東アジアの中の日本

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雑学の世界・補考   

中日姓名の比較

姓名は現代社会に生活する人がひとしく持つ特定の呼称である。人は生まれるとまもなく自分の姓と持ち名を与えられ、それをもって社会生活に入り、それによって自己を代表し他人と区別される。簡単に言えば、それは人の「符号」である。中国人の姓名と日本人のそれは比較的接近していて、姓を名前の先に置くという基本形式を持っているが、ただ、両者は接近しているとはいえ、その差異は大いにある。
中日両国の姓の最大の違いは数値上の問題である。つまるところ、1億2千万の人口の日本でいくつの姓氏があるか。1983年、群馬県太田市在住の72歳の老人斎藤清氏はもっとも直接的な--全国各地の電話帳を逐一調査するという方法を用いて統計し、日本人の姓氏は139、163であるという結果を出した。さらに、1996年、日本の姓名学の研究者丹羽基二氏編纂の「日本苗字大辞典」では、収録した姓氏は261、129に達する。
では、人口世界一の中国にはどのくらいの姓氏があるか。宋代から始まって今に伝わっている姓氏の専門書「百家姓」に収録された姓氏は504個(単漢字444、複漢字60)である。1996年、古代から現代までの各民族が用いた漢字表記の姓氏を統計整理した「中華姓氏大辞典」には今まで最も多い数字の11、969の姓氏が収められた。しかし、ここにいう1万余の姓氏のうちには、古代のもので今日使用されてはいないものも多く含まれる。実は漢字姓氏を使っている中国人の常用する姓がだいたい3000前後である。そのうち全人口の94%を占める漢民族人口の常用姓氏は五百個前後にすぎない。
日本はなぜこのように人口のわりに姓氏が多く、中国は少ないのか。両国はなぜこのような違いを生んだのか。これは中日両国の姓の成り立ち、姓の内包するもの、および両国の文化伝統と直接の関係を持つものである。
日本人の国民皆姓と中国人の皆有姓

身分、等級制度がきわめて厳格であった封建時代にあっては、庶民階層は職業、婚姻、衣食住、立ち居ふるまいなど各面で厳しい規制を受けた。徳川幕府は1801(享和元)年、法律をもって百姓の苗字帯刀を禁止し、苗字は武士などの身分的特権を示すものであった。大多数の庶民は「名なしの権兵衛」の言葉が示すように苗字がなかった。ある学者の考証では、明治初年、全国で苗字をもつ戸数は、わずか6%前後に過ぎなかった。明治維新後、新政府は「四民平等」の方針を貫徹するため、同時に徴兵・徴税・戸籍の登記を行なう必要のため、1870(明治3)年9月、太政官布告「自今平民苗字被差許候事」を発布した。しかし、苗字のない生活になれてしまった農民の多くは、恐れ入ってしまい、なすことを知らなかったので、苗字を称することに熱心でなかった。そして、1875(明治8)年2月、ふたたび太政官布告を発布して、国民全員に必ず自分の苗字を持つよう要求し、苗字を公称とすることを国民の義務とした。そうすると、百姓たちは村の役人や教養人、寺の和尚に自分の姓を付けるよう頼んだ。あっという間に、居住地や職業、各種の事情から生まれた姓氏が国中を覆いつくした。当時の状況を石井研堂の「明治事物起原」ではこういう。
当時、著者の父は、町の什長といふを勤めたりしが、区内細民の請に応じ、苗字を選びてやりしことを、微かに記憶せり、即ち種々の苗字を選び尽くして後煎茶の銘を取りて、甲に青柳乙に喜撰丙丁鷹爪宇治といふ様に命じ、茶銘尽きて、徳川四天王の酒井榊原井伊本多など命けしに、その内の一人、恐る■■「彼様な勿体ない苗字を付けましても、お上から御咎は無いでせうか」と訝り問ひ、父が、必ず心配無き由を諭したりき、今にして回顧すれば、これ予が11歳の時なりしならん。
この法令が平民百姓には名前だけあって苗字がない歴史を徹底的に終わらせることとなった。姓はこの時から「人の符号」としての意義を持ってすべての家々に入っていったのである。いわば、国民皆姓もまた明治維新の成果のひとつといえよう。しかし、苗字を作るに当たってなんの制限もなかった、つまりきわめて大きな随意性があるのはその時の突出した特徴である。大まかにいえば、これが日本に姓が多くなった根本的な原因の一つである。
中国の歴史上の姓氏も、かつては貴賎を分ける政治的、社会的機能を持っていたが、それは早く消滅した。2000年前、中国はすでに皆が姓をもつ歴史に入っていた。そしてみんなが姓をもつのは、姓氏合一から始まったのである。
今よく言われている「姓氏」という言葉は、もともとの姓と氏を二つの部分に分けたのである。原始時代の群婚制が発展して血縁関係を指標とする族外婚制になったとき、直接の血縁関係の有無を識別する必要があって、それで血縁関係の称号--姓が生まれた。母系制社会は女性を本位としているから、中国最古の姓は「姫」「姚」「姜」「■」「好」「■」「妊」などの女扁の文字である。姓は部族血縁の指標として生まれ、ただ血縁関係を区別する生物的機能はあったことが分かる。のちに子孫が繁栄し人口が多くなり、移動・逃亡などさまざまな原因で一部族から分岐して支族が生まれ、これら支族の名称が「氏」と呼ばれるようになった。たとえば商族の人の姓は「子」であって、のちに「殷」「宋」などの氏が分岐したのである。
「氏」発生の過程で、ようやく男子が生活上の主導的位置につくと世系上も父系血統で数えるようになる。だから氏は父系制の形成にしたがって生まれたものである。姓と氏の関係は大木と枝であり、姓は大木の、氏は枝の名称である。氏の誕生は実際には氏族社会解体の象徴である。氏の発生ののち、姓は血縁関係を表すことによって「別婚姻」のために用いられ、もっぱら女性が使った。氏は社会的地位の指標であるから男性についてはさらに重要で、社会的交渉の場では男性はたがいに相手方の氏を呼び合ったのである。それで「三代以前、姓氏分而為二、男子称氏、婦人称姓」(三代前に姓氏が分かれ、男子は氏、婦人は姓を称する)という言い方がある 。
姓は血縁関係の区分を表すのだが、氏はそれと異なり、「氏所以別貴賎、貴者有氏、賎者有名无氏」(氏は貴賎の別を現わす、貴者に氏あり、賎者には名ばかりで氏はない)。氏は、はなから政治的機能を賦与されていたのである。「左伝」の記載によると、魯の隠公8年(紀元前715年)「天子建徳、因生以賜姓、胙之土而命之氏」、すなわち、周の天子は功徳のあるものを分封し、出生すなわち血縁関係によって姓称を、そしてその封土によって氏称を賜ったのである。貴族たちは国名・住所・地名・封土・官職・爵位・謚号・技能などによって氏の呼称を得たのである。だから貴族にのみ氏があった。このような「賜姓命氏」制度の存在により、西周時代は中国姓氏の大発展期となった。この時生まれた氏の名は、後に中国の姓氏の重要な来源に発展していく。
周代の分封体制および氏をもって貴賎の別をあきらかにするやり方は、日本の徳川時代に似ているが、それはすぐに変化した。春秋時代、中国の歴史は大変革期に入り、分封制は瓦解し、嫡長子継承を基礎とする「世卿世禄制」は徐々に廃止され、従来の氏は存在の基礎が失われてしまう。動乱期に生まれたのは、才をたのみに勃興した新貴族層で、もともと氏をもたない平民が混乱に乗じてかってに氏をたてたもので、以前の氏はすでに社会的地位を表示しつづけることはできなくなった。いわば姓はもちろん氏をもってしても家族の標記としてはともかく、貴賎を分けるものとしての機能は萎縮し、姓と氏がいっしょになっていくのは必然の勢いとなった。戦国末期、「秦滅六国、子孫皆為庶民、或以国為姓、或以姓為氏、或以氏為氏」(秦六国を滅ぼす、子孫をみな庶民とし、あるいは国をもって姓とし、あるいは姓をもって氏とし、あるいは氏をもって氏とす)となって姓氏合一の過程は加速する。司馬遷が「史記」を著した時期は姓と氏とはすでに一体となっていたから、のちに「姓氏之称、自太史公始混而為一」(姓氏の称は、太史公よりいりまじってひとつになった)という人がいた。古来の姓も新来の氏も完全に一体になり、姓というようになったのである。この後は、姓すなわち氏、氏すなわち姓となり、姓氏の別はなくなる。氏の背負っていた政治的使命は終わり、貴族が独占した姓氏の特権も消え、この後は皇帝から百姓に至るまでみな姓をもち、生まれればこれを具え、富貴貧賎を問わなくなったのである。これは中国姓氏発展史上の根本的変化であった。
姓氏合一になってから、中国姓氏の構造は固定された。とくに漢民族のほとんどの姓氏は秦漢以前の「氏」から来ている。宋人編集の「百家姓」は姓500余を集めているが、そのほとんどが漢以前から使用がはじまったもので、漢以前の文献からは探し出せないものは50前後にすぎない。姓氏の合一はすでに2000年を経て、王朝の交替、民族の融合とともに、あるものは消滅し、あるものは新しく生まれた。しかし、全体としては中国の姓氏は基本的に大きな変化はなかったといえよう。
中国姓の血縁的特性

秦漢時代に姓と氏が合わさってひとつとなって以来、中国人が宗族制度を重視して、血縁関係を擁護したことは、中国の姓氏が2000年安定して続いた根本的原因であると思う。中国人の姓氏についての考えはおもに三つある。
まず、姓は人の出生・世系の標識であるということ。姓は「女」と「生」とからなる。許慎「説文解字」には、「姓、人所生也」(姓は人の生まれである)としている。女子が生んだところを姓とするという意味である。「姓者生也、以此為祖、令之相生、雖不及百世、而此姓不改」(姓は生であり、これを祖とし、これをあい生じせしめ、百世に及ばずといえどもこの姓を改めず)。姓は「生」から作られたものであり、人は出生して姓があるのであり、生まれをもって姓としたのである。姓は血縁と出生という純粋に自然な生物的事実を根拠とし、父祖の生命の連続を根拠として確定した称呼となったのであって、自分の身上と父系血縁の証拠である。だから姓は祖先の栄耀が凝結した、きわめて神聖なものである。父のところから得た生命は動かざる事実であり、これを否定することはできない。そうすることは自己の本源を否定したことであり、恥辱だと見なされる。中国では「大丈夫行不更名、坐不改姓」(りっぱな男は行なうに名を変えず、坐るに姓を改めない)という諺があり、これを高尚な品行とみなし、これによって男子がことを行なう際の決意表明になった。いまでも、中国人は自分の姓に誓っていう、「もしおれがウソをついたならば、おれはもう李という苗字じゃない」。いうなれば、中国人にとって自分の姓氏以上に尊いものはないのである。だから、中国人は昔から自分の姓氏を守ること、非常なものがある。特殊な事情がない限り、一般には姓氏を変えることはありえないのである。
たとえば、日本のように妻の家に入った婿養子が改姓するとかといったことは少ない。入り婿でも一般には姓氏は変えない。もしも、ある世代が入り婿や引き取られて養育されたなどの原因で姓氏を変えるにいたったとしたら、その子孫は原姓に戻すべく乞い願う。たとえば、明代礼部右侍郎黄観の父は許家に入贅して許姓に変えたが、黄観にいたって黄姓への改姓を上奏し、皇帝の允許を得ることがあった。中国人は自己の出身家系に強力な帰属感を持つことが分かる。
女性が結婚以後も実家の姓を放棄しないのはこうした理屈によるのである。中国の古代、女性の地位が低く活動の範囲も狭かったので、女性の名前は「閨名」と言われて、閨房にのみ流通したのである。嫁いでからはその名はさらに使用されることは少なくなる。一般には劉氏、趙氏のように姓によって呼ばれ、あるいはその姓氏の前に夫の姓をかぶせて、王呉氏、張劉氏のように呼ばれた。たとえ自分の名前が要らなくなったとしても自分の姓だけは失うことなく、姓をもって自己の本源としたのである。
第二、姓は宗族の標識であるということ。宗族とは何か。簡単に言えば「父之党為宗族」(父の党は宗族である)。即ち父系の集団--上は高祖から下は玄孫までの異なった世代(輩分)の組合わさった大家族のことである。中国の家庭は婚姻と血縁の基礎の上に成り立っている。一人の父親が代表する家庭単位は、何人かの息子が構成する「房」を包括し、各「房」の地位は基本的に平等である。父が亡くなれば各「房」は分家し独立する。そして何年かのちに「房」に新しい「房」が作られていくのである。こうして世々広がり代々分かれ、一人の始祖から始まった家庭は拡張して宗族となるのである。宗族の構成要素は、まず「血の共同」--同一祖先の男系の後代である。次は、一族が集まって住んでいることで、同一村落の人はみな血縁関係を持つ。唐代詩人の白居易は「朱陳村」にこのように書く。
一村唯兩姓、 一村ただ兩姓のみ、
世世為婚姻。 世世婚姻をなす。
親疏居有族、 親疏居るに族あり、
少長游有群。 少長游びに群ある。
宗族は同じ姓を目印に集まるのだから、そこには姓による心理上の宗族への帰属感がある。もとは見知らぬ人でも顔をあわせれば、親近感が生まれ、ときには、おもわず「五百年前是一家」(おれたちは五百年前はひとつ家のものだった)といってしまうのである。
血縁関係は宗族存在の前提であり、族人の宗族や社会における地位と利益は、大きく血縁関係の親疎遠近によって決まるのである。だからこそ家族の世系血統の確認は、血縁関係の混乱を防止する非常に重要なこととなる。一般には、三、四代以内であれば、誰が誰の先祖か子孫かといったことははっきりわかる。しかし、時がたつにつれ族は大きくなり人数はふえ、誰が誰だか覚えにくくなる。血縁関係に混乱が生ずるのを防ぐために、家族世系の繁栄を主に記載した家譜は、このようにして生まれた。人の系統を明らかにし、親疎を解明するのに頼りになるものとして家譜はある。福建安渓の「謝氏族譜」は巻頭に家譜を造る目的についてこういう。
「伝襲世遠、子孫日繁、或叔■位次高下之倒置、或兄弟名字称呼之重復、家于市井者或不知山林之族属、居于郷村者或罔識城邑之戚疏、未必不由家譜不足征故也」(子孫の繁栄を世に伝えるのは、おじおいの地位が上下ひっくり返ったり、兄弟の名前に重複がおきたり、あるいは家が市井のものか山林の一族かわからず、村にいるものが町にいる親戚を知らない。それは家譜によるそのいわれを考証しないからである)。
家譜は宗譜、族譜、家乗ともよばれ、宗族の世系と人事を記載したもので、簡単な巻物形式もあり、冊子形式もある。一般的な内容は家系図、家系録、地伝記、家訓、輩行、宗廟、墓地などがある。各家族の経済や教養の程度が異なれば、書かれる内容も詳細の程度も異なってくる。しかし、家系の源流、血縁系統はどの家譜でももっとも基本的な内容である。家譜は一族を長幼の順に依拠して並べており、それは事実上一族の人事について保存書類となっていて、そこに名前が入れば一族として認められたことになるのである。だからよそものは一族のなかに入ることはできない。いうなれば、異姓の養子、妻の連れ子、贅婿などは家譜に入れないで、血統の純潔を保とうということだ。家譜に入れず、あるいは家譜からその名を除くのは、族規違反や品行の劣悪な族人への懲罰である。生まれて族譜に入れず、死して祖墓に埋葬されないとなれば、「孤魂野鬼」(供養する人もない霊)となり、これは厳しい処分である。
家譜は旧中国では盛んに行われ、史学家の呂思勉は1920年代の「中国制度史」のなかで「至于今日、苟非■僻陋之邦、■衰敝之族、殆无不有譜」(今日に至るまで、ひどく貧しい田舎、衰えきった一族は別として、家譜のないものはほとんどない)と記している。一族の子孫についていえば、家譜を編纂して血縁延長の記録を完璧に維持していくことは、彼らのなすべき重大な義務である。これには、一般には一定の期間があって、たとえば孔府の家譜は、30年に一度小編集をやり、60年に一度大編集をやる。もし時期が来たのにそれができないとなると不孝よばわりされる。こうして家譜編纂は家族組織の永久的な事業となるのである。
第三、姓は同姓不婚の標識であるということ。同姓不婚は、古代にあっては重要な婚姻タブーのひとつであった。周代の礼制ではこれを厳格に規定している。
「礼記・曲礼」:取妻不取同姓、故買妾不知其姓則卜之(妻は同姓を娶らない、妾を買って其の姓を知らなければ占う方がいい)。「礼記・昏義」:婚礼者、将合両姓之好(婚礼はあわせて二つの姓となるのをよしとする)。「国語・晋語」:娶妻避其同姓(娶る時は同姓を避ける)。「左伝・昭公元年」:男女辨姓、礼之大司也(男女姓を見分けるのは、礼官の主な仕事である)。
同姓不婚の原則は、優生上の理由から出ている。姓氏合一の前は姓は同一の血縁集団をあらわしているから、同姓婚姻ならば族内通婚にほかならない。当時すでに近親結婚の危険性は知られており、「男女同姓、其生不蕃」(男女同姓は子どもが盛んにならない)、「同姓不婚、惧不殖也」(同姓は結婚しない、多く生まれないのを恐れるから)、「气同則不継」(気おなじくするはすなわち継がず)などというのはこの理屈からくる。人に姓があるゆえんは、「崇恩愛、厚親親、遠禽獣、別婚姻也」(恩愛を尊び、親親をあつくし、禽獣を遠ざけ、婚姻を区別するためである)、こうして同姓を娶らないのはもっとも大切な道徳であった。西周の時は、同姓不婚の戒律は厳格に守られていたが、歴史の発展につれて、同姓の人がかならずしも血縁上の関係があるとはかぎらなくなると、同姓不婚の原則もだんだんにもとの意味を失ってきた。とはいえ、唐代にも依然として「諸同姓為婚者、各徒二年、麻以上以奸論」(同姓のものと結婚したものはそれぞれ懲役二年、麻以上奸を以って論ずる)という法律があった。けれども「同姓」の概念は変化しており、「唐律疏義」の解釈によると、「同宗共姓、皆不得為婚」(同宗で共姓のものはすべて結婚することはできない)となっており、婚姻タブーは同姓から同宗に縮小している。これは清代末期にいたってはっきりした言い方になり、「同姓者重在同宗」(同姓は同宗に重なる)となった。つまり、五服内に結婚は禁止される以外、同姓不婚の原則がついに取り消されたのである。この婚姻タブーは数千年来ずっと人々に厳格に守られていて、今でも影響が残っている。1980年発布の「中華人民共和国婚姻法」では、直系親族と三代以内の傍系親族との通婚しか禁止していないが、一般にはやはり「五服を出る」原則を守っている。
以上のべたように、中国の姓は個人に附属する呼称であるが、人に父がいないものはない以上、姓がないものもないということである。家庭と家族のなかでは同姓同宗の者が作る集合体であった。封建時代の宗族という普遍的な社会組織のなかで、とりわけ血縁関係という生物的要素はなにものにも替えがたい存在であった。こうした血縁関係の象徴--姓氏は人々の尊重と擁護のもと、代々変らず受け継がれてきたのである。これを軽々しく替えることはできない。たとえば、孔子の後代子孫はすでに80代となっているが、嫡流支流みな孔姓であり、ここに「天下に二孔なし」のいい方がある。とはいえ、姓の変更ができにくいのはもちろんだが、同時に長い歴史と広い国土のことであるから、改名の現象はやはりあるのである。たとえば、皇帝から姓を賜ったとかいうのは臣民としては光栄である。また禍を避けるために改姓するのはやむを得ないところである。しかしこれはまれな事例であって個人の積極的行為ではない。
日本姓の社会的特性

日本では歴史の上で、姓は苗字といわれる。草木の苗に象徴される家族集団は、子孫後代が苗のように分蘖するのをもって「苗裔」といったのである。「苗字」は日本古代の社会単位とする「氏」が解体していくにしたがい形成されたもので、大化の改新後、社会の発展に伴って氏の政治機能は徐々に失われ、平安時代に入ると家族を基礎とする小さな集団に分裂してしまった。これら家族集団は官職や職業、居住地をもって呼ばれるようになる。たとえばもともと藤原氏一族のなかで、木工助の職を世襲したものは工藤、斎宮の頭に任じられたものは斎藤。中央貴族が国司に任命され発展して地方豪族となるや、その支配地の地名を姓とした。遠藤・近藤・伊藤・加藤・後藤などみな藤原氏の族人が国司に任じられてから生まれた新しい苗字である。地方官吏や荘園の荘官も郡や郷、荘の名前を自分の家族の名としていった。幕府時代に入ってからは、武士の分封と転居の関係で苗字の大発展期に入る。庶子の分割相続を中心とする惣領制家族の瓦解と嫡子単独継承を原則とする家督相続制の形成にともなって、苗字はだんだん人々が尊重するものとなり、近世社会の発展とともに身分の指標となっていく。
封建時代に、苗字はかならずしも個人の呼び名に従属するものではなくなって、家名として存在するものとなる。日本人の姓氏の歴史は実に家名の歴史なのである。イエは家業を中心とする家族経済共同体であり、いうなれば、婚姻と血縁を紐帯とする具体的な家庭の上になお「個人の生命を越えて、祖孫一体、永遠の生命体」が存在することとなり、この「永遠の生命体」こそ家が成立することができる根本--家業となるのである。家業という言葉は、中国人の観念のなかでは、主に動産と不動産といった物質上のものを指す。しかし、日本人の観念のなかでは、家業の意味には家産が含まれているが、家産が家業のすべてではない。もっと重要なのは技能を指すことである。武士についていえば、家業は武芸を指す。武芸がある武士は封建的関係のなかにくみいれられ、「奉公」を通して生存のための俸禄と栄誉を勝ち得たのである。商家についていえば、家業は先祖伝来の財産のほか、これら財産を蓄積した商品の売買、および商取引の経験が含まれ、とくにそこにはこれらのものを代表する屋号が含まれている。一般の農民では、代々従事してきた農業とその基礎となる土地をさす。芸能家では、それは主に立家の根本たる歴代うけついできた芸能そのものをさす。
家業の存在は家名の存在をとおして表れてきたものであって、家名の断絶はすぐさま家業とイエの断絶を意味する。家名に代表されるこういった社会関係は個人の存在によって確立し維持されるものではなく、先祖伝来の家族の成員の努力の結晶である。だから、中国の姓と日本の家名とは、どちらも同じ呼称をもって祖先およびその子孫を貫いているのであって、ともに超時代的連帯感を喚起する役割がある。しかし「日本人は家名によって、己れの社会地位が祖先の遺業のたまものであることを思ったに対して、中国人は姓によって、己れの体内にそして同族の体内に--生き続ける祖先の生命を感じたということができるであろう」 。
中国人の姓の血縁的特徴に対して、日本人の姓は社会的特徴をもつ。それには主に二つの表現があると思う。家名を重んじ個人を軽んずること。
家名は人の身分、地位、栄誉とひとつになり、家長に代表されまた家族の成員が使うことは、光栄あるものである。しかしこの栄誉は、かならずしも家のすべてのメンバーに属さない。だれかがイエを相続できて、はじめて彼と家名とは結びつくのである。これに反しては家名に手をつけることはできない。とくに家督相続制確立後は、ただ一人(おおかたは長子)が家業と家産と、同時に家名を相続した。次子以下は結婚後分家として長子の本家に属したのである。イエのなかで、日本の長子以外の人は中国の同類の人の幸運には遥かに及ばない。彼らも同じ父母の生命の延長継続であるのに、ただ従属的地位に甘んずる運命が定められている。彼らの直面する不平等は、家産が得られない、あるいは少ないというばかりではない。事情が複雑になると家名ですら使用できないことがある。この例は、歴史上多く見られる。室町幕府将軍家では、家督相続による争いを避けるために嫡子以外のものを僧籍に入れた。足利義詮は豊後の国大友氏に対して、大友の名は能直(大友氏初代)以来総領の号であるから、庶子などがかってに自称することは甚だ理由がないと申し渡したので、大友家から出た支系は同族でありながら、詫磨・志賀・田原・一万田・戸次・元吉・鷹尾・鹿子木・三池・門司など別の称を名乗っている。江戸幕府を立てた徳川氏は、これを名乗れるものを御三家・御三卿にかぎり、他の族人は松平氏を称することができただけである。商人の三井家も同族各家からの分家は「三井」の家名を使ってはいけない規定があるので、三井家では家業の相続と無縁のものには、越後屋とか、泉とかと称した。これらの事実が説明するところは、いわゆる「親子」関係は、血縁の父子に限らない、息子がうまれても当然のように家業と家名を継承する権力を持つわけではない。こうして日本の同族は同姓ではないし、血縁があっても姓氏が異なる現象は少しも不思議ではないのである。
家業は重く血縁は軽いこと。家名、読んで字の如くイエの呼称である。それはイエに附属しているのであって個人に付いているのではなく、それとの相関関係は家庭の成員の生命的延長ではない。いわゆる「絶家」は、単純に自然的意味での後継ぎが断たれるという意味ではなく、主としてそこにある人々が生存の基礎を失ってしまうことをいうのであって、社会関係の消滅を意味するのである。たとえば、武士が俸禄を取り消され、商家の経営が破産し、農民が土地を失い、芸能家の技芸の後継者がいなくなる、つまりは家業の喪失である。したがって、これは何がなんでも避けなければならない。ここにおいて日本人の家業に対する重視は、血縁伝承の重要性をおおいに軽んじてしまう。血縁関係を重視する中国人からみれば、以下、三つの手法はいかにも理解し難いことである。
第一は、後継ぎを選択するとき、多くの人が中国人のようには血縁にこだわらないことである。もし自分の息子が能無しであれば血のつながりがないものをも代りにする。たとえば明治時代、東京馬喰町の紙屋中庄家家憲では、うちの息子は分家するか他家に養子に出す、それ以前は使用人同様に使うこと、男子の相続はあとあとまで決してさせてはならない。当家の相続は養子に限るというように規定している 。
第二は、もしも息子がなければ、養子をするか婿養子を選んで家督の地位を相続させる。これはひろく認められたことで、歴史上、非常に多く行なわれた方法である。家族史研究の専門家湯沢雍彦氏は明治初年の壬申戸籍を分析して、江戸から明治にかけては、男子4人に一人は養子だとしている。なかんずく多いのは婿養子で、妻の家の姓にあらためてごく当たり前に妻の家の家業と家産を継承している。血縁があるかないかに拘泥せず、実際の人の要素を第一におく選抜制度で、あらかじめ子孫に不肖のものが出て家業を衰えさせるのを避けようとするのである。この点は「異姓養わず」という原則を固持する中国人にはやれないことである。
第三はもしも家業が存続すれば、たとえ血縁のないものでも跡取りにして「絶家」を避けることである。20世紀初め、日本ではちょっとした騒ぎになった「乃木家再興」事件がある。乃木は「軍神」として奉られた乃木希典である。1912年9月13日、明治天皇葬礼の当日、乃木希典は絶家の遺言を残して妻とともに切腹殉死を遂げた。彼の三年祭のとき、乃木の旧藩主毛利子爵家の第二子毛利元智は「乃木家」を再興した。「香火」は断たれているが家名はなお存在する。血縁と家名とどちらを重んずるか。日本人は後者を選ぶ。
他所の人の養子ないしは婿養子になるのは、自分の姓氏をかえることを前提としている。家業と家名の継承のために血縁関係は軽く見られる。日本人のイエを竹にたとえる人がいる。まっすぐ伸びて外側は固いが中身は空っぽで、血のつながりがないという。家名と家業を重んじ個人と血縁とを軽んずるのは、日本人の姓氏に大きな可変性をもたせた。日本の家名で代表されたのは社会関係であって血縁は直接の関係をもつとは限らない。そこで人々は社会関係が変われば自分の姓氏を変える。たとえば、江戸時代大阪の豪商の鴻池家の祖先は山中なる武将であった。のちに商人となるや、攝津の国鴻池村で酒造に従事し姓を鴻池としたのであった。改姓を通じて自己の家系の美化をはかるのは豊臣秀吉を典型とする。秀吉は政治的軍事的生涯のなかで、勢力を得るにしたがいその家名を変えた。木下からまもなく羽柴(敬慕する丹羽長秀・柴田勝家の一字ずつをとって)にかえ、のちに貴族の姓をとって平秀吉、藤原秀吉と称したこともある。太政大臣に任じられると天皇賜姓の形式をとって豊臣朝臣と称した。これは彼が自分の出身を卑下し(父は足軽)、高貴の家系に対する崇拝を暴露するものであり、姓氏の変更の容易さを示すものでもある。中国人の観念では、姓が血縁を表す以上、家族個人の盛衰栄枯にはかかわりがなく、自己の出身の貧窮をきらい改姓によってより高きにつくことなどは到底許されない。無論、父祖の社会的地位がいかに卑賎であり、彼らの性格にいかなる欠陥があろうとも、改姓の理由にはなり得ない。
ここにいう日本人の改姓の容易さは当然、封建時代の事情によるものであるから、近代以来国民皆姓、姓名が個人の符号となってからは、姓名がたえず変ることは、逆に戸籍管理上不都合なこととなり、1872(明治5)年8月24日、政府は太政官布告で、国民の姓氏、名前、屋号の更改を禁止した。これをもって自由改姓の歴史は終わりを告げた。
命名形式から見た中日両国の家

見たところ、中国人の姓は単漢字、姓名は三字が多い。日本人の姓は複数漢字、姓名は四字が多くなる。この外に中日間の命名の仕方には大きな違いがあって、中国人は「輩分排行」(決められた世代の字を使うこと)、日本人は「祖孫連名」を重視する。
中国史上における血親関係の重視、宗族の存在については既述したが、それはさまざまな方法によって表示され守られる。命名の方式はそのひとつである。同族の人は同じ世代(同輩)では名前のうち一字を同じにすることが多い。この字を輩字、また家族範字といって、一族の始祖或いは有名人により決められて、族譜のなかに書いてあるのである。だから、昔、中国では姓名は三字から成り、第一字は姓で、第二字は族中の世代(輩分)のシンボルであり、第三字だけが自分に属する名となる。同世代の人は名前のなかに同じ字を持って、宗族内の世代関係は「輩字」をもつことによって明確に区別される。こうして同一宗族のものは、転居などの原因で知りあっていなくても「輩字」を通して相互の関係が分かる。それによって自分の宗族内の位置も了解できる。その役割は宗族集団の尊卑の序列と人倫関係を維持することにある。たとえば孔子家族が元代から「輩字」を使い始めて、第56代から第85代まではつぎの30字である。
希言公彦承 宏聞貞尚行
興毓伝継広 昭憲慶繁祥
令徳維垂佑 欽紹念顕揚
1920年、第76代目衍聖公(嫡孫)孔令貽は、第86代から105代までの「輩字」を次のようにきめた。
建道敦安定 懋修肇益常
裕文煥景瑞 永錫世緒昌
現在、台湾に住んでいる孔徳成は孔子の第77代目嫡孫であるが、孔子の故郷の山東曲阜で、繁栄の早い支系ではもう80代目の「佑」の輩になった。もし1世代年齢を25年とすると、孔子家族は「昌」の輩に至った時は500年あまり後ということになるだろう。
「輩分排行」制はだいたい宋代に形成され、明代におおいに流行した。帝王将相はもとより平民にまでひろまって、いまでも多くの人がこれを使う。赤ん坊が生まれると、「輩分排行」の字の順にどの世代の人かどの名を使うかがきまってくる。誤りは許されない。「輩字」の乱れは中国社会ではタブー視されてきた。世代の後のものが先の世代の「輩字」を絶対に使ってはならない。農村ではいまでも多くの人々が世代区分を根本とし、家族内部の人倫関係維持の重要な方法と考えている。世代区分がなくなったら家族のなかに、上下の序を失い、まとまりもなにもなくなってしまうと考える。だから「輩分排名」の方法は依然としてひろく使われているのである。地方によっては、「輩字」によらずに名前をつけたら、それは家譜のなかにいれないと定めてあるところがある。
「輩分排行」制は、ある文化的現象を反映している。「輩字」をとおして中国人が家族血縁のタテの流れを重視するだけでなく、より多くのヨコの関係が、さらには宗族の広がりを現わしていることがわかる。父系原則によって中国の男子は家族のなかに「房」の地位をもち、自然に家族財産の所有者の一人になる。共同の血縁と平等の経済的地位を持つ家族の同世代の男子はいやおうもなく同じ「輩字」を使うことになるのである。こうして、タテの世系の長さは宗族の歴史の悠久をあらわし、ヨコの世代の広がりは宗族の繁栄と強大をあらわす。
「輩分排行」の存在は、中国人命名の習慣に大きな影響をもたらした。昔中国では姓名は三字から成るのは、輩字を使ったからである。五四新文化運動と新中国の社会変革をとおして宗族制度は崩壊したが、「輩分排行」はかならずしも排除されたわけではない。農村の多くのところでは「一村唯両姓」の現象は依然として長期にわたって存在し、農民は依然として伝来の族譜が続くことを願い、過去に定められた「輩字」はずっと使用されることになる。都市では、現代文化の影響と家族の束縛から離れたことなどから家族範字(輩字)は村のように流行していない。しかし、これにかわって家族範字(輩字)の変形とする家庭範字が生まれた。そのために、1966年の文化大革命前までは、漢字で名前を表記する人口の90%は、三字の名前だった。これからこの状況に根本的変化が生じ、二字名がどっと増えた。原因の一つは文化大革命のなかで、多くの族譜が破壊され、これがまた宗族観念に強烈な衝撃を与えたからである。このため家族「輩字」の使用が少なくなった。さらに重要なのは、80年代以来一人っ子政策が進み、家庭範字の意味がなくなってきたことである。統計では、1982年までに二字名の人は32・49%に達している。二字名が増加してから同名率が高まって生活と社会管理上の不便をもたらし新しい社会問題となっている。たとえば、天津市で「張穎」という人は1955年に54人、1977年197人、1990年に至ると2130人に増加した。2001年4月3日付けの「天津日報」によると、全市では王偉という人は5863人、劉洋というものは4483人がある。また4112人の李莉、3976人の劉静……同姓同名人の増加を見て専門家たちは、複数字の姓を使うか新姓を作って姓名の重複を避けたり、複数字の名前をつけて個人性を強めるように呼びかけている。前者は中国の伝統に合わないから広がりにくいが、後者は中国人の名前の発展方向となるだろう。こうしてみると、歴史上長い間続いた「輩分排行」の命名方法はやはり一定の合理性を持っていたというべきである。
中国人が「輩分排行」を強調するのに対し、日本人はイエの延長継続を重視した。家督相続制のもとでもっとも重視されたのは親子系列のタテのつながりであり、ヨコのそれぞれの世代の家庭との組合せはそれほど緊要ではなかった。日本人が使った命名方法は子孫が祖先と同じ字を継承していくことである。さしあたりこれを「祖孫連名制」としよう。たとえば、江戸幕府15代の将軍の名前は、つぎのとおりである。
家康--秀忠--家光--家綱--綱吉--家宣--家継--吉宗--家重--家治--家斉--家慶--家定--家茂--慶喜
この一連の名前の中に大部分は「家」の字がついている。中国人が見たら容易に同一世代の人物と誤解するであろう。実際には15代の将軍は輩分から言えば11世代、時間は270年にもわたっている。
戦前有名な三井財閥は、17世紀に創業してから財閥解散に至るまで3世紀11代にわたった。その総領家の歴代家長の名前は、つぎのとおりである。
高利--高平--高房--高美--高清--高裕--高佑--高福--高朗--高棟--高公
もし三井家族のことがわかっている人でなかったら、もしこの家系図をよく説明しなかったら、中国人でこれが「高」字の世代だと思わない人間はいないだろう。たとえば、三井高棟は高朗の弟であったが、彼が長兄の養子になってからは二人は父子の関係になった。日本人には、中国人のような「輩分排行」の意識がないだけではなく、中国人に輩分が乱れ、昭穆に合わないという人倫にもとると認められるやり方が正常だということをよくあらわしている。
こうして日本の家系図は中国の家譜とは異なり、明確な識別性をもち得ない。そこでわかるのはあれこれの個人ではなく、イエ全体の存在である。家業の存在をわからせることが、日本人の姓名の存在意義であって、個人がそのイエのなかでどんな地位を占めているかはそう重要ではない。日本人のこれと相関する習慣は、あれこれの名門大家がその家系の栄耀栄華を守ろうとして、家名の永世相伝にまでいたり、家名世襲制(襲名制)をとって子々孫々同一名称を継承し第何代と称することである。歌舞伎の名門--成田屋は代々みな「市川団十郎」を名乗り、18世紀から今日まで12代を数えている。むかしの大商家もこのようで、たとえば住友家は、家長が「住友吉左衛門」と称し、鴻池家の家長は「鴻池善右衛門」と名乗った。先にふれた三井総領家の家長は代々「高」の字をつけるほか「三井八郎右衛門」を名乗った。こうして彼らのフルネームは「三井八郎右衛門高利」とか、「三井八郎右衛門高平」ということになるのである。こうした現象は祖先の名前がすでに家業の象徴、無形の精神的財産となり、個人は存在したとしても完全にイエのなかに埋没するのである。
注 / 五服制
中国古代の親等制度で、これは喪に服する等級を現わすのに用いられている。中国の古人は葬送儀礼にうるさく、人がこの世を去れば、家人と親族とはかならず規定にしたがって、決められた期間、決められた喪服を着て服喪しなければならなかった。それは親等が近いほど重い喪服を着て、遠ければそれだけ軽くなった。喪服は主に5段階に分かれていたので、「五服制」と呼ばれる。斬衰(zhancui):五服中、最も重い喪服。衰同■。その服はもっとも粗い麻布でできており、縫い込がない。孝心と哀切の気持ちをあらわすのである。服喪の期間は三年。凡そ子及び未婚の娘は父の為、承重の孫は祖父の為、妻は夫の為に服する。斉衰(zicui):斬衰に次ぐ。喪服は粗い麻布でできているが縫い込むので斉衰という。服喪三年のものは父亡き後の母の死、嫁からみたしゅうとの死である。服喪一年のものは斉衰期といい、孫が祖父母のため、夫が妻のためにする。5ヶ月のものは曽祖父母のために、三ヶ月のものは高祖父母のためにするのである。大功(dagong):熟麻布(加工した麻布)でできていて、糸も斉衰よりは細いが、小功のものよりは粗い。服喪期間は9ヶ月である。従兄弟、未婚の従■妹、嫁した姑、■妹のため、嫁した娘は伯叔父、兄弟のため服する。小功(xiaogong):服は細い熟麻布でできている。服喪期間は5ヶ月。凡そ本宗の人は曾祖父母、伯叔祖父母、従伯叔父母、未婚の祖姑、従姑、嫁した従■妹、兄弟の妻、再従兄弟及び嫁した再従■妹などのため皆服する。■麻(sima):五服のなかでもっとも軽い服。細い糸の麻布でできている。服喪期間は三ヶ月。凡そ本宗の人は高祖父母、曾伯叔祖父母、族伯叔父母、族兄弟及び未婚の族■妹のため服する。五服制は親族遠近の目印であって、扶養の義務の重さ、政治的栄誉の損得、法律上の懲罰の軽重、賦役の多さ、相続権などみなこれと関係しないものはなく、非常に重要な法律的価値と社会的意義を持っていた。
 
東アジアの中の日本

イメージの釈迦_物語と絵画
仏教を創始した釈迦の伝記(仏伝)は、中国・朝鮮・日本など東アジアを中心に時代や社会、民族地域によってさまざまに語り継がれ、描かれ、造形され続けてきている。物語の基本は仏典にあり、80年の生涯を8段階にわける釈迦八相が標準であるが、さらに細分化される場合もあり、多種多様である。表現媒体も口頭伝承、文字テキスト、絵画と絵解き等々、種々のメディアが交差しあって、形成され、受け継がれている。壁画や彫塑もすくなくない。また、涅槃会と涅槃図や仏生会と誕生仏など、法会での説教唱導と絵画、造形とは密接にかかわっている。
仏伝の物語は、人の生と死、親と子の別離、苦難と克服、信仰と出家、験くらべ、妻争いなど、多彩なモチーフが駆使され、物語の原点を担い、広範に影響を及ぼしている。
ここでは、そうした仏伝を中心に時代、地域、媒体など、種々の視角からとらえてみたいと思う。
神道と禅の出会い/東アジア文化交流史の観点から
東アジア文化圏という観点から日本の「神と仏」について考えようとするとき、中世における禅のはたした役割の究明は、きわめて有意義な視座を提供してくれるものと思う。13世紀初頭以来の禅僧たちによる国境をこえた活発な交流を背景にした日本文化論は、いまだ多くの課題を残したままである。一般的な常識として、日本の中世以来の文化伝統は禅の影響を多くうけて発生したと思われているが、禅のどういう部分をいつ受けとったのか、なぜその影響を受けることになったのか、といった具体的なことはそれほど明かになっているとは思えない。たとえば日本の伊勢神宮をめぐる神信仰は、中世初頭においてはじめて確固とした理論化がはじまるが、その理論化に際しては大陸から渡来したばかりの最先端の禅思想が深く関与している。同時にまたその背景には、当時の中国・朝鮮・日本を往来するインターナショナルな仏教の求道者たちのネットワークが存在していたことも見落とせない事実である。日本的な神信仰と一般に考えられている「神道」が、禅という東アジアの最先端の思想と出会ったとき何がおこったか、この問題設定は、中世日本の宗教文化の解明に東アジア交流史という観点が不可欠であることを雄弁に証拠だててくれることになろう。一国内に閉ざされた歴史観を乗り越えつつ、しかも固有のなにかが問われている日本の現在にとって、東アジアの圏域に立ってこうした前近代の問題をあらためて掘り起こすことは重要な試金石となるはずである。禅と日本文化を論じたものとしては、はやく鈴木大拙の「禅と日本文化」がよく知られているが、幸いにも得られたこの機会に、あたらしい「禅と日本文化」論の可能性を模索したいものだと思う。
17世紀から18世紀の東アジアにおける遊女説話に見る男と女
ここで取り上げるのは、いずれも17世紀・18世紀における東アジア、殊に中国・韓国・日本、それぞれの国で高い評価を得た名妓と呼ばれた遊女達の説話伝承である。
何故、彼女達がそれぞれの国で高い評価を得たのであろうか。この点を比較することによって、各々の地域における、遊女に対する視点が浮き彫りにされるのではないかと思われる。「侠の中国・義の韓国・情の日本・孝の沖縄」といった所が、先回りした大略の結論である。又それぞれの漢文資料のあり方にも述べてみたい。
中国の資料の多くは、 明末清初の中国の遊里、金陵(南京)の秦淮を描いた余懐の「板橋雑記」と乾隆49年(1784年)成立の「続板橋雑記」である。「板橋雑記」は明和9年(1772)日本で翻刻され、文化11年(1814)には、「唐土名妓伝」として刊行され、洒落本などに大きな影響を与えた。名妓列伝が多く載せられているのは、「続板橋雑記」である。
中国の名妓としては、きっぷがよく、侠を好み、しばしば若い者に金をばら撒く、馬湘蘭・ ばくちで千金を使い果たし、豪傑との交際でも知られ、金を積まれても操をたてる、侠気の名妓李香君・武人孫克咸との愛に、節を守り舌を噛み切り口に血を含み、相手に吹きかけたという葛嫩や女侠と呼ばれる寇白門等を取り上げる。
韓国の遊里史の中心資料は、「朝鮮解語花史」(李能和著1927・東洋書院、翰林書林)によった。この中で取り上げられている名妓の中で、もっとも著名なのは、韓国詩壇史においてもっと優秀な女流詩人として評価される黄真伊である。さらに、壬辰・丁酉倭乱(日本における文禄慶長の役)晋州の戦いで、日本の敵将を誘い、川に共に沈み国に忠節を尽くした、義妓と賞賛されて現代にも評価される、妓生論介を取り上げたい。
日本の遊女資料としては、まず遊里大百科ともいうべき、「色道大鏡」の名妓列伝・漢文体を主とした遊女評判記さらに井原西鶴の「諸艶大鏡」・「好色一代男」等から、中国にまで知られ、身分の卑しい鉄職人に身をまかしたことで知られる遊女吉野・世間の非難を受けながらも乞食の相手をしたことで、名妓として評価された長崎の金山などを取り上げたい。
又、沖縄の資料からは、沖縄の遊里におけるアンマ_の存在と中国の妓楼の女主人鴇母の類似性を指摘しながら、日本の遊郭組織と中国・沖縄などとの違いにふれ、よしや恩鶴の歌う望郷への思いを紹介し、親を思い孝行を尽くそうとする遊女ジュリ達の行動も見ていきたい。又、それぞれの漢文資料を引きながら、遊女起源説の説話などの各国の違いにも言及してみたい。  
絵と空想と情報/新聞誕生以前のコミュニケーションについて

ヨーロッパで「オカジオネル」と呼ばれる刷り物が出現する15世紀・16世紀は新大陸の発見、活版印刷術の発明、さらに宗教改革とそれにまつわる宗教戦争など、社会が根底から変貌する時代である。ところが日本では、同じような情報の一枚刷りが初めて姿を現すのは、戦国時代も終わり鎖国に向かう時期である。
日欧の社会・政治・経済状況の大きな相違を踏まえながら、まだ新聞も雑誌もなかった前近代社会における一般大衆向け印刷メディアの発達を比較してみたいと思う。
斎藤茂吉と太宰治の「地獄極楽図」体験
「地獄極楽図」を見つめるという体験は、どのような衝撃を与え、どのような作品を生みださせるのだろうか。この発表では、歌人の斎藤茂吉と小説家の太宰治をとりあげ、次の四つの視点から考える。
1 「地獄極楽図」の図柄は古来、変わらない。
2 「地獄極楽図」の基本構造
3 茂吉の見た「地獄極楽図」と作品(短歌)の創作──その特色
4 太宰の見た「地獄極楽図」と作品(エッセイ・小説)の創作──その特色
5 茂吉と太宰に共通するもの──女性性とのかかわり
古来、「地獄極楽図」は、日本人の恣意と表現に大きな役割を果たしてきた。この問題は、西洋の場合にも通じると思う。
画論と説話
中国・南宋以後に活発に制作された「文人画」が元明時代に一般化し、16ー18世紀の東アジア文化圏へも多大な影響を及ぼしたことはよく知られている。「文人画」とは詩文・書・画の秀でた文人(いわゆる「三絶」)の描く絵画のことだが、そこでは「詩・書・画一体」の芸術としての、いわば芸術のコラボレーション(collaboration)が目指されている。本発表では、そうしたコラボレーションに焦点をあて、宋代およびその前後の画論資料を検討する。また、詩・書・画のコラボレートだけでなく、そのそれぞれにたとえば「集句」、画面への題詩・題跋・鑑蔵印の・書き込み・、「憩寂図」のごとき合作画などがあった点、詩論においても「点鉄成金」「換骨奪胎」論(黄山谷)といった引用論をめぐる議論があったことをも視野にいれながら宋代コラボレーションの位相をうかがい、もって16_18世紀の東アジア漢字文化圏における・絵とことば・、とくに説話画における両者のコラボレートを考察する上での示唆をうることとしたい。
扇と詩_「扇の草子」の諸相
「扇の草子」は、扇絵の周囲に歌が一首ずつ散らし書きされた、絵本、絵巻、画帖などの作品群の総称である。そして、まだその存在もほとんど知られておらず、また「国書総目録」などの図書目録類にも掲載されていないので、知ることさえできない作品群である。
今回の発表では、詳細にはふれられないが、この作品群の独特な内容と、同時代や後代の文化や社会に及ぼした影響について概要を述べたい。
1 時代
「扇の草子」は、16世紀後半_17世紀初期__中世から近世への移行期の、この限られた一時期につくられた作品群である。織豊政権から徳川幕府への移行、狩野派の画壇制覇達成過程、出版事業の始動など、社会、文化が大きく変化した時期である。
2 「扇の草子」の特質
現在、30以上の伝本が残っている。ごく最近、プラハ美術館から新たな伝本がでてくるなど、今後、さらに増えると予想される。30枚の扇絵と30首の歌から成る小品から、120扇120首もの扇絵と歌が描かれた大部の作品まである。また、奈良絵本風のものや、土佐派や狩野派風の絵が描かれた作品もある。そして、特徴は、複数の伝本に重複する扇絵と歌もあるが、伝本ごとに内容がそれぞれ異なるのことにある。
3 雅俗・新旧の混在
「扇の草子」には、雅俗おりまぜた様々な歌と扇絵が、アトランダムに収められている。「伊勢物語」や「古今和歌集」などに見られる歌から、「犬筑波集」所載の俳諧や、謡曲、狂言、お伽草子にしか見出せない歌、戦国時代の武将にまつわるエピソードとともに伝承されていた歌まであり、四季おりおりの植物や、動物、武将、女房、名所などが描かれた扇絵がある一方で、非常に謎めいた絵もある。
4 享受方法と享受者層・制作者層
「扇の草子」の享受方法については、種々の見解がある。例えば、お伽草子のような読み物とする見方や、扇絵の見本帖との見方がある。この問題は、今後さらに議論されるべきで、結論を急ぐ必要はないが、私は、実際の扇を用いた遊びのようなものと関係があり、その享受者層は婦女子で、制作には、連歌師や宗教者、あるいは文化人がかかわっていた可能性が高いと考えている。
5 扇のネットワーク
「扇の草子」から、扇の重要性が見えてくる。扇はすでに平安時代から、人と人、あるいは都市と地方を結ぶコミュニケーションツールであった。扇は使用されないとき、折りたたまれているが、ひとたびそれを開けば、絵のみならず、その背景をなす歌や物語など文学的な世界も出現する。そして、このコンパクトで懐中でき、携帯に便利な折りたためる扇は、屋内や屋外のどこででも、それを広げて絵と文学とを楽しむことができたのである。文化の伝播と普及に少なからぬ貢献をしていたと考えてよい。また、扇が諸国を漂泊する宗教者と深くかかわっていたことも重要である。扇と扇絵の制作者は、文化の伝播者でもあったと言える。
さらに、「扇の草子」の制作期が、扇と扇絵の盛期であったことは、とくに注意しておく必要がある。この時期に、扇絵ひいては「扇の草子」の隆盛がなければ、装飾画、意匠、文様、あるいは遊び絵やカルタさえ生まれなかったといっても過言ではない。扇や扇絵の研究も立ち遅れているが、「扇の草子」は、それらの重要性を解明するカギとなる作品群でもある。今後、扇と「扇の草子」の研究が進めば、絵画史、文学史、文化史が、少なからぬ見直しを迫られるものと思われる。  
人・神・仏

東アジアの神仙説話と仏教/日本と朝鮮の比較を中心に
十一世紀末頃に成立した大江匡房の「本朝神仙伝」では、登場人物の過半数を僧侶もしくは仏教者が占める。彼らが実践した修行の内容は、辟穀や服餌、房中などの養生法であり、中国の「列仙伝」(伝、劉向)や「神仙伝」(葛洪)などの仙者が錬丹術を駆使するのとは様相を異にする。金液丹を服用したという仁明天皇を例外として(「続日本後記」)、三善清行の「服薬駐老験記」その他の文献にも錬丹術への積極的な関心は窺えず、江戸時代、十七世紀の田中玄順「本朝列仙伝」も同様で、日本における仙者は、仏教的な験者として位置づけられる。
それに対して朝鮮では、李朝初期の十六世紀から十七世紀にかけて成立した韓無畏「海東伝道録」や洪万宗「海東異蹟」等に描かれた仙者たちの関心は、主に錬丹術に向けられており、とくに内丹を中心とした海東仙派も形成された。だが、それは中国のような不老不死を究極の目的とするものではなく、あくまで養生をめざす点では、むしろ日本と共通する。
こうした地域差は、日本と朝鮮における神仙思想や道教の受容と展開過程のちがいに起因する部分が大きいと思われるが、今回の報告では、東アジアにおける神仙関係説話と仏教との交渉を通じて、その宗教史的特質と歴史的背景について考察したい。
稲と天孫降臨
記紀神話に現れる天孫降臨神話
もっとも知られた解釈によれば、太陽神である天照大神は稲穂を象徴する名を孫の番能邇邇藝(ほのににぎ、逞しい稲穂の神の意)に与え、彼を高天原から地上に降り立たせた。彼は九州(日向国)の高千穂之久布流多氣(数千の稲穂の重なった峰の意)に降臨した。その彼の孫が神武天皇であり、日本の最初の天皇となる。ところで、この記紀神話の原本を詳細に検討すると、8世紀に成立したこの神話のテキストでは米を必ずしも意味していないことが分かる。このことから、この稲穂に関する伝説は天孫族の日本支配以降、稲作の伝播に伴う後世の創作なのかも知れない。
神観念の中世的変容
仏教伝来以後の神祇信仰の歴史は、圧倒的な「神仏習合」的状況下にあったにも拘わらず、その影響は表面的なものにとどまり、神の本質的性格に変化はなかったとの意見は根強い。それに対して私は、仏教や中国思想によって日本の神観念は根本的に変質したのであり、その画期は中世だったと考えている。こんにち日本の神観念の基本的要素とみなされる性格のなかで中世に淵源を持つものも実は多く、このことは神祇信仰に対する固有性・不変性をめぐる先入見を相対化する。本発表では、中世における新しい神観念のひとつである、神の内在化について採り上げる。神々が我等の心の中にある、或いは心即神であるとの観念は、本地垂迹説及び中世神道のなかより生起した考え方であり、この観念の形成の過程と、後世への影響について検討することを通じ、日本宗教文化における重要性について考えてみたい。
神の身体、仏の身体
本発表では、神と仏の身体について論じる。仏が肉体を持つようになる原因が、神仏習合(神との交渉)のなかに見出せることを検討していく。
院政期になると、清涼寺釈迦堂の釈迦仏、善光寺如来などの「生身仏」、「宇治拾遺物語」などに語られる生々しい肉身を持った仏たちが登場する。これは仏像彫刻の変化とも呼応し、あらたな仏の時代が到来したことを告げている。
本来、肉身を持たない(持ち得ない)仏が、肉体を持って人々の前に顕れてくるのはなぜか。仏の肉身化は、強靱な身体(性)を保持する神との交渉(習合)によってなされたことを論じ、「仏の神化=日本化」の可能性を、本地物、申し子譚などを通して探っていく。神の身体性を問題にする際に必ず取り上げられる「タマ」「カラ」論のうち、特に「タマ」の持つ「身体性」についても、確認をしておきたい。神仏習合は、神→仏といった一方通行的なものではなく、相互に影響し合いながら推移したと考えられるのである。  
男・女

近世中国・日本の男色女色談義ム「童婉争奇」をめぐって
17世紀前半、中国の明代末期に活躍した文人、_志謨の「童婉争奇」は、同じ作者の「花鳥争奇」、「山水争奇」、「風月争奇」、「蔬果争奇」、「梅雪争奇」などと並ぶ争奇シリーズの中のひとつであり、敦煌出土の唐代写本「茶酒論」、「燕子賦」、また日本近世の「酒茶論」、「酒餅論」などのいわゆる異類論争物につらなるものであるが、その内容が男色と女色の比較である点、きわめて特異であり、中国文学史上、他に類例をみない珍しい作品である。現在この「童婉争奇」のテキストとしては、龍谷大学写字台文庫所蔵の明・天啓4年(1624)萃慶堂刊本と、おそらくそれにもとづいて筆写したと思われる内閣文庫所蔵の江戸初期写本のふたつが知られるが、後者には林羅山による寛永12年(1635)の識語がある。内閣文庫にはまた前記「花鳥争奇」以下の明刊本も所蔵されているが、それらはすべて林羅山もしくは林家の旧蔵本であり、龍谷大学所蔵の「童婉争奇」も、元来は林羅山の蔵書であったと考えられる。
本論文は、「童婉争奇」の内容を分析することによって、中国明代末期江南地域における男色、女色文化とその背景について考察するとともに、それが「童婉争奇」を通じて江戸時代の同類の文学に影響をあたえた可能性についても検討を加える。特に17世紀後半に活動した伊原西鶴の「男色大鑑」(1687)には、「色はふたつの物あらそい」とあり、「童婉争奇」と同じ趣旨である点が注目される。
「孝女白菊の歌」と「竹取物語」_明治新体詩と孝子伝
日本の近代・現代の文学的な想像力に対して、古典はいかに働きかけたか。近代国民国家の形成の過程における、古典文学の取り込みについては、近年つとに注目されているところである。
発表では、平安初期に成立した「竹取物語」が、明治期の国文学においてどのように受容されたかを見る。昭和期の問題としては、すでに「かぐや姫幻想」で、三島由紀夫「豊饒の海」のプレ・テクストとして「竹取物語」を位置づけ、三島研究の側でもそれを受けての考察が続けられている。いっぽう明治期については、樋口一葉研究から「かぐや姫幻想」を踏まえた分析が出された。「竹取物語」は、近代・現代の文学的想像力を喚起する何ものかを内包する。そのことを今回は、新体詩「孝女白菊の歌」における「竹取物語」引用から考える。そこでは〈孝女〉という近代的な〈家〉の指標の形成にあたって、「竹取物語」の翁とかぐや姫の関係が巧みに転用されている。孝子伝の系譜は、中世・近世を通じてたどられるが、王朝物語をプレ・テクストとする必然はどこにあるのか。近代百年のパラダイムは、九世紀・十世紀を隔てた王朝社会の枠組みとの交差を通じてなされた側面がある。その一端を示す事象として、明治の国文学草創期の「竹取物語」受容を捉えたい。
慈円「愚管抄」に見る女性嫌悪(ヘテロフォービア)
鴨長明「方丈記」、法然「一枚起請文」との比較から
ナショナリズムは一般に、近代の産物とされている。しかしアントニー・D・スミス「ネーションとエスニシティ」によれば、その成立要件として「エトニ」と「エスニシティ」の二つが考えられる。まず「エトニ」が、前近代的な社会的まとまりとしてあらかじめ形成されていること。さらには独特の神話_象徴複合体としての「エスニシティ」が、イデオロギー的な支えとしてその前提にあること。そうでないと、近代国民国家を支えるイデオロギーとしてのナショナリズムは、安定的に確保されない。この二つの成立要件を欠くことで、近代国民国家の立ち上げに失敗した事例は、世界を見渡せば枚挙にいとまがない。「伝統の創造」(ボブズボーム)どころの話ではないのだ。幸いなことに日本は、近代国民国家の立ち上げに成功した。これには、かなり偶然な幸運のめぐり合わせもあった。しかし、東アジア世界の中でいち早く、「エトニ」や「エスニシティ」を安定的に確保してきたことも、その重要な要因の一つと考えられる。本発表は、近代日本のナショナリズムを背後で支えた前近代的な「エトニ」と「エスニシティ」を、歴史をさかのぼって、慈円の歴史評論書「愚管抄」に見出そうとするものである。長らく忘却の淵に追いやられたままであった「愚管抄」が、優れた歴史評論書として脚光を浴びるようになったのは、国民国家形成期の近代に入ってからであった。「愚管抄」は、近代になって再発見されたのだ。そのテキストとしての享受も、ナショナリズムとの密接な関連抜きにはありえなかった。
「愚管抄」の中で慈円は、しばしば自国の歴史や社会のあり方を自己評価して、「女人入眼の日本国」と表現する。「入眼(じゅげん・じゅがん)」とは、眼を書き入れることで仏に魂を入れる宗教儀礼であると同時に、「除目(じもく)」の際の人事の決定に、各人の名前を書き入れる行為をも意味する。つまり、外国(具体的には中国)と違って日本では、女性が人事権を掌握しており、それによって日本国の歴史に魂が吹き込まれてきたとの認識に立った表現なのである。外国との比較の中で、自国の歴史を女性のジェンダーに位置付けて差異化をはかる慈円のこうした発想は、いったいどこからきたものなのか。それについて、柄谷行人が「日本精神分析」の中で論じた、「外部からの暴力の不在」と「内部からの自己形成(オートポイエーシス)」の二つの問題提起と絡ませながら考えてみたい。その際に余力があれば、同時代を生きた鴨長明や法然のテキストとの比較も行って見たいと考えている。
 
転位する日本画

最近、日本との文化交流が活発になってきた。2002W杯の時は日本人も抵抗なく大韓民国の活躍に声援を送りW杯成功を共に果たした。しかし60代以上の旧世代は今も日本の植民地政策の「恨」を抱き日本を良く思わない人が多い。だが20代、30代の若者達は屈託なく日本に関心を持ち親近感を抱くようになった。若者達のパワーが韓日関係を変えたと言える。日本語の普及も日本と韓国が遠い関係から近いものにした。過去は過去、未来志向でやっていこうという前向きな関係、グローバル精神の流れは理にかなっている。
韓日国交が成された当時、韓日間の往来は年1万人程度であった。しかし現在1日1万人の往来があるという。その事実が韓日間の親密さを雄弁に語っている。一般的に韓国人は日本人に対しどんな良いイメージを持っているのだろうか。親切で笑顔が良く、礼儀正しく丁寧におじぎをして挨拶する。真面目でよく働き、きれい好きである。アニメーション等のサブカルチャーの面白さ、電化製品や自動車の性能が良く、ハイテクの生活をしている。通勤やラッシュの時の交通マナーが整然としていて、時間に正確である。寿司が美味しく、観光資源が多い国であると答えることが多い。「百聞は一見にしかず」はこれらの事に於いて生きた格言であった。
韓国国立中央博物館に日本の近代美術品約200点が、朝鮮戦争の戦火を免れて秘蔵されていて事が話題となった。日本が朝鮮半島を支配していた時代、旧朝鮮王朝「李王家」が蒐集、或いは寄贈を受けた横山大観、川合玉堂、前田青邨、土田麦僊、鏑木清方等の日本画の大家を含むコレクションであった。
98年度から日本の文化開放がなされ、その政策の一つとして、広く日本文化を韓国国民に触れてもらう目的で、W杯成功を祈念した国民交流年の昨秋、国立中央博物館で半世紀を超えて日本近代美術品を公開した。
それまでタブーであった日本近代美術に触れた韓国国民は、日本に関心と新たな認識をしたと思う。過去は過去、芸術は芸術として再評価し合う両国の文化交流が相互理解を深めた。2003年春には東京、京都と日本にも巡回されるので楽しみである。
「日本画」についてであるが、芸術の世界で隠されがちな国家や市場を、その名前故に意識させる存在である。しかし「日本画」の名称の在り方や存在を問題として最近、日本が揺らいでいる。国家名を頂いた「日本画」は終焉を迎えるのか、新たな広がりを見せる可能性はあるのかという論争である。
一体どんな絵画が「日本画」であるのか。「日本画」にどんなイメージを抱くのか。どう定義、規定しているのかと問うとはなはだ曖昧で、紋切り型の答えしか返ってこない。一般的に花鳥風月的な絵や仏画、平安時代の絵巻物語や安土桃山時代の寺院の襖絵、江戸時代の文人画、浮世絵、そして現代では東山魁夷や平山邦夫のような絵を、思い浮かべるのではないか。基本的には素材に岩絵具を使用し膠で溶いて、または墨で和紙や板に描いたものが日本画だと、曖昧に認識しているようである。
日本画が持っている季節感や、日本人であるという土着的な時空感や大衆性、生業と生き方から来るイメージから答えているようだ。イメージは全ての人が抱く尺度ではあるが、日本画の見えそうで見えない実態を答える事は難しいようだ。それは日本画の主題や問題の確認、素材等の単純な問題ではないからだ。花鳥風月、美人画、絵巻、襖絵、文人画、仏画などは韓国にも、中国や東アジアに共通している表現であり、素材も岩絵具、墨は同じものである。日本的であるという実態としては、素材から見れば曖昧なものであり、それを問い直そうという変革の問題意識が、1985年以降出てきた。
素材や技法、制度は日本画の定義の一要素でもあるが、挑戦的且つ先鋭的に素材の枠組みを外して、素材の面白さを生かしたリアリティと個々の時代の表現がなされていなかった。日本的なものとして支える為の、社会的制度や作家のスタイル、構え、訴えの主題性が定まっていない。日本画に何が出来るのか、何に拘り、何に期待すべきなのか。日本画という曖昧な概念の亡霊に囚われ答えを、見つけることが出来ないでいたという反省からだ。
そもそも歴史的に見ると、日本画の定義は明治期に入り洋画との対比で受け継がれて来たものである。日本列島に於いて生成発展した日本の美術は風土的、地理的条件を負っている。温和な海洋的気候や四季の規則的な変化が、美術の表現に多大な影響を与えたと思われる。歴史時代に入り大陸との交流の中、各種の文化が次々もたらされた。朝鮮、中国との文化的接触は古墳時代後期(5〜6世紀)から、技術者集団の渡来によって進んだ金工等の技術がもたらされ、やがて600年前後の仏教伝来による信仰の定着に伴う、盛んな造寺造仏が日本美術の新しい展開を生んだ。飛鳥時代には、南北朝ー隋の中国美術が朝鮮三国を通して、複雑な様式的影響を与えた。統一新羅を経由して、初唐の新様式が急速に流入し奈良時代美術として開花することとなる。こうした外来美術への意欲的且つ柔軟な対応が明治以後、西欧の美術に対しても積極的に発揮されることとなる。
日本画とはやまと絵、和画と言われ、外来の西洋画法と対比される日本の伝統的な画法に立つ絵画という意味で「日本画」という言葉が、明治以降に使われるようになった。しかし伝統的な画風に立つ絵画と言っても、江戸末期には土佐派、住吉派等の大和絵派、狩野派のような漢画系、宋達、光琳の流れの琳派、文人画とも言われる南宋画、円山応挙や呉春によって流派化した円山四条派、近世初期風俗画から始まり、江戸時代の浮世絵となっていく風俗画派などがあった。明治時代に入るとそれらは影響しあい、西洋画の影響も加わっていくこととなる。日本画は西洋画に対し固有性を主張し、古来の伝統絵画に対しては近代的統一性を特色するものと考えられている。このような近代日本画の土台の下、現代に至るまで多彩な新様式を時代と共に織り交ぜ発展したものである。
1988年から1998年に至る十年の間に「日本画」とは何かという、現代絵画としての「日本画」の可能性を探る重要な展覧会が開かれた。「ニュージャパニーズスタイルペインティング」山口県立美術館1988年、「現代の日本画と日本画イメージ」O美術館1993年、「現代絵画の一断面・日本画を越えて」東京都現代美術館1993年、「日本画・純粋と越境」練馬区立美術館1998年等がそれである。そこには戦後「日本画」の風土性とその時代表現の模索と葛藤があった。西洋近代モダニズムがほどけ壊れていく近代への反省があり、近代への転換を見直す展覧会であった。
「日本画」は一般的には和紙に膠で溶いた岩絵具を顔料として、日本画材で制作する事が伝統絵画であると思われていたが、現在「日本画」という「概念」そのものが80年代末から転位の兆しがある。「日本画」が精神的に、社会的に、どのように機能していたのか。「日本画」に代表される「日本的なるもの」「日本美」なるものを、どう位置づけるのかという問題意識である。日本画自体の実作の動向の変化や日本画についての言辞的、制度論的な出自の探求によって日本画史を発掘し、埋もれた歴史を検証し変革しようという動きである。
「現代日本画」の本質を考えてみると「日本画」という名前も絵画としての在り方も、日本列島社会の近代化の過程で作り出されたものである。近代国民国家形成の過程で、従来の諸画派を「国民絵画」に統合することで作り出されたもので明治期の神社統合の過程を断面として捉えることが出来る。日本画という領域を神社統合を以て国家神道、天皇制にしようとする逸脱した企てにより、今もその信仰と亡霊が生きていると言える。政治と芸術、東洋と西洋の分類の不純さが、純粋でない中途半端な形態を制度的に定着させた結果といえる。
「日本画」は絶対概念ではない。近代「日本」に立脚した「西洋画」と一対の相対概念で故に、戦後の民主化と国際化によって日本画の未来は、次代の世界観と歴史観によって転位し、本質は常に人間存在を問い、アイデンティティを求めるべきであると考えるようになった。今、日本画は終末期にあると言える。近現代の世界体制と世界観の終焉、それによる「日本」「美術」概念の揺らぎを背景に、日本画のアイデンティティと史的現在を検証し日本画は終焉した後に「絵画」としてどう出直すかを考える展覧会であったと思う。
東京国立近代美術館美術課主任研究官古田亮(ふるたとおる)は「日本画」なる言葉そのもののジャンルを、歴史化し過去のものにすること、その為全ての美術学校の科目名から「日本画」という名称を無くすこと、科目名としては「絵画」で十分である。美術館、博物館での分類名も「絵画」として一括するか、技法材料の特長を生かし「膠彩画」という分類にする。画家のジャンル化についても「日本画家」「西洋画家」という分類も無くし、同じフィールドで捉え「作家」とするのがよい。現代作家と日本画の作家と共に歩いていくというスタンスである。日本画は今後、美術館、博物館という場に於いて20世紀の遺産として鑑賞されていくだろうと発言している。
日本画はローカルなもので世界に通用していないという批判に対し、世界から評価や共感を受けるためには日本画を越えて、現代絵画の中でどう位置づけ、見直すかという課題を持っている。次世代への可能性をかけ、日本画のジャンルや慨成のものでなく、新しいものを生み出す、新しい文化として捉える視点に立っている。現在、美術館では経済的な問題で国際的な、大規模で前衛的な展覧会が出来なくなった。そこで所蔵品による常設展示を積極的に企画し近代美術の見直しを始めている。これまで深く捉えなかった事柄を時間をかけて考えてみようという視点に立つ良い契機となっているのは喜ばしいことである。
アクリル、油彩画など日本画材を使用していなくても、日本画的要素が入っていなくても、抽象であれ、具象であれ、ニューペインティングが絵画を立ち上げていき復興していくべきである。作品のみの勝負、絵画の力そのもの、作品の出来が良ければ世界に通じることだということだ。80年代以降の日本画はキャプションを見なければ、今までの概念で見る日本画と同じものとは思えない程だ。李禹煥の絵はキャンバスに岩絵具で描かれているが油彩画のジャンルに分類されているのが一例であり、ジャンルや素材では括れないのが現実の「日本画」である。
「日本画」という言葉は精神構造的なものが機能し精神の中にあって見えない形で生きていたといえる。「日本画」という概念から一歩踏み出し、東洋の伝統的素材を生かし、「絵画」として偉大な芸術を生み出す現代的な創造を目指して、もがき苦しみ、日本画・洋画のいずれにも属せず現代美術でもない第3の道を模索、葛藤しているのが今の「日本画」であるといえる。
我が国にも「韓国画」というジャンルがあるが、朝鮮画とも東洋画ともいわれてきた時代があった。また書とも呼んでいたようだ。その時々にどういう定義があったのか計れないのが「東洋画」という呼び方には時代を見ていた一つの見識があるように見える。「韓国画」も国民国家が揺らいでいくナショナリティやアイデンティティが複合的に交錯していた言葉としての意味合いを色濃く感じる。「日本画」の転位と同じく「韓国画」も東アジア的視野、グローバルな位置に立脚した視点に立って転位されていくのでないかと思う。
21世紀は「韓国画」も歴史化され、懐かしんで見る文化になっていくのかも知れない。
 
韓国文化歴史と日本・諸説

韓国の伝播論と日本の由来論
韓国人の歴史の関心の対象は、わが民族の文化が日本にどのように伝播したか、である。来日する観光者だけでなく研究者も、この観点でやってくる。日本各地で、ここにも韓国文化がある、あそこでもわが先祖が活躍した、といった歴史を確認しようとする。極端な場合は、日本の文化はすべて朝鮮からのものであるとまで言う人もいる。
一方日本人の主な関心は、わが文化の由来は何か、どこからの影響があったのか、というところである。様々なところからの影響があってより高い文化が成立していくと考える。その由来場所の一つが朝鮮半島である。それはいくつかあるうちの一つである。
日本人なら、韓国の文化は中国からも日本からも影響があったはずだから、彼らも自分の文化の由来を我々と同じように関心があるはずだ、と考えるだろうが、実際にそういうことはない。韓国人は自分の文化の由来にほとんど関心を持たない。関心があるのは、自分たちの優秀な文化がいかに広まったかの伝播論である。
韓国の伝播論と日本の由来論とは妙に一致するところとなるが、両者の歴史認識の根本は全く違うものである。日本と韓国の歴史認識の一致は極めて困難である。
「百済」の珍説
「百済」をなぜ「クダラ」と読むかについて、「大国」の意であるという俗説に対して、拙論で、それは語呂合わせだと論じました。最近、これに類似した珍説があるのを知りました。
「奈良そのものがナラ(━原文はハングル)からきたもので、朝鮮の南西にあった百済は日本語でクダラといった。これはあの国(クナラ━原文はハングル)のなまったものだ。」八巻俊雄著「ものと人間の文化史130広告」(法政大学出版局2006年2月)2頁
ここではクダラは「あの国」の意であるという説が出てきています。これも単なる語呂合わせなのですが、色々な珍説・奇説が出てくるものだと感心します。今回は「大国」説ほど信じる人はいないと思うので、悪影響はないでしょう。クダラナイ説の紹介でした。
金銅弥勒菩薩半跏思惟像
韓国の国宝で著名な半跏思惟像は、よく日本の広隆寺や中宮寺のそれと比較されます。しかしこの仏像は朝鮮のどこの寺にあったものなのか、それとも出土品なのか、あるいは中国にあったものなのか、ひょっとして日本から持ち運ばれたものなのか、全く分からないものです。つまり由来が余りにも不明で、実は朝鮮産かどうかも定かではありません。この仏像は、日韓併合直後の1911年か12年に、朝鮮人骨董商が李王室に売り込みに来て、購入されたものです。従って植民地時代は李王職博物館の所蔵となっていました。この骨董商がどこから入手したのか、経緯が不明なのです。朝鮮半島内のどこかで出土したものだろうと推測されています。
久野健「古代朝鮮佛と飛鳥佛」(山川出版社)に次のような記述があります。
韓国には、この宝冠弥勒(広隆寺の半跏像のこと)ときわめて近い金銅弥勒半跏像が、徳寿宮美術館に伝えられていた。本像は現在ソウル中央博物館に陳列されているが、まことに宝冠の形式から面相まで広隆寺像に近い。この金銅弥勒像の出土地は、あまりはっきりしない。この像について本像を朝鮮総督府で購入することを勧めた関野貞博士は、慶尚北道の五陵廃寺より出土したと記しているが、確証があるわけではない。この問題について、1969年10月に朝日新聞社の講堂で行なわれた黄寿永教授の「韓国における半跏思惟像の研究」と題する文化講演会は、この金銅弥勒像の出土地についても、一歩進める発表であった。同氏は、従来の諸説を紹介したあと、本像については、1918年に韓国から出た「仏教新報」に稲田春峰という人が「この像は、1910年に忠清南道の僻村から出土したものである」と述べている。黄寿永氏は、先年忠清南道の僻村を調査している時に、ある寺で、稲田氏を知っている高齢の僧に出あい、稲田氏のいっていることなら信用してよいということを聞いた。忠清南道の僻村というと、昔の百済に属するという研究を発表し、興味を惹いた。しかし、最近教授にお目にかかり、この点をたしかめたが、あれは大分前の考え方だと言葉をにごしていた。
結局、朝鮮半島から出土したらしいが、どこかは分からない、ということのようです。日本ではあり得ないことですが、朝鮮では何十cmもある仏像が完形で出土する例があります。従って1mの大きさのこの弥勒像も破損しないまま出土してもおかしくはないのですが、出土場所が不明というのは、どういうことなのでしょうか。
韓国ではもう少し研究が進展していると思ったのですが、そうでもないようです。この仏像が朝鮮産、しかも新羅の仏像と断定することは躊躇すべきではないかと思います。
古代朝鮮語
この「私」を表す朝鮮古代語は「吾」を当て、発音は「ナ」です。「サ」ではありません。>日本の奈良時代に相当する朝鮮三国時代でも同じです。
この根拠となった資料は何ですか。私は聞いたことがありませんので、ご教示ください。
新羅時代の郷歌に残されている「吾」で、「ナ」と発音されたようです。出典は、「古代朝鮮語と日本語」です。
新羅の郷歌は25首ほどしか確認されていないものです。これから古代朝鮮語、しかもその発音まで復元することは不可能です。「ナ」と発音された、という説はいかがなものかと思います。なお第一人称を「ナ」と発音したのは、古代日本語にあります。例えば「なおと」は「な」が私、「おと」は弟で、わが弟、という意味になります。日本語の起源は朝鮮語であるという思い込みから、古代朝鮮語で「吾」は「ナ」であるという説が生じたものと思われます。
問題は、発音にばかりにあるものではなく、第一人称を「私」と表記したのはいつ頃からかということにあります。>ということは、第一人称を「私」といったことは、後世のことと考えられます。
「私」はもともとは「公」に対する言葉であって、一人称ではありません。一人称として使われるようになったのは、日本では中世の終わりころからでしょう。おそらく朝鮮語でも元来「私」は一人称で使わなかったのではないか、使うとしたら、植民地時代における日本からの影響ではないかと思います。
なお、現代朝鮮語では「吾」はオ、「我」はアと発音します。>仮に「吾」が「ナ」でないとしても「サ」ではないでしょう。
「吾」「我」「私」を「オ」「ア」「サ」と読むのは、漢字の音読みでしょう。問題は朝鮮固有語での読み方です。古代朝鮮語の固有語として、「吾」を「ナ」と発音したことの証明は不可能であり、同様に「サ」と発音しなかったことの証明も不可能です。
朝鮮半島の話し言葉って、いつごろから分かっているのか――という事です。
15世紀の表音文字(訓民正音)より以前の言葉の復元は、かなり困難です。
古代の朝鮮語が明確に分かっていないといけないと思うのですが、それはいつごろから、どのような文献によってわかるのか?という事です。
「日本書紀」に古代朝鮮語がいくつか記録されています。比較的まとまった資料となるのはそれぐらいで、あまりにも少ないものです。
それともう一つ、同じ朝鮮半島でも、地域や時代によってずいぶん違っていたのではないか――とも思うのです。>こういう事について、定説はできているのでしょうか?
百済語、新羅語、高句麗語は違うはずですが、資料そのものの数があまりにも少なく、はっきりとしたことは分かりません。だからこそ、国内の地名が朝鮮由来であるとか、万葉集は朝鮮語で読めるとかいうような、根拠のない悪質な俗説が流行ります。
高句麗は韓国か中国か1
日本における高句麗史研究の第一人者は、東潮氏で誰も異存はないでしょう。
数年ほど前にお会いした時に、「中国では高句麗史は中国の一地方の歴史と扱われているが、韓国では高句麗史は我が民族の歴史であり、中国の一部ではないと反発している。韓国人は東北地区(旧満州)で、ここは元々我が民族の土地だなどと言って、中国から顰蹙を買ったりしている。東さんは、どうお考えですか?」と尋ねたことがありました。
彼の答えはふるっていました。「韓国に呼ばれると、必ずそれ(高句麗は中国の一部か、韓国か)を聞かれる。その時は、高句麗は高句麗であって、中国でもなく、韓国(朝鮮)でもない、と答えている。」
これはなかなかの名言です。韓国人は日本人に踏絵を踏ませようとする傾向が強いのですが、それに対する言い返し方として参考になるものでした。
私でしたら、高句麗の北半分は中国、南半分は韓国でしょう、高句麗の歴史も半分づつ仲良く分けあったらどうですか、などと茶化して怒らせることでしょう。
高句麗は韓国か中国か2
中国東北地区(満州地域)から朝鮮北部にかけて、紀元前後〜7世紀の歴史に登場する「高句麗」、この古代国家の歴史が韓国と中国の間で摩擦が続いています。
韓国と中国の歴史摩擦の現場中朝国境の高句麗遺跡
韓国と中国の歴史紛争の現場になっている中朝国境の鴨緑江流域では、韓国色排除で“中国化”が着々と進められている。とくに紛争の焦点になっている高句麗の歴史に関して、有名な「広開土王(好太王)碑」では韓国語(朝鮮語)のガイドが禁止され、不満の韓国人観光客をよそに中国人観光客でにぎわっていた。また中朝国境にまたがる白頭山(中国名・長白山)観光でも、朝鮮族自治州を経由しない西ルートが開発され、あらゆる施設でハングルが消えつつある。(中国吉林省集安黒田勝弘)
朝鮮族が多く住む国境地帯におけるこうした現象は、中国当局が将来の民族トラブルに備え「韓国(朝鮮)人の民族主義感情を事前に封じ込めておく狙いからだ」と韓国側では受け止められている。
古代、朝鮮半島北部から中国大陸にかけ広大な地域を支配した高句麗(紀元前後〜7世紀)については、韓国では昔から韓民族の国家とされてきた。しかし近年、中国では「中国の地方政権」として中国史に組み込む作業が進められ、韓国との間で“歴史紛争”になっている。
高句麗の城跡や王陵など多数の遺跡が残っているのが鴨緑江中流の吉林省集安。そのシンボルが5世紀初に建てられた「広開土王碑」で、高さ6・4メートル、重さ45トンの巨大な石碑に、高句麗の歴史が約1800字の漢字で刻まれている。
碑文には当時の倭(日本)の活発な活動が記されているため日本でも昔から関心が高く、碑文の解釈をめぐって今も日中韓で研究や論争が続いている。
石碑は現在、中国政府の手で国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録され、ガラス張りの建物で保護されている。建物内部では高句麗風の民族衣装を着た中国人女性ガイドが中国語で説明してくれるが、韓国人観光客の韓国語ガイドは禁止という。韓国人観光客には必ず中国人の警備員が付き、監視の目を光らせている。
このため韓国人団体客の中には、石碑の裏手でひっそり(?)同行者による韓国語の説明を聞く風景も見られる。「もともとわれわれのモノなのに、なぜわれわれが肩身の狭い思いをしなければならないのか」と憤慨する声も聞かれる。
集安は近年、高句麗遺跡ツアーの韓国人観光客でにぎわっている。市内にはこれを目当てに北朝鮮直営のレストランもあって韓国人観光客に人気だ。しかし「広開土王碑」を含めすべての遺跡で、説明などの表記は漢字になっていてハングルは見当たらない。
中朝国境を旅行する韓国人たちは高句麗への郷愁などからよく「満州はわれわれの土地」と気炎を上げる。このため中国当局は韓国人観光客の言動に神経をとがらせているといわれ、鴨緑江の源流になる白頭山でもガイドは「頂上で「大韓民国万歳!」は絶対やらないでほしい」と厳しく注意していた。
こちらは当事者でありませんが、歴史・国家・民族を考える上で、非常に興味深い事態と言えます。
韓国の歴史に楽浪がない
韓国の博物館を巡って、韓国の歴史の概説において大きな違和感を感じることが、いくつかあります。その一つが、楽浪等の漢四郡が全く欠落していることです。
漢四郡とは、漢の武帝が前108年に、朝鮮半島北部を中心に領土を有していた衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・臨屯・玄莵の四郡を置いたもので、特に楽浪が栄えました。楽浪郡の郡治は今の北朝鮮、平壌にありました。楽浪は313年に高句麗に滅ぼされるまで、約400年間存在し、その間に帯方郡を分立しました。帯方郡は、邪馬台国に都を置いた卑弥呼が使節を往来させたところで、日本史では有名で、我々には馴染みのものです。
この楽浪等が、韓国史に出て来ないのです。これは、楽浪等が中国人の国家の一部であって、朝鮮民族(あるいは韓民族)の国ではないからです。
つまり韓国において、韓国史とは民族の歴史であって、朝鮮半島という地域の歴史ではない、ということなのです。そのため、楽浪等は朝鮮で400年もの間、中華文明の花を咲かせていたにも拘わらず、全く無視されてしまっているわけです。
自民族ではないにしても、現在の自分たちの地域にかつて存在した文明・文化を、まるで何もなかったの如く扱うのはいかがなものか、と思います。
北朝鮮では、楽浪は朝鮮民族の国家だという説が掲げられ、ビックリさせられますが、韓国も似たり寄ったりかな、と思うところです。
「邪馬台国の女王卑弥呼」の誤り
日本史の参考書に「邪馬台国の女王卑弥呼」と書かれているのを見た。これはちょっと困ったというか、誤りの表現である。魏志倭人伝の該当部分を呈示すると、
「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」
このように邪馬台国は女王が都を置いた場所であることを明記している。卑弥呼は「親魏倭王」に叙せられているから、倭国の女王である。従って倭国の首都が邪馬台国であって、そこに女王卑弥呼の宮殿があったということである。
卑弥呼は邪馬台国が首都である倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない。現在の例で言えば、エリザベス女王はイギリスの女王であって、ロンドンの女王ではない。これと同じである。
「邪馬台国の女王」という言葉からの連想であろうか、邪馬台国を盟主とする連合国家だなどと言う研究者がいる。しかし邪馬台国は倭国内の一地域であって国家名ではない。邪馬台国・奴国・伊都国等々の三十数カ国(「国」があるが地域名)を支配したのが女王卑弥呼であり、その全体の国家名が「倭国」である。邪馬台国が他の国を支配していたことは、魏志倭人伝を読む限り、あり得ないことである。  
情けない日本の古代史学者
こんな記事を読みますと、一部のことなのですが、日本の古代史研究者の情けない姿が見えてきます。
日本神話は韓国が起源、日本の学者も認めた!―韓国メディア
ソウル市内の国立中央博物館で4日、韓国の檀君(だんくん)神話と日本の建国神話を比較考察する「檀君の建国神話は、日本の建国神話の母胎」と題した学術会議が開催される。この席上で発表されるアジア史学会会長の上田正昭氏の論文が30日に事前公開され、韓国では「天孫(てんそん)が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まっている。
複数の韓国メディアは、日本の建国神話は、韓国の檀君神話の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められていると報じている。
日本神話は、主に8世紀初めに書かれた「古事記」と「日本書紀」の記述がもとになっている。「国産み(くにうみ)」とよばれる国土創世譚では、イザナギとイザナミの男女の神が地上に降り立ち、日本国土を形づくる多数の子を生み出したとされる。「天孫降臨」はアマテラスの孫であるニニギが、日本の国土を統治するため地上に降臨したという説話。
一方、檀君は13世紀末に書かれた「三国遺事」に登場する伝説上の古朝鮮初代王。古朝鮮は紀元前2333年に檀君が開いたとされる伝説の国であり、韓国ではこの神話は「史実」として国定教科書にも記載されている。>日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫文化には、山頂に降臨する点などをはじめ、共通点や類似点が多いと主張。さまざまな事実を検証し、百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘してる。
また同会議に出席する、京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は「韓国の檀君神話の桓雄(かんゆう)と伽耶(かや)の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系・中国系ということは疑う余地がない」と述べているという。
国際脳教育総合大学院・韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話などをはじめとする話を織り交ぜて作られたものであり、「3種の神器」も「3種の宝器」として檀君神話に登場する。日本の代表的な民族学者、東京都立大学の岡正雄教授も、すでに1949年にこれを認める発表をしていると述べている。
ホン所長は「日本最高の聖なる神宮という伊勢神宮を建てたときに、元の場所に祀った神は檀君を信奉していた朝鮮の神だったが、日本の国粋主義の学者が伊勢神宮の檀君信仰を抹殺し、天照大神を新たに主神とした」と主張している。
韓国・朝鮮の民族の歴史は新しい
韓国の歴史を読んでみて、大きな違和感を持つ一つが、民族の歴史を神話も含めて5000年も遡らせていることです。
朝鮮半島に住む人々が、あなたも私もすべて同じ民族だと感じるようになったのは、せいぜい遡っても7世紀の新羅統一からでしょう。
それ以前の高句麗・百済・新羅はそれぞれ建国過程(建国神話も含めて)が違っており、また言葉も違っていますので、お互いが同じ民族だという意識はなかったでしょう。
さらに遡って、馬韓・弁韓・辰韓の時代、楽浪郡が置かれた時代、古朝鮮の時代‥‥。朝鮮半島にいた人々が同族意識を持っていたとは、およそ考えることができません。
ところで韓国における民族の歴史ですが、次のような一文を読んで、韓国でもまともというか、冷静な方がおられることを知り、やはり韓国でも5000年の民族の歴史に違和感を持つ人はいるんだなあ、と思いました。
現在の韓国人が考える民族に対する感覚は、それほど以前からあったわけではない。いわゆる三国時代、高句麗・百済・新羅は互いに敵対国であり、彼らに同じルーツを主張し一つに統合するという概念があるはずがなかった。
韓国でも、民族あるいは民族の歴史について、冷静に議論し合える環境になっていればいいのですが‥‥。どうなんでしょうかねえ。
李氏朝鮮時代の社会
文國柱著高峻石監修「朝鮮社会運動史事典」(1981年社会評論社)より、李朝時代の社会をどう説明しているか、引用します。
李朝になってからも、農業生産力は、顕著な発展はみられず、中国または日本から比較的発達した農業技術が輸入はされたが、はかりしれない収奪によって極度に困窮におちいった一般農民たちは、改良された技術を習得することができず、また、それを実際に応用する余裕などなかった。工業にかんしても、特殊な一部手工業だけが、貴族と官僚の需要に応じて、孤立的に発達を示したのにすぎず、一般的な社会需要に立脚して広範に発達したものではなかった。李朝末期にいたるまで、一般農民は「堅く閉鎖された範囲の諸欲望が自給自足を目標にした伝統的生産様式」をほとんどそのまま維持してきた。このようにして、商業の発達は制約され、貨幣の流通は微々たるものであった。‥‥‥このように、農業生産力は停滞し、これにしたがって商工業の発達が阻止され、朝鮮の経済社会は、文化民族中、その類例が稀なほどに沈滞した歴史的過程をたどってきた。
この本は解放直後の1948年にソウルで出版された「社会科学大事典」が原本です。題名から分かるように、極めてイデオロギー的で、李朝時代も植民地時代も両方ともに暗黒に描くものです。しかし当時の左翼歴史家たちは、李朝時代に限ると上述のようにかなり冷静に事実認識していたと思います。
植民地時代の暗黒を強調するために、それ以前の李朝時代には近代の萌芽があったと薔薇色に描く昨今の歴史像とは違っています。
族譜の売買―犬族譜と濁譜
族譜は父系血縁集団(=門中あるいは宗中)の家系の記録で、朝鮮人のアイデンティティに極めて重要なものであることは周知のことでしょう。
族譜は祖先の権勢や徳望を顕彰して現在の一族の威勢を根拠づけるものです。従って現在の子孫と称する人たちが過去に遡って祖先を回復するのが、族譜の編纂作業ということになります。だからこそ改竄や売買が行われたことが多かったし、現在も同じです。
このような族譜のことを「犬族譜(ケーゾッポ)」「濁譜(タッポ)」と言うそうです。朝鮮語辞典なんかを調べてもなかなか出てこない単語ですね。
売買というのは身寄りの無い高齢の両班から現物を買い取るのでしょうか。
そんなことはありません。宮嶋博史「両班」(中公新書)に次のような記述があります。
「17世紀後半以降、在地両班層の経済力が低下しはじめるにつれて‥‥こうした両班集団に対して新たに挑戦をいどむ勢力が登場してくる。その先頭に立ったのが郷吏であった。‥‥郷吏層の地位上昇の試みをよく表しているもう一つの興味深い例は、族譜への郷吏家門の入録である。‥‥したがって両班への上昇を志向する郷吏層が族譜への入録を試みるのは、必然であった。‥‥始祖から数えて四代目というきわめて古い時代の人物が突然登場して、その子孫が大挙して族譜に入録されているわけである。‥‥」
宮嶋氏は優れた研究者で、このように落ち着いた表現をされますので、「売買」というような刺激的な言葉はありません。この本は朝鮮社会を知るのに手頃でよくまとまっており、一般向けで分かりやすいものです。一度お読みになることをお勧めします。
族譜の売買に関し、尹学準「オンドル夜話」(中公新書昭和58年)に次のような記述があります。
「族譜がない家門は自動的に常民に転落するのだが、常民は兵役の義務を負うなどさまざまな差別を受けねばならない。だから常民たちは両班に加わろうとして多大な金品をかけるのである。官職を買ったり、族譜を偽造したりするのだが、最も一般的な方法としては、名家の族譜が編纂されるときにその譜籍に加えてもらうことだ。“ヤンパンを売る”とか“族譜を売る”という言葉があるが、それはこのような買い手があるからだ。だから族譜の編纂期(三、四十年ごとに改纂される)は、ヤンパン一門のボスたちにとってまたとないかき入れどきでもある。」
これはその通りだったろうと思われます。族譜の内実はこんなもので、だからこそ朝鮮人自身から「濁譜」「犬族譜」と揶揄されることがあるものです。しかし彼らのアイデンティティとして極めて重要に考えている人も多いので、このような揶揄は周囲が大きい声で言うべきことではないことは言うまでもありません。しかし朝鮮史の一断面として知っておいてもいいでしょう。
朝鮮の飢饉
李朝時代に飢饉は慢性的にありましたが、その具体的な様相を示す資料がなかなか見当たりません。その数少ない資料のなかにシャルル・ダレ「朝鮮事情」金容権訳(東洋文庫1979)に次のような報告があります。
「しかし政府は、おのれの保持のためには必要であると信じこんでいるこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。一八七一年、一八七二年の間、驚くべき飢饉が朝鮮をおそい、国土は荒廃した。あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝鮮人は、むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、“どこの道にも死体がころがっている”と訴えた。しかし、そんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食糧買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」
これは大院君政権時代のことです。そして閔妃は第一子を失ってその供養に国費を乱費するとともに、その原因を大院君に求めて憎悪を燃やし始めた時でもありました。国土に餓死者が累々と横たわっている時に、大院君と閔妃の権力闘争が開始されたのです。
李朝時代が慢性的に飢餓であれば約500年も、もたないのではないかという素朴な疑問を感じます。
北朝鮮は戦後数十年、特にここ十数年は酷い飢餓状況で、多数の餓死者が出ています。しかし体制はビクともしません。李朝時代も同じです。餓死者が累々と横たわっていても、それが原因で体制が変わることはありませんでした。李朝時代も北朝鮮も、農業生産性が非常に低くそして苛斂誅求の社会です。
支配者側の名前をつける性向
ちょっと昔の朝鮮史の本には、時どき面白い記述が出てきます。
蒙古の影響は‥‥数多くの高麗貴族が自分の名として、朝鮮名以外に蒙古式人名をつかった。そのあまりの熱心さに、さすがのフビライ汗も疑いを抱いたにちがいない。ともあれ、一二七八年かれは高麗王に、“なぜ、なんじは自国の習俗を捨てるのか”とたずねたという。
これが史実かどうか分かりませんが、朝鮮民族が支配者側の名前をつけようとする性向は、結構古くからあるということです。創氏改名の理由の一つに、朝鮮人側が日本名を求めたから、というのがありましたが、これに関連して考えると興味深いものです。
「三韓」は朝鮮でも使っていた
朝鮮半島の地名としての「三韓」は日本だけに用いられ、朝鮮では用いられなかったと論じたことがあります。
ところが「高麗史」に1122年の睿宗(高麗第16代国王)崩御の記事中に下記の記録がありました。
「遺詔して曰く、朕天地の景命を荷い、祖宗の遺基を奉じて、三韓を奄有すること十有八歳」
この「三韓」は高麗領土全域のことで、睿宗はその遺言のなかで「三韓」を18年間治めてきた、と言っています。ということは、朝鮮半島を「三韓」と称することは、朝鮮史上でもかなり古くからあったということです。日本だけで使われていたという言説は誤りでした。
ところで「三韓」とは、もともとは馬韓、弁韓、辰韓のことで、朝鮮半島南部地域です。これが後に高句麗、百済、新羅の三国を意味するようになり、朝鮮半島全体を指すことになります。この経過がよく分からないところです。
関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数
6000人というのは誰がカウントしたのでしょうか?
上海独立新聞社(1919年設立された大韓民国臨時政府の機関誌発行機関)が11月に日本で調査したとされるルポに「6661人」が出てきます。これが根拠のようです。ただし、臨時政府自体が世界から認められておらず取り締まり対象の組織ですし、日本へは極秘入国での調査で、震災から3ヶ月も経ってからの調査ですから、信用できるものではありません。
また当時、被災地域にはどれくらい朝鮮人が居たのでしょうか?
震災時の東京在住の朝鮮人は概数で9千人とされていますが、別資料では東京府で警察等に保護された朝鮮人は1万2千人とされています。要するに混乱していて、正確な数字は分かりません。
金達寿さんの父が渡日した理由
ちょっと古いですが、故金達寿さんの著書「わがアリランの歌」(中公新書昭和52年)に、彼の父親が渡日した事情が書かれてあります。なかなか興味深いものなので、紹介します。
「私は三、四歳のころ(金さんは旧暦1919年生まれ)‥‥父はそのころなにをしていたかというと、もっぱら馬山通いばかりしていた‥‥朝鮮里数では二十里、日本里数にすると二里の八キロさきにあった馬山は人口三万ほどの都会で、そこには妓生組合、すなわちその妓生たちとあそぶ妓楼があって、父はほとんどそこに入りびたりとなっていたのである。いわゆる遊蕩で、しかも父にはいつも四、五人の取巻きたちがついてまわっていたという。‥‥父は家にいることがあっても、私は父の働く姿を見たことがなかった。‥‥要するに父は、残った田畑をも一枚二枚と人手にわたしながら、遊蕩三昧だったのである。‥‥やがて父は、「青田買い」の日本人高利貸からも金を借りるようになった‥私が四、五歳のころはじめて見た日本人というのはその高利貸しで、彼は徳田なにがしというものだった‥‥彼が来て帰ると、私の家ではそのたびに大きな紛乱がおこったからである。祖母や母が泣き叫ぶなかを、軒下に積まれた籾俵が積み出されるだけではない。ときには何人かの黒い服を着た役人がやって来て、家の柱や、家財道具の箪笥にまで赤い紙をベタベタ貼っていったりした。いま考えると、それが郷里におけるわが家の終わりであった。‥‥いよいよ一家離散ということになったわけだ」
金達寿さんの父親は自ら身を持ち崩し、家族までも悲惨な目にあわせた結果、渡日せざるを得ないことになったわけです。決して日本の植民地政策の結果ではありません。
日本統治下朝鮮における教育論の矛盾
姜在彦さんは「近代における日本と朝鮮」第三版(すくらむ社1981)で、朝鮮総督府が施行した教育について次のように評価しています。
日本における“皇民化”教育の基本方針は、1911年8月の朝鮮教育令の公布に先だち、第一代朝鮮総督寺内正毅が同年7月、各道(日本の都道府県に相当)長官にあたえた訓示のなかに明示されている。つまり“今後朝鮮ノ教育ハ専ラ有用ノ知識ト穏健ナル徳性トヲ養成シ、帝国臣民タルヘキ資質品性ヲ具ヘシムルヲ以テ主眼”とする、日本の植民地支配に従順な奴隷教育である。
このように学校に行くことが「植民地支配に従順な奴隷教育」であるという評価をしています。ところが、彼はその直後に次のように論じています。
初等教育であれ中等教育であれ、朝鮮人子弟の就学率はきわめて低く、未就学児童の比率はきわめて高かった。例えば1936年現在の適齢児童の就学率は25%(男子40%、女子10%)にすぎない。いわば教育機会を制限する愚民化政策である。
ここでは学校に行かないことが「教育機会を制限する愚民化政策」であるという評価をしています。
日本統治下朝鮮における教育が前者のように「奴隷教育」であるならば、就学率の低さは喜ばしいはずです。しかし就学率の低さを後者のように「愚民化政策」とするならば、就学率を高くすべきであったとなるはずです。
いったい姜在彦さんは、当時の朝鮮人の子供たちは学校に行ってはならなかったと言っておられるのか、それとももっと多く行くべきであったと言っておられるのか。朝鮮史研究者には、このような矛盾した記述をすることがあります。
朝鮮名での設定創氏が可能な場合
創氏改名のうちの「創氏」には、日本風の名前を届け出る「設定創氏」と先祖伝来の朝鮮名をそのまま創氏する「法定創氏」との二種類があることは、周知のことと思います。それでは先祖伝来の朝鮮名でもって設定創氏が可能であったのかどうかです。このことについて、金英達さんは「創氏改名の研究」(未来社)の27頁において、次のように論じています。
実務上では「林、柳、南、桂等の姓を有する者が、林(はやし)、柳(やなぎ)、南(みなみ)、桂(かつら)等内地式の読み方を以て氏と為さんとする場合其の届出の要なきところ」という一九四〇年四月二二日付の法務局長通牒でうかがわれるように、戸主の姓をそのまま氏とする創氏届は必要ないとされており、戸籍窓口の実際においては、そうした創氏届は受理しなかったことが推測される。ということは、事実上、設定創氏は日本風の氏の設定に限定されていたのである。
ところがここで引用されている「一九四〇年四月二二日付の法務局長通牒」なるものが不正確でした。実際のところは次のようになります。
京城地方法院開城支庁判事から朝鮮総督府法務局長への照会昭和15年3月18日付け
六.林、柳、南、桂等ノ姓ヲ有スル者ガ林(ハヤシ)、柳(ヤナギ)、南(ミナミ)、桂(カツラ)等内地人式ノ読ミ方ヲ以テ氏ト為サントスル場合其ノ届出ノ要ナキトコロ強テ届出ヲ為ス場合ハ受理スルノ外ナキヤ
これに対して法務局長は同年4月22日付けでこれに対して
貴見之通
と回答しています。以上のやり取りを関係部署に周知させたのが「一九四〇年四月二二日付の法務局長通牒」です。(出典は朝鮮総督府法務局編纂「昭和十八年新訂朝鮮戸籍及寄留例規」)
つまり林、柳、南、桂といった朝鮮名は、そのまま設定創氏として届けられても受理することとされたのです。
ところが金英達さんの著作では、引用した資料の後にあった「強テ届出ヲ為ス場合ハ受理スルノ外ナキヤ」という質問と、それに対する「貴見之通」と回答の部分が抜け落ちています。このために「設定創氏は日本風の氏の設定に限定されていたのである」という結論となってしまいました。ここは彼の明白な間違いです。彼は緻密な考証家なのですが、こういうところに陥穽がありました。彼のような方でも鵜呑みにしてはならない、という教訓を得ました。
水平社と衡平社
「衡平社」は朝鮮の被差別民が政治犯から生まれたという考えを持っているため、日本の「水平社」とは交流がないという。
金永大「朝鮮の被差別民衆」に、翻訳者らによる補遺「<資料>衡平社と水平社の連帯に関する新聞報道」があります。水平社と衡平社とは、かなり交流があったようです。
白丁は存在し、現在でも残る日本時代の戸籍には職業が記載されていたといい、食肉業に携わる人は「屠漢」などとの記載もあったようで、今でも役所によっては残っているとされる。したがって、調べればわかるようだ。
これは疑問です。甲午改革後の建陽元年(1896)、「戸口調査規則」「戸口調査細則」が布告され、戸籍が調えられました。その戸籍には確かに「職業」欄があります。私の見た例では「幼学」とあります。ここでいう「職業」とは身分のことで、現代で使う職業とは違います。次の隆熙3年(1909)の「民籍法」における戸籍には、「職業」欄はありません。日本統治時代の大正11年(1922)の「朝鮮戸籍令」の戸籍にも、「職業」欄はありません。
水平社と衡平社とは交流があったというか、水平社が活動家を派遣してオルグして、衡平社の結成を後押ししたのではと思います。
水平社運動の歴史は、かなり詳しく調べられています。果たして水平社の後押しで衡平社が結成されたのかどうか。もしあったなら、朝鮮に派遣された水平社の人物の具体名が明らかになっているはずですが、出てきません。衡平社結成後の交流なら、名前が判明します。
東郷茂徳が名前を変えた理由
東郷茂徳は太平洋戦争の開始時と終戦時の外務大臣で、戦後東京裁判でA級戦犯として懲役20年の判決を受け、その2年後に病死しました。後に靖国神社に祀られて今にいたっています。
この東郷が明治15年に生まれた時は「朴茂徳」という名前で、5歳の時の明治19年に「東郷茂徳」となったことは有名です。名前から分かりますように、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津藩に拉致された朝鮮人陶工集団の子孫です。
なぜ名前を変えたかについて、日本社会からの厳しい差別のまなざしを避けるために、他家への入籍・分籍という戸籍操作によって日本式の名前に変えざるを得なかった、という説が流布しています。この通説については、明治19年ごろに既に朝鮮人差別があったということになり、ちょっと不思議と思いながらも、そんなものだろうとも思ってもいました。
ところが萩原延寿「東郷茂徳伝記と解説」を読みますと、名前を変えたのはそのような理由ではないことが記されており、成る程と納得しました。
東郷の故郷の苗代川は、上述の歴史的経緯をもった陶工人の村で、ほとんどが朝鮮姓でした。彼らは気位が高く、薩摩藩では士族と同等の扱いを受けていたと考えていました。ところが、明治5年の壬申戸籍作成の際に、彼らは平民身分とされてしまいました。これに対して「士族編入之願」を繰り返し願い出ましたが、すべて却下されました。何とか士族になろうとして、没落士族から「士族株」を購入して戸籍を変え、「士族」身分と記載されるようになった、という経緯でした。
西南戦争後の鹿児島は貧窮士族が多く、士族株の売買が可能だったのです。「朴」家は明治19年に「東郷」家と名前を変えました。それは民族差別ではなく、江戸時代から続く身分差別に起因するものであったということです。
通説は疑ってかかるべし、という教訓を改めて得ました。
謝罪することが日韓友好?
熊本の教員団体、明成皇后の墓で「謝罪」7月31日16時15分配信YONHAPNEWS【南楊州31日聯合】熊本県の現職教師と元教師が中心となり結成された「明成皇后を考える会」の会員らが31日、明成皇后の陵墓がある京畿道南楊州市の洪陵を訪れ、明成皇后殺害事件に対する反省の意を伝えた。明成皇后は朝鮮王朝末期の国王高宗の妃で、1895年に日本人に暗殺された。考える会は、正しい歴史教育で韓日の友好増進に寄与することを目的に設立され、同日は会員13人が陵墓を参拝した。熊本県河内小学校の山野幸司教諭は、「先祖らが政治的目的と誤った考えで殺害事件を起こした。教師として正直に歴史を教えなければならないとの考えから洪陵を訪れた」と目的を説明した。明成皇后史跡訪問団の岡崎和三団長は、「日本では8社の教科書のうち明成皇后殺害事件を扱ったものは1社だけで、それすらも正確でない内容となっている。日本人の謝罪は受け入れられないだろうが、最後まで許しを願い、真の韓日友好関係が築かれることを願う」と話している。
朝鮮史をどう感じようがそれは個々人の自由ですが、こんなことまでするのか?と思える事態です。このような人たちを何て呼べばいいのでしょうか?そのうちに豊臣秀吉の朝鮮出兵や倭寇なんかも「謝罪」しそうです。さらには、もっと遡って神功皇后の「三韓征伐」も謝罪することでしょう。
総督府は「国家」
ちょっと時間が経っていますが、2007年8月29日付けの韓国の新聞(朝鮮日報)に、視覚障害者団体の意見広告が掲載されました。
政府はもっと無資格按摩行為を防止せよ!>>視覚障害者の生存権である按摩業を保障せよ!
などのスローガンに続く解説のなかに、次のような一文があります。原文を忠実に訳します。
按摩業は視覚障害者の経済的自立のために、国家が1912年から視覚障害者に専門職種として教育させてきた生業次元の権利であります。
1912年と言えば、日韓併合後間もない時期です。それまでの視覚障害者がどのように生きていたのか資料が見当たりませんが、朝鮮総督府は彼らを自立させようと日本風の制度を導入したようです。そしてこれが現在の韓国に連綿と受け継がれてきたということのようです。
ここで注目すべきことは、韓国の今の障害者団体がこの当時の総督府を「国家」と表現していることです。この意見広告を見る限り、彼らには総督府という「国家」と現在の韓国という「国家」とは繋がっています。つまり総督府施政(=植民地体制)を肯定していることになります。
韓国人の歴史認識・国家意識を考える上で、ちょっと興味深く読みました。
土地調査事業
日韓併合直後の1912年からはじまり、1918年に終了した朝鮮の土地調査事業について、拙論で
「調査事業は私有財産制の確立であって、「土地収奪」ではない。そして韓国の現在の土地所有制度は、この調査事業による新たな制度を継承し発展させた結果であることを強調せねばならない。「土地収奪」は間違いである。」と論じました。2007年11月26日付けの韓国の報道で、これを裏付けるものがありましたので紹介します。
11月26日17時25分配信YONHAPNEWS【ソウル26日聯合】韓国沿海にありながらこれまで地籍公簿(土地台帳・地籍図)に掲載されていなかった島が1419件に上ることがわかった。行政自治部が26日、こうした衛星写真と地籍図などによる調査結果を明らかにした。韓国の地籍公簿は1910年代に日本により作成されたもので、当時の低い測量技術と苦しい経済事情のため、人が住むには適さない島や規模が小さく経済的価値がない島は公簿に登録されていなかった。行政自治部は2010年までにこれらの島を調査し、地籍公簿に登録する事業を進めていく考えだ。
ここでは現在の韓国の土地所有の基礎となる「地籍公簿」の起源が、1910年代に朝鮮総督府で進められた土地調査事業であることを示しています。つまり土地調査事業は近代的所有制度の確立であって、だからこそ今日の韓国の土地所有制度に繋がっているのです。上記で紹介した韓国の報道は、日帝の遺産が今の韓国の基礎となっていることを意味します。
「朝鮮植民地支配はなかった」発言
下関市の教育長が、朝鮮学校の補助金増額陳情に対し、「植民地支配は歴史事実でない」と発言したことが話題になっています。
報道によれば、教育長の発言は、次の通りです。
「植民地ではなく、日朝併合だったという認識を持っている。助成要望の場で、過去の話を持ち出すこと自体筋違い」
「助成金の話で(学園側が)歴史経緯を持ち出すのは筋違いで、それを否定する中で発言した。私の歴史認識とは別の話だ」「日朝併合と植民地支配は異なる」
「植民地支配という部分は歴史的事実に反するので受け入れられない」
「いまの話で植民地支配と言うことに部分については歴史的事実に反しますので、それは私の方からそういう形では受け入れられない。植民地支配だということを前提に、そういう日朝併合の部分をいかにいうかは自由です。それを植民地支配だったと事実関係を変えて語ったんでは全然、事実関係は進まない。そこの部分は日朝交渉でちゃんとやっていただければいい話。そこの部分がどうだったか、皆さん方の教育に対してどのような影響があるのかは議員連盟の方でちゃんと話をしてほしい。」
「併合は植民地だという意識はない。(併合は)対等だ」
「私は26日の(助成の)要望において相手から筋違いのお話が突然出されたため、その話に立ち入ることを否定する発言を行った旨を説明したものです。私は当然のことながら下関市の教育行政を行うにあたり、政府の見解を尊重するものです。」
以上ですが、これは「そもそも植民地とは何か?」というところで、見解の相違があるようです。
教育長の見解は、日本の朝鮮統治は植民地支配という一方的収奪ではない、という意味のようです。朝鮮総督府の日本人官吏たちは、わが朝鮮では欧米がアジア・アフリカ等で行なったような植民地支配をしていない、という考えで行政を担っていました。教育長はこの見解を継承しているようです。
一方、これに批判的な人たちは、日本の朝鮮統治を、植民地=一方的収奪という意味でとらえているようです。
そのような見解の相違よりも、過去の歴史を持ち出してお金を要求する姿勢が果たしていかがなものか、という考えを持ちます。教育長の「助成要望の場で、過去の話を持ち出すこと自体筋違い」という発言は、その通りと思います。
大韓民国臨時政府樹立は、日韓併合合法が前提だった
1910年の日韓併合は不法であったとする主張が、韓国では強く打ち出されています。
当時は大韓帝国の時代であり、主権は皇帝(純宗)にありました。併合条約では第一条に、
「第一条韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」
とあります。従って、日韓併合条約が不法であるとする主張からすると、韓国皇帝は日本の天皇に統治権を譲与していないことになりますので、大韓帝国、つまり韓国皇帝が主権を有する国家体制は存続していなければなりません。
ところが現在の韓国の原点というべき「大韓民国臨時政府(上海臨時政府)」(1919)では、併合後10年も経っていないにも拘わらず、君主制を否定し、共和制となっています。
この経過について、韓国の研究者は次のように論じています。
「独立運動過程で、自然と国家の主権について議論がされてきた。結論は共和主義であった。1917年(ママ)、上海の独立運動家たちは全民族が大同団結して臨時政府を樹立することを提案した‘大同団結宣言’がそれである。これは大韓帝国の滅亡について君主である隆熙皇帝が主権を放棄したものと見て、君主が放棄した主権は国民が継承せねばならないとした。」(韓シウン・檀国大学歴史学科教授「朝鮮日報」2009年3月18日付)
つまり大韓民国臨時政府は、大韓帝国の滅亡(=日韓併合条約)によって韓国皇帝は自ら主権を放棄したから、国民が主権を継承した。だから共和制だ、という主張です。
すなわち、大韓民国臨時政府樹立の前提は、大韓帝国の否定、つまりは日韓併合条約が有効だということになります。
併合条約以前の大韓帝国と、その後の臨時政府や現在の韓国とは全く断絶していることは、彼ら自身が認めていますが、その前提は日韓併合条約が合法・有効であったことになります。
金達寿の「族譜」
金達寿はもうお亡くなりになりましたが、古くからの有名な在日作家です。
彼は戦前から作家活動をしているのですが、この初期の時(1941年11月)に「族譜」という小説を発表しています。彼の自伝である「わがアリランの歌」(中公新書昭和52年6月)には、次のような記述があります。
「ちょうど十年振りに見る故郷、父やそれから馬山の叔母のもとで亡くなった祖母の墳墓などがあるその故郷も故郷で、このことはのち「族譜」という作品に書かれることになるが‥‥」
このように彼自身も、この小説を書いたことを認めています。ところがこれが彼の作品集には入っていないし、彼の略歴などにもなかなか出てきません。ちょっと気になっていたのですが、どのようにしたら入手できるのか分からなかったので、そのままにして置いたものでした。
このほど、これが国会図書館に収蔵され、インターネットを通じて入手できることが分かり、さっそく手続きして送ってもらいました。さすがインターネットですね。わざわざ東京に行かなくても入手できるなんて、これだけでも、もうビックリ。
読んでみて、なるほど彼自身が隠したくなるような作品だったんだなあ、と妙に納得しました。
族譜にこだわり、両班を自慢して、周囲の百姓たちを侮蔑する老人(叔父)を描いています。またその時に施行された創氏改名については、何等批判することなく、淡々と描いています。それに作品の内容以前に、作者名を「大澤達男」と、日本名のペンネームを使っているのです。
この小説自体の出来不出来の評価は私には手に余りますが、当時の朝鮮人たちが、創氏改名や族譜について、さらには日本の統治下にあったことについて、どのうような感覚をもっていたのか、を考えるのに、なかなか興味深いものと感じました。
戦後、朝連・総連などで左翼活動した彼には、戦前のこの小説はちょっとした傷になっていたのかも知れません。
韓国は大韓帝国を承継したか
これに対して、韓国は1965年の日韓条約で1910年の併合条約などを無効としたこと(第2条)から、1910年当時の朝鮮半島全域を支配していた大韓帝國がそのまま存続し、それを韓国政府が承継したこと、
このなかの「(大韓帝国)を韓国政府が承継した」という部分が疑問です。現在の大韓民国は、憲法前文において1919年に上海で樹立された「大韓民国臨時政府」という亡命政権を受け継いだとされています。またどちらも王制を否定していますので、大韓帝国とは断絶しているはずです。そうでないならば、韓国はかつての帝国をどのように承継したのでしょうか。資料が浅学ゆえに見当たりませんでした。
法理的にいえば、この主張は十分に成り立ち得るところです。>つまり、日韓基本関係条約第2条で日韓併合条約などを無効としております。>無効とは当初から法律効果が発生しないことになります。>したがって、日韓併合は成り立ち得なかった=なかったことになります。
基本条約原文には「無効」の前に「もはや(already)」という一語が入ります。これを韓国側は、併合条約当初から無効と考え、日本側は併合条約は有効だが今は意味のないものとなり無効である、ということで解釈の違いを残したまま妥協されたものです。
併合条約が無効ということは、当時の大韓帝國が存続していたことになります。>韓国がこれを承継したと主張するのは、成り立ち得る考えです。
日本側から見ると、韓国はきっとこう考えているだろうと推測されるでしょう。ところが拙稿のように、韓国は憲法で大韓民国臨時政府を継承した、という主張をしています。今の盧大統領もそのような演説を行なったと思います。私が欲しかった資料は、韓国側に、我が国はかつての大韓帝国を承継したという具体的な根拠となるものがあるかどうかです。なお現在の韓国の法律は、朝鮮総督府の制定した制令等の法律を継承しており、断絶していません。つまり韓国は建前では併合条約は無効としながら、実務では有効を前提に機能させてきました。
むしろ、あなたがご指摘のような<1919年に上海で樹立された「大韓民国臨時政府」という亡命政権を受け継いだとされている>という考えは、日韓併合から大韓民国臨時政府の樹立までの間の韓国の状態は何だったのかという疑問が生じます。>まさか、日韓併合を認めたわけではないと考えますから、この空白期間の説明がつかないと思います。>大韓民国臨時政府が大韓帝國を承継し、その後、王制を否定したのでしょうか。大韓民国臨時政府が大韓帝國を承継したのでしょうか?御教示ください。
ご指摘の通り、韓国は矛盾した歴史観を持っていると思います。しかし矛盾はこちらが思うところであって、彼らはそれなりに一貫性を主張しているはずです。ところが彼らはどのようにそれを主張しているのかが分からないというか、それを書いたものが見当たらないのです。
大韓民国臨時政府が大韓帝國を承継したとしても、また王制を否定したとしても、臨時政府がそれをなし得たかという疑問があります。>つまり、臨時政府の権限と実態に疑問があるということです。
臨時政府はこちら側から見ると、弾圧を逃れた三一運動の活動家たちが上海に集まって立ち上げたものです。李王族は入っておらず、王制を否定し、また朝鮮人民の意思を確認する形式をとっていませんので、正当性に欠けます。激しい内部抗争に明け暮れ、日本に対しテロを繰り返すものでした。
韓国側にはそれなりの理屈があり、総督府ではなく臨時政府を承継したと主張しているようです。しかし上述のように、これは単に建前・口先だけで、実際の法実務では総督府を継承しております。
(大韓民国臨時政府略史)
上海の臨時政府の歴史について、古田博司さんが次のように簡潔にまとめられています。
「この臨時政府の初代大統領は李承晩、副大統領は李東輝であった。李東輝は朝鮮共産主義運動の父というべき人物であるが、反共が国是である韓国ではこの事実はふつう伏せられている。臨時政府では、民族主義者たちと共産主義者たちの内紛がつづき、李承晩でさえ二年後には追放されてアメリカに渡った。その後、臨時政府は中国国民党の指導下に入ったが、当時の中国政府の勧める金元奉を主導者とする朝鮮民族革命党との合同に失敗し、国際的な承認を得ることができず、テロリズム以外で日本と戦うことはなかった。そして国民党政府の強い圧力によってかろうじて維持されてきた臨時政府は、日本の降伏後急速に統率力を失い、事実上外地で崩壊したのであった。以上の事実は建国神話の形成により被覆され、韓国では教科書などで彼らが日本と軍事的に戦い、反日の伝統を培ったことになっている。」
韓国の「建国神話」は、北朝鮮の金日成建国神話とレベルが近いようです。
韓国での日韓条約関連文書公開について
韓国側で非公開であったとしても日本で公開されていたのですから、韓国人は日本側からいくらでも協定文書の内容を入手できたはずです。それなのに、韓国側ではこの内容を初めて知ったような驚きで迎えられています。これはいったいどうしてなのでしょうか?
日本も韓国も議会が機能しており、国内に反対派が存在しています。日本で公開されて、韓国で公開されていないことはあり得ません。
日本側が韓国に対して条約の関連文書を公開しないように要請していたと報道されています。それは日朝交渉に悪影響を及ぼすことがその理由とされています。この報道されていることは事実と考えてよろしいでしょうか?
事実を否定するものは、今のところありません。
韓国に請求権がないことを明らかにした方が日本には有利に思えます
韓国に請求権がないことは、公開されている「請求権および経済協力協定」に明記されています。
でもこの基本条約の内容自体知らない人が多かったと思いますが日本政府としては国民に積極的にアピールしてこなかったのでしょうか?
公開されている条約の内容は、法治国家ですので簡単に入手できます。政府がわざわざアピールすることもないでしょう。
そもそも日本政府がこの外交文書の公開をためらったのは何故だとお思いですか?
当時において日韓双方が非公開と決めたものです。日本政府はたとえ不利となろうとも、その約束を守ってきたと言えます。その姿勢は評価すべきでしょう。
日本の白米至上主義
私は「白米至上主義」、他では「米食至上主義」「コメ中心主義」とも言うようです。この考え方の歴史をちょっと調べてみましたが、まとまった論文はなさそうです。私なりに調べたことでは次のようです。
江戸時代は、武士階級および江戸や大坂などの都市生活者の多くがコメを常食としていた。農村では麦や雑穀も重要な食材で、コメだけを常食とする農民はほとんどいなかった。
この傾向は明治になっても変わらなかった。都市生活者は食料を購入するが、主食のほとんどがコメで、雑穀はなかった。軍隊ではそれが徹底された。コメは活力の源泉とされて、白米ばかりの食事となり、麦飯などは食べることがなかった。
この白米至上主義が大きな弊害となって現れた。脚気である。脚気はビタミン不足からくる病気で、白米にはビタミンがほとんど含まれず、麦に多く含まれる。大日本帝国陸軍では脚気患者が大量発生した。しかし陸軍軍医総監の森鴎外は白米至上主義を貫き、特に日露戦争で多大な被害をもたらした。
鴎外没後、陸軍ではやっと麦飯が導入され、脚気が少なくなる。しかし都市生活者の米食至上主義は続く。そのため、コメが食べられないとは即ち生活困窮であるとする思想が広まっていった。
このときに起きたのがコメ買占めが原因の「米騒動」である。都市生活者が麦飯や雑穀を食べていたら、このような騒動はなかったであろう。かつて池田首相が「貧乏人は麦飯を食え」と発言して、大きな問題となった。その背景には、都市では白米、農村では麦飯・雑穀飯を食べていた社会状況があったのである。池田首相自身がそれを体験していた。
コメは日本の食料政策の基軸となる。これは戦後も続く。そして農民もコメ生産に最もエネルギーを注いできた。そのため今度はコメ過剰が大きな問題となり、現在に至っている。一般農民も戦後になるとコメを常食とするようになった。
このような歴史でした。白米至上主義は近世・近代に発生し、現代に定着した日本独自の考え方と思われます。朝鮮では日本とは食文化が違い、白米至上主義の考え方がありませんでした。この考えを朝鮮史に持ち込んで、「植民地時代にコメを食べられなかった朝鮮人の恨み」を説く歴史観の誤りは明らかでしょう。
朝鮮の雑穀食
元来朝鮮民族の食文化には、雑穀が重要な地位を占めていました。落合雪野「朝鮮半島における雑穀の民族植物誌」(新幹社「「もの」から見た朝鮮民俗文化」2003所収)という論考では、次のように論じています。
「これに対し韓国では現在でも雑穀が畑作物のひとつとして広く栽培され、アワを中心に多くの地方品種が活用されている。同時に雑穀は日常生活にごく普通に利用される身近な食材である。‥‥日常食にも行事食にも取り入れられてきた雑穀が、朝鮮半島の食文化に欠かせない穀類になっている点も考えなければならない。朝鮮半島における食文化の特徴のひとつに食材の多様性がある。‥‥アワ、キビ、モロコシ、ハトムギ、ヒエについてそれぞれが特徴を持った穀類として認識され、その持ち味が尊重されてきた‥‥雑穀という言葉から、価値の低い穀類といったネガティブなイメージをもつ人もいるだろう。だが、朝鮮半島ではその本来の意味のとおり多様な穀類としての雑穀がいまも生きているのである。」
朝鮮の場合、米だけでなく雑穀も重要な食料であったということです。従って米だけを取り上げて、「日本が米を収奪した。朝鮮人は雑穀ばかり食べさせられた」などと歴史を語るのはナンセンスなのです。
朝鮮人の暴食
ヨーロッパ人による李朝時代の記録に、朝鮮人の暴食の性向が報告されています。シャルル・ダレ「朝鮮事情」では、次のように書かれています。
「朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持ちも、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。朝鮮人は、常に食べる準備をしている。機会があれば手あたり次第に食うが、それで十分だとは決して言わない。‥‥いつもの食事時がくれば、さながら二日も前から飢えていたような食欲で食膳につく。‥‥労働者一人の一回の食事量は、ふつう米約一リットルで、炊けば大きな丼にたっぷり一杯はある。しかし、それだけでは彼らの腹を満たすのに十分ではなく、多くのものは、可能でさえあれば、三,四人分の食事を平らげてしまう。九人分や十人分の食事を食べても何ともないと言っている人さえいる。‥‥果物が出されるとき、例えば桃や瓜の場合、もっとも控えめな人でさえも、皮もむかないでまたたくまに二十個や二十五個は食べてしまう。もちろん、この国の人びとが、いま述べた分量を食べているというのではない。すべての人が、いつもそれを食べる準備をととのえており、そんな機会に実際にぶつかれば、食べてしまうのだろうが、しかし彼らは、そんな機会にありつくには、あまりにも貧しすぎる。‥」
イサベラ・バードの「朝鮮奥地紀行1」では、次のように書かれています。
「私は中台里で、また多くの場所で、朝鮮人の極度の大食を指摘する機会を得た。朝鮮人は空腹感を満たすためにではなく、満腹感を享受するために食べる。‥‥大食に関しては、全ての階級が同じである。食事の大きな値打ちは、質ではなく量にある。幼い頃からの朝鮮人の人生の目的の一つが、胃袋に可能な限り多くの収容力と弾力性を持たせる事にあるのである。だから、一日四ポンド(1.8s)もの米で、不快な思いを感じないのかも知れない。安楽な環境にいる人は食事のあいまに酒を呑み、大変な量の果物、木の実、そして菓子を食べる。それにも拘わらず、あたかも一週間も飢えに苦しんでいたかのように、今にも次の食べ物に掴みかかろうとしている。‥‥私は朝鮮人が食べごたえのある肉を、一食に三ポンド(1.36s)以上食べるのを見たことがある。“一人前”にしては多い量を、朝鮮人が三人前、四人前さえも食べるのを見るのは、珍しいことではない。」
このような朝鮮人の暴食の性向は、百年前の李朝時代だけでなく、現在の北朝鮮からの脱北者にもそれがあります。彼らの脱北時の生活を記した本の中に、しばしば出てくるのです。例えば、最近の韓景旭「ある北朝鮮兵士の告白」(新潮新書)に次のような記述がありました。
「中国に来たばかりのとき、彼が茹で卵を一度に六十個も食べたことがあると、台所に立っていた奥さんが恥ずかしそうに言った。」
北朝鮮は李朝時代の再来なのでしょうか。それにしても、この暴食は一体何なのでしょうか。野生動物は常に飢餓状況にありますから、目の前に食料があるとすぐさま腹いっぱいに食べる、いわゆる食い溜めをするものなのですが、これに似ているように思えます。  
北朝鮮
北朝鮮の火葬
拉致被害者曽我ひとみさんの夫で元米兵のジェンキンスさんが最近出した「告白」に次のような記述がある。
「1997年1月、ついにドナは亡くなった。北朝鮮の土に埋葬されたくないというドナの望みどおり、ドレスノクは遺体を火葬した。」
北朝鮮における火葬について関心があるのだが、残念ながらどのような火葬なのかが書かれていない。
北朝鮮では火葬が奨励されていると言う人がいるが、本当にそうなのか。在日の親族訪問の記録がいくつかあるが、そこでは北で亡くなった親族はすべて埋葬であり、火葬はない。
北当局が火葬したと言うのは、拉致被害者では横田めぐみさんと松木薫さんだけである(ただしこの両人であることは捏造なのであるが、誰かが火葬された事実は動かない)。そして今回のジェンキンスさんの記述に火葬がある。管見では北の火葬例は、この3件だけである。他に例をご存知の方はご教示願いたい。
北が言うのが正しいとして、一体どのように火葬されているのか。野焼きなのか、炉を構築しているのか。燃料は薪なのか石油なのかガスなのか。拾骨はどのようにしているのか。
めぐみさんは埋葬後に掘り返して火葬したと言い、松木さんは二度火葬したと言う。日本ではあり得ない火葬であるが、このような風習が北にあるのか。
1200℃で焼いたとされるが、この温度は陶磁器を焼く窯の温度に近い。(ちなみに日本では7〜800℃である)こんな高温で焼くというのは、かなりの燃料代がかかる。エネルギー事情の厳しい北で、このようなことがあり得るのだろうか。やはりDNA鑑定できない温度だと主張するために、1200℃という数字を持ち出してきたのではないか、という疑念を持つ。
北朝鮮の火葬状況
拙稿で北朝鮮の火葬について関心があるとしました。これは私自身が諸民族の民俗事象に興味がありますので、その一つとしての関心です。
ところで、横田めぐみさんを荼毘に付したとする火葬場について、疑惑が生じています。「オボンサン火葬場」は1999年に建設されたのか、それとも1997年にすでに存在していたのかです。それ以前に、日本の記者団に見せたこの火葬場が、本当に火葬施設なのかどうかも疑わなくてはならないでしょう。
北朝鮮側の説明で気になることは、火葬の記録は「1995年」から、横田めぐみさんを火葬したのは「1997年春」としている点です。
よど号事件の首謀者である田宮高麿は「1995年12月」に死亡し、すぐさま火葬した、と発表されています。曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんによれば、同じく脱走米兵であったドレスノクの妻ドナが「1997年1月」に死亡した際、本人の希望により火葬した、とあります。
この「1995年」と「1997年」の一致が気になります。北朝鮮は、それなりに整合性を持たせようと年を一致させたのではないか、という疑問を抱きます。北朝鮮の火葬状況について、余りにも情報が少なく、もどかしいものです。
北朝鮮が崩壊しないわけ
1994年に金日成が急逝してから、北朝鮮崩壊論が広く説かれてきました。アメリカでは90年代はこれを前提に対北朝鮮政策を行なってきたと思われます。しかし現実には崩壊せずに今に至っています。これは何故かということについて、拙論では古代国家であるからと論じました。
ところで一方の北側の立場に立つ人はどう考えているのかに関心があります。かつて朝鮮総連関係者と思われる人の投稿があって、この拙論のうち最後の「北には文化がない」という点について反発されましたが、それまでの古代国家論には成程として、崩壊しないという結論に賛成しておられたからです。
総連関係の本には長いこと接していなかったのですが、最近「北朝鮮「先軍政治」の真実」(朴鳳暄・泰相元著光人社2005年3月)を購読しました。要旨は次のようです。
この国(北朝鮮)が米国とその同盟諸国が仕掛けた孤立圧殺の包囲網の中で窒息もせず、胸を張って前進しているのには‥北朝鮮の指導者である金正日国防委員長の存在と、彼の指導者としての手腕と能力、そして指導者と国民の一心団結―ここに謎を解くカギを見いだすことができる。‥軍事重視に基づい「先軍政治」という新たな政治方式を編み出して国民を導いている点だ‥「先軍」とは、軍事先行、軍事力の強化を拠りどころとする政治をいう。‥今日の北朝鮮を知ろうとするならば先軍を理解せねばならず、先軍を理解しようとするならば、金正日国防委員長を知らなくてはならない。
ここでは北が崩壊しない理由として、先軍政治と金正日の存在との二つが挙げられ、それを詳しく論じています。「詳しく」といいましても、事実かどうか疑問というか、検証の出来ない「事実」が多いものです。しかし著者の肩書きに「朝鮮民主主義人民共和国歴史学博士」とあるので苦笑させられます。しかし北がなぜ崩壊しないのかについて、考えさせられるものです。
金正日が健在である限り北も健在であるという拙論に訂正の必要はないでしょう。逆に健在でない時が国家の危機ということになります。個人の肉体的精神的健康状態が国家を左右するというお国柄なのです。拙論は8年も前の論考ですが、内容は今も通じるというか、有効と考えています。
北朝鮮の百トン貨車
最近出た「将軍様の鉄道」が評判になっているようです。内部事情がほとんど分からない北朝鮮で、かなりの映像・資料を集めており、なかなか興味深いものです。
ところで北では故金日成が1987年に、次のような「教示」を行なっています。
八軸電気機関車を二台使って一台は前から引き、もう一台は中間で引くようにすれば100トン重量貨車50両を引くことができるでしょう。陽徳峠のような高い峠を越える時には力が足りないかもしれませんが、その場合には最後部に電気機関車をもう一台つけて押してやれば良いでしょう。‥八軸電気機関車と100トン重量貨車を導入すれば60トン貨車で貨物を運ぶときより輸送量をはるかに増やすことができます。100トン重量貨車50両で一本の列車を編成すれば一度に貨物を5000トン運ぶことができますが、これは大変なことです。今一本の列車が貨物を一度に1200トン運んでいますが、100トン重量貨車で編成された一本の列車が貨物を5000トン運べばそれは今より貨物を4倍以上運ぶことができます。今後物流がさらに増えれば一度に100トン重量貨車を70両も引かせることができます。‥100トン重量貨車を平壌〜清津間の鉄道に導入し、それが重量貨物を載せて陽徳峠を越えて運転されなければなりません。
八軸電気機関車は「将軍様の鉄道」では1987年製造とされる「赤旗6」型と思われます。残念ながら写真はなく、絵画です。また「100トン重量貨車」はこの本には見当たりません。
日本の貨車は、積載重量30トンか40トンぐらいでしょう。貨車の重量を合わせても50トンぐらいですから、積載重量100トンの貨車がどれほど大きさか、想像できます。
金日成の教示どおり運転されているのなら、100トン貨車50両、機関車3両の編成はかなり見ごたえのあるものですが、やはり運転されていないようです。  
 
アジアと日本・諸説

文明の衝突を生きる
グローバリズムへの警鐘
これは14歳で家出して出家し、以後20年間禅宗寺院での僧坊生活を送ながら、その後一転して名門(ボストンの)ハーバード大学(神学部)大学院で修士課程を修了、フィラデルフィアのペンシルバニア大学東洋学部で博士号を取得した後、プリンストン大学で助教授として教鞭を取るという「破天荒」な半生を送ってきた著者の自叙伝であり、記述の各所に鏤(ちりば)められた、(仏教を中心とした)日本宗教のもとでの社会構造の生んだ明暗と、その対極(良くも悪くも)キリスト教文明の最先端にある米社会の抱えた明暗について、またそれぞれの社会の中で、錯綜し、混迷し、しかも乱高下を繰り返している精神のゆらぎについての、示唆と含蓄に富んだ比較文明論でもある。
プリンストン大学では、学生にとって人気講座となりながら、大学(と言うより)アメリカ教育界の有り様とのギャップなどからも窺い知れるアメリカの限界が契機なのか、同著を書いた2000年には、一転シンガポール大学の日本研究科準教授、その後東京外国語大学教授(01〜06)を経て、現在は広島大学大学院総合科学研究科教授、週末は福山市郊外の「ミロクの里」に小庵を構え、非僧非俗の暮らしを送っている。
我々は本著によって、葬式仏教に堕した日本仏教界の中に残された、唯一高潔な戒律を守る宗派と思ってきた禅宗すら、世襲や妻帯など世塵にまみれており、しかも修行の場ですら妬みやいじめの存在するミニ社会であったことを知ることになるのだが、そうした現実が著者をアメリカという未知の世界に誘(いざな)った原動力の一つであった。
著者のアメリカでの生き様を読み取れば、生半可な体力や神経では到底耐えられないほど厳しいものであって、当初語学のハンディに加え、日本における論理的手法を欠如した宗教学と、多方面から知的アプローチ・分析・比較を厳密に行うアメリカの宗教学との間に横たわる、決して埋められぬことのない乖離にチャレンジしながら、自らの宗教観を確立していく著者の行動力・知識欲に圧倒されるばかりである。
一方そうした著者に寄り添い、二回の難産にも耐え抜いた、決して頑強とは言えない夫人の生命力の凄さに、むしろ戦慄すら覚えるほどだ。
著者は自叙伝的記述の中に、日米の比較文化論をさりげなく織り込んでいくのだが、ある面では日本の状況を擁護し、また批判しながら、同じスタンスで平等にアメリカの問題を指摘している。
たとえば著者は、(文明の)「アフリカ的段階」から「アメリカ的段階」という表現をしているように、アメリカ文明が決して文明の終着点ではないことを強調し、息の詰まる日常生活のカタルシスの一例だとして、アメリカのドラマに見られるカーチェースと銃乱射のシ−ンの多さを挙げる。現在注目を集める複雑系」あるいは「カオス理論」なども、こうした文明社会を背景に生まれたとも謂えるのではないか。
もっともこれは、戦後60年以上平和国家として生きてきた日本に於ける、殺戮をテーマとしたテレビゲームの普及にも言えることだが、その辺り3D技術の進化が可能にした、グローバルなヴァーチャル・リアリティの恐ろしさを痛感させられる。
著者はまたアメリカが口にするグローバリズムの欺瞞性を、大航海時代世界に進出していったキリスト教宣教師たちの愚行とオーヴァーラップさせながら痛烈に批判するのだが、その背景にある、善か悪・黒か白、右か左という二元論によって、世界の平和や安寧がもたらされると思うのは幻想に過ぎないことは、中東の有り様を見れば明白である。なにしろその裏にはしっかり「商業主義」が根を張っているのだから。
著者は謂う。
本当のグローバリズムとは、「徳島人は阿波踊り、花巻人が鹿踊り、アイヌは鶴の舞を踊ることが(明恵の謂う)「あるべきようは」の世界なのである。徳島人も、花巻人も、アイヌも、アメリカ風のディスコ・ダンスしか踊れなくなれば、「一切悪しきなり」と言ってもよいだろう。
また西田幾多郎の言葉を借りて語れば、として、
「アメリカ的段階」は、主体的で、意識集中的な生き方が尊重され、自我が前面に打ち出された「主語的世界」であり、それとは対照的に何事につけ曖昧な日本人は、「場所的」で、下意識的かつ拡散的な「述語的世界」に生きているといえよう。
この指摘は奇しくも先月、同欄で紹介した、モントリオール大学金谷武弘教授の、「日本語には主語は不要」という説と見事に重なり合うことに、偶然以上のなにかを感じてしまうのだ。
サミエル・ハンチントン「文明の衝突」は、日本文明を独立したものと認めながらも、「日本語版への序文」の中で、「日本は自国の利益のみを顧慮して行動することも出来るし、他国と同じ文化を共有することか生じる義務に縛られることがない」とした上で、第二次世界大戦以降のアメリカと、今後発展が続くと見られる新興覇権国中国との狭間で、今後どちらに付くかの選択や対応に迫られる、という問題にぶつかるだろうとしている。
ハンチントンさえも安住している(アメリカかチャイナかという)西欧的二元論な視座に立った発想からは、決して迷路の出口は見つからないのは当然だが、彼にこうした予告をさせる、今までの日本の生き様に対する反省に立って、これからの日本の有り様と展望にというて、本著は一つの示唆を与えてくれるようだ。
つまり、現在曲がりなりに多神教という平和な宗教観を持っている唯一の先進国日本の採るべき道こそ、虚偽と打算と非妥協に満ちた似非グローバリズムに代わって、真実と思いやりと共生を基底とした本物のグローバリズムの実現ではなかろうか。 
日本力
アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化
著者は住信基礎研究所の巣寂研究員だが、経済問題のテレビキャスターとして有名である。
副題としては「アジアを引っ張る経済・欧米が憧れる文化!」また帯書きには、「次の30年は日本の時代!!」と、勇ましい言葉が踊っている。
わざわざ著者が「日本刀ではない」と謳っているように、「日本力」とは余り聞かない言葉だが、かく示されると著者の言わんとしていることをもっとも的確に表現している言葉であろう。
バブル崩壊後、低迷する日本経済を尻目に、チャイナそしてインドの躍進がはじまった。
加えて豊富な地下資源を武器に急成長を遂げてきたロシア・ブラジルという、いわゆるBRICsのめざましい発展の蔭に、バブル崩壊後の後遺症によって日本中悲観論が充満した。
ところがこのバブル崩壊後の不況と言われる時代を精査すると、むしろ徐々ながら成長路線に転じた時期があったにも拘わらず、依然として日本は悲観論に覆い尽くされていたのだ。
その後日本経済は、成長の度合いこそ違え今まで最長の「岩戸景気」を凌駕していくのだが、デフレを過度に懸念する日銀の政策で、依然としてゼロに近い低金利政策が継続されてきた。
その結果日本への投資誘導ではなく、低金利融資資金が石油などの先物に向かい、未曾有の石油高を招来してしまうのである。
本著では、凋落著しいアメリカに代わって、世界経済の牽引力になっている日本経済の実力、すなわち「驚愕のエコ技術」に代表される精密技術や想像力を明示しながら、その一方で急成長を続けるチャイナ、そしてコリアとインドの分析から、それぞれの抱える問題点と限界を指摘する。
チャイナを覆う ディレンマ・トリレンマ
たとえばチャイナでは、なによりも顕著になった民衆に対する指導力低下や、一向に改まらない地域間格差と、模倣商品の氾濫に見られぬ創造力の欠如が指摘されている。加えてこの国の環境汚染と砂漠化の進行はただ事ではない。
しかも過熱する経済成長によって世界中のエネルギー資源の確保に狂奔していることや、続発する「有毒製品」や北京五輪に絡んでチベット問題の全世界的非難となっている点など、ディレンマ・トリレンマが露呈している。
いびつなコリア経済
韓国では、この国のGDPの20%強を占めるサムスン・グループの突出という異常性を指摘する。この国の企業で目立つのはサムスンとヒュンダイ(現代)くらいである。
もし今クローズアップされている、サムスン会長の不正資金疑惑問題の去就次第では、サそのイメージ悪化や経営体制への影響だけに止まらず、この国の経済に多大のダメージを与えかねない危うさがある。
この国の経済は、他国で稼いで日本に貢ぐというスタイルが定着している。これはコリアの製品の中に日本の技術が抜きがたく内蔵されていることを示している。
日本を訪れた(親日家と言われる)李明博新大統領は、「日韓未来志向」を強調するのだが、日本でのテレビ出演に当たって、コリアンの心情を「(過去に)殴った者は忘れても、殴られた者は忘れない」と表現する。
そこには過去日本がこの国に行ってきた善意の行為が一切影をひそめていることに気付けば、まだまだ手放しでは喜べない。
インドの限界
さてインドだが、チャイナに次ぐ人口のこの国は、カーストという抜きがたい格差・階層社会によって、その富の偏在はチャイナを超えるものが現実なりつつあるのだ。
この国にエリートの実力は、英語圏というメリットも加わって端倪すべからざるものがあるが、この国の特徴はソフト産業に特化されている。
なおこの国は「印僑」と呼ばれるように、商業面での実力が突出しており、例外的に製鉄業のミタル、自動車製造業のタタ自動車が注目されているが、製造技術と言うよりも、主として巧みなM&Aによって急成長を遂げたものである。
多様性ニッポンの強み
第7章では、「世界を席巻する文化と経済」としており、理由として、「失われた産業が少ない」「産業の巾と拡がり」などを理由としている。
併せて、先般来本メルマガで触れてきた、日本のポップカルチャーの実力とその根底にある日本人の美意識、タブーのない日本文化を取り上げているのだが、これこそ日本の持つ多様性の成果であろう。
たとえば、「ポケモン」の市場規模は、実に3兆円あるという事実、キャラクターとして、すでにミッキーマウスなどの追随を許さない「キティーちゃん」など、日本人はもっと外に目を向け、自国の実力に自信を深めるべきことを強調している。
くたばれ悲観論!
最後の章では「くたばれ悲観論」、あとがきでは「溢れんばかり創造性に恵まれた民族」を取り上げている。
いつもマスコミが「負の要素」として取り上げる、少子化それに700兆円という財政赤字、GDPの低迷などについても、的確な反証材料を挙げて、「恐るるに足らず!」と喝破しているのだ。
樂天主義者の中村には願ってもない1冊だが、もし日本経済の先行き悲観論を拭いきれない方にとっても、ぜひ「目からウロコ」の1冊であって欲しいものである。 
日中比較優劣論
著者は、遼寧省瀋陽で生まれた韓国系3世である。母国の東北師範大学での日本語の専攻から、日・中・韓3国の比較文化に進み、その後文明批評家としての道を歩き始め、17年前日本に留学、広島大学院の博士課程を経て後10年、広島に居住している知日派・親日派である。テレビの「サンデープロジェクト」「TVタックル」にも出演、著書も比較文明・文明批評だけでなく、小説やエッセー、古典の解説書まで、多彩な才能を発揮している。
日本人は、外国人による日本人論が大好きにも拘わらず、どうも自分では「比較という視座でものを見る」ことが苦手のようで、戦時中、中国・韓国に取ってきた日本の行動に対する贖罪意識、悪く謂えば自虐意識が根強く、その裏返しとしての友好意識があり、また逆に中韓両国の対日言動に対して、深い嫌中・嫌韓の意識を持つという、2つのタイプに分けられるようだ。
著者は、ことある毎に冷徹な日・中・韓3国の比較の目を注いでいるのだが、本著の「まえがき」で触れているように、「(たとえば)ある国で長所だとするものも、比較することでかえって短所や欠点になる場合も多いとして、
「この意味で、私は一般的日本人に弱点と見られているものを長所と捉え、中国人に長所と見られるものを弱点として捉えたりして、「優劣論」を敢行することにしました」
と述べている。さらに「日本人の中国に対する認識の甘さも鋭く批判している」とあるように、(公平に見つもりだが)国柄・国民性については、なべて日本を高く、両国を低く見ている感が拭いきれない。
これは日本での出版ということも作用しているかもしれないが、案外、これこそとりもなおさず、日本の方が高度な国民性を持っていることを証明しているかのように受け止めてもいいのではないか。
ここらに問わず語りで、「なぜ著者が17年も日本に居住しているのか?」というナゾが解けてくるような気がするのだ。すなわち、血液と郷土という結びつき以上に、日本の持つ国柄や国民性が、著者を強く引きつけてやまないことを示しているように思えてならないのだ。
第1章の「柔らかい日本」に対して、第2章に「かたい中国(の)脆弱性)」を持ってくる。著者は、日本の柔構造社会「和」に対して、中国は「闘」だと謂う。加えて韓国人については、「情」と言う言葉を当てはめるのだが、日本人の感じる「情」と、韓国の国民性における)「情」とは、受け止め方で大きな差がある。別に韓国を表現する「恨(はん)」に置き換えてみると分かり易くなる。
また第3章の(両国民性の)「比較優劣論」でも、ここまで言ってよいのだろうかというくらい、中国の問題点を厳しく指摘している。これはある種の日本人における、対中盲目的友好意識に対しての、一種の警告ともいうべき意味合いを示しているのだろう。
本著は又韓国にも言及して、まず地政学通り日中の中間に置いた前著「大陸根性・半島根性・島国根性」の延長線上に位置づけ、その硬直性と行き過ぎたナショナリズムに対しては、厳しい視点と批判を投げかけている。たとえば歴史認識の問題にしても、相争い、屈服・隷従させてきた側と、逆に屈服・隷従されてきた間に、共通な歴史観など存在するはずがないと斬って捨てる。大切なことは、「なぜそうした歴史が生まれたのか」という事実を、避けることなく熟視する必要性を指摘している。
第4章では、そうした3国が抱える東アジアの持つ、深く大きい内紛(内訌)を乗り越え超克して、世界的歴史観を樹立せよと説く。全体的に日本よりむしろ、中・韓において強く取り組むべき事柄のようだが、日本は忍耐強く繰り返し繰り返し自己主張していくべきだと謂う。その点ひ弱になった日本の有り様に、むしろ切歯扼腕している感があり、最後に当たって、「日本人の国民性改造案」を提示している。
ではなぜ我々日本人は、自分たちの国民性を改造する必要があるのか。その答えを次のように考えてみた。
同じ東アジアの国とはいえ、文中にみられる内紛(内訌)という、同一国に擬した表現を、本著では使用している。このことに、いささか不審に思われる向きもあるだろうが、今までに交わした著者との会話の中で、いま危機に瀕している「西洋発一神教」に代わるものとして、「東洋発多神教」への転換という命題があるが、(比較法にしても消去法にしても)東洋における最大の盟主候補は日本をおいてほかにはいないとしても、それには、日・中・韓という東アジアの協力・連携なくしては、アジアの時代を全うすることは不可能だといえることから来ている。
このことからも日・中・韓が、いわば西洋のEUとでも言える関係を構築する必要性に鑑みて、あえて「内紛(内訌)」という表現を採ったものと理解したい。
そのほか本著には、我々の知らないような、日・中(韓)に絡む歴史的事実を、これでもかという程提示してくれるのだが、私たちは、そうした事実を偏りなく読み取ることが肝要であり、相互理解に至る大道だと知るべきであろう。
この日・中・韓という、近くて遠い国の関係が改善されるまで、著者の苦悩と努力は、まだまだ続くことだろう。 
島国根性大陸根性半島根性
日・中・韓三国の比較文化論である。韓国系3世で日本語文学を専攻した著者は、在日期間10年以上を経過している。歯に衣着せぬ表現で、本国チャイナでは、2冊の著書が出版拒否にあっている。
我々日本人は、往々にして西洋との比較を行ってきたこともあり、同三国の比較文化論は極めて貧弱である。氏は日本人特有の性情であり、社会構造だと思われ勝ちな「甘え(の構造)」(土井健郎)「縦割り社会」(中下千枝)だが、前者はコリア、後者はチャイナで顕著であると指摘する。
まず著者は、「なぜもこの三国がすれ違いを繰り返すのか」について、「非同一文化圏」であるという認識を持たなければならないと説く。それはまず日本が採集から農耕に進んだ湿潤の国であるのに、この両国は狩猟から遊牧に進んだ文化圏なのだと謂う。
我々が、遊牧民の文化として拒否してきた「宦官・纏足・抱擁という挨拶」などは、「湿潤の国にとって、いずれもふさわしい手段ではなかったから」という新しい見解を表示して驚かせる。
著者は地政学的見地から、大陸のチャイナと島国の日本との中間がコリアの位置づけだと言うことを、この国民性の面から見ても当てはまるという。例えば両国の人たちが日本に来て一様に驚くのは、川の水が綺麗だということで、濁流のチャイナと中間的なコリアをそこに見付けている。すなわち日本とチャイナを対極に置き、その中間がコリアだとする。
昔から今に至るまで、チャイナはいわゆる「中華思想」から一歩も抜けきれなかったが、コリアは小中華を自負する事大主義に取り憑かれ、日本はいち早く聖徳太子の時代に「脱チャイナ」を宣言している。
我々は「日本人は愛国心がない」と言って嘆くが、実際にはチャイナの人たちは「生まれ変わったら〜」という設問に、中国人になりたくないと答えた者が(1万人あまりのアンケートで)64%もいたということが話題になった。おそらく日本人は100%近くが、また日本人に生まれたいと答えるだろうとことから見ても、愛国心は日本人が高いのだと教えてくれる。勿論コリアンはその中間と言うことになる。
たとえば「和の国・闘の国・情の国」とか、チャイニーズはなぜ痰を吐くか?とか、自然に対するそれぞれの違いとか、我々の知らない両国の姿も垣間見せてくれる。その一方で、両国を驚かせた日本の神々について、古事記に出る「屎(ふん・くそ)尿(にょう)の神」の存在で、日本では排泄物にまで神を見るという異常さに、農耕文化と遊牧文化の違いを強調する。彼らにとって糞尿は、悪口の具でしかないのだ。
最後にショートSFストーリーで、宇宙人が日・中・韓の人たちをある星に移住させる話で締めくくっている。始めはリーダーを選ぶのに全く収拾がつかない中で、妥協して(中間である)コリアンを選出するのだが、数十年経って相互の混血が進んで、次第に融和することになる。
この一種の寓話は、三国の強調には長い年月と相互の交流が必要だということ、そしてそれを実現するために、忍耐強く相互交流を図る必要があることを示唆している。
また著者は、この三国共通のシンボル・マークとして、韓国の有名な文化人李御寧(イ・オ・リョン)氏との対談から、すでに効用を失った漢方薬的「漢字圏・儒教文化圏」に代わって、「梅花文化圏」という認識を提起している。
我々日本人は、この若い親日家の優れた比較文化論を、真剣に読み解く必要がありそうだ。 
国家の自縛
国家の罠がベストセラーになったことは、「逮捕された(刑事被告人になった)からワルだ」という短絡的な発想に与しない日本人がまだ多くいるという証しだと言えなくもない。
本書は産経新聞の元モスクワ支局長斉藤勉氏の質問答える形式を取っているが、そこはお互いに理解し合った仲、あうんの呼吸が見事である。
著者は斉藤氏から、ロシアが好きかどうか、それに小泉首相の悪口を言わない理由について、「自分はただロシアとは職業(外交官)として接してきただけで、日本が一番好きである。ロシア人もエリチェンやプーチン、アメリカ人もブッシュの悪口はいうが、外人から彼らの悪口を聞くと大変怒るのだ」という。それに引き替え、一国の総理の悪口を言う外国人に怒らないばかりか、むしろそれを喜ぶ日本人の存在のいかに多いことか。
著者は「北朝鮮とのパイプ作り」についても、向こうのホテルになにもしないまま何ヶ月でも滞在し、先方からのアプローチがあれば「ただの電話番であって、忠実に国に伝えるだけに徹するし、会いたい人は金正日将軍様の日程を管理する人だけだ」という、「白旗(軍師)作戦」というユニークな案を提示する。
またロシアとの接触にモンゴルの朝青龍の父親のルートを活用する案とか、反日デモで壊された大使館など謝罪があるまで一切修理させず、この国の理不尽さを世界中に見せつけるべきだった、その他明敏且つ大胆な発想を提示してくれる。
本書の中で「日本の外務省には、いかに無作為の罪が多いか」を、一つ一つ事細かに指摘しているのだが、その1例として中東問題を挙げている。日本の外務省はアラビア語や中東の研究などは、主としてシリアで行い、イスラエルを無視している。多くの国はイスラエルで学んでいるのだが、軸足を中立ではだれにも信用されないという。
著者はかつてロシアとの折衝にイスラエルを仲介にして動いたが、その際次官の許可を得ての予算や行動が、結局罪として断罪されることになった事実がある。イスラエルは日本のシンドラーこと杉浦千畝に大きな恩義を感じているので日本に好意的だが、外務省は彼の行為が越権だとして最近まで無視してきた経緯がある。
著者はまた靖国や、新しい歴史教科書問題にも好意的なスタンスで接しており、彼なりの対応策を論じている。
つづまるところ外務省は、有り余る著者の能力を生かすどころか、金の卵を産むトリを、むざむざ野に放ってしまったことになる。可能ならば安倍幹事長の秘密機関の長として活用して欲しいものだ。
本書でもっとも感銘を受けたのは、チャイナでは簡体字、コリアではハングルだけにしてしまったことは、過去の歴史からの離別を意味している、という指摘である。かつて日本も同じ憂き目を見ているが、それはひょっとするとGHQの差し金だったか、コリアの場合は幼稚なナショナリズムだとして、チャイナの場合は共産党による陰謀だといえるかも知れない。 
「脱亜超欧」へ向けて
日本は欧米・アジアの限界をどう超えるか
「スカートの風」シリーズで、日本文明論・日韓比較文化の旗手として清新なデヴューをした著者による、日本文化の深淵に迫る鋭い分析をもとに日本のこれからの進路を明哲に指し示した、文字通り《感銘の一冊》である。
済州島生まれの著者は、幼少時祖母や母から日本のよさを聞かされて育ちながら、学生時代反日教育を受けることで矛盾し屈折した対日感情に捉われていたが、日本への留学により当初の浅い理解を経て文化の差から来る思考や習慣を克服して次第に日本の生活に慣れていくにしたがって、その根底に流れる日本文化の神髄のようなものを次第に理解するようになっていく。本書は表面的な比較文化論を超えて、案外日本人がそれと気付かない精神や思考に深い理解と共鳴示した上で、この国の進路に的確な指標を指し示している。
たとえば日本には他の国ではみられない「受動態=受け身」の言葉が多い。その上主語がないばかりか、自分の力で成功をおさめた人でさえ平気で使う「お陰様で」など、対象不明の言葉の存在も日本独特であり、こうした受動態は超絶的力に対してのものだから、そうした言葉に接した外国人は途惑い誤解をするのだと指摘する。その上で著者は「日本人の受け身志向は、何もしないで口を空けて待ち受ける「タナボタ式」の消極的な受け身ではなく、積極的に受入れようとする受け身志向である」と謂い、「日本人には何かの思惑をもって他者と向き合うのはよくないという倫理めいたものがある。(中略)この受動的な態度や心のあり方こそ、じつは日本人の能動性をすぐれて物語るものなのだ」と説いてくれる。
著者は、そうした精神構造の奥にあるものこそ「自然信仰以前の精神性」に根差したものとして、血を嫌い犠牲を強いない「特異なソフトアニミズムとしての神道」の存在を挙げる。
結果として日本人の心底に流れる性情こそ「自然に対する感受性を生き続けさせた農耕文化との融合」であるから、「どこまでも共生を目指すシステム」を活かし「伝統と現在の融合で生まれた日本的な平等主義」を掲げることで、「アジアの的な世界」とも違い、ましてや戦争やテロをエンドレスに繰り広げもはや破綻の極に達した個人主義的・弱肉強食的不平等社会である「西欧的な世界」を超えた、まったく新しい「世界一貧富の格差の小さい分配の平等な中間層を実現した経済、外国にはもちろんけっして国民に銃口を向けることのなかった軍隊、伝統的な職人技術から世界最先端の技術までを抱える」高い精神性に満ちた「もう一つの世界」を世界中に発信すべきだと謂う。 
「反日」に狂う中国 「友好」におもねる日本
著者は1991年来日後同志社大学院で修士課程、広島大学の大学院で博士課程を終了、現在呉大学社会情報学部講師をしている知日派の韓国系中国人で、 日・中・韓三カ国で30冊を越える著書を出版しているが、本書は歯に衣着せぬ内容のため、中国で出版拒否されたといういわく付きの本である。
著者はまず、表現の自由を認められている日本と一切言論の自由を認めない中国との差異認識の必要性から入り、馬立誠氏が「対日関係新思想」という日本に好意的な論文を書いたため人民日報の評議員の座を追放された事実を挙げて、日中友好とはいいながらその実反日思想に凝り固まっている中国の現状に触れ、それは毛沢東・小平時代には見られなかった現象で、1990年代江沢民の時代になって、国内の矛盾・腐敗・失政などを糊塗し目をそらすために行った「指桑罵槐(桑を指して槐を罵る)」政策の結果だと指摘する。
それに対して日本の対応は、常に謝罪とお金を出すという姑息で自逆的な対応に終始したところから、ODAは20年間で6兆円を超し、海外援助の実に90%に及ぶという莫大な支援を受けながら、その事実をほとんど人民に知らせぬまま堂々と日本を罵倒するという「謝るくらいなら金を呉れ」という脅しの構造が定着した。こうした背景には日本に対する中国の、弱者としての歪んだ嫉妬心と敵視感情があるだと著者はいう。
たとえば南京大虐殺30万人という数字だが、およそ信じられぬ愛国的虚言癖の数字の加算であって、なんの根拠もない数字だと言い切る。一方中国では人民の大虐殺が行われてきた。ギネスブックでは「人類史上最大の大量殺人は1949〜65年に毛沢東が支配する中国で行われた中国人2630万人、(略)ジャンピェトール・ドゥジャルダンは、1978年11月の「フィガロ」紙に6378万人という殺害推定数字を発表」と記載されているという事実の紹介まである。
加え、中国がチベットで内モンゴルで、ウイグル自治区で行ってきた非人道的な行為を考えるとき、決して日本の非を挙げつらうことは出来ないし、日本もいい加減で自虐的外交から離脱すべきだと苦言を呈する。
一方中国は、常に「靖国神社」の問題を取り上げてきている。これは「敵も味方も祀る」日本文化と、「死者を鞭打つ」中国の文化の違いであってこれを言挙げすることは日中友好条約に違反する内政干渉に他ならないという。第一「靖国」を問題にするのは中国と韓国しかないこと、海外の高官や首脳は常に靖国への参拝を行ってきた事実に目を配らなければならない。(昨年ブッシュ大統領の靖国参拝、今年2月アナン国連事務総長の東郷神社への参拝を断念させたのが、わが害務省の木端役人であることは、まさに国辱ものである。)
イギリスのアヘン戦争、アメリカやフランスのヴェトナム戦争、西欧列強の植民地政策を挙げるまでもなく)過去国際外交上、自国が行った行為を当該国 に謝罪したという事例は世界中皆無であり、第一中国はチベットやモンゴルに対しても一切謝罪を行っていない。
また昨今中国の環境破壊は増大の一途をたどっており、それに対して日本は実質160億円の援助を行っているのである。 こうしたことを考えると、中国はいい加減で(日本への)甘えや嫉みから脱却し、日本はかつての戦争でアジア諸国に独立と希望を与えたことに自信を持ち、中国人の中に知日派を育成することが急務だと忠告してくれる。 
ワシントンの陰謀
誰が日本とアジアの経済を殺したのか
独自の視点で30年に亘って、世界の政治と経済をウオッチしてきたという著者は、アジア経済をどん底におとしいれたのは、ヨーロッパが、EUの発足に立ちはだかる巨大なライヴァルとして(日本を雁の先頭にして驚異的な経済発展を続ける)アジア存在が目障りになり、ヘッジファンドを使嗾(しそう)し資金を提供したものであり、経済破綻救済の名のもとにグローバリゼーションという思想のもとに、IMF(国際通貨基金)の過酷な仕組みを押しつけたてきたのは「ワシントン・コンセンサス」という怪物の存在だと指摘する。そして著者は、アジアの繁栄の背後にあったのは、ニクソン時代の360円/ドル固定性の解除からプラザ合意と継続された日本の円高が、ドルとのペッグ性を採ってきたアジア諸国には大きな追い風だったという事実である。
我々は多くの事件をそれぞれ個々に取り上げ勝ちだが、一連のアジア経済危機だけは一連のヘッジファンド(HF)の仕業として記憶していることだろう。しかしその発端となるタイ・バーツの暴落が、香港返還(1997年7月1日)の夢醒めやらぬ、翌7月2日に起きたとまでは知らなかったであろう。それまでも介入は執拗に行われていたのだ。
タイ・バーツ売りを大巾な介入で防いできたタイ政府が香港返還に併せてバーツ二重の祝杯を上げた矢先に悪夢が始まったのである。バブル景気で実体より乖離したタイ・バーツに危機を感じたエコノミスト誌の警告にも、日本の心配にも耳を貸さなかったタイ政府は、一段と強まったバーツ売りについに防戦を放棄、ドルとのペッグを諦めたことで重ねて続落し、IMFの介入するところとなった。その後その年の内にインドネシア・マレーシアそれに韓国と次々に経済の破綻を引き起こしていったのは周知通りである。
さて韓国がIMFの優等生と言われたのに反して、マレーシアではマハティール首相は、犯人としてジョージ・ソロスを名指しするが、それも裏目に出てリンギットは続落する。その後マハティールは為替鎖国を採っていったことも記憶に新しい。
ちなみに韓国がIMFを重視したのはこの国では財閥の支配と古風な身内主義がはびこっており金大中はその打破に合理的なIMFの力を借りたのだという。
著者が言う「ワシントン・コンセンサス」とは、アジアの経済好況は欧米型の経済学と違うことから、その欠点を調べ上げた上でそこを突いて破綻させ、IMFを押しつけるというものである。
円をいくら切り上げても日本からの輸出に歯止めが効かないことから、日本見直し論(リビジョニズム)が台頭する中、日本は海外でも不動産を買いまくるというバブルに突入した。そしてアジアでの成功を日本でもとばかり(アジアが為替だったがここでは)「株」を狙い討ちにした。その後知っての通り「失われた10年」ということになるのだが、直接的には橋本総理がぶち上げた「金融ビッグバン」があったが、恐らくその裏には「ワシントン・コンセンサス」の信奉者のサマーズ財務長官との密約があったのではと著者は言う。
さて紙数が尽きたが、著者は締めくくりとして、アジアの破綻には確かに陰謀があったし、その後日本でなにが起ころうとしているのかを確認しようと言う。そしてIMFに対し日本は、「成功体験を元にあらためて日本経済の欠点を再検討しあくまで自国で立て直す」と明言することが重要であり、「ワシントン・コンセンサス」を導入すれば日本そのものが解体すると警告している。 やはり「今こそ縄文の出番!」ということになるだろう。 
敵は中国なり
日本は台湾と同盟を結べ
ここ最近日本と中国の間に「歴史教科書」の認定・野菜のセーフガード、加えて李登輝前台湾総統のビザ発行問題という事態が起きてギクシャクし始めたが、江沢民の無礼極まる発言以来、日本政府の対中姿勢に微妙な変化が生じたことも事実である。つまり「ご無理ごもっとも」という低姿勢一辺倒から、少しずつながらまともな主権国家にさま変わりつつあるように見える。
一方小林よしのりの漫画「台湾論」が台湾で問題になり、中台統一派(外省人グループ)による渡航禁止騒ぎが巻き起こる。その台湾論にも出ている金美齢さんは、早速台湾に飛んで彼らと対決して「「敵は中国なり」というもっと過激な本を書いた深田さんが、その後中国本土に自由に行けたのに、民主国家という台湾がなぜ言論の自由を踏みにじるのか」と言って、結局それを撤回させ、台湾でも金さんのファンを沢山作る基になったという曰く付きの本である。
どうも我々日本人は、中国そして中国人に対して孔子や孟子という聖人のイメージを重ねあわせるという過ちを犯しているらしい。この本は素裸の醜い中国そして中国政府の姿と、蒋介石一派が台湾人に対して行ってきたひどい仕打ちを明らかにしてくれる。我々はこの本から、台湾、中国それにこの両者の間に横たわる歴史や民族性、精神構造の違いにあまりに無知であることに気付かされるろう。同時に我々はいかにムダで無意味な対中援助や屈辱的接触を続けてきたことか。
例えば台湾では、台湾人=本省人、蒋介石一派の敗残中国人=外省人という区分け、台湾語対中国語という関係がある。中国語を国語として押しつけられることで常に言葉の不自由さから言葉少なになった本省人、したがって言論分野・マスコミ分野で本省人は「サイレントマジョリティ」にならざるを得なかった事実がある、一方の中国では、無差別な自然破壊特に森林の伐採や工業用水としての過剰な取水の結果、黄河や黒龍江では河口まで水が流れない状態を生み、長江では大洪水を招来している事実を教えられる。
台湾では李前総統が農家の健全な育成の上に工業化を図ったのに反して、中国本土では、長江の氾濫時、下流の工業地帯を守るために上流の農業地帯で堤防を切って、2億を越える農民に被害をあたるという手段を取ったのである。あなたはこの2つの国柄のどちらを良しとするのか。
国家外交の黄金律は「決して謝らないこと」である。あやまればそこに付け込んで無理難題を吹きかけるのは当然である。そうした叩頭外交を採り続けてわれわれの税金を垂れ流してきた、恥知らずの河野洋平前外相率いる日本の外務省はまさに国賊ではないか。深田さんの文からは、いかに中国がひどい国か、金さんの文からは、(多分に日本統治時代の影響もあるが)いかに台湾が日本と共通した心情を持った国かが明確にされるだろう。  
 
旧満州における戦前日本の町づくり活動

1.序言―日本人町づくりの潜在力
電線やコンクリートの建物が入り交じっていない日本の都市を想像してみてください。立派に聳える鉄鋼製の建築ではなく、あまり大きくない建物が整然と並び、魅惑的で伝統的な外観を呈しています。広い道路は分かりやすくデザインされ、もつれた送電線は埋められていて全く見られません。道路の両側に歩道があり、そこに並木が植えられていて、公園も広々としています。人口対緑地の比率はほぼ北米と同じぐらいです。
このような町づくりの話題は最近日本全国でよく聞きます。こんな話を聞くと、よく近代的とか近未来的とかという印象を受けられるでしょう。自然の多い場所にたてられる、モダン・テクノロジーいっぱいの広い家、これは新聞の記事や、電車の中の広告、あるいはテレビのCMでよく見かける光景です。早くこんなところに住みたいなというのは、皆が皆の望むところでしょう。
日本の町づくり活動の裏には、歴史的な経験の積み重ねがあり、かつてこのような「日本」の都市が存在しました。でも、それは戦前の日本帝国にあったため、戦後の日本社会ではすぐ忘れられてしまったのです。例えば、ここに見えるような都市が一時存在していました。ここは旧「満州国」の国都「新京」だった場所で、今は中国東北部の長春という町です。そして先に言いましたようにここは戦前の日本帝国が海外で作った植民地であった為に、その町づくりと背後にある歴史については戦後の日本社会においてはもうすっかり忘れられてしまったようです。
しかし、ここ一〇年ぐらい、研究者たちがこの話題を取り上げ、新しい研究成果を挙げました。例えば、越沢明の『満州国の首都計画』という本はその好例の一つです。『東京の現在と未来を問う』という面白い副題もついています。越沢の分析によると、帝国主義の経験は満州にとって有益なものだったのみならず、その後の日本の都市計画にも多大な影響をもたらしたというのです。確かに、越沢の著作は殆ど満州に焦点をあてたけれども、同時にそれはまた彼の東京の都市計画史研究の目標に繋がるものでした。
面白いことに、越沢の一連の仕事に多くの関心が集まりました。まず、学界の人が興味を示しました。『近代日本と植民地』というシリーズにおいてその成果が載せられ、越沢の評判が広まりました。そして、世論も気が付きました。「新京」についてのこの著書は一五年まえに出版されたものですが、去年になってまた文庫本として刊行されました。さらに、旧満州を描いた漫画本にも越沢のまえがきが寄せられ、注目を集めました。(ちなみに、この旧満州を背景にした漫画シリーズは今でも続けられています。)
一方、越沢のような研究は危険だという批判もあります。例えば、西澤泰彦は越沢の著作を書評して、彼の考え方には色々な問題があると指摘しました。まず第一に、帝国主義の悪い側面を全く無視してしまったという点です。第二に、越沢の分析においては、民間人の帝国主義活動をまったく許しているという点です。
この意見は、もっと広い意味での議論を反映しています。つまり帝国主義の本質に関する議論です。戦後の世界において、帝国主義が基本的に進歩的な影響を残したと言う人もいます。例えば、植民地において帝国主義者たちが道路や工場、病院等を沢山作りました。一方、他の研究者は帝国主義という現象は基本的に屈辱的な影響しか残っていないと主張し、その支配下において経済略奪もあり、人種差別もあり、評価すべきものはまったくないと指摘しています。このように帝国主義の本質に繋がる植民地の都市計画に関する議論は未だに膠着状態に陥ってしまっています。
この現象は勿論満州にも当てはまります。『満州開発四十年史』という本がありますがこれは恐らく、満州における日本帝国主義を記録するもっとも有名な本でしょう。勿論、中国で出版された書籍の中には、これと正反対の見方を示す本が沢山あります。でも、日本においては、『満州開発四十年史』は特別な影響力を持っているようです。今まで、満州を研究する日本人は大体にこの本から勉強を始めるのだそうです。しかしこの本を読むと、満州における日本帝国主義の活動は、欧米のそれと比べると、基本的に現地の民衆の利益になったという印象を持ちます。勿論、最近の日本の歴史家はこの見方を批判しているけれども、こうした考え方がまだ根強く残っているのも事実です。
それで今日は、満州に於ける町づくりの経験をもう一度考えてみて、この議論の膠着状態から一歩踏み出すことを試みたいのです。その上で、満州の町づくりの経験と今日の日本の町づくり活動との関係についても検討してみたいと思います。 
2.「植民地の近代性」
戦前の町づくりというのは面白い話題です。日本は江戸幕末、農民国家から、工業社会へと進みました。その過程において、町づくり活動の指導者はたくさん居たのですけれども、一九二〇年代に限って見ると、後藤新平は恐らく一番有名な人だったと思います。言うまでも無く後藤新平は東京市長として後世にきわめて大きな影響を及ぼした人でした。ところが、後藤の影響はこれだけには留まりませんでした。彼は様々な分野において特別な存在でした。まず医者として、近代科学を代表していました。また、文人でありながら台湾総督府民政局長を勤め、のちに初代満鉄総裁としてもその手腕を振いました。そして、彼は近代社会を築き上げることにも興味を示しました。帰国後、大正六年(一九一七)に都市研究会を創設し、『都市公論』という雑誌を出版しました。この雑誌において日本朝野各界の都市計画者は自分の意見を発表しました。後藤は昭和四年(一九二九)に亡くなるまでこの都市研究会の議長を勤め、後輩の都市計画者を育てることにも熱心でした。
ところが、植民地における町づくり活動は日本本土のそれとは違っていました。本土より、海外における町づくりはもっと自由に進めることが出来ました。それは植民地を支配する官僚たちが本土の政府の力や世論から逃れることが出来たからです。専制政治体制ではなかったけれど、比較的に独立性のある政権を築くことが出来ました。こういう事情もあって、歴史家たちは「植民地の近代性」というテーマを取り上げることが多く、特に最近はこれについての論文が増える一方です。そしてこの流行は、満州だけでなく、厳しい植民地政策が行われた旧朝鮮についても見られます。松本武祝によると、ここ一〇年ぐらいの朝鮮に関する出版物にこのような考え方がよく表れています。
そして、「近代」という現象についてもいろいろトラブルがあります。先ほどお話ししました帝国主義の評価に関する膠着状態と同じように、「近代」という言葉もさまざまな意味が含まれています。新しい工場や学校、それに新しい経済と教育制度、町づくりが含まれている一方、新しい軍事技術と軍事的可能性も含まれているし、新しい警察の統制も含まれています。ですから、これらのすべての要素を考慮した上で、「植民地の近代性」を考える必要があると思っています。
好例の一つとして、後藤新平―彼の軍閥の人脈を忘れてはいけません。日本帝国の近代性は、始めから、軍事の側面も含んでいました。近代的な軍隊を支えるには近代的な工場・技術・社会組織が必要です。従って、どのように近代社会をつくりあげていくかという課題の為に満州は実験台としてとても重要な場所でした。具体的に言えば、日本本土に比べ、満州にある日本町のほうがより近代的な市街化計画や電力、衛生などの諸制度を推進していました。
これはとても重要な一面です。満州は日本帝国の一部だったけれど、近代性を造りだす場所でもありました。フランス帝国ではこのような活動を“lamissioncivilisatrice”(文明化する使命)と呼びました。いわばこれも帝国主義の一つの側面でした。
他の日本の植民地と比べて、満州は特別なケースでした。日本から近い地域にあるため、海を渡って行った日本人は大勢でした。在満日本人の一般市民の人口は明治三九年(一九〇六)に一六、六一二人しかいなかったのですが、昭和五年(一九三〇)になると、二三三、〇〇〇人を越え、昭和一五年には一、〇〇〇、〇〇〇人にまでのぼりました。日本軍に加え、日本の大手企業の職員や、官僚、そして民衆たちも自分の夢を託して満州に渡りました。今は、満州開拓運動はよく知られていますけれども、実は満州に行った日本人は殆ど新しい町に住んでいました。戦争が終わった時、およそ三二〇、〇〇〇人の日本移民だけが満州の農村にいました。
これは先程言った一、〇〇〇、〇〇〇人の三分の一にしか過ぎません。それに、日本からの投資も殆ど新しい都市で行われていました。
満州に於ける日本の町づくり活動は多くの都市で行われました。もっとも有名なのは大連や奉天などの大都会でしたが、多くの小さい町でもその活動が見受けられました。例えば、安東、撫順、四平街、長春、佳木斯などの町では日本人が新しい都心を造り、近代的な都市計画をこころみていました。今日は、満州の中心であった長春を例に、日本人による町づくり活動をすこし具体的に見てみたいと思います。長春を選んだ理由は勿論史料が残っていることもありますが、その上に、長春は旧満州にとってとても重要な場所だったからです。
長春における日本帝国の活動は二つの時代に分かれます。一つは満鉄時代で、もう一つは満州国時代です。表面的には、この二つの時代に見られる日本の帝国精神は大きく違っていました。満鉄時代には、長春は満州鉄道のもっとも北の終点であったけれども、その後、満州国時代に入ると、長春は傀儡国家である満州国の首都「新京」に変身しました。従って、長春には二種類の町づくり活動が見られ、そこに反映された植民地の近代性もそれぞれ違っているように見えます。 
3.満鉄の付属地
都市をテキストとして読む、その可能性をめざして、私は博士論文において長春を中心にその都市計画や建築に焦点を当てて分析しました。長春に行って都市インフラストラクチャーや建築物を調査すると同時に、そこに含まれるアイディアなど精神的なものについても考察しました。そして、最初に興味を持ったのは、日本人が植民地の領土を具体的にどのように造ったか、ということでした。
これはヨーロッパ式都市計画の良い例の一つです。明治二七年(一八九四)、東京大学土木工学出身の加藤与之吉が長春の満鉄の付属地を合理的に設計したものです。全体としては長方形ですが、駅前広場を中心に、道路は放射線状に広がっていく。この設計によって、駅と周辺の商業地区は自然に町の中心として注目されるようになりました。その上、最初から公園用地の重要性が認められ、付属地の九パーセントも公園の為に設けられました。これは一番大きい西公園です。東京大学の白沢保美教授によって設計されました。
長春は満州鉄道の最北端にあり、ロシア帝国の東清鉄道と接していました。面白いことに、満鉄は十八世紀からある中国人町と明治三六年(一九〇三)に建てられたロシアの東清鉄道付属地の間に自らの付属地を建てました。ロシア帝国の中国人に対するもっとも基本的な方針はsegregation(分離)の政策でした。でも満鉄はある程度中国人と協力する意図で中国人町の近くにその付属地を置きました。中国人に日本のリーダーシップを認めさせることが満鉄の狙いでした。これは満鉄初代総裁後藤新平の考えでした。台湾統治の経験を持つ後藤は帝国の「生物学の原理」という方策を考案しましたが、それは一方では中国人の経済活動を促し、地方行政の継続を許しながら、他方では中国人に低い地位しか与えないというものでした。
後藤のこの「生物学の原理」はとても重要なもので、それが長春付属地の元来の設計者の判断を覆しました。木製車輪の馬車が新しい道路のマカダムを壊すのを恐れて、設計者は当初付属地の道路で中国人の馬車の通行を禁止しようとしましたが、後藤はそれを許しました。その結果、付属地と中国人町の間には道路や建物がすぐに建てられ、そしてその一部はやがて「商埠地」、即ち中国人町と満鉄付属地を結ぶ場所となりました。
それから、日本人は長春で何を建てたかというと、最初は帝国にとってもっとも重要な建物である警察本署と郵便局でした。その建築家は松室重光という人でした。西澤泰彦の研究によると、松室は満鉄行政の重要な世代を代表する一人でした。後藤新平と同じく、彼の代表する世代は、日本帝国の一流大学を卒業し、官庁や企業に就職して、それから日本の植民地に赴任する人たちでした。松室の場合は、建築家として、『満州建築雑誌』に色々な論文を発表しました。長春の新しい建物は明らかに「文明開化」を代表していました。長春駅はその良い例でした。この建物はそのままにヨーロッパ様式のまねではなく、寧ろ、日本人が独自なセンスをもって世界に参加しようとしていることを表わしています。その建築様式は“historicaleclecticism”(歴史的折衷主義)と呼ばれ、ヨーロッパでも新しい様式でした。同じように、大正三年(一九一四)に建てられた東京駅もその例の一つです。ただ、建築様式は同じだったけれど、東京駅の方は技術的な新機軸を代表していました。欧米の建築家たちは、地震地域であんな大きなドームを造るのは無理だと思っていましたが、日本の工学者たちはついにそれを現実にしました。
この点はとても重要です。戦前の日本は欧米からさまざまなものを取り入れたけれども、いつもそれを日本的なスタイルに置き換えていました。つまり、日本の近代性は一方では外来のもの、一方では国産のもので、とてもユニークな性格を持っています。だから、当時の新しい建築様式を見るとき、この点を忘れてはならないと思います。つまり、その新しい様式の、日本と欧米における意味の違いです。たとえば、長春のヤマトホテルはアール・ヌーボー様式で造られました。しかし、欧米では、アール・ヌーボー様式は革命的な意味を持っていたけれども、殆どの日本建築家はそんなことを思っていませんでした。寧ろ、新しい様式にチャレンジする自らの実力を示したかったのです。そして長春ではこのような実力を示すことが必要でした。三〇〇キロぐらい離れた北の哈爾濱にこのアール・ヌーボー様式の建物が多かったからです。日露戦争の後もロシアにたいするライバル意識が続いていました。
一九二〇年代に入って、もう一つの建築様式が世界中で人気を呼び起こしました。“Internationalstyle”(国際様式)でありました。その名前は昭和七年(一九三二)に出版された本に由来しています。この本によると、日本の建築家もこの様式をたくみにと入れました。そして、平成七年(一九九五)の再版によると、初版には日本の例は一つしかなかったけれども、実際は、日本の例がかなり多かったといいます。長春に建てられた朝鮮銀行の場合ですが、その作業領域がより広がり、外観もよりシンプルになっています。ほかにもこの様式で建てられた建物が多く、昭和五年(一九三〇)に完成した長春電話会社の本社はその代表的な存在と言えます。
然し、世界的に国際様式が主流になりつつある中で、所謂「対華二一ヵ条」の要求が通った後、在満日本人はあまり中国人と協力しなくなりました。たとえば、長春の南で起こった万宝山事件がつまり、その現われの一つです。また、長春の満鉄付属地で、日本人町の大通りは元々中国語の名前がありました。長春駅から、銀座のような三六メートルもある広い「長春大街」(チャン・チュン・ダー・ジェー)が南に向かっていました。二つの円形の広場に向かった斜めの「西斜街」(シー・シェー・ジェー)と「東斜街」(ドン・シェー・ジェー)という二七メートルの広い大通りもありました。しかし一九二〇年代になると、これらはそれぞれ「中央通り」、「敷島通り」、「日本橋通り」という日本語の名前に変わりました。この名前の変化は日本人の自信が増したことを反映するとともに、中国人とはもう協力したくないという気持ちも表していました。満州事変をきっかけに、日本人の中でこんな気持ちが拡がっていました。さらに、全満州に日本の影響を広げようとする満州青年連盟のような組織も昭和三年(一九二八)に設立されました。これによって後藤新平のつくった満州のヴィジョンは完全に崩壊してしまいました。また次に来る満州国時代はまさに帝国主義的な近代性に満ちていました。 
4.「満州国」の国都「新京」
そしてその後、日本は「国防国家」になり、いよいよ「全面戦争」の準備にはいっていきます。これはよく知られていることです。ところが、その実験が既に満州で行なわれていたことはあまり知られていないでしょう。勿論、所謂満州国を成立させる為に軍事・政治・経済の支援が必要だったし、都市計画と町づくりも必要でした。長春は満州国の国都となったため、都市計画と町づくりは長春に集中して行われました。というのは、奉天と大連では満鉄と日本外務省の影響が強かったので、関東軍が国都長春でしか自分のヴィジョンを思う存分つくることが出来なかったからです。そして、長春は「新京」と改名されました。
昭和七年(一九三二)初頭から、満州国・新京は五ヶ年計画によって造られはじめました。国都の設計・建設事務は「国都建設局」という専門組織に任せられ、その職員は満鉄社員と関東軍の代表者からなっていました。最初から、近代的な国都を目指していました。壮大な外観で、規模も大きかったのです。元々の中国人町は八平方キロメートルしかなく、満鉄付属地もわずか五平方キロメートルでしたが、新京は二〇〇平方キロメートルもありました。設計によれば、新京はまさに「新興満州国の首都として」の「近代的文明都市」になる予定でした。
スペースの使い方を見ると、国都建設局の目的が理解出来ます。規模の大きさは新国家の権力を象徴し、雄大な建築は新しい文明の精神を象徴するものです。同時に新京はまた近代的な国都を代表する都市としての目的もありました。この意味から言えば、関東軍は満州を統制する為に、軍事力と傀儡政権だけに依存していたわけではありませんでした。それらに加え、傀儡政権のシンボルである溥儀に関しても近代的な国都の一つの道具として利用していました。
国都新京の建設計画にざっと目を通すと、北京の紫禁城のように形作られていることが分かります。たとえば、宮殿が南に向かっているところです。また溥儀の宮殿の前にも紫禁城のような「前朝」が造られました。しかし、両者はちょっと違いました。紫禁城の場合は壁に取り囲まれた場所ですが、順天広場の場合は大きくて露天の広場が拡がっていました。紫禁城の「前朝」は臣下の謁見を迎える為であるのにたいして、新京の「前朝」は市民大会の為で、近代的な政治の目的が明らかです。そして紫禁城と同じく、順天広場から順天大街は南に向かっているけれども、紫禁城に見られるような官舎の中の狭い歩道はなく、「偉大」な建物に沿って広い本通りが拡がっていました。
順天大街の建築物はアジアの建築伝統を反映しました。越沢明はこの建築様式を「興亜式」と呼んでいます。(でも、満州国時代ではこの言い方は殆どしませんでした。)構造体として昭和一一年(一九三六)に建てられた国務院は一つの好例です。同じ年に完成された国会議事堂とよく似ているけれども、屋根はアジア趣味を示していました。他の建物もほぼ同じでした。国務院の手前に安部(後の軍司令部)の本部が立っています。順天大街のもっとも南の端に満州国の合同法院があります。その間の官庁街にほかの建物もたくさん並んでいます。そしてその真ん中に順天公園が囲まれています。
この所謂「興亜式」は伝統と近代を一つに融合しようと試みた様式です。この町づくり活動は満州国の目的を具体的に表わしています。つまり伝統的な価値体系を持つ近代国家です。そして、欧米の構造体にアジア様式の屋根を被せることは、欧米のシステムをアジアの栄冠によって支配するという意図をきわめて明白に象徴していると思います。
しかし、この活動において伝統的な要素はほんの少ししか顔をのぞかせていませんでした。町づくり活動が一つの全体的な世界観によって行われたわけではないので、新京の町づくりはある意味では、表面的なものでした。一つ風水の例をあげますと、紫禁城の場合は四つの寺院の真ん中に位置し、南の天壇と北の地壇の間、そして西の日壇と東の月壇の間にそれぞれ同じ距離がありました。この真ん中の場所はとても重要で、天子の威力がこの場所から全国へと届き、天下の太平を保つことが出来ました。けれども、新京の場合はちょっと違っていました。宮廷の西の方にお寺はなく、北に忠霊塔が、南に建国廟があり、そして川の東に、關帝廟が立っていました。關帝廟は宗教と関わりがあったけれども、他の建物は殆ど近代大衆社会に利用される為のものでした。しかもそれぞれの位置は風水的に正確ではありませんでした。その上に、新京の都市の本当の中心は宮廷ではなく、大同広場でした。これは「シビック・センター」という場所です。ここから国都の計画者たちは伝統性より近代性を重視していたことが分かります。
大同広場は少し地勢の高い所に位置し、そこを幅五四メートルある本通りの大同大街(元中央通り)が通過し、交通の面ではとても便利な設計となっています。本通りの間には大きい建物が建てられましたが、しかしそれは「興亜式」のようには建てられませんでした。例えば満州中央銀行は世界中の銀行と同じ外観を示していました。そのとなりには同じように近代的な満州電信電話会社本部の建物がありました。中国伝統のものである獅子像もこのように近代的に造られていました。大同広場周辺の建物の中で、アジアの伝統をよく反映するものが一つありました。アジア的な屋根をかぶせた首都警察庁は大同広場周辺の最初の建物でした。でも、これは宮殿前の建築物と比べると、またいくつかの点で違いました。首都警察庁の屋根は日本の「帝冠様式」の一種類でした。当時の日本では帝冠様式が人気を博し、その一例が愛知県庁だと言われています。しかし、「興亜式」はそれほど実践されることはなかったのです。「興亜式」を実践した建築家たちの記録を読むと、どうも彼らは「興亜式」を使って新しい様式を造りたかったように思われます。
だが、「興亜式」の建物は官庁街以外ではほとんど存在しませんでした。ほかの様式の方がもっと人気があったのです。例えば、関東軍司令部は所謂「帝冠様式」を取っており、その一部には大阪城を思わせるものがありました。もう一つは関東軍司令官の官舎の例ですが、この建物はヨーロッパの伝統様式となっています。
しかし、民間の建築物は近代的な国際様式を示し続けていました。東京海上ビルはその一例です。興業銀行ビルは満電のほうに似ていました。またデパートも「興亜式」ではありませんでした。つまり「興亜式」は結局民衆的にはならなかったということです。
勿論、近代性を示す為に設計者たちはほかの道具も使っていました。例えば、スペースの上手な利用です。新京では公園と緑地が多く、とりわけ緑地は四五〇人当たりに一ヘクタールも設けられました。これは北米とほぼ同じで、ヨーロッパの四倍ぐらいでした。当時の東京の緑地は、一〇、七〇〇人当たり一ヘクタールで、京都は四〇、八〇〇人当たり一ヘクタールでしかありませんでした。
緑地は公園や道路沿い以外にも色々なところに造られました。その結果、新京の郊外で、大きなグリーンベルトが出来、新京特別市の面積は四四〇平方キロメートルになりました。緑地はもう一つの意味を持っていました。大正初期以来『都市公論』のような雑誌では、工業都市に緑地を増すことを勧めていました。そのため、公園以外にも沢山の緑地をもっている新京はいうまでもなく進歩的な都市になりました。歩道やロータリーに木がよく植えられました。官庁街の南に人工の湖も造られました。また、南嶺では大きいレクリェーションの場が設けられ、野球、ラグビー、テニス、ホッケーなどの運動施設がつぎつぎに建設されました。そして、これらの設計は日本でとてもいい評価を得ました。
このように、新京の町づくりは日本本土の問題をすべて解決し、満州国国都としての新京はほかならぬ文明を進めるモデルとなりました。
さらに、新京はまた経済発展を代表する地域でも成長しました。勿論、新京は工業都市ではなかったけれども、町全体は典型的な日本国都の二の舞になりました。満州国建国直後、新しい国家の経済を統制する為に、政府機構はすぐ膨張し、官僚も多くなりました。多くの会社の本社も大連や奉天から新京に引っ越してきました。大手建設会社もここに来て、町づくりに参加しました。清水建設と小野田セメントが特に関わっていました。当然レストランや喫茶店などもすぐに出来ました。こうして、新京はあっという間にミニ東京になりました。
(実を言うと、新京には小さな工業地区もありました。しかし、規模が小さいので、軽工業しか許されなかったのです。そして面白いことに、工業地帯は都市の東北部に設けられました。その理由は東北部では、国都の空気が汚されないように風がスモッグを吹き散らすからです。)
満州国時代の新京の発展は満鉄時代の長春と大きく違っていました。満鉄時代は、長春は商業都市でした。大量の大豆が輸入され、「豆の都市」という通称さえありました。従って、長春から多くの道路と鉄道がひろがり、満州の内地へと繋がっていきました。一九三〇年代の国都新京ではこの交通計画がさらに進められました。その結果、新京は満州国交通の中枢の一つとなりました。
経済発展の為に、もう一つの産業も起こりました。満鉄時代には、長春はあまり注目されなかったのですが、新京になって、観光産業が突然生まれました。新京と日本との間の鉄道・飛行機の連結が進んで、国都見学や満州事変跡地見学などを目的とする、バスツアーが多くなりました。JTBの新京支社も創設されました。日本戦後のツーリズムに比べると、観光客の数はそれほど多くなかったけれど、その存在自体が戦後の観光産業をほのめかしていました。
経済と文化発展の為に教育の充実も必要となりました。満鉄時代には長春付属地で満鉄試験所、図書館そして小・中・高等学校が建てられました。中国人町にも小・中学校が設けられました。満州国の国都はこの教育制度をさらに進め、特に大学教育と中国人・朝鮮人・蒙古人の基礎教育システムも作り上げました。勿論、それに比べて、日本人教育の方が遥かに規模が大きかったけれども、この基礎教育システムは満州国の「民族協和」方針下の第一歩だったと言えましょう。
新京のもっとも重要な教育展示物は建国大学でした。六五万坪もあるこの大学は建国廟のすぐ南にありました。これは石原莞爾の発案によって設立され、東条英機が満州国の未来の指導部を育成する為に、その組織を創りました。
あいにく、新京にある学校・大学の教科書についての資料は現在殆ど見つかっていません。でも、いろんな雑誌に、それに関する記事がありました。勿論、記事自体は満州国の未来構想に対する宣伝にすぎませんが、教育重視の姿勢は明らかでした。新しい時代に入ったため、新しい教育が必要だったからにほかなりません。従って、新しい町づくりはもっと広い意味において社会的活動と同時進行していました。つまり、満州の首都計画は同時に「民族協和の精神」をもある程度反映していました。
このように、満州国は「理想国家」になる可能性が大きかったのです。新しい時代には社会安定の為の新しいやり方も必要でした。満鉄時代ではそれは満鉄警備員と領事館の警察に依存していました。でも、中国人の国家主義の時代においてそれでは足りませんでした。そこで関東軍が考え出した新しい方法はあの悪名高い「協和会」という社会統制の組織でした。これにはいくぶん近代的な要素がありましたが、満州国の設計者たちはその後この協和会でも不十分だと思うようになりました。近代的な都市・社会を推進する為に、傀儡国家をつくることが解決策として浮かび上がったのです。
近代的な都市・社会を推進することは日本本土の問題解決にも影響を与えました。満州国建国五年後、廬溝橋事件が起こりました。その直後、満州国の執政者の一部は帰国し、満州の経験を日本国内の政策に応用して、結局、日本を所謂「暗い谷間」に連れ込んでいきました。その意味で言えば、新京はまさにその為の実験室でありました。
満州の経験の中でもう一つ論じなければならないことがあります。一〇〇部隊の存在です。国都の南西郊外の孟家屯(モウ・カ・トン;Mengjiatun)という村に、七〇〇人位の日本陸軍が駐屯していました。哈爾濱の七三一部隊のように、この新京の一〇〇部隊も中国人を誘拐し、残酷な実験を行っていました。戦争中、国都の新京の近くで生物化学兵器事件もありました。満州国の近代性はこのようなものも含まれていると思います。数の多い中国人に対して、陸軍は合理的に生物化学兵器を利用し、全く近代的な対応を用意していました。
近代的な町づくりの裏には、悲しいことに、このような事実も存在していることを忘れてはいけないと思います。 
5.むすび
長春時代と新京時代の町づくりの経験を見ると、満州に於ける町づくりの活動には二通りの近代性の定義が含まれていることが分かります。一つは満鉄時代の近代性で、もう一つは満州国時代の近代性です。しかし、現実的に両方とも失敗しました。満鉄時代の近代性は中国人と関東軍に敗れました。満州国の近代性はソ連軍に敗れたことになっているけれども、実際は中国人を最後まで服従させることが出来ないまま滅びたと言えます。その上、大多数の日本人も賛成していなかったこともあるかも知れません。満鉄・満州国の執政者は満州に満足して勤められたけれども、それ以外の人は満州において殆ど満足が得られなかったと思います。長春にいた日系人は八百屋さんやパン屋さんとして中国人と経済的に競い合うことが出来ませんでした。満州の経験は日本国家の為に役に立ったかもしれない、多くの日本人はそれぞれまた別の思いを抱いたまま、帰国していたと思われます。
勿論、満州にはこの二種類の近代性だけが存在していたわけではありませんでした。他の分野を見ると、例えば、天理教の海外布教は明治二六年(一八九三)に始まりますが、満州にもいくつかの天理村をつくりました。ユートピアを約束した新宗教にも新しい生活の理想像が試みられ、それをもとに新しい町づくりも行われました。
旧満州における戦前日本の町づくり活動は重要でした。町づくり活動の行為だけではなく、これを通じて日本人が創ろうとした様々な近代性もそこに反映されています。それに「近代性」という現象は一つの定義だけを含んでいるわけではありません。近代性は多くの姿を持っているので、多重の近代性(マルチプル・モダニティーズ)という言葉を使ったほうがいいかも知れません。
そして、この町づくり活動の延長上に中国人も自らの近代性を造りました。明治日本人のような列強の簡単な模倣ではなく、中国人は寧ろある方法をじっくり選び、日本やほかの列強によく見習った上で、自分の町づくり活動を企てました。それにより、もう一つの近代性が満州に現れました。
長春の場合、このような活動がよく見られます。例えば、大きな公園はあまり必要ではなかったようで、そこにすぐ建物を立てました。そのため、人口密集率がかなり上がりました。建物については、勿論、忠霊塔は取り崩されましたが、溥儀の宮殿はそれ以前の使命に終わりを告げ、地質学院の校舎となりました。およそ一〇年前までは、満鉄と満州国時代の建築物がまだ沢山長春に残っていました。官庁街の建物は医科大学になったけれども、銀行とデパートはそのまま銀行、デパートとして続いていました。勿論、建物と通りの名前は変りました。大同広場と大同大街はそれぞれ人民広場とスターリン大街に改名し、さらにその後スターリン大街も人民大街に改名しました。
新しい建築にも中国人は取り組んでいました。一九六〇年代「民族形式」という様式が人気になりました。北京大学の一連の建物と一緒に、そのもっとも代表的な建築物は北京駅です。長春にもこんな様式がありました。旧満州国官庁街の真中に吉林省図書館が建てられました。満州国の様式ではなく、この建物はとても適切なものでした。昭和二四年(一九四九)に中国人が再び立ち上がったので、この様式は本当の中国の歴史を代表していました。(ところが、ここ二〇年間、もう一つの中国の近代性も出てきたようですが、これについては、また別の機会でお話が出来たらと思います。)ここ一〇年間、“authentic”(オーセンティック)という言葉がよく使われてきました。満鉄・満州国時代にとって、これはとても大きな意味を持っています。その意味とは簡単に言えば、正しい近代性かどうかということです。
これまでの内容をまとめてみると、日本人は満州で様々な進歩的な活動をしました。でも、その活動はあくまで日本の為であり、日本帝国にとって、確かにとてもオーセンティックなものでした。しかし、一方、中国人にとって、その活動は大きいなマイナスの影響をおよぼしました。だが、中国人がその経験を自分の目的の為に利用することが出来たので、中国大陸において、もう一つの近代性が作り上げられました。そして、それは日本人だけから習ったのではなく、自分の歴史にも配慮した新しいオーセンティックなものにほかなりませんでした。例えば、蒋介石が上海でつくった伝統様式の市役所がまさにその好例でした。
満州における近代性はとても重要でした。実験室としての満州が、様々な近代性を造ることを許されていました。一方、満州は植民地だったけれども、日本本土に対して、指導的な役目を演じることも出来ました。
しかし、この満州の町づくりの経験はもう一つのことも考えさせられます。すなわち、進歩的な活動は本当に有益なのか、という疑問です。言い換えれば、どちらの近代性が欲しいのかということです。京都の場合は、この質問が特にふさわしいでしょう。最近、未来派的な建物の場所をあける為に、京都の古い町屋が少しずつ消えています。確かに、建築の立場から、この百年来、京都にも様々な近代的な町づくり活動が行われてきました。ところが、現実的には建物だけが消えるのではありません。建物と共に、一つの地域社会がまったく別のものにとって代わられてしまうのです。町づくり、そしてこの活動に含まれる沢山の意味合いをもっと真剣に、綿密に考えたほうがいいのではないかと思われます。 
 


中日農村の比較 / 近代化による農村の変貌とその捉え方

一、中国農村の最近の変貌
皆さんが最近、中国農村に行くことがあればきっとその激しい変貌に驚くに違いありません。まず中国で一番の先進地域にある農村の様子の一部を写真で見てみましょう。浙江省の杭州蕭山国際空港付近の農村の航空写真です。七〇年代、八〇年代、そして九〇年代以後の三種類の異なる農家の建物がはっきり見えます。では、この三〇年の間に農村の建物の変貌の背後にはどんな変化があったか考えてみましょう。具体的な変化は次のように纏められると思います。  
(1)人口増、農地減
中国の人口は近年、毎年一〇〇〇万人ほど増え続けています。反対に農地は工業開発と都市圏の拡大により毎年(一九九六〜二〇〇五年)一二〇〇万畝(八〇万へクタール)が減少しています。
(2)農村工業の発達
一九八四年に始まった農村工業の促進運動が二〇年たちましたが、農村工業はすでに国家工業生産高の三分の一に達しました。農村の企業数は二二一三万社(二〇〇四年)に上り、農村の工業労働者も一億四一八〇万人(二〇〇五年)に達しました。
(3)農民の出稼ぎ
農村工業だけではなく農村から都市への出稼ぎ者も一億人になりました。
(4)農村経済構造の多様化
農村経済の構造が単一農業から複合化して、農業所得が農家総所得の二〇%以下になってきました。
二、農村近代化の捉え方 
変貌の背後には変化があります。すなわち農村の経済構造の変化です。中国農村は現在、このように激しく変化しています。もちろん日本の農村も戦後、とくに高度経済成長期に激しい変化がありました。このような近代化による農村の変化はどのように認識すべきでしょうか。それが今日ここで議論したいテーマです。近代化とは資本主義化、民主化、工業化、都市化ともいわれます。しかし農村は、このような近代化の中でどのように変化していくべきでしょうか。とくにアジアの農村はどうしたら良いのかが問題となります。 
1、わたしの研究の枠組み
研究の枠組みは、研究者の研究の道具、物差しであり、研究対象に対する見方です。私はこれまで農村経済史を研究してきました。研究のために私は農村工業化の概念を借り、再定義して、近代化による農村の変化を捉える基本概念として使ってきました。ちなみに農村工業化という言い方は、私の発案ではなく、戦前からずっと使われてきたものです。ただあまり明確には定義されていなかったようです。私は農村工業化を、農村経済が単一な農業を中心とする経済構造から、工業を中心とする農、工、商業の複合的な経済構造への移行過程であると定義します。この過程を近代化農村の変化の本質とも規定します。この移行は、アジア農村の近代化における唯一の選択肢とも位置づけます。この移行過程を計測するために、私は農家の兼業率と農家所得の農外所得率を統計指標として選びます。なぜ私は、このような研究の枠組みを使う必要があったのでしょうか。その意義と価値はどこにあるのでしょうか。私は高校卒業後、下放されて二年半農業に従事しました。農作業のつらさ、農村の貧しさを身をもって体験しました。八〇年代まで中国は都市と農村の分離政策を取ってきました。政府の考え方は、農村では農業を、都市では工業を担うことだったのです。有名なローマクラブは、八〇年代の中国の食料危機も予測していました。しかし農村の人々は本当に農業以外のことをやってはいけないでしょうか。農業だけで豊かになれるでしょうか。私はこれらの問題を検証したかったのです。そのために、農村の近代化とはなんだろうかという研究テーマを選びました。また農村工業化はそのための適切な枠組みであると判断しました。次に、さらに農村の変化についての諸言説を通して検討します。 
2、農村は近代化の中でどのように発展すべきか
(1)農業と近代化
近代化はすなわち資本主義化です。産業の近代化は生産要素の効率的な配置を通して資本の効率化を求めます。農業では機械生産による大規模農場経営が必要になります。しかしアメリカなど一部の国家でしかこれは実現できませんでした。アジアでは人口増による圧迫のために、資本の効率化より土地の効率化が追求されてきました。すなわち水田中心の農業生産が形成されてきました。水田は水管理の問題があって、いっそう大規模経営を難しくさせました。農業は生産要素(土地、気象条件)の制限だけでなく、生産品の市場も制限されてきました。つまり人間の消費量以上のものは生産できず、生産品を次から次へと変更することもできません。ですからいろいろな意味で農業は近代産業ではないのです。二〇〇〇年の日本の新農業基本法は、この認識に到達して、食料の安定供給(戦略的には一定の食料生産が必要)と環境保全、そして伝統文化の観点から農業と農村の見直しを行ないました。
(2)農村の発展についての諸言説
農業が近代産業として成り立たなければ、農村の人はどうしたら良いのでしょうか。これに関連する言説を歴史的に見てみましよう。まず経済学者の言説を見てみます。W・ぺティWilliamPetty(1623-1687)。イギリスの経済学者、古典経済学の創始者。彼は著書『政治算術』中でオランダ人を例にとり、オランダ人の嫌う職業は軍人と農民であり、それを外国人を雇ってやらせると指摘、産業は農業から工業、さらに商業へ発展する法則を発見しました。後にアメリカの開発経済学者C・G・クラークに実証されて〈ぺティ=クラークの法則〉と言われました。W・A・ルイスWilliamArthurLewis(1915-1991)。西インド諸島出身。開発経済学者。彼は発展途上国の経済問題を研究する学者で〈ぺテイ=クラークの法則〉を極度にまで発展させました。つまり彼の中心的な理論は一元経済論で、経済発展はいかに農業をなくして農業、工業の二元経済を一元化させるかにあると述べました。次に、社会主義思想の農村論を見てみます。マルクスは農業が厳しい職業なので一部の人にのみ任せてはいけないと思いました。考えた解決策は社会全体で交代でやることでした。『共産党宣言』には産業軍を組織して農業を担当すると注釈の中に書いてありました。T・モア、F・M・フーリエ、R・オーウェンなどは同じ組織が工業と農業などを一緒にやるべきだと主張しました。次に、中国、日本の思想史の中の農村意識を考察します。古代は基本的には農本主義でした。中国では「重農抑商」の伝統が非常に長く続きました。管仲(?〜BC六四五)が、最初に「士農工商」の職業的階級観念を唱えましたが、続いて商鞅が初めて農本思想を提起し、韓非が工商を末と称しました。それから「農本商末」「工商食官」が中国の主流思想になって今日まで続いてきました。漢代のとき司馬遷は、農業で豊かになる必要最小の規模を計算し、零細農家の裕福へ至る道を否定しました。また桑弘羊も初めて農業で国を豊かにする思想を否定しました。しかし全面的に農業の不利を認識したのはやはり清末になってからのことです。曾国藩は農民の過酷さについてある程度の認識を示しました。汪士鐸が明確に「減農広商」を提起し、鄭観応が「商をもって国を立つ」と主張しました。張之洞は「工という者が農商の基軸なり」と考えました。日本の古代でも「工商食官」でした。鎌倉幕府以後、武士政権の下で士農工商の身分階級制が確立しました。幕府の支配者たちは、ほとんどが「重農抑商」に力を入れ、封建制度の秩序を維持してきました。しかし幕末になると一部の学者の中に重商主義思想が現れてきました。石田梅岩が創設した石門心学がその主な代表でした。幕末の蘭学と洋学がさらに新思想への刺激を齎しました。明治維新の結果、日本は近代化政策を積極的に進めました。近代は中日両国ともに、農本主義から脱皮することから始まりましたが、農業自体をどうするべきかについては依然として農本主義のままでした。とくに中国は一九四九年から社会主義計画経済体制に入り、都市工業、農村農業の二元構造を固定化させました(わずかに一九五八年の大躍進運動と一九七〇年の農業機械化運動の時期、一時的な農村工業の促進運動がありました)。一九八四年になって初めて正式に農村工業化政策が認められました。日本は明治時代に、内務省の一部の役人が、農工協調主義の思想に影響を受けて田園工場の理想図を描きました。一九二〇年代から三〇年代には農村危機を救うために理化学研究所所長の大河内正敏(一八七八〜一九五二)を始めとする農村工業思想も生まれました。戦後一九六〇年代からも農村地域に工業を導入させる運動が始まりました。
(3)農村工業化の現実
農業が近代産業として成り立つには、まず一定の規模の拡大が必要です。規模の拡大につれて資本の高度化が進みます。典型的なのはアメリカの農場経営様式でした。しかしそれを実現するにはまず農村からの人口の排出が必要です。初期の段階では都市工業の発達だけでは間に合わなく、農村の工業化は自然に農村労働力の出口として現れています。水田と土地観念により日本における農業の規模拡大は、農家の耕地面積の拡大よりむしろ全体的には農業協同組合による共同生産、共同販売を通して実現されてきたと思われます。農産物の性質により大規模生産であっても経営が難しい場合があります。農業の社会産業としての性格が次第に認められるにつれて、農業は特別な保護を必要する産業であることが認識されてきました。初期の関税保護から、生産間接援助、生活格差是正などまで社会主義的な農業思想が一般化されてきました。しかしこの過程では自発的な兼業形態の農村工業化も自然に選択されていました。アメリカの農場経営も兼業形態のものが半分あるといわれました。産業の合理化で農業の国際移転も考えられますが、食料の安定供給の戦略からは完全に行なうことはできません。また自然保護、文化伝承の立場からも農業は絶対に必要になります。この意味で、国だけではなく地域社会、家族、個人などの各レベルでの農工の結合が現実に行われ、農村工業化のさまざまな形態を作り上げていました。要するに農村工業化は農村の現実的な選択でした。 
3、農村工業化の意義
(1)農村の近代化は農業工業化と農村工業化の二輪からなる。
農業工業化は、農業生産自体の工業化であり農業生産技術を進歩させることです。最初は機械化、ついで生物技術の革命です。しかし、安全性の問題で今はむしろ自然農法に回帰する潮流があります。農業工業化は、科学技術の進歩に拠るものなので、農業の高度資本化でもあります。その資金源は往々にして農業内部からではなくて外部から投入されます。その過程では規模の拡大と労働力の排出を伴います。これらはいずれも農村工業化に依存しています。農村工業化は経済レベルでの農工の結合であり、表面とは相反して農業を保護する自然な選択でもあります。封建時代は農本主義で、農業は社会産業として位置づけられていました。反対に工・商業は政治産業としてあるいは特権産業として管理、抑圧されました。近代化の初期は工・商業の開放と、農業の社会産業的地位の喪失過程でもありました。近代化の後期になって農業はやっと社会産業の地位に戻ってきました。それまでは多分農村工業化は唯一の選択肢であったと思われます。農業を近代産業として規模拡大させるには農村工業化が必要であり、また農業を営む人の生活を維持するにも農村工業化が不可欠でした。
(2)農村工業化の方法
基本的には、地域、家族、および個人レベルで農業を他の産業と結びつけることであり、それには様々な方法が考えられます。歴史的には以下のような形態があります。・地場産業―農産物加工業:伝統的な農村工業であり、その基本は繊維工業、食品工業、工芸品工業などです。形態は、家内工業、内職、小工場など・都市工業の分散―誘致:工業団地、下請け企業、在宅通勤などの形・農民の出稼ぎ:農家の子女の離村、農家の労働力の一時的出稼ぎ・農工商一体化経営:共同経営の形そして、その推進力は、・農家の自発力―専業農家は一〇%で、九〇%の農家が経済的に兼業を行なう・政府の格差是正―農村救済、地域振興、離農促進・都市工業の進出―土地と労働力を求めて地方へ分散などでありました。
(3)農村工業化の意義
通常、農村工業化は、国家の工業化、都市の工業化の一部を形成して、農村の余剰労働力を吸収すると共に、農民生活の改善対策になるといわれます。農業へ投入する資金源を産み出し、農業機械化の推進力とも見なされました。 
三、中日農村工業化の比較 
中日両国の農村工業化については、その進展状況(その量的把握)、その方法、およびその推進力などの面から比較できます。まず進展から見てみましょう。 
1、中日農村工業化進展の比較
(1)日本の農村工業化の進展
先に指摘したように、進展の指標として私は、兼業率、農外所得率を選びました。前者は農家の工業への参加度を測ると同時に、農業の自立度、産業率も量ることができます。後者は工業化の経済的進展度を計ると同時に、それに対する依存度も示すことが可能です。まず、統計で日本の農村工業化の数量的な進展を見てみましょう。時間的には一九五〇年に兼業率が五〇%を超え、農外所得率が三〇%を超えました。一九七〇年には兼業率が八〇%を超え、一九八五年には農外所得率が八〇%を超えました。一九八五年には二つの指標がともに八〇%を超えたので、この年に農村工業化が完成したと思います。
(2)中国農村工業化の進展
続いて、統計で中国の農村工業化の進展状況を見てみましょう。中国の農村工業化は、全体的には一九七〇年代後半から始まったことがわかりますが、その時点では労働力の農外率はまだ一〇%台で、農外所得率は一〇%以下でした。三〇年を経た現在、漸く兼業率は四〇%、農外所得率は五〇%に達しました。
(3)中日農村工業化進展の比較
まず中日の農家の農外所得率(%)を比較してみましょう。これは農業への依存度に対して農外収入への依存度を示しますので、農村工業化への深度、あるいは農村経済構造の中での農外部分の大きさを現わしています。図1に示しますように、日本は今、おおよそ八〇%ほどですが、中国は五〇%前後で、日本の一九六五年頃に相当します。次は中日の農家兼業率(%)を比較して見ましょう。兼業率は農家の農外事業参加の広範性、すなわち農村工業化の広がり状況を示すものです。中国では、農業センサス(統計調査)が一回しか行われていないので、農家兼業率は一九九六年の数値しかありません。その代わりとして、農村労働力の農外労働力比例を参考値として並べました。図2からわかるように、日本では一九六五年頃から八〇%以上になりましたが、中国は一九九五年から三〇%台に乗りました(一九九六年第一回農業センサスでは三七・一九%)。日本は戦後数年で五〇%を超えましたが、中国は二〇〇五年頃にようやく日本の戦前のレベル(四〇%)に達しています。 
2、中日農村工業化の方法の比較
農村工業化の方法は、先に、基本的には地域社会、家族、個人レベルで農業を他産業と結びつけることと説明しましたが、次は、主に農家が兼業する職業の分類と、農外所得の分類から主な方法を考察し、そして中日の比較も考えます。
(1)日本農村工業化の方法
まず所得から考察します。表からも分かるように、農家農外収入の主な部分は恒常雇用の賃金と職員俸給です。三〇%や四〇%台を占めました。一九六〇年から九〇年まで増加傾向でした。次には兼業の種類別人数を考察します。表から、人数的にも職員勤務者と恒常賃労働者のほうが多数であり、またそれが増加する一方であったことがわかります。兼業の形態は以上の状況でしたが、産業分野別ではどうでしょうか。そこで次に、農外の産業別構成を見てみましょう。表からもわかるように在宅就職者のどの層もその就業は、製造業と建設業が一番多く、第三次産業は三〇%以上、農林漁鉱業は五〜六%以下になります。個別的に一九六〇年の資料を見てもほぼ同じことがわかります。まず一九六〇年の農外収入から産業別の割合を見ます。さらに一九六〇年の産業別兼業農家人数の割合を見てみましょう 。
(2)中国農村工業化の方法
まず農家収入から見てみましょう。中国農家の自家経営は一九八〇年代から本格的に始まったもので、八五年からの統計を見れば労賃の部分が絶えず拡大し、農業を中心とする自家経営は縮小していました。生産所得の産業別構成を見てみますと、第一産業が半分以下にまで減少してきましたが、第二産業が三分の一に達しました。要するに農村工業化は、第二、第三産業を中心にする被用の拡大が主流だということがわかるでしょう。次に、農家の自家経営部分の所得の産業構成を見てみましょう。農家の自家経営は、第一産業が中心のことがわかります。さらに、農家労働力の産業構成を見てみましょう。農業労働力の減少、農外労働力の増加および工業中心の状況が明らかにわかります。
(3)比較
農家の農外収入の増加は、日本では形態的に自営、臨時雇用の減少と恒常雇用、職員の増加に伴いますが、産業的には第二、第三産業の拡大によると思われます。同じく中国も一九八〇年代以降、形態的には労賃の拡大と自営の減少がありますが、産業的にも第一産業の減少と第二、第三産業の拡大によることがわかりました。 
3、中日農村工業化の推進力の比較
3-1日本の農村工業化の推進力
日本の農村工業化の推進力は次の三つの部分に分けられると思います。
(1)農村の自発力
日本の農村では、専業農家は一〇%で、九〇%の農家が経済的に兼業する必要がありました。この自発による兼業は、まず出稼ぎの形で端的に現わされました。農民の出稼ぎは戦前、年間およそ一三〇万人以上でしたが、戦後、民間の統計では六〇万〜一〇〇万人ほどでした。しかし政府の統計はその半数しかなく、一番多い年で三〇万人程度でした。農村の自発性はまた、農協の農外事業にも現われます。とくに五〇〜六〇年代は農協を中心にする農村農産物加工業が一時盛んになりましたが、その後も農産物加工業、販売、金融、農村サービス業などが農協により着実に行われてきました。農村の自発性は、農村への都市工場誘致運動にも反映されていました。戦後の初期、一部の県はすでに積極的に都市工場誘致条例を定めましたが、七〇年代の広範な農村工業化ブーム時には、各地方が争って都市工業優遇の誘致策を打ち出しました。
(2)都市企業の進出
第二産業を中心にする農民の安定的な雇用を拡大させた一番の推進力はもちろん、都市企業の農村への進出でしょう。とくに七〇年代以降に都市工業が安い地価、労働力を求めて積極的に農村進出を行ってきました。
(3)政府の役割
政府が意識的に農村工業化を推進させていたかどうかとは別に、戦後日本政府の次のような政策は事実上、その推進力になったと思います。六〇年代に、都市と農村の所得格差が初めて社会問題になったとき、政府は『農業基本法』を制定して農家の自立運動を起こし、同時に兼業農家の離農促進政策を打ち出して農家の農外就職を積極的に支援しました。また、七〇年代には、都市企業の農村進出に応じて農村で工業化推進運動を起こし、地域格差の是正に努めてきました。さらに七〇年代から政府は、農村のインフラストラクチャー整備に力を入れ始め、農村地域の振興に財政支援も積極的に行なってきました。一例として、一九八八年に村ごとに一律一億円の「ふるさと創成」資金を配付しました。とくに農村地帯での鉄道と自動車道の整備は企業の進出と農民の地元での就職に大きな役割を果たしました。
3-2中国農村工業化の推進力
(1)農村の自発的推進
中国の農村工業化は、大体一九七〇年代後半から八〇年代にかけて自発的に始まったものですが、その基本的な形態はやはり農民の出稼ぎでした。統計で見てみましょう。統計から見れば、八〇年代の約一〇〇〇万人の出稼ぎ数から、現在は一億人近くになりました。農家の労働力出稼ぎ率も当時の三%から、現在の二〇%に増加しました。二〇年間にほぼ一〇倍も増えたことになります。自発のもう一つの形態は、郷鎮企業の形式の農村工業組織です。統計で見てみましょう。統計から見れば中国の農村工業は、八〇年代までは人民公社の体制の下で少数で、しかも組織の形が単一でした。八〇年代以降、数は六〇〇万社から二〇〇〇万社まで増え、組織の形態も団体経営のものから個人経営、合同経営まで多様化しました。とくに個人経営は五〇%から八〇%にまで拡大し、その労働者数も同じ傾向でした 。
(2)政府の役割
農村工業化に対する認識は、全体的に政府の方が遅れており、とくに中央政府は地方政府より遅れています。郷鎮企業に対する支援は、一部地方政府では一九七〇年代から開始していますが、中央政府では八〇年代後半からになります。出稼ぎに対する支援も、地方政府では八〇年代後半からですが、中央政府では二〇〇一年になります。農村に対する全面的支援は二〇〇五年からでしょう(農村義務教育の正式実施と農業税の全面免除)。
3-3比較
職業、移動、経済の自由がないために、中国の農村工業化の推進は、戦後少なくとも三〇年は遅れて始まりました。一部地域は七〇年代後半から始動しましたが、全体的には八〇年代になってからです。農村による自発的な推進は、中日ともに変わりありませんが、政府の役割がだいぶ違いました。日本政府による六〇年代からの取組みに比べれば、中国政府は八〇年代後半からになり、二〇年以上も遅れています。中国では農協のような農民組織がないために、農産物の加工業と農村サービス業が農民以外の人々に握られていました。日本では、都市企業による農村への進出が目覚しいですが、反対に中国は、郷鎮企業が農村工業化の主力になっていました。 
四、農村工業化と中日農村の社会と文化の変化 
農村工業化は、農村の経済構造の変化であり、農家の兼業化を通して農家の収入を改善し、農家の生活様式の変化も齎しました。この事は必然的に中日農村の社会と文化に影響を及ぼします。しかし時間の関係で、ここで深く検討できませんので、ごく簡単に纏めておきます。 
1、日本農村の社会と文化の変化
戦後日本の農村の社会と文化の変貌は、景観、社会構造、および文化・伝統の三つの面から総括できると思います。
(1)景観の変貌
景観的には戦後農村は次のように変化があったと思いますまずは都市近郊農村の都市化です。工業化、都市化の発展にしたがい、もともと近郊だった農村は次第に住宅団地化され都市の一部になってきました。一部に農地が残されたところもありますが、周囲の風景はすっかり都市部と変わらなくなりました。山間部の農村では、燃料の石油化や建築材の輸入によって山林の利用が減少し、農地もほぼ区画整理されました。農家収入の改善によって、農家の住宅のほとんどが近代化されましたが、伝統的な建築様式はなお数多く農村に残されました。山間部の道路もかなり整備され、一部の道路では沿線の商業化、団地化の現象も現れました。
(2)社会構造の変化
まず農村住民の混住化です。近郊農村の都市化や都市工業の農村進出によって、農村社会の住民構成が単純な農家から専業農家、兼業農家、都市移住者などの混住化社会へ変化していきます。一部の山村では、若者の離村などによって過疎化し、廃村になるところも現れました。繰り返される町村合併で、村が段々少なくなってきました。若者の都市移住と後継者難の問題で、農村社会の高齢化が深刻になっていきます。
(3)文化伝統の変化
まずは農村社会の生活様式の都市化です。兼業農家が中心になったために、農家の生活様式は、もはや都市住民との間に大きな格差がなくなってきました。農村組織の多重化が進み、行政的には町村のシステムがある一方、農協のような経済的組織もあります。また一部伝統的な組織も残されました。全体に民主化、平等化されて来ました。伝統文化の維持、保存と復活現象が見られます。生活様式の都市化によって、農村の伝統文化の維持、保存が次第に難しくなってきましたが、経済状況の改善によって復活の余裕も持てるようになって来ました。伝統的家屋の改造と祭りの復興が代表的な例でしょう。 
2、中国農村の社会と文化の変化
中国の農村の社会と文化の変化も景観、社会構造、文化・伝統の三つの面から纏めてみます。
(1)景観の変貌
中国の農村工業化は基本的には八〇年代からですが、その前の七〇年代にすでに「農業を大寨に学ぼう」運動を通して農地が区画整理され碁盤目のようになりました。そのときから村は自然の形を失い、伝統建築もかなり消失してしまいました。九〇年代に入り山林利用の禁止が始まりました。八〇年代から近郊農村の都市化も始まりましたが、しかし公共交通システムの整備の遅れもあって、若年労働者の自宅からの通勤が出来ず、一部の郊外が老人住宅化しました。
(2)社会構造の変化
地域共同社会の崩壊と再建が進みました。八〇年代の改革により、人民公社のような地域共同社会が崩壊して郷鎮(地方政府)――村(自治組織)のような新しい地域共同体が再建されました。地方選挙による農村の民主制度の樹立が試みられました。中西部農村では出稼ぎ労働の結果、子供と老人しかいない留守家族が増え、地域社会の問題になりました。一方、東部農村地域では、外部農業労働力の導入による移入民社会の出現で地域住民との融和問題が深刻になります。
(3)文化面での変化
六〇年代末頃に始まった文化大革命により、中国農村の伝統文化も都市と同様に徹底的に破壊されました。八〇年代に入り、政策緩和により次第に再生されてきますが、最近は、経済事情の改善によりさらにその復興が加速されました。その一つに墓地文化があります。最初に復興されたのは祖先崇拝の伝統文化でした。それは大規模な墓地改修に反映されます。とくに経済発展地域の農村では、祖先の墓や自らの墓の大量の改修・造が行なわれ、これが山林と農地の侵食につながり、社会問題になりました。宗族文化の面では、血縁関係を強調する宗族システムがかつては厳しく禁じられていましたが、いま伝統文化の形で一部地域に復活しつつあります。その特徴は、族譜の編纂、宗族の宗寺の再建に現れています。仏教文化においては、日本ほどではありませんが、中国農村では一部のお寺が再建され、僧による葬儀での念仏が一般化されました。自然信仰、祭りの文化では、年末年始にしか行なわれなくなっていた、祭りの文化が次第に復興し、年中行事化されていきます。しかしその推進力はむしろ経済力の面にあります。ほとんどの祭り文化の復活の目的は、最初は観光業の振興と地域貿易の促進および外部からの資本の導入にあります。最近とくに、河南省、陝西省などでの黄帝、炎帝、神農、伏儀をめぐる民族神話の祭り文化の行事が目立ちます。それは海外観光客の誘致や海外華僑資本の導入に関係しているでしょう。
3、比較
景観的に日本の農村は、全体的に変貌が完了しました。これからは安定的に現状を維持していくでしょう。中国は東部の方が激しく変貌しており、西部の地域はこれから変貌に向かうでしょう。中国の農村にはもっと自然環境と共存が必要となるでしょう。写真に見えるような東部地域の農村の二の舞は演じたくないものです。社会的に日本の農村は、さらに混住化が進むでしょう。中国農村ではこれから地方共同体の再建や、民主化の樹立が課題になります。文化的には日本では伝統文化の維持が課題ですが、中国では伝統の全面的な復興を目指すでしょう。 
五、まとめ 
農業は普通の産業ではなく、社会産業であります。その社会産業は、食料安全、自然保護、そして伝統文化の伝承などが義務付けられるのです。アジアの農村では、近代化はたんに農業自体の技術的近代化だけではなく、農村の工業化という経済構造の近代化の側面をも持ちます。現実には農村工業化は、農外収入八〇%、農家兼業率八〇%の達成をもって実現されると思います。日本はすでに八〇年代に到達されましたが、中国の農村の現在は、日本の六〇年代後半期に相当します。これから、変貌に向かってさらにスピード・アップするでしょう。その過程では日本の経験をいろいろ参考にすることができると思います。 
 
日印関係とインドにおける日本研究 / 宮沢賢治の菜食主義の思想

はじめに
周知のとおり、今はグローバル化、ITそしてインターネットの時代である。世界は小さくなり、国と国の間の距離が短くなってきた。情報の流れが以前にはなかったほど急速になり、その把握が速い方は勝ち、手遅れの方は国際競争から取り除かれてしまうという危険性にさらされている。二つの国の間における関係も、自分が相手について把握している情報や相手の文化などについて持っている知識の量と質によって、深くなったり浅くなったりする。まず、相手国について正しい知識を持つことは何よりも必要であり、前提条件でもある。なぜなら、相手国の文化、社会、歴史などを正しく理解することによって、初めてそれらの国と自国との比較が可能となり、正しい判断をする知恵がわいてくるのである。固定観念や先入観に満ちた浅薄な知識は相手を軽蔑し、誤解するきっ掛けを生み出すだけではなく、相手との関係実態が破断させられてしまう結末を招くに違いない。ある国の文化について正しい知識を持つことによってはじめて私たちはその国について持っている先入観を捨てることができると思う。それだけではなく、お互いに尊敬し合って健全な二国間関係を築き上げるためにもそれが役立つのである。しかし、世界各国についてそれぞれ正しい知識を持ったりすることはどの国においても不可能であろう。そこで普通はどうするかというと、実利主義的に考えるのである。何らかの形で自国にとって利益になる相手国について、その国の文化、価値観、歴史、外交政策などを研究すると共に、その国との間で行われる文化交流に比重を置き、情報交換をしたりして相互理解や関係を深めようとするのが当然で、それが普遍的な真実であると思う。つまり、国民レベルでの文化交流を強化して相互に信頼と友情に基づいた関係を築き上げない限り、永久に続く二国間関係の実現などはあり得ない。
今までの日印関係の歴史、あるいはインドにおける日本研究、若しくは日本におけるインド研究の歴史を見ると、「とってもすばらしかった」といえる時期は一度もなかった。日本とインドは互いにあまり関心を持たないままで二十世紀を生き抜いた。両国間の親密な関係は互いに利益にならないと思ったから疎遠にしてしまったのかどうかはわからないが、過去のことは過ぎ去ったこととして忘れた方がいいのではないか。それはそれでよいと思う。しかし、今後の世界の動きを考えると、インドと日本がお互いに以前と変わらぬ無知と無関心のままでは、もはや居つづけられない。もし、今のままで二十一世紀をもやり抜こうと思ったらそれは両国の何れにとっても、掛け替えのない利益を逸することになるだろう。これにやっと気付いたのだろうか、日印両国の政府はこれからの日印関係をより積極的なものにし、新時代の要求に応えようとして「日印グローバル・パートナーシップ」の構想を打ち出している。未だに揺らいでいる日印関係の基盤を安定させ、有意義な日印グローバル・パートナーシップを築き上げながら両国間の経済的戦略的協力を一層高めるためには、草の根レベルでの文化交流も必要となる。そこで、より親密になるべき将来の日印関係のあり方を見通しながら、今日までの日印関係、そしてインドにおける日本研究のことをまず検討してみたい。 
古代から戦前までの日印関係
日本とインドは昔から仏教を通して深い文化関係を持っていたとよく言われる。インドで発祥し、中国・朝鮮経由で日本にも渡ってきた仏陀の教えこそは日印関係の絆であるという考え方は、以前から日印関係について論じるほとんど誰もが鼓吹してきたことである。この考え方は大変理想的なものに聞こえるが、これを裏付ける歴史的証拠があるかどうか私は疑問に思う。六世紀ごろ仏教の教えが日本に伝わってきたということは確かである。それを裏付ける歴史的文献は日本にも、中国にも朝鮮半島にも歴然として残っている。だが、古くから日本とインドは直接交流を持っていたかということになると、その証となるものは何一つとしてない。もちろん古の日本人は、釈迦の生まれた聖地として、また西方の極楽として昔の「天竺」を敬っていたかもしれない。しかし、当時のインド人にとっては、日本についてわかるすべが何もなかった。おそらく、日本という国の存在さえ知らなかったのではないか。古代にインドから中国に渡ったインド人僧侶たちの何人かが日本にも渡っていることは確実視されているが、その中でインドへ再び帰って来た者は一人もいなかった。だから、古代インド人は中国についてかなりの知識を持っていたものの、和人や大和の国についてなにも知らなかったのである。人と人との間の交流どころか、情報の間接的なやり取りさえなかったはずだ。逆に、中国、朝鮮経由でわたってきた仏教とともにインドの説話物語などが日本に入ってきたので、当時の日本人は間接的にインド文化にかなり触れる機会があったのだろう。そして、インド人が日本について聞くことになったのはたぶん明治時代に入ってからではないかと思う。
明治・大正時代になると日本に興味を持つインド人が何人か登場してきた。日露戦争で西洋の大国ロシアを負かした日本は多くのインド人のアイドルとなった。日本のめざましい勝利は当時の植民地支配国イギリスからの独立を夢見ていた多くのインド人に希望と刺激を与えた。中でも、アジア初のノーベル文学賞受賞者タゴール(一八六一〜一九四一)が日本人の勤勉さ、日本国の勇ましさに非常に感動した。彼は国民に日本や日本人に学べと呼びかけ、日本・日本人をインド人のロール・モデルにしようとした。タゴールはまた、日本の思想家であった岡倉天心(一八六二〜一九一三)とも親しい関係を持っていた。岡倉天心は一九〇二年にインドを訪れているが、タゴールも大正・昭和期にわたって五回も日本を訪れたことがある。二人とも「アジア的価値観」を高く評価し、アジアの発展と世界平和の維持を希っていた。しかし時代が変わって昭和期に入ると、日本は次第に帝国主義的な行動をとるようになったので、タゴールは日本の行動を激しく非難し、今までロール・モデルとしてみてきた日本から遠ざかるようになった。日本は次第に太平洋戦争に向って突き進んで行く結末となるのだが、インドもやがて自由・独立運動の波にのめり込んでしまい、お互いに無関心の一時期を送ることになった。もちろん、第二次世界大戦中、ドイツ経由で日本に渡ってきたスバース・チャンドラ・ボース(一八九七〜一九四五)をはじめ数人のインド人の自由運動指導者たちが日本の当時の軍事政権の支援を受けて、インドを独立させようと努めたこともよく知られている。しかし、当時の日本の軍事政権によるボースらへの支援及び対インド戦略の作意は、インドの独立であったのか、または敵国であったイギリスの勢力を退けて日本帝国の版図をさらに広げることであったのか、その真相がつかみにくいので評価の対象外にしておきたい。 
戦後の日印関係
インドは戦後の日本と早くから関係の正常化を図った国のひとつである。独立インドの初代首相ジャワハルラール・ネルー(一八八九〜一九六四)の主導のもとに当時のインドは、民主主義と平等性を尊重しながら新しい国づくりに励んでいた戦後の日本の栄誉を維持できるよう、国際社会において日本にふさわしい地位を与える必要性を強調した。そして一九五一年のサンフランシスコ対日講話会議への参加を拒んだインドは、翌一九五二年に日本と個別に平和条約を締結し日印外交を樹立した。実は、その四年前の極東国際軍事裁判(一九四六年五月三日〜一九四八年一一月一二日)ではインド代表のラダ・ビノード・パール判事が日本の被告人たちの無罪を主張して、判決に全面的に反対する少数意見書を提出している。世界全体が敗戦した日本をひどく非難し、高い賠償金を求めていた当時としては、インド政府が日本政府に賠償金の要求を一切しなかったことや、インド国民の日本国民に対する友好と善意の現われであったパール判事の判断は、当時の日本人のインド観を覆す大きな出来事であったと思う。また、それに先立ってネルー首相が一九四九年に一頭の象(インディラ)を日本の子供達への贈り物として上野動物園に届けている。敗戦のショックや苦しみからまだ完全に立ち直っていなかった日本国民に、インドのこのような親しみに満ちたジェスチャーが慰めと希望を与えたに違いない。その結果かもしれないが、相互の関心も高まり、一九五〇年代の後半になると日印の関係はかつてないほどの勢いを発揮し始めたのである。そして、一九五七年に両国の首相(ネルー首相と岸信介首相)がお互いの国を公式訪問し、同年に「日印文化協定」が締結された。戦禍の中から蘇った日本はその時までに戦前のレベルを越える経済成長を達成し、発展途上国に政府開発援助(ODA)や円借款を供与するまでに至っていた。実は、インドは一九五八年から日本からのODAを受けている。日本のODAを初めてもらった外国はインドであるということ自体が、一九五〇年代の日印関係がいかに良好な方向に進んでいたのかを裏付けてくれる。そして、一九八六年からインドは、日本の最大のODAを供与される国となっている。
要するに、戦後の十数年はインドと日本の関係が一番好ましい方向に進んだ時代であったといえる。しかし、日印間のこのような友好関係は長く続かなかった。一九六〇年頃になると世界は冷戦の波に揺られ始め、日本は完全にアメリカの傘下に入って自国内の経済発展だけに夢中になった一方、インドは非同盟主義を強調して民主主義の普及、植民地制度の破壊、人種差別の撲滅などを呼びかけながら自給自足の国づくりに励んだ。そして、非同盟主義を強調しながらも少々ソ連寄りになってしまったインドの振る舞いを日本が疑いの目で見るようになった。結局、二国間の信頼は冷戦の高潮に呑まれてしまい、お互いに無関心状態の十数年を送ることになってしまった。もちろん、そういう状況の中でも、一九八〇年代にスズキ自動車をはじめ、いくつかの自動車関係の日本企業がインドに合弁会社の形で進出してきたが、それは日本の他の外国との貿易、または合弁企業の規模に比較すると、大海の一滴に過ぎなかったと思う。そして、何と言ってもこの時期の出来事として忘れてならないことは、一九九一年にインドは外貨準備高がなくなり深刻な経済危機に直面していたとき、日本が直ちに適切な経済的支援を実施して、インドを全面的経済破滅から救い上げたことである。逆境の友は真の友というが、当時の日本の親しみに満ちた行動によってインドは経済危機を乗り越え、後の経済自由化と市場開放の画期的な政策を打ち出し、インド経済の抜本的な改革に着手できたのである。 
現在の日印関係
インド政府が二十世紀の終わり頃(一九九二年)から打ち出した上述の経済自由化と市場開放政策の結果、インド経済は大規模な成長を見せ始め、多くの外国企業がインドに進出して投資するようになった。それに加えて、現在のIT革命とその世界的な普及によってインドは情報技術主要国の一つとして、換言すればソフトウエアの大国として認められ、世界中から注目を浴びるようになった。その上に、今までのような欧米中心の経済・貿易政策だけでは二十一世紀のグローバル化の時代を通り抜けられないことに気付いたインド政府は、「ルック・イースト」(LookEast)の政策を打ち出して、東南アジアや東アジアの国々へ以前には無かった関心を持つようになった。その結果、一九八〇年代の終わり頃まで横這い状態であった日印関係も次第に改善の方向に向き始めた。以後、特に製造企業、貿易などの分野では著しい成長がみられるようになった。日本の通産省の統計によると、二〇〇五年度の日本からインドへの直接投資は前年度に比べて二倍も増加している。それに、現在およそ三五〇の日本企業の支社がインドに進出しているとのことである。近年、政治や経済の分野で多くの要人がそれぞれお互いの国を訪れ、経済、政治、安全保障戦略、そして文化の面でさらにより良い日印関係を築き上げる下敷きを築きつつある。たとえば、二〇〇〇年の八月に当時の森首相がインドを公式訪問したとき「二十一世紀における日印グローバル・パートナーシップ」についてインドのバージパイ首相と首脳会談を行い、共同声明を発表した。さらに五年たった二〇〇五年の四月には、小泉首相がインドを公式訪問して、インドのマンモハン・シン首相と首脳会談を行った。この会談で、両首脳は「二国間関係の着実な発展」を強調し、「お互いに関心のある地域問題、国際問題」に協力し合って取り組むことを協議した。そして、両首相は「アジア新時代における日印パートナーシップ」に調印したのも見逃してはならない出来事である。このグローバル・パートナーシップを強化させ、期待される成果を得る目的で次の「8項目の取り組み」(EightFoldInitiative)を定め、それを実現するために努力することを決定した。
8項目の取り組み
(1)対話の高度化と交流の強化
(2)総括的な経済的関与の強化
(3)安全保障対話・協力の強化
(4)科学・技術面でのイニシアティブ
(5)文化・学術面での交流及び人と人の間(両国民間)の交流の強化
(6)アジア新時代開幕に当たっての協力
(7)国連及びその他の国際組織における日印協力
(8)グローバル的な挑戦に対応するための協力
「8項目の取り組み」のいずれの項目も健全な二国間関係を築き上げるために必要であることは言うまでもない。中でも、第5項目の「文化・学術面での交流及び人と人の間の交流の強化」は、二国間関係のすべての基盤を成すものであると主張したい。むしろこの項目を第1項目にして扱い、互いの文化、習慣、価値観、世界観、ものの考え方などを相互に理解してもらわない限り、深みのある日印関係は不可能であろう。日印両国は、日印文化協定締結五〇周年に当たる今年(二〇〇七年)を「日印交流年」として指定し、それぞれの国でさまざまなイベントと記念事業を行うことを計画している。しかし、こうした他国の文化・異文化を紹介するイベントや行事は大都会の一部のエリートだけを対象に留まってしまっては期待する効果は得られない。こういうイベントを全国津々浦々に住んでいる、社会の中心勢力である民衆にまで届き渡るような方法で紹介してほしい。
要するに、二十一世紀に入ってインドと日本はようやくアジアの責任ある二つの国として積極的に手を組むようになったような気がする。そして、日印関係が徐々に望ましい方向に進展している今日、インドにおける日本研究の実態を探ってみることは有意義であると思うので、以下に簡単に触れておく。 
インドにおける日本研究
日印関係の歴史と同じく、インドにおけるこれまでの日本研究の成果もあまり賞賛すべきものではない。ここでまず、どうして今インドで日本研究が必要なのかという疑問が出てくるかもしれない。それにはいろいろな理由を取り上げて答えることができると思う。例えば、次のようなものである。
1.インド人が日本について持っている知識は極めて少ない。高いレベルの教養が身についているインド人でさえ日本について誤った先入観を持っている。
2.日本人の価値観やものの考え方はどんなものか、社会の構造や家族制度はどうなっているか、日本人の食生活や宗教生活はどういうものか、現在のインド人には全然わからない。相手の心理が良くわかり、考え方、価値観、国民性などを正確に把握しない限り信頼と友好に基づいた二国間関係を築き上げることはできない。
3.かつての日本はインドの敵国でもなければこれといった友好関係を持つ国でもなかった。この事実がインド人の今までの日本観の根本をなしてきたと思う。しかし、「日印グローバル・パートナーシップ」の新時代においては、もはやこのような無知と無関心の態度では期待する成果をもたらさない。
4.人と人の間での交流は、すべての二国間関係の決め手であるに違いない。このレベルでの交流を促すものは相手への関心と思いやりに他ならない。しかし、この関心や思いやりは相手について自分が持っている知識から生まれてくるのだということに気づいている人は少ない。つまり、インド人にとって、日本研究は日本に対する知識を生み出してくれる手段である。
ここで、インドにおける日本研究を「インドにおける日本の地域研究」「インドにおける日本語教育」および「インドにおける日本文化・文学研究」と三つに分けて考える必要がある。 
インドにおける日本の地域研究
インドにおける日本の地域研究は実は半世紀ぐらいの歴史を持っている。一九五五年に設立されたIndianSchoolofInternationalStudiesの一つの研究学科として「東アジア研究学科」が設けられ、中国、日本及び朝鮮研究を開始したのがその始まりである。この研究学科は後にネルー大学の国際関係学部の一つの学科となったが、今も日本地域研究を活発に行っている。一九六九年の十月に日本とインドは「インドにおける日本研究振興のための覚書」(MemorandumonPromotionofJapaneseStudiesinIndia)に調印した。その一歩として、同年にデリー大学で新たに「東アジア研究学科」が開設され、日本の地域研究と日本語教育が同時に発足した。インドで現在日本関係の地域研究を行っている所はデリーにあるこの二つの大学だけで、研究者の数も両手の指で数えられるほど少ない。主な研究テーマとしては、日本の国際関係と外交、経済と貿易、日本的経営、歴史、政治などが取り上げられている。要するに、現在インドで行われている日本関係の地域研究の規模は非常に小さくて、時代の要求に応えられなくなっていることは一目瞭然である。「アジア新時代」における日本の地域研究の意義はいかに大きいかということを認識して、インド各地の大学や研究機関にその研究分野を設けることがインド政府の緊急政策課題になってほしいと願っている。 
インドにおける日本語教育
インドにおける日本語教育の歴史は地域研究と比べると長いが、その道程を遡って見ると、今からおよそ九〇年前にインドで日本語講座が開講されていたことがわかる。それは、前に触れたタゴールが自らの設立したウィシュワー・バーラティー大学(タゴール大学)で一九二〇年頃から日本語教師を日本から招き入れて日本語教育の口火を切ったことに由来する。この講座は数年間続いたが、昭和期に入って日本が帝国主義的外政を強行し戦争への道を進むにつれて、タゴール大学の日本語講座も中絶せざるを得なくなった。これ以後、インドで本格的な日本語教育が始まったのは一九五七年の「日印文化協定」の締結後からである。翌一九五八年には在インド日本大使館がニューデリーとコルカタ(Kolkata)で日本語講座を開講している。デリー大学では一九六九年に、ネルー大学では一九七三年に日本語のコースが次々と開講された。戦前に中止されてしまったタゴール大学の日本語コースも一九五四年に再開された。インドの商業都市であるムンバイ(Mumbai)では、一九五〇年代の後半に日本語講座が開かれ、隣のプネ(Pune)では、地元の印日会(Indo-JapanSociety)が一九七一年に最初の日本語講座を開設した。今、プネ市はインドで日本語教育が一番盛に行われる場所となっている。二十世紀の第四四半期になると、日印経済関係がより親密になってインド市場への日本企業の進出が増えるに伴って日本語運用能力が身に付いた人材が益々求められるようになってきた。しかし、需要が多過ぎて、既存の日本語教育機関から出る卒業生だけではその需要に応えられなくなった。したがって、一九八〇年代までデリー、コルカタ、そしてプネ市中心に行われてきた日本語教育はインド各地へ広がり、現在、インド全国の約七〇箇所で日本語教育が行われるようになったのである。それに、教師数もおよそ二五〇名以上になり、学習者数は常時八〇〇〇名を上回るようになった。
実は、今までインドで行われてきた日本語教育は高等教育レベルでの日本語教育で、小・中等レベルでの日本語教育はほとんど無視されていた。タゴール大学の付属学校だけは例外で、以前から選択科目として日本語を導入している。二〇〇五年四月にインドで行われた日印首脳会談で、小泉前首相とマンモハン・シン首相がインドの学校にも選択科目として日本語を導入することを協議し、インドの日本語学習者の数を二〇一〇年までに三〇〇〇〇人までに引き上げることに同意した。その結果、二〇〇六年の四月からインドのCentralBoardofSecondaryEducation(CBSE、中央中等教育委員会)運営の学校で日本語を選択できる外国語科目として導入した。当初は第六学年から第八学年生を対象にしているが、徐々に上の学年へ広げていく予定である。教師の不足、適当なカリキュラムの開発と教材の作成などは大きな問題であるが、インドの中央中等教育委員会(CBSE)、在インド日本大使館、日本国際交流基金、MOSAI(MombushoScholarsAssociationofIndia)、インド日本語教師会(JALTAI)などインドにおける日本語教育に直接携わっている両政府機関、教育機関、教師会及び非営利組織が共にこれらの問題を乗り越える措置をいろいろ講じている段階である。インドの小・中等教育への日本語教育の導入は、これからのインドにおける日本語教育の推進に大きな弾みを付けるに違いない。 
インドにおける日本文化・文学の研究
現在インドで日本の文化・文学の研究が行われている所は、日本の地域研究と並んで、デリーにある二つの大学、つまりネルー大学とデリー大学だけである。ネルー大学の語学部の日本語学科で現在教員と研究生を合わせて約一二人の日本研究者が日本の文学、社会、文化などを研究している。また、デリー大学では五、六人の文学・文化の研究者がいる。主な研究テーマは古典文学、説話文学、物語文学、明治文学、仏教思想などで、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、島崎藤村、宮沢賢治、三島由紀夫、川端康成、遠藤周作、芥川龍之介などの作家や彼らの作品および今昔物語などのような古代文学の研究をおこなっている。中には、日本の文学作品をインドの公用語に翻訳して出版している研究者もいる。
参考までに、インドの首都ニューデリーにあるネルー大学とオールドデリーにあるデリー大学における日本語教育と日本研究の内容について簡単に記述しておく。
デリー大学
実は、インドではじめて公的に日本研究専攻課程と日本語コースを同時にスタートさせたのはこの大学である(一九六九年)。デリー大学の日本語講座と日本研究学科はDepartmentofEastAsianStudies(東アジア研究学部)に設けられているが、日本研究では日本の経済、歴史、外交と政治などの修士課程(M.A)、哲学修士課程(M.Phil:M.A.のあと大学によって一年か二年のコース)、そして博士課程がある一方で、日本語コースには二年間の修士課程(M.A.inJapanese)および幾つかのディプロマ(資格)コースがある。
デリー大学はごく最近まで日本研究だけに主眼をおき、日本研究学科に入学する学生には日本語の運用能力が義務付けられてきた。それに、日本語教育としては、ディプロマ・コースやパートタイム・コースしかなかったが、九年前から日本語研究にも主眼をおくようになり、言語学、日本文学、漢文と古典語などの学習が中心となる日本語の修士課程が新設された。現在、日本研究課程では十数人の大学院生が専攻しているのに対して、日本語コースでは、全コースを合わせて常時一〇〇名以上の学習者がいる。
表1:デリー大学の日本研究・日本語コースフルタイムパートタイム
ディプロマ・コース(二年:五〇〇時間)
インテンシーブ・ディプロマ・コース(一年:五〇〇時間)上級ディプロマ・コース(一年)
上上級インテンシーブ・ディプロマ・コース(一年:三六〇時間)
日本語の修士課程(M.A.inJapanese)(二年)
日本研究哲学修士課程(M.Phil)(一年)
日本研究博士課程(Ph.D.)(三年)
ネルー大学
一九六九年に創立されたネルー大学は最初からインドにおける高等教育のメッカとして知られ、デリー大学と異なり、「日本地域研究学科」と「日本語学科」はそれぞれ「国際関係学部」と「語学部」の、違う学部に属している。国際関係学部の日本地域研究学科の研究生は学際的な連係として、選択科目に初級日本語コースを学習しなければならないが、語学部の日本語学科の同研究生向けの特別講座を受けているのが現状である。ネルー大学の語学部のひとつの研究センターである日本語学科(正式名は、「日本語、朝鮮語と東北アジア諸国語研究科」CentreforJapanese、KoreanandNorthEastAsianStudies)は、国際関係学部の日本地域研究学科と違って大規模なセンターで、日本語、翻訳と通訳(和英・英和)、日本文学と芸術、日本社会と教養、比較言語学などの教育や研究が活発に行われている。このセンターの日本語講座は一九七三年に一年間のフル・タイムのディプロマ・コースとしてスタートを切ったのだが、翌一九七四年には五年間で学士と修士課程が修了できる「五ヵ年総合課程」に格上げされて大人気を呼び、一九八二年に博士課程も新設されて現在に至っている。インドにおける日本語教育において、同学科は、学士課程から博士課程までの高等日本語教育を提供しているインド唯一のセンターでもある。
表2:ネルー大学における日本語学科と日本地域研究科の履修内容日本語学科(語学部)日本地域研究科(国際関係学部)
学士課程(三年のコース、週に二〇時間、約九〇名)
主なコース:
(1)仮名、漢字、テキスト
(2)会話、文法、作文
(3)翻訳・通訳
(4)日本文学史
(5)日本の文化史博士課程(五年(M.Phil二年、PhD三年)九名)主なコース:日本の地域研究関連科目(日本経済、政治、外交、歴史など)哲学修士(M.Phil)論文(PhD)論文
博士修士課程(二年のコース、週に一六時間、約二五名)
主なコース:
(1)テキスト(新聞紙、小説、評論、エッセイ、文学作品など)
(2)翻訳・通訳(和英・英和)
(3)現代日本語の用法(要約、手紙の書き方、論文の書き方、日本事情、ことわざ、慣用句、四字熟語、同音異義語、誤りやすい言葉など)
(4)日本の歴史(教養文化史)
(5)卒業論文(課題は学生に選択される)
博士課程(M.phil.とPhD)前期二年、後期三年、六名)
主なコース:比較言語学、比較文学・日本文学、日本の社会や文化などに関するコースとMphil論文とPhD論文。 
インドにおけるに日本地域研究・日本語教育の普及を妨げる原因
インドにおける日本地域研究・日本語教育の普及を妨げる主な原因には次のようなものが指摘される。
1.まず、インド政府の外国語教育と地域研究政策、それらの分野を専攻する学習者・研究者に対する待遇の不備を最大原因としてあげられると思う。
2.高等教育の段階では、近年日本語教育と日本研究が注目されるようになったものの、予算不足や優先順位の変更のため停滞状態が続く。
3.また、欧米やアジアの諸国のやり方と違って、インド政府は外国語の専門家や地域研究の専門家を外交官、外交関係の仕事などに任命することは滅多にない。外交官向けの国家公務員試験には国連の公用語以外の外国語は選択科目として認められていないし、せっかく苦労して外国語をマスターしても観光案内、通訳とか翻訳といった仕事しかないということを知っている学習者は、一生をかけての外国語研究などを好まないのである。
4.指導的地位を目指す野心深いインド人にとって、語学とは社会的地位をもたらしてはくれないごく平凡な学問である。故に、日本語を含む外国語の勉強を自ら進んで選択するインド人は以前から極めて少なかった。しかし最近では、外国語を学べば給料の高い仕事に就くことができるので、実利主義的な志向を持つインド人学生が競って日本語などの外国語を学ぶようになった。しかし、少しでも日本語ができるととても給料の高い仕事に就けるということから、多少とも日本語能力が身に付くとすぐ退学して実務に就く人が多い。従って、日本研究を続ける学習者の数は依然として増加しない。
このような状態の中でインド人の対日本理解を深めることは簡単ではない。日本語を勉強しただけで、学習者自身の日本人や日本に対する理解が深まってくるとはいえないし、自ら日印関係を強化する橋渡しになれるともいえない。インドに今最も必要なのは、これからの日印関係の重要性を十分に認識し、積極的に日本研究に全力を尽くす日本研究者である。日本学の研究者の建設的な研究成果が一般大衆の間に広がり伝わることによってしかインド人の対日本理解を深めることはできないと私は深く信じている。そのために、私は日本文学の研究をしているのである。私の努力によってインド人の日本人理解を少しでも深め、日本人観を変えることができれば幸いと思って、日本の文学作品の翻訳もいろいろやっている。現在私は、宮沢賢治の作品に見られる東洋思想、つまり仏教・インド思想とはどんなものであるのかの研究を続けている。賢治の『ビヂテリアン大祭』という作品にどんな東洋的・インド的思想があるのか、ここでその作品内の菜食主義者の分類だけを取り上げて、現代インドの菜食主義者の種類と比較してみたいと思う。 
宮沢賢治の菜食主義の思想
宮沢賢治の菜食主義の思想を形成したものには主に二つの考え方が絡み合っている。一つは、宗教的な考え方であるが、賢治は熱心な仏教徒で、特に法華経の教えに導かれていた人だから、生き物に対する輪廻転生の概念が彼の食生活に対する思考を形成する主な役割を果たしたに違いない。この地球上のすべての生き物は親子・兄弟であるという生まれ変わりの概念に基づく宗教的な考えと、生き物に対する慈悲の概念が彼の思想に顕現している。もう一つは、科学的な観点から食生活を評価する彼の知恵で、まず肉食は菜食に比べて高価につくという考え方も潜んでいる。貧しい人々にとっては、肉食はなかなかできないことで、それに、肉食はおいしいが恐ろしい病魔をもたらすだけでなく、人間の野獣的な本能を奮い立たせ、社会の平和や秩序を乱す原因になるという考え方もある。言い換えれば、菜食によって人は穏やかな性質になる一方、貧しい人でも食べていけるという考え方が主流であるといえる。賢治のいくつかの作品から菜食主義の思想が読み取られるが、それが一番顕現されているのが『ビヂテリアン大祭』という作品である。
『ビヂテリアン大祭』では賢治が菜食主義の考え方を宗教的観点と科学的観点という二つの観点に基づいて分析し、解釈していることは上述のとおりである。作品中、菜食主義に反対する異教徒の人、つまり肉食を主流とする「混食者」は、まずマルサス(イギリスの経済学者ロバート・マルサスRobertMalthus一七六六〜一八三四)の『人口論』を持ち出して肉食主義を擁護し、人類にとって肉食はいかに重要なものであるかを説得しようとしている。人口の増加に対して、農業ができる土地は相対的に増えないのでどうしても肉食に頼るしかないとの主張である。また、人間には草食動物の臼歯も肉食動物の犬歯もあるので、人間は雑食(混食)をするべき動物であると肉食主義者がさらに主張し続ける。地質学者で農民の惨めな生活ぶりを見ていた賢治の中に潜んでいる科学者の魂がこうした主張の中に姿を見せているのは一目瞭然である。この作品における賢治の考え方を菜食主義の産屋とでも言えるインドにおける菜食主義の現状に照らし合わせて、作品内に見られる東洋思想を浮き彫りにしたいのが私の研究の本来の狙いである。 
『ビヂテリアン大祭』のプロットの設定
『ビヂテリアン大祭』のストーリーは北米のニュウファウンドランドのヒルティ村で、世界中から集まった菜食主義者と非菜食主義者、つまり菜食主張者と肉食(混食)主張者の間で行われる討論の形で展開していく。参加者には日本からの代表、仏教信者である語り手「私」、中国代表の陳氏、トルコ人の代表およびアメリカ、カナダなど西洋の国々の代表がいる。おそらく、アメリカ人・欧米人はキリスト教を、日本代表は仏教を、中国代表は儒教と仏教を、そしてトルコ人は回教を代表しているようだ。菜食の賛成派と反対派が交代にそれぞれ理屈を述べ、討論が展開されて行き、終わりごろになると、今まで肉食主義を強調してきた反対派の全員が突然態度を引っくり返して菜食主義者になる決意を示すところで話が終る。肉食をかばう討論者たちは次々に科学的に根拠のある論理を持ち出して菜食主義者の信念を打ち砕こうとしているが、その裏には「科学者賢治」の面影が明らかに見える。しかし、同時に確固たる信仰心の持ち主でもあった賢治は、大自然の一員である人間が自然との一体化をはかるべき義務を課せられていると論じ、「菜食はみんなの心を平和にし互いに正しく愛し合うことができるのです」と、みんなに平和と幸せをもたらすものは「菜食主義」だけだとビヂテリアンの同盟者に言わせて菜食主義を肯定しているのである。菜食主義を厳格に守っているインドのジャイナ教とヒンドゥー教の代表がどうして参加していないのか疑問に思われる。ところが、賢治が作品中三箇所で、(1)「印度の聖者たちは実際ゆえなく草を刈り、花をふむことも戒めました」、(2)「印度の聖者たちは濾さない水は飲みません」、(3)「今日のビヂテリアンは実に印度の古の聖者たちよりも食物のある点について厳格である」とインドのことを記述していることから、この作品の執筆中の彼の脳裏にインドがあったことは歴然たる事実に違いない。 
賢治による菜食主義者の分類
賢治は『ビヂテリアン大祭』の中で菜食を厳密に守る菜食主義者を「菜食信者」と呼び、その精神として理論的に「同情派」と「予防派」の二つに分けている。また『一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録』(以降「大会見聞録」)という似たような作品の中でもテーゼとして全く同じ分類を採用している。「同情派」の菜食主義者の考えでは、地球上のすべての動物は、人間もそれに含まれるが、命を惜しむものである。だから、人間が生き残るためにかってに動物を殺して食べることは無慈悲な、情けないことであるというのが彼らの主張である。つまり同情派の考え方の中には、仏教の精神と教義の核心をなす生き物に対する「慈悲」の思想が流れているのである。それに対して、「予防派」は肉類や魚など動物質を食べるとさまざまな病気に罹ってしまう可能性が高いので、動物に対する慈悲心のためではなく病気予防のために動物質を避けるという考えを持っている。近年、欧米など先進国やキリスト教圏の国々にも菜食者の数が増えているが、彼らのほとんどはこのグループに入ると思われる。
また、この「同情派」と「予防派」は菜食の具体的な実施方法、つまり食料品の選択に基づいてさらに三つのグループに分けられている。「大会見聞録」では"Act"の方法として「絶対派」「折衷派」および「大乗派」と分類されているが、この作品でもまったく同じ分類をしている。第一グループは「動物質のものは一切食べない」人々、第二グループは「チーズ、バター、卵などは、生き物を殺さないので食べてもよい」と考える人々、第三グループは、いくら生き物を殺さないといっても、人間もこの世の中にいる動物の一つで、多くの命のために一つの命を入用せざるを得ないというとき動物を殺してもいいと思う人々である。賢治のこの分け方は非常に現実的で、われわれの周りにいる菜食主義者を調べてみれば、ほとんどがこの三つのグループの何れかに属していることが分かるだろう。しかし、インドにおける菜食主義の現状を見るとさらに複雑な要素が絡み合っていることが分かってくる。 
インドにおける菜食主義の現状
インドは東洋におけるさまざまな宗教、哲学及び思想の発祥地で、古代から菜食主義の食生活が広がった国の一つであると考えられる。菜食主義はおよそ四〇〇〇年も前からインド亜大陸に定着していたという見方もある。そして、世界の菜食主義者の約七〇%以上の人が現在インドに住んでいると言われる。最近の調査によると、現在、インド人の四〇%は純粋な菜食主義者であると推定されている(二〇〇六年八月、Hindu-CNN-IBN調査)。アヒンサー(非殺生)、非暴力など宗教に基づいた概念がその主な理由とされている。それに、ヒンドゥー教がカルマ(業)による因果応報の悪影響をなるべく少なくするために肉食を避け、菜食にこだわったほうがいいと教えてきたことも大きな影響を及ぼしているに違いない。近年、数多くの研究者や学者による研究の結果、ヴェーダ時代にインドに住んでいた人々はおそらく肉をよく食べていた可能性が高いという説が出ているが、ヴェーダ時代以降になると、動物質の食べ物が一種のタブーとなってインド人の食卓から消えていったことは確かである。およそ二千年前に書かれたタミール語の有名な聖典「ティルクラル」(Thirukural)によると、「情感を捨てた、知覚力のある人間は命に見捨てられた肉を食物にしない。自分の肉体を太らせるために動物の肉を食べる人はどうやって同情(哀れみ)を持てるのだろうか」と、肉食をひどく批判している。
仏教より数百年前に生まれた「ジャイナ教」の教えの中心となったものは「生き物を殺すな」という「殺生禁止」の戒めであった。つまり、ジャイナ教では生き物を殺すことは「罪」だと考えられ、信者に生水を濾して飲むこと、呼吸によって空気中の微生物がたくさんなくなってしまうので口にマスクを取り付けて呼吸すること、着物が汚れて洗濯するとたくさんの命がたたき殺されるので着る物を一切捨てることなどと、信者に実生活上なかなか実行できない戒律が義務付けられた。そのため、このような厳しい戒律を守りかねた信者たちは以前と変わらない食生活や生き方を続けてきたのだろう。そこへ生き物に対する「慈悲」の精神を教義とする仏教が現れ、輪廻転生や因果応報に基づく哲学が広まるに連れて仏教徒の数が徐々に増加してきた。しかし、仏教は生き物を殺してはいけないという戒律を掲げ、菜食主義を強調しながらも信者が肉を食べることを厳禁しなかった。自分が殺生さえしていなければ大丈夫だという考えだった。
このように広がっていく仏教の勢力に歯止めをかける形で「ヒンドゥー教」が甦って出現し、「カルマ」および「生まれ変わり」の思想を持ち出した。人は現世の「行い」つまり「カルマ」によって、来世に再び別の生き物に生まれ変わるので、身近にいる生き物は自分の親、兄弟姉妹、子供、夫、妻または親戚であるかもしれないので、生き物を決して殺してはいけない。また、多神教のヒンドゥー教は命のあるものにも命のないものにも「神」が在ると教え、生き物を殺害するのを「罪」と見なし、殺生を最小限に押し止めようとした。さらに、ヴェーダ時代以降になると、職業に基づく「カースト制度」が成立され、最上位のカーストに当たる聖職者・司祭階層の「ブラーモン」の間では動物の肉と血は「魂」の宿る体を汚すものとして見られ始め、次第にほかの上位カーストの間にもこの考えが染み込んで定着するようになった。それに、数多くの動物たちが次第に神々の乗り物として崇められたり、神聖な力を持つ生き物として崇拝されたりするようにもなった。たとえば、牛、蛇、ねずみ、孔雀、像、猿などは聖なる生き物で、猿や蛇が安置されている寺や礼拝堂もたくさん作られるようになった。そこで本格的な「菜食主義」が始まったのではないかと思われる。 
インドにおける菜食主義者の分類
賢治は菜食主義者を理論的に「同情派」と「予防派」の二つに分類しているが、インドの菜食主義者は主に三つの派に分けることができる。まず第一は「宗教派」、つまり「生活派」で、インドにおける菜食主義者の多くはこの派に属し、賢治も言っているように彼らを「菜食信者」と呼んだほうがむしろ正確であるかもしれない。「宗教派」の菜食者のほとんどはヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などの信者で、彼らは生まれてから死ぬまで肉、魚そして卵を一切食べない純粋な菜食主義者である。このグループの人々は「カルマと生まれ変わり」の概念を深く信じ、生き物を殺すのは罪だと考えているのも当然のことである。また、生き物を崇拝したり、食べ物を捧げて神々を喜ばせようとしたりする人もたくさんいるこのグループは、十億人以上もいるインド人のうち、少なくとも約二割を占めているのではないかと思う。
第二は賢治も言っている「同情派」、つまりいわゆる「動物愛情派」で、各宗教からの信者、社会の各階層からの人々が入っているグループである。彼らは自ら肉、魚など動物質の料理を一切食べないし、人間が生き物を勝手に虐殺したり殺害したりしていることに対して猛烈な反対運動も起こしている。最近この派の影響力は数とともに急増し、インドで野良犬を殺すことさえ法律上禁じられるようになってきた。確かに、彼らの考え方の裏には、仏教の精神である「慈悲」、ヒンドゥー教の精神である「カルマと生まれ変わり」、キリスト教の精神である「愛と哀れみ」、そして宗教を信じていない「世俗主義者」の動物に対する「同情」が一体化して働いているのだと言えるだろう。
第三は「予防派」で、生き物への「慈悲」や「同情・愛情」のためではなく、病気にならないように体の健康状態を維持することを趣旨で菜食に切り替えた人々の属する派である。この派には、以前肉食をしていて病気になったせいで菜食に切り替えた人のほうが圧倒的に多いと思われる。近年、動物質の過剰な飲食によって恐ろしい病気が起きることが分かってきたので、周知のとおり、欧米のような肉食が主流の国々にもこの派に属する菜食者が増えつつある。次に、実際に食べる食品をもとに、インド人菜食者をさらにいくつかのグループに分類できる。まず、牛乳や乳製品を飲食するが、それ以外の動物質は一切食べないという純菜食主義者で、じゃがいも、玉葱などの根菜さえ食べない人を含んでいるグループである。もちろん、このグループには菜食主義を厳格に守るジャイナ教徒やヒンドゥー教の最上位カーストのブラーモン人が多いが、他のカーストの人もかなり含まれている。肉や魚を食べると、汚れると言う発想も背景にあるが、生まれ変わりの教義やアヒンサーの概念が基になっている。
次に、卵や玉葱などを食べる菜食主義者で、このグループは数から見ると一番多い。三番目のグループは、動物の肉はだめだが、魚なら食べるという偽善者的な菜食主義者で、海岸沿いのインド人、特にベンガル地方の人の間にはカーストにかかわらずこの派に属する菜食者が多い。もちろん、この地方のブラーモン人も魚介類をよく食べている。また、四足の動物の肉と魚を食べないが、鶏肉なら食べるというグループもあって、彼らは自らを菜食主義者と呼んでいる。これで、賢治による作品内の菜食者の分類とインドの実際の菜食主義者の分類がいかに似ているかが大体わかるだろう。
肉食は人間の、その動物的な本能をあおり立たせ、暴力を振るうようなものにさせるとインド人は昔から信じてきた。そして、これもインド人が肉食から離れる一つの主な理由となったのである。今も、この世の物質的な生活に飽きて苦行者としての隠居生活に入るインド人が、まずやることは肉食を完全に止めることである。逆にいえば、菜食は人間の心を優しくし、他の生き物に対して同情と慈悲を持つ心を作り上げ、平和的な共存共栄を可能とするという考え方をインド人は古くから抱いてきたのである。『ビヂテリアン大祭』では、「宗教的求道者」である賢治は菜食のもたらす「幸福」とはどんなものであるかを十分理解している。同時に、「科学の追求者」でもあった彼が、肉食の利点や大切さを懐疑的に見ていることも作品から読み取れる。そして最後に、「...肉食を食べるときの動物の苦痛を考えるならば到底美味しくなくなるのであります」「野菜はみんなの心を平和にし、互いに正しく愛し合うことができるのです」と、仏教の「慈悲」「輪廻転生」および動物への同情の概念を持ち出して肉食者の議論に反駁しようとしている。それで、賢治自身も実生活では、「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と「雨ニモマケズ」の中に書いているように菜食に完全に切り替えることを決心して農民生活を選んだのだろう。
「すべての生物はみな無量の劫(カルパ)の昔から流転に流転を重ねてきた。(略)一つのたましひはある時は人を感ずる。ある時は畜生、則ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましひと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それが互にはなれ又生を隔ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまはりの生物はみな永い間の親子兄弟である」(『ビヂテリアン大祭』)と賢治は作品の終わりごろに述べている。この輪廻転生の考え、つまり「生まれ変わり」の概念こそ賢治の食生活に関する世界観を形成したと言えないだろうか。そう言えるならば、それはインドにおける「宗教派」の菜食者の考え方と一致するもので、菜食主義の背景にある東洋思想の存在の確定も可能になると思われる。 
おわりに
日本もインドも民主主義に基づいた価値観を持っているだけではなく、宗教や思想、社会や家族制度などの面においても非常に似ている側面をたくさん持っている。にもかかわらず、今までお互いに無関心の態度を持ち続けてきた。それはなぜかというと、お互いに相手のことを知らないからである。二〇〇五年の日印首脳会談で、両国首脳は変わり行く国際秩序、国際関係の中で日本とインドがあらゆる分野において協力し合うべきことを認識し、宣言している。戦略的グローバル・パートナーシップを強化しながら、より良い日印関係を構築することは、相互の利益のために不可欠であるということを両者とも十分に認識しているに違いない。そのため、これからの日印関係が緊密化され、両国間の技術的、政治的、経済的、外交的関係は一層深まっていくだろう。しかしその第一歩として、まず文化面での交流を一層深めなければならない。日本とインドの価値観のどこが似ているのか、またどこが違っているのか、両国民に理解してもらう方法と手段を講じて徹底的に実行することが良好な日印関係を築き上げるための前提条件となる。インド国民に対日親近感を育ませ、日本国民に対インド親近感を醸成させ、相互理解を深める必要性を軽視してはならない。人と人の間における交流こそが相互理解を可能にしてくれるのであり、そのために思想、文学、舞台芸術、映画などによる交流とその他の文物交流が不可欠である。つまり、人と人の間で行われる草の根レベルでの交流、芸術中心の交流、そして文物中心の交流が共に確固とした二国間関係を築き上げる基盤となるのである。  
 
韓国における日本研究 

T.韓国社会における「対日観」と「日本研究」 
1.二十世紀における韓国社会の変化
十九世紀の韓半島は、国家財政の根幹を支えていた農民層の崩壊、官吏の不正腐敗に抵抗する広域的な民衆運動の持続、封建支配階級の内部分裂と統治機能麻痺、朝鮮支配をめぐる列強の角逐、指導層の分裂された対外依存意識の拡大など、政治・経済・社会・対外与件いずれを見ても、朝鮮王朝の崩壊と国権の喪失を招きかねない風前灯火の混迷状態がほぼ一世紀の間続いた。
「静かな朝の国」といわれた韓国が、民族の進路さえ開拓できないままに内憂外患の危機に直面しているとき、非西欧世界で唯一に近代化に成功し、日清・日露戦争を制して東北亜の覇権国家として生まれ変わった日本は、ついに韓半島の植民地支配にまで乗り出す。あっけなく国権を奪われた韓国は、民族の魂をかけた独立運動と日本の敗戦により、一九四五年にいたってやっとまともな国家として再出発できる機会を勝ち得た。
だが、その喜びを満喫することもつかの間、米ソの支配下に置かれた南北分断と赤化統一を夢見た北朝鮮の侵略によって、虚しくも同族相戦の悲劇を味わう奈落に陥る。混沌の十九世紀に次いで二十世紀の幕開けからも、丁度半世紀を異民族支配と民族分断、そして内戦まで経験した世界でもまれに見る国となった韓国の姿を、ジュリアン・ワイズは次のように当時を述懐している。
「不毛の地、岩だらけの狭い国土、焼け付くような夏、陰鬱で寒さが身にしみる荒涼とした大地、天然資源はなく、人口だけがやけに多く、しかも何百万という国民のほとんどが文字が読めない。」
植民支配と内戦に終止符を打ったものの、長年の収奪と戦争の惨禍で国の有り様は惨めだった。その荒れ果てた国土の傷痕は、二十世紀後半の出発も自中之乱の状態に追い込んだ。国を復興させられるリーダーシップの不在と、人材、資本、技術、資源の不足のうえ、異民族支配と戦争によって崩れた、転倒された価値観の横行など、暗黒から脱出できるいかなるビジョンも自ら提示することができず、不正腐敗と飢餓による社会混迷だけが目立った国であった。
新生韓国の絶え間ない混乱は、結局軍事クーデターによって収まるようになった。日本が朝鮮特需景気による戦後復興の成功と高度経済成長へ国論を結集している時、韓国で発生した無血クーデターは、韓国社会をさらに疲弊化させる反歴史的な行為になると思われた。だが、政権を握った朴正煕は韓国の根底から改革を断行するとともに、「祖国の近代化」に政権の命運をかけて、世界の賛辞を浴びた「漢江の奇跡」を成し遂げた。
北朝鮮による度重なる大統領暗殺脅威のうえ、工業化に一番大事な技術と資金の不足、そしてGNPの一五%を軍事費に投じる悪条件の中でも「高度に訓練された国民、先鋭的な民族意識、旺盛な民族的活力」といった精神文化を資産にして、圧縮成長に成功する指導力を発揮したのである。
サミュエル・ハンチントンも、アフリカのガーナ国と同じレベルであった韓国が、わずかの期間で達成した驚異的な経済成長の背景を「倹約、投資、勤勉、教育、組織、紀綱、克己精神」などのような文化的価値に求めている。まるで国家富力の源泉は文化にあるという、韓国の民族指導者金九先生の哲学を韓国社会が実践したかのような評価である。
先進国の援助により延命していた最貧国から二十年たらずで不死鳥のように蘇った韓国社会は、歴史の逆戻りともいえる朴大統領の「決断」を、むしろ彼の祖国愛と卓越したリーダーシップの結晶体として受け止め、彼の共産主義への傾倒や親日経歴、そして民主主義の抑圧といった政治・思想的に影の部分があるにもかかわらず、韓国の政治史の中でいちばん尊敬できる人物として記憶している。
しかし、近代民族国家形成期から際立った反封建・反帝国の民衆的抵抗意識は、民主化を犠牲にした産業化の延長を素直に容認せず、韓国の民主化運動の動力として燃えつつあった。李承晩政権退陣運動を通じて確認されたそのエネルギーは、一九七〇年代から本格化した反維新運動と一九八〇年代の新軍部統治に対する国民的抵抗の段階を経て、ついに「6・29宣言」をもってその歴史的な使命を尽くすことになる。
こうしてみると韓国の二十世紀は、植民地→解放→南北分断→理念対立→内戦→飢餓→軍事クーデター→産業化→民主化という、一民族が直面できるすべての歴史を辿ったことになる。この栄辱の歴史を一言で圧縮することはできないが、大まかに見れば「抵抗」と「反」の時代をへて、「成長」と「統合」の時代へ劇的な自己変化に成功した歴史、それが二十世紀の韓国の自画像であるといえよう。 
2.「成長社会」の対日交流
韓日国交正常化以後、両国は政治→経済→文化へと交流の幅を広げながら関係進展を図ってきた。その経緯を簡略すると、まず、政治交流は両国の経済発展を支える形で始まった。しかし、一九七〇年代に入って相次いだ政治事件(金大中、文世光事件)などで両国は国交断絶の危機を迎えたりもしたが、特使や密使派遣による政治的妥協を通じて難局を突破する叡智を発揮した。
そして、一九八〇年代に入っては、両国の首脳が相手国を公式訪問するきっかけを作りながら、はじめて正常的な政治・外交関係の基盤を固めた。その基盤は、韓・中社会を振動させた「歪曲教科書」波動にもかかわらず、少なくとも表面的は韓米日三国間「鉄の同盟」を誇示する段階にまで発展した。
日本政府が「成熟したパートナーとしての日韓両国の永遠の善隣友好関係が世界的な視野で構築」されるようになったという評価を下したのもこの頃である。この過程で両国の政治交流は、韓国の軍事政権と日本の保守勢力の結合という多少非正常的な関係が先行したりもした。そのため、両国に跨っている様々な懸案についても、国民的な合意を排除したまま、執権勢力が各種の争点や課題を認識し解決する主体としての役割を独占する不作用も伴った。
これは、南北対峙という地政学的脅威に、開発独裁論に抵抗する民主化の熱気という内外的不安要因が重なっている中で、体制安定と経済開発、安全保障と対外関係を模索せざるを得なかった時代的状況が生み出した結果でもある。両国を繋いでいた不安定な関係は、民主化政権が登場してからは全く新しい関係に入るのではないかという期待感を膨らませた。
ところが、一九九〇年代以後両国間の裏の政治交流の断絶、度重なる争点の浮刻、一部政治人たちの軽挙妄動、両国の政治環境の急変などによって、政治交流は全く逆走行するようになった。特に、両国の政治圏に蔓延している偏狭なナショナリズムは、外交的感覚が著しく落ちると評価された盧・小泉政権の下で極に達し、しばしば緊迫した関係を助長する未熟さを露呈したし、その影響は東北アジアの情勢変化とも相俟って、今後さらに不透明な段階に入る可能性を高めている。
一方、緊張に満ちた政治交流とは裏腹に、経済交流は比較的活発であった。両国間の経済交流は、「善隣友好協力」関係の重視という名分の下で、韓国の経済発展の支援と関係改善を図ろうとした日本側の前向きの姿勢にも助けられ、協力借款、人的・技術援助、貿易拡大、東北亜の経済発展への寄与という結果を伴いながら進展を重ねてきた。
韓国の経済状況も日本との経済協力を強化する以外には代案がなかった上、それを通じて民族の跳躍をかけた朴政権下での基本的な認識が、経済発展のモデルが日本であったこと、また、その後の先進経済の理想的なモデルもやはり日本であるしかないという固定観念によって、対日経済交流は深まる一方であった。
その結果、一九七三年には韓国が日本の輸出相手国として第二位の国家に浮上した。そして、一九八四年には両国の貿易規模が一九六五年より五十二倍に膨れ上がるとともに、総額でも史上はじめて百億ドルを突破するなど、貿易・経済分野は、通商摩擦と対日貿易収支の悪化による韓国社会の反日感情の拡大にもかかわらず、着実に発展的協力関係へと成長していった。
だが、経済交流の拡大が韓国経済に残した構造的弊害も少なくない。政府の政策、企業文化、市場構造、企業金融の分野にいたるまで、韓国の経済文化全般にわたって日本的価値が深く浸透するようになったし、経済・通商分野においても対日貿易赤字の膨張、対日経済従属構造の深化、日本側の技術移転の回避、日本市場の閉鎖性などを経験する不作用も露呈した。
経済交流におけるこのような不均衡は、今後のFTAの締結によって一層加速されるだろうという懸念を韓国社会に蔓延させ、必要以上に対日警戒心理を高める要因にもなっている。この課題は、日本の協力を得て解決の糸口を掴むべきであるが、韓国経済も体質改善(例えば、技術革新、労使文化の先進化、企業規制の画期的緩和など)と未来産業の育成などを通じて、後がないという覚悟で真正面から取り組んでいく必要がある。
同時に韓国社会は、経済交流の拡大が民間レベルでの交流活性化を通じて築き上げられる人的ネットワーク(例えば、資本投資、技術移転及び共同技術開発、第3国への共同投資、企業の相生協力関係強化、企業の人材交流と人力開発への共同参与など)を含めて、東アジアの平和と安定、世界の経済に占める韓日の経済的プレゼンス、東アジアの経済共同体実現と世界経済発展への貢献といった観点からも、前向きに対応していかなければならない。
政治・経済分野に比べると文化交流は遅く始まったが、経過は予想外にうまく進んでいった。両国の文化交流が始まるようになったのは一九八〇年代に入ってからである。この頃は、日本は文化民族主義と文化外交を国家的レベルで本格化するときであったが、むしろ韓国は既存の文化民族主義政策が後退する兆しを見せているところであった。
そのきっかけは、一九八一年両国の政府が外相会談を通じて「韓日文化交流事務者会談」の開催に合意したことから始まる。この合意は、日本政府による積極的な文化交流推進の意志とこれに対する韓国政府の消極的な対応という形であった。過程はともかく、この合意によって韓国政府の内部からも日本との文化交流に少しずつ前向きの姿勢が現れたが、政府レベルでの合意による交流はあまり実効性を収めることができなかった。
しかし、一九八〇年代の後半から文化界を中心とした芸能交流の拡大、韓国内外の情勢変化による対日関係の再定立の必要性、情報通信文化の発達と対日認識の変化に伴った韓国社会での日本文化の影響力拡大、韓国文化のアイデンティティに関する自信感回復、ワールドカップ共催をきっかけに広がり始めた未来志向的な韓日関係の構築努力、その延長線上で行われた段階的な日本文化開放政策、両国の友好協力関係の増進を図るために推進された各種のイベント文化の定着などによって、両国の文化交流は民間レベルでの交流拡大を伴いながら飛躍的に発展していった。
特に、一九九〇年代の半ば以降、韓日文化交流の拡大と海外での韓国文化に対する予想外の反応は、韓国の文化政策を文化産業の育成と韓国文化の海外伝播に焦点を合わせる動因になった。また、伝統と民族精神の継承を重んじた文化民族主義政策から文化を最大限に付加価値を創造する二十一世紀の新産業(文化芸術+科学=CT強国実現)として育成させる劇的な状況反転をももたらした。
文化交流の拡大は、両国民の情緒的乖離感の縮小に貢献しただけではなく、一九九八年「韓日新時代宣言」の実現、人的交流の拡大、日本社会における韓流ブームなど、交流の活性化が相手の文化的多様性と国民感情、そして両国の関係改善に実質的な影響を及ぼしているのが確認されている。
その意味を韓国社会から見ると、@近代以降日本人の記憶に残っている「朝鮮像」の残滓や否定的イメージの解消に役立ったこと、A「近代化」という観点から東洋文化を過小評価してきた近代以降の日本社会が、やっと韓国文化の底力と価値を発見するきっかけになったこと、などが考えられる。
要するに、歴史的には約四世紀ぶりに、国交正常化以後約四十年ぶりに韓国文化の存在感を日本社会がはじめて認識し、そして韓国人や韓国社会に対するイメージ転換を自発的に試みたということである。日本社会での韓国文化の影響力がこれ以上拡大される可能性は高くないが、少なくとも「上陸」には成功しているだけに、今後の韓国側の努力次代では予想外の展開も期待される。
また、日本社会から見ると、韓国社会内部で根強く残っていた反日感情を相当部分抑えることに成功したばかりでなく、韓国社会における「日流」ブームの拡大、日本に対して「客観的視角」を求める世論づくり、日本との交流における「MultiTrack」戦略の当為性、などが韓国社会で定着する成果をあげた。要するに、日本文化の韓国社会への軟着陸を成功させるための「見えざる支援軍」を、交流拡大を通じて各界各層から確保したのである。
韓日交流はイシューの転換(政治→経済→歴史・文化へ)と様々な紆余曲折を経ながらも基本的には未来志向的に進んでいる。この方向性が強固になるかどうかは、領土をめぐる日本側の攻撃的な外交政策が、今後いかなる性格を帯びて展開されるかにかかっている。これは、政治・経済的な争点よりもはるかに複雑で難しい問題である。この難題を両国民がうまく乗り越え、いわゆる文化交流の拡大→相互認識改善→友好関係増進→文化民族主義克服→東アジア共同体構築への貢献というプロセスを実現するためにも、日本社会の努力が要求される。
それは、@歴史的に内在化され継承されている韓国に対する否定的なイメージの解消、A文化は独占や征服、伝播や排斥の対象ではなく、すべての文化市民が享有できる資産であるという文化民主主義価値の定着、B「日本的価値」或は「魅力ある日本の文化」の移植や伝播に拘らず、民族的・情緒的・歴史的葛藤を解消できる文化交流政策とそれに対する日本社会の共感帯形成、C日本の支配階級の謙虚な歴史認識と強硬右派に対する日本社会内部の良心的な牽制勢力の構築(国民的支持を伴った)などが必要である。
そのためにも両国の知識人たちは、何よりも韓日文化交流の活性化を妨げる要因の取り除きに力を合わせなければならない。十八世紀の前半に両国間の善隣友好関係の構築に尽くした雨森芳洲は外交思想の根源として「誠信」の二字を大事にし、それは「実意と申事ニて、互ニ不欺不争、真実を以交リ候を誠信とは申候」とのべている。相互信頼構築の根源がどこから生まれるのかを説破した思想である。
今韓日両国の間に必要なものはいうまでもなくこの「誠信外交」の実践である。その意味の重さを両社会の交流主体が肝に銘じて自分の役割として真摯に考えなければならない。現在、韓日交流の中でも意外に遅れている知識人たちによる知的交流をより活性化させ、その過程で蓄積された知的資産を、両国の社会が共有する姿勢に転じるとき、はじめて韓日新時代が開かれると思われる。 
3.「成長社会」の対日観
植民地解放以後、六十年間、政・官・財・学界を問わず、韓国社会の対日認識の実像は、一言でいえば冷静な分析欠如と自己帰責論理の不在で要約できる。日本について、例えば、勤勉で謙遜な民族がなぜ排他的で対外膨張主義的な相反する文化構造を形成していたのか、経済的な側面からみると、日本の伝統的な価値観を温存しながら近代国家へ成功的な変身を成し遂げた国なのに、どうしてそれが可能であったのか、などのような一番基本的な理解さえも等閑視した。
戦後の歴史を見ても、敗戦後の国家作りと一九五〇年代の戦後復興、そして六〇年代の高度経済成長をへて、オイルショックの克服と八〇年代経済・軍事・文化大国として国際社会に再びその威容をほこるまで、韓国社会の対日行動様式はひたすら民族主義に支えられた反日感情と、表皮的情報や刹那的経験に基づいた盲目的な親日感情の表出だけであった。
一例をみると、一九八〇年代から日本は経済大国にふさわしい「国際貢献」という名分の下、文化民族主義を強化し、政治・軍事的に超大国への意志をあらわにした。憲法改正論議の機会を掴んだことをはじめ、軍備のGNP一%枠廃止主唱、有事時に備えた自衛隊法改正への世論操作、行政改革と国家主義教育強化など、名実ともに「大国」への道を緻密に準備してきた。
韓国が国際情勢の変化に目をそらしたまま、もっぱら鉄拳統治VS民主化闘争で対立と分裂の混乱を極めているとき、韓国が一番警戒すべき隣の国日本は、イデオロギーの反動的再編を通じた大国化を着実に追求していた。しかし、日本の大国化への動きは韓国社会においては遥か遠い国の動きに過ぎなかった。親日と反日の「日」は、確かに「日本」を指しているはずなのに、韓国社会にその「日本」はなかったわけである。
韓国社会の関心は、民族的プライドを傷つける右翼勢力の妄言とそれへの糾弾だけに集中されていたし、時にはそのような行動様式が愛国的な行為として注目されるほど偏向的な性向を露呈するだけであった。対日貿易赤字の増幅と日本の歴史認識に対する挑発的な発言が、韓国社会の焦りと被害意識を刺激した結果でもあろうが、冷静な対応を怠った責任も免れることはできない。
それは、二十世紀の最後まで尾を引いた。ソウルオリンピックが終わった後、韓国は次なる時代への目標意識の喪失と急激な民主化による価値観混迷が重なり、国内外の一般的な予想を破って「アジア四小竜」から一匹の「ミミズ」に転落した。その時、内部から自省の声とともに日本に学ぶべきだという動きが出版界を覆ったが、一瞬に「日本はない」という自我陶酔的反論に消えてしまったことは今も鮮明に記憶に残っている。
このような自己傲慢と無知が生み出した衆愚的対日観は、一九九〇年代の半ば頃「もはや日本の時代は終わった」という速断とともにピークに達した。外交と安保に国民の衆知を集めなければ、民族の独立と自尊を保持できないという事実をどこの国よりも韓半島の歴史が教訓として残しているのに、韓国社会の価値は内部問題や閉鎖的民族主義にとらわれ、隣の国がいかなる形で変化しているのかをいつものように知らないまま、葛藤の日々に落ち込んでいたのである。
そのため、韓国社会における日本・日本人・日本社会に対する基本的な認識は定型化された枠組みの中に閉じ込められ、少しも進展することができなかった。筆者が長い間、学生、企業関係者、一般人を対象に持続的に調査してみたが、例外なく「学ぶべきところは多い国であるが、尊敬できる国ではない、そして、時々韓半島を脅かす隣国である」というイメージにとらわれている。
結局、韓国社会の「日本像」というものは、過去と現在、そして未来の日本的価値を綿密に分析する努力の末、そこから形作られた「日本像」の共有を通じて韓日関係を進展させる知恵を発揮できず、長い間ただ先験的な日本観に閉じこもっていたり、心情的次元で理解して断定する水準にとどまったりしてしまった。韓国の「TheJapanese」研究も、この社会的風潮から決して自由の身ではなかった。 
U.韓国社会における「日本文化」研究 
1.先駆的日本文化論の登場と消滅
韓国社会の「日本」研究に対する関心は、過去一部の研究者たちの問題意識にもかかわらず、文化研究対象としての「日本」の存在は、韓国人が現実で日本を認識すること以上に遠く離れていた。これは、解放以降韓国社会の支配イデオロギー(反共と反日)の影響によって、日本を客観的に研究できる与件を自ら作り上げることができなかったことに一次的な原因がある。
しかし、より根本的には、このような見えざる社会的な圧力から独立しようとする意欲さえ持たず、社会的風潮に無事安逸に便乗して、研究者としての責務を放棄した学界の惰性に大きな責任がある。解放後、理由はともかく長い間「TheJapanese」の虚像が韓国社会に蔓延したのも、学界の怠慢が生み出した結果であることはいうまでもない。
学界の自己認識の不在は、一九八〇年代になると日本の歴史教育をめぐる葛藤高調と経済大国日本の実体的理解が必要だという一部の世論にも影響され、「克日」や「知日」の声を高める方向へ変わっていく。それと合わせて一部研究者たちによる日本論が、ようやく世間の注目を浴びながら登場する。
韓国人の視覚から日本文化を照明しながら、その文化の正しい批判とともに言語を覚えていくことが正道だという李御寧の問題意識と金溶雲の韓日文化比較論などは、今後の日本語教育の意味ある拡大だけではなく、国内の日本研究を活性化させるきっかけになるのではないかという期待感を膨らませた。だが、両氏の意欲的な研究成果は、残念ながら後学たちに発展的に継承されなかった。
学界の日本研究土壌の未成熟と、一九八〇年代の半ば頃から再び激しくなった民主化熱風とそれによる社会的混乱が続くにつれ、イシューとしての「日本」が研究者や国民の関心事として表に現れなかったからである。特に、ソウルオリンピック以後、韓国社会の転落がポスト東京オリンピックの日本の飛翔と頻繁にコントラストされることによって、盲目的な「日本学び論」が量産されるようになってからは、韓国社会の日本文化研究は学界の無気力とも相俟って、ひたすら大衆との付き合いだけに拘る傾向を強めていった。
それらの論議を支える問題意識は偏向的に流れがちであったし、内容も主情的・予断的論調が主流をなしていた。文化研究書としての意味と客観的な研究方法論の確保といった問題意識ははじめから欠いたまま、ただ読者たちの好奇心集めに夢中になっていた。このような現象は、当時の「日本モデル論」の展開が主にマスコミ関係者や企業関係者、そして民間研究所関係者などによって主導されていたところにも原因があった。
民族が危機的な状況に処されたとき、先進国である日本の長所を分析し、それを通じてわが民族の活路を開拓できるモデルを見つけ出そうとする努力は、たとえ研究書としての限界があるにしても決して非難されることではない。だが、徹底した自己検証と体系的な方法論に基づいた日本観の提示に苦悩するよりは、大衆迎合的次元で目の前の現象写しに夢中になる風土に埋没されていては、明日が見えない試練の中に自らを投げ出すのと同じである。
要するに、二十一世紀を目の前にして、これ以上惰性に流されたまま日本を眺めてはいけない時期に、いかにも簡単に日本を韓国の発展モデルとして設定する過ちを犯したのである。その過程で、状況認識を重視する職業精神と現場の経験が一番豊かな言論・放送人と企業関係者たちが学界の職務放棄にも助けられ、韓国社会が学ぶべき至高の価値はいうまでもなく「日本的価値」であることを集中的に伝播する「伝道師」の役割を果たした。
親日的日本論の展開を容認できなかった韓国社会の対日認識と、日本の成功を韓国の発展モデルに借定せざるを得なかった経済現実の中で、彼らが展開した現実認識論的日本論は、一方では韓国社会における既存の対日認識の変化にある種のきっかけを提供したり、「第三世代」たちには大きな刺激と反響を巻き起こしたりした側面もある。
そのため彼らの日本論には評価すべきところも少なくないが、冷静に考えれば日本学界からの日本文化研究への発信努力が皆無の状態で、現象学的な日本文化論の展開が大衆の情緒を動かすことによって、断片的な日本像が韓国社会に横行する結果を生み出したし、韓国の学界でもその流れに便乗する研究者が続出することによって日本文化研究を「研究史」の流れから逸脱させる不作用を招いた。
それに、いままでイデオロギーの観点から日本を見つめることに馴染んでいた韓国社会に、彼らのメッセージは自分たちの意図とは関係なく「日本礼讃論」に映され、対日反感と対日コンプレックスをさらに深めた側面も見逃せない。そのような不作用は、残念ながら「日本批判論」の盛行とそれに対する大衆的人気の結合という新たな矛盾を孕みながら、日本文化論はしばらくの間また大衆的談論の領域で活気を浴びるようになる。 
2.対日関心の増大と日本文化論の開花
日本批判書は、日本社会の矛盾と否定的側面を直感的で感傷的に批判することによって、日本のような先進社会への進入に失敗したまま、日本礼讃論に落胆していた韓国人の自塊感を一掃する一方、昨今の混迷が決して韓国だけの問題ではなく、先進社会も一般的に経験する過程であることを認識せしめる、一種の清涼剤としての役割を果たした。
彼らの論調が韓国社会の対日コンプレックスを克服するに一助したことは間違いないが、読者たちが必ずしも彼らの論理を正当で合理的な日本論として位置づけようとはしなかった。韓国社会の国際化と情報通信文化の発達によって、対日認識に少しずつ変化の兆しが見え始めたからである。そのため、批判書の人気はすぐ反論に直面して消えてしまい、その空間に学界からの客観的な日本研究書が徐々に姿を現すようになった。
その流れを主導した民俗学者魯成煥は、韓国社会で日本文化論のブームを助長した論者たち(大部分が研究する分野に従事する者ではない)の成果と影響力を評価しながら、実際日本を研究する学界からはいかなる日本文化論も提示していない現実を、学界の「職務遺棄」と批判した。そして魯は、韓国社会の日本に対する関心の高さを学界が積極的に踏まえて、真面目な研究に基づいた日本文化論を提示する段階に来ているとのべ、自分の研究成果をまとめて発表する意欲を見せた。
また、歴史学者金絃求は韓国での日本文化論が、日本の現象学的分析にとどまっているあまり、その文化の歴史的な基盤分析に対する問題意識がほとんどない研究風土を批判したあと、これからの日本文化論研究は根本的な発想転換が必要だということを、自分の研究成果を通じて主唱した。
特に、金の研究は韓国社会が理解していた日本的特性の歴史的根拠を提示するとともに、それに対する一切の価値判断を留保する立場をとり、読者たちの熱い反応を呼んだ。両氏は、研究者としての自分の学問的専攻領域を十分に生かし、豊富な資料と研究方法論をもって分析的な日本文化論を展開し、ようやく日本文化論が「研究史」の観点から論じられるようになった。
既存の叙述的、感傷的日本文化論から客観的な資料に基づいて異文化を理解しようとする研究者たちの関心と努力は、一九九八年の日本大衆文化開放を前後にして量産された日本大衆文化論の盛行においても守られてきた。その代表的な著書が筆者の『リアクションの芸術日本大衆文化』(二〇〇一)である。
筆者はこの本を通じて、日本大衆文化の成長発展過程を社会史的な観点から分析する視点を提示することによって、日本の大衆文化が性文化や一部の放送芸能及び出版文化を中心に、極めて断片的で歪曲された形で韓国社会に紹介される動きに終止符を打つとともに、その後の日本大衆文化研究を日本文化論の領域で吸収し分析する転機をつくった。
その頃から韓国における日本論は、学界の外縁で大衆的談論の形で人気を集めていた、いわば大衆消費財のような日本論はほぼ姿を消し、各研究分野からの個別的研究成果の蓄積、他専攻との「対話」を通じて得られた学際的研究成果、通史的考察や特定の主題をもって深層的分析にこだわる日本文化論などが相次いで量産されるようになった。
特に、数年前から注目に値する多様な問題意識の表出は、今後韓国における対日研究の幅と深さを深化させていく基盤になるとともに、日本研究の底辺拡大にも大きく寄与すると思われる。学界の自省と努力による科学的な日本論が、以前と異なった次元で大衆との合一点を模索している昨今の現実を考えると、韓国社会の対日観の成熟化はもちろん、韓国における日本文化研究も新しい転機を迎えるようになったといえる。
3.日本文化論の展開過程で表れた諸問題
朴有河は民族主義的視角で日本を眺めている韓国社会の一部の対日観を強く批判しながら、日本に対する否定的イメージを生産している一部の知識人たち、彼らの意識的或は無意識的な歪曲を拡大再生産しているマスコミ、そしてそのような報道を何の疑いもなく素直に受け入れてきた我々自身が、正に日本を「歪曲」する主体であると述べた。
朴の指摘には一応共感するところもあるが、その批判が徹底的な資料的検討や豊かな反論資料に基づいているというよりは、ほとんどが先験的・主観的・感傷的批判で一貫している。そのため学問的価値や客観的評価ができないという限界があるが、このような態度で日本論を展開している論者たちが日本学界でも現れるようになったのは恥ずかしいことである。
金ヨンミョンは一連の著書を通じて、日本社会の精神的貧困を叱咤しながら、人間の幸福と対外善隣関係を規定する文化的・思想的・哲学的土壌の不足を克服できる物質と精神的発展モデル構築の必要性を提起した。このような指摘は日本を論ずる際よく言われることでもあるが、冷静に考えてみれば物質と精神の発展を同時に追求できるモデルが果たして存在するのか、またそのようなモデルで成功した国が地球上にあるのかという疑問がまず浮かんでくる。
精神的貧困を強調する金の論理をみると、日本の社会を少し注意深く覗いてみれば誰もがすぐにでも確認できる現実的な諸矛盾をデパートのディスプレイのように羅列しておいて日本を評価切下している。少なくともそのような結論に至るためには、精神の貧困を招いた日本人の思想や文化構造、或いは日本人の伝統的な情緒や価値観のようなものを具体的に分析しなくてはならない。
李御寧は日本の文化構造のなかで「縮み志向」の価値観を発見し、その論理に基づいて日本の対外膨張を警戒する論点を提示した。日本の限界を指摘する論理を、日本人の伝統的な行動様式や文化構造の解明を通じて指摘したので、その論理が説得力を持つことができた。
このような緻密な分析過程なしに、どの社会や国家にも現れがちである現象的な矛盾を指摘しながら日本を批判する姿勢は、もう一つの日本コンプレックスだと思われる。このような日本観に陥っていると、大衆商業主義の誘惑から自らを守りにくくなるのではなく、自分も知らず知らずのうちに偏見にとらわれ、緻密な分析対象として日本文化を研究しようとする学問的熱情の喪失と日本文化研究の方法論の鍛錬を怠ることになる。
この部分に対する魯成煥と金絃求の問題提起は評価できる。両氏は、いままで日本文化研究に見えなかった方法論の不在を指摘しながら、日本文化研究にフィールドワークを前提にする民俗学・人類学的研究方法や歴史学的研究方法論の導入などを主張した。このような主張は、決して新鮮とはいえないが、方法論鍛錬の主唱が大衆的談論の領域に留まっていた日本文化研究の停滞性を打破するきっかけになるとともに、問題意識と研究方法論の確保なしには日本文化研究の進展はないという確かなメッセージを伝えたことは意味があった。
実際、その後、日本文化研究は学界からの多くの注目の中で様々な研究書が出版され、読者たちの関心を呼び起こした。その中でも注目に値する動きは、個別専攻領域の研究成果に基づいた多面的接近とそれによる総合的な日本文化理解書の登場である。多面的接近方法は一九八〇年代末の「日本学び」論を通じても流行ったことがあるが、そのときと異なる点は、以前のような現象学的な接近ではなく、深層的・歴史的・学際的接近を試みているという点である。
例えば、嶺南地域の日本研究者が共同執筆した『新しい日本の理解』(二〇〇二)などは、歴史・社会文化・政治分野の専攻者多数が学際的な視点から、若者たちの成熟し均衡の取れた対日観の定立に貢献したいという目的で出発した。いままで日本文化研究の「豊饒の中の貧困」状態を克服し、韓国の未来を担っていく若者たちに日本の歴史やイデオロギーの特質を正しく伝えたいという意志であった。
だが、このような一連の研究書にも限界があった。問題意識と分析内容がまったく一致していない上、共同研究の根本的な趣旨も生かせないまま、大部分がばらばらの自己主張に終わってしまった。多面的接近が追求する共通分母、いわば多面的日本文化研究の趣旨と方法論の模索などに対する真摯な苦悩が欠如されている状態で、「学際的研究」という名ばかりが唱えられたからである。 
4.日本文化研究の活性化のための提言
具見書は、客観的で現実的に存在する日本文化の存在形態という観点から広範囲な有・無形の日本文化を「体系化」し、総合的に理解する必要があると述べた。このような問題意識は、日本社会に多岐にわたって存在する文化現象を分類し、読者たちの理解水準を高めるには有効であるが、その多様な文化現象を全部主題に設定し、その現象の内面的意味や価値を一貫した論理で分析できる方法論と結びつけて論じなければあまり意味がない。
従って、筆者は今後の日本文化論の論議を深化させていく方向性として、まず日本・日本人・日本社会が体現する一般的情緒や心理及び伝統的な思惟様式が反映された文化様態を、通史的観点ないしは社会構造的な側面で包括的に分析した研究書を「日本文化論」の範疇に規定しようとする。そして、そのためには最低でも二つの前提条件を満たさなければならない。
一つ目は、日本人の意識構造と行動様式、伝統思想や慣行、法や制度(或は他の論点)などに基づいた一貫した論理で日本の社会文化の諸現象を規定する内面的特性を分析する問題意識を持つべきである。つまり、意識構造や行動様式の分析→それを孕む社会構造の分析→日本文化の特徴解明→他文化との比較などを論ずる問題意識が重要である。
二つ目は、問題意識を客観的な結果に導き出すための幅広い資料の収集と科学的な研究方法論の鍛錬が必要である。特に、方法論においては例えば、現実生活におけるに日本人の思惟様式の独自性の分析、思惟様式とその集合体である文化様態の相関関係分析、その結果として規定された制度や慣行などが、また、日本人の意識世界を束縛する形態を、連続・循環的に分析する方法論の鍛錬が重要である。
分析対象の主題設定に対する問題意識、充実した資料の確保と分析、そして先験的価値観にとらわれない研究方法論の鍛錬などは、論理の飛躍とか歪曲を根源的に遮断するだけではなく、異文化の深層的理解を可能にする出発点である。日本の国内外から注目を浴びてきた日本文化論と接していると、いずれもこの「基本」に徹していることがわかる。
韓国の日本学界における日本文化論の開花が、韓国社会の対日観の変化を適切に反映しながら日本文化論=大衆的談論という等式を破ったこと、日本研究の停滞性打破と新しい研究視角提示、研究分野の多様化と韓日学術交流の基盤構築に貢献、韓国内部の意識対象としての「日本」ではなく、客観的研究対象としての「日本」像の定着、などの成果を上げたにもかかわらず、インパクトの強い日本文化論がなかなか登場しないのは、二つの前提条件=基本が研究者のマインドの中に刻印されていなかったからである。
韓国における日本文化水準が今より一段階高いレベルで議論できる環境を作り上げるためにも、研究者の自己反省とともに残された課題に積極的に取り組もうとする意欲が必要である。未だに日本学界では、文化に対する深い洞察力なしに、文化研究は誰もがたやすく接近できる主題のように認識し、文化研究書の学術的価値を軽視する傾向が残っている。文化研究に対する理解不足は、韓国日本学界における文化研究の生育基盤の弱体化と大学の実績主義の弊害とが相俟って、また新しい問題を生み出す可能性も排除できない。適当な意味づけをした雑論が日本文化研究書に化けて、読者たちの知的好奇心を惑わす現象が再び顕在化するかもしれない。従って、今後の日本文化研究の深化を決して楽観することはできない。
いずれにしても実は文化研究は大変難しい主題であり、主情的観点から簡単に接近してはいけないという前提条件が必要である。要するに、極めて平凡な真理を研究者たちが認識したうえで文化研究に邁進するとき、はじめて韓国の日本文化研究も外から注目されると思われる。 
V.韓国社会の「日本文化」の再認識 
1.韓国社会が理解すべき「日本的価値」論
栄辱の二十世紀を終えた韓国社会は、「成長社会」から「成熟社会」に向かって価値観の新たな国民的合意を急いでいる。それと相俟って対日観も変わりつつある。盲目的な親日や反日の感情は影を潜めており、他者として日本を客観的に眺めようとする動きが大勢を占めている。言い換えれば、韓国社会の対日観も成熟さを増しているということである。こうした変化の中で韓国社会が一番優先的に理解すべき「日本的価値」(=日本・日本人・日本社会が歴史を通じて一つの文化的伝統として形作ってきた特徴)は何であろうか。まずは、何よりも日本人の行動様式の特徴であろう。それを筆者は、勤勉、倹約、正直、和合、といった日本人の伝統的なモラル=通俗道徳の実践倫理に注目することを提言する。これは、支配階級の道徳であった儒教とは異なって、主に自己鍛錬・自己省察の論理を強調した庶民たちの道徳であり、歴史的に見れば、石田梅岩の心学や、二宮尊徳の報徳運動、本居宣長の国学、そして仏教諸宗派の日常的な教えから影響をうけている。
庶民たちの普遍主義的道徳として位置づけられた通俗道徳は、特に自然災害や経済状況の危機のような時には、自己鍛錬を通じた強い忍耐心をばねに難局を突破する核心価値として遺憾なく発揮されたし、近代社会への移行期には日本近代化を下から支える原動力にもなった。
また、敗戦直後には戦後復興の土台として、一九九〇年代の「失われた十年」の間には、日本社会が今まで経験したことがない危機を乗り越える精神的基盤としても機能した。時空を超越して働かされている通俗道徳の価値が、日本人の伝統的な日常生活の実践倫理として強調されている背景には、このような歴史性が受け継がれているからである。
ここから日本的集団主義文化の基盤と特徴が形成し始める。日本の集団主義は、相互信頼を前提にする以心伝心のコミュニケーション文化が定着している。一般的な組織文化をみても、勤勉・正直・和合の精神をもって真面目に働くと、その結果として組織の発展はもちろん、それに対する代価としての自分の平和と安寧が保障されるという認識が組織文化の底辺に流されている。
このような精神は、日本の企業文化を通じて明確に確認できる。日本を代表する企業の経営哲学や社訓などをみると、「すべての人々に信頼され」「顧客の信頼を得て」「信頼される会社」「信頼に応える」といった文句を好んで使っている。日本社会があらゆる関係性の文化において、正直と信頼に基づいた「和」を追求する伝統的な行動様式を、いかに強調しているのかがわかる。
日本社会で「和」の論理の歴史的根拠を論じる時、聖徳太子の第十七条憲法の精神をよく借用している。その趣旨を一言で言えば「みんなが仲良く争わず協力しろ」という単純明快な論理である。これを逆説的に解釈すれば、和を損なう行為を日本社会は一番嫌がることになる。このような日本社会の「常識」は、個人の能力と創意性をもって日本の改革を実現すべきだと唱えられた一九九〇年代においても、決して崩れなかった価値である。
和の精神は単純に和合の行動様式だけを代弁しているわけではない。昔から日本の文化を強調するときには、いつも「和」という言葉を愛用してきた。日本人の情緒と思想を反映しているこの言葉は、実際食べ物を含めた様々な日常の文化に適切に反映されている。それだけではない。「和」は「和魂洋才」精神が物語っているように、日本人の絶え間ない挑戦や変革精神、そして個人や集団の発展を促す核心的価値としても機能している。
通俗道徳を前提にする共同体の生活様式とこれに支えられた集団主義文化の伝統は、支配体制の安定化、つまり、組織や国家の統合を容易にする画一的イデオロギーの確立にも積極的に貢献している。特に、十九世紀にはいって内憂外患という難局を克服し、近代国家の創出を先導する支配理念として天皇制イデオロギーを確立してからは、天皇はいつも国家支配体制の頂点に君臨しながら日本人の精神史的領域を完全に掌握していった。
それが可能になった背景としては、すでに丸山真男が『日本の思想』で指摘しているように、支配イデオロギーの下降を容易にさせる情緒が共同体の底辺に形成されていたという事実と無関係ではない。通俗道徳的思惟様式がその体制の構築に寄与したのは言うまでもなく、その延長線上で近代日本の「機軸」としての「国体」思想の創出が可能となった。
敗戦直後にも日本の朝野は、天皇を頂点とする国体の維持にすべてをかけた。天皇の存在は、日本の歴史と日本国のアイデンティティを規定する中核的価値だったからである。その精神文化を見抜いたアメリカも、日本朝野の「救命運動」を素直に受け入れるとともに、天皇の存在を国民統合の象徴の形で転換させ、戦争責任から免罪符を与える大胆な融和策をとった。
その結果、天皇の地位がイデオロギー的に退色されたものの、天皇の役割と機能、そして日本人の意識世界に内在している観念的崇拝思想は少しも変わらぬまま今日に至っている。このような情緒一般が、今日日本社会の右傾化現象を促進する根源の中の一つであることは注目に値する。
以上のあらましを見ても、韓国社会が理解すべき日本・日本人・日本社会の全体像は決して簡単ではない。これらの有機的関係が歴史を通じて日本の文化として形作られたのがいわゆる「日本的価値」である(表参照)。その特徴を韓国社会が「日本文化」として客観的に理解すること、その道程が近代以後韓国の歴史が我々に残した教訓である。
2.日本的価値と韓国・アジア
学問の魅力の中の一つが「社会への発信の場を確保すること」にあるとすれば、文化研究は特にそれを大事にしなければならない。日本的価値に対する韓国社会の客観的な接近は、@韓国社会という観点から見れば、「他者」としての「日」の理解、いわば成熟した対日観の確立を意味するものであり、A学界の観点から見れば、科学的で体系的な日本研究風土を韓国の日本学界に定着させる、いわば日本文化研究の新しいパラダイムを模索する出発点であるという意味を持っている。
これによって韓国社会は、日本研究の生育基盤の強化、研究成果の社会との共有基盤強化、日本との知的交流基盤強化という課題を築き上げることができる。そして、究極的には韓日善隣友好関係構築の強固な地盤づくりを自らの力で固めることができる。自己反省と自己帰責の論理をもって相手の変化を求める開かれた対日観が、二十一世紀の韓国社会の対日認識でなければならない。
一方、二十一世紀はアジアの時代だといわれている。歴史、文化、宗教、地理的要因など様々な限界にもかかわらず、アジアでは日本に次いでNICs、東南アジア、中国などが相次いで目覚しい経済成長を成し遂げている。それに、資源、人口、先端技術、市場といった確固たる基盤も保有しているので、その可能性は確かに高いといわざるを得ない。
だが、アジアの時代を開こうとすれば、アジアの政治的安定と自由民主主義価値の定着、閉鎖的民族主義の克服、文化疎通構造の確立、東北亜の緊張緩和などのような前提条件のもと、アジアを先導できる経済力と文化力を保有している日本の役割とそれに対する日本社会の自覚が必要である。要するに、国際社会の「バランス・オブ・パワー」に貢献できる日本・日本人・日本社会の「ノーブレス・オブリージュ」意識の定着が大事である。
日本政府は、プレイング・コーチとしての認識再考を通じて、膨張主義の誘惑を克服し、アジアの国際化とアジアの共同体構築に向けて、自分の役割が何かを真剣に考えなければならない。日本人は、自己本位的行動様式の再考を通じて、アジア人に対する差別的他者観を克服し、「誠真」の姿勢で「草の根外交」を真摯に実践し、日本社会は、偏狭なナショナリズムの再考を通じて、アジアに共鳴できる「日本ブランド」の発信に努めなければならない。
一部の識者たちは、「二十一世紀、世界は日本化する」と唱えている。それを証明でもするかのように、この頃日本は国際社会にむけて「主張する外交」と「日本らしい国際貢献」を強調している。このような理念はその正当性にもかかわらず、ややもすればアジアの対日経済・文化従属構造の強化と相俟って日本的価値の膨張主義を刺激する可能性もある。
「アジアが日本に屈する」ことを日本の識者たちが叫びだすと、アジアは日本に対する消耗的な警戒心理を高めるしかない。アジア諸国の急激な自己変身と東北亜の緊張高潮の危機に直面し、それを乗り越え一つのまとまった形でアジアの時代を開いていくためにも、日本的価値はいかなる貢献ができるか、そういった論議が日本社会でより活発に行われてほしい。アジアはそれを待ち望んでいる。 
主な参考資料
1.ジュリアン・ワイズ『アジアの世紀が来る』(堤誠子訳)ダイヤモンド社、1992、194p
2.エズラ・F・ヴォーゲル『アジア四小龍』(渡辺利夫訳)中公新書、1993、68p
3.サミュエル・ハンチントン外『文化が重要である』(リジョンイン訳)キムヨン社、2001、8-9p
4.金九『白凡日誌』(ウヒョンミン訳)ソブン堂、1995
5.『わが外交の近況』1985五年度版、外務省、57p
6.2007年韓国の対日貿易赤字は299億ドルを記録した。最近十年間だけでも2000億ドル超の赤字を記録している。国交正常化からいままで延べ3200億ドルの貿易赤字を記録するなど、年々深刻さを増しているが、これ以上の悪化はお互いに大きな負担になる。両国が知恵を絞って解決策を講じなければならない。
7.関西大学東西学術研究所『芳洲外交関係資料・書翰集』関西大学出版部、1982、82p
8.崔吉城教授は、親日と反日の「日」は日本を指していながらも、直接日本を対象にしているのではなく、韓国内部の意識対象としての「日本」を対象にしているという。そのため、反日は日本に抵抗することを意味するが、その鋭鋒は日本に向かっておらず、いつの間にか反日の韓国人が親日の韓国人を攻撃する構図に変わってしまったという。このような構図の成立は、韓国社会の分裂と葛藤を意味することであって、日本と直接的に関係する国際化や民族主義は次の問題だと指摘している。崔教授の指摘は、韓国社会における反日意識の実体に対する新たな問題提起をしたと思われる。『「親日」と「反日」の文化人類学』明石書店、2002、17p
9.例えば、李御寧『「縮み」志向の日本人』(学生社、1982)、金溶雲『韓国人と日本人』(全四巻、ハンキル社、1994、1970年代の末頃から出された氏の比較文化論は、その後シリーズとして1994年にまとまって出版された)、朴俊煕『「拡大志向」の日本人』(東信堂、1986)などがある。これらの日本文化論書は、1970年代のマスコミ関係者たちの「日本観覧記」による日本理解の流れに終止符を打って、日本文化研究に新しい活路を開いていくかに見えた。
10.主な著書を取り上げると、李渡ヒョン『日本、もう一度見て考える』(朝鮮日報社、1988)、李ジュヨン訳『我々が日本から学ぶべきことは』(朝鮮日報社、1991)、金義均『スパ隣国、日本が走っている』(ハヌルとタン、1991)、新韓総合研究所訳『日本経済の今日と明日』(高麗苑、1992)、『日本企業は世界をこのように攻略する』(リジャンチュン訳、1993)などがある。
11.例えば、連合通信が「親日派の誤解を覚悟する上でこのシリーズを企画した」という『また立ち上がった日本―その力はどこから』(三栄印刷、1991、序文参照)の場合は、割合にまとまった日本人・日本社会論を提示した。だが、隣の国を肯定的に評価するのに、これほど苦悩に満ちた言説を吐かなければならないほど当時の韓国社会が硬直していたのを考えれば、まともな日本論を期待するのは無理があったのかもしれない。
12.李渡ヒョンは、韓国で生まれて幼いときから「わが国いい国」を歌いながら育った「幸福な世代」が韓国の絶対多数を占めていると指摘したうえ、彼らは幸か不幸かわからないが日本を知らないまま生きているという。李氏は、彼らを「第三世代」と呼んでいる。『日本、もう一度見て考える』朝鮮日報社、1988、10p
13.代表的には、田麗玉『日本はない』(知識工作所、1992)、金ヨンミョン『日本の貧困』(未来社、1992)などがある。
14.魯成煥『箸の中から見た日本文化』キョボ文庫、1997
15.金絃求『日本物語』創作と批評社、1996
16.1998年日本大衆文化開放を前後にして出版された二十余種の日本大衆文化論はほとんどが日本の性文化や芸能文化の紹介及びそれに対する叙述が主流をなしていた。この中で筆者は、拙著である『リアクションの芸術日本大衆文化』(セウム、2000)を通じて、日本大衆文化の成長・発展過程を戦後の日本社会の変化の中で分析した。筆者の意図は、狭義的には日本の大衆文化がこれ以上断片的に歪曲された形で韓国社会に紹介されては困るということと、広義的には日本文化論がまた学界の外縁で無分別に拡大される現象だけは止めたいという思いがあった。
17.朴有河『誰が日本を歪曲するのか』社会評論、2000
18.このような金の対日観は『日本の貧困』(未来社、1992)を通じて露になったが、その後出版された『コンプレックスの国日本』(乙酉文化社、2001)においても同じ観点から日本を論じている。
19.代表的には、モセジョンの『日本をまな板のうえにのせて』(デュナム、2000)がある。
20.魯成煥、金絃求の『前掲書』参照。魯の提示した方法論は、『菊と刀』ですでに検証された方法論であるがため、新しい視点とはいえない。また、金も『菊と刀』が日本的特徴の歴史的由来を解明できなかったという批判の上、歴史学的研究方法論の正当性を論じている。だが、両者とも論理の新鮮さも批判の的も正しくない上、自分たちの研究も自分たちの問題意識を前編を通じて貫くことができなかったことは批判されても仕方がないと思われる。
21.代表的には、尹相仁『日本を強くさせた文化コード16』(ナムとスプ、2000)、日本学教育協議会『日本の理解』(太学社、2002)、朴晋雨外『新しい日本の理解』(多楽フォン、2002)、リュキョヨル外『日本は我々に何であろうか』(チェクサラン、2002)などがある。
22.具見書『現代日本文化論』時事日本語社、2000
23.安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店、1974
24.小松和彦「人類学・民俗学の四十年を振り返って」『日本文化の人類学/異文化の民俗学』法蔵館、2008、771p
25.日下公人『二一世紀、世界は日本化する』PHP研究所、2000
26.長谷川慶太郎『アジアが日本に屈する日』ビジネス社、2005
 
中国史のなかの日本像

序章 日本像の視座
中国と日本の交渉史は、ある意味においては、両国民の相互認識および相互理解の歴史でもある。中日間の人的または物的な交流は、縄文末期か弥生初期あたりにさかのぼれるとすれば、はやも二千年以上もの悠久な歴史をもつことになる。その間に、中国人の目には、日本という空間、そこに住んでいる住民がどう映ってきたのか。歴代の中日文献を手がかりに、日本像そして日本人像をデッサンしてみせるのが、本書の使命である。日本像は大きくいえば、ふたつの要素に左右されつつ、たえまなく変幻している。そのひとつは中国側の海外知識の増大であり、もうひとつは日本側の対華政策の変化である。唐宋より以前の日本像は主として前者、元明より以降の日本像は主として後者の影響を大きくうける。 
第一節 先行研究について
このような流動的な日本像の変遷史は、これまでにどう究明されてきたのか。先行研究を紹介しながら、本書の採る視座をあわせて提示したい。
(1)先行研究といえば、石原道博氏のすぐれた業績がまず思いだされる。氏は文部省科学研究費による「中国における日本観の展開」の研究成果を『茨城大学文理学部紀要(人文科学)』第一号以下につぎつぎと公表している。
石原道博氏は日中交渉史を、@隋代以前A唐宋時代B元明時代C清代D中華民国時代の五つにわけて、それぞれの時期の日本観の特徴を要領よくまとめている。やや長文であるが、その要旨を引用しておく。
@隋代以前の日本観はいわばその端緒的形態であつて、中国人の使者の見聞ないし存候存問といったようなものが日本観の根柢をなしていた。
A唐より五代をへて宋になると、平和的な日華交通のさかんになるとともにその日本観も一だんと飛躍し、伝統的な藩属国ないし附庸国としての東夷観より脱却することはできなかったが、すこぶる同情友好的となりいわば善隣的日本観の展開した時代であった。
Bそれが元代になると入元使者・僧らの質的低下のうえに、一方では元寇あり、つぎの明代になると倭寇の患害はいよいよはげしくなり加うるに万暦朝鮮の役あり、その日本観は一転して日本を狡詐残暴として寇賊・仇敵視さえする憎悪と恐怖をふくんだ畏悪戦闘的日本観が展開されるようになった。(中略)
C清代においては日清戦争をさかいとしてその前後の日本観に相違をみとめるが、さきに元寇・倭寇・朝鮮の役などが日本観の悪化に拍車をかけていたのにたいし、日清戦争はこれと反対に戦後は対日悪感情がほとんど払拭され、留日学生は陸続として来朝し、日露戦争後はいわば恋愛的日本観ともいうべき傾向をしめし対日感情の好転はその最高潮にたっした。ただしその背後にはヨーロツパ文明輸入の便宜的・間接的手段とかんがえていたことも否むわけにはゆかない。
Dはじめ孫文らの中国革命をひそかに応援していた日本が、やがて袁世凱以下の反革命運動と気脈をつうずるようになると、中国人の対日感情はふたたび急激に悪化しはじめた。
中国における日本観は、このように時代の潮流に揺さぶられながら、今日にまで至っている。そして、辛亥革命(一九一一年)以前の日本観を右のごとく五つの時期にわけることは、その変遷起伏の軌跡を明晰にとらえ、まことに正鵠を射ていると思われる。
しかし、中国人の日本観はあくまでも中国人の世界認識の一部分であり、また歴史的に蓄積しつつ形成したものである。石原道博氏の研究は、中国人の世界観をあまり視野におさめておらず、各時代の日本観の継承関係にも充分な配慮を払っていないのが白玉の微瑕と惜しまれる。
(2)日本側の先行研究として、伊東昭雄ほか著『中国人の日本人観100年史』も注目に値するものである。本書は一九七四年六月に自由国民社より上梓され、明治以後の中国人のもつ日本人観をきめ細かく分析し、また重要と思われる基本史料をそれぞれ日本語に翻訳してかかげている。読者にとってたいへん便利な基礎文献のひとつである。
ただし書名に示されているように、内容は百年の歴史しか扱っておらず、日本像の形成変化の長い歴史からみれば、あたかも一コマの静止画像のごとく、綿密さが充分だが、歴史を息づかせるような躍動感はあまり感じられない。
(3)一九八九年八月に「東アジアのなかの日本歴史」シリーズの一冊として、六興出版から刊行された『中国人の日本研究史』は、武安隆と熊達雲の二氏による日本語の労作だが、中国人学者としては、このテーマを扱った処女作だったと思われる。本書は「研究史」と銘打ってはいるものの、中国人の日本観の叙述に大半の紙幅を割いている。
もし石原道博氏の研究は明代以前に詳しいとすれば、本書は明代以後において膨大な史料を駆使し、前人未踏の分野にまで踏みこんでいる。叙述はいささか簡略にすぎる憾みがあるが、後学の抜けて通れない先駆的な名著であると評価してよかろう。
(4)石暁軍博士の『中日両国相互認識的変遷』は、一九九二年一二月に台湾商務印書館から出されている。本書は中国人の日本観だけでなく、それを日本人の中国観と対比しつつ、相乗的に形成される相手国像を動的に捉えているのが特徴である。
時代的には縄文から大正までをカバーし、しかも中国と日本の両方にせわしく目を配らなければならないためか、日本像の系譜の叙述は連関性を欠き、また日本像と中国像の内的関連についても、しかるべき考察と議論とが足りない嫌いがある。
(5)アメリカの中国研究の碩学であるアレン・S・ホワイティング博士のChina Eyes Japanは、一九八九年に世に問われると、たちまち欧米で好評を博し、多くの読者を獲得した。一九九三年、岡部達味教授による日本語訳『中国人の日本観』が岩波書店から出され、一九九九年さらに岩波現代文庫にも収録されている。
本書が大きく注目されるのは、第三者の観察という希少価値があるのみならず、われわれが日常生活のなかで実感している現在の日本像を冷徹に分析しているところにも原因があるように思われる。 
第二節 多重映しの日本像
このように、もし石原道博教授の「中国における日本観の展開」連作に、武安隆・熊達雲二氏の『中国人の日本研究史』、さらにアレン・S・ホワイティング博士の『中国人の日本観』をつなぎ合わせれば、秦漢時代から現代に至るまでの日本像は、ほぼ首尾よく収まっている。
ところが、これまでの日本像研究は、時代区分にこだわりすぎ、あたかも中国の王朝が変わると、必ずや日本像もがらりと塗り替えられるといったような印象をわれわれに与えるのである。しかし実状はそうとは限らない。
中国文献に描かれた日本像は、時代ごとの特色を保ってはいるものの、前代の映像がつぎつぎと重なりあうように後世のそれに影を落とし、その結果は多重写しの複雑な構造をなしているのである。つまり、日本像の形成変遷の軌道は、必ずしも王朝交替のリズムと同調せず、独自な成長曲線を描いているのである。
さまざまな日本像が交錯しているなかで、各時代の日本像の基幹となって変わりにくい像があれば、一時的に出現してすぐに消えさってしまう像もある。また姿を変えながら、何度も生まれ変わって現われる像さえある。
たとえば、「神仙の郷」というイメージは、もっとも初期の日本像につきまといながら、前近代まで持続していた。古典的な名著とされる『日本国志』を著わした黄遵憲は、その序言において一衣帯水の隣邦日本をあたかも「海外の三神山」のごとく眺める知識人の無知をなげき、執筆の動機を述べている。ただし、「神仙の郷」は日本から直接に受けとったイメージではなく、古来より東方にまつわる神話伝説をそのまま「東の国」日本に移入したものにすぎない。このイメージが近代になって破滅するとともに、中国人は何千年もの間に東方へ馳せていたユートピア幻想を棄てなければならなかったのである。
中日関係の「蜜月」ともいわれる唐宋時代には、複数の日本像、たとえば「宝物の島」「器用な民」「礼儀の邦」「好学の士」などが混在していた。そのなかに、『旧唐書』(倭国伝)の記述するとおり、「その人、入朝する者は多く自ら矜大にして、実をもって対えない」という嘘つきのイメージ、また『癸辛雑識』に述べられた日本人の淫乱なイメージなどがあったもの、それらはいずれも個別的な例であり、唐宋時代には日本像として普遍性がなくパターン化しなかった。
それに対して、いったんパターン化した日本像は、それ自体が長く持続するのみならず、新しい日本像を生みだす再生機能のある生き物となる。たとえば、「神仙の郷」から「君子」と「仙薬」が派生し、「君子像」はまた「好学の士」に生まれ変わり、「仙薬」は「宝物の島」につながるのである。また一方、「倭寇像」は甲午戦争(日清戦争)、八カ国連合軍(北清事変)、抗日戦争(日中戦争)など、中日関係が悪化するたびによみがえるのである。
このように、どの時代の日本像も、われわれが想像しがちな一色塗りの図像ではなく、さまざまなイメージが交錯する多重映しの立体画像なのである。しかも、それぞれの単色画像が記憶メモリとなって蓄積し、王朝の交替と関係なく持続しつつ、いつでも新しい日本像にその姿を映しだすことが可能である。
右のような認識に基づいて、本書は上古から近代までの日本像の形成史をたどるものであるにもかかわらず、あえて王朝交替による時代区分にこだわらず、王朝をまたがって絶えず変幻する日本像を、新しい日本像の合成にみずからを再生できるいくつかの基本パターンにわけて、それぞれの生成軌道をなるべく追跡してみた。
本書にスポットをあてられた日本像は、歴史的にはある程度の自己完結を達成したものばかりでなく、多少なりとも現代の日本像にも影を落としたものである。それには、礼儀正しく振舞う君子像があれば、日本刀を振りかざす倭寇像も見え隠れする。また「好学の士」として映れば、「残虐な敵」としてもクローズアップされている。
これらの日本像のパターンを叙述するにあたって、なるべく個人的な感情を入れずに、各時代の文献から日本関係の記述を忠実に引用し、それらを客観的に分析するようにつとめたつもりだが、人間の行なう作業だけに、史料の選択や文献の解釈などに、筆者の日本観がまったく投影されていないという保証はない。いずれ読者の判断に委ねよう。 
第三節 未来志向の日本像
本書の執筆を通して、歴史の鏡に映しだされた日本像には、プラス面とマイナス面とが交錯してはいるが、秦漢から唐宋にかけてはプラス像がずっと持続し、元明より以後はマイナス像が主流となった事実をいくらか明らかにすることができたと思う。
そして、前節にも述べたように、こうした日本像のパターンがもはや中国人の歴史的な記憶となって、いつでも日本像の構築に呼びだされることが可能である。これらのパターンにふくまれる正負の遺産が、どれほど現在の日本像に受けつがれているかは、両国の政治的・経済的・文化的な関係によって流動的である。
ところが、近ごろ対日意識のアンケート調査によれば、中国人の日本観がもっとも悪い時期に接近していることがわかり、そのことはマスコミなどで大きく報じられ、中日関係の未来に対して悲観論者が両国ともに続出しているという。その背景をすこしさぐってみたい。
(1)政治的背景。一九七二年九月二九日、中日国交が正常化されて以来、抗日戦争から引きずってきた敵国としての日本像にひとつの区切りをつけて、現代の物質文明に光りかがやく新しい日本像がにわかに浮かびあがってきた。
しかし、それもつかの間で、日本国内の極右勢力がいちじるしく台頭しはじめ、靖国神社の参拝、教科書の改竄、釣魚島の強行上陸、慰安婦問題の回避、南京大虐殺事件の否認など、毎年のようにかの「不幸な時代」を思いださせる事件を引きおこすたびに、中国人の記憶にぐっすり眠っていた「倭寇」や「日本軍」のイメージが呼びだされてしまう。
一方の中国では、日本からうけたODA(政府途上国援助)をひろく国民に知らせていないかわりに、日本右翼の動きをわりと控えめに報道している。日本に戦争の損害賠償を求めるグループの活動がきびしく制限されることにも示されているように、日本のやった悪いことも良いことも隠してしまって、政府間の「密室交易」だけでは、国民の支持を得られる真の関係改善はまず望めないだろう。
(2)経済的背景。「山があれば、必ず道がある。道があれば、必ず豊田がある」というトヨタ自動車のコマーシャルを知らない中国人はほとんどいない。ここ十年来、日本の製品が怒濤のように中国に流れこみ、人々の生活の隅々にまで浸透している。
これらの製品からうけたイメージは、戦争時代の記憶とは無縁であり、現代生活を満喫させる高級感と新鮮さに溢れている。現代化にむけてめざましく動きつつある中国のあちこちに日本像をちらつかせているのは否定できない事実である。
かつての百日維新や辛亥革命が明治維新をモデルにしていたのと同じように、八〇年代に始まった中国の改革開放も、日本から現代化の経験を多く学んでいる。本書の第八章に述べられた「西学の師」のイメージがよみがえった感があり、現在の暗そうな日本像に明るい色彩を塗りかさねている。
ところが、右の「物質」による明るい日本像には、それを作りだす人間像をほとんど伴っていないのが、どうも気がかりになってならない。近ごろ、日本企業の中国進出が多くなり、人間交流による摩擦が頻発している。日本製品を愛用しても、日本企業に就職したがらない大学生は少なくはない。このような物的イメージは脆弱なもので崩れやすいという疑念は、いよいよ現実となってきている。
日本的な経営システムを文化風土の異なった国々へ強引に押しつけようとした日本企業は、アメリカでは度重なる訴訟に負けて巨額な賠償金(和解金)を払わされたという苦い果実を飲まされているが、中国では少なくともMAID IN JAPANという光りかがやくブランドを確実に曇らせていることはいえよう。
(3)文化的背景。中国人のもつ主要国の外人像のなかで、日本人ほど文化的な色彩の薄いものは少ないだろう。日本人といえば、千篇一律のサラリーマンというイメージがまず思い浮かんでくる。日章旗をかついで日本刀を振りまわす日本軍人の姿を第一印象にもつ年輩者の多い中国では、「サラリーマン」という労働者像は、欧米人の嘲笑する「働き蜂」とちがって、決して悪いイメージを伴ってはいない。
日本人は、世界最高の物づくりの職人であるかもしれないが、尊敬を払われる知的な文化人ではない。筆者の勤務する中国浙江大学日本文化研究所は、数年前、上海駐在日本総領事館と共同で、文化大省といわれる浙江省初の「日本文化週間」を開催したことがある。日本カレンダー展、中日文化講演会、日本研究書籍展、日本映画祭などに数千人の大学生と市民を動員し、マスコミにも大きく取りあげられた。
主催者側としては、日本進出企業と地元住民との相互理解を促進させるねらいがあり、ひろく日本企業の参加を呼びかけたが、イベント中に顔を出したのは二社のみで、一社は工場長をつとめた筆者の教え子で、「社長から三〇分の休暇しかもらえなかった」といって、開幕式の直前に帰ってしまった。もう一社は総領事に会うのが目的のようで、主催者側にあいさつもせずに姿を消してしまった。
このように、自国の文化にも興味をもたない経済人は、ましてや地元の文化に理解なんか示そうとはしないだろう。したがって、現地の人材を大胆に起用し、地域の文化事業に積極的なかかわりを持とうとする欧米や韓国などの企業に比べると、中日交流はあくまでも「物」の交流であって、「心」の交流に欠けているといわざるをえない。
ただし、無文化の日本像をつくらせてしまった責任をすべて日本側にするのは公平さを欠き、中国側にもそれなりの責任を負わせるものがある。つまり、現代化を急ぐ中国は日本の政治と経済に目を光らせ、実利を伴わない文化には無関心だった。中国に百以上もある日本研究所は、ほとんどが政治経済まはた言語文学を専門としており、「日本文化」と銘打って専任教授をかかえる研究所は、浙江大学にしかないといわれている。日本文化は中国文化の亜流であって独自な文化ではなかったという「中華思想」が、まだ消えさっていないように思われる。
以上のように、今日の思わしくない日本像の生成背景を、政治・経済・文化の側面から分析してみた。しかし、筆者はそれでも未来には楽観的な予測をしたい。というのは、二千年あまりの歴史をふりかえってみれば、日本への好印象は千年以上も持続し、もし政治的な要素がなければ、今も持続していたはずで、またイメージをダウンさせるのは、あくまでも国家を頂点とするさまざまな「組織」であって、個々の日本人に対しては好感が持たれることが多いからである。
日本人は個人としては、礼儀正しく、勤勉で正直であり、思いやりがあって教養も豊かであるとされるが、組織や集団にその個性を埋没させられると、外の人間に対しては傲慢で冷酷であり、閉鎖的で利己主義者に変身してしまう、とよく聞かれる。
「歴史を鑑として未来を切り開く」という古訓がある。本書は中国における日本像の形成史を追跡したものではあるが、ひそかにめざすのは未来志向の日本像である。この未来志向の日本像を構築するには、特定の利益集団に個人の良識を拘束されない、民間レベルの「心」の交流がまず不可欠な前提となるのだろう。 
第一章 神仙の郷 / 幻想的な日本像

中国人の持つ日本像を解きあかすにさきだって、古代中国の宇宙図式をまず理解しておく必要があるように思われる。というのは、秦漢より清末に至るまで、中国人の外部世界への認識は、ほとんど既成の宇宙図式に左右されているからである。
ところで、中国人の宇宙図式とは、どんなものであろうか。かいつまんで紹介すると、次のごとくである。
春秋戦国(前七七0〜前二二一)の時代は、孔子や老子らをはじめ異色の学者が輩出し、思想学問の論争が盛んに行なわれたことによって特徴づけられる。そのなかで、北方の周文化圏に属する五行家たちは、自然万物より木火土金水といった基本元素を抽出して、これらの元素の相生相克の理論をもって、宇宙のメカニズムを説きあかそうとする。
こうした北方の経験的・即物的・動的な宇宙観に対して、南方の楚文化圏に属する道家らは従来の陰陽説を吸収し、さらに森羅万象の究極のところに「道」「無」「太一」の概念を設定して、抽象的・瞑想的・静的な宇宙観を築きあげたのである。
紀元前二四六年、「戦国七雄」のひとつに数えられる秦は、始皇帝の改革によって国力を強めつつ、中原に鹿を逐おうとする競争相手の韓・趙・魏・楚・燕・斉をつぎつぎとほろぼして、中国統一の大業をなしとげた。秦王朝のもとで、貨幣・文字・度量衡がひとしく統一され、強力な中央集権のイデオロギーは社会の隅々にまで浸透していった。その勢いの赴くまま、人間界の原理と法則は自然界、さらに宇宙にも押しつけられるようになった。
『呂氏春秋』などに描かれている宇宙秩序はまさしくその結果であろう。そこには秦の統一王朝にふさわしい南北論理の融合がみられ、太一は陰陽にわかれ、陰陽から五行を生みだし、森羅万象はまた五行に対応される、といった気宇壮大にしてかつ秩序整然とした図式が展開されている。 右の宇宙図式は自然界と人間界のすべてをことごとく包容している。たとえば、物質・時間・空間・民族をそれに即して図示すると、次のようになる。


陰───陽

[物質]木  火   土   金  水
[時間]春  夏  土用  秋  冬
[空間]東  南  中央  西  北
[民族]夷  蛮  中華  戎  狄
秦代に大成をみた陰陽五行を骨子とする宇宙観は、時間的には二千年来の中国人の思考様式を特徴づけ、空間的には東アジア諸国の制度・思想・宗教・風俗・社会の隅々にまで影を落としている。したがって、中国人の世界観および日本観も、この宇宙図式と関連して検討しなければならない。 
第一節 「倭」の地理像
中国では、ふるくから外国の位置を定める場合、その国にもっとも近い支配地域を起点として、相互の地理的関係を示すならわしがあった。したがって、中国における民族移動や疆域変遷、または政治中心地の移動などにより、昔から「倭」と称された日本も、時代とともに、さまざまな角度から想像されたり観測されたりしてきた。
数千年という時間の単位は、地球にとってまさしく束の間、地穀の変動はほとんど無視できるほど、微少なものにすぎなかった。それにもかかわらず、中国の文献に記載されている倭の位置が、北方にあったり南方にあったり東方にあったりするのは、流動的な初期の日本認識の形成軌道をありありと物語ってくれる。
ここで、倭の所在する方角を追究することは、近代的な地理学の正確さを期せず、古代中国人の心象風景に浮かんだ日本の原像を探求するのが目的なのである。
1北方にあった倭
日本のことは唐以前の文献では、ふつう「倭」と書かれる。倭人の生息する島々の方角とその位置について記録した初期の文献は、それと関連づけられる中国の地名によって、大きく「燕」と「越」の二系列にわけられる。
まず、「燕」系列の文献をたどってみよう。
撰者不詳とされる古代の地理書『山海経』(巻十二、海内北経)に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。この一文について、従来よりは「蓋国は鉅燕にあり、南倭と北倭は燕に属する」との読み方もあったが(松下見林『異称日本伝』など)、このごろは「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属する」と読みとくのが、ほぼ定説化している。
燕とは戦国時代(前四〇三〜前二二一)今の北京付近に王都をおいた諸侯国のひとつである。この燕の南と倭の北との間に「蓋」と呼ばれるナゾの国がはさまれているから、倭は燕の遙かなる南方にあったことが推定される。
右文にみえる蓋国はどこに比定されてよいか。石原道博氏は「蓋国の蓋は北京音ではkaiであるが、南方ではkanと発音されるから韓のことをさし、韓国は燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属しているといういみであろう」との見解をはやくから示している。(1)
また近年では、『三国志』や『後漢書』の東夷伝に、東沃沮の位置について「高句麗の蓋馬大山の東にあり」とある記載によって、「蓋国」はすなわち「蓋馬」のことで、おおよそ朝鮮半島の北部にあったろうとの仮説がかなり有力になってきた。(2)
右の説にしたがえば、『山海経』に出てくる「倭」とは、まぎれもなく日本列島をさすことになる。そして、朝鮮半島と日本列島とを支配の視野にいれた燕は、自分の勢力圏を誇示したのが「鉅燕(国土の巨大な燕国)」の意味するところであろう。
燕と倭の結びつきには、わずかながら裏づけがある。班固の撰した『漢書』に「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり、献見するという」とある。この記事は『漢書』(巻二十八下、地理志)燕地の条に組みこまれているから、燕地ゆかりの日本観とみてよかろう。
「倭は燕に属する」という日本認識は、北方の燕地を起点としている。范曄の『後漢書』(卷九十、鮮卑伝)によれば、後漢の光和元年(一七八)、鮮卑族の君長檀石槐は部族の人口急増によって、あらたな食料源を求める必要に迫られ、広さ数百里にわたる烏侯秦水を眺めたとき、倭人が網で魚をとるのが上手だと聞いて、ひとつ名案が浮かんできた。
「東して倭人の国を撃ち、千余家を得た。徙して秦水の上に置き、魚を捕らさせて、もって糧食の助けとする。」
烏侯秦水は、遼河の支流をなす老哈河と推定され、遼寧省の赤峰市あたりをながれる川であると推定されている。これもまた、北方の遊牧民族と倭人との交渉を伝えるユニークな記録である。
右に述べた『山海経』と『後漢書』に記された「倭」については、それが今の日本列島をさすのではなく、朝鮮半島の南海岸に住んでいた倭人のことだろうと主張する学者も少なくはない。(3)それはともかくとして、当時の「倭」は北方の燕国などとの直接間接のかかわりで、中国から認識されていたわけである。
2南方にあった倭
『山海経』および『後漢書』にみえる「倭」と『漢書』の燕地に登場してくる「倭」を、それぞれ別個なものとみなす根拠は、はなはだ貧弱である。とくに『山海経』と『漢書』の「倭」はともに「燕」とからんで記されているから、やはり半島にではなく、「海中」の島々にあった「倭」をさすものと考えるべきである。
しかし、古くから朝鮮半島、とりわけ半島の南海岸一帯に、倭人と韓人とが雑居していることも、これまた事実だったらしい。たとえば、『北史』(巻九四)と『隋書』(巻八一)の百済伝に「(百済に)その人は雑じって新羅・高麗・倭などあり、また中国の人もある」とみえる記述によって、このあたりの事情がおおよそ推し量られよう。
上述の『山海経』、『漢書』、『後漢書』にみられる日本認識が、もし朝鮮半島(蓋国・楽浪)を介して形成されたとすれば、それに半島在住の倭人のイメージをいくらか重ねあわせていることもありうるが、それが決定的な要因とならないことは明らかであろう。
つまり、『山海経』にみえる倭は「燕に属する」特定の種族および地域、『漢書』に登場する倭人は「歳時をもって来たり献見する」百余国の支配政権、『後漢書』に現われた魚捕りの倭人も「倭人国」と表現されているから、いずれも海外に散らばった倭人の小集団を対象としていないのだ。
したがって、遙か海中の日本列島に住んでいた倭人の存在は、漢以前の中国人にある程度まで知られていたと、こう結論しても大過はなかろう。そして半島を経由して、その実体がしだいに中国北方の政権に伝達されてきた「倭」は、もし半島を起点としてみれば、まぎれもなく南に位置することになる。
『後漢書』(巻八五、韓伝)は三韓のことを述べるなかで、倭との位置関係をつぎのように示している。ちなみに、三韓とは馬韓、辰韓、弁韓のことである。
「馬韓は西にあり、五十四国ある。その北は楽浪と、南は倭と接する。(中略)弁韓は辰韓の南にあり、また十二国ある。その南はまた倭と接する。」
右の記事に出てくる「倭」は、日本列島の倭人ではなく、半島の南部に居住する倭人であるとの意見もあるが(4)、それには従いがたい。というのは、ここの「接する」とは陸続きの意味ではなく、たとえ海を隔てても、その中間に他の国をはさんでいなければ、交通をもつ両国の地理関係をこう表現することが多々あるからだ。。
紀元前一〇八年、漢の武帝が燕の亡命人らの手によって創られた衛満朝鮮をほろぼし、その地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設けた。こうして、漢の支配圏が半島にひろがっていくことにつれて、東の諸民族がより正確に知られるようになった。
倭の位置についても、中継地の楽浪郡、のちには帯方郡(二〇五年ごろ、楽浪郡の南部を分割して設置した漢の出先機構)を起点として観察され、しだいに北方説から南方説へと移行していった。
3東方にあった倭
秦の始皇帝が中国を統一して、天下を三十六郡にわけて以来、揚子江流域を中心とする会稽郡(今の浙江省紹興あたり)はたちまち東南の大都会として、大きな発展をなしとげた。会稽を起点とする日本認識は、次にあげる「越」系列の文献に具現されている。
王充という漢代の思想家の撰した『論衡』巻八の儒増篇第二十六に「周の時、天下は太平である。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ずる」とあり、また同書の巻五の異虚篇、巻十三の超奇篇、巻十九の恢国篇にも、類似の記事が認められる。
「越裳」は越常国または越甞国とも称し、『後漢書』(南蛮西南夷伝)に、交阯(ベトナム)の南に越裳国があるとして、周代での白雉献上のことが述べられているが、会稽を中心にひろく南方の地域に分布していた越族の一派である。
倭人の貢献した「鬯草」は、欝金草(香)・欝鬯・暢草とも称し、中国南方の欝林郡(前漢武帝のころに郡を設置し、ほぼ現在の広西省桂平県にあたる)産の香料の一種とされ、祭酒の原料として珍重される。倭人貢献の時代については、恢国篇にしたがって成王の時と限定すれば、紀元前一0二0年ごろのことであり、日本では縄文後期の末から晩期にあたる。
『論衡』の著者王充は、後漢の光武帝の建武三年(二七)に会稽郡の上虞県で生まれた。倭の奴国の使者が漢都の洛陽にまで入貢したという事件があった建武中元二年(五七)は、王充がちょうど洛陽の太学(国立大学)に入り、班彪という高名な学者に学んでいたころであった。
『論衡』にみられる倭人の記事は、周朝聖王の徳化がとおく海外にまで及んでいるという功績を宣揚しようとしたものだろうが、故郷の会稽で見聞した倭人来航の「歴史的事実」がその下敷になっていたとも思われる。そして、今の紹興を中心とした会稽の地に住みついた越人や呉人の目からみれば、海彼の倭人はまぎれもなく「東方の人」であった。
中国に伝達された倭人の情報を、北方の燕国を中軸として伝えたのが『山海経』と『漢書』の記事であり、南方の会稽を視点に記録したのがほかならぬ『論衡』の史料であろう。 
第二節 『後漢書』の倭国像
『後漢書』の成書が『三国志』より遅いことは周知のとおりだが、史書の記録する王朝の年代順からすれば、正史(国家公認の歴史書)の列伝に「倭伝」を別項して設けるのは『後漢書』を最初とする。
このもっとも古い王朝の「倭伝」に描かれた倭の地理像はどんなものだったのか、ここで考察してみよう。まずは冒頭の一文をかかげる。(叙述の便宜上、引用文に番号をつけた)
(A)倭は韓の東南の大海にあり、山島に依って居を為す。
「楽浪の海中」とのみある『漢書』の記述に比べて、『後漢書』のほうが「韓の東南の大海」とし、方位をいくらか具体化している。ここで思いだされるのは、前に引用した同書の「韓伝」である。つまり、馬韓と弁韓の南と接する倭は、海中の島々として認識されているのである。
(B)その地は、おおよそ会稽の東冶の東にある。
「韓の東南の大海」にある倭は、会稽からみれば、まさしく東方にあたるという。これにつづいて、つぎの一文が記されている。
(C)朱崖、?耳と相近く、ゆえにその風俗は多く同じである。
朱崖と?耳は今の海南島あたりにあるが、昔から中国大陸の南端として認識されていた。つまり、倭は地理的に中国の南端にもっとも近く、しかも両地の風俗は多くの共通点を持っているとされる。
右の三文における倭の地理像は、一見して互いに矛盾しているように思われるが、この点をどう説明すればよいのだろうか。
われわれは今こそ「倭」といえば、あたかもひとつの統一国家のように想像しがちだが、昔はかならずしもそうではなかった。『漢書』に「百余国」とあり、また『後漢書』は漢と通交していた国を「三十許」と記している。
三十ぐらいの国は、日本列島の各地に散らばっているはずで、統一の外交権を持たないそれらの国々は、みな同一のルートを通して漢王朝に朝貢していたとは、とうてい考えられない。
弥生時代の航海技術を考慮にいれれば、その時代に海をわたるということは、風向きと海流にまかせての漂流そのものである。それぞれのルートを通して、中国大陸の各地に漂着した倭人への認識が、『後漢書』の倭伝のなかにちりばめられていたのではないか。
つまり、(A)文は朝鮮半島を経由して、北方王朝に朝貢してきた倭人による地理像である。その記録はもっとも多く保存され、『後漢書』には中元二年(五七)と永初元年(一〇七)の朝貢記事が記されている。
(B)文は、おそらく江南(ここでは揚子江下流域をさす)に漂着した倭人から得られた地理観であろう。ここで注意をひくのは、『後漢書』倭伝の後段に「会稽の海外に、東?人があり云々」とみえ、倭人と区別される集団が東シナ海をわたって来航した記事である。
(C)文はさらに倭人の風俗にまで言及し、中国南方のそれとの類似を指摘している。秦漢時代以来、漢民族の勢力がしだいに南進するにつれ、江南を原郷とする越人の多くは圧迫を受けて大挙して南方へ逃れた。したがって、越人の風俗に似ているということで、『後漢書』は倭の南方説をとったのかもしれない。
このように『後漢書』は、三十ぐらいの集団が日本列島から複数のコースをとって来航したことを示唆してくれながら、あくまでも北方経由の「倭人」を倭伝の中心にすえ、江南漂着の集団については付随的に併記するにとどまったのである。 
第三節 東夷観の成立
倭国は北方または南方にあると認識されるかぎり、東夷の持つイメージと重なってしまうことは、まずありえない。しかし海をわたってきた倭人は、越人の目からみれば、まぎれもなく「東の人」であった。そして、会稽郡の役人が華夷観の色眼鏡をかけてみれば、倭人がおのずと「東夷」に映ってくるわけである。日本観と東夷観のミックスは、ここから始まる。
このように、おそらく前漢と後漢の間、つまり紀元前後に、倭人を「東夷」のひとつとみなす考えがほぼ定着してきたようである。そして、このようなイメージは『後漢書』以下の中国正史の倭国伝に一貫して継承されている。
中国の官撰史書(すなわち正史)二十五のうち、日本伝を別項して設けるものは十八ほどあるが、『新唐書』以前の十一書はほとんど日本を東夷のたぐいに位置づけている(下表参照)。
番号  書名  撰者  伝・志名
01 後漢書 范曄 東夷
02 三国志 陳寿 東夷
03 晋書 房玄齢 東夷
04 宋書 沈約 東蛮
05 南斉書 蕭子顕 東南夷
06 梁書 姚思廉 東夷
07 南史 李延寿 夷貊
08 北史 李延寿 (四夷)
09 隋書 魏徴 東夷
10 旧唐書 劉? 東夷
11 新唐書 宋祁 東夷
倭を東夷のひとつと認定することは、たんなる倭人の位置認定の問題だけではなく、倭人像そのものに大きな変化をもたらすことになる。つまり、中国人の世界観に沈殿している東夷のイメージは、まるごと倭人像のなかに移入される可能性が出てきたわけである。 
1「東」という方角
中国人の日本観を根底から突きとめようとすれば、「東」と「夷」の語源と語意をまず究明しておかなければならない。なぜなら、中国における日本の原像は、東夷観そのものにほかならないからである。換言すれば、既成の東夷観はそのまま初期の日本観に移入されているのである。
「東」の語源について、漢・許慎の著わした『説文解字』は「日に从い、木の中に在る」と解釈している。日と木の合成文字をざっと拾ってみると、日が木の上に在るのを杲(明らかな様子)、中に在るのを東、下に在るのを杳(暗い様子)という。字根(文字の構成要素)から分析すれば、杲・東・杳はもともと、「昼の太陽」、「朝の太陽」、「夕の太陽」をそれぞれ意味していることがわかる。
太陽が拠り所として昇ったり降りたりする神木は、むかしから「扶桑」と呼ばれている。扶桑とは、諸橋徹次の『大漢和辞典』(大修館書店)に、「東海中にある神木。両樹同根、生じて相依倚するから扶という。日の出る所といわれる」と説明されている。
その出典は、周知のとおり『山海経』から出ている。この神木は数多の別名を有しているが、管見に入ったものだけでも、若木・蟠木・槫木・槫桑などがあげられる。
このようにみてくると、「東」という語はたんなる方角を現わすことばではなく、「朝日」と「扶桑」をシンボルとする上古の太陽信仰にもつながっていることがうかがわれるのではないか。
隋の煬帝によって南北貫通の大運河がほぼ完成されるまでに、中国の動脈ともいうべき大きな河川は、「大江、東に去り」の熟語にも象徴されているように、黄河にせよ、淮河にせよ、揚子江にせよ、すべて西の山より東の海へと流れこんでいく。
人間の想像力はその居住空間から大きく制約をうけているとよくいわれるが、古代中国の神仙世界がほとんど江河の両端に想定されているという現象も、それに起因しているのであろう。
すなわち、江河の源には崑崙山、海洋の果てには三神山があると考えられる。そして男神の東王父は東の三神山に、女神の西王母は西の崑崙山にそれぞれ鎮座して、ともに不死長寿の仙薬をにぎっていると信じられる。したがって、東ということばに、朝日・扶桑に象徴される太陽信仰のみならず、大海・神山・仙薬などのイメージも附随していることがわかる。
現代語としての「東」はただの方角を現わすヒガシ(East)と解釈されるが、この語には深い文化の蓄積と多彩な神話伝説がつきまとっていることをあらためて認識するべきである。
2「夷」という民族
文明発祥地の中華をかこんで、周辺に散らばった東夷・南蛮・西戎・北狄の起源について、『尚書』(舜典)は次のような伝説を載せている。
つまり、堯帝の時代、讙兜が暴れん坊の共工を尭帝に推薦した責任を問われ、南方の崇山に追放されて南蛮、中華の秩序を荒らした張本人の共工は北方の幽陵に流されて北狄、江淮地方(揚子江と淮河流域)で反乱を繰りかえした三苗は西方の三危山に移されて西戎、黄河の洪水退治に失敗した鯀は東方の羽山に押しこめられて東夷、となったのである。華夷の名分がこうして定められ、一度混乱におちいった天下はようやく平和を取りもどしたという。
『説文解字』に「夷は東方の人である。大に从い弓に从う」とある一文を引用するまでもなく、「夷」は大と弓の字根からなり、東方の僻地に住んでいる異民族のことをさすことばである。しかし、東夷は中華にとって、他の異民族から区別されなければならない特別な存在である。その理由は、夷の字形および起源を分析すれば、明らかになる。
まずは夷の字形に注目しよう。
清・段玉裁の著わした『説文解字註』によれば、蛮・?・狄・貉・羌などの諸民族はいずれも虫・犬・豸・羊の字根に基づいているのに、夷だけは人間を意味する「大」の字根をふくんでいるため、異民族のなかでもっとも優れているという。
同書はさらに「大は人の形に象る。而して夷の篆は大に从う。すなわち、夏と殊ならない。夏は中国の人である」と説明をつづける。わかりやすくいえば、東夷は、動物同様とみられる他の周辺民族と異なって、華夏(漢民族)と同じく「人間」として認められるのである。
つぎに、東夷の起源を考えてみよう。
前述のように、堯帝の代に鯀は治水の失敗から東の羽山に幽閉されてしまったが、次の舜帝の代になると、鯀の息子である禹は家業をうけつぎ、黄河の水害を治めるのにやっと成功した。これによって、禹は周囲の部落から尊敬され、やがて部落連盟の国家−−夏を創設し、中国の世襲王朝の初代天子となった。ここまで来ると、東夷は南蛮・西戎・北狄より優れていることはいうまでもなく、華夷同祖とまでいわざるをえなくなる。
右にみてきた東方観と東夷観とがミックスすると、古代中国のユートピアが見事に合成される。『説文解字註』に「東夷は大に从う。大は人である。夷の俗は仁、仁の者は寿、君子不死の国がある」とあるように、東方のユートピアは「君子不死の国」と名づけられている。
仁義を貴ぶ君子は理想郷に、不死の薬をもつ寿者は神仙郷に住んでいると考えられるから、古代の中国人が遙かなる東方に幻想を馳せているユートピアは、このように二重のイメージを持っているわけである。
3九夷における倭
儒教の聖典とされる『論語』の公冶長第五のなかに、孔子の言葉として「子曰わく、道行なわなければ、桴に乗って海に浮かぶ」という注目の記述がある。
もし自分の理想がこの国で実現できなければ、いっそのことで舟に乗って海に出ようといった意味合いである。前文に述べたとおり、古代の中国人にとって海とは東の方角にあり、夷と分類される民族の住みつく異郷でもある。
これと関連する内容は、『論語』の子罕第九にもみえる。つまり、「子、九夷に居らんと欲する」という一句である。ここの「子」も公冶長第五と同様、孔子のことである。春秋時代の乱世の「中華」よりも、伝説につつまれる「東夷」のほうが理想的な土地柄だろうと、孔子は真剣に考えていたようである。
ところで、ここの九夷とは一体どんなところをさしているのだろうか。これについては従来より二通りの解釈が行なわれている。
そのひとつは『後漢書』(東夷伝)に出てくる解釈で、九夷の名は?夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷となっている。これらは、抽象名詞が多く、その実在を疑わせるが、紀元前七世紀後半ごろの歴史書といわれる『竹書紀年』にもみられ、淮河流域にいた異民族は、当時こう呼ばれていたらしい。
漢民族の世界地理への認識は、秦の始皇帝の中国統一によって大きく変容し、漢の武帝の海外開拓によって飛躍的にひろげられた。こうして漢代のころ、九夷とは大陸東部にいた民族から、しだいに海外の民族をさすようになっていく。
この意識転換を裏づけるかのように、『爾雅』を注釈した李巡(漢霊帝のとき、中常侍となった人物)はもうひとつの解釈を、「九夷」への疏でこう示している。
「夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙。」
倭人は九夷の八番目に入っている。すると、孔子が海をわたって移住したいと考える理想郷は、海彼の日本と連想されてもおかしくはない。『山海経』の海外東経と大荒東経に出てくる「君子国」は、『論語』のいう「君子これに居る」理想郷と、なんらかの関連があったのであろう。そして、この架空の「君子国」はいつのまにか実在の「倭人国」のイメージに移入されてしまった。
4君子不死の国
ふたたび『漢書』燕地の倭人条に視線を転じてみよう。
「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり、献見するという。」
この記事自体はほとんど研究しつくされている観があるが、古田武彦氏はするどい眼でこの史料をよみがえらせ、『漢書』地理志の東夷諸国で歳時貢献の記事のあるのは、倭人の箇所だけであることを発見した。(5)このことは、九夷のなかでも、倭人がもっとも柔順にして仁義を重んじ、中華の文明に近づき、その感化をうけることを示唆するものと受けとめられる。
『漢書』(地理志)燕地の条をこまかく読みとおすと、まず朝鮮半島について、おおむね次のごとく説明されている。
殷王朝のころ、道徳が衰微したため、聖人の箕子が中華の地を離れて朝鮮へ行き、土着民に礼儀を教えた。ところが、商人がここに来るようになってから、風紀がだんだん乱れはじめ、夜には盗人が出没するようになった。それにしても、東夷は生まれながら柔順にして、おのずと南蛮・北狄・西戎とは異なる。そのゆえ、孔子は道徳の衰微をなげき、海に出て九夷に住もうと考えたのである。
『漢書』は、『論語』の右の一文をひいた直後に「楽浪の海中に倭人あり云々」と、かの有名な倭人記事につながっていくという構成になっている。
以上で明らかなように、孔子のあこがれる理想郷、ひいては古代の中国人の夢見るユートピアは、箕子伝説にも示唆されているように、はじめは朝鮮半島にあったとみられる。それが、秦漢時代の苛政と戦乱を避けて半島に移りすむ人が多くなるにつれて、理想郷への憧憬は、さらなる東方の倭国に託されるようになったと推測される。
古代の中国人にとっての東方のユートピアは、「東」と「夷」のイメージを根底にもっている。江戸時代の松下見林は「異邦之所称」の日本国号として、倭国・倭面国・倭人国・邪馬臺・姫氏国・扶桑国・君子国をずらりと列挙している。(6)神仙郷と理想郷は、それぞれ「扶桑国」と「君子国」に象徴されている。
このように中国の東方伝説は倭国の虚像と重なっているが、それが倭人の実像とまったく無関係でもない。『後漢書』の「女人は淫?しない。また俗は盗窃しない。争訟も少ない」という記述は、賢人箕子の教化をうけた朝鮮の「その民、ついに相盗まず、門戸の閉はない。婦人は貞信にして淫辟しない」(『漢書』)といった君子の理想とする秩序をほうふつとさせる。
また一方、神仙郷とみなされる倭国観にも貧弱ながら、それなりの裏づけがある。『後漢書』(倭伝)に「人の性は酒を嗜む。多くは寿考であり、百余歳に至る者も甚だ衆い」とある記載が、すなわちそれにあたる。
長寿と仙薬とは、神仙郷の表裏をなすものである。仙薬の伝説は、倭人貢献記事のあった『論衡』によれば、周成王の治世にさかのぼれるかもしれない。倭人の貢献した「鬯草」は当時、神事に用いられていたから、いつのまにか蓬莱島にある不死不老の仙薬と信じられるようになったのであろう。時代がさがって秦漢時代になると、徐福伝説に象徴されるように、「仙薬は東方にあり」という認識はかなり一般化してきたらしい。
長寿と日本とを結びつけるのは仙薬だけではなく、宋・張君房の撰した『雲笈七籤』(巻一00)をみると、『軒轅本紀』をひいて騰黄という神獣に言及し、漢民族の始祖とされる黄帝はこれに乗って宇宙を往来し、天下を自在に周遊したと伝えられている。
ここで注目すべきは、この神獣は両角龍翼あるいは龍翼馬身をなし、乗黄・飛黄・古黄・翠黄とも称し、日本国より出て寿三千にして、一日に万里を行き、乗者をして二千の寿を得させると記すところである。
5目指すは蓬莱の島
戦国の乱世を平定して、空前の大帝国をつくった秦の始皇帝は、のちに長寿延年に心をひかれ、方士(超能力を修練しまたは持つ人々)の徐福をして、童男童女あわせて数千人に五穀の種と耕作の農具などをそろえて巨大な楼船に積み、東海の蓬莱島へ不老不死の仙薬を求めに行かせた。
この記事は司馬遷の撰した『史記』の各所(秦始皇本紀、淮南衡山列伝、封禅書)に散見し、また司馬遷とほぼ同時代の東方朔の著わした『海内十洲記』にも類似の記載がみられるところから、いちおう史実とみてよかろう。
『史記』以後の歴代の文献によって、「徐福入海求仙」の史実はしだいに敷衍され、それぞれの時代の解釈にあわせて再創作されつつあった結果、はやくも伝説化してしまった。史実から伝説への変遷に三つの段階があったことは、近藤杢が『江戸初期以前に於ける儒書の将来と刊行について』(『斯文』十七ノ四)で明快に論じたところである。
「『史記』の徐福入海説から一転して渡日説となり、後周の義楚の『釈氏六帖』に見え、再転して齎書説となり、宋の欧陽脩の『日本刀』の詩に詠ぜられるに至ったもの(後略)。」
つまり、『史記』(淮南衡山列伝)は徐福入海の着地を「平原広沢」としか書かなかったのが、五代(九〇七〜九六〇年)ころ義楚の著わした『釈氏六帖』(義楚六帖とも六帖とも書く)では始めて「日本」に特定するようになった。この肝心な記述は次のとおりである。
「日本国はまた倭国といい、東海の中にある。秦の時、徐福は五百の童男と五百の童女を将いて、この国に止まる。今、人物は一に長安の如し。(中略)また東北千余里に山があり、富士といい、また蓬莱という。(中略)徐福はここに止まって蓬莱という。今に至って、子孫はみな秦氏という。」
右の記事では、徐福のとどまった蓬莱島をはっきり「日本」と断定していること、日本の人物を「長安の如し」と評価していること、渡来人集団の秦氏を徐福一行の子孫と認めていることなどが注目される。
徐福の渡日説は、唐末以来の日本見直しの時代風潮に根差したものであり、中日間の、ひいては華夷間の人種的なへだたりをなくす前提条件でもあった。宋に至って、日本の風俗・文物・制度などが中国なみに高く評価されるようになった機運は、まさにここにあるといわなければならない。
このような日本像の時代的な転換は、徐福伝説においては五代の「渡日説」から宋の「齎書説」への変容にも十分に表わされている。欧陽脩の『日本刀歌』に詠われているところは、よく引き合いに出される名文である。
伝え聞くにその国は大島に居り、土壌は沃饒として風俗も好しと。
その先に徐福は秦の民を詐して、薬採るに淹留って艸童老いたり。
百工と五種はこれとともに居り、今に至って器玩はみな精巧なり。
前朝に貢献してしばしば往来し、士人往々にして詞藻に工みなり。
徐福行く時に書は未だに焚かず、逸書の百篇は今なおも存せりと。
「徐福渡日説」の真偽をめぐって、学界では久しく議論される難解なテーマである。肯定論者は、中国東南沿岸や日本沿海の各地に点在する徐福ゆかりの遺跡を証拠にあげて、歴史の復元を試みようとする。否定論者はこれらの遺跡を後世のこじつけだと退けて、徐福という人物の実在さえ認めようとしない。
二千年も前のことで、今となって真実をすべて解きあかすことは不可能に近いだろう。徐福の時代に、秦王朝の中国統一によって、既得利益を奪われた人々、生活基盤を失った人々が、大挙して海外に移住し活路を求めたことは、歴史的な事実だったのである。これらの移住者は、無名のままに歴史のなかに埋もれてしまったのがほとんどで、わずかに人口に膾炙する徐福の名で一部の伝承を後世に残したということも、十分に考えられよう。
ここでは、「徐福渡日説」の真偽論争に立ち入る気はなく、本章の主題にあわせて、次の二点だけを今後の課題として提起しておこう。
(1)徐福をふくめて、秦人の移住伝説のおよぶ地域は、ほとんど朝鮮半島と日本列島に集中しており、北方・西方・南方の諸地域には、こうした伝説が流布していた痕跡はみられないようだ。いざとなると、まず東方を避難先に選んでしまうということは、おそらく古来の「東方に神仙郷あり」の意識に行動を左右されたと推察される。
前にもふれたように、東方の理想郷は朝鮮半島から徐々に日本列島へ移行される経緯があり、移住民をして日本列島へ向かわせる理由は十分にあるのである。また、『日本書紀』などに記録された秦氏集団と漢人集団の渡日記事によっても明らかなように、いったん半島に移住した漢民族は、さらに東進して日本をめざす傾向もみられる。したがって、「神仙の郷」という日本像の解明に、徐福伝説をひとつの手がかりとすることは、有効であるかもしれない。
(2)徐福をめぐる伝説が最初に日本と結びつけられるのは、前述のとおり五代の『釈氏六帖』である。その後、「徐福渡日説」は欧陽脩の『日本刀歌』に象徴されるように、各時代にもてはやされ、近代にまで語りつがれている。このような伝説がなぜ流行りだし、人々がなぜこれを信じて疑わないのかということを考えると、「神仙の郷」というイメージが日本認識の基本パターンとして、約二千年にわたって中国人の日本像を規定していたという結論に、おのずと帰着するのである。
今や日本を「神仙の郷」と思う中国人はだれ一人いないだろうが、日本を呼ぶ名として、「東瀛」や「扶桑」などは依然として健在で、無意識のうちに往昔の記憶が体のどこかに眠っているかもしれない。 
【註釈】
(1)石原道博「中国における日本観の端緒的な形態」(『茨城大学文理学部紀要(人文科学)』第一号、一九五一年)。
(2)袁珂著『山海経校注』(上海古籍出版社一九八〇年版)三二一頁を参照。ちなみに、「蓋馬」の位置について、唐の李賢は『後漢書』に「蓋馬は玄菟郡の県名である。その山は今の平壌城の西にある」と注記している。
(3)中国人学者の諸説は武安隆ほか著『中国人の日本研究史』(六興出版一九八九年八月版)一九頁注(1)に挙げられた文献を参照されたい。日本人学者による諸説は国分直一氏著『東シナ海の道−−倭と倭種の世界』(法政大学出版局一九八〇年五月版)一五四〜一五八頁に詳しい。
(4)鳥越憲三郎「『倭人』とその渡来」(中西進・王勇共編著『日中文化交流史叢書・人物』所収、大修館書店一九九六年十月版、三一頁)参照。
(5)古田武彦著『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社一九七五年版)。
(6)松下見林著『異称日本伝』巻上一。 
第二章 宝物の島 / 実像と虚像の間

古代中国人の遙かなる東方へ馳せるユートピア幻想は、秦漢以前の日本観の基層をかたちづくった。戦乱を避けて故郷を離れる流民、理想を燃やして新天地を求める君子らが陸続として東方へ移りすもうとする背景には、このユートピア幻想がつよく働いていたにちがいない。
秦漢より以後、中日間の使者往来の航路がようやく開かれるようになってからも、中国人は依然として従来の先入観をもって日本を観察しがちである。いいかえれば、実像のなかに虚像の片鱗を発見し伝説の真実を証明していく過程に、魏晋から隋唐にかけての日本像がしだいに成立し、展開していくのだった。
漢代から始まった日本の朝貢使節らは、貧弱なものながら国産のお土産物を持参して、中国の歴代王朝へ服従のしるしに献上したのである。しかし、四方を海にかこまれて周囲との物質交流がわりと少なかった日本のものだけに、これらの貢物は中国人から意外と珍しがられた。
『隋書』(倭国伝)に「新羅・百済、みな倭をもって大国とし、珍物多しと為す。ゆえにならびにこれを敬仰し、つねに通使して往来する」とあり、倭は「珍宝の国」として周囲の隣国から尊敬されていた例である。
中国にあまりみられない珍しい品物が、遠方の島国から運ばれてくると、従来の神仙郷のイメージと重なりあって、「宝物の島」という新しい日本像を浮かびあがらせるきっかけともなった。
唐宋時代になると、およそ二百五十人〜五百五十人から構成される遣唐使団はもちろんのこと、聖地巡礼をめざす僧侶や海外貿易にたずさわる商人の動きも著しく活発となり、日本産の宝物類はもはや入手しがたい「珍物」でなくなった。
しかし、「宝物の島」なるイメージはこれで影を潜めてしまうのでなく、それにかわって登場してくる精巧な工芸品によって、より現実的な「器用な民」という日本像に生まれ変わっていくのである。 
第一節 倭王の貢物
中国の正史に日本列島のことを最初に書きしるした『漢書』は、楽浪の海中にある倭人は「歳時をもって来たり、献見する」と伝えている。
「献見」すなわち「朝貢」とは、主従名分を確認する外交行為であるとともに、文物その他をかわす変則貿易でもある。変則というのは、民間で行なわれるような等価交換ではなく、中国王朝は周辺諸国から献上された貢物に対して、ふつう数倍から数十倍以上の値打ちのあるものを賞品として下賜するならわしである。
古代の東アジア世界においては、こうした朝貢システムによって、各国の文物は国境をこえてひろく流通するのである。したがって、倭人が楽浪郡に「歳時をもって来たり、献見する」ということは、なんらかのものを輸出していたことをも意味するのである。
ところが、『漢書』の倭人記事はその末尾に「云」という一字があり、間接の伝聞による情報をほのめかしている。このためか、倭人の貢物も楽浪郡の賜品も明記されていない。後漢になると、倭国の使者は洛陽に姿を現わすようになり、朝貢の実態についての記録もしだいに現実味を帯びてくる。
時代はずっと後になるが、延暦二十三年(八〇四)中国南部の福州長渓県にながされた遣唐大使の藤原葛野麻呂は、空海の達筆を借りて地元の観察使に差しだした書状で、「蓬莱の?を執り、崑岳の玉を献ずる」(『性霊集』巻五)と述べて、朝貢のよしを明らかにしている。
中国への貢物を「蓬莱の?」と「崑岳の玉」にたとえているのは、ただの文飾にすぎないかもしれないが、魏晋から隋唐にかける日本観の主流をみごとに表現している。 
1『後漢書』の朝貢記事
紀元二十五年、王莽が紀元八年に「新」という短命な王朝を建ててから、およそ二十年ほど中断していた漢王朝がふたたび復活し、劉秀(光武帝)はその六月に即位して、年号を建武に改め、洛陽を都と定め、後漢の幕をひらいた。
『後漢書』(東夷伝序)によれば、この年に「?、貊、倭、韓」の諸国は万里をこえて朝貢してくるとある。ここで「倭」が「韓」の前にならんでいるのは、なにかの事情を示唆しているかもしれない。
『後漢書』を調べてみたところ、「韓伝」には洛陽朝貢の記事が一回もなかったのに対して、倭伝には二回もあり、倭人が一足さきに漢王朝に使者を送りだしていたことが裏づけられる。
一回目の使者は倭の奴国から遣わされ、建武中元二年(五七)洛陽に到着していた。『後漢書』(倭伝)には「貢を奉じて朝賀する。使人は自ら大夫と称する」とあり、さらに「光武帝、印綬をもって賜わる」とも記録してある。
右の記事から、倭人の使者が朝貢の目的で遣わされたことは明らかであるが、どんな貢物を献上したかは不詳である。また漢王朝の賜品は「印綬」とあるのみである。おそらく一回目の遣使では、これというほどの物品がかわされていないとも考えられ、特記されなかったのであろう。
二回目について、『後漢書』(倭伝)は「安帝の永初元年(一〇七)、倭国王の帥升らは生口百六十人を献ずる」と書きしるしている。ここに、「生口」という倭国の貢物がはじめて登場してくる。生口の解釈をめぐって中日両国とも諸説あるが、なんらかの特技をもった人間であろう。
倭国はあわせて二回の使者を出しているが、その貢物についての詳述がなく、漢王朝にどのような印象を残したのかは明らかではない。ところが、光武帝より賜与された金印は江戸時代の天明四年(一七八四)福岡県の志賀島から出土し、漢王朝の日本像を断片ながらうかがわせる。
つまり、この金印のツマミ(紐)は蛇の形をデザインしている。陰陽五行の思想では、青竜は東方、朱雀は南方、白虎は西方、玄武は北方をそれぞれ鎮守していると信じられる。いわゆる四方神の信仰である。
倭国へ授けられた金印が蛇(竜とも理解できる)紐につくられていることは、倭人を東夷の民族と認めるあかしである。そうならば、東夷につきまとっている種々のイメージは、はるばると荒海をわたって朝貢してくる倭人に重ねあわせられていることもありうる。
2『魏志』の朝貢記事(上)
俗に『魏志・倭人伝』と通称される『三国志・魏志』の倭人条に「その人は寿考であり、あるいは百年、あるいは八、九十年」とあって、神仙郷の長寿不死の伝聞をちらつかせている。こうした神仙郷のイメージをさらに強めさせたのは、朝貢品として倭からもたらされた宝物にほかならない。
『魏志』(倭人伝)は倭国の物産について「真珠・青玉を産出する」と述べ、また倭国の遣使朝貢を五回にわたって記録している。以下、遣使のいきさつを順次に紹介する。
(1)景初三年(二三九)の遣使。
後漢の末期ごろ、各地の農民蜂起がその勢いを日に日に増しつつ、いつしか漢王朝の命取りとなった。二二0年、後漢があっけなく滅亡し、中国は魏・蜀・呉の三国に分裂した。こうして、領土をめぐって争奪戦の絶えない三国時代が始まったのである。
景初二年(二三八)、朝鮮半島に勢力をはった公孫氏が魏の猛攻にやぶれ、「倭・韓」を統属していた帯方郡がここで魏の領有に帰してしまう。その翌年の六月に邪馬台国の卑弥呼女王はさっそく帯方郡を経由して、使者を洛陽におくった。
「景初二年六月、倭の女王は大夫難升米らを遣わし郡に詣り、天子に詣って朝献せんことを求める。太守の劉夏は吏を遣わし、将いて送って京都に詣らせる。」(1)
卑彌呼の使者は、魏の都がおかれていた洛陽にたどりつき、「男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈」を献上した。貢物には従来の「生口」に、あらたたな品目として「班(斑)布」をつけくわえた。
今や皇位についたばかりの少帝(曹芳)は遠方の朝貢使を大いに喜び、同年十二月に詔書をくだし、卑弥呼を「親魏倭王」に冊封するとともに、女王の「忠孝」を褒めたたえた。この詔書には「汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ」との注文がつけられている。
魏帝は使者をあつく遇して、倭人の「孝順」を心から期待しているところに、いうまでもなく「倭人は柔順である」との先入観をのぞかせている。そして、倭人の貧弱な貢物にもかかわらず、魏からの回賜品はまさしく目を瞠るほど豪華なものであった。
すなわち、朝貢品の見返りとしての「絳地交竜錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹」とは別に、さらに特別の褒美として「紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤」を追加して賜わったのである。
「絳地交竜錦」とは、赤い生地に竜のもようを織りまぜた錦のことである。奴国王に授けた蛇紐の金印を連想させ、詔書の「忠孝」や「孝順」の表現と考えあわせると、「東方の君子国」という倭国像がそのまま受けつがれていることは推察される。
(2)正始元年(二四0)の遣使。
卑弥呼への印綬・詔書・賜品はいったん帯方郡におくられ、その翌年の正始元年(二四0)、太守の弓遵は建中校尉の梯儁らを遣わして、それらを倭国にとどけさせた。この記事は「倭王は、使に因って上表し、恩詔に答えて謝する」をもって結ばれている。
原文の「因使上表」にある「使」は、魏の来使なのか倭の遣使なのか、この文では判定しにくい。ところが、『晋書』(宣帝紀)には、「魏の正始元年正月、東倭は重訳して貢を納める」とある注目の一文が書きとめられている。
ここの「東倭」は邪馬台国をさしているのか、それとも邪馬台国と対立していた狗奴国のことか、または九州より東方にあった大和地方の勢力なのか。さらなる考究を必要とし、ここでは結論を急ぐことをさけたい。
『魏志』(倭人伝)と『晋書』(宣帝紀)の記事をつなぎあわせて考えれば、正始元年に倭人の使節が洛陽をおとずれ、貢物をもたらしてきたことは事実として認めてよかろう。ただし、貢物の品目が記録に漏れているのは惜しまれる。
3『魏志』の朝貢記事(下)
正始元年の朝貢記事はいくつか疑問の点を残しているとしても、正始年間の魏倭交通はじつに頻繁なものであった。
三世紀の中ごろとなると、中国では三国分裂の局面にいよいよ収束のきざしが現われはじめ、日本では女王支配の終焉を告げようとする動乱がついに水面上に浮かびあがってきた。両国間を行き交う使者は、政権の存亡をかけて必死な外交努力を強いられていた。
(3)正始四年(二四三)の遣使。
この年の十二月に、卑彌呼から遣わされた大夫の伊声耆をはじめとする八人は、洛陽に到着した。このたび使者らの献上した貢物は「生口・倭錦・絳青?・緜衣・帛布・丹・木★・短弓矢」とあって、量質とも空前の豪華リストである。
右の朝貢品をみると、「生口」以外には、これまでにないものばかりである。「倭錦・絳青?・緜衣・帛布」はいずれもカイコの糸からつくられた絹織物のたぐいであり、麻などの繊維を材料として編んだ「班布」に比べて、飛躍的な進歩があった。
また弓矢などの武器類がはじめて貢がれたのは、倭国の直面していた緊迫の情勢をほのめかしているとも考えられる。
(4)正始八年(二四七)の遣使。
王?が帯方郡の新しい太守として着任したばかりの正始八年、邪馬台国から倭の載斯と烏越らをはじめとする使節団がこつぜんと郡に現われ、狗奴国との不仲がついに戦争状態にエスカレートしたという急報をとどけてきた。
新任の太守はさっそく張政を遣わして、二年前に魏帝からくだされた卑弥呼への詔書と難升米への黄幢をもたらし、邪馬台国の軍勢を応援した。三国時代もその後半期になると、朝鮮半島の情勢を気にしてならない魏にとって、「親魏倭王」の統率する倭人勢力がますます重要性を増してきたのである。
このたびの遣使は洛陽には行かず、帯方郡にとどまったものだが、外交往来の常として倭国からの貢物があったと推定される。ただし『册府元亀』が「白珠五千枚・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹」の貢献をこの年の記事として扱っているのは、明らかな間違いであろう。(2)
(5)泰始二年(二六六)の遣使。
卑彌呼の死後、年わずか十三歳だった宗女の台与(壹与とする説もある)はその後継者に推され、内外の紛争によってストップしていた対魏外交をふたたびひらき、大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、正始八年(二四七)から来日していた張政らを送還して、かさねて魏都の洛陽に詣り、「男女の生口三十人」のほか、「白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹」を献上した。
『魏志』(倭人伝)は使者派遣の年次を明らかにしていない。ここで、「泰始の初め、使を遣わし、重訳して入貢する」とある『晋書』(倭人伝)の記事が注目に値する。
魏の咸熈二年(二六五)十二月、魏から政権をゆずりうけた晋は、この年を泰始元年とした。まさにその王朝交替のさなか、倭国の使者が洛陽をおとずれたのである。『晋書』(武帝紀)は王朝誕生の大事として、「(泰始二年)十一月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」と、遣使の年月日まで詳しく記載している。
『册府元亀』は正始八年の遣使とは別に、「晋の武帝の泰始元年、倭人国の女王は使を遣わし、重訳して朝献する」と「(泰始)二年十一月、倭人が来たり、方物を献ずる」との二回にわたる朝貢記事をかかげている。また『日本書紀』は神功皇后六六年の記事に、『晋起居注』をひいて、「武帝の泰初二年十月、倭の女王は(使を)遣わし、重訳して貢献する」と注記している。(3)
司馬炎(武帝)が即位したのは泰始元年(二六五)十二月半ばをすぎているから、かりに倭国の使節がそれより前に洛陽についていたとしても、武帝に朝見できるのは、どうしても翌年のことになると推察される。
泰始二年の遣使は『日本書紀』と『册府元亀』がともに「女王」から遣わされたとあり、『魏志』(倭人伝)の記事とつなぎあわせると、この「女王」とは台与のことをさしていると考えられる。しかし、『魏志』(倭人伝)に女王の献上品リストが載せてあるのに、『晋書』は詳細な期日入りのみで、中味がまったくないのは、なぜなのか。
私見では、台与の使節は泰始元年(二六五)十二月よりさきに洛陽に到着しており、魏のラストエンペラー元帝に貢物を献上してのち、政権の交替があったため、翌年(二六六)十一月に新王朝の晋にも朝見したと推測される。ここでは、叙述の便宜上、複数年次のできごとを泰始二年(二六六)にまとめて考えることにする。
このたびの献上品リストをみると、前回(二四三年)とおなじ生口と錦類のほか、あらたに宝石類がくわえられていることがわかる。このように遣使ごとに追加される貢物の品目は、ある意味では倭人のイメージづくりに役立ち、中国王朝の日本観を更新させる役割を果たしたものである。 
第二節 復元された倭錦
前節では、弥生時代の倭王らによる朝貢記事を拾いあつめ、中国にもたらされた貢物をリストアップしてみた。中日間の民間貿易がほとんどみられなかった時代だけに、これらの朝貢品は、中国人にとって文字どおり珍しい舶来品であり、遙かなる倭国を知るうえで稀少にして重要な実物だったのである。
倭国の朝貢品のなかでまず目をひかれるのは、織物のたぐいであろう。『魏志』(倭人伝)がその細目を詳記しているのも、それらを目にした人々の並々ならぬ関心の一端をうかがわせる。
これらの献上品にふくまれる絹製品は、中国が極秘にして輸出をかたく禁じていた養蚕と製絹の技術を倭人がすでに知っていたことを物語り、魏王朝に意外なショックを与えたのかもしれない。生口とともに絹類が朝貢品として持続しているのも、中国で好評を博している証拠とみられる。
本節では、卑弥呼の「倭錦」をはじめ、中国にもたらされた布と絹の史実をたどり、それが中国人にどんなイメージを植えつけたかを考えてみたい。 
1ローマと倭国
『魏志』(倭人伝)に「禾稲・紵麻を種え、蚕桑をして緝績ぎ、細紵・?緜を産出する」と特記される一文に、どんな倭国観が示されているのか。東西の世界をむすぶシルクロード全般の視点から、そこにかくされた意味を考えてみよう。
中国では今から約五千年前の新石器時代に、絹作りがすでに始まったが、漢代になってようやくその成熟期を迎える。そして中国産の絹織物は、陸路をへて西と北、また海路をへて東と南の各地に運ばれ、史上にその名を馳せるシルクロードを形成したのである。
中国は製品としての織物はどんどん輸出しても、肝心なカイコの存在を極秘にして国外への輸出をたかく禁じていたようだ。そのため、絹製品は、西方世界にとってながく神秘的な存在であり、さまざまな奇談を生みださせた。
古代ローマの名高い詩人ウェルギリウスはその詩集『農耕詩』(前二九)で、セリス人は木の葉から繊細な羊毛を採集する情景を歌っている。ローマ人は、絹の原料となる羊毛をアジアの森林から無尽に取れると思いこんでいたらしい。
二世紀ごろのギリシア歴史家パウサニアスは『ギリシア案内記』のなかで、ローマ人に興味津々と語られていた羊毛樹の伝説を荒唐無稽としりぞけ、絹をつむぐ糸は「蜘蛛のような昆虫」から得ていたと説く。つまり、セリス人は「セル」と呼ばれる昆虫を籠に飼い、キビとアシを食べさせ、五年目になると、昆虫は飽食のためにお腹がパンクし、そこから無数の糸を取りだせるという。
ローマ宮廷では、光りかがやく絹の衣装は財富と権力とを象徴し、その値打ちは黄金とおなじ目方で取り引きされるほど高いものといわれる。したがって、「蜘蛛のような昆虫」を入手して、みずから絹をつくることは、ながらくヨーロッパ人の夢だったのである。
この夢がついに現実となったのは六世紀中葉のことで、それにはいくつかのエピソードが伝承されている。
そのひとつは、中国のことをよく知っていたインドの僧侶がビザンチン帝国にやってきて、皇帝のユスティニアヌス一世に「蜘蛛のような昆虫」とはカイコのことで、その卵さえ手に入れれば、絹作りがたやすく出来ると報告したら、皇帝は高い報酬をえさに、蚕卵の密輸をそそのかしたそうだ。
そこで、二人のインド僧は、ふたたび中国に潜入し、カイコの卵を小さな箱に隠して、ひそかにビザンチンの宮殿にまで持ってきて、それを幼虫に孵らせて桑の葉を与えつつ、繭を結うまで待って、糸を取りだすことに成功した。ローマ人の絹作りはこれによって始まったとされる。
このような伝説はさまざまな形で盛んに伝えられ、文献記載のみならず、絵画の題材になった例さえある。新疆ウイグル自治区にあるタリム盆地は、かつてシルクロードの重要な経過地のひとつであった。その南路に沿うダンダンウィクリの遺跡から発見された有名な板絵には、塞外へ嫁がれる中国の皇女がこっそりと繭を帽子のなかに隠してこの地にもたらしたという伝説がありありと描かれている。
ヨーロッパにおける養蚕術の伝入は、権威ある『中国大百科全書』をはじめ、ふつう五五一年とされている。そしてヨーロッパ産の絹織物が中国に輸出され、注目を浴びるようになるのは、ずっと後の時代になる。
こうしたシルクロードの事情を念頭に置きながら、冒頭にひかれた『魏志』(倭人伝)の記事を吟味すると、この一文の重さがおのずとわかってくる。つまり中国が秘伝のお家芸としていた養蚕と製絹の技術を、ローマ人より数百年も前に倭人がすでにもっていたという事実である。
おそらく貢物として献上された光りかがやく倭錦を目の当たりにしながら、中国人は不思議がってその驚きを隠せなかったと想像される。
2麒麟錦と日本裘
唐代の大詩人杜甫の『厳中丞の西城晩眺十韻に和し奉る』と題する五言律詩に、「花羅は?蝶を封じ、瑞錦は麒麟を送る」という対句がある。『杜子美詩分類集注』は、これについて次の註釈をくわえている。
?蝶と麒麟は羅錦の上の文繍である。漢武の時、西域は?蝶の羅を献じ、日本国は  麒麟の錦を貢ぐ。人をして眼目を眩ませる。
明代の陳仁錫という文人はその著『潜居類書』(卷九三、服御部六)において、「麒麟錦」の項を立てて、『韻府続編』をひいて「漢の武帝の時、日本は麒麟の錦を貢ぎ、金光にして目を眩ませる」と解説している。
漢の武帝の治世(前一四一〜前八七年)に、倭国から麒麟文の錦が献上されたということは史書に明記がなく、にわかに信じがたいが、あるいは遡及的な伝説であるかもしれない。それはともかくとして、倭人は早くから精緻な錦物をつくれるという認識は、中国人の脳裏に焼きついていたのであろう。
東アジアのシルクロードが半島を経由して、さらに日本列島にのびていった時期は、今のところ判然としないが、紀元前一〇〇年ころの弥生遺跡から絹布の遺品が出土している。金属技術や稲作文化などを日本にもたらした渡来人たちが、養蚕と製絹の方法をも伝えたにちがいない。
邪馬台国の時代は、考古学での弥生時代の後期にあたる。そのころ、絹の製造技術はかなり発達したようで、本場の大陸へも逆輸出しはじめた。半島を経由して魏に朝貢品として流入したのとほぼ同じころ、海路をへて呉にも商品として輸出していたらしいことは、『三国志』(呉志)の孫権伝に述べられている。
つまり、呉の黄龍二年(二三0)、孫権は将軍の衛温と諸葛直をして、甲士万人を引率させ、夷洲と亶洲に遣わした。伝聞によれば、亶洲は徐福のとどまった島で、島民はときどき東シナ海をわたり、会稽にやってきて布を貨るという。
日本から織物の輸出がいよいよ本格的になってきたのは、七世紀半ばから以後のことである。そのころ日本から出された遣唐使は、多くの絹類を貢物として中国にもたらしていた。『延喜式』(大蔵省、賜蕃客例)は唐の皇帝への献上品として、次のような品目をあげている。
大唐皇(銀大五百両、水織?・美濃?各二百疋、細?・黄?各三百疋、黄絲五百?、  細屯綿一千屯)。別に綵帛二百疋、畳綿二百帖、屯綿二百屯、紵布三十端、望?布一  百端、木綿一百端、出火水精十顆、瑪瑙十顆、出火鐵十具、海石榴油六斗、甘葛汁六  斗、金漆四斗を送る。
右文によって明らかなように、織物類がその献上品の大半を占めているわけである。この貢物リストを裏づける史料は、中国側の文献にもある。『册府元亀』(巻九七一、外臣部、朝貢四)は第十次の遣唐使(七三三年出発)のことを「美濃?二百匹、水織?二百疋を献ずる」と記録し、『延喜式』の記載とぴったり符合している。
これら遣唐使によってもたらされた織物類は、唐の人々からどう評価されたのだろうか。唐代最高の詩人といわれる李白の詩に詠まれた「日本裘」は、この問題を明解に答えてくれるであろう。
『李太白詩』巻十六所収の『王屋山人魏萬の王屋に還るを送るの詩』をみると、「身に日本裘を著け、昂蔵と風塵を出づ」という二句がある。李白はこの「日本裘」について、「裘はすなわち朝卿の贈る所の日本布をもってこれを為る」と注記している。ちなみに「朝卿」とは阿倍仲麻呂のことで、唐に仕えて名前を唐風の「朝衡」に改めていた。
詩中の「昂蔵」とは、風貌堂々として気宇壮大な様子であり、李白の詩『潘侍御の銭少陽を論ずるに贈る』にも、「繍衣柱史何昂蔵、鉄冠白筆横秋霜」と「昂蔵」の用例がみえる。日本裘を身につけると、いかにも脱俗して仙人にでもなったような雰囲気を漂わせるという意味であろう。(4)
以上みてきたように、日本から伝わってきた絹と布は、エキゾチックな情緒とユートピアの幻想を呼びおこし、文人らに重宝されていたのである。
3倭錦と異文雑錦
邪馬台国の女王は魏への貢献品に、三回とも絹類をくわえている。それをまとめて示すと、次のごとくである。
(a)景初三年(二三九):班布二匹二丈
(b)正始四年(二四三):倭錦・絳青?・緜衣・帛布
(c)泰始二年(二六六):異文雑錦二十匹
養蚕や紡績の技術は前述のとおり、おそらくは弥生時代の初期から、半島経由の渡来人らによって将来されたのであろう。日本語の訓読によると、渡来人の二大系統の秦氏と漢人はそれぞれ「ハタ」と「アヤ」と読み、いずれも紡績と深いかかわりがあったことがうかがわれる。
応神天皇三十七年(三0六)、渡来漢人の阿知使主らは呉に派遣されて、兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を日本に連れもどした。このことは、日本の紡績技術が江南系に属していたことを想像させる。
邪馬台国の貢物は、時代とともに班布・倭錦・異文雑錦としだいに高級化し、技術の発展をものがたる一方、これらの織物が魏から喜ばれていたとみることもできよう。
紡績史研究の権威とされる太田英蔵氏は、班布は倭国産の細紵布らしく、縞織か格子織の絞染だろうとし、倭錦と異文雑錦も同じ織技によったものであると推論している。さらに、『魏志』(倭人伝)の「細紵と?緜を産出する」ことについて、つぎのように分析する。
細紵とはカラムシを績み紡ぎ織った細布であり、魏国は中国の北部を領しており、紵よりもむしろ常民は大麻の粗い布を衣料としていたから、倭人の精巧な紵布に興味をおぼえ特記したのであろうことは、出土する中国北方の紡輪の大きさから察せられる。(5)
しかし「倭錦」とは、一体どんなものであろうか。具体的にいえば、どんな模様をしているか。
一九八五年に、NHKと川島織物とが中心となって、倭錦の復元試作を企画し、苦心に苦心をかさねて作りあげたのは、奈良時代以前の遺物といわれる「赤地山菱文錦」を基本的デザインとする、入子菱と小形三角形の組みあわせ模様のものである。(6)
ここの「倭錦」は「やまとにしき」と訓読みするべきか、それとも「わきん」と音読みするのが正しいなのか、意見のわかれるところである。ただし「倭」が「錦」を修飾している以上、中国によくみられる錦類とは異なることは、まず間違いなかろう。
『日本書紀』や『新撰姓氏録』などに徴すれば、天羽槌雄神は倭文氏の先祖で、文布を織ったと伝えられる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。倭錦と倭文とは関連があったかどうかも、さらに考究する必要があろう。
倭錦を復元するという作業は、まことに大胆かつユニークな試みで、結論の賛否はともかく、茫然としか想像できない古代の風景を具像化して体感させる点で、大きな意味があると思う。
つぎに「異文雑錦」とはなにかを考えてみよう。
語句について「異文の雑じった錦」との読み方もあるが、中国語の表現法からすれば、むしろ「異文の雑錦」と素直に読むほうが正しいと思われる。「雑」は種類の多いこと(二十匹もある)を言っている。
古代漢語では、「異」の本義は「区別する」だが、「異なる」と「優れる」の派生義もある。したがって「異文」は「中国のと異なった文様」か、「ずば抜けて傑出した文様」と解釈されるが、あるいは両方の意味合いがミックスして、この二字に込められているかもしれない。
「文」は「紋」に通じ、模様のことである。この模様は「異文」といわれるほど、魏の人々につよく印象づけたものにちがいない。それは倭錦のような「入子菱と小形三角形の組みあわせ模様」のものでは、そうも特筆されはしないだろう。
ここで思いだされるのは、漢の武帝に献上されたという麒麟錦のことである。「人をして眼目を眩ませる」麒麟文ではなくとも、魏人を珍しがらせるような倭国風の模様がこれらの「雑錦」に織り交ぜてあったのであろう。要するに、「異文」は非日常的な「異郷」を連想させ、神仙郷のイメージを補強させることになる。 
第三節 黄金と宝石
神仙郷とは、日常生活を超越した異空間である。そこに住んでいるのは脱俗の仙人であるとすれば、そこにありあふれる物もこの世にない怪珍異宝でなければならない。
こうした日本に対する先入観は、さまざまな伝説を生みだしつつ、神仙郷とされる日本像をつぎつぎと肉づけていく。そのなかには、いうまでもなく事実の拡大・敷衍・変形もあれば、事実無根の空想も少なからず交じっている。
しかし、「宝物の島」という新しい日本像が、まったく中国人の空想によって生みだされたイメージではなく、邪馬台国の女王らの献上品に発端したことはまず疑われない。その後、文物の交流が盛んになるにつれ、「宝物の島」というイメージがますます中国人の脳裏につよく植えつけられるようになった。たとえば『新唐書』(日本伝)に、
「その東の海嶼の中に、また邪古・波邪・多尼の三小王がいる。北は新羅を距て、西北は百済、西南は越州に直る。糸絮と怪珍ありという。」
とあり、ここに「糸絮」と特記しているのは、前文にふれた「倭錦」や「異文雑錦」など珍しい倭国産の絹織物が、弥生後期から続々と中国に流入し珍重された事実を示唆してくれる。
また「糸絮」とならぶ「怪珍」とは、この世に求められない異宝のことで、そのルーツも壱与から献上された「白珠五千孔・青大句珠二枚」にさかのぼることができよう。
未知の島国に「怪珍あり」の日本像は、魏晋から隋唐にかけて幅をきかせていた。ところが、造船術や航海術の進歩とともに、物質の流通が盛んになり、秘境としての日本がその真相をひろく知られてくると、こうした日本像はしだいに根拠を失ってしまい、新しい日本像に取って代わられるのである。 
1白珠と青玉
『魏志』(倭人伝)によれば、女王台与は大夫の掖邪狗ら二十人を中国に遣わし、「異文雑錦」とともに、「白珠五千孔青大句珠二枚」を献上している。この難解な一文の解読をめぐっては諸説のわかれるところである。
たとえば、これを「白珠五千・孔青大勾珠二枚」と読む説や「白珠五千・孔青珠・大白珠二枚」とする説、または「五千」を「五十」の誤りとする説などがあげられるが、現在では「白珠五千孔・青大句珠二枚」とする読み方がほぼ定着している。
まず、「白珠五千孔」について考えてみる。
『魏志』(倭人伝)は倭国の物産について「真珠と青玉を産出する」と書きとめている。この記述は倭国から貢がれた実物によっている可能性がきわめて高く、したがって真珠はすなわち献上品にふくまれた白珠のことで、海から採れるパールのたぐいと推測される。
また「孔」という類別詞を用いたのは、本体に緒を通す穴が穿たれてあったためだろう。沿岸地帯の弥生遺跡から、真珠の出土例が多く報告されており、それらに緒を通してネックレスなどの装身具として使われていた。当時の生産量を試算すれば、「五十孔」ならどうみても少なすぎる。「五千孔」となると多すぎる感もなくはないが、確かな証拠がないかぎり、恣意的に文面を改める必要はないと思われる。
つぎに、「青大句珠二枚」について考えてみる。
現在「二十五史」の底本として使われている百納本の『魏志』(倭人伝)はたしかに「句珠」とあるが、『古今図書集成』の日本部彙考には「勾珠」となっている。「句」は『干禄字書』によれば、俗字では「勾」と書かれる。たとえば「句呉」と「高句麗」は、史書でしばしば「勾呉」と「高勾麗」に置きかえられる。
なお「珠」はもともと真珠と同様、パール類をさすが、『爾雅』の郭璞の注にあるように、美石(玉)の通称ともなっている。日本語では「珠」をタマとも訓み、玉に通じる。したがって、「青大句珠」は「真珠と青玉を産出する」の「青玉」にあたり、海から採れる「白珠」に対して、山から採れる「勾玉(マガタマ)」のことであろう。さらに、「白珠」の「孔」とはちがって、「青大句珠」の場合に用いられる「枚」という類別詞は、両者の相違を明確に示している。
勾玉は鏡・剣とセットした形で、しばしば古墳から出土するところから、古代豪族の伝家の宝物とされ、それがのちに天皇家の「三種の神器」のルーツとなった。「青大句珠」とあるから、巨大な勾玉であろう。
「青大句珠」はふつう弥生遺跡から多く出土している青玉製の勾玉の一種に比定されるが、それを通例の「青玉の勾玉」より大きくかつ貴重な「ガラスの勾玉」と推定する意見もある。(7) 
「大」という形容詞と「二枚」という数量詞に注目すれば、五千粒もある白い真珠とは異なり、その希少価値がおのずとわかってくる。壱与がこうした国家の重宝まで献上した原因はさまざまに考えられるが、中国の権威をかりて、卑弥呼の死によって動揺しつづけた政局を収束しようとする狙いがあったのかもしれない。
2海から湧き出る琥珀
上述のように、「怪珍あり」という日本認識は、邪馬台国から貢がれたビッグサイズの「勾玉」などによって芽生えてきたものだが、それがしだいに敷衍され、新しい伝説を生んでいくのである。『隋書』(倭国伝)にみられる「魚眼睛」の珍話などは、その一例である。
「阿蘇山あり、その石は故なくして火起り天に接する者、俗もって異となし、因って祷祭を行なう。如意宝珠あり、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜は則ち光あり、魚眼睛という。」
色青い「如意宝珠」は卵ほど大きく、夜になると光を放つとあるが、右の文中から「青・大・宝珠」の三字をかりに抜きだして並べてみると、すぐに邪馬台国の壱与女王より貢献された「青・大・句珠」のことを想起してしまう。両者の共通点は、同一物を思わせるほど歴然としている。
もしそれはガラス製の勾玉だとすれば、光を放つのは当然のことである。勾玉はまた曲玉とも書き、Cの字形の一端に孔をうがって緒を通し、弥生人の装身具として用いられていた。その全形は横からながめた魚に似ていて、緒を通す孔もちょうど魚の目にあたる部分にあるから、「魚眼睛」と呼ばれたのではないか。
なお「魚眼精」の記述につづいく「新羅・百済、みな倭をもって大国ととし、珍物多しと為す。ゆえにならびにこれを敬仰し、つねに通使して往来する」とある一文は目をひく。倭国が新羅や百済から敬意を払われる理由のひとつは「珍物多し」なのである。したがって、右の「魚眼精」伝説も、日本国のイメージアップにつながっていると考えてよかろう。
隋代以前の「白珠青玉」に取ってかわって、唐代に登場した日本の怪珍は琥珀と瑪瑙である。それも神仙郷の投影をうけて、伝説化された形で現われてくる。たとえば、永徽五年(六五四)十二月に入唐した遣唐使は、琥珀の大きさ斗の如きものと、瑪瑙の五升の器の如きものを献じたとあるのは、よく知られる例である。(8)、
瑪瑙については『延喜式』(大蔵省、賜蕃客例)に「瑪瑙十顆」とみえ、唐帝への朝貢品のひとつと定められているが、琥珀はそのリストに載っていない。
琥珀と瑪瑙はとくにその大きさを珍しがられたようだ。「斗」と「升」はみな体積を表わす単位である。一斗は十升、一升は十合、一合は一八〇.三九cm3を目安に考えれば、「斗の如き」琥珀はなんと一〇〇合、「五升の器の如き」瑪瑙も五〇合に達していることになる。宝石類として驚くべき大きさである。
さらに興味をそそられるのは、このような巨大な琥珀は、海から自然に湧き出てくるものだという伝説である。たとえば、『冊府元亀』(巻九五九、外臣部、土風)に「その琥珀は海中にあって涌き出る」とあり、『唐会要』(巻九九、倭国条)にもほぼ類似のことが書かれている。
「頗る綵錦を産出する。瑪瑙を産出して、黄白の二色がある。その琥珀の好き者は、海中より湧き出るという。」
琥珀の大きさにやや誇張があったかもしれないが、「海より湧き出る」とは末尾の「云」の一字によって、それは伝聞によっていることが知られる。巨大な琥珀のような怪珍も海中よりぞくぞくと湧き出てくるほどだから、「宝物の島」という日本観はこれらの伝聞によってさらに補強されたのだろう。
3黄金伝説
十三世紀ごろ、イタリアの冒険家マルコポールは、中央アジアをへて中国の元に至り、各地を歩きまわった。帰国後、『東方見聞録』を口述し、日本を「黄金の島」として紹介し、ヨーロッパ人の日本観を大きく変えさせた。
しかし、日本に関する黄金伝説は、それより七百余年前の梁代にさかのぼることができる。梁・任ムの著わした『述異記』(9)にみられる「金桃伝説」は、よく知られる一例である。
「磅?山は扶桑を去ること五万里、日の及ばぬ所である。その地は甚だ寒く、千囲の  桃があり、万年に一たび実る。一説に、日本国に金桃があり、その実の重さは一斤あるという。」
日本に重さ一斤(五〇〇グラム)の金桃をむすぶ桃の木があるという黄金伝説は、遣唐使による黄金の輸出によって裏づけられ、黄金産出の豊富な国という日本像を唐の人々につよく印象づけたのである。
たとえば、顔萱という唐の詩人は、入唐僧の円載が帰国するにあたり、送別の詩を贈り、そのなかに「禅林に幾度も金桃を結んで重く、梵室に重ねて鉄瓦を修めて軽し」という詩句が詠みこまれている。なお「金桃」について「日本の金桃、一つの実の重さは一斤である」という注記があり、『述異記』の金桃伝説から影響をうけていることは明白である。
日本では、八世紀から陸奥での黄金採掘が本格化するようになり、遣唐使による黄金輸出のケースがにわかに増えてくる。これらの実例は円仁の『入唐求法巡礼行記』や『続日本紀』などからは、容易に拾われるのである。
また『宋史』(日本伝)によると、「東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だす」とあり、黄金の産地をほぼ正しく突きとめているのは、それに対する関心の高さをうかがわせる。
ところで、唐人の持っていた「黄金の国」という印象が、中国と活発な貿易関係をむすんでいた周辺地域にも広がっていったことは、ペルシアの地理学者イブン・フルダーズビーの著わした『諸道路と諸国の書』によって裏づけられる。
「中国の東にワークワークの地がある。この地には豊富な黄金があるので、その住民は飼い犬の鎖や猿の首輪を黄金で作り、黄金の糸で織った衣服を持ってきて売るほどである。」
右の記録は、ワークワークの国名が「倭国」に由来することからも明らかなように、唐人の伝聞によったものとみられる。つまり、それには唐人の持つ日本像が間接的ではあるが、生々しく示されている。
なお、唐人のこうした日本観の形成要因のひとつとして、先学諸氏によって指摘されたとおり、中国の伝統的な東方観をあげることができる。内田銀蔵氏はその証として、『列子』(湯問)に、東海中の五神山の「台観はみな金玉なり」とあること、『史記』(封禅書)に、同じく蓬莱・方丈・瀛洲の三神山について「黄金と銀は宮闕を為る」とあることをあげている。(10)
黄金とは直接にかかわりはないが、五代の義楚が撰した『釈氏六帖』は徐福の日本移住説を伝えながら、「富士山の諸宝」にふれる記述があるので、ついでにかかげておく。
「また東北千余里に山があり、富士といい、また蓬莱という。その山は峻しく、三面はこれ海にして、一朶は上に聳え、頂に火煙がある。日中、上に諸宝があって流れ下り、夜はすなわち上に却る。つねに音楽が聞える。」
これは富士山の火山現象と中国の蓬莱伝説とがミックスしたもので、「諸宝流下」と「常聞音楽」は、中国人のユートピア幻想を濃厚に匂わせている。
以上、日本の「怪珍」として、魚眼睛(勾玉)・琥珀・瑪瑙・金桃・富士山の諸宝などを、それぞれ挙げてみた。これらのものは、自然物か半加工品ばかりではあるが、いずれもこの時代の中国人の日本像を形成させる重要な素材となったのである。
このように「宝物の島」は、卑弥呼以来の貢物に基づいた日本の実像でありながら、古来の神仙郷伝説に彩られた日本の虚像でもある。 
【注釈】
(1)『魏志』(倭人伝)では景初二年(二三八)となっているが、『日本書紀』と『太平御覧』に引かれた『魏志』および『梁書』はともに景初三年としている。公孫氏の滅亡した時期などを考慮に入れれば、三年説を取るべきである。
(2)『冊府元亀』(巻九六八、外臣部、朝貢一)にみえるこの記事は、泰始二年(二六六)の遣使と混同したようである。
(3)この記事では「泰初」は「泰始」の誤りであり、また「遣使」の「使」と「十一月」の「一」とが脱字していると考えられる。
(4)『王屋山人魏萬の王屋に還るを送るの詩』は「仙人は東方に出づ」から始まり、魏萬の風貌を仙人にたとえて詠んでいる。
(5)太田英蔵:『倭人伝の倭錦と異文雑錦についての試論』。
(6)布目順郎著『絹の東伝』。
(7)古田武彦著『「風土記」にいた卑彌呼』、朝日新聞社一九八八年版、二五三頁。
(8)『旧唐書』(巻四、高宗本紀)と『唐会要』(巻九九、倭国条)を参照。
(9)任ム撰『述異記』は『崇文総目』や『郡斎読書志』に著録されている。偽書ともいわれているが、後世の好事家が任ムの佚文をあつめて本にしたものであろう。
(10)東野治之『日出処・日本・ワークワーク』、同氏著『遣唐使と正倉院』(岩波書店一九九二年七月版)所収。 
第三章 器用な民 / 虚像から実像へ

唐宋時代から、日本の工芸美術品が従来の未加工の自然宝物に取ってかわり、中国に流入しはじめた。しかし、五代をはさんだ唐と宋の間には、日本像において大きな相違もまたみられる。
貞観四年(六三0)に始まった遣唐使は、大陸文化をむさぼるように吸収する反面、島国の文物をも積極的に搬出した。こうして朝貢貿易を通して輸出された工芸品が、この時代の日本像の成立に、プラス的な影響を与えたことは否めない。これについて、東野治之氏は、次のように指摘している。
「唐に対して朝貢ないし輸出される品々は唐に無いものか、あるいは唐国内の産出品や製品をしのぐものだったと考えられる。奈良時代にも、わが国が後の螺鈿や扇・日本刀に類する特産品を朝貢・輸出していたとすれば、わが国の美術工芸も分野によっては当然唐に匹敵するだけの水準を擁していたことになろう。」(1)
正倉院などに残された精緻を極めた唐代の舶載品に比べてみれば、奈良時代前後の日本の美術工芸品が全体として、遙かに立ち後れていることは疑われない。
しかし、どの地域にも独特な風土と民族性とを根底に持つ産出品と加工品があるはずである。明清時代に西洋人のもたらした機械類の器具が、当時の士大夫から「奇物巧器」と呼ばれるのと同じように、唐代の日本文物にも中国人の興味をひく特異なものは少なくはなかった。『杜陽雑編』に語られている日本人の「彫木」特技は、その端的な例といえよう。
ところが、唐に伝えられた日本の工芸品について、その多くは空想をまじえた伝説として語られ、実物の裏づけに欠けているのである。それが、宋代になると、朝貢品の質的な変化にも象徴されるように、実物から得た印象を土台にし、現実味を濃厚に帯びるようになってきた。
中国側の記録によれば、宋代に流入した扇子・螺鈿・彫刻・日本刀などは、高い評価を受けている。明代に至っては、日本製の文房具類が文人の書斎に飾られ、一種の「日本趣味」ともいうべきブームを呼んだのである。
このように、自然物を中心とした「珍物」から工芸品を中心とした「珍物」への変遷が唐代を過渡期として、宋以後から顕著に見てとれるようになり、「宝物の島」とされる日本像は、実物と人間とを媒介として、しだいに虚像から実像へと移行していくのである。 
第一節 韓志和伝説
蘇鶚の著わした『杜陽雑編』に、倭人韓志和の神業ともいうべき彫刻の技芸が、虚構とも真実ともつかない説話のように語られている。『杜陽雑編』という書物は、『新唐書』『郡斎読書志』『四庫全書』などには小説として著録されている。この視点からみれば、韓志和の物語は史実と異なって、虚構の成分を多くふくんでいるにちがいない。
しかし物語の主人公を、陳舜臣氏の述べたように新羅人でもアラビア人でもなく、とくに日本人としたのは、「やはり唐代の中国の日本像のなかに、(中略)小さな精巧なものをつくるのが上手であるというのがあったから」である。(2)
森克己氏も「この一篇の物語は極めて怪奇な、ありそうにもないような話であるが、ともかくも、この怪奇な物語によって日本人には韓志和の如き精妙な技術の所有者があるということを大陸の人々の脳裏に刻み込んだに相違ない」と論じている。(3) 
1韓志和の技芸
唐の蘇鶚の著した『杜陽雑編』三巻は五十三条の独立した記事から成り立ち、代宗の広徳元年(七六三)から懿宗の咸通十四年(八七三)にかけての唐代十朝のことを主として記しているが、筆墨の多くは周辺地域の異聞奇談や珍物宝器などの記述に費やされている。
これらの記事は、真偽はともかくとして、読者を興味津々の世界へいざなう。たとえば、巻中に詳しく述べられている倭人韓志和の事績も、じつに面白い筋書きとなっている。次に、その全文を読みくだしながら、適宜に解説をほどこしてみる。
「飛竜衞士韓志和は、もとより倭国の人である。木を彫って鸞・鶴・鴉・鵲の状を作るのが得意である。その飲啄動静は本物と区別がつかない。関捩を腹の中に取りつけ、これを発動すれば、ただちに雲を凌いで高さ百尺ほどに飛びあがり、一〜二百歩も遠く飛んで始めて落下する。また木を刻んで猫児をつくって鼠や雀を捕らえさせる。飛竜の抜群な技芸がついに皇帝に報告され、それをご覧になった皇帝はたいへん喜んだという。」
韓志和はたんなる彫刻の名手だけでなく、物理学にも精通しているようで、木彫りの鳥獣の腹内にからくりを巧みに装着し、それを発動すると、鳥類は二百メートルほど空中を高く飛ばせ、木猫はネズミとスズメを逃さずに捕らせることができる。
ちなみに、鸞は鶏に似ていて、羽毛は五色をまじえ、鳴き声は音楽の調子にぴったり合うという空想の神鳥で、鳳凰の一種とされる。また、鴉はカラスのこと、鵲は喜鵲ともいって、七夕の夜空に牽牛と織女が天の川を渡る橋をかけてくれるカササギそのものである。この神業にも匹敵する腕前の実演をご覧になった皇帝はたいへん喜んだという。
「志和はさらに高さ数百尺の踏床を彫り、その上に金銀の彩絵を描いて飾り、見竜床と名づける。これは置いたままでは竜形が見えないが、もし踏み台に足を乗せれば、たちまち鱗鬣爪牙が顕われる。始めて進るにおよんで、皇帝は足を履むと、竜が夭矯として雲雨を得たかのように現われてくる。皇帝は怖れ畏き、ついに撤去させた。」
さきの木鳥と木猫の実演を唐帝からもてはやされたことに、かなり自信をつけた韓志和は、今度こそと思って豪華なベッドを念入りにこしらえた。金銀の彩色に飾られたベッドには、竜形の彫刻をかすかにほどこしている。遠くからは気づかれないけれども、踏み台に足を乗せると、たちまちに光る鱗片・揺れ動くたてがみ・するどい爪・むき出すきばが生々しく現われてくる。あまりにも真に迫まった不気味さに、さすがの唐帝もびっくり仰天、さっそく撤去を命じた。
「志和は上の前に伏して「臣は愚昧にして聖躬を驚き忤らうことを致してしまった。願わくは別に薄伎をたてまり、やや至尊の耳目を娯しませ、死罪を贖いたく存ずる」という。皇帝は笑んで「汝の出来る伎を朕のために披露してくれ」と仰せる。志和はついに懐中から桐木の合子を取り出す。数寸四方で、中には物があり、蠅虎子と名づく。その数は一、二百ほどあり、丹砂をもって赤く塗っているという。」
ところで、精魂をこめて仕上げた侈麗な「見竜床」を披露して意気揚々となった韓志和は、思いがけなく期待を裏切られ、皇帝からカンカンと怒鳴りつけられてしまった。そこでかれは、「勘弁してくだされ、今よいものをご覧にいれますから」といって、懐中に忍ばせていた桐の箱をそっと取りだした。箱の中には丹塗りの「蠅虎子」(蜘蛛の一種)がぎっしりと詰めてある。
「すなわち分けて五隊となし、涼州を舞わせる。皇帝は楽隊を召してその曲を奏(4)させ、而して虎子は盤廻宛転して、拍子に中らざるものはない。詞を致す所になるとすなわち隠々として蠅声のごとく発する。曲が終わるにおよんで、尊卑の等級があるかのように累々として退く。」
文中の「涼州」はすなわち涼州曲の略で、唐の段安節の編んだ『楽府雑録』(舞工)に、緑腰・蘇合香・屈拓・団円旋・甘州とともに挙げられた唐代軟舞曲のひとつである。もともと西涼一帯(いまの甘粛省あたり)の地方楽舞だったのが、唐の開元年間(七一三〜七四一)西涼府の都督をつとめた郭知運によって長安にもたらされ、宮廷舞楽としてはやりだした。
韓志和の彫り刻んだ蠅虎子は、唐の宮廷楽隊の伴奏にあわせて、当時流行の涼州曲をみごとに踊ってみせたのみならず、空中を跳躍してハエをとらえる特技も、唐帝の前で堂々と披露した。
「志和は虎子を臂に載せて、皇帝の前において蠅を数百歩の内に猟らせる。鷂が雀を捕えるように、穫れないものはほとんどない。皇帝は、その小しく観るべき技を嘉みして、雑彩の銀碗を賜わった。志和は宮門を出て、ことごとく他人にそれを譲ってしまう。年を逾えずして、ついに志和の行方がわからなくなった。」
韓志和は蠅虎子を手にして、それを放つと、数百歩内外のハエを正確にとらえさせる。こうして、「見竜床」の件でしくじったが、涼州曲をおどり、ハエをとらえる「蠅虎子」の披露によって、その非凡な彫刻技芸をようやく鑑賞眼のもっとも厳しい唐帝に認めさせるに成功したのである。「宮門を出で、ことごとく他人に転施す。年を逾えずして、ついに志和の所在を知らず」をもって一編の物語を結ばせるところに、韓志和たる人物の神秘性をますます深め、その出身地とされる「倭」の神仙郷伝説を匂わせている。
2飛騨工の伝承
韓志和の彫刻技芸の記事は、『杜陽雑編』のほか、沈汾の『続仙伝』、杜光庭の『仙伝拾逸』、馮贄の『雲仙雑記』、李ムらの『太平御覧』、曾慥の『類説』などの唐宋時代の筆記小説類にも転載されており(5) 、その流布の広さをうかがわせる。
江戸時代の儒学者松下見林は、もっとも早くこの記事に注目した一人である。彼は元祿元年(一六八八)に歴代の中日関係資料をあつめた『異称日本伝』を書きあげ、巻上に『太平御覧』から韓志和の記事を採録して、次のように考証している。
「穆宗は日本の嵯峨天皇、淳和天皇の世にあたる。むかし本朝の飛騨国に匠氏が多く、巧みに宮殿・寺院を作り、また木偶人をつくって動容周旋するのは生き物のようである。今に至っても飛騨工と称する。韓志和のごときはおそらく飛騨国の人だろう。道術があって品性も廉い。」
松下見林の唱えた飛騨工説は惜しくもその根拠を示していないが、那波利貞氏の詳しい文献考証によっていくらか補強された。那波氏はまず「『杜陽雑編』に見えたる韓志和」を世に問わせ、つづいて前稿の言い尽きぬところをおぎなって「補遺」を公表した(6) 。以下、いささか私見をまじえながら、那波説を紹介してみる。
平安時代から、飛騨工は木彫りの特技をもってたびたび宮中に呼びだされ、名声を天下に馳せるところとなった。むかし、数人の飛騨工が日夜となく思案をめぐらし、生身のごとき人形を作りあげたところ、ある宮女はこの人形に恋いをして男女のちぎりを結び、ついに「木子」と名づけた子供を生んだという奇談は、天文元年(一五三二)に編まれた『塵添?嚢鈔』に語られている。
飛騨工というと、だれか特定の人物と思われがちだが、じつはふるく飛騨国に住みつく大工の名人を総称したものにほかならない。江戸時代の中ばごろ、易学の研究をもって知られる新井祐登は宝暦六年(一七五六)に『牛馬問』四巻を著わし、韓志和を飛騨工の一人と想定して、次のように述べる。
「何とやらむ題する書に、飛騨の匠は一人の名にて入唐せしなどと来歴を引きて書きたる本あれども、その愚説案に落ちず、飛騨は良匠の多きなれど、そのうちより一人ふたりは異国へも行くなるべし。」(原文)
飛騨工のもつ神業はかえって災いのもとなり、かれらは為政者の欲望を満たすため奴隷のように酷使され、その苦役に耐えられずに逃亡を企てるものがあとを絶たなかった。延暦十五年(七九六)十一月、朝廷は逃亡者をとらえさせ、もし隠すものあれば勅命に逆らう罪を問うという捕獲令を諸国にくだした(『日本後記』)。役人の追っ手をおそれて逃げまわった飛騨工のうち、ついに波立つ荒海をよこぎって海外に活路をもとめる冒険者もいたと想像される。
山崎闇斎の門に入って神道の奥秘をきわめ、柔道と剣道を得意とした井沢長秀は、正徳五年(一七一五)世に出した『広益俗語弁』(正編巻十三)に、飛騨内匠という職人の数奇な入唐経歴を載せている。韓志和の物語りに似たりよったりの伝奇ものである。あらましは次のとおり。
むかし、飛騨内匠という者は唐へわたろうとして、木製の鳶をつくり、これに乗って築前をすぎるとき、彼をうらむものが矢をはなったが、内匠にはあたらず、木鳶の片羽を命中した。その羽の落ちたところを羽形といい、のちに博多とあらためた。しかし、それでも内匠はおそれず、片羽だけで唐にわたった。在唐中、唐人を娶ったが、妻が妊娠十か月のころ、日本に帰ってしまった。まもなく男の子が生まれた。この子が十三歳になったとき、肉親さがしに父の国へやってきた。内匠はわが子のことかどうかを疑い、「ほんとうにわが子ならば、仏像の半分を作ってみよう。わたしもあとの半分を作るから、もし両方がぴったり合えば、信じてあげよう」といった。結局、それぞれ作ったものを合わせてみると、りっぱな仏像となったから、わが子のことを信じたという。
飛騨内匠がすなわち韓志和その人であるとは考えられないが、飛騨国の職人のだれかが中国へわたっていたことは、右の伝説からも十分に想像されるのではないか。
さて、韓志和の関係史料を詳しく考察した那波利貞氏は、『今昔物語』二十四に出てくる絵技をもって鳴る百済川成と腕比べをした飛騨工の話に目をつけ、韓志和が唐に名をあげてから帰国し、そして画壇を独歩した百済川成とわざを戦わせたと推測している。もっともそれも想像の域を出ないもので、事実の真相はおそらく永遠のなぞにつつまれるであろう。
3伝説の土壌
文字に現われるものは少数の例をのぞけば、ほとんどは事件後の追記にほかならない。したがって、史実というものは伝聞の過程において、いつしか虚構の成分を加えられることはしばしばある。その逆に、一見して奇想天外の伝説でも、なんらかの形で真実を屈折して反映していることも考えられなくはない。
それでは、韓志和の彫技にまつわる逸話がいったいどんな事実を映しだしているかを、検討してみる必要があるように感じられる。『杜陽雑編』の記事について、東野治之氏はきわめて慎重な態度をとって、次のように述べる。
「唐、蘇鶚の撰した『杜陽雑編』には、奇巧にたけた日本の工人韓志和の話が載せられており、これをもとに那波利貞氏や森克己氏は、日本人の美術工芸方面の技術が唐の人々を感嘆させるに足るものであったとされている。しかしたとえ史実を下敷きにしているとしても、『杜陽雑編』はあくまで説話集であり、この話がどこまで事実であるかは明らかでない。(中略)このような説話から日本の美術工芸に対する一般的評価を推測することは、なお危険であるとみた方がよかろう 。」(7)
たしかに那波利貞氏のように、伝説に現われる人物を歴史のなかから無理やりに引き出すのは、たいへん危険な作業である。しかしながら、このような伝説を人々はなぜ興味津々と語りつづけるか、という問題も無視はできない。この意味で、説話というのは史実に劣らないほど、この時代この地域の読者の心の機微を率直に表わしているかもしれない。
韓志和という人物は実在なのか虚構なのかをしばらくさておき、遣唐使団の人員構成をしらべてみると、大使・副使・判官・録事のいわゆる四等官および留学生(僧)と船員のほか、メンバーに知乗船事・造舶都匠・訳語(通訳)・主神・医師・陰陽師・画師・史生・音楽長・卜部・雑師・音楽生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・{人などがふくまれている。
そのなかで、玉生・鍛生・鋳生・細工生は彫刻の技術をもつ職人たちだったと思われるる。かれらのだれかが阿部仲麻呂のような留学生、円仁のような学問僧、藤原清河のような役人とおなじく、唐にとどまって帰らず、チャンスをつかんで持ち前の特技を披露してみせたということは十分にありうるではないか。
伝説はまったく空想から出てくるものではなく、時代ごとに地域ごとにそれぞれ異なった伝説が語られることからもわかるように、それを生みだす土壌というものがいる。とくに、虚実なかばの『杜陽雑編』のような書物は、「説話」だからといって一蹴されてはたまらない。
そして、これらの記事をささえる土壌とは、遣唐使時代からの頻繁な人員往来と盛んな文物流通にほかならない。次の各節はこの意味で、伝説の土壌として設けられたものである。
韓志和は実在の人物なのか、それとも虚構の人物なのか。かれの披露した彫刻の特技はどれほど信じてよいか。これらのなぞを解きあかそうとしても、無意味な徒労にひとしいであろう。問題は一般庶民の感覚の平均値をもっとも直截に映しだす唐代の小説が、このような神業にも近い特技の持ち主を倭人と記していることである。 
第二節 海をわたる仏像
日本から中国へ伝えられた工芸品のなかで、比較的に早い時期に注目されるのは、仏像をはじめ仏具類であろう。そのことは、中日の文化交流が僧侶に負うところが大きく、その内容も仏教文化の色彩を濃厚に帯びていることと深い関係があるように思われる。
遣唐使往来の盛んな時代は、仏像を中国に持っていく例はごく稀れで、最澄の場合にしても信仰用がその目的で、唐人に注目された痕跡もほとんどみられなかった。五代から宋代にかけて、このような状況がすこしずつ変化をみせはじめ、中国で仏像を造ったり、日本の名品を中国に送りとどけたりして、中国人に深い印象を植えつけることになってくる。
この節では、五代から宋代までを中心にして、海をわたってきた仏像が「器用な民」なる日本像に、どのような影響を与えたかを考察してみたい。 
1遣隋使の伝えた情報
『法苑珠林』および『集神州三宝感通録』などによれば、遣隋使にしたがって中国へわたった会承(会丞とも書く)は、数十年の長い留学生活をおえ、唐の貞観五年(六三一)第一次の遣唐使の帰り船に乗って、いよいよ帰国するとき、長安の僧侶たちと興味深い会話を交わした。『法苑珠林』巻三十八「敬塔篇・故塔部・感応縁」より全文を以下にかかげる。
「倭国はこの洲の外の大海中にあり、会稽を隔てること万余里ある。隋の大業の初めに、かの国の官人会承はここに来て留学し、内典外書をひろく知っている。貞観五年に至り、本国の僧俗七人とともに、倭国へ還ろうとする。出発の前に、京内の大徳はかの国の仏法のことについて、阿育王は、『経』の説く所によれば、仏の涅槃より百年のちに出世し、仏の八国舎利を取って、もろもろの鬼神をして一億の家を一仏塔とし、八万四千の塔を造り、閻浮洲に遍かせる。かの国の仏法は晩く伝わったけど、阿育王の塔があったかどうか」と聞く。会承は『本国の文献に記されていないので、確かなことは言えないが、その霊跡を験べれば、それなりの証拠はある。すなわち、本国の人々は土地を開発し、往々にして古塔霊盤や仏諸儀相を発見し、しばしば神光を放ち、種々の奇瑞を現わすことがある。この嘉応を詳らかにし、昔から仏塔があったことを知る』と答える。」
日本における仏像の源流は、遙か大和時代にさかのぼれる。古墳から出土する仏像鏡は、ふつう中国伝来の舶来品であると考えられる。『扶桑略記』にひかれた『日吉山薬恒法師法華験記』によれば、継体天皇十六年(五二二)、司馬達止(司馬達等ともいう)という中国南朝梁の職人が来日し、大和国高市郡の坂田原に草堂をむすび、本尊を安置して帰依礼拝したことが書きしるされている。地元の人々から「大唐の神」と呼ばれた「本尊」の仏像は、おそらく司馬達止が中国からもたらしたものであろう。
司馬氏の一族は「鞍作」を姓と名乗っているから、金工鏤刻の技術に長じていることがわかる。達止の孫にあたる止利は仏像造りの名匠で、崇峻天皇元年(五八八)に「仏本(仏像の手本)」を献上し、さらに勅命をうけて銅繍(金銅と刺繍)の丈六仏像をつくり、二十年近くかかって推古天皇十四年(六0六)にようやくそれを完成させた。それがすなわち法興寺にまつられた金銅釈迦如来座像であるといわれ、作風はみずから一家の体をなし、後世からは「止利様式」と呼ばれている。
聖徳太子が小野妹子と鞍作福利らを隋に遣わしたのは、推古天皇十五年(六0七)のことであり、ちょうど止利造仏竣工の翌年にあたる。会承は遣隋使団のなかで「官人」といわれ、同行の「僧俗七人」はおそらく留学生と留学僧をさすのであろう。
『日本書紀』は遣隋使の「官人」として正使の小野妹子と通訳の鞍作福利しか記録していない。小野妹子が中国風に「蘇因高」をなのったのと同じように、会承は鞍作福利の中国名だったかもしれない。もちろんこれはあくまでも憶測にすぎないが、司馬一族のメンバーが使節団に加わっていたことだけは確かである。すると、会承のいう「仏諸儀相」云々は、出来たての「止利様式」の仏像を示唆している可能性がかなり高いといえよう。
2最澄の送唐品
遣隋使らが日本の仏像を中国へもたらしたかどうかは不明だが、遣唐使の時代になると、日本の仏像が海をわたったことはれっきとした文献記録によって裏づけられる。
延暦二十三年(八0四)七月ごろ、最澄の乗りくんだ遣唐使の第二船は高らかに帆をかかげて故国を発ち、空をつきさすような怒濤に翻弄されながらも、運よく揚子江口にのぞむ明州に打ちあげられた。最澄の『顕戒論縁起』に収められている『大唐明州より台州の天台山に向かうの牒』、俗に『明州牒』と呼ばれる唐朝の公式の文書は、最澄らの供養品リストを詳しく書きしるしている。
金字の『妙法蓮華経』一部〈八巻、外に金字を標す〉
金字の『無量義経』一巻
『観普賢経』一巻(以上の十巻、ともに一函に緘封している)。
最澄をして、これは日本国の皇太子が永く封じて、唐に到着する前には、開けひらくことを許さないと称させる。
『屈十大徳疏』十巻
『本国大徳諍論』両巻
水精の念珠十巻
檀龕の水天菩薩一躯〈高さ一尺〉(右、僧最澄の状によれば、総て天台山に往って供養しようとする。)
これらの供養品は、大きく皇太子(安殿親王)から託されたものと、最澄自身が携えてきたものとにわけられる。ここでは、最澄の供養品にふくまれる仏像について、考察してみよう。
「檀龕の水天菩薩一躯」について、岩波日本思想大系本『最澄』は「檀木で作った厨子入りの水天菩薩像。水天は水を司る神。渡海の守護神か」と注記している。佐伯有清氏は、天台山への供養品という用途に目をつけ、次のように述べる。
「さらに檀龕、すなわち檀木で作った厨子に納めた水天菩薩像は、渡海の安全を祈る守護神として最澄が持参したものかとされているが、これは水天が、水をつかさどる神であったところからいわれている説である。しかし、水天は、当時、西方を守護する神として認識されており、しかも、この菩薩像は天台山への供養のために持参したものなのであるから、西方の守護神として、すなわち天台山の安泰と加護を祈る意味をこめて最澄は、この菩薩像を選んだのであろう」(8)
これは傾聴すべき意見である。ただし、この菩薩像が、最澄が九州にとどまって、遣唐使船の再度の出発を待機している間に彫りきざんだ四体の薬師檀像や天台大師(智)の霊前で読みあげた「求法沙門最澄度海願文」とのかかわりを、さらに追究してみる必要があろう。
3紙衣和尚
最澄のように、日本で彫りきざんだ仏像を中国へたずさえていくケースと異なって、中国へわたって現地で仏像を造る僧侶もいたのである。こういう珍しいケースについて、森克己氏は『四朝見聞録』という中国の書物から興味深い記録をみつけ、次のように紹介している。
「四朝見聞録には、日常煙火に御せず、芹蓼を食わず、絲綿を着ず、紙衣を常服としていたために紙衣和尚と呼ばれた日本僧転智という者が宋の建隆元年秋(九六0年)高さ五丈の観音像を彫刻した。この観音像は相当有名だったと見え、高宗が憲聖を伴いこれに幸して礼拝した。憲聖は帰って後、金縷の衣を製して寄進し、これを観音像に着せかけたところ、その衣は像身の半分を蔽うにも足りなかったので、憲聖は更に使を遣してその像身を測り、改めて衣を再製してこれを寄進したという。」(9)
『四朝見聞録』という書物は、宋の葉紹翁の著わした筆記類の雑史である。全書は甲・乙・丙・丁・戊の五集にわけられ、南宋の高宗・孝宗・光宗・寧宗の四朝にかかわる見聞を中心にして、あわせて二百九条の単独記事をかかげている。体裁は筆記雑史とはいえ、かなり史実を正確に伝えており、資料的価値が高いといわれる。
さて、日本僧転智のことは本書「五丈観音」の条に述べられている。他書にはその伝記がいまのところ見当たらない。木宮泰彦氏の名著『日華文化交流史』(冨山房一九五五年初版)の「五代・北宋編」にもその名を逸している。また、森克己氏の論文をのぞけば、この人物に注目した先行研究も、筆者は寡聞にして知らない。したがって、『四朝見聞録』の記録は転智の行宜を知る重要な手がかりとなるわけである。
日常の生活では、芹蓼(セリとタデ)を口にせず、絲綿の衣服を身につけないというのは、仏教の不殺生の戒律を異常なほどにきびしく守る日本僧の面目を躍如として想像させる。日ごろは紙でこしらえた袈裟しか着ないから、「紙衣和尚」と呼ばれたのも興味をひく記載である。
この一見はなはだ怪異な話は、じつはそれなりの事実を下敷きにしている。「紙衣」を着服する例は中国にもある。宋の蘇易簡はその著『文房四譜』に「紙譜」の項をたてて、
「山に居るもの者は常に紙をもって衣となす。けだし、釈氏のいう「蠶口の衣を衣ずに遵うものである。」
と述べ、山深くに隠遁する僧侶たちが釈迦の教えを守り、しばしば「紙衣」を身にまとった風習を紹介している。また同書によれば、紙衣は、風通しが悪く寒さをふせぐにはいいが、いっぽう体内の廃気を発散できないから、それを常服するものは十年もたてば、顔色を悪くし呼吸がきつくなり、嗜欲はしだいに衰えてしまうという。
「紙衣」と呼ばれる僧侶は、中国の歴史上何人か知られている。唐代の禅僧克符は〓州(いまの河北省固安)の人で、日ごろ紙衣をこのんで着るから、「紙衣道者」または「紙衣和尚」とよばれる。『太平広記』巻二八九に「紙衣師」の一項があり、おもしろい逸話をのせている。
「大暦中、一僧あり、苦行と称される。上P布?の類いを着ず、つねに紙衣を着る。時の人は『紙衣禅師』と呼ぶ。代宗の武皇帝は、召し入れて禁中の道場に安置し、礼念させる。月ごとに一たび外に出て、人はますます崇め敬う。のちに禁中の金仏を盗むことが発覚して、京兆府に命じて死刑に処させた。」
紙衣着用の風習は唐から宋へと受けつがれたようで、景徳四年(一00七)ごろ宮廷に出入りし、のち山野に帰って紙衣をまとい外に出ないという奇僧の話は『仏祖統紀』巻四十四にみえる。
こうしてみてくると、「紙衣和尚」と呼ばれる転智の伝記は、事実無根の怪談としてかたづけられないことがわかる。あるいは五代ごろ中国に来たこの日本僧は、唐代高僧のこうした伝聞を耳にはさみ、感激のあまりみずから実践したことも考えられなくはない。
さて、転智が高さ五丈の観音巨像を彫り刻んだ建隆元年(九六0)といえば、趙匡胤が陳橋駅で反旗をひるがえして、腐敗しきった五代の後周をほろぼし、開封に都を定めて宋朝を立てた年であった。高さ五丈(十七メートル近く)の大仏を彫り刻むためには相当な期日を必要とするところから、転智の渡来はそれより前で、五代のころ(九0七〜九六0)だったと推察される。
この観音像は外国の僧侶によってつくられ、また江南では稀れにみない大仏であるから、朝野の注目をあつめたにちがいない。宋の高宗が皇后の憲聖をともなって礼拝したのはいつごろのことかはっきりしないが、高宗の在位は一一二七年から一一六二年までであるから、百数十年たってもなお信仰されつづけたことは明らかである。
4入宋僧の携帯品
宋の咸平六年(一00三)、日本天台僧の寂照(寂昭ともいう)は、中国ではすでに散逸した『大乗止観』や『方等三昧行法』および『天台宗疑問二十七条』などをたずさえて、中国へやってきた。翌景徳元年(一〇〇四)上京して、宋の真宗へ無量寿仏像などを献上して、僧侶としては最高の名誉ともいうべき紫色の袈裟を賜わったことは、『仏祖統紀』巻四十五にみえる。
真宗の景徳元年、日本国から沙門の寂照が来たり、無量寿仏像・金字法華経・水晶  数珠を献上して、紫の方袍を賜わった。
寂照のもたらしてきた無量寿仏像は、鷲尾順敬氏の『類聚伝記大日本史』(雄山閣一九八〇年一二月版)の「寂照伝」によれば、「本朝の名刻」といわれている。出典は示されていないが、なにか依拠するところがあったのであろう。
平安末期から、日本の貴族たちが入宋僧を通して、中国の名山古寺へ写経や仏器などを供養品として寄進する風習は、すこぶる流行っていた(10) 。仁明天皇の承和のはじめ、入唐して五台山にのぼり、名刹霊蹟を巡礼した惠萼が皇太后の橘嘉智子より託された宝幢および刺繍模様の袈裟などを施入し、さらに杭州塩官県の霊池寺にいたり、臨済宗の斉安国師にまみえ、皇太后の供養品を寄進したのは、その一例にかぞえられる。
嘉禎元年(一二三五)、日本に定住した杭州出身の謝国明の貿易船に便乗して海をわたった円爾弁円(聖一法師)は、着岸地の明州の天童寺をまずおとずれ、さらに杭州にいたり、天竺・浄慈・霊隠の諸寺を歴訪してのち、いまの余杭市の北西より約三十キロの径山にのぼり、禅宗の高僧無準師範の門下へ身を投じた。仁治二年(一二四一)七月、師範より法系をうけついで帰国し、九条道家(藤原道家)にまねかれて、東福寺の開山となった。
摂政・関白・左大臣などを歴任して准三宮にまで昇りつめた道家は、権力と栄華をほしいままにした鎌倉時代の風雲児であった。円爾入宋中の嘉禎四年(一二三八)に法性寺で出家して行慧と称したが、禅定太閤と呼ばれて依然として幅をきかせていた。ところが、建長三年(一二五一)将軍源頼嗣がらみの疑獄事件についての疑いをうけ、翌年の二月に不遇のうちに光明峰寺でこの世をさった。
その後、道家のもっとも愛寵した三子の実経は、その一族を集めて計らったところ、「児女昆弟」を動員して『法華経』など四部三十二巻を丹念に写経させ、それを円爾の提言どおりに宋の径山寺へ供養して、故人の追善とすることにきまった。捨経供養のいきさつを、天童寺の住持だった西岩了惠は、宋の宝祐三年すなわち日本の建長七年(一二五五)『日本国丞相藤原公捨経之記』に詳しくしるしている。
それによると、藤原家の写経は「貯えるに層匣をもってし、貫くに霞?をもってする。縷金螺鈿にして、極めて天巧を窺う」とある。層匣は重箱のこと、それに縷金螺鈿の装飾をほどこし、彩色の?(平たく組んだ木綿紐)で縛った写経を納める。こうして貴族趣味によってこしらえた経箱は、彫刻芸術の逸品ともみられる。
円爾は藤原家の写経を径山にある「円照塔院(無準師範のお墓)」へ供養してから、さらに弟子を遣わして明州天童寺の西岩了惠に「四十二臂旃檀大士」をおくり、捨経の始末を書きとどめるようにと依頼した。旃(栴)檀とはビャクダンの異称で、香木の一種である。「四十二臂」とあるから、千手観音像だったと思われる。この仏像は藤原家の写経とセットして中国へおくられたもので、おそらく名匠の手を借りて日本でつくったものであろう。 
第三節 精巧な工芸品
宋代になると、日本工芸品の流入は著しくなってくる。前述の仏像はその一例にすぎず、そのほかにも扇子・日本刀・螺鈿などの流入があり、とくに社会や後世への影響からいえば、後者のほうが仏具類より遙かに大きいものがある。
また唐代に比べれば、扇子のような日本独創のもの、日本刀のような中国の工芸技術をしのぐものの流入が目立ちはじめ、日本を見直させる気運をつくったことは否定できない。日本伝来の芸術品は、精緻さにくわえて、量的にも少ないため、目を瞠るような値段で売られ、ときには伝説化されることさえある。
宋代の『清波雑志』などに載せられた「画牛」(牛図)伝説は、その顕著な例である。あらすじをかいつまんで紹介すると、次のようなである。
江南の徐諤が「画牛」の絵を入手した。画中の牛は、昼は欄外に出て草を食み、夜は欄内にかえって臥する。いかにも不思議な絵なので、朝廷に献上した。宋の太宗が群臣にそれを示したところ、誰一人としてその由来を知るものはいなかった。そこで、『宋高僧伝』を著わした博学な僧賛寧が前に出てきて、次のごとく答えた。
倭人は引き潮の時に海岸から蚌蛤をひろって、その体液を顔料に和して物に描けば、昼は隠れて夜は顕われる。また、沃焦山に火が燃えあがり、石が海岸に落下すると、これをひろって水を滴し色をみがき、溶かして物を染めれば、昼は顕われて夜は隠れるという。
このような怪奇極まりない話が宋代に流行ったことは、この時期に日本の高度な美術工芸が流入した事実に、なおも従来の神仙郷の幻想が色濃く投影していることを物語るものと思われる。 
1工巧を極める螺鈿器
永観元年(九八三)に入宋し、日本の典籍と中国の佚書を時の太宗に献じて、朝野の士を驚嘆させた東大寺の僧「然は、寛和二年(九八六)念願の蜀版『大蔵経』を下賜され、宋商の船に便乗して意気揚々と帰途についた。
数年後、「然は弟子嘉因らを遣わして、美文の謝表とともに数多の宝物を献上した。その献上品の数々は『宋史』(日本伝)によれば、次のごとくである。
「仏経(青木函に納める)、琥珀・青紅白水晶・紅黒木?子念珠各一連(ならびに螺鈿花形平函に納める)、毛篭一(螺?二口を納める)、葛篭一(法螺二口を納める)、染皮二十枚、金銀蒔絵筥一合(髪鬘二頭を納める)、又一合(参議正四位上藤佐理の手書二巻及び進奉物数一巻・表状一巻を納める)、又金銀蒔絵硯一筥一合(金硯一・鹿毛筆・松煙墨・金銅水瓶・鉄刀を納める)、又金銀蒔絵扇筥一合(桧扇二十枚・蝙蝠扇二枚を納める)、螺鈿梳函一対(その一つに赤木梳二百七十を納める。その一つに龍骨十?・螺鈿書案一・螺鈿書几一を納める)、金銀蒔絵平筥一合(白細布五匹を納める)、鹿皮篭一(貂裘一領を納める)、螺鈿鞍轡一副・銅鉄鐙・紅絲鞦・泥障・倭画屏風一双、石流黄七百斤を貢ぐ。」
このなかで、漆器工芸を生かした螺鈿器として、螺鈿花形平函・螺鈿梳函・螺鈿書案・螺鈿書几・螺鈿鞍轡などがふくまれている。
螺鈿の工芸は中国に起源し、その歴史を周代にまでさかのぼらせる学説もあるが(11)、円熟期を迎えた唐代では奢侈品としてしばしば禁じられる羽目になったため(12)、中国では五代より以後は衰弱の一途をたどったのである。
また一方では、螺鈿の技法は遣唐使らによって持ち帰られてから、しだいに日本化され、宋代のころになって中国から喜ばれる輸出品となったのである。「然以外の例を挙げれば、藤原道長が長和四年(一0一五)七月、入宋僧寂照の弟子念救に託して、宋の天台山に施入しようとした物品は『御堂関白記』に、「木樓子念珠陸連(四連琥珀装束、二連水精装束)、螺鈿蒔絵二、蓋厨壱隻、蒔絵筥貳合、海図蒔絵衣箱壱隻、屏風形軟障陸条、奥州貂裘参領、七尺鬘壱流」と書きしるされている。
北宋のころ、方勺は『泊宅編』を著わし、「螺填器はもとより倭国から出ている。物象百態にして、頗る工巧を極める」と述べている。中国起源のことを忘れるほど、日本の工芸技術を過大評価している。
2重宝される日本扇
螺鈿の例でもわかるように、宋に輸出した日本の工芸品は中国人の嗜好に迎合し、ひろく賞賛を博するに至ったのである。これらの輸出品のなかでも、とくに脚光を浴びるのは、大和絵などを描いた華麗な日本扇であろう。
煕寧(一0六八〜七七)の末、宋の都?京の相国寺で、日本の「画扇」が売られているが、手の出ないほど高値をつけられていた。宋・江少虞の編纂した『皇朝類苑』(風俗雑誌、日本扇)に、このことが書かれている。(13)
「煕寧の末、私は相国寺に遊び、日本国の扇を売る者を見かけた。琴漆の柄、?青紙をもって餅のごとく厚くして、?して旋風扇と為す。淡粉して平遠山水を画き、五彩をもって薄く塗る。近岸に寒蘆衰蓼を為り、鴎鷺が佇んで立つ。景物は八、九月の間の気配である。漁人は小舟を岸につないで、蓑をかぶって船上で釣りを楽しむ。地平線あたりに微雲と飛鳥がかすかに見える。意志深遠にして、筆勢は精妙である。中国の画伯もそれに及ばないかもしれない。値段ははなはだ高くて、そのとき貧しかった私は買えなかったが、しばし恨みと為す。その後、ふたたび市場を訪ねたが、ついに見つからなかった。 」
さきに挙げた「然の献上品にも、「桧扇二十枚・蝙蝠扇二枚」とみえ、これらの扇子は中国の団扇とちがって、折り畳むことのできる代物である。中国では摺扇・摺畳扇・摺子扇・聚扇・聚頭扇・撒扇などと呼ばれ、「海外の奇珍」として珍しがられた。
北宋の郭若虚の著わした『図画見聞録』(巻六、高麗国)によれば、高麗の使節はよく「点綴精巧」の摺畳扇をお土産物として中国に持ってくるが、「これを倭扇といい、もとより倭国に出づるなり」と説明している。
また北宋の有名な詩人蘇轍に『楊主簿日本扇』という詩があり、それは「扇は日本より来たり、風は日本の風に非ず」から始まり、「ただ日本扇を執るのみ、風の来るは窮くるなし」をもって結ばれている。
明代では、日本扇は勘合貿易のメイン商品として大量に輸出するようになった。『両山墨談』によれば、明の皇帝が日本から貢がれた扇子をあまねく臣下に賜わり、舶来品が間に合わなくなると、内府に命じて模造品を造らせたという。
「天朝大国」と自認する中国がついに「東夷小邦」とされる日本の文物を模造するようになったのだ。悠久にして広範な中日文化交流史のなかで、中国は西域の文物を積極的に取りいれて模倣することはあっても、東アジア諸国の文物を意識的に学ぼうとする姿勢はなかなかみられなかった。したがって、ここにも日本観の大きな転換が現わされているといえよう。
3日本刀の値打ち
日本扇とならんで、日本刀もその切れ味のよさと装飾の華麗さによって、宋人から嘖々たる好評を浴びるようになったのである。
日本刀の伝入は、宋代になってから盛んになるが、じつは唐代にも輸出の例があったのである。阿倍仲麻呂(唐名は朝衡)は天宝十二載(七五三)ようやく一時帰国を許され、長安を発つ前に、李白ら親交を結んだ友人らに『命を銜んで国に還るの作』と題する留別の詩を残している。
命を銜み将に国を辞せん、非才ながら侍臣を忝くす。
天中にて明主を恋しがり、海外にあれば慈親を憶う。
伏奏して金闕をたち違り、?驂は玉津を去らんとす。
蓬莱まで郷路はいと遠く、若木とは故園の隣りなり。
西を望んで恩をしのぶ日、東へ帰って義に感ずる辰。
平生ただ一振りの宝の剣、交を結びし人に留め贈る。
親交の友人に贈った「宝剣」は、阿倍仲麻呂の「平生ただ一振り」の愛用品とあるから、入唐のときに日本から携えてきたものであろう。
宋・欧陽脩の名高い『日本刀歌』は、玉をも切れる「宝の刀は近ごろ日本国より出づ」るが、江南の商人が「百金」を投じて「滄海の東」から入手し、「佩服してもって妖凶を禳うべし」と謳っている。また徐福が「百工五種」をもたらして日本に移住したから、「今に至って器玩はみな精巧なり」とも賞賛している。
また欧陽脩と同じころの詩人梅堯臣にも『銭君倚学士日本刀』という詩作があり、明代になると、倭寇の凶器として嫌われる反面、秘伝の技法として伝説化される傾向もみられるようになった。 
第四節 明代文人の日本趣味
応永八年(一四0一)、室町幕府の初代将軍足利義満は南北朝統一の偉業をなしとげるや、さっそく明へ使節を遣わし、臣下と称する国書とともに、「金千両、馬十匹、薄様千帖、扇百本、屏風三雙、鎧一領、剣十腰、刀一柄、硯筥一合(同文台一個)」をときの惠帝に献上した。遣唐使の廃止以来およそ五百年も中断していた中日間の朝貢貿易は、これをきっかけに再開された。
明代の中日関係史を概観してみると、まったく離反するふたつの側面が現われていることに気がつく。ひとつは倭冦の跳梁と豊臣秀吉の朝鮮侵略とに象徴される国交悪化の側面であり、いまひとつは遣明使と勘合貿易とによって国交の回復と貿易の隆盛をもたらす側面である。
この時代に、中国の知識人はながく目をそらしてきた日本への理解を切実な課題として痛感しはじめ、「日本」と題する著作をおおく世に問わせた。もちろん、そのほとんどが倭冦退治のために編まれたものだが、日本の歴史・地理・風俗・文化などについての記載も少なくはない。たとえば、薛俊の著した『日本考略』の「貢物略」は、日本からの輸入品のかずかずをかかげている。
「馬、?、鎧、剣、槍、腰刀、瑪瑙、硫黄、蘇木、牛皮、貼金扇、洒金厨子、洒金文台、描金粉匣、洒金手箱、塗金装彩屏風、描金筆匣、彩金提銅銚、洒金装木銚、角盥、水精数珠。」
これらの文物は中国にもたらされると、文人たちの収蔵品として愛玩され、一種の日本趣味がおのずと形成されつつあった。明人の著作をひもとくと、これらの文物にかんする記載がおおく拾われる。ここでは、、高濂(一五七三〜一六二0)の著した『遵生八箋』に焦点をしぼって、彫刻関係の史料を紹介するにとどめる。 
1鏤金
作者は「宣銅・倭銅・炉瓶・器皿を論ずる」という項で、「潘銅」という本名のはっきりしない人物を取りあげている。もともと浙江省の人だったが、幼いころ倭冦にさらわれて十年ほど日本に住んでいた。その間、鏤金の技術を習って、「金銀倭花」を彫刻する技をことごとく身につけた。帰国してからはその特技を生かして銅器をつくり、世には「仮倭炉」と呼ばれる。
高濂はかつて潘銅を自宅に招きいれ、数年の間に文房具や調度品をこしらえさせた。潘銅のつくった「倭尺」は一見して他と違わないが、中腹を空にして文房具十数点を内蔵している。またハサミは折り畳み式につくられ、当時は珍しいものとされる。その他、「銅合子、途利筒、彝炉、花瓶」などは金銀を象眼し、模様を彫り刻み、倭製の本物に勝るとも劣らないほど精巧を極めているという。
「潘銅」はもちろん本名ではない。屠隆の『考槃余事』には「潘鉄」とあり、日本から帰ってくると「雲門(いまの紹興)」に住んだという。彼は日本滞在の十年間に、象眼・鏤金・彫刻の工芸技術を学びとり、帰国してから造った模造品は世の中にもてはやされ、それを入手する者はかならず宝物とするから、とても高価な収蔵品となったといわれている。
高濂は「潘銅」の記事につづいて、日本製の鏤金器皿を数多くあげている。たとえば、細かい網目の蓋をもつ熏炉を「美しい」といい、四方のそれぞれに神獸を取りつけた香盤を「優雅である」といい、奇石をはめた象眼の指輪を「精妙である」といい、また酒銚、水罐・金銅提・?鎧・腰刀・槍剣・紫銅湯壺・海螺鼻の銅鏡・銅鼓などはいずれも「天地の機巧」をきわめたものと讃えている。
2漆彫
漆彫りの工芸は唐代からすでに始まっていた。宋代に至ると、ますます隆盛しだし、多くは金銀の器の表に幾重にも赤い漆を塗りかさね、そのうえに人物・楼閣・鳥獣・花草などを彫り刻み、絵画以上の華やかさをつくりだしている。この技法はふつう「剔紅」というが、日本に伝わって「堆朱」と呼ばれる。元のころ、張成と楊茂の二家は海内を独歩し、遠く日本にもその芸名をひびかせている。室町時代に長充という職人はその技法を習得し、わが師とあおぐ張成と楊茂からそれぞれ一字を借りとって「楊成」と自称し、世にもてはやされた。
日本の漆工は宋元の漆彫技術をさかんに模倣しつつ、さらに各人の創意を加味してしだいに日本化させ、伝統的な螺鈿工芸とも融合してついに独自な作風を形成したのである。『遵生八箋』には「論剔紅倭漆彫刻?嵌器皿」の一項があって、日本の漆彫工芸を詳しく紹介している。
「漆器はただ倭をもって最とする。しかも胎胚の式制もまた佳い」との前置きにつづいて、描金の重ね箱、紅漆を塗った金縁の盒子、金塗りの彩色屏風、精巧をきわめた文房具、漆塗りの仏壇、昭君図を金銀象眼した香几、山水鳥獣をデザインした机など数十種類を列挙しながら、『ことごとく数えきれない』と感嘆した。」
これらの工芸品は、たとえ一部は伝聞によって記録したとしても、一介の文士にして、これほど大量の奇器珍物を目にし耳にしたことは、中国にもたらされた日本工芸品が多用多彩であり、またぼうだいな量にのぼった背景があったからであろう。
高濂は「倭人の製った漆器は、工巧いたって精極である。また彫刻・宝嵌・紫檀などの器のごとく、その心思工本を費やすのは、また一代の絶である」と賛辞を惜しまずに褒めたたえ、つづいて中国の模造品に言及して「近ごろの倭器を倣效するものは、呉中の蒋回回のごとき者、制度造法は極めて模擬を善くし、鉛をもって口をツじ、金銀花片・鈿嵌樹石・泥金描彩などよく肖り、人はまた佳と称える。ただし、胎を造るに布を用いることやや厚く、手に入れて軽からず、倭を去ること遠かるに似る」と、模倣作の本物に遠くおよばないことを嘆いている。
3秘閣その他
鏤金と漆彫のほか、高濂は他の工芸品にも言いおよんでいる。たとえば、「圧尺」は通常のかたちをしているが、表面には金で桃の木をかたどり、銀で葉っぱを表わしており、中腹に穴をあけて引き出しを取りつけ、ナイフ・けぬき・爪切り・爪楊枝・耳払い・はさみなどをすっぽりおさめるようになっている。高濂はこの神業について「倭にあらずんば、それ誰ぞこれを能わんや」とあきらめている。「圧尺」は文鎮のたぐいであろう。高濂はかつて潘銅を請うてその模造品をつくらせたことがある。
もう一例、日本伝来の「黒漆秘閣」を取りあげてみよう。秘閣というのはふつう天子の書物をおさめる書庫、または尚書省の別称の意味にとられるが、ここでは文字を書くとき紙面を汚さないようにひじをのせる長方形の道具をさす。さて、この日本の「黒漆秘閣」は長さ七寸ほど、幅は二寸あまり、表には金泥の花模様を描いており、紙のように軽い漆器であるという。
『遵生八箋』の記録からわかるように、明代になってから中日の国交が勘合貿易を象徴に回復され、公私の商船によって日本の工芸品は空前の規模をもって中国にもたらされるようになった。これらの工芸品の製造技法のほとんどはもともと中国から習ったものだが、長期にわたって模倣されつつ、しだいに日本民族の美意識と独特な手法と融合して改良されてきた。こうして生まれ変わった工芸品はふたたび中国へ逆輸出されて、中国芸術の繁栄を促したのである。
文化交流のもつ本当の意味は、まさしくこうした文物の循環往復にこそ見いだされるものと思われる。 
【注釈】
(1)東野治之著『遣唐使と正倉院』(岩波書店、一九九二年)三九頁。
(2)陳舜臣「中国の中の日本像」(国際日本文化研究センター、『世界の中の日本』第三号、一九九一年)
(3)森克己著『増補日宋文化交流の諸問題』(国書刊行会、一九七五)四一五頁。
(4)原文は「挙」となっているが、文意より「奏」にあらためた。
(5)ここにあげた唐宋筆記小説のなかで、沈汾の『続仙伝』と杜光庭の『仙伝拾逸』の現存本は、韓志和の記事を散逸している。詳しくは蔡毅氏の「飛竜衛士、韓志和」(中西進・王勇共編『日中文化交流史叢書・人物』、大修館書店、一九九六年、四四一〜四六一頁)を参照されたい。
(6)この二文はそれぞれ『支那学』第二巻第二号と第四号(弘文堂書房、一九二一年)に掲載されている。
(7)東野治之著『遣唐使と正倉院』(岩波書店、一九九二年)四六頁。
(8)佐伯有清著『若き日の最澄とその時代』(吉川弘文館、一九九五)二二五頁。
(9)森克己『増補日宋文化交流の諸問題』(国書刊行会、一九七五)四一五頁。
(10)これについては、拙論『日本の江南諸寺への捨経供養について』(『中日文化論叢−−1994』所収、杭州大学出版社一九九六年)に詳論されているので、参照されたい。
(11)田自秉著『中国工芸美術史』(知識出版社一九八五年版)七九頁。
(12)たとえば、『資治通鑑』(粛宗紀)の至徳二年(七五七)条に「珠玉・宝鈿・平脱・金泥・刺繍を禁ず」とあり、『旧唐書』(代宗紀)の大暦七年(七七二)条にも「仮花果及び金平脱・宝螺等の物を造るを得ず」と見える。宋代もしかりで、『清波雑志』によれば、宋の高宗は「螺鈿は淫巧の物なり」として禁じていたという。
(13)日本画扇の中国への流入について、拙文「日本扇絵の宋元明への流入」(『日本美術史の水脈』所収、ぺりかん社一九九三年版)を参照されたい。 
第四章 礼儀の邦 / モノからヒトへ

これまでは、古来の伝聞や舶来の文物などによって発生した日本像をたどってみた。「神仙の郷」と「宝物の島」は、日本認識の基本パターン(先入観ともいえる)として、その後の各時代の日本像にも継承されている。
唐代になってあらたに市民権を得られた「礼儀の邦」という日本像は、「神仙の郷」にふくまれた「君子国」のイメージと無関係ではないが、独自な時代色をもはっきり反映させている。
唐宋時代から、海をわたって大陸に足を踏みいれた日本人は、めっきりと増えつづけた。遣唐使人だけでも、五〇〇〇人をこえると推計される。したがって、伝聞や舶来品のみに頼ることなく、生身の日本人に接して印象をうけるのが、この時代の日本像を作りあげる原動力となり、これまでにみられない特徴でもある。
唐代の日本像を論じるときに、玄宗皇帝から聖武天皇へ贈られた『日本国王に勅するの書』が、よく引き合いに出される。この勅書は、張九齢の『曲江文集』(巻七)に収められており、その冒頭に「日本国王主明楽美御徳に勅する。彼は礼義の国にして神霊の扶ける所である」とある。
「主明楽美御徳」は、いうまでもなくスメラミコト(天皇の古名)の音訳と思われるが、目をひくのは訳語にすべて佳字を選んでいることである。これは次の「礼義の国」の賞賛とも呼応して、唐王朝トップクラスの日本像を如実に表わしている。
石原道博氏は「唐から近隣の諸国へおくられた国書には、このように特別の敬意をあらわした文字はみえない」と指摘し、その原因を「大伴古麻呂のような遣唐使・留学生・学問僧たちに俊秀が多く、いずれも国家的自覚のもとに堂々たる外交・研修・求法などに精神をうちこんだ」ことに帰結している。(1)
しかし「神霊の扶ける所」などの表現によっても明らかなように、このような日本像は中日交渉の現実を反映するものでありながら、従来の神仙郷・君子国の影響をも少なからず受けついでいるのも事実である。
宋の政和六年(一一一六)、徽宗が日本に送った牒状に、日本のことを「東夷の長」と称し、つづいて「人は謙遜の風を崇め、地は珍奇の産に富む」(2)と礼賛しているのを見ると、「謙遜の風」と「珍奇の産」とがセットされ、新しい日本像の基盤となっている。 
第一節 華夷同祖の意識
江戸時代の伊藤松貞が著わした『隣交徴書』(初編巻之一)に、峨嵋山居士と号する宋・文博の『日本国賛』を載せている。この五言律詩のなかに「孰ぞ彼土此土を分たん、相去る纔かに咫尺なり」との詩句があり、従来の偏遠にして到達しがたいという日本像と大きく趣を異にしている。
宋末元初の馬端臨によって編纂された『文献通考』(巻三二四、四夷考、倭条)をみると、唐宋時代を境にして、日本に対する中国人の距離感に著しい変化が現われている。
つまり、漢魏時代の日本は、楽浪郡や帯方郡から一万二千里も離れていて「その地は遼東を去ること甚だ遠い」とされるが、唐宋時代になって海路による交通が盛んになり「?浙を去ること甚だ迩い」と書かれている。
唐宋以来、中日間の交通は、海岸ぞいの北路から東シナ海を横断する南路へと切りかえられ、また季節風の利用や造船技術の発達もつたって、両国間をむすぶ航路を大幅に短縮させることに成功した。
しかし、右の『日本国賛』と『文献通考』にみられるような距離感は、おそらく心理的要素を多くふくんでいるであろう。その背後には、文明の同質や民族の同種といった認識がつよく働いていると思われる。 
1呉人の後裔
日本民族の起源について、中国の文献では、江南の呉越民とのかかわりで記述されることが多い。そのひとつとして、倭人がみずから「呉の太伯(泰伯)の子孫」を名乗っていることは、多くの歴史書に記録されている。
その伝説が最初に登場するのは、『魏志』よりすこし成立の早い魚豢の撰んだ『魏略』である。残念なことに、『魏略』はすでに散逸して伝わらないが、『翰苑』という唐代の書物にひかれた逸文に「その旧語を聞くと、自ら太伯の後という」とみえる。
ところで、倭人がその子孫であると自称する「太伯」とは、いったい何者なのだろうか。まずはその人物像を明らかにしておこう。
『史記』(呉太伯世家)によれば、太伯は周の太王(古公亶父)の長男だが、父の胸中を推しはかり、王位を三男の季歴にゆずるため、断髪文身して荊蛮の地に落ちのびた。土着民は彼の義をしたって身をよせるもの千余戸におよび、かれを呉の開祖に推したという。
こうして国ゆずりした太伯は、孔子から「それ至徳というべきのみ」(『論語』泰伯篇)と激賞され、儒教の世界では賢人として尊敬される。
呉は春秋時代(前七七〇〜前四〇三)揚子江下流域をその生息地とし、「春秋五覇」のひとつにかぞえられる強国である。呉は中原に鹿を逐うなかで、文明度の高い漢民族と関連づけて、自らの正統性を主張する必要があった。その必要から、越は夏の少康の子、斉は周の太公望、晋は周の成王の弟、呉は周の太伯といった具合に、非漢民族の始祖伝説がつぎつぎと生まれてきた。
ここで注意すべきは、倭人がみずから呉民族との同源を主張していることだけでなく、越民族との関連もあったと中国人が意識していたことである。『魏志』(倭人伝)に「夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、もって蛟龍の害を避ける。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕り、文身しまたもって大魚を厭う」とあるのは、その一例である。
三世紀ごろ、倭人は中国江南の呉越民と共同の起源を持っていると伝えられるが、それが唐宋時代に入ると、秦漢移民の子孫たちがそのまま日本住民の一部をなしていると信じられるようになった。
倭人の太伯後裔説は、『魏略』と『翰苑』のほか、『梁書』・『晋書』・『北史』・『通典』・『太平御覧』・『資治通鑑』などの唐宋文献にもみられる。この伝説がひろく引用されるのは、儒教上の理想人物としての太伯を東方の君子国の始祖に置くという解釈の合理性があるのみならず、奈良時代より始まった日本文化の唐風追随が中国人に親近感を与え、従来の日本像を変えさせたのも一因だったと考えられる。
2秦王国の発見
大業四年(六0八)、隋の使者として文林郎の裴世清は、遣隋使の小野妹子らに伴われて、倭国へ赴いた。『隋書』(倭国伝)によれば、隋使一行は百済をへて都斯麻国(対馬)に至り、さらに一支国(壱岐)・竹斯国(筑紫)をへて「秦王国」にたどりついたとある。 このなぞの秦王国について、松下見林は『異称日本伝』において安芸の厳島とし、本居宣長は『馭戎慨言』において山陽道西端の国名の誤記と主張し、また山田安栄は周防の音訳とみるなど、まさしく諸説の分かれるところである。
秦王国という表記には、古来の徐福伝説がからんでいるとみたほうが妥当であるかもしれない。「その人は華夏に同じであり、もって夷洲と為すも、疑うらくは、明らかにすることができない」とつづく裴世清の感想は、その証拠となろう。
夷洲(亶洲をふくめて)は『後漢書』(倭伝)と『呉志』(孫権伝)では、徐福の止住した地として伝えられている。また『太平御覧』(巻七八二、外国記)には、「周詳、海に浮かび、紵嶼に落ちる。その中に紵が多く、三千余家あり、徐福童男の後という。風俗は呉人に似ている」と記されている。
『隋書』(倭国伝)の記事は、裴世清の帰国報告をもとにして書かれていることは疑われない。「文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬う。百済に於いて仏経を求め得、始めて文字を用いる」とあるのは、従来の日本像とはっきり一線を画し、仏法を信じ文字を知っている開化民族として、日本を認識しているのである。
ふたたび秦王国の記事に目をもどすと、徐福の子孫を思わせるような秦王国の住民をここに「華夏に同じ」と評価している。それは「性は質直にして雅風があり」、「仏法を敬う」、「文字を用いる」といった記述とともに、隋代の新しい日本像を示唆するものである。
「華夏に同じ」という秦王国の実像と伝説に語られる蓬莱の虚像とが交錯するなかで、はじめて日本に足を踏みいれた裴世清は、その戸惑いと驚きの心情を隠しきれず、「夷洲と為すも、疑うらくは、明らかにすることができない」とつづく記述に、すべての疑念を投げかけている。
こうした疑念は唐以降になると、しだいに薄れてくる。五代のころ、義楚の著わした『釈氏六帖』は、徐福の止住した蓬莱を日本の富士山に比定し、その子孫が「秦氏」を名乗っているとして、「今、人物は一に長安の如し」と書きしるしている。これは『隋書』の「その人は華夏に同じ」よりも、一段と評価を高めているのみならず、語気にはなんの躊躇もみられない。
「礼儀の邦」という隋唐時代から始まった斬新な日本像は、人間同士の直接の接触によって形成されていくところに、最大の特色があったのである。
3転生伝説
日本文化の著しい唐風化は、結果として中国との文明の落差を効果的に縮小させ、また両国の人種的な相違の影をしだいに薄める形で、中国人の日本像に色濃く投影されるのである。こうした影響は、太伯後裔説のほかに、仏教的な転生伝説にも顕著に見てとれる。
奈良時代から江戸時代にかけて編まれた多くの聖徳太子伝をひもとくと、中国の南北朝時代の乱世を力づよく生きぬいた高僧慧思(五一五〜五七七)が亡くなってから、聖徳太子に生まれ変わったと記されている。(3)
『法華経』をはじめ大乗仏教をとなえて、他宗派からしつこい迫害をしかけられ、幾度となく生死をさまよった慧思は、五五八年の正月に心機一転して、金字の『大品般若経』と『法華経』をつくることを発願し、ひろく僧俗の善知識をつのった。
大願成就の吉日に、慧思は自叙伝ともいうべき『立誓願文』をしたため、「一切十方の世界中」に生まれ変わることをおごそかに誓ったのである。そのとき慧思は、漠然とした未来よりも、仏教弘伝の新天地へ熱い視線をむけるようになったのであろう。
慧思の死後、信者たちは右の再誕予言に基づいて、かずかずの転生伝説を創作するのである。そして、伝説はさらに伝説を生みだして、一人歩きするようになると、慧思の再誕地は、最初の「遠遊」や「無仏法処」から、しだいに「海東」や「東国」へと具体化されていく。
中国の感覚からいえば、仏教は西方より伝わってくるから、中国より東にはなかったものである。ことばを換えれば、求法は西へ、伝法は東へといった図式は、中国人の脳裏に刻みこまれている。この意味で、慧思の東方転生が、東海中にある日本へつながっていく伏線となったのである。
これまでに、「慧思の日本への生まれ変わり」という伝説は、日本だけにみられる信仰とされ、中国発生説に疑問を投げかける学者が少なくなかったようである。けれども、「日本への生まれ変わり」は、慧思にまつわる雄大な転生劇の一コマにすぎず、中国に発生する土壌的な要因があったのである。
たとえば、作者不詳の中国の『大唐七代記』(正しくは『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』)は、南北時代に六たび生まれ変わってから、第七生は「倭国の王家」に生まれ、仏教を弘めたと書きとめている。この本の成立時期は詳らかでないが、思託の『大唐鑑真伝』(正しくは『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』)とすこぶる類似している記述がある点から、八世紀のなかばをくだらないと推定される。
近ごろ、仏教学者の京戸慈光氏の紹介によってその存在を学界に知られるようになった『浄名経関中釈抄注』という書名の敦煌文献にも、中国の各王朝に転々と生まれ変わった慧思は、とうとう海のかなたに再誕して国王となり、『法華経』をひろく流布させたとみえる。(4)
ついでに、機敏をあらそう禅僧たちの名問答とされるこぼれ話しをここにひとつ紹介しておこう。
ある日、洞山良介という高僧は座禅の合い間に、「慧思が生まれ変わって倭国の王となった話を聞いたけど、本当か嘘か」と弟子らの学力をためそうとして聞いてみた。そこで、道膺は「慧思の人となりを考えれば、仏さまになるのも嫌な質だから、ましてや国王になるはずはない」ときっぱり応対したという。
道膺は八三五年から九〇二年にかけて生存していた人物であるから、唐の末期には禅宗の間で慧思の倭国転生説を常識として知っていたことがわかる。
また、鑑真が入唐僧の栄叡らに請われて、渡日を決意したとき、「むかし聞いた話では、南岳の思禅師は遷化してのち、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度しているという」と語ったことは、唐の天宝元年(七四二)の出来事で、淡海三船の『唐大和上東征伝』に語られている。
ここで注目すべきは、慧思の倭国転生を、鑑真は「むかし聞いた話」と断っていた点である。その話を裏づけるものとして、慧思が「倭州の天皇」に生まれ変わったと明記された碑文は『大唐七代記』にひかれている。碑文の最後には、「李三郎帝の即位する開元六年歳次戊午二月十五日」という日付がついている。
「碑の下に題していわく、倭州の天皇、彼の聖化する所である。聖人の遷跡より隋代に至る以下、禅師の調度、金銀書・仏肉舎利・玉典・微言・香炉・経台・水瓶・錫杖・石鉢・縄床・松室・桂殿、未だ傾けず朽ちずして、衡山の道場にみな悉く安置している。今代の道俗、瞻仰し帰敬する。」
「李三郎」とは、唐の叡宗の三男に生まれた李隆基のニックネームで、先天元年(七一二)に即位してから、「玄宗皇帝」と呼ばれる。「開元六年」は養老二年(七一八年)にあたる。慧思が「倭州の天皇」に生まれ変わった伝承を記したこの碑文は、鑑真の問答より二十四年も前に書かれたもので、「むかし聞いた話云々」とある『唐大和上東征伝』の記述を裏づけてくれる。
鑑真にしたがって渡日した唐僧思託は『大唐鑑真伝』で「その智者禅師は、南岳慧思禅師の菩薩戒の弟子である。慧思禅師はすなわち日本に降生し、聖徳太子となる。智者は唐国の分身で、思禅師は海東の化物である」と述べ、さらに『上宮皇太子菩薩伝』に「思禅師は、のちに日本国橘豊日天皇の宮に生まれる」と明記している。
慧思の倭国転生説は、唐代から興味津々と語りつがれていたようで、明空の『勝鬘経疏義私鈔』、思託の『延暦僧録』(上宮皇太子菩薩伝)、法進の『註梵網経』などにも記述されている。宋代では、道原の『景徳伝燈録』などにみえるのみならず、宋人の沃承璋が亡くなって日本の国主に生まれ変わったという類話まで流布していたようである。(5)
このたぐいの伝説がとくに唐宋時代にひろく流布したのは、この時代の新しい日本像と無関係ではなかろう。 
第二節 上古の遺風
中国人は空間的に海彼の島々に幻想の神仙郷を想像し、時間的には遥かなる古代に理想的な王国を追憶する。中国における日本像の生成変化を考察するにあたり、「古代への郷愁(ノスタルジア)」の持つ文明論的意味を看過してはならない。
唐の詩人王維の詩集『王右丞集』をひもとくと、阿倍仲麻呂に贈った『秘書晁監の日本国に還るを送る』と題する五言律詩がある。その詩序に、日本の文明を概観して、こう書かれている。
「海東の国、日本を大と為す。聖人の訓に服し、君子の風がある。正朔は夏の時に本づき、衣裳は漢の制に同じである。」
中国人にとって、古代にさかのぼるほど、理想的な良風美俗が残されており、聖人の教えに基づく政治秩序が保たれていると考えがちであるから、夏朝の暦を用い漢代の服を着ていることは、まさしく「聖人の訓に服し、君子の風がある」の表われと認められる。
中国人にとって、上古の遺風がどれほど受けつがれているかは、国内にあってはその王朝の治世の善悪を見わける基準であり、域外にあってはその民族の文明の高低をはかり知る指標となる。
唐代の中日交流をふりかえってみると、人物往来の隆盛にして多彩な様子は、まことに注目に値する。遣唐使をはじめ中国へわたった日本人が相当な数にのぼったことはいうまでもなく、日本へわたった中国人も無視できるほど少数ではなかった。(6)
使者・商人・僧侶・留学生らの往来による直接交流の機会が急増することによって、唐代の中国人は伝説の濃霧から日本の真相を一部ながらかいま見ることができた。そして、日本の実像を「古代発見」として記述したところに、この時代の日本像の特色が鮮やかに表わされている。 
1「柏手」の古礼
今日の日本人は仏前では合掌、神前では柏手、人間同士では握手というふうに、相手によって作法を自在にかえている。神社を参拝したり、家庭で神を拝むとき、両手を打ちあわせて鳴らすことを、「かしわで」といい、それに「柏手」か「拍手」の字をあてるのが普通だが、ほかに「八開手」との表記もみられる。
柏手の礼法は、その起源がきわめて古く、中国の文献に徴するかぎり、弥生末期にまでさかのぼることができる。すなわち、『魏志』(倭人伝)に記された次の一文である。
「大人の敬する所を見れば、ただ手を搏って、もって跪拝に当てる。」
三世紀ごろ、跪拝礼に慣れていた中国使者の目には、貴人を敬う作法として、拍手を礼とする倭国の風習は、きっと奇異に映ったのであろう。
柏手の礼法は、従来より日本独特のものだと思われてきたが、事実は果たしてそうなのであろうか。言いかえれば、中国にはかつて柏手の礼法は存在しなかったのか。『周礼註疏』(巻二十五、春官宗伯第三)をひもとくと、周代の大祝儀式に用いられる「九拝」の礼法が書きしるされている。
「大祝は九拝に辨れる。一に稽首という。二に頓首という。三に空首という。四に振動という。五に吉拝という。六に凶拝という。七に奇拝という。八に褒拝という。九に粛拝という。もって右の祭祀を享する。」(7)
右文にみえる「振動」について、漢の大夫鄭興は「動」の音を「董」と示し、「振董」とは「両手を相撃つことである」と註記している。この注記をうけて、隋唐時代の経学者である陸徳明は、さらに倭人の例を挙げて、釈文をつける。(『経典釈文』)
「今、倭人は拝してもって両手を相撃つ。鄭大夫の説くようである。けだし古えの遺法であろう。」
以上で明らかなように、周の大祝に用いられる九拝礼のひとつである「振動」とは、両手を撃ちあわせる柏手の礼法であり、漢代のころはまだ残っていたらしい。
しかし、陸徳明の釈文をみてもわかるように、それが唐代に至ると、中国ではすでに失われてしまい、わずかに倭国の柏手の礼法から、この「古えの遺法」を偲ばざるをえない状態にあった。(8)
古代王朝の手本とされる周礼を、現実の倭人が用いつづけているということは、中国人にとって大きなショックであり、信じがたい事実でもある。陸徳明は羨望と感激の気持ちをこめて「けだし古えの遺法」であると断言しているのである。
また「遺法」とは、中国で散逸したものであり、とりわけ珍重されるわけである。海彼の日本がいまだ上古の理想的な秩序をしっかり守ってくれているというイメージは、王維の詩にも「正朔は夏の時に本づき、衣裳は漢の制に同じである」と謳われているように、唐代からすでに芽生えてきたのである。
2宋太宗の感嘆
約三百年もつづいた唐王朝が九〇七年にほろぼされると、中国はふたたび五代十国という紛争期に突入する。新しい宋文化を生みだす陣痛として、多くの伝統文化が跡形もなく唐末以来の喪乱によって破壊された。五代から宋にかけて、「古代発見」への関心が突如として強まってきた原因のひとつは、まさにここにあるといわなければならない。
宋の太平興国八年(九八三)、東大寺の「然は入宋し、中国佚書の『孝経新義』と『孝経鄭氏注』とともに、本国の『職員令』と『年代記』をときの太宗に献上した。
「然の将来した日本の書籍は、楊億の『談苑』(『楊文公談苑』とも書く)に「予は史局にあり、降る所の禁書を閲すれば、日本の『年代記』一巻及び「然『表啓』一巻があり、因ってその国の史伝を修めること、甚だ詳しきを得た」とあるように、『太宗実録』または『宋史』の編纂に利用されたことがわかる。
「然のもたらした情報は、中国人の日本知識を豊かにしたのみならず、支配層の持つ従来の日本像を大きく変えさせる転機ともなった。とくに、後者の意義は知識の増大よりも大きなものがある。
『宋史』(日本伝)には、神代より六十四代目の円融天皇に至るまでの天皇系譜が整然として列挙されている。「然将来の『年代記』から引用していることは明らかではあるが、それを延々と中国の正史に採録することは、前代未聞の措置であり、宋王朝の複雑な心境が見え隠れする。
宋の太宗は、こうした心境を隠せずに「その国王は一姓を伝え継ぎ、臣下もみな世官であるのを聞き」、ふかく嘆息し、宰相に次のように胸中をうち明けている。
「これは島夷なのに、世祚は遐久にして、その臣もまた継襲して絶えない。これはけだし古えの道である。中国は唐季の乱より宇県が分裂し、梁・周の五代、歴を享けること尤も短く、大臣の世冑、よく嗣続することは稀れである。朕は、徳は往聖に慙じると雖も、つねに夙夜寅しみ畏れ、治本を講求し、敢えて暇逸しない。無窮の業を建て、可久の範を垂らし、またもって子孫の計と為し、大臣の後をして禄位を世襲させることは、これこそ朕の願いである。」
宋の太宗は、王姓一伝と臣位世襲とを古代の理想的な政治秩序とし、唐末以来の制度の紊乱および世風の衰微をいたく嘆きながら、「世祚は遐久にして、その臣もまた継襲して絶えない」という「島夷」の政治制度に、羨望の念を禁じえなかった。
これに刺激されてか、太宗は「無窮の業を建て、可久の範を垂ら」すべき世襲制の復興を、みずからの政治理想としてかかげた。日本における「古代発見」は、このように中国の政治制度にも響いてくるのである。 
第三節 遣唐使の風貌
唐の都長安は、五十あまりとも七十あまりともいわれる国々から、しきりに遣唐使を迎えていた。これらの遣唐使たちは、文物の輸入を目的とするとともに、各国の使節団と立ちならんで、国威宣揚の狙いもあったにちがいない。
それは朝賀の儀に参列するときの「席次争い」の諸事件によってもっとも象徴されるが、使節の容貌や服装などによって自国の文明度をアピールすることにも反映される。
森克己氏の指摘されたとおり、日本の遣唐使人も右のふたつの目的にあわせて、唐の先進文明を輸入するとともに、「唐朝に集まる各国使臣の中にあってわが国際的地位を高める」任務にふさわしい人物が選ばれるのであった(9)。
つまり選考にあたって、学問的素養と優雅な容姿とが条件として問われるわけである。本節では主として後者、すなわち使節団に選抜された遣唐使人の身体的特徴および外交舞台での振る舞いなどに、スポットライトをあてて考察してみたい。 
1美貌は選考の条件
華やかな中華文明を学ぶため、拙い航海術と未熟な造船術とをたよりにして、多大な犠牲を覚悟のうえで海をわたった遣唐使人は、ほとんどが好学の士のみであった。森克己氏によれば、「ことに注目すべきは容貌・風采・動作・態度など選考の条件にしているらしく思われることである。」(10)
このような厳しい条件を設けると、遣唐使わけても大使や副使などの引率者に適任する人物がなかなか見つかりにくいのも事実である。たとえば、天平十八年(七四六)の大使選任について、『懐風藻』は次のように伝えている。
「天平年中に、詔して入唐使を簡ぶ。元来より、この挙はその人を得難い。ときに朝堂に選び、公の右に出るものはない。ついに大使に拝され、衆僉な悦服する。」
「其の人を得難い」とは、おそらく事実だったのであろう。そして「衆僉な悦服」して選ばれた石上乙麻呂は「地望は清華にして、人才穎秀である。雍容閑雅にして、甚だ風儀を善くする」と記され、『懐風藻』の著者は学問よりも風貌のほうに注意を向けている印象をうける。
乙麻呂の子息の宅嗣も親譲りの美貌の持ち主だったらしく、『続日本紀』は「性は朗悟にして姿儀がある」または「辞容は閑雅にして、時に名がある」と書きとめている。
石上親子のほかにも、遣唐使に選ばれた人物の容貌について、日本の諸文献から賛美の言葉が多く拾われる。ここでいくつかの例をかかげよう。
たとえば、藤原常嗣は「立性は明幹にして、威儀は称えるべし」(『続日本後紀』)、菅原善主は「聡恵にして容儀を美しくする」(『文徳実録』)、藤原松影は「人となりは厳正にして、鬚眉は画くが如し」(同上)、小野篁は「身長は六尺二寸あり」といった具合である。
藤原常嗣は十九回目の遣唐大使として選ばれたが、そのとき小野篁は副使、菅原善主と藤原松影は判官をつとめた。母親の老衰を理由にして渡航を取りやめた藤原松影は「進止容儀は天骨を得た」といわれ、のちに式部官吏の手本とされたという。
2君子国のイメージ
石上親子はその持ち前の知性と生まれつきの容姿とを買われ、それぞれ十一回目の遣唐大使と十四回目の遣唐副使に任命されながらも、さまざまな事情があって結局は唐へわたらなかった。
ところで、海彼へわたった遣唐使人は、異国の人々にどんなイメージを植えつけたのか。つぎに唐人の目を借りて、遣唐使人らの容貌をクローズアップしてみよう。
斉明天皇五年(六五九)、四回目の遣唐使にしたがって入唐した伊吉博徳が、渡航の様子を書きとめた記録は「伊吉博徳書」として『日本書紀』にひかれている。それによると、同年十一月一日に洛陽で行なわれた冬至の儀に参列した諸国の使節のなかで、日本の遣唐使は「最も勝れている」と評価されたという。
中国では古くから東シナ海の彼方に神仙郷があると伝えられ、そこの島々には仙人と君子が住んでいると信じられてきた。したがって、大海をわたってきた遣唐使には、こうしたイメージを重ね合わせたことも否めないが、それよりも眼前に現われた遣唐使人の堂々たる容姿が、「君子国」のイメージをいっそう強めたにちがいない。
たとえば、十二回目の遣唐使らが天平勝宝四年(七五二)四月ごろ出航して、明州(今の寧波)あたりに着岸してのち、大使藤原清河をはじめとする一行は長安へ向かい、玄宗皇帝にまみえた。その情景を、『延暦僧録』はつぎのように活写している。
「使は長安に至り、塵を払わずして拝朝する。唐主開元天地大宝聖武応道皇帝は、『かの国に賢い主君がいる。その使臣を観れば、趨揖することは他国と異なる』と讃えて、すなわち日本に『有義礼儀君子国』という称号を授けた。」
「趨揖することは他国と異なる」とは、唐側からみれば、日本の遣唐使は他の国の使節と異なって、君子らしく振る舞ったことであろう。それはまさしく『伊吉博徳書』に「諸蕃の中で、倭客は最も勝れている」とある記載とぴったり照応する。
もう一例をあげる。『続日本紀』に「わが朝の学生にして、名を唐国に播げる者は、ただ大臣と朝衡の二人のみ」と激賞された朝衡こと阿倍仲麻呂は、唐の文人とひろく交遊し、それを示す漢詩がいくつか現存している。
儲光羲の贈答詩は仲麻呂のことを「美無度」と称している。「美無度」とは「美度る無し」と訓むが、中国書家の模範とされる王献之について、宋の周密が「王郎風流を擅にし、筆墨の美度る無し」と賛美するように、美の極致を言いあわしている。これで、仲麻呂が美貌の持ち主だったことがわかる。
こうしてみてくると、王維をして仲麻呂への送別詩に日本のことを「君子の風がある」と歌わせたには、友人の仲麻呂からうけた印象が大きく働いただろうと想像される。
3粟田真人の容姿
遣唐使人のなかで、その容貌を中国の文献にもっとも多く記されたのは、第八次の遣唐執節使をつとめた粟田真人をおいて、ほかにいないであろう。
一行が大宝二年(七〇二)六月に筑紫を発って、十月に楚州の塩城県に吹きつけられ、地元の唐人と問答を交わしたとき、唐人は日本使だと知り、使者らの「儀容」をみて、「さすが君子の国だ」と感嘆したというエピソードは、『続日本紀』に伝えられている。
「聞くところによれば、海東に大倭国という国があり、これを君子国といい、人民は豊楽にして、礼義は敦く行われているという。今、使人を看ると、儀容はなはだ浄く、伝聞を信じないわけにいかない。」
右文は遣唐使らの帰国報告に基づく記録ではあるが、いくらか粉飾があったとしても、おおむね事実であると受けとめてよかろう。というのは、それを裏づける記録は、中国側の文献にも見いだされるからである。
まず『旧唐書』(日本伝)をひもとくと、「進徳冠を冠り、その頂に花を為り、分かれて四散する。身は紫袍を服し、帛をもって腰帯と為す」という細やかな装束描写につづき、その学問と容貌について「好んで経史を読み、文を属ることを解し、容止は温雅である」と書かれている。
また表現上の小異はあるものの、『新唐書』(日本伝)は「真人は学を好み、文を属ることを能くし、進止に容がある」、『通典』は「容止は温雅にして、朝廷これを異にする」、『唐会要』は「容止は閑雅にして、人を可しとする」とそれぞれ評価している。
「朝廷これを異にする」(原文は「朝廷異之」)の「異」は動詞として「あやしむ」「うやまう」「めずらしくす」などの意味合いがあり、真人の非凡な容姿が唐人を驚かせたことを物語る。また「人を可しとす」つまり原文の「可人」は『角川大字源』によれば、熟語として「よい人物」「とりえのある人」を表わす。
とにかく、粟田真人はときの則天武后にもよい印象を与えたらしく、麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられたのである。
遣外使節の容貌がその国のイメージ作りにどれほどの意味を持つかは、粟田真人の一例によって推し量られるであろう。言いかえれば、遣唐使の人選に「容貌」を条件として設けることは、外交の現場において要求される常識であるといえるかもしれない。
4「長大少髪」の渾名
阿倍仲麻呂は「美度る無し」、藤原清河は「趨揖することは他国と異なる」、粟田真人は「容止は温雅である」とか「進止に容がある」とか「儀容はなはだ浄く」などといわれても、個々人の持つ具体的なイメージを、脳裏に描きだすことはそう簡単ではない。
空海の場合は唐人朱千乗の送別詩に「古貌は休公の宛く」「威儀は旧体を易え」ると歌われているから、もし休公こと南朝宋の名僧湯惠休の相貌を画像なんかで覚えているならば、渡唐前とは打って変わった空海の姿をいくらか想像できるかもしれないが、それも詩人の賛辞としてリアルに描いているという保証はない。
ところが、遣唐使の身体的特徴をはっきり示す記録は、『遊仙窟』の著者として世に知られる唐の文人張?(字は文成)の著わした『朝野僉載』卷四にのこされている。
兵部尚書の姚元崇をはじめ、要路の朝官十五名を揶揄したため、地方の県尉に左遷された左拾遺魏乗光の逸話だが、そのなかで「長大少髪」の舎人呂延嗣が「日本国使人」と渾名されている。この一節の訳文を次にかかげる。
「唐の兵部尚書姚元崇は、長身にして歩き方がせっかちであった。魏乗光は、『蛇を追いかける鸛鵲』と呼んだ。黄門侍郎の盧懐慎は、よく地面を見つけるから、『ネズミを狙う猫』と称した。殿中監の姜皎は、肥って色が黒いから、『桑の実を飽食した牝豚』と名づけた。紫微舎人の倪若水は、色が黒くて鬚がないので、『酔部落精』といった。舎人の斉処冲は、目を眇めて見る癖があるから、『暗い蝋燭の下で虱をさがす老婆』とした。舎人の呂延嗣は、長身にして髪が薄いから、『日本国使人』と渾名をつけた。(後略)」
この史料を日本で初めて紹介した加藤順一氏は、文中の「日本国使人」とは粟田真人とともに入唐し、十余年におよぶ在唐生活をおくった大使の坂合部大分がそのモデルだろうと考え、このようなイメージが成立したのは「開元初期(八世紀はじめ)」と推定している。(11)
肝心の人物呂延嗣について、加藤氏はその伝記を不明としているが、その後、池田温氏は唐代の史料を丹念に調べられ、呂延嗣とは開元初年ごろ紫微舎人として活躍した呂延祚の誤写であると考証した。(12)
『朝野僉載』の著者張文成は、『旧唐書』や『新唐書』の「張薦伝」によると、新羅や日本の遣唐使が長安に来るたびに、大金をなげうってその詩文を買い求めたとあり、文名を東アジアにひろげていたことがわかる。著者自身もおそらく日本使との交流があったと思われ、史料の信憑性が高いとみてよかろう。
日本人は、平均的に身長が低かっただけに、堂々とした風采を要求される使者の選任にあたって、長身の大男が優先的に選ばれる節がある。したがって、大使の坂合部大分(あるいは執節使の粟田真人か)も、小野篁のような「六尺二寸」ほどの偉丈夫だったと想像される。
5遣唐使人の肖像
文字資料による遣唐使人の描写について、以上のように諸文献から実例をあげながら述べてきたが、もっと直感的に視覚に訴える画像資料は、かつてあったかどうか。もしあったとすれば、現存しているかどうか。
中国では、古くから外国の使節を画像に描きとめて、天子の威徳が四夷におよぶことを讃える慣例があったようだ。残卷ながら現存する『職貢図』(南京博物院蔵)はその古い例で、「倭の五王」から派遣された使者がそのなかに描かれている。
遣唐使時代になると、日本使人の肖像が何度か描かれていたことは、文献記載によって知られる。『延暦僧録』によれば、玄宗皇帝は藤原清河の礼儀正しい振る舞いに感激し、日本国に「有義礼儀君子国」の佳号をくわえたのみならず、有司に命じて藤原清河をはじめ副使の大伴古麻呂と吉備真備の肖像を描かせ、それを蕃蔵に納めたとある。
また、唐人曇清の送別詩『奉送日本国使空海上人橘秀才朝献後却還』には「宮に到り方に奏対せんとし、図像すでに王の庭に到れり」と詠まれており、空海と橘逸勢の二人も画像に描かれる名誉を手にしたことがうかがわれる。
これらの肖像画はどうやら二部ずつ作られ、一部が使者とともに本国へ送られたらしい。しかし残念なことに、右の五人の肖像画がいずれも散逸して現存せず、その華やかな模様は想像を逞しくするほか偲ばれない。
ところが、これで諦めるには、まだ早い。一九七一年七月から、陜西省乾県にある唐の章懐太子墓の発掘が始められ、翌年七月にまとめた報告書によると、墓道の東壁には『礼賓図』(客使図とも呼ばれる)が描かれていたことがわかった。(13)
壁画の南から北に向かって二人目(図3では左から三人目)の外国使節について、日本使か高句麗使かをめぐって議論が交わされた。一時は『旧唐書』に「進徳冠を冠り、その頂に花を為り、分かれて四散する。身は紫袍を服し、帛をもって腰帯と為す」と記された粟田真人ではないかという見方が有力だったが(14)、頭上に二本の鳥羽を挿していることから、今では朝鮮半島の使者に軍配をあげる方が多い。(15)
遣唐使人を描いた絵画として、比較的に可能性の高いものは、台湾の故宮博物院に所蔵されている『明皇会棋図』だろうと思われる。『懐風藻』弁正伝に「大宝年中に、唐国に遣学する。ときに李隆基が龍潜の日に遇う。囲碁を善くするをもって、しばしば賞遇される」とある記述によって、中央の明皇(玄宗)に向かって左から三人目が弁正その人だろうと推定される。(16)
もし右の推測がまだ証拠不足なら、古くから近江国蒲生郡中村の呉神社に伝来し、いくつかの模写品が現存している『吉士長丹像』は、われわれの悲願をかなえてくれる。東野治之氏によれば、この肖像は儒教の聖賢像とおぼしき風貌に描かれているという。(17)
吉士長丹は第二次の遣唐大使をつとめ、帰国後に天皇より「呉」の姓を賜わった。その肖像画が呉神社に伝わったいきさつは不明だが、あるいは藤原清河や空海らと同じように、唐の宮廷画家によって描かれた肖像の一枚を持ち帰り、それがいつか縁りの神社に奉納されたのではないか。
筆者はこのように想像を逞しくしながら、かつて唐人に強く印象づけた遣唐使人の容姿を、脳裏に深く刻み込ませたのである。 
【註釈】
(1)石原道博「中国における隣好的日本観の展開──唐・五代・宋時代の日本観──」(『茨城大学文理学部紀要(人文科学)』第二号、一九五二年)
(2)『善隣国宝記』巻上。
(3)慧思の倭国転生説について、詳しくは拙著『聖徳太子時空超越−−歴史を動かした慧思後身説−−』(大修館、一九九四年)を参照されたい。
(4)京戸慈光「聖徳太子の慧思禅師後身説について」(『天台学報』第三三号)。
(5)この話は宋・志磐の『仏祖統紀』(巻四十四)に見える。
(6)東大寺教学部編『シルクロード往来人物辞典』(同朋舎、一九八九年)第三部「インド・中国・朝鮮などより日本に渡来した者」の収録人物を集計してみると、日本へ渡った唐人は渤海使を除いても、百人台をうわまわっていることがわかる。唐人の渡日について、拙著『聖徳太子時空超越──歴史を動かした慧思後身説』(大修館、一九九四年)第二章「鑑真渡日の動機」をあわせて参照していただければ幸甚である。
(7)原文では「拝」は異体字となっているが、ここでは便宜上すべて「拝」に統一した。
(8)楊寒英「柏手の起源について」(『式内社のしおり』第五十一号、一九九三年三月)。
(9)森克己著『遣唐使』(日本歴史新書、至文堂、一九九〇年重版、九四頁)。
(10)森克己前掲書、九七頁。
(11)加藤順一「『朝野僉載』に見える「日本国使人」−−遣唐使人の容姿をめぐって−−」(『芸林』第三八巻第三号、一九八九年九月)。ちなみに加藤氏は「新たに一史料を得」たと述べているが、筆者の知るかぎり、加藤氏より八年前にこの史料を紹介した中国人学者がいた。詳しくは謝海平氏著『唐代詩人與在華外国人之文字交』(文史哲出版社、一九八一年)六三頁参照。
(12)池田温「日本国使人とあだ名された呂延祚」(『日本歴史』五一三号、一九九一年二月)。
(13)陜西省博物館乾県文教局唐墓発掘組「唐章懐太子墓発掘簡報」(『文物』一九七二年七月号)。
(14)王仁波「従考古発現看唐代中日文化交流」(『考古與文物』一九八四年三月号)。
(15)雲翔「唐章懐太子墓壁画客使図中『日本使節』質疑」(『考古』一九八四年一二月号)。
(16)この絵画の考証について、詳しくは拙著『唐から見た遣唐使』(講談社、一九九八年)九九〜一〇四頁を参照されたい。
(17)東野治之「遣唐使研究と吉士長丹の肖像画」(『遣唐使が見た中国文化』、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館、一九九五年)。 
第五章 好学の士 / 華夷の壁をこえて

唐宋時代の日本像は、古来の君子国と現実の礼儀国とのダブルイメージより合成されているように思われる。いわゆる虚像と実像の交錯した日本像である。このような日本観の形成は、遣唐使および入華僧に接してうける印象に負うところが大きいことは、ことさら多言を要すまい。
倭寇が猛威をふるった明代以前の歴史をふりかえってみると、中国へわたった日本人は、ほとんど朝廷から粒選りされた使節や留学生(僧)、あるいは求道心に燃える僧侶たちだったのである。彼らは日本人のよい側面を中国人に印象づけたことは、明らかなことである。
また一方、中日間には、遭難事件の多発する荒海が横たわっている自然条件の制約があり、じっさいに中国に足を踏みいれる日本人はごく少数にかぎられるというのも、これまた事実である。したがって、生身の人間との接触以外に、日本人の書いた書物が中国人の日本像の形成に大きな影響を与えるもうひとつのルートとなっていたわけである。 
第一節 風月は天を同じうす
前章の第三節では、遣唐使の風貌や学殖について、わりと詳しく論じてきた。本節では、入華僧にスポットを当てて、生身の人間を通して成り立つ日本像を、空海・最澄・安覚の三人を例として考察してみたい。
インドに発祥した仏教は、中国の道教や日本の神道のような特殊な宗教とは異なり、普遍性を持っているために、国々のなわばりを容易に乗りこえては異文化を包容していく。仏教の信者にとって、民族の妨げも華夷の隔たりも、原理として存在しない。彼らは、それぞれの国家や民族に生まれながらも、それらすべてを超越する仏の世界を共有しているからである。
中日の仏教交流を遣隋使の派遣から数えても、すでに一五〇〇年近くの歴史を持つことになる。その間に、国交のあった唐代はともかく、国交のなかった宋代と元代では、東シナ海の航路を行き交う人々の姿は、ほとんど僧形ばかりだったのである。
中日間の盛んな文化交流の歴史をふりかえってみると、あまりにも華夷の名分にこだわりすぎる儒者よりも、雄大な世界観を持つ僧侶の果たした役割は、遙かに大きいといわざるをえない。
さて、中日交流の主役を演じた僧侶たちは、どんな世界観を持っていたのだろうか。長屋王が中国の高僧らに寄贈した袈裟のへりに刺繍された偈句は、それを絶妙に言いあらわしている。
山川域を異にすれど、風月は天を同じうす。
これを仏子に寄せて、ともに来縁を結ばん。
このような連帯意識が生まれてくる背景には、死を賭して海をわたってきた日本僧の学殖と品格への高い評価がある。彼らが、中国にやって来て、名師を尋ね、聖地を巡礼し、経典を求め、修業にあけくれる姿は、好学のイメージをまわりに印象づけ、めぐり会いの人々から好感を持たれたのである。
こうして一人一人への好評は、徐々に積み重なって、いつのまにか日本人の全体像としてまとまり、「好学の士」という日本像を肉づけていくことになるのである。 
1五筆和尚
延暦二十年(八0一)に、日本の朝廷では藤原葛野麻呂を大使とする十八回目の遣唐使の役員が任命された。遣唐使のメンバーには、「三筆」の一人にかぞえられる橘逸勢や文名をもって一世を風靡した菅原清公などの顔ぶれも並んでいるが、なかでも平安仏教の双璧と併称される最澄と空海の二人は、とくに注目を浴びる。
延暦二十三年(八0四)七月六日、遣唐使一行を乗せた四隻の船は、そろって肥前国(長崎)松浦郡の田浦より出港した。船団は出発してまもなく風雨にさえぎられ、離れ離れとなってしまった。航海中の恐るべき様子を、大使の第一船に乗りあわせた空海は、次のように書き描いている。
「すでに本国を後にして途中におよんだころ、暴雨は帆を穿ち、悪風は舵を折る。高い波は空にそそぎ、短い舟はキリキリゆらつく。(中略)浪にしたがって昇り沈みし、風にまかせて南北する。」(『性霊集』)
海上を漂うこと一か月あまり、船員たちが「水尽き、人疲れき。海長く、陸遠し」と、ほぼ絶望的な苦境につき落とされたところ、第一船はようやく中国南部の福州長渓県の海辺に吹きつけられた。
八世紀中葉より以降、入唐コースが北路から南路に切りかえられてから、遣唐使はまず江南の明州か揚州から上陸し、地元の役人の誘導を得て長安へと向かうのがならわしとなっていたから、福州の海岸にいきなり姿を現わしてきた巨大な遣唐使船は、当然のことながら不審に思われ、足どめを食らって厳しい尋問をうけることになった。
大使の藤原葛野麻呂は、福州の観察使あてに、事情を説明した書状を差しだして、上陸の許可と朝廷への取り次ぎを懇願したのである。ここで誰も予想しなかったことに、空海の代筆になった書状に目を通した役人は、その流暢な漢文と優美な書法を絶賛し、遣唐使への対応もがらりと変わったという。
疑惑を晴らした大使一行は上京を許され、同年十二月に長安入りを果たした。そこで、空海は留学僧として青竜寺の恵果に密教を教わり、かたわら「八分」の書体で名を馳せる韓方明を師と仰ぎ、書道の研鑽にもあけくれていた。
空海の達筆ぶりは、「弘法も筆の誤り」ということわざを挙げるまでもなく、ひろく知られるところである。彼に「五筆和尚」のあだ名がつけられており、その由来をめぐっては、五つの書体に精通していること、両手と両足に口でそれぞれ一本の筆を操って五行の文字を一度に書けたこと、韓方明より五通りの筆法を伝授されたことなど、憶測や俗説がかなり幅をきかせている。
近ごろ、円珍関係資料を調べていたところ、図らずもある貴重な史料に出会った。唐の大中七年(八五三)、唐商人の船に便乗して福州の連江県についた円珍は、地元の開元寺に泊まり、寺主の恵灌と親しく会話を交わすなかで、「五筆和尚」の話が飛びだしてきた。
円珍の「両宗を弘め伝うる官牒を請うの案」(草本)に記されるところによれば、恵灌は「五筆和尚は健在か否か」と尋ねたら、円珍は空海のことと知って「すでに亡くなった」と答える。この凶報を聞いたとたん、恵灌は胸を叩いて悲しみ、「未曾有の異芸」を讃えて故人を追憶したという。
もし円珍の記録をそのまま信じるならば、「五筆和尚」のあだ名は、唐人が空海の「異芸」を讃えてつけたもので、それは大使にかわって書状を揮毫したという史実とも符合するのである。
空海の在唐中の事跡として、もうひとつ書道関係の逸話がある。二年間の留学を終えて帰国しようとした空海は、憲宗皇帝の勅命をうけて、皇宮に飾られた王羲之(大王)筆の屏風のために欠字を書き補ったそうである。空海の将来品には、「大王諸舎帖」がふくまれてはいるが、それは右の伝説を裏づける証拠にはならない。
在唐中の空海が書道家としても活躍していたことは、右のような伝聞だけでなく、れっきとした証拠がある。
そのひとつは、永貞元年(八〇五)、恵果が亡くなってから、空海は衆僧に推されて、碑文を草し、それを揮毫したことである。石碑そのものは発見されていないが、一五〇〇字あまりの碑文は『性霊集』(巻二)に抄録されている。
もうひとつは、唐人の送別詩に、空海の書芸を謳われていることである。たとえば、胡伯崇の『釈空海に贈るの歌』には「天より吾が師に仮くる伎術多く、なかんずく草聖は最も狂逸たり」とあり、また朱千乗も送別詩の序文で、「梵書を能くし、八体に工なり」と賞賛している。(1)
2聖語に徴あり
延暦期の遣唐使の四船のうち、第三船は遭難して大破、第四船は杳として消息を絶った。もっとも幸運だったのは、最澄らを乗せた第二船であった。この船は空をつきさすような怒濤に翻弄されながらも、運よく揚子江口にのぞむ明州の?県に打ちあげられた。
唐の貞元二十年(八0四)九月十五日、最澄ら主従の三人は明州をあとにして、待望の天台山へ向かった。二十六日ようやく台州にたどりつくと、最澄はさっそく刺史の陸淳にまみえ、お土産のかずかずを献上した。陸淳は、文房具などを受けとって部下らに分かち、金十五両を返した。そこで最澄がこの金で紙を買って天台関係の書籍を書写したいと申しいれたところ、陸淳はこの希望を聞きいれ、写経の手間を道邃に取り計らわせた。
道邃は修禅寺の座主で、天台宗の第七祖と崇められる名僧である。このころ、たまたま陸淳に請われて、台州の竜興寺で『摩訶止観』を講義していたところであった。最澄と道邃の記念すべき出会いは、まさにこの寺だったのであろう。
台州を離れて、最澄らは天台山への道を急ぐ。「聖地のなかの聖地」とされる仏隴に着いたのは、十月六日のことであった。仏隴の座主行満は、最澄の求法の熱意にふかく心を打たれ、天台宗を開いた智の遺言を思いださせられた。
智はかつて弟子らに向かって、自分が亡くなってから二百年をへれば、東の国に生まれ変わって、天台宗を興隆しようと予言したのである。
この予言はみごとに的中したかのように、ちょうど二百七年目に、行満が「東の国」からやって来た最澄に出会ったのだ。そこで、行満は「法財を傾け、法宝を施し」て、最澄にできるかぎりの声援をおくったのである。
行満は最澄との出会いで智の転生予言を思い浮かべ、この人こそ智の生まれ変わりだ信じていた。最澄への送別詩に詠みこまれている「何れかまさに本国に到りて、踵を大師の風に継ぐべし」とある二句も、こうした思いを吐露している。
天台山巡礼を終えて台州に戻ったのは、十一月五日のことであった。それから約四か月の間、最澄はひたすら道邃のもとで研鑽に励み、翌年二月十五日、道邃から「付法文」を授けられた。道邃はこの法系の相承を表らわす「付法文」のなかで、またもや智の予言にふれ、「今、聖語に徴あり、最澄三蔵に遇えたり」と語り、最澄を「如来の使」にたとえて讃えたのである。
その後、最澄はさらに越州にまで足をのばし、「一百二部一百十五巻」の書籍をかかえて、意気揚々と出港地の明州に帰り、刺史の鄭審則に印信(証明書)を求めた。
鄭審則は「印信」の文中で、「礼義の国より来」た最澄について、「南のかた天台の嶺に登り、西のかた鏡湖の水に泛かび、智者の法門を窮め、灌頂の神秘を探る」と顕密両方の求法の成果を挙げてのち、「法門の竜象たり、青蓮の出池たり」と賛辞を連発する。
このように、求法に情熱を燃やす最澄に、唐人らは「礼儀の国」や「高僧の智」などのイメージを重ねあわせて、強い連帯意識を感じとったようである。こうした連帯意識の土台となっているのは、前述のごとく国家や民族をこえての仏教的世界観である。
唐人の送別詩から証拠となる詩句を拾ってみると、崔★(莫・言)は「法を問う言語は異なれど、経を伝うる文字同じなり」といい、行満も「異域の郷音は別なれど、観心の法性は同じなり」といっている。また台州の刺史陸淳から最澄へ渡された『公験』に「形は異域と雖も、性は実に同源なり」とみえるのも、「形」「言語」「郷音」の障壁を乗りこえて、「性」「文字」「法性」に同一性を見いだそうとする日本観が現わされている。(2)
3不退転の学僧
宋代では、中日の国交が途絶えていたにもかかわらず、僧侶の往来は依然として衰えをみせない。これらの入宋僧のなかに、絵画にすぐれ、書道を善くし、詩文に堪能で、仏理に詳しいといった異色の人物が多かったのである。
宋の咸平六年(一〇〇三)、入宋した天台僧の寂照は、『宋史』(日本伝)に「華言を暁らないが、文字を知り、繕写は甚だ妙である」と讃えられ、また宋の真宗より円通大師号と紫袈裟とを授けられたのである。
寂照との筆談を通して、宋人は「国中、多く王右軍(王羲之)の書を習う」ことを知り、また「寂照は頗るその筆法を得ている」と感心した。(楊億『談苑』)
その後、寂照は中国にとどまり、「華言」を覚えるようになり、楊億の『談苑』によれば、「戒律を持すること精至である。内外の学に通じ、三呉の道俗はもって帰向する」とあり、江南での人気の高さが推察される。
後年、入宋した成尋は天台山から開封へ向かう途中、蘇州に立ちより、その日記『参天台五台山記』に「円通大師の影を拝むために、普門院へ向かう」とある。この普門院こそ寂照がその住持となったゆかりの地で、寂照を祭る影堂が残っているのである。
成尋はその影堂に香をささげ、その肖像に書き添えられていた『普門先住持日本国円通大師真影賛』を日記に書きうつした。
このように、宋人は寂照の遺徳を偲んで、彼を追憶するために、堂を造り、影を祭り、賛を捧げるのである。宋人の手によって描かれた寂照の肖像には、宋代の日本像を反映させていることはいうまでもなかろう。
入宋僧といえば、もう一人、宋人の心をつよく打った人物を紹介しなければならない。彼の名は安覚といって、その事跡は宋・羅大経の著わした『鶴林玉露』(丙編、巻之四、日本国僧)に詳しく記されている。かなり長文になるが、記事の前半を訳してかかげよう。
「私は少年のころ、鐘陵において日本国のある僧と邂逅した。その名を安覚という。自ら言うには、その国を離れることすでに十年となり、ことごとく一部の大蔵経を覚えて帰ろうという。念誦ははなはだ苦しく、昼夜となく、経文を遺忘するごとに、すなわち仏前に叩頭して、仏の加護を祈る。このとき、すでに大蔵経の半分ほどを覚えている。夷狄の人、異教の徒、その立志の堅苦にして不退転な態度は、このようなものとは驚くべきである。」
著者は右文につづいて、朱文公(朱熹)の「今世学者」の不勉強のさまを嘆いた言葉を引いて、「この僧を視ると、殆ど愧色がある」と、中国の「今世学者」に深い反省を促している。
入宋して十年目、大蔵経の半分をすでに諳んじることができたにもかかわらず、残りの経文を暗記するために、昼夜となく励んでいる求道者に心を打たれざる人はいなかったろう。
「夷狄の人、異教の徒、その立志の堅苦にして不退転な態度」に対する感嘆は、「中華」と自認し、「夷狄」を見さげる人々への警鐘を鳴らしている。このように羅大経は、安覚という人物を通して、みずから持っている「夷狄観」と「異教観」を改めされ、安覚を生みだした日本への認識にも変化をもたらしたにちがいない。
安覚(一一六〇〜一二四二)は、名を良祐といい、色定法師とも称される。筑前国にある宗像社の座主兼祐の長男として生まれ、二七歳のときから大蔵経を自力で書写することを発願し、四十年あまりの歳月をかけて、安貞二年(一二二八)ようやく大願を成就したのである。安覚の書写した五〇四八巻の経文のうち、四三三一巻は福岡県の興聖寺に現存しており、貴重な文化財となっている。
さて、安覚の入宋年次は、今のところ明らかにされていない。ただし、『泉湧寺不可棄法師伝』や『元亨釈書』(巻十三、)などによれば、帰国は建保二年(一二一四)とあり、そこから逆算すると、入宋は一二〇三年以前とみられ、ちょうど写経の最中だったことがわかる。
安覚が大蔵経の自力書写を着々と進めながら、その手で書き写した経文を同時に暗記していたことは、日本側の文献にみられず、『鶴林玉露』によって始めて知られる。不退転の求道者としての安覚のもうひとつの側面をここにみることができる。(3) 
第二節 文はその人の如し
中国人にとって、もっとも印象にふかく残る日本人像のひとつは、なによりも書物を好み、詩文にたけるという漢文的素養にほかならない。唐代にかぎってみれば、このような素養を持っている外国人といえば、朝鮮人と日本人しかなく、親近感を持たれ、敬意を払われるのは、当然なことといえるかもしれない。
「漢文的素養」とは、漢詩を詠み、漢文を書くことだけにかぎられない。たとえば、囲碁という遊戯も、その指標のひとつとなり、遣唐使のなかに「碁師」というポストがおかれていたのはそのためだと考えられる。(4)
これまでに中日間の詩人の交わりについては大きく注目され、中国だけでも以下にかかげる諸書が刊行されている。
(1)謝海平著『唐代詩人與在華外国人之文字交』、(台湾)文史哲出版社、一九八一年六月版。
(2)張歩雲著『唐代中日往来詩輯注』、(西安)陜西人民出版社、一九八四年一二月版。
(3)楊知秋著『歴代中日友誼詩選』、(北京)書目文献出版社、一九八六年九月版。
(4)孫東臨、李中華共著『中日往来漢詩選注』、(瀋陽)春風文芸出版社、一九八八年十月版。
これに対して、書籍の交流、わけても日本書籍の中国流入についての研究はあまり重視されていないのが現状のようである。
これらの事情もあって、本節ではあえて詩歌を取りあげずに、中国に伝えられた日本人の手になった書物がどう受けとめられていたのかに焦点をしぼって、時代順に概観してみることにする。
中国では、ふるくから「文はその人の如し」という言いならわしがあるように、文章からその人の素養や品格がわかると考えられてきた。したがって、日本人の書籍への評価には、日本人像をかいま見ることができよう。 
1唐代
これまでに、日本書籍の中国への流入は宋代から始まったと考えられてきたが(5)、近年の研究によれば、その始まりをさらに唐代にまでさかのぼることができた。(6)
七世紀の中葉から、聖徳太子の親撰と伝えられる『法華経義疏』と『勝鬘経義疏』、石上宅嗣の『三蔵賛頌』、淡海三船の『大乗起信論注』、最澄の『顕戒論』および作者不詳の『屈十大徳疏』と『本国大徳諍論』などの書物は、遣唐使および入唐僧らの手によって、中国に持ちこまれた。
そのなかで、『勝鬘経義疏』の評価がとくに高く、それを読んだ天台僧の明空がわざわざ注釈をつけて『勝鬘経疏義私鈔』一巻を著わした。明治時代以前まで、中国人が日本人の著書に注釈をつけるのは、これが唯一の例であるかもしれない。
この注釈書は、中国では早く散逸してしまったが、入唐僧の円仁が五台山でそれを書写して本国に送りとどけ、日本では「大唐高僧の製造、日域面目の秘書」とされ、幾度かの転写と翻刻をへて、現在まで保存されている。(7)
金剛寺蔵『竜論抄』にひかれた『延暦僧録』逸文によると、東大寺の僧円覚が入唐したときに、淡海三船の『大乗起信論注』をたずさえて、越州(今の紹興市)竜興寺の祐覚にそれを贈ったところ、祐覚は「手を巻から釈さず」愛読し、遣唐使の帰りに、賞賛の漢詩を託したという。この詩は中国の『全唐詩』にも逸しており、ここに拙訳をかかげる。
真人は『起論』を伝え、俗士は『詞林』を著す。
片言は復た玉を析きて、一句は千金よりも重し。
翰墨は霞の錦を舒げて、文花意の深きを得たり。
幸い星使の便に因りて、聊か眷仰の心を申べん。
奈良時代の末期、淡海三船とならんで「文人の首」と称される石上宅嗣も、遣唐使に『三蔵賛頌』を託して、中国へ送らせたのである。唐の内道場の飛錫らは、石上宅嗣を「日本国の維摩詰」にたとえて賞賛したという。この記事を載せた『延暦僧録』を著わした唐僧の思託も「名を西唐に播げ、光を日本に揚げる」と評価している。(8)
最澄が弘仁十一年(八二〇)二月に『顕戒論』を著わして天皇に献上したのだが、この渾身の名著はのちに円仁によって中国へもたらされ、それを読んだ唐の名僧知玄は円仁に書状をおくり、「絶だこれ佳作である」と激賞した。(9)
奈良時代から平安時代の前半にかけて、日本はあらゆる面で唐文化を模倣し、一部の日本学者が主張するように、みずからの文化を中国に誇示できるほどのレベルに達しているとは思われない。
したがって、書籍の西伝はあくまでも少量で例外的であった。たとえば、明空が『勝鬘経疏義私鈔』を著わしたのは「聖徳太子の慧思後身説」という宗教上の信仰背景があったからであり、また知玄が『顕戒論』を賞賛したのは唐王朝の道教一辺倒への不満の表われだったと理解するべきであろう。
2宋代
五代のころ、寛建らが菅原道真らの詩集九巻を「唐家に流布」させる目的で中国に持ちこんだの(10)を前奏とすれば、宋代からは日本書籍の本格的な西伝が始まり、無視できない文化移動の流れとなったといえる。ここでは、天台典籍の西伝にスポットをあててみよう。
日本天台宗の僧源信は、永延元年(九八七)博多を旅行していたとき、斉隠という杭州水心寺の宋僧にめぐり会い、自著の『往生要集』および良源の『観音賛』、慶滋保胤の『十六相賛』と『日本往生伝』、源為憲の『法華経賦』などを託して、中国へ伝えるよう依頼した。「異域にこの志を有するを知らしめんと欲する」というのが、その時の源信の心境だったのである。(11)
源信の『往生要集』は中国でかなり反響を呼んだようである。?州(今の浙江省金華市)雲黄山七仏道場の住持である行辿は、この本を読んでから源信に書状を送りだし、「披覧すると、まず意味の深遠なることを羨ましむ」と褒めたたえ、「羽翼のないのを恨みとし、杯を浮かべる方法はない。ただ日本を望み、遙かに羨慕の意を表わす」と心境を語ったのである。(12)
また宋の商人周文徳がこの本を天台山の国清寺に寄進したところ、地元の信者ら五百人あまりがきそって浄財を同寺に喜捨し、たちまち五十間の廊屋をつくりあげ、『往生要集』を供養したという。右の様子をこまかく報告した周文徳はそのまま事実を伝えているとは思われないが、『往生要集』が複数のルートで中国に持ちこまれ、一定の範囲内に流布していたことは、のちに入宋した寂照や成尋らの報告によって疑われない。(13)
源信の弟子にあたる寂照は、日本典籍の輸出において重要な役割を果たしていた。『元亨釈書は』は彼のことを「信公の問章を将して宋の地に入り、また台宗の諸書を持って彼の人に恵る」と評している。
「信公の問章」とは、源信から頼まれた『天台宗疑問二十七条』のことで、のちに四明の知礼に回答してもらった。「台宗の諸書」とは、中国で散逸した『大乗止観』と『方等三昧行法』とで、天台僧の遵式がこれらを重宝し、『大乗止観』を翻刻して「始めて西より伝わるは月の生まるが如く、今また東より返るは日の昇るが如し」と感嘆している。
寂照は楊億との筆談のなかで、日本には中国伝来の『史記』『漢書』『文選』『論語』『孝経』『爾雅』『玉篇』などのほか、日本人撰述の『国史』『秘府略』『日本紀』などもあり、さらに「釈氏の論及び疏、抄、伝、集の類多くあり、ことごとく数えるべからず」と紹介している。それらが『談苑』に採録されているほど、宋人は寂照のもたらした情報を重要視している。
延久四年(一〇七二)入宋した成尋は、「天台、真言の経書六百余巻」を持参して、旅の先々にこれらを宋人に見せては、その評価を日記『参天台五代山記』に書き記している。たとえば、源隆国の『安養集』については「国清寺主の『安養集』に感ずること極まりない」とあり、慶耀の『梵字不動尊真言』などについては「梵漢の両字ともに美なりと称される。慶耀供奉は震旦に名を振るう」とみえる。(14)
宋に輸入された日本典籍は、量的に前代を遙かにこえているのみならず、内容も仏教にかぎらず、唐代よりはバラエティーに富んでいる。たとえば、宋の太平興国八年(九八三)入宋した「然は、太宗に自国の『職員令』と『年代記』を献上し、それが『宋史』(日本伝)などの編纂に生かされている。
3元明時代
日本では、一一九二年の鎌倉幕府の開設によって、政治の中心は公家貴族の集中する京都から離れたのみならず、宗教および文化も平安時代以来の伝統を徐々に脱皮しはじめた。
この時代から、文化の新しい担い手として頭角を現わした禅僧は、京都と鎌倉の五山禅林を拠点として華やかに活躍した。彼らは、仏教以外の書籍をも積極的に渉猟し、豊かな素養を身につけていた。こうして、禅僧を中心として旺盛に創作された詩文は「五山文学」と称されていた。
また一方、宋元時代の交替期に、多くの高僧が戦乱をさけて、あいついで来日した。彼らの丹念な指導のもとで、日本の禅僧たちは新興の宋学の薫陶をうけ、文学や芸術にも目を開かれ、漢学のレベルを急速に向上させた。
渡来の宋僧のなかでは、仏教以外の学問にも心をかたむけ、博学の持ち主が多かった。たとえば、竺仙梵僊は仏教をご飯、詩文をスープ、雑芸を肴にたとえて、修業の極意を弟子らに説いている。(15)
こうした風潮に育てられた日本の禅僧たちは、きそって漢文で詩集や文集、または旅行記や語録を書くようになり、漢文の素養においては平安時代の公家をしのぎ、江戸時代の儒学者と肩をならべるに至ったのである。したがって、この時期に日本典籍輸出の内部的条件がすでに熟していたといえよう。
木宮泰彦著『日華文化交流史』の統計によれば、入元僧と入明僧をあわせると、三百人以上は判明されている。彼らは師匠や友人の著作をたずさえて、高僧や名士を尋ねては、塔銘・行状・頂相賛・寺院記・祭文・碑文・偈頌・序言・跋語などの執筆を依頼した。これは、日本人にとっては金箔を貼る行為とも取れるが、中国人にとっては日本の書籍を目にする好機となったわけである。
元明時代の日本僧といえば、従来より指摘されていたとおり、玉石混淆の現象がみられるが、五山禅林のなかでも才能のぬきんでて優れていた者も少なくはない。たとえば、入元僧としては中巖円月・雪村友梅・別源円旨・義堂周信など、入明僧としては絶海中津・桂庵玄樹・?之慧鳳・了庵桂悟・策彦周良などがあげられる。
嘉興府天寧寺の名僧楚石梵gは、義堂周信の詩文について「日本にこのような人がいるとは信じられない。明の人はみな日本に住む中国人が書いたものかと疑っている」と述懐している。
こうした疑問も、日本人の著作に接するチャンスが増えると、自然に解けてしてまうものだ。以下、中国人が日本人の著作に寄せた序跋などを通して、元明時代の日本像の一側面をかいま見ることにしよう。(16)
(1)南浦紹明『大応国師語録』。天界寺の住持である季潭宗?は洪武八年(一三七五)に書いた序文で、その文章を「簡古厳整にして毫髪だに虚偽なく、まさに一代の宗師である」と讃え、つづいて「ああ、中国と日本は同じく閻浮提の内にあり、同一の天地、同一の日月、山海の限りはあるけど、而して人物の性情と得る所の道徳の懿さは、それ同じならざる者なかろう。公の言行を観ると、卓異することかくの如し」と感激している。季潭宗?は南浦紹明の語録を通して、「山海の限り」すなわち「華夷の壁」を乗りこえて、性情と道徳における中日の同一性を見いだしたのである。
(2)絶海中津『絶海和尚語録』。この語録は、永楽元年(一四〇三)入明僧の等聞によって中国にもたらされた。杭州浄慈寺の道聯の寄せた序文によれば、はじめ外国の僧侶は漢文力が低くて、「華夏に及ばない」と思われていたが、日本の禅僧と交遊したところ、「その気質多く凡ならざるを観ると、苟しくもよく吾が宗の妙に心力を尽くし、みな聖階に躋って神化を揚げるべし」と見直し、絶海中津については「海東にかくの偉人あらん」と敬服し、その語録を「その詞を吐くや、義路は全てを超え、玄門は頓かに廓げる。その機に応ずるや、電掣雷鈞にして、聞く者は耳を掩うに及ばず、覩る者は目を瞬くに及ばない」と賛美している。右にあげたのは禅僧の語録だが、それに比べると、五山文学の精華ともいうべき詩文集の反響は、もっと強烈なものであった。たとえば、清拙正澄は別源円旨の『南遊東帰集』を「大唐の音調を得、語意活脱して珠の盤を走るが如し」と跋語に書き、如蘭は絶海中津の『蕉堅稿』を読んで「まことに海東の魁を為し、その右に出る者はいない」と賛辞をおくっている。このように、かなり高い評価を博した五山禅僧の詩文と語録は、褒めすぎの嫌いがあったとしても、伝統的な華夷観を持っていた中国の文人にとって、大きなカルチャーショックとなったことは事実だったのであろう。つまり、高度な漢文素養をそなえていた日本人を評価するときに、従来の華夷の尺度はもはや適用できなくなったのである。
4清代
日本書籍の西伝は、清代になると、その全盛期を迎えることになった。二百年あまりつづいた江戸時代の平和と発展は、文化の繁栄をもたらし、朱子学に代表される中国文化の普及とそれに対する探求が、日本文化を未曾有のハイレベルに押しあげた。この時代において、蕩々たる中国書籍の東伝に比べれば、日本書籍の西伝は依然として微々たるものにすぎなかったが、前代に比べると、質量ともに高いことはいうまでもなく、これまでにない特色もいくつかみられたのである。まずは、書籍輸出の担い手は日本僧侶から中国商人へと変わったことである。それは、江戸幕府の渡海禁止と清王朝の海外貿易奨励という彼我の政治事情と、または漢学知識の普及によって日本人撰述の書籍が急増しているという文化事情とがその背景にあったと思われる。
次は、これまでは受け身的な中国人は始めて進んで日本に書籍を求め、しかもそれをみずからの文化創造に生かそうとすることである。『吾妻鏡』の伝来から『吾妻鏡補』の誕生までのプロセスは、その好例である。
または、日本の漢籍を「異国の本」よりも中国書籍と同等視する傾向が現われてきたことである。『四庫全書』をはじめ、清代の各種の叢書類に、日本の書籍が収録・刊行され、ひろく流布したものは少なくない。
要するに、清代の中日書籍交流は、ようやく互恵関係に至り、濃密な内容を持つものとなったのである。以下は、いくつかの具体例をあげておこう。
(1)『七経孟子考文』。山井鼎(一六九〇〜一七二八)の著わした本書は、足利学校所蔵の古典籍をひろく引用し、綿密な考証をほどこしたもので、中国に伝わってから文人儒者らを瞠目させた。その後、物観がそれに補遺をつけて『七経孟子考文補遺』と題してふたたび輸出し、またも好評を博したのである。『四庫全書』の編者がこの本を収録するとき、欧陽脩の『日本刀歌』をひいて「千古の疑を釈くに足る」と評価している。翰林院侍講学士という肩書きを持ち、清朝屈指の文献学者として知られる盧文?は『七経孟子考文』を読んで、「かの海外の小邦も、なお能く書を読む者ある」と驚き、中国の古書をたくさん参照しており「その議論もまた採るべきものある」と賞賛し、海外の学子に負けてはいられないと発憤して書きあげたのが名著『周易注疏輯正』である。(17)
清朝の朴学大師と崇められる阮元は、瀕死の状態で闘病しながら、三年間も『七経孟子考文』の撰述に没頭し、よって「聖経に功があり、また嘉するべし」と、山井鼎の人となりに敬意を表わし、序言をつけてこの本を翻刻した。
(2)『吾妻鏡補』。『七経孟子考文』が中国古籍の校勘を主としているから、中国で反響を呼んだと、こう思う人も少なくはないようだ。それでは、『吾妻鏡』という純粋な日本歴史書を例にあげよう。この本は明末清初のころ中国に伝わり、文人儒者の間で、大きく注目されていた。それは、ただ「海外の奇書」として珍しがられるだけでなく、書物の内容にも目をひかれ、日本の歴史そのものに関心をしめしているものである。
清代の名高い儒学者の朱彝尊は一六六四年にこの本と出会い、四三年をかけてようやく入手し、『吾妻鏡跋』なる一文を草し、「撰人の姓氏は未だに詳らかでない。前に慶長十年の序があり、後に寛永三年という国人林道春の後序あり、すなわち鏤版の歳である。編中に載する所は安徳天皇治承四年庚子に始まり、亀山院天皇文永三年七月に訖り、凡そ八十有七年である」と考証している。(19)
『吾妻鏡』は蔵書家の需要によって何度か書写されることになり、その写本のひとつを目にした翁広平という田舎学者は、それに刺激をうけ、七年間かけて一八一四年に『吾妻鏡補』を完成させた。この中国人の手による最初の日本通史とされる書物を執筆するために、翁広平は『吾妻鏡』をはじめ、三十六種類もの日本書籍を参考にしている。(18)
清朝の大儒として周辺諸国にもその名を馳せる??は、一八八二年に岸田吟香の要請に応じて、『東瀛詩選』を編纂したが、彼が参考にしていた日本の漢詩集はなんと一七〇種類の多きにのぼっている。外国の書籍をこれだけ多く博覧するのは、現代の学者にしてもおそらくまれであろう。
また、この時期に伝来された日本の漢籍の多くは、各種の叢書類に収録されるようになった。たとえば、王錫祺編纂の『小方壺輿地叢鈔』には、日本人の歴史地理書が二九冊ほど採録されている。
5評価の基準
中国に持ちこまれた日本の書籍は、とくに明治以前の場合において、ほとんど漢文による著述であり、形式からすれば、中国漢籍の亜流に属するものと見なされる。また内容にしては、仏教と儒教とに偏っており、詩集・文集・医書などに至っても、どれひとつ中国の学問の系統を受けついでいないものはない。
したがって、中国人がこれらの書物を読むときに、強烈な異文化体験を獲得することはきわめて少なく、それらへの評価も多少なりとも割り引いて聞かなければならない。ここでは、中国人の評価を大きく「学問姿勢への評価」と「学問内容への評価」にわけて考えてみたい。
(1)学問姿勢への評価。
古代中国の帝王たちが朝貢にくる遠方の「夷狄」の文明志向を評価して豊富な賜品を与え、貢物の量と質にこだわないのと同様、中国の名儒や高僧らは、東夷の学子に対して、中国文化を懸命に学ぶ姿勢を高く評価し、その文章の優劣や論旨の可否を真剣に批判しない傾向がみられる。宋代の『宣和画譜』は、日本伝来の絵画について稚拙な点を指摘しながら、「巒陬の夷貊、礼儀の地にあらずして、而して能く絵事に留意すること、また尚ぶべし。抑もまた華夏の文明、もって漸く被わんとあるを見れば、豈またその工の拙きに較らん」と述べている。つまり、出来のよしあしを問わず、外国の人々が中国文明を敬慕していることだけでも評価に値するという。これは絵画についてであるが、こうした海外文化への心情は、日本書籍の評価にも当てはまるものと考えられる。
(2)学問内容への評価。
唐宋から元明にかけては、「学問姿勢への評価」が主流を占めているけれど、まれには本気となって批判する例もある。たとえば、日本に漂着した海商の周世昌が咸平五年(一〇〇二)七年ぶりに帰国し、日本人の唱和詩集を朝廷に献上した。これについて、『宋史』(日本伝)は「詞は甚だ彫刻にして?浅であり、取るべき所はない」と遠慮なく酷評している。
清代になると、日本の漢学水準が著しく高まり、中国の文人はこれまでのような高飛車な態度を取っていられなくなり、もはや真剣勝負の気持ちのほうが強くなってきたのである。したがって、内容や文体などに立ち入った厳しい批判がかえって目立ってくる。
たとえば、『吾妻鏡』について、朱彝尊は「歳・月・日・陰晴を必ず書き、余は将軍・執権の次第及び会射の節を紀す。その文義は鬱?として、また倭訓を傍らに点け、これを繹くこと易しからず」と、史書の体裁や漢文の表現などの不備を指摘し、それにつづく「国の大事はかえってこれを略し、所謂る賢からざる者はその小なるものを識るのみ」も容赦ない。
このようにみてくると、本節で取りあげた中国人による日本書籍への賛辞が、主として後者のような客観的なものではなく、むしろ前者のような主観的な色彩を濃厚に帯びていることを、まず理解しておく必要がある。しかし、主観的な評価とはいえ、そこには日本人の好学精神への共鳴があり、日本に対する中国文人の心象映像がありありと映しだされていると思われる。 
【注釈】
(1)空海の書道について、王勇・上原昭一共編『中日交流史大系・芸術巻』(浙江人民出版社一九九六年版)二六二〜二六五頁を参照。
(2)最澄の入唐事跡について、藤善真澄・王勇共著『天台の流伝−−智から最澄へ−−』(山川出版一九九七年版)二三九〜二五五頁を参照。
(3)安覚の評伝について、張雅秋『従「鶴林玉露」中的一則史料看宋代中日文化交流』(『中日文化論叢−−1996』所収、杭州大学出版社一九九七年版)に詳しい。
(4)「遣唐碁師」については、拙著『唐から見た遣唐使−−大唐帝国の混血児たち−−』(講談社一九九八年版)九六〜一〇四頁を参照。
(5)辻善之助著『海外交通史話』、東亜堂書店一九一七年版、二七頁。
(6)拙論『唐宋時代日本漢籍西漸史考』(王勇編『中日漢籍交流史論』所収、杭州大学出版社一九九二年版)を参照。
(7)『勝鬘経疏義私鈔』の伝来について、拙著『聖徳太子時空超越』(大修館書店一九九四年版)二九九〜三二四に詳しい考証があり、参照されたい。
(8)史料の分析と日本語訳は、大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)二一五〜二一九頁を参照。
(9)この書状は現存しており、詳しくは大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)二二0〜二二五頁を参照。
(10)寛建の入華事跡について、拙著『中日関係史考』(中央編訳出版社一九九五年版)所収『五代日僧寛建一行入華事迹考』を参照。
(11)流布本『往生要集』の巻末に添えられた『源信の大宋国某賓旅に致すの書』。
(12)行辿の書状は『首楞厳院廿五三昧結縁過去帳』に載せられている。
(13)流布本『往生要集』の巻末に添えられた『周文徳返報』。
(14)入宋僧の書籍輸出については、藤善真澄『成尋の齎した彼我の典籍−−日宋文化交流の一齣−−』(『仏教史学研究』23−1)を参照。
(15)『竺仙梵僊語録』。
(16)詳しくは大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)二八0〜二九一頁を参照。
(17)『周易注疏輯正・題辞』(『抱経堂文集』巻七所収)。
(18)『吾妻鏡補』の成立について、大庭脩・王勇共編『日中文化交流史叢書・典籍』(大修館書店一九九六年版)三〇〇〜三〇六頁を参照。
(19)朱彝尊著『曝書亭集』所収。 
第六章 白骨の山 / 日本像の豹変

南宋の景定五年(一二六四)、モンゴルのフビライは首都をカラコルムから大都(今の北京)に移して年号を至元と定め、一二七一年に国号を大元と改め、みずから世祖と称した。一二七九年、さらに江南に落ちのびた南宋の残存勢力をほろぼし、中国全土を統一して元朝の支配を確立した。
元の国号は『易経』の「大なるかな乾元」に基づいたもので、乾元とは天の意味である。秦漢から唐宋に至るまでの王朝は、いずれも封邑や出身の地名から国号を立てているが、大元は天地統一の理想を表わしたものである。
秦漢と隋唐の中国統一と同じように、元朝による中国統一も周辺諸国にその余波を及ぼし、東アジア世界の秩序再編に向けて、各国が中国との連携を強めながら動きだすはずだったが、こうした歴史的なシナリオはついに再現されなかったのである。
その原因としては、以下の三点をあげることができるかもしれない。
まずは、元王朝がモンゴル族によって建てられ、従来の漢民族王朝とは性質を異にしており、周辺諸国は中国との長い連携関係をそのまま継続させるのに疑問と不安をおのずと感じるということである。
または、モンゴル族は遊牧民を主体とし、強大にして精悍な騎兵隊をたよりにして中国を支配下におさめ、さらに全世界を征服しようとする欲望を持っており、つまり漢民族の世界観とは明らかに異なり、武力に訴える外交折衝の傾向がつよく現われているということである。
さらに、日本では武士政権がその頂点に達していることをも見逃せない。中世時代の主役として活躍した武士層は、風雅をたしなみ漢学に憧れる軟弱な貴族層とはちがって、礼節よりも実利を重んじ、外国よりも日本に目を向け、武力による社会秩序を整えていたのである。
以上のような内外情勢の変化によって、中日の接触は従来のそれとは大きく行きちがい、元軍の東征と倭寇の跳梁という最悪の結果を招いてしまった。中国人の視野には、向学心に燃え、君子の振る舞いをみせる日本人の姿がたちまち消え失せ、獰猛なイメージがあらたに浮かびあがってきたのである。 
第一節 日本像の断絶
中国人にとって日本の原像とは、「神仙の郷」や「宝物の島」などの表像を生みだした「東夷観」にほかならない。「東」にまつわる太陽信仰、「夷」にまつわる君子幻想は、すでに第一章で述べられた。
ところが、「東夷」の持つもうひとつの「顔」も、ここで忘れられてはならない。もうひとつの「顔」とは、華夏の文明人に対する東方僻地の野蛮人というマイナスイメージである。
人的往来がきわめてまれだった秦漢時代から、中国人はほとんど想像によって日本像を構築してきたが、唐宋時代になっても選ばれた使者や僧侶にしか接するチャンスはなかった。これらの事情により、唐宋時代までの日本像は、主として東夷観のプラス面を浮き彫りにしたものである。
それにもかかわらず、東夷観のなかに隠されていたマイナスは、ときとして顔をのぞかせることがある。たとえば、『旧唐書』(日本伝)は「その人、入朝する者は、多く矜大にして、実をもって対えず。故に中国これを疑う」と、その誠実さを疑問視している。
また宋代の『癸辛雑識』(続集下、倭人居処)をひもとくと、女子については「体は絶だ臭い」と、男子については「下体に避止する所なく、草をもってその勢(男根)を繋ぐ」と、扇子については「不肖の画をその上に作る」というように、酷評の連発である。
これらのマイナスイメージは、日本像の主流とはならなかった。しかし、元代になると、中日間に直接の戦争が起こり、状況が一変した。従来のプラスイメージ主導の日本像が継承されなくなり、かわってマイナス色に塗られた日本像がくっきりと浮き彫りにされるようになった。ここに、日本像の断絶が現われてきたのである。 
1趙良弼の報告
フビライは遷都して二年のち、すなわち至元三年(一二六六)に、黒的と殷弘らを招諭使として、朝鮮経由で日本に向かわせた。そのとき、フビライが使者にさずけた朝貢勧告の国書は、東大寺尊勝院にその写しが所蔵されている『蒙古国牒状』であり、元初における世祖の日本像を示している。
国書の主旨は、モンゴルの天下領有と高麗の臣服を知らせ、高麗と隣接する日本がふるくから中国と通交していたのに、一回も使者を派遣してこなかったのを責め、「通問結好して、以て相親睦」することを要請し、もし通好しなければ、聖人の四海を一家とする理念にそむき、このような場合は武力行使も避けがたいことを警告したものである。中村栄孝氏は、国書の体裁に言及して、次のごとく述べる。
「その体裁は、書きだしに、『大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず』とあり、とりわけ、結びを『不宣』として、臣としないことを明らかにしてあり、モンゴル人から、字句が丁重で、自制の意が書面にあふれていて、中国には前例がないといわれている。フビライは、中国王朝の継承者として、日本が不臣の朝貢国となり、円満に国交を結ぶことを望んでいたものと察しられる。」(1)
大元帝国は成立するや、中国王朝の継承者として、東アジアに華夷の秩序を回復しようとした。したがって、その日本像は国書にも示されているように、「武力行使云々」の言葉をのぞいて、基本的に唐宋以来のそれを受けついだものである。
至元六年(一二六九)、秘書監の職にあった趙良弼が使者として日本に派遣された。元使のたずさえた国書は「日本は素より礼を知る国と号する」とあり、「親仁善隣」の国交関係の締結を呼びかけている。
「けだし王なる者は内外を区別しないと聞く。高麗と朕とはすでに一家となった。王の国はじつに隣境である。それがゆえに、かつて信使を馳せて好を修めようとしたが、疆場の吏のために抑えられてその意を通じることができなかった。(中略)しかし、日本は素より礼を知る国と号する。王の君臣は、こんなことを決してしないだろう。(中略)ここで、少中大夫秘書監趙良弼に命じて国信使に充て、書を持って往かせる。もし王がわが国に使を発して来れば、親仁善隣を果たし、国の美事となろう。 」
趙良弼一行は「好を日本に通じ、必ずや達するを期せん」(『元史』)という使命を負うて、まず高麗に行き、至元八年(一二七一)九月にようやく太宰府に到達した。趙良弼は使命を果たせないまま、翌年いったん引きあげたものの、ふたたび日本に遣わされた。二度目に渡日した元使は『元史』(日本伝)によれば、「十年六月、趙良弼は復た日本に使し、太宰府に至って還る」とあり、「文永の役」(一二七四)の前年に帰国したことが知られる。
趙良弼は、日本に関する最新情報を元の朝廷にもたらしてきた。『元史』(世祖紀)に、「十年六月戊申、日本に使する趙良弼、太宰府に至って還る。具さに日本の君臣爵号・州郡名数・風俗土宜をもって来て上る」としるされている。『元史』の趙良弼伝に、帰国報告の内容がさらに詳しく述べられている。
「臣は日本に居ること歳余あり、その民俗を視ると、狼勇嗜殺にして、父子の親・上下の礼を知らない。その地は山水多く、耕桑の利はない。その人を得ても、使役することができない。その地を得ても、富を加えることができない。もし舟師を発して海を渡るならば、海風に期なく、禍害を測ることができない。これはすなわち有用の民力をもって無窮の巨壑を填めるようなものである。臣に言わせれば、日本を撃つことは何の利点もない。 」
ここに、現地調査をした元使の日本像がはっきりと現われている。つまり、悪地劣民の日本は「有用の民力」を用いてまで征服するに値しない、といった回避的な日本観がすでに台頭しつつあった。
「礼を知る」日本との「通好」を目的とした元使は、「狼勇嗜殺にして、父子の親・上下の礼を知らない」という日本人像を中国に持ち帰った。日本観の豹変の始まりである。
2蒙古来襲
フビライは「撃つことなかれ」という趙良弼の忠言に耳を貸さず、その翌年の至元十一年(一二七四)に、大軍を発して日本攻略を決行した。いわゆる「文永の役」である。
元朝はその無敵の「モンゴル鉄騎」によって、欧亜二州をまたぐ大帝国を創りあげ、かかる兵威を背景として、日本を招諭しようとした。前後二度の国書のむすびに、自信過剰の念と日本軽視の意をのぞかせている。
すなわち、至元三年(一二六六)の国書は「冀わくは今より以往、通問結好して、もって相親睦せんことを。且つ聖人は四海をもって家となす」といいながらも、「通好しないことは、一家の理に背く。もし兵を用いることともなれば、彼我の望むことではなかろう。王はその利害を考えてくれ」と結んでいる。同じく至元六年(一二六九)の国書にも、前掲文につづいて「もし使者の派遣を猶予し、兵を用いるに至れば、望ましくない事態になりかねない。王はそれをよくよく考えてくれ」とある。
以上のごとく、元朝は日本との通好をせつに望みながらも、つねに強大な軍事力をたよりに、日本を威喝している。また一方では、北上氏によってしだいに強化されつつあった鎌倉幕府は、武力行使をにおわした元の国書を強硬な態度で拒否した。結局、両者の衝突は戦争という最悪な形で、行なわれてしまった。
文永十一年(一二七四)十月、高麗に結集した総勢二万五千六百人の遠征軍が九〇〇隻の船に分乗して日本に向かい、対馬・壱岐を攻略してのち、博多に上陸し、本作戦を展開した。モンゴル軍の集団戦法と鉄砲などの新兵器になやまされた幕府軍が大きな痛手をうけたものの、遠征軍のほうは「大風雨」(『東国通鑑』)に遭って、また「矢尽き」た(『元史』)ので、あっけなく撤回した。これは日本史上にいう「文永の役」の経過である。(2)
フビライは、第一次日本遠征の翌年(一二七五)に、また宣諭使として杜世忠らを派遣して、日本の動静をうかがわせた。しかし元使が日本につくと、主戦派の執権時宗は鎌倉の滝口でこれを切り、「私親を絶し、通問をせぬ」決意を示した。(3)その消息が元に伝わると、日本再征論がにわかに高まった。
その間に、元は南宋をほろぼし、中国全土を掌中におさえたので、東南アジアの秩序再建に目標を転換し、占城・安南・爪哇の遠征と並行して、日本再征の計画を着々と進めていった。
日本の弘安三年(一二八0)の秋、フビライは六年にわたる再征の懸案に決断をくだし、征東元帥府を征収日本中書省(征日本行省・征東行省・日本行省とも略称する)に拡張させて、日本をモンゴルの属領にすることが再征の目的であることを明示している。
弘安四年(一二八一)の正月、蒙古・高麗・漢人(北方人)・蛮子(南方人)の混成軍が動員され、五月から続々と日本へ向かった。遠征軍はその兵力を第一次の約五倍に増強し、惨烈な激戦を予想していた。ところが、閏七月一日の夜から突如として大風雨が荒れくるって、遠征軍の船団はあっけなく沈没し、あるいは破損をうけて戦闘能力を失ってしまった。日本史にいう「弘安の役」である。
『元史』(日本伝)は、「八月、諸将は未だ敵を見ないのに、全師を喪ってもって還る。(中略)十万の衆、還り得たものは三人のみ」と伝えているが、遠征軍の損失実情について『元史』の相威伝に「士卒を喪うこと十の六、七」とあり、また同阿塔海伝に「師を喪うこと十の七、八」とあるのが、もっと真実に近いであろう。
元初の対日観は東アジアの華夷秩序を再建するなかで、島夷の日本を修貢体制に組みこませるのに重点をおいていたが、幕府側の強硬態度にそれを挫かれて、目的達成のため武力行使に走ったのである。征戦失敗の後は、和戦両様の姿勢をかまえながらも、僧侶を使節として派遣するなど柔軟な態度で対日交渉をつづけた。
3回避的な日本観
モンゴルの支配によって、騎馬民族の思想・文化・風俗などが、強制的な面も避けられないが、続々と中原にもたらされてきた。にもかかわらず、中国王朝の正統な継承者と自認するフビライにとって、いかにして高度な宋文化を模倣し、その政策を継続していくかが、最大の課題となっていたにちがいない。このような視点からみれば、日本との直接折衝が行なわれるまで、元王朝の思い描いていた日本像は、そっくり宋朝のそれを受けついだものである。
たとえば、日本を遠征する前に、フビライが使者に携えさせた国書をみると、「冀わくは今より以往、通問結好して、もって相親睦せんことを。且つ聖人は四海をもって家となす」(至元三年)とあり、また「日本は素より礼を知る国と号する」「親仁善隣を果たし、国の美事となろう」(至元六年)とある。さらに、至元三年に高麗王への国書にも、「日本と爾国は近隣と為る。典章政治、嘉するに足るものがある」と賛美している。
フビライの積極的な対日外交は、宋以来の中日貿易の再開に多大な期待を託しているものと思われる。『平家物語』によると、平氏の府中の調度品は「揚州の金・荊州の珠・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝は一つとして闕けることはない」とあるごとく、ほとんど宋物が中心となっている。中国にとって、貿易の利は多大なものであろう。
中村栄孝氏は宋代の貿易重視政策を受けついだ蒙古の動向について、次のように指摘している。
「フビライは、はやくから海上貿易に関心をもったが、一二七六(建治二)年に、南宋の首都臨安を占領すると、さっそく市舶司をたてて貿易商を取り締まり、七八年には、積極的に南海諸国との通交貿易の復活をはかり、翌年、南宋が滅亡すると、外交および財政政策の一環としてその制度を継承した。そうして、八四(弘安七)年からは、貿易を統制して、利潤を政府に集中していった。晩年、九三(永仁元)年には、市舶司を、泉州・上海・?浦・温州・広東・慶元(寧波)の七ヵ所とし、市舶則法二十二ヵ条を定めて、独占的貿易体制を確立した。この前後に、中国と交通するもの二十二ヵ国に達し、中国船も、海上はるかにインド方面まで進出している。やがて、五年後には、?浦・上海両市舶司を慶元に合併した。日本の商船が往来していたのは、前の時代と同じように、この慶元港である。」(4)
ここで、注意すべきなのは、「文永の役」と「弘安の役」のさなかにもかかわらず、両国の間に、公然と商船の往来が絶えず、経済の交流が頻繁に行なわれていたことである。 『元史』から実例をひろってみると、至元十四年(一二七七)条に「日本は商人を遣わし、金を持って来て銅銭を買う。これを許す」とあり、至元十五年(一二七八)条に「沿海の官司に詔諭し、日本国人の市舶を通じさせる」とみえ、至元十六年(一二七九)条に「日本の商船四艘、?師二千余人が慶元の港口に至る。哈刺歹、牒してその他の目的がないのを知り、行省に言って交易させて帰国させる」とある。
このようにみてくると、元の対日政策は宋の積極貿易とほとんど変わるところはなかった。この意味で、元の日本遠征も単なる軍事征服ではなく、海外貿易を考慮にいれての行動であるかもしれない。第二次の日本遠征軍の出発に際して、フビライが「人の家国を取るには、百姓・土地を得んことを欲する」(『元史』日本伝)と「漢人の言」を引用して諸将を戒めたことは、遠征の本音を吐いているとみてよかろう。
前述のように、太宰府に一年あまり滞在して「文永の役」の前年に帰国した趙良弼は「その民俗を視ると、狼勇嗜殺にして、父子の親・上下の礼を知らない。その地は山水多く、耕桑の利はない。その人を得ても、使役することができない。その地を得ても、富を加えることができない」と報告し、日本遠征の利なきことを主張した。
日本遠征にこうした消極的な態度をしめしたのは、ひとり趙良弼にとどまらず、他の廷臣諸将のうちにもみられる。たとえば、『元史』(巻一六0)の王磐伝に「日本小夷、海道は険しくて遠い。これに勝っても、すなわち武功とはならない。もし勝たなければ、すなわち威厳を損ずる」とみえ、また同巻一六八の劉宣伝によれば、劉宣は日本三征のうわさを聞くと、占城・交趾征討の功過を論じてのち、次のように主張している。
「いわんや日本は海洋万里にして彊土濶遠であり、二国の比にならない。今次の出師は、衆を動かして険を履み、たとえ順風を得て彼岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない。万の一に戦闘が不利となれば、救兵を発すると思っても、ただちに海を飛渡することはできない。」
元初の日本重視の政策が主として経済的な理由によったものだとすれば、二回もの遠征失敗によって、日本への関心がだんだんと薄くなり、そこから回避的な日本観が生まれてきたと推論することができよう。
秦漢から唐宋にかけて、日本像のパターンが「神仙の郷」「宝物の島」「器用な民」「礼儀の邦」「好学の士」とあるが、それらは重なり、互いに包容しあう関係にあるわけである。たとえば、「神仙の郷」から「礼儀の邦」、「宝物の島」から「器用な民」への継承がはっきり見てとれる。また、「好学の士」は「礼儀の邦」を肉づけていることも明らかである。
ところが、元代の日本像は、従来より絡みあっていた日本の群像とは明確に一線を画し、伝統的な日本像の断絶を意味するものとなったのである。 
第二節 孤遠の島夷
日本遠征の失敗は、元王朝の命取りのみならず、鎌倉幕府の滅亡をも早めさせた。幕府の弱化と御家人の窮乏によって、地方に勢力をはった有力守護が台頭し、貧困におちいった浪人武士が既存体制から逸して横行した。そのなかから、九州や瀬戸内海沿岸の武士・漁民・商人らを主体とした武装貿易商団が生まれ、武力を背景に朝鮮や中国の海岸へ頻繁に出かけた。いわゆる「倭寇」のおこりである。
また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。
一三六八年、明王朝が立ってモンゴル族の支配に終止符を打った。従来どおりの東アジア秩序を回復させようと、日本にも修好の使節を遣わしたけれど、元代以来の内外情勢がすでに大きく変わり、明王朝の復旧計画はあっけなく失敗に終わった。
その後、倭寇といわれる日本の海賊がしだいに猛威をふるい、中国の東南沿岸を荒らしつづけた。明王朝は再三の要請にもかかわらず、倭寇の跳梁を徹底的に取り締まってくれなかった日本に愛想を尽くしてしまい、日本を「不征国」のリストに加えて、断交を宣言するに至ったのである。 
1軌道修正
『元史』(巻十四、世祖紀)の至元二十三年(一二八六)条に、フビライ自身が「日本は孤遠の島夷」といったように、遠征の失敗を転機として日本との心理的距離がしだいにひろがりつつあった。つまり、地理の遠隔・渡海の危険・国土の貧乏・人民の卑劣などを理由に、日本から視線を外らそうとする意図が明らかに見てとれるのであった。
フビライの治世に、ときに日本用兵の建議もあったが、いずれも実施に移されることはなかった。しかし、フビライは日本招諭の宿願をついに諦められず、至元二十一年(一二八四)参政の王積翁と補陀禅寺住持の如智を遣わし、従来と違った口吻で、日本の来朝をうながした。元使のたずさえた『宣諭日本国詔文』は中国側の文献にはみられないが、日本の『善隣国宝記』巻上にひかれている。
「天命を受けた皇帝、聖旨を発して日本国王に諭す。むかし、彼国はよく遣使して入覯する。朕はまた使を遣わしてこれに相報する。すでに約束を交わしており、汝の心にそれを置き忘れていないだろう。このころ、彼国は信使を執って返さないため、朕は舟師を発して咎めさせた。古えは兵を交わして、使者はその間を往来する。彼国は一語も交わさずして、固く王師を拒む。したがって彼国はすでに敵国となり、さらに遣使するべきではないが、ここに補陀禅寺の長老如智らが陳奏し、『もしまた舟師を興して討伐すれば、多くの生霊が被害を受ける。彼国のなかにも仏教の感化があり、大小強弱の理を知っているはずだ。臣らは聖旨の宣諭を齎奉し、必ずや多くの生霊を救う。彼国はまさに自省し、懇心して皈附するだろう』という。奏請を許して、今長老如智と提挙王君治を遣わし、詔を奉じて彼国に往かせる。善なるものは和好のほかになく、悪なるものは戦争のほかにない。果たしてこれを思慮して帰順すれば、すなわち去使とともに来朝するべし。したがって彼者に諭し、朕はその福禍の変、天命に任せる。ここに詔示し、わが意をすべて汲み取ってくれ。」
右の国書には元初以来の日本観と著しく異なる点がいくつかみられる。まずは、「興師致討」や「多害生霊」のような武力行使の方針をやめて、「和好之外、無餘善焉」「戦争之外、無餘悪焉」といった無条件の修好を表明したこと。次は、日本を「仏教の感化があり」「大小強弱の理を知」る国と認め、自主的な来朝をうながしたこと。または仏教尊重の日本国情にあわせて、はじめて僧侶を使者に起用したこと。このように、遠征失敗後の日本観の転換は明らかなものである。
フビライ(世祖)についで即位した成宗は、右のような新しい対日政策をさらに継続させ、日本征服の方針を徹底的に放棄した。大徳二年(一二九八)に也速答児が日本用兵を建議したとき、成宗は「今はその時にあらず」と不賛成の態度をはっきりと示した。その翌年に、成宗は如智と同じく補陀禅寺の高僧であった一山一寧を日本に遣わし、詔書には次のような言葉が述べられている。
「先ごろ、世祖皇帝はかつて補陀の禅僧如智および王積翁らを遣わし、ふたたび璽書を奉じて日本に通好させる。みな中途に阻まれて還る。ここに朕が即位してからは、諸国を綏懐し、それを海の内外に広げて遐遺するところはない。日本との好みもまた遣問すべく(中略)道行もとより高い補陀の寧一山を遣わして諭し、商船に附して行き、きっと使命を達成してくるとの請があり、朕はこれを許し、先帝の遺意を成さんと欲する。惇好息民の事に至っては、王はそれをよくよく考えてくれ。」
成宗が補陀山(普陀山)の禅僧を使者として遣わしたことはいうまでもなく、フビライの故智にならったもので、「惇好息民」の遣使目的も「先帝の遺意」を遂行するためである。
石原道博氏は、元初のフビライの日本観と成宗の日本観の相違をするどく洞察し、「成宗の詔と、さきの世祖の詔『蒙古国牒状』とをくらべてみると、蒙古の日本にたいする態度は、内容はもとより文の全体からうける感じからいっても雲泥の相違である」と指摘している。(5)
上述のごとく、二回の日本遠征を境目にして、元朝の日本観は大きく変わったことがうかがわれる。一方、モンゴル族の支配下にあった漢民族の日本観はまた別な形で変化しつつあった。これについての考察は、紙幅の制限上、他日に期したい。
2海防の強化
元の日本遠征が失敗に終わってから、日本商船の武装化の傾向がいっそう顕著となり、元王朝はそれをつよく警戒し、沿岸都市の安全をはかって市舶制度の軌道修正を余儀なくされた。
たとえば、至元二十九年(一二九二)には、日本の商船が四明(今の寧波)に至り、貿易を求めたが、役人の検査で「舟中に甲仗みな具」えていたことが発覚した。略奪などの「異図」に備えて、元は都元帥府を設置して海防を固めさせた。(6)
また大徳七年(一三0三)には、江南沿岸にしばしば出没する日本船の警備として、千戸所を定海に設けて海防を強化させるとともに、市舶司を廃して禁海令を発布した。(7) 十四世紀初頭のおよそ二十年間、沿岸商人の密貿易がにわかに台頭しはじめ、日本船の海賊行為も目立ってきたため、市舶司の置廃がしきりに繰り返された。以下、『元史』巻九十四・食貨志から市舶廃立の記事を抜き出してみる。
[成宗]大徳元年(一二九七)行泉府司を廃止する。
大徳二年(一二九八)?浦と上海の市舶司を慶元市舶提挙司に合併する。
大徳七年(一三0三)商人の下海を禁じ、市舶司を廃止する。
[武宗]至大元年(一三0八)泉府院を復活させ、市舶司のことを整治する。
至大二年(一三0九)行泉府院を廃止する。市舶提挙司を行省に編入する。
至大四年(一三一一)また市舶司を廃止する。
[仁宗]延祐元年(一三一四)市舶提挙司を復活させる。商人の海外渡航を禁じる。
延祐七年(一三二0)また提挙司を併合する。
[英宗]至治二年(一三二二)泉州・慶元・広東三処の提挙司を復活させ、市舶の禁を厳しく監督する。
このように、元朝は日本商船の武装化および遠征失敗後の日本の復讐を恐れて、初期の中日貿易奨励方針から、しだいに消極的な閉関主義にかわり、日本との通交を回避する方向をたどった。
3白骨の山
日本遠征の惨敗は、これまでの「弱倭」のイメージを一掃し、凶悪残忍な日本人像を生みだした。こうしたイメージ転換は、元王朝に海防政策の軌道修正を迫るのみならず、中国人の日本像をも塗り替えさせることになった。
南宋遺臣の鄭思肖は、「夷狄」のモンゴルをうらみ、『元賊謀取日本二絶』に日本遠征の失敗をひそかに喜んでいたが、この詩にも「倭中の風土は素より蛮頑なり」といっている。鄭思肖はまた『元韃攻日本敗北歌』をつくり、その詩序に元軍の日本襲撃の様子を次のように伝えている。
「辛巳六月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩七千隻、七月半ばごろ倭国の白骨山に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃軍は半ば海に没し、舩はわずか四百餘隻のみ廻る。二十万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。また枯髏山ともいう。」(8)
「唐の東征軍士」云々は何をさしたものか、詳らかではないが、六六〇隻あまりの軍艦が海底に沈没し、二十万人の兵士が白骨山(枯髏山)に骨を埋めたことは、恐怖をそそり地獄そのものを想像させる。古代の中国人が東海のかなたに憧憬しつづけた「神仙の郷」および「宝物の島」は、いつのまにか恐怖の対象とされる「白骨山」や「枯髏山」に変わってしまった。
『元韃攻日本敗北歌』は、日本人の性状についても言及している。それをみると、秦漢時代の柔順な東夷像または唐宋時代の礼儀正しい風雅な君子像に取ってかわり、戦闘的かつ凶暴な倭人の男女像がありありと描かれている。
「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。幼いころ犀角を取って小珠をえぐって額の上に埋めこみ、水を善くして溺れない。倭刀はきわめてするどい。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし。」
このように、元代の中国人にとって、日本はもはや異質な空間となり、倭人はすでに避けるべき凶敵に化してしまったのである。元の文人呉莱は『論倭』を著わし、「人は我が嗜欲に同じからず」「地は我が疆土に接せず」といった「小小の倭奴」を撃破してもなんの利益もないことを力説ている。こうした回避的な態度は、元朝後期の代表的な日本観といえよう。 
第三節 元代の倭寇像
鎌倉末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸をしばしば武力で荒らしていた日本の海賊的集団は、被害者の立場から「倭寇」と呼ばれていた。『高麗史』忠定王二年(一三五〇)の記事に「倭寇の侵すこと、これに始まる」とあるのを倭寇観形成の指標とする意見もあるが、この言葉じたいが成語として成立したのは、はやくも『高麗史』忠烈王四年(一二七八)条に記録されたフビライと忠烈王との問答にさかのぼれる。したがって、東アジアにおける倭寇像はすでに元代に萌芽していたわけである。
元軍による二度目の日本侵攻(一二八一)が惨敗に終わって約十年後、日本の武装商船が中国沿岸に姿を現わすようになり、元王朝の神経をとがらせた。(9)元王朝の心配はどうも余計なものではなかったらしく、果たして武宗の至大二年(一三0九)正月に、日本の武装商人が明州城内に乱入して放火するという事件が起こったのである。
『明州繋年録』に収められる『道園集』によると、日本の商人たちは「齎す所の硫黄などの薬を持って、城中を火やす。官府・故家・民居」がほとんど焼き払われてしまったという。
右の寧波焚焼事件が元の朝野に大きなショックを与えたことは、『元史』(巻九十九、兵志、鎮戌)の至大四年(一三一一)十月条に江浙省の海防強化要請に対する元朝の対応ぶりをみてもわかる。
「慶元と日本は相接し、且つ倭商のために焚き毀される。宜しく請う所の如くし、その餘の軍馬遷調はこと機務に関わり、別に議して行なうべし。」
すなわち、軍隊の配置はやすやすと変えるものではないが、倭商の暴行にそなえて、江南一帯の海防要衝に駐屯軍の調整を至急行なったわけである。元朝の日本商船への警戒心はとても深く、『元史』(巻一八四)の王克敬伝に
「延祐四年(一三一七)、四明に往って、倭人の互市(交易)を監する。これより先に、往って監する者は外夷の情の測られないのを懼れて、必ず厳兵して自衛し、大敵を待つがごとし。」
とある。日本の商人を「大敵」と見なされ、地方官は「厳兵して自衛し」ながら、日本商人らの貿易活動を監視していたようだ。このように、武装商人らの暴虐行為によって、唐宋以来の友好的な日本人像はみごとに吹っ飛ばされ、凶悪的な海賊イメージがそれに取ってかわり展開してくる。
唐宋以来の中日友好ムードにうつつを抜かしていた文人らは、夢から目を覚ましたばかりかのように、日本人像の豹変ぶりに驚愕と憤慨の気持ちを隠せなかった。文章をもって世に知られる呉莱は、漢魏時代より中国に通好していた倭人は弱くて制しやすかったが、今の倭寇はそれと異なり、「艨艟数千、戈矛剣戟」を装備した強敵なのだと述べ、「険を恃んで兵を弄する」無礼な倭奴を「誅首すべし」と激論した。
今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは至めて弱いと雖も、なお敢えて中  国の兵を拒まんとする。いわや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当  たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中  略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔?  して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を  弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益すること  はなく、またその人を掠しても兵を強めることはない。(10)
元代の中国人が持っている倭寇像とは、どんなものだったのか。明代ほど豊富な文献資料はないが、『隣交徴書』に収められた二首の漢詩に、おおよその様子をイメージすることができよう。
元・黄鎮成 『島夷行』
島夷は出没して飛ぶが隼の如く、右手に刀を持って左に盾を持つ。
大きな舶と軽き艘は海上を行き、華人未だ見ざるに心は先に隕つ。
「華人未だ見ざるに心は先に隕つ」とあるのは、両手に刀と盾をひるがえして海島に出没する海賊への恐怖のほどを示している。
元・王乙 『海寇』
日本の狂奴は浙東を乱して、将軍変を聴いて気虹の如し。
沙頭に陣を列して烽煙暗く、夜半に?兵して海水も紅し。
篳?歌を按じて落月を吹き、髑髏酒を盛って清風を飲む。
何時か南山の竹を截り尽し、当年殺賊の功を細く写かん。
倭寇に対する憎悪と憤怒は、敵の頭骸骨を器に凱旋の酒をあおるという詩的表現に集約されているように思われる。遠征の失敗から倭寇の来襲にいたるまでの間、唐宋以来の友好的な感情が急速に失われ、日本への畏悪観がしだいに増大し、しかも支配層から市民層へとひろがりつつあった。 
【註釈】
(1)中村栄孝『十三・四世紀の東亜情勢とモンゴルの襲来』(『岩波講座日本歴史6』所収、二十九頁)。
(2)遠征軍撤回の原因について、諸説あって定まらないが、『元史』(日本伝)は「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」とあり、『勘仲記』には「俄かに逆風吹き来たり、本国に吹き帰す」とみえる。
(3)『関東評定衆伝』建治元年の条を参照。
(4)中村栄孝『十三・四世紀の東亜情勢とモンゴルの襲来』(『岩波講座日本歴史6』所収、四三頁)。
(5)石原道博「中国における畏悪的日本観の形成−−元代の日本観−−」(『茨城大学理学部紀要(人文科学)』第三号、一九五三年)。
(6)『元史』(巻十七、世祖紀)至元二十九年十月条に「日本の舟は、四明に至って互市を求める。舟中に甲仗みな具えている。その異図を恐れ、詔して都元帥府を立たせる。哈刺帯をしてこれを将させ、もって海道を防ぐ」とある。
(7)『元史』によれば、大徳八年(一三0四)夏四月丙戌の条に「千戸所を置き、定海を戍り、もって歳至の倭船を防ぐ」とある。
(8)「辛巳」(一二八一年)は『元韃攻日本敗北歌』の原文に辛卯とあるが、誤りである。
(9)注(6)を参照。
(10)呉莱『論倭』(『隣交徴書』二篇巻一所収)。
(11)『隣交徴書』(二篇巻二)に「飛準」とあるが、私意で「飛隼」に直した。
(12)『隣交徴書』(二篇巻二)は第七行を「何時截南山竹」としているが、文意で「尽」を補った。 
 
第七章 海彼の寇 / 海賊から妖怪へ

一三六八年、庶民から身を起こした朱元璋(明の太祖)は元朝をほろぼし、中国の支配権を約八十年ぶりに漢民族の手に奪還した。太祖は即位するや、東アジアの華夷秩序を回復しようとして、はやくも周辺諸国に使者を派遣し、王朝交替の情報を天下に知らせ、朝貢関係の確認を要請した。
ところが、元帝国の崩壊期に、海防がゆるみ、沿岸地帯に行なわれた密貿易への統制力が著しく弱化してしまった。そのため、方国珍や張士誠らの軍事集団が海上を横行し、ときには倭寇と呼応して山東や江浙の沿岸都市を荒らしまくった。
こういう反体制の勢力がまもなく粛正されてからも、倭寇の跳梁はちっとも収まらず、その勢いが日増しに強められる傾向さえある。したがって、倭寇の問題は東アジアに君臨しようとする明帝国にとって、最大の陰患のひとつであり、対日政策の争点ともなった。
これまでに中国人が目にしてきた日本人といえば、使節と僧侶ばかりであった。モンゴル軍の東征前後から、日本人の残忍さが噂されるようになったものの、こうしたイメージを一般の庶民に鮮烈に印象づけたのは、ほかならぬ倭寇の来襲なのである。
中国の正史のなかでも、『明史』の日本伝は異例な長文である。文中にはさまざまな日本人が登場してくるが、もっとも読者の印象に残るのは、この結びの一文であろう。
明が終わるまでの世、倭に通ずるの禁は甚だ厳しい。閭巷の小民は、倭を指して相  詈罵るに至る。甚だしきはこれをもって小児女を噤ませるという。
つまり「お前は倭人だ」というだけで相手をひどく侮辱することになり、「倭人が来るぞ」と脅すと、泣いていた子供が恐れてすぐにおとなしくなるという。
この一例で、倭寇への憎悪と恐怖とがどれほど民間にしみ込んでいるかを推し量ることができよう。そして、こうした凶悪な倭寇像が、明代の日本像に大きな影を落としていることは多言を要すまい。 
第一節 不征の国
元明交替という歴史的な事件は、またもや東アジア世界に大きな波紋を投げかけることになった。とくに、中国の支配権がモンゴル族の手から漢民族の手に渡され、政権の継承というより断絶の面が強いため、これまで元王朝とさまざまな関係にあった周辺諸国は、あらためて中国との関係を調整せざるをえなくなった。
モンゴル軍の日本侵略に加担した高麗は、切り替えがはやく、すみやかに明王朝との関係樹立に乗りだした。それとは対照的に、元王朝の正当性を頑固として認めず、徹底抗戦を最後まで貫いた日本は、国内の南北紛争に余念なく、こうした国際情勢の激変にうまく対応できなかった。
つまり、対元関係のギクシャクをそのまま対明関係に持ちこんで、明王朝の関係修復の熱望に応えなかったのである。一方の明王朝も、日本の国内情勢をほとんど把握しておらず、征西将軍の懐良(中国史料では「良懐」と書く)親王を「日本国王」と誤認して無駄な交渉をつづけていた。
このような行きちがいによって、初代皇帝の太祖はずっと期待していた日本の朝貢と倭寇の取り締まりをついにあきらめ、日本との断交を言い残してこの世を去ったのである。 
1日本招諭
『明史』(日本伝)に「明が興り、高皇帝が即位する。方国珍・張士誠、相継いで誅服される。諸豪は亡命し、往々にして島人を糾めて、山東浜海の州県を入寇する」とある。ここの「島人」とは、おそらく倭寇のことをさしているであろう。
というのは、洪武二年(一三六九)に明使の楊載が日本にもたらした『日本国王に賜わるの璽書』をみると、山東をあらした倭寇の取締りをつよく要求しているからである。
「上帝は生を好み、不仁の者を悪む。この前、わが中国は趙宋の失馭してより、北夷が入って国家を占める。胡俗を播げて中土を汚し、華風は振るわない。(中略)辛卯より以来、中原は擾々として、倭がやって来て山東を寇する。これは胡元の衰えに乗じたに過ぎない。朕はもと中国の旧家にして、前王の辱を恥じ、師を興し旅を振るって胡番を掃蕩し、宵衣?食して二十年垂る。去歳より以来、北夷を殄絶し、中国を主る。ただ四夷には未だ知らせていない。この間、山東が来奏し、倭兵いくども海辺を寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷するという。ゆえに書を修してとくに正統の事を報じ、兼ねて倭兵越海のよしを諭す。詔書の至る日に、もし臣服すれば表を奉じて来庭し、臣服しなければ兵を修して自ら固め、永らく境土を安じ、天休に応じるべし。もし必ず寇賊を為せば、朕はまさに舟師を命じて諸島に帆を揚げ、その徒を捕絶し、ただちにその国に抵ってその王を縛る。それは天のかわりに不仁の者を伐るものである。王はこのことを考えてくれ。」(1)
右の詔書で、太祖はまず「北夷」と目される元をほろぼし、漢民族の正統王朝を創立したことを宣告する。次に「海辺を寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷する」倭寇の暴行をあげ、「奉表来庭」か「修兵自固」かの二者択一をせまる。最後には海賊を放縦すれば、武力をもって日本に攻めこんで倭王を拿捕するぞと威喝した。
時あたかも日本の南北朝時代にあたり、南朝の懐良親王は征西将軍と称して九州一帯を配下におさめていた。『修史為徴』によれば、懐良親王は明帝の威喝をいきどおり、使者五人を殺し、正使の楊載ら二人を抑留したという。
楊載の使日がこうして完敗に終わったにもかかわらず、太祖はその翌年(一三七0)ふたたび莱州府同知の趙秩を正使として日本招諭に遣わした。
そのときの国書は『籌海図編』などにみえるが、対日態度をいっそう強硬させ、倭寇の跳梁に対して「外夷小邦、ゆえに天道に逆らい、自ら安分せず、時に来たって寇擾する。これは必ず神人ともに怒り、天理容れ難い。征討の師は、弦を控えてもって待つ」といっている。
懐良親王はついにこの外圧に屈して、翌洪武四年(一三七一)に僧使祖来を遣わし、明帝に朝貢した。『太祖実録』は同年十月条にかけて「日本国の良懐は、その臣の僧祖来を遣わし、来たって表箋を進り、馬および方物を貢ぐ。ならびに僧九人が来朝する。(中略)これに至って、表箋を奉じて臣を称する」と記録している。
日本がようやく臣服し入貢したこと、または倭寇に掠われた明州・台州の男女七十人を送還してきたことは、中国側の望んだ展開となり、明太祖にとっては望外の喜びにちがいない。
しかし、その後の事態は、明王朝の期待を裏切った形で、まったく予想外の展開となり、一瞬にして明日関係を悪化させたのである。
2期待はずれ
洪武五年(一三七二)、日本使の帰国にともなって、太祖は「その俗は仏を侫るを念ずれば、西方の教をもってこれを誘うべし」(『明史』日本伝)という対日懐柔策として、嘉興天寧寺の祖闡仲猷・金陵瓦官寺の無逸克勤の二僧を使者として随行させた。禅僧の宗?は送詩をつくり、太祖も宗?の詩韻に和して「彼に詣って仏光を放ち、倭民大いに欣喜す」とうたって、明日国交の回復に多大な期待をよせている。(2)
中日関係の暗黒期にいよいよ一筋の光を見いだしてきたかと思ったら、これまでにも増していっそう大きな危機が待ちうけていたのである。
明使らは洪武五年五月二十日に四明(寧波)を出帆し、五月の末ごろ博多に上陸すると、ただちに抑留されてしまった。「王臣詔の徠るを聞き、郊迎して欣喜を挙ぐ」(宗?の送詩)「彼に詣って仏光を放ち、倭民大いに欣喜す」(太祖の送詩)といった明側の期待はみごとに裏切られ、ただの夢想に終わったのである。
この突発事件の背後には、南朝と北朝の勢力消長がふかくかかわっている。すなわち、懐良親王は南朝方の征西将軍として、一時は九州全土を掌中にしたものの、この年の三月から北朝方の九州探題今川了俊より攻撃をかけられ、八月には太宰府以下を失って、高良山に敗退した。
明使の上陸した五月に、九州の政治地図はすでに塗りかえられ、博多はもはや北朝の領地になっていた。そのため、懐良親王の派遣した祖来とともに来朝した明使一行は、自然に南朝の味方と疑われてしまったのである。
このいきさつは、宋濂の『無逸勤公の出使還郷省親を送るの序』(3)に次のごとく述べられている。
「先に、日本王、州を統べるものは六十六ある。良懐はその近属をもって、ひそかにその九を據め、太宰府に都する。ここに至って、その王に逐われて、大いに兵争を興す。無逸らが至るに及んで、良懐すでに出奔し、新たに守土の官を設けている。祖来が中国に師を乞うとの疑いをかけられ、これを拘えて辱めんと欲する。無逸は力争して免れることを得た。しかし、ついに疑惑を釈明することができなかった。」
日本に到着してから百日ほど経った九月一日に、克勤らは日本天台宗の延暦寺座主に書状をおくり、不当の抑留をうったえて、国王との斡旋を要望した。その書状には両国の使者に対する処置があまりにも違うことをあげ、日本の不義をなじった。(4)
「親王がひとり祖来を遣わして中国に入る。尚郎官は醤食を給え、陸には輿馬を備え、水には船楫を具える。京師に至るや、会同に館する。三日に一たびこれを宴し、南北進賀の使はみなその下に列坐する。皇帝は、親ら朝に臨んで引見し、ここまで徠るのを労い、毫髪の疑問もなかった。」
明帝は日本使を「待するに心腹をもってする」のに、明使らは聖福寺に幽閉され、「衣をもって食を貿う」といった囚人同然の虐待をもって報いられたのである。まさに「中国の礼をもって、日本の慢を取る」結末であった。
3朱元璋の日本像
洪武七年(一三七四)五月、祖闡・克勤らは持明天皇の使節とおぼしき宣聞渓・浄業・嘉春などをともなって帰朝した。使者の報告を聞いて、太祖の失望と憤怒は相当なものであったらしい。『太祖実録』(巻九0)洪武七年の条に
「さきに国王良懐は、表を奉じて来貢する。朕は、日本の正君であると信じ、ゆえんに遣使して往ってその意に答える。ところが、使者が彼国に至って、拘留されること二載、今年五月に去船はようやく還る。彼国の事体を備さに報告してくれた。人事から言えば、彼国の君臣は禍いを逃れない。何故かと言うと、幼君が在位しているのに、臣下は国権を擅にする。傲慢無礼にして、骨肉は呑併し、島民は盗を為し、内には良善を損し、外には無辜を掠する。これが禍いを招くよし、天災は免れ難い。」
とある。明の対日政策の主眼は日本政府に働きかけて倭寇を取り締まらせることにあったが、「内には良善を損し、外には無辜を掠する」張本人は「傲慢無礼」な執権者そのものだったことを知らされ、もはや日本との和解の余地はなくなった。
その後、懐良親王や征夷将軍から遣わされた数回の使節団は、「正朔を奉ぜず」「表文なし」「辞意倨慢なり」などの口実で、ことごとく却下された。
洪武十三年(一三八〇)十二月、太祖は日本国王に勅書をくだし、日本のことを「蠢かな東夷」と蔑称し、君臣の非道と四隣への騒擾を非難した。また翌年(一三八一)礼部は勅を奉じて日本の征夷将軍に書状を送りつけ、「自ら強盛なるを誇り、民を縦して盗賊を為させる」と叱咤し、武力をもって「勝負を較べ、是非を見、強弱を弁えよう」と言葉を荒げて威喝する。(5)
右の諸例によって明らかなように、明王朝が最大課題のひとつと位置づけていた倭寇の取り締まりがなかなか進展をみせなかったため、太祖は日本への偏見をますますエスカレートし、「君臣が道義を守らないから国民は盗賊を働くんだ」とその怒りを国王や将軍にぶっちまけて、日本に「海賊国家」のレッテルを貼ったのである。
このように、明の太祖は建国当初、日本との通交に積極的な姿勢をかまえていたが、倭寇の跳梁と対日交渉の失敗によって、態度を一変し、その詩『倭扇行』に日本人を「髪を束ねず、斑模様の衣服を身にまとい、君臣ともども裸足のまま、言葉はまるで蛙の騒音のようだ」という卑俗で滑稽な姿に描き、「国王無道にして民は賊を為し、生霊を擾害して神鬼とも怨む」と嫌悪感をあらわにしている。
太祖はその治世の後期に、宰相の胡惟庸が日本と結託してクーデターを起こそうとするという「林賢事件」が発覚したのにショックをうけ、日本への嫌悪はすでに堪えられない程度に達していたと推察される。
『明史』(日本伝)によると、胡惟庸は皇位を簒奪するため、ひそかに寧波衛の指揮林賢を日本に遣わして傭兵を募らせ、そこで僧侶の如瑶が国王の意をうけて四百人あまりをひきいて、朝貢使と装って入明し、献上用の巨大なロウソクに火薬や刀剣などを忍ばせて太祖を暗殺しようとしたという。
事件発覚後、太祖は胡惟庸を謀反罪に問わせて死刑、林賢には一族の連帯責任を負わせて「族誅」に処させたが、それでも鬱憤を晴らせなかったのか、如瑶らの日本人を僻地の雲南に流させ、日本との往来をも絶つことにした。(6)
『明史』(日本伝)をみると、洪武年間の記事の末尾に「後に祖訓を著わし、不征の国十五を列する。日本与する。これより朝貢至らず、而して海上の警また漸く息む」とある。この太祖の訓章こと「祖訓」は明の対外政策の一般を示すもので、とくに日本に対してのものではないが、『籌海図編』(巻二、倭奴朝貢事略、国朝)に「洪武十六年、詔して日本の貢を絶する」とみえるのは、日本との絶交をはっきり明示している。その割注には「祖訓」を引用して、「その往来を絶する」理由を以下のようにあげている。
「日本は海を隔てて一隅に僻在する。よってその地を得ても供給に足らず、その民を得ても使令に足らない。ゆえに兵を興して伐を致さない。」
明では次代の恵帝になると、日本も足利氏によって南北朝が統一され、室町時代に入る。ここで両国の関係は一時的に回復され、勘合貿易も断続的に行なわれた。しかし、明朝は鎖国体制をいっそう徹底させ、日本もまもなく戦国時代の乱世に突入してしまったので、両国関係を悪化させた倭寇問題はますます深刻化し、唐宋以来の友好関係をついに回復できなかった。 
第二節 仮面と本性
唐宋以来の「至弱」「知礼」の日本人像は、元では「凶悪」や「好戦」にかわり、明では「狡詐」や「残忍」に変質しつつあった。
倭寇の略奪や密貿易を厳しく取り締まり、正常の朝貢貿易を復活させようとする明王朝にとって、もっとも頭を悩ますのは、使節を装った倭寇と海賊行為を繰りかえす使節とを見わけにくいことであった。そのため、日本側に朝貢船の年期・船数・人員などの制限を厳守させ、明人と日本人の接触に目を光らせて監視し、沿海地帯に兵備を充実するようになった。
十六世紀に入ると、明の海禁政策によって商道をうしなった一部の中国人が密貿易に活路を開こうと海賊に化した。嘉靖年間の倭寇は「真倭は十の三、倭に従う者は十の七」(『明史』日本伝)といわれているが、次節にあげられた実例のように、倭寇に誘拐されて無理やりに加わらされた民間人も多かったのであろう。
このように、地理に詳しい中国人の内応をえた倭寇はしばしば内陸部にふかく侵入し、略奪・殺傷・放火などをほしいままにした。たとえば、嘉靖三十三年(一五五四)「紅衣黄蓋」の倭寇はわずか六、七十人に過ぎないのに、「数千里を経行し、殺戳し戦傷する者は四千人」に近いという有様で、その「縦横に往来し、無人の境に入るが如」き跳梁ぶりは中国の朝野を落胆させた。(『明史』日本伝)
日本人といえば凶悪な海賊だというイメージが急速にひろがった時代である。 
1二幅の日本人像
明代の中国人によって絵かれた日本人の肖像画のうち、以下の二幅はあまりにも異なっているので、われわれの目をひく。
『三才図会』に載せられたのは、慈愛の表情が顔にあふれ、両手をあわせてお辞儀している恰好の僧侶図である。『学府全編』に収められたのは、半裸に裸足、肩に凶器を担ぐという倭寇図である。
この二幅の、同じ日本人とは思われぬほど風格のまったく異なった肖像画を目の当たりにしながら、われわれは、明代中国人の脳裏に植えつけられた日本人像は前者なのか後者なのかと困惑するばかりである。
それもそのはず、『三才図会』の日本人像は、外交使節に起用された禅僧をモデルに描いており、『学府全編』の日本人像は略奪を生計とする倭寇の姿である。ただし、この二幅の肖像画はまったく無関係ではなく、同一人物にみられるふたつの側面をありありと映しだしているかもしれない。
つまり、二幅の肖像画をつなぎあわせると、「半ば商人半ば海賊」または「ときに朝貢し、ときに略奪する」という日本人の実像がみえてくるのではないか。こうした日本人の二面性について、『明史』(日本伝、正統元年条)は次のように活写している。
「倭の性は黠い。時に方物と戎器を載せて海浜に出没する。隙を得れば、則ちその戎器を張げて、而して侵掠を肆にする。もし隙がなければ、則ちその方物を陳べて、而して朝貢と称する。東南の海浜は、これを患う。」
日本の海賊はときたま朝貢を名目にして平和的な貿易活動を行なっていたことはよく知られることだが、日本の公式使節団にもしばしば海賊的な行為があった事実は案外と明らかにされていない。海賊と朝貢の関係については、王樵の指摘するとおり、「貢はその名、市はその実」で海防の隙間をみては寇を働くというものらしい。(7)事実上、遣明使らが海賊を思わせるような悪行は多く報告されている。ここで、三例だけを年代順に紹介しておく。
(1)景泰四年(一四五三)の遣明使が、臨清という町を通りかかったとき、住民の物品を掠めたとして、治安官(指揮)は現場に駆けつけて加害者をなじったら、かえって暴力をくわえられ、あやうく死ぬところだった。この事件は『明史』(日本伝)に記されており、信憑性がなかり高いと思われる。
(2)成化四年(一四六八)、遣明使の天與清啓ら一行は市民との貿易トラブルで、暴力をふるって相手を殴り死なせた。事件の処理に当たっていた浙江定海衛副使の王鎧は朝廷への報告書のなかで、「倭夷は奸譎である。時に海辺を掠し、官軍巡捕を見ては乃ち入貢と為し、虚を伺っては辺境を掩襲する」と述べ、使節と倭寇をほぼ同一視している。(8)
(3)永楽二年(一四0四)にはじまった中日間の勘合貿易は十五世紀の後半から、しだいに細川氏と大内氏の二大豪族に独占されるようになった。そして、両氏の対抗は日増しに激化し、ついに嘉靖二年(一五二三)の寧波争貢事件にまで発展した。
その年の四月、正徳の新勘合符を所持していた大内氏の遣明船三隻と、弘治の旧勘合符を携帯してきた細川氏の遣明船一隻は、前後して寧波に到着した。翌月、大内氏の使者宗設と細川氏の使者端佐は互いに自分の正統性を主張して争い、そのあげく武力にうったえてしまった。大内船の者は細川船を焼き、十二人を殺し、また残党を紹興まで追いかけながら、中国の官民をもかってに殺し、最後は明の指揮官を人質に捕えて海上に去ったという。
この争貢事件で、民家を焼き無辜を惨殺する張本人は倭寇ではなく、日本の使者であるだけに、中国官民へ与えたショックはことのほか大きかった。つまり、倭寇への憎悪は日本人全体におよんでいった感がある。事件後、御史熊蘭らが「関を閉じて貢を絶する。中国の威を振って、狡寇の計を寝める」(『明史』日本伝)と進言したのは、ほんの一例にすぎない。
冒頭に紹介した二幅の肖像画にもどるが、中国人の視野には善悪両様の日本人像が浮かびあがってはいるが、どうも慈愛の僧侶はまたたく間に消えうせる虚像のようで、凶悪な海賊こそ定着した実像であるといわざるをえない。
その有力な証拠となるのは、肖像画に書きそえられた解説文である。すなわち、『三才図会』に描かれた僧侶(使者)図と『学府全編』に描かれた海賊(倭寇)図とはそれぞれ異なってはいるが、それらに用いられた解説文は、まったく同じものである。
「日本国はすなわち倭国である。新羅国の東南の大海にあり、山島に依って居み、九百余里ある。専ら沿海に寇盗して生を為し、中国はこれを倭寇と呼ぶ。」
2残虐な暴徒
日本を「不征の国」と定める「祖訓」とは、ある種の消極的な鎖国政策である。しかし、日本の海賊はこれで行動をつつしむことはなく、正常な貿易ルートを遮断されたため、「商人」や「使節」の仮面をかぶる必要がなくなり、かえって海賊の凶相を赤裸々にして横行するようになった。
明代文献の実録によれば、倭寇の凶暴ぶりと残忍さは目を覆うものがあり、かれらは上陸するや、官舎と民家を焼きはらい、墓地を掘って財宝を盗みとり、成年の男性に逢えば問答無用に殺し、若い女性を見つければ強姦してしまうという。
これは正統四年(一四三九)春に起こった惨事である。浙江省沿岸部から上陸した倭寇らは近くの村に潜入し、放火・殺人・掠奪のあと、生き残った妊婦と嬰児を空き地に集めて、残酷きわまりないゲームを始めた。
かれらは嬰児を竹竿に縛りつけ、熱湯を引っかけてその悲鳴を聞いては楽しんだ。または妊婦を引っぱりだし、その胎児の性別を当ててから、妊婦の腹を割いて確認し、はずれたら酒を飲まされるという有り様である。(9)
このような残虐な暴行は、本国の同胞にくわえられることもある。永楽三年(一四〇五)、足利義持将軍は、遣明使を遣わし、壱岐と対馬の海賊頭目二十人を中国におくらせた。明の成祖朱棣は両国の懸案だった倭寇の取り締まりに転機がみえてきたのを喜び、豪華なプレゼントを賜わり、海賊の処罰を日本側にまかせた。『明史』によれば、遣明使らは海賊の処置に困っていたらしく、寧波まで連れもどしたが、帰国の船に乗る前に「ことごとくその人を甑に置いて、蒸してこれを殺す」とある。
外交をつかさどる行人司の行人だった厳従簡は、萬歴二年(一五七四)に朝廷秘蔵の文書などを生かして『殊域周諮録』を著わし、右の事件についてもっと詳細に書きしるしている。これによれば、遣明使らは寧波につくと、大きな竈を造り、そのうえに銅製の甑を据えつけ、海賊の一人に火を起こさせ、他の一人を甑に入らせるといった方法で、二十人全員を殺したという。
命知らずで残虐な倭寇は、明代の文献では怪しい装束と恐ろしい容貌をしているように描かれている。『靖海紀略』を著わした鄭茂は、嘉慶三三年(一五五四)夏ごろ乍浦を急襲した倭寇を次のように活写している。
周りが静まりかえった夜明けごろ、沖合に泊まっていた倭寇の船から海に飛びこんで泳ぐ人影がかすかにみえる。それらがつぎつぎと海岸に近づいて登ってくると、いきなり法螺を吹き鳴らし、数百人がたちまち集まった。みな禿頭にして青白の交じった斑衣を着ており、手に「弓矢利器」を執って鳥のような言葉を喋っている。倭寇らはみずから乗ってきた船に火をつけて燃やし、背水の陣を敷いて人里めがけて突進していく。
東京大学史料編纂所に現存する『倭寇図巻』は、一六世紀の倭寇を描いた絵画として、もっとも信頼度の高いものとされる。高さ三二センチ、長さ五二二センチの絹本著色の絵巻に、倭寇船の出現・倭寇の上陸・倭寇の集合と攻撃目標の確認・倭寇の略奪と放火・明人の逃亡と避難・明軍と倭寇の水上遭遇戦・明軍大部隊の出動・明軍の勝利という各場面がリアルに描かれている。
画中に描かれた倭寇は、頭を月代に剃りあげ、刀を肩にかつぎ、赤や青の「斑衣」を身にまとい、半裸にして裸足となっており、文献資料の描写とほぼ一致する。
このように描かれた倭寇像は、固定化し類型化してしまうと、そのまま日本人像となり、倭寇は野蛮な日本人であり、残虐な暴徒であるという概念を中国に定着させた。さらに倭寇の暴行から、日本人は生まれつき強盗を好み殺人を嗜むと類推される。
たとえば、葉向高の『四夷考』(日本考)に「俗は盗を喜び、生を軽んじ殺を好む」とあり、薛俊の『日本考略』には「狼子の野心、剽?はその本性である」とみえ、また卜大同も『備倭図記』のなかで「島をもって居と為し、舟をもって馬と為し、刀?を習って抄略するのは、その天性である」と断言して嘆いている。
3狡獪な戦術
倭寇はその凶暴さによって世間を驚かしたのみならず、悪知恵たっぷりの狡さでも有名である。明の謝肇?はその著『五雑俎』のなかで、周辺各国の民族性について、以下のごとく評価をくだしている。
朝鮮人はもっとも礼儀を重んじ、交阯(ベトナム)は肥沃な土地に恵まれる。韃靼人は生まれつき凶悍で、倭奴は人となり狡詰である。琉球の民風は淳朴で、真?はもっとも富饒である。著者はさらに「太祖が日本の朝貢を廃絶させたのは、その狡さを知ったからだ」とつけ加えている。
「倭性狡」というイメージは、明代の日本人像につきまとう重要な側面であり、それを論じる文献は多く、枚挙にいとまがない。たとえば、『劉氏鴻書』(巻六、地理部)に「倭奴は狡詐にして測りがたい」とあり、『日本考略』を著わした薛俊は「叛服は常ならず、詭を用いることは巧みである」とか「その性は多く狙詐狼貪である」とか「倭はもっとも反覆不常で、服したり叛したりして、その詭譎を測れない」と連発する。
『籌海図編』の著者として知られる鄭若曾は、倭寇のイメージを「狡詐残暴の奴だ」という一語で簡単明瞭に表出している。民間人は倭寇の暴行を目の当たりにしてそれを「残暴」と表現し、朝廷は倭寇の取り締まりに妙計なく、それを「狡詐」と感じたのである。
李言恭と?傑の共著による『日本考』に「寇術」の一節があり、倭寇の常用するさまざまな戦術が紹介されている。いくつか挙げてみよう。
(1)胡蝶の陣。明軍と対陣するとき、首領が扇をふるうと、倭寇らは一斉に刀を振りまわし、光の反射で満天を舞う胡蝶のようにみえ、明軍の集中力を攪乱した一瞬に、敵陣に切りこむ。
(2)長蛇の陣。倭寇が集団で移動するとき、百脚旗(蜈蚣を印とした旗か)を先導にして長蛇のような細長い隊列をなして進む。命知らずの武者を前後に配して、攻撃するときに鋭い矛となり、退却するときに堅い盾となる。
(3)小心翼々。倭寇は飲酒や食事をする前には、かならず明人に試食させ、毒を盛られているかどうかを確かめる。行軍中は、待ち伏せを恐れて小街深巷に入らず、投石に備えて城壁に近づかない。
(4)仮をもって真を乱す。捕虜の舌を切って斑衣を着させ、偽物の倭寇をつくりだす。いざ戦況不利となると、本物の倭寇が農夫に扮して田間を耕耘し、あるいは書生を装って都会を遊蕩する。明軍をして、真偽を混同させ、ときに海賊を見のがし、ときに平民誤殺させる。
「狡詐残暴」と悪評される倭寇は、明代の文学作品にもしばしば登場してくる。これらの作品はあたかも鏡のように、一般庶民の持っていた日本人像を映しだしてくれる。
明代のもっとも著名な白話小説家の馮夢龍は、その短編小説『楊八老越国奇逢』に倭寇の題材を取りいれ、ある中国商人が倭寇の捕虜となって日本に連行され、のちに「斑衣禿頭」の「仮倭」にさせられて故郷に侵入し、肉親と対面しても認められず、自宅を通りかかっても入れなかった苦境を乗りこえて、ようやく倭寇から脱出して冤罪を晴らしたという紆余曲折の経歴を描きだしている。 この小説は、官軍を悩ました倭寇の戦術を次のように述べている。
/倭寇は奇襲を得意とし、布陣には変化が多く、法螺が鳴ると、胡蝶の陣となって突撃するかと思ったら、たちまち長蛇の陣に変えて去っていく。頭目が扇をふるうと、兵卒が息を潜めて姿を消したかと思ったら、忽然と刀を振りまわして切りこんでくる。それに、「真倭」と「仮倭」が入り交じっているため、官軍は手も足も出なかったありさまである。 
第三節 妖怪への変化
戦国時代の末期、豊臣秀吉は国内の統一をなしとげると、海外拡張の道を歩みはじめた。文禄元年(一五九二)三月、豊臣秀吉は十六万の大軍を朝鮮に差しむけ、その最終目的は「大明国に直入し、吾が朝の風俗を四百餘州に易す」ことにあった。(10)
日本軍は二か月足らずして、京城・開城・平壌の三都を陥落させた。明の朝廷はこの急報に接するや、危険を感じ、朝鮮に援兵をおくった。七月に、明の援軍は日本軍と接戦してから、慶長三年(一五九八)に至るまでの七年間に、中国は数十万人の戦死者を出し、およそ数百万の戦費を費やした。戦争は豊臣秀吉の病死をもって、幕を降ろしたが、中国・日本・朝鮮の「三敗倶傷」(勝者なし)の結果となった。
豊臣秀吉の朝鮮侵略によって勃発した中日直接の対戦は、「白村江の戦い」(六六三年)(11)以来のもので、国家レベルの大規模な戦争であるだけに、その傷痕がことのほか深く、社会への影響も大きかった。その結果として、個々の倭寇像はしだいに日本という国家像に重ねあわされ、さらに「豊臣秀吉像」に凝縮されるようになったのである。
こうした時代的な背景を反映して、明清時代には関白こと豊臣秀吉を題材とする文学作品が多く生みだされた。これらの作品のなかでは、豊臣秀吉をはじめ倭人らは「狡詐残暴」の倭寇よりも恐ろしい「水鬼」「鮫」「蛟」などの化け物に仕立てられ、朝鮮侵略によって日本のイメージがさらに悪化したこととなった。 
1豊臣秀吉を題材とする作品
豊臣秀吉は、明清時代の小説や戯曲にしばしば「関白」「木秀」「平秀吉」などの名で登場し、「万悪の源」または「群魔の首」として描かれている。
これらの文学作品にもっとも早く着目した漢学者の青木正児は、昭和二年二月号の『黒潮』に『支那戯曲小説中の豊臣秀吉』を公表し、のちにそれを随筆集『江南春』(弘文堂一九四一年版)に収録している。
青木正児は文中で、明代の短編伝奇『斬蛟記』、明代の戯曲『蓮嚢記』、清代の長編小説『野叟曝言』の三点を取りあげ、その概略を述べながら評論をくわえている。著者によれば、倭寇の被害を矢先に被った寧波あたりに、「倭寇が来た、どんど(太鼓の音)と来た、そうら坊やねんねしな」という子守歌が通行しており、昭和初期になっても倭寇への恐怖感がまだふっしゃくされていないという。
ただし、青木正児は豊臣秀吉を「英雄」とみなし、その朝鮮侵略を「壮挙」と讃え、北京まで押しよせんとする野心に「痛快」を感じたところは、いささか軽率さに失し、名家の風格を損ねたといわざるをえない。
その後、もう一人の漢学者の吉川幸次郎は昭和三二年二月号の『世界』に『日中交流史の資料』たる一文を掲載し、青木正児の研究をふまえて、あらたに馮夢龍の『楊八老越国奇逢』を研究リストにくわえた。
中国では、厳紹?はその著『中日古代文学関係史稿』(湖南文芸出版社一九八七年版)に「明清時代以日人豊臣秀吉為題材的小説戯劇」の一節を設けて、青木正児の取りあげた作品三点を、社会背景・思想内容・芸術特徴などの面から分析し、少なからざる新知見を開陳している。
右の三人は、この領域の開拓者として尊重されるべきだが、研究の深さと広さとなると、なおさら多くの課題が残されており、決して満足できるものではない。「広さ」に限っていえば、明代の小説としては『戚南塘剿平倭寇志伝』(作者不詳)、『朝鮮征倭紀略』(蕭応官)、『胡少保平倭記』(銭塘西湖隠叟)など、清代には『水滸後伝』(陳忱)、『金雲翹伝』(青心才人)、『綺楼重夢』(作者不詳)、『緑野仙踪』(李石川)、『雪月梅伝』(陳朗)、『蜃楼外史』(夢花居士)、『玉蟾記』(黄石)などが挙げられる。もし視野を東アジア全域に広げれば、朝鮮の漢文小説『懲録』(柳成竜)、『壬辰録』(作者不詳)、『日本往還録』(黄慎)なども研究対象となりえよう。
さて、これらの小説や戯曲などに、豊臣秀吉はどんな姿で登場してくるのか。青木正児も認めたとおり、それは「猛悪無道の妖精、鬼のような蛮族の酋長」だったのである。ここでは、『野叟曝言』に描かれた豊臣秀吉像を紹介しておこう。ちなみに、この小説では豊臣秀吉は朝鮮侵略とは関係なく、倭寇の頭目として描かれ、その名を「関白木秀」とし、その妻を「寛吉」としている。
小説の主人公たる文素臣は、浙江沿岸を犯した倭寇を打ちやぶって日本にまで追いかけ、関白以下を捕らえて凱旋する。朝貢を約束して赦免された関白は、帰国後に軍備を急ぎ、朝貢を怠りがちである。そこで、朝廷は文容と奚勤を遣わして関白をなじらせる。
ところで、関白は二人の美貌に一目惚れ、ついに淫心を起こし、飲食に薬物を盛りつぶして二人を昏睡させたうえ、侍女らをして風呂場に運んで洗わせる。文容の服を脱ぐと、その羊脂白玉のごとき美肌に驚いた侍女は、さっそく夫人に急報。寛吉は「美男はわがものだ」と怒り、仏眼児と仏手児を遣わして奚勤を奪いとった。関白夫婦はそれぞれ一人の美男を相手にいよいよ淫行を起こそうとしたが、激しい抵抗に遭い、けっきょく文容は自決、奚勤も寛吉を巻き添えにして死ぬ。
父の非業の死を知らされた少年の寤生と長生は、仇討ちのため日本にわたり、夜中に関白の寝殿に忍びこんだところ、惜しくも捕らえられた。関白は少年らの初々しい美貌をみると、またもや欲心燃えるがごとく、その父と同様の手段で雲雨を行なおうとしたが、文容の亡霊が現われて少年らを救う。そのとき、文容の友人たる錦嚢が軍勢を率いて攻めて来、亡霊と力をあわせて関白を虜にして凱旋する。
この物語は、儒教の倫理綱常からみれば、「乱倫」という下劣な品性の持ち主として豊臣秀吉そしてその妻を描き、礼儀知らずで淫らな日本人像を創りだしている。それにしても、豊臣秀吉を人間扱いにしているところは、まだ最悪な日本人像とはいえない。
2『斬蛟記』の豊臣秀吉像
明代の短編伝奇『斬蛟記』は第一人称の口吻で、許真君による蛟斬りの民間伝説を敷衍して、豊臣秀吉の朝鮮侵略の史実を下敷きにしながら、平秀吉に化けた蛟精を退治する紆余曲折を語るという構成になっている。あらすじは以下のようである。
大昔、旌陽の許真君という有名な道士は、人間に害をなした大蛟を斬り殺したとき、そのお腹から出てきた一匹の小蛟を逃がしてしまった。この小蛟はのち日本の紅鹿江なる銀蛟山に住みつき、それから一二〇〇年あまりをへて、無数の物類に危害をくわえ、ついに人間に化けて平秀吉となった。
秀吉は一兵卒から身を起こし、関白を殺してその位を奪い、さらに六六州を征服した。世間はすっかり妖怪の変化に気がつかず、ただその狡智と怪力にひれ伏せるばかり、琉球と朝鮮も畏怖するあまり朝貢を怠らなかった。
万暦二十年(一五九二)四月、平秀吉はいきなり二十万の大軍を発して朝鮮を犯し、たちまち王京・平壌・安辺をあいついで陥れ、いよいよ中国の遼東を攻め、北京を狙おうとした。
朝鮮から急を報じられた朝廷は、宋応昌を経略(総司令官)、私(著者の袁黄)と劉玄子を参謀として救援に馳せるよう命じた。われらが遼陽に至ると、祖師(著者の道教の師)は弟子の程洞真を遣わしてきて、私の出資でガチョウ三六〇〇羽を買わせた。
祖師は黄石公や徐茂公らを率いて海をわたって銀蛟山に到着した。周りを見渡せば、その石は朱のごとく、その水は茶のごとく、禿げ山には草木がなく、崖の下には羽毛が山積み、命あるものは蛟精に食い尽くされたのである。
そこで、ガチョウの群れを紅鹿江に浮かばせ、その争い競うような鳴き声とともに、黄石公がまじないをかけると、環形をなしたガチョウの真ん中から怪物が首をもたげてきた。巨鐘のごとき頭に、赤い髪を覆い、両眼が黄色く光っている。
祖師は時すかさず宝剣を抜きだすやその首を斬り落とした。水面に浮かんできた死体は長さおよそ数千丈、蛇形にして魚鱗あり。これは万暦二十一年(一五九三)正月七日のことだった。
このとき私は義州(中朝国境あたり)にいたが、流れ星が東より飛んで墜ちたのをみて、すぐに関白の死を察知し、官職を棄てて帰京する途中、兄弟子の徐茂公に遇い、祖師が日本から扶桑を過ぎ、大小の琉球をへて八月に帰ることを告げられた。
斬蛟の件は極秘にされ、わが軍の将兵のみならず、倭軍の大将だった行長らさえ真相を知らなかったらしい。しかし、それ以後、倭軍が攻撃して来なくなったのをみれば、関白の死は確かだった。(12)
右は『斬蛟記』の概要である。この小説は、中国民間にひろく流布している蛟精退治の伝説に題材を借りながら、じつは時事問題として緊迫した朝鮮戦場の変化を述べている。
蛟の伝説については、『山海経』の郭璞注に「蛇に似て四脚あり(中略)能く人を呑む」とあり、『十二真君伝』に許真君が美少年に化けて珍宝を盗みとる蛟を退治した物語が述べられており、また明代の『列仙全伝』に小蛟を逃した許真君が「この蛇が一二五〇余年後に民に害を為すとき、吾はふたたび出てこれを誅すべし」という予言がみえ、直接に『斬蛟記』のストーリーとつながっている。
史実については、宋応昌が万暦二十年八月に経略となったこと、作者の袁黄(字は了凡)がその賛画(参謀)に任ぜられたことは、いずれも事実である。ただし、小説の主眼となっている豊臣秀吉の死亡時期(一五九三年正月七日)が一五九八年八月十八日という事実と食いちがい、その間に五年以上もの差があったのは、なぜなのか。
これも著者の根も葉もない「創作」ではなく、小説に豊臣秀吉が死んだとする万暦二十一年(一五九三)ごろ、関白が中毒して死亡したという不確実な情報は、民間でささやかれ、朝廷にまで伝達されたようだ。こうしたデマの流布は、戦場における倭軍の敗退と関係があろうかと思われる。すなわち、同年正月に明軍が平壌を奪還し、四月に倭軍は王京を棄て、七月に議和の話が日本から持ちだされたのである。
小説では、倭軍の退却を関白急死の証拠としているが、戸科給事中の呉応明が万暦二十一年七月に、神宗皇帝への奏状において、次のように報告している。
兵部が沈丙懿をして敵情を調べさせたところ、関白が中毒してすでに死んだとの伝聞が報告された。倭奴が朝鮮を攻めるときはまさしく破竹の勢いだったのに、今はわが師が集まると、たちまち平壌と開成を棄て、王京も守れきれない様子だ。私見によれば、昔より遠征の師が戦わずして退くのは、軍中に疫病が流行っているか、国内に急変が起こったかもしれない。(13)
このように、『斬蛟記』ははなはだ荒唐無稽なストーリーのなかに、当時の国際情勢をなるべく迅速かつ正確に反映させようとする意図のもとで、創作されたと考えられる。いわば表は伝奇小説だが、骨子は時事小説とも見受けられるだけに、そこに描かれた豊臣秀吉像がいかに重くて暗い蔭を中国民衆の心に落としているか推し量れよう。 
【注釈】
(1)『隣交徴書』二篇巻一に収録されている。
(2)宗?の『祖闡・克勤二師の日本に使するを送る』および明太祖の『宗渤の詩韻に和す』は『隣交徴書』(初篇巻二、詩文部)にみえる。
(3)『隣交徴書』(三篇巻一)に収録されている。
(4)克勤「延暦寺座主に致すの書並びに別幅」は『隣交徴書』(三篇巻一)を参照。
(5)『明太祖実録』(巻一三八)洪武十四年(一三八一)七月条。
(6)「林賢事件」の全過程について、文献の記載に食い違いがあり、正確な時間表をまだ提示できない。おおよその経過は以下のとおりである。胡惟庸は洪武十四年(一三八一)処刑されたが、そのとき日本との結託はまだ発覚していなかった。洪武十七年(一三八四)如瑶ら一行が入明したが、暗殺を実行に移さなかったようだ。洪武十九年(一三八六)になって事件がようやく発覚し、林賢と如瑶らはあいついで処刑されたらしい。
(7)王樵著『?李記』(『叢書集成新編』第九七所収)。
(8)『明政統宗』(巻十一)。この本は明・?山の著で、今は写本しか残っていない。
(9)この虐殺事件は『殊域周諮録』、『馭倭録』、『明史紀事本末』など複数の文献に記録されている。
(10)天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉から朝鮮国王へ送られた国書(『続善隣国宝記』所収)。
(11)白村江の戦いをめぐっての唐日関係については、拙著『中日関係史考』第三章「唐人郭務?使日事跡述略」(中央編訳出版社一九九五年一月版)二九〜四三頁を参照。
(12)『斬蛟記』の倭寇題材について、詳しくは拙著『中日関係史考』第十四章「明清戯曲小説中的倭寇題材−−明代短編伝奇『斬蛟記』評述」(中央編訳出版社一九九五年一月版)一九九〜二一四頁を参照。
(13)『明実録・神宗実録』巻二六二。 
第八章 西学の師 / 近代化の手本

一八四〇年、イギリスの軍艦は猛烈な砲撃で、長らく閉ざされていた清王朝の門戸を砕け飛ばし、一連の屈辱の条約を押しつけて中国を半植民地におとしいれた。この事件に象徴されるように、中国の近代史はもっぱら西洋列強の重圧のもとで、しぶしぶと幕開けしたのである。
それから十三年後、泰平の世にうつつを抜かしていた日本も、アメリカの軍艦に脅かされながら、二〇〇年あまりの鎖国政策を放棄して開国を余儀なくされた。しかし、この歴史的な転換点において、中日両国は運命の別れとなったのである。つまり、日本は中国の轍を踏むまいと西洋文物を積極的に取りいれ、封建社会を脱皮して改革に踏みこみ、それを一八六七年の明治維新に結実させたのである。
維新に成功した日本が国力を急速にのばし、東アジア屈指の強国として成長していく姿を、伝統文化の十字架を重苦しそうに背負っていた中国は複雑な心境で眺めていた。やがて一部の先覚者たちがようやく困惑と不安を乗りこえて、日本を近代化の手本として学ぶようになった。
秦漢時代より以来、よき学生として遇してきた日本を、今や「西学の師」と仰ぐようになっていく過程で、中国の日本像が元明時代のそれと同じぐらい大きく変容することになった。しかし、その間に、日本の中国侵略の事情も絡んでおり、決して平穏友好のムードのみではなかったことも念頭におくべきであろう。 
第一節 開国前後
一八五四年、ペリーのひきいる艦隊が江戸幕府を開国させた歴史的な事件は、あらゆる面で、東西文明の激突の一環として理解しなければならない。この意味で、ペリーの艦隊に通訳として乗りあわせ、開国の瞬間を目撃した羅森の日本見聞記は、じつに貴重な記録である。
ただし羅森の日本見聞記はあくまでも例外的なものであり、日本の開国は当初それほど中国から注目されなかったのが事実である。ところが、それ以後、日本が一足さきに開国した中国と異なった道のりを歩みはじめ、西洋列強の植民地に転落することなく、近代化への脱皮をみごとに成功させた明治維新は、中国にとってショッキング的な出来事として、にわかに脚光を浴びるようになった。
明治維新による日本文明の著しい変貌は、東洋文明の宗主国としての中国を戸惑わせ、不安と焦燥のどん底に追いこませた。こうした心情はときとして非難や詰問の形で表わされ、東洋文化の裏切り者という日本像を浮かびあがらせることさえあった。
千余年来、日本から先生として崇められてきたプライドを捨てて、かつての弟子を「西学の師」と仰ぐためには、自信の喪失と未曾有の陣痛を中国はこれから経験しなければならなかったのである。 
1開国を目撃した羅森
一八五三年六月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー将軍は、黒塗りの軍艦四隻をひきいて来航し、高飛車な姿勢で幕府に開国をせまり、大統領の親書を受理させ、再航を約束して引きあげた。
翌年(一八五四)一月、ふたたび来日したペリーは、ついに幕府に日米和親条約(神奈川条約)を結ばせ、日本を開国させるのに成功した。「黒船」のもたらした衝撃の大きかった様子は、次の落首にありありと詠みこまれている。
泰平の ねむりをさます 正喜撰 たった四はいで 夜もねられず。
美酒の正喜撰とは「蒸気船」のかけことばで、ペリーの黒船艦隊を意味する。
当時、アメリカと日本の交渉がオランダ語と中国語とによって執り行なわれていたため、中国人の羅森は漢文の通訳としてペリーの艦隊に随行を誘われたのである。羅森が日本での見聞をつぶさに書きとめた日記(『日本日記』とも『羅森日記』とも書く)は、香港の英華書院から発行された月刊誌『遐邇貫珍』に連載された。
羅森は「我が族類にあらざる」の「夷人」のなかで唯一の「同文対語の人」として、日本人から親近感を持たれていた。したがって、日記には条約交渉の過程や沿途の民風土俗のほか、日本人との個人的な交流のこともわりと詳しく書きしるされている。
幕府の官吏だった平山謙二郎との交遊もそのひとつで、羅森の著わした『南京紀事』と『治安策』を読んだ感想文が日記に引載されている。それによると、平山謙二郎は儒教思想を根拠として、利益ばかりを逐う西洋の「奇術」をしりぞけ、「義」こそ「万国交際の道」と主張し、アメリカ船に乗って世界周遊の便を利用して、孔孟の奥義をもって各国の君主を説得するよう羅森に注文をつけている。
ここから、開国を目前にひかえ、西洋化へのつよい不信感を持っている知識人らの焦燥の心情がうかがわれる。その反面、日本の知識人はもちろん一般庶民にも中国文化への憧憬が根強くあり、羅森の共感を呼んだ。お墓は「中国の明塚と異ならない」とか、人々は「中国の文字詩詞を酷愛する」とか、「女人が布を織るのは中国と異ならない」とか、「食物は多く中国と同じである」とかいった記録は、日記の随所にみられる。
羅森の日記は、実際の見聞に基づいて書かれており、明治維新をきっかけに変貌する前の中国人の日本像を知るうえで、多くの示唆を与えてくれる。ここで、羅森の目に映った日本像の断片を拾って紹介してみよう。
(1)上古の美風。那覇の人々は金銀を求めず、質素な生活をいとなみ、落とし物を拾ったら本人に返し、訴訟はほとんど行なわれない。下田では紙糊の門戸なのに盗賊の弊害がない。函館では「風俗は正を尚び、人民はあまり淫辞を説らず」。羅森は「淳朴の風紀は、ほとんど上古の世に同じである」と感嘆している。ここの「上古の世」とは、『後漢書』(倭伝)に「婦女淫?しない。また俗は盗窃しない。争訟も少ない」と描かれた君子国のイメージを重ねあわせていると思われる。
(2)文武の道。官吏は文・武・芸・身・言の優れたものから選抜されるが、中国のように「詩」を重んじない。孔孟の書籍を愛読する「士」は、みな両刀を携帯しており、文武両道を尊ぶ。中国では、文人と武士は異質なものとみなされ、両者を混同することはほとんどない。したがって、両刀を脇に差して孔孟の道を論じ、詩文の唱和を交わす日本の「士」は羅森の目に異様に映っていたにちがいない。
(3)土産の交換。ペリーが日本の「大君」に火輪車(汽車)・浮浪艇(汽船)・電理機(電話)・日影像(カメラ)・耕農具などを贈り、日本は漆器・磁器・綢?などを返礼として贈った。アメリカから贈られた西洋の「奇器」は日本人を驚かせ、汽車の試運転を見学した人々はみな「その奇を称う」という。西洋文物への濃厚な好奇心が現われている。
(4)男女の風俗。横浜や函館の女性は外人との接触を避けていたが、下田の女性は「羞を避けず」、平気で春画に見入ったり、半裸のまま人前に出たりする女性も多くあり、男性は男性で下半身を露出しても恥ずかしく感じない。羅森はこのような性風俗を驚愕の目で眺め、男女同浴の「洗身屋」を目の当たりにするときは絶句したらしい。
(5)官尊民卑。那覇の百姓は「甚だ官長を畏れる」。下田では男女は人だかりして外人を見物するが、「双刀人が至ると、則ち両旁に走り離れる」。函館の百姓も「卑躬にして、官長を敬畏する」。役人をみると、「人民は粛穆にして、路傍に膝跪く」。
(6)肥人の力自慢。羅森の日記のなかで、もっとも面白いのは、「肥人」についての記録であろう。横浜で、ペリーは林大学頭(鵜殿)の屋敷をおとずれ、「粟米数百包」を贈られた。九十余名の「裸の肥人」はひとつ「二百余斤」の俵を二三個を軽々と持ちあげて海辺にまで運んでくれた。その後、肥人らは屋敷で「角力」してみせ、羅森をして「日本に勇力の人が多い」と感嘆を吐かせた。ここの「肥人」とは、間違いなく相撲選手のことである。アメリカの圧力を前に、幕府は相撲選手の力自慢をもって辛うじて示威しようとしたものとみられる。
羅森の日記を読むかぎり、日本人との交流は友好ムードに覆われていたが、ときに不協和音も生じていたことがわかる。たとえば、明篤という日本の文人は羅森との筆談で「子は乃ち中国の士なれど、なんぞ鴃舌の門に帰せんや」と詰り、孟子の言葉をひいて「喬木」(高尚なところ)から「幽谷」(卑俗なところ)への堕落を嘆いていた。これに対して、羅森は「乗風破浪は平生の願なり、万里遙々は比隣の如し」と抱負を語って応酬した。
このように、香港に居住していた羅森は、親しく欧米人と交わり、開明的な思想に染まっており、保守的な日本の文人官吏とは好対照だったのである。
2衣冠の論争
中国における明治維新への認識は、曲折の道のりをたどったのである。最初に明治維新に反応をしめしたのは、浙江省海寧県の陳其元という人物だったらしい。彼は一八七四年に著わした『日本近事記』(1)で、維新の結果を消極的に受けとめ、むしろ伝統の破壊に遺憾の念を禁じえなかった。
「むかし、日本の国王は姓を改めないこと二千年、国中の七二島は島ごとにそれぞれ主あり、列して諸侯と為す。(中略)美加多の?国より、その前王を廃し、また各島主の権を削る。島主は柄を失って懐疑し、遺民は旧を念じて蓄憤し、常にいったん有事に乗間して?起せんを望む。」
陳其元の日本知識は、道聴塗説のものばかりで、誤解に満ちている。徳川将軍と「美加多(みかど)」を混同し、明治天皇の親政を「?国」と誤解している。また、その保守的な立場から、「島主は柄を失って懐疑し、遺民は旧を念じて蓄憤し」、蜂起の危機が迫っていると空想し、東洋文化の牙城を守るために、日本への派兵まで提案した。
つまり、「勁旅万人」を選んで、まずは長崎をおとしいれ、次に「倭都」に攻めいり、「前王の旧将と故臣遺民」を助けて、「その国の旧制」をことごとく復活させようというものである。
日本の維新による文化の変貌に戸惑いを感じるのは、民間人のみならず、朝廷の重臣もしかりである。『日本近事記』が世に問われた翌年(一八七五)、清朝の直隷総督に北洋大臣を兼ねていた李鴻章は、日本公使の森有礼の訪問をうけて、国際情勢をめぐって意見を交換した。
その席上で、たまたま明治維新が話題となり、とくに衣冠制度をめぐって激しい議論が交わされた。李鴻章は維新そのものについて賛同の意を表明しながら、「ただ旧有の服装を変えて、欧風を模倣することは理解しがたい」と質したところ、森有礼は「伝統の和服はふっくらとしていて、動き回る労働には相応しくない。したがって時代遅れの服装を新式に変えることは、わが国の利益にかなっている」と主張した。
李鴻章はそれでも納得せず、「衣服は先祖の遺志をしのぶものであり、子孫としては永遠にその伝統を受けつぐべきではないか」、「旧服を捨てて欧俗を倣うのは、独立精神を捨てて欧州の支配を受けることだ。日本人として恥ずかしく感じないのか」と詰問を連発する。(2)こうした流動的で消極的な維新観は、かなり長期的に中国人の日本観を左右していた。
右は服装をめぐっての議論ではあるが、李鴻章をその代表とする清朝官吏および文人らの維新観−−懐疑・不満・遺憾・同情といった複雑な心情がはっきり表わされているといえよう。
これらの消極ムードとはちがって、明治維新を肯定的に評価する動きもわずかながらある。たとえば、『東倭考』(3)を著わした金安清は「今の倭王は将軍を駆って自らその権を主る」と王政復古の情報を正しく把握し、明治天皇の改革を戦国時代の趙武霊王の「胡服に易え、騎射を習う」故事にたとえて賛美しているのが、その一例である。 
第二節 維新の国へ
明治三年(一八七〇)、発足まもない新政府はさっそく柳原前光を中国に遣わし、国交樹立の遊説を始めた。その結果、一八七一年に、『中日修好条規』と『中日通商章程』とが結ばれた。その六年後に、中国の初代駐日公使がようやく「維新の国」に足を踏みいれ、遅ればせながら近代化をめざした中国は日本とのあらたな国際関係の締結にむけて、本格的に動きだしたのである。
国交樹立をきっかけとして、中日間の人員往来はこれまでにない活況を呈し、官吏・商人・学者などの日本訪問がにわかに増え、維新後の日本の本当な姿を自分の目で確かめて、それを日記などに書きとめることが多くなった。
大清公使館の設置にともなって官吏の日本視察がにわかに頻繁となったのは、もっぱら明治維新へ関心によるものではなく、明治七年(一八七四)の台湾出兵と同十二年(一八七九)の琉球併合の衝撃で、日本が清王朝を脅かす存在となったことに主要な原因があったと考えられる。
このようないきさつもあって、見る目によっては日本像はさまざまな姿に描かれているが、批判にしても賛美にしても、従来にみられなかった和洋折衷の新しい日本像が、しっかりと中国人の脳裏にふかく刻みこまれたことは確かである。 
1初代公使の日本像
広東出身の何如璋は、一八七六年に駐日副使に任ぜられ、一八七七年に正使に昇格し、同年の十月に副使の張斯桂および参事官の黄遵憲らをともなって日本へ赴任した。在任中に、日ごろの出来事を日記体で書きしるしたのは『使東述略』であり、折にふれて詠んだ詩六七首を一冊にまとめたのは『使東雑詠』(4)である。
『使東述略』の記す範囲は、一八六七年一一月から一八七七年十二月におよんでいる。着任前から書きはじめているため、日本に関する記載は、わずか二ヶ月しかないが、初代公使の記録としては貴重な史料である。
何如璋は維新後の日本をじっさいに考察した最初の清朝官吏であり、彼の目に映った日本は、どんなものだったのだろうか。『使東述略』にはこう書かれている。
「近ごろ欧俗に趨き、上は官府より、下は学校に及んで、あらゆる制度・器物・語言・文字は、ことごとく泰西を式と為す。」
また『使東雑詠』にも「半ば欧西半ば土風なり」と歌われている。このような「欧俗」一辺倒の日本を、何如璋は意外と客観的に観察し、かつ善意にみちた態度で評論していたのである。それを要約すると、おおよそ次のようになる。
ここ二十年来、列強が国境にせまり、開国を余儀なくされる。時勢を憂慮する志士たちは、今の政令はとても国家を固め、外敵を防ぐに足らんと不満に思い、尊皇攘夷を決行した。群衆はそれに呼応して立ちあがり、将軍は狼狽して権威を失墜する。ここで、少数の有能者は時機を得て旧制を変えさせ、封建を廃しては郡県を設置し、数百年の積弊を改めては新制をひろげる。
何如璋はこうした日本の改革を「時事の転移するは、固より自らその会する所あり」「風会の趨く所、固より自主できぬものあらんや」と、主観的に旧制と新制とに優劣をつけずに、ただ時勢の自然な成り行きとして受けとめている。
こうした客観的な立場をとって、何如璋は維新後の「政俗」つまり官制・兵制・学制・財政などを簡略ながら紹介し、西洋的な文物、たとえば汽車・鉄橋・電気報・洋紙・郵便をそれぞれ詩題にして賛美している。
何如璋の目に映ったのは、西洋の文物ばかりではなく、「半ば土風」のなかにふくまれる中国の伝統文化もまた少なくない。『使東雑詠』には、天后宮・徐福墓・聖賢図・唐雅楽などを歌う詩作が収められている。こういう伝統文化が消えつつある現状に、何如璋はしばしば遺憾の念を表わしている。
ところで、副使として赴任した張斯桂は、何如璋のような冷静さを欠き、その詩集『使東詩録』(5)には維新を謳歌する作品は一首すらなく、ほとんどが趣味本位の猟奇的な作品に埋め尽くされている。維新にかかわる作品は数首しかなく、それも嘲笑の口吻で歌われている。
『正朔を改む』では、五五三年から施行してきた「夏暦」を捨てて西暦を用いることで、季節がずれてしまうと風刺し、『服色を易う』では「狗尾を貂に継ぐ」や「沐猿冠を戴く」などの故事をもじって揶揄している。
2黄遵憲の維新観
日本に大清公使館が設けられてから、その随員を主体として、日本研究のグループが徐々に形成された。彼らは大使や副使に比べて、より自由な立場にあり、日本への観察も客観的で、多様多彩なものである。
初代公使の何如璋にしたがって渡日した黄遵憲は、この時期の代表的な日本研究者である。その大著『日本国志』および詩集『日本雑事詩』(6)は、多くの中国人にとって明治初期の日本像を知るうえで、もっとも重要な情報源となった。
日本滞在中から筆を起こし、一八八七年にようやく完成をみた『日本国志』四〇巻は、中国史書の体裁にならって、「中東年表」(中日歴史年表)と一二の「志」(国統志・隣交志・天文志・地理志・職官志・食貨志・兵志・刑法志・学術志・礼俗志・物産志・工芸志)からなり、明治維新を中心に据えながら、日本歴史の全貌を明らかにしようとする野心作である。
『日本国志』の執筆動機には、日本の経験を中国の参照にしようとする意図があったように思われる。作者はその『凡例』で、「今撰録する所は、みな今を詳らかにして古を略し、近を詳らかにして遠を略する。あらゆる西法に牽渉るものは、尤も詳備を加えて、適用するを期する」と執筆の意図をほのめかしている。
光緒八年(一八八二)春、黄遵憲は在日公使館の参事官からアメリカのサンフランシスコ駐在の総領事に抜擢される際、「明治維新の史を草し完れば、吟じて中華以外の天に至る」と海外生活をふりかえって抱負を語っている。
ここの「明治維新の史」とはまぎれなく『日本国志』のことで、「吟じて中華以外の天に至る」とは世間にひろく流布している『日本雑事詩』を指していると思われる。
一五四首の詩作をおさめた『日本雑事詩』は一八七九年に同文館より上梓してから版を重ね、その間に増補削減があり、一八九八年の決定版には二〇〇首の作品を収録している。これらの作品はただ風花雪月を詠むような余興的なものではなく、文明論的な洞察をのぞかせる傑作を多くふくんでいる。
明治維新についての作品は、四〇首ほどあり、全体としては西洋化の趨向を賞賛している。たとえば、自序では維新への批判を押しのけて、その「進歩の速さは、古今万国の未だに有らざるものである」と断言している。また『明治維新』と題する詩に注して、「明治元年に徳川氏を廃して王政始めて復古する。この中興の功は偉大かな」と謳歌している。
詩集の全体的意図は、武安隆氏の指摘したとおり「日本歴史の変遷と、進歩の紹介と、謳歌に置かれ、それを通じて中国の改革と自強へと導きたいという点にあった」と認められる。(7)
右の二書を通じてみられる黄遵憲の維新観を要約すると、積極的に外国の進んだ文明を取りいれること、天皇から庶民まで一致して改革を行なったこと、少人数のリーダシップ(志士)が主役を演じたこと、近代教育が改革の普及に大きな役割を果たしたことなどが挙げられよう。
これまでの日本像は、程度の差こそあれ、「天朝大国」から「?爾島夷」を見下ろしたものにすぎない。しかし、黄遵憲はこれらの偏見をうち捨て、ありのままの日本像を描こうとした。『日本国志』(凡例)では「紀事は実を務め、偏袒しない。せず、皇といい帝といい、また貶損しない」とことわり、固有名称は「みな日本を主とし、別称を用いない」態度を全書に貫いている。ここで、はじめて等身大の日本像が中国人の視野に浮かびあがり、画期的な日本像の転換といえる。
3維新への批判
アジアに突如として現われた「西洋国」日本への評価は、かならずしも賛辞ばかりではなかった。黄遵憲にしても、日本に着任した当初は、ちょうど明治維新初期の混迷期にあたり、維新に不満だった文人と交わり、「微言刺譏、咨嗟嘆息、吾が耳に充溢する」影響で、『日本雑事詩』に維新を懐疑視しそれを風刺する作品さえ交じっている。明治維新への理解を深めていくにつれて、これらの作品をほとんど改訂版から取り外し、あるいは改作している。
ところで、黄遵憲のような維新肯定派もいれば、維新を軽視しまたは非難する人々も少なくはない。たとえば、作者不詳の『日本雑記』(8)は洋服の着用を「東頭西脚、西頭東脚」という滑稽な姿となり、なんと醜いだろうと風刺している。
もう一人「四明浮槎客」と名乗る文人は神戸での見聞を『東洋神戸日本竹枝詞』に詠み、維新を「昨日は米法に変えたばかりなのに、今日はまた急いで大英を奉じ」、まさに「暮れに令して朝に改め、まるで児嬉(子供のいたずら)の如し」と批判し、また「移風移俗は太だ荒唐なり、正朔衣冠の祖制滅びたり」と嘆いていた。(9)
易順鼎という文人は、維新による東洋伝統の破壊に失望のあまり憤りをあらわにし、「冠服を他人に效い、驢は驢にあらず、馬は馬にあらず。紀年は明治と僭称し、実は愈々その淫昏を縦にす」と辛らつな批判をくわえている。(10)
維新否定派の代表者のひとりとして、琉球併合の翌年(一八八〇)に日本をおとずれ、『日本紀遊』と『日本雑記』(11)を著わした官吏出身の李筱圃を紹介してみよう。
李筱圃は同年三月二十六日に三菱商社の汽船「禿格薩約麦羅(高沙丸)」に乗って上海を発ち、同五月十一日に帰国したが、約四〇日間の見聞所感を『日本紀遊』に詳しく書きとめている。作者は教養の高い文人官吏として、各地の博物館や名勝史跡を中心に観覧した。徳川一族の墓地がある増上寺を遊覧したあと、次のように述懐している。
徳川氏は日本の諸侯であり、大将軍と号する。国政を掌ること三百年を歴て、国王はただ虚位を擁するのみ。早年にアメリカが通商を求め、徳川氏は拒否する力なく、ついにこれを受け入れようとしたが、民情は不服し、徳川氏はよって失脚した。国王はこれに乗じて政権を奪い、ならびに藤・橘・源・平の諸侯を廃し、その領地を取りあげて公に帰し、ただ歳俸のみを与え、大権をすべて国に奉還させた。これを「維新の政」という。
「今は遠人(西洋人)を拒絶できないばかりか、極力して西方を模倣する。国は日に日に貧しくなり、徴税はますます苛酷になり、民はまた徳川氏の深仁厚沢を謳い偲ぶようになった。」
このように、李筱圃は幕府を同情し、明治政府には批判的であった。これは単なる西洋化の弊害に対する非難だけではなく、西洋傾倒のあまりアジア隣国を軽視する風習への不満も込めている。東京の教育院を見学し、そこに陳列してある「中国物」を目にしたとき、作者はひどく憤慨した。
「我が中国は連年してアメリカ、フランスの賽奇会(博覧会)に出品し、その品物は西洋人から称賛され」、したがって「他国に冠する工芸珍貴」があるのに、日本はわざと「朽ちたアヘン槍」、「欠けた灰皿」、「破れた提灯」、「錆びた鉄砲」、「ボロボロの九竜袋」だけを選んで、それに「中国物」と標記して展示している。中国をイメージダウンさせようとする「居心」が見えみえで、このような卑劣な「鬼?」とは「邦交」なんか論じる余地があるものかと激怒している。
『日本雑記』は李筱圃の日本知識を網羅した随筆集で、前著とほぼ同じ態度で明治政府を批判している。たとえば、経済の危機と生活の貧困はもっぱら維新のせいにし、断髪に下駄または革靴に髷といったちぐはぐの世相を風刺している。
李筱圃は官吏出身ではあるが、日本視察に出かけるとき、すでに官職をはなれて上海に隠居中だったので、官吏よりも在野文人の日本観像としてみたほうがより妥当であるかもしれない。この意味で、刑部主事の任にあって訪日した顧厚焜の『日本新政考』は、現役官吏の日本観として注目されるべきである。
光緒十三年(一八八七)、顧厚焜は清政府から維新後の「新政」を考察する使命を与えられて訪日し、翌年(一八八八)帰国報告書として『日本新政考』をまとめた。この書は洋務・財用・陸軍・海軍・考工・治法・紀年・爵禄・輿地の九部にわけて新政の現状を記録している。
調査報告書の性格上、記録の部分はかなり客観的で詳細にわたっているのに、議論の部分となると、作者の主観的な考えに基づいて、維新への批判に容赦はない。かれは維新によって「国債積んで国庫は匱しく、漢文を軽んじて洋文を重んじ、旧都を廃して新都を興こす」といった現状に驚きを隠せず、「西法が国俗を転移するのは何故かくのごとく速いのか」、「日本が成憲を軽棄するのは何故かくのごとく易いのか」と疑問を連発する。さらに、西洋一辺倒はとうてい「国を豊かにするに足らず、兵を強くするに足らん」と結論づける。
このように、明治初期後の日本は西洋と東洋という二重のイメージを現わし、この複雑な様相を眺めた中国人のなかでは、西洋文物の流行に注目して賞賛する人がいれば、東洋伝統の衰弱を憐れんで非難する人もいる。こうした相違はすべて視察者の主観的な問題に帰するのは公正さを欠き、維新後の世相自体も新旧・善悪・東西が入り交じり混沌とした模様だからである。
ここで注目に値するのは、新旧両方によく目を配った陳家麟の見解で、肯定論または否定論よりは客観的であるかもしれない。
陳家麟は一八八四年に公使館の随員として渡日し、三年後に『東槎聞見録』四巻(12)を上梓した。作者は維新の諸政策を「利政」(良い政策)と「弊政」(悪い政策)とに二分し、前者の例として「学校の設立、鉱山の開発、鉄道の建造、銀行の開設および機械、電線、橋梁、水道、農政、商務」など、後者の例として「洋服の着用、漢学の廃止、刑律の改正、紙幣の発行および増税、雇用、洋館、洋食、舞踏」などをそれぞれ挙げている。
このように、明治維新への賛否両論の存在は、第三者の立場から傍観によるもので、中国では維新変法の動きが活発になってくると、称賛論者がにわかに増え、維新後の日本像もより具体的に伝えられるようになる。 
第三節 維新変法の手本
明治維新をきっかけとして、近代化をいそぐ日本は西洋の文物制度を積極的に導入するとともに、西洋列強の「負の遺産」もまるごと継承してしまった。台湾出兵(一八七四年)をはじめ、しだいに欧米諸国のアジア侵略の共謀者となり、貪欲の魔手を隣国にのばすようになった。
一八七四年、日本は念願の大陸侵略を実現するため、朝鮮の権益をめぐって清王朝に戦争をしむけ、それが甲午戦争(日清戦争)の勃発となった。その結果、「天朝大国」は「?爾島夷」に大敗を喫し、清王朝は苦心して経営した自慢の北洋艦隊をあっけなく殲滅され、日本に銀二億両という巨額な賠償金の支払いを約束して、一八九五年四月に屈辱の「馬関条約(下関条約)」をむすんだ。
この予期せぬ結果をもたらした一戦で、「?爾島夷」と軽視されてきた日本は、一躍して巨人のごとく中国人の眼前に立ちはだかるようになった。知識人たちは未曾有の「国恥」に目を覚まし、支配者らも亡国の危機に直面せざるをえなくなった。そこで、朝野の有志は突如として巨人化した日本に目をむけ、改革維新の道を模索しはじめた。
明治維新がふたたび脚光を浴び、本格的に研究されるのは、まさにこの時期だったのである。一八九八年に、光緒帝をかついだ百三日しか続かなかった戊戌変法(百日維新とも)は、もっぱら明治維新を手本にしていた。こうして、約二千年にわたる中日関係史上、両国の師弟関係ははじめて逆転したのである。 
1明治維新への再認識
一八九五年四月十七日、李鴻章は清王朝を代表して、下関の春帆楼で売国の「馬関条約」にサインした。調印のニュースが中国に伝わると、全国に大きな波乱を巻きおこし、康有為を中心とする愛国の知識人たちは、連名して条約拒否と変法実施の主張をまとめて、光緒帝に直訴した。史上に有名な「公車上書」の事件である。
康有為らは「馬関条約」を清朝二百余年の歴史上において未曾有の「大辱」であり、「この創巨痛深の大禍を経て、必ずや臥薪嘗胆の謀を為すべし」と変法の緊迫性をつよく訴えた。(13)
亡国の危機に瀕した中国の有識者らは、維新変法を清王朝に呼びかけ、その手本を敵国の日本にしたのである。康有為は光緒帝への直訴書のなかで、「土地と国民が中国の十分の一しかない」日本が明治維新によってわずか三十年も経たないうちに強国となり、琉球と台湾を強奪し大清帝国を侵略したのだと分析し、弱肉強食の世の中で生きていくために「強敵を師資に」しようと力説した。(14)
これまではごく一部の知識人にしか注目されなかった明治維新は、今や日本の奇跡的な変身をなしとげた「秘訣」として、民族の存続を真剣に考えざるをえなくなった人々から熱い視線を向けられるようになった。
中国の近代化をめさした維新派の志士らが、西洋諸国ではなく、日本に目をむけ、明治維新を手本にしようとするには、さまざまな原因が絡んでいるが、王暁秋は次のように分析している。(15)
(1)西洋化の東洋移植に成功した日本を手本にすれば、「事半ばにして功倍あり」という安易な考え方がかなり流行っている。康有為はそれを「建築に譬えれば、欧米が設計図を書き、日本が模型を造ってくれたから、われわれはそこに住めばよい。耕作に譬えれば、欧米が田植えし、日本が雑草を取り除いてくれたから、われわれがそれを食べればよい」とわかりやすく説明している。さらに「泰西は三百年を経て治まり、日本は施行して三十年後に強くなり、わが中国は国土も広く人民も多いから、変法して三年もあれば、十分に自立でき、その後さらに成長し、富強は万国を凌駕するだろう」と楽観視している。日本のような小国も成功したのだから、もし中国が本気でやれば、もっとうまく出来るぞという自信過剰ぶりがうかがわれる。
(2)中国の維新派はあくまでも光緒帝を中心とした政治改良を目的に想定し、皇室打倒の西洋革命よりも、むしろ明治天皇をかつぐ明治維新のモデルに魅力を感じる。康有為はフランス大革命の様子を「流血は野に盈ち、死人は麻の如し」と語り、民衆革命に否定的な考えをはっきり示している。中国の維新派らは明治維新をもっぱら明治天皇の「聖明新政」の結果と早合点し、倒幕に大きな役割を果たした民衆の力と戊辰戦争をまったく考慮しなかった。
(3)日本を師とするには、歴史的にも文化的にも地縁的にもさまざまな便利さがあると考えられていた。康有為によれば、日本の「守旧的な政俗はわが国と同じく、ゆえに更新の法は日本をおいてほかにない」とし、対して「米仏の民政と英独の憲法は、地遠く俗異なる」から模倣しにくいという。また同じ漢字を使うのも日本を介して西洋文物を導入する近道とされる。もう一人維新派の中核人物なる梁啓超は「泰西諸学の書は、その精たるものを日人がすでに略訳しているので、われはその成功によってこれを用いるべき」ことを、「泰西を牛とし、日人を農夫として、われは座ってこれを食べる」と比喩している。
(4)西洋列強の脅威に直面して、同じアジア国としての共同利益と連帯意識があり、相互に助けあうべきだとの主張がある。当時、ロシア帝国の東進政策に対し、中国も日本も警戒しており、康有為らにはイギリスと日本とを抱きこんでロシアに対抗しようとの思惑があった。また一八九八年四月に、中国の朝野人士と上海在住の日本官民とが共同発起人となって発足した上海アジア協会は、「中日の歓を聯んで、同文の雅を叙べる。まことにアジア第一の盛事にして、興起の転機なり」とマスコミなどに喧伝された。副会長をつとめた鄭観応は「同じくアジアにあり、相互に攻撃すれば、唇亡びて歯寒しとなり、徒に漁人の利を(西洋人)得られる」と日本との提携の必要性を訴えている。
このように、甲午戦争をきっかけに、明治維新がふたたび注目の的となったが、しかしそれはあくまでも西洋を学ぶための便宜策にすぎない。言いかえれば、日本の積んできた近代化の経験、あるいは西洋を学ぶテクニックだけに目をひかれ、日本そのものを学ぼうとするものではない。さらにいえば、日本の西洋化された側面だけは中国人の眼前にくっきりと浮かびあがってきたものの、日本の全体像は依然として見向きされなかった。
2百日維新の破局
康有為ら知識人の八方奔走で、維新変法の気運がしだいに高まり、光緒帝も政治刷新の必要性を痛感するようになり、一八九八年一月二四日に康有為を宮内に招きいれて変法の構想を聞き、ようやく改革に本腰を入れようとした。
そのとき、康有為は中国の変法を「日本の明治の政を治譜と為すべし」と力説し、具体的に真似るべき三項目を皇帝に提示した。つまり、「一に群臣と革旧維新を約束して天下の輿論を採択し万国の良法を取り入れること、二に宮内に制度局を開いて天下の通才二十人を参与に徴用し一切の政事制度を見直すこと、三に待詔所を設けて天下の人々の上書を許すこと」である。
以上の三項目はいずれも明治政府の行なった重大な政治改革の措置であって、康有為はそれを変法の綱領として推奨し、維新派の政権入りをつよく期待していた。その後、康有為は明治維新を詳しく紹介した『日本変政記』を呈上した。それを読んだ光緒帝はついに変法の決意を固め、六月十一日に「国是を明定する」維新の詔をくだした。
梁啓超はこの詔書を「四千年の旧を抜って新を開く大挙」と激賛して、「一切の維新はこの詔に基づき、新政の行はこの日に開く」と期待に胸を弾ませる。この日から慈禧太后によるクーデターの勃発した九月二一日までの百三日間は、中国版の「明治維新」が試みられた。
康有為をはじめ維新派らは、変法の参考テキストとして、明治維新を参照にした書物などをつぎつぎと光緒帝に呈上し、そのなかでもっとも重要な役割を果たしたのは、康有為著の『日本変政考』にほかならない。
この書は明治元年から同二四年までの歴史を十二巻にわけて詳述した編年体の史書である。それに『日本変政表』一巻を付録としてつけ加えている。著者がその跋語に「日本の変政は、これに備わっている。その変法の次第と条理の詳明は、みなこの書にある。弱より強となるのも、ここにある」と自負しているとおり、光緒帝はこの書を日ごろ座右に置いて、変法の指南としたという。
事実上、光緒帝が百三日の間にくだした二百以上の変法詔書のうち、『日本変政考』から採択し、明治維新の受け売りと思われるものが相当ふくまれている。(16)
ところが、一連の変法措置は、既得利益の喪失を危惧していた保守派の顰蹙を買い、慈禧太后を中心とする反対派からことごとく阻害された。九月になると、維新派の敗色はひとしお濃厚となってきた。
こうした前途暗澹たる情勢のなかで、明治維新の主役だった伊藤博文がちょうど中国をおとずれた。中国の維新派は「溺れるものに藁でもつかむ」ような心境で、伊藤博文を政府顧問に起用しようと光緒帝に建言した。九月二十日、光緒帝は伊藤博文を引見し、難局の打開策を伊藤博文の経験に期待したが、時期すでに遅しとその翌日に慈禧太后主導のクーデターが演じられ、光緒帝はたちまち階下の囚人となり、百日維新もあっけなくピリオドを打たれたのである。
事件後、伊藤博文は妻への手紙で、維新失敗の原因を分析して「皇帝は万事ことごとく日本に倣い、服装まで洋服に変えようとし、こうした過激な改革が失敗を招いた」という旨を述べていた。
明治維新の形式だけを真似て、中日国情の相違をまったく考慮しなかった維新派らの安易なインスタント式の改革としては、当然の破局だったのかもしれない。
3辛亥革命の手本
清王朝を倒して国民政府を建てた孫文(一八六六〜一九二五)は、大陸の共産党からも台湾の国民党からも「中国近代革命の父」として尊敬されている。
孫文の指導した辛亥革命(一九一一年)が、日本と深いかかわりのあることは、周知のとおりである。革命の幹部には多くの日本留学の経験者がくわわっており、孫文自身もしばしば日本へわたり、その数は一五回に達し、あわせて九年間も日本に滞在したのである。 したがって、辛亥革命の成功には、多くの日本人が貢献していたことを決して忘れてはならない。しかし、その支援者は、次章で述べるように集団としての日本政府ではなく、ほとんどが良識の個人だったのである。
一八九四年、孫文はかつて李鴻章に「救国救民」の方策を建言し、明治維新の経験を「人がよくその才を尽くし、地がよくその利を尽くし、物がよくその用を尽くし、商品がよくその流れを暢ばす」と総括し、それらを中国の参照にすべきだとした。
右の建言は、当然のことながら李鴻章に受けいれられなかった。そこで、孫文は革命運動を行なう以外に中国を救う道がないと判断し、一九一一年に武昌蜂起を引きおこし、民国政府の樹立に成功したのである。
明治維新と辛亥革命との関連について、孫文は「日本の明治維新は中国革命の原因であり、中国革命は明治維新の結果である」と明言している。(17)辛亥革命の成功後、孫文は新生中国の建設にあたっても、維新後の日本を手本にしていた。孫文が重視した日本の経験について、熊達雲氏は次の三点を指摘している。(18)
(1)時勢への順応。孫文は日本が「攘夷に失敗すれば、ただちに師夷に転向し、維新運動はまったく師夷の結果である」と指摘し、中国は欧米との差を縮めるためには、「日本に範を取って」西洋文明を謙虚に受けいれるべきだと主張した。
(2)科学技術の重視。明治以来、日本の文明発展が何十年の間にそれまでの数千年の成果を超え、そのスピードにしてはヨーロッパをも凌駕できた主要な原因は、「欧風米雨のなかで、科学的な方法を用いて国家を発展させた」ところにあり、「科学の力による」奇蹟だと評価した。
(3)進取の精神。孫文は日本の冒険と進取に富む民族精神を評価し、建国以来、外敵に屈従したことのない原因は「勇ましく奮闘する」精神を守りぬいたからだとし、その精神が日本を後進国から先進国へ、貧弱から富強へ、最後には「東洋のイギリス」にまで成長させたのだと指摘した。
以上のように、百日維新にしても、辛亥革命にしても、近代化をめざす中国はつねに日本の明治維新を意識し、そこから啓発をうけ経験を学びとってきたのである。ただし、中国のめざしていた近代化の最終目標は、あくまでも「西洋化」であり「日本化」ではないことは、ことさら多言を要すまい。 
【注釈】
(1)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五二巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。
(2)対談の全容は実藤惠秀著『中国人日本留学史稿』、(日華学会一九三九年版)六三〜六四頁を参照。
(3)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙七五巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。
(4)二書とも『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五二巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。
(5)鐘叔河編『走向世界叢書』所収、岳麓書社出版一九八五年版。
(6)『日本国志』は活字本なく、『日本雑事詩』は鐘叔河編『走向世界叢書』所収、岳麓書社出版一九八五年版。
(7)武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』、「東アジアのなかの日本歴史」12、六興出版一九八九年八月版、一三〇頁。
(8)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙)所収、杭州古旧書店一九八五年版。
(9)「四明」は寧波のこと、「浮槎」は船のことで、作者は浙江省沿岸の貿易商人と思われる。
(10)易順鼎著『盾墨拾余』巻三所収『討日本檄文』。
(11)二書とも『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五三巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。
(12)『小方壺斎輿地叢鈔』(第十帙五三巻)所収、杭州古旧書店一九八五年版。
(13)康有為:『上清帝第三書』、『戊戌変法(二)』所収。
(14)康有為:『日本変政考序』。
(15)王暁秋著『近代中日啓示録』、北京出版社一九八七年一〇月版、八八〜九〇頁。
(16)詳細は王暁秋著『近代中日啓示録』(北京出版社一九八七年一〇月版)九六〜九七頁を参照。
(17)孫文『致犬養毅書』、『孫中山選集』所収、人民出版社一九八一年版、五三四頁。
(18)武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』、「東アジアのなかの日本歴史」12、六興出版一九八九年八月版、一八一〜一八二頁。 
終章

義和団の鎮圧を名目にして「八か国連合軍」に加わり中国へ派兵した事件をきっかけに、これまで「西学の師」と仰がれた日本像は、またも大きく塗りかえられた。
中国人にとって、日本への幻想は二重の意味において、破滅の一途をたどった。ひとつは遙か東海にはせるユートピア幻想の破滅であり、もうひとつは西洋列強の侵略に対抗するための中日提携の幻想の破滅である。こうした幻想破滅によって増幅される日本への憎悪感と敵愾心は、辛亥革命をへて抗日戦争にその頂点に達した。
これまでにも中日両国は、白村江の海戦とか倭寇の跳梁とか豊臣秀吉の朝鮮侵略とか甲午戦争(日清戦争)とかで、幾度か戦火を交えたことがあったが、それらは領土分割の目的をあらわにむき出した義和団鎮圧(北清事変)と抗日戦争(日中戦争)とは、性質がまったく異なるものである。日本はなんの仮面もかぶらずに、ただ敵国としてだけ中国人の前に現われてきたからである。
抗日戦争中に、日本軍の残虐な「三光政策」つまり占領地の住民を殺しつくし、財物を奪いつくし、建物を焼きつくすという地獄図のような恐怖をじっさいに経験した世代がまだ生きのこっており、また一方では旧日本軍の「血筋」をうけつぎ、かの侵略戦争を極力に美化しようとする人々も今日の日本に少なからずいるため、「幻想の破滅」は今なお尾をひいているようである。
アメリカの中国研究の碩学であるアレン・S・ホワイティング教授はその名著『中国人の日本観』において、百日維新以来の中国の改良派や革命家らが日本に寄せた信頼と期待が裏切られたことの現代的意味を次のように指摘している。
康有為、張之洞、梁啓超、孫文は文化的共通性と地理的近接性の理論が中国の利益  を伸長する上で日本の協力を容易にすると考えていた。不幸なことに、帝国主義とパワー・ポリティックスの論理が(中略)日本の文民、軍人双方のリーダーに中国を犠牲にする拡張主義を促進させた。この論理が、中華人民共和国において、日本の軍国主義復活の恐れが表明されるときにはどこでも中国人の恨みと疑惑の核をなしているのである。(1)
二十一世紀を目前にして、和解と共存とに象徴される人類共通の美しい「幻想」を少しでも中日の間で「現実」に変えようというのが、筆者の悲願であり、本書執筆の動機でもある。したがって、本章を過去の不幸な歴史の「終章」として、日本の読者に読んでいただければ、筆者は悔いなく本書にピリオドを打つ。 
第一節 義和団の鎮圧
百日維新が保守派の画策したクーデターによって夭折してから、中国は貪欲の狼群にびっしりと囲まれた無援な羊のごとく、全身に傷だらけで今にも死にそうな状態に置かれていた。
そこで、中国各地をわがもの顔でかっ歩する西洋人と、領土割譲だけで余命をのばそうとした清王朝とに、農民を中心とする民衆はついに堪忍袋の緒が切れてしまい、「扶清滅洋(清王朝を助けて西洋人を駆逐する)」をスローガンに奮起した。日本で「北清事変」と呼ばれる義和団運動の始まりだった。
一九〇〇年八月に北京城を攻めおとした八か国連合軍(オーストリア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、アメリカ)の残虐きわまりない行為は、多くの書物に述べられており、ここでは詳述しないが、焼き払われた頤和園の残骸は今なお「国辱のシンボル」として中国人の心に痛ましく刻まれている。
明治政府は義和団の鎮圧を東洋制覇の第一歩として位置づけ、八国か連合軍の急先鋒をつとめた。天津から北京へ侵攻する一九〇〇〇人あまりの聯軍に日本軍はその半分近くの八〇〇〇人を占めており、また北京城を攻略した一五〇〇〇人のうちにも日本軍は約半数を占めている。派兵人数の優位で、日本は西洋列強と聯軍の総司令官の座をめぐって激しく争ったことさえあった。
北京陥落後、城内はまるで強盗の横行する「火の海」と化し、侵略軍は民宅に闖入しては男女老弱を問わず虐殺し、皇宮や豪邸に押し入っては財宝を奪いあい、そして運べない文物や建築などを気が済むまで破壊して放火する。
日本軍は唯一の東洋人軍隊だから、当初は「もっとも軍紀がよい」と思われたが、その暴行は西洋人をも意外と驚かせた。たとえば、一足さきに戸部(大蔵省)に進入した日本軍は、銀三〇〇万両を略奪したあと、証拠のもみ消しに火をつけて戸部の国庫を焼き払ったという。(2)
日本にとって義和団の鎮圧はただの口実にすぎず、財宝の略奪もゆきがけの駄賃のようなもので、真の目的は中国領土の占有にほかならなかった。事変後、首相の山県有朋は『北清事変の善後について』の意見書をまとめ、日本の勢力圏を福建省以外の南方にひろげて、中国領土を分割するさいに西洋列強より有利な立場を確保するべしと真意を吐露している。(3)
八カ国連合軍にくわわった日本軍の暴虐さとその野心は、中国の知識人に大きな衝撃を与えたのである。たとえば、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、中国と日本が運命の共同体を結成するべくつよく遊説してきた章太炎は、義和団事変と日ロ戦争(一九〇四年)をきっかけに、その日本観を悪いほうへと変えていった。
章太炎は日ロ戦争の二年後(一九〇六)、日本にわたり、当時の日本観をその『東夷詩』に説きあかしている。それをおおざっぱに意訳すると、次のとおりである。
「少年のころ仁者は日本にあり、風紀はとてもよいと聞いていたが、今は来てみると、伝聞は実状とまったく異なったことがわかった。つまり、全国は日ロ戦争のために軍事国家と化し、財政が危機に瀕したため、孤児まで税金を取られ、盗賊が横行し、男女の風紀が乱れている。」
章太炎はまたインド人の口を借りて、恩を忘れ義に背き、川をわたれば橋を壊し、白人の手先となってアジア人を侮辱する「アジアの裏切り者」として、日本を容赦なく非難している。そして、こうした痛烈な批判によって、「幻想の破滅」の鬱憤を晴らしているのは、決して章太炎ひとりではなかったのである。 
第二節 孫文の日本観
隋唐より以来、多くの日本人留学生を受けいれて育ててきた中国は、十九世紀の末期から日本に留学生を送りこむようになった。日ロ戦争をきっかけに、日本留学が大きなブームを迎え、一九〇六年にはその数はおよそ二〇〇〇〇人に達したともいわれている。
留学生の多くは、西洋列強の魔手から亡国の危機を脱するためには、すでに腐敗しきった封建王朝を覆さなければならぬと悟り、ふたたび明治維新をモデルにして、救亡興国の理想に燃えつつ日本へわたったのである。彼らのなかから、のちに多くの革命家が輩出した。
一九一一年、孫文を中心とする革命派は武昌蜂起を決行して清王朝の打倒に成功し、アジア初のブルジョア政権こと中華民国を立てた。これはすなわち中国史上に有名な辛亥革命だったのである。
孫文の明治維新への称賛は、すでに前章で述べた。革命後の孫文も日本への期待がことのほか大きく、一九一三年に全国の平和統一を願って臨時大統領を辞任して日本へわたり、日本東亜同文会の催した歓迎パーティーの席上で、次のような主旨の演説を行なった。
「今日、アジアの独立国は、日本と中国しななく、東アジアの平和を維持するには、多く日本に期待せざるをえない。日本と中国はじつに兄弟のようなものである。(中略)辛亥革命のさい、列強が中立を厳守したのは、もとより日本の後援があったからで、その助力は甚だ大きい。」(4)
日本を根拠地にして中国革命を指導していた孫文は、アジア復興のために日本のリーダーシップを嘱望し、革命に成功したを支援して西洋列強に立ち向かってくれるだろうことをかたく信じて疑わなかった。
「中日親善のもっとも熱心な推進者」と自任する孫文は、至るところの講演会で、中国と日本との「古来の友好関係」ばかりを強調するあまり、日本の中国侵略について「その本心によるものでなく、余儀なくさせられたものだ」と理解を示し、また反日感情をつよく抱いていた留学生らに「日本への憤恨を親愛に変えよう」と口すっぱく説得もする。(5)
ところが、孫文の期待とはうらはらに、日本政府は中国革命の動きを複雑な心情で傍観し、それに支援するどころか、中国の近代化を日本の大陸進出政策を妨げるものとしてひそかに警戒し、したがって袁世凱の北洋軍閥の政権に力を貸し、中国の南北分裂を促したのである。
こうして中日平等提携の熱望をみごとに裏切られた孫文は、幻想の破滅にすっかり失望し、そのあまりにも大きかったショックに、日本に対する態度を信頼と賛美から懐疑と非難へと一変した。一九一五年、『陳英士の黄克強に致す書』に按語を書いた孫文は、日本への憤慨の気持ちをこうぶちまけている。
中国の革命党員は、日本の志士を手本とし、彼らと親善をはかり、日本との提携連合を真摯に提唱していたのに、日本政府は目先の利益しか考えず、中国の成長をふかく忌諱し、とくに国民党が政権を掌握して、彼らの中国蚕食の陰謀を阻止することをつよく警戒し、そこで軍閥を助けて国民党を抑え、中国がいつまでも未開な弱国であることを期待し、自分の汚い野望を実現させようとしている。(6)
これより以後、孫文の脳裏に、近代化のよき手本、アジア復興のパートナーとしての日本像がすっかり消えさり、かわって西洋列強に媚びる裏切り者、アジア隣国をいじめる侵略者としての日本像が固まりつつあった。
そして、これは決して孫文個人の思想転換ではなく、祖国を救う真理を求めて日本へわたった革命志士や留学生らの多くも、日本にはせていた幻想をこなごなに砕かされ、その国をふかく恨んで帰国し、中国の新生のために日本との戦いに躊躇なく身を投じるようになったのである。 
第三節 抗日戦争
一九三一年九月一八日、「九.一八事変」つまり日本でいう「満州事変」が勃発して以後、日本の軍部はブレーキがかからずに独走しはじめ、それから一九四五年の日本降伏に至るまでの一五年間は、中日関係史上もっとも「不幸な時代」と表現される。それを中国では「抗日戦争」といい、日本では今「日中戦争」あるいは「一五年戦争」と呼びならわしている。
この時期、日本軍の言語道断な「三光政策」の暴虐な様子は、中国では教科書・マスコミ・戦争記念館などを通して語りつがれ、一方の日本では教科書の改竄・「南京大虐殺事件」の否定・慰安婦問題の回避などによって戦争を正当化しようとする動きが、時として活発になるため、戦争時代につくられた日本像は、今なお見え隠れしているのが現状のようである。
これまでに、中国人が本格的に日本研究に取りこんだのは、倭寇跳梁の時期と百日維新の前後だったと思われるが、抗日戦争中のそれは民族存亡にかかっていることもあって、量質とも前代をしのぐ盛況を呈したものである。(7)
この時期の日本研究の特色は、明治維新研究のように中国の近代化に必要な側面にのみ注目するものでなく、また倭寇研究のように感情論に走りがちなものでもなく、日本人の民族性や精神世界にまで立ち入って鋭い洞察をくわえ、よい面を率直に評価し、悪い面を忌憚なく批判する公平な論調が多く、したがってそれには今日の日本研究に勝るとも劣らない成果も少なからず含まれているのである。
たとえば、一九三七年七月七日に中日両国を全面戦争に導いた「廬溝橋事件」が勃発した翌年、戦火が華北から華中へとひろがる最中、国民党の要職にあった蒋百里は、『日本人−−ある外国人の研究』を世に送り、日本の敗戦を予言し、侵略の行為をつよく非難しながらも、「尊敬に値する」日本の指導者として、中国文明を取りいれた聖徳太子と西洋文明を受けいれた明治天皇をたかく評価していた。
このような冷徹な態度で書かれた日本論であるゆえに、そこに描かれた日本像は、六〇年あまり経った今日になっても、われわれの日本像と重なりあう部分は少なくはない。
著者は一九〇一年に日本へ留学し、士官学校の歩兵科で軍事を学んだ。一九〇六年に帰国してまもなく、さらにドイツへ留学し、軍事理論を学んだ。一九三五年に国民党主席の蒋介石から軍事委員会の高等顧問に迎えられ、『日本人−−ある外国人の研究』を世に問わせたころは陸軍大学の学長代理をつとめていた。
この短冊は文学的な表現を用いながら、日本人の国民性をふかく掘りさげて分析し、侵略戦争は必ずや日本の悲劇に終わるだろうと予言し、その根拠を日本人の民族性と自然環境とに求めている。
蒋百里は「花は桜木、人は武士」という言いまわしを借りて、日本人の矛盾する内面世界の二重構造を指摘し、そして人種と風土とに由来する無常・宿命・短気・凶暴といった性格はつねに悲劇の運命を招きかねないと結論づける。
つまり、日本人は国難を口にしながら戦争を引きおこし、中国を侵略しながら東アジアの共栄を呼びかけ、外国人を崇拝しながら欧米に嫉妬し、東洋文化を自賛しながら西洋から何もかも取りいれてしまう。
著者の分析はさらにつづく。王権と民権、暗殺と守法、文治と武功、国粋主義とアジア共栄、東洋文化と西洋文化、これらの矛盾に挟まれた日本の政治家らは「毎日のように火山のうえを踊っているものだ」という。
抗日戦争中の日本観として、共産党の指導者である毛沢東の論述も見逃せない。毛沢東の日本観は『日本帝国主義の策略に反対するを論ずる』や『持久戦を論ずる』などの論文に述べられているが、熊達雲はその要点を以下のようにまとめている。(8)
(1)日本が侵略戦争を引きおこした原因は、資本主義国家の経済恐慌と国内政治支配の脆弱といった危機を対外戦争によって転嫁させるものだとぶんせきしたこと。
(2)中国革命の直面する最大な敵は、当面かつての西洋列強ではなく、中国を植民地にしようとする日本の帝国主義なのだと指摘したこと。
(3)日本人民と軍国主義とをはっきり区別し、抗日戦争の勝利は、偉大な日本人民の覚醒と闘争にもかかわっていると述べたこと。
(4)侵略戦争の後進性および日本の人力・兵力・財力の欠乏を見きわめ、持久戦を行なえば、中国は必ず最終的な勝利を勝ちとるだろうと予言したこと。
抗日戦争の時代、中国の民衆は一般的に日本人のことを「倭寇」とか「倭奴」とか「鬼子」と呼ぶようになり、日本人のイメージを倭寇跳梁の中世あるいは未開の弥生時代にまで後退させた感がある。ただし、「倭寇」と「倭奴」以上に、「鬼子」の呼び方には軽蔑と憎悪の心情が重くのしかかっている。恐怖感よりも必勝心のほうが大きいと思われる。それが今日の日本像にもつながっている部分があるといわざるをえない。 
第四節 国家神道
本書の執筆がほぼ終わったところ、森喜朗首相の「日本は天皇を中心とする神の国だ」との発言はまたもや一大波乱を引きおこし、内外より厳しい非難を浴びている。自民党側は、マスコミの曲解だと反論し、真意はあれこれだと苦しい弁解に追われている。
日本政府の要人たちが、ほぼ毎年のようにこうした暴言を吐くのは、ただ不用意な「失言」としては片づけられない。その根底にはずさんな国家観があり、国家神道の亡霊が蘇りつつある気配をヒリヒリ感じる。
抗日戦争から引きずってきた日本像のマイナス面は、まさしくここにあり、二十一世紀にむけての和解と共存のためにも、この歴史的「しこり」を取りのぞく必要があろうと考えられる。
一九八八年十一月七日、東京大手町の経団連ホールを会場にして、神道国際学会(理事長梅田善美氏)主催の「国家神道を検証する−−日本・アジア・欧米から−−」国際シンポジウムが開催された。サブタイトルに示されているように、日本・中国・韓国・ドイツ・ロシアの研究者らが一堂に会して、それぞれの立場や視点から「国家神道」をめぐって検証したのである。
筆者は同僚の王守華教授と連名で、「中国人の目に映った国家神道」を発表した。その主旨は、日本文化の基層をなしている約二千年にわたって蓄積してきた神道文化を日本文化研究の対象と認めながら、軍国主義と結託してアジア侵略の手先となった百年足らずの国家神道を手厳しく批判したものである。
わたしの所属する浙江大学日本文化研究所は、王守華氏を主任教授として中国初の「神道と日本文化」の講座を大学院に設けており、国家神道を批判することによって、「神道イコール国家神道」の誤解を取りのぞき、これまでにタブー視されてきた神道文化を中国の若い世代に理解してもらうよう努力している。
それにもかかわらず、日本の神道関係者らのなかで、たとえ二千年の神道文化を犠牲にしても、百年足らずの国家神道を守りつづける姿勢を崩さなかった。相互理解を期待される若芽がまたひとつ無惨に摘みとられ、当事者として理解に苦しみ、残念の極みである。
わたしの発表に対して、他国に進入して残虐行為を働いた旧日本軍人を被害者側から「人殺し」と呼ぶことに不満だった知人は、次のようなコメントを寄せてくれた。
「私は、国家に忠誠を誓って戦った人々は、個々の戦闘や戦争の功罪や正否に関係なく、一様に敬意を払われるべきだと思います。そうでなければ、国家は国民の忠誠を期待することができず、防衛力そのものが成り立たないと思います。」
このようなコメントを寄せてくれたのは、私的な交際においては信頼のおける知人のみならず、若い世代を教育する立場にある大学の教員でもあるから、わたしの受けた衝撃はことのほか大きかったのである。その法則にしたがえば、ヒトラーに忠誠を尽くしたナチス軍もユダヤ人から敬意を払われなければならないのか。また将来、どこかで国家行為の戦争が起これば、国民がその正否を問わずに従うべきなのか。この法則には大きな疑問を感じ、次のように答えた。(9)
「国際化が日進月歩に進んでいる今日にあって、何事につけても世界に視野を広げて、広く異なった意見に耳を傾ける必要があります。それは中国人にしろ日本人にしろ、一様に要求される国際常識です。
「ところが、なおも中日間に歴史認識のギャップが大きいと、あらためて知らされたのです。中国人がいつまでも侵略戦争にこだわり、韓国人が時たま豊臣秀吉を悪玉にあげることを日本人が理解できないと同じように、靖国神社の参拝やら歴史教科書の改竄やら南京虐殺の否定やらで、侵略戦争を執拗に弁護しようとする日本側の姿勢をアジアの被害国の人々に理解させることは不可能に近いでしょう。
「世界史のなかで、中国の若い世代は日本の侵略史をもっとも熟知していると言われます。中国でのアンケート調査では、日本を代表する人物として、「東条英機」が首位を占めるという結果が出ています。というのは、歴史を忘れがちな若者であってさえも、毎年のように日本側の動きによって、かの侵略戦争を思い出させられるからです。
「イギリス人とアヘン戦争、ドイツ人とナチス犯罪を語りあうことは可能ですが、日本人と侵略戦争を話題にするたびに、平常心と客観性をつい失ってしまいます。南京大虐殺に話がおよぶと、「天安門事件はどうだ」という学者さえ居られるから、「日本人にとって、大東亜戦争は心理上まだ終わっておらず」と日記に嘆いたことがあります。」
平和日本の現状を目の当たりにしながら、日記にぶちまけた嘆きをいよいよ忘れかかったところ、森首相の「神国」発言で、はっと思いだし、不気味な日本像がまたもや幽霊のごとく脳裏をよぎったのである。
中国人の日本像は、長い歴史をへてさまざまなイメージが重なっており、時代がつねに未来にむけて前進しているにもかかわらず、過去に堆積してきた負の遺産をなかなか棄て切れなかった。
しかし、幻想の破滅は、決して悪いことではなく、等身大の日本像がより鮮明にみえてくる利点もある。そして、等身大の日本像をすなおに見つめながら、中国人が従来の中華思想による日本の虚像をうち捨て、日本人が近代にふくれあがった自己像とたもとを絶てば、未来志向の新しい日本像の誕生もそう遠くないことだろう。
そう祈願して、終章の終わりとする。 
【注釈】
(1)アレン・S・ホワイティング著『中国人の日本観』、岡部達味訳、岩波書店二〇〇〇年三月版、五二頁。
(2)英国人の手記『庚子使館被囲記』は『義和団(三)』に収録されている。王暁秋著『近代中日啓示録』(北京出版社一九八七年一〇月版)一三三頁を参照。
(3)王暁秋著『近代中日啓示録』、北京出版社一九八七年一〇月版、一三一頁。
(4)講演録は『孫中山全集』第三巻(中華書局一九八四年版)に収録されている。
(5)これらの演説は『孫中山全集』第三巻(中華書局一九八四年版)を参照されたい。(6)『孫中山全集』第一巻(中華書局一九八四年版)所収。意訳は武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』(六興出版一九八九年版)一八四〜一八五頁を参照にした。
(7)この時期の日本研究の概観は、武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』(六興出版一九八九年版)第五章『十五年戦争期の日本研究』に詳しく、ご参照を勧める。
(8)武安隆・熊達雲共著『中国人の日本研究史』(六興出版一九八九年版)二三一〜二三四頁を参照。
(9)講演録とコメントの応酬はすべて神道国際学会編『国家神道を検証する−−日本・アジア・欧米から−−』(国際文化工房一九九九年一一月版)に収録されている。ただし、筆者の回答は長文のため、主旨を損ねない表現を削除して引用した。 
中日の知識人 / あとがき

(一)
歴史的にも地縁的にも日本とのつながりの深い浙江省に生まれ育った私が、大学時代から中日文化交渉史に強く魅せられるようになったのは、もっぱら風土の賜物というほかなかろう。
日本の文献を渉猟しては、天台山やら径山寺やら西湖やらと故郷の発見にしばし現を抜かす。江南の古跡を踏査しては、阿倍仲麻呂やら成尋やら策彦周良やらの日本の人物たちがしきりに脳裏を去来する。
しかし、現実の社会に視線をむけると、まったく隔世の光景に驚き呆れてしまう。ここ十数年、中日両国を足しげく行き交う私の目には、吾が恋う古代の風景はもはや跡形もなく消え失せているのだ。
世紀交替にあたって未来志向に動く世の中、中国人のもつ日本像と日本人のもつ中国像は、どうやら前時代に後戻りしていく兆候を呈しつつある。
中国では「鬼子」と「小日本」の蔑称が大いにはばをきかせ、日本では政府要人の「シナ」呼ばわりと「三国人」発言が公然と行なわれるのは、その象徴的な例であると言えよう。
政治家のことはいざ知らず、こうした時代遅れの風潮を助長させるか解消させるかで、国民の良識を代表するといわれる知識人の資質が、おそらく問われるのであろう。ここで、昔から「士」と呼ばれる中日両国の知識人の相違を考えてみたい。
(二)
長い科挙制度に培われた中国の文人は、王朝時代では官吏として登用されながらも、独自な伝統と根深い階層を形成してきた。かれらは儒教にもとづく社会理念を信奉し、基本的には支配階層と武力集団とは一線を画して存在する。
したがって、民衆から昇りつめ「精英」と見なされた知識人は、支配層側にとっては常に油断のできない危険な集団である。「文化大革命」の嵐が吹き荒れるなか、「臭老九」と最低のランクに位置づけられながらも、かれらは屈辱を呑んで辛抱し、権力に諂うことを恥とした。
儒教的信念と独自な判断とを捨てようとしない中国の知識人層は、栄達と不遇をくり返しつつ、その時の政治勢力に睨みをきかせ、社会の健全な発展のために大きな役割を果たしたと評価されてよかろう。
高度な科学技術と発達した教育施設を有する日本が、専門知識の所持者を大量にかかえている事実を、誰も否定はしない。しかし、それでも私は政治に付随しない文人層の存在を認めない。
もとより日本でいう「士」はサムライと呼び、武士のことをさす。江戸時代に確立した「士農工商」という身分制度のなかで、首位にランクされる「士」は幕府を支える支配階級そのものだったのである。したがって戦時中、知識人のほとんどが侵略戦争を賛美し、軍部の暴走に追随するのであった。中国の知識人に尊ばれる反骨精神と自主判断はあわれにも少なかったのである。
ただし日本の「士」は、中国の「武士」とは意味がいくらか異なり、良好な教育に恵まれて、和漢の教養を身につけ、知識の授受を担う士大夫の「士」でもあった。こうした伝統は、西洋知識に装備された今日の知識人たちにも、少なからず受けつがれているといわざるをえない。
権力側から危険視される中国の「士」、支配層と利益共同体を結びがちな日本の「士」、両者の間にはその源流において根本的な相違がはっきり認められる。そして、このような相違は、両国の関係にも影を落としてしまうのである。
(三)
ここでは、中国の日本研究者と日本の中国研究者を例として、それぞれの社会に働きかけようとする姿勢の相違を分析してみよう。
「アメリカに留学すれば、アメリカに親しむ。日本に留学すれば、日本を恨む」というのは、今や中国では常識となっている。日本の現状を恨んで帰国する留学生は、さまざまな辛酸と傷痕をあくまでも「個人的な遭遇」として、大学の教壇に立てば、学生らにぶちまけて日本という国を毒づくことは、まずしない。
日本でどんな酷い目に遭っても、政治的な目的から反日感情を扇動し、日本の留学生を傷つけ、日本の没落を待ち望むような言動を、知識人のプライドと良心はそれを許さない。このような人物がたとえ現われたとしても、知識人層から「異類」と疎外されるであろう。現に中国では日本を故意に傷つけることで有名になった学者は一人もいない。
多くの留学生は、日本での体験は愉快だったとは思わず、日本社会の現状に不満を抱きながらも、その改善を望んで中日友好の発展に力を尽くしている。しかし、それがときに逆効果を生みだすこともある。
中国の知識人はとくに「面子」を重んじる。かれらの知り尽くした日本の恥部、あるいは自ら背負っていた傷口を、親類にも打ち明けようとしない。近ごろ、留学生を題材にしたテレビドラマが中国で放映されると、「一億人の涙を誘った」といわれるほど、中国大衆は日本のきびしい真相を知らなかったのである。
私は思う。真の中日友好のためには、中国の文弱な知識人はもっと武勇の気概を必要とし、等身大の日本像を国民に伝える義務がある。「天国」と勘違いして渡日し、「地獄」と罵って帰るよりは、事前に日本の実情を知らせたほうが増しだろう。
(四)
さて、日本の中国研究者はどんな姿勢を取っているのだろうか。概していえば、古代を専門とする研究者は、温厚な学者タイプが多く、敬意を払われるが、書斎に閉じこもりがちで、社会的な存在感は薄い。近世以後を専門とする研究者は、政治志向型が目立ち、政治屋と見間違うほど恣意的な発言をくり返し、世論にもてはやされる。
われわれの目から奇異に映って、学者としての品格を疑われるのは、次のような二つのタイプである。
ひとつは強烈な国粋主義者である。侵略戦争を美化し、南京大虐殺を否定するなどはまだ普通だが、倭寇の海賊行為を正当化し、豊臣秀吉の野望を礼賛するとなると、さすが理解に苦しむ。それは蒙古来襲を顕彰するのと同じく、中国の知識人にとっては想像もつかないことであろう。
近ごろ、静岡にある某大学では、教壇に立った教授がアジアの留学生十数人を前に、侮辱的な言葉を連発し、それを反論されると全員の成績を不合格にしたという事件があった。日本の留学生を受けいれていた私にとって、それができる大学にまず疑問を感じる。
もうひとつは、政治的な中国嫌悪タイプである。中国の政治体制を嫌うことならば、日本の社会的現状を嫌う中国人も多くいるから、まだ理解できるが、問題はチベット独立やら台湾建国やら中国分権やらという中国を分裂させようとする言論を平気で口にすることである。
中国では、政治家の言論は知らないが、学者として沖縄をアメリカに、北方四島をロシアにゆずろうといった発言を聞いた覚えはない。日本ではこうした暴言を吐いても国立大学の学長にまでなれたケースがあるが、学界風土の相違をつくづくと感じさせる。
(五)
以上のように、中国の日本研究者は、個人の体験や政治理念とは関係なく、全体として日本のイメージを好意的に伝え、中日友好と文化交流の主役を演じているが、日本の中国研究者は、個人的な感情を社会に発散し、学術目的以外の政治的意図をもつ言動がかなり多いと認めざるをえない。
このことは、中国の日本研究者による反日的な著述はほとんどないのに対して、日本で刊行される反中的な著述の多くが日本の中国研究者によって書かれているのを比較すれば、一目瞭然であろう。
ここで、私は、中国人が日本を、日本人が中国を、研究対象国に選んでしまうのは、なんのためなのか、どうすればよいかをしばしば考え込むようになった。結論は簡単には出ないが、数年前の最終講義にあたり、未来を担う日本の大学生らに打ち明けた心境を、講義ノートから引用しておく。
外国を専門に選ぶものは、まずその国の文化に愛着を覚えるべきである。そして、その文化を創りだした民族に敬意を払うべきである。日本研究を志して以来、このような初心を捨てることなく、歴史人物とともに喜んだり悲しんだりする。日本への賛美も非難も、愛着と敬意から出たものである。たとえ、今の社会的現状が気に入らなくても、日本の将来に美しい祝福を贈りたい。もしこのような基本的な心構えすらもてなければ、おそらく私には日本を研究する資格も、この国の良し悪しを口に出す権利もないであろう。
考えてみれば、自国の文化を汚すために、または自国の文化を絶滅させるために、日本人が日本研究、中国人が中国研究を選んだものはなかろう。したがって、外国研究に携わるものも、その国の文化を顕揚し、その伝統を持続させなければならない。とくに、知識人と目されるものは、近視眼的かつ偏狭的な政治利害に良識を囚われず、国境を越え、民族を越え、時代を越えて正確な知識をひろく授受し、世界の人々がすべての優秀な文化を享受できる環境づくりに生涯を捧げるべきである。このようになれば、中国における日本像と日本における中国像は、人為的に歪められることなく、等身大のままに受けとめられることになろう。そう祈願してやまない。 
 
漢学から東洋史へ-日本近代史学における内藤湖南の位置-

序言
私たちはなぜ内藤湖南に注目するのであろうか。日本における戦後の中国史研究は中国史を停滞としての側面でとらえたこと、近代化に成功した日本の対極として中国を位置づけたことの反省から出発した。その結果、中国史を西洋史と同じく、古代から近代へ段階的に発展するとの視点により、時代区分を行うという傾向が強まった。その際に注目されたのが経済史、特に「唯物史観」による発展段階を一つの基準とする考え方であった。しかし、中国史を発展の相でとらえる研究は戦前にもあった。それが内藤湖南の文化史に注目した時代区分である。 湖南は東洋史に発展という視点による時代区分を最初に持ち込んだ学者である。のみならず、彼の時代区分に関する指摘は戦後も依然として様々な影響を与え続けた。特に六朝隋唐の「貴族」政治から宋以降の「君主独裁」政治への変化を中世から近世への展開とする湖南のいわゆる「唐宋変革」についての指摘は六朝隋唐、宋代史研究にとって、避けて通ることのできないものである。「貴族」に関する研究が戦後80年代まで六朝史研究の中でも中心的地位を占めていたことからも湖南の研究の影響の大きさをうかがい知ることができよう。ただ、戦後の「唯物史観」の時代区分の発想と湖南の時代区分を単純に結びつけることは困難であった。たとえば、六朝貴族制研究では、貴族制社会を支える背景を経済史的要因で説明しようと、「貴族」を「豪族」と結びつけ、大土地所有との関わりで理解しようという動きもあった。しかし、経済的実力を誇る豪族勢力が「濁」のレッテルを貼られて、「貴族」の世界から排除され、「寒門」の地位に押しやられていたことからしても、大土地所有と貴族制とが単純に結びつかないことは明白である。では、なぜ湖南が「貴族」を中国中世のメルクマールとしたのか。彼の時代区分の背景にある歴史観、理論は何なのか、湖南の「歴史観」を分析し、他の歴史理論と付き合わせることなしには戦後の学問成果と湖南の研究を結びつけることは困難なように思われる。 湖南の死後70余年を経た現在、彼自身の生涯、思想背景等もふまえた歴史家としての内藤湖南研究が盛んになった。すなわち、彼の学問を通じて、明治から大正という時代の文化を明らかにしようという試みである。歴史家としての湖南を研究することは、私たちが今なお依拠している中国史研究の原点を探ることに他ならない。今回のシンポジウムもこうした意図が含まれているものと理解し、今回の報告では、私自身のこれまでの湖南研究をふまえ、明治という時代の中で彼がどの様にして東洋史の時代区分にたどりつくに至ったかについて、整理してみたい。 
1 明治初期の歴史学に課された課題

内藤湖南は父内藤調一(十湾)の下、漢学の素養を積み、それが彼の学問の基礎となっている。そもそも日本においては歴史編纂に対して漢学の果たした役割は極めて大きい。日本においては国家による最初期の歴史書『日本書紀』以来、『続日本紀』等五書を合わせた六国史は漢文で書かれた。その後『大鏡』等の鏡物や『愚管抄』『神皇正統記』などの歴史書は和文で書かれるようになったが、江戸時代になると再び儒学者によって日本の通史の編纂がおこなわれるようになる。江戸時代に編纂された『本朝通鑑』、『大日本史』等は儒学、特に幕府の保護を受け、急速に広まった朱子学の影響を大きく受けている。江戸の漢文で書かれた歴史書には朱子が『通鑑紀時綱目』の著作を通して、歴史を鑑として現在を投影し、そこから教訓を得、時勢をただそうとした態度に習い、大義名分をただすという姿勢もあった。こうした歴史書に儒教道徳を持ち込み政治の得失を論じようとする態度、特に伝説の堯舜禹という聖人君主が統治した時代を三代と呼んで理想化して、現在の社会問題を批判とする「是古非今」の姿勢は明治に入って西洋の学問を学んだ学者たちの批判の的となる。蘭学から出発し西洋文明の受け入れることを強く主張した福沢諭吉は明治5年(1872)に出版した『学問のすゝめ』の第一編で以下のように述べる。 学問とは、ただむづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云うにあらず。これ等の文学も自から人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すやう、さまであがめ貴むべき者にあらず。……されば今斯かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。……地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て其の働はたらきを知る学問なり。歴史とは年代記のくはしき者にて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたる者なり。修身学とは身の行を修め人に交り此の世を渡るべき天然の道理を述たる者なり。是等の学問をするに、何れも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、其事に就き其物に従い、近く物事の道理を求て今日の用を達すべきなり。 彼は漢学、国学を「実なき学問」と批判し、実学を勧める。そのためには「西洋の翻訳書」を手本として、才能ある若者には欧米の言語を学ばせ、事実に従い道理を求め、実用的な学問とすべきという。歴史とは「万国古今の有様を詮索する」ものであって、道楽でもなければ、過去の史実に対し主観的に毀誉褒貶を加えるものでもないという指摘である。 では当時の歴史はどの様に記述されていたのであろうか。『学問のすゝめ』の書かれた明治5年は丁度学制が発布され、これに合わせて小学校の歴史教科書『史略』が編纂された年でもある。『史略』は皇国、支那、西洋の三部からなり、皇国は後に万葉集研究者として有名になる国学者の木村正辞、西洋は蘭学を学び幕府からオランダ留学に派遣され最も早く世界の地理を紹介した『輿地誌略』を著した内田正雄の手になる。また、支那の部については国会図書館の目録によれば漢学者那珂通高の著作とされている。当然のことながら、この日本最初の歴史教科書はそれぞれ、江戸の国学、漢学、蘭学の伝統を色濃く残している。 支那の部は各王朝ごとに帝王の名を表題として、簡単な説明を加えたものにすぎなかった。 たとえば秦については始皇帝の名を挙げ、郡県制の成立、詔という言葉の始まり、皇帝の称号の導入とその政治の概要を記すにすぎない。さらに漢(前漢)では高祖、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝について書かれる。文帝については「恭倹にして政務よく行なはれ海内安寧、人ごとにところをえたり」、景帝は「呉楚の乱ありしかど遂に太平に属す」、武帝は「兵をおこし匈奴を撃ちつとめて国疆をひらきしが民力もまたこれによりてつかれたり」、宣帝は「精をはげまし治をなせり」とそれぞれの皇帝の政治に対する評価が書かれる。つまり、それぞれの君主の政治から王朝の盛衰を推し量り、これを教訓とするという、江戸の儒学の歴史観を継承している。 その後明治6年(1873)、大槻文彦が師範学校在任中『史略』より、日本の部分を除き、アジアとヨーロッパを抜き出した、『万国史略』を著し、それが翌年編纂者師範学校(東京)、出版者文部省として刊行される。『万国史略』は各王朝ごとに章立てされてはいるが、内容は為政者の政治の概要を簡単になぞっているにすぎない。前漢についてみると「漢ノ高祖劉邦ハ沛ノ人ナリ、寛仁ニシテ、大度アリ、微賤ヨリ起テ、兵ヲ挙ゲ先ヅ秦ヲ滅シ、漢王ト為ル……戦争五年、遂ニ項羽ヲ滅シ、国内ヲ平定シテ、帝位ニ即キ、長安ニ都ス、後高祖ノ后、呂氏政ヲ乱リシガ、陳平、周勃之ヲ平ゲ、文帝ニ至テ、徳ヲ以テ国民ヲ治メ国内安寧ナリ、武帝ノ時、始メテ建元と改元ス、是年号ノ始ナリ、此時、北ハ匈奴、東ハ朝鮮、并ニ南越、西域等ヲ征伐シ、大ニ国疆ヲ拡メ、遠方ノ外国ト相通ゼリ、又賢良才学ノ人ヲ挙ゲ文華尤盛ナリ」という もので、そこから当時の社会の状況とか、歴史の発展とかは全く伝わってこない。そこに福沢から漢学が「実無き学問」と批判される理由でもあろう。 これに対し、同じ『史略』でも西洋史の部分は福沢が主張する如く西洋の翻訳書を基に書かれ、「年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物」となっている。『史略』の「西洋史略緒言」で内田は以下のように述べている。 歴史を学ぶには先づ地理の大略を記臆し予め何れの国何れに在るを知るを肝要とす。また、年代の数へ方を知るべし。……古今の歴史概ね皆年代を上古・中古・近代の三段に分てり。即ち上古とは世の未だ開けざる初めより紀元五百年までを限る。中古とは五百年より千五百年まで其間凡そ千年とす。近代とは千五百年より今日まで大凡三百七十年間の事を云うなり。然れども此書国を以て分つが故に中古と近代の区別を為すときは反て混雑を生じ易きが故に今之を分たず。 『輿地誌略』を著し、地理に注目した内田らしく、子供たちには西洋の国がどこにあり、それぞれの国がどの様な歴史をたどったかを先ず学ばせようと考えた。その上で、歴史とは帝王や王朝によって記述されるのでなく、紀元すなわち年代によって記述されるものであること、これを上古、中古、近世とわけて記述されるものであることを述べる。 そこで『史略』は西洋史を「上古歴史」と「中古以下各国歴史」に分ける。「上古歴史」はメソポタミア、ペルシャ等のオリエントの歴史から説き起こし、ヨーロッパ文明の原点となる希臘(ギリシャ)、羅馬(ローマ)までの歴史を記述する。そして、「中古以下各国歴史」ではローマ帝国が崩壊後、西欧のそれぞれの地域で国家が形成され、近代にいたる歴史が書かれる。そのため、時代順でなく、アメリカ、トルコを含むフランス、イギリス、ドイツ、オーストリア等西洋の主要国毎に、ローマ帝国崩壊後の各国の成立から、近代へと移り変わってゆく過程が述べられる。内容的には確かに国王を軸とする政治史が中心に書かれてはいるが、ローマ帝国が崩壊して封建制へと向かう歴史、また絶対王政の成立から市民革命への道筋については国王と国民との関係をふまえ記述されている。市民を中心とする近代社会が西洋においてどの様に成立したのか、明治国家が向かうべき方向を西洋を手本に子供たちに教えようという姿勢が、西洋史の部にはかいま見られる。これが「万国古今の有様を詮索」し、「今日の用に達す」という福沢がすすめる「歴史学」の本来の姿と合致する歴史叙述なのであろう。漢学から出発した明治期の歴史学者にとっても、こうした西洋史の著述方法を無視することは出来なかった。 
2 考証学ら実証史学へ

福沢等から封建体制を維持するため、実証性の乏しい、実用性のない学問と指摘された漢学ではあるが、漢学にも考証を重視するという、古文辞学派、考証学以来の伝統があった。明治新政府は、自己の歴史的正当性を示すために、鎌倉以降途絶えていた朝廷による国史編纂を計画した。明治2年2月史料編輯国史校正局が作られ、国学者と共に藤野正啓・岡松辰・頼復等の漢学者もそれぞれ御用掛としてあつめられた。後に明治8年修史局副長となり、歴史学者を束ねたのが漢学者重野安繹である。重野は『大日本編年史』の執筆に当たり『春秋左氏伝』『資治通鑑』といった中国の編年史に体例を求めたが、儒教道徳的な基準で史実に毀誉褒貶をくわえる「春秋の筆法」や歴史を「鑑」としてとらえる歴史観とは一線を画している。重野は『太平記』の資料的価値に疑問を呈し、児島高徳の後醍醐天皇への忠誠を褒め称えたようなエピソードを史実でないと排除した。近代の歴史学は科学であり史料批判と客観的な実証によって裏打ちされたものでなければならない。こうした歴史学は明治20年(1887)東京帝国大学文科大学校創設に際し、外国人教師として招聘されたランケの弟子ルードヴィッヒ・リースによって日本に持ち込まれたものとされる。実際重野のこの実証的歴史編纂の姿勢の背景に西洋の実証を重んずる歴史学の影響を受けたものという評価もなされている。 しかし、内藤湖南は江戸の学術の伝統の中に既に客観的実証を重視する態度が生まれており、それが明治へと展開してゆくことを指摘している。明治30年(1897)、彼は最初の著作として日本文化史、特に江戸の文化史に関する『近世文学史論』を出版した。これは前年に大阪朝日新聞に連載した「関西文運論」を改称したものであり、「文学」という言葉が冠せられているが内容は、儒学、国学、医学といった江戸期の学術を網羅的に取り上げ、それを整理し、それぞれの学術相互の関係、及び展開を述べたものである。 この書で湖南は江戸の儒学の流れを以下のように整理する。江戸初期、幕府の庇護を受け広範に広まったのは朱子学、すなわち宋学であった。これに対し、貞亨・元禄の頃にいたり、朱子による解釈から離れ原典に戻ろうとする動きが生まれる。これが書物を調べることを重視し、師説にこだわることにとらわれなかった伊藤仁斎の復古の学である。また、荻生徂徠も道学(保守的な朱子学)に甘んぜず、経義を古文辞の中に求めた。そして木下順庵も文章は『古文真宝』、詩は唐詩を尊重し、経学も朱子学が重んじる『近思録』でなく『十三経注疏』を精読すべきと唱えた。この木下順庵門下から新井白石が輩出する。白石は三礼(儀礼、周礼、礼記)、日本の歴史記録を調べ、政治に役立たせようとした。また、『古史通』を書くに当たっては古語の研究から始め、言葉に意味を厳密にすることからはじめようとした。湖南は後に白石について日本において「科学的研究の気分が動」いた最初の歴史家として評価している。 こうした実学、博覧の考証学的気風は次第に広まってゆく。また、片山兼山、井上金蛾は漢唐宋明の諸家の良いところを選択しようとする折衷学を唱える。金蛾の弟子吉田篁墩は考証学を広め、安永・天明の頃から長崎を通じて清朝考証学の書籍が直接輸入されるようになったこととあいまって、考証学はいよいよ盛んになった。また、国学も日本の古来の書物を、字義からきちんととらえ直し、その真意を探ろうとする、客観的姿勢より出発し、展開していったことをのべる。 つまり湖南は、福沢が西洋の学術について評価する「一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達す」という学問姿勢が江戸の学術にも存在していたことを指摘し、漢学の伝統から近代的な歴史研究が生み出されると確信していたと思われる。実際この『近世文学史論』発想の根底には清の考証学者趙翼が唱えた地気説、すなわち政権を生み出す気が移動し、それと共に政治の中心地も移動するという考え方がある。湖南は趙翼の中国史に対する見解には一部疑問も呈するが、この発想を日本の文化の中心地の移動という観点で援用する。つまり、江戸時代以前の公家によって支えられ京都を中心としていた文化は、武人政権の確立と共に表面的には江戸に移ってしまったかに見える。しかし、伊藤仁斎や荻生徂徠の学問の革新性は関西に受け継がれ、江戸の後半には関西に学術の活気が戻ってくるという整理がなされている。 実際、漢学の伝統をふまえ湖南に先立ち中国史の時代区分を試み、近代の中国史研究の基礎を築いた人物に那珂通世がいる。彼は南部藩藩儒で先に言及した『史略』の編纂者とされる那珂通高の養子となり漢学の知識を蓄える。後に慶應義塾に学び、西洋的な歴史学の手法も身につけた。彼が明治の学界に衝撃を与えた著作に、伝承による日本の紀年(皇紀)を実証によって検証し、これを約六百年短縮すべきとする『日本上古年代考』がある。明治21年(1888)に発表した(初出は明治11年)。那珂は明治30年に『日本上古年代考』を更に発展させた『上世年紀考』を出す。この説を『大日本編年史』編纂事業に加わった星野亘が支持したことから、漢学者中心の日本史編纂事業に不満を懐いていた小中村義象等国学者達の猛反発を受け、星野が那珂に代わり集中的に批判を浴びることになる。そしてこれ以後日本において紀年論争はタブー視されるようになったという。漢籍を利用しつつ考証によって日本史を研究しようとする漢学者系統と、神話から歴史を始めようとする国学者系統の学者との間でおこった対立であった。湖南はこうした国学者の国史学の実証を無視し、漢籍資料を無視する態度について怒りを込めて以下のように述べる。 尤も中には本国中心主義とは称しながら、平田篤胤等の如く、他の国の古代状態を研究して、それを本国の古代史に比較しようと試みたものもある。然し此の方法はその外形が依然として本国中心主義であるが為に、多数の低能な国学者には、其のきはどい研究法が理解せられずに終ったことが多い。明治以後史学が盛んになったと云っても、やはり此の本国中心主義が依然として国史界を支配して居り、少しきはどい研究法を用ゐると、動ややもすれば神職および教育家等から道具外れの攻撃を受ける事を常とした。……日本国の成立せる素因を幾分外界の刺激に帰することさへも不都合とし、外国の材料に依って研究することは、動もすれば記録の不確実なる朝鮮の歴史から推究さるることは寛容しながら、記録の確実なるシナの歴史より推究さるゝことを務めて排斥する傾きが多かった。それ故日本上古に関する見解の程度は、今日に於ても依然として国学者流の圏套を脱しない。これは今後の研究において、国史上の一大問題とせなければならぬ。 実証や考証を重んじて『大日本編年史』の編纂をしたり、漢籍を利用しつつ紀年について考証する漢学の流れを汲んだ歴史学に対し、国学者特に神道家一派は強く反発し、時には政治的な力も利用しつつ、その排除を図っていたのである。歴史研究を始めた明治の中期においてその傾向を実感した内藤湖南は、国史界の狭隘な「本国中心主義」による「神職および教育家」に対し「低能」呼ばわりし、漢学から出発した歴史研究の実証性をより高く評価したのである。 こうした、漢学の実証による中国史研究の一つの到達点が那珂通世の『支那通史』の刊行であろう。 
3 那珂通世『支那通史』の到達点

中国史に時代区分を行い、その通史叙述した最初の歴史書『支那通史』は、明治21年から23年にかけて出版された。この書は従来の君主の事績を並べただけの教訓としての歴史、歴史を「鑑」と見て為政者に対し毀誉褒貶を加えるという、中国の古典的史書の書き方に対し、各時代毎に、それぞれの時代の経済や文化にまで記し、各時代の特徴について言及したところに特色がある。もともと漢文で書かれたこの本を書き下しにして岩波文庫に所収するに当たり、序文で和田清はその価値について以下のように述べる。 是より先き、維新の大業が成って我が邦の文運が大に開けるや、新興の洋学と共に、併せて東亜の形勢を容易に知るべき簡明なる史書に対する要求が蔚然として起った。この急需に応じて用ひられたのが、在来の元の曽先之の「十八史略」や清の姚培謙・張量星同撰の「通鑑擥要」等である。……併しこれらの史書の説く所は、専ら表面の政治軍事の変遷の大要に止まり、更に深く突込んだ時代の背景や制度文物の沿革等に至っては殆ど全く記してゐない。これでは到底新時代の新要求に適し難いといふので、茲に那珂博士の奮起となり、その苦心経営数年の結果がこの「支那通史」を生んだのである。 和田が指摘する通り、『支那通史』は『史略』『万国史略』が帝王の政治、王朝の興亡に終始するのに対し、上古の第七編「世態及び文事」では家族制度や礼制が、第八編「先秦諸子」では文字通り諸子百家が取り上げられている。また、中世史上の第七編は「制度略」と題され、秦漢三国の官制や爵制について説明されている。これは制度、文物の沿革に言及しようとした那珂の功績といえよう。 しかし、那珂にあっても依然として中国史の柱は政治の動きであって、社会の発展の観点から分析するというレベルには達していない。那珂は『支那通史』の冒頭で時代区分を行う際の考え方について以下のように述べる。 支那は宇内の旧邦なり。開創以来数千年にして、更々王たり。興亡相踵ぐ。……漢人治を談ずれば、必ず唐・虞三代の隆を称す。三代とは夏・商(殷)・周を謂うなり。其の文化の盛なること、尽く漢人の称する所の如くならずと雖も、而も四隣皆純夷の時に当り、漢土独り礼楽の邦と為り、政教風俗已に美を東洋に擅にす。以って古代開化の一例を観るに足る。秦・漢以下二千余年、歴朝の政俗は殆ど皆一様なり。文化凝滞して、復た進動せず、徒に朝家の廃興反復するのみ。……然れども其の間治朝有り。乱世有り。秦・晋・隋の如きは暫く一統を為すと雖も、其の業長からず。漢・唐・宋は運祚久延にして、政俗又観る可き者有り。故に昔人或は之を称して後三代と為す。其の後元・明・清相踵ぎ、皆隆盛の朝たり。此れも亦近世三代と称するに足れり。然らば則ち古三代の後、二十六朝、其の盛世と称す可き者は、即ち両次の三代なり。故に今編述の便を図り、仮に古今を分つて三大紀と為す。唐・虞三代より六国の秦に併せらるるに至るまで二千余年、是を上世と為す。秦より漢・唐を経て宋・金の衰ふるに至るまで千四百余年、是を中世と為す。元初より明を経て今に至るまで六百八十年、是を近世と為す。中世近世は又各々其の三代に因り、分つて三紀と為す。毎紀一巻を以って之に充て、以って歴代治乱分合の概略を叙す。 庶幾くは初学の徒、或は由つて以って我が隣邦開化の大勢を察するを得ん。 つまり那珂は「治朝」と「乱世」の繰り返し、秦漢以下二千余年は「歴朝の政俗は殆ど皆一様なり。文化凝滞して、復た進動せず、徒に朝家の廃興反復するのみ」と述べ、社会や文化の質的展開を認めていない。毀誉褒貶の歴史学から脱却しようとした那珂においてもまだ中国史の質的発展をふまえた時代区分は出来ていないのである。こうした時代区分に対し、内藤湖南も満足できなかったようである。『支那上古史』の中国文化の発展とその反動から東洋史の時代を区分すべきという指摘の冒頭で、湖南は以下のように述べている。 さて支那文化中心の東洋史は、随分長い時代を経過して居る。支那人の普通にいふ所をみれば、此頃は黄帝以来四千何百年と紀する者さへある。而して支部には時々革命があり、朝代の連続があつて、之に依つて時代を区分するのを最も便宜として居る。近来西洋に倣ひ、上古史・中世史・近世史と区分するやうになつても、猶ほ上古は開闢より三代まで、中世は両漢六朝、唐宋は次の一区画、元明清はその次の一区画とするが普通である。 しかしこれは東洋全体の支那文化発展よりいへば無意味である。真に意味ある時代区分を為さんとするならば、支那文化発展の波動による大勢を観て、内外両面から考へなければならぬ。 すなわち湖南は、「革命」と「朝代の連続」で時代区分を行うことを「東洋全体の支那文化史発展よりいへば無意味」と批判している。また唐宋変革を述べた『中国近世史』の第二章の冒頭でも次のように言っている。 支那の近世は何時から始まつたとすべきであるか。従来は多く朝代によつて時代を区劃する方法が行はれたが、これは便利なやうであるけれども、史学的には必ずしも正確とは謂へない。史学的に言ふときには、近世には、たゞ年数から云つて今の時代に近ばかりではなくして、必ず近世を形成する内容がなくてはならぬ。その内容が何であるかは次に述べるが、さういふ内容をもつた近世は、これを宋以後とすべきである。而して宋になるまでには、中古より近世への過渡期がある。近世史を明かにするには、この過渡期から考へる必要がある。 ここでもやはり湖南は、「朝代」による時代区分や現代との時間の距離でもって中国史の時代区分を行うことを「必ずしも正確でない」と斥けるのである。そして「真の意味ある時代区分」、「内容」をもった時代の設定を主張するのである。では中国史を「治」と「乱」の繰り返しでなく、いかに「内容」や「意味」を持たせて行くか。そこに湖南の歴史研究の原点があるように思われる。 
4 アジアの伝統の再評価

明治初期の歴史学は先述の通り西洋に学び、文明開化を推進しようという機運の下に発達した。これを推し進めた福沢は漢学に強い拒否感を持っていた。彼は「治者は上なり主なりまた内なり、被治者は下なり客なりまた外なり。上下主客内外の別、判然として見るべし。けだしこの二者は、日本の人間交際に於て最も著しき分界を為し、あたかも我が文明の二元素というべきものなり」と明治に至る以前の日本の社会が治者と被治者の二元素から成り立っていることを指摘し、こうした社会を生み出した背景に儒教道徳があったと考える。そうして「政府の専制、これを教る者は誰ぞや。たとい政府が本来の性質に専制の元素あるも、その元素の発生を助けてこれを潤色するものは、漢儒者流の学問にあらずや」、「この病毒の勢いを助けたる者は誰ぞや。漢儒先生もまた預て大に力あるものなり」と、儒教及び儒学者を厳しく断罪する。 こうした、儒教に対する批判的態度は『日本開化小史』を著した田口卯吉も同じである。彼は福沢とは違い治者と被治者(人民)との間の断絶に注目しつつも、江戸時代に完全ではないが「開明の現象」が現れたことを指摘する。しかし徳川の封建制度は儒教道徳、すなわち「忠義の教え」によって維持され、「徳川時代に行はれたる孔孟の教は忠義の事に切なること却て純粋なる孔孟の教より甚し」いものがあったとして、福沢と同じく儒教及び儒学者を開化を妨げたものと位置づける。確かに儒教にも「王室(天皇)」への忠義、いわゆる勤王への指向も見られたが、これを倒幕へと導いたのはやはり「米洲の黒船太平洋を越えて我浦賀に著し通商貿易を請求したること」と、日本の独自的発展より、西洋の衝撃によって明治維新への道が切り開かれたとする。この文明史観の立場に立つかぎり、中国及び明治以前の日本の歴史は積極的評価の対象とはならないし、発展の道筋も浮かび上がってこない。湖南が東洋史への評価を高めてゆくためにはまずこうした文明史観の漢学に対する否定的な評価を変えてゆく必要があった。 そもそも、湖南は当初から東洋史研究を目指していたわけではない。秋田の師範学校を卒業して教員の道に進む。しかし、二十才の時上京して英語を学ぶかたわら、ジャーナリストとしての仕事を目指す。そして、本格的に中国史研究に取り組む以前、日清戦争が始まり、日本軍が快進撃を続ける中の明治27年(1894)11月、勤めていた大阪朝日新聞に「日本の天職と学者」という評論を掲載する。その中で湖南はまず日本文化が中国文化の影響の下で発展し、開化してゆくという過程を説明する。 蓋し王代の隆治は、唐の文物を受けて、而して之を融化し、江戸の盛世は、宋明の学術を伝へて、而して之を含咀し、皆因て以て国家特色の文華を援起し、各其美観を極めたり。其教義の世道人心を綱紀する者、王代は則ち佛教ありて、伝来十宗の外、法然の専修念仏、日蓮の題目、新たに機軸を出し、江都は則ち儒学ありて、尊王攘夷の論、忠孝仁義の談、自ら王政中興の基を成し、其の美術の国民の品位を崇うする者、寧楽らの彫像、印度に非ず、希臘に非ず、隋唐に非ず、清秀温雅、別に所長を見し、巨勢氏、土佐氏の唐画を変じ、狩野氏、雲谷氏の宋元画を承くる、光琳氏、円山氏の新手法を開ける、髹漆の東山に盛んに、陶磁の徳川に進める、乃ち伎楽雅楽の隋唐の旧を存して、寧楽平安の間、金声して而して之を玉振せる、平語謡曲の足利氏に出でゝ、小唄浄瑠璃の徳川氏に発達せるに至るまで、衆伎雑流、凡そ所謂開明せる社会の当さに有るべき所、殆んど有らざることなし。 まず平安(王代)の文化が唐の文物、江戸が宋明学術の影響をそれぞれ受けた。そして、そうした中国文化を咀嚼消化したことで江戸(江都)で儒学が盛行して尊王攘夷の論も起こり、明治維新(王政中興)の基になる。また中国の美術を消化した結果奈良、平安に日本独自の仏像彫刻がおこり、巨勢、土佐、狩野の各派の美術が作られ、尾形光琳や円山応挙の絵画を生む。漆芸、陶磁も日本的特徴を帯び、中国から伝来した伎楽、雅楽も日本的に消化して平曲や謡曲、小唄、浄瑠璃を作り出したと述べたのである。湖南は日本の学術文化が中国の影響の下で発展した点を確認した上で、それを日本人が咀嚼、消化、吸収したことに注目したのである。湖南は伎楽雅楽を隋唐の文化を受けた「旧」いもの、宋元画を受け入れた戦国後期から江戸の絵画を「新」しいものと、隋唐文化と宋元明文化の間に展開、発展の相を認める。そして、「江都は則ち儒学ありて、尊王攘夷の論、忠孝仁義の談、自ら王政中興の基を成」したと福沢が徹底的に排斥した儒学思想に明治維新の基盤があったと指摘するのである。湖南は文明史観が江戸を否定し、明治維新の意義を高く評価しようとしたのに対し、宋元明時代に起こった新しい文化を受けた江戸の文化を評価し、これを明治維新の前提としようと、発想を逆転させたのである。 すなわち、湖南は隋唐と宋元の間に文化の変化があったこと、その文化の変化を受け入れた日本文化にも発展があったこと、そうした新しい江戸文化を明治維新の前提として位置づけることで福沢等の漢学や中国史に対する否定的な評価を変えようとしたのである。ただ、それだけでは直接「内容」のある時代区分には至らない。 
5 湖南の近世論と時代区分

 

唐宋変革論を述べた『支那近世史』で湖南は「近世を形成する内容がなくてはならぬ」という。湖南が考えた近世の内容とは「貴族政治が廃頽して君主独裁政治が興ったこと」である。 気になるのはこれを総括する部分の湖南の言葉である。この貴族政治は、唐末より五代までの、中古より近世への過渡期の間に廃頽し、これに代つたものが君主独裁政治である。貴族廃頽の結果、君主の位置と人民との間が大いに接近し来って、高い官職に就くのにも、家柄としての特権がなくなり、全く天子の権力によつて任用されることゝなった。……しかしかくの如く貴族政治から君主独裁政治に入つたのは、どこの国にも見られる自然の順序である。 湖南は貴族政治から君主独裁政治へと移行するのは何も中国ばかりのことではない、「どこの国にも見られる自然の秩序」というのである。ヘーゲルのように「一人の者が自由」から「少数の者が自由」そして「すべての人が自由」というように「自由」の発展で歴史を考えるのならば、これはそれに逆行する考え方ともとれる。 この問題を考える上で忘れてはならないのが京都大学の同僚、内田銀蔵や原勝郎との交流である。日本史の内田、西洋史の原は湖南と共に京都文化史学の伝統を築き上げたとされる。内田、原の二人はともに東大で先述のルードヴィッヒ・リースに歴史を学び、ランケの実証と史料批判を重んじる近代歴史学の手法の洗礼を承けた。その後彼等はヨーロッパに留学し、近代西洋史学を目の当たりにして帰国したのである。こうした西洋史の認識を基礎に比較史的観点から日本史を分析し、日本経済史を専門とした内田は明治36年に『日本近世史』を出版、原も西洋史が専門であるにもかかわらず、内田に触発され39年に『日本中世史』を上梓した。 内田は『日本近世史』で、「足利氏の季世より織田、豊臣二氏の時代を経て、徳川氏の初世に至るまでの間は、一つの時期より他の時代に移る過渡の時代なりしというべし」、と足利の末から江戸の初期が近世への転換期であると指摘する。それはこの時期の変化が西ヨーロッパの中世から近世への過渡期に著しく類似していることをその理由とする。 第一にこの過渡の時代の著しき現象は、文学の復興なり。……第二にこの過渡の時代の他の著しき現象として、余輩は商工業の発展、都府の発達、及び金銀貨幣流通のようやく盛んなるに至りしことを挙ぐることを得べし。……第三に政治上につきていうも、この間の時代は、顕著なる過渡の時代なりしことを認むべし。それ応仁の乱後解体その極に達し、群雄割拠、各々独立の姿をなし、ほとんど統一する所なかりしといえども、解体その極に達するや統一の気運はおのずから来たれり。……織田、豊臣二氏の功業によりて、海内ついにまた一に帰し、而して徳川氏これを承けて、充分に秩序を確立し、よく久しく持続すべき太平の治を啓くことを得たり。その当時の勢いよりして、未だ封建を廃して郡県となし、真に中央集権的の政治組織を構成するに至らざりしといえども、しかも結合及び統属の関係充分に確立し、事実においてよく全国を統御宰制し得る強固なる中央政府は、ついに建設せられ得たるなり。これ中世の末ヨーロッパの諸国において、王権を盛んにし、中央集権を馴致せんとの一般の趨勢ありしに対比すべきものにして、この点においてもまた我が国民の生活は、この過渡の時代において新たなる時期、新たなる段階に向かい進み行きつつありしことを見るべき也 内田は、文芸復興(ルネッサンス)、都市、商業の発達、そして徳川時代を地方分権から中央集権的な方向へ向かったことを挙げ、江戸をヨーロッパ近世の絶対王政と対比させた。このように江戸時代を日本の近世とするという説を導き出す上で、内田は西洋における近世と日本史の比較という視点を用いたのである。そして、歴史の後退とも思われる江戸幕府の鎖国政策は「対外活動の時期にあらずして、次に来るべき世界交通の時代において大いに飛躍せんがための準備的修養の時期」にあって、輸入を減らし金銀を蓄え次の飛躍に備える上で有効な政策と評価される。さらに江戸期はヨーロッパ近世の様に戦争での海外発展という政治外交上では見るべきものがなかったが「人道の進歩と人文の発達」を見たことを指摘し、江戸時代の経済や文化の発展の結果、明治という近代が生まれたとの認識を示した。内田が江戸を近世と呼ぶのには、湖南同様明治という近代を準備したという意味も込められている。 内田もまた、日本の近世文化成立における中国文化の役割についても目を向けた。彼は「宋元明の文物、すなわち近世支那の文化は鎌倉及び室町時代の間、引き続き我が邦に輸入せられたりき。この宋元明の文物たる、すこぶる隋唐の旧文明とその趣を異にする所ありて、その我が国民の上に与えたる影響は、これを先の隋唐文化に比するにすこぶる殊別なるものありしを見る」と述べ、平安を隋唐文化の影響を受けた文化、鎌倉及び室町時期を宋元明文化の影響を受けた時代ととらえ、宋元明の文化を「清新の趣を具えた」中国近世の文化と把握したのである。そして、「これによりて我が国民はおのずから芸術の新たなる趣味を悟得し、精神上新たなる感化を受け、ついに文芸復興を馴致」したのであり、「近代日本の文化は、主としてこの近世支那の文物の刺激の下に徐々に発展成形せるもの」との認識を示した。つまり、内田は宋元明の文化が近世的であり、それを輸入することによって、隋唐の影響を受けた平安文化を乗り越え、日本の近世(江戸)の文化すなわち「文芸復興(ルネッサンス)」がもたらされたと考えたのである。 近世文化を平安文化の克服の結果とし、それを江戸期ととらえる見方は原勝郎にも共通する。西洋史を専門とする原も『日本中世史』『東山時代における一縉紳の生活』という日本史研究に影響を与える事になる著作を残した。彼は「此時代〈鎌倉・室町〉が本邦文明の発達をして其健全なる発起点に帰著せしめたる点に於て、(平安の)皮相的文明を打破して之をして摯実なる径路によらしめたる点に於て、日本人が独立の国民たるを自覚せる点に於て、本邦史上の一大進歩を現したる時代なることは疑ふべからざるの事実なり」との認識を示し、「日本国の、大体に於て此間に顕著なる発達を致せるを認め、徳川時代の太平も実に其余恵なることを信ぜむと欲するなり」と鎌倉・室町の再評価を試みた。また、三条西実隆の日記をもとに書かれた『東山時代における一縉紳の生活』では、鎌倉から京都に中心が戻った室町時代は復内田銀蔵『日本近世史』(1903)緒論。1975年平凡社東洋文庫で再刊されている。また筑摩書房明治文学全集78(1976)にも採録される。 古は復古だが新たな復古であり、ある意味で西洋のルネッサンスにも相当する。たとえば、源氏物語をはじめとする物語の受容、連歌に見られる和歌の隆盛、公家達の連歌師宗祇との交流は平安文学の新たな展開という点でルネッサンスに相当し、地方武士との交流、荘園をめぐる武士との棲み分けといった生活は近世へと向かう新しい公家〈縉紳〉の姿を示すものとしてその時代を描いた。 近世とは平安時代に強く見られた古代的要素を克服し終えた時代とする点、近世の特徴を文芸〈文教〉復興と下層階級の地位向上に見いだしている点、その傾斜を固めた時代としての戦国から織豊政権の時期を高く評価するという点で原と内田は基本的に軌を一にする。これらの評価は日本史を西洋史と対比し、西洋のルネッサンスから絶対王政へ向かう時期を近世として意識することによって初めてなしえたものといえよう。 この平安と江戸を対比させ江戸の文化の進歩性を指摘する見方は湖南の「日本の天職と学者」、『近世文学史論』における認識に酷似する。というより内田の『日本近世史』自体が湖南の『近世文学史論』を継ぐ著作と評価されたという。ただ、京大着任前の湖南の著作では日本の文化と中国文化の発展を平行させてとらえることで、近世という概念を引き出していた。 更に、この内田や原の西洋史との比較で近世をとらえるという視点が加わることにより、宋代の庶民文化、宋代の君主独裁政治の進歩性を評価し、宋代近世論を確立するに至ったと考えられるのではなかろうか。 ただし、絶対王政を近世の特徴とする見方は、明治初期の「文明史観」のヨーロッパ文明に対する理解に既に現れていた。福沢諭吉は明治7年に発表した『文明論之概略』で封建制から次の時代への移行を以下のように述べる。 ここには、仏蘭西の学士ギゾー氏所著の文明史及びその他の諸書を引て、その百分の一の大意を記さん。……野蛮暗黒の時代漸く終て、周流横行の人民もその居を定め、ここに於いてか、封建割拠の勢いに移りたり、……この時代をフヒユーダル・システムの世と称す。……国内の武人、諸方に割拠して一の部落を成し、山に拠りて城を築き、城の下に部下を集め、下民を奴視して自から貴族と称し、現に独立の体裁を備えて憚る所なく、武力を以て互に攻伐するのみ、……右の如く封建の貴族、独り権を専らにするに似たれども、決してこの独権を以て欧羅巴全州の形勢を支配するにあらず。宗教は既に野蛮の人心を籠絡してその信仰心を取り、紀元千百より二百年代に至りては最も強勢を極めたり。……この時代(王政の成立期)にありて王室に権を集ることは、仏蘭西のみならず、英国、日耳曼(徳国)、西班牙の諸国に於てもまた皆然り。その国君のこれに勉めるは固より論を俟たず。人民もまた、王室の権に籍りてその讐敵なる貴族を滅ぼさんとし、上下相投じてその中を倒すの風と為り、全国の政令漸く一途に帰して、やや政府の体裁をなすに至れり。 これは、民衆勢力が国王の権力と結合することによって倒され、絶対王政が打ち立てられ近世へと向かうというギゾーの歴史理解を説明したものである。福沢が根拠とするギゾーの『ヨーロッパ文明史』は明治7年から8年にかけて永峰秀樹によって英語版から、明治8年には室田充美によってフランス語の原著から翻訳されるなど明治初期においてかなり注目された著作と思われる。永峰の翻訳によって、この部分のギゾーの著述を要約すると「封建政体」は、「市邑」が「其自由を得んと一時に各領主に反したる」事件に遭遇する。こうして成立した「自由市邑」は十字軍を経て、力を増す。一方で王権政体も「国家の治安を保護するに無双の一勢力たる政体」へと変化する。王権は「国安、公義、公利の三事の受託者となり」、人民の「親愛を得て、人民の勢力を集合して自己の勢力となした」。すなわち、王権と封建領主に抑圧されていた民権が結びつき、封建領主を排除して「王権政体」が成立する。こうして「政府・人民の二者に帰した」ヨーロッパは様々な経過を経て「専制」と「自由」の二者の対立に至る。そして、この対立こそがフランス革命生み出す根源であったということになる。湖南が「どこの国にも見られる自然の順序」という「貴族政治」から「君諸独裁政治」への移行とは、まさに封建制社会から絶対君主政への展開を意識したものでなかったのだろうか。そしてその先にあるのが「政府」と「人民」の対立の末生まれる「共和政」と考えると、彼の『支那論』における唐宋変革から辛亥革命へいたる歴史の流れ、共和政の必然性も理解しうるのではないか。 すなわち、湖南の歴史学は江戸漢学の古文辞学、古学や清朝の考証学の伝統を積極的に評価し受け継いだこと、西洋の時代区分論、特に近世論を認識したことでその地位を築いたといえよう。 
結びに代えて

 

湖南の歴史学はある意味で西洋文明に対する日本の遅れをアジアの伝統に帰す福沢等の文明史観の学者、その逆に天皇の権威を高め、それをてこに明治政府の基盤を固めようとする国学者との葛藤によって生み出されたともいえる。 豊前中津藩の下級武士の子に生まれ、封建的身分制度の体制下苦労し、「私のために封建の門閥主義は親の敵で御座る」とまで言い切った、福沢が明治維新を迎えた時点で、アジアの文明を否定し、文明開化を説くにはそれなりの理由があろう。また、強力な中央集権国家を目指す明治政府の教育を支えるために、神話を持ち出した国学者にも彼等なりの言い分があろう。 日清戦争の戦果にわく中で「日本の天職と学者」が書かれた。そこで、湖南は日本の文化の特徴がかつては中国、そして現在は西欧と外来文化を咀嚼・消化・吸収したところにあること、そうした力を利用して新しい「坤輿文明(世界文明)」の中心となるべき新しい学術の創出を目指すことが日本の「天職」であり、学者の使命であると説いた。この立場は一貫して貫かれた。大正10年に行った講演で湖南は「世界の最も完全なる文化を形作る為には、自分で従来有って居った文化の価値を十分認めて、さうして何処までも其長処を保持して、更に他の長処も十分取入れるといふことが必要であって、自分の文化に心酔して、他の文化を全く排除するといふことは、決して最良の手段でないと思ふのであります」とのべる。 西洋を無批判に評価する文明史観と狭隘化する国学流の国史学の谷間から生まれた湖南の歴史学は歴史事象の一面だけを恣意的にとらえるのでなく、幅広く客観的に分析しようとする特徴も併せ持つ。近年、ややもすると偏狭なナショナリズムが首をもたげ、嫌中的論調や歴史認識問題などを引き起こしているが、こうした時、湖南の歴史に対する態度を振り返るのも意味あることではなかろうか。 
 
現代日本のナショナリズムと「教科書問題」

 

一、はじめに
本日は「現代日本のナショナリズムと『教科書問題』」をテーマにお話させていただきます。ご承知のように、二〇〇六年、安倍晋三内閣が成立し、従来の「右翼的」発言もあって、日本の右傾化、あるいはナショナリズムの強化が懸念されております。確かに、「美しい日本」といった美的・感傷的スローガンの登場、「道徳」を重視した教育改革、自衛隊容認と天皇の元首化も企図した憲法「改正」に向けた国民投票法の可決など、全般的な右傾化は否定すべくもありません。前小泉首相による「構造改革」によって一挙に拍車がかかった観のある、いわゆる格差の拡大が、社会の分裂を押し隠すための統合イデオロギーを必要としている、という背景もあります。何よりも、アジア諸国との関係では、「戦後の清算」を掲げ、「従軍慰安婦」問題に対しては、これまでの「反省」を覆すかのごとき発言が繰り返されていることも、右傾化の表徴として、懸念されるところだと思います。また、靖国神社参拝問題が、政教分離問題や戦争責任問題とも関わって、いつ噴出するか分からない深刻な事態として存在していることも周知のとおりであります。 このような右傾化が進行していると考えることに対して、私は正面から否定するものではありませんし、事実、むしろ若者の間で、その傾向が進行していることについては、大学教育に携わっている者としても、深刻に受けとめています。しかしながら、他方では、ことはそんなに単純に進行しないとも受けとめています。その理由は、大きくは二つほどあります。一つは、現下のグローバリズムが、いかなる国家主権といえども、もはやその構造に刃向かえないものとして、その意味では単一の政治システム・経済システムとして存在していることが挙げられます。それは、ネグリ&ハートの言葉を借りるならば[2]、一つの「帝国」として、全世界の国民国家の上にのしかかり、十九世紀以来の国民国家が保有してきた権力・権限を大きく制約しているといわなければなりません。このかぎりでは、日本政府が、あるいは日本国家が、「帝国」の政治意志・経済意志を無視して暴走することなどは、考えにくいことだといえます。無論、現下のグローバリズムが、ナショナルな原理を解体しているなどと楽天的なことをいっているわけではありません。事態はその逆だといえます。グローバリズムの進展が、正確には「帝国」化の進展が、自由競争という名の全世界の国民国家の序列化を推し進め、結果として全世界で深刻な紛争が激化しています。元来、平等ではなかった国民国家間の格差や搾取がますます拡大し、生き残りをかけた競争が熾烈なものとなるにつれ、それが結局はナショナリズム、あるいは「宗教ナショナリズム」として噴出していることは、周知のとおりであります。日本における現下の右傾化も、こうした動向と無関係ではありません。ただし、ここでいっておきたいのは、そうであればこそ、それは十九世紀〜二十世紀前期のナショナリズムの単純な復活として現出することは、ありえないということです。こうしたグローバリズムに媒介されたナショナリズムとして、姜尚中の言葉を借りるならば[3]、「国際化」され、「内と外とが相互に浸透していくグローバリズム化されたニッポンのナショナリズム」として、いわば国際構造に規定され、その国際構造に勝ち抜く方策として、作為されているのが現下の右傾化だということに注意を向ける必要があります。無論、ナショナリズムがナショナリズムである以上は、それが古典的な様式、すなわち「伝統」や「美意識」に作用する、作為された「自然」として装われることは、安倍政権の路線にも現れているとおりです。しかしながら、いかに「自然」として装われているにしても、その作為性は国際構造に規定されている分だけ、二十世紀前期よりもはるかに可視化しやすいものとして存在していること、のちにのべるように「教科書問題」にもその点が現れていることに、ここでは注意を喚起しておきたいと思います。 第二に、グローバリズムと関わりながらも、それとは明らかに一線を画する「インター・ナショナリズム」が、ようやくにして進展していることにも目を向けておきたいと思います。いわゆる「韓流」ブームについては、無論さまざまな見方がありますでしょうし、それだけで日韓関係を好転させる特効薬のように捉えることは、戒められるべきでありましょう[4]。北朝鮮に対する日本の世論、「拉致問題」などに関わる日本の世論ですが、それは現下の日本の右傾化の牽引車の一つとなっているとわたくしは考えますが、それが朝鮮半島=韓半島に対する歴史認識問題、戦争=戦後責任問題を受けとめる方向になりつつあるかに見えた一九九〇年代までの世論に冷水を浴びせたこと、そしてそれと「韓流」ブームが共存していたことには、もっと目を向けるべきでありましょう。「韓流」だけでは、とても日韓関係の好転をいうことができないというのは、その意味では説得的です。ただ、わたくしはこちらに来てから実感しているのは、恐らくこの「韓流」とも交差しながら、多くの交流がそれこそ「草の根」で実現されつつあることです。韓国語を学びに来ている留学生や語学交換学生も、わたくしの予想を上回る数になっています。一つエピソードを紹介するならば、先日釜山のホシムチョンに行ったとき、九州柳川の中学生多数が韓国の中学生と、文字どおり裸の付き合いをし、ワーワーと騒ぎあっていました。聞けば、例年お互いにホームスティしつつ交流する定例行事になっているとのことで、それはわたくしの目には、きわめて微笑ましいものに映じました。しかも、かれらは互いの言葉を学びあっているとのことでした。こうした交流は、確実に定着しており、それは近代以降の日韓関係を画期的に変容させる「インター・ナショナル」なものとして成長していくことに、わたくしは一定の楽天的見通しをもっています。無論、こうした動向が、逆にそれを快く思わない人々を刺激し、たとえば「嫌韓流」のようなイデオロギーを生みだし、今後ますますその不協和音が拡大していくことも事実でありましょう。しかしながら、それだけで過剰に反応することは、かえって未だ少数派である「嫌韓流」潮流を過大評価することになるのではないでしょうか。これは、「教科書問題」にもいえることで、ご承知のようにそれが検定を通ったこと自体は、無論日本の文部省(のち文科省)、日本政府の責任といわざるをえないとしても、実際の採択率は歴史〇.三九%、公民〇.一九%という散々なものであったことも事実です(二〇〇六年度)[5]。それが社会問題であるかのように大きく問題にすればするほど、かえって「新しい歴史教科書をつくる会」のねらいにはまってしまうという面もあります。かれらのねらいは、何よりも日本社会に亀裂をつくり出し、あるいは東アジア社会との間に亀裂をつくり出し、そのことで日本のナショナリズムを大きく演出していくことにあると考えられるからです。無論、かれらを厳しく批判をしていくことは重要です。また、それが少数意見に過ぎないことをもっと実効的に伝えられるだけの、さまざまな「草の根」の交流も重要です。少数意見といわれても、それを怪訝する韓国・中国の方々の見方には、それなりの理由・歴史的背景があることも、十分に理解する必要があります。ただ、ここでは、右傾化といっても、それほど一方通行的に進行しているわけではないことを最初に申しのべた次第です。 
二、「『人』にはどのような歴史があるのか」

 

さて、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書ですが、それがきわめて問題が多い教科書であることはいうまでもありませんし、今のべた現下の日本の右傾化を象徴するものであることは明らかであります。ただし、あえていえば、わたくしはこの教科書だけが問題ではないという視点も必要であるという立場にたっています。以下ではこの点からのべていきたいと思います。そのために、まず「人」にはどのような歴史があるのかを考えてみます。「人」と言いましても漠然としたいい方ですが、まず自分自身のことを考えますと、桂島という「私」ここにおります。同時に不可分のものとして男性としての「私」がいます。もちろん、ここには女性としての「私」もおられます。さらに大げさなものを背負っているわけではありませんが、桂島家の一員としての「私」がここにいます。実は、桂島というのは日本では大変変わった苗字です。宮城県の没落地主の家だったらしいのですが、いずれにしても、家の歴史というものがあります。さらにわたくしが育った場所があります。故郷と呼ぶべき市町村、都道府県(韓国では市・郡、道)があります。ここには、故郷に愛着を感じている方もたくさんおられると思いますが、戦後の日本の歴史学で一番大きな成果が挙がったものの一つは、郷土史=地方史だと思います。夥しい量の市町村史、都道府県史が出ています。さらにわたくしは日本国民としてここにいるわけです。日本国籍を持っているということで、それを略して日本人というわけです。わたくしは日本人である。日本人である「私」を考えた場合、日本の歴史が存在しているのではないかと思うわけです。さらにもう一つ拡大して、日本の外に行った場合、世界というものがあります。さらに地球があります。地球というと、人間どころか生命すべての歴史が射程に入ります。地球は宇宙へ、太陽系・銀河系があるわけですが、ここまでくると宇宙の歴史ということになります。ビッグバンから始まって宇宙が膨脹して云々という話になります。 「『人』にはどのような歴史があるのか」ということですが、このように考えますと、さまざまな存在の統合体としての「人」として、「私」がいる。宇宙の中の「私」、地球、世界の中の「私」、日本の中「私」、都道府県、市町村、故郷の中の「私」、家系の中の「私」、男、女というレベルでの「私」、そこで初めて「私」というものにたどり着くわけです。 なぜこのような話をしたかと申しますと、「『人』にはどのような歴史があるのか」を考える場合、この分け方は重要な意味があると思うのです。現在、日本の学校教育の場では、小学校から、故郷の歴史=市町村・都道府県、日本の歴史、世界の歴史が教えられているわけです(韓国でも同様と聞いております)。そういうものを、わたくしのように徳川時代=江戸時代を専門とする立場から見た場合、実は江戸時代までは、「国の歴史」という形での歴史叙述の書物は一冊も存在していないことに気づかされます。このことは、意外に思われる方があると思います。『古事記』『日本書紀』に始まって、幕末に人気があった頼山陽の『日本外史』(文政一〇=一八二七年自序)など、上に「日本」とつく本が沢山あるじゃないか。これは「国の歴史」の本じゃないのかという反論があると思います。しかしながら、『日本外史』[6]は一八〇年ほど前に完成した書物ですが、この書物はどんなものか。源平から徳川までの武門の興亡を物語風に叙述してある書物です。その意味では『日本外史』は武家の興亡史という特色を持っております。もちろん日本列島上に存在した武家ですが、あくまで武家同士の興亡が軸になっている。つまり、武家という「家の歴史」が叙述された書物といっていいのではないかと思います。 同様に、日本で有名なもので『大日本史』があります。水戸光圀が編纂を開始し(明暦三=一六五七年)、完成は明治に入ってからですが(明治三九=一九〇六年)、『大日本史』というのは中国の正史を強く意識し、紀伝体という書き方で、天皇ごとに何々伝と立てて書く。現在わたくしたちが見慣れている歴史書とは色彩が随分違います。中国の正史はそういうものですが、天皇を一代ずつ叙述していくという形を取ります。南朝滅亡の後小松天皇まで神武天皇から一代ずつ立てて書いていく書物です。したがって、『大日本史』は、ある意味で「天皇家の歴史」と理解されます。 あるいは新井白石も史家として有名な人で、『読史余論』(正徳二=一七一二年稿成)という書物があります。この歴史書には朱子学的な見方が入っています。新井白石のものは、中国の儒学者司馬光の『資治通鑑』(一〇八四年成立)、及び朱子の『資治通鑑網目』(綱は一一七三年頃成立)を念頭に置きながら、武家と天皇家・公家の興亡を書いていく。これも武家公家興亡史であるといわざるをえない。また、北畠親房の『神皇正統記』(一三三九年頃成立)は南北朝期に神代から後村上天皇までの皇位継承を軸に叙述したもの、慈円の『愚管抄』(一二二〇年頃成立)も公武協調の視点から公武の興亡を叙述したもの、さらに『古事記』『日本書紀』も戦前、津田左右吉という歴史学者がいう通り、天皇王権の正統性の由来を説いた歴史書であるということになります。 それぞれ並べていきますと、何々家の歴史とは言いえても日本の歴史と称せられるものではない。この点をもう少しはっきりさせるために、福沢諭吉の言葉を引いておきたいと思います。福沢は明治時代を代表する有名な啓蒙思想家ですが、『文明論之概略』(明治八=一八七五年刊行)という書物の中で「日本には日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ」と嘆いています[7]。それでは福沢は「国の歴史」をどこで知ったか。実はヨーロッパの歴史書で知ったわけです。「ヨーロッパには国民や国家をきちんと書いた書物が存在しているのに、日本には政権交代史、せいぜい何々家の興亡を記した歴史書が存在するにすぎない」と嘆いているのです。こうした状況を「国の一大欠点」といっています。福沢が『文明論之概略』を著した明治七〜八年段階で、基本的にはそれ以前において日本国の歴史と呼べる書物が一つもなかったということが浮かび上がってくるわけです。つまり、現在の私たちにとってあまりに常識になってしまった日本史=日本国の歴史は、新しい歴史の書き方、新しい歴史書であるということです。より正確にいうなら「近代以降に成立した歴史叙述の方法である」ということを、まず始めにはっきりさせておきたいと思います。 
三、前近代の歴史叙述の特質

 

それでは、前近代の歴史書はどんなものだったか。どういう形で歴史が叙述されていたのか。それを近代以降の歴史叙述と比較しながら考えてみたいと思います。江戸時代の歴史書、『大日本史』『読史余論』『日本外史』などは日本では大変著名で、高校の教科書にも載っていますが、これは儒学的な見地=朱子学的な見地からなる歴史書といえます。これには大きく三つの特色があると思います[8]。このことは、「つくる会」の教科書を見る際にも重要なことだと思いますので、やや詳しく見ておきましょう。 一つは「治乱興亡史観」で、歴史は治まったり、乱れたりが次々と繰り返されるという考え方です。それが繰り返されるという意味では、「循環史観」といってもいいかもしれません。私たちがすでに失ってしまった歴史に対するものの見方です。歴史は繰り返すと言いますが、現代の私たちはこれを比喩でしか用いません。ところが江戸時代の儒学者にとっては、これは比喩ではありません。歴史は繰り返されます。しかも国境を超えて繰り返されます。中国の歴史書がなぜ必死で読まれるのか。私たちが読むように、他国の歴史書として読むわけではない。繰り返されるがゆえに必ず参考になるだろうということです。つまり、中国の歴史書は中国の歴史書であると同時に普遍的な歴史書でした。儒者は中国の歴史書を下敷きにしながら書くわけです。これは『日本書紀』からすでに始まっています。江戸時代までずっとそういう形で歴史書は書かれてきた。新井白石も朱子の『資治通鑑網目』などを横に置きながら『読史余論』を書いたことは先にのべました。「循環史観」は国境をも超えていく歴史の見方だということに注意しておいてほしいと思います。 二つ目は、「鑑戒主義」です。歴史を鑑=鏡とする考え方です。過去の過ちから学ぶ。過去の過ちをきっちり見て、治乱興亡の叙述を見ながら、なぜ乱れたのか、そこを反省する。同じことが繰り返されるわけですから、現在の我々以上に緊迫して書物を読んで学ぼうとする。本当の鑑=鏡なのです。歴史を一生懸命、鑑=鏡として、そこから戒めを引き出す。この考え方は、日本の有名な歴史書の中に一様に共通して出てきます。『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』などは古代・中世の有名な歴史書ですが、名前にもその考え方は出ています。まさに「古ヲ以テ鑑ト成シ、人ヲ以テ鑑ト成シ、以テ得失ヲ明カニスヘシ」(『貞観政要』)というわけです。失敗もちゃんと見ようというわけです。 三つ目は「直書主義」です。朱子の言葉に「実ニ拠テ直書シテ、理自ラ現ル」(『朱子語類』巻八三)というのがあります。「事実」を「直書」すれば、余計なことを書かなくても「理」は自ら現れる。したがって、正式の歴史書の「紀」は解釈とは別に記述される。「何月何日こういうことがあった」と淡々と記していって、そこに「自ら善悪が現れる」といっているわけです。念のために申しますと、「事実」と解釈は不可分のものでありまして、現代のわれわれから見ると、かくいう儒学者・朱子学者の歴史書も解釈を離れてはありえません。「事実」を淡々と記して、そこに自ら「理」が現れるといいますが、なぜその「事実」を取り上げるのかということの中に、すでに一つの解釈が入っている。したがって、厳密には「直書主義」はかれらがいうほど解釈と無関係ではないわけであります。ただ少なくとも彼らの主観のレベルでは「直書」、記録に残っているものを淡々と断定型で記していけば、後は解釈しない。そうすれば「理は自ら現れる」。 以上、大きくいえば、儒学系の歴史書にはこの三つの特色があろうかと思います。江戸時代は、儒学系の歴史書が盛んだったわけですが、それを通覧すると、直ちに気づかされるのが、この三つの特色であります。「治乱興亡史観・循環史観」「鑑戒主義」「直書主義」ということです。こういう歴史観は当然のことながら、近代以降、多くは見捨てられていくことになります。 実は、「教科書問題」について考える時、このような儒学的な歴史観を置きながら、色々なことを考えさせられたことがあったわけですが、この点はのちにまたのべます。 ところで、ここで「史」という漢字にも注目しておきたいと思います。立命館大学名誉教授であった故白川静先生の有名な『字統』を引きますと[9]、それぞれの漢字の成り立ちが詳細に書いてあります。「史」とは何か。「史」が「中」という漢字と、「手」を意味する「又=ユウ」という漢字から成っていることは、ほぼ全ての漢和辞典に書いてありますが、「中」については諸説があるようです。白川先生は「中」について、祈祷の器である「□=サイ」を木に著けた形としています。これを手に持ち、神に捧げて祭る形式の祭儀が「史」の原義であるとしています。やがて、祝詞というものを保存し、その伝統を保持し、記録するという職掌を通じて、さまざまな王権の祭儀などの記録を管理する、保持する人が「史」とされていったのではないかとのべています。 「史」という漢字を調べて面白かったのは、後漢に成立した『説文解字』という中国最古の漢字の辞書がある。これではどういっているか。「中」を「中正」と解して、「中正を記録する人」[10]。この説は、白川先生は間違っているとしていますが、考えさせられるところがありました。何を「中正」とするのかは難しいのですが、少なくとも「中正」「中庸」を記録する。偏らないことを厳格に記録する。儒者はそのようにいっているわけです。今日、何が「中正」なのかということは大問題ですが、儒者は基礎に『経書』がありますから、それを基準に見れば「中正」はわかる。現代のわれわれにはそれがない。ないわれわれが「中正」を記録するのは甚だ難しいところがあります。『説文解字』は「史」をそのように解している。「中正を記録する」。「歴史教科書」を考える意味では、なかなか含蓄深い言葉ではないでしょうか。 こういう語義を持った「史」、「史」についての考え方が、日本の前近代までの歴史叙述や歴史書に大きな影響を持っていた。江戸時代の歴史書を書いた人たちのものを読みますと、かれらは皆、われわれから見れば偏っていますが、少なくともかれらの中ではできるだけ「中正」に書こうという努力が伺える。林羅山・林鵞峰の『本朝通鑑』なども一生懸命書かれています。『大日本史』の編纂官も議論をしています。面白い議論を紹介しますと、『大日本史』は、徳川光圀から始まって近世を通じて書き継がれ、完成は明治になったということになりますが、現在の学説では、前期と後期に分けられます[11]。後期の方は後期水戸学につながっていくもので、大体、立原翠軒のあたりからいう。有名な徳川斉昭=烈公や藤田幽谷・東湖親子、会沢安など、後に尊王攘夷運動につながってくる水戸学・天保学の母体になっていくのが後期ですが、前期はそうではありません。前期の『大日本史』は「中正」を期すためにすべての天皇の「得失」を書いていくわけです。天皇の「失政」も書いていく。この天皇はこういう悪いことをした、と。ところが後期水戸学は、これは天皇に対して不謹慎であるとして削除していく。このあたりに後期水戸学が近代以降の歴史の見方にグッと近づいていく流れを感じますが、天皇の「失政」も全部書いていくというのは「中正」を期し、鑑とするためには正確に書かなければならないという見方が根底にある。新井白石も、『読史余論』の中で「後醍醐、中興の政正しからず」「後醍醐、不徳にておはし」「南朝既に亡び」といっている。そして、ここで王朝が交代し「天下はまったく武家の代とはなりたる」といっています。新井白石は、「王朝交代」にはそんなに違和感がない。「天命が去れば、易姓革命が起こって当然である」というのは儒者の立場でありますから、そのように見ております。江戸時代までは、わたくしたちが思う以上に、比較的辛辣なこと、「後醍醐、不徳にておはし」ということを書く[12]。 このようにのべておりますのは、別に江戸時代がよかったということを申すつもりではなく、近代以降の歴史書、歴史叙述のあり方を見る時、江戸時代のものを置いてみることは意味があると思うのです。われわれも近現代の中に生きていますから、近現代の見方があたりまえになってしまっている、あたりまえになってしまっているものを相対的にとらえていくには、江戸時代のものを見ることは有効だと思っています。こういうものを横に置きますと、近代以降に著された歴史書は前近代までと明らかに異質なものであるといわざるをえない。 
四、近代以降の歴史叙述

 

近代以降の歴史叙述の一つの特質は「一国史」、国民の歴史を叙述しようとすることです。福沢が「日本には日本国の歴史はない」といい「早くつくらないといけない」と考えたことを、明治政府は大急ぎで始めていく。明治期、概ね二つくらいのところでその作業が行われているように思います[13]。一つは大学=東京帝国大学です。もう一つは在野です。在野の方が、より庶民的なレベルまで目が届いていた。東京帝国大学の人たちは儒教の影響を受けている部分がありますので、どうしても王朝興亡史観的な見方から自由になれない。それに対して、山路愛山、徳富蘇峰、竹越与三郎などは庶民を叙述しようとする。戦後の歴史叙述は愛山とか蘇峰、竹越の流れを意識した部分もあると思います。戦前の教科書は国民の歴史書を書こうとしたのですが、王朝興亡史観的なものにならざるをえなかった。帝大史学会が編纂した『校本国史眼』が近代以降の最古の日本通史といってよいのではないかと思いますが、それは過渡的な性格を持っていて、天皇家と武家を中心に記述しているのではないかと思います。庶民・国民がどういうふうな生活をしていたのかを叙述し始めるのは在野の方が早かったという印象があります。 ところで、こうした近代以降の歴史叙述と比較すると、前近代までの歴史書は実は共通性の叙述が強く意識されていたことに気づかされます。中国や東アジアなど全体が同じ歴史で動いていく。そういう見方が強くあります。儒教という立場に立って見るのであれば、自らそうなります。「道理」「正理」は前近代の歴史書、儒教系の歴史書にとってのキーワードです。『愚管抄』などもそうですが、これは仏教系と見るか、儒教的と見るか、議論があるのですが、『愚管抄』のキーワードも「道理」です[14]。これはいやしくも日本列島、日本の王権だけを支配しているものではない。かれらにとっては少なくも世界全体、当時の世界は中国を中心とする世界にならざるをえませんが、われわれから見たら狭い世界ですが、当時の学者からすれば、日本だけではない、世界の「道理」です。「道理」が歴史というものを貫いているという見方で一本筋がポーンと通っているわけです。したがって、歴史叙述に国境がない。同一の「道理」が貫かれていく。日本のことを書いているのに、いきなり中国の話が書いてあったりすることがよくある。日本の事件の話を書いている時に「中国もこれに相当する」と平気で書いてしまえる。それがなぜ可能なのか。「道理」ということが貫いているという見方がはっきりしているからだと思うわけです。 そういうことを横に置いて、近代以降の歴史叙述を見ますと、あまりにはっきりしていることは日本の「固有性」に重点が置かれていることです。明治時代の学者がヨーロッパに留学して帰ってきてのべていることですが、明治時代の学者、たとえば井上哲次郎とかがドイツに留学して歴史の書き方を学んでくる。かれらは驚いて帰ってくる。何に驚いたか。発想の逆転があった。つまり「我が国にしかないものを書かなければならない。そうしないと自国史にならない」[15]。あっちにもこっちにもあったのでは、我が国の歴史にならないわけです。我が国固有の文化、我が国固有の特色、こういうものを書かないと、自分たちの歴史にならないということを明治時代の学者たちはヨーロッパに行って感じたわけです。われわれは、あまりにもそういうものを読まされて慣れていまして、われわれの方がそういうことに鈍感なんですね。「我が国固有」といういい方は、今ではあたりまえのいい方です。あまり違和感なく聞いてしまう。「日本文化の特色」「日本の歴史の大きな特色である」「日本的美である」ということに慣れっこになっている。ところが明治時代の学者たちはびっくりして帰ってきた。逆転するわけです。何とかわが国固有のものを発見しなければならない。 もう一つ例を挙げると、岡倉天心という人が日本の美を「発見」したといわれますが、わたくしは、かれはヨーロッパ美術を介在しないと、日本の美は見えてこなかったと思います[16]。「日本の固有の美」をフェノロサがいう。そのことによって「なるほどこういうものを固有の美というのか」と日本の美は「発見」される。ちなみに美術書、美術史は江戸時代までたくさん存在しているわけではありませんが、パラパラ見ていますと、申すまでもありませんが、禅とか仏教との関係で論じられているものが多い。江戸時代後期になりますと、西洋との比較の見方が出てきますが、明治期、東アジアの中での共通する美が、日本固有の美にガラッと変わっていく。これも近代と前近代の歴史を見る場合、押さえておかなければならない点だと思います。 近代以降の歴史書はどうしても自国中心史観という傾向を持っている。それは自国の固有文化、自国の特質を記述する。これは前近代にはない、近代特有の歴史の記述方法であり、ナショナリズムの重要なイデオロギー装置として存在している以上は、日本だけの特色ではないということに注意する必要があります。ドイツの歴史の書き方、フランスの歴史の書き方、特色はそれぞれ違いますが、固有の歴史の書き方、ヨーロッパで創出されたそれが一つのモデルになるわけです。そして、わたくしたちは自分たちの国の歴史、自分たちの固有の特色に染め抜かれた歴史書に、近代以降慣らされ、それを自明のものとして歩んできたところがあると思います。たとえば日韓相互の教科書を見ていて面白いのは、目次が全然違うわけです[17]。それぞれの自国史は自国民用につくられている。他の国民に読んでもらうことは想定されていない。ですから読んでもほとんどわからない。「こんなの、うちの国では小学生でも知っています」「知りません」ということになる。共通の項目が立たない。自国史はそういうところがあるのだとあらためて感じます。解釈以前の問題で、そもそもどういう事件を取り上げるかが違う。日本史のいい方での元寇とか豊臣秀吉の朝鮮侵略、そして近代以降の歴史で、やっと共通の事件が登場してくる。しかしいかに重ならないものが多いかということに驚きました。したがって、「教科書問題」を根底から考えていくためには、「同時性」「共時性」という視点がいかに重要なのかというのが、今のわたくしの認識の出発点にあります。つまり、今までの一国史はあまりにも固有性の議論ばかりをしてきたので、逆に共通性に視点を据えてみようということです。そのためには、国境を超えてわれわれが少なくとも到達したとされる原理を議論することから始める必要があります。互いの国民というものを尊重し、人権・平和について互いにきちんと確認すること。何を共通性とするのかということから興味深い議論になるでしょう。異質性は書いてある、どちらの教科書にも。「我が韓民族の特色はこうである」「日本人の歴史の固有性はこうである」。そうではなくて、共通性をもう一度探し、共通の価値を互いに基礎にしながら、共通の価値の中で、歴史記述をめざすこと、このことがとくに重要な点と考えます。 
五、「つくる会教科書」前近代史批判――初版本を中心に

 

今の話を、今日のテーマのベースに据えなければならないと思います。やっと本題のところにきました。「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書の特色は何か、について次に検討していきたいと思います[18]。「新しい歴史教科書をつくる会」は一九九七年に結成されました。電気通信大学の西尾幹二氏、マンガ家の小林よしのり氏、さらに生長の家とか神道政治連盟という宗教団体、日本会議、日本青年協議会などで会を作り、それまでの歴史書は「自虐史観」である、そうではなく、もっと自国に誇りをもてる、自信を持てる教科書を作らなければならないと主張したわけです。西尾氏は今回の教科書のパイロット版ともいうべき『国民の歴史』を書き、さらに藤岡信勝氏との共著『国民の油断』も発刊しました。 戦後、何度も教科書に関して問題にされた時期があり、人によっては今回は「戦後の第四次教科書問題である」という人がいます。今回のものは、一九九〇年代以降のグローバリズムの進展、日本の構造不況、さらに一九九一年以降のいわゆる「従軍慰安婦」問題などが絡み合った現代日本の右傾化と密接につながった動向といえます。右傾化については最初に述べたとおりです。ここで「従軍慰安婦」問題に関していえば、三一新書からずいぶん前に千田夏光氏の書物が出ていました[19]。決して新しいことではなかった。ところが、俄然、問題になってきたのは裁判と戦後補償をめぐる問題が起きてからです。さらに「従軍慰安婦」問題が教科書に記述されるようになった。個人的にはそれは当然だと思っていますが、教科書に載ったことが「つくる会」にとっては問題になります。一九九一年に「元従軍慰安婦」だった金学順(キムハクスン)さんが名乗りを上げ、日本政府に補償を求める訴訟が提起され、一九九三年には教科書が一斉に記述を始めた。ところが、これを記述することは日本の教科書としてふさわしくないと「つくる会」の方々はいうわけです。しかも、この運動は一定成功して、現在多くの教科書では記述しなくなったことも事実です。さらに最近の政府の開き直り的発言もその延長線上にあると考えられます。この意味では、「つくる会教科書」の運動は、のちに述べるように採択率等においては少数派の運動といえますが、一定の成果を挙げていることは、決して過小に評価されるべきものではないと思います。 内容について、前近代史部分については、改訂版では大きく変わっていないとも考えられますので、初版本(二〇〇〇年版)を中心に検討します。白表紙本、修正本、市販本を見て比較しました。どこがどう変わったか。どこが変わらなかったか、詳細に検討したのですが、かい摘んで特色だけいいます。まず、グラビアに美術作品があります。「ミケランジェロに匹敵する」という解説が市販本に出ています。最終的に残った言葉です。最初は「イタリアよりはるかに早い」とも書かれてありました。こういうものを見ていますと、個人的に滑稽なものを感じます。「欧米と対抗できる日本の美」という見方が露骨に出ています。ある意味では西尾幹二さん、西部邁さんの特色だと思いますが、かれらは欧米中心史観というものに強く影響を受けているのではないか。その意味では、明治以降の日本の近代的なものの見方、ヨーロッパと比較しながら叙述をしていく、欧米中心史観的な見方を色濃く持っていて、それが奇しくもドロッと出ているという印象を持ったのです。「世界の肖像画の中でも見事なもの」「世界美術の中でも類例のないもの」「世界にほこる日本の美」。こういうふうにしか書けないのかと。しかしながら、逆に言えば一国史というものは「そういうものなのかもしれない」ということがよく現れているのではないかと思いました。こうした表記は、西部氏らの退会もあってか(後述)、二〇〇五年改訂版では削除されています。その代わり、安倍政権の「美しい日本」を意識した、「美を感じ取る豊かな心を持つ日本人」が前面に出る形になっています。 原始・古代に関しては「縄文」をクローズアップしています。この点は、改訂版でも変わっていないといえます。市販本では「縄文文化」となっていますが、白表紙本では「縄文文明」と書いてありました。「世界四大文明よりさらに古い」といわんばかりで、滑稽なのですが、上高森遺跡について、「日本の旧石器の文化は五〇万年、六〇万年以上に遡る」と書いてあった。さすがに捏造問題が起こって書けなくなって、市販本では削除されていますが、最初の本では出ています。写真入りです。白表紙本が出た時点で改ざん問題は起こっているのです。白表紙本は、改ざん問題が明かになった後に出されたわけです。たとえ、改ざんでも引用して自分たちの主張を繰り返すところには、「事実」に対する無神経さがよく表れていると思います。 縄文文化をなぜ絶賛するのか。分かりやすいのですが、弥生文化、大陸文化云々とくるところを極端に少なく記述する。これは一国史をどうやって書くかということをよく表している。独自の文化、文明をきちんと置いておかないといけない。それは縄文になる、と考えている。弥生文化は大陸から渡ってきた文化だといわれているので、そういうものをできるだけ少なくして、独自性・固有性をいうためには縄文をクローズアップせざるをえないのだろうと思っています。「森林と岩清水の文明」、後には「森林と岩清水の文化」と変わりましたが、最初は「文明」となっています。弥生文化については、のちに削除されましたが、「外から入ってきた少数の人々が伝えた新しい文化」というのが当初の書き方です。「少数」というのは削除されました。大陸文化の話を書く時には『魏志倭人伝』に触れる必要があります。『魏志倭人伝』から邪馬台国の話を記述するのが普通の教科書で、日本の歴史はここの部分は中国の古代史書を参照するのは通例なんですね。今のところそれ以外に有力な史料がない。中国の古代史書によるしかないわけです。歴史家としてはそう思います。ところが「『魏志倭人伝』を書いた歴史家は日本列島に来ていない」とわざわざ書いている。何がいいたいのか。「いかに『魏志倭人伝』があてにならないか」という印象を与えたいのだろうと思いますが、それだけでなく、中国文化の影響、大陸文化の影響をいかに少なく書きたいかということがあるのだと思います。改訂版でもこの点は同じで、『魏志倭人伝』は「不正確な内容も多く」と記述されています。 また、「日本は中国から独立し、朝鮮半島諸国が日本に朝貢した」と平然と書いてあります。「中国から独立し」というのは、聖徳太子の「日出づる処の天子」云々という箇所がありますが、古代史の学問的な中では「東夷の小帝国論」というがあり、そういう意味では一定程度、大陸から離れた分だけ独立性を維持していたことは現在、認められていることではありますが、「中国から完全に独立した」ものとしてあったのではないことは、現在の古代史では通説だと思います。なおかつ「朝鮮半島諸国が日本に朝貢した」という記述は大いに問題です。戦後の古代史が、精密に考証を重ね、古代史の史料を渉猟し、「任那日本府」問題とか「高句麗の好大王碑」問題とかを検討し、今では大和朝廷が朝鮮を支配していたのはほとんど史実ではなかろうということが通説になっているわけです[20]。他の教科書は、それを反映しているわけです。大方が疑っていることを、この教科書は断定的に記述している。「大化の改新」も学校で古代史をやれば出てくるには出てきますが、戦後は「大化の改新」の詔に『日本書紀』編纂段階での潤色が認められるようになって、律令制確立の画期として考えられるかどうか論争になっています。したがって教科書でも、律令制との関連では、過度にクローズアップして取り上げることはないはずです。ところが、この教科書では、「君臣の名分を明らか」にしたものとして、大きく取り上げている。戦前の皇国史観ばりの箇所といえます。ここも改訂版でも大きくは変えられていません。 神話も、「史実」ではないことは今日では明白になっています。念のため申しますと、わたくしは個人的には神話を取り上げることには反対ではありません。古代の神話が古代の朝廷の考え方や豪族の世界観を反映していることを必ずしも否定するものではありません。しかしこの教科書ははっきりと白表紙本の段階で「史実を反映している可能性が考えられる」と書いてある。「神武天皇の東征」のところです。こういうことを学界で堂々といっている人はいないと思います。したがって、明確に歪曲したいい方です。ここには、「史実として神話を入れたいのだ」という意図がはっきりしていると思います。これは神話を取り上げる上では適切な記述方法ではないと思います。改訂版では、判型をA五判からB五判に変更して一〇〇ページ減らしています。それにともなって、神話を九ページから三ページに減らしています。しかし、「神武天皇東征」を大和朝廷成立のところで扱い、実在しない神武を初代天皇とするなど神話をあたかも史実であるかのように描いているのは、初版本と同じです。 中・近世部分では分量が少ないことも注目されますが、これはこの教科書だけの問題ではなく、自国史=一国史は一般に古代に多くのページをさきます。この意味では、この教科書は見事にその構図を体現していると思います。中・近世の分量が少ない。世界的にもそういう傾向があることに加えて、この教科書では特にそうならざるをえない理由が二つあるように思います。第一に室町時代、明らかに幕府が明王朝に朝貢していた事実がある。この記述はわずか一行です。しかも「それを嫌って中断した時期があった」とある。中国に朝貢していた事実を隠蔽したいのだと思います。それと全体を通じてはっきりしているのは、この教科書は「天皇中心史観」に立っているといってよいと思います。天皇を中心に叙述が進んできて、最後は昭和天皇について、「平和を愛された昭和天皇」というコラムで紹介されて終わる。一貫して天皇中心で叙述する。これも苦笑せざるをえないのですが、そうなると中・近世は少なくならざるをえない。天皇王権を軸に書きにくいからです。ただしそれでも書く。最後に残った記述は「幕府が実力を伸ばしても国家統治の正統性を伸ばすために朝廷をないがしろにできなかったのである」。幕府がいかに朝廷を崇敬したかということを残したわけです。改訂版でも「幕府は、朝廷をうやまいながらも」という表記は残っています。苦しい書き方だと思いますが、「江戸幕府は朝廷を敬いながら、同時に牽制しようと努め」とあります。史料からは「牽制」としてしか読めない。でも「敬おうとした」と書きたい。中・近世部分でそういうことが入っていることを特色として挙げてよかろうと思います。これが分量が少なくなった理由だと思います。 
六、「つくる会教科書」近現代史批判――改訂版を中心に

 

次に最も問題の多い近現代史を見ていきたいと思いますが、今度は改訂版を中心に、初版本と比較しながら検討してみます。 改訂版でも、初版本同様に、日清・日露戦争以降の日本の戦争を美化・正当化し、アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」とよんで、それが侵略戦争だったことを認めず、日本の防衛戦争、アジア解放に役立った戦争として美化し肯定する立場が貫かれています。わざわざ「植民地にされていた民族に、独立の希望をあたえた」「日露戦争と独立への目ざめ」というコラムが登場しているほどです。韓国併合・植民地支配への反省はなく、むしろ正当化する内容も初版本と同じです。「欧米列強は、…日本が韓国を影響下におさめることに異議をとなえなかった」とのべ、欧米の「承認」があったからと正当化しています。「創氏改名」については、改訂版の申請本ではそれを韓国人が望んだから認めたように記述していましたが、検定によって初版本と同じ「日本式の姓名を名乗らせる創氏改名などが行われた」と修正されました。「つくる会」は会報『史』において、「日本を糾弾するために捏造された、『南京大虐殺』『朝鮮人強制連行』『従軍慰安婦強制連行』などの嘘も一切書かれていません。旧敵国のプロパガンダから全く自由に書かれて」いると主張しています[21]。その意味では、申請本こそ本音であることは明らかです。また、日本軍「慰安婦」の事実を無視し、南京大虐殺についても「犠牲者数などの実態については資料の上でも疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」とあえて記述しています。さらに、韓国や中国などアジア諸国の歴史を侮蔑的に描いている箇所が、この近現代史部分では特に目立ちます。初版本では削除された「朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置関係にあった」という箇所が、「この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている」「朝鮮が他国におかされない国になることは、日本の安全保障上にとっても重要だった」と実質的に復活し、地理的にその侵略が正当なものであったといわんばかりの記述をしています。「アヘン戦争に衝撃を受けたのは、中国よりもむしろ日本だった」と断言し、ここに「中国・朝鮮と日本の分かれ目」があったとされ、中国・朝鮮が世界情勢に対応できなかったとする初版本以来の見方は継承されています。戦争が不可避的なものであった、庶民もよく戦ったという記述も、初版本以来変わっていないといえます。 ところで、今回の改訂版において特色的なことは、初版本にあった反米色を一掃して「脱亜入米」的になったことです。たとえば、初版本の冒頭にあった「欧米列強に対する恐怖」といった表現や「日本軍守備隊は…米軍を相手に一歩も引かず」といった表現は、一切姿を消しています。これに伴って、初版本には濃厚であったアジア太平洋戦争の原因は、アメリカの側にあったといわんばかりの表現は、一切姿を消しています。これには「つくる会」の内紛が関係していると思われます[22]。実は、「つくる会」は、内部分裂を繰り消し、必ずしも一枚岩ではありません。ことに大きいのは、二〇〇二年に小林よしのり氏・西部邁氏が西尾幹二氏・藤岡信勝氏・八木秀次氏らと対立して退会したことです。これは、親米か反米かの分裂といわれており、反米右派が「つくる会」と決別した事件として知られています。小林氏は、歴史教科書の執筆も降り、西部氏は公民教科書の代表著者を辞める事態となりました。また、二〇〇六年一月に、西尾名誉会長が辞任・退会し、遠藤浩一・工藤美代子・福田逸副会長が辞任し理事になり、二月には八木会長、藤岡副会長、宮崎正治事務局長が解任され、宮崎氏が退職(解雇)するに至りました。この内紛は、二〇〇五年の採択で一〇%以上は確実に取れるといっていたのに、歴史〇.三九%、公民〇.一九%と「惨敗」した責任のなすりあいが一番の原因といわれています[23]。現在も、宮崎氏の解任をめぐって、日本会議派の理事(内田智・勝岡寛次・新田均・松浦光修氏)と西尾・藤岡グループの間で、泥仕合のような応酬がつづいています。西尾氏によれば、日本会議派四理事のうち三人と宮崎氏は、憲法を「改正」して大日本帝国憲法体制に原点回帰し、天皇を中心とした「神の国」をめざすことを方針として、青年教員や教育系学生に浸透を図ってきた日本青年協議会の仲間だということ。こうした事態は、一言でナショナリズムといっても、その方向性に関しては、さまざまな路線があり、しかも先にのべたように、現在のグローバリズム社会に規定されながら、その再編・篩い分けが次第に激しくなってきていることを物語っていると考えられます。結果的には、親米ナショナリズム派が主導権を採ったといわれているのも、グローバリズムや帝国化に規定されつつ、「つくる会」が存在していることを、鮮やかに示すものといえるでしょう。 戦後史は、初版本の白表紙本では「戦後の戦争」という表題から始まっていました。一つの大きな戦後観があると考えられる表題です。「日本は戦争に負けたよりも、戦後の戦争に負けたのだ。そのことの方がはるかに深刻である」と、戦後全体を否定したい。これは強い主張として感じました。アメリカの占領によって始まった一連の日本の民主化といわれている時代、平和憲法が制定された時代は、戦後の戦争に破れた結果としてそういうことになった。「戦争に負けたことより、戦後の戦争に負けたことの方がはるかに問題だ」ということが、初版本の最後の方の大きな主張だと思います。改訂版でも、東京裁判や占領政策によって「戦争への罪悪感」が広がったという視点が前面に出ています。ただし、興味深いのは、先にのべたように親米的になった分だけ、そこには一種の屈折が見られることです。アメリカの戦後政策を否定できないにも拘わらず、現代日本のナショナリズム喚起のためには、戦後史をそのように表現せざるをえない「苦渋」「ねじれ」のようなものが、そこにあるように感じます。 「かつての日本は常に外国の歴史に理想を求めたりせず、自国の歴史に自信を失わない確固とした独立心があったが、敗戦後の日本は自分の歩みに突然不安になってきた。どこか自信かなくなっている」というのが、この教科書の最後ところのメッセージです。これは初版本と同じです。はっきりした戦後観、この教科書が現在立っている視点をよく表していると部分だと思います。 さて、この他に、この教科書には初歩的なミスが多いことも特色です。教科書としては論外なミスが多い。歴史観の問題以前に、あまりにもお粗末としかいいようがない、きわめて初歩的なミスが多い。改訂版においては、『多武峰縁起絵巻』(三九頁)ですが、大化改新期(七世紀)の挿図に平安時代(九〜十二世紀)の十二単衣や衣冠束帯を描くこととなっており、『楠公一代絵巻』(七六頁)ですが、南北朝時代(十四世紀)の挿図なのに鉄砲穴のある近世城郭建築(十六〜十七世紀)を示すなど、その時代にはありえない絵図を掲載して、相変わらず「笑える」初歩的ミスが存在します。初版本にも、きわめて初歩的なミスが多いことはよく知られているとおりです。たとえば、全部が「勅撰」でもない万葉集が、「朝廷の命によって編集された」と書かれていました。「万葉集は長くその後の模範とされた」ともありました(万葉集は江戸時代までは埋もれた歌集でした)。コラムに「源頼朝が武家で最初の征夷大将軍に任じられた」とありますが、木曽義仲が武家最初の征夷大将軍です。さらに「富岡製糸場など紡績業」とありました。製糸業と紡績業の区別もできない。この教科書は、荒っぽく仕上げたということを、これらのミスがよく物語っていると思います。そして、検定というものも、そんなものだということがよく分かる事例だと思います。 また、通説で否定されていることを、あえて断定的に書いているとすれば、少なくともその根拠を示すべきだと思います。実は、西尾幹二氏は、正確に論旨をつかんでいるかどうかはともかくとして、さまざまな研究書を読んでいるように感じられます。『国民の歴史』を見ると、都合のいいところは引っ張っている。引っ張られた人は困っているのですが。網野善彦氏の研究とか、近世史では荒野泰典氏という外交史の研究者の説、また自由民権運動に関しても新しい研究を見ている節があります。引用するなら、なぜ古代史にそういうものがないのか。疑問にさえ思います。恣意的な引用であるといわざるをえない。 次に歴史観ですが、この教科書の歴史観は、きわめて分かりやすい歴史観だと思います。自国史=一国史としての教科書の主張や書き方、記述方法は分かりやすい。すっきりしていると思います。まず、既にのべましたが、原始古代から一貫して天皇中心の記述方法です。天皇中心というのは大いに問題を感じるのですが、一貫した日本という主張を行う上で天皇を持ち出すのは、本居宣長以来の論法です。したがって、この教科書だけの問題というより、近代の歴史叙述、自国史の叙述が持っている傾向を極端に出してみせているわけです。天皇中心というところは特にそう思います。現在の教科書叙述ではあまり採用されていない叙述方法です。全体のバランスは古代史と近代史にシフトしていてアンバランスであることは前に述べました。これも近代以降の歴史叙述の特色をよく表している部分です。 自国中心史観は、この教科書だけが持っている傾向ではない。近代以降の歴史叙述は自国史中心的な傾向を持っていることは先にのべました。それにしても、この教科書に問題を感じるのは、対外関係の叙述で、対外関係は全部、力対力、要するにパワーバランスで記述されている点です。一般的には、海外交流とか文化交流に重心を置いて記述されるのが現在の教科書の記述のあり方です。この教科書は力対力、国と国がどういうふうに配置されていて、どこかがグーンと伸びてきたとか、あたかもシミュレーションでパソコンゲームの『三国志』を見ているような、国取り合戦のように見ている。これは一貫していると思います。この見方も、かなり異常なものであると思います。 また、国家以外の世界の動向やアジアの民衆はほとんど出てこない。最初、この教科書は「日本史」の本だと思ったのですが、冷静に考えると、中学に「日本史」という教科があったのかなと思いました。中学では「歴史」なんですね。世界の歴史全体を記述しながら、その中に日本の歴史を記述していくのが中学の歴史教科書ですが、これは明らかに日本を中心にして、世界の動向とか、アジアの民衆とか、琉球とか、日本のさまざまな地域の記述がない。「地域を調べよう」といっている割には、この教科書の中には地域は、ほとんど登場しない。庶民も不在です。女性に至ってはほとんど登場していません。被差別民に対する言及も極端に少ないというのも特色です。 
七、おわりに

 

そろそろまとめに入ります。この教科書は初版本・改訂版ともに非常に問題の多い教科書だということはお分かりいただいたと思います。しかし、強調しておきたいのは、この教科書を免罪するつもりは毛頭ありませんが、教科書問題を考える際、見ておかなければならないのは、一国史=自国史が元来もってきた特質という問題です。この特質は、この教科書だけではなく、明治以来、戦後も、いろんな歴史叙述がそういう特質をもってきた。しかしながら、互いの国が自慢話ばかりを記述して、誇りを持っていくような記述の方向をどんどん進めていけば、どこへ向かっていくのか、ということです。これは絶対止めなければならない方向だと思います。しかも、他の日本史の教科書もそういう問題を持っているのです。したがって、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書だけではない。自国史全体、一国史そのものの記述のありようを見直すところまでいかなければならない。この教科書にだけに攻撃を集中したのでは、そこまでいかない。この教科書は極端にそれを示してくれているわけですが、この教科書を批判することから始めて、互いが自慢話ばかりをするような、異質性・固有性だけを書いていく歴史叙述をストップしていくことが大事だと思います。 ところで、歴史記述にはいろんな歴史観があるからそれでいいのではないか、というもっともらしい意見があります。それに対して二ついいたいことがあります。まず、多様な歴史観を議論できる教科書を書くべきだということです。歴史教育というのは、ある歴史観を、これが正しい歴史観だということを押しつけるのではなく、いろんな歴史に対する見方を議論していくことが大事なのではないでしょうか。そういう意味で、この教科書は、わたくしたちがめざしているものとは明らかに反対を向いています。 もう一つ、歴史観は自由だから何を書いても許されるか、という問題です。それは歴史叙述にとどまる問題ではなく、社会意識、世論形成の問題として考えなければならない問題です。たとえば、「戦争大好き」「戦争をどんどんやりましょう」というような書き方。この教科書もそこまでは書いていませんが、そう書きたいのではないかと思わせるような箇所があります。また、他の国民を冒涜する記述があります。人種差別的記述についてはアメリカではよく問題になります。そのような記述はアメリカでは社会的に許されないわけです。ヨーロッパでは、ナチスを美化する教科書は、世論が許さないわけです。そういうレベルの問題が、もう一つ重要なのだと思います。それを教科書だけの問題にしてしまうと、また同じ問題が繰り返されると思います。「歴史観は自由だ」というレベルの問題ではなく、わたくしたち自身が少なくとも、未来志向的に「どういう価値を大切に育てていくか」ということが重要な問題だと思います。 そしてその価値を本当に独りよがりなものにしないためにも、韓国や中国の方々との対話は、きわめて重要であることを強調して、この報告を終えていきたいと思います。 

[1]この論文は、以下の各所で行われた講演・発表を下に、幾度か改稿し、今回新たに註を補い原稿化したものである。
二〇〇一年立命館大学人文科学研究所主催立命館土曜講座
二〇〇三年大韓民国東西大学校大学院主催特別講演会
二〇〇五年中華人民共和国広東外語外貿大学主催特別講演会
二〇〇七年大韓民国暻園大学校東北アジア研究所主催国際学術シンポジウム
このうち、二〇〇一年に立命館土曜講座で行われた講演は、『立命館大学土曜講座シリーズ11いま教育の現場で』立命館大学人文科学研究所、二〇〇一年に掲載されている。そこでは、いわゆる「新しい歴史教科書」の初版本(二〇〇〇年)に対する批判が中心となっているが、二〇〇五年の講演以降は、改訂本(二〇〇五年)に対する批判を補った。また、暻園大学校での報告は、『アジア文化研究』第一三輯(二〇〇七年)に掲載されている。
韓国や中国で行われた教科書問題についての講演は、いうまでもなく極度の緊張を伴うものであった。会場で厳しい批判を寄せてくださった韓国・中国の研究者・教員・院生・学生には心より感謝する次第である。
[2]アントニオ・ネグリ(AntonioNegri)、マイケル・ハート(Michae」Hardt)『帝国』以文社、二〇〇三年、水嶋一憲訳。
[3]姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、二〇〇一年、とくに「はじめに」を参照。
[4]高吉嬉「『韓流ブーム』と朝鮮半島イメージの二極分化現象」韓国近代学会特別シンポジウム報告、二〇〇六年(釜山・韓国放送広告公社講堂)。
[5]「俵義文のホームページ」や「子どもと教科書全国ネット21」のホームページなど参照。
[6]以下、徳川時代の歴史書については、丸山真男編『日本の思想6歴史思想集』筑摩書房、一九七二年、『日本思想大系48近世史論集』岩波書店、一九七四年、小沢栄一『近世史史学思想史研究』吉川弘文館、一九七四年、玉懸博之『近世日本の歴史思想』ぺりかん社、二〇〇七年などを参照した。
[7]福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、一九三一年、一八九頁。
[8]前掲註6小沢栄一『近世史学思想史の研究』参照。
[9]白川静『字統』平凡社、一九九四年、三六一頁。
[10]『説文解字』は電子版の1923を参照。原文は「記事者也从又持中中正也」。『康熙字典』子集下「又部」も参照。
[11]水戸学については、日本学協会編『大日本史の研究』立花書房、一九五七年、『日本思想大系水戸学』岩波書店、一九七三年、『日本の名著藤田東湖』中央公論社、一九七四年、『水戸市史(中)』第一巻〜第四巻、一九七六年などを参照。
[12]新井白石『読史余論』岩波文庫、一九三六年、一〇五頁など。
[13]近代史学史については、伊豆公夫『新版日本史学史』校倉書房、一九七二年、初版は一九三六年、『本邦史学史論叢』下巻、富山房、一九三九年、大久保利謙「明治初年の史学界と近代歴史学の成立」『明治史論集(1)』筑摩書房、一九六五年、初出は同『日本近代史学史』白揚社、一九四〇年、『日本歴史講座第八巻日本史学史』東京大学出版会、一九五七年、『日本における歴史思想の展開』吉川弘文館、一九六五年、小沢栄一『近代日本史学史の研究』吉川弘文館、一九六八年、『大久保利謙歴史著作集7日本近代史学の成立』吉川弘文館、一九八八年、『日本近代思想大系L歴史認識』岩波書店、一九九一年などを参照した。
[14]全巻を通じて「道理」は、一三九回出現している。なお、前掲註6丸山真男編『日本の思想6歴史思想集』所収の石田雄「『愚管抄』と『神皇正統記』の歴史思想」を参照。
[15]「東洋史学の価値」『史学会雑誌』二四号、一八九一年など。
[16]宮川寅雄『日本美術史叢書岡倉天心』東京大学出版会、一九五六年。
[17]『新版韓国の歴史国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店、二〇〇〇年などを参照。
[18]以下、「つくる会」教科書に関しては、初版本については、『歴史家が読む「つくる会」教科書』青木書店、二〇〇一年、和仁廉夫『歴史教科書とナショナリズム』社会評論社、二〇〇一年、上杉聰・君島和彦・越田綾・高嶋伸欣『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』明石書店、二〇〇一年、『歴史教科書大論争』新人物往来社、二〇〇一年、改訂版については、ひらかれた歴史教科書の会編『「新しい歴史教科書」の〈正しい〉読み方』青木書店、二〇〇七年などを参照した。また、「つくる会」自体については、前掲註5のウェブサイト以外に、『季刊戦争責任研究』第一五〜一七号、第二九号、第三五号、一九九七年、二〇〇〇年、二〇〇二年を参照。
[19]『従軍慰安婦』三一新書、一九七三年。
[20]前掲註18『歴史家が読む「つくる会」教科書』を参照。
[21]『史』四五号、二〇〇四年など。
[22]前掲註5の「子どもと教科書全国ネット21」サイトの「【資料】つくる会内部抗争の歴史」を参照。
[23]俵義文の解説を参照、前掲註5「俵義文のホームページ」内。
 
植民地朝鮮における歴史書編纂と近代歴史学

 

1.「永遠に記憶される」歴史編纂事業
帝国日本は大韓帝国を植民地とするやいなや、あるいは韓国統監府時代から既に開始されていたというべきだが、朝鮮における「旧慣調査」「古蹟調査」などに乗りだした。次いで一九一六年から朝鮮史の編纂に取りかかり、東京帝大黒板勝美、京都帝大三浦周行、同今西龍らを嘱託として、これに朝鮮総督府中枢院参議であった朝鮮の人びとを加えて『朝鮮半島史』の編纂体制を整えた。その「編纂要旨」には、「教化・風紀・慈善・医療等に関し適切なる措置を執り、斯民(朝鮮の人びと――引用者)の智能徳性を啓発し、以て精緻忠良なる帝国臣民たるに愧ぢざるの地位に扶導せむことを期せり。朝鮮人は他の殖民地に於ける野蛮半開の民族と異りて、読書屬文に於て、敢へて文明人に劣る所あるに非ず。古来史書の存するもの多く、亦新に著作に係るもの尠しとせず。而して前者は独立時代の著述にして現代との関係を缼き、徒に独立国の旧夢を追想せしむるの弊あり。後者は近代朝鮮に於ける日清・日露の勢力競争を叙して朝鮮の向背を説き、或は韓国痛史と称する在外朝鮮人の如き事の真相を究めずして、漫りに妄説を逞しうす。(中略)旧史の禁圧に代ふるに、公明的確なる史書を以てするの捷径にして、且効果の更に顕著なるに若かざるなり」とある。植民地統治のための「教化」の一環として、朝鮮の人びとを「精緻忠良なる帝国臣民」たらしめるため歴史書編纂が行われたことが理解できる。『朝鮮半島史』の編纂は一九二四年末には中断され(後述)、一九二二年に新たに総督府の下に組織された朝鮮史編纂委員会(文部省の維新史料編纂会などがモデルであったという)に合流し、一九二五年には朝鮮総督直轄の独立機関としての朝鮮史編修会が組織されて、以後はこの編修会によって『朝鮮史』の編纂が行われていくこととなる。周知のように、『朝鮮史』は紆余曲折をへて一九三八年には全三七巻(本文は三五巻)の完成にこぎ着けることとなる(「総索引」は一九四〇年刊)。 こうした朝鮮総督府による朝鮮史編纂事業と『朝鮮史』に関しては、いうまでもなく韓国側の研究では「植民史学」の代表的産物であるとの評価が行われ、ことに「歴史の歪曲」や「日鮮同祖論」「他律性論」「停滞性論」などが鋭く批判されてきた。たとえば、李萬烈は次のようにのべている 「これは(『朝鮮史』は――引用者)韓国史を自分たちの都合に合わせて再構成し、近代史学という名の下で日帝の侵略と植民地化の正当化を図る一方で、韓国人が『韓国痛史』のような歴史書から民族意識や独立運動を高めることを防ごうとしたものである。(中略)彼らが編年体で歴史を書きたいと明らかにしたのは、特に檀君の除去に適切に利用された。日帝が朝鮮史の編纂にあたって檀君関連資料の処理を図ったのは、多分に意図的だといわざるを得ない。(中略)このようにして刊行された『朝鮮史』は、檀君に関する問題からも分かるように、韓国史の主体性を意識する歴史書にはなれなかった」。韓国側の批判については後に再度立ち返るが、ここでむしろ注目しておきたいのは、日本側では、戦後になっても、『朝鮮史』を植民地支配と切り離して、学問的=歴史学的事業として肯定的に評価する向きが、とりわけ事業に参加した歴史家の中にあることである。「朝鮮総督府が行なった文化事業のなかで、古蹟の調査保存と、朝鮮史の編修のふたつは、その趣旨からいっても、永遠に記憶されるにちがいない。(中略)学術的見地に立って事業を進めるということは、この新計画(『朝鮮史』編纂のこと――引用者)の根本になった特色であり、この事業について、終始一貫、かわらないところであった。(中略)一般の目にふれたことのない史閣の秘籍を公開して周密な資料を示し、断簡零墨を重んじて考証をこころみ、古文書や記録に典拠をもとめて秘事を究明し、史疑を解決していく学問的研究方法にもとづいた編修の準備は、注目と信頼を博するに十分であった。(中略)正史および実録を基本とし、さらに記録・古文書を加え、ひろく内外の典籍を参照して資料を網羅し、もっとも公正な立場から整理記述した通史であることにおいて、この『朝鮮史』にくらぶるべきものはない」(中村栄孝)。 「総督府の官吏が、朝鮮の統治をするのと、歴史家が朝鮮の歴史を編纂するのとは、大きな立場の違いがあったように思います。総督府の食禄をはんだ歴史家は、『御用学者』の名を頂戴しますが、それは全面的に正しいとは考え得ません。(中略)編修会の事業全体からみれば、この三七册の『朝鮮史』を出版したことよりも、その前提乃至裏付けとして、民間の史料を採訪し、主要なものは複本をつくり、さらに主要なものは活字あるいは写真版をもって出版したことが、より高く評価されるべきだと思います」(末松保和)。 こうした日本側の言説は、『朝鮮史』の編纂にあたって、従事した歴史家自体には「曲筆」はなかったという意識が強くあることを物語っていて興味深いが、「曲筆」の有無は暫くおくとしても、そのように意識させている背景に、近代歴史学、ことにその方法論としての実証主義自体は「公明正大」で「無害」なものであるという認識があったことが注目される。近代歴史学とは決して実証主義のみに収斂されるものではないが(後述)、「正史および実録を基本とし、さらに記録・古文書を加え、ひろく内外の典籍を参照して資料を網羅」したとする(中村)、あるいは「民間の史料を採訪し、主要なものは複本をつくり、さらに主要なものは活字あるいは写真版をもって出版した」とする(末松)、根本史料による実証=「史料蒐集」に対する揺るぎない確信こそが、このような意識につながっていることは、十分に注意しておく必要がある。ここでは、そうした「史料蒐集」や「古蹟保存」についても、植民地権力の正規事業として推進された、いわば植民地支配と相即不離の事業であったことや、それぞれの記述自体はアカデミズムに身を置く「公明正大」な歴史家によったものであったとしても、ひとたび「正史」という官製歴史記述となるや(しかも植民地権力という官による官製の)、それが当時を生きていた人びとの多様な歴史や朝鮮史に対する視線を抑圧・隠蔽し、それにヘゲモニー的に作用する権力(言説)となることは全く意識されていない。確かに末松の場合は、「植民地においてその国の歴史を支配者・統治者が書くということは矛盾がある」という発言があるが、それも「その矛盾は何かといいますと、植民地の歴史を統治者によって編むということは、統治の一つの方便としては、一応有効な方法であります。(中略)ところが反面それは早く限界が来ることでありまして、朝鮮史の研究をやるということは、やればやる程朝鮮民族とか朝鮮文化というものをよみがえらせ、意識させる有力な道なのであります」とあるように、「政治的方便」が逆に民族意識の高揚につながる面が意識されているわけで(読みようによっては『朝鮮史』編纂が民族意識の高揚につながったとさえのべられている発言である)、自らの歴史学的な作業に対する省察があるわけではない。『朝鮮史』の「史料蒐集」の様相に関しては、中村が「史料採訪記」に記しているが、たとえば次のようにのべられている。 「私は、本年(昭和四年)六月、従来の採訪に拾い遺された地方史料を調査収集するため、忠清北道管内の鎮川・清州・陰城・丹陽・報恩・永同六郡に出張を命じられた。(中略)幸いにも道庁・郡庁や民間有志諸氏の熱心な援助により、また同行の朴容九嘱託が稲葉(岩吉――引用者)氏らによって長らく鍛えあげられた老巧の採訪家であったりしたので、思いのほかの好成績をあげることができた。一体に、朝鮮における名門の後孫は、閥閲高く一世を睥睨した父祖いらいの伝統で、栄華の夢はさめず、袖手坐食して、ついにその遺財を蕩尽する者が非常に多く、しかもなお、頑なに四色が相対立し、たがいに反目しあっていた古えを想って、旧慣を墨守する者が少なくない。この点から、史料収集上の難関が生ずるのである」。 ここでは、「史料蒐集」が官側や朝鮮史編修会嘱託朴容九の全面的支援を受けてなされたことや、さらに「党争」に明け暮れ「遺財を蕩尽」した「名門」という眼差しがあからさまにのべられているが、「史料蒐集」の難航が指摘されているのみで、そのプロセスや眼差しが対自化されていたとは思われない。また、「朝鮮では、影幀にかぎらず、記録でも文書でも、新しく伝写され、新しく装釘されたものを尊重して、とかく原本類を軽視し、廃棄しがちな習慣があるようで、数百年来伝えられた貴重な記録の蠧損などを、俗悪不手際に裏打ちし補写して、最上の保存法を講じたものとしている例などもめずらしくない。朝鮮の古典や史料の保存方法の困難なことを痛切に感じさせられる」とも記されており、まさに実際生活上の文書類の保存状況は「俗悪不手際」なものとして批判されている。ここでは、「原本の保存・収集」というものが学問的方法論として当然のごとくいわれ、それを特権化したときに、現実に生活している人びとの生き様に対してはいかに鈍感になるものなのかが鮮やかに示されている。こうしたいわば、原本保存・「史料蒐集」の使命感を支えている背景にあるものこそ、近代歴史学であったといえるが、それはまた植民地支配の生々しい現実をみえにくくする性格のものであったといわざるをえない。 以上は、『朝鮮史』編纂を戦後になっても「高く評価されるべき」「永遠に記憶される」事業と捉える認識の背景に、近代歴史学、あるいはその方法論に対する揺るぎない確信があったことの一端を示したものに過ぎない。誤解のないためにいえば、ここではかれら歴史家がどの程度「学術的」であったかを問うてもあまり意味はない。そのような作業に従事していると意識することが、特権的な「代弁者」である歴史家の位相を完全に(スピヴァク[G.C.Spivak]の言葉を借りれば)「透明」なものにしてしまうことが問題なのだ。 とはいえ、結論を急ぐ前に、こうした揺るぎない確信に立脚した歴史叙述とはどのようなものなのか、次章では、『朝鮮史』の前段で編纂され中断したといわれる『朝鮮半島史』を主たる素材としながら、この点に照明をあてていきたい。 
2.『朝鮮半島史』という歴史書

 

既に簡単に触れたように『朝鮮半島史』は結局は中断され、新たに朝鮮史編纂委員会、さらに朝鮮史編修会が組織されて『朝鮮史』が編纂されていくこととなる。この中断をめぐっては、従来さまざまな解釈が行われてきており、また朝鮮史編纂作業と近代歴史学の関係を考える上では無視しえない問題もそこには存在していると考えられるので、始めにこの点について検討しておきたい。中村栄孝は、『朝鮮半島史』の中断については、以下のようにのべている。 「(『朝鮮半島史』編纂は――引用者)史料の蒐集に予想をこえて困難を感じ、調査なかばにして予定の年限を経過したので、さらに計画を延長して、その仕事を継続することになった。たまたま、朝鮮では、大正八年(一九一九)三月の万歳事件(三・一運動) がおこったが、(中略)この事件を契機として、朝鮮統治の方針は一大転換をとげざるをえなかった。朝鮮半島史編纂が、その後しばらくは続行されながら、ついに終わりを全うすることができなかったゆえんも、ここにあったであろう。(中略)これまで五年あまりにわたってつづけられた朝鮮半島史編纂の事業は、その趣意からいって、すみやかにその成果が公刊され、当面の施政に寄与すべきことが期待されながら、資料の蒐集に対する困難などを克服しえないで時を経過したが、その経緯に照らして、まず史料の蒐集・保存が急務であり、民衆の教化に先だって学術的調査・研究の必要であることが明らかになっていった。そこで、黒板博士は、別途に新規の事業を計画して、学術的見地に立って権威ある組織をつくり、史料の蒐集に万全を期し、公平にして信頼される歴史を編纂して、すみやかにこれを公刊し、現下の要求にこたえ、将来の保存に備えることを献策した」。 ここでは、一方には「史料蒐集」のさらなる必要性、一方には三・一運動の勃発が、「すみやかにその成果が公刊」されることが期待されていた『朝鮮半島史』を挫折させたとされている。箱石大は、この問題に対して、小田省吾ら「旧半島史派」と関根貞ら「古蹟調査派」の「デリケート」な関係を尻目に、総督府首脳部が黒板勝美・内藤湖南らと相談した上で「突如として」方針転換を行ったものとし、朴殷植『韓国痛史』に対抗するなど「強い政治性」を有していた『朝鮮半島史』に対して、三・一運動後の「文化政治」への転換を見据えて「一層『学術的』な朝鮮史編纂を行ない、これにより民族主義的な朝鮮史の著述活動を抑え込もうと考えた」として、『朝鮮半島史』と『朝鮮史』の「断絶面」を強調している。確かに、「朝鮮半島史編成ノ要旨及順序」(一九一六年)や『朝鮮半島史』第一編(後述)をみる限りは、「日鮮同祖」論が冒頭から強調されており、そこに「強い政治性」があったことは否定しえない。また、黒板勝美も「その方針(『朝鮮半島史』編纂の方針――引用者)というのは日本を中心とし、三韓時代から叙述をはじめ」とのべ、「日本を中心」とすることをあからさまに語っていることも無視できない。以上から総合的に判断すると、「日鮮同祖」論等に立っての「教化」を目的に教科書的に刊行が急がれていた『朝鮮半島史』が、三・一運動に直面する中で、史料上の困難もあって挫折し、より「学術的」な『朝鮮史』編纂に移行したと捉えることは概ねにおいて妥当な理解のようにみえる。また、『朝鮮半島史』自体の執筆は、第一〜三編は今西龍、第四編は荻山秀雄、第五〜六編は杉本正介(のちに第五編は瀬野馬熊に変更)が予定されており、今西を除くと朝鮮史研究の専門家ではなかった点も無視しえない。 とはいえ、『朝鮮半島史』第一〜三編は、『朝鮮史』第一〜第三編の執筆に主任として関わる今西龍が執筆しており、しかもその原稿が提出されていることを鑑みると(瀬野・杉本は一部提出、荻山は未提出か)、はたして『朝鮮半島史』を「政治的」なもの、『朝鮮史』はより「学術的」なものと理解していいのか、という疑問も残る(つまり、こうした理解では、『朝鮮半島史』にも作動している「学術性」、逆に『朝鮮史』にも作動している「政治性」をみえにくくするのではないか、ということだ)。ここでは、これまで検討されてこなかった『朝鮮半島史』の草稿を簡単に紹介することで、この点について再検討していきたい。 まず第一編の目次を掲げる。 第一編上古概説 第一期原始時代概説第一章朝鮮開闢の諸伝説(第一節箕氏開国伝記第二節檀君伝説第三節韓民族固有の開国伝説)第二章古朝鮮(第一節半島の原始住民第二節半島の諸小国第三節衛氏朝鮮) 第二期漢領土時代第一章漢の郡県設置(第一節四郡の建置と其の疆域第二節漢昭帝の改革第三節楽浪の隆盛第四節帯方郡の新設第五節楽浪帯方の衰滅)第二章半島に於ける漢人の文化及社会状態(第一節楽浪帯方の文化第二節楽浪帯方の社会状態)第三章韓種族の諸国(第一節馬韓第二節辰韓弁韓第三節日本と三韓との関係第四節濊)第四章扶余民族の南下(第一節扶余民族第二節高句麗の建国第三節高句麗の隆盛及南進第四節百済の由来)第五章百済新羅の興起(第一節新羅の由来及其興起第二節百済新羅の興起に対する韓諸国の状態並に加羅諸国の起源第三節日本と新羅及加羅諸国との交通第四節神功皇后の加羅諸国保護) 分量的には「高句麗の隆盛及南進」「新羅の由来及其興起」が例外的に六〜七丁に及んでいるが、各節とも一丁から三丁の短い記述で、教科書的な「綱要」であったことは間違いない。また、『朝鮮史』が史料を中心に構成されていることと対照的に、直接的な引用史料はほとんどないことが特徴的で、檀君神話、高句麗関係、新羅関係に三国史記や中国史書が縷々引かれていることが目立つ程度である。したがって『朝鮮史』とは異なって説明的な言辞が多く、その主張も摘出しやすい。たとえば、「第一編第一期第一章」では、「伝説」としての「箕氏朝鮮」「檀君朝鮮」は「もと韓民族と何等の関係あるもにあらず」と斥けられ、こうした北方系神話とは異なる「日本民族のそれに類似せる」「固有の開国神話」が「新羅」「加羅」に伝わっているとする。「第二章」等では、「韓民族と日本民族とは太古に在りて一民族をなし同一地に居住せり」と「日鮮同祖」論が明確にのべられている。 「両民族の同種なることは何人も異論なき所なり」。「朝鮮語と日本語とは世界の諸言語中相互に最も近きもの」(同前)。恐らく『朝鮮半島史』が「政治的」なものと捉えられたのは、このように直接的な史料引用がほとんどなく、説明的な言辞によって記述が進められているからであろう。しかしながら、今西のこれらの叙述は、一方では恐らく典拠を意識した叙述であったことにも注意しなければならない。問題の多い「日鮮同祖」論についても、「近年日本朝鮮双方の古墳遺物の調査の進むにつれて韓種族の居住せし南朝鮮の遺物は北朝鮮の遺物と全く別異にして日本島に於ける遺物と全然同一種類に属すること知られたり」とし、あるいは「東西の学者が認めて異説なき人種樹表」などが紹介されており、考古学や人類学が意識されていることが分かる。無論、典拠があるから「公明正大」であったといいたいわけではない。今西自身は、錯誤に満ちた『日本書紀』や問題に満ち満ちていた当該期の人類学的知見も含め、それらに何らかの根拠をおいて叙述を進めていたということであり、このかぎりでは、かれは歴史学的作業から逸脱していたという自覚はほとんどなかったのではないか、ということだ。この点は、実は分量にも反映している。先にのべたように、「高句麗の隆盛及南進」「新羅の由来及其興起」が例外的に六〜七丁に及んでいるが、それは典拠とすべき史料が豊富にあったと捉えることができる。 それでは、いわゆる朝鮮史の専門家ではない瀬野馬熊が執筆したと思われる第五編はどのような内容なのか。先ず指摘できることは、第一編よりも文献史料が豊富な分だけ、全体に出典が明確で、しかもそれらが明示されていることである。たとえば、冒頭の李成桂の先祖に関する部分では、「朝鮮の太祖李成桂のむ先は全州より出つと云ふ。始祖李翰より穆祖に至るまで子孫相承くるもの十八世と称せらるるも、其間十七世の事蹟は李翰新羅に仕えて司空となり、第六世兢休始めて高麗に仕えて亦司空となれりと云ふの外は更に伝はらず」とのべたのちに、「穆祖」に関しては「李公神道碑銘、太祖実録巻之一、璿源系譜紀略」といった出典を明記して事蹟が記されている(5丁オ・ウ)。李成桂に関しては、主として「太祖実録巻之一」を中心とした記述であるとみてよい(7丁以下)。無論再三のべるが、それ故その記述が「公明正大」であることをいいたいわけではない。この「綱要」的歴史記述は、典拠を意識して記述されたものであり、したがって今西と同じく、瀬野にあっても「学術的」作業であったと意識されていたのではないか、ということが問題なのである。 史料の取捨選択および史料批判に関しては、残念ながら筆者の専門外に属することが多く、それがどのように行われたかについては判断がむずかしい。比較的専門に近い「第四章朝鮮初期の文化第三節儒学と仏教付道教」の「儒学の振興」などをみると(一一五丁ウ以下)、高麗末から朝鮮王朝初期の儒者として、李穡(牧隠)、鄭夢周(圃隠)、李崇仁(陶隠)、権近(陽村)、吉再(冶隠)の伝記が『高麗史列伝』『牧隠集』『陽村集』『海東名臣録』『冶隠集』などを出典としてまとめられているが、「李朝の初世に於ける王廷は、学者の讕叢にして、学問は殆んど挙けて是等貴紳及び其の子弟の手にあり、而して彼等は、勿論経学に於ては、朱子学の外に出づること能はざりきと雖も、学問は其の範囲頗る広く、史学、法制、地理等につも通じて、それ等に関する書籍も尠からず編纂せられたりき」(一一七丁オ以下)とされており、儒者の選択としては穏当なものである印象を与える。以下、朝鮮王朝初期の儒者が列挙され、李滉(退渓)・李珥(栗谷)に至る(出典は『海東名臣録』『退渓集』『栗谷全書』及びその年譜が明記されている)。いわゆる「士禍」については、金宗直に言及しているが、「第三章朝臣の内訌」で二節にわたって詳述していることもあって、ここでの記述は短い。「金宗直の学派は、其の修むる所、従来の学者とは稍々趣を異にして、一意朱子学を継承する外には、小学の実践、詩文の鍛磨を以て殆んど畢世の目的となせり、而して自派に合はざるものは、努めて之を排斥し、俗輩として歯するを屑しとせさるの風ありしかば、周囲の為に悪まれて屡々其の圧迫を被むり、所謂士林の害に遭ふもの甚だ多かりき」(一一八オ)とあるのみである。いずれの儒者についても、思想に立ち入っての説明はなく、恐らくそれは瀬野の得意とするところではなかったと推察される。 以上からは、第五篇に関しても、代表的な典籍類は一応参照されており、この限りでは、史論的歴史書ではない、教科書的「学術的」な歴史書として『朝鮮半島史』は編纂されていたと見なすことができる。 
3.「学術的である」ことの陥穽

 

以上、『朝鮮半島史』は教科書的な「綱要」とでもいうべき内容であるが、全体に典拠を意識した「学術的」な記述でもあることをみてきた。そして、その故に執筆者においては、少なくとも「学術的」な作業として意識されていたのではないか、ということを指摘してきた。朝鮮史編纂過程のほぼ全ての過程において東京帝大の黒板勝美の関与が指摘され、またその組織も東京帝大史料編纂所や文部省維新史料編纂会に倣ったものといわれているが、恐らく『朝鮮半島史』編纂過程においてもそれは意識されていたと考えられる。だが、とするならば、『朝鮮半島史』から『朝鮮史』への移行をどのように考えるべきなのか。ここでは膨大な分量の『朝鮮史』自体を俎上にあげることはできないが、周知のように『朝鮮史』は「蒐集史料を攻究し、政治・経済・社会・文化等各般の方面に亘りて、史上の重要なる事件を選択提挙」したものを「綱文」とし、その下に史料を「原文の儘収録排列」していく形式を採っている。「本文は史料に現はれたる事件の経過・推移を正確に提示するを旨とし、叙述は簡明を期す」とあるように、少なくとも説明的言辞がほとんどない印象を与える「綱文=本文」に対して、それを示す史料は「正確の程度」によって順に列挙され、明らかにこちらの分量が圧倒している。李萬烈は、「『朝鮮史』は単なる通史ではなく、一つの史料集に過ぎなかった」とのべているが、確かに一見「史料集」であるが如く史料に埋め尽くされた『朝鮮史』と、「綱要」的な『朝鮮半島史』との違いはだれの目にも明らかだろう。そして両者を比較するならば、読み物としての興味を引かない『朝鮮史』が、それ故まさに歴史学の「学術性」「専門性」を誇示する極北に存在している歴史書であることが理解される。三・一運動という植民地支配の根底を揺るがす事態に直面した総督府および歴史編纂者が、近代歴史学のもつ実証主義=根本史料主義を前面に押し立てることで、説明的言辞を削り取り、「学術性」「専門性」むきだしの権威的「正史」としての歴史書へと転回したのが『朝鮮史』だったのではないか。いずれにしても、『朝鮮半島史』から『朝鮮史』の全過程において、それが近代歴史学的記述であるという意識の下で遂行されたと考えることで、歴史家から植民地の人びとを「代弁」=「記述」しているという後ろめたさの意識が全く感じられないことが「理解」されてくるのである。 無論、ここでわれわれが注視しなければならないのは、(再三のべてきたように)近代歴史学的方法として意識された実証主義や根本史料主義、あるいは「学術性」とは、「認識の暴力」(epistemicvio」ence)として、かくも歴史家を「透明」化し、歴史叙述の言遂行性をむしろ問いえなくしていくものなのだ、ということである。これらのことは、現代においても作動している、吟味された史料に依拠して記述することは、歴史学の「公明正大」性を担保するものだということが、いかにあてにならないものなのか、それどころか容易に自らを学問的に特権化することで他者を「代弁」=支配する位相に転落させるものなのかを鮮明に物語っているように思われる。 「学術的」であることは、それ自体ではコロニアルなものとは何ら対決しえないどころか、まさにコロニアルなものの重要な一環をなしているということについては、既にサイード[E.Said]が切開している。コロニアルなオリエンタリストは、「文化の力」=「著作と著書を引用するシステム」を駆使して、オリエントを観察し記述し、「詮索、研究、判決、訓練、統治の対象として、教室、法廷、監獄、図鑑のなかに配置する」ことで、「オリエントを支配し再構成し威圧する」。とりわけ、サイードがフランスの初代アジア協会初代会長であった文献学者シルヴェストル・サシ[SacySi」vestre]に関わってのべていることは、この場合の朝鮮史編纂事業が何であったのかを考える意味では示唆深い。 「サシはオリエントの古文書を渉猟した。(中略)どんなテクストであれ、彼は選び出しては自分のもとに持ち帰った。そして、それを詳しく観察し、注釈を施し、記号化し、配列し、解説をつけ加えた。やがてオリエントそのものは、オリエンタリストがオリエントからつくりあげたものほどに重要ではなくなっていった」。 植民地朝鮮における歴史書編纂作業とは、ここで指摘されているような「史料蒐集→選択→観察→注釈・記号化・配列・解説」の作業であり、まさに歴史書上に「学術化」された朝鮮が立ち上げられる作業としてあったということができる。 さらにいえば、歴史記述のフレームとしての民族史的構成や直線的時間意識に立った発展史観などは、「近代人」にとってはあまりに自明なことなので、実証主義や経験科学自体によって問われることはない。というよりも、酒井直樹がのべるように、「経験科学が対象にし、それについての陳述の真理性と虚偽性を客観的に判別しうるような事象」ではないことがらまでを、歴史学は「歴史資料のなかに固定」することで「実定性」を創出し、むしろ自明なものを自明なものとして生産していくといわなければならない。「学術的」歴史学とは、史料が配置される民族的・国家的・政治的フレーム、発展史的時期区分、さらにその「下敷き」になっている西洋中心史観(オリエンタリズム)を問うことができないばかりか、「歴史資料のなかに固定」することで、むしろそれを自明化していく作用を有しているものなのだ。この意味では、『朝鮮半島史』『朝鮮史』編纂の過程において、歴史家は、冒頭からの地理的特質論、民族(人種)起源論、さらには政治史的事件を中心に制度・社会・経済・文化・風俗などを記述する方法、文化人類学・考古学・神話学の援用、古代帝国時代〜朝鮮王朝時代という時期区分の様式に至るまで、それをまさに「学術的」「専門的」なものとして採用し、それに基づいて史料を選択・配列し、歴史を記述していったのである。この過程で、朝鮮の人びとをその認識枠の中に「固定」しているということ、換言するならば帝国日本が「西洋学術から取得した言説」に朝鮮の人びとを「配列」しているということが認識されたことは、一度たりともなかったことは、いうまでもない。これこそコロニアルな「暴力」というほかはないが、そうした「暴力」を作動させていたものこそ、「学術性」「専門性」であったわけである。 
4.おわりに

 

最初にのべたように、『朝鮮半島史』『朝鮮史』は、韓国側からは「歴史を歪曲した」「植民史観」の代表的産物であるとの評価が行われ、とりわけ「日鮮同祖論」「他律性論」「停滞性論」などが鋭く批判されてきた。ヘイドン・ホワイト(HaydenWhite)がのべているように、歴史的記述には、(実証的であろうがなかろうが)「すべて、密かな、あるいはあからさまな目的として、それが扱っている出来事を教訓的(Mora」istic)に説明しようという欲求が備わっている」。そもそも歴史記述とは「文化あるいは集団にとっての重要度について事件の評価を行なおうとする欲求、または衝動」があって初めて成立するものなのだ。 この意味では、『朝鮮半島史』『朝鮮史』とは、実証的であろうがなかろうが、帝国日本による植民地支配の状況下で、帝国日本の歴史家を中心に編纂された歴史書であり、その歴史家たちが「重要度について事件の評価を行なおうとする欲求・衝動」に基づいて記述した歴史書というべきものである。そして、これに対して、朝鮮の人びとのほとんどは「沈黙させられていた」(スピヴァク)のである。さらにいえば、「親日派」と評される当該期の朝鮮側歴史家にさえ屈辱感を与え、威圧を与えるものとして存在していたものであったことは、『朝鮮史編修会事業概要』の委員会記録からも克明に伝わってくるところである。 これらの点を、まずは明確にしておかなければならない。だが、その上で、何故に戦後も日本側歴史家において、それがそれとして認識されないのかを本稿では問題としてきた。何故なら、今も繰り返される教科書問題や「植民地近代化論」のごとき植民地支配を正当化する議論が登場する問題と、それが通底している問題であるであると考えたからである。無論、とりわけ教科書問題に顕著な「歴史歪曲」は、断固として糺されるべきものであり、そのためには歴史記述の不断の検証作業(経験科学的な作業)が今後も不可欠である。だが、実証的な精度をあげることだけでは、そこからすり抜けていく問題があることにもわれわれは敏感であらねばならない。結論的にいうならば、植民地支配を正当化する議論に看取される様式の多くは、実は近代(近代資本主義)への拝跪なのであり、同じく近代=近代学術への拝跪こそ、歴史家がポストコロニアル問題を今も直視しえないもっとも大きな理由となっていることを、われわれは直視しなければならないのではないか。 このように考えるならば、韓国側からの「日鮮同祖論」「他律性論」「停滞性論」批判について、われわれはそれを近代学術の方法や認識様式の批判へと鍛え直すことで、それに応答していくべきであると思われる。『朝鮮半島史』『朝鮮史』という歴史書は、この意味でも依然として大きな課題をわれわれに突きつけているといわざるをえないが、それらについては後考を期すこととしたい。 
 
中国思想史

 

一 「礼壊れ楽崩る」から「道は天下の裂なり」へ
春秋戦国時代における諸子百家の勃興が中国思想史(もしくは哲学史)の幕開けを告げることは学界の共通認識であり、中国、日本あるいは西洋いずれにおいても異論はないであろう。20世紀初頭以来、先秦諸子の研究は活況を呈し、豊かな成果をあげてきた。20世紀の70年代から近年にかけては馬王堆帛書、郭店楚簡などの簡帛が地下から大量に出土し、この領域の研究はいっそう盛んになった。
この領域はまことに日進月歩であり、論文と専著はおびただしい数にのぼるが、文化史の全体的(holistic)観点からするとき、そこにはなお開拓の余地がある。これは大多数の研究者がかなり具体的な問題、たとえば個々の学説の整理、文献考証と時代設定、および新発見テクストの解読などに注意を集中しているからである。それにしても、諸子百家の勃興は時代を画する歴史現象として、いったいどのように理解すべきなのだろうか。それはまた、中国古代文化史の大きな変動とどう結びついているのだろうか。こういった根本的で重大な問題については、まだ十分な議論がなされていない。この時期の思想史をめぐる私の研究は、もっぱらこうした大きな問題を解明しようと考えてのことであった。もちろん、歴史学という立場による以上、根拠もなく憶測することは許されず、確実な証拠を基礎に据えなければならない。したがって、古来伝えられた伝世古文献とともに、新たに発見された簡帛および現代の専門家による重要な論著をできるだけ参照した。ただ私は、それら中国の基本資料をふまえたうえで、中国思想史の起源を他のいくつかの同時代の古代文明とかいつまんで比較してみた。というのも、同一の歴史事象が、ちょうどそれら古文明の展開過程において生じているからである。こうした比較を通して、中国文化の特色もより明確になることであろう。
私は若い頃(1947〜49年)、章炳麟、梁啓超、胡適、馮友蘭らの著作を読み、先秦諸子に強い関心を持っていた。1950年以降は銭穆先生について学び、その指導のもとで諸子の書を読み、少しずつ専門的な研究に入っていった。銭穆先生の『先秦諸子繫年』はすでに現代の古典であり、深い啓発を受けたものである。そこで1954年、「『先秦諸子繫年』と『十批判書』互校記」という長篇の論文をまとめたが、これは校勘・考証に関する作品であった。1955年に渡米してからは、私の研究領域は漢代に移り、この問題は棚上げになった。
1977年、私は台北・中央研究院の『中国上古史』プロジェクトの要請を受け、「古代知識階層の興起と発展」の一章を書いたことで春秋戦国時代の文化・社会における大変動を改めて研究した。テーマの範囲が広いため、全体的な観点からかなり全面的な検討を行なう必要があった。「士」の起源および、その春秋戦国時代の数百年間における展開が私の主題であったが、ことの成り行き上、思想の領域にも踏み込むことになった。なぜ「ことの成り行き上」というのかといえば、春秋・戦国の際における「士」の新たな発展とその文化的淵源を考察した結果、諸子百家の歴史的背景が明確になったからである。すなわち、彼らは「士」階層の中の「創造的少数者」(“creative minority”)であり、それゆえにこそ時代の要請にともなって勃興し、まったく新しい思想世界を作り出したのである。
私はこの論文で「哲学的突破」(“philosophic breakthrough”)という一章を立て、諸子百家出現の問題についてひとわたり検討した。「哲学的突破」の概念は社会学者パーソンズ(Talcott Parsons)が提起したもので、ウェーバー(Max Weber)による古代四大文明──ギリシア、イスラエル、インドおよび中国──の比較研究にもとづき、紀元前一千年の間にこの四大文明はまさに精神的覚醒とでもいうべき運動を経験し、思想家(もしくは哲学者)が個人の立場で歴史の舞台に登場するようになったという。「哲学的突破」は普遍性をそなえた概念であって中国の局面にも当てはめることができるため、それを借用したのである。より重要なのは、この語がまた確かに諸子百家勃興の性質と歴史的意義をうまく言い当てていることである。ただ、説明しておかなければならないのは、私が「突破」という言い方を受け入れたのは、同時に当時の中国においてよく似た意識が現われていたからであった。『荘子』天下篇は諸子の勃興を総論した文献として周知のものであるが、そこに次のようにある。

天下大いに乱れ、聖賢明らかならず、道徳一ならず。天下多く一察を得て以て自ら好しとす。譬えば耳目鼻口の皆な明らかにする有るも、相い通ずる能わざるが如し。……悲しいかな、百家は往きて反らず、必ず合せず。後世の学者、不幸にして天地の純・古人の大体を見ず。道術将まさに天下に裂かれんとす。

ここでは古代において統一されていた「道術」の全体が「天下大いに乱れ、聖賢明らかならず、道徳一ならず」という事態により百家に分裂したことが描かれている。この洞察は荘子本人の或る寓言に触発されたものである。応帝王篇に「渾沌」が「七竅」をうがたれる話があるが、結局、「日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死す」という。「七竅」とは天下篇にいう「耳目鼻口」に相当する。「道術が裂ける」ことと、「渾沌」が死ぬこととの関係はきわめて明瞭である。
「道術将に天下に裂かれんとす」の論断は漢代にはすでに広く受け入れられていた。『淮南子』俶真訓に「周室衰えて王道廃れ、儒墨乃ち初めて道を列して議し、徒を分かちて訟う」という。
ここにいう「道を列す」とは「道を裂く」ことであり、また「儒墨」とは諸子百家を広く指している。なぜなら儒・墨の二家が最も早く出現したからで、『塩鉄論』における「儒墨」も同じ意味で用いられている。
さらに重要な例証は劉向の『七略』(『漢書』芸文志に収載)である。『七略』は「六芸略」に始まり、これに「諸子略」が続く。前者は「道術」が「裂ける」以前の局面であり、「政」と「教」が一つになっているため「王官の学」と称されるが、後者は天下大乱の後、政府が六種類の「教」を維持しえなくなって、道術が「士」階層の手にわたり、かくて諸子の学が出現した局面をいう。それで劉向は「諸子は王官に出づ」と断じ、さらに「王道既に微にして……九家の術、蠭出並作し、各おの一端を引きて其の善しとする所を崇む」と明言している。これは天下篇に「天下多く一察を得て以て自ら好しとす」というのと一致している。天下篇と『七略』を熟読した清代の章学誠は、「六経」がいかにして「諸子」に脱皮したかを考察したうえで「蓋し官師の治教分かれてより、文字に始めて私門の著述有り」〔『文史通義』史釈篇〕と指摘している。ここにいう「官師の治教分かる」とは、東周以降、王官がもはや学術を支配できず、「吏を以て師と為す」ところの旧い伝統が壊れたことを意味する。これ以後、学術思想は「私門」の手に落ち、かくて「私門の著述」が出現したのである。諸子の時代がこうして始まった。章学誠のこの指摘は20世紀における中国思想史研究の領域に大きな影響を与え、多くの思想史家もしくは哲学史家がこの説を出発点としている。
総じて、比較文明史の角度からしても、あるいは中国思想史の内的脈絡からしても、「突破」の語は諸子勃興の基本的性質を最も良く表わすとともに、その歴史的意義をも示しているといえる。
ただ「哲学的突破」は中国においてはしかるべき文化的特色をもっており、ギリシアやイスラエル、インドとはかなり違う。西洋の学者は四大文明における「突破」を比較し、中国は「最も急進的でない」(“least radical”)といったり、「最も保守的である」(“most conservative”)といったりしている。こうした「岡目八目」ふうの観察にはもちろんそれなりに有効であるが、やはり「突破」の歴史的過程とその実際の内情を深く検討しなければ、なぜそうなったのかを理解することはできないであろう。私は上記論文の「哲学的突破」の一章では紙幅の関係上、「突破」の背景が三代の礼楽伝統にあることだけを指摘しただけで、詳しい考察を加えることができなかった。春秋・戦国の際はいわゆる「礼壊れ楽崩る」時代であって、西周の礼楽秩序が徐々に解体に向かった時期である。この秩序をつなぎとめていた精神的資源は詩書礼楽、すなわち後世いうところの「王官の学」であった。そして、「突破」以後の思想家たちはそれぞれ「道を列(裂)して議し」、「王官の学」という「渾沌」を鑿つとともに、礼楽の秩序そのものについても省察を加えた。たとえば孔子が「仁」をもって「礼」の意義を新たに定めたことは、その一明証にほかならない(『論語』八佾篇に「人にして仁ならずんば、礼を如何」とある)。
1990年代の末、私は改めて「突破」の歴史をより広く検討し、「天人の際──中国思想の起源に関する試論」という長篇の論文を英語で書いた。本文は早く書きあがっていたのだが、注釈部分は朱熹の研究に妨げられて整理することができず、その後、私はただ概要のみを発表した。すなわち“Between the Heavenly and the Human”である(Tu Weiming and Mary Tucker、 eds.、 Confucian Spirituality、New York: The Crossroad Publishing CO.、 2003)。この二度目のさらなる考察により、私ははじめて「突破」と礼楽秩序の関係をはっきり把握できたように思う。同時にまた、中国思想の基調が「突破」の時期に定められたことも、より明確に理解できるようになった。この論文「天人の際」では複雑な諸問題をとりあげたが、ここで詳論することができない。ここではただ、中心となる論点につき簡単に述べたい。
三代以来の礼楽秩序はきわめて豊富な内容を持ち、その中には「突破」的洗礼の後においても長く価値を保持した合理的要素が含まれている。一方そこには、「突破」の鍵になった、きわめて古く根強い精神的伝統も含まれていた。私の理解では、それは「巫」の伝統である。古代王権の支配は常に「天」の力に依拠していたため、「天道」「天命」などの観念が広まった。「天道」「天命」を知るのは誰か。いうまでもなくそれは、天と人との間を橋渡しする専門家であり、古代文献において「史」、「卜」、「祝」、「瞽」などと呼ばれ、いずれも天と人、神と人を結ぶ媒介となっていた。厳密には彼らの職掌は互いに違うかもしれないが、便宜上、私は彼らをまとめて「巫」と呼んだ(私は英文では“Wu-shamanism”と呼び、シャーマニズムshamanismと区別した。巫が中国起源なのか、シベリアから中国に伝わったのかは、もはや明らかにできない)。我々は古代の「礼」(「楽」を中に含む)について少しでも検討するならば、「巫」がその中で中心的な役割を果たしていることに気がつくはずである。彼らは特殊な能力を持ち、天上の神と意思を通じ、神を彼らの身に「降す」こともできた。『左伝』には「礼は以て天に順う、天の道なり」〔文公十五年〕、「夫れ礼は天の経なり、地の義なり、民の行なり」〔昭公二十五年〕などの語が見える。こういった考え方は「巫」の精神的伝統のもとで発展してきたもので、シャーマニズムの研究者(たとえばエリアーデ)はこれを「礼の神聖モデル」(“divine models of rituals”)と呼んでいる。ここから三代の礼楽秩序における巫の影響の大きさが知られるであろう。なぜなら彼らは「天道」の独占者であり、彼らのみが「天」の意思を知りえたからである。近年において発見された大量の殷周卜辞はその最も確実な証拠である。
もっとも、中国における巫の起源はきわめて早く、三代以前にまで遡る。考古学上の良渚文化は紀元前第三千年中期であり、伝説における五帝時代の中期にあたるとされる。良渚文化からは墓葬の祭壇や玉jを中心とする礼器が発見されている。玉jはもっぱら天を祭るために用いられ、その形も天と人の交わりを示し、また、いずれも祭壇近くの墓から発掘されている。
これらの墓は普通の集団墓地とは距離を置いており、墓主が特殊な身分だったことを示している。考古学者は、墓主は「巫師」であり、神権さらには軍権を持っていた(「j」のほか、墓中には「鉞」もあったからである)。こうしてみると、三代の礼楽秩序はおそらく五帝時代に由来し、巫はその中心人物であったと考えられる。
春秋・戦国の際、諸子百家はこうした長い歴史をもつ精神的伝統に対して、彼らの「哲学的突破」を展開した。諸子は、いずれの学派であれ、「巫」が天と人もしくは神と人の交わりを独占する権威であったことを認めている。『荘子』応帝王篇に、道家の巨匠壺子と神巫季咸の間で行われた論争の寓話がある。結果として、前者が勝ち、後者は敗れた。ここには当時、諸子と巫が思想的闘争を行なっていたことが暗示されている。おおむね、諸子たちには二つの共通点があった。第一は「道」──或る種の精神的実体──をもって巫の信奉する「神」に代えたこと、第二は「心」の神明なるはたらきをもって、天と人もしくは神と人とを結ぶ「巫」の神秘的機能に代えたことである。巫は「神」を迎えるために、まず自己の身体を清浄にし、「神」が巫の身体に憑依するようにした(『楚辞』雲中君篇に描写されるように)。しかし諸子は、人は「心」を清らかにすることではじめて「道」が「心」にやどると考える。荘子の「心斎」がそうである。『管子』内業篇は「心」を「精の舎り」とする。「精」とは「道」であり、韓非もまた「心」を「道の舎り」といっている。巫が天と人もしくは神と人をつなぐことができたのは、或る種の精神的修練によってであった。しかし今や、諸子は「心」の修養を説くようになった。孟子のいう「浩然の気を養う」とは「心を動かさざる」ためであり、かくてはじめて「義と道に配する」ことができた。荀子も「治気養心」を重視し、孟子と基本的に一致している。『管子』枢言篇にいう「心静かに気理まれば、道乃ち止まるべし」というのも同じ意味である。「道」は天人を貫くものであり、よって孟子は「心を尽くし」、「性を知る」ことで「天を知る」ことができるとし〔『孟子』公孫丑篇上〕、荘子もまた「独り天地の精神と往来す」といった〔『荘子』天下篇〕。天と人の交わりから完全に巫を排除するものとなったのである。
こうしてみると、「哲学的突破」は中国においては「心学」が「神学」に取って代わったということができよう。中国思想の一つの重要な特色がここで定められたのである。後世の程・朱・陸・王はいずれもこの道をたどっていったといえる。
先秦諸子の「哲学的突破」こそは中国思想史の真の出発点であり、以後、二千余年における思想の枠組とその展開を方向づけた。「哲学的突破」の歴史的背景は「礼壊れ楽崩る」の局面、言い換えれば周代の全体的秩序の崩壊にある。「突破」がどのようにして生じたか、「突破」以後の中国思想がいかにして中国独自の道を拓いていったかに関して、思想史を他の諸領域の歴史を切り離し、孤立させて論じることはもちろんできない。政治体制、経済形態、社会構造、宗教的局面などの変革はいずれも「哲学的突破」と何らかの関係をもっているのである。「哲学的突破」に関する私の理解は以下の三つにまとめることができる。
一、思想史上に起こった大変動の実態を把握するために、我々は或る種の全体的観点を備えなければならない。或る時代の諸分野における変動の分析から始め、ついで各層を一つ一つ組み合わせて思想史の領域へと統括しなければならない。
二、中国思想史において、観念と価値は「士」階層によって意味が明示され(articulate)、定義された(define)ため、「士」の社会・文化的地位の変化を探求しなければ、彼らが造り出した新しい観念および価値を十分に理解することはできない。春秋戦国の「士」は「游士」であった(雲夢秦簡からはすでに「游士律」が発見されている)。「游」とは単に「列国を周游する」という意味のみならず、彼らがそれまでの封建制度下における固定した職位から「游離」し、自由な身分を獲得したことも意味する。この現象に最初に気づいたのは章学誠であり、彼はこう論じた──かつて政教が合一し(「官師、治教合す」)、「士」は職位に制限されて、ただ具体的な問題(「器」)のみを考慮するだけで、みずからの職位を越えた「道」について論じる意識を持たなかった(「人心に越思無し」)。
だが、政教が分離した後(「官師、治教分かる」)、彼らはみずからの見解をもつようになり、かくして「諸子紛紛として、則ち已に道を言う」という事態が生じた〔『文史通義』、「原道」中〕。とりわけ「人心に越思無し」という語は示唆に富む。なぜなら、「哲学的突破」の別の言い方は「超越的突破」(“transcendent breakthrough”)だからであり、これは心霊が現実によって制限されないため、より高い超越的世界(「道」)が構想され、かくして現実世界を反省し批判するようになったからである。これは「游士」の重要な特徴ということができよう。
三、他の文明と基本事項において比較を行なうことは、確かに中国における「哲学的突破」の性質を解明するのに役立つ。同質な中に異質性を見るにせよ、異質な中に同質性を見るにせよ、いずれも中国思想の起源とその特色に関する認識を深めてくれる。ギリシア、イスラエル、インドにはかつていずれも「突破」現象が見られたが、これは一方では古代の高度な文明がともに精神的覚醒の段階を経たことを示すとともに、また、中国が歩んだ道が独特のものだったことも示している。このような比較は西洋の観点を盲目的にあてはめることを意味しない。すでに1943年の時点で、聞一多は、文学的観点からこうした四大文明がほぼ同時に、独自の特色をもつ詩歌を生み出したと指摘している。
この「文学的突破」説は西洋において最初に「突破」を論じたカール・ヤスパース(1949年)より6年早く提出されている。聞一多は『詩経』の専門家であり、中国文学の起源から研究を深化させることでこの説を見出したのである。
以上、私の三つの見解は春秋戦国時代における諸子百家の勃興に限らず、以後、二千年にわたる中国思想史の重大な変化にも適用できる。実際、いずれの思想変動の研究であれ、私はまず全体的な観点からその歴史的背景をさぐり、思想史をできるだけ他分野の歴史の発展と関連づけ、さらに「士」の変化と思想上の変化の間にいったいどのような関係があるのかに着目してきた。ただ、時間の関係で、以下、いくつかの大変動につき、詳細な検討は割愛し、簡単な要約をのみを行なうこととしたい。 
二 個人の自由と社会秩序

 

中国思想史の二度目の「突破」は漢末に起こり、それが魏晋南北朝まで、すなわち3世紀から6世紀まで続いた。私の研究は「漢晋の際における士の新しい自覚と新思潮」(1959年)、「名教の危機と魏晋士風の展開」(1979年)、「王僧虔『誡子書』と南朝清談考弁」(1993年)、および英語の論文“Individualism and Neo-Taoist Movement on Wei-ChinChina”(1985年)に示されている。
3世紀の中国は全面的な変化を経験した。すなわち、政治的には四百年の統一を保った漢帝国が分裂に向かったこと、経済的には各地方の豪族大姓が競って大荘園を発展させ、貧富の格差が目に見えて両極化したこと、社会的には世襲貴族階級が形成され始め、「客」、「門生」、「義附」、「部曲」といった人々が貴族の庇護のもとに依附し、国家と法律──賦、役など──が彼らに直接及びにくくなくなったこと、文化面においては、大統一帝国とつながっていた儒教への信念が動揺し始めたことである。
「士」はこの大きな変動の中においても新たな地位を獲得した。戦国時代の「游士」は漢代の三、四百年の歴史の中で「士大夫」となり、各地に定住し、地縁および血縁の二重の関係において親戚・族人と密接な関係を作りあげた。後漢によく見られる「豪族」、「大族」、「士族」などの呼称はその明証である。2世紀中葉以降、「士」の社会勢力はさらに強大となり、一つの集団を保持する者として社会エリートとしての自覚が生じ、「天下の風教の是非を以て己が任と為し」た〔『後漢紀』巻21、李膺語〕。「士」の数が増えるにつれ、その集団もまた分化を始めた。一つは「勢族」と「孤門」といわれるような上下層への分化であり、門第制度がここから生じた。もう一つは、陳群と孔融が「汝南の士」と「潁川の士」の優劣を争ったことに見られるような地域的な分化であり〔『全後漢文』巻83、「汝潁優劣論」〕、それが、士人が党派を結ぶ重要な背景となる場合もあった。しかし、より重要なことは士の個人としての自覚である。これはグループ的分化を超えた新たな気風として広がった。個人としての自覚とは、みずからに独立の精神と自由な意志があることの発見であり、同時に個性を充分に発揮し、内心の真の感情を表現することも意味していた。仲長統の「楽志論」は、早期の、しかもきわめて重要な文章である〔『後漢書』巻79、仲長統伝〕。この文章によって我々は、個人としての自覚が思想的には老荘思想に傾斜しつつあったこと、また、それが精神のすべての領域に広がり、文学、音楽、山水の鑑賞がいずれも自由な心の投射対象になったことを知ることができる。さらにいえば、書における行書や草書の流行も自己表現の一方式だったと見られる。
個人としての自覚は「士」の個性を解き放ち、その結果、彼らは自発的情感を抑圧して情理に合わない世俗的規範を守るのをいさぎよしとしなくなった。これが周孔の「名教」が老荘の「自然」から受けた挑戦の思想的由来である。嵇康(223-262)はこう述べている。

六経は抑引を以て主と為し、人性は欲を従(ほしいまま)にするを以て歓と為す。抑引すれば則ち其の願いに違い、欲を従にすれば則ち自然を得ん。〔『嵇中散集』巻7、難自然好学論〕

この語は個人としての自覚を得た「士」の一般的な考え方を端的に表わしている。このような考え方のもとに、彼らは数百年を支配してきた儒家の価値に疑問を呈した。2世紀中葉(164年)、漢陰老父なる人物は「天子」の合法性を認めず、尚書郎張温に対して、君主が「人を労して自ら縦まにし、エ遊して忌む無き」なのは恥ずべきことだ、と説いている。これは「天下を役して以て天子に奉ずる」ことであり、古代の「聖王」とまったく相い反するというのである〔『後漢書』巻113、漢陰老父伝〕。これは後の阮籍、鮑敬言らの「無君論」の先駆をなすものである。孔融(153-208)もまた王充の『論衡』にもとづき、「父の子に於ける、当に何の親しむこと有るべきか。其の本意を論ずるに、実に情欲の発せると為すのみ。子の母に於けるも、亦た復た奚をか為す。譬えば物を瓶の中に寄するが如く、出づれば則ち離る」と公言している〔『後漢書』巻100、孔融伝〕。明らかに、君臣、父子(母子)という二つの倫が挑戦を受けているのである。儒家の「忠」、「孝」という二つの大きな価値が俎上にのぼされたのである。
思想が過激化したのみか、「士」の行為も儒家的礼法を突破することになった。子が「常に其の父の字を呼び」〔『晋書』巻49、胡毋謙之伝〕、妻が夫を「卿」と呼ぶ〔『世説新語』惑溺篇〕のはごく普通の「士風」となっていた。つまり「親密さ」が「礼法」に取って代わったのである。男女の交遊も大いに解放され、友人が訪ねて来た時には「入室して妻を視、膝を促して挟坐する」ことも許された〔『抱朴子』外篇巻25、疾謬篇〕。このような行動は中国史上においてまさに空前絶後というべきであろう。しかし、西晋(256-316)の束ルは、「婦は皆な夫を卿とし、子は父の字を呼ぶ」ことをかえって理想社会の特徴と見ていた(束ル「近遊賦」)。当時の「士」がきわめて大きな変動を経験したことがこれによって知られるであろう。
この変動を背景として、私は漢末から南北朝に至る思想の発展を改めて理解した。「名教」と「自然」の論争が漢末から南北朝に至る「清談」の中心的内容をなすことは学界の常識であろう。ただ、多くの研究者は「清談」は魏晋時代にこそ実際の政治と密接に関連するものの、東晋以降は紙上の空論に堕し、士大夫の生活と実質的関連性をもたなくなったと考えてきた。
これに対し、私は士の集団的自覚および個人としての自覚に着眼して、それとは異なる解釈を示した。「名教」と「自然」の争いは儒・道の争いにとどまらず、社会秩序と個人の自由との争いにまで拡大した、と。郭象の『荘子』注は道家の立場から「自然」と「名教」の調和を試みているが、ここから新道家を信奉する士大夫の中にも社会秩序を重視する者があったことがわかる。西晋王朝は世襲の大族に代わって政権をとり、政治上の「名教」と「自然」の衝突を解決し、司馬氏政権下における士の集団にしかるべき政治秩序を示した。それは、君主は「無為」であり、門第は「各おの其の自為に任す」というものである。しかし、個人としての自由の問題はなお解決を見ず、東晋から南北朝に至る社会秩序は「情に任す」、「性に適う」といった個人的自由の衝撃にさらされ続けた。したがって、東晋、南朝の「自然」と「名教」の争いは「情」と「礼」の争いのかたちをとって現われ、「情に縁りて礼を制す」〔『通典』巻92、「嫂叔服」引、曹羲語〕ことが思想界における論争の焦点となった。この段階の論争は新「礼学」の構築を待ってはじめて収束するのだが、それは5世紀のことであった。 
三 三代への回帰と「同に天下を治む」

 

唐宋の際は中国史上、第三の全面的な大変動が生じた時代である。このことは歴史学者の共通認識であり、中国、日本、西洋いずれにおいても「唐宋変革論」が熱心に論じられてきたことをここで繰り返す必要はないであろう。ここではただ、思想史と密接にかかわるいくつかの歴史的変化について、しかも私の研究した範囲にしぼって述べてみたい。
唐宋における精神世界の変遷について私が最初に論じたのは慧能の新禅宗に始まる。当時私の興味の中心は宗教倫理にあった。すなわち、新禅宗における「入世間への転回」がどのようにして宋代の「道学」(もしくは「理学」)に代表される新儒教(Neo-Confucianism)の倫理を導き出したのかを跡づけることであった。これらの研究は『中国近世の宗教倫理と商人精神』(1987年)の上篇および中篇を構成している。その後、「唐宋変革における思想的突破」という要旨を英語で書いた(“Intellectual Breakthrough in the Tág-Sung Transition”、 in Willard J. Peterson、 Andrew H. Plaks、 Ying-shih Yü eds.、 The Power of Culture: Studies in Chinese Cultural History、 Hong Kong: The Chinese University Press、1994)。
これらの早期の研究は概論的なもので、しかも宗教倫理面に限られていたため、唐宋の際における思想のダイナミズムに見られる政治、文化、社会的背景については論じることができなかった。1998年になって『朱熹の歴史世界』を構想し始め、やっとこの時期の歴史についてアウトラインを整理することができた。その後、三、四年にわたる執筆の過程で、私は関連資料のすべてを網羅的に調べあげ、一方で私の初期の構想をたえず修正するとともに、一方で納得のいく解釈の道筋を作っていった。この書物は上下二冊に分かれ、下冊の「専論」は朱熹を中心としたが、上冊の「緒説」と「通論」では唐宋の間の文化的大変動を主題としている。内容が多岐にわたるため、ここでは二つの基本的視点についてのみ述べることとする。一つは「士」の政治的地位についてであり、一つは道学の基本的性質についてである。
「士」が宋代において空前の政治的地位を獲得したのは唐・宋の間に起こった一連の変動の結果である。
第一に、唐末五代以来、藩鎮勢力が地方に割拠し、武人が中国を蹂躙していた。よって五代最後の皇帝、周の世宗はすでに、武将の跋扈を制することで「儒学文章の士を延き」、文治を実現しようとしていた。そして宋の太祖が周を継いで即位すると、より計画的に「武を偃め文を修めて」いった。「士」の政治的重要性もいっそう高められたのである。
第二に、六朝隋唐における門第の伝統は五代に至ってほぼ消滅した。宋代の「士」のほとんどは「四民」から輩出し、1069年、蘇轍は「凡そ今の農工商賈の家、未だ其の旧を捨てて士と為らざる者有らず」〔『欒城集』巻21、上皇帝書〕といっている。この語は宋代の「士」が「民」から生まれたこと、しかもその数が激増したことを示す鉄証である。
第三に、「民」が「士」となるための鍵は科挙試験にあるが、宋代の制度は新たに定められたもので、唐代の科挙が門第の支配を受けていたのとは異なる。五代の科挙は武人に手中にあり、試験は兵部により執り行われた。はじめて進士を重視した周の世宗は試験を厳格に実施し、進士合格ののち才学が劣る場合は不合格にすることもあった。宋代になると科挙制度が再建され、答案は「糊名」されて不正行為は難しくなり、進士の数も大幅に増加した。唐代においては科ごとに二、三十人にすぎず、五代ではわずか五、六名しかいない場合すらあったのに対し、宋代では科ごとに数百名に増えた。宋代の朝廷は進士をとりわけ尊重したところから、「香を焚いて進士に礼す」の説も生まれたのである〔『東斎記事』巻1引、欧陽脩詩〕。「民」が「進士」となった後、国家対して一体感と責任感を持つようになったのは当然であろう。これが宋代に「士は天下を以て己が任と為す」〔『臨川先生文集』巻68、楊墨、その他〕という意識が生まれた主な要因である。言い換えれば、彼らはみずからが文化もしくは道徳の担い手であるのみならず、政治の主体であると自認したのである。
宋代の儒学は初めから「三代への回帰」、すなわち政治秩序の再建を目指していた。これは朝廷の意図と合致するばかりか、一般人民の願望でもあった。唐宋五代の県令は多く武人出身であり、人民の生活に関心を払わず、地方の吏治は混乱を極めていた。そこで人民たちは書を読み道理を知る士人に地方を治めてほしいと願っていた。彼らは宋代の科挙が再開され、試験に参加する士人たちが道路に出てくるのを初めて見た時、ひどく興奮し、父老たちは彼らを指さして「此の曹出でて、天下泰平ならん」〔『文献通考』巻30〕といったという。
我々はこのような背景を認識してはじめて、なぜ宋代儒学復興の重点が「治道」にあったかを理解することができる。これは孔子の本来の意図であり、「天下に道無し」を「天下に道有り」に変えることであった。「三代への回帰」は政治秩序(「治道」)の回復が何よりも優先した。
慶暦と煕寧の二度にわたる変法は「治道」を理論から実践に移すことを意味していた。また、張載、程ははじめ王安石の変法に参加していた。張載は「道学と政事」が不可分であるとし〔「答范巽之書」〕、程頤もまた「道学を以て人主を輔くる」ことが最大の栄誉と考えていた〔「上太皇太后書」〕。儒家のみならず、仏教徒もまた同様に儒家による政治革新を推し進め、政治秩序が回復されない場合、仏教も発展の前途はないと考えていた。「中庸」と「大学」は智円、契嵩などの高僧によっても尊ばれたのである。かくして宋代における仏教の「入世間への転回」はまず「治道」の面に集中した。
みずからが政治の主体であると信じた宋代の「士」は、いずれも「君を得て道を行なう」ことを望んだが、しかしみずからを皇帝の「道具」とは認めず、皇帝と「同に天下を治める」ことを求めた。権力の最終的な源は皇帝の手中にあったが、「天下を治める」ところの「権」は皇帝の独占ではなく、「士」とともにあるというのである。彼らが望んだ「君」とは「無為」の虚君であり、実際の政権は「道」を知る士によって運用されるという。このような考えのもとで、いわゆる「道学」(もしくは「理学」)は、その第一の目標を「天下に道無し」を「天下に道有り」に変えることに置いたのである。私はこの本の「緒説」に「理学」と「政治文化」の関係について分析した長篇の論文を載せたが、これが「道学」についての私の新たな評価であり、新たな解釈である。 
四 士人・商人の相互関係と人民覚醒のための行動

 

最後に私は、16世紀、すなわち王陽明(1472-1528)の時代が、中国思想史における四度目の重大な突破であったと断言したい。この突破の発見および整理に関し、私は前後二段階の研究を通して、やっとまとまった見解を得ることができた。
私が最初にこの変動に注意したのは、明代の文集の中に商人の墓誌銘、寿文などの作品が大量に存在することに気づいたことに始まる。このような現象がおおむね15世紀に始まることも跡づけることができた。これは唐・宋・元の各時代の文集には見られないもので、明初(14世紀)においてすら見出すことができない。最も私を驚かせたのは王陽明の文集に商人のために書いた「墓表」があり、しかもそこに「四民、業を異にして道を同じうす」の語があったことである〔王守仁「節菴方公墓表」〕。これは儒家が、商業活動もまた「道」に含まれることを正式に認めたものにほかならない。商人は中国史上、春秋、戦国、後漢、宋代などにおいてたえず活躍してきた。明代の新安、山西商人は、現代の中国、日本の学者が詳細な研究を行なっている領域である。しかし、私の関心は商業や市場そのものではなく、16世紀以来、商人が儒家の社会、経済、倫理思想に与えた重大な影響にあった。「儒を棄てて賈に就く」といわれる社会現象の分析を通して、私は明清時代における士人・商人の相互活動の曲折した過程につき多くの面で論証を加えた。私の第一段階における主な研究成果は『中国近世宗教倫理と商人精神』(1987年)の下篇および、「現代儒学の回顧と展望」(1995年)である。この二つの論文はすでに日本語訳があるので、ここでは繰り返さない(「現代儒学の回顧と展望」の日本語訳は『中国──社会と文化』第10号所載)。
ただ「現代儒学の回顧と展望」を書いていた時、私の研究には深さと広さにおいて補強を加える必要があると感じていた。深さについていえば、士人と商人の相互関係および合流の事例を発掘するだけでは不十分である、ただ単に商人が儒学に強い関心を示していたことを指摘するだけでは不十分である、と考えたのである。なぜなら、これらは表層的事実にすぎないからである。より重要なのは、商人がどのように彼ら自身の価値観を作り上げたのか、彼らの新しい価値は儒家の社会、経済、倫理などの観念にいったいどのような影響を与えたのかを検討することである。また、広さについていえば、私は士人と商人の相互交流は主に文化、社会、経済の三つの領域における変化に現われていると見たが、しかし明代の政治環境はこの三つの領域と密接に関係しているはずである。したがって、よりいっそう考察を加えなければ、この「突破」の歴史的背景はまとまったかたちで現われてこないと考えたのである。
このような構想にもとづき、私は改めて文集、筆記、小説(新たに発見された『型世言』など)、碑刻、商業書(『客商一覧醒迷』、『士商類要』など)における関連資料を調べ、「士商互動と儒学の転回」という長篇の論文を書いて(1998年)、『商人精神』の続篇とした。この時の検討により、私は新たな論断を得た。それは次のようなことである。一、商人はみずからの社会的価値が「士」もしくは「儒」に劣らないという自信を有しており、当時「賈なるが故に自ら足るのみ。何すれぞ儒を為さん」という発言すらあった。これは商人が自己の事業に満足し、読書によって入仕しなければならないとは必ずしも考えなかったことを示している。二、16世紀以降、「公私」「義利」「奢倹」といった儒家の社会経済観念に重要な変化が生じた。さらにいえば、このような変化は商人の新しい意識形態(ideology)と不可分のものである。三、明代の専制皇帝権力の商人に対する圧迫は厳しいものがあったが、士と商の境界線が曖昧になるにつれ、「士」階層出身の人物が商人と手を組み、皇帝権力に対して根強い抗争を行なった事例がしばしば見られる。このこともまた思想の「突破」を促す重要な力になった。
「士商互動と儒学の転回」の論文を書きあげてから、私はただちに朱熹と宋代政治文化の研究計画に着手した。研究が進むにつれ、私は次のことを見出した。すなわち、宋明二代の理学間の断裂は連続面よりもはるかに大きく、その最大の差異は政治環境と政治文化を観察しなければ理解できない、ということである。おおまかにいえば、宋代の皇帝権力は「士」をきわめて重視していた。たとえば北宋の仁宗、神宗および南宋の孝宗はいずれも儒家革新派による政治改革を支持し、「天下に道無し」を「天下に道有り」に変えようとした。かくして宋代の「士」は一般に「君を得て道を行なう」という期待を抱いていた。范仲淹、王安石、張載、二程から朱熹、張栻、陸九淵、葉適らに至るまで、すべてそうであった。彼らの理想は朝廷が改革を主導し、上から下へというかたちでそれを全国に広げることにあったのである。ところが、明代においては太祖以来、「士」に対して執拗な敵視態度がとられた。太祖は「天下を治める」には「士」階層の支持が必要なことは理解していたが、「士」を政治の主体とはけっして認めなかったし、君権を制限する儒家の理論(たとえば「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」という孟子の説)を受け入れることなど、とうてい不可能であった。宋代の宰相権力は、少なくとも理論的には「士」の集団によって掌握されており、程頤が「天下の治乱は宰相に繫る」〔『程氏文集』巻6、論経筵第三箚記・貼黄二〕と述べたのもそのためであった。しかし、明の太祖は洪武十三年(1380年)、宰相職を廃したため、以後「士」は朝廷における政治権力の凝集点を、たとえ象徴的なものであれ、失ってしまった。宰相に代わって置かれた内閣大学士は単なる皇帝の個人秘書に成り下がってしまった。黄宗羲は「有明の善治無きは、高皇帝丞相を廃せしより始まる」〔『明夷待訪録』置相〕といったが、これはまさに「士」の立場からする批評である。さらに太祖は「廷杖の刑」を作り、朝臣はいつでも杖打ちの辱めを受ける可能性があり、殴打されて死ぬこともあった。こうした政治環境のもとで、明代の「士」は宋儒の「君を得て道を行なう」意志を受け継ぐことはもはや不可能になった。かくして初期の理学者である呉与弼(1392-1469)やその弟子である胡居仁(1434-84)、陳献章(1428-1500)らは、いずれも個人的な精神修養に偏重し、出仕を恐れた。彼らはただ孟子の教えの前半「其の身を独善する」ことを守るだけで、後半の「天下を兼善する」すべを失ってしまったのである。
2004年、私はさらに「明代理学と政治文化発微」(『宋明理学と政治文化』の第六章)を書いた。この論文で私は、政治文化の観点から王陽明の「致良知」のもつ思想史上の役割と意義を改めて検討した。陽明学が理学史上の一大突破であることは多くの人が認めるところである。
しかし私はさらに、「致良知」の教えが16世紀全般における思想的突破の重要な鍵であること、その重要性は理学の領域のみにはとどまらないことを論証した。
陽明は若い頃、なお宋儒の「君を得て道を行なう」意識を捨てていなかった。しかし、1506年、封事をたてまつることによって廷杖の刑を受け、二年後、龍場に放逐された彼は深夜に頓悟し、以後、「君を得て道を行なう」という幻想を捨て去った。ただ、明代初期の理学者と違って、彼はなお「天下に道無し」を「天下に道有り」に変えようとする理想は保持していた。
では、もはや皇帝に望みを託さず、朝廷の発動する政治改革に従うかつての道筋を断ったあとで、彼には「道」を「天下」に推し広めるどんな方法があったのだろうか。彼の「致良知」の思想の画期的な重要性がここに出てくる。検討を重ねた結果、私は、龍場の悟りの最大の収穫は、彼が「道を行なう」ための新しい道筋を見出したことにあるという結論を得た。彼は社会に向かって訴えかけ、下層の人民に対して教えを説き、下から上へという社会改造の大運動を巻き起こした。かくて彼は頓悟の後、龍場の「中土亡命」の人々に「知行合一」の思想を説き、ただちに大きな反響を呼んだのである〔年譜、正徳三年〕。のちに「士大夫」と議論しても主張が相容れなかった彼の学説は、最終的に「良知」にたどりついた。人間には誰しも「良知」(わかりやすく言えば「良心」)、「即知即行」の能力がそなわっていると彼は信じたのである。「致良知」の教えは社会の大衆の良知を呼び覚ますことを主たる内容とするものであり、それで私はこれを「覚民行道」(人民覚醒のための行動)と呼んだ。陽明は龍場を離れてから頓悟後の理論を実践する場合、いつも「覚民」を心がけていた。1510年、廬陵県知県となった彼は「惟だ人心を開導するを以て本と為し」〔年譜、正徳五年〕、のちには「須らく個の愚夫愚婦と作って、方めて人の与に学を講ずべし」〔『伝習録』下〕と訓戒した。彼自身、これといった教育を受けていない聾唖者と、それも民間の言葉で筆談することさえあった。陽明の死後、「覚民行道」(人民覚醒のための行動)の理想はついに王艮の泰州学派のもとで最大限に発揮され「天下に風行する」こととなったが、その詳細についてはここでは割愛する。
「覚民行道」(人民覚醒のための行動)は16世紀以来の文化、社会における大変動の有機的な一部分である。その源は商業の旺盛な発展によって巻き起こった士人と商人の合流にある。
「覚民行道」運動と同時に、小説や戯曲の流行、民間における新宗教の成立、印刷市場の拡大、宗族組織の強化、郷約制度の再興などが生じた。これらのすべての活動は士人・商人の相互交流の結果である。「士」の社会的身分の変化は16世紀の思想的「突破」の主要な原動力となったのであって、これはきわめてはっきりした事実である。 
 
東アジア冊封体制と日中関係

 

東アジア冊封体制において、日本の地位はやや特殊であり、その政治的独自性はさらに突出している。このような政治的独自性は主に東アジア地域において自主独立の地位を獲得し、自らの発展の方向を追求することに表れている。
古代以来、世界秩序は三種類の基本的な制度の形式によってその運行が維持されてきた。
それが即ち、「朝貢―冊封制度」と、「植民地制度」、「契約関係制度」である。古代東アジア世界にあっては、中国歴代王朝は「冊封朝貢」による「中央−周辺」メカニズムを中心とし、東アジアを一つのおおよそ秩序ある地域として組み立てた。
中国歴代王朝の構築した国際関係は、王朝が異なることと、対象となる政治実体が異なることから複雑かつ豊富な内容をもっていた。隠さずに言うならば、古代中国は東アジア地域において人口は多く、地域は広く、生産力の進んだ国であり、冊封朝貢体制は、かつてはいくつかの王朝が周辺の国際関係を維持していくための策略の一つであった。この策略を実行した王朝は、基本的には皆、来る者は拒まず、去る者は追わずという原則を実施していた(すなわち自ら冊封を求めてくれば封号を与え、封号を求めなければ、それはそのままとする)。そして冊封を実行していく過程では、実際には親密、中間、周辺という異なる関係の層が存在していた。日本列島を対象とする関係にあっては、歴史的事実によると、日本は中国歴代王朝の冊封体制の中で周辺の層にあったと判断してよいだろう。
日中古代の政治関係を理解するにあたり、日本列島の実際の状況から述べる必要がある。
外形的な名称と統治の範囲から言えば、古代の日本列島には前後して三種類の政権が現れた。即ち倭政権、大和政権、日本政権である。倭政権とは即ち弥生時代に邪馬台国を中心とした多くの倭人の政権である。大和政権とは即ち4 世紀後に出現した統一政権である。
日本政権は7 世紀初めに出現し、大化の改新を経て確立した。『隋書』の記載によれば、「開皇二十年(600 年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号し、使を遣わして闕に詣る。……使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。」とあり、「大業三年(607 年)、其の王多利思比孤、使(小野妹子)を遣わして朝貢す。其の国書に曰く、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云云。」とある。『日本書紀』推古天皇十三年条には、「高麗国の大興王、日本国の天皇の仏像を造るを聞き、黄金三百両を貢上す。」とあり、同じく十六年条には「復た小野妹子臣を以て大使と為し、……之を遣わす。爰に天皇、唐帝に聘し、其の辞に曰く、東の天皇敬みで西の皇帝に白す。……」
とあり、同じく二十九年条には「高麗僧恵慈……誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、……玄聖の徳を以て日本の国に生まる。」とあり、同じく三十二年条に「百済の観勒僧上表して以て言う、……然るに我が王、日本の天皇の賢哲なるを聞きて、仏像と内典とを貢上して未だ百歳に満たず。」とある。これらの資料に基づいて、研究者は一般的に、6 世紀末・7 世紀初めの推古朝では既に「天皇」と「日本」の称号を用いていたと考えている。しかし、このような認識については実際にはなお検討が必要である。
日本の古代文献から言えば、712 年に成立した『古事記』と、720 年に成立した『日本書紀』の重大な違いの一つは、前者の記載には「倭」があって「日本」がなく、後者の記載には逆に「日本」があって「倭」がないということである。しかし、「倭」でも「日本」でも、訓読みはいずれも「牙麻托(やまと)」である。両書にそれぞれ記載される「神倭伊波礼毘古命」と「神日本磐余彦天皇」とは、いずれも神武天皇を指し、「息長帯日(比)売命」と「気長足姫尊」とは、いずれも神功皇后を指し、「大雀命」と「大鷦鷯天皇」とは、いずれも仁徳天皇を指す。これらはいずれも同一人物の異なる表記方法であり、読みは全く同じである。このことは、その二書が成立した時期に、日本の国家の主体意識に、根本的な変化が生じたことを示す。
二書にはまた、『日本書紀』は『古事記』に比べ、朝鮮半島に対するより強い占拠の欲望が現れているという点で、重大な違いがある。『日本書紀』の応神天皇三年条に、「東蝦夷悉く朝貢す。即ち蝦夷を役して厩坂道を作らしむ。」とある。また、応神天皇七年条に、「高麗人、百済人、任那人、新羅人、并びに来朝す。」とある。これに類する朝鮮半島各国が日本に従属を称して朝貢したことに関する無数回の記載は、日本が朝鮮半島においてある程度の宗主国の地位を確立し、それによって中華帝国に対してはその力を示して勢力範囲を分割できるようにし、さらには朝鮮半島諸国を属国とする小冊封体制を打ち立てようとしたことを示している。
東アジアの歴史的事実から考察すると、『日本書紀』の編纂者は、この新たな主体意識によって、こうした「歴史」を編んだのであり、人為的な加工の痕跡は十分に明らかで、そこに叙述される歴史的年代からは既に遠く離れている。これにより、「日本」と「天皇」という呼称が形成されたのは、概ね「大化の改新」後の7 世紀後期か8 世紀初期と考えられる。
「日本」という言葉の意味は、中国古代の最も早い字書『爾雅』に由来する。『爾雅』では、中華の先人の方位概念を表す時、東方を「日下」と呼ぶ。その作者は「日下とは、日の出ずる処を謂う。其の下の国なり。」と言う。そして所謂「日本」とは、即ち「日の出ずる処」という意味であり、それこそ上述の国書の冒頭で自称とした言葉である。大和人は、中国古代の字書『爾雅』の中の、華夏人が東方を観察して得たこのような美しい境地を借りて、自らの新たに構築した政治組織に名づけた。この国家主体意識の転換の主導者は、恐らく果断な独裁政治によって中央集権国家を建設し、またついには大化の改新の使命を完成させた天武天皇であったかもしれないし、あるいは天武天皇の后の持統天皇であったか、あるいはその後継者である元明天皇や元正天皇であったかもしれない。執政上の行いから見ると、持統・元明・元正の三人の女帝はいずれも進取の気性に富み、一般の人々の及ぶところではない。もちろん、『日本書紀』には、朝鮮半島との関係を述べる時、比較的早くから既に「日本」という呼称が使われており(例えば「任那日本府」)、このこともさらに考察するに値する。
『日本書紀』には、608 年、中国隋の使者裴世清が、小野妹子の日本帰国を送った時に携えた国書を記載する。その初めの句は、「皇帝、倭皇に問う」であり、全篇を通して言葉には保護する意図がある。中国の史書に明確に「日本」という国名が記載されるのは、10世紀中期に編纂された『旧唐書』に始まる。その「東夷伝」では、倭国と日本とを分けて記述する。その文には、「倭国は、古の倭の奴国なり。……」とあり、また、「日本国は、倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或いは云う、日本は(乃ち)旧と小国、倭国の地を并すと。其の朝に入る者、多く自ら矜大にし、実を以て対えず。故に中国焉を疑う。……長安三年(703 年)、其の大臣朝臣真人来たりて方物を貢ず。」とある。その後、開元・天宝・上元・貞元・元和・開成年間(713-839 年)に、いずれも使者を中国に遣わした。1060 年頃に中国で編纂された『新唐書』になると、その「東夷伝」にはただ日本に関する記載だけがあり、倭国に関する記載は見られなくなる。その文には、「日本は、古の倭の奴なり。……咸亨元年(670 年)使を遣わし、高麗を平らぐを賀す。後稍く夏の音を習い、倭の名を悪み、更めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し、以て名と為すと。或いは云う、日本は乃ち小国、倭の并す所と為り、故に其の号を冒すと。使者情を以てせず、故に焉を疑う。」とある。『新唐書』は日本の神代から光孝天皇(884 年)までの継承関係を詳細に記載しており、「孝安天皇」を「天安天皇」と誤記し、「敏達」・「淳和」両天皇を、字形が近いために「海達」と「浮和」に誤記しているほか、「奈良帝」と称される「平城」を「諾楽」(「奈良」の日本語読み)と記しているものの、その他の何十人もの天皇の名称はいずれも記録に誤りがないばかりでなく、さらに神武東征と神功皇后のことも記録している。これは、『新唐書』が、日本の古文献もしくは日本の知識人の口述記録によったものであることを物語っており、その中の日本の天皇の変遷過程の中で、670 年以後に「倭」が「日本」に変わったことを慎重に指摘しているが、これは、私たちの上述の分析と一致するもので、非常に信用できるものである。
国家の主体意識から言えば、これは、6、7 世紀の変わり目において、大和政権の統治者が既に比較的明確な対等意識を持ち始めていたことと関連がある。それ以前の倭の五王の時代の上表において中国南朝の宋の皇帝に対して封号を求めたのとは異なり[1]、この時から、大和政権と日本政権は、既に自ら中国の王朝を頂点とする東アジア冊封体制から外れる努力を始めた。大化の改新の後、二十年経たずして、日本は中国を学び、封建王朝をうち立て、国力が盛んになってくるやいなや、白江口の戦いを通して中国の王朝に政治的独自性を示し、対等な関係を求め、失敗した後は使者を送る下の地位に戻らざるを得なかった。
中国の王朝は「来るものは拒まず、去るものは追わず」の原則により、主体意識が割合に強くなった新しい日本政権との往来をそのことによって拒絶することは全くなかった。これによって始まった日中古代の政治関係は、短い時期を除いて、基本的には即かず離れず、是々非々というものであり、中国を頂点とする東アジア冊封体制の周辺を遊離した関係であった。古代日本の統治集団は、自らは中国の冊封体制から外れることを求めると同時に、その周辺の国家(主に朝鮮半島の国家を指し、後には琉球王国を含む)に対しては強勢な戦略を実行し、自己の勢力範囲をうち立てるという目的を全力で追求した。日本の統治者は、神功皇后が朝鮮に出征したという故事を作り出し、その後の日本が朝鮮を得ようとし、「経略」することに対して、理論的な準備を提供した。中国王朝との関係の善し悪しにかかわらず、日本は朝鮮半島に対して拡張するという「歴史的使命」を放棄することはこれまでなかった。南の琉球に対しては、薩摩藩が1609 年に出兵侵入して以来、琉球36 島のうち北部5 島鬼界島・大島・徳島・永良部島・与論島を奪い、日本名に改称して薩摩藩に組み入れ、その後琉球をすべて併呑するための第一歩を踏み出した。
中国の古典文献が、単に「倭国」だけを記載していたのから「倭国」と「日本」とを併記するようになり、さらに「日本」だけを記載するようになったという変化は、まさに日本列島の政権関係の変遷過程の反映である。この変遷過程は、中国古代の封建制度の影響のもとに、日本列島に一つの広範な移民群によって一つの新しい古代封建国家がうち立てられたことを示す。その政権が、分散から統一へと至り、さらに強固になるという全過程は、実際にはすべて、アジア大陸の中華文明の伝播や衝撃、融合と無関係ではなかった。
この過程において、初期の東アジア関係における冊封体制は、このような歴史的進歩の意義を持つ伝播、衝撃、融合を保護し促進するかなり有効な機構であることを失わなかった。
『日本書紀』応神天皇37 年条に、「阿知使主・都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めしむ。爰に阿知使主等、高麗国に渡り、呉に達せんと欲す。則ち高麗に至るも、更に道路を知らず。道を知る者を高麗に乞う。高麗王乃ち久礼波・久礼志の二人を副えて導者と為し、是に由りて呉に通ずるを得。呉王是に于いて工女兄媛・弟媛・呉織・穴織の四婦女を与う。」
と記載する。倭王が呉国から先進の生産技術とふさわしい人員を導入し、同時に儒学者王仁や五経博士段楊爾らを日本に招いて大陸文化を伝授させたのは、皆その非常によい例証である。
7 世紀後、中国と日本の間では、それまで第三国を経由する必要があった交通状況からついに抜け出し、黄海と東海を横断する直接の連絡を実現した。これは日本の政府が組織し中国へ派遣した「西海使団」(「遣隋使」・「遣唐使」など)が実現したものである。歴史の進歩に伴い、それに続いて、中国の宋・元・明代の僧侶を中心とする私的性格を持つ海上交通や、商人が推進した海上経由の多様な形式の貿易の往来が起こった。日中はまさにこのような黄海と東海とを連絡の主なルートとして古代両国の相互共存の政治秩序をうち立てたのである。
古代日本は、「西海使団」を派遣することを通して中華文明を学び、中国の方では日本の使節に対して友好的な心情を抱き、日本を「礼儀の国」であり、華夏とは「殊俗に非ず」と称した。唐の玄宗は日本国の使節との会見を「嘉朝」と呼び、さらに海上の「漲海」や「夕飈」がこれらの「君子」を驚かせることを心配した[2]。734 年、第10 次遣唐使が帰国の途についた後、途中不幸にして暴風に遭い、四隻の船はちりぢりになった。唐の玄宗はその知らせを聞くと、すぐに自らの名で日本の聖武天皇に中国の朝廷が把握している情報を通知したが、その文中には「此れ等の災変、良に測るべからず。卿等の忠心、則ち爾り。何ぞ神明に負はん。而るに彼の行人をして其の凶害に罹らしむ。想うに、卿此を聞けば當に用て驚嗟すべし。然れども天壤は悠悠として、各々命有るなり。冬中甚だ寒し。卿及び百姓、并びに平安なること好し。今朝臣名代還り、一一は口具せん。遣書の指は多きに及ばず。」と述べた[2b]。その日本使節に対する配慮や、日本の天皇への慰問の情が、余すところ無く表れている。
その後、明代に日本の南朝の懐良親王(『明実録』では「良懐親王」と記す)と北朝の足利義満とを「日本国王」に冊封したという二つのことは、14 世紀後半から15 世紀中期にかけて、日本はまだ完全には中国の王朝を頂点とする冊封体制のつながりから免れることができなかったということを表している。 
14 世紀の70 年代、日本は将軍と武士が入り乱れて争う南北朝時代にあった。中国本土は朱元璋の集団がモンゴル族の元朝を壊滅させて明王朝を建てた。当時、もともと朝鮮半島を略奪の中心としていた海賊「倭寇」は、このとき正にその中心を中国の沿海部に移した。
その人数は5-10 人の一群が、多い時には300 人前後に至る大盗賊団を編成し、船はただの数隻から、二三百隻前後に増加し、さらには500 隻余りが同時に現れる大規模な略奪もあった。このような規模の海賊には、必ずある種の統率機構があるはずである。成立したばかりの明王朝は、こうした海賊を直ちに打ち破って東南地域の治安を確保するため、使者を遣わして日本側に直ちにその「倭兵」活動を停止するように警告した。1369 年(中国では明の洪武2 年、日本では北朝後光厳天皇の応安2 年、南朝長慶天皇の正平24 年)、明王朝の使者楊載の一行は日本に交渉に赴き、明の洪武帝の「国書」を届けた。その文中にいう。
「……向に山東来り奏するに、倭兵数しば海辺に寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷すと。故に書を修めて特に正統の事を報じ、兼ねて倭兵越海の由を諭す。詔書到るの日、如し臣たれば、則ち表を奉じて来廷せよ。臣たらざれば、則ち兵を修めて自ら固め、以て天修に応じ、永く境土を安んぜよ。如し必ず盗寇を為せば、朕当に舟師に命じて帆を諸島に揚げしめ、其の徒を捕絶し、直ちに其の国に抵りて、其の王を縛るべし。豈に天に代わりて不仁者を伐たざるや。惟だ王之を図れ。」[3]
この国書では、中国が既に朝を改め代を換えたこと(即ち「正統」のことである)を日本国君に通知することのほか、主に、「倭兵」が中国の沿海を略奪することに対して厳重な警告を行った。その道理は正しく言葉は毅然とし、態度は明朗であった。しかし、中国は日本が南北二つの朝廷に分裂していたことについての情報が不完全だったため、明の使者が博多に上陸した後、たまたま遭遇したのが南朝勢力の懐良親王だったのである。懐良親王はなんと明の使者5 人を斬った。この悲惨な事件は、中国沿海の「倭兵」の活動が、博多一帯の勢力とある種の関係を持っていたことをいくらか暗示する。楊載は成果無く帰国したが、海防安全のため、明の洪武帝は再び趙秩を使者として派遣した。日本の南朝の懐良親王は、国内での戦争への必要性から、1371 年(中国明の洪武4 年、日本の北朝後円融天皇の応安4 年、南朝長慶天皇の建徳元年)、明王朝に使者を派遣して「修好」した。
この「修好」は、即ち明王朝の日本に対する「冊封」であるとはなお言うことはできない。第一に、懐良親王は、14 世紀の日本国内の将軍・武士の混戦状態における一つの地方勢力に過ぎず、日本を代表していなかった。第二に、当時の情報に問題があったため、中国側は日本の国家が南北両朝に分裂していたことを知ることができなかった。『明実録』が日本の南朝の勢力を「日本国王」とし、「日本国王良懐(懐良)、其の臣僧祖来を遣わし、表箋を進め……」云々と言っているのは、本来誤解である。[3b]従って、このことを所謂「日本国王に冊封する」ことと繋げるのは、史実の面で根拠を欠くものである。
しかし、1392 年、日本では南北朝の対立を終結させ、京都の北朝を正統とし、日本の歴史は将軍足利義満が統治する室町幕府の時代に入った。この武家政権は、その統治を堅固にするため、中国大陸との貿易を通して自己の経済力を高めることを早急に希望した。それより前の1374 年と1380 年、足利義満は二度にわたって代表を派遣し、明政府と通商を協議したが、二度の表の文がいずれも表記上の体例に合わず、「無表文」と見なされたため、その身分を証明するすべがなく、拒絶されてしまった。1401 年(中国明の恵帝の建文3 年、日本の後小松天皇の応永8 年)、室町幕府は明の太祖朱元璋が既に世を去ったことを知ると、博多の商人からの勧告を聴き入れ、遣明船を派遣して中国の明王朝に使いを出し始めた。その時の足利義満の文書には、冒頭に「日本の准三后某、書を大明皇帝陛下に上る。日本国開闢以来、聘問を上邦に通ぜざる無し。某、幸いに国鈞を秉り、海内虞い無し。
特に往古の規法に遵いて、肥富をして祖阿に相副え、好を通じ、方物を献ぜしむ。……」とある[4]。この文書では言葉の用い方を低姿勢にし、明らかに明王朝の新しい皇帝の歓心を買おうとする意思があった。1402 年(明の恵帝の建文4 年、日本の後小松天皇の応永9 年)明の朝廷が発した返答の国書が、僧侶の天倫道彙・一庵一如を使節として日本に送られた。
使節が兵庫に上陸した時、足利義満は自ら港まで出迎えた。明朝との貿易を開くことを望む彼のさしせまった心情を見て取ることができる。明朝の建文帝の国書には、以下のような言葉がある。
「茲に爾日本国王源道義、心王室に存し,愛君の誠を懐き、波濤を踰越し,使を遣わして来朝す。……朕甚だ焉を嘉す。日本素より詩書の国と稱し,常に朕が心に在り。第だ軍国の事殷く、未だ存問するに暇あらず。今王能く礼儀を慕い,且つ国の為に敵愾せんと欲す。君臣の道に篤きに非ずんば、疇か克く茲に臻らん。……」[5]
明の建文帝は、足利義満の願いにより、足利義満を封じて「日本国王」とした。これは、600 年に日中間で政治関係が開かれてから800 年後に、中国の王朝が初めて日本に発した封号であった。この冊封は、少なくとも二つの原因によって促されたものである。第一に、日本の足利氏が主体的に明王朝に「通好」を求めたからには、中国の朝廷は当然日本が自らを臣と称して朝貢してくることを拒むはずがない。第二に、足利幕府は中国沿海で共同して「倭寇」の海賊を攻撃することへの協力を承諾した。同年、明王朝には政変が生じ、朱棣が政権を奪取して北京に遷都したが、その明の成祖は対日関係の面では、共同して賊わして其の意に往答す。」とある。その中に「朕以て日本の正君と為す」という言葉があるところに、明確に述べられている。「以て……と為す」とあるが、実際には「……ならず」である。
を討つことを関係の基礎としつづけた。これは、1406 年(中国の明の成祖の永楽4 年、日本の後小松天皇の応永13 年)の足利幕府に対する詔書の中からはっきりと見て取ることができる。その文にいう。
「是より先、対馬・壱岐等の島の海寇、居民を劫掠し、道義に敕して之を捕らえしむ。道義、師を出だして渠魁を獲、以て献じ、尽く其の党類を殲す。上、其の勤誠を嘉し、故に是の命有り。仍りて道義に敕して白金千両……」(『明実録』永楽四年正月条に記載)
このことから考察すると、明王朝が日本の将軍足利氏を「冊封」して「日本国王」としたのは、海賊「倭寇」を討伐することを基本的な契機としたものであり、足利氏が封号を求めたのは、対中貿易のためであったから、これは一種の特殊な政治軍事情勢の中での連合であった。将軍は天皇と異なるが、国家の実際の権力を掌握していたため、明王朝は「日本国王」号に冊封したのであり、なおも日本を東アジアの冊封体制に入れるという意味があった。しかし、日本の皇室と、幕府の役人とを問わず、皆これについては相当に不満であった。そのため、そのような封号はまもなく停止され、その歴史的効果も限定されたものとなり、長期の完全な封建冊封体制を形成したというのとは、なお甚だしい隔たりがある。
古代日本の政治的独自性はまた華夷の区別の上にも表れている。「華夷」とは昔文化的な身分によって、人種の帰属を確認した概念である。中国と日本とを問わず、みなかつて「攘夷」をスローガンに、外来の脅威を防いだ。実際、日中関係における華夷の区別は、歴史文化の本来の姿に立ち戻って分析しなければならない。
まずはじめに、人類の文明の発展過程において、古代世界に前後して現れたいささか強大な各民族を通観すると、その民族文化は宗教文化を内包し、ほとんどすべてが本体意識と主体精神を持ち、しかもこのような意識と精神は、民族の発展に伴って次第に強くなった。文明史上、かつて現れたものの、その後消滅してしまった民族は、その消滅の根本原因を考察してみると、例えば日本本州のアイヌ族の衰退や、アジア大陸の匈奴、鮮卑などの民族の衰退は、おおよそその民族が自己の文化の主体精神を造りあげることがなかったことと関連する。
古代中華文化は、その発展過程において、中華民族の形成過程で、内在する自己意識は絶えず向上し、さらに不断に純化して主体精神を形成した。古代の、根本的に地球と世界の事実を知るすべを持たない状態においては、存在していたどの民族もすべて、自らの生活上で目にするものの範囲を、世界や天下と見なした。よもや科学が天球説まで進歩し、技術が大航海時代まで発達する前に、世界上で本当にどの民族が、自分が一体世界のどの位置にあるかを判断できたであろうか。まさか本当にどの民族が、自らの生存区域を世界の中心とする観念から免れることができたというのか。新世代の研究者は現代の知識で構築された世界観や宇宙観によって、われわれの先人たちの天下観を責め、彼らがただ自己の天下を知るのみで世界があることを知らなかったことを責めるが、ただ学術的な態度という理性的な面についてのみ言えば、それは明らかに歴史文化の文脈を見失ってなされた判断である。
ここで歴史言語学において、華夷の弁別がどのような文化的内容を含んでいるのかを検討する必要がある。古代の華夏人は、自己の文化の精髄を「夏」と呼んだが、それは「夏」が漢族の始祖であったからであり、それは文化心理上の祖先回帰である。「華」は「夏」の美称で、光と輝きの意を表す[6]。現在広く伝わっている所謂華夷の弁別は、その本質的な意義は、華夏文化と非華夏文化との区別を求めることにある。この範疇で、「華夏」の対立軸となる「夷」は、「等輩」「儕輩」の意であり[7]、俗語の「あの連中」という意味を含む。世界文明史を通観すると、近代的民族の形成まで一貫し、さらに21 世紀に至るまで、それぞれの主体民族における民族の文化的身分の区別への心理的な要求と行政上の要求とは、ただ長期にわたって存在しているだけでなく、さらに日ごとに激しさを増していると言うことができる。そうであるから、近代的民族平等の理念が形成される前においては、文化的身分の確認を提起し要求する民族は、必ず強い精神力で自己の文化を「世界の頂点」としたに違いなく、それらの民族が東西南北のいずれに位置するかを問わず、また世俗的文化か宗教的文化かを問わず、これは例外のない文化的事実である。従って、古代の華夏人に対して、華夷の弁別によって自己の天下観を構築したことを理由にして絶えず拷問し、彼らが春秋時代以来、所謂「五千里内皆王事に供す」という「大中国」観を持っていたことを責めることは、やはり理論的な根拠を失っている[8]。
次に、東アジア文化圏において華夷の弁別を検討する際に、常に軽視しやすい文化現象は、即ちその成員としての大和民族が、所謂華夷の弁別という文化理念に直面した時、強靱な文化的努力によって、自己の文明の発展において、自己の文化の本質に属する本体意識と主体精神を創造し、また華夏文化と互いに呼応して、文明の発展を促進してきたことである。東アジア文明史には、大和人の豊富な創造物が遺されてきた。
『古事記』、『日本書紀』から構成される「記紀神話」は、大和民族の形成についての最も早い時期の記憶的性格を持つ芸術的な叙述である。『古事記』上巻の初めの文字は即ち、「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主神」である。これは、日本民族の起源となる最初の天神であり、その意味は即ち宇宙の中心の神である。『日本書紀』では、『古事記』中の第三代の「神」を最高の創造神とし、「国常立尊」と名を定めた。その意味は即ち大地の中心の神である。これらの神秘的な故事は、この民族の多神崇拝的な文化的心理を凝集した。このような文化心理は、その生活様式、価値基準、信仰活動の一切の面に浸透し、神道に発展した。
神道精神は、日本古代文化の「本体」として、まず初めに日本の神国観念として現れた。
「神国」の理念は最も早くは『日本書紀』が作り出した神功皇后が新羅を討伐する記事に見える。その作者は新羅王の口を借りて、「吾聞く、東に神国有り、日本と謂う。亦聖王有り、天皇と謂う。必ず其の国の神兵なり。豈に兵を挙げて以て拒ぐべけんや。」と言う。
そうして、新羅は直ちに日本の軍隊に抵抗することなく、「素旗して自ら服し、素組以て面縛」した。14 世紀の『神皇正統記』は、日本の皇統譜を、神話を参照して完璧に編集し始めたもので、日本の天皇が神の後裔であることを論証した。その書の最初の句で即ち「大日本は神国なり」と言う。この精神文化の本体意識は、大和民族の基本的な世界観と宇宙観を構成し、そのことがまた、日本人が東アジア文明圏で活躍する力の基礎となった。
神道の力は、それが日本列島に入ってくる各種の外来文化を融合する能力を備えていたことにある。日本思想史上、「江戸漢学」の第一人者と称される林羅山は、徳川幕府が儒学の朱子学を主たる内容とした意識形態を打ち立てるのを助けた。彼の朱子学に対する理解は、最終的には最高神の信仰に帰着した。彼は『神道伝授』という書物の中で、前述の「国常立尊」によって儒学を解釈し、「心の外に別に理無し。心清明なるは、神の光なり。
行迹正しきは、神の姿なり。政行わるるは、神の徳なり。国治まるは、神の力なり。」と言う。従って、神道と人道によって「理」の支配下にある儒家神道理論を構築し、朱子学における人性の最高原理としての「理」を、「神道即ち理なり」に変え、「理当心地神道観」をうち立てた(『羅山全集』巻五十五、『神道伝授』三十三「国常立同体異名の事」などに見える)。18 世紀後半に、本居宣長と彼の『古事記伝』を代表として、漢学(儒学)から脱却し、古来の「天之御中主神」の歴史主義を強調することによって、「日本精神」の旗を高く掲げ、神道を国学の理論面に進めることが行われた。日本文化には、その1500 年余りの発展において、常に自己の文化を凝集する本体的な核心が存在していた。この本体的核心によって、古代日本文化は、相当広範な面において、中華文化を主要な内容とするアジア大陸の文化を吸収し、さらにそれらを融合して自己の文化の発展に不可欠な基本的要素とすることを可能とした。
さらに、古代東アジア文明圏において、華夷観念は、最初は華夏民族の中に生じたが、それは恒久で堅固不変のものでは全くなかった。特定の生存状態において、政治や文化の変動により、朝鮮半島や日本列島の民族も、かつて自己の文化を「華」と言い、周辺の他の異文化を「夷」と言った[9]。
17 世紀、東アジア大陸では重大な政治的変化が生じ、江戸時代初期に五山時代を受けて広まった程・朱の理学は疑われ始めた。当時、儒学者であり、兵学者でもあり、さらに神道学者でもあった山鹿素行は、『聖教要録』の中で、彼の「儒学道統説」を述べた。彼は、中国儒学の「道統の伝は、宋に至りて竟に泯滅」し、そのため、「学者は(皆)儒を陽にして異端を陰にす」という。彼は「周公孔子の道」を直接継承するという旗を掲げ、中国本土から「儒学の正統」の理念を奪い、暗に文化地理における「華夷」の概念は既に「東西の転移」を生じさせ始めた。このことによって、次第に発展していた「日本古学派」(「古義学派」と「古文辞学派」の両方を含む)は、「孔子の真の精神を把握する」ことを自任し始めた。それによって、東アジア文明圏において、日本型の華夷観念が出現した。即ち、日本を「華」とし、他者を「夷」とする観念である。もし中国本土の華夷観と比較するならば、日本型の華夷観はより複雑な内容を持っている。自ら「華文化」と称する日本精神は、既に漢学と国学との違いを超え、事実上、中国儒学、仁斎学、徂徠学、兵学、神道学の内容を内包した寄せ集めであった。まさにこのような観念の立場から出発して、中国は既に「儒学の真の精神」を失っていると考えるようになった。
江戸時代の日本型華夷秩序には、以下のようないくつかの特徴がある。第一に、中国の王朝との「対等」な地位を努めて保持しようとした。第二に、全面的な海禁を行った。第三に、周辺においては、朝鮮、琉球、アイヌや、さらには遠くオランダに至るまでの「位階制」的性質の「華夷秩序」をうち立て、さらに「中国を再建する」という基本的な策略を確立した。
これらはすべて、華夏民族の文化が華夷の弁別を持っていたのと同様に、日本の民族文化の中にも「民族本体」という強力な核心があり、それによって自己の文化を確認し、発展させてきたことを示している。日本の「華夷論」は近代日本発展の理論的基礎の一つとなったが、これは東アジアの華夷の弁別を研究する際に十分に注意すべきことである。 
結語
日中関係史は、歴史書の記録では二千数百年に及び、その中の近代史・現代史はわずかに150 年余りである。前近代の日中関係史を見渡すと、以上で分析したように、中国と日本はともに東アジア文明圏内にあり、中国は中心に位置し、日本は周辺に位置するが、各側面において日中間にはみな非常に密接な関係がある。しかも歴史的事実は既に非常に明白であり、日本が二度朝鮮に進撃して日中の軍事的対立を引き起こしたことと、モンゴル族が自らの世界的境域を形成する過程で元軍が二度日本に進撃したことを除いて、日中関係は長期にわたり安定し、平和で、友好的で、互恵的な局面を保持してきた。中華文明の日本文化に対する巨大な影響は疑いを容れないことであるが、日本文化が中国の発展に与えた影響もまた軽視することはできないものである。このような文化的な相互作用は、古代の中国と日本の間の政治、経済、文化関係の最も基本的な枠組みを構成した。 
[1] 注意しなければならないのは、478 年に倭王武が宋の順帝に封号を求めてから、600 年に日本が初めて遣隋使を派遣するまで、その間の122 年間は、日本列島の政権が中国の王朝に封号を求めた記録は見えない。恐らく日本列島はちょうど重大な政治実体の転換を経験しているところで、それに伴い意識の変換がもたらされ、また記録も漏れたのであろう。この問題については継続して検討すべきである。
[2] 753 年、唐の玄宗李隆基は特別に第11 次遣唐使のために詩を一首贈った。その詩にいう。「日下殊俗に非ず、天中嘉朝に会す。余に朝して遠義を懐い、爾の畏途の遥かなるを矜む。漲海秋月に寛く、帰帆夕飈に駛し。因りて驚く彼の君子、王化遠く昭昭たり。」
[2b]『唐丞相曲江張先生文集』巻七、「日本国王に勅するの書」。
[3] 『明実録』洪武二年二月辛未条に記載。
[3b]実は、『明実録』洪武七年六月乙未条の、明の太祖の中書省に対する「勅語」の中に、既に彼のこの誤解が表れている。その文に、「向に、国王良懐表を奉じて来賀す。朕以て日本の正君と為す。故に使を遣
[4] 瑞渓周鳳『善隣国宝記』参照。
[5] 『明実録』建文二年二月条に記載。
[6] 『説文解字』華部に見える。『淮南子』墬形訓の文に、「末に十日有り、其の華下地を照らす」とある意味である。
[7] 例えば、『左伝』僖公二十三年の文に、「晋・鄭は同儕なり」(意味は「晋と鄭とは同じような連中である」ということ)とある。
[8] 文化学的な立場から考察すると、「華夷の弁別」は、比較文化に属する研究課題であり、その研究者には、多元文化的な学識・教養を備えることが求められ、世界文明史における普遍的な意義を持つ文化的現象として、その研究者は世界文明史の巨視的かつ基礎的な知識を備えなければならない。そうでなければ常に狭い先入観にとらわれ、その他の存在に気づかないであろう。
[9] 「華夷観」の朝鮮半島における変遷については、朝鮮李朝時代の儒学者の著作や、16 世紀から18 世紀までの朝鮮の使者の『燕行録』の報告を参照していただきたい。 
 
東アジアの中の中世日本

 

要旨
日本・朝鮮・ベトナムは中国の周辺にある国として「冊封体制」と云う共通した歴史的条件の下にあった。しかし10世紀以降において、朝鮮・ベトナムが中国の強い模倣強制の下にあったのに対して、日本は中国の模倣強制の圧力の外にあり、独自な歴史を歩み出していた。その端的な現れが「かな文字」の発明であり、民族宗教である「神道」の発展である。その原因には、日本が貨幣商品である「金・銀・銅」の輸出国として、中国に対して経済的に優位にあったこと、特に元蓮以降は日本が東シナ海の制海権を握り、中国に対して軍事的に優位にあったことの二点が考えられる。  
1 模倣国家と交易国家 -西嶋定生氏の「冊封体制論」への疑問- 

 

1998年7月に亡くなられた東洋史学者の西嶋走生氏は(日本の歴史は東アジア世界の中で捉え返さなければならない)との観点から、東アジア世界を貫く中国を中心とした政治的な秩序「冊封体制」があるとして「冊封体制論(1)」を提唱された。この考えの根底には、戦前の学校教育における日本史教育が〈日本神話の物語)から始まり、日本史が「天壌無窮の神勅」や天皇を中心に構成されていたことに対する対決の姿勢が、当然あったものと思われる。と同時に、戦後日本を風廃した公式マルクス主義の歴史理解としての「世界史の基本法則」の考え方に対する批判もまた、ここには込められていたと想像することが許されよう。
日本歴史の中に西欧の辿った歴史と同様な、(全ての民族・地域に普遍的に貫徹)すべき「基本法則」としての(古代奴隷制、中世封建制)等々を発見することは、同時に返す刀で、中国・par 朝鮮などに封建制のない停滞したアジア社会を確認することとなった。つまり(西欧と同様な発展をする日本)の認識から(発展する日本と停滞するアジア)と云う対比が生まれ、これが新たな独善的日本史像の成立に帰結することを恐れて、氏はアジア停滞論批判の上に、日本列島における国家の形成、律令国家の確立、あるいはその後の日本国家の歴史を捉えるためにはく中国皇帝を中心に形成された「冊封体制」と云う政治秩序を考えるべきである)と主張されたのである。
この「冊封体制」と云う政治秩序の存在を前提として始めて、「卑弥呼」でお馴染の3世紀の「耶馬台国」の問題がよく理解できるのである。事実、氏は戦後国民的な関心を呼んだ(耶馬台国はどこか)を問う耶馬台国論争を、一貫して理論的に領導してこられたし、晩年のお仕事のほとんどはこの間題の解明に費やされている(2)。日本の奈良時代の「唐風文化」と同様な(漢字・漢文、律令法、仏教、儒教)を共有する世界が、中国はもとより朝鮮半島、ベトナム等々東アジアの世界に見出されることから、このような唐帝国を中心とする「東アジア文明圏」を可能とさせた政治構造を、漢の郡国制の分析から明らかにしたものが氏の「冊封体制」論なのである。
水が高きから低きへと流れるように(漢字・漢文、律令法、仏教、儒教)がそれ自身の力で自ずから日本等へと流入したのではなく、(漢字・漢文)の伝来は「冊封体制」と云う一つの政治構造を媒介にしていた。また唐末五代の戦乱は周辺の冊封国に波及し、唐帝国の滅亡(907)後、冊封国勃海の滅亡(926)、新羅の滅亡(935)があり、朝鮮半島においては新羅・後百済・高麗の後三国時代を経て新羅の滅亡、高麗の統一(936)となり、唐帝国内の「ベトナム」は独立し、河西地方に「西夏」出現。同じ頃日本でも平将門・藤原純友による承平・天慶の乱(935)が起きた等々、東アジア世界が全体として一つの動乱の時代に入ったとの説明は「冊封体制論」として大層魅力的である。
唐帝国の崩壊が(東アジア文明圏の崩壊)をもたらし、日本の場合、奈良時代の「唐風文化」に対する平安時代の「国風文化」としての「かな文字」成立となった。これとほぼ同時代の10世紀末には契丹文字・西夏文字、12世紀前半には女真文字の成立があり、中国周辺諸民族の世界に(漢字文化圏からの離脱、民族文化の出現)が見られたとの世界史的な主張も大層魅力的である。もっとも冊封体制の対象となる東アジア世界におけるく漢字文化圏からの離脱、民族文化の出現)は、日本以外では14世紀ベトナムのチュノム、15世紀朝鮮のハングルの成立であり、他方、北方遊牧民の世界は本来「冊封体制」とは異なる政治秩序の下にあったはずなのではあるのだが。
しかし、唐末五代の動乱の時期に武人の台頭を中国・朝鮮と共有しながら、なぜ日本のみが中央集権的な統一国家の解体と武人による地方分権的な封建社会の形成に到達したのか、氏は説明していない。日本の歴史がこの「冊封体制論」によって全て説明し尽くせないと知っていたからであろうか(3)。氏は日本史上の「古代」に対応する「漠」から「唐」に至る時代には、政治的な「冊封体制」が意味を持つが、「中世」に対応する「宋」代以降には「冊封体制」は崩壊し、むしろこれと異質な経済的秩序である「東アジア交易圏」があったとし、日本列島上の「古代」から「中世」への歴史展開を支える東アジア世界は「政治」から「経済」へと原理的に変化したとしている(4)。
つまり、冊封体制下における貿易は、原則として王権の管理下に置かれ、王様同士の贈与貿易- 「朝貢貿易」として行われるが、末代の「東アジア交易圏」においては国家の統制から離れた「自由貿易」が行われたとしているのである。この見方は現在の学界の通説で、例えば『アジアの中の日本史1』の中で、編集者である荒野・石井・村井の三人は東アジア世界の「時代区分論」を試みてい、る(5)が、問題の時代は次のように三分解され、「東アジア交易圏」に当たる時代は「日・宋・高麗交易時代」としている。
V 律令制的国家群の登場(6世紀末〜8世紀半ば)、
W 大動乱と交易システムの生成(8世紀後半〜10世紀半ば)、
X 日・宋・高麗交易時代(10世紀後半〜13世紀はじめ)
事実、中世以降の日本は中国中心の冊封体制から比較的自由になり、独自な歴史を歩んだと云える。それゆえ日本古代史には冊封体制という(政治的な強制が〉強い影響力を持ったのに対して、中世以降はむしろ(経済的な自由が〉日中関係の基本であったとすることができよう。
西嶋氏は室町幕府が明の冊封体制に入り「勘合貿易」を行ったこと、秀吉が朝鮮出兵後の明との和平交渉の折、明の冊封体制の論理と直面したこと、日清戦争の背後にも冊封体制の論理が存在すること等々を指摘している。しかし日本史上の南北朝期の「前期倭冠」や戦国期の「後期倭冠」などの自由貿易を前提とする限り、氏の指摘は「冊封体制論」の例外的な有効性のように見える。
一方、中国文化を受け入れた中国周辺の夷秋の諸国家の立場に立てば、中国文化の受入は中国との同化を意味し、そのことは同時に中国皇帝による直接支配の危険性を意味していた。それゆえ律令国家を建設した古代日本と同様、中国周辺の夷秋の民が民族としての独立を保ちながら中国文化を模倣しようとするとき、彼らにとって中国は(模倣のモデルであると同時に、競争相手でもある(6)〉アンビバレントなものとなり、「冊封体制」下の夷秋の民は、一般に中国文化の模倣と云う課題の前に二重に拘束され、宙吊りにされたのであった。それゆえ彼らには中国と同じ土俵で中国をうち負かし、中国以上に中国になりきることが強いられていたと云うことができよう。
高麗王朝の行った国家的な事業である「大蔵経」の印刷や、李氏朝鮮における朱子学の発展と社会への定着などは、現在でも美術・骨董品として高く評価される「高麗青磁・李朝白磁」と同様、周辺諸国が中国に対抗して行った「離れ業」を示している。一方ベトナムにおいては、中国皇帝からは「国王」の冊封を受けながら、他方東南アジアの国々に対しては、自ら「皇帝」を称し、小「冊封体制」を築いていた。「守礼之邦」を称した琉球王朝もまた中国を模倣した「模倣国家」の一つである。諸国に国分寺を造り、唐の長安を摸した奈良の都には東大寺とその大仏を作り上げ、「唐風文化」の横溢した古代日本もまた、同様な「模倣国家」であった。
唐帝国を中心とする「東アジア文明圏」における唐文化模倣の点では、島国にある古代律令国家日本の方が唐と国境を接していた半島の新羅よりも進んでいた。銭の鋳造は日本にのみ行われ、最近発見された最古の鋳造銭「富本銭」や「和銅開珍」等々の「皇朝十二銭」の存在は有名である。吉田孝氏の明らかにしたところでは(7)同様なことは成文法である律令法の制定の点でも認められると云う。また中国文化に対する対抗意識は、上代の『日本書紀』や『万葉集』などに認めることができる。しかし日本古代のこうした中国模倣の「先進性」は中世における「後進性」にとって替えられ、中世日本は半島の国家高麗と比較しても明らかに「模倣国家」ではなかった。
三上隆三氏の『渡来銭の社会史』によれば、1600年鋳造までの日本への渡来銭を、国、王朝ごとに分類すると、その種類は次のようになる(8)と云う。
【中国】 唐 五代十国 北宋 南宋 元 明
【北アジア】 遼 西夏 金
【東アジア】 朝鮮 安南 琉球
歴代中国王朝はもとより「宋」代の中国周辺諸国が銅銭を鋳造しているのに、中世日本のみは自ら銭を鋳造せず、輸入した渡来銭を自国の通貨としていた。陶磁器においても同様である。
宋代以降中国の陶磁器「白磁・青磁」は大量に日本を含む世界各地に輸出されたが、朝鮮やベトナムなどではこの中国製陶磁器の模倣が行われた。中でも高麗青磁や李朝白磁は有名である。
これに対して日本中世は輸入陶磁器の時代で、江戸時代になって初めて銅銭の「寛永通宝」を鋳造し、陶磁器も国産となったが、それまでは中世を通じて銅銭も日用品の陶磁器もすべて輸入に頼っていたのである。東アジア世界の中で日本の陶磁器作成は遅れ、秀吉が朝鮮陶工を位致して以来のことと云う。
縄文土器、弥生土器、須恵器、土師器等々、さらに北海道では続縄文土器、擦文土器、オホーツク土器等々、生活用具の点から考古学上の時代区分がなされ「縄文時代」「弥生時代」などと命名されていることは良く知られている。これに倣って云えば、日本中世は遺物の上からは「輸入陶磁器の時代」であり、一方近世は「国産陶磁器の時代」と明確に区別される。中世の日本は中国と自由な交易を行っていたことから、中世日本を「交易国家」と名付けることができよう。古代日本が中国からの模倣圧力の下での宙吊り状態にあったのに、中世日本はそこから脱することができたのである。中世日本が中国の模倣圧力から自由になれたのは、どのような条件によったのだろうか。
ところで、日宋貿易による「宋銭」の輸入が日本社会に中国社会と同様な流通経済をもたらしたように、本来商品というハードは文化とか生活様式というソフトを伴い、〈文化や生活様式を真似せよ)と云う模倣強制を呼び起したはずなのである。「東アジア交易圏」が中国物産の周辺諸国への輸出によって始まったことから、中国が〈模倣のモデルであると同時に、競争相手でもある)関係は、この経済関係においても成立したと考えることが出来る。それゆえ日本史上の「古代」から「中世」への展開を支える東アジア世界の構造が「政治」から「経済」へと変化したとしても、周辺諸国は中国文化の模倣の前に宙吊りにされることに変わりがなかったはずである。
事実、中国と国境を接する朝鮮やベトナムは、宋代以降も中国の冊封体制の中に組み込まれており、宋代以降の中国の皇帝専制政治を支えた官吏登用制度である「科挙」制度と同時に、宋学・朱子学も社会に定着した。これにより武人の台頭は押さえられ、文人による統一国家形成が進んだ。特に朝鮮では「科挙」制度は支配階級「両班」の性格を決定する要素となったと云う(9)。銭の鋳造、陶磁器の生産などもこれらの諸国においては受け継がれ、唐代の(漢字・漢文、律令法、仏教、儒教)を超えて、中国文化の共有が(科挙、朱子学・貨幣の鋳造)等々より一層高度化したレベルにおいて再現したのである。しかし封建制の国である日本にはこれらは定着しなかった。
つまり中国を中心とした「東アジア文明圏」は日本以外の東アジア世界においては、宋代以降の「東アジア交易圏」と云われる世界においてもなお有効で、朝鮮やベトナムなどは中国の「模倣国家」として存続していたのである。これに対して日本は、中国からの模倣強制を受け流し、「交易国家」としてやって行くことができた。なぜ中世日本は「冊封体制」を中心とする「東アジア世界」から離脱することができ、「交易国家」として中国と自由につきあうことができたのだろうか。また、なぜ日本にのみ地方分権的な封建制や中世の武家政権ができたのだろうか。それらを可能とした歴史的な条件や、その理由こそが新たに問われなければならない。
しかし中国古代史が専門の西嶋氏に「宋」代以降のことを求めるのはそもそも無理難題であったのかも知れない。それでも日本の古代史で有効な「冊封体制論」が、宋代以降の日本列島の歴史においてはあまり有効でないと西嶋氏が認めていたことだけは確認しても良いであろう。それゆえ本稿におけるわれわれの課題は、く中世日本を東アジア世界の中にいかに位置付けるか)となる。冊封体制・朝貢貿易と云い自由貿易と云い、どちらも物の遣り取りに関わっており、自由貿易を同次元交換とすると、冊封体制・朝貢貿易には政治と経済の交換という異次元交換と云う側面があることから、両者は「交換論」として統一的に捉えることができるように思われる。 
2 東アジア交易圏の中の倭逼 -華夷秩序の対極にある「倭」-

 

先にわれわれは宋代以降の東アジア世界を「東アジア交易圏」と名付けるとしても、朝鮮やベトナムでは、古代奈良時代の日本と同様、中国を強く模倣していたことを見てきた。つまり、東アジア世界の「東アジア交易圏」は決して自由貿易のみを原理にしていたわけではなく、中国王朝側の周辺諸国に対する模倣圧力もまた決して減少していたわけではなかったのである。
「東アジア交易圏」の特徴とされる(自由貿易)はむしろ日宋貿易の例外的な特徴だったのではあるまいか。
ここではしばらく西嶋氏の議論から離れて、氏が「冊封体制論」を発表したのとほぼ同時期に発表された中村栄孝氏の論文「13、 4世紀の東亜情勢とモンゴルの襲来(10)」と最近の川勝平太氏の『文明の海洋史観(ll)』の議論とに耳を傾けたい。川勝氏は日本の歴史は(海洋志向の時代)と(内陸志向の時代)の交替と概観できるとしている。唐・新羅の連合軍と百済救援のために戦った「白村江の戦い」を境に、日本は(海洋志向)から(内陸志向)へと変化するが、元蓮を境に再び海洋志向に転じ、江戸時代の鎖国令までが海洋志向の時代だとしている。一方、遣唐使廃止以後の日唐、日宋関係や江戸時代の日清関係は中国人海商の日本への一方的な渡来によっている。
ところで中村氏は、中国と周辺諸国との政治的な関係を次の四つに整理している。中村氏のこの考えに従えば、中世以降の日中関係を理解する上で考えるべきものは、(2)を除いた(1×3×4)となろう。
(1)冊封体制:中国皇帝と君臣関係にあるもので、その事例としては「漢委奴国王」の金印や卑弥呼が「親魂倭王」に冊封されたこと、「倭の5王」の外交、日明関係において足利義満が「日本国王源道義」として明の冊封を受けたこと等々。
(2)会盟体制:北方民族との関係。唐と突蕨が親子、唐とウイグルが兄弟の関係を結んだこと等々。唐滅亡後は北方民族との間の「華夷秩序」は逆転し、契丹と末は兄弟、遠と末は父子、金と末は君臣(後に叔甥に改める)となった。
(3) 修貢体制:「遣隔使・遣唐使」に見られるように、君臣関係にはないが、中国皇帝に朝貢するもの。
(4)体制外通商関係:「日末、目元、日清関係」のように、国家間の正式外交関係はないが、平和な通商関係にあるもの。
唐末に至ると新羅人は黄海の制海権を握り、日本にも新羅の海賊が現れたが、新羅滅亡後黄海・東シナ海の制海権は中国人-末の海商の手に移り、中国人海商は平和的に日本に渡航し、交易を行った。内陸志向の日本はこれらの動きには消極的に対応し、このような経済的な関係を保証する国家間の政治的関係は成立しなかった。マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、「黄金の国ジパング」を述べる直前において、当時の日本が冊封体制から無縁であったとして「ジパングは独立国で彼ら自身の君主をいただいて、どこの国の君主からも撃肘を受けていない」と述べている。「元」のフビライが日本に求めたのは(3)の修貢体制であったが、日本側はこれを拒否し、二度の蒙古襲来となった。
その後日本人は黄海・東シナ海の制海権を握り、積極的に海外に渡航する(海洋志向の時代)となる。これを「前期倭冠」の時代、足利義満が「日本国王源道義」として明の冊封を受けて以来の「勘合貿易」の時代、「後期倭蓮」の時代と三分することができる。日末、日清関係のような中国人海商の平和的日本渡航、交易の場合には問題がないが、日本人が中国・朝鮮へ渡航する際問題が起きた。それはこれらの諸国が「自由貿易」を原理的に認めていなかったからである。中国・朝鮮側には明や高麗のような中央集権的な統一王朝が存在し、外交・貿易権は国家の管理下に置かれ、国家は国民の海外渡航や外国貿易を原則的に禁じた「海禁」政策を採っていた。
これに対して日本は封建社会で、各領主が競って貿易に乗り出す体制にあった。それゆえ日本側が(4)の日本人海商による平和的な体制外通商関係を「自由貿易」と見倣していても、中国・朝鮮側にとってはそれはあくまでも「密貿易」で、黙認はできても正式な承認は原理的に不可能なものであった。それゆえ朝鮮の高麗王朝や中国の明王朝が貿易を国家の管理下に置くべく、(4)の体制外通商関係を禁止したとき、「倭冠」と呼ばれた海賊行為が発生した。一方明がこの「海禁」政策を見直し自由貿易を認めると、倭冠は終息し、同時に中国人の海外渡航「華僑」の開始となった。それゆえ「倭冠こそは華僑の母であった」と云う宮崎市定氏の言葉(12)は認めてもよいであろう。
一般に考えて、男たちが獲物を求めて遠征に出かけ、海や野山で狩猟・漁捗を行う延長線上に、遠い異国での交易が考えられることから、遠征に成功して多くの獲物を持って帰還することを目標に置くなら、平和的な交易と暴力的な掠奪との間には、あまり距離がない時代が本来はあったと思われる(13)。安定的継続的な利益の獲得を考えるなら、後者の掠奪ではなく、前者の追求が試みられたはずである。しかし平和的な通商関係が失敗したとき、商人たちは予定していた利益を確保するため、多くの場合海賊に変身したのである。だから、(4)の体制外通商関係という平和的な相互関係の外側に、暴力的、一方的な掠奪行為・海賊行為を設定することができよう。
「倭冠」の実体が高麗や明国の人々を多く含み、「倭冠」とは高麗や明の国内で通商に関係を持つ人々が、王朝に敵対し「倭」賊に身を投じ、自らも「倭」と称したことにあったのに、なぜ中国や朝鮮の王朝側は彼ら東アジア世界の海賊を倭冠と「倭」を冠して呼び、高麗や琉球や安南等々の名を冠しなかったのだろうか。それは恐らく、これらの国々が中国の模倣国家として中国皇帝から「冊封」を受けていたことと関係があろう。16世紀に至り東アジア世界にポルトガル人が登場したとき、「フランキ」と呼ばれた彼らもまた倭冠の一員に数えられたことが示すように、倭冠の「倭」とは中国皇帝を中心とする「華夷秩序」に敵対する海上勢力全体の総称であった。
明王朝は冊封関係に入った室町将軍を「日本国王」と呼んだが、その場合の「日本」とは、中国を中心とする国際秩序である華夷秩序に組み込まれた限りでの日本列島内の政治組織を指しており、そこから外れたものは「倭」と呼ばれたのである。つまり、明代の日本列島には中国王朝から正式に認められた国家としての「日本」の他に、華夷秩序の対極にある海上勢力としての「倭」があった。それゆえ(4)の「体制外通商関係」は、平和的な「自由貿易」つまり王朝黙認の「密貿易」としての「非体制的な通商関係」と、「倭冠」という「反体制的な通商関係」に二分することができ、中世以降の日中関係は次の四つに纏め直すことができよう。
(i)冊封体制、
(ii)修貢体制、
(iii)非体制的通商関係、
(iv)反体制的通商関係
これは中国皇帝を中心とした国際秩序-華夷秩序が強く及ぶものから弱いものへ、さらには秩序の解体から反秩序へと並んでいることを意味している。特に明末の「北虜南倭」の言葉が示すように、中世の日本列島は中国皇帝を中心とする「華夷秩序」に敵対し、中華帝国をおびやかす「倭」冠の根拠地とされ、中華世界の対極と見徹されていたことにわれわれは注目すべきであろう。後の1871(明治4)年の日清通商条約締結の際、直隷総督李鴻章や両江総督曾国藩はそれぞれ次のように述べている(14)。ここからわれわれは「朝鮮」や「安南」においては民族文字ハングルやチュノムの成立にも拘らず、19世紀においても宗主国「清」の冊封体制下にあったことを知ることが出来る。
長髪賊が江稀・漸江を脅かした時に日本が通商の要求を提出せずして、内乱の平らぎたる今日に及んで通商を求めに来たのは、強要の意を含んだものでないことを知るべきである。
日本は昔から中国の属国ではなく、朝鮮や安南とは全く事情を異にする。もし拒絶すること余りに甚だしければ、日本は欧米諸国を介して要求を貫徹せんとし、日本は遂に欧米と党接を結ぶことになり、中国としては-与国を失うことになろう。
元の世祖が日本に侵入せんとして失敗してから、日本は中国を恐るるの念なく、平等な隣邦だと信じている。到底朝鮮や安南が中国に対する関係と同一視出来ない。しかも日本との通商は相互の利益であるから、日本より提議ありたるを幸い、速やかに交渉を始めたがよい。
李鴻章・曾国藩は日本の「華夷秩序」からの離脱の事実を認めているのである。特に曾国藩が離脱の時期を「元冠」としていることは注目に値する。中世日本を取り巻く東アジア交易圏は中国、高麗・朝鮮、琉球、ヴェトナム等々の国々を含み、交易圏それ自身はこれら諸国間の相互の通商関係として捉えられるが、相互の経済関係を支える国際的な政治関係は、基本的に以上の四つであろう。高麗・朝鮮、琉球、ヴェトナム等々と歴代中国王朝との関係は、基本的に(i)「冊封体制」で理解できるのに対し、唐末・宋代以降の日中関係は(iii) 「非体制的通商関係」を基本としながら、「倭遠」と云う(iv)「反体制的通商関係」や(i)「冊封体制」をも伴っていた。
日宋関係においても、宋は(iii)の「非体制的通商関係」に満足していたのではなく、日本側に朝貢を求め、(i)の「修貢体制」に組み込む熱意を持っていたことは石井正敏氏の明らかにしたところである(15)。元が日本側に朝貢を求め、中国を中心とする東アジアの国際秩序への復帰を求めたのに対して、日本側がこの要求を断り、蒙古合戦-元冠となったことは既に述べた。それゆえ全体として見れば、中世の日本列島の住民は中国を中心とする国際秩序-華夷秩序から比較的自由な立場を採ることができたとなろうOその原因の一つとして、「元蓮」以降黄海・東シナ海の制海権を日本人が握っていたという軍事力の問題を指摘することができよう。
この制海権が日本にあったことと「倭冠」の存在とは恐らく密接な関係にあろう。しかしそうであればなおさら、他の夷秋の国と比べて唐末以来の日本、倭冠時代以前の日本が(なぜ中国の圧倒的な影響力の外に立つことができたのか)その理由をここでわれわれは新たに問わなければならない。 
3 漢字・かな・ハングル -日本文化の多様性、朝鮮文化の普遍主義-

 

既に述べたように、日本における「かな文字」成立の問題を「冊封体制論」との関係で説明するには多少の無理があった。それゆえここでは日本の「かな文字」の問題を中国の「漢字」と朝鮮の「ハングル」との比較の中で考えてみたい。
中国とは本来、北の麦作地帯と南の米作地帯の対比や「南船北馬」の言葉などが示すように、多様な生態系の下で生活する多様な人々の住む大陸であった。現在「漢民族」と云われる人々の間で話される「話し言葉」はまちまちで、中国語の5大方言としては、現在公用語とされる北京語のほかに、蘇州方言、厘門方言、広東方言、客家語などがある。中国にはこの「漢民族」の外、多くの少数民族が存在していることは良く知られているが、「漢民族」とは「書き言葉」としての(漢字・漢文)文化を共有する人々を指しているのである。つまり中国とは本来話し言葉を異にする多様な民族の世界が、(漢字・漢文)という文化によって一つに統合されたものなのである(16)。
もともと固有の話し言葉を持っていた日本や朝鮮等の東アジアの人々が、文法構造の違う書き言葉としての(漢字・漢文)を受け入れた理由は、西嶋氏が明らかにしたとおり「冊封体制」と云う政治的な構造によっていた。例えば「漢委奴国王」や「親貌倭王」の金印は国書を封印するためのもので、印綬の下賜とは漢字・漢文による国書を中国皇帝へ提出する義務を意味しており、中国皇帝からの「冊封」の授受とは漢字・漢文による外交文書の取り交わしを意味していたのである。このように(漢字・漢文)は、秦の始皇帝以来の政治支配の道具-公用語であり、冊封体制下においては、皇帝の政治支配に関わって(漢字・漢文)の使用が義務付けられていた。
それゆえ日本や朝鮮等々の東アジアの人々が漢字・漢文を使用する限り、彼らもまた原理上は「漢民族」に数えることができた。このような「漢」化と政治的な独立の保持との間で宙吊りされるのが周辺諸民族の運命だとすれば、中国の国内には政治的な独立を維持できず漢化を受入れた多くの人々がいたことになろう。それゆえ唐帝国が東アジア文明圏内の国々に(漢字・漢文、律令法、儒教、仏教)等々を放射していたとすれば、同じことが国内向けにも考えられよう。つまり中国世界を代表する(漢字・漢文、律令法、儒教、仏教)等々の普遍的文化は、本来多様な人々の生活する世界を統合する薄い皮膜に過ぎず、その内部には多様な人々の伝統的な世界があった。
ところで、征服王朝の遼・西夏が漢字の影響下に独自な民族文字-契丹文字、西夏文字を作った背後には、このような公用語としての漢字への対抗意識があった。その点で、これらの契丹文字や西夏文字等々には遼・西夏の王が夷秋の「王」であるにもかかわらず、中国を統一した末の皇帝と同様「皇帝」を自称したのと同じ政治的な意味を認めることができ、征服王朝としての自負、中国文化に対する対抗意識としての(漢字文化圏からの離脱、民族文化の成立)を認めることができよう。14世紀のベトナムのチュノムにもこれと同様な意味を認めることができよう。これらの文字全てに共通する特徴は、漢字の用例にならい皆縦書きであること、漢字よりも画数が多いことである。
画数が多いことは漢字に対する対抗意識の現れで、見栄えの良い分、実用面では不便である。
この点、日本の表音文字である「かな文字」は、漢字の「草書体」をさらに簡略化した「平がな」と、漢字の一部分を音符化した「片かな」の二つからなり、道具としての便利さ、実用性の点で優れており、その点が文盲の多かった中国と比べ、日本社会の識字率の高さを保証したのである。事実契丹文字、西夏文字、女真文字、チュノムなどはいずれも現在は廃れて、使われていない。また後述するように「かな」には本来公用語としての使用意図がなかったのであるから、西嶋氏のようにこれらの文字と日本の「かな文字」とを同列に取り扱うことはできないのである。
平安中期、政治的には藤原氏の摂関政治のころ、「かな文字」が普及し「かな」による人々の感情表現が可能となり、和歌や物語、随筆が盛んとなった。和歌の代表作には紀貫之の『古今和歌集』が、「女流文学・かな文学」の代表作には紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』が挙げられる。この「かな文学」の他、貴族の住まいの「寝殿造り」や「大和絵、絵巻物」などの成立から、これまでの「唐風文化」と区別して平安中期の文化は「国風文化」と名付けられている。この国風文化成立の背景には、 9世紀における唐勢力の衰え、それに対応する日本の遣唐使廃止を挙げるのが常である。つまり中国からの模倣圧力の減少が国風文化を生んだというのである。
しかし遣唐使の廃止をもって、江戸時代の「鎖国」と同様なイメージを持つのは間違いで、遣唐使の有無に関わらず唐商の日本への来航は盛んで、唐からの輸入品「唐物」は大量に日本に流入し、唐物趣味は貴族の世界に定着していたし、政治向きの公文書にはこれまで通り公用語-漢字が使用され、男手としての「真名」-漢字使用は相変わらず盛んであった。一方「かな」は和歌や物語、随筆など人々の感情表現に関わる新しいジャンルにのみ使用されたのである。
それゆえ(唐風文化から国風文化へ)ではなく、唐風文化の中に新要素-国風文化が加わったのが真相である。その後日本では純然たる「漢文」から「漢字仮名混じり文」「かな文」と多様な文体が存続することとなった。
日本の文字文化を考えると、漢字の読みには漢文調で読む「音読み」のほかに「やまと言葉」で読む「訓読み」がある。「かな」は訓読みの際の「助詞」表記の必要性などから、主に「やまと言葉」を書き現わすものとして、最初は『古事記』や『万葉集』の編纂のために生まれ、発達した。「かな」には「片かな・平がな」の二種類があり、「音読み」もまた、漢音・呉音などの「多音読み」と複雑である。「真名」-漢字が「公」「男性」なのに対して「かな」は「私」「女性」であることから、「かな文字」成立の背景には、中国に対抗する政治的な意味は認めることはできず、むしろ日本文化の多様性を制度的に保証したことを確認しなければなるまい。
日本文学・国文学の世界では「かな文字」の成立は「上代」と「中古」という二つの時代を画す大事件として取り扱われて来ている。しかし日本史学・歴史学の世界では「かな文字」の成立があっても、公用語の世界は前代とほとんど変化がないことから、日本歴史の大きな画期と見徹すことは、今までのところ行われてはいない。また「かな文学」をもって(漢字文化圏からの離脱、民族文化の成立)と云うためには、『古今和歌集』や『源氏物語』『枕草子』等々を、例えば中国の「四書」「五経」や「唐詩」等に対抗しうる世界文学の「古典」とする評価や判断が必要であろう。ここに本居宣長以来の「国学」の大きな影響力を見ることができるのである。
それまでの「素朴」な日本社会に文明社会の漢字・漢文が導入されると、「やまと言葉」の世界は大きく変質した。ここに「漢語」と「やまと言葉」との棲み分けを指摘することが出来よう。高度な文明社会を維持するに必要な「律令法」や「儒教・仏教」などに関わる抽象的概念、理性的思考は「漢語」によりながらも、具体的・感覚的な感情表現は「やまと言葉」によったのである。ここから、恋の歌など「もののあわれ」を表現する「和歌」は「やまと言葉」で表現されることとなった。ここに「真名」が「公・男性」、「かな」が「私・女性」とされた理由がある。また勅選和歌集の編纂は和歌の表現手段である「かな文字」の社会的正統化に大きな役割を果たした。
日本では一つの漢字に対して「音読み」「訓読み」の二つの読み方が存在することから、「漢文訓読法」という(漢文をひっくり返して読む)独自な読み方が成立した。これは「漢文」の日本的な読み方であると同時に、「漢文」の「やまと言葉」への翻訳と云う側面を持ち、中国の「漢文」に対しては日本の「やまと言葉」が対立するという後世「国学」の主張を原理的に可能とさせる側面を持っていたのである。一方朝鮮では、古くは「孟Ill読み」の試みもあったがすぐに廃れてしまい、漢字の読みも「-音読み」に限られている。それゆえ朝鮮では、中国の「漢文」を受け入れるのみで相対化する原理を持たず、日本以上に強く(漢字文化圏に帰属)していたとなろう。
中国・日本・朝鮮三国における世界宗教と民族宗教・民間信仰を概観すると、三国に共通する世界宗教には「儒教」と「仏教」がある。これらは文明の中心である中国で育まれた普遍的な思想・宗教であり、中国から周辺の朝鮮・日本へと及んだ。中国の場合「儒教」が国教として歴代王朝に重視される一方、民間信仰として「道教」が存在したのは、中国が本来多様な世界から構成されていたことと関連している。日本の平安仏教の「本地垂逆説」とは仏教総体に対する「漢文訓読法」的な理解の仕方であり、一方では日本社会に「神仏習合」と云うジンクレテイズムを生み出したが、他方では世界宗教である「仏教」と民族宗教の「神道」両者の併存を強く主張することになった。
以上から、中国には世界宗教- 「儒教」の外に民間信仰- 「道教」があり、日本にも「仏教」の外に「神道」と云う民族宗教が成立することとなった。日本と中国にはそれぞれ文化の多様性と云う側面がある。これに対して朝鮮には世界宗教としての仏教、儒教はあっても、民間信仰として道教や神道に対応するものは認められない。これは朝鮮に「訓読み」が存在しないことと対応している。朝鮮は中国以上に中国であろうとして仏教や儒教を重視し、逆に民族宗教など文化の多様な展開を抑圧したのである。柄谷行人氏(17)は「中国に隣接しその政治的・文化的圧迫にさらされた朝鮮においては、中国よりも原理的・体系的であろうとする傾向があった」と述べている。
高麗王朝下で僧兵が蒙古の軍隊と戦ったことは、仏教が鎮護国家の建前を貫いている点で、日本の歴史にはない新鮮な驚きである。中国世界を統合する薄い皮膜が朝鮮においては厳格に社会の末端にまで浸透しているのである。.しかし15世紀になって作られた「ハングル」はパスパ文字モンゴル文字の影響下に、子音字母14と母音字母10からなる音素文字を組み合わせて、約3000種類の音節文字を作るもので、世界の表音文字の中で一番優れたものと云う。日本が現在「漢字仮名混じり文」の世界にいるのに、朝鮮・韓国では漢字はほとんど追放されハングルのみの文が一般である。その意味では、現代の朝鮮・韓国、特に北朝鮮は完全に漢字文化圏から離脱していると云える。
しかし大局的に見ると、朝鮮半島は中国の文化圏に含まれるのに対し、日本列島はその外にあるとなろう。儒教は人間生活の最小単位である「家族」の仕組みと深く関わっており、儒教の葬礼を厳格に守ることが朝鮮の支配階級「両班」の資格と関係したことから、儒教の教えは人々の生活を律するものとして韓国・朝鮮社会に強く根づき、朝鮮は中国以上に「儒教の国」となった。これに対して日本では、儒教が強い影響力を持った江戸時代でも、「儒学」と云う知的な対象として、様々な教養の一つとして受け入れられたに過ぎず、「家族」のあり方そのものには直接何らの影響も与えなかった。日本の葬儀には仏教のみが関係し、儒教の介入する余地はなかったのである。
漢民族の社会の「家」秩序には「同姓不婚」「異姓不養」の原則がある。この原則は朝鮮半島には及んでいるのに、日本には及ばず、日本の家族は血縁にない異姓の人を加えることを拒否しなかった。これが中国・朝鮮と比較して日本にのみ封建制が成立しえたことと関係があろう。
逆に中国・朝鮮社会の祖先崇拝は日本以上に盛んで、「系図」が売買される日本と異なり、一族の系譜を記した「族譜」が大切にされている。同様な例として仏教の「戒律」を挙げることが出来る。上山春平氏は「日本に根づかなかった礼と戒律(18)」の中で、鎌倉仏教の中でも親鷲の浄土真宗成立に至る過程が「戒律」排除の歴史であることを明らかにされた。
これはタイやミャンマーなどの小乗仏教国において、「戒律」が人々の生活を強く律していることと比較したとき、日本を同じ仏教国と言うことにためらいが生まれる原因にもなっている。
以上から日本文化の特徴を多様性として纏めることが出来るとすれば、朝鮮のそれは普遍主義への傾斜とすることが出来るのではあるまいか。 
4 華夷の交易 -中世日本と北方民族の類似-

 

中国の皇帝の直接支配する中華世界と、皇帝の支配の及ばない夷秋世界との対立と相互依存の関係を理解するための概念に「華夷秩序」がある。中国と夷秋世界との交易-物の遣り取りも、この「華夷秩序」によって考えることができる。
中国側の考えとしては、中国は「地大物博」で「自給自足」の国で、夷秋の国に何も依存するものはなく、本来夷秋との交易の必要はないとされていた。ここにア-ン戦争・アロー戦争の際、中国側が西欧列強の開国要求を断った理由が出てくるわけである。華夷の関係においては、中国皇帝の「徳」が四海に及ぶのと同様に、中華の物産が四海に及ぶべきものと観念されていたのである。事実、夷秋の人々が求めてやまない憧れの中国物産である「絹」silkや「陶磁器」chinaなどは、世界商品として文字通り全世界に運ばれていた。それが「絹の道」であり、「陶磁器の道」であった。これらの品物が皇帝直属の工房で作られていた事実も注目しておくべきであろう。
夷秋の民が中華の物産を求めて遠方より朝貢することは、皇帝の「徳」が四海に及んだと理解され、この朝貢と回賜の関係の上に冊封体制は築かれていた。この朝貢回賜関係は「贈与」とその「お返し」に当たるのだが、物の遣り取りに政治的な関係が加わっていたことから、皇帝の側は朝貢品に対して、これに数倍するものを回賜品として与えることが原則となっていた。
それゆえ夷秋の民は皇帝に対する服属儀礼と共に土産を奉ることは、経済的な利益となった。
逆に中国皇帝の側は、この朝貢回賜関係を通じて、経済的な損失に倍する政治的な威信を獲得したのである。それゆえ朝貢回賜関係とは経済的な利益と政治的な威信との交換-異次元交換と纏めることができよう。
夷秋の民は冊封体制に入れば、定期的な朝貢が義務付けられた。また皇帝は朝貢によりもたらされた遠方の物産を威信財として臣下に再配分した。それゆえ中国側が夷秋の物産に憧れ、飽くなき欲望を抱くに至ったとき、つまり夷秋の物産に依存しなければならなくなったとき、「地大物博」で「自給自足」という中華の建前は崩れ、冊封体制は根底から揺らいだのである。
その具体例として東北地方の狩猟民を支配した「女真族」や交易の民「サンタン人」を挙げることができる(19)。佐々木史郎氏によると、東北地方の狩猟民と中華世界との間には毛皮を貢がせ、絹を恩賞として与える「収貢頒賞」と云う仕組みで運営された「絹・毛皮交易」が長いあいだ行われていたと云う。
中華の住民が「地大物博」の建前に反して「毛皮」への飽くなき欲望をもったことから、満州・東北地方でこの「毛皮・絹交易」の利権を握る「女真族」は莫大な利益を得た。これが17世紀の「清」王朝を生み出す原動力となったと云う。また「サンタン人」とはアムール河-サハリン-蝦夷地間の交易に関わりを持つ交易民で、アイヌと交渉をもった人々である。近世初頭に北海道の松前の殿様が家康に「蝦夷錦」を献上したことは有名だが、その蝦夷錦の運ばれた道(20)は、生産地中国の江南をスタートして「満州-アムール河-サハリン-蝦夷地」となり、これは「中国一西域-ペルシャ」を結ぶ「絹の道」SilkRoadに対するもう一つの「絹の道」であった。
と同時にこの道を逆に中国に向けて「毛皮」が運ばれたことから、この道は「毛皮の道」FurRoadでもあった。この「北海道-サハリン-アムール河」のルートは、義経エデンギスカン説による義経のモンゴールへの経路とも重なることから、この伝説のできた近世初頭における日本と北方世界との交易路を示していると思われる。もっとも岸本美緒氏(21)は、「後金」「清」を建国した16世紀の東北の狩猟民・女真族について「当時の女真経済は、農業とともに狩猟採取に依存していたといわれるが、狩猟採取といっても--素朴な自給自足経済ではなく、国際交易と深く結びついた舘や人参などの特産品の狩猟採取であったことに注目する必要があろう」と述べている。
「金」を建国した12世紀の女真族が、16世紀の「後金」と同様に国際交易と深く結び付き、「毛皮」を特産品としていたかは疑問で、むしろ12世紀の「金」は「遼」の後継国家として「絹・馬交易」や「茶・馬交易」との結びつきの方が強かったものと思われる。こうした東北地方の狩猟民と同様、中国側が「冊封体制」下に置くことができなかった民族に、北方の草原遊牧民がいる。彼らが「冊封体制」に入らなかったのは、「絹の道」を通じて中国文明とは異なる西方文明の影響下にあったこともあるが、彼らと中国との交易が「絹・馬交易」「茶・馬交易」で、中国側が遊牧民の持つ「馬」を必要としていたことを挙げなければならない。par 特に馬は蒸気機関車の発明までは、人の持ちうる一番早い乗り物で、人馬一体となった騎馬兵の軍事的破壊力は圧倒的であったことから、中国側にとって軍事力の強化には「馬」がどうしても必要であった。つまり中国は、北方の草原遊牧民・騎馬民族と対抗するために、彼らの持つ「馬」を必要とするという従属的な関係にあった(22)。交易の必要性と共に、交易の相手が強力な敵でもあるという関係にあったのである。中国側は北方騎馬民族の持つ「馬」に依存したため、「地大物博」の建前を維持することができず、これが、彼ら北方騎馬民族が南北朝時代に華北を支配し、唐末には「五胡」として登場し、後に「西夏」「元」などの征服王朝を形成する原因となったのである。
「秦の始皇帝」が戦国の世を終わらせ、はじめて中華世界の統一を成し遂げたとき、遊牧民の「旬奴」もまた、これと連動して始めて国家を建設したが、秦と旬奴とは「万里の長城」で対略し、互いに接触を持たなかった。北方遊牧民と中華世界との関係は「漢の高祖」(207-195)が「旬奴の冒頓単干」(207-174)と戦った時から始まる。この時高祖は勝利を得ることができず、皇女を嫁がせ、毎年綿・絹・食料を貢ずる約束で「兄弟」の和を結んだ。「冊封体制」の原則からの逸脱の始まりである。「漢の文帝」(180-157)と冒頓単子とは衣類(錦・綾)、黄金の装飾品、絹織物等々とラクダ1頭、騎馬2頭、馬車用馬8頭との交換を行った。
「景帝」(157-141)と「軍臣単干」(160-126)との間では「関市」の開催が決まり、旬奴側が「牛・馬」を市に出すと、中国側はこれを朝貢とみなし、回賜として「賞賜待遇」を行ったという。北方民族との「馬」の遣り取りはこうして始まったのである。一方、北方の遊牧民が「絹・茶」等を入手するには、「掠奪」「中国側の献上」の他、公貿易-朝貢貿易としての「関市」や「密貿易」の方法もあった。日中間の(i)冊封体制、(ii)修貢体制、(iii)非体制的通商関係、(iv)反体制的通商関係との比較をすると、前二者は(iv)に、「密貿易」は(iii)に対応しよう。中国側が「関市」を朝貢と見倣したとしても、遊牧民側が優位にあったことから、(i)や(ii)は存在しえないのである。
平凡社『大百科事典』で日宋貿易の輸出品を調べると、「平安時代」の項目で橋本義彦氏は「砂金、水銀、工芸品(漆器、犀風、扇子)、刀剣類」を、「日宋貿易」の項目で石井正敏氏は「金、銀、水銀、真珠、硫黄、鍋、秩、木材等」を挙げている。元代の中国を見聞したマルコ・ポーロ『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」とあることから、日宋貿易の輸出品の代表は「金」であったと思われる。それゆえ中国と北方遊牧民族や東北狩猟民との交易である「絹・馬交易」「茶・馬交易」「網・毛皮交易」に倣って「日宋貿易」を一言で表現すれば、「銭・金交易」となり、日本は「砂金」で「宋銭・陶磁器」等々の唐物を買っていたとなるのである。
橋本・石井両氏は共に「金、水銀」を挙げているものの、石井氏は日本を原料輸出国としている。一方橋本氏は「工芸品(漆器、犀風、扇子)、刀剣類」を挙げ、第二次産品の輸出もしていたとしている。橋本氏が日本の技術力に注目している点は中世日本が銅銭の鋳造や、高麗青磁のような高級陶磁器を作らなかったことの歴史的な評価とも関わっており、注目に値しよう。
他方、石井氏の見方は(西欧と共に封建制のある日本)(アジア的停滞から一人離れた日本)との伝統的な見方に対して、文明国中国と比較して(中世日本は遅れたもの)(封建社会は野蛮なもの)(武士は人殺し集団)と見倣す、やや自虐的な最近の中世史観と関連があろう。
輸入品としては、橋本氏が「高級織物、書籍、宋銭」を挙げているのに対して、石井氏は「宋銭」のほかに唐物として「香料、薬品類、顔料類、皮革類(豹皮、虎皮)、茶碗など陶磁器類、綾・錦など唐織物類、呉竹・甘竹など笛の材料、書籍・経典、筆墨など文房具、オウム・孔雀など鳥獣」等々を挙げている。当時日宋貿易を通じて日本が大量の「宋銭」輸入をしたことは有名で、1155年には末は銅銭の輸出禁止令を出したと云い、また1242年には、日本側は1回の航海で南宋の年間製造量に当たる10万貫の銅銭を輸入したとの記録がある。当時の日本が銅銭の鋳造や陶磁器を作らなかったのは、技術力のなさではなく、それらの物を安価に入手出来たからであろう。
日用品の陶磁器をすべて輸入品に頼り、中世が「輸入陶磁器の時代」であったことは、当時の日本の技術力の問題である以上に、中国側に「金」に対する「飽くなき願望」が存在し、他方日本側には「金」の輸出能力があったことから、むしろ国際間の交易として日本側が良い品を安く買うことができたという国際間分業の問題として捉え返えされるべき問題であろう。それゆえ陶磁器の模倣生産を行っていたベトナムや朝鮮と比較したとき、輸出品の「金」を持つことにより、日本は中国に対して相対的に優位に立ち、中国物産の模倣強制、模倣圧力から自由であったとなろう。「金」こそが日本と東アジア諸国とを分かつ鍵であったのではなかろうか。
石井氏のように「金」を「硫黄」などと同様な第一次産品と見倣すよワも、むしろ「金」は貨幣商品で、銅銭を小口支払用のものとすれば「砂金」は大口決済のためのものと考えるべきであろう。末代社会経済史の研究者である斯波義信氏は、日未聞のこの「銭・金交易」を「銭と銀(23)」の中で次のように述べている。
大量の産銅と高い鋳造技術をもっていた中国では、古くから銅銭を正貨と定め、鉱産物を国が統制し、大口決済には金銀を補助併用する流通システムを備えていた。--未の金銀交換レートは、十二世糸己に金一対銀十三、つまり当時の東イスラム圏並みにならされ、また末の銀一両は銅銭千五百文で交換された。--当時の日本の金銀比価は一対三から一対五と圧倒的に金安銀高だが、その一方で少額貨幣の供給は、量の上でも制度でも立ちおくれていた。
このため宋銭の流入は十二、三世紀に急増し、その見返りに、年に三、四百キロの金が日本から流失した。
これまでわれわれは、ベトナムや朝鮮を中国の「模倣国家」とし、これに対して中世の日本を「交易国家」としてきた。この場合の「交易国家」とは、琉球王朝のように国家の存立の基礎を中国と東アジアや東南アジア諸国との仲介交易に置き、中国皇帝を中心とする冊封体制に強く縛られているという意味ではない。日宋貿易を一言で表現すると「銭・金交易」となり、中世日本は原料輸出国ではなく、むしろ対中国「金」輸出国として、交易上中国に対して従属的な関係に立つことなく、貨幣商品である「金」をもって、優位な立場で中国物産の銭や陶磁器を自由に買うことができ、中国文化の模倣圧力から自由であったことを「交易国家」と命名したので\ある。
中国と征服王朝を建国した遼・西夏・金・元などの北方騎馬民族との交易は「絹・馬交易」「茶・馬交易」で、後の後金・清などの東北の狩猟民族との関係は「絹・毛皮交易」となろう。
遼・西夏・金などが中国側の欲しがる「馬」や「毛皮」を持っていたことから、彼らが対中国交易上従属的な関係になかったのと同様、中世日本もまた中国に対して対等か、あるいは優位に立つ国として、征服王朝と似た立場にあり、北方騎馬民族や東北狩猟民族が征服王朝を築いていったのに対して、中国と国境を接していない中世日本は、中国を模倣することなく独自な世界を築いて行ったのである。明代の「北虜南倭」という言葉は海上勢力「倭」と北方民族との類似を示している。
東洋史学者の宮崎市定氏は著書『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会(24)』で、中国社会を都市生活者の世界「文明主義の社会」とする一方、北方の句奴・五胡を始めとする蒙古民族、満州民族などの遊牧・狩猟民を「素朴主義の民族」とし、その両者の対立・交渉として中国史を全体的に捉える構想を示し、「素朴主義の民族」の建てた遼・西夏・金・元・清が征服王朝となりえた理由を、彼らが「民族的な自覚」を持っていたことに求めている。つまり征服王朝とは、支配者となった少数民族の「素朴民族」が「民族的な自覚」を持ち伝統的な生活を続け、漢化されないよう努力をしながら、圧倒的な多数の「文明主義の社会」を支配したものなのである。
日本の文化の中でも素朴な「やまと言葉」に注目するなら、日本もまた宮崎氏のように「素朴民族」に数えることも可能となろう。 
5 むすぴ 

 

今から50年以上も昔の1943年、太平洋戦争の最中に、京都大学東洋史の宮崎市定氏は著書『日出づる国と日暮るる処』に随筆的論文「中国の開国と日本一中国的体制と日本的体制一」を収めるにあたり、当時進行中であった太平洋戦争に対する歴史家・東洋史家としての見解をこう述べている。
「大凡歴史上の大事件は表面それが突発的に見えても、必ずやそこに深い原因が根ざしているものである。事件が大きければ大きい程、その根元は遠く長い苦である。日本の手による東亜共栄権の確立という画期的な大事業は、何としても悠久な古代から説明して来るものでなければ真の理解と言えない。--こう思って東洋の歴史を読み返して考えぬいた結論が日本的体制の成長ということであった。」
著書の発行年を「皇紀二千六百零三年八月刊」としていることからち、時流に迎合しているとの側面の指摘はたやすい。しかし私にとって、この「中国的体制と日本的体制」と云う副題は大変魅力的で、宮崎氏は、古代から現代までの東アジアの悠久の歴史を中国的体制と日本的体制の対立・抗争とし、その中での中国的体制の克服として「日本的体制の成長」を捉えていたことになる。秦の始皇帝による「皇帝制度」とともに始まるこの「中国的体制」と云う概念を、戦後になって、半ば継承し、半ば批判したのが東京大学東洋史の西嶋定生民の「冊封体制論」で、西嶋氏もまた、皇帝は中国人民のみならず、世界人類全体の主権者であるとの理念の分析をされた。
批判の中心は超歴史的に存在するとした「日本的体制」に注がれていたと思われる。日本国家の成立は「中国的体制」であるところの「冊封体制」によってのみ解明しうるとの西嶋氏の議論は説得的で、耶馬台国についての議論は氏の独壇場である。本稿は西嶋氏の云う「冊封体制論」だけでは東アジアの中の日本、特に中世日本をうまく捉えることができないのではとの疑問から出発したものであるが、結果として宮崎氏の言う「日本的体制」に近づいている面があるかも知れない。戦後歴史学が明治以来の日中関係の反省の中から出発した事実は承認しなければならないが、戦後史学が見落としてきたことも今は問題とすべき時期に入っていると私は思う。
東アジア世界における高麗・ベトナムと日本との対比の中で、私は前者を「模倣国家」、後者の中世日本を「交易国家」とした。これは日本が中国に対する輸出品としての貨幣商品である「金」を豊富に産したと云う偶然に多くを負っている。日明貿易の中心が「生糸・銀交易」で、近世初期の日本の輸出品の中心が「鋼」であったことも有名である。つまり日本は中世の全時代を通じて、貨幣商品である「金・銀・嗣」を豊富に産し、輸出していたのである。近世も中期に至り輸出すべき貨幣商品としての金・銀・銅がなくなったとき、代わりの輸出品として海産物からなる「俵物」を開発すると同時に、中国からの輸入品を減らすべく国産化に励み、殖産興業を図った。
近世初頭には主要な輸入品であった生糸や木綿が中期には国産化され、特に生糸は開国後の輸出品の花形になった。このように考えれば、日本の近世と云う時代は「交易国家」から「模倣国家」への転換期に当たり、日本近世史は中国文化の模倣史として整理することも出来る。par まず秀吉による朝鮮出兵に基づく朝鮮陶工の泣致による陶磁器の国産化、銅銭「寛永通宝」の鋳造が挙げられる。国家のあり方においても、寛永の鎖国令による「海禁」政策の採用。近世国家を「幕藩体制」と名付けるように、江戸時代は曲がりなりにも中央集権的な国家で、朱子学・宋学受け入れの基盤たりえたこと等々が挙げられる。しかし「科挙」制度の採用は明治の帝国大学令を待たなければならなかった。
明治の「廃藩置県」は中国史の論理で云えば「封建制」を「郡県制」に改め、天皇中心の中央集権的な国家建設に当たり、薩長閥などの藩閥政治を解体した帝国大学令は「科挙」制度に対応しよう。しかし、その際官吏に求められた教養は中国古典の「儒学」などではなく、ヨーロッパの近代文明であった。こうして日本はアジア世界の中でいち早く文明開化し、西欧列強の一員に加わり、逆に中国中心の「冊封体制」解体の中心となっていったのである。以上を総括するに、日本が「冊封体制」という中国の強い政治的な影響下にあったのは古代の時代だけで、日本が独立した一つの文明として成長して行くその第一歩が、中世において確認できるのではあるまいか。
このような東アジア世界における日本の地位の特殊性と、日本の中世社会にのみ「封建制」「領主制」が成立したこととの間には密接な関係があろう。問題をこのように捉え直すことができるとすると、その延長線上に、江戸時代に至ると「華夷変態」として、むしろ(日本こそが中華だ) との認識が生まれたこと。明治国家による「脱亜」政策。日清戦争による日本の勝利。日本の「列強」への仲間入り。中国の半植民地化。さらには戦前の三大強国の一つ。現在の経済大国日本等々の日本の歴史的な流れを数え挙げることができよう。現在学界では東アジア世界の中に日本の歴史を埋め込もうとする試みがなされていると見受けられるが、本稿はこうした見方に対する日頃の不満を纏めたものである。 

(1) ここでは「東アジア世界と冊封体制-6-8世紀の東アジアー」[岩波講座『日本歴史』第二巻古代2 1962年、西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会1983年再禄]および西嶋定生『日本歴史の国際環境』UP選書東京大学出版会1985年を議論の対象とした。
(2) 氏は死ぬまでこの問題に関心を寄せ、その後『邪馬台国と倭国一古代日本と東アジア世界一』吉川弘文館1994年を著わし、『倭国の出現-東アジア世界の中の日本一』東京大学出版会1999年が遺稿集としてお弟子さんの手によって出版された。
(3) 例えば『倭国の出現一束アジア世界の中の日本一』は二部構成となり、第1部が「倭国の出現」であるのに、第二部は「中華を標梼する倭国」となっている。
(4) 西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』(前掲)において第六章「東アジア世界と日本史」の五が「古代東アジア世界の崩壊と日本」であるのに、六は「東アジア交易圏の形成と蒙古来襲」七「東アジア世界の再編」である。
(5) 荒野泰典・石井正敏・村井章介『アジアの中の日本史T アジアと日本』東京大学出版会1992年
(6) この考えはミシェル・アグリエツタ/アンドレ・オルレアン著井上泰夫・斎藤日出治訳『貨幣の暴力』法政大学出版会1991年によった。
(7) 吉田孝『日本の誕生』岩波書店1997年
(8) 三上隆三『渡来銭の社会史』中公新書1987年
(9) 宮島博史『両班一李朝社会の特権階層』中公新書1995年(畑中村栄孝「十三・四世紀の東亜情勢とモンゴルの来襲」岩波講座『日本歴史』第六巻中世2 1963年(川川勝平太『文明の海洋史観』中公叢書中央公論社1997年
(12) 宮崎市定「中国の開国と日本一中国的体制と日本的体制- 」『目出づる国と日暮るる処』中公文庫1997年167頁書1980年
(14) 前注(12)180、181頁参照。
(15) 石井正敏「入宋巡礼僧」『アジアの中の日本史X』東京大学出版会1993年所収
(16) 橋本万太郎編『漢民族と中国社会』『民族の世界史5』山川出版社1983年
(17) 柄谷行人「日本精神分析再考」『文学界』1997年11月号
(18) 「仏教と儒教」『上山春平著作集』第七巻法蔵館1995年所収
(20) 『蝦夷錦の来た道』北海道新聞社1991年
(21) 岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット山川出版社1998年
(22) 梅村担「絹馬交易(茶馬交易)」『歴史学事典』第1巻「交換と消費」弘文堂1994年、および『松田寿男著作集』全6冊六興出版1986、7年参照。
(23) 斯波義信「銭と銀」週刊百科『日本の歴史15』朝日新聞社1986年7月20日
(24) 平凡社東洋文庫No.508 1989年 
 
日本辺境論

 

“中心―辺境(周縁)”の二元論から考察する日本文化論
日本人とは何者なのか?日本文化とは何なのか?という普遍的な問いに対して、“辺境性・周縁性の概念”を用いて答えようとしている本ですが、著者の内田氏が何度も既に先賢・先人によって語りつくされたテーマではあるがそれを改めて日本論として整理し確認すると述べているように、日本の思想史や民俗学に触れたことのある人であれば何処かで読んだ理論も多く紹介されています。
日本人は自分自身を世界の中心においた文明的な世界観・思想体系を持ったことがなく、常に本当の文化・制度の中心地(原点)が日本以外のどこかにあり、それを導入改良したり追いついたりすることで文明文化の進歩の度合いを測ってきたというのが、梅棹忠夫(うめさおさだお)が文明の生態史観で指摘する“日本の辺境性”です。
本書の中心に対する周縁・中央に対する辺境という見方は、エドワード・シルズの論文中心と周縁(1961年)に依拠する社会システム(社会階層・権力構造)としての区分ではなくて、単純に地理的・文明発達史的な区分を意味しています。中心と周縁というのはシンプルに画一化されたモデル図式ですが、日本人の歴史的な思考・行動パターンを理解する上でなかなか説得力のある論点を提示する役割を果たしています。
その日本の辺境性を語る文脈において、外来文化や外国の制度の取込みの早さ・集団の調和と争いの回避を重視する倫理観の根拠が、外部世界からの強い影響を受けざるを得ない“辺境性(周縁性)”に求められています。政治学者の丸山真男は、中国大陸やヨーロッパから襲来した強力な外来イデオロギー(文物・技術・制度)に対する日本人の定型的反応として、新奇なものにきょろきょろとしつつも自分自身は変わらないという面白い表現を当てています。
日本文化の本質として、日本文化は目まぐるしく変化するが、集団としての同一性を失わずに変化するという変化の仕方は変化しないと言うのですが、この外来文化・思想の柔軟な摂取とアレンジメントによって、日本人は静態的・不変的な自己アイデンティティ(絶対に譲らず変化を拒絶する自己確認の核)を失った代わりに、文化や思想、制度が大きく変化したとしても日本人としての一体性・自己認識が剥奪されないという強みを持ったとも言えそうです。
国難の危機に襲われた幕末期に、なぜ日本が中国よりも迅速な政治制度や経済活動、学校教育の近代化に成功したのかの秘密も、辺境性に立つ和魂洋才のほうが中心性を担う中体西用よりも民族集団としての同一性が失われる危険性が低かったからかもしれません。
幕末から明治維新にかけての時代に、日本人は先進的・実用的と認識されたヨーロッパ世界の文化・制度・思想・文物と技術を積極的に摂取することに対して、中国(清朝)や李氏朝鮮よりも躊躇や恐れが遥かに少なかったわけです。
欧米の外来イデオロギーによって自己アイデンティティの根幹が失われるという不安やこだわりが無かったことが、日本の急速な近代化の後押しとなった側面がありますが、一方で日本の政治や文化、国民性には現代にまで続く主体性・物語性の欠如という特徴も横たわっています。
内田氏は日本の政治家には、アメリカのオバマ大統領のような建国の精神(合衆国の理念)を参照する物語性のある演説はできないと語り、その理由を日本国は理念に基づいて建国された国ではなく、国家の危機において立ち返るべき初期設定(普遍的な行動基準)を持たないということに求めています。
近代日本は第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)で敗戦のトラウマを受けるまでは、その物語によって生み出された被害や抑圧も多くありましたが、天皇中心の国体や大東亜共栄圏の建設といった物語性をとりあえずは共有していました。その物語の内容そのものの是非を論じることを別問題とすれば、現在の日本には、先行世代から後続世代へと伝承される贈与・負債の物語性が欠如しているという特徴があり、それが個人主義的な自由と孤独を拡大すると共に、社会的なアノミー(無規範状態)の原因になっているようにも感じます。 
“理念・ビジョン”ではなく“他国との比較”で語られる日本
日本の政治家・知識人は日本がどのような国であるかということについて、日本固有の主張・理念(ビジョン)・特徴で語るのではなく他国との比較(ランキング)で語ることが多いというのですが、他国との比較や先進的な文明文化との接近度を通じてしか自国の国家像(国家戦略)を描けないというのも、日本の辺境性の現れであると言えるのでしょう。
中心に対する辺境性を持つことが良いか悪いかという価値判断は本書では述べられることがありませんが、日本外交の受動性(相手の反応を見てから動く)・日本文化の持つ外来文化の改良性・日米同盟の堅持性(米国との親密さ)などの特徴も辺境性によって説明できるとする論理の進め方が為されています。
時代を問わず日本文化に通底する特徴として、自己(個人)の思想・行動の一貫性よりも場の親密性(空気)を優先させる態度があり、丸山真男はこの日本の伝統的行動様式が近代日本の軍部を戦争に突き動かす超国家主義の心理を生み出したと述べています。
その場における人間関係の親密性に配慮して自分の意見や考えを差し控えること、あるいは、その場における支配的・同調的な空気を読んで自分の態度や主張を同調させること、これらは現代の日本人にも見られる一般的な対人関係・行動のパターンです。
昭和期の無謀な戦争を主導した軍人官僚の行動パターンも、良く言えば協調性・調和性の空気に配慮した行動であり、悪く言えば付和雷同・長いものに巻かれるの行動だったのですが、戦争を遂行するに際しての指導理念がなく、重要な政治的決断の責任を負う主体(個人)もいないというのが空気・調和に支配された国の実情でした。
戦後の東京裁判で当時の重要閣僚(政治家)や幕僚・軍人に質問した内容を見ても、ああするより他なかった・ずるずると戦争の泥沼に引きずり込まれた・私個人としては開戦や三国軍事同盟には反対だったといった意見が多く出されましたが、日本の伝統文化や合議制の慣例では場の親密性・空気を読まずに個人が突出して反対意見・異論を押し通すのは、原則的に不可能に近いということが浮かび上がってきます。
著者の内田樹はこの事例を踏まえて、日本の現実主義でいう現実には既に起こったこと(過去の確認)はあってもこれから起こること(未来への意志)は含まれないと主張していますが、未来を自分の意志や努力によって変革できるという確信(理念性)が欠けているという点は、現代日本の少子高齢化や財政危機、新卒雇用の限界(雇用システムの機能不全)などにも現れているように感じます。
丸山真男のいう超国家主義は大日本帝国の天皇主権体制とも密接に相関していますが、究極的価値(絶対的価値)の体現者である天皇との近接度(近さ)によって、軍人・政治家の正しさが推測されていたということです。
超国家主義というと大袈裟に感じられますが、これは単一の論理性や目的性を持った政治的イデオロギーなどではなく、その場における究極的価値(支配的影響力を持つ人)にどれくらい近づけるかによって自分のスタンスや正しさが決まるという空気のことで、寄らば大樹の陰の協調的な現実主義と連接しています。
日本の外交方針や国家戦略の特徴として指摘される他国の反応に左右される受動性については、第二次世界大戦の利己的なナチスドイツの侵略戦争と自己欺瞞的な大日本帝国のアジア支配構想(八紘一宇)とを比較していますが、日本はその文化的特性から侵略する相手国にも空気の共有・同調的な反応を求めるところに特徴があるとしています。
大日本帝国では世界戦略や侵略意図に基づいて主体的に戦争を決断した主体・思想性というものは存在せず、飽くまで周辺諸国の後進性や帝国主義列強の侵略行為を受けて、日本が戦争せざるを得ない地点にまで追い込まれたという被害者の立場での説明が為されます。
アジア諸国への進出についても侵略・支配の意図ではなくアジア圏防衛・文明開化の意図に基づいて戦争をしたということになりますが、日本のアジア圏での戦争や日韓併合は慈恵(相手のため)と侵略(自分のため)とが渾然一体となったかなり曖昧な動機づけでしかその動因を語りにくいということはあります。
実際的にも、西欧列強の搾取・収奪・使役を中心した侵略的な植民地支配と、日本の支配地域に対するインフラ開発や産業振興も含めた慈恵的要素もある植民地支配にはかなりの利己性の差が見られるのですが、その外交政策の受動性と曖昧さは日本外交の一つの特徴として解釈することができます。 
“辺境性”を活用してきた日本と先行者(世界標準)との距離
戦前と戦後の日本の軍事外交や国際情勢の認識に共通する要素として、内田氏は被害者意識(外国が攻撃してくるからこちらも反撃せざるを得ない)を上げていますが、追い詰められる前の段階で自ら先手を打って状況を変えようとはしないというのは、日本の政治・外交や日本人の行動様式に見られやすい傾向性かもしれません。
現在の日本においても、外国との外交交渉・条約締結などにおいて日本の国益・地位が奪われて不利な扱いを受けるのではないかという被害者意識は依然として残っており、日中関係でも日米関係でも被害・損失・デメリットを上げて日本の自主防衛(軍事力強化)や保護主義などの必要性が訴えられたりもします。
外国の反応や脅威をイマジネイティブに勘案してから、自国の行動や反応を決定するという受動性を、著者は辺境性の現れの一つとしていますが、日本外交の基本的性格としての受動性と被害者目線を転換することは容易なことではないでしょう。
また内田樹の日本辺境論に示されている結論も、こうなったらとことん辺境で行こうではないかという提案になっています。つまり、日本は無理をして世界標準を制定する中心になろうとする必要はないし、それを目指してもまず中心にはなれないので、辺境者としての利点を縦横に生かしたほうが良いのではないかということです。
東アジア世界における中心―辺境(周縁)の二元論は、当然ながら中華思想の華夷秩序に由来しています。中華王朝が日本を中国(中心)に対する東夷として位置づけ、日本がそのポジションを消極的ながらも面従腹背で受容した3世紀以降(邪馬台国の親魏倭王)の時点から、日本の辺境的アイデンティティの確立が始まったと言えますが、日本の天皇制や蝦夷地(蛮夷の認識)にも中華思想の影響が濃厚でした。
神聖なる天皇の御在所である都(奈良・京都)を世界の中心として、天皇のいる都から遠く離れた辺境(周縁)になればなるほど、優れた文化文明の光が衰えていき、人々の気性・知性も荒々しく野蛮なものになっていくという世界観が持たれていました。日本版・華夷秩序の影響を受けた古代〜中世の日本においては、天皇の居留地である京都から遠く離れた関東地方や九州地方は文化文明の水準の低い蛮地であり、貴族たちは京都から遠い地域へ国司として赴任することを嫌がって代理の官吏を受領として差し向けたほどでした。
更に、東北地方や北海道になると未開の蝦夷地(野蛮人の住む辺境地域)という認識でしたが、この中心から周縁(辺境)へと広がっていく同心円状のコスモロジーは中華思想の焼き直しとでも言うべきものです。中華思想とは、中国皇帝の拠点である中原地帯を抱えた中国こそが、文化文明が最も進んだ世界の中心地であるという世界観であり、中心である中国から地理的に離れるに従って文化文明の華やかな恩恵が乏しくなり、人々の知性・民度も低くなっていくという階層序列(平面上のヒエラルキー)の認識を持っています。
近代以前の日本は、中国に対してある種の文化的・文明的な憧憬(敬意)を持っていましたが、古代の一時期を除いては冊封体制(朝貢貿易)によって規定される華蝦秩序には、形式的に参加するだけでした。中華思想の世界観に、日本が一時的・形式的にではあれ組み込まれていたというと、国粋主義的な立場からは日本を中国の劣位に置く屈辱的な事態だと思われがちですが……本書では聖徳太子の日出る処の天子…の隋の煬帝に対する書状や足利義満の日本国王という詐称(天皇の地位の代替的自称)から、日本の無知・非礼を装う強かな外交姿勢を読み解いています。
日本は実質的・政治的に中国王朝(中心)に服属したことはなく、中国経由の先進的な文物・制度・技術を輸入したり、対中国貿易(日宋貿易・勘合貿易など)で莫大な利益を上げるために、辺境として自らを位置づけて華夷秩序を状況即応的に利用してきた節があるということです。
また、これは現代日本の対米外交や平和主義にも、一部当てはめて考えることができるコスモロジーであり、日本は憲法9条の規定で戦争ができません・軍隊を所有せず紛争解決の手段として武力を用いません・第二次世界大戦の敗戦で日本は平和主義国家として生まれ変わりましたなどの優等生的メッセージは、(国際常識に対する)無知・無能・非現実性を偽装しつつ戦死者を出さない(実質的にアメリカを用心棒・国防の盾として用い、流血の伴う汚れ仕事から日本を遠ざけた)という実利を得てきた強かさを併せ持っています。
中国を中心に置くにせよアメリカ・ヨーロッパ諸国を中心に置くにせよ、辺境としての日本は中心に対する無知・無能を無意識的に偽装して実利を獲ったり、中心に追いついて対峙しようとしたりする時に、その潜在的な能力や長所を最大限に発揮できるということが本書では示されます。
本書日本辺境論で最も印象に残った記述は、幕末・明治維新において国際情勢の判断を誤らず近代化に成功できた日本人が、国際情勢に関する情報が増えていたにも関わらず、なぜ明治末期の日露戦争後に外交判断を誤っていったのかについての仮説でした。
日本人の指導層は幕末において日本が直面した状況を正確に理解することができたが、日露戦争後には日本が直面する国際情勢を正しく理解することができなかったという話ですが、その結論は日本は先進国(先行者)に追いつこうとする過程の努力と模倣では力を発揮するが、先進国に追いついてしまうと目標と理想を見失って停滞するというお馴染みの日本文化の解釈に落ち着きます。
これを“中心−辺境の二元論”に置き換えて記述し直すと、日本は辺境として中心(世界標準)に近づこうとする時には圧倒的なポテンシャルを発揮するが、日本自らが中心(世界標準)になったと感じる時には力を発揮しづらくなるという風に考えることができます。これは正に、世界有数の豊かな経済大国となり、キャッチアップすべき先行者(お手本)を見失った現代の日本にもそのまま当てはめられる考え方ですが、長期化している現代日本の停滞感や閉塞感を抜け出す道は目的・手本となる他者の発見(出現)にこそあるのかもしれません。
あるいは、歴史上の全ての覇権国家(帝国的スーパーパワー)がほぼ例外なく斜陽の季節を迎えたように、日本も再び世界経済やグローバルスタンダードにおける中心に近い場所から辺境へと追いやられるのでしょうか。しかしそれでも、日本文化の本質の一つである同型の変化の仕方を繰り返す再帰性さえ喪失しなければ、辺境に追いやられた日本はもう一度、中心へと向かうキャッチアップのための道のりを歩みだすに違いないと感じます。
本書日本辺境論は、この中心と辺境のテーマを基盤に置きながらも、様々な思想家や宗教家の日本文化論の論説を取り上げており、日本文化の特徴や由来、本質を多角的に考察して興味深い仮説・主張を提示しているので、人文学の各領域を関連づけながら横断する知的な読み物としても楽しめる構成になっています。 
 
時間観念を巡る日中の「文化溝」の考察と
 デジタル時代に於ける伝統回帰の展望

 

T 世界の常態と乖離した日本の常識:清潔・精確・配慮の3美点
松本清張の『点と線』の中の刑事が入浴中ゆったり思索に耽る一齣は、風呂好きの日本人の皮膚感覚を体現する妙味が有る、と言う日本の識者の指摘は興味深い1)。古代希臘の賢者が浮力定理の想を得た場所も浴槽なので、 霊感浮上の状況自体は日本特有の物とは言えないが、外国語に訳し難い「いい湯だな」2)と同じく、彼の心身の癒しの満喫も一般の中国人には縁遠い。何しろ中国の多くの地域では、水・電力の不足に因り入浴を楽しむ習慣が無い3)。
此の名作が隠し持った最大の日本的な特色は、列車や飛行機の複雑な乗り換えに由る不在現場証明の絡繰に他ならぬ。交通機関の時刻表の隙間を詭計に使う推理小説は日本では多いが、大抵の外国では予定通りの運行が期待できない故に、左様な計画は最初から成り立つまい4)。此の事象は日本の常識を世界の非常識とする日本異質論の証にも成ろうが、交通機関は定刻を守るのが常識だから、此の点では世界の現状こそが非常識と言うべきだ。
宇宙航空事業団理事長・山之内秀一郎に拠ると、英国の中・長距離列車で5分以内の遅れで運行しているのは70 %に過ぎず、仏蘭西では89 %が其以上の遅れで走っている、と最近の仏の鉄道雑誌の記事は書いたが、東北・上越新幹線を走る1日3百本弱の列車の遅れは平均10秒未満だ5)。1分以上の遅れを遅延とする日本に対して、仏では近郊列車と長距離列車は其々5 分、14 分以内の遅れは定刻と見做される6)ので、日仏の開きは一層大きい。
東洋の仏蘭西と言われる中国との落差は更に広がるが、最初に日本に列車ダイヤを持ち込んだ英国7)よりも模範的で、律儀な独逸や瑞西よりも律儀な処8)で、日本鉄道の仕事は世界一の誉れに恥じない。東日本旅客鉄道会長を経て2000 年に現職に就き、知仏派の国際人として有名な山之内も、列車運行の正確さを日本の鉄道の誇りとし、其の几帳面さを日本人の誇れる資質と讃えた。但し同時に、時として形式的に成り過ぎる嫌いにも言及した9)。
1988 年に訪日した英国の少年歌手・A.ジョーンズは曰く、「街や地下鉄の駅が清潔で列車が時間通りに来るのには吃驚。人は皆親切だし、もうすっかり日本贔屓に成って了った。」10)
其の前年に来日した私も同じ文化的衝撃と感銘を受け、独・蘭に定住し多くの国を旅した弟の第一印象も一緒だ。英国は島国と「紳士道」で日本と通じ、規則厳守の国民性が名高い独逸と同じ清潔好きなだけに、此の3つの美点の相関と突出は日本の特徴に違い無い。
欧州辺りでの滞在を終え暫らく他国人の目で自国を見た作家・池澤夏樹の『日本の印象』は、滞在歴の浅い異邦人と着眼点が重なり合いながら、無条件の礼讃とは趣を異にした。「先ずは、清潔。成田というのは決して使い易い空港ではないが、ともかくピカピカに磨いてある。次に、自動販売機や公衆電話や電車などに故障が無い事に感心する。交通機関が時刻表通りに動いている。この国の人々は機械を作って使うのは大変に上手らしい。」
日本人同士なら意思が好く通じる事を前提に気配りを強調し消費者を満足させる、という奉仕の周到さを肯定した上で、「処によって電車とホームの間が空いておりますので、足元にご注意下さい」云々の放送は、同じ状況に対して“Mind gap”だけで済む倫敦の地下鉄に比べて些か冗長だ、と氏は付け加えた11)。確かに、日本との付き合いが長く成るほど、緻密さ・親切さの「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の側面が否応無く目に付いて来る。
「文革」世代の無頼派作家・王朔は、中国の推理小説の粗末さを犯罪の水準の低さに帰した12)。
日本の推理小説の質の高さは逆に、構想力と実生活の両方の豊富・洗練さに因ろう。日本人は自国の特質や魅力に気付かぬ事が多いが、中国人初のノーベル文学賞に輝いた高行健は、微に入り細を穿った日本文学の精密描写に衝撃を受けた13)。一方の魯迅は人間の肖像を例に、髪の一本一本を克明に描いても肝要な目を疎かにすると詰まらぬと断じた。
『点と線』の刑事が犯人を「時間の天才」と称したのは、駱駝が針の目を通る様な離れ業を思えば納得できる。推理小説の巨匠が秀才官僚の頭脳に託して編み出した完全犯罪の意匠は、善悪を超えて、日本人の徹底的な完璧を期す計画性、手順に拘る真面目さと其の落とし穴を思わせる。日本人の野球・相撲好きは定型を好む習性が一因とされるが、此の手の小細工は型に嵌まれば強い反面、約束事の前提が崩れると硝子細工の如く脆い14)。 
U 過と不足:完璧志向・形式主義と多動・忙殺の中空・泡沫
高度な清潔・精確・配慮は日本人の潔癖や職人根性、善人性の賜物だが、世界的には奇異・贅沢の部類に入る。公衆電話が悪戯等で好く壊れる中国に比べて、公共施設の故障僅少は立派で有り難いが、自動販売機は犯罪の標的に成り易いから外国では滅多に設置されない。過剰な衛生が抵抗力を低下させた結果と同じく、無風・温室状態の下での心地好さは弱点や限界が有る。神経が届いた気配りも場合に因っては、不本意な無神経に転じ得る。
山本五十六が命を落としたのは、時間厳守の律儀さの所為が大きい。戦地視察日程の暗号電文を解読した米軍は、彼の遅刻嫌いの性格を根拠に、或る空域を或る時点で通るはずだと睨んだ。予測と寸分の狂いも無く其の特別機が現れた瞬間に、待ち伏せの米軍操縦士が目を瞠った。
軍の統帥は厳格な時間観念が無くては成らないが、詳細な予定を現地に打電した部下の気配りと共に、安全を保つ為に欺瞞も必要な戦争の中では生真面目過ぎた。
日朝首脳会談で折角北朝鮮が日本人拉致を認め謝罪したのに、小泉首相は其の件を宣言に入れようとせず先方の案を大人しく呑んだ。帰国予定まで4時間しか無く文言調整の余裕が無い、と言う外務省官僚の判断で断念したらしい。交渉の結果は国益に関わり歴史に残るので、時間の機動的な再配分や延長を含む調整は何故出来なかったのか。戦略的な目標よりも事務的な予定、人間よりも道具を優先するとは、本末顛倒と思われて成らない。
当日の拉致被害者名簿の翻訳の遅れも問題に成ったが、真珠湾奇襲通告の人為的な遅れも律儀さが裏目に出た失敗だ。誤字が出る度に破棄して清書し直した駐米大使館員の真似は、度を越した完璧主義や形式主義の典型と言える。世紀の戦災の勃発に似合わぬ優等生の繊細さは余りにも奇特だが、日本に「欺瞞」の汚名を蒙らせた此の一幕の誘因は、大半の館員が仲間の送別会に繰り出た事で、緊張感の不足は山本海軍大将の悲劇と大同小異だ。
日本流の時間の使い方には、神経質さとは裏腹の暢気さも目に余る。或る米国人は泡沫経済期の東京のオフィスで、「企業戦士」の「猛烈」伝説と乖離した光景に驚いた。日本の管理職や社員は数十分も早めに会社に顔を出す代りに、悠然とお茶を飲み新聞を読み雑談を興じ、始業時間に成ってもフル回転しないが、自ら勤務して来た本国の企業では、大半の社員は定刻直前に出社する半面、直ぐ悲壮な表情で仕事に取り掛かるのだ、と述べた。
其の頃の中国では米国と同じく、定刻ギリギリ出勤し退社時間にさっさと帰る者が多かったが、直ちに仕事に集中し切れぬ点は日本と一緒だ。国際競争に勝てなかった事は、其の勤務態度を見ても頷けるが、日本が世界一の経済大国に成れなかったのも、其の日米企業の緊張度の差でも説明が付く。泡沫崩壊後、知米派の宮澤喜一首相は米国の労働倫理観の欠如を貶したが、抗議を受けて調査した結果、米国の生産性が遥かに高い事が判明した15)。
実績の裏付けを欠いた其の独善的な自慢は、経済敗戦を招いた慢心が根底に在る。日本の成長神話の色褪せに連れて、表面的な繁栄の様々な空洞が露呈した。日本人の自負や自嘲の対象と成る忙殺には、利益無き繁忙を追う不毛が意外と多い。役所の「欠勤せず・遅刻せず・働かず」は、企業でも「在現場証明」として儘有る。小平の資本主義化実験の「時間は金銭なり、効率は生命なり」の観念に照らせば、日本は寧ろ社会主義的である。
中国人は儒教の伝統から家族を大事にし、米国人並みに個人主義が強いので、業務時間の終了後も退勤しない日本人の性向を特に訝る。周りに気を遣って帰り難い心理よりも、手当欲しさで残業に持ち込みたい打算の方が理解し易いが、後者の場合は組織の経済観念が疑われる。
もっとも、其の能率低下の仕組みは賞罰と関係無く、一日中の稼動時間を細く長く平均的に配分し、体力の温存に腐心する農耕民族の遺伝因子だと見る向きも有る。
電車内の居眠りの横行はともかく、国会での居眠りの蔓延は同じ聖域での野次と共に魔訶不思議だ。礼に始まり礼に終る日本の芸道の型と合わせ考えれば、其の動と静、躁と鬱は一種の中空と思える。通過儀礼として手紙に欠かせぬ時候の挨拶は、季節に敏感な日本人気質の表現であるが、雑誌発行日が好く1ヶ月以上も先取りする性急さと、負の遺産の処理を十数年も先送りし続けた悠長さとの同居も、緊張と弛緩の奇妙な組み合わせなのだ。 
V 「忽熱忽冷」(熱し易く冷め易い)病:博打的な焦燥・短絡・衝動
日本人は機械の製造・使用に長け、時計の如く規則正しく動く観も有るが、精密時計が名物で職人気質や平和志向を共有する瑞西に比べると、時間を味方にする心・技の不足が明らかだ。
瑞西のプライベート・バンクは2〜3代に亘って顧客と付き合うが、日本の金融機関は頻繁な異動・辞職に因り真似できまい。因みに、曾て日本の某電機メーカーが催した数十年単位のタイム・カプセルは最近、担当者交代の為に開錠方法が解らなくなった。
製造業の強さと対照的な日本の金融業の弱さ16)は、時間哲学にも一因が考えられる。2000年2 月2 日、国内最大の証券会社の名を冠す「日本株戦略ファンド」が運用を始めた。空前の1兆円規模は全民的期待を映したが、基準価格が下落の一途で約6割も吹っ飛んだ17)。発足直後の世界的IT 株の泡沫崩壊を思えば、「戦艦大和」の揶揄18)は酷過ぎようが、初動段階で資金を投じ切り身動きが取れなくなった経緯から、僥倖心や無謀は否めない。
同基金の運用に当る投資顧問会社から独立した某投資家は、同年の老舗マネー誌で月次実戦録を連載したが、元本倍増の目標は見事に空振りに終った19)。資金の3分の1を失った敗因には、年初の数日に相当部分を投下した事が有る。日本株が史上最高値から反転したのは正に10年前の大発会の事だから、経験済みの教訓は生かされなかったわけだ。日本経済の底力を信じたいと言った動機も情緒的で、大衆の啓蒙者と自任したプロらしくない。
日本の個人・機関投資家は内外で、度々指を銜え続けた末に痺れを切らし、終盤に飛び込んだ途端に高値を掴む破目に陥るのだ。曾て平成天皇の論文を独占掲載した程の有力綜合月刊誌は、2002 年夏に「総力特集 中国不信」の一部として、中国株投資の体験記を企画したが、中国と縁の深い実践者は1日で全資金を投じた後、「日程の関係」で僅か十数日しか保有せず、其の間9割の銘柄を一遍に乗り換え、末に酷い損切りに踏み切った20)。
一連の事例の可笑しさは、@基金の社会資産運用の宗旨と投機的行動、無期限運用の設定と超短期的資金投入との矛盾、A個人投資家は機関投資家と違って単年度の成果を追う義務が無く、株投資は全人生設計の一環だと言う新観念と、「伝道師」の期限付きの例示との撞着、B中国株の魅力は日本の高度成長期並みの可能性で、対象企業と共に成長して行く長期投資が醍醐味だ、と王道を喧伝しつつ月単位の勝負を煽る媒体の言行不一致だ。
以上から読み取れる傾向として、昭和天皇も日本人の国民性とした「熱し易く冷め易い」気質21)が先ず思い当る。衝動買いや損失分の「塩漬け」は、種を播いた後は天運に頼る農耕民族の保守性、「待てば海路の日和有り」の島国的心理と符合する。晴れ舞台で高揚する戦闘的激情や希望的観測に駆られた短期決戦と、楽勝の目論見が外れた頓挫は、曾ての対中・米戦争の堪忍袋の緒が切れた後の盲進と、「一撃必成」の不首尾と二重写しに成る。
社会的責務を負う機関投資家の冒険と自滅は、日本の金融敗戦と政治・外交の海図無き漂流の縮図に見える。小泉首相の人気や手法も瞬時沸騰や祭り的乗りが目立つが、「不退転の骨太改革」の掛け声は一向に実を結ばない。相手が焦るはずの日朝交渉で自ら見切り発車をし、漸く漕ぎ着けた首脳合意も竜頭蛇尾に終った。其の場の雰囲気を決断の基準にしがち22)の彼は、「賭博師」と呼ばれて仕方が無いが、背景と成る構造的要因に注目したい。
異常な高支持を集めた小泉政権の誕生直後の2001 年5 月、日経平均株価は根拠無き熱狂を映し、新年度資金の流入にも支えられ高値を付けたが、其の後の下落で「半値内閣」の渾名が生まれた23)。戦略無き日本株基金の負け戦を彷彿とさせた喪失幅だが、平成は元年に株式市場が崩壊した時代だから宿命の要素も有る。昭和末期の大衆株投資熱を点火した資産運用誌の例の実戦録の連載期間と似通うが、平成の首相平均任期は1年半にも成らぬ。
平成の暁に疑獄で辞任した竹下首相の後任は、「消費税は永遠に上げない」と公約した。あくまでも自分の在任中を指すと慌てて釈明したが、女性醜聞に因り67 日で失脚したので実に滑稽だ。周恩来は近視眼的傾向を日本の政治家の致命的欠点とした24)が、「一流」の官僚も大同小異である。2002 年の株式市場の低迷の一因は、売買時期に応じて1年毎に税率を変える新制度の導入への嫌気だが、其の漫画的改悪は役所の単年度主義にも因った。 
W 立体感・全体性の稀薄:即時・即物・即事的「歳時記」行程表
官僚主義の温床として「霞ヶ関歳時記」が指摘された25)が、此の日本独特の比喩は季節感と生活観の一体化、人事に対する自然の優位を窺わせる。日本ほど四季折々が鮮明で均等な国、日本人ほど周期と関わりが深い民族は珍しいと言う26)だけに、特異な時間観念は気懸りだ。
時々・段々・次第々々を言う和語の「折々」には、此の国の折り目正しさと「刻板」(型通り。機械的。紋切り型)、緻密さと線の細さ、几帳面さと二面性が感じ取れる。
世紀の交に世界へ通貨緊縮を輸出した平成不況の一因は、企業・個人の資産防衛や投資・消費圧縮に因る「合成の誤謬」とされる。個々の合理的な行動が複合して全体的には誤り得るとは、経済学に限らず人間社会の森羅万象に当て嵌まる。時間の捉え方に関しても、一時・一刻の正確さは広い視座では正しいとは限らぬ。意味深長な事に、中国語の「正確」は日本語と違って性質の正しさを指し、数量や時刻の正確さは「準確・精確」で表わす。
1998 年に破綻した日本長期信用銀行が2 年後外資系投資基金に買収され、新生後に豹変した事は、「第二の敗戦」の典型例として語り継がれて行こう。政府は20 兆円の資産規模に似合わぬ10 億円で売却し、債権の不良化分の補填まで約束した。此で取引先は安心して融資を受けられると言う政府首脳の喜びを嘲笑う様に、新経営陣は強引な取り立てで取引先を追い落とし、瑕疵担保契約を盾に国に買い戻させ、日本の二次被害で二重儲けをした。
銀行幹部だった作家・江上剛は、此の一幕を辛辣に評した。「契約の隅々に眠っているような条項を引っ張り出して自分に有利に運用する。それも世間にお構いなくだ。これは日本人には出来ない。この事件で新世紀銀行を悪者扱いにすればするほど、政府の甘さ、馬鹿さ加減ばかりが目立った。(略)後から考えれば、この契約を結んだ時は、はしゃぎ気味の政府関係者の隣で青い目をした人たちが、赤い舌をペろりと出していたに違いない。」27)徳川幕府が諸外国と締結した不平等通商条約に比せられた其の合意は、目先の一件落着で安堵し時限爆弾を見抜けぬ間抜けな事だ。買収者の米国機関投資家は日本の銀行に欠けた「時間軸」を以て、瑕疵担保契約の期限内に迅速な回収を図り、日本人なら時間を費やす書類作りや根回しは省き、重要な案件も口頭で即決し1分も掛かるまい28)。善悪はともかく、目標設定や進度への追求が甘い日本流の先送りは、格言の「善は急げ」には程遠い。
和辻哲郎は日本庭園の石の配置原理を、彼我の気を合わせるべく規則正しい形を避ける事とした29)。熊倉功夫は桂離宮の雁行型遺構の形成の恣意性を、全体の枠組みの確定が前提を成す中国の建築と比べた30)。紫禁城の左右対称の建築群や東西・南北へ広く延伸した中軸線が、中心点を基軸に四囲を囲って置く中国的枠組みの代表だ。其の仕組みは空間だけでなく時間の座標系にも見えるが、時間軸の在り方こそ両国の時間観念の相異の根源だ。
時間の枠組みには、時刻と時期・期間、時機と時限・期限、現在と過去・将来、形而下と形而上、等の多層・多重が有るが、松本清張の名作の題に因んで言えば、日本人は「点」の時刻に関しては拘りが強く正確さが際立つが、纏まった時間・期間の「線」の境域では、単線・「短線」(短期。中国の株式投資用語)志向が目立つ。「点・線」を超える「面・塊」(時代・歴史)に成ると、濃厚な即物性・即時性・即事性に因る「日本病」はより顕著だ。
長銀売却の失敗で批判を受けた政府は同じ2000 年、日本債券信用銀行の再建で売却先を国内勢に絞ったが、新筆頭株主のソフトバンクは2年後に保有分の大半の売却を決め、米国投資基金の手に落ちる見通しと成った。長期保有の約束に反するとして金融庁は困惑と不快を示したが、契約の中の「長期」は期間の規定が欠落したので、3年とするソフトバンクの解釈には反論できなかった31)。日本の常識や不備は又、外部の論理に衝かれた。
金融は命に次ぐ大切な物を扱い約束を命とするが、此の件は詰めの甘さと言うより大前提の曖昧さが問題だ。健全な想定・洞察力に不可欠な全方位性は、時間・空間・人間・観念の枠組みや次元に渉る。青い目を締め出した日本は可視的な空間・人間の垣根(国籍・人種)に敏感な反面、不可視な時間・観念の幅や奥行きに対する把握は足りない。在日朝鮮人の創業者が社名から「日本」を削ったソフトバンクの国際性32)も、見落とされている。 
X 「短線・長線」の複線:時刻・時点・時機・時季・時期・時代の重層
孫は「帰化」33)しても発想や行動は日本流に同化せず、一時投資会社の観を呈したのも日本離れしている。外資の長銀買収と同じ不良銀行の優良化→転売の計画や、有望企業への投資や為替予約で利鞘を抜く手法も、「賭博場資本主義」の先端を行った。三百年の浪漫の設定と年・月・日次目標の管理の併行、米国の先行経験を日本に持ち込む「時間差戦略」等、彼の「孫兵法」では時間軸が柱を成すが、其の真髄は日本の短所に気付かせる。
中国でも「炒股票」(株を炒める)の熟語の通り、「股民」(個人株式投資者34))は短期売買を好む。自ら吊り上げた過熱相場で火傷し、懲りずに次の天井圏にも大勢が参戦する展開は、日本と五十歩百歩である。但し、其の投機性には利鞘を狙う貪欲さと共に、利益の確保に必死な臆病さが同居する。「炒」は「炸」(揚げ)と共に中国北方の料理法の主流を成すが、南方人の得意な煮込み・蒸し料理は、「文火」(とろ火)を使い長時間を掛ける。
株式文化の発達した欧米に於いて王道とされる長期投資は、中国では社会・人心の不安定に因り実行し難いが、長期投資を言う中国語の「長線」には、「放長線、釣大魚」(長い糸を出して大魚を釣る)の智術の根深さが窺える。中国人の遊撃戦的な投資行動は、体内に混じった遊牧民族的な気質の現れとも思われる。西洋人の狩猟民族的な機敏さ+大陸的な鷹揚さの複合と重なって、「文火」が示唆する中国の文武両道は時間感覚にも顕れている。
一人称代名詞の字形を比べれば、中国語の「我」の「+戈」は進取精神を感じさせ、日本語の「私」の「禾+厶(囲む)」は守成意識を滲ませる。損切りを渋り株を「塩付け」にする傾向が日本で顕著なのは、農耕民族の吝嗇や惰性に文化的な要因が有ろう。瞬時沸騰の習性を他方で持つのは不思議だが、此の文脈で交合した「炒・秒」の字形の類似は妙味が有る。
「秒」の「禾+少」の字形は今風で解すれば、超短期志向の不毛の表徴と思える。
「移」の「禾+多」の字形は豊作を連想させ、「易・益」との同音も推移や変遷の有益性を示唆する。「易」の動詞と形容詞の意は変易の生じ易さに合致し、安易な利益追求も其の同根性に由来しようが、其が不利益な結果へ転落し易い宿命は、「移・易・逸・異」の同音・類義が表徴する通りだ。「易」の「日+勿」の字形は、時間観念に関する警告と思えて来る。晩年『易経』に傾倒した孔子の「天命」把握の勧め35)も、自然運行の法則が主な着眼点だ。
兜町の覇者の乾坤一擲の旗艦商品は「お笑い日本ファンド」36)の怨嗟を買ったが、「節分天井、彼岸底」を思い起こせば、満を持して放った時機も笑劇の要素を孕んだ。大蔵省は業界指導で此の類の格言を迷信と退いたが、3月危機の繰り返しを見れば、天に唾を吐く印象を禁じ得ない。歳末に芽生え年明け後に膨らんだ期待が萎む結果として節分頃に天井を付け、売り疲れで3月下旬に下落が一段落するのが、「非科学的」経験則の正当性なのだ。
「暑さ寒さも彼岸まで」の通り、秋の彼岸も株式相場の転換点と成る。日米共通の「カレンダー効果」37)の典型は1月高・9月安だが、日本の持ち合い解消売りや決算発表前の手控え、米国の税務対策の為の損失確定の売りに、9月底の必然性が在る。毎年の暮れに翌年の相場つきの託宣が神社の記の形で兜町に出回り、月次のうねりが好く的中されて来た。其の「天声」は実は証券界OBの創作だ38)が、歴史は天意と人為の複合産物に他ならぬ。
米国株式市場で9月だけに平均指数へ投資した結果と、9月だけ避けて他の全期間で同じ投資をした場合の月間平均とは、長期に累積すれば雲泥の差に成ると言う39)。短い時機の重要性と長い期間の重みを思わせる此の現象は、暢気な「日日是好日」や恣意の「思い立ったら吉日」への否定に成る。格言の「識時務者為俊傑」(情勢を好く識る者こそ傑物と為る)40)は、「投機取巧」(機を巧く取って利を図る)ならぬ大局的俊敏さを唱えるのだ。
孔子も「敏於事」(行動は敏捷に)と唱えた41)が、「機会主義」(日和見主義)は「機会」と同音の「忌諱」(忌避)の対象だ。中国語の「機・忌・即」の同音は、投機を警告する響きも有る。時間は長短や性質に因り、時刻、時点、時機、時季、時期、時代に分けられる。中国語で行為の時点を言う語彙が動詞の前に来る事は、「始めに時有りき」の発想を感じさせるが、期間と動詞の位置が日本語と違う42)処に、時点と時期を峻別する意識が窺える。 
Y 日本的微視・写生と中国的巨視・「写意」の融合の可能性:時計と世紀の相互内蔵
中国語の「時機・時季」と「実際・事績」の同音は、現実の境界線や人事の足跡と成る時間の性質を示唆する。日本人は時機・時季より短い時刻・時点に目が行きがちだが、「実・事」志向や写生表現の伝統が微視的傾向の根底に有る。より長い時期・時代に価値を置く中国人の巨視性は、重厚長大の好みと共に「写意」(抽象・朦朧43))表現の発達とも関わる。中国的「立体交差時間網」は、点を線へ拡大させ実線を「虚線」(破線)で補う物だ。
日本の鉄道の正確無比は定刻厳守だけでなく、所定位置に寸分のずれも無くピッタリ停まる処にも在る。外国では標記より若干の偏差が有っても、乗客を含む関係者は違和感を覚えないから、其の律儀さは日本人も自讃と共に奇異に映る程だ。エスカレーターの「着地点まで後5m」の注意書きも、似た大仰な親切と思えて成らない。某市役所の入口の地面に自動扉が最も反応し易い処に描いた足型44)は、「刻板」を地で行く見本の観が有る。
地図で現在地を矢印と色で表示する丁寧さに比べて、広域時間座標での現在位置に対する日本人の把握は些か雑だ。印度の或る処で常に数時間も遅れる列車は或る日珍しく定刻通り着いたが、実は恰度24 時間の遅刻なのだ、と笑い話は言う。鉄道事情の落後と国民性の大らかさに対する善意的な揶揄は、先進国に対する途上国の周回遅れをも言い得て妙だ。此を基に譬えて言うなら、日本的な定刻への拘りは一回り大きい単位を見落としがちだ。
時間軸の「軸」の「車+由」の字形は、自由に車を駆使する機能の表意として面白い。些かの融通も効かぬ日本流の停車は、其の「霊活」(機動・柔軟)性との抵触も感じさせるが、さて置き、「車」の字形に「由」が含まれ、2字とも「田」「十」を含む処も示唆的だ。時計を言う中国語の「鐘」の簡略字の「」の「金+中」、時刻を示す時計の針の「金+十」の字形は、「田」の4区分と合わせて、東西・南北へ伸展した紫禁城の中軸線を連想させる。
日本では「四半期」「四半世紀」の概念が有るのに、1時間を4等分する単位は何故か無い。
英語のquarter に当る中国語の「一刻」(15 分間)は、日本的な分刻みの時間感覚と中国的な時間感覚の桁違いを思わせる。「1小時」(1時間)も中国的な規模を浮き彫りにするが、「半小時」(30 分間)の半分を「刻」とするのは、中国の対の思想に基づく四分法と見て能い。四半期を言う「一季度」と併せ考えれば、中国的な時間軸の原型が直観できよう。
時計の15 分刻みの「一刻→半→三刻→一小時」は、地図上の東・南・西・北の位置及び展開と一致する。中国の時間・空間の座標系の同根性を示す様に、日本語の「東西南北」と語順が違う「東南西北」は、時計廻りの秩序を示現する。更に、春・夏・秋・冬の推移及び各々の特性にも合致する。好況の萌芽と不況のどん底は其々春と冬に譬えられるが、景気や在庫調整の時計廻りの循環周期も、四季や四方の移行の摂理に通じて規則正しい45)。
売買量や株価水準を横軸・縦軸とし株式市場の熱気や低迷を示す逆時計廻り曲線46)も、進行方向こそ逆と成るものの時計状図形の指針だ。周期循環の中の現在位置を客観的に捉える有効な指標なのに、天井圏に飛び込んだ例の巨大投資基金は活用しなかった。其の発足の時機と超短期的な一挙投入は、「木を見て森を見ず」乃至「枝を見て木を見ず」の観が強いが、尺度や鑑としての時間を示すのに時計が持つ限界や落とし穴にも気付かされる。
伝統的な時計は目盛りと長針、短針とから成り、短・長の周期は基本的に1時間と12 時間だ。超短針の秒針も加わると分刻みの1循環も生じるし、「秒針」の字形に有る「少・十」の寓意を体現する様に、電子時計では0.01 秒の表示を以て1秒の10 分割× 10 分割まで実現した。
時間表示の形態は斯くして細密化への一辺倒だが、24 時間の周回遅れが同じ時刻に成る事が示唆する様に、分・秒・時間の単位を切り捨てた暦に比べて微視的な機能に偏る。
現代の時計では日・曜日の表示も一部付くが、月・年の登場は一般的に無く必要ともされない。元より人間が時計に求める確認の範囲は一昼夜の中の時刻だが、天体の名に因んだ「日・月」の対の不在は形而上の空白を意味する。和製漢語の「時計」と中国語で同音の「世紀」の単位も、電脳「2000 年問題」で考えさせられた。秒から年までの表示が揃った内蔵時計は西暦の最初の2桁の欠落に因り、世紀及び新千年の転換点で混乱が起きた。 
Z 市場の「金銭出納簿」(calender)に見る時間軸の「理・力・利」
秒・分・時・日・月・年の存在や事象は、一回り大きい時間単位の中で順次蒸発し捨象されて行く。東証株価の50 年移動平均値は、全営業日の平均ならぬ年次最終値の平均が普通だ。
一見精密さを欠く算式であるが、年中の最高値、最安値と終値の差が如何に大きくても、長年経ち他年の数値と平準化すれば凸凹が相当収斂される。日次・月次株価が終値を基準とする方式47)も、任意の時点や全過程に対する節目や最終結果の重みを思わせる。
時計の単位に囚われ過ぎると、24 時間以上の単位への目配りは弱く成りがちだ。其を補うカレンダーも、calender に当る中国語の「日暦」と日本語の「暦。七曜表」48)の様に、月を超える季や年の期間の存在感が薄い。中国人は「成段」(段落[段階]と成る。纏まった)の言い方を以て、一定の量を持った言語の意味群や期間を表わす。「整段」は其の段落・期間の終始・全体を指すが、律詩の様に均整な段落の他に変則的「成段・整段」も有る。
字数が長短不揃いでも要所で韻を踏む定型詩の詞は、日本人に馴染み易い律詩以上に中国的感性の奥義を秘める49)が、長短様々の節目の並存も其の外観と滋味を持つ。「段」と同音の「短・断・端」は、端数の日で寸断された周期の在り方に当て嵌まる。日本株式市場の〇〇日、〇〇ヶ月等の波長50)は、不規則的区切りで万能な霊験も無いが、日数不均等の月や年に因り期間が微妙にずれる季節の様に、脈動を示す規則性が一応有る。
上記の日数は営業日を指し、月間も首尾の両端で算入されるので、市場原理を映す特殊な時間軸と言える。52 週平均値の算出基準が260 日である事は、1年=約52 週= 365 日の常識に抵触するが、中国語の「假日」(休日)の「假」(仮。偽)を思い起こせば、頷ける正味期間なのだ。元より市場の営みは人間の営みの縮図で、calender の語源のラテン語は「金銭出納簿」の意51)で、中国語の「時・市」の同音も市場と時間の相関52)の表徴だ。
漢字の「時」は「詩」と同じ「寺」を含む点で、文学的抽象性や宗教的神秘性を感じさせる。
「時」は日本語の音読みで「寺」と同じで「詩」と違うが、中国語では「寺」「詩」との発音の異同は逆だ。中国語の「時」の同音字に於ける「詩・実」の同居は、時間の形而上・形而下に跨る複合性や、中国人の詩歌精神・現実主義の重層を思わせる。「施・勢・使・始・事・失・矢・逝・示・視・識・史」との同音も、中国的時間哲学を解く糸口だ。
日本株の技術指標分析家の第一人者・佐々木英信は1998 年9 月、石油危機後の70 年代の大底の74 年10 月9 日→イラン革命後の世界同時不況からから脱出した際の80 年代の大底の82 年10 月1 日→泡沫経済崩壊後の最初の2 段目暴落の底の90 年10 月1 日、という実例を挙げて、97ヶ月(当月から当月まで両端で数える故、実質的には96 ヶ月)周期を指摘したが、直後の10月9 日に付いた90 年代の大底で、誠に律儀な左右対称が出来た53)。
其の前日、露西亜国債投資で失敗した米国投機筋の破綻で、ドルが変動相場制実施後25 年来の最大幅の暴落を演じた54)。別の同時多発的「天数」の劇変として、北海道拓殖銀行の営業譲渡が伝わった97 年11 月17 日、前日に年間最安値を付けた日経平均株価が年間最大幅で暴騰し、22 日の山一證券破綻で再び暴落したが、佐々木の講釈に拠ると、同17 〜 20 日は589 日、1032 日、1297 日、1496 日周期が集中し、元より大変化の時機であった55)。
3〜4桁の日数も不気味さを漂わせるが、其々通常の約26、47、59、68 ヶ月に当る4つの周期が僅か4日間に集中したとは、松本清張の作品名を借りて言えば「十万分の一の偶然」56)に思える。1965 年に政府の救済で倒産を免れた山一證券の今次の退場は、不良債権の処理の遅緩に由り経営体力が限界に来た北海道拓銀等の破綻と同じく、起きるべくして起きた事だ。一見任意な時期には、人為を反映し且つ超越した天の意志や意図が読み取れる。
件の4周期の中で最短ながら2年を超す589 日は、3桁も下2桁も割り切れぬ素数である。
89 を含む世紀の「巧合」(偶然の一致)として、1689 年の英国『権利宣言』、1789 年の仏蘭西大革命、1889 年の明治憲法、1989 年の東欧革命が目を引く57)。400 分の1か精々1%の確率で、歴史に刻み込まれた均斉な民主化進展の足跡だが、鉄道の進化史に於ける英に対する仏、英・仏に対する日本の「後来居上」(後発者の逆転勝ち)が再認識できる。 
[ 「全球賭博場資本主義」時代に対する「一時二制度」の啓示
1989 年の日本では年頭に昭和が平成に移り、年末に日経平均株価が大天井に達した。翌年に劈頭の株式暴落の先導で泡沫経済が崩壊したが、明治憲法を基盤整備完成の徴とする近代化強国の勢いの宿命的な衰退と解釈できよう。89 年を基点に円規で百年や200 年後まで想像図を描けば、国際社会の勢力地図の更新や世界史の新しい主役の出現、工業革命→情報技術革命に次ぐ新時代の到来など、今では想像も付かぬ栄枯盛衰の激変が現れよう。
20 世紀の実質的な始まりと終りを、其々第一次世界大戦勃発の1914 年と湾岸戦争の1991 年とした西洋の識者がいる。年頭の湾岸戦争と年末のソ連解体を思えば、後者は新世紀の前奏と見て能いが、暦の時間と歴史の時期のずれが考えさせられる。「時は詩より奇なり」の命題が成り立つなら、散文的時間と詩歌的時間の「一時二制度」が有っても然るべきだ。1989 年を締める大納会で大天井が形成したが、暦の節目との吻合は寧ろ例外的である。
米国で活躍中の投資基金運用者・大竹慎一は、太陽暦の9月末に始まるユダヤ暦や東洋の太陰暦の合理性を唱え、日本の相場年は暦年や財政年度と無関係のお盆明け〜翌年7月22 日だとした58)。日付が中途半端な終点は、6月末の株主総会に伴う化粧買いと8月の高校野球・盆休みに因る閑散59)の間に在り、大暑の前日に当る事が理外の理として思い当る60)。共産党中国の歳時記でも、避暑兼用の夏の政治局会議が1年の計の隠微な起点だ。
共産党中国で株式市場が設けられたのは、天安門事件直後の1990 年の事である。建国後世界の市場から41 年も断絶した自閉の後遺症も有って、法制整備や情報開示の遅れ等の欠陥が未だに有る。もっとも、戦後4年足らずで復活し1988 年に時価総額が世界の4割も占めた日本の株式市場も、個人参加者を「投資家」の美名で呼びつつカモにする賭博場カジノの様相が強かった。其の五十歩と百歩は規模格差と共に縮小し、逆転へ向う動きさえ出ている。
CCTV(中央テレビ局)の夜の「新聞聯播」(全国ネットワーク・ニュース)の天気予報で、時刻表示の傍で時計メーカーのCMが流れる光景61)は、社会主義体制下の経済資本主義化を端的に象徴している。企業の宣伝を頑なに避ける日本の公共放送は、寧ろ禁欲的で毛沢東時代と彷彿とさせる。近代化の生徒が教師62)の先を逆に越した別の現象として、中国のテレビでは株式市況や技術指標に基づく分析が、日常茶飯事の如く行われている。
多くの一般紙に載る国内各市場指数の移動平均線付きのチャートも、同じ方式を取る『日本経済新聞』日曜版以外の全国紙に比べて専門度が高い。中国人は欲望が日本人に勝つとも劣らぬ反面、「数拠」(データ)にも高度な注意を払う。山勘に頼り感情に任せるより勝負の確率を勘定に入れ法則を重視する博打は、骰子の出方を逐一記録する冷徹・真剣な勝負師を連想させる。善悪はともかく、「投機」は機会・時機への投入が本質なのだ。
蒋介石が上海株式商品先物取引所のブローカーを務め、上海の株式相場の風雲と人間模様を描いた茅盾の『子夜』が高い地位を得た63)等、20 世紀の中国では毛沢東時代を除いて相場参戦の風潮が盛んだった。下積みの頃に値動きを随時黒板に記し後に大金を動かした「経紀人」体験と、蒋の占術好き・迷信深さとを結び付ける見方も有る64)が、「時は金銭なり」と其の敷延の「時は軍隊なり」65)は、彼と中共の軍事・経済の競争で立証された。
中国人は自国の優位性を主張する心理から、好く現代の流行の祖型を自国の古代に求めたがる66)が、先物取引の先駆者の一人に范蠡を挙げるのは別に誇張ではない。彼は越王の幕僚として隠忍・雌伏の伝説を演出し、其々10 年で人口・国力の増加と教育・訓練に専念するとの献策で、呉への雪辱を果たした。勝利後に保身の為に勇退し富豪に成り、「商祖」と尊崇されるに至った道は、 小平時代の「下海」(政界・芸能界から経営へ転身)の祖型だ。
其の「臥薪嘗胆」と「十年生聚、十年教訓」は、一代の戦略と日々の辛抱の合成として、中国の官民の典範と成って来たが、范蠡物語は中国の2つの欠如を浮き彫りにした。中国では理論好きや著述好きの国民性に因り、「秘すれば花」の日本と対照的に兵法書や文芸理論著書が昔から発達しているが、相場理論や理論化した投資実践記録は少ない。又、相場参戦者が数多いにも関わらず、「稀代の相場師」と喧噪される程の投資家は余り聞かない67)。 
\ 稀代の相場師の秘伝が示す「『論語』+算盤」「仁・勇・智」の不易性・先端性
此の2点で中国に対する日本の優位性は、伝説的な18 世紀の米相場師・本間宗久翁と其の秘伝書に体現されている。相場の値動きをグラフ化した罫線は20 世紀には常識と成って久しいが、此の記録方式と予測手段を開発したのが彼である68)。28 年間も費やした其の論理の完結は、西洋で初めて統計の手法で経済・相場を予測したベンナー(米国)の理論発表(1875 年)より79 年も早かったので、世界初の相場分析家と言う誉れ69)に値する。
近代日本が亜細亜で強兵・富国の道を先駆け、世界第2の経済大国までに成長した事は、狂人の凶刃を見せた侵略戦争も含めて、強靭な意志の爆発・持続の結果と思える。現代の花形職業なる相場分析70)の祖師が此の天涯孤島から出たのは、日本に於ける資本主義経済の早熟と共に、日本人の律儀な記録癖や完成度への執着にも要因が在ろう。漢籍の「三達徳」71)や干支を主眼に用いた彼の方法論は、東洋の智術の伝統の開花と捉えても能い。
明治に流布し始めた「酒田五法」72)は今、数値化した法則として世界的に知られているが、捨象されがちの哲理こそ生産性が高い。明治の時代精神を端的に語る鍵言葉には、日本の資本主義の父・渋沢栄一の「『論語』と算盤」が有る。本間宗久翁生誕200 周年の1917 年に、彼が常勝を収めた大阪で起業した松下幸之助は、役人の父が米相場で破産した事が契機で実業家を志したが、道徳と利益を同時に追求する指向性は本間、渋沢と一脈通じる。
本間の「機を待つに、即ち仁」「機に乗ずるに、即ち勇」「気を転ずるに、即ち智」は、仁義無き投機と儒教の徳目を天衣無縫に結合させた。「仁=忍」の等式は同音である中国以上に、自制の道徳律の真髄を示す73)。其と対を成す「勇・智」の気概・機転は、和製漢語の「忍者」の意と合わせて、農耕的+狩猟的の複合性格を持つ。「米商内(米先物取引)は軍術なり」の命題は、「忍」の「刃+心」の字形と共に、儒・商・兵3家の重層を思わせる。
「松翁」74)・松下幸之助が生まれた1894 年、日本は日清戦争に勝ち軍国主義への傾斜を速めた。第2次世界大戦での道義・軍事両面の敗北に対して、「第2の敗戦」は儒・兵ならぬ商の経済・金融の領分である。1945 年から1894 年と同期間の51 年経った1996 年は、本間宗九翁秘伝・『三位伝』の完成200 周年に当るが、此の年の6 月26 日に付けた日経平均株価の泡沫経済崩壊後の戻り高値の22666 円は、天意を発信した均整な数に思われる。
25 日の消費税引き上げの閣議決定や、企業の株主総会集中開催後の化粧剥げと共に、1年前からの反騰の幅が黄金分割率の上限に達し75)、買い疲れも相当溜まった事が、長期調整を強いた要因だ。本間翁の現代流で言う「反対思考法」は、正に時間・空間・人間・観念の軸を巡る盛衰への洞察に基づいた。2000 年2 月2 日の発足で同じ2つの数が並ぶ神秘性を含む問題の日本株戦略投資基金は、祖訓に背き大衆に同調した故に竹箆返しを食った。
本間宗久翁の大局観の今日的意義は、逝去200 周年の2003 年に再び証明された。前の年に米国ナスダックと日本の指数が2割、仏・独が其々3、4 割強も下落した後、低迷気分で始まった世界の株式市場は、4 月のイラク戦争後に一転して盛り上がった。年初から囁かれた日米株の34 ヶ月で底を打つ経験則76)は、期待より2 ヶ月ほど遅れて現実と成ったが、前回の天井から恰度
ちょうど3 年経った77)のは、相場格言の「小波3 ヶ月、大波3 年」の通りである。
大竹慎一が数年前に指摘した日本経済の32 ヶ月周期78)は、振り返れば哲理を感じる。「石の上にも三年」の通り3年目標で努力する処が多いが、期限の寸前に集中力が切れる故に下触れして了う、と喝破した忍耐力の限界の根源は成程だ。中国の格言の「行百里者半九十」(百里を行く者は九十里を半ばとす)79)、「人無千日好、花無百日紅」(人の好運は千日続かず、花の艶は百日保たぬ)80)は、正しく9割達成、千日未満で不発に終る此の周期と原理に合う。
1997 年11 月の山一證券経営破綻・金融動乱を軸に、32 ヶ月毎の節目を検証すると、前の95年3 月には阪神大震災の後遺症や東京地下鉄サリン事件の衝撃も有って株式市場が総崩れと成り、92 年7 月は泡沫経済崩壊後の政府緊急経済・株価対策の初発動(8 月)の直前に当る。一方、其の後の2000 年7 月にはそごう百貨店の経営破綻が大型倒産の恐怖を増幅させ、次の今年3 月には日経平均株価が20 年ぶりの危険水域に沈み翌月に大底に到った。 
] 脱意識形態時代に生きる東洋の形而上的「革命」原理:変動+循環
同指数が大天井を付けた1989 年末も同じ周期の節目に近く、更に約32 ヶ月前に一旦底を突いたが、2回とも後の相場展開は格言の通り「山高ければ谷深し」だった。陰の極に達しては反発する場面も、長期下降の大勢の中で何度も有ったが、何れも陰陽原理の習性に沿った修正だ。毛沢東が愛読した『三国志演義』は、天下の大勢を「分久必合、合久必分」(分離して久しければ必ず合一し、合一して久しければ必ず分離する)と断じる。
「窮→変→通」の有為転変を説く『易経』81)は、運勢・帰趨を掴む方法論の提供に因り中国思想の究極の祖型と成った。20 世紀世界史の鍵言葉の「革命」は、『易経・革卦』の「湯武革レ命、順二乎天一、而応二乎人一」が語源だ。「革命」は辛酉の称でもあり此の年は陰陽道で変乱が多いとされ、日本では改元の際に避ける慣例が有ったが、第2次鴉片戦争敗戦後の中国洋務運動発足の1861 年、中共創設の1921 年は、奇しくも其の変革の節目に位置する。
同じく変事が多い為に好く改元された「革令」(甲子)・「革運」(戊辰)は、「革命」と合わせて「三革」と称される82)が、20 世紀の中国史を観ても変易が目立つ。該当の1921、24、28年と81、84、88 年は、1 巡目には中共創設、国・共連合(24 年)、孫文逝去(25 年)、国・共決裂、中共軍創設(27 年)、2 巡目には華国鋒→ 小平の体制移行(81 〜 82 年)、胡耀邦失脚(87 年)、物価体系改革→金融恐慌(88 年)、天安門事件(89 年)が有った。
英語のrevolution(革命)も急激な変化と時間の循環の意を兼ね83)、古今・東西不易の摂理を窺わせる。丙午・丁未を国家大乱の「紅羊劫」とする観念は、中国の権威有る『辞海』では「迷信」と断じられた84)が、直近に該当の1966、67 年は「文革」の勃発と全面武闘の年だった。
其の一巡前の「紅羊劫」の2年を挟んで、1905 年に孫文が日本で中華同盟会を結成し、朝廷が科挙を廃止し、08 年に光緒帝・西太后の急死で清朝は末期に入った。
明朝誕生の1368 年も「紅羊劫」の直後だが、明、清の276、267 年の寿命は300 年単位で考えれば、「行百里者半九十」の証に成る。毛は明・清の滅亡を教訓に「歴代興亡周期率」への超克を志した85)が、60 年の倍数の循環は彼の次の次の次の時代にも現れた。胡・温体制発足の前後に中国は致死性新型肺炎の直撃を受けたが、360 年前の明末の1643 年の北京疫病大流行との暗合は恐ろしい。甲子で始まる干支は今後も、波乱と律動を生み続けて行こう。
「子繁盛、丑躓く、……」と言った日本の相場格言は、牽強付会の様だが長年の干支の騰落率で証明されて来た86)。春分や秋分を祭日とする事も日本の守旧性の現れと見られようが、新暦と旧暦は優劣が無く、「科学的=先進/非科学=後進」の断定も出来ない。現に、江戸時代の米相場罫線は西洋のチャートを先行し、米国の金融工学の危険回避の手法は、日本の数学者・伊藤清の定理を使い、1730 年に設立した大坂堂島米会所の先物取引が原型だ87)。
経済学の常識と成る主な景気周期の波動は、@在庫循環のキチン波(約40 ヶ月)、A設備循環のジュグラー波(6 〜 13 年、平均8 年)、B建設循環のクズネッツ波(17 〜 20 年)、C綜合循環のコンドラチェフ波(50 〜 60 年)が有る。短・長期の間の中期のBの下・上限は、12 支の半分〜全部に当る。技術革新や農産物・金の生産高、資源供給、利権絡みの戦争、革命等の指標に基づく超長期のCは、上限が干支の1周に当り下限が12 支の約4倍だ。
12「生肖」(12 支)の周期は西暦の1年の12 ヶ月等分と妙に通じるが、コンドラチェフ波とスカートの長短の流行周期88)との不思議な符合は、干支の60 年に対応する人間の寿命と景気の超長期波動の相関を示唆する。景気の短、中、長、超長期循環の浮沈は、株価の超短、短、中、長、超長期(数日、数週、数ヶ月、数年、数十年)の移動平均の起伏や、人体の所謂バイオリズム(身体・感情・知性の波動周期、其々23、28、33 日89))とも似ている。
体内時計の周期は操縦士の健康管理や患者の治療等に一定の有効性を持つと言われるが、各波動線の高低の複雑な組み合わせと同じく、景気の短、中、長、超長期循環の上昇と下落も多重の交錯が有り得る。2000 年春のIT 泡沫経済崩壊と其以降の世界同時不況は、同年後半の建設循環クズネッツ波の底割れや、其の前後の綜合循環のコンドラチェフ波の低迷に必然性が見られる90)が、全ての循環波が上昇か下降する一方向の状態は寧ろ少ない。 

1)日本人の風呂好きや皮膚感覚に関する多くの言説の中で、本稿の論旨に即して、特に多田道太郎の『遊びと日本人』(筑摩書房、1974 年)の「風呂の楽しみ」「怠惰の思想」の2節、『風俗学路上の思考』(筑摩書房、1978 年)の序章・「風俗―そのメッセージ」に注目したい。
2)多田道太郎は『遊びと日本人』(註1参照)の中で、「いい湯だな」が「日本人のレジャーの基本的なもの」だと断じた。此の感嘆は英語に訳し難いと言われるが、強いて中国語に直しても、「不錯」(悪くない)や「不冷不熱」(冷たくも熱くない)の類いの即物的な適温の意に成り、快適な極楽気分の表出には直結し難い(但し、多田道太郎が「なぜ熱い湯好きなのか」[1983年]で言及した通り、日本人は外国人が恐怖を覚える程の熱い湯が好みだ[『多田道太郎著作集5 現代風俗ノート』、筑摩書房、1994 年、248 〜 249 頁]から、「不冷不熱」の訳も的外れか)。風呂の湯への讃えが歌の形で全民的に親しまれるのも、中国人には異質な事象である。
3)東京電力エリートOL殺人事件を脚色した桐野夏生の長篇心理推理小説・『グロテスク』(文芸春秋、2003 年)では、検挙された被疑者として中国人(実際の係争中の被疑者はネパール人)が登場する。「文革」勃発の1966 年に生まれた此の男は、改革・開放の波に乗って四川の田舎から飛び出し、広州・深での出稼ぎを経て日本に密入国したが、中国の沿海部都市と比べ物に成らない豊かさを前にして、金を貯めて現地の人々並みに豊かに成りたいという国内出稼ぎ時代の思いも、虚しく感じられて成らなくなった。彼の目に映った日本の素晴らしさは先ず、「旨い食物は腐るほどあり、水道の栓を捻れば安全できれいな水がふんだんに出て来て、お風呂も入り放題。
隣の町や村に行くにも、徒歩や、いつ来るとも知れないバスを待つのではなく、三分おきにやって来る電車に乗れば行くことができる」処だ。次に挙げた羨望は、充分な教育の提供、理想的な就業の実現、美しい洋服・携帯電話・車の所持、良質の医療の保障である。(274 頁)作品の参考文献の『盲流―中国の出稼ぎ熱とその行方』(葛象賢・屈維英著、武吉次郎訳、東方書店、1993 年)、『東京チャイニーズ―裏歌舞伎町の流氓たち』(森田靖郎、講談社文庫、1998 年)には、類似の記述は無いから、追体験や想像に基づいた作者の虚構と思われるが、此の告白は日本人の感受性と優越感を滲ませながら、中国国内の「第一世界」(超富裕地域)も及ばぬ日本との経済格差や、平均的な中国人の生活観の理想を活写した。飲食の次に風呂が出る処は奇妙な感じもするが、風呂は加熱の電気も必要条件なので、水と電車の間の天衣無縫の繋ぎ目に成る。風呂の恒常的な利用が中国で難しいのは、電力の深刻な不足も要因であるが、衣・食・住に次ぐ行(交通)の領分の交通機関の秩序も、其の社会基盤整備の課題の内に入る。
更に上記の観察・思索を裏付ける材料として、藤本健二の『金正日の料理人』(扶桑社、2003年)を挙げよう。高収入で釣られて海に渡り朝鮮(民主主義人民共和国)の領袖に仕えた著者は、故国の糟糠の妻と離縁し異国の民謡歌手と結婚し、要人用の高級住宅に入居し贅沢を満喫したが、好きな時に何時でも入浴できる事も大変な特権だ。一般のアパートでは水が朝・夕の2 回しか出ないので、特別扱いで其の秘密の快適な巣(中国流では「安楽窩」)を訪れた夫人の両親は、「お湯が出る」と大喜びで風呂に入った(62、70 頁)。
光熱費を「水電費」と言う中国人は、水道と電力を対で捉えがちだ。朝鮮の風呂の不自由の要因は、深刻な電力不足も直ぐ思い当る。衛星から撮った夜の朝鮮半島では、電力供給の落差で南北の明暗が鮮明な対照を成す。中国の衛星写真でも沿海と内陸の間に大差が見られるが、近年の中国で朝鮮観光が流行った秘密は、自国の往昔を追憶する動機が大きい。地球上の最後の「封建的社会主義」の秘境への探訪は、毛沢東・華国鋒時代と二重写しに成る「時光旅行」(タイム・トラベル)に他ならぬ。
四半世紀ほど隔たった両国の現実は、「時間溝」の論考で発展時差の問題を提起する。筆者は1986 年に中国『当代作家評論』誌、1989 年に岩波書店『文学』誌で、近代以来の日中の約30 〜40 年の発展時差を指摘した。社会や文学に軸を置いた其の仮説の根底には、上海から黒龍江に行かされ発電所建設に従事した「文革」体験が有った。全国最大の工業・商業都市と最北の農業・林業地帯とは、急行汽車で片道39 時間も掛かったが、生活や意識の差では昨今の日中間、中朝間の様に数十年も開いた。
『グロテスク』の四川−広東の超満員列車の赤裸々な裡面の描写で、30 年前に渾名・「海賊列車」で上海−黒龍江を往復した筆者の苦労が蘇った。来日前に両国の発展落差を直観できた事に筆者は先駆の自負も有るが、文献で事象を入手・利用できるから大した事が無い。諺の「秀才不出門、全知天下事」(秀才は家を出なくても、天下の事を全て知り得る)は、情報化時代の研究者にも当て嵌まる。土地勘・「言語勘」(筆者の造語)が無いはずなのに、迫真の臨場感で中国人の筆者を感心させた桐野の離れ業こそ凄い。
彼女が『OUT』(1997 年)の取材で肉迫した自国の底辺の暗部は、中国の出稼ぎ労働者の造形の肉付けに役立ったのだろう。其の「深夜の弁当工場に見た“奴隷労働”の女たち」(『週刊エコノミスト』2003 年2 月18 日号、66 〜 68 頁)は、経済敗戦後の中流消失の現れよりも高度成長の影と捉えたい。本稿では同じ空間の中の経済時差を世界の発展不均衡と結び付け、「女工哀史」の名残りが漂う昼夜倒錯を電脳社会の「白領」(ホワイト・カラー)階層の常時窒息と較べて、先進国と周回遅れの途上国との五十歩百歩を指摘したい。
4)1980 年代中期の中国の二流大衆文学誌に掲載された推理小説では、列車時刻表を利用する不在現場証明の小細工が試みられたが、余りにも現実味が薄い故に話題にも成らず模倣作も出なかった。
5)9)山之内秀一郎「几帳面さ」、『日本経済新聞』2003 年5 月19 日夕刊。
6)7)山之内秀一郎「安全運転を支える列車ダイヤと運行システム」、宮脇俊三編著『時刻表でたどる鉄道史』、JTB、1998 年、10 〜 11 頁。
8)宮脇俊三「時刻表への感謝」、宮脇俊三編著『時刻表でたどる鉄道史』、6 頁。
10)CD『アレッド・ジョーンズ・ベスト・コレクション』(Victor、1991 年)解説。
11)『現代』2003 年1 月号、27 頁。文中の“Mind gap”には、真ん中の定冠詞が抜けている。NHK教育テレビ2003 年9 月12 日放送の「いまから出直し英語塾」で、看板・標識の表現例として此が写真付き(実際は全て大文字)で紹介された。講師・大杉正明は最も英国の国柄を表わす言葉の一つとし、電車とホームの隙間への注意を喚起すべく、ホームに停まり扉が開けた途端に放送される此の成句は、英国の名物であり暫く滞在した者はニヤリと思い出すだろうと言った。曰く、危ないと思ったら隙間を直せば好いのに、手入れをせず“Mind the gap”と言い続ける処が英国らしい;因みに、“mind”の「注意する/気を付ける」意も英国の用法だ。
最後の揶揄は「紳士の国」の暢気さと二面性を思わせて微笑ましいが、“mind”は名詞として心・精神をも表わすので、此の英国流は中国語の「留心・当心・小心」(留意する/気を付ける)と通じる。本稿筆者は日本流の「照顧脚下」の講釈で、「照顧」と類義の「留心・留神」を挙げた(堀場雅夫[堀場製作所会長]・菊山紀彦[宇宙開発事業団特任参事]との鼎談・「21 世紀を拓く為に、我々はどう行動すべきか」、京都経済同友会会報155 号、1998 年10 月、29 頁[残念な事に、誤植で「流心・流神」と成った])。『広辞苑』にも収録された此の禅語の原義は、正に足元の落とし穴への警告だ。猶、“MIND THE GAP”は上記番組で「隙間に注意」と訳されたが、日本の駅で見掛けた「足元注意」は簡潔さでより近い。
同じ英語圏でも米国より香港で“Mind the gap”が好く聞かれる事も興味深いが、米国流の“Watch your step”(足元に気を付けろ)は、“watch”(注目。留意)で「照顧」の字面・語意に合致する。件の“mind”の語釈に「顧慮する」も有る(『新英和大辞典』第5 版、研究社、1980年)が、「照顧」の形象・発想は正に顧慮を消す為の照射だ。池澤夏樹は滞欧後に他国人の目で自国を眺めた心算だったが、参照の光源の導入に瑕疵が有った事は日本人の性質の優勢を物語っている。もっとも、「大杉流・海外旅行術」の講師も言った様に、例の放送は実に奇妙な声調で行なう物だ。帯刀いずみ・久保田暁『マンガ情報版 イギリスの正しい歩き方』(成美堂出版、1998 年)でも、ビクトリア駅のタイヤに書かれた“MINDTHE GAP”を冒頭に出す一方、段差や隙間が有る場所で流れた此の表現は、昔は聞き取れず何の事だか解らなかった、と言う(12 頁)。更に言えば、該当の米国流は上記の他に、辞書に因っては“Watch your step(s)”も有れば、「“steps”は不可」も有る。何れにせよ、土地勘・言語勘(註2 参照)の重要性と獲得の困難さが考えさせられたが、“gap”に当る中国語の「差距」(落差。距離)や「溝」「断層」は、巡り巡って本稿が追求する異文化の隔たりの見立てだ。
12)1986 年頃、北京『青年文学』誌主催の王朔作品討論会の合間の雑談で、王朔が筆者に語った言。猶、王朔の生年は正に『点と線』完結の1958 年。
13)夏剛「中国文壇の“川端フィーバー”」参照(講談社『本』1989 年1 月号、39 頁)。
14)「野球の配球を読んでヤマを張る者は、読みが外れた時に脆い。」「綿密な作戦はカタに嵌まれば効果を発揮するが、突発的なアクシデントに弱い。」新堂冬樹の犯罪小説・『悪の華』(光文社、2002 年)の此の台詞(350 頁)は、日本に於ける伊太利人と中国人の極道の無法無天の対決の中で、一種の異文化の発信の様に聞こえる。松本清張の『小説 3億円事件―米国保険会社内部調査報告書』(1975 年)にも、計画は綿密過ぎると僥倖への期待を招き易い、と青い目の専門家が喝破する(『水の肌』[新潮文庫、1982 年]所収、162 頁)。一見精巧な『点と線』の小細工も角度を変えて観ると、他力本願の依頼心や賭博性が強く危険極まり無い。
15)宮澤首相は1992 年2 月3 日の国会答弁で、米国では金融市場へ傾斜する余り労働倫理観に欠けており、やはり日本人の様に汗をかいて働く事が大切だ、と発言したが、米国官民の強い反撥を受けた。泡沫経済への警告だったと言う日本政府の釈明で収まったが、事態打開の為に日本側が行なった調査の結果、米国の労働生産性が日本より数割(外務省と労働省の報告で其々31 %、41 %)も高い事が判り、宮澤首相は大いに落胆した。
16)日本の金融・財政の弱さと製造・技術の強さは言われて久しいが、最近の海外研究機関に由る国際競争力格付けでも其は裏付けられた(「日本は強みをどう生かすか」、『日本経済新聞』2003 年6月18 日夕刊)。
17)異名・「ノルマ証券」の販売会社の野武士集団的な営業力も有って、当投資基金の資金規模は設定後間も無く1兆円に達し、今も「曾て」の過去形ながら「1兆円ファンド」の俗称で呼ばれているが、運用開始時は厳密に言えば7900 億円(其でも過去最大級)であった。猶、当初の基準価格1万円は今年年央からの反騰で、9月に漸く5000 円台の回復に成ったが、4000 円割れの時期が長かった。只、資産額は今も最盛期の4割程度の4000 億円前後に止まっている。
18)実戦経験に富んだ株式評論家・久世雄三の評。もっとも、1年以上も後の『オール投資』誌に出した見解なので、結果論的な後講釈と思えなくもない。
19)伊藤道臣「実録シリーズ プロが挑戦 目指せ1000 万円!オンライン株式投資」の最終回・「IT中心に混乱する株式市場 年間運用で成果出せず敗北宣言」、『日経マネー』2001 年2 月号、108〜 109 頁。本人の弁では、短期的な株価の動きは予想できないので、利食いや損切りのタイミングは一切見ておらず、最大の敗因は早過ぎたIT 関連株シフトだと言う。猶、同氏は今も自ら経営する金融関係会社の代表者として、ネット上で株式投資全国選手権大会の主催・運営に携わっている。
20)田中信彦『実録 「中国株」を買ってみた』、『文芸春秋』2002 年8 月号、306 〜 311 頁。編集部が元手を出して書かせた体験記の筆者は、訪中が百回も超え上海に仕事場を持つジャーナリストで、土地勘も社会経験も充分に有るだけに、投資行動は白状の通り素人的過ぎた。6 月10 日に50 万円を使い切って10 銘柄を買い、間も無く値上がりせぬ9 銘柄を一気に売り、残りの1 銘柄に乗り換えたのは、豪快な様に映るが時期と銘柄両方の分散投資の常識に反した。更に理解に苦しいのは、政府の政策変更に因り相場が全面高と成った24 日の直後、上昇を待たず27 日に全て処分し、22%の損失確定を甘受した挙動である。
僅か十数日保有した後の一括処分は「日程の関係」だと説明され、雑誌の原稿締め切りや出資側の財務制度上の制限が想像されるが、結果的には賭博の生中継に終った。常に現在進行形の情報や期限内の結果を追う報道機関の趣向や大衆の需要と共に、随時清算を行なう日本人の慣習や潔く諦める性分も要因に思える。手仕舞いの時期は株主総会の集中開催(註59 参照)とも重なるが、一斉挙行と一挙清算の割り切り方を併せ考えれば興味深い。
最後の望みを掛けた万科企業株は手放さなければ、後の1年には少なくとも2 回利食いの機会が有ったはずだ。此の銘柄の1年来の長期低迷と最近の暴落で、「一寸先は闇」の中の撤退の合理性も見出せるが、当初の選択がそもそも間違ったとも思える。掲載号特集の題・「中国不信」は、対象の不審ならともかく自らの不振が根拠であれば説得力が弱い。
21)昭和天皇は1950 年代に文部大臣・田中耕太郎に対し、教員ストライキ問題に就いて述べた感想。小林吉弥『天皇のお言葉』、徳間文庫、1988 年、116 頁。
22)2003 年3 月13 日の与野党党首協議で、国連決議無しの米国対イラク開戦を支持するか否かの基準を問われた小泉首相は、国際協議の「其の場の雰囲気」で決めると答えた。
23)小泉政権成立後の日経平均株価の最高値の14556 円(2001 年5 月7 日)から、最安値の7603 円(03 年4 月28 日、何れもザラ場値[取引時間中瞬時値])までの下落幅は、正に半値に近い47.77%。因みに、半値を暴落の最初の下値の目安とする相場の経験則は、其の下げ止まりで立証された。
24)1973 年11 月14 日、キッシンジャー米国務長官と会談した際の言。ウィリアム・バー編、鈴木主税・浅岡政子訳『キッシンジャー「最高機密」会話録』、毎日新聞社、1999 年(原典同)、250 頁。
25)「各省庁の要望は“税制は年末に決め、年明けの通常国会で処理する”という霞ヶ関歳時記に縛られ、スピード感も欠く。」(『日本経済新聞』2002 年11 月21 日、特集「税をただす」連載第7部「忘れられた“抜本”」2「馴れ合いの要望 重要な政策 置き去りに」)
26)飛岡健『周期的思考があなたを変える―満月の夜、なぜ犯罪が起きるのか?』、双葉社、2000年、166 頁。
27)28)江上剛『起死回生』、新潮社、2003 年、61 〜 62、72 〜 73 頁。『非情銀行』でデビューした作者は本名・小畠晴喜で、今年3月に職業小説家に転身するまではみずほ銀行築地支店長を務め、1997 年に起きた第一勧業銀行の総会屋への利益供与事件の際に、銀行内外の混乱を収拾した「4人組」の一員だった。
29)和辻哲郎『風土―人間学的考察』(1928 年)、岩波文庫、1979 年、227 頁。
30)熊倉功夫『茶の湯の歴史 千利休まで』、朝日選書、1990 年、136 頁。
31)水掛け論は中国流で夫婦喧嘩に譬えられ、俗に「公説公有理、婆説婆有理」(舅は舅に理が有ると言い張り、 姑は姑に理が有ると言い張る)と形容する。「清官難断家務事」(賢明な官吏も家庭内の紛糾を裁断し難い)と言う様に、此の不毛な対立も一刀両断は難しい。理論武装の無い官庁の不備は明らかだが、弱みに付け込んだソフトバンクの解釈も些か恣意的だ。もっとも、3年を長期と捉える事は同社の投資会社化の証とも取れる。
32)孫正義の帰属意識やソフトバンクの脱日本の国際性に就いて、筆者の「孫正義vs.松下幸之助」(西川長夫・大空博・姫岡とし子・夏剛編『グローバル化を読み解く88 のキーワード』、平凡社、2003 年、162 〜 164 頁)参照。
33)「帰化」は語源の『論衡・程材』の「帰化慕義」の様に、君主の徳義に帰服するのが原義なので、現代中国では差別的な語感を嫌って、中国人の外国国籍取得にも外国人の中国国籍取得にも使わない。
34)日本語の「個人投資家」が中国的な感覚にそぐわないのは、「〜家」は一家を成す程の力量が無ければ成らない故だ。日本でも此の名称は個人の自尊や欲望を擽る物と捉える向きが有るが、「文革」初期の毛沢東の「七億人民は皆批判家」も、造反を煽てる命名と思えて来る。「個人投資家」に比べて中国流の「股民」は、全民的投資熱や市場参加者の野草並みの強かさと儚さ(漢籍の「民草・草民」も強弱の両義)を連想させる妙味が有る。因みに、此の言い方は「網民」(インターネット個人利用者)と同じ新語なのだ。
35)孔子が晩年に『易経』を愛読した事は、『広辞苑』にも収録された「韋編三絶」(韋編三たび絶つ)の成語で有名だ。天命の把握を勧める言説は『論語』に再三出ており、最後の語録も「不知命、無以為君子也」(天命を知らなければ、君子とは言えない)で始まる。
36)2002 年頃のマネー誌に載った読者投書の言。テリー伊藤の対談系列の題を真似た表現と推測されるが、『お笑い北朝鮮』(コスモの本、1993 年)を始め、日本共産党や外務省、創価学会等の「禁域」に次々と殴り込み、芸能人的な乗りで軽妙な毒舌を捲る彼の硬派評論家と重ねて吟味すれば、立腹と脱力感、批判と自嘲、諧謔と自虐を兼ねた此の「お笑い〜」は、妙に感心させられる。
37)株式投資関係の著述に好く出る「カレンダー効果」(真壁昭夫『最強ファイナンス理論』[講談社現代新書、2003 年]に、此の題の一節が有る[173〜 177 頁])は、外来概念の訳語と思われるが、株式評論家・北浜流一郎が使った「株暦」の用語は、其の『「株暦」でつかむ ズバリ!大勝ち株』(徳間書店、2000 年)で示した半世紀来の日本株指数月別騰落率平均と共に面白い。
38)長年囁かれた証券界OB創作説は今年の春に成って、本人がマネー誌に名乗り出た事で証明された。長い「冬眠」の末の大衆投資熱の再来を兆す事象であったが、「春動」と「蠢動」の同音・形似は此の文脈で示唆的だ。
39)米国株式の9月の投資成果が百年来一貫して悪い事を示すデータとして、1890 年にダウに投資した1ドルは1996 年末に180 ドル(配当を除く)に成るが、毎年9月だけ投資すると26 セントに減って了い、逆に9月だけ逃避すると値上がりの累積は681 ドルに膨らむ(J.シーゲル著、笠原高治訳『シーゲル博士の株式長期投資のすすめ』、日本短波放送、1999 年[原典= 1998 年]、187頁)。猶、同書第18 章「季節性」(181 〜 190 頁)では、「1月効果」「9月効果」は世界的現象だと言う。
40)『三国志・蜀志・諸葛亮伝』で引用された『襄陽記』の「識時務者、在乎俊傑」が語源だ。
41)『論語・学而篇第一』の「敏於事而慎於言」(行動は敏捷に、言葉は慎重に)は、毛沢東が長女・李敏に付けた名前の由来とも成った。
42)中国語を学ぶ日本人は英語の影響か、動作の発生時点を言う語彙を動詞の後に持って行く癖が有るが、動詞の前に来る点で日本語と同じなのだ。一方、行為の期間(持続時間)を示す言葉は、日本語と違って動詞の後が普通である。日本と欧米の間に在る中国は言語・文化に於いて、双方と其々異・同を持つわけだ。
43)「写意」は中国画の技法として「写実」の対置概念であり、形式に囚われず迫真性や表面的な巧妙さを求めず、自在な筆法で気韻や情趣を表現するのが特徴だ。高次の「意境」(意趣の境地)の創出手段として玄人の間で評価が高い反面、初歩的な写実が出来ぬ輩の誤魔化しとも見られがちだ。
44)筆者が来日間も無い頃に東京都M市市役所で市民向けの講演をした際、職員の給与が日本一高いと報じられた市役所で目撃した光景。奇異に思って関係者に訊ねた処、実は開け具合が悪いから画いたのだ、と説明された。
45)夏剛「共産党中国の4世代指導者の“順時針演変(時計廻り的移行)”―理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論(1)」(『立命館国際研究』16 巻1 号、2003 年)参照(74 〜 77 頁)。
46)同上、77 頁。猶、紙幅の制限で割愛した「逆ウォッチ曲線」(縦軸は株価、横軸=出来高)は、附図の通りである(出所=財団法人日本証券経済研究所編『新版 現代証券事典』、日本経済新聞社、1981 年、648 頁)。
47)日本式罫線は時系列罫線(点的罫線)と非時系列罫線(線的罫線)の2種類に大別し、後者は値動きや結果を強調し或る期間の終値と高値・安値を重点とする(『新版 現代証券事典』[註46 参照]、634 〜 635 頁)。終値を基準とする日足・週足・月足方式は、後者の部類に入る。
48)『広辞苑』の「カレンダー」の語釈。
49)竹内実が『毛沢東 その詩と人生』(武田泰淳と共著、文芸春秋新社、1965 年)の序論で、「“詩”と“詞”」の一節(20 〜 26 頁)を設けて詳説した詞の中国的特性は、残念ながら日本では相当の中国通でないと理解され難い。
50)相場分析家が好く披露する此の類の周期の例として、1995 年以降『日経金融新聞』のテクニカル・アナリスト人気ランキング第1位を長年獲り続けた第一人者・佐々木英信の説を取り上げる。「“二番底”や“二番天井”の影響を見逃さないのが予測のコツ」(『日経マネー』1998 年3 月号、161 頁)で、当時日興リサーチセンター投資調査部主席研究員だった佐々木は、「650 日(営業日)前後」の循環を説き、1989 年末〜 93 年初の間に3回有った天・底間の649、650、651 日の周期を論証に挙げた。一方、佐々木は2003 年の年頭に、今年は長期上昇への転換点に成る事を予言し、其の理由の一つは、「日経平均には343 ヶ月、242 ヶ月、183 ヶ月といった節目を付け易い周期がある。どの周期も昨年末から今年の年初に集中している」、と言った(『日本経済新聞』2003 年1月7 日)。
彼は1982 年10 月を1989 年12 月の大天井へ向う強気相場の起点とし、其処からの242 ヶ月経過を根拠に、2002 年11 月の8303 円が今回の下落相場の最安値と成った可能性を主張した。結果的には大底は2003 年4 月の7606 円にずれ込んだが、値幅的には大勢に影響せぬ二番底として講釈が付こう。2003 年初の朝鮮半島緊張情勢やイラク戦争等、人為的な変動が時間軸法則の枠をはみ出したとも思えるが、「当るも八卦、当らぬも八卦」の皮肉は、元より無謬を標榜しない陰陽原理には当て嵌まるまい。
因みに、「佐々木英信のテクニカル講座」の上記の一文で、著者は1998 年1月12 〜 26 日の急上昇(14644 → 17073 円)を、市場の波動周期や過去の騰落幅に当て嵌めて、5、6 月にかけて1 万8000 台後半〜 2 万円台を反発の目処としたが、実際は5 〜 6 月には14614 円(6 月16 日)〜 15972円(6月30 日)のレンジ内で推移した。「トレンド的には98 年1月安値を伺う展開には成らない」との断言は、10 月9日の年間最安値(12879 円)を待たずに、早くも外れて了った。もっとも、「反発の目処」は反発を仮定した前提での仮設的な数値だ。天気予報や占い師の予言、歴史小説と同じく、「不可不信、不可全信」(信じないわけにも行かず、全て信じるわけにも行かぬ)。
[再校時補筆]佐々木は2002 年11 月11 日発売の『マーケット大予測2003』(日本経済新聞社編・発行)の中で、中勢3波目の底は早ければ2002 年10 〜 11 月頃、遅くとも2003 年4月頃には終了して来ると判断した(78 頁)。直近の2回の底を見事に的中しただけに、其の底は大勢3波の底及び超大勢波(スーパー・サイクル級)の底とも合致する公算が有り、泡沫期の下げが最終局面入りする、と言う指摘(同)も信頼できよう。
1949 年以降の月足長期サイクルの重複から見ると、2002 年2 月に次いで大きな天井・底が発生し易い時期は、同年10 〜 11 月頃と2003 年4月、8〜9月頃と2004 年1月頃だ、とも述べた(同)。
今年8、9月の相場は地球規模の天候異常に似合って、例年の閑散や下落が嘘の様に余り無く、懐疑論を嘲笑う様に盛り上がりを堅調に保った(9月の日経平均株価は連続7 年の陰線と成ったが、月末の水準は月頭を下回ったとは言え、1年前の3割弱高に当る)。世界的な金余りの所産と見る向きが多いが、天の見えざる調節も無視できない。
猶、『週刊エコノミスト』主催の機関投資家の投票に拠るアナリスト・エコノミス格付けで、佐々木英信は1997 年から連続6回テクニカル・アナリスト部門の首位に輝いたが、今年の第7回では第2位に下がった(2003 年10 月14 日号、56 〜 57 頁)。過去の経験則は段々今の相場に適用できなくなった、と言う関係者たちの指摘を裏付けた結果なのかも知れぬ。 
51)小稲義男等編『新英和中辞典』(研究社)。
52)中国に於ける市場の最初の概念は、『易経・繋辞下』の「日中為市、致天下之民、聚天下之貨」(日中に市を為して、天下の民を致し、天下の貨を聚める)で、朝・昼・夕の「一日三市」が昔からの慣わしだ。
53)夏剛「劫・劫波の数・趨:歴史の環・節と日中間の“板塊”移変・異変考」(『立命館国際研究』11 巻2 号、1998 年)参照。締め切りの9 月30 日に完成した論考では、1998 年10 月頃は94 ヶ月から194 ヶ月等6 つの周期が集中する時期だと言う佐々木英信の9 月の予言を引き、大変動の到来への予感を記した(9 頁)が、校正時の補記(19 頁)で書いた通り、佐々木が例示した74 年10 月9日→ 82 年10 月1 日→ 90 年10 月1 日の97 ヶ月周期(9 頁)が其の直後に示現した展開は、余りにも見事な吻合の故に不気味で成らなかった。
[再校時補筆]5年前の露西亜発の米国投資基金破綻危機の際と似通うが、今回も再校時に最新データが入った。1997 年10 月6日に571.66 の史上最高値を記録した露西亜RTS株式指数は、翌年10 月2日に史上最安値の37.74 まで暴落し、今年10 月1日に573.85 で史上最高値を奪還した。
1年で93.4%も下落した後に5年で15.2 倍も上昇した事は、新興国市場の投資危険と収益機会の巨大さ、破壊と回復に於ける時間の負・正両面の寄与を実感させるが、上記の日経平均株価と同じく天井・底が10 月上旬に集中したのは、何とも不思議な偶然の合致である。
54)ドルの対円相場が10 月7 日の132 円台から、翌日一時111 台まで暴落した。反対売買の清算を強いられた米国のヘッジファンドの手仕舞いは、純資産の25 倍も動かす梃(レバレッジ)の原理に由る強烈な巻き戻しで、暴投(自暴自棄の投げ売り)の観が強かった。日本語の「玉」は取引用語として、「取引所で、取引の対象と成る商品や証券」(『広辞苑』)を言うが、玉の貴重さと脆弱性に由来した語意なら、此の「玉砕」の顛末で裏付けられよう。其の巨富の瞬時蒸発は見方に因れば、先取りの結果で緊縮・変形を強いられた時間の正常化や報復に思える。
55)11 月17 日の上昇幅は史上4番目の1200 円で、率は8%。本稿筆者が「劫・劫波の数・趨:歴史の環・節と日中間の“板塊”移変・異変考」で引いた佐々木英信の講釈は、『週刊エコノミスト』1998 年9 月22 日号、56 頁。
56)『十万分の一の偶然』は1981 年に完結した長篇小説。
57)夏剛「劫・劫波の数・趨:歴史の環・節と日中間の“板塊”移変・異変考」参照(11 頁)。
58)大竹慎一『あなたが株で勝つための株式投資100 の答え』、フォレス出版、2000 年、前書き(1〜3頁)と「相場の1年はカレンダーとは関係が無い」、「太陰暦(旧暦)と相場は深い関係」の2節(97 〜 101 頁)の論点。米国では9月初旬の休日が過ぎた後に市場が活発に成り始め、著者自身が10 月末のハロウィーン〜文化の日(11 月3日)の頃に玉を仕込み始め、翌年の黄金週辺りで利食いをする、と言う実践に基づいた解説は迫力が有る。
世界金融の中心・激戦区で約20 年も見事な実績を以て生き抜いて来て、今独立し欧州の顧客を中心に1人で1千億円を運用している著者は、竹内実との対談・『元の面子と市場の意志――中華思想に見る経済の原点』(同、1999 年)等で示す様に、優れた才覚と異質な発想が畏敬に値するが、此の『株で勝つ』が刊行した4月13 日は、日本株の数年来の天井の翌日に当った。書店に株式関係の本が一杯出た頃を過熱圏と見る常識は証明されたが、著者の見識や4月末に高値で売り抜ける習性とは無関係で、出版企画は常に人気の後追いをするわけだ。近年の外債や金、ユーロ、高金利通貨(豪・加ドル)の投資熱は皮肉にも、マネー誌の表紙に立て続け「人気」と銘打って登場した後に調整期に入った。主要マネー誌の号数は発売より2ヶ月も先取りするだけに、些か奇妙な遅行であるが、「旬」や其の情報に飛び付く風潮の負の面を思わせる。
猶、資産運用月刊誌4誌は、老舗の『日経マネー』『JAPAN MONEY』も新顔の『あるじゃん』『ZAI』も、日本的な横並びを映して同日発売と成るが、大体20 日前後の週末〜週初という時機は、下旬に多い給料日を狙う様な心憎い「旬発力」が感じ取れる。
59)外国でも投資基金が決算期末の成績を好く見せ掛ける為の「化粧買い」が儘有り、其の効果が剥げた反動も市場及び運用者が負う事に成る。日本株式市場の年央高と6月末の株主総会の相関も疑われるが、本稿で取り上げた1996 年6 月26 日の日経平均株価の数年来の天井も、翌27 日の2241 社もの株主総会の一斉開催とは偶然の暗合に思えない。
一方、高校野球の国民的な人気や盆休みの民族大移動の影響は、株式市場の閑散からも窺われるが、元より日本では2月と8月は商売の閑散期(中国流で言う「淡季」=オフ・シーズン)で、報道機関まで「2、8」枯れの様相を呈す、と言う。本稿で取り上げた節分天井」の経験則は、2月の此の季節的な習性も一因かも知れない。猶、相場の「夏枯れ」は、欧米でも投資家の夏休みに由り一緒だ。
60)7月22 日を終りとした理由は明記されていないが、本稿筆者が翌日の大暑に解釈を求めるのは、日・中共通の「時節感」(「季節感」に因んだ造語)に由る直観だ。節気所縁の発想の傍証として挙げられるのは、著者が此の観点を提示した前書きの末尾(註58 文献、3頁)に、「二〇〇〇年 驚蟄 大竹慎一」と記した事である。
61)1993 年に6年ぶり帰国した筆者は此の光景に、後小平時代の巨大な変貌を実感させられた。因みに、改革・開放初期のCMには、時計が高級品と成る時代背景を映して、外国製時計(瑞西のRADO[中国語名は“雷達”]、日本のCITIZEN[中国語名=“西鉄城”“星辰”]等)が多かった。
近年の同番組でもCMは天気予報の時間帯に然り気無く挿入するが、各地の予報の共に当該地方の協賛主の名が登場する形は、共産主義と協賛主、中央と地方の複線を感じさせる。胡錦涛体制発足後の今年3月に観た同番組で印象的なのは、胡錦涛が幼時を過ごした泰州が大写しで顔を出した事だ。一地方都市が他の地方自治体の中心地と並ぶとは、個人崇拝の時代の毛沢東の故郷も享受できなかった名誉だが、非政治の目的で地方企業の財力で実現したのは隔世の観が有る。
62)毛沢東は建国直前の「論人民民主専政」(1949 年)の中で、鴉片戦争以降の西方列強(日本も含む)の中国侵略を、近代化の先生が生徒を虐める事と形容した。為政者や知識人の心情を代弁した見方と言えるが、悔しさを覚えながら先進国に学び続けた処は中国的な実用主義だ。
63)「文革」後に設けた長篇小説の最高栄誉が「茅盾文学賞」である事を考えても、茅盾の代表作・『子夜』(1933 年)の文学史上の地位の高さが判る。評論家・篠田一士が『子夜』を『20 世紀の十大小説』(新潮社、1988 年)の一角としたのは、流石に買い被りの誹りを受け易いが、20 世紀前半の中国社会や中国人の不易な心理の研究材料としては申し分が無い。日本文学の類似作品として野間宏の長篇小説・『さいころの空』(文芸春秋新社、1959 年)が思い当るが、前者の4半世紀の先行と規模・迫力の優位は、「魔都」・上海に群がる「東洋のユダヤ人」・中国人の魔力の賜物か。
周海嬰著、岸田登美子・瀬川千秋・樋口裕子訳『我が父 魯迅』(集英社、2003 年[原典=『魯迅与我七十年』、南海出版公司、2001 年])に、其の辺の背景を垣間見せた逸話が有る。魯迅の親友で其の著書の出版に生涯を捧げた楊霽雲は魯迅の死後、未亡人・許広平の生計の足しに成るよう株の共同投資を提案した。新聞のチャートを基にした模擬売買は上手く行ったが、許が資金を捻出して渡した後の実際の1年間の取引は失敗し、狼狽した楊は田舎の土地を売って損失を受けたと言う。(201 頁)当時の新聞にもチャートが広く読まれていた事と共に、此の事例で注目したいのは次の諸点だ。@知識人の楊と許は未経験や手元不如意にも関わらず、危険を冒して利益を狙った。此の事は中国人の投資熱の原動力に有る、「窮則思変」(窮乏すれば変化を求める。
『易経』の「窮則変」[註81 参照]を敷延した毛沢東の言)の心理を思わせる。A今も儘有る親友同士の合同出資の仕組みは、「有福同享、有難同当」(幸福は共に享受し、苦難は共に分ち合う)の合理主義の産物だ。
64)蒋介石の1920 年前後に投機に従事した経歴に就いて、楊逸舟著『蒋介石評伝・上巻 覇権への道』(共栄書房、1979 年)第3章(197~200 頁)の、「投機師としての蒋介石」「株屋で一攫千金」等の暴露が有る。株の売買で巨富を掴んだ一幕は曾て秦痩鴎著『蒋介石伝』に記され、対日戦勝後は同書から削除されたと言う。生涯に亘って運勢・迷信に凝っていた蒋の性向と、其の投機の経歴・嗜好との関連に関する著者の指摘を、本稿筆者は相場の乱高下並みに変幻し易い社会の激動や投機志向が強い国民性と結び付けて考えたい(夏剛「共産党中国の4世代指導者の“順時針演変(時計廻り的移行)”(1)」参照[100 頁])。
65)林彪の東北野戦軍と国民党の死闘を活写した張正隆の記録文学・『雪白血紅』(1990年。国内発禁)に、エンゲルスの論断として、「商業の世界で“時間は金銭なり”と言うのと同様に、戦争中は“時間は軍隊なり”の言い方が成り立つ」、と有る(香港版、天地図書、2002 年、514〜515頁)。
66)取り分け改革・開放初期の1980 年代に、外部世界との発展の落差を見せ付けられ、自国の優位性の自信が揺らいだ状況の中で、精神的な平衡を求める心理から、サッカーやジーンズ等の現代の流行は中国がルーツだと言う論考が出た。曾て魯迅に批判された其の自国中心の主張は、自信の回復に伴ってやがて後退した。
67)中国で名相場師が少ない理由は、色々思い当る節が有る。第1、財成の手段は農・工・商の実業が伝統的に多く、虚業の金融分野でも相場で不確実な収益を追うより、担保を取る融資で金利を稼ぐ事が選好され易い。第2、政治や経済、相場の不安定度が高い国情で、元より危険に満ちた相場では常勝将軍が出難い。台湾の小説が契機で1990 年代に大陸で人気を博した清末の政商・胡雪岩も、融資事業も含めて経営が比較的堅実だったにも関わらず、政争や動乱に巻き込まれて、一代で築き上げた巨富を失った。
相場師が居ても名声が広がらないだけだとすれば、投機に因る不労所得への社会的な白眼視と共に、嫉妬を忌む「財不外露」(富を他人に顕示しない)の鉄則も考えられる。相場で儲けた人はこっそりと笑う者だ、と言う常識はウォール街でも有る。相場師の知名度を妨げる著述の少なさは、「敗軍之将不談兵」(敗軍の将、兵を語らず)の逆で、相場の勝利方程式を披露しない保守性が一因か。老子の「知者不言、言者不知」(知る者は言わず、言う者は知らぬ)と通じて、得々と投資術を吹聴する輩には真の勝者は少ない、と日本でも言われる(複数の株式評論家は大衆に助言をしていながら、実は自分は損の方が多いと告白している)。『本間宗久翁秘伝』も無償社会奉仕の心算は無く、当初は門外不出の記録であった。
20 世紀後半の中国史に名を刻んだ個人投資家は、伝説的な「楊百万」(本名・楊懐定)を置いて他無い。建国翌年(1950 年)に上海で生まれた彼は、中学卒業後20 年ほど倉庫管理人を務め、1988 年に退職し2万円の原資で不人気の国債を安値で買い漁り、実勢公定買い取り価格で売って大幅な利鞘を取った。更に上海証券取引所の開設(1990 年12 月)後、逸早く株式投資に挑み巨富を収めた。「万元戸」(年収1万元の個人・家庭)が金満家の代名詞だった時代に、彼の1992 年の所得は百万元に迫り上記の綽名を生んだ。
億万長者の響きさえ有った「百万」は、相場を張る投機の成果と言うより、改革・開放初期の社会の歪みを突き成長期の波に乗る才覚の賜物だ。最初の財成は国の国債強制購入に対する大衆の不信、通貨膨脹の危険が表面化した情勢、実勢公定買い取り価格に対する都市周辺や農村地域の情報不足を利用し、自転車で一軒一軒廻って取引きした収穫なのだ。金融市場に於ける個人「致富」(財成)の見本が上海で現れたのは、相場師の活躍の場に成った大阪と共通の商都の土壌を思わせるが、機敏で地道な買い漁りは漁村から金融中心に変貌した上海らしい。
投資の実績を買われ1993 年に瀋陽財経学院教授に就任した後、彼は投資実戦を控え金融市場と距離を保って来た。株式投資の成功に因り日本で「金儲けの神様」と喧伝された作家・邱永漢は、著書に「貯蓄十両、儲け百両、見切り千両、無欲万両」と言う金言を記したが、其の4 つの境地は楊が見事に体現した。役人・文化人が経営に転身する小平時代の風潮は、冒険・進出の意で「下海」(海に飛び込む)と呼ばれたが、彼の逆の「上陸」は「反対思考法」に合い、中国的な「一労永逸」(一度の苦労で永遠の安逸を手に入れる)の帰着だ。
教授に迎えられた事は中国の猥雑さと懐の深さ、実学志向の根強さの証だが、「楊家兵法」の出現に至らなかったのは、相対的不易な法則が適応し難い新興国市場の特性も一因か。同時代の露西亜の激変(註53 参照)を彷彿とさせて、国内株式市場の草創期に異様な暴騰が演じられ、上海豫園商場株が忽ち約百倍も値上りした。一握りの「暴発戸」(成り上がり)を生んだ怪気炎は、やがて暴落と長期低迷に転じたが、海外投資者向けの上海B株の指数は2001 年に政府の梃入れで、僅か3 ヶ月で3 倍も大化けし、6 月1 日に付けた史上最高値の241.61 は、2 年2 ヶ月前の史上最安値(21.25)の11.4 倍にも当る(露西亜株の5 年で15.2 倍の上昇[註53 参照]よりも凄い)。「天時不如地利、地利不如人和」(天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かぬ)と孟子は言ったが、国策が相場を動かす人治国家では、人智は天の声や時の流れに敵わぬかも知れない。
米国のノーベル経済賞受賞者が参画した投資基金の露西亜国債投資の失敗と対照的に、彼の成功と晩節の保持は「高学歴は無用」「無欲は大欲」の逆説に説得力を持たせた。同じ上海の人で「楊百万」より11 歳年下で、1980 年代に日本で就学した後、育毛剤商売や香港株投資で巨富を築き上げ、全国長者番付11 位まで昇った実業家・周正毅が、今年6月に金融・不動産不正融資疑獄で逮捕された。楊の賢明さを浮き彫りにした破滅であるが、其の株式投資の成功は低迷期の逆張りの王道に沿ったらしい。周の多角経営も一例と成る様に、専ら相場に生計を懸け且つ不敗を誇る存在は、今後はともかく今までは滅多に居なかった。
日本では平成に入った後は仕手集団こそ暗躍して止まぬものの、然るべき心・技・体を備えた相場師はもはや存在しない。「最後の相場師」とされる是川銀蔵(1897 〜 1992 年)は、本間宗久翁と同じく大阪で相場を張り、1976 年以降、日本セメントや同和鉱業、住友金属鉱山の株の売買で大儲けし、1982 年に長者番付第1位と成った。謀らずも後の大衆株式投資熱を刺激したのかも知れないが、79 年に是川奨学財団を創ったのは、年齢や本拠地が近かった松下幸之助と同様の「『論語』+算盤」と言える。翻って思えば、野間宏の『さいころの空』の迫力の弱さは、大阪の伝統的な懐の深さに劣った東京市場の浅薄さの所為も有る事か。
数年前に読んだ資産運用誌の記事に拠ると、個人資産運用助言者との相談でも県民性の違いが現れており、大阪人は好く助言を請う立場から逸脱し、相場観や成功体験を披露する傾向が有る。
一家の言を持つ意味では「個人投資家」と言えよう(註34 参照)が、「〜家」の名に恥じぬ楊の成功は上海発の資本主義化の一齣だ。小平時代の所謂「十億人民九億商」(十億人民の中に九億が商売に手を出す)は、毛沢東の「七億人民は皆批判家」(註34 参照)に因んで、「億万人民」(億単位の民衆)は皆億万長者志望の投資家だとも換言できようか。「楊百万」伝説が生まれた1992 年は、 小平が南方巡視で上海の経済特区化を命じた時期だが、日本の「最後の相場師」が逝った年に中国で初代の株名人が出現した事は、両国の栄枯盛衰の逆転や亜細亜に於ける主役交代の兆しと思える。
68)厳密に言うなら、彼が発案したのは日本流の非時系列罫線(註47 参照)だが、「点的」と「線的」の違い(同)こそ有れ、罫線分析法の開祖の地位は揺るがない。
69)青野豊作『相場秘伝 本間宗久翁秘録を読む』、東洋経済新報社、2002 年、17 頁。文中の「テクニカル・アナリスト(相場及び株価動向分析家)」は、「アナリスト=分析家」(註70 参照)の当て字に沿う表記だが、analyst を「分析師」と訳す中国語の感覚に近い。猶、本稿で言及した本間宗久翁の事蹟・言説は、主に此の文献に拠る。
70)昨今のウォール街の相場分析家の激しい浮沈も、現代の花形職業の証と見られるが、『広辞苑』の「アナリスト=分析家。特に、精神分析や社会情勢・証券界などの調査・分析の専門家」の通り、金融は此の領分で新興の方に属する。興味深い事に、相場分析も参加者の精神状態や市場を取り巻く社会情勢を見詰めねば成らぬ。
71)『中庸』が出典の「智・仁・勇」は、「三達徳」(3 つの普遍的な徳目)として有名だ。
72)「酒田五法」は「酒田憲法」「酒田足」とも言い、生地の出羽国酒田(現在の山形県酒田市)に由来した。林輝太郎『定本 酒田罫線法』(同友館、1991 年)等、技法面の研究書が数多く有る。
73)中国では同音に因んだ「仁者人也」(仁とは人なり)の命題が有るが、「仁=忍」の等式は一種の盲点である。当代大儒・周恩来の政治手法と処世術の真髄は「惟“忍”の一字」と言われたが、彼の「忍常人難忍之事」(常人の忍び難い事を忍ぶ)は、昭和天皇の終戦詔書の「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍キ難キヲ忍ヒ」と通じる。
74)『論語』を擬った松下幸之助の語録の題は、『松翁論語』(松下幸之助述・江口克彦記、PHP研究所、1994 年)だ。
75)1995 年7 月3 日に日経平均株価が14485 円で大底を付け、約1年後の6 月26 日の戻り高値の22666円まで56.5 %上昇したが、黄金分割律の1.618 倍の手前一歩であった事は、中期的上昇波の上限幅の目処を61.8%とする法則に近い。泡沫経済崩壊後の1992、95、98 年の反撥で、日経平均株価は其々50.6、56.5、61.7 %上昇した。均等に幅が拡大した3回の中で、1回目は切りの好い半分に限り無く近く、3回目は正しく黄金分割律にぴったりだ。因みに、近年のユーロ対円や円建て金の反騰もほぼ6 割高前後で一服した。逆に、日経平均株価の史上最高値(38915 円、1989 年12月29 日)→ 1990 年代最初の大底(14309 円、1992 年8月18 日)、IT 泡沫相場の最高値(20833 円、2000 年4月12 日)→ 21 世紀初頭の最初の大底(7606 円、2003 年4月28 日)の下落率は、何れも黄金分割率に近い63.2、63.5%で、両者の驚くべき吻合も興味深い。
黄金分割律が株式相場の予測に用いられた発端は、1938 年に米国のチャーチストが打ち出したエリオット波動理論だ。5つの上昇波及び其に続く3つの下降波から成る相場展開は反復し、5つの上昇波は3つの下降波と2つの反動波、下降3波動は2つの下降波と1つの上昇波から成り、各波の上昇・下落幅は黄金分割率を用いて目標値を算出する(『新版 現代証券事典』[註46 参照]、639 〜 640 頁)。76)有力な根拠として挙げられたのは、紐育株式市場のダウ平均株価が1929 年9 月3 日に381.17 ドルの天井を付けた後、翌月の大暴落を経て下落し続け、1932 年7 月7 日の41.22 ドルで底を打った事だ。
77)日経平均株価の2003 年の大底の4 月28 日は、2000 年4 月12 日の天井から3年経過した。
78)大竹慎一は「日本人の集中力は2年8ヶ月しか持たない」との持論に基づき、次は2000 年夏に破綻がやって来ると予言した(「世界的ファンドマネージャーが断言“日本は2年後に経済恐慌を迎える”」、『Money Japan』1998 年5月号、4頁)。2000 年春の著書(註58 文献)でも、「日本の相場には32 ヵ月の波乱循環がある」の1節(91 〜 94 頁)で、「石の上に三年」の我慢が出来難い心理を掘り下げた。
猶、滝田洋一『日本経済 不作為の罪』(日本経済新聞社、2002年)にも、泡沫崩壊後3年毎の金融危機が間欠的(中国流では「間歇的」)に日本を襲う、と言うジンクスが論じられた(16〜17頁)。例示された危機は、@ 1992 年夏の不動産価格の下落に因る不良債権の表面化と株価の下落、A 95 年夏の両信用組合と兵庫銀行の破綻、邦銀が直面したジャパン・プレミアム(資金調達金利の上乗せ)、B 97 年11 月の北海道拓殖銀行・山一證券の破綻、翌年に尾を引いた金融恐慌、C2001年秋のマイカル(大手スーパー)の破綻だが、AとBの間隔は2年なので整合性がやや弱い。
79)『広辞苑』にも有る「百里を行く者は九十里を半ばとす」は、『戦国策・秦策』が出所の成語である。「文革」中の指導者も此の「行百里者半九十」を引いて、紅衛兵を諭した事が有る。
80)南宋以降に成立した児童啓蒙教材・『名賢集』にも入った格言である。
81)『広辞苑』には「窮すれば通ず」(行き詰って困りきると、却って活路が見出される)と有るが、『易経』は「窮則変、変則通」(窮すれば変ず、変すれば通ず)と言う。
82)『広辞苑』「三革A」参照。猶、『辞海』の「三革」には其の語意は無く、甲・胄・盾の総称(『広辞苑』「三革@」)のみ指す。「革令・革運・革命」の名称が中国で生まれたとしても、其の都度の改元は日本独特の現象と思われる。
83)小稲義男等編『新英和中辞典』(研究社)の“revolution”の語釈は、「1(政治上の)大革命。2(思想・行動・方法等に於ける)大変革、激変、革命。3 a 回転、旋回。b[物理学]回転運動。4(季節等の)周期、循環。5[天文学](天体の)公転。」
84)筆者は「劫・劫波の数・趨:歴史の環・節と日中間の“板塊”移変・異変考」で、『辞海』の「紅羊劫」の語釈を取り上げた(2 頁)が、翌年『辞海』新版では項目が削除された。
85)抗日戦争勝利後の毛沢東は建国を睨んで、封建王朝の滅亡を教訓に民主を以て「歴代興亡周期率」への超克を志した(尹高朝編著『毛沢東的老師們』、甘粛人民出版社、1996 年、522 頁)。
86)12 支の運勢を言う日本株式相場の格言は、「子(鼠)繁盛」「丑(牛)躓き」「寅(虎)千里を走る」「卯(兎)は跳びる」「辰巳(龍・蛇)天井」「午(馬)尻下がり」「未(羊)辛抱」「申酉(猿・鶏)騒ぐ」「戌(犬)笑い」「亥(猪)固まる」だ。業界紙(誌)や経済紙(誌)に毎年繰り返されて来たが、本稿筆者が注目した文献は、大和証券エクイティ部部長・森本宏の「巨人優勝と丑年相場」(『日経マネー』1997 年1月号、81 頁)だ。ファンの多い巨人軍の優勝が投資・消費を刺激し景気・株価の浮揚に寄与する、と言う経験則も興味深いが、4大証券の一角の株式部門の長と老舗の資産運用誌の組み合わせも示唆に富む。
同誌の1996 年3月号と98 年2月号でも、其々「過去のデータでは子年は株高 大発会は大幅高で幕を開けた 今年も外国人投資家が鍵を握る」と「’98 年はトラ年 株式市場は虎口を脱せるか? 干支で読む先行き」の題で、此の種の特別調査リポートが掲載された(124、18 〜 20 頁)。
「とかく縁起を担ぐ株式市場の世界では、この干支を気にする人が意外と多い。」こんな口上で始まる後者には、戦後の1996 年までの実績も挙げられた。日経平均騰落率ベースの三傑は辰(41.3 %)、子(40.3 %)、卯(26 %)で、成績が最も悪いのは丑(− 8.8 %)、午(− 4.6 %)、寅(5.5%)と言うので、正に格言を裏付けた結果である。
「トラは中国では百獣の王とされているが、過去の相場はどうも冴えないね」、と株式分析家・吉見俊彦は語った(上記文献「’98年はトラ年」)が、「虎」は同音の「胡」と同じ蛮勇の形象が強い。最悪の丑に次ぐ午・寅は、「馬馬虎虎」(いい加減。まあまあ)との吻合で愉快だ。
87)相田洋・茂田喜郎『NHKスペシャル マネー革命A 金融工学の旗手たち』、NHK出版、1999 年、第1、8 章。
88)ファッションや音楽の流行サイクルとして、色彩や意匠、旋律、リズム等は、約50 年の周期で回帰現象を繰り返しており、米国の文化人類学者・A.L.グローバーは、スカートの「ロング50年の後にショート50 年」の周期の繰り返しを指摘し、人間の寿命から割り出した活動期間と一致すると検証した。飛岡健『周期的思考があなたを変える』では、経済学の常識である4つの中・長期波動周期の紹介に続いて、此の事象とコンドラチェフ波の一致に着目した(92頁)。
89)生物時計研究の権威・米国のJ.D.パーマー教授は、「バイオリズム」を1970 〜 80 年代にかけて米国で流行った根拠の無い信仰と斥け、純然たる科学用語の「生物学的リズム」と混同しないよう力説し、間違いを避ける為「クロノバイオロジー」(時計生物学)の用語を使うべきだと唱えた(小原孝子訳『生物時計の謎をさぐる』、大月書房、2003 年[原典= 2002 年]、67 〜 68 頁)が、声高く憤慨したのは未だ信者が多い事の裏返しとも取れる。
門外漢の本稿筆者は判断能力が無く、偽科学の可能性も念頭に置き「所謂バイオリズム」の表現を用いたが、長年・広範囲に亘る影響を考えれば、俗説として一蹴する真似は出来ない。3つのリズムの組み合わせで其の日に起きる事が決定され、宝籤が当るかも知れず、有名人と結婚できるかも知れず、死んで了うかも知れぬ様な予言として、パーマーは初心な人を欺く詐術と断じたが、此も単純化・通俗化の嫌いは否めない。真偽、是非、善悪の相互内包を認める中国の観念に因り、筆者は短絡な賛否を避けたい。本稿では後に「俗流」バイオリズムの流布を切り口に、電脳時代の流行と人生哲学の不易を論じる予定だ。
90)2003 年の前半には、世界的同時不況の観が強く反転への期待も高かっただけに、景気循環への注目と関連の分析も多かった。短期・中期・長期景気周期が今全て下降中だ、と言う指摘も有る(みずほ証券シニアエコノミスト・熊谷亮丸「世界経済・為替 なおリスク “不況下の円高”注意 経済再生、政策総動員を」、『日本経済新聞』2003 年7 月4 日)。 
 
『日本礼法入門』の中心と「空心」(中空) / 日中の礼法・観念の比較

 

美しい国の陳列窓の「三好」/ 「礼芸の百貨店」なる小笠原流礼法
松下幸之助の『なぜ』の前年に開かれた東京五輪大会で、日本は非凡な底力と躍進を見せたが、30年後の1994年に広島亜細亜
大会で惨敗を喫し、金牌獲得数は中・韓に次ぐ3位に甘んじた。松下幸之助の生年に当る丸百年前の日清戦争で勝ち亜細亜の覇主に成った日本は、敗戦と高度成長に由る再逆転と再々逆転を経て再び転落の途に着いた。「世界一の日本」や「21世紀は日本の世紀」の礼賛も、今や日本悲観論の大合唱に変った。
曾て松下幸之助は戦後日本の「経済大国、政治・文化小国」の矛盾を突いたが、「経済・官僚・教育一流」の神話も泡沫経済の崩壊に伴って破綻した。彼の「名人国家」の理想も、1962年の初参加で世界を驚かせた技能五輪大会で、韓国や台湾に抜かれた今日の現実で砕かれつつある。但し、腐っても鯛。韓国と中国に負け込み始めた日本囲碁の芸道が示す様に、此の国の究極の価値と救いとして、一流の礼法と奥深い文明は残っている。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』([米]E・ウォーゲル、1979)の刊行から8年後、初めて来日した私は著者と同様に、先ず百貨店で文化的な衝撃と感銘を受けた。商品の極度の豊富を指標とする共産主義は逸早く日本で実現したという錯覚に陥ったが、其以上に感心させられた礼儀作法は、同時期の中国の「五講四美」(文明・礼貌・衛生・秩序・道徳を重んじ、心霊・言語・行為・環境の美を目指す)の理念を絵に描いた様だ。
其の素敵さは美智子妃の皇太子評の通り、「清潔・誠実・立派」の3語に尽きる。第一印象の清潔感は正しく、非常に清潔で塵一つ無い様を形容する「一塵不染」だ。国民党と共産党の高級軍事人材を輩出した黄埔軍官学校では、校長(学長)・蒋介石が衛生検査を施す際に、白い手袋をはめて部屋の隅や机の裏を触り塵の有無を点検した。そんな完璧志向にも堪え得る様な字面通りの「微塵も無い」様を、私は京都の高島屋や大丸で見た。
中国語の「清潔」には人格・人品の清さ・潔さの意は無いが、「一塵不染」は人が純潔で悪習に染まらぬ事の比喩にも用いる。「賢賢易色」(優れた人を慕う事は美人を好むが如し)と言って、孔子の弟子・子夏は美人を価値の物差しにしたが、「五講四美」の合い言葉にも見た物心両面の美・徳の統一志向は、此の成語に現われている。高度の「整潔」(整然[きちん]として清潔な様)と気品は、店舗や商品、店員の身形に見受けられた。
「誠実」も他ならぬ心の清・潔だが、押し売りをせず丁寧に案内する姿勢は、「童叟無欺」(児童にも老人にも同様に応対し、欺瞞行為をしない)や、「百問不厭」(百回質問されても嫌がらぬ)という、中国の古来の商道徳と現代の接客業の守則を模範的に体現している。エスカレーターの手摺りを確り持ちましょう、と店内放送が頻りに子供に呼び掛けるのは、過剰な親切と思えなくもないが、「童叟無欺」以上の心遣いも感じ取れる。
「立派」は清潔・誠実も含めて、店舗の構えと商品の量・質、粒揃いの店員、至れり尽せりの奉仕・慇懃(中国流では「服務周到・慇懃備至」)の全てだ。店員の化粧や言葉遣いも洗練されており、「得体」(適切)で「無可非難」(非の打ち所が無い)。こうして総合採点をすれば、「完備・完美」の評価を付けたくなった。「完美」は「@完全で美しいこと。A完全に充実すること」(『広辞苑』)だが、此処では両義とも当て嵌まる。
1980年代の末、米国の或る代表団は日本の百貨店の上質な服務に驚嘆した余り、政府の演出ではないかと疑った。日本に対する認識の浅さと米国の接客業の遅れが浮き彫りに成るが、其の疑念は彼等の国家意識の発露と共に、日本の接客業の出色・抜群を物語っている。但し、出来過ぎを不審がるのも人情の常で、蒋介石の衛生検査の流儀も上面を信用せぬ発想だ。其でも其の際に塵が出ない完璧さは、何と言っても軍隊の強味の賜物だ。
「毛沢東思想大学校」の解放軍でも、平和時代の新入りに対する躾として、布団を「豆腐干」(四角張った干し豆腐)の形に畳み付けるよう訓練を繰り返して来た。毛沢東時代では準戦時体制らしく、接客業は「商業戦線」と呼ばれたが、特殊な材料で造られた者(共産党員を称賛するスターリンの言)と自負する軍隊の厳格さは乏しく、「火薬味」(火薬の匂い。好戦的な性格・雰囲気の譬え)ばかりが強い、というのが当時の実情だった。
逆に、中国の衛生の模範―軍隊並みの日本人の「一塵不染」は、不気味でさえ感じられた。
箒が至らないと塵は自動的に消え去るまいと言って、持続的な闘争の必然性を唱えた毛沢東は一方、部屋は四六時中掃除しても塵が落ちて来る、という比喩で欠点の不可避を説いた。「一塵不染」の透徹さも不自然だが、蒋介石の「挑剔」(粗捜し)の意地悪さを以て其の甘美な完備・完美の裏を覗くと、色々な負面や絡繰も目に付く様に成った。
後に現われた「陰暗面」(影の部分)は後に回すが、初めに魅せられた此の国の「光明面」(光の部分)には、成語の「書を校するは箒を掃うが如し」に引っ掛けて言えば、怒濤の如き書籍の物凄い流通量も有る。最晩年の周恩来は若い頃の留学先を懐かしみ、東京・上野の桜と神田の古本屋街の様子を訊ねた。日本の近代化・高度成長の要因―恵まれた自然と進んだ教育の縮図と思える2点の心象風景は、明と暗、流行と不易の対を成す。
此の研究の契機と成る松下幸之助の『なぜ』は、1994年の桜の咲く季節に神田の古本屋で掘り出したのだ。一旦使い捨てた後の価値の再創造は、失われかけた伝統の生産性に相応しい。
翌年の紅葉が散る頃に、若き周恩来がこよなく愛した京都の知恩院で開く古本祭りで、『なぜ』との出会いと同様、少し埃がかかった百円均一コーナーの中に、小笠原流30世家元・小笠原清信の『日本礼法入門』(ごま書房、1973)が目を引いた。
日本で受けた新鮮な印象の1つは、零細な本屋でも作法指南が一角に常備される事だ。中国の書店に義務的に置かれる共産党の宣伝物を連想したが、旧・新中国の儒教や毛沢東思想以上に、礼教は日本社会に浸透し切った様だ。礼法本の発達も日本人の「知書達礼」(書物・礼儀に通暁する)、「一億総礼儀達人」の証に思えるが、無哲学・多宗教(実質的な無宗教)の日本では、礼教と礼法本は宗教や『聖書』『毛主席語録』に相当するか。
相撲界では多彩な技の形容には「技の百貨店」と有るが、日本の百貨店は「礼の技の展示場」、現代日本は「礼の芸の百貨店」の様相を呈す。此の国の百貨店の始まりは、日露戦争勃発の1904年に発足した株式会社三越呉服店だが、其の祖型なる三井呉服屋越後店の創業は、明治の『小学生徒心得』の制定の丸2百年前(1673)の事だ。其の発祥の丸3百年後に刊行された『日本礼法入門』は、「礼の百貨店」の見本と言って好い。
日本の茶道、華道、弓道、剣道、柔道、相撲道に於いて、礼儀作法は魂や画竜点睛の「睛」(目玉)を成し、味付けの役割をも果たす。此等の芸道は日本文化の精華の名に恥じないが、「味精」(味の素)たる「礼素」(私の造語)が一点に凝縮し、眼球の真ん中の瞳孔(中国語では「眼仁」とも言う)に目を凝らせば、諸道の奥の中心が見えて来る。礼の修練を使命とする礼道・礼芸道の小笠原流礼法が、其の収斂の極め付けの結晶に当る。
「小笠原流」は『広辞苑』で、次の様に解された。「@弓術及び馬術の一派。小笠原長清を祖とし、その七世の孫貞宗の大成したものと言う。室町時代以来の弓馬の術の故実は多くこれに拠った。A近世の武家礼式の一流。京都・志濃の小笠原家が故実・礼法を伝え、武家礼式の大宗として幕府・諸大名はこれに従った。後世、三つ指をついてお辞儀をするなど、堅苦しい礼儀作法のことを俗に小笠原流と言う。B兵法の流儀の一。(略)」『新明解国語辞典』の同じ項は今日の小笠原流の影響力の低下を映して、「室町時代小笠原長秀が定めた、礼儀作法の流派。〔堅苦しい〕礼儀作法の典型とされる」のみだ。上記の@Aと通じるが、初代・長清を讃えた清信は長秀には触れていない。小笠原長秀は、「室町前期の武将・射術家・礼法家。通称、兵庫助。礼式・騎射の法に通じ、足利義満の師範と成り、武家の礼法を定めたと伝えるが異説が有る。(―1425)」(『広辞苑』)。
文武両道を跨ぐ小笠原流の礼式と騎・射は、周代の官制を記した『周礼』の中の六芸の半分を占める。「六芸」とは「@周代に士以上が必ず学ぶべき科目と定められた六種の技芸、即ち礼・楽・射・御・書・数。A六経に同じ」(同上)、「六経」とは「中国における六種の経書。
即ち易経・書経・詩経・春秋・礼・楽経(佚書)の総称。六芸。六籍」(同上)だ。此処で取り上げたのは@だが、両義の共通項の「礼・楽」に先ず注目したい。
「礼楽」は「行いを慎ませる礼儀と心を和らげる音楽。中国では古く儒教で、社会の秩序を保ち、人心を感化する働きをするとして尊重」された(同上)。茶祖の珠光・利休が唱えた「謹・和・敬・清・寂」の最初の2項と重なる処に、茶道の儒教精神が窺われる。君子の才芸として要求された射・御・書・数は、弓術・馬術・書法・算術である。中・日共通の士農工商や文武両道の序列を考えれば、六芸の礼→武→文→商の順位は興味深い。
礼法に始まり算術に落ち着く六芸の虚・実の二極は、渋沢栄一の「片手に『論語』、片手に算盤」論を想起させる。日本の資本主義の父なる彼の明治財界の大御所の二刀流は、儒教的な資本主義の神髄を如実に現わした。聖徳太子等が中国から礼制・儒教を導入した古代→小笠原流の弓術・馬術・礼式が成立した中世→読み書き・算数の実学が普及した明治以降の近代、という日本の道程は、礼・楽→射・御→書・数の展開と見事に合致する。
六芸の「君子道」は日本の成長史の縮図にも映るが、日本礼教の祖型を周礼に帰す短絡的な推論は慎みたい。唯、礼を頭とする六芸の価値体系は、小笠原流礼法を日本芸道の内的な中核とする直観の傍証に成ろう。六芸はやがて衰微し礼教の先駆的な家元・道場―孔子・孔門の伝統も平坦な発展を遂げなかったが、孔子が復活を図った周の礼は本国で衰えた代りに、小笠原流や大衆礼法の隆盛が示す様に日本で生き残ったと見受けられる。
30世台前半まで来た小笠原流と70世台後半に上った孔子の家系との差は、両国の約2千年と約5千年の歴史の倍率に近い。孔門は長らく尊ばれて来たが、1919年の新文化運動の闘士が「孔家(商)店」と貶した「孔(儒)家教」は、共産党政権の下で店仕舞いを余儀無くされた。
中国全土の形は東へ向く巨大な鶏に象るが、片足に当る台湾を除く胴体の部分では、儒教は20世紀の第3の4半世紀の間に大半身不随の状態に陥った。
「礼法」は戦国末期の思想家・荀子が造った概念だが、彼の物故から2千2百年経った1970年代の初めには、此の言葉は中国で死語同然と成った。小笠原長秀の事績に出た「礼法家」は、『日本礼法入門』の著者の肩書きにも入るが、中国では左様な名称は見当らない。小笠原流は社会の認知を得て市場を保って来たが、組織化・事業化した大衆の礼法習得が想像し難い中国と比べて、礼法に於ける両国の名・実両方の優劣は歴然とする。
中国では「文化大革命」の文化大破壊の前にも、礼法の衰退と荒廃は進んでいた。『小学生守則』制定(1955)の前年に生まれた私は、来日の33歳までには礼法書を滅多に見る事が無かった。故に『日本礼法入門』に補習や再教育の手本の価値を感じたが、「小笠原学校」や「日本礼法学校」の此の教材は、明治の『小学生徒心得』の成人版・進化版と言える。百年前の其の規範に見た「謹・和・敬・清・寂」は、此処でも主眼を成す。 
「謹・和・敬・清・寂」詳解
第1の「謹」は、「つつしんで行うこと。物事に念を入れること」(『広辞苑』、以下同)、「謹む・慎む」は、「(「包む」と同源。自分の身を包み引きしめる意)@用心する。過ちが無いようにする。A恭しく畏まる。B物忌みする。謹慎する。C度を越さないように控え目にする」だ。日本流の「謹賀・謹聴」と中国流の「恭賀・恭聴」の字面の違いは、其のAや「謹んで」の語義(=恭敬の意を表して。恭しく。同上)で統一される。
礼法としての「謹」も、用心・入念、恭敬・畏敬、遠慮・抑制の多面を持つ。日本の作法・文化・心性の結晶―茶道の理念に「謹」が最初に出るのは、日本人の細心・低姿勢・自制と日本礼法の完全志向・儀式性・含蓄性の証と考えられる。年初の「謹賀新年」の挨拶や、葬儀での「謹んで冥福を祈る」の口上、手紙の「謹啓」の起首が象徴する様に、形式の冠の役割も有る「謹」は、礼法の高級段階―冠婚葬祭の心得には欠かせぬ物だ。
日本人は此の「四儀」の中で「葬」を最も重視し、小笠原清信の教えに「慎」が特に多く登場したのも忌引きの辺りだ。近親者の没後に遺族が家に籠もって身を慎むのが服喪の「喪」で、忌引きの期間中は慶弔の席や神社参拝は遠慮し、神棚にも封をしておき正月飾りや年賀状も見合わせ、成るべく地味な服装を着て慎みの生活を送り、故人の冥福を祈る心で過ごす、と言う。
礼法の極意―「謹」の真髄は、「葬・喪」の領分に好く窺える。
「謹」の身体表現には「恭・畏」のお辞儀も入るが、小笠原清信は其の要領を3つ挙げた。
第1は衿が空かない事であり、衿が空いてしまうと衿足が見え過ぎて、美しさも損ねるし姿勢も崩れてしまうので、特に和服の場合は注意が必要だ。次は顎が浮かない事であり、顎が前に出てしまうと首の据わりが不安定に成り、だらしない感じを与えるから、息苦しくない程度に顎は引くのだ。最後は、耳が肩に垂れる様な感じで首筋を伸ばす事だ。
美しい形の演出なる3点の中で、1点目は身を包み引き締める「謹」に当り、中国語の「検点」(慎む。注意する)の自己点検−規制の性質を持つ。後の2点の引き締まり・緊張は、中国語でも同音の「謹・緊」の表現と言える。心を引き締める真面目な態度に言う「襟(衿)を正す」は、「禁」と形通・同音の「襟」や「衿」に見立てる発想で、「礼」と隣り合う「文」の字形も、「襟元がきちんと合って美しい」意(『角川大字源』)だ。
次の「和」は、「@穏やかなこと。和やかなこと。閑かなこと。“−気”“柔−”“温−”A仲よくすること。“−を結ぶ”“平−”“−解”B合わせること。揃えること。“−音”“調−”“中−”」(『広辞苑』)だ。組み合わせの一連の漢字は礼教の気体性・柔構造・団結・安定・礼楽・中庸と通じるが、@はAの和睦の指標と成り、BはAを促す行為と思える。@は「謹」の緊張と対を成すが、Aの実現手段たり得るBは緊張を要す。
「和敬」は「心を和らげて敬うこと」(同上)だが、「大和心」の「和」の「和らぐ」に対して、日本礼教の至上命題と成る「和」は、『論語』や聖徳太子の『憲法17条』の「以和為貴」の通り、他者や場との調和を指す。最終的に己れの心の安寧に繋がる意味では、其の調和の努力は正に安心立命だが、和気・平和・調和と逆の不穏・不和・違和は、集団や自他の間、乃至自分を乱す不安定要素や不協和音として、礼法に排除されるのだ。
心を和らげて敬う「和」と人の心を和ませる「和」の例は、此の本には意外と少ない。精々、訪問先のブザーを押す時に焦りを抑えるとか、引っ越しの時は旧町内の人にもよく挨拶に出る、と念を押す程度だ。和気靄々・「心平気和」(心が穏やかで気持ちが落ち着いている様)は日本社会と日本人の常態だから、超日常性の強い茶道に比べて力説の必要が少ない事か。其の代りに、場の空気や自他間の和諧を目指す「和」の方は実に多彩だ。
其の有力な工夫の1つは、調子を合わせ歩調を揃える事だ。中国人の対人関係の要訣には、「随和」(人と好く折り合う。人付き合いが好い)と有るが、「随」は「随いて行く」「従う」「任せる」の意だ。「随大流」(大勢に順応する)は没主体の態度として否定されがちだが、「合群」(皆と融け込む)は奨励される。「合」は中国語で「和」と同音だが、「和・合」共有の「口」が出て「合」の「人・口」を体現した次の件は面白い。
会食の時は食べ始める時期よりも、食べ終わる時期を合わせるようにすべきで、一斉に食べ始める事が不可能な場合は、「お先に失礼します」と断って、自分から先に箸を付けても構わない、と小笠原清信は言う。中国の礼法も同様で、1人だけなかなか食べ終わらないのは、甚だ具合の悪い事である。故に終盤では互いに気を遣いながら、歩調が一致するよう調整するわけだが、調整に由って和諧を作り出すのは正しく「調和」の宗旨だ。
「和」に次ぐ「敬」は、「謹(慎)むこと。敬うこと」(同上)の意から、「和」の土台―「謹」にも繋がる。「敬う」の語義は、「相手を尊んで礼を尽くす。尊敬する」(同上)だ。其の「尽」は中国語で、「謹」と音通で「敬」に近い。両国の礼法を貫く「尽心」(心を尽くす)、「尽善尽美」(善・美の極致を尽くす)の志向は、此の連環に示唆される。日本人の礼儀正しさと完全主義を反映して、本書には「尽礼」の心得が目立つ。
葬・婚に関する次の自粛の心構えが、典型の例として挙げられた。家元が言うには、死化粧は紅を注さないのがしきたりで、会葬者も濃い口紅やアイシャドー等は不潔感を呼ぶので避け、髪型も控え目にし飾り物は全て遠慮し、謹んで故人の冥福を祈るのだ。一方、披露宴に招かれた未婚女性の礼装は花嫁を凌ぐ様にしないのが礼儀で、此の場の主役はあくまでも花嫁であり、花嫁の衣装が霞んでしまうほど華美な物は配慮を欠く事に成る。
「謹(慎)む」の「物忌み(謹慎)する」「度を越さないように控え目にする」の含みと通じるが、此の2つの「謹・敬」は中国でも常識だ。此の際の死者の尊厳と主役の優位は、「尊」の「敬意」「尊貴」の両義と共に、礼法の厳格さと自己卑下の必然性を思い知らせる。「尊敬」と「謹」を繋ぐ要素には、「恭しい・畏まる」の敬虔も考えられるが、『日本礼法入門』に於ける「恭」と「畏」の主な対象は、其々他人と天神なのである。
曰く、他家を訪問して客間に案内され主人の登場を待つ間、何処に席を占めるかは気に掛かるが、縦令え座布団が用意されてあったとしても、いきなり座布団に着くのは遠慮するのが礼儀で、此の際は座布団の下座側(入口に近い方か床の間に遠い方)の脇に坐るのが宜しく、座布団が床の間の前に1枚しか無い時は、床の間の前は遠慮して入口の近くで主人を迎えるべきだ。中国語の「客気」(遠慮)は、正しく此の種の客の気配りである。
食べ始める時期が頭痛の種と成るのは、目上の人が箸を取らないと他の人は始まるまい故だ、と著者は講釈した。又、元日や祭日に家族揃って神棚に拝礼する時は、主人を中心にして全員で一斉にやるが、1人ずつ拝礼する場合は主人、夫人、祖父母、年長の子供の順に行なう、とも説いている。倶に中国流と似通う規矩だが、両国共通の「敬」の敬愛・恭敬・畏敬の重層や、西郷隆盛が唱えた「敬天愛人」の美徳は、此処に現われている。
人への愛に先行する天への敬の重みに相応しく、本書には神前での拝礼法や神棚に御神酒・塩・水を供える規矩の類が多い。結末に置くのは冠・婚・葬に次ぐ祭の位置と合うが、祭の祖先の祭祀の意味の通り、天神と人の間の先祖も天神と共に畏敬の対象を成す。中国礼法でも先祖尊崇は重要な柱であり、「崇」の下の「宗」は「祖宗」(先祖)と相関し、中国の葬式で好く登場する「奠」(祭る)は、「尊」と字形が通じ神仏に供える意だ。
「敬」の後の「清」は、「@澄んでいること。清いこと。Aけがれなく、清らかな様。Bさっぱりして気分がよいこと。C清めること。綺麗にすること」(『広辞苑』)の多義を持つ。小笠原清信が取り上げたおしぼりは、此等の効用を持ち合わせる。日本人が愛用する此の小道具は肌の清潔さを保ち、爽快な気分をもたらす物である。其の心・体と並ぶ技として、使用済みのおしぼりを畳んで置く作法も、「整潔」の印象の演出に成り得る。
訪問先で食事する時に、蒲鉾や沢庵など歯型が残る様な物は清潔に見えるよう、箸に挟んだまま両端を噛み整えてから皿に返すよう、と著者は勧めた。ナイフで切断する西洋流と狙いが通じるが、柔軟で曲線的な細工は日本人らしい。過ちが無く包む「謹」と合わせ・揃える「和」にも由る整然・清潔だが、立つ鳥の濁った跡を防ぐ懐紙と同じ視覚的・心理的な美観は、日本人の通俗的な美意識の表層の「見栄(見映え)・清栄」と吻合する。
「清」は「穢・不浄」の対概念として、形而上の純潔・清浄でもある。本書の中の此の性質の作法には、家族が亡くなった不幸の際に神棚を半紙で封じておく習慣が有る。不浄な空気から神棚を守り清浄な神域を残し家を守ろうという古来の言い伝えが由来で、正月に家庭の神棚、玄関、部屋、井戸等に飾る注連縄も、清浄な場所を示す物だとされた。其の不可視・不可触・不可侵の仏界と魔界は、此の礼法大全の最も奥の聖域・禁域に当る。
「水」偏の「清」に似合う注意事項として、著者が提唱した初詣の際の水の使い方は、片手で杓を取りもう片手の手に水を注ぐ様にして両手を清め、片方の手に水を受けて口に注ぎ口を清める事だ。杓から直接に口へ水を注ぐ流儀を誤謬とした上で、多くの人の口に入る水を酌む杓は清潔に保たね成らず、「手水」の語源も手に水を受ける処から出ている、と小笠原流家元は言うが、此処に二重の「清」―衛生と神聖の保持が読み取れる。
『荘子』の「願聞衛生之経」(長寿の術を聞かせ願いたい)が出典の「衛生」は、元は生命を守り全うする意だ。体を浄める沐浴は「聖潔」(神聖なる純潔)を維持する働きも有るが、中国語で同音の「衛生・維聖」は、「清」の安身立命・安心立命の両面に対応する。
衛生の重視を含む「五講」と同時に「清除精神汚染」運動が中国で起きたが、「清」の為に除去すべき物心両面の汚穢は、正に「邪気」(@病を起こす悪い気。A邪念)だ。
『広辞苑』の「和敬」の項に、「茶道で、清寂と共に重んずる」と有るのに、同辞書には「清寂」は無く、「静寂」(=静かで寂しいこと。物音もせず、しんとしていること)のみ出る。
後述の樋口清之の日本礼法考でも、「和敬清寂」ならぬ「和敬静寂」と成る。「清」も「静」も日本美の鍵言葉なのに、日本語に「清静」(閑静)が無いのは妙だが、其々視覚・聴覚の理想郷なる「清・静」は、「清静」に当る「寂」を合成するわけか。
千利休に由って熟成した侘び茶の精神―「和敬清寂」の「四諦」の出所は、『茶祖伝』(1730)の序文(巨妙子、1699)の中の「今茶之道四焉、能和能敬能清能寂、是利休因茶祖珠光答東山源公文所云」だ。利休の祖師に当る珠光は、「一味清浄禅悦法喜」の境地を茶の奥義とし、茶は礼を本義とし「謹兮、清兮、寂兮」だ、と将軍・足利義政に語った。(筒井紘一「和敬清寂」。『日本大百科全書』第24巻、小学館、1988)原典に従えば「清寂」は間違い無いが、両茶祖の共通項であるだけに、深奥な鍵言葉として一般化できなかったのが、国民的な辞書にも登場しない理由か。「静」の異説の当否はともかく、「寂」は帰着点に相応しく動かぬ存在だ。此の晦渋極まり無い一語は、『広辞苑』で「古びて趣のあること。閑寂な趣」と解され、多義の中のCは、「蕉風俳諧の根本理念の一。閑寂味の洗練されて純芸術化されたもの。句に備わる閑寂な情調」と言う。
「寂」は日本礼道の概念として、先ず芸術的な洗練さが思い当る。目上の人に別れの挨拶をする際は、5、6歩も下がるのではなく、2、3歩後退りして体を回す様にすれば、優雅な余韻が残せる、と小笠原清信は言うが、此の余韻は茶道の「寂」にも通じよう。如何に優雅に華麗に歩けるかを考えず、ただ疲れぬよう心掛けて歩けば、自ずから美しい歩き方に成る、という彼の主張した無心も、「寂」の泰然・淡然として受け止められる。
肩を張らず淡々・粛々として運び、十二分でなく八分の努力を以て十全に達するとは、「無欲は大欲」の逆説と符合するが、「寂」と「清・静」の連環は見えて来る。1つは「熱閙」(@賑やかだ。A賑わす)と逆の「寂寞」「冷清」(物寂しい。閑静)で、もう1つは、「濃厚・強烈」と逆の「清淡」(@[色や香りが]淡い、薄い。A[味が]あっさりしている。淡泊)だ。
此の冷・淡は日本礼法の陰翳や、微温・中間色的の特色を成す。
中国の略称の「華」は華美の意で、派生の「嘩・譁」は喧騒の意だが、「寂」の性質は両者と正反対だ。鮮烈・盛大に対する質素・適度の例として、若い女性の和服は派手な模様の振り袖よりも無地で地紋の有る着物が清楚で品が良いとか、簡潔な名刺が好ましいという件が挙げられた。室内を歩く時や物を置く時、物を食べる時は音を立てぬようとの注意は、物騒・強情・強欲と逆の静粛・「文静」(物静か・淑やかな様)・禁欲の勧めだ。
茶道の「寂」の中国語訳の1つ―「冷枯」は、茶道に大きな影響を与えた心敬の「枯淡」と重なる。「淡」の左と「寂」の下が複合すれば「淑」に成るが、和辻哲郎が日本人の二重性格論に用いた「恬淡・淑やか」を思い起こせば面白い。襖を開けて客を通す時に女性は膝を突く方が優雅だと言う類の、淑やかさの演出は本書に多く出る。人を紹介する時の上品なユーモアの推奨も優雅の範疇に入るが、「幽黙」の字面は「寂」に通じる。
線香の炎を手で扇いで消す作法は「淡」の「水・炎」、控え目の「控」の「手・空」の字形、「清浄寂滅」の字面と合う。道教の清浄無為と仏教の寂滅為楽を表わす最後の熟語と関わるが、禅宗から来た「清規」には「清規戒律」「素徳清規」の成句が有る。後者の「清規」は「素徳」と同じ清い・正しい意だが、寺院生活の規則から一般の規矩に転義した前者も語源の通り、「清心寡欲」(心を清く欲を寡なくする)の清・正の性質を持つ。
「素徳」に通じる「素行」も昔の中国では、己れの分に安じる行ないを表わしたが、平素の行ないの語義と共に「清規」の両面に当る。中国語で「地味」「精進料理」の多義を持つ「素」は「華」の対蹠に在り、此の対概念は日本流の「褻・晴れ」にも対応できる。『日本礼法入門』の範囲も日常の行儀と非日常の行事の両方を含むが、葬・祭は後者の領分に跨がる反面「褻」の陰気が強く、全ての作法を貫く抑制・厳粛も陰の性質を持つ。
弔事の際の衣・食を「素服」「素飯(席)」と言う中国人は、正真正銘の晴れ舞台―結婚披露宴の出席者が喪服に通じる黒の礼服を着る日本流を変に感じるが、中国語の「素」と「粛」の同音・類義は納得の材料に成ろう。会葬の際は飾りの有る和服の帯の止め金は避け、エナメルの様に光る物は禁物だ、と小笠原清信は念を押したが、中国語の「寂・淡」と「忌憚」の同音は、「謹」の物忌みと「寂」との円環連鎖状の相関を示唆する。 
日本礼道の五美徳の体系 / 中国儒道の理念との対応
以上の5つの徳目は連環の如く繋がり、相互派生−補完の関係に在る。「謹」と「和」の接点は無難と穏和で、其の恭敬・自制は平和と和気を生む。「和」は「敬」の上にも立ち、「敬」と「清」の繋ぎ目には漢字の「請・清」の同源(中国語でも音通)、身形などの清潔さを以て表わす他者や鬼神への敬意が有る。「清」と「寂」は「潔身自好」「清心寡欲」の志向を持ち、度を越さぬよう控え目にする「寂」は最初の「謹」と又通じる。
順番で直接に続いていない概念も、「網絡」状に関連を持ち合う。「謹・敬」の共通項は恭敬であり、「謹・清」は懐紙の無難・包みに集約され、「謹(慎)む」の「物忌みする」にも「清」が含まれる。「和・清」は倶に純粋・透明な秩序であり、「和・寂」は心の平静・悠閑で繋がり、「敬・寂」は没我・抑欲の点で通じる。謹の中に和・敬・清・寂が有り、和の中に敬・清・寂・謹が有り……という風な相互内包の重層構造が見られる。
中国の急須や茶碗の蓋を飾る回文の「可・以・清・心・也」は、時計回りの順で読めば、「可以清心也」(以て心を清められる)、「以清心也可」(以て心を清めてもよい)、「清心也可以」(心を清めてもよい)、「心也可以清」(心も清められる)、「也可以清心」(清心も出来る)、と5通りの意が取れるが、「謹・和・敬・清・寂」も似た連環体を成す。共産党中国の国旗の5星と星の5角形や、中国の様々な「五徳」も連想される。
日本礼道の鍵概念に用いた「謹・和・敬・清・寂」は、人類の礼儀作法の本質に合致する。
大まかに概括すれば、禁忌や不利益に対する警戒・用心、人間関係を潤滑にする配慮、自他の親和を促す尊敬・愛情、自らの形象を保ち且つ高める努力・演出、禁欲・没我に由る抑制・規制、との諸点が列挙できる。茶道の精神が祖型と成る此の「五美(徳)」は、中国の既成観念には同形の対応こそ見当らぬが、中国礼法の発想では全て理解できる。
五美徳は「寂」を除いて字面でも中国礼教の通念と合致するが、中国の理念は言説が雑多極まる故に究極の1点に絞りたい。祖型の普遍性と生命力を考えると、古の様々な作法を盛り込んだ『礼記』よりも、原理が今も通用する『論語』が照射の光源に相応しい。孔門の数代に亘る蓄積と編集を経た此の経典の5百余りの語録から上記の鍵言葉を拾って、出現の頻度と意味の分類に見る価値の尺度を、日本に於ける位置付けや重みと比べよう。
比較の対象は規矩に限定しない故に、細則を超越した観念は却って好く見える。楊伯峻の『論語訳注』(中華書局、1980)の検索に拠れば、「謹」は3回出て寡言・厳密の多義を持つ(「謹而信」=言葉を慎しんで人に信用される。「謹権量」= 権量(ますめ)を厳格に点検する)。一方、「学而第一」の曾子の「慎終」(親の喪事を鄭重にする)、孔子の「敏於事而慎於言」(事は機敏に処理し言葉は慎む)を始め、類義の「慎」は7回登場した。
次の「和」は8回有るが、同篇の有子の「礼之用、和為貴。(略)知和而和、不以礼節之、亦不可行也」(礼の働きは調和を貴びと為す。[略]調和の大事さだけ知って調和を図っても、礼を以て節制しないと亦行けぬ)との1節が半分弱を占める。和諧・適切を言う4回の他、「君子和而不同」の様に「同」(雷同)の対概念として2回、和睦・団結の意で1回、音声の呼応を表わす1回と成るが、「謹・慎」の合計より少ない事は面白い。
五美徳に於ける真ん中の位置と吻合する様に、「敬」の21回は「謹(慎)・和・清」の合計を上回る。人への真心・礼儀の意は1回で、残りは仕事に対する厳粛・真面目の意だ(1例は「敬事而信」=敬虔に事業に取り組み信頼される)。対人関係を重んじる儒家の形象とずれるが、人・事への態度は同根のわけだ。因みに、関連語彙の「恭」は13回、「尊」は3回、「愛」は9回、「孝」は19回、「悌・弟」(兄への敬愛)は4回だ。
2回のみの「清」は主に人格の潔白を表わし、3回の「潔」も「欲潔其身、而乱大倫」(其の身を清くしようとして大倫を乱す)等、形而上の語義が多い。「浄・爽」の皆無と合わせて、肉体・環境の清潔への拘りの弱さが窺えるが、孔子が特に慎んで対処した事の中で、祭祀の際の潔斎が戦争と疾病の前に出る。「子之所慎:斎・戦・疾」の首尾の2項は正に神聖・衛生の二元だが、「謹」の範疇に入り葬・祭の喪失と関わる処は興味深い。
「寂」は珠光と利休の用語に漢字で出たが、侘び(茶)の「侘」(中国の古語では「顕示」「失意」等の意)の性質と似て、和語の「さび」の当て字と観て好い。茶道の鍵言葉と成った「寂」は古来の中国では、文芸作品や美学論には珍しくないが、低廻趣味と情緒性の故に人生哲学の理論には入り難い。『論語』には此の字は勿論、関連の「枯」「淡」も見当らぬ。4回出た「雅」も「正常な。標準的」の意か、詩歌・音楽の類名なのだ。
「和敬静寂」の「静」の登場も、「仁者静」(仁者は静かだ)の1回だけだ。但し、「食不言、寝不語」(食べる時は話さず、寝る時は喋らない)の様に、「静」の文字を用いない静粛の作法が有るので、茶道の「寂」は中国の理念と決定的に隔たる物だとも断じ難い。例えば、寡言の意を持つ「謹」も「寂」の「静」に通じるし、「学而第一」の「敬事而信」の次の「節用而愛人」を始め6回出た「節」も、禁欲の意味では「寂」と同質だ。
理念体系に於ける「謹・和・敬・清・寂」の多寡や有無は、両国の文化の違いを窺わせるが、頻度や表記の差異は根本的な断層を示すわけではない。「華」の鮮烈・盛大は日本人好みに程遠いが、「大和」の「大」も其の一面を内蔵する。「中華」の「中」は中央の意だが、中庸の含みも有り「大和」の「和」と複合できる(中和)。当て字に「和」を含む日本民族の名は中国以上に儒教の色彩を持つが、「華」の語義にも「文徳」等が入る。
「謹・和・敬・清」は中国では単独の語彙だけでなく複合も儘有り、『韓非子・内儲説下』が出典の「謹敬」、『礼記・楽記』が出典の「和敬」(心を和らげ敬う)、「敬慎」、「清謹」(行ないが清らかで謹み深い)、「清和」(@世が治まって穏やか。A晴れて暖かい。閑か)、「清謹勤」が挙げられる。最後の3字の出典―南宋詩人・呂本中の『官箴』の「当官三法、曰清、曰謹、曰勤」は、官吏の守則なる清廉・謹慎・勤勉を言う。
儒教が目指す人格完成の1つの尺度は、子貢が讃えた師・孔子の「温・良・恭・倹・譲」だ。
日本礼法の五美徳と照らし合わせれば、「温・良」と「和」、「恭」と「謹」、「倹」と「清・寂」、「譲」と「敬」の関連が見られる。「謹・和・敬」は中国の「慎始敬終」(慎に始まり敬に終わる)の古訓と符合するが、「清・寂」は中国の君子の五徳の中で比重が低いか徳目の概念に成らぬだけに、日本礼法に於ける重要性が裏付けられる。
小笠原流の系譜を振り返れば、開祖・長清や義政の師範・持清と其の子・政清から、直近の28・29・30世家元―清務・清明・清信まで、「頭面人物」の名前には「清」が目立つ。此の字と歴代天皇の名前に最も多い「仁」との組み合わせは、「清潔・誠実」や「美・徳」と符合する。小笠原長清は清和源氏の後裔だが、五美徳の内に入る「清・和」も「清・仁」と共に、日本礼法の楕円形理念体系の双(複合)焦点(中心)たり得る。
明治の『小学生徒心得』に引っ掛けて、中国語で「三明治」と言うサンドイッチを見立てにしたい。2枚の薄いパンにバターを付け肉や野菜等を中に挟む此の軽食は、礼法の精神的な糧や効率的な潤滑油の性質、礼法の建設に熱心な明治日本の西洋崇拝の風味に似合う。五美徳は2組のサンドイッチの重層にも見え、突出した「和」と「清」は其々「謹」と「敬」、「敬」と「寂」を連結する中身に当るが、掘り下げれば別の主眼に突き当る。
儒と法、礼と忌の相互内包日本礼法の指向性をほぼ網羅した「謹・和・敬・清・寂」は、国や時代の違いを超えた人間社会の作法の共通原理に適う。此等の柱の土台や網か扇の要は、到達点の「寂」と中国語で同音の「忌」か。出発点の「謹」にも「物忌み」の語義が有るので、「忌」は究極の「謹」と言えよう。「忌」は綺麗事ではない上、其の自体の明言も憚りの対象たり得る為に、理想論の建前では敬遠されがちだが、紛れも無く五美徳の全ての深層に存在する。
「謹・和・敬・清・寂」の提唱は、「不謹・不和・不敬・不清・不寂」への忌避と表裏一体だ。五美徳は形象を向上させる建設性が強いが、孔子の「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」も含む禁忌や自主禁忌の自粛は、自他への損害を憚る防御的な危険回避の要素が濃い。
「清」に汚穢を忌む部分が有る故、「忌」は五美徳、特に珠光の「謹・清・寂」の隠れた中核に思えるが、本書の様々な戒めも反五美徳への禁則と見做せよう。
中国語では組み合わせに成らぬ「物忌」は、「@ある期間、飲食・行為をつつしみ、身体を浄め、不浄を避けること。斎戒。A不吉として、ある物事を忌むこと。縁起を担ぐこと」(『広辞苑』)だ。第1の語義が此と同じの「物忌」のAは、「縁起を担いで、不吉な言葉などを忌んで別な語に言いかえること」だ(同上)。人間存在の基本や証明と成る身・食・言が共に範囲に入るので、究極の「禁区」(立ち入り禁止区域)と視て能い。
礼法は古今・東西を問わず、禁忌を始原の動機とする処が多い。ポリネシア語のtabu、tapu(聖なるの意から)が語源の「タブー」(taboo、tabu)とは、「超自然的な危険な力を持つ物事に対して、社会的に厳しく禁止される特定の行為。触れたり口に出したりしては成らないとされる物・事柄。禁忌」(同上)。孔子の「不語鬼神怪力」の性向や日本の「触らぬ神は祟り無し」の警句も、原始的な禁忌意識を窺わせる。
「禁忌」の「禁」は、中国語でも日本語でも「謹」「緊」と同音だ。「謹慎」の「@言行をつつしむこと。特に、悪行の罰として、またその償いとして行う。A学校が学生・生徒に対して行う、停学に準ずる処分。B江戸時代の刑罰の一。士分以上に科し、一定の住所を定め、門戸を閉鎖し、公用の他には外出を許さないもの。つつしみ」(同上)は、ほぼ和製の語義だが、Bに対応する中国語には、「禁閉」(禁足。[軍隊]営倉)が有る。
「禁忌」の「忌」は両国の言語に於いて、「紀律」(規則)の「紀」と同音だ。「紀」は意符の「糸」と意符・音符の「己」(糸の先端)とから成り、元は糸口の意だと言う(『角川大字源』)。
創造的に解せば、己に対する糸の束縛とも取れる。糸は細くて柔らかい物だが、行動の範囲を制約する準縄や犯人を縛る縄は、糸の束として強く堅い拘束力を持つ。礼の自律性と他律性、軟性(弾性)と硬性の両面は、此の糸と縄に象徴される。
「忌」と「紀」の共通の構成要素―「己」は、「象形。糸の先端の曲がりくねっている形に象る。“キ”の音は、始めの意(=始シ)と関係が有る。長い糸の先端の意。紀キの原字。借りて、“おのれ”の意に用いる。」(同上)「己」と「始」の連環は儒教の隠れた「己身中心主義」や、『聖書』の「始めに言葉有りき」に対する中国人の「始めに己れ有りき」の傾向の表徴と成るが、中国の礼法と法
おきての「始」の二極構造にも気付かさせる。
老子の『道徳経』の冒頭は、「道可道、非常道。名可名、非常名。無名、天地之始。有名、万物之母」(道り得る道[理]は不変の道ではなく、名付け得る名[分]は不変の名ではない。
天地の始めは名付け得ぬ名であり、名付け得る名は万物の母に過ぎない)と説く。其の逆説を敷延して考えれば、明文化した法律よりも不文律の約束事が高次元で根源的だと思う。礼法の「母・始」たる概念として、「敬・罰」の対が此の文脈で思い当る。
親切に勧められた時には断るが、無理に押し付けられた時は仕方無く受け入れる事の比喩として、「敬酒不吃吃罰酒」(勧められた酒を飲まず、罰としての酒を飲む)と中国人は言う。
「敬酒」(献杯[すること])と「罰酒」(賭弓に負けた者や宴会に遅参した者などに罰として強いて酒を飲ませること。また、その酒。罰杯。『広辞苑』)に因んで言えば、親切な「敬」と強制的な「罰」は、其々「万礼之母」と「万法之始」を成すか。
中国礼教の祖型・『礼記』の「曲礼上第一」は、「曲礼曰、毋不敬。(略)傲不可長、欲不可従、志不可満、楽不可極」(曲礼曰く、不敬の態度を避けねば成らぬ。[略]自慢の気持ちを募らせては成らぬ。欲望に溺れては成らぬ。過度な目標を求めては成らぬ。享楽の限りを極めては成らぬ)で始まり、以下「毋」と「不可」が頻りに出る。「勿」と同義の「毋」は「母」と字形に近いが、始めの「毋」の戒告は一種の「始・母」と思える。
人の会話を盗み聴いては成らぬ;余り大声で話しては成らぬ;横目や流し目を使っては成らぬ;だらしない姿勢をしては成らぬ;威張った形で歩いては成らぬ;片足で立っては成らぬ;突き出し箕の如く両足を開いて坐っては成らぬ;俯せに寝ては成らぬ;髪の手入れは構わぬが付け髪をしては成らぬ;濫りに冠を脱いでは成らぬ;疲れた時でも肩脱ぎをしては成らぬ;暑い時でも裳を捲くり上げては成らぬ、という「毋」の連発が随所有る。
中国最古の礼法大全の序章に於ける禁則の頻出は、基調や要綱の働きを持つ。中国礼教の「母・始」に当る『論語』と『礼記』は、柔の勧告と剛の力説の対比を見せるが、「勧」は「力」偏を含む字だ。中国流の治世・処世の常套には、「先礼後兵」(先ず礼を尽くしておき、然る後に兵を用いる。先ず礼儀に則って交渉し、上手く行かなかった場合は強硬手段に出る)と有るが、「礼・兵」の対は裏に罰が控える礼の絡繰を思い知らせる。
罰酒を避けるよう進んで献杯を受ける心理は礼法の自覚に通じ、礼法に反すれば罰を受けるか罰が当るので罰は無言の強制力を持つ。「君子懐徳、小人懐土。君子懐刑、小人懐恵。」(君子は道徳を懐かしみ、小人は土地を懐かしむ。君子は法度に関心を抱き、小人は恩恵に関心を抱く。)孔子が肯定した「徳・刑」は、正に「法度」の法律・典範(漢語語意)と掟・禁則(和製語意)だが、礼法・節度は礼節の此の両義の法度に換言できる。
『角川大字源』の「法度」の解―「一ほうど@のり。規則。法律や制度。〔書経・大禹謨〕“罔レ失二法度一”A手本。模範。〔管子・中匡〕“以二三王一為二法度一”B物の基準に成るもの。
法は音階、度は尺度。〔論語・尭曰〕“審二法度一”二はっと(国字)決まり。おきて。禁制」は、『辞海』の「@規矩;制度。『書経・大禹謨』:“ 戒無虞、罔失法度。”引申指法律或法律制度。(用例略)A法式。(同)」と重なりながら微妙にずれる。
「法式」は『広辞苑』と『角川大字源』で、其々「のり。おきて。儀式などのきまり」「かた。おきて。きまり。法度。〔荀子・尭問〕“足三以為二天下法式表儀一”」と解されたが、「軟件」のみの前者より「硬件」の型も含む後者が中国語に近い。類義の「法度」の例のAの典型も、敵が自軍の輸送の絡繰の寸法・様式を真似て同型の物を造る事に抱く諸葛孔明の懸念(『三国演義』:「司馬懿見了木牛流馬、必然倣我法度、一様製造」)だ。
「法式」の上記の出典に有る「表儀」は、「てほん。のり。〔左伝・文六〕」で、同じく日本語に無い類義語の「表率」は、「人々の模範。模範と成って人々を導く。〔漢書・韓延寿伝〕“幸得レ備位、為二郡表率一”」(同上)の意だ。『辞海』の「法則」の5つの語義(@法度A方法・準則B表率C効法D規律)にも、「表率」は「法度」と共に出る。『角川大字源』にも入らぬ「効法」(見習う)は、「表率」に対応し「倣我法度」と繋がる。
『広辞苑』の「法則」は、「@必ず守らなければならない規範。おきて。Aいつでも、またどこででも、一定の条件のもとに成立する普遍的・必然的関係」だが、『辞海』の「D規律」は後者の方だ。中国語の「規律」は客観的・自然的な規則(摂理・習慣等)、「紀律」は人為的・主観的な規則を言うが、日本語では「規律・紀律」が合併し両義を兼ねる。同じ語彙に両国の微妙な相異が現われるが、規則の両面は表記に関わらず出揃う。
『角川大字源』の「法」の「@ア おきて。社会生活の決まり。行動の基準。規則」の出典に、『管子・明法』の「法者、天下之程式也」が出た。日本語に無い「程式」は、「@かた。のり。方式。〔管子・形勢解〕“無二儀法程式一”A〈俗〉格式。書式」(同上)だ。語源の中の「儀法」は中国語で死語に化したが、『広辞苑』には収録された(=きまり。おきて)。和製熟語の「礼儀作法」との符合を考えれば、日本人の好みを感じる。
「儀法」の「A儀礼や礼法に関する決まり。礼儀法度。儀典」(『角川大字源』)は、「程式」にも通じ合う。「儀法」の第1義に有る「模範」が「程式」と組み合えば、「模式」(=標準と成るべき典型的な形式。“−図”。『広辞苑』)に成る。『三国演義』の「法度」の用例は正に即物的な模式だが、一方の『角川大字源』の「法度」の「音階+尺度」説は、形而上と形而下、硬と軟の両面を持ち、儒教の礼・楽の複線と妙に吻合する。
孔子は「徳・刑」を君子の本懐や関心事としたが、『論語』に「徳」が38回(又「徳行」が1回)、「刑」が3回(内1回は「法度」の意)、「刑罰」が2回出た事は、両者に対する儒家の遠近を示している。20世紀末の共産党中国は「法治・徳治」並行の方針を打ち出したが、徳を以て国を治める原型は儒家の「礼治」だ。『論語』での「礼」の登場は「徳」の倍に近い74回だが、「法度」は1回だけで単独の「法」も「度」も無い。
此の比率が示す儒家の「礼高法低」は、中国社会の「外儒内法」とは矛盾しない。儒教の仁徳・仏教の慈悲と兵家の闘争・法家の懲罰の複線は、孔子の思想にも見られる。彼は「斎・兵・疾」に特に慎重だったが、『論語』の中の「兵」(戦争・兵器。2回)、「兵車」(戦車。1回)、「戦」(3回)、「軍旅」(軍隊。3回)、「三軍」(1回)、「征伐」(大義に基づく武力制裁。2回)、「威」(4回)は、殆ど肯定的な意味である。
集団の規則の象徴には制服が有るが、「制服」は「@服装を制定する。〔管子・立政〕“度レ爵而制レ服”A喪に服する規定。〔後漢書・劉伝〕B〈俗〉屈服させる。C(国字)決まりの服。
組織や集団で、色や型が決められた服装。“制服制帽”」(『角川大字源』)の多義だ。「」偏の「制」は制度・制約の他に、制圧・制裁・制覇の意を生み出す。「礼法」が最初に出た『荀子・王覇』も、篇名の通り王道と覇道の併用を説く内容だ。
『広辞苑』には「礼法」は2通り有り、「れいほう」は「礼の作法。礼儀。らいほう。−に則る」、「らいほう」は「作法(さほう)。れいほう。古今著聞集二“山伏の―正しうして”」と解された。『角川大字源』の「礼儀や法度。法度は守るべき決まり。礼式。〔荀子・王覇〕〔孝徳紀〕〔字類抄〕」と照らせば、法度の欠落に気付くが、『荀子』の「礼法」の国家の大法の本意を引き合いに出すまでもなく、日本に於ける矮小化は明らかだ。
礼法は中国では個我の修身の準縄と共に、国家の治世の手段でもある。礼教は和・敬を唱えたが、鞭を含む「教・敬」の字形は強制の側面を仄めかす。「型・刑」の同音・形似と符合して、日本で安否・寒暖を問う儀礼の言葉に転義した「挨拶」は、中国語の字面では受刑の意(「挨」=される、「殺」と同音の「拶」=指を挟み詰める拷問道具)だ。古の中国では大勢が押し合って進む事を表わしたが、集団の押し付けも礼法の奥義に入る。
前篇の明治日本の『小学生徒心得』と共産党中国の『小学生守則』の比較でも、言語の断層は「心得」の中・日の語義の風馬牛や『広辞苑』に無い「守則」に現われたが、『角川大字源』の「礼法」に出た「守るべき決まり」は正に「守則」だ。此の論考の対象の「礼法」は『広辞苑』には出るが、『辞海』には単独の項は無い。類義語として「礼防」の定義に使われたので自明の故の省略に思えるが、其の「礼防」は日本語に入っていない。
『辞海』の「礼防」の項の全文は、次の通りである。「礼法。旧謂礼所以防乱、故曰“礼防”。
語出『礼記・経解』“夫礼、禁乱之所由生、猶坊止水之所自来也。”陸徳明釈文:“坊、本又作防。”曹植『洛神賦』:“収和顔而静志兮、申礼防以自持。”」礼は混乱の発生を塞ぎ止める役割を果たし、恰も水の侵入を防ぐ堤防に等しい、という最古の出所の主張は、礼法の性質を言い得て妙だが、此の命題は日本では例に漏れず馴染みが薄い。
『角川大字源』の解は、「礼で世の秩序を守り、乱や非行を防止する。〔曹植・洛神賦〕“申二礼防一以自持”」だ。『礼記』の出典が飛ばされた事は、中国の哲学よりも文学に親しむ日本人の選好らしい。『論語』が注目を集め他の儒教の典籍の影が遥かに薄い状況の証とも思えるが、昨今の中国も五十歩百歩だ。笑顔を引き締めて心を静かにし、自制の為に礼法を自らに言い聞かせる、という意の古典名作の句は、一般の中国人にも解らぬ。
「自持」も日本語には無いが、『角川大字源』の「@自分の主義・節操を守り抜く。〔宋玉・神女賦〕“ 薄怒以自持兮”A自分を高く保つ。〔荘子・知北遊〕B自分の体を保持する。〔漢書・丙吉伝〕“近二医薬一以自持”」の他、「自失」の反対語として此の言葉は自制をも表わす。
心と身、理想と現実の両面に渉る此等の多義は、自重・自愛・自尊・「自保」・矜持の志向に於いて、前篇で取り上げた「潔身自好・独善其身」と繋がる。
「和顔悦色」「淡泊静志」の熟語を内包した「収和顔而静志兮」は、強靱な意志を秘めた「申礼防以自持」と対を成す。「一味清浄禅悦法喜」を茶の奥義とし、茶を礼の本義とした珠光の「謹兮、清兮、寂兮」に因んで、「和・寂/謹」の複合と言えよう。其の外柔内剛の帰着は後半の「防・持」だが、「礼防・守則」の接点に在る「防守」や、「堤防」と同音・形似の「提防」(警戒。提=気持ちを引き締める)も、日本語に入っていない。
「礼防」の出典に『礼記』の「禁乱」説は無いが、『角川大字源』には「礼禁未然」の項が有る(「礼は、悪事がまだ外に現われない内に禁止するものである。〔史記・太史公自序〕“礼禁二未レ然之前一、法施二巳然之後一”」)。比喩の有無や主張の濃淡はともかく、防波堤の役割は日本礼法も一緒のはずだ。礼法の本質に「禁・防」も入るが、此の2点を力説する『礼記』では、礼法の礼教・法家の両面や礼・法併用の志向は鮮明に現われた。
『荀子・礼論』の「相為内外表裏」が出典の「為表裏」(=表と裏の関係に成る。互いに助け合う。『角川大字源』)で言えば、礼と法も相互補完の表裏一体に成る。処罰の意を含む日本語の「謹慎」も、「礼即法、法即礼」(礼は即ち法、法は即ち礼)の相関と合致する。「和・敬・清・寂」の両側の「謹」と「忌」の連環から、「礼中有忌、忌中有礼」(礼の中に忌が有り、忌の中に礼が有る)という根本的・普遍的な原理が見出せる。 
基本禁則に見る礼法の始原 「避凶・求吉」「羞悪・愛美」
礼法の規則に多い禁則は凡そ禁忌の所産と見做せ、人間の守礼精神は順法精神と同じく深層に忌避心理が儘有る。前篇の論考対象─校則は日本語で同音の「拘束」の性質が強いが、中国語の「拘束」は類義の「拘謹」と同じく、余所での遠慮がち・堅苦しい様を表わす。礼儀作法は日本流で約束事の範疇に入るが、中国語の「約束」は規制の意であり、「拘謹・拘束」をもたらす「自己約束」は、正に「紀」の「糸・己」の字形を体現する。
「糸」は中国語で「係」に通じ「結ぶ」意も有り、「結」は拘束・約束の「束」と繋がる。
「結束」は日本語では団結、中国語では終了を表わすが、巡り巡って其々「和」「寂」と対応できる。小笠原清信は吉事・凶事の場合の水引の結び方を詳説したが、「結」の字形は他ならぬ「糸・吉」の複合で、中国語の「系・吉」は「忌」と同音だ。祭儀を吉礼とし葬儀を凶礼とする『周礼』の区分の通り、吉凶と其に対する好悪も礼の基軸に入る。
水引の結び方と共に「物忌」の「物・忌」の字面を体現するのは、和製漢語の「禁物」である。『日本礼法入門』の190ヵ条には、「禁物」は5ヶ所、「タブー」は2ヶ所出ている。小笠原流の家元は「物忌」の字面通り、物の在り方から人の振る舞い方まで諸々の禁則を設けた。其処から窺われる忌避・忌諱の対象は、正に「タブー」の語義の通り、@人間(他者);A集団・社会の規則・掟;B天理・超自然の力、という3点に尽きる。
著者が厳しく戒めた事項は、洋・和を問わぬ服装の心得に特に集中する。其の説に拠ると、訪問の目的と場所に適った物をしないと、場違いな感じを与え相手に礼を失する;高価な物を身に付けて行きさえすれば、相手に敬意を表する事に成ると考えたら、飛んだ間違いである;幾ら値段が高いからと言って、普段着の紬、縞、 絣等を礼装として公式の場に着て行くのはタブーだ;そして、結婚式にスポーティな格好で出席するのも禁物だ。
他に「禁物」と指定されたのは、正座の際に足が痺れた時もじもじしたり膝を開く事;入社試験や見合いの席で腰を下ろす時に前屈みに成り過ぎたり、坐る前に手を膝にあてがってつっかい棒の様にしたり、腰を下ろしながら椅子を引いたりする事;言わば故人との最後の晩餐に当る通夜の宴で酒を過ごして乱れる事、等の数点である。和室でミニスカート姿で坐った時に腰が落ちてしまう様な姿勢には、「絶対に禁物」との強調まで付いた。
此等の行為は人の気分や場の空気を害し、自尊や評価・利益を損ない、社会の通念・規矩(例えば、染めや刺繍を訪問着とする認識)に反する物だ。家元の戒律の中の「不作法を犯す」は「作法を犯す」にも言い換えれるが、禁忌と禁忌意識は掟破りと其の不徳・不利益への警戒と自戒に他ならぬ。原理こそ中国礼法と一緒であるが、力説された「禁物」は字面の即物性を映す様に、卑近・些末的の観は免れず針小棒大の印象さえ受ける。
通夜の宴でしみじみと故人を偲び思い出を静かに語り合うよう著者は勧めたが、其の「寂」の儀礼の「忌」の理由には触れていない。中国人も同じ態度を潔しとするが、遺族や他の弔問客の気に障る失態の他に、死者を冒する不謹慎も「敬」と形通・同音の「警」の対象だ。故人の「在天之霊」(冥界に居る亡霊)や天神には、日本人も畏敬の念を抱くに違いないが、即時・即場・即身性の強い本書には、天理・超自然の力への危惧は薄い。
禁忌意識の根源は畏敬を超える畏怖だが、其の畏怖は中国と日本の公約数で考えれば、恥・罪・罰の重層を内包する物か。忌憚・忌避の対象と成る恥には自らの形象を損なう無恥や無知が有り、罪には違法や中国流で言う「得罪」(人を傷付ける事)が有り、罰には他者や社会、超自然の力に由る制裁が有る。中国語で「法」と同音の「罰」は日本語で「ばつ・ばち」の2通りが有るが、法的な懲罰と別の次元の天罰は罪・恥の領分に跨がる。
小笠原清信の一連の「禁物」の例に即して言えば、礼法に逸れる事への忌避意識は、@恥をかく失態の恐れ;A反「社会法」の恐れ;B「得罪人」(人を傷付ける事)の恐れ;C「傷天害理」(天理・人道に背く事)の恐れ、と分類できる。@は「失身分」(沽券に関わる事。評判を落とす事)に繋がり、Aは不適格者と見做されかねず、BCの罪過も嫌悪や報応を招くが、恥=対人、罪=対社会、罰=対天・自然という対応に注目したい。
「名可名、非常名。無名、天地之始」の逆説で始まり、玄虚の抽象論に始終した老子『道徳経』と対照的に、儒家の典籍は道徳の具体的な説法を好む。『礼記・礼運第九』では孔子の言として、礼法の起源は斯く説かれる。「夫礼之初、始於飲食。其燔黍豚、尊而抔飲、 桴而土鼓、猶若可以致其敬於鬼神。及其死也、昇屋而号、告曰、皋其復。然後飯腥而苴孰。故天望而地蔵也。体魄則降、知気在上。故死者北首、生者南郷。皆従其初。」
礼は当初、飲食から始まった;黍を焼き豚を割き、地の窪みを壷の代りにして水を入れ掬って飲み、茅の莖で土の鼓を敲く、という遣り方でも鬼神に敬意を表せる;人が死ねば屋根に登って、おーい生き返れと大声で死霊に告げる;其の後生飯を遺体の口に含ませ、煮た肉を包み備える;霊魂の昇天を望み遺体を地に埋蔵する;体魄は降り、霊気は上に在る;故に死者は北枕に寝かせ、生者は南を尊ぶ;礼は皆其の始原に従うのだ、と言う。
最後の件は、『日本礼法入門』のしきたりと重なる。曰く、遺体は納棺まで経帷子(神式は白小袖)を着せて、北枕に安置する;枕元には枕飾りと言って供え物をするが、其の際、白い布を掛けた小机を用意し、燭台に蝋燭1本、香炉に線香1本、花立てに樒1本を立てる;又、枕飯と言って、故人が使っていた茶碗にこんもりとご飯を盛り、其に箸を突き立てて供える;神式の時は塩・米・水の他、故人の好物なら魚や肉類も差し支えない。
中国礼法の祖型と現行の日本礼法とを比べると、前者の文面に出た「腥」(生臭さ)の消去に、人間の進化や社会の成熟に伴う礼法の洗練化を感じるが、件の原始的な儀式は粗野の嫌いが有るものの、礼法の始原と成る畏敬の心情・信条を如実に顕わす物だ。「皆従其初」の「皆」は礼法と人間の両義が取れ、「初」は時間と観念の次元で其々発端と本源を意味し得るが、日常の飲食と非日常の葬送、生と死、人と神霊の接点に着目しよう。
『日本礼法入門』には、人に渡す現金の包み方の心得が有る。凶事の場合は紙を2枚重ね、par 着物の下前・上前の重ね方と同じく右前に重なる様に折り、次に上下を後ろに折るが、下側に来る様にする;凶事の場合は「重ねる」事を忌むので、紙は1枚で左前に折り上が外側に成る;此は吉事は「上向く」、凶事は「下向く」と縁起を担ぐ処から来た物だ、と言う。礼・忌の相互内包を体現する其の包み方は、より玄妙な表徴を内蔵している。
遺体を北枕に置く上記の件の最後に、枕団子を小皿に盛って供えるが、其の数は陰の数即ち偶数個にする事に成っている、と著者は述べた。彼の『作法─日本の心を伝えることわざ』(創拓社、1988)にも、「吉事の奇数・凶事の偶数」の項が有り、器に入れて客に出す菓子の数の此の決まりは、易学上から奇数を陽、偶数を陰とした事に由来すると言った。日本人の奇数好みの深層の忌避意識や、中国の陰陽原理との繋がりが窺える。
『礼記』に祖型が有る北枕での遺体安置も、北を上位とする易学の伝統に沿うが、彼の世でも飲食に始まる事を意味する供え物は、「礼之初、始於飲食」の別の解を示唆する。小笠原清信の『作法』の格言にも、出所不明の「礼は飲食に始まる」が入る。飲食の礼儀作法の心得が生活全般の其の基本と成る主旨だが、中国の其の作法の筆頭は例の日本流の供え方と絡んで、ご飯に箸を突き立てるのを「挿墳頭」(墓に突き立てる様)と忌む事だ。
『日本礼法入門』で「タブー」とされた不作法には、前屈みになって口を食べ物に近付かせる「犬食い」、どれを食べようかとあちこち睨みつけてから手を出す「睨み食い」、器の中を探りながら食べる「探り食い」、ご飯を掻き氷の様に上から押しつけながら食べる「押し食い」も有る。中国人も此等を「吃相不好」(食べる格好が好くない)と断罪するが、俗に人相の悪さをも言う此の熟語が示す様に、貧相な食べ方は人格を損なう物だ。
箸の先を出来るだけ汚さぬ様に食べるのが美しい、と家元は「箸先五分」の心得を唱えた。
余り多く挟んで運ぶのは食べ物を零す元に成るし、大量に頬張ったのでは料理を本当に味わえない、という理由付けは高邁な論理だ。盛んな食欲と料理の量を誇る中国人も、一杯に頬張るのを潔しとしないが、そんな失態や利益の逸失よりも単純な動機が有る。貪欲の露出を羞・悪と見做し、孟子が言う「羞悪之心」(不善を恥じる心)が働くわけだ。
『礼記・曲礼上』には、「貪」を忌む次の禁則が有る。一つの皿から一緒に食べる場合は、自分だけが貪っては成らない;飯を一つの皿から共に食べるに当って、手の指をすり合わせず、飯を丸めて取らない;飯を貪り食わず、汁を流し込む様に飲まず、舌打ちして食べず、骨を齧らず、魚や肉の食いさしを戻さない;食事中に犬に骨を投げ与えない;料理を取ろうとして狙うのは行けない;飯の熱を去ろうとして掻き混ぜるのは行けない。
いずれも動物的な野蛮・「貪相」の露出を忌む禁則であり、同じ章の前の次の理念が根底を成す。「鸚鵡能言、不離飛鳥。猩猩能言、不離禽獣。今人無礼、雖能言、不亦禽獣之心乎。夫惟禽獣無礼、故父子聚。」(鸚鵡は人語が言えるが鳥類を離れず、猩猩も人語が言えるが獣類を離れぬ。今人は礼を弁えなければ、人語が言えても心は禽獣と同じだ。禽獣の特性は礼を知らぬ事に他無い。故に其の世界では親と子が同一の牝と交わる。)乱倫を忌み人倫を尊ぶ観念から、罵語の「畜生」は中国では人非人を表わし、男女の別は中国礼法の初歩と成る。続く「是故聖人作、為礼以教人、使人以有礼、知自別於禽獣」(故に聖人は礼法を作り人に教え、人に礼を身に付けさせ、禽獣と違う自覚を待たせたのだ)は、上記の「夫礼之初、始於飲食」の一節の次の、聖王に由る火の利用・家の建造・服の発明、及び其への謝恩を原点とする「礼之大成」の記述と共に、礼法の起源を示す。
『論語』には「恥」が16回、「辱」が5回、「恥辱」が1回出ており、「罪」の6回に比べて恥の重みを裏付ける。小笠原清信が禁物とした最重要事項の大半は衣服と格好で、正に衣・食・住の順位と符合する。人間生活の基本なる此の3点は、中国語で声調順(第1・2・4声)と成り、読み易さも成句の由来だろうが、人間と動物の区別を成す衣が首位を据えるのは、恥の意識や体裁を重んじる感覚の発露と捉えても順当な位置に思える。
対の思想から来た偶数好みも有って、中国人は「衣食住行」の熟語を愛用する。共産党中国の立国の要の「4項基本原則」を擬って、人間の安身(心)立命の「4項基礎行為」と言えよう。『論語』に於ける出現頻度を観れば、「衣」(13回)・「衣服」(1回)・「服」(13回、内名詞5回)・「冠」(3回)の合計は、「居・住」(26回・0回)に近いが、「食」の41回と「行」の72回は、其々「徳」「礼」の回数に匹敵する。
実生活に於ける食の比重や「行」(移動)の対人交渉の性質を考えれば、上記の比率も『論語』並みに食事や往来の作法に重みを置く『日本礼法入門』の指向性は頷ける。中国語の「衣・一」、「食・十」の同音は、両者の実用度の差の象徴に思える。但し、中国語と日本語の「食・飾」の同音・形通は、衣・食の同根性を示唆する。人間の尊厳・矜持を表出する衣は「高級段階」の一面も持つが、語順の1番目は「初級段階」の証でもある。
「初級・初歩」「礼之初」の「初」は『角川大字源』で、「会意。意符の刀(はさみ)と、音符の衣(反物・生地の意)とから成る。“ショ”の音は、はじめの意(=緒ショ)と関係が有る。
はさみで布などを裁ち始める意。ひいて、一般に、物の“はじめ”の意に用いる」と解された。
「初」の発音は中国の標準語で「緒」と大分違い、寧ろ其と形似の「諸」に近いが、此の点の日本流の解字は、「初」の諸事の端緒の性質を言い得て妙だ。
昔の華僑の生計の利器─「3把刀」は、料理の包丁・裁縫の鋏・理髪の鋏だ。此の3つの刃物を使う商売は、恒久の需要が見込め日銭が直ぐ回収できるので、単純で危険が小さく効率が良い。国境を越えた其の商法の成功は、人類共通の欲求を掴んだ結果だが、飲食・衣服・理容の不易な市場を支えるのは、其々「求生本能」「羞悪之心」「愛美之心」に他ならぬ。中国語の「理髪・礼法」の同音は、体面を繕い飾る両者の役割に合致する。
中国国民党と日本自民党の長─総裁も、共産党中国と日本の内閣の長─総理も、鋏を用いる裁縫・理髪と関わる職名だ。表に立つ襟・袖から来た「領袖」と、顔なる人物を形容する中国語の「頭面」も、此の2つの領分に属する。刃物に由る体裁・体面の維持・修飾は、美徳たる「忍」の「心・刃」の字形や「刃」との同音を思い起すと不思議でもない。「刀・衣」を含む「裁」は柔らかい衣に対して、硬い裁決・制裁・独裁を派生する。
「怖」の「心・布」の「布」は『角川大字源』で「恐れる意」、「怖」は白川静の『字通』(平凡社、1996)で「恐怖・惶懼の時に発する驚きと恐れの声に由来する、擬声的なもの」と解された。「布・怖」の同音・形通は「初」の「衣・刀」と共に、礼法の初めに有った禁忌意識の根底と繋がる。儒・法の畏怖・恐怖と自律・他律の上に立つ中国礼法は、人間・社会・天理の3者への恥・罪・罰の重荷を人々に同時に負わすから厳しい。
本書では恥の感覚に比べて罪の意識は弱く、罰の警告や不利益への言及は少ない。陰影を切り落とす単純化に因る善への一辺倒や、「謹・和・敬・清・寂」的な話法への追求からか、「刑・罰」の「刀」偏に因んで言うと、伝家の宝刀を容易に抜くまい昨今の日本の政治の在り方とも通じるが、日本語の「無恥・無知」と「鞭・笞」の音通は罰の暗示とも取れる。「謹慎」の和製語義に処罰が入る事も、明治以前の日本の峻厳を物語っている。
本書は明治の『小学生徒心得』と同様に、形態の説明は詳しく意識の説明は簡略で、配慮の心得は多く禁忌の規定は少なく、繊細な糸の印象は濃く強力な縄の観は薄い。中国で死語化した「掟」の字は手錠を連想させるが、被疑者の手錠や縄に朧しを施す日本のテレビの「遮醜・遮羞」(醜悪・羞恥隠し)にも似た建前の美観への拘りは此処でも感じる。細部や形象への執着が目立つ著者の勧めから、日本礼法の「微・美」の特色が滲み出る。 
日本礼法の得意技 「微・美」
日本人の礼儀正しさには遠慮深さが目立つが、「遠慮」の和製語意は語源の「深謀遠慮」の「遠慮」(深遠な思慮)と違って、寧ろ反対語の「近憂」(目先の心配)に近い。礼法の主体や対象なる個人・社会・自然は観念の領分で、「微観・中観・宏観」(微視・等身大・巨視)の次元に対応する。貪欲な中国人は全ての方面を同時に配慮しがちだが、日本人は可視の美観や微視の隅々には敏感な反面、形而上や巨視の世界には些か鈍感だ。
「微観」や「謹小慎微」(小心翼翼)から、日本的な礼感覚の鍵言葉─「微」が思い浮かぶ。「罰・敬」の二極の中で柔順の後者に傾く日本人は、孔子流で言えば、固い山を好む仁者よりも柔らかい水を好む智者の観が強い。日本は規制社会の硬直さが目に余る一方、融通無碍の機知・弾力性にも富む。礼法や社会法の基軸には人情の機微も有るが、中国語・日本語の「機・忌」の音通は、礼法の底流の剛と柔、理と情の繋がりを示唆する。
「機微」は、「@微か。極く微か。A微かな兆し。表面に現われない微妙な徴候。〔後漢書・蔡伝〕B微妙な点」(『角川大字源』)だ。語源の中国では死語に化したが、「微妙(処)」等で対応できる。宋の『辨奸篇』の「見微而知著。月暈而風、礎潤而雨」(微かな兆候を見て動向[本質]を知る。月暈が出れば風が吹き、礎が湿ると雨が降る)の様に、日本並みに「察しの文化」が発達する中国では、機微を重んじる発想は根強い。
孟子が挙げた成功の3要素─天の時・地の利・人の和に即して思えば、礼法の機微は人情(和)と時機(時)に尽き、両者とも利に基づき利を導く物だ。「不可道・不可名」の本質を敢えて定義するなら、人情の機微を弁える事とは、人情の常を踏まえ人の胸中を洞察し気を配り事に対処する事で、時機の機微を心得る事とは、上記の心構えを機敏に実行する事か。前者の利は利他(引いては利己)であり、後者の利は効率的な運びである。
『日本礼法入門』の要領には、万国共通の物が多い。披露宴の終了後、料理に手を付けていない司会者や受付の人の為に、別室に食事を用意するか食事に見合う土産を持参してもらう、という配慮が一例である。周恩来も外賓と会食の際に、通訳にも食べる隙を作るよう気を遣っていた。他者への思い遣りと「体察」(念入りに観察する事。身を以て察する事)、「体貼」(親身になって気を配る事)は、人情の機微の普遍的な原理と言える。
其の入念は「謹」の精神と繋がるが、「情・清」の字形の同源と中国語での同音(倶にqing)は、「人・仁」の同音と合わせて人情の機微の極意を示唆する。気配りの動機と効果は様々な要約が出来るが、善意に因り清々とした情念を人に持たせる事も中に入る。「礼楽」の「楽」とは和を醸し出す音楽だが、「悦」との同音は興味深い。発音が異なる「楽」の「快楽・安楽」の語義と共に、愉悦に対する中国礼教の追求の象徴に成る。
時・利・和と「体察」「体貼入微」(痒い処に手が届く事)の気配りの集大成として、著者が勧めたおしぼりの出し方を挙げたい。暑い場合等は冷えた物より熱い物が却って喜ばれる事が有ると知っておきたい;飲み物に就いても同じ事で、常に相手の気持ちを念頭に置くのが礼法の第一歩だ、と言う。暑い時に熱い物が喜ばれるとは、汗で体内の熱を発散する東洋医学の逆説なのだが、西洋の流儀と逆ながら相手本位の原理は違わない。
小笠原清信は客を泊める際の遇し方として、目立たぬ処で客の望む物を然り気無く用意する事をも最高の心遣いとした。酒を飲んで寝ると夜中に喉が乾いて目が醒める事が有るが、こんな時は枕元に水差しやお茶が用意されていると、接待側の心遣いが偲ばれて楽しみが倍加するだろう、と言う。人情の「情」は「静」とも字形が同源で、機微は文字通り「機」と「微」の合成であるが、「静・微」の極意は正に左様な気遣いの暗黙・陰翳だ。
中国側は田中首相の訪中に備えて、彼の生活習慣や嗜好を調べ尽くした。迎賓館の部屋に好物の台湾バナナ、富有柿、木村屋の餡パンを置き、暑がりの体質に合わせて室温を彼が拘る17度に統一し、部屋に入るとおしぼりを出す等の工夫を凝らしたが、何れも然り気無い演出がミソだ。朝食の味噌汁に故郷・新潟の老舗の味噌が使われたのに気付いた角栄は、中国の接待の伝統の悠久さと奥深さに舌を巻き、大変な国に来たなと驚嘆した。
一連の気配りは入念な「謹」による、相手を尊重する「敬」の表示だ。中国の接客・接客業の理想─「賓至如帰」(賓客は我が家に帰った様に感じる)の効果は、心を和ませる「和」の賜物である。田中が享受した生理的な快適さと、恩義の負担を強いられぬ心の爽快は「清」の範疇に入る。不即不離・天衣無縫(技巧の跡が見えぬ程に完璧な様)の細工は「寂」の次元に成るが、彼の唸りは五美徳の中で「寂」が高級段階に当る事の証か。
角栄も実は周恩来と互角の気配りの大家で、其の伝説的な名人芸には運転手への心付けの配り方が有る。予め握って置いた5千円札を降りる際に、ドアを開けて把手に掛けた儘の相手の掌をさっと触れ、誰にも気付かれず渡す一瞬の離れ業は、人情・時機の機微の一流の手本だ。
欲望の満足と体面の維持を両立させる真似は、人情の機微への洞察と巧みな計算に由る物だが、心が優しく芸が細かく手が器用な日本人は此の手の演出に長ける。
前出の「食べ始め(終わ)る時期」の「期」は「機」が正しいが、時機の機微は正に「機微」の字面を体現する物だ。人情の機微と同じ大切な要領として、此は『日本礼法入門』の中で繰り返して出た。例えば、客側の心得として、主人が直接玄関に出て来た時は挨拶は簡単にし、正式な挨拶は部屋に通された後にする;用件は簡潔に直ぐ切り出す事だが、此のタイミングと帰り際のタイミングが訪問の印象を左右する重要な点だ、と言う。
立礼でも坐礼でもお辞儀の美しさは相手と呼吸を合わせる事に在るとした著者は、こちらが頭を起こしているのに相手がまだ頭を下げていたりして戸惑う事が有るが、上体を曲げる数秒間の間の取り方さえ心得ていればどぎまぎせずに済むと述べた。此ぞ微妙な時機の問題だが、此の「間」に当る中国語の「分寸感」は、寸分の距離の機微を弁える均衡感覚の意で、其の操作は「把握分寸(火候)」(時機[火加減]を把握する)と表わす。
人と呼吸・意気が合う事は中国流で「合拍」と言うが、音楽の拍子・調子が礼儀の規矩・準縄の手段たり得るのは、礼楽の和合の心・技の妙だ。家元はお辞儀の要の「呼吸法」として、吸う息で上体を曲げ、吐く息の間だけ曲げた姿勢を静止し、再び吸う息で上体を起す、という「礼三息」を推奨した。後退りや歩行中の方向転換は3歩でする、襖や障子を3回で開ける、酒を細く→太く→細く注ぐ等、本書には呼吸法や3段法は実に多い。
礼節の「節」は『論語』の「長幼之節、不可廃也」の通り、人間や人間関係の望むべき定めだ。『易』の64卦の1として、此の字は「制度(人間に於ける文化的な行動規範・表現規範)。
節制。節し止とどめる」に言う(『角川大字源』)。『楚辞』の「応律兮合節」の様に、「節」はリズムをも表わすが、『礼記・楽記』の「文采節奏、声之飾也」が出典の「節奏」は、硬い節度・節制に対して、軟かい楽の側面から礼の制度を補完する。
毛沢東流の闘争の要訣─「有理、有利、有節」の理・利・節(節奏)は、本書の「吐く息で一歩、吸う息で一歩、歩くようにすると疲れない」「小走りする時は、吸う息で二歩、吐く息で二歩、呼吸が乱れない」にも見られる。其の合理的な利点には、中国語で「清」と同音の「軽」(負担の軽減)が有る。一方、後退りの3歩を適度とし、訪問先でブザーは3度以上押さぬよう説く処に、好く整った調子の節奏と関わる節度の問題が出る。
ブザー押しの3度を「最小限の最大」とする著者は、3度辞退し3度譲る「三辞三譲」を根拠に挙げた。辞書には此の4字熟語も「三辞」も見当らず、「三譲」は『広辞苑』『角川大字源』に有るが、後者で語源とされた『論語・泰伯第八』の「三以天下譲」(3度も天下を譲った)より、廟に昇る君子の心得を説く『大戴礼記・朝事』の「三譲而後伝命、三譲而後入門、三揖而後至階、三譲而後昇」の方が、具体的な礼法の用例に相応しい。
諸候が君主に拝見する際の礼節として、取次係が君命を伝える前も門に入る際や殿堂に昇る際も3回の謙譲が要り、階段に至る前の敬礼の回数も3度とされたが、「入門」も含む進退の礼は本書の題名と内容と吻合する。「揖」(胸元で組み合わせた両手を上下するか前へ推し進める動作)は、日本人に奇異に映る中国独特の敬礼が、「三揖」は「三譲」の流儀の典型を成し、冠婚葬祭の最敬礼─「三鞠躬」と共に礼の節度の上限を示す。
「鞠躬」(お辞儀)は「躬」の「身・弓」の字形の通り、「体を屈めて、謹敬を示す」(『角川大字源』)動作だ。此の語彙の代りに日本語に入り、「─として参上する」等の成句を生んだ「鞠躬如」は、『論語』の次の場面が語源である。「入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾。過位色勃如也、足如也、其言似不足者。摂斉昇堂鞠躬如也、屏気似不息者、出降一等、逞顔色怡怡如也、没階趨進翼如也、復其位如也。」
孔子は宮城の門に入る時は、謹み畏まる様で入りかねる様に体を屈め、門の中央側のには立たず、敷居を踏まないで通過した。普段君主が立つ場所を通り過ぎる時は、表情が緊張し足取りがそろそろとし言葉も舌足らずの様だった。裾を持ち上げて堂に登る時は、謹み畏まる様で呼吸を止める様に息を潜めた。君主が居なくても聖域への「触犯」(法に触れる。癪に触る)・「僭犯」(僭越な触犯)を忌避するとは、謹敬・慎独の典範である。
一方、彼は退出の時は階段を一段降りると、顔に安堵と余裕の色が浮かび、階段を降り切ると小走りに進み、席に戻ると恭しくした。成語の「堂に入る」は、「学術や技芸などが、その道の深くまで達し、すぐれている。また、手慣れていて、すっかり身についている」(『広辞苑』)意だ。堂に入る際の其の「戦戦兢兢、如履薄氷」と息遺いの自粛と、退く際の堂々たる立派さと気楽さは、進退の呼吸法や礼の節度と調節の真諦を窺わせる。
小笠原清信のブザーを押す要領には、「三度目が勝負どころ」「くどくなったり、或いはあっさりし過ぎてもいけない」と有る。最大限と最小限の均衡点たる3度は、度合い・頃合いの量的な指標だが、慎重・練達の忖度・把握が要る「分寸」の本質は、量的な変化が質的な変化を起す寸前の分岐点だ。分明と混沌、安全と危険の境界線は、日本の諺の「一寸先は闇」に別の意味で現われるが、「忖度」の「心・寸+度」の複合は意味深長だ。
「分寸・分際」「方寸・大業」「寸心・心術」「礼数・心火」「分寸感」は中国でも歴史が浅いので、日本語に無いのは当然かも知れぬ。「分寸」は『角川大字源』の解─「長さで、一分一寸。僅か。少し。〔史記・蘇秦伝〕“臣東周之鄙人也、無レ有二分寸之功一”〔菅家文草五〕」の最後の出所が示す通り、日本に一旦入り又消えた様だ。
『辞海』では同じ出典を引く「@比喩微小」の次、「A適当的限度或程度。『紅楼夢』第21回“姐妹們和気、也有個分寸児、也没個黒家白日閙的!”」と有る。
姉妹たちと仲良くするのも程が有り、昼夜の境も無く騒ぐのは如何な物か、という苦言は「親しい仲にも礼儀有り」と似た和・謹の志向だ。「分寸」の節度と「閙」の乱闘の表裏同居は、『辞海』の「分際」の両義にも見られる。「@猶言分寸。界限;程度。分、各自的本分地位;際、物事相互間の交遇。A猶言不可開交、難解難分。」(@分寸に同じ。境界、程度。分は各自の本分・地位、際は物事間の境目。A伯仲・拮抗・膠着の意。)『角川大字源』の「一@けじめ。〔史記・儒林伝序〕“明二天人分際一”A身のほど。身分。B軍勢の数。〔太平記三六〕二(国字)一のAに同じ」と照らせば、上記のAの消失が目に付く。
専門家に由る中国語の語釈にも日本的な取捨が有るとすれば、語意に含まれた闘争・混沌が嫌悪された事か。「分寸」と同義の「寸分」が日本語に有るのは単純な転形だが、「忖」の構成要素が複合した「寸心」には、微妙ながら実質的な変容が見られる。
『広辞苑』の「寸志に同じ」(「寸志」=@些かの志。A心ばかりの贈り物。B自分の志の謙譲語。寸意。寸情。寸心)は、『角川大字源』の「こころ。心の在り場所を一寸四方と考えたので言う。方寸。〔陸機・文賦〕“吐二沛滂乎寸心一”〔懐風・在二常陸一贈二倭判官留在京序〕」、『辞海』の「猶言区々之心。如:聊表寸心。何遜『夜夢故人』詩:“相思不可寄、直在寸心中。”杜甫『偶題』詩:“文章千古事、得失寸心知。”」と異なる。
語源の西晋の文学理論文献や唐の「詩聖」の作品に絡むが、『広辞苑』の「方寸」の解は、「@一寸四方。転じて、ごく狭い所。“─の地”Aこころ。心中。胸中。奥の細道“江山の水陸の風光数を尽して、今象潟( )に─を責む”」、別の項の「方寸」は、1907年に創刊し、編集・寄稿者に坂本繁次郎・北原白秋等が居た美術・文芸雑誌の名だ。明治末(1911)の『方寸』の終刊と今日の「方寸」の死語化は、祖型喪失の文脈と関わる。
『辞海』『角川大字源』の語釈も似通うが、語源と成句に引いたのは、『孟子・告子下』の「不揣其本而斉其末、方寸之木、可使高於岑楼」(=比較の標準が無いと、非常に低い物[方寸の木]も山の様に高い物[岑楼]よりも高いとされる事が有る譬え。『角川大字源』)、『蜀志・諸葛亮伝』の「今巳失老母、方寸乱矣」(『辞海』では前文の「庶(徐庶)辞先生而指心曰:“本欲與将軍共図王覇之業者、以此方寸之地也”」も出る)だ。
孔明の前任の軍師が劉備と別れる際に曹操に老母を人質に取られた心境を言う「方寸乱」は、心の乱れの形容に好く使われる。小笠原清信が戒めたベルの押し手の焦りも精神の動揺だが、礼法の究極の忌避は内心と社会の乱れに他ならぬ。此の一寸四方を以て将軍と共に王覇の大業を図る初志は、「礼法」が出た『荀子・王覇』の篇名や小笠原流礼法の祖型の武道と通じる。
方寸・大業の二極は又、『孟子』の用例の本・末、高・低と繋がる。 
『角川大字源』の「方寸」と『辞海』の「方寸地」の語源に、『列子・仲尼』の「方寸之地虚也」が有り、『辞海』では前文の「吾見子之心矣」も付く。私は貴方の心臓を見たが、其の一寸四方は空っぽに成っている、という意は正に「空心」(中空)の有様だ。次の「幾聖人也」(殆ど聖人と同じだ)は、至高の仁・智と虚心・「務虚」(後述)の相関を示唆する。礼教・茶道・相撲で最も重要な「心」は、こんな単純・複雑の両面を持つ。
『広辞苑』で「寸心」の同義語とされた「寸志」は、『辞海』には単独の項で出ていないが、par 『角川大字源』の「僅かの志。贈り物をする時に謙遜して言う。〔梁簡文帝・奉二請上開講一啓〕」の通り、語源は古代漢語である。『辞海』の「寸心」の用例に挙がった「聊表寸心」も、物を贈る際の謙遜の常套句だ。自らの志を遜り矮小化する発想は今の中国人には無いが、「薄礼」(寸謝)の口語─「小意思」は字面でも「寸志」と対応する。
「寸心」は日本語で「方寸」と分化し、実用的な意味が突出したが、物を贈る際の修辞の装飾の働きは即物的と言うより、「包身」の慎みと「包物」の含羞を兼ねる心的な要素が強い。
品物と品位の両方を表わせる「品」の様に、物・心は漢字文化の中で互い内包し合うのだ。千古の事業なる文章の得失は作者の寸心が知るという杜甫の心得も、損得を成敗の基準にする点では、「心得」「心算」の字面通り精神と利益・計算の二元が有る。
明治『小学生徒心得』論の中で、王陽明の「破山中賊易、破心中賊難」を引いたが、彼の明の大儒の生年(1472)は、『小学生徒心得』と『日本礼法入門』の401、501年前に当る。同じきさがたく「心即理」を標榜した南宋の大儒・陸象山と共に、2人の学問は陸王学派と呼ばれる。小笠原流の弓馬礼法の基を創ったとされる貞宗の誕生の丸百年前(1192)に逝った陸は、幕末の思想家・兵学者の佐久間象山の名前の由来と成る人物だ。
13歳頃の「宇宙便是吾心、吾心即是宇宙」(宇宙は即ち我が心で、我が心は即ち宇宙だ)の宣言を始め、彼は覇気と反逆を多く見せた。其の理気一元論と朱熹の主知論の対立は、儒家の正統派・浪漫派の両端を示した。「我註六経」(我は六経を註す)の逆を行く陸の「六経註我」(六経で我を註す)は、「言・主」の字形を考えれば「註」の初志に沿っているが、六経の意を兼ねる「六芸」の首尾の「礼・数」は「心・算」に対応する。
日本語に無い「礼・数」の合成─「礼数」は、『角川大字源』で「身分に応じて定められた儀式の等級。〔左伝・荘一八〕“名位レ不同、礼亦異レ数”〔欽明記〕〔字類抄〕」と解されたが、『辞海』では此の語意は「官階品級」(官位の階級)と共に@とされ、同じ出典の前文の「王命諸侯」も引かれた。Aは「礼節。王建『早秋過龍武李将軍書斎』詩:“語笑侍児知礼数、吟哦野客任狂疎。”」だが、此の方が千年余り後の今も生きている。
名分・礼節を表わす「礼数」の生命力は、礼法に於ける礼と数、心と算の相互内包を示唆する。「心算」は今の中国語で暗算しか表わさぬが、「心計」の意味合いも暗に含まれる。「算」と関連する中国語には同音の「数・術」や、「技・機」と同音の「計」が有るが、「心」と組む語彙で先ず「心計」を取り上げよう。『広辞苑』と『辞海』の定義は其々、「@こころづもり。胸算用。Aもくろみ。計画」と「@心算。指理財。A計謀」だ。
後者の@には、「『史記・平準書』:“桑弘羊以計算用事侍事……弘羊洛陽賈子人、以心計、年十三侍中。”王君玉『国老談苑』巻二:“陳恕長於心計、為塩鉄使、厘宿弊、大興利益。”」と出所も出る。桑弘羊は『広辞苑』には収録されず、『角川大字源』では「前152─前80。前漢の人。商人の子で、武帝の時、塩・鉄の専売、均輸の法などの経済政策を実施し、御史大夫になった」と記されたが、政敵に殺された事実が抜けている。
中国に於ける桑の知名度は、塩・鉄官営を堅持した末の殉職に由る。同じ経済・政治の改革を敢行した政治家で、戦国時代の商鞅(前390〜’38)は貴族の誣告で車裂の刑に処され、北宋の王安石(1021〜’86)は守旧派に宰相の座を奪われ、『辨奸篇』の非難の標的にも成った。商鞅の事績が朱鎔基首相の感涙を誘った等、此等の悲劇的な「変法」(変革)者は中国では評価が高いが、戦後日本での無名化は維新精神の衰微の証か。
外敵・匈奴に妥協する「和親」政策への桑弘羊の反対も、内敵の毒手に遭った顛末と同じく此の平和な島国には縁遠い事だ。理財に由り誉れを得て計謀に因り命を喪った其の生涯は、正に『辞海』の「心計」の両義を体現した。中国語の「心算」の類義語─「暗算」は、「暗害」(暗殺する。陥れる)の意も有る。「心計@」の別の出典の「長於心計」(心計に長ける)は、「心計A」の文例の「工於心計」(心計に長ける)と類似する。
「工」は此処で精巧の意だが、精工や技芸、職人、仕事の語義は、例の「六芸」「美・微」や続篇の松下幸之助『商売心得帖』論の主眼─職業道徳と関わる。13歳に「吾心即是宇宙」と豪語した哲学者・陸象山と13歳から朝廷に仕えた理財家・桑弘羊は、「理・財」の字面と共に『論語』・算盤の対に対応する。「心計」の出所に有る「大興利益」も、礼法の密教的な奥義に暗合するが、日本語でほぼ死語化した「心術」にも触れたい。
『広辞苑』の解は、「@[管子七法“実也、誠也、厚也、施也、度也、恕也、謂二之心術一”]こころだて。こころばえ。A〔哲学〕動機や目的観念を道徳的に選択・決定する、持続的な意志方向。Gesinnung の古い訳で今は心情という」、「心術道徳」は「心情道徳([Gesinnungsethik]道徳的判断の対象を心情におき、よいこころばえをあらゆる善の標準とする。パスカル・カント・リップスの倫理思想)に同じ」。
其の@と同じ出典を引く『辞海』の「心術@」は、「心計。計謀」と定義した上で、「後亦指居心、多用於貶義。如:心術不正」(後に亦魂胆を指し、貶す意に多用する。例えば、下心が有る)と添えた。其の計謀の打算や邪念の性悪と共に、古代中国の認識論も日本語で消えた。
『管子』の篇名から来た『辞海』のAは、戦国時代の一部の老子学派の「治心之術」に関する見解、「心術=心を以て道を認識する方法」等の説を詳解した。
文例に『管子・心術上』の「心之在体、君之位也;九竅之有職、官之分也」(心が体に在る位置は、君主の地位に相当する;体の9つの穴[口・目・耳・鼻孔・尿道・肛門]が各々役割を持つのは、官吏の職分に類似する)、「心術者、無為而制竅者也」(心術とは、無為にして体の全ての穴を制御する物だ)が引かれた。2回繰り返した前者は心の在り方、後者は心の持ち方を説くが、倶に『列子』の「方寸之地虚也、幾聖人也」と通じる。
其の次の「子心六孔流通、一孔不通」(貴方の心臓は6つの穴が通っているが、1つの穴だけ塞がっている)は、聖人の心臓に7つの穴が有る事が前提だ。熟語の「七竅」に対して『管子』の「九竅」は屎尿の出口を含むが、同じ章の「掃除不潔」等と合わせて、清濁合わせて統治する志向が窺える。「竅」は簡略字・「」の「穴・巧」の字形の通り、要穴・要訣の意も有るが、同じ章が唱えた虚心・冷静の心術は正しく聖人の「空心」だ。
「九竅之有職、官之分也」は、体内の「礼数」の存在を示唆する。心の焦りを戒める3度のベル押しの要訣に引っ掛けて、先ず「三焦」を引き合いに出そう。此の概念は『広辞苑』の通り、「漢方でいう六腑の一。上中下に分れ、消化吸収および大小便の排泄を司る。もともと無形有用のものとされ、“黄帝内経霊柩”に“上焦如霧、中焦如薀、下焦如漬”といい、また上焦は胸中に、中焦は腹部で臍の上に、下焦は臍の下に位するという。」「九竅」の末席の排泄器官も尾籠ながら無用の大用を果たすが、三焦の物理的な上・中・下に対して、心・腎・膀胱の「三昧火」は君・臣・民の序列を成す。「心火」は『広辞苑』『角川大字源』で、「@火が燃える様に、激しく起り立った憎悪・嫉妬または憤怒の情。A死人の魂が飛び交うとされる怪しい火。また、歌舞伎で人魂を表す為に燃やす火。陰火」「@感情の激しい動き。A心宿に同じ」と解されたが、中国語の意は更に複雑だ。
『辞海』の語釈のBも「星名。即心宿」と成り、心宿は28宿星座の内の東方第5で、『晋書・孫恵伝』の「心火傾移、喪乱可必」が言う様に、 惑星(火星)への接近が戦乱の前兆とされた。@の「内心的急躁煩悶」は、憎悪や嫉妬の類の邪悪な感情と違って、単純に内心の焦燥・煩悶を指す。日本語で邪悪な感情に言う「邪気」は中国語で、病を惹起する体内の不健康な気が原義だ。其の焦燥・欝勃の傾斜も、個我の「喪乱」を招く物だ。
漢方医学の「衆妙之門」:「辨証」「治本」Aの解は「中医学名詞。1指心及其在五行中的属性。五臓分属五行、心属火的範疇。2指心熱火旺的病理現象。一般多由情志之火内発、或腎水虚不能上済而致。表現為心煩、失眠、面赤、口渇、口舌生瘡、舌紅、甚則神乱発狂等」と言うが、1の心及び其の五行に於ける火の属性はBの心宿と関わり、2の逆上せは@の心理に悪影響を及ぼす心裏の病理と通じる。両方とも上記の日本の辞書に出ないだけに、生粋の中国特色が見て取れる。
毛沢東は主治医・李志綏の回想に拠れば、世界に対する中国の3大文化貢献として、麻雀、「中医」(漢方医学)と『紅楼夢』を挙げた。日本人も情報戦・心理戦の遊戯─麻雀を愛好して来たが、政治の投影が強く経済運営が前面に出る人生哲学の教科書─『紅楼夢』を敬遠する処に、『源氏物語』の純愛・不倫の人間劇に親しむ情緒が垣間見られる。漢方医学も神秘な易学が基盤を成す観念性の所為で、日本の精神風土には馴染み難い。
孟子の「方寸之木」論の「本・末」に絡むが、漢方医学の最大な特長は「治本」(抜本的な治療)だ。逆の「治標」(対症療法)の「標」と「表」の同音は意味深長だが、漢方医学の奥秘は奥に秘めた「経絡」(脈絡)に在る。膝元の下や足裏の要穴が上半身への刺激・制御の働きを持ち、左側の面部神経が右手の要穴に通じる様な針灸の奥妙は、老子の「無名、天地之始;有名、万物之母」の後の「玄之又玄、衆妙之門」を体現する物だ。
毛沢東は『易経』・老子とマルクス主義の接点に、相関・対立から統一・発展を求める弁証法を提唱した。ギリシア語のd i a l e g o から来た此の哲学の学説は、漢語の「辯証」の「言」偏と合う様に談話・弁論が原義だ。「弁証」は『広辞苑』で、「@弁論によって論証すること。
また、弁別して証明すること。A経験によらず、概念によって研究すること」と解されたが、中国語では「辯証」の他に同音・類形・異義の「辨証」も有る。
言説を言う「辯」と主に分別を言う「辨」は、『広辞苑』でも「弁・〜」の形ながら別々の項と成るが、同辞書の「弁証」は「〜・辯証」の並記が無いし、「辨証」は『角川大字源』の「弁(辯・辨)証」にも入らぬ。強い中国色の故に疎外された此の語彙は、『辞海』の「辨証施(論)治」の詳解の通り、「四診八綱」等の方法を以て、臓腑・経絡学説等の全体的な観点から、患者及び発病の具体的な状況に基づいて適切な診断を下す事だ。
診・断の両面を持つ「辨証」の基本─「四診」は、器官・全身・挙動・表情を観る「望診」、発声・呼吸を聴き体臭・口臭・排泄物の臭いを嗅ぐ「聞診」、症状や関連事項を質す「問診」、脈・腹・手足に触る「切診」だ。辨証の要綱─「八綱」の「陰・陽・表・裏・寒・熱・虚・実」は、8種の証候(中国語の「証候」は「症候」と同音・同義)の総称だ。中国古来の獣医では、「表・裏・寒・熱・虚・実・邪・正」の「八証」に帰す。
『辞海』の「辨@」の定義・例文・出所は、「辨別;明察。如:明弁是非。『左伝・成公十八年』:“周子有兄而無慧、不能辨菽麦。”『荀子・栄辱』:“目辨白黒美悪、耳辨音声清濁。”」と成る。身体・「神態」(表情・様態)の所見から病理を突き止める「辨証」は、人相から誠・偽を識別する『辨奸篇』の追及、易学の占術や麻雀の情報収集と判断─決断に通じる。「四診八綱」は元を糾せば、全方位に対応する八卦の体系と同根だ。
「皮相」の字面・語義と逆に、表層の舌や爪の色も内実・本質の証と成る。「施(論)治」は治療の原則・方法の確立・実践の意だが、「四診→八綱」の展開も方法→原則への昇華だ。
「八綱」に無い獣医学の「八証」の邪・正は、動物性と人間性の対立と結び付ければ興味深い。
「八証」に無い「八綱」の陰・陽は、逆に人間学の原理の極致に思える。全ての症状を4組の対概念に帰納する処に、中国思想の複雑─単純系の原型が窺われる。
迂遠な様で簡明な漢方医学の絡繰は、弁証法の複眼思考と同じく逆説的な合理性・効率性が高い。「治標・治本」の対立も普遍性と特殊性の同時把握に由って、「先標後本」の展開や「標本同治」の達成が可能だ。『辞海』の「辨証施治」で触れた「同中求異、異中求同」(同の中に異を求め、異の中に同を求める)の検証・探求は、此の比較論にも適用し得る手順だ。前出の「礼治」と「治心之術」も、仁術と心術の接点に交合して来る。
“Artislong、lifeisshort”は、芸術の生命力の長さと人生の短さを嘆く意で人口に膾炙するが、古代ギリシャの医聖・ヒポクラテスの此の箴言の原義は、医術は奥深く人生は短しとし生涯に亘る研鑽を励ます事だ。中国語の「医術・芸術」の同音や、毛の挙げた中国の3大文化貢献が医・芸(文芸作品の『紅楼夢』と競技の麻雀)に尽きる事には、中国とギリシャが半分を占めた古代の4大文明の名残が漂う。
ヒポクラテスが医術・医学の祖とされるのは、歴史と理念の両方の座標軸で妥当性を持つ。
中国医学の始祖は神話の中で黄帝に遡れるが、実在の可能性が高い伝説的な其は戦国時代の扁鵲だ。生没年不詳の彼は秦武王(310〜307在位)の治療に当り、侍医の嫉妬を招き殺されたと言うので、前480〜375年頃に存命した他方の医祖より数世代下だ。扁鵲は脈学の提唱で名高いが、ヒポクラテスは古今の医師倫理指針の礎まで創った。
弁証法は彼の医聖と全く同時代のソクラテス等の古代ギリシャの哲人の対話術に由来した名称で、中国の弁証法的な思弁は其より数世紀先行した観念的な思索は両国文化の伝統を成して来た。其の奥深さ・悠長さのl o n g に対して、日本文化の指向性には短さ・身近さが目立つ。
具体的な結論を急ぎたがる日本人には、弁証法は詭弁、原理論は空論に映り易いのと同様に、玄妙な観念を実証の指南と講釈に使う漢方医学の流儀は難解で諄い。
中国医学の用語の「心火」の両義を更に吟味すると、『辞海』のAの「2心熱火旺的病理現象」に対して、五行の中の属性を指す1は心と火の先天的な相関を示す。其の病的な「心熱」と健全な熱心の表裏一体は、陰陽原理の相克相生や言わば「相殺相(救)済」の証に思える。
より文化の断層を超え難い中国的な発想は、五臓と五行の対応や心臓・心霊と星座の心宿の繋がりだが、内と外、具象と抽象を跨ぐ広い幅は高度の対応力の秘密だ。
古代ギリシャの神話も古代中国の哲学も体系を重んじたが、systemの訳語─「体系」の字面通り、漢方医学は身体を系統として捉える。五行・天地を凝縮した小宇宙の五臓と全身は、統一的な原理の下で構成された組織だ。「心之在体、君之位也」は観念的な譬えの様だが、漢方医学の「心=君、腎=臣、膀胱=民」や「心火=君火、腎(肝・胆・三焦)火=相火」の規定は、社会の秩序・法則が生理・心理の実存へ投影した物だ。
「肝腎」を大事な処の意に使う日本語の感覚からすれば、其の肝・腎の位置は低過ぎよう。
同じ漢方医学の論理にも、此の辺りは不整合が見られる。呼吸を司る肺と消化を司る脾・胃は「後天之本」とされ、「先天之本」は他ならぬ精力の源泉─腎だ。生理機能と生命活動の根源の意を含む漢方医学の独特の用語─「命門」も、主に右の腎か両腎の中点を指す(『辞海』の@A。B=目;C=第2、3腰椎の間に在る針灸の督脈の要穴)。
「命門之火」の出典は、『景岳全書・伝忠孝』の「命門有火候、即元陽之謂也、即生地之火也」だ(『辞海』「命火」)。「機微」の文脈に出た「火候」の再登場は、中国の「医食同源」の伝統と吻合する。「腎陽」即ち「元陽」は元気の元であり、臍の下の3寸に在り男の精室・女の胞宮の所在とされた丹田穴は、腎と共に「相・民」の下位に並ぶ三焦の中の「下焦」に位置するので、体内組織の「上部構造」は下半身にも跨がる形と成る。
孟子の「民為貴、社稷次之、君為軽」に従えば、『礼記』の「君、至尊也」と逆の君・民の価値順位も有り得る。此の「怪圏」(メビウスの環)風の相互内包─転換は、正に『辞海』の「相火妄動」の直前の「相反相成」だ。毛沢東が弁証法の精髄とした此の成語は、『漢書・芸文志』の「仁之與義、敬之與和、相反而皆相成也」が原典だ。義に対する仁、敬に対する和の相反しつつ相成る対立・統一も、礼法の理念体系を究明する切り口だ。
「相火」は「温養全身」の働きの反面、「相火妄動、則能致病」と言う様に、陰陽の協調が崩れると病気を起す。陰陽調和の要なる事も腎が重宝される要因だが、臓腑に名分が付くのは礼教と同じ調和の目的意識も有る。例の「官之分也」の次に、「心処其道、九竅循理」(心が其の在るべき道に安定していれば、9つの穴は条理に従って運行する)、更に「礼者謂有理也」と言うが、巡り巡って礼の「有理・有利・有節」の特性と繋がる。
日本人の学芸・競技の芸道化も医術と芸術の相関と関わるが、医術の治癒・倫理と茶道の癒し・礼法も原理が似通う。礼法が重んじる思慮・弁えは、「弁証・思弁」の字面・本質の両方と重なる。「弁証施治」の是非・真偽の弁別や「扶正駆邪」は、礼法・「礼治」の智・仁の手段・目的に通じる。扁鵲を破滅させた侍医の嫉妬も「心火」の筆頭に入るなら、「火」と同音の「禍」を惹起する邪気は、正に礼節の最大な敵─「心中賊」か。
『角川大字源』では『荀子・非相』が出典とされたが、記してない語録は、「術正而心順、則形相雖悪而心術善、無害為君子也。形相雖善而心術悪、無害為小人也」(術が正しく心が素直なら、形相が悪くても心術は善いので、君子なる事の障害は無い。形相が善くても心術が悪ければ、小人なる事の障害は無い)だ。次の「君子之謂吉、小人之謂凶」(君子の姿を吉相と謂い、小人の姿を凶相と謂う)は、又も吉・凶を軸とする価値判断だ。
「術正而心順」の前に、「相形不如論心、論心不如択術。形不勝心、心不勝術」([吉凶を予知するには]形相で測るのは心[の当否]を論じるのに及ばず、心を論じるのは術を択ぶのに及ばぬ。外形は心に勝てず、心は術に勝てぬ)と言う。心と術は此処で分離されたが、心に対する術の優位は道を掴む方法である故か。術・心・体の順位に因って形相は下位に置かれるが、『辨奸篇』の主旨は他ならぬ人相から心術の正邪を察する事だ。  
行動文法読解の一例:中・日の「七賢」 / 「聖之時者・委曲求全」
此の『日本礼法入門』論は日本礼法の入門研究だが、一連の行動文法を解く鍵には文法を織り成す概念が有る。初動の段階から寄り道を辿らねば行けぬのは、日・中の言語のずれを超克する必要が一因だ。「心術」は日本語で信条の要素が消え、完全に心情・身上に使われるが、『辞海』の「心火A(2)」の中の「情志」も似通う。『広辞苑』に無い此の語彙は、『角川大字源』で「こころ。こころざし」と解されたが、原義はもっと奥深い。
『辞海』の次の解を観れば、中国でも敬遠されがちの「情志」の宿命は頷ける。「中国伝統文論中的一個術語。最早見於南朝梁劉的『文心彫龍』。謂存在於人的自我中而充塞浸透到全部心情的基本的理性内容、是経過慎重考慮的情緒方面的力量、是属於感性範疇的感情和属於理性範疇的思想互相浸透交織而成的有機整体。情志是衝突激起人物行動起来的内在要求。也相当於希臘文中的“情致”、“激情”、“情動力”等詞所蘊含的意義。」
同辞書の「劉」の項よりも多い字数を費やした講釈だが、人の自我の中に存在し而も心情全体に充満し浸透した基本的な理性の内容、慎重な考慮を経た情緒面の力、感性の範疇に属する感情と理性の範疇に属する思想が相互に浸透し織り成した有機的な全体、という込み入った概念は掴み難い。重要度では比べ物に成らないが、日本の伝統美の鍵言葉の「さび・わび」や「物の哀れ」と同様に、古賢が考案した鍵言葉は其ほど含蓄が深い。
但し、茶道の「寂」を「冷寂・枯淡」で解した前述の論断の様に、複雑な概念の単純化も出来る。村井康彦の『茶の文化史』(岩波新書、1979)等、「さび」の源を心敬の枯淡閑寂に帰す向きが多い。『広辞苑』の「心敬」の中の「和歌を正徹に学び、冷え寂びた心境を求めた」は、「さび=冷寂」の中国語訳の妥当性を裏付けている。仏教に精通し晩年に出家した劉は、約千年後の権大僧都・連歌師の心敬と文学・宗教で接点を持つ。
晩年の心敬が隠棲を以て避けようとした応仁の乱(1467 〜 77)は、同じく社会の激震が続しかく「文化大革命」(1966 〜 76)のほぼ3百年前の事だ。王安石の変革建議の「万言書」の却下(1058)と毛沢東独裁の発端―国防相・彭徳懐の「大躍進」批判の「万言書」の却下(1959)も、901 年隔たりつつ世紀の似た時点で起きた。両国の古代史や中国の今昔の間の左様な連環は、礼法の祖型と変容の把握には示唆的だ。
『角川大字源』の「情志」の出典に、稽康『琴賦序』の「導二養神気一、宣二和情志一」が引かれたが、稽康と約千2百年後の心敬は倶に七賢の一員なる誉れの持ち主だ。稽康が筆頭を成す魏・晋の竹林七賢は文人隠士で、心敬を含む室町前期の七賢は連歌の名手だが、乱世に生きた境遇が似ている。『広辞苑』の「竹林七賢」に、「世塵を避けて竹林に会い清談を事とした」と有るが、稽康は俗世の塵埃の比でない政治の疑獄に連座し殺された。
『辞海』には「竹林七賢」は有り「七賢」は無いが、『広辞苑』『角川大字源』の「七賢」の@―周の七賢は、『論語・微子第十八』の「逸民:伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連」だ。同じ段の次の件も、此の論考の主旨に繋がる。「子曰:“不降其志、不辱其身、伯夷、叔斉與!”謂“柳下恵、少連、降志辱身矣、言中倫、行中慮、其斯而巳矣。”謂“虞仲、夷逸、隠居放言、身中清、廃中権。我則異於是、無可無不可。”」其の志を下げず(意志を曲げず)、其の身に恥辱を蒙らせなかった(身を汚さなかった)のは、伯夷と叔斉である;柳下恵と少連は、志を下げて身に恥辱を蒙らせたが、言論は道理に適い、行動は思慮に基づいており、そんな処だろう;虞仲と夷逸は、隠居と放言をしながら、身の潔白を保ち、自棄も権謀に由った、―と世を捨てた彼等を評した上で、自分(の進退)は此等と異なり、可も無く不可も無し、と孔子は独自の立場を表明した。
日本の歴史にも隠者の系譜が有り、其の生き方は美化されがちだが、日本で馴染みの薄い「逸民」の代表格に対する上記の観方は、彼等及び孔子の存在や意識の影の部分を窺わせる。
伯夷・叔斉の高い志と高い栄誉を最高の価値とする一方、高・潔と認め難いものの思慮・分別の常道から逸れなかった柳下恵・少連には、「求全責備」(完全を求めての譴責)を敢えて避けた。虞仲・夷逸の飄逸や「潔身」には、実は隠れた「心計」も有った。
商末の孤竹君の長男・伯夷と次男・叔斉は、文王の老人優遇を慕って周に移住したが、武王が商を滅ぼした後は隠居し、周の食糧を拒み餓死に甘んじた。節操の典範として伝説化された挙動だが、善悪とは別に身の破滅も否めぬ現実だ。dilemmaに当る中国語の「両難」の字面通り、命と名の両立は難しい。中国では「做人」(人間として世に生きる)が最大な難事とされるが、伯夷・叔斉以外の面々の巧い保身は要領の良さの賜物だ。
『日本礼法入門』刊行の直後に中国で起きた林彪・孔子批判で、孔子の「挙逸民」(逸民起用)論が槍玉に上がったが、例の3種類の逸民の身の処し方は「文革」中の中共指導者にも見られる。彭徳懐や劉少奇は信念を貫き英名を残したが、迫害を受けて志半ばで散った。周恩来は最大限に良識を守りながら、非情な現実とギリギリ妥協した。「文革」末期と天安門事件の際の小平・趙紫陽の下野は、不本意な様で計算付く面も無くはない。
例の7人の逸民の中で只1人、同じ「微子」篇で2度出たのは柳下恵だ。「柳下恵為士師、三黜。人曰:“子未可以去乎?”人曰:“直道而事人、焉往而不三黜?枉道而事人、何必去父母之邦?”」(柳下恵は裁判官を務め、三度解任された。貴方は其でも[魯国を]去らないのか、と人が言うと、正直に人に仕えるのでは、何処に往っても何度も解任されよう:道を枉げて人に仕えるのなら、父母の邦を何故去る必要が有ろう、と言った。)
『論語』の発信者たり得た事は、柳の其の姿勢が孔門で共鳴を受けた証だ。『孟子』で「聖之和者」とされた彼が巷で有名なのは、凍った女性を自らの服で懐に包めてやり、正直で立派な人柄の故に淫行の疑いを招かなかった伝説に由る。『荀子・大略』の「柳下恵與後門者同衣而不見疑」から来た成語の「坐懐不乱」は、異性関係に於ける男子の品性の高潔の代名詞と成ったが、「降志辱身」の評は綺麗事だけでない聖人君子の一面を示す。
孔子は『孟子』の中で、柳を含む数人の聖人の典範よりも高次元の聖人とされた。此の柳下恵評も其の高邁さを窺わせるが、柳に関わる2つの記述の隣接は価値の重層の表現だ。党内の極左勢力が1974 年の初めに起した林彪−孔子批判で、「当代大儒」として暗に攻撃された周恩来も、清廉・立派な人柄が民衆の間で神格化される程だが、死後謗りを受けた「文革」中の毛沢東への迎合は、「正人君子」の鑑・柳の「降志辱身」に近い。
「誹謗」の「言・非」「言・旁」の字形が物語る様に、世間の誹(謗)りには傍観者の無責任な発言が多い。多少の「違心」(心に無い)の言動をしないと、周恩来は自分及び多くの人々を守れなかったろう、と「文革」後の小平は弁護した。「文革」中2回失脚した経験者の論断だけに説得力が有るが、真直ぐな為に直ぐに躓く様な現実は昔も今も変わらぬ。一方、 も「直道」の一本槍ではなく、其の2 度の復活は屈伸変幻の結果だ。
「屈伸」と中国語で同音の「屈身」は、孔子の「鞠躬如」とも柳下恵の「降志辱身」とも関わる。同じく日本語に無い関連語の「委屈」は、「@身を屈し節操を曲げる。身を屈して従う様。委曲。〔後漢書・孔融伝論〕A無実の罪を晴らせないでいる。B才能を発揮できないでいる」(『角川大字源』)の多義だ。@に出た「委曲」は中国語で、『広辞苑』の「詳しく細かなこと。つまびらかなこと。また、事柄のこまかな点」より幅が広い。
『角川大字源』の「@詳しく隅々まで行き届いている。委細。A裳裾の垂れ下がる様。B物事の奥底。C委屈の@に同じ」と、『辞海』の「@義同委屈。曲意求全。A事情的底細和原委。
B隠微不顕;曲折不順。C批示」には、同じ漢語語彙に対する取捨の違いが見られる。司馬相如『子虚賦』が出所である前者のAは、日本の専門家に由って残された。後者のCの出所の岳珂『宝真斎法書賛』に出た「批示」は、日本語には入っていない。
毛沢東の統治手法に「批示政治」が挙げられた程、中国に於ける「批示」の使用頻度は高い。 
此の語彙は『辞海』にも『角川大字源』にも単独の項が無く、前者の「批」の「F公文的一種。即批示」、後者の「批」の「F公文書の一種。国民の要請に対する回答。“批示”」に出るが、請訓報告書での批准・指示を特に指す現代の「批示」は、後者の同じ項の「E臣下から出した書類の終わりに天子が示す決裁。“ 批”“批准”」に近い。
此の礼法論の探求で謀らずも語源不明の此の言葉の古例に遭遇したのは、日本と中国、古代と現代の地下水脈の存在を示す事だ。南宋の文学者・歴史学者の岳珂が言及した「批示」は、段文昌『秋気帖』の「有華陽消息、可報委曲」の講釈だが、『辞海』の「岳珂」の事績の中の祖父・岳飛の為の「辨誣」(冤罪の弁護)は、「冤枉」(不実の罪・誤解)と同義の「委屈」に繋がる。「武聖」と孫の隔世の連環は、文武両道の文脈にも通じる。
『角川大字源』の@の出所は司馬遷『史記・天官書』の「委曲小変」で、『辞海』のBの出所―『後漢書・班彪伝』の「司馬遷序帝王則曰本紀、公候伝国則曰世家、卿士特起則曰列伝、又進項羽陳渉、而黜淮南衡山、細意委曲、条例不経」も、他ならぬ『史記』の春秋筆法を論う内容だ。隠微・屈折を言う其のBの語義は、『漢書・厳彭祖伝』の「委曲従俗」が出典の『辞海』@の「曲意求全」(事を全うすべく意を曲げる)の意と重なる。
「文革」中の周恩来の曲線的な自他保全は、正に「曲意求全」と同義の「委曲(曲意)求全」だが、孔子が柳下恵に中立の評価を下した理由と同様に、彼は然るべき節度を失わなかった。
毛沢東への謹・敬と政治家・人間の「倫・慮」の両立は、「清・権」の表裏や屈・伸の転形と同じ均衡感覚が要る。均衡感覚の過不足は中国流で「失分寸」と言うが、柳下恵が孔子の断罪を免れたのは、節操の喪失並みに節度の喪失も忌み嫌われる事か。
日本語の「晩節を汚す」と中国語の「失晩節」には、日本的な清潔志向と中国的な滅亡意識が其々現われる。中国でも成語の「潔身自好」の様に、我が身の潔白を保つ理想が根強い。祖籍が周恩来と同じ紹興で江沢民と同じ揚州で生まれた散文家・詩人の朱自清も、名前と人生の両方で其を体現した。彼は内戦中の1948 年、米国の援助食糧を拒んだ末に貧困と病気で54 歳の生涯を閉じ、文学の声価と共に「民族気骨」の美名を遺した。
毛沢東は彼を讃える時に、伯夷・叔斉の「不食周栗」を引いた。清貧に甘んじ節操を失うまい気骨は儒家の伝統に沿うが、明末の学者・劉宗周の遺訓―「餓死事小、失節事大」(餓死は小さい事、失節は大変な事)は、彼等の価値観を言う格言だ。此の「失節」も日本語に無いが、『角川大字源』の「節義を失う。正義に従って身を守る事ができない。〔左伝・成公一五〕“聖達レ節、次守レ節、下失レ節”」は、又『辞海』の語釈と食い違う。
後者の「@失去節操。多指投降敵人。『宋史・楊震仲伝』:“従之則失節、何面目在世間?”旧亦指婦女失去貞操。A違背礼節。『史記・秦始皇本紀』:“廊廟之位、吾未嘗敢失節也。”B失去調節;違反時令。『魏書・天象志一之三』:“皆雨暘失節、万物不成候也。”」の節操・礼節と調節・時節の重層は、中・日共通の「気節」の気骨・季節の両義と重なる。『礼記』で孔子が「聖之時者」とされたのも、時流の中の自在な調節の故だ。
逸民の話は横道に逸れた様だが、「枉道」と「王道」は紙一重の差である。周総理は姓・職名の通り万事周到だったが、其の緻密さと本論考に於ける「委曲求全」の転義―微細に拘り完全を求める事は、「曲礼」の奥義に他ならない。「委曲」は鞠躬如の礼儀・体の弯曲→矮→倭→日本礼法の連想を誘うが、小笠原清信が入門書で説いた立ち居振る舞い方と周恩来が不立文字で示した身の振り方は、倶に栄辱を軸とする価値観が根底に有る。
「治世・知性」「礼治・理智」「七教・七芸」「三聖・三品」粋狂・酔狂を装う古の逸民は安全と名誉を狙ったが、逃避兼発信の清談は「水」+「青」の「清」の淡泊・洗練、「言」+「炎」の「談」の旺盛・執拗の両面を持つ。上記の「心計」「心敬」は『広辞苑』で隣接し、「劉」は『辞海』で「文」の次に出るが、簡略字の「」は「文・刀」の両道の表徴に見え、同じ多い姓の「張」の「弓・長」は礼法の由来の射・武に絡む。漢字の連環の切り口から、此の様に観念の深層が明かされて来る。
『失われた祖型を求めて―日本礼法の研究:序説』の中で、『広辞苑』の「物の哀れ」の語釈を取り上げたが、此の和語概念の@の「調和的情趣」や「優美・繊細・沈静・観照的の理念」は、茶道の「謹・和・敬・清・寂」や日本的な微・美と通じ、中国の壮美・戦災・進取・関与の理念や現実と対蹠を成す。其のAのしみじみとした情趣の触発の契機―人生の機微・儚なさに対して、本論考は社会の絡繰・滅亡を通して心性を見詰める。
「心術」の文脈に「七竅」が出たが、『広辞苑』で其の隣に在る同音の「七教」=「@〔礼記王制〕人倫の七つの教え、即ち君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友・長幼・賓客に関する道義。A〔大戴礼記主言〕民を治める七つの根本の教え。敬老(老人を敬う)・順歯(目上の人に従う)・楽施(施しを楽しむ)・親賢(賢人につき従う)・好徳(徳を好む)・悪貪(貪欲を憎む)・強果(強くててきぱきしている)の七つ」も、礼法・心術に関わる。
君臣の関係が冒頭に出た@は出典の篇名・「王制」と合致するが、其の秩序−価値の順位に即して思えば、封建的な社会主義の色彩が有った時代に於ける周恩来の領袖への奉迎は理に適う。賓客の作法に偏る『日本礼法入門』の性質も、@の人倫道義の内容に由って浮き彫りと成る。出典に「心之在体、君之位也」が有る「心術」の精神制御術と同様、Aも帝王の統制の要素を持つが、最初の敬老は正に伯夷・叔斉が周文王に感化した事由だ。
其の7 根本の頭と茶道5美徳の中央の「敬」、「親賢」と子夏の「賢賢」、「悪貪」と「貪相」への「羞悪」、「強果」と商鞅・韓非の「図強」や孔子の「敏於事」、等の対応は前出の文脈と繋がる。一方、「七賢」は「七賢人」(=前620 年から70 年間に出たギリシアの傑出した治者7人の称。アテナイのソロン、ミレトスのレース以外の5人については異説が多い。その処世訓は箴言の形で広く喧伝された。『広辞苑』)を連想させる。
中・日・希臘の古代の逸民・傑物は固有名詞の「七賢(人)」で会合したが、七教の治世と七賢人の治者、希臘の政治家と医祖・医聖との連環も興味深い。七教の根本と漢方医学の「治本」は、「治術」の「@治療の方法。医術。A国を治める方法。政治の方法」(『広辞苑』)の両義に対応する。『辞海』に無い此の語彙は『角川大字源』に拠れば、「治道」(国を治める政治の仕方)が原義で、「治法」(治療の方法)の方は「国字」だ。
其の変容は日本語の脱政治の選好の証と思えるが、医術の本質は仁術であり救世は究極の救急・救命だから、医道と王道、医者と治者の類似は普遍性を持つ。『辞海』『角川大字源』に無い「治者」は、『広辞苑』で「一国の統治する者。統治者。主権者」と解され、産地も語源も不明だが、中国語でも日本語でも同音・形似の「治者・知者・智者」の連環は、日本語の「治世・知性」や中国語の「礼治・理智」の同音と考え併せて面白い。
「知者」の中・日共通の語義は、『広辞苑』の@の通り「事理をよくわきまえた人。智者」だ。同辞書の関連成句の「−は惑わず」「−は水を楽しむ」に、『論語』の「知者不レ惑、仁者不レ憂、勇者不レ懼」「知者楽レ水、仁者楽レ山」が出たが、後者は此の論考の材料にも成った。
「智者」は『広辞苑』で、「@智恵のすぐれた人。賢人。A智識の高い僧」と定義されたが、Aは「知者」の「A知人」(用例=狂言『鱸庖丁』)と同じ和製か。
同辞書の「智者大師」(=智の大師号)は、其の転義の由来を探る手掛りに成るが、中国の天台宗第3祖で実質的な開祖の智は、法華経の精神と竜樹の教学とを体系付けた人物だ。
隋煬帝の帰依を得た彼の偉業は、王も下方に位置する「聖」の字形の象徴性を見せ付けたが、高僧の知能の創造力は日本の茶祖の理念体系の形成にも寄与した。巡り巡って、茶の湯に妙味を与えた禅宗の思弁性は、前出の弁証法や下記の智者の接点に在る。
『辞海』の「智者」の「@聡明者、有才智之人。『史記・淮陰候列伝』:“智者千慮、必有一失;愚者千慮、必有一得。”」は、『広辞苑』の同じ項の解・関連成句も一緒だ。Aの「智者(希臘文S o p h i s t -e s)。一訳“詭弁派”。公元前5世紀中葉到前4世紀之間以伝授知識為職業的古希臘哲学者們的称号。他們伝授有関政治的知識(如弁論術)、語法、修辞学等、是三芸的創立者。(略)」は、「三芸」と共に『広辞苑』には無い。
思想の共通に因り一派と視られたものの、固定した学派を組成せず統一の学説も無い点で、其の在り方は例の「治心之術」を説く戦国時代の老子学派や陸王学派等、古代中国の多くの哲学の流派と通じる。最も著名な代表者の1人・H i p p i a sの生誕(前481)は、儒祖・孔子の逝去の2 年後と医聖・ヒポクラテスの出生の1年後に当る。古代の中・希の治(仁・医)術の連環は其処に現われるが、智者も孔子と同じ思想家・教育家だ。
『辞海』の「三芸」は「七芸」に同じで、『広辞苑』『角川大字源』に無い後者は、全称「七種の自由芸術」で、中世欧州の早期の学校の主要な科目を指し、文法・修辞・弁証法(中世に於ける邏輯の名称)・算数・幾何・音楽・天文を含み、前の3科目と後の4科目が其々「三芸・四芸」と名付けられ(「三学・四学」の訳も有る)、文芸復興から19 世紀半ばの欧州の学校では、此を基礎に学科を増やし課程の体系を構築した、と言う。
周の士以上の必修教養科目の礼・楽・射・御・書・数と比べれば、数学・音楽が重なる反面、中国の礼に始まる技芸と欧州の「始めに言葉有りき」、地に着く中国の競争(射・御)と空に向く欧州の探求(天文)とは対比を成す。其の「六芸」と「七芸」、六芸の内の「書」と日本独特の「三賢」(=和様書道で、三人のすぐれた人、即ち小野道風・藤原佐理・藤原行成の総称。三蹟。『広辞苑』)は、日本的な心性を照射する光源に成る。
『角川大字源』の「三蹟」―「平安中期の三人の能書家。小野道風・藤原佐理・藤原行成。
→三筆」は、『広辞苑』に無い時代の明示が有り難いが、『広辞苑』の「また、その筆跡」が出ないのは手落ちだだ。さて置き、両者の語釈に共通の「能書家」も示唆的な和製漢語だ。中国語の「能」は単に「出来る」意であり、上級の職人や玄人を言う「能工巧匠」「能家里手」は誉め言葉だが、美術の等級の「三品」の中で「能品」は最下位だ。
中国でも「賢」は仁・智、「賢人」は治者・知者・智者、「賢夫人」は「賢淑・賢恵」(貞淑・聡明)・「能干」(遣り手)の多面を持つので、「能書家」は「賢」の美称と妙に似合うが、書道や連歌の達人・名手を「〜賢」と名付ける事は、中国的な発想では混線の様に思われる。
日本語で礼法の意に転義した「作法」は、中国語で即物的な遣り方を表わすが、日本語の「書道」と違う中国語の「書法」も、書を技能と割り切る側面が強い。 
日本に於ける心・技、芸・道の一体化や、「聖」の下位に当る「賢」の位置付けを考えれば、「能書家=賢」の規定は納得が行くが、能書家は「賢」と共に「聖」でもあり得る処に問題が在る。『広辞苑』の「三蹟」は「三賢」を類義語とし、関連語に「三筆・三聖」を挙げた。「三筆」の定義は「我が国書道史上三人の優れた能書家」で、イは「平安初期の嵯峨天皇・空海・橘逸勢」だが、空海も小野道風も「三聖」の中の「書聖」に入る。
「ロ書聖、即ち空海・菅原道真・小野道風」が入る「三聖」Bの定義は、「その道で最も優れた三人」であり、技術・道具の形象の強い「能」「筆」は出ない。同辞書の「書聖」の解―「書道の名人」も、「能書」の「(ノウジョとも)文字を巧みに書くこと。また、その人。
能筆」より次元が高いが、熟語の「能書筆を択ばず」は「弘法筆を択ばず」に同じと言うので、弘法(空海)が筆頭に当る書聖と能筆家との境界線はやはり曖昧だ。
「三筆」のイの後、「ロ世尊寺流の藤原行成・同行能・同行尹。ハ寛永の三筆。近衛信尹(三藐院)・本阿弥光悦・松花堂昭乗。二黄檗の三筆。隠元・木庵・即非。ホ幕末の三筆。市河米庵・貫名海屋・巻菱湖」と続く。5組も有るから希少価値が低いが、一義のみの「三聖・三賢・三蹟」との関連は気懸りだ。「賢・蹟」の藤原行成が此処にも入り、小野道風が「聖・賢・筆・蹟」の全てに跨がる事は、4つの格の価値の判断を複雑にする。
同じ人から成る「三賢・三蹟」の違いや「賢・蹟」の同義、及び「聖」「筆」との優劣も解し難い。倶に平安中期という時間の要素は意外と決定的なのかも知れぬが、他の時期の書家に「賢・蹟」の称号が付かない事は、此の2語と平安初期の時代精神との相性の好さも一因か。
「三賢」の中の小野道風が時代の差を超えて入る事からしても、「三聖」を最高位と観るのが妥当だが、此の「聖」は「賢・筆・蹟」との混合の他にも問題が有る。
「三聖」Bのイは「歌聖、即ち柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫」、ハは「俳諧で荒木田守武・山崎宗鑑・宗祇」で、同辞書の「俳聖」の解は「優れた俳人。特に松尾芭蕉に言う」だ。
俳聖の代表格が俳諧の三聖に無いのも訝れるが、後者がイ・ロの「歌聖・書聖」の様に「俳聖」が付かぬのは、異質の概念を意味する事か。「俳聖」に「三聖」Bの「最も」が無いのも不審に思うが、定義を観る限り俳諧の三聖より格下に映っても仕方が無い。
中国でも学芸の聖者は時代や選者に因って違う事も儘有るが、個々の判断に拠る諸説が有っても概念規定の中核は差程ほど変わらぬ。『辞海』の「書聖」の「指書芸最高的書法家。『南史・王志伝』:“志善藁楷隷、当時以為楷法、斉遊撃将軍徐希秀亦号能書、常謂志為書聖。”」は、芸と能書の価値を肯定する材料よりも、評者の将軍が字に取った「能書」を凌ぐ「書聖」の優位の裏付けと観るべきで、最初の「最高」こそ「聖」の絶対条件だ。
無名の王志が「書聖」の語源と成る事は、中国の「聖」の多様性を窺わせる。「詩聖」も『辞海』の「明清文人推崇杜甫、称為“詩聖”。葉燮『原詩』:“詩聖推杜甫”」の通り、杜甫の指定席として定着して来たが、定義の「造詣很高的詩人」(造詣がとても高い詩人)は排他的な観方を封じている。同辞書の「詩伯」(=猶言大詩人。杜甫『石硯』詩:「平公今詩伯、秀髪吾所羨。」)との高低の不明は、『広辞苑』と五十歩百歩の様だ。
一方の「詩仙」は『辞海』で、「@指才情高超、気韻飄逸的詩人。牛僧孺『李蘇州遺太湖石因題』詩:“詩仙有劉(劉禹錫)白(白居易)、為汝数逢迎。”A指唐代詩人李白。由於李白詩風雄奇豪放、賀知章曾称李白為謫仙、故後人称李白為“詩仙”。」と解された。牛(779 〜847)・劉(772 〜 842)・白(772 〜 846)と賀知章(659 〜 744 頃)・李(701 〜 762)の時代からも、@の敷延なるAの縁由が判る。
毛沢東が好んだ李白・李賀・李商隠の「三李」に比べて、劉・白は寧ろ現実的な作風が濃いので、「歌仙」は余り似合ぬ感じも残る。定評を得ていない同時代人に捧げられた経緯を考えれば、此の種の賛辞は最初から恣意性が強い。故に過度な追及は控えるべきだろうが、『広辞苑』の「詩聖@=傑出した詩人。詩仙」、「詩仙@=天才の詩人。詩の大家。詩聖」は、2つの概念を関連語でなく同義語に扱う処が中国の常識の範囲を超える。
其々のAの「特に、李白を詩仙と称したのに対する、杜甫の敬称」、「特に、杜甫を詩聖と称したのに対する、李白の敬称」は、非の打ち処が無いが、両者の陰と陽、崇高と飄逸の対比を念頭に置いたのかは疑わしい。「詩聖」の語釈の「傑出」と「造詣很高」は大同小異の様だが、『広辞苑』に俳聖・俳諧の三聖計4人が登場し、『辞海』の詩聖が1 人に限られた事には、両国の詩歌の超大家の基準の緩和と厳格、曖昧と明晰の差が窺える。
「超絶・三絶」「聖善・神童」「極頂・聖地」「聖人・正人」日本の碁界を長い間に制覇した呉清源は、台湾政府から「大国手」の称号を受けたが、「棋聖」の名誉号の受領及び彼の為の「棋聖」位の設置を頑なに拒んだ。百年・千年単位の視野で感じた希世の聖者の重みが其の謝絶の理由だが、其に比べて日本の年1回の棋聖戦はともかく、商売用の「日本一」「日本元祖」云々の乱発は如何にも忌憚が無い。「同業者とは関係有りません」と断った上で左様に銘打つ宣伝には、滑稽な印象さえ受ける。
茶道の要諦から日本の心性・美学を読み解こうとして来たが、一口に茶道と言っても多数の流派が林立している。日本人の3傑好きを映す富士の絵の定番の頂の3つのジグザグに通じるが、茶道の巨峰を成す3派に於ける千家の表・裏の同居は興味深い。『辞海』の「書聖」の古例の中の「楷法」は礼法の「楷模」(模範)を連想させるが、儀礼の芸道の小笠原流への恒常の一極集中は、別の角度から日本芸道の家元・型の秘密を考えさせる。
空前絶後の力量を持つ技芸聖者と違って、世襲の世代間のばら付きも有り得る芸道組織の家元は、祖型の権威と其の「承前啓後」に負う部分が多い。『辞海』の「詩仙」の解の中の「高超」は日本語に無いが、類義の「超絶」は日本語で技能・器量等の卓越の他に、西洋哲学用語の対応として、観念・存在等の超越をも表わす(『広辞苑』)。其の時空・思惟の超越性・絶対性と共に此の論考の手掛りと成るのは、「三・絶」の組み合わせだ。
『辞海』の「三絶」は、「集於一人或一時的三種卓越的技能。一般指詩、書、画。『新唐書・鄭虔伝』:“嘗自写其詩、併画以献。帝大署其尾曰:‘鄭虔三絶。’”也有指別種技能或事物的。
如唐文宗時詔李白的詩、裴旻的剣舞、張旭的草書為三絶。見『新唐書・李白伝』。又『新唐書・李揆伝』:“揆美風儀、善奏対、帝嘆曰:‘卿門第、人物、文学、皆当世第一、信朝廷羽儀乎!’故時称三絶。”(『新唐書・徐彦伯伝』例略)」と言う。
「美風儀」は後の礼法・観念論の伏線に成るが、『広辞苑』の「三絶」の「@三つの優れた技芸。技芸に優れた三人」は例示が無い。「A三首の絶句」は今の中国で使わぬ語意だが、「B三度切れる事」の用例―「韋編三絶」(=[史記孔子世家]〔孔子が晩年易を好んで読んだ為に、書物の綴じ紐が三度も切れた故事から〕書物を熟読すること。読書に熱心なこと。同辞書)から、「孔聖人」を代表とする道徳・観念の聖人群が引き出される。
『広辞苑』には「三聖」「四聖」も有り、其々「@世界の三人の聖人。イ釈尊・孔子・キリスト。ロ老子・孔子・釈尊。A古代中国の三人の聖人。イ伏羲・文王・孔子。ロ尭・舜・禹。
ハ舜・周公・孔子。ニ文王・武王・周公。ホ老子・孔子・顔回」、「釈尊・キリスト・孔子・ソクラテスの四人の聖人。世界の四聖」と言う。中国人は聖人を崇拝し最高の3〜4者を讃える習性が有るが、『辞海』に無いのは日本でより尊重される事の証か。
只、『辞海』の「聖」には孔孟の道の投影が濃く出る。「@無所不通。『書経・洪范』:“睿作聖。”孔伝:“於事無不通謂聖。”A謂道徳極高、僅次於神。『孟子・尽心下』:“大而化之之謂聖、聖而不可知之之謂神。”趙岐註:“大行其道、使天下化之、是為聖人;有聖知之明、其道不可得知、是為神人。”B謂所専長之事造詣至於極頂。如:詩聖;草聖。C称頌帝王之詞。
如:聖旨;聖駕。D宗教上指属於教主的。如:聖地;聖徒。」『広辞苑』の「聖」の解は、次の通りである。「(呉音はショウ)@知徳が最も優れて、あまねく事理に通じていること。また、その人。ひじり。“−人(せじいん・しにょんう)”“賢−”Aその道に最も傑出した人。“歌−”“楽−”B天子また天子に関する語に添えて用いる語。“−上”“−徳”Cイけがれなく、尊いこと。“−なる神”“神−”“−火”“−夜”ロ(S a i n t)キリスト教の聖者の名に冠する語。“−トマス”D清酒。→聖人」。
『辞海』との相違は先ず知と徳の合併だが、『辞海』の分類で知の方が先に出るのは、「知徳」や孔子の「智者樂水、仁者樂山」の語順に合致する。両辞書の@の言わば「万事通・事理通」は、『紅楼夢』の「世事洞明皆学問、人情練達即文章」(世事を洞[明]察するは皆学問、人情が練達するは即ち文章)を想起させる。事理・機微の把握を説く此の種の格言が中国で人生哲学の奥義に入る事は、処世を芸道と見做し知を徳と認める故だ。
Cイの汚れ無い件もDの清酒の意も『辞海』には無いが、両者は日本人の清純好きを映し出す。『角川大字源』の「聖C=清酒の異称。濁酒を賢と言うのに対する。〔李適之・罷レ相作詩〕“楽レ聖且銜レ杯”」の通り、後者の語源は他ならぬ中国だが、此の語義は『辞海』の「聖」の解と全項目には見当らぬ。清酒・濁酒を聖・賢と呼ぶ処に中国人の清濁合わせて呑む感覚が出るが、其の蒸発は聖と俗(酒)の断層を絶対視する意識に由る事か。
『角川大字源』の「聖」Bの「さとい。賢い。鋭い。鋭敏」も、今の中国人には馴染まない語意だ。用例の「聖童」「聖小児」は同辞書で其々、「優れて賢い子供。神童。〔後漢書・張堪伝〕」、「非常に優れた知恵を持つ子供。聖童。神童。〔北史・祖瑩伝〕」と解されたが、漢籍が出典の此の2 語は『辞海』の「聖」の110 項目には出ない。「聖童」は『広辞苑』にも載っていないが、今の中国では日本と同様に「神童」が一般的だ。
『辞海』には代りに「聖善」が有り(=称美母親之辞。『詩経・風・凱風』:「母氏聖善。」後用作母親的代称。孫光憲『北夢瑣言』巻四:「道士勉其入蜀、適遇相国聖善疾苦、未果南行。」)、此の語は『広辞苑』にも入った(=[詩経風、凱風]@優れてよいこと。A〔母の徳を称して言う語〕慈母)。余りにも古色蒼然で両国とも今は死語同然だが、『辞海』の「聖」の語彙群に母親の代名詞が有り児童の修飾語が無い事は意味深長だ。
「神童」は『広辞苑』で、「才知の極めて優れた児童。“十で−十五で才子”」と解されたが、『辞海』では次の両義と成る。「@聡明異常的児童。『梁書・劉孝綽伝』:“孝綽幼聡敏、七歳能属文、舅斉中書郎深賞異之、常與同載適親友、号曰神童。”A唐宋時科挙有童子科、赴挙者称応神童試。」此の論考の発端―日・中・ソ小学生守則の比較で、大志を促す共産党中国の子守歌の中の伝統を指摘したが、此処で新たな裏付けが出た。
序論で使った「新中国」を此処で「共産党中国」に改めたのは、共産党時代でも善悪は別として新しい瓶の中に旧い酒が多々有る故だ。「文革」後に再起した小平の最初の決断は、科学・技術の近代化に繋がる大学入試の解禁だ。「不拘一格降人材」(清の自珍の詩)の渇望から、少数の10 代前半の超英才が飛び級で大学に進学した。の意向で誕生した「少年班」は巷で「神童班」と呼ばれたが、例の「神童」の@Aは其処に出揃う。
喝采を浴びた其の破格な登龍門でなくとも、毛沢東時代から学生を表彰する常套句には「優異」が有る。異常な程の優秀さに対する称賛は、「聡明異常」の神童に対する古人の「深賞異之」の特別視の延長だ。同時代に好く用いる「品学兼優」の礼賛の通り、其の「優」は品格・学業の両方を兼ねるが、「聖・神」の対は其々徳・智の側面に偏る点では「品・学」の対に対応し、其々無垢・秀逸の形象が強い点では「優・異」の対に対応する。
「聖」は『辞海』で唯一「神」に次ぐ格とされたが、両者の序列は「神聖」の語順の儘だ。
「仙」並みに天才を形容する「神」の格上は、超能力に対する畏敬の所産と思える。日本語の「才徳」の語順は、其の常人の心理や「神」の優位に合うが、人材や女性の理想像を言う中国流の「徳才兼備」と「才貌双全」(才色兼備)は、次元に応じて能力の位置が異なる価値の多元を示す。「聖童」の語彙の自然消滅も、其の軸で考えると解し易い。
「神童・聖善」の対は「神>聖」の前提からしては長幼の序と矛盾するが、中国の三徳の「智仁勇」「仁智勇」「智勇仁」等の組み合わせの併存の様に、「聖上」の字面に因んで言えば「聖」を上に置く格付け方も有り得ろう。「十で神童十五で才子」は逸材の後退と共に、均衡が取れた人材の形成とも取れる。「聖」と「童」の分離も母親を「聖善」とする尊崇と同じく、人格の完成へ向う成長に連れて仁徳の価値が上がる結果にも思える。
『辞海』の「聖A」の定義(=道徳が極めて高く只神に次ぐのを謂う)は、神に劣るのは道徳か知能か徳知の両方かは不明だ。堂々と其の道を行ない天下を感化させるのが聖人で、聖知の明を有し其の道は知られ得ぬのが神人だ、という古註は何れの推論の支援材料にも成る。有形と無形、可知と不可知、堅実と不羈の性質が最大な相異ならば、其々静と動、「楽山」と「楽水」、「寿」と「楽」に価値を置く儒教と道教の違いにも通じ合う。
儒・道の「教」は『辞海』の「聖D」(=宗教上、教主に属する物を指す)を連想させるが、用例の「聖地」は日本語で同音のAの古註の「聖知」、後出の「整治」「精緻」と共に、此の「意識流」風の論考の手掛りに成る。『広辞苑』で「@神聖なる土地。神・仏・聖人などに関係ある土地。A( H o l y l a n d )特に、キリスト教で、発祥地パレスチナの称」と解された「聖地」は、和製か否かは不明だが土着の漢語ではない様だ。
『辞海』の「@宗教徒奉為神聖的地方、常是宗教伝説中的重要紀念地、為教徒朝聖的目標。
如猶太教、基督教、伊斯蘭教的耶路撒冷、伊斯蘭教的麦加、麦地那等」は、上記のAに比べて宗教に限定する反面、例示の範囲が広い。「A具有重大紀念意義的地方。如:延安是革命聖地。」は逆に、同@より広義だが例示は高度に個性的だ。抗日戦争中の中共中央の所在地に宗教の概念を冠する処は、現代迷信よりも漢字の「聖」の普遍性の表現だ。
Aの原文の中で、日本語の「記念」と違う「紀念」が目を引く。「紀」の「糸・己」の字形の自己拘束の表徴性を指摘したが、韋編三絶の「編」(本を綴じる糸)や「編集」(中国語は「編輯」)の様に、「記」の「言・己」の言説表現の含みは「糸」偏の「紀」にも有る。重大な記念すべき意義を持つ場所と言う語釈は、聖賢や祖型等への有るべき態度を示す物だが、「教・紀」を構成する「孝・糸」は聖善への尊崇の絶対・連綿に似合う。
『辞海』の@Aの尊崇・記念は、孔子の奥座敷の「宗廟之美」と関連する。弟子は彼の偉大さを塀に譬え、室内の小綺麗ぶりが覗ける様な肩までの高さではなく、十数bも高い物だと言った。其の不可視・不可知の伝説は神格化の色彩が濃いが、中国では「孔聖人」の尊称が有る一方、「聖人君子」より「正人君子」の熟語が一般的だ。背伸びすれば達成し得る修身は孔子の主張でもあり、現実主義者の彼は等身大の「聖善」の側面も大きい。
「正・聖」も「聖・神」も違う次元で其々現実・理想の対を成すが、枠に囚われぬ流動的な「神」に対して「聖」は山めく堅実性が強い。『辞海』の「聖」Bは専門的に従事し得意とする事の造詣が究極の頂点に至った意だが、其の「極頂」も山の見立てだ。一方、『角川大字源』の「聖@イ」は「一つの道の奥義を究めた人。“詩聖”“書聖”」と言う。天分頼みの神業と違って努力で遂げる偉業も、半ば不可知の奥義の把握が指標に成る。
『角川大字源』の「聖」Cの古例の「楽」は、「智者楽水」と同じ好む・嗜む意で、「楽レ聖」も『広辞苑』の「聖」Aの用例の「楽聖」と違うが、後者の字・義は「楽水・楽山」の「孔聖」の礼・楽に繋がる。『広辞苑』の此の項は、「音楽界の偉人。極めて優れた作曲家・演奏家。
“―ベートーベン”」と言う。同じく世界に誇る音楽の自負が弱い中国では、外国人が「聖」の例示と成るのは考え難いが、其処に日本文化の柔軟性が窺える。
『広辞苑』の「三聖」の@Aが『辞海』に出ないのは、共産党中国の意識形態にそぐわぬ聖賢群の不遇と思えるが、芸道の超絶者を言うBは別に日本独特の定義ではない。江戸中期の和算家・関孝和の生涯を描いた小説・『算聖伝』(鳴海風、新人物往来社、2000)等の様に、超一流の達人は日本で好く「聖」と称されるが、「華夏」の華麗・盛大に相応しい最大級の賛美を好む中国では、「聖」の重みを承知で積極的に使う一面も有る。「算聖・鬼謀」「尽善・尽美」「神器・仁義」「聖賢・政権」其の端的な例として思い浮かぶのは、数年前に香港で逝った或る「賭聖」だ。一代の大家とは言え此の泥臭い土俵に「聖」の美名が有るのは変だが、日本で「金儲けの神様」として尊ばれる邱永漢が指摘した中国人の賭博好きを考えれば頷ける。毛沢東は中華民族の世界への3大文化貢献の1 つに麻雀を挙げたが、好く賭博に転じる麻雀は計算を駆使する闘いの性質に於いて、生地不詳の武士なる「算聖」・関の人生・業績と屈折しつつ通じる。
不正確ながら円周率3.16 を使用した日本最古の和算書―著者未詳の『算用記』(1618)を、『算聖伝』の作者は讃えが、此の小説の刊行の恰度千5百年前に他界した南朝の祖沖之は、同値を3.1415926 余まで確定し、欧州の科学者より約千年も前に近似値の355 / 113 を発見した。
千2 百年後の関よりも大幅に先行した其の偉業は、中国の小学等の教科書のお国自慢に好く出されるが、「算聖」の賛辞は余り聞かない。
日本人が誇り高く名付けた「和算」に対して、「中(華)算」の名称が無いのも自国を顕示したがる中国人らしくないが、世界の中心と自認した時代の名残とも解せるし、六芸の末席が象徴する数の地位の反映とも取れる。さて置き、祖沖之の先行は中国の近代以来の落伍を際立たせ、逆に、『論語』・算盤の二刀流で先進国に急成長した日本は、円周率の把握は3で好いとする小学新学習指導要領(2002実施)の様に劣化が進んでいる。
明治日本の『小学生徒心得』に関する考察(1994)の最後に、向学心への要求が無いという落し穴を突き止めたが、文部省の「ゆとり教育」は図らず其の中空を証明した。1995年に顕在化した日本の「第二の敗戦」は、此の日中礼法・観念比較論の大きな契機と成った。『日本礼法入門』の研究も最終的に20 世紀の最後の4半世紀の両国の小学生守則の比較に繋がって行く予定だが、脱線に見える神童→知徳の文脈も其の伏線だ。
目下の日本では精神・経済の下降が目立つが、其の徳・知、心・術、『論語』・算盤の二極を字面に含む「神算」が連想される。『辞海』の「祖沖之」の次の頁、「神童」の少し後の此の項は、「神妙的計謀。『後漢書・王渙伝』:“又能以譎数発奸伏、京師称嘆、以為渙有神算。”
李賢註:“智算若神也。”又指準確的推測。」と言う。『広辞苑』の解は「妙霊な計りごと。“−鬼謀”」だが、用例の熟語は中国流の「神機妙算」に当る。日本語の「神算」は正確な推測を言う転義が無いが、『辞海』『角川大字源』に無い「鬼謀」も同義だ。『広辞苑』の解―「常人の思い及ばぬような優れた計りごと」は、「鬼」の「C優れたもの。“−才”“神出−没”」に基づくが、「鬼才」は『辞海』にも有る。語釈の「宋人品評唐代詩人李賀之辞、謂才気怪譎」と出典の「太白仙才、長吉鬼才」(『文献通考・経籍六十九』の中の宋祁の言)は、又も詩仙・「三李」の文脈に繋がる。
由来を記さぬ『広辞苑』の同じ項に対して、『辞海』は上記の引用の前に、銭易『南部新書』巻丙の「李白為天才絶、白居易為人才絶、李賀為鬼才絶」も有る。此の賛辞に対する知識人の憧れや李賀の専有名詞である事と共に、天・地・人三才に於ける三絶にも注目したい。白居易に余り興味が無く李白・李賀を格別に好んだ毛沢東の情趣は、同じ「三李」の李商隠が漢文帝を揶揄する句を借りて言えば、「不問蒼生問鬼神」の傾向も有ろう。
白楽天を「人才絶」としたのは牛僧孺の「詩仙」の評より解り易いが、日本で白の人気が相対的に本国を上回る観も有る事は、日本に於ける人の優位と天・地の劣位の現われか。中国の天・地・人三才に於いても、人は物理的な位置に相応しく実質的に中心を成すが、『辞海』の「鬼」の語釈に出た「天神・地祇・人鬼」の3次元の中で、前の2項は日本の3大祭り(天神・祇園・山王)の名と重なるだけに、三才の相関や比重を探りたい。
此の論考も鬼神を問う方向へ向った様だが、敬天・愛人・畏霊の視点からは日本礼法の奥義はより覗けよう。死霊の鬼、星座の鬼宿と前出の物忌、心宿との連環に、鍵言葉の「天神」の有効性を感じるが、形而上の領分ほど両国の断層が大きい。『広辞苑』の「鬼」の和・漢(おに・き)の両方とも、邪悪・怪異・無慈悲の意が主で勇猛・巨大・執念の見立てにも使うが、『辞海』の解の中の狡猾の形容、不良への蔑視、親密の愛称は出ない。
後者の語彙群の2番目の「鬼子」は、1番目の「鬼才」と正反対に侮辱語だ。「罵人的話」(人を罵る詞)のみの語釈は曖昧だが、現代に「小日本鬼子」の蔑称も有るから吟味したい。
出典の「盧志於衆坐問陸士衡(陸機):“陸遜、陸抗、是君何物?”……士衡正色曰:“我父、祖名播海内、寧有不知?鬼子敢爾!”」(『世説新語・方正』)は、一座の前で先代の存在を軽く扱われた際の反撃なので、名声・栄辱の軸で「鬼才」と通じる。
孔子の「尽善・尽美」や孟子の「美+光輝=大」等と併せ考えれば、「鬼子」の貶す対象は小・悪・醜か。日本侵略軍を「小鬼子」と呼ぶのは、大・善・美を尊ぶ意識の発露と