葛の葉の子別れ

信太妻の話葛の葉葛の葉の子別れ口説き古浄瑠璃 「信太妻」狐娘起源考
 

雑学の世界・補考   

信太妻の話

今から二十年も前、特に青年らしい感傷に耽りがちであつた当時、私の通つて居た学校が、靖国神社の近くにあつた。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては、行ききしたものだ。今もあるやうに、其頃からあの馬場の北側には、猿芝居がかゝつてゐた。ある時這入つて見ると「葛の葉の子別れ」といふのをしてゐる。猿廻しが大した節廻しもなく、さうした場面の抒情的な地の文を謡ふに連れて、葛の葉狐に扮した猿が、右顧左眄の身ぶりをする。「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」何でもさういつた文句だつたと思ふ。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを、いまだに覚えてゐる。平野の中に横たはつてゐる丘陵の信太(シノダ)山。其を見馴れてゐる私どもにとつては、山又山の地方に流伝すれば、かうした妥当性も生じるものだといふ事が、始めて悟れた。個人の経験から言つても、それ以来、信太妻伝説の背景が、二様の妥当性の重ね写真になつて来たことは事実である。今人の信太妻に関した知識の全内容になつてゐるのは、竹田出雲の「蘆屋道満大内鑑」といふ浄瑠璃の中程の部分なのである。恋人を死なして乱心した安倍ノ安名が、正気に還つて来たのは、信太(シノダ)の森である。狩り出された古狐が逃げて来る。安名が救うてやつた。亡き恋人の妹葛の葉姫といふのが来て、二人ながら幸福感に浸つてゐると、石川悪右衛門といふのが現れて、姫を奪ふ。安名失望の極、腹を切らうとすると、先の狐が葛の葉姫に化けて来て留める。安名は都へも帰られない身の上とて、摂津国安倍野といふ村へ行つて、夫婦暮しをした。その内子供が生れて、五つ位になるまで何事もない。子供の名は「童子丸(ドウジマル)」と云うた。葛の葉姫の親「信太ノ荘司」は、安名の居処が知れたので実の葛の葉を連れて、おしかけ嫁に来る。来て見ると、安名は留守で、自分の娘に似た女が布を織つてゐる。安名が会うて見て、話を聞くと、訣らぬ事だらけである。今の女房になつてゐるのが、いかにも怪しい。さう言ふ話を聞いた狐葛の葉は、障子に歌を書き置いて、逃げて了ふ。名高い歌で、
訣つた様な訣らぬ様な恋しくば たづね来て見よ
和泉なる信太の森の うらみ葛の葉
なんだか弖爾波のあはぬ、よく世間にある狐の筆蹟とひとつで、如何にも狐らしい歌である。其後、あまりに童子丸が慕ふので、信太の森へ安名が連れてゆくと、葛の葉が出て来て、其子に姿を見せるといふ筋である。狐子別れは、近松の「百合若大臣野守鏡」を模写したとせられてゐるが、近松こそ却つて、信太妻の説経あたりの影響を受けたと思ふ。近松の影響と言へば「三十三間堂棟木ノ由来」などが、それであらう。出雲の外にも、此すこし前に紀ノ海音が同じ題材を扱つて「信太ノ森女占(ヲンナウラカタ)」といふ浄瑠璃を拵へて居る。此方は、さう大した影響はなかつた様である。信太妻伝説は「大内鑑」が出ると共に、ぴつたり固定して、それ以後語られる話は、伝説の戯曲化せられた大内鑑を基礎にしてゐるのである。其以外に、違つた形で伝へられてゐた信太妻伝説の古い形は、皆一つの異伝に繰り込まれることになる。言ふまでもなく、伝説の流動性の豊かなことは、少しもぢつとして居らず、時を経てだんだん伸びて行く。しかも何処か似よりの話は、其似た点からとり込まれる。併合は自由自在にして行くが、自分たちの興味に関係のないものは、何時かふり落してしまふといつた風にして、多趣多様に変化して行く。さう言ふ風に流動して行つた伝説が、ある時にある脚色を取り入れて、戯曲なり小説なりが纏まると、其が其伝説の定本と考へられることになる。また、世間の人の其伝説に関する知識も限界をつけられたことになる。其作物が世に行はれゝば行はれるだけ、其勢力が伝説を規定することになつて来る。長い日本の小説史を顧ると、伝説を固定させた創作が、だんだんくづされて伝説化していつた事実は、ざらにあることだ。大内鑑の今一つ前の創作物にあたつて見ると、角太夫節の正本に、其がある。表題は「信太妻(シノダヅマ)」である。併しこれにも、尚今一つ前型があるので、その正本はどこにあるか訣らないが、やはり同じ名の「信太妻」といふ説経節の正本があつたやうである。「信太妻」の名義は信太にゐる妻、或は信太から来た妻、どちらとも考へられよう。角太夫の方の筋を抜いて話すと、大内鑑の様に、信太の荘司などは出て来ず、破局の導因が極めて自然で、伝説其儘の様な形になつてゐる。或日、葛の葉が縁側に立つて庭を見てゐると、ちようど秋のことで、菊の花が咲いてゐる。其は、狐の非常に好きな乱菊といふ花である。見てゐるうちに、自然と狐の本性が現れて、顔が狐になつてしまつた。そばに寝てゐた童子(ドウジ)が眼を覚まして、お母さんが狐になつたと怖がつて騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去つてしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。此辺は大体同じことであるが、その前後は、余程変つてゐる。海音・出雲が角太夫節を作り易へた、といつた様に聞えたかも知れないが、実は説経節の影響が直接になければならぬはずだ。内容は数次の変化を経てゐるけれど、説経節では其時々の主な語り物を「五説経」と唱へて、五つを勘定してゐる。いつも信太妻が這入つてゐる処から見ると、此浄瑠璃は説経としても、重要なものであつたに違ひない。それでは、説経節以前が、伝説の世界に入るものと見て宜しいだらうか。一体名高い説経節は、恐らく新古の二種の正本のあつたものと考へる。古曲がもてはやされた処から、多少複雑な脚色をそへて世に出たのが、刊本になつた説経正本であらう。
さて此処までは、書物の世界のことだから、書物の知識が直接に伝説の中にとり入れられるといふことも考へられるのだが、此から先は、用意がいる。伝説の世界には、どの本が種本になつたといふ様なことは言へない。これこれの本にあることが記録せられる以前に、影響を与へたかも知れぬ。これこれの地方の伝説は此とよく似た、割合古い種を持つてゐる様だ位のことしか言へないのだ。其訣らぬものゝ値打ちを、だんだん探して行くと、吾々の祖先の生活に対して、極小さな、けれども大きな組立てを暗示する所の一つの見当が、立つて来るのである。まづ小口から片づけて行く。全体、妻の姿をした者が、同時に二人現れて、夫が迷ふと言ふ型の話は、古くからある。今昔物語にあるのなどは著しい例で、道に立つて居た人妻を見て、其姿になつて、亭主をだまさうとした狐の話と、狐が乳母に化けて、本の乳母と子供を奪ひ合ふのを、雅通中将が判断に迷うた話、殊に瓜二つとも言ふべき話が、並んで出て居る。其系統の伝説から段々筋を引いて来て、近松の「双生(フタゴ)隅田川」になつたのが、劇としては「隅田川続俤」まで遥かに続いて居る。二人のお組の片方は、野分姫の霊と法界坊の霊とが、絡みあつて居る。出雲は趣向だけを敷き写しにとつて「大内鑑」では、二とこまで、役に立てゝ居る。安倍野村の段ばかりでなく、信太の森でも悪右衛門の駕籠を舁く奴が三人出て、名高い「われがおれか。おれがわれか」と言ふ問答になつて居る。二人妻ではないが、似た話がある。江戸の極浅い頃に出来たのだらうが、板行せられたのは、出雲あたりの死んだ後の物なる、鈴木正三の「因果物語」といふものゝ中に、出羽の最上の商人、京へ出稼ぎして、京女を妻にしたが、用事で国元へ戻ると京の妻が後を追うて来た。商人は最上の妻を逐ひ出して、京の妻を家に入れて子を産ませた。其後再、男が上京して、定旅籠に来ると、亭主の言ふには、お気の毒な事には、あなたに連れ添うた例の女は、煩うて死にましたと言ふ。いやそんな筈があるものか。此々の訣で、最上へ来て子まで産んで居ると言つたので、亭主が女の父親に話すと、父親が娘に会ひに、最上へ下つた。最上の家で、父親に会はせようとしても、女房は出て来ない。女房の部屋に這入つて見ると、父親が京で立てゝ置いた卒塔婆が、そこに立つて居た。卒塔婆の産んだ子供と言ふので、霊童と呼んで居たよしが、見えて居る。此本の系統が、英草紙になり、雨月物語になりしたのだから、上田秋成が「浅茅が宿(雨月物語の内)」の暗示をこゝに獲たのは疑ひないであらうが、似て居るのは卒塔婆のくだりで、外の部分は、今昔物語にある京の妻を棄てゝ地方官について下つた生侍(ナマザムラヒ)が、五年目に上京して、妻の死体と寝た話のまる写しなのである。最上へ訪ねて行つた父親は、信太荘司によく似て居るではないか。ちよつと似て居れば、此本から此本の話が出た、此伝説は、何の本の話が元だ、と簡単に結着をつける事が喜ばれる。併しさうした結論は、きめたがる人がきめただけの論で、実際の系統は、さう平明にわかるものではない。妻の父が来て、正体が露れると言ふ様な点は、他人の空似と見る方が、まづ安全であらう。が、出雲が全然因果物語の写本を見なかつたなど言ふ事は、彼が乱読癖のあつた人だつた事を見れば、出雲自身だつて言へる筈はないと思ふ。一番安心な有可能性(アルベカヽリ)の考へ方は、室町から引きつぎの、さうした陰惨な空気が、まだ瀰漫して居た時代だから、よし因果物語からでなくとも、口からも、目からも、豊富に注入せられて居た事と見ることだ。其は其として、子供の無邪気な驚愕が、慈母の破滅を導くと言ふ形の方が、古くて作意を交へないものに違ひない。
葛の葉以外の狐は、われわれの祖先と毫も交渉はなかつたか。此方から探りを入れて見よう。やはり劇関係の物から言ふと、河竹黙阿弥の脚本の「女化稲荷(ヲナバケイナリ)月朧夜」と言ふのは、牛久沼の辺、水戸海道の途中に在る女化原の伝説を為組んだもので、筋の立て方は「大内鑑」に囚はれ過ぎて居る。其事実は、葛の葉が義太夫の正本に纏まつてから後に、起つた事柄として伝へられて居る。尠くとも、徳川末期の人々からは、極(ごく)の最近に起つた実話と信じられて居たのである。其実録の方では、常陸稲敷郡の或村の百姓忠七が、江戸からの帰り途、女化原を通つて、一人の女に逢うた。其女を家に連れ戻つて、妻とした処、男二人、女一人の子を産んだ。ある時、添へ乳して寝た中に、尻尾が出た。子供が騒ぐので、為方なく、一首の歌を残して逃げ去つた。人間に近い生活をしたものとして、最後の抒情詩を記念に止めさすのも、吾々の民族心理の現れだなどゝ、簡単な心理説明では説明はつかない。人間でない性質のある者まで、歌を読み残して居るのである。女化原に就ては、今一つ本家争ひをする者がある。常陸栗山の栗山(蜀山は大徳と言ふ)覚左衛門、行き暮れた女を泊めてやつた後(蜀山は行き逢うた女といふ)夫婦暮しをして居る中に、同じ手順で化けの皮を露して、子を棄てゝ逃げ還つた。此も歌を書き残した事になつて居る。此方では、女化原と言はず、みどり子が 跡を尋ねば、うなばかゞ原に泣く泣く臥す と答へよ  と原の名を読み込んで居る。
蜀山人は、其家の主人代々顔長く口尖つて居ると書いてゐる。此話が記録せられる時分には、地名は既に女化原となつて居たのに、歌だけは、昔の儘に固定して居たと見える。百姓が耳から耳への口うつしの話に、なぜ短歌の挿入が必要なのだらうか。話し手などよりも、数段も上の境涯に居るものなる事を見せる為であつた事は、考へられるのである。馬琴などの仲間のよりあひ話を録した「兎園小説」には、其隣国の下総にも、狐の子供のあつた話が、而も正真正銘狐の子孫と自称する人の口から聞いた聞き書きが載つて居る。江戸下谷長者町の万屋義兵衛の母みねは、下総赤法華村の孫右衛門方から出た人の娘である。六代前の孫右衛門が、江戸からの戻り道、ある原中で女に会うて、連れ戻つたところ、其働きぶりが母親の気に入つて、嫁にする事となつた。子供を生んだ後、添乳をして居て尻尾を出した。子供が泣き騒いだので、女は何処かへ逃げて行つた。いろいろ尋ねて見ると、向うの小山に、子供のおもちやの土のきせるや、土の茶釜が置いてあつた。やはり此辺に居るに違ひないと言ふ事になつたが、此子成人の後、孫右衛門を襲いだが、処の人は「狐おぢい狐おぢい」と言うた。後に発心して廻国に出たが、其儘帰つて来ないと伝へて居た。みねは幼少の時其家に行つて、狐の母が残したおもちやを見た事があつたとある。此はもう歌を落して居る。土焼きのおもちやを子供に持つて来て、置いて行つたなどは、近代的とでも言はうか。なまじつかな歌を残すよりも、憐が身に沁むではないか。此三つの話は、土地の近い関係から、大体同じ筋に辿られる。こゝまで話が進むと、最初そんな愚かな事が、と言ふ様な顔をしてゐられたあなた方の顔に、ある虔(ツヽマ)しさが見え出した。或はさうした事実があつたかも知れない、とお考へ始めになつたものと推量しても、異存はなさゝうである。「狐おぢい」始め、女化原の二様の伝説では、別に其子が賢かつたとも言うて居ないが、狐腹の子は、概して雋敏な様だ。併し、狐の子だから、母方の猾智を受けるものと見る訣にはゆかない伝説が、まだ後に控へて居るのである。田舎暮しには、智慧を問題にはしない。凡人の生活の積み重りなる田舎の家の伝説には、英雄・俊才の現れる必要は、一つもない。とにかく其家には、祖先以来、軒並みの人間以外の血のまじつて居る事さへ説明出来れば、十分だつたのに違ひない。村人の生活はどんな事をも、平凡化する方が、考へぐあひがよかつたものらしく、この話なども今少し古くには、しかつめらしい形で伝へられて居たものと見られる。稲敷郡根本村の百姓と狐との間に生れた子が、河内ノ庄の岡見の家に仕へて栗林下総守義長と言うて、智略に長け、勇力優れた人であつた。此話は、天正頃の事と言ふが、其は疑へるにしても、前の三つよりは、古い形と信じてよいのである。
同じやうな考へ方の、今一例をあげると、名高い物臭(モノクサ)太郎なども、江戸時代の信州に伝つて居た形は、極めてありふれたものになつて居る。「中昔の事なるに」と室町時代の「物臭太郎の双紙」に見えた主人公は、伝説では江戸時代の人になつて居る。物臭太郎は、日本あるぷす登山鉄道と言ふ方が適当な、信濃鉄道の穂高駅の近所に在る、穂高の社の本地物なのである。だから、此方の話も、松本市から北西の地方で、根を卸したものと見てよからうと考へる。つまり物臭太郎出世譚の平凡化したものだ。物臭太郎と言ふ人、或時自分の田を作つて居ると、見知らぬ女が手伝ひに来た。こんな働き者なら、女房にしたらよからうと言ふ考へで、家に入れた。非常によく稼いでくれる。子が産れて後、添乳してまどろむ中、尻尾を出して居た。其をよそから戻つた物臭太郎--今は亭主--が見つけた。此は、とんでもない処を見た。併し知らぬ風をしてやらうと、まう一返表へ出て、今度は、ばたばた足音を立てゝ戻つて、何喰はぬ顔で居た。処があけの日になると、子供が騒ぎ出した。母親が姿を隠したのである。いぢらしいから乳離れまで居てやつてくれと言つたが、とうとう戻らなかつた。其代りには、其家が段々富み栄えて、長者になつたと言ふのである。なぜ此人を物臭太郎と言うたのか判然しない辺から見ても、頗古い話の「ある人」にあり合せの、其地方の立身一番の人の名をくつゝけたゞけで、つまりは田舎人のさうした点に対するものぐさから出たものであらう。此は「炭焼き」や「芋掘り」の山人の出世を助ける高貴の姫の話が、狐腹の家の物語に入り込んだものと見てよさゝうである。松本平(ダヒラ)辺は、玄蕃(ゲンバ)ノ允(ジヨウ)の様な長命の狐の居た処とて、如何様狐の話が多い。保福寺峠の麓、小県郡の阪井は、浦野氏の根拠地であつた。浦野弾正尚宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)。此奥方の生みの母も狐であつた。浦野家では、それ以来皆、乳首が四つある事になつた、と言うて居た。小笠原の奥方並びに、其腹の子たちには、そんな評判は立たなかつたが、其でも狐だけは、小笠原家につき纏うて居る。小笠原家が、豊前小倉に国替への後、突如として狐が姿を現した。貸本屋本から芝居へ移つて、今尚時々見聞きする、小笠原隼人を中心とした小笠原騒動の一件は、由来が遠い処にあるのである。長時は、小笠原家には大切な人である。蒲生氏郷も、狐の子だと言ふ伝へがある。偽書と称せられて居る「江源武鑑」と言ふのにある話で、尠くとも「江源武鑑」の出来た時に、さうした伝説が、何かの書物か、民間の伝へにあつた事だけは信ぜられる。江州日野の蒲生氏定の奥方が、急に逃げ出して了うた。実は、三年前にほんとうの奥方をば喰ひ殺した狐が、後釜に据り込んで居て、忠三郎(氏郷の通称)を産んだのであつたと言ふ。さすれば、氏郷は狐の子であるから、秀いでた処があるのだ、と見た人々の心持がわかる。蒲生家については、別に狐腹なる為の身体上の特徴は言ひ伝へて居ない様だ。こゝまで来れば、安倍晴明(アベノハレアキラ)の作つたと言ふ偽書--併し江戸の初めには、既にあつた--「(ほき)内伝抄」によつて、葛の葉の話が、ちよつと目鼻がつき相に見える。早急を尊ぶ態度の、おもしろくない事を証明する為に、仮りに結論を作つて見よう。此は名高い話で、葛の葉の話の唯一の種の様に言うて来てゐるのであるが、此話は、江戸以前尠くとも室町の頃には、既に纏つて居たものと見られる。晴明の母御は、人間ではなかつた。狐の変化であつたのが、遊女になつて諸国を流浪して居る中、猫島に行つて、ある人に留められて、其処に三年住んだ。其間に子が出来たので、例の歌を残して去つて了うた。子は成人して陰陽師となつた。都に呼びよせられた時、母の恋しさに、和泉国信太ノ杜(モリ)へ尋ねて行つて拝んで居ると、年経る狐が姿を顕した。其が、晴明の母の正体だつたといふのである。合理的な議論を立てれば、人まじはりの出来ぬ漂浪民(ウカレビト)の女だから、畜生と見て狐になつて去つたといふのであらう。殊に信太ノ杜の近くには、世間から隔離せられて居た村が今もあるから、其処から来た女だらうと言ふ様なことも言はれよう。こんなあぢきない知識も、後世には其部落の伝説となるかも知れない。此記載が角太夫ぶしの正本を生み、竹本座の正本にまで発達したのだとして、此でまづ、一通りの説明はつく様だが、此だけで説き尽されたものと考へられては、甚残念である。
「大内鑑」や「信太妻」の作者が、此だけの種に、脚色をつけたものと思はれぬのは、もつと考へねばならぬ色々の種を含んで居る点である。譬へば、なぜ童子或は童子丸といふ名が、葛の葉の子に与へてあるのだらう。内伝抄では、問題になつて居ない点である。意識上の事実もあらうが、多くは無意識的に、色々な記憶--時として個人の胸に再現するものを籠めて--を持ち出して居るのである。「物臭太郎の双紙」と同じ傾向で、所謂お伽双紙の中にこめられて居る「狐の双紙」と言ふのを見ると、或僧都が家に居ると、乗り物をもつて迎への者が来る。其に乗つて行くと、立派な家に入つた。僧都は、其処の女あるじと契りをこめる事になる。暫らく其家で暮して居た処が、或日、若僧が二三人、錫杖をふり立てゝ出て来た。其を見ると、女たちは大騒ぎして逃げ散つた。ふつと目を覚すと、御堂の縁の下で寝て居たのだ。畳と思うたのは、蓆のちぎれたものだつたといふ様な話で、とんと我々の耳にまだ残つて居る、狐につまゝれたお百姓たちの、所謂実験談其儘である。私どもの聞いた話は、大抵狐もあつさりして居て、よくよく執念深い狐で通つてゐる奴の外は、仏の利益がなくとも、背中の一つもどやされると、気のつく程度のものばかりである。此点、狐が呪法の上に主な役目をしなくなつた時代を見せてゐるのだと思はれる。此は、後の話が、そこに触れて行く事と思ふ。右のお伽双紙の原画とまで思はれるものが、平安朝でも古い処にある。三善清行、備中介であつた頃、聞いた事である。実際其当人をも知つて居る様に書いてあるのだが。備前小目賀陽(カヤ)ノ良藤、妻に逃げられて気落ちした様になつて居た頃、菊の花に結びつけた消息を、一人の女が持つて来た。其には、ある身分の高い女が良藤を思うて居るよしが認(したた)めてある。良藤は、其女の処へ通ひ始めて、後には、家を出て女の家に三年暮した。其中に、子どもが出来た。良藤は先妻の子を廃嫡して、此子に後を継がせよう、とまで考へてゐた。ある日、一人の僧が杖を持つて現れて、良藤の背中を叩いた。其女は其と見るや、逃げて了うた。良藤は、自分の家の倉の床下、普通なら這入れさうもない処に居たのである。女は勿論狐であつた。這ひ出して来た良藤は、真青になつて居た。良藤の見えなくなつてから、家人は大騒ぎして、坊さんを招いて祈祷した功徳で助かつたのである。こゝらに来ると、葛の葉との縁は、大分遠くなつたが、狐の人事関係は、よほど緻密になつた筈である。大祓の祝詞の国つ罪を見ても、祖先の中には、恥しながら、色々な動物を性欲の対象に利用した事実のあつた事が推察出来る。併し、狐の様な馴れにくい獣を犯す事が、ありさうには思はれない。猪との性関係の話が、今昔物語に見えたりするのは、猪の馴れた豚を対象にした事実から逆説出来るかも知れぬが、狐の如きは到底考へに能はぬ所だ。だから、一切獣の子孫・獣の変化(ヘンゲ)との恋愛譚は、皆人間の性欲関係からきり放して、考へねばなるまいと思ふ。良藤の事は、今昔物語にも出て居るから「狐の双紙」は其敷き写しとも思はれるが、だまされ手を坊さんにしたのは、合点がゆかない。起りは、何処にあらうとも、一先(ひとまづ)民間の話になつてゐたものを、やゝ潤色して書いたのだらうと思ふ。狐と人間との関係は、もつと溯つて言ふ事が出来る。平安朝の極の初め、嵯峨天皇の時に出来たものだが、内容は殆ど奈良朝気分を持つて、奈良以前の伝説を書いて置いた日本霊異記の中に、美濃の国の狐ノ直(アタヘ)(又、美濃狐)と言ふ家に関した伝説が載つてゐる。欽明天皇の御代、其家の祖先なる男が、途中で遇うた美しい女を連れ戻つて、夫婦になつた。其女が、子どもを産んだ。其子の産と殆ど同時に、其家の犬が亦産をした。其犬の子が、翌年の春、庭を歩いて居る其女房に咬みついた。驚いた余りに、元の姿を顕して、垣に逃げのぼつて、家を出て行かうとした。夫がなごりを惜しんで、此からも毎夜「来つゝ寝よ」と言ふと、夜は来ることになつた。それで子の名を「きつね」其獣の名も「きつね」といふ様になつたとある。此子、力は人に優れて居たのみか、其四代目の孫女に、馳ける事極めて捷く、力逞しい女が出て居る。此「狐ノ直(アタヘ)」まで溯れば、まづ日本に於ける狐と人との交渉の輪郭は話し得たことになる。
日本の狐も、上古と近世には、やさしい感じを持つて語られて居るが、平安朝から後久しく、恐しくて執念深いものとなつたのは、托枳尼(ダキニ)の修法の対象として使はれたせゐであらうと想像してゐる。ところで、日本の動物中、さうした点で狐と勢力争ひの出来るのは、まづ蛇であらう。蛇との交渉が古い処に多く、狐との関係は、わりあひ新しい時代に殖えて来た様にさへ思はれるのである。蛇との恋で名高い話は、大和の三輪の神に絡んで居るもので、大体二様になつて居る。晩に来て姿を見せない。どこの男だか知れないから、男の着物へ、娘が針をさして置いたら、窓から出て、三輪山に這入つて居たと言ふのと、今一つ百襲(モヽソ)媛と言つた方が、姿を見せてくれと男に言ふと、明日お前の櫛笥の中に這入つて居ようと言うた。箱を開けて見ると、蛇が居たので驚きの声を立てた。すると、おれに恥を見せたと言つて去つたと言ふのとである。百襲媛は事実皇族出の巫女であつた。其に神が通うたのである。前の方には蛇の事はないが、三輪の神を蛇体と考へて居た事は事実である。此系統の話で、九州の緒方氏の伝説は、其家が元大神田(オガタ)で、三輪(大神々社)社に関係あつた家筋である点から、注意すべきものである。緒方氏の先祖は蛇である。自分の処へ通ふ男の家を知る為に、糸をとほした針を領(エリクビ)にさし込んで、翌朝糸を伝うて行くと、姥个嶽の洞穴で止つて居た。中で非常に呻く声がして、針が首にさゝつて、自分はもう死ぬ、併し、子はお前に宿つて居るから、其を育てゝくれと言うた。一度姿を見せてくだされと言ふと、中から大きな蛇が首をつき出した。其孫にあたる人を「あかゞり大太(ダイタ)」と言つて、鱗の様に皮膚がきれて居たと言ふ。其からして、緒方氏の家長になる人には、皆背中に鱗が生えて居るとある。日本中に、鱗や八重歯を一族の特徴とする家が、かなりある様である。此が即(すなはち)前に言ひ置いた浦野一族の乳の特徴と一つのものである。三輪明神は、古い処では、此様に男と考へて居る様であるのに、中世から女と考へて来る事になつた。謡曲の三輪などにも其は見えて居るが、もつと古くから、さう信じられて居たものらしく、尠くとも平安朝の末には、明らかに見えてゐる。俊頼の「無名抄」には、三輪明神は、住吉明神の妻であつたが、住吉明神に棄てられたので、歌を詠んで住吉明神に贈られた。その歌は
恋ひしくば とぶらひ来ませ ちはやぶる三輪の山もと 杉立てるかど
と言ふのだとある。此は、古今集の
わが庵は三輪の山もと 恋ひしくば とぶらひ来ませ 杉立てるかど
の拗れた形に過ぎない。ところが、顕昭法橋の「顕註密勘」には、同じ歌が、こんな話の中に伝つて居る。伊勢国奄芸郡に一人の猟師が居た。ある夜、山で鹿を待つて居た処、鹿は来ないで、闇の中にぎろぎろ光る大きな眼の物が来た。猟師が矢を射ると、逃げて了つた。其跡をつけて行くと、古塚の穴に這入つて居る様である。穴の外に、神女が一人居て言ふには、あれは化け物である。自分はあの化け物に捕れて、大和からこゝへ来たものだ。あれを焼き殺してくれとある。で、柴を穴にうち込んで、化け物を焼き殺して了うた。其跡が野中塚と言うて居る。神女は猟師と夫婦になつて、子さへ儲けた。其後暫らくして、姿を隠して了うた。猟師が悲しんで居る中、母を慕うて居た子供も、何処かへ影を隠した。神女の残して行つた「三輪の山もと杉たてるかど」によつて、大和へ尋ねて行つて、三輪の社を拝んでゐると、女房と子供の姿が、神殿から現れた。其後猟師も神になつた。此が由緒で、三輪の祭りには、奄芸の人がわざわざ参加に出かけるのだ、と言ふ風の伝へになつて居る。神女とあるのは、女神の意味でなく、巫女を言ふのだらう。此話などは今一転すると羽衣伝説になつて来る。内地の羽衣伝説では、天女の子を問題にせぬ様だが、沖縄になると、子供が重要な役まはりになつて居る。宮古島の漲水御嶽(ハリミヅオタケ)と言ふ拝処の由来には、女に通うた蛇が、女児三人孕ませて後、自分の種姓を明して去つた。約束通り三年目に、漲水へ連れて行くと、父の大蛇が姿を見せたので、母は子を捐てゝ逃げ出したのに、子どもは何とも思はないで、一人々々首と腰と尾に乗つて、蛇と共に御嶽の中に飛び入つたとある。三輪の神女と子との神になつた話に似て居るばかりか、糸をかけて男の家をつきとめる型まで含んでゐるのである。銘苅子(メカルシイ)と言ふ人は、水浴中の天女の「飛(ト)び衣(ギヌ)」を匿して、連れ戻つて宿の妻として、子を二人までなさせた。ある日母なる天女が聞いてゐると、弟を守りすかして居る姉娘の子守り唄に「泣くな泣くな。泣かなかつたら、おつかさんの飛び衣をやらう。飛び衣は高倉の下に匿してある」と無心に謡ふのを聞いて、飛び衣の在りかを悟つて、其を着て上天したと言ふ。子どもの無心でした事が、親たちを破局に導く点は、此迄挙げた狐の話の全体と通じて居る。太古の団体生活の秘密は、子供に対しては、とりわけ厳重に守らねばならなかつた。成年式を経ない者に、団体生活の第一義を知らせると言ふ事は、漏洩の虞れがあり、又屡さうした苦い経験を積まされてもゐたからである。今一つは、無心な子供に、神意を託宣せられると言ふ信仰である。此二つの結びつきが、此類の伝説の基礎にはあつたらしい。
父と母との間に横たはつてゐる秘密を発く役を、子どもが勤める事に就て、もつと臆測がゝつた考へを、臆面なく述べさせて頂く。よその部落と部落、尠くとも非常に違つた生活条件を持つて居るものと、てんでんに考へ相うて居る部落どうしの間に、結婚の行はれた時には、事実子どもを無心の間諜と見ねばならぬ場合も、起りがちだつた事と思はれる。併し一方、夫と妻とが別々に持つ秘密が、子どもの為に調和せられてゆく事もある。此が、社会意識の拡がつて行く、一つの道でもあつた。子どもが発くまでもなく、かうした結婚の、破局に陥らねばならぬ原因は、夫々の話に潜む旧生活の印象が、其を見せてゐる。其は、其母が異族の村から持つて来た、秘密の生活法の上にあつたのである。沖縄の話の序に、今一つ言ふと、先島(八重山・宮古諸島)辺ではよく、あの一族では何の魚類、此門中(モンチユウ)では某の獣類と言ふ風に、ある家筋に限つて、喰ふ事の禁ぜられて居る動物が、大抵どの家々にも、一つ宛はある様だ。譬へば、鱶・海亀・鮪・儒艮(ザン)・犬・永良部(エラブ)鰻の様な物に対して、厳重な禁制が保たれて居るのである。さうして其理由を、祖先が其動物に助けられたから、又は祖先其物だから、と言うたりして居る。祖先を動物とする中著しいのは、八重山人は蝙蝠の子孫、宮古人は黒犬の後裔と称する事である。二つの島人どうし互に、さう言つて悪口をつきあうてゐる。だから此島々では、家々で大事の動物のある上に、島としての疎かならぬ生き物がある訣なのである。部落を拡げて考へれば島となるが、小さくして見れば、家々であり、一族である。つまり、一族の生活を規定し、或信頼を担うてゐる動物のある事が考へられる。津堅(ツケン)の島(中頭郡)では、島の六月の祭りを「うふあなの拝(ウガン)」と言うて、其頃恰(あたかも)寄り来る儒艮(ザン)を屠つて、御嶽々々に供へる。其あまりの肉や煮汁は、島の男女がわけ前をうけて喰ふ。島以外の人は、島の中に、儒艮御嶽(ザンオタケ)なる神山があつて、此人魚を祀つてゐると言ふが、島人に聞けばきつと、苦い顔で否定する。さうして昔は、人魚でなく、海亀を使うたと言ふ。併し今こそ儒艮(ザン)が寄らなくなつたので、鱶を代りに用ゐる事にして居るのは事実だが、海亀は現に沢山居るのだから、其来なくなつた代りに使うたものとはうけとれぬ。何にしても、特殊な感情を、此海獣に持つてゐる事だけは明らかである。又、此島と呼べば聞えさうな辺にある一つの土地では、血縁の深さ浅さを表す語(ことば)に、まじゝゑゝか・ぶつぶつゑゝかと言ふのがある。ゑゝかは親類、まじゝは赤身、ぶつぶつは白いところ即脂身である。死人の赤身を喰べるのが近い親類で、遠縁の者は、白身を喰ふからだと説明してゐる。此二つの話に現れた、死人の命を肉親のからだに生かして置かうとする考へと、今一つ、神及び村の人々が共に犠牲を喰ふと言ふ伝承とを結び付けて見て、気のつく事はかうである。動物祖先を言はぬ津堅の島にも、曾ては儒艮(ザン)に特殊な親しみを持つて居たらしい。其が段々に、一つ先祖から岐れ出て、海獣で先祖の儘の姿で居るといつた骨肉感を抱く様になり、祖先神の祭りに右の人魚を犠牲にして、神と村人との相嘗(アヒナメ)に供へたものであらう。さう言へば、黒犬の子孫だと悪口せられる宮古島にも、八重山人などに言はせると、犬の御嶽があつて、祖先神として敬うてゐるなどゝ言ふ噂もする。かうした事実や、考へ方が、当の島々には行はれて居ないかも知れない。だが尠くとも、さうした噂をする、他の島々・地方(ぢかた)の人々の見方には、その由来するところの根が、却つて其人々の心にもあるのである。めいめいの村の古代生活に、引き当てゝ考へてゐるに過ぎないのだ。これを直様、とうてみずむのなごりと見なくてもよい。が、話の序に少し、此方面にも、探りだけは入れて置かう。
一体、沖縄の島々は、日本民族の核心になつた部分の、移動の道すぢに遺つた落ちこぼれと見るのが、一番ほんとうの考へらしい。内地にあつた古代生活の、現に琉球諸島に保存せられて居るものは、非常に多い。さすれば、此南島にある民間伝承の影が、一度は、我々の祖先の生活の上にも、翳(サ)してゐた事も考へられなくはない。琉球女は、今も長旅や嫁入りには、香炉を持つて行く。其香炉は神を表して居るものである。大抵は、元の家の仏壇から神棚へ祀り替へられる程、年代を経た先祖の神様と考へられて居る様だ。併し此女の持ちあるく香炉は、大分意味の違うた物の様である。女の香炉は、母から伝はる。根神(ネカミ)と謂はれて居る祖先神の香炉は、根所(ネドコロ)なる本家にあるばかりで、勝手に数を殖して、持ちあるくことは許されて居ない。此香炉は、女だけの祀る神なのである。男とさへ言へば、子すら、夫すら、拝む事も、お撤(サガ)りを戴く事も禁ぜられてゐる。沖縄本島では、段々意義が忘れられて、仏壇の位牌を持ち出したもの位に考へる人もあるが、其でも尚、此香炉に対する信仰の形は近代化しきつても居ない。八重山の石垣島では、とりわけ此考へが著しく残つて居る。此島では、女の香炉をこんじん(古風には、かんじんと発音する)と言ふ。祖先かと言へば、祖先でもなく、村の神かと思へば、村の神でもない。唯知れて居るのは、母から娘へ、順ぐりに譲つて行く神だと言ふだけである。恐らく、罔極の世の母から、分け伝へて来た神かと思はれる。亭主にも、息子にも拝ませないで、女ばかりの事(つか)へる神が、沖縄の家庭にはある事になるのである。琉球の神人(カミビト)は悉く女性ではあるが、拝む事は、男も勿論するのである。にも係らず、男の与らぬ神の存在は、どう言ふ事を示してゐるのであらう。村々の生活を規定する原理なる庶物は、てんでんに違うて居た。尠くともお互に異なる原動力の下に在るものと考へて居た。かう言ふ時代の村と村との間に、族外結婚が行はれるとすれば、男の村へ連れて来られた女は、かはつた生活様式を、男の家庭へ持ちこむ事になる。ほかの点では妥協しても、信仰がゝつた側の生活は、容易に調子をあはせる訣にはいかなかつたであらう。其に、神とも精霊とも、名をつける事は出来ないでも、根本調子となつてゐる信仰が、一つ家に並び行はれて居る場合、妻の信仰生活は、いつも亭主側からは問題として眺められた訣であらう。事実はそんなにまで、極端ではなかつたらうと思はれるが、其俤を伝へる物語は、この秘密の尊重と言ふ点に、足場を据ゑてゐる。此に、信仰の段々純化せられて来た時代の考へ方を入れて、説明すると訣り易い。妻が其「本の国」の神に事へる物忌みの期間は、夫にも窺はせない。若し此誓ひを夫が破ると、めをと仲は、即座にこはれてしまふ。見るなと言はれた約束に反いた夫の垣間見が、とんだ破局を導いた話は、子どもが家庭生活をこはした物語同様、数へきれない程にある。垂仁天皇の皇子ほむちわけが、出雲国造の娘ひなが媛の許に始めて泊つて、其様子を隙見すると、をろちの姿になつて居たので遁げ出すと、媛の蛇は海原を照して追うて来たとある。此話に出産の悩みをとり込んだのが、海神の娘とよたま媛が八尋鰐或は、龍になつたと言ふ物語である。此まで重く見られた産の為とする考へは、寧、後につき添うた説明である。おなじ事はいざなぎの命・いざなみの命の離婚の物語にも、言ふ事が出来る。見るなと言はれたのに、見られると、八つ雷(イカヅチ)(雷は古代の考へ方によれば蛇である)が死骸に群つて居た。其を見て遁げ出した夫を執(シフ)ねく追跡したと言ふのも、ひなが媛の話と、ちつとも違うてゐないではないか。死骸を見露して恥を与へたとて、怒つたとするのは、やはり後の説明なのであつた。此等の話に爬虫が絡つてゐるのは、訣のある事である。異族の村の生活を規定する信仰の当体を、庶物の上に考へたからである。更に其上に、長虫を厭ふ心持ちの影を落したのは、異族の生活を苦々しく眺めがちの心持ちから来たものなのではあるまいか。後々には、一つ先祖から出た血つゞきの物と見、又祖先の姿を其物にうつして考へ、更に神とまでも向上させる様になつたとも思はれるが、もつとうぶな形の信仰が、上の物語の陰に見えるではないか。たとひ、我が古代にとうてむを持つた村々が、此国土の上になかつたとしても、其更に以前の故土の生活に於て、さうした生活原理を持たなかつたとは言へない様である。神の存在を香炉に飜訳して示す様になつたよりも以前の、こんじんの形を考へて見れば、其が、儒艮であり、豚・海亀・鮪・犬であつたかも知れないのである。さなくとも、異族の村から妻の将来した信仰物が、女でなくては事へられぬ客神(まらうどがみ)として、今も残つて居るだけの説明はつく。とうてみずむと、外婚とを聯絡させて考へてゐるふれいざあ教授は、奪掠せられて異族の村に来た女が、きまつた数だけの子どもを生めば、村から逐ひ出される例を挙げて居る。「外婚」のなごりとして、「つま別れ」の哀話が限りなく発展して来た訣は此点から考へられさうである。とうてみずむの対象は、動物に限らない。植物も、鉱物も、空気も、風も、光線も、それぞれの村の生活を規定するものとして、信仰生活の第一歩を踏み出させたものである。私は此まで祖先としての考へと、とうてむとを別々にして来た。我が国にもある植物や、鉱物が、人間と結婚して子を生んだと言ふ様な話を、即座にとうてみずむの痕跡と見て了ひたくなかつた為である。このはなさくや媛や、いはなが媛の名が、単に名たるに止らないで、生命のまじなひに関聯してゐたのを見ると、木の花や、巌石をとうてむとして見た俤が、見えぬでもない。寿詞(ヨゴト)・祝詞に、植物や、鉱物によつて、長寿を予祝する修辞法の発達して居るのも、単純な譬喩でなく、やはり大山祇神(オホヤマツミノカミ)がした様なとうてむによるまじなひから起つて居るのかも知れない。神道の上で、太陽を祖先神と考へる様になつたのは、一つや二つの原因からではない。が、大和を征服した団体が、日光に向ふ(即、抗(ムカ)ふ)とか、背負ふとか言ふ事を、大問題にしたと言ふ伝へも、祖先神だからと言ふ処に中心が置かれては居るけれども、やはり此方面から説く方が、すらりと納得が行く様である。とうてむには、世襲せられるものばかりでなく、一代ぎりのものもある。おほさゞきの命と木莵(ツク)ノ宿禰の誕生の際の事実は、此側から説くべきものかも知れないし、ほのすせり・ほてり・ほをり或は、ほむちわけなど言ふ名も、一つ範囲に入るものとも思はれる。此「葛の葉の話」では、とうてみずむの存在を、どこどこ迄もつきとめて居る訣にはいかない。唯上の話の元だが、異族の村から来た妻、子の為には母なる人だけが、異なる信仰対象を持つて居た事だけの説明の役に立てば、それでよい。
妻の秘密生活の期間は、即信仰当体と近い生活に、入つて居る時である。此を覗いた為に、破局が来たと言ふだけの事が、記憶として、残つた幾代の後の、一番自然な解釈は、ひなが媛の様な話になるのである。異族の村の信仰の当体なる動物を、信仰抜きに、直様其人の、其際に現してゐた姿とする。書物の記載を信じれば、わが国の婚姻史では、母の許へ父が通うて来たと言ふ例話よりは、外族の村から、母が奪はれて来たと見える場合の方が、よほど古みを帯びて居る。母方で育つて母系に織りこまれるよりも、父方で成人する父系組織の方が、前にあつた様である。勿論、違うた村々に、違うた制度が、並び存した事も考へられるのであるが、大体は、世間の人の想像と逆さまに、父系組織の方が古い様である。母系も古くからあつたに違ひない。併し其記憶は、可なり後まで残つて居た。「親」の意義が分化して、おや・みおやと言ふ大昔の語が、母の意に使はれた事は、鎌倉時代までにも亘つて居る。さう言ふ語の行はれて居る間、其組織も行はれて居たと言ふのではない。更に新しい父系制度が行はれて居ても、語だけは残つて母の家で成人した子を、父が迎へとる事が、久しく続いた事を示して居たと言ふのである。想像に亘る事であるが、我々の考へられる領分での、一等古い形は、子を生んだ母が何かの事情で、本の国に戻つてしまふと言ふ風のものである。前に出た三つのことゞわたし(絶縁宣誓)の話は、さきに言うた三輪山の話などよりは、古い姿を見せてゐる。異族の村から来た妻の話は、いまだに地方の伝説に痕跡を止めて居る。大抵は逆に、嫁入つた国の姿に変る事になつた。池の主にとられた娘が戻つて来た。さうして、池に帰る姿を見れば、大蛇になつて水に飛び入つたなどゝ言ふ類である。話をはしよる為に申す。私は、大正九年の春の国学院雑誌に「妣(ハヽ)が国へ・常世(トコヨ)へ」と言ふ小論文を書いた。其考へ方は、今からは恥しい程合理式な態度であつた。其翌年かに、鳥居龍蔵博士が「東亜の光」に出された「妣の国」と言ふ論文と、併せて読んで頂く事をお願ひして置いて、前の論文の間違うたところだけを、訂正の積りで書く。「妣(ハヽ)が国」と言ふ語はすさのをの命といなひの命との身の上に絡んで、伝はつて居る。すさのをの命は亡母(即、妣)いざなみの命の居られる根(ネ)の国に憧れて、妣が国に行きたいと泣いたとある。いなひの命は熊野の海で難船に遭うて、妣が国へ行くと言うて、海に這入つた。此母は、海祇(ワタツミ)の娘たまより媛をさすのは、勿論である。うつかり見れば、其時々の偶発語とも見えよう。併し此は、われわれの祖先に共通であつた歴史的の哀愁が、語部(カタリベ)の口拍子に乗つて、時久しく又、度々くり返されねばならぬ事情があつたのであらう。此常套語を、合理式に又、無反省に用ゐて来たのを、記・紀は、其儘書き留めたのである。以前の考へでは、故土を離れて、移住に移住を重ねて行つた人々の団体では、母系組織の下に人となつた生れの国を、憶ひ出し憶ひ出した其悲しみを、此語に籠めて表したのが、いつか内容を換へる事になつたのだと説いたと思ふ。併しかうした考へは、当時その方に向いて居た世間の母系論にかぶれて、知らず知らずに出て来たのであつたらう。やはり、我々の歴史以前の祖先は、物心つくかつかぬかの時分に、母に別れねばならぬ訣があつたのである。母を表す筈のおもなる語が、多くは乳母の意に使はれる理由も、こゝに在るのかと思ふ。とにもかくにも、生みの子を捐てゝ帰つた母を慕ふ心が「妣の国」と言ふ陰影深い語となつて現れたのであらう。脇道に逸れた話が、葛の葉の子に別れて還る話の組み立ての説明に役だつたのはよかつた。子どもと村の秘密行事との関係、神託と子どもとの交渉は、前に既に書いたが、其上に、子を生む事が成婚の理由でもあり、同時に離縁の原因にもなつた古代の母たちは、其上に夫と違うた秘密な生活様式の為にも、呪はれて居たのであつた。
日本の神々と、動植物との交渉を考へると、動物が神である事の外に、祖先神となつて居る例も、ちらちらある。其上神の使はしめ又は、使ひ姫と謂はれる者が、沢山ある。人によつては、此をとうてみずむのなごりと考へる向きもある様だが、此ばかりでは、とうてむの意味に叶ふか叶はぬかゞ、先決問題になる。動物ばかりか、神々によつて、嗜好の植物もある。其うらには又、ある神の氏子に限つて、利用する事の禁じられて居たり、喰ふ事を憚らなければならぬ種類が、動物・植物に通じて、多くあることは、柳田先生其他が、論ぜられもし、報告せられもした。此方面には、殊に植物の領分が広い様である。大抵その原因として、其動植物の障碍の為に、神が失策せられたからの、憎みを頒つのだと伝へて居る。此神の失策とする説明は、恐らく或神話の結びつきがあつて、元の種をくるみ込んで了うたものだと思ふ。元の種なる伝承が忘られる世になつて、民間哲学が、其神話の方へ、原因をひきつけて行つたのである。其神話といふのは、全能なるべき神の為事が、あまのじやくの悪精霊の為に妨げられた為に、不完全な現状があるのだと言ふ説明である。此は逆に、悪精霊が失敗して、神が勝つと言ふ風にもなつて居る。右の神の企てをしこじらしたり、完成させなかつたりしたと言ふ神話の精霊の位置に、神と感情関係の深い動植物を置いて、説明をしたものだ、と言ふ見当を立てゝ見れば訣る。神の常用物なり、嗜好品なりを、神の氏人が私するのは、憚り忌むべきことであつた。其が忘れられて、ともかく神に関聯しての憚りだからとの見方から、すつかりうらはらに考へる様になつた。白い鶏は神のおあがり物だから、其を私せぬ習はしが、本を忘れ、末だけになつて、宵鳴きをして、神を驚した事があつたので、神がお憎みになつて居るのだと言ふ。或は神が其木に憑(ヨ)ることを好まれた木や、神の御贄(ミニヘ)に常住供へた植物を遠慮する心持ちが、反対に神が其植物に躓かれたからの憎みを、氏人としては永劫に表現する責任があるのだ、と説明したりしてゐる。神の為の供物が、さうした誤解から、御贄(ミニヘ)の数に入らなくなるのも、自然である。それと共に、神との相嘗(アヒナメ)に供へられた御贄の品が、氏人の一つの根から岐れた物で、神にも近いものとする考へのあつた事は、述べて置いた。若しかう言ふ推定を進めて行く事が構はないなら、植物は姑く措いて、動物の方は一つの大胆な小結論に届く。記・紀からよく引かれる、猿の声を伊勢の皇大神の使ひと考へ、白猪を胆吹山神の使ひと見たと言ふ伝へは、果して近代の使はしめと同じ内容を持つて居るか、どうか疑はしい。併し、力の優れたものに役せられる精霊が、さうした姿なり、声を以て、神の命じた用をたしに来る、とした考へのあつた事だけは訣る。使はしめの考へは、此と離して見ても、古くからある。「手代(テシロ)」と言ふのも、奈良時代に既に見えた語で、神の手其物として働くものである。此為事が人間に移つて、手代部なる部曲さへ出来た。武家時代にはみさきと言うた様だ。神の前駆者(ミサキ)の意であらう。神慮に随ふ部分は、役霊としての要素を持つて居るが、其成立には、尚一つ違うた側がある。犠牲をいけにへと訓むのは、一部分当つて、大体に於て外れてゐる。にへは、神及び神に近い人の喰ふ、調理した喰べ物である。いけは活け飼ひする意である。何時でも、神の贄に供へる事の出来る様に飼うて居る動物を言ふ。同時に、死物の様な植物性の贄と、区別する語なのである。我々の国の信仰の溯れる限界は、こゝまでゞある。併し尚一歩を進めるだけの材料はある。供へ物なる動物・植物の容れ物は、どうやら、其中に、神も這入られた神座の変化である様に見える。神と、其祭りの為の「生(イ)け贄(ニヘ)」として飼はれてゐる動物と、氏人と、此三つの対立の中、生け贄になる動物を、軽く見てはならない。其は、ある時は神とも考へられ、又ある時は、神の使はしめとも考へられて来たのである。遠慮のない話をすれば、属性の純化せなかつた時代の神は、犠牲料(イケニヘ)と一つであつた様に考へられる。さうして次の時期には、其神聖な動物は、一段地位を下げられて、神の役獣と言ふ風に、役霊の考への影響をとり込んで来る。さうした上で、一方へは、使はしめとして現れ、一方へは神だけの喰ひ物と言ふ様に岐れて行く。此次に出て来るのが、前に言うた、神の呪ひを受けた物、と言ふ考へ方である。稲荷の狐は、南方熊楠翁の解説によれば、托枳尼修法の対象なる托枳尼(ダキニ)と言ふ狼の様な獣の、曲解せられた物だと言ふ事である。其は、外来のものであるが、固有の使はしめと思はれて居るものにも、此類の役獣がありさうな暗示にはなる。山王の猿は「手白(テシロ)の猿」と称せられた様である。此は使はしめの意義を、正しく見せてはゐる。けれども、山王権現に対するおほやまくひの神の本体が、もつとはつきりせぬ間は、生得の使はしめかどうかは、疑ひの余地がある。鳩・鴉・鷺・鼠・狼・鹿・猪・蜈蚣・亀・鰻と言ふ風に、社々の神の使はしめの、大体きまつて居るのも、犠牲料の動物の側から見れば、説明がつく。
ところが一方又、地主神を使はしめ或は、役霊と見る様な風も、仏教が神道を異教視して征服に努めた時代から現れて来た。さうなると、後から移り来た神仏に圧倒せられて、解釈の進んだ世に、神としての地位は、解釈だけは進む事なく、精霊同時に、化け物としてのとり扱ひを受けねばならぬ事になつた。以前、坪内博士も脚色せられた葛城(カツラギ)の神ひとことぬしの如きは、猛々しい雄略天皇をさへ脅した神だのに、役(エン)ノ行者(ギヤウジヤ)にはさんざんな目にあはされた事になつて居る。逍遙先生は更にぐつと位置をひきさげて「真夏の夜の夢」などに出て来る様な、化け物にして了はれた。おなじ役ノ行者に役せられた大峰山下の前鬼(ゼンキ)・後鬼(ゴキ)と言ふ鬼も、やつぱり、吉野山中の神であつたもの、と思はれる。前鬼・後鬼共に子孫は人間として、其名の村を構へて居る。仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬(ヤセ)の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。一体おにと言ふ語は、いろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈(カミクマ)とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。八瀬の村は、比叡の地主とも見るべき神の子孫と考へたもので、其祖先を鬼としたものであらう。この村は延暦寺に対して、寺奴とも言ふべき関係を続けて居た。大寺の奴隷の部落を、童子村と言ふ。寺役に使はれる場合、村人を童子と言ふからである。八幡の神宮寺などにも、童子村の大きいのがあつた。開山の法力に屈服して、駆使せられたおにの子孫だと言はぬ童子村にも、高僧の手で使はしめの如くせられた地主神の後と言ふ考へはあつたらうと思はれる。童子が仏法の為に、力役に任ずる奴隷の意味に使はれたところから、殿上人の法会に立ちはたらく時の名を「堂童子(ダウドウジ)」と言うた。童子と言ふのは、寺奴の頭のかつかうから出た称へである。ばらけ髪をわらはと言ひ、髪をはらゝにしてゐる年頃の子どもを、髪の形からわらはと言うたに準じて考へると、寺奴の髪をあげずにばらかして、所謂「大童」と言つた髪なりでゐたからである。柳田国男先生の考へられた「禿(カブロ)」とも「毛房主(ケバウズ)」とも言ふ、得度せぬ半僧生活を営んだ者も、元は寺奴から出たのである。葛の葉の生んだ子を「童子」「童子丸」と言うたのも、こゝに根拠があり相に見える。鬼は、仏家の側ばかりで言ふのではなく、社々にもある事である。村里近い外山などに住み残つて居た山人を、我々の祖先は祭りに参加させた。さうして其をも、おにと言うたらしい。生蛮人を畏き神と称した例はあるから、神とおにとの区劃がはつきりすれば、かう言ふ荒ぶる神は、やはり鬼の部に這入つて来る事になつたのであらう。江戸の大奥で、毒見番を「鬼役」と言うたのも、昔の手代部(テシロベ)の筋を引いたらしい為事である上に、響きこそ恐しけれ、名にまで、其俤を留めてゐるのは懐しい。社についてゐた神の奴は、中古以来「神人(ジンニン)」と称へてゐる。かむづこと言ふ語も、後には内容が改つてゐるが、元はやはり字義どほりの神奴(カミツコ)であらう。さつきも話に出た、伊勢の奄芸郡の人が、祭りに参加するなど言ふことも、三輪の神人が山川隔てた北伊勢に居た事を見せてゐるのである。かうした村を、やはり単に「村(ムラ)」或は神人村と言うて居た。今では大阪市になつた天王寺の西隣の今宮村は、氏神としては広田の社を祀りながら、京の八坂の社に深い関係があつた。祇園の神輿は、此村人が行かぬと動かぬと誇つて、祭りには京へ上り上りして居た。而も此村は、四天王寺とも特別な交渉を持つてゐた様である。幸な事には、今宮の村は、ほかの村から特殊な扱ひは受けて居なかつた。が、大抵かうした神人村は、後世特殊な待遇を他の村々から受けることになつた。近世の考へ方からすれば、神事に特殊部落が与ると言ふのは、勿体ない事の様に見える。成立からして社寺に縁の深い村が、奴隷だといふ事以外に、今一つの余儀ない理由から、卑しめられる様になつて行つた。等しく奴隷と言うても、家についた者の中、家人など言ふ類は、武家の世には御家人(ゴケニン)となり、侍となつて、良民の上に位どられる様になつたが、社の奴隷は、謂はれない侮辱を忍ばねばならなくなつた。此等の村人は、みさき・使はしめの類を、自由に駆使する事の出来るものと、世間からは見られて居た。だから、其社の保護に縋つてばかり居られぬ世になると、手職もした様だが、呪術を行うて暮しを立てゝ行つた。又其事へて居る神の功徳を言ひ立てに、諸国を廻る様になつた。其村人の特別な能力が、他の村人からはこはがられる。呪咀を事とすると考へられる様になつて、恐れが段々忌み嫌ひに移り、長い間には卑しみと変つて行く。神人の本村は固より、漂泊した村人が旅先で定住して、構へた家なり村なりが、やつぱりさうした毛嫌ひを受ける。「おさき持ち」「犬神筋」「人狐(ニンコ)」など言ふ家筋として、人交りのならぬものとなつたのも多い。神人の念ずる神は、不思議にも、所属の社や寺の本殿・本堂に祀るところの本筋の神仏でない場合が多い様である。漂泊布教者は、大方は、神奴・寺奴出身の下級の人々であるが、其本所の本筋の神仏を持つて歩いたものと、さうでないものとがあつた様である。神人・童子以外にも、いろいろな意味の半俗の宗教家が流離して遂には偉大な新安心を流布する事にもなつた。其はおもに、得度する事の出来なかつた寺奴の側で、神人の末は、多く浮ぶ瀬がなかつた様である。高野山往生院谷の萱堂(カヤダウ)の聖は、真言の本山には、寄生物とも言ふべき念仏の徒であつた。これも元は、紀州由良ノ浦の海人から出た寺奴であらうと思はれる。祇園の神人であつた摂津今宮村の神は「広田」である事は前に述べた。三輪の神人なる奄芸の里人の斎いた稲生(イナフ)の古社も、三輪明神には、関係がない様である。此事に就ては、いろいろな事が考へられる。第一は、何の血縁もない奴隷に、家の神を拝ませる事をせなかつたからは、自由のなかつた神奴も、信仰は、古くから強ひられずに来たものと考へられる。第二は、神奴をおにの後と見る事が出来れば、祖先が信仰せぬ神の庭に臨んだ習慣を其儘、祭りの人数には備つても、祀る所は其祖神なるおにであつたであらう。第三は使はしめを、神奴の祖先と考へたかも知れない、と言ふ点である。神の内容が分解して、手代(テシロ)なる「神使」の属性が游離して来ると、神・神主の間に血族関係を考へる習はしを推し及して、神使ひの血筋としての神奴と言ふ考へ方が、出て来る事もありさうだ。さうすると、元来神奴が持ち伝へて来た信仰の対象の上に、使はしめの姿が重つて来る訣になる。かう言ふ風に想像して見ると、神人が使はしめを駆使する様になる道筋も、わかる様である。何にせよ、神人・童子共に、普通と違うた祖先を持つて居るとせられた事だけは、事実らしい。さう言ふところへわり込み易いのは、動物祖先の考へである。
安名と葛の葉の住んで、童子を育てたと言ふ安倍野の村は、昔からの熊野海道で、天王寺と住吉との間にあつて、天王寺の方へよつた村である。其開発の年代は知れない。謡曲「松虫」に「草茫々たる安倍野の塚に」とあるが、さうした原中にも、熊野王子の社があつて熊野の遥拝処になつて居た事は、平安朝末までは溯られる様である。此社から、更に幾つかの王子を過ぎて、信太に行くと、こゝにも篠田王子の社があつた。宴曲の「熊野参詣」と言ふ道行きぶりに、道順が手にとる様に出てゐる。安倍野と信太との交渉は此位しか知れないのだから、今の処は必然の関係が見出されさうもない。童子丸とか、安倍ノ童子など言ふ名は、特殊な感じを含んで居る。作者の投げやりにつけたものと思へるかも知れないが、さうではない。類例のある名なのである。平安朝の中頃からは、ちよくちよく見えて、頼光に讐をしかけた鬼童丸、西宮記には、秦ノ犬童子と言ふ強盗の名がある。其同類に、藤原ノ童子丸と言ふのも見える事は、南方翁が指摘せられた。だが、角太夫の信太妻以来、歌舞妓唄にも謡はれた葛の葉道行きの文句には、「安倍の童子が母上は」とある。此辺の詞は、説経節伝来のものだらうと感じられるものである。「安倍ノ童子」と言ふ名は、古くから耳に熟して来た為に、固有名詞らしい感じの薄い語ながら、ある落ちついた味はあつたものであらう。必、久しい間くり返されたもの、と思はれる親しさがある。たゞ、安倍氏の子ども、安倍氏(晴明)になる所の子ども、と言ふだけの事ではあるまい。私は、此安倍野の原中に、村を構へた寺奴の一群れがあつて、近処の大寺に属して居たものでないかと見当をつけて居る。其寺は、大方四天王寺であらうが、ひよつとすれば、住吉の神宮寺かも知れない。何にしても、其村人を「安倍野童子」と言ひ馴れて、当時の人の耳に親しいものであつたところから、「信太妻」の第一作と思はれる語り物を語り出した人の口に乗つて、出て来た名ではなからうか。単に其ばかりでなく、ほかの神人・童子村にもある動物祖先の伝説が、此村にもあつて、村人を狐の子孫として居たのではあるまいか。仮りに話の辻褄をあはせてみると「安倍野童子」たちに伝へがあつて、自分たちの村からは、陰陽博士の安倍晴明が出てゐる。晴明の母は信太から来た狐の化生であつた。だから我々は狐の子孫になる。世間で「安倍野童子」と自分らを呼ぶのは、晴明の童名からとつたものだ、と言ふ風に信ぜられてゐた。まづかう考へて見ると、ある点までは纏りがつく。が、事実はそんなに、整頓せられたものではあるまい。説経節は元来「讃仏乗」の理想から、天竺・震旦・日本の伝説に、方便の脚色を加へて、経典の衍義を試みたところから出たものであらうが、仏教声楽で練り上げた節まはしで、聴問の衆の心を惹く方に傾いて行つて、段々、布教の方便を離れて、生活の方便に移り、更に芸術化に向うたものと思はれる。「三宝絵詞」や「今昔物語」は或は其種本ではあるまいかとも考へられ、王朝末には、説経師の為事が、稍効果を表して来たのではなからうか。さうして、段々身につまされる様なものにかはつて来て、来世安楽を願はせる為に、現世の苦悩を嘗め尽した人の物語を主とする事になつて、「本地物」が生れて来たのではあるまいか。此芽生えは、既に武家の始めにあつたらしい。が、社寺の保護の下に、大した革命の行はれることなく、長日月を経るを例とした我が国の芸術の一つとして、やはり保守一点ばりでとほして来たものと思はれる。其が、三味線の舶来以後、俄かに歩を早めて進んだ。そして、説経太夫が座を持つて、小屋の中で語る様になるまでには、傘の柄を扇拍子で叩いた門端芸人としての、長い歴史があつたであらう。説経には、新古二様の台本があつたらう、と言ふ事は前に言うた。新しい台本の出来たのは、それが正本として刊行せられた時から、さのみ久しい前ではなからう。新しい台本の出来る前に、古い台本を使うた時期が、かなり長かつたのであらう。簡単な古い説経に、潤色を施して出した新しい正本では、古くから世間に耳馴れた古説経持ち越しの知識は、其儘にして居た事と思はれる。だから、今ある説経の中には、聴衆の知識を予期してゐる所から出た省略やら、最初の作物なら書き落すはずのない失念などが、散らばつて見える。角太夫の「信太妻」にさへ、そんな処がある。「信太妻」は、どの社寺の由来・本地・霊験を語るのか明らかでない。強ひて言へば、信太ノ森の聖(ヒジリ)神社か、その末社らしい葛の葉社の由来から生れて、狐が畜生を解脱して、神に転生する事を説いた本地物だつたのではなからうか。此を節づけて語りはじめたのは、誰であらう。「安倍野童子」村に就ての想像が、幸い外れて居なかつたら、此村の童子であつて、漂泊布教して歩いた者の口に生れた語り物が、説経に採り入れられて、「安倍野童子」の物語として伝誦され、遂には主要人物の名となつて了ふ様になつたものと、考へる事が出来る。前に言うた高野の「萱堂(カヤダウ)の聖(ヒジリ)」が語り出したと想像せられる石童丸の語り物が、説経にとり入れられる様になつた。而も石童の父を苅萱と言ふのは、謡曲で見ると「苅萱の聖」とある。さすれば、萱堂の聖の物語が、いつか苅萱の聖の物語と称へられる様になり、作中の人物の名ともなつたのであらう。此も五説経の一つである「しんとく丸(又、俊徳丸)」は、伝来の古いものと思はれる。謡曲には、弱法師(ヨロボフシ)と言ふ表題になつてゐる。盲目(マウモク)の乞食になつた俊徳丸が、よろよろとして居るところから、人が渾名をつけたといふことになつてゐる。併し故吉田東伍博士は、弱法師(ヨロボフシ)と言ふ語と、太平記の高時の田楽の条に見えた「天王寺の妖霊星を見ずや」と言ふ唄の妖霊星とは、関係があらうと言はれた事がある。其考へをひろげると、霊はらうとも発音する字だから、えうれいぼしでなく、えう(ヨウ)らうぼしである。当時の人が、凶兆らしく感じた為に、不思議な字面を択んだものと見える。唄の意は「今日天王寺に行はれるよろばうしの舞を見ようぢやないか」「天王寺の名高いよろばうしの舞を見た事がないのか。話せない」など、言ふ事であらう。「ぼし」は疑ひなく拍子(バウシ)である。白拍子の、拍子と一つである。舞を伴ふ謡ひ物の名であつたに違ひない。此も亦白拍子に伝統のあつた天王寺に「よろ拍子」の一曲として伝つた一つの語り物で、天王寺の霊験譚であつたのが、いつの程にか、主人公の名となり、而もよろよろとして弱げに見える法師と言ふ風にも、直観せられる様になつたのである。柳田先生は、おなじ五説経の「山椒太夫(サンセウダイフ)」を算所(サンシヨ)と言ふ特殊部落の芸人の語り出したもの、としてゐられる。かう言ふ事の行はれるのは、書き物の台本によらず、口の上に久しく謡ひ伝へられて来た事を示してゐるのである。はじめて語り出し、其を謡ふ事を常習としてゐた人々の仲間の名称は、其語り物の仮りの表題から更に、作中に入りこんで人物の名となり易いのである。「帰らうやれ、元の古巣へ」と言ふのは、葛の葉物には、つき物の小唄の文句である。こんなところにも「妣が国」の俤は残つて居た。信太妻と言ふ表題も、実は、いつからはじまつたものとも知れぬ。本文には見えぬ語なのである。此にも由来はありさうである。其上、此名が、異族の村から来た妻、と言ふ意を含んで居る様なのもおもしろいと思ふ。
 
葛の葉(くずのは)

伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。また、葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、および翻案による同題の歌舞伎も通称「葛の葉」と呼ばれる。
村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。
「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。
保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信田の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り、別れる。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。
 
葛の葉の子別れ口説き

さらばによりてこれに又 いずれにおろかはあらなども
ものの哀れを尋ぬるに しゅじなるりやくを尋ぬるに
なに新作もなきゆえに 葛の葉姫の哀れさを
あらあら詠み上げたてまつる
   夫に別れ子に分かれ もとの信太へ帰らんと
   心の内に思えども いで待てしばしわが心
   今生の名残りに今一度 童子に乳房を含ませて
   それより信太へ帰らんと
保名の寝つきをうかごうて さしあし抜き足忍び足
我が子の寝間へと急がるる 我が子の寝間にもなりぬれば
目をさましゃいの童子丸 なんぼ頑是がなきとても
母の云うをよくもきけ
   そちを生みなすこの母が 人間かえと思うかえ
   まことは信太に住み処なす 春欄菊の花を迷わする
   千年近き狐ぞえ さあさりながら童子丸 
   あの石川の赤右衛門
常平殿に狩り出され 命危なきところなり
その時この家の保名様 我に情けをかけたもう
我に情けをかけたもう 多勢な人を相手にし
ややひとしくと戦えば 自ら命を助かりて
   そのまま御恩を送らんと 葛の葉姫の仮姿
   これで添うたは六年余 月日を送るその内に
   二世の契りを結びしぞえ つい懐胎の身となりて
   月日を満ちて臨月に 生んだるそなたもはや五つ
我は畜生の身なるぞえ 今日は信太へ帰ろうか
明日はこの家を出よかと 思いしことは度々あれど
もっといたならこの童子 笑うか這うか歩むかと
そちに心を魅かされて 思わず五年暮らしける
   葛の葉姫はその時に なれど思えば浅ましや
   年月つつみしかいも無く 今日はいかなる悪日ぞえ
   我が身の化様現れて 母は信太へ帰るぞえ
   母は信太へ帰りても 今に真の葛の葉姫がお出ぞえ
葛の葉姫がお出でても 必ず継母と思うなよ
でんでん太鼓もねだるなよ 蝶々とんぼも殺すなよ
露地の植木もちぎるなよ 近所の子供も泣かすなよ
行燈障子も舐め切るな 何を言うても解りゃせん
   誰ぞの狐の子じゃものと 人に笑われそしられて
   母が名前を呼びだすな この後成人したならば
   論語大学四書五経 連歌俳諧詩をつくり
   一事や二事と深めつつ 世間の人に見られても
ほんに良い子じゃ発明じゃと なんぼ狐の腹から出たとて
種は保名の種じゃもの あとのしつけは母様と
皆人々にほめられな 母は陰にて喜ぶぞえ
母はそなたに別れても 母はそなたの影にそい
   行末永う守るぞえ とは言うもののふり捨てて
   なんとこれにかえりゃりょう とは言うもののふり捨てて
   なんとこれにかえりゃりょう 離れがたないこち寄れと
   ひざに抱き上げ抱きしめ これのういかに童子丸
そちも乳房の飲みおさめ たんと飲みゃえのう童子丸
母は信太へ帰るぞえ 母は信太へ帰りても
悲しいことが三つある 保名様ともそなたとも
呼んでとめての妻と子を 抱いて寝るよな睦言も
   夕べの添寝は今日限り 母が信太へ帰りても
   残るひとつの案じには お乳が無くてこの童子
   何とて母を忘りょうぞ 忘れがたなきうち思い
   今は一つの案じには 人間と契りをこめしものなれば
狐仲間へ交じられず 母は信太の暮れ狐
身のやりどこもないわいな なんとしょうぞえ童子よと
あわれなりける次第なり さて皆様にもどなたにも
あまり長いも座の障り これはこの座の段の切れ
 
古浄瑠璃・「信太妻」(しのだづま)

「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」
第一
それ、天地陰陽の理、吉凶、禍福のことは、人の智と、不智とにあり。これを知るときは、天地日月も、掌(たなごころ)のうちにあり。これを知らざるときは、目前、なほ明らかならず。
ここに中頃、天文地理の、妙術を悟りて、神通人(じんつうにん)と、呼ばれし、安部の清明(せいめい)の由来を、くはしく尋ぬるに、人皇(にんのう)、六十二代、村上天皇の、御宇(ぎょう)に当たつて、五畿内、摂州の住人、安部の郡司、保明(やすあき)とて、上オロシ弓取り一人おはします。先祖のらい(ママ)かを、尋ぬるに、安部の仲丸(なかまろ)より、七代の後胤たり。さるによつて、その氏を、安部と号す。四天王寺と、住吉との、間(あい)に、一つの、庄を開き、代々(よよ)、ここに住み給ふ。さてこそ、この所を、安部野の里と、名づけたり。しかるに、保明、御子一人、持ち給ふ。安部の権太左衛門保名(やすな)、とて、生年二十三、その形、柔和にして、容顔美麗なり。ことに臨んで、怒るときんば、力量そのさま、すさまじく、大剛(だいこう)の勇士たり。しかるに、当家重宝、安部の仲丸、代々(よよ)伝はりし、天文道の、巻物あり。されども、弓馬の道に携はり、これを窮むることもなし。さて、家の執権に、三谷(みたに)の前司はやつぐ、そのほか、家の子日々に、出仕つかまつる。あるとき、保名、父に向かひ、「内々それがし、宿願あり。泉州、信太(しのだ)の明神へ、月詣で仕り候。当月は、いまだ、参詣、申さず候。今日参詣、仕りたく候」。保明、聞こしめし、「宿願ならば、少しも怠る、ことなかれ。はやとくとく」との、御諚(ごじょう)。「かたじけなし」と、お受けを申し、げに浅からぬ、親子の仲、うらやまざらんは、三重なかりけり。
これはさておき、その頃、河内(かわち)の、住人、石川悪右衛門の尉(じょう)つね平(ひら)と、言ふ者あり。これは天下にその名をあらはし、今日本に一人の、占形(うらかた)の名人、芦屋の道満法師(どうまんほっし)が、弟(おとと)なり。国は、播磨、印南(いなみ)の住人なりしが、兄の道満、朝家(ちょうか)に仕へ、数箇所(すかしょ)の、領地を給はる。その威勢によつて、弟つね平も、河内の守護となり、石川郡(こおり)に、居住して、栄華に栄え、なにごとも、心にまかせずと、いふことなし。しかれども、わがままならん、病(やもう)の道、つね平が妻女、かぜの心ちとて、万死の床(ゆか)に、伏しけるが、一門家の子、さまざま医術と、尽くせども、そのかひもなし。つね平申しけるは、「ことかりそめのやうに思ひしが、熱病、はなはだしく、なかなか大事(だいじ)なり。都にまします、舎兄(しゃきょう)、道満法師(ほっし)を頼み、病気の体(てい)を、占はせ、その様子によつて、あるいは、生霊、死霊の、わざにてあるか、尋ねみんと、道満の方(かた)へ、人をつかはし候へば、さつそく、来たるべきの、返状なり」と語るところへ、番の侍、「都より、御舎兄、道満の、御下りにて候」と申し上ぐる。つね平、喜び、「やれやれそれ、こなたへ」と、やがて立ち出で、「こは早々(そうそう)の、御来駕、かたじけなく候」と、やがて奥へ請(しょう)じける。道満、のたまふは、「さつそく参るべきやうに、存じつれども、御門(みかど)の御用繁く、思はず、あひ延び候。さて病人の様子はいかに」。つね平、「さん候(ぞうろう)。ただかりそめのやうに存じ候へども、熱病しきりに、五体を苦しめ、堪へがたく候」と、始め終りを申し上ぐる。道満聞きて、「さてその病気、さし起こりたる、月日刻限はいかに」。「されば、過ぎつる中の十日の夜(よ)、子の上刻かと覚え候」。道満、うちうなづき、「いでいで占ひみん」と、先祖、芦屋の宿禰(すくね)きよふとが、唐土(もろこし)の、法道仙人に会ひて、天文地理(ぢり)、易暦を学び、書物に著(しる)し、子孫に伝へし、所伝を取り出し、しばし鑑み、「いかにつね平、この病気は、いかにも、ほんしんより出でたれども、常に変りし、ぎやくきやうちうといふ病なり。常体(つねてい)の医師、存ずべき病所にてなし。この療治には、若き女狐の、生肝取り、すぐに病人へ、与へなば、たちまち病気、平癒すべし。これすなはち、法道仙人の、伝への内に、たしかに、こもれり。片時(へんし)も、いそぐべし」と申すところへ、都より、飛脚到来し、「道満法師、いそぎ上京なさるべし。唐土(もろこし)より、そうこくと申す、官人(かんにん)渡り、いろいろの貢ぎ物さし上ぐる。その儀につきて、占形(うらかた)なさるべしき(ママ)との、宣旨下り候」と、事急に申し上ぐる。道満、「その儀ならば、さつそく、上洛すべし。いかにつね平、いよいよ、さいぜん申せしごとくに、はからひ給はば、おつつけ、平癒あるべし。本復(ほんぶく)の喜びにこそ来たらめ」と、フシオトシそのまま都へ上らるる。さてつね平、「やれこの上は、片時(へんし)も早く、調へん。さいはひ、泉州信太の森には、野干(やかん)、多き所と聞く。それがしたち越え、狐狩りせん。留守の中、よく病人をいたはるべし」と、数(す)百人の勢子(せこ)の者、上下出で立ち、信太の森へぞ、三重いそぎける。 
さればにや、安部の保名は、供人少々にて、信太の宮へ参詣し、神前に向かひ、「所願成就、武運長久」と礼(らい)し、さて拝殿に大幕打たせ、酒宴し、上下ざざめき遊びける。さて拝殿に、さまざまの歌仙を、掛け置きたり。保名は見給ふに、まづ一番に見えたるは、柿本人丸(かきのもとのひとまろ)、歌には、フシほのぼのと、明石の浦の、朝霧に、島隠れ行く、舟をしぞ思ふ。これ、神道の根本、仏果、菩提の、妙文(みょうもん)、人間、生死(しょうじ)の、ありさまを、浦漕ぐ舟に、なぞらへて、深き心を詠まれたり。さてそのほかは、赤人、業平、小町が歌、末に有りしは中務(なかつかさ)、連ねし歌に、フシうぐひすの、声なかりせば、雪消えぬ、山里いかで、春を知らまし。げに心なき、鳥類、花に鳴く、うぐひす、水に住む、蛙(かわず)の声、いづれか、歌を詠まざるや、神も仏も、納受あるはこの道ぞと、ツキユリフシしばしながめて、おはしますところへ、悪右衛門が勢子の者、信太の森へ駈け上(のぼ)り、おめき叫んで、狩り下(くだ)すところに、西の山の手より、狩り出されたる、狐夫婦、子を引き連れ、勢(いきおい)、はづんで、通りしが、二匹の、親は逃げのび、後なる、子狐、あまりせつなく、保名が、幕の内へぞ、逃げ入りける。保名、もとより、慈悲深く、「さてさて、不便(ふびん)や。畜類なれども、せつなきゆゑ、助けてくれよと、言はぬばかり。ええむざんや、それ助けよ」と言ふところへ、勢子の者ども来たり、「まさしくこの幕の内へ、野干入りたり。出だされよ」と、口々にぞ申しける。保名聞きて、「それそれ、ずゐぶん手を下げ、穏便にはからへ」。かしこまつて立ち出で、「いやいや野干は、この方(はう)へ参らず候。余方(よかた)を尋ね給へ」と、さらぬ体(てい)に申しける。勢子の者、怒つて、「まさしく、見つけて来たりけり。ぜひ出だされよ。さなくば、押し入り、無体に、取らん」と、怒りける。郎等聞きて、「さては、狐が入りしを、見給ふな。この上は、ぜひなし。いかにも、野干はこれにあり。渡したく候へども、この方(はう)頼み、駈け入りたるを、いかに畜類なればとて、むざむざと、渡しては、不便(ふびん)なり。われわれ、宿願あつて、この宮へ、参詣いたす。神前を、穢さんも、もつたいなし。この方へ申し受けん。ぜひ、宥免(ゆうめん)あつて、通られよ」と、オトシフシいと、神妙(しんびょう)にぞ申しける。勢子の者、勝(かつ)にのり、「やあ、おこがましき、ことばかな。ぜひ出ださずば、駈け入る」と、幕の内へ入らんとす。保名が、郎等、「狼藉者や」と、おし止(と)むるところを、いなやにおよばず、抜き打ちに、はつしと打つ。すかさず、受け止め、真つ向(こう)二つに斬り割つたり。残る者ども、一度にぱつと、追つ散らし、さて保名は、くだんの野干を取り出だし、「さぞ親どもが、嘆くらん。それそれ」と、放されける。イロあと立ち返り、うれしげなる、風情にて、ハズミフシゆくへも知らずなりにける。ところへ悪右衛門、大勢を引き具し、幕近く立ち寄り、大音上げ、「何者なれば、この方に、用事あるゆゑ、打ち取る野干を、無体に、奪(ば)ひ取るのみならず、わが手の者、さんざんに、打ち散らし、狼藉なる、ふるまひ、一人も余さじ。われ、石川の悪右衛門、つね平、といふ者なり。はやはや出でよ。命惜しくば野干を出し、降参せよ」と、怒りける。保名、堪(こら)へぬ若者にて、「なに、石川の悪右衛門とや。われこそ、摂州、安部の郡司、保明が一子、権太左衛門保名と、言ふ者なり。なんぢが下部(しもべ)ども、それがしが、幕の前にて、狼藉をせしかども、下人と思ひ、わざと降参しつれば、勝(かつ)にのり、幕の内へ、斬つて入るゆゑ、追つ散らしたり。下郎のわざ、主人の、知らざることよと、思ひしに、さては、悪無慚の、狼藉者に申しつけ、事を好む者と見えたり。イロオンおのれがようなる、無道人(ぶどうじん)、合はぬ相手と思へども、是非に及ばず。いざござれ」と、太刀抜き打つてかかる。悪右衛門が、郎等渡り合ひ、ここを先途(せんど)〔と〕、斬りむすぶ。大勢に、無勢(ぶぜい)の、ことなれば、保名が郎等、ことごとく討たれ、あるいは手を負ひ、保名も傷を蒙り、しばし休らふところへ、悪右衛門が、郎等、さわなみ清六、隙間もなく斬つてかかる。上段下段、つけつからんず、戦ひしが、保名、とある伏し木に、けしとみ、かつぱと転(まろ)ぶを、清六、はつしと打つを、ちやうど受け止め、伏しながら、イロジフシさつと薙いだ。諸膝(もろひざ)流れ、のつけに返すを、立ち上がつて、首を打つところへ、郎等、駈けつけ、むずと抱く。「心得たり」と、前へ、「えい」と引き伏する。また三人取りつく。これをも、引き伏せんと、競り合ふところへ、大勢、どつと、折り合ひ、手取り、足取り、フシやがて繩を掛けたり。保名、怒つて、イロオン「ええ、無念や、さしものそれがし、繩目の恥に、及ぶこと、天道に捨てられたり。イロええ父上の、思(おぼ)しめされん、口惜しや」と、歯がみをなし、怒らるる。つね平聞きて、「やあ、最前の、高言とは違ひ、やみやみと、生捕られしよな。見ればなかなか、腹の立つ。それ、頭(こうべ)を刎ねよ」。かしこまつて、傍(かたわら)へ引き据ゆるところへ、河州(かしゅう)、藤井寺の、住僧、らいばん和尚、供数多(あまた)にて、来たらせ給ふ。つね平、もとより、檀那の、ことなれば、「これは存じよらざる、御来臨にて候」。和尚聞こしめし、「愚僧この頃、用事あつて都へ上り、一両日以前に罷り下り、貴殿、内方(ないほう)、病気をも存ぜず、今日、宿所へ立ち越えしが、承りしより、なかなか元気に、見えて候。貴殿のこと、尋ね候へば、用事ありて、この所へ来られしと聞きて、さいはひ、明神へ、志のついでながら、御目にかからんため参りたり。してそれなる、囚人(めしゅうど)は、いかやうのことにて、はからひ給ふ」。つね平、「さん候(ぞうろう)。まづ思しめしより、宿所まで、御来駕かたじけなく候。さて、この段は、かやうかやうの、狼藉ゆゑ、かく召捕りて、殺害(せつがい)、いたし候」と、始め終りを語りける。らいばん、聞こしめし、「もつともさもあらん。さりながら、愚僧これへ参り合ひ、殺害せらるる者を、見捨てて、通るべきや。不思議に来たるも、仏神の御加護にてあるらん。いかやうの科(とが)あるとも、日ごろ檀那のよしみに、不承ながら、この囚人(めしゅうど)を、それがしに給はり候へ」。つね平、承り、「仰せ背きがたく候へども、きやつめが、重々の、科人(とがにん)にて、賽(さい)の目に、刻みても、飽きたらず候へば、まつぴら、御許し下さるべし」と、ことばを分けて申しける。和尚聞こしめし、「もつとも至極いたしぬれども、出家たらん者が、たとへ、鳥類、畜類なりとも、わが身に代へても、命を救ふが、出家の作法なり。たとへ申し受けたりとも、男は立てさせ申すまじ。すなはち、ここにて衣を着せ、愚僧が弟子につかまつらん。オスフシひらにひらに」と申さるる。つね平、今は是非なく、「和尚、さやうに、のたまふを、いかで、否とは申さるべき。それそれ、囚人を、和尚様へ渡し申せ」。かしこまつて、相渡す。「さてそれがしは、子細あつて、これよりすぐに、立ち寄るかたの候へば、さつそく、御暇申し上げん」と、礼儀を述ぶれば、和尚も同じく、「この方より、使僧をもつて、御礼申さん」。さらばさらばと、イロフシ言ふ声の、両方へこそ、別れける。その後、保名が、縛(いまし)め切りほどき、「われわれこそ、まことの人間にあらず。御身思はぬ、難に合ひ給ふも、みなわれわれがゆゑなれば、せめて、難儀を、救はんため、姿を変じて、謀(たばか)り申したり。最前の命の恩、イロオンいつの世にかは、送るべき。ただ何事も、時節到来」と、言ふかと思へば、たちまち、形を変じて、野干となり、行きがた知らず失せにけり。保名は、とかく呆れはて、しばしたたずみ、ゐたりけり。「ええ、フシユリ心なき畜類も、情けの道を忘れず、命の恩を、送りたるありさま、げに人間にまさりたり」とて、みな感ぜぬものこそなかりけれ。 
第二
安部の保名は、思はぬ難に、合ひけれども、野干が志ゆゑ、不思議に命、助かりけり。されども、ここかしこと、傷を蒙り、心も苦しく、息を吐(つ)かんと、谷川へ、下(くだ)るところに、賤(しず)の女(め)とうち見えて、二八(にはち)ばかりの女房の、いとやさしげなるよそほひにて、かの川へ下り立ち、水を汲むと見えしが、なにとかしけん、岩にけしとみ、かつぱと落つる。されども蔦蔓(つたかずら)に取りつき、危うきところに、保名、はつと言うて立ち寄り、手を取つて引き上げ、「さてさて危うき次第やな。怪我ばし、なきか」と言へば、女房ほつと、息を吐き、「ああさて、かたじけなき、ことどもや。すでに死すべきところをば、御助け給はる段、かへすがへすもありがたく候。さるにても御身は、いづくいかなる、御方ぞや。かやうの所へ、来たり合はせ給ふも、ひとかたならぬ、御縁ぞや。なにとしてかこの恩を、送り返し申さん」と、面映ゆげにぞ申しける。保名聞きて、「さればそれがしも、近国の者なるが、信太の明神へ、参詣いたし、不慮にこの所にて、かやうの難に合ひ、精気も、疲れしゆゑ、咽(のんど)を潤さんと思ひ、この川に来たり、ただ今の仕合はせなり」と、つぶさに語らせ給へば、女房聞きて、「さてはさやうの人なるか。みづからと申すは、この山陰(やかまげ)に住まひいたす、賤(しず)の女(め)にて候。仰せを聞けば、ことのほか御身も苦しき様子なり。みづからが、住み荒らしたる庵のあれば、まづこれへ立ち寄らせ給ひて、疲れを晴らさせ給ふべし。ただ今の命の恩に、ぜひに伴ひ奉らん」と、いとねんごろにぞ申しける。保名聞きて、「ああ近ごろうれしう候。ことのほか、疲れたれば、参りて少し休らひたくは候へども、御身こそ、さやうにのたまへ、また主(あるじ)の、いかが思しめし候はんや」。女房聞きて、「仰せもつとも、さりながら、みづからは、夫(つま)とても候はず。埴生の小屋に、ただひとり住む、山賤(やまがつ)にて候へば、なにか苦しう候はん。ぜひこなたへ」と勧むれば、保名も今は、とかうなく、「この上はともかくも、仰せは背き申すまじ」と、うち連れ山路(やまぢ)に入りにける。げに例(ためし)なき、妹背の縁、不思議なりける、三重次第なり。
これはさておき、安部の郡司、保明は、家の子郎等近づけて、「さても保名は、信太より、早々(そうそう)帰ると思ひしに、いまだ、下向せざるか」と、のたまふところへ、保名が召し連れ行きし、下人一人、大息吐(つ)いて馳せ来たり、保明の御前(まえ)に出で、信太にての次第、初め終りを語り、「味方は無勢、敵(かたき)は大勢ゆゑ、かなはずして、つひに若君も生捕られさせ給ふ。それがしも斬り死(じに)にせんと、存ぜしかども、このこと知らせ奉り、その後安否を、窮めんと存じ、かくの段に候」と、申しもあへぬに、保明、大きに立腹あり、「さてさて、それは、口惜しき次第かな。よくこそは、知らせたり。事を延ばして、かのふまじ。片時(へんし)も急に取りかけ、保名をば取り返さん。もしまた、運命、尽き果てて、保名討たれてあるならば、われもすなはち、その所を最期と思ひ定むぞ。なんぢら、それ物の具の、用意して、後より追つつけ、かたがた」と、門外より馬にうち乗り、駈け出せば、数万(すまん)の家の子、「やれ、安部の家の滅亡、このたびなるは」と、あわてふためき、われもわれもと、三重いそぎける。
さればにや、悪右衛門つね平は、よしなき、野干の争ひゆゑ、ここかしこと、暇(ひま)をとり、事、延び延びになりけるが、やうやう、野干を取り持たせ、山路(やまじ)をこそは、出でにける。向かふを見れば、なにかは知らず、大勢、けはしく馳せ来たる。こはいかにと、見るところに、ほどなく馳せ着き、大音上げ、「やあそれなるは、悪右衛門にては、なきか。かく言ふは、摂州、安部の郡司、保明といふ者なり。さてさておのれは、なにたることに、それがしが子を、理不尽には、搦(から)め置きしぞ。いそぎ、こなたへ、渡すべし。さなくば、おのれら、安穏には、置くまじ。いかにいかに」と、呼ばはつた。つね平聞きて、「なに、安部の郡司、保明とや。もつとも、不慮の、口論ゆゑ、保名とやらんを、召し取りてはありけれども、藤井寺の、らいばん和尚、さまざま、申さるるによつて、ぜひなく、助け帰したり。この方には知らず」と言ふ。保明聞きて、「さてさておのれは、臆病至極の、愚人かな。今さら、さやうに陳ずるとも、いかでそのかひあるべきや。とかくはよしなし。やれなんぢら、ものな言はせそ。斬つてかかれ」と、下知(げじ)すれば、「承る」とて、郎等ども、切先(きっさき)を並べ立向かふ。敵(かたき)も今はせんかたなく、防ぎとめんと、抜きつれて、火花を散らして、三重戦ひけり。
保明が郎等ども、思ひきつたる、励みの体(てい)、またつね平が、者どもも、互ひに劣らず、働きければ、両方ともに、みなことごとく討たれけり。寄手(よせて)の大将保明、なにさま保名は、さいぜん討たれたるに、まがひなし。所詮わが子の、孝養(きょうよう)に、敵の大将討ち取つて、本意をとげんと思ひ、つね平をめがけ、一文字に打つてかかる。悪右衛門、「心得たり」と、しのぎをけずり、鍔(つば)を割り、ここを先途〔と〕、斬りむすぶ。つね平、なにとかしたりけん、受太刀になつて、危うく、見ゆるところへ、郎等、一人来たつて、保明の、腰の番(つがい)を、ちやうど斬る。南無三宝と、振り返つて、真つ向二つに、斬り割つたり。また、つね平と、打ち合ひしが、保明、運のきはめかや、太刀を、枯木(こぼく)へ打ちこみ、抜かんとする間(ま)に、つね平、踊り上がつて、ちやうど打つ。なにかはもつてたまるべき、五十四歳を一期(いちご)にて、つひにそこにて討たれけり。悪右衛門、しすましたりと、喜ぶところへ、保明の郎等、三谷の前司、馳せ来たる。つね平、こはかなはじと、そのままそこを立ち去りけり。そのあとへ、三谷の前司、大息吐(つ)いて駈けつけ、このよしを見て、「南無三宝、しなしたりしなしたり」と、主(しゅう)の死骸を取りかくし、「おのれ悪右衛門め、いづくまでかは、逃がすべき」と、跡を慕うて、三重追つかけたり。
さるほどに、つね平は、やうやうと逃げのびて、もはやその日も暮れ、あなたこなたと、迷ひしが、灯火(ともしび)かすかに、見えければ、いそぎ立ち寄り、「いかにこの家(や)の主(あるじ)、われは道に、踏み迷ひたる者なるが、後(あと)なる森にて、山賊に会ひ、ただ今これへ、追つかけて来るなり。あはれ影を隠して給はれ」と言ふ。主(あるじ)の女房、聞くよりも、「いやさやうの人に、御宿はなりがたし。その上、夜陰のことなれば、かなふまじき」と、申しもあへぬに、三谷の前司、馳せ来たり、これも、灯火(ともしび)を、便りに立ち寄り、人影すと、すかして見て、「やあそれなるは、敵(かたき)にてはなきか」と言ふや、そのまま斬つてかかれば、「心得たり」と、抜き合はせ、しばしが間、斬りむすぶ。庵の内には、保名も、女房も、こは不思議なることやと、耳を澄まして聞きゐたり。なにとかしけん、三谷が太刀、鍔元より、ぽつきと折れ、こは無念と、つつと入りて、引つ組み、大金剛力を出し、「えいやつ」と、組み伏せたり。されども、首を掻くべき、打ち物なし。「ええ口惜しや。おのれ、ねぢ首にせん」。せられじと、両方、歯がみをなして、時を移す。悪右衛門、下より大音上げ、「やあこれなる庵に主(あるじ)はなきか。われこそ、河州石川悪右衛門といふ者なり。さいぜん申せし、山賊来たつて、ただ今わが命を取るは。あはれ出合ひ、助けたらば、所領を、望みに取らせん。近国に隠れなき、悪右衛門を知らざるか。出合へ出合へ」と呼ばはつたり。保名、この声を聞くよりも、「これは天の与へかや。いで討ちとめん」と言ふ。女房聞きて、「さあらばみづから、火を持つて出づべきなり。そのあとより狙ひ寄つて、思ふままに討ち給へ」。「心得たり」と、女房を先に立て、後(あと)について出でにける。三谷の前司これを見て、「やあ何者なれば、山賊と思ひ、あやまちするな。われは主(しゅう)の敵討ちぞ」と言ふ。保名、火の光に、すかして見て、「やあなんぢは、三谷の前司にてはなきか」。「してさう言ふは何者ぞ」。「われは安部の保名にてあるが、さて主の敵とはいかに」。前司、はつと驚き、「さて君にてましますか。なうきやつめが、大殿を討ち申して候。子細は、追つて申さん。さあこれ、あそばされよ」。保名、「おう、聞くまでもなし。わが身の敵、親の敵、覚えたるか」と、首宙に打ち落とし、「まづ庵にて、様子を聞かん。いざいざこなたへこなたへ」と、三人うち連れ入りにける。父子主従の機縁、世に珍しくも、巡り合ひたる、敵討ちやと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。  
第三
それ人界(にんがい)の盛衰、盛者必滅(じょうしゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)。過ぎし頃、信太の森にて、父を失ひ、その敵を討ち取り、余の人口を、塞がんため、古里へも帰らずして、女房の情けゆゑ、影を隠して、和泉なる、信太の森もほど近き、とある在家(ざいけ)の、住居(すまい)して、明かし、オクリ暮らしておはします。
年月、重なり、今ははや、七歳になり給ふ、若君、一人おはします。御名を、安部の童子と、つけ給ひ、御寵愛、限りなし。この若、成人の期(ご)に至つて、三国(さんごく)に隠れなき、占形(うらかた)の、名人、安部の清明(せいめい)、これなり。保名も今は、耕作をし、営みしが、今日もまた、野に出でんと、表をさして出でければ、童子、さもいたいけに、膚(はだえ)そのまま、父の跡を慕ひ出でんとす。母引きとめ、イロ「ああ、冷やかなりし、秋の風、イロ引きわづらはば、いかがせん」と、小袖をうち着せ、廻して結ぶ、狭織帯(さおりおび)、いと愛らしき、よそほひ、イロ子を思ふこそ、絶えもなし。賤(しず)が手業の、習ひとて、イロ営み営みに、フシ機(はた)を立て、辛(から)き世を、逃がれんと、やがて機へぞ上がらるる。人の情けに、寄り竹の、ツキユリフシ賤が苧環(おだまき)、繰り返し、縒(よ)れつ縺(もつ)れつ、君が思ひのかねごとは、ユリフシ宿る暇(ひま)なく、くるくると、きりきりはたり、ちやうちやうと、織る機布(はたぬの)こそ、やさしけれ。
さればにや女房、世の常の人ならず、信太の、野干(やかん)なりしが、保名に命助けられ、その報恩のため、人界(にんがい)に交はり、はや七年(ななとせ)になりにける。頃しも今は、秋の風、梟(ふくろう)、松桂(しょうけい)の、枝に鳴きつれ、イロ狐、蘭菊(らんぎく)の花に、蔵(かく)れ棲むとは、古人の伝へしごとく、この女房、庭前なる、籬(まがき)の菊に、心を寄せしが、咲き乱れたる、色香に賞(め)でて、イロながめ入り、仮りの姿をうち忘れ、あらぬ形と、変じつつ、フシユリしばし時をぞ移しける。折ふし、童子は、うたた寝してゐたりしが、目を覚まし、母の後ろに来たりしが、顔ばせを見るよりも、「やれ恐ろしや」と、おめき叫んで嘆きける。母、はつと思ひしが、さあらぬ体(てい)にて、「やれなにを、さやうに、恐れ嘆くぞ」。童子はさらに近づかず、イロ「なう母上の、御顔ばせの、変はらせ給ひて、恐ろしや」と、嘆くところへ、乳母(めのと)来たり、「なにとて、御機嫌、悪しく候」。母、さらぬ体(てい)にて、「いやつやつや、寝入りてありつるが、目を覚まし、騒がしく駈け出るゆゑ、母が方(かた)へ来たれと言へば、かへつて、母が恐ろしきとて、あらぬことのみ申すなり。それそれすかしてたべ」とのたまへば、乳母承り、やがて若を抱(いだ)き、奥の出居(でい)へぞ入りにける。さて母上は、くどきごとこそあはれなり。「われはもとより、仇(あだ)し野の、草葉の影を、隠す身の、人の情けの、深きゆゑ、クリ上フシ幾年月を、送りしが、いかなれば、あさましや、色香妙なる、花ゆゑに、心を寄せて、水鏡、うつる姿を、嬰児(みどりご)に、見とがめられしは、何事ぞや。これぞ縁の尽きばなり。あの体(てい)ならば、父上にも語るべし。せめて、あの子が十歳になるまで、見育てたく思へども、力及ばぬ次第なり。本(もと)の棲処(すみか)へ帰るべし。イロああさてかなはぬ、うき世や」と、しばし涙を流しける。さるにても、夫(つま)の保名、帰らせ給ふを待ち受け、よそながらなりとも、暇乞ひとは存ずれど、いやいや、ただ御留守に立ち去り、跡を見せぬにしくはなしと、思ひ立つこそあはれなれ。ところへ、乳母、若君を抱(いだ)き、「御休みなされ候」と、申し上ぐる。母上、「それ、こなたへ」と、抱(いだ)き取り、「ああ不便(ふびん)や」。同じ、褥(しとね)に、寄り伏して、にゆうみ(注・乳)を参らせ、さまざまと、いとほしみ深き、ありさまは、フシなほもあはれぞ、まさりける。ほどなく、若君、寝〔入〕らせ給へば、よにもうれしく、はや立ち出でんと、思はれしが、いやいや、そのまま出づる、ものならば、夫(つま)の保名、不思議をなさせ、給ふべし。あらましを、書き置かばやと、硯引き寄せ、文(ふみ)こまごまと、書かれたり。
「恥づかしながら、みづからは、信太の、森に棲む、野干なり。君に命を、助けられ、その報恩を、送らんため、かりそめながら、縁の結び、はや七年(ななとせ)を、送る身の、常ならぬ姿をば、幼き者に、見つけられ、もはや君にも、いかで、見見(みみ)え参らせんと、思ふ心を、一筋に、立ち出で申すこと、心かなしと思さん。世のありさまを、人の知らねばと、詠みおきし、言の葉に、まかせ、おしはかり給ふべし。かへすがへすも、幼き者、よきに、守(も)り育て、わが畜生の、苦しみを、助けさせたび給へ」。
イロああさてむざんや、幼き者が、夜にもならば、母よ母よと、尋ね慕はん、ことどもを、思へば思へば、悲しやと、そのまま若に取りついて、前後不覚に泣くばかり。やうやう心を取り直し、幼き者が、後れの髪を、かき撫で、「さてさて、不便(ふびん)や。みづから出づるを、夢にも知らで、フシかく豊かには、やどりけるよ。本の棲処(すみか)へ帰りても、この子がことを、思ひ出ださば、イロいかばかり悲しかるべき。思へば思へば、親子の縁、これが限りか、あさましや」と、またひれ伏してぞ泣くばかり。されども、かなはぬ、ことなれば、書きし文(ふみ)、童子が、紐(ひぼ)に、結(ゆ)ひつけ、そばなる、障子に、一首の歌を、つらねけり。
フシ恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉
と書きとめ、時刻移り悪しかりなんと、心強くも思ひきり、泣く泣く帰りしありさま、あはれなりオクリける次第なり。 
さてその後、若君は、夢にも知らず、豊かに、伏してありけるが、目をうち覚まし、あたりを見れば、人はなし。「なう母上、なう母上」と、かなたこなたを、尋ぬれども、そのかひさらにあらばこそ。若君、いよいよあくがれ、「やれ、乳母(めのと)はなきか。母上のわれを捨て置き、いづくへやらん、行かせ給ふ。イロなう、今より後は、仰せを背き申すまじ。悪しき手業も、いたすまじ。なう母上様」と、捨てて行きしを、知らずして、常の、おどしと心得、足摺りしたる、ありさま、諸事のあはれと聞こえける。乳母驚き、「これはいかなることやらん」と、申すところへ、父の保名、野辺より帰り、「いかに童子、なにを嘆くぞ」。「なう父上様、母の見えさせ給はぬ」と、フシすがりついて泣くばかり。保名そのまま抱(いだ)きとり、「やれ乳母、何たる子細ぞ」。「いや、なにとも存ぜず候」。保名、不思議に思ふところに、障子に一首の歌あり。
フシ恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉 
とあり。イロコトバ胸うち騒ぎ、なにとも、ふしぎ晴れやらず。また幼き者が、衣(きぬ)の紐(ひぼ)に、文あり。これを見れば、「なになに、みづからは、信太の森の、野干なりしが、一命を助けられ、その恩の報ぜんため、縁の結び、七年(ななとせ)まで過ごす身の、今さら立ち出で申すこと、あさましやみづからが、あらぬ形を、幼き者に見つけられ、あるにもあられず候。かへすがへすも、幼き者を頼む」との、文体(ぶんてい)、読みもあへず、これはこれはとばかりなり。御涙のひまよりも、「さてはいつぞや、信太にて、助けたりし、野干、恩を送らんと、美女と変じ、それがしが、命(めい)を救うて、さまざまと、育(はぐく)みたるか、やさしやな。たとへ畜類なればとて、この年月の、情けのほど、なにしに疎み果つべきや。まだいとけなきこの若を、不便(ふびん)とは思はずし、いづくへか行きつらん。思へば思へば悲しや」と、かきくどいてぞ嘆かるる。むざんや、幼き者、「なう父上様、もはや日も暮れ候が、母は帰らせ給はぬは。なう母のまします所へ、連れ行かせ給へや」と、わつと叫ぶときにこそ、父も乳母(めのと)も、そのままに、フシ前後不覚に泣きゐたり。保名涙をおさへ、「おうおう、道理かなことわりや。いかに乳母、この体(てい)にては、あるにもあられず。今宵、信太の森へ立ち越え、なにとぞこの子が母に会ひ、今一度、伴ひたく思ふなり。おことは跡の留守を頼むなり。いかに童子、あまりおことが嘆くゆゑ、父は母を尋ねに出づるが、なんぢもともに行くべきか。ただし、乳母に抱かれ、跡に残りて遊ばんや」。若君聞こしめし、イロ「なう、母上様に、会はせて給はらば、いづくへなりとも、参らん」と、フシすがりついて、嘆かるる。保名、不便(ふびん)に思しめし、「おおその儀ならば、連れ行きて、一度は会はすべし。こなたへ来たれ」と、夜半(よわ)にまぎれ、忍び出で、信太の森へぞ、三重いそぎける。
ここにあはれをとどめしは、安部の童子が母上なり。もとよりその身は、畜生の、苦しみ深き、身の上に、なほ憂きことの重なりて、思ひの種となりやせん。いとど心はうば玉の、夜の伏し処(ど)に、幼子の、母や恨みて、さこそ嘆くらん。イロ不便(ふびん)やと、フシ焦がるるゆゑ下か、露も涙もとどまらで、行く道さらに、見えわかず、立ちわずらふぞ、あはれなり。フシ頃しも今は、秋なれば、千草(ちくさ)にすだく、虫の声、フシかれがれになるぞつらき。憂き言の葉に秋風の、そよそよそよと、吹くときは、早稲田(わさだ)晩稲(おくて)に、立て張りし、ひかで鳴子の音高く、それかと見れば、おしね(注・晩稲)守(も)る、かがしの姿見ゆるをも、イロもし猟人(かりうど)やあるらんと、七ツユリ心細さはかぎりなし。やうやうたどり行くほどに、わが棲む森も、近づきぬ。ここに、猟人の、いつも掛け置く、狐罠(きつねわな)、さまざま調へ掛け置きたり。さすが、畜類のあさましさ、心にこめし、フシその数々のことどもを、はつたと忘れ、そのまま、心移りつつ、とやせんかくやと、身もだえして、フシしどろもどろの、足もとにて、立ち寄り笠を脱ぎ捨てて、上なる小袖の袂をば、かざすと見れば、たちまちに、野干となりて、狂ひしは、なにに譬へん、三重かたもなし。猟人、さまざま、手をくだいて、釣り取らんと、しけれども、心利(き)いたる、野干なれば、かへつて、猟人を、罠へ、おし込み、その身は立ち退き、うれしげに、踊り狂ひて、その後は、わが棲む、森の草むらに、フシ入りて形は、なかりけり。
ところへ安部の保名、幼き者を抱(いだ)き、信太の森に来たりしが、野干の棲処(すみか)、いづくならんと、あなたこなたと、さまよへども、たまたま言問ふものとては、遠き野原の虫の声、秋風渡る葛の葉の、うらみの種をや残すらん。保名あまりのもの憂さに、声を上げ、「やれこの子が母は、いづくにあるぞ、忘れ形見のこの若が、あまりに焦がれ慕ふゆゑ、これまで、尋ね参りたり。今一度見見(みみ)え、幼き者が、嘆きをとどめ、得させよ」と、フシかきくどき、のたまへど、言問ふものはさらになし。童子、待ちわび、「なう父上様、かく恐ろしき所に、いつまでまします。母上様に、会はせんと、のたまひしが、偽りにて候な。イロああさて、母上様なう母上」と、呼ばはる声に、さしもの、保名、いとど心も、消え消えと、フシ前後不覚になりにけり。保名力及ばず、「さてさてぜひもなし。いかに畜類なればとて、せめて面影なりとも、見(まみ)えずし、心強き、ことどもや。よしよし、いつまでながらへん。所詮、この子を刺し殺し、わが身もともに、自害して、うき世の絆(きづな)を逃れん」と、「いかに童子、母はこの世になきにより、父はただ今、ここにて死して母に会ふが、なんぢもともに死すべきか」。イロ「なう母上様に会ふならば、殺してたべ」とぞ嘆かるる。保名、心は乱るれども、力及ばず、腰の太刀を、するりと抜き、すでに、刺し殺さんとす。後ろを見れば、野干あらはれ、フシ涙にくれてゐたりけり。童子見て、「なう恐ろしや」と、そのまま父に取りつけば、「おう道理なり。いかにそれなるは、童子が母にて候な。その姿にては、童子も、恐れをなす。ありし昔の姿にて、若を慰めたび給へ」。そのとき野干、とある木蔭の、池水に、姿をうつすと思へば、そのまま、女の姿となる。童子、これを見て、「なう母上様」と、言ひもあへず、抱(いだ)きつけば、母もともに、抱き上げ、「ああさて、なにしにここまで、来たれるぞ。またまた、うき世の、妄執に、引かるることの、悲しや」と、すがりついて、泣くばかり。保名涙のひまよりも、「かりそめに相馴れて、幾年月を重ね、たとへば、いかなることありとも、なにしに、疎み申すべき。この若が、不便(ふびん)なり。今一度里へ帰り、せめてこの子が十歳まで、守(も)り育てたび給へ」。母涙ながら、「さればこの若、十歳はさておき、一期(いちご)添ひ果てたく候へども、みづからが、身の上は、人間に交はり、一度(ひとたび)棲処へ帰りては、また同じ家(や)へ、立ち戻り、住むといふこと、かなはず。名残は、尽きぬことなれど、はやとく帰らせ給ふべし。さりながらこの若、世の常の人体(にんたい)ならず。成人のその後は、人を助け、世を導き、天下に一人(いちにん)の、者となり候はん。いでこの若に、形見を取らせ申すべし」と、手づから、四寸四方の、黄金(こがね)の箱を取り出だし、「この箱と申すは、竜宮世界の、秘符(ひふ)なり。これを悟りて、行なはば、天地日月、人間世界、あらゆることを、手の内に知るなり」と、与へ、また水晶のごとくなる、輝く玉を取り出だし、「この玉を耳に当て、聞くときは、鳥獣(とりけだもの)の鳴く声、手に取るごとくに聞き知り、さまざま、奇特(きどく)これ多し。今ははやこれまでなり。はやとくとく」とありければ、保名も今は、「ことわりを、聞くからは、いかで、迷ひ申すべき。心安かれ、この若を、天下に一人の者となし、御身の苦しみ、晴らさせ参らせん。いざこなたへ」と、幼き者を抱(いだ)き取れば、イロ「いやいや父には抱かれまじ。いなや母上、とどめてたべ」と取りつくを、されども保名、心強くも引き放ち、ありし所を立ち去れば、幼き者は声を上げ、イロ「なう母上」と泣き叫ぶ。母も泣く泣く跡につき、しばしがほどは来たりしが、「もはやこれより帰るなり。やれ幼き者よ、これが今生(こんじょう)の、別れかや」。さらばさらばと言ふ声も、その面影も、見えざれば、今はあるにも、あられずして、また畜生の姿となり、高き巌(いわお)に駈け上がり、イロそなたの方(かた)を眺めやり、天にあこがれ、地に伏して、嘆き悲しめるそのありさま、世に例(ためし)なき、別れの体(てい)、あはれなり、不思議なり、げにもつともなり、ことわりやと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。 
第四
されば光陰、矢のごとし。月日に関守り、据ゑざれば、安部の童子、その年十歳に余りけり。もとより、世の常の、正体(しょうだい)ならねば、八歳のときより初めて、書を読み、一を聞きて、十字を悟る。一度(いちど)聞きしこと、二度忘れず。その名を改め、安部の童子、晴明(はるあきら)、とぞ申しける。明け暮れ、家に伝はる、天文道の巻物に、心を移し、昼夜微睡(まどろ)む暇もなし。その上母の野干、竜宮の秘符、名玉までを、与へぬれば、なほ頼もしさ、かぎりなし。しかるところに、不思議や、虚空(こくう)に、音楽聞こえ、花降り、紫雲一叢(しうんひとむら)棚引く。これはいかにと、見るところに、雲の内より、白髪たる、老僧一人、獅子に乗り、陸地(ろくじ)に行くがごとく、来現あるこそ不思議なれ。若君御覧じ、ただ呆然と立ち給ふ。ときに老僧、虚空より、「われはこれ、大唐、雍州の、城荊山に、年久しき、伯道上人といふ者なり。なんぢが先祖、安部の仲丸と言つし者、大唐に渡り、われに会ひて、天文地理(ぢり)、妙術を、習ひ窮め、その巻物、なんぢが手に伝はり、持つといへども、たしかにその理(り)を、窮めえず。しかればおことは、かの仲丸が、再誕なり。されば、前世(ぜんぜ)の才智を、忘れずして、いにしへにまされるなり。陰陽、暦数、天文地理、加持、秘符の、深きこと、なんぢに伝へ、天下の宝となすべき」と、巻物、一巻取り出だし、「これすなはち、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」と、いふ書なり。なんぢが家に伝はる、「※ほき内伝(ほきないでん)」に、これをとり添へ、窮めなば、悪病、災難は言ふに及ばず、例へば、定業(じょうごう)、限りの命なりとも、一度は、蘇生において、疑ひなし。さて、なんぢが母の、野干も、まことは、信太の明神、これ、いにしへの、吉備大臣(きびだいじん)なり。昔の恩を報ぜんため、畜生の、苦を受けて、なんぢが父に、縁の結び、栄ゆる家の守りとなり、伝へ置きたる、秘符名玉、少しも疑ふことなかれ。われ、大唐の、城荊山に、あるといへども、本地、これ、文殊菩薩、天文地理の、妙智恵を、衆生に与へん、そのためなり。疑ふことなかれ」と、たちまち、文殊と現はれ、雲に駈けつて入り給ふ。リ明、「こはありがたき御告げや」と、跡を遙かに、伏し拝むところへ、父保名、ありし所へ来たり給へば、若君くだんのありさま、つぶさに語る。父ななめならず喜び、「おう頼もしや、なほなほ怠ることなかれ」と、家に伝はる巻物に、「金烏玉兎」をとり添へ、昼夜、これを見開きて、いよいよ神通の妙術を、窮めけるところに、いづくともなく、烏二匹、飛び来たり、軒にとまりて、しばしが間囀(さえず)りしを、晴明、あやしく思ひ、母の野干が与へし、くだんの玉を取り出だし、耳におし当て聞きゐたり。しばらくあつて、二匹の烏、東西へぞ、飛び去りける。晴明これを聞き、「いかに父上、ただ今、烏の囀りしこと、不思議のことを、囀りて候。まづ一つは、都の烏、今一つは、関東の、烏なり。都烏が、東(あずま)の烏に、語るやう、「今度都には、御門(みかど)の御悩(ごのう)なり。このいはれは、内裏御造営、ありしとき、夜の御殿(おとど)の丑寅、柱、礎(いしずえ)の下に、蛇と、蛙(かわず)、生きながら、築(つ)き込められ、蛇は、蛙を呑まんとし、蛙は、蛇に呑まれじと、相戦ふ。その憤り、天に上(のぼ)り、つひに御門の御悩となる。これを取り除(の)け給はば、御悩は、子細なく、平癒(へいゆう)、あるべし」と、囀りて候。いかさま、不思議に存じ候」と、巻物を取り出し、占ひてみれば、烏の言葉に、少しも違(たが)はず。童子喜び、「これ幸ひのことなり。いそぎ都へ上り、奏聞のとげ奉り、この段を占ひ、いかなる世にも出で申さん。いかがあらん」と申し上ぐる。保名うれしく、「おういしくも申したり。これ安部の家、ひき興さん、瑞相なり。君の御ため、身のために、片時(へんし)も早く、上るべし」と、親子うち連れ、都をさしてぞ、三重上りける。
その頃、都内裏には、当今(とうぎん)、御悩まします。さるにより、御典薬、心を尽くし、ほしやうんりやうの、薬種を弁じ、君臣佐使(くんしんさし)の配剤、諸寺の、高僧は、加持護念の行なひ、護摩、秘法の、祈りをなさるれども、さらに験(しるし)はなかりけり。しかるところへ、保名親子の者、すぐに禁裏へ参り、「これは摂州、安部の保名と、申す者にて候。さてこれに候は、安部の晴明、と申して、それがしが子にて候。この者、天文地理、易暦に、自然(じねん)、智を悟りて、占形(うらかた)を仕(つかまつ)る。そのかみ、安部の仲丸が、子孫たり。しかればこの頃、御門の御悩の、よしを承る。恐(おおそ)れながら、これを占ひ奉らん」と、謹んで奏聞す。ときに公卿(くぎょう)詮議あつて、「安部の仲丸が、子孫とあれば、げにさることもあるべし。さあらば、占ひ奉れ」とて、中の落縁(おちえん)まで、召されけり。ときに晴明、謹んで申し上ぐる。「そもそも、この御悩と言つぱ、禁廷、丑寅の方(かた)、夜の御殿(おとど)の柱、礎の下に、蛇と蛙(かわず)と、戦ひて、その怒り、炎となつて天に上る。これによつて御悩あり。この礎の下なる、蛇と、蛙を、掘り捨て給はば、御悩は、なんの子細なく候はん」と、手に取るやうにぞ、占ひける。公卿、詮議あつて、「これは不思議の次第かな。さあらばまづ、その礎を、掘り返せ」と、木工頭(もくのかみ)に、仰せつけられ、やがて掘らせ給ひける。案に違はず、蛇と、蛙を、掘り出し、すなはちこれを捨てければ、たちまち御悩御平癒(へいゆう)、ましましけり。上一人(かみいちにん)より、月卿(げっけい)雲客、肝胆(かんだん)、肝に銘じ、「さても名誉の次第や」と、フシおのおの感じ給ひける。奥よりの宣旨には、かくめいよう、ふしんの者なりとて、昇殿を許され、五位を給はりけり。陰陽頭(おんようのかみ)とぞ召されける。ことに、安部野の庄三百町を、親子の者に下され、父子ともに都に住して、禁裏の宮仕へあるべし。ことに今日は、三月の、清明の節なればとて、晴明(はるあきら)の、晴(はる)の字を改め、安部の清明(せいめい)、と召されて、薄墨の、御綸旨(りんじ)下るぞ、ありがたき。清明親子、頂戴して、こは、ありがたき次第とて、やがて御前(ごぜん)を立ちけるは、ゆゆしかりける次第なり。
ところへ、天下の博士(はかせ)、芦屋道満(あしやどうまん)、参内す。公家大臣、御覧じて、「いかに、道満、今日不思議のことあり。十三四なる、童(わらわ)参内せしめ、御門の御悩を、占ひ奉り、たちまち、御平癒、なられ候」と、一々語らせ給へば、道満、大きに驚きしが、さらぬ体(てい)にて、「さてその者は、いづくのたれと申し上げて候」。「されば、摂州、安部の晴明(はるあきら)、と名のり、すなはちかれが父、安部の保名といふ者、連れて参内いたしたり」。道満心に思ふやう、「さては先年、わが弟の悪右衛門を、討ちたる敵(かたき)よな。きやつを、いろいろ尋ねしが、いづくにか、忍びつらん。わが身の妨げ、まして敵なれば、いかでそのまま置くべきや」と、「さておのおの、その童が、占形、まことと思しめすか。まづ、案じても御覧候へ。この道満が、占形と申すは、唐土(もろこし)にても並びなき、法道仙人の伝へ、天下に一人の者と呼ばれしそれがしが、さやうの浅々しきことにて、御平癒なるべきを、存ずまじきや。ああ愚かなる仰せや」と、頭(かしら)を振つてぞ申しける。人々のたまふは、「いかに御分(ごぶん)、申されても、御悩そのまま平癒なり、まして蛇蛙(へびかわず)取り出だす。これに過ぎたる証拠なし」と、口をそろへて申さるる。道満聞きて、「いや御平癒、なられしは、まづ典薬頭、心を尽くされ、諸寺の高僧、加持護念の行なひ、数ならねども、この道満、このたびにおいては、玉体、危うく存じ、ありとあらゆる、諸典の、考へ、工夫仕り、祈りしゆゑ、御平癒なられて候を、とくより存じ、さてこそ参内申したり。また、蛇蛙ありしは、たれにても候へ、かの者どもに、心を通はす方(かた)あつて、わざと押し入り、置きたるにて候。御平癒の、よき折からに、参内して、奇特の誉(ほま)れを取るは、あつぱれ、果報の者にて候。かやうに申せば、なにとやらん、そねみ申すに、似たれども、一つは君の御ため、もつたいなくも、天子を掠(かす)めし、悪人に、所領を給はり、あまつさへ、御綸旨まで下さるる。それがしかくてありながら、さほどのことを知らぬかと、末の世までの人口(じんこう)に、かからんと存じ、かやうに、申し奉る。これ偽りならば、かの者を召され、それがしと占形の、奇特を競(くら)べさせて、御覧候へ。実否(じっぷ)、明らかに知れ申さん」と、はばかりなくぞ申しける。公卿、詮議あつて、やがて奏聞なされける。内よりの宣旨には、「もつともなり。かつうは、不思議を晴らさんため、すなはち明日南殿(なんでん)にて、その勝劣を、糾(ただ)せ」と、宣旨あり。道満喜び、御前を立ち、清明方へは、勅使立ち、はや用意とこそ、三重聞こえけれ。
すでに、その日に、なりしかば、清明親子、道満、未明よりも参内す。御門、南殿に、出御(しゅつぎょ)なれば、公家、殿上人、残らず、はなやかなりし、見物なり。内よりの宣旨には、「それぞれ両方、奇特を競(くら)べ、いづれにても、勝ちたるを、師匠、負けたるを、弟子にして、いよいよ、行なふべし」との、宣旨なり。両方「はつ」と、勅答す。そのとき、内より、唐櫃を、数十人して舁(か)き出だす。さて中には、猫二匹入れ、錘(おもり)をかけたり。「この中(うち)なる物を、占ひ申せ」と、宣旨あり。そのとき、道満、「いかに清明、その方は、占形名人と聞く。さだめて、それがし御弟子になるべき間、諸事指南にあづからん」と、嘲る体(てい)にぞ申しける。清明聞きて、「おうそれは、互ひなり。さてそれがし、占ひ申さんや。ただし、御分(ごぶん)占ひ給ふか」。道満聞きて、「まづその方、占ひ給へ」と、さも大様(おおよう)にぞ申しける。そのとき、清明考へて申し上ぐる。「この唐櫃の中は、猫二匹候はん」と、占ひける。道満、はつと思ひしが、さらぬ、体(てい)にて、「これは奇特に、占はれたり。いかにも、猫にて候。毛色は、赤白(しゃくびゃく)なり」と申す。人々立ち寄り、蓋を取りて見れば、くだんの猫、現はれたり。月卿雲客、はつと感じ給ひける。然れども、これは勝ち負けの、しるしなしと、また内より、大きなる、三方(さんぼう)の上に、覆ひをかけ、その中に、大柑子(こうじ)を十五入れ、すなはち持ち出で、「これも中(うち)なる物を、占へ」との宣旨なり。今度は、道満、苛(いら)つて申し上ぐる。「この中には、大柑子十五候」と、勢(いきおい)掛かつて申し上ぐる。清明もとより名人なれば、柑子とは、知つたれども、さすが、名誉の者なれば、ここぞ、奇特をあらはすところと思ひ、やがて、加持し、転じ変へて、申し上ぐる。「この中なるは、大柑子にては、あるまじく候。鼠十五匹候」と、申し上ぐる。御門を始め、公家大臣、さてこそ、清明、占形は仕損じたりと、つつやきささやき、互ひに、目と目を見合はせ、ただ、清明が顔を、守つてゐたりける。道満、しすましたりと喜び、「なんと人々、いづれか違ひ候はん。さだめて、それがしが占ひこそ、違ひつらん。いかに清明殿、ただ今申し上げられしに、別に変りは候はぬか。蓋を取つてその後、かまひて、悔み給ふな」と、勢掛かつて申しける。保名も、今は急(せ)き色になり、額(ひたい)に汗を流し、「やれ清明、変ることはこれなきか。かならず卒爾申すな」と、急(せ)ききつてぞ申しける。清明、少しも騒がず、「御気づかひあるべからず。いそぎ蓋を取り給へ」と申す。ぜひなく、人々、立ち寄つて、蓋を取れば、柑子はなくして、鼠十五匹駈け出づる。四角八方へ駈け回る。そのとき最前の二匹の猫、かの鼠を見るよりも、そのまま駈け出で、追つつめ、ぼつかけ、あるいは、くはへて振り回し、かなたこなたへ、飛び巡れば、御門を始め、公家、大臣、后、官女、もろともに、御簾(みす)も几帳(きちょう)も、さざめきて、「さてさて奇特の清明や」と、感じ給ふ御声、フシしばしは鳴りも静まらず。始め、勇みし、道満は、清明が弟子と、しほしほと御前を立つ。さて清明には、数の褒美を給はり、やがて御前を罷り立てば、父はうれしく、「ああ仕りたり、清明。イロわが子ながらも、不思議の者や」と、あふぎたてあふぎたて、屋形をさして帰りける。保名がうれしさ、清明が奇特のほど、例(ためし)まれなる、相人(そうにん)やと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。  
第五
道満法師は、雲居の庭の、争ひに負け、明け暮れ、瞋恚(しんい)を焦がし、郎等を近づけ、「いかに、なんぢら、今度それがし、清明と占形の、勝負に負けしこと、あまりに、きやつを侮り、高慢、さし起こり、思はずも、恥辱を取る。元来、きやつばらは、わが弟の敵(かたき)といひ、かれこれもつて、いかでそのまま置くべきや。まづ、保名を討つべし。しかし、卒爾に、討つならば、わが身の上も、大事なり。ただ計略にしくはなし。いかがはすべき」と仰せける。郎等ども承り、「もつともかなこの度の儀、われわれまで口惜しく候。とかく謀事(はかりごと)が、然るべし」と申し上ぐる。道満聞きて、「幸ひの、ことこそあれ。御尋ねなさるべき、ことありと、すなはち、夕さり、それがしも、清明も、いつしよに参内申すなり。この後(あと)にて、御門より、勅使の体(てい)にまなび、夜に入りて、保名が館(たち)へ行き、禁中よりの、宣旨なり、いそぎ参内仕れと、謀(たばか)り、一条の橋の下に、伏せ勢(ぜい)を、隠し置き、くだんの橋板、引つぱずし、保名が、落つるところを、おり合ひ、思ふままに、しおほせ、何者の仕業とも、知れぬやうに、いたすべし。もとよりわれは、清明といつしよに、御殿に、相詰むれば、疑ひも、あるべからず。その後、清明をも、知略をもつて、滅ぼさん。この儀いかに」と仰せける。郎等ども、「もつともよろしき、御計略、もはや日も、暮れ候はん。その用意仕(つかまつ)らん」。道満喜び、「さあらば山下伝次は、器量すぐれたれば、まづ勅使の用意、こしらへよ」。かしこまつて内に入り、やがて装束、改めて出でければ、道満見て、「おうよく、似せたり。もはや、時も至れば、われは内裏へ、参内せん。みなみな、時分はからひ、うち立つべし」と、知略の用意申しつけ、その身はなにとなく、禁裏をさして上がりしは、恐ろしかりける、三重企(たく)みなり。
さればにや清明は、御門よりの御召しとて、やがて参内仕る。屋形には、父上、郎等ども、召し集め、四方(よも)の話あるところへ、道満が方より、くだんの勅使来たつて、案内乞ひ、保名に対面し、「君よりの宣旨なり。そのはう親子に、仰せつけらるべきむねあり。すなはち清明御殿に相詰めたり、いそぎ参内あるべきとの、勅諚なり」。保名かしこまり、「おつつけ参内仕らん」と、勅使を帰し、供人少々召し具して、そのまま屋形を出でにける。今ははや一条の橋にさしかかり、すでになかば渡るところに、下より板を引つぱずせば、宙よりどうと落つる。隠れゐたる勢(ぜい)ども、どつとおり合ひ、みなことごとく斬り伏せたり。保名、大剛の者なれども、橋よりは落とされつ、手足かなはず、「ええ無念や、何者なるぞ。名を名のつて、尋常に止(とど)めを刺せ」。郎等聞きて、「聞きたくば、聞かせん。これこそ芦屋の道満が打つ太刀ぞ」と、立ちかかり、ずだずだに斬り伏せ、しすましたりと喜びて、そのままそこを立ち退きける。もとより人の通ひもなき、町はづれのことなれば、たれ知る者も、あらずして、すでにその夜も、明け方になりければ、あなたこなたより、鳶(とび)烏、集まりて、保名が死骸、さんざんに引き散らし、肉をくはへて、退(の)くもあり。あるいは、手足股(もも)を、犬ども食ひ裂き、ここやかしこへ退きけるは、目も当てられぬ、三重次第なり。
これはさておき、清明は、宵より御殿に相詰めしが、もとより、神通の者なれども、定める業(ごう)とて、はかなくも、これをば知らず、さて明け方に、屋形へ帰る。一条の橋に行きかかり、見ればなかば落ちたり。不思議やと、向かふを見れば、橋の上に、手負ひあり。清明を見るより、苦しげなる、声を上げ、「それがしは、御内の五藤太にて候」。清明、はつと驚き、「なにゆゑ、さやうになりたるぞ」。「されば、かやうかやうの次第にて、宵に、勅使の立ちしゆゑ、君の御供仕り、通るところに、何者ともなく、待伏せいたし、橋を落とし、君もかくのとほりに、ならせ給ふ」と、申し上ぐれば、清明これはこれはと、駈け下り見てあれば、なにかは知らず、死骸あり。そのままそこへ倒れ伏し、フシ声を上げてぞ嘆かるる。「さてもさてもあさましや。ええこれは、道満めが、仕業ならん。然れども、かれと極めん、やうもなし。よしよしそれがしほどの者が、父を闇討ちにせさせ、おめおめとあるべきや。げにげに、伯道上人の、御告げにも、たとへ、定業(じょうごう)限りの命なりとも、一度は、蘇生において、疑ひなしと、教へ給ひしは、今このときたり。伯道上人へ、頼みをかけ、伝へ置かれし、生活続命(しょうかつぞくめい)の法を、行なひ、あはれ、父上を蘇生、ならせ奉らん。わが一世の大願、ここなり」と、屋形へ人をつかはし、すなはち橋の上に、やがて壇を飾りける。さればにや、保名が死骸、鳶(とび)烏、引き散らし、五体も離れたれども、やうやうに取り集め、壇の前に据ゑ置きたり。さて壇には、五色の幣を、切り掛け、燈明あまた、供物を供へ、さて、清明、壇場に、さしかかり、南無、大聖(だいしょう)文殊菩薩、一度結びし、師弟の契約、力を添へて、たび給へと、心中に、祈念して、御幣、おつ取り、「南無、日本(にっぽん)、大小の神祇、ただ今、勧請申し奉る。まず、上(かみ)は、梵天帝釈、下(しも)は、四大天王、イロ下界の地には、伊勢は神明、天照皇太神(てんしょうこうたいじん)、外宮(げぐう)、内宮、八十末社、川下に、下がつて、イロ熊野に三(み)つの御山、瀧本に、千手観音、下オン神(かん)の蔵(くら)には、竜蔵権現、納受あつて、給はれや」と、鈴(れい)を取つては、振り鳴らし振り鳴らして、「葛城七大(かつらぎしちだい)、金剛童子、子守勝手の、大明神、三輪、竜田、春日の、明神、八幡(やわた)は、正八幡、稲荷、祇園、賀茂の社(やしろ)、高き御山に、愛宕山(あたごさん)、大権現」と、また錫杖(しゃくじょう)を、おつ取つて、振り立て振り立て、「坂本、山王、二十一社、打下(うちおろし)に、白髭(しらひげ)の大明神、駿河の国に、富士浅間(せんげん)、ことに、津の国、住吉、天王寺、聖徳太子、河内の国に、恩知(おんじ)、枚岡(ひろおか)、誉田(こんだ)の八幡、別して、イロ崇め奉る、摂州、信太の明神、総じて、日本の、諸神、諸仏、勧請、申し奉る。たとへ、定業(じょうごう)、限りの命なりとも、一度蘇らせてたび給へ。ぜひかなはずば、清明が命、ただ今取りてたべ」と、じつたい、せうげの、行なひにて、肝胆くだき、祈りける。仏神、納受、ましましけん。不思議や、肉ししむらをくはへて退きし、里の犬、鳶烏が、ししむら、あるいは、腕(かいな)を、くはへ来たりけり。清明いよいよ勇みをなし、責めつけ責めつけ、祈りける。かくて、行法(ぎょうぼう)、こといたり、両足(りょうそく)、しし、腕(かいな)、とりつけば、やがて面相(めんぞう)、現はれて、六根六識(ろっこんろくしき)、ほどなくもとの、保名となり給ふ。清明、壇より、跳んで下り、そのまま父に、抱(いだ)きつけば、保名は、夢の心地にて、これはこれはと、ばかりなり。さて清明、右の段を問ひ奉れば、保名、つぶさに、語らせ給ひ、「道満めに、謀られ、やみやみと、討たれしに、蘇生したること、仏神の御加護、定業ならずと、いひながら、ひとへに、おことが、かげなり」と、手を合はせ、フシ礼拝してぞ申さるる。清明、承り、「さてこそ、それがし存ぜしに、違(ちが)はず。この上は、片時(へんし)も早く、道満めを討ち取り、瞋恚(しんい)を晴らし申さん」と、屋形へ帰る。さてこそ、一条の戻橋(もどりばし)の、因縁これなり。今の保名が、蘇生の業、清明が、法力、世に例(ためし)なきありさまやと、感ぜぬ者こそ、三重なかりけれ。
これはさておき、御門には、公家大臣、相詰め給ふところへ、道満法師(ほっし)、参内す。内よりの、宣旨には、「今日はなにとて、清明は、参内せざるぞ」。道満、かしこまり、「さん候。清明は、不慮のことにて父に離れ申して候。さだめて、穢れを恐れ、参内仕らざると存じ候」。公家大臣、聞こしめし、「さてさて保名は、病気のやうには、聞かざりしが、不便(ふびん)や」と、のたまふところへ、清明、やがて参内す。人々、御覧じ、「やあ、清明は、ただ今、御尋ねの宣旨、下るにつきて、聞けば、父保名、死去の、よしなり。穢れたるその身にて、はやとく、帰省あるべし」と、みなみな、仰せありければ、清明承り、「こは存じ寄らざる仰せかな。なにしに、父が相果てしに、参内申さんや。さてたれ人が、さやうに申し上げられて候」。ときに道満、進み出で、「いかに清明、保名、果てしことは、それがし申し上げてあり。さてさて、その方は、いかに御殿の、怠らず、勤めんとて、まさしく、死したる親を、さなしと偽り、穢れたる身を、顧みず、殿上にあること、かへつてその身に、罰(ばち)当たらん。はや帰られよ」と申しける。清明聞きて、「さては御分(ごぶん)、申されたるな。さてそれがしが父、なにとして、果てたるとは、奏聞ありしぞ」。道満、大きに、嘲笑(あざわら)つて、「やあ愚かや、保名、相果てられしこと、たれ知らざらん者やある。ああもつともかな。討たれけれども、相手も知れず、敵(かたき)を、取らざるゆゑ、恥づかしく思ひ、包まるるな。とても穢れしその身なれば、ただ早々に帰り、敵を討ち取る用意の、占ひを、考へ給へ」と申しける。清明聞きて、「いやそれがしは、親を、失ひ申さねば、別に、敵を取るべき、ことも候はず。さて、御分は、ぜひに、保名は、相果てしと、申さるるが、もしただ今にても、これへ出でしときは、その方は、なんといたされんや」。道満、からからとうち笑ひ、「ことをかしや。死したる者が、ふたたび出づるものならば、それがしが、二つとなき首を、御分に得させん。また出でずんば、その方が首を取るぞ。さあ出だせ出だせ」と、勢(いきおい)掛かつて申しける。清明聞きて、「おお聞こえたり。恐(おおそ)れながら、奏聞申し上げ候。最前よりの争ひ、上聞に、達すべし。父が出でざれば、それがしが首を渡し、また出づれば、あの方の首を、申し受くるにて候」。おのおの、「これはこと珍しき、争ひかな。とかう言ひがたし」と、のたまふとき、清明、大音上げ、「いかに、道満、いよいよ首がけ、忘れ給ふな」。「なにしに忘れん。はやとく出だせ」。「おう心得たり。なう父上、いそいで出でさせ給へ」。保名そのまま立ち出づる。道満大きに、肝を消し、すでにその座を立たんとす。六位の臣おし止(と)むる。そのとき保名、ありし次第、すなはち、偽勅使に、謀(たばか)られたること、また蘇生の様子、そのほか弟の、悪右衛門が意趣、これこれ、一々奏聞す。内よりの宣旨には、「申す段ことわりなり。あつぱれ、清明は、人間にては、よもあらじ。すなはち、道満を、取らするなり。思ひのままに、はからふべし」との、勅諚なり。「かたじけなし」と、御前を立ち、道満が、首を打ち落とし、重ねて清明、四位の主計頭(かずえのかみ)、天文博士と召されて、栄華に栄え、末代まで、その智恵をあらはす。これひとへに、文殊菩薩の再誕なり。上古も今も末代も、例(ためし)少なき次第やと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。 

1.上記の本文は、東洋文庫「説経節 山椒太夫・小栗判官他」によりました。
2.上記の本文が浄瑠璃からとってあるのは、「信太妻」が五説経の一つに数えられているにもかかわらず、説経の正本が見当たらないため、とのことです。五説経については、東洋文庫巻末の荒木繁氏の解説・解題に次のようにあります。「説経節の中で、古来五説経として重んじられたものがある。「芸能辞典」によれば、古くは「苅萱」「俊徳丸」「小栗判官」「山椒太夫」「梵天国」を称したが、享保期になると、「苅萱」「山椒太夫」「愛護若」「信田妻」「梅若」を言うようになったとある。(中略)日暮小太夫の「おぐりてるてゆめ物かたり」という抜本があり、その柱記に「五せつきやう」とあるので、寛文の当時五説経という呼び名がすでに成立していたことが知られるのである。」
3.底本は、「古浄瑠璃正本集 第四」に翻刻された「しのたづまつりぎつね付(つけたり)あべノC明出生(しゅっしょう)」(延宝2年(1674)刊、屋喜右衛門板)の由です。ここで、「古浄瑠璃正本集 第四」に翻刻された「しのたづまつりぎつね付(つけたり)あべノC明出生(しゅっしょう)」の本文を、少し見ておきます。
第一
それ、てんちゐんやうのり、きつきやう、くわふくのことは、人のちと、ふちとにあり、是をしるときは、てんち日月も、たな心のうちにあり、是をしらさるときは、もくぜん、なをあきらかならす
こゝに中比、天もんちりの、みやうじゆつをさとりて、じんづうにんと、よはれし、あべのせいめいのゆらいを、くはしくたつぬるににんわう、六十二代、むらかみ天わうの、ぎようにあたつて、五きない、せつしうのちう人、あへのぐんじ、やすあきとて、弓取一人おはします、せんそのらいかを、たつぬるに、あべのなか丸より、七代のこうゐんたり
さるによつて、其氏を、あべと、こうす、四天わう寺と、すみよしとの、あいに、一つの、しやうをひらき、代〃、こゝにすみ給ふ、扨こそ、此所を、あべのゝさとと、なつけたり
しかるに、やすあき、御子一人、もちたまふ、あべの權太左衛門やすな、とて、しやうねん廿三、其形、二うわにして、ようがんひれいなり
4.「大阪大学附属図書館」のHPに、「赤木文庫 古浄瑠璃目録」というページがあり、そこで「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」の版本の全文を、画像で見ることができます。この版本の本文文末には、「延寶二甲寅年九月上旬 屋喜右衞門板」と記してあります。赤木文庫は故・横山重(よこやま・しげる 1896−1980)氏の旧蔵書の称で、大阪大学附属図書館は赤木文庫のうちの古浄瑠璃関係の書物を100点所蔵している由です。したがって、横山重氏が「古浄瑠璃正本集 第四」に翻刻された「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」は、大阪大学附属図書館が現在所蔵しているこの版本によったものだということになります。
5.東洋文庫に収められている本文は、現代かなづかいに統一してあるのですが、ここでは引用者が、歴史的かなづかいに改めました。ただし、漢字の振り仮名は、現代かなづかいのままにしてあります。
6.本文中の「※ほき内伝(ほきないでん)」の「ほき」は、「ほ」は竹冠+甫+皿を縦に並べた字、「き」は竹冠+艮+皿を縦に並べた字です。「ほき内伝(ほきないでん)」は、詳しくは、「三国相伝陰陽かん(車偏に官)轄ほき内伝金烏玉兎集」といい、日時・方角の吉凶などを集大成した雑書の一つ。単に、「ほき」「ほき内伝」「金烏玉兎集」などともいう。5巻。安倍晴明撰と伝えるが、これは仮託で、撰者は不詳。鎌倉時代末以降の成立。
7.「ほき抄」という本がありますが、これは、「ほき内伝」の注釈書だそうです。
8.茨城県筑西市猫島(旧・真壁郡明野町猫島)に、安倍清明出生の地という伝承があります。ここには、清明が産湯に使ったという井戸(「清明井」)、「清明さま」と呼ばれる社や、「清明塚」「清明橋」などがあるそうです。「ほき抄」には、清明が猫島で生まれたという説話が載せられているそうです。東洋文庫「説経節 山椒太夫・小栗判官他」巻末の荒木繁氏の解説・解題によると、そこには、「母は化来(けらい)の人であるが、遊女往来の者となって筑波山の麓の猫島に来、ある人に留められ三年滞在した間に、この清明を生んだ。童子が三歳の暮れ、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と詠んで去った。清明が上洛のおり、信太の森へ尋ねてみると社壇があり、老狐があらわれて、「われこそ汝が母なれ」と言って消えうせた。これがすなわち信太の明神である。」とあるそうです。また、猫島の旧家高松家には、18世紀初頭・江戸時代中期に書かれたとされる「晴明伝記」が伝えられていて、そこにも、晴明が猫島で生まれたとしてあるそうです。(「晴明伝記」のことは、2001年1月28日付け茨城新聞「伝説の舞台」(明野町・安倍晴明出生の地)による。)
9.築西市のHPの中に、「安倍清明」についての紹介があります。
10.「Webup」というサイトに「「信太妻」葛の葉」というページがあり、そこで「「信太妻」と「葛の葉」(物語の歴史と変遷)」や、物語のあらすじ、などを読むことができます。「「信太妻」と「葛の葉」(物語の歴史と変遷)」の中で法政大学の田中優子教授は、「東洋文庫版「信太妻」は、一六七四年の古浄瑠璃「しのたづまつりぎつね付あべノ清明出生」が底本になっている。この時はまだ葛の葉という名前は存在せず、複雑な権力闘争の物語も存在せず、二人葛の葉もなく、榊の前と葛の葉の二重性もない。現存するなかでもっとも素朴な信田妻物であり、保名と道満の相互の敵討ち物語と、占い合戦が大枠となっている。」と書いておられます。 (詳しくは、「「信太妻」と「葛の葉」(物語の歴史と変遷)」をご覧下さい。)
11.水上勉訳・横山光子脚色「五説経」という本があります。ここには、水上勉氏が東洋文庫の「説経節」によって訳されたものを、横山光子氏が脚色された五つの話、「さんせう太夫」「かるかや」「しんとく丸」「信太妻」「をぐり」が収められています。また、水上勉氏の「説経節を読む」が、岩波現代文庫に入りました。
12.折口信夫の「信太妻の話」があって、青空文庫で読むことができます。
13.「安倍晴明神社」のHPに「安倍晴明とその歴史」があり参考になります。
14.信太妻(しのだ・づま)=信太の森の女狐が安倍保名(やすな)と結婚し、晴明を産むが、正体を見破られて姿を消したという伝説。また、その狐。説経・浄瑠璃・歌舞伎などに脚色された。(「大辞林」) 葛の葉(くずのは)=浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)の通称。また、その女主人公の名。和泉国信太(しのだ)の森の白狐が女にばけて安倍保名(やすな)と結婚し、一子を儲けたが、正体が知れて「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して古巣に帰ったという話。説経節や古浄瑠璃の題材にもなった伝承に基づく。(「広辞苑」) 信太の森(しのだのもり)=大阪府和泉市信太山にある森。樟の大樹の下に、白狐のすんだという洞窟がある。葛の葉の伝説で有名。時雨・紅葉の名所。「篠田の森」とも書く。(歌枕) 源若菜上「この─を道のしるべにてまうで給ふ」(同前) 安倍晴明=平安中期の陰陽家。よく識神(しきがみ)を使い、あらゆることを未然に知ったと伝える。伝説が多い。著「占事略決」(1921-1005)(同前) 注・識神(しきがみ)=式神・職神とも書く。陰陽道(おんみょうどう)で、陰陽師の命令に従って、変幻自在、不思議なわざをなすという精霊。しきじん。式の神。しき。説経節=中世末から近世に行われた語り物。仏教の説経(説教)から発し、簓(ささら)や鉦などを伴奏に物語る。大道芸・門付芸として発達。門説経(かどせっきょう)・歌説経などの形態もあった。江戸期に入り胡弓・三味線をも採り入れ、操り人形芝居とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文頃。祭文と説教が結びついた説経祭文の末流が現在に伝わる。説経浄瑠璃。説経。(同前) 五説経=説経節の代表的な五つの曲目。「山椒太夫」「苅萱(かるかや)」「信田妻(しのだづま)」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」。また、「山椒太夫」「苅萱」「俊徳(信徳)丸」「小栗判官」「梵天国」の五つなど。(同前) 五説経=説経節の代表的な五つの曲目。古くは「苅萱(かるかや)」「俊徳丸」「小栗判官」「三荘(さんしょう)太夫」「梵天(ぼんてん)国」をさしたが、のちには「苅萱」「三荘太夫」「信田(しのだ)妻」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」をいう。(「大辞林」)
 
狐娘起源考

第一節 「狐女房」伝説
唐突ですが、日本で最も古い哺乳類系獣娘は何だと思いますか? それはずばり、狐娘です。
獣娘については、狸や猫なども普通の変化話を含めてとにかく説話にこと欠かないのですが、それでもせいぜい安土桃山時代くらいが関の山です。
ところがそんな中、狐娘だけは何と平安時代初期の文献が初出なのです。その文献の名は『日本霊異記(にほんりょういき)』。景戒(けいかい、「きょうかい」ともいう)という坊さんの書いた上・中・下全三巻の仏教説話集で、正確な成立年代は不明ですが弘仁13(822)年頃と言われています。しかもこの説話集、実は現存する日本最古の説話集です。つまりこれより前にあるのは、『古事記』や『日本書紀』だけってことになります。
この『日本霊異記』(以下『霊異記』と略す)は仏教説話集なので、全体としては「悪いことをした人間には因果応報で罰があたる」とか「いいことをしていれば貧しくても仏の慈悲がある」など説教話で、途中で飽きてしまうくらい類型的な話の繰り返しなのですが、上・中・下の三巻のうち上巻の最初の部分は、明らかに仏教とは関係のない、民間の説話が取り入れられたとおぼしき話がいくつかあります。
そのうちの一つが、第二話の「狐を妻(め)として子を生ましめし縁」=「狐を妻にして子供を産ませた話」です。一般には、「信太妻」こと葛の葉説話などと同型の話として「狐女房」伝説とも呼びます。その内容は、以下のようなものです。
『日本霊異記』第二縁「狐を妻として子を生ましめし縁」
[原文]
昔、欽明天皇[是は磯城嶋(しきしま)の金刺(かなざし)の宮に国食(を)しし、天国押開広庭の命(あめくにおしひらきひろにはのみこと)ぞ。]の御世に、三野の国大野の郡の人、妻(め)とすべき好(よ)き嬢(をみな)を覓(もと)めて路を乗りて行く。時に曠野(ひろの)の中にしてうるわしき女(をみな)遇へり。其の女、壮(をとこ)に媚び馴(なつ)き、壮睇(めかりう)つ。言はく「何(いづく)に行く稚嬢(をみな)ぞ」といふ。嬢答ふらく「能(よ)き縁(えに)を覓め将(む)として行く女なり」といふ。壮もまた語りて言はく「我が妻と成らむや」といふ。女「聴(ゆる)さむ」と答へ言ひて、即ち家に将(ゐ)て交通(とつ)ぎ相住む。
比頃(このころ)、懐任(はら)みて一(ひとり)の男子を生む。時に其の家の犬、十二月十五日に子を生む。彼(そ)の犬の子、毎(つね)に家室(いへのとじ)に向かひて、期尅(いのご)ひ睚(にら)み眥(はにか)みほゆ。家室脅え惶(おそ)りて、家長(いへぎみ)に告げて言はく「此の犬を打ち殺せ」といふ。然れ雖(しかれども)患(うれ)へ告げて猶(なほ)殺さず。
二月三月の頃に、設けし年米を舂(つ)く時、其の家室、稲舂女等(いなつきめら)に間食を充(あ)て将(む)として碓屋(からうすや)に入る。即ち彼の犬の子、家室を咋(く)は将(む)として追ひて吠ゆ。即ち驚きおぢ恐り、野干(やかん)と成りて籬(まがき)の上に登りて居り。家長見て言はく「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は汝を忘れじ。毎(つね)に来(きた)りて相寐(ね)よ」といふ。故(かれ)、夫の語に随ひて来り寐き。故、名づけて岐都禰(きつね)と成す。
時に彼の妻紅の襴染(すそぞめ)の裳(も)[今の桃花(つき)の裳ぞ。]を著(き)て窈窕(さ)び、裳襴(もすそ)を引きて逝く。夫、去(い)にし容(かほ)を視、恋ひて歌に曰ふ、
恋は皆我が上(へ)に落ちぬたまかぎるはろかに見えて去にし子ゆゑに
故、其の相生ま令(し)めし子の名を岐都禰と号(なづ)く。亦(また)其の子の姓(かばね)を狐の直(あたへ)と負ほす。其の人強き力多(あまた)有り、走ること疾(はや)くして鳥の飛ぶが如し。三野の国の狐の直等が根本(もと)是れなり。
[口語訳]
昔、欽明天皇[この天皇は磯城嶋金刺宮で天下を治められた、天国押開広庭命である。]の御代に、美濃国大野郡(現在の岐阜県本巣市・瑞穂市および揖斐郡の一部)の人が細君とするにふさわしいよい女性を捜して道を馬で流していた。すると、広野の中で美しい女性に出会った。その女性は男に親しくなまめかしい素振りで近づいてきて、(その姿に思わず)男は秋波を送った。「お嬢さん、どちらへ?」女が答えるには、「いい人を探そうと歩いているんです」とのこと。男もこれに答え、「それなら私の細君にならないかね」と言った。すると女は「いいですよ」と言ったので、家に連れて帰って祝言を上げ一緒に暮らすことになった。
やがて、細君は孕んで一人の男の子を産んだ。その時、ちょうど十二月十五日にその家の犬も子を生んでいた。ところが、この犬の子がいつも細君にいきり立ってにらみつけ、牙をむき出しにして吠え立てた。細君はひどく驚き怯えて、「あなた、あの犬を打ち殺してちょうだい」と言う。だが、犬がかわいそうで殺すことが出来なかった。
二月三月の頃のこと、蓄えてあった米をついていた時のことである。細君が手伝いの稲つき女たちに一息入れてもらおうと臼のある納屋に入った。すると件の犬の子が細君にかみつこうと彼女を追い立てて吠え立てた。そのためにひどく驚き恐れた細君は、(正体を現し)狐となって垣根の上に登っていた。(しかし、正体を表したにも関わらず)良人は「おまえと私とは子供まで作った仲じゃあないか。私はおまえを忘れられない。せめて毎夜寝床に来て一緒に寝てはくれまいか」と言った。その言葉に従い、細君は毎夜良人の寝床に来るようになった。これにより、「来つ寝」=「きつね」というのである。
そしてある時、細君は裾を紅に染めた裳[今の桃色の裳をいう]を着て、とても上品でしとやかな様子でやって来て、裾を引きながらいずこともなく去って行った。良人は去った細君の顔を思い偲んで歌を詠んだ。その歌に曰く、
この世にある恋というものが、我が身にすべて落ちてきたかのような切ない気持ちだ。少しだけ逢瀬をしただけで、どこか遠くへ行ってしまったあの人のために。
そこで、二人の子供の名前をも「岐都禰」と名づけた。また、その子の姓を「狐直」とつけた。この子は大変な力持ちで、足の速さも鳥の飛ぶようであった。この子が今美濃国の狐直たちの先祖である。

こんなところです。狐が犬に吠えられて正体を明かす、というのはこの手の物語の定番のような感があり、この時点でその形が出来ていたことが分かります。
しかし、一部文章に説明不足のところが多いのが玉に瑕ですし、実際に存在しない氏族の伝承が入ってたりする辺りがあれですが、物語としてはかなり完成度高いですよね。特に最後の細君がいずこともなく去る場面の美しい描写と、良人が恋しがって詠んだ歌が泣かせるじゃありませんか。葛の葉が障子に書いた歌の逆バージョンって感じで。
ところで、このようにしてあっさり「日本最古」の称号を得た狐娘ですが、ここで一つ気になることがありました。
それは、「元々狐娘っていつからある概念なんだ?」ということです。
『霊異記』の諸註釈書にも書いてありましたが、狐が人、それも女性に変化するというのは、元々中国から移入された概念です。註釈書に解説されるまでもなく、中国というと神仙思想やら五行思想やら神秘的な思想世界があることもあり、この手のもののけ話にはことかかない国ですからね。動物が人に化けるくらい朝飯前というところでしょう。 
第二節 『箋注倭名類聚抄』が示した道
『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物をご存知でしょうか。
『和名類聚抄』『倭名類聚鈔』とも書き、平安時代中頃、源順(みなもとの・したごう)という人が承平5(935)年以前に編纂した辞書で、天文・気象・自然から始まって職業・官庁・地名・疾病・芸術・住居・交通、さらには身近な食料や日用品・動植物までありとあらゆる名詞(=倭名)を集め、読みを萬葉仮名でつけて解説した、日本最古の百科事典です。辞書はこれ以前にも例があるのですが、百科事典的な物はこれが初めてになります。日本古代文学や古代史をやっている人は必ずどこかしらで触れる書物で、恐らくは『和名抄』という略称の方が通りがよいかも知れません。
今回漢籍を探す手がかりにこれを選んだのは、ひとえにこの『倭名類聚抄』が漢籍によって註釈を大量につけているからです。当時もう既に遣唐使はなく(というよりそもそも唐王朝自体が滅亡していますが)、日本独自の文化の形成を探求するいわゆる「国風文化」の時代になっていましたが、それでも日本よりはるかに進んだ中国の文化の影響は衰えることなく、平安時代いっぱい、こういった形で何かと顔を見せています。これでもし「狐」の項目に漢籍の註釈があれば、それが手がかりになります。
ただこの『倭名類聚抄』、ちと難物なのが「十巻本」と「二十巻本」の2種類のテキストがあるということです。この両者はまずその関係から問題になっていて、やれ十巻本が先だ、いや後だと今もやかましい論争が続いており、今も結論が出ていません。さらに巻数が十巻も違いますので、内容にも必然的に影響が出て来ており、二十巻本にしかない項目や部門があちこちで発生したり、そこまで行かないまでも十巻本と二十巻本で本文の内容が違うなんてこともあります。
そんななので正直「狐」を引くのにも身構えたのですが、結果は以下の通りでした。
十巻本(底本:『箋注倭名類聚抄』)
[原文]
狐 考聲切韻云。狐[音胡岐豆禰]。獸名射干也。關中呼爲野干。語訛也。孫面曰。狐能爲妖怪。至百歳化爲女者也。
[訓読文]
狐 『考声切韻』云はく、「狐[音は胡(こ)・岐豆禰(きつね)]は獣の名にして射干(しゃかん)也。関中には呼びて野干(やかん)と為す。語の訛り也」と。孫面曰く、狐は能(よ)く妖怪と為り、百歳に至りて化けて女と為る者也。
二十巻本(底本:元和古活字本)
[原文]
狐 考聲切韻云。狐[音胡和名岐豆禰]。獸名射干也。關中呼爲野干。語訛也。孫面切韻曰。狐能爲妖恠。至百歳化爲女也。
[訓読文]
狐 『考声切韻』云はく、「狐[音は胡(こ)、和名は岐豆禰(きつね)]は獣の名にして射干(しゃかん)也。関中には呼びて野干(やかん)と為す。語の訛り也」と。孫面が『切韻』曰く、狐は能(よ)く妖恠(ようかい)と為り、百歳に至りて化けて女と為る也。
《共通註釈》
関中=中国の伝統的な首都があった長安周辺の地域。
孫面=唐代の音韻学者。「面」の字には本来りっしんべんがつく。以下訓読文以外「孫メン」と表記。

『倭名類聚抄』にはいくつか写本がありますが、ここでは一番一般的なものの本文を用いました。本当は見られる写本は全部調べたんですが、特に大きな違いもなかったので(苦笑)。なお十巻本の一種に「下総本」という全く違う本文を持つものがありますが、これは後世かなりひどく改竄が行われていることが明らかなため、ここでは採用しませんでした。
ここでやはり注目すべきは、最後の一文でしょう。簡単に訳せば「孫メン(の『切韻』)が書くところによると、狐は妖怪となることが出来、百歳になると化けて女性になる」ということです。上述した通り、孫メンは唐代の人なので、この時期には既に「狐が女性に化ける」という公式が確立していたということになります。
では文献名が分かったところで実見を……となるのですが、実は困ったことに孫メンという人もその著書である『切韻』も、実在したことだけは記録類(日本最古の書籍目録『日本国見在書目録』など)でも確認されているのですが、現在ではほとんど伝わらず、まったく手の出しようがないのです。
「振り出しか……?」と思ってしまいますが、ここで意外な救世主が現れます。十巻本の底本を見てください。通常写本なら「〜本」となっているのが、『箋注倭名類聚抄』という註釈書になっているのが分かるでしょうか。十巻本の写本には京本・京一本・真福寺本・伊勢十巻本などがありますが、いずれも「零本」といって一部しか伝わらない端本です。これを江戸時代中期〜末期の書誌学者・狩谷えき斎(「えき」は木に夜)がまとめ上げ、校訂して註釈をつけたのがこの『箋注倭名類聚抄』なのです。
狩谷は図書館学・文献学をやると必ず名前が挙がるくらい有名な人で、その仕事はまさに非凡というべきものでした。この『箋注倭名類聚抄』も、一項目でせいぜい二文程度の『倭名類聚抄』の各項目にへばりついて、古今和漢のあらゆる書物を駆使して細かい註釈をつけています。もちろん写本をまとめ上げて校訂しているので、校異(写本間で異なる部分)についての註釈もあるのですが、それ以上に古文献からの引用がすさまじいのです。それも当時は知識人にとって漢学は基礎教養なので漢籍の宝庫です。これを見れば、孫メンの『切韻』に直接触れずとも、狩谷が噛み砕いて代わりの文献に導いてくれるのではないか、というわけです。
……というわけで、つらつらつらつら書かれている註釈から「孫メン〜」の一文に対応する部分を抜き出すと、次のような記述があるのに気づきます。
『箋注倭名類聚抄』「狐」條註釈より
[原文]
(前略)按。太平御覧引玄中記云。百歳狐爲美女。孫面至百歳化爲女之説。蓋本之。(後略)
[訓読文]
(前略)按ずるに『太平御覧』に『玄中記』を引きて云はく、『百歳にして狐美女と爲る』と。孫面が『百歳に至りて化けて女と爲る』の説、蓋(けだ)し之を本とするか。(後略)

要するに、狩谷は孫メンの説は『太平御覧』に引かれた文献の説が元ではないか、と考えたわけですね。この書物、前後の文脈から見ても和書ではなく漢籍です。これで道筋がようやく中国につながりました。次は、その『太平御覧』に当たってみることにします。 
第三節 『太平御覧』と『太平広記』
さて、『箋注倭名類聚抄』で示された『太平御覧』(たいへいぎょらん)をさっそく見てみましょう。
その前に『太平御覧』とはどんな文献なのかを説明しましょう。この本はちょうど『倭名類聚鈔』と40年ほどしか時代の違わない、北宋代初期の類書です。「類書」とは、あらかじめ立てた項目に対し、さまざまな古典籍から関連する記述を抜き出して百科事典風にしたものです。『太平御覧』の場合は、北宋の第二代皇帝・太宗の勅命により、太平興国2(977)年に撰述が始まり、6年後の同8(983)年に成立したもので、内容的には博物書です。全1000巻、55門、引用文献1600余りという超巨大な文献で、その大著ぶりもさることながら、引用文献のほとんどが現存しないためにそれらの姿を知る貴重な史料となっています。
これで「狐」の項を見てみると、実にいろいろな文献が引かれています。しかし、ここは『箋注倭名類聚抄』で提示された『玄中記』の引用にしぼって見てみましょう。
ちなみに、漢籍を見るのは結構簡単です。中国では『四庫全書』といい、大量の古文献を集めて叢書としたものが清代に作られているので。ただ、数百巻もあるという巨大な代物なので、かなり大きな図書館にしかまずない代物ですが……(私は大学・大学院時代に大学図書館で見ました)。「四庫」とは「経・史・子・集」の四種類に分ける中国独自の書籍分類「四部分類」によって分けられたがゆえの名で、『太平御覧』は「経」に入ります。
『太平御覧』「狐」條所引『玄中記』(底本:『景印文淵閣四庫全書』)
[原文]
玄中記曰。五十歳之狐。爲淫婦。百歳狐。爲美女。又爲巫神。
[訓読文]
『玄中記』曰く、「五十歳の狐は淫婦と為り、百歳の狐は美女と為り、又巫神と為る」と。

確かに『箋注倭名類聚抄』で指摘された通りの記述がありますね。おまけに百歳どころか、五十歳で「淫婦」とはこれまた強烈な記述です(汗)。とにかく狐は一定以上歳をとると妖怪化し、女性に化けるという認識が完全に固まっていたようです。
記述が確認出来たところで、『玄中記』という書物が一体どんな素性のものなのかについても調べなければいけないでしょう。この文献も類書で、どうやら心霊現象や妖怪変化などに関する項目を集めた書のようなのですが、残念ながら完全に散佚し、『太平御覧』などに引かれているものを見ないといけません。それでも成立年代・編者ははっきりしないものの見解が示されており、何と晋代の郭璞という人の撰とされています。
晋代……仮に西晋・東晋両方入れて考えた場合、西暦では3世紀中頃〜5世紀初めです。しかも郭璞は3世紀末から4世紀初頭の人なので、大体の年代の見当がつきます。魯迅は「郭璞が編者というのは六朝時代人による仮託」と言っていますが、六朝時代=魏晋南北朝時代だって4世紀初め〜6世紀末です。日本ではまだ古墳時代、下手すると弥生時代ですよ……『倭名類聚抄』が10世紀中頃ですから、どう少なく見積もっても400〜500年は早いことになります。さすが中国……。
ちなみに、この『玄中記』を一番大量に収録している書物が、『太平広記』という類書です。この書は『太平御覧』と兄弟関係にある書で、北宋の第二代皇帝・太宗の勅命により、太平興国2(977)年に撰述が始まりました。『太平御覧』より2年早く出来上がり、上梓が決定されたものの突如中止されてしまい、写本として次の次の代の明の時代に伝わりようやく刊行が叶ったというなかなか波瀾万丈な存在です。中身は『太平御覧』と違ってもっと専門的で、475種の古典籍から怪異譚だけを抜き出したという妖怪専門類書です。『四庫全書』では『太平御覧』と同じ「経」に入っています。
この書のすごいところは、「狐」だけで全500巻のうち7巻が占拠されてしまっているというところでしょう(汗)。当時それだけ狐がらみの怪異話がまことしやかにささやかれていたということなんでしょうね。この書での『玄中記』の引用は、7巻延々と続く狐関係の記述の最冒頭、「説狐」という狐を定義した條にあります。
『太平広記』「説狐」條所引『玄中記』(底本:『景印文淵閣四庫全書』)
[原文]
狐。五十歳能變化爲婦人。百歳爲美女。爲神巫。或爲丈夫。與女人交接。能知千里外事。善蠱魅。使人迷惑失智。千歳即與天通。爲天狐。[出玄中記]
[訓読文]
狐、五十歳にして能く変化し婦人と為る。百歳にして美女と為り、神巫と為る。或いは丈夫と為り、女人と交接す。能く千里の外事を知る。善く蠱魅し、人をして迷惑失智せしむ。千歳にして即(すなは)ち天と通じ、天狐と為る。[玄中記に出づ]
[大意]
狐は五十歳で変化するようになり婦人になる。百歳で美女や巫女となり、あるいは男になって女性と交わる。よく千里の出来事を知ることが出来る。魅惑の法を使い、人を迷わせ惑わせて正気を失わせる。千歳で天に通じ「天狐」となる。[出典・玄中記]

さすが怪異話だけをピンポイントに集めた本だけに、相当詳しい記述です。『太平御覧』とは少し文章が違いますが、内容は完全に一緒です。
特徴的なのは、一応「男にも化ける」ということになっているということでしょうか。しかし文中「或いは」で附属扱いですし、実際の説話でも狐が男に化けた話はあんまりありません(少ない代わりに「狐が女をリストにつけて狙いを定め、男に化けて強姦していた」なんて強烈な話があったりしますが)。まあ『玄中記』の認識としては「狐」=「女性に化けるもの」と理解してしまっていいでしょう。
しかしここまでたくましくイメージが固定されていると、これより前があるのではないかと思いますね。いや、実際にあるでしょう。「狐」をもののけ扱いする記述は既に『詩経』(紀元前7世紀)からあるとかで、「霊獣」「妖怪」としての狐のイメージは相当古いものです。この分なら「狐娘」も晋代以前、例えば漢代などにあってもおかしくないのではないのでしょうか。 
第四節 終着点は時の彼方に
私に最終的に「狐娘」の起源に関するヒントを与えてくれたのは、こちらの論文でした。茨城大学人文学部人文学科中国文学専修(今は学部名が違うようですが)の卒業生の方の論文で、題名通り中国の「志怪小説」「伝奇小説」と呼ばれる小説群での狐の扱われ方を研究したものです。これ自体も面白いのでおすすめなのですが、今回私をびびらせたのが第二章第二節にある、『呉越春秋』という歴史書に出て来る話です。
『呉越春秋』とは春秋時代の呉・越の両国の歴史について記した歴史書です。編者は趙曄という人で、全10巻。成立年は不詳ですが、後漢代であることはまず間違いないようです。後漢代というと、1世紀初め〜3世紀初めです。いや、最後の100年くらいは董卓だの曹操だのに牛耳られて三国志の戦乱期に突入していましたから、実質1世紀初め〜2世紀初めくらいでしょうか。ああ、『玄中記』でも古いのに、そこからさらに100〜300年さかのぼってしまった……(汗)。さらに建武年間(25〜56年)成立の説があったりと、もうどこまで古くなりゃ気が済むんだという感じです。
この『呉越春秋』では、越王・無余の先祖の話に「狐娘」がからみます。その先祖というのが……何と禹(う)。
中国史に詳しい方なら名前で分かるでしょう、中国初の世襲王朝と言われる伝説の王朝・夏の最初の王です。彼以前には、いわゆる「三皇五帝」と呼ばれる神話的な君主しかいません。ご存知でない方には、日本で言えば神武天皇が登場したようなものと思っていただければ大体分かるかと思います。
これには私も「な、何だってー!?」となり、さっそく『景印文淵閣四庫全書』の「史」部で該当記事に当たってみました。
『呉越春秋』越王無余外伝(底本:『景印文淵閣四庫全書』)
[原文]
禹三十未娶。行到塗山。恐時之暮失其度制。乃辭云。吾娶也。必有應矣。乃有白狐九尾。造於禹。禹曰。白者。吾之服也。其九尾者。王之證也。塗山之歌曰。綏綏白狐。九尾厖厖。我家嘉夷。來賓爲王。成家成室。我造彼昌。天人之際。於茲則行。明矣哉。禹因娶塗山。謂之女嬌。
[訓読文]
禹、三十にして未だ娶らず。塗山(とざん)に行き到り、時の暮して其の度制を失ふを恐れ、乃(すなは)ち辞に云はく、「吾娶るなり。必ず応有るべし」と。乃ち白狐の九尾なる有りて、禹に造(いた)る。禹曰く、「白は吾の服なり。其の九尾は王の証なり。塗山の歌に曰く『綏綏(すいすい)たる白狐、九尾厖厖(ぼうぼう)たり。我が家は嘉夷にして、来賓を王と為す。家を成し室を成し、我彼の昌(さか)えを造(な)す。天人の際、茲(ここに)於いて則(すなは)ち行はる』と。明らかなるかな」と。禹、因りて塗山を娶る。之を女嬌と謂ふ。
[大意]
禹は三十歳でまだ細君を娶っていなかった。塗山に行き着いたところで、時期を逸して秩序が乱れるのを恐れ、すなわち言葉に出して言うには、「余は娶る。必ずその応えがあるはずだ」。すると九尾の白狐が彼の前に現れた。禹曰く、「白は余の服の色、九尾は王者の証だ。ここ塗山に伝わる歌では『雄を探す白狐は、九尾でもふもふだ。我が家はとてもよいところで、来客を王にする。家を創り部屋を創り、私はその繁栄を作り上げる。天と人との極み、ここにおいてすなわち行われる』という。それが明らかになった」と。禹はこれによってその九尾の狐を娶った。これを「女嬌」と呼ぶ。

要するに禹が魔法使い(爆)になりかけていた時、通りかかった塗山の地で吉兆である九尾の狐(日本だと大妖怪のイメージありますが、本来は非常におめでたい獣なのです)に出会い、これぞよい報せだ、とその九尾の狐と結婚した、という話です。ただご覧の通り、文中には「塗山を娶る」とだけ書いてあって、九尾の狐と結婚したかどうかは不明瞭です。しかし一般的な解釈では、「綏綏たる」=「雄を探してさまよう」という詩の句があることから、九尾の狐を娶ったことになっているようです。若干判断には苦しみますが、これで解釈が固定しているようなので「狐娘」話としてこれを解釈してしまっても問題はないと思います。
さて、本文を見たところで考察です。調べた限りでは、この『呉越春秋』の記述がどうやら「狐娘」の最古の記述になるようです。では、この話が出来たのはいつの時代なのでしょう?試しに前の時代で夏の紀が立っている歴史書を探ってみると、『呂氏春秋』(秦代・前3世紀、呂不韋撰)にも『史記』(前漢代・紀元前97年、司馬遷撰)にもこんな話はありません(もっとも司馬遷は相当歴史に対してシビアな人なので、あえて取らなかった可能性もありますが……「夏本紀」には何の逸話も載せていないし)。大雑把ですが、先ほどの『呉越春秋』建武年間成立説なども考え合わせ、まずは紀元前後(新代〜後漢代初期)くらいにはこのような話が既にあったと考えるのがまず妥当な線でしょう。
さらに年代特定に一役買うのが、漢代に大流行した神秘思想との関係です。中国では古くから天と人は相関関係にあり、人側に何か問題があると天変地異が起こる、逆もまた然り、という考え方がありました。これが熱病のように大発展し、あらゆる自然現象や日常の出来事を何かの予兆としてかなり無理矢理に解釈する「祥瑞思想」が発生しました。この他にも、四書五経の行間に予言が盛り込まれているなどと考える「讖緯説」など、かなりオカルトな方向へ暴走したりしていたのです。この話にはそこまでオカルトな部分はありませんが、九尾の白狐を分析して「王者の証」とし、地元の歌に結びつける筋書きは、祥瑞思想に通じるものがあります。この祥瑞思想の中核となったのが、前漢代の董仲舒という儒学者でした。彼は前漢でも比較的後の方、紀元前1世紀の人物です。先ほどのような神秘思想のにおいからするに、結びつけられた時期はこの辺まではさかのぼれるかも知れません。想像をたくましくすると相手が夏の禹王という伝説的な大人物であることから、もしかするとその前段階があるかも知れない……と思ってしまいますが、これ以上はさすがに完全に想像になってしまうのでやめましょう。
つまりまとめると、不確実ではあるものの、「狐娘」という概念自体は紀元前1世紀〜1世紀には存在していたということが推測されるということです。最初の出発点である『倭名類聚抄』からは既に900〜1000年、現代からは最大2000〜2100年もさかのぼることになり、名実ともに「狐娘」こそ東洋最古の獣娘と言っていいかと思います。 
 

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