ給へとて、こころざしけるに、木間の月ほのぼのと常よりも神さび、あはれにおぼえてよみける
○ かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に  
讃岐 / 四国にある国名
讃岐の國へまかりて、みの津と申す津につきて、月のあかくて、ひゞのてもかよはぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひゞのてにつきて飛びわたりけるを
○ しきわたす月の氷をうたがひてひゞのてまはる味のむら鳥
○ いかで我心の雲にちりすべき見るかひありて月を詠めむ
○ 詠めをりて月の影にぞ夜をば見るすむもすまぬもさなりけりとは
○ 雲はれて身に愁なき人のみぞさやかに月の影はみるべき
○ さのみやは袂に影を宿すべきよわし心に月な眺めそ
○ 月にはぢてさし出でられぬ心かな詠むる袖に影のやどれば
○ 心をば見る人ごとにくるしめて何かは月のとりどころなる
○ 露けさはうき身の袖のくせなるを月見るとがにおほせつるかな
○ 詠めきて月いかばかりしのばれむ此の世し雲の外になりなば
○ いつかわれこの世の空を隔たらむあはれあはれと月を思ひて
讃岐にまうでて、松山と申す所に、院おはしましけむ御跡尋ねけれども、かたもなかりければ
○ 松山の波に流れてこし舟のやがてむなしくなりにけるかな
○ まつ山の波のけしきはかはらじをかたなく君はなりましにけり
白峰と申す所に、御墓の侍りけるにまゐりて
○ よしや君昔の玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ
同じ國に、大師のおはしましける御あたりの山に庵むすびて住みけるに、月いとあかくて、海の方くもりなく見え侍りければ
○ くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける
住みけるままに、庵いとあはれに覺えて
○ 今よりは厭はじ命あればこそかかるすまひのあはれをもしれ
庵のまへに松のたてりけるを見て
○ 久にへて我が後の世をとへよ松跡したふべき人もなき身ぞ
○ ここを又我が住みうくてうかれなば松はひとりにならむとすらむ
雪のふりけるに
○ 松の下は雪ふる折の色なれやみな白妙に見ゆる山路に
○ 雪つみて木も分かず咲く花なればときはの松も見えぬなりけり
○ 花とみる梢の雪に月さえてたとへむ方もなき心地する
○ まがふ色は梅とのみ見て過ぎ行くに雪の花には香ぞなかりける
○ 折しもあれ嬉しく雪の埋むかなきこもりなむと思ふ山路を
○ なかなかに谷の細道うづめ雪ありとて人の通ふべきかは
○ 谷の庵に玉の簾をかけましやすがるたるひの軒をとぢずば
花まゐらせける折しも、をしきに霰のふりかかりければ
○ しきみおくあかのをしきにふちなくば何に霰の玉とまらまし
大師の生れさせ給ひたる所とて、めぐりしまはして、そのしるしの松のたてりけるを見て
○ あはれなり同じ野山にたてる木のかかるしるしの契ありけり
○ 岩にせくあか井の水のわりなきは心すめともやどる月かな
まんだら寺の行道どころへのぼるは、よの大事にて、手をたてたるやうなり。大師の御經かきてうづませおはしましたる山の嶺なり。ばうのそとは、一丈ばかりなるだんつきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し傳へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重につきまはされたり。登る程のあやふさ、ことに大事なり。かまへて、はひまはりつきて
○ めぐりあはむことの契ぞたのもしききびしき山の誓見るにも
やがてそれが上は、大師の御師にあひまゐらせさせおはしましたる嶺なり。わかはいしさと、その山をば申すなり。その邊の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをばすてて申さず。また筆の山ともなづけたり。遠くて見れば筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなるを申しならはしたるなめり。行道所より、かまへてかきつき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ。苔は深くうづみたれども、石おほきにしてあらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて
○ 筆の山にかきのぼりても見つるかな苔の下なる岩のけしきを
善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。四の門の額少々われて、大方はたがはずして侍りき。すゑにこそ、いかゞなりけんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか
讃岐にて、御心ひきかへて、後の世のこと御つとめひまなくせさせおはしますと聞きて、女房のもとへ申しける。此文をかきて、若人不嗔打以何修忍辱
○ 世の中をそむく便やなからましうき折ふしに君があはずば
是もついでに具して参らせける
○ 淺ましやいかなるゆゑのむくいにてかかることしもある世なるらむ
○ ながらへてつひに住むべき都かは此世はよしやとてもかくても
○ 幻の夢をうつつに見る人はめもあはせでや夜をあかすらむ
かくて後、人のまゐりけるに
○ その日より落つる涙をかたみにて思ひ忘るる時の間ぞなき
○ 目のまへにかはりはてにし世のうきに涙を君もながしけるかな(女房)
○ 松山の涙は海に深くなりてはちすの池に入れよとぞ思ふ
○ 波の立つ心の水をしづめつつ咲かん蓮を今は待つかな
讃岐へおはしまして後、歌といふことの世にいときこえざりければ、寂然がもとへいひ遣しける
○ ことの葉のなさけ絶えにし折ふしにありあふ身こそかなしかりけれ
○ しきしまや絶えぬる道になくなくも君とのみこそあとを忍ばめ(寂然)
讃岐の位におはしましけるをり、みゆきのすずのろうを聞きてよみける
○ ふりにける君がみゆきのすずのろうはいかなる世にも絶えずきこえむ
新院さぬきにおはしましけるに、便につけて女房のもとより
○ 水莖のかき流すべきかたぞなき心のうちは汲みて知らなむ(崇徳院もしくは女房)
○ 程とほみ通ふ心のゆくばかり猶かきながせ水ぐきのあと
○ いとどしくうきにつけても頼むかな契りし道のしるべたがふな(崇徳院もしくは女房)
○ かかりける涙にしづむ身のうさを君ならで又誰かうかべむ(崇徳院もしくは女房)
○ 頼むらんしるべもいさやひとつ世の別にだにもまよふ心は
ひひ / 日比。岡山県玉野市日比のこと。
しぶかは / 渋川。岡山県玉野市渋川。日比の少し西にある地名。 
しぶかはのうらた / 渋川の浦か渋川の浦田か不明。どちらにしても渋川にある村のこと。
みの津 / 香川県三豊郡三野町。
松山 / 香川県坂出市。
白峰 / 香川県坂出市にある標高380メートルの山。崇徳院の白峰陵がある。
まんだら寺 / 四国72番札所。弘法大師が曼荼羅寺と改称。
わがはいし / 我拝師山。善通寺市にある弘法大師ゆかりの山。
筆の山 / 我拝師山の別名。
善通寺 / 香川県の都市。弘法大師が父の法名をつけた善通寺がある。 
明の宮 白峯神社(あかりのみや しらみねじんじゃ) / 香川県坂出市西庄町
日本史上、唯一魔道の者となると公的に宣言した人物がいる。崇徳天皇である。
鳥羽上皇を父に、待賢門院を母に持つ崇徳天皇であるが、実の父は祖父に当たる白河上皇であると、当時から暗黙の事実として言われてきた。それが数奇の運命の最初であった。鳥羽上皇は、父である白河上皇が亡くなると、“叔父子”である崇徳天皇を排斥し始める。上皇は崇徳天皇を退位させ、実子の近衛天皇を据えて院政を始める(院政は天皇の直系尊属、つまり父か祖父でなければ行えない。崇徳上皇は上皇であっても、院政を行うことは不可能なのである)。さらに近衛帝崩御の後には、崇徳上皇の同腹の弟が皇位に就く。1156年鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇は武力行使によるクーデターを画策する。しかしそれよりも早く仕掛けたのが、実弟である後白河天皇であった。この(保元の乱)であっけなく敗れた崇徳上皇は、厳罰というべき讃岐への配流となる。そこで菩提のために、自らの指先から血を絞り出して大乗経190巻を写経し、京都のいずれかの寺院へ納めてほしいと頼んだ。しかし、後白河天皇はそれを拒否。ここに至ってついに崇徳上皇は、自らを怨霊と化すのである。
「我、日本国の大魔王となり、皇をとって民となし、民を皇となさん」。
送り返された経文の最後に、舌を噛み切ってこう血書した上で海中に沈めた崇徳上皇は、それから髪をくしけずらず、髭も爪も伸ばし放題となり、さながら天狗のような様相となった。そして9年後、京都へ戻ることなく46歳で崩御する。
遺体を荼毘に付すための勅許を得るまでの約20日間、上皇の遺体は“八十場の霊泉”に漬けられ腐敗を防いでいたという。その遺体がおかれていた場所の近くで、毎夜のように神光が現れた所があった。上皇の没年にはこの地に(白峯宮)が建立され、その怪光出現の故事から(明の宮)と呼ばれるようになった。
この白峯神社と同じ敷地には四国八十八ヶ所の七十九番札所の“天皇寺”がある。元は空海建立の寺院であったが、白峯宮創建後はその神宮寺としてこの名前となったという。ちなみにこの辺り一帯は古くは“天皇”と呼ばれており、坂出でも最も上皇ゆかりの地と言ってもいいかもしれない。
浦島太郎の墓(うらしまたろうのはか) / 香川県三豊市詫間町箱
香川県詫間町に伝わる浦島太郎は、荘内半島にある“生里(なまり)”の地に生まれたという。父の名は“与作”、母の名は“おしも”。普通の漁師であったらしい。ところが“鴨ノ越”で亀を助けたことから、彼の人生は大きく狂ってしまう。
“生里”から“箱”へ住居を変えていた浦島がいつもように“どんがめ石”という場所で釣りをしていると、先日助けた亀が現れて竜宮城へと誘った。それからは、一番よく知られた『浦島太郎』のお話と同じ。だが、面白いのはこの半島の地名が全部『浦島太郎』のエピソードにまつわるのだという。竜宮城から乙姫 と帰ってきた浦島が宝を置いた場所が“積(つみ)”。別れ際に乙姫が腕輪を落としたのが“金輪の鼻”。そして玉手箱のふたを開けたのが“箱”で、その煙が 立ちのぼっていったのが“紫雲出山”という。さらに玉手箱のふたを開ける前に滞在していたのが“室浜(不老浜)”、開けて老人となって余生を送ったのが “仁老浜”ということになっている(ついでにいうと、この半島の先にある粟島には竜宮へ連れて行ってくれた亀の死骸を祀った“亀戎社”まである)。
そして、“箱”地区には浦島太郎一家の墓まで存在しているのである。今では周囲を整備して公園化している。多分五輪塔の一部だと考えられる3基の墓が一番奥に並べられている。これが両親と太郎の墓であるという。さらにその墓を正面から隠すように置かれているのが、諸大龍王の碑である。これは竜宮城の主である竜神と乙姫そして浦島太郎の霊を慰めることで、海上の安全と商売繁盛を願って納められたものである。いずれもこの地が古くから浦島太郎と ゆかりがあることを示しているものである。
雲海寺 田中河内介の墓(うんかいじ たなかかわちのすけのはか) / 香川県小豆郡小豆島町福田
田中河内介は幕末の攘夷派の志士である。但馬の出石の出であったが、公卿の中山忠能の家臣となり、同じ家臣の田中家に養子に迎えられて、河内介を任ぜられる。西国の攘夷派の志士と交流が深く、その邸宅には常に攘夷派の志士が集まっていたとも言われている。そのような中で、寺田屋騒動が起こる。
文久2年(1862年)、薩摩藩は、島津久光上洛を機に京都で挙兵を企てようとする、藩内の過激な攘夷派を寺田屋で粛正した。6名の攘夷派がその場の決闘で斬り死に、他の藩士らも捕縛されたが、その中に田中河内介も含まれていた。最終的な藩士の処分は、薩摩藩士は本国へ移送、他国の藩士はそれぞれの国元に引き渡すこととなったが、既に中山家を辞していた河内介らは薩摩へ移送との決定が下った。
しかし、田中河内介とその息子の瑳磨介は、薩摩へ護送されることなく、播磨の垂水沖で斬殺され、その遺骸は海中に投げ捨てられたのである。そして潮流に乗って小豆島の福田の海岸に打ち上げられた二人の遺骸は、後ろ手に縛り上げられ、頑丈な足枷が付けられたままであったという。哀れに思った村人によって埋葬された遺骸であったが、明治25年(1892年)になってようやく墓標が建てられ、3年後には哀悼の碑が建てられたのである。河内介父子の墓と碑は現在、雲海寺境内にあり、海を見下ろす高台に丁重に祀られている。
この田中河内介父子斬殺については、薩摩側のはっきりとした記録は残されていない。殺害の理由は、過激な攘夷論者であった河内介を薩摩領内に入れることを危険とみなしたためと目されているが、誰がそれを命じたのは全く不明である。薩摩藩としてはこの事件を非常に不名誉なことと認識している節があり、長らく隠し続けてきた経緯がある。ただ田中河内介の祟りという噂は、その死の直後からまことしやかに噂されていたのである。
中山忠能 / 1809-1888。開国時にあたって権大納言の位にあり、朝廷内の強硬な攘夷論者であった。娘の慶子が孝明天皇の男児(後の明治天皇)を産んだことから、天皇の外祖父となる。明治天皇は幼少の頃に中山家で養育され、その際に田中河内介が勉学を教えている。
田中河内介斬殺のその後 / 事件から8ヶ月後、斬殺がおこなわれただろう垂水沖で、薩摩藩の最新式の御用船・永平丸が暗礁に乗り上げて沈没。これが河内介の祟りと藩内で噂された。この一帯はその後も事故が多発し、明治になって灯台を建てるも数年で倒壊、地元の者も怖がって近寄らなくなったという。河内介斬殺に加わった柴山兄弟のうち、実際に手を掛けた弟はその後発狂して刀を振り回すことがあったと伝わる。その他にも斬殺に直接関係した者の発狂の噂や、呵責のために自害した者の噂が薩摩藩内にはあったという。明治2年頃、天皇が功臣を集めて宴を催した時、ふと田中河内介の消息を尋ねたという。その時、誰もその最期を告げる者がおらず、重ねて天皇が尋ねて、初めて黒田清隆が「おまえなら知っているだろう」と大久保利通を指名したとの話が残っている(大久保暗殺の際にも、河内介の祟りとの噂があったようである)。また別説では、返答したのは小河一敏(岡藩主出身、寺田屋事件の攘夷派の一人)であったとも伝わる。大正の初め頃に東京の「画博堂」(あるいは「向島百花園」とも)でおこなわれた怪談会で、田中河内介の最期を語ろうとして頓死した者が現れたという怪談話があるが、おそらく上に挙げた数々の噂話が昇華された末に生まれてきた究極的「禁忌話」であると推察する。殺害する確たる理由もなく、同志だった者を嬲り殺しにした負い目の産物であったのだろう。
女木島 鬼ヶ島大洞窟(めぎじま おにがしまだいどうくつ) / 香川県高松市女木町
女木島は、高松港から船で約20分のところにある。周囲が約9km、人口の200人足らずの小さな島である。
この島は別名「鬼ヶ島」と言われる。香川県における桃太郎伝説の主要な場所である。この島の中央部で巨大な洞窟が発見されたのが伝説の始まりであるが、ただしその洞窟発見は昭和6年(1931年)に橋本仙太郎によるものであり、ずいぶんと新しいものである。
この洞窟であるが、自然のものではなく人工的に掘削された跡もあり、何者かが意図的に造り上げたものであると考えられる。現在は観光化され、全長約400mの洞窟は鬼のオブジェが点在し、いかにもという雰囲気を醸し出している(ただしオブジェは子供にも親しみやすく、あくまでもフレンドリーな印象であるが)。洞窟内は、大広間や宝物庫・監禁部屋、さらには水源や大将の部屋まで結構な間取りになっている。何となく冒険の旅を彷彿とさせる印象は、なかなか楽しいものがあると思う。
讃岐の桃太郎伝説 / 讃岐に派遣された稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)が桃太郎であり、犬・猿・雉にちなんだ地名出身の家来と共に鬼(海賊)を退治したとする。高松市鬼無町には桃太郎を祀る神社やその墓が存在する。
橋本仙太郎 / 1890-1940。郷土史家。昭和5年(1930年)に『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無』を地元紙に寄稿する。これによって鬼無は桃太郎伝承地として脚光を浴びることとなり、さらに翌年の女木島の洞窟発見で信憑性を高めることになった。
煙の宮 青海神社(けむりのみや おうみじんじゃ) / 香川県坂出市青海町
崇徳上皇の遺体は白峯山で荼毘に付されたのであるが、さらにその時に怪異が起こった。今度は荼毘の時に出た煙が、山のふもとのある一ヶ所に溜まって動かなくなったのである。一説によると、その煙は輪を成し、その中に天皇尊号の文字が現れたとも伝わっている。また煙が消えた場所には上皇のお気に入りの玉があったともされる。その後、この地にも崇徳上皇の霊を慰める青海神社が建立され、(煙の宮)と呼ばれることになる(玉は社宝として保管されているらしい)。
このようにその死に際してとんでもない怪異を連続して起こした崇徳上皇の怨念は、ついには京都をたびたび戦禍に巻き込む源平の合戦を引き起こし、武家が公家を圧倒する世の中を生み出したとされる。つまり上皇の呪詛の言葉は見事に成就されたのである。
上皇の祟りは現在でも続いているのであろうか。それにまつわる一つの事実だけ紹介しておく。
昭和39年9月21日、この日崇徳天皇陵(白峯陵)で八百年御式年祭が執り行われたのであるが、その日の未明に近隣の林田小学校で不審火があり、校舎が全焼している。この林田小学校は、上皇が讃岐へ配流された時の最初の住まいとされた“雲井御所”のすぐそば。そして火事の直後には猛烈な雷雨があったとされる。
崇徳上皇 / 1119-1164。第75代天皇。1156年の保元の乱により、讃岐に配流。以後、崩御まで帰京を許されなかった。御陵も坂出市内にあり、帰京を許されなかったため怨霊と化したと言われる。
志度寺 海女の墓(しどじ あまのはか) / 香川県さぬき市志度
四国八十八箇所霊場の第86番札所。創建は推古天皇33年(626年)、流れ着いた霊木から本尊を彫って祀ったのを始まりとする。その後、藤原不比等・房前親子が堂宇建造に深く関わったとされる。
志度寺の境内の一角に「海女の墓」と呼ばれる五輪塔群がある。この墓には藤原不比等・房前親子にまつわる伝説が残されており、志度寺縁起にある「海女の玉取伝説」として有名である。
藤原鎌足は娘・白光を唐の高宗の許に嫁がせた。やがて父が亡くなった知らせを聞いた白光は、日本へ3つの宝物を供養にと送った。ところが、それを船で運ぶ途中、志度沖で龍神がその宝物の1つ“面向不背の玉”を奪ってしまったのである。そこで、鎌足の跡を継いだ不比等は“淡海”という変名を使って志度の地に赴き、玉の行方を探索することとした。そしてその最中に玉藻という名の海女と出会い、恋に落ちて男児をもうけるまでに至ったのである。
時が経ち、不比等は玉藻に自分の素姓とこの地へやって来た目的を明かした。玉藻は玉が龍宮(真珠島)にあることを突き止めるが、龍神が常に守っているために奪い返せない。決死の覚悟で奪還を試みるが、取り戻した途端に龍神に襲われてしまう。傷つき息も絶え絶えとなった玉藻は最後の力を振り絞って、護身の短刀を自らの乳房下に突き刺して十字に切り裂くと、その中に玉を押し込めて海面にまで辿り着いた。駆け寄る不比等に取り出した玉を渡し、残された男児を藤原家の跡取りにと頼むと、玉藻は息を引き取ってのである。
不比等は亡くなった玉藻の遺骸を志度寺に葬ると、残された男児を都に連れて帰った。後にその児は藤原房前として政治の表舞台で活躍した。だがある時、自分の母親の最期を聞くと、志度寺に赴いて新たに堂宇を建て、さらに1000基の石塔を建立したという。これが現在「海女の墓」と呼ばれるものである。
志度寺の周辺には、海女が玉を取り戻して帰還した真珠島の跡も残されている(現在は埋め立てにより島の形ではないとのこと)。
藤原不比等 / 659-720。藤原家初代の鎌足の次男(長男は出家したため、実質的な後継者)。父の死去の時は11歳であり、壬申の乱後の天武天皇の時代は冷遇されていたとされる。持統天皇後の文武天皇擁立に功があり、この頃より藤原姓を名乗るようになり、政治の表舞台に出る。娘を文武天皇夫人に、さらにその間に生まれた皇子(後の聖武天皇)の夫人にも娘(光明子)を送り、政治基盤を確立する。死後、淡海公の追号があり、これが変名の“淡海”の元であると考えられる。
藤原房前 / 681-737。藤原不比等の次男。史実では、母は蘇我氏。藤原四兄弟の中で最初に参議となるなど、政治的に優れていたとされる。また長屋王の変で長屋王を失脚させ、藤原四兄弟による政権を樹立させる。しかし天然痘に罹り、四兄弟の中で最初に亡くなってしまう。房前の子孫は、藤原北家として平安期に摂関政治の中枢にあって大いに繁栄することとなる。
高宗 / 628-683。唐の3代皇帝。高句麗を滅ばして唐の最大版図を築く(後に新羅に奪取される)。皇后は、中国三代悪女の一人とされる則天武后。ちなみに高宗の后妃に藤原氏の息女など、日本人がいたという記録はない。
面向不背の玉 / 玉の中に釈迦如来の像があり、どこから見てもその像が正面を向いているという宝物。もたらされた3つの宝物(袈裟を掛けるまで鳴り止まない金鼓という華源磬、墨をすると水が湧き出てくるという泗濱石、そして面向不背の玉)は不比等の手によって興福寺に収められており、玉以外の2つは現在でも収蔵されている。面向不背の玉だけでは平安末期に焼失したとされていたが、昭和51年(1976年)滋賀県竹生島の宝厳寺に安置されていたことが判明。現在でも宝物館に収蔵されている。
白鳥神社(しろとりじんじゃ) / 香川県東かがわ市松原
『日本書紀』によると、日本武尊は能褒野(三重県)に葬られたが、その姿を白鳥に変えて、大和の琴弾原から河内の古市へと飛んでいったとされる。これらの3つの地にはそれぞれ日本武尊の御陵が造られている。だがそこから先は、白鳥は天高く飛び去ったという記述しか残されていない。
東かがわ市にある白鳥神社は、その天高く飛び去った白鳥が最後に飛来した場所であると言われる。社伝によると、白鳥とは“鶴”であり、鶴は下り立って間もなく死んだため、この地に埋められたとされる。現在でもこの神社の境内には「鶴塚」があり、そこが埋葬地であるという。その後、日本武尊の御子である武殻王が派遣され、御陵を造り、さらに仲哀天皇(日本武尊の御子の一人)の代に神社となったと伝わる。
白鳥伝説 / 日本武尊が死んでから白鳥となったという伝承は『古事記』『日本書紀』共に記述がある。能褒野・琴弾原・古市の各御陵も白鳥陵と呼ばれている。また堺市にある大鳥神社には、白鳥神社同様、白鳥が最後に下り立った地であるとされており、全国各地の大鳥(大鷲)神社の主祭神は日本武尊である。ちなみ白鳥はハクチョウではなく、大きな翼を持った白い鳥ということである。
武殻王 / 悪魚退治の功績により讃岐の地を賜い、この地に永住した讃留霊王(さるれお)と比定される。ただし讃留霊王は景行天皇の皇子、即ち日本武尊の弟君に当たる神櫛王との説もある。(神櫛王は、白鳥神社の社伝によると、武殻王と共に讃岐に派遣されたとされている)
ちきり神社(ちきりじんじゃ) / 香川県高松市仏生山町
“ちきり”は漢字で書くと「滕」。織機で縦糸を巻くのに使われ、形は中央部分がくびれた棒状の道具である。その名の通り、織物に関係の深い神社である。祭神は稚日女命であり、『日本書紀』では天照大神の妹で、大神の衣服を織る神であるとされている。だがこの神以外にも、この神社の来歴を紐解くと、神となった一人の娘の存在が浮かび上がってくる。
ちきり神社は現在仏生山の雌山の上にあるが、それは高松藩主の菩提寺・法然寺建立によって雄山から移転されたためである。だが、さらにその元をただせば、仏生山のそばにある平池(へいけ)の中州にあったされたとされる。この平池には人柱伝説が残されており、この人柱となった娘も神社に祀られているとされる。また“ちきり”という社名もこの人柱伝説から起こったものであるとも言われている。
平池は久安年間(1145〜1151年)に造られたため池であるが、治承2年(1178年)に災害によって改修を余儀なくされている。改修の指揮を執ったのは阿波民部大輔・田口成良であり、平清盛の命であったと伝えられる。この事業は相当の難工事であり、何度やっても堤が決壊してしまう。やむなく成良は神仏に祈願したところ、「明日の早朝“ちきり”を持った者が池のそばを通りがかる。その者を人柱に立てるがよい」との託宣を受けた。
そこで役人が待ち構えていると、一人の娘が通りがかった。何も知らない娘は、役人の「何を持っておるか」という問い掛けに「ちきりです」と正直に答えたのである。役人は託宣通りということで、有無も言わさず娘を捕らえると、あらかじめ掘ってあった穴に投げ込んでそのまま生き埋めにしてしまったという。
平池はこうして改修を終え、決して堤が決壊しない池となった。そして娘を祀る社も建てられた。ところが堤の東端あたりに、なぜかいつの間にか隙間が出来てしまっており、そこから水が漏れ出るようになった。その水の流れをよく聞くと「いわざら、こざら」とつぶやく人の声に聞こえる。人々は、これは「言わざらまし、来ざらまし(言わなければよかったのに、来なければよかったのに)」という娘の言葉に違いないと噂しあったという。
昭和42年(1967年)になってから改修がおこなわれて、問題の隙間はなくなってしまったという。その後、人柱となった娘の冥福を祈るために、池のほとりに乙女の像が立てられている。
稚日女命 / 『日本書紀』では、天照大神の妹とされ、機を織っている時に素戔嗚尊が投げ込んだ馬に驚いて、持っていた梭(織物の道具)で女陰を突いて亡くなってしまう(これが天照大神の岩戸隠れの原因となる)。また天照大神の娘であるとも、自身の幼名であるとも言われている。
田口成良 / 阿波国の豪族。平清盛に仕えて頭角を現す。大輪田泊の造営の中心的役割を果たす。その後四国一円を支配下に置き、屋島に行宮を築いて平家の拠点となす。屋島の合戦で平家が敗退する前後から一族が裏切り、成良も壇ノ浦の合戦の最中に阿波水軍ごと寝返る。しかし鎌倉に送られた後に刑死。滅亡直前の寝返りを不忠とされたとも、かつて東大寺大仏殿焼き討ちの際の先陣であったためとも言われる。
「いわざらこざら」伝説 / 上の伝説以外にも、<人柱を提案した女性がそのまま人柱とされた>や<通りがかった娘が機を織る仕事の期限を確かめるために「大の月か、小の月か」と役人にわざわざ尋ねたために人柱にされた>などのパターンがある。ただどの話も最後には「いわざら、こざら」という水音の話で締めくくられている。
血の池(ちのいけ) / 香川県高松市屋島東町
四国八十八箇所霊場の84番札所、屋島寺のそばにある池。屋島寺創建の際、弘法大師がこの地に経文と宝珠を収め、その周囲に池を掘ったのが始まりであるという。そのため、この池は出来た当初は「瑠璃宝の池」と呼ばれていた。現在でも池の中央部には小島があり、そこが経文と宝珠が収められた場所であるとされる。
何故このような清浄な池が「血の池」と呼ばれるか。それは寿永4年(1185年)にこの地においておこなわれた源平の屋島の合戦に由来する。屋島の檀ノ浦で平家を打ち負かした源義経らの源氏方は屋島に登り、この池で血のついた刀を洗ったという。それ以来、この池は「血の池」という通り名で呼ばれるようになったとのこと。
屋島寺 / 鑑真が創建し、空海(弘法大師)が現在地に伽藍を造営したとされる。屋島の合戦に由来する宝物も多く、那須与一の子孫が寄進した源氏の白旗などが収められている。
屋島の合戦 / 一ノ谷の戦いで敗れた平家が四国の屋島に拠点を置いて反撃の準備をしていた。それに対して源義経は、少人数で阿波に上陸、背後から屋島を襲撃して陥落させた。那須与一が船上の扇の的を射抜いた逸話で有名な戦いである。ちなみに屋島にも「檀ノ浦」と呼ばれる土地があり、ここが屋島での源平の主戦場となっている。ただし下関にあるのが(壇)に対して(檀)の字を用いる。
血の宮 高屋神社(ちのみや たかやじんじゃ) / 香川県坂出市高屋町
崇徳上皇の死から荼毘に付されるまでの期間は、まさに“大魔縁”として世に災いをもたらすことを宣言するデモンストレーションと言えるような怪異が起こるわけであるが、その中でも最も怪奇性の高いエピソードが(血の宮)にまつわる話である。
遺体の置かれた八十場から荼毘に付すために白峯山へ向かった翌日、途中の高屋でにわか雨にあった葬列は、いったん棺を台石に置いて雨がやむのを待っていた。そして出発のため棺を持ち上げると、台石に血が付いていた。その血は棺からしたたり落ちてきたものだったのである。
その後、この怪異を恐れた土地の者によって、この地に崇徳上皇の霊を慰める高屋神社が建立され、怪異の起こった台石もその神社に奉納された。そしてこの怪異の故事から(血の宮)と呼ばれることになる。
丸山島 浦島神社(まるやまじま うらしまじんじゃ) / 香川県三豊市詫間町鴨ノ越
全国に散らばる「浦島伝説」であるが、香川県の荘内半島は中でも興味をそそるものが揃っている。この詫間町に「浦島伝説」が定着したのは、実は戦後のことである。郷土史家の三倉重太郎氏が昭和23年に発表したのが契機となり、観光資源として町が後押しして現在に至っている。だが、取って付けたような伝説ではない。現在ではこの地は半島であるが、かつては「浦島」と呼ばれる島であり、「紫雲出山」を中心として古代より人々が生活していた。結構しっかりとした根拠を持っている。
漁師だった浦島太郎は、ある日“鴨ノ越”の浜辺で釣りをしていた。すると、子供達が亀を取り囲んでいじめていた。可哀想に思った浦島は亀を助けてやり、酒を飲ませて海に帰してやったという。誰もが知っているシチュエーションの舞台である。
鴨ノ越の沖合200メートルほどのところに丸山島がある。この島こそが自然の驚異、干潮時に歩いて渡れる島なのである。そしてこの無人島には“浦島神社”がある。もちろん浦島太郎を祀るための神社である。
八十場の霊泉(やそばのれいせん) / 香川県坂出市西庄町
崇徳上皇が崩御した坂出市周辺には、その死の直後に起こった奇跡的な現象の言い伝えがいくつか残されている。
白峯山で荼毘に付すための勅許を得る間の約20日間、崇徳上皇の遺体は(八十場の霊泉)に漬けられていたという。8月という、かなり気候的に保存が難しい季節にもかかわらずである。しかし、既にこの当時から“霊泉”として知られていた水である。多分腐敗することなく保ったと思われる。
八十場は“八十八”とも“弥蘇場”と記載される土地であり、崇徳上皇の事跡以前にも、次のような伝承が残されている。
景行天皇の御代(今から約2000年近く前)に瀬戸内海に“悪魚”という怪物がおり、近隣を荒らしていた。そのため天皇は息子である日本武尊(あるいは日本武尊の息子、讃留霊王)に退治を命じた。日本武尊は八十八人の部下を率いて悪魚を退治したが、その毒気に当てられて全員が昏倒した。そこへ神童が現れ、水を飲ませて正気に返らせたという。その水が、この八十場の霊泉であるという。このような言い伝えがあったからこそ、この泉に遺体を浸したのである。
崇徳上皇 / 1119-1164。第75代天皇。1156年の保元の乱により、讃岐に配流。以後、崩御まで帰京を許されなかった。御陵も坂出市内にあり、帰京を許されなかったため怨霊と化したと言われる。
讃留霊王 / 12代景行天皇の皇子・神櫛王とも、日本武尊の皇子・武殻王とも言われる。悪魚退治の功績により讃岐の地を賜い、この地に永住したため讃留霊王(さるれお)と呼ばれる。景行天皇時代の領土拡張政策における四国の最高指揮官と目される。 
 
 
愛媛県 / 伊予

 

徳島香川愛媛高知

君がゆくいよの松山年経とも いよいよ待たむ伊予の松山 香山景樹
熟田津石湯 / 松山市道後温泉
むかし少彦名すくなひこな命が死にさうになったとき、大国主おほくにぬし命がトンネルを掘って九州の別府温泉の湯を引き、その湯に少彦名命を入れた。すると少彦名命は、「暫し寝いねつるかも」と言って起き上がり、元気になったといふ。この湯は、熟田津石湯にぎたづのいはゆと呼ばれ、景行天皇以来、たびたびの天皇の行幸があった。今の松山市の道後温泉のことである。(風土記逸文)
斉明七年には斉明天皇を乗せた百済救援の船も訪れてゐる。船出のときには、天皇に代はって額田王が歌を詠んだ。
○ 熟田津に舟乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王
松山市北部の姫原ひめばらの地は、木梨軽太子きなしのかるのみこが流罪になった地である。
三島大明神 / 大山祇神社、高縄神社
大三島の大山祇おほやまつみ神社、北条市の高縄神社は、ともに三島大明神と呼ばれる大山積おほやまつみ神をまつり、伊予の豪族河野氏の氏神でもあった。河野氏の祖先の越智高縄といふ人のころ、高縄山(北条市)の頂上に居城をかまへ、神功皇后の新羅征伐にも従軍したといふ。越智氏は代々、大三島の大山積神を氏神としてゐたが、推古天皇の御代に高縄山に新たに社殿を造営して、その先祖の霊とともに大山積神を祀ったのが高縄神社(三島大明神)であるといふ。この越智氏の別れの河野氏は、河野郷(北条市)を拠点として瀬戸内の海運を掌握して勢力を拡大し、河野水軍を率ゐて源平の戦や蒙古襲来時に最大の活躍をした。河野水軍の分派には村上水軍もある。時宗の一遍上人も河野一族から出たといふ。
むかし越智玉興が、備中の海上で水に餓ゑた時、三島大明神に祈って、海中から清水を授かったといふ伝説や、源頼義が祈願して一子を得たといふ伝説などがある。
三島大明神は祈雨の神としても知られる。平安時代に藤原実綱が伊予守として伊予に下向したころ大干魃があり、京からともに下向した能因が歌を三島明神に献納したら、雨が降ったといふ。
○ 天の川苗代水にせきくだせ 天くだります神ならばかみ 能因
雀鷹つみを題に詠んだ歌(「しもと」は若枝のことだが、刑罰の道具にもなる)
○ 伊予路行く大山つみは三島江の 秋のしもとか鳥をとるらん 藤原定家
宇摩の関 / 宇摩郡土居町
愛媛県東端の宇摩郡土居町は、古代の南海道の近井駅があった場所で、ここには宇摩の関も設けられた。
○ 秋雨に谷のしば栗しばぬれて わが袖ひたす宇摩の関守 宗祇
土居町中村の井守神社には、むかし出湯井があり、斉明天皇の御代には道後温泉へ向ふ途中の中大兄皇子らが立寄ったといふ。この出湯は、天武天皇の御代に冷泉となったため、水の神の水波能売みづはのめ神を合祀して、井守神社の名となったといふ。
○ 千早振る井守ゐもりの神の岩清水 曇りなき世の鏡なるらん 頼直
土居の地名は、河野氏の分派の土居氏に由来すると思はれ、県内各所に散らばる。
真吉水也 / 北宇和郡三間町
戦国のころ、今の北宇和郡三間町土居のあたりを領してゐた土居清良の家臣に、真吉水也といふ侍があった。水也は、悪疾を煩ひ、宮下の谷に隠居して暮らしたが、主家への忠誠心に変りはなかった。庵の壁に貼られた歌がある。
○ 雨あられ雪や氷とへだつれど 解ければ同じ谷川の水 真吉水也
水也は、病で動かぬ指に筆を縛り付けて、主君の事蹟を綴った『清良記』を著はした。またあるとき扇の要の形から新しい測量法を発見し、弟の甚左衛門に伝授したといふ。
松山の八百八狸 / 松山市
むかし松山の久万山に八百八匹の狸が住んでゐた。狸のボスは隠神いぬがみ刑部ぎょうぶと名告り、天智天皇の御代からここに住んで松山城を守って来た最長老である。ある日、刑部狸のところに犬の匂ひのする妙な侍が現はれた。後藤小源太といひ、飛騨高山で生れ、幼いころ母を亡くして野白のじろといふ犬の乳ちちで育ったといふ。狸は親しみをおぼえたので、小源太が狸たちに害を及ぼさない代はりに、小源太が困ったときはいつでも助太刀することを約束した。小源太が助けを求めるときの合図は、こんな歌である。
○ 人外の身の性来を引くからは 心に心心して見よ
ところがこの小源太は、城の悪家老の奥平久兵衛の回し者だったのである。奥平は殿様の側室のお袖と通じて、お家乗っ取りを計画し、殿様に毒を盛って、殿は中風のやうになってしまった。城内は乗っ取り派と正義派に別れて大騒動。狸は、約束と正義の板挟みの中、あちらこちらに神出鬼没の化かしあひを繰り広げる物語が展開されて行く。
伊予の松山
松山は松平氏十五万石の城下町として栄えた。
○ 春や昔十五万石の城下かな 正岡子規
○ 逢ふことはまばらに編める伊予簾 いよいよ我をわびさするかな 恵慶
○ 君がゆくいよの松山年経ふとも いよいよ待たむ伊予の松山 香山景樹
正岡子規は松山市湊町に生まれた。
○ くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 正岡子規
蒲冠者の墓 / 伊予市上吾川
伊予市上吾川の称名寺にある鎌倉塚は、蒲冠者かばかんじゃといはれた源範頼の墓だともいふ。実際は長門探題に赴任した北条時直などの類の伝説ではないかと吉田東伍はいふが、夏目漱石の句碑があるので紹介する。
○ 蒲殿のいよいよ悲しかれ尾花 夏目漱石
○ 木枯しや冠者の墓撲つ落松葉 夏目漱石
水野広徳
水野広徳は、軍人として日露戦争に従軍し、日本海海戦を描いたベストセラー『此一戦』を出版。現役を引退してからは、当局の監視の中で、軍縮論や日米非戦論、軍部大臣現役武官制廃止などを主張し、平和主義を貫いた軍事評論家として知られる。
○ 世にこびず人におもねらず我はわが 正しと思ふ道を進まん 水野広徳  
 

 

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天山と古代四国
伊豫國風土記曰 伊与郡 自郡家以東北 在天山 所名天山由者 倭 在天加具山 自天々降時 二分而 以片端者 天降於倭國 以片端者 天降於此土 因謂天山 本也  (其御影敬禮 奉久米寺)(釋日本紀卷七)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。(『万葉集註釈』卷第三)
伊予国と阿波国にほぼ同様の伝承がありましたので、まとめて書きます。曰く、天から降ってきた山があり、二つにわれて、一つは四国に、もう一つは大和の天香具山になったという伝承です。
天香具山へは行ったことがありますが、『万葉集』などでも[天降(あも)りつく 天の香具山」などと歌われることがあり、大和でも香具山は天から降ってきたという伝承があったことがわかります。
天岩戸神話でもアメノカグヤマから正木や笹を取ってきたとあります。『事典』「アメノカグヤマ」の項目では「天上の香具山は地上のそれの神話的投影なのであろう」と書いてありますが、正直そう言ったところで何の解決にもなっていないです。また「大和の国魂の所在地」というのも伝承によっては正しいと思いますが、では三輪山はどうなのかと言うことにもなります。
香具山は大和盆地の南方にありますが、それほど高い山ではありません。冬に多武峰から耳成山を見ましたが、それと同程度だとするともっと高い山は周囲にいくらでもあります。しかしそれにもかかわらず香具山が重要であったのはやはり国見をする場所だったからでしょう。国見の場所と言うのは高さよりも位置の方が大切だと思います。その意味では香具山は北に大和盆地が広がり、南に飛鳥を見渡すことができる場所にあります。王都全域を視野に入れることが出来る位置にあるわけです。
「大和の国魂」の話を先に片付けておきましょう。神名から言ってヤマトオオクニタマがすぐに思いつきますが、現在の位置は天理市で、かつての位置はそれより東か南のほうという推測があるようです。しかしどちらにしても山之辺道です。
大物主の三輪山はもちろん山之辺道です。つまり大和盆地の東方に当ります。大物主が原初的には太陽崇拝と関係があると推測される由縁です。「大和の国魂」と思しき二柱の社と香具山はとても近いとはいえないと思います。
では香具山の土を取ることがどんな意味を持つのか?それは王権を確立するためや王位を簒奪するために行われた行動です。となると、やはり香具山は「王権を象徴する聖山」であると考えるほうが妥当です。三輪山ももちろん聖山で祭祀すべき対象ですが、これは大和にとっての聖山であって、王権そのものではない。
天から降臨した天皇王権そのものを象徴する聖山としてはやはり「天の山」がふさわしい。だからこその「天降りつく天香具山」です。
大和の香具山についてちょっと長く書きすぎましたが、この記事は四国のものです。どうして四国に香具山と同じ天界由来の山が存在するのか?
正直あまり自信はありませんが、恐らくこの天山も国見の山だったのではないかと思います。松山市HPによると「天山」は標高51mと丘みたいなものですが、松山平野のほぼ中央に存在しているとのこと。つまり「国見」には絶好のスポットなのです。しかも付近の古墳からは倭五王時代に大陸からもたらされたと推測されている銅鏡も発掘されたそうです。
その古墳は天皇か邪馬台国と関係がある、などとこじつけるつもりはありませんが、古代古墳だった場所が聖地になり祭祀が行われるというのはありうることです。
温泉に訪れた、或は罰せられて流刑になった畿内の人たちが香具山との類似性に着目し、それが地元でも広がった。まあ今のところ推測だけで考えるとこんなところでしょうか?
それにしても古代四国は伝承の特徴がはっきりしないところです。五風土記にも四国のものはありませんし、逸文もこれまで見てきたとおり。記紀でことさら四国関係の記事を追ったことはありませんが、神代から雄略代ぐらいまで国生み神話以外で言及されていた記憶がありません。
ざっと調べてみたところ『古事記』は同じ母腹の妹と近親相姦を犯した木梨軽皇子が伊予に流される話がありますが、他は国生み神話以外にはありませんでした。
『日本書紀』。伊予は温泉の記事が幾つかと、こちらは註ですがやはり木梨軽皇子の流刑地として言及されています。土佐は土佐大神が天武天皇に神刀を与える話が特徴的ですがごく短い記事です。やっぱり一言主的か?あとは筑紫大宰三位屋垣王の流刑地です。讃岐は景行天皇五年熱田神宮に献じられた蝦夷が移住させられた場所でやはり流刑地的な性格があるようです。
阿波は人名のみか?調べてみた限りにおいては記紀で四国に言及される場合はほとんど流刑地、たまに伊予の温泉と土佐の大神のみであるようです。「暗黒大陸」ぶりは逸文でも同様でした。特徴的なのは伊予の温泉ぐらい。しかしそれも恐らくは播磨から瀬戸内にかけてのオオナムチ・スクナヒコナ伝承や天皇来訪によって権威付けられています。土佐は対岸の九州と少し似て神功皇后と海神の玉の伝承がありました。それ以外は大和系の信仰が言及されているに過ぎない。
記紀風土記といった奈良時代、文学史区分で言うところの上代においても九州・中国・中部・関東にはそれなりの伝承傾向が存在しています。より正確に言えば記紀による「王権から見たイメージがあらわれた伝承」と風土記による「地元の伝承」が存在しています。
九州は遠いですが、古くから大陸文化の影響を受けていたせいかそれなりにまとまった勢力があったものと思われます。また王権神話にも日向などは大きな存在意義を持っています。中国地方は出雲があります。王権と対立する国津神の本拠地であり、神話では一大勢力として設定されています。中部は北陸・東海は中央と結びつきます。現在の岐阜長野山梨は影が薄いですが、諏訪のタケミナカタは出雲神話では国津神として登場します。関東は『常陸国風土記』があるので古代の伝承がつかみやすいですが、やはりヤマトタケル伝承などを通じて中央とのつながりは強いです。あとは鹿島香取信仰ですか。
しかし、機内から見て距離的にはそれほど遠くない四国にはまとまった伝承と言うものが記録されていないのです。記録がないという点では東北もそうじゃないかと言われてしまうかもしれませんが、それはまだそこまで大和朝廷が進出していなかったのだからしょうがないとも言えます。ほとんど外国みたいなものでしょう。
それに対して四国は完全に視野に入っているにもかかわらず、伝承が乏しいのです。伝承のみならず記録自体があまりに貧弱。
その理由はにわかには思いつきません。思いつきませんが、流刑地であるということなどを考えるとある意味古代日本において一種「未開の地」であるとされてきたということは確かでしょう。しかも「文化による教化」=「遠征伝承」「土蜘蛛伝承」も語られない「未開」です。だから伝承も九州や大和のコピーのようなものしか存在していないのだと思います。
そして更に言えば、讃岐生れの空海=弘法大師の信仰が非常に深く根付いているのは、それ以前にまとまった政治勢力や強力な信仰が存在していなかったからだと思われます。現在の伝承も四国八十八箇所と空海にまつわるものばかりのようですし。 
温泉
伊豫國風土記曰 湯郡 大穴持命 見悔恥而 宿奈古那命 欲活而 大分速見湯 自下樋持度來 以宿奈古奈命  漬浴者 間有活起 居然詠曰 眞寢哉 踐健跡處  今在湯中石上也
伊予国は古代から温泉で有名だったようです。その温泉についてオオナムチ・スクナヒコナの伝承から始まっています。これは非常に興味深いです。温泉の神秘的な効能は神の世から存在していたというわけです。瀬戸内海、と言うことでいえば『播磨国風土記』にもオオナムチ・スクナヒコナの伝承が幾つかあります。出雲と畿内は神話的にも遠い場所であると書かれるわけですが、つながりがあるとするなら瀬戸内海を伝っていくのだと思います。
前段はわかりませんが、スクナヒコナが死んでしまったので大分速見から下樋(海底を伝う地下樋?)を通して持って来て、スクナヒコナに浴びせたといいます。するとスクナヒコナは復活して「ちょっと寝た」といって足を踏み下ろすと跡が出来たといいます。そしてその足跡は今の温泉の中にも残っていると。
スクナヒコナの死というのは神話的に見れば穀霊の死と再生につながるものなわけで、記紀神話の研究でもそのように解釈する研究者は多いと思いますが、ここではあくまでも温泉の神秘的な効能を説くものとして扱われている。
この後天皇が温泉にやってきた記事が続くので、権威付けをするならばそれだけでも十分だとも思います。それにもかかわらずオオナムチ・スクナヒコナを持ち出してきたということは、やはりこの地域では天皇王権よりも古い神として認識されていたからかもしれません。
凡湯之貴奇 不神世時耳 於今 世 染疹痾萬生 爲除病存身要藥也 天皇等 於湯幸行降坐五度也 以大帶日子天皇與大后八坂入姫命二躯 爲一度也 以帶中日子天皇與大后息長帶姫命二躯  爲一度也 以上宮聖徳皇 爲一度 及侍高麗惠慈僧 葛城臣等也
「天皇が五度来た」というのは、「景行天皇と后」「仲哀天皇と神功皇后」「聖徳太子一行」「舒明天皇と皇后」「斉明天皇と天智天皇と天武天皇」と言うことらしいですが、数え方がおかしいです。しかし聖徳太子が天皇扱いで一度と数えられているあたり、覚えておきましょう。
そして省略したのですが、実は聖徳太子が来たときに作ったというこの地の温泉を褒め称える内容の碑文がとても長く引用されています。現在はどうか知りませんが四国の聖徳太子信仰というのも弘法大師信仰とどのように関わってくるのか興味深いです。 
ヤマツミもしくはワタシオオカミ
伊豫國風土記曰 乎知郡 御嶋 坐神御名 大山積神 一名和多志大神也 是 神者 所顯難波高津宮御宇天皇御世 此神自百濟國度來坐 而津國御嶋 坐 云々 謂御嶋者  津國御嶋名也
御島にいる神についての記述です。
で、この御島ですが、瀬戸内海にある大三島がそれだということです。そしてそこには確かに「大山祇神社」があります。しかも伊予国一の宮で、全国ヤマツミ神社の総本社であるとか。あと「三島神社」の総本社でもあるそうですが、東国は伊豆国一ノ宮三嶋大社の分霊である可能性もあるそうで。
「一人角力(すもう)」はここの行事だそうです。旧暦五月五日田植祭と旧暦九月九日抜穂祭の二回。稲の精霊と「一力山」による三番勝負で、二勝一敗で稲の精霊が勝つことになっているとか。
この神社の起源についてはオオヤマツミの孫である乎千命(おちのみこと)がこの地に社を作ったことが始まりであるとか、摂津国から移されたとか、伊豆三嶋大社からうつされたとか、諸説あるようです。
まあそういうお約束の歴史考証は置いときまして、上の伝承を見るに、気になるのは「ヤマツミ」なのか「ワタシ(渡海)の神」なのか?と言うことです。
山の神と渡海の神というのは何だか全然違います。いやこの神社の土地柄から考えると渡海の神というのは別に不思議ではないですし、山があればオオヤマツミでも不思議ではないのですが、両者が同一であると言われるとどうも釈然としません。
しかし上の伝承を虚心に読むと、渡海の神のほうが妥当な気もしてきます。仁徳天皇の時に百済から摂津の国に渡ってきた、そう書いてあります。ということは渡海神とするほうがどちらかと言うと自然です。
しかしこの矛盾は実は伊豆国一ノ宮三嶋大社にも存在しています。伝承によると三宅島から渡って来た神であるというのです。でも祭神はオオヤマツミ。まあこの伊予一宮から分霊されたと言う話もあるのですが。
となると、むしろ重要なのは「ミシマ」という地名についてなのではないかと思われます。「御島」「三嶋」「三島」などの表記が考えられますが、やはり「神がいる島」という意味合いのような気もします。まあ「島」という地名は実際の島ではなくてもつけられる、という事を考えてもやはり「神がいるシマ」という解釈が一応ありえそうです。
その上で、ではなぜオオヤマツミなのか?という疑問に戻りますが、これはシマとヤマとの類似性など地名研究の方法論から何かしらいえそうです。
あとわたしが気になるのは沖縄来訪神との類似性です。沖縄の来訪神は海の彼方からやってきて、山に降臨する。全てそうだとは思いませんが、確かにそういう事例を谷川健一氏の研究で読んだことがあります。
山の神というのは最も自然発生的に現れる土着の神のような気もしますが、「オオヤマツミ」などと記紀風の呼称で呼ばれる神には既にして新たなベールがかけられている可能性があると思います。
また渡海神であると考えても「百済から渡ってきた」などというのは、どうも地元の元々あった言説とは思われません。九州にも朝鮮半島から渡ってきた神の話が幾つかありましたが、どうも官製伝承の焼き増しような気もします。 
「熊野」という名の船
伊豫國風土記曰 野間郡 熊野岑 所名熊野由者 昔時 熊野云船設此 至今石成在 因謂熊野 本也
熊野という船があったので、地名が熊野になった。その船は石になって残っている。ただそれだけの起源伝承です。そもそも古代日本には熊野という知名はたくさんあったらしい。「奥まったところ」という意味だとどこかで読んだことがあります。
しかしまあ普通熊野と言ったら紀伊半島の熊野です。あと広島や島根にも熊野という知名があります。伊予国野間郡は今で言うと愛媛今治らしいので愛媛県の中でみてもそれほど「奥まったところ」だとは思えません。普通に考えると熊野から来た船、ということで「熊野」という名前だったのではないかな?
あとこれは調べてみないとなんとも言えませんが、古代の船の名前は「〜野」というのが多かったのでしょうか?「枯野」とか。野を走るが如く海上を行く、そういう意味なのかもしれません。
それと船が石になったという話。船型の石というのはあちこちにありそうです。当尾の岩船寺とかもそうです。現実には石を船に見立てるわけですが、船と言うからには「海河川を渡ってどこかからやってきた」という思想が存在しているはずです。ということはその船石があるところと言うのは外部との交渉があった、或はあったと考えられてきた土地だということでしょう。 
石手寺(いしてじ) / 愛媛県松山市石手
四国八十八箇所霊場の51番札所。屈指のB級スポット寺院としても有名であるが、本堂をはじめとする数多くの重要文化財を持つ。
この不思議な寺名であるが、これは遍路の祖とされる衛門三郎にまつわる奇瑞に由来する。
衛門三郎は、巡礼の途中であった弘法大師に無礼を働いたために全ての子を失い、改心して大師の後を追って四国各地を巡り歩く(この行為が遍路の始まりとされる)。そして臨終の間際に再会。大師に望みを尋ねられると、伊予の国主である河野家の家に生まれ変わりたいと言った。そこで大師は路傍の石に「衛門三郎再来」と書くと、それを左手に握らせたのである。これが天長8年(831年)のこと。
それからしばらくの後、伊予の国主・河野息利が男子を授かった。ところが、その子は生まれつき左を固く握ったまま開こうとしなかった。困り果てた息利は、安養寺の住職に祈祷を依頼した。そしてその甲斐あって、男子は手を開けた。手の中には小石があり、そこには「衛門三郎再来」と書かれてあった。この奇瑞を喜んだ息利は、安養寺にこの不思議な石を奉納したのである。そして寛平4年(892年)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名したのである。なおその後、この男子は河野息方と名乗り、自らの出生を受け入れ、当主として善政を敷いたという。
また国道に面した山門の前には「渡らずの橋」という名も石橋があり、“弘法大師お道開きの橋”として知られ、渡ると足が腐ると言われている。これをはじめ“石手寺の七不思議”があり、衛門三郎再来を書かれた石などが挙げられる。 
河野氏 / 伊予国の有力豪族であった越智氏の支流。家祖を越智玉澄とする(父の越智守興が白村江の戦いの際に、中国人の娘との間に生まれた子とされる)。息利は6代目、息方は7代目にあたる。鎌倉時代以降は伊予の最有力御家人となるが、度重なる紛争による弱体化していき、最終的に豊臣秀吉の四国攻めの際に大名として残ることが出来なかった。
石手寺七不思議 / 渡らずの橋・玉の石(衛門三郎再来の石)・蛇骨(湧ヶ淵の大蛇の骨)・水天堂の水瓶(潮の干満が分かる)・詞梨帝母天堂の石(子授かりの石)・湯音石(道後温泉の湯が沸く音が聞こえる)・仁王門の大草鞋(触ると足腰の病に効く)・香煙(線香の煙を患部に当てると治る)・不動石(不動明王の姿が石に浮かび上がる)
一宮神社 小女郎狸(いっくじんじゃ こじょろうたぬき) / 愛媛県新居浜市一宮町
呼び名こそ変わってはいるが、一宮神社は新居浜の一の宮とされる古社である。この神社には巨大なクスノキが相当数ある。その中でも「一番楠」と呼ばれる天然記念物の巨木は、幹周り9.5m、高さ29m、樹齢1000年超にもなる立派なもの。その根元に楠木神社という小さな祠がある。ここに祀られているのが“小女郎狸”である。
小女郎狸は、壬生川の喜左衛門狸・屋島の禿狸を兄に持つ、三兄妹の末妹とされ、伊予の狸族の名門と言われる。特に若い娘に化けるのが得意であるため小女郎狸と名付けられ(小女郎川の辺りの生まれのためという説もある)、眷属として一宮神社の宮司に代々仕えていた。
小女郎狸には有名な逸話が残されている。ある時、神社に奉納された初穂の鯛を1匹失敬したことで宮司から追放を命ぜられた。行く当てもなく浜に出ると、漁船の出港に出くわした。知り合いの慈眼寺の和尚に化けて船に乗せてもらったところまでは良かったのだが、船が釣り上げる大量の鯛に小女郎は心掻き乱されて、とうとう我慢しきれなくなって好物を食い散らかして正体を現してしまった。漁師達に見つかり危うく海に叩き落とされるところであったが、殊勝に謝ったために何とか許されると、そのご恩返しにと、小女郎は大阪に着くなり黄金の茶釜に化けて、これを売って食べた鯛の穴埋めをしてくれと漁師達に頼んだ。その後、元の姿に戻った小女郎は、若い娘に化けて道頓堀や千日前辺りを見物して回ったという。その姿は大阪の町でも一際目立ったらしい。さらに時を経て、小女郎は一宮神社に舞い戻り、今では楠木神社に祀られている。
一宮神社 / 和銅2年(709年)、大三島の大山祇神社より勧請。豊臣秀吉の四国征討の際に小早川隆景が焼き討ちにするも、それから約30年を経て、萩藩毛利氏が社殿を再築する(小早川家断絶など、身内の不幸が続くため、焼き討ちの祟りではないかとされたらしい)。西条藩松平氏の崇敬も厚かった。
喜左衛門狸 / 壬生川(現・東予市)の大気味神社の眷属。日露戦争の時に、小豆に化けて戦地に赴き、○に喜の字の入った赤い服を着た日本兵となってロシア軍を攪乱したと言われる(ロシアの司令官・クロパトキンの手記にその内容が記載されているらしい)。
禿狸 / 別名・太三郎狸。屋島寺にある蓑山大明神に祀られている。矢傷を負った時に平重盛に助けられ平氏に加勢、平氏滅亡後、屋島を本拠とする。かつて見た源平合戦の様子を術によって見せたといわれるほどの変化術の名手であった。
大気味神社 喜左衛門狸(おおきみじんじゃ きざえもんたぬき) / 愛媛県西条市北条
大気味神社の祭神は大気都比売(おおげつひめ)神。神社の創建は新しく、宝永2年(1705年)にこの地方一帯が風水害や虫害によって飢饉となった時、村人が神の守護を願うために創建したとされる。
この大気味神社の境内にある大樹に住んでいたのが、喜左衛門という名の大狸であった。この狸は“四国三大狸”に数えられ、有名な伝説を残している。
ある時「金比羅様へ行く」と言って出掛けると、ちょうどそこで屋島の禿狸に出会った。早速化けくらべを始めた。禿狸は得意技である源平の壇ノ浦の合戦を再現して見せた。次は喜左衛門狸の番となるが、そこで数ヶ月後に大名行列を見せてやると約束した。当日、禿狸は約束の場所へ行くと、本物そっくりの大名行列が向こうからやってくる。感心した禿狸は近寄って行くと、いきなり護衛の侍に切られてそうになる。這々の体で屋島に帰った禿狸であるが、喜左衛門狸はあらかじめ大名行列がそこを通ることを知っていて、一杯食わせたのであった。
悪戯好きであったが、大気味神社の眷属(神使=喜野明神)としての務めもよく果たした。ある時、神社の神殿が荒れはてているのを見て、人に化けて菊間町の瓦屋に屋根瓦を千枚注文した。ところが、そこでうっかりと狸であることがばれてしまい、窯に入れられて焼き殺されてしまったという。その後、しばしば不審火が起こり、喜左衛門狸の祟りだと言われたとされる(一説では、その時に喜野明神として祀られたとも)。
そして喜左衛門狸の逸話は明治時代までも続き、日露戦争にも出征したとの伝説が残る。小豆に化けて大陸に渡り、上陸するやいなや豆をまくように全軍に散っていき、赤い服を着て戦ったという。ロシアの敵将・クロパトキンの手記によると『日本の兵隊の中には赤い服を着た者が時々混じっており、いくら撃っても進んでくる。しかもこの兵隊を撃つと目がくらむ。赤い服には○に喜の字の印がついていた』とされる。
大気都比売神 / 食物の神。『古事記』では、高天原を追われた素戔嗚尊が空腹に耐えかねて訪れた時に、食べ物を提供したとされる(ただし、自らの口や尻から食べ物を出していたために、怒った素戔嗚尊に斬り殺される)。また、国産みの中では四国の阿波国を指す名前として登場する。
四国三大狸 / 喜左衛門狸、屋島の禿狸、小女郎狸とされる。その名前は遠く上方にまで知れ渡っていたとされる。
屋島の禿狸 / 太三郎狸とも。佐渡の団三郎狢、淡路の芝右衛門狸と並んで“日本三大狸”とされる。平重盛に命を救われたために平家を守護。平家滅亡後は屋島寺の守護神となる。四国の狸の総大将にもなった。源平の合戦の様子を術で見せるのが得意とされる。
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ) / 愛媛県今治市大三島町宮浦
伊予国一の宮。全国の大山祇神社、三島神社、山神社の総本社とされる。祭神は大山積神。
養老3年(719年)には現在地に社殿が完成し、平安時代には“日本総鎮守”の名称が与えられた、日本有数の神社である。特に武家からの信仰が篤く、数多くの武具の奉納がおこなわれた。国宝・重要文化財が多数、とりわけ甲冑に関しては、国指定の文化財の大半が大山祇神社の所蔵となっており、宝物館に展示されている。
その貴重な甲冑の中でも異彩を放つ一領がある。胸回りが広く、胴の部分が絞られた胴丸である。全国でもこのような甲冑は唯一つだけであり、女性が身につけていた甲冑とみなされている。そしてこれを着用したとされる人物も伝えられている。
大山祇神社の社家である大祝氏は、伊予の豪族・越智氏の後裔であり、さらに伊予一帯を支配する河野氏の同族である。それ故に、神職でありながら水軍の統括者として戦にも関与するという立場であった。ただ立場上、陣代という形で一族の者を戦場に送り出す慣わしであったという。
戦国の世になって、瀬戸内では周防の太守・大内氏が台頭、次第に河野氏の所領にも侵攻を始めた。天文10年(1541年)、大祝安舎の代に大内氏が攻め入った時、陣代となった弟の安房は討死したため、再度の大内氏侵攻の際には妹の鶴姫が陣代となって戦闘に参加、見事に撃退したのである。この鶴姫が、上の甲冑を着用したとされる人物である。
天文12年(1543年)、大内氏はさらに強力に侵攻を進め、主力の陶高房を主将として攻め込む。鶴姫は再度陣代として出陣するが、思い人であった越智安成が討死する。一旦兵を引いた鶴姫であるが、早舟による急襲をおこない、大内軍を敗走させることに成功する。しかし鶴姫はこの戦いの最中に行方知れずになったとも、戦いの後に思い人の死を嘆き入水自殺したとも伝えられる。18歳であった。
この鶴姫の伝説は、昭和41年(1966年)に出版された、大祝家の一族である三島安精の『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』という書籍によって脚色・創作された部分も多いが、現在ではかなり流布する伝承とされている。
また境内には、能因法師が歌によって雨乞いの祈願をおこなったとされるクスノキがあり、幹周り17m、推定樹齢3000年という日本最古のクスノキと言われている(ただし既に枯死している)。
大山積神 / 伊弉諾尊と伊弉冉尊の間に生まれた神。山の神であると同時に海の神の性格も併せ持つ。磐長姫と木花咲耶姫の父であり、皇室とも関連深い神である。
鶴姫 / 1526-1543。大祝家の古文書にその名が記載され、大内家と戦ったことは史実であるとされる。ただし、重要文化財の紺糸裾素懸威胴丸(甲冑)が鶴姫着用のものであるかについては、フィクションの域を出ない。
能因法師 / 988-1050?(1058?)。中古三十六歌仙の一人。雨乞いをおこなったのは長久2年(1041年)のこととされる。
魔住ヶ窪(ますみがくぼ) / 愛媛県伊予郡砥部町重光
この奇怪な名を持つ場所には、現在、地蔵堂が建てられているが、この地で怪異が起こったことが『太平記』巻二十三「大森彦七事」に残されている。
大森彦七盛長は、南北朝の争いで足利尊氏側につき、建武3年(1336年)の湊川の戦いで敵将の楠木正成を自害に追い込んだ武勲で知られる。その功などによって砥部中山に所領を与えられたのであるが、それ以降、猿楽をたしなむようになり、自ら舞うこともしばしばであったとされる。
暦応5年(1342年)、領地内にある金蓮寺の春祭りで猿楽を舞おうと、彦七主従一行が矢取川あたりにさしかかると、そこに一人の若い女が佇んでいた。声を掛けると、女は道案内を請う。ならばと一緒に行くが、途中で彦七は女を負ぶってやることにした。
そしてしばらく歩いていくと、急に背中が重くなった。何が起こったのかと、彦七は背中の女の様子をうかがう。すると女は八尺(2.4m)以上の身の丈になり、その顔は鬼女そのものに変わっていたのである。
鬼女は彦七の髪を掴むと空へ舞い上がろうした。しかし我に返った彦七は鬼女の腕を掴んで引き戻すと、両者もつれ合ったまま田の中に転げ落ちる。家来も主人を助けようと田に飛び込んで来るに及んで、鬼女もようやく諦めたのか彦七を放すと宙を舞って消えていった。
魔住ヶ窪の名は、鬼女が彦七を待ち受けていた場所であるために付けられたものである。そして地蔵堂は、この鬼女の供養のために建立されたものであると伝わっている。
しかしこの後も大森彦七にまつわる怪異は続く。
鬼女の出現で延期となった猿楽が再び催された夜、海上から光り物が現れ、やがて舞台を覆い尽くすように天空に異形の者が並んだ。そしてその中から楠木正成の怨霊が登場する。正成は、襲来の目的が彦七所有の宝剣であり、これを手にすればたちどころに今の世は転覆するという。
それから何度も正成の怨霊は襲来を繰り返し、彦七がそれを追い払った。しかし怨霊の姿は彦七にしか見えず、周囲からは彼一人が発狂して暴れているようにしか見えないために部屋に押し込められてしまった。
そしてある夜、彦七のいる部屋で立て続けに怪異が起こり、多数のあやかしが跋扈した。それでも彦七は武勇を奮って化け物を取り押さえ、ついに制圧した。その後、大般若経を転読するのが良いとのことで、日夜6度読むと雷鳴が轟いてそれ以降楠木正成の怨霊は現れなくなり、彦七も正気に返ったという。
大森彦七の供養塔も同町内宮内にある。しかし尊王論が広まる江戸後期以降、南朝の功臣を自害に追い込んだ逆賊と言われたためか、供養塔には3つに折れた跡が痛々しく残されている。
そして怨霊の狙った宝剣は『太平記』によると、足利直義(足利尊氏の同母弟)に献上されたとなっている。ただ大三島にある大山祇神社には、大森彦七所有の大太刀(国宝)が奉納されており、この大太刀で自害した楠木正成の首級を挙げたと伝えられている。
大森彦七盛長 / 生没年不詳。南北朝時代初期の伊予国の武将。事績については、上に挙げた『太平記』巻二十三にあるこの怪異遭遇譚のみが伝わる。
楠木正成 / 1284-1336。河内国の土豪であったが、後醍醐天皇挙兵に応じて千早赤阪城で奮戦し、鎌倉倒幕に功績。足利尊氏の裏切り後も後醍醐天皇側の主力として戦う。湊川の戦いで足利方に敗れ、自刃する。
『太平記』 / 後醍醐天皇即位から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝の動乱を経て、足利2代将軍足利義詮の死までの約50年間の歴史をあらわした軍記物。後醍醐天皇の崩御までの部分が最初に成立し、その後に後半部分が書き足されたと推測される。大森彦七の話の収められる巻二十三は、この後半部の始まりにあたる。
山口霊神 隠神刑部狸(やまぐちれいしん いぬがみぎょうぶたぬき) / 愛媛県松山市久谷町
日本三大狸話の一つ『松山騒動八百八狸物語』は江戸末期に講談師によっておおよそのストーリーが出来た創作であるが、そこに登場する隠神刑部狸は、圧倒的な存在感によって全国的にその名を知られる化け狸となっている。
享保の飢饉のおり、松山藩は幕府から多額の金子を借りたが、城代家老の奥平久兵衛はそれを着服しようとお家乗っ取りを図る。しかし天智天皇の御代より伊予狸の総帥であり、松山城主より「刑部」の位階をもらう隠神刑部が城を守護しているのが邪魔になる。そこで久兵衛は、飛騨の山奥で山犬の乳で育った後藤小源太に八百八狸退治を頼む。最終的に隠神刑部は小源太と和睦し、「小源太が狸に危害を加えない替わりに、小源太が窮地の時は狸が助ける」という盟約を取り交わすことになった。
久兵衛は小源太を中老に取りたて、さらに城主の愛妾お紺の方を味方に引き入れ、城主を亡き者にしようとさまざまな手を打つ。松山藩は二つの派閥に分かれて抗争を繰り返し、隠神刑部らは小源太の味方をする盟約によって、城下で様々な怪異を起こし続けたのである。
不本意な味方をさせられる刑部狸は一計を案じて、藩主以下が参列する法要で久兵衛に大失態を演じさせるが、逆に化け狸の悪行と糾弾される。さらに打倒久兵衛派の山内与兵衛が藩主に直訴するが、お紺の方の讒言によってお手討ちになってしまう。
そのような時に松山城下に現れたのが、妖怪退治の豪傑・稲生武太夫。武太夫に敵に回られては一大事と、隠神刑部狸は雌狸を娘に化けさせて、武太夫の身の回りの世話をさせて動向を探らせる。そのうち娘と懇ろとなってしまう武太夫であったが、ある時娘の正体が狸であることがばれて激怒、これを機に反久兵衛の仲間に加わる。そして拝領の菊一文字を携え、山内与兵衛の霊が乗り移ったその剣で後藤小源太を討ち果たす。さらには宇佐八幡宮の神杖でもって隠神刑部狸の神通力を封じ込め、八百八狸を久万山の洞窟に閉じ込めてしまった。こうして、奥平久兵衛一派の悪計は頓挫したのである。
洞窟に閉じ込められた隠神刑部狸は、本来であれば成敗される身であったが、長年松山城の守護を果たしてきた功績に免じて祠を建てて祀られることとなった。これが現在の山口霊神であるとされる。
日本三大狸話 / この『松山騒動八百八狸物語』の他に、群馬県館林の『分福茶釜』と千葉県木更津の『證誠寺の狸囃子』とされる。
松山騒動 / 講談ではお家乗っ取り騒動とされるが、実際には、松山藩内の権力闘争。享保17年(1732年)の大飢饉の翌年、5代藩主・定英死去直後に飢饉の際の失政(領民3500名餓死)を理由に現職の家老・奥平藤左衛門が閉門、目付の山内与右衛門が切腹となる。換わって家老に復職した奥平久兵衛が権勢を誇る。事実上の政変であった。しかし寛保元年(1741年)の久万山農民騒動が起こり、久万山地区の農民3000人が隣藩へ逃散する騒ぎとなる。これによって久兵衛は失脚・遠島となり、再び藤左衛門らが復権する。この政争のターニングポイントに出てくる久万山は、隠神刑部狸の本拠地でもあり、ある種の符丁を覚えるところである。
稲生武太夫(平太郎) / 1735-1803。三次藩士の子(三次藩は1720年に既に廃藩。武太夫が生まれた頃は広島藩浅野家が郡代を置いていた)。寛延2年(1749年)に比熊山に登り、その後1ヶ月に渡り怪異に見舞われる。その時の体験が『稲生物怪録』として世に伝わる。記録によると、成人後に広島城下に移転し、死ぬまで浅野家の家臣であったとされている。
湧ヶ淵(わきがふち) / 愛媛県松山市末町
奥道後温泉・ホテル奥道後の敷地の一部となっている場所に湧ヶ淵はある。石手川の上流にある、奇岩の多い美しい渓谷である。ここには大蛇にまつわる伝承が残されている。
この湧ヶ淵には雌雄の大蛇が棲みついており、近隣の住民を多くの災いをもたらしていた。そこで石手寺の僧が一人、石剣で雄の大蛇の首を切り落として退治したという。今でも石手寺には、その時の石剣と大蛇の頭骨が残されており、宝物館で見ることが出来る。頭骨の大きさはおおよそ成猫ぐらいのものであり、大蛇であるとは明確に言えるが、近隣住民が命を落とすような災厄をもたらすほどの大蛇であるかと言われると、少々口を濁してしまうところである。石剣についても、大蛇を退治する実戦的な武器であるかは疑問が残る。
しかしこの大蛇の伝説は、それでは終わらない。生き残った雌の大蛇もまた人に害をなすものとして登場する。元和年間(1615-1623)に夜な夜な美女に化けて、通行する者をたぶらかして淵に引きずり込むようになったのである。そこで湯山菊ヶ森城主・三好長門の長男である蔵人秀勝が鉄砲で撃ち殺したという。別説によると、雌の大蛇は、人間の姿で三好家の下女となっていたが、夜な夜な湧ヶ淵へ忍んで行ったところを怪しまれて殺されたとも言われる。
こちらの雌蛇の頭骨は三好家に代々伝えられてきたが、現在では同じホテルの敷地内にある竜姫宮に祀られているとのこと。大蛇伝説としても夫婦の蛇が害をなす点が非常に珍しく、また実際に頭骨が残されるなど物証もある点も希少であると言えるだろう。
石手寺 / 四国八十八箇所霊場の51番札所。寺名の由来は、河野氏に生まれた子供が生まれつき握っていた石を奉納した、衛門三郎の再生伝説に基づく。古刹であるが、マントラ洞といったかなりあやしいスポットも多数存在する。
三好長門 / 三好長門守秀吉。伊予の戦国大名・河野氏の家臣。この湧ヶ淵周辺も所領としていたとされる。主家である河野氏が滅亡すると、中国地方などで浪人をしていたが、その後、旧領に帰住して代々庄屋の家柄となったとされる(大蛇退治の頃には既に帰農していたのではないだろうか)。阿波の三好家とは類縁ではないが、祖先は同じではないかと推測されている。 
 
 
高知県 / 土佐

 

徳島香川愛媛高知

大土佐の海を見むとてうつらうつら 桂の浜にわれは来にけり 吉井勇
土佐に坐す神 / 高知市
高知市の土佐神社は、大国主命の子である「土佐に坐す神」をまつる。この神は、味鋤あぢすき高彦根命とも、高鴨たかかも神ともいひ、葛木一言主かつらぎのひとことぬし神ともいふ。いづれも大和の葛城王朝のころの神である。備後国疫隈の里を訪れた素戔嗚尊は、土佐の神の娘のもとに通ふ途中だったともいふ。室町時代の元亀元年(1570)に土佐六郡を領した長宗我部元親が、社殿をを再興したときの落首。
○ 元親もとちかは長き弓矢の家と聞く さいかうまくを一の宮かな 落書
土御門院 / 香美郡香北町
物部川の上流、香美郡香北町猪野々は、鎌倉時代に承久の変ののち、御自ら移られた土御門院の御在所のあった地である。院は周囲のすすめで阿波へ移られたが、そのときの歌。
○ 浮世にはかかれとてこそ生れけめ ことわり知らぬわが涙かな 土御門院
○ 寂しければ御在所山の山桜 咲く日もいとど待たれぬるかな 吉井勇
室戸岬、足摺岬
高知県東部の室戸岬は空海修行の地とされ、最御崎寺、金剛頂寺などがある。
○ 神の住む室津の崎のありそわに 打ち寄る波の音のさやけさ 今村楽
○ まれまれに我を追ひ越す順礼の 足のとにあらし遠くなりつつ 釈迢空
県西部の足摺岬には金剛福寺がある。
○ なやみの日に我を呼べといふ 制札のまばゆさよ愛も岬ゆゑくらし 生方たつゑ
南へ突き出た岬は、補陀落ほだらく渡海への聖地とされた。
雪蹊寺 / 高知市長浜町 高福山雪蹊寺
○ 旅の道飢ゑしも今は高福寺 のちのたのしみ有明の月 御詠歌
永禄(1558〜70)のころの雪蹊寺は、妖怪の出没する寺だったといふ。あるとき諸国を巡ってゐた月峰といふ僧が、この寺に泊まると、夜中にすすり泣く声がした。
○ 水も浮世をいとふころかな
次の夜も同じ歌が聞えたので、月峰は、成仏できないでゐる霊があるのだらうと句を付けた。
○ 墨染めを洗へば波も衣着て
すると泣き声は止んだといふ。月峰は、領主の長宗我部氏に推薦されて住職となり、寺の再興に大いに貢献したといふ。
竹林寺、播磨屋橋 / 高知市
高知の竹林寺は、五台山文珠堂ともいひ、三池水がある。江戸時代の土佐藩主の歌。
○ くみて知る法の誓の底干なく 三の濁りを結ぶ池水 山内豊房
むかし竹林寺に純信といふ僧がゐた。その弟子に慶全といふ若い僧がゐて、慶全は鋳掛屋新平の娘お馬に恋心を抱いてしまった。ところがお馬は、師の純信に夢中になってゐた。慶全はお馬の気を引かうと、播磨屋橋のたもとで簪を買ひ求めたといふ。
○ 土佐の高知の播磨屋橋で 坊さん簪買ふを見た よさこい節
播磨屋橋は播磨屋宗徳といふ豪商が架けた橋である。よさこい節は、お遍路さんが道中で歌った菅笠節の替歌がもとになったともいふ。
○ 破れ菅笠 締め緒が切れて さらに着もせず捨てもせず 菅笠節
諸歌
高知市、桂浜公園
○ 見よや見よみな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ 大町桂月
やなせ杉 / 奈半利なはり川
土佐は森と良材の国で、県東部の安芸郡を流れる奈半利なはり川の上流は、県木とされる魚簗瀬やなせ杉の産地でもある。
○ 波の穂にうつろふ月の影も見ん 雲吹きはらへなはり浦風 今村田主
県中部の高岡郡戸波村(土佐市)で山林を生業としてきた旧家の主婦の歌。
○ 屋根にまで桧大樹のつづく山 わが山にしてわが子を持たず 松本ふじ子
県出身の植物学者、牧野富太郎博士は、寿衛子夫人の病死に遇ひ、そのころ発見してまもない笹の新種を、スエコ笹と命名したといふ。博士は東京石神井に住んだ。
○ 世の中にあらん限りやスエコ笹 牧野富太郎
有井の里 / 道文神社幡多郡大正町、大方町
後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王は、元弘の変に笠置山で敗れ、土佐へ配流の身となられた。侍臣の秦はた武文たけふみ・道文みちふみの兄弟は、有井荘米原(幡多はた郡大方町有井川上流)の山里に御所を建てて親王をお迎へした。親王は、土佐に移って以来、各地へ配流となった天皇や弟の親王たちを思ひ、また京の情勢を按じて暮す毎日だった。中でも京に残した姫君を思はれるときのお姿は、傍目に見ても気の毒なほどだった。
○ 我が庵は土佐の山風さゆる夜に 軒漏る月もかげ凍るなり 尊良親王 新葉集
かくして兄の武文が京へ派遣されて姫をお連れすることになったのである。
京へ上った武文は、鞍馬山で首尾良く姫を奪還し、淀川を下って難波で宿をとった。その夜、宿に盗賊が乱入した。武文は姫君を背負ひ、賊を蹴散らしながら港へ出て姫君を船に預けた。再び追手の賊どもを追ひ払ひ、ふと振りかへって港を見ると、船は岸を離れて遥か沖合ひを進んでゐた。武文は必死で小舟を漕いで後を追ひかけたが、大きな船に船足が追ひつくはずもない。武文は大声を上げて泣き叫び、そのまま夜の海中に跳び込んで死んだ。
船は松浦五郎といふ海賊のものだった。船が阿波の鳴戸に至るころ、突然の暴風雨が船を襲った。水夫たちは皆恐怖に陥り、姫君をさらった罪ではないかと騒ぎたてた。この大混乱のさなかに、姫はひっそりと涙を浮かべ、「是は吾が形見なり、父上御在世なれば届け賜へ」と海神に祈り、小袖を海中に投げ入れた。天罰を怖れた海賊どもは、小舟を下ろして姫君を乗せて逃がした。まもなく船は転覆し、一味は全員、海の藻屑と消え去った。
姫の小袖は、入野浜(大方町)に流れ着き、これを見つけた漁夫たちが、領主の有井氏の元に届けた。有井が親王に献上すると、親王は「吾れ在京時、姫君に授けし小袖なり」と涙を流された。弟の道文は、兄に代はって上京を決意、姫君を探すことにしたが、山越えの旅の途中、打井川の里(大正町)で病に倒れ、歌をのこして死んでいった。
○ 一筋に忠義をつくす道文が 吾が名を後のみ世にとどめん 秦道文
ここに悲運の生涯を終へた秦道文をまつったのが、道文神社である。その頃から入野月が浜でとれるやうになった貝は、姫の小袖と同じ模様をした美しい貝で、小袖貝と名づけられた。 
 

 

徳島香川愛媛高知

玉島
土佐國風土記曰 吾川郡 玉嶋 或説曰 神功皇后 巡國之時 御船泊之 皇 后下嶋 休息礒際 得一白石 團如鷄卵 皇后安于御掌 光明四出 皇后大喜 詔左右曰  是海神所賜白眞珠也 故爲嶋名云々(釋日本紀卷十)
神功皇后の諸国巡幸において、土佐国の海岸で光り輝く白石を得た。そういう話です。そして、やはり海神の玉であるとされています。
鶏の卵のようにまるい、皇后の掌で輝いた、などと言う辺り、やはり鎮懐石と関係がありそうです。九州風土記における神功皇后と鎮懐石と海神の玉。高知と九州との関係を感じさせる伝承です。 
神河
土左國風土記云 神河 訓三輪川 源出北山之中 屆于伊與國 水清 故爲大神釀酒也 用此河水 故爲河名(萬葉集註釋卷第一)
玉島伝承は九州と関係がありそうな伝承でしたが、こちらは三輪=奈良と関係がありそうな伝承です。大神の為にこの河の水を使って酒を造るとあります。
しかし実は「三輪」という地名は結構あちこちにあるのです。私が住んでいる千葉県北西部の県にもあり、しかもそこには大物主を祭神とする式内社まである。「三輪」という地名ですが、「河が屈曲して輪のようになっている」=「水の輪」というのが語源ではないかと言われることがあります。
では私の住んでいる地域の「三輪」にこのような河があるのかと言うとありません。まあ近くにかなり大規模な浄水場があるので、その工事の時になくなってしまったのかもしれませんが。
そして考えてみると大和三輪山でも「水の輪」と言えるほどの河はなかったように思います。「水の輪」説は検討の余地がありそうです。
ただ地下水が豊かであるというのは大和三輪山でも千葉県の三輪でも言えます。 
高賀茂大社
土左國風土記曰 土左郡 々家西去四里 有土左高賀茂大社 其神名爲一言主尊 其祖未詳 一説曰 大穴六道尊子 味高彦根尊(同右卷十二・十五)
土佐高賀茂大社の祭神に関する記事です。高知市にある一宮・土佐神社ということでいいようです。現在では一言主と味鋤高彦根両方を祭神としているのかな?土佐神社という名称になったのは明治以降。
両者は神話伝承によると全く違う神です。しかしどちらも葛城の神であるというのは共通しています。大和の賀茂氏かその系統の氏族が土佐国造になったためではないかと推測されています。
雄略帝関係の伝承。
『続日本紀』巻廿五天平宝字八年(七六四)には「高鴨神が昔雄略天皇の怒りに触れて土佐に流された」とあります。怒りに触れた理由は葛城山の狩猟でいつも雄略帝と獲物を取りあっていたからだとされています。つまり雄略記紀の一言主伝承と同様の舞台設定から生じたヴァリアントであるということでしょう。
ただ、手元にあるのが漢文のみなので自信ないのですが、この記事自体は土佐に流されていた高鴨神を再び大和葛城に戻した、という記事なのかな?だとすると「一言主神の地位が低下した」と捉えるのはおかしいと思います。
「流刑」と「一言主」と言えば、思い出すのは『日本現報善悪霊異記』に載る役小角の伝承です。伊豆の話でした。
「地位が低下した」という言い方には抵抗を感じますが、雄略天皇と馬を並べて狩をした一言主が役小角にこき使われるというのは確かにがっかりな感はあります。しかし小角の霊力を強調するために使われたということでしょう。
伊豆と高知、全く関係ないようでありながら実はともに「流刑地」という性格があります。あと一言主信仰は役小角とともに修験とも関係ありますから、高知山間部というのは実は結構「らしい」土地ではあります。
というわけで土佐一宮高賀茂大社=現土佐神社については、一言主−役小角伝承のつながりからも切り口があるのではないか。 
お馬神社(おうまじんじゃ) / 高知県須崎市池ノ内
土佐で最も有名な民謡“よさこい節”の歌詞に「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」とあるが、このかんざしを買ってもらった人物が、この神社に祀られているお馬である。
お馬は天保10年(1839年)に五台山村の鋳掛け屋の娘として生まれる。この村にあったのが、四国八十八箇所霊場の31番札所の五台山竹林寺。この寺の脇坊の住職をしていた純信は20歳も年下のお馬に恋慕して、安政2年(1855年)に二人して駆け落ちしたのである。しかし、讃岐の琴平まで逃げたところで二人は捕まって土佐に戻され、晒し刑を受けた後、純信は国外へ追放、お馬は安芸へ追放となった。
翌年、行商人に身をやつした純信が安芸にいるお馬を訪ねて、再度駆け落ちを試みようとする。だが、今度はお馬が承知せず、一悶着の挙げ句に再び捕縛されてしまう。最終的に純信は再び国外へ追放、お馬は須崎の庄屋預かりとなったのである。純信は執心していたが、お馬の方は既に熱が冷めていたと言われる。
須崎に移って1年後に、お馬は大工の寺崎米之助と結婚し、4人の子供に恵まれる。その後、明治18年(1885年)に家族とともに須崎を離れて東京・滝野川へ行き、明治36年(1903年)に亡くなった。ただ池ノ内には夫の実家の墓があり、この地に分骨されたという。そして昭和29年(1954年)になって、お馬の霊を祀った“お馬堂”が建てられ、それが現在のお馬神社となっている。神社とは呼ばれているが、実際にはお堂の中にはお馬の供養墓が建てられているだけである。ご利益は恋愛成就である。
よさこい節 / 江戸時代初頭、山内一豊が高知城を築城する際に歌った木遣歌が原型ともされている。節に合わせていろいろな替え歌が作られ、その中で純信・お馬の駆け落ち事件を読み込んだ歌が最も有名なものとなった。
大わらじ(金剛バッコ)(おおわらじ こんごうばっこ) / 高知県高岡郡津野町宮谷
国道197号線から宮谷の集落へ行く枝道に入ったところに、大わらじが飾られている。ちょうど集落へ入る入口、まさに境界線と言える場所にある。
毎年旧暦2月28日に“堂の口あけ祭り”として、集落総出で藁を集めて大わらじを編んで奉納する風習が続いている。集落の者は古来よりこの大わらじを“金剛バッコ”と呼び習わしている。その起源は定かではないが、かつて集落を襲った疫病を防ぐ魔除けであるとされている。即ち、疫病をもたらす悪神がこの集落に入り込まないように、この集落には悪神よりも強い大男がいるのだという示威行動として、大わらじを吊している。しかもわらじは半分編みかけの状態で、どれだけ大きいか想像してみろと言わんばかりの作り方となっている。
鍛冶ヶ嬶(かじがかか:かじがばば) / 高知県室戸市佐喜浜町
かつて日本には狼が住み着いていた。今となっては伝承として残るのみであるが、その代表的なものに「千疋狼」というパターンがある。この千疋狼の伝承で最も有名なものが「鍛冶ヶ嬶」の話である。
ある時身重の女が峠を越えようとしていたが、途中で陣痛が起こり動けなくなった。通りがかった飛脚が助けたが、夜半となってしまい、狼の群に襲われた。女と共に木に登って逃げようとした飛脚に対して、狼の群は肩車をして迫ってきた。飛脚が短刀で狼の攻撃を防いでいると、「佐喜浜の鍛冶ヶ嬶を呼んでこい」という声がして、しばらくすると鉄鍋を頭に被った白毛の大きな狼が肩車の一番上に現れて襲いかかってきた。飛脚が渾身の力で短刀を振り下ろすと、鍋が割れてかなりの手傷を負わせたようであった。狼の群はそれと同時に逃げ去ってしまった。
翌朝、飛脚は「佐喜浜の鍛冶ヶ嬶」を追って血痕を辿ると、鍛冶屋に着いた。家人に嬶がいるかと尋ねると、昨夜頭に怪我をして床に臥せっていると言う。飛脚は部屋に入ると、嬶を斬りつけた。嬶は件の白毛の狼であり、床下から実際の嬶をはじめ、多数の人骨が見つかったという。
明治時代頃までは、この嬶の墓と言われるものが存在し、鍛冶屋の子孫も確認できたという(子孫の特徴として白い逆毛が生えていたらしい)。しかし現在では供養塚と呼ばれるものがあるのみ。それもあまり顧みられることもないような状態で置かれている印象であった。
千疋狼 / 狼が群れを組んで襲いかかり(樹上の人間を襲うために肩車をする)、不利と見るやリーダー格が登場する話のパターンは、この鍛冶ヶ嬶以外にもいくつか例がある(狼の代わりに化け猫が登場する場合も)。この狼の一連の行動は、野生の習性(リーダーを中心に群れで行動するなど)を拡大解釈したものであるという指摘もある。
河泊神社(かはくじんじゃ) / 高知県南国市稲生
「河泊」という名称は、おそらく「河伯」が変じたものである。河伯は河童の異称であり、この神社は近くの下田川に住んでいた河童(土佐では“えんこう”の名で通る)を祀っている。この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる。(“ひょうすべ”も河童の異称である)
毎年7月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ、また土佐を代表する絵師・絵金の芝居絵が披露される。さらに近年では海洋堂作製の河童のフィギュアが奉納・展示されるようになったとのこと。
河伯 / 中国の神話では「黄河の神」とされ、元は人間であったが天帝より河伯とされたという。日本では河童の異称とされ、カッパという呼び名は河伯からきているとの説もある。
絵金 / 1812-1876。土佐の生まれ。本名は弘瀬金蔵。画才を認められ狩野派に学ぶが、贋作の製作に携わったとして追放される。その後、町絵師として芝居絵などを描く。「絵金」の名で親しまれ、特に芝居から題材を取った無惨絵が有名。
海洋堂 / 創業昭和39年(1964年)の模型製造会社。高い造型技術で世界的に知られる。創業者の宮脇修が高知県出身。また妻がこの河泊神社の近くの出身である縁から、河童のフィギュアを製作して奉納している。
吉良神社 首洗い鉢(きらじんじゃ くびあらいはち) / 高知県高知市山ノ端町
山ノ端町にある若一王子宮の境内に、吉良神社はある。祭神は吉良親実である。
現在では若一王子宮に合祀された形になっているが、明治43年(1910年)に県立高知師範学校医女子寄宿舎の建設によって、隣接する越前町から移転した(現在は跡地に碑が残るが未見)。その地は、吉良親実の屋敷があった場所とされている。
親実は、土佐の戦国大名・長宗我部元親の甥にあたり、しかも元親の娘を妻として義理の息子でもある有力一門衆であった。しかし元親の長男・信親討死を端に発した相続争いで元親の意に反する諫言をおこない、自害を命ぜられる。その自害した場所が、親実の屋敷であった。
現在、吉良神社の祠の前には、自害した親実の首級を洗った手水鉢が残されている。そして恨みを含んで死んだ親実と、その後を追って殉死した7名の家臣は祟り神となって長宗我部家に災いしたとされる。高知では今なおその伝説は“七人みさき”として生きており、大きな事故が起こると「七人みさき様の祟り」とまことしやかに噂されるという。
吉良親実 / 1563-1588。吉良左京進とも。父は長宗我部元親の弟・吉良親貞。長宗我部家相続争いでは、元親次男の香川親和を推してたびたび諫言し、最終的にそれが原因で元親より自害を命ぜられる(相続は四男の盛親となる)。その祟りは凄まじく、供養しても怪異が収まらないために、遂には吉良神社を建立して神として祀ったという。
七人みさき / 四国や中国地方に伝わる亡霊。吉良親実の伝説が最も有名であるが、同じ時に自害を命ぜられた比江山親興の一族も七人みさきとして現れたとされる。また海難事故や不慮の事故で亡くなった者が出現する話も多くある。一般的な伝承としては、7人の集団で現れ、祟りによって人を死に至らしめると、その死んだ者が加わり、集団の中の1人が成仏するとも言われる。
土佐神社(とさじんじゃ) / 高知県高知市一宮しなね
土佐国一の宮である。祭神は古来は「土佐大神=高鴨神」とされていたが、今では一言主神と味鋤高彦根尊となっている。
「高鴨神」は賀茂氏の祖神であり、おそらく土佐国造として当地に赴いた同族によって祀られたのであろうとされる。しかし、同時にこの「高鴨神」が土佐に祀られる逸話が残されている。
『続日本紀』によると、大和の葛城山にあった一言主神は雄略天皇と狩りの獲物を巡って争いを起こし、命によって土佐に流されてしまったという。この流された神はしばらく別の場所に鎮座していたが、新しい宮へ移ろうと、須崎の鳴無神社から石を投げて、現在の土佐神社に宮を定めたということになっている。その投げた石は、今も「礫石」という名で境内にある。
しかし『古事記』によると、雄略天皇と一言主神の関係は逆転し、葛城山中でいきなり神と出くわした天皇は、畏れ多いこととして着ていた衣服を差し出して崇めたとされる。この矛盾する話のために、賀茂氏の別の祖神である味鋤高彦根尊を「高鴨神」とする説も支持されることになった。この結果、現在の土佐神社の祭神は二柱となっているわけである。
賀茂氏 / 大和の葛城地方を治めていた一族。始祖は大物主神(三輪大神)の子とされる大田田根子。子孫には、陰陽頭となった賀茂忠行がおり、その後も陰陽道の宗家として存続する。
雄略天皇 / 419-479。第21代天皇。先代の安康天皇暗殺直後に武力で対抗馬を排除して皇位に就く(この時に対抗馬を匿った葛城一族を滅亡に追い込んでいる)。その後も軍事力を背景に大和朝廷の版図を拡大したとされる。
一言主神 / 葛城山に住む神とされる。上にある『古事記』の逸話で初めて名が出てくる。『日本書紀』では雄略天皇と共に狩りを楽しみ、『続日本紀』で雄略天皇によって土佐に流される。その後も役行者に酷使されるなど、その地位は時代を経るに従い低下している。葛城一言主神社が総本社。
味鋤高彦根尊 / 大国主命と多紀理毘売命(宗像三女神の一人)の息子。『古事記』では、国譲りの使者として来ながら高天原を裏切って死んだ天若日子と容貌がそっくりであったために間違われ、それを怒って喪屋を壊して蹴り飛ばした。賀茂氏の祖神を祀る高鴨神社の祭神。
御厨人窟(みくろど) / 高知県室戸市室戸岬町
室戸岬の突端のすぐ近くに2つの海蝕洞穴がある。向かって右側が明神窟、そして左側が御厨人窟と呼ばれる。この御厨人窟には、弘法大師の伝説が残されている。しかも数ある伝説の中でも一際特異な存在である。
郷里から京に上り大学で学んだ佐伯真魚(後の空海)は、学問に飽きたらず山林を巡り仏道の修行をおこなったとされる。その集大成とも言える『三教指帰』の中で、自身がこの洞窟を修行の場として選び、ここで起居していたことを記している。さらにこの場所での修行の際に、口に明星が飛び込んできたというくだりがある。即ち、空海悟りの地と言うべき場所であると、自らの著作で述べているのである。
そして“空海”という名そのものも、この洞窟内から外を眺め、空と海だけが広がる光景から付けたのだとも言われている。まさに不世出の僧・空海誕生の地であると言ってもおかしくない場所である。
風神鎮塚(ふうじんちんづか) / 高知県高岡郡津野町高野
昭和52年(1977年)、国道197号線の拡幅工事の際に1つの塚が移動されることとなった。ショベルカーが塚の下を掘っていくと、供養のために埋められた壷がいきなり勢いよく飛び出てきたという。しかしその壷は地面に落ちても壊れることなく、むしろショベルカーの方が原因不明の故障で修理不能の状態になったのである。この曰く付きの塚が風神鎮塚である。
この塚に祀られているのは、中平善之進。梼原村庄屋として「津野山騒動」と呼ばれる百姓一揆の主導者となり、後に義人と讃えられた人物である。
土佐藩は財政建て直しのために、宝暦2年(1752年)に特定の問屋を通じて商品作物を買い上げる専売制を導入する。津野山地域を扱う問屋の蔵屋利左衛門は、その専売制を悪用して作物を安く買い叩いて私腹を肥やした。その不正を藩に訴え出ようとしたのが善之進であった。密告によって捕らえられるも、蔵屋との論戦の場を与えられ、それを論破した。蔵屋はこれによって処刑されたが、善之進も一揆を引き起こそうとした罪を問われて、宝暦7年(1757年)7月26日に打ち首となった。
ところがその日から高知城下を暴風雨が襲い、7日間に渡って嵐が吹き荒れ、人はそれを中平善之進の祟りであるとして「善之進時化」と呼んだという(この時に高知城天守閣が倒壊したという話があるが、実際にはそのような記録はない)。
さらに時を経て明治19年(1886年)に、今度は津野山一帯を豪雨が襲い、これも善之進の祟りであると住民は恐れ、翌年に建てたのが風神鎮塚なのである。即ち“風神”とは、暴風雨を引き起こし祟りをなす中平善之進のことを指しているのである。
宝永津波溺死之塚(ほうえいつなみできしのつか) / 高知県須崎市池ノ内
須崎市にある災害記念碑の宝永津波溺死之塚は、かつての往還道に面した場所にある。安政3年(1856年)に建立され、現在では石が風化してしまって読み取ることが出来ないが、須崎における地震と津波の教訓がびっしりと刻まれている。
宝永4年(1707年)10月4日に起こった宝永地震で、須崎では400人余りの人が津波で亡くなった。この石碑のそばにある糺池には、津波で流された遺体が筏のように並んで浮かんでいて、それを埋葬したのだが、150回忌にあたって改葬することとなった。
ところがそれを進めているさなかの安政元年(1854年)11月5日に大地震と大津波が起こった。ちょうど宝永の時の記録を読んでいたので、多くの人が助かった。しかし宝永の時に山で落石があったので船で沖に逃げる方がいいという噂を信じた30名余りが、津波の吞まれて死んでしまった。地震が起きてから沖に船を出すことは絶対にやってはならない。
宝永の時は、地震の後に津波が来ることがわからず、津波を見てから逃げたので多くの者が亡くなった。地震の後には必ず津波はやってくる。ただ少しだけ間があるので、落石を確かめて山へ逃げるようにすればよい。
しかしそれほど高いところにまで逃げる必要はない。先の地震でも町によっては屋敷が水に浸からなかったところもあるし、宝永の時もさほど高地でなくとも助かった者はいる。とてつもない津波が来ることはない。150年で2回あったことであり、参考にしてもらいたい。後世、大きな地震が起きた時の心得としてもらいたいので、改葬の際の碑におおよそのことを刻んでおくことにする。
……読めなくなった碑の脇には、この碑の内容を解説した石板が置かれており、その最後には地元出身の科学者・寺田寅彦の言葉が刻まれている。「天災は忘れたころにやってくる」 
宝永地震 / 宝永4年(1707年)に発生した大地震。マグニチュードは推定8.5とされる。東海から紀伊半島、南四国での被害がもっと激しく、多くの建物が倒壊し、さらに最大で20mを超える津波が襲ったとされる。そしてこの地震から49日後に富士山が噴火する(これが最後の大噴火となっている)。
安政地震 / 安政期には巨大地震が頻発しているが、元年11月5日のものは安政南海地震と言われ、その前日に起こった安政東海地震とともに最大規模のものであった。2つの地震はともにマグニチュード8.4と推定されており、20m前後の津波が起きたとされる。 
 
 
九州地方  
福岡県 / 筑前、筑後、豊前

 

福岡佐賀長崎熊本大分宮崎鹿児島沖縄

白縫筑紫の綿は身に著けて 未だは着ねど暖けく見ゆ 沙弥満誓
白縫
筑紫の枕詞「しらぬひ」を「不知火」と書くやうになったのは、室町時代に宗祇が肥後国を旅して八代湾の漁いさり火を見たころからであるらしい。北九州(筑紫国)では綿の栽培が古代から行なはれ、土地の名産であったことから、万葉時代には「白縫」と表記された。
○ 白縫筑紫の綿は身に著つけて 未いまだは着ねど暖けく見ゆ 沙弥満誓
宗像神社 / 宗像郡玄海町田島
宗像むなかた神社には三つの宮があり、辺津宮へ つ みや(玄海町田島)に市杵島姫いちきしまひめ神、中津宮なかつみや(大島)に湍津姫たぎつひめ神、沖津宮おきつみや(沖島)に田心姫たごりひめ神をまつる。宗像三神ともいはれ、天照大神と素戔嗚尊が誓約されたときに生まれた神とされる。宗像神社の旧暦七月の棚機姫にちなむ行事を詠んだ歌。
○ 秋風の吹きにし日より久かたの 天の河原に立たぬ日はなし 古今集
岡の水門 / 遠賀郡芦屋町
遠賀川の河口を「岡の水門」といひ、航海には注意が必要だったやうだ。
○ 天霧らひ西南風ひかた吹くらし 水茎みづくきの岡の水門に波立ち渡る 万葉集
仲哀天皇の九州行幸のとき、岡の県主あがたぬしの熊鰐くまわには、周防国の浦から御船を御案内した。船が岡の水門に至ると、何故か船は進まなくなった。県主の熊鰐は「この浦の口に男女二神あり。男神を大倉主おほくらぬし、女神を兎夫羅媛う ぶ ら ひめといふ。この神の心なり」と訴へた。そこで天皇は大和国宇陀の伊賀彦を祝部はふりべにしてこの神をまつらせ、船を進めることができた。のち、神功皇后がこの地に二神をまつったのが高倉神社であるといふ。西へ行くと鐘ノ岬がある。
○ 千早振る鐘の岬を過ぎるとも 我は忘れじ岡の皇神すめがみ 万葉集
鐘ノ岬には、織幡をりはた神社(宗像郡玄海町)があり、神功皇后の朝鮮出兵のとき、武内宿禰が、この地で赤白の旗を織り、その旗を船に立てて異賊を平定したといふ。宿禰の沓をまつった沓塚もある。宗像山から西には、竹内宿禰、応神天皇、神功皇后の伝説が多い。
○ 筑紫なる宗像山の西に住む 翁と君と我をこそいへ 歌枕名寄
香椎宮 / 福岡市東区香椎
仲哀天皇と神功皇后が、筑紫橿日宮つくしのかしひのみやに行幸されたとき、天皇はここで崩御されたが、皇后は、神託により新羅征伐に向かはれた。帰国後、天皇の墓所に社殿を建ててまつったのが香椎宮かしひのみやである。のち皇后の霊も合祀された。神亀五年に、太宰帥らが参拝したときの歌。
○ いざ子ども香椎かしひの潟に白妙しろたへの 袖さへ濡れて朝菜摘みてむ 大伴旅人
○ 行き帰り常にわが見し香椎潟 明日ゆ後には見むよしも無し 宇努男人
後の世の歌。
○ ちはやぶる香椎の宮の綾杉は 神のみそぎに立てるなりけり 新古今集
筥崎宮 / 福岡市東区箱崎
筥崎宮は、応神天皇、神功皇后をまつる。宇佐、石清水とともに三大八幡ともいふ。
○ 跡たれて幾世経ぬらむ筥崎の 標の松も神さびにけり 新拾遺集
正月三日の玉取祭は、二個の玉を氏子が奪ひ合ふといふ。神功皇后がわたつみの神から借りたといふ潮満玉、潮干玉にちなむものなのだらう。
九州の八幡宮には祭神を海神の豊玉彦、豊玉姫とするところも多い。
宇美八幡宮 / 粕屋郡宇美町
神功皇后が新羅に渡航されるとき、気比大神け ひのおほかみが船上に舞ひ降りて「我は皇后の国土を守護せん」との神託があったので、帰国後に仲哀天皇の霊とともに気比大神をまつったのが宇美うみ八幡宮であるといふ。帰国後に応神天皇が生まれた地とも。
○ かけまくも畏けれども宇美うみの宮 わがたのむ君に験あらはせ 拾玉集
生きの松原 / 福岡市西区今宿(旧糸島郡)
神功皇后が松の枝を逆さに挿して、無事帰還できるなら生きよと祈った地である。
○ 命かな生の松原いきてなほ 心つくしの人のはて見む 菅原道真
○ むかし見し生の松原こと問はば 忘れぬ人もありと答へよ 橘き平
菅原道真
菅原道真が筑紫へ向ふ途中、船が嵐に遭って豊前国椎田(築上郡椎田町)の港に漂着したといふ。そこから陸路太宰府へ向かひ、神崎(田川郡金田町)の貴船社で休息したとき、境内の一本の松の木を見て、都を偲んで歌を詠んだ。
○ 生ひ茂る一木の松をここに見て なほなつかしきこち風ぞふく
のち、道真の霊を貴船社に合祀して、天満宮と改めたといふ。
別の話では、早鞆はやともの瀬戸(下関海峡)を過ぎて、神嶽川のほとりの、ある小島で休息し、企救きくの浦の景色を賞でたといふ。(次の歌は万葉集の歌であるが)
○ 豊国の企救きくの浜辺の真砂路まさごぢの 真直まなほにしあらば 何か嘆かむ 万葉集
菅公没後、この地に菅原神社が建立され、島は「天神島」と呼ばれた。今の北九州市小倉北区古船場町といふ。江戸時代に小倉藩主・小笠原忠真は、菅原神社の社殿を修築し、城下の子女の「教育祈願所」と定めた。
○ 二十五の菩薩引き連れ出づる雲に 乗りてさき立つ神まつりかな 小笠原忠真
道真が太宰府へ至る前夜に一泊したといふ額田の駅(福岡市西区野方)には、後世に野方天神社がまつられた。菅公の随臣だった藤氏の子孫が、天文元年(1532)に野方に土着して先祖を偲んで建立したといふ。江戸時代の黒田藩主の歌。
○ 神垣の若木の梅の幾千代の 春をこめたる色香とぞ見る 黒田継高
太宰府 / 太宰府市
    苅萱の関・石堂丸
博多の那津なのつにあった筑紫太宰が、白村江はくすきのえの戦の後、今の太宰府市に移転され、律令制下の地方官衙としての太宰府が定められた。その地方長官である太宰帥としてこの地に赴任した大伴旅人は、万葉集に多くの歌を残してゐる。朝倉郡夜須町あたりを詠んだ歌。
○ 君がため醸みし待ち酒 夜須やすの野に独りや飲まむ 友無しにして 大伴旅人
左遷された菅原道真は、太宰権帥(副官)として赴任し、この地で生涯を終へた。無実を訴へた歌といふのが北九州に伝はる。
○ 海ならず湛たたへる水の底までも 清き心は月ぞてらさむ 菅原道真
太宰府の南門に当る苅萱かるかやの関は、斉明天皇が朝倉宮を建てたときに設けられたものといふ。
○ 苅萱かるかやの関守にのみ見えつるは 人も許さぬ道辺なりけり 菅原道真
近くを流れる染川には、道真没後、入水して後を追ったといふ侍女の墓も伝はる。
○ 筑紫なるおもひ染川渡りなば 水やまさらむ。淀むときなく 後撰集
道真の没後には復権がなされ、延喜十九年に墓所(安楽寺)に社殿が造営されて、太宰府天満宮が創建された。
○ いにしへの光にもなほまさるらん しづむる西の宮の玉垣 拾玉集
大宰府天満宮の梅は京都の菅公の家から飛んで来たものといひ、「飛梅とびうめ」と呼ばれる。
○ 飛梅とびうめの香をなつかしみ 立ち寄りて昔しのべば、花のさゆらぐ 西高辻信稚
○ 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真
木のまろ殿 / 朝倉郡朝倉町
白村江の戦のころ、中大兄皇子や斉明天皇らの行宮として建てられた朝倉宮は、伐ったばかりの丸太の木で急いで造られたので、木の丸殿とよばれたといふ。用心のため、訪れる人は、声を出して名告ってから入らねばならなかったといふ。(古今集)
○ 朝倉や木のまろ殿に吾が居れば 名告りをしつつ行くは誰が子ぞ 天智天皇
○ 名告りして夜深く過ぎぬほととぎす われを許さぬ朝倉の関 小侍従
○ 君みれば朝倉山に隠れにし人に 吾こそ逢ふ心地すれ 能因
濡衣塚 / 福岡市石堂町
奈良時代に、佐野近世といふ人が、筑前の国司として赴任した。近世は妻や娘の春姫とともに筑前に住んだが、妻に先立たれたので、土地の女を後妻に迎へた。後妻にも娘が生まれたが、後妻は夫が春姫ばかりを可愛がってゐると考へ、春姫を嫉んで、殺害することをたくらんだ。漁師に偽りの訴へをさせて「春姫が夜毎に通って来て、浜着を盗んで行くので、返してほしい」と言はせた。これを聞いた近世が、春姫の部屋を覗くと、春姫は濡れた衣を着て眠ってゐた。この衣も、後妻が仕組んだことであったが、逆上した近世は、春姫の言ひ訳も聞かずに、姫を斬ってしまった。姫の霊は、夜毎父の夢枕にあらはれては、泣いて無実を訴へたといふ。
○ ぬぎ着するそのたばかりの濡れ衣は 長きなき名のためしなりけり
○ 濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ 無き名を流すためしなりけれ
姫の無実を知った近世は、罪を悔いて出家し、姫を葬った石堂川の畔に濡衣塚を作って供養した。この地に濡衣山松源寺がある。この話から「濡れ衣を着せられる」といふ言葉が生まれたといふ。石堂川には、高野山へ入った石堂丸の伝説もある。
唐船塔 / 福岡市東区箱崎
むかし箱崎には箱崎殿と呼ばれた豪族があり、唐との貿易を仕事として栄えてゐた。あるとき、港で唐人との諍ひがあり、唐人の祖慶といふ男が捕虜になり、箱崎殿の下働きで使はれることになった。祖慶は良く働き、日本人の妻と結婚して二人の子を設けた。唐の国にも妻子があったのだが、あるとき、唐に残してきた二人の子が、生き別れになった父を捜して、筥崎の港にやってきたのである。親子の再会を喜んだ祖慶は、故郷への思ひを募らせ、日本の二人の子と、合せて四人の子とともに、帰国が許されたといふ。
○ 筥崎の磯辺の千鳥親と子と 泣きにし声をのこす唐船
菊池神社 / 福岡市城南区七隈
元弘三年、肥後の菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を奉じ、九州探題の北条英時を討たんとして、百数十騎を率ゐて肥後国菊池の居城を出発したが、大友貞経の裏切りにより、北条軍との挟み撃ちにあって、奮戦やむなく自害を決意。嫡子の武重を故郷に帰らせるときに歌を託した。
○ 故郷に今宵限りの命とも 知らでや人の我を待つらん 菊池武時
武時の戦死の地に明治二年に建てられたのが、菊池神社(祭神菊池武時公)である。
鏡の山 / 田川郡香春町
太宰帥の河内王を鏡の山に葬ったときの歌が万葉集にある。鏡山の近くには、ほふき原の地名もあり、古代の葬地だったのだらう。
○ 王おほきみの睦魂あへや 豊国の鏡の山を宮と定むる 手持女王
○ 豊国の鏡の山の岩門立て 隠もりにけらし待てど来まさず 手持女王
速戸の迫門 / 北九州市門司
下関海峡は、満干の潮の流れが早く、「速戸はやとの迫門せと」といった。
○ 隼人はやとの迫門せとの巌も 鮎走る吉野の滝になほ及かずけり 大伴旅人
門司の和布刈( め かり)神社は、速戸にちなんで「隼人神社」といってゐたが、薩摩隼人との混同を避けて、神事の名を社名としたやうだ。
諸歌
○ 小次郎の眉涼しけれつばくらめ 村上元三
京都郡豊津町
○ 母とともに花しほらしい薬草の千振つみし故郷の野よ 堺利彦
久留米市高良山洋画家
○ わが国は筑紫の国や白日別しらひわけ 母います国櫨はじ多き国 青木繁
柳川市
○ 色にして老木の柳うちしだる わが柳河の水のゆたけさ 北原白秋
河童の本場
むかし奈良の春日神社の造営のとき、工事がなかなかはかどらなかった。そこで内匠頭たくみのかみの男が九十九体の人形を作って祈ると、人形は童子の姿となって不思議の力を発揮し、たちまちのうちに社殿を完成させた。落成の後、人形を川に流したのが河童になったとのだいふ。河童はのちに人に害を及ぼすやうになったので、匠工奉行の兵主ひょうず太夫島田丸が、河童と交渉して河童をなだめしづめたといふ。水辺を通るときなどに河童に足を取られぬために歌ふ歌が、九州に伝はる。
○ 兵主部ひょうずべに約束せしを忘るなよ 川立ち男氏も菅原 伝菅原道真
九州は河童の本場で、長崎市の諏訪神社には河童の狛犬もあるらしい。 
 

 

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筑紫 / 筑前、筑後のこと。現在の福岡県と佐賀県にあたる。
筑紫に、はらかと申すいをの釣をば、十月一日におろすなり。しはすにひきあげて、京へはのぼせ侍る。その釣の繩はるかに遠く曳きわたして、通る船のその繩にあたりぬるをばかこちかかりて、がうけがましく申してむつかしく侍るなり。その心をよめる
○ はらか釣るおほわたさきのうけ繩に心かけつつ過ぎむとぞ思ふ
○ いせじまやいるゝつきてすまうなみにけことおぼゆるいりとりのあま
○ めづらしなあさくら山の雲井よりしたひ出でたるあか星の影
○ こがれけむ松浦の舟のこころをばそでにかかれる泪にぞしる
「おおわたさき」固有名詞としては築紫のどこか不明。普通名詞で湾口にある岬の意味。
「いせじま」不明。筑紫にある島か?歌そのものが意味不明。伊勢の島との説あり。
「あさくら山」舞楽の題名。福岡県朝倉郡にある山との説がある。
「松浦」佐賀県にある地名。松浦佐用姫の名は万葉集にも見える。  
筑後国 国号の由来
公望案 筑後國風土記云 筑後國者 本與筑前國 合爲一國 昔 此兩國 之間山 有峻狹坂 往來之人 所駕鞍 被摩盡  土人曰鞍盡之坂 三云 昔 此堺上 有麁猛神 往來之人 半生半死 其數極多 因曰人命 盡神 于時 筑紫君肥君等占之  令筑紫君等之祖甕依姫 爲祝祭之 自爾 以降 行路之人 不被神害 是以曰筑紫神 四云 爲葬其死者 伐 此山木 造作棺輿 因 山木欲盡  因曰筑紫國 後分兩國 爲前 後 (釋日本紀卷五)
筑紫の国号については三つの説がある、という内容です。
一つ。山が険しく狭い坂があって馬の鞍の下に敷く蓆が擦り切れてしまうので、地元の人が「したくら尽くし」の坂と言ったのが始まり。
二つ。国境にあらぶる神がいて、往来の半分は助かり半分は殺されたので、「人の命尽くしの神」と言われた。因みに其の神は筑紫君と肥君らが占いを行い、筑紫君の祖甕依姫(みかよりひめ)に祭らせると、人々は神に殺されなくなった。
三つ。あらぶる神による死者を葬るために山の木を切って棺を作ったところ山の木が尽きそうになったので。
実は文中では「四つ説がある」としているのですが、どう読んでも三つにしか見えません。文が抜けているのかも。
「したくら尽くし」説とあとの二つは無関係なように見えますが、「とても急峻で危険な山がある」という認識は一致しています。これは確かでしょう。しかし筑紫国と言えばほぼ福岡県です。そんなに危険な山があったのでしょうか?
筑前筑後の「国境」がどの変になるのか見てみましたが、意外と平地で続いているような気がするのですが?太宰府市から久留米市にかけて。ただ北九州市のほうから筑後へ山越えで向う場合は英彦山がある山地帯を通ります。ことによるとこの辺りの事を言っているのかもしれません。
「あらぶる神」について。
通行人を殺す坂の神というのは風土記には幾つか例があったと思います。また民間伝承でも、例えば奈良県明日香の「鬼の俎・雪隠」にまつわる伝承なども同種のものと考えることが出来るでしょう。
そしてそれを筑紫君の祖が祭ったという。「甕依姫」というのは「玉依姫」に似た名前ですが、「甕」にはやはり霊的な存在を表す意味があるのだと思います。「タケミカヅチ」の「ミカ」もこの字を使う場合がありますし。
しかし台湾のパイワン族では甕を神聖なものと見なしています。民族起源伝承には甕からパイワン族が生じたというものまである。やはり宗教的な意味を追求することが出来そうです。
筑紫君は所謂「磐井の乱」の「筑紫君磐井」の一族のことでしょうか?その筑紫君の女祖があらぶる神を祭ったことになっていますが、これは所謂「ヒコヒメ制」というヤツです。巫女が土地の神を祭祀し、政治は男性が采配する。そのように考えると、磐井の乱はまさしく「ヒコヒメ制の終焉」の一事例であるといえそうです。 
三毛の巨木
公望の私記に曰はく、案ずるに、筑後の國の風土記に云はく、三毛の郡。云々。昔者、楝木一株、郡家の南に生ひたりき。其の高さは九百七十丈なり。朝日の影は肥前の國藤津の郡の多良の峯を蔽ひ、暮日の影は肥後の國山鹿の郡の荒爪の山を蔽ひき。云々。因りて御木の國と曰ひき。後の人、訛りて三毛と曰ひて、今は郡の名と爲す。
所謂巨木伝承で、確か『日本書紀』の講読か何かで調べたことがあるのですが、完全に忘却の彼方です。
この種の巨木伝承は、記紀にもありますし風土記にもあります。それぞれ場所は違いますが、「朝日の影は○○まで伸び、夕日の影は××まで伸びる」というほぼ定型の説明があります。
景行紀にも同地の巨木伝承がありますが、三毛はむしろ「御食」の意味だと思われます。
《景行天皇十八年(戊子八八)七月甲午(四)》秋七月辛卯朔甲午。到筑紫後国御木。居於高田行宮。時有僵樹。長九百七十丈焉。百寮蹈其樹而往来。時人歌曰。
阿佐志毛能。瀰概能佐烏麼志。魔幣菟耆弥。伊和〓[口+多]羅秀暮。弥開能佐烏麼志。 (あさしもの みけのさをばし まへつきみ いわたらすも みけのさをばし)
爰天皇問之曰。是何樹也。有一老夫曰。是樹者歴木也。嘗未僵之先。当朝日暉。則隠杵嶋山。当夕日暉。亦覆阿蘇山也。天皇曰。是樹者神木。故是国宜号御木国。
良く似た仁徳記の枯野伝承も清水を運ぶという話だったりします。
大林太良先生にも巨木伝承についての論文がありますが、その他いろいろまとめると確かこんなことを言われていたような気がします。
「巨木伝承は世界樹などと同じように世界の中心=権力を表すもので、影はその権力の及ぶ範囲を示していた。しかしそれが倒れたり切られたりする伝承があるのは、その権力が天皇王権に組み込まれてしまったことを示している。またそれらの地域から天皇に対する食物の献上が語られる」
確かに世界樹神話というのは存在します。そして世界樹は世界の中心を示している。しかしそのような王権神話が古代日本に存在していたというのは推測でしかないわけです。むしろ巨木が倒れたという伝承しかない。
巨木に対する信仰は中国少数民族や台湾原住民にもあります。台湾原住民ではセデックが半木半石の巨木から生じたといいます。トダセデックの世界樹神話は鳥獣蛇の出現も伴う世界創造神話です。またツオウ族も巨木の木の葉から生じたといわれます。
しかしやはり切り倒されてしまう伝承もあります。サオ族の巨木伝承は「木っ端戻り」のモチーフを伴っています。サオ族は漢族に聖なる赤木を切られてしまったせいで繁栄出来なくなってしまったと言われている。
サオ族の例と比べると日本の巨木はやはり何らかの勢力を表しているようにも思えます。
でも日本の事例には切られるということ=天皇王権がその地域を平定したということが強調されていないので、ちょっと引っかかります。
巨木伝承については、ユグドラシルのような世界樹との比較も考えられますが、ユグドラシルが天地地下界を貫く垂直軸として機能するのに対して、日本のこれは垂直的な世界観は希薄です。水平に広がる巨木としては中国西王母の居城や東海度朔山に生えると言われる〔虫番〕桃があります。また『利根川図志』にも馬鹿でかい柳の伝承が載っていたはずです。 
磐井の墓
筑後國風土記曰 上妻縣 々南二里 有筑紫君磐井之墓墳 高七丈 周六十丈 墓田南北各六十丈 東西各丈  石人石盾各六十枚 交陣成行 周匝四面 當東北角 有一別區 號曰衙頭衙頭政|所也 其中有一石人  縱容立地號曰解部 前有一人 形伏地 號曰偸人生爲偸猪|仍擬決罪 側有石猪四頭  號贓物贓物盜|物也 彼處亦有石馬三疋 石殿三間  石藏二間 古老傳云 當雄大迹 天皇之世 筑紫君磐井 豪強暴虐 不偃皇風 生平之時 預造此墓 俄 而官軍動發 欲襲之間 知勢不勝 獨自遁于豐前國上膳縣 終于南山峻  嶺之曲 於是 官軍追尋失蹤 士怒未泄 撃折石人之手 打墮石馬之 頭 古老傳云 上妻縣 多有篤疾 蓋由歟 (釋日本紀卷十三)
筑紫君磐井に関する伝承です。上妻には磐井が生前に作った墳墓があるとの事ですが、高さ七丈ってずいぶん高い気が?古代の丈(=180センチ)で計算してもずいぶん高いです。また石像が六十枚並んでいたといいます。そして盗人を裁く裁判所のような場面が再現されている。しかし継体天皇の時に攻められて、磐井は豊前山中で死んだと言います。
この古老の語る墓の説明は、磐井がこの地域の支配者であったことをはっきりと語っています。それが盗人を裁く裁判所を再現した場面です。地上にたった石人と裸で跪く石人、それと石の猪。それだけではこれが「盗人を裁く場面である」とはわからないはずです。でも古老はそのように説明している。さらに古老はこの墓は磐井の生前に建てられたと言っています。ということはこの裁判の場面は磐井の生前のマツリゴトを示しているわけです。少なくともこの古老はそう考えている。「磐井は天皇に逆らったかもしれないが、此処には政治が存在していた」と言っているわけです。
さらに興味深いのは最後の部分です。磐井を見つけられなかった兵士達は腹立ち紛れに磐井の墓にあった石像を壊した、だから上妻県には重病人が多いのではないかと、古老が語っている。普通に読めば古老とは土地の老人の事でしょう。つまり、土地の古老には「自分達は筑紫君磐井の後裔である」という認識があるのです。だからこそ磐井の墳墓にある石像と自分達とを関連付けて考えている。
もちろん重病人が多いことの説明として使われているのですから、マイナスイメージのほうが強いのかもしれません。しかしこのような「失敗した英雄」伝承は日本の典型的な英雄神話であり、それに感情移入する傾向と言うのは現在でも確かにあるわけです。 
日鉾の末裔五十跡手
筑前國風土記曰 怡土郡。 昔者 穴戸豐浦宮御宇足仲彦天皇 將討球磨噌唹 幸筑紫之時 怡土縣主等祖五十跡手 聞天皇幸 拔取五百枝賢木 立于 船舳艫 上枝挂八尺瓊  中枝挂白銅鏡 下枝挂 十握劒 參迎穴門引嶋 獻之 天皇勅問阿誰人 五十跡手奏曰 高麗國意呂山 自天降來日桙之苗 裔 五十跡手是也 天皇 於斯譽五十跡手曰 恪乎謂伊|蘇志 五十跡手之本土  可謂恪勤國 今謂怡土郡 訛也(釋日本紀卷十)
仲哀天皇のクマソ討伐は書紀に書かれているもので、この伝承も記載されています。イト県主祖五十跡手(いとて)が天皇を迎えるに当って掲げた五百枝賢木は神話では天岩戸神話などでも登場します。高貴な神を迎える作法と言うことでしょう。玉・鏡・剣という組み合わせも踏襲されています。上中下の差異はありそうですが。
全体を通してみれば半島から来た神の後裔が天皇に服属するという伝承です。五十跡手=いそし(忠勤)=イト県という地名の起源伝承ですが、言葉遊びのようでいて服属伝承としては効果がある語りだといえるでしょう。
イトテは自分を「高麗の山に下った日鉾の末裔である」と答えます。天日鉾です。『日本書紀』では垂仁紀に天日鉾が来たということになっていますので、時間経過的にもおかしくありません。この記事自体紀から取った可能性が強そうです。
一つだけ気になるのはなぜ仲哀天皇なのかということです。クマソ討伐ならば景行天皇かヤマトタケルに結びつけることも出来ます。しかし、たぶん神功皇后の半島出征につなげるためなのだと思います。半島から来たイトテが服属することが、半島出征の正当化につながっている。そんなところでしょう。 
筑前の大三輪社
筑前國風土記曰 氣長足姫尊 欲伐新羅 整理軍士 發行之間 道中遁亡 占求其由 即有祟神 名曰大三輪神 所以樹此神社 遂平新羅(『釈日本紀』)
神功皇后が半島へ出征するに当って兵士が逃げたので、占いをすると三輪の神が祟っているということがわかった。そこで神社を建てて、新羅を征服できた。大神神社については研究していたことがありますが、この事例はある意味大神信仰の最終段階と言えるような位置付けをされています。大和の山の神から国津神、蛇神・祟り神、そして国家神・軍神へという変化が考えられています。この記述は神功紀にもあり、刀矛を奉納したとあります。確かに軍神と言えるかもしれません。
しかし、崇神記紀を中心に研究していた私としてはやはり唐突な感が否めないのも事実です。記紀の時間軸と三輪信仰の変遷は軌を一にしているとは言えませんが、この記事の大三輪神が「国家神・軍神」であるとすると、雄略紀における雷蛇神がいかにも浮いて見えるのです。先祖返りでもしたというのでしょうか?
この記事で重要なことは、やはり「祟り」でしょう。兵士が逃げたしたのは「大三輪神の祟り」なのです。祟りを治める為に祭祀をすればその者を助けるというのはある意味おまけのようなものです。ここでも三輪の神はまだ国家に屈服したわけではなく、「祟り神」であると考えるべきでしょう。
ならば何故、ここで現れる必要があるのか?これはやはり神功皇后の巫女性にあると見るべきでしょう。
神功皇后の事績は戦争中心の記事構成から神武天皇と重ねてみることが可能ですが、それを庇護するのは皇祖神ではなく、住吉や大三輪など自然神の性格が強い「祟る」神々なのです。そして祟る神々を和めるのが巫女の力である。 
神功皇后の鎮懐石
筑紫風土記曰 逸都縣 子饗原 有石兩顆 一者 片長一尺二寸 周一尺八 寸 一者 長一尺一寸 周一尺八寸 色白而 圓如磨成  俗傳云 息長足 比賣命 欲伐新羅 閲軍之際 懷娠漸動 時取兩石 插著裙腰 遂襲 新羅 凱旋之日 至芋野  太子誕生 有此因縁 曰芋謂産爲芋|者風俗言詞耳 俗間婦人  忽然娠動 裙腰插石 厭令延時 蓋由此乎(釋日本紀卷十一)
「芋〔シ眉〕野」で「うみの」と読みます。やはりイト県で次の「児饗(こふ)」と同じ場所だと思われます。この伝承の特徴的な部分は、最後の「世間の婦人も神功皇后を真似て、お腹の子供が動き出すと腰に石を挟む」という習俗の起源伝承になっているということです。現実にこのような習俗があったのかどうかはわかりませんが、『万葉集』巻五に山上憶良の歌があり、その序には以下のように書かれています。
古老相傳曰「徃者,息長足日女命,征討新羅國之時,用茲兩石,插著御袖之中,以為鎮懷。所以行人敬拜此石」。」
つまりこのような伝承が奈良時代に存在していたことは事実だということでしょう。またこれは民間伝承だと思いますが、『事典』には壱岐島の伝承では応神天皇出産は壱岐の話と言うことになっているとか。
一尺一寸大一|尺重卅九斤 曩者 氣長足姫尊  欲征伐新羅 到於此村 御身有姙 忽當 誕生 登時 取此二顆石 插於御腰 祈曰 朕欲定西堺 來著此野 所姙皇子 若此神者 凱旋之後 誕生其可 遂定西堺 還來即産也  所謂 譽田天皇是也 時人號其石曰皇子産石 今訛謂兒饗石(同上卷十一)
この伝承は上とほぼ同じといってもいいでしょう。異なっているのは「西の境界を定める」とか「皇子産石」などと王権の立場を主張した内容になっていることです。
筑前國風土記曰 怡土郡 兒饗野在郡|西 此野之西  有白石二顆一顆長一尺二寸大一|尺重一斤  一顆長
筑前風土記に、神功皇后 將入于三韓 時既臨産月 皇后自爲祭主 祷 之曰 事竟還日 須産于土 于時  月神誨曰 以此神石 可撫腹 皇后 乃依神石撫腹心 體忽平安也 今其石在筑前伊覩縣道邊 後雷霹 神石爲三段(太宰管内志)
もう一つ。こちらも同じ場所と考えていいと思います。しかし「皇后が自ら祭主となって月の神が石の使い方を教えた」という部分が特徴てきです。
月の神、日本では男神月読とされていますが、実際の民間ではこのように女性に関わる神もあったのだと思います。恐らく女神もいたのではないでしょうか?また神功皇后自身が祭主になったというのは、神と直接交流をするシャーマン的な能力を持っていたということの現われだと思います。
あと石は雷に打たれて三つに割れてしまったとしていますが、これは上二つとは違う説明です。雷に打たれた石に効力が残っていたのか?或は一番目のように一般習俗化していたのか?どちらもわかりませんが、この伝承では神功皇后の神聖性が強調されているといえるでしょう。
習俗として一般化して語るよりも、神功皇后の神聖性は高まります。しかし二番目とも違って王権そのものを話題にしているわけではない。
この伝承が強調しているのはあくまでも神功皇后の神聖性でしょう。しかもそれは神との直接交流によってなされているわけです。ということはやはり巫女的であるといえます。しかしそれだと巫女の処女性=「神の妻」というあり方とは抵触するような気もします。まあ神の母とも言えるかもしれませんが。 
宗像神と玉
先師説云 胸肩神躰 爲玉之由 見風土記(『釈日本紀』卷七)
西海道風土記曰 宗像大神 自天降居埼門山之時 以青玉 置奧津宮 之表 以八尺紫玉  置中津宮之表 以八咫鏡 置邊津宮之表 以 此三表 成神體之形 而納置三宮 即隱之 因曰身形郡 後人改曰宗 像 其大海命子孫 今宗像朝臣等是也云々(防人日記)
上は宗像神の神体を玉と、下は奥・中が玉で辺が鏡といっています。まあ違うといえば違うのですが、やはり海の神の神体は玉であるといわれることが多そうです。
海から光り輝く玉が現れる。そういう伝承は全国的に存在していると思われます。千葉県銚子市では海から二つの青い玉が発見され、霊験あらたかであったと言われます。二つ目の伝承で「青」「紫」の玉とされているのはやはり海の色ということでしょう。
筑前国風土記逸文のここまでの流で「玉」と聞くと、やはり鎮懐石との関係を考えたくなります。或は三種の神器であるところの「ヤサカニノマガタマ」などとの関連性も考えられるかもしれません。
三種の神器の構成については研究論文などあまり読んだことがないのではっきりとしたことはいえませんが、デュメジル風の三機能分類に従えば、「鏡=主権」「剣=軍事」「玉=豊穣」などと解釈できるでしょう。他の解釈は良くわかりません。『事典』にも祭祀王としての祭器であるとしか書かれていませんし。
「三種の神器」のヤサカニノマガタマは天岩戸神話で玉祖命によって作られたものであるので、海が起源ということはできません。しかも「に」というのは赤いという意味のようですし。瑪瑙?
しかし「三」と言えば、「天地海」という三界ということも考えられます。でも三種の神器とは関係なさそうです。
宗像三女神は海の神ではありますが、元は天安河のウケイで生まれた神ですから天の神でもあります。「アメ」は「アマ」でもあるわけです。
沖津宮は田心姫(タゴリヒメ)、中津宮は湍津姫、辺津宮は市杵嶋姫と言うことになっていますが、何故三神なのか?同じく海上航海の神で、神功皇后と関係の深い住吉も三神です。
まあ住吉は星という話もが、一方で底・中・表と深さで海を三分割して考えています。それに対して宗像は沖・中・辺と距離で海を三分割している。これは面白い違いだと思います。 
海御前の墓(あまごぜのはか) / 福岡県北九州市門司区大積
元暦2年(1185年)、平家は壇ノ浦の合戦において敗れるが、その最期の合戦では多くの武者や女官が入水して果てた。平家の大将の一人であった平教経の妻(あるいは母)も、安徳天皇と二位の尼が入水するのを見届けると、自らも海の藻屑となった。そして数日後、壇ノ浦から少し離れた大積の浜に一人の美しい女官の遺体が打ち上げられた。村人はそれを哀れんで、浜に懇ろに葬ったとされる。それが海御前の墓である。
時代が過ぎ、壇ノ浦で亡くなった平家の一門の霊は、男は平家蟹へ、女は河童へ化身したとされた。そしていつしか平教経の妻は“海御前”と呼ばれ、女河童の総帥とみなされるようになった。この海御前は普段は周辺の河童を支配しているが、水が温む季節になると自由に解き放つという。そして源氏にゆかりの者を水に引きずり込むとされる。しかしソバの白い花が咲くと、その白い花を源氏の旗印のように恐れるともいわれる。
海御前の墓は、大積天疫神社の境内、水天宮のそばにある。墓以外にも海御前の碑や、河童の碑、はたまた河童のオブジェまである。またこの大積の地には「河童の詫び証文」と呼ばれる伝承も残されており、河童にまつわる伝承が多く残されている。
平教経 / 1160-1185。平家一門の武将。平清盛は伯父に当たる。剛勇の将であり、都落ち以後の平家の中では主力の武将とされ、『平家物語』では源義経の好敵手として描かれ、壇ノ浦の戦いでは義経を追い回して「八艘飛び」をさせている。最期は敵方の安芸太郎・次郎兄弟を両脇に抱え込んで入水する。ただし史実の一説では、一ノ谷の合戦で敗死して京都で晒し首となったともされるが、それ自体が誤りであるという記録もあり、実際には不明な点も多い。また壇ノ浦の戦いでも落ち延びて、その後、祖谷に辿り着いてその地に留まったという伝説も残る。
平家一門と河童 / 九州の河童の総帥と言われる「巨瀬入道」は、平清盛の生まれ変わりであるとされており、水天宮に祀られている二位の尼(清盛の妻)に時々逢いに筑後川を訪れるが、その時は川が大荒れになるとされる。多くの者が入水して亡くなったという史実から、平家一門が水を司る神や妖怪に化身したという伝説が生まれたと推察される。
一寸坊の墓(いっすんぼうのはか) / 福岡県京都郡みやこ町勝山松田
昔、小松ヶ池の大蛇と村娘との間に一人の男の子が生まれた。その子は体が小さかったために「一寸坊」と呼ばれるようになった(有名な『御伽草子』に登場する一寸法師とは全く出自が異なる)。景行天皇の九州遠征の際に仕え、その危難を救って多くの褒美をもらったという。その褒美を元に一寸坊は先祖供養のために49の寺院を建立し、その地は菩提と呼ばれるようになった。そして死後に菩提の地に供養塔が建てられたとされる。
かつて49の寺院が建ち並んでいた地には、わずかに寺院が一つだけ残されているだけであるが、その宝積寺近くの墓地の一角に一寸坊の墓がある。墓と称されているが、実際には石塔の一部であり、建造されたのも鎌倉時代と推定されている。
景行天皇 / 第12代天皇。日本武尊の父。『日本書紀』によると、景行12年に熊襲が反抗したので、自ら下向してそれを誅したとされる。その際、京都郡に仮宮を置き、土蜘蛛を征伐したとの記録がある。ただし『古事記』には九州遠征は全く記載されていない。
お綱門(おつなもん) / 福岡県福岡市中央区城内
福岡城は黒田藩52万石(後に43万石)の居城である。現在は城跡のみが残る史跡であるが、かつてそこに「お綱門」と呼ばれた曰く付きの門があった。触ると熱病になると言われ、ここで藩士の妻であるお綱が怨みを持って亡くなったという伝説がある。
2代目藩主・忠之が参勤交代の折、大阪で采女という芸妓を寵愛して福岡まで連れて帰った。しかし家老にたしなめられて、近臣の浅野四郎左衛門に第二夫人にするよう下げ渡した。その美貌から四郎左衛門は采女にのめり込み、正妻のお綱とその二人の子供を下屋敷に置いたまま、顧みなくなった。やがて生活にも窮するようになったお綱はせめて子供の節句の支度にと、采女の許に下男を送るが相手にしてもらえず、下男はそれを苦に首を吊ってしまった。
この出来事でお綱は狂乱。二人の子供を殺し、その首を腰にぶら下げると、白装束に薙刀のいでたちで四郎左衛門のいる屋敷へ決死の駆け込み。しかし四郎左衛門は登城して不在、逆に寄宿していた浪人の明石彦五郎に斬られてしまう。せめて一太刀浴びせたいと、お綱は息も絶え絶えに城に入り込むが、門に手を掛けたまま絶命してしまう。寛永7年(1630年)の桃の節句の日であったとされる。そしてその門がお綱門と呼ばれるようになった次第である。
四郎左衛門は直後から熱病に罹り、約1年後に病死。明石も、お綱の亡霊から聞きだして発見した刀が黒田藩紛失の家宝であったために、酷い拷問を受けて刑死したという。またお綱が襲撃した浅野家の屋敷は「凶宅」とされて、長宮院という寺院が建立されるまでは放置されていた。そしてお綱の住んでいた下屋敷一帯(馬出)は近年まで大火に見舞われることが多く、お綱の祟りと言われて、その哀れな母子の墓を建立したほどである。その他にも、お綱門近くの草木を持ち帰ると祟りがあるなど、お綱さんの祟り話は福岡の町ではまことしやかな噂として語り継がれている。
現在、お綱門と呼ばれた門は存在しない。明治維新後、福岡城が解体された時に、門は前述の長宮院に納められたといい、その後の空襲によって焼け落ちたらしい(長宮院跡は、現在の福岡家庭裁判所となっている)。そして今では、お綱門がどの門を指していたかも不明である。福岡城の東御門がそれという説もあれば、その奥にあった扇坂御門こそがとも言われる。さらにはその2つの門の間に別の門があったという証言もある。
黒田忠之 / 1602-1654。黒田長政の長男。黒田藩2代藩主。父の長政が廃嫡を考えたほどの暗愚とされ(性格的に太守の器ではないと判断されていたようである)、実際、廃藩の危機もあった黒田騒動も治世中に起きている。お綱さんの祟りをはじめ、忠之が絡む怪異伝承は複数あり、ある意味、黒田藩の闇歴史の影の主役とも言うべき人物である。
香椎宮(かしいぐう) / 福岡県福岡市東区香椎
主祭神は、第14代仲哀天皇と神功皇后。仲哀天皇が熊襲平定のために九州に至るが、その途中で急に崩御される。そこで神功皇后が、急逝した橿日宮に天皇の御霊を祀ったことに始まるとされる。さらに月日が流れ、養老7年(723年)神功皇后自身の神託があり、朝廷によって社殿が造られた。このような経緯から長らく“香椎廟”と呼ばれ、神社や神宮の名を冠することはなかった(現在でも香椎神社・香椎神宮ではなく“香椎宮”が正式な名である)。
香椎という地名は、橿日宮にあった“棺懸の椎”に由来する。神功皇后が、仲哀天皇の亡骸を収めた棺を立て掛けたことから名が付いた木である。この時、椎の木からかんばしい香りが漂ってきたことに由来すると言われる。現在でも「古宮」として橿日宮跡が残されており、そこに棺懸の椎がある。
また香椎宮境内には、綾杉という神木がある。神功皇后が三韓征伐から戻った折、剣・鉾・杖を埋めてその上に「とこしえに本朝を鎮め護るべし」と杉を植えたものである。葉の形状は他の杉と異なっていて、葉が交わった様子が綾紋のようであるために綾杉と名が付いたとされる。また大宰府の帥(長官)として赴任した者は、香椎宮へ必ず参拝して、神職よりこの杉の葉を授かり冠に挿すのが慣例であったという。
香椎宮の飛び地としてある不老水大明神は、仲哀天皇・神功皇后に仕えた武内宿禰が、朝夕に水を汲んで天皇の食事に使っていたとされる湧水を祀ったものである。不老水の名は、武内宿禰もこの水を使用して長命を保ったために付けられた。名水百選にも選ばれ、今でも飲用可である。 
仲哀天皇 / 第14代天皇。父は日本武尊。皇后は神功皇后。在位8年に熊襲討伐のために九州へ赴く。その時神功皇后が神懸かり、新羅を授けるとの神託を受ける。しかしその神託を信用しなかったため、神の怒りに触れて橿日宮で崩御したとされる(別伝では熊襲の矢に当たって崩御したとも)。
神功皇后 / 仲哀天皇急死の後、神託を受けて、男児(第15代応神天皇)を懐妊したまま男装して新羅を攻めた(三韓征伐)とされる。帰還後に応神天皇を出産する。三韓征伐にまつわる伝承が各地に残されている。
武内宿禰 / 84?-367?。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたとされる大臣。360歳という高齢で亡くなったとされているため、非実在説もある。
三郎丸の大樟(さぶろうまるのおおくす) / 福岡県嘉麻市口春
樹高15m、幹周りは4mを越える大木であり、樹齢も1000年を超えるとも言われている。隣接する土地に神社があったり、この木を迂回するように道が出来ていることから判るように、周辺の人々から神木として崇められている。実際、この木の根元には石碑が建てられ、注連縄が張られている。また根元に造られた石垣は、石碑と同じ明暦元年(1655年)に庄屋の古江八右衛門が築いたものであるとされる。ちなみに“三郎丸”の名称は、この付近の地名から採られたものである。
この巨木には河童にまつわる伝説が残されている。ある時、河童が牛を遠賀川に引きずり込もうとしたが、逆にそのまま引きずられてしまい、この大樟の木の下で力尽きてしまった。村人は、川で河童に襲われて人が亡くなることを憎んで、木に縛りつけると殺そうとした。そこで河童は命乞いをして、二度とこの集落の者の命を奪わないと約束した。河童は許され、それ以降口春の者が溺死することはなかったという。
一方、別の話も存在している。河童は許されたが、縛りつけられた木が憎くてたまらない。そこで河童はこの木の根元を掘って、木を枯らそうとしたという。残念ながら、河童の復讐は不首尾に終わったと見るべきだろう。
皿屋敷跡(さらやしきあと) / 福岡県嘉麻市上臼井
全国各地に「皿屋敷」と呼ばれる伝説が残されている。旧・碓井町にも、この皿屋敷跡と呼ばれる場所があり、井戸に身を投げて死んだ「お菊」さんを祀る祠がある。
石竹という所に清左衛門という豪農が住んでいた。ある時、賓客があって大いに饗応した。そこで出されたのが家宝とも言うべき皿であった。宴も終わり、それらを片付けようとすると一枚が足りない。清左衛門は下女のお菊に問い質したところ、妾に渡したと答えた。ところが妾は知らないと言う。言い合いになったところ、清左衛門は皿をなくしたのはお菊と断じ、散々に怒ったのである。その夜、罪を被せられた格好のお菊は、屋敷内の井戸に身を投げて死んでしまった。それから毎夜、井戸からお菊の亡霊が現れて、「一つ、二つ」と数えだし「九つ」と言ったところでワッと泣き叫ぶ声が聞こえたという。
皿屋敷跡にはお菊大明神という小社が建てられている。昭和の初めに初めて建てられ、現在のものは平成8年(1996年)に建て替えられた。壁や天井は地元の絵師が描いた花鳥図で覆われており、実に華やかな印象がある。またこの小社の前には、お菊が身を投げたと言われる井戸が残されている。
碓井の皿屋敷伝説も典型的なストーリーが展開されるが、その後に非常に不思議な後日談が加わっているのが、他に類例を見ない点である。
死んだお菊には、三平という名の情を通じた男がいた。三平は清左衛門の屋敷内の怪異を聞き、回向のために四国霊場八十八箇所を廻ることにした。そこにお菊の母親が是非にということで、三平は一緒に旅立ったのである。八十八箇所巡りを終えて播磨国の某所に来た時、お菊の母親が病で倒れ、そのまま亡くなってしまった。三平はお菊の母親の菩提を弔いながら、結局その地に留まることとなったのである。
しばらくして、三平の所にある女が住み着いて、所帯を持つことになった。二人は仲むつまじく暮らしていたが、この地に名僧が来て加持をおこなっているのを聞き、二人してお菊の母の菩提を弔うために参詣した。ところが法会が終わろうとする時、いきなり激しい雷雨に見舞われた。雨はすぐ止んだので、三平は帰ろうと妻の方を振り向くと、そこには妻の姿はなく、着物だけが抜け殻のようにあるだけ。驚いた三平が着物を掴むと、中から一枚の皿が出てきた。それは、かつて清左衛門の屋敷で紛失し、お菊が死ぬきっかけとなった皿であった。全てを悟った三平は、名僧に全てを語り、お菊の菩提を弔うために奉納したのである。
これが明治9年(1876年)に福岡県が編纂した『福岡県地理全誌』にまとめられた“皿屋敷址”の概要である。現在、皿屋敷跡から少し離れた永泉寺の境内に、お菊の墓と称するものが、ほとんど台座だけの状態で残されている。また、お菊の打掛、脇差、当時清左衛門の客間にあった掛け軸が、碓井郷土館に収められているとのこと。ただしお菊の皿については、大正頃まではあったらしいが、現在は行方不明という。
皿屋敷伝説 / 伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』によると、この伝承地は岩手から鹿児島まで全国48ヶ所あるとされる。
浄念寺 空誉堂(じょうねんじ くうよどう) / 福岡県福岡市中央区大手門
慶長9年(1604年)に落成した浄念寺は、舜道上人が開基である。そしてその境内にあるのが、舜道上人の師である空誉上人の墓を祀る空誉堂である。空誉上人は、福岡藩主黒田家にとって非常に深い関わりを持つ名僧でありながら、同時に、虚実を織り交ぜながら黒田家の暗部に根を張る存在でもある。
史実とされる空誉上人の略歴は、空誉堂の横にある説明書に詳しい。播州の生まれであり、播州に所領のあった黒田孝高(如水)の帰依を受け、豊前中津へ転封となった時にも付き従っている。中津では合元寺を開基するなどしており、また朝鮮出兵の際には文官として従軍もしている。さらに関ヶ原の戦いの後に福岡へ転封となった際も付き従って、智福寺を与えられている。
ところが慶長16年(1611年)、空誉上人は智福寺で捕らえられ、処刑される。その方法は残虐で、背中を太刀で切り割られ、そこに溶けた鉛を流し込んで殺したとされる。しかも死体は打ち棄てられ、埋葬を許さなかった。そこで弟子の舜道上人が決死の覚悟で死体を背負い、浄念寺まで運んで埋葬したのである。しばらくは祀られることもなかったが、墓のそばの松の木に鳥が止まると落ちて死ぬなどの怪事があり、次第に人々の信仰を得て小堂が建てられるようになったという。
空誉上人が処刑された理由であるが、浄念寺によると、藩主・黒田長政と不和となって出奔した後藤又兵衛基次が幕府と敵対する豊臣家の味方となったため、昵懇であった空誉上人(一説では二人は叔父・甥の間柄とも)が説得に行ったが、逆に豊臣方に内通しているという讒言を受けて処刑されたとされる。だがこの理由には矛盾があり、空誉上人の処刑がおこなわれた時期には、後藤基次はまだ豊臣方に加わっておらず、内通云々という事態にならないのである。
この手のひらを返したような仕打ちの真相が不明である故か、時代を経るに従い、空誉上人にまつわるまことしやかな噂が流布する。『箱崎釜破故』をはじめとする黒田騒動に関する巷説を記した書籍に、空誉上人の存在は取り込まれる。曰く、空誉上人は豊前の土豪であった城井鎮房の庶子であった。曰く、寺小姓を差し出すようにとの藩主・黒田忠之の命を拒否したために勘気を被り、空誉上人は処刑された。曰く、空誉上人が処刑された理由は、当時城下で起こったお綱の刃傷沙汰を巡る対立にある等々。いつしか空誉上人処刑を命じたのが2代藩主の忠之であるとされ、黒田騒動の発端となる事件の当事者というように誤解されるようになった。さらに黒田家に祟りをなす城井一族とみなされ、博多の町を代表する怨霊と化していったのである。
後藤又兵衛基次 / 1560-1615。黒田家家臣。主戦として多くの戦功を挙げるが、主君である黒田長政と次第に不和となり、出奔。武功で有名であったため多くの大名から誘いがあったが、長政から「奉公構(他家への出仕を公に禁ずる処置)」が出ていたため浪人となる。その後、大阪方に請われて入城、豊臣方の主将格となって大坂冬の陣を戦う。夏の陣で野戦を仕掛け、戦死。
『箱崎釜破故』 / 成立年・著者とも不明。黒田騒動を題材として書かれている。後世の講談や演劇の種本となる。
黒田騒動 / 2代藩主・忠之の代に起こった御家騒動。寛永9年(1632年)、筆頭家老の栗山大膳が、忠之謀反の疑いありと幕府に訴え出た事件。真相は、忠之の暴政を糺すために敢えて大膳が訴えたとされる。藩は一旦召し上げられ後に新たに同地を与えるとの裁断で決着、大膳も破格の待遇で追放の処分されるなど穏便な形で終わる。ただし地元福岡では大膳は大悪人として扱われている。
黒田忠之 / 1602-1654。福岡藩2代藩主。父の長政からは藩主の器ではないとされ、廃嫡の可能性もあった。父祖以来の家臣を冷遇して新たな近臣を厚遇、幕命に背いて造船するなどの暴政をおこなう。黒田騒動を経て藩政は落ち着くが、暗君の評が高い。
城井鎮房 / 1536-1588。豊後国城井谷の領主。豊臣秀吉の九州攻めの際に帰順するが、父祖伝来の地より転封を命じられて抵抗。収拾にあたった黒田孝高は力攻めで大敗を喫したために、謀略により暗殺し、城井一族をことごとく滅ぼした。その後、黒田家は城井一族の祟りを怖れ、多くの寺社を建立している。
合元寺 / 空誉上人が再興。黒田孝高による城井鎮房謀殺の際、城井家臣はこの寺に留め置かれ、直後に全員討ち取られた。城井家と縁深い寺院の住職を務めたことから、空誉上人が城井鎮房の庶子であるという噂が広まったものと推察される。
宗岳寺 羽犬塚(そうがくじ はいぬづか) / 福岡県筑後市字羽犬塚
筑後市のマスコットキャラクター「チク号」は、翼の生えた犬という奇妙な容姿をしている。これはこの町に古くから伝わる伝説から取られたものである。さらに言えば、この伝承が残されている羽犬塚という地名も、この伝説が由来となっている。
宗岳寺に残されている立派な石塔が羽犬塚である。中央部分に「犬之塚」と彫られており、犬を供養する目的で作られたものであることは明白である。ただし、この羽犬についての伝説は、全く正反対の内容として伝わっている。
天正15年(1587年)4月、天下統一のために九州に攻め入った豊臣秀吉は、この地を荒らし回る怪物・羽犬を退治する。しかしその怪物の知勇に感じ入るところがあり、塚を築いたという。これが一つ目の伝承。
一方、同じく九州遠征を果たした秀吉は、そのお供として羽の生えた犬を連れてきたのであるが、この地でその犬が病死したために家臣が塚を築いたという。これが二つ目の伝承である。いずれにせよ、翼を持つ特異さだけではなく、天下人を魅了し、立派な塚を築かせるだけの不思議な犬だったということになるだろう。
現在、羽犬塚小学校前、筑後市役所前、山の井交差点、羽犬塚駅前には、羽犬の像がある。
濡衣塚(ぬれぎぬづか) /福岡県福岡市博多区千代
国道3号線の脇、福岡都市高速の高架下というまさに大都会の一角にある塚である。玄武岩で造られた板碑は康永3年(1344年)の銘が刻まれており、相当古くから旧跡として認識されていたようである。
この濡衣塚は、その名の通り、「濡れ衣」の語源となった伝承の残る地にある。
聖武天皇の御代(724〜749年)、筑前の国司として都より下向したのが佐野近世である。妻と娘を連れての下向であったが、妻は筑前で病死。そこで地元の女を後妻とし、一子をもうけたのである。子供の出来た後妻は、世の常の通り、義理の娘となる春姫を大層憎んだ。そこで地元の漁師に言い含めて、春姫がたびたび釣衣を盗むと近世に訴え出させたのである。半信半疑の近世は、その夜、春姫の寝所を覗いた。すると姫の寝ているそばに濡れた釣衣が置かれているではないか。訴え通りの状況に近世は逆上し、娘の言い分を全く聞かず、その場で斬り伏せてしまったのである。
翌年、近世は夢の中で女が二首の歌を詠むのを見た。
脱ぎ着する そのたばかりの 濡れ衣は 長き無き名の ためしなりけり 
濡れ衣の 袖よりつたふ 涙こそ 無き名を流す ためしなりけれ
この歌を詠む女が娘の春姫であると気付くと同時に、娘を無実の罪で斬り殺してしまったことを近世は悟った。娘を罠にはめた妻を離縁すると、近世は出家して石堂川のほとりに塚を建てて、肥前の松浦山に隠棲したという。
稗の粉池 お糸の墓(ひえのこいけ おいとのはか) / 福岡県北九州市小倉南区呼野
この辺り一帯は昔から灌漑用水が足りないために旱魃に襲われることがしばしばであった。そこで村人は冷井川の湧水を塞き止めて、ため池を造った。それが稗の粉池である。しかしその完成にこぎ着ける中で、一人の少女の犠牲があった。
ため池造りは難工事であった。堤防が幾度も決壊しては、造り直すことになる。ある時村人は人柱を立てる話をするが、親子兄弟を犠牲にするぐらいならばと躊躇った。そばで話を聞いていたのは、14歳になるお糸であった。お糸は父の文七を亡くし、母一人子一人の身であった。どうせ一度は死ぬ身であるならばと、お糸は母親に人柱になることを告げた。母親は止めたが意志は固く、泣く泣く娘の願いを聞き届ける。
人柱となる当日。身を清めたお糸は白装束に身を包み、輿に乗せられ村中を廻った。一行が堤防に着くと、村人は泣くばかりで、誰もお糸の入った穴に土を掛ける者はないために、役人は早く土を掛けるように命じる。そしてお糸は「死んでいく身に不足はないが、後に残る母さんを頼みます」と言うと、手を合わせ念仏を唱えて人柱となったのである。その時母親は池の向かいにある山の上で娘の名を叫び続けたという。
稗の粉池は享保3年(1718年)に完成。それから池の堤防が決壊することはなく、土地は豊作で潤った。村人はお糸の供養のために地蔵尊を造り、それを「お糸地蔵」と名付けてお堂に安置した。そして稗の粉池の堤防の上にお糸の墓を建てた。さらにお糸が人柱となった8月24日に「お糸祭り」を催し、両親の墓のある大泉寺で供養の読経と於お糸地蔵縁起書が語られる。さらに地区こぞっての盆踊りもおこなわれ、お糸の霊を慰めている。
於糸地蔵縁起書 / 上で紹介した、お糸が人柱となる一連の話はこの縁起書に記されている内容であり、毎年大泉寺住職によって節をつけて語られる。また戦後になってから「お糸地蔵音頭」が作られ、この歌に乗って盆踊りがおこなわれる。
大泉寺 / 浄土宗の寺院。寛永5年(1628年)あるいは元禄5年(1692年)開基とされる。
豊前坊 高住神社(ぶぜんぼう たかすみじんじゃ) / 福岡県田川郡添田町英彦山
高住神社の主祭神は豊日別命といい、豊前と豊後の国を人格化させた神であるとされる。五穀豊穣、牛馬安全などの国造りの基盤となる農耕の神の一面を持つ。また一説では豊日別命は猿田彦神と同一神であるともされている。しかしこの主祭神以上に有名なのは、日本八大天狗の一人であり、九州の天狗の頭目とされる豊前坊天狗であり、この神社に祭神の一柱として祀られている。神社のある英彦山は九州随一の修験道の修行場であり、その関連から天狗の住まう聖地とされたと考えられる。
豊前坊は配下の天狗を使って、欲深い者に対しては子供を攫ったり家に火を付けたりして罰を与え、心正しき者には願い事を聞き届けたり身辺を守護したりするとされている。
八大天狗 / 愛宕山太郎坊、比良山次郎坊、鞍馬山僧正坊、飯綱三郎、大峰山前鬼坊、大山伯耆坊、白峰相模坊、英彦山豊前坊とされる。
宗像大社(むなかたたいしゃ) / 福岡県宗像市田島
根の国へ赴くことになった素戔嗚尊が、高天原にいる姉の天照大神に会おうとしたところ、天照大神は素戔嗚尊が高天原を奪いに来たと思い込んで弓矢を携えて出迎えた。素戔嗚尊はその疑念を解くために「誓約(うけい)」をおこなうことを提案、素戔嗚尊の持つ十握剣を天照大神が受け取って噛み砕き息を吐くと、三人の女神が生まれた。そして天照大神の持つ八坂瓊之五百箇御統(勾玉と腕飾り)を素戔嗚尊が受け取って噛み砕き息を吐くと、五人の男神が生まれた。これにより、自分の持ち物から女神が生まれたとして素戔嗚尊は自らの清廉を宣言した。
この天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれてきた三人の女神が、田心姫神(たごりひめ)・湍津姫神(たぎつひめ)・市杵島姫神(いちきしまひめ)の「宗像三女神」である。その三女神が天照大神より「歴代の天皇を助け、また歴代の天皇より祀られよ」という神勅を受けて降臨したのが宗像大社の始まりである。宗像の地は日本と朝鮮半島を結ぶ海路の要衝であり、宗像大社は、玄界灘に浮かぶ孤島の沖ノ島に沖津宮(田心姫神を祀る)、九州寄りの海上にある大島に中津宮(湍津姫神を祀る)、田島にある辺津宮(市杵島姫神を祀る)の3つの宮によって成り立っており、それらを直線に結ぶと、朝鮮半島や中国大陸へと繋がることになる。特に沖津宮は宗像大社の中でも最も聖域であり、神職以外は年一回の祭祀を除いて上陸を許されず、未だに女人禁制の地である。また辺津宮は宗像三女神降臨の地である高宮祭場があり、境内にある第二宮・第三宮には田心姫神と湍津姫神を祀っており、参拝の中心となっている。
宗像三女神は海路の要衝にある神であり、道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれて、あらゆる交通を司る神とされる。そして九州と近畿を海上交通で繋ぐ地域に宗像三女神を祀る神社が数多く建てられている。
天照大神と素戔嗚尊の誓約 / 宗像三女神と同時に生まれた、天照大神の子となる5人の神のうち、最初に生まれた天忍穂耳命は、後に天照大神より中つ国を治めるように命ぜられるが、自分の子である瓊々杵尊を遣わすよう進言する。すなわちこれが天孫降臨であり、このことから宗像三女神と皇室とがかなり密接な関係にあることが分かる。
蒙古塚(もうこづか) / 福岡県福岡市東区志賀島
文永11年(1274年)10月20日、対馬と壱岐を攻め尽くした元と高麗の連合軍が博多に来襲した。世に言う元寇である。時の鎌倉幕府は西国の御家人を中心に敵軍を迎え撃つが、従来の武士同士の戦い方とは異なる戦法に苦戦し、多くの御家人が討たれた。ところが、その夜には連合軍は船に戻って撤退する。そしてそれに追い打ちを掛けるように玄界灘は暴風雨となり、多くの船が沈没してしまったのである。
『八幡愚童訓』によると、翌日、志賀島に元軍の船が座礁しており、投降してきた兵を生け捕りにしてその首を刎ねたという。その数は約220名に及んだとされる(ここで打ち首になった捕虜は120名とも)。このときの処刑の場となった所に蒙古塚が立てられている。
この供養塚ができたのは昭和3年(1928年)、日中友好として造られたものである。供養塔の文字は当時の首相であった田中義一によるもの、また満州の軍閥であった張作霖も賛を送っている。この供養塔は平成17年(2005年)の地震で倒壊、2年後に再建されている。
『八幡愚童訓』 / 鎌倉中期から後期に掛けて成立した、八幡神の霊験を集めた書物。筥崎八幡宮の奇瑞や神威によって元を撃退したという記述を伴って、2回にわたる元寇の戦闘の経緯や様子を記した史料として有名。
龍宮寺 人魚塚(りゅうぐうじ にんぎょづか) / 福岡県福岡市博多区冷泉町
地下鉄祇園駅すぐにあり、博多の町の中心地と言っていいような立地である。寺の本堂も近代的な建物になっているが、その創建は平安末期頃まで遡ることが出来る。しかしその当時は、海辺にあったために潮が満ちると境内が浸水することから浮御堂と呼ばれていたという。現在の龍宮寺という名となったのは、ある怪事件が発端である。
貞応元年(1222年)、博多津に人魚が打ち上げられた。その大きさは八十一間(約145.8m)という、とんでもない大きさのものであったと記録される。怪しいものであるから早速鎌倉の幕府へ知らせが入り、さらに朝廷からも勅使が検分に来ることになった。そして博多に到着したのが冷泉中納言であり、浮御堂にしばらく滞在することとなった。
地元の者は不老長寿の妙薬であるとして人魚を食べようとしていたのであるが、占術の博士・阿部大富(あべおおとみ)が占ったところ、この人魚は国家長久の瑞兆であり、手厚く葬ることに決まった。そこで人々は勅使の冷泉中納言が滞在した浮御堂を適地として、そこに人魚を埋めたのである。そして人魚が龍宮から来たものであると見なして寺の名前を龍宮寺とし、山号を中納言にちなんで冷泉山としたのである(寺の所在地である冷泉町は、この冷泉山から取られている)。
龍宮寺の境内には、人魚を埋めたことを示すかのように人魚塚が建立されている。そして本堂内には人魚の絵の掛け軸と共に、人魚の骨が安置されている(常時の一般公開はされていない)。明治頃までは、月1回の縁日になると骨を浸した水を参拝者に振る舞っていたという。しかしその後、数多くあった骨は散逸し、現在では数本のみが残されているだけである。。
冷泉中納言 / 冷泉家は、藤原定家の孫である為相を始祖として、以降名乗っている苗字である。しかし為相は弘長3年(1263年)の生まれであるため、時代的に合わない(後年、中納言にまで昇進している)。また父の藤原為家は,貞応元年当時は存命であるが、まだ中納言の地位にはない。さらに祖父の藤原定家も存命であったが、中納言となるのは10年後のこととなる。時代的なものを考え合わせると、冷泉中納言とは、藤原定家を暗に指すものと推測する。冷泉山の名称であるが、龍宮寺のある周辺は、博多津の中でも「冷泉津」と呼ばれる場所であり、それが由来であるとの説がある。龍宮寺は室町時代に連歌の創始者である宗祇が逗留しており、歌道の繋がりから冷泉家の人物が伝承の中で想定されたとも考えられる。 
 
 
佐賀県 / 肥前

 

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遠つ人 松浦佐用姫 夫つま恋ひに領巾ひれ振りしより 負へる山の名 万葉集
佐賀の大楠 / 佐賀市
むかし佐賀郡に大楠があり、朝日の陰は杵島郡の蒲川山を覆ひ、夕日の陰は養父郡の草横山(九千部山)を覆ったといふ。日本武尊がこの楠の茂り栄えるさまを見て、「この国は栄さかの国」といったので佐賀の郡名となったといふ。
○ 我に迫る三千年の樟くす若葉 青木斗月
○ 楠くすの木の若枝ゆすりてこのあした 声あげやまぬかちがらすあり 中島哀浪
魚釣の石 / 東松浦郡浜玉町 旧玉島村
神功皇后が新羅征伐のときに、戦勝を占って、玉島川で鮎釣りをした。そのときに座った石が「魚釣の石」である。以来玉島地方では、四月に女性が、豊作豊漁を占って釣をするのだといふ。(肥前国風土記)
○ 帯姫たらしひめ神の命みことの魚な釣らすと 御立たしせりし石を誰見き 山上憶良
神功皇后ゆかりの玉島川で大伴旅人の詠んだ連作歌物語から。
○ 松浦なる玉島川に鮎釣ると 立たせる子らが家路知らずも 大伴旅人
○ 君を待つ松浦の浦の少女をとめらは 常世の国の海少女あまをとめかも 大伴旅人
淀姫 / 佐賀郡大和町
神功皇后の新羅出兵のとき、皇后は妹いもうとの淀姫を松浦に遣はして、兵と船を集めた。淀姫は、沙伽羅竜王から借りた潮満玉しほみつたま・潮干玉しほひるたまを携へ、三百七十五人の船に乗って松浦を出航したといふ。淀姫命は与止日女よどひめ神社にまつられる。別名を世田姫とも、豊玉姫ともいふ。
○ 帯姫たらしひめ御船泊てけむ松浦の海 妹いもが待つべき月は経につつ 万葉集
松浦佐用姫 / 東松浦郡浜玉町
宣化天皇の御代に朝鮮半島南部の任那を救ふために松浦まつらの港に来た将軍大伴狭手彦さ で ひこは、しばらく松浦の篠原村に滞在し、村の長者の娘の弟姫子おとひめこを妻とした。やがて出航の日がきて、狭手彦は姫に形見の鏡を与へて任那に向かった。別れを悲しむ姫が、船を追って玉島川を渡ったとき、鏡の小紐が切れて、鏡は川に落ちた。姫は、さらに高山の峰に登って、離れて行く船を望み見て、領巾ひれを振り続けたといふ。この山を領巾振ひ れ ふり山といふ。弟姫子は、佐用姫さ よ ひめともいふ。
○ 遠つ人松浦佐用姫夫つま恋ひに 領巾振りしより負へる山の名 山上憶良
○ 海原の沖行く舟を帰れとか 領巾振らしけむ松浦佐用姫 山上憶良
それから五日後の夜、姫のもとに通ってきた男があった。容姿は狭手彦にうり二つで、その日から夜毎に来ては朝目覚めると去ってゐた。不審に思った弟姫子は、寝る前に男の衣に麻糸を縫ひ付けておいた。翌朝その糸をたどってゆくと、山の沼に至った。沼には、頭が蛇で身は人間の形をした蛇が横たはり、たちまち男の姿になって歌を詠んだ。
○ 篠原の弟姫の子をさ一夜ひとゆも 率寝ゐねてむ時しだや家にくださむ (肥前風土記)
それきり弟姫子の姿は見えなくなり、数日後に沼の底に遺体となって発見されたといふ。
杵島曲 / 鹿島市など
昔杵島きしま郡の村では、春秋に男女が杵島山に集まり、酒などを神に供へて歌舞をしたといふ。
○ あられふり杵島きしまが岳をさかしみと 草とりかねて妹いもが手を取る 肥前風土記
この歌を杵島きしま曲ぶりといひ、常陸国でもこの歌舞がなされたといふ。
和泉式部の足袋 / 杵島郡有明町大字田野上字泉 旧錦江村
むかし杵島郡の和泉村の福泉寺の僧が、仏に供へた茶を裏山に撒かうとすると、白鹿が飲んでしまった。鹿は毎日現はれて茶を飲んだ。ある日、堂の裏で赤子の泣く声がしたので、僧が行って見ると、鹿が人の子を産んで乳ちちを与へてゐた。この子は、寺で子授けを祈願してゐた大黒丸の夫婦に引き取られ、九歳のときに京へ上って宮仕へをしたといふ。娘は和泉式部と呼ばれ、あるとき故郷の錦浦に歌を送って来た。
○ ふるさとにかへる衣の色朽ちて 錦の浦やきしまなるらん 和泉式部
和泉式部は、鹿から生れた鹿の子であったので、生れながらに足の指が二つに割れてゐた。それを隠すために母は足袋を発明して娘にはかせたといふ。(柳田国男・和泉式部の足袋)
丹後国での話だが、翌日の狩猟に備へて和泉式部の夫の藤原保昌らが準備をしてゐると、夜更けに鹿の声が聞えた。和泉式部が鹿を憐れんで歌を詠むと、保昌らは心を打たれて狩りを中止したといふ。(古本説話集)
○ ことわりや、いかでか鹿の鳴かざらん 今宵ばかりの命と思へば 和泉式部
鍋島藩の追腹禁止令 / 佐賀市
佐賀鍋島藩主・鍋島勝茂の嫡子の忠直が、江戸の藩邸で天然痘により病死した。このとき忠直の側近四名が殉死したが、同じ側近の江副金兵衛だけが行方をくらまし、不忠義者と罵られた。実は金兵衛は、高野山に隠って亡君の菩提を弔ひつつ、その姿を像を刻んでゐた。一年後、佐賀の高伝寺で一周忌の法要が行なはれると、そこへ金兵衛が現はれ、忠直の像を献じ、庫裡へ退いて自害した。
○ 去年こぞの今日なくなりし君弔ひて 今年の今日は跡したひゆく 江副金兵衛
忠直の子の光茂は、藩主となって寛文元年(1661)に追腹おひばら禁止令を出してこれを戒めた。徳川幕府もこれにならひ、二年後に殉死の禁止を定めた。のちの鍋島藩士の山本常朝は、主君の死に際して出家の道を選んだ。常朝が晩年に語った言葉が『葉隠はがくれ』として編纂されたといふ。
岳の新太郎さん / 多良岳
むかし多良たら岳の山頂近くの金泉寺に、新太郎といふ若い修験僧がゐた。麓の里の娘たちに評判の美青年だったが、山は女人禁制なので、娘たちは近づくことができない。新太郎は時折り寺の使ひで里に降りて来ることがあったが、そのときは山道に水を撒いて、道が滑って戻れなくなればいいと、娘たちは歌った。
○ 岳の新太郎さんの登らす道にゃ 道にゃ水かけ 滑らかせ 民謡:岳の新太郎さん
諸歌
○ 年に一度は有田の町に 七日七夜の市が立つ 野口雨情
東松浦郡鎮西町の名護屋城は秀吉の朝鮮出兵の拠点だった。
○ 太閤が睨みし海の霞かな 青木斗月 
 

 

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黒髪山大蛇退治伝説
昔、肥前国有田郷の白川の池に大蛇が住み、ふもとの人達を脅かし田畑を荒らして暴れていた。里人達の訴えで領主後藤高宗(たかむね)は退治にでかけたが、大蛇は現れなかった。
そのころ近くに来ていた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)が、朝廷の命で大蛇退治に加わることになった。女性をいけにえにとして差し出すことになったが、万寿(まんじゅ)姫という娘が申し出たので、領主高宗は御家再興を約束した。
白川の池のほとりに万寿姫が美しく着飾って座ると、まもなく水面に大波が立ち大蛇が現れた。姫に襲いかかる大蛇に為朝が八人張りの強弓から放った大鏑矢(かぶらや)が右目を射抜き、高宗が三人張りの弓で放った矢が眉間を貫いた。
大蛇は、軍勢に追われてのたうちまわりながら西有田町の竜門の岩屋に向かって必死になって逃げたが、力つきて竜門峡の谷底へと落ちていった。そこに丁度通りかかった行慈坊(ぎょうじぼう)という盲僧が異様な気配を感じ、短刀で大蛇にとどめを刺した。その後、万寿姫の願いどおり家は再興され、姫は良縁を得たと言われる。
この伝説には、盲僧と蛇との古い信仰的な関係も秘められているようです。黒髪山頂には大蛇が七まき半も巻き付いたと言われる天童岩がそびえ立ち、黒髪山周辺に残る地名などから大蛇退治の様子が伺えます。
大蛇が棲家としていたという竜門の岩屋(洞窟)、陣幕を張って矢を放ったという幕ノ頭山、大蛇に当たった矢が跳ね返って刺さったという矢杖(西有田町)、酒樽を持ち寄って祝杯をあげた大樽、中樽、小樽(有田町)、大蛇がいなくなって住みやすくなって住吉村(山内町)、大蛇の鱗が重くて馬が悲鳴を上げた駒鳴峠(伊万里市)など。 
赤水観音(あかみずかんのん) / 佐賀県唐津市鏡
松浦作用姫の伝承地である鏡山への登り口にある小堂である。
新羅を討つためにこの地に赴いた大伴狭手彦は、この地の豪族の娘・松浦作用姫と恋仲になる。しかし出発の時を迎え、作用姫は鏡山の山頂から領巾(ひれ:女性が肩に掛けて垂らしていた布)を振って別れを惜しんでいたが、さらに山を駆け下り、加部島まで船を追い、その地で七日七晩泣き続けて遂に石と化してしまったのである。
一方、新羅を討つことに成功した狭手彦は、再びこの地に戻ってくると、鏡山の麓に船を繋いで作用姫の消息を尋ねる。しかし出発してすぐにこの世の人でなくなったことを知ると、その菩提を弔うべく、船を繋いだすぐそばに寺を造り、そこに新羅から持ち帰った金銅仏を安置したのである。これが赤水観音の始まりである。
現在、金銅仏は近隣の恵日寺に移されたが、赤水観音のそばには今でも大伴狭手彦が船を繋いだとされる船繋石がある。小堂自体はかなり寂れているが、堂内には作用姫と狭手彦の位牌が安置されている。
大伴狭手彦 / 豪族・大伴金村の3男とされる。上に挙げた新羅征伐だけでなく、欽明天皇23年(562年)には高句麗を攻め、数々の財宝を得て帰り、天皇や蘇我稲目に献上している。佐用姫との逸話は『万葉集』や『肥前国風土記』にある。
佐用姫岩(さようひめいわ) / 佐賀県唐津市和多田
日本三大悲恋伝説の一つとされる(佐用姫伝説)は唐津市各地にその伝承地が点在している。宣化天皇2年(537年)に、任那・百済両国を新羅の侵攻から守るために朝廷から遣わされた大伴狭手彦(オオトモノサデヒコ)はこの唐津の地で渡海の準備を行っていた。その身の回りの世話をしたのが長者の娘である松浦佐用姫(マツラサヨヒメ)。やがて二人は恋仲となるが、軍団は出発となり、二人は別れることになる。別れを惜む佐用姫は鏡山から見送っていたが、やがて海へ出ていく船を追い掛けるように山を下り、さらに呼子の加部島まで追いすがったが、ここで船の姿を見失い、7日7晩泣き明かした末に岩と化してしまったという。これが民間に伝わる伝承である。
佐用姫岩は唐津の中心街から少し東に離れた松浦川沿いにある。佐用姫が見送っていたとされる鏡山からは直線距離にして約3キロ、そこそこの遠さである。伝承によると、鏡山から飛ぶように駆け下りた佐用姫はこの岩に飛び降り、その時に付けられた足跡が岩の頂上にに残されているという。今では水辺に浮かぶ小島のようになり、遊歩道が設置されて完全に公園化している。当然岩の周囲には柵がされていて、登ることは禁じられているようで、問題の窪みを確認することは出来ない状態である。
ちなみにこの松浦佐用姫の伝説は古くより知られたものであり、『万葉集』にも姫にちなんだ歌が山上憶良によって詠まれている。
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫
まつら潟 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつおらむ
日本三大悲恋伝説 / 「松浦佐用姫」「羽衣伝説」「浦島太郎」となる。
大伴狭手彦 / 豪族・大伴金村の3男とされる。上に挙げた新羅征伐だけでなく、欽明天皇23年(562年)には高句麗を攻め、数々の財宝を得て帰り、天皇や蘇我稲目に献上している。佐用姫との逸話は『万葉集』や『肥前国風土記』にある。
山上憶良 / 660-733。奈良時代初期の歌人。詠まれた歌の大半は筑前守として任地に赴いて以降、大宰帥・大伴旅人(大伴狭手彦5代の子孫)の知遇を得てからのものである。佐用姫伝説が歌に詠まれるなど中央で普及した要因に、この2人の存在を指摘する研究もある。
秀林寺 猫塚(しゅうりんじ ねこづか) / 佐賀県杵島郡白石町福田
「鍋島の化け猫騒動」といえば有名な怪談話であるが、この舞台となったのが、白石の秀屋形(現・佐賀農業高校辺り)である。秀林寺はこのすぐそばにある寺院であり、そこに化け猫騒動の後日談となる猫塚が残されている。
龍造寺家の怨念を晴らそうとした化け猫を退治したのは、千布本右衛門(チブ・モトエモン)であるが、化け猫の祟りはその千布家に向けられるようになった。即ち、代々男子が育たず、他家から養子を取って家名を絶やさないようにしていたのである。本右衛門より7代目にあたる当主が、この状況を化け猫の祟りと考え、七つ尾の猫の掛け軸を菩提寺である秀林寺に納め、この猫の供養としたところ、それ以降男子に恵まれるようになったという。さらに明治になって、この七つ尾の猫を彫った祠を作り、猫大明神として祀ったのである。(それ以前にも、化け猫の死体を埋めた場所に猫大明神の祠があったらしい)
鍋島の化け猫騒動 / 初代藩主・鍋島勝茂が、かつての主筋であった龍造寺又一郎を碁の勝負の諍いで斬り殺し、御家再興が果たせなくなった老母も自害する。その両人の血を吸った飼い猫が化け猫となって、龍造寺家の怨みを晴らそうとする。勝茂が病の床に就き、その子は急死、さらに佐賀の町に怪異が続くことになる。家臣は寝ずの番をして怪異の原因を探るが、いつの間にか眠ってしまう。その中で、千布本右衛門は足に短刀を刺して眠気を払い、ついに勝茂の側室であるお豊の方が化け猫の化身であることを見破り、槍で突き殺した。これによって怪異は収まった……
鍋島家と龍造寺家 / 元は龍造寺家が主家であり、鍋島家はその宿老の家柄であった。しかし戦国時代末期に領土拡張を図った龍造寺隆信が戦死、跡継ぎの政家が病弱のために鍋島直茂が実権を握った。その後、豊臣秀吉・徳川家康共に鍋島家を実質の統治者とみなし、龍造寺家は形式上の領主としていた。慶長12年(1607年)に政家の嫡男・高房は現状を悲観して自殺を図り、その後に死亡。政家もその直後に病死して龍造寺家本家は絶える。そして家臣団は、直茂の嫡男である鍋島勝茂を後継者と決め、最終的に肥前鍋島藩が成立する。龍造寺家には高房の弟と嫡男があったが、御家再興は果たせなかった。
この複雑な主従関係が背景となって、鍋島の化け猫騒動は生まれてきたと言える。
田島神社(たじまじんじゃ) / 佐賀県唐津市呼子町加部島
肥前国最古の神社と言われ、田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命を祀る。これらは田島三神と称されるが、宗像大社の宗像三女神と同じ神である。
社殿は北西を向いており、その先の遥か海上には壱岐がある。また海から続く参道もあり、まさしく海の神であり、海上交通によって結ばれた大陸との要衝の地に置かれた古社である。
この神社の境内社には、松浦佐用姫伝説の佐與姫神社がある。遠征のために朝鮮半島へ発った大伴狭手彦との別れを惜しんだ佐用姫は、鏡山で領巾を振って船を見送っていたが、さらに船を追って加部島のこの地までやって来たという。そして別離に悲しみくれた姫は七日七晩泣き明かし、そのまま石と化す。それが望夫岩と言われ、現在はこの佐與姫神社の床下に安置されている。
またこの神社には、肥前守在任中の源頼光が寄進した頼光鳥居(佐賀県最古の鳥居)や、朝鮮出兵の際に訪れた豊臣秀吉が大願成就を祈念して割った太閤祈念石がある。
松浦佐用姫伝説 / 第28代宣化天皇2年(537年)に任那・百済の救援のために遣わされた大伴狭手彦が、肥前滞在中に地元豪族の娘・佐用姫と恋仲となるが、最終的に別離を迎えるという悲恋の伝説。上の伝説は『万葉集』で歌われた内容であるが、『肥前国風土記』では、その別れの後に狭手彦とよく似た男に魅せられるが、それは鏡山の沼の大蛇の化身であり、最後は沼に引き込まれて死んでしまったとされる。
源頼光 / 948-1021。大江山の酒呑童子退治や土蜘蛛退治で有名。肥前守任官は正暦2年(991年)。この時、四天王の一人、渡辺綱を伴って下向し、綱が当地で儲けた子が松浦氏の祖となったとされる。
河伯のミイラ(かっぱ<かはく>のみいら) / 佐賀県伊万里市山代町楠久
松浦一酒造は正徳6年(1716年)より酒造りを営んできた家であり、その祖先の田尻氏は筑後の豪族で、鍋島直茂によって現在の土地を与えられて定住したとされる。その家にいつの時代からか伝えられたのが「河伯のミイラ」である。
昭和28年(1953年)に母屋の改築をおこなった際に、屋根の梁に置かれていた箱から出てきたのが、このミイラであり、箱書きには<河伯>とあったので「河童」と認定された。しかし非常に不可思議な姿形であり、前足5本で後ろ足3本の指など、現存する生物では考えられないような骨格構造をしており、敢えて河童に近い生物だろうという印象である。田尻家では、おそらく筑後時代から代々家に伝わるものではないかと推測している。
河伯とは河童の意味であると同時に、河の神も意味する。河童はきれいな水を好む存在であり、それ故に酒造りにとって最も重要な水を司る神でもあるとして田尻家では神として祀り、毎年12月1日に「河童祭」をおこなっている。
御手洗の井戸(みたらいのいど) / 佐賀県佐賀市諸富町寺井津
佐賀市諸富町は徐福上陸地の有力な候補地であり、上陸にまつわる多くの伝承地が残されている。その中の一つが「御手洗の井戸」である。
この地に上陸した徐福一行であるが、きれいな水がなかったために井戸を掘った。そしてその井戸の水で、上陸時に汚れた手を洗ったので、「御手洗の井戸」と呼ぶようになったという。
その後、和銅3年(710年)に再びこの井戸は掘られたのであるが、その時に光を放ち、火災などの災厄は続発した。そのためにもう一度封印されることとなった。この時同時に「手洗い」の伝承から、この土地一帯を「寺井」という名に改めたという。そしてさらに年を経ること1000年以上、大正15年(1925年)に史跡調査をしたところ、偶然石で封印された井戸跡が発見され、これを徐福の御手洗井戸と認定したのである。
現在、徐福の井戸は個人宅の敷地内に小堂に覆われて大切に保存されている。 
徐福 / 生没年不明。秦の始皇帝にまみえ、不老不死の仙薬を求めて蓬莱の地へ向かう許しを得る。そして3000人以上の人を連れて東国(日本)へ旅立ったとされる人物。日本においては佐賀県をはじめ、全国各地に上陸した伝説が残る。 
    鍋島焼
    波佐見・くらわんか
 
 
長崎県 / 肥前、対馬、壱岐

 

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ふるさとの伊木力みかん みどり葉の大きな葉つけて 花のごとくあり 山本健吉
みみらくの島 / 五島列島福江島 三井楽町
蜻蛉日記の作者が、死んだ老母の通夜の席で聞いた話に、亡くなった人が再び現はれる島があるが、近づくと島の姿は消え失せてしまひ、名だけが人に知られて「みみらくの島」といふのだといふ。肥前国松浦県にありともいふ。
○ ありとだによそにても見む名にし負はば 我に聞かせよみみらくの島 藤原道綱母
○ いづことか音にのみ聞くみみらくの 島隠れにし人をたづねむ 藤原長能
この島は五島列島の福江島といはれ、西の果ての島であることから異界へ通じる島とされたやうだ。島の北部に三井楽みゐらくの港があり、遣唐使船はここを国内最後の碇泊地として、風を待って出航した。「風がやんだら沖まで船を出そう」(荒井由実)といふ歌は、五島南高校の離島の分校の愛唱歌になってゐるといひ、そのいきさつは現代の歌物語なのだらう。
対馬
朝鮮半島へ向かふ船は、対馬を最後の泊りとした。島の中央の浅茅湾の竹敷(下県郡美津島町)あたりが良い港だったらしい。
○ 百船の泊つる対馬の浅茅山 時雨の雨に黄葉もみたひにけり 遣新羅使
○ 竹敷たかしきの玉藻靡かし漕ぎ出なむ 君が御船を何時とか待たむ 対馬の玉槻(遊女)
島の中央よりやや北の上県郡峰町の西海岸に海神わたつみ神社(対馬国一宮)があり、豊玉姫命などをまつる。
壱岐
むかし遣新羅使の一人が壱岐島で急死したときの挽歌が万葉集にある。
○ 新羅へか家にか帰る壱岐の島 行かむたどきも思ひかねつも 万葉集
次の歌は壱岐郡郷ノ浦町あたりを旅したときの歌ともいふ。
○ 葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり 釈迢空
郷ノ浦町の天手長男あめのてながを神社は、神功皇后が新羅征伐のときに寄港した地といふ。筑紫の鐘ノ岬で武内宿禰が織った赤白の旗を、手長てながといひ、これを船に立てて渡航した。この旗は帰国したときに壱岐の天手長男神社と天手長比売神社にまつられたともいふ。
伊王島 / 西彼杵郡伊王島
源平の争乱のころ平康頼らが流された鬼界が島とは、長崎市の沖合の伊王島のことだともいふ(鹿児島県の硫黄島がよく知られるが)。
○ いにしへの流され人もかくありて 末いきどほり海を睨みき 北原白秋
じゃがたら文 / 長崎市
江戸時代の初めの寛永のころ、国外追放をうけた長崎の混血児たちは、居住先の東南アジア方面から故郷へ手紙を書き、年に一度の輸送船に託したといふ。じやがたら文といふ。
○ おもひやるやまとの道の遥けきも 夢にま近くこえぬ夜ぞなき お春
○ 長崎の鴬は鳴くいまもなほ じやがたら文のお春あはれと 吉井勇
長崎の諏訪神社
芭蕉の弟子となった去来は、長崎の出身で、京に出て郷里を偲んで詠んだ句にある諏訪社とは、長崎市上西山の諏訪神社のことである。長崎くんちの祭で知られる。
○ 尊とさを京でかたるも諏訪の月 去来
○ 長崎の山から出づる月はよか こんげな月はゑっとなかばい 太田蜀山人
○ 長崎名物 紙鳶はた揚げ盆祭 秋はお諏訪の砂切しゃぎりで氏子がぶらぶら ぶらぶら節
右の歌は四月の紙鳶合戦、八月の精霊流し、十月の長崎くんちを歌ったもの。
蝶々さん / 長崎市
明治のころ長崎に寄港したアメリカの海軍士官ピンカートンは、蝶々さんといふ芸者と結婚した。ピンカートンは一時帰国したが、約束通り長崎へ帰って来るのを、蝶々さんは生まれた子どもとともに待った。しかし三年後にピンカートンは夫人同伴で長崎を訪れ、蝶々さんは子どもを残して自ら命をたったといふ。プッチーニ作曲の「マダム・バタフライ」といふオペラの話だが、実話がもとになってゐるといふ。蝶々さんの歌で「ある晴れた日に……」と歌はれる。
諸歌
○ ふるさとの伊木力みかんみどり葉の 大きな葉つけて花のごとくあり 山本健吉
雲仙岳
むかし景行天皇が肥後国に行幸されたとき、有明海から島原半島を望み見て、半島なのか、離れた島なのかを調査させたとき、高来たかくの山(雲仙岳)から高来津座たかくつましといふ神が現はれたといふ。山の南西から湧き出す「峯の湯の泉」(雲仙温泉)は、古代から高温の湯であったらしい。
○ 今もなほ円き躑躅つつじの山こめて 聖き血潮の燃ゆるなりけり 生田蝶介
長崎県でいふ雲仙躑躅(県花)とは、学名をミヤマキリシマといふ。
○ 高原にみやまきりしま美しく むらがり咲きて小鳥とぶなり 昭和天皇
島原の子守歌、からゆきさん
「島原の子守歌」は、邪馬台国研究の著作もある宮崎康平といふ人が戦後に作詞した民謡である。曲は、竹内勉によると、島原から山梨県へ移住してじゃが芋を作ってゐた農家を皮肉ったエグエグ節といふ山梨県の民謡がまづあって、これを大正十二、三年ごろ山梨県韮崎地方の人が観光用に整へて縁故節の名で 者に歌はせて流行らせた曲とほぼ同じである。
○ おどみゃ島原の……梨の木育ちよ 何の梨やら……いろ気なしばよ しょうかいな
 はよ寝ろ泣かんで おろろんばい 鬼の池の久助どんの連れん来らすばい
早く寝ないと、天草の鬼ノ池の久助に連れて行かれて、「からゆきさん」として売られてしまふぞ、と歌ってゐる。からゆきさんとは、明治のころ長崎県や天草地方ほか各地から東南アジア方面などへ出稼ぎに渡った娘たちのことで、多くは娼婦となったらしい。純真な娘たちは成功して長者となることを夢見たはずだったが、本土では娼婦に対する価値観が急速に変っていった時代だった。数年で着のみ着のまま帰国した娘たちを待ち受けてゐたものは、新しい性道徳が広まりゆく社会だった。右の歌は戦後のものである。 
 

 

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鯨石と常世祠
鯨伏(いさふし)の郷
壱岐の国の風土記にいう、―鯨伏の郷。むかし〔魚台〕鰐(わに)が鯨を追いかけたので、鯨は走って来て隠れ伏した。それ故に鯨伏という。鰐と鯨とともに石と化して、一里ほど離れたところにある。《俗に鯨のことを伊佐という》
『常陸国風土記』には鯨の形に似た丘の話がありますが、こちらは鯨そのものが石化して地上に残っているという伝承です。鯨の伝承は台湾アミ族などにもたくさんありますが、やはり古代は鯨の数も多かったのだと思います。六世紀頃の古墳には鯨と帆船らしき線刻画が描かれているとか。
動物に似た岩というのは各地にありますが、その動物が石化したのだという伝承がともなうことがあります。模様がある特徴的な石は亀石などと呼んだりしますが、江ノ島にありました。
このような石には何らかの儀礼がともなうことも考えられます。亀に似た石ならば雨乞いとか、獣に似た石ならば豊漁を願うなどといったものです。
この壱岐島の鯨・鰐石にもそのような儀礼がともなっていたかもしれません。
朴樹(えのき)
壱岐の島の記録にいう、―常世の祠(やしろ)がある。一本の朴樹がある。《朴樹は愛乃寄である。》鹿の角が生えている。長さは五寸ばかりで、角の端は二股であるという。
常世とは海上他界の一般名称ぐらいの意味で捉えていいと思います。もちろん本一冊かけるぐらいの多様性はありますが。
えのきは20m以上にもなる木なので社の木としては見栄えがすると思いますが、落葉高木なので照葉樹林文化論とか関係ないと思います。壱岐島は対馬海流の影響で気候は温暖だそうですが。
ただし古い神社は多いようです。壱岐島自体歴史が古く『魏志』倭人伝にも「一支国」とあり、なんと24の式内社があるようです。当時の都人にとっては関東なんかよりもよほど認知度がある地域だったと考えられます。
『書紀』顕宗天皇三年に月読尊の託宣があったことに由来する月読神社などもあるようです。後は神功皇后の三韓征伐にまつわる神社が多いようです。
しかしここに登場する「常世祠」というのが現在の何神社なのかわかりません。
それにしてもえのきの上に鹿の角が生えているというのは非常に特殊です。鹿はいるようですが、なぜそれが常世の祠の榎に生えているのか?不明です。鹿と常世に関係があるのか?聞いたことがありません。
真っ先に思い出すのは京都六波羅蜜寺の空也上人像ですが、由来としては全く関係ないようです。山中で懺悔行をしていた時に念仏を聞きに来ていた鹿が目の前で猟師に殺されてしまったので供養の意味を込めて鹿の杖を持ち歩いていたというのが由来とか。鹿はお経を聞くのが好きです。
しかし鹿自体の人間的な仕草や群れを成している様子は、人間にとって普遍的に訴えるものがあるのでしょう。神社でも仏教でも儒教でも台湾原住民の神話でも鹿の伝承を見ることができます。
ここではあくまでも角だけですが、やはり問題なのは鹿と常世との関係性でしょうか?
角の生え変わりに不死性を見たという線も考えられますし、壱岐本島の周囲には小さな島も点在しているので、鹿が泳いでわたっていて、それをみて常世との関係性を連想したのかもしれません。 
杵島曲
杵島縣 縣南二里 有一孤山 從坤指艮 三峰相連 是名曰杵島 坤者曰 比古神 中者曰比賣神 艮者曰御子神一名軍神  動|則兵興矣 郷閭士女 提酒抱琴 毎歳春秋 携手登望 樂飮歌舞 曲盡而歸 歌詞云 婀邏禮符縷 耆資加多 塢  嵯峨紫彌台 區縒刀理我泥底 伊母我提塢刀縷是杵|島曲(萬葉集註釋卷第三)
杵島曲(きしまぶり)ということで、歌垣の研究などではよく言及されるところだと思います。春と秋に山に登るというのは中国では三月や九月九日が挙げられるでしょう。どちらも山に行って遊ぶという習俗です。特に二月から三月にかけての「踏青節」と呼ばれる行事には男女が出会う歌垣的な要素もあったようです。
三つの神山が並んでいる、というと大和三山を思い出しますが、ここでは坤(ひつじさる・西南)からう艮(うしとら・北東)にかけて、ヒコ神・ヒメ神・ミコ神ということになっています。
しかしグーグルマップの地図で杵島郡を調べてもそれらしき山は見当たりませんでした。杵島山歌垣公園というのはあるのですが。それとも「杵島山」に三つの峰があるということでしょうか?等高線を見てもそうは見えませんが。しかし註に興味深いことが書いてあります。御子神は軍神ともいわれて、これが動くと戦争が起ると言われている。
まず第一に御子神が丑寅の方角にあることが注目されます。東北を悪い方角だと考える発想が既にあったのかもしれません。そしてもう一つ気になるのは、それが「御子」であるということです。これは中世の王子信仰などとも関係するかもしれませんが、御子神は力が強く恐ろしい存在でもあるということでしょう。
杵島郡から南(最短距離なら南東方向)へ行くと有明海ですので、それを基準にして考えた方向観なのかもしれません。南東−北西のラインは豊穣のラインであり、西南−北東は不吉な方向であるとか、考えました。 
よど姫
風土記云 人皇卅代欽明天皇廾五年甲申 冬十一月朔日甲子 肥前國佐嘉郡 與止姫神 有鎭座 一名豐姫 一名淀姫(神名帳頭註)
「淀姫」というのが気になります。佐賀県佐賀市には與止日女神社という神社が現存し、「淀姫さん」と呼ばれているそうですが、別名に「豊姫」ともあるところから、トヨタマヒメとの関係を指摘されたり、場所柄からか神功皇后の妹ではないかと言われているそうです。そして式内社にして肥前国一宮。神社内には「金精さん」と呼ばれる男根の形をした自然石があるそうですが、神功皇后の三韓征伐に随行した妹の與止姫がそれに触れて子宝を授かったという話があるそうです。
ただ、我々が普通に「淀君」と聞いて思い出すのは秀吉の側室の淀君です。しかしこの名称が定着したのは江戸時代以降、一般に広がったのは明治以降という説もあるとか。生前の一時「淀の方」と呼ばれていたのは確かなのですが、実は呼び名は住む場所によってころころ変ったそうです。其中でなぜ「淀君」が選択されたのか?なんか、「淀君」は遊女の呼び名だという話まであるそうで、悪女のイメージがあるとか。
「よときみ」=「夜伽身」とでもいうことでしょうか?
しかし肥前一宮の淀君となぜか似ている気もします。偶然の一致だとは思うのですが、大切な子供を得るというその一点において似ています。
秀吉側室の「淀君」という名称の定着は近代以降ですし、與戸日女神社どころか肥前の国とも何の関係もありません。しかし「よど」という名に何かしらの意味でもあったのでしょうか?やはり「豊」と関係があるのでしょうか? 
雲仙地獄(うんぜんじごく) / 長崎県雲仙市小浜町雲仙
雲仙は、大宝元年(701年)に行基によって開かれたとされるが、現在の温泉保養地として成立するのは寛文12年(1672年)に島原藩主の松平忠房が加藤善左衛門を湯守役に任じてからとされる。しかし温泉と共に有名なのは、雲仙地獄でのキリシタン殉教である。
雲仙でキリシタン弾圧の拷問が始まったのは寛永4年(1627年)である。その年に殉教した者は26名とされる。この時の島原藩主は松倉重政であり、幕府への過剰な忠誠を示すために苛政をおこなっていた。キリシタン弾圧もそのような状況で繰り広げられた。
最初の殉教者で最も有名な人物はパウロ内堀作右衛門である。一緒に捕らえられた3人の息子(一番年下の子は5歳とされる)は、両手の3本ずつの指を切り落とされる拷問の末に海に沈められて殉教。作右衛門も同じだけ指を切り落とされ、さらに額に“切支丹”の3文字の焼き印を受ける。しかしそれでもなお棄教しないため、他の15名と共に雲仙地獄に送り込まれた。そして作右衛門らは両足に縄を掛けて逆さ吊りにされると、湯壺に浸けては引き出すことを数回続け殉教したのである。
その3ヶ月後にはヨアキム峰助太夫ら10名が殉教する。湯壺に浸けるとすぐに死ぬので、役人は衣服を脱がせ柄杓で熱湯を掛けて拷問を加えた。助太夫は熱湯を掛けられても微動だにしなかったため、全身を切り刻まれそこに熱湯を注ぎ込まれた。しかし6時間の拷問に対して誰一人棄教する者はなく、最後は絶命するまで湯を掛け続けて、遺体は湯壺の中に沈めたのである。
この残酷な拷問の方法は、松倉重政から勧められた長崎奉行の竹中重義も採用した。長崎で捕らえられたキリシタンは雲仙地獄へ送り込まれ、さまざまな拷問が科せられた。しかし棄教する者はほとんどなく、再び長崎に送り返されてその地で処刑されたのである。結局、雲仙地獄でのキリシタンへの拷問は寛永8年(1631年)の記録を最後に中絶する。
雲仙地獄には、この地で殉教した33名を称える記念碑がある。そして平成19年(2007年)に雲仙地獄で殉教した29名(パウロ内堀の息子3名も含む)はローマ教皇庁より福者と認定されている。雲仙は今もなお、清七地獄やお糸地獄などの約30ほどの地獄が白煙を上げている。
加藤善左衛門 / 島原の乱の直後に島原藩主となった高力忠房の家臣。高力氏は承応2年(1653年)に雲仙に共同浴場「延暦湯」を開き、善左衛門がその管理者となる。高力家は改易となるが、善左衛門は島原に残り、高力家の後に島原を治めた松平忠房に仕える。雲仙温泉の湯守役となった後、元禄8年(1695年)に湯治客向けの旅館の経営を始める。現在の「湯元ホテル」である(現在も加藤家が経営)。
松倉重政 / 1574-1630。大和五条藩主から島原藩主となる。島原移封後は島原城建築をはじめ、石高を実質の倍の数値で報告して年貢取り立てを苛烈におこない、また江戸城改修の請負の際にも分不相応な費用負担をおこなうなど、領民に対して苛政を敷いた。キリシタン弾圧もはじめは緩かったが、将軍より直接指弾されたため過酷な拷問を採用したとされる。最後はキリシタン撲滅のために呂宋(フィリピン)攻略を進言。しかし先遣隊派兵の直前に急死する。
竹中重義 / ?-1634。豊後府内(大分)藩主。寛永6年(1529年)に長崎奉行に就くと、キリシタン弾圧に心血を注ぐ。最も過酷な拷問と呼ばれた「穴吊り」を考案。雲仙地獄での拷問を開始し、そこで初めての「絵踏」を実施した。しかし長崎での密貿易を訴えられたため、奉行職を罷免・切腹を命じられる。また府内藩も改易となる。
清七地獄 / キリシタンであった清七という男が処刑された時に噴出したため名付けられた地獄。
お糸地獄 / 島原城下で、密通した挙げ句夫を殺したお糸とという女が処刑された頃に噴出したため名付けられた地獄。
諏訪神社 陰陽石(すわじんじゃ いんようせき) / 長崎県長崎市上西山町
キリシタン大名だった大村純忠は、キリスト教保護のために所領内の全社寺を破却するという暴挙をおこなっている。そのため大村氏の貿易港だった長崎市にある主だった社寺は江戸期以降の造営のものばかりとなる。長崎の産土神として崇敬されている諏訪神社も寛永2年(1625年)に初代宮司が再興している。
諏訪神社は、丘の上にあるために参道の階段も長い。その途中に、意図的におかしな模様が分かるように敷石が配置されている箇所が2つある。それが陰陽石と呼ばれている石である。
参道のスタート地点にある一の鳥居付近にあるのが「男石」であり、そこからかなり離れた四の鳥居付近にあるのが「女石」である。形を見れば、この2つの石が男性器・女性器をモチーフにして作られたかは明らかであるだろう。自然石の中によく似たものを見つけて、それを信仰の対象にしたものは多くあるが、このような人工的に石を配置させたもの、しかも平面上に作られたものは珍しいと言えるだろう。
さらに拝殿の前には、他の敷石とは色が異なる、円と四角形をを組み合わせた「両性合体石」なるものがある。神社の御利益としては、参道を通る時に、男性は女石を、女性は男石を踏んだ後、拝殿前で両性合体石を踏むと縁結びの願いが叶うとされている。明らかに人工的な伝承物件であるが、何かウイットというものを感じさせてくれる、面白いものである。
大村純忠 / 1533-1587。日本初のキリシタン大名。1562年に自領の横瀬浦港をポルトガル人に提供。その後洗礼を受けてキリスト教に改宗、領内でキリスト教を奨励した。1570年に長崎港を提供、80年には長崎港そのものをイエズス会に寄進した。
諏訪神社 / 弘治元年(1555年)に建てられた諏訪神社と、森崎神社・住吉神社が起源とされる。寛永2年(1625年)に青木賢清によって再興される。後に幕府より「鎮西大社」とされ、長崎の鎮守となる。
原城跡(はらじょうあと) / 長崎県南島原市南有馬町
寛永14年(1637年)に始まった島原の乱の最終決戦地である原城は、島原半島の南端に位置する。当時既に廃城となっていたこの場所に、天草と島原から集結した一揆軍約37000人が立て籠もり、約3ヶ月間の籠城戦を繰り広げた。結局、兵糧も武器も尽き果てた一揆軍は、山田右衛門作を除き皆殺しとなり、乱は鎮まった。
この城跡は国の史跡に指定されており、本丸は公園化されている。この地の入り口付近にあるのが「ホネカミ地蔵」。明和3年(1766年)に、この地に残された遺骨を拾い上げて供養するために建てられた碑である。本丸跡には、この乱の指導者であった天草四郎時貞の像があり、そのそばには民家の石垣から発見された四郎の墓が置かれている(解読できない文字があるが、一応「天草四郎時○」という名前は読みとれる)。
なお、国道251号線から本丸へ向かう途中には、幕府軍の上使で戦死した板倉重昌の碑があり、また、南有馬中学横にある八幡神社境内には、乱後に天草代官となった鈴木重成による島原の乱供養碑がある。
島原の乱 / 島原藩や天草郡での年貢取り立ての苛政が引き金となって勃発。江戸期最大の内乱とされる。苛政以外にも、切支丹取り締まりに対する抵抗や、取り潰しとなった旧藩の浪人蜂起などの、当時のさまざまな社会問題が根底にあるとされる。乱後、島原藩主の松倉勝家は改易となり斬首(大名の斬首刑はこの1例のみ)、天草を領有した唐津藩主の寺沢堅高は天草召し上げ、後に狂死(自殺)し、改易となる。
山田右衛門作 / 島原在の南蛮絵師。一揆軍の副将格であったが、内通。そのために唯一の生存者となる。乱後は江戸に住んだとも伝わる。「天草四郎陣中旗」の作者とも言われる。
天草四郎時貞 / 1621?-1638。キリシタン大名で関ヶ原の戦いで処刑された小西行長の家臣の子とされる(本名は益田姓との説が有力)。数々の奇跡を起こしたとの噂が広まり、救世主と仰がれた(あるいは豊臣秀頼の落胤との噂も)。島原の乱では指導者としてかつがれ、一揆軍の精神的支柱となったが、戦闘の実質的指導者は他にあったとされる。謎の多い人物であり、首実検はおこなわれたが、最終的にその生死も不明の部分が大きい。
板倉重昌 / 1588-1638。三河深溝藩主。島原の乱の際、幕府の上使(総指揮官)として赴任するが、小藩であったため西国大名の統制ができずに苦戦。松平信綱が新たに上使として赴任する報を聞き、無謀な突撃を仕掛けて戦死する。
鈴木重成 / 1688-1653。島原の乱直後の初代天草代官。島原の乱にも参戦。代官着任後は、新規入植民の奨励(領民の殆どが一揆軍に参加していたため荒廃)、再検地の実施、宗門改めと教化をおこない善政を敷く。領民困窮の原因が唐津藩時代の石高の水増しにあると判断し、土地の石高半減を幕府に訴え、それが聞き入れられないために訴状を残して抗議の自決をする(天草の石高半減は嫡男の代に実現)。天草にある鈴木神社に祀られている。
幽霊井戸(ゆうれいいど) / 長崎県長崎市麹屋町
麹屋町の路地脇に、何の変哲もないコンクリート片が道に埋まっている。かつてこの地にあった井戸の水を汲み上げるためのポンプの台石と言われている。これが幽霊の教えによって掘り当てられた、通称“幽霊井戸”である。
昔、麹屋町に飴屋があった。ある晩、店の戸を叩く者がある。主人が出ると、今にも消え入りそうな若い女が一人立っており、一文で飴を分けて欲しいという。主人が飴を渡すと、女は立ち去っていった。ところが、その翌日もそのまた翌日も同じ女がやって来る。ついには6日続けて女は飴を一文ずつ買いに来たのである。
そして7日目。その日も女はやって来たが、金がないので飴をめぐんで欲しいと言ってきた。主人は快く飴を分けてやった。しかし不思議に思い、立ち去っていく女の後を追ってみると、女は近くの光源寺まで来ると突然姿を消した。さらに墓場から赤ん坊の泣き声が聞こえる。驚いた主人は住職と共に泣き声がした新墓を掘ってみると、女の遺体に抱かれて飴を舐める赤ん坊がいたのである。
女を葬ったのは、藤原清永という宮大工であった。女は、清永が京都で修行中に恋仲になり、清永が郷里の長崎に帰ったのを追ったものの、添い遂げることなく病で亡くなったのであった。子細を聞いた清永は子供を引き取り、供養のために女の姿に似せた幽霊像を寺に納めたという。
赤ん坊を見つけてから数日して、飴屋の枕元に女の幽霊が現れた。世話になったお礼がしたいと言う。ならばと飴屋は、近隣の水利が悪いので井戸が欲しいと頼んだ。すると幽霊は「私の櫛が落ちている場所を掘りなさい」と言って消えた。翌日飴屋が櫛を見つけて掘ってみると、みるみる水が湧いてきて立派な井戸になったのである。それが“幽霊井戸”の由来である。井戸は既に埋められて久しいが、今でも光源寺の幽霊像が開帳される前日には、この井戸のあった場所で盛大に法要がおこなわれる。そして毎日、このコンクリート片には盛り塩が供えられるとのこと。
光源寺 / 浄土真宗本願寺派の寺院。寛永14年(1637年)に奉行所より土地をもらい、柳川から来た松吟が建立する。
光源寺の幽霊像 / 「産女(うぐめ)幽霊」と呼ばれ、毎年8月16日に開帳され、飴がふるまわれる。伝承では藤原清永がかつての恋人を模して造ったものとされるが、実際には、延享5年(1748年)に常陸国の無量寿寺の幽霊を刻したものとの箱書きと由緒書がある。なお藤原清永という宮大工については不詳である。 
 
 
熊本県 / 肥後

 

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あまねくも代々を照らして北の宮 速甕玉はやみかだまの神の光りは 阿蘇友隆
阿蘇の神
太古のむかし阿蘇の外輪山の内側は大きな湖だったといふ。そこへ健磐龍たけいはたつ命といふ巨人がやって来て、外輪山の西の一角を足で蹴ると、滝ができ、水が流れ出た。だんだん湖水が引き始めると、湖の底から巨大な鯰が現はれ、湖の東半分を塞き止めてゐたので、命は太刀を振りかざして鯰を退治した。かうしてできたのが、阿蘇谷あ そ だに(阿蘇盆地)であるといふ。阿蘇谷には千枚田と呼ばれる棚田が広がってゐる。七月二十八日の阿蘇神社の「おん田祭り」で歌はれる田歌。
○ 一つ歌ひてこの田の神に参らせう 神も喜ぶ 田主も植ゑて喜ぶ……
健磐龍命は、神八井耳かむや ゐ みみ命の子とされ、大和から九州へやってきたともいふ。健磐龍命は、土地の草部くさかべ吉見よしみ命の娘・阿蘇都姫あ そ つ ひめを妻とし、速瓶玉はやみかだま命が生まれた。速瓶玉命は阿蘇国造となり、その子孫が神職の阿蘇氏である。健磐龍命は、国土開拓の神として、一宮・阿蘇神社(一宮町)にまつられ、速瓶玉命は国造神社にまつられてゐる。
○ あまねくも代々を照らして北の宮 速甕玉の神の光りは 阿蘇友隆
鯰は国造神社の境内の鯰社にまつられてゐる。阿蘇の人は鯰を食べない風習があるといふ。鯰は、地震除けとして各地にまつられてもゐる。
阿蘇山の煙は阿蘇明神が衆生の罪に代はって焼かれ給ふ炎ともいはれた。
○ 若草の罪に代はりて立ち昇る 煙ぞ神の姿なりける 古歌
むかし阿蘇神社の北の田鶴原には池があった。あるときこの池に天女が舞ひ降りて水を浴びてゐた。阿蘇都姫の兄の新彦命が、天女の天の羽衣を隠したために、天女はそのまま土地に残って新彦命の妻となった。生まれた子供をあやしながら、新彦命が歌った子守歌がある。
○ 汝が母の羽衣は千把こずみの下にあり
この歌で隠し場所を知った天女は、羽衣を捜し出し、歌を残して天に帰ったといふ。
○ 恋しくば尋ねてござれや宮山に
阿蘇町宮山(赤水)の吉松神社では、三月に阿蘇神社の神職らが来て行ふ「御前迎へ」の神事がある。目かくしした神職が山に入って樫の木を伐り、これを姫神として彫刻し、阿蘇神社へ神幸して神婚の儀が行なはれるといふ。
山鹿灯籠祭 / 山鹿市山鹿 大宮神社
景行天皇の九州行幸のとき、玉名から阿蘇へ向かふ途中、山鹿にお着きになり、杉山の地に行宮を営み、周辺の賊を平定されたといふ。後、行宮の跡地に創建されたのが大宮神社である
○ かしこくもあとたれまして動きなき 山鹿の宮居世を守るらし 前大納言豊持
景行天皇が、菊池川を溯って山鹿の火の口(現在の宗方)に着岸されたとき、一面に深い霧が立ちこめて進路をはばんだ。そこで、里人等が炬火をかかげて御一行を杉山まで案内した。その時の奉迎の炬火が、山鹿灯籠祭の起源とされる。
○ ともしびの花も盛りにこの神の いや世を照らす光り見えたり 富小路三位貞直
灯籠祭は、毎年、八月十六日の夜から、明け方にかけて行はれ、山鹿の町は灯籠の灯でまるで火の海のやうになるといふ。千人踊りでは、町の娘たちが、頭に金灯籠をつけ「ヨヘホ節」に合はせて踊る。
○ 山鹿灯籠は骨なし灯籠 ヨヘホヨヘホ 骨もなければ肉もなし ヨヘホヨヘホ
  山鹿灯籠は夜明かし祭 ヨヘホヨヘホ 町は火の海人の波 ヨヘホヨヘホ
藤崎八旛宮 / 熊本市
熊本市の藤崎八旛宮は、承平五年(935)に朱雀天皇の勅願により、山城国の石清水八幡宮を、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請したのが始まりといふ。鎮座の日に、勅使が藤の鞭を地に挿すと、そこから芽を吹き枝葉が栄えたので、藤崎宮の名が起ったといふ。
○ 藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代の子ねの日すぐさむ 清原元輔(肥後守)
明治十年の西南の役で旧社殿は焼失し、現在の井川渕町に移転再建された。
熊本城 / 熊本市
熊本に本格的な城が築かれたのは大永享禄のころで、鹿子木かのこぎ親員(入道寂心)が五六〇町を領して隈本くまもと城主となったころである。寂心の墓所は硯川近くにある。
○ おもはくの千々に流るる硯川 淀む片瀬に月宿るらん 鹿子木寂心
慶長六年に、加藤清正が城主となったとき、大規模な城の改修がなされた。このとき「畏」の字を忌んで隈本を熊本と改めたといふ。
○ 熊本に石ひきまはす茶臼山 敵に勝たう(加藤)の城の主かな 落書
清正は文禄の役では一万の兵とともに朝鮮に出兵した。
○ ふるさとの山はいかにや霞むらん 異国ことくにからの春のあけぼの 加藤清正
みつはくむ / 白川
むかし九州に桧垣ひがきの御ごといふ遊女があり、風流で華やかな生活をしてゐたが、藤原純友の乱の頃から姿が見えなくなった。太宰府に来た都の男が、遊女に興味をもって探して歩いたところ、白川といふところで、粗末な家に住んで水汲みをしてゐる白髪の老婆が、桧垣の御だと教へられた。その家を尋ねたが、老婆は恥ぢて出て来ず、歌だけを返したといふ。(大和物語)
○ むばたまの吾が黒髪は白川の みづはくむまでなりにけるかな 桧垣の御
熊本市を流れる白川のこととされるが、他にも候補地がある。みつはは水神の名。
風流島 / 宇土郡
風流島たはれじまは、緑川の河口にあった孤礁で、裸島ともいった。伊勢物語の色好みの風流子がこの地へ来て、通りかかった輿の中の女に問ひ掛けると、女は歌を返してきた。
○ 名にし負はば仇にぞあるべきたはれ島 浪の濡衣着るといふなり 伊勢物語
(人の噂は仇のやうなもので貴公子といはれても信じられません。風流島に寄せる波は、まるで白絹の衣を着たやうですが、近くで見れば濡れ衣のやうなものですから。)
火の国 / 八代郡
むかし景行天皇の命をうけた健緒組たけをくみの軍が、賊を平定しようと八代郡まで来たとき、夜空に謎の火が輝き、ゆるやかに山に落ちて燃えた。このことがあったために、武力を使はずに国を平定することができたといふ。報告を聞いた天皇は、それをよろこばれて「火の国」と名づけ、健緒組を国造に任命した。八代郡鏡町、印鑰神社の八代の池を詠んだ歌。
○ 影も見じ日数を映す旅衣 身をやつしろの池の鏡に 細川幽斎
水俣城の攻防 / 水俣市
天正七年(1579)、薩摩の島津義久が、相良氏の水俣城を攻撃したが、城代の深水宗芳の抵抗により、戦ひは持久戦となった。秋を迎へるころ、城内へ一本の矢文が飛んで来た。城代が文を開いてみると、次のやうな発句が書かれてあった。
○ 秋風にみなまた落つる木の葉かな (皆また=水俣)
そこで城代が付句を書いて矢文を敵陣に射返した。
○ 寄せては沈む月の浦波(月の浦とは水俣城の西の海岸のこと) 深水宗芳
やがて持久戦に業を煮やした島津軍は、天草から数百の軍船を押し寄せたが、折りからの暴風雨に遭遇して月の浦に沈んだといふ。
天草・島原の乱 / 天草郡
寛永十四年(1637)に起った島原の乱は、天草地方へも拡大し、事態を重視した徳川幕府は、板倉内膳正重昌を大将とする鎮圧軍を派遣した。板倉は、翌十五年正月に、反乱軍の拠点の原城(島原半島)へ仕掛けた攻撃のときに討死した。
○ 胸板を打ち通されて板倉や 即ちそこで命ない膳
しかし乱は二月中に鎮圧され、幕府は島原藩主の斬罪ほか徹底した処分とキリシタン禁制を強めたといふ。天草郡河浦町(下島)の大江天主堂前で詠んだ歌人の歌。
○ 白秋とともに泊りし天草の 大江の宿は伴天連の宿 吉井勇
ハイヤ節 / 熊本県天草牛深市 長崎県平戸市
○ ハイヤ ハイヤで今朝出た船は どこの港に着いたやら (牛深ハイヤ節)
ハイヤ節は、九州から起った船出の唄で、「南風はゆ」が唄の名となったといふ。天草の牛深ハイヤ節と平戸の田助ハイヤ節のどちらかが発生地なのだらう。南風を受けて船頭たちは日本海や瀬戸内方面へ貿易に出かけ、ハイヤ節の曲調も名を変へて各地へ広まった。ハイテンポのリズミカルな曲だが、北へ行くに連れてゆるやかとなり、阿波踊り、佐渡おけさ、津軽あいや節となり、さらに太平洋岸の塩釜甚句、潮来節もこの曲の変化だといふ。
五木の子守歌 / 球磨郡五木村
五木の子守歌は昭和二十年代にレコード歌謡として知られるやうになった。
○ おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃ居らんと 盆がはよ来りゃはよ戻る
お盆になれば子守奉公が終って実家へ戻れるといふ歌詞は、馴染んだ子供との別れを惜しむものと解すのが自然である。伊豆諸島などでは最近まで子守奉公の少女と子供の関係は、乳母と子の関係として一生続いたといふ。お盆で終りといふのは、奉公の期間が一、二年と短いことを暗示する。短期間の子守は少女たちの通過儀礼であり、社会教育でもあり、村の全ての少女が子守奉公を経験した地方も多い。専門の子守を雇ふ余裕があるはずの地主であっても、あへて年季奉公の少女を雇ふのは、村のしきたりによるのだらうし、村の教育責任者を自認するからなのだらう。
この歌は人吉の町へ子守奉公に出た娘たちが、臼挽歌の節で歌ひ始めたものといはれる。戦後のこの歌の流行のころ、地主対農奴の娘といふ誤った解釈の宣伝に地元は困惑したといふ。 
 

 

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阿蘇
肥後國風土記曰昔者纏向日代宮御宇天皇發玉名郡長渚濱幸於此郡
筑紫風土記曰肥後國閼宗縣々坤廾餘里有一禿山。曰閼宗岳。頂有靈沼。石壁爲垣。計可縱五十丈横百丈、深或廾丈或十五丈。清潭百尋、鋪白緑而爲質。彩浪五色黄金以分間。天下靈奇。出華矣  時々水滿 從南溢流 入于白川衆魚醉死 土人號苦水 其岳之爲勢也 中半天而傑峙 包四縣而開基觸石興雲 爲五岳之最首 濫觴分水 寔群川之巨源 大徳巍々 諒人間之 有一  奇形杳々 伊天下之無雙 居在地心 故曰中岳 所謂閼宗神宮是也(釋日本紀卷十)
肥後國風土記曰、昔者纏向日代宮御宇天皇發玉名郡長渚濱幸於此郡
徘徊四望原野曠遠不見人物。即歎曰此國有人乎。時有二神化而爲人曰、吾二神阿蘇都彦阿蘇都媛見在此國何無人乎。既而忽然不見因號阿蘇郡斯其縁也。二神之社見在郡以東云々(阿蘇文書二)
阿蘇山の描写と阿蘇という地名の起源伝承です。
阿蘇山の描写について。「五色云々」「大徳巍々として云々」などは中国古典から引っ張ってきた感じです。頂上の沼について、その沼から白川へ水が流れ込むと魚が死んでしまうこと、地元の人間が苦水と呼んでいることなどは阿蘇山そのものの具体的な情報として捉えて良いでしょう。また「阿蘇の神宮」ということは山そのものを神の宮ととらえていたということです。
天皇(ここでは景行天皇)が「人はいないのか?」と言ったら、阿蘇のヒコヒメ神が出現したという部分についてちょっと面白いと感じます。
風土記には「天皇がこんなことを言ったから、記念に地名にしました」という地名起源伝承が多いのですが、ここでは地元の神がしっかりと登場し、その名乗りから地名がつけられています。もちろん『風土記』には他の事例もあると思いますが、注意しておきましょう。
しかしこの形式は、高僧と山の神の邂逅譚にも似ている気もします。天皇とアソツヒコ・アソツヒメには上下関係や宗教的な優位劣位などは存在していません。雄略天皇と一言主神もこんな感じです。
要するに、神に遭遇する人物というのは自身が人間以上の聖性を帯びているという思想があるのだと思います。或は聖性を持った人物の前にのみ神は姿を表す、ということか。こういう素地があって、高僧と土地の神とが出会う伝承も生じたのだと思います。
また、アソツヒコ・アソツヒメが男女神であるというのも興味深いです。土蜘蛛には男女対かと思われる二人組みもいますが。
アソツヒコ・アソツヒメは阿蘇と名前がついていますが、これは「阿蘇郡」の神なのか、阿蘇山の神なのか、気になるところです。
また阿蘇山には所謂「山の背比べ」伝承があるそうです。阿蘇山東南にある猫岳という山は阿蘇山に叩かれて山頂部がぼこぼこだそうです。 
爾陪の魚
肥後國風土記曰 玉名郡 長渚濱在郡|西 昔者  大足彦天皇 誅球磨贈唹 還 駕之時 泊御船於此濱云々 又 御船左右 游魚多之 棹人吉備國朝勝見以 鈎釣之 多有所獲 即獻天皇 勅曰 所獻之魚 此爲何魚 朝勝見奏申  未解其名 止似鱒魚耳麻|須 天皇歴御覽曰  俗見多物 即云爾陪佐爾 今 所獻魚 甚此多有 可謂爾陪魚 今謂爾陪魚 其縁也¥B(釋日本紀卷十六)
またまた景行天皇と絡む話。ここでは魚の名前の由来譚です。船頭の吉備の朝勝見がとった魚をとって天皇に献上したので、天皇が物が多いという意味の「爾陪佐爾」から「爾陪魚」と名づけたというのです。「数が多いこと」が特殊性を持っているというのは何だか逆説的で、裏の意味を考えたくなります。
まず思いつくのは「贄」です。『大辞林』では「神仏朝廷へ捧げる供物。特に初物の食べ物や諸国の特産物」とあります。また表記も「にへ」。ただ大問題なのは「へ」には万葉仮名が甲乙あることです。「陪」は乙類ですが、「贄」の「へ」は甲乙どちらか?「贄」の「へ」も乙類のようです。『万葉集』4324の「贄浦」が「爾閇乃宇良」とあるようなので。「爾陪魚」は「贄魚」かと推測できました。しかしこれを天皇が名づけたというのは、どうかな?
この伝承は「地元で神に供される「贄」だった魚が、天皇の乗った船に自ら集ってきた」と読み取ることが出来るのではないかと思います。そして更に踏み込んで、天皇に献上されたが故に、その名がついたと。
ただ、だったら「物の多きをニヘサニという」などと持って回ったことを言わないで、「これは天皇たる私に献じられたものだから『贄の魚』と呼ぶことにしよう」という話になってもおかしくないような気もします。 
火の国
公望私記曰 案 肥後國風土記云 肥後國者 本與肥前國 合爲一國 昔 崇神天皇之世 益城郡朝來名峯 有土蜘蛛 名曰打猴頚猴二人 率徒衆 百八十餘人 蔭於峯頂  常逆皇命 不肯降服 天皇 勅肥君等祖健 緒組 遣誅彼賊衆 健緒組 奉勅到來 皆悉誅夷 便巡國裏 兼察消 息 乃到八代郡白髮山 日晩止宿 其夜虚空有火 自然而燎  稍々降下 着燒此山 健緒組見之 大懷驚恠 行事既畢 參上朝庭 陳行状奏言 云々 天皇下詔曰 剪拂賊徒 頓無西眷 海上之勳 誰人比之 又 火 從空下 燒山亦恠 火下之國  可名火國 又 景行天皇 誅球磨贈唹 兼巡狩諸國云々 幸於火國 渡海之間 日沒夜暗 不知所着 忽有 火光 觀行前  天皇勅棹人曰 行前火見 直指而往 隨勅往之 果得 着崖 即勅曰 火燎之處 此號何界 所燎之火 亦爲何火 土人奏言 此是火國八代郡火邑也 但未審火由 于時 詔群臣曰  所燎之火 非 俗火也 火國之由 知所以然(釋日本紀卷十)
肥前肥後国の地名起源伝承です。崇神天皇と景行天皇に結びつけて説かれています。
まず、土蜘蛛二人の名前ですが、 「打猴頚猴」(うちさる・うなさる)とあります。「猿」ではなく「猴」を使っている当り、古代中国の「猿・猴」の漢字の使い分けがわかっていたのかもしれません。土蜘蛛の名称だけを並べて名付けのルールみたいなものを考察するというのも面白そうです。古代日本人の「野蛮観」がわかるかもしれません。
「虚空の火」というのはこの火国伝承以外にもあるのでしょうか?ちょっと聞いたことがありません。山に燃え付いたとされているので、やはり火山からの連想だと思いますが、虚空から降りてきたというのは興味深い描写だと思います。「天から」とは言っていないのでなおさら不思議です。
景行天皇の部分では「球磨贈唹」(クマソ)が相手ですが、景行天皇自身が諸国巡幸したというのは『古事記』ではなく『日本書紀』と同じです。景行天皇が海を渡るというのは爾陪魚伝承でもありましたが、火を目指して岸に到着するというのも「王や英雄を導く不思議な火」というモチーフが存在しているかもしれません。覚えておきましょう。
この火。土地の人も燃える原因がわからないといっていますが、実は火山のある地域では地上に吹き出たガスが自然に燃焼するという現象が実際に起こりえます。勿論何処でもあるというわけではないと思いますし、条件が変ればなくなってしまうこともあるでしょう。
ということで、火の国とはやはり火山地帯における自然現象からつけられた名称だと考えるのが自然だと思います。 
阿蘇神社(あそじんじゃ) / 熊本県阿蘇市一の宮町宮地
肥後一の宮である。主祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)。祭神は一宮から十二宮までの12柱となっている(いずれも健磐龍命の一族)。
健磐龍命は神武天皇の孫にあたり、その命によって阿蘇へ赴き、開拓の神となったとされる。その当時、阿蘇山の外輪山の内側は巨大な湖であった。そこで命は、この水を抜いて田畑を造ろうと決め、外輪山を蹴破ろうと試みた。最初に蹴った場所が破れなかったために、場所を代えて試してみると見事に蹴破ることができた。しかしその時に命は尻餅をつき「立てぬ」と叫んだので、その地を“立野”と呼ぶことになったという。流れ出た水は白川となって海へ注ぐことになったが、水が抜けていくと同時に底に大きな鯰がいるのが分かった。命はそれを斬って退治し、全ての水を流すことができたという。
阿蘇神社は阿蘇山の北に位置しており、その参道は社殿に対して正面にならない横参道となり、まっすぐ進むと阿蘇山へ通じるように見える。そのため、この神社は阿蘇山そのものを信仰の対象としたのが始まりではないかとの説も存在する。
神社の起こりは、健磐龍命の子である速瓶玉命(阿蘇都比古命)が孝霊天皇の御代に阿蘇国造に任ぜられた際に、両親を祀ったことによるとされている。それ以降、速瓶玉命の子孫が阿蘇氏を名乗り、代々宮司を務めている(現在で90代目を超える、日本屈指の名家である)。
阿蘇氏 / 天皇家に繋がる古来よりの名家。阿蘇神社宮司を代々務めると同時に、近隣の地を領有する大豪族でもあり、武士団を率いて源平の合戦の折には源氏方に与している。その後、南北朝時代には南朝方として戦い、その後も勢力を維持しながら戦国大名へと成長していく。しかし島津の肥後侵攻の中で大敗し、戦国大名としての阿蘇氏は終焉。豊臣秀吉の九州統一後は、阿蘇神社宮司としての地位のみ認められ、現在に至る。
油すましの墓(あぶらすましのはか) / 熊本県天草市栖本町河内
妖怪・油すましは、水木しげる氏の作画によって有名な存在であるが、実際にはそのような実態を伴ったあやかしではなく、声と物品の怪異現象であると考えられる。
この妖怪の初出は、地元の民俗研究家であった浜本隆一の『天草島民俗誌』(1932年刊)であり、近くの草隅越(草積峠)である時老婆が孫を連れて歩いていた折りに「ここでは昔、油瓶を下げたものが出てきた」と言うと「今でも出るぞ」と言って出てきたという伝承を採話している。この話が後に柳田國男の『妖怪談義』(1956年刊)に紹介され、そこから水木漫画に採用されたと考えられる。そのため漫画のキャラクターは水木氏の完全な創作であり、またその性格付けも後年のものである。
油すましの墓は、平成16年(2004年)頃の妖怪ブームの際に、再発見という形で世に出てきた。土地の古老のお墨付きをもって本物と判断され、観光地的色合いを濃くして周辺も整備されている。ちなみに油すましの“すまし”とは、天草の方言で“しぼる”を意味する“すめる”という言葉が変化したものではないかと推測され、この墓と目されるものも地元の油搾りにまつわる碑ではないかとも考えられる(江戸後期にはこの地域では「かたし油」という椿油のようなものが生産されていたという)。
天草四郎の墓(あまくさしろうのはか) / 熊本県上天草市大矢野町中
昭和59年(1984年)、天草の大矢野島で“室町後期から江戸前期の豪農の住居跡”が発見された。その後の調査の結果、出土品や細川家の史料と突き合わせて、その住居跡が益田甚兵衛の住居である確率が極めて高くなったのである。
益田甚兵衛好次は、元は小西行長の右筆とされ、関ヶ原の戦い以降は帰農していた。そしてその子が益田四郎時貞、即ち天草四郎である。要するにこの地が天草四郎の出生地であるということになるわけである。
ただの草っ原である住居跡へ行く道へ国道266号線から進入する交差点に、天草四郎公園(天草四郎メモリアルホールも併設)がある。この小高い丘の部分に天草四郎の像と墓がある。墓といっても、実際には慰霊碑のようなものである。出生の地に近い場所との理由で建てられたものであると言えよう。さらにこの同じ場所にはいくつかのキリシタン墓が移設して置かれている。いずれも江戸初期のものであるとされている。
益田甚兵衛 / 1583?-1638。天草四郎の父であり、同時に島原の乱では一揆軍の評定衆の筆頭として作戦立案に加わっている。乱の最後である原城落城の際に討死。
天草四郎 / 1621?-1638。本名は益田時貞とされる。数々の奇跡を起こすと噂され、16歳で島原の乱の指導者とされる(実質的な主導者ではなく、象徴的存在と考えられる)。原城趾に籠城するが、幕府軍総攻撃時に自害したとされる。
河童渡来の碑(かっぱとらいのひ) / 熊本県八代市本町
八代市街を流れる球磨川は河口のそばで分岐して八代海に注ぎ込む。その一番北側の分岐である前川に架かる前川橋のたもとに河童渡来の碑がある。
八代の伝承によると、仁徳天皇の御代にこの地に河童がやって来たという。やって来たのは中国、揚子江(あるいは黄河)を下って東シナ海を泳ぎ切って上陸してきたというのである。これらの河童たちは球磨川流域に住み着き、いつしか一族郎党合わせて9000匹にまでなり、その頭領は九千坊(くせんぼう)と呼ばれ、西国一の河童とまで言われるようになったのである。
河童渡来の碑に使われている2つの石はガワッパ石と呼ばれる。その由来は、渡来した河童があまりにも悪戯をするので、怒った人々が河童を捕らえたところ、「2つの石がすり切れるまで悪戯をしない代わりに、年に一回祭りをして欲しい」と頼み込んだため許したことにある。この石は長らく橋石として使われていたとされ、昭和29年(1954年)に今のような碑となった。また年一回の祭りは“オレオレデーライタ川祭”として今に伝えられている。
仁徳天皇 / 第16代天皇。歴史学的には5世紀前半頃に在位したと推測される。ただ記紀の記録では、在位期間は87年に及び、おおよそ4世紀頃の在位とされている。
九千坊 / 延享3年(1746年)に発行された『本朝俗諺志』(著:菊岡沾涼)によると、渡来した後の九千坊は球磨川を根城にして暴れ回っていたが、ある時少年を溺死させた。ところが少年は加藤清正お気に入りの小姓であったために清正が激怒。河童の苦手な猿を九州中から集めて戦を仕掛けたという。九千坊は結局戦わずに球磨川を退去し、久留米の有馬公の許しを得て筑後川に移り、水天宮の使いとなったという。また“西国一の河童”と称されるのは、利根川一帯を支配する女河童の禰禰子河童に完膚なきまでにやられてしまったためとされる(有馬公が江戸に水天宮を祀って以降の話であると推測されるが、全く不明)。
殉教戦千人塚(じゅんきょうせんせんにんづか) / 熊本県天草市船之尾町
寛永14年(1637年)に起こった島原の乱であるが、その発端は10月25日の島原藩内での代官殺害である。そしてそれに呼応するように、天草でも武装蜂起が起こる。それを先導するのは天草四郎時貞であり、島原藩と唐津藩(天草は当時唐津藩の飛び地の領地であった)の苛政に対する反乱のカリスマ的主導者とされた。
天草の一揆勢は11月14日に天草における唐津藩の拠点であった本渡に進軍し、ここで唐津藩と大規模な戦闘に入る。一揆軍は圧倒的な戦力で唐津藩軍を撃破、富岡城代だった三宅藤兵衛以下を殲滅させた(この戦いで近くの川が死体で堰き止められたと言われる)。
この「本渡の戦い」での両軍の戦死者をまとめて祀ったものが、殉教戦千人塚である。この地は本戸城跡に作られた殉教公園にあり、島内各地にあった殉教碑を合祀したものである。
その後一揆軍は富岡城を囲むが、落城させることが出来ず、また幕府軍(九州各地の大名の連合軍)が動き出したことを察知し、島原の一揆軍と合流すべく天草を離れる。そして37000人とも言われる一揆軍勢は原城趾に立て籠もり、幕府軍と一戦を交えるのである。
島原の乱 / 1637-1638。島原・唐津藩の圧政(苛烈な年貢の取り立て)、キリシタン弾圧、帰農した諸国浪人の蜂起など、複合的な原因によって引き起こされた、江戸期最大の内戦。一揆に加わった37000人を全員殺戮(南蛮絵師であった山田右衛門作のみ助命)。幕府軍も1000〜2000以上の戦死者を出す。また乱の勃発の責を負って、島原藩主・松倉勝家は改易・斬首、唐津藩は天草を召し上げられる(藩主・寺沢堅高は後に発狂・自害し改易)。
天草四郎 / 1621?-1638。本名は益田時貞とされる。数々の奇跡を起こすと噂され、16歳で島原の乱の指導者とされる(実質的な主導者ではなく、象徴的存在と考えられる)。原城趾に籠城するが、幕府軍総攻撃時に自害したとされる。
田原坂(たばるざか) / 熊本県熊本市植木町豊岡
田原坂は明治10年(1877年)に起きた西南戦争最大の激戦地である。熊本城攻略に失敗した薩摩軍は、政府軍の熊本救援を防ぐために北部の田原坂を防衛戦として布陣する。そして政府軍もその約300mほどの距離を突破すべく、3月4日より20日までの17日間死闘を繰り広げた。
政府軍がこの攻防で消費した弾丸が1日当たり32万発と言われ、日露戦争最大の旅順攻略時の30万発を上回る。そのために「かち合い弾」と呼ばれる、空中で弾丸同士がぶつかって潰れた状態のものが多数残されている。またこの期間の政府軍の戦死者数は、7ヶ月の戦いでの戦死者の4分の1を越えるものである。いかにこの戦いが激しいものであったかを示すものである。
現在、田原坂は公園となり、資料館が存在する(弾痕の残る蔵があるが、これは当時のものではなく、復元されたものである)。そして少し離れた場所には、薩軍の墓地と官軍の墓地がひっそりとある。
西南戦争 / 1877年2月〜9月に起こった日本史上最後の内戦。鹿児島で蜂起した西郷隆盛率いる薩軍は北上して熊本城を囲むが、攻略に失敗。上記の田原坂の戦いで政府軍に敗れ、その後急速に勢力を失う。その後宮崎などを転戦するものの、最後は鹿児島の城山にて西郷以下が討ち死にし、戦いを終える。
防衛上の田原坂 / 熊本城を築城した加藤清正が、その北の守りとして田原坂を作り上げている。清正は、周囲よりも低くなるように道を掘り(道の両側から狙撃がしやすくなる)、さらに道も曲がりくねって前が見通せないように作っている。これによって守りやすく攻めにくい要衝となっている。 
 
 
大分県 / 豊前、豊後

 

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わたの原浪路へだつる宇佐の宮 深き誓ひは世々にかはらじ 後京極殿摂政
宇佐神宮 / 宇佐市
宇佐神宮は、誉田別ほむだわけ尊(応神天皇)、比売大神、大帯姫おほたらしひめ命(神功皇后)をまつる。宇佐八幡宮ともいひ、全国数万の八幡社のうち最も古い社ともいふ。
○ わたの原浪路へだつる宇佐の宮 深き誓ひは世々にかはらじ 後京極殿摂政
奈良時代に道鏡が権力を握ってゐたころ、和気清麻呂は足を斬られてうつほ船で九州に流されたといふ。舟は宇佐八幡に着き、八幡神が清麻呂の足を撫でると、見る見る足が生へて来たといふ。
○ 在り来つつ来つつ知れどもいさぎよき 君が心をわれ忘れめや
寿永二年、木曽義仲に京を追はれた平宗盛は、勢力を挽回すべく宇佐神宮に参篭して祈ったといふ。(源平盛衰記)
○ 思ひ兼ね心づくしに祈れども うさにはものを言はれざりけり 平宗盛

宇佐周辺の地方では、薮の中の石祠に小一郎こいちろう神がまつられ、一族や家の守護神とされる。移動したり周りの木を切ると家にたたるらしい。馬ヶ嶽城主の新田小一郎義氏の霊をまつったものだともいふ。
天満神社
菅原道真が太宰府へ向かったとき、海が大荒れとなり、船は流されて豊前国下毛郡の中尾の松原に漂着したといふ。ここに珍しい石があったので、菅公はその石に腰を掛けて休み、歌を詠んだ。
○ 年を経し木高松に春の来て 今ひとしほのみどり見えけり
菅公が里の老人に石の名を尋ねると、「止良石とらいし」といふらしい。
○ 身のうさを良くも止どむるとら石の 名を聞くさへも頼もしきかな
また傍らに「野田の清水」といふ泉があり、これをめでてさらに歌を詠んだ。
○ 久方の空もはるけき雲晴れて かげ清けなる野田沢の水
菅公は船旅の疲れもあって、この地に二十七日間ほど滞在し、太宰府へ向かった。
のち、村上天皇の御代に、菅公の孫にあたる従三位菅原文時が、この地を訪れ、野田の清水を見て歌を詠んだ。
○ たらちねのみゆきのあとも長閑のどかにて 残れる水の影もにごらじ 菅原文時
文時は、止良石の周囲に池を掘らせ、中に社を建てて菅公の霊をまつったといふ。中津市犬丸の天満神社である。
闇無浜 / 中津市竜王浜
中津市竜王浜の浜を、闇無浜くらなしはまといふ。闇無浜神社(竜王神社)は、海神の豊玉彦ほかをまつる。
○ 吾妹子が赤裳漬ひづちて植ゑし田を 刈りて納めむ倉無の浜 万葉集
○ くる海女あまのそこら刈り置く海松藻みるめをば いづくにつまむ闇無の浜
由布の山 速見の里 / 大分郡湯布院町
大分郡(旧速見郡)湯布院町に由布岳(由布山)があり、宇奈岐日女うなきひめ神社がある。
○ 少女らが放はなりの髪を由布ゆふの山 雲な棚引き家の辺り見む 万葉集
○ 思ひ出づる時は術すべ無み 豊国の由布山雪の 消ぬべく思ほゆ 万葉集
由布山の神である宇奈岐日女は、豊後風土記に登場する速津媛はやつひめのことだともいふ。むかし景行天皇が九州平定におもむかれたとき、天皇は、速津媛国といふところで女王の速津媛に迎へられた。天皇は速津媛の力を得て、郡域を平定され、そのときから速見郡といふやうになったといふ。
○ 何ごとのゆかしければか道遠み はやみの里に急ぎ来つらむ 大弐高遠 夫木抄
火男火売の神 / 別府市鶴見
火男火賣神社の火男・火売の二神は、鶴見岳の二峯(男嶽・女嶽)の神であり、別府温泉の守り神ともされる。鶴見権現ともいった。鎌倉時代に一遍上人が九州を巡ったとき、鶴見権現(火男・火売神)の教へにより鉄輪の石風呂(蒸風呂)を開いたといふ。また境内の楠木に爪彫りの六字の神号を残したともいふ。
○ わが祖師のねぎごとたりて喜びし 熊野の朝の昔をぞと思ふ 尊照(大正十年)

○ かげろふのもゆる春日に豊国の 鶴見の岳は雪ふりにけり 物集高世
○ わだつみの沖にし燃ゆる火の国に われより誰そや思はれ人は 柳原白蓮
直入山 / 直入郡直入町
景行紀によると、景行天皇が豊後国の禰疑野ねぎのの賊を討たんとして、石を踏んで三神に誓ひ祈ったといふ。三神とは、直入物部ノ神、直入中臣ノ神、志賀神で、そのうちの直入物部ノ神を祀ったのが籾山八幡社(直入郡直入町)であるといふ。
○ 明日よりは吾は恋ひむな直入山 岩踏み平し君が越え去なば 万葉集
○ 命をし真幸くもがな直入山 岩踏み平し後またも来む 万葉集
瀧神社 / 玖珠郡玖珠町山浦
むかし京の都で、醍醐天皇の御孫姫・小松女院と、笛の名手といはれた清原正高少納言は、身分の違ひを越えて、恋に落ちたといふ。これが発覚して、正高は豊後の国に配流の身となった。小松女院は、正高の後を慕って、十一人の侍女とともに豊後の国までやってきた。玖珠川の上流の滝のほとりで、一人の樵に正高の消息を尋ねると、正高はすでに土地の娘を妻として暮らしてゐるといふ。これを聞いた小松女院は、悲しみ歎いて、旅の衣や笠を滝の傍らの松の枝に掛け、十一人の侍女らとともに手を携へて滝の中に身を投げた。そのとき歌を残した。
○ 笛竹のひとよの笛と知るならば 吹くとも風のなびかざらまし 小松女院
事件を聞いた正高は驚いて駆けつけ、里人らと淵瀬を探してなきがらを引きあげ、墓所に葬り、そこに社を建てて霊を鎮めたといふ。これが瀧神社のいはれである。正高の子孫が、豊後清原氏となった。 
 

 

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餅の的(存疑)
昔、豐後ノ國球珠ノ郡ニヒロキ野ノアル所ニ、大分ノ郡ニスム人、ソノ野ニキタリテ、家造リ、田耕リテ、スミケリ。アリツキテ家トミ、タノシカリケリ。酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ弓ヲイケルニ、マトノナカリケルニヤ、餅ヲクヽリテ、的ニシテイケルホドニ、ソノ餅、白キ鳥ニナリテ飛ビサリニケリ。ソレヨリ後、次第ニオトロヘテ、マドヒウセニケリ。アトハムナシキ野ニナリタリケルヲ、天平年中ニ速見ノ郡ニスミケル訓迩ト云ケル人、サシモヨクニギハヒタリシ所ノアセニケルヲ、アタラシトヤ思ヒケン、又コヽニワタリテ田ヲツクリタリケルホドニ、ソノ苗ミナカレウセケレバ、オドロキオソレテ、又モツクラズステニケリト云ヘル事アリ。(同右第九)
所謂「餅の的」伝承。日本伝説大系にも話型が存在しますし、富山の方にも類話があります。『風土記』では『豊後国風土記』と『山城国風土記』逸文と共に言及されます。
富み栄えたものが餅を的にして矢を射掛けて遊びをする。すると餅が白鳥になって飛び去ってしまい、家は没落する。「餅の的」とは基本的には「家の没落」に絡む話型なのです。
富山の類話は餅の的ではないのですが、長者の娘が嫁入りする時に地面に餅を並べて其上を歩いた、という話。やはり餅は白鳥になって飛び去ってしまいます。大分と富山では結構距離がありますが、間に類話がないか調べてみる必要がありそうです。
餅に矢を射掛けて罰が当たった、と。まあそれで問題はないのですが、この話の特徴はその結果が「家の没落」に留まらない、ということでしょうか?土地そのものが不毛の地と化してしまっている。
『豊後』田野にもほぼ同様の伝承が語られているのですが、そこでは当地の農民全員がとても裕福であったといっています。しかしこちらでは「大分ノ郡ニスム人」がやってきて開墾した、つまり家の話から始まったものが、その土地自体を不毛の地にしてしまったわけです。さらに「天平年中ニ速見ノ郡ニスミケル訓迩ト云ケル人」の話は『豊後』田野には見えません。この人物がどんな来歴を持っているのかは不明ですが、この部分の意味は数十年たっても土地の不毛性は変らなかったということを確認するものだと思われます。
豊後という国名そのものは白鳥が餅になり餅が芋になるという、餅の的伝承を逆転したような伝承によってつけられた「とよくにのみちのしり」が起原ですが、一方で豊後国内には不毛の土地が存在していたわけです。
伝承を時系列でみると、豊後国地名起原伝承は景行天皇の時とされていますからかなり古いでしょう。速見郡田野と球珠郡の「餅の的」伝承がそれ以後だと考えられていたとすると、「豊かであるはずの豊後国内に不毛の地が存在する」ということの理由を説くという機能があったのかとも思います。
このように考えていくと、「餅の的」伝承はもともとは「家の没落」伝承ではなく、「不毛の地」の由来を説く伝承であった可能性もありそうです。その意味では中国の土地陥没伝承=湖の起原伝承などとも似通ってくるので面白いです。 
鹿春郷
豐前國風土記曰田河郡 鹿春郷在郡|東北 此郷之中有河  年魚在之 其源從郡東北杉坂山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉 此河瀬清淨 因號清河原 村 今謂鹿春郷訛也 昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神 又  郷北有峯 頂有沼周卅六|歩許 黄楊樹生  兼有龍骨 第二峯有 銅黄楊龍骨等 第三峯有龍骨(宇佐宮託宣集)
地名起源伝承なのですが、新羅から神が海を渡ってきたという伝承が書かれているので取り上げました。非常に清らかな川があったので「清河原」、それが訛って「鹿春」になったとあります。「清い」が脱落しているところを見ると、「清河原」説はあまり信憑性がないようにも見えます。
また新羅から来た神は、その河原に住んだので「鹿春の神」と呼ばれたと言います。しかしこれも普通は神の名前に因んで地名が付くのが普通のように思えるのですが?
新羅から海を渡って来た神、ということで私がすぐに思い出せるのは、三井寺の鎮守神「新羅善神」です。勿論全く関係のない伝承であるとは思いますが、やはり古代日本では大陸から神がやってきたという伝承はちらほらと各地に点在していたのではないかと思います。
異国の神に対する信仰はそれこそ異国の民が持ち込んだものかもしれません。しかしそれを許容するためにはやはり信仰的な素地があったはずです。
註によると福岡県の「香春神社」ということになっていますが、祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命。しっかりと三つの峰も存在しているようです。
特に「辛国息長大姫大目命」というのは奇妙な名称です。「息長」とは普通神功皇后或はその父、さらには応神天皇第二子から続く息長氏の事を指すはずですが、頭に「辛国」と付いています。これと同名の神は大分県姫島の比売語曽社にも祭られているようです。
比売語曽社の方は天日槍やツヌガアラヒト伝承との関わりを指摘されていますが、どちらかといえばこちらから攻めたほうがわかりやすそうではあります。卵生神話や箱舟漂流型との関わりが考えられます。
「杵島曲」でも「三つの峰」の話が出ましたが、意外と全国的に存在する信仰なのかもしれません。大和三山・出羽三山(湯殿は山じゃないですが)・三峰、などなど。そういえば中国客家には「三山国王」という神も存在します。
海を渡って日本に定住する神、というのは後の仏教信仰に底流する発想のような気もします。しかし女神であるというのは意外と重要かもしれません。
ところで風土記には「年魚がいる」という記載が結構あるのですが、何か意味があるのでしょうか? 
鏡山
豐前國風土記云 田河郡 鏡山在郡|東 昔者  氣長足姫尊 在此山 覽國 形 勅祈云 天神地祇 爲我助福 乃便用御鏡 安置此處 其鏡即化 爲石 見在山中  因名曰鏡山 已上(萬葉集註釋卷第三)
神功皇后が国見の折に朝鮮出兵の戦勝祈願をして、鏡を山の上に安置した。それが石になって今でも山中にあるので「鏡山」という名称になった。
鏡の呪的効果については近藤喜博『稲荷信仰』にいろいろと書かれていましたが、正直あまり信憑性があるようには思えませんでした。しかし鏡を山頂に置くことと国見が関係あるというのは注意しておく必要があるかもしれません。
仲哀天皇紀9年の記事に剣と鏡をもって神に祈願をする場面が登場しますが、場所は肥前国です。祭祀において鏡によって神との交流を図るということでしょう。 
穴森神社(あなもりじんじゃ) / 大分県竹田市神原
御神体は、姥嶽(祖母山)大明神の化身である大蛇が住んでいたという岩窟である。実際、元禄16年(1703年)に大蛇の骨がこの岩窟から発見され、宝永2年(1705年)に藩命によって岩窟を神体として祀ることになったと記録される。
この大蛇にまつわる伝説は、『平家物語』巻八に登場する。九州に落ち延びた平家を駆逐した、豊後の豪族・緒方三郎惟栄の5代前の祖先が、この神の化身である大蛇と里の娘との間に生まれた子供であると紹介されているのである。
豊後の里に住む娘(『源平盛衰記』では塩田大太夫の娘とされる)に許に、夜な夜な男が通った。そのうち娘は身籠もったが、相手の男の正体は分からない。そこで男の着物の襟に針を刺して緒環(おだまき)を付けておいた。翌日、緒環の糸の後を追うと、姥嶽の下の大きな岩屋に辿り着く。娘が呼びかけると、岩屋の奥から「私の姿は見てはいけない。身籠もった子供は男児で、弓矢や打ち物を取っては九州に並ぶ者がないだろう」と声がした。娘がさらに懇願すると、声の主が岩屋から現れた。それは15丈(約4.5m)もある大蛇であり、喉笛に針が刺さっていたのであった。
その後、娘は無事に男児を産み、祖父の名前から“大太”と名付けられた。子供は7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたために“あかがり大太”と呼ばれたという。これが緒方三郎惟栄の祖先である、大神惟基となるのである。
緒方三郎惟栄 / 生没年不明。豊後の有力豪族。『平家物語』では「畏ろしき者の末裔」と称されている。早くから反平家として九州にあり、平家を大宰府より追い落とし、さらに源範頼の九州攻めの際には船を提供して勝利に貢献した。平家滅亡後は源義経に与し、共に九州へ行こうと大物浦から船に乗るが難破、ここで頼朝方に捕縛されて上野国沼田へ流された。その後の消息は不明。竹田市にある岡城は、惟栄が義経を迎え入れるために築城したものが原形であると伝えられる。
大神惟基 / 生没年不明。豊後大神氏の祖とされる。子孫は臼杵氏・三田井氏・阿南氏など豊後国南部の豪族として続き、豊後の武士団を形成する。豊後大神氏は、豊後に赴任した大和の大神氏(上記の伝説と同じ“蛇婿入り譚”が伝わる大神神社に繋がる氏族)の後裔であるとの説も有力視されている。
円応寺 河童の墓(えんおうじ かっぱのはか) / 大分県中津市寺町
円応寺は天正15年(1587年)に黒田孝高の開基で建てられた寺院である。この寺には河童にまつわる伝説が残されている。
江戸時代の中期頃の話。円応寺の住職・静誉寂玄上人は、川で相撲を取って遊んでいる河童に向かい「生きることの苦しみも知らずに遊び暮らしている、哀れな河童よ」と言い放った。それを聞いて怒る河童たちであったが、上人は「世の中は楽しいことばかりではなく、苦しいことも多い」と諭したのである。
数日後の夜、円応寺にたくさんの河童たちがやって来た。上人が訳を尋ねると、3匹の河童の頭領は「上人の言葉に感じ入った。人の苦しみを知って後世のものに敬われるようになりたいので、上人に教えを請いに来た」と言う。上人は河童たちを本堂に招き入れ、そこで30日あまりの修行をおこなった後、3匹の頭領にそれぞれ戒名を授けたのである。
河童の墓は、この戒名を授けられた3匹の頭領の墓であるとされる。それぞれの戒名は、本誉覚圓信士(俗名:岡本宇兵衛)、本誉覚心信士(俗名:竹本三太夫)、本誉覚源信士(俗名:蔵本要助)となっており、今でも追善供養がおこなわれて塔婆が供えられる。
その後、河童たちはお礼として寺を火事から守ることを約束したという。その代わり、皿の水が乾かないように境内に小さな池を作ってくれるように頼んだ。この池も残されている(ただし水はほとんどない状態であった)。
また中津にある山国川を渡る時には「円応寺の門徒だ」と言うと、水難から免れるとも伝わる。
桂昌寺跡 地獄極楽(けいしょうじあと じごくごくらく) / 大分県宇佐市安心院町東恵良
桂昌寺は江戸時代には無住寺となり荒廃していた。江戸後期になり午道法印という僧が復興させ、ついで文政3年(1820年)頃に“地獄極楽”を造って大衆教導をおこなったという。
この地獄極楽は、本堂後ろにある岩場に約70mの洞窟を掘り、地獄と極楽の様子を立体的に展示したものである。入り口すぐには閻魔大王と牛頭馬頭が待ち受ける地獄が始まる。さらに奥へ行くと、奪衣婆や血の池地獄など、おなじみの地獄の風景が展開される。この地獄道を抜けると、今度は十三仏が並ぶ極楽への道が続く。そして最大の難所である、高さ5mほどの縦穴を鎖を伝ってよじ登ると、岩場の頂上に出ることができ、そこが極楽浄土の場所となっている。
素人が造った石像、しかも江戸時代に造られた洞窟であるので、規模も小さく稚拙な印象もあるが、“大衆教導”という観点から見ると、なかなか興味深いものを覚える。特に地獄から極楽へ続いていく道、とりわけ最後に極楽へ達するために縦穴をよじ登り、じめじめした洞窟から一転日の当たる高台に出てこれるという趣向は、今日でも感動的な体験であるだろうと思うところである。
合元寺(ごうがんじ) / 大分県中津市寺町
通称「赤壁寺(あかかべでら)」。寺の壁がこれでもかと赤く塗られている。だが、それにはある悲惨な歴史的事件が発端となっている。
豊臣秀吉の九州統一によって、鎌倉時代から豊前に領有していた城井(豊前宇都宮)氏は四国へ転封となったが、領主の城井鎮房が拒否したため、新たに豊前に入封してきた黒田孝高と一戦を交えることとなる。しかし頑強な抵抗にあった黒田氏は緒戦で敗れ、最終的に和議を結ぶこととなった。
40名余りの家臣を引き連れた鎮房は、黒田氏の治める中津城下へ入り、一旦合元寺へ止宿する。そして中津城へ赴くのであるが、許されたのは鎮房と小姓の2名だけ。あとの家臣は合元寺に留め置かれた。これは黒田側の謀略であり、鎮房は城内で騙し討ちに遭って斬られ、さらに黒田勢が合元寺にいた家臣を急襲して全員を討ち取ったのである。
この時、合元寺では凄まじい戦闘が繰り広げられ、かなり凄惨な光景となったらしい。寺の壁一面が血糊や血飛沫で赤く染まったのである。その後、寺がいくら壁を塗り替えても白壁から血が滲み出てくるために、結局赤く塗るしか隠せないようになったということである。合元寺の赤壁は、まさにこの事件で一族が滅亡した城井氏の怨念の象徴であると言えるだろう。
合元寺 / 天正15年(1587年)に黒田孝高が建立。開基は、黒田家旧領だった姫路より従って来た空誉上人。空誉上人が城井鎮房の庶子であったため、城井氏が止宿したと言われる。また空誉上人自身も後日、黒田家のお家騒動に絡んで処刑されることになる。
城井鎮房 / 1536-1588。城井(豊前宇都宮)氏16代当主。城井谷地域の領主として有力大名に転々と属する。秀吉による九州統一後に転封を拒否したため中津城内にて斬殺される。怪力無双の弓の名手と言われた。
城井氏滅亡 / 城井氏滅亡にあたっては、当主の鎮房の謀殺の他、父親の長房は城井谷城で討ち死に、息子の朝房は出陣先の肥後で暗殺、和議の条件として黒田家に嫁した娘の鶴姫は磔となった。その後、祟りを怖れた黒田家は中津城内に城井神社を建て、さらに福岡転封の際にも警固神社を建て、怒りを鎮めようとした。しかし、黒田騒動(1633年)の際にも、黒田家の正統が途絶えた(1719年)際にも、全て城井氏の祟りであるという噂が流れた。
自性寺 ケンヒキ太郎(じしょうじ けんひきたろう) / 大分県中津市新魚町
中津藩奥平家の菩提寺である。奥平家の転封に従って各地を移転、享保2年(1717年)に現在地に移ってきた。その後明治維新まで奥平家が中津にあったため、現在もこの地にある。南画の大家・池大雅がしばらく逗留して、多くの作品を残していることで有名な寺院である。
自性寺には河童にまつわる品物が残されている。「河童の詫び証文」と呼ばれる書状であり、“ケンヒキ太郎”という名の河童が、天明6年(1786年)6月15日付けで書いたものとされる。
ケンヒキ太郎は、真玉寺の小僧や女性に取り憑くなどの悪さを働いたため、自性寺の十三代・海門和尚によって改心させられたとされる。そして詫び証文を書いたのであるが、境内には河童の墓があり、改心して仏門に入信したものと考えられる。
さらに境内にある観音堂には、ケンヒキ太郎の木像が安置されている。またこの観音堂の鬼瓦は全部で10個あるが、そのうちの1つが河童を意匠したものとなっている。ちなみに残り9つの鬼瓦は、かつて奥平家に災いをもたらした9人の山伏を表しているとされる。
池大雅 / 1723-1776。中国の南宗画の影響を受けた画風の「南画(文人画)」を大成したとされる。自性寺十二代・堤洲和尚と親交があり、和尚の自性寺赴任に伴って、妻の玉蘭と中津へ赴いた。
九つの鬼瓦 / 奥平家第3代の昌能(1633-1672)が宇都宮藩主であった時、川で釣りをしていると水が濁って魚が捕れなかった。上流で山伏が水垢離をしていたのが原因と知ると、これを斬り捨ててしまった。この出来事に抗議した弟子の山伏9名も始末してしまった。その後、昌能は、家臣に殉死を強要した罪などにより減封の上で山形に配置換え、跡継ぎの男子も早世するなどしたため、山伏の祟りと噂された。
十宝山大乗院(じっぽうざんだいじょういん) / 大分県宇佐市四日市
鬼のミイラなるものがあるということで、実物を拝見しに十宝山大乗院という寺院に足を運ぶ。
とりあえずこのミイラの出自であるが、元々はある家の所有物であったのだが、大正14年にこの寺院の檀家が5500円で購入したらしい(このミイラが下関市で売買されたという、売渡証書が存在しているとのこと。品名は(鬼形骨))。ところが、この檀家は購入直後から原因不明の病となり、昭和4、5年頃にミイラを寺院に寄贈した途端に回復したという。さらに付け加えると、寄贈の際に当時の住職が「自分が子供の頃に山で出会った鬼が帰ってきたのだ」と語ったという。以来、この鬼のミイラはこの寺院で“仏様”として祀られるようになった。つまりこのミイラは寺宝として収蔵されているのではなく、信仰の対象として安置されているのである。
ところが、このような奇怪なものがあれば、当然の事ながら、学術の研究対象となる。実際、昭和初期に九州大学で鑑定されており、その結果としては『女性の人骨と動物の骨で構成されているのでは?』という事になっている。他の怪生物のミイラがさまざまな生物の剥製を工作して造型されているのと同じ結果である。学術的にはもっとも妥当な線である。
このミイラはご本尊に向かって右側に安置されている。しかも扱いはあくまでも“持仏”である。膝を抱えるように座った高さは約1メートル半。立てば2メートルは超えるようであるが、写真で見るよりは思った以上に小さかった。それでもその圧倒的存在感を静かに示しているように感じた。
平清経の墓(たいらのきよつねのはか) / 大分県宇佐市長洲
平清経は、平清盛の嫡男・重盛の三男である。要するに平清盛直系の孫にあたる。平家の公達の中でもとりわけ目立つ存在であったといっても間違いなかろう。
清経は、以仁王の挙兵に対して追討軍を率いて三井寺に侵攻、また翌年の墨俣川合戦でも武功を挙げており、平家の主力の一人であった。寿永2年(1183年)4月には、左近衛権中将の位にまで上がっている。ところが、その年の7月に木曽義仲が京へ攻め上るとの知らせを受けて、平家一門が都落ちをしてから、清経の人生は一気に転落する。
九州にまで落ち延びた平家は大宰府に留まり、筑紫に内裏を造営しようとする。しかし、かつて重盛の家人であった、豊後の緒方惟栄が叛旗を翻して九州の兵を集めて攻め入るとの知らせが入る。ついに平家は大宰府を捨てて九州を離れることとなり、しばらく船で波間を漂う生活を強いられるのである。
その年の10月、豊前の柳ヶ浦にあった平清経は、月明かりの下、船縁で横笛を奏でた。「京都は源氏に攻め落とされ、大宰府も家人であった惟栄に追い落とされ、我々は網に掛かった魚のようなもの。どこへ行こうと逃れることは出来ない。もはや生き長らえることも叶わない」と観念した清経は、念仏を唱えて静かに入水したのである。権中将叙任からわずか半年、21歳の生涯であった。
清経が入水した場所は駅館川の沖合とされ、河口付近に墓と称する五輪塔がある。別名を小松塚。清経の父である重盛が小松殿と呼ばれていたことから名付けられたものであるとされる。
柳ヶ浦の位置 / 清経の入水の地である柳ヶ浦は宇佐市としているが、安徳天皇の行宮・柳御所があったとされる、北九州市門司区大里も有力な比定地とされている。
緒方惟栄(惟義) / 生没年不明。豊後の有力豪族。祖先が姥嶽の蛇神の子とされ、『平家物語』でも「畏ろしき者の末裔」と称されている。早くから反平家として九州にあり、源氏の九州侵攻で重要な役割を果たす。平家滅亡後は源義経に与し、西国へ落ち延びで再起を図るよう取りなしている。
羅漢寺(らかんじ) / 大分県中津市本耶馬渓町
大化元年(645年)にインドより来た法道仙人を開基とするが、延元2年(1337年)に円龕昭覚が十六羅漢を祀ったのが本格的な始まりである。山の中腹の岩壁にはめ込まれるようにして寺院が建ち、そこにある多くの洞窟内に数多くの羅漢像などの石像が安置されている。
境内に置かれている龍の石像には不思議な伝承が残されている。この地域を治めた大友宗麟はキリシタン信仰の証として、領内の寺社を破却した。当然、この羅漢寺にも兵を送り込んだのであるが、この時、龍の目から光線が発せられて、兵は退散して焼き討ちを免れたと言われる。
またかつては鬼のミイラが保管されていたが、昭和18年(1943年)の本堂火災によって焼失している。
法道仙人 / 推古天皇治世の頃に朝鮮から渡ってきた、道教の道士と考えられる。日本へやってくる時に牛頭天王と共に来たとされ、その牛頭天王は広峰神社から八坂神社へと祀られているものとされる。また播磨国一帯の複数寺院の開基に名を残している。
大友宗麟 / 1530-1587。豊後の戦国大名。宗麟は法号であり、キリスト教の洗礼名はドン・フランシスコ。最大で北九州一帯を支配下に治める勢力を持ったが、自身の宗教問題や毛利・龍造寺・島津の台頭などで勢力を失う。その窮状を豊臣秀吉に訴え、九州征伐がおこなわれた。 
   
別府温泉 歴史的変遷  

 

第1節 湯けむり景観から見た別府温泉の歴史
1 別府地獄の登場
別府温泉が歴史の舞台に登場してくるのは、8世紀の前半に作成された『豊後国風土記』の記述からである。
この『豊後国風土記』には、鉄輪(かんなわ)・亀川地区の温泉に関する詳しい記事がある。まず、
「赤湯の泉郡の西北のかたにあり。この湯の泉の穴は、郡の西北のかたの竈門山にあり、その周りは十五丈ばかりなり。湯の色は赤くして埿あり。用ゐて屋の柱を塗るに足る。埿、流れて外に出づれば、變りて清水と爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯の泉といふ」とある。
この赤湯については、郡の西北の竈門山に位置すると記載される。「郡」とは、速見郡のことであるが、直接的には、郡の役所「郡衙」を指す。速見郡が確定されていないが、これまでの発掘成果などから、8世紀代の遺物が多く出土する別府市北石垣の石垣八幡宮付近が郡衙推定地として有力である。そこを中心に見ると、郡衙の北西とすれば、亀川地区の血の池地獄を指すといわれている。
また、間歇泉の記事と思われるものに、
「玖倍理湯の井郡の西にあり。この湯の井は、郡の西の河直山の東の岸にあり。口の径は丈餘りなり。湯の色は黒く、埿、常に流れず。人、竊に井の邊に到りて、聲を発げて大言へば、驚き鳴りて涌き騰ること、二丈餘りばかりなり。その氣熾りて熱く、向ひ昵くべからず。縁邊の草木は、悉く皆枯れ萎む。因りて慍湯の井といふ。俗に玖倍理湯の井といふ」とある。
この玖倍理湯の井については、郡の西の「河直山」東山麓にあったとしている。「河直山」は「かなおやま」と訓み、「河直」は鉄輪の語源になる地名といわれ、鉄輪の西にある山のことを指したとみられる。現在の鉄輪地区の中の間歇泉と推定され、鬼山地獄に当てる説や鶴見の火男火売神社に南西にあったとする説(『鶴見七湯廼記』)もある。
『豊後国風土記』を人間の温泉利用という視点で眺めると、「用ゐて屋の柱を塗るに足る」とあり、赤湯の泥の利用に関する記述はあるが、温泉の湯の利用に関する記述はここにはまったく見られない。この当時、100度もある高温の湯が噴出する別府鉄輪一帯は、人の保養に使われる温泉とはまったく意識されていなかったようである。
しかし、同じ風土記ではあるが、『伊予国風土記逸文』には次のような記述が見られる。
「湯の郡。大穴持命、見て悔い恥ぢて、宿奈毘古那命を活かさまく欲して、大分の速見の湯を、下樋より持ち度り来て宿奈毘古那命を漬そ浴ししかば、暫が間に活起りまして、居然しく詠して、「眞暫、寝ねつるかも」と曰りたまひて、踐み健びましし跡處、今も湯の中の石の上にあり。凡て、湯の貴く奇しきことは、神世の時のみにはあらず、今の世に疹痾に染める萬生、病を除やし、身を存つ栗薬と爲せり。天皇等の湯に行幸すと降りまししこと、五度なり」と。
道後温泉では、神様が温泉治療を行ったという伝説があり、8世紀の時代、病にかかった人々は、病を癒やし、身を保つ薬として湯を利用した。ここには天皇たちが五度も行幸したと記述されている。大変興味深い記事である。
この風土記では、大穴持命が友人の宿奈毘古那命を蘇生させるため、「大分の速見の湯」から下樋を通して、道後に湯を引いたとある。「大分の速見の湯」とは、別府温泉のことと考えられる。この記述からすると、速見の湯が効能のある温泉として知られていたことになる。ただし、逸文が当時の風土記の抜書かは断定できない。
古代から、道後の湯だけではなく、有馬や紀州の温泉は天皇なども通う温泉として知られていたが、別府が湯治場、温泉療養の地として認知されるようになったのは確実には中世以降のことといわれる。
2 一遍と鉄輪蒸し湯
鉄輪の温泉の中心の風呂本には、温泉山永福寺という寺がある。この南隣りには、明治の初年まで、温泉神社があった。この社は、永福寺の境内社であり、『寺社明細帳』添付の絵図によれば、境内には、川が南、中央、北に3流れあり、神社の横には滝が記載されているが、現在はそのあたりに「いでゆ坂」の道が通っており、江戸時代までの景観とは異なっている。温泉神社は、明治3年(1870)、神仏分離令によって鉄輪温泉の西の山に移された(『南鉄輪村庄屋日記』)。この神社の祭神は、「大巳貴命」と「少彦名命」である。『伊予国風土記』逸文にある四国の道後の湯を開いた神が祀られている。
地元の伝説によれば、時宗の開祖である一遍上人が鉄輪の地獄を鎮め、温泉療養の場として鉄輪を開いたとしている。永福寺はかつて湯滝山松寿寺(庵)といわれ、一遍の童名松寿丸の名をもつ寺院である。この寺院に下には、風呂本の名の由来となった蒸し湯がある。2年前、その隣接地に別府市の援助で新蒸し湯が整備された。
松寿寺は創建以来何度も廃絶し、現在の温泉山永福寺は、明治24年(1891)に尾道の永福寺の寺号を借り受け、松寿寺跡に再興されたものである。
松寿寺がいつ鉄輪の地に創建されたかは明確ではないが、市内、明礬温泉の奥に「松寿庵」という字名がある。この「松寿庵」と鉄輪の「松寿寺」の関係は、今のところ不明である。江戸時代中期、延享年間、時宗の遊行上人が回国の際に、別府を訪れ、一遍ゆかりの松寿寺を再興したといわれる。「松寿寺由来口上覚書」(大分県図書館所蔵)によれば、延享5年(1748)に南鉄輪村の組頭助右衞門が時宗本山藤沢清浄光寺に願い出て、山号・寺号が許され、時宗末となった。10年後、宝暦8年(1758)には、清浄光寺から派遣された淳孟が住職となり、その後、12代の恵秀まで続いたが、明治4年(1871)には、無住となったようである。
永福寺、その前身の寺院松寿寺はなぞに包まれている。それでは、一遍は本当に別府を訪れ、鉄輪地獄を鎮め、寺院を開いたのであろうか。一遍は、『伊予国風土記』にも登場した温泉場道後を拠点とした伊予河野氏の一族の出身である。道後温泉の奥には、一遍の開いた宝厳寺がある。一遍もこの風土記にある「大分の速見の湯」は下樋で道後に涌きだしているという話を知っており、「速見の湯」に関心をもっていた可能性は十分にある。
一遍の活動した時期、鉄輪の領主は豊後の守護大友氏であった。弘安8年(1285)の豊後国図田帳(太田文)によれば、竈門荘の中として「鶴見村加納」(「鶴見加納」)とあり、「鶴見村」とともに大友頼泰が地頭職を所持していた。この「加納」は「河直」から変化したものと推定され、現在の鉄輪と考えられる。大友氏は、このほかに、初代のころは、石垣荘の地頭職を所持しており、朝見郷の支配にも関係していたようである。別府地域は府内と並ぶ大友氏の拠点であった。
鶴見村は、当時、天台宗延暦寺が領家であり、鶴見山の山岳信仰の拠点となる鶴見権現すなわち火男火売神社(別府市東村の鶴見権現と別府市鶴見火男火売神社は一体のものであったと考えられる)は天台の傘下にあった。
別府地域は、早くから天台宗とかかわりが深く、10世紀前半に活躍した行者浄蔵(三善清行の子息)もこの地で修行し、鶴見山麓の石垣八幡宮の神宮寺石垣寺を開いたといわれる。また、革聖として藤原道長の帰依を受け、京都で有名となった法華経験者行願もこの鶴見の出身といわれる。温泉のみならず、聖としての一遍が関心をもつ旧跡が別府には多く存在した。
『一遍上人絵伝』によれば、建治2年(1276)春ころ、一遍上人は豊後に滞在した。このとき、豊後守護・鎮西奉行人であった大友頼泰は一遍に帰依し、大友氏の許にいた他阿弥陀仏(時宗2世、真教上人)と出会い、他阿は「同行相親の契」を結んだ。
『一遍上人年譜略』では、真教は、豊後の瑞光寺(大分市元町に大友氏時または親世が開いたという瑞光寺という禅宗寺院があるが、この前身の寺院の可能性が高い)に住み、「浄教」(浄土教)を説法していたが、七日七夜の問答の末、帰依したと記されている。
さらに、一遍は別府へ向かう。『一遍上人年譜略』には、「同(豊後)国に至り、鶴見嶽のかたわらに温泉あり、これ熊野権現方便の湯なり」とあり、この「温泉」(鶴見の湯)の権現宮の社頭の楠木に名号を小刀で刻み、「別時念仏」を行ったと記されている。『豊鐘善鳴録』では、鶴見社祠(鶴見権現)を訪れ、樟樹(楠)に名号を刻み、鉄輪温泉にいたって、松寿寺を創建したとある。年譜には、具体的に松寿寺創建の記述はないが、鶴見嶽のかたわらの温泉を「熊野権現方便の湯」なりと記述したことに注目したい。
一遍は、文永11年(1274)に熊野権現に参詣し、そこで神勅を受け、智真を改め、一遍を称するようになる。一遍自ら「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と語っている。この本宮での出来事のことを時宗では、「熊野成道」(成道とは宗教的な覚醒)といい、教団の元年と考えている。熊野の信仰は、平安時代後期、熊野参詣によって新たな生命が得られるという再生信仰が流布し、多くの上皇や貴族が何度も訪れた。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇が十数回から三十回を越える熊野参詣を行った。この信仰には、熊野の湯の峰温泉の湯が関係していることは、後に時宗教団によって全国に流布される、一度死んだ小栗判官は妻照手姫によって、熊野の湯で再生したという「小栗判官」の再生譚によっても明白である。
鶴見嶽のかたわらの湯とは、鉄輪温泉を直接指したとはいえないが、別府の鶴見から鉄輪の湯であることは間違いない。一遍が「熊野方便の湯」と認識したことは、一遍の信仰の起点にもかかわり、また、それは一遍の故郷の地伊予の道後温泉と深く関係している。その意味で、別府の湯は特別な温泉であったとみてよいだろう。鉄輪が一遍によって湯治場として開かれたという伝承は事実であったとする可能性は高い。
鉄輪の中心は湯本ではなく風呂本である。「風呂」というのは、本来、「湯」とは区別され、蒸し湯である。「風呂」は、古代の史料にも見られ、奈良時代の『法隆寺資材帳』にも「温室」などとして登場し、光明皇后の垢すり伝説なども古くからあり、寺院における入湯は蒸し湯、」すなわちサウナ風呂が基本であった。
『一遍上人絵伝』にも筑前国大宰府西山仏西寺に教学の師聖達上人を訪れた際、旅の疲れを癒すために風呂を焚かせて二人で入ったことが書かれている。そこには当時の風呂の構造がわかる絵が描かれている。その絵から見て、釜で沸かした湯を蒸気として温室に送る蒸し風呂であったことが推定できる。鉄輪の蒸し湯は、100度という高温の湯の蒸気を石風呂に送り、そこに人が入り、サウナとして疲れや病を癒やしたのである。
3 鉄輪温泉と蒸し湯の伝統
江戸時代、鉄輪の温泉、蒸し湯は世に知られた存在であり、ここを訪れた人がその記録を数々残している。蒸し湯は、石室の中に温泉の熱気を入れ、身体を温め悪い箇所を治癒するものである。中でも最も古い蒸し湯の記録は、福岡藩に仕えた学者貝原益軒の『豊国紀行』である。
益軒は元禄7年(1694)4月11日から13日の間、別府に滞在した。里屋(亀川)から平田を経て鉄輪に入った益軒は次のように記す。
鉄輪村は別府の北一里余に有。実相寺より猶北なり。熱泉所々に多し。民族これを地獄と称す。温湯の上にかまえたる風呂有、病者是に入て乾浴す。又其辺に湯の川有。滝有。滝の高さ二間半斗。病人これに打たれて浴す。その西の山際所々に、地獄と称する処多し。鬼山と称するは古き穴ありて下り見る。其穴の底、熱湯わく事、其音恰も雷の響きの如し。その西の山際に、海の地獄として池有。熱湯なり。広さは一段斗り、その上の池よりわき出づ。上の池方六間斗。其辺岩の色赤し。岩の間よりわき出づ見る者おそる。先年、里人其夫といさかひて、大いにいかりしが、此熱湯に身をなげるに、頓て身はただれて、その髪斗浮び出。豊後風土記日、速見郡赤湯泉、此湯泉之穴、郡の西北、竃山に有。其周り十五丈許、湯色赤くして泥土有と書り。即此海地獄の事なるべし。
益軒は、鉄輪村の周辺を歩き、地獄の様子を記しているが、「温湯の上にかまえたる風呂有、病者是に入て乾浴す。又其辺に湯の川有。滝有。滝の高さ二間半斗。病人これに打たれて浴す。」の部分は、風呂本の蒸し湯と渋湯の滝湯(打たせ湯)の様子を伝える記事であろう。「温泉山松寿庵由緒書」(明治23年提出寺社復旧願書所収)によれば、松寿寺の山号の「湯滝山」は境内の渋湯の崖に湯の滝があったことから付けられたとあり、寺の信仰と一体をなしながら、蒸し湯と渋の湯が病人の治療の場として江戸時代の前半には知られていたことを示している。
また、文化4年(1807)に書かれた脇蘭室の『�u57016 .海漁談』にも蒸し湯に関する詳しい記述がある。「中にも南鉄輪村には、欝蒸の気を蔵め包み、材を構へて草土を覆ひて窟の如くし、藁を布き枕として、疾痛あるもの偃臥して此気に蒸すに、甚快く験を得こと多しとなり」とあり、南鉄輪すなわち風呂本の蒸し湯が温泉治療の場であったことをよく示している。
江戸時代、日本の風呂は、中世以前の蒸し湯の時代から湯船のある風呂へと変化したといわれる。16世紀の末、貝原益軒の時代すでに乾浴と呼ばれる蒸し風呂は珍しいものになっており、病気治療の方法として温泉とくに蒸し湯が注目され、滝の打たせ湯であった渋の湯とセットになって、病を癒す風呂は、一遍の開いた寺松寿寺の功徳の験としてその信仰を支えたのであろう。
風呂本の蒸し湯の石風呂室内では、石菖が敷き詰められ、その上に石枕を置き、そこに入浴者が横になる。このような蒸し風呂による治療の伝統は、かつて石風呂などとして各地にあったが、温泉の熱気を利用したものは極めてめずらしい。
印南敏秀の『石風呂民俗誌』では、「今のところ石風呂と温泉の場合は、別府の温泉熱を利用した石積構造のムシユ(蒸し湯)だけである。」と述べているように(『別府市誌』第3巻)、もはや、大変貴重な民俗文化財となっている。
4 『鶴見七湯廼記』から鶴見の「湯けむり景観」を読む
『鶴見七湯廼記』は森藩久留島領の幕末の別府温泉景観を知ることができる貴重な史料である。天保元年(1830)に所領巡検に来た藩主久留島通嘉は、川岸温泉場の興廃を嘆き、大庄屋直江雄八郎重枝と庄屋佐藤忠左衛門などに命じて、祓川左岸の照湯の地に浴場・お茶屋・湯滝・築山・庭園などを造営させた。その照湯の姿は『鶴見七湯廼記』の照湯惣図に描かれる。すでに前節で述べた鉄輪温泉は、詳細な記録は残っているが、残念ながらこの時期の絵画史料はない。その意味で、照湯やその周辺の温泉景観は、当時の鉄輪温泉の姿を彷彿させる貴重な景観史料となっている。
照湯図をみると、そこには、蒸し湯が描かれている。石積みの蒸し風呂はかつての鉄輪の蒸し風呂のように出入口は狭く、絵ではそこから客がはい出してくる様子が見られる。その前には、石菖の束が積み上げられているように見える。また、渋の湯の裏の滝湯の跡にはかけ湯の出口があり、仏の功徳を示すために彫られた磨崖の僧形像が湯口の中央に残っているが、照湯三図によれば、鉄輪渋の湯で行われた滝湯がどのようなものあったかが一目瞭然である。
さらに、この惣図の画面の下を見ると、湯けむりの立ち上る今井地獄が描かれている。この地獄には、湯浴みという温泉利用法とは異なる利用法が描かれている。今井地獄の噴気吼には、莚状のものが野菜や芋や卵などと思われるものを女性が温泉の蒸気で茹でる姿が描かれている。また、子供を連れた女性、その下の女性は蒸し物を運んでいるし、薬缶のかかっている地獄もある。現代のいわゆる「地獄蒸し調理法」である。この調理法は、『西遊雑記』にも見られ、鉄輪の地を訪れた作者の古川古松軒は「土人此地に菜をうでて食事をせるなり」と記し、温泉の蒸気で野菜などを茹でている様子が記載されている。
現代のように、湯治宿の裏やその中に地獄蒸しの釜が備えられている姿とは異なるが、別府では、江戸時代から地獄は食事を作る場として、生活空間の中に組み込まれ始めていたのである。
また、蒸気の利用としては、明礬温泉のミョウバンの生産がある。明礬温泉の図の中に棚田状の施設と片庇の小屋が描かれているが、これがミョウバン生産にかかる施設と推定される。
このように、近代以前から、別府は湯気が立ち上る噴気すなわち地獄の世界に象徴される温泉であった。江戸時代から蒸し湯や蒸し物や明礬生産など蒸気の利用が積極的に行われてきたのである。  
第2節 江戸時代の別府温泉
別府の温泉は、『豊後国風土記』や『伊予国風土記逸文』などに見えるように、古くから知られている温泉である。しかし、温泉場(湯治場)として活用されるようになるのは近世以降のことである。それも里人が入湯したり、日常生活での蒸し物に利用したりする程度で、他国からの湯治客がやってくることは少なかった。湯治目的で多くの人々がやってくるようになるのは、文化・文政期(1804〜30)頃からで、その頃から屋内に湯屋を持つ旅籠や木賃宿もでき、次第に温泉場としての体をなすようになる。
ここでは近世以降の別府の温泉の様相を見ていくことにするが、当時の温泉に関する史料は少なく、別府の地を訪れた文人たちの紀行文などが中心となる。今回対象地域となっている鉄輪・明礬を主にまとめるが、隣接する地区についても、随時触れておく。
1 鉄輪地区
まず近世の鉄輪村の支配体制の変遷から見ていく。元和2年(1616)日田藩領、同9年大分郡萩原村(現大分市)に配流された松平忠直(福井藩主、徳川家康の孫、萩原の地で落飾し一伯と号する)領、慶安3年(1650)に幕府領となる。寛文5〜6年(1665〜66)は熊本藩領、天和2年(1682)に日田藩領、貞享3年(1686)に幕府領となる(『大分県地名大辞典』角川書店)。
その後寛政11年(1799)に豊後国大分・速見二郡の幕府領は島原藩預りとなり、慶応3年(1867)に熊本藩預りとなるまでの約70年間、別府の地は島原藩により統治されることになる。役所は高松(現大分市)にあった。
寛政11年の鉄輪村の概要を見てみると、次のようである(入江秀利編『別府温泉史料集成』より)。
北鉄輪村には「出湯六ヶ所湯治人あり」の記載があるが、この頃湯治のために訪れていた人がいたことが窺える。また石風呂は「諸病によし」とある。石風呂すなわち蒸風呂のことで、貝原益軒(1630〜1714、福岡藩の儒者・本草学者)の『豊国紀行』には次のように記されている。元禄7年(1694)来豊時の記録である。
鉄輪村は別府の北一里餘にあり。實相寺山より猶北なり。熱泉所々に多し。民俗是を地獄と稱す。熱湯の上にかまへたる風呂有。病者これに入りて乾浴す。(『日本庶民生活史料集成』第二巻所収)
一、高弐百三拾七石五斗五升五合
 北鉄輪村 / 庄屋 野田ヨリ兼帯 / 組頭 弐人
一、高三百四拾九石三斗七升壱合
 南鉄輪村 / 佐藤 庄屋 四郎左衛門 / 倅 倉八 / 与頭 四人
一 高松へ七り
 出湯六ヶ所 湯治人あり
 石風呂一ヶ所 諸病によし
 地獄五ヶ所 麻・いちび・赤米抔蒸物致候
 観音、薬師庵
 時宗松寿庵
  是ハ除地高外之空地也 藤澤遊行之古跡 湯瀧山松寿寺と申伝候
 石風呂 遊行一遍上人開基と申伝候 所々ヨリ
  湯治人あり 八月廿三日上人之御忌と申薬師
  庵ニ而仏事供養あり
  出湯四ヶ所あり
石風呂の構造や効能について詳述されていないが、明治時代初期に刊行された『豊後国速見郡村誌』には
蒸風呂熱湯ノ上ニ石ヲ畳ミ室ヲ成ス、人痛処ヲ蒸セハ平癒ス、疝積、□□、膝行等ニ効験アリ
とあり、元禄時代もほぼこれと同じであったと思われる。
次に「地獄五ヶ所麻・いちび・赤米抔蒸物致候」とある。地獄とは、貝原益軒の記述にあるように熱泉のことで、現在でも噴気孔などを“地獄”と呼ぶ人が多い。いちび(黄麻)は皮をはぎ、その繊維を撚って七島表の縦糸にしていた。麻にしろ、いちびにしろ共に地獄の噴気で蒸して皮をはぐのである。
赤米は玄米が赤い米ならびにそのような性質を持つ稲の品種の総称で、かつては条件の悪い田で栽培されることが多かった。しかし米の商品化がすすむにつれ、赤米の栽培面積は急速に減少し、現在では祭祀用に栽培される程度である。赤米を地獄で蒸して調理するということは、現在の赤飯のように赤いモチ米(赤米)を蒸して作ることで、いわゆる強飯のことであろう。
南鉄輪村には「時宗松寿庵」が記されている。現在の温泉山永福寺のことで、県内で唯一の時宗寺院である。宗祖一遍上人の開基伝説を持つ寺で、近世には何度か遊行上人も立ち寄っている。
近世に豊後国へ回国してきた遊行上人は9人いるが、そのうちで松寿庵に立ち寄ったのは50世快存(享保18年(1733)3月)と57世一念(嘉永7年(1854)閏7月)の2人だけである。豊後回国の遊行上人は、日向国から梓峠(佐伯市宇目町)を超えて豊後に入り、三重経由で竹田に行き、再び三重を経て野津市から臼杵に出るコースをとるのが通常で、臼杵からは船で宇和島(愛媛県)に渡っている。
快存もこのコースを取る予定だったが、前年の秋に西日本一帯を襲った蝗害による大凶作のため、臼杵藩は遊行上人一行の接待ができないとして来藩を断っている。そこで予定を変更し、三重から山奥村(大分市)を通って府内・別府・宇佐・中津経由で小倉に至るコースをとったのである。遊行上人の一行がこのコースをとったのは初めてであったためか、府内藩では臼杵藩へ接待の様子などを問い合わせている。別府(鉄輪)での様子は『遊行日鑑』(時宗総本山清浄光寺蔵の江戸期における遊行回国時の日記)の享保18年3月9日の項に次のように記されている。
九日晴天
府内御立六ツ半、府内より五里別府御昼休、御代官所増田太兵殿御支配、御本陣大庄屋此処近郷之庄屋共打寄御昼食上ル、右之庄屋共御名号被下、此所より見嶺権現へ一り(里)御参詣、参銭五百文、此処ニ一遍上人御開基温泉有リ、一遍上人御影堂へ御参詣、御散銭五百文上ル(中略)御泊頭成御着暮六ツ(後略)
府内を午前7時頃出立し、別府に着き大庄屋宅で昼食をとっている。ここに近郷の庄屋たちも集まっている。彼等に御名号を下付している。「南無阿弥陀佛」の六字名号で、南無阿弥陀仏を唱えた人に渡すのが賦算、その札(念仏札)には六字名号の下に「決定往生六十万人」とある。
『遊行日鑑』の記述には松寿庵の文字は無いが、一遍開基の温泉とか一遍上人御影堂の記載がある。この温泉が現在の石風呂を指すと思われる。この日は頭成に午後6時頃に着く。「御本陣一向宗覚照寺」とある。現日出町豊岡の覚照寺でここに宿泊したのである。
別府に立寄ったもう1人の一念は、豊前から豊後へやって来ている。嘉永7年閏7月18日に杵築から来て松寿庵に泊っている。そのため松寿庵の手入れ、修理に多大な出費を要している。一念は別府から府内・竹田へ向う予定であったが、「異国船渡来、諸侯方繁雑之折柄なれば、廻国可見合之旨従公儀御沙汰」があり、幕府の達により回国を中止して日出から船で上京している。ペリーの黒船来航の混乱である。
さて、松寿庵であるが、同庵(松寿寺)の由緒書によると宝暦年間(1751〜64)に清浄光寺末になったとあるが、延享5年(1748)2月9日付で南鉄輪村百姓代助左衛門名で願いが出されている。助左衛門の願いの中で、末寺にしてもらいたい理由を2点あげている。1つは、松寿庵は無檀地で定まった住職が居ない。そのため、その時その時に庵に住みついた僧の宗派の寺になってしまうということである。松寿庵のように無檀地のため経済的基盤の弱い寺は、そこに代々定まった住職が居ないということは仕方のないことであったのかもしれない。
次に今1つの理由として、石風呂(蒸風呂)の利権に関する問題がある。願いによると、石風呂は古来湯治客も多く、24文の入湯料を徴収して湯屋ならびに松寿庵の修覆料としていたが、石風呂の利権が私有のものになる恐れが出てきた。これも松寿庵に定まった本寺が無いからであるという理由である。この願いについては、清浄光寺蔵の「藤沢道場近侍者書簡扣」(高野修編『時宗近世史料集』第一所収)の宝暦3年(1753)2月の項に次のようにある。
九州豊後国速見郡南鉄輪村百性助左衛門と申者、去ル辰年当山江願来候趣、別願書写差遣申候間、御覧可被下候、(以下略)
辰年は、延享5年(1748)である。さらにこの史料には「鶴見ハ元祖二祖御法縁之□旧跡」とも記され、松寿庵は一遍、二世真教ゆかりの地であることが広く知られていたことが窺える。さらに清浄光寺で住職の候補者として考えていた諄盈宛の書簡には次のようにある。
(前略)去ル辰之年豊後国速見郡南鉄輪村助左衛門と申仁当山江願来候者、同村之内湯滝山松寿寺者元祖上人御修行之節御開基之石風呂ニ候得共、指定候住持茂無之ニ付、当座ニ□居住之僧之料簡、又者他村より公儀運上相願申候風説茂在之、気之毒ニ御座候間、当山御末寺ニ被御付候而従持被遣被下候様ニ申来候得共(以下略)
石風呂の利権のことなどを記し、これも無住であるからだと述べている。そして
鶴見湯滝山ハ二祖上人元祖上人之御弟子ニ御結縁之□旧跡、住職於建立誠ニ宗門江之忠勤ニ御座候間、御越被成間敷候歟(以下略)
松寿庵は由緒深い寺であり、住職を定めるということは宗門のためでもある、どうかお越し願えないだろうか、という意味である。結局諄盈は来住することになる。
石風呂の管理については、文政10年(1827)の「申極書」によれば、それまで24文であった入湯料を、宝暦9年(1759)に京都の御院代よりの申し入れで、松寿庵を存続させるために同年7月より入湯料は36文にして24文を石風呂の修復料に積み立て、12文を燈明料として松寿庵側へ差し出すようになったとある。
その後、明和6年(1769)に村入用金の一部に当てていた修復料を松寿庵方が取り上げたことから、村方と松寿庵方が争いになり松寿庵は高松役所に願書を差出している。代官所の調停で、石風呂の一切を松寿庵へ引き渡す、燈明料の12文は据え置き、24文は3等分して8文を修復料、8文を村方入用、8文を取立人の世話料(松寿庵)とし、以後公正を期すために、取立帳面に基づいて月毎に配分することとした(入江秀俊編『江戸時代の別府温泉史料集成』より)。その他、出家・沙門・極貧の者は無料にすること、松寿庵の境内の噴気でイチビを蒸すことも差し支えない事なども取り決めている。
この件については、清浄光寺文書「遊行修領軒記録明和六年」(高野修編『時宗近世史料集』第一所収)に「豊後国速見郡南鉄輪村松寿庵一件」として次のように出ている。
(前略)今度御支配所速見郡南鉄輪村松寿庵境内宗祖古跡石風呂之儀ニ付、当春右村百姓中与及出入松寿庵より高松御役所江願書差出し候處、御聞届有之、早速百姓中御吟味被下候処、百姓中得心之上、松寿庵願之通被仰付、境内方指証文之通御見分之上絵図被仰付、行末異論無之様ニ御取斗被成下候段(以下略)
この後に、松寿庵は御国(豊後)の時宗寺院は一か寺なので、宗祖(一遍)古跡が相続できるようよろしく御願いするという意の記述がある。宛先は、楢原伴助であるが同内容のものが、大塚仲右衛門・清畠藤右衛門・中村彦八郎宛、小浦村脇儀助宛、亀川村高橋与兵衛宛、南鉄輪村佐藤四郎左衛門宛にも出されている。また善右衛門・伊兵衛・助左衛門の3名連名宛のものには「諄盈も年を取ったので住持の交代も考えている」ということも記されている。
この後、明治4年(1871)11月23日に松寿庵12代専秀和尚が死去すると、後継の住職が決定しなかったため、新政府の「無住無檀寺院廃止」の取り決めにより廃寺となってしまう。石風呂は村での管理となる。明治新政府の政策の1つに神仏分離政策がある。松寿庵も影響があった。次の記録は、南鉄輪村の庄屋日記に記載されている(入江秀利編『明治維新史料』下「南鉄輪村」所収、ただし同書では明治元年正月七日の項に所収されているが、後日の記述からみて、明治3年のことと思われる)。
遊行派寺内熊野権現社之事此度御一新ニ付、神仏混淆御停止被仰出候間、以来社造リ相止メ堂造ニ致し證誠大菩薩と可申旨、遊行本山より申来るニ付、今日某右社ニ参り證誠大菩薩とあらは此度造る新堂ニ可被移告文読也、今日右社ハ取除ケ温泉之御神之社ニ可致手都合ニ致し、石工三人共温泉神社御社礎致也
時宗と熊野権現が深いかかわりを持ったのは宗祖一遍の時代からである。すなわち一遍は熊野本宮證誠殿で、念仏賦算の神示を受け、この時を時宗の開宗の時としているのである。松寿庵の熊野権現社を堂造りに改め、證誠大菩薩と改称するのであるが、熊野本宮證誠殿の本地仏は阿弥陀如来なので、松寿庵の熊野権現社の御神体も阿弥陀如来像であったのであろう。新堂が造られた跡は温泉神社となるということである。前述の記述の翌日(明治5年正月8日)には次のように記されている。
旧熊野権現社今瀧の上ニ移也、(中略)鳥居も移建也、右社移候ニ付瀧ニ而清め温泉大神を鎮座(後略)
この後、例年7月25、26日に温泉神社の祭礼とし、南北鉄輪村ともに「村中休日」となる。庄屋日記には「温泉之祭」「温泉祭」との記載がある。
これまで松寿庵(永福寺)を中心に記したが、南鉄輪村の庄屋記録に鉄輪温泉の様相を記した箇所があるので次に記しておく。慶応3年(1867)10月の郡奉行の廻在見分記録である。
豊後国御預所村々一躰廻在仕見聞之趣左之通御座候
(前略)速見郡三十六ヶ村之儀者、湯布山之裾辺南北之村立有之候処、山付在者、人質至而素朴有之候得共、別府・浜脇両村ハ旅船日夜ニ出入之湊ニ而商家多有之、湯所茂数ヶ所ニ有之、悪者入込、或ハ盗賊之巣抔唱候所柄御座候処、(以下略)
別府・浜脇両村は、海岸の港に近く旅船により他国から出入りの人も多い。商家も多く、「湯所」も数か所ある。そのためか「悪者が入り込み、盗賊の巣などと言われる場所であった。」と酷評されている。
次に慶応4年(1868)3月付で、別府・浜脇・田野口の三村から出された「晴天廿日歌舞伎芝居興行願」がある。それを見ると(概略を要約)、
別府・浜脇・田野口三ヶ村は田地の割合より人口が多い。町並居住者は温泉場なので、春秋(農閑期)多く入り込む湯治客を相手とする入湯宿屋で生計を立てている。また湯治人相手に小商いをする者や走り使いをする者も多い。さらに田地は山がちで、人の肥し(人糞)を利用しなければ作物(米)の出来がよくない。そこで多くの入湯客を呼び込むために毎年芝居興行をしてきた。ところがここ数年、世間不穏のためか入湯客が減少し芝居も中止されている。そこで芝居を再開したい。幸い近国の芸者(芝居の役者)たちも、入湯かたがた自炊をして興行したいと申し出ている。芝居が再開されると、近国からの入湯客も増え、住民の生活も楽になるに相違ない。
これに対して代官犬塚孫一郎も、郡代宛に願を出している。それには次のように入湯客の数字まであげている
が、実数であるかは確証は無い。
(前略)幸温泉有之、殊ニ海浜舟着之便利茂宜敷御座候而、春秋自他之入湯夥敷、一年中積り立候得者、凡拾万人ニ茂およひ候程之群集ニ而、右三村之者共都而其蔭を以渡世仕来(中略)当年ニ至候而者、正月以来之大変ニ而人気茂居合兼、入湯人茂例年ニ比候得者、三ヶ一も無御座、唯今分ニ而ハ所柄渡世之基を失候訳ニ而(後略)
船着が便利な場所なので、春秋の入湯客は多く、1年間で約10万人にものぼる。村民はこれらの人々のお蔭で渡世している。ところが今年(慶応4年(1868))は、正月以来の大変(前年の慶応3年12月の王政復古に始まり、正月に起こった鳥羽伏見の戦い、維新政府の成立等々)で、例年の3分の1の入湯客しかいない。このままでは住民たちの生活も成り立たない。として、人寄せのための芝居興行を許可したいがよろしく頼むということである。
次の史料は、慶応3年の南鉄輪村に関する記述である。これにははっきりと温泉や入湯客のことは記していないが、人々の生活の一端が窺える。
一、当村諸職人商人共呼出し、右取調公儀へ御達書認也、然所当村之儀者猪口酒売餘リ多人数ニ付、右者一切不書出候様致也
役所に提出するため、村内の職人・商人を呼び出し調べたところ「猪口酒売」をする者が多くいた。そこでこれらの者たちは一切書き出さないことにした、という内容である。
ここにいう「猪口酒売」とはどういう職業なのであろうか。もし店構えをして酒を供するのであれば、当然食べ物も準備することになる。となれば、これを一切書き出さない(公儀に届け出さない)ということは出来ないはずである。ここでいう「猪口」とは、現在でいう盃のことである。江戸時代後期の書物によると、次のように記されている。陶磁器製で、尾張(愛知県)で焼いていた。そして「薄キコト紙ノ如ク、口径二寸許、深サ八分バカリ也」とある。大きさは径6〜7p、深さ2〜3pである。ただし鉄輪あたりで使用していたものは、わざわざ尾張あたりで製したものではなく、近郊で作ったものを使用していたのであろう。この猪口で酒を売る(飲ませる)というが、人が集まる所に酒を持参して売るという程度のものであったと考えられる。そういう人たちが“多数”いたということは、鉄輪には湯治客だけでなく、人が多く集まる所だったということである。庄屋日記から湯治以外に人が集まったと思われる例をあげてみると、次のような記載がある。まず祭礼であるが、以下のようなものが記されている。
明礬大祭・稲荷祭・天満宮春祭・五穀成就祭・日乞願成就御祭・金毘羅祭・風祭・弁天祭・天満宮夏祭・牛馬祭・温泉神社祭・地蔵祭・稲荷社秋初午祭・作祭・天満宮大祭・神明宮御祭等々。
ここにあげた以外に小祭は多い。そしてほとんどの祭日は「村中休日」とある。さらに神楽の奉納や相撲の興行、にわか俄芝居の興行などもあり大変ににぎわった様子が伺える。酒も大いに飲まれていたらしい。ほとんどの祭礼には、村役人・神主へ酒を出したとの記述で終っているが、明治2年(1869)6月16日の風祭の記述には次のようにある。
当村風祭村中休日(略)村中ハ男不残於天満宮冷酒披露致也
村役人のみならず、村中の男たちには冷酒が出されている。さらに6月24日の項に、明治3年時の風祭の記述があるが、その中に庄屋佐藤邨彦の子供の頃までは、とことわって
風祭ハ男女不残、村方日雇稼抔ニ参リ居リ候もの迄も、酒為呑候(略)
と記している。昔は男のみならず女性にも酒が出されていたのである。さらに日雇いで他村から来ていた者にも酒を出していたというのである。また明治5年(1872)10月18日の天満宮の祭礼の記述には、南北両村(南鉄輪村・北鉄輪村)の者は男女を問わず酒が振まわれたと記し、「但酒ハ新平方ニテ燗ヲ致し樽ニ入持行」肴は「手前肴相携候事」とある。
「猪口酒売」もこのような状態であったので、わざわざ届け出さなかったのであろう。
また人が集まるのは何も祭礼だけではなかった。松寿庵の石風呂にも近在の村々から人々がやって来ていた。特に松寿庵境内の温気の立つ所には、七島藺やイチビを蒸すために荷を馬の背にのせ多くの人がやって来ていた。そういう人たちも「猪口酒売」の対象になったのであろう。
以上鉄輪地区の温泉の様子について、南鉄輪村の庄屋日記をもとに記したが、松寿庵(現永福寺)の石風呂が大きな比重を占めていることがわかる。その他のことについては、他国からやってきた人たちの紀行文などで見ていくことにする(後述)。
2 明礬地区
弘化2年(1845)、森藩主久留島通嘉が別府鶴見村の照湯に温泉場を設ける。その際鶴見村大庄屋伊島重枝(直江雄八郎)に、村内の七湯の由来と名所旧跡・特産物をまとめさせた記録に『鶴見七湯廼記』がある。挿絵は江川吉貞で、この時期における温泉の様子や人々の暮らしを知る上で最良の史料である。
その第四番目の湯として「明礬山の湯」が出ている。
明礬山の湯はその味ひ甚渋し、よく諸瘡を治す、礬気強ゆゑに、至て物をしむるの気有、ひとたびよく浴しぬれば、忽に手の指など小皺よりて、常にこと也、依て小瘡を病るものゝたぐひ、遠近より求きたりて此湯に浴することなり、毒の深きは初め七日入浴する中に、躰内の毒みな外へ出ることあり、驚くべからず、かくて又七日入浴するうちには、ことごとく治するのかたちをなす、又七日入ときは、みな清快して家にかへるもの多し、その効験誠に奇也というべき也、
この温泉の味は、大変に渋いがよく諸瘡(皮膚病のこと)を治すとある。そのため遠近から人がやってきて入湯する。また皮膚病の重い人は、最初7日間入湯すると体内の毒が体外に出てしまう。さらに7日、又7日と入ると完治して多くの人は帰宅できる、ということである。このように皮膚病治療の入湯客で賑わっていたのである。
次に第五として登備の尾の湯を紹介している。
とびの尾の湯は明礬山に有、此ものを製作する地場と云畑の西なる岡にあり、凡明礬湯に同物也、この温泉はいささか
硫気至て強く、湯井のあたり石間には、みな硫気凝付たり、礬湯よりも酸きかた強くして、聊も口中などには入れがたし、諸瘡を癒すことはまことに神のごとし、
同じく明礬山にあるこの温泉は、明礬山の湯と同じである。しかしこちらの温泉は硫黄分が強く、いささかの間も口に含むことができない程である。しかし皮膚病を治療することは、まさに神の手によるごとしである、ということを記している。
ところで、“登備の尾”とは変わった名である。このいわれは、昔この地の百姓が、傷ついた1羽の鳶が凹地にたまった泥に足を浸しているうちに、元気になって飛び立ったのを見てそこを掘ってみると温泉が湧き出たという伝承で語られている。これを鳶の湯と名付けたというのである。『鶴見七湯廼記』には記されていないが、県南から宮崎県北部にかけて分布する御霊神(非業の死などで祟りをなす死者の霊)に富尾神がある。大永6年(1526)に、大友氏20代大友義鑑に対して乱を起こし敗死した佐伯惟治の怨霊を鎮めるために神として祀ったものといわれている。惟治の霊は鳶になって飛び去ったという伝承もあり、鳶野神の文字をあてるところもある。登備の尾の湯の名称も、御霊信仰と関係あるのかもしれないが、詳細は不明である。
明礬の湯を含めて、鶴見村の七湯は玖珠郡森藩主久留島公が利用する照湯(御前湯とかお茶屋の湯などとも呼ばれている)以外は、鄙びた温泉で、旅人も時々訪れる程度で、主に村人が野良仕事の疲れを癒すのに利用していたという。明礬ではないが、立石村(別府市南立石)の温泉の利用の様子を記した記録があるので、次にあげておく。享保6年(1721)の「村鑑」(村の概要を書き上げた帳簿)の記録である。
一、出湯三ヶ所
    内
   壱ヶ所
    是ハ疾瘡ニ相応之湯ニ而御座候ニ付、別府浜脇辺所より参候湯治人之内、疾瘡など有之もの日帰りニ此湯ニ参申候故、湯銭と申儀無御座候
   弐ヶ所
    是ハ村中之もの入申湯ニ而、何之病気ニ茂きゝ不申候故、湯治人罷越不申候
三ヶ所の温泉の名は出ていないが、堀田・観海寺・鳥の湯(板地)を指すと考えられる。壱ヶ所としてくわしく記されているのは堀田温泉のことであろう(ほぼ同時期の他の史料には「堀田湯ハひせん・かさすへててき物ニ相応仕候」とある)。
湯治人はほとんどが日帰りとあるので、泊りがけで来る人は無かったようである。別府村や浜脇村あたりの人たちなので十分日帰りのできる距離である。他の二か所は、村中の人だけが利用しており、病気には効能が無いのでわざわざ湯治に来る人はいなかったようである。前述のように、村人が野良仕事の疲れを癒すのに利用していたのであろう。
これが幕末(慶応4年(1868))の記録(「豊後国速見郡立石村高反別銘細帳」)によると、
一、出温泉場但堀田、観海寺、板地三ヶ所是者春秋湯治人御座候
とあるので、この頃になると春秋の農閑期には近郊の村から湯治客が来ていたようである。これが明治も終わり頃になると、観海寺温泉には旅館が10数件あったという。ただし「旅籠専業は一軒もなく、大概は木賃である(『豊後温泉誌』)」で、木賃(持参した米を炊く薪代)を払って泊まる宿屋だけだったようであるが、木賃宿については、『別府温泉誌』(佐藤蔵太郎明治42年刊)にくわしく紹介している。それによると、宿屋よりは蒲団・飯・味噌汁・漬物・木炭・石油・湯茶などを供する。その他の副食物は皆宿泊者が購入する、自炊も勝手である、などとある。そして数日間滞在しても「その費用は極めて少額の金にて病を療治するを得らるることなり。」と記している。これは明治期のことであるが、湯治客の宿泊が増すようになった幕末から明治にかけて、このような木賃宿が増加していったのであろう。
3 紀行文に記された別府の温泉
別府の温泉は、古くから知られていたが、利用者は里人や近郊の村々の農民たちがほとんどであった。中には別府村・浜脇村のように、海岸に近く船の寄り付きやすい所には他国からの湯治客が多かった所もあった。ここでは、別府の地を訪れた文人たちが残した紀行文などから、近世の別府の地の温泉の様子を紹介しておく。これについては既刊の『別府市誌』や入江秀利編『江戸時代の別府温泉史料集成』(平成7年4月刊)にくわしく紹介されている。例えば、『別府温泉史料集成』には「木下延俊慶長十八年日次記」(慶長年間)・「豊国紀行」(貝原益軒元禄年間)・「西遊雑記」(古河古松軒天明年間)・「�u57016 .海漁談」(脇蘭室文化年間)・「瀧のやどり」(脇蘭室文化年間)・「九州測量日記」(伊能忠敬文化年間)・「黄築紀行」(田能村竹田文政年間)・「高千穂採薬記」(賀来飛霞天保年間)・「懐舊楼筆記」(広瀬淡窓天保年間)・「温泉めぐり」(蝶亭起友弘化年間)・「諸国廻歴目録」(牟田文之助安政年間)・「世外井上公傳」(慶応年間)の12編が紹介されている。さらに同書の「温泉の部」で『豊後国志』や『太宰管内志』の関係箇所を引用紹介している。
ここでは当時の温泉の様子が比較的くわしく記載されている『豊国紀行』と『西遊雑記』について触れる。両書とも『日本庶民生活史料集成』第二巻「探検・紀行・地誌西国篇」(三一書房刊)にも所収されている。また同書に所収されている「日本九峰修行日記」(野田成亮(泉光院)文化9年〜文政元年)にも、短いながら別府に立寄った際の記述があるので記しておく。そのほか、『近世紀行文集成』第二巻九州篇(板坂耀子編葦書房2002年刊)に所収されている「菅の下葉」(作者不詳文政年間)にも「別府温泉」の記載があるので記しておく。今後個人の旅日記などで近世の別府の温泉の様子を記したものが出てくる可能性も高いので、別府の温泉の様相はよりはっきりとしてくるであろう。
1 『豊国紀行』貝原益軒
貝原益軒(寛永7年(1630)〜正徳4年(1714))は福岡藩の儒者(朱子学)で、元禄7年(1694)4月朔日に出発し、20日に帰着する日程で豊前・豊後各地を遍歴している。それをまとめたのが『豊国紀行』で、現在の大分県域では、下毛・宇佐を経て豊後に入り、豊後高田・杵築・日出のコースをとり、鉄輪・別府・浜脇を通り府内に至っている。
11日に木付から日出を通り鉄輪に着く。鉄輪の手前の里屋には「温泉有り、塩湯なり、里屋村を又亀川村とも云」とある。
鉄輪村は別府の北一里余にあり、(中略)湯の川有、瀧あり、瀧の高さ二間半ばかり、病人是にうたれ浴す、其西の山ぎは所々に地獄と称する処多し、(略、血の池地獄、坊主地獄等の記述あり)鶴見嶽の下、別府・立石・鶴見・鉄輪・里屋などには、温泉・熱湯所々に多し、まだ温泉のわき出る所なお多けれども、今迄ある所の湯処多ければ無用なりとて、湯つぼをうがたず(後略)
ここに記されている瀧湯は、松寿庵(現永福寺)境内にあったといわれている。まだまだ温泉の沸き出ている所は多いが、今ある所だけで十分というのか、開発されていないようである。里人、近郊の農民たちが主として利用するだけであったのであろう。別府村の記述もくわしい。
別府は石垣村の南にあり、町あり、民家百軒ばかり、民家の宅中に温泉十所あり、いずれもきよし、庄屋の宅中にあるはことにいさぎよし、凡此地の温泉は、他邦にまさりてきよく和なり、家々に多きゆへ、其館に屋どれる客の、外に浴する者なし、ゆへに浴数も時節(刻)も客の心にまかせて自由也、(略)かたわらにかけ樋の水ありて、温熱心にまかせて増減しやすし、薬師堂のほとりにある温泉のかたはらに熱湯あり、其上に乾浴する風呂あり、是又きよし(後略)
別府には多くの民家が立ちならび、内湯がある。宿泊する者はこれを利用するので外の湯に行くものはないし、いつでも自由に入浴できる。薬師堂の近くには蒸湯もある、と記しさらに「海中にも温泉いづ、潮干ぬれば浴するもの多し、塩湯なればことによく病を治すと云」ともある。
益軒は府内からの帰途も別府に立ち寄っている。
十六日朝、別府をいで、鶴見原をすぎ、犬の馬場を通り、先鉄輪村にいたり、温泉風呂・湯の瀧・鬼山じごく・海じごく・円内坊ガ地獄など所々を見て、北の山をこゆ、
江戸時代前期の別府の温泉の様子を垣間見ることのできる記述である。
2 『西遊雑記』古河古松軒
古河古松軒(享保11年(1726)〜文化4年(1807))は備中国岡田藩(岡山県)の人、地理学者。天明3年(1783)3月下旬に出立、下関を経て南下し、豊前・豊後・日向・薩摩に至り、それから北上して長崎・天草を経て9月2日下関に帰着、約半年間の旅でその間の見聞をまとめたのが本書である。中には所々に簡単なスケッチとその解説も入れている。風俗などもくわしく記しているが、「豊後の国は豊前よりも大国と云得共、風土は劣りて宜しからず、在中に入りては豪家と思しき百姓一家もなく、白壁なる土蔵などは遠見せし事もなし、」など辛辣な記述もある。「五月十七日、やうやう別府に来りし事なり、」と、5月17日には別府に着いている。
(鶴見ガ嶽は云々)麓にかんなわ村といふ有り、此所に地獄と称せる所数多にて、紺屋の地獄といふは湯わく所藍色なり、油やの地獄・酒屋の地ごく、いろいろさまざまの地獄と名づけし池有りて、血の地獄といふは湯のいろ赤し、中にも池の地獄と称せるは、広々とせし池のうち鼎にて湯をわかす如く(中略)土人此池に菜葉をうでて食事をせるなり、(略)すべて硫黄地にて臭気鼻を突事なりし、別府といふ町に出る、ながながしき在町にて家毎に湯有り、此温泉は熱からずぬるからず、痔・腫物に功有りとて、入湯の者も来る処なり(中略)是までの宿々にては、水に硫黄の臭気ありて飯にも汁にも硫黄の匂ひうつりて甚屈せし事なり、
ここに記されている紺屋の地獄・油やの地獄・酒屋の地獄は現在のどこを指すのか不明である。血の地獄は血の池地獄のことである。古松軒は鉄輪村に来る道すがら「所々に温泉有りて、田の中、溝の中にも湯の湧所ありて湯気の立つ地多し」と記しているが、これは現在でも市内各所で見られる光景である。
3 「日本九峰修行日記」野田成亮(泉光院)
野田成亮(泉光院)(宝暦6年(1756)〜天保6年(1835))は、日向佐土原(宮崎県)の人。修験者(回国行者)。文化9年(1812)9月3日に出立し、文政元年(1818)11月6日に帰着する6年2か月の間、全国各地の名山霊蹟を巡拝している。その記録が本書である。豊後には文政元年の9月25日、八幡浜(愛媛県)から船で佐賀関に着いている。そこから府内を通り、10月6日石垣村の七左衛門宅に宿し、近辺を托鉢してまわっている。ここに荷物をあずけ国東半島の方へ向かっている。15日には再び石垣村に帰り七左衛門宅に宿泊。翌16日に石垣村を立ち別府村に行く。ここで、それまで一緒に巡拝していた平四郎の兄の居る家をたずねる。
折節喜太郎(平四郎兄)居合せ滞留せよと留むるに付、滞留し入湯す、種々彼の方より馳走あり、因りて一句、前あり略す、
時雨気も無くて睦まし湯の加減
翌日別府から船で府内まで行き、臼杵、高鍋などを通り11月6日に無事帰着している。
4 「菅の下葉」作者不詳(『近世紀行文集成第二巻九州篇』所収板坂耀子編)
文政10年(1827)閏6月7日に江戸を出立、陸路で山陰地方を行き、下関から船で小倉に上陸、25日に中津、26日に宇佐、27日に別府に行くという行程である。別府に着くと、
当宿(別府村)武田屋と云湯宿に入て宿す、当所何方よりも温泉涌出す、少し明礬の気あり、内湯所持の者五六軒有、当所には惣湯(共同浴場)と云ものなし、皆内湯なり、内湯、四方木槽にして底小石也、此間より湧也、(中略)別府宿家数五六百有、浜脇と云は、別府と続村にして四五町隔り府内の方に寄、爰にも湯有、汐湯にして海の入江より湧く、江の中に小屋十数軒斗りしつらへたり、汐ひれば、皆入て浴す、満れば海と一面に成る、依て入事不能誠に不思議の浴場なり、(以下略)
以下には、癪(胸部・腹部に起る激痛の通俗的総称)や疝気(下腹部内臓が病む病気)、骨病に効能がある、湯宿は数十軒、別府の湯は諸病によいという、熱湯でなくほどよい湯である、ただ惜しいことに、辺地であるためよく知られていない、などの記載がある。ここは少し長い引用になったが、当時の別府の温泉の様子をよく記している。
史料の少ない近世の別府の温泉も、このように紀行文などを丹念に読んでいけば、その様相を知ることができるのである。  
第3節 近現代の別府温泉
1 近現代の概要
いわゆる明治維新の制度改革のひとつである府藩県三治制により、江戸時代から続いてきた鶴見原中村と鶴見北中村はそのまま森藩領となり、天領であり肥後藩預け地となっていた北鉄輪村と南鉄輪村は新しく誕生した日田県に編入されることとなった。
原中村の中心は角山の北、現在の馬場あたりで、南は境川まで伸びる広大な地域である。
北中村は現在も通称名で残されており、原中村よりも北に位置し、平田川を境に南鉄輪村と接していた。
南鉄輪村は、現在の鉄輪温泉街を中心とした地域で、北鉄輪村はその北の高台になった位置にあった村で、現在も通称名で残されている。
明治4年(1871)、廃藩置県により前述の4村は新しく誕生した大分県の属することとなった。翌5年の大区小区制の編成にあたっては、大分県第2大区(速見郡)第14小区に属することとなった。同区は南石垣・中石垣・北石垣・南鉄輪・北鉄輪・野田・原中・北中の8村で形成されていた。このときいずれも江戸時代に大庄屋を勤めた直江和田吉(鶴見原中)、佐藤邨彦(南鉄輪)、矢田直作(南石垣)が副戸長に任命されている。
さらに明治8年の大区小区制の改編では、原中村と北中村が合併し鶴見村、北鉄輪村と南鉄輪村が合併し鉄輪村となった。第14小区の区長は矢田直策、戸長に吉冨都吉と吉冨又五郎、副戸長に吉冨五藤二と矢田傭平と、いずれも石垣村出身者が任命され、鶴見村、鉄輪村からは任命されていない。小区の用務所は南石垣千疋に置かれたことから、当時の勢力はなぜか石垣地区にあったと思われる。
同11年の郡区町村編成法により、大区小区制が廃止され、第2大区は旧来の速見郡と名称変更したが、各町村はそのまま行政区画として独立した。鶴見村と鉄輪村の2村は鉄輪村に戸長役場を設置し、戸長用係が事務にあたった。村は1〜2村で1か所の役場を設置することとなっていたため、商業の発展している鉄輪村に設置したのであろう。
明治21年に公布され翌年に実施された市制・町村制により鶴見村と鉄輪村が合併し新たに朝日村が誕生した。これにより近世から続いた4村がひとつの行政村となり、近代化への道を進むこととなる。
別府市域では同様に旧来からの25村が別府・浜脇・石垣・朝日・御越の5村に集約されたのである。いわゆる別府5村の誕生である。
このときに大字・小字ができ、旧鶴見村は大字鶴見、旧鉄輪村は大字鉄輪となり現在に至っているので、大まかな範囲は現在でも把握することができる。
その後、旧鶴見地域ではいくつかの地獄などはあったものの、観光地として特筆すべき発展は見られない。対して旧鉄輪村では、後述するように地獄めぐりを中心として大いなる発展が見られる。
鶴見地区の温泉湧出量は別府市域でも有数で、鉄輪地区のそれを凌駕する。しかし温泉地帯あるいは地獄地帯として発展しなかったのは、後年の別府八湯に位置づけられなかったことが大きい。しかし逆に住宅地、温泉療養地として独自の発展を遂げることとなる。
別府市の近現代の様相として観光をなくしては何も語れない。したがってその中心的役割を担ってきた鉄輪地区の地獄めぐりを主とする観光の発展を記すこととなるのは致し方ない。
昭和10年9月4日、大いなる観光で発展してきた朝日村は、村制を廃し別府市に編入(合併)することとなる。このとき亀川町と石垣村も同じく別府市に編入され、現在の別府市域がほぼ出来上がることとなった。
2 明治初期の鉄輪・鶴見
人口と産業
明治12年頃の鶴見村の戸数は278戸、人口は男658人、女614人の計1,272人で、2戸8人の士族を除いて、すべて農業に従事していた。
主な物産は、米943石、麦608石、七島莚1,233束、生姜30石などでいずれも質美であった。
同じく鉄輪村は、戸数139戸、男247人、女289人、計536人で、農業130戸、商業3戸、逆旅34戸であった。
主な物産は米550石、麦347石、生姜25石、櫨の実8,500斤、七島莚705束、明礬25,000斤、硫黄13,000斤などで、これもいずれも質美とされていた。
朝日村誕生後の人口は、
   明治22年 2,028人
     26年 2,038人
     31年 2,148人
     36年 2,213人
     41年 2,357人
   大正 2年 2,602人
と推移し、35年間で約4割あまり人口が増加しているが、別府町の増加(5,621人から22,022人へ約4倍)に比較すると微々たるものである。別府町の急速な発展に比べ、鶴見・鉄輪村はまだ農業を中心とした地域だったのである。
温泉と地獄
明治のはじめのころの鉄輪村には、蓼原湯、渋ノ湯、浮湯、蒸風呂、熱湯、赤湯地獄、地獄原の7か所の温泉が記されている。
蓼原湯は現在の鉄輪東大石公園西側にあった温泉で浴場は1か所、硫気が混ざっているが飲用が可能とされている。
渋の湯は海地獄から引湯しており飲用はできない。
浮湯は現在の熱の湯で、豊後国風土記に記される慍湯井のことを指していると、南鉄輪村庄屋佐藤邨彦の執筆として紹介されている。
蒸風呂は言うまでもなく現在の蒸し湯のことである。
熱湯は現在の熱の湯ではなく、地元では通称海地獄と呼ばれていたというように、海地獄の泉源あるいは熱池のことと思われる。
また、赤湯地獄は血の池地獄のことである。現在は大字野田に所在するが、郡村誌では野田村との境界にあると記されている。
地獄原はかつては鉄輪温泉の総称といわれていたが、現在の十万地獄付近を指すと思われる。
3 宿泊施設の変遷
鉄輪村のこういった温泉場の近くには逆旅が34軒あり、年間おおよそ三千人の浴客が湯治に訪れていた。
1軒あたりにすると、平均して年間100人に満たないが、そのほとんどが長期滞在の湯治客であったと思われる。宿側もおそらく半農半営であったのでこの程度の入湯客でも十分採算が取れていたのではないだろうか。
明治期の鉄輪、鶴見の宿に関する十分な史料は見当たらないが、別府地区の発展と同じようだとすると、34軒の逆旅は近世から続く宿で、明治中期から観光客の増大によりその宿も増えていったと推察される。
明治から昭和初期の宿の形態は次の4つに分類できる。
1旅籠1泊2食を基本とする一流旅館。設備、衛生面などが充実していた。
2木賃室料のみを支払い、その他寝具、食料などは実費で購入するシステム。現在の貸間旅館に近い制度。
3入浴賄旅籠と木賃の中間的な制度。1泊3食寝具1組付きで、その他必要なものは実費で購入する。
4その他、離れ座敷で諸家具付、間代だけを支払う「貸間」や旅籠に西洋的な設備を導入したホテルなどがあった。
大正10年頃の鉄輪、鶴見(明礬)の主な旅館は次のとおりである。
萬屋、筑後屋、本家冨士屋、冨士屋別館、大平家、温泉山、泉屋、上冨士屋、常盤屋、港屋、辰巳屋、新屋、平野屋、菅原屋(以上鉄輪)、岡本屋、ゑびす屋、まつや、湯本屋、大黒屋、キラク屋、桝屋、山田屋(以上明礬)
このうちいくつかの旅館は現在も営業を続けている。また、本家冨士屋は旅館としての営業は続けていないものの、明治31年建築の建物をそのままギャラリー等に活用し、国登録有形文化財となっている。
戦後になり、昭和35年頃は宿泊施設のピークをむかえ、多くの旅館が鉄輪の街に立ち並んだ。その後、宿泊施設は減少している。
4 交通の発展と地獄
明治時代の交通事情
明治初期の鉄輪通る主要な道は、玖珠藩が利用した塚原路、北に接する野田村と結ぶ野田路、同じく東を接する亀川村・北石垣村とを結ぶ亀川路・北石垣路、南を接する鶴見村とを結ぶ鶴見路などであった。
また、鶴見村にはそのほかに南立石道と別府路などいずれも村と村とを結ぶ近距離の道であった。
この頃、海岸に面した別府、浜脇、石垣、亀川の各村においては、明治7年には現通称別大国道が大規模な改修により府内−別府間の通行が容易になり、同18年にはこの別大国道を含む小倉−大分間の旧豊前街道が国道35号線になり別府以北との交通の便も開けた。
さらに、明治4年の別府築港の建設による関西地方との船便の就航、明治の後半になると同33年の別大電車の開通、同44年の鉄道の亀川・別府・浜脇の各停車場の開業など、次々と交通網が整備されたのにともない、別府、浜脇地区の入湯客は急激の増加し大いに発展していった。
これに対し明治後期まで交通網が整備されなかった鉄輪、鶴見地区は別府、浜脇の発展に大きく遅れをとったのである。
しかし、こういった近代化の波に直接飲み込まれなかったことが、以後の湯治場の情緒を残す鉄輪温泉となったひとつの要因であったことは間違いない。
地獄見物の端緒
明治の後半になるまで主たる交通機関のなかった鉄輪地区であるが、それまで当時客が見物していく程度の地獄はすべて無料で開放していた。明治44年に海地獄が見物客に入場料を取り始めたことをきっかけに、そのほかの地獄も入場料を取りはじめた。
地獄というのは高温の熱水が噴出するため作物は栽培できず、住居を構えることもできず、土地の所有者からすれば一言でいえば厄介者でもあった。それが見物客から入場料を徴収することで厄介者から収入を得ることのできる資源に変わったのである。
土地所有者たちは、見物客のために柵を整備したり売店を設置したりと、それぞれの地獄で見物客を集めるためさまざまな工夫をおこなった。これが地獄めぐりの序章である。
大正時代の地獄
これまで鉄輪を訪れる客のほとんどが湯治目的であったが、別府を訪れる客の多くは、別府に宿泊したあと地獄を訪れるようになった。
別府市が市制を施行した大正13年頃、別府市域には次のような地獄があった。
鉄輪地区
   海地獄   現存する地獄。当時から庭園風に整備され、茶店があり地獄蒸卵、即席の地獄染めもできた。
   鉄輪地獄  鉄輪温泉街、現在の陽光荘の場所にあった地獄。温泉療養所を設置し、ラジウム蒸気吸入、トルコ式蒸風呂、乾式温泉場、蒸気菴法浴場、和洋両式休憩室などの設備があった。
鶴見地区
   坊主地獄  別名円内坊主地獄として現存する地獄。大分県指定天然記念物。
   紺屋地獄  明礬の手前にある地獄。現在も地獄の跡は残るが、地獄めぐりとしては開放していない。
   今井地獄  現在の竹の内今井温泉。
   照湯地獄  現在の照湯温泉。
野田地区
   血の池地獄 現存する地獄。現在は国指定名勝「別府の地獄」に含まれている。
   かまど地獄 血の池地獄の北山手にあった地獄。現在のカマド地獄とは別。
南立石地区
   八幡地獄  現在の鉄輪線と別府一宮線が接続するあたりにあった。
   三日月地獄 観海寺温泉にあった。
人力車から地獄めぐりバスへ
当時、鉄輪までの交通手段は、徒歩、人力車、馬車などが主力であった。
別府が市制を施行した大正13年頃の地獄めぐりの人力車の運賃は、別府−鉄輪間1円15銭、別府−明礬間1円40銭で1日8時間貸切3円、半日4時間貸切1円60銭であった。
乗合馬車は、鉄輪まで1人37銭、明礬までは54銭で、雨、雪、泥濘、夜間は2割増、暴風3割増、暴風夜間は5割増となっていた。
大正6年頃、九州自動車が地獄遊覧にタクシー運行を始め、別府方面から地獄めぐりに訪れる観光客が多くなる。同9年には泉都自動車株式会社が設立されバス運行を開始する。しかし、バスといっても乗客6人程度のいわゆる乗合自動車であり、本格的なバス運行は昭和3年の亀の井自動車の設立を待つこととなる。
当時の道路は南立石と鉄輪を結ぶ幹線道路はなく、別府から流川を経由し観海寺、八幡地獄等を見学したあといったん別府に戻り、それから国道(当時は3号線)を北上し亀川から血の池地獄、柴石を通り鉄輪に至るというコースであった。鉄輪から別府に戻るには当然亀川を経由しなければならず、全コース30q、時間も半日を要するものであった。
大正10年に増え続ける観光客の便に供するため待望の地獄循環道路が竣工する。これは南立石にある八幡地獄、鶴見地獄、無間地獄と鉄輪地獄地帯を結ぶ道路である。現在通称鉄輪線といわれる道路がこれであり、この道路の完成により地獄めぐりも大きく発展することとなる。
地獄循環道路完成後の地獄めぐりの交通はおよそ次のとおりであった。
まず、遊覧自動車は泉都自動車株式会社の地獄めぐり定期乗合自動車がある。
コースは浜脇を出発し別府−観海寺−八幡地獄−鉄輪地獄−海地獄−坊主地獄−明礬温泉−柴石温泉−カマド地獄−血の池地獄−亀川温泉−を巡り別府、浜脇へ帰着するコースと、浜脇、別府から亀川−血の池地獄−カマド地獄−柴石温泉−鉄輪地獄−海地獄−坊主地獄−明礬温泉−八幡地獄−観海寺温泉と、逆に進む二通りがあった。所要時間は約2時間30分で料金は一人2円50銭である。一応は定期便であるが4人以上の客があれば臨時の運行をすることもあった。また、2人以上の予約があれば旅館まで迎えに行くシステムとなっていた。
また、タクシーは1台5人乗りで、五大地獄(八幡、坊主、海、カマド、血の池)を巡り、運賃は凡そ8円80銭であった。
この頃から乗合自動車(バス)とタクシーの競争は激しくなっていくが、かつては地獄めぐりの観光客を運び続けてきた、人力車や乗合馬車は次第に消えていくこととなる。
しかし、乗合自動車にしてもタクシーにしても増え続ける観光客、特に団体客の輸送には応えることはできなかった。昭和3年には中外大博覧会の開催も控えており観光客、入湯客の輸送の問題は急務であった。
こうした中、亀の井ホテルの油屋熊八が昭和3年1月に亀の井自動車株式会社を設立。25人乗りの高級バス4台を購入、七五調の別府温泉案内やバスガイドに少女を起用(一般に日本初のバスガイドとされるが、正しくはバスガイドに少女を起用したのが日本初)するなど斬新なアイデアと行動力で地獄めぐり観光に参入する。
同7年には大橋バスが地獄めぐりバスの運行を開始、ここに従来の泉都自動車、亀の井自動車の主要3社による競争が始まる。しかし、競争といってもそれぞれが独自色をもち乗客のニーズに応えるサービスを展開しており、観光客にとっては好ましい競争であった。
亀の井自動車は北浜海岸の事務所から流川を通って山手を進み、(別府)公園−鶴見園−観海寺−八幡地獄−鶴見地獄−くべり湯−鉄輪地獄−鬼山地獄−十万地獄−新坊主地獄−海地獄−柴石−カマド地獄−血の池地獄−亀川洞門と巡り、亀川から北浜に戻るコースで、所要時間は2〜3時間、料金は1円であった。
一方、大橋バスは亀の井自動車と逆コースで、亀川から血の池地獄、カマド地獄、鬼山地獄、十万地獄、海地獄、坊主地獄、玖倍理地獄、鶴見地獄、八幡地獄と巡り、最後に鶴見園遊園地でゆっくり寛ぐという特色があった。亀の井自動車と同じように少女バスガイドがおり、こちらは童話口調で名勝や地獄の説明をするものであった。また、車中で別府民謡なども披露していた。
泉都自動車は亀の井自動車とほぼ同じコースであった。
当時は本坊主地獄、海地獄、血の池地獄が三大地獄で、この三地獄に着かないバスならば、タクシーの方が便利とされていた。
この後、昭和10年には亀の井自動車が大橋バスを買収、同16年には泉都自動車も吸収合併し、地獄めぐりバスが統一されることとなった。前年の15年には日中戦争の長期化により全国の遊覧バスの廃止が決まったが、別府の地獄めぐりバスは存続されることとなった。
昭和10年代の主な地獄は次のとおりであった。
血の池地獄、竜巻地獄、カマド地獄(以上、野田地区)、海地獄、鉄輪地獄、鬼山地獄、白池地獄、鬼石地獄、金龍地獄、十万地獄、雷園地獄(以上、鉄輪地区)、本坊主地獄、紺屋地獄、明礬地獄(以上、鶴見地区)、鶴見地獄、八幡地獄、無間地獄(以上、南立石地区)
戦後の一時期はバスの老朽化や燃料不足などで苦しい時期があったが、昭和22年頃から大型バスが生産されるようになり、再び観光客が増加することとなった。
やまなみハイウェイの開通
こうした中、昭和25年7月18日、別府国際観光温泉文化都市建設法が公布され、翌26年2月に国際観光道路が着工された。この道路は別府−阿蘇−熊本−三角−長崎を結ぶ九州横断道路の一部で、別府国際観光港から堀田までの道路のことである。国際観光港を基点とし西へ一直線に伸びる道路は、北石垣と鶴見の境界あたりで急激に北方向へ曲がり鉄輪の地獄地帯を通過し今度は南方向へ迂回、そのまま堀田の県道別府一宮線へ接続するものである。
現在国道500号と呼ばれるこの道路が鉄輪地区、すなわち地獄めぐりなどの観光に与えた影響は計り知れない。鉄道や船舶などの交通機関がまったくない鉄輪地区では、自動車、特に大型バスが楽に通れる道路建設は、それまでの地獄めぐりなどの観光に与える影響も大きく、これから訪れる車社会いわゆるマイカー時代の到来に不可欠なものであった。この道路は通称「やまなみハイウェイ」と呼ばれ、最終的に昭和39年10月に熊本県一宮までが竣工した。
この道路の完成で鉄輪地区の様相も変わってくる。それは道路沿いに大型のホテルが建設され始めたことである。現在国道500号線沿いに立ち並ぶ高層のホテルは、すべて国際観光道路建設以降に建ったものであり、それまでの2階程度の旅館などが軒を連ね、いわゆる鉄輪の情緒をかもし出す雰囲気からは少し変わったものとなった。
5 温泉の利用
温泉と療養
昭和6年11月16日、鶴見村と石垣村にまたがる通称鶴見ヶ丘の3万坪の敷地に九州帝国大学温泉治療学研究所が竣工、翌7年1月18日から治療が開始された。
この施設は、温泉治療学の学理と応用を研究し、これを基礎とした温泉治療を主部門とし、あわせて温泉利用者の医学的な指導も目的とした。
研究部門は最新の設備を備え、診療部門は内科、外科、婦人科、皮膚科、基礎研究部の5科を設置し、温泉浴を主とした光線浴、電気浴、炭酸ガス浴、鉱泥浴、ラジウム浴、各種薬浴、熱気浴、砂浴、ファンゴー纏浴、腸薬浴、赤外線浴、電光浴などの普通浴場、全身浴場、部分治療浴場が設けられた。
旧別府村では小倉衛戍病院田の湯病棟(明治37年)、旧亀川町では亀川海軍病院(大正14年)など温泉を利用した公的医療機関がすでに存在していたが、旧朝日村では、鉄輪地獄においてラジウム蒸気吸入などの設備が備えられたことはあったものの、本格的に医学の立場から温泉を利用した施設は、この施設がはじめてであった。
その他、鶴見地区では昭和16年に満州電信電話株式会社による別府温泉療養所凌雲荘(現新別府病院)や昭和19年の満州製鉄別府療養所(現鶴見病院)が温泉を利用した医療機関として開設された。
これらの施設は一部名称変更などがあったが、現在でも地域の重要な医療機関として現在に至っている。
さらに、戦後の昭和35年には、原子爆弾被爆者別府温泉療養研究所が設立され、被爆者のための温泉治療をおこなっている。
このように別府市域、特に旧朝日村の温泉は江戸時代の湯治から現在まで、単に観光だけではなく、人々の医療の一環としての役割も担ってきたのである。
飲料としての温泉利用
大正時代から昭和10年代にかけて、湯の花の産地として知られる明礬温泉では、温泉水を霊薬「別府薬用鉱水」として販売していた。この霊薬は温泉に含まれる成分を調製した神秘薬で、滋養強壮、また塗布すると皮膚病にも効果があると宣伝されていた。
また、硫黄山(伽藍岳)から湧出する温泉水は、天然薬・胃腸強壮薬「別府霊泉」として販売されていた。慢性胃腸カタル、貧血、慢性消化器病などを適応症とし、内服薬、外用薬、入浴剤として利用されていた。
その他、温泉水を別府鉱水サイダーとして全国に販路を広げていたこともあった。
6 教育の変遷
明治になった頃は、江戸時代から続く寺子屋的な教育で、南鉄輪村の佐藤邨彦、鶴見の安部孫兵衛、佐藤、直江など地域の有識者が子どもに読み書きを教えていたとされる。
明治5年9月5日、学制頒布され公立の学校が設置されることとなった。鉄輪・鶴見地区では同7年に鉄輪支校と鶴見支校が開校されたのが近代教育の始まりとされる。当時鉄輪村では男子生徒24人、女子生徒10人、鶴見村では男子生徒50人、女子生徒12人が在籍していた。同16年、両校を合併し鶴輪学校を北中に開校、同22年には鶴見・鉄輪両村が合併し朝日村となったことにより、同26年、校名も朝日尋常小学校と改めた。
その後、明治40年朝日尋常高等小学校、昭和10年別府市朝日尋常小学校、同16年別府市朝日国民学校と改称した。戦後の同22年別府市立朝日小学校と校名変更した。さらに児童数の増加により、同49年鶴見小学校、同54年大平山小学校を新設し、鉄輪・鶴見地区には3校が設置されている。
現在の児童数は、朝日小学校594名、鶴見小学校564名、大平山小学校441名である。
また、昭和22年4月には新制中学校として朝日中学校が新設され、同24年に現在地へ移転し今にいたっている。
7 現在の鉄輪・鶴見の発展
昭和50年代後半、鉄輪地区に「鉄輪愛酎会」が発足、別府市域のまちづくりの先駆として、俳句湯けむり散歩などの事業を手がけた。
また、同60年には「鉄輪・明礬・柴石温泉」が、温泉の効能が顕著である、景観が優れている、環境衛生的条件が良好である、気候学的に休養地に適している、温泉顧問医が設置されている、災害に対して安全であるなどの条件を満たしているとして、環境庁(現環境省)から国民温泉保養地の指定を受けた。
平成16年には都市計画法に基づく景観法が制定され、行政が湯けむりなどの景観を保護するよう義務付けられた。
さらに、平成17年度以降には、国土交通省のまちづくり交付金の認定を受け、鉄輪温泉街の通りを石畳にしたり、サインをリニューアルするなど、鉄輪温泉の湯治場情緒を残しながら、新しい街づくりに取り組んでいる。  
別府温泉 温泉・湯けむりに関する文化財  

 

第1節 地獄
1 地獄めぐり以前
温泉・湯けむりとくれば、別府では「地獄」という言葉に行きつく。観光客はこの「地獄」という言葉に興味を持つ。「地獄めぐり」は別府市の基幹産業の一つであり、市発展の一助を成してきたものである。
平成21年7月には、海地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄の四地獄が「別府の地獄」として国の名勝に指定されている。
「地獄」とは仏教でいう焦熱地獄から引用された呼称であると思われるが、平安時代以降に使われ出したものと考えられている。和銅6年(712)に選集された『豊後風土記』の速見郡の条には、現在の地獄の起源ではないかと推察される「赤湯ノ井」「玖倍理湯ノ井」の記述があるが、「地獄」という呼称は使われていない。
『三代実録』によると、貞観9年(867)に鶴見岳が大噴火したことに関して「鳴動三日に及び、降灰は数里の間に積もった。」という記述がある。この爆発は大規模なもので、大宰府は早速これを朝廷に報告した。朝廷は豊後国司をして火男・火売二神に大般若経を転読させ、これを鎮めようとした。その規模の大きさは二神に正五位を授けたことからも推察される。おそらく溶岩が飛び散り、地下からは灼熱の蒸気が噴き出し、多数の死傷者が出たのであろう。この凄まじい光景は、まさに仏教でいう焦熱地獄を見るような惨憺たるものであったに違いない。里人たちは恐怖の中で従来の「湯の井」を「地獄」と呼んだのではないだろうか。
元禄7年(1694)に貝原益軒が豊前・豊後の国を旅したことを記した『豊国紀行』の中では、随所に「地獄」の呼称が出てきている。
古河古松軒が記した『西遊雑記』にもかんなわ村に「地獄」が数多く存在するという記述が存在する。
正徳2年(1712)に寺島良安が編纂した『和漢三才図絵』でも、地獄として鶴見岳が挙げられている。このことから別府の「地獄」が全国的に知られていたことが分かる。
この当時、現在の鉄輪の地獄地帯は「地獄原」と呼ばれていた。この地獄原一帯では噴出する熱湯が付近の水田に流入して被害を与えたり、飛び込み自殺があったりして、地獄の所有者は持て余していたらしい。「酒にノシをつけるから、誰か貰ってくれる人はいないか」と地獄の貰い手を探していたほどであったという。
このように今では考えられないような話が伝えられるなど、地獄めぐりが開設されるまでは、ある意味で厄介者扱いをされていたようである。
2 地獄めぐりの始まりと発展
このような「地獄」が観光施設となったのは明治末期以降のことである。
明治末期、千寿吉彦が日豊線工事関係の仕事で来別していた時に知人の勧めで海地獄を買収したことに全ては始まる。それまでの海地獄は、所有者がめまぐるしく変わっていた。やっかいものの海地獄が売れたことから関係者が盛大な祝宴を催したほどであったという。
千寿吉彦の構想は、海地獄の湯を引いた温泉付きの高級別荘地を開発することであった。
しかし、明治43年(1910)に海地獄の管理を任された宇都宮則綱により、当初無料で公開していた海地獄が遊覧施設も整えて、入場料を徴収するようになると、血の池、坊主などの他の地獄も入場料を徴収するようになり、「地獄」は観光施設への道を辿っていく。
大正時代に入ると自動車交通も可能となり、「地獄」の噴出状況に伴う変化と奇異な景観の雄大さは、交通の発達による湯治客の増加に比例して、地獄見学の遊覧客を増やしていくこととなった。
大正10年(1921)3月15日から5月13日まで、大分市で開かれた第14回九州沖縄八県連合共進会の際に、大分県協賛会から出版された『大分県案内』の中に、血の池地獄について次のように記されている。
「亀川駅の西十二町余御越町に在り、風土記に所謂赤湯之なり。約三百坪の池にして、水、酸化鉄を含有せる為め、其の熱湯は朱紅色を帯び、時に爆然真紅の熱湯を噴出すること十余丈に達し、壮観を呈することあり、四時観客絶えず。」
また、坊主地獄については、
「別府駅より西北一里七合、海地獄より西南約六町の朝日村に在り、其の付近一帯は朝日公園と称し、自然の雅趣に富む遊園地なり、面積五十坪の噴孔中より泥土を混ぜる熱湯を沸騰し、雨天の日には殊に猛烈を極めて壮観なり。」と記述されている。
これらの地獄が多くの観光客を集め、また遊園地として人々を集めていたことがうかがえる。海地獄についても、規模の大きさを中心に次のように紹介している。
「別府駅より西北約一里半、鉄輪温泉場より西約六町、温泉廻遊道路に沿ふ朝日村に在り、別府付近各地獄中最大にして面積約二反歩余に及び、最高二百十二度の熱湯は一昼夜二万石を湧出し、濃き青藍の色を湛え、白煙濛々として渦く様物凄く、恰も蒼海に似たり。」
地獄の遊覧客数が年々増加するに従い、地獄の所有者には莫大な入場料収入をもたらすこととなった。
地獄遊覧事業はすこぶる有望視され、小噴気孔を掘削して大噴出を誘導することに努め、大正から昭和にかけて、新しい地獄が噴出した。
具体的には、大正11年鉄輪地獄、同12年龍巻地獄、同13年無間地獄、同14年鶴見地獄、さらに昭和3年八幡地獄(再爆発)、同5年鬼石地獄、同6年白池地獄、同7年鬼山地獄、金龍地獄、同11年竈地獄、同12年雷園地獄が出現した。分布は温泉地帯中、活動の盛んな亀川−鉄輪−明礬温泉群に属しているものがほとんどであった。
これらの地獄は噴気孔、間欠泉、噴騰泉、泥火山類等多種多様の相貌を呈し、成分においてもあらゆる種類のものを網羅しており、多彩な地獄群の盛観を示し、全国的に名声を高め、遊覧事業としても独自の発達を遂げている。
3 遊覧バスの創業
地獄の遊覧に自動車が運行されたのは、大正6年(1917)頃、九州自動車がハイヤーを主に行ったのが初めといわれている。
大正9年に泉都自動車が後を継いで経営に当たったが、6人乗りの乗用車を使用し、1日2回、料金2円50銭で、まだバス事業の体裁をなさない簡素なものであった。
当時は地獄回遊道路もなく、別府駅前を出発して市の西部を廻って八幡地獄に至り、更に元の道を引き返して亀川旧道を北上して鉄輪、海、坊主地獄を見学、再び引き返して亀川旧道に出て血の池地獄に至り、これより元の道を別府に戻るというコースであった。路線延長は約30qに及び、道路状況も悪く、地獄遊覧に半日を要する有様であった。
その後、入湯客の地獄遊覧はますます増え、一方地獄循環道路も県道として10年末に竣工し、さらに別府−亀川間の海岸道路も開通して、地獄回遊コースも約21km に短縮された。道路状況も改善されて、自動車運行も容易になったにもかかわらず、遊覧自動車は従前通りの経営で、特に団体客の輸送に応じることができなかった。しかも、昭和3年(1928)4月から5月にかけて50日間も開催される中外産業博覧会に訪れる観光客に備えて、本格的なバスの運行が急務になった。
昭和2年(1927)8月、亀の井ホテルが地獄遊覧バス事業の免許を受けると、社長の油屋熊八は翌3年1月10日に亀の井自動車株式会社を設立、ホテル自動車部の資産・営業を継承し、自ら社長としてバス事業に乗り出した。25人乗りの高級車両4台を購入、運転手・車掌に洗練されたサービスをさせ、地獄めぐりと耶馬渓めぐりを運行した。
営業時間は午前7時半(冬期は8時半)から午後4時まで、25分ごとに発車し、乗客は途中各地獄で適宜遊覧休息をして、どのバスにも乗り継ぐことができた。全コース21km を別府−八幡−海地獄−柴石−亀川−別府の5区に分け、全コース1人1円という大衆的な料金に決めた。
地獄めぐりの途中の各地の名所では、端正な少女が、よく訓練された独特のリズム(七五調)で案内をした。この日本初の観光バスガイドは、一躍全国的に有名になり、レコードになって売り出されるまでになった。
優秀な設備ときめ細かなサービス、そして低廉な料金によって、亀の井自動車の名声はにわかに高まり、地獄遊覧に新しき魅力が加わった。これにより地獄の驚異とバスの快適さが別府観光の中軸となっていった。
地獄遊覧客が年々増加する中で、昭和7年(1932)9月から、大橋自動車商会が地獄めぐりバスを開設した。
さらに昭和9年には、12年に別府市が国際温泉観光大博覧会の開催を計画したのを目標に、泉都自動車株式会社が少女解説の地獄めぐりバスの運行を始めた。
亀の井自動車株式会社も対応するため、昭和10年5月に社名を亀の井遊覧自動車株式会社と変更して旗幟を鮮明にし、「地獄めぐりは亀の井バスよ乗ればニッコリ乙女の車掌名所解説節面白ふ唄ふ車内のなごやかさ」(不老暢人作「地獄巡りの唄」1番)のように大々的に宣伝誘致に努めた。
しかし、満州事変、満州国の建国、五・一五事件、国際連盟脱退など非常時の気運が高まるとともに、その一方で昭和恐慌による国内の不況はいまだ続いていたことから、旅客の移動は不振がちであった。この状況は3社の乗客争奪戦を激化させた。さらにタクシー業者との競争も激烈になり、6人乗り3円位で地獄巡りに応じて、バス業者に大きな脅威を与えた。
このような中で弊害を憂慮した関係当局の調停が行われて、昭和10年10月10日に3社共同経営の協定が結ばれた。その後統制が進められ、同12年3月、亀の井遊覧自動車株式会社は大橋バス株式会社を買収、泉都自動車の株式の一部を獲得、資本面でも統制を強化した。
昭和12年7月に始まった日中戦争の長期化により、同15年8月には全国の遊覧バス廃止が決まったが、地獄めぐりバスは別府市内の温泉場連絡機関として不可欠として存続が認められた。
一方、亀の井遊覧自動車株式会社の名称も、直前の6月に亀の井バス株式会社と改称、定期路線バス会社として再出発した。翌昭和16年10月に泉都自動車株式会社を吸収合併、別府一円のバスを統制した。
ただ、戦争が進むにつれて、バスも木炭車になるなど、戦時下の資源不足の影響を受けていった。
4 戦後の復興、高度成長期
終戦直後は惨たんたる老朽車のみで、木炭車などの代用燃料の強化や老朽車の整備などに追われ、かろうじて路線の維持と輸送に当たる状態で、それでも運転中の故障事故が頻発した。
しかし、次第に通勤・通学の一般客とともに観光客も増加し、バスも昭和22年(1947)頃から大型バスが生産されるようになった。
『大分合同新聞』(昭和23年5月28日号)には「九州横断も登場県下にバス競争時代再現」のタイトルで「県下の交通業界は終戦後、休止線の復活、車体の改良、新線の計画など自由競争時代に入っている。とくに別府を中心とした観光バス路線の新規営業網獲得をめぐって大分交通会社、日田自動車会社、九州観光バスなどの競願はもっとも活発な動きをみせている。」と記されている。
続いて、各社の計画が記されているが、別府を基盤としている亀の井バスの事業計画は、「現在地獄めぐりが復活しているが、別府−川登鍾乳洞線が近く復活するほか、別府−大分の折返し運転、別府−安心院、別府−耶馬渓および十文字原、塚原、由布院をつなぐ由布鶴見の観光路線に重点を置いているが、大分交通との激しい競争が予想される」と、戦前の観光路線の復活と新規拡大を計画しており、さらに大分−別府間の急行バスもねらっている。
昭和24年『大分年鑑』によると、前年の23年当時、燃料は配給で実際の需要に対して、ガソリンは3割程度であったが、ディーゼル車の軽油は確保できたので、大型ディーゼル車が登場した。
亀の井バスでも同24年3月には、100人乗りトレーラーバス5台を地獄めぐり、鉄輪線に配置し運転している。
サンフランシスコで講和会議が開かれた昭和26年には、関西汽船が、大阪−別府間に2,000トン級の豪華船を就航させた。大阪航路が毎日1往復、四国宇和島航路が2往復で、乗降客は年間30万人を突破、年々増加の一途をたどっていった。国鉄は別府駅を中心に亀川、東別府両駅を加えて年間乗降客は440万人に達し、さらに市内には大分交通の電車があり、バスは大分交通が大分県下全般をはじめ福岡、小倉方面に路線を延ばしていた。
市内観光の亀の井バスは、地獄めぐり、由布院線、安心院線、明礬線、亀川線、ケーブル線、温研線とともに、日田との急行バスも運行を始めて、別府を訪れる観光客の便を図っていった。
高度経済成長期に入ると、さらに地獄の遊覧客数は増加し、「地獄」は昼の別府の中核施設となる。
昭和39年(1964)発行の『新しい日本』によると、
「昼の別府見物となれば、何をおいても地獄めぐりは欠かせない。行程18.5キロ、バスで約2時間半のコースである。コバルトブルーに澄んだ海地獄は、血の池地獄と対照的な美しさを見せてくれる。スマトラ産やアフリカ産の大小のワニ数10匹が飼育されている鬼山地獄。熱い泥土が坊主頭のようにブクブクふくれる坊主地獄。ミルク色をした白池地獄。2〜30分おきに7〜8メートルも熱湯を噴き上げる竜巻地獄。そのほか鶴見地獄、かまど地獄、金龍地獄、山地獄を十大地獄というが、いずれも摂氏70〜120度の熱湯が湧き、熱気がもうもうと立ちこめて、別府温泉群の熱源の温泉群の泉源地帯となしている。」と記されている。
別府市観光課の「観光客動態調査」によると、別府を訪れた昭和36年度の観光客は、5,802,279人で5月が最高の11.9%、それについで11月は10.5%、以下10月9.9%、4月9.6%、3月9.5%、6月7.3%、12月7.2%、8月7.1%、2月6.9%、9月6.8%、1月6.3%となっており、シーズンとオフシーズンとの差が、なくなりつつある傾向らしいと記している。
また国際観光温泉文化都市にふさわしく、外国人観光客も15,115人が訪れている。
昭和46年8月に大分県観光課が企画・編集をして観光協会が発行した『ガイドブック大分の旅』に、別府の遊覧地としての生命は「地獄めぐり」であろうとして、次のように記されている。
「地獄と呼ばれるものは、いずれも地下200メートル内外の深度から摂氏100度前後の噴気、熱湯、熱泥をふきあげ、その形態は種々様々である。まっ赤な血を流したような血の池地獄、間欠的に噴出する竜巻地獄、海のように青い湯をたたえる海地獄、噴出する泥土が山の形をつくる山地獄、噴気を利用して炊飯ができるカマド地獄、鰐(わに)のすむ鬼山地獄、噴気が幻想的な金龍地獄、乳白色の熱湯を噴出する白池地獄、ごうごうとうなりを発し爆発の様相を呈する鶴見地獄、泥土がポッカリと出ては消える本坊主地獄などで、駆足の見物でも2時間以上はかかる。」
5 地獄めぐりの現況
「地獄めぐり」も時代の変遷とともに、観光客の国際化、行動の広域化などで、かつてとは様変わりした面も多くなっている。特に、観光客のマイカー化は、マイカー用の駐車場が設置されるなど、バス中心であった「地獄めぐり」の様相を大きく変えている。
また、バリアフリーの対応を施して、障害者への配慮を図るなど、時代に沿った対応も行っている。
もちろん、観光客の誘致にも努力している。かつての「七五調案内」の「地獄めぐり」コースを復活させるなどはその工夫の一例である。
さらに、海地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄の四地獄が「別府の地獄」として国の名勝に指定されるなど、その価値は再認識されている。
このように、オイルショックやバブル景気などの紆余曲折を経た現在でも、温泉と並んで「地獄めぐり」は別府観光の原点として大きな意味を持っているのである。
6 現在の地獄
海地獄
神秘的で涼しげなコバルトブルーに覆われ、まるで海のように見えるが、摂氏98度である。平成21年7月、国の名勝に指定されている。
山地獄
山のいたるところから噴気が上がっている様子から名付けられた。温泉熱を利用して世界の珍しい動物や熱帯の植物等が飼育されている。泉温90度。
カマド地獄
噴気で炊いた飯米を氏神に供えたことからこの名がある。温度により様々な色に変化する池など不思議な池が存在する。泉温90度。
鬼山地獄
鬼山という地名に由来する。この地獄は、別名『ワニ地獄』と呼ばれ、大正12年(1923)に日本で初めて温泉熱を利用してワニの飼育を始め、現在約100頭を飼育している。泉温98度。
白池地獄
噴出時は無色透明の熱湯だが、池に落ち、温度と圧力が低下すると青白色を呈する。泉温95度。園内では温泉熱で各種の大型熱帯魚を飼育している。また、庭内には大分県の有形文化財に指定されている国東塔と向原石幢がある。平成21年7月、国の名勝に指定されている。
金龍地獄
湧出量は地獄随一で、市営温泉に供給している。泉温97度、噴気102度。噴気が朝日の中、金色の竜が昇天するように見えることに由来する。
血の池地獄
煮えたぎる粘土や噴気までもが赤色で、『豊後国風土記』にも記された日本最古の天然地獄。平成21年7月、国の名勝に指定されている。
龍巻地獄
市指定天然記念物の間欠泉で、地下の水圧と150度以上の水温により一定の間隔で熱湯が噴き上がる。平成21年7月、国の名勝に指定されている。
坊主地獄
熱泥がボコボコと噴き上がり、まるで坊主頭に見えるところがその名の由来である。大地震でこの地の延内寺が爆発し、住職も寺院も一瞬で地の底に姿を消したという言い伝えがある。
鬼石坊主地獄
鬼石坊主地獄は、坊主地獄同様に熱泥がそこかしこで吹き上げている。閉鎖していたが、平成14年(2002)12月16日に約40年ぶりにリニューアルオープンした。鬼石坊主地獄の名称は地名に由来する。  
第2節 湯の花
1 湯の花香る明礬温泉
鉄輪温泉から国道500号沿いに進むと、何処からとも無く地獄の香りがしてくる。さらに、紺屋地獄の西を通過し、東洋一といわれる総延長411m、高さ57m のコンクリート固定アーチ式の別府明礬橋をくくりぬける。するとその匂いは一段と強さを増し硫黄の匂いに包まれている明礬温泉の中心地にたどり着く。
明礬温泉は、江戸時代に開かれ、噴気がいたるところから地表面に噴出している。古く江戸時代には日本一の生産量を誇ったミョウバンがこの地の地名になったと言われる豊後明礬の生産地であった。
別府には、江戸時代に今日とほぼ同じ名前で呼ばれていた浜脇、別府、亀川、柴石、鉄輪、明礬、観海寺、堀田の八つの温泉場があり別府八湯と呼ばれている。それぞれの温泉場は温泉の質・量や景観など魅力もさまざまに異なり、地域ごとに異なる営みがかもし出されている。その中で湯の花香る八湯一の秘境温泉地として人気を集めているのがここ明礬温泉である。
今日では10軒ほどの旅館と地蔵湯や鶴寿泉などの共同浴場がある。泉質も硫黄泉や明礬泉など豊富であり、岩盤湯、露天風呂、家族風呂など入湯客のニーズに対応した施設が設けられている。
2 湯の花づくりのあゆみ
(1)日本一を誇った豊後明礬
江戸時代の別府の特産品として豊後明礬があったことは多くの人々に知られている。明礬は、「止血剤」や動物の「革のなめし」などに欠かすことのできないものであった。また、染物で染料を反物に固定させる「媒染剤」として重要なものであった。古くは中国から輸入されていたが、江戸時代に入り国内産の明礬製造が活発になり品質も向上し盛んに生産されるようになった。その中心的な役割を果たし国内生産の約7割を生産したのがここ明礬温泉の豊後明礬であった。
明礬は、硫酸アルミニウムカリウム12水和物AlK(SO4)2・12H2O を示すことが多い。このほかにも鉄ミョウバン、アンモニウム鉄ミョウバンなどもある。カリウムミョウバンは無色透明の正八面体の結晶で熱すると結晶水を失って白色の粉末の焼きミョウバンとなる。
豊後明礬は、地熱作用によって生産される明礬礬土とハイノキの木灰汁(あく)とによって精製されるところが大変珍しく、幕府の専売事業でもあったことからその製法は長い間明らかにされなかった。
明礬の精製は、寛文年間(1666頃)に渡辺五郎右衛門によって成功したが、明礬礬土をつくる設備投資と運上銀の高騰に加え安価な唐明礬(中国産明礬)の輸入によって経営に苦しめられた。
以後、天和年間(1681〜1684)に小浦村の権四郎をはじめ野田村吉右衛門、別府村重右衛門など財力のある近在の庄屋や大坂商人が明礬製造事業にかかわったが安価な唐明礬の輸入によって経営が大変困難であった。
享保15年(1730)脇屋儀助は、丹羽正伯(本草家・医師並幕府の採薬使)の求めに応じて和明礬の精製法を江戸で披露し直接吟味を受けた。そして、和明礬の質の良さが認められ明礬の生産量の確保と安価供給を条件に唐明礬の輸入の差止めを実現した。
享保20年(1735)、江戸、大阪に明礬会所を設立、宝暦8年(1758)京都、堺に明礬会所を増設し我が国の明礬の専売を完成させた。宝暦13年(1763)には明礬の最大供給量27万1,000斤で、そのうち豊後明礬が16万斤を占めた。寛保年間の唐明礬の輸入禁止で豊後明礬は、明礬市場の約7割に達した。
江戸末期の天明9年の山汐・明礬地場稼小屋流出、天保9年の大洪水、安政元年の大地震など度重なる自然災害や幕府の改革及び唐明礬の輸入増大などにより徐々に豊後明礬は衰微の道をたどることになった。
(2)明治維新をむかえて
幕末に森藩の明礬山の山奉行であった岩瀬氏を明治になって県は御用掛として明礬製造事業の任に当たらせていたが、徐々に海外貿易の道が開かれ化学薬品などの輸入が増加した。江戸時代初期の寛文年間から始められ、断続的ではあったが日本一を誇ったミョウバンの生産も経営が成り立たなくなった。ついに明礬生産の事業の中止をせざるを得ないところに至った。
明治17年(1884)、そのため多数の従事者が失業の窮地に追い込まれた。岩瀬保彦は、その善後策として多年の経験に基づいてミョウバン製造の半製品に「湯の花」という名称を付し、入浴剤として京阪神に移出した。
明治20年代後半京阪神で多大な評価を受け販路が次々に広がった。それにともない湯の花製造の地域を拡大した。国内で最も盛んに製造していた明礬製造に替わって湯の花製造へと転じ発展することになった。
(3)湯の花生産の盛況
湯の花生産のはじまりは、明礬製造事業の不振による失業対策として「湯の花」を売りだしたのがきっかけで、明治20年代には湯の花の質の向上に向け改良に改良を加えて販路を拡大していった。
明治37年、明礬および湯山地区の40名で「湯の花組合」を結成した。明治43年の組合員の湯の花採集面積坪数を見ると2,790坪(9,207m2)、およそ200トンの生産量を誇った。
明治末から大正時代にかけては安定した湯の花の生産活動が行われた。湯の花生産の場所別小屋数は下図のとおりである。
生産者数は湯山地区が多いが生産者一人当たりの小屋数、面積は明礬地区の二者が大規模生産を誇り、両者は常雇用者を多く抱えていた。これに対して、他の生産者は家族労働によって支えられており、わずかに中堅の1、2の生産者が住み込みの常雇用者を抱えているのに過ぎなかった。
(4)湯の花組合の設立
江戸時代から断続的ではあるがほぼ210年間続いた明礬製造から明治17年以降湯の花生産へと替わる。これが予想以上の業績を上げることとなり漸次生産を拡大することとなった。しかし、地域の人々も粗製濫造乱売にながれ別府名産「湯の花」としての名声を失墜することが危惧された。
明治20年代の湯の花製造の仕事に従事する人々の大部分は農業が主で湯の花の製造は副業として行われていた。その上、商取引の駆け引きにも劣ることからもっぱら商人から利益も搾取されるという始末であった。
このような事情から明治34年「任意申合組合」の形式により共同組合組織をつくり、明治37年に任意申合組合として経営することとなり、以来、生産調整や協同販売の機関として会員40名(組合長1名、業務執行者8名)の株組織による「湯の花組合」を設立、存続することとなった。
(5)鉱泉華採集装置特許権
湯の花組合員は、組合之証という土地利用の権利「鉱泉華採収装置特許権」という「地券」を有する者のみが湯の花の製造を行い、湯の花を製造するには土地の大小を問わず「地券」を有さない者は生産できなかった。
「地券」の裏面には、「コノ土地ヲ売買譲与ソノ他ノ場合ニ於テ名換セント欲スル者ハ本組合ノ規定ニ據リ相当ノ手続ヲナスベシ当組合検査ノ上権義ノ転換ヲ証ス」となっており、年月日、売譲渡し人記名調印,買譲受人名調印、業務執行者記名調印の記入欄が設けられている。これによって土地の売買譲渡等については厳しく制約を求めていた。
上記のように湯の花小屋を造る場所が制約され、土地の貸借が湯の花組合の承認のもとに推移し、あわせて個人相互の借地借用契約書によって管理されるという企業制約が徹底されていた。
(6)戦中から戦後の湯の花づくり
昭和10年代の湯の花の生産地は、明礬・鍋山・湯山であった。この地域は森藩の速見郡朝日村大字鶴見および幕府領の速見郡御越町大字野田に属し行政的には異なった村であった。明礬地区のほぼ中央を流れる八川を境界に小川の北が野田村、南が朝日村であったが昭和10年の別府市域の拡大によって共に別府市に編入された。
昭和13年から16年までの間は、生産高もほぼ180トンを維持していたが以後は減少した。戦後は急激に減少し昭和22年には生産従事者は僅か10名程となった。湯の花の需要もほぼ壊滅の状況となり昭和24年に「湯の花組合」を解散した。その後、昭和20年代後半に僅かに湯の花小屋の回復は見たものの経営面から順次脱落していき、僅かに4業者のみの残続となった。
昭和30年代に入って僅かに十数棟の湯の花小屋で入浴剤を生産するに過ぎなかったが徐々に増産し、昭和37年湯の花小屋数が30軒と回復の兆しが見えた。年とともに緩やかに回復し、昭和60年代には4業者で69棟の湯の花小屋を有し、生産高も年間100トン程度となった。
3 伝統技術を生かした湯の花づくり
湯の花の小屋作りには小屋を設置する場所の条件によって全てが異なってくる。土地の広狭および形状、噴気を得方、周りの土地との段差などがポイントとなる。
今日では湯の花小屋の床つくり、小屋づくり、青粘土いれ、噴気の取り入れ、湯の花の採取の手順で作業をするがいずれの作業も伝統的な手法によって進められている。
(1)湯の花小屋の「床つくり」
地面全体に地熱や噴気が得られる平坦な場所を選び、地面全体が平になるように整備する。
1 湯の花小屋を設置する場所は地熱を得るところを選ぶので棚田のように斜面をなしているために地積に広狭が生じる。
2 湯の花小屋を設置する場所は、地中5pほどの深さで50℃〜75℃程度の地熱が得られることが必要である。
3 湯の花小屋を設置する場所で噴気・地熱の得方が定まると土地の形状に合わせて小屋の大きさや小屋の向きが決まる。
4 湯の花小屋を設置する土地に合わせて硫気溝の位置や方向・数が決められる。幹線となる硫気溝が決まった後、支線溝を設け、その左右に小石を並べる。
5 硫気溝の上下左右の床全体に小石を敷き詰め、噴気がまんべんなく通るようにする。
6 小石と小石の間を高温の噴気が通り抜けていくが、硫気溝がつぶれないようにする。
7 湯の花小屋の床部分全体に小石を並べ終わったら、土が硫気溝に零れ落ちないように藁を敷き詰め、その上にまんべんなく土をしきつめる。
(2)わらぶき「小屋つくり」
1 小屋の屋根を支える柱台石を小屋の向きや大きさに合わせ、左右対称に12〜20個くらい並べる。
2 柱石の上にハの字型に合わせた柱組をほぼ左右対称に建てる。柱の下の部分は石の上に安定する角度に切り込み一本は切りとおし一本ははめ込みができるように組合わせる。
3 2本ずつの柱組みが準備できたら、順次柱組と柱組の間に垂木(木と竹)を左右に組み合わせ縄で(近年はビニール紐や荷物梱包用の紐)固定していく。
4 木や竹で組み込まれた垂木組は大変美しい幾何学模様を呈する。
5 柱と垂木組みが終わったら其の外側に厚さが均等になるように茅を立てる。茅は厚さ4〜5p程度に広げていき、下から順に上の方向に並べる。その上に藁の穂先を下にして並べる。
6 小屋の表面に敷き詰めた茅と藁を横向きの竹で押さえ紐で固定する。上下を固定し止めた紐穴や押さえ竹の上をワラで押さえ雨漏りがしないようにする。最後に小屋の棟を藁で覆い、風でとばされない方法と雨漏りがしないための工夫を施した棟だけの押さえをしっかり固定して小屋ができあがる。
(3)湯の花小屋に「青粘土(ぎち)いれ」
湯の花の小屋ができた後、青粘土を小屋の中に運び込み敷き詰めていく。
1 小屋の床部分の小石を敷き詰めた硫気溝の上に土を10pほど広げ、厚さが平均化するように地面をたたき固める。
2 地面が固まり平らになったら、その上に青粘土を5p〜10pの厚さに均等にひろげ、地表面をたたき固める。
3 青粘土は粘土山の粘土層の上に覆いかぶさっている樹木や表土や石を取り除き、青粘土だけを集める。粘土そのものは柔らかなものであるが、塊として取り出されるので解きほぐしたものを小屋の近くまで運び込む。
4 小屋の中への運び込みは、せいぜい一輪車を使う程度で全て人力による作業である。
(4)湯の花小屋に「噴気の取り入れ」
1 湯の花小屋の設置場所の床全体が平均化した地熱を得られるかもしくは他の場所から噴気を引き入れることになる。
2 硫気溝の取り入れ口からまんべんなく噴気が幹線硫気溝を通り支線硫気溝へ、さらに小石と小石の間隙を通って床全体に行き届くように噴気量の調節をする。
3 噴気の取り入れ口と噴気の出口は目に捉えられないほどの勾配がつけられており噴気の量を調整する。
4 およそ1か月間様子を観察しながら噴気量・温度調節をする。
5 湯の花小屋は、わらぶき屋根の部分と硫気溝が設けられる床の部分からできている。(1)「床つくり」(2)「小屋つくり」(3)「青粘土入れ」(4)「噴気入れ」をモデル図にすると図6.2.3のとおりである。
(5)湯の花の採取・集荷・販売
1 青粘土を入れた後、湯の花ができるのは30〜70日程かかり採取する。
2 新しく作られた小屋で噴気量が豊かな場合は、日数が短くしかも生産量も多い。古くなった場合は、日数がかかりしかも生産量が少なくなる。
3 霜柱にも似た結晶が10o〜50oに成長するのを1か月程度まって採取する。
4 湯の花の採取は地表面に密集して生成した結晶を根元からコテで順次数か所に集める。さらに、箱や土嚢・かますにいれ集荷場に移送する。
5 それぞれの生産者によって集荷場では、赤・黄・白の湯の花に大別して集める。
6 集められた湯の花は販売や用途目的によって袋やパック詰めなどにより、商品として出荷販売を行う。
4 湯の花つくりのひみつ
(1)床作りの秘密
明礬製造に端を発する湯の花つくりは、昔からの伝統が受け継がれその製法には幾つかの秘密が盛り込まれている。湯の花小屋をつくる場所の選定、硫気溝を配置する床作り、茅や藁でつくる小屋作りなどどれを取り上げても一つ一つに長年かかって生み出してきた秘密が内包されている。
噴気の取り入れ口と取り出し口は、わずか数p程度の高低差がある。噴気は低いところから高いところに向けて通過していくが、逆に高いところから低いところには通りにくく途中で蒸気が窒息してしまい床全体に噴気が巡回しない。また、高低差が大きいと蒸気は硫気溝をすばやく通り抜けてしまい、支線溝を通り末端まで到達しないため床全体の中に蒸気が留まることなく出口から放出されてしまう。床の中にほんの僅かでも蒸気が取り出し口に抜け出していれば途中で窒息することはない。僅かな硫気溝の高低差が小屋の中に引き入れる噴気量や温度とかかわり重要な条件となる。
(2)湯の花小屋の作り方
湯の花小屋の温度や湿度の調整は、外気温によって行なわれ小屋の温度が著しく高温になったり低温になったりしないように調整される。おおむね小屋の中の温度は、噴気の取り入れ口で調節されるが、高温になった場合は噴気量を押さえる。また、温度と湿度とのかかわりで湿度が異常に上下した時にも調節することになる。
小屋の出口及び入り口の上に設けた三角形の通気口は、小屋の中の温度および湿度を調整するのに使われる。外気温や湿度と小屋の中の温度と湿度とを通気口の開放の程度で調整する。夏は平均的に大きく開かれるが冬は閉ざして温度の低下を防御している。
湯の花小屋の外は温度と湿度がともに変化が大きいのに対して、小屋の内は温度と湿度の変化がともにゆるやかで、しかもその差は少ない。
2つの通気口をのぞくと茅や藁で小屋全体が覆われているために温度や湿度の変化が小幅でゆるやかになるように調整されている。とくに、湯の花小屋が茅と藁によって覆われていることは小屋の中に水分が異常にこもることもなく自然にしかも緩やかに小屋の外に放出されることが大きな効果を生み出しているものと考えられている。
湯の花小屋の左右に開けられている出入り口の上に空けられた三角形の窓と出入り口の向きはねじれる形に作られており、直線状には出入り口は開かれていないのが普通である。それは、小屋の中を通り抜けていく空気が直線的に通り抜けることのないように工夫されている。温度と湿度の調和を図る小屋作りの工夫でその中に秘密が内包されている。
(3)青粘土の確保と役割
湯の花小屋の設置場所によって異なってくるが、幅4m、長さ15mでおよそ60m2程のわらぶき小屋の中に硫気溝を設け小石を敷きつめる。その上に藁を拡げ湯の花を採取して不要となった土を拡げる。さらにその上に特殊な青粘土を厚さ10p程に敷き詰め硬さや厚さが平均化するようにした後、噴気を小屋の地中に通し数週間放置しておくと湯の花の結晶が霜柱状になって生じ採取の運びとなる。その一連の作業過程の中でいくつかのポイントがある。
小屋の内部の構造で硫気溝の設け方や小石の敷きつめ方も噴気が小屋の床全体にまんべんなく行き渡るかどうかを左右することになる。小石と小石で囲まれその隙間を通り抜けていく通り道が常に開かれていることが大事で土が落ち込んだり小石が倒れたりすると蒸気の流れがうまくいかなくなってしまう。
湯の花の採取を繰り返し4〜6回くらいしていくうちに、当初は青色をしていた粘土が徐々に白くなり湯の花が採取できなくなる。湯の花の結晶ができにくくなってしまうとついには不要となった土として小屋の外に運び出され捨てられる。明礬や湯山の湯の花小屋近くの地表面が白い土で覆われているのは湯の花小屋で使い捨てられた青粘土である。
特殊な成分を含む青粘土の選び方や粘土の管理も重要なポイントとなるもので湯の花づくりの秘密である。湯の花の生産には、強烈な地熱と青粘土が必須の条件であるが、青粘土および噴気の質によって生産される湯の花が異なる。粘土は主に明礬および湯山に産出する。白色湯の花は多量の硫黄分を、赤色湯の花は酸化鉄を含有している青粘土が適しているといわれている。鉄分が多いとされている湯山の粘土は赤い湯の花が多く、硫黄分が多いとされる明礬の青粘土は黄色の湯の花ができる。
これらも噴気する地獄の質と青粘土とのかかわりで生じることがわかっているので今後の研究の成果に待ちたい。
(4)湯の花小屋の構造
湯の花小屋の中に引き込む硫気量の制御方法や湯の花の採取の時期などが湯の花生産の秘密で重要なポイントとなる。硫気量を多くし温度を高くすると地表面に密集してできる湯の花の結晶に斑ができる。成長の速度はやや速めであるがその分だけ採取の回数が少なくなりまもなく湯の花が取れなくなる。また、硫気量が少ないと湯の花の結晶のできる速度がのろくなり生産量が落ちる。これらの秘密は、限られた湯の花生産に携わる人のみが経験できることであり先輩から直伝される事と重ね合わせて感得する貴重な秘密である。
(5)湯の花生成のメカニズム
湯の花の生成の発端は、明礬製造の方法が多くの部分で生かされた。明礬製造の過程で生じた礬土と湯の花生成の過程とが同じであり、明礬製造の半製品が湯の花であった。その過程の科学的な背景は京都大学の瀬野錦・吉川恭三・由佐悠紀らによって研究されており、要約するとおよそ次の通りである。
「噴気(硫気ガス)に含まれている硫化水素と二酸化硫黄は、酸素の供給のし方によって過酸化硫黄となる。鉄やアルミニウムを含んでいる青粘土の硫気溝部分に近い面は、少しずつ冷却で水滴を生じ過酸化イオウが解け出して硫酸になる。それに対して青粘土の地表面に近い面は徐々に蒸発し乾燥するので青粘土の細隙を通して毛管現象によって硫酸溶液は上昇していく。その上昇の途中で硫酸は青粘土中の鉄、アルミニウムを溶出する。このようにして生成された硫酸鉄、硫酸アルミニウムの溶液が青粘土の地表面に近い部分に浸出するとゆるやかな蒸発によって、赤・黄・白色の針状の結晶(霜柱状)が湯の花(ハロトリカイトとアルノーゲンの混合物)として、粘土上に密生する。明礬は硫黄分の多い黄色の湯の花の製造が主で、湯山では酸加鉄分の多い赤色湯の花の製造が主に生産されてきた。」
湯の花は、一度青粘土をいれると採取するまでの日数や取れ高に多少の違いはあるが、5回から6回採取でき、生成する湯の花は次第にアルノーゲンの多い物質に変わっていく。湯の花の結晶がとれた後の粘土は、徐々に二酸化ケイ素の組成比が大きい白っぽい物質となっていき、ついには湯の花小屋から取り出し廃棄される。
(6)湯の花の用途
今日の湯の花の活用法の主流は入浴剤である。明治から大正・昭和初頭にかけては湯の花が入浴する温泉気分を味い湯治の一つの重要な要素となっていた。戦後の湯の花は入浴剤の王者として重宝され、その効果も数多く立証されてきた。
平成の今日ではおよそ180種類の入浴剤が市販されており効用も多種多様である。それぞれの時代の社会変化のニーズにこたえるものとして特徴があるようである。
時代の流行にあわせて、ハーブ、緑茶、ゆず、ミカン、びわ、ショウガ、檜、豆腐、牛乳、にがり、唐辛子,木炭いりなど夥しい数に上っている。その効用についても身体を温めたり色や香りを楽しんだり、美肌効果作用、発汗作用、血行促進などのプラス作用が好まれている。又、おまけ付き入浴剤として水戸黄門、黄金の湯、おみくじの出てくるもの、昭和思い出の歌謡曲CD つきなどもある。また全身パックすることで美肌づくりの効果があるとされる温泉泥によるものもある。
今日に於いては、明礬地区と湯山地区で湯の花の生産が続けられている。平成18年に国の重要無形民俗文化財に別府明礬温泉湯の花製造技術が指定され各方面から注目されることとなった。しかし、生産コストの採算や原材料としての青粘土の不足や湯の花小屋の建て替え・湯の花自体の需要とのかかわりで多くの問題を抱えることとなった。
5 湯の花生産の展望
平成17年から湯の花保存会を立ち上げ、平成18年に指定を受けて以降、国指定の重要無形民俗文化財としての湯の花づくりの技術の継承と後継者確保に向けて、行政の援助と湯の花保存会の協力で活動を進めている。
とりあえず平成20・21年の両年にわたって湯の花製造の原材料となる青粘土の確保に向けて明礬や湯山地区を調査しボーリングを行った。試掘によって得られた青粘土は極上の質を有するものとはいえないまでも青粘土の存在が確保された。試掘で得た青粘土を専門的に成分分析するなどの方法によってより科学的な論拠を見つけるべく努力しているところである。
湯の花製造の技術保存のためのDVD を平成21年度に作成するなどの取り組みも行っている。また、湯の花の製造技術や湯の花自体の有効な活用方法等についても新しい試みを行っており地域に開かれた文化財的価値や伝統産業資源としての価値も期待されている。また、貴重な別府地域の観光資源としての価値も増大しており各分野からの注目を集めている。
近年、江戸時代に生産されていた豊後明礬の精製法が永い間不明であったが、明礬礬土とハイノキの木灰汁によって明礬の結晶が再確認され豊後明礬精製法が明らかになった。加えて豊後明礬を生産した豊後の人々が鹿児島の温泉郷に招かれ薩摩明礬の生産にかかわったことが明らかとなり郷土の先人の偉業を背景とした湯の花生産の資源価値を重視していきたいところである。  
第3節 建造物
本節では、地区の生活や生業、歴史等の観点から抽出された文化的景観を構成する上で重要な要素が両地区内に如何に分布し、地区の文化的景観を構成しているのかを把握する。その結果、人々の生活・生業による対象地区の景観構成要素の相互関係を明らかにすることを目的としている。
1 地区の構成的特性
鉄輪温泉地区の構成的特性
断面図(図6.3.1)より、鉄輪温泉地区は緩やかな傾斜地に位置していることがわかる。また、全体図面(図6.3.2)より、地区の東部に「旅館」「共同温泉」「住宅」「商店」の分布が集中しており、さらに西部には地獄地帯が広がり、この地獄地帯を利用した観覧施設が複数件見られる。これらは、地獄めぐり等の名前で別府市の主要な観光施設として知られている。さらに、熱の湯から南北に切った断面図(図6.3.1)から、地区の構成として「共同温泉」を中心に「旅館」「商店」「住宅」が建ち並んでいることがわかる。全体図(図6.3.2)を見ると熱の湯、渋の湯、谷の湯などの「共同温泉」の近傍に旅館が分布し、その間をつなぐように小型の「商店」が並んでいることがわかる。このような組み合わせが対象地区にはいくつも存在している。
さらに、九州横断道路が昭和39年(1964)に開通することによって、その以前には見られなかった中高層の大型旅館が九州横断道路沿いを中心に建ち並ぶようになり、現在の景観を形成している。
また、全体図(図6.3.2)より、大型の湯けむりを発生させる「気液分離装置〈タンク〉」の多くが旅館やその近傍に併設されていることがわかる。これらの「気液分離装置」は、地区全体に広がって分布している。そして、「地獄釜」の多くが、土地所有者によって管理されており、それらは主に旅館、貸間経営者などである。そのため、「旅館」「貸間」の近くに併設されていることが多いことがわかる。
明礬温泉地区の構成的特性
断面図(図6.3.3)より、明礬温泉地区は比較的急な傾斜地となっており、高低差は約50m になる。また、全体図面(図6.3.4)より、「湯の花小屋」の分布は、地区北部の北側と南側に大別できることがわかる。かつて明礬温泉地区は、中央を流れる「平田川」によって隔てられており、北部は天領で野田村、南部は森藩久留島侯の領地で鶴見村に属していた。湯の花採取の場所が二分されるのは、この歴史と関係が深い。特に現在も利用されている北側の湯の花製造関係の施設群と、現在は利用されていない南側に残る湯の花製造組合の事務所跡もこの歴史を説明している。
また、現在は地蔵泉、鶴寿泉、神井泉の3つの「共同温泉」を中心に「貸間」や「旅館」が取り囲む様に建ち並んでいることがわかる。これらの「共同温泉」をつなぐ道が、原風景形成期を含む[明治18年(1885)‐昭和23年(1948)]のメインストリートであったと考えられ、土地利用の変遷と要素分布の傾向から、現在の明礬温泉地区の特徴は3つのエリアに分けて捉えることができる。かつて天領であった地区の北部には住宅が多く存在し、山側に湯の花小屋が密集している。ここは主に、湯の花の製造が営まれていた地区である。これは、湯の花精製所の石製門があることからもわかる。現在は、観光客向けの観覧施設や売店が存在するが、全体的な傾向としては「神井泉」を中心とする住宅が多いエリアでもある。かつて森藩であった地区の南東部は、「鶴寿泉」を中心として、旅館街として栄えてきた。現在も明礬温泉地区にあるほとんどの旅館がこのエリアに分布している。地区の西部は、「地蔵泉」を中心に以前は南東部と並んで栄えたエリアであり、「旅館」や「住宅」、「公民館」が混在しているものの、現在は休業している旅館が多い。また、地区西部の中心に分布する「地蔵泉」は湯量の減少を理由に現在は閉鎖されている。
明礬温泉地区の「地獄釜」は、ヒアリング調査によると、かつては多数あり共同管理であったとされる。しかし、現在は12機と数が少なく、これらは土地所有者の専有として、管理されている。
2 文化的景観構成要素の分布と生活・生業の関係
鉄輪温泉地区
拡大図(図6.3.5)より、「地獄釜」や「気液分離装置」は「旅館」のごく近傍に併設されていることがわかる。また、「共同温泉」を中心として「旅館」や小さな「商店」が分布している。これは、かつて貸間に宿泊している湯治客が、近くの共同温泉や商店を利用して生活していたことと関係が深いと考えられる。この地区が、湯治場として発達してきたことを示す地区の構成的な特徴であるといえる。また、拡大図と貸間旅館の平面図より「住宅」は「旅館」に併設されているか、それらの間隙に分布していることがわかる。
貸間旅館F の建築平面図(図6.3.6、図6.3.7)より、「旅館」のセミパブリック空間には、食材を調理するための「地獄釜」や洗濯物を干すための「オンドル室」が設けられており、これらを利用するために必要な食材や洗剤などの日用品を、最寄りの「商店」で購入して生活をしていることがわかる。また対象旅館F は、湯治客の増加に伴い、母屋を中心に客室、浴場の増築を繰り返している。以前は貸間旅館に専用の浴場はなく、湯治客等は近くの「共同温泉」を利用していたが、旅館内に内湯が整備されることで、旅館近くの「共同温泉」はあまり利用されなくなっている。さらに、地階には大広間があるが、これも湯治客の減少によって、現在は倉庫として利用されている。
「共同温泉」谷の湯の建築平面図(図6.3.8、図6.3.9)より、「共同温泉」の上階には公民館が併設されていることがわかる。これは現在多くの区営「共同温泉」でみられる傾向である。また、この温泉は区有区営の温泉であり、住み込みで管理するための居室も上階南側に有している。
明礬温泉地区
拡大図(図6.3.10)から現在でも「共同温泉」の鶴寿泉を中心に、「旅館」が多く分布していることがわかる。
湯治客は貸間に宿泊し、近隣の「共同温泉」を利用して生活していたと考えられる。これは、湯治場として発達したことを示す地区の構成的な特徴であるといえる。また、「薬師湯の滝湯跡」「湯の花組合事務所跡」など湯の花製造や地区の歴史を現在に伝える構成要素が複数残っているエリアでもあり、現在も鶴寿泉を中心とした構成的特徴がみられる。図6.3.10西部に「湯の花小屋」が分布しているが、湯の花の需要の変化等により、その一部は現在地熱を利用した観光客向けの売店や食堂となっている。また、「湯の花組合事務所」も現在では利用されておらず、近隣旅館の倉庫として利用されている。
「旅館」Y の建築平面図(図6.3.11、図6.3.12)より、薬師湯跡や鶴寿泉前の国道500号に伸びる道をはさんで1軒の「旅館」Y の施設が立地していたり、その沿道には住宅や小型の「旅館」が複数分布するなど、住民や湯治客の往来の多い地区の目抜き通りであったことが推察される。建築平面図(図6.3.11、図6.3.12)より、敷地北側の棟は、かつて湯治客の多い時期は客室であったが、現在は住宅や倉庫として使われている。また、宿泊者専用の緑礬泉などの施設も設けられており、現在でも通りを挟んだ宿泊客の往来がみられる。さらに鶴寿泉前には、植栽やベンチが配置され、便所等も外からのアプローチとして整備されていたり、現在でも宿泊客や、住民の動線が交錯する通りであるといえる。
但し、かつては見られた湯の花製造に関係する人の往来は、現在ではほとんど見られない。
3 文化的景観構成要素の相互関係による景観の特徴
対象地域の文化的景観を構成する主要な要素によって、どのような景観が形成されているのかを、いくつかのシーンを例に詳説する。この際、景観構成要素の相互関係や生活・生業との関係性を中心に考察する。
鉄輪温泉地区
図6.3.13より、大型の「気液分離装置〈タンク〉」が多く存在するため、遠距離型の大規模な湯けむりがみられる。また、「共同温泉」の近くに「住宅」「商店」が密集し、奥には大型の旅館建ち並んでいることがわかる。鉄輪温泉地区の構成的特徴を反映する代表的な景観である。
図6.3.14より、奥に写る建物が貸間の形態をとる「旅館」D である。同旅館の創業は大正中期〜昭和初期の間である。敷地内の建物に隣接して地熱や蒸気を湯に分離する「気液分離装置〈タンク〉」が設置されており、鉄輪温泉地区内の他の旅館でも同様の傾向がみられる。この「気液分離装置〈タンク〉」から立ち上る湯けむりは規模も大きく湯けむり景観の重要な構成要素である。また、この装置から配管が多方向に伸びていることから、湯を他の「旅館」や「住宅」にも供給していることがわかる。さらに、この「旅館」は同地区の湯治宿に特徴的な「地獄釜」を併設している。温泉の噴気を利用して食材を蒸す調理法で、明治43年(1910)頃から住民の炊事用に用いられていたものが、次第に湯治客にも利用されるようになったとされる。現在では湯治客や住民だけにとどまらず、日帰りの観光客も利用できるよう貸出がされている。また、この「地獄釜」は町並み景観における湯けむりの発生源にもなっている。
鉄輪温泉地区は扇状地の一部に位置しており、地区全体が緩やかな傾斜地であることが図6.3.13の建物配置や断面図(図6.3.1)からもわかる。図6.3.15より、左奥には九州横断道路沿いに大型旅館が建ち並んでおり、地区内部には住宅が密集している。そのなかの一角に「共同温泉」の谷の湯がある。同「共同温泉」は弘化2年(1845)の書籍にも掲載が確認されていることから、古くに拓かれたことがわかる。現在は主に近隣住民に利用されており、自治会によって管理運営がされている。また「谷の湯」周辺にも大型旅館があり、それらに併設されている「気液分離装置〈タンク〉」からは大きな湯けむりが立ち上っている。特に右手前に見える「気液分離装置〈タンク〉」は、複数の施設の源泉を担っているため、他の装置に比べ大型である。
明礬温泉地区
図6.1.16より、明礬温泉地区は山裾から広がる地域であるため、周りは山に囲まれており、地区のどの場所からでも後背緑地を視認できる。手前には小型の旅館群が分布しており、奥には「湯の花小屋」が建ち並んでいる。図6.1.16のように、大規模な湯けむりはほとんどないが、近距離景観では湯の花小屋や法面等から立ち上る多数の湯けむりを見ることができる。
図6.3.17より、左の「共同温泉」である神井泉は、縦羽目張りと鎧張りが混在している壁面が特徴的である。昭和43年(1968)には所在が確認されており古くからこの地区に存在していたと考えられる。施錠された混浴であり、地域住民専用の「共同温泉」である。源泉は明礬温泉地区北側の湯の花製造を取り仕切っていたW 商会が有しており、管理運営は利用客である地域住民が行っている。「神井泉」奥に映る「石垣」もW 商会周辺から掘り出した別府石を用いて作られたものである。特に明礬温泉地区特有の景観を構成しているのが「湯の花小屋」である。この地区は天領の地で、古くから明礬や湯の花の生成に力を入れていた。W 家が領地を譲り受けてからも、湯の花の生成に力を入れていたため、この辺りや山裾に湯の花小屋が多く現存している。
図6.3.18より、左に観察できる湯けむりは「地獄釜」から発生している。この「地獄釜」はO 売店の所有である。温泉の蒸気を利用して調理した軽食などを店で提供している。鉄輪温泉地区に比べると地区全体の「地獄釜」の分布数は少なく、また大規模な湯けむりを発生させる「気液分離装置」も数が少ない。しかし、鉄輪温泉地区のような遠距離の湯けむり景観ではなく、「湯の花小屋」や側溝から漏れ出るように立ち上る湯けむりによって、写真のような近距離の湯けむり景観がこの地区の特徴である。同様に近距離の湯けむりを創出するものとして「明礬地獄」がある。ここには、高温で歪な地面が露出しており、直接地面から湯けむりがあがっており、類似した自噴口が同地区には複数見られる。「湯の花小屋」はこのような地獄を利用してつくられている。かつては、湯の花製造や湯治宿などによって栄えてきたが、現在ではO 売店にみられるような日帰り立ち寄り客を主な対象とした、湯の花小屋の観覧施設と旅館が主な生業となっている。但し、現在では減少しているものの湯治宿も立地している。  
 
 
宮崎県 / 日向

 

福岡佐賀長崎熊本大分宮崎鹿児島沖縄

朝月の日向黄楊つげ櫛、古りぬれど何しか君が見れに飽かざらむ万葉集
高千穂 / 西臼杵郡高千穂町ほか
瓊瓊杵ににぎ尊の天孫降臨の地といはれる高千穂峰は、伝承地が県内に二ヵ所ある。
一つは西臼杵郡高千穂町の二上山で、麓に高千穂神社(二上神社)がある。源頼朝の代参に詣でた畠山重忠が植ゑたといふ秩父杉が、八百年後の今に伝はる。古い鉄製の狛犬も重忠公ゆかりのものといふ。
○ 高千穂の二上見ればすめがみの 天降りましけむ古へ思ほゆ 鹿持雅澄
ここから五ヶ瀬川を下ると、速日峰があり、饒速日にぎはやひ尊が天降った地ともいふ。
○ 速き日の峰から明けて国の春 露傘
もう一つは鹿児島県境の霧島連峰の高千穂峰で「雲に聳ゆる高千穂の」と唱歌に歌はれた。幕末以後の「雄大」を好む傾向の歌はこちらを詠んだものである。
○ 皇神の天降りましける日向なる 高千穂の嶽やまづ霞むらむ 楫取魚彦
霧島六社権現は平安時代に性空上人によって開かれたといふ。付近には奇岩と称するものが多く、小林市東方の石瀬川の陰陽石を歌ふ歌もある。
○ 浜之瀬川には二つの奇石 人にゃいふなよ語るなよ 野口雨情
鵜戸神宮(鸕鷀 草葺不合尊) / 日南市
鵜戸うど神宮は、鵜草うがや葺不合ふきあへず尊をまつり、社殿は日向灘に面した洞窟の中ある。この神は、母神の豊玉姫が産屋の屋根を葺き合へぬうちに早産した神といふ。
○ あはれとも思ふや祖母の懐を 葺不合の神風の声 伊東義祐
○ 千早振る神代に今もかへる波の 玉依るなぎさみ前にぞなる 玄与日記
南へ行くと串間市の「宮の浦」がある。玉依姫は鸕鷀 草葺不合尊の后神。
○ 里人に問はずばいざや白波の 玉依姫の宮の浦とは 伊東義祐
小戸の瀬 / 宮崎市鶴島
宮崎市の大淀川の下流を「小戸の渡」といった。小戸は大淀の訛だらうといふ。永禄のころの伊東義祐「飫肥おび紀行」の歌。
○ 神代よりその名は今も橘や 小戸の渡りの舟の行く末 伊東義祐
○ 日向なる小戸の渡りの潮せみに 顕はれ出でし神ぞまします 伊東義祐
河口付近の「小戸の瀬」は、古来からの禊ぎの地であったらしく、小戸神社がまつられ、夏越し歌に歌はれる。
○ 港口には黄金の真砂 沖の小戸の瀬 宝浮く
式部塚 / 西都市鹿野田
むかし京で皮膚病を患った和泉式部が、清水きよみづの観音さまへ詣でると、三薬師に祈れば平癒するといふお告げだった。そこで越後の米山薬師、三河の鳳来寺とめぐって、最後に日向国諸県郡の法華岳薬師に来た。幾日も参籠して祈りを続けたが、いっこうに良い兆しは見えず、悲嘆して歌を詠んだ。
○ 南無薬師諸病悉除の願立てて 身より仏の名こそ惜しけれ 和泉式部
(死に行くわが身は惜しくはないが、治せぬ仏の名が惜しい)
するとどこからか歌が聞えてきた。
○ 村雨はただひとときのものぞかし 己が蓑笠(身の瘡)そこに脱ぎおけ
歌の通り式部が蓑笠を脱ぐと、もとの美貌をとりもどしたといふ。式部は晩年にお礼詣りのために再びこの地を訪れたが、帰京の途中、急病で世を去ったといひ、西都市鹿野田の式部塚といふのがその墓だといふ。似た話は各地にある。
那須大八郎 鶴富姫 / 東臼杵郡椎葉村
東臼杵郡の山間の椎葉村に、平家の落人が逃れて暮らしてゐた。この山里に追討軍としてやって来たのが、那須与一の弟の那須大八郎である。落人たちの中には大八郎に刃向かって殺された者もあったが、多くは従順な態度で降伏した。大八郎は無用な殺生を避け、鎌倉には全員打首にしたと報告し、しばらくこの静かな山里で暮らすことにした。落人たちは大八郎の寛大な処置に感謝し、また鶴富つるとみ姫といふ美貌の娘に身の回りの世話をさせた。二人は深い仲となり、姫は大八郎の子を宿した。だが大八郎にはやがて鎌倉へ帰る日が来た。大八郎は姫に那須家伝来の「天国の太刀」を与へ、生まれた子が男子ならこの刀を授けて那須へ連れて来るやうに言って、村を後にした。
○ 那須の大八 鶴富おいて 椎葉立つときゃ目に涙 稗搗節
生まれた子は女の子だったが、成長して婿をもらひ、婿は那須下野守宗久と名告った。今でも椎葉村には那須姓が多く、この昔話を伝へてゐる。村の十根神社には大八郎が植ゑた栃の木が茂る。
平景清 生目神社 / 宮崎市
平景清は、壇ノ浦の決戦に敗れ、日向国に流された。のち許されて源頼朝から所領を賜ったことから、それまでの復讐心をあらため、そのしるしに自ら両眼をくり抜いて見せたといふ。その両眼は空を飛んで、生目神社(宮崎市)のあたりに落ちた。その眼をまつったといふ生目神社(生目八幡社)は、眼病に霊験ありとして信仰されてゐる。
○ 景清く照らす生目いくめの鑑山 末の世までも雲らざりけり 池田喜八郎
日向の伊東氏 / 日南市
霧島山の北の麓の小林市真方の愛宕神社に珍しい石碑があり「霧嶋御宝前敬白 元亀三年三月二十三日」と刻まれてゐる。元亀三年(1572)三月とは、戦国時代に日向の伊東氏と薩摩の島津氏が、木崎原(えびの市)で決戦した二か月前のことで、伊東の武士たちが篭もって霧島六所大権現に戦捷祈願したときのものといはれる。その日は、二十三夜の月待ちの日で、農民たちは村の一か所に忌篭りをして豊作を祈る日だったが、武士も同じ日を選んだやうだ。
○ 二十三夜の月さへ待てば 思ひかなはぬことはない
合戦は島津氏の勝利となり、日向は島津氏の支配下となっていった。伊東氏の一族からは、天正の少年使節の伊東マンショが出てゐる。飫肥おび城下(日南市)の伊東家墓地にはマンショの母の墓がある。
○ マンショの母が古墓去りかねて 飫肥に日暮れしわが冬の旅 野田宇太郎
諸歌
○ なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ 幼かりし日聞きしごとくに 若山牧水 
 

 

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吐濃(つの)の峰
日向の国の古 捨郡《普通には児湯郡と書く》に吐濃の峰という峰がある。神がおいでになる。吐乃の大明神とぞ申すのである。昔、神宮皇后が新羅を討ち給うた時、この神をお迎えして、御船に乗せ給うて、船の舳先を護らせ給うたが、新羅を討ちとって帰り給うて後、韜馬(うしか)の峰と申す所においでになって弓を射給うた時、土の中から黒い物が頭をさし出したのを、弓の筈で掘り出し給うたところ、男一人、女一人であった。それを神人として召し使った。その子孫が今も残っている。これを頭黒(かしらくろ)という。始めて掘り出された時、黒い頭をひょっこり差し出したからであろうか。その子孫はふえはびこったが流行の疫病で死にうせ、二人になってしまった。そのことは、かの国の記録に行っているところによると、「日々死に絶えて僅かに残ったのは男女両口のみ」という。これは、国守が神人を駆使して国の課役に使ったので明神が怒って、悪い病気をはやらせたから死んだのである。
これはある種の人々の起源を語る伝承であるという意味で、民族起源神話や氏族起源神話といえると思います。「最後には二人になってしまった」とはいうものの、その子孫は今も残っているといっているのですから、家としては残っているということでしょう。
どうも九州の風土記には神宮皇后が登場することが多いようですが、これは当地に女神の信仰があったことを予想させます。それが中央王朝の政権安定化を受けて神功皇后伝承に変化して行ったのではないかと予想できます。その意味ではこの「頭黒」も王権に関係がある。文中では神人として召し使った、つまりツノ大明神に仕えたということになっていますが、後世の京都の八瀬童子につながるような存在だったのかもしれません。
それにしても「頭黒」という名称、土に埋まっていたという出現など、台湾の小人伝承との関係性をどうしても考えてしまいます。体が小さかったとは全くかかれていませんが、弓の筈で掘り出せる程度ということは小さい気がします。
地中から出現というのは人類起源神話でも存在するモチーフですが、確かパイワン族の小人伝承であったと思います。まあ氏族の始祖といっしょに出現するので、その辺も似ているかも。
あと「黒い」。台湾の小人は普通中国語では「矮黒人」と翻訳されます。皮膚が黒いという描写は原住民がしているものですが、原住民の人たちも南方系民族ですから皮膚は日本人よりも黒いです。「黒い皮膚」に何かしら特殊な意味づけがあったと考えるべきかもしれません。
あとはふえはびこったのに疫病で死んで二人になったとあります。サイシャットの小人は疫病で死んだわけではありませんが、最終的に年老いた男女二人になっています。つまり「失われた種族」です。まあこちらの伝承では「子孫が残っている」と言っていますが、この伝承が後代どのように語られたいたのか興味がわいて来ます。 
韓〔木患〕生の村
昔、〔加/可〕〔王差〕武別(かさむわけ)といった人が、韓国に渡って、この栗をとって帰って植えた。この故に〔木患〕生の村とはいうのである。風土記にいう、俗語には栗のことを区児という。それならばつまり韓〔木患〕生の村というのは、韓栗林ということか、といっている。(『塵袋』二)
書紀一書などに載る「高千穂の 悌触之峯(くじふるのたけ)」との関係性で注目される記事のようです。日韓同祖論でも言及されているのではないかと推測されます。
とりあえず記紀万葉風土記などにおける「韓」の用例を調べて見る必要があるでしょう。また同時代日本に入っていたと思われる中国文献でも「韓」の用例を調べなければ、当時の「韓」のイメージが見えてこないでしょう。
「韓」が朝鮮半島を指しているのはまあ間違いないでしょうが、そのイメージと言うのは地域の現実や国家関係とは違う次元にあると思われます。
というか朝鮮半島の古代文献で「韓」を自国を表す言葉だと言う認識が確定的なものなのかも疑問があります。朝鮮なのか韓なのか?韓は三韓か?三国は韓か?と言ったような疑問です。
内容的には朝鮮半島からの栗の将来伝承、とも取れるような内容ですが、「この栗」というのは特定の場所の特定の栗の木を指したのもなのか?或いはこの村の地名起源として栗の木が重要だったのかもしれません。
原文がネット上にないようなので、上のような立場で考えて見たいですが、これはこの地域に朝鮮半島出身者が多かったということなのかも知れず、または朝鮮半島との交流が盛んな地域だったと考えることが出来るでしょう。
やはり九州は朝鮮半島との交流が盛んだったようですので、移住者も多かったようですし、それによって異なる新しい文化が流入したりすることが多かったと思います。
あと「くしふ」の意味についても同様です。「くし」と言えば「奇し」なわけですが、「くしふ」にも何か特殊な意味があるような気がします。動詞?でしょうか?辞書を引くと「くしぶ」は「神秘的な力を持っている」「不思議な働きをする」などと解釈されていますが。ということは埼玉の高麗神社のように朝鮮半島からの移住者がもたらした政治や文化を尊んだことに由来する地名かもしれません。 
高日の村
先師が申されるには、風土記を考えると、日向の国の宮崎の郡。高日の村。昔天よりお降りになった神が、御剣の柄をここに置いた。それで剣柄(たかひ)の村といった。後の人は改めて高日の村という。云々。(『釈日本紀』)
天から降った神が武器や装飾品を置いていったという伝承は『常陸国風土記』などにもありますから、どこにでもある伝承のような気もします。でも本当に全国的に分布している伝承なのかどうか、調べてみる必要があるかもしれません。
なぜなら台湾原住民の民族起源伝承の類型などを見ると、神の降臨を語るタイプもありますがそうでないものも多いからです。
もちろん神の降臨を語る伝承が必ずしも民族起源伝承から発展したものだとは言えないですが、しかし世界観として天上に神聖な世界が存在していることが前提になるはずです。もちろん天上世界が全く描写されないことも多いですが。
この伝承ですが、やはりニニギノミコトの伝承ということなのでしょうか?でもニニギならばニニギと書くような気もします。ともかくこの日向に神が降臨したという伝承があったことだけは確かなのでしょう。
それと同じく『釈日本紀』から引用されている「逸文」には「日向」の国名由来譚が載っています。景行天皇が「この国の地形はまっすぐ扶桑のほうに向かっている。日向と名づけるがよい」といったとか。「東に向かう国」と「西に向かう国」(東にある、西にあるではない)という区別があったのかもしれません。
太陽、というか日の出の方向と神の降臨にはなんらかの関係があるのでしょうか?台湾でも神の降臨を語るアミ族はやはり東海岸の民族ですが。
しかしその理屈でいうと、出雲国には降臨神話は存在しないことになりますが、そんなことは無いか。
「日向」という地名は「日本」よりも古いと思いますし、地元で考え出された地名でしょう。そこでやはり「太陽に向かう」という地名がついている点は日本という国家の思想的ななりたちについて考える上で非常に興味深いものがあります。
剣柄についてですが、降臨した神が武具を持っているというのは注意するべきかもしれません。
神が武器を持っている必然性は無いわけですから、その属性を表していると考えるべきでしょう。つまり「神とは戦うものだ」或いは「強い力を持っていることを武器で表現した」ということです。 
知鋪郷
日向國風土記曰 臼杵郡内 知鋪郷 天津彦々火瓊々杵尊 離天磐座 排天八重雲 稜威之道々別々而 天降於日向之高千穗二上峯 時 天暗冥  晝夜不別 人物失道  物色難別 於 有土蜘蛛 名曰大二人奏言  皇孫尊 以尊御手 拔稻千穗爲籾 投散四方 必得開晴 于時 如大等所奏 搓千穗稻 爲籾投散 即天開晴  日月照光 因曰高千穗二上峯 後人改號知鋪(釋日本紀卷八・萬葉集註釋卷第十)
日向国の話ですが、ニニギの天孫降臨にまつわる一つのエピソード、と言ったところでしょうか?ニニギが降臨してきたころ、天地は真っ暗で昼夜の区別がなかったといいます。そこで土蜘蛛の「おおくは・こくは(大〔金甘〕)・小〔金甘〕」というもの進言し、ニニギが稲千穂を四方に投げ散らすとたちどころに天が晴れて日月が輝いた、という話です。高千穂という地名の由来譚にもなっています。日月が輝いたことから二上?でしょうか?まあ二上山という山は結構あちこちにあるようですが。
台湾原住民の神話で「昼夜の区別がない」というと普通は太陽が二つあるという話になります。「射日神話」です。しかしここでは暗闇で昼夜に区別がないということになっています。こういう伝承は中国の少数民族には幾つかあったと思いますが、基本的には英雄神話だったと思われます。黒雲を発生させている悪龍を退治するとかそういう話です。しかしこの伝承で重要なのは「稲を撒き散らす」という行為でしょう。なぜ稲を撒き散らすと天が晴れるのでしょうか?
気になるのは「拔稻千穗爲籾」の「籾にする」という部分です。私はこれが重要なのではないかと思います。
「おおくは・こくは」は暗黒を解消する方法を知っているにもかかわらず、自分では出来ず、ニニギに頼むわけですが、「籾にする」という行為が文化的な行為であるということでしょう。籾殻を被ったままの稲は自然の植物の種に過ぎませんが、それを脱穀することで人間が食べられる状態になるわけです。 
天岩戸神社 天安河原(あまのいわとじんじゃ あまのやすかわら) / 宮崎西臼杵郡高千穂町岩戸
東西の宮に分かれており(元々別々の神社であったが、昭和時代に合併した)、御神体は川のそばの断崖にある岩屋となっている。伝承では、この岩屋こそが天照大神が隠れたとされる天岩戸であるとされ、瓊瓊杵尊が天孫降臨を果たした後に古蹟を偲んだのが始まりと言われる。弘仁3年(812年)に大神惟基が再興するが、江戸時代には岩屋を遙拝する施設がある程度であり、明治4年(1871年)にようやく“神社”の名称が付けられている。
天岩戸は西本宮の拝殿の裏手あたりにあり、社務所で申し込みをすると遙拝所まで案内してもらえるが、実際にはその場所からもほとんどその姿を見ることはできない。見えるのは岩戸が崩落した後の一部のみである。
そして西本宮から500mほど歩いていくと、天安河原に辿り着く。こちらも天岩戸伝説の重要な舞台であり、岩戸に隠れた天照大神にいかに出てきていただくかを八百万の神々が集まって相談した場所とされる。河原には数多くの石積みがあり、仰慕窟(ぎょうぼいわや)には思金神を主祭神とする天安河原宮がある。
天岩戸伝説 / 弟神である素戔嗚尊の横暴に怒り、天照大神は天岩戸に籠もってしまう。太陽神を失った世界は闇に閉ざされてしまったため、様々な災いが起こった。そこで神々は天安川の河原で相談をして、様々なことをおこなった。思金神は長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。石凝姥命は八咫鏡を作った。玉祖命は八尺瓊勾玉を作った。天児屋命が祝詞を唱え、太玉命が御幣を捧げ持った。そして岩戸の前で天鈿女命が肌を露わにして踊った。外が騒がしいので天照大神が少しだけ岩戸を開けて尋ねると、貴方より尊い神が現れたと言って、すかさず鏡を見せる。自分の姿が映っているとは思わない天照大神は、もう少しよく見ようと身を乗り出す。そこで天手力男神が岩戸をこじ開けて天照大神を引っ張り出すことで、ようやく世界は元の状態に戻った。天児屋命・太玉命・石凝姥命・玉祖命・天鈿女命の五神は、その後瓊瓊杵尊の天孫降臨の際に同行する“五伴緒”となる。
思金神 / 知恵の神とされる。瓊瓊杵尊の天孫降臨の際に随伴する。
鵜戸神宮(うどじんぐう) / 宮崎県日南市宮浦
日向灘の断崖の中程にある海蝕洞窟の中に本殿が鎮座する。祭神は彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)であり、この地が生誕の地とされている。
父である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)は、なくした釣り針を求めて海神の宮殿へ赴く。そこで出会った海神の娘である豊玉姫を娶った。3年間海の宮殿で暮らした後、山幸彦は釣り針を取り戻して、兄の海幸彦を打ち負かした。
それからしばらくして、海神の宮殿から豊玉姫が訪ねてきた。姫は懐妊しており、天の神の子を海で産むわけにはいかないので、陸に上がって来たのである。浜辺に産屋を造営し始めたが、鵜の羽を葺く前に産気付いてしまい、そのまま産屋に入った。その時「他国の者は子を産む時は本来の姿に戻る。私も本来の姿に戻って子を産むので、決して姿を見ないで欲しい」と夫に告げたのである。
しかし山幸彦は、妻の忠告を不思議に思い、産屋の中を覗いてしまう。すると、一匹の大きな和邇(鰐または鮫)がのたうち回っていたために、山幸彦は慌てて逃げてしまった。本当の姿を見られたことを恥じた豊玉姫は、生まれた御子をおいて海に帰ってしまったのである。
本殿のある洞窟には、乳房に似た“お乳岩”がある。これは海に帰る際に豊玉姫が御子のために片方の乳房をくっつけたものであり、ここから出る“お乳水”を使った飴で御子は育ったとされる。
また洞窟の前にある亀石は、豊玉姫が海神の宮殿から来た時に乗ってきた亀が石と化したものであるとされる。背中の部分に凹みがあり、そこに“運玉”と呼ばれる素焼きの粘土玉を投げ入れて願を掛ける光景は風物となっている。
日向三代 / 天孫降臨を果たした彦火瓊瓊杵尊、その御子の彦火火出見尊、さらに孫の彦波瀲武盧茲草葺不合尊の3代を指す。茲草葺不合尊の御子が後の神武天皇となる。
徐福岩(じょふくいわ) / 宮崎県延岡市山下町
今山八幡宮の入り口駐車場の一隅に徐福岩がある。
かつて八幡宮のある小高い山は蓬莱山と呼ばれ、この地に秦の徐福が来訪し、様々な文化伝えたとされる。徐福岩は、徐福一行が上陸する際に船を繋ぎ止めた岩であると伝えられている。
徐福 / 司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝に対して不老不死の神薬が東方の蓬莱にあると進言し、多くの人と富を乗せた船で東へ出発したとされる。日本各地に徐福の上陸地が存在しており、様々な伝説が残されている。
今山八幡宮 / 天平勝宝2年(750年)、宇佐八幡宮を勧請して造営される。今山の名前は、この神社の建立によってこの地が繁盛したので、“今盛んなる山”の意味で呼ばれ始めたとされている。
鶴富姫の墓(つるとみひめのはか) / 宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良
椎葉村は平家の落人伝説が残されている土地である。その伝説の中心となるのが鶴富姫である。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家の残党の一部は、豊後から阿蘇を越えて椎葉の里に逃れてきて、この地に住み着くようになった。しかし、この里もやがて幕府の知るところとなり、源頼朝は那須与一に追討を命じたが、与一は病のために叶わず、代わって弟の那須大八郎を大将として追討軍が派遣されたのである。
元久2年(1205年)、椎葉を追討するため陣を敷いた大八郎であったが、この土地の落人は既に土着してしまい、平家再興の意志もないことを知る。もはや討伐する理由がないため、大八郎は残党は全て征伐したと鎌倉に報告し、この土地に滞在することを決めた。そして土地の者に農耕を教えたり、また厳島神社を勧請したり、村の発展のために力を貸したのである。
大八郎の身の回りの世話をしている者の中に、平清盛の末孫と言われる鶴富姫がいた。いつしか二人は恋に落ち、やがて鶴富姫は子供を身籠もった。しかしその時、鎌倉から大八郎に対して帰還の命が下った。二人は泣く泣く別れることとなったが、大八郎は別れ際に太刀と系図を与え、「生まれてきた子が男児であれば下野国(大八郎の所領地)へ差し寄越すよう、女児であればそれに及ばず」と言って国許へ帰ったのである。
鶴富姫が産んだ子は女児であったため椎葉に残り、その後婿を取り“那須”の姓を名乗ることとなったのである。以後、椎葉の村は那須家が治めたとされる。
現在でも鶴富姫の末裔である那須家は続いており、その住居は「鶴富屋敷」として国の重要文化財として残されている。その住居と同じ敷地内に鶴富姫の墓と呼ばれるものがある。また鶴富屋敷に隣接するようにある丘には、鶴富姫が使っていたとされる湧き水(鶴富姫化粧水)があり、その丘の頂上には椎葉厳島神社がある。 
 
 
鹿児島県 / 薩摩、大隅

 

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薩摩潟、迫門のはやみの潮騒はただ漕ぎ過ぎよ、碇おろさで権僧正公朝
霧島連峰・高千穂峰 / 姶良郡霧島町
高天原から高千穂峰に降臨した瓊瓊杵ににぎ尊をまつる霧島神宮は、古くは高千穂峰に近い脊門丘にあったといひ、たびたびの噴火を避けて室町時代に麓の姶良郡霧島町に遷座されたといふ。高千穂峰の頂上には「天の逆鉾さかほこ」といふ石がある。これは、伊邪那岐・伊邪那美の二神が天の浮橋の上から海水をかきまぜてオノゴロ島をつくったときのものといふが、日向国を領した島津義久の建てたものらしい。
瓊瓊杵尊は、笠沙かささの岬で、后となる木花開耶姫このはなのさくやひめと出逢ったといふ。今の笠沙町の野間岬だといふ。この姫の子が、海幸彦、山幸彦の兄弟である。
○ 沖つ藻は辺には寄れどもさ寝床も あたはぬかもよ浜つ千鳥は 瓊瓊杵尊
嘆きの森 / 国分市
オノゴロ島に降りた伊邪那岐・伊邪那美の二神は、天の御柱を見立ててめぐりあひ、国生みをされた。最初に生まれたのが蛭子ひるこである。蛭子は、三才になるまで足が立たなかったといひ、天磐樟船あめのいはくすぶねに乗せて流され、姶良郡隼人町(旧西国分村)の岸に流れ着いたといふ。やがて船の楠材から枝葉が延びて、楠の巨木に成長した。この地に蛭子神社がまつられ、その森を「嘆きの森」といふ。
○ ねぎ事をさのみ聞きけむ社こそ はては嘆きの杜となるらめ 讃岐
○ 生ひ立たで枯れぬと聞きし木の本の いかでなげきの杜となるらん 元輔
国分市上小川(旧東国分村)に「気色けしきの森」があり、ここにも蛭子神がまつられる。
○ 秋のくる気色の森の下風に たちそふものはあはれなりけり 待賢門院堀川
国分駅北の姫城は、古代の隼人反乱の時の女王(女酋)の遺跡といひ、「風の森」がある
○ 恨みじな風の森なるさくら花 さこそ仇なる色に咲くらめ 夫木抄
正八幡宮 / 姶良郡隼人町
隼人町の鹿児島神宮は、彦ひこ穂穂出見ほほでみ尊(山幸彦やまさちひこ)と后の豊玉姫をまつり、正八幡、国分八幡、大隅正八幡などといはれ全国正八幡の本宮である。山幸彦の兄の海幸彦の子孫が隼人であるといふ。ここで歌はれた雨乞歌は、わたつみの神に祈ったのであらう。
○ 鳴る神の山めぐりする絶え間より 現はれ出づる秋の雨雲 入道龍伯
開聞の里 / 揖宿郡開聞町
薩摩半島南端の開聞かいもんの郷は、古代には龍宮界の一部であり、海神・豊玉彦命が支配してゐた土地なのだといふ。釣針を失くした山幸彦(彦穂穂出見命)が、鹽椎神しほつちのかみの案内で海神の宮を訪れ、海神の娘の豊玉姫と結婚したといふ伝説は、開聞町の地名、玉の井、婿入などに残るといふ。薩摩国一宮の枚聞ひらきき神社(開聞ひらきき神社)は、この彦穂穂出見命、豊玉姫をはじめ四代八柱の神をまつる。
○ いにしへも今もあらざり阿多あたの海の 黒潮の上に釣する見れば 川田順
島津家のいろはうた / 鹿児島市
島津忠良(日新斎)は、戦国時代に薩摩・大隅・日向を平定し、島津家中興の祖といはれる。万ノ瀬川に橋を掛け、養蚕などの産業を興し、多くの仁政を敷いた。 日新の作った「いろは歌」は、代々の藩主によって奨励され、薩摩独特の学風、士風が育っていった。最初の「い」の歌と、最後の「す」の歌。
○ いにしへの道を聞きても唱へても わが行ひにせずば甲斐なし 島津日新
○ 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく十六夜いざよひの空 島津日新
日新は、守護職を子の貴久に譲って加世田に引退し、没後は加世田の日新寺にまつられた。この寺は今の竹田神社(加世田市竹田)である。貴久の代に種子島に鉄砲が伝来した。

貴久の子に、義久、義弘、歳久の兄弟がある。義久は日向国の領地を回復したが、天正十五年の秀吉の九州進攻の前に降伏し、出家して弟の義弘が当主となった。
歳久は秀吉軍に最後まで抵抗し、天正二十年に竜ヶ水に自害した。鹿児島市吉野町の平松神社(旧・心岳寺)にまつられてゐる。
○ 晴蓑せいさめが玉のありかを人問はば いざ白雲の末も知られず 島津歳久(辞世)
島津義弘は、文禄元年の朝鮮出兵に従軍し、栗野(栗野町)の八幡社で戦捷を祈願した。
○ 野も山も皆白旗となりにけり 今宵の宿は勝栗の里 島津義弘
孝行橋 / 鹿児市
鹿児島城下恵比寿町に元板橋といふ橋があった。橋のそばに正右衛門といふ貧しい若者が、重い病の母と暮らしてゐた。その親孝行の暮らしぶりを藩主の島津吉貴が賞でて屋敷を与へるなどしたといふ。橋の名は孝行橋と呼ばれるやうになり、橋柱に歌も刻まれた。
○ 幾世にか掛けて朽ちせぬ人の子の 道ありし名は橋に残りて
諸歌
○ 時ならぬ冬まで残る木の本は これや常世の宿の橘禰寝ねしめ 重長
西南戦争で敗れた西郷隆盛への哀悼歌。
○ 濡れ衣を干さうともせず子どもらが なすがまにまに果てし君かな 勝海舟
硫黄島 / 鹿児島郡三島村
硫黄島は鬼界ヶ島とも呼ばれたらしい。治承元年、鹿ヶ谷事件で鬼界が島へ流された平康頼の歌がある。
○ 薩摩潟沖の小島に我はありと 親には告げよ八重の潮風 平康頼
壇ノ浦に敗れた平家の一部は、安徳帝をお護りして、硫黄島に漂着したといふ。平資盛(一ノ谷で討死したともいふが)ら臣下の多くはさらに屋久島や奄美大島へ移住し、硫黄島へ物資を供給した。帝は硫黄島で成人され、平資盛の娘の櫛匣局くしげのつぼねを后となして、承久三年には若宮が誕生した。その翌年、帝の学問の師であった平経正が世を去った。
○ 君にけさおく露よりもつらくして 消える思ひの身こそつらけれ 平経正
帝は寛元元年(1243)にこの島で崩御されたといふ。
○ 天雲の立ち覆ふ身と知るからは 我が日の本に照るかげもなし 安徳帝
安徳帝が落ちのびたといふ伝説は、対馬、阿波の祖谷地方、その他各地にある。
朝花 / 奄美大島
奄美大島では、娘が十八にもなると新しい着物を作る。それで木綿花を摘みに娘を畑にやると、十九くらゐの若者が手伝ひに来る。その晩、若者は決まって娘の家にやって来て、三味線を引きながら、娘と掛け合ひの歌を歌ふ。
○ 花咲きゃまあらい 縁結びまあらい 朝摘しかまむたん花や 談合どぅあたん
こんな歌の掛け合ひをしながら、二人は結局、夫婦になるらしい。
小島の暗河 / 奄美大島
○ だんと音うとうわたる 島尻ぬ暗河(くらかは)をなり ゐひり知らぬ あはれ暗河
暗河とは、洞穴の奥に湧き出してゐる地下の湧き水のことをいふ。男の兄弟をヰヒリと呼び、女の姉妹をヲナリと呼ぶ。
むかしある兄ゐひりが草履を二足作って、妹をなりのところに持って来て言った。「良いほうを私の恋人にやってくれ。それで悪いほうはお前が履くやうに」と。ところが妹をなりは、良いほうの草履を気に入ってしまひ、それを自分で履いて、悪いほうを、兄からだと言って恋人にやった。ある日兄が暗河の前を通ると、入り口に自分の作った草履が置いてあった。中に恋人がゐるものと思って、中に入ってねんごろになった。そのため妹をなりは自ら命をたったといふ。 
 

 

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ニニギの結婚
竹屋の村
風土記の意味するところでは、皇祖ホノニニギ命が、日向の国贈於(そお)の郡、高千穂の〔木患〕生(くしふ)の峰に天降りになって、ここから薩摩の国の閼駝(あた)の郡の竹屋の村にうつり給うて、土地の人竹屋守の娘を召してその腹に二人の男子をおもうけになったとき、その所の竹を刀に作って臍の緒を切り給うた。その竹は今もあるといっている。
記紀の天孫降臨神話に付随する伝承といってもいいでしょう。現地の女性と結婚するというのは典型的な外来王神話です。しかし考えてみると薩摩で王になったわけではないので、これは原初的には外来王的な神話が薩摩にあって、後にニニギの伝承に変化したと捉えるべきかもしれません。しかし残された二人の男子はその後どうなったのか?氏族の始祖にでもなったのでしょうか?或いは後世、力のある勢力がニニギの子孫であるという主張をするということがあったのでしょうか?
『神話伝説事典』隼人の項目によると薩摩の阿多郡は隼人の中心地の一つだったようで、首長は阿多君などと呼ばれていたそうです。記紀におけるコノハナノサクヤヒメの別名は「神吾田津姫」で、神武の妃は「阿多の小椅君の妹阿比良姫」。大和朝廷と阿多君は婚姻関係を結んでいたのではないかと『事典』にはあります。
また竹屋の地名起源でもありますが、竹そのものの起源譚は付随していないのでしょうか?或いはある種の竹の形状由来譚のようなものです。臍の緒には霊力が宿っているという伝承は世界的にあり、日本でも臍の緒を子供のお守りにしたり、子供が大病の時に煎じて飲ませたりしたそうです。また子供の分身であるという考え方もあるようです。ただの人間ではなく、皇祖の子の臍の緒を切った竹ですから、ただの竹ではないはずです。「その竹は今もあるといっている」と最後に言っているのは上記の伝承がある種の竹にまつわる伝承として語られていたということだと思います。
ところで竹の話で私が思い出したのは、舜の二人の妻の涙のあとがあるという「湘妃竹」ですが、民間伝承のヴァリアントでは「悪龍と戦って死んだ舜の墓の前で二人の妻が血の涙を流したので赤い斑点のものもある」といいます。その民間伝承は湖南省九嶽山の話で、「湘妃竹」は日本で言えばマダケの変種とのこと。鹿児島は温暖な地方で竹の種類も豊富なようですから、或いは「湘妃竹」の斑点の伝承だったかもしれません。 
串卜の郷
むかし国をお造りになった神が、使者に命じてこの村によこして国情を視察させた。使者は髪梳(くしら)の神がいると報告したので、髪梳の村とよぶがよいと仰せられた。それで久西良の郷という。《髪を梳くことを隼人の俗語では久西良という》今改めて串卜という。
大隈国は鹿児島東部と奄美群島を呼ぶ国名。
この「櫛」というモノ。古代では男女ともに必需品だったと思われますが、やはり女性性が強いという捉え方でいいのでしょうか?その辺がどうも不安ではあります。スサノオも櫛さすし、イザナギも黄泉路で櫛を使っています。
ただそれらも女性の聖性から発した守護的な力であると考えるならば、この神も女神である可能性は高いと思われます。そうなってくると沖縄との関係が気になりはじめます。沖縄には櫛を神格化したような、或いはそういう名称のある女神がいるのか?
また櫛とは別に「串卜」という地名自体にも神の性質が現れているように感じます。なにやら串を使った占いを司るような神かも知れません。 
池田湖(いけだこ) / 鹿児島県指宿市池田
九州最大の湖であり、古来、開聞の御池と呼ばれていた通り、遠方に開聞岳を臨む位置にある。
現在の池田湖で最も有名なものはイッシーであろう。ネス湖のネッシーに模して名付けられたように、湖に生息しているかもしれない巨大生物である。その存在が噂となったのは早くても昭和前半頃、しかし全国的に名が知られるようになったのは昭和53年(1978年)9月、法事のために池田湖畔にある家に集まった約20名の人が一斉に目撃したことがニュースとなったためである。体長は約20mほど、背中にコブがあって全身の色は黒色、形は蛇か鰻に似ているという。さらにその年の暮れには、波間に現れたイッシーの姿が写真に収められ、その存在は現実味を増すことになった。その後、平成3年(1991年)にも、立て続けにイッシーの目撃があり、波間を泳ぐ巨大なコブの様子がビデオによって撮られたのである。池田湖ではイッシーを観光の目玉としており、観光協会も積極的にPRしている。
イッシーについては、池田湖に生息する大ウナギではないかという説もあるが、最大でも2mにしかならない大ウナギを20mの巨大生物と見間違うことはあまり考えられないことだろう。
さらに池田湖には昔から龍神伝説があり、奇怪な話が残されている。『三国名勝図会』によると、ある農夫が婚礼に呼ばれて湖の近くを歩いていると、草むらに人間の頭をして身体は龍のようなものが横たわっていたという。農具が短刀を抜いて首あたりを切り付けると、その不思議なものは血を流して湖に逃げてしまった。その晩、農夫は病で突然亡くなり、その妻が狂ったように「我はこの湖の龍王である。我を殺した報いとして子孫をことごとく絶やしてやる」と言い出した。親族が社を建てて罪を償うと謝罪すると、龍王は怒りを静めて妻の狂気も収まった。そしてただちに龍を祀る祠が建てられた。それが現存する池王明神であるとされる。
上西園のモイドン(かみにしぞののもいどん) / 鹿児島県指宿市道上
モイドンは漢字で書くと「森殿」。即ち「森山(モイヤマ)の神様」という意味合いである。この名で呼ばれる場所は、南九州各地、特に鹿児島の薩摩地方に多く残されている。鹿児島県下で100箇所以上、指宿市内に限ると約40箇所ほど確認できるとのことである。
モイドンは集落ごとの民間信仰の名残であるという。小さな雑木林のようになった場所に、巨木が一本生えている。これが神を祀る依代(ヨリシロ)になる。巨木そのものがモイドンではなく、かといって何か祠を建てなければならないというわけでもない。巨木を中心とした小さな空間そのものがモイドンであり、ここで祭祀をおこなっていたと考えられるのである。
上西園のモイドンは、そのような民間信仰の場を明確に残しているものとして市の指定文化財とされている。ここにはアコウの巨木と共に山の神と稲荷神の祠が祀られており、「民俗神の聖地」として紹介されている。
ただし信仰の聖地であるということは、裏を返せば、その土地を汚すことは祟りにつながる。特に依代である巨木は触れてはならず、枝一本葉一枚すら持ち帰ることは許されない。場所によっては禁忌の地として、モイドンに立ち入ることもまかりならぬとされている。
戸田観音 ガラッパ像(とだかんのん がらっぱぞう) / 鹿児島県薩摩川内市中村町
戸田観音は、長禄3年(1459年)に宮之城城主である渋谷(祁答院)徳重によって建立された。創建の由来として、以下のような伝承が残されている。
渋谷徳重には美しい姫がいた。ある日、侍女7名と共に川遊びに出たのであるが、何かのはずみで船から川へ落ちてしまった。侍女が助けようとするが、姫は川の中に沈んでしまったまま浮かび上がってこない。責任を感じた侍女たちは全員川に身を投げてしまったのである。
数日して姫をはじめとして遺体が川から引き揚げられ、その供養にと徳重は、遺体の打ち上げられた淵のそばに観音堂を建てたのである。その時に、姫を死に追いやったものが川に住むガラッパ(河童)であるとみなし、それを懲らしめるために観音像の足元に像を置いたのである。さらに石碑を建て、二度とガラッパが悪さが出来ないようにしたとも言われる。そのせいか、この付近で溺死する者はいないという。
戸田観音には現在でもガラッパの像が安置されている(写真の像を見る限り、新しいものに作り替えて継承しているようである)。その姿は一般的な河童とは異なり、全身が鱗で覆われている。また手足を自由に伸ばしている姿となっているが、これは逆に、懲らしめのためにもがき苦しんでいるガラッパを表しているという。今でも戸田観音は水難除けのための参拝者が多い。
渋谷氏 / 鎌倉時代の御家人を祖とする。現在の神奈川県東部に拠点を持っていたとされ(東京の渋谷の地名も彼らの名に由来する)、戦功によって薩摩郡を与えられると、宝治2年(1248年)に移り住んだ。戦国時代末に一族の入来院氏が島津氏に降伏し、その後血縁関係を結ぶ。徳重の系統である祁答院氏は島津降伏直前に滅亡。
南洲墓地(なんしゅうぼち) / 鹿児島県鹿児島市上竜尾町
日本における最後の内戦である西南戦争は、官軍・薩軍とも約7000人の戦死者を出している。その薩軍のうち約2000名が葬られているのが、南洲墓地である。
西南戦争は明治10年(1877年)に城山で西郷隆盛が自刃、薩軍全滅を以て終結する。直後に鹿児島県令であった岩村通俊が許可を得て隆盛らの遺骸を埋葬、明治12年に有志によって鹿児島市内にあった薩軍兵の墓を一箇所に集め、さらに他県で亡くなった者の墓も改葬した。これが現在の南洲墓地である。
墓地の最も目立つ中央にあるのが西郷隆盛の墓、その左右には桐野利秋と篠原国幹の墓がある。その他にも従軍した幹部をはじめ、数々の逸話を残す人物の墓が並んでいる。
明治13年には、西郷の墓地に訪れる者が増えたため隣接する土地に参拝所がが設けられ、それが大正11年(1922年)に西郷隆盛を祭神とする南洲神社となった。また西郷隆盛没後100周年を記念して南洲記念館も建てられている。
西南戦争 / 明治10年(1877年)に起こった、政府軍と薩摩藩旧士族との内戦。薩軍の首領である西郷隆盛は慎重であったが、私学校幹部の決起を止めることが出来ず、2月15日に蜂起。薩軍は熊本城を囲むが戦況は膠着、3月に田原坂の攻防を経て政府軍が攻勢に転じ、4月には熊本城から撤退。6月以降も人吉・延岡の緒戦で薩軍は敗北する。そして9月に鹿児島の城山の攻防戦となるが、同月24日政府軍総攻撃により西郷が負傷・自刃、他の将兵も戦死して終戦となる。
西郷隆盛 / 1828-1877。号は南洲。明治維新時の功によって、新政府において参議・陸軍大将。征韓論での政治的対立から下野、郷里の鹿児島へ戻り、私学校を設立する。政府による士族階級への待遇悪化に不満を持つ士族の反乱が頻発する中、西南戦争の首領となり、敗戦時に自刃。
しかし直後から不死伝説が流布し、中国大陸へ逃れたとか、明治24年(1891年)に来日したロシアのニコライ皇太子に随行して帰国するのではなどの噂が流れた。また別の噂話として、死の直前に火星の大接近があり、火星と知らない人々はここに陸軍大将の正装をした西郷が見えるとして「西郷星」と称したこともある。
岩村通俊 / 1840-1915。土佐藩出身。大山綱良(西南戦争に先立ち薩軍に武器や金銭を供与したため、戦争後に処刑)に代わって鹿児島県令となる。その後、初代北海道庁長官など歴任。
桐野利秋 / 1838-1877。陸軍少将の地位にあったが、西郷下野に応じて辞職して鹿児島に帰郷。その後は私学校の幹部となり、西南戦争では四番大隊隊長であり、総司令の立場にあった。城山の決戦で最後まで戦うが戦死。
篠原国幹 / 1837-1877。陸軍少将・近衛長官を辞して、西郷下野に従う。私学校設立に携わり、また西南戦争では一番大隊隊長であり、副司令の立場にあった。田原坂の戦いにおいて戦死。 
 
 
沖縄県 / 琉球

 

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鳳仙花てぃんさぐのぬ花は 爪先ちみさちに染すみてい親うやのぬ言ゆし言ぐどうや 肝ちむに染すみり
おもろさうし
沖縄の古歌謡集「おもろさうし」にある沖縄の開闢神話を語る歌。適宜漢字で表記した。太字は神名、地名。
昔、始りや。照てだこ大主や。清らや照りよわれ。せのみ、はぢまりに
照てだいちろくが、照てだはちろくが、おさんしちへ、見をれば、座ざよこしちへ、見をれば、
あまみきよは、寄せわちへ、しねりきよは、寄せわちへ
島作れでて、わちへ、国作れでて、わちへ、
許許太久ここらきの島々、許許太久ここらきの国々、島作らぎやめも、国作らぎやめも、
照てだこ、心うらきれて、せのみ、心うらきれて、あまみや筋や生なすな、しねりや筋や生すな、
しやれば、筋や生なしよわれ
なちじんの乙樽 / 今帰仁なちじん村
十三世紀ごろの沖縄は、北山、中山、南山の三つに別れて、それぞれに王がゐた。北山の今帰仁なちじん城下の志慶真しけま村に、今城仁なちじん御神うかみと呼ばれた美しい娘があり、名は乙樽うとだるといった。乙樽は、第二の妃として城へ迎へられた。王にはなかなか若君ができなかったが、六十才で亡くなる直前に王妃が懐妊した。王の没後に生まれた若君は、千代松と名づけられ、乙樽が乳母として育て役になった。
○ 今帰仁の城ぐしく 霜成しむないの九年母くにぷ、しじま乙樽が ぬちゃいはちゃい
まもなく開かれた若君誕生の祝宴で、突如謀反が起った。乙樽ら数人は千代松を守って城を抜け出したが、追手の迫る中で、乙樽は千代松と生き別れとなってしまった。十八年後、千代松は丘春と改名し、旧臣を集めて城を奪還した。城主となった丘春は、乳母だった乙樽を捜し出して、ノロ(最高の神女)に任命したといふ。
遊女思鶴 / 那覇市
思鶴は、読谷よみたん山間ざま切きり久良波くらは村の裕福な家に生まれ、幼いころから歌の才にも恵まれた美しい娘だったが、家運が傾き、十三才でやむなく仲島の遊郭ゆうかくに売られることになった。那覇へ向ふ途中の比謝橋で、わが身を歎いて歌を詠んだ。
○ 恨む比謝橋や 情なさき無ねん人の 吾身わん渡さと思うむて かけてうちえら
沖縄の遊郭ゆうかくは特別なものではなく、領主を始め人々の祝の宴なども遊郭ゆうかくで開催されたといふ。思鶴は、その美貌と文才により、たちまち仲島の名花とうたはれた。やがて思鶴は領主の仲里按司の寵愛をうけるやうになり、二人は固い絆で結ばれたやうだった。しかし傍若無人の大金持ちの男から何度も言ひ寄られ、思鶴は、仲里按司への純愛のために、自ら命を断ったといふ。本土の江戸時代初期ころの話。
泡盛
沖縄県特産の米焼酎、泡盛あわもりは、那覇の首里城の城下町などで造られ、かつては酒造所さかやーごとに異なる黒麹菌をもち、独自の味を競ったといふ。それが第二次世界大戦の沖縄戦で米軍によって焼き尽くされたため、戦後はわづかに生き残った同じ菌によって、それぞれの杜氏たちの工夫によって造られてきた。数年前に、東大の研究所に多数の黒麹菌が保存されてゐることがわかり、その菌をもとにした酒造が開始された。首里の瑞泉酒造で生命をよみがへらせた酒は、「御酒うさき」と命名された。保存されてゐた菌は、酒の博士といはれた故坂口謹一郎東大名誉教授によって昭和の初めに収集されたもので、戦後の沖縄を詠んだ博士の歌とともに、今に伝へられたものである。
○ たまきはる命をこめし戦車はも 赤さびはてて荒磯に立つ 坂口謹一郎 
 

 

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奄美における民謡と伝承説話 
はじめに 
奄美の歌謡と説話の関係を論じたものは、決して少ないとはいえない。特にノロ(祝女)やユタ(巫者)といわれる職能的なカミンチュ(神信仰をする人たち)が伝える神話は、実際は大方が歌謡の形をとって表現されるものであり、神話を扱うことは、すなわち、神歌を扱うことになるのである。その代表的なものとして、山下欣一、藤井貞和等の著作が、あるいは奄美だけを扱ったものではないが小野重朗、外間守善、谷川健一、福田晃等の著作があげられ、主たる問題は一応出し尽くされたといってもよいと思う。
今、残る問題は、民謡と説話との関係である。
ここで民謡とは、カミンチュなどではない一般的な人々が、仕事や行事や遊びの場で歌ってきた伝承的な歌と規定するなら、その詞章は、多く短詞形の歌謡だといってよいと思う。もっと具体的にいうなら、奄美の民謡は個人対個人、ないし集団対集団の掛け合いで歌われることがほとんどであったから、叙情歌的傾向を帯びているのは当然で、もともと神話を歌っていく神歌のような長詞形叙事歌とは全く性格を異にしていたということである。
しかし、奄美の民謡には、物語歌とでもいうべき歌があって説話の世界と無縁ではない。これまで、私も民謡と説話の関係について断片的に扱ったことはあるが、系統立てて論じたことはなかった。本稿はこれまでの拙論を整理するとともに、問題の在りかを提示しようとするものである。
なお、本稿では「神話」「伝説」「昔話」「うわさ話」という用語を使う。これを奄美の伝承説話に該当させること自体、問題ありとされるかもしれないが、私は、歌と話の問題を考えるのには、一つの目安として有効だと思っている。なお、これらの概念規定は、研究者によって必ずしも一致するようではないが、そのつど諸家の考え方に、若干の私説を加えて提示することとしたい。もとよりどんな定義も、あらゆる説話に機械的に当てはまるわけではなく、ある系統の話が、ひとつの土地では伝説のように語られているのに、別の土地では昔話として語られていたり、また、一つの話の中に、神話的要素や伝説的要素などが混在していることも大いにありうるということは、あらかじめ認識しておかなければならないことである。 
1、神話が生んだ民謡「上がれ世ぬはる加那節」をめぐって 
南島の神話は、いまや「民間神話」という言葉でいわれることが普通になったが、本稿では「神話」を、次のようなものとして扱いたい。
(1)語り手、聞き手は、それを「真実」の話と意識していること。
(2)登場者は、主として人間以外の神々であること。
(3)かれらが登場する時代は、世界が完成する以前の「神の代」であること。
(4)その場所は、主に完成以前の世界であること。
(5)伝承者は本来的には聖なる語り手であること。
(6)主題は、宇宙や国土や人類や文化の起源であること。
(7)話の叙述は、主に歌謡などの形式をとること。
このような観点からすると、先に触れたように、奄美ではノロ、ユタなどといわれる人たちの神歌の多くが、そのまま神話であるといってもよいのだが、さて神話につながるいわゆる民謡を探すと、今のところ、奄美大島のシマウタ「上がれ世ぬはる加那節」しか、思い当たらない。しかも、その両者の関係は、未だ全くもって分かっていないというのが現状である。
ここに先ず、この歌の歌詞を掲げておく。
   上がれ世(よ)ぬはる加那(かな)や
   何処(だ)に村ぬ稲(いに)カロ那志(がなし)
   うま見(に)ちゃめひこじょ加那
   てるこくまよし
      てるこから下(う)りて
      今日(きゅう)ど三日(みきゃ)なゆり
      三日戻(むど)り四日(ゆふぁ)戻りしゅん人ど
      見欲(ぶ)しゃ愛(かな)しゃ
   てるこがで轟(とよ)だる
   いにとぅはる加那
   なるこがで轟だる
   くまよしひこじょ加那
      ぐしくから下うりて
      申時(さんとき)ぬ限り
      誰(たる)によこされて
      なまやちゃ一る
(天上の世のはる加那は(加那=愛称) 何処の村の稲加那志か(加那志=尊称) それをみたかひこじょ加那 てるこ(聖所)くまよし(不詳語)てるこから下りて / てるこから下りて 今日で三日になる 三日戻り四日戻りする人に 逢いたい愛しい / てるこまで轟いている いに(稲の意か)と はる加那 なるこ(聖所)まで轟いている まよし ひこじょ加那 / ぐすく(聖所)から下りて 申の刻(夕方)の限り 誰に誘惑されて 今来たのか)
この歌は、いくぶん軽快な感じがして、島でも祝いの席に相応しい歌と考えられているが、島の巫術者、ユタが、正式な儀礼が済んだあとの、いわばなおらいともいうべき席に、よくこの歌が出てくるのは注目すべきであろう。けっしてユタの儀礼そのものと直接関係ある歌ではないが、この歌の主人公「はる加那」を自分たちの先達とイメージして、歌ったり聞いたりしているのではないだろうか。
ところで、今掲げたこれらの歌詞は、「はる加那」賛美の歌であることは想像できるが、いったい回りにどういう人たちがいて、はる加那自身何をしたのか、諸々の状況はよく分からなくなっている。
それと、この4首とも、もともと「はる加那」を歌った歌詞であるかどうかも、大いなる疑問である。承知のように、奄美のシマウタは、掛け合いで歌われる。従って、前に誰かが歌った歌詞と少しでも同じ言葉や、似た状況の文句があればすぐにそれを歌うのは、ごく普通のことなのである。従って、この歌の特に4首目の歌詞については、何人かの研究者が、全く別の歌の混入とみなしているのだが、私もそのように考える。
では、この歌と離れて、「はる加那」が登場する話は豊富に残っているのだろうか。私が知る限りでは三系統の話しかない。一つは、登山修氏が瀬戸内町古仁屋で採集したもので、要約すると次のような話である。
   
アガレンハルカナは何処からか、イニャダマ(稲霊)を盗んで来て、名瀬の北のほうの畑で稲を作ったら豊作になった。ところが、それは盗んできたものだという悪い噂がたった。
それで親は、ハルカナに死んだほうがいいといって、親自らが七川七谷の川の水を汲んで来て、それでハルカナの体を清め、さらにシトギミズを作って、体の中まできれいにした。そしてハルカナは死に、稲霊の神になった。
それゆえ、穂掛け行事の時には、米の七粒の稲霊をもってきてするようになった。  なお、正月の餅は必ず三つ重ねて供えるが、下の大きな二つは親で、一番上のがハルカナである。ハルカナは子供だが、神になっているので親達を守るのである。

この話と、前掲の歌詞と照合するなら、はる加那が「稲加那志」と歌われている理由ははっきりとする。
次に、これらの文句に出てくる「てるこ」「なるこ」とは何を意味するのだろう。先学によれば、この両者は対語ととらえられるべきで、奄美では海の彼方の想像上の聖なる場所のことであり、それは沖縄の「にらい・かない」や、奄美各地の「ねりや」「ねら」「にら」などとほとんど重なるものとされる。
そして、特に奄美大島や加計呂間島では、ノロ達が旧暦2月のしかるべき日にてるこ・なるこから神を迎え、4月にはその神を送り帰す儀礼がある。それが「ウムケ(お迎え)」「オホリ(送り)」といわれるもので、同様のことが、稲が実をつけ始める「アラホバナ(新穂花)」行事の前と後にも、オムケ、オホリの儀式が行われたというのである。
つまり、テルコ・ナルコの神は稲作に関与する神であることは確かであり、はる加那もテルコ・ナルコから稲を盗んで、人のためにやってきた神だと考えることもできるのである。さらにいえば、この歌の「上がれ世」が、テルコ・ナルコだということになる。
人間にとって貴重なものを、聖なるところから盗んでくるモチーフは、ギリシャ神話におけるプロメテウスの火盗みの話と同じだが、奄美には、はる加那の稲種盗み以外に、いくつかの稲種盗みの話がある。
沖永良部に伝わる「島建て国建て」神話もその一つである。

この話の主人公「島クプダ・国クプダ」は、島作りも、人作りも終えて、いよいよ、ニラの大主に、人のため稲籾をくれという。すると「初穂祭りをしてからやろう」というのだが、彼は待ち切れずに、田んぼ穂を摘んで袂に隠してニラの島から帰る。ところが、途中、追いかけてきたニラの神に追いつかれ、打ち倒されて死んでしまう。
天の神は心配して使いを出して探し出すが、やはり目こぼれ鼻こぼれして死んでいたので、使いのものは薬を飲ませると生き返った。天の神は事情を聞いて、島クプダ・国クプダに盗んできた稲を返させる。そして「初穂祭り」を済ませたあとに稲種を貰ってくることができた。その稲が、島に昔からある「アサナツヌヨネゴンダネ」である。

結末は、はる加那が死んで稲の神様になり、島クプダ・国クプダは、いったん死んだ後生き返って再び、しかるべき手続きを経て人の世に稲をもたらすという、大きな違いはある。しかし、その根っ子においては、同じ話であるといえよう。
さて、残る2つの話は、いずれも婚礼における「三日戻り」に関したものである。先ず大和村大和浜出身の民俗研究家、長田須磨氏が報告している話をあげる。

昔、神の国テルコから、ヒヤンザの国に男ばかりがやってきた。その時、ヒヤンザの男たちはみな山に逃げ、女ばかりが残った。そのうち「あがるいのはる加那」と「〈まよし」が良い仲になった。それを初めは隠していたが、3日目に周りのものに打ち明けて祝いをした。
それが、3日目の里帰りの始めである。

この話のヒヤンザは、おそらく奄美の神歌によく出てくる沖縄の現与那城村の平安座のことと推定されるが、とすれば、はる加那は、「上がるいの」と形容されながらも、人間世界の女ということになる。三日月の里帰りを「ミキャモドリ」といういいかたは、今も記憶する人がいるくらい、近年まで行われた風習だが、この話はその起源説話だといえる。次にあげるのは、恵原義盛氏が、沖縄の一般向け雑誌に発表されたものだが、おそらく氏の郷里、名瀬市根瀬部近辺に伝わっていたものと思われる。

「あがれよ」とは天国のこと。はる加那は天上から稲の種を持ってきた女だが、地上で「ひこじょ加那」と結婚する。天上には「くまよし」という夫がいて、はる加那の帰りを待つ。かつて婚礼の日から3日目に、ミキャムドリ(3日戻り)と称して里帰りするものだった。そして、その日に初夜を営むのが習慣であった。しかし、はる加那には里帰りが出来なかったので、ひこじょ加那はいつまでたっても同衾がかなわず嘆いたという。

「稲の種を持ってきた女性」ということでは、最初の話と一致するが、全体的に神女不犯説話といってよい。
そして、二人の男性「ひこじょ加那」と「くまよし」についていえば、ひこじょは人間世界での夫であり、まよしは天上の夫だという。
そこで、子細にシマウタ「上がれ世ぬはる加那節」とこれら、ミキャムドリを主題とした二つの神話と比較すると、それらは必ずしもすっきりと重なるわけではない。歌の文句からは、ひこじょ加那とくまよしは、聖なる神女を遠くから眺める人のように思える。また、三日戻り四日戻りも、歌の中では婚礼とはほとんど関係なさそうである。
以上のことを考慮すると、歌が先にあって、それを説明するために、後にこのような話が付け加えられたのではないかという結論に導かれるのである。といって、これらの話は全く無価値であるとはいえない。少なくとも、はる加那は、テルコと人間世界を結びつけることのできる神女と認識されていたことが明らかになるからである。
ここで、本稿の中心テーマである歌と説話の関係に問題を絞ると、「上がれ世ぬはる加那節」が、いったい何をもとに生まれたのかという問題は謎のままである。具体的にいえば、この歌のもとになった神話が、ただ語られるものだったのか、神歌としての長詞形叙事歌だったのかということである。はる加那が登場する神歌は、今のところ見つかっていないので、語られていた話をもとにつくられたと考えるのが自然だが、ただ、「上がれ世ぬはる加那節」の詞形を考えるとき、別の結論が導かれるのである。
そこで、再びこの歌の歌詞をあげて、その音数律を示してみよう。
あがれよいはるかなや      10音(5・5)
だにむらぬいにがなし       10音(5・5)
うまみちゃめひこじょかな      10音(5・5)
てるこくまゆし            6音(3・3)
   てるこからうりて       8音(5・3)
   きゅうどみかなゆり      8音(5・3)
   みきゃもどりゆふあむどり 10音(5・5)
   しゅんちゅどみぶさかなさ 10音(5・5)
てるこがでとよだる        9音(5・4)
いにとはるかな           7音(3・4)
なるこがでとよだる         9音(5・4)
くまよしひこじょかな        10音(5・5)
   ぐしくからうれて       8音(5・3)
   さんときぬかぎり       8音(5・3)
   たるによこされて       8音(5・3)
   なまやちゃ−る        6音(3・3)
4首目以外、8886調のいわゆる琉歌調ではないことが、一目瞭然である。またこのことは、「上がれ世ぬはる加那節」では、琉歌調歌詞も歌うことができるが、実はそれが基調ではないことを教えてくれる。最初に述べた通り、この4首が最初から「上がれ世ぬはる加那節」とは結びついたものではなく、特に4首目の歌詞は後からの混入であるとする理由は、この音数律の面からもいえるのである。
そこで、l〜3首の音数律をみてみると、5音句が連続して出てくることに気づく。特に1首目はそうである。実は、この現象こそ、奄美、沖縄を通しての長詞形叙事歌の特徴の一つだともいえる。しかも、シマウタ「上がれ世ぬはる加那節」は、これを踏襲することにこだわった節も濃厚である。話のなかでは、「上がれんはる加那」と、8音でいわれる。
しかし、それに「世ぬ」を挿入して10音(5・5)にしたのは、それでなければ落ち着かなかったからであろう。従って、「上がれ世ぬはる加那節」の前には、長詞形の神歌があったといわざるを得ないのである。このように、長詞形叙事歌から短詞形歌詞が生まれた例は、決して多いとはいえないが、ほかにないわけではない。次項に「うらとみ節」(一名「むちや加那節」)を扱うが、そこで触れるつもりである。
最後に、このシマウタが人によって、土地によって「上がれ日ぬはる加那節」ともいわれていることについて述べておきたい。むしろ、この方が通りがいいと思えるくらい、知れ渡った曲名で、無視することはできないからである。
意味からいうと、「上る太陽のように神々しいはる加那」となって、実在の人物のようなイメージを与える。現に、奄美民謡研究の先達、文英吉氏は「差し昇る朝日にも譬うべき身分の高い祝女をうたった歌である」といっている。
しかし、はる加那が実際にいた人物だという話は、全く聞かれない。おそらく「上がれ世ぬはる加那」のほうが古い呼称で、いつか「はる加那」を現実の人にしたい気持ちが「上がれ日ぬはる加那」という呼称を選んだのだと思う。それと、「上がれ世」の「世」は「夜」ともとれる。その紛らわしさが、「日」という言葉に変えたと、とれないこともないだろう。
いずれにせよ、「上がれ世ぬはる加那」から「上がれ日ぬはる加那」への変遷は、神話から伝説への変化にも思えて興味そそられる。 
2、伝説、うわさ話と民謡との関わり  
伝説とうわさ話を−つの章でくくるわけは、両者の境界がきわめてあいまいだということもあるが、奄美の場合、民謡で歌われたうわさ話の多くが、やがて伝説化していくという事情とも関係する。ここでも先ず前章にならって、伝説とうわさ話の定義をしておきたい。なお、うわさ話は、民俗学で世間話ともいわれるそれと同じものと考える。
《伝説》
(1)語り手、聞き手は、それを「事実」として認識していること。
(2)登場者は、主として人間。
(3)その時代は、歴史上のある時代。話者は過去形で話す。
(4)場所は、現在と同じ世界。
(5)伝承者は主に村の長老。
(6)話の主題は、事柄や物や場所の由来。
(7)話の叙述形式は特にない。
《うわさ話》
(1)語り手、聞き手は、「事実」の話と意識していること。
(2)登場者は、主として人間。
(3)時代は、近、現代。話者は現在形で話す。
(4)場所は、実在の所。
(5)伝承者は、かつては旅の世間師が主であったが、昨今は庶民。
(6)話の主題は、特異な現実。
(7)話の叙述形式は特にない。
結局、伝説は過去形で語られ、うわさ話は現在形で語られるというのが、決定的な違いで、あとはきわめて近似したものと考える。よって、これが歌になって伝えられていくとき、当初は、単なるうわさ話であったものが、伝説化して固定するということが多くある。  従って私たちは、いつの時点で、うわさといい、伝説というのか、それを明確にすることが必要となってくるのである。
そこで、伝説とうわさ話と民謡との結びつきを考え、実例を示す前に、その関係のパターンを抽出してあげておこう。
(1)伝説をもとに歌われた民謡
(2)うわさ話をもとに歌われた民謡
(3)先行の歌謡とうわさ、ないし伝説が混合して生まれた民謡
(4)民謡をもとに生まれた伝説
この順にそって、考察をすすめよう。
(1)伝説をもとに歌われた民謡
このケースは、伝説をどの程度厳密に定義するかで変わってくるが、先述の通り過去形で語り伝えられてきた歴史的な事柄を伝説とするなら、それを歌った民謡というのはそれほど多いとはいえない。
例えば、次のようなものである。
雲姿見ちむ 鳥の声聞ちむ
敦盛のことや 忘れ苦しや
   深山(みやま)吹く風や 風だむそ懐(かな)しや
   敦盛がことや 忘れならぬ
(雲の姿を見ても 鳥の声を聞いても 敦盛のことが 忘れがたい 深山に吹く風は 風でさえ懐かしい 敦盛のことが 忘れがたい)
いうまでもなく、悲劇の将、平敦盛を歌った歌である。島に敦盛がきたという伝説こそ残ってはいないが、平家の落人伝説は根強くあって、この歌詞もおそらくある時代、島の知識人が平家への思いを汲んで歌ったものに違いない。
なお、敦盛を歌った民謡は本土にも広くあって、その一つの流れが、奄美大島加計呂間の諸鈍芝居のなかにも入っている。パントマイム風の円陣踊りの歌「ここわ節」がそれである。
ここは何処かと船頭衆に問えば
須磨の泊の敦盛様え−
御み墓何処どこかと 薄原すすきはらしゅがえ
親うやの無なぎ子は 磯辺いそべの千鳥
夜暮れ日暮れはいしょすでちぶろ
先の文句もこうした歌の影響がなかったとはいえないだろう。
次のは、沖永良部島に古く実在したとされる英雄、後蘭孫八を歌った歌である。
後蘭ぐらる孫八まごはちが 積み上げた城ぐすく
永良部三十みす祝女のろが遊びどころ
(後蘭(地名)の孫八が築いたお城 沖永良部の三十人のノロたちが遊ぶ聖所)
この孫八も、たまたま平家の落人だったという伝説があるが、ある時代、沖縄の北山王の次男真松千代が沖永良部の島主となったとき、孫八に築城を命じ、彼は見事それに答えたというのである。かつての城は単なる軍事的要塞ではなく、ノロなどの神女が祭りごとを行う場でもあったことが知れる。ともかく、敦盛の歌以上に、島の人々に実感をもって歌われた文句であることはたしかである。
もっと身近な人物を歌った歌に、シマウタ「儀志直節」の次のような歌詞がある。
儀志直ぎしなおが節ふしや 島中しまじょとよまれて
とよまれる如ごとに 吾わ胸焼きゆり
(儀志直の節は 島中に轟いて 轟くごとに 私の胸のうちは痛くなる)
この儀志直は、歌、三味線にはすぐれていたが遊び人でもあり、晩年は気が触れて座敷牢に入れられ、そこから失火して彼も焼死してしまう、という伝説上の人物である。
実は、この歌詞を、そうした伝説を歌ったものとみるか、儀志直全盛時代の、一つのうわさとして歌われたものとみるか、意見の分かれるところである。
もし前者だとすれば、「世に轟く儀志直節を聞いて、彼の悲劇を思い出し、胸が痛む」ととれるし、後者だとすれば「儀志直の歌は、今や島中に轟き渡って、それを聞くと胸が痛むほど感動する」といった意味になる。
研究家の恵原義盛氏は、「この歌詞は後世にできたものとみられる」といいまた、昭和8年発行の文朝光の著書にもこの歌詞は出ていない。異説はあるかもしれないが、儀志直の話が伝説となったあとにできた歌詞という意味で、私は伝説歌に入れておきたい。
では、この曲自体が、もともと儀志直伝説を歌ったものかといえば、そうではない。
佐仁さににさねまれて 屋仁やににやまされて
あたら儀志直ば 道に立てて
(佐仁の娘等にきらわれ 屋仁の娘等に病まされ 勿体ない儀志直を 道に立たせてしまって)
のように、あちこちのシマ(集落)の娘に手を出すものだから、ついにしめ出しを食って道に立つはめになった儀志直が、現在形で歌われているのである。
純然たる伝説歌は、その歌詞からだけでは正確に把握できないものもあるが、多くの歌詞の中に探せば、もっと発掘できることは確実である。
(2)うわさ話をもとに歌われた民謡
奄美民謡の場合、今日では迷うことなく伝説歌といってよいようなものも、当初は、うわさを歌ったものがほとんどであったというのが、私の基本的な立場である。
先ず、現在私たちが聞いても、うわさ話の域を出ないような歌の文句をいくつかあげてみる。
うんにゃだるや狂ふれ者むんぢゃ 乳ち呉これ
子くわば はん投げて
殿とのぬ刀自とじなりが 赤木名はきな走いくらて
(うんにゃだるは馬鹿者だ 乳飲み子を投げて 薩摩の殿の島妻になろうと 赤木名に走りくさった)
奄美大島のシマウタ「うんにゃだる節」の打ち出しの歌詞である。赤木名はかつて代官所がおかれたところで、薩摩から来た役人もいたところとされる。彼女は、その誰かの島妻になるために赤木名に走った、と歌っているのである。うんにやだるの素姓はよく分かっていないが、
うんにゃだるとかぜらん主と まんこいする&ruby(ゆる)夜や
冬ぬ夜ぬ二長}げ あちら&ruby(たぼ){給になれ
うんにゃだるが 孕はらだる子くゎ おそろてにすれば
きよき主が来てやおろしならん
(うんにゃだるとかぜらん主とが 愛しあう夜は(主=敬称) 冬の夜の二倍くらい長くあって欲しい うんにやだるが妊娠した子を堕胎しようとしたら きよおき主が来て堕してはいけない、と)
のような文句もあり、余程うわさの対象になりやすい女性であったことが知れる。
次のは徳之島、亀津近辺に伝わる「うっしょ原ちょうきく節」の歌詞である。
盛高もいさ おーだに盛ぐわぬ 盛高き
音うと高さ いんだぐゎとまんぐゎた 音高さ
でんが良ゆたんが いんだぐゎとまんぐゎたと 良たんが
まんぐゎだろ いんだぐゎや歯浮うちやげて まんぐゎだろいんだ
(盛(小高い岡)の高さ おーだに盛の 盛の高さ 音(評判)の高さ いんだぐゎ(娘の名)と、まんぐゎ(同)の 評判の高さ どっちが良い娘か でんがいんだぐゎと、まんぐゎたとではどっちが良い娘か まんぐゎの方だろう いんだぐゎは歯が浮き上がっているからまんぐゎだろう。)
このようにうわさの対象は、特定の人物である場合が多いが、もちろん土地や事件もその対象になった。
諸鈍しょどん女童めわらべぬ いきや美きょらさあてむ
布ぬぬ織うらちみれば ゆがたひがた
(諸鈍の娘たちは いかに美人だとはいっても 布を織らしてみれば 歪んだりひがんだり (奄美大島のシマウタ「諸鈍長浜節」でよく歌われるもの))
大和浜やまとはま降うれ口なん 糯米むちぐみ御飯うばんぬあんちゃんな
うれが添物かてむんや茸];・木海月(きくらげ)・さい&ruby(たなが){手長きのこ
(大和浜の降りロに 糯米のご飯があるということだ そのおかずは茸と木くらげとたなが(川えび)だ (奄美大島のシマウタ「あんちやな節」で歌われる歌詞))
建ちにゃん車 昔ぬ世ゆからんば 旧藩ぬ世からんば
建ちにゃん車 
建ちゃんが不思議
奥名うんな、(にきゃみじ){苦水};、本川ほんごぬ浦なん
建ちゃんが不思議
(建ったのを見たことのない砂糖絞りの車 昔の世から 旧藩の世から 建ったのを見たことのない車 建ったのが不思議 奥名と苦水と本川の浦に 建ったのが不思議 (徳之島のシマウタ「くるだんど節」のなかの文句))
以上、典型的なうわさ歌をあげてみたが、問題となるのは、現在一つの筋だった物語を伴なって伝えられるいくつかの歌である。
例えば、「塩道長浜節」という奄美大島のシマウタがある。この歌の歌詞と話は次のようなものである。
塩道しゅみち長浜なんて 童わらべ泣きしるが
うれや誰たるが故ゆい けさまつ汗肌あせはだ故
塩道長浜に 馬繋じちうかば
いきゃだるさとも うれ取て乗ぬるな
(塩道の長浜に童が泣いている それは誰のため汗肌のけさまつのせい (汗肌=肉感的な女性を形容する言葉) 塩道の長浜に馬が繋いであっても どんなにだるくてもそれを取って乗るな)

昔、喜界島の塩道というシマに、けさまつという美女が住んでいた。彼女は年頃になっても男を近寄せなかったが、そのけさまつに、しつこくいい寄る男がいた。その青年は、ある日、彼女を塩道長浜の牧場で待ちぶせた。そこに彼女が愛馬とともにやって来た時、強引に結婚を迫り、けさまつも仕方なく了承する。ところが、すぐに彼女は男に、連れてきた馬が逃げるといけないから、手綱を足首に結わえきせてくれといい、男はそれに従う。縛り終わるや、けさまつは持ってきた雨傘を馬の目の前で広げたのだった。馬は驚いて、男を引きずったまま浜を駆け巡り、殺してしまった。青年の父親は、夜な夜な浜辺で泣いているのは、浮かばれないわが子であり、浜に馬が繋いであるときは、どんな疲れていてもそれには乗るなと、嘆じたという。

この話を今日私たちが聞く限りでは、けさまつと彼女に迫って殺された男、塩道長浜という実在の場所を説明した立派な伝説である。しかし、この歌の文句が歌い始められた時の状況を想像してみよう。これは、島ではよほど人々を震憾させた話だったに違いない。亡霊が夜な夜な泣いているといううわさも、実際にたっていたのだろう。これは、そのことをリアルタイムで歌ったものだと思われる。
それに比べて2首目の歌詞は、話が伝説化したあとに歌われるようになったと考えて不自然ではない。
もう一つ、悲劇的な女性を歌った「かんつめ節」の歌詞と、その話をあげる。彼女を歌った歌詞は20首を下らず、話もかなりの異同があるが、以下はいずれも代表的なものである。
かんつめ姉あぐくゎが 明日あしゃ死のしやん夜は
久慈ぬ佐念さねんぬなんて 提灯御火うまちぬ
明がりゆたむんど
夕ゆべがれ遊しだるかんつめ姉くゎ
なぁしやが夜なたと
後生が道に御袖振りゅり
(かんつめ姉さんが明日死のうという夜は 久慈の佐念山のあたりに、提灯の火の明かり 見えたということだ。 夕べまで一緒に(歌って)遊んだかんつめ姉さんは その翌日の宵になれば あの世への道に御袖を振って逝く)

かんつめは、貧しさゆえに豪農のもとに買われて働かされるヤンチュ(家人)であった。彼女は、長柄のさる農家で使われていたが、その主人が、ひそかに彼女を思っていた。しかし、かんつめには、やがて岩太郎という隣村久慈の青年と恋仲になり、夜になると佐念山の小屋に出かけて、逢引を重ねた。それがある時、主人夫婦が知るとことなり、彼らは散々な折檻をする。ついには主人の妻が嫉妬心もあって、かんつめのほとに焼き火箸を当てる。かんつめは、もう岩太郎との恋もかなわじとして、いつもの逢引の場所で自ら首を括って果てた。

これも今では伝説である。一説によれば、「かんつめ節」のもとは、かんつめが生前得意としていた「草薙歌」だといい、もう一つの説では、長柄の奥宮某という歌人が作詞作曲をして歌い始めたともいう。前説は、すでに確認されている。「草薙歌」とは、今もシマウタの一つとしてよく歌われる「飯米取り節」のことであるが、これと「かんつめ節」の旋律がきわめて類似していることは、疑いようがないからである。  もう一つの作詞作曲者がいるという説も、無碍にはしりぞけられない。作曲といっても、当時は今でいう独創的な作曲とは違って、ある歌を自分流に編曲して歌ってもそう伝えられる可能性はあったと思う。奥宮氏が、始めて「草薙節」にかんつめの文句を歌った人だと考えても、不思議はない。
ただ問題は、「かんつめ節」の歌詞群を、うわさ歌と見てよいのかどうかということである。私は、今掲げた2首についていうかぎり、かんつめが袖を振ってあの世に旅立つ姿を、うわさ話の形で伝えたものだと考えている。今残る、かんつめに関する歌詞のなかには、過去の物語を反芻する形で歌ったものもあることは確かだが、多くは、一つの出来事をリアルタイムに伝達する形で歌われたと思うのである。
ここで、かかる「うわさ歌」がどのような場で生まれたのかということを、考えてみよう。それは、−人の人間が個室に寵って、頭を絞って作詞、作曲するというものでは決してない。あくまでも、複数の人たちが寄り集まって、即興的に歌を出しあっていく、「歌掛け」が基本である。珍しい事件が起これば、世間の四方山話の一つとして、それが歌われるのは当然ではないだろうか。
なお、「かんつめ節」も、先の「塩道長浜節」も、最初から室内で三味線を伴奏に歌われるシマウタではなく、野外の仕事歌であったことが分かっているが、私はこのことに大きな注意を払うべきだと思う。音楽的にいえば、仕事歌は、テンポとリズムが優先されるもので、感情移入のきわめてしにくい歌である。ということは、すでに伝説となった物語を、情緒綿々と歌うには、とても不向きな歌だということである。
現在「かんつめ節」や「塩道長浜節」が、悲哀に満ちた歌い方がなされるのは、長い間の歌の洗練の結果であることを知るべきだろう。いい方を変えれば、歌う人々が感情移入をして、歌を物語の内容に合わせてきた結果なのである。
今も、名もない古老が歌う「かんつめ節」を聞くと、たんたんとした語りだけの調子で、悲しさをほとんど感じさせないものがある。その歌い手にとっては、まだ、かんつめについての「うわさ」を歌っているという気分なのだと想像される。
以上のように、今まで物語歌、伝説歌と思われていた歌も、その多くの歌われ始めは、うわさ歌だったという結論に戻る。
ところでこのパターンに該当する歌はどれほどあるだろう。それに答えることは不可能である。前も述べたように、奄美民謡は掛けあいで歌われるから、歌詞単位に、うわさ話に関したものをあげるとすれば、それは膨大なものになるからである。ただ曲名で分かるうわさ歌、すなわち、うわさを歌ったと推定される歌詞が曲名となっているものをあげるとすれば、それは比較的容易である。
かつて私は、自著で、奄美大島から与論島までのシマウタ70曲を掲げ解説したことがある。そのうち、人物や場所、事件等がそのまま曲名になっていて、しかも、主要な歌詞がうわさを歌っていると推定されるものをあげてみると、次のようになる。(「○○○○節」の「節」は省略する)
《人名が曲名になっているもの》「俊良主しゅんじょしゅ「うんにゃだる」「かんつめ」「請うけくま慢女まんじょ」「いそ加那かな」「嘉徳かとくなべ加那かな」「こうき」「儀志直ぎしなお」「ちょうきく」「国直くんにょりよね姉あご」「うっしょばる風ふうちょうきく」「あむろぬ慢女」
《実在の場所が曲名になっているもの》「諸鈍しょどん長浜」「塩道しゅみち長浜」「徳之島(犬田布いんたぶ)」「山さんと与路よろ島」「三京みきょ(−名、三京ぬ後くし、三京ぬ裾山しゅしゃやま)」「(いんたぶ){犬田布};れ−」
《事件が曲名になっているもの》「ちじょ割れ」
うわさ歌はシマウタにとどまらず、八月歌などの行事歌や各種仕事歌にも多くみられる。奄美民謡においてうわさ歌が主要な位置を占めていることは、もっと認識されるべきことであろう。
(3)先行の歌謡と、うわさないし伝説が混合して生まれた民謡
1の「民謡と神話」の章で、「上がれ世のはる加那節」とその神話が、今は消えてしまった先行の神歌に依るものではないかと推論したが、本項では、うわさ、ないし伝説と先行歌謡の問題を考えてみたい。
先ず、奄美大島のシマウタ「うらとみ節(−名、むちや加那節)」の場合をみてみる。その歌詞と伝説を例示する。
うらとみやうらとみ 戻むどらめやうらとみ
うらとみ戻しゆしや しまぬ狂ふり者むん
(うらとみ(女性名)や、うらとみ 戻らないか、うらとみ いや、うらとみを戻そうとする者こそ  シマ(集落)の馬鹿者だ)
喜界ききゃや小野津おのつ 十柱}:むちゃ&ruby(かな){加那とばや
青あおさ海苔ぬり剥ぎに いもろやむちゃ加那
(喜界は小野津の 十柱(字名)の、むちや加那よ 青さ海苔を採りに 海に行こうよ、むちや加那)

薩藩時代、鎮西村(加計呂間島の約半分に当たる)生間にうらとみという若く美しい娘がいた。薩摩の代官が赴任してきたとき、彼女の評判を聞いて、島妻になるよう使いを出した。しかし、うらとみは操の堅い女でそれを拒む。面目丸潰れの代官は、その後、うらとみ一家に重税を課するなどことごとく圧迫を加えてきた。そこで、一家はうらとみを、生きながら葬る決心をして、通夜舟というのを作り、むりやりそれに乗せて海のかなたに流してしまう。
いく日か漂流を続け、着いたところが喜界島の小野津の十柱といわれる海岸であった。ここで、島の有力者が身元を引き受けようというが、うらとみは、ある百姓家に身を寄せ、やもめだったそこの主人と一緒になる。なか陸ましく幸せな生活が続くとみえたが、うらとみが美しかったがゆえに、島の女たちの嫉妬や横恋慕して拒否された男たちは、うらとみを島の撹乱者とみなして、生まれシマに帰れというようになった。この時、村の長老はこんな貞節なうらとみを、戻そうなどというのは島の馬鹿者だと宣言する。「うらとみやうらとみ〜」の歌詞は、そのことを歌ったのものである
こうして幸せな生活に戻り、やがて、むちや加那という娘が生まれた。彼女も成長するごとにきれいになっていく。ここで再び村人の心に嫉妬心が起こり、むちや加那を折にふれなきものにしようとする。ついに、ある日、友達が海岸に誘い出し、青さ海苔を採っているところを海に突き落としてしまうのだった。母のうらとみは、狂気して娘の行くえを探すが、見つかるべくもなく、自らも入水自殺をはかる。

この話には多くの異説がある。坂井友直は次のような伝説を報告している。

生間(同著には「生馬」とある)に17、8になるうらとみという美女がいた。最初、郡奉行が思いを掛けるが、それを拒んだ。彼は重税などを課し恨みをはらす。彼も任期を終えて、代わりに喜界島に派遣される代官某に、うらとみのことを話すと、代官も気を動かし喜界へ行く前に生間に寄って、うらとみに島妻となることを申し出る。すると見事に叶えられ、そのまま赴任地の喜界島に行き幸せに暮らす。ところがまた、彼も3年目の任期が来て別れることになるが、与人(島役人)に、うらとみを生間の実家に送り返すように頼む。
ところが、頼まれた与人も、妻ある身でありながら、うらとみに思いを寄せ、妻とは離縁してうらとみと一緒になる。そうして生まれたのが、むちゃ加那であった。やはり彼女も美形であった。ここで、先妻が嫉妬しうらとみ、むちや加那母子を殺害しようとたくらむ。ある日、むちや加那が友達に誘われて青さ海苔を採りに、海に行ったとき、先妻が海に突き落としてしまう。うらとみは、海山と探していたが見つからずに、やがて死んでしまった。

母子の死という結末は同じだとしても、うらとみの前半の話は余りの変わりようである。  さらに、この伝説を追った民謡研究家、仲宗根幸市氏は、うらとみ、むちや加那が母子であるという話以外に、次のような伝承のあることを記している。
(1)うらとみ、むちや加那は同一人物である。
(2)むちや加那の母は、うらとみではなく「あかば加那」である。
(3)うらとみは、むちゃ加那の悲話を語る門付け芸人であった。
私も、仲宗根氏同様(3)の伝承に大いに興味引かれる。
ここで、どうしても挙げなければならないのが、むちゃ加那を歌った長詞形叙事歌のことである。
これまで、文朝光著「奄美大島民謡大観」をはじめとして、数々の本に、むちや加那の海岸での死を歌った叙事詩が載せられたが、それがいわゆる掛け合いで歌われるシマウタでないことは明らかだった。では、誰が、どのような場で歌ったのが本来の形かと久しく考えてきたのだが、門付け芸人の歌であったとすれば、いっきに疑問は氷解するのである。  ここに久保けんお氏が、喜界島の郷土史家、三井喜禎氏の著書と、自身の取材ノートをもとにまとめられた長歌「むちやかな節」をあげる。(共通語訳も久保氏のもの)
喜界ききゃや小野津ぬ十柱ムチャカナ 青さ苔ぬりはぎゃに参いもらムチャカナ
青さ苔はぎゃに行き欲ぶしゃや有しが 阿母あんまに申しらりてから行かばん居うらばん
あんまにしられて見れば 阿母や行lナち言り父じゅや居りち言り
祖母ぬ欲どれや桟綛さんがしたりりち言り 桟綛たりりば布綾ぬぬあやひらいち言り
布綾ひらえば縦貫たてぬき績うめち言り 縦貫うめばや水汲くで置うきち言り
水汲で置きぱや行きゃばむ居うらばむ 行きや行きじゃしが側すば入いり横ゆく入いすな
側入り横入りしりば童わらべぬ見ち語かたゆんど
童ぬ物言ゆん者むんな苦芋ゆごむちうち喰くろしゅん
十柱しばやムチャカナ見りゃんたみ親鳩
谷々浦々さくざくうらうらなんにゃ赤牛あーぶし黒牛くるぶしゃぬ居うすが
うりん訊ねてん見ち言ちゃむ 潮尻しゅーじりに曳ひかさったんち言ちゃむ
蒲葵くばぬ立ち美さや眞與路まよろぬ池上いけんうィぬ蒲葵
松ぬ立ち美さや眞於済まうせぬ寺上ぬ蒲葵
うりが片枝かたゆだなんや青鳩ぬ止まとむ
浦々&ruby(さくざく){迫々}:なんや青鳩親鳩ぬ止まとむ
十柱ムタヤ加那や見りゅんたみ
潮しゅーや満ちあがり太陽てだや申時さんときさがりゆむ
十柱ムチャ加那や潮尻しゅじりかち曳ひかさったむ
(喜界小野津の十柱むちや加那 青のり摘みに行きましょう 青のり摘みに行きたいけれど 母に尋ねて 行くも行かぬも 母に尋ねてみたところ 母はいけという父は居れという 祖母の欲たれカセ張れと カセをたれれば綾ひろえ 綾をひろえば貫うめと 貫をうんだら水汲めと 水をくんだら行こうと居ろと 行ってよいが傍道するな わき道するとガキ共 物言う 物言うガキには苦芋くわせろ ムチャカナ見ないか親鳩よ 谷間や浦の赤牛黒牛 それに尋ねて見てという 赤牛黒牛の聞いたらば 青鳩親鳩に聞けという 青鳩親鳩に聞いたら 潮に曳かれて行ったという 蒲葵の見ものは與路の蒲葵 見るべき松は於済の松 その片枝に鳩がいる 谷間に浦に鳩がいる ムチャカナ見ないか鳩達よ 潮は満ちくる夕まぐれ ムチャカナ哀れ海の底)
むちや加那は青さ海苔を摘みに行こうと誘われ、母や祖母のいいつけた仕事を終えて出かける。ところが、帰って来ない彼女を探しに出た母は、道すがら牛や鳩に聞いてみると、潮に流されてしまい、今は海の底だ、というストーリーである。
音数律は一定しないが、対句がいくつかみられ、奄美の地名が出てきたり、島の方言で歌われているところから、これを歌っていた人がシマンチュ(鳥人)であることは疑えない。
ただ、ここには、うらとみという名前は全く出てこない。むちや加那が誰かによって海に突き落とされたという話も、片鱗すら歌われてはいない。ただ、冒頭の2句からシマウタ「むちや加那節」の歌詞の一つが生まれたことだけは明かとなった。
このことは、いったい何を意味するのだろうか。
かつて、喜界の小野津の十柱に住むむちや加那という娘が、海で溺死したことだけはおそらく事実であろう。それが門付けをする歌い手によって歌われた。その長詞形の歌が短詞形のシマウタになる過程で、あるいはシマウタになってから、人々は周辺に起こったありとあらゆる出来事を総動員して、今の伝説を作りあげていったのだというのが、一番正しい見方だと思う。
先行の長詞形歌謡をもとに、新しい歌詞とそれにうわさや伝説がついた例をあげたが、これは奄美民謡の中では稀なケースである。もしこれが、大きな流れとして認められるならば、南島歌謡史における「長詞形叙事歌→短詞形叙情歌変遷説」も説得力を持つことになろう。
しかし、「うらとみ節」のように、はっきりとそれと分かるものは、ほんの僅かだといわなければならない。
次に挙げたいのは、奄美大島のシマウタ「嘉徳なべ加那節」の例である。今ある歌は、うわさ歌、ないし伝説歌と認められるが、これには明らかに短詞形の先行歌謡が存在する。
先ず現行「嘉徳なべ加那節」の歌詞をあげる。
かどくなべかなや いきゃしゃる生れしゅてか
親に水くまし ゐしゆて浴める
かどくなべかなが 死じゃる聾きけば
三日やみき作て 七日あそぼ
かどく濱先に 這ゆる磯かづら
通い先やねらぬ 天にかへろ
(嘉徳のなべ加那は いかなる生まれをしたのか 親に水を汲まし 自分はいながらに水浴する 嘉徳なべ加那が 死んだといううわさを聞けば 三日はみきを作って 七日間は遊ぼう 嘉徳の浜崎に 這っている磯葛 這う先がなくなったら 天に戻れ)
この「嘉徳なべ加那」に関する話は、諸説あって、「奄美大島民謡大観」はじめ、多くの人たち、多くの地域では、なべ加那は、親に水汲みをさせるまでの親不孝者であり、そのため彼女が死んだと聞けば、親不孝者がいなくなったという喜びで、島中の人が遊んだ、というものである。この話が行き渡っているところでは、親不孝するなという意味で「なべ加那するな」といういい方すらあるようである(例えば笠利町佐仁)。
これに対し、なべ加那は、実は親にも水を汲んでもらわなければならないほどの、身体不自由な人であったという人もいる。
しかし、近年もっとも納得いく説は、金久正が示された、なべ加那神女説である。つまり、親に水を汲ませるほど神高い生まれをした女性で、その死を知った島の人々は何日も神まつりをしたというのである。これには「遊ぶ」という言葉の解釈の問題もあって、現代的な意味では娯楽を意味する遊びだが、日本の古語や南島語では、神まつりを意味する、というのである。3首目の文句も、神女なく加那が天に帰ることを象徴的に歌った歌詞ととれなくはない。  なお、この「嘉徳」は本当は現竜郷町の「嘉渡」であるという説や、地名ではなく喜界町の「嘉度」家をさすという説があって、謎多き歌なのである。
では、この歌の先行歌謡とは何をさすのだろうか。それは、今日奄美の八月歌、徳之島の夏目踊り歌、沖縄のウスデーク踊り、沖縄古典音楽等々に出てくる以下のような歌である。(歌詞のみを記す)
奄美大島の八月踊りの歌「かでくおめらべ」(笠利町用地区の例)
かでくおめらべ 言付くどちげぬ煙草たばく
またも言付げ もちれ煙草
(かでくおめらば 言付けの煙草 またも言付けの 縒れ煙草)
徳之島の夏目踊りの歌「なんごちゆがなびぃ」(徳之島町井之川の例)
なんごちゆがなびぃや
言付ことぢきぬ煙草たばく
(なんごちゆがなびぃの 言付けの煙草)
与論島の十五夜踊り、二番組の歌「くんぬら−」
かどくうみなべ かくどちきぬ煙
又んくとちきの もちりたばこ
(訳文省略)
沖縄本島のウシデークの歌「加手久節」(名護市安名の例)
加手久かでく思鍋うみなびが たばく
くとじきぬ煙草たばく にゃひんくとじきぬ あゆらやしが
(訳文省略)
同「金細工節」(国頭村安田の例)
かんぜくうみ 金細工かんぜく思うみなびよ
くとしきぬ煙草たばくよ またんことしきぬ むちり煙草よ
(訳文省略)
「琉歌百控」所収歌「早嘉手久節」
嘉手久思鍋か こと付の多葉粉
又もこと付の 藻列煙草
(訳文省略)
7種の詞章をあげたが、(1)「かでく」に近い文句がでてくること(2)「うめなく」に近い人名があらわれること(3)煙草が出てくることから、これらが系統的にかつて一つの歌詞であったことは明白であろう。そして「嘉徳なべ加那節」は、実はこの系統の歌をもとに作られたことが明らかになってきたのである。
証拠となるものを−つ挙げると、八月歌「かでくうめなべ」と、シマウタ「嘉徳なべ加那」の歌われ方である。両者を歌われるままに左右に記述してみると次のようになる。
八月歌の場合
かでくうめなべや 言付けぬ煙草
ハレまたも言付けぬ 縒むちれ煙草 ヤショヤー
ハレまたも言付けぬ 縒れ煙草 ヤショヤー
(嘉徳なべ加那やイヨーヤハレ いきゃしゃる生まれしちがヨー 親に水汲ましヨーヤレー 居いしゅて浴める ヤシユリャーヨイ 親に水汲ましヨーヤレー 居しゆて浴める ヤシユリャーヨイ)
二つの曲の印象はきわめて異なることは事実である。しかし、下の句をそっくりくり返す反復形式や、「ヤショヤー」「ヤシュリャー」というハヤシコトバの類似を考えると、かつて一つの歌であったことは疑うことができない。他地域の歌がみんなこう歌われるわけではないが、八月歌「かでくうめなく」とシマウタ「嘉徳なべ加那節」が異名同曲であったということは、結局全てが姉妹歌であったということになる。
そこで、次に八月歌やウシデークの「煙草」の歌が先か、シマウタ「嘉徳なべ加那節」が先かという問題になるが、八月歌やウシデークの歌が先行していたことはいうまでもない。
「かでく」「かんでく」から、「嘉徳」を、「うめなべ」「うみなび」から「なべ加那」を連想し、島の人々は「煙草」のことなど全く無視しして、この歌で「嘉徳なべ加那」伝説、ないしうわさを歌ったのである。
ついでながら、先掲「琉歌百控」の「早嘉手久節」には、「東間切之内東嘉徳村」の歌だと記されており、同書「嘉伝古節」には「竜郷方の別西嘉伝村」とある。「早嘉手久節」の「早」は曲調が早めだということで、「嘉伝古節」とは発音の上からも同じ系統の曲であることは疑いをいれない。ここで思い起こすのは、「嘉徳なべ加那」の「嘉徳」は、実は竜郷村の「嘉渡」なのだとする説である。おそらくそれは、「琉歌百控」をひもといたことのある知識人によってもたらせた説だと思う。私も嘉渡で「なべ加那」伝説の有無を聞いたことがあるが、全く伝わっていなかった。
また、八月歌のなかに、「かどこ」と称して次の歌詞を打ち出しの歌詞としているところがある。
かどこ浜崎に 這はゆる磯葛いそかずら
這い先いねだな 元もとに帰ろ
(かどこ浜先に 這っている葛 這い先がなければ 元に帰れ)
これはシマウタ「嘉徳なべ加那節」の3番目によく歌われるものでもあるが、おそらく八月歌との結びつきのほうが古いと思われる。シマウタの方が、嘉徳なべ加那に対する一つの感想として、この歌詞を借用したのだと考えられる。
以上のように、先行の短詞形歌謡から、新らたなうわさ歌、伝説歌が生まれる例は、他にも割合多いといえる。
西にしぬ管鈍くだどんなん
雨あま黒ぐるぬ掛かて
雨黒るやあらぬ
吾わかぬめなだ
(西の管鈍(地名)に 雨雲が掛かったが あれは雨雲ではない 私の恋人の涙だ)
のような文句が、
大和やまと川内ごち沖おきなん
雨あま黒ぐるぬ掛かて
雨黒るやあらぬ 美代広主みよひろしゅ目涙めなだ
(大和川内の沖に 雨雲が黒く掛かったが あれは雨雲ではない 美代広主(男性名)の涙だ)
と、地名が変わり、「吾かな」という一般名詞が「美代広主」という固有名詞に変わった時点で、新たなるうわさ歌、ないし伝説歌が生まれたといえるのである。
(4)民謡をもとに生まれた伝説
ここで問題とするのは、元来全くうわさや伝説とは関係ない歌であるにも関わらず、そこに新たなる話を付加するというケースである。先行歌謡があるという意味で、前項と同じではあるが、ここでは新たな歌が生まれるのではなく、新しい話が誕生するだけのものである。
奄美大島のシマウタに、声ならしの歌とも、あいさつ歌ともいわれる「あさばな節」がある。そこで、次のような歌詞がよく歌われる。
吹ふちょりよ南はいぬ風
大和山川やまとやまかわ
吹ちょりよ南ぬ風
(吹けよ南風 薩摩の山川港まで 吹けよ南風)
おそらく、本土に旅する人を送る歌詞として歌い始められたものだが、今は関係なく、どんな場ででも歌われる。
ところが、大和村今里には、この歌の文句について次の伝説があるというのである。

昔、奄美の砂糖を積みに薩摩から下って来た船は、今里の沖に泊まらせ、船長は中村家の祖先のところに宿をとっていた。そこには五歳くらいの男の子がいて、船長にじゃれついたり、ふざけたりしてなついていた。そこで、その子の祖父は冗談で「こんなにうるさい子は、船長さんに貰っていってほしい」といった。そのころ船長は、ちゅようどわが子をなくして、子供が欲しかったので、「本当に貰っていいか」と聞いた。祖父も軽い気持ちで「構いませんよ」と答えたのだった。果たして翌年、船長はその子をもらうつもりでやってきたが、今更断るわけにも行かず、あげることにしてしてしまった。悲しんだのは、その子を一番可愛がっていた祖母であった。孫の乗った船が出たあと、毎日浜に出て、あだんの木をゆすって泣き、この歌を歌いながら、無事山川港に着くよう祈ったという。

この歌詞自身、奄美大島で広く歌われるわりには、この話は今里に限られ、しかも他所には全くといっていいほど伝わっていない。価値ある話ではあるが、ここでの創作、ないし付会と考えざるをえないのである。
「かんつめ」については、すでに述べたが、
あかす世や暮れて 汝きゃ夜や明ける
果報かふ節ぬあれば また見きよそ
(あの世は暮れて あなたの夜は明けていく 果報な節がきたら またお会いしましょう)
の歌の文句が、かんつめが亡霊になって、恋人の岩太郎に歌いかけたものだという伝説がある。おそらく、これも前からあった歌詞であり、それに後世の人が話をつけたものと推定される。
かつて、加計呂間島諸鈍の長老が、民俗芸能「諸鈍芝居」のなかの「高き山節」をあげて説明するのを聞いたことがある。
高い山から
谷底見れば
瓜やなすびの 花盛り
全く近世小唄調の歌だが、翁は、これこそ仁徳天皇が丘に登って、民衆の暮らしぶりを見た時の歌だというのである。歴史的に考えて、絶対にあり得ないことだが、伝説発生の問題を考えるにはこれも立派な資料だといえる。
4つのケースから、民謡とうわさ話と伝説との関連をみてきたが、歌と話は単一的に成立、伝承されていく例は少なく、多くは実に複雑に相互が絡みあって作られていくことが理解できた。 
3 昔話のなかの民謡
昔話の定義をしておく。
(1)語り手、聞き手は、必ずしも「真実」とは思っておらず、「虚構」と認識していること。
(2)登場者は、人間、動物、妖精など。
(3)時代は不定、過去であればよい。
(4)場所も不定。
(5)伝承者は、語りを得意とする爺婆。
(6)話の主題は、主に異常な幸、不幸。
(7)話に叙述形式を有する。
ここでもいくつかの事例を出して検討していくこととしたい。
先ずは「正月の歌」にまつわる話である。
ある所に3人兄弟がいた。正月の朝、親が子供等に歌を作るようにいったところ、長男はこんな歌を歌った。
元日ぬ朝しかま 床とうく向かってし、見れば
裏白じるゆじる 飾りぎゅらさ
(元日の朝 床の間に向かって見れば 裏白とゆずりの 飾りがきれいだ)
次男は、「元日の朝になって、自分たちは若返っていくが、年寄った親は可哀相だ」という意味の歌を歌った。
最後に三男が、こう歌った。
あったら若正月 那覇下りいもらし
またもいもれよ 正月
(もったいない若正月が 那覇から下ってきた またも来て下さい お正月)
親は、次男が一番親思いだといって、彼に本家を譲ることにした。長男、三男は思い思いに暮らせといって家から出し、次男にみられることになったそうだ。
全国にある歌詠み比べ話の奄美版といえる。
どの歌も、徳之島のシマウタで歌われるものに違いなく、次男の歌は、この採集では意味だけになっているが、おそらく徳之島の「正月歌」で歌われる次の歌詞がそれに当たるものだろう。
若正月とれば 吾わきゃや若わかげりゅり
年寄りゅろ親うやぬ 事ど思んで
(若正月をとれば 私たちは若返るが 年を取っていく親の ことが思われる)
また、三男の歌は、4句目が字足らずになっているが、
あったら正月や 那覇くだいしめて
また来ゆん正月 迎むて上うえせら
(もったいない正月が 那覇から下ってきて また来る正月を 迎えて差し上げましょう)
といった歌詞が元になっていると思われる。
いずれにせよ、これらの歌の文句は、決してこの昔話とともに生まれたのではない。昔話が、徳之島の正月歌を取り込んだのである。
この昔話が語られた場をも想像することができる。正月の朝、一家が集まって三献(三つの吸い物と酒をいただいて祝う儀礼)をする時、一家の主人が、子供等に向かってこの昔話を聞かせたのではないだろうか。この3つの歌に序列をつけることに対しては、異議ある人も当然出てこようが、徳之島は「神拝むより親拝め」といわれる土地柄である。親思いの歌が一番になったのには、それ相応の理由はあったのである。
兄弟が歌比べをした話に対して、ヤンチュ(家人)といわれる農家の奉公人が、主人の前で歌を歌うという話がある。これも二人の男が歌って、一方が一生食べていけるくらいの財産をもらい、片方が終生ヤンチュで終わるのである。
この話型を持つ昔話や伝説が全国に広くあることは周知のことである。しかし奄美はとりわけ歌遊びや八月踊りなどで歌競争が近年まで濃厚に残っていたところであり、かかる話が支持される基盤は十分にあったと考えられる。
次に、これは奄美だけでなく沖縄にまで広がって伝えられている「浜千鳥」の歌にまつわる昔話をあげてみる。
事例1
千鳥がいつも上がったり下がったりしているので、人が「君は親が欲しくて、上がろうにも上がれず、下がろうにも下がれず、鳴いているのか」と聞いた。すると、「私は親がいないので、毎日浜に降りて鳴いている」と答えた。するとまた、人は「今からは自分と親戚になろう。君も親を欲しがらず、私も親を欲しがらないから、二人親戚になろう」といったそうだ。
この話には歌詞は出てこないが、
親離うやはがれ鳥どうりぐゎ 親欲ふしゃち鳴きゅり
吾わぬも親離れ 親欲しゃち泣きゅり
(親に離れた鳥が 親が欲しいと鳴いている 私も親と離れた身 親が欲しくて泣いている)
吾わぬやこのしまに
親うやはるじをらぬ
吾わん愛かなさしゅん人ちゅど
(私はこのシマ(里)に 親親戚はいない 私を可愛がってくれる人が 私の親親戚だ)
という文句の説明であることは確かなことである。
事例2
投げ網を打つ男が、ある日カマウタサバ(鱶の一種)を捕まえる。男は、それと一緒になり、やがて子供まで生まれる。幸せに暮らしていたが、ある時、カマウタサバは「海に帰らなければならないと」いい、男が止めるのも聞かず、子供を連れて海に帰ってしまう。男もその後を追って、海で死んでしまう。そして彼の霊は浜千鳥となって、浜辺をさ迷うのであった。
泣くなちぱ泣きゆる ゆる浜ぬ千鳥
あれや我がくぅとぅい あてぃどぅ泣きゅり
(くなといえば、なお声まさって泣く 夜浜の千鳥よ あれは我がことが あってそれで泣くのだ)
と、歌うのはそういうわけである。
事例3
ある所に母と男の子が暮らしていたが、ある時、男の子が海からきれいな赤い魚を取ってきた。母は、こんなきれいな魚を食べるわけにはいかないといって飼っていた。母は機を織っていたが、その布が誰か他の人に織られているような感じがしてならなかった。それで、畑に行くふりをして隠れて見ていたら、魚が娘に姿を変え、機を織るのであった。  問い正すと、自分を殺さずに飼ってくれたお礼だという。それで、母はその娘と息子を夫婦にさせる。ところがある日、息子が妻に粟をついて昼ご飯を作って持ってきてくれと、いったところが、妻はよくふるいにかけることを知らなかったので、カサカサして旨くない飯を作って持っていってしまう。夫は怒って、お前は海に帰れといって帰してしまった。そして、男が家に帰ったところ、家には何もなくなっていた。男は妻を帰したことを後悔して、浜伝いをさ迷い、泣き暮らすうちに浜千鳥になってしまう。その時、妻は沖の干瀬に上って、次の歌を歌った。
たんでぃ浜千鳥 朝ま夕ま位くな
泣けば面影い まざてい立ちゅい
(ごめんよ、浜千鳥 朝も夕も泣きなさんな 泣けば面影が 勝って立つから)
事例4
ある所に老夫婦が住んでいたが、ある日、夫がきれいなクサビを−匹釣ってきた。それを壷に入れて飼うことにする。ところが、夫婦が昼間、畑に行っている間に見事な綿布が織られている。それがたびたび続くので、二人は押し入れに隠れて見張っていると、壷のなかからクサビが出て、女になって織りだすのであった。夫は押し入れから飛び出して、女を縄で縛りつけた。すると、もとのクサビになって海に帰っていく。夫はそのクサビを探しに海に入り溺死してしまう。妻は夫の死を悔やんで浜に行き、浜千鳥が鳴くのを聞いて、浜千鳥よ朝夕鳴いたら面影が一層増してくると、声を掛けて泣くのであった。
このなかの声を掛けたという文句は、事例3の歌詞に当たるであろう。
事例5
ある所に夫を失い、子供4人を育てる母親がいた。長男は船乗りになっていたが、下の子3人は母と一緒に暮らしていた。ある時、母親が一生懸命布を織り、やがて織り切ろうとしていた時、一番末の子が機の側に来て邪魔をした。それで子供等に、海に大きな船が来ているから、そこに行って遊びなさい、という。子供等はいわれた通り海に行き、小さな船から大きな船に乗ろうとしていたが、台風がきて外海に流されてしまい、3人とも海にたたき込まれて死んでしまう。母は、子供等が帰らないのを悲しんで、泣きながら浜に降りていくと、浜千鳥が3羽、彼女を追いかけてきた。これはきっと我が子らの魂だろうといって、捕もうとしたが捕まえられなかった。そこで、織りあげた布を鋏で切って、「お前たちのために遊んで来いといったのだ」と後悔の言葉を口にしながら、次々布を鋏で切って飛ばし、布がなくなるまで、浜伝いを泣きながら千鳥を追った。
千鳥浜千鳥 朝ま夕ま鳴くな
鳴きば面影うむかげぬ まさていたちゅい
(千鳥浜千鳥よ 朝も夕も鳴くな 鳴けば面影が 勝って立つことだ)
という歌を歌い、母もそこで命を絶った。
どの話の歌の文句も、今なお奄美のシマウタや八月歌として愛唱されているものである。  昔話としては、事例1が人と千鳥の問答、2、3、4が異類婚姻譚、そして4がわが子を失う母の話である。
1は歌詞説明型といってもよく、島の人々はこんな形で歌の文句を説明することがあったのだと知れる。また、歌遊びで歌掛けをする時に、感情移入をするために作られた話かもしれない。
2、3、4の異類婚姻譚は、奄美の昔話に深く入り込んだものである。1のような形で千鳥の歌が説明されるうちに、この話と結びつくことはきわめて自然といえる。
5のように機織りを邪魔する子供を浜に追いやって、後悔する母の話は、徳之島の歌「しきしま口説」がそうであり、また昔は日常的にもよくあったことだと思う。
ただ、私の推量では、南島の千鳥の歌は元来、異類婚姻誼と深く結びついていたと思われる。それを傍証するものとして、沖縄には有名な雑踊りの歌「浜千鳥節」の由来を説明する「熊女房」の話がある。

ある男が暴風にあい、船が沈んで無人島に打ち上げられる。その時、雌熊が現れて、熊の皮や木の実をとってきて寒さを凌いでくれるので、男と雌熊は夫婦となる。やがて男の子が生まれる。それから3、4年後、男は、女房が山に行っているすきに、子供を連れ、通りがかりの貨物船に乗って沖縄に帰って来る。子供は、手は人間だったが、体は毛がはえて熊のようだったので、父にそのわけを尋ねる。父はそれに答え、父子は母熊のいる島に渡る。しかし、その時母はアダンの葉にすがって死んでいた。子供はその熊の皮と口を持ち帰り、まつりをした。「浜千鳥節」はその時生まれたものである。

一般に歌われる「浜千鳥節」の歌詞とハヤシコトバは次のようなものである。
旅や浜やどうい 草ぬヤレ葉ふあぬ枕
寝にてぃん忘わしららん 我わ親やぬヤレ親うやぬ御側うすば
千鳥ヤヤ浜ウティチュイチュイナ
(旅の浜宿りをして 草の葉を枕に寝る 寝ても忘れられないのが 我が親の側にいたときのこと 千鳥が浜に降りて チュイチュと鳴く)
この話では、歌のどの部分と、どう結びつくのかは不詳だが、母の死の悲しみと千鳥の悲しい鳴き声と重ねたものであることは間違いない。
いずれにせよ、島の人々の身近にいる魚とは違って、「熊」という山の中の、しかも沖縄にはいない動物を女房にする話にも「浜千鳥」の歌が出てくるのは、よほどこの歌と異類婚姻譚との結びつきが固い証拠といえよう。むろん、こんな話が、どんな経過で生まれたのかは今後の問題にしなければならない。
以上の一連の話と歌の関連を一口でいうなら、南島の「歌物語」だということである。日本の古典文学「伊勢物語」「大和物語」等々における物語と短歌との関係とほとんど変わらない世界が、そこにはみられるといってよい。
奄美の歌物語という点で、このほかにも「炭焼き五郎の話」や「絵姿女房」系の話と歌が結びついたものがあるが、すでに論じたことがあるので本稿では割愛する。  最後に、何時の時代か、本土から奄美に入った昔話がいくつか複合して、それが伝説化し、歌が結びついたというケースをみてみる。

徳之島の尾母に住む男が、馬根の女に思いを寄せて通った。しかし、女は「あなたが千夜通ったら一緒になろう」という。男はそれを真に受けて、三年と三カ月通ったが、いよいよ最後の夜になったが、女は一緒になりたくなかった。そこで彼女は、馬根と尾母の間のサビチ川に掛かっている橋を真ん中から切っておいた。男は、それとは知らずに橋を渡って落ちてしまった。男は濡れたまま女のところに行き、こう歌う。
愛かなさうち惚ふれて さびち川ごや渡て
降らぬ夏雨なちぐりに 濡れる辛気しゅき
(するお前に惚れて サビチ川を渡って 降りもしない夏雨に 濡れてしまったのが辛い)
すると、女はこう返した。
降らぬ夏雨に たんが濡れてちゃんが
しま肝ぎもぬあてど 濡れたはんぎじゃが
(降りもない夏雨に どうして濡れて来たのか しま肝(邪まな心のことか)があって それで濡れたはずです)
また男は返す。
しま肝やねだて よこ肝やねだて
しぎ深雨に 濡れたん
(い心もなくて 邪まな心もなくて ひどく深い雨に 濡れてしまった)
また女の返し。
しぎくやんたれて 降ゆる雨加那志
むじよい上なれぱ 露に降うりれ
((意味不詳) 降る雨の神様 恋人の上に降るならば 露になって降りて下さい)
また男の返し。
露だまし降りて 花ぬ宿やどとゆし、
あまこ宿御宿みやど とらち給れ
(露でさえ地上に降り 花の宿をとる あの宿この御宿を どうかとらせて下さい)
こんなやりとりがあり、ついに男は女を突き倒し、鋏を取り出して女の髪の毛を切り、それを手拭いに巻いて帰った。その後、男は轟の分限者の娘と一緒になった。  それから二、三年して、馬根の女は落ちぶれて物貰いになった。そして男の所にもやって来たが、男のことを覚えていないのである。男は哀れに思い、籾を二、三升ばかり与える。また、何か月後かに来たので、妻の着物と籾一斗ほどを、寒いときはこれで凌げといって持たせた。だが女は寒い日に、着物を確かめずに燃やしてしまう。再び来た時、男は、かつて切り取った髪を包んだ手拭いを女に渡し、家に帰ってから見なさいといった。女は門口でそれを見て、ことの全てを知って息を引き取ってしまった。男は妻にもいうことができずに女を俵につめて家の軒下に埋葬した。やがて、そこから葉の大きな草が生えてきて、妻はあれは何かとたずねる。先ず煮て食べてみるが苦くて食べられない。それで焼いてみると香りがとてもよいので、竹筒を持ってきてそれで吸ってみた。女の縁が付いた煙草という意味で「縁付け煙草」というのである。

これは、「千夜通い」の話と、「炭焼き五郎」系の話と「煙草由来」の話が混合したものである。歌は、もともとはこの話に関係なく、一般的な掛け歌として歌われていたものに違いない。それが、この話と融合して見事な歌物語が成立したと思われる。ここでの歌の役割を考えると、昔話を伝説化するのに大きな力となったとはいえないだろうか。 
まとめ  
奄美における民謡と神話、伝説、うわさ話、昔話との繋がりを3章にわたってみてきた。今更ながら、民謡と民間説話とが島の生活の中に、いかに重要な位置を占めているかを思い知ることとなったが、この方面の研究は、ユタやノロが伝える長詞形の叙事詩、いわゆる神歌研究に比べると今始まったばかりの分野だといえる。その資料は、ある意味では断片的なものが多く、このままだと忘れ去られてしまうということも事実である。
近年は特に酒井正子氏の精力的な研究があって奄美のうわさ歌の研究は進んだが神話や昔話と民謡の研究はまだこれからである。本稿がいくぶんその方面の研究の緒となれば幸いである。 
 
 
 

 

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