愛護若

愛護若1愛護若2衣掛岩摂州合邦辻摂州合邦辻登場人物「合邦庵室」の構造あいごの若紀海音の浄瑠璃の研究紀海音考説経節「しんとく丸」
「身毒丸」考 / 身毒丸身毒丸諸話1身毒丸諸話2
 

雑学の世界・補考   

愛護若1(あいごのわか)
説経節「愛護若」の主人公。前左大臣二条清平の子。13歳で母に死別。継母の邪恋をこばんだため汚名をきせられ、さまざまな責め苦にあい、ついに自殺。のち疑いはれて日吉(ひえ)山王大権現(ごんげん)としてまつられる。
「愛護若」は浄瑠璃、歌舞伎、音曲に影響をあたえた。
愛護の若2
京の左大臣の二条清平にははじめ子が無く、夫婦で初瀬観音に数日篭もって祈願して授かった子が、愛護の若である。若は13才で母を亡くし、後妻の邪恋による怨みを買って殺されさうになり、猿や鼬に助けられて家を出たあとは、数奇な運命をたどることになった。四条河原の革細工職人や、粟津の商人・多畑之助兄弟らの力添へでなんとか命をつなぎながら、叔父である帥(そち)の阿闍梨(あじゃり)を頼って比叡山に登った。しかし誤解がもとで叔父にも見はなされ、若は穴生の里の飛竜 が滝に身を投げて死んだといふ。
このとき傍らの松に掛けてあった若の小袖に、歌が残されてあった。
かみくらや飛竜が滝に身を投げる 語り伝へよ松のむら立ち
 
愛護若1

若の字、又稚(ワカ)とも書く。此伝説は、五説経の一つ(この浄瑠璃を入れぬ数へ方もある)として喧伝せられてから、義太夫・脚本・読本(ヨミホン)の類に取り込まれた為に、名高くなつたものであらうが、あまりに末拡がりにすぎて、素朴な形は考へ難くなつてゐる。併し、最流行の先がけをした説経節の伝へてゐるものが、一番原始に近い形と見て差支へなからう。
何故ならば、説経太夫の受領は、江州高観音近松寺(ごんしようじ)から出され、四の宮明神の祭礼には、近国の説経師が、関の清水に集つた(近江輿地誌略)と言ふから、唐崎の松を中心に、日吉・膳所を取り入れた語り物の、此等の人々の為に綴られた物と言ふ想像は、さのみ無理ではあるまい。今其伝本が極めて乏しいから、此処には、わりあひに委しい梗概を書く。
嵯峨天皇の御代に、二条の蔵人前の左大臣清平といふ人があつた。御台所は、一条の関白宗嗣の女で、二人の仲には、子が無かつた。重代の重宝に、刃(ヤイバ)の大刀(タチ)・唐鞍(カラクラ)(家のゆづり、やいばの大刀。からくら。天よりふりたる宝にて)の二つがあつた。第六天の魔王の祟りで、女院御悩があつたが、天子自ら二才の馬に唐鞍を置き、刃の大刀を佩いて、紫宸殿に行幸せられると、魔王は、霊宝の威徳によつて、即座に退散して、御悩忽(たちまち)平癒した。天子御感深く、その他の家々にも名宝があらうと思はれて、宝比べを催されたところ、六条判官行重は上覧に供へるべき宝が無くて、面皮をかいて居たのを、清平が辱しめて、退座を強ひる。
判官には、五人の男子があつて、嫡子をよしながといふ。家に戻つて今日の恥辱の模様を話すと、よしながが父に讐討ちの法を教へる。其は、子はどんな宝も及ばない宝である。幸、二条蔵人には子が無いから、奏上して、子比べをして、恥をかゝせようと言ふのである。子福者の行重は、非常な面目を施した。御感のあまりよしながに、越後守を受領せしめられた。
清平は、今度は、あべこべに辱しめられて、家に帰つて、御台所と相談して、初瀬(ハセ)寺の観音に、申し子を乞ふ事になる。七日の満願の日に、夫婦の夢に、菩薩が現れて、子の無い宿因があるのだから、授ける事は出来ない。断念して帰れ、と告げさせられる。夫婦は、さらに三日の祈願を籠めて、一向(ひたすら)納受を願ふと、一子は授けてやるが、三つになつた年に、父母のどちらかゞ死なゝければならぬと言ふのである(一段目)。
六条判官は、尚恨が霽れぬ上、相手が初瀬寺に参籠して、何か密事を祈願して居ると言ふ事を聞いて、家来竹田の太郎及びよしながと共に、桂川に邀へ撃たうとする。二条家には、荒木左衛門といふ家来がある。主人夫婦に従うて、初瀬寺からの帰り途、桂川で現れた伏せ勢と争うて居る処へ、南都のとつかう(東光か)坊が通りかゝつて、仲裁する(二段目)。
北の方は玉の様な愛護(アイゴ)ノ若(ワカ)を生む。誓約の三年は過ぎて、若十三歳になる。約束の期は夙に過ぎた。命を召されぬ事を思ふと、神仏にも偽りがある。だから、人間たるおまへも其心して、嘘をつくべき時には、つく必要があるといふやうな事を訓へる。初瀬観音聞しめして、怒つて御台所の命をとる為に、やまふのみさきの綱を切つて遣はされたので、若はとうとう、母を失ふことゝなつた。
左衛門並びに親類の者が、蔵人の独身を憂へて、八条殿の姫宮雲井ノ前を後添ひとした。愛護は、父の再婚の由を聞いて、持仏堂に籠つて、母の霊を慰めてゐる。あまり気が鬱するので、庭の花園山に登つて、手飼の猿、手白(てじろ)を相手に慰んでゐる姿を隙見した継母は、自分の子とも知らず、恋に陥る。侍女月小夜(ツキサヨ)を語らうて、一日に七度迄も、懸想文を送る。若は果は困じて、簾中に隠れてしまふ。
二人の女は、愛護が父蔵人に此由を告げはすまいかといふ懸念から、逆に若を陥れる謀を用ゐる事になる。それは、重宝の鞍・刀を盗み出して、月小夜の夫に手渡し、都も都、桜の門で呼び売りさせて、清平の目につく様にして、若が盗んで売らせるのだ、と言はせようといふ魂胆である。此謀が早速成就して、怒つた清平は、若を高手小手に縛つて、桜の木に吊り上げて置く。若は苦しさのあまりに、血を吐いて悶えてゐると、手白の猿が主人を救はうとして、木に上るが、縄を解く事が出来ぬ(三段目)。
処が一転して、地獄の閻魔王の庁では、若の母が出て、若の命乞ひをして、自身出向いて救ひたいと願ふ。魂を仮托する死骸はないかと、鬼に見させると、娑婆では今日、人には死んだ者はないが、鼬が一匹斃れたといふ。母は早速、鼬の身に魂を托して、桜の下に現れ、若の縄を食ひ切つて助けると、手白が下で抱き止めて、怪我なく助つた。鼬は、母が仮りに姿を現したのだと告げて、かうしてゐては、終には命も危いから、叡山西塔の北谷にゐる、若の叔父帥(ソチ)ノ阿闍梨の処へ逃げて行くやうに、と諭して姿を消す。若は家を抜け出る日を待つて居る(四段目)。
暗く雨降る夜、家を出て四条河原にかゝると、南に火の漏れる茅屋がある。細工の賤民の住む処である。近寄つて戸を敲くと、盗賊かと思つて、薙刀を持つて来る。愛護一部始終を語ると、敬ひ畏んで、臼の上に小板を敷き、荒菰を敷いて、米を賀茂の流れで七度清めて、土器に容れて献る。此から神の前に荒菰を敷く風が出来たと説いてゐる。夜が明けて、細工に送られて、叡山へ志す。処が、中途まで来ると、三枚の禁札が立つてゐる。一枚目のには女人禁制、二枚目にはさんひ(?)やうじや、三枚目には細工の禁制が、書かれてゐる。細工が帰らうとすると、愛護が、強ひて叔父の処まで送つてくれと言ふ。「仰せ尤にて候へども、賤しき者にて候へば、只御暇」と言うて、引つ返した。
愛護一人で、帥ノ阿闍梨を訪れた処、叔父は、甥若の訪問に驚いて、其車馬の数を見させた処が、稚児一人立つてゐたので、此はきつと、北谷の大天狗が我行力を試る為に来たのだと思うて、そんな甥はないと言うて、大勢に打擲せしめた。若は山を下りようとして、三日山路に迷うた末、三日目の暮れ方に、志賀の峠に達した。其処で疲れて休んで居ると、都へまんぞう(万僧)公事に上る粟津の荘のたはたの介兄弟が来会うた。終始を聞いていとほしがり、柏の葉に粟の飯を分けてあたへた。「其御代より、志は木の葉に包め、と申すなる」と説明してゐる。
情を喜び、苗字を問ふと、弟せんちよが「之はきよすのはんと申すなる」と言ふ。お伴はしたいが、都へ出ねばならぬから、と別れて上つた。扨て其後、
岩ほの小松をとり持ちて、志賀の峠に植ゑ給ひ、おひ(松に?)せみやう(宣命)を含め給ふ。愛護世に出てめでたくば、枝に枝さき唐崎の千本松と呼ばれよや。愛護空しくなるならば、松も一本(イツポン)葉も一つ、志賀唐崎の一つ松と呼ばれよと、涙と共に穴生(アナホ)の里に出で給ふ。頃は卯月の末つ方、垣根はさもゝの盛となりけるが、若君御覧じて、一つ寵愛なされける。
処へ、其家の姥が現れて、れいじやの杖を振り挙げて打たうとした。若は、打たれるのを恥辱に思うて、麻畑に隠れた処が時ならぬ風が吹いて、隠れ処も顕に見えたので「桃のにこうが之を見て、桃をとるだに腹立つに」麻まで蹂み躪つたとて、打擲した。
若君は、穴生の里に桃成るな。麻は播(マ)くとも苧(ヲ)になるな。嵐ふくな、と申し置かれしより、花は咲けども桃ならず。麻は播けども苧にならず。
穴生の里は、後世まで呪はれたのである。
それからきりうが滝へ来ると、桜が散つて、愛護の袂に這入る。見ればまだ、蕾の花である。そこで、落ちた花は已に死んだ母上、咲いて居る花は父上、蕾ながら散るものは、此愛護の身の上であると考へて「恨み言書きたしとて、ゆんでのこゆびくひきり、岩の間(ハザマ)に血を溜め」恨み言を書きとめる。
かみくらやきりうが滝へ身を投げる。語り伝へよ。松のむら立ち とうとう若は、身を投げた。其時十五歳とある(五段目)。
滝のほとりにかゝつてゐる小袖を見つけた山法師等が、山の稚児の身投げと誤解して、中堂へ上つて、太鼓の合図で稚児の人数しらべをする。ところが小袖の紋で、若なる事が訣つた。実否を確める為に、二条へ使が行く。さて父・叔父などが集つてしらべると、下褄に恨み言が発見せられ、其末に「四条河原の細工夫婦が志、たはたの介兄弟が情のほど、如何で忘れ申すべき。まんそうくち(公事)を許してたべ」とあつた。
そこで、雲井ノ前は簀巻にして川に沈め、月小夜は引き廻しの末、いなせが淵に投げ込んだ。かの滝に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると黒雲が北方に降りて、十六丈の大蛇が、愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の姥も後悔して、身を投げる。たはたの介・手じろの猿も、すべて空しくなつてしまふ。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見(カタミ)として、其処から湖水に這入つた。其時死んだ者、上下百八人とある。
大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二つあれば後の申、三つあれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、中下坂本・へいつち(比叡辻か)村をはじめ、二十一个村の氏子たちが、船祭りをする(六段目)と言ふのである。
表紙の題簽に、ひよしさんわうまつり 天満 あいごの若 からさきのひとつ松のゆらい八太夫
とあつて、宝永五年正月の、大伝馬町鱗形屋の出版である。説経が江戸に大いに行はれて、八太夫座の勢力が張つて後の発刊である。此古浄瑠璃には、必若干の脚色と誇張とが、伝説の上に加へられてゐる事は期せなければならぬ。
 

近江輿地誌略巻十七に数へた愛護ノ若伝説の重要な点は、
継母の讒言(い)。若の出奔(ろ)。革細工の小次郎の情(は)。大道寺田畑之助の粟の飯(に)。帥ノ阿闍梨に会ふ(ほ)。桃及び麻の件(へ)。手白の猿(と)。霧降の滝の身投げ(ち)。小次郎は唐崎、田畑は膳所田畑の社、若は日吉の大宮と現じた(り)。
と言ふ個処である。其中説経には(は)を唯細工としてゐるだけで名は伝へぬ。(に)の大道寺の姓も見えぬ。(ほ)の帥ノ阿闍梨の件は、会ひに行つた、といふ処を略した言ひ方と見るべきである。(ち)の霧降はきりう即飛龍の滝の事である。(り)の小次郎・田畑之助の転生一件はない。
尤、革細工を細工と言うたのは、説経以前の有無は疑はしい。或は皆人知り悉した伝説である為、名を略した事、田畑之助の姓を脱したのと同じだ、との説明も出来ぬではない。而も輿地誌略には、小次郎、若に男色の語らひをした様に書いてゐる。「女筆始」には、若に思ひを寄せた男を関寺半内として、其妻が計らうて、若に事情を訴へて、盃を貰ひ受ける事になつてゐる。或は説経は此点を落したのかも知れぬ。
但、小次郎の名は、助六狂言の影響から、京の小次郎(曾我兄弟の異父名)などの名をとり入れたのではないかと疑はれる。其は、順序は此と逆ではあるが、月小夜(ツキサヨ)といふ名が、曾我狂言に入つたと同じ径路を持つたものと考へられる。(に)の大道寺の姓も「花館愛護桜」の絵、並びに其以後の愛護物語には、大抵見えて居るので、説経以後突然出来たものとも思はれぬ。(り)の転生説は説経にも、細工夫婦を故らに唐崎で死なせてゐるから、痕形もなかつた事ではなく、説経の手落ちと見る方がよさ相である。
即、此説経は、前半は極めて緻密な作意を立てたのであるが、若出奔以後は、衆人周知の事を言ふので、極の梗概を語るに止めたものらしい。穴生の姥の事を叙べて「もゝのにこうが之を見て」など言うたのも、其間の消息を洩してゐるのであらう。だから後半は、殆ど伝説其儘で、前半は創作と迄言へずとも、古浄瑠璃の型を追うて書いたものだ、と言ひきつて差支へないであらう。
愛護若伝説を輿地誌略の作者の友人は「秋の夜の長物語」の飜案と考へて居たらしく、志田義秀氏は長物語から糸を引いた、隅田川伝説の一つと考へられたらしい(郷土研究一の三)。長物語と此民譚とに通じる点は、
梅若(長物語)愛護二人ながら、公家の子である点(い)。叡山に関係ある点(ろ)。桂海律師と細工と(は)。叡山なる人に逢ふ為、住家を出ること(に)。唐崎の松が、主要な背景になつてゐること(ほ)。入水(へ)。衣掛け(と)
の数ヶ処で、似て居ない点もある。其は、肝腎な「松のうけひ」と「桃・麻の呪ひ」が、此にはあつて、彼には見えぬ事(ち)。同性の愛が中心問題になつてゐるのと、ゐぬのと(り)。継子虐待の有無(ぬ)。此は本地物で、彼は発心物語の一種とも言ふべきこと(る)。彼は山門・寺門の交渉を背景としてゐるのに、此は三井寺には無関係なこと(を)などである。長物語は全く、智証門徒なる南谷の慶祚と、西谷の座主良真との関係(厳神抄)に、脚色を加へたものであらう。其上、隅田川の梅若と比べると(い)(へ)(と)並びにさすらひ(わ)の四点は類似して居り、細工と人買ひとが、幾分同じ傾向の役廻りに在る事を感ぜしめるに過ぎぬ。
此伝説は、鎌倉の初めから室町に到つて完成した継子虐待物語--落窪物語は疑ひもなく鎌倉初期の作--(ぬ)と、室町から江戸の初め迄勢力のあつた本地物語(る)との上に、やはり室町に芽ざして、江戸に入つて多様な発達を遂げた殉死、寧心中物語(を)と、室町に著しくなつた若干の児物語(か)とを加へて経としてゐるから、此伝説の主要部は、徳川初期には既に、出来上つてゐたもの、と見てよからう。処が「長物語」の様な創作に比べると、却つて非常に古い種を蔵してゐるのも、不思議である。
其は、大宮権現の由緒と融合したうけひ(ち)と、貴人流離(か)の二つの形式が見える事である。日吉大宮の鎮座次第は、沢山の書物が繁簡の差こそあれ、皆口を揃へて、同じ筋を語つてゐるが、其中で「厳神抄」の伝へが、愛護民譚の一部に最よく似てゐる。
此神、天智の御代に、坂本へ影向せられたが、大津の八柳で疲れて、徒(カチ)あるきもむつかしくなつた。其で、大津西浦の田中ノ恒世の釣り舟に便乗して、志賀ノ唐崎に着かれた。船の中で恒世が、自分用意の粟の飯を捧げた。唐崎の琴ノ御館ノ宇志丸の家で、我は神明だ、と名のられたが、しるしを見せ給へと言はれたので、御船の儘で松の梢に上られた(ち)。
恒世は田中ノ明神、宇志丸は山末ノ明神となつた(耀天記・山王利生記参照)とある外、耀天記には、神の杖が化生した(ち′)と言ふ形を伝へて居る。(ち)と(ち′)とは合体して、一つのうけひの形式になつてくるのであるが、(か)は唐崎着岸までの苦労が其に当る。
尚此(ち)と(か)を備へた同種の民譚の中、一番形式の単純なと思はれるのは、浄見原天皇の流離譚であらう。天皇は吉野を出て宇治の奥、田原ノ里で、里人の情の(ヤ)き栗・ゆで栗を傍(カタ)山の岨(そへ)に埋めて、わが身栄ゆるものならば、此栗生え出る様に、とうけひ給うたら、栗が生え出した。朝廷へ献る田原の栗は、即其なごりで、其時の痕が微かに残つて居る。天皇は其から志摩に出、美濃に奔られて、墨股(スノマタ)川で、不破明神の化身なる布洗ひ女に救はれ給うた(宇治拾遺)。
日吉山王の舟祭りに、膳所に渡御なると、粟の飯を献ることは名高い話であるが、其由来を此民譚では、若に粟飯を与へた田畑之助が、粟津の人であつた為、其が為来(シキタ)りになつたのだとも言ふ。処が、此が今(モ)一つ、田中明神なる恒世の話の変形である上に、此膳所田中ノ社は、一名田畑の社として、田畑之助を祀つた(輿地誌略)ものと言ひ、又天武流離の節同様に、粟津の里人が献つたのだ(輿地誌略)との伝へもある。
思ふに、山城綴喜郡も田原迄入り込むと、近江の栗太郡に接してゐるから、田原栗の伝説が、瀬田川を溯つて近江へ入つたものか、又、田原(粟津)志摩とさすらひの道筋の譚として説いて居たのか、いづれかであらう。田原栗の話が愛護民譚に関係の深いことは、貴人さすらひ以外に、うけひの一条を、若の方では松のうけひ・桃麻の呪ひの両方に分けてゐると言ふ点だけでなく、全体此話の主要人物なる左衛門・田畑之助の姓の荒木・大道寺と言ふのが、偶然に出来た名前とは思はれぬ事である。天武に栗を献つた人が、田畑之助と言ふ名であつたと仮定しても、大道寺は依然決着せぬ。
此処に伊勢新九郎長氏の種姓(スジヤウ)調べが、一道の光明を与へる。長氏の本貫は、大和とも宇治とも言ふ。其祖盛継は「天性細工に妙を得。其頃大坪道禅弟子として、鞍鐙の妙工を相伝す。伊勢守の家、是より此細工を専らとす」るやうになつたのであるが、長氏浪人の後、東国下向に伴うた腹心の者に、山中・多田・荒川・佐竹及び荒木兵庫頭・大道寺太郎の六浪士が(北条五代記)ある。而も荒木・大道寺共に、田原郷の地名である。
天武流離譚が、田原から江州へ推し出した事は想像出来る上に、此地名から見ても、宇治の田原を本貫に持つたとも考へられる後北条氏が、馬具細工の家筋であつたと言ふ事は、愛護民譚の細工小次郎が譬ひ琴ノ御館ノ宇志丸の変形であつたとしても、余りに突発的だつた此人物の融和点を示すと共に、田原栗民譚が、愛護民譚に歩み寄つた痕を見せるものと考へる。
 

説経の表面から見ても、山王祭りにえたの干与する事を暗示して居るやうであるが、古くは、京の河原辺の部落ではなく、瀬田川下の村が与つて居たのではあるまいか。此民譚直接間接に深い交渉を持つてゐぬとも言へまい。
細工が臼の上に若の座を設けたと言ふ形は、浅草観音宮戸川出現の条に似てゐるが、ともかく、祭りに賤民が重要な役目を務めた事を示したのは疑ひがない。尚細工を古くから馬具細工の意に解して居た証拠は「名歌勝鬨」には、細工小次郎に宛てゝ、鞍作杢作及び其娘お為と言ふのを設けて居るのでも知れる。
田畑之助と言ふ名は、変な名であるが、室町から江戸にかけて、助の字のつく名には、妙なのが、物語・芝居の類には殊に多い。葛の恨之介・稲荷之助・女之介など、其であるが、膳所での山王祭りの頭人(トウニン)の名は、近江之介・粟津之介など言ふ。かうした方面の聯想も、幾分働いて居るのであらう。
田畑之助を祀つたと言ふ田中山王社一名田畑ノ宮は、疑ひもなく同じ粟の話のある恒世ノ社である。膳所の近辺中庄村瓦浜に在るが、古くは其地の亀屋といふ家の界内に在つた。其家は堀池氏で、堀池は佐々木氏の一族だ(誌略)といふが、亀屋の主人が祭りの頭人となる時の名が、田畑之助だつたかも知れぬ。
山門・寺門の関係と、大友村主(スグリ)の本貫であると言ふ辺から、山王を天武、新羅明神を大友ノ皇子と考へた時期も、あつたらしく思はれる。所謂桃のにこう(尼公か)の件は、石芋民譚(土俗と伝説一の一、田村氏報告参照)の形式で、穴生とも言ふ賀名生に脂桃の話のあるのは、暗合でなく何かの脈絡のありさうな気がする。
大体石芋民譚は、宗教家の伝記に伴ふものが多い様だが、古くは慳貪と慈悲とを対照にした富士・筑波式の話であつた。其善い片方を落したのが石芋民譚で、対照的にならずに、善い方だけの離れたのもある。宗教家は精霊を使ふ者と考へられて居た為に、精霊の復讐と言ふ風の考へが、一転して石芋民譚となるのであらう。古く言語精霊(コトダマ)の活動と考へられたのろひが、役霊の考へに移つたのは、大部分陰陽家の職神・仏家の護法天童・護法童子の思想の助勢がある様である。役霊・護法の活動は、使役者には都合はよいが、他人には迷惑を与へる事が多い。使役者の嫉妬・邪視が役霊の活動を促す。護法童子に名をつけたのが、乙護法である。伝教大師にも、性空上人にも、同名の護法があつた。性空から其甥比叡の皇慶に移つたのを乙若とも言うて居る。三井寺の尼護法は鬼子母神ともなつて居る。女の護法神だから言ふのだが、或は「乙」と同じく、其名であつたのかも知れぬ。若の名の「愛」と言ふのも、護法の名で、護或は若は其護法なることを示してゐると考へられぬでもない。愛護ノ若を護法童子の変形とすれば、桃・麻の呪ひの意味は、徹底する様である。
此呪ひを志田義秀氏は叡山の不実柿(ミナラガキ)と関係あるものと観察して居られるやうだ。皇慶甫(はじ)めて叡山に登つた時、水飲(ミヅノミ)・不実柿(ミナラガキ)などの地で「実のなるのにみなら柿とは如何。湯を呑むのに水飲とは如何」と言ふませた、併し子供らしいへりくつ問答を試みた、と言ふ話のある地で、皇慶の呪ひによつて、不実柿になつたとは見えぬ。
併し乙若が性空の手から移つて来た話を思ふと、数度の変形として、或は、愛護・皇慶の関係は、成り立つかも知れぬ。川村杳樹氏(実は柳田国男先生)が提供せられた沢山の難題問答(郷土研究四の七)の例の中、陸前赤沼長老阪で、西行に舌を捲かした松下童子が、山王権現の化身であつたと言ふ話も、多少根本の山王に痕跡のあつたものとすれば、まへの関係は一層深くなるのだが、数点の類似だけでは、愛護・皇慶の交渉はむつかしい。
継母雲居ノ前は、合邦个辻の玉手御前の性格を既に胚胎してゐるので「女筆始」其他の様な純然たる悪玉でなく、寧、薄雪物語の様な艶書を書くあはれ知る女となつてゐる。中将姫・しんとく丸の継母とは、類型を異にして、恋の遺恨といふ、新しい創造がまじつてゐる様である。
手白の猿は、後の創作類では、かなり重要な位置に居るけれども、説経には極めて軽い役に使はれてゐる。動物報恩説話の外には、山王のつかはしめとなつた理由を見せたに止まつてゐる様である。かういふ動物が、此民譚に現れたのは、勿論日吉の猿部屋に関係があるので、手首ばかり白い猿を、神猿とするなどいふ信仰もあつたと思はれるのである。山姥狂言の中にも、手白の猿を出した物があつた。今日さう言ふ芝居絵を見ても、別に手に特徴はない。結局別に語原を持つものに違ひない。
古代に手代部といふ部曲のあつたのも、後世の神社に於ける手長職と同じもので、神の手其物として働く部曲だつたらしい。てしろの語(ことば)ばかりが残つて、実の忘れられた時代に、山王のつかはしめなる猿を手白と感じ、特別に又、さうした霊妙な一類があることも考へてゐたのだらう。が、今いふ、信仰もあつたかと思はれるのである。前述の山姥狂言の中に出る手白の猿も愛護若の物語とは関係なく、山姥の狂言の中に、手白の猿の姿を描いた、江戸の芝居絵を見たことがあるだけで、他には、何の材料も見あたらぬ。
鼬の骸を仮つて、地獄の幽霊が復帰して来るのは、因果物語であるが、説経としての特徴を止めたものである。尚、桜の木に愛護を吊るのは、説教節通有の拷問をこんなところにも割り込ましたのだが、神仏の身代りで、脱出する其常型は破つてゐる。
細工が禁札の為に、途中から引つ返す条、叔父帥ノ阿闍梨が疑うて逢はぬと言ふ、はるばる来た者を還す件は、同じ説経の石童丸の母と父との物語に通じてゐる。但、阿闍梨が、天狗の障碍と疑うた点だけは、長物語に幾分か似通つてゐるが、其は他人のそら似であつて、肝腎の山伏も石室も現れないのである。其よりももつと注意の値打ちのあるのは、苅萱のやうに故意でなく、齟齬が原因で、空しく山を下る点である。
一体児物語は必、妻争ひ民譚の一種、美女自殺の結末の筋を引いて来るので、競争者のない時でも、円満な解決を見ぬのが常になつて居て、入水して自殺するのが多い。児入水譚は、高野其他大寺には、つき物の様である。江ノ島の児个淵伝説は相手方の僧も後を追ふ事になつてゐるが、大体は、能動側の男は発心、又は堅固に出家を遂げる、と言ふ発心物語となつて居る。細工夫婦の死も、後追ひの死とは考へられぬ。寧、前に言つた多人数殉死・殉死者転生の物語となつてゐる。
其外、宝比べ・申し子などいふ形式は、愛護民譚に限つた事でないから、茲には言ふまい。若の挿した松の枝が、唐崎の一つ松に化生したといふのは「女筆始」のついて来た松が枝の杖をさしたと言ふ方が、古い形を詳しく伝へたのもので、琴御館家の祖先が、日吉の神の残された杖を立てたのが、化生したと言ふ(耀天記)伝へと直接関係があり、又、北野の一夜松原・息ノ松原などの系をも加へてゐる。
 

此説経節の筋が、中心になつてゐる浄瑠璃・脚本・小説の類を調べて見る。わたしの読んで見、又名前だけを聞き知つてゐる物は、
愛護若(角太夫の正本) 辛崎一本松(加賀門人富松薩摩正本) 愛護若都富士(元禄六年正月竹本座興行。辰松幸助作) 愛護若塒箱(紀海音) あいごのわか(宝永五年正月・天満八太夫正本) 花館愛護桜(又、花館泰平愛護だともいふ。正徳三年四月。山村座) 愛護若名歌勝鬨(宝暦三年五月。竹本座。半二・松洛等作) 信田小太郎世継鑑(宝暦三年七月。中村座助六狂言。評判記で愛護の糾ひまぜてあつた由が伺はれる) ※(コダカラ)愛護曾我(宝暦五年正月。堀越二三治作か) 愛護若女筆始(享保廿年正月。八文字舎本) 愛護若一代記(女筆始と同書。再刻。但、年月づけも、元のまゝ) あいごの若(享保廿年正月。金平本) 初冠愛子若(同七月―八月。大阪沢村長十郎座) 曾我※(モヤウ)、愛護若松(明和六年三月。増山金八作か) 神伝(文化五年。小枝繁作。読本)
此外助六狂言の天明以前の物は、大抵愛護若が這入つて居るものと思はれる。また尚一種「○○○(?)愛護稚松」と言ふ、助六とは別種の芝居があつたと記憶して居る。圈点を附けた五種の外は、まだ見る事が出来ぬ。但、角太夫の正本と、薩摩太夫の辛崎一本松とは、後に出た説経の「あいごのわか」と大同小異のものであらうし、時代も亦説経節が後れて出たとは言はれぬ。譬ひ八太夫の正本は、成立こそ遅れたとは言へ、愛護浄瑠璃の魁をした物と想像する理由がある。
天満八太夫が江戸に来て繁昌する以前の、上方説経節としての愛護ノ若が、正本成立以前に、既に角太夫や薩摩太夫に採り入れられてゐたらう、と考へるのは無理ではない。かの正本に、聴衆先刻御存知と言つた風の書きぶりが見えるのは、八太夫以前に拡つた愛護民譚と八太夫の浄瑠璃との距離を思はせるのであるが、尚他の浄瑠璃と比べては、原始的の匂ひを止めてゐたであらう。況して「都富士」や「塒箱」などは、説経現在本よりは、幾分か作意の進んでゐたもの、と考へられる。
江戸の助六狂言は、記録を信じる事が出来れば、一番初まりから愛護ノ若をとり入れて居た。江戸の助六狂言の起原が、大阪の揚巻・助六心中にある事は明らかであるが、最初の「愛護桜」から和事専門でなく、今の物の様に荒事本位の喧嘩師助六だつた、と考へるのは誤りで、享保以前に出来たものと鑑定せられる、上野図書館本「揚巻助六狂言の記」と仮表題した黒本風の書物に見えた筋が、上方の揚巻・助六心中に近いだけ、助六狂言の本筋を伝へたものらしい。
此江戸助六狂言の根元の筋は訣らず、出場人物にも異論はあるが、揚巻・助六・白酒売新兵衛の出た事だけは、確からしい。「金(キン)の揮配(サイハイ)」に残つた鳥居画で見ると、たはたの介後に介六、白酒売新兵衛のちに荒木左衛門とあり、図面は屋根じあひの場で、軒に、江戸町いづみや・三丁目つたやなど言ふ高張提灯の見える処から考へても、場面は吉原である。介六と新兵衛とは、白酒荷の朸(あふご)と見える物に為込んだ刀の両端を引きあうてゐる。此は両人とも立役で、敵役の別にあるのを殺さう、と先を争ふ処か、或は一人がはやり、一人が制する処とも見られる。両人いづれも敵持ちでないことは、介六役者が団十郎で、白酒売りを生島新五郎が勤めたのでも知れる。両立役心を合せて、敵を討たうとするものと見れば、直ちに後の「由縁江戸桜」の五郎・十郎に変つて行く径路は頷かれる。
尤、第二回目の助六なる「式例和曾我」以下の物は、助六に、曾我なり、愛護なりが這入つて居るので、多くの場合、三つの筋が一つに絡んで居た様である。思ふに二回・三回頃のものは、曾我を含んで来たのが、段々元の愛護をも呼び戻して、雑居することになつたのであらう。「愛護桜」に、何で縁もゆかりもない愛護が割り込んで来たか。わたしは、正徳三年が江戸の山王日枝神社の記念とすべき年であつた、といふ様な理由があるのだらう、と想像せられる。
此狂言、伝へられた如く、仇討ち物とすれば、敵は誰を殺したのか。二条蔵人か。愛護か。後の※愛護(コダカラアイゴ)の評判記の画で見ると、工藤とやはたの介--八幡三郎と田畑ノ介と綟つたものか。工藤足軽八幡之介、実は、鬼王とある--が、愛護の君を桜木に吊り上げて、拷問して居る処がある。子役の持ち役として、愛護は、割合に閑却せられてゐたのかも知れぬ。或は愛護を殺した者を、梅若殺しの、忍の惣太風の細工ノ小次郎として、後に髯ノ意休即(すなはち)えたと言ふ様な趣向で、臭い臭いと言ふ助六の喝破の源流をなしたものかも知れぬ。
後の五郎の助六が、常に問題としてゐる友切丸は「愛護桜」では、刃(ヤイバ)の大刀(タチ)であつたものか。大阪出の古手屋八郎兵衛・紙屋治兵衛を銀猫おつまや、佃島心中などに捏ね上げ、其から逆に、古八・紙治迄も、江戸にも別に存在してゐた様に説く、通人考証家の多かつた江戸であるから、助六・意休などの類名のもでる実在説は、一切眉唾物である。
名歌勝鬨では、二条蔵人・古曾部庄司両家の確執、両家の宝を奪うて栄達を望む高階弾正、それに使はれる端敵、御嶽悪五郎があり、二条家の忠臣として田畑早苗之助、古曾部家の旧臣荒木左衛門がある。其外愛護の恋人古曾部の娘があり、其兄で同時に、妹の恋人なる人と二組のろめお・ぢゆりえつとがある。
愛護の家に仕へる女に、大津坂本猿堂守りの娘、穴生生れの猿の扱ひ方を知つた常夜(トコヨ)と云ふ早苗之助の女房になる女がある。刃の大刀は二条家の宝物で、天の唐鞍は、古曾部家の重宝と、両家に分けてゐる。其外鞍打杢作などいふ人物もある。幾分細工の穴を示す者であらう。
常夜の親里穴生に、早苗之助・常夜が住んで、早苗が帥ノ阿闍梨を訪ねて叡山に登つた後に、愛護が桃を盗んだとて追うて来るのが、小兵衛・九助といふ百姓になつて居る。常夜は、此を助ける為に、狐憑きの身ぶりで、
指もさゝば怨み葛の葉、今にしのだに怨みの言葉。小兵衛聞け。麻は蒔くとも苧(ヲ)になるな。穴生の里の九助怨し。……桃故命捨つるかや。我は死すとも、此桃の花は咲くとも、実はなるな。穴生の里のあらむ限りは、と怨み喞ちし言の葉の木にも心のあるならむ。
とある。其外、手白の猿を、恋人から若に贈る件、辛崎の松で、愛護が危難を救はれる件などが、原型を引いてゐる様である。
「愛護曾我」は、前者よりは、恐らく古いものらしい。名の示す如く、愛護桜から由縁江戸桜の方に踏み込んだものと思はれる。享保廿年正月に、同時に三種の愛護の物語が出て居るが、金平本の愛護は、恐らくもつと以前の刊行を、早稲田図書館の書目作りが思ひ違へたのではあるまいか。一代記の方は、全く八文字舎本の飜刻で、年号は享保廿年正月とはなつて居るが、恐らくずつと遅れたものであらう。
「女筆始」は「鳴雷不動桜」などを出した、八文字舎のことだから、愛護の脚本・小説類の綜合・飜案の痕を露に見せてゐる。其序に
衆人愛護若の噂、昔から世挙つて引三味線の調子に乗つて来る馬に唐鞍箱に納る刃の大刀に血ぬらずして、悪人追退伝る家の内柱は、ずつしり据(スワ)つて動かぬ一つ松。志賀のよい花園昔を今に語り伝へて五説経の其一を取つて、新に狂言を五冊に綴め云々。
と見えて居るが、説経節以後の形式をも混へた上の作り物である。而も江戸の助六の影響のあるなしは、俄に判断し難い。但、田畑之助が、大道寺の姓を持つてゐるのは、或は愛護桜に、暗示を得てゐるのかも知れない。
此書は後の愛護民譚に変化を与へる榜示となつてゐる様であるから、少しく詳しく説いて見る。二条家の宝物は、刃の大刀・降天の唐鞍の外に、真の鞭といふのがある。后の御悩が、嵯峨帝の御不例といふ事になつてゐる。継母は桜井御前といふ名で、藤原仲成の妹、二条家には再縁で、流離の際に人に托した小松姫といふ子がある。家来には、家老として荒木左衛門尉、執権職を罷めて、江州穴生に居る大道寺田畑之助及び其妻のふぢ、二人の間に生れた長子手白の猿、継母の腹心太岳(ミタケ)悪五郎、旧臣の遺孤おふでなどの人物がある。おふでが、お家の危急を知つて自ら小松姫と名のつて、二条家に入り込んで、愛護を助け、二つの宝を悪人の手に渡さなかつた、といふ話は、遠からずして表れた「ひらがな盛衰記」の烈婦おふでの導火である。
田畑之助は若君に、お家の危急を知らせる為に、女房をして、長子の手白を舞はせるが、名歌勝鬨第一段松枝・常夜の猿使ひの段の敷き写しである。又、柴屋町の揚げ屋で、荒木左衛門と巡り会うて争ふのは、或は「愛護桜」の影響ではあるまいか。遊女花園が秘蔵する真の鞭は、おもふに、四の宮の祭りに、一の鳥居に建てる「真の榊」の変形であらう。愛護が家を逃れる場合に、縄を喰ひ切りに出る鼬は、説経の母の霊を持つて来たのである。穴生の乳母は熊手婆で、盲目娘の実は、小松姫と共に住んでゐる。愛護が其家の桃を喰うて、麻畑に隠れる件も其儘である。
愛護が辛崎の浜でついて来た松の枝を挿す件は、説経を乗り越えて、直ちに、日吉の縁起に迫つてゐる。其時の「うけひ言」には
松も一本、葉も一つ、都の方へ根もさゝず、志賀辛崎の一つ松、愛護がしるしとなし給へ。
とある。そして、其松の木に小袖を掛けて、湖水に身を投げる。細工ノ小次郎に当るものは、此には、関寺半内となつてゐる。愛護を追うて、身投げするのは、説経の百八人の代表である。
「神伝」は、非常に読本臭くなる。桜井御前が愛護に懸想する事は、説経の儘である。手白と愛護との接触が、鷲にさらはれる猿を救うたときから始まつて、猿の親子揃うて人間に化けて、若に恩返しをする。「女筆始」の田畑之助の役は、仲麻呂・桜井御前の子を守る秦ノ黒道と言ふのになつて居る。鞍・大刀は、綾丸の大刀・遠山の鏡と名が変つて、烈婦小松が志賀六(黒道)を殺して、奪ひとつて、二条家に献じた宝と言ふ事になつてゐる。
右の中「名歌勝鬨」は、かなり名高い浄瑠璃で、役ノ行者・弘法大師の母並びに、苅萱を採り入れた「山の段」だけは、いまでも稀には、語られる。瑠璃天狗にも道行きと此段とが、註釈せられてゐるのを見ても、愚作の割には、喜ばれてゐたのである。芝居の鬘にあいごと言ふのがあるのは、此辺から出たものと思はれるが「※愛護曾我」の評判記の挿し画の愛護は、所謂あいごの児輪(チゴワ)(歌舞妓事始)に結うてゐるが、説経正本・一代記・神伝、皆児茶筅である。
近江輿地誌略の出来た時分の愛護民譚は、説経以前の古い形式をも存してゐたと共に、其後に作意・脚色を加へられた物語をも、雑多にとり込んでゐたに違ひなく、其だけ錯綜を極めた物語から、一筋の通りのよい物語を抽き出さうとするのは、困難であつたらう。其為「長物語」以前と以後のあまたの要素を顧みず、一向、野人の信仰の淫雑なことを嗟(なげ)いたが、寒川氏の想像したよりも、かなり古く、而も若い物語なのだ。
不遇の生を終へた愛護は、怨み言を書き残すだけの執念もありながら、現に転生した。本地物語の出現は、御霊信仰の稍(やや)力を失ひはじめた頃からの事である。貴種流離民譚が、児个淵民譚と結びつき、其に、山王祭りのくさぐさの由緒をとり込んで、一つの民譚に固成したのは、継子虐待物語・児物語・本地物語の地盤が定つて、何拾人・何百人の追ひ腹を家門の誉れと考へた時代のことであらう。
百八人の殉死が、あいご民譚の固定の時代だけは、尠くとも「長物語」よりも新しいことを示してゐるのである。一人の美少を中心にして、近間(チカマ)に肩を並べた、二つの大寺の間に、闘諍事件が起つて、何百人の侍法師(サムラヒボフシ)の屍を晒した物語は、外にも、其例がある。長物語の梅若は、多人数の犠牲を拵へたのであるが、若の方では、百八人の殉死と言ふ特殊の意味を持つた犠牲と言ふことに変つて来てゐる。此は必、山門・寺門の長い争ひの歴史が、此恋愛問題に関係のない、美少の物語の上に、多人数が仏果を得る物語と、姿を換へて復活したのである。酸鼻な物語が、光明ある功徳譚と変つた点に、長物語との関係があると言へば、あると考へる余地もある訣であるが、此だけでは、単に傍証となるばかりで、愛護・梅若は、尚姑らく胤一つの兄弟なることを言立(コトタ)てる訣には行かぬ。
穴生は穴太ノ臣・穴生村主の旧貫である。穴太部又は、穴穂(安康)天皇との関係が考へられるかも知れぬ。さすれば、穴穂天皇を従父とした億計(オケ)・弘計(ヲケ)王の流離譚が都から西へとなつて伝へられてゐるとしても、尚、蒲生郡の蚊屋野が、二王子のさすらひに大きな関係のある処から見ると、穴穂天皇(二王子)蚊屋野を通して、此穴生の地が、貴人流離譚と無関係の土地でもなさゝうな気がする。
右の想像と似た今一つの想像が、古い語りの姿を髣髴せしめる。其は穴太部の語りが、果実を呪咀した貴人の物語を語り伝へてゐたのではなからうか、といふことである。  
 
愛護の若2

愛護の若は、五説経の一つに数えられているが、ほかの四つの古い説経に比べると、体裁や内容に幾分かの相違を認めることができる。まず体裁であるが、現存するもっとも古い正本(寛文年間八太夫刊)でも、浄瑠璃と同じく六段ものになっており、この説経が比較的新しいことを物語っている。
内容については、説経の常道通り、神祇の縁起(ここでは日吉山王権現)という形をとってはいるが、ほかの説経におけるような情念のすさまじさを描くという点では比較的あっさりとしている。折口信夫は、この物語の骨格を、継子いじめの話や、本地物語などといった伝統的な要素からなるとしながらも、恋の遺恨という創造が加わっているところに、従来の説経にはない新しいものがあるとした。
しかし、この説経のもとになった物語自体は、ふるい起源をもつ伝説であったらしい。物語の舞台が江州の蝉丸神社の近辺に設定されていることから、恐らく、蝉丸神社を中心に活動していた説教師達のあいだで、語り継がれていたもののようである。
いづれにしても、すべてが新しい創作になるものではなく、長らく説教師のあいだで語られていたものを、説経浄瑠璃という形に再構成し、徳川時代初期における民衆の好みにあうようにして、語られたのであろう。
この作品は、継母による恋の遺恨と、その結果として迫害される主人公「愛護の若」の漂泊と絶望、そして死の物語である。
継母による迫害、いわゆる継子いじめの話は、「落窪物語」をはじめ鎌倉時代から日本の文学作品の主要なテーマともなっており、室町時代に至って大きな発展をみせたとされる。説経においても、「しんとく丸」の中で、継子虐待が主要なテーマに取り上げられている。本作品の場合には、虐待は、継母による恋の遺恨が理由とされており、その点が新しい趣向といえる。
主人公愛護の若は、嵯峨天皇の御代に、二条の蔵人前の左大臣清平が泊瀬の観音に申し子をして授かった子であった。母親が自らの傲慢によって死んだ後、父親は後妻(雲居の局)を迎えるのであるが、この後妻が、こともあろうに継子の愛護の若に懸想をする。そして、その思いが拒絶されるに及んで、愛護の若を罠に陥れるのである。
「しんとく丸」においては、継母はわが子を跡継ぎにするために、継子を陥れるのだが、ここでは、恋の遺恨が、狂った女に復讐をさせている。「けさまでは、ふきくる風もなつかしくおぼしめさるるこの恋が、今は引き替へ、難儀風とやいふべし」
罠にかけられた愛護の若は、誤解した父によって拷問され、桜の古木に高手小手に縛りあげられる。「いたはしや若君は、かすかなる声をあげ、この屋形には、お乳や乳母はござなきか、愛護がとがなきことを、父御に語りてたまはれと、消え入るやうに泣きたまふ、雲居の局、月小夜は、笑ひこそすれ、縄解く人はなかりける」
愛護の若が寵愛していた手白の猿が、主人を助けようとして縄を解きにかかるが、畜生の浅ましさ、小手の縄は解いたものの、高手の縄は解けずして、いましめはいよいよきつくなるばかり。ここで猿が出てくるのは、いうまでもなく、山王権現と猿との、関係の由来を語ろうとするものであろう。
見かねた母親が、閻魔大王の計らいにより、死者の世界から狐の姿を借りて甦り、若の縄を解く。説経のほかの作品では、困窮した主人公を救うのは、おおかた女性の献身的な愛であるが、ここでは、それは死んだ母親の愛なのである。
これ以後、愛護の若の漂泊が始まる。舞台は比叡山とその周辺である。漂泊する愛護の若の身辺には様々な人が登場するが、それらは鋭い対立に仕分けられて描かれている。
まず、若に同情を寄せる人々は、細工と呼ばれる人々や、田畑の助とよばれる叡山の奴婢たちである。細工とは、原文には明示されていないが、刀の装飾をつくる皮革職人のことであり、賎民とされていた者であった。彼らは、愛護の若を導いて比叡山のふもとまで来るのだが、山に登ることを許されない人々である。
「若君様、あれご覧候へや、一枚は女人禁制、又一枚は三病者禁制、今一枚は我ら一族細工禁制と書きとどむ、これよりお供はかなふまじ、はや御いとま」
一方、愛護の若を排除し、迫害を加えるものは、叡山の僧であり、里に住む姥である。叡山の僧は、母親の兄にあたり、若の伯父であるにもかかわらず、その風体からのみ判断して若を排除し、迫害する。里の姥にいたっては、若は里に侵入した秩序の敵でしかない。
ここで描かれているのは、追放されて漂泊の身になったものがたどる、孤立と絶望である。そのなかで、救いの手を差し伸べるものが、同じように迫害される立場にあったものだけだったというのが、この物語を陰惨なイメージのものへ仕上げるもととなってている。
説経のほかの作品においては、主人公の孤立と絶望は、最後には女性の尊い愛によって救われるのであるが、この作品においては、主人公は救われることなく、絶望したままで死んでいく。しかも、愛護の若が身を投げた池の淵から、蛇と化した継母が、死んだ若の遺体をくわえて、現れるというおまけまでついている。
「不思議や池の水揺り上げ揺り上げ、黒雲北へ下がり、十六丈の大蛇、愛護の死骸をかづき、壇の上にぞ置きにける、ああ恥ずかしや、かりそめの思ひをかけ、つひには一念とげてあり、阿闍利の行力強くして、ただ今死骸を返すなり、我が跡問ひて賜びたまへ」
物語の結末には、父親や細工はじめ108人が池に身を投げたとある。折口信夫は、これを以て、室町時代に芽ざし、徳川時代に発展した殉死が取り上げられているものと解釈しているが、この作品の流れの中では、唐突な印象を与えているといわざるをえない。
やはり、作品の背骨をなすのは、漂泊するものの孤立と絶望にあると見たほうが、自然といえよう。

衣掛岩(大津市)/「愛護の若」に由来

大津市坂本地域の比叡山にある大宮谷林道を歩くと、大宮川の近くに高さが二、三十メートルはあるだろうか、縦に長い巨大な岩「衣掛(きぬかけ)岩」が見える。一人の若者が、流浪の旅の果てに人生を悲観して川の上流にある神蔵が滝に身を投げた際、着ていた小袖を置いたことが名前の由来とされる。
若者は「愛護(あいご)の若」という。若の悲劇は近江の地誌「近江輿地志略(よちしりゃく)」などに、内容は少しずつ違うが残っている。江戸時代には、語り物の一種で、操り人形を使った芝居の説経浄瑠璃ともなって、民衆の強い人気を得た。粗筋はこうだ。
八百年代初め。前左大臣の二条清平夫妻に、やっとのことで子どもができた。愛護の若だ。かわいがられ育ったが、十三歳に母を失ったところから、運命は暗転する。
父である清平の再婚相手に思いを寄せられ、断ると逆恨みから無実の罪を着せられた。この一件をきっかけに、放浪の旅へ出ることになり、苦難が続く。
母のお告げで、比叡山の僧だったおじを頼る。しかし、おじには天狗(てんぐ)の化けた姿と勘違いされ、追い返される。腹が減って民家の桃の実に手を出せば、盗っ人とののしられ、老女に散々棒でたたかれた。
疲れ果て、たどり着いたのは滝の前。散りゆく桜に人生を重ね合わせた若は、小袖に血文字で思いのたけを書き連ね、飛び込んだ。
若の小袖から事実を知った清平は、再婚相手を死罪として自らも滝に身を投げた。さらに、若を救えなかったことを悔やんだおじらも後を追う。
物語は、若が山王大権現として祭られたと結ばれている。
衣掛岩へ続く林道は、落石の危険があるため注意が必要だが、休日には多くの登山客が訪れる。「大きい岩なので目にはつきますが、岩の由来や若の伝承を知っている人はほとんどいない。地元でもそうです」と地域住民でつくる坂本の歴史を語る会の会長を務める園田芳邦さん(76)。
坂本地域にはさまざまな言い伝えや歴史があるが、人々の記憶から薄れつつあるのが現状だ。園田さんは「このまま廃れていくのは寂しい。なんとかして後世に伝えていきたい」と話す。
【メモ】衣掛岩は比叡山高校と早尾神社の間にある本坂を上り、分岐点で大宮谷林道へ。本坂までは、京阪石坂線坂本駅から西へ徒歩約10分、またはJR湖西線比叡山坂本駅から西へ徒歩約20分。 
 
天王寺の西〜日想観の奇跡の成就〜「摂州合邦辻」

1)「弱法師」の原風景
鎌倉末期に描かれた「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」には、その当時の大坂・天王寺の風景が描かれています。それを見ると、西門は今は石造りになっていますが、当時は赤く塗られた木の鳥居であったことが分かります。鳥居の横には掘っ立て小屋があって、そこには施しをする大勢の人々の姿があります。また車輪をつけた背の低い小屋(車小屋)がいくつも並んでいます。この頃から天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていたものと思われます。天王寺・あるいは熊野は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でありました。
天王寺には、特に彼岸の中日に「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきたものでした。「日想観」と言いますのは、天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っている、という信仰から来たものです。そのために人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝んだのです。まず夕日をじっと眺めて、目を閉じてもその像が消えないようにして、その夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされていました。
昔は大坂湾の入り江はずっと奥地にまで入り込んでいて、天王寺の西門から海がほど近かったそうです。人々は海面を真っ赤に染めて沈んでいく夕日を見ながら神秘的な感動にひたったものなのでしょう。天王寺にわざわざ出かけて西門からの夕日を眺めてみたことがあります。今は西門からもちろん海など見えませんし雰囲気もまるで違っていますが、この天王寺の境内でかつて寺を参拝する人たち・乞食・病人と・それに施しをする人々とが雑踏に入り混じり、一体どのような光景を呈していたのであろうかということを思いました。
三島由紀夫は昭和42年にインドのベナレスに行った時の思い出をこう回想しています。聖ガンジス河のほとりで居並び水浴びをする癩病の乞食たちを見て、「あんな恐ろしいものを見たことはなかった、すべての文化があそこから、あのドロドロとした、あれをリファインすると文化になっていくというその大元を見てしまったような気がして、こんな素をみたらたいへんだという感じがした」と語っています。(対談「文学は空虚か」昭和45年)
そのような風景がかつての天王寺の境内でも見られたに違いありません。その風景は謡曲「弱法師」(観世元雅作)の原風景なのですが、その舞台ははるかに洗練されたものになってしまっています。それは眼前の聖と汚穢の混合物のなかから素手でつかみ出されたものです。それが強烈な文化意志によってスッキリと洗い上げられて、余分な汚れはみんな削ぎ落とされて、このような聖澄な能の舞台芸術に仕上がっていったのです。しかし、その洗い上げの過程のはるかな道のりもちょっと考えてみる必要がありそうです。
その日想観のもっとも見事な昇華が謡曲「弱法師」に見られます。「弱法師」もまた説経「しんとく丸」の系譜を引いた作品です。「弱法師」は説経の秘蹟・復活譚のドロドロした部分は捨て去ってしまって、その上澄みだけをすくい取ったような作品です。夕日に向かって手を合わせる盲目の俊徳丸に見えるはずのない難波の海の景色がありありと見えてくるシーンは感動的です。
人々に混じって日想観をするうちに、俊徳丸はしだいに気分が高揚してきます。目が見えていた頃に見慣れていた難波の海を心に思い浮かべて、ものを見るのは心で見るのだと、夕日を観想するうちに俊徳丸の眼前に不思議な光景が現れるのです。
「住吉の松の暇より眺むれば、月落ちかかる、淡路島山と、眺めしは月影の、今は入日や落ちかかるらん、日想観なれば曇りも波の、淡路絵島、須磨明石、紀の海までも見えたり見えたり、満目青山(ばんぼくせいざん)は心にあり、おう、見るぞとよ見るぞとよ」
この時、俊徳丸は自分の身に奇跡が起こって神通力を得たと感じたのではないでしょうか。家を追われ・病魔に冒された俊徳丸が、日想観のなかで得た宗教的法悦です。しかしその法悦は長くは続きません。」ふらふらと歩き始めた俊徳丸は人にぶつかり・突き飛ばされ、たちまち現実に引き戻されます。俊徳丸は深く恥じて「今よりはさらに狂わじ」と肩を落とすのでした。
「弱法師」が観客に慰め・静かな感動を感じさせますのは、追放した息子を捜し求める父・高安左衛門が俊徳丸と再会して・息子を家に連れ帰る結末があるからでしょう。この結末が無ければ、観客は突き放されたような運命の絶対の厳しさだけが心に残ったことでしょう。この結末によって、俊徳丸だけでなく、観客もまた救われるのです。しかし、この結末は作者の優しさというよりは、日想観の奇跡のなせるものという風に解したいと思います。それでこそ「弱法師」は説経「しんとく丸」の系譜であります。 
2)日想観の奇跡
「合邦辻」が「弱法師」と同じく・説経「しんとく丸」の系譜を引いた作品であることは歌舞伎の本にはどれにも書いてあることです。それでは説経「しんとく丸」の根本教義とも言うべき日想観の片鱗が・謡曲「弱法師」にも通じる日想観の法悦が歌舞伎の「合邦庵室」のどこかに見られるのでしょうか。「合邦庵室」だけ見ていると、日想観ということはあまり浮かんでこないのではないでしょうか。それでは、どこに日想観の思想が反映されているのでしょうか。
残念なことに、こういうことは歌舞伎の本ではあまり論じられていないと思います。むしろその興味は説経のもうひとつの系統である「愛護の若」(つまり、継母が義理の息子に恋をするという趣向)の方に向いてしまっています。しかし、「合邦辻」の日想観の思想との関連は十分に検討されなければならないことだと思います。それをしなければ「合邦辻」は説経「しんとく丸」の系譜であることを主張できずに終わるでありましょう。
「合邦辻」下の巻「万代池」の場は、歌舞伎ではほとんど上演されませんが、これに続く「合邦庵室」を考える意味でも重要だと思います。「万代池」は天王寺の境内にあり、つまり、それは謡曲「弱法師」の舞台でもあります。「万代池」が舞台である以上、観客は「弱法師」の世界の再現をここに求めるでしょう。しかし、その期待は見事に裏切られます。「万代池」を重要だと考えるのは、むしろこの場が「弱法師」のような完成した世界に達していないからです。ここで「完成していない」というのはネガティブな意味で言っているのではもちろんありません。それはその次の場である「合邦庵室」に引き継がれて、そこで完成されるように設計されているのです。
「万代池」の場において、俊徳丸は夕暮れになって境内の菰(こも)垂れの小屋・つまり非人たちの寝泊りする小屋から出てきます。
「はや夕暮れも近づかん、今日ぞ彼岸の日想観、目は見えずとも拝さんと、小屋の菰垂れ押し上げて、西に向かいて音(ね)をぞ鳴く、心を阿字(あじ)の門に入り、合掌してぞおはします」
まさにこのシーンは「弱法師」の名場面の再現のようです。しかし夕日は俊徳丸に救いをもたらしません。その場に俊徳丸の許婚・浅香姫が登場して、姫は俊徳丸をただの乞食と思い込んで俊徳丸の行方を尋ねます。俊徳丸は業病で目が見えないのですが、その声で浅香姫と気付きます。しかし、その変わり果てた姿を恥じて名乗ることができません。そして、俊徳丸は「もしわが妻と名乗る者来らば、身を万代が池に沈んで死せしと伝えてたべ」と言い残して西国三十三ヶ所の旅に出たと嘘をついて寂しく去ります。
ここには「弱法師」の日想観の法悦も、最後に父親に再開して家に一緒に帰るというハッピーエンドもありません。説経「しんとく丸」でのしんとく丸の許婚・乙姫(=浅香姫に相当する)との再開も奇跡をもたらしません。ここには救いもなく、俊徳丸は改めて孤独と絶望のなかに置き去りにされてしまうのです。
観客に日想観の奇跡の再現を期待させながら、歌舞伎の「万代池」はついにその再現をしないままに終わります。それならば「万代池」は「弱法師」のパロディーなのでありましょうか。この場は合邦道心が地車の上に閻魔大王の頭部を乗せて勧進をつのり、群集の前で道化たお踊りを踊ったりする場面があったりして、どうも軽い印象が付きまといます。恐らくそのように「万代池」を見なして・出来損ないの・質の低い「弱法師」だとしか見ていないから、「万代池」の場は歌舞伎で上演されないのでしょう。
この「万代池」はこれに続く「合邦庵室」とセットで考えるべきだと思います。セットで考えないと、「合邦庵室」の意味も見えてこないように思います。「万代池」で完結しないままに残された奇跡が「合邦庵室」において起きるからです。非常に重苦しい・ドロドロとした雰囲気のなかで芝居は進行していきますが、「合邦庵室」は「万代池」において成されなかった日想観の奇跡の成就を目指して展開していくのです。
「合邦庵室」において、俊徳丸は玉手御前の血潮を受けた盃を押し戴き、一気に飲み干します。すると不思議や、俊徳丸の両目は開いて昔の花の姿に忽ち戻ったのでした。その俊徳丸の姿を見て、玉手御前は苦痛に顔を歪めながらも片頬に笑みを浮かべて息絶えます。
これはたんに血潮が引き起こす不思議ではありません。「血の奇跡」などと考えてしまうと何だか呪術的な・ブラックマジック的な奇跡を想像してしまいますがそうではありません。これは、玉手御前の自らを犠牲にして「愛する者」を守り抜こうとする菩薩の慈悲の心が引き起こす奇跡なのです。間違いなく民衆仏教的な信仰の心から来ているものです。これは日想観の奇跡の確かな成就であると思います。なぜならば、合邦庵室というのは「合邦が辻」、つまり天王寺の西門の先に位置するからです。弥陀の奇跡の成就は、天王寺の西方においてなされるということなのです。 
 
摂州合邦辻 / 文楽登場人物

摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ) / 人形浄瑠璃。時代物。2巻。通称《合邦》。菅専助、若竹笛躬(ふえみ)作。1773年(安永2)2月大坂北堀江市の側芝居初演。河内の大名高安家のお家騒動の際、後妻の玉手御前がわが身を犠牲にして世嗣の俊徳丸に家督を継がせ、継母としての義理を果たしたという経緯を描いた作品。盲目の俊徳丸を主人公とする謡曲《弱法師(よろぼし)》や説経節《信徳丸》の系譜を受けて作られた《莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあづまのひながた)》(1733年7月大坂豊竹座)を直接の先蹤とし、それに説経節《愛護若(あいごのわか)》系の継母の恋という構想をも絡めて筋立てを展開させたもの。
俊徳丸
河内の国高安左衛門の長男。次男で外戚腹(げしゃくばら)の次朗丸に家を横領する企てのあることを知った玉手御前(元腰元で正妻歿後奥方となった)は、ともになさぬ仲である兄弟の命を助けるため、俊徳丸に偽りの恋を仕掛け、毒薬を飲ませて難病を患わせる。俊徳は許婚浅香姫とともに玉手の父合邦の庵に匿われるが、玉手が訪ねて来て嫉妬に狂うので、合邦は娘を刺す。玉手は本心を語って自らの肝臓の生血を俊徳に飲ませると病は癒え、捕らわれた次朗丸は改心して、俊徳丸が高安家を継ぐ。
謡曲に『弱法師』、説教に『しんとく丸』があり、先後は明確でないが、共通する説話が典拠にあったらしい。『弱法師』では、高安左衛門が讒言を信じて捨てた子供の俊徳丸のため天王寺で施行を引くと、今は弱法師と渾名される盲目の乞食となった俊徳と巡り会う。盲目ながら清純な心をもつ俊徳が、夕日が西に沈む難波浦(なにわうら)の光景を心眼に映して舞うのが見どころ。説教では、しんとく丸が稚児舞楽を舞った折に蔭山長者の娘乙姫に恋をするが、父信吉(のぶよし)長者の後妻がわが子に跡目相続させるためしんとく丸を呪詛し、癩病となって天王寺に捨てられる。乙姫はしんとく丸を探し出し、清水(きよみず)観音の告げにより鳥箒(とりぼうき)の刀で病を治すという複雑な物語となっている。古浄瑠璃から義太夫節に取り入られて種々改作され、並木宗助ほか作『莠伶人吾妻雛型(ふたばれいじんあずまのひながた)』(享保18年)を経て本作に到る。後妻が俊徳に横恋慕する設定は、説教『あいごの若』等の影響と考えられる。
本作では玉手御前が中心でいくつかの型がある。能・説教では主役だった俊徳丸はわき役に回っており、演出的に大きな特徴は見られない。
浅香姫
和泉の蔭山長者の娘。高安左衛門の世継ぎ俊徳丸の許婚。癩病となった俊徳丸を追って館を出奔、天王寺境内で玉手御前の父親合邦に助けられ、その庵室で俊徳丸と再会するが、玉手御前にその仲を裂かれる。玉手御前最期の場で、その真実と玉手の想いを初めて知る。
奴入平
玉手御前の家来。女房のお楽ともども、俊徳丸と浅香姫の恋を成就させようと一生懸命に尽くす。業病にかかり、天王寺境内万代池(ばんだいがいけ)のほとりの小屋に住んで乞食にまでおちぶれている俊徳丸と浅香姫を引き合わせる。合邦の庵室では玉手御前に意見をし、俊徳丸と浅香姫を助けるために門口を壊して入る。玉手御前の最期の場に居合わせ、俊徳丸の病気快癒を見届ける。
次朗丸
河内の国の城主高安左衛門の長男。そかし、外戚腹のため家督は異母兄弟の俊徳丸が継ぐことになっている。それを妬み、俊徳丸に代わって家督の相続を企む。俊徳丸の許婚である浅香姫に横恋慕するが、こちらんも失敗。あげくの果てには合邦に天王寺の万代池に投げ込まれる。
合邦道心
合邦道心は、閻魔堂建立の勧化に来て、俊徳丸を助ける(「万代池)。合邦は、娘辻(つじ)こと玉手御前が継子の俊徳丸を口説くのを見て娘を刺し殺す。娘の本心を知り、百万遍の数珠の輪のなかで念仏を唱えて成仏を願う(「合邦庵室」)。
合邦は、北条時頼のもとで名裁判官として活躍した青砥左衛門藤綱の子という設定。北条高時の時代になって、讒言により浪人となり道心者となった。閻魔堂建立の勧化をして歩く姿は、江戸の志道軒に代表される仏教系の講釈師の姿を写したもの。歌舞伎の法界坊や大日坊、浅尾為十郎が得意にした、「ちょんがれ語り伝海(天海)」の影響のもとに生まれた。地獄の閻魔も金次第と説く世俗性が特色だった。刺し殺した娘の本心を知り、「おいやい、おいやい」と嘆くところが見せ場。
玉手御前
合邦道心の娘お辻は、河内の国の大名高安左衛門の後妻玉手御前となり、先妻の遺児俊徳丸に道ならぬ恋をする。毒を飲ませて癩病にした俊徳丸を追って館を出奔、合邦庵室で俊徳丸を口説く。見かねた父に刺され、実は俊徳丸を救うための偽りの恋だったと本心を明かす。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた玉手の肝の生血を鮑貝の盃に入れて飲むと俊徳丸は本復し、継母のために月江寺(げっこうじ)を建立することを誓う(「合邦庵室」)。
高安の長者の後妻が、わが子のために嫡子信徳丸(しんとくまる)をのろい癩病にする話(説教節『信徳丸』)に、二条蔵人の後妻が嫡子愛護の若(あいごのわか)に惚れて口説くが相手にされず、讒訴して愛護の若が漂泊する話(説教節『愛護の若』)を重ねたもの。説教は、『今昔物語』巻四の四。天竺の狗拏羅(くなら)太子という美しい大使が眼(まなこ)を抉り取られるが、人々の涙で洗うともとの姿に戻ったという仏教説話。玉手御前の名は、市天王寺の「玉出の水」(白石玉出水)に拠る。白い石より湧き出る清水で、慈悲心をもって飲むと法薬になり、亡者の霊魂を弔うというので彼岸中、お盆の七月十六日などに人々が群集した(『摂州名所図会大成』巻之五)。寅の年月日などが揃う「三時合(さんじごう)」「四時合(よじごう)」の趣向も、『阿弥陀の胸割』などの説教節のもの。俊徳丸物の先行作『莠伶人吾妻雛型』の初花姫の格。鮑貝の盃は、四天王寺西方(さいほう)の料理茶屋「浮瀬(うかむせ)」の名物。月江寺は、子を産むことなく死んだ女性を弔うために創建された尼寺であった。
玉手御前の年齢は、原作では「十九(つづ)や二十(はたち)」。大阪の女形四代目山下金作や二代目中山南指が玉手御前を「抱え帯」(前帯)姿の年増で演じ、歌舞伎では玉手御前を原作より年齢の高い女性として演じるようになった。眼目となる「面はゆげなる玉手御前」のクドキ(さわり)を歌舞伎では二つに分けて、「なおいやまさる恋の淵」からを俊徳丸へのクドキにする。現行では、歌舞伎、文楽ともに盆灯篭を灯す夏の物語として演出するが、原作は春の彼岸。幕切れに玉手御前が、「吹き払う迷いの空の雲晴れて」と言う辞世の歌を詠むのも歌舞伎の入れ事である。扮装は、黒または紫紺の留袖で裾模様に藪柑子(やぶこうじ)などを描く。鬘は、町人風の丸髷または武家奥方の勝山、公家風の下げ下地を用いることもある。花道の出に被る頭巾も、演出により黒または紫になる。
聖徳太子二千百年忌の年、安永二(1773)年に大阪竹豊座の人形浄瑠璃で初演。再演は寛政四(1792)年で、このときから上下二段のうち下の巻のみの上演になる。歌舞伎での初演の記録は、天保六(1835)年に大阪の四代目山下金作が上京して京四条北側の芝居で上演したものが早い。参考文献=古井戸秀夫「玉手の恋」(『歌舞伎━問いかけの文学』ぺりかん社、平成十年)、「帝国劇場、歌舞伎座『合邦』合評会」(『新演劇』大正八年七月)。 
 
「合邦庵室」の構造

1)演劇の「局面性」
歌舞伎研究の権威・郡司正勝先生が中国へ行って、中国の古い演劇をいろいろ調べているうちに、こんなことを考えたと語っておられます。
「本質的には大体同じだということが分かったのね。構成というか、世界構造が。それはつまり歌舞伎と同じように、部分をつないでいくものですよ、向こうは。ストーリーが出来てから上演するのではなくて、上演しているうちに、部分と部分を組み合わせて作るものだということ、それは中国へ行って気を強くしたの。あっ、ここにはまだ残っている姿があると。」
これは演劇の原初形態というものを考えさせます。これは学生時代の学芸会の芝居などの経験からも思いますが、恐らく演劇というものは最初は脚本などというものはなくて、簡単な打ち合わせでアドリブで進めるような寸劇(コント)的なものであったのです。当然ながら芝居はごく短いものであったろうと思います。それがやがて配役も増えて、寸劇がいくつも繋がる形で複雑な筋を形成していきます。しかし、そのようにして出来上がった芝居は、もともとバラバラのものをブロック的に積み上げたような構成になっています。もちろん中心となるものはあるわけですが、すべての局面が必ずしも有機的に関連しあうわけではなく、そのなかに断層や矛盾を孕んでいることもあり得るのです。
演劇・音楽など時間芸術の場合は、作品のなかに断層や矛盾があるからと言ってその作品の出来が悪いということには必ずしもなりません。局面・局面が面白ければ、それはそれで「慰み」にはなるわけですし、その局面の集合体の織り成す印象が人に感動を呼び起こすものならばそれは名作と言えると思います。時にはある部分だけが異常に肥大した芝居もあり得ます。それでも見るに耐えるのはその役者の「芸の力」ということももちろんありますが、演劇というものが本来的に持つ「局面性」というものに拠るのです。
これは歌舞伎に特有な現象ということではなくて、どの国の演劇でもその原初形態においては持っているものだろうと思います。いつ頃までそういう形態を引きずっているかということの違いだけだと思います。京劇においても、かつて名優・梅蘭芳(メイ・ランファン)は「貴妃酔酒」などで楊貴妃が酒を飲むシーンだけで一時間以上もたせたそうですが、今は筋を通すことが優先で、こういう芸を見ることは京劇でもなかなか出来なくなっているそうです。これは歌舞伎でも同じです。あの歌右衛門の長い・ながーいお岩の「髪梳き」・あるいは「尾上の引っ込み」を、今の役者がやることはもはや許されないことかも知れません。
「昔の腹切りはもっともっと長かった。たとえば権太が腹を切るのは今は簡略過ぎますよ。合邦のお辻も同じこと。梅玉(三代目・・・玉手を得意とした名女形)なんてのは、胸を突いて息を引き取るまでが長いんですよ。そのためにストーリーが前に付いているという感じですよ。モドリになってからが長い。戯曲の構成というものはそれが眼目であったなということが分かるんです。中国に行ってきて、改めて気がついた。昔はそうだったなあ、ということが。今はストーリーを通すために満遍なく平均して筋がならされていくわけですね。だから演出が変わってくる。そうするとかえって矛盾が目立ってくるんです。」
このことは「義経千本桜・鮨屋」において権太がどの時点で改心するのかを考えた時にも触れました。(別稿「モドリ」の構造」をご参照ください。)劇の最後で権太が死の直前に本心を告白するモドリの場面を考えると、ここで権太はこういう心理の揺れを見せなければならない・ここでちょっと本心を匂わせなければならないなどと考えていると逆に芝居の局面・局面がなんだか小さくなっていくのです。
これは「そう言えばあの時が変わり目だったのか」と観客があとで芝居を巻き戻してみれば済むことなので、やはり局面はその局面なりの位置をめいっぱい主張しないと芝居は面白くなりません。それによって芝居は本来の間尺に合ってくるということなのです。しかし、これが今の役者にはなかなか難しいらしいのです。良くも悪くも心理主義的で、一貫した人物造形の考え方に慣らされていることもあります。また見る方も同じで、局面優先の芝居はなかなか受け入れないせいでもあります。
あそこで権太が鮨桶を間違えなければこの悲劇はなかったのかとか、自分の妻子を売ってあんなに平然としていられるはずはないとか、腹を切ってからあんなに長くしゃべっていられるはずがないとか考えればいろいろ疑問は出てくるものですが、そうしたところで筋は逆に平坦になってくのでしょう。不思議なことですが、古老の話を聞くと間違いなく昔の芝居の方がテンポが早くて上演時間は今より短かったようです。目いっぱい腹切りを引っ張っても今の芝居より時間が短い。ということは他の部分のテンポが早かったということです。場面・場面のテンポのメリハリがついていたということだと思います。 
2)モドリの構造
前置きが長くなりました。本稿では「合邦庵室」の構造を考えます。郡司先生のおっしゃる通り、「合邦庵室」においては玉手御前が胸を父親に刺されてその本心を吐露するところが眼目なのです。そして、その告白の段取りのために前に「玉手御前の恋狂い」などのストーリーが付いているというのがこの作品の基本構造なのです。モドリを効果的にするには、その「狂い」の場面において玉手御前は道ならぬ恋の情熱・不道徳の香りを目いっぱい発散させねばなりません。その意味において玉手御前の恋はまさに「真」に迫っていなければなりません。
しかし現代人というのはどうしても、「玉手御前の恋が真実であるならばそのモドリの場面において玉手御前は俊徳丸への愛をどこかに匂わせて死なねばならない」、あるいは「玉手御前の恋が偽ならばその狂いの場面においてどこかに罪の意識が見えねばならない」などと考え始めます。すると「狂い」と「モドリ」のどちらの場面でも局面性が際立たなくなってきます。「玉手の恋は真か・偽か」ということは別にしても、このように一貫した劇構造を求めようとすると、却って局面の矛盾があちこちに目立ってきて玉手御前の人物像がうまく定まらずに混乱してしまうことになるわけです。
「庵室」においては「モドリ」を眼目にしており、その段取りとしての・局面としての「狂い」が前に置かれていると考えるべきです。また端場としての「万代池」で合邦道心が道化て踊る祭文踊りも「庵室」での合邦道心の重い人物像とかけ離れているという指摘がよくされますが、それは作品自体の弱さということではなくて、軽い感じの合邦道心の人物もそこに端場たる「万代池」の位置付けがまずあってそれに応じた重さが与えられていると考えるべきと思います。
局面から作品を読もうとする場合には、時々作品から距離を置いてみて全体を見渡すことをして、そしてまた局面に戻るようにしませんと、「木を見て森をみない」ことになってしまいます。と言って・森ばかり見ていると木は見えてこない。そういう意味で「合邦」という芝居はなかなか難物の芝居であります。 
3)「庵室」における二つのカット
「摂州合邦辻」というのは浄瑠璃でも全盛期を過ぎた頃の作品でありますし、作品のなかに同じ説経オリジンとはいえ「しんとく丸」と「愛護の若」という異なる題材を無理やり詰め込むところに若干作者の力量の問題があったりしますが、それでも作品を読んでいくと作者はやはり作者なりによく考えて書いていると思います。実は「庵室」は歌舞伎や文楽で現在見られる舞台では最後の場面で若干のカットがされていて、原作(丸本)とは趣きがすこし異なっています。しかも、このカットされた部分に重要な意味を作者が与えているのです。
それはまず、玉手御前の母親が「寅の年寅の月寅の日寅の刻」というひょんな月に産まれた娘の不運を嘆くあとにある玉手御前の台詞です。「手負いは顔を振り上げて、かねて覚悟の今の最後、未練に嘆いてくださるほど、結句私が身の迷い、この様子をわが夫、つぶさに頼むは俊徳さま・・・」となり、不義の言い訳が立ったことの喜び・次郎丸の命を助けて欲しいとの願い・そして腰元の賤しい我が身がお主のために命を捨てるのは武家に仕える者の誉れであると言って、これを夫・高安左衛門通俊に伝えるように俊徳丸に伝言を頼みます。この台詞により玉手御前の覚悟がはっきりと示されて、モドリの意味がさらに重いものになっていることが理解されると思います。
さらに普通の「庵室」は「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や、合邦が辻と、古跡をとどめけり」で締められていますが、丸本ではこのあとに主税之助に連れられて次郎丸が縛られて登場し、玉手御前の遺言通りに命を助けられる件があります。そして「治まる御威勢高安の、俊徳丸の物語、書き伝えたる筆の跡、千歳の春こそめでたけれ」で下の巻全体が締められます。
玉手御前が不義の汚名を着て・命を捨てたのは、お家騒動のなかで義理の息子・俊徳丸を助けるためだけではなかったことを忘れてはなりません。もうひとりの妾腹の息子・次郎丸を守ることも玉手御前の強い願いであったということです。次郎丸が助けられなければ、玉手御前の死は無駄になってしまうのです。果たして遺言通りに次郎丸は助けられて大団円となります。
「主人公の玉手御前が死んだあとの長々しい芝居は不要だよ」というのがこの部分のカットの理由でありましょう。しかし、局面性の芝居においてはその考えは通用しません。この大団円によってこそ玉手御前の奇跡は完成するのではないでしょうか。これで安心して玉手御前は成仏できるのではないでしょうか。そのために蛇足に見えるこの「局面」が必要になるのです。
これら最後の場面での二箇所のカットを読むと、「庵室」で引っ掛かっていた部分がすんなりと納得できるような気がします。そしてこれならこの芝居が本来あるべき間尺に納まるということを感じます。「作者は作品をいい加減な態度では決して書いていない」ということを改めて感じます。 
 
あいごの若

説経節を読み込んでいるうちに気づいたのだが、もしやこれは障害者文学ではなかろうか。中世の説経節に関してはあまり文献が残っていないらしいので、思いつきに過ぎないが。当時の賤民が日本中を放浪しながら各地で説経節をやっていたということである。村落共同体でみなとおなじように集団定住ができていたら放浪などしないはずだ。とすると、集団定住の共同生活の不可能なものが賤しい説経師になったと考えられる。そうだとしたら、説経師は現代でいう精神障害者、身体障害者がなっていたのではないか。精神および身体に障害を持つものは、言い方は悪いが共同生活の邪魔者である。なぜなら、残酷なようだがはっきり言うと役に立たないからだ。ギリギリの生活をしていたら、いまのように福祉などないのだから、身体障害者に食わせるメシはないだろう。おかしなことを言いふらすきちがい、精神障害者はもっと厄介だったはずだ。精神障害者がひとりいたら集団定住の共同生活を営むのは困難になる。家族には悪いが、村落から追放するしかないだろう。こういう障害を持つ男女の大半は野垂れ死にをしたと思われる。一部の才能を持ったものがうまく師匠を見つけ説経節を覚えたのではないだろうか。もちろん、師匠も障害者で優秀な弟子を持つといろいろ融通がきいたはずである。
「さんせう太夫」や「をぐり」はくだらないと書いたが、それは目で文字を読むからだ。耳で聴いたらぜんぜん違うはずである。声の力を舐めてはならない。うわ言をつぶやいているような狂女が一変、目をらんらんと輝かせ、病的な「こだわり、プライド、被害妄想」をたっぷり込めて「さんせう太夫」を語ったら、それはそれは壮絶な感動を呼んだのではないだろうか。両腕がなくびっこひきひき、さらに片目の身体障害者が、おのれの不遇を「をぐり」に託してうたいあげたら聴くものみな涙したのではないか。考えてみたら、「かるかや」はどこか精神病的である。ふつうなら妻子もいるような立派な武士がいきなり出家したりはしないのである。現代でいうところの精神病が発症したとしか考えられない。「しんとく丸」のテーマは「親の因果が子に報う」である。奇形者が片輪になりし怨念、不具に生まれついた呪詛を「しんとく丸」に込めたら、聴衆は身震いがとまらないほど心を揺り動かされるのではないだろうか。誤解を恐れずに人でなしのようなことを言い放ってしまうと、障害者が中世で役に立つとしたら、説経節に自身の怨嗟の声を託すしかないのである。そうしてはじめて障害が生きることになる。被差別者にしかうたえない唄が中世の説経節だったのではないだろうか。
いまでいうなら各地を巡業してまわるプロレスがけっこう近いのではないか。詳しくは書かないが(書きたくないが)プロレスラーには被差別者が多いようだ。そういう虐げられたものが自身の苦悩、葛藤を身体表現するのがプロレスである。いまのレスラーはサラリーマン化しているが、むかしはそうではなかった。こん畜生という思い、生まれへの呪いを、畜生や阿修羅のように見世物にするのがかつてのプロレスであった。プロレスと説経節の共通点をあげると、どちらも即興芸なのである。観客の空気を読んで、段取りを変えることのできるのがいいプロレスラーだ。おそらく、説経師も場の空気を察して、そのときそのときで説経節の内容を変えていたのではないだろうか。口承芸能の説経節に定本や正本のようなものはないはずである。そもそも目で読んで覚えるものではない。耳で覚えるものだ。もしかしたら毎回、説経節の内容は微妙に変わっていたのではないかと思う。「さんせう太夫」(安寿と厨子王の物語)は正本ではいまのようになっているが、どう考えたって安寿の拷問死はもう少し性的な色合いを強めたほうがいい。たぶん、本には清く正しいものが採録されたが、現場では違っていたはずだ。
ここまできてようやく「あいごの若」になる。説経節「あいごの若」はかなりおかしな筋立てなのである。結論から先に書くと、愛護の若はまったく救いがなく自殺する。それどころか登場人物のほとんどが自殺を遂げる始末である。ほかの説経節のように観音様が救いに来てくださらない。およそ近代的知性が受けつけないといってもよいほど不気味で悲惨な物語である。どうしてこうなったのかと考えて気づいたのだが、このバージョンはかなり変形された例外的なものだったのではないだろうか。なにやら最後に観音様が現れて救ってくれるバージョンもあったような気がするのだ。そして、いや、にもかかわらず、わたしはこのバージョンの「あいごの若」がけっこう気に入っているのだ。
以下に物語をかんたんに説明する。子宝に恵まれない夫婦が観音様にお願いしにいくというのはいつものパターンである。学問における観音菩薩は万民をお救いくださるが、庶民の観音様はそうではない。「しんとく丸」とおなじで条件を出すのである。「子が3つになったら父か母に命にかかわる事件が起こるがいいかな?」こうして生まれたのが男子、愛護の若である。若が13歳になったときに母親が観音様を舐めた発言をして仏罰が下るのも「しんとく丸」とおなじである(もちろん学問の観音菩薩は仏罰などやらない)。母は死に後妻が家に入ってくるのだが、この継母が美少年の愛護の若に一目惚れをする。これはギリシア悲劇「ヒッポリュトス」やラシーヌ「フェードル」と同型といえよう。継母は何通もの恋文を下女の月小夜に持たせるが、愛護の若は受けつけない。若は持仏堂で亡き母の供養をしていたのである。7通目の恋文が届いたときに若は月小夜にこう告げる。「この手紙を父上に見せて継母を裁いてもらおうと思うが、どうかな月小夜?」月小夜はあわててこのことを女主人に報告する。このときの継母の変貌ぶりがすばらしい。愛護の若の父親は清平という。以下は炎のような恋をする女のセリフである。
「このこと清平殿に聞えなば、一命失はれんは治定(ぢぢゃう)なり。こよひ持仏堂に乱れ入り、愛護の若を刺し殺し、自らも自害し、六道・四生にてこの思ひを晴らさん、月小夜いかに」
「六道・四生にてこの思ひを晴らさん」というのがいい。「いかように生まれ変わっても」恋仲になってやるといっているのである。下女の月小夜は、それならばと悪巧みをそそのかす。直接手を下すのは失敗するかもしれないから、自分の夫をうまく使えばいい。恋に狂う女の目にはもうなにも見えない。このセリフもいい。
「一念無量劫、生々世々に至るまで、五百生の苦を受け、蛇道の苦患を受くるとも、思ひかけたるこの恋を、会はで果てなん口惜しや。憎き心の振る舞ひ、讒言(ざんげん)をたくめ月小夜。けさまでは吹き来る風も懐かしくおぼしめさるるこの恋が、今は引き替へ、難儀風とやいふべし」
前世の因縁としか思われぬような恋がむかしからあったようである。こうして継母と下女の悪巧みにより愛護の若は以後延々と苦難を受ける。細かいところは省略するが、放浪する愛護の若に災難ばかり舞い込む。結局のところ、絶望した若は父と継母を恨みながら「きりうの滝」に身を投げる。最後の最後まで観音様は愛護の若を救いには来ないのだ。死後に若の遺書が父、清平の手に渡る。真相を知った清平は、後妻と月小夜を殺害する。ここからがすごいのである。関係者全員が「きりうの滝」に身投げしてしまう。まずは息子の死骸をかかえた清平である。「いつまでありてかひあらじ。我も共にゆかん」といって入水する。つづいて登場したほとんど全員がおなじように入水自殺するのだから。自殺したのは合計で108人になったという。このときも一度として観音様はお姿を見せない。
6つ説経節を読んだが、これほど後味の悪いものはほかにない。どうしてこういう説経節ができたのか。わたしはこの物語を必要とした不幸な庶民を想像する。本当に苦しいときはハッピーエンドの物語に耐えられないのである。たとえば、こんなことを妄想する。村の中ではそれなりに裕福な家に息子が3人いた。そのうちの二人がどうしてか過去に自殺している。最後のひとりだけは大丈夫と思っていたら、結婚相手に反対したのが原因でこの息子までみずから命を絶ってしまった。こういうことがあって悲嘆に暮れている老夫婦のもとに説経師がやってくる。村民から事情を聞いた説経師は「あいごの若」をやることに決めるのではないか。この老夫婦は、異形の説経師による受苦の物語を聴いて深く癒されるはずである。説経師が人間ならぬ形をしていたら(片輪、不具)そのぶん、まるで聖(ひじり)から神託を受け取ったように思うだろう。かならずしも観音様は人を救ってくれるとは限らないのだと深々と納得するはずである。「救われない物語」に救われてしまうほど不幸な人がいるのである。このとき説経師と聴衆は受苦という怨念で深く通じ合う。呪われた人間が一瞬でも救われる奇跡が中世にあった。わたしはそう信じたい。 
参考
唐崎明神と一つ松、となれば愛護若である。彼に纏わる物語は凄惨極まりない。最後に百八人の縁者が次々淵に飛び込むは御愛敬として、愛護若は極めて美少年であったが継母の讒言により緊縛され責め苛まれ、叔父のもとへ逃れ行けば寄って集って打擲され、帰ろうとして山里を通れば中年女{姥}に罵られ打ち据えられて辱められた。若は屈辱に耐えかね自殺した。とにかく美少年が虐待されまくるだけの話なのだ。救済は一切ない。しかも継母の讒言というのが、若を憎んでのことではない。美しい若に懸想して何度も恋文を送ったが、若が夫に密告せぬための用心であった。継母は猿と戯れる若を見て欲情したのだが、いったい若は猿と何をしていたのであろうか。いや抑も、若は親の命と引き替えに長谷観音から授かった子であった。若が三歳になったとき両親の何連かが死ぬことと引き替えに授かったのである……が、若が十三歳になっても両親は健在であった。実母は長谷観音が嘘を言ったのだと若に話した。長谷観音は怒り狂い、実母を殺した。
愛護若は猿を飼っていた。継母に讒言され緊縛され桜の木に吊られた彼を、猿が助けようとするが果たせない。死んだ母が鼬の姿で一時的に甦り縄を切ってやった。鼬は、叔父のもとへ逃れよと告げて、姿を消した。いや母が生き返ろうとしたとき、適当な人間の屍が見当たらず、あり合わせた鼬の死骸に乗り移ったのであった。もう滅茶苦茶な話なんである。叔父である僧侶を頼って比叡山に登ると、天狗だと疑われて弟子どもに袋叩きにされた。命からがら逃げた若は、穴生を通りかかる。生け垣の桃を取る。姥が現れ、若を杖で打とうとする。若は麻畑に隠れる。ますます怒った姥は若を打ちまくった。これまで男どもに散々打擲されてきた若であるが、姥に打たれたことを此の上ない屈辱に感じた。小指を噛み切って血染めの遺書を認め、淵に身を投げて死んだ。途中で三人ほどの善人に出会い飯を貰うが、殆ど不幸だけに彩られた最期であった。そして愛護若が自殺したと知って関係者が次々同じ淵に身を投げて死に、継母は簀巻きにされて川に沈められた。とはいえ勧善懲悪ではない。若に仇を為した者だけでなく、情けをかけた善人たちも次々に死ぬのである。いったい何が言いたいのか解らない。結局、美少年が理不尽に打擲され陵辱されて自殺するだけの話である。 
 
紀海音の浄瑠璃の研究

論文要旨
石田賢司氏の学位申請論文「紀海音の浄瑠璃の研究」は、豊竹座の初期の座付作者紀海音〈寛文三年(一六六三)〜寛保二年(一七四二)〉の浄瑠璃作品における文芸価値を評価することを目的としている。
序章は、紀海音が同じ時代に竹本座の座付作家として活躍していた近松門左衛門がいたために常に近松と比較され、現在では一般的に近松に劣ると評価されているが、当時の資料からは紀海音は近松のライバルとして活躍し、彼の作品も観客から支持されていたのは事実であることを報告している。
第一章は「宝永正徳期の紀海音の浄瑠璃」と題している。第一節「歌舞伎と海音の浄瑠璃」では歌舞伎狂言『心中鬼門角』と紀海音の浄瑠璃『袂の白しぼり』を表現方法から比較し、紀海音が語彙の一つ一つ注意深く使用しながら、それらの働きによって登場人物の感情が深く表現されていることを確認している。
第二節「浮世草子と海音の浄瑠璃」では、紀海音の『甲陽軍艦今様姿』が浮世草子『当世信玄記』を題材としていることを新たに指摘し、紀海音の趣向における解釈を深めている。第三節「竹本筑後掾の後継者問題の豊竹若太夫」では紀海音が作品を提供した豊竹若太夫について見ている。浄瑠璃界の第一人者竹本筑後掾が没した後、その後継者として若太夫が取り立てられたことを時系列的に述べている。
第二章は「享保期の紀海音の浄瑠璃」と題している。第一節「『鎌倉三代記』における執筆方針」では紀海音『鎌倉三代記』が浮世草子『頼朝三代鎌倉記』を題材としていることを検証している。さらに、紀海音によってつくり出された趣向に関して解釈を深めている。第二節「『愛護若塒箱』における模倣翻案態度」では、まずその上演年代を再検討している。その結果、享保三年秋ごろに上演されたものと推論している。
紀海音にとって、享保期は円熟した独創期と認められているが、それにも例外があり、先行作品に大いに影響されていることを確認している。第三節「『義経新高館』の行動方針と文芸表現」では、登場人物の行動指針を近世の視点から理解し、従来の紀海音の評価として「哀れの情に訴えることがなく人間感情を明快に割り切っている」と述べられることを再検討している。第四節「『呉越軍談』の構想と趣向」でも題材となった作品との比較を通して紀海音の趣向を明らかにし、本作では特に二つの趣向を展開させて観客を飽きさせないように工夫していたことを論じている。
第三章は「紀海音の浄瑠璃作者引退をめぐって」と題している。第一節「紀海音浄瑠璃作者引退に関する一考察」では紀海音が浄瑠璃作者を生業としていることを兄・油煙斎貞柳は快く思わず、彼らの仲は疎遠であったが、彼らもやがて和解し、それが紀海音の作者引退につながったと論じている。第二節「紀海音浄瑠璃作者引退後の豊竹座」では、紀海音が引退したのちの豊竹座において余儀なくされた体制の変化を述べ、結局それが次代の人形浄瑠璃の発展につながったことを述べている。
最後に紀海音年譜を提示するように、本論文は紀海音の作品展開史を検証することから、近世浄瑠璃史ひいては日本芸能史の中での作者紀海音の存在意義を問い直し、従来の位置づけを高く評価し直しているのである。 
審査要旨
「紀海音の浄瑠璃の研究」は紀海音の浄瑠璃作品における文芸価値を評価することを目的としているとするが、近松門左衛門を意識し、彼以上の文芸性を見いだそうとするために、ともすれば、独善的になる評価も散見できる。もう少し、今日も舞台にかけられている紀海音をリメイクした菅専助の作品などへの影響を論じる方が論文の主旨からは説得性があったであろう。しかし、その一方で紀海音の全作品をよしとする大前提から論を進めていない姿勢が窺えることは冷静な作品分析として評価できる。
第一章第一節では歌舞伎狂言『心中鬼門角』と紀海音の浄瑠璃『袂の白しぼり』が表現方法から比較されているが、あくまで、登場人物の感情を一語一語の表現から誠実に読み解こうとしている石田氏の姿勢は評価できる。しかしながら、例えば、「寝あぶら」という一語を多方面から分析し、「寝物語」として解釈することは斬新で面白い面があると言えるものの、貞門派として俳諧の道に学んだ紀海音を知るなら、付け合いなど俳諧的手法から分析する方法も提示されてもしかるべきではなかったかと言える。第二節「浮世草子と海音の浄瑠璃」では、紀海音『甲陽軍艦今様姿』が浮世草子『当世信玄記』を題材としていることを新たに指摘し、紀海音の趣向から解釈を深めていることは興味深い。しかし、これも同時代の「太平記読み」やいわゆる甲陽軍艦物の庶民への浸透も視野に入れて論じてもらえれば第一節の場合と同様ながら、より深い文芸性の解明につながったのではないかと指摘できる。第三節「竹本筑後掾の後継者問題と豊竹若太夫」で検証する竹本筑後掾没後の豊竹若太夫が取り立てられた経緯は、新たな資料提示などから実証性があり、説得性があるといえよう。
第二章は最も爛熟期を迎えた享保期の紀海音の浄瑠璃を『鎌倉三代記』、『愛護若塒箱』、『義経新高館』、『呉越軍談』の四節に分け、その文芸性を丁寧に解明している。特に典拠や先行作品との関係を論じるにあたり、本文表現の摺り合わせを行っているが、この種の対校表を用いての分析は石田氏の真骨頂といえよう。また、単なる作品の読みからの文芸としての面白みだけではなく、紀海音が浄瑠璃という芸能として、当時の観客への効果も想定していたとする、その趣向に言及しているのは注目できる。しかし、ともすれば先行研究者の言説の検証の終始してしまっているところもあり、より積極的な自説の展開が求められる。さりながら、これらの論は石田氏が既に学会発表等を通して、学界に問うところであり、今後の研究動向の中で結論を出
すべきであろう。
第三章は、紀海音の浄瑠璃作者引退と引退後の豊竹座をめぐる論であるが、この文学史的空白を「紀海音一両年休足」という記事だけから「引退」と解釈できるか問題が残る。総じて歴史的事象としての検証は難しいといえるが、石田氏の紀海音の出自、終焉、生業、兄・油煙斎貞柳との関係、狂歌などの他の文芸活動などから丹念に紐解く検証は、単なる推論には終わっていないと評価できる。特に大坂水帳資料から永田家と製菓業鯛屋との関係を明らかにし、紀海音の文芸活動にアプローチする方法は注視できる。
第三章に限らず全体的に、当時の浄瑠璃界の状況、文学的環境と庶民との関係、さらには芸能の地大坂と紀海音との関係までも広げて論を進めることが石田氏の今後の課題となるであろう。 
 
紀海音考 / 近世上方の文人の素顔

紀海音 / (きのかいおん、寛文3年- 寛保2年 / 1663-1742) 江戸時代中期の浄瑠璃作家、狂歌師、俳人。本名は榎並善右衛門。大坂生まれ。父は大阪御堂前の菓子商鯛屋善右衛門(俳号:貞因)で、兄に狂歌師油煙斎貞柳がいる。若い頃は、京都宇治黄檗山萬福寺の悦山に師事して僧となり高節と号した。その後還俗して大坂に出、和歌を契沖に、俳諧を安原貞室に、狂歌を兄に学んだ。1707年(宝永4年)から1723年(享保8年)頃まで大坂豊竹座の浄瑠璃作家として活躍し、竹本座の近松門左衛門と対抗していたが、それ以降は俳諧、狂歌に専念した。1736年(元文元年)には法橋に叙せられている。 
はじめに
近松門左衛門は、近世初期において上方と呼ばれた都市部で活躍した最も有名な劇作家であるが、芝居事に一生を捧げた近松とはまた違ったタイプの劇作家も、上方という都市には活躍していた。その一人で、竹本座の近松に対し豊竹座の座付作者であった紀海音という人物について考察してみたいと思う。 
浄瑠璃史における紀海音
近松とその作品についての研究はかなり進んでいるが、紀海音についてはまだまだこれからという段階である。そこでまず、海音に関する評価や伝記についてまとめておくことにする。
まず海音に関する評価であるが、同時代の評判として、『今昔操年代記』(西沢一風著・享保12刊「日本庶民文化史料集成」第7巻人形浄瑠璃所収)は紀海音の活躍を次のように述べている。
二年つとめ其暮。河内や加兵衛といふ此道の粋方。あやつり芝居におもひ付。是非くはだてんと。豊竹辰松相座本とし。篠の丸のやぐら幕。浄るりの作者紀海音。新作追へ出しければ町中余程御贔屓の見物おほく
また『竹豊故事』(浪速散人著・宝暦6刊「日本庶民文化史料集成」第7巻人形浄瑠璃所収)には、
其後次第に操芝居繁昌せるに付道具建衣裳等漸々に向上に成別して竹本豊竹両座と成てより東は西に負まじ西は東に勝らんと互ひに励ミ出来益々芝居繁栄し浄瑠璃の作者は種々様々の趣向を工ミ出し…(中略)…併し西か東か一座斗にては斯繁昌もせまじ当時は町中の若い衆豊竹講の竹本講のと号し毎月掛銭を集め置替り浄瑠璃の節進物の入用に仕給ふとかや扨々奇特千萬成御心中益々信仰なさるべし
と伝える如く、豊竹座も竹本座に劣らぬ人気のあったことが窺える。
さらに少し時代が下るが、『反故籠』(万象亭〈森島中良〉著・文化5頃成立「日本随筆大成」新版2期8所収)は、海音の『心中二ツ腹帯』が近松作を凌いで大当たりした時の様子を次のように伝えている。
近松は西の作者、海音は東の作者なれば、敵同志の如く立分れ、新浄瑠璃の趣向など一言半句を通ずべきにあらず。然るに西の宵庚申と心中二ツ腹帯とを見れば、いづれも八百屋の女房は善人なるを悪人、仁右衛門は悪人なるを後生願ひに振替て書たる事、孔明と周瑜が手の内に伏といふ字を書きたるが如し。達田弁二云、海音勝利にて豊竹座大当りなりければ、芝居より千日へ石碑を建て供養しければ、彼八百屋にて大に怒り、夜分、石碑を芝居木戸前へ建させけるを、翌朝、表方の者取退けんと云けるを、却て景色に成べき故、其儘に置べしと、座本越前の差図に依りて、取のけずして建て置きける。此事どつと評判になり大入なりしと。
また同じく『反故籠』が、海音の作風について、
門左衛門は人麿の如く孔明の如し、海音は赤人の如く仲達の如し
と評し、『浪速人傑談』(政田義彦著・安政2序「続燕石十種」所収)は、
或老人の説に近松氏は学力厚きにすぎて其名高けれと其作古風にして婦女童蒙の耳に入かたき所あり海音の作はあらたにして能田夫児輩にわかりやすしと語られたりし
と伝えている。
このように海音の作は、高尚な近松作品に対し、趣向の新しさやわかりやすさで市井の人々の人気を博し、時には近松作を凌ぐ評判をとることもあったようである。
浄瑠璃史に登場する紀海音は、宝永4 (1707)年暮の豊竹座再興の折に座付作者となったことに始まり、享保8(1723)年の『傾城無間鐘』を最後の作として作者を引退するまでの20数年間に、存疑作を含めると50にも迫る数の浄瑠璃を世に出したことで知られる。それはちょうど、筑後掾(竹本座の創設者である竹本義太夫)亡き後の竹本座存亡の危機を救うべく、円熟期の近松が次々と名作を生み出した時期と重なる。西の竹本座と対峙する東の豊竹座にあって、近松と鎬を削り合った作者が紀海音だったのである。
次にこれまでに知られている海音の伝記について、概要を掲げておこう。
海音の父は、山城大掾を受領した禁裏御用の裕福な老舗菓子舗鯛屋の主であり、松永貞徳の門人として活躍し貞因と号した。9歳上の兄は上方狂歌界の重鎮油煙斎貞柳、叔父は俳人で狂歌にも巧みな花実庵貞富と文芸活動の盛んな一族の中にあって、海音も幼い頃から漢籍や仏典や和学を修めるなど真面目な勉学態度が窺われるが、若年期の特筆すべき創作活動は見られず、宝永4年豊竹座の座付作者となるに至り、大いにその才能を発揮。竹本豊竹競合する中、近松に伍して次々と新作を生み出したが、妙智火事による芝居小屋や鯛屋の類焼によって、享保9(1724)年余力を残しながら62歳で芝居を引退。それから寛保2(1742)年80歳で亡くなるまでの18年は、閑暇の余戯に俳諧・狂歌に遊んだ。 
伝記再考
海音の文学活動の中心は、このように専ら豊竹座での浄瑠璃執筆であったと考えられてきた。
しかし海音が豊竹座の座付作者となった宝永4年、彼はすでに人生も半ばを過ぎ、45歳になっていた。劇作家への急な転身は、それまでに十分な素養を身につけていなければ、不可能だっ193
たであろう。そこで新資料をもとに海音の伝記を改めて調べてみると、従来とは異なった海音像が浮かんできたのである。そのあたりについて今から述べてみたいと思う。
まず、海音のまとまった伝記資料としては、海音没年に出版された追善狂歌集『狂歌時雨の橋』(寛保2年刊 京大頴原文庫蔵)に載る「海音貞峨居士傳」が従前より知られていた。これは海音を直接に知る縁者鳳潭が、海音生前の享保12(1735)年12月に法橋叙位を祝して著したとされ、海音自身の目にも触れたに違いなく、信頼できる資料であるといえる。
しかし、漢文で簡潔に書かれた「海音貞峨居士傳」だけでは知り得ぬ部分も多く、新たな資料の出現が待ち望まれていた。
そこへ阪口弘之教授所蔵の海音追善俳諧集『仙家之杖』乾巻の資料を調査する機会に恵まれ、従来の海音像を改める必要があるという結論に達したというわけである。
『仙家之杖』は、海音の歿翌年(寛保3[1743]年)に出版された追善俳諧集である。その乾巻の序には、海音の親友椎本芳室が認めた「貞峨菴契因法橋傳」と題する海音の伝記が収載されている。
この「貞峨菴契因法橋傳」をもとに、あらためて海音の前半生をたどってみたいと思う。
@幼少期
海音は寛文3(1663)年、一説には5(1665)年、大坂御堂前の菓子舗鯛屋の主、榎並貞因の子として生まれた。「貞峨庵主もとの姓は藤原氏は榎並にして幼より学ひの道にかしこく」と「貞峨菴契因法橋傳」にあるように、山城大掾を受領した禁裏御用の裕福な老舗菓子舗に生まれた海音は、幼少期より一族の文芸活動の影響を受けて学問に勤しんだことが知られる。
A惟中門下期
「壮年の比ほひ予と一時翁岡中の講席に交り文筆をともに志を同しう道をいとみなすことになん」(「貞峨菴契因法橋傳」)。
海音の父貞因は、翁岡すなわち岡西惟中が延宝6(1678)年に大坂に居を移して以来、パトロン的立場であったと考えられているので、海音も若年より惟中との付き合いはあったと思われる。しかし、「壮年の比ほひ」という表現から、芳室と共に本格的に惟中の講席に交わったのは、貞享3(1686)年それまで師事していた下河辺長流が亡くなる前後ではなかったかと思われる。貞享5年26歳の年には、惟中編漢詩歳旦集『戊辰試毫』に「稲甘泉(芳室の別号)」と「珍菓亭一指(海音の別号)」の詩が載ることから、どうやらこれ以前に芳室と共に惟中の講席に交わるようになったようである。翌元禄2年にも惟中編漢詩歳旦集『元禄己巳試潁』に「珍菓亭一指」の詩が載っており、さらに元禄3年には一指著『遊仙窟鈔』を自ら刊行している。師に学んだ漢学を単なる教養に終わらせず、28歳の若さで自著を刊行する力量は瞠目に値するが、これは海音本人の能力もさることながら父貞因の精神的・経済的バックアップがあってのことであろう。
B父との別居
「やゝ年ありて家君貞因居をわかち玉造りの別墅に移さる これより遠く江東日暮の雲をへたたり独り屋梁に月を望み慕ふ事久し」(「貞峨菴契因法橋傳」)。
元禄8年海音33歳の年の8月25日には、7才ばかりになる一子亀松まろ(法名正因童子)を亡くし、悲しみに暮れる海音こと立因に師契沖が「立因が亡き子の為地蔵観音二菩薩のみかた造れるにしるせる詞」(『寶光遺篇』・岩波「契沖全集」第16巻所収)を認めている。挫けそうな息子を叱咤激励するためであろうか。この頃貞因はそれまで同居していた海音に、契沖の住む円珠庵にほど近い玉造の別墅に居を移すよう命じたことがわかる。
C契沖門下期
「密乗の沙門契沖大とこはわきて倭学に達し万葉の古風をたゝし其博識のほとはよく世の人の知れる所なり貞峨これにたより親炙して時々を競ひ日かけを継キ心をひそめあつくこゝろさす事数年の功労を積み道の蘊奥を暁しめ得たり」(「貞峨菴契因法橋傳」)。
下河辺長流が亡くなるのと前後した時期に、『今井似閑覚書』(西尾市岩瀬文庫所蔵・塩村耕氏『紀海音の伝と文事の補訂』に紹介)にあるごとく、今井似閑・細見成信・海北若冲・野田忠叔らとともに契沖に弟子入りした海音は、円珠庵にほど近い玉造の別墅に転居して勉学に励み、ついに「道の蘊奥を暁しめ得たり」と芳室に評されるほどの境地に到達し、晩年には「諸書の開講門生多くうたかひを納まとひをひらき流星の北斗に向ふかことし」(「貞峨菴契因法橋傳」)と述べられる如く、多数の門人を前に講義を行っている。
契沖のもとで学んだ時期のあることは知られていたが、『今井似閑覚書』が示すように今井似閑や海北若冲ら第一級の大物と肩を並べる程の高弟であったとは驚きである。晩年は、契沖のもとで学んだ和学の講義を亡くなる直前まで行っていたことも新しい事実である。
D出家期
「御家に宿昔の因縁ありけるにや臨済の百棒をうけ禅林の風味を啜リ悦山禅師清海寺に隠居住し時僧と成て侍名祖渓春海の両子と共に随侍し肩をひとしうす此時高節と法號しやゝしはらく掛錫す」(「貞峨菴契因法橋傳」)。
この記述により、海音が僧となり高節と号したのは、法子祖渓の建てた西海寺に、悦山が開山として請ぜられた元禄9(1696)年秋から、再び舎利寺に戻る元禄13(1700)年冬の間のことであったことが知られる。厳密にいえば、貞因が元禄13年の3月23日に亡くなる以前には僧となっていたようである。「御家に宿昔の因縁ありけるにや」とは従兄弟とも伝えられる華厳宗の僧鳳潭が経典の出版整備に熱意を傾けたこととも関係がありそうで、海音も悦山のもとで経典の出版活動に携わった可能性が考えられる。僧籍にあった時期は長くはないが、還俗後もそうした活動に関わっていたかもしれない。
E俳諧宗匠期
「緇素の浮説のしけきを厭ひ終に賈鳧に倣ひ寺を出て吟行花開き花墜るも亦時なるかなそれより師の書したまえる俳諧窟の額を打て十字街頭に居をしめ難波の宗匠と呼しことのもとひなるへし」(「貞峨菴契因法橋傳」)。
悦山のもとで僧となった海音であるが、間もなく父の死を伝え聞いて悲憤慨嘆し、ついには寺を出て吟行する。「吟行」については、鳳潭の「海音貞峨居士傳」においても「放浪于雲山煙霞之間也」と記述されていることから、しばらく引杖漂泊の旅に出たのは確かなようである。諸国を放浪した後、大坂に戻った海音は、俳壇において「難波の宗匠」と呼ばれるほどの活躍をするようになったようである。
海音は大坂俳壇において、「難波の宗匠」と呼ばれるほど活発な活動をしていたはずであるが、従来海音の俳諧活動は、雑俳点や歳旦・追善といった付き合い的な句が多いとして、ほとんど評価されてこなかった。そこで彼の俳諧活動を再検証してみたい。 
海音の俳諧活動
「貞峨猶風雅の道に執ふかくして水無瀬卿君の御会席に折々伺候し其身法橋の位階に叙し四方の尊敬も大かたならす」と芳室も述べるように、晩年の海音の法橋叙位は雅文芸とりわけ俳諧の功によるものといわれている。父貞因の嗜んだ狂歌の業を兄貞柳が継ぎ、弟の海音は俳諧を継いだとも伝えられている。そのあたりの事情を海音の甥の永田柳因は、『狂歌戎の鯛』(元文2刊「狂歌大観」所収・下線は筆者による)の跋において以下のように伝えている。
我祖父山-城司-馬貞-者三松-永貞- 二由-緒一而恒学二於誹-諧狂一又伝二
古-今物-語之唯授一-之秘一徳後貞室次二誹-之道-一依レ 秘者室授二於一
又誹者因伝二於室一則其脈相互也 有二子貞-柳貞-峩也因呼レ使二狂読一
又招レ授二於道-一 誹-者従二貞徳一二貞一四-世狂-者自レ徳レ柳三-代也
乎然故-司馬貞-因追二先-師貞之一進之仰-望譲二於二一 不レ果終于レ玆貞-峨悲二
父之一レ遂而去夏蒙二於法橋之勅一 歌之冥-加面-目 レ乎
レ愚父貞門-流二狂一レ レ 梓-氏乞レ彫二 一難辞投レ 也矣
長生亭 永田柳因識焉
では、海音の俳壇での活動の具体的な様相はどのようなものであったのだろうか。
元禄17年に「海音」の名で俳壇に姿を見せる以前の足跡を辿ってみると、まず寛文11年9歳の折、1月刊の『蛙井集』に「昌因」の名で三句、また7月刊の『難波草』に同じく「昌因」の名で一句入集している。
天和2年海音20歳の春には、惟中が初めて南源に詣し、悦山にも会ったことが知られ、鳳潭が「海音貞峨居士傳」に「弱冠而謁仏日泉。泉示趙州柏樹。雲門須彌之話。而未契。又賦詩呈華蔵源。源撃歎云。不図日本有有斯寧馨児。南岳悦。奇其才。」と記す一件は、このときに海音も同席してのことではないかと思われる。
貞享3年24歳の年の正月には、似船編歳旦帳『貞享三ッ物』に「一指」の名で一句入集している。この年6月3日の師下河辺長流の死と前後して、海音は他の門人たちと共に契沖に弟子入りしたものと思われる。
貞享5年26歳の年には、惟中編漢詩歳旦集『戊辰試毫』に「稲甘泉」と「珍菓亭一指」の詩が、翌元禄2年にも惟中編漢詩歳旦集『元禄己巳試潁』に「珍菓亭一指」の詩が載っており、さらに元禄3年には一指著『遊仙窟鈔』の刊行が見られる。このころ芳室と共に惟中の講席に交わっていたのであろう。
この時期までの俳諧は、父貞因の手ほどきを受けてといった感があり、『蛙井集』も『難波草』も貞因や叔父貞富の句とともに「昌因」の句を載せている。 柳因が「又招レ授二於道-一 誹-者従二貞徳一二貞一四-世」と述懐するように、まさに厳父の指導のもと貞門の道統を立派に継いで貞徳四世となるための修行時代であったようである。また長流門より契沖門に移って和学にも精を出し、芳室とともに惟中の門下となって漢学の素養を磨くなど、父貞因と誼のある各界の第一人者のもとに出入りして、学問の基礎を固めた時代であるといえる。
しかしその父が亡くなって寺を出奔。諸国放浪の後、大坂に戻ってからは、元禄16年41歳の年に刊行された芦笛編『塵乃香』に「大坂一指」の名で一句入集している。また同じ年の桃川編『花皿』にも「一指」の名で一句入集しているところを見ると、元禄17年刊の三惟編『元禄十七年俳諧三物揃』に三惟・芙雀・諷竹・園女・我亮・呑江らとともに「海音」の名で一座するまでは「一指」の名を使っていたことが知られる。
このころが「難波の宗匠」と呼ばれた、俳諧活動の最も盛んな時期であったと思われるのだが、未知の別号を使っていたのであろうか、盛んなはずの活動の実態は残念ながらまだ十分には解明されていない。興味深いことにこの時期は座付作者となる以前、元禄15年に「けいせい懐子」、元禄16年には「心中涙の玉井」「金屋金五郎浮名額」といった初期の浄瑠璃作品を書いたのではないかとされる時期と重なる。
厳格な父が亡くなり、すでに学問も十分に修めたこの時期、海音は俳諧を手段として交遊範囲をみるみる拡大していく。芝居や遊里などの、いわゆる悪所と呼ばれる世界とも縁が深まっていったようである。
海音が初めて「紀海音」の名で登場するのは、先程述べた『元禄十七年俳諧三物揃』であるが、以後、享保15年には「貞峨」、元文元年の法橋叙位に際しては「契因」と、次々名を改めつつ、寛保2年に80歳で亡くなるまで、海音は俳諧や狂歌の創作を続けている。
そうした活動の中で海音が俳諧を通して親しく交わり互いに影響を与え合ったと思われる人々を見ていきたいと思う。 
俳壇における交遊
@才麿とその門下
まず、一番に名を挙げなければならないのが椎本才麿である。
才麿は海音より7歳年上の俳諧師で、はじめ西武門、のち西鶴門にあってしばらく大阪に住み、宗因とも交わった。延宝5年22歳ごろに東下して、言水や芭蕉ら江戸の新興俳諧師と交流するなか、特に其角と親しく、『みなしぐり』などに多く入集した。元禄2年再び大阪に移って来山・鬼貫らと親交し、大阪俳壇に地盤を築いて雑俳点業にも携わり、また摂津国伊丹にも足をのばして門人を育てている。元禄5年には西国行脚に出て、播磨国姫路で『椎の葉』、備前国岡山で『後しゐの葉』を著し、また宝永2年と享保元年にも東下して門人を指導。享保元年に来山が没すると来山門の多くが才麿門に移行し、椎門は大阪で最大の勢力をもつようになった。
「貞峨菴契因法橋傳」を著した海音の親友芳室は、この才麿の門人となり椎本氏を継ぐことになるが、海音もこのとき芳室と共に才麿に近づいたものと思われる。もっとも延宝5年の東下以前に、早くから才麿と大坂俳壇の重鎮貞因やその息海音との交流があった可能性も否定できない。ともあれ貞門を継承し、貞徳の号「明心居士」にちなんだと思われる「明命」(塩村耕氏『紀海音の伝と文事の補訂』に紹介)の号を使用する海音を「才麿門」と呼ぶには語弊があるが、才麿一門の人々と行動を共にした時期があったのは間違いないようである。大立や了雨といった才麿一門のおもだった人々とは特に親しく付き合っていた様子も窺える。
A伊丹俳壇
才麿が鬼貫と親交が深かったことは周知の事実であるが、海音もまた鬼貫との密接な関係が辿れる。彼をはじめ、岡成・渓風・蜂房・百丸・文人・徳七・好昌ら、酒造で富み栄え高い文化を誇った伊丹の俳人たちとのつながりも当初は才麿を介してだったのかもしれない。
元禄16年海音41歳の年に「大坂一指」の名で一句入集する『塵乃香』は、伊丹の大醸造家鹿島芦笛が才麿の後見で編した伊丹俳書である。伊丹では也雲軒なる俳諧学校を設けて郷党の子弟を指導した池田宗旦が元禄6年に没し、鬼貫も元禄16年2月2日に京へ移り、指導的立場の者が不在であった。そこへ勢力をのばしたのが才麿である。この『塵乃香』刊行を皮切りに才麿は伊丹連との親交を深めてゆき、享保3年の才麿編『千葉集』には大勢の伊丹俳人が名を連ねている。
伊丹俳人と海音のつながりは晩年にまで及ぶが、森本百丸の号である白鷗堂を海音も一時名乗るなど、個別に調査していくと思いの外深いつながりが辿れそうである。
B蕉門俳人
大坂蕉門の人々との交遊も特徴的である。大坂俳壇で海音の最も近い位置にいた人物の一人に三惟という人がいる。
三惟は、本名菊谷安右衛門(または金や善左衛門)。菊叟・左礼童・三以などの別号も持つ大阪の富豪である。その三惟と海音は、実に数多くの俳書において連衆となり両者の親密な関係が窺える。こうした実態から、元禄17年以前の海音の俳諧活動についてはまだあまり明らかではないが、少なくとも海音の名での活動が始まってから亡くなるまでの長きにわたって、三惟は俳壇において、海音の最も近しい人物であったといえるであろう。おそらく元禄17年以前においても共に活動することが多かったのではないだろうか。
三惟という人は、諷竹・舎羅・天垂・芙雀らとともに大坂蕉門グループに属して元禄年間に活発な出版活動をしたことで知られており、海音もまたそれらの人々と深い交流があったものと思われる。
蕉門の人々との付き合いは、このグループにとどまらない。伊勢から大坂に移住した園女・山城の智月・尾張の桐葉・美濃の芦文・江戸の凡兆・嵐雪。これらはやはり才麿ともつながりのある面々である。
C江戸俳人
淡々・硯田・五雲・呉竹・五嶺・杉風・周立・洗柯・巽我・素堂・嵐雪・露牛・紹廉・硯田・白松といった多くの江戸俳人たちとの交遊も海音の俳諧活動のなかでは目を引くものがあるが、これらの多くは才麿とも親交の深かった人々であり、還俗後の諸国行脚の折にでも才麿一門と行動を共にした時期があったのではないかと想像される。あるいはまた、契沖のもとで水戸家の依嘱による『万葉代匠記』編纂に携わっていた時期に江戸の文人たちとの交流があったのであろうか。
なかでも紹廉は宝永(1704〜11)末年ごろ江戸から京に移り、享保(1716〜36)初めには大阪堂島に移住し、雑俳の点もした俳諧師で、初号の魚輔を名乗る頃からしばしば海音の連衆にその名が見えている。資産家の紹廉は多才で能書家でもあり、『万葉代匠記』『岷江入楚』『古今余材抄』などを熱心に書き写したことでも知られているが、それらはみな海音が契沖の教えを受け継いで門人に講義を行った書物であることから、和学の分野において紹廉は海音の門人であった可能性が高い。また紹廉の門下の白羽・舞雪・几掌・笛十らも、やはり海音と親交のあった人々である。
D芝居関係者
最後に、海音をめぐる俳人たちのなかでとりわけ目に付くのは芝居関係者、それも歌舞伎俳優の多さである。
才麿一派の撰集に歌舞伎俳優の俳名の見える例が多いことは知られている。その一例として、元禄17年春刊の大和屋甚兵衛追善俳諧集『梓』は、才麿を巻頭に伴自・園女・三惟・白松・千々・如黛・里圃・花睡・喬古・芦角・素臺・李喬・畔麿・海音・諷竹による追悼の発句が並び、次に素紈・如艸・諷竹・如黛・里圃・千々・白松・執筆・海音の百韻、そして2月の月忌に献詠した山下正勝(又四郎)・吉澤孝玄(初世あやめの次男か)・嵐雅木(三十郎)・秋田梅旦(彦四郎)・松野遠柳・滝川柳水・篠塚熊角(次郎右衛門)・松永由香(六郎右衛門・甚兵衛の従兄弟)・京大和や生輔(藤吉・甚兵衛の息子)ら役者達の句、最後に生重こと甚兵衛と婿の如艸が元禄7年に巻いた両吟を載せている。
海音が演劇の世界に身を投じるきっかけとなったのは、このような俳諧を介しての俳優達との交遊なのではないだろうか。海音と俳諧を通じた交遊が認められる芝居関係者の名を、素性が判明したかぎりにおいてまとめてみた。俳名(芸名または作者名)を順に挙げる。
蛙桂(安田蛙桂・中邑阿契)・蛙文(安田蛙文)・一口(姉川みなと)・一鳳(三世芳沢あやめ)・逸風(藤川平九郎)・雅木(初世嵐三十郎)・魚江(三桝徳次郎)・鯨児(浪岡鯨児)・好玄(初世山下又太郎)・茶谷(四世片岡仁左衛門)・左流(岩井半四郎)・志山(初世市山助五郎)・春水(二世芳沢あやめ)・松鶴(山下次郎三)・松洛(三好松洛)・如皐(初世瀬川如皐)・如艸(大和屋甚兵衛の婿)・千四(長谷川千四)・千前(初世竹田出雲)・千蝶(為永太郎兵衛)・宗輔(並木宗輔)・洞笙(藤井花松)・都夕(嵐小式部)・栢莚(二世市川団十郎)・巴江(嵐松之丞)・風光(初世三保木儀左衛門)・笛十(春草堂)・文流(錦文流)・里虹(初世山下金作)・路考(瀬川菊之丞)
ここには浄瑠璃作者の俳名も見出せる。安田蛙桂、安田蛙文、浪岡鯨児、三好松洛、長谷川千四、初世竹田出雲、為永太郎兵衛、並木宗輔、春草堂、錦文流らである。
また海音追善俳諧集『仙家之杖』には、芝居関係者と思しき人々による、次のような一連の句が載っている。
追悼
源氏の講読今聞やうに覚て
時雨来ていとゝ鼻かむ法の橋 市山志山
時もけふきのふしくれてはや時雨 風光
駒下駄の蹴られ残りや犬菫の花 左流
目には拝耳には残る菊の霜 其龍
湖月にてよみ給ふ講席もあり
入月や時雨の露に琵琶の海 蛙桂
明徳にまかひ道なし冬の月 里虹

神力や久遠の無化にかへり花 八木雅木
雛鳥や来鳴鶯法の御名 有楽
山茶花や手向の雫法の橋 遊糸
五十日といふ日
うつり行夢もやはやき水仙華 好玄
手折らせていさや供えん冬牡丹 一鳳
高津の庵に詣つる毎に針と糸とのちなみおかしく物かたり給ひ且洞笙
春水には伊勢源氏の奥深きまで伝へぬると人にもいひわたり給ひしと
なん洞笙さへむなしくなりぬ其秋の末なやめる事ありとのしらせに驚
て折々毎に枕をたすけけるに今はといふ御時は心みたるゝはかりなり
しをも潘子とともに水まいらせける棺を送りて後も発句を備へ哥仙を
つゝけ猶又在世に餅を好給ひし事を思い出て
三つかひとつなとやゐのこの餅供養 春水
「源氏の講読」「湖月にてよみ給ふ講席」「洞笙春水には伊勢源氏の奥深きまで伝へぬる」などの記述から、おそらくここに名を連ねる人々は、和学の分野では海音の門下なのであろう。 
おわりに
紀海音といえば浄瑠璃作者としての活動が彼の生涯にわたる文芸活動の中心であると、従来考えられてきた。確かに近松門左衛門と競い合うことのできる筆力を持っていたのは事実であり、その数多くの作品は未だ色褪せることなく後世の作品に襲用されて命脈を保っている。
しかし、海音の一生の中で浄瑠璃界に身を置いた一時期はどちらかというと周囲には放蕩と映る出来事であり、彼本来の姿は父の期待を背負いつつ勉学に励み、ついには父や兄の果たし得なかった法橋叙位にまで至る努力と才能の人であった。そういう意味で貞徳四世を継ぐべく幼少期より始められた俳諧こそ彼の文芸活動の中心であったと言ってよいであろう。
海音にとって俳諧は継ぐべき道統であると同時に、先に開催されたCOE国際シンポジウムの折の芝原宏治教授の言葉を借りて言えば、「多様な創造的遭遇」を可能にする手段でもあった。海音は俳諧を通じてより多くの人々と出会い、異なった世界と出会うことで、更なる創造のエネルギーを生み出して行ったのである。
上方という都市部を拠点に活動し、俳諧という手段によって多様な創造的遭遇を次々と可能にし、和学・漢学・仏典・狂歌・俳諧・医学などあらゆる学問に精通する才能とそれを支える経済的余裕と文化的家庭環境に恵まれた人物。紀海音という人はまさしく都市に生まれ、都市に生き、都市文化を創造し続けた、近世上方の一文人と言っても過言ではないだろう。 
参考文献
吉永孝雄「紀海音伝の研究」『国語と国文学』昭和11年5月
祐田善雄「海音の時代」「紀海音論」『浄瑠璃史論考』昭和50年8月
塩村耕「鯛屋一族の文芸活動の諸問題」『近世文芸』昭和61年6月
長友千代治「紀海音の文学活動」『国語と国文学』昭和64年2月
塩村耕「紀海音の伝と文事の補訂」『東海近世』平成7年11月
辛島啓子「椎本才麿年譜稿」『叢』昭和44年11月
上野洋三「岡西惟中年譜稿」『国語国文』昭和45年11月 
 
説経節「しんとく丸」

信吉長者が清水寺で子だねを授かる
今から語ります物語。国をいうなら河内の国、高安の郡に、信吉(のぶよし)長者とよばれるお金持ちがおりました。
その豊かなさまといったら、四方に四万の蔵を建て、八方に八万の蔵を建てて、何につけても足りないということがありません。でもただ一つ、この長者には子という字が、男にしても女にしても、なかったものですから、明けても暮れても、これを思い悩んでおりました。
ある日のことでありました。
信吉長者は妻を近くに呼んで言いました。
「妻や、聞いておくれ。おまえとおれに子という字がないことが、おれは無念でならないのだ。どう思うか」
妻はそれを聞いて言いました。
「夫よ、手だてはございます。あなたとわたくしの過去の因果でございましょう。昔から、子のない人は神仏にお詣りして申し子をすれば、子だねを授かるといいますよ。信吉どの、どんな神でも仏でも、お詣りして申し子なさいませ」
長者も、もっともだと思いまして、どこへ祈るよりも、京の東山の清水寺。そのご本尊は三国一のご本尊という評判だ。そこに申し子いたそうということになりましたが、大ぜいで行けば、旅がめんどうだ。小ぜいで行けば、人に道を避けさせることができない。それで百人ばかりをお供につれまして、輿(こし)や轅(ながえ)をうち並べ、犬の鈴、鷹の鈴、轡(くつわ)の音がざざめく中を、清水詣でに出かけたのでありました。
通っていったのは、どこどこでしょう。植付畷(うえつけなわて)をはや過ぎて、讃良郡(さららごおり)はここですか。洞が峠もはや過ぎて、八幡の山はここですか。淀の小橋をおそるおそるに踏み渡り、伏見の里はここですか。三十三間を伏し拝み、道をいそいで行きましたので、ほどもなく、東山清水寺に着きました。
長者夫婦は、まず音羽の滝に下りていき、口をすすぎ、手を洗って身を清め、それからご本尊のおん前にお詣りし、鰐口(わにぐち)をちょうど打ち鳴らし、心をこめて祈りました。
「心から帰依いたします。大きな慈悲をお持ちの観世音菩薩さま。富がほしい金がほしいと願うのなら、憎まれてもよろしゅうございます。でも、わたしたちがお願いいたしますのは、子だねでございます。男でも女でも、どうか子だねを授けてくださいませ」と深く祈りあげて、本堂の左手の方にお籠りしたのでありました。
夜半ばかりのことでした。畏(おそ)れ多くも、ご本尊が揺るぎ出でておいでになりまして、長者夫婦の枕上にお立ちになりました。
「長者夫婦の者たちよ。はるばるここまで参り、子だねを祈願すること、なによりもってごくろうなことであった。まろが出たついでに、おまえたち夫婦の前生の因果を語って聞かせてやろう。
まず長者の前生は、丹波の国、のせの郡のきこりであった。
春にもなれば、ぜんまいや蕨(わらび)を取るために、山に猛火を放したのだ。火は地の下三尺のうちに住む虫々を焼き殺した。鳥もさまざま焼き殺した。しかしその中でも、雉(きじ)の夫婦ほどあわれなものはない。
春にもなれば、十二の卵を生みそろえ、父鳥と母鳥が見守っておったそのときに、火が近くまで燃えてきた。父鳥と母鳥は悲しんで、谷水を嘴(くちばし)に含み取り、卵の回りを湿してみたが、火は迫り、燃えさかった。母鳥が、十二の卵を両の翼に巻き込んで、父鳥と嘴を交わし合い、引いて逃げようともしたけれども、茨(いばら)や葎(むぐら)にさえぎられ、逃げることは能(かな)わなかった。そこで父鳥は考えて、向かいの岸辺に飛び移り、母鳥をこう呼んだ。
『来いや、来たれや、母さんや。命さえあればまた子を生める。子どもらを捨てて、こっちに来い』
母鳥はこれを聞いたが、
『情けないことを言う、父さんや。十二の卵が一つ孵(かえ)らなくてもふびんでならないのに、子どもらをみんな捨てて、そっちには、とてもじゃないが行けません』
そう言い捨てて、自ら猛火に焼け死んだ。父鳥は嘆き悲しみ、嘴をうち鳴らし、翼をたたいて呪ったのであった。
『今日この野辺に火をかけた者の、来世の生を変えてやる。石と生まれ変わるならば、鎌倉海道の石となれ。上り下りの駒に蹴られて苦しみ煩(わずら)え。過去の行いがよくて人間に生まれるならば、長者に生まれ変われ。貧に子あり、長者に子なしというからだ。長者に生まれて、子を持てず、明けても暮れても子が欲しい子が欲しいと悩み煩って死んでいけ』
そして自らの翼の端を食い破って死んでしまった。その一念が胸の間に通じ、下りてくる子だねを取って食う。それで子だねがないのである。
また妻の前世は、近江の国、瀬田の唐橋の下に住む大蛇であった。
常磐の国から春に来て秋戻る、つばめという鳥夫婦がおったのだが、これがまたまたあわれであった。
橋の行桁(ゆきげた)に、十二の卵を生んで、母鳥が卵を暖めれば、父鳥が餌を食(は)みに立つ。そのようにして力を合わせてそだてておった。しかしある日のことだ。父鳥と母鳥が連れだって餌を食みに立った隙に、大蛇が巣ごと取って食った。つばめ夫婦は立ち帰り、巣がないので大いに驚き、探し回ったが見あたらない。これはこの川の大蛇が食べたに相違ない。せめて一つでも残してくれれば、常磐の国に連れて帰れるのに、なんという無情さよ、常磐の国へはもう戻るまいと、夫婦で嘴を食いちがえて身を投げた。それを大蛇が、これも今日の餌食だと取って食った。この夫婦の一念妄念が胸の間に通じ、下りてくる子だねを取って食う。それで子だねがないのである。
おれにはどうすることもできぬのだ。罪のないおれを恨むなよ。明日にはいそいで河内に帰れ」と夢の間のお告げがありまして、ご本尊さまはかき消すように見えなくなりました。
長者夫婦は夢から覚めてかっぱと起きあがり、
「ああ、なんと無慈悲なご本尊さま。たとえわたくしども夫婦の過去の因果は悪くとも、そこをなんとか都合してくださりませ。子だねをお授けくださいませ、どうしてもお授けくださらぬのなら、おん前にはもう二度とお詣りいたしません。このままここで腹十文字にかき切って、臓腑をつかんでくり出して、ご神体めがけて投げつけましょうぞ。荒人神(あらひとがみ)と呼ばれて、詣る人々を取って食いましょうぞ。七日のうちには無理としても、三年経つうちには、すっかり荒れ果て、草も木も伸び放題に生え伸びて、鹿の寝床にでもなるほか、なくなりましょうぞ」とただ一筋に思いつめました。
屋形に長く仕える翁(おきな)は言いました。
「いやいや、わが君よ。こんなにはやっておられる清水観音さまに、ごむりを申しあげてはいけませぬ。七日でご夢想が得られぬのなら、もう一度しっかり願(がん)をおこめになって、さらに七日の間、お籠りなさいませよ」
長者はそのとおりだと思いまして、料紙(りょうし)と硯を取り寄せて、願い状を書きまして、さらに七日の間、ご本尊をお祀りしてある本堂にお籠りしたのでありました。長者の妻も同じように願い状を書きまして、さらに七日の間、ご本尊をお祀りしてある本堂にお籠りしたのでありました。
畏れ多くもお寺の別当さまが高座にのぼり、数珠を音高く揉みながら、願い状を読み上げました。
「ありがたのご本尊さま、末世の衆生(しゅじょう)の恨みは、どうかおわすれくださいませ。長者夫婦の者どもに子だねをお授けくださいますものならば、きっと、お堂を建立いたします。天竺(インド)から紫檀や黒檀を取り寄せて、石口桁口(いしぐちけたぐち)を青銅で包みまして、龍と鶴の舞い降りるところをありありと彫りつけてさしあげます。
それでも足りないとお思いでしたら、おん前の舞台が古びて見苦しくなっております。あれも取り替えて、欄干、擬宝珠(ぎぼし)にいたるまで、金銀で磨きたててさしあげます。
それでも足りないとお思いでしたら、鰐口が古びて見苦しくなっております。あれを取り替えて、表は黄金、裏は白金(銀)、厚さ三寸、広さ三尺八寸に鋳(い)たてまして、吊り替えてさしあげます。
それでも足りないとお思いでしたら、御前の斎垣(いがき)も古びて見苦しくなっております。白柄の長刀(なぎなた)三千振りを韓紅(からくれない)のひもで結わえてさしあげます。
それでも足りないとお思いでしたら、金の砂三升三合、銀の砂三升三合、月に六升六合ずつ、清めの砂と撒き替えてさしあげます。
それでも足りないとお思いでしたら、長者のそだてている明けて六歳の春生まれの駒に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置かせ、白金の轡(くつわ)を噛ませ、おん前をなんども引きまわし、仏の眼(ねぶ)りを覚ましてさしあげます。
男子でも女子でもよろしゅうございます。どうか一人、子だねをいただきたい」
次に、妻の願い状も読み上げたのでありました。
「子だねをお授けくださるなら、唐わたりの鏡を七面、明るく澄んだ鏡を七面、白鑞(しろみ)づくりの鏡を七面、合計二十一面に、八尺のかけ帯、五尺の添え髪、十二種の身のまわり品を、代々伝わる宝物として奉納いたしましょう。
それでも足りないとお思いでしたら、香炉、独鈷(とっこ)、鈴、錫杖(しゃくじょう)、金銀製のを百八、千の花皿にいたるまで、磨きたててさしあげましょう。
それでも足りないとお思いでしたら、おん前の帷(かたびら)が古びて見苦しくなっております。あれを取替え、綾の帷を七流れ、錦の帷を七流れ、金襴の帷を七流れ、あわせて二十一流れ、その表の模様には、天人と二十五体の菩薩さまがたとが天から降りてこられ、末世の衆生を救い上げてくださるところを、名うての職人に織りつけさせてさしあげましょう。日光、月光、星光と三光を織りこんで、仏の眼りを覚ましてさしあげます。
男子でも女子でもよろしゅうございます、どうか一人、子だねをいただきたい」
こう読み上げたのでありました。
畏れ多くもご本尊さまは、内陣から揺るぎ出ておいでになり、長者夫婦の夢の間にお立ちになりまして、
「夫婦の者どもに授ける子だねはないのだが、あまりに大願をこめておるから、子だねを一つさがしてきた。この子が七歳になるときに、父にか、母にか、命にかかわる恐れがある。それでも欲しいか、さあ遠慮なく申してみよ」と夢の間のお告げがありました。
長者夫婦は夢から覚めてかっぱと起きあがり、
「子を、宵にもうけて明くる日に死んでもようございます。子だねを授けてくださいませ」
「それなら子だねを授けてやる。男の子だねだ。さあ帰れ」とまたもや夢の間のお告げがありまして、ご本尊さまはかき消すように見えなくなりました。
長者夫婦は夢から覚めてかっぱと起きあがり、あらあら、ありがたいご夢想でございました。そこでおん前からまかり出で、お供を引き連れ、清水寺を立ち出でて、道をいそいで行きましたので、ほどもなく、河内高安の庄に帰りつきました。長者夫婦の喜びはかぎりがありませんでした。
しんとく丸が生まれ育ち、そして恋をする
仏のお誓いはあらたかでありました。長者の妻は月水がとまり、七月間のわずらい、九月間の苦しみ、とうとう十月めにお産がはじまりました。そば近くに仕える女房たちが取り上げて、男か女かと見ましたら、石をみがいてまっ青な瑠璃(るり)の玉があらわれ出たような若君でありました。長者夫婦の喜びは何にとも譬えようがありませんでした。
屋形に長く仕える翁が参りまして言いました。
「若君に名をつけてさしあげます、何とおつけいたしましょう」
信吉どのはこれを聞きまして言いました。
「この子は清水観音さまの申し子であるから、どうぞよい名前をつけておくれ」
そこで翁は、「富にめぐまれた福徳はお父上にあやかりたまえ、身命(しんめい)の長さはこの翁にあやかりたまえ」と、「しん」と「とく」とを一字ずつ取りまして、しんとく丸とつけました。
若君には、乳を飲ませる者が六人、世話をする者が六人、十二人の乳を飲ませる者や世話をする者が産湯をつかわせ、かわいがってそだてたのでありました。二歳三歳もたちまちすぎて、あっという間に九歳になりまして、何もかも昨日今日のできごとのようで、長者夫婦の喜びはかぎりがありませんでした。
信吉どのが妻を呼びまして言いました。
「妻や、しんとく丸を信貴(しぎ)の寺へ上げようと思うのだが」
それがよろしゅうございますと妻も言い、さて信吉どのは、家来の仲光(なかみつ)を呼んで言いました。
「よくきけ、仲光や、しんとく丸を信貴のお寺に三年の間預けようと思っておる。よく学問させるように」
承知いたしましたと、仲光が若君のお供をして、お寺入りになりました。道をいそいで行きましたので、ほどもなく信貴のお寺に着きました。そこで仲光は、お寺の偉い阿闍梨(あじゃり)さまに会いまして、「この若君は河内高安、信吉長者のお子でございます。三年の間、お預けいたします」と申しましたら、阿闍梨さまからは「ご安心なさい、しっかりとお預かりしますよ」というおことばをいただいて、仲光はしんとく丸の許に行き、「若君、よく学問なさるんですよ、三年が過きましたらお迎えに参ります」と言い置いて、河内の国へと帰っていきました。
しんとく丸の賢いことは、他の少年たちをはるかに抜きん出て、お師匠さまから一字を聞けば二字悟り、十字を聞けば百字を悟り、千字を悟る。ほどもなく、寺で一番の学者と言われるようになりました。
さて、お話は変わります。
和泉、河内、摂津の国、三か国の金持ちが一つ所に集まりまして、なにか豪勢な遊びをいたそうと、それなら二月二十二日の精霊会(しようりょうえ)、天王寺の蓮池の上に石の舞台を張らせ、四方に花をささせ、稚児に舞を舞わせて楽しむのはどうかということになりまして、それはいい提案だということになりまして、今年は信吉どのが当番にと指名されたのでありました。
信吉どのは家に帰り、仲光を呼びまして、「信貴のお寺へ行って、しんとく丸を連れてまいれ」と言いつけました。承知いたしましたと仲光は信貴の寺へ出かけていきました。道をいそいで行きましたので、ほどもなく信貴のお寺に着きまして、お寺の阿闍梨さまに事情を申しあげますと、阿闍梨さまからは「ご安心なさい、すぐにお返ししますよ」というおことばをいただいて、そうしてひさしぶりの父母との対面を果たしたしんとく丸でありました。
信吉どのは言いました、
「よくもどった、しんとく丸よ。呼びもどしたのは他のことではない。こんど天王寺で催す稚児の舞、今年はおれが当番の役をつとめることに相成った。それで、よそから稚児をやとって舞わせるか、おまえに舞わせるか、どうしようか考えておったのだ」
しんとくは聞きまして「よその稚児に舞わせるより、わたくしが舞いましょう」
二月二十二日になりますと、他の稚児たちも寄り集まり、それぞれの役を決め、稚児の舞が行われたのでありました。しんとく丸の稚児は、それはそれはあでやかで美しく、扇の手ぶりはなめらかですばらしく、人々はいうに及ばず、もろもろの諸菩薩も、そして川の魚さえ、その舞見たさに川の面に浮かびあがってきまして、見物の群衆は、貴いも賤(いや)しいも満ち満ちて、ほめないものはありませんでした。
七日間の舞が三日間つづき、四日目のことでありました。しんとく丸は、踊る扇の手の隙間から、北西の座敷に、その姫を一目見たのでありました。
ああこの世が思うようになるならば、あの姫君とちぎりをむすびたい、むすべるものならば、今生(こんじょう)に思い残すことは何もない。
これが恋路となりまして、しんとく丸はその日の舞を中途で舞いやめ、仲光を供に、高安さして帰りまして、部屋に引き籠り、籐(とう)の枕を引き寄せ、床についてしまったのでありました。仲光はおろおろとして、しんとく丸の閉じこもる部屋に行きまして、
「どうなさいました、若君。どうしてそんなに伏せっていらっしゃいます。大事なおからだでございます。お手をこちらにお出しください。仲光めが、お脈を取ってご病気を直してさしあげます」。
しんとく丸が両手を仲光にあずけましたら、仲光はたんねんにその脈を取りまして、
「上のお脈はおだやかだが、底のお脈は乱れておられる。これは四百四病の病じゃございませぬ。恋路の脈ではございませんか。どなたかに恋していらっしゃいますね。若君、隠さずにおっしゃいませ。あちらのお気持ちをなびかせてさしあげます」
若君はこれを聞き、重い頭を軽やかに上げまして、
「思いが内にあれば、色が外にあらわれる。恥ずかしいことだが、今はもう隠すつもりもない。舞を舞っていたとき、北西の座敷に輿が三丁あるのを見た。中の輿の姫君は、どちらの姫だったろう、仲光よ」
仲光はこれを聞いて言いました。
「恋していらっしゃるのはそのかたでございましたか。それなら、和泉の国、近木(こぎ)の庄、蔭山長者の乙の姫さま。蔭山長者と信吉長者、位も氏も劣ってはいませんよ。決まったお相手のおられぬ姫さまです。一筆おかきなさいませ。恋をなびかせてさしあげます」
しんとく丸は舞い上がる心持ちで、硯、料紙を運ばせまして、墨をすりながし筆をとっぷりと染めまして、思いのたけ、心にあることを、ねんごろに書きとどめ、山形様におし畳み、松がわ結びに結びまして、「頼んだよ」と仲光に手渡しました。
仲光は受け取って、「それでは行ってまいります」と高安を立ち出て、堺の浜に行きました。そこで数々の薬を買い求め、十二種の身のまわり品やら雑貨やらも買い求め、さて自分は商人に様を変え、道をいそぎましたので、ほどもなく、和泉の国、近木の庄に着きました。
蔭山長者の堀の船橋をうち渡り、平地(へいじ)の門からつっと入り、大広庭にずっと立ち、なんと仲光は、そこで商いを始めたのでありました。
「紅や、白粉(おしろい)、畳紙(たとうがみ)。御たしなみの道具には、沈(じん)、麝香(じゃこう)。お入り用ではございませんか」と行ったり来たりしておりましたら、女房たちが聞きつけて、「あら、めずらしい、商人だわ、なにか持ってきましたか」と出てきました。
仲光は応えて、かついだ連尺(れんじゃく)を広縁におろし、自分は落ち間に腰を掛け、唐の薬や日本の薬、十二種の身のまわり品や雑貨類、つづらの懸子(かけご)にいろいろと包みわけてある品々を取り出しますと、あれやこれやと女房たちが品定めしはじめました。よい頃合いと見定めた仲光は、例の手紙を取り出しまして、
「聞いてください、女房たちよ。わたくしはこの三日前、河内の国高安、信吉長者のお屋敷で商いをしていたんでございます。そのおりに、信吉長者の裏辻で、実に美しくしたためられた文を拾ったのでございますが、拾った場所に好奇心がそそられまして、今まで捨てられずに持っておりました。どうぞみなさん、一目ごらんになりまして、お気に召したら、お手本にでもなさいませ。おいやなら、この場の笑いぐさになさいませ」と女房たちに手渡しました。
女房たちは受け取って、謀(たばか)る文とはつゆ知らず、さっと広げて読み始めました。
「なになに、『上なるは月や星、中は春の花、下は雨霰(あめあられ)』と書いてある。
狂人がわけのわからないことを書き散らして、そこらにひょいと捨てたんだわよ」と一字も読みとけずに、みんなで笑いたてたのでありました。 

乙姫との恋と母の突然の死
(ああ、いたわしい!)乙姫は、七重や八重や九重に幕を張りめぐらせたその中で育てられたお姫さまでありました。そよ吹く風まで、人かしらと感じるような世間知らずの方でしたが、神仏が揺るぎ出ておいでになったような風情で、すっとそこに立ちまして、女房たちに声をかけました。
「ねえどうしたの、何を笑っているの、女房たち。珍しいことがあるなら、あたくしにも話してちょうだいよ、あたくしの心の内も慰めてちょうだいよ」
女房たちはこれを聞いて、言いました。
「いえ、なんでもございませんわ、姫さま。ここにいる商人が拾った手紙をくれたんですけど、何とも読めない、へんてこな手紙なんでございますよ。これを笑っていたんでございますの」
そして、手紙をもとのように整えて、乙姫に差し出しました。乙姫は手紙を受け取り、さっと広げて読みはじめました。
「なんてすてきな筆づかいかしら。なんてすてきな墨のつけ方で、字のかたちかしら。だれが書いたのかは知らないけど、手紙で人を死なすというのは、きっとこういう手紙のことを言うのね。あなたたち、いろんなことは知ってても、一つのことを知らなかったらだめなのよ。ねえ、女房たち。これにはちゃんとした読み方があるの。あたくしが読み解いてあげるわね。大和言葉で読んだほうがいいかしら。それとも意味がわかるように読んだほうがいいかしら。
まず書き出しに『富士の高嶺』と書いてあるのは、恋する心で上の空になって月を眺めておりますっていう意味よ。
『三(み)つの御山のように』というのは、願ったらそれがかないますようにっていう意味よ。
『峯に立つ鹿のように』というのは、秋の鹿ではないのに、妻が恋しくてたまらないという意味よ。
『薄紅葉(うすもみじ)』というのは、顔に出したらだめという意味よ。
『野中(のなか)の清水のように』というのは、このことを人に他言しちゃだめ、心のなかで一人で受け取ってくださいという意味なのよ。
『沖漕ぐ舟のように』というのは、こんなに恋して浮かれ漂っている身よ、早く岸に着いて落ちつけという意味よ。
『伊勢の浜荻(はまおぎ)、塩屋のように』というのは、からっ風が吹いたら一夜なびけという意味よ。
『池の真菰(まこも)のように』というのは、引いたらなびけという意味よ。
『根笹(ねざさ)の霰(あられ)のように』というのは、さわれば落ちろという意味よ。
『軒(のき)の忍(しのぶ)のように』というのは、忍から滴(したた)る露のように待ち遠しくてたまらないっていう意味よ。
『尺ない帯のように』というのは、いつかこの恋成就して、めぐり会いたいっていう意味よ。
『羽抜けの鳥に、弦ないうつ弓のように』というのは、立つも立たれず、燃えたつばかりという意味よ。
あら、奥に一首の歌が書いてある。『恋する人は河内高安、信吉長者のひとり子しんとく丸、恋される者は乙姫』ですって。まあ、どうしましょう、よその人のことだと思って読んでたのよ。なんてことかしら。恥ずかしいわ。お兄さまやお父さまのお耳に入ったら、どうなるの」と手紙を二つ三つに引き破り、縁側からふわりと捨てて、スダレの中深くに隠れ入ってしまったのでありました。
女房たちはこれを見て、口々に「まあ、いつもの商人かと思ったら、人さらいだったのね。だれか来て、この男をつまみ出しておくれ」と言いました。
仲光はこれを見て、大切なご主人様に頼まれてやったことが、かえってとんでもないことになってしまったと思いましたが、なんでもことわざに、「男の心と大仏の柱は大きくて太くあれ」と言うし、「女人は胸に知恵あり心に知恵ない」とも言うから、ここは一つ、おどかしてみようと思いまして、「ちょっとお待ちなさい、女房さんがた。あんたがたのお姫さまが手紙を破いてくだすった。元通りにして返していただきたい」と言いますと、女房たちも負けていませんで、「何言ってるの、返すも返さないもありませんよ」と言い合っておりましたら、それを蔭山長者が聞きつけまして、「なんだって、河内の高安の信吉長者のひとり子、しんとく丸から乙姫へ、手紙をいただいたとな。姫や、いそいでお返事さしあげなさい」と言いましたので、乙姫は硯と料紙を取り寄せて、心のなかのことをこまごまと書きとどめ、山形のかたちにおし畳み、松がわ結びに結びまして、女房たちに差し出しました。女房たちは受け取って、商人仲光に手渡したのでありました。
仲光は手紙を受け取り、つづらの懸子にどうど入れまして、また連尺をととのえて肩に掛け、平地(へいじ)門をつっと出て、ほっと吐息を吐きました。虎の尾を踏み、毒蛇の口から逃れてきたような心持ちで、道を急ぎましたので程もなく、河内の孝安に着きました。そしてしんとく丸の部屋に行って、お手紙のお返事と差し出しますと、待ちわびていたしんとく丸は、さっと広げて読み始めました。かぎりない喜びが充ち満ちました。
仲光が信吉夫婦にこの一件を報告しましたら、信吉の妻はそれを聞いて、一族の人々に言いました。
「あのしんとく丸を、清水(きよみず)のご本尊さまにお願いしたその時に、あの子が三歳になったら、父か母に命の恐れがあるとご本尊さまがおっしゃいましたけど、あの子が三歳になって、五歳になって、こうして十三歳になった今でも、父にも母にも、何の災難もないじゃありませんか。あんなに信心されてるご本尊さまだって、うそをおつきになるんですもの。今を生きる人間たちだって、うそをついてこの世を渡っていっていいんですよ」
上のまねをする下でありました。そこにいた人々は一度にどっと笑いました。
河内の高安から都の清水は遠い道のりではありますが、仏には仏の手だてがございます。それで、これをお聞きになりまして、
「信吉の妻は何をのんきなことを言っておるのだ。おれは、氏子を気にかけているからこそ、長者の家の棟に立って、よいことは祝い入れ、悪いことは千里の外へ払い退け、守ってやっておる。そのおれを偽り仏と呼ぶのか。あんな暴言を放っておいたら、神を神、仏を仏と信じる者がなくなるではないか。あの女の命は、夜までに取ってやろう」とお思いになりまして、ミサキという使い走りのものどもの綱を切り放ち、お言いつけになりました。
「さあミサキども、河内の高安、信吉長者の身内に人はたくさんいるだろうが、よいか、間違えないように、その妻の命を夜までに取ってくるのだぞ」
ミサキどもは走り出していきました。その行く先々につむじ風が巻き起こり、それは長者の屋形に入り込み、人はたくさんおりましたが、間違いなく、妻の五体に取りつきまして、命よ、離れて退けと責めたてました。座敷のまん中で起きたことでした。妻は一族の人々に別れのことばを言い置いて、体をひきずるようにして部屋に入り、籐の枕をひきよせて、力なく横たわりました。すでに死の床でありました。そして信吉どのとしんとく丸を、左手と右手の脇に呼びまして、こう言いました。
「こんなことってあるかしら、信吉どの。いつもは吹く風が身に沁みることなんてありませんの。それなのに、今吹く風はこんなに沁みますの。あちこちのつがいつがいに離れていけと沁みるんですの。あたくしはもう、今日じゅうに死ぬような気がいたします。あたくしが死んだその後は、たった一人のしんとくを、よろしくお願いいたしますわね。
そしてしんとく丸や、あたくしが死んでしまったら、若い盛りの信吉どのには妻が必要なんですよ。後から来るかたを母と思って、仲よくしてちょうだいね。草葉のかげで、母はそれを願っていますよ。それができないようだったら、母のために千部万部お経を読んでくれたって聞きませんよ。しんとく丸や、いいですね。
そして仲光や、あたくしが死んだその後は、しんとく丸に、くれぐれもよく仕えてくださいね。あなたを頼りにしていますよ、仲光や。
お名残り惜しゅうございます、一族のみなみなさま。お名残り惜しゅうございます、信吉どの。でもそれよりも、名残り惜しくてたまらないのは、しんとく丸。たった一人のこの子をこうして生んだばかりに、先立つ母の悲しみをあじわうことになってしまったのね」
これが最期のことばになりました。土(ど)おんぞうといいまして土の色になりました。草(そう)おんぞうといいまして草の色になりました。無人声(むにんじょう)といいまして音もなくなりました。そして、朝の露のように、命が消えてしまったのでありました。
信吉どのはこれを見て、妻の死骸を抱きかかえて嘆きました。
「これは夢か現(うつつ)か。現で、こうして別れるのか。今いちど、この世に戻ってきておくれ」
しんとく丸も母の死骸に抱きついて泣き叫びました。
「これは夢か現か。現実の今、起きたことなのか。わたくしはまだ幼いのに、このわたくしをだれに託して母は死んでしまうのか。母上、行かなければならない道ならば、このしんとくも連れていってください」と動かぬ体を揺さぶり、動かぬ顔に顔をすりよせて、ぼろぼろと涙をながして泣き焦がれたのでありました。
やがて時刻になりました。今は嘆いてもしかたがないと、人々は骸(むくろ)を六方龕(ろっぽうがん)にうち乗せて、大ぜいの僧たちが読経しながら、野辺の送りになりました。(ああ、いたわしい!)しんとく丸も、野辺の送りにつき従っていきましたが、道すがら「この年で母に死に別れて、いったいどうなるのだろう」と一人嘆くようすがあわれでなりませんでした。
泣く泣く野辺に送りまして、栴檀(せんだん)の薪(たきぎ)を積みくべて、諸行無常でございます、三つの炎に焼き上げまして、煙も薄くなった頃、その死骨(しこつ)を拾い取り、灰をかき寄せて墓を築き、塚のしるしに卒塔婆を書いて立てたのでありました。
そしてみな、それぞれに屋形に戻りましたが、(ああ、いたわしい!)しんとく丸は、持仏堂にこもったまま、お経を読みつづけておりました。しんとく丸の心の内をあわれというのはたやすいことですが、何かにたとえることなど到底できることではありませんでした。
それはそれ。こちらは信吉どのの一族でございます。
ひとつ所に集まりまして、若い盛りの信吉どの、妻がなくてはかなうまいといろいろ相談いたしました。ここに都の三十六人の公家たちの中に、六条殿の乙の姫、生年十八になる姫がおりました。このかたを信吉どのに迎えようということに決まりまして、吉日を選んで、妻迎えと相成りました。信吉どのは、ためらうことなく迎え取り、夫婦は対面いたしまして、歌えや舞えやと、かぎりない喜びが充ち満ちました。
それはそれ。こちらは持仏堂のしんとく丸でございます。
父の妻迎えを聞きまして、「ああ、なんて情のない父上だ。亡き母上の百か日が経つか経たぬかというのに、妻とは何だ。ああ、情のない父上だ。おれはいまだに草葉の陰にいる母上が恋しくてたまらない」と泣くばかりでした。しんとく丸はたくさんのお経を読みました。でも女人をほめたお経は一つもありません。それで、七日の間、持仏堂に女人結界の高札を立てまして、亡き母のためにお経を読んでおりました。しんとく丸の心の内をあわれというのはたやすいことですが、何かにたとえることなど到底できることではありませんでした。
継母の呪いでしんとく丸は...
信吉どのの新しい妻は、前世の報いに、よい報いがあったのでありましょう、まもなく若君ができました。信吉どのは、この子に乙二郎と名づけたのでありました。妻はこれを聞きまして、心に思ったのでありました。
「あたしはこうして子をひとり生んだ。それなのに、その子は総領の扱いもされず、人に乙二郎と呼ばせなければならなくなった。腹立たしくてたまらない。たとえ無理だとわかっていても、しんとく丸を呪い倒して、乙二郎を総領にしてやりたい」
これが悪い心の素となりました。妻は信吉どのに近づいて、こう言いました。
「あなた、お話がございます。あたくしは都の生まれですから、清水のご本尊に立てた願(がん)がございますの。清水詣でをいたしとうございます」
信吉どのはこれを聞きまして、「いいとも、行っておいで。輿(こし)で行くかね、馬で行くかね」
妻はこれを聞きまして、「馬だの輿だので行きましたら、大事(おおごと)になりますから、いろんなうわさを立てられてうるさくてたまりませんわ。乙二郎は女房たちに抱かせて忍んで参ります」と言いました。そして旅の用意をし、高安を立ち出でまして、旅の巡礼の通る道すじをじゅんじゅんに通っていったのでありました。
通っていったのはどこどこでしょう。植付畷(うえつけなわて)、讃良郡(さくらごおり)、洞が峠をうち過ぎて、伏見の里もはや過ぎて、道を急ぎましたので程もなく、清水坂に着きました。
着きますと、妻は宿を取り、鍛冶屋を頼み、夜の間に六寸釘をあつらえまして、夜が明けますと、すぐに清水の観音さまにお詣りして、鰐口を、じゃん!とうち鳴らして祈りました。
「心から帰依いたします。大きなお慈悲をお持ちの観世音菩薩さま。わたくしがここまで参りましたのは、他のことではございません。しんとくはご本尊さまの氏子だそうでございますが、今日からは、わたくしの乙二郎を氏子にさしあげます。ですから、どうぞ、しんとくの命をお取りくださいませ。それがご無理なら、どうぞ、しんとくに、人の嫌う病をお授けくださいませ」と深く呪いをこめまして、「これは、しんとくの四本の足の関節に打ち込みますのです」と言いながら、おん前の立ち木に、観音さまのご縁日の数だけ、十八本の釘を打ち込みました。
それが済みますと、今度は南に行きまして、祇園の八坂神社に詣りまして、毎月七の日が縁日でありますから、おん前の格子に七本の釘を打ち込みました。
それから八柱の神々を祀る御霊(ごりょう)神社に詣りまして、八本を打ち込みました。
それから櫟谷七野(いちいだにななの)神社に詣りまして、七本を打ち込みました。
それから今宮神社に詣りまして、十四本を打ち込みました。
それから北野天満宮に詣りまして、二十五本の釘を打ち込みました。
それが済みますと、今度は南に行きまして、東寺の夜叉神(やしゃじん)さまに詣りまして、二十一本を打ち込みました。
それから因幡堂に詣りまして、「これはしんとくの両眼に打ち込むのです」と言いながら、十二本を打ち込みました。
余った釘を、鴨川と桂川に、「荒れよ、水神」と打ち込みました。
妻が都の神社のお社に打ち込んだ釘の数を数えてみれば、打ちも打ったり百三十六本になりました。
それから清水に戻ってまた観音さまにお詣りし、おん前に三度、伏し拝みまして、「どうか、わたくしが家に帰りつく、その前に、あの憎いしんとくめに、病を、お授けくださいませ」と深く呪いをこめまして、高安へ帰ったのでありました。
(ああ、いたわしい!)しんとく丸は、持仏堂で、亡き母のためにお経を読んでおりました。すると呪いのしるしが現れてきました。呪いは強うございました。百三十六本の釘の打ち込んだところから、人の嫌う病がとりつきまして、あっという間に両眼がつぶれ、しんとく丸は、病者になり果てたのでありました。
(ああ、いたわしい!)しんとく丸は、情けないことになったとうちひしがれ、萎(しお)れ果て、沈み込んで、自分の部屋に閉じこもり、籐の枕をひきよせて横たわりました。しんとく丸の心の内をあわれと言うのはたやすいのですが、何かにたとえることなど到底できることではありませんでした。
それはそれ。こちらは信吉どのの妻でございます。
妻は高安に帰りつき、間仕切りの障子のすきまから、しんとく丸のようすをのぞいてみましたら、望んだとおりのことになっていました。妻は都の方を伏し拝み、かぎりない喜びに充ち満ちました。そして、信吉どののところに行って、こう言いました。
「あなた、お話がございます。都の辻々で人がうわさしてますのよ。武士の身内に病者が出たということは、七代もの間、神仏のご加護がなくなってしまうのではないかといってますのよ。なんでもしんとくは、人の嫌う病になり果てたそうじゃございませんか。かわいそうではございますけど、どこへなりとも、人の待つ松の木の根本にでも、お捨てなさいましな。そうしてくださらないようでしたら、あたくしは、ええ、お名残り惜しゅうございますけど、お暇を取らせていただきます」
信吉はこれを聞いて、言いました。
「おれは長者だ。病者が五人十人いたからといって養えないことはない。一つの家に住むのがいやなら、別に家を建てさせて、そこでしんとくを養おう」
妻はこれを聞いて、さらに言いました。
「もうよろしゅうございます。とにかく、乙二郎とあたくしはお暇を取らせていただきます。ええ、お名残り惜しゅうはございますけども」
信吉どのはこれを聞いて、とうとう思い切ったのでありました。あの妻を追い出して、別の妻を迎えたとしても、姿は違うだろうが、邪慳な心は変わるまい。そんならいっそしんとく丸を捨ててしまおう。それで家来の仲光を近くに呼んで、言いました。
「仲光、話がある。なんでもしんとく丸がいやな病になったそうじゃないか。かわいそうだが、どこへでもいい、どこかへ捨ててきてくれ」
仲光はこれを聞いて、言いました。
「仰せではございますが、お殿さま。この仲光、産みのお母上のご遺言に、仲光頼むと申しつけられてございます。どうか、ほかの者にお命じになりまして、仲光に仰せつけられることだけはお許しくださいませ」
信吉はこれを聞いて、言いました。
「死んだ先の妻がおまえの主人で、まだ生きている信吉は主人じゃないのか。捨ててこいというのに捨ててこないのなら、しんとく丸だけでない、仲光も同じことだ。おれは、おまえに、金輪際会わないぞ」
それで仲光はしかたなく承知をいたしまして、信吉の前からさがって誰もいない部屋に入り、そこでひとり嘆くようすがあわれでなりませんでした。
「今のおれは、なんだか藻塩草をかきあつめたみたいだよ。もつれにもつれて、にっちもさっちもいかなくなった。何がよくて何が悪いのかもわからなくなった。血を分けた親が、心変わりをして、子を捨てろというのだ。ましてやおれは他人だ。思い切るのにためらいはあるまい」
それからしんとく丸のところに行きまして、間仕切りの障子のこちらから言いました。
「若君、どんなぐあいでいらっしゃいますか。若君、ご病気はいかがでございますか」
しんとく丸はこれを聞いて、言いました。
「仲光かい、めずらしいなあ。おれはどんな因果でこんな病気になったのか。目が見えないというのは、いつも長夜のようだね。病気になってからは誰も見舞いに来てくれないよ。仲光、よく来てくれた、うれしいよ」
仲光は涙にくれながら、しんとく丸に言いました。
「あのですね、若君、実はですね、なんでもいつぞやの稚児の舞をおやりになったあの天王寺に、都から貴いお坊様がいらっして、七日間のご説法をなさるそうですよ。お詣りにおいでになりませんか」
しんとく丸はこれを聞いて、言いました。
「忌日(きにち)や命日はいろいろあるが、中でも明日は乳房の母が亡くなって三年目の命日だ。お詣りしよう」
それで仲光は「おともいたします」と、駄馬の背に鞍を置き、さて、乗せるのは何と何か。金桶に、小御器(こごき)に、細杖、円座に、蓑。それから笠をくくりつけ、しんとく丸を抱き乗せて、表門は人目があるからと、裏門から引き出したのでありました。
(ああ、いたわしい!)信吉どのも、これが別れと思えばこそ、門まで出てきて言いました。
「おお、出かけるのか、しんとく丸、天王寺へお詣りか。早く帰って来るんだよ」
しんとく丸はこれを聞いて、言いました。
「父上ですか。馬の上からのお返事、お許しください。なるべく早く帰ってまいります」
信吉どのはこれを見て、「和泉、河内、津の国の三か国で、美しい少年と評判だったのに、病にかかった今となっては、馬に乗る姿も見苦しい」と普段はその勇猛さで名の高い信吉どのですが、はらはらと落ちる涙が抑えられなかったのでありました。
しんとく丸が言いました。
「仲光よ、目が見えないというのはいつも長夜のようなのだ。道のようすを語っておくれ」
仲光は引き受けまして、
「若君、ここは高安馬場の先でございますよ。向かいに見えるのは恋の松でございますよ」と語りながら、玉串(たまこし)、みし、上(かみ)の島、さいべの橋を引き渡したのでありました。
そのとき、しんとく丸がこう詠じました。
「衣摺(きする)を出で。蛇草(はくさ)の露に、裾濡れて、いかが渡らん、中川の橋」
そして小橋(おばせ)、小野村(このむら)、つかわし山、西寺をうち過ぎて、天王寺の南の門に着きました。
仲光が言いました。
「さあ、着きました。若君、今日のお説法はもう終わってしまったようでございます。今晩のお宿は、町家に取りましょうか、それともお寺の宿坊に取りましょうか、若君、どちらがよろしゅうございますか」
しんとく丸はこれを聞いて言いました。
「世が世であれば、宿坊に泊まりたい。町家の宿じゃ人に笑われて恥ずかしい。今夜は念仏堂で夜明かしをしよう」
「承知いたしました」と仲光は言いましたが、実はそれこそ願うところでありました。念仏堂の縁まで馬を引き寄せて、そこにしんとく丸をどうと下ろしますと、(ああ、なんていたわしい!)しんとく丸は、こんな苦しい旅は初めてした。馬に揺られて、疲れ果て、前後不覚に、ばったり倒れてしまいました。
(ああ、いたわしくてたまらない!)仲光は、宵の間こそ話し相手をしていましたが、はや夜も更けました。若君を捨てると思えば、まんじりともできませんでした。仲光は、しんとく丸の枕元に行きまして、後れ髪をかき撫でて、若君をお起こしして暇乞いをしようか。いやお起こししてはお気の毒だ、心の中で暇乞いをすればいいのだと、消え入るように嘆いていたのでありました。そしてとうとう「これでおいとまいたします、さようなら」と立ち去ろうとしましたが、あまりにつらくて悲しくて、また戻ってきて、眠るしんとく丸にすがりつき、しかしとうとう「これが別れか、悲しいなあ」と心強くも仲光は、名残りの袖を振り切って、馬の手綱に手を掛けて立ち去ろうとしましたが、馬にも心がありました。手綱を引いても動きません。そして仲光も、涙にむせるばかりで、涙は五月雨(さつきあめ)のように滴るばかりで、なかなか立ち去ることができません。
(ああ、いたわしくてたまらない!)仲光の嘆くようすがあわれでなりませんでした。
「昔から今にいたるまで、おれは、主のない馬の口を引くなんて、他人の話だと思っていたのだ。でもそれが、今のおれなんだ。悲しい、とても悲しい」と嘆くようすが、ほんとにあわれでなりませんでした。
(ああ、いたわしくてたまらない!)仲光は心が引かれてならないように、しんとく丸をしばらくじっと見守ってから、身をひるがえし、河内の国の高安をさして帰っていきました。道を急ぎましたので程もなく、高安に着きまして、信吉どのに対面し、しんとく丸を捨てたということをしっかりきっぱりと告げたのでありました。その仲光の心の内をあわれというのはたやすいのですが、何かにたとえることなど到底できることではありませんでした。 

 

物乞いとなったしんとく丸を乙姫が追う
あらあら、いたわしゅうございます。
しんとく丸は目をさまして「来ておくれ、仲光よ、夜が明けたみたいだ、群烏(むらがらす)が告げ渡る。手水(ちょうず)を持ってきておくれ、仲光」と呼びましたけれども、宵に捨てた仲光でありました。戸を開けて来るものはいないのでありました。
(ああ、いたわしい!)しんとく丸は不思議に思って、あたりを探ってみました。そして探りあてたのでありました。金の桶、小さいお椀、細い杖、円座、蓑と笠がそこにありました。
「おれはだまされて連れ出され、捨てられたのだ。捨てるなら捨てるで、ほかに捨てるところもあるだろうに、天王寺に捨てられたのだ。なんとむごい。蓑と笠は、雨露(あめつゆ)をしのげという、父の情けか。杖を道のしるべに使えというのだな。円座は、人前に出て施しを乞えという、仲光の教えか。この椀は、天王寺の七村を物乞いして歩けという、継母の教えか。飢え死にしたってかまわない、おれは物乞いなんかしない」
そしてそのまま世間とのかかわりを断つつもりでおりました。
清水(きよみず)のご本尊さまは氏子をたいそうふびんにお思いになりまして、しんとく丸の枕上にお立ちになり、
「ふびんだな、しんとく丸よ、おまえの病はしんから起こった病ではない。人の呪いのせいだから、町の家々を物乞いして命をつなげ」とお告げがありまして、ご本尊さまはかき消すように見えなくなりました。
しんとく丸は夢から覚めました。
「ありがたいご夢想をいただいた。病にもならず、わがままの果てに勘当されて物乞いをするなら、わが身の恥だが、病になったおれを、親の身として養いかねて、父上は捨てたのだ。物乞いしたって、父上の面目がたたないだけだ。おれはご本尊さまの教えのとおり、物乞いして生きのびよう」
そして、蓑と笠を肩に掛け、天王寺の七村を物乞いして歩いたのでありました。町の人々はこれを見て、
「この乞食、ろくに食べてないんだね、よろよろ歩くじゃないか」と言いはやし、弱法師(よろぼうし)と呼んで、一日二日は食べ物をくれましたが、やがてそれもなくなりました。するとまた、清水のご本尊さまが、虚空からお告げになりました。
「きけよ、しんとく丸、おまえのような病者は熊野の湯に入るとよい。病が治るぞ。いっこくも早く入れ」とお告げして、かき消すように見えなくなったのでありました。
しんとく丸はこれを聞いて、
「今の声はおれの氏神、清水のご本尊、観世音菩薩さまだ」と、虚空を三度伏し拝み、教えのとおりに湯に入ろうと思いまして、天王寺を立ち出でて、熊野をさして歩いていったのでありました。
通り過ぎたのはどこですか。
阿倍野五十町は、はやばやと通り過ぎました。
どこへいくのと聞きますか。住吉四社明神(ししゃみょうじん)を伏し拝みました。
どこへいくのと聞きますか。堺の浜はここですか。
石津畷(いしづなわて)を通るとき、西の方、はるか遠くに、大網をおろす音が聞こえました。大網の網の目のように、なにを見ても、しずむ思いのわたしであります。大鳥信太(しのだ)は、はやばやと通り過ぎました。井の口(いのくち)千軒はここですか。
近木(こぎ)の庄で名の高い地蔵堂で休んでいましたら、観世音菩薩さまが旅の巡礼に身を変えて、しんとく丸に近づいて言いました、
「そこの病者さん、このあたりの金持ちがあんたのような乞食に施行(せぎょう)をしているそうだよ。行って施しを受けなさい、命をつなぎなさいよ」
そう言って、旅の巡礼は通り過ぎていきました。
しんとく丸はこれを聞き、それなら施しを受けようと、いそいでそこに行きました。そこがその昔、文(ふみ)のやりとりをして約束を交わしたあの乙姫の屋形とは、夢にも知らずに行きました。堀の船橋をうち渡り、大広庭につっと立ちまして、
「熊野へ参ります病者でございます、おめぐみください」と乞うたのでありました。
ところがそこに昔を知る人がおりました。
「あれあれ、みなさん、あれはしんとく丸、以前、ここの乙姫さまへ、文をよこした河内の国の高安長者の息子のしんとく丸。いったいどんな因果で、あんな病者になってしまったものか」と口々にささやいた。目は見えなくとも耳は早うございます。しんとく丸はすっかり恥じ入り、うつむいて、門の外をさして出て行ったのでありました。つぶやいたことばがまた、あわれでなりませんでした。
「病もいろいろあるけれど、目の見えないほど悲しいことはない。目が見えないから、恥もかく。熊野の湯に入って病が癒(い)えたとしても、今かいたこの恥は、どこの浦ですすげばいいのか。おれは天王寺へ戻ろう、戻ったら、人が食べ物をめぐんでくれても、はったと絶って、飢えて死のう」
しんとく丸は、近木の庄から戻りまして、天王寺の引声堂(いんせいどう)の縁の下へもぐりこみ、そこで死ぬつもりでおりました。その心の内をあわれと言うのはたやすいのですが、何かにたとえようといったって、それはとうてい無理な話でございました。
それから三日が経ちまして、女房たちが乙姫に言いました。
「前に手紙のやりとりをなさった、あの河内の国高安の信吉長者のしんとく丸が、人のいやがる病者になり果てて、こちらへ施行を受けにいらっしゃいましたよ」とありのままを話しますと、乙姫は聞きまして、
「それはほんとなの、女房たち。しんとく丸が、乳房のお母上が亡くなって、継母の呪いで人のいやがる病人者になって、天王寺へ捨てられただなんて。それなら、ここにいらしたのも、わたしを尋ねてに違いない。わたしも女房たちと一緒になって笑ったと恨んでいらっしゃるはず。悲しいわ」と言いまして、
「わたしはそんなこと夢にも知らなかったんですもの」と泣き出しました。
それから父母のところに行きまして、涙ながらに言いました。
「おねがいがございます、お父さま。なんでもしんとく殿は、人のいやがる病者におなりになって、諸国行脚(あんぎゃ)をしていらっしゃるそうですけれど。どうかわたしを行かせてください。夫ですもの。その行方を探しに行きたいのです。お父さま、お母さま、どうか許して」
蔭山はこれを聞きまして、
「なにを言うか、乙姫や。文ひとつ交わしたくらいで、探しに出るなぞもってのほか。ただ一時(いっとき)も許せません」
乙姫これを聞きまして、
「いいえ、それは違います、お父さま。人の夫婦というものは、八十や九十、百までもつれ添って、死に別れるのも悲しくてたまらないと聞いています。しんとく丸とわたしは、花のうてなの露ほどもなじんではおりませんけれど、いいときばかり一緒になりましょう、わるくなったら別れましょうという約束はしてません。わるいときにつれ添ってこそ夫婦でしょう。どうか行かせてください、お父さま、お母さま」と泣いて頼んだのでありました。
母はこれを聞いて言いました。
「そこまで思っているのなら、人をやって探させましょう」
乙姫はこれを聞いて言いました。
「いいえ、それは違います、お母さま。自分の身にかかわりのないことには、だれも親身になってくれません。わたしが自分で行かねばならないのです」
夫が恋しい、その行方を探したいと乙姫は思いつめ、思いつめるあまりにとうとう寝ついてしまいました。兄の太郎はこれを見て、父母のもとに行って言いました。
「おねがいでございます、父上。このままでは乙姫が、夫のために死んでしまいます。生きて別れた相手にはまた会うこともあるが、死んで別れた相手には二度と会わないと申します。父上、母上、どうか行かせてやってくださいませ」
母はこれを聞いて言いました。
「そこまで思っているのなら、夫に会えても会えなくても、こちらへ便りを寄こすんですよ」
そして、選びぬいたよい黄金(こがね)を取り出して、乙姫に与えたのでありました。乙姫はそれを受け取って、肌身離さず持っていようと首に掛け、出かけようとしたそのときに、
「待て、はやるな、わたしの心。わたしは器量がよいと言われる。それなら姿を変えて身を守ろう」と、後ろに笈摺(おいずる)、前に札(ふだ)、まったくの巡礼に姿を変えて、近木の庄を立ち出でました。
乙姫はしんとく丸を抱きしめて...
下和泉で名の高い、信達(しだち)の大鳥はこれですか。
山中の三里を、夫恋しやと尋ねたのでありますが、行方はなかなかわかりません。
それでこんどは紀伊国(きのくに)へ入りまして、川辺市場(かわなべいちば)を尋ねたのでありますが、行方はまだまだわかりません。
紀の川で船に乗り、向こう岸に渡って、道行く人に聞きました。
「この街道で、稚児育ちの病者を見かけませんでしたか」
するとその男が言いました。
「おまえの連れか兄弟か、おれは見張りじゃないからな」
つめたく、むごいことばでありました。乙姫はこれを聞き、思わず涙をこぼしてつぶやいたのでありました。
「なんて言いぐさだろう。知らないから聞いているのだ。教えない人のなんと情けのないことか」
道をいそいだので、ほどもなく、藤白(ふじしろ)峠に着きまして、とある所に腰を掛け、つらつらと考えました。
「そのむかし、巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣りの折りに、この松のもとで絶景を筆で写しとろうとして、写しかねて筆を捨てた。それでここを筆捨松(ふですてまつ)と呼ぶそうだ。そんなお話も、夫に会えないわたしには、おもしろいと思えない。しんとく丸に会いたい。こんなに探し歩いたのに、行方はわからない。きっと、女房たちに笑われたのを無念に思って、淵か川に身投げをしてしまったのだ。女房たちと一緒になって笑ったとわたしのことを恨んで死んだのだ。ああ、それは違うのに。わたしは夢にも知らないことだったのに。熊野へ行くのはよそう。近木の庄に戻ろう。たとえ骸(むくろ)になっていても、なんとか見つけだして弔ってあげたい」
乙姫は、いっそもう、自分も道連れになって死んでしまいたいと思ったのでありました。
藤白からうち戻り、あちこちを探しまわりましたが、行方はやっぱりわかりません。
父の家に戻って、探しつづけたいと言ったところで、お許しは出ないだろう、それならこのまま上方(かみがた)に行って、そこを探そうと、自分の古里を遠くに見ながら、西をはるかに眺めておりますと、海に大網をおろす音が聞こえました。なにを見ても、なにを聞いても、いちいち物思いにしずむ乙姫でありました。
夫が恋しいと、あちこちを探しまわったのですが、行方はちっともわかりません。
住吉神社にお詣りしまして、尋ねたのはどこですか。
四社明神に、奥の院、反橋(そりはし)の下まで探しまわったのでありますが、さても行方はわかりません。
阿倍野五十町をはやくも過ぎまして、天王寺に着きました。金堂(こんどう)、講堂、六時堂(ろくじどう)、亀井の水のあたりまで探したのでありますが、行方はやっぱりわかりません。
乙姫は、石の舞台に上がって考えました。
「この舞台で、稚児の舞を舞ったしんとく丸が恋しい。もう和泉へは戻らない。このままこの蓮池に身を投げよう」
髪を高く結い上げて、袂(たもと)に小石を拾い入れ、身を投げようと思ったとき、
「待て、はやるな、わたしの心。探し残したお堂がある。引声堂(いんせいどう)に行ってみよう」と引声堂にお詣りして、鰐口を、じゃん!とうち鳴らし、
「どうか夫のしんとく丸にめぐり会わせてくださいませ」と心をこめて祈っておりましたら、堂の後ろから、弱々しい声がしました。
「巡礼ですか、土地の人ですか、おめぐみを」
乙姫はこれを聞き、縁から下に飛び降りて堂の後ろに回り、蓑と笠を奪い取り、その顔をのぞきこみますと、しんとく丸でありました。
乙姫はしんとく丸を抱きしめて言いました。
「乙姫でございます。お名前をお名のりください」
しんとく丸は払いのけて言いました。
「旅の巡礼さん、いじめるのはおよしなさい。盲目杖(もうもくづえ)に咎(とが)はございません。お放しください」
乙姫は抑えきれず、身もだえしながら泣きじゃくり、泣きじゃくりながら言いました。
「乙姫じゃないものが、あなたみたいな病者に抱きつきますか。お名のりください」
しんとく丸は、名のるまいとは思いましたが、もはや隠しきれずに話しはじめました。
「乙姫どのでしたか、恥ずかしゅうございます。乳房の母に死なれ、継母の母の呪いにかかって、こんな病者になり果てました。親は慈悲であるはずが、わたしの親は邪慳(じゃけん)でした。それで天王寺に捨てられました。熊野の湯に入るのがよいと聞きまして、熊野の湯に向かう途中で、あなたの屋形と知らずに施行を受けに行き、女房たちに笑われました。面目なさに堪えきれず、飢え死にしようと思いましたが、死に切れぬ命です。ここでめぐり会ってしまったのが、恥ずかしくてなりません。どうかこれでお帰りください」
乙姫はこれを聞いて言いました。
「お供をしないつもりなら、どうしてここまでまいりましょう」
そして、しんとくを支えて肩に掛け、町の中に出ていきました。これを見て、心を動かされない者はいなかったのでありました。
乙姫は母にもらった黄金を米と引きかえて、しんとくに食べさせながら言いました。
「たしかしんとく丸さまは、清水さまの氏子でしたわね。それなら、一緒にお詣りいたしましょう」
そして夫婦うち連れて、都をさして上っていったのでありました。
通っていったのはどこですか。
長柄(ながら)の橋をうち渡り、どこへいくのと聞きますか。
太田の宿、塵(ちり)かき流す芥川(あくたがわ)、どこへいくのと聞きますか。
夜はまだ深いのに月は高くに高槻や、どこまでいくのと聞きますか。
行く先は、山崎の宝寺(たからでら)、関戸の院を伏し拝み、鳥羽に恋塚、秋の山、道をいそぎましたので、ほどもなく、東山清水(きよみず)に着きました。清滝に下りていき、三十三度の水垢離(みずごり)を取りまして、ご本尊さまのおん前にお詣りして、鰐口を、じゃん!とうち鳴らし、
「心から信心いたします、大きな慈悲をお持ちの観世音菩薩さま。しんとく丸は、こちらの氏子でございます。この病をどうぞ治してくださいませ」と心をこめて祈りあげました。そしてその夜はそこにお籠りしたのでありました。
夜半ばかりのことでした。ご本尊の観世音菩薩さまが揺るぎ出ておいでになりまして、乙姫の枕上にお立ちになりました。
「よく来た、乙姫、昔から今にいたるまで、人に頼まれ、頼りにされてきたおれなのだ。継母の母がやってきて、おれの前に、十八本、釘を打った。都の神社社(やしろ)に、打った釘の数は百三十五本になる。おれを恨むな。明日、ここから下がるときに、一の階に鳥箒(とりぼうき)がある。それを手に取り、しんとく丸をすわらせて、上から下へ、下から上へ、『善哉(ぜんざい)なれ、平癒(へいゆう)あれ』と唱えながら撫でたならば、病はきっと癒えるだろうよ」
そうお告げがありまして、ご本尊さまは、かき消すように見えなくなりました。
乙姫はかっぱととび起きて、「ありがたいご夢想をいただいた」と、ご本尊さまのおん前を三度伏し拝み、まかり出ようとしたときに、一の階に鳥箒をみつけました。それをいただいて、おん前から下がって、貧しい、みすぼらしい小屋に行きまして、しんとく丸をすわらせて、上から下へ、下から上へ、「善哉なれ、平癒あれ」と三度うち撫でたときに、百三十五本の釘がはらりと抜けて、もとのしんとく丸となりました。
乙姫はしんとく丸に抱きつき、しっかりと抱きしめあい、ああ、ほんとにめでたい、めでたいことになりましたと、その喜びにはかぎりがありませんでした。
夫婦うち連れて、観世音菩薩さまにお詣りし、ふかぶかと三十三度伏し拝みまして、このたびは人目も気にせず、寺の宿坊に、はればれと帰っていきました。
それはそれ。こちらは河内の国の信吉どのでございます。
こんなあわれな話はございません。
人を憎めば、自分を憎む。半分はわが身に返ってくるものでありました。継母の顔かたちには返ってゆかずに、信吉どのに返っていきました。信吉どのの両眼が、とつぜんつぶれて見えなくなりました。これはこれはと驚くばかりでありました。身内の者がちりぢりに去っていきました。その身は貧しくなりまして、河内の国高安にいたたまれなくなりまして、丹波の国へ流れ流れていったのでありました。
それはそれ。こちらは和泉の国でございます。
話がここにも伝わってきまして、蔭山長者がこれを聞き、長男の太郎を呼んで言いました。
「おい、太郎よ。しんとく丸は病が治って都にいるそうだ。和泉の国三百町に人をやれ。いそいで迎えにいけ」
合点承知と、太郎は旅の用意をし、都をさして上っていきました。道をいそぎましたので、ほどもなく、堺の浦でしんとく丸に対面し、これまでの成りゆきにもたいへん満足したのでありました。しんとく丸は馬で、乙姫は網代(あじろ)の輿(こし)に乗って、たくさんのお供を引き連れて、にぎやかに、はなやかに、和泉の国へ向かい、道をいそぎましたので、ほどもなく、近木の庄に着きました。そして蔭山長者は、とうとうしんとく丸に対面したのでありました。
わきおこる喜びには、かぎりがありませんでした。
母が乙姫の手を取ってうれし泣きに泣きながら言いました。
「つらい旅でしたね、でもよくがんばりました。昔から、うれしいにも涙、悲しいにも涙と言いますけど、この涙はあなたにまた会えたうれしい涙なんですよ」
そのときのようすを、何かにたとえようといったって、それは無理な話でございます。
しんとく丸が言いました。
「わたしは、目の見えないときに人の情けをたくさん受けました。だれとわかっていれば、恩が返せますけど、わかりませんから、返せないのです」
それで、数々の宝を引き出して、阿倍野河原で、七日の間、施行をしたのでありました。このことが丹波の国へも、伝わっていきました。
ここでなによりあわれなのは、能勢(のせ)の郡(こおり)の信吉どのでありました。
わが子の施しとはつゆ知らず、妻と三歳になる息子の乙二郎を連れて、能勢の里を立ち出でて、阿倍野河原までやって来て、施行の場にたどり着き、大声をはりあげて、
「疲れはて飢えたものにおめぐみを」と乞うたのでありました。
蔭山の家来たちがこれを見て、
「河内高安の信吉長者のなれの果てだ」とどっと笑いました。
信吉はこれを聞き、こんなことなら出て来なければよかった、出て来たばかりに、こんなにつらい、あさましい目に遭ったと、その場から逃げ出そうとしたときに、しんとく丸が座敷から飛び降りて、するすると走り寄り、
「ああ父上、しんとくがまいりました」と父をしっかりと抱きかかえました。そしてあの鳥箒を取り出して両眼におし当て、
「善哉なれ、平癒あれ」と三度撫でたときに、ひしとつぶれた両眼が明きました。
わきおこる喜びには、かぎりがありませんでした。
このめでたい場から、継母と弟の乙二郎は、ささ、こちらへと招き入れられ、早くおいとまをさしあげろ、と命令が出されまして、合点承知と家来どもが、二人を庭のお白州に引き出して、首を切って捨てたのでありました。
その後、しんとく丸は、父とともに河内に帰りまして、屋形を数々建て並べ、母の供養のためには、峰に塔を組み、谷に堂を建て、大きな河には舟を浮かべ、小さい川には橋をかけ、僧たちが大ぜいで供養して、菩提を弔ったのでありました。こんな不思議な話があるのかと、感心せぬものは一人としておりませんでした。 
 
「身毒丸」考

 

身毒丸 / 折口信夫 
身毒丸(シントクマル)の父親は、住吉から出た田楽師であつた。けれども、今は居ない。身毒はをり/\その父親に訣れた時の容子を思ひ浮べて見る。身毒はその時九つであつた。
住吉の御田植神事(オンダシンジ)の外は旅まはりで一年中の生計を立てゝ行く田楽法師の子どもは、よた/\と一人あるきの出来出す頃から、もう二里三里の遠出をさせられて、九つの年には、父親らの一行と大和を越えて、伊賀伊勢かけて、田植能の興行に伴はれた。信吉法師というた彼の父は、配下に十五六人の田楽法師を使うてゐた。朝間、馬などに乗らない時は、疲れると屡(ヨク)若い能芸人の背に寝入つた。さうして交る番に皆の背から背へ移つて行つた。時をり、うす目をあけて処々の山や川の景色を眺めてゐた。ある処では青草山を点綴して、躑躅の花が燃えてゐた。ある処は、広い河原に幾筋となく水が分れて、名も知らぬ鳥が無数に飛んでゐたりした。さういふ景色と一つに、模糊とした羅衣(ウスギヌ)をかづいた記憶のうちに、父の姿の見えなくなつた、夜の有様も交つてゐた。
その晩は、更けて月が上(ノボ)つた。身毒は夜|中(ナカ)にふと目を醒ました。見ると、信吉法師が彼の肩を持つて、揺ぶつてゐたのである。
――おまへにはまだ分るまいがね」といふ言葉を前提に、彼(カ)れこれ小半時も、頑是のない耳を相手に、滞り勝ちな涙声で話してゐたが、大抵は覚えてゐない。此頃になつて、それは、遠い昔の夢の断れ片(ハシ)の様にも思はれ出した。唯この前提が、その時、少しばかり目醒めかけてゐた反抗心を唆つたので、はつきりと頭に印せられたのである。その時五十を少し出てゐた父親の顔には、二月ほど前から気味わるいむくみが来てゐた。父親が姿を匿す前の晩に着いた、奈良はづれの宿院の風呂の上り場で見た、父の背を今でも覚えてゐる。蝦蟇の肌のやうな、斑点が、膨れた皮膚に隙間なく現れてゐた。
――とうちやんこれは何うしたの」と咎めた彼の顔を見て、返事もしないで面を曇らしたまゝ、急に着物をひつ被つた。記憶を手繰つて行くと、悲しいその夜に、父の語つた言葉がまた胸に浮ぶ。
父及び身毒の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。その為に父は得度して、浄い生活をしようとしたのが、ある女の為に堕ちて、田舎聖の田楽法師の仲間に投じた。父の居つた寺は、どうやら書写山であつたやうな気がする。それだから、身毒も法師になつて、浄い生活を送れというたやうに、稍世間の見え出した此頃の頭には、綜合して考へ出した。唯、からだを浄く保つことが、父の罪滅しだといふ意味であつたか、血縁の間にしふねく根を張つたこの病ひを、一代きりにたやす所以だというたのか、どちらへでも朧気な記憶は心のまゝに傾いた。
身毒は、住吉の神宮寺に附属してゐる田楽法師の瓜生野といふ座に養はれた子方で、遠里小野の部領の家に寝起きした。
この仲間では、十一二になると、用捨なくごし/\髪を剃つて、白い衣に腰衣を着けさせられた。ところが身毒ひとりは、此年十七になるまで、剃らずにゐた。身毒は、細面に、女のやうな柔らかな眉で、口は少し大きいが、赤い脣から漏れる歯は、貝殻のやうに美しかつた。額ぎはからもみ上げへかけての具合、剃り毀つには堪へられない程の愛着が、師匠源内法師の胸にあつた。今年は、今年はと思ひながら、一年延しにしてゐた。そして、毎年行く国々の人々から唯一人なる、この美しい若衆はもて囃されてゐた。牛若というたのは、こんな人だつたらうなどいふ評判が山家片在所の女達の口に上つた。
今年五月の中頃、例年行く伊勢の関の宿で、田植ゑ踊りのあつた時、身毒は傘踊りといふ危い芸を試みた。これは高足駄を穿いて足を挙げ、その間を幾度も/\長柄の傘を潜らす芸である。
苗代は一面に青み渡つてゐた。野天に張つた幄帳の白い布に反射した緑色の光りが、大口袴を穿いた足を挙げる度に、雪のやうな太股のあたりまでも射し込んだ。関から鈴鹿を踰えて、近江路を踊り廻つて、水口の宿まで来た時、一行の後を追うて来た二人の女があつた。それは、関の長者の妹娘が、はした女一人を供に、親の家を抜け出して来たのであつた。
耳朶まで真赤にして逃げるやうに師匠の居間へ来た身毒は長者の娘のことを話した。師匠は慳貪な声を上げて、二人を追ひ返した。
何も知らぬ身毒は、其夜一番鶏が鳴くまで、師匠の折檻に会うた。
夜があけて、弟子どもが床を出たときに、青々と剃り毀たれた頭を垂れて、庭の藤の棚の下に茫然と彳んでゐる身毒を見出した。源内法師の居間には、髪の毛を焼いたらしい不気味な臭ひが漂うてゐた。師匠は晴れやかな顔をして、廂に射し込む朝の光りを浴びてゐた。然しそれは間もなく、制吒迦童子と渾名せられてゐる弟子の一人に肩を扼せられて出て来た、身毒の変つた姿を目にした咄嗟に、曇つて了つた。
何も驚くことはない。あれはわしが剃つたのだ。たつた一人、若衆で交つてゐるのも、目障りだからなう。
身毒を居間に下らした後、事あり顔に師匠の周りをとり捲いた弟子どもに、こだはりのない声でから/\と笑つた。
瓜生野の田楽能の一座は逢坂山を越える時に初めて時鳥を聞いた。住吉へ帰ると間もなく、盆の聖霊会が来た。源内法師はこれまで走り使ひにやり慣れた神宮寺法印の処へさへも、身毒を出すことを躊躇した。そして、その起ち居につけて、暫くも看視の目を放さなかつた。
どうも、うは/\してゐる、と師匠の首を傾けることが度々になつた。
田楽師はまた村々の念仏踊りにも迎へられる。ちようど、七月に這入つて、泉州石津の郷で盆踊りがとり行はれるので、源内法師は身毒と、制吒迦童子とを連れて、一時あまりかゝつて百舌鳥の耳原を横切つて、石津の道場に着いた。其夜は終夜、月が明々と照つてゐた。念仏踊りの済んだのは、かれこれ子の上刻である。呆れて立つてゐる二人を急き立てゝ、そゝくさと家路に就いた。道は薄の中を踏みわけたり、泥濘を飛び越えたりした。三人の胸には、各別様の不安と不平とがあつた。踊り疲れた制吒迦は、をり/\聞えよがしに欠をする。源内法師は鑢ででも磨つて除けたいばかりに、いら/\した心持ちで、先頭に立つてぼく/″\と歩く。久かたぶりの今日の外出は、鬱し切つてゐた身毒の心持ちをのう/\させた。けれどもそれは、ほんの暫しで、踊りの初まる前から、軽い不安が始中終彼の頭を掠めてゐた。彼は、一丈もある長柄の花傘を手に支へて、音頭をとつた。月の下で気狂ひの様に踊る男女の耳にも、その迦陵頻迦のやうな声が澄み徹つた。をり/\見上げる現ない目にも、地蔵菩薩さながらの姿が映つた。若い女は、みな現身仏の足もとに、跪きたい様に思うた。けれども身毒は、うつけた目を※[目+爭]つて、遥かな大空から落ちかゝつて来るかと思はれる、自分の声にほれ/″\としてゐた。ある回想が彼の心をふと躓かせた。彼の耳には、あり/\と火の様なことばが聞える。彼の目には、まざ/″\と焔と燃えたつ女の奏が陽炎うた。
踊り手は、一様に手を止めて、音頭の絶えたのを訝しがつて立つてゐた。と切れた歌は、直ちに続けられた。然しながら、以前の様な昂奮がもはや誰の上にも来なかつた。身毒は、歌ひながら不機嫌な師匠の顔を予想して慄へ上つてゐた。……あちらこちらの塚山では寝鳥が時々鳴いて三人を驚かした。思ひ出したやうに、疲れたゞの、かひだるいだのと制吒迦が独語をいふ外には、対話はおろか、一つのことばも反響を起さなかつた。家へ帰ると、三人ながらくづほれる様に、土間の莚の上へ、べた/″\と坐り込んだ。
 

 

源内法師は、身毒の襟がみを把つて、自身の部屋へ引き摺つて行つた。
身毒は、一語も上つて来ないひき緊つた師匠の脣から出る、恐しいことばを予想するのも堪へられない。柱一間を隔いて無言で向ひあつてる師弟の上に、時間は移つて行く。短い夜は、ほの/″\あけて、朝の光りは二人の膝の上に落ちた。
芸道のため、第一は御仏の為ぢや。心を断つ斧だと思へ。
かういつて、龍女成仏品といふ一巻を手渡した。
さあ、これを血書するのぢやぞ。一毫も汚れた心を起すではないぞ。冥罰を忘れなよ。
身毒はこれまでに覚えのない程、憤りに胸を焦した。然しそれは師匠の語気におびき出されたものに過ぎない。心の裡では、師匠のことばを否定することは出来なかつた。経文を血書してゐる筆の先にも、どうかすると、長者の妹娘の姿がちらめいた。あるときは、その心から妹娘を攘ひ除けたやうな、すが/\しい心持ちになることもある。然しながら、其空虚には朧気な女の、誰とも知らぬ姿が入り込んで来た。最初の写経は、師の手に渡ると、ずた/\に引き裂かれて、火桶に投げ込まれた。身毒は、再度血書した。それが却けられたときに、三度目の血書にかゝつた。その経文も穢らはしいといふ一語の下に前栽へ投げ棄てられた。
連夜の不眠に、何うかすると、筆を持つて机に向つたまゝ、目を開いて睡つた。さうした僅かの間にも、妹娘や見も知らぬ処女の姿がわり込んで来る。
四度目の血書を恐る/\さし出したときに、師匠の目はやはり血走つてゐたが、心持ち柔いだ表情が見えて、
人を恨むぢやないぞ。危い傘飛びの場合を考へて見ろ。若し女の姿が、ちよつとでもそちの目に浮んだが最後、真倒様だ。否でも片羽にならねばならぬ。神宮寺の道心達の修業も、こちとらの修業も理は一つだ。
写経のことには一言も言ひ及ばなかつた。そして部屋へ下つて、一眠りせいと命じた。経文は膝の上にとりあげられた。執着に堪へぬらしい目は、燃えたち相な血のあとを辿つた。
自身の部屋に帰つて来た身毒は、板間の上へ俯伏しに倒れた。蝉が鳴くかと思うたのは、自身の耳鳴りである。心づくと黒光りのする板間に、鼻血がべつとりと零れてゐた。さうしてゐるうちに、放散してゐた意識が明らかに集中して来ると、師匠の心持ちが我心に流れ込む様に感ぜられて来る。あれだけの心労をさせるのも、自分の科だと考へられた。身毒は起き上つた。そして、机に向うて、五度目の写経にとりかゝるのである。夢心地に、半時ばかりも筆を動かした。然し、もう夢さへも見ることの出来ない程、衰へきつてゐる。疲れ果てた心の隅に、何処か薄明りの射す処があつて、其処から未見ぬ世界が見えて来相に思はれ出した。身毒は息を集め、心を凝して、その明るみを探らうと試みる。
源内法師は、この時、まだ写経を見つめてゐた。さうしてゐるうちに、涙が頬を伝うて流れた。俄かに大きな不安が、彼の頭に蔽ひかゝつて来た。九年前のあぢきない記憶が頭を擡げて来たのである。四巻の経文をとり出して、紙も徹るばかりに見入つた。どれにも思ひなしか、鮮かな紅の色が、幾分澱んで見えた。
部屋には、大きな櫛形の窓がある。それから見越す庭には、竹藪のほの暗い光りの中に、百合の花が、くつきりと白く咲いてゐる。
師匠が亡くなつてから、丹波氷上の田楽能の一座の部領に迎へられて、十年あまりをそこで過して居つたが、兄弟子の信吉法師が行方不明になつた頃呼び戻されて、久しぶりで住吉に帰つた。氷上で娶つた妻も早く死んで、固より子もなかつた。兄弟子に対する好意、妻や子に対する愛情を集めて、身毒一人を可愛がつた。二年三年たつうちに、信吉法師が何処かの隅から、今にも戻つて来て、身毒を奪うて行き相な心持ちがした。思ひなげな目を挙げて、覗き込む身毒の顔を見ると、いよ/\愛着の心が深くなつて行く。
信吉法師が韜晦してから、十年たつた。彼はある日、ふと指を繰つて見て、十年といふことばの響きに、心の落ちつくのを感じた。信吉の馳落ちの噂を耳にしたとき、業病の苦しみに堪へきれなくなつて、海か川かへ身を投げたものと信じてゐた。遠い昔のことである。ある時信吉法師は寂寥と、やるせなさとを、この親身な相弟子に打ちあけて聞かしたのであつた。源内法師は足音を盗んで、身毒の部屋の方へ歩いて行つた。
身毒は板敷きに薄縁一枚敷いて、経机に凭りかゝつて、一心不乱に筆を操つてゐる。捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れてゐた。
源内法師は居間に戻つた。その美しい二の腕が胸に烙印した様に残つた。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。そのどろ/\と蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。彼は持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまへと祈つた。
五度目の写経を見た彼は、もう叱る心もなくなつてゐた。
程近い榎津や粉浜の浦で、漁る魚にも時々の移り変りはあつた。秋の末から冬へかけて、遠く見渡す岸の姫松の梢が、海風に揉まれて白い砂地の上に波のやうに漂うてゐる。庭の松にも鶉の棲む日が来た。住吉の師走祓へに次いで生駒や信貴の山々が連日霞み暮す春の日になつた。弟子たちは畑も畝うた。猟にも出かけた。瓜生野の座の庭には、桜や、辛夷は咲き乱れた。人々は皆旅を思うた。源内法師は忘れつぽい弟子達の踊りの手振りや、早業の復習の監督に暇もない。住吉の神の御田に、五月処女の笠の動く、五月の青空の下を、二十人あまりの菅笠に黒い腰衣を着けた姿が、ゆら/\と陽炎うて、一行は旅に上つた。
横山のかげが、青麦のうへになびく野を越えて、奈良から長谷寺に出た一行は、更に、寂しい伊賀越えにかゝつた。草山の間を白い道がうねつて行く。荒廃した海道は、処々叢になつてゐて、まひ立つ土ぼこりのなかに、野※[木+虎の「儿」に代えて「且」](ノジトミ)が血を零したやうに咲いてゐたりした。  
 

 

小汗のにじむ日である。小さな者らは、時々立ち止つて、山の腰から泌み出てゐる水を、手に受けためては飲んだ。さうして隔つた人々に追ひすがる為に、顔をまつかにしては、はしり/\した。
国見山をまへにして、大きな盆地が、東西に長く拡つてゐた。可なりな激湍を徒渉りして、山懐に這入ると、瀁田に代掻く男の唄や、牛の声が、よそよりは、のんびりと聞えて来た。其処は、非御家人の隠れ里といつた富裕な郷であつた。
瓜生野の一座は、その郷士の家で手あついもてなしを受けた。源内法師は、すぐ明日の踊りの用意にかゝる。力強い制吒迦は、屋敷の隅の納屋から榑材などをかつぎ出すその家の下部らに立ちまじつて、はたらいてゐる。
身毒は、広々とした屋敷うちを、あちらこちらと歩いて見た。
それは、低い田居を四方に見おろす高台の上を占めて、まんなかにちよんぼりと、百坪あまりの建て物がたつてゐるのであつた。
広くつき出した縁の上には、狐色に焦れて、田舎びた男の子や、女の子が十五六人も居て、身毒らの着いた時分から、きよと/\、一行の容子を見瞻つてゐた。彼らの目色には、都人の羨しさを跳ねかへす妬み憎み、其から異郷人に対する害心と侮蔑とに輝いてゐる。若い身毒は、何処へ行つても、かうした瞳に出会うた。さうして、かうした度毎に、身の窄まる思ひがした。
子どもたちは、やがて、外から見え透く広い梯子を伝うてつしの上にあがつて行つた。
一行の為に、南開きの、崖に臨んだ部屋が宛てがはれた。
源内が、家のあるじに挨拶に行つた間を、ひろ/″\と臥てゐた人たちの中で、ぽつゝりと一人坐つてゐた、彼を見とがめた一人が、どうしたのだと問うた。
どうもしない、と応へるほかには、いふべき語がわからない心地に漂うてゐたのである。
がらんとした家の中は、遠くから聞えて来る人声がさわがしく聞えた。子どもらは、いろんな聞きも知らぬ唄を、あどけない声で謡うてゐる。身毒は、瓜生野の家を思うた。しかし女気のない家の中に、若い男や中年の男が、仮に宿つてゐるといふだけで、かうした旅の泊りとちがうた処がないのだ、といふ心持ちが、胸をたぐるやうに迫つて来る。
くたびれた/\。おや、身毒。おまへも居たのか。おまへはいつも、わるい癖ぢやよ。遠路をあるくと、きつと其だ。なんてい不機嫌な顔をする。
身毒は、黙つてゐることが出来なかつた。
わしは、今度こそ帰つたら、お師匠さんに願うて、神宮寺か、家原寺へ入れて貰はうと思うてる。
おい、又変なこと、言ひ出したぜ。おまへ、此ごろ、大仙陵の法師狐がついてるんかも知れんぞ。
今迄鼾を立てゝゐた制吒迦が寝がへりをうつて顔を此方へ向けた。年がさの威厳を持つたらしいおつかぶせる様な声である。
さうだとも/\。師匠のお話では、氷上で育てた弟子のうちにも、さういふ風に、房主になりたい/\言ひづめで、とゞのつまりが、蓮池へはまつて死んだ男があつたといふぜ。死神は、えてさういふ時に魅きたがるんだといふよ。気をつけなよ。
又、一人の中年男が、つけ添へた。
おまへらは、なんともないのかい、住吉へ還らんでも、かうしてゐても、おんなじ旅だもの。せめて、寺方に落ちつけば、しんみりした心持ちになれさうに思ふのぢやけれど。
あほうなことを、ちんぴらが言ふよ。瓜生野が気に入らぬ。そんなこと、おまへが言ひ出したら、こちとらは、どうすればよい。よう、胸に手置いて考へて見い、師匠には、子のやうに可愛がられるし、第一ものごゝろもつかん時分から居馴れてるぢやないか。何を不足で、そんなことを言ひ出すのだ。
と分別くさい声が応じた。 
 

 

けれどなあ、かういふ風に、長道を来て、落ちついて、心がゆつたりすると一処に、何やらかうたまらんやうな、もつと幾日も/\ぢつとしてゐたいといふ気がする。
熱し易い制吒迦は、もう向つぱらを立てゝ、一撃を圧しつける息ごみでどなつた。
何だ。利いた風はよせ。田楽法師は、高足や刀玉見事に出来さいすりや、仏さまへの御奉公は十分に出来てるんぢや、と師匠が言はしつたぞ。田楽が嫌ひになつて、主、猿楽の座方んでも逃げ込むつもりぢやろ。
煮え立つやうな心は、鋭い語になつて、沸き上つた。身毒は、其勢にけおされて、おろ/\としてゐる。あひての当惑した表情は、愈疑惑の心を燃え立たせた。
揺拍子。それを、円満井では、えら執心ぢやといふぞ。此ばかりや瓜生野座の命ぢやらうて、坂下や氷上の座から、幾度土べたに出額をすりつけて、頼んで来ても伝授さつしやらなんだ師匠が、われだけにや伝へられた揺拍子を持ち込みや、春日あたりでは大喜びで、一返に脇役者ぐらゐにや、とり立てゝくれるぢやろ。根がそのぬつぺりした顔ぢやもんな。……けんど、けんど、仏神に誓言立てゝ授つた拍子を、ぬけ/\と繁昌の猿楽の方へ伝へて、寝返りうつて見ろ。冥罰で、血い吐くだ。……二十年鞨鼓や簓ばかりうつてるこちとらとつて、うつちやつては置かんぞよ。
制吒迦はとう/\泣き出した。自身の荒ら語は、胸をかき乱し、煽り立てた。
分別男は、長い縁を廻りまはつて、師匠のゐる前まで、身毒を引き出した。
源内法師は、目を瞑つて、ぢつと聞いて居た。分別男の誇張して両方をとりもつた話ぶりに連れて、からだ中の神経が強ばつて行くやうに思はれた。自身がまだ氷上座に迎へられて行かなかつた頃、瓜生野家の縁の日あたりで、若かつた信吉法師の口から聞かされた一途な語を、目のあたりに復、聞かされてゐるやうに感じた。彼の頭には、卅年前と目の今の事とが、一つに渦を捲いた。さうして時々、冷やかな反省が、ひやり/\と脊筋に水を注いだ。彼は強ひて、心を鎮めた。さうして、顔もえあげないでゐる身毒の、著しくねび整うた脊から腰へかけての骨ぐみに目を落してゐた。分別男や身毒の予期した語は、その脣からは洩れないで、劬る様な語が、身毒のさゝくれ立つた心持ちを和げた。
おまへも、やつぱり、父の子ぢやつたなう。信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える。
かういふ語が、分別男や身毒には、無意味ながら悲しい語らしく響いて語り終へられた。深いと息が、師匠の腹の底から出た。
分別男は、疳癖づよい師匠にも似あはぬことゝ思うて、拍子抜けのした顔でゐた。師匠ももうとる年で、よつぽど箝が弛んだやうだと笑ひ話のやうにして制吒迦を慰めた。
あけの日は、東が白みかけると、あちらでもこちらでも蝉が鳴き立てた。昨日の暑さで、一晩のうちに生れたのだらう、と話しあうた。草の上に、露のある頃から、金襴の前垂を輝かす源内法師を先に、白帷子に赤い頬かぶりをして、綾藺笠を其上にかづいた一行が、仄暗い郷士の家から、照り充ちた朝日の中に出た。さうして、だら/\坂を静かに練つておりた。制吒迦は、二丈あまりの花竿を竪てながら、師匠のすぐ後に従うた。
一行が遠い窪田に着いた頃、ぽつちりと目をあいた身毒は、すまぬ事をしたと思うて床から這ひ出した。衣装をつけて鞨鼓を腰に纏うてゐた時、急にふら/\と仰様にのめつたのである。鼻血に汚れた頬を拭うてやりながら、師匠は、も暫らく寝て居れと言うた。
身毒は、一夜睡ることが出来なかつたのである。今の間に見た夢は、昨夜の続きであつた。
高い山の間を上つてゐた。道が尽きてふりかへると、来た方は密生した林が塞いでゐる。更に高い峯が崩れかゝり相に、彼の前と両側に聳えてゐる。時間は朝とも思はれる。又日中の様にも考へられぬでもない。笹藪が深く茂つてゐて、近い処を見渡すことが出来ない。流れる水はないが、あたり一体にしとつてゐる。歩みを止めると、急に恐しい静けさが身に薄(セマ)つて来る。彼は耳もと迄来てゐる凄い沈黙から脱け出ようと唯むやみに音立てゝ笹の中をあるく。
一つの森に出た。確かに見覚えのある森である。この山口にかゝつた時に、おつかなびつくりであるいてゐたのは、此道であつた。けれども山だけが、依然として囲んでゐる。後戻りをするのだと思ひながら行くと、一つの土居に行きあたつた。其について廻ると、柴折門があつた。人懐しさに、無上に這入りたくなつて中に入り込んだ。庭には白い花が一ぱいに咲いてゐる。小菊とも思はれ、茨なんかの花のやうにも見えた。つひ目の前に見える櫛形の窓の処まで、いくら歩いても歩きつかない。半時もあるいたけれど、窓への距離は、もと通りで、後も前も、白い花で埋れて了うた様に見えた。彼は花の上にくづれ伏して、大きい声をあげて泣いた。すると、け近い物音がしたので、ふつと仰むくと、窓は頭の上にあつた。さうして、其中から、くつきりと一つの顔が浮き出てゐた。
身毒の再寝(マタネ)は、肱枕が崩れたので、ふつゝりと覚めた。
床を出て、縁の柱にもたれて、幾度も其顔を浮べて見た。どうも見覚えのある顔である。唯、何時か逢うたことのある顔である。身毒があれかこれかと考へてゐるうちに、其顔は、段々霞が消えたやうに薄れて行つた。彼の聨想が、ふと一つの考へに行き当つた時に、跳ね起された石の下から、水が涌き出したやうに、懐しいが、しかし、せつない心地が漲つて出た。さうして深く/\その心地の中に沈んで行つた。
山の下からさつさらさらさと簓の音が揃うて響いて来た。鞨鼓の音が続いて聞え出した。身毒は、延び上つて見た。併し其辺は、山陰になつてゐると見えて、其らしい姿は見えない。鞨鼓の音が急になつて来た。
身毒は立ち上つた。かうしてはゐられないといふ気が胸をついて来たのである。 
 

 

(附言)
この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便風な分子をとり去つて、最原始的な物語にかへして書いたものなのです。
世間では、謡曲の弱法師から筋をひいた話が、江戸時代に入つて、説教師の題目に採り入れられた処から、古浄瑠璃にも浄瑠璃にも使はれ、又芝居にもうつされたと考へてゐる様です。尤、今の摂州合邦辻から、ぢり/\と原始的の空象につめ寄らうとすると、説教節迄はわりあひに楽に行くことが出来やすいけれど、弱法師と説教節との間には、ひどい懸隔があるやうに思はれます。或は一つの流れから岐れた二つの枝川かとも考へます。
わたしどもには、歴史と伝説との間に、さう鮮やかなくぎりをつけて考へることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或は更に進んで劇の形を採らねばならぬと考へます。わたしは、其で、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うて見たのです。この話を読んで頂く方に願ひたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語りてといふ立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の径路は、わりあひに、はつきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴はるべきものだけは這入つて来ても、決して生々しい作為を試みる様なことはありません。わたしどもは、伝説をすなほに延して行く話し方を心得てゐます。
俊徳丸といふのは、後の宛て字で、わたしはやつぱりしんとくまるが正しからうと思ひます。身毒丸の、毒の字は濁音でなく、清音に読んで頂きたいと思ひます。
わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐると思うてゐます。但し、謡曲の弱法師といふ表題は、此物語の出自を暗示してゐるもので、同時に日本の歌舞演劇史の上に、高安長者伝説が投げてくれる薄明りの尊さを見せてゐると考へます。  
 
「身毒丸」諸話1

 

■ 『今から二十年も前、特に青年らしい感傷に耽りがちであった当時、私の通っていた学校が靖国神社の近くにあった。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては行き行きしたものだ。今もあるように、その頃から馬場の北側には、猿芝居がかかっていた。ある時這入って見ると「葛の葉子別れ」というのをしている。猿廻しが大した節廻しもなく、そうした場面の抒情的な地の文を謡うに連れて、葛の葉狐に扮した猿が右顧左眄(うこさべん)の身ぶりをする。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」 何でもそういった文句だったと思う。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを未だに覚えている。平野の中に横たわっている丘陵の信太山。それを見馴れている私どもにとっては、山また山の地方に流伝すれば、こうした妥当性も生じるものだという事が初めて悟れた。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年4〜7月)
以下は想像です。芝居でも曲芸・音曲でも良いですが、村から村へと集落を廻って芸をしながら生活をする旅芸人(遊芸人)と呼ばれる人たちを想像したいのです。村の人から見 ると旅芸人は何か新しい風を持たらしてくれる職業に見えたかも知れません。土地に定着し農耕を営む村の人々(農民)は滅多なことがなければ集落を離れて旅をすることもなかったでしょう 。毎年同じ時期に田植えをし、同じ時期に収穫をし、サイクルは毎年同じようにやって来ます。天変地異や気候の変化がサイクルを多少乱すことはあったとしても、今日と同じような明日が来て・明後日もまた今日と同じであるという 習性のなかで農民は暮らすのです。ですから農村の生活は共同体のなかでみんな歩調を合わせ・波風なく過ごすことを旨とするものになります。そのような変化がない単調な共同体の生活のなかにちょっとした刺激を吹き込んでくれる存在が旅芸人であったのです。旅芸人はどこからか遠い他所の土地からやって来て、何か違った新しい 風を運んで来るのです。それは珍しい事物であったり、新奇な知識や考え方・あるいは風俗習慣 だったりします。もちろんそれは決して良いこと・役立つことばかりとは限りません。共同体の風紀をかき乱すような良ろしくないものもあるのですが、とにかくそれは刺激ではあるのです。
それにしても「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という文句にはとても物悲しい響きがあります。ひとつ所にじっとしていることも許されず・ 自分は明日はどこへ流れて行かねばならぬのだろうか・このような旅がいつまで続くのだろうかという旅芸人の嘆きが聴こえる気がします。旅芸人に安住の地はありません。自分が生まれた土地 さえもう忘れてしまったかも知れません。また旅芸人は見物にワクワク感を与えるために常に自分のテンションを高めておかねばなりません。これもなかなか疲れることです。見物に飽きられてしまえば日銭は稼げないからです。そろそろ飽きられてきた かなと思ったら、それが次の場所に移動する潮時です。ですから毎日が厳しい修行練習です。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という文句には定住に対する強い憧れが聞こえます。旅を止めてどこかに定着すればこの苦しい生活を終えることができるという気持ちがどこかにあります。しかし、安住の地を見出すことは自分たちに決して許されないことだということも旅芸人は良く知っているのです。
このような旅芸人がどのように生まれたか・その起源を見定めることは容易ではありません。どんな共同体でもすべてのものが自給自足できるわけではありません。ですから生活に必要な物資を得るために共同体相互に交流が自然と生まれ、そのなかで交易に従事する人々がありました。そ のような必要性から商人が生まれてきます。商人も旅芸人と同じように共同体に新しい香りを運ぶ役割を果たしました。しかし、旅芸人 の役割は商人とはまたちょっと違う要素を持っていました。それはある種の精神的な要素です。原初段階の芸能が神事とまで行かなくても宗教性を帯びたものであったことは明らかです。そのような旅芸人の原初期の形態として折口信夫はホカイビトのことを挙げています。ホカイビトというのは「万葉集」 巻16に出てくるもので、村から村を巡りながら祝福をして歌い物乞いする芸能者のことを言いました。つまり門付け芸人のようなものです。呪術や祝福を行なったり するのですから、彼らはとても原初的な形態であるとしても何かの宗教的役割を持っていたのです。しかし、物を乞い・門付けたりすることからすれば彼らはまるで浮浪者 そのものでした。満足な施しを受けられない時には恫喝をしたかも知れませんし、もっと悪いことをしたかも知れません。だからごろつきのような存在でもあったのです。ホカイビトは村人に有り難がれると同時に煙たがれ・恐れられる存在でもありました。 そうした人々が時折村を訪れて村の雰囲気を掻き乱す・あるいは刺激するのです。
神事としての芸能には為政者と結びついたものと・そうならなかったものが考えられます。とりあえず後者のことを考えますが、そのなかに何かの理由によって共同体から排除された集団があったかも知れません。彼らが共同体から排除された理由は色々あり得ます。要するに共同体に留まっていられない何かの理由があったわけです。仕方がないので、彼らは生きるために共同体を渡り歩きながら神事めいたことを行なったかも知れません。旅芸人の起源はそのような集団であったかも知れません。
■ 『この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、割合に、はっきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴わるべきものだけは這入って来ても、決して生々しい作為を試みることはありません。わたしどもは、伝説を素直に延して行く話し方を心得ています。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)
折口信夫の小説「身毒丸」(しんとくまる)の附言です。ここで折口は「わたしども」という言葉を使っています。「わたしども」というのは誰のことを指しているのでしょうか。民俗研究者ということではどうもなさそうです。折口が「わたしども」と言っているのは、民衆のなかにあって語り伝える者たちということです。折口は自分はそのような語り手のひとりであると語っているのです。ですから折口が小説という形態より語り部あるいは芸人のようなパフォーマーの要素の方を重視したことも当然であったと思います。
折口関連書では小説「身毒丸」(「死者の書」などもそうですが)は折口信夫の民俗学の考え方を小説の形を取って表現したものであるとしているものが多いようです。それはちょっと違うのじゃないかと思いますねえ。折口学の理論道筋を折口の小説の上に読み取ろうとすることは、折口が附言で語っていることと方法論がまったく逆であると思います。小説が投げかけるイメージに思想や倫理などという筋や輪郭を付けていけばその果てに折口の思想が漠然と見えてくるということは確かにあるでしょう。謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」へのはるかな道のりを小説に追うこともそれなりに意味があることには違いありません。しかし、そのような読み方を折口はまったく意図していないと思います。「身毒丸」には高安長者の名は出て来ませんし、天王寺も登場しません。語り手である折口にとって、ある伝説の始原のイメージを読者に与えることが重要なのです。それは漠然としたもので、表面的には現存の形とは似ても似つかないものであったりもするのです。その漠然としたイメージのなかに次第に骨格が現れていくように、やがて筋が整理され・いろんな材料が取り込まれていって、ストーリーが言わば思想化・倫理化していくのです。民俗説話というものは大体そのような道程を辿 っていくものなのです。このような道程を経て謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」のような作品が成立するわけで・現在の我々はそれらをひっくくって高安長者伝説の系譜というものをイメージするのですが、折口がこの「身毒丸」で行なおうとしていることは謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」から系譜を逆に辿っていくことではないのです。
それはとてもピュアな形で、折口の頭のなかにぽっと生じたものなのです。作家は物語というものを頭で創るものではありません。思想・理論は物語の材料にはなっても、それだけで物語が出来るわけではないのです。物語 を紡ぎ出すきっかけとなるとてもピュアなものが必要です。それがぽっと生じれば、それを契機に筋がスルスルとひとりでに伸びていくことがあるものです。折口の小説「身毒丸」(「死者の書」も同様ですが)は、そのような折口のなかにぽっと生じたものをそのまま原型質的な形で提示しようとしたものなのです。それでは折口がイメージした高安長者伝説のなかのとてもピュアなものというのはいったい何でしょうか。それは「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という文句に聞こえる物悲しい響きと同じものであろうと思いますねえ。
■ 神事としての芸能には為政者と結びついたものと・そうならなかったものがあり、そのなかに何かの理由によって共同体から排除されたものがあったかも知れません。彼らが共同体から排除された理由は色々 考えられますが、それが何であるかは今は問題ではありません。それが自らの意志であるのか・あるいは自ら望むところではなかったが共同体から排除されたか・それはどちらで も良いのです 。とにかく彼らは共同体から離脱することになったのです。そして生きるために流浪し、共同体を渡り歩きながら神事めいたことを行なったのでしょう。旅芸人の起源をそのような集団であったと想像したいと思います。
当てもなくさまよう旅芸人の気持ちはどのようなものであったでしょうか。彼らには目的の土地はありません。生まれた土地はもう忘れてしまったけれど、覚えていたとしてもそこは故郷ではありません。旅の途中で行き倒れになる場所が 目的の土地なのでしょうか。もちろんそこも故郷ではありません。彼らの旅は、そこで芸をして・飽きられてきたら次の土地に移動するということの繰り返しです。 彼らの旅に終わりというものはありません。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という浄瑠璃の文句には、行けども行けども目的の土地はまだ見えない・この旅はどこまで果てしなく続くのかという悲嘆があるのです。逆に言えば、もうそろそろこの辛い旅が終わって ゆっくりしたい・いつかその時が来て欲しいという気持ちが彼らの気持ちのどこかにあるのです。その気持ちがあるからこそ彼らは次の土地までの歩みを進めることができるのです。
ですから旅芸人の気持ちのなかには、共同体の柵(しがらみ)に縛られない自由さがあると同時に、いつもどこかに定着・定住への願望が付きまとっているのです。もちろん彼らはそれが許されない願望であることを知っています。しかし、 何故許されないのでしょうか。それは彼らが共同体から離脱してきた人間の集まりであるからです。どうして彼らは共同体から離脱したのでしょうか。その理由は彼らにも分かりません。旅の一座のなかには新たに入って来た仲間もあって、彼らには共同体から飛び出した・あるいは放り出されたそれなりの理由がある場合があ ったかも知れません。しかし、旅芸人の起源となると、それははるか昔の彼らの先祖の時のことで、そこにどういう理由があったかということは誰も知らないのです。もしかしたら彼らの先祖は何か悪いことをしでかした為に共同体から排除されたのかも知れません。あるいはまったく謂れのない罪を着せられて共同体から排除されたのかも知れません。その理由は分からないが、少なくとも今の彼にその理由 がないことは確かです。それは今の彼には関係のないことなのです。しかし、彼は旅芸人として生まれ、旅芸人として生き、多分自分は旅芸人として死んで行くしかないのだろうということ も明らかです。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という浄瑠璃の文句には、そのような宿命を受け入れざるを得ない旅芸人の悲嘆があるのです。ある集落を訪れて芸を見せる時に集まった観客たち・それは当然定住民であるわけですが、彼らを見ながら旅芸人の気持ちのなかに定着・定住への願望がチラリとよぎることがあったかも知れません。
折口信夫の小説「身毒丸」(大正6年)をこのようなことを考えながら読みたいと思うわけです。 田楽の旅芸人である身毒丸は、ふつうは11歳くらいになれば頭の毛を剃るところを、17歳になっても剃らずにいました。彼の細面には女のような柔らかな眉が引かれて・それが美しく、師匠である源内法師は今年は身毒丸の髪を剃ろう、今年はと思いながらつい一年延ばしにしてしまって、ついに17歳になっていたのです。一行が伊勢の宿で田楽踊りがあり、そこで身毒丸は傘踊りという芸を披露します。高下駄を履いて足を上げ、長柄の傘をくぐらせます。身毒丸が足をあげるたびに、彼の白い太ももが光の反射で浮き上がります。その姿に魅せられた関の長者の娘が、婢女を供に一行を追ってきました。師匠は声を上げてふたりを追い返します。その夜、師匠は身毒丸を厳しく折檻して、ついに髪を剃ってしまいます。
身毒丸の美しさは観客の若い娘たちだけでなく、師匠である源内法師さえ身震いさせるほどの妖艶な美しさであると描写されています。応安7年(1374)または8年とも言われますが、今熊野で催されたた猿楽(申楽)能に世阿弥が出演した時・彼は12歳でありましたが、将軍足利義満の目にとまった若き世阿弥の美しさもそのような美しさであったかも知れません。しかし、 そのこともとりあえず身毒丸とは関係がありません。身毒丸は将軍に見初められるわけでもなく、ただ地方の集落を巡り歩いて芸を見せる寂しい田楽踊りの一座のスターであるに過ぎないのです。
■ 身毒丸の父・住吉法師は田楽を行なう旅芸人の長でしたが、身毒丸が9歳の時に突然行方不明になってしまいます。身毒丸の記憶ではこの時の父は50歳を越えていましたが、身体に気味の悪いむくみが出ていました。それを見た身毒丸に父は「お前にはまだ分かるまいがね・・」と言って次のような話をしました。父とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。そのため自分は得度して浄い生活をしようと思ったのだが、ある女のために墜ちて田楽法師の仲間に投じてしまった、と言うのです。身毒丸は、だから父はお前も法師になって浄い生活を送れというのか、身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせというのか、その時の父の言葉を思い出しては考えます。
父・住吉法師の病気がどんなものであったかは分かりません。いろんなことが考えられますが、それは別にどうでも良いことです。大事なことはそれが何か忌避されるべきものだったらしいということ、ただそれだけです。身毒丸の父は自らの意志で共同体から逃れたのか・それとも否応なしに放逐されたのかは分かりませんが、とにかく何かの理由で父は共同体に留まることができなかったのです。そして父は再び田楽の仲間からも離れてどこかに消えてしまいますが、これも恐らく同じ理由に拠るのでしょう。そして同じ理由が子である身毒丸にも伝わっていると父は言うのです。「お前にはまだ分かるまいがね・・」
小説には身毒丸に血縁を通じて引き継がれたものが何であったかという具体的なことは最後まで出てきません。身毒丸はその理由が何も分からないのですが、しかし、確かなことはその理由が父から子である身毒丸に伝わっているということです。ということは身毒丸も共同体に入ることが許されないということです。身毒丸が放浪の旅に終止符を打って・どこかに落ち着くことはできないのです。このことは最初から決まっているのです。なぜならばその理由が父から子に伝わっているからです。
これはとても理不尽なことです。「これこれの理由で父は共同体から離れた」という納得できる理由があったとしても・それを子供が引き継ぐ言われはないはずですが、その理由さえ明確ではないのです。しかし、それは何となく忌避されるべきものとして周囲にも本人にも感知されるものであって、それは父から子へ確実に伝わるものとされるのです。「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」ということです。逆に言うならば、それが父が父であり・子が子であることの証だということでもあります。その事実がないのならば、父は父でなくなり・子は子ではなくなるということです。良かれ悪しかれ父から子へ何かが引き継がれる・それは拒否することはできないのです。「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」ということを身毒丸のアイデンティティーに係わる問題として捉えたいと思 います。
■ 『旧日本の国々では、行人の行き仆れを伝える話や、またその跡がたくさんあります。到るところの山村を歩くと、峠ごとにこんな旅死にの死骸を埋めた跡があります。そして、そこを通る村人のせめてはの心尽くしから、道端の花や柴を折かけて通ります。こんなところを通ると、我々でも自然に柴を折ってやらねば済まない気がするのです。この夏は土佐と伊予の国境を歩きました。そして、たくさんの顔を崩れかかった・あるいはまだ血色のいい若者が、ほんとうにほっつりほっつりと一人ずつ来るのに行き会いました。こんなのは死ぬまで家に帰らないので、行き倒れるまでの旅行を続けているのです。私はこの旅行中に気持ちが恥ずかしいほど感傷的になっておりましたのです。芥川(龍之介)さんが、あんなに死にたいならば、あんなに死に栄えのする道を選ばなかったらよかったと思います。世の中には死にたくっても、それをもって死んだ、と思われることの耐え難さに生きているものがたくさんあるのです。私らも死にたさが切に起こったら、こうした行人巡礼のような病気持ちではありませんけれども、死に栄えのない・そしていつまでも敬虔な心の村人が、ただそれだけによって好意を見せてくれる、柴折塚の主になりそうに思います。これは芥川さんほど血気が盛んでないせいでしょうか。』(折口信夫:北原白秋との対談「古代の旅びと」・昭和2年12月、*芥川龍之介の自殺は昭和2年7月24日のこと。)
旅というものには共同体の窮屈な柵(しがらみ)から解き放たれて自由な気分を味わうような旅ももちろんありますが、折口がここで言うのは当てもなく死に場所を求めて彷徨うような旅のことです。そんな辛い旅ならばいっそ死んじゃった方がどんなに楽 なことか・・と傍からは思えますが、しかし、彼は自ら死を選んだりしません。彼は行き倒れるまで旅を続けるのです。折口が言う通り、世の中には死にたくても「あいつはそれだから死んだ」と思われることの耐え難さに生きている人たちがたくさんいると言うことです。 彼らをそのように生に繋ぎ留めるものは何でしょうか。まず意地のようなものが考えられます。意地というのはもう少し後の時代の観念かも知れませんが、適当なものがないので一応意地ということにします。要するに「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります。世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。
ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。つまり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます。「みさを(操)」という語は古くは神様に「見てくれ」と言うという意味に使われました。昔の貞操観念は神様に対するもので・人間に対するものではありませんでした。神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります。だから理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。それは神に対して意地を張るということでもあ ります。これは私的理解でして、折口がそのように明確に述べているわけではありませんけれど、折口が間違いなくそう考えていたことは次の文章でも分かります。
『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行、宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和二十九年)
このように当てもなく死に場所を求めて彷徨う旅は常に神との対話でありました。話を旅芸人の起源のことに戻しますが、彼らが共同体からどういう理由で離脱したか・その真相ははるか昔の彼らの先祖の時のことで、もう誰にも分からないのです。それは父から子との血のつながりのなかで、「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」という形で受け継がれてきたものでした。しかし、それは厳然として彼の前に立ちふさがる 原罪でありました。共同体から拒否された彼が取れる行為はふたつあります。ひとつは「グレる」ことで・これは不信心に走ることです。もうひとつはあくまで神に対する信心を貫く態度であり、これが「神よ、この清い私を見てくれ、 正しい私を見てくれ」ということなのです。旅芸人たちは自分に課せられた理不尽な状況に対して「あいつらはそれだから死んだ」と思われることの耐え難さだけで果てしない放浪の旅を続けるのです。折口の小説「身毒丸」 が描く旅芸人をそのような認識に於いて考えてみたいと思うわけです。 
 

 

■ 七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠は身毒丸 を自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます。しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます。「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います。 身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸の脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。 一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。例えば最も古い感情を残している文楽座の人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。あれなども受ける者たちにとっては、苦しい試練なわけです。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)
ここで折口が言うことは人類学者のアーノルド・ファン・ゲネップが提唱した「通過儀礼」の概念においても理解できると思います。ゲネップは、人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式があり、これを無事に通過すれば、その人物にふさわしい新しい身分や社会的役割が与えられると考えました。ゲネップは通過儀礼を、分離・移行・合体という3つの段階に分けて考えます。まず、これまで所属していた身分や社会から離れて・そのしがらみを断ち切る儀礼(分離)、次に来るべき社会に帰属するための準備をしての試練・あるいは自分にふさわしい場所を探し出すための儀礼(移行)、そして、新しい身分や社会に入るための儀礼(合体)という段階を経ます。通過儀礼においては特にその「移行・試練」の意味が大きいのです。
この通過儀礼を芸道の師弟関係において考えれば、試練を与える者(師匠)と・その厳しい試練に耐えようとする者(弟子)との関係があり、試練を通じて両者は合体するということです。ここには絶対的な立場にある師匠がおり、弟子は師匠に対し て「この私を見てくれ」という態度で無条件に控え入ります。その関係において芸は研ぎ澄まされて倫理化するのです。つまりそれは芸道となるわけです。
前項において父から子との血のつながりのなかで、「お前にはまだ分かるまいが、それは事実なのだ」という形で受け継がれた身毒丸の原罪ということを考えました。それは厳然として 身毒丸の前に立ちふさがる試練でした。つまり共同体を放逐されて流浪することは、父・住吉法師から身毒丸に受け継がれた試練であったのです。そのような試練を通じて、つまり「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり」というような哀しい思いをすること によって「それは事実なのだ」という父の言葉は身毒丸のなかになおさら強く意識されます。それによって父と子の繫がりはさらに強化されることにな るのです。源内法師と身毒丸の師弟関係にも同じことが言えます。芸の師弟関係は血の繫がりはなくとも・擬似的な父子の関係なのであり、「それに耐えられなければ死んでしまえ」というほどの源内法師の厳しい折檻は芸脈を 父と子の関係に擬そうとする通過儀礼の試練なのです。
■ 通過儀礼と言えば貴種流離譚のことを思い浮かべます。貴種流離譚というのは高貴な生まれの人物が何かの事情で本来在るべき土地を離れ、各地を流れさまよい・散々の苦労をした果てについに元の土地に戻って昔のあるべき姿に戻ってめでたしめでたし・・というような物語のことを言います。高貴な人物が各地を流浪するのは通過儀礼の物語と見ることができます。言うまでもなく貴種流離譚は折口学の重要な概念 のひとつです。しかし、感じるには、折口が付けた「貴種」の二文字に惑わされて・その概念の正しい理解がされていないように思います。大正7年発表の「愛護若」のなかで折口は「貴人流離譚」という言葉を始めて使い・後にこれを「貴種流離譚」としました 。折口自身は昭和23年頃の談話(「初期民俗学研究の回顧」)のなかで、大正半ばのほぼ同じ時期に柳田(国男)先生が「流され王」という呼び名を先につけてしまわれたので、自分の方はあんな四角ばった名になってしまったというようなことを語っています。
一般的には貴種流離譚は「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というところに重きを置いて理解されています。しかし、折口の概念の本質的なところに「貴種=身分の高い・高貴な人物」という要素はないと考えているのです。小説「身毒丸」では主人公・身毒丸が貴人の末裔であるとは書いてありません。身毒丸は身分が低い・名もない遊芸人の息子に過ぎないのです。小説「身毒丸」から高安長者伝説(謡曲「弱法師」など)へ結ぶ線を思い浮かべた時に、折口はそこに貴種(=高貴な人物)という要素を見たのでしょうか。貴種ということをそれほど重視するならば、折口は身毒丸をどこかの貴人の末裔に設定したに違いありません。折口がそうしていないということは、折口の貴種流離譚の概念の本質的なところに「身分の高い・高貴な人物」という要素はないということだと思います。「貴種」という二字で折口は別のことを暗示しようとしていると考えています。しかし、そのことを述べるにはちょっと長い説明が必要になるので・後のことにします。
別稿「和事芸の起源」のなかで、折口の「誣(し)い物語」と「廓文章」に関する談話を材料にして、和事の「やつし」芸ということを考えました。やつし芸は貴種流離譚の「移行・試練」の段階において艱難辛苦する主人公の姿を重ねるものだと言われますが、実は「やつし」芸が見せる哀れさというのは表面に見えるものに過ぎないのです。落ちぶれた身分の落差・哀れさが「やつし」の本質なのではありません。やつしの本質とは「現在の自分は本来自分があるべき状況を正しく生きていない・自分は仮の人生をやむなく生きており・本当の自分は違うところにある」ということにあります。その後、やつしの趣向は色々なバリエーションを以って歌舞伎のなかで展開して行きますが、それはやつしの本質が「かぶき的心情」ととても密接に繫がっているから なのです。つまりやつしとは歌舞伎の本質であるとも言えます。折口の発想というものは思考がいろいろな材料を巡って・時系列を飛んで縦横無尽に回路するものです。貴種流離譚の筋だけを捉えて・その線を単純に伸ばしていくだけでは折口の思想の全貌 を十分に捉えられ ません。高貴な人物が落ちぶれて苦労するというイメージは例えば「廓文章」ならば確かに当てはまります。しかし、その後のやつしのキャラクターでは「高貴な人物が落ちぶれて苦労する」というシチュエーションがピッタリはまらないものが多く出てきます。「貴種」のイメージに捉われていると、歌舞伎の「やつし」芸が和事さらには仇討物などへ展開していくことの説明が十分にできません。ということは「高貴な人物が落ちぶれて苦労する」ということでは、やつしの概念は十分ではないということです。 そのような時に隘路をどうやって切り開くかなのです。
「やつし」の本質が「現在の自分は本来自分があるべき状況を正しく生きていない・自分は仮の人生をやむなく生きており・本当の自分は違うところにある」ということに思い至れば、思考は一気に回転し始めます。「忠臣蔵・七段目」の由良助の茶屋遊びもやつしですが、仇討ちする気があるのか・本気の遊興三昧なのか 全然分からぬ由良助の行動が、実は「自分が取るべき道はこれで良いのか」ということに悩み・迷い・揺れ続けることにその本質があると考えれば、やつしとの関連はスンナリと理解ができるのです。さらにこれは真山青果の「元禄忠臣蔵」の考察にまで適用できるものです。そこまで考えれば貴種流離譚という概念の意味が一段とはっきりするのです。同時になぜ忠臣蔵があれほど日本人の心を捉えたのかも理解できるのです。なぜならば真山青果も折口信夫も同じ時代を生きた人であり、どちらの思想にも大正・昭和の空気がはっきり流れているからです。しかも振り返ってみれば、それは神代の昔から 現代に至るまで日本人のなかに流れる心情の何ものかをしっかりと踏まえているのです。折口学というものはそういうものだと思うのですねえ。(これについては別稿「誠から出た・みんな嘘」、「七段目の虚と実」あるいは「内蔵助の初一念とは何か」などをご参考にしてください。)イメージを自由に持たせて、いろんな材料から逆に検証して行くことで、貴種流離譚の本質というものが次第に浮き彫りにされて見えてきます。これが折口の発想回路であることは小説「身毒丸」での折口の附言を読めば分かると思います。
『この話(小説「身毒丸」)は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)
ご承知の通り、折口のなかで芸能研究は大きな位置を占めているのですが、芸能研究から発想されて折口学の思想形成につながったものが案外あるかも知れません。また芸能分野 の立場から検証されねばならぬものが少なからずありそうに思います。
■ 折口信夫の生まれたのは大阪の木津で、折口少年は近くの天王寺中学に通いました。四天王寺は古くから芸能を行なう遊芸民たちが集まるところでしたから、折口少年も歌舞伎 ・文楽などの芸能だけでなく、大道芸や万歳・獅子舞などの門付け芸にも自然と接することが多かったようです。折口は少年のことから「貴種流離」の感覚が強かったということが言われています。それは確かに そうだったろうと思いますが、折口が「貴種」というものにどのようなイメージを抱いていたかという・そこが問題だと思うのですねえ。「今は零落してはいるけれど、その昔先祖は 王族だったり・貴族だったりして、それが政争に敗れたり・病に冒されたりして、今はこのような門付け芸人に落ちぶれているけれど、実は自分たちこそ神に近い・最も高貴な者たちなのだ」というようなイメージに折口が憧れたということなのでしょうか。それは若干ニュアンスが違うと思うのですねえ。
もう少し別のことを考えたいのです。寺山修司がアンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」についてこんなことを書いていたのを思い出します。「みにくいアヒルの子は最後に自分が白鳥であることが分かってメデタシメデタシ。それはそれで良いです。しかし、白鳥になりたいと思っても白鳥には絶対なれないアヒルの子たちはどうなるんですか?アヒルの子たちのことはどうでも良いんですか?」(「さかさま世界史・怪物伝」)ということです。貴種流離譚をお読みになる方は、寺山修司のように、白鳥になりたいと思っても白鳥には絶対なれないアヒルの子のことにも思いを馳せて欲しいと思うのですねえ。貴種流離譚は古今東西いろいろありますが、「俺たち(遊芸人)はホントは白鳥なんだ、お前たち(定着民)はアヒルなんだ」というような遊芸民の物語では決してなかったのです。(アンデルセンの童話ももちろんそうです。)定着民も貴種流離譚を愛しました。それはどうしてなのでしょうか。そう考えるならば遊芸民も定着民も等しく受け入れられる貴種のイメージが必要であると思うのです。折口がそういうことを考えなかったはずはないのです。なぜならば日本人の大部分は定着民・つまり農民だったのであり、彼らもまた貴種流離譚を愛したのですから。だとすれば折口の抱いていた貴種のイメージは、巷間理解されているものとはちょっと違うのではないでしょうかね。「高貴な者が落ちぶれて・・・」というところに貴種の本質はないと思うのです。そこでしばらくこのことを考えてみたいと思います。
ところで折口信夫は座談会「神道とキリスト教」において次のようなことを語っています。折口は憤りを発することが日本の神の本質であるとします。神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。神がなぜ祟るのかその理由が分からない。このことが重要であると折口は言うのです。
『今日になりますと、我々の考えておった神が、日本人の持っている神の本質ではなしに、怒(いか)らない・憤(おこ)らない神という風に考え過ぎている。ちっとも憤りを発しない。だから何時も我々どんなことでもしている。天照大神はたびたび祟りをして居られる。天照大神は何のために祟られるか。それは人間がいけないからと我々は説明するでしょうけれども、上代の考えではあれだけの神様が祟られる理由が判らないという風に落ち着いていたと思います。神を人間界から移して考えた時に天子様の性格が出て来るのですが、非常に怒りの強い天子様が昔は時々ありました。時には非常に暴虐だと思われるほどの、昔の方は節度がありませんから、武列天皇というような、或いはもう少し人情のある雄略天皇というような御性格の天子様が考えられる。(中略)怒りの激しい天子様を考えているように神にも怒りのひどいスサノオというような神があります。』(折口信夫・座談会「神道とキリスト教」・昭和23年6月)
神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。古代人にとって神の怒りは唐突で・理不尽で、ただただ無慈悲なものに思えたのです。
■ 折口信夫は理不尽に怒る神についてたびたび言及しています。例えば「道徳の研究」(昭和29年)に次のような著述が見えます。
『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行―宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
「神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした」という記述は、折口独特の言い回しのせいで言わんとするところがちょっと理解し難いかも知れません。ここは誤解されやすいところですが、これは神の理由のない怒りに古代人が恐れ慄いて・有無を言わさず神の足元に無理やりねじ伏せられたということではないのです。自分に罪があるならば神に罰せられるのは当然の報いです。神が与える罰は甘んじて受けねばなりません。しかし、そのような罪の判断基準自体が古代人にはありませんでした。ですから自分に罪があるかなど考えるはずがありません。古代人にとって神の怒りはただただ理不尽な ものでした。そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。
それは神に対する無言の抗議ではないのかと言う方がいるかも知れませんが、そうではありません。超越者である神と古代人との関係を対立的に見てはなりません。神に対して抗議するなどというのは古代人に思いもよらぬことでした。「神よ、この清い私を見てくれ」ということは、神の憤りにみずからを共振させ、神の憤りを自分の憤りにして奮い立つということです。みずからを奮い立たせることで古代人の気持ちは強い核を持ったものに結晶化していきました。このような過程を経て絶対的な良き事という倫理的・道徳的な概念が古代人のなかに次第に生まれていったのです。折口が「神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした」というのはそういう意味です。
このような考えから折口は神スサノオに注目します。ご存知の通りスサノオといえば古事記に登場する代表的な荒ぶる神・残虐な神です。スサノオは田を荒らす粗暴な行為をして高天原に大騒ぎを引き起こしました。折口によればそれは田の神であるスサノオが取る自然な行動(田遊び)であったのです。田遊びとは田の神と精霊との「そしり」と「もどき」の応酬(掛け合い)であり、その自体はまったく悪意がないものでした。このような掛け合いのなかからその後の田楽など芸能神事が生まれたことはご存知の通りです。(別稿「悪態の演劇性」をご参照ください。)ところがスサノオの行動が高天原で問題となってしまった為に、「天つ罪」が不本意な形でスサノオに与えられ、スサノオは高天原から追放されてしまいま した。「天つ罪」は「雨つつみ」を語源とするもので、古代の農民が田植えに際し禁欲生活を強いられたことから発したものと言われています。田植えの時期の謹慎生活は田の神スサノオの罪を購(あがな)うための行為であった、そのように古代の農民は先祖の時代から代々務めてきたのであると折口は言います。折口は高天原を追放されたスサノオのなかに無辜の贖罪者の姿を見たのです。古代の農民は田を作らせるために神が自分たちの祖先 をこの地へよこしたのだと考えました。日本人は何事でもまず田に寄せてものを考えたのです。「天つ罪」という理不尽な罰を受けなければならなかったスサノオの苦しみを、古代の農民はみずからの苦しみと重ね合わせて倫理化したわけです。
『もし逆に何の犯しもない者が誤った判断のために刑罰を受けたとすればーそれの多かったのも事実だろうーその人々の深い内省と、自我滅却の心構えとは、実際殉教者以上の経験をしたことになる。(中略)天つ罪の起源を説くと共に、天つ罪に対する贖罪が、時としては無辜の贖罪者を出し、その告ぐることなき苦しみが、宗教の土台としての道徳を、古代の偉人に持たせたことのあったことは察せられる。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
■ 折口信夫が貴種流離譚というものを語る時・「貴種」という二字にどういう思いを込めたのかという問いの答えは明らかです。それは「無辜(むこ)である」ということです。その人に罪はなく・穢れはないということです。 つまり「身なりはボロでも俺の心は錦だ」というのが貴種ということの真の意味なのです。物語や芝居ではそのことを形象化して・筋として分かりやすくするために主人公を貴人に設定しているのです。そのため貴種流離譚は「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というところに重きを置かれて一般に理解されていますが、それは貴種流離譚の表層的な理解に過ぎないのです。
折口は高天原を追放されたスサノオのなかに無辜の贖罪者の姿を見ました。そして古代の農民たちは「天つ罪」という理不尽な罰を受けなければならなかったスサノオの苦しみを贖(あがな)うための行為をずっと続けてきたのだと考えました。農民たちが自分たちがはるか昔の先祖の時代からスサノオが理由なく背負わされた罪(天つ罪)を代わりに 贖っているのである・それが自分たちが田を作ることの意味なのであると考えたということは大事なことです。それは定住者である農民も自らを無辜の贖罪者であると見なしたということを意味します。スサノオの罪を農民たちが背負わねばならぬのは何故と思う方が尚居れらるでしょうが、それはすなわち古代人の 生活というものは、風雪災害や飢饉・病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまことに殉教者以上の経験をしたことになるのです。折口はそのような過程から道徳のようなものが生まれて来ると考えました。
遊芸民というのは定着民と全然様相が異なるように見えますが、遊芸民も定着民も無辜の贖罪者として過酷な 生の現状を生きているという点ではまったく同じなのです。もちろん遊芸民の置かれた状況の方が別の意味でより過酷であったかも知れませんが、神の立場から見れば遊芸民と定着民は与えられた役割が違うというだけで本質的には同じであるということになります。 だとすれば貴種流離譚というものが民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。民衆が貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。民衆が貴種流離譚を愛したのはそれゆえなのです。遊芸民は地方の集落を訪れて門付け芸などをして定着民から喜捨を受けました。それはもちろん定着民が遊芸民の芸 にある宗教的な意味を認めていたことに他なりませんが、喜捨という行為は単なる施しということではなく、自らに対する贖いの行為であるのです。 すなわち喜捨することによりその者が背負う天つ罪(それは原罪と呼んでも良ろしいものです)もまた贖われるということです。 喜捨そのものが宗教的な行為なのです。遊芸民も定着民も等しく受け入れられる貴種のイメージがこれでお分かりになるだろうと思います。貴種流離譚の本質が主人公が無辜であることにあると言うことが分かれば、折口学と呼ばれる折口信夫の思想体系がおぼろげに見えて来ます。 
 

 

■ 貴種流離譚で折口信夫が考えただろうことを、さらに想像します。それは理不尽な怒りを発したことで無辜な人々に過酷な運命を背負わせてしまった神が、それでも人々がなお神に背こうとせず神の課した運命に黙々と従う姿を見た時に何を感じたであろうかということです。その怒りを神は思わず発してしまったのであって、その怒りには何も正当な理由がありません。だから理不尽なのです。そのような神の理不尽な怒りによって、無辜の人々が過酷な仕打ちを受けることになります。その時に人々が取る態度はふた通りあると思います。ひとつはそうされて仕方ないことを神がしたとも言えますが、自分をそのような目に合わせた神を裏切ることです。グレて堕落するということです。(これはまあ多分に近代人的な態度であると思いますが、このことは本稿では置きます。)もうひとつは、なおも神が正しいことを信じて・神の指し示す道を黙々と歩むことです。そのようになお神を信じて神に従う人を見た時、神はそのような人々に対してその愛おしさと・そのような人々に過酷な運命を背負わせたことの苦しさが交錯してたまらなさを感じたと折口は考えたと思います。付け加えると、愛おしさと苦しさでたまらなさを感じて神はどうするのかということですが、神は別に何もするわけではないのです。しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜の贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。これが古代人が神に対する時の態度です。
以上は私の思考展開ですが、このようなことを折口が直接的に書いた文章を寡聞にして読んだことはありません。そのような文章は多分ないかも知れません。しかし、文献的に根拠がなくても折口はそういうことを考えたに違いないのです。それは折口の思想を素直に追っていけば自然に浮かんでくることだからです。「身毒丸」では芸に迷いを見せた身毒丸に源内法師は怒り狂ったかのように血で写経を命じました。師の言いつけ通りに血を流し意識朦朧となりながらなおも懸命に写経を続ける身毒丸の姿を見て、源内法師は涙を流します。この描写がまさにそのような場面です。まあ強いて言えばこれが文献的根拠ですかね。
『源内法師は、この時、まだ写経を見つめていた。さうしてうるうちに、涙が頬を伝うて流れた。(中略)身毒は板敷きに薄縁一枚敷いて、経机に凭りかかって、一心不乱に筆を操つている。捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れていた。源内法師は居間に戻った。その美しい二の腕が胸に烙印した様に残った。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。そのどろどろと蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。彼は持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまえと祈った。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)
源内法師は身毒丸に無慈悲な折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに、無辜の殉教者の姿を見たのです。その悔恨は胸にズキズキとするけれども・もうどうにもならぬ。哀れな弟子の姿に源内法師はたまらないほどの愛おしさを覚えるということです。
ご存知の通り、折口は同性愛者でした。折口の弟子であった加藤守雄が・師と一緒に柳田国男宅を訪問した時のことですが、辞去しようとした加藤を柳田が呼び止めて、「加藤君、牝鶏になっちゃいけませんよ」と言 ったのです。柳田の言葉に折口の表情がみるみる蒼白になりました。折口は「柳田先生の言うことが分からない」と泣きべそをかき、「師弟というものは、そこまで行かないと完全ではないのだ。単に師匠の学説を受け継ぐというのでは、功利的なことになってしまう」ということをしきりに言ったそうです。(加藤守雄:「わが師 折口信夫」・中公文庫 より)
このような挿話を同性愛者・折口の哀しくもおぞましい・理屈ではどうにもならぬドロドロの情欲の・しかし人間的なエピソードであるとしか読めないならば、それはとても不幸なことだと思います。折口の思想を素直に追ってこの挿話を読めば、理不尽な怒りを発する神が無辜な人々の姿に何を見るか、折口がその思いを自らに重ねていることがはっきりと分かります。このような挿話を読む時には、 思想を研ぎ澄ますことのないそれ以外の要素を意識的に排除すべきなのです。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)
折口がこのように語る時、折口は日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのです。
■ 『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
このことはしばしば誤解されていますが、折口の言いたいことは、神の力の前に人々がねじ伏せられて「私たちが間違っていました・悔い改めます」と力づくで言わさせら れるというのではないのです。このような見方はそれ以前に倫理基準(道徳)があって・これに照らし合わせて自分の行動を判断しているのです。折口はそのような道徳が生まれるよりももっと以前の、原初的な倫理基準が生まれるそのもっと以前のことを考えています。神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちをします。我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽なものに思えます。しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。
そこには正しいとか・間違っているという倫理基準など存在しません。善とか悪というのは道徳が成立した以後にある基準なのです。あるとするならばそれは「清い」とか・「清くない」という感覚的(あるいは生理的な)基準です。そう考えれば神と民衆の原初的な関係がピュアな形ですっと立ち上がって来るような気がします。そして、それはどこか父と子の関係にも似ています。ただし、実の父ではなく「象徴的な父」です。
小説「身毒丸」にはふたつの父と子の関係が出てきます。ひとつは実の父である住吉法師と身毒丸との関係であり、もうひとつは育ての父であり・芸の師匠でもある源内法師と身毒丸との関係です。前節で触れた通り、折口は理不尽に怒る神と無辜の民衆との関係を・源内法師と身毒丸との関係に重ねているのです。さらに自らと弟子との関係に もこれを重ねていることも明らかです。
実の父である住吉法師は「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある」ということを身毒丸に言い残して去っていきました。ここで「先祖から持ち伝えた病気」とは何かということが再び問題になります 。それは以前触れた通り・それは父を共同体に留まれなくしたものであり・今また父が息子の前から去らねばならなくするものです。この 父の言葉は、父が去った後も禁忌のように身毒丸の身に圧し掛かって消えることなくずっと残っています。住吉法師は死んだか・どこかで生きているのか定かでは ありませんが、身毒丸の意識のなかでの父は死んでいます。そして象徴的な父が残っています。住吉法師に替わって芸で結ばれた源内法師と身毒丸との父子関係が生まれます。源内法師が住吉法師から受け継いだ父の役割は明らかです。それは父の言い残した通り「浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせ」ということです。源内法師はこのことを芸という繫がりのなかで身毒丸に実践させようとし ます。
源内法師は芸を迷わせる雑念の一切を厳しく禁じました。例えば身毒丸の芸に熱狂して囃し立てる若い娘たちの姿や声に対する誘惑です。実はそのような雑念は放浪の旅から離脱して・どこかに定着していまいたい身毒丸の願望と強く結びついてい ました。恐らくはそこに住吉法師が言うところの「先祖から持ち伝えた病気」ということが関係するのでしょう。身毒丸の迷いを見抜いた源内法師は弟子を容赦なく折檻します。しかし、身毒丸は意識を失いそうになりながら も師匠の言いつけを 必死に行なおうとします。なぜならば師匠の言いつけに背くことは、実の父である住吉法師の言い残したことを裏切ること、それは父を失うということを意味するからです。ここでフロイトを引き合いに出すとびっくりするかも知れませんが、ジャック・ラカンはフロイトの最も重要な著作は「トーテムとタブー」(1913年)であるとして、次のように言っています。
『フロイトにとって最も重要な著作、自身の成功作と思っていた著作は「トーテムとタブー」です。これは現代の神話に他なりません。彼の教義のなかでぱっくりと開いたままになっていること、つまり「父はどこにいるのか」ということを証明するために構築された神話です。(中略)「トーテムとタブー」が述べていることは、父たちが存続していくためには、真の父、唯一の父が歴史以前に存在しなくてはならず、しかもそれは死んだ父でなくてはならない、ということです。(中略)なぜ、息子たちは父の死を早めなくてはならなかったのでしょう。そして、それらすべてはどういう結果を目的にしていたのでしょう。結局それは、父から奪わねばならなかったものを自分たち自身に禁じるためです。父を殺すことはできないことを示すためにこそ父を殺したのです。 (中略)つまり原初の父の永遠化です。父を保存するためでなかったとしたら、いったいなぜ殺したというのでしょう。』(ジャック・ラカン:「対象関係」下巻〜エディプス・コンプレックスについて)
源内法師と身毒丸は理不尽に怒る神と無辜の民衆との関係を無意識のうちになぞっていることになります。「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせよ。」という父が言い残した言葉が身毒丸のなかでリフレインされます。それが身毒丸の気持ちを清いものにするのです。同時に源内法師の気持ちも純化されていきます。そこには功利的なものを越えた師弟関係があるのです。
■ 理不尽に怒る神と無辜の民衆との関係。実はこれは折口信夫のなかにある重要なテーマです。折口晩年に至ってこのテーマはますます重要なものになっていくものと考えます。(このことは別の機会に改めて触れます。)本稿で何度も引用している折口の論考「道徳の研究」は昭和29年のものですが、小説「身毒丸」(大正6年)ではその思想が原型質的な形で出ているのです。理不尽に怒る神と無辜の民衆との問題が、ここでは父と子という関係において描かれています。
折口は少年のことから貴種流離の感覚が強かったということが言われますが、「今は零落してはいるけれど、その昔先祖は王族だったり・貴族だったりして、実は自分たちこそ神に近い・最も高貴な者たちなのだ」というようなイメージに折口が憧れたと考えるならば誤解を生じます。折口は無慈悲にも理不尽な状況に突き落とされた人々の心を考えています。過酷な運命によって共同体から放逐され、流浪せねばならなかった人々の心を考えています。
『猿廻しが大した節廻しもなく、そうした場面の抒情的な地の文を謡うに連れて、葛の葉狐に扮した猿が右顧左眄(うこさべん)の身ぶりをする。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」 何でもそういった文句だったと思う。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを未だに覚えている。平野の中に横たわっている丘陵の信太山。それを見馴れている私どもにとっては、山また山の地方に流伝すれば、こうした妥当性も生じるものだという事が初めて悟れた。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年4〜7月)
小説「身毒丸」においてはこのことが育ての父であり・芸の師匠でもある源内法師と身毒丸との関係において描かれます。芸を見せながら諸国を旅して生活をして・決して定着することを許されない人々、つまり遊芸民のことです。芸能というのは折口学の最重要のジャンルであることは言うまでもないですが、遊芸民が芸能を司るということの原初的な意味(宗教的な意味というのではなく、それよりもっと以前の宗教以前の意味ということです) をそこに見ているのです。
「お前はいつも遠路を歩くと、不機嫌な顔をする」と仲間に言われた身毒丸は「わしは、今度こそ帰つたら、お師匠さんに願うて、神宮寺か、家原寺へ入れて貰おうと思うてる 。こういふ風に、長道を来て、落ちついて、心がゆったりすると一処に、何やらこうたまらんような、もつと幾日もぢっとしていたいという気がする」と言ってしまいます。それを聞いた制吒迦が怒り出します。
『何だ。利いた風はよせ。田楽法師は、高足や刀玉見事に出来さいすりゃ、仏さまへの御奉公は十分に出来てるんぢゃ、と師匠が言はしったぞ。田楽が嫌ひになって、主、猿楽の座方んでも逃げ込むつもりぢ ゃろ。(中略)……けんど、けんど、仏神に誓言立てて授った拍子を、ぬけぬけと繁昌の猿楽の方へ伝へて、寝返りうって見ろ。冥罰で、血い吐くだ。……二十年鞨鼓や簓ばかりう ってるこちとらとって、う っちゃっては置かんぞよ。』
身毒丸に激しい言葉を投げつけながら制吒迦は泣き出します。どうして制吒迦は泣き出すのでしょうか。それは制吒迦には身毒丸の気持ちが分かる過ぎるくらい良く分かるからです。 実は制吒迦も同じ気持ちなのです。しかし、それを「分かる」と言ってしまったら自分たちは旅を続けることができなくなってしまうのです。だから「分かる」と絶対に言わないのです。さすがの源内法師もここでは「おまへも、やつぱり、父の子ぢやつたなう。信吉房の血が、まだ一代きりの捨身では、をさまらなかつたものと見える」と力なく言うだけです。師匠もまた同じ気持ちを抱いているのです。そのような辛い気持ちを抱きつつも、遊芸民はなおも旅を続けなければならないのです。その旅には終わりはありません。そのようなただひたすらに励む行為が遊芸民の芸を美しいものにすると折口は言っているのです。
■ このことは芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係というのは何かという問いにも関連します。芸の師弟関係は血の繫がりはない・擬似的な父子の関係ですが、むしろ血の繫がりという要素がないからこそ・そこに純粋なものが意識されてい るのです。芸道における師匠と弟子は、そのような強い意識によって結び付けられています。
「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせよ。」という父が言い残した言葉が身毒丸のなかでリフレインされます。それが身毒丸の気持ちを清いものにします。「自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・この病いを一代限りで絶やせよ。」という父の言葉は、その言葉通りに解すならば 、個人的に背負わされた業病か何かであったかのように受け取られるかも知れません。しかし、この父の言葉はそのように解するべきではありません。それは酷い理不尽な神によって否応なしに無理矢理に背負わされた宿命のようなものを指しています。それが父を共同体から放逐し・また旅の一座からも離脱させたもっともらしい理由です。例えば「彼の先祖が神の禁じた品物を盗んだために呪われた」 といううような理由でも何でも良いのですが、それが彼に理不尽に押し付けられたもっともらしい理由です。そして、それは同様な形で実は源内法師や制吒迦ら旅芸人の一座の連中にも同じように圧し掛かっているものです。小説「身毒丸」ではそれはとりあえず主人公身毒丸のこととして描かれているだけのことです。芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係というのは何かということを更に考えます。
『ここで私が「法」と呼んでいるのは、シニファンの水準ではっきり言い表されるもの、すなわち法のテキストのことです。私が「父の名」と呼ぶもの、つまり象徴的な父とはまさにこれです。それはシニファンの水準にある一つの項であり、この項は法の座としての「他者」のなかで、「他者」を代表象します。それは「他者」なかの「他者」です。フロイトの思想にとって必然的な神話、エディプスの神話が表しているのは、まさにこれです。(中略)法を公布する父とは死んだ父、つまり父の象徴です。死んだ父、それが「父の名」であり、これはこのような内容の上に立てられているのです。(中略)このとき、それは「排除」されています。さまざまなシニファンからなる連鎖のなかで、何かが欠けることがあり得ます。つまり、主体は「父の名」というシニファンの欠如を補填しなければならないということです。』(ジャック・ラカン:「無意識の形成物」上巻〜「父の名の排除」、文章は多少アレンジしました。)
「先祖から持ち伝えた病気」なんてことはホントはどうでも良いのです。お前にはまだ分かるまいが・・お前には何か背負わされた重いものがあるということです。「それを清らかにするために、お前は一心に励め」とということです。それが 象徴的な「父の声」なのです。芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係というのは、そのような「死んだ父」の声に対して何かを補填しようとする関係なのです。師匠が弟子に対して耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさで対するのは、まるで師匠が「父である自分を殺してその地位を奪えよ」と弟子に叫ぶかの如くです。そのような形で象徴的な「父の名」 がリフレインされます。
この象徴的な「父の名」は流浪しながら芸をする者たち(遊芸人)に等しく掛かってくるものです。身毒丸だけにリフレインされるものではありません。だから「長道を来て、落ちついて、心がゆったりすると一処に、何やらこうたまらんような、もつと幾日もぢっとしていたいという気がする」という身毒丸の言葉を聴いて、仲間たちもみんなたまらなくなるのです。それは彼らの集団としてのアイデンティティです。折口はそのような遊芸人の原初的な心境を見詰めています。そこから芸の伝承にまつわる師匠と弟子の関係が浮かび上がってきます。
■ 『一つの森に出た。確かに見覚えのある森である。この山口にかかった時に、おっかなびっくりであるいていたのは、此道であった。けれども山だけが、依然として囲んでいる。後戻りをするのだと思ひながら行くと、一つの土居に行きあたった。其について廻ると、柴折門があった。人懐しさに、無上に這入りたくなって中に入り込んだ。庭には白い花が一ぱいに咲いてゐる。小菊とも思はれ、茨なんかの花のやうにも見えた。つい目の前に見える櫛形の窓の処まで、いくら歩いても歩きつかない。半時もあるいたけれど、窓への距離は、もと通りで、後も前も、白い花で埋れて了うた様に見えた。彼は花の上にくづれ伏して、大きい声をあげて泣いた。すると、け近い物音がしたので、ふっと仰むくと、窓は頭の上にあつた。さうして、其中から、くっきりと一つの顔が浮き出てゐた。身毒の再寝は、肱枕が崩れたので、ふつっりと覚めた。床を出て、縁の柱にもたれて、幾度も其顔を浮べて見た。どうも見覚えのある顔である。唯、何時か逢うたことのある顔である。身毒があれかこれかと考へているうちに、其顔は、段々霞が消えたやうに薄れて行った。彼の聨想が、ふと一つの考へに行き当つた時に、跳ね起された石の下から、水が涌き出したやうに、懐しいが、しかし、せつない心地が漲つて出た。さうして深く深くその心地の中に沈んで行った。』
小説「身毒丸」の末尾近くで身毒丸が見る夢の場面です。夢のなかで身毒丸が仰むくと、窓からくっきりと一つの顔が浮き出ているのが見えます。それはどうも見覚えのある顔である。何時か逢うたことのある顔である。しかし、身毒丸はその顔が誰なのかを思い出せません。身毒丸にはただ懐かしく、またせつない気持ちが残ります。身毒丸が夢のなかで見たその顔が誰であったのかという詮索は不要かなと思っています。それは誰であっても良いのです。読者が懐かしく・せつない気持ちになる人の面影を投影してそう読めばそれで良ろしいことだと思います。
ところで夢のなかに庭には白い花が一ぱいに咲いてゐる光景が現れます。それは小菊とも思はれ、茨なんかの花のやうにも見えたといいます。どても幻想的な光景です。そのなかに懐かしく・せつない面影が浮かび上が ります。これを読みますと、折口の「信太妻の話」の一節が思い浮かびます。このなかで折口は説経節の「信太妻」のことを触れています。その筋はだいたい次のようなものです。
『或日、葛の葉が縁側に立つて庭を見てうると、ちょうど秋のことで、菊の花が咲いている。其は、狐の非常に好きな乱菊といふ花である。見ているうちに、自然と狐の本性が現れて、顔が狐になってしまつた。そばに寝ていた童子が眼を覚まして、お母さんが狐になったと怖がって騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去ってしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年4〜7月)
説経「信太妻」のなかには乱菊という花が庭にいっぱり咲いている場面が登場します。このイメージが小説「身毒丸」のなかで庭には白い花が一ぱいに咲く夢の場面と 重ねられているように感じられます。そうするとここで浮かび上がる面影は身毒丸が忘れてしまった母の面影なのかという推測も成り立つかもしれませんが・そのことはちょっと置いて、それよりこれが大事なイメージであると感じるのは別のことです。自分が故郷だと思うところ・それは本来自分が最も安心できる場所であるはずですが、その故郷から既に自分は裏切られていたという驚愕の事実です。お母さんが実は狐であった・人間ではなかった。ということは自分は普通の人間の子供とは違うということです。この驚愕の事実を知った時、童子丸は安住の地を失った のです。 アイデンティティーの不安というようなものが始まります。童子丸ははもはやこの地に安心して住んでいることはできません。
こうして子供は故郷を捨てて、安住の地を見出すことのない・果てしない旅に出ます。生まれ故郷を放逐されて果てしない放浪をつづける旅芸人の原点が ここに見えます。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」という「葛の葉」の文句には定住に対する強い憧れが聞こえます。旅を止めてどこかに定着すればこの苦しい生活を終えることができるという気持ちがどこかにあります。しかし、安住の地を見出すことは自分たちに決して許されないことだということも旅芸人は良く知っているのです。説経「信太妻」はそのような流浪する芸能者の哀しみを思い起させます。後の世においては芸能者は都市に定住して芸を披露して生活をするということが起こってきますが、中世における芸能というのは主としてそれは放浪芸のことでした。
このことは身毒丸の父・住吉法師が言い残した「お前にはまだ分かるまいが・・自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。浄い生活を送って・身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせよ。」という言葉とも重なってきます。先祖から持ち伝えた病気ということを知った時に身毒丸は自分が安住の地を見出すことは決してないということを知るのです。そのために身毒丸は悩み・苦しみ、そのような宿命から逃れようとあがきます。そのような身毒丸が 悩みの果てにこのような夢を見るのです。白い花が一面に咲く庭。そこにくっきりと浮かびあがる顔。このような夢を見た時に、身毒丸は恐らく何かがふっきれたに違いありません。
『山の下からさっさらさらさと簓の音が揃うて響いて来た。鞨鼓の音が続いて聞え出した。身毒は、延び上つて見た。併し其辺は、山陰になっていると見えて、其らしい姿は見えない。鞨鼓の音が急になって来た。身毒は立ち上った。かうしてはいられないといふ気が胸をついて来たのである。』(小説「身毒丸」末尾)
■ 『この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。世間では、謡曲の弱法師から筋をひいた話が、江戸時代に入つて、説教師の題目に採り入れられた処から、古浄瑠璃にも浄瑠璃にも使はれ、又芝居にもうつされたと考へてゐる様です。尤、今の摂州合邦辻から、ぢりぢりと原始的の空象につめ寄らうとすると、説教節迄はわりあいに楽に行くことが出来やすいけれど、弱法師と説教節との間には、ひどい懸隔があるやうに思はれます。或は一つの流れから岐れた二つの枝川かとも考へます。(中略)わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれていても信じたいと思ふ要素を失はないでいると思うています。但し、謡曲の弱法師といふ表題は、此物語の出自を暗示しているもので、同時に日本の歌舞演劇史の上に、高安長者伝説が投げてくれる薄明りの尊さを見せていると考へます。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)
折口信夫の小説「身毒丸」の附言です。折口はこの小説を「高安長者伝説から最原始的な物語にかえした」ものと言っています。しかし、小説から謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」へのはるかな系譜を読もうすることは、無駄なことです。いろんな雑多な要素があとから入り込んできて枝別れして、謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」、はたまた浄瑠璃の「摂州合邦辻」が成立していくのでしょうが、その系譜を辿ることが折口の目的なのではありません。折口がイメージした高安長者伝説の最原始的な風景とはどういうものでしょうか。
説経節「しんとく丸」にある最初の重要な場面は、しんとく丸がいれい者(業病者)となって天王寺に捨てられる場面です。説経ではしんとく丸の業病は継母の呪いということになっていますが、この時点でしんとく丸はそのことを知 りません。我が身に降りかかった運命を因果であるとただ信じて、お付きの郎党仲光にその苦悩を訴えます。
『仲光よ、めずらしや、何たる因果のめぐり来て、かやうのいれいを受け、眼が見えぬはいつも常夜なごとくなり、いれいを受けたるは、見舞いも受けぬ、仲光よめずらしや』(説経「しんとく丸」)
中世期には業病に冒された者が天王寺に捨てられて・乞食となって他人の袖にすがって生きるしかなかったということが実際にあったわけです。天王寺周辺は少年時代の折口にとっても馴染みのある場所でした。もちろんその時代には中世の光景があったわけではありません。しかし、折口少年にはそのような中世の光景が見えていたのです。折口少年が感じたのは何の因果か・共同体から放逐されて・捨てられてしまった者の孤独ということです。何の因果か・他人の袖にすがってでも生きていかねばならないという悲哀ということです。ここでは「何の因果か分からない」という嘆きがとても大事な要素としてあります。説経ではいれい(業病)という設定になっていますが、どうしてこうなったか・その理由も分からないのです。「何の理由か分からないが、それは事実なのだ」という形でしんとく丸に降りかかってきた宿命です。折口の小説「身毒丸」と説経節「しんとく丸」に共通 した最原始的な核は、放逐されて虚空に置かれた時の身毒丸(しんとく丸)の気持ちなかに見出されます。小説では、そのことが幼い身毒丸に父が話したこととして出てきます。
『おまへにはまだ分るまいがね」といふ言葉を前提に、かれこれ小半時も、頑是のない耳を相手に、滞り勝ちな涙声で話していたが、大抵は覚えていない。此頃になつて、それは、遠い昔の夢の断れ片の様にも思はれ出した。(中略)父及び身毒の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。その為に父は得度して、浄い生活をしようとしたのが、ある女の為に堕ちて、田舎聖の田楽法師の仲間に投じた。父の居つた寺は、どうやら書写山であつたやうな気がする。それだから、身毒も法師になつて、浄い生活を送れというたやうに、稍世間の見え出した此頃の頭には、綜合して考へ出した。唯、からだを浄く保つことが、父の罪滅しだといふ意味であつたか、血縁の間にしふねく根を張つたこの病ひを、一代きりにたやす所以だというたのか、どちらへでも朧気な記憶は心のままに傾いた。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)
この時、幼い身毒丸の心にポッカリと空いた虚空のようなものが意識されます。その正体が何か幼い身毒丸には分かりません。しかし、成長するに従ってそれがおぼろげながら身毒丸に見えてきます。それは恐らく身毒丸を「あちらを見ても山ばかり、こちらを見ても山ばかり」という状況に追い込んだものです。ひとつ所にじっとしていることも許されず、自分は明日はどこへ流れて行かねばならぬのだろうか、このような旅がいつまで続くのかという旅芸人の宿命です。それが身毒丸を苦しめるのですが、しかし、最終場面の身毒丸にはどこか吹っ切れたところが見えます。
『山の下からさっさらさらさと簓の音が揃うて響いて来た。鞨鼓の音が続いて聞え出した。身毒は、延び上つて見た。併し其辺は、山陰になっていると見えて、其らしい姿は見えない。鞨鼓の音が急になって来た。身毒は立ち上った。かうしてはいられないといふ気が胸をついて来たのである。』(小説「身毒丸」末尾)
身毒丸に宿命に身を委ねる覚悟が出来たのかも知れません。身毒丸をそのような気持ちにさせたきっかけは、夢のなかに出てきた白い花が一ぱいに咲いた庭なのか、窓にくっきりと浮かんだ誰かの顔なのか、山の下からさっさらさらさと響いてくる簓の音なのか、それはよく分かりません。けれど身毒丸はそのなかに何か自分が繫がるものを感じ取ったのかも知れません。
 
「身毒丸」諸話2

 

■ 折口信夫は小説「身毒丸」(大正6年)の附言のなかで次のようなことを書いています。
『この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。 この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、割合に、はっきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴わるべきものだけは這入って来ても、決して生々しい作為を試みることはありません。わたしどもは、伝説を素直に延して行く話し方を心得ています。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)
まず考えてみたいことは、折口が「高安長者伝説から宗教倫理の方便的な分子をとり去って最原始的な物語にかえした」と言うのは、どういう意味かということです。それはとてもピュアな形で、折口の頭のなかにポッと生じたものなのです。作家は物語というものを頭で創るのではありません。物語を紡ぎ出すきっかけとなる ・とてもピュアなもの、動機と言っても良いかも知れませんが、そういうものが必要になりまです。それがポッと生じれば、それを契機に筋がスルスルとひとりでに伸びていくことがあるものです。折口の小説「身毒丸」は、折口のなかにポッと生じたものをそのまま原型質的な形で提示しようとしたものなのです。
宗教倫理の方便的な分子をとり去って最原始的な物語に返す折口の手法を小説「身毒丸」のなかに見てみます。身毒丸の父・住吉法師は田楽を行なう旅芸人の長でしたが、身毒丸が9歳の時に突然行方不 明になってしまいました。身毒丸の記憶ではこの時の父は50歳を越えていましたが、身体に気味の悪いむくみが出ていました。それを見た身毒丸に父は「お前にはまだ分かるまいがね・・」と言って次のような話をしました。父とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。そのため自分は得度して浄い生活をしようと思ったのだが、ある女のために墜ちて田楽法師の仲間に投じてしまった、と言うのです。身毒丸は、だから父はお前も法師になって浄い生活を送れというのか、身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせというのか、その時の父の言葉を思い出しては考えます。
小説では父・住吉法師の病気がどんなものであったかが分かりませんが、その理由は別にどうでも良いのです。大事なことは何かの理由で父は故郷を離れたという事実、ただそれだけ で十分なのです。父は田楽の仲間から離れてどこかに消えてしまいますが、これも恐らく同じ理由に拠るのです。そして同じ理由が子である身毒丸にも伝わっていると父は言うのです。「お前にはまだ分かるまいがね・・」  身毒丸にはその理由が何も分かりませんが、しかし、確かなことはその理由が父から子である身毒丸に伝わっているという事実です。ということは身毒丸も共同体に入ることが許されないということです。身毒丸が放浪の旅に終止符を打って・どこかに落ち着くことはできないのです。このことは最初から決まっているのです。なぜならばその理由が父から子に伝わっているからです。
このことは何となく差別の根源のようなものを考えさせますが、父・住吉法師がどういう理由で共同体から放逐されたか・または居られなくなったかという具体的な根拠 は必要ではないということなのです。それでは小説のなかで身毒丸が悩み苦しむきっかけが見えないと思うかも知れませんが、最原始的な形態の「物語り」においては、そのような具体的な根拠は 別に必要ではないのです。時代が下って「物語り」がストーリーの形式を次第に整えて来ると、筋が次の筋を生み出していくことになるので、原因が結果を生み・その結果が次の筋の展開の原因になるという形で進行するようになって行きます。そうなると筋の整合性を取る必要が出てきて、原因と結果の間に正しい因果関係が求められるようになります。我々はそれを「筋の必然性」と呼びます。筋の必然とは、例えば主人公がある状況に陥れられる時に、誰もが「ああ、そういうことならば仕方がないなあ」と思えるような・もっともらしい理由です。主人公が共同体から放逐される理由は、例えば何か悪い伝染性の病気に罹ったとか・盗みなどの悪い行為を 働いたとか・まあそんなものならば必然かなと考えられますが、時に主人公にとって謂われのない理由である場合もあります。いずれにせよそのような具体的な根拠が登場してくるようになるのは、「物語り」がストーリーの形式を整えてきた段階においてのことです。それ以前の段階にある最原始的な形態の「物語り」、例えば口承文学のようなものを想定すれば良いと思いますが、これには具体的な根拠が明確でないものが多いようです。具体的な根拠がある場合には、実はそれは「物語り」が文字によって記録されて・固定化した後から付け加えられたということが 多いのです。つまり筋を整えるという意図がそこに出るわけです。そのような物語りの筋の必然性、つまり誰もが考えても「ああ、そういうことならば仕方がないなあ」と思える展開というものは、当然のことですが、その集団の倫理性・道徳性・あるいは宗教性というものを強く反映することになります。それに沿って必然性は構築されるのです。つまり、「物語り」の生成においては状況が先で・それにまつわる説明は後になるということです。
したがって、父・住吉法師が共同体から放逐されたか・あるいは居られなくなった必然性というものが小説中に具体的に記述されるとすれば、それはある段階の倫理性・道徳性・あるいは宗教性を否応なしに取り込むことになります。それでは「高安長者伝説を最原始的な物語に返す」という折口の初期の目的に叶わないことになります。したがって、小説「身毒丸」を読む場合、読者はそのような必然性なるものに関心を持ってはならないのです。 このことは意外と見落とされているのではないですかね。折口のなかにポッと生じた原型質的なものを見つめなければなりません。
■ 『自然なるものが差別を作っている。自然なるものが被差別部落を作っている。そうすると、その自然をひっくり返す、あるいは自然の神秘みたいなものを、確実に白日のもとにさらけ出して、それをこう逆立ちさせるというのが、つまり物と直結した言葉ではないか。理屈ばっかり言いやる感じやなあ。・・・(中略)自然というものが差別を生むというのは、ここでは日本的自然と言うた方がええと思うんです。例えば生け花でも、盆栽でもええんですけどね、日本的な美意識みたいなものを成立させるためには、カットする部分がいるわけや。その隠された部分がこの日本では、大きな意味をもってきたのだという。まあそれが、日本的自然という・・・つまり、差別を単に人を誹謗するとか、蔑視するとかじゃなしに、もっと大きな意味で使いたいんです。(中略)だから、いわゆる部落問題というのは、文学ではないと思うんですよ。文学においては、○○問題というのはない。つまり、被差別部落のなかに生きている人間が、こんなに豊かに、一生懸命、しっかり生きている。その姿を描く。それが文学だと思う。』(中上健次:公開講座「物と言葉」・1978年2月〜「中上健次と熊野」・太田出版)
最原始的な形態の「物語り」においては、父・住吉法師がどういう理由で共同体から放逐されたか・または居られなくなったかという具体的な根拠は必要ではないということをもう少し考えます。芸能の起源を論じる時、差別のことを考えないわけにはいきませんが、それはあまりに根が深い問題です。とりあえず上に引いた中上健次の言葉を手掛かりにすると、それは日本的自然というか、自然なるものが差別を作っている、そのなかで彼らは一生懸命、ひたむきに生きている、そのことがしっかり書けていれば差別という構図は自然に浮き上がってくるのだということです。期せずして折口の場合もそのような手法に拠っていると思います。
父・住吉法師がどういう理由で共同体から放逐されたか・または居られなくなったかということは、現代人の視点から見るとそれは「物語り」の発端となるべきものです。現代人はそこから筋(ストーリー)が始まると考えます。しかし、そこのところが折口の小説「身毒丸」では明らかにされていない、あるいはわざと曖昧にされています。これは「物語り」としての「身毒丸」の欠点であると、現代人の視点からはそのようにも思えます。そして折口がわざとボカしたものを一生懸命見付けて、解釈しようとします。しかし、その必要はないのです。そうすることはむしろ間違っているのです。もうひとつ中上健次の言葉を引いておきます。中上健次は平安中期に成立し・日本最古の長編物語とも言われる「うつほ物語(宇津保物語)」を取り上げて、物語空間のなかの「うつほ」の重要性について次のように語っています。「うつほ」というのは古語で「がらんどう」のこと、或るものの内部に空いた穴ぼこのことです。
『うつほって言うのを、ある神話的空間ととった場合、原初の物語ってのは神話的空間を含んでいるんだけど、その神話的空間を取り去って、物語として完璧な形になったのが「源氏物語」だと思うんです。そうすると「源氏」というのは物語の物語ではないのか。物語の物語という構造を持ってると思うわけです。私は大谷崎を敬愛しながら憎むのは、この近代百年の最も大きいと思う大作家が、物語の物語、すなわち「源氏」を自分の文学を回復する方法としてとったという理由によるわけなんです。(中略)最初に物語としての完璧な形をとった「源氏」が、知っていて切り落としたうつほは、谷崎にとってどうなったのか。うつほは、どこかに消えちゃったんじゃないか。そういう、たえずこう文学を生み出して、文学を膨らまし、育てあげるうつほみたいなものをとったものを「源氏」はすくいあげてきた。それをさらにもういっぺんすくいあげてきた谷崎というのは、つまり非常に弱いんではないか。(中略)そういうことから、こう考えられると思うんです。物語の原初には、うつほという神話的空間がすえられている。それが、完全な物語としての「源氏」というのは、このうつほあるいは神話ですね、それを切り離し、あるいは切り捨てたことによって成立していると。』(中上健次:公開講座「うつほからの響き」〜神話から物語へ・1978年2月〜「中上健次と熊野」・太田出版)
ところで、本論では「物語り」と書いていますが、それは文学形式としての「物語」と・「物語る」が名詞化したものとを明確に仕分けるために「物語り」と 意識的に書いているのです。つまり、文字によって記述された物語ではなくて、それ以前の段階である語り物の「物語り」のことを考えています。「うつほ物語」はまだ語り物としての「物語り」の方に寄っており、文字によって記述され・因果関係が明確な「物語」の完璧な形を取っていないのです。折口もまた「身毒丸」の附言において『この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。』と書いている通り、語り物としての「物語り」の方にスタンスを置いています。ということは、「うつほ」(空洞)が重要であるということです。小説「身毒丸」の 「うつほ」とは、父・住吉法師が幼い身毒丸に語った「お前にはまだ分かるまいがね・・」 ということです。そこから切り離されたもの、あるいは切り捨てられたものから「身毒丸」が始まっているのです。
■ 『この間の話にも触れるんですけど、親というのは子供を殺しましたね。そのみなし児・私生児の話の時に、捨てるってことは殺すことにもつながるんだってこと言ったんですけど、その殺すってこと、つまり親っていうのは、ここで自然ととってもいいと思うんです。邪悪な自然。というのは、子と親の差異ってのができるわけですが、子から見ると差異を見つける時に、何をもって見つけるかというと、自分を殺すかもしれないっていう邪悪なものによって、つまり差異を見つけてくるっていうことだと思うんです。なんかこう哲学みたいなことしゃべってるみたいなんだけど、王とは自然をこう背ってきたわけなんですね。つまり、王の秘密っていうのは、自然の秘密じゃないか。王の秘密を暴くことは、自然の秘密を暴くことにもつながるんじゃないか。 秘密ってのは、生まれ、生活し、死ぬっていう自然過程と、それから親がなぜ親であるか、子が何で子であるかっていう人間だけが持つそういう秘密だと思うんです。で、物語本来のエンターテイメントとは、人間本来の持つ何て言うんですかね、自然に対する謎、それに対する興味ではないかと思うのです。もっとはしょっていきますと、その出所来歴の定かでないものとは、つまり、神ではないか。あるいは貴種流離譚というのものは、こういう邪悪な自然っていうもののひとつの表象として現れたものじゃないか。その自然の謎のことを、われわれの民族、われわれの祖先たちは貴種流離譚という形で語り伝えてきたんじゃないかということを考えるわけなんです。』(中上健次:公開講座「王の出生の謎」・1978年2月〜「中上健次と熊野」・太田出版)
一般的に貴種流離譚は「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というところに重きを置いて理解されています。 つまり、転落の落差あるいは惨めさのようなものが「物語り」の興味の中心になっているのです。しかし、貴種流離譚の本質というのはそこにあるのではなくて、その本質 というのは実は「私とは何か」という疑問にあるのです。「私とは何か」ということを知るためには、「親とは何者であるか」ということを知らねばなりません。親が何者かが分かればそれで「私とは何か」が分かる とは限らないが、まずそれが一番手っ取り早い手掛かりです。なぜならば子である「私」というものは、親から発しているからです。このことは子にとって常に謎です。そこのところに根源的な不安があります。 しかし、実は親のことは「私とは何か」ということを考える手掛かりのひとつに過ぎません。そのことを中上健次は「自然の秘密ってのは、生まれ、生活し、死ぬっていう自然過程と、それから親がなぜ親であるか、子が何で子であるかっていう人間だけが持つそういう秘密だ、それは神の秘密ではないか」と言っています。そのような自然への疑問・神への疑問がひとつの表象として現れたのが貴種流離譚という「物語り」のパターン なのです。もちろんパターンはその他にもあるのです。「親」という記号が、王になり・自然になり・神に置き換わるならば、パターンなんて色々出来るわけです。あくまでも貴種流離譚 なんてものは「私とは何か」という「物語り」のひとつのパターンに過ぎません。だから貴種流離譚の本質とは「私とは何か」ということなのです。
折口の小説「身毒丸」の場合、そこに説経「しんとく丸」や謡曲「弱法師」への遥かな道のりを見ようとする読み方がされることが多いように思います。言い換えれば、説経や謡曲から宗教的な粉飾を取り除いていけばそこに小説「身毒丸」 の姿が見えてくるという風に読もうとするのです。そうすると「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」という貴種流離譚的なイメージで小説「身毒丸」 を読むことになり、「自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある」という父・源内法師の言葉から、親と子の関係を、何か遺伝的な・血で伝えられるものとして強くイメージしてしまい勝ちです。残念ながら、そういう読み方は折口の意図するところではないと思いますねえ。避けたいと思う読み方は、小説「身毒丸」を血縁の問題として読むことです。もちろん読み方としてはあるでしょうが、折口の思想を考える時にこの読み方は取りたくないと考えます。大事なことは「私とは何か」という疑問 なのです。
「邪悪な自然」ということも中上健次は言っています。古来人にとって、神は・自然は常に邪悪であり、無慈悲なものでありました。本来ならばいつも慈悲に満ちているべきでしょうが、親もまた無慈悲なこともあったわけです。子殺しも子捨てもしばしばあったのです。そうしたところから人が生まれ、生活し、そして死ぬっていう自然過程のなかで「自分はなぜ生まれてきたのか」という秘密を物語る・その原点を折口はイメージしています。そのようなピュアなものをイメージする時、血縁の問題はかえって邪魔になるのです。
■ 歌舞伎の歴史では江戸と上方(大坂あるいは京都)が中心ですが、江戸と上方とでは芸の伝承の在り方が微妙に違うことはご存知の通りです。江戸はどちらかと言えば家系を大事にするところがあるようで、芸風あるいは型というものを後継者に伝えようとする・後継者はそれを継ごうとする意識も、多少外面的なところはありますが上方と比べれば割合にあるように思います。ところが、上方の方は芸風あるいは型というものを後継者に伝えようとする意識が ほとんどないようです。初代鴈治郎などは「あなたの型を息子に教えれば良いのに・・」と言われると、「そんなことをしても鴈治郎の偽物が出来るだけだす、自分で工夫ができないなら役者辞めればよろし」と言って息子(二代目)に演技を教えることをまったくしませんでした。これは初代鴈治郎だけのことではなくて、だいたい上方の役者というものは子供が親のやることを真似て演技しようものなら、「自分で演技の工夫もできない馬鹿野郎め」と言って殴りつけたりしたものでした。先代の真似をするなど言語道断。自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す、それは誰から受け継いだものでもないし、誰に伝えるものでもないということです。
ですから上方の役者は自分の子供に非常に厳しく接して、芸の面では許容性がとても狭かったということがありました。しかし、役者の血筋だからその子供も演技が巧い・役者に向いているということは必ずしも ありません。そういうことですから歌舞伎の歴史をみれば上方の役者の家系というのはほとんど三代目くらいで途切れてしまった家が多いわけです。超・例外と言えるのは片岡仁左衛門家くらいのものです。演技の型というものも先代と当代ではブツブツと切れているものが多く、いろいろ雑多なものが入り込んだりしてうまく整理できない。上方の芸は学術的にいわゆる型の系譜を揃えるということはまあ不可能であると思います。
一方、江戸の家系というのは、それに比べれば代数が長いものが多いようです。もっとも「元禄の世から綿々と続く市川宗家の伝統」などとマスコミは言いますけれど、実は血筋的には市川宗家でもブツブツ切れており・現在の市川家は十一代目から数えればせいぜい五・六十年ということなのですが、いちおう名跡としては「続いて」います。芸風や型というものに対する意識というのも、当代はこれを次代に渡し・次代はこれを受け継ぐという考え方も確かにあったようです。だから型の系譜も割合に整理ができるということがあります。江戸の歌舞伎はそういうものを比較的大事にしてきたのです。
こうした江戸と上方の芸の伝承に対する考え方の差は、現在となってみれば江戸の歌舞伎は残ったが、上方歌舞伎は事実上消滅したという決定的な結果となって現れたのです。それでは江戸の伝承法が良かったのか・正しかったのか。そういう議論はホントはあまり意味がないことなのですが、現代に生きる伝承芸能の在り方を考える面では考えてみる価値がありそうです。
しかし、つらつら思んみるに・「自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す・それは誰から受け継いだものでもないし・誰に伝えるものでもない」という考え方は、西欧芸術ならば至極当たり前の考え方なのです。西欧芸術では、生徒が先生のやるのをそのままに演じようものなら、「そんな先生のコピーみたいなことをしては駄目です・自分で何が正しいか を考えなさい」と怒られます。グスタフ・マーラーは「伝統的であるということは、怠惰である・何もしないということだ」とまで言い切りました。西欧の伝統というのは先人の業績の変革と破壊の歴史であったとも言えます。
とすると上方歌舞伎の芸の在り方というのは、ある意味で西欧的だと言えるかも知れません。その考え方を押し進めていけば現代では上方歌舞伎というものは当然変容・変質せざるを得ません。あるいは上方歌舞伎というものは漫才とか吉本新喜劇みたいなものがその代替になって時代に対する役目を終えたのかも知れぬということも考えられます。しかし、残った・残らなかったということは結果論に過ぎないのであって、残ったから良いというものでもありません。滅ぶべきものはしっかり滅んだ方が良い・少なくとも潔いという考え方もあります。ですから「自分の芸は自分の代限りのもの・受け継ぐものではなく・誰に伝えるものでもない」と云う考え方は現代的に見えるかも知れませんけれども、実は洋の東西・時代を越えた普遍的な考え方であるという風に思えるのですねえ。
「自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す・それは誰から受け継いだものでもないし・誰に伝えるものでもない」ということは、 実はとても中世的な芸の考え方であると考えます。芸本来の在り方とすれば江戸よりも上方の芸の伝承法の方が、そのオリジナルな形を伝えているのです。その成り立ちからすれば、上方の方が古く・江戸の方が新しいのです。このことは一般的に江戸の伝承法の方が古風であると逆に理解されているのではないかと思いますが、違います。上方の芸の伝承法の起源は中世(つまり室町期から戦国期)に発するものです。江戸の芸の伝承法は近世(つまり江戸期)に発するのです。
このことが折口信夫の「身毒丸」となぜ関連するかと言うと、折口信夫の「身毒丸」は中世期の物語りの体裁を取っているからです。「身毒丸」のなかに見える師匠源内法師と弟子である身毒丸の芸の伝承というものは、そのような中世的な世界観と深く関連してい ます。後段においてそのことを考えていきます。そのためにはまず「中世とは何か」ということを考えなければなりません。
■ 小説「身毒丸」の時代設定は明確ではありませんが、中世期・おそらく室町時代の初期辺りと考えて良いと思います。日本史研究のなかでも中世期は近年注目されています。それまでの社会(鎌倉 時代には律令制度の価値観が依然として強く残っていました)が持っていた 既存の価値観が崩壊して行く混沌とした時代でした。「下克上」という言葉がそれを代表しています。中世期は価値の転倒 の時代であり、混沌の時代でありました。戦国時代はそのような混沌が引き起こした世 の中であり、安土桃山時代辺りから次第にそれがひとつの方向に収斂(しゅうれん)していき、江戸時代にひとつの形に固定化していくという風に考えられます。
それにしても中世期というのはなかなか興味深い時代です。江戸時代においては普通に用いられて・今では日本伝統のものと信じられているようなもの、例えば能装束の素材である絹、茶の湯で用いられる抹茶や茶器、生け花で 用いられる花器などの陶磁器、そのようなものはどれもみな実は室町時代には中国からの輸入物でした。こうした輸入物は室町時代後期から中国からドッと日本に入って来たものでした。江戸時代に入ると、そのような輸入物が日本で現地生産されるようになっていきます。元々外来であったものが、やがていつの間にか日本伝統の品々であったかのように認知されていきます。 言い換えれば、鎌倉時代から室町・戦国時代までを、我々は江戸時代のイメージでどうしてもこれを見てしまい勝ちです。考えてみれば、能狂言であっても現代の我々は江戸時代に完成され・洗練された後のものを見ているのであって、世阿弥の時代のものとはちょっと違うかも知れないということを頭のなかに入れておいた方が良いです。
話を芸能の場面に限りますと、芸能はもちろん神事・祭礼に発し・そのあるものは為政者に取り込まれることで発展してきたわけで、宮中にも雅楽を専門にする家・和歌を専門とする家などがありました。しかし、中世期に生まれた芸能は庶民の生活から発し ・既存の秩序を破壊するところから生まれたものでした。混沌をエネルギーとした芸能であったわけです。それは例えば専応の立華(たてはな・華道)、世阿弥の能楽、利休の茶の湯などです。混沌というものが芸能の理念としてどういう形で現れるかは様々ですが、大事な理念は「どのような身分であろうと・芸能のこの場にある限りは互いに対等の関係である」ということであろうと思います。混沌ということは価値の転倒、すべてが混じりあって・個々の要素が等価となるということでもあるのです。
それを明確に・ほとんど相手に挑みかかるような姿勢で見せたのは、豊臣秀吉に対する利休でした。茶室のなかでは天下人も茶人もない、人間対人間、一対一の関係であるというのが利休の理念です。秀吉はそれを認めないから利休に切腹を命じたのです。利休は許しを乞うこともせず・自らの理念に殉じました。それはかぶき者の行動そのままでした。中世期の芸能は、華道・能楽・茶の湯もすべて、そのような価値の混沌・転倒・平準のなかに理念を置いていました。ですからその後・江戸 時代において華道・能楽・茶の湯は家元制度を採って権威化していきますが、家の存続を前提として組織体を強化しようとする江戸時代の封建制度の考え方をモデルにしたもので、中世期にルーツを持つ 創始者の理念からするとそれは明らかに相反したものなのです。悪い言い方をあえてするならば、それは理念的に堕落であったとも言えます。
このことから分かる通り、歌舞伎の上方での芸の伝承が原則的に本人限りであり、芸は伝えていくものではなく・自分で工夫していくことで結果として繫がっていくものである・それが伝統であると考えるのはとても中世期的な考え方で、もともとの芸の伝承というのはそういう 形態であったと考えられるわけです。型だか秘伝だかコツだか、そのようなものを次代に受け渡しながら守っていくというのは、江戸時代になってから生まれた近世的な考え方なのです。ですから江戸の歌舞伎の芸の伝承の スタイルの方が年代的に新しいことになります。三島由紀夫が次のように言っていることが、中世期的な芸の伝承の在り方に近いものです。
『秘伝というのは、じつは伝という言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば、日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるようなものだ。横にずっと流れていくものは、何にもないのだ。そうして個体というというのは、伝承される、至上の観念に到達するための過渡的なものであるという風に考えていいのだろうと思う。(中略)そうするとだね、僕という人間が生きているのは何のためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいのかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達した時になにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次に現れてくる奴はまだ何にも知らないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。何にもメトーデがないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は歴史全体に見ると、結晶体の上の一点からずっとつながっているかも知れないが、しかし、絶対流れていない。』(三島由紀夫:の安部公房との対談:昭和41年2月・「二十世紀の文学」)
秘伝というのは絶対連続していない。しかし、何かが繫がっているという感覚が確かにある。それが伝承だと三島は言うのです。このように考えていくと、小説「身毒丸」のなかでの師匠・源内法師と弟子である身毒丸の芸の伝承というものは 、中世期的な視点で読んでいかねばならないことが明らかなのです。しかし、折口関連本などを読みますと、源内法師と身毒丸との芸の関係を近世期的な視点で読んでいるものが少なくないようです。どうしてそのような解釈が出てくるかと言うと、ひとつは上述の中世期的な芸の伝承の理念ということが正しく理解されていないせいだと思いますが、もうひとつは別稿「折口信夫への旅・第1部・その11」のなかで触れた通り、折口の同性愛者的要素を重ねて読もうとする傾向が強いからです。そのような読み方は小説「身毒丸」のなかでは排除すべきだと思っていますが、このことをさらに考えて行きます。 
 

 

■ 『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。あれなども受ける者たちにとっては、苦しい試練なわけです。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)
芸道の師弟関係において考えれば、試練を与える者(師匠)と・その厳しい試練に耐えようとする者(弟子)との関係があり、試練を通じて両者は合体するということです。そこには無慈悲に怒る神(父)と・それに黙って従う無辜の民衆(子)の関係が重ねられています。ですから、芸の師弟関係は血の繫がりはなくとも・擬似的な父子の関係であると考えられます。
しかし、上記の考え方に、あたかもそのような考え方が中世期にもあったが如くに・近世的な芸の伝承のイメージを重ねて見ようとするならば大きな誤解を生じます。つまり、血の繫がり(実の親子関係)ということに重きを置いた見方のことです。小説「身毒丸」では師匠である源内法師が身毒丸を折檻したり、血書を命じて・何度もこれを書き直させる厳しい修行の場面が描写されます。敢えて出典を伏せますが、このような源内法師と身毒丸の関係は「芸の本質は血縁でしか伝承できないという考え方を乗り越えて、そこに血で繫がらない父と子の擬似関係を作り上げるということで、そこに同性愛的な肉体の交感が重ねられている」という趣旨のことを書いている論考がありますが、このような誤解は芸の伝承の出発点に血の繫がりを置くから生じるわけです。
そもそも「芸の本質は血縁でしか伝承できないもの」という表現が民俗学を研究する人からあたかも当然の如く出てくること自体が不思議なのですけどね、まあマスコミなどが歌舞伎で「何代にも渡って芸の伝統を守る○○家」などという表現をよく使うものだから、それが芸本来の伝承の在り方であると思い込んでいるのでしょうね。歴史の 浅いアメリカ人などは○○代目などと言われるとビビルそうですが、英国人ならばそんなことはないでしょう。芸の伝承で血縁の重みなどを喧伝することは、それだけ現代における伝統のイメージが断絶しているということなのです。だから伝統芸能のあり方・世の中の考え方がとても保守的になるのです。しかし、当初の歌舞伎の精神である「かぶく(傾く)」という心はそもそも旧弊をぶち壊す・既存のイメージを破壊するということではなかったでしょうか。このような「かぶく(傾く)」という考え方は出雲のお国が出た徳川時代初期に突如として生まれたものではなく、もっとはるか昔の中世期の「バサラ(婆娑羅)」の気風などに発するのです。だから「かぶく(傾く)」という心はとても中世的な考え方なのです。そのようなかぶきの精神から始まった芸能が、世の中の枠組みが固まり始めた徳川時代初期に生まれたということが、歌舞伎の大きな不幸なのです。(そのことは別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的論考」をご覧ください。)
話を元に戻しますと、芸能における師弟関係を血で繫がらない父と子に擬するという認識自体は正しいのですが、その前提に血の繫がり(実の親子関係)を持ってくるから間違えるのです。ここには神と民衆の関係を置かねばなりません。注釈しますと、神道では神と民衆との関係を親と子に擬することを本来あまりせぬように思います。それをよくするのはキリスト教・その母体であるユダヤ教です。したがって折口はとても慎重な言葉遣いをしていますが、しかし、折口がそこのことを意識していることは明らかなのです。それは上記に引用した折口の発言のなかにも出てきます。ここで折口は「割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。」と言っていますね。神と民衆の関係のなかに神道とキリスト教の共通のイメージを見ようとしているのです。立場上はっきり言えないからぼかしているけれども、そのイメージで以って芸能における師弟関係を読もうとしているのです。しかし、それは折口が意図的にそうしているということではなくて、本来中世芸能における師弟関係というのは、人間対人間、一対一の関係であるということです。そこから神と人との対話が始まることになります
■ 系図のことを英語ではFamily Treeと言うそうです。なるほど先祖を種として・そこから芽が出て・やがてそれが太い幹になり枝が伸び・さらに枝が分岐して樹がどんどん成長していく、そのようなイメージで 家系を捉えるのでしょう。 芸能の系譜なども同じようなイメージで考えられることが多いと思います。元の段階を踏まえて次の段階がある。原因があって結果がある。先代の芸があって、次代がこれを受け継いで・これを原型として少しづつ形を変えていくというような考え方です。そういう考え方は何となく科学的なイメージに見えますから、民俗学や伝統芸能の研究でも確固たる例証を踏まえて、だからAとBは類縁関係にある・だからBはAからの系譜であるという論証法が定式となっているのでありましょうね。まあそういう論証の仕方もありますけれども、Family Treeの枝をまったくはずれたところからポッと系譜を継ぐものが突然現れたりすることだってしばしばあるのです。あるいは接木のような形でまったく別の様相で本質が受け継がれることもあります。例証にこだわっている限り、そのようなものは捕捉できません。そうしたものを結び付けていくには想像力がいるのです。 民俗学の分野ではそういうことができたのは折口信夫だけでした。折口の手法は科学的ではなく感性的・直感的に見えるかも知れませんが・そうではなく、それはアナロジーという立派な科学的な手法なのです。
例えば折口の小説「身毒丸」ですが、折口はこの作品を高安長者伝説から最原始的な物語にかえした」ものだと言っています 。この折口の言うことをどのように理解すれば良いのでしょうか。この小説に謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」・はたまた浄瑠璃の「摂州合邦辻」の原型になるものがどこにあるのでしょうか。身毒丸は身分の 高い人物が落ちぶれたということではなく、ただの流浪芸人に過ぎません。天王寺も日想観も出てこない。継母も出てこない。もちろん邪恋もない。どうしてこれが 高安長者伝説の原初なのかと思うようなものです。それなのにこの小説から「弱法師」や「しんとく丸」への線を無理矢理引こうとする読み方が しばしばされてきました。原因から結果が直截的に引き出せると考えるから間違うのです。「芸の本質は血縁でしか伝承できないもの」なんて考え方も、そういうところから 起こる誤解です。源内法師と身毒丸との関係をホモセクシュアルなイメージで見ようとするのも、そういうところから来ます。 (まあこれは折口自身に責任がないわけではないですが。)小説「身毒丸」から枝を伸ばしたとしても、それが直截的に「弱法師」や「しんとく丸」につながるとは限りません。それらは雑多な・猥雑な要素をたくさん取り込んだなかで成立したもの だからです。それらは分枝され・接木され・幾多の交配を重ねられたなかで成立したものです。ですから、それらはもっと大きな括りでとらえていかないと、その本質をつかむことができません。
それならば折口が自分の小説「身毒丸」は高安長者伝説から最原始的な物語に返したものだと言っているのは、一体どういうことでしょうか。そのことは小説を素直に読むならば、はっきりしています。それは絶対の孤独ということです。結局、人はひとりで生まれて・ひとりで死ぬのだということです。 自分はどうして生まれて、どうやって死ぬのかということです。自らが生まれた意味への疑問と・その孤独感が人をさいなむということです。しかし、そのなかから一条の光が見えてくることがあります。それは何がきっかけになるかは誰にも分からないのですが、それがあるから人は生きられるというような一条の光です。それは希望とか救いのようにも見えますが、結局のところ、救いになるかどうかは分からないのです。物語の場合にはそれは大抵結末に置かれますから救いのように受け取られますが、結局のところは分からないのです。しかし、それがあるから人は生きられるというようなものなのです。折口が小説「身毒丸」で書いた ものは、そういうものなのです。文学・芸能の流れのなかで、それがたまたま謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」・あるいは浄瑠璃の「摂州合邦辻」のような物語になっ て現れたのかも知れませんが、それさえも幾多の過程を経て生まれたものです。ちょっと条件が変われば、それは如何様なる物語にも変容する可能性を秘めているのです。その物語誕生の過程については折口の語るところではありません。そういうものを無理矢理結びつける必要はないのです。折口は自らの民俗学説を裏付ける具体例として小説「身毒丸」を書いたわけではありません。そこのところが大いに誤解されています。折口の語る最原始的なイメージを素直に読み取れば、そこにあるメッセージがとてもシンプルに見えてくると思います。 
 

 

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