茶道用語


 

雑学の世界・補考   

会津本郷焼(あいづほんごうやき)
会津(福島県)の焼物。蒲生氏郷が会津に入封し、文禄元年(1592)に葦名氏の「黒川城」を大改修し、黒川の地を若松、黒川城の名を鶴ヶ城と改めるが、このとき城郭の屋根を瓦葺きとするため播磨国(兵庫)から瓦工を招き、小田村(会津若松市花見ヶ丘)で黒瓦を製造したのが始まりとされる。その後、正保二年(1645)会津松平藩祖保科正之が、美濃国から長沼(岩瀬郡長沼町)へ移り住んでいた陶工水野源左衛門を召し抱え、釉をかけた赤瓦を、小田村と本郷村で焼かせた。特に本郷では、土が良質であったことにより、やがて陶器が製造されるようになり、また、水野家三代瀬戸右衛門成紀を将軍家御用の江戸高原焼へ弟子入りさせ、水簸法を学ばせるとともに、茶碗づくりの技術を修めさせた。その後、水野家から献上する茶碗には高台に巴印を削りだしたことから「巴茶碗」と呼ばれ、四代成行、五代成房も名工で、この三代から五代までの作品を古本郷と呼び珍重する。寛永12年(1800)瀬戸、美濃、京都、鍋島で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の焼成に成功し、磁器も生産するようになる。
愛蓮説(あいれんせつ)
中国北宋の儒学者、周茂叔(しゅうもしゅく)の説(自分の意見を述べた文)。「水陸艸木之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明独愛菊。自李唐来、世人甚愛牡丹。予独愛蓮之出淤泥而不染、濯清漣而不妖、中通外直、不蔓不枝、香遠益清、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。予謂、菊花之隠逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。」(水陸草木の花、愛す可き者甚だ蕃し。晋の陶淵明は独り菊を愛せり。李唐自り来、世人甚だ牡丹を愛す。予は独り蓮の淤泥より出づるも染まらず、清漣に濯はるるも妖ならず。中通じ外直く、蔓せず枝せず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植ち、遠観す可くして褻翫す可からざるを愛す。予謂らく、菊は花の隠逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は花の君子たる者なりと。噫、菊を之愛するは、陶の後聞く有る鮮し。蓮を之愛する、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之愛するは、宜なるかな衆きこと)。周茂叔(1017-1073)、諱は敦頤(とんい)。宋学の開祖。濂渓(れんけい)(湖南省道県)に住んでいたので、濂渓先生と呼ばれた。蓮の花を愛して「愛蓮説」を著し、菊を隠逸の花、牡丹を富貴の花、蓮を君子の花とした。「愛蓮説」を採録した「古文真宝後集」は室町時代の禅林で模本漢文集として愛読された。
青備前(あおびぜん)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。匣鉢(さやばち)の中や、入れ子になった品が、燃料の松の熾(おき)に覆われ蒸し焼きになり、素地中の鉄分が冷却時の還元雰囲気(酸素が少ない状態)で酸化第一鉄となり青灰色を呈したもの。素地中の鉄分量、焼成温度、冷却還元雰囲気の濃度などによって水灰色から黒に近い濃灰色まで様々な色が出る。 これとは別に、藤原楽山に代表される塩窯青焼による青備前がある。焼成の最後に焚口から塩を投入し、窯を密閉して窯全体に冷却還元を起こすもの。塩は青灰色の呈色のためではなく、窯内に塩を投入してガス状にし、塩と器表面の化学変化により、器表面をガラス化させ艶のある青を出す技法。食塩青。塩青焼。
赤絵(あかえ)
赤を主とする多彩の上絵付。色絵ともいう。白磁のまま、若しくは磁体に染付などほどこし透明釉薬を掛けて焼成させた後、赤色を主体に二・三色の顔料で上絵をほどこし再焼成してつくられる磁器、あるいはその図柄を赤絵と呼ぶ。中国では宋赤絵がその先駆で、元末から明初にかけて景徳鎮で染付とともに焼かれるようになり、嘉靖年間(1521-66)には完成期を迎える。中国で闘彩あるいは五彩と呼ぶものに相当するが、狭義に赤絵といえば、紅の上絵のまさるものをさす。色の数が多くなると五彩、金彩、銀彩を用いたものを金襴手、銀欄手。赤以外の色合いも鮮やかなものを錦手、染付と組み合わせたものを染錦ともいう。青花、すなわち染付に釉上の紅彩を配合したものは宣徳年間(1426-1435)より出現し、成化年間(1465-1487)には3、4色の上絵をほどこすようになった。嘉靖・万暦年間(1522-1619)には多色の彩色をほとんど器物全面にほどこした五彩が出現した。わが国で一般に万暦赤絵と呼ばれるものがこれである。日本では伊万里に始まり、古九谷・京焼などで焼かれた。肥前有田では、明末清初の赤絵を取り入れた柿右衛門の赤絵がある。
赤織部(あかおりべ)
織部焼の一種。鉄分の多い赤土を素地として、文様は白泥で装飾されることが多く、中には鬼板(鉄釉)との組合せで文様が描かれたものがある。主に皿、小鉢、向付(むこうずけ)、茶碗などに多くみられる。
暁の茶事(あかつきのちゃじ)
炉の季節において、極寒の朝の夜明けを楽しむ茶事。歳暮より2月にかけ、早朝5時頃からはじめられる。古くは暁会の名称はなく、すべて朝会と云い、夜を込めて露地入りしていたが、朝会の案内に夜を込めて行く事が稀になり、別に暁七ツ時(寅の刻。日の出の2時間前頃。およそ冬至では午前4時頃)に席入するものを暁会と称するようになったという。「茶道筌蹄」に「暁七ツ時に露地入するなり。当時は七ツ半なり。」と、昔は午前4時に露地入したが、今は午前5時となったとし、「前日黄昏に露地へ水を打、燈籠并待合行燈まで火を入、暫して火を消し、暁七ツどきに火を入る也、或人の云、通草を宵に消したるまヽにてかき立て火をともすれば、残燈の趣有て一入風情あるよし、偖釜は前夜より仕懸置、客待合へ来るとき、炭を一ツ二ツ加へ、手水鉢の水を改め、迎ひ入るヽなり、偖生姜酒ぜんざい餅など様の物を出し、薄茶を寛々点て閑話をなす也、薄茶済て底を取、釜を勝手へ持ゆき、水を仕かけ濡釜にてかくる故、板釜置か竹釜置を用ゆ、しかし水をみな仕替るときは烹おそき故に、少しばかり水を仕替るがよし、偖炭手前済て膳を出す時、突上ゲを明ケ行燈を引キ、夜もほのぼのと明るが至極の時刻なれども、餘りにケヌキ合とせんとするはよろしからず、膳を出すに、汁は何、むかふはなにと、亭主より名乗もさびて面白し、小間にて突上ゲ窓の下へ参りがたき時は、末座へたのむべし、突上ゲなき席は、連子の戸を障子と仕替る、是も客へたのみてもよろし、偖中立までは随分ゆるゆるとなすべし、中立後は随分さらさらとなすべし、客もつヾきなど乞ふもよし」、「茶道望月集」に「当時は夜込とさへ云へば、何時も客入を聞て、何時も濡釜を仕掛て迎に出、客入て釜の濡色を見する事を、夜込の習とする抔と言説あり、古法にはなき事也、夫は前にも言如く、何とぞ故ありて、客七つ前にも路次入したる時の事と可知、子細は昔よりの法として、寅の刻より前の湯を宵の湯とし、後の水を当日の水とせし事なれば、七つ前に来る客には、七つ過例の料理前に炭をして後、其釜を勝手へ持入、下地の湯を捨て、新敷水を入替て持出、炉へ掛る仕方能と可知」、「南方録」に「総じて曉の火相を寅の火相と言ふ。則夫を朝會迄に用ふる。先寅の刻、宵よりつかへたる炉中を底より掃除し、井華水を汲んで釜を改め、一炭して水釜にて掛ける。凡今一度置添へて朝会客入の下火に能頃なり。夜込に客来の時刻限に応ずることなり。」とあり、暁の茶事では、初炭のあと、釜をいったん水屋に持ち帰り、湯を半分ほどあけ、そこへ井華水(せいかすい)をあふれるほど満たして柄杓で2-3杓かき出し、この釜を再び炉に据える濡釜や、懐石のとき、小間天井の突上窓をあげ、暁の曙光をとり入れる習いがある。
上野焼(あがのやき)
遠州七窯の一つ。慶長7年(1602)細川忠興が豊前に入封したとき、文禄・慶長の役で加藤清正が連れ帰った釜山の城主尊益(そんえき)の子・尊楷(そんかい)を招き、士分に取り立て、茶陶を焼かせたのが始まりという。最初は城下町の菜園場村に築窯したが、慶長10年(1605)頃、上野邑に移り釜ノ口窯を築窯し、尊楷の名を上野喜蔵高国(あがのきぞうたかくに)に改める。寛永9年(1632)細川家が肥後国に移封されると尊楷も従い、八代において窯を築き高田焼を始めたが、上野には尊楷の三男の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門が残り後を継ぎ、豊前小笠原藩の庇護を受け、享保年間(1716-1736)には吉田家も加わり明治4年(1871)の廃藩置県まで焼成されたが小笠原藩の庇護を失い廃窯となり一時中断され、明治35年(1902年)に地方産業奨励の補助金を受け御用窯時代に製陶に携わった熊谷九八郎らの手により再興された。作は薄作りで、初期の品には土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使っており、唐津や古高取に似る。後に白釉地に「緑青流し」と呼ばれる上野青釉(銅緑釉)や三彩を掛ける。古作は無印で、巴印は幕末頃から使われ、十時家は「左巴に甫」、渡家は「右巴に高」、吉田家は「左巴に木」の窯印。
赤膚焼(あかはだやき)
奈良県五条町の陶器。遠州七窯の一つ。五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられたが、「本朝陶器攷證」に「天正慶長の頃、大和大納言秀長卿思召にて、尾州常滑村より与九郎と申者御召よせ、窯相立焼はじめ、其御京都より治兵衛と云焼物師下りて焼立、夫より近来松平甲斐守様御隠居堯山翁、内々御世話有之候歟、何事やらん度々留窯に相成候よし、窯元ハ添下郡五條村と申所にて、土も五條山より取り候との事、其外委敷事ハ分りがたく候」とあり、天正年間(1573-92)郡山の城主大和大納言秀長が尾張常滑の陶工与九郎を招いて開窯させたのが起こりともいわれるが不詳。「府県陶器沿革陶工伝統誌」に「正保年間に在りては、添下郡郡山に於て製せり、当時京師の陶工野々村仁清来て窯を開き、法を土人に伝ふ、故に其製品仁清焼に類するものあり」とあり、正保年間(1644-1668)野々村仁清が立寄り製法を指導したとも伝えられる。その後大和郡山藩主柳沢堯山(1753-1817)が京都清水より陶工伊之助、治兵衛の二人を招き窯を復興し郡山藩御用窯とし、堯山から拝領の勾玉形の「赤ハタ」印(凹印)を用いるようになったという。ただ「赤膚山」印は以前から使われていたともいう。堯山没後一時不振であったが、三代治兵衛の時代である天保(1830-44)頃から郡山の数奇者奥田木白(1800-1871)が治兵衛の窯で作陶を始め、仁清写しなど各種の写し物に巧みで、特に能人形は独壇場で赤膚焼の名を挙げた。作品には「赤膚山」印と「木白」印を捺している。「工芸志料」に「赤膚焼は正保年間、大和国添下郡の郡山に於いて製する所の者なり。京師の工人野々村仁清という者あり、此の地に来り始めて窯を開き土人に教えて器物を造らしむ。故にその製たるや仁清の造りし所の陶器の如し。既にして窯廃す。享和年間郡山の城主柳沢堯山、工人に命じて再び此の地に窯を開かしむ。其の土質白し、其の色は灰白色にして而して其の上に黒班の釉を施す、長門国の松本焼の如し。然れども酒器おおく食器は少し。毎器に(赤ハタ)の印を款す。工人業を伝えて今に至る。」、「本朝陶器攷證」に「赤膚焼遠州時代は赤はだ山の池土を以て造る。土黄にしてこまかなり。堯山侯再興の時は、赤はだより半里ほど脇なる、五条山の土を以て造らせらる。土黄に赤きふありてあらし白土も有。」とある。
上り子椀(あがりこわん)
懐石家具の塗椀の一。端反りの落込み蓋で、壺皿(椀)のみ被せ蓋だが、落込み蓋もあるという。底は高台付で平皿(椀)のみ碁笥底となっている。会記での初見は「神屋宗湛日記献立」慶長2年(1597)2月25日納屋宗薫会で、それ以降、それまでの主流だった「鉢の子椀」に代わって頻出するようになるという。元禄4年(1691)刊「茶道要録」に「利休形諸道具之代付」として「上り子椀但シ三人前十八銭目。替汁椀但シ一組三銭目。二ノ椀九銭目。大壺皿蓋共同前。小壺同同前。平皿同同前。」とあり、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「黒塗上り子椀利休形、坪は外蓋又内蓋もあり、平内蓋」とある。
阿古陀形(あこだなり)
器物の形状の一。南瓜の表面に似た、ほぼ等間隔の湾曲が並列した形の器物の総称。金冬瓜、紅南瓜とも称される阿古陀瓜の形状に似ているところからの名。茶入、茶器、香合、水指、花入、釜、香炉、向付などに見られる。形物香合相撲番付には、大阿古陀、捻阿古陀、中阿古陀、角阿古陀、小阿古陀があげられている。
朝茶(あさちゃ)
茶事七式の一。朝会。風炉の時期において、夏の早朝に催される茶事。午前6時頃からはじめられ、席入、初炭、懐石、中立、濃茶、続き薄茶の順に進められる。懐石は、向付に生魚をさけ、焼物を省いた一汁二菜が一般的で、替わりに香の物に青竹の箸を添えた鉢が早くに出る。朝からは新鮮な魚が手に入らなかったためといわれる。明和8年(1771)刊「茶道早合点」に「古茶の湯と云は、定りて朝の事なり」とあるように、利休の頃までは季節を問わず朝会が中心で、朝茶が酷暑の頃のものにとなったのは宗旦以後の元禄・享保の時代という。「貞要集」に「朝会と約束のときは、七ツ時分に支度をして可参、道の程遠近を考、七ツ過に待合へ可入、客揃候へば亭主迎に出、七ツ過に座入可有、極寒時分は、下火を多入置釜を揚、下火をひろげて、炉辺に寄申様にと挨拶有之也、路次に水を打不申、燈籠迎暗燈とうしんも短ク数三筋計、宵より待たる体に仕なし、あかつき方あかりのすごく無之様に仕候、小座敷の内は木地の暗燈出し申候、是は夜明て取入る時に、やすらかに有之故也、時分を見合、夜の内に炭を致候、ほのぼのと明る時分、路地の石燈籠、又は釣燈籠の火も消申節、替戸を取、圍の内暗燈を取入、膳を出し申候、古来は右の時分を第一に仕、朝会はやり申候、当代は朝会といへども夜明て路次入、五ツ時会席を出シ、此時は中立に水打申候、それも極寒の節は心得可有、風炉の茶湯には、朝会にても初後ともに水打申候、其外常の作法に替る事なし」とあり、昔は暁会という言葉はなく、朝会とのみの案内の時は暁七ツ時分(日の出の2時間前頃。およそ冬至では午前4時頃、夏至では午前2時半頃)に夜を込めて行くのが一般的だったという。
朝日焼(あさひやき)
京都府宇治市朝日山の陶器。遠州七窯の一つ。「本朝陶器攷證」に「朝日山之焼銘は、離宮社後之山を朝日山と云、右地名を以朝日焼と唱候哉のよし、初代慶長中之頃、宇治町に住居、奥村次郎右衛門歟、又は藤作とも相聞え、四代計り相続き候所、慶安年中之頃相絶、子孫無御座候、其後土器師之者も無之、朝日山之銘之字は、小堀遠州公之筆のよしにて、専ら茶器之類を焼候趣にて、種々焼立候よし」とあり、慶長年間(1596-1615)奥村次郎右衛門藤作(陶作)が開窯したとされる。二代奥村藤作(陶作)が小堀遠州の指導を受けたため遠州七窯の一つに数えられおり、主に遠州好みの茶器を焼いたが、慶安(1648-52)頃から一時絶えた。この時代の作を古朝日というが、多くは茶碗で御本風が主である。素地は褐色で、釉肌に黒斑があり、多く刷毛目の櫛描きがある。二代目陶作の刻印「朝日」印は遠州筆の伝から俗に遠州印といわれ、「朝」の偏が「卓」になっている「卓朝日」印は遠州の三男小堀権十郎政尹筆で「権十郎印」といわれている。他に車扁の「車朝日」印、扁の頭が?になった「鍋蓋朝日」印などがある。文久元年(1861)に松林長兵衛が再興してから引続き今日に及んでいる。当代は15代松林豊斎。今の朝日焼は紅斑のいわゆる御本が特色で、土の違いによるそれぞれの窯変を「燔師」と「鹿背」に分けて呼んでいる。
芦屋釜(あしやがま)
鎌倉時代末期から桃山時代の天正年間にかけて筑前国(福岡県)遠賀川(おんががわ)の河口にある山鹿庄芦屋津(やまがのしょうあしやづ)で制作された釜の総称。その頃より名声を博し、室町時代には茶の湯釜として、一世を風靡した。芦屋釜に関する文献では「看聞御記」の嘉吉3年(1443)正月廿二日条に見えるものが最も古い。多くの形は真形(しんなり)で、口は繰口(くりくち)、鐶付には鬼面(獅子面もある)が用いられており、胴部に羽をめぐらし(古い釜のほとんどは底の修理で打ちかかれている)、鋳肌は滑らかでいわゆる鯰肌(なまずはだ)、地にヘラ押しによる文様を表すことが多い。天文12年(1551)庇護者の戦国大名大内氏が陶晴賢に滅ぼされ、工人等は四散して播州・石見・伊予・京都・越前・伊勢などに移り芦屋風の釜を鋳造し、播州芦屋・石見芦屋などと呼ばれるように各地に分派した。現在国の重要文化財に指定されている茶釜9点の内、8点が古芦屋釜、1点が古天明釜。貝原益軒の「筑前国続風土記」に「昔より此国遠賀郡芦屋里に鋳物師の良工有。元祖は元朝より帰化して上手なりしかば、菊桐の御紋の釜を鋳て禁中に捧げ、山鹿左近掾と称せらる。本姓は大田なれ共、芦屋の山鹿に居住せる故山鹿と称す。世に菊の釜、桐の釜とて、茶人の珍とするは此釜より起れり。」、「茶湯古事談」に「芦屋釜は摂津国のあしやにてはなし、筑前国の芦屋にて鋳釜なり、雪舟の下絵を最上とせり、雪舟は石見の人なりしか、時々芦屋の辺を通りありしを、治工請して下絵をかきもらひしといふ、一説には大内家其頃威勢さかんなりしゆへ、芦屋の治工をよひ、雪舟をも招きて、絵かかせ鋳させしといふ、松・杉・梅・竹の類なり、其子孫あれとも中頃切支丹の族を釜入有し時に、其釜を鋳たりしより、茶人芦屋の新釜を好ます、故に今世はつねの鍋釜をのみ鋳て渡世すとなん」とある。
跡見の茶事(あとみのちゃじ)
茶事のあとで、参会できなかった客から所望されて、その茶事の道具をそのまま使って催す茶事。「茶道筌蹄」に「跡見は朝茶正午の後に限る、夜咄には跡見なし、客は近辺まで来り、何方にて御案内を相待と亭主方へ申入るヽ也、亭主朝茶午時の茶済次第花を残し、ケ様の節は初めの客に花所望したるも宜し、客方へ案内をなす、客は案内に随て露地へ入る、亭主炭を一ツ二ツ置添て炉中を奇麗になし、但し火未落ず釜もよく烹るならば其ままにてもよし、偖水さしの前へ、袋をはずしたる茶器をかざりつけ、手水鉢の水をあらため迎に出る、但し露地へ水を打ず、客座につくとき、亭主茶碗を膝の脇にをき、勝手口明、如例挨拶して、直様に点茶をなし、客は茶入茶杓をかへし、一礼して退出するなり、夫程に急なる事もなき時は、濃茶の跡にて炭をなをし、菓子を出し、薄茶を点るもよし、菓子ははじめに待合に出しをくもよろし、元来跡見の趣意は、遠方へ旅立をする日限急にせまる歟、用事繁くして、半日の閑を得る事もならざるに、何とぞ此度の催に洩るヽ事の残念さよと、客方より乞ふ事故、誠に火急なる場合をたのしむことなれば、主客とも心得あるべき事也」、「槐記続編」に「跡見と云ことは、御成ならではなきこと也、今の跡見と云ことは、今日御茶ありと聞し、御残りあらば参り度と云の儀也、それ故今日のあとみと云ふ、又一つ其儀あるべしと仰なり、古へ秀吉などの跡見と云は、色々の名物を御成の為に設けたるが故に、此度ならで又見んことも難かるべしと云心にて、御跡を拝見する心なり、それ故二三人にかぎらず、七八人のこともあり、そのときは路次に立こととみへたり、今のは数も大かた極りあれば、茶の残りを所望する意なり、跡見にて大勢のときが、重子茶碗の作法あり」とある。
雨漏(あまもり)
高麗茶碗の一種。もともと不完全な焼成のため釉に生じた気泡やごく小さな疵を通して、永年の使用のうちに水分など異物が浸透したことにより雨漏の染みのような景色が生じたものを、茶人が呼び慣らしたもの。染みの模様は多く鼠色であるが中には紫がかかったものもある。雨漏には粉引のような柔らかなものや、堅手のものもあり、堅手のものは別に「雨漏堅手」と呼び慣らしている。
粟田口善法(あわたぐちぜんぽう)
室町後期の侘茶人。生没年不詳。善輔、善浦とも書く。村田珠光の弟子。京都粟田口に住み、手取釜ひとつで食事も茶の湯も行い、村田珠光も「胸ノ奇麗ナル者」と賞賛したという。豊臣秀吉が手取釜を召し上げようとしたとき、これを拒んで打ち割ったといわれ、後悔した秀吉は、千利休に命じて釜師辻越後に写しを作らせたという。この茄子形の手取釜と秀吉の朱印状が粟田口良恩寺に伝存するという。
「山上宗二記」に「京堺に珠光の弟子多し、大抵聞及衆、松本・篠・道提・善法・古市播州・西福院・引拙」、「目利にて茶湯も上手、数寄の師匠をして世を渡るは茶湯者と云、一物も不持、胸の覚悟一、作分一、手柄一、此三箇条の調たるを侘数寄と云々、唐物所持、目利も茶湯も上手、此三箇も調ひ、一道に志深きは名人と云也、茶湯者と云は、松本・篠両人也、数寄者と云は、善法也、茶湯者の数寄者は古今の名人と云、珠光并引拙・紹鴎也」、「京粟田口の善法、間鍋一つにて一世の間、食をも茶湯もする也、此の善法がたのしみ、胸中の奇麗なる者とて珠光褒美せられたり」、
「長闇堂記」に「粟田口の道善と云道心者の侘数奇有、手取なへ只ひとつを持て、常はこなかけみそをして、其なかを前なる川にてあらひ、茶の湯をわかし、数奇せしもの也、京へ鉢に出るにも、戸をかためす、心のたけきものなり、又、三井寺の麓にわひすきの道清といふもの有、信楽壷の六斤計も入を負て、宇治へ茶時分には行て、茶もらい帰りて、数奇せしもの也、大津衆かたられしは、京より茶のみに来る人あれは、のそきみて、肩衣十徳なきものには出あわぬ由もうされし、某ふとおもひより、行みれは、先以、其寺見事にしてさひけなく、戸口は鎖きひしくおろせり、只そのしかた何もしらぬつくり物とみへ、興さめかへりしなり」、
「本阿弥行状記」に「粟田善法禅海和尚(堺の東上市村住此僧手取鍋にて粥をにて後これをあらひて茶を煎ず)與五郎(和州南都北市村住)道六(所同し者故略之)この四人隠逸の異人にて、杓子にて粉炭をすくひ、炉中に提梁釜をかけ(今民間釣鍋)土居に円座をしき、主客の応対もなく、只茶を喫し楽しむ。かやうのものは只礼もなく雅もなく、変人にて習ふべからず、とわが友宗旦の噂被致し也。」、
「茶道筌蹄」に「粟田口善法無伝、侘茶人也、手取釜にて一生を楽む、手とり釜おのれは口がさし出たり、雑水たくと人にかたるな」、
「続近世畸人伝」に「善輔(一作善法又善浦とも有り)は、粟田口に住む隠者也。其居は土間に炉をひらき、円座を敷て賓主の座をわかち、十能に炭をすくひて、そのまゝ炉に投ず、往来の馬士驕夫に茶をあたへ、物がたりせしめてたのしみ、昼夜のわかちなき人なり。糧つくれば、一瓢をならして人の施を乞ふ。皆其人がらを知りて、金銭米布をめぐむに、其ものゝある間は、家を出る事なし。炉にかくる所手取釜といふものにて、是にて飯を炊き、又湯をわかして、茶を喫す。其湯の沸時は、彷彿松濤声、昔日高遠幽邃趣と吟じて独笑す。手取釜おのれは口がさし出たぞ雑水たくと人にかたるな、と戯れし事もあり。豊太閤そのことを伝へきゝ給ひて、其手取釜を得て茶燕せよ、と利休に命ぜられければ、休すなはちゆきて、しかじかの御命の旨を伝ふるに、善輔聞くとひとしく色を損じ、此釜を奉ればあとに代りなし、よしなき釜故に、とかく物いはるゝも亦おもひの外なりと、やがて其釜を石に投じて打砕き、あらむつかしあみだが峰の影法師、とつぶやきたり。蒿蹊按、あみだが峰、古歌によめるは東南渋谷なれども、此粟田山にも此名をよびて、享保のころまでは茶毘所ありしに思へば、南のあみだがみねの下は鳥部野にて、もとの葬所なれば、のちに粟田にうつしたるにやあらむ。利休もあきれていはむかたなく、豊太閤は短慮におはしませば、いかゞあらむとおもひ煩へど、すべきやうもなければ、ありのまゝに申しけるに、かへりてみけしきよく、その善輔は真の道人なり。かれがもてるものを召しは我ひがごとぞ、とおほせて、そのころ伊勢阿野の津に越後といふ名誉の鋳物師あるに命じて、利休居士が見しまゝに、二つうつさせて、一つは善輔に、かの破たるつくのひとて賜ひ、一つは御物となる。善輔歿して後、その釜、粟田口の良恩寺に収まれり。其図左のごとし。
またその手取釜の添文とてあり。手取釜并鉤、箱入鎖迄入念到来悦思召候。尚山中橘内木下半介可申也。十月十一日太閤御朱印田中兵部大輔。花?云、田中兵部大輔は、その比の諸侯也。越後に御命を伝へて鋳させたる人ならむ。是は其時の御使番、山中、木下よりの清書也。別に持たる人の意にて、此善輔が釜の此寺にあるによりて、寄附したるならむか、善輔にはあづからざるもの也。彼太閤の御物は、或る大国の侯の御家に伝るとぞ。又細川玄旨法印も、此釜をうつせと阿野越後に仰られしに、御所の思召にてたゞ二つ鋳たる事に侍らへば、又同じ形に鋳候はむことは憚ありと辞しければ、理也とてざれ歌をよみて、さらば是を其釜に鋳付よ。これ同じものならぬ証拠也と仰しかば、やがて鋳てまゐらせけるとぞ。其ざれ歌は、手とり釜うぬが口よりさしいでゝこれは似せじやと人にかたるな、此釜、今も細川家に伝ふるよし也。又云、もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路庵がよみしとも、又道六といふ人のよみしともいへど、此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、善輔がよみしに疑なかるべし。蒿蹊評云、善輔茶を翫んで茶匠の窟に不落は陸羽盧同に勝れり。馬士驕夫をいとはず茶をあたへ物語せしむるは、宇治の亜相に似たり。しかも時の威権に屈せざるの一条は甚難して甚危し。幸にして免たるは天歟、そもそも無我の所以無敵歟。」とある。
粟田口焼(あわたぐちやき)
洛東粟田口で生産された陶器の総称で、いわゆる京焼の一。のち窯場が粟田一帯に拡大され粟田焼といわれるようになる。「本朝陶器攷證」に「「青蓮院御家領之内、山城国愛宕郡粟田口三條通蹴揚今道町江、寛永元年之頃、尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師三文字屋九右衛門と申者、粟田之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候よし、夫より前、同町に陶工之者有無、段々探索いたし候共不詳、九右衛門関東江御召御茶碗御用相勤候ハ、三代将軍御治世中ニ候得共、旧記等無御座、初発年月不相分、同人陶工焼窯者、同町南側人家之裏、字華頂畑と云所ニ在、此窯連綿、当時同町焼物師一文字屋佐兵衛所持仕り、焼続き申候」、「青蓮院旧記」に「三文字屋九右衛門、粟田口三条通蹴上今道町に築窯」とあり、寛永元年(1624)瀬戸の焼物師三文字屋九右衛門が瀬戸より来て粟田口三条に開窯したのに始まるとされる。印銘は粟田。「隔蓂記」の寛永15年(1638)五月二十日に「自大平五兵衛、茶入五ツ來。粟田口作兵衛焼之茶入、自此方、切形遣之茶入也。内々参ケ之約束、依然、弐ツ返于五兵衛也。参ツ留置也」とあるなど、初期には唐物写しの茶入をはじめ呉器・伊羅保など高麗茶碗の写しなど茶器が作られた。御室窯の野々村仁清の色絵陶器が盛行するとその写し物も手がけ、色絵陶器が主流となる。
案山子(あんざんす)
「傳燈録」に「問孤迥峭巍巍時如何。師曰。孤迥峭巍巍。僧曰。不會。師曰。面前案山子也不會。」(「問う孤迥峭巍巍たる時如何。師曰く、孤迥峭巍巍たり。僧曰く、会せず。師曰く、面前の案山子もまた会せず。」とある。作物を荒らす鳥獣を脅すため田畑に立てる人形「かかし」を「案山子」と書くことについては、北慎言の弘化2年(1845)刊「梅園日記」に「玉池難藻三篇に、案山子禅語に出、愚此文字を鹿驚しに当る事、或禅師に問しに、云、案山子とは、大山に添し小山を云、人ならば、前に書案を置形なり、陰に有て不用の山故、影法師の意にて、用立ぬ人を案山子と云と、是にて思へば、わらにて作り人の影法師同前の物ゆへ、右の文字をかり用ひしなるべしとあり、按ずるに、いふにもたらぬ僻説なり、隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、案山は増集続伝燈録巻四如珙伝にも拈却門前大案山放儞、諸人東去西去など、禅家にてよくいふ語也、按に、此語はもと堪興家とて、地理のことを業とするものゝいへること也、唐土にては人を葬る土地むづかしくして、親など死たる時、葬るべき地を撰に、彼堪興家をたのみて撰ばするなり、もしよき地を見あたらぬ時は、数年葬らで置事などあり、撰みてその詮もなき事あり、西湖遊覧志餘侫倖盤荒論に、葬京之父準、葬臨平山為駝形術家謂駝負重乃行、遂作塔山頂以浙江為帯水、泰望為案山、何其雄也、富貴既極、一旦顛覆、幾于滅族、俗師風水之説、安定憑哉、按にこれもと陸游いへる事なり、入蜀記宿臨平者、太師葬京、葬其父準於此、以錢塘江為水、會稽山為案、山形如駱駝、老学庵日記にもこの説あり、是なり、さて諧話に、案山は低く、上平かに机の如き意ならんとあれど、平かならぬをもいふべし」とある。
安南(あんなん)
安南(べトナム)で作られた陶磁器の総称。安南焼・安南手とも。「安南」の語は唐朝が辺境地域の支配のために設置した六都護府の一つ安南都護府に由来する。ベトナムでは中国陶磁器の影響のもとに早くから白磁・青磁が焼かれていたが、14、5世紀から染付・赤絵の製作も始まり、室町末期から江戸前期にかけて多くの安南が舶載された。その文様は竜・獅子・鳳凰・鹿・鶴などの動物文と魚・蝶・蜻蛉のような魚虫類、草花は牡丹文・唐草文などがあるが、絵付けがゆるい。染付に用いられた胎土は、良質なカオリンが産出しないため純白にならず、全体に白化粧が施され、その上に文様を描き、灰分が多いため灰青色をおびた透明釉がかけられている。そのため肌合いに磁器のような透明感がなく乳濁し、元・明染付に比べ柔らかい印象となる。透明釉が釉裏の呉須をにじませて流れるような景色のものを「絞手(しぼりで)」と呼び、茶陶として喜ばれた。茶碗・水指・花入・鉢などがあり、安南染付・安南赤絵などの称がある。
安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)
安土桃山・江戸前期の僧・茶人。美濃生。天文23年(1554)-寛永19年(1642)。名は日快、号を醒翁、俗名を平林平太夫。幼いとき美濃国浄音寺で出家し、京都禅林寺(永観堂)で甫叔に学んだ。慶長18年(1613)京都誓願寺五十五世法主となり紫衣を勅許される。茶道を古田織部に学び、晩年は誓願寺の境内に安楽庵を結んで風流の道を楽しんだ。近衛信尋・小堀遠州・松永貞徳らと交わる。自作及び蒐集した笑話を集め「醒睡笑」を起筆、板倉重宗に献呈した。落語家の祖とされる。
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伊賀焼(いがやき)
三重県伊賀地方丸柱付近でつくられる陶器。古くから雑器類が生産されていたことが知られており、丸柱窯は天平宝字年間(757-764)に興るとする説もある。茶陶としての伊賀焼は、宝暦13年(1763)藤堂家家老の藤堂元甫の「三国地誌」に「瓷器、丸柱村製、按ずるに伊賀焼云是なり。古へ本邑と槙山村より出ず。茶壷、水指、茶入、茶碗、花瓶、酒瓶の類なり。茶道を嗜む者愛玩す。又槙山釜と称する者あり。又山手道と云ものあり。筒井定次の時焼、又あした焼と云ものあり。是等を皆古伊賀と称す。大抵江州信楽焼に類す。云々」とあり、天正12年(1584)古田織部の弟子であった筒井定次(つついさだつぐ)が伊賀領主となったとき、槙山窯と丸柱窯、上野城内の御用窯などで茶陶を焼かせたとされ、これを「筒井伊賀」と呼ぶ。慶長13年(1608)筒井定次が改易となり、藤堂高虎が伊賀国主となる。二代藤堂高次のとき「大通院(高次)様御代、寛永十二年乙亥の春、伊州丸柱村の水指、御物好にて焼せられ、京三条の陶工孫兵衛伝蔵、両人雇ひ呼寄、所の者火加減を習ひ候由、其節凡百三十三出来して東府へ送る」とあり、寛永12年(1635)京都から陶工を招き茶陶を焼かせ、これを「藤堂伊賀」と呼ぶ。今日「古伊賀」は筒井伊賀と藤堂伊賀を称する。なお、寛永年間(1624-1644)藤堂高虎の娘婿の小堀遠州が指導して製作したものを「遠州伊賀」といい「筒井伊賀」とは対称的に瀟洒な茶器である。古伊賀は、俗に「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれるように、耳が付き、箆目が立ち、また一旦整った形を崩した破調の美が特徴とされる。無釉で耐火度が高い長石の混じった土を高温で焼成するため、土の成分が融け出た所に松の灰がかかり自然釉(ビロード釉)や、強く艶のある「火色」、灰が積もり燻って褐色になった「焦げ」が出現する。しかし「寛文九己酉年七月十二日伊賀国丸柱白土山・・・丸柱古窯の土を以て水指等御焼せ遊ばされ、御蔵に右の土をも御貯蔵され候て、右の山、留山に仰付けられ候」と、寛文9年(1669)「御留山の制」が設けられ、このため陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退した。その後七代高豊の宝暦年間(1751-1764)に丸柱窯が再興され、これを「再興伊賀」と呼ぶ。「再興伊賀」以降は茶陶は殆ど焼かれなくなり、古伊賀と異なり殆どが施釉で日用食器が中心となっている。
異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)
東福寺十五世の虎関師錬(こかんしれん/1278-1346)の室町初期の作と伝えられる。異称「〈虎関和尚〉異制庭訓往来」「百舌(鳥)往来」「新撰之消息」「新撰消息往来」「冷水往来」「十二月往来」ほか。南北朝時代、延文-応安(1358-1372)の頃に作られた古往来(往復書簡)で、各月往返2通、1年24通で構成され、各手紙文中に、撰作当時の社会生活に必要とされた類別単語集団を含むのが特徴。単語は、仏教(122語)、漢文・文学・教養(461語)、人倫・職分職業(32語)、衣食住(222語)、武具(77語)、雑(24語)、計938語に及ぶ。
一行物(いちぎょうもの)
茶席での掛物の一種。古くは「ひとくだりもの」とも称した。条幅の一紙に、中国の漢籍、あるいは祖師や高僧の禅語の中から、佳句をえらんで一行に大書した墨跡のこと。一行書ともいう。字句が縦に書かれたものを「竪一行」、横に書かれたものを「横一行」という。墨跡は桃山時代頃までは法語・偈頌・書簡など大幅のものであったが、「長闇堂記」に「墨蹟に古溪和尚。則利休の参徒なり。懸物はゞひろきは富貴なりとて。一尺二三寸有。大文字も二行とあれば。見下して又見上あしゝとて。一行物はやれり。表具も光かゞやくはとうときとて。皆紙表具或はほけんと云ものにてする也。萬事手軽くさびたるを本とせらるゝ也」とあり利休が好み、江戸時代にはいると、大徳寺派の禅僧の筆になる一行物が多く使用されるようになった。
一期一会(いちごいちえ)
井伊直弼(1815-1860)の「茶湯一会集」の序に「此書は、茶湯一会之始終、主客の心得を委敷あらはす也、故に題号を一会集といふ、猶、一会ニ深き主意あり、抑、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへハ幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたゝひかへらさる事を思へハ、実に我一世一度の会也、去るニより、主人ハ万事ニ心を配り、聊も麁末のなきよう深切実意を尽くし、客ニも此会ニまた逢ひかたき事を弁へ、亭主の趣向、何壱つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るへき也、是を一期一会といふ」とあるのが出典とされる。山上宗二の「山上宗二記」には「常の茶の湯なりとも、路地へ入るより出るまで、一期に一度の会のように亭主を敬畏すべし、世間雑談、無用也。」とある。「一期」は、人が生まれてから死ぬまでの一生の意。
一日不作一日不食(いちじつなさざれば、いちじつくらわず)
「祖堂集」巻十四百丈和尚に「師平生苦節高行、難以喩言。凡日給執勞、必先于衆。主事不忍,密收作具、而請息焉。師云、吾无コ、争合勞于人。師遍求作具、既不獲、而亦忘喰。故有一日不作、一日不食之言、流播寰宇矣。」(師、平生苦節高行にして喩を以て言うこと難し。凡そ日給の執労は必ず衆に先んず。主事忍びず、密かに作具を収めて、息わんことを請う。師云く、吾に徳なし。争でか合に人を労すべけんと。師、遍く作具を求め、既に獲ずして亦た喰することを忘ず。故に一日作さざれば一日食わずの言有りて、寰宇に流播せり。)とある。
一重切(いちじゅうぎり)
竹花入の一。筒形の竹花入の前面に花を生ける窓がひとつ切られた形をいう。上端が輪になっていて、水溜の上の後方におぜを取り、釘穴があけてある。「茶話指月集」に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」とあり、利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて「園城寺」(おんじょうじ)を作ったのが一重切の始めと云う。近松茂矩(1697-1778)の「茶窓陂b」に「はじめ秀吉公の投捨給ひし竹は、前栽の石にあたりて、ひびき入りしが、利休拾ひて少庵へみやげとす。或時是を床にかけ、花を挿しに、其水のしたたりて、畳のぬれけるを見ていかにといひければ、此漏こそ命なれといひし、三井寺の鐘のひびきを思いて、園城寺と名づけ。即筒に園城寺少庵とばかり書付あり。後は金粉にてとめてあり。後金屋宗貞が許にありしを、京の家原自仙八百両にもとめ置し。或時尾州の野村宗二、京都に遊び帰るとて、自仙へいとま乞ひに行しに、来年の口切りの比には、必ずのぼられよ、園城寺いまだ茶に出さぬが、来年は、はじめて出さんといひしかば、宗二もそればかりに、又上京ありしに、彼園城寺を出し、口切りせしに、新たにかこひを立しが、其あたり見る処に、竹一本もおかざりし、是園城寺の竹に憚しいよし京中の茶人称美せし。」とあり、竹に正面に割れ目があるのを、三井寺(園城寺)の弁慶の割れ鐘に思い合わせて「園城寺」と銘したと云う。「園城寺」は、高さ33.4cm、太さ10.5cm、真直ぐで肉厚の真竹で、やや裾広がりの底から直ぐに節があり、筒の中程に一節あり、上の輪の天辺は次の節の近くで刈られているためかすかに広がっている。伝来は、少庵、宗旦、冬木家、不昧。東京博物館蔵。「武蔵鐙の文」が添う。「当世垣のぞき」に「竹の一重切を獅子口といへるは、千家に限りたる事なり、古事有りての事也と、池の坊家にては鰐口とも云、外茶家にては一重切といふなり、すべて獅子口々々々といへる故事も知らぬ人、千家にあらざる人はいわぬはづ也、わけも知らで獅子口と云は、未練の事也と」とある。
一瀬小兵衞(いちせこへい)
京の指物師。通称「指小」(さしこ)。初代一瀬小兵衞(生没年不詳)文化8年(1811)本願寺出入方指物師七代木屋七兵衛の養子となり八代木屋七兵衛を名乗る。明治になり一瀬姓となり、小兵衞を名乗り、茶の湯の指物師となり、楽家の慶入・弘入の箱を作る。
一入(いちにゅう) 楽家4代。寛永17年(1640)-元禄9年(1696)。3代道入の長男。元禄4年(1691)剃髪し隠居後、一入と号す。茶碗は一体に小ぶりで、高台も小さく引き締まり、腰以下にまるみのある姿が特色。俗に「一入の朱釉(しゅぐすり)」といわれる黒釉のなかに朱色の釉が様々に混ざりあう鮮やかな釉を得意としている。総釉が多く、したがって無印が多い。一入以来、楽家ではほとんどの茶碗に茶溜と茶筅ずれを作るようになる。共箱はこの人より始まる。印は、楽の中央が白で、その両側の糸の上の部分の字が「ノム」となっている。
一無位真人(いちむいしんにん)
「臨濟録」に「上堂云。赤肉團上有一無位真人。常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。時有僧出問。如何是無位真人。師下禪床把住云。道道。其僧擬議。師托開云。無位真人是什麼乾屎撅。便歸方丈。」(上堂。云く、赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。師、禅床を下りて把住して云く、道え道え。その僧、擬議す。師、托開して云く、無位の真人これ什麼の乾屎撅ぞ。便ち方丈に帰る。)とある。赤肉團(しゃくにくだん)/生身の身体、肉体。面門(めんもん)/口。「天台智者大師禪門口訣」に「面門者口也。」(面門は口なり。)とある。乾屎撅(木厥)(かんしけつ)/糞掻きへら。「敕修百丈清規」に「入廁用籌分觸淨」(廁に入るに籌分を用い触浄す。籌は竹の棒。)とある。臨済禅師が上堂して言った。この肉体に一無位真人がいて、常にお前たちの口を出たり入ったりしている。まだ見届けていないものは見ろ見ろ。その時ひとりの僧が進み出て問うた。その無位真人とはなんですか。師は、席を下りて、僧の胸倉を掴んで言った。言え、言え。その僧は躊躇した。師は僧を突き放して、無位真人もこれでは糞かきべらではないかと言って、そのまま居間に帰った。
一文字椀(いちもんじわん)
懐石家具の塗椀の一。蓋の甲と身の底が一文字になった椀。飯椀と汁椀は落込み蓋、坪椀と平皿は被せ蓋で胴に一筋紐が廻る。上り子椀と同様に江戸時代には非常に一般的になっていた椀。元禄4年(1691)刊「茶道要録」の「利休形諸道具之代付」には載っておらず、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「黒塗一文字椀坪平付、大小とも利休形。」、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」に「椀のふちにひも有之、香台の外指かヽりのやうしゃくみあり、内の形は外に順ず」とある。
一路庵禅海(いちろあんぜんかい)
室町時代の隠者。村田珠光の弟子というが出典未見。洛西仁和寺の門主であったが和泉堺に隠棲し、応仁の乱をさけて堺にきた一休宗純と交友があったという。 貞享元年(1684)刊「堺鑑」に「一路居士一路は一休と同時の人也、或時一休和尚一路に問曰、万法有路如何是一路、一路答曰、万事皆可休如何是一休、一路は作詩詠歌真の隠逸也、狂歌に、手捕めよおのれはくちがさしでたぞぞうすいたくと人にかたるな、今、石津の上市村の辺、一路庵の跡有、世の人堺の内と思るによりて爰に載侍、泉州の事跡は事多ければ略しぬ、後人和泉一州の事を記し侍人もや有らん、手捕とは手捕鍋と云、釜一つを楽、此所に居住して人の往来を絶し、一の簀を下て志有人に食物を受け朝暮送りしとぞ、或時童共馬糞馬の沓鞋など入て置ければ、其を見て最早世は末に成たるとて、其より断食して終られけるとぞ申伝、品は替共真の隠者也、伯夷叔斎ともいひつべし、其誰の氏の子と云事を知ぬぞ怨く、其身はかく有しかども其名は今に留りて其所を一路山と名付て世の人普不知と云事なし、手捕鍋今は細川殿に有由申伝り、昔作る詩に曰、節後黄花吹不飛籬根臥雨似薔薇萬年峯頂新長老咲下禅牀對布衣、其此の五山の名僧達各贈答の詩有」、寛政8年(1796)刊「和泉名所図会」に「一路山禅海寺石津の上方市村にあり、禅宗、京師大徳寺の末派也。開基一路居士原洛西仁和寺一代の御門主たり、世を遁れてこゝに幽棲し、詩歌を吟し、清貧を楽しむ。月やみん月には見へすなからへてうき世をめくる影もはつかし一路居士、世をしのふいほりの朽ぬればいきても苔の下にこそすめ同。一休同時の人也、ある時、一休和尚、一路に問曰、万法有道如何是一路、答曰、万事可休如何是一休。一路居士つねに半升鐺内に菜蔬を煮て、范冉が釜魚を楽めり、其狂歌に曰、手とり鍋おのれは口がさしでたぞ雑炊焼と人にかたるな。此鍋、細川の重器となつて、今にあり、又ある時、詩を賦して曰、節後黄花吹不飛籬根臥雨似薔薇萬年峯頂新長老咲下禅牀對布衣。畚懸松当寺にあり、一路居士、此所に閑居して、人の往来を絶し、一ッの畚を此松枝より下し、志ある人に食物を受て、露命をつなぎ給ひける、或る時、里の童ども、馬糞、牛の鞋など入れて置けれは、居士、それを見て、最早、我が糧尽たりとて、是より、断食して終り給ひける也、真に大隠にして、観念の窓には空門を守り、看経の臺には明月を照し、履は階前の草を帯、衣は戸外の塵なし、晋の恵遠法師、三十餘年山を出ず。俗塵に交る事を禁しけるも、同日の論也。」とある。
一華開五葉(いっかごようをひらく)
「小室六門」に「説頌曰。吾本來茲土。傳法救迷情。一華開五葉。結果自然成。江槎分玉浪。管炬開金鎖。五口相共行。九十無彼我。」(頌に説いて曰く。吾れもと茲の土に来り、法を伝え迷情を救う。一華五葉に開き、結果自然に成る。江槎は玉浪を分かち、管炬は金鎖に開す。五口相い共に行き、九十にして彼我なし。)とある。「傳燈録」に「問一華開五葉。結果自然成。如何是一華開五葉。師曰。日出月明。曰如何是結果自然成。師曰。天地皎然。」(問う、一華五葉を開き、結果自然に成る。如何なるか是れ一華五葉を開く。師曰く、日出月明。曰く、如何なるか是れ結果自然に成る。師曰く、天地皎然。)とある。「祖堂集」に「惠可便頂禮、親事九年、晝夜不離左右。達摩大師乃而告曰、如來以淨法眼並袈裟付囑大迦葉、如是展轉乃至於我。我今付囑汝、女聽吾偈曰、吾本來此土、傳教救迷情。一花開五葉、結果自然成。」(惠可便ち頂礼し、親しく事うること九年、昼夜、左右を離れず。達摩大師すなわち告げて曰く、如来は淨法眼ならびに袈裟を以って大迦葉に付囑せり、是くの如くして展転して乃ち我に至れり。我れ今、汝に付囑す。汝は我が偈を聞け、曰く、吾れ本と此の土に来りて、教を伝えて迷情を救う。一花五葉に開き、結果自然に成る。)とあり、印度より中国に禅を伝えた「達磨大師」が、弟子の二祖慧可に自分の教えを伝えるに際して与えたという伝法偈で、私は印度よりこの中国に来て、仏の正しい教えを伝え迷いや苦悩を救った、そしてそれは一つの花に五弁の花びらが開き、やがて自然に果実が結ぶように、より多くの人の迷いや苦悩を救い世の中を明るく照らすというところか。
一花開天下春(いっかひらいててんかはるなり)
「宏智禪師廣録」に「上堂云。一塵起大地收。一花開天下春。衲僧變態。須是恁麼始得。便乃一切時一切處。任運自在。應用無方。諸人還委悉麼。風行草偃。水到渠成。」(上堂して云う、一塵起って大地収まり、一花開いて天下春なり。衲僧変態。須く是れ恁麼始めて得るべし。すなわち一切の時、一切の処、運に任せ自在、応用無方。諸人また悉麼すや。風行けば草偃(のべふ)す。水到りて渠(みぞ)成る。)とある。「宗鏡録」卷第三十一に「如大集經云。不待莊嚴。了知諸法。以得一總得餘故。所以云。一葉落。天下秋。一塵起。大地收。一華開。天下春。一事寂。萬法真。則上根一覽。終不再疑。中下之機寧無方便。」(大集経に云う如く、莊嚴を待たず、諸法を了知す。以って一總を得、餘故を得る。ゆえに云うなり、一葉落ちて天下秋なり、一塵起って大地収まり、一華開いて天下春なり、一事は寂なれど万法真なり。則ち上根を一覽し、終に再疑せず。中下の機は寧ろ方便なからん。)とみえる。
一閑人(いっかんじん)
器の口縁に小さな人形が一つついたもの。閑人(ひまじん)が井戸を覗いているようなので別名「井戸覗き」ともいう。蓋置・皿・鉢・盃などにみられる。蓋置においては七種蓋置の一つ。両側に人形があるものは二閑人、井戸枠だけで人形のないものを無閑人という。変形としては人形のかわりに蛙・獅子・龍などがついているものもある。
一閑人蓋置(いっかんじんふたおき)
七種蓋置の一。井筒形の側に井戸を覗き込むような姿の人形がついた蓋置。置きつけるときは、釜のほうへ人形の頭が向くように(炉の場合は左、風炉の場合は右へ)横に倒して用いる。棚に飾るときは人形と亭主が向き合う形に飾る。「茶道望月集」に「惻隠の蓋置は、一閑人共云、是を棚に置時は、人形を前へ見て置、堵炉の時は人形を向へ見也、又風炉の時炉にても向点の時は、人形を前へ見て柄杓を掛る、釜の蓋を置時は、柄杓を取左へ渡し、右手にて横になして、人形の面を我左の方へ会釈置、夫へ蓋を置事能、幾度も柄杓置時は堅に取直し置、蓋は兎角横になして置也」とみえる。
一閑張(いっかんばり)
飛来一閑が始めたとされる漆器のひとつ。器の木型などに和紙を糊で貼り重ねて形を作り、後で型を抜いて素地とし、漆を塗ったもの。また木や竹などに紙を糊で張り重ね漆をほどこしたものもある。棗、長板、盆、炭取り、香合などに用いられる。
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧。応永元年(1394)-文明13年(1481)。後小松天皇の落胤とされており、幼名は千菊丸。狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。一休は号、宗純は諱で、宗順とも書く。6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門、周建と名付けられる。応永17年(1410)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、名を宗純と改める。応永21年(14141)謙翁宗為が急死すると石山寺で7日間参籠したあと大津の瀬田川で入水自殺を図る。応永22年(1415)大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、応永25年(1418)「洞山三頓の棒」の公案に対し「うろじよりむろじへ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かる。応永27年(1420)闇夜に鴉(からす)が鳴くのを聞いて大悟したといわれる。自ら「狂雲」と号し、木刀を差して町を歩き「今諸方贋知識似此木剣」と云い、「風狂狂客起狂風来往婬坊酒肆中具眼衲僧誰一拶画南画北画西東」と云い、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送る。応仁の乱後の文明6年(1474)大徳寺伽藍再興のために後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられるが、入山と同時に退山。88歳で酬恩庵で入寂。臨終の言葉は「死にとうない」と伝わる。著書に「狂雲集」「続狂雲集」「自戒集」「骸骨」など。村田珠光の参禅の師で、「趙州喫茶去」の公案を与えられた珠光は、この公案により悟りを得、圜悟の墨跡を印可の証として与えられたとされる。
一口吸盡西江水(いっくにきゅうじんすせいこうのみず)
「龐居士語録」に「居士後之江西參馬祖大師。問曰。不與萬法為侶者是什麼人。祖曰。待汝一口吸盡西江水即向汝道。士於言下頓領玄旨。遂呈偈。有心空及第句。」(居士、後の江西、馬祖大師に参じ、問うて曰く、万法と侶(とも)と為らざる是れなんびとぞ。祖曰く、汝の一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向っていわん。士、言下に於いて頓し領玄旨を領す。遂に偈して、有心空及第の句を呈す。)とあり、「法演禪師語録」に「龐居士問馬大師。不與萬法為侶是什麼人。大師云。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。師云。一口吸盡西江水。洛陽牡丹新吐蕊。」(龐居士、馬大師に問う。万法と侶(とも)と為らざる是れなんびとぞ。大師云く、汝の一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向っていわん。師云う。西江の水を一口に吸尽すれば、洛陽の牡丹、新たに蕊を吐く。)とあり、「碧巌録」に「不與萬法為侶。是什麼人。祖云。待爾一口吸盡西江水。即向汝道。士豁然大悟。作頌云。十方同聚會。箇箇學無為。此是選佛場。心空及第歸。」(万法とともと為らざる是れなんびとぞ。祖云く。なんじが一口に西江の水を吸尽せんを待って、即ち汝に向かっていわん。士豁然として大悟し、頌を作って云く。十方同聚会。箇箇学無為。これは是れ選仏場。心空及第して帰ると。)とある。利休は古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江水」の語によって悟りを開いたという。「松風供一啜」と同じ境地という。
井戸茶碗(いどちゃわん)
高麗茶碗の一種。李朝初期の16世紀以来朝鮮で焼かれたとされ、日用雑器として作られたものが室町末頃から日本に渡り、「山上宗二記」に「一井戸茶碗是れ天下一の高麗茶碗山上宗二見出して、名物二十、関白様に在り」とあるように、高麗茶碗の中で最も珍重された。深い碗形で、素地は鉄分の多い赤褐色の土で、枇杷色の釉が高台まで全体にかかり、やや厚手で、高台は大きく高く、器を重ねて焼いた跡である目跡(めあと)が茶だまりに見え、井戸四段・五段などと呼ばれる轆轤目、高台脇の釉薬がちぢれた梅花皮(かいらぎ)、高台の脇を箆などで削り取る脇取(わきどり)により高台が竹の節に似た竹節高台(たけのふしこうだい)などが約束事とされる。大井戸、小井戸(古井戸)、青井戸、井戸脇などに分類されている。井戸の名の由来は、朝鮮南部の古地名の韋登で産した、井戸若狭守覚弘がもたらした、奈良の井戸村にあったものを筒井順慶が掘り出したなど諸説あるが明らかでない。大徳寺孤蓬庵の「喜左衛門」(国宝)や根津美術館の「柴田」(重文)が代表的なもの。
糸目(いとめ)
器物に細い筋を刻みつける加飾技法。糸目筋。木工芸においては、糸目挽きと称し、轆轤により糸状の筋といわれる並行した溝を彫りつけてゆく。金工においては、鋳型に絵杖や箆などを使って薄く横線を付けたり、鏨により金属表面に彫りこんでいく。いずれにしても高度な技術を必要とするとされる。陶磁器にもある。
井戸脇(いどわき)
高麗茶碗の一種。作ゆきが井戸茶碗に似ているため、井戸ではないが井戸の脇におかれるべきものとの意味から名付けられた、また井戸に似てやや時代の下がったものをいうともされる。本来の井戸茶碗ではなく、寸法・形姿はさまざまだが、だいたい井戸より薄手で、ロクロもあまりきわ立たず、すらりとした、やや軽い趣の茶碗が多く、約束事が少しずつ甘いもの。古い伝来をもたず江戸初期ぐらいからの伝来で、いつから井戸脇と呼ばれたのか古い記録はない。
今井宗久(いまいそうきゅう)
永正17年(1520)-文禄2年(1593)。戦国時代の堺の茶人、商人。屋号は「納屋(なや)」。名は彦右衛門兼員、久胤。昨夢斎と号す。武野紹鴎に茶を学び、女婿となる。大徳寺に参じて寿林宗久・昨夢齋の号を授かる。「信長公記」に「今井宗久、是れ又、隠れなき名物松島の壺、并に紹鴎茄子を進献。」とあるように永禄11年(1568)信長が上洛すると名物茶器を献上し積極的に接近する。信長が堺に矢銭2万貫を課し、会合衆がこれを拒否し抗戦のかまえをすると津田宗及と共に講和派として働き、会合衆が詫びを入れると、堺五ヶ庄の代官に任じられ、信長の庇護の下でさまざまな権益を得る。我孫子に河内鋳物師を移住させ鉄砲製造や火薬類を信長に供給し巨富を築く。千利休、津田宗及とともに信長の茶頭になり、豊臣秀吉にも仕え、天正十五(1587)年の北野大茶湯の茶頭を務める。のち、次第に秀吉に疎んぜられる。飯後の茶事の創始者でもあり八十数回の茶会を催す。著に「今井宗久茶湯日記書抜」「今井宗久日記」など。
今井宗久茶湯書抜(いまいそうきゅうちゃのゆぬきがき)
今井宗久(1520-1593)の茶会記。天文23年(1554)から天正17年(1588)に至る自他八十一会を収録し、信長、秀吉の大茶会や、紹鴎、利休の茶会も記録されている。
伊万里焼(いまりやき)
肥前の伊万里港から積み出された磁器の総称。主に有田焼をいうが、三川内焼、波佐見焼なども含む。「伊萬里陶器傳」に「諸州数品有中にも、肥前国伊万里焼と云を本朝第一とす、此窯凡十八ヶ所を上場とす、大河内山三河内山和泉山上幸平本幸平大樽中樽白川稗古場赤絵町中野原岩屋中原南河原(上下二所)外尾黒牟田広瀬一ノ瀬応法山此内大河内は鍋島の御用、山三河は平戸之御用山にして、他に貨売する事を禁ず、伊万里は商人の輻輳せる津にて、焼造るの場には非ず、凡松浦郡有田之内にして、其内中尾、三つの股、稗古場は同国の領違ひ、又広瀬杯は青磁物多くして上品なし、都合廿四五所には成共、十八ヶ所は泉山の脇にありて、是土の出る山也」とあるように、江戸時代に有田を中心とした地域で焼かれた磁器が、伊万里港から積み出され、国内・海外に流通したため、「伊万里焼」あるいは「伊万里」と呼ばれた。伊万里の大川内山の御用窯で焼かれていた「鍋島焼」は「伊万里焼」とは区別されている。この江戸時代に作られた伊万里焼を、現在は一般的には「古伊万里」と呼ぶ。明治以降、やきものを産地名で呼ぶことが一般的になり、有田で焼かれた磁器を「有田焼」、伊万里で焼かれた磁器を「伊万里焼」と呼び分けるようになる。通説では、元和2年(1616)金ヶ江三兵衛(李参平)が有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き、日本ではじめて磁器の製作に成功したことに始まり、江戸後期になり文化4年(1807)瀬戸の陶工加藤民吉(かとうたみきち)が有田から磁器の製法を盗み出して瀬戸で磁器が焼かれるまで、日本で唯一の磁器の産地とされる。いわゆる「古伊万里」は、現在のところ「初期伊万里」、「古九谷様式」、「柿右衛門様式」、「金襴手様式(古伊万里様式)」の様式に分類されている。「鍋島焼」を「鍋島様式」として含める者や、元禄時代から始まる金襴手様式のみを指して「古伊万里」とする者もある。
芋頭(いもがしら)
器物の形状の一。口がすぼみ、肩がなく、胴の中程から胴裾にかけて膨らんだ形の器物。「芋頭」は里芋の根茎のことをいい、里芋の形に似ていることからの名称。茶入や水指などに見られ、古染付、三島、南蛮などの水指に名品がある。「山上宗二記」の名物の水指に「紹鴎芋頭、関白様に在り。此の外、芋頭方々に在り」、「宗及芋頭、人に依りてすくべし。」とみえる。「今井宗久茶湯日記書抜」に「天文二十四年(1555)十月二日紹鴎老御会宗久宗二一イロリ細クサリ小霰釜、水二升余入、ツリテ、一床定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、一槌ノ花入紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、一円座カタツキ、水サシイモカシラ一シノ茶ワン備前メンツウ」と、紹鴎が始めて掛物に定家色紙を懸けたとされる茶会にも芋頭水指がみえる。「茶湯古事談」に「芋頭の水指といふは、形いもかしらに似しゆへにいふ也、南蛮の焼物にて、古へは甚稀にて宗及と利休二人ならては所持せさりし、宗及かいもかしらは秀吉公へ召上られしか、大坂落城の日焼失し、利休か芋頭は織田有楽の許に有しを京極安知ひたすら所望ありてもらはれし、返礼太刀馬代黄金十枚賜られしなんとなん」とある。
伊羅保(いらぼ)
高麗茶碗の一種。伊羅保の名は、砂まじりの肌の手触りがいらいら(ざらざら)しているところからという。作行はやや厚めで、形は深め、腰から口まで延び、口は大きく開いている。素地は鉄分が多い褐色の砂まじりの土で、石灰の多い伊羅保釉を薄く総掛けしてある。「古伊羅保(こいらぼ)」「黄伊羅保(きいらぼ)」「釘彫伊羅保(くぎぼりいらぼ)」「片身替(かたみがわり)」などがある。「古伊羅保」は、大振りで、口縁には形成のとき土が不足して別の土を付け足した「べべら」があり、口縁の切り回しがある。高台は竹の節、時には小石も混じって「石はぜ」が出たものもある。見込みに白刷毛目(内刷毛)が一回りあり「伊羅保の内ばけ」といって約束になっている。「黄伊羅保」は、黄釉の掛かったもの。「釘彫伊羅保」は、高台内に釘で彫ったような巴状の彫がある。口縁は切り廻しないが山道になりべべらあり。高台は竹の節でなく兜巾なし。「片身替」は、失透の井戸釉と伊羅保釉が掛け分けになったもの。高台は竹の節、兜巾は丸く大きい。たいてい「べべら」や「石はぜ」があり、見込みは刷毛目が半回りして(井刷毛)必ず刷毛先を見るのが約束になっている。李朝後期、日本からの注文で作られたと考えられている。
入子調(いれこしらべ)
点前の形式の一。小習の一。「茶入」「茶碗」「茶杓」のいずれかが、由来のあるものの場合の点前。茶入を茶碗に入れて飾り、茶巾、茶筅、茶杓は、水指の上に仕組んでおく。濃茶平点前と同様に点茶するが、亭主に茶碗が戻った時、正客は「茶碗に何か由来でもおありですか・・・」と尋ねる。主役がお茶碗でない場合、拝見に出すときに、茶入の場合は普通に出し、茶杓の場合は櫂先を仕服の上中心に載せ、斜めに出す。
印金(いんきん)
文様を型紙に彫り抜き、生地の上に当て、漆または膠などの接着剤で刷り、乾かないうちに金箔を押し当て、軽く圧し、乾いた後に不用の箔を掃き落とし文様をあらわしたもの。生地に文様が金で現される。多くは書画の表装裂に使用される。
伊部(いんべ)
備前国(岡山県)和気郡伊部町のb器で鎌倉時代から伊部付近で焼かれているところから伊部焼といい、一般的に総称して備前焼をいう。備前焼が衰退した江戸中後期、福の神や人物、狛犬、鳥獣など、置物、香炉などの「細工物」、顔彩や岩絵の具をほどこした「彩色備前」、備前の土で白いものを作ろうとした「白備前」、食塩を使って発色させる「青備前」などとともに、新時代にあわせて作り出された備前焼のひとつで、水簸された細かい土で作陶され、器物の表面に泥奨(でいしょう)を塗りつけて焼くことで、肌がきめ細やかで滑らかで、黒褐色や紫蘇色、黄褐色等の光沢を出したものを、特に「伊部手(いんべで)」「伊部焼」という。
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薄板(うすいた)
花入を畳敷の床に置くとき、下に敷く板。薄板は「矢筈板(やはずいた)」「蛤端(はまぐりば)」「丸香台(まるこうだい)」の三種があり、花入により使い分ける。それぞれ真・行・草の格となる。「矢筈板」は、真塗で、板の木口が矢筈(弦につがえるために凹字がたになった矢の頭部)形で、上側の寸法が下側より一分大きく、広い方を上にし、古銅・青磁など「真」の花入に用いる。「蛤端」は、溜塗で、木口が蛤貝を合わせたような形で、砂張・施釉の国焼など「行」の花入に用いる。「丸香台」は、かきあわせ塗りで、木口は丸く、伊賀・竹の花入などの「草」の花入に用いる。「茶話指月集」に「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」とあるように、籠の花入に薄板は用いない。
薄茶(うすちゃ)
抹茶の一。製法は濃茶と変わらないが、古木でない茶の葉から製するもの。刺激性は強いが味わいが軽い。元々は、濃茶用の葉茶を紙の袋に入れて茶壷の中に納める際に、その周囲の隙間を埋めるために用いた「詰茶(つめちゃ)」と呼ばれる一段品質の低い茶葉。また、茶杓に一杓半の抹茶を茶碗に入れ、湯を注ぎ茶筅で攪拌したものを薄茶とよぶ。薄茶は点てるといい、濃茶は練るという。「南方録」に「易の云。こい茶の手前(点前)に一段と草あり、うす茶の手前(点前)に極真あり。この差別よくよく得心すべし。時により、所によることなり。かろきやうにて秘事なり、と云々。」、「山上宗二記」に「薄茶を建てるが専一也。是を真の茶と云う。世間に真の茶を濃茶と云うは非也。」とあり、台子で濃茶を点てることが真の茶とされていたが、利休が侘び茶における真の茶は薄茶を点てることであるとしたという。
薄茶器(うすちゃき)
薄茶器は薄器とも呼ばれ、薄茶を入れる容器の総称。材質は木地・漆器・象牙・竹・一閑張・籠地などがある。形状は大きく分けて棗形と中次形に分けられる。「源流茶話」に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」、「槐記」に「大体棗は、茶入の挽家也。夫故文琳、丸壺、肩衝を始として、夫々の茶入の形に応じて、挽家はある物故、唐物廿四の挽家にある形より、外はなき筈也、と合点すべし。是大事の習也。」とあるように、一般的な説としては、元来は唐物茶入の「挽家」で、茶入で濃茶を点てたあと、茶入を収める器である挽家で薄茶を点てたのが始まりで、後に薄茶器として独立し「塗茶入」と呼ばれ、やがて塗茶入に限って濃茶にも使用するまでになり、時代が進むにつれて形を変化させ、多様な薄茶器が生み出されたとされ、挽家の形は文琳や茄子は棗形、肩衝は中次形といわれ、それぞれの茶入を用いた時は薄茶器をそれに合わせるとされた。別に、後醍醐天皇が作らせたとされる「金輪寺」といわれる寸切形の茶器があり、享徳3年(1454)頃の百科便覧「撮壌集」や室町中期の国語辞典「節用集」に「金輪寺」とほぼ同型の「寸切茶器」を表す「頭切」や「筒切」「寸切」の文字が見られる。また、貞治2年(1363)の「仏日庵公物目録」に「花梨茶桶一対」など茶桶の記述が見られ、室町時代初期の「喫茶往来」に「色々の茶五種、兼て茶桶の蓋書一二銘送進の処」とあり、「庭訓往来」「遊学往来」「尺素往来」などにも茶桶の記述があり、室町時代前期までは茶桶が主に用いられたようである。さらに、本来薬を入れる器である「薬器」「薬籠」が茶器として見出され、「節用集」に「薬器ヤッキ薬籠ヨロウ」とみえ、茶会記の使用例からは、天文から天正前期には薬籠・茶桶が多用されているが、利休の活躍する天正後期には棗の使用が多くなり、棗が茶器の主役を担うようになる。また、相阿弥好みの帽子茶器が、好み茶器の嚆矢とされる。現在は、円筒形の胴の中央部に合わせ目(合口)がある「真中次(しんなかつぎ)」、真中次の蓋の肩を面取りした「面中次(めんなかつぎ)」、面中次の蓋を浅くした「茶桶(ちゃおけ)」、茶桶の身の裾も面取りした「雪吹(ふぶき)」、雪吹の角を取り全体を曲面にした「棗」、棗を平たくした「平棗」の六種を基本とする。
烏鼠集(うそしゅう)
室町末期の茶書。当時流布した茶書を集成し四巻にまとめた写本。烏鼠集四卷書。跋文に「元亀三龍集壬申辰重陽湘東一枝叟書焉」とあり、元亀三年間(1572)に湘東一枝なるものが筆写したものという。
詩中次(うたなかつぎ)
薄茶器の一。面中次の甲と胴に詩句が書かれたもの。詩面中次とも。「茶道筌蹄」に「面中次黒は利休、タメは元伯、何れも中ばかりなり、タメ中次に元伯書にて詩を書たるを詩中次と云ふ、原叟写しあり、如心斎又数五十を製す」、「茶式湖月抄」に「詩ノ中次」として「蓋の上一文字の所頭上漫々脚下漫々といふ句あり胴に高歌一曲掩明鏡昨日少年今白頭茶烟軽颺落花風といふ文字あり」とあり、「碧巌録」の「頭上漫漫脚下漫漫」、晩唐の許渾の七言絶句「秋思」の「h樹西風枕簟秋、楚雲湘水憶同遊。高歌一曲掩明鏡、昨日少年今白頭。」、同じく杜牧の「酔後題僧院」の「觥船一棹百分空、十歳青春不負公。今日鬢糸禅榻畔、茶烟軽颺落花風」から、宗旦が好んで溜塗の面中次に書き付けたものという。
雨滴聲(うてきせい)
「碧巌録」第四六則「鏡清雨滴聲」に「舉。鏡清問僧。門外是什麼聲。僧云。雨滴聲。清云。衆生顛倒迷己逐物。僧云。和尚作麼生。清云。〓(シ自)不迷己。僧云。〓(シ自)不迷己意旨如何。清云。出身猶可易。脱體道應難。」(挙す。鏡清、僧に問う、門外これ什麼の声ぞ。僧云く、雨滴の声。清云く、衆生は顛倒して己を迷い物を逐う。僧云く、和尚は作麼生。清云く、ほとんど己に迷わず。僧云く、ほとんど己に迷わざるの意旨如何。清云く、出身はなお易かるべきも、脱体に道うことは応に難かるべし。)とある。出身(しゅっしん)/官に挙げ用いられることから、悟ること。脱體(だったい)/まるごと、さながら。鏡清が僧に問う、門外の音は何だろう。僧が言う、雨だれの音です。鏡清が言う、衆生というものは己を見失って外の物を追うものだな。僧が言う、和尚はどうですか。鏡清が言う、なんとか己を見失わずにいる。僧が言う、なんとか己を見失わずにいるとはどういうことですか。鏡清が言う、悟ることはまだやさしいが、その境地をそのままに言うことはほんとうに難しい。
梅棚(うめだな)
梅の意匠を施した棚。直斎好み、一啜斎好み、愈好斎好みがある。直斎好みは、旅箪笥から出たもので、青漆の刷毛塗りで、つまみの金具を梅の花にしたもの。一啜斎好みは、台目構を棚にうつしたもので、間口は道具畳の幅、杉木地で勝手付の柱二本が竹、台目構の中柱にあたるところが松の丸太となっており、これに袋釘が打ってあり、羽箒、仕覆を掛ける、客付に見える杉木地の羽目板に、捻梅の透かしがある。その陰に、釣棚のかわりになる棚(隅棚)がつき、香合、薄茶器、柄杓を飾る。広間の茶会に小間の気分を取り入れるために考案されたもの。愈好斎好みは、桐木地の四本柱の小棚で、三方に腰板があり、腰板に梅紋の透かし彫りがあるため、この名がある。一啜斎好みの、つぼつぼ棚をもとに作られた棚。
潤塗(うるみぬり)
漆塗の一種。上塗りの際に、黒漆に朱漆または弁柄漆をまぜた潤漆を塗って、栗色の落ち着いた光沢をもつ仕上げにしたもの。椀類に多くみられ、潤椀の称がある。
雲鶴(うんかく)
高麗時代の象嵌青磁の一種。雲鶴の名は、文様に雲に鶴を配したものが多いところから。高麗時代末期の象嵌青磁で、象嵌の文様には飛雲と舞鶴をはじめ牡丹・菊・唐草・雷紋・丸紋など多様なものがある。多くは筒形で、碗形もある。堅めの赤黒い素地に、箆彫り、型押しによって文様を彫り付け、白泥または黒泥を塗布した後これを拭き取り、濁り気味の青磁釉を厚めに総掛けしてある。雲鶴は皿・鉢・仏器など色々あり、雲鶴茶碗は茶人が茶碗として見立てたもの。狂言に出てくる太郎冠者が着ている衣装の丸紋に似た文様のものを「雲鶴狂言袴(きょうげんばかま)」という。文様の無いものは「無地雲鶴」という。
雲錦(うんきん)
桜と紅葉とを配した文様。「吉野山の桜は雲かとぞ見え、竜田川の紅葉は錦の如し」の意からという。雲錦手(うんきんで)は、一つの器に桜と紅葉の文様を一緒にあしらった絵付けのものをいい、乾山や道八の雲錦文鉢が有名。雲錦文鉢は桜と紅葉を琳派風に意匠化した色絵付で、京焼の陶工仁阿弥道八が考案したという。
雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)
松平不昧の茶道具目録。「雲州名物帳」とも称される。雲州蔵帳と総称する書は、署名が異なるものの十数種類が知られ、時期により増減がみられ一定しないが約八百点前後の茶道具が収められ、宝物之部、大名物之部、中興名物之部、名物並之部、上之部など格付されたものが多い。松平家蔵方が記した道具帳に不昧が加筆した「道具帳」、文化8年(1811)嗣子の月潭に譲る道具を書き出した不昧自筆の「道具譲帳」のほか流布本「雲州蔵帳」がある。蔵方の「道具帳」は、寛政年間から天保年間に至る間に記された十数種が知られる。流布本「雲州蔵帳」は、宝物之部、大名物之部、中興名物之部、名物並之部、上之部、中之部、下之部の7つに格付けし、伝来や購入年、当時における評価額、購入金額まで記録している。
雲堂手(うんどうで)
中国明時代の染付磁器のことで、景徳鎮の民窯で作られた。人物や楼閣が描かれた山水で、その背景に元朝末に流行した霊芝雲くずれの渦巻き状の雲が配されることからそのような名が付けられた。官窯ではほとんど製作されなかったが、民窯では瓶や壺を中心とした雲堂手が盛んに生産されたようである。これらの作品には、官窯に見られない野趣が溢れている。雲堂手には、碗・鉢・壺など中・小形の作品類も多くあり、明朝末あたりまで生産され、盛んに輸出していたようである。
雲門廣録(うんもんこうろく)
雲門匡真禪師廣録。禅門五家七宗の一つ雲門宗の始祖、雲門文堰の言行録。全三巻。熙寧丙辰(1076)三月二十五日の序がある。
雲門文堰(うんもんぶんえん)
中国、唐末・五代の禅僧。禅門五家七宗の一つ雲門宗の開祖。(864-948)。姓は張氏。蘇州嘉興(浙江省嘉興)の人。諱を文偃。諡号は大慈雲匡真弘明禅師。17歳で嘉興の空王寺の志澄律師の元で出家し、20歳で江蘇省毘陵の戒壇で具足戒を受け、再び志澄律師のもとに戻り、戒律を集大成した四分律を学んだ。黄檗希運禅師の法嗣である睦州の道蹤禅師に謁したが、三度門を閉じられ足を挫いて大悟し、慧能門下の雪峰義存(822-908)に参し法を嗣ぎ、広東省の雲門山に住み、雲門宗を開いた。紫を賜い、匡真大師と号す。「雲門匡真禪師廣録」など。
雲龍釜(うんりゅうがま)
茶湯釜の一。「南方録」に「利休雲竜の釜は、青磁雲竜の御水差の紋、紹鴎に絵図ありけるをかりて、休の自筆にてうつし、釜に鋳させられたる由物がたりなり。大雲竜は天明、小雲竜は芦屋作なり。小雲竜は少胴となり。」とあり、細身の円筒形の釜の胴廻りに、雲に乗る龍の雲龍文を鋳出した釜を雲龍釜と称し、利休好み、辻与次郎の雲龍釜が著名である。「茶道筌蹄」に「雲龍利休形、与二郎作、地紋雲龍カケゴ、蓋は共蓋、大は切子ツマミ、小はカキ立、鐶付鬼面。少庵好は鬼の鐶付にて、大計にて小はなし。何れも真鍮丸鐶。仙叟好は小にて少し裾の方張る也、織部好は中にて龍に角なし。いづれもアゲ底也」とある。
雲龍風炉(うんりゅうぶろ)
風炉の一。雲龍釜を載せるために造られた風炉。土風炉が普通。上端が少し内側に巻き込まれて丸く、胴は柔らかい丸みを帯て、底は浅い丸。火口は前欠きで、口から胴に大きく丸く括られている。乳足で鐶付はない。灰は二文字に限るとされる。なお、土風炉のほか唐銅、鉄風炉もある。
雲林院寶山(うんりんいんほうざん)
京焼(粟田焼)の陶家、雲林院家の通名。寶山焼ともいう。初代の雲林院太郎左衛門尉康光は近江国信楽郡神山村の人で、天文年間(1532-1555)京都洛北加茂あるいは御菩薩池などに住み加茂神社供物の土器を製したという。天文23年(1554)雲林院要蔵、御菩薩に築窯ともある。四代雲林院安兵衛の時に清水坂に移り、大仏の宮の茶碗を製造する。七代雲林院文蔵の正保2年(1645)粟田口東分木町に移り築窯、八代雲林院九左衛門の時に徳川家の命により点茶碗を製し、以後年々献上の茶碗を製す。九代雲林院安兵衛は粟田天王社の神職を兼ねていたが、大和生駒山寶山寺の寶山湛海より「寶山」の号を贈られ、以後代々この号を用い、その作品に「寶山」の印を押すようになったという。十六代雲林院文蔵の時に五条坂八幡社境内に移り、安政年間(1854-1860)粟田口青蓮院宮より「泰平」の号を賜るという。昭和初年十七代熊之助(昌平)の時に泉涌寺東林町に移り、当代二十代。
初代要藏康光、弘治3年(1557)歿。
え     

 

栄西(えいさい)
永治元年(1141)-建保3年(1215)。栄西は諱で道号は明庵(みんなん)。建仁寺の開山。葉上(ようじょう)房,千光法師とも称した。永治元年備中吉備津宮の神主・賀陽(かや)氏に生まれ、11歳で中吉備の安養寺静心に学び、14歳で得度、18歳で叡山の有弁のもとで天台を学び、ついで伯耆の大山で密教を学び、仁安2年(1167年)4月に宋に渡り、天台山・阿育王山を訪ね、南宋禅にも触れて同年9月帰朝,天台の新註解書60巻を招来した。室町時代の辞書「運歩色葉集」に「榮西(ヱイサイ)。栄西(ヤウサイ)京建仁寺開山之名也。引木時勅弟子音頭令呼具名。今世習之。四月九日」(京都の建仁寺開山の名なり。木を引く時、弟子に勅し、音頭してその名を呼ばしむ。今の世、これに習う。四月九日にす。)とあり、榮西(えいさい)。栄西(ようさい)の二つを掲載している。
文治3年(1187)再度入宋,臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きあんえしょう)に参じてその法を嗣ぎ、建久2年(1191)帰朝。このとき、茶の種を求め、まず肥前国霊千寺石上坊に植え、のち背振山に移植し、栽培を奨励した。建文6年(1195年)に博多に、我国最古の禅寺である聖福(しょうふく)寺を創建し、北九州に禅宗を拡めた。比叡山の訴えにより、朝廷は建久5年(1194)禅宗を禁じ、そのため上京した栄西は建久9年(1198年)「興禅護国論」3巻を著して反論したが,叡山側の迫害を避けて鎌倉に下り,将軍源頼家や北条政子の帰依を得て寿福寺を建立、ついで建仁2年(1202)に頼家の本願によって京都に建仁寺を創建したが、叡山を憚りその末寺とし、かつ台密禅三学兼修の寺とした。建永2年(1207)茶種を栂尾の明恵上人高辧に送る。建保2年(1214)鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が二日酔いに悩んでいた折に一杯の茶を進め、その折に「喫茶養生記」も献じられたという。建保3年(1215年)6月5日示寂。
詠草(えいそう)
和歌や俳諧の書式の一。本来は、詠歌の草稿のことであるが、転じて和歌書式の一となる。俳諧でも詠草の称が用いられる。詠進をするときなどの公式の「竪詠草」と、添削を請うときなどの「折詠草」とがある。「竪詠草」では、料紙は小奉書・杉原などで、まず紙を縦に二つ折りし、これを五分して、一行目の下部に名、二行目の中間に題、三行目に初句、二句、三句を書き、四行目に四句、五句を書く、五行目と裏面は空白とする。墨継は初句・三句・五句。通常は歌一首を書くが、二首書く場合もあり、その場合は三行目に二列に一種、四行目に二列に他の一首を書き、五行目は同様に空けておく。「詠進竪詠草」の場合は美濃紙を用い、名の下に「上」の一字を書き添える。「折詠草」では、杉原、美濃紙、略式では半紙を横に二つ折りし、それを縦に四つ折し、一折目中央に題を書き、右端下部に名を書き「上」の一字を添える。二折目に歌一首を三行に書く、三折目に「かえ歌」として一首を同様に書く。別の題の歌を書く場合は、四折目の一行に題を書き、二行目に初句・二句、・三行目に三句・四句を書き、結句の一行を裏面に書く。料紙を三つ折にする書式もある。
永楽善五郎(えいらくぜんごろう)
千家十職。土風炉・焼物師。始祖は南部西京西村に住した宗印と言い、春日大社の供御器など製していたが晩年は土風炉を作るようになった。初代宗禅より11代保全までは、代々西村善五郎を名乗る。二代宗善のとき泉州堺へ移り住み土風炉制作を専業とする。三代西村宗全、堺から京都へ移住。のち小堀遠州の用命をうけ「宗全」の銅印を賜る。以後九代まで風炉底に宗全印を捺用。10代了全の時代に陶磁器の制作をはじめ、その養子の11代保全とともに、中国や朝鮮の陶磁器、さらには南蛮物や仁清などの茶陶の写し物を精力的に制作するようになる。11代保全は青木木米、仁阿弥道八とともに、幕末の京焼の名工の一人といわれ今日の永楽焼の家祖。永楽を名乗るようになるのは、保全が文政10年(1827)に、紀州徳川家10代藩主徳川治宝(はるとみ)の別邸西浜御殿のお庭焼開窯(偕楽園焼)に招かれ、その製陶の労が賞されて「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印「永楽」の銀印を拝領したことによる。12代和全が明治元年に西村を改め永楽を姓とした。
14代得全の妻、妙全は女性のため代の中には入っていないが名を「悠」といい、作品に「善五郎」と記し朱で「悠」の字を押印す。俗に「お悠さんの朱印」と云い、親しまれている。初代宗禅(-1558)。
慧可(えか)
中国禅宗の第2祖。慧可(487-593)は、中国南北朝時代の禅僧。正宗普覚大師。初祖の菩提達磨(ぼだいだるま)に師事。禅宗の第二祖とされる。「祖堂集」に「第二十九祖師慧可禪師者、是武牢人也。姫氏。父寂、初無其子、共室念言、我今至善家而無慧子、深自嘆羨、何聖加衛。時後魏第六主孝文帝永宜十五年正月一日、夜現光明、遍於一宅。因茲有孕、産子、名曰光光。年十五、九經通誦。至年三十、往龍門香山寺、事寶靜禪師、常修定慧。既出家已、至東京永和寺具戒。年三十二、卻歩香山、侍省尊長。又經八載、忽於夜靜見一神人而謂光曰、當欲受果、何於此住、不南往乎而近於道。本名曰光光、因見神現故、號為神光。」(第二十九祖師慧可禅師なる者は是れ武牢の人なり。姫氏。父寂して初め其の子なし。共室念言すらく、我れ今善家に至りて而も慧子なく、深く自ら嘆羨す、何の聖か加衛すると。時に後魏第六主孝文帝永宜十五年正月一日に、夜、光明を現じて、一宅に遍し。茲れに因りて孕ありて子を産み、名づけて光光と曰う。年十五にして九経通誦す。年三十に至り、龍門香山寺に往し、宝静禅師に事え、常に定慧を修す。既に出家し已って、東京の永和寺に至りて具戒せり。年三十二にして却って香山を歩し、尊長に侍省す。又た八載を経て、忽ち夜静に於いて一神人を見る。而して光に謂いて曰く、当に受果せんと欲すべきに、何ぞ此に於いて住まいて、南往してか而して道に近づかざるやと。本と名づけて光光と曰うも、神の現わるるを見るに因るが故に号して神光と為せり。)とあり、俗姓は姫氏(きし)。初名は光光。洛陽武牢(河南省栄陽郡)生れで、30歳で香山で出家した。各地を遊方し、香山に戻り参禅すること八年、疑念を解明することが出来ず、40歳で神人に南へ行けというお告げを得て「神光」と号し、南に行き、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に弟子入りを請うが認められず、自らの腕を切り落とし(慧可断臂、雪中断臂)、入門を許され、達磨より慧可の名を与えられる。「續高僧傳」には「遭賊斫臂」とあり、賊に遭って臂を斬られたとする。
絵唐津(えがらつ)
初期の唐津焼を代表する装飾技法で、素地(きじ)に鬼板とよばれる鉄釉で絵を描き、長石釉や木灰釉を施釉したもの。絵の文様は草、木、花、鳥、人物など多様で素朴なものが多く、赤褐色か黒の発色となる。茶碗、鉢、皿、向付などに絵を描いたものが多い。また、碗・皿の縁にぐるっと鉄絵具を塗りめぐらしたものを、とくに「皮鯨(かわくじら)」と称する。慶長元和以降は鉄絵が急速に減少し、かわりに白化粧土を用いた刷毛目や、象嵌によるいわゆる三島手、緑・褐色顔料で彩色した二彩手など新しい技法が出現する。
絵高麗(えこうらい)
朝鮮から渡来した焼き物を高麗と呼び、そのなかで鉄絵のある磁器の日本における呼び名。絵高麗の名がいつ始まったかは定かではないが、桃山時代以後の茶人の命名であることは確かである。文禄・慶長の役(1592-98)以後,茶事に高麗ものが流行し,渡来したやや粗い白化粧の陶胎の土に,鉄描の黒い絵のあるものを絵高麗と称した。朝鮮高麗中期の「青磁鉄絵」に似ているところから「絵高麗」として呼び慣わしていたものは、中国の磁州窯系の「白地黒花」という技法のもので、灰白色の器胎に白絵土という泥漿をかけ白下地を作り、その上に鉄絵具と筆をもって文様を描き、透明釉をかけて焼成する「白地鉄絵」と、白下地の上にさらに鉄泥漿〔黒釉〕を上掛けし、文様の輪郭線を錐状のもので彫刻したのち鉄泥の文様部分を残し、余白にあたる鉄泥を削ぎ落とし、元の白下地を浮き上がらせ、再び透明釉をかけて焼成する「掻落し手」とがある。
絵御本(えごほん)
御本手の一。釉下に鉄泥や呉須で絵付けしてあるもの。ときには文字入りもある。
越中瀬戸焼(えっちゅうせとやき)
富山県立山町瀬戸地区にて焼かれる陶器。「越中陶磁考草」に「瑞龍公、加賀藩二代諱利長、文禄二年、彦右衛門なる者に命じて、越中の国に於て、尾張瀬戸焼に類似の土を見立、陶業を営ませらるゝこと、越中上新川郡古文書に見えたり。上瀬戸村七兵衛所蔵越中於国中瀬戸焼之類、何方にても見立次第、其所にて可焼候者也文禄二年四月朔日(花押)せとやき彦右衛門」とあり、文禄2年(1593)加賀2代目藩主前田利長が、尾張の国のすえもの師彦右衛門を招き、陶器製作の下知状を授け、越中新川郡瀬戸村(富山県立山町)に窯を築かせ陶器を作ったのが始まりとされる。一説には、天正16年(1588)、利長の伯父前田安勝が故郷の尾張から陶工の小二郎なる者を招き、上末(かみすえ)の地に住まわせて瀬戸焼を作らせたとも。以降、加賀藩の御用釜として前田家の保護の下、茶道具を中心に製陶する。瀬戸焼や美濃焼の影響を強く受けている。庄楽窯、宣明窯、千寿窯、四郎八窯の4つの窯元がある。
慧能(えのう)
中国禅宗の第6祖。貞観12年(638)-先天2年(713)。姓は盧。諡は大鑑禅師。「惠能」とも書く。本貫は范陽だが、父が新州(広東省新興県)に流され幼少時に死亡した。薪を売って母を養ったが、あるとき「金剛経」を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、学識がなかったため、寺の米つきをしていた。そのころ弘忍は自らの法嗣をきめるため、弟子たちに偈をつくらせた。首座であった神秀は「身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。莫遣惹塵埃。」と修行の段階をへて悟りにいたる漸悟の境地をしめしたが、慧能は「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」と修行の段階をふまずに悟る頓悟の境地をしめした。この結局、慧能がえらばれ、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、世間にかくれて住んだ。弘忍が死んだ翌年、39歳で広州の法性寺にはいり、兄弟子の印宗について髪をそり、智光律師によって具足戒をさずけられ正式な僧侶となり、曹渓宝林寺に移って布教を続け、神竜元年(705)兄弟子の神秀の奏挙で朝廷に召されるも病と称して断り、新州国恩寺で没した。韶州曹渓宝林寺での説法を弟子の法海が編集し,授学の際の伝持本とした「六祖大師法寶壇經」がある。神秀の漸悟主義であったのに対し,頓悟主義を説いた点に特色があり,禅宗が南頓北漸に分かれるもととなった。北宗禅が貴族的教学的になったのに比べて、南宗禅は唐末に新興の士大夫に支持され、以後の中国禅宗の本流を形成していった。慧能の弟子には,青原行思・南岳懐譲・荷沢神会・石頭希遷らがおり,おのおの一家をなした。後の五家七宗全てがその一門から出ている。
榎肌(えのきはだ)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。器物の表面が炭化したように灰がつき、黒や灰色にぶつぶつと盛り上がり榎の木肌のようになったものをいう。
餌畚(えふご)
器物の形状の一。餌籮とも。鷹匠が持ち歩く餌袋の形を餌畚(餌籮、餌袋)といい、この餌畚に似た形状のものをいう。建水や茶入、水指などに餌畚と称するものがある。餌畚建水は、袋形で上部が開いた建水で、七種建水の一。官休庵伝来形の餌畚建水は、千利休所持の「唐金餌畚建水」で武者小路千家に代々伝わるもので、簡素な姿ながら最も機能的な建水。「茶道筌蹄」に「餌籮鳥獣の餌を入るヽ籠の形なり」とある。一謳軒宗全の天文甲寅年(1554)跋「茶具備討集」には「餌蕢、漁人具、以竹組、口開頸細腹大而円者、佳士謂之篠、野人謂之蕢也、舩以小魚蕢為取魚之餌、故曰餌蕢、南蛮水差似之、故水差名餌蕢、鷹奨之具名餌袋非」(餌蕢、漁人の具、竹を以って組む、口開き、頸細く、腹大にて円き者、佳士之を篠(あじか)と謂う、野人は之を蕢(ぶご)と謂う也、舩小魚を以って蕢に魚を取る之餌と為す、故に餌蕢と曰う、南蛮水差之に似たり、故に水差を餌蕢と名つく、鷹奨之具餌袋と名づくるは非なり)とある。
烏帽子棚(えぼしだな)
利休袋棚の右側をもとにした二重棚の一。一啜斎好み。中棚が三角形に切ってあり、この中棚の三角形を烏帽子に見立てて、この名がある。中棚が三角形になっているため、両器拝見のとき中棚になにも載っていないと軽すぎて不安定な感じになるのを避けて、中棚に帛紗を烏帽子折にして飾る。これを烏帽子飾という。風炉にのみ用いる。初飾りには、地板に水指、中棚に茶器を飾る。後飾りには、柄杓を柱に立てかけ、地板に蓋置を、中棚に茶器を飾る方法。天板に柄杓と蓋置を、中棚に茶器を飾る方法。中棚に柄杓と蓋置を飾る方法がある。木津松斎の一啜斎からの聞書に「松平讃岐守様より風呂に用る棚好様依命一啜斎好」とあり、松平讃岐守の命により風炉に用いる棚として好んだもので、本歌は市郎兵衛が作り、のち駒沢利斎に依頼して組み立て式に改められたという。
圜悟(えんご)1
圜悟克勤(えんごこくごん/1063-1135)。中国・北宋時代の禅僧。姓は駱、名は克勤、字は無著。四川省の人。生前に北宋の徽宗(きそう)皇帝から「仏果禅師」、南宋の高宗皇帝から「圜悟禅師」の号を賜い、諡号を「真覚禅師」。「碧巌録(へきがんろく)」の著者として名高い。
圜悟克勤(えんごこくごん)2
中国・北宋時代の禅僧。嘉祐8年(1063)-紹興5年(1135)。成都彭州崇寧(四川省)の人。姓は駱、名は克勤、字は無著。妙寂寺の自省法師に就いて出家。のち五祖山の法演に参じ印可を得る。生前に北宋の徽宗(きそう)皇帝から「佛果禅師」、南宋の高宗皇帝から「圜悟禅師」の号を賜い、諡号を「真覚禅師」。弟子に大慧宗杲、虎丘紹隆らがいる。「碧巌録」の著者として名高い。他に「撃節録」二巻、「佛果禪師心要」二巻、「圓悟佛果禪師語録」二十巻等がある。
圜悟録(えんごろく)
圜悟佛果禪師語録(えんごぶっかぜんじごろく)。圜悟克勤の語録。全20巻。門人紹隆等の編集。はじめに紹興三年(1133)の竜図閣耿延禧の序と、検校少保張浚がその翌年に書いた序があり、上堂、小参、普説、法語、書、拈古、頌古、偈頌、真讃、雑著、仏事の順に一代の語を集める。
遠州緞子(えんしゅうどんす)
別名「花七宝入り石畳文様緞子」。小堀遠州が所持したと伝える。市松模様の各々の枡の中に七宝と二種の花柄を互の目に配し、地を五枚繻子とし、文を緯五枚綾としているのと、逆に地を緯綾とし、文を繻子組織としたものとを上下左右交互になるように配置している。更に、緯に白茶と浅葱(あさぎ)の二色を用い、白茶二段、浅葱一段の繰り返しとして色調に変化をつけている。
遠州七窯(えんしゅうなながま)
小堀遠州の好みの茶器を焼いたとされる七つの窯。遠江(静岡県)の志戸呂(しとろ)、近江(滋賀県)の膳所(ぜぜ)、山城(京都府)宇治の朝日、大和(奈良県)の赤膚(あかはだ)、摂津(大阪府)の古曾部(こそべ)、筑前(福岡県)の高取(たかとり)、豊前(福岡県)の上野(あがの)の七窯をいう。遠州七窯ということは江戸後期ごろ道具商によりいわれたといい、初出は嘉永7年(1854)田内梅軒(米三郎)の「陶器考」(同附録・安政2年・京都西村九郎右衛門明治16年刊行)とされる。ただ、赤膚や古曾部は、遠州在世中には焼き物を焼いていない。また、明治25年(1891)今泉雄作の「本邦陶説」では古曾部を除いて伊賀を加えている。
円相(えんそう)
円い形、また、それを描くこと。無欠無余の、仏性、実相、真如、法性などと呼ばれる絶対の真理を現すという。一円相(いちえんそう)、円相図(えんそうず)などとも呼ばれる。「人天眼目」に「圓相因起圓相之作。始於南陽忠國師。以授侍者耽源。源承讖記傳於仰山。遂目為溈仰宗風。」とあり、六祖慧能の法嗣とされる南陽慧忠(-775)が最初に描いたとされ、耽源応真から仰山慧寂(807-883)に伝えられ、仰山が修行者を導く手段としてよく用いた。 
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逢坂金襴(おうさかきんらん)
名物裂の一つ。縹(はなだ)地に、文様は金糸で七曜文を散らし、丸竜紋と霊芝雲文を交互に配する。中興名物「相坂丸壺茶入」の仕覆として用いられていることからの名称といわれ、「相坂金襴」とも書く。「縹(はなだ)」は、藍だけで染めた青。古くは藍で染めた色の総称。藍のほかに黄色の染料である黄蘗を用いて染める藍色より薄い。「七曜文(しちようもん)」は陰陽五行で太陽、月、木、火、土、金、水を表し、中央に一つの円、そして周囲に六個の円を配列した形。中国では皇帝の礼服に、また奈良時代には天皇の礼服柄として用いた。「霊芝雲文(れいしうんもん)」は茸の霊芝に似た不老を象徴する瑞雲(ずいうん)をかたどった形。「丸竜紋」は中国皇帝の文様である竜を丸くかたどったもの。
大内桐金襴(おおうちきりきんらん)
名物裂の一。通常花色の朱子地に、桐の葉三枚の上に、桐の花を中央に七つ、左右に五つ配した、五七の桐の文様を織った金襴。周防山口(山口県)の戦国大名である大内義隆(おおうちよしたか:1507-1551)が明に注文して織らせたものと伝えられる。
大菊棗(おおぎくなつめ)
松平不昧公好みの棗。原羊遊斎造。黒漆地に蓋上から身にかけて八重菊、一重菊、裏菊の菊花三輪が重なる豪華な図案。金高蒔絵で立体的に菊の花弁をあらわし、花芯と萼に金の薄板を貼り付けてある。蓋裏に不昧の花押「一〃」が朱書きされ、底に羊遊斎の黒漆描銘「羊」がある。不昧の墨書した共箱が備わる。原羊遊斎(はらようゆうさい:1772-1845)は、古河藩などの御用蒔絵師を務め、江戸琳派の酒井抱一(さかいほういつ)との交流から、抱一が下絵を描き羊遊斎が蒔絵におこすという、琳派の意匠を漆の加飾である蒔絵に取り入れ、瀟洒で洗練された作風は圧倒的な支持を集め、当代随一の蒔絵の名工といわれた。
大津道観(おおつどうかん)
安土桃山時代の侘茶人。生没年未詳。安積澹泊(1656-1737)著「澹泊史論」に「大津追分有一數奇者曰道觀。極貧窶。家貯一鍋三足有喙。呼曰手取鍋。毎焼松毬爲薪。湘泉作茶湯。或煮攝飯充晨夕。自詠狂歌一首以述其趣。太閤秀吉公聞而奇之。將給月俸。道觀固辭曰。貧賤嗜茶湯。外無所求。而不累于物。一仰廩食。則身有餘饒。而心不閑曠。與其冨而屈志。不如貧而待死也。太閤不奪其志。乃點大津驛馬往來京師者。使征其什一以資生活。道觀又欲辭之。人或勸而受之。於是出杓於窓外。毎馬一匹。收錢一文。盈杓則納之。錢未盡。杓不出。及盡出之。率以爲常。」(大津追分に一数奇者あり、道観と曰う。極貧に窶れ。家に一鍋を貯う。三足にして喙あり。呼びて手取鍋と曰う。毎に松毬を焼き薪と為す。泉に湘し茶湯を作る。或は増水飯を煮て晨夕に充つ。自ら狂歌一首を詠い以て其の趣を述ぶ。太閤秀吉公聞きて之を奇とし、将に月俸を給せんとす。道観固辞して曰く、貧賎にして茶湯を嗜む。外に求むる所無く、物を累はさず。一たび廩食を仰がば、則ち身には余饒あるも、心は閑曠ならず。其の富みて志を屈するよりは、貧にして死を待つに如かずと。太閤その志を奪えず。乃ち大津駅馬の京師に往来する者に点き、其の什に一を征せしめ、以って生活の資とせん。道観また之を辞せんと欲す。人の或は勧めて之を受く。是に於て窓の外に杓を出し、馬一匹毎に銭一文を収む。杓盈つれば則ち之を納む。銭尽きざれば、杓を出さず、尽くるに及び之を出す。率ね以て常と為す。)とある。
大西清右衛門(おおにしせいえもん)
千家十職の釜師。大西家の家祖は山城国南山城広瀬村の出身で広瀬姓を名乗る。釜師としての大西家は、初代浄林が上洛し三条釜座の座人になり、のち大西姓を名乗ったのが始まり。2代浄清は古田織部、織田有楽斎の釜師として有名で、小堀遠州好みの釜も多く作り、大西家歴代の中でも第一の名手と言われる。6代浄元の代より千家出入りの釜師となる。7代浄玄は3代浄玄と区別するため「くろ玄」といわれ、2代浄清に次ぐ名手として大西家中興の祖とされている。初代浄林(1590-1663)。
大西定林(おおにしじょうりん)
江戸中期の釜師。名は延貞、通称は五郎左衛門。千家十職大西家2代浄清(じょうせい/1594-1682)の次男。江戸大西家の初代。浄清とともに古田織部・小堀遠州に従って江戸に赴き、定林は江戸にとどまり、江戸大西家を開く。生年不詳、享保12年(1727)没。織部、遠州、石州の釜を作り、数代続いた。
大樋長左衛門(おおひちょうざえもん)
大樋焼の窯元。初代長左衛門(1631-1712)は、土師長左衛門、のちに大樋長左衛門。隠居名は芳土庵。河内国土師村出身で、明暦2年(1656)京都に出て、二条瓦町に居住し、楽家四代一入のもとで楽焼を学んだといわれる。寛文6年(1666年)加賀藩の茶道奉行として仕官した裏千家四世仙叟宗室に同道し加賀国河北郡大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築き、屋名を荒屋と名乗り、茶道具を製作し、後、妻を大樋村の石動屋から娶り、貞享3年(1686)二代目長左衛門が生まれる。同年仙叟宗室が帰京の際、藩主に願い出て、加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の「大樋」姓とすることを許される。正徳2年(1712)没。享年82歳。
大樋焼(おおひやき)
加賀金沢の楽焼。寛永6年(1666)加賀藩5代藩主前田綱紀(1643-1724)の茶道奉行として仕官した裏千家四世仙叟宗室が、京都在住の楽一入の弟子と伝えられる河内国土師村の人、土師長左衛門を茶碗造り師として金沢に同道し、河北郡小坂庄大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築いた事より始まる。貞享3年(1686)仙叟宗室が帰京の際、長左衛門が藩主に願い出て加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の「大樋」を姓とすることが許される。京都の楽焼よりは薄手のものが多く、楽家から楽焼の黒や赤を使うことを禁止され、独自に考案した飴釉(鉄釉の一種で酸化焼成すると飴色に発色することからこの名がついた)が特徴となっている。飴色にも、薄飴、飴、濃飴、飴黒など種類がある。他に、飴色の上に白の幕釉をかけた「白幕飴釉」や「黒飴釉」「かせ黒」「黒幕釉」などがある。明治時代になり加賀藩の保護を失った大樋焼は7代長左衛門の時に一時廃業をむかえたが、7代長左衛門の弟子(異説あり)の奈良理吉が再興し、8代長左衛門を名乗り、現在に至る。また、廃業した7代大樋長左衛門道忠(1834-1894)の直系子孫である大樋知新から認証を受けたとする、8代目大樋長楽(1902-1991)陶玄斎とその長男である9代目大樋勘兵衛がある。
大名物(おおめいぶつ)
茶道具の格付け分類名称。東山御物をはじめ千利休以前の名物の称。大名物の呼称が一般化するのは、18世紀末で、それを定着させたのは、松平不昧の「古今名物類聚」という。不昧の酒井宗雅宛の書状に「従古名物と申候は当世申習候大名物にて是そ誠の名物にて御座候」とあり、大名物の称が当世言い習わすようになったものであることを述べている。「古今名物類聚」の序に「小堀遠州公古器を愛し給ひ。藤四郎以下後窯国焼等のうちにも。古瀬戸。唐物にもまされる出来あれとも。世に用ひられさるを惜み給ひ。それかなかにもすくれたるを撰み。夫々に名を銘せられたるより。世にもてはやす事とはなれり。今是を中興名物と称す。」として中興名物を規定してから「それよりしてのち。古代の名物をは。大名物と唱る。」と、中興名物と大名物の二種に名物を規定した。その範囲は「君台観左右帳記」「山上宗二記」「玩貨名物記」各所載の品を中心に、桃山時代の茶会記にのる名物などや、「古今名物類聚」大名物之部所載の品、「雲州蔵帳」宝物および大名物所載の品などとされるが、その範囲は必ずしも明確でないという。
大脇指(おおわきざし)
建水の一。利休所持。黄瀬戸で、一重口で筒形の建水。大脇差とも。高さ四寸、径四寸七分、厚三寸と大振りで、常に腰の脇を離れないことからその名があるという。利休から芝山監物へ送られたが、のち少庵に戻り、宗旦が「利休大脇指」と箱書付している。江岑宗左の時、紀州徳川家に献上され後に了々斎が極書をしている。「茶道筌蹄」に「利休所持大脇差は黄瀬戸紀州公御所持」、「利休所持さしかへは捻貫也加州公御所持」、「千家茶事不白斎聞書」に「水こぼし利休銘大脇指、黄瀬戸百会茶に出る名物也、楽焼に写」、「茶道望月集」に「楽焼に利休の大脇指とて、真録にツヽ立て、ひとへ口にて、ロクロメ有建水、長次郎に始て好にて器にして焼かせたると也、本歌は黒楽と也、小形成を小脇指とて用るは後世の事也、名は黒楽にてロクロメあれば、脇指の割さやに似たる故の名ぞと也」とある。
尾形乾山(おがたけんざん)
寛文3年(1663)-寛保3年(1743)。京都の富裕な呉服商「雁金屋」尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれる。尾形はもと緒方で本国は豊後、緒方三郎惟義がその遠祖という。初名は権平のち深省、諱は惟允、別号に霊海・紫翠・習静堂・尚古斎・陶隠。すぐ上の兄が市之丞(いちのじょう)のちの尾形光琳(1658-1716)。二人の曽祖母にあたる初代「雁金屋」の妻が本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の姉・法秀(ほうしゅう)。貞享4年(1687)25歳の時、父親が他界し、父の遺産を元に元禄2年(1689)御室に隠宅「習静堂(しゅうせいどう)」を構え、仁清に陶法を学び、元禄12年(1699)仁清から「陶法伝書」をさずけられ、二条綱平公から譲り受けた鳴滝(なるたき)の山荘に窯を開き乾山と名付けた。正徳2年(1712)50歳の頃、鳴滝泉谷の屋敷を桑原空洞へ譲渡し、二条通寺町西入ル北側に移り、三条粟田口五条坂辺で窯を借り「焼物商売」として絵付の食器類を多く作り「乾山焼」として世にもてはやされた。鳴滝時代の末期から丁子屋町時代にかけ光琳が絵付をし乾山が画賛をした合作の作品が作られる。享保16年(1731)69歳の頃に輪王寺宮公寛法親王に従い江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送り、81歳で没するまで江戸に在住した。乾山の著した「陶工必用」に「愚拙元禄卯之年洛西北泉渓ト申処ニ閑居候処ニテ陶器ヲ製シ始則京城ノ西北ニ相当リ候地ニ候故陶器ノ銘ヲ乾山ト記シ出申候、其節手前ニ指置候細工人孫兵衛ト申者右押小路寺焼之親戚ニて則弟子ニ候而細工焼方等巧者ニ候故御室仁清嫡男清右衛門ト共ニ手前江相頼ミ置此両人押小路寺内かま焼キ御室仁清焼之伝ヲ受継申候」とあり、作品は仁清の長男・清右衛門と押小路寺焼職人の孫兵衛らが施釉、焼窯といった作業のほとんどを行い、自らは絵付や画賛をしたという。
置形(おきがた)
茶入の正面となるところ。釉のなだれなど、景色や見どころある面を正面にして置きつけるところからの名称。点前をするときに正面にする面で、拝見のときは客にその面を向ける。景色のない茶入には置形はなく、景色の多い松屋肩衝では四つのなだれがあり、それぞれ遠州見立、古来見立、利休見立、織部見立として四つの置形ある。
置筒(おきづつ)
竹花入の一。一重切の釘穴がなく後にも窓を開け左右に柱を残し吹貫にした形をいう。吹きぬきになっているところから「吹貫」(ふきぬき)ともいう。「茶道筌蹄」に「置筒庸軒始り也、千家にては原叟始て製す」、速水宗達(1727-1809)の文政8年(1825)刊「喫茶指掌編」に「藤村庸軒物数寄にて利休の一重切の姿にて後の釘穴を広く明て置筒となして旅衣と銘したり、会後に前後同様に窓を作しとか」とあり、藤村庸軒が利休一重切と同じ姿の花入を作り、その一重切を作り変えたのが始まりと云う。「茶話指月集」に「暇ある時は、茶匙・竹筒を製して俗事に渉らず」とあるように、庸軒作の置筒には、「生花口伝書」に「一遅馬の事藤村庸軒作なり。ある時一重切を切られしに釘穴かけたり。夫故月の輪を切すて置筒に用られし由、されはかけられぬといふ縁語をとりて遅馬とは名付られしと也。」とあるように駆(掛)けられぬということから「遅馬」、置くという縁語から「露」、凡河内躬恒「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」の歌より「白菊」と名付けられたものなどがある。
奥高麗(おくこうらい)
桃山時代の古唐津茶碗の一種。高麗茶碗の特色を備えた初期の唐津茶碗で、奥とは古いという意味といわれる。作為の無いおおらかな姿が特色。普通の古唐津より土が細かく、全体にごく薄い土灰釉が掛けられている。枇杷色、黄色、青褐色のものなど火度により変化があり、無文のものが多い。
奥村吉兵衛(おくむらきちべえ)
千家十職の表具師。近江国谷ノ庄の地侍奥村三郎定通の次男吉右衛門清定が正保3年(1646)京に出て小川通上立売に住し、承応3年(1654)表具を業とし近江屋吉兵衛と称し、二代吉兵衛のとき表千家六代覚々斎の取りなしで紀州徳川家御用達となり、千家職方も務める。
初代吉右衛門元和4年(1618)-元禄13年(1700)名は清定、法名を宗勢。正保3年(1646)に上洛。承応3年(1654)表具屋業を開業、屋号「近江屋吉兵衛」を名乗る。二代吉兵衛寛永10年(1633)-享保4年(1719)初代の長男。号は休意。元禄11年(1698)表千家六代覚々斎の取りなしで紀州徳川家御用達となる。三代吉兵衛寛文6年(1666)-寛保3年(1743)二代吉兵衛の婿養子。法名を休誠。近江国浅井郡馬渡村の松山家の出身。狂歌の作者、能書家として知られる。六代吉兵衛安永9年(1780)-嘉永元年(1848)四代吉五郎の婿養子。号は休栄。近江国伊香郡高月村の宮部家出身。「奥村家系図」「千家御好表具并諸色寸法控」を著す。八代吉兵衛文化元年(1804)-慶応3年(1867)号は?所、鶴心堂、出家し蒿庵と号す。歴代中最も表具の達人と言われる。
折敷(おしき)
檜のへぎで作った縁つきの盆。多く方形で、食器などを載せる。形としては、四角の物を平(ひら)折敷(角切らず)、四隅を落とした角切(すみきり)折敷(隅切折敷)、隅切の縁を高くした縁高(ふちだか)折敷、足を付けた足打(あしうち)折敷(高折敷)、足打折敷の脚に刳形(くりがた)のない傍(そば)折敷等がある。折敷とは折って敷く意で、「倭訓栞」に「おしき東鑑に折敷と書り。所謂方盆也。一説に和卓の音とす。木の葉を折敷て盤となせし、上古の名の遣れるもの也。」、「北史」に「倭國・・・俗無盤俎、藉以槲葉、食用手餔之。」とあるように、昔は木の葉を折り敷いて食器の代用としたものを、後世に至って檜のへぎを押し曲げて角盆にして用いたが、呼称を古名のまま「折敷」と云うとする。「茶道筌蹄」に「角きらず元来利休形の湯盆なり、膳に用ゆる事は仙叟より始る、依て曲折敷を湯盆にもちひても然るべき歟。鉋目利休形溜角切、カンナ目あり。曲利休形黒ツハメ角きり。山折敷飛騨作にならふて利休形なり、カンナメ内ニ桜皮のトジメあり、側深くして打合せなり。吉野折敷根来作なり、鏡は黒ハケメ側朱也、裏は春慶、卒啄斎より吉野折敷と呼ぶ、吉野椀にとり合す、千家に本歌あり。半月折敷如心斎好一閑作、黒クルミ足、糸目椀にとりあはす。山崎盆織部好、溜塗鉋目、裏黒形丸。」とある。
尾垂釜(おだれがま)
釜の形状の一。釜の胴の下部が不規則な波型に欠けて垂れた形になったもの。本来は、古芦屋や古天明など、古い釜の下部が腐食して破損したものを、その部分を打ち欠いて取除き、新しく別の底を取り付けたとき、打ち欠いた個所を不揃いのまま残したところからの形態。後には始めから尾垂の形を作っている。
落葉切(おちばぎれ)
西行筆と伝えられる熊野懐紙。落葉が詠まれているので、古来「落葉切」もしくは「落葉色紙」と呼ばれている。建仁元年(1201)十月十九日の「深山風、寺落葉」の歌題で詠まれた熊野懐紙(二首懐紙)の半分、「寺落葉」の歌の部分を切り取り、茶の掛物として表装したものと思われる。
落穂籠(おちぼかご)
籠花入の一。愈好斎好み。愈好斎が敦賀訪れた際に、落穂を入れる籠を持ち帰り、黒田正玄に手をつけさせた茶入。名残の季節によく使われる。
御茶入日記(おちゃいりにっき)
茶師が、茶壷に詰めた茶葉の銘や量、詰主、日付などを記して、茶壷の箱の蓋裏に貼り付けたもの。単に「入日記」ともいう。
澤潟棚(おもだかだな)
愈好斎好みの二重棚で、棚の足、地板と天板から側面と背面に澤潟の葉を縦半分にした形を施した棚。初飾りでは、棚の地板に水指を、中板の中央に棗を飾る。点前後は棗は拝見に出され、中板には柄杓と蓋置を飾る。柄杓は合を上向きに、中板幅の奥側1/3、手前側1/4に斜めに飾る。蓋置は柄杓の号の手前延長線上に飾る。
凡手(およそで)
瀬戸茶入の窯分け名の一。瀬戸破風窯の中興名物「凡」を本歌とする。凡の銘は「凡そこれに及ぶものあるまじ」との意で名付けたとされるが、一説には「凡」の文字がこの茶入の姿に似ているからともいわれる。下膨の肩衝で、肩が庇状をなし、胴に轆轤目が荒く、黄釉が幅広く段々をなして裾まで流れている。遠州所持で、寛政ころ松平不昧に渡っている。挽家・内箱・袋箱を遠州が書付、蓋箱・外箱を不昧が書付している。名物としては本歌のほかに「撰屑」「玉津島」「蓮生」などが知られる。
織部焼(おりべやき)
慶長年間(1596-1615)から寛永年間(1624-44)に美濃で焼かれた斬新奇抜な加飾陶器の総称。慶長年間に天下一の茶の湯宗匠とされた古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)の名から呼ばれ、織部の好みで焼かれたとされる。ただ、織部が直接関わっていることを示す一次資料はなく、「宗湛日記」の慶長4年(1599)2月28日の織部の茶会に「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」とあるのが織部茶碗であるとされる。いわゆる織部は、黒釉を使い焼成中に引出し常温まで急冷させる引出黒による「瀬戸黒」(美濃焼も瀬戸と呼ばれていた)のなかで歪みの大きい沓形(くつがた)と呼ばれる器型の「織部黒」、黒釉を窓抜にし鉄釉で文様を描いた「黒織部」の織部茶碗と、織部釉といわれる緑釉(灰釉に銅を混ぜた釉薬)を総掛けした「総織部」、緑釉と鉄絵を組み合わせた「絵織部」、赤土に鉄絵、白土に緑釉を施した「鳴海織部」、赤土に白泥鉄絵の「赤織部」の向付・皿類・鉢類・花生・水指・香合・香炉などに大別される。加藤景延が唐津の連房式登り窯を学び、慶長初年に美濃の久尻・元屋敷に登り窯を築窯し織部を焼き始めたといい、寛永時代には弥七田窯、久尻勝負窯、妻木窯、田尻窯、下切窯等の窯で盛んに織部が焼かれた。大川東窯は江戸前期、笠原窯は江戸中期の窯である。また、志野焼も元禄頃までは織部焼と呼ばれていたが、のち織部焼と区別されるようになり、さらに近年、登り窯で焼かれたものは釉調が透明で硬い感じになるところから、大窯で焼かれた志野(古志野)とは区別して「志野織部」と呼ぶことが多い。
      

 

槐記(かいき)
江戸時代の随筆。正編七巻、続編四巻。近衛家煕(このえいえひろ)の侍医山科道安(やましなどうあん)が、享保9年(1724)から享保20年(1735)にいたる家煕の言行を筆録したもの。茶の湯をはじめ歌道・香道・花道・有職について詳記。近衛家煕(1667-1736)は、関白太政大臣基煕の嫡男。母は後水尾天皇皇女无上法院常子内親王。幼名は増君。宝永4年(1707)関白。同6年(1709)摂政。同7年(1710)太政大臣。享保10年(1725)落飾、予楽院真覚虚舟と号す。詩歌・茶・花道に通じ、書道は当代一流と称された。山科道安(1677-1746)は保寿院理安の子。名は元直。芝岩と号す。父の業を継ぎ、保寿院を襲号。法眼。小児科医として近衛家に伺候。
皆具(かいぐ)
台子や長板に飾る道具一式をいう。本来は、装束・武具・馬具などのその具一式がそろっているものをいった。通常は、水指、杓立、建水、蓋置の四器が同一の作りのものをいうが、現在では風炉、釜も統一した意匠で揃えられているものもある。唐銅などの金属製や陶磁器製がある。「南方録」に「台子にては、カネの物ならでは、水指、杓立、こぼし、蓋置ともに用いず候。」とあるように、唐銅の皆具は真の皆具と言われる。
懐紙(かいし)
畳んで懐に入れておく紙。茶席で、菓子を取ったり、器物をぬぐったりするのに用いる。また、平安貴族が、書状や詩歌の料紙に用いるために装束の懐中に入れたもの。懐中に入れたところから「ふところがみ」、畳んで懐に入れるところから「畳紙(たとうがみ)」等と称した。のちには詩歌などを正式に詠進する詠草料紙(和歌を書き記す料紙)を意味するようになり、順徳天皇(1197-1242)の歌学書「八雲御抄」に「一首歌は三行三字墨黒に可書、但二三行も吉歟、五首已下は一枚及十首は可続、皆用高檀紙、・・・女歌薄様若檀紙一重」とあるように、男性が檀紙を女性が薄様を用いるのがならわしとなり、紙の大きさは「懐紙夜鶴抄」に「天子は大高檀紙を其まヽ遊ばさるヽ也、其故に高一尺五寸余也、摂関は一尺三寸余、大臣より参議まで一尺三寸、中少将殿上人は一尺二寸、其以下に至ては一尺一寸七八分たるべし」とされ、和歌懐紙の書式は「言塵集」に「書様は手うちおく程に袖をのこして詠字をかく也、上は一寸一二さげて書也、詠字と題とのあはひに姓名をば書なり」とあり、紙の右端を袖と称して掌の幅にあけて季題詠題を書く。これを端作という。次行に官位姓名を書く。歌は「作歌故実」に「今の世懐紙の書法に九十九三とて、初行九字、第二行十字、第三行九字、終りの行三字といふが通例なり」とある。一紙一首が正式であるが「兼載雑談」に「一首懐紙は三行三字なり、二首三首は二行七字なり、五首七首は一紙に二行づヽ也、十首より上は紙を続べし」、「懐紙夜鶴抄」に「十首は紙三枚二行七字也、若二行に書時は、跡殊外あまりて見ぐるし、二行七字能也、十種までをつぎ懐紙といふ」とあり、二枚以上になるのを続懐紙という。詩懐紙もこれに準じ、俳諧懐紙は杉原紙四枚を横二つ折りにし表と裏とし、水引で右端をとじ、一枚目を初折、二枚目を二の折、三枚目を三の折といい、最後の四枚目を名残ノ折という。初折表に「表八句」といって八句を書き、その第1句目を発句という。初折の裏、二の折の表裏、三の折の表裏と名残ノ折の表にそれぞれ十四句を書き、名残ノ折の裏に八句を書き、各句の下に作者の名を記す。
懐石(かいせき)
茶席で、茶をすすめる前に出す簡単な料理。「懐石」の語の初出は「南方録」とされ、江戸前期までは「会席」(山上宗二記)、「献立」(宗湛日記)、「仕立て」「振舞」(天王寺屋会記)などの文字が使用され、一般的に使われるようになるのは井伊直弼(1815-1860)の「茶湯一会集」以降の茶書という。「南方録」に「懐石は禅林にて菜石と云に同じ、温石を懐にして懐中をあたたむるまでの事なり。」とあるように、禅院では本来「非時食戒」により、間食はもとより正午を過ぎたら翌朝まで一切食事をとってはいけないため、温石を布に包んで腹に入れ、腹中を温め空腹をしのいだことからの軽い料理の意で、谷川士清(1709-1776)の「倭訓栞」に「くわいせき茶人の客を請じて、茶より前に飲食を出すを恠石といふは、蘇東坡が佛印禅師に點心せんとて、恠石を供せられしによれり。」とある。「山上宗二記」に「紹鴎の時より十年前までは、金銀ちりばめ、二の膳、三の膳迄在り。」とあり、茶席の料理も本膳と異ならなかったが、「南方録」に「小座敷の料理は汁一つ、さい二か三つか、酒もかろくすべし。わび座敷の料理だて不相応なり。」とあるように、利休の頃より一汁三菜の簡素な侘びを主体とした料理を作りだしたとされる。ふつう汁一種、向付・煮物・焼物の三種の一汁三菜とともに、飯と香の物が添えられる。これに加え強肴、吸物・八寸による酒のもてなしを加えて、懐石を終わる。古くは汁、向、香の物、煮物が一汁三菜とされたが、それに加え強肴、進肴が持ち出され、その中の一種である焼物と香の物とを一緒の器に盛って出し、やがて焼物を品数に数えるようになり、香の物は最後に出すのが普通となったという。
懐石家具(かいせきかぐ)
懐石に用いられる膳や椀の類をいう。貞享3年(1686)刊「雍州府志」に「塗師之中造椀具折敷膳重箱等物是謂家具屋倭俗凡椀并膳専称家具」(塗師の中、椀具折敷の膳重箱等の物を造る、是を家具屋と謂う。倭の俗に凡そ椀并びに膳を専ら家具と称す)とある。利休形としては、元禄4年(1691)刊「茶道要録」に「利休形諸道具之代付」として初代宗哲の頒布する利休形家具が掲載されており、そこには吉野椀、上り子椀、丸椀、面桶椀、精進椀の五種があり、それぞれ飯椀、汁椀、壷皿(椀)大小、平皿(椀)の揃いで、面桶椀以外は二ノ椀も付き、精進椀には楪子と豆子が添う。皆朱折敷、鉋目折敷、曲折敷、隅不切折敷。食盛杓子共、湯盛、酒盛、通折敷。重盒二重、縁高、楪子ノ椀(菓子椀)、高杯盆となっている。庸軒の次子の正員の「茶道旧聞録」では、吉野椀、上り子椀、丸椀、面桶椀、精進椀の五種に加え、一文字椀、菓子椀を加えた七種があげられている。また、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「食器利休までは尽く朱椀也、利休より黒椀を用ゆ、朱椀も兼用。黒塗丸椀坪平付大小とも利休。黒塗上り子椀利休形、坪は外蓋又内蓋もあり、平内蓋。黒塗碁笥椀利休形、汁飯椀とも碁笥底、坪平なし。黒塗一文字椀坪平付、大小とも利休形。朱丸椀坪平付、黒つばめ利休形。吉野椀坪付利休形、芍薬椀と云は不可也、葛の花也、親椀ばかり碁笥底、坪は了々斎好、尤以前は上り子の坪平を用ゆ。面桶椀利休形、何れもうるみ、外蓋菜盛りばかり、坪平は丸椀を仮用ゆ」「菓子椀朱黒ツバメ利休形、烹物ワンにかりもちゆ」とあり、吉野椀、上り子椀、丸椀、面桶椀、精進椀、碁笥椀、一文字椀、菓子椀を利休形としている。
懐石道具(かいせきどうぐ)
茶事にだされる食事(懐石)に用いる道具。懐石道具は、家具と器物と酒器がある。今日一般的に用いられる道具として、懐石家具には、折敷、両椀、煮物椀、吸物椀(箸洗)、八寸、飯器、杓子、湯次、湯の子掬い、通盆、脇引があり、懐石器物には、向付、焼物鉢、漬物鉢、預鉢などがある。酒器には、引盃、盃台、燗鍋、銚子、預徳利、石盃などがある。
花押(かおう)
文書の末尾などに書く署名である書判(かきはん)の一種。元々は、文書へ自らの名を自署していたものが、次第に草書体にくずした草名(そうな)、押字(おうじ)となり、特殊な形状を持つ花押が生まれ、花押が一般的になってからは花押が書判の別称とされるようにもなる。「貞丈雑記」に「草名と云は、名乗の字を甚だ略して草に書きたるなり。我はよめども人はよめぬ程にやつして書けるなり。押字・花押とは又別なり。」「押字と云は、名乗の字を草に略して自分々々のしるしに用いて書く事なり。右の押字に二合・二別の品あり。二合と云は、名乗の二字を一ツに合せて作りたるを云なり。(中略)二別と云は、名乗の上の字をば常の字体に書きて下の字ばかりを草にやつして作るなり。」「花押と云は、名字の字を用いずして、別に人々の好みによりて草木の花葉・鳥獣・器物その外何なりともその形を押字の如く作りて用ゆるを云。花と云ははなやかという儀にて、俗にいわばだてなる心なり。たとえば〓(水鳥なり)、〓(桃なり)、この類、人々の巧に寄せて品々の形あるべし。当世地下人の書判、名乗の字を用いずして色々の形を書くも、花押の類なり」とある。伊勢貞丈は「押字考」で、自署の草名から起こった「草名体」、諱(いみな)(実名)の偏・旁・冠などを組み合わせて作る「二合(にごう)体」、諱の一字または他の特定の文字を形様化した「一字体」、動物・天象等を図形化した「別用体」、上下に並行した横線を二本書き中間に図案を入れた「明朝体」に五分類しており、後世の研究家も概ねこの5分類を踏襲している。
平安時代には草名体、二合体が多く一字体も間々用いられたが、鎌倉時代以降はほとんど二合体と一字体が用いられ、別用体はごく一部にとどまる。江戸時代には、明の太祖が用いたことに由来するといわれる明朝体を徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり徳川判とも呼ばれた。新井白石の「同文通考」に「異朝にて押字花押などいふもの、吾朝にしては判とぞいひける。我国にてこれを用ひられし始、未だ詳ならず。異朝の押字は、天子の詔の画諾といふ事よりはじまれりといふ也。此説通雅に見ゆ、およそ諸侯より奉る所の議奏に、天子みづから諾の字を草字にてしるし賜るを、画諾とはいふことなり。吾朝にも、いにしへより天子の詔勅に、御画といふことありしなれば、其由来ることは久しき事にや。天子の御押、今はたヾ後深草帝このかたの物のみ世には伝はれり。人臣の押字の今の世にのこれる中に、参議藤原左理卿の押字を以て其首となすべし。此人村上、冷泉、円融、花山、一條、五代の朝廷に歴仕せし人なれば、其比ほひより、此事既にありしなるべし。」とあり、発生は中国の画諾とし、日本も中国にならって用い始め10世紀頃より始ると考えている。
「古今要覧稿」には「すゑ判は本名草名と云、漢名を花押とも押字ともいへり、西土にての始未た詳ならすといへとも晋の代の押字あるよしは程史に見え、又戯鴻堂法帖に顧ト之の押字あるときは晋の代には慥かに行はれたることしられたり、池北偶談に見えし諸葛武候の押字といへるは正しく花押の形状ならんともおもはれす、さりなから三国の比に権興せしものにやとは思はるヽなり、我朝にては奈良の朝小野篁等始て作出給ふ也と消息耳底抄に見えたり、奈良の朝とは平城天皇の御宇なるへし、されとも東大寺の文書に良弁僧正の花押あるときははやく其前よりもありしなるへし、又高野山什物承和二年の弘法大師の遺告に押字あり、其尾に国判といふもの見ゆ、五人連署の中二人は正しく草名なり、これ古文書中において草名の所見最古きものなり、新井筑後守曰異朝の押字は天子の画諾と云事より始れりと云なり、此説通雅に見ゆ、凡諸侯より奉る所の議奏に天子自ら諾の字を草書にてしるし賜るを画諾とは云なり」とあり、承和二年(835)を初見とする。
梅花皮(かいらぎ)
梅華皮とも書く。茶碗の高台付近を箆削りした部分の上に掛かった釉薬が、釉を厚く掛け過ぎたり、火の回りが不十分で、焼成不足のために釉が十分熔け切らず、粒状に縮れて固まったものをいう。本来は焼き損ない出来損ないであるが、茶人が見所の一つとして取り上げたもの。井戸茶碗では、腰部や高台脇の梅花皮は約束ごととされる。梅花皮の名は、もとは刀の柄や鞘に用いた鮫皮の文様をいい、硬い粒状凸起のあるエイの一種の梅花皮鮫の皮に漆を塗って研ぎ出したもので梅の花が咲いたように見えることからこの名が付いている。
替茶碗(かえちゃわん)
薄茶の場合、客が茶を飲んでいる間に、次の客に出す茶を点てるための別の茶碗。薄茶点前では、何服も重ねてお茶を点てるところから、二個以上の茶碗を使う事が多い。このときは、正客が一服目を頂いている間に、亭主は次の茶碗で茶を点てて出す。これを替茶碗といい、それに対し始めに点てた茶碗を主茶碗(おもちゃわん)という。次客は正客が飲み終わり、拝見し終わった茶碗をあずかっておき、これを替茶碗と引き換えに亭主に返す。三客以下も同様。
掻合塗(かきあわせぬり)
漆塗の一種。素地に柿渋を下地として塗り、その上に黒・紅殻などの色をつけて半透明や黒の透漆による上塗りを一回だけしたもの。漆下地の代わりに柿渋を下地とするので柿合塗(かきあわせぬり)、渋下地(しぶしたじ)ともいう。欅、栓、栗などのように目(導管の凹んだ部分)のはっきりした材に砥粉等で処理せず目を潰さずに漆を塗ると、目が漆を弾き細かい穴が空いて、木地の杢目がはっきり残るため「目ハジキ塗」ともいう。木地の木目がはっきり残るため素雅な趣があり、傷が目立ちにくいなどの利点もある。
書付(かきつけ)
茶の湯の道具の、品名、作者、銘、伝来、由緒などを紙に書いて添えたり、道具をおさめる箱などに書いたもの。道具を入れる箱の甲や蓋裏などに書かれたものを「箱書付」「箱書(はこがき)」、茶杓を入れる詰筒に書かれたものを「筒書付」「筒書(つつがき)」という。墨書が一般的だが、漆書や、蒔絵もある。書き手は、作者、道具を作らせた人、道具として取り上げた人、所持した人、また所持者の依頼により、著名な茶人や家元宗匠が行う場合も多い。また、紙に書いて貼り付けたものを「貼紙(はりがき)」、作者や伝来などの鑑定、保証の目的によるものを「極書(きわめがき)」、道具の伝来を記したものを「伝来書」、伝来や極めを別に記した書状を「添状(そえじょう)」、作品に関連した手紙を「添文(そえぶみ)」という。茶道具は、その時代と伝来が尊重されるため、書付により道具の評価が決まる事が多い。
柿の蔕(かきのへた)
高麗茶碗の一種。斗々屋の一種といわれる。柿の蔕の名は、茶碗を伏せた形と色あいが柿の蔕のように見えるところからという。腰に段があり、懐は広い、やや厚手で、土味はザングリして手取は軽く、口縁は箆で切り廻しがあり樋口(といくち)になっている。鉄分の多い砂混じりの素地に、薄く釉薬をかけ、釉肌は暗褐色で、高麗茶碗のなかで最も渋く侘びた作ぶりである。
掛物(かけもの)
床に掛けられる書や画。裂や紙で表装され「軸」「幅」ともいう。「南方録」に「掛物ほど第一の道具ハなし」とあるように、茶席で最も重要とされ茶事や茶会の主題というべきもので、道具の取り合せの中心をなす。掛物には墨跡・経切・古筆・懐紙・消息・色紙・詠草・短冊、唐絵、古画、家元の字句、画賛などがある。室町時代の茶の湯では唐絵が多く掛けられたが、珠光が一休禅師から墨跡を印可の証として授かって以来、床の掛物を仏画や唐絵に代わって墨跡を掛けるようになり、武野紹鴎は藤原定家の「小倉草子」を茶席に掛け、これが茶席に古筆を掛ける嚆矢となった。江戸時代に入ると、古筆切や色紙、懐紙、宗旦時代から茶人の画賛も作られるようになった。
籠花入(かごはないれ)
竹、藤、藤蔓、通草蔓、木の皮などを編んだ花入の総称。唐物、和物に分類され、置花入、掛花入、釣花入がある。唐物は、室町時代から江戸時代初頭にかけて招来された明代の籠を唐物籠と呼びならわし、「霊昭女」(れいしょうにょ)、「牡丹籠」、織部伝来「手付籠」のほか、「南京玉入籠」、「臑当籠」、「芭蕉籠」、「舟形藤釣」、津田宗達所持「藤組四方耳付籠」、西本願寺伝来「木耳付籠」、紹鴎所持「瓢籠」「大黒袋籠」など、本来の花器のほか雑器の見立物もある。和物は、利休時代以降多く用いられるようになり、利休好「鉈鞘籠」「桂川籠」、宗旦好「虫籠」「栗籠」、宗徧好「梅津川籠」、宗全好「宗全籠」「蝉籠」「振々籠」「掛置籠」などがある。江戸時代の中期以降好みの籠が数多くなり、表千家の碌々斎好「宮島籠」「大津籠」「飛騨籠」、惺斎好「千鳥籠」「江ノ島サザエ籠」「南紀檜手付籠」、裏千家の竺叟好「唐人笠籠」、又玄斎好「立鼓籠」、不見斎好「若狭籠」、認得斎好「蛇の目筒籠」、不昧好「竹の節籠」、玄々斎好「鶴首籠」「末広籠」、圓能斎好「藤組芋頭」「時雨籠」「花摘籠」、淡々斎好「泉声籠」「宝珠籠」「繭籠」、鵬雲斎好「烏帽子籠」「寿籠」などがある。
初め、籠花入は炉・風炉の別なく使われおり、籠花入が風炉の季節に限っていられるようになったのは明治時代初頭前後ではないかと云う。ただ、唐物籠に限っては炉の時季にも用いられる。籠を花入に用いることについては、遠藤元閑の元禄7年(1694)刊「当流茶之湯流伝集」に「義政公、唐絵の花籠を見て始めて籠花入を用いるとや」とあり、茶席で籠花入が用いられたのは「天王寺屋会記」天文18年(1549)正月9日の徳安の茶会に「なたのさや」とあるのが初出と云う。また、「茶話指月集」に「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」とあるように、籠の花入には薄板は用いない。
画賛(がさん)
絵の余白に書き添えた文章または詩歌。賛。賛は、本来人物の事跡を述べ賞揚する中国文学の一形式であったが、禅宗で「真賛」と称して師が弟子に対して自賛の肖像画(頂相)を与えることで相伝の証とする習慣が宋代に生まれ、鎌倉時代以降、禅宗とともに導入され、賛を絵画にいれる習慣が一般化した。普通は、絵の筆者以外の人物が賛を付けるが、画も賛も同一人物が記した物は「自画賛」という。
菓子(かし)
漢語で「果物」の意。日本でも近世頃までは菓子を果物の意味として使っていたが、江戸時代には果物を「水菓子」と呼ぶようになる。「延喜式」の諸国貢進菓子には、楊梅子(やまもも)・平栗子・甘栗・椎子(しいの実)・梨子・覆盆子(いちご)などと甘葛煎(あまずらせん)が挙げられている。また中国よりもち米、うるち米、麦、大豆、小豆などの粉に甘味料のあまかずら煎や塩を加えて練り、丁子(ちょうじ)末や肉桂(にっけい)末などを入れ、餅とし、あるい餅を胡麻油で揚げた菓子が伝来し「唐菓子(からくだもの)」と呼ばれた。茶会の菓子としては、「天王寺屋会記」の天正元年(1573)11月22日織田信長の茶会では「御菓子九種美濃柿、こくししいたけ、花すり、むき栗、キンカン、ざくろ、きんとん、むすびこぶ、いりかや」。「利休百会記」では、菓子の記述のある88会中、「ふ」72(ふの焼68、ふ3、ふのけしあえ1)、「栗」55(焼栗29、栗25、打栗1)、「椎葺」15、「いりかや」15、「こふ」7、「やき餅」「とうふ湯波」各5などが見え、一種の場合はほとんどなく、三・四種類が出されている。「ふの焼」は小麦粉を水でねり焼鍋にのばし、焼けた片面に味噌をぬって巻いたものといわれる。寛永期の茶会記には「ヨモギ餅、アン入テ」「栗粉餅、砂糖カカラズ」などと見え,アンコ餅・キナコ餅・ウズラヤキ・サトウチマキなど菓子として出てくる。現在、菓子は大別して、主菓子(おもがし)と干菓子(ひがし)に分かれ、濃茶には主菓子、薄茶には干菓子が用いられるが、近年薄茶のみの場合に主菓子・干菓子の両方を出す事も多い。主菓子と干菓子の区別がされるようになるのは元禄頃とされる。
菓子器(かしき)
菓子を盛りつける器の総称。菓子器は、主菓子用と干菓子用に大別される。主菓子は、懐石の一部として、懐石同様一人一器を原則とし、最も正式な主菓子器としては、菓子椀を用い、一椀ごとに杉楊枝と黒文字を箸一膳として添える。しかし現在ではあまり用いられず、一般的には縁高を用いる。この菓子椀と縁高の扱いを簡略したものに銘々盆と皿があり、一客一器に菓子を盛り、楊枝か黒文字を一本ずつ添える。また、食籠は客数の菓子を盛り入れて、菓子箸または黒文字箸を蓋上に一膳置いて取り回す。更に略して、盛込鉢や盛皿があり、菓子と箸は食籠同様に扱う。干菓子用には塗物や木地物が多く使われる。「松屋会記」に見ると、弘治2年(1556)「食籠ニ饅頭」、永禄2年(1559)「盆ニ菓子キンナン・アマノリ・クモタコ」、永禄11年(1568)「かごにアマノリ一種」、天正11年(1583)「高坏盆ニヤウヒ三、イリカヤ」、天正14年(1586)「吉野大鉢ニ牛房一種」「八寸カンナカケ、大カマホコ、カヽセンヘン、ツリ」と、食籠、盆、籠、高坏盆、八寸などが使われるようになっている。会記では「器」とし、料理の献立の一部として一段下げて記される。
菓子椀(かしわん)
朱塗縁金のやや低目の蓋付椀。最も正式な菓子器とされる。一椀ごとに杉楊枝と黒文字を箸一膳として添える。「正法眼藏」の「看經」に「堂裡僧を一日に幾僧と請じて、斎前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。」と菓子を椀に盛ることが見える。元禄4年(1691)刊「茶道要録」の「利休形諸道具之代付」には載っておらず、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「菓子椀朱黒ツバメ利休形、烹物ワンにかりもちゆ」、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」にも載らない。畑銀鶏(1790-1870)撰「浪花襍誌街迺噂」に「江戸通用の吸物椀に同く、大ぶりにて深みあり、色は内外あらひ朱にてぬる、料理種はくさぐさなれども、先は切身、かまぼこ、ゑび、椎茸、松茸、麩、ゆば、菜、せりの類也、江戸の種と同じ」とあり、料理椀としても用いられた。
数茶碗(かずちゃわん)
大寄せ茶会などで客が多人数のとき、手前でつかう主茶碗と替茶碗だけでは手間をとるため、水屋で点て出しをすることがあるが、このとき茶を点て出しする際に使う数多くの茶碗。揃いの茶碗を使う事が多い。また茶人の好みで数を限定して焼かせた茶碗を数の内茶碗、数茶碗ともいう。
風定花猶落(かぜさだまりてはななおおつ)
宋の王安石(1021-1086)の集句詩に「風定花猶落、鳥啼山更幽」(風定まりて花なお落つ、鳥鳴きて山さらに幽か)とある。宋の沈括(しんかつ:1031-1095)の「夢溪筆談」(むけいひつだん)に「古人詩有、風定花猶落之句、以謂無人能對。王荊公以對、鳥鳴山更幽。鳥鳴山更幽、本宋王籍詩、元對、蝉噪林逾靜、鳥鳴山更幽、上下句只是一意、風定花猶落、鳥鳴山更幽、則上句乃靜中有動、下句動中有靜。荊公始為集句詩、多者至百韻、皆集合前人之句、語意對偶,往往親切、過於本詩。后人稍稍有效而為者。」(古人の詩に、風定まりて花なお落つ、の句あり、以って能く対する人なしと謂う。王荊公以って、鳥鳴きて山さらに幽か、と対す。鳥鳴きて山さらに幽か、もと宋の王籍の詩、もと、蝉噪ぎて林いよいよ静か、鳥鳴きて山さらに幽か、の対にして、上下句だだこれ一意。風定まりて花なお落ち、鳥鳴きて山さらに幽か、すなわち上句すなわち静中に動あり、下句、動中に静あり。荊公、始めて集句詩を為し、多なるものは百韻に至る、みな前人の句を集合し、語意を対偶するに、往往にして親切、本詩に過ぐる。后人稍稍效いて為す者あり。)とある。集句詩(しゅうくし)/古人の詩を寄せ集めて、新しい一編の作品に作り上げたもの。對偶(たいぐう)/対句。稍稍(しょうしょう)/すこし。やや。少々。「北澗居簡禪師語録」に「上堂。舉玄沙問小塘長老。昨日一場鬧。向甚麼處去。小塘提起袈裟角。玄沙云。料掉沒交渉。師拈云。二大老。只知今日明日。不覺前秋後秋。北澗則不然。今日靜悄悄。昨日鬧啾啾。風定花猶落。鳥啼山更幽。」(上堂。挙す、玄沙、小塘長老に問う、昨日一場の鬧(さわ)ぎ、甚麼の処に向ってか去るや。小塘袈裟角を提起す。玄沙云う、料掉没交渉。師、拈じて云く、二大老、ただ今日明日を知り、前秋後秋を覚えず。北澗すなわち然らず。今日、静悄悄。昨日、鬧啾啾。風定まりて花なお落つ、鳥鳴きて山さらに幽か。)とある。
吟風一様松(かぜにぎんずいちようのまつ)
「寒山詩」に「可笑寒山道、而無車馬蹤。聯溪難記曲、疊嶂不知重。泣露千般草、吟風一樣松。此時迷徑處、形問影何從。」(笑うべし寒山の道、しかも車馬の蹤なし。連渓曲を記し難く、畳嶂重を知らず。露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松。この時迷径に迷う処、形は影に問う何れ従りかせんと。)とある。聯谿(れんけい)/連なった谷。畳嶂(ちょうしょう)/重なった高く険しい山峰。
風吹不動天邊月(かぜふけどもどうぜずてんぺんのつき)
「普燈録」温州龍翔竹庵士珪禪師章に「上堂曰。萬年一念。一念萬年。和衣泥裏〓(車昆)。洗脚上床眠。歴劫來事。只在如今。大海波濤湧。小人方寸深。拈起拄杖曰。汝等諸人。未得箇入頭。須得箇入頭。既得箇入頭。須有出身一路始得。大衆。且作麼生是出身一路。良久。曰。雪壓難摧澗底松。風吹不動天邊月。」(上堂して曰く、万年一念。一念万年。和衣泥裏に転がり、脚を洗い上床し眠る。歴劫来の事は、只だ如今に在り。大海波濤湧き、小人方寸深し。拄杖を拈起し曰く、汝等諸人、未だ箇入頭を得ず。須らく箇入頭を得るべし。既に箇入頭を得らば、須らく出身一路の始得あるべし。大衆、且に作麼生か是れ出身一路す。良久して、曰く、雪圧せども摧け難し澗底の松。風吹けども動ぜず天辺の月。)とある。「禅林句集」七言対には「風吹不動天邊月。雪壓難摧澗底松。」とあり、注に「普燈十六ノ十二葉。會元廿共句上下。」とある。風が吹いても、天上に輝く月は少しも動じることはない。
片桐石州(かたぎりせきしゅう)
江戸時代の大名茶人。石州流の祖。慶長10年(1605)-延宝元年(1673)。初名は長三郎、のち貞俊、更に貞昌(さだまさ)と改める。号は宗関・能改庵・浮瓢軒等。大和小泉藩初代藩主片桐貞隆と今井宗薫の娘との子として摂津茨木で生まれる。賤ヶ岳七本槍の一人として有名な片桐且元の甥に当たる。寛永元年(1624)従五位下石見守に叙任。寛永4年(1627)父の死去により家督を継いで藩主となる。茶は、道安の流れを汲む桑山宗仙に学んだといわれている。千宗旦・小堀遠州・松花堂昭乗とも交わり、茶の宗匠としてしだいにその名が広がっていった。四代将軍徳川家綱のために「茶道軌範」を作り、寛文5年(1665)家綱の茶湯指南となる。
片口(かたくち)
器物の形状の一。液体を注ぐために口縁部の一方に注ぎ口がついている容器。椀・杯・鉢形の片口は、本来は酒・醤油・油などの液体を、口の小さい容器に移すさいに使う台所道具。見立てで、懐石で香物鉢などに用いたり、小振りのものは茶碗にも用いる。一般に瀬戸系のものは注口の上に縁がなく、唐津系のものには縁がある。注口を欠いたものを「放れ駒」、注口を欠きその破片で共繕いしたものを「繋ぎ駒」ということがある。「南方録」に「鳶口の茶碗に、珠光茶碗のごとく見事なるものあり。片口とも、鳶口とも云なり。休公の所持は、近衛殿、筧と名づけ玉ふ秘蔵なり。台子にも休台にも出されし無疵物なり。何時も口を上座になすべし。手前の時、口を我右の方にしてさばく。こぼしに水をうつす時も、口よりこぼすべし。茶巾にてふくには、先口を下よりあしらい、さて口の右のきはに茶巾を打かけてまはし、口の左の方にてふきをさめ、この時、口を我左にして前にをき、茶入てさて立るとき、口の下に左の手をそへ、右の方へ少傾けてふり立べし。左なければ、口より茶あまりて、あやまちすることあり。客前へ出すに、口は客の右にして出す。客は左手にのせ、右手を口の下にそとそへてのむなり。」とある。また、片口壺を水指に用いたものもあり、「源流茶話」に「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候」とある。
肩衝(かたつき)
器物の形状の一。主に茶入の形態の一種。肩の部分が角ばっている、すなわち肩が衝(つ)いているからの称で、その形態には「一文字」「怒り肩」「撫肩」などがあり、大きいものを「大肩衝」、小さいものを「小肩衝」という。茶入のほかに釜に「肩衝釜」と称されるものがあり、肩の上部が平らになり、角が衝き出て、すぐ下にさがる形になっている。
堅手(かたで)
高麗茶碗の一種。堅手の名は、素地や釉が堅いところからという。李朝初期から中期にかけて焼かれた。殆どが灰白色の半磁器質の素地に、釉は白がかった淡青色を総掛けしてある。「古堅手(こかたで)」「雨漏(あまもり)堅手」「鉢の子」「金海(きんかい)堅手」などがある。「古堅手」古渡りの堅手で、素地はざんぐりとして手取りは軽く陶質の感じ、釉調はうるおいがあり荒い貫入があり、失透ぎみで粉白に見え、釉はたいてい高台裏までかかり、作風は軽快で、轆轤目が立ち、高台は竹節。「雨漏堅手」は、やや焼上りが柔らかいためか、白い釉膚に雨漏りのしみのような景が生じた茶碗。「鉢の子」は、袖の子ともいい禅宗僧が托鉢に用いる鉄鉢に似た形から来ていて、碗形で、口はやや抱え、高台際は切り回しで竹節が多く、白地に赤みの窯変を呈したものが多い。「金海堅手」は、釉肌に針穴くらいの小さな穴が点々とあり、その周りが薄桃色に赤みざしたもの。
鉄盥(かなだらい)
建水の一。口が広く浅くて背の低い盥状の建水。平建水ともいう。七種建水の一。
金森宗和(かなもりそうわ)
江戸初期の茶人。金森重近。天正12年(1584)-明歴2年(1656)。飛騨高山城主金森可重の長男として生れる。宗和流の祖。祖父の長近は千利休門下の茶人、父の可重は道安の弟子で、飛騨に居る時に父可重に茶を学ぶ。慶長19年(1614)父から勘当され、母とともに京都に移り住み、大徳寺の紹印伝双に参禅して剃髪、宗和と号した。勘当の理由は諸説あり、父の意に反して豊臣方に加担し大阪冬の陣への従軍を拒んだからとも、何らかの政治的配慮があったからともいわれる。近衛信尋(応山)、一条昭良(恵観)、鳳林承章、小堀遠州、片桐石州等と交友を深め、やがて茶人として名を成す。古田織部や小堀遠州の作風を取り入れながらも、その茶風は上品・繊細で、公家社会を中心に広く受け入れられ、千宗旦の「乞食宗旦」に対し「姫宗和」と呼ばれた。その系譜は宗和流として今日まで続いている。また、京焼の祖といわれる野々村仁清を指導したことでも知られる。また、大工・高橋喜左衛門と塗師・成田三右衛門らに命じて、飛騨春慶塗を生み出したともされている。
金谷五良三郎(かなやごろうさぶろう)
江戸初期よりの京都の金工師。「金屋」を称していたが、明治になり9代目から「金谷」と改める。当代は14代。
明治27年(1894)刊「工藝鏡」に「金谷家の祖先は豊臣氏の遺臣安藤某の子にして通称を五郎三郎といひ法号を道円といふ。寛永中京師に来りて銅器鋳造に従事せしとぞ。銅器に色付を工夫せし人にて世人これを五郎三色といふ。これより代々五郎三郎の通称を以て其業を世襲せしといふ。九代五郎三郎は金谷家中の名匠にして専ら意を鋳型彫鏤銅色の三事に用ひ頗る精巧を極めけりとなん。内外博覧会へ出品して賞牌を受けしもの数十個の多きにいたれり。明治廿二年九月二日没す。年五十四。本国寺塔頭多聞院に葬る。」とある。
蟹蓋置(かにふたおき)
七種蓋置の一。蟹の形をかたどった蓋置。文鎮や筆架などの文房具を見立てたもの。蟹の頭のほうが正面になり、これを杓筋にして用いる。名水点の初飾で、この蓋置を水指の蓋上に飾り、水指の水が名水であることを客に知らせることもある。炉の場合は、風炉の場合は裏返して用いる。足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐金の蟹を景として配し、その一つを紹鴎が蓋置に用いたのがその始まりと伝えられ、「雲集蔵帳」に「大名物蟹蓋置東山御物紹鴎利休小堀土屋酒井雅楽頭」とある。
狩野永真(かのうえいしん)
江戸前期の狩野総本家八代目の絵師。狩野永真安信。慶長18年(1613)-貞享2年(1685)。狩野永徳の孫。狩野孝信の第三子。長兄に探幽、次兄に尚信がいる。幼名を雄丸、通称を源四郎・右京進・永眞(法眼永真)。・牧心斎、「牧心斎永真」(扶桑名公画譜)などと号した。兄の探幽と尚信とが江戸に移り京都の狩野本家の跡がなかったので宗家をついだが、自らもやがて江戸に移って幕府の奥絵師となり、中橋に居を構えて中橋狩野の祖となる。作品に「百人一首歌仙絵」などがある。安信の門人には英一蝶などがいる。
蕪無(かぶらなし)
花入の形状の一。青磁または古銅花入の形をいう。尊形の胴の張った部分を蕪というが、これのない形のものを指す。「山上宗二記」に「一蕪無青磁茶碗の手、本は引拙、其の次、紹鴎、名人へ代々渡り、天下一の花入也。関白様一蕪無本は京の新在家池上如慶所持。花桐の卓に居わる。惣見院殿御代にて滅す。一蕪無本は大内殿内相良遠州所持。其の次、薩摩屋宗忻所持。薄板に居わる。右三つ花入名物也。此の外、蕪無の花入十計在り。少々ぬるきものにて、数寄に入らざる物也。」、「分類草人木」に「青磁の筒、蕪なしの様なる結構なる花瓶には、さびたる花を入るるべし。」とある。
釜(かま)
湯を沸かす鋳鉄製の道具。茶事・茶会を催すことを「釜を懸ける」「懸釜」と言い習わす。茶湯釜は大別して「芦屋」「天命」「京作」の3種に分類される。茶湯釜の歴史は鎌倉時代にさかのぼるともいわれ、室町時代には、筑前(福岡県)の「芦屋釜」と佐野(栃木県)の「天命釜」が茶湯釜の名品を作り出し、その後利休の時代に京都で盛んに茶湯釜が制作され、西村道仁、辻与次郎などの釜師が現れ天下一の称号を受けた。炉用、風炉用に分かれ、ともに形や地紋は種類が多い。「蓋」には、掬蓋・一文字蓋・盛蓋・恵明蓋・掛子蓋・茫蓋など、「口」には、甑口・姥口・矢筈口・鮟鱇口・姥口・繰口・十王口・立口などがある。釜を持つ際に環を通す部分を「鐶付(かんつき)」、口造りから環付に至るまでを「肩」、釜の底と胴の継ぎ目にあたる部分を「羽」、肩から羽までを「胴」、羽より下を「底」と呼ぶ。などの形状によりさまざまの形がある。肌には、荒肌、砂肌、絹肌、鯰肌(なまずはだ)、霙膚(みぞれはだ)、霰肌(あられはだ)、糸目肌、柚肌、刷毛目などがあり、また地紋には型押しと箆の二手があり、文様、絵画、文字などがある。
釜敷(かましき)
火から釜を下ろしたときに、釜の下に敷くもの。釜置(かまおき)。紙、藤、籐、竹、糸組、蒲、竹皮を編んだもの、竹の節、木のものなどがある。白の美濃紙一帖(48枚)を四つ折りにして用いる紙釜敷は、利休が懐紙を用いたのが始まりで、真の位の釜敷とされ、席中には炭斗に入れず懷中して出る。のちに奉書・檀紙などや箔押など好まれるようになる。「千家茶事不白斎聞書」に「一釜置紙、柳川と小菊を用。竹の節釜置は宗旦好也、是は琉球王より宗旦へ花入を頼越候時、右花入を切て被遣、残りの竹に而釜置に成、是より釜置初る。此釜置宗守へ遣し候由也。右花入の礼として、琉球より青貝の香合へ伽羅を入来る。此香合今に有。桐板の釜置、利休好勝手物也、木にて四角に指候釜居、利休形水遣道具なり。ふし組物釜置、穴大なるは利休、同釜置、穴小サキは紹鴎形也。」とある。
神谷宗湛(かみやそうたん)
天文20年(1551)-寛永12年(1635)。博多の豪商神屋家の6代目。通称を善四郎・字は貞清・法名は惟清宗湛居士・宗旦・宗丹。茶人。5代目紹策の子。神屋家は対明勘合貿易や曾祖父寿貞の発見した石見銀山などにより富を積む。永禄12年(1569)大友勢と毛利勢の戦火を避け博多津から肥前唐津に移る。天正10年(1582)島井宗叱と共に上洛、織田信長に謁見し、本能寺の変にも遭遇し、書院の床に掛けてあった玉澗(ぎょくかん)の遠浦帰帆(えんぽきはん)図を引き外して逃れたと伝えられる。天正14年(1586)年秀吉の招きで上洛し大徳寺で得度し宗湛と号す。翌15年正月、大坂城で開かれた大茶会で、今井宗及の紹介で千利休に会い、秀吉からは「筑紫ノ坊主」と呼ばれ大歓待をうけ、同年の九州征伐に際しては秀吉に随い島井宗室らとともに博多復興を命ぜられる。文禄元年(1592)からの朝鮮出兵のときは兵糧米調達を命ぜられ秀吉に協力した。秀吉が死に、天下の商人としての時代は終わり、慶長8年(1603)徳川家康の将軍宣下に際しては黒田如水を介して貢物を贈っている。黒田長政の入封に伴い福岡藩の御用商人となる。寛永元年(1624)二代福岡藩主黒田忠之に、かつて秀吉に所望され「日本の半分とならば」と断った秘蔵の茶入「博多文琳」を黄金千両、知行五百石と引き替えに召し上げられる。宗湛は黄金と知行を固辞したという。「宗湛日記」3巻がある。
亀井味樂(かめいみらく)
高取焼の窯元。福岡市西新皿山。享保3年(1718)5代藩主黒田宣政の命に依り小石原村より招かれて麁原村に窯を開いた西皿山の陶工の一。
甕蓋(かめのふた)
南蛮物の一。平たい形で、口が広く浅く、東南アジアで甕の蓋として用いられたものを、建水、灰器、水指の蓋などに見立てたもの。「茶道筌蹄」に「甕蓋南蛮のツボの蓋なり」とある。瓶蓋。
唐絵(からえ)
中国から伝来した絵画、あるいは日本人の手になる中国風の絵画。元来は舶載された中国絵画の呼称だったが、平安時代中期に日本の風物を描く「大和絵(倭絵)」が現れ、旧来の仏画を含む中国風の風物などを中国風の画法で描いたものを「唐絵」と呼ぶようになり、室町時代には主として中国伝来の水墨画を中心とする宋元画が「唐絵」と呼ばれた。狩野永納の元禄6年(1693)刊「本朝画史」に「狩野土佐氏是倭画之専門也、雪舟子是漢画之祖筆、狩野家是漢而兼倭者也」とあり、江戸時代では日本人の手になる中国風の絵画に対し「漢画」の呼称が一般的になる。谷文晁の文化8年(1811)「写山楼無声詩話」に「唐画和画といふこと、今人誤て土佐狩野二派を以て和画と称し、其他を唐画浮世絵なんといふものあり、是不然なり、和画の称すてに久し、弘仁姓氏録云、雄略天皇御時、卒四部集帰化、男龍一名辰貴、善画工、五世孫勤大壹恵尊亦工絵、天智天皇御世、賜姓倭画師」「また唐絵といふは異邦のこと絵たるをいふなるへし、本邦のこと絵たるをは大和絵といふなるへし」とある。
唐銅(からかね)
青銅の古称。材料は銅と錫の合金が大半であり、それ以外に鉛、ニッケル、亜鉛など使用されている。現在の青銅といっているものは錫、銅、鉛の合金で、一般的な配合は、銅に錫を5-10%、亜鉛を0-4%配合。その配合割合により唐銅(銅・錫・鉛・亜鉛で赤銅色)、朧銀(銅・鉛・亜鉛・銀で青白い黒色)、黄銅(銅・亜鉛・鉛で黄色)、赤銅(銅・鉛・亜鉛・銀・金・砒素で黒色)などがある。「和漢三才圖曾」には「唐金加良加禰按唐金初自中華來、其器色似鐡而比鐡甚濃、此銅色稍黒、未知其名、俗呼爲唐金乎、今本邦專制之、造法銅一斤鉛五分之一、共鍛練之。」とある。
唐津焼(からつやき)
佐賀県西部から長崎県一帯にかけて焼かれた陶器。起源については一般的に室町時代末から桃山時代にかけて岸岳(きしだけ)城を居城とした松浦党首の波多氏のもと雑陶を中心に焼かれたのに始まり文禄3年(1594)波多氏の改易にともなって廃絶したといわれる。現在の唐津焼は、文禄・慶長の役(1592-93、1597-98)以降、豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり連れ帰った陶工たちによるものといわれ、蹴轆轤(けろくろ)や割竹窯とも言われる唐津独特の連房式登り窯という新しい技術により、岸岳陶工や新たに渡来した朝鮮陶工たちによって操業されたと考えられている。初期の唐津焼は李朝の雑器と全く同一とみられるものが多い。土味と素朴な絵、簡素な形、渋い色調から「一井戸、二楽、三唐津」と呼ばれ侘茶碗とし愛好された。 釉薬(ゆうやく)は、木灰が基礎となる「土灰釉(どばいゆう)」が主で、絵唐津などに使われている。また、斑唐津や朝鮮唐津には「藁灰釉(わらばいゆう)」が使われ、藁灰の特性である白濁作用で白く濁った焼きものになる。その他「鉄釉」や「灰釉」などが使われる。胎土(たいど)は、山から採った土をほとんどそのままの状態で使い生地が荒いところから「砂目」といわれるものが主で「土見せ」と呼ばれ、高台周辺に釉薬をかけず生地の土を見せたものが多い。
唐津焼は、主として釉薬や装飾技法の違いから次のように分類してきた。「絵唐津」、「朝鮮唐津」、「斑唐津」、「粉引唐津」、「三島唐津」、「刷毛目唐津」、「奥高麗」、「瀬戸唐津」、「献上唐津」、木灰釉で酸化焼成により淡黄渇色に発色した「黄唐津(きからつ)」、木灰釉で還元で焼かれた為に青く発色した「青唐津(あおからつ)」、鉄分を多く含んだ木灰釉で、原料の成分により黒、飴、柿色など様々な発色をした「黒唐津(くろからつ)」、褐色の陶土に化粧土を刷毛で塗り、櫛目を使って文様を表した後に、長石釉や木灰釉を掛け焼成した「櫛目唐津(くしめからつ)」、器面にへら等で文様を彫り付け釉薬をかけた「彫唐津(ほりからつ)」、黒釉の上に長石釉を二重掛けし焼成し、鉄釉と長石釉が溶け合い、蛇肌になる「蛇蝎唐津(じゃかつからつ)」などがある。
唐物(からもの)
中国およびその他の外国から輸入された品物の総称。舶来品。とうぶつ。とうもつ。「唐物」の語は、延喜3年(903)8月1日の太政官符に「應禁遏諸使越關私買唐物」とみえ、また朝廷から大宰府に派遣され唐物を検査する役を唐物使(からものつかい)と称した。唐朝(618-907)が滅び宋朝(960-1279)になってからも「唐物」と呼び、下って江戸から明治に至るまで中国渡りの品物を「唐物」と総称し、やがて中国以外の海外のものを含む語意が加えられていった。茶入においては、「古今名物類聚」に「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。」とあり、加藤四郎左衛門が唐から持ち帰った土と薬で焼いたものを唐物という。
唐物点(からものだて)
茶の湯の点前の形式の一。伝授物の一。唐物茶入を使用する時の点前。象牙茶杓または真の茶杓を用いる。「槐記」に「唐物にて盆點にする物は、文琳、丸壷、肩衝、小壷、此四ッのみ也。其外の唐物は、盆に不載、唐物點にする也。」、「茶道筌蹄」に「茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾眞臺子右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、「茶式花月集」に「一傳授之分茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾」とある。
訶梨勒(かりろく)
インド原産のシクンシ科・ミロバランという植物。梵語で「Haritaki」。成熟果実を乾燥したものを訶子、核を取り除いたものを訶子肉という。訶子はタンニンやケブリン酸を含み、収斂・駆風・咳止め・声がれ・眼病・止潟薬として古くから知られ、仏教の原始経典である「撓繹「含經」に「世尊問曰。由何命終。梵志復手捉撃之、白世尊言。此衆病集湊、百節酸疼故致命終。世尊告曰。當以何方治之。鹿頭梵志白佛言。當取呵梨勒果、并取蜜和之、然後服之、此病得愈。」とある。日本には鑑真和尚(687-763)が招来したとされ、天平勝宝8年(756)聖武天皇崩御の77忌に孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏(いわゆる奈良の大仏)に献じた薬物を記した献物帳「種々薬帳」に「呵梨勒一千枚」とある。柱飾りとしての訶梨勒は、西村知備の文化3年(1807)刊「懸物図鏡」に「慈照院(足利義政)のお好みで作らせた物で、霊綿綏(れいしさい)ともいう。訶梨勒は水毒を避け緒病を治す。これを粉末にして酒に入れて飲むと気を鎮める。昔は訶梨勒を糸でつないだだけのものを使っていたが、義正の時から袋の中に納めるようになった。」とあるといい、相阿弥の「御飾書」に「一、かりろくとて柱飾なり」とあり室町期には書院の柱飾りとなっている。訶梨勒が水毒を解くというところから、茶席での柱飾りに用いられるようになったという。訶梨勒は、訶子・竜脳・沈香・白し・薫陸・かっ香・甲香・甘松香・大茴香・丁字・白檀・安息香・茴香など1年の月の数を示す12種類(又は12の倍数、閏年は13種類)の香木などを天貝帳と言う和紙に包んで布袋に納め、紐で吊り下げ、袋は果実の形で果実の実りや生命力を表し、五色の組み紐を使う時は「陰陽五行」を、白は「訶梨勒」の花を、四つの編み目は「四季」を表すという。その前史としては平安朝の頃より端午の節句に、邪気を払い不浄を避けるものとして、種々の香料を入れた美しい玉に、あやめの根を添え造花を飾り五色の糸飾りを長く垂れ下げた薬玉(くすだま)を柱や簾に掛けたり身に付けたことがあるといい、「続日本後紀」、嘉祥2年(849)に「五月五日尓藥玉乎佩天飮酒人波。命長久福在止奈毛聞食須。故是以藥玉賜比。御酒賜波久止宣。日暮乘輿還宮。」とみえるのが初出という。
皮鯨(かわくじら)
絵唐津の一。皮鯨手。鯨手。鯨口。口縁部に鉄釉を筆で一周させたもので、白い膚に黒い鉄釉が鯨の黒い表皮およびその下の白い脂肪層のように見えることから名付けられたとされる。なお、この手法は唐津焼以外にも見られるが通称「口紅」と呼ばれる。
川端近左(かわばたきんさ)
大阪の塗師。初代川端近左文政元年(1818)-明治22年(1889)川端家は代々京都二条高倉上ルで「近江屋」の屋号で備前岡山藩、但馬豊岡藩の御用油商を務めたが、趣味で始めた蒔絵が昂じて、天保年間には漆の仕事もするようになり、「近江屋」の屋号と「佐兵衛」の名より「近左」と号したという。元治元年(1864)の蛤御門の変で火災に遭い、岡倉天心の勧めや三井家の後援もあり慶応2年(1866)長男の滝之助(川端玉章)と共に江戸に移住。
鐶(かん)
釜の上げ下ろしに使われる道具。釜の両端にある鐶付という穴に通して釜を持ち上げる。風炉・炉の別はない。材質は鉄が一般的で、南鐐、砂張などがある。水屋用は釜を傷めないように鉄より柔かい真鍮の輪を使う。利休形ささげ鐶が標準で、これはささげ豆の形に凹凸をもつもので滑りにくくなっている。普通の鐶は、鐶付にかけるとき右は向こうから手前へ、左はこちらから向こうへ動かすが、普通の鐶と合わせ目が逆になっている左鐶もあり、真の鐶である。そのほかにも輪になっていない常張鐶や蜻蛉鐶など特殊なものもある。
看脚下(かんきゃっか)
「碧巌録」第二二則の頌に「象骨巖高人不到。到者須是弄蛇手。稜師備師不奈何。喪身失命有多少。韶陽知。重撥草。南北東西無處討。忽然突出拄杖杖頭。〓(才尢力)對雪峰大張口。大張口兮同閃電。剔起眉毛還不見。如今藏在乳峰前。來者一一看方便。師高聲喝云。看脚下。」(象骨は巌高くして人到らず、到る者はすべからく是れ蛇を弄する手なるべし。稜師、備師、いかんともせず。喪身失命多少かある。韶陽知って、重ねて草を撥う。南北東西討ぬるに処なし。忽然として拄杖頭を突き出し、雪峰に放対して大いに口を張る。大いに口を張るや閃電に同じ、眉毛を剔起るも還た見えず。如今、蔵して乳峰の前に在り、来る者は一一方便するを看よ。師、高声に喝して云く、脚下を看よ。)とある。象骨(ぞうこつ)/福州(福建省)象骨山。「祖庭事苑」に「象骨、即雪峰之別山、以形似而稱。」(象骨、すなわち雪峰の別山、形似るを以って称す。)とある。稜師(りょうし)/中国唐五代の禅僧・長慶慧稜(ちょうけいえりょう:854-932)。備師(びし)/中国唐五代の禅僧・玄沙師備(げんしゃしび:835-908)。韶陽/雲門のこと。雲門大師が韶州雲門山に住するによる。剔起眉毛(てつきびもう)/目を見開くこと。乳峰(にゅうほう)/雪竇山のこと。「五燈會元」の五祖法演禪師章に「三佛侍師於一亭上夜話。及歸燈已滅。師於暗中曰。各人下一轉語。佛鑑曰。彩鳳舞丹霄。佛眼曰。鐵蛇古路。佛果曰。看脚下。師曰。滅吾宗者。乃克勤爾。」(三仏、師に侍し一亭上に夜話す。帰るに及び灯已滅す。師、暗中に曰く、各人一転語を下せと。仏鑑曰く、彩鳳、丹霄に舞う。仏眼曰く、鉄蛇、古路に横たわる。仏果曰く、脚下を看よ。師曰く、吾宗を滅する者は、すなわち克勤のみ。)とあり、圜悟克勤がその師五祖法演に示したところから特に喧伝されるようになる。三佛/五祖法演の弟子で「五祖下三佛」といわれる、佛果克勤、佛鑑慧懃、佛眼清遠の三人。「演門二勤一遠」ともいう。
寒山詩(かんざんし)
浙江省天台山の寒山、拾得(じゅっとく)、豊干(ぶかん)の詩集。「三隠集」ともいう。唐末五代にその一部が知られ、宋代に入ってほぼ現形となる。その詩の流行とともに、三隠の伝説もまたしだいに発展した。「大平広記」五十五や「宋高僧伝」十九、「伝灯録」二十七「天台山国清寺三隠集記」、閭丘胤撰する「寒山詩集序」などがある。今日世間に流布されている「寒山詩」は、寒山の詩三百十一首、拾得の詩七十首と、豊干の詩五首を加えたもの。寒山は天台山の寒巌の幽洞に住んでいたことから、拾得は天台山国清寺の僧の豊干に路で拾われたことにその名は由来する。両人ともに氏姓も郷里も生没年も明らかでない。拾得は国清寺で厨房の下働きをしており、寒山は国清寺に来て拾得から竹筒に入れておいた残飯を貰っていたが、大声で騒いだりするので寺僧が追い払うと、大笑して警句などをはいたりして去ったという。拾得も寺の護伽藍神廟に供えた食物が鳥にあらされるのを見て食物さえ守れないお前に伽藍が守れるかと神像を殴り倒したりする奇行で衆僧を驚かせていた。あるとき台州刺吏・閭丘胤(りょきゅういん)が頭痛に苦しみ、豊干の治療を受けた時に、豊干から「天台山に寒山文殊、拾得晋賢なる賢者あり」と聞き、みずから登山して国清寺に至り、寺の台所でかまどの火に向って大笑している二人を見て礼拝した。寒山・拾得は手をとりあって「豊干がしゃべったな」と笑い叫びながら走り去り寒巌の隙間穴に入ってしまったという。
鐶付(かんつき)
茶湯釜の鐶を通す所。釜の左右の肩にあり、釜を持ち上げるとき、釜鐶(かまかん)を通すもの。鬼面(きめん)、獅子面(ししめん)、尼面(あまつら)、遠山(とおやま)、松笠(まつかさ)、竹節(たけふし)、蜻蛉(とんぼ)、海老(えび)、兎(うさぎ)、七宝、管(くだ)、笛や扇など、動物・植物・虫類など様々な意匠がある。
間道(かんとう)
縞文様のある裂をいい、「縦縞」「横縞」「格子縞」がある。漢島、漢東、漢渡、広東、閑島、邯鄲などの字が当てられる。名物裂の縞織物が、主として中国広東地方で産出された絹織物であったことからこの名称が起こったとされる。「日野間道」のようにインドや中近東などの木綿の入った縞織物もある。「石州三百ケ条」に「昔ハ唐物ニハ古金襴、和物にはかんとう・純子の類を用、利休より布而唐物などに袋をかろく、かんとう・純子のたくひを用、和物なとハ古金襴の類を用いて袋をおもくする也」とあり唐物茶入の袋に間道を用いるのは利休からとある。「山上宗二記」には「紹鴎茄子四方盆に居わる。かんとう(間道)の袋にいる。関白様」「茄子似りとも云い、百貫茄子とも云う。かんとう(間道)の袋」「珠光小茄子かんとう(間道)の袋に入る。」とあり、天下の四茄子のうち三つまでが間道の袋に入っている。
き     

 

木地物(きじもの)
何も塗らない白木のままの器物をいう。清涼感や質素な感覚が喜ばれ、棚・炉縁・水指、建水など種々の茶器に使われる。材料も檜・杉・松・桐などさまざまである。木地物には、板の組み合わせによって作る指物木地、側面の板を円形や楕円形などに曲げて作る曲物木地、轆轤で円形に削って作る挽物木地、ノミや小鉋などで自由な形を刳り出して作る刳物木地などがある。
黄瀬戸(きせと)
安土桃山時代に美濃で焼かれた瀬戸系の陶器。淡黄色の釉(うわぐすり)をかけたもの。黄瀬戸は大別して二つに分けることができる。 ひとつは、釉肌が、ざらっとした手触りの柚子肌で一見油揚げを思わせる色のものを「油揚げ手」と呼び、光沢が鈍く釉薬が素地に浸透しているのが特徴。多くの場合、菊や桜や桐の印花が押されていたり、菖蒲、梅、秋草、大根などの線彫り文様が施されており、この作風の代表的な作品「菖蒲文輪花鉢」にちなんで「あやめ手」とも呼ばれる。胆礬(タンパン/硫酸銅の釉で、緑色になる)、鉄釉の焦げ色のあるものが理想的とされ、とりわけ肉薄のためにタンパンの緑色が裏に抜けたものは「抜けタンパン」と呼ばれて珍重されている。もうひとつが、明るい光沢のある黄釉で文様がないもので、「油揚げ手」に比べると、肉厚で文様のないものが多く、菊型や菊花文の小皿に優れたものが多かったことから「菊皿手」、六角形のぐい呑みが茶人に好まれたことから「ぐい呑み手」などと呼ばれる。この手の釉には細かい貫入(釉に出る網目のようなひび)が入っている。桃山期の黄瀬戸は、当時珍重されていた交趾(ベトナム北部や中国南部の古称)のやきものの影響が大きいと言われている。16世紀後半から17世紀初期(天正期から慶長期初期)にかけて、大萱(現在の可児市)の窯下窯で優れた黄瀬戸が作られていたといわれ、利休好みとされている黄瀬戸の多くはここで焼かれたのではないかと考えられている。
煙管(きせる)
莨盆の中に組み込み、刻みタバコを吸う道具。ふつう竹の管である羅宇(らう)の両端に金属製の雁首(がんくび)・吸口(すいくち)をつけたもの。語源については異説もあるが、カンボジア語で管を意味する「クセル」が、訛ったものとされる。「目ざまし草」に「盆の前に煙管を二本おくは、香箸のかはりなりとぞ。」とあるように、薄茶のとき座布団に続いて、莨盆に煙管を二本添え正客の前に持ち出されるので、正客は邪魔にならぬところに仮置する。吸う場合は、正客は次客にすすめたのち、煙管を取り、莨入から煙草を火皿につめ、火入の火で吸付け、吸い終われば、吸殻を灰吹に落とし、懐紙を出して吸口、雁首を清める。次客も正客のすすめに従いもう一本の煙管に煙草をつめ同様にし、煙管二本を元のように莨盆にのせ、三客、四客へ送るという。「倭訓栞」に「きせる煙管又烟吹をいふは蛮語也といへり。京にきせろ、伊勢にきせりとも云。其初は紙を巻て、たばこをもりて吹ける。次で葭・葦・細竹等をそぎて用ふ。羅山文集にも侘波古ハ草名、採之乾暴、剜其葉、而貼于紙、捲之吹火、吸其烟と見えたり。其端盛烟酒者稱雁頸、其所啣稱吸口。種が島には、えんつうといふ。烟笛なるべし。烟笛も漢稱也。蝦夷島にては、せろんぽといふ。おらんだぎせるは全體数奇屋の物也。」、「らう煙管竹をいふは、もと南天の国の名にして、羅烏とかけり。しゃむに近し、黒班竹を産す。烟管によろし、よて此名を得たりといへり。豊後竹、箱根竹なども此類也。」とある。
北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)
天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が京都北野神社の境内と松原において開催した茶会。天正15年(1587)7月14日九州平定を終え大阪に凱旋した秀吉が、北野天満宮の松原で大茶会を催すことになり、洛中をはじめ畿内一円に高札を立てて参加者を募った。「北野大茶湯記」に「七月廿八日於京都御高札之面」として「定御茶湯の事一、北野の森におひて、十月朔日より十日の間に天気次第、大茶湯御沙汰なさるるに付て、御名物共不残御そろへなされ、執心之者ニ可被拝見ために可被御催候事一、茶湯於執心者、又、若党・町人・百姓以下ニよらず、一釜、一つるべ、一のミ物、茶こがしにても不苦候条、ひつさげ来、仕かくべき事。一、座敷之儀ハ松原にて候条、たたミ二畳、ただし、わび茶ハとぢつけにても、いなはきにても、くるしかるまじき事。一、日本之儀ハ不及申ニ、から国の者までも、数奇心がけ在之者ハ可罷出事付所の儀ハ次第不同たるべき事一、遠国の者まで見セらるべきため、十月朔日まで日限被成御延事。一、如此被仰出候儀者、わび者を不便ニ被思召ての儀ニ候条、此度、不罷出者ハ、於向後こがしをもたて候事、無用との御異見候、不出者の所へ参候者も同前、ぬるものたるべき事。一、わび者においてハ、誰々遠国によらず、御手前にて御茶可被下之旨、被仰出候事。以上」とある。
当日は、北野神社の拝殿内部に3席を設け、中央には黄金の茶室を置き、秀吉が収集した名物茶道具を陳列し、拝殿の周りに特設された4つの茶席では、秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久の4人が茶頭として参会者に茶をふるまった。遠く博多の茶人神谷宗湛をはじめ全国から人が集まり、「多聞院日記」に「茶屋千五六百ト云々」とあるように沿道に茶屋が軒を連ねて並んだ。当初は10日間の予定だった大茶会は、佐々成政の新領国肥後に内乱との報で1日だけで取りやめとなった。
北向道陳(きたむきどうちん)
永正元年(1504)-永祿5年(1562)。本姓は荒木。堺の舳松(へのまつ)に住む茶人で千利休の初期の師匠。北向きの家に住したので北向と称したという。利休がまだ与四郎と名乗っていた頃に武野紹鴎に引き合わせた。本職は医師であろうとされる。八代将軍足利義政の同朋能阿弥の弟子空海から能阿弥流の茶法を授かり、唐物の目利きに優れた。「南方録」に「宗易の物語に、珠光の弟子宗陳、宗悟と云人あり。紹鴎ハ此二人に茶湯稽古修行ありしなり。宗易の師匠ハ紹鴎一人にてハなし。能阿彌の小姓に右京と云し者、壮年の時能阿彌に茶の指南を得たりしが、後ハ世を捨人になりて堺に住居し、空海と申ける。同所に道陳とて隠者あり。常々心安く語りて、茶道を委しく道陳傳授ありしとなり。又、道陳と紹鴎と別而間よかりけれハ、互に茶の吟味ともありしとなり。宗易ハ與四郎とて、十七歳の時より専茶を好み、かの道陳に稽古せらる。道陳の引合にて紹鴎の弟子になられしなり。臺子、書院なとハ大方道陳に聞れしなり。」とあり、「山上宗二記」に「堺北向道陳は、目利。松花・虚堂・きのべ(木辺)肩衝・善好茶碗所持す。」とある。墓は大阪府堺市の妙法寺にある。
吉向焼(きっこうやき)
江戸時代、享和年間(1801-1804)伊予大洲藩出身の戸田治兵衛(通称亀次)が、京に出て楽家九代了入、初代清水六兵衛、仁阿弥道八、浅井周斎などに作陶を学び、大阪十三村に開窯、「十三軒松月」と号し、始め亀次名にちなんで亀田焼と称したのが起こり。のち、11代将軍家斉公の太政大臣宣下の慶事に当たって、大阪城代水野忠邦侯の推挙を得て、鶴と亀の食籠を献上し、亀甲、すなわち吉に向うに因んで「吉向」の窯号を賜り、爾来、吉向姓を名乗る。
作品は交趾風を主とするが染付もあり、陶技にすぐれ、近世屈指の名工とされる。郷里の大洲藩に招かれ、藩公の別邸の在った五郎にて、御用窯を仰せつかる。五郎玉川焼と伝えられる窯である。また大和小泉藩片桐石州候に江戸に招かれ、江戸屋敷で窯を築き、止々簷の号を拝領している。周防岩国藩主吉川候、美作津山藩主松平候、信州須坂藩堀直格候からも招かれて御用窯、いわゆるお庭焼を申しつかる。
別号として十三軒・行阿などがあり、吉向・十三軒・出藍・連珠・紅翠軒などの印銘を用いた。文久元年(1861)江戸で没した。初代治兵衛の江戸の養子が、江戸吉向となり、大坂吉向は亀治によって継がれ、その後五代目のとき二家に分かれ、松月軒吉向と十三軒吉向の二家に分かれた。現在の、東大阪市日下町の十三軒と、枚方市の松月軒とがそれである。なお江戸吉向は、明治に入って廃窯している。
喫茶往来(きっさおうらい)
室町時代初期の茶会及び喫茶の知識を往来(往復書簡)の形式で示した書物。闘茶会とその様子が示され、室町時代初期の茶会の様子を知る上での貴重な資料である。この書は、二組の往復書状からなり、前半は、掃部助(かもんのすけ)氏清から、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)国能に宛てた書状とその返書、後半は、周防守幸村から五十位君源蔵人に宛てた書状とその返書からなっている。玄慧(げんえ)の撰といわれるが確かではない。
「掃部助氏清から弾正少弼国能宛書状」「昨日の茶会光臨無きの条、無念の至り、恐恨少なからず。満座の欝望多端。御故障、何事ぞ。そもそも彼の会所の為体、内の客殿には珠簾を懸け、前の大庭には玉沙を舗く。軒には幕を牽き、窓には帷を垂る。好士漸く来り、会衆既に集まるの後、初め水繊酒三献、次いで索麺、茶一返。然る後に、山海珍物を以て飯を勧め、林園の美菓を以て哺を甘す。其の後座を起ち、席を退き、或いは北窓の築山に対し、松柏の陰に避暑し、或いは南軒の飛泉に臨んで、水風の涼に披襟す。ここに奇殿あり。桟敷二階に崎って、眺望は四方にひらく。これすなわち喫茶の亭、対月の砌なり。左は、思恭の彩色の釈迦、霊山説化の粧巍々たり。右は、牧渓の墨画の観音、普陀示現の蕩々たり。普賢・文殊脇絵を為し、寒山・拾得面貌を為す。前は重陽、後は対月。言わざる丹果の唇吻々たり。瞬無し青蓮の眸妖々たり。
卓には金襴を懸け、胡銅の花瓶を置く。机には錦繍を敷き、鍮石の香匙・火箸を立て、嬋娟たる瓶外の花飛び、呉山の千葉の粧を凝す。芬郁たる炉中の香は、海岸の三銖の煙と誤つ。客位の胡床には豹皮を敷き、主位の竹倚は金沙に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝り、四皓は世を商山の月に遁れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山によって眠る。白鷺は蓼花の下に戯れ、紫鴛は柳絮の上に遊ぶ。皆日域の後素に非ず。悉く以て漢朝の丹青。香台は、並びに衝朱・衝紅の香箱。茶壷は各栂尾・高尾の茶袋。西廂の前には一対の飾棚を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物を構う。中に鑵子を立て湯を練り、廻りに飲物を並べて巾を覆う。会衆列座の後、亭主の息男、茶菓を献じ、梅桃の若冠、建盞を通ぐ。左に湯瓶を提げ、右に茶筅を曳き、上位より末座に至り、茶を献じ次第雑乱せず。茶は重請無しと雖も、数返の礼を敬し、酒は順点を用うと雖も、未だ一滴の飲に及ばず。或いは四種十服の勝負、或いは都鄙善悪の批判、ただに当座の興を催すに非ず。将に又生前の活計、何事か之に如かん。盧同云う、茶少なく湯多ければ、則ち雲脚散ず。茶多く湯少なければ、則ち粥面聚まる云云。誠に以て、興有り感有り。誰か之を翫ばざらんや。而して日景漸く傾き、茶礼将に終わらんとす。則ち茶具を退け、美肴を調え、酒を勧め、盃を飛ばす。三遅に先だって戸を論じ、十分に引きて飲を励ます。酔顔は霜葉の紅の如く、狂粧は風樹の動くに似たり。式て歌い式て舞い、一座の興を増す。又絃し又管し、四方の聴を驚かす。夕陽峯に没し、夜陰窓に移る。堂上には紅蝋の燈を挑げ、簾外に紫麝の薫を飛ばす。そうそうの遊宴申し尽くさず。委曲は併面謁を期し候。恐惶頓首。」
喫茶去(きっさこ)
中国唐末の禅僧・趙州の言葉で「趙州喫茶去」と呼ばれる「趙州録」所載の禅の公案。「師問二新到。上座曾到此間否。云不曾到。師云。喫茶去。又問。那一人曾到此間否。云曾到。師云。喫茶去。院主問。和尚不曾到教伊喫茶去即且置。曾到為什麼教伊喫茶去。師云院主。院主應諾。師云。喫茶去。」(師、二新到に問う、上座、曾て此間に到るや否や。云く、曾て到らず。師云く。喫茶去。又、那の一人に問う、曾て此間に到るや否や。云く、曾て到る。師云く。喫茶去。院主問う。和尚、曾て到らず、彼をして喫茶し去らしむるは且らく置く。曾て到る、什麼としてか彼をして喫茶し去らしむ。師云く、院主よ。院主応諾す。師云く。喫茶去。)。「喫茶去」の「去」は命令形の助辞で、単に意味を強める助字と見て「お茶をおあがり」という意味に解する説と、臨濟録の「且座喫茶とは異なり、「茶を飲んでこい」あるいは「茶を飲みにいけ」で、茶を飲んでから出直してこいと相手を叱咤する語であるとする説とがある。趙州が三者に対し一様に「喫茶去」と言ったのについては色々な解釈がある。道元禅師は「いはゆる此間は、頂〓にあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼處在、祗管道曾到不曾到なり。このゆゑに、先師いはく、誰在畫樓沽酒處、相邀來喫趙州茶(誰か畫樓沽酒の處に在つて、相邀へ來つて趙州の茶を喫せん)。しかあれば、佛祖の家常は喫茶喫飯のみなり。」という。
喫茶養生記(きっさようじょうき)
栄西が著した医学の書。上下2巻。上巻では茶について、その名称(表記)・樹形・効能・茶摘・調製を述べている。養生とは、五蔵を健全に維持することだが、五蔵の好む五味(酸・辛・苦・甘・鹹(かん))のなかで、とくに心臓を強くする苦味が摂取しにくいので、苦味を補給する茶を飲むことが必要と説く。下巻では、飲水病・中風・不食病・瘡病・脚気の5種の疾病をあげ、いずれも桑によって治癒させうると説く。桑粥・桑煎湯・桑木の屑を酒に入れ、桑木を口に含むなどの方法である。このため別に「茶桑経」とも呼ばれる。なお、「吾妻鏡」のいう将軍実朝に献じた書が、ただちに「喫茶養生記」とできるかについては議論がある。
虚堂録(きどうろく)
虚堂和尚語録(きどうおしょうごろく)。南宋末の虚堂智愚(1185-1269)の語録。参学妙源の編。前録七巻に嘉興府興聖禅寺より径山万寿寺に至る十会の上堂と、法語、序跋、真讚、普説、頌古、代別、仏祖讚、偈頌等を収め、続輯三巻に後録を補遺し、咸淳五年(1269)に福州鼓山で刊行したもの。
砧青磁(きぬたせいじ)
中国の青磁の一種。南宋時代(1127-1279)に龍泉窯でつくられた青磁のうち粉青色の上手のものを日本では砧手と呼んだ。素地は灰白色で、釉肌は粉青色を呼ばれる鮮やかな青緑色をなし、厚く掛けられている。わが国では、中国青磁を大別して、南宋時代のものを「砧青磁」、元・明時代のものを「天竜寺青磁」、明末時代のものを「七官青磁」と呼び分けている。砧という名称は、砧形の花入に由来すると思われるが、「山上宗二記」に「一、碪花入青磁也。当世如何。口狭きもの也。拭出しの卓に居わる。松枝隆仙」、「宗湛日記」天正十五年正月十六日朝、松江隆仙会に「きぬた花生は、青磁のいろこくして少ひヾきあり、高七寸、口広一寸九分あり」、「分類草人木」に「一、砧松枝隆仙所持、天下一也。ひびき有とて砧と名付也。」とあり、「槐記」に「享保十二年三月廿九日、参候、青磁の花生、これも拝見して見をぼゆべし、きぬた青磁の至極也、是は大猷院殿より東福門院へ進ぜられ、東福門院より後西院へ進ぜられ、後西院より此御所へ進ぜられし物也、後西院の勅銘にて千声と号す、擣月千声又万声と申す心にやと申上ぐ、左あるべしとの仰也、是に付て陸奥守にある、利休が所持のきぬたの花生は、前の方にて大にひヾきわれありて、それをかすがいにてとじてあり、利休が物ずきとは云ながら、やきものにかすがいを打こと、心得がたきことなり、景気にてもあるべきか、此われのある故に、利休がきぬたと名付けるとなん、響あると云こヽろ也と仰也」とあり、白居易の「聞夜砧」「誰家思思婦秋擣帛、月苦風凄砧杵悲。八月九月正長夜、千聲萬聲無了時。應到天明頭盡白、一聲添得一莖絲。」(誰が家の思婦か秋に帛を擣つ、月苦え風凄く砧杵悲し。八月九月まさに長夜、千声万声了る時なし。まさに天明に到らば頭ことごとく白かるべし、一声添え得たり一茎の糸)から、重文の青磁鳳凰耳花入「千声」の銘が砧に似た形に由来する(国宝の青磁鳳凰耳花入「万声」も同様)とし、また静嘉堂文庫美術館にある青磁鯱耳花入(千利休、伊達家、岩崎家伝来)の「ひびわれ」を砧を打つ「ひびき」にかけて千利休が名付けたともいう。
木守(きまもり)
楽家初代長次郎作の楽茶碗で長次郎七種の一つ。草間直方(1753-1931)の「茶器名物図彙」に「利休、赤黒茶碗数々取寄せ、諸侯弟子中に配分せられしに、此赤碗一つ撰り残る、依て木守と号せられたり」とあり、千利休が長次郎に造らせ七個を選んで六人の門弟達に望みのままに採らせたところ、この一碗が残ったところから、利休はこの茶碗に「木守」と銘うって、ことのほか愛翫したといわれ、利休百会に頻繁に用いられている。木守とは、晩秋の柿の木の枝にただ一つ残された実のこと。 武者小路千家に伝来したが、六代真伯の時に讃岐高松藩松平家に献上された。その後武者小路千家では、家元継承の折には松平家より借用して、その披露を行っている。本歌の「木守」は大正12年(1923)の関東大震災に被災し、現在伝来するのはその破片を入れて新しく焼かれたもの。
鬼面風炉(きめんぶろ)
風炉の一。五徳を使わず直接風炉の口に釜をかける「切合(きりあわせ)」(「切掛(きりかけ)」)で、乳足、鐶付が鬼の顔のものをさす。唐銅または鉄のものがある。中国より渡来した最も古い形とされ、「不審菴伝来利休所持唐銅皆具」等にみられるように、唐銅の鬼面仕附鐶の風炉は真正の風炉とされ「台子」に用いられる。「和漢茶誌」に「又俗有稱鬼風爐者。或銅鐡爲之。其足如乳故茶人呼乳足。從來人人聞得之。自知爲鬼風爐雅名。語其形則固不異也。三足也。」(また俗に鬼風炉と称する者あり。或は銅、或は鉄で之を為す。其の足乳の如し、故に茶人乳足と呼ぶ。従来人々之を聞得て、自ら知る鬼風炉の雅語なることを。其の形を語すは則ち固より異ならざる也。三つ足也。)とある。
義山(ぎやまん)
ガラス製品のこと。ダイヤモンドを意味するオランダ語のDiamant(ディヤマント)に由来し、ガラスの切削にダイヤモンドを使ったため、ガラスをダイヤモンドでカットして細工したものをギヤマン細工と呼び、おもにカット・ガラスを指す名称として使われた。
久以(きゅうい)
利休時代の指物師。「半入」とともに江戸初期を代表する作者で、木地炉縁といえば「久以」と「半入」の沢栗材のものが最上とされる。「久以」の長角の焼印に対して「半入」は丸い焼印を約束としている。「茶湯古事談」に「炉縁の作者は久以と云もの、利休時代の上手にて、今に称し用ゆ、代々同名なり」とある。木地炉縁は、洗い縁と呼ばれるように、本来は使うたびに洗っていたようである。今日では古色を尊び、ほとんど洗うことはない。小間に使われるのが決まりである。
舊年寒苦梅得雨一時開(きゅうねんかんくのうめあめをえていちじにひらく)
白隠禅師と弟子の東嶺禅師による般若心経の註「毒語注心経」にある語。白隠69歳の著。「是無等等咒」の條に「話作兩橛。那一橛著何處。誰道上下四維無等匹。七花八裂。コ雲間古錐幾下妙峯頂。傭他癡聖人。擔雪共填井。」(話(わ)両橛(りょうけつ)と作(な)る。那(な)の一橛(いっけつ)何れの処にか著(つけ)ん。誰か道(い)う上下四維等匹(とうひつ)無しと。七花八裂。徳雲の間古錐幾か妙峯頂を下る。他の癡聖人(ちせいじん)を傭(やとっ)て。雪を擔て共に井を填む)、「舊年寒苦梅。得雨一時開。疎影月移去。暗香風送来。昨是埋雪樹。今復帯花枝。喫困寒多少。可貴百卉魁。」(旧年寒苦の梅、雨を得て一時に開く。疎影(そえい)月を移し去り、暗香(あんこう)風を送り来る。昨は是れ雪に埋む樹、今は復た花を帯る枝。困寒を喫すること多少ぞ、貴ぶべし百卉の魁。)とある。百花魁(ひゃっかのさきがけ)とは、百花に先立って花開く梅を古人が呼んだもの。
京焼(きょうやき)
江戸初期以降、京都で作られた楽焼以外の陶磁器の総称で、江戸初期すでに粟田口,八坂,音羽,清水,御菩薩(みぞろ),修学院,清閑寺,押小路などに窯があり、唐物や古瀬戸、御本(ごほん)、呉器、伊羅保などの写しを作っていたようである。京焼の名が文献に現れるのは博多の茶人、神谷宗湛(かみやそうたん:1551-1635)の「宗湛日記」慶長10年(1605)6月15日宗凡会の条に「肩衝京ヤキ」とあるのが初出とされる。
京焼の存在がおおきくなるのは、京焼の祖といわれる野々村仁清(ののむらにんせい)の御室焼(おむろやき)の出現による。仁清は轆轤の妙による瀟洒な造形と大和絵、狩野派、琳派風などの華麗な色絵賦彩による色絵陶器を焼造した。その作風が粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や、洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯に影響を与え、それまでの「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、数多くの後世「古清水(こきよみず)」と総称される色絵陶器がつくられるようになり、京焼といえば色絵陶器とするイメージが形成された。また、仁清の弟子、尾形乾山は、兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し「乾山焼(けんざんやき)」として広く知られた。その後、19世紀初頭の文化・文政期には、奥田穎川よって磁器が焼造され、青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく。穎川の門下には青木木米、仁阿弥道八、欽古堂亀祐、三文字屋嘉介らがあり、他にも永楽保全、和全の父子や清水六兵衛、三浦竹泉等々の名工を輩出した。
経切(きょうぎれ)
経巻の断簡。元来、巻子本などであった仏教経典の写本を、鑑賞用とするため切断し、掛物や手鑑(でかがみ)などに仕立てたものを指す。
清水六兵衛(きよみずろくべえ)
京焼の陶工、清水家の通名。初代から三代までは「古藤」、四代が明治より「清水(しみず)」の姓を名乗り、五代のとき昭和2年(1927)の即位大典に京都御所で清水焼の御染筆に奉仕し「清水(しみず)」を「清水(きよみず)」に改めた。
「陶器考」に「六兵衛愚斎と号す初海老清に陶を学び、後信楽にても陶を習ふ、六の字あるものヽ内に信楽出来あり、六兵衛は土学に委し、信楽の土最よきゆへ常に是を用ゆ、天竜寺の桂州印をさづく、夫より印を用ゆ、千玄室よりも印をさづくとなん」とあり、初代六兵衛(1738-1799)は、摂津国島上郡(大阪府高槻)に古藤家に農業を営む父六左衛門の子として生まれる。幼名栗太郎。愚斎と号す。12-13才ごろ京へ出て、五条坂の海老屋清兵衛(海老清)に陶技を学んだほか、信楽ほかへも足を運び、明和8年(1771)五条坂建仁寺町に開窯し、六兵衛と改める。その技は茶器、置物、文房具に及び高く評価され、妙法院宮の御庭焼を勤めて、六目印を拝領している。
二代六兵衛(1790-1860)静斎と号す。初代六兵衛が没したとき、幼少のため一時休業するが、文化8年(1811)創業する。
三代六兵衛(1820-1883)二代六兵衛の次男。幼名は栗太郎、号は祥雲。画は小田海僊に学ぶ。天保9年(1838)三代六兵衛を襲名。染付・青磁・赤絵等の作品が多く、作風は豪快の中に瓢逸性もある。第4回京都博覧会銅牌、第1回内国勧業博覧会鳳紋賞銀牌、シドニー万国博覧会銅牌、アムステルダム万国博覧会銀牌。
金海(きんかい)
高麗茶碗の一種。金海の名は、韓国慶尚南道金海で焼かれ、時に金海、金の文字が彫られているものがあることから。素地は磁器質の堅手の質、作行は薄手で、口縁は桃形が多い。釉は乳白の土見ずの総釉である。胴には「猫掻(ねこがき)」と呼ばれる猫の爪で引っ掻いたような短い櫛目状の刻線があり、高台は切高台。赤みの御本(紅梅が散ったような淡い赤み)が鹿の子に出ているものもある。金海堅手の一種。桃山より江戸期にかけ日本から朝鮮に御手本(切形)を送って焼かせた御本茶碗を「御本金海」といい、御所丸よりは時代が下り江戸初期以降のものと考えられている。
金泥(きんでい)
金箔(きんぱく)をすりつぶし、細かい粉末にしたものを、膠(にかわ)液で練ったもの、絵の具として用いられる。
蒟醤(きんま)
漆芸の加飾技法の一。漆の塗面に剣という特殊な彫刻刀で文様を彫り、その凹みに色漆を埋めて研ぎ出し、磨き仕上げるもので、線刻の美しさが発揮される。本来は、東南アジアで広く嗜好されるキンマを収める漆の入れ物で、竹を巻き上げたり編み上げたりした素地に漆を塗り、その表面に線文様を彫り、朱、緑、黄色等の色を埋め込んで研ぎ出す技法でタイ北部からミャンマーにかけて制作されるもので、中国の古代漆器の線刻技法が東南アジアに伝播し定着したものとみられる。表千家に利休所持の茶箱が伝来しており、桃山期かそれ以前には招来されたとされる。我が国では玉楮象谷により、天保4年(1833)はじめて作られたが、「紅毛彫」とも「金馬」とも書かれていて、嘉永7年(1854)の「蒟醤塗料紙箱並硯箱」において「蒟醤」と書くようになる。玉楮象谷以来、高松で盛んになった。宝永5年(1708)刊の貝原益軒の「大和本草」に「長崎に来る暹羅人などのいへるは、彼国に客あれば先キンマ檳椰を出す。本邦にて煙草を用るが如し。また蚌粉をも少まじえ食すと云。本草にいへる蒟醤によく合へり。交趾東京にも亦如右すと云。今茶人の翫ふ香合にキンマ手と云あり、即異邦にて此物を入たる器なり。」、「茶道筌蹄」に「安南国にてキンマを入る器なりキンマの葉に檳椰子を包み石灰を付て食後に用るよし木地と籠地と二通りあり此器に似よりのをキンマという」とみえ、檳榔樹(びんろうじゅ)の実を薄く切り、鬱金(うこん)の粉や香料と混ぜ合わせ、石灰を塗った蔓草の葉に包んで噛む習慣があり、タイ語のキン(食べる)マーク(檳榔子)で、檳榔子を食べる意のキンマークという語の訛であるといい、日本にはアユタヤとの交易を通じてタイの漆器がもたらされ、そのおりに蒟醤という呼び名が定着したと考えられている。
金襴(きんらん)
撚金糸、または平箔を織り込んだ織物の総称。名物裂では、撚金糸(モール金糸)を用いた織物は「モール」と云い、平箔(平金糸・金箔糸)を用いて文様を織り出したものを金襴と呼ぶ。平箔とは、紙の上に漆を塗り、その上に金箔を置き金箔紙を作り、それを糸状に切ったもの。中国では「織金」という。僧の錦の袈裟(けさ)を金襴衣または金襴袈裟と称し、日本に舶載された金襴衣に金箔糸が織り込んであったところから、この織物を「金襴」と呼ぶようになる。金襴の製造は、宋代に始まり、明代に全盛期を迎える。日本に渡来したのは鎌倉時代とされる。室町・桃山時代に多く舶載され、名物裂として珍重された。
金輪寺(きんりんじ)
薄茶器の一。和物の塗物茶器の初めとされる。胴は寸切りの如く、置蓋で、蓋の甲が丸みをもち、掛かりが少し外に広くなっている。こんりんじ、金林寺とも。小型の経筒を茶器に転用したとも後醍醐天皇が金輪寺で使用した茶器ともいう。「今井宗久茶湯日記書抜」天文24年(1555)4月1日の利休会に「キンリンシ茶入」とあり、江戸時代初期までは濃茶器として用いられたが、のち薄茶器として使用されたとされる。後醍醐天皇が吉野金峯山寺で一字金輪法を修せられたとき僧衆に茶を給うため、山中の蔦の古株で作られたという伝説があり、林宗甫の延宝9年(1681)序「大和名所記(和州旧跡幽考)」に、「実城寺実城寺又は金輪寺ともいう。後醍醐天皇の皇居にさだめられ、此の御代にこそ北京と南朝とわかたれて、年号なども別にぞ侍る。爰にして新葉和歌集などをえらび給い、又天皇、御手づから茶入れ十二をきざませ給う。或いは廿一ともいう。そのかたち薬器にひとし。世に金輪寺と言うこれなり。漆器と言いながら勅作にて侍れば、盆にのせ、金輪寺あひしらひとて、茶湯前もありとかや。」とあり、「茶道筌蹄」に「金輪寺蔦大中木地蔦、外溜、内黒、大は濃茶器、中は啐啄斎薄茶器に用ゆ、元来は吉野山にて、後醍醐帝一字金輪の法を修せられしとき、僧衆に茶を給ふ、其とき山にある蔦を以て茶器を作る、故に金輪寺茶器と云、修法所を金輪寺といひしとぞ、今の蔵王堂の側の実城寺是なり、乾に当る也、三代宗哲の写しは、京寺町大雲院の模形なるよし、大雲院は織田信忠公の菩提所なり、此茶器信長公の伝来七種の一ツなり、底に廿一之内とあり、朱の盆添ふ」とある。足利義政・義昭、織田信長、大雲院と伝来した金輪寺茶器には、蓋裏に「勅」、底に「廿一内」という朱漆書がなされている。この本歌金輪寺茶器は、蔦の老樹を材とした刳物で、蓋の立上がりと底に檜が嵌め込んであり、外側は透漆を薄く掛けた木地溜塗で、内側と糸底は黒漆塗りで、寸法がたいそう大振りで、身が上方に向って末広がりになり、蓋の被りが大きい。勅願の納経筒ではないかともいう。金輪とは天皇をさし、建武3年(1336)8月足利尊氏が北朝光明天皇を践祚すると、「三種の神器をば、新勾当内侍に被持て、童部の蹈開たる築地の崩より、女房の姿にて忍出させ給ふ。」(「太平記」)と京を脱出した後醍醐天皇(1288-1339)が吉野山に潜幸し吉水院を行在所とし、ついで金峰山寺塔頭寺院中一番広域を占めた実城寺を金輪王院と改号し、吉野朝廷(南朝)を建てた。
く     

 

九谷焼(くたにやき)
石川県九谷で焼かれた磁器。江戸初期に焼かれた「古九谷(こくたに)」と江戸後期の再興九谷、明治初期以降の近・現代の九谷焼に大別できる。
加賀藩の支藩である大聖寺藩初代藩主前田利治(1618-1660)が、後藤才次郎に肥前有田で製陶の修行をさせ、その技術を導入し、陶工を連れて帰って明暦元年(1655)頃に加賀国江沼郡九谷村(石川県江沼郡山中町九谷)で開窯し、田村権左衛門を指導して色絵磁器を焼いたのが始まりとされる。紫・緑・黄を主調とし、補色として紺青・赤で彩色した五彩手や花鳥、山水、風物、文様と言った意匠を大胆に配した構図は、狩野派の狩野探幽四天王の一人・久隅守景(くすみもりかげ)の指導を受けたとも伝えられる。宝永7年(1710)頃、窯は突然閉鎖されるが、原因はわかっていない。「本朝陶器攷證」には「明暦元年六月二十六日、加州江沼郡久谷村にて始て焼出す。大聖寺二代飛騨守様之御時、楽焼御好にて御手製あそばされ候、其頃御近臣之内、後藤三次郎と申仁、至て功者にて、御手伝いたし居られ候所、御前より仰付られ候には、其方高麗に罷こし伝授を得、三年之内に罷帰り候様仰付られ、夫より慶安三年、かの地へ罷越し候得ども、中々以伝授をゆるさず候故、色々思案いたし、先其国の住人と心を落つけ、婿入いたし候所、程なく一子出生致し候につき、漸伝授いたし候、夫より本国へ逃げ帰り候所、最早年数も六年相立、其上殿様にも御逝去に相成、既に御臨終の時、三次郎と申者、此後罷帰り候とも、用事無之者の候得ば、左やう相心得候様、御家老始夫々へ仰付られおかせられ候ゆゑ、右三次郎帰国いたし候所、御暇之身と相成候得ども、かの地にて自分も相好、骨折稽古いたし、私の長逗留にもこれなき事故、御評定之上、聊之御扶持下され、山籠り仰付られ候よし、夫より三次郎、并田村権右衛門と申者と両人、九谷にて焼始候所、其頃画工狩野守景、絵修行にあるき候よしにて九谷へ参り、下絵をかき候との事、後藤一代にて休窯に相成候」とある。同書に「一、文政七年申年、再び九谷に窯所を設、七月七日焼はじめ候所、一ヶ年にて相止み候、一、窯元は大聖寺吉田屋傳右衛門、職人は木越八兵衛と申者、一、文政八年酉年、同郡山代新村領、字ハ越中谷と云所に窯をこしらへ焼出し申候、尤窯元は大聖寺宮本利八、職人は木越八兵衛、画工は飯田八郎と申者にて候、只今は九谷高麗と相唱申候」とあるように、江戸後期に九谷焼は再興される。これより後の九谷焼を「再興九谷」と呼ぶ。1800年に京都の青木木米を指導者に招き、加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯されたことを機に、大聖寺藩内でも九谷焼再興の動きが起こり、大聖寺の豪商豊田伝右衛門が古九谷再興をめざし古九谷窯跡地に開いた「吉田屋窯(1824-31)」、有田で陶画を学んだ木崎卜什が築いた「木崎窯(1831-70)」、宮本屋宇右衛門が休窯した吉田屋窯を買収し再興させた「宮本屋窯(1832-59)」、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に築かせた「松山窯(1848-72)」などが築かれた。大聖寺藩は、万延元年(1860)物産役所を設置。
続いて宮本屋窯を買収し「九谷本窯」と称し、山代の三藤文次郎と藤懸八十城の二人に資金を貸与し陶業復興に取り組ませ、慶応元年(1865)京都の名工永楽和全を招聘し、九谷陶業は活況を見せたが、明治新政府の発足により大聖寺藩がなくなり再び困難を迎える。明治4年(1871)九谷本窯は、塚谷竹軒の手に移るが振るわず、明治12年(1879)石川県令千坂高雅の肝煎りで旧藩士飛鳥井清が九谷陶器会社を設立、九谷本窯を譲り受けたが明治24年(1891)解散。翌年、社名を九谷陶器本社と改めて再出発したが、これも明治33年(1900)には大蔵寅吉に譲渡された。明治37年(1904)の日露戦争による陶業の一時停滞を契機に、実力ある陶工たちが独立し個人を主体とした九谷焼となる。
再興九谷には窯ごとに特徴ある技法・画風があり、次のように呼ばれる。五彩手や緑を主体に紫・黄・紺青で全面を塗りつぶした青手の「古九谷風」。青木木米の指導により全面に赤をほどこし、五彩を用いて中国風の人物画を描く「木米風」。赤を使わず四彩で、模様のほかに小紋を地模様風にして全面を塗りこめた青手古九谷の「塗埋手」を再興し、一見青く見えるので「青九谷」と呼ばれる「吉田屋風」。赤絵による細密な絵柄で、全体を埋め尽くし金彩を加えた「飯田屋風」。全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色した金襴手の「永楽風」。古九谷、吉田屋、赤絵、金襴手のすべての手法を間取り方式で取り入れ、洋絵具等も駆使した彩色金襴手で明治以降の産業九谷の主流となった作風の「庄三風」。
口緒(くちお)
茶壷ののどを口覆の上から結ぶ紐で、四つ打になっている。
口覆(くちおおい)
茶壷の蓋の上に被せる四方形の布。金襴、緞子、錦などの上質で厚みのある裂の裏に塩瀬がついている。四方の丸みを持った角を剣先と称し、茶壷の四つの乳と乳の間に剣先を向けるように菱なりに覆う。「正伝集」に「壷装束の掛様は、口覆を掛け長緒を両わなに結留候也。但し口覆の先は乳の間々に成様になし、偖わなに結びたる余り、壷の中程より少し上にて、二筋余し候也。長緒を両方にわなを結下る也。但し結様は直伝に有。」、「茶道望月集」に「此壷を飾置合る時、装束をば金襴にて口覆する事也。仕立は海気茶宇片色の類にて裡を附。四方を剣先の如くひだを折附て、其壷の口形に丸く仕立て着せ置事なり。大サは壷相応にて不定。大方は乳に掛る程成が能。偖着せ様は、四方の剣先、一ツは壷の表の方へ成様にきせる能。外の剣先は間々に成也。」、「長闇堂記」に「葉茶壷の口覆い、昔はすみきらすして、口の緒も長きを、利休すみ丸く、口の緒短くせり」とある。
口切(くちきり)
茶壷の口封を切ること。また、その葉茶を臼で挽いて点てて出す茶事。陰暦五月に新茶を詰めた茶壷に桐材の盛蓋をして口封紙を巻いて封印したものを、陰暦十月の開炉とともに壺飾をして封を切る。口切の茶事は、茶人の正月ともいわれて、茶事の中でも最も改まった式正のものとされており、「茶式花月集」に「樋或は戸押縁など、所々見合青竹に改る。ちり箸、さい箸、蓋置、灰吹、青竹に改る。所々戸溜り青竹に改る。路地に松葉を敷。但ししきやう前に記。手水鉢柄杓、内外とも新に改る。路地水を打、塵穴に青葉を入、竹箸(青竹に改る)付置。」とあるように、門口や露地の樋や垣を青竹にあらため、また炉壇を塗り替えたり畳を替えたり障子を張り替えたりする。今日では炉による正午の茶事として、初座は席入から茶壷の拝見、口切、その後初炭、懐石となり、懐石の間に水屋にて茶臼で茶が挽かれる。中立を経て、後座の濃茶、後炭、薄茶の順に進められる。菓子も祝儀の意を表すため小豆を使った善哉や亥子餅が使われる。そのなかでの口切は、茶壷拝見のあと、亭主が畳紙を広げ、茶壷をのせ、口覆を取り、茶壷の横に口切箱を置き、挽木箱を点前座左隅に置く。口切箱より小刀を取出し、茶壷を寝かせ、回しながら口封紙に切れ目を入れ、続いて竹刀で切ってから、詰茶がこぼれないよう茶壷を立て、蓋を開け封紙が切れているか確かめてから、茶壷の左横に挽木箱を置き、杉箸と羽箒を口切箱の方に移し、挽木箱より袋箱を取出し、夫々の箱を口切箱の手前に置く。茶壷を傾け、杉箸で詰茶を少しかき出し、濃茶を詰めた茶袋が見えたら杉箸で取出し、客の所望の茶を正面を向けて客に見せ、その茶を袋箱へ入れ、残りの袋を茶壷へ戻し蓋をする。羽箒で詰茶を挽木箱へ掃き集めて茶壷に戻し、畳紙の上に残った詰茶を羽箒で掃いてまとめ、挽木箱、袋箱、杉箸、羽箒を点前座左隅に戻す。
口切箱から印と印泥を取出し、糊板の上に置き、口封用の和紙を取出し、茶壷の口に当て寸法を計って切り、口封紙に糊をつけ、茶壷の蓋の合口に貼って封をし、最後に亭主の印を押す。口切箱を元のようにしまい、挽木箱の隣に置き、茶壷を点前座に戻し、口覆をする。畳紙をたたみ、茶壷の前に置き、その上に口切箱、挽木箱を並べ、それぞれを水屋に引き、茶壷を持って水屋に下る。「南方録」には「書院に、床、違棚の下などに壷かざりて口切のことあり。椀飯已前に取をろして口を切なり。装束はづしたるとき、客所望して壷を見る。茶師の印判を心付て見るなり。亭主請取て勝手へ持入て口切もあり。また客前にて、小刀を以て切もあり。切はなしにくきものなり。刀目を入るまでにてよし。前の方の印は切残すこと口伝なり。さまざま仕方あり。書付がたし。草庵ていの口切は火相心得べし。火をつよくすべし。客座入あらば、亭主出て一礼すみ早々挨拶して壷をさばき、壷を客より請て見ること勿論なり。口切の時は、大方はだか壷に口緒、口をゝいまで然るべし。口緒も半切のたやすきがよきなり。手早にさばくこと本意なり。見物すみて道具だゝみになをし、封をさらりと、しるしばかりに切て勝手へ持入、壷家のふたを出して見することもあり。凡はそれにも及ばず、香炉など出し、待遠になきはたらきすべし。主は茶才判してひかする。さて程を見合炭をして、懐石を出すなり。中立等別義なし。」とある。
口切箱(くちきりばこ)
口切に使う道具を収める箱。桐の二重箱で、革紐が付いている。中に、小刀・竹刀・印・印泥などを入れておく。「茶式湖月抄」に「壷之口切筥長七寸横五寸惣高四寸六分板厚二分上ノ重一寸四分下ノ重三寸蓋マハリザシ革緒ノ巾七分但シ二尺四方紙小刀一本入ルナリ」とある。
熊野懐紙(くまのかいし)
鎌倉初期、後鳥羽上皇(1180-1239)の熊野行幸の途次に催された歌会の懐紙。後鳥羽上皇は、譲位の後、二八回熊野に参詣するが、その途上、所々の王子社において供奉の廷臣らと歌会を催した。歌会に会した人々が自詠の歌を書いて差出した和歌懐紙で、三十数枚が残存する。西本願寺に現存する十一枚は巻子装となっており、歌題は「遠山落葉、海辺晩望」で、後鳥羽上皇右近衛大将通親、参議左近衛中将公経、春宮亮藤原範光五位下上総介藤原朝臣家隆、侍従藤原雅経、沙弥寂蓮、能登守源具親、散位藤原隆実、散位源家長、右衛門少尉源季景の十一葉で、巻末に「切目王子歌会正治二年十二月三日」と後烏羽上皇宸翰の付札が添えられている。しかし他は一枚ずつはずされ掛軸に仕立て上げられているものが多い。熊野御幸の時ではなく、同様な形式で書いているものを「熊野類懐紙」と呼んでいる。
雲收山岳青(くもおさまりてさんがくあおし)
「古尊宿語録」に「進云。大衆側聆。學人未曉。師云。照破萬家門。進云。恁麼則日出乾坤耀。雲收山岳青。師云。驗人端的處。」(進云う、大衆側聆して、学人未だ暁けず。師云く、万家門を照破す。進云う、恁麼ならば則ち、日出でて乾坤輝き、雲収まりて山岳青し。師云く、人を験むる端的の処。)とある。側聆(そくれい)/耳をそば立たせる。未曉(みぎょう)/悟りに達していない。照破(しょうは)/仏が智慧の光で無明の闇を照らし真理をあらわにすること。端的(たんてき)/物の本質。真実。雲が消え去って山並が青々と見える。
雲悠悠水潺潺(くもゆうゆうみずせんせん)
「圜悟録」に「韓觀察請上堂。大衆。日沈沈風颯颯。萬世只如今。雲靉靉水潺潺。當處全體現。」(韓観察上堂を請う。大衆。日は沈沈、風は颯颯。万世ただ今の如し。雲は靉靉、水は潺潺。当処に全て体現す。)、「雪巖祖欽禪師語録」に「雲悠悠水悠悠。」、「天悠悠。雲悠悠。」と見える。悠(ゆう)は「毛註」に「悠悠、遠貌。」(悠悠は遠きなる貌なり。)とあり、悠悠は遥かに遠いさま。また、ゆったりと落ち着いたさま。潺(せん)は「説文」に「水聲。」とあり、潺潺は水がさらさらと流れるさま。靉(あい)は、「正韻」に「雲盛貌。」(雲盛んなる貌なり。)とある。
雲在嶺頭閑不徹(くもれいとうにあってかんぷてつ)
「洞山良价禪師語録」に「白雲端云。若見得菴主。便見得洞山。若見得洞山。便見得菴主。見洞山則易。見菴主則難。不見道。雲在嶺頭阨s徹。水流澗底太忙生。」(白雲端云く、若し菴主を見得すれば、便ち洞山を見得す。若し洞山を見得すれば、便ち菴主を見得す。見洞山を見るは則ち易く、菴主を見るは則ち難し。道うを見ずや。雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。白雲端/白雲守端和尚(1025-1073)。「禅林句集」七言対句に「雲在嶺頭閑不徹。水流澗下太忙生。」とあり、出典に「虚堂一報恩ノ終リ。禪類十二遊山門」を挙げる。「虚堂録」卷第一「嘉興府報恩光孝禪寺語録」に「退院上堂舉。高亭隔江見コ山。便乃趨而去。後來開法。承嗣コ山。師云。高亭只見錐頭利。不見鑿頭方。當時若過江來。豈止住院。有人會得主丈子。兩手分付。不然。雲在嶺頭閑不徹。水流澗底太忙生。」(退院上堂。舉す。高亭、江を隔てて徳山を見る。すなわち趨して去らば、後来開法、徳山に承嗣す。師云く、高亭ただ錐頭の利きを見るのみにして、鑿頭の方なるを見ず。当時もし江を過ぎ来たらば、豈に住院に止まらんや。人あって主丈子に会い得ば、両手に分付せん。然らず、雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。「禪林類聚」卷第十二「遊山」には「佛眼遠頌云。一回思想一傷神。不覺翻然笑轉新。雲在嶺頭閑不徹。水流澗下太忙生。」(仏眼遠、頌して云く、一回思想一神傷。翻然として笑轉た新なるを覚えず。雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。
九輪釜(くりんがま)
茶湯釜の一。寺の塔の頂上を飾る相輪の部分である九輪の形を模した釜。全体の形姿は筒形で、深い筒底、皆口で胴上部左右に短冊形の鐶付が左右に出ている。筒型の胴を九輪の中央を貫く心棒の部分である刹管(さつかん)に、左右に突き出た鐶付を宝輪(ほうりん)に見立てたもの。
九朗焼(くろうやき)
尾張藩士平沢九朗の焼いた陶器。「瓢翁夜話」に「文化文政の頃、名古屋藩士に平沢九郎といふ数寄者あり、仕官の余暇、茶碗茶入香合花きなどの類を焼しが、自ら俗気を脱して一種の雅致ありしかバ、人々これを九郎焼と呼て愛玩せしとぞ、されど一代にして其業を子孫に伝へず、又工人の伝習してこれを製するものなし」とある。「名古屋市史」によると、初代平沢九朗(ひらさわくろう/1772-1840)は、天保年間の尾張藩士。志野・織部などを写す。「名は一貞、通称は清九朗、九朗と号す。只右衛門の子なり。寛政三年、藩主宗睦の側小姓と為り。切米五十石・扶持五口を給せらる。八年、小納戸に徒りて奥番を兼ぬ。十一年、父の遺跡を継いで禄四百石を食む。翌年、目付に進む。享和元年、高須の用人を命ぜられ弾正少弼勝当に附属す。文化六年、同家番頭と為る。用人故の如し。十一年、病に依りて退隠し、家を長男一胤に譲る。乃ち養老園を城東清水坂下に設けて茶事を娯とし、製陶を以て身を終ふ。天保十一年六月二十三日没す。享年七十。法号を一貞院貫誉九朗と曰ふ。九朗陶を以て世に知られ、其製する所頗る雅趣あり。茶友に小堀宗中・松尾宗五等ありて、茶室を今昔庵と号す。」、二代平沢陶斎(ひらさわとうさい/-1841)は、初代平沢九朗の長男。「名は一胤、通称は只右衛門、白駒又は陶斎と号す。一貞の長子なり。文化十一年、家を継ぐ。文政八年、病に依りて職を辞し、家を弟住胤に護り、清水坂下の別墅養老園に移りて風流を事とす。少時父の傍に在りて茶事故に陶法を熟知し・共に得る所あり。其製する所の茶器雅趣権溢し、頗る父の作品に髣髴たり。而かも其製品多からず。好事者遇々之を獲るあれば珍玩して秘蔵す。天保十二年十二月二十九日卒す。仙峯院陶斎一胤と諡す。」、三代平沢松柏(ひらさわしょうはく/-1865)は、初代平沢九朗の次男。平沢陶斎の養子。「名は住胤、九朗は共通称、松柏と号す。兄陶斎の嗣と為り、文政八年、家を嗣ぎ、禄四百石を食む。小納戸・書院番に歴仕し、文久二年退老す。慶応元年三月五日没す。法号を然明院浄斎九朗と曰ふ。男九朗亦父に次いで製陶の妙を極む。」とある。
黒田正玄(くろだしょうげん)
千家十職の柄杓師。竹細工全般を作製する。初代正玄(1578-1653)七郎左衛門。越前黒田郡の出。はじめ丹羽氏に仕えるが関ヶ原後剃髪して正玄と改め、秀吉から天下一の称号を賜った柄杓師一阿弥に師事し、江州大津で竹細工を業とする。のち京に移り小堀遠州に茶湯を学び、その推挙で将軍家御用柄杓師となる。茶湯を学ぶため遠州のもとに日参したので日参正玄の異名を得る。初代より八代まで将軍家に仕えた。三代より千家御用を務め、茶杓以外も手がけるようになる。
黒文字(くろもじ)
主菓子に添えて出される楊枝。クスノキ科の落葉低木クロモジ(黒文字)の枝を削って作る。長さは6寸(約18cm)のものを用いる。黒文字は、一客一本使用するのが原則で、銘々皿には一本、縁高には人数分の本数を添える。ただし食籠や盛込鉢には二本添え、客はそれを一膳の箸のように扱って各自の懐紙に菓子を取り、再び菓子器に戻して、次の客へ回す。また、善哉のように黒文字一本ではいただきにくい菓子の場合は、黒文字とは別に杉楊枝を添える。元来は亭主が茶事の直前に自ら削って作るもので、客は使用後、自分の分を懐紙にくるんで持ち帰る。「茶湯一会集」に「一期一会の茶の湯、また再ひは遇ひかたき事也。然はいつまでも此一会をしたひ、且は証拠となり残るものハ楊枝一本はかり也。故ニ大切に懐中し持かへりて、直様楊枝のうらニ年号月日何会何某亭と認メ、取かた付置もの也、亭主も其心得ニて是非手おぼへ有べき筈之事ニ而、仕入レ之楊枝なとミたりニ遣ふものニあらす」とある。
君子千里同風(くんしせんりどうふう)
「祖堂集」巻十八に「問、學人去南方、忽然雪峰問趙州意、作摩生祗對。師云、遇冬則寒,遇夏則熱。進曰、究竟趙州意旨如何。師云、親從趙州來、不是傳語人。其僧到雪峰、果如所問、其信一一如上舉對。雪峰曰、君子千里同風。」(問う、学人南方に去る、もし雪峰の趙州の意を問わば、作摩生か祗對せん。師云く、冬に遇わば則ち寒く、夏に遇わば則ち熱し。進んで曰く、究竟じて趙州の意旨如何ん。師云く、親しく趙州より来る、是れ傳語人ならず。其の僧、雪峰に到る。果たして、問う所の如し。其の僧、一一上の如く挙對す。雪峰曰く、君子は千里同風。)とある。また同書巻十二に「因玄沙封白紙送雪峰。雪峰見云、君子千里同風。其僧卻來、舉似玄沙。玄沙云、與摩則何異于孟春猶寒。有人舉似長慶。長慶云、送書底人、還識好惡摩。有人舉似師。師云、送書呈書了退身。」(ちなみに玄沙、白紙を封じて雪峰に送る。雪峰見て云く、君子は千里同風と。其の僧却来して玄沙に挙似す。玄沙曰く、与摩ならば則ち孟春なお寒しに異ならん。人有って長慶に舉似す。長慶云く、送書底の人、また好悪を識るや。人有って師に舉似す。師云く、送書し、書を呈し了る。退身せよ。)とある。「景コ傳燈録」では「師一日遣僧送書上雪峰和尚。雪峰開緘唯白紙三幅。問僧會麼。曰不會。雪峰曰。不見道。君子千里同風。」(師、一日僧を遣し、書上を雪峰和尚に送る。雪峰、開緘すれば唯だ白紙三幅。僧問う、会すや。曰く会せず。雪峰曰く。道うを見ずや。君子は千里同風。)とする。
君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)
室町中期の座敷飾りに関する秘伝書。中国画家についての説明、座敷飾りの方式、道具類について記す。能阿弥によって整備され、相阿弥によって完成されたと考えられている。将軍の御座所を意味する台観に君を冠して敬称し、その左右を飾る品々の帳記という主旨の題名で、永禄年間(1555-1570)にはすでにそう呼ばれていたという。前半は「繪之筆者上中下」として、呉・晋・陳、唐・宋・元の画家を上中下に三品等別して列記し、後半部は「座敷飾」として、画幅と諸道具の坐敷飾の方法を文と図で説明し、末尾に「抹茶壺図形」として茶壷の図説、「土物類」として天目茶碗、その他、漆器・硯石・銅器の名称の解説と形を記している。
薫風自南来(くんぷうじなんらい)
「全唐詩」の「夏日聯句」に「人皆苦炎熱、我愛夏日長。熏風自南來、殿閣生微涼。」(人は皆な炎熱に苦しむも、我は夏日の長きを愛す。薫風自南来、殿閣微涼を生ず)とあり、唐の文宗皇帝(808-840)が「人皆苦炎熱、我愛夏日長」と起床の句を作ったのを承けて、柳公権(りゅうこうけん)が「熏風自南來、殿閣生微涼」と転結の句を作って一篇の詩としたもの。「大慧普覺禪師語録」に「僧問雲門。如何是諸佛出身處。門曰。東山水上行。若是天寧即不然。如何是諸佛出身處。桾落ゥ南來、殿閣生微涼。向這裏忽然前後際斷。譬如一綟亂絲將刀一截截斷相似。當時通身汗出。雖然動相不生。卻坐在淨裸裸處得。一日去入室。」(僧、雲門に問う、如何なるか是れ諸仏出身の処。門曰く、東山水上を行く。是の若し天寧は即ち然らず、如何なるか是れ諸仏出身の処。薫風自南来、殿閣微涼を生ず。)とあり、僧が、仏はどこにいるのかと問うたとき、雲門(864-948)は東山が水の上を行くと言った。その話は天寧ならこうはならない、仏はどこにいるのかと問うたら、薫風が南から吹いてくる、お寺もこの風で涼しくなると答える、というのを聞いて大慧宗杲(1089-1163)が悟ったとする。
け     

 

結界(けっかい)
道具畳の向こうに客畳のある広間などで、その仕切りに置くもの。結界の語は、仏教から来たもので、Simabandhaの訳語とされる。sima(シーマー)は境界で、やくざの世界で使う「シマ」(縄張り)の語源とされ、bandha(バンダー)は錠・封の意で、「十誦律」に「僧一布薩共住。隨共住幾許結界内」とあるように、同じ会に属し共同の生活をする僧の住まう地域を区画すること。
賢江祥啓(けんこうしょうけい)
室町時代の禅僧・画僧。号は貧楽斎。字は賢江。祥啓は諱。建長寺の書記を務めたことから啓書記ともよばれる。生没年未詳。下野国の宇都宮氏13代当主宇都宮持綱の家臣丸良綱武の子で、嘉吉元年(1441)興禅寺に入り得度。長録元年(1457)鎌倉の建長寺に入るという。文明10年(1478)上京し南禅寺に身を寄せ、文明12年(1480)まで三年間、芸阿弥(1431-1485)に師事、幕府の画庫で唐絵を学ぶ。山水画をよくし、輪郭線の太い簡素な作風で鎌倉水墨画の代表とされる。関東水墨画派(祥啓派)の祖。
剣先梅鉢緞子(けんさきうめばちどんす)
剣先紋を直線で繋いで亀甲形(六角形)を作り、その中に梅鉢紋を配した緞子。亀甲梅鉢紋ともいう。剣先紋は、六角形(亀甲)を山形に三つ組み合わせたもので、仏像の毘沙門天像が着ている甲冑の文様の形に似ているため毘沙門亀甲(びしゃもんきっこう)とも呼ばれる。「古今名物類聚」所載の名物裂に「剣先緞子」がある。
剣先緞子(けんさきどんす)
名物裂の一。萌黄色の経五枚繻子で、剣先紋を織り出した緞子。剣先紋は、六角形(亀甲)を山形に三つ組み合わせたもので、仏像の毘沙門天像が着ている甲冑の文様の形に似ているため毘沙門亀甲(びしゃもんきっこう)とも呼ばれる。「古今名物類聚」に載り、中興名物「走井茶入」(伊部焼)の仕覆裂に用いられている。ほかに色違いで同文の緞子が各種あるが、いずれも明時代中期以降の作。花丸紋または丸龍紋を散らしたものもある。
乾山焼(けんざんやき)
尾形乾山の創窯した乾山窯で焼かれた陶器。京焼のひとつ。意匠性の強い優れた絵付が特徴で、「乾山」の銘がある。乾山の著した「陶工必用」に「愚拙元禄卯之年洛西北泉渓ト申処ニ閑居候処ニテ陶器ヲ製シ始則京城ノ西北ニ相当リ候地ニ候故陶器ノ銘ヲ乾山ト記シ出申候、其節手前ニ指置候細工人孫兵衛ト申者右押小路寺焼之親戚ニて則弟子ニ候而細工焼方等巧者ニ候故御室仁清嫡男清右衛門ト共ニ手前江相頼ミ置此両人押小路寺内かま焼キ御室仁清焼之伝ヲ受継申候」とあるように、作品は仁清の長男・清右衛門と押小路寺焼職人の孫兵衛らが施釉、焼窯といった作業のほとんどを行い作品に「乾山」の銘を付けた。多くの字体の異なる乾山銘が存在する。光琳が絵付をし、乾山が画賛をした合作の作品も残る。同じく「陶磁製方」に「道具之形模様等ヲ私其上同名光琳ニ相相談候而最初之絵ハ皆々光琳自筆ニ画申候爾今絵之風流規模ハ光琳このミ置候通ヲ用又ハ私新意ヲも相交へ」というように光琳風の文様や意匠を施す。器形は型造りが多く、当時輸入されたオランダ染付けや色絵に学び、釉下着彩(色絵下絵)も試みている。絵付を生かし恰も紙や布に絵筆を走らすような味わいを出すため、器の堅牢度をあきらめ、素地の上に白泥を刷毛塗りし、その上に直接銹絵を描き、透明釉を掛けて低火度焼成した白地銹絵(さびえ)と呼ばれる類のものである。乾山江戸下向の後、猪八(いはち)が二代目乾山を名乗り、聖護院窯を構えで乾山焼の業をつづけ、その後も何代かの乾山が出る。江戸入谷においても乾山を名乗るものがある。
源氏車(げんじぐるま)
御所車の車輪が川の水に洗われるさまを描いた文様。武者小路千家の好みもの。平安時代、貴族の用いる牛車を御所車と呼び、その御所車の車輪などは木製で乾燥に弱いために使わないときには川などに入れて乾燥を防いだ。その景物を取り上げ、車輪が水の流れに隠れて半ば見えなくなった状態を図案化したものを「片輪車(かたわぐるま)」といい、直斎が「片輪車」をもとにした「源氏車香合」を好む。「源氏車香合」は、蓋甲に大きく三基の片輪車を鮑貝で表し、波を金蒔絵で描いたもので、四代八郎兵衛宗哲の作。直斎以来、歴代家元が「源氏車」の香合、炉縁などを好んでいる。
源氏香(げんじこう)
組香の一。香木5種を各5包ずつ計25包を切り交ぜ、中から任意の5包をとってひとつを炷き、客に香炉を順にまわし、香を聞く。これを5回繰り返し、5つの香りの異同を、まず5本の縦線を紙に書き、右から、同じ香りであったと思うものを横線でつないでいく。この5本の線を組み合わせてできる型は52通りあり、この52通りの図を源氏物語五十四巻のうち桐壷と夢浮橋の巻を除いた五十二巻にあてはめた「源氏香の図」と照合し、源氏物語の該当する巻名を書いて答とするもの。この「源氏香の図」が「源氏香文」と呼ばれるもので、器物の文様とし使われている。
献上唐津(けんじょうからつ)
唐津藩が中里家五代喜平次らに命じ、亨保19年(1734)御用窯「御茶碗窯」を開かせ、将軍家や大名たちに贈るためにつくらせた精巧な作風の唐津焼。白土を水漉しして、さらに鉄分をのぞいて素地を作り、器物が乾かないうちに印家紋、雲鶴文様などをつけ、文様に鬼板を塗り込み、乾燥後、表面を拭き取り、長石釉をかけ焼成すると文様が浮き出てくるもの。又、呉須、鉄絵具などで写実的な文様を描く場合もある。
建水(けんすい)
席中で茶碗をすすいだ湯水を捨て入れるための器。建水は最も格の低い道具として、点前の際は勝手付に置かれ客からは見えにくいところで使われ、会記でも最後尾の一段下げたところに記される。古くは「みずこぼし」といい、水翻、水覆、水建、水下などと書いた。今は建水と書いて「けんすい」と呼ぶ。通称は「こぼし」という。唐銅、砂張、毛織、七宝、鍍金、真鍮(しんちゅう)などの金属や陶磁器、竹木製でつくられ、特に定まった形はないが、昔からのかたちとしては「大脇指」「差替」「棒の先」「槍鞘」「箪瓢」「餌畚」「鉄盥」の建水七種がある。唐物や南蛮物は雑器の転用が多く、曲物は紹鴎が勝手用に使ったのを利休が席に持ち込んだといわれ、面桶(めんつう)ともいう。木地のままのものが正式なものとされる。「山上宗二記」には「釣瓶(つるべ)・面桶・竹蓋置、此の三色、紹鴎好み出されたり」、「源流茶話」に「古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて求めがたき故に、紹鴎、侘のたすけに面通を物すかれ候、面通、いにしへハ木具のあしらひにて、茶湯一会のもてなしばかりに用ひなかされ候へハ、内へ竹輪を入れ、組縁にひさくを掛出され候、惣、茶たて終りて、面通の内へ竹輪を打入られ候は、竹輪を重て用ひ間敷の仕かたにて、客を馳走の風情に候」とある。
源流茶話(げんりゅうちゃわ)
藪内家第五世・藪内竹心(やぶのうちちくしん:1678-1745)の著した茶書。著述年代は不明だが「茶話指月集」を批判している箇所があることから、元禄十四年以降享保頃の成立と考えられる。その源流茶話序に「一、茶話全部三巻、上巻一ニ和漢茶之由来、二ニ茶会之濫觴、三ニ中興大成之次第、四ニ諸流之辨、五ニ茶席茶具之説、中巻ニ近世見聞の問答、下巻ニ珠光・紹・利休茶系之略傳并ニ和漢茶事詠略」とあるように、上・中・下の三巻から構成され、上巻は「源流茶話序」と問答形式の54か条が叙述され、2から7までは和漢茶の由来、茶会の濫觴、中興大成の次第、諸流の弁、8以下が「茶具問答」となっている。中巻は45か条で、1から32までは「見聞問答」として問答形式で露地・茶事・懐石・茶室などについて当世流の不審を叙述し、33から45までは「茶人或説」として古人の茶の湯に関する説を紹介する。下巻は「言行部」として、能阿弥から始まり千宗旦まで17名の茶人伝と「詞花」「和漢茶事録」と題して茶の湯史料を、「唐賢茶事詠略」として中国文人の茶を詠んだ漢詩史料を掲載する。
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濃茶(こいちゃ)
抹茶の一。玉露などと同じく若芽や若葉の時期に覆いをかぶせ直射日光が当たらないように栽培した茶の古木の新芽を蒸して乾燥したものを茶臼でひいてつくられたもの。薄茶に対しての語。一人分が茶杓にたっぷり3杓の茶を目安とし、まず一人一杓あてで人数分の茶を茶碗に入れてから、茶入を両手で手前に回しながら残りの茶を入れ、湯を必要量の半分程度を茶碗に入れ、茶筅で茶を少しずつ湯にとかし固練りしてから、服(飲み具合)のよいほどに湯を足して練り上げる。茶事においては、濃茶が最も大切なもてなしであり、連客の飲み回しとするのが普通(流儀により各服点もある)。この濃茶の飲み回しを「吸い茶」と言い、利休が始めたとされる。享保16年(1731)の序をもつ尾張藩士近松茂矩の編になる「茶湯古事談」には、「むかしハ濃茶を一人一服づつにたてしを、其間余り久しく、主客共に退屈なりとて、利休が吸茶に仕そめしとなん」。また「草人木」にも、「むかしハ独ニ一服つつの故(茶入れより茶を入れる回数は)ミすくい也(三掬い)。利休よりはすい茶なる故に、猶定なし。」とある。
行雲流水(こううんりゅうすい)
「宋史」列傳第九十七「蘇軾」に「軾與弟轍、師父洵為文、既而得之於天。嘗自謂、作文如行雲流水、初無定質、但常行於所當行、止於所不可不止。雖嬉笑怒罵之辭、皆可書而誦之。其體渾涵光芒、雄視百代、有文章以來、蓋亦鮮矣。」(軾、弟の轍と与に、父の洵を師とし文を為す、既にして之を天に得る。嘗みに自ら謂う、作文、行雲流水の如く、初め定質なく、但し常に当行する所を行き、止らざるべからざる所を止まる。嬉笑怒罵の辞と雖も、みな可書にして之を誦す。その体、渾涵光芒、百代に雄視す、文章ありて以来、蓋しまた鮮ならん。)とある。
香合(こうごう)
風炉や炉の中で焚く「香」を入れる「盒子」(小さな蓋付の器)。炭手前のときに普通は、炭斗(すみとり)に入れて席中に持ち出し、炭をついだ後、火箸で香合より香を取り、下火の近くと、胴炭のあたりに入れる。炭点前がない場合は、床の間に紙釜敷(和紙を重ねて四つ折にしたもの)に載せて飾る。風炉には木地、塗物等の香合を使い、伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などの香木を使う。炉には普通は陶磁器のものを使い、練香(ねりこう/香木の粉と蜂蜜などを練り上げた物)を使う。このような香合の使い分けは、茶会記を見る限り江戸時代中期、享保年間の頃からこのような傾向があるという。
古くは、「室礼(しつらい)」(座敷飾り)に香炉に付属して置かれ、大半は唐物の塗物であった。草庵の茶室でも香炉と一対で席中に持ち出し飾られたが、茶会記への初出は「松屋会記」天文11年(1542)4月8日に「床に香炉、立布袋香合」とあるもので、炭道具として独立したかたちでの香合は、「宗湛日記」文禄2年(1593)正月19日に「スミトリヘウタンツイ朱ノ香合ホリモノアリスミノ上ニオキテ」とあり、文禄年間(1573-1595)以降に炭手前が定着してからとされ、慶長年間に入ると「宗湛日記」慶長4年(1599)2月28日に「香合今ヤキ」、「松屋会記」慶長6年(1601)11月20日に「炭斗フクヘ、桑箸、香合備前、御炭両度アリ」とあり、和物の焼物香合が登場する。炉の炭手前で灰器に濡灰を盛って使うようになると練香が使われるようになり、練香を塗物香合に入れると毀損の恐れがあるところから焼物香合が用いられ、「茶道筌蹄」に「黄瀬戸根太、利休所持、一翁宗守伝来、今出羽侯にあり」とあり、天正年間から黄瀬戸が使用され、志野、織部は慶長・元和の頃、同じ頃に次第に備前、信楽、伊賀、唐津などが焼かれるようになる。唐物の焼物は茶会記への初出は和物の焼物より遅く寛永年間で、もとは日用雑器から取り上げたものが多く、「茶道筌蹄」に「香合は道具中にも至て軽き物ゆへ、利休百会にも香合の書付なし、夫故に名物も少なし、名物は堆朱青貝に限る」とあるように、古い時代ではそれほど重く扱われていないが、江戸時代後期、文化・文政年間になるころ、蓋置などとともに小物に趣向を凝らす事が盛んになり、唐物を中心に陶磁香合が重く扱われるようになり、安政2年(1855)に交趾・染付・呉州・青磁・祥瑞・宋胡録などの唐物香合を主に215種で編集した「形物香合相撲番付」が制作され、後世の評価にも影響している。
柑子口(こうじぐち)
器物の形状の一。「かんすくち」「かんしこう」とも読む。口縁部が丸く膨らんでいる器形をいう。「柑子(こうじ)」は蜜柑の一種で、口縁部の膨らみが蜜柑に似ているところからの名称。中国では、この器形を「蒜頭」(ニンニク)という。漢時代にはこの口部を持った青銅器の瓶が多く作られ遺品が多く、漢銅器の形を写した蒜頭瓶は陶磁として元時代の青磁に製作されいる。
好事不如無(こうじもなきにはしかず)
「碧巌録」第八六則に「舉。雲門垂語云。人人盡有光明在。看時不見暗昏昏。作麼生是諸人光明。自代云。厨庫三門。又云。好事不如無。」(挙す。雲門垂語して云く、人人尽く光明の有る在り。看る時見えず暗昏昏。作麼生か是れ諸人の光明。自ら代って云く、厨庫三門。又云く、好事も無きには如かず。)とある。「雲門廣録」には「上堂。良久。云。鈍置殺人。便下座。代云。不獨。因看誌公頌。問僧。半夜子。心住無生即生死。古人意作麼生。代云。不可總作野狐精見解也。或云。古人道。人人盡有光明在。看時不見暗昏昏。作麼生是光明。代云。廚庫三門。又云。好事不如無。」(上堂。良久して、云く、人を鈍置殺し、便ち下座す。代って云く、独りにはあらず、因みに誌公の頌を看よ。僧に問う。半夜子、心住無生即生死。古人の意は作麼生。代って云く、総に野狐精の見解を作す可からず也。或は云う、古人道う、人人尽く光明の有る在り。看る時見えず暗昏昏。作麼生か是れ諸人の光明。代って云く、厨庫三門。又云く、好事も無きには如かず。)とある。鈍置殺/馬鹿にする。誌公(しこう)/寶誌和尚(418-514)。半夜子(はんやし)/半夜。夜半。子(ね)の刻から丑(うし)の刻まで。「傳燈録」の「寶誌和尚十二時頌」に「半夜子。心住無生即生死。生死何曾屬有無。用時便用勿文字。佛祖言。外邊事。識取起時還不是。作意搜求實總無。生死魔來任相試。」とある。どんなよいことでも、それに捉われの心を起こすようでは、むしろ無いに越したことはないという。
江上数峰青(こうじょうすうほうあおし)
唐の錢起の詩「省試湘靈鼓瑟」(省試湘霊瑟を鼓す)に「善鼓雲和瑟、常聞帝子靈。馮夷空自舞、楚客不堪聽。苦調凄金石、清音入杳冥。蒼梧來怨慕、白〓(上廾下止)動芳馨。流水傳湘浦、悲風過洞庭。曲終人不見、江上數峰青。」(善く雲和の瑟を鼓するは、常に聞く帝子の霊と。馮夷空しく自ら舞い、楚客は聴くに堪えず。苦調金石より凄しく、清音杳冥に入る。蒼梧より来りて怨慕し、白〓(上廾下止)は芳馨を動かす。流水湘浦に伝わり、悲風洞庭を過ぐ。曲終りて人見えず、江上数峰青し)とある。銭起(722-780)。字は仲文。呉興の人。天宝十載(751)進士に及第。校書郎・藍田尉・考功郎中などを歴任し大暦年間には太清宮使・翰林学士に上る。大暦十才子のひとり。「續燈録」に「問。世尊善説般若。和尚提唱宗風。未審是同是別。師云。皇天無親。唯コ是輔。僧曰。今日得聞於未聞也。師云。聞底事作麼生。僧曰。曲終人不見。江上數峰青。師云。猶較些子。」(問う、世尊は般若を善説し、和尚は宗風を提唱す。未審、是れ同か、是れ別か。師云く、皇天に親なく、ただ徳をこれ輔く。僧曰く、今日未だ聞かざるを聞くを得るなり。師云く、底事ぞ聞く作麼生。僧曰く、曲終りて人見えず、江上数峰青し。師云く、猶お些子を較す。)とみえる。皇天無親唯コ是輔/「書經」蔡仲之命に「皇天無親、惟コ是輔。民心無常、惟惠之懷。」、大いなる天はだれかを親しむということはなく、ただ徳のあるものを助ける。民の心はきまって従うものはなく、ただ惠みあるものになつき従う、とある。皇天/天の尊称。底事/何事。猶較些子/いまひとつ足りない。まあまあのところだ。
合子(ごうす)
蓋のある容器の総称。盒子。ごうし。「貞丈雑記」に「合子とも合器とも云は椀の事也、身とふたを合する故の名也」、「箋注倭名類聚抄」に「按、合子有蓋、故名合、猶謂香匳為香合、蛤蜊亦以有蓋得蛤名、則知今俗所用漆椀即是」とあり、蓋付の漆碗のこと。合子形(ごうすなり)は、蓋付の碗をかたどった扁球形のもの。
建水の一。元来は蓋物の身の方を利用したもの。形は深く、上部で口が開き、裾すぼまりで底は平らになっているもの。「茶道筌蹄」に「合子物をはかる合なり」、「源流茶話」に「古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて」、「茶道望月集」に「是を台子にて用て建水中の真也、勿論唐金物也、口外へそりたる物也、又左もなきも有、ゑふご少し口の立たる物也、元来は書院座敷の本飾の時、棚下に飾りて塵壷に用し具と也、唐土にては、魚鳥の骨を吐入る為の用に飾ると也、然ども往古鎌倉の時代に、径山寺より渡りし台子の具はしからず、今和朝にて細工人の形として用る事、往古より写し伝へし形にや」とある。
好雪片片不落別處(こうせつへんぺんべっしょにおちず)
「碧巌録」第四二則「龐居士好雪片片」に「舉。龐居士辭藥山。山命十人禪客。相送至門首。居士指空中雪云。好雪片片不落別處。時有全禪客云。落在什麼處。士打一掌。全云。居士也不得草草。士云。汝恁麼稱禪客。閻老子未放汝在。全云。居士作麼生。士又打一掌。云眼見如盲。口説如唖。雪竇別云。初問處但握雪團便打。」(挙す。龐居士、薬山を辞す。山、十人の禅客に命じ、相送りて門首に至らしむ。居士、空中の雪を指して云く、好雪片片別処に落ちず。時に全禅客ありて云く、什麼の処にか落在す。士打つこと一掌。全云く、居士また草草なることを得ざれ。士云く、汝恁麼に禅客と称せば、閻老子いまだ汝を放さざること在らん。全云く、居士作麼生。士また打つこと一掌、云く、眼は見るも盲の如く、口は説うも唖の如し。雪竇別して云く、初問の処に、ただ雪団を握って便ち打たん。)とある。龐居士が薬山禅師の所を辞すとき、薬山は十人の禅客に見送りを命じ門前に来た時、居士は降る雪を指して好雪片片別処に落ちずと言った。そのとき全という禅客が、ではどこに落ちるのか、と尋ねたら、居士に平手打ちで一発叩かれた。そんなにあわてて叩かないでと全が言うと、居士は、お前はそんなことで禅客などと言っていると閻魔様が許さないぞ、と言うと、全は、では居士ならどう答えますか、と聞いた。居士はまた一発叩いて、眼は見ていても盲同然、口は喋っていても唖同然だ、と言った。雪竇は、好雪片片別処に落ちずと言ったときに、ただ雪団を握ってぶつけてやればよかったのだと評した。見る雪もなく、見られる雪もなく、自らが好雪片々そのもの、天地宇宙に溶け込んでいる境地という。
高台(こうだい)
茶碗や皿鉢などの器の底裏にあって台状をなし、器胎を支えるもの。茶碗などでは見所となる。器の底に輪状にした土をつけて作る付高台(つけこうだい)と、轆轤で水挽きして器を成形したあと轆轤を回転させ「切り糸」(「しっぴき」ともいう)で切り離し、半は乾かしたあと底の土をヘラなどで削りだして作る削り出し高台に分けられる。高台を削り出さずに、糸切り跡を残したものを糸底(いとぞこ)という。高台は、その輪の形から「輪高台」「三日月高台」「面取高台」「蛇の目高台」「二重高台」、高台の内側の削り痕の状態から「糸切高台」「兜巾高台」「渦巻高台」「縮緬高台」「椎茸高台」「櫛高台」など、高台の足の状態によって「竹節高台」「撥高台」「切高台」「割高台」「桜高台」などがある。また高台の底部である畳付(たたみつき)の付着物の痕により「貝殻高台」「砂高台」などの名がある。
交趾(こうち)
交趾とは、前111年前漢の武帝が南越国(広東省・広西及びヴェトナム北部)を征服して置いた9郡の一つ。同郡は現在のヴェトナム北部のトンキン・デルタ地帯に位置していた。交阯と書かれることもある。唐の初期(7世紀)、交趾郡は交州と名を改められたが、以後も中国では、ヴェトナム人の国をさす名称として交趾を用いた。 交趾焼は、元・明時代に造られた軟陶質の三彩や黄・緑・紫釉陶などの総称。名称は現在のベトナム北部を通商した商船(交趾船)から付いたといわれ、主な産地は中国の南部地域(広東、福建等)の諸窯とされ、窯跡は不明とされていたが、近年の研究により、中国福建省平和県田抗で交趾の古窯が発見され、呉州・染付などの産地とほぼ同地域であることが解った。 香薬品の容器として渡来した交趾焼は、その異国情緒や美しさから茶人に香合として珍重され、茶道具として使われ続けている。 交趾手は、形成後、文様の輪郭を強い彫線や、堆線(細い線状の泥土を地上に貼り付けていく加飾技法)で区切り、内外に釉薬が混ざらないように配色する。この場合彫線や、泥土の線は異色の混融防ぐ役目を果たし、いくつかの色彩が対照の妙を発揮する。緑、紫、青、黄、茶等の色がある。
廣燈録(こうとうろく)
天聖廣燈録(てんしょうこうとうろく)。全30巻。「五燈録」の一。李遵勗の編。三十巻。天聖中に編集を始め、景祐三年(1036)に完成。「景コ傳燈録」の後を承け、南岳下九世、青原下十二世までを増補した禅宗史伝。完成と同時に朝廷に上進され、北宋の第四代皇帝・仁宗の「御製序」を賜わって入蔵を許されている。
紅毛焼(こうもうやき)
江戸時代にオランダ船により舶載された陶磁器の総称。阿蘭陀焼、和蘭焼ともいう。鎖国下の江戸時代の日本ではオランダとのみ正式な交易が行われていたため、元来はオランダを意味した「紅毛」「阿蘭陀」「和蘭」は、「西洋」と同じ意味で使われた。オランダのデルフト、イギリスのウエッジウッド、イタリアのマジョリカや、フランス、スペイン、ポルトガル、さらには中近東諸国のものまで含まれる。藍・黄・緑・赤などで胴の前後に煙草の葉を思わせる文様と蔓唐草文楊を描き胴の上段と共蓋の外周に累座が描かれた容器を水指に見立てたものは「莨葉(たばこのは)水指」と呼ばれ珍重され、写しも多い。煙草の葉を輸入する際の容器であったとも言われるが、大中小さまざまな類品があり、水指、花入、茶器、建水、火入などに見立てられている。また、白地や青磁色の無地のものが、水指、建水、火入などに用いられている。
高麗茶碗(こうらいちゃわん)
朝鮮半島で焼かれた茶碗の総称。そのほとんどは李朝時代に焼かれたものであるが、当時、日本では朝鮮のことを高麗と呼んだため、この名がある。「山上宗二記」に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」とあるように利休の時代には高麗茶碗が盛んになる。このころまでに請来されたものには、古雲鶴・三島・刷毛目・狂言袴・堅手・粉引・井戸・熊川・呉器・蕎麦・斗々屋・柿の蔕などがある。慶長年間になると日本の注文によって焼かれた茶碗もあり、御所丸・金海・伊羅保・彫三島などがこの時期の注文茶碗ではないかと推測されている。江戸時代になると、対馬藩が朝鮮釜山の和館内に釜を築き朝鮮の陶工を指導して注文品を焼かせた御本茶碗がある。
紅爐上一點雪(こうろじょういってんのゆき)
「碧巌録」第六十九則に「垂示云。無啗啄處。祖師心印。状似鐵牛之機。透荊棘林。衲僧家。如紅爐上一點雪。平地上七穿八穴則且止。不落〓(上夕下寅)縁。又作麼生。試舉看。」(垂示に云く、啗啄の処なき、祖師の心印、かたち鉄牛の機に似たり。荊棘の林を透る、衲僧家、紅炉上一点の雪の如し。平地上七穿八穴なることは則ちしばらくおく。寅縁に落ちざるは、また作麼生。試みに挙す看よ。)とある。啗啄(たんたく)は、鳥が物を啄ばむこと。鐵牛之機は、夏の禹王が治水のため大鉄牛を鋳て黄河の鎮めとした伝説により、堅固不動の意。寅縁(いんえん)は、連なる縁、連絡、ここでは文字言句をさす。紅炉上一点雪は、紅々と燃える炉のうえに一点の雪が降ってきても一瞬のうちに消えてしまうように、仏心や仏性をもって煩悩や妄想を払いのけることをいう。掛物としては「紅爐一點雪」と書かれることが多い。
香炉釉(こうろゆう)
釉薬の一。樂家二代の常慶がはじめた白い釉で、貫入が細かく黒く入る。香炉に多く使われたために、後世「常慶の香炉釉(こうろぐすり)」と呼ばれた。
孤雲本無心(こうんもとむしん)
「全唐詩」の于〓(由頁)の五言古詩「郡齋臥疾贈晝上人」の一節に「呉山為我高、〓(上雨下言)水為我深。萬景徒有象、孤雲本無心。」(呉山我が為に高く、トウ水我が為に深し。万景ただ象あるのみ、孤雲もと無心。)とある。「釋門正統」「皎然」章に「有詩楙山集。刺史于〓(由頁)序曰。得詩人之奧旨。傳乃祖之青華。江南詞人莫不模範。極於緑情綺靡。故詞多芳澤。師古典制故律尚清壯。其或發明玄理。則深契真如。又不可得而思議也。贈詩云。呉山為我高。〓(上雨下言)水為我深。萬景徒有象。孤雲本無心。」(詩に楙山集あり。刺史于〓(由頁)序して曰く、詩人の奧旨を得、乃祖の青華を伝う。江南の詞人範に模らざるなし。緑情綺靡を極め、故に詞に芳沢多し。古典を師とし故律を制してなお清壮。其れ或いは玄理を発明し、則ち真如と深契し、また得て思議すべからざるなり。詩を贈りて云く、呉山我が為に高く、トウ水我が為に深し。万景ただ象あるのみ、孤雲もと無心。)とある。「圜悟録」に「上堂云。葉落知秋動絃別曲。定光招手智者點頭。承當於文彩未生前。相照向是非得失外。不渉廉纖如何通信。萬景徒有象。孤雲本無心。」(上堂して云く、葉落ちて秋を知り、絃動きて曲を別つ。定光招手し、智者点頭す。まさに文彩未だ生ぜざる前に承け、是非得失の外に向かいあい照らす。廉繊に渉らずして如何に信を通ず。万景ただ象あるのみ、孤雲もと無心。)とある。皎然(こうねん)/盛唐の詩僧、湖州の人、俗姓は謝、字は晝。廉纖(れんせん)/荒っぽいようでいて繊細。
呉器茶碗(ごきちゃわん)
高麗茶碗の一種。御器・五器とも書く。呉器の名は、形が椀形で禅院で用いる飲食用の木椀の御器に似ているためといわれる。一般に大振りで丈が高く見込みが深く、高台は外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされる。素地は堅く白茶色で、薄青みがかった半透明の白釉がかかる。「大徳寺(だいとくじ)呉器」「紅葉(もみじ)呉器」「錐(きり)呉器」「番匠(ばんしょう)呉器」「尼(あま)呉器」などがある。「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎とし帰国の折置いていったものを本歌とし、その同類を言う。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くないが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていない。「紅葉呉器」は、胴の窯変が赤味の窯変を見せている事でその名があり、呉器茶碗中の最上手とされる。「錐呉器」は、見込みが錐でえぐったように深く掘られて、高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名がある。「番匠呉器」は、形が粗野で釉調に潤いがなく番匠(大工)の使う木椀の様とのことでこの名がある。「尼呉器」は、呉器の中では小ぶりで丈が低く、ややかかえ口なのを尼に譬えたという。
古清水(こきよみず)
京焼の一種。一般的には、野々村仁清以後奥田穎川(おくだえいせん:1753-1811)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称する。幕末に五条坂・清水地域が陶磁器の主流生産地となり、この地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前の色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締陶を含む磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もある。
古渓宗陳(こけいそうちん)
天文元年(1532)-慶長2年(1597)。臨済宗の僧。大徳寺第117世住持。別号蒲菴。大慈広照禅師。越前朝倉氏の一族に生まれ、出家後足利学校で学ぶ。笑嶺宗訴の法を嗣いだ。信長の葬儀に導師をつとめる。秀吉が信長の菩提を弔うため建立した総見院の開山。千利休の参禅の師で、利休が大徳寺門前の屋敷に作った四畳半茶室「不審菴」の名は古渓宗陳に庵号をもとめ「不審花開今日春(ふしんはなひらくこんにちのはる)」という禅語からつけられたといわれる。利休は、天正10年(1582)12月28日の朝会で古渓宗陳の墨蹟を掛け、天正16年(1588)9月4日聚楽屋敷において秀吉の怒りにふれ九州に配流される古渓宗陳の送別の茶会を春屋宗園、玉甫紹j、本覚坊同座で開き、天正19年(1591)自刃する前に古渓宗陳宛に道安と連著の「末期の文」という財産処分の遺言を残す。
五家正宗贊(ごけしょうしゅうさん)
南宋の希叟紹曇の撰。宝祐二年(1254)に成る。初祖菩提達磨より、臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼の五家の各派に至る祖師七十四人の略伝を掲げて、各派の宗風の綱要を明らかにし、四六文による賛頌を付す。わが国に伝えられ、貞和五年(1349)に春屋妙葩が天竜寺の雲居庵で刊行し、五山時代より江戸時代に及ぶ僧徒の詩文の手本とされて多くの注釈書が作られた。
碁笥椀(ごけわん)
懐石家具の塗椀の一。飯椀・汁椀とも、落込み蓋で、碁笥底。元禄4年(1691)刊「茶道要録」の「利休形諸道具之代付」には載っておらず、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「黒塗碁笥椀利休形、汁飯椀とも碁笥底、坪平なし。」、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」に、飯椀・汁椀が載り「右内外真黒花塗なり」とある。
心の文(こころのふみ)
村田珠光が弟子の古市澄胤(ふるいちちょういん:1459-1508)に宛てた文。「古市播磨法師珠光此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしゃう(我慢我執)也。こう(巧)者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿躰事共也。こうしゃ(巧者)にハちかつき(近付)て一言もなけ(嘆)き、又、初心の物をはいかにもそた(育)つへき事也。此道の一大事ハ、和漢のさかい(境)をまきらかす事、肝要々々、ようしん(用心)ありへき事也。又、当時、ひゑか(冷枯)るゝと申て、初心の人躰が、ひせん物、しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけ(闌)くらむ事、言語道断也。か(枯)るゝと云事ハ、よき道具をもち、其あちわひ(味)をよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也。又さハあれ共、一向かな(叶)ハぬ人躰ハ、道具にハかか(抱)らふへからす候也。いか様のてとり(手取)風情にても、なけく所、肝要にて候。たゝかまんかしゃうかわるき事にて候。又ハ、かまんなくてもならぬ道也。銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」
「珠光ノ筆蹟」「珠光掛物」などと呼ばれ、正保3年(1646)小堀遠州が奈良の松屋久重の求めにより、表具をなおし、大徳寺の江雪和尚に奥書をしてもらい、自ら箱書をしたためて、久重に与えたという。その後、宝永元年(1704)頃、久重の孫、源之丞久充の代に、大坂の豪商、鴻池道憶に譲られ、近代になって数寄者の平瀬露香が手にし、昭和11年(1936)創元社「茶道」巻五に「心の師の一紙」として最初に取り上げられたが、この時点ですでに写真だけしか存在せず、その後写真の存在もわからなくなっているとされる。「茶道古典全集」には「珠光古市播磨法師宛一紙」、「日本思想体系」には「心の文」として収められている。
古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)
松平不昧が「陶斎尚古老人」の名で刊行した名物道具の図説。版本18冊。天明7年(1787)陶斎尚古老人序。寛政2年(1790)から寛政9年(1797)にかけて江戸須原屋市兵衛から四回にわけて刊行された。茶入の部が、中輿茶入之類5巻(1.唐物。2.古瀬戸春慶。3.藤四郎、藤四春郎慶。4.金華山。5.破鳳。)、大名物茶入之類2巻(1.唐物。2.古瀬戸。)、雑記之部5巻(1.後窯国焼能類、2.天目茶碗之類、3.楽焼茶碗之類、4.茶杓、花入、茶箱、5.水指、釜、硯。)、拾遺之部4巻(1.藤四郎、金華山、破風。2.唐物、古瀬戸、春慶。3.掛物、歌の物、小倉色紙、墨跡。4.香炉、台、盆、香合。)、名物切之部2巻(1.緞子、金欄。2.間道、雑載。)の18巻からなる。実見した茶器には○印をつけ、茶記名・所蔵者・法量・図・付属物およびその図を記している。序に「一凡名物と称するは。慈照相公茶道翫器にすかせ給ひ。東山の別業に茶会をまうけ。古今の名画。妙墨。珍器。宝壺の類を聚め給ひ。なを当時の数寄者。能阿弥。相阿弥に仰せありて。彼此にもとめさせられ。各其器の名と値とを定めしめ給ふ次て。信長。秀吉の二公も。亦此道に好せ給ひ。利休。宗及に仰せて。名を命し値をも定めしめらる。後世是等の器を称して名物といふ。其後小堀遠州公古器を愛し給ひ。藤四郎以下後窯国焼等のうちにも。古瀬戸。唐物にもまされる出来あれとも。世に用ひられさるを惜み給ひ。それかなかにもすくれたるを撰み。夫々に名を銘せられたるより。世にもてはやす事とはなれり。今是を中興名物と称す。それよりしてのち。古代の名物をは。大名物と唱る。」とあり、千利休の時代以前の名品を「大名物」と呼び、小堀遠州によるものを「中興名物」と称するのはこの書による。なお不昧は文化8年(1811)道具商、伏見屋甚右衛門こと亀田宗振に授けた形式を以って「和漢茶壺鑒定(わかんちゃつぼかんてい)」(瀬戸陶器濫觴ともいい、「和漢茶壺濫觴」「和漢茶壺竈分」「和漢茶壺時代分」の3巻からなる)を著し「宝永の頃、数寄者ありて、諸国の茶器ども借覧して、其形を模したるものに合三冊あり、名物はこれと同物にはあらざるなり、今世誤りて名物記三冊物と名づけ、真の名物を弁へざる事を、亀田氏深く嘆き、余に筆記を乞ふ、需に応じ以て三巻の書となし、これを授くるもの也、干時文化八辛未二月」と松平乗邑の「三冊名物記」を非難し、自著の「古今名物類聚」の不備をも書き改めている。
後座(ござ)
中立のある茶事における後半の席。一般的には、中立のあと銅鑼や喚鐘の合図で席入(後入)し、濃茶、後炭と続き、そのあと薄茶が出て後座は終り、客は退出する。「南方録」に「数奇屋ニテ、初座・後座ノ趣向ノコト、休云、初ハ陰、後ハ陽、コレ大法也、初座ニ床ハカケ物、釜モ火アイ衰ヘ、窓ニ簾ヲカケ、ヲノヲノ一座陰ノ躰ナリ、主客トモニ其心アリ、後座ハ花ヲイケ、釜モワキタチ、簾ハヅシナド、ミナ陽ノ躰ナリ、如此大法ナレドモ、天気ノ晴クモリ、寒温暑熱ニシタカイテ変躰ヲスルコト、茶人ノ料簡ニアリ」とあるように、初座の陰に対し陽とされ、茶室の窓に掛けてあった簾を取り外し、茶室の中を明るくする。ふつう床には花が掛けてある。
御所丸(ごしょまる)
高麗茶碗の一種。御所丸の名は、朝鮮との交易に使われた御用船を御所丸船といい、文禄・慶長の役のとき、島津義弘がこの手の茶碗を朝鮮で焼かせ御所丸船に託して秀吉に献上したことからきたという。桃山より江戸期にかけ日本から朝鮮に御手本(切形)を送って焼かせたものを御本といい、古田織部の御本で金海の窯で焼かせたもので「古田高麗」ともいい、御本としては最も古いもの。堅手の一種で「金海御所丸」ともいう。形は織部好みの沓形で、厚手。腰には亀甲箆という箆削りがあり、高台は大きく、箆で五角ないし六角に切られている。高台は釉がかからず土見せ。白無地の「本手」(白手)と、黒い鉄釉を片身替わりに刷毛で塗った「黒刷毛」と呼ばれるものがある。
呉須(ごす)
酸化コバルトを主成分とする染付(青花)に用いられる顔料。中国では青料という。還元焔により藍色を呈し、酸化させると黒味を帯びる。コバルト鉱が風化して水に溶けて沈殿し、鉄、マンガン、ニッケルなどの化合物が自然混合した天然のコバルト混合土。これらの化合物が多いほど黒くなる。日本では産地の浙江省紹興地方が古くは呉の国と呼ばれたため呉州(ごす)と呼び呉須と書いたとされる。元朝(1279-1368)末に、西域よりスマルト(酸化コバルトを4-6%溶かし込んだ濃紺色のガラス)、中国で「蘇麻離青(そまりせい)」と呼ばれる鮮やかな青藍色を発する青料が招来し、景徳鎮で使われたが、明朝成化年間(1465-87)に輸入が途絶え「土青(どせい)」といわれる中国産の黒ずんだ青料が使われるようになる。明朝正徳年間(1506-21)からは、西アジアより「回青(かいせい)」と呼ばれる、明るい青藍色のものが輸入され、嘉靖(1522-66)、隆慶(1567-72)、萬暦(1573-1619)の青花に主として使われる。
呉州、呉州手(ごすで)
明末から清初に中国南部の民窯で輸出用として大量に焼かれた素雑な磁器。呉須とも書く。官窯に比べて、素地は厚く灰白色、透明感のない釉で、畳付(底部)付近に窯に焼き付くのを防ぐ砂が付着した「砂高台(すなこうだい)」で、素朴で素早い筆さばきの絵付けや一気に捻り上げられた器形が、茶人に好まれた。大皿が多いが鉢や碗、香合、水差などもある。茶碗は山水文や丸龍文が代表で山水文の絵が狩野派の粉本により同じ模様が御本茶碗にもあり日本からの注文品。「呉州」の名は呉(中国南部)の焼物というのが通説。「万宝全書」に「呉州手染付」の項が見え「下手の南京もの」、また染付手の良いものは「子昂(すごう)」、良くないものを逆に「ごす」というとあり、同様のことが新井白石の安積澹泊(あさかたんぱく)宛書簡にもある。「塩尻」に「磁器にごすと称する物あり、是我朝の俗語なり、昔趙子昂手書事よし、吾俗能書を手かきと云、此磁器麁薄なり、故に俗に手あしき焼ものをいふより、子昂をかへして昂子手といふ也」、「嬉遊笑覧」に「呉洲手万宝全書染付のあしきを名付たり、手のよきを子昂といふ、其うらなれば、ごすでといふとぞ、新安手簡にも、ごすでは子昂を打返して、手のあしきを申ことヽ申候、是も京都将軍の世の俗語と聞え候とあり、さることもあるべけれど、画焼青をゴスといふ、磁器の青絵なり、よく製法して絵をかき、釉水かくれば青色となれども、元と色黒きもの故、釉水かヽらぬ処は其色黒し、故に藍色の黒みある陶器なれば、ゴス手といひしを、謎の名のやうに取なしたるもの歟。」とある。厳密な産地は特定されずにいたが1994年に福建省平和県で窯址が確認された。顔料は、紅彩を中心に緑釉と青釉の組み合わせ。「呉須赤絵」「呉須青絵(青呉須)」「呉須染付」「白呉須」「餅花手」などがある。
後炭(ごずみ)
茶事において、濃茶が済んだあと、薄茶に移る前に、釜の煮えがおちてくるので、炭を再び加えるために行う炭点前。のちずみ。初炭に対しいう。前の炭が十分残っている場合は省略するほか、朝茶や夜咄では続き薄茶とし、後炭を行わないのが習い。
古瀬戸(こせと)
瀬戸で生産された陶器のうち,鎌倉時代の初めから室町時代の中頃までの施釉陶器(せゆうとうき)を古瀬戸と呼ぶ。。「古今名物類聚」に「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。倭土和薬にてやきたるを古瀬戸といふ。古瀬戸は総名なり。大形に出来たるを大瀬戸と云なり。此手小瀬戸に異なり、小瀬戸といふは小形に出来たるをいふ。此手大瀬戸に異なり、入唐以前やきたるを、口兀、厚手、掘出し手といふ。大名物は古瀬戸唐物なり。誠に唐土より渡たるものをば漢といふ。これは重宝せぬものなり、唐物と混ずべからず。掘出し手といふは、出来悪敷とて、一窯土中に埋みたりしを後に掘出したりとなり。一説には小堀公時代に掘出したるともいふ。総て入唐以前の作は、出来は田夫にて下作に見ゆるなり。古瀬戸煎餅手といふあり、これは何れの窯よりもいづる。窯のうちにて火気つよくあたり、上薬かせ、地土ふくれ出来たるものなり。後唐の土すくなく成たるによりて、和の土を合てやきたるを春慶といふ。春慶は藤四郎が法名なり。二代目の藤四郎作を真中古といふ。藤四郎作と唱るは二代めをさす也。元祖を古瀬戸と称し、二代目を藤四郎と称するは、同名二人つづきたる故、混ぜざるために唱分たるなり。」とあり、
その起源は陶祖加藤四郎左衛門景正(通称藤四郎)による中国製陶法の招来とされ、道元禅師が貞応2年(1222)、明全に従って宋に渡ったとき藤四郎が道元の従者として渡宋し、禅修業の傍ら逝江省の瓶窯鎮で製陶の修業をし、安貞元年(1227)帰国後、尾張の瀬戸に窯を築き、中国風の陶器を焼いたのが始まりと伝えられ、藤四郎が倭土和薬で焼いたものを古瀬戸というとしている。近来は桃山時代以前の瀬戸陶磁器を古瀬戸と概称する場合が多い。「灰釉(かいゆう)」のみが使用された前期(12世紀末-13世紀後葉)、「鉄釉(てつゆう)」が開発され、素地土の柔らかいうちに印を押して陰文を施す「印花(いんか)」、文様をヘラや釘、クシ等で彫り付ける「画花(かっか)」、粘土を器体に貼り付けて飾りにする「貼花(ちょうか)」など文様の最盛期である中期(13世紀末-14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉-15世紀後葉)の三時期に区分されている。前期の「灰釉(はいぐすり)」は、朽葉色の釉薬で戦前一般には「椿手(ちんしゅ)」と呼ばれた。鎌倉後期以降の「鉄釉」は鬼板という天然の酸化鉄を釉薬に混ぜたもので、黒若しくは黒褐色に発色する。今日、この黄釉若しくは黒釉の掛かったものも古瀬戸と称することがある。
古曽部焼(こそべやき)
寛政二年(1790)、京都・清水で製陶技術を習得した五十嵐新平が、攝津国島上郡古曽部村(大阪府高槻市)で開いた登窯。雅味のある茶陶産地として「遠州七窯」のひとつといわれているが、遠州没後の開窯。書体は異なるが、代々「古曽部」の印を用い、江戸後期から明治時代の間、古曽部焼は庶民的な陶器として親しまれたが、四代目信平在世中に窯が廃された。民間のいわゆる地方窯(じかたよう)で、主として日用の雑器(飯茶碗、小皿、湯のみ、土瓶、火鉢など)でしたが、雑器の合間には抹茶椀、水指、菓子鉢、香合、茶托などの茶器も焼かれた。 作風は荒々しく力強い初代、民芸的な二代目、茶器や雑器など積極的に作陶に取り組んだ三代、赤色をだすのがむずかしい辰砂釉を使いこなした四代、それに三代・四代を補佐した三代の弟、弁蔵など、全体的にひなびた味わいがあり、特に茶器は京坂の文人たちにも愛好されている。
古代裂(こだいぎれ)
歴史の古い織物の断片。古い裂地は、飛鳥から奈良時代の染織品で大部分が法隆寺(法隆寺裂)と正倉院(正倉院裂)に遺されている「上代裂(じょうだいぎれ)」。主に宋・元・明といった中国から渡来した金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんとう)など当時の茶人たちに珍重され名物の茶入れや茶碗などの仕覆(仕服)に用いられたことで名付けられた「名物裂」。一般的に歴史の古い裂地を総称する「時代裂(じだいぎれ)」、「古代裂」の語があり、「時代裂」、「古代裂」は広く一般にも用いられ、明確な定義は無い。
壺中日月長(こちゅうじつげつながし)
「虚堂録」に「壽崇節上堂。至人垂化。示有形儀。開滿月之奇姿。蘊山天之瑞相。會麼卓主丈。只知池上蟠桃熟。不覺壺中日月長。」(寿崇節上堂。至人、化を垂れ、形儀ありと示す。満月の奇姿を開き、山天の瑞相を蘊む。会すや卓主丈。ただ池上に蟠桃の熟すを知り、壺中日月長きを覚えず。)とある。至人(じじん)/道を修めて極に達した人。「莊子」逍遙遊の「至人無己」(至人は己なし)から。「後漢書」巻八十二下「方術列傳」費長房に「費長房者、汝南人也。曾為市掾。市中有老翁賣藥、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中。市人莫之見、唯長房於樓上見之、異焉、因往再拜奉酒脯。翁知長房之意其神也、謂之曰、子明日可更來。長房旦日復詣翁、翁乃與倶入壺中。唯見玉堂嚴麗、旨酒甘〓(食肴)盈衍其中、共飲畢而出。」(費長房は、汝南人なり。かつて市掾を為す。市中に売薬の老翁あり、肆頭に一壺を懸け、市を罷るに及び、すなわち壺中に跳び入る。市人これを見る莫かれど、ただ長房楼上に於いて之を見る、異ならんや、因りて往きて再拝して酒脯を奉ず。翁、長房の意その神なるを知り、之に謂いて曰く、子、明日更に来るべし。長房、旦日復た翁を詣る、翁すなわちともに壺中に入る。唯だ見る、玉堂厳麗にして、旨酒甘肴、その中に盈衍するを、共飲おわりて出ず。)に始まり、仙術などの指導を受けたりして、現実の世界に帰ってくると、本人は10日ばかりと思っていたのに、十数年も経っていたという仙話が出典。李白の詩「下途歸石門舊居」(下途、石門の旧居に帰る)に「餘嘗學道窮冥筌、夢中往往遊仙山。何當脱〓(尸徒)謝時去、壺中別有日月天。」(余嘗て道を学んで冥筌を窮め、夢中に往往仙山に遊ぶ。いつかまさに脱〓(尸徒)の時を謝し去るべき、壺中別に日月天あり。)とあり、「壺中」とは壺の中の別天地、仙境のことであり、悟りの妙境という。日月長は、悟りの世界には時間がなく悠々としているとのこと。
古銅(こどう)
古代の銅器、またそれを写した宋元代の銅器。唐物の古い銅器、のち和物にも使われる。胡銅とも書く。大槻文彦の「大言海」には「コドウ古銅銅器ノ製作ノ、年代ヲ歴タルモノ。多ク、支那ヨリ渡レルモノニ云フ」とある。室町時代の辞書「下学集」(1444)に「古銅花瓶、コトウノクワヒン」、同「運歩色葉集」(1548)に、「古銅コトウ」とみえ、「君台観左右帳記」に「繪胡銅の物大事にて候。からかねの色をよく見わけ。文のさしやうにて、心得有べし。無文の物大事にて候。」、「胡銅。紫銅。宣旨銅。」、「山上宗二記」に「一桃尻関白様本は珠光所持也。但し、古銅花入、天下一名物。五通の文を指す。四方盆にすわる。」「一そろり古銅無紋の花入。紹鴎。天下無双花入也。関白様に在り。」、「一槌の花入紫銅無紋の花入、本は紹鴎所持也。四方盆に居わる。関白様より上る。本御所様に在り。」とあり紫銅を区別し、「大言海」に「シドウ紫銅カラカネ」とある。「烏鼠集(うそしゅう)」に「古銅の物かなはたさくりとしたるハ漢也、又ためぬるりとしたるハ和、き扨見事なるハ漢、轆轤め有ハ和」とある。明の張謙徳(1577-1643)の「缾花譜」に「銅器之可用挿花者、曰尊、曰罍、曰觚、曰壺、古人原用貯酒、今取以挿花、極似合宣、古銅缾鉢、入土年久、受土氣深、以養花、花色鮮明、如枝頭、開速而謝遅、或謝則就缾結實、若水秀傳世古則爾、陶器入土千年亦然」とある。
五燈會元(ごとうえげん)
中国南宋代に成立した禅宗の灯史(禅僧史)。全20巻。中国の宋時代に編まれ皇帝の勅許によって入蔵を認められた「五燈録」と総称される灯史五書を整理要約して一書とした最も総合的な禅宗通史。慧明首座の編。淳祐12年(1252)に成り、翌年に刊行。七仏より宋に至る間の、五家七宗各派の伝灯相承の次第と機縁の語句を宗派別に録している。
後藤塗(ごとうぬり)
讃岐漆器(香川漆器、高松漆器)の加飾技法の一。「梧桐塗」とも書く。明治30年頃に、旧高松藩藩士・後藤太平(1853-1923)が考案したもの。黒漆で中塗して、中研をした上に、朱漆をヘラを使って薄く塗り、乾かないうちに指先で塗面を叩き凹凸の模様を付け、2、3日乾かしてから、伏塗といって、透漆を薄く塗り込み、炭研ぎ、艶上げをしたもの。完成直後は全体的に黒っぽく朱色がわずかに見える程度だが、年数が経つにつれて伏漆が透明度を増し、凹部に漆が厚く溜り、凸部の漆は研磨されて薄くなり、朱色が鮮やかに発色し、伏漆に濃淡が現われ、朱色が透明度を増し、美しい光沢と深みが増し、使うほどに味が出る。
五燈録(ごとうろく)
「五燈録」は、中国の宋時代に編まれ皇帝の勅許によって入蔵を認められた、宣慈禅師道原編の「景徳傳燈録」(1004)、李遵勗編の「天聖広燈録」(1036)、仏国惟白編の「建中靖國続燈録」(1101)、晦翁悟明編の「宗門聯燈會要」(1183)、雷庵正受編の「嘉泰普燈録」(1204)の五書を総称していう。
五徳(ごとく)
炉・風炉中に据えて釜を載せる器具で、鉄製と土製がある。輪に三本の柱が立ち、釜が掛けやすいよう先端が内側に曲がり爪状になる。爪の形により、小爪・中爪・長爪・鴨爪・蝮爪・平爪・銀杏爪・瓦爪・笹爪・芋爪・法蓮爪などの名がある。炉の五徳は大ぶりで下部の輪は円形になっている。風炉の五徳は小ぶりで下部の輪の一部が切れていて、前土器を立てやすいようになっている。初期の風炉は切掛や透木を用いたので風炉に五徳を据えるようになったのは後のこととなる。稲垣休叟の「茶道筌蹄」に「昔ハ台子切懸け、土風炉にても透木を用ゆ、紹鴎時代より五徳を用ゆるならん」とある。もともとは輪の部分を上にして使用していたものを茶湯で用いるようになってから爪を上にして用いるようになった。
五徳蓋置(ごとくふたおき)
七種蓋置の一。炉や風炉中に据えて釜を載せる五徳をかたどった蓋置。透木釜、釣釜を使う炉の場合や、切合の風炉の場合など、五徳を使用しない場合に用いる。三本の爪のうちひとつだけ大きな爪がある場合は、それを主爪という。置きつけるときは、輪を上にして、主爪があればそれを杓筋に向ける。棚に飾るときは、輪を下にして、主爪が客付側手前にくるように飾る。
小棗(こなつめ)
棗の一。棗の小ぶりなもので、濃茶器として用いる。茶杓で何杓か入れたあと、茶碗の縁で茶杓を一つ打って櫂先の茶を払ってから茶碗にあずけ、小棗を傾け、右手を添えて、茶入のように回さずに、残りの茶を入れる。茶入は高価でなかなか持てないため、数奇者が茶入の代用として小棗を用いたともいい、真塗が基本で中棗や大棗のように蒔絵が施されることはない。「正伝集」に「棗の茶入は、茄子の化也。故に肩衝に濃茶を入る時は、薄茶は必棗に入て用る也。宗易或時、小棗に濃茶を入て袋を掛、中次に薄茶を入、茶点し事あり。惣て古は、焼物の本茶入は、細々小座敷へ出す事なく、棗中次等を専ら出せしと也。」とある。
爲此春酒以介眉壽(このしゅんしゅをつくり、もってびじゅをたすく)
「詩經」の、周南・召南・邶・鄘・衛・王・鄭・斉・魏・唐・秦・陳・檜・曹・豳の15の国の民謡を集めた「風(ふう)」即ち15「國風」のうちの「豳風(ひんぷう)」7篇のうち「七月」篇の7章77句のうち1章「六月食鬱及萸、七月亨癸及菽、八月剥棗、十月穫稻、爲此春酒、以介眉壽。七月食瓜、八月斷壺、九月叔苴、采茶薪樗、食我農夫。」の一節。「豳(山+豕豕)(ひん)」は、鄭玄の「詩譜」に「豳は后劉の曾孫公劉なる者、邰より出でて徒りし所の戎狄の地名、今、右扶風〓(木旬)邑に属す。」とあり、「周禮」に「龡章。掌土鼓、豳龡。中春、晝撃土鼓、吹豳詩、以逆暑。中秋、夜迎寒、亦如之。凡國祈年于田祖、吹豳雅、撃土鼓、以樂田o。國祭蜡、則吹豳頌、撃土鼓、以息老物。」とあるのは、この七月篇をいう。「春酒」は、後漢の鄭玄(127-200)の「毛詩鄭箋」に「春酒、凍醪也」とあり、唐の孔穎達(574-648)の「毛詩正義」は「醪は是れ酒の別名なり。此の酒は凍時に之を醸す。故に凍醪と称す」と、冬に醸した酒の意。「眉壽」は、「毛詩鄭箋」に「眉壽、豪眉也」とあり、屈萬里は「眉壽は高壽なり。高年なる者は毎に豪眉有り、故に云う」と、長寿の意。
粉引(こひき)
朝鮮陶器の装飾方法の一つ。本来は、鉄分の多い素地に白泥(泥状の磁土)をずぶ掛けし、高台(こうだい)裏をも含む素地全面に白化粧を施し、そのうえに薄く透明釉を掛け、やや還元気味で焼き上げたもの。白い粉が吹き出したように見えるところから、粉引と呼ばれる。粉吹とも書く。李朝初期から中期にかけて全羅南道の長興、宝城、高興、順天で焼かれていたとされる。土に鉄分が多く黒いため白く化粧がけをしたもので、背景には、「御器は白磁を専用す」とされたように、白磁が国王専用の御器として一般庶民の使用を禁じたため、白磁の代用として焼かれたと思われる。その後、1602年に王朝の官僚に使用が許され、1720年には一般人にも許可されるようになり、19世紀には白磁が大衆化し、粉引は姿を消してゆく。 粉引は、釉薬の下にまた別の土の層があるため、独特の柔らかな釉膚で白い色調があたかも粉を引いたように見える。胴の一部に釉薬がかからず土が見える部分で、特に褐色に発色しているものを「火間(ひま)」といい古来粉引の見所とされる。また長く使い続け釉の上に「雨漏り」と呼ばれるしみができたものも景色として好まれる。素地と釉薬が直接触れていないために強度的には弱い。
茶碗では「三好粉引」「松平粉引」が著名。なお、高台まで白化粧されていないものは「無地刷毛目」と呼ぶ。
粉引唐津(こひきからつ)
唐津焼の技法のひとつで粉引の技法を用いたもの。褐色の粘土を使い、素地に白泥の化粧土を掛け、乾燥させた後に透明釉を掛けて焼成したもの。表面が白く粉を吹いたようにみえる。粉吹きともいう。
古備前(こびぜん)
備前焼のうち、鎌倉時代から桃山時代までの作品。また、塗り土された、いわゆる伊部手とよばれる作品より以前の、江戸時代初期に焼かれたものも含めて古備前と呼ぶこともある。
古筆(こひつ)
昔の人の筆跡。特に、平安時代から鎌倉時代にかけての能筆家の筆跡。古筆の呼称は、尊円親王(1298-1356)の文和元年(1352)「入木抄(じゅぼくしょう)」に「其筆仕の様は、古筆能々上覧候て可有御心得候。」とあるのが初見という。主に和様書道の草仮名のものにいう。古筆切・懐紙・色紙・詠草・短冊などの形状がある。「古筆切(こひつぎれ)」は、巻物、帖などの断簡。ほとんどが勅撰や私撰の和歌集を能筆家が書き留めたもので、桃山時代から江戸時代初期にかけて茶湯が盛んになるにつれ古筆が愛好され、巻子や冊子の歌集などが、手鑑に押したり、幅仕立に適する大きさに切断された。「寸松庵色紙」「継色紙」「八幡切」「石山切」「高野切」等がある。「逢源斎書」に「一、恋の哥ハかけ候事、休不被成候、定家ニも三幅在之、○わたのはらふりさき見れはかすかなる三笠の山に雪ハふりつゝ○八重もぐらしげれるやどのさびしさに○こぬ人をまつほの浦の夕なきにやくやもしほの身もこかれつゝ」、「茶道要録」に「恋の歌は必ず不用」とあり、古筆でも恋歌は使用しないこととされる。
古筆家(こひつけ)
古筆の鑑定を業とした家。古筆了佐(1572-1662)が初祖。古筆了佐は、江州西川の人。姓は平澤、初名は弥四郎、長じて範佐、出家して了佐と称す。関白太政大臣近衛前久に古筆目利(鑑定)を伝授され、烏丸光広に和歌を学ぶ。関白豊臣秀次より「古筆」を家号とするよう命じられ、「琴山」(きんざん)と刻した印を賜り、以後代々極印として用いる。また、了佐の三男勘兵衛は江戸に出て、京都の本家とは別に古筆別家をたてた。本家五代了a、六代了音、別家三代了仲は、幕府の寺社奉行支配の古筆見職に任じられた。
古筆家歴代。初代了佐(りょうさ)、号は正覚庵檪材、寛文2年(1662)没。
小袋棚(こぶくろだな)
桐木地でできた四本柱の小棚で、利休袋棚(志野棚)の左側だけを独立させて棚にしたもの。官休庵4代直斎好み。炉の場合にのみ使用する。袋の戸はけんどん蓋になっていて、中に水指を入れる。けんどんを開けて棚の勝手付にとり、水指を半分出して使う。
初飾りには、戸袋の上に茶器、戸袋の中に平水指を飾り、後飾りでは柄杓を棚の天板の勝手付寄りに縦に、蓋置を柄杓の右横手前、水指を戸袋の中に戻し、茶器を戸袋の上に飾る。 利休袋棚はその間口が畳の幅と同程度のいわゆる大棚だが、これから変化した小棚には、利休袋棚の右側だけを棚にした二重棚、利休袋棚の中央の部分を横に取った官休庵5代一啜斎好みの自在棚(じざいだな)がある。
枯木倚寒巖(こぼくかんがんによる)
「聯燈會要」に「昔有婆子。供養一庵主。經二十年。常令一二八女子。送飯給侍。一日令女子。抱定云。正恁麼時如何。主云。枯木倚寒巖。三冬無暖氣。女子舉似婆。婆云。我二十年。只供養得箇俗漢。遂遣出。燒卻庵。」(昔、婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり。常に一の二八女子をして、飯を送りて給持せしむ。一日女子をして抱き定め云わしむ、正に恁麼の時如何と。主云く、枯木寒巌に倚る、三冬暖気無し。女子婆に挙似す。婆云く、我れ二十年、ただ箇の俗漢に供養せしかと。遂に遣出して、庵を焼却す。)とある。昔、婆さんがいて、ひとりの修行僧を二十年世話していた。いつも二十八歳の娘に飯の給仕をさせていた。ある日、娘を抱き付かせて、さあどうするの、と言わせた。僧は、枯木が凍りついた岩に立っているようなものだ。真冬に暖気などない(私には色気など無い)、と言った。娘は婆さんにありのままに伝えた。婆さんは、こんな俗物の世話をしていたのかと言って、その僧を追出して、庵を焼き捨てた。
小堀遠州(こぼりえんしゅう)
江戸時代の茶人・大名。建築家、造園家としても著名。天正7年(1579)-正保4年(1647)。幼名を作介、元服の後、正一(のち政一)、号は宗甫、孤篷庵。小堀氏は近江国坂田郡小堀村(長浜市)の草分けの土豪。父の新介正次はもと浅井長政の家臣で、浅井家が織田信長により滅亡後、長浜城主の秀吉に仕え、その弟の秀長に配属されて家老となり、天正13年(1585)姫路から大和郡山城に移る。作介もこのとき郡山城に入り、同16年には秀長訪問の利休の茶湯に給仕したともいう。文禄4年(1595)郡山豊臣氏が廃絶したので父とともに秀吉の直臣に復帰し、伏見六地蔵に移った。この頃、古田織部に茶道を学び、籐堂高虎の養女を娶り、春屋宗園に参禅して宗甫の法名を授かる。関ヶ原の戦いで正次は徳川家康に通じ、その功により備中松山城を賜り、備中代官として松山に赴く。慶長9年(1604)父の死後、26歳で遺領1万2千石を継いだ。慶長13年(1608)には駿府城普請奉行となり修造の功で従五位下遠江守に叙任される。この官位により遠州と呼ばれる。元和5年(1619)近江小室藩に移封。元和7年(1621)二代将軍徳川秀忠に点茶の指南をする。元和9年(1923)伏見奉行となり、二条城修築や大阪城本丸御殿の作事奉行に当たるなど、建築家・造園家としても名を馳せた。晩年は三代将軍徳川家光に仕え、茶の湯三昧に過ごし、その茶の湯は「きれいさび」と称されている。正保4年2月6日、伏見奉行屋敷で69歳の生涯を閉じた。遠州の茶道は遠州流として続いている。
御本(ごほん)
御本とは「御手本」の意で、17-18世紀にかけて、日本で作られた手本(茶碗の下絵や切り形)をもとに朝鮮で焼かれた茶碗を御本茶碗と呼ぶ。これらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手(ごほんで)と呼ぶこともある。
寛永16年(1639)の大福茶に細川三斎の喜寿を祝おうと、小堀遠州が茶碗の形をデザインし、三代将軍家光が立鶴の下絵を描きこれを型にして前後に押して白と黒の象嵌を施した茶碗を対馬藩宗家を取りつぎに釜山窯で焼かせた。この茶碗を「御本立鶴茶碗」といい、御手本から始まったことから御本とよばれた。釜山窯は、寛永16年(1639)、朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で本来の名称は「和館茶碗窯」という。大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮の陶工を指導して注文品を焼かせた。古い高麗茶碗を基としつつも、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造され、対馬宗家を通じて徳川家ほかの大名に送られた。元禄をすぎるとしだいに陶土の集荷が困難になり、享保3年(1718)に閉窯。
胡麻(ごま)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。窯焚きのときに薪の灰が器物に降り掛かり、高温により溶けて、釉薬化したもの。胡麻を振りかけたように見えるので、胡麻と呼ばれる。置き場所などの条件により色々な「胡麻」が出来る。「かせ胡麻」は成温度が低い場所で出来る胡麻、備前の方言でかせている(触感がガサガサしている)からきた呼び名でしばしば緑がかった色になる。焼色の違いにより「メロン膚」「えのき膚」と呼ばれる物もある。「流れ胡麻」焼成温度が高い場所(火前)で出来る胡麻で、降り掛かった灰が熔けて流れ落ちているもの、「玉だれ」とも。「微塵胡麻」微塵粉を撒いたかの様な小さな粒状の胡麻で耐火度のやや高い土に、松灰が薄くかかった時に出来やすい。「黄胡麻」酸化焼成で松灰中の鉄分が発色したもの。
駒沢利斎(こまざわりさい)
千家十職の指物師。駒沢家は、初代宗源が延宝年間に指物業を始め、四代のときに表千家六代覚々斎の知遇を得て千家出入りの茶方指物師となり「利斎」の名を与えられ、以後、代々これを名乗る。
初代宗源生没年未詳名は宗源、通称は理右衛門。二代宗慶寛永5年(1628)-元禄6年(1693)通称は理右衛門。三代長慶不明-貞享3年(1686)通称は利兵衛、理右衛門。四代利斎延宝元年(1673)-延享3年(1746)三代の婿養子。表千家六代覚々斎の知遇を得て千家出入りの茶方指物師となり「利斎」の名を与えられ、初めて「利斎」を名乗る。歴代の墓地を妙顕寺に移し日蓮宗に改宗。宗源、宗慶、長慶を家祖三代とし利斎としての初代。五代利斎宝永4年(1707)-宝暦14年(1764)丸に「り」の字の印判を使い始め、代々継承している。六代利斎元文4年(1739)-享和3年(1803)隠居後「春斎」を名乗る。七代利斎明和7年(1770)-安政2年(1855)六代利斎の婿養子。名は信邦。通称は茂兵衛。表千家九代了々斎より「曲尺亭」の号を、天保11年(1840)隠居の際に表千家十代吸江斎より「少斎」の号を授かる。塗師としても名工で「春斎」の号を用いた。
独楽塗(こまぬり)
漆塗の一。朱・黄・緑などの彩漆(いろうるし)を同心円状に色分けして塗り、文様としたもの。さらに、その上に針彫や金蒔絵を施したものもある。明代頃から造られたものといわれ、日本でも江戸時代に香合・盆・莨入・茶器・菓子器など盛んに模作された。高麗塗。
熊川(こもがい)
高麗茶碗の一種。熊川の名は、慶尚南道の熊川という港から出たもので、その近くの窯で出来たものが熊川から積み出されたためという。「熊川なり」という形に特徴があり、深めで、口べりが端反り、胴は丸く張り、高台は竹の節で比較的大きめ、高台内は丸削りで、すそから下に釉薬がかからない土見せが多い。見込みの中心には「鏡」「鏡落ち」または「輪(わ)」と呼ぶ小さな茶溜りがつくのが一般的。また釉肌に「雨漏り」が出たものもある。「真熊川(まこもがい)」「鬼熊川(おにこもがい)」「紫熊川(むらさきこもがい)」などの種類がある。「真熊川」は、作風は端正でやや深め、高台も高く、素地が白めのこまかい土で、釉は薄い枇杷色、柔らかく滑らかで細かい貫入がある。古人は咸鏡道(かんきょうどう)の熊川の産と伝えて、真熊川のなかで特に上手のものを、その和音を訛って「かがんどう(河澗道・咸鏡道)」とか「かがんと手」と呼ぶ。「鬼熊川」は、真熊川にくらべ下手で、荒い感じがあるのでこの名がある。形はやや浅めで高台が低く、見込みは広いものが多く、鏡が無いものもある。時代は真熊川より下るとされる。「紫熊川」は、素地が赤土で釉肌が紫がかって見えるもの。
今日庵
裏千家の代名詞「今日庵」名前の由来となった逸話。
京都市上京区にある小川通は南北に走る閑静な道です。時折、静寂を破るようにして、小鳥のさえずる声が響き渡ります。裏千家の表門である兜門(かぶともん)は、この小川通に面して、個性的な風貌を見せています。数寄屋(すきや)造りの侘(わ)びた風情をたたえるこの門をくぐった先にあるのは、利休を祖父に持つ三代宗旦(そうたん)が建てた茶室「今日庵」。その名称となった逸話をご存じですか?
宗旦は不審菴(ふしんあん)を三男の江岑宗左(こうしん・そうさ)に譲り、隠居所として今日庵を建てました。席開きの日、参禅の師である清巌(せいがん)和尚を招いたのですが、刻限を過ぎても和尚は現れません。やむなく「明日おいでください」という伝言を残してほかの用事で出かけました。宗旦の留守の間に和尚がやってきて、茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをきせず)」と書きつけて帰りました。「怠け者の私は明日と言われても来られるかどうかわかりません」という意味から、宗旦はこの茶室を今日庵と名付けたと、いわれています。
洞庫(どうこ)を備えた一畳台目という、茶室の構成を極限まで切り詰めた草庵の茶室。向板(むこういた)にこぶし丸太の中柱を建て、袖壁を付けています。
      

 

西行(さいぎょう)
院政期から鎌倉時代初期にかけての歌人。元永元年(1118)-文治6年(1190)。俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)。藤原秀郷(俵藤太)の流れをくむ父左衛門尉佐藤康清と母源清経女の嫡子として生まれる。保延元年(1135)に兵衛尉に任ぜられ、同三年(1137)鳥羽院の北面の武士であった。その翌年23歳で妻子を残し出家して円位を名のり、のち西行とも称した。各地を漂泊、多くの和歌を残した。勅撰集では詞花集に初出。千載集に18首、新古今集に94首をはじめとして二十一代集に計265首が収められる。家集に「山家集」「山家心中集」「聞書集」がある。後鳥羽上皇の歌論書「後鳥羽院御口伝」に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とある。
彩鳳舞丹霄(さいほうたんしょうにまう)
「聯燈會要」の「成都府昭覺克勤禪師」章に「師同佛鑑佛眼。侍五祖於亭上。夜坐。歸方丈。燈已滅。祖暗中云。各人下一轉語。鑑云。彩鳳舞丹霄。眼云。鐵蛇古路。師云。看脚下。祖云。滅吾宗者。克勤爾。」(師、佛鑑、佛眼と、亭上に五祖に侍し、夜坐、方丈に帰るに、灯已滅す。祖、暗中に云く、各人一転語を下せと。鑑云く、彩鳳、丹霄に舞う。眼云く、鉄蛇、古路に横たわる。師云く、脚下を看よ。祖云く、吾宗を滅する者は、克勤のみ。)とある。「禅林句集」の注には「正宗贊圓悟章」とあり「五家正宗贊」を挙げる。「五家正宗贊」の「圓悟勤禪師」章には「師一日同懃遠侍東山。夜坐欲歸。月K。山令各下一轉語。懃曰。彩鳳舞丹霄。遠曰。鐵蛇古路。師曰。看脚下。山曰。滅吾宗者。克勤耳。」(師、一日、懃と遠と東山に侍し、夜坐帰らんと欲す。月黒く、山、各一轉語を下せと令す。懃曰く、彩鳳、丹霄に舞う。遠曰く、鉄蛇、古路に横たわる。師曰く、脚下を看よ。山曰く、吾宗を滅する者は、克勤のみ。)とある。「皇明名僧輯略」に「徴三人之語。還有優劣也無。若道無優劣。五祖何以恁麼道。若道有優劣。什麼處是優劣處。」(三人の語を徴するに、還って優劣の有りやまた無しや。若し道に優劣なくば、五祖何を以ってか恁麼にいう。若し道に優劣あらば、什麼の処これ優劣の処か。)とある。彩鳳/五色の羽をもつ鳳凰。丹霄/澄み切った大空。懃遠/佛鑑慧懃と佛眼清遠。
菜籠(さいろう)
竹を編んでつくった籠炭斗の総称。元来は野菜などを入れるために作られた籠に、内張りや漆塗りを施し、炭斗に取りあげたもの。和物・唐物があり、四季を通じて用いる。扁平なものを平菜籠(ひらさいろう)、手のついたものを手菜籠(てさいろう)という。
坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)
萩焼の深川窯窯元。萩焼の創始者季勺光の孫、山村平四郎光俊が三之瀬焼物所惣都合〆となり大津郡深川村ふかわ三ノ瀬に明暦3年(1657)「三ノ瀬焼物所」を開設、これを深川焼あるいは三ノ瀬焼と呼ぶ。深川では御用窯ながら自家販売が認められ、元禄6年(1693)には庄屋の支配に変わり民窯としての性格が強くなる。六代藤左衛門の時に坂倉と改姓。
酒津焼(さかづやき)
岡山県倉敷市で焼かれる陶器。明治2年(1869)倉敷新田の豪商であった岡本末吉(1833-1908)が倉敷市鶴形山の麓に窯を築き阿知窯と名付けて趣味的な陶作をはじめたが、明治9年(1876)倉敷市酒津の兜山(酒津山)の土が陶土として良質であることを知り、この山の麓に窯を移した。これが当時、加武登焼、甲山焼ともよばれた酒津焼きはじまりで、当初は食器など日用雑器を焼き、明治後半から大正にかけて、末吉の長男の二代岡本喜蔵(1858-1920)の時最盛期を迎え、岡山県から香川県高松の周辺まで出荷されていたという。しかし、大正末期から不況の波が押し寄せ、有田や瀬戸の安価な磁器に押され、経営は悪化の一途をたどった。しかし昭和7年から昭和12年にかけて、倉敷紡績の設立者で民芸運動の後援者でもあった大原孫三郎と交友のあった、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次朗、バーナード・リーチ、富本憲吉など、民芸運動の指導者達が相次いで訪れ指導し、花器や茶器などの民芸陶器が主流となる。鉄分の多いざっくりとした陶土を用い、厚手の作りで、灰釉を主として、鉄釉、海鼠釉などの皿、徳利、茶器などを焼成している。
相良間道(さがらかんとう)
名物裂の一。相良間道と称する裂は二種類に大別され、一つは黄と紺の太縞に梅鉢紋を、赤と白の太縞には丸と菱紋または唐草紋を浮かせ、それぞれの太縞の間を白・青・黄などの組縞が十二、三本を一組として区切ったもの。もう一つは縹・浅葱・白・黄・赤などの大小縦縞の間に唐草文様のあるもので、唐草文様は経の浮糸により織り出された経浮織。「古今名物類聚」に「はしり井袋二一表さから廣東裏海黄緒つかり紫」とあり中興名物「走井(はしりい)茶入」の仕覆として用いられている。「古今名物類聚」にみえるのは、縹・萌黄・黄・白の細縞の間に赤地に黄の唐草文。名称の由来は不詳だが、平将門追討に功のあった藤原為憲の後裔が遠江国榛原郡相良庄に住み相良を称し、源頼朝に肥後球磨郡人吉庄の地頭職に補任されて以来の名族で肥後人吉城主2万2千石の相良氏に由来するともいう。
砂金袋(さきんぶくろ)
首がくびれ、胴から尻部分にかけて下膨れになった形状の器物。砂金を入れる袋に見立てて呼んだもの。香合、水指に見られ、花入、建水などにもある。祥瑞砂金袋水指が著名。
佐久間将監(さくましょうげん)
江戸前期の武人・茶人。元亀元年(1570)-寛永19年(1642)佐久間河内守政実の長子。名は実勝・直勝。号は寸松庵。河内守、伊予守あるいは将監とも称された。初め秀吉の小姓を務め、後に徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた。慶長9年(1608)従五位下伊予守に叙任。後に御使番に列せられ、寛永9年(1632)作事奉行となり、同10年(1633)に2000石を賜る。茶は古田織部に学んだといわれる。晩年は大徳寺龍光院内に寸松庵を建てて隠居所とした。堺・南宗寺より手に入れ寸松庵で愛蔵した紀貫之筆と伝えられる十二枚の色紙は寸松庵色紙と称され名高い。
栄螺蓋置(さざえふたおき)
七種蓋置の一。栄螺の形をした蓋置。栄螺貝の内部に金箔を押したものを使ったのが最初と言われる。のちにこれに似せて、唐銅や陶磁器でつくたものを用いるようになった。置きつけるときは口を上に向けて用い、飾るときは口を下に向けて飾る。「茶道筌蹄」に「栄螺大は真鍮、千家にては用ひず、小は唐金、利休所持」とある。
差替(さしかえ)
建水の一。利休所持。楽焼で、一重口の筒形で捻貫の建水。大脇指と同形で小振りのもの。本歌は長次郎作といわれ、底裏に宗旦の直書、内箱に直斎の「利休さし替水こほし長次郎造」の書付、外箱に碌々斎の書付がある。「茶道筌蹄」に「利休所持さしかへは捻貫也加州公御所持」、「千家茶事不白斎聞書」に「水こぼし利休銘大脇指、黄瀬戸百会茶に出る名物也、楽焼に写」、「茶道望月集」に「楽焼に利休の大脇指とて、真録にツヽ立て、ひとへ口にて、ロクロメ有建水、長次郎に始て好にて器にして焼かせたると也、本歌は黒楽と也、小形成を小脇指とて用るは後世の事也、名は黒楽にてロクロメあれば、脇指の割さやに似たる故の名ぞと也」とある。
茶通箱(さつうばこ)
茶道具の一種。水屋の棚の上に置いておく桐の箱。予備の茶入などを入れる。もとは抹茶を持ち運ぶ通い箱。現在では二種の濃茶を客にもてなす時の点前に用いる箱。また、珍しい茶や、客から茶を貰った時に、亭主が用意の茶と客から到来の茶との二種類の濃茶を点てる点前をいい、棚を用いる。利休形茶通箱は、用材が桐で寸法は大小伝えられているが、いずれも薬籠蓋になっている。「源流茶話」に「茶通箱に大小の茶桶を取組、大津袋をかけ、両種だて致され候ハ利休作意にて候」とある。「南方録」に「人の方へ茶を贈る時、持参することもあり、先だつて持せつかはすこともあり。濃茶うす茶両種も、また濃茶一種も、また濃茶ばかり二種も、それぞれの心持しだいなり。薄茶は棗、中次の類なり。箱は桐にて、蓋はさん打なり。緒は付けず、白き紙よりにて真中をくヽりて封をする。封の三刀と云こと、秘事なり。大小は茶入に依て違べし。」、稲垣休叟(1770-1819)の「茶道筌蹄」に「茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾眞臺子右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、「茶式花月集」に「一傳授之分茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾」とある。
薩摩焼(さつまやき)
薩摩藩領内で朝鮮陶工の焼いた陶磁器の総称。文禄・慶長の役(1592-98)に出陣した島津義弘(しまづよしひろ:1535-1619)が朝鮮から連れ帰った陶工たちに開窯させたことに始まる。薩摩の鉄分の多い土と釉薬を使い茶褐色に焼きあがる日用雑器の「黒薩摩」(黒もん)と、朝鮮から携えた白土と釉薬を用いた「火計り(ひばかり)」(火だけが薩摩の意)に始まり、のち領内に発見された白土を用い藩主専用品であった「白薩摩」(白もん)の二系統がある。朝鮮陶工たちは、慶長3(1598)年に串木野島平、市木神之川、鹿児島前之浜に上陸したとされる。串木野上陸の朴平意(ぼくへいい)が慶長4年(1599)串木野で最初の窯を開き、慶長8年(1603)市来に移り苗代川窯を開き、黒もんを焼いたが寛永元年(1624)白土が発見されると白もんも焼く。神之川上陸の金海(星山仲次)は義弘の居地帖佐(ちょうさ)に召出され慶長6年(1601)宇都(うと)窯を築き、慶長12年に義弘の加治木移住に同行し御里窯を、義弘の死後18代を継いだ家久(忠恒:1576-1638)に召出され鹿児島の竪野に冷水窯を開き、島津家の官窯となり、慶安元年(1648)有村碗右衛門が上洛し仁清の御室窯で錦手を学び、文政10年(1827)重久元阿彌が京都の仁阿彌道八のもとで赤絵の具の上に金彩を焼き付ける手法を習い色絵に金彩が加わった薩摩錦手が確立し、慶応3(1867)年のパリ万国博覧会において注目された。
茶道筌蹄(さどうせんてい)
江戸時代の茶書。文化13年(1816)稲垣休叟の著。弘化4年(1847)刊。五巻。巻一:和漢の茶の起源。茶会、点前、茶室、水屋道具、棚物、七亊、釜師など十八項。巻二:掛物、茶人、僧侶、大徳寺世代、和漢画家、連歌師など八項。巻三:細工師、好み物など二十一項。巻四:水指、茶入など十項。巻五:茶碗、茶杓など十一項。別に「後編聞書」として川上不白の「如心斎口授」に休叟が傍注をほどこした甲乙二巻を加え七巻とする。稲垣休叟(いながききゅうそう)は、江戸後期の大坂の茶人。明和7年(1770)-文政2年(1819)。号は竹浪庵・黙々齋等。表千家八世卒啄斎の弟子。著書に「松風雑話」「茶祖的伝」等がある。
砂張(さはり)
金工で用いられる銅と錫の合金。佐波理。たたくと良い音がすることから響銅とも書く。金属鋳物の中でも最も高度な技術が必要であるとされる。語源は朝鮮半島にあるといわれ、「沙布羅(さふら)」という新羅語の転訛したもの、この合金で作られた碗形の食器「砂鉢(さばる)」から出たという説などがあり、「佐波理」「紗波理」「砂張」等様々な字が当てられている。日本では奈良時代にこの合金の食器があり、正倉院宝庫に砂張製の水瓶・皿・匙など多数の僧具・食器がある。奈良時代の砂張は黄白色であり、現在は鉛白色である。安土桃山時代以後、茶の湯で花入・水指・建水などに用いられ、音色が良く余韻の長い砂張製の銅鑼は茶事などで使用されることが多い。。「嬉遊笑覧」には、「東雅に和名抄に唐韻を引て〓(金少)鑼銅器なり、〓(金少)鑼音与沙羅同、俗云沙布羅、今按、或説言新羅金椀、出新羅国、後人謂之雑羅者、新之訛也、正説未詳と注せり。さふらとはもとこれ新羅の方言なり、即〓(金少)鑼なり雑羅の儀にはあらず、即今も朝鮮より此器を出せり、俗にサハリといふはさふらの音の転じたる也といへり。」とある。
茶話指月集(さわしげつしゅう)
利休の孫である千宗旦(1578−1658)が、その高弟「宗旦四天王」の一人、藤村庸軒(ふじむらようけん/1613-99)に伝えた逸話を、庸軒の門人で女婿の久須見疎安(くずみそあん/1636-1728)が筆録、編集したもので、庸軒没後の元禄14年(1701)に板行された茶書。
左入(さにゅう)
楽家6代。貞享2年(1685)-元文4年(1739)。大和屋嘉兵衛の子として生まれ、のち宗入の婿養子となる。宝永5年(1708)6代吉左衛門を襲名。亨保13年(1728)剃髪隠居して左入と号す。概して作りが丁寧で、口作りは変化が少なく、茶溜りは円に近く浅い。黒楽には宗入のカセ釉風のものがあり、赤樂では白い釉の混じったものや貫入のある釉などがある。長次郎、道入、光悦などの写しものにも優れる。表千家七代如心斎銘の左入二百の茶碗が有名。印は、輪郭いっぱいに楽字が書かれている。
更紗(さらさ)
文様染めの布地のこと。通常は木綿布に手描き、木版染、銅版染、蝋防染などで模様を染めつけたものだが絹やその他の布のものもある。砂室染、暹羅染、沙羅染、沙羅陀、更多、佐羅佐、華布などの字が当てられる。起源はインドにあるといわれ、更紗の語はポルトガル語で木綿布を意味する「saraca」に由来するという。南蛮船により印度(インド)、波斯(ペルシア)、暹羅(シャム)、爪哇(ジャワ)などから舶載された。印度更紗には手の込んだ上等なものが多く「古渡り更紗」と呼ばれ名物裂として珍重される。
更上一層樓(さらにのぼるいっそうのろう)
盛唐の詩人、王之渙(おうしかん:688-742)の五言絶句「登鸛雀樓」の「白日依山盡、黄河入海流。欲窮千里目、更上一層樓。」(白日山に依りて尽き、黄河海に入りて流る。千里の目を窮めんと欲し、更に上る一層の楼。)の一節。「續燈録」に「僧曰。向上還有事也無。師云。有。僧曰。如何則是。師云。欲窮千里目。更上一層樓。」(僧曰く、向上に還た事ありや。師云く、有り。僧曰く、如何ならんか則ち是れ。師云く、千里の目を窮めんと欲し、更に上る一層の楼。)とある。大局的な観点が必要で地上の些末にとらわれず、全体を見ることが大事。見えないものを見よ、心の境地を上げることが大事との意という。
猿抱子帰青嶂後(さるはこをいだいてせいしょうのしりえにかえる)
「傳燈録」夾山善會(かっさんぜんね)禅師の章に「問如何是夾山境。師曰。猿抱子歸青嶂裏。鳥銜華落碧巖前。」(問う、如何なるか是れ夾山の境。師曰く。猿は子を抱いて青嶂の裏に帰る、鳥は花を銜んで碧巌の前に落つ。)と見える。「祖堂集」に「羅秀才問。請和尚破題。師曰。龍無龍軀。不得犯於本形。秀才云。龍無龍軀者何。師云。不得道著老僧。秀才曰。不得犯於本形者何。師云。不得道著境地。又問。如何是夾山境地。師答曰。猿抱子歸青嶂後。鳥銜華落碧巖前。」(羅秀才問う、請う和尚、破題せよ。師曰く、龍に龍躯無し。本形を犯すを得ず。秀才云く、龍に龍躯無しとは何ぞ。師云く、老僧を道著することを得ず。秀才曰く、本形を犯すを得ずとは何ぞ。師云く、境地を道著するを得ず。又た問う、如何なるか是れ夾山の境地。師答えて曰く、猿は子を抱いて青嶂の後に帰る、鳥は花を銜んで碧巌の前に落つ。)とあり、羅秀才が夾山和尚に、あなたの境地はと問われたとき答えて、夾山和尚はその居所の景観を詠んで、猿が子を抱いて木々が青々と茂る山の向こうに帰っていき、鳥が花を口にくわえては緑の岩の前に舞降りてくよ。猿無心、鳥もまた無心、自ずからからなる動きをしている。これすなわち悟りの境地か。
山花開似錦(さんかひらいてにしきににたり)
「碧巌録」八十二則「大龍堅固法身」に「舉。僧問大龍。色身敗壞。如何是堅固法身。龍云。山花開似錦。澗水湛如藍。」(舉す、僧、大龍に問う、色身敗壊す。如何なるか是れ堅固法身。龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。)とある。色身(しきしん)/肉体。敗壊(はいかい)/そこなわれくずれること。法身(ほっしん)/法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身(さんじん)の一つで、真理そのものとしての仏の本体、色も形もない真実そのものの体をいう。澗水(かんすい)/谷川の水。僧が、肉体が滅んだ後には永遠不滅の真理はどうなってしまうのか、と大龍に問うた。大龍は、山に花が咲いて錦のようだ、谷川の水は藍のようだ、と答えたとのこと。
算木釜(さんぎがま)
茶湯釜の一。胴に太い横棒紋を鋳出したもので、紋様が易に使われる算木に似ているところからの呼称。「算木手」ともいわれる。一翁好みの算木紋の四方釜。武者小路千家に伝来する、辻与次郎作の大振りな尾垂釜で、大きな口の撫肩の四方釜。一翁忌に、道爺の破風炉に取り合わせられることが多い。
三級浪高魚化龍(さんきゅうなみたかうしてうおりゅうとかす)
中国の夏王朝を開いた禹(う)が黄河の治水をした際、上流の竜門山を三段に切り落としたため三段の瀑布ができ、これを「禹門(竜門)三級」と称し、毎年3月3日桃の花が開くころに多くの魚が黄河を上り竜門山下に群集し竜門三級を登り、登りきった魚は頭上に角が生え尾を昂げ、竜となって雲を起し天に昇るという。「碧巌録」の第七則頌に「江國春風吹不起。鷓鴣啼在深花裏。三級浪高魚化龍。癡人猶戽夜塘水。」(江国の春風吹きたたず。鷓鴣啼いて深花裏にあり。三級浪高うして魚龍と化す。癡人なお汲む夜塘の水。)とみえる。のちに科挙の試験場の正門を竜門と呼び、及第して進士となったもの、さらに転じて一般に出世の糸口を「登竜門」といった。
桟切(さんぎり)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。器物が窯の中で薪の灰に埋もれて直接炎に当たらなかったために、その部分が燻された状態になり、還元炎焼成となって灰青色、暗灰色になるもの。窯の部屋の間の桟に置かれた器物に多く取れたので桟切と呼ばれる。
山呼萬歳聲(さんこばんぜいのこえ)
「五燈會元」に「朝奉疏中道、本來奧境、諸佛妙場、適來柱杖子已為諸人説了也。於斯悟去、理無不顯、事無不周。如或未然、不免別通箇消息。舜日重明四海清、滿天和氣樂昇平。延祥柱杖生歡喜、擲地山呼萬歳聲。」とみえる。「祖庭事苑」に「山呼萬歳者。自漢武始也。」(山呼万歳は、漢の武より始まるなり。)とあり、「漢書」巻六武帝紀に「親登嵩高、御史乘屬、在廟旁吏卒咸聞呼萬歳者三。」(親しく嵩高に登る、御史乗属、廟の旁に在る吏卒の咸、万歳を呼ぶ者の三なるを聞く。)とあり、中国、前漢の時代、元封元年(BC110)正月元日、武帝(BC141-BC87)が天子自ら嵩高(河南省登封県北五嶽のひとつ嵩山)に登り、国家鎮護を祈ると、臣民たちが喊声をあげ、それが五岳の山々にこだまして「万歳万歳万々歳」と三たび聞こえたといわれ、これを「山呼」「三呼」と称す。
三彩(さんさい)
基本的には素地の白、緑釉、褐釉の三色をいうが,ほかに藍色や黄色の色釉をほどこし、800℃前後の低火度で焼きつけた軟質鉛釉陶器の総称。実際にもちいられる色数は2色から数色まであり、三彩の語は3色を表す意味ではなく多彩釉のものを指す用語として用いられた。2色のものをとくに二彩とよぶこともある。さらに藍色が加わると、藍彩とも呼ばれる。一般的に緑は銅、黄や褐色は鉄、藍はコバルトなどを呈色剤とする鉛釉系統の色釉がもちいられる。三彩の技法は中国で発達し、先駆的な鉛釉陶器は後漢時代で、最初は単色の「緑釉」「褐釉」であった。これが六朝時代には、「黄釉」が生まれ隋-唐時代にかけて、釉中の鉄分を除去できるようになり、白釉が生まれた。飛躍的に発達するのは唐代(618-907年)で、後世「唐三彩」とよばれる、白(黄)・緑・褐の釉薬を掛け合わせた華麗な焼物が作られるようになる。唐三彩は,主に明器(墳墓に納める副葬品)としてつくられ,三彩馬や三彩駱駝・人物をかたどった涌(よう)など芸術性の高い作品がみられる。
唐の都であった長安(今の西安)および東都であった洛陽の墓中より多数出土しており,また河南省鞏(きょう)県に唐三彩を焼いた古窯址が確認されている。唐三彩は、7世紀末から8世紀中葉の盛唐期に最盛期を迎え、安史の乱(755-763)を境に急速に衰微するが、契丹族統治の遼時代に焼かれた遼三彩、女真族統治の金時代から蒙古族統治の元時代に焼かれた宋三彩(金三彩)へと伝わり、明時代中期以降には景徳鎮窯でも三彩器が焼かれるようになる。また、三彩技法は中国から周辺諸国に広まり、東では渤海(ぼっかい)三彩、新羅(しらぎ)三彩などを生み、日本でも奈良三彩(正倉院三彩)がつくられた。西ではイスラム世界のペルシア三彩、ビザンティン三彩などにまでおよんでいる。
山色夕陽時(さんしょくせきようのとき)
「虚堂録」巻三に「僧曰。泉聲中夜後。山色夕陽時。答曰。錯認定盤星。僧禮拜。」(僧曰く、泉声中夜の後、山色夕陽の時。答えて曰く、錯って定盤星を認む。僧礼拝す。)とある。
山水有清音(さんすいにせいおんあり)
西晋の詩人、左思(さし:250-305)の詩「招隠詩」に「杖策招隱士。荒塗古今。巖穴無結構。丘中有鳴琴。白雪停陰岡。丹葩曜陽林。石泉漱瓊瑤。纖鱗或浮沈。非必絲與竹。山水有清音。何事待嘯歌。灌木自悲吟。秋菊兼餱糧。幽蘭間重襟。躊躇足力煩。聊欲投吾簪。」(策を杖いて隠士を招ねんとするに、荒塗は古今に横る。巌穴に結構無きも、丘中に鳴琴あり。白雲は陰岡に停まり、丹葩は曜林を曜らす。石泉は瓊瑤を漱ぎ、繊鱗も亦た浮沈す。糸と竹とを必するに非ず、山水に清音有り。何ぞ事として嘯歌を待たん、灌木は自から悲吟す。秋菊は餱糧を兼ね、幽蘭は重襟に間わる。躊躇して足力煩う、聊か吾が簪を投ぜんと欲す。)とある。木の枝をついて隠者を訪ね行くと、荒れた道が人も通らぬまま塞がっている。岩穴の住まいには立派な家などないが、丘から琴の音が流れてくる。白い雲が山の北に浮かび、赤い花が山の南の林に輝くように咲いている。岩の間を流れる水は玉のような石を洗い、小さな魚が泳いでいる。楽器を用意するまでもない、山や川にさわやかな音色がある。どうして歌を謡う必要があろうか、灌木が風に応じて、自然に哀愁のしらべを発している。秋菊の花は食用にもなるし、ひっそりと咲く蘭は重ね着につけて飾りにもなる。歩くうちに足がつかれ、暫く役人を辞めてこの地にいたいものだ。また、「宏智禪師廣録」に「繞籬山水有清音。」(籬を繞る山水に清音あり)とある。
山中無暦日(さんちゅうれきじつなし)
太上隱者の五言絶句「答人」(人に答う)に「偶來松樹下、高枕石頭眠、山中無暦日、寒盡不知年。」(たまたま松樹の下に来たり、枕を高うして石頭に眠る。山中暦日無し、寒尽くるも年を知らず。)とある。「全唐詩話續編」に「古今詩話云、太上隱者、人莫知其本末、好事者從問其姓名、不答、留詩一絶云。」(古今詩話に云く、太上隱者、人その本末を知るなく、好事者従ってその姓名を問うも答えず、詩一絶を留めて云う。)とある。たまたま通りかかった松の樹の下に来て、石を枕にぐっすり眠る。山の中には暦もなく、月日のたつのも忘れている。「平石如砥禪師語録」に「山中無暦日。從教晷運推移。」(山中暦日なし、晷運推移の教に従う。)とみえる。
山鳥歌聲滑(さんちょうかせいなめらか)
「白雲守端禪師廣録」に「上堂。舉雪竇道。春山疊亂青。春水漾虚碧。寥寥天地間。獨立望何極。乃迴顧。問侍者云。還有人守方丈麼。云有。自云。作賊人心虚。大衆。雪竇老人。放去收來。有舒卷乾坤之手。然雖如是。何似乾坤收不得。堯舜不知名好。法華今日忍俊不禁。當為古人出氣。乃云。山櫻火焔輝。山鳥歌聲滑。攜手不同途。任他春氣發。」(上堂。舉す雪竇道う、春山、乱青を畳み、春水、虚碧に漾わす。寥寥たる天地の間。獨り立ちて何をか極めんと望む。すなわち迴顧す。侍者問うて云く、還た方丈を守る人ありや。云う、有り。自ら云う、人心虚にして賊となる。大衆。雪竇老人。放去収来。乾坤の手、舒卷あり。是の如くなりと然雖も、何を似ってか乾坤を收むるを得ず。堯舜の知名好ましからず、法華、今日忍俊不禁、まさに古人出気すべし。すなわち云く、山櫻火焔輝き、山鳥歌聲滑らか。手を携え途を同じくせず、さもあらばあれ春気発す。)とある。忍俊不禁(にんしゅんふきん)/笑いをこらえられない。
三冬枯木花(さんとうこぼくのはな)
「虚堂録」に「上堂舉。黄昏脱襪打睡。晨朝起來旋繋行纏。夜來風吹籬倒。知事普請。奴子劈篾縛起。師云。諸方盡謂舜老夫坐在無事甲裏。那知三冬枯木花。九夏寒巖雪。」(上堂。挙す、黄昏、襪を脱ぎ打睡し、晨朝、起き来たり行纏を旋繋す。夜来風吹き籬倒れ、知事普請す。奴子篾を劈き縛起す。師云く、諸方尽く謂う、舜老夫無事甲裏に坐在すと。なんぞ知らん、三冬枯木の花、九夏寒巌の雪)とある。「禅林句集」は「三冬枯木秀、九夏雪花飛。」を挙げ、注に「會元續略巻一香嚴淳拙文才禪師章」「虚堂録一曰三冬枯木花九夏寒岩雪」(虚堂録一に曰く、三冬枯木の花、九夏寒岩の雪)とある。「五燈會元續略」ケ州香嚴淳拙文才禪師に「僧問。如何是理法界。師曰。虚空撲落地。粉碎不成文。曰。如何是事法界。師曰。到來家蕩盡。免作屋中愚。曰。如何是理事無礙法界。師曰。三冬枯木秀。九夏雪花飛。曰。如何是事事無礙法界。師曰。清風伴明月。野老笑相親。」(僧問う、如何なるか是れ理法界。師曰く、虚空撲て地に落ち、粉碎不成文。曰く、如何なるか是れ事法界。師曰く、到来の家蕩尽し、免作屋中愚。曰く、如何なるか是れ理事無礙法界。師曰く、三冬枯木秀で、九夏雪花飛ぶ。曰く、如何なるか是れ事事無礙法界。師曰く、清風、明月を伴い、野老、相親しみて笑む。)とある。事法界(じほうかい)/事物が個々に存在する世界。理法界(りほうかい)/事物の本体は真如であるとする世界。理事無礙法界(りじむげほうかい)/現象の世界と真如の世界は同一であるとする世界。事事無礙法界(じじむげほうかい)/現象界の一々の現象そのままが絶対であるとする世界。華厳経で説く、世界の四つのとらえ方である四法界(しほっかい)。三冬(さんとう)/孟冬(十月)、仲冬(十一月)、季冬(十二月)の総称。冬の九十日間。九夏(きゅうか)/夏の九十日間。
桟蓋(さんぶた)
器物の蓋の形態の一。器物の蓋が一枚板で、その裏に身の内に収まる桟を取り付け、蓋が身の口の上に載る形のもの。蓋の裏側に2本の桟を取り付けた「二方桟蓋」、蓋の裏側に4本の桟を取り付けた「四方桟蓋」がある。
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信楽焼(しがらきやき)
滋賀県甲賀郡信楽町を中心として焼かれる陶磁器の通称。天平14年(742)聖武天皇が紫香楽宮を造営したとき、造営用布目瓦を焼いたのがその始まりとされている。本来は種壷、茶壷、甕、擂鉢などの雑器が中心であったが、室町時代後期に「侘茶」が流行しはじめると、いち早く茶道具として注目を集め、種壺は「蹲(うずくまる)」の花入や水指に、糸を紡ぐ時に綿や麻を入れる緒桶(おおけ)は「鬼桶(おにおけ)」の水指に、油壺や酒壼は花入に見立てられた。これらの逸品は古信楽といわれる。「松屋会記」天文十一年(1542)四月九日に「床ニ晩鐘牧渓、小軸、足ノアルツリ物、信楽水指、畳ニ置合、茶ノ前ニ画ヲ取テ、松花大壺、アミニ入テ出ル」、天文18年(1549)の津田宗達の「天王寺屋茶会記」に「しからきそヘテ茶碗也」とある。「瓢翁夜話」に「古信楽といふうものハ、弘安年間製せし所のものにて、極疎末なる種壷類に過ぎざりき、其後点茶の宗匠紹鴎、利休、宗旦、遠州など、工人に命じてつくらしめしより、これらの人の名の冠らせて称美せらる。
この外空中信楽、仁清信楽などいふものあり、是又空中、仁清が信楽の土を以て諸器を製せしよりの名なり」とあり、武野紹鴎も信楽焼を愛好し茶器を焼かせ、また千利休は自らの意匠による茶器を作り、紹鴎信楽・利休信楽・新兵衛信楽・宗旦信楽・遠州信楽・空中信楽などと茶人の名前を冠した茶器が現れるほど名声を博した。 長石を含んだ白色の信楽胎土は良質で、鉄分の少ない素地のため、高火度の酸化炎により焦げて赤褐色の堅い焼締め肌の明るい雰囲気が特徴となっている。本来は無釉だが、焼成中に薪の灰がかかる自然釉が淡黄、緑、暗褐色などを呈し器物の「景色」をつくっている。薪の灰に埋まって黒褐色になった「焦げ」、窯のなかで炎の勢いにより作品に灰がかかり自然釉(ビードロ釉)が付着した「灰被り」、「縄目」赤く発色した「火色」、胎土に含まれたケイ石や長石が炎に反応し、やきものの表面に現れる)」、「蜻蛉の目(やきものの表面に窯を焚く灰が掛かり、それが溶けて釉薬と同等の働きをしたもの)」また、水簸をおこなわないため、胎土中の粗い長石粒が溶けて乳白色のツブツブになる「石はぜ」も信楽焼の一つの特徴となっている。
敷板(しきいた)
風炉の下に敷く板。荒目板、真塗、掻合(かきあわせ)、敷瓦がある。荒目板は、粗い目から細かい目へと横に筋目が入っている真塗の小板で、目の粗いほうを手前に置き、土風炉のみを据える。真塗・掻合は唐銅風炉に用いる。掻合は、薄く一回漆を拭いたもので、木目が勝手付から客付に流れるように置く。敷瓦は、焼き物で釉掛りを手前に置き、鉄風炉に用いる。
色紙(しきし)
和歌・俳句・書画などを書く方形の料紙。五色の模様や金銀箔などを散らすものもある。寸法は、大は縦六寸四分・横五寸六分、小は縦六寸・横五寸三分の二種があり、これに準じた方形の料紙をも総称する。元来は染色した紙のことを言ったが、詩歌などを書く料紙の一としての呼称は、屏風や障子などに詩歌などを書き入れるために染色した紙を押し、これを色紙形と呼んだことに由来するという。「大鏡」に「故中関白殿、東三条つくらせ給ひて、御障子に歌絵ども書かせ給ひし色紙形を、この大弐に書かせまし給ひけるを」とある。享保19年(1734)刊「本朝世事談綺」に「色紙短尺の寸法は三光院殿(三条西実枝)よりはじまる御説、大は堅六寸四分、小は堅六寸、横大小共に五寸六分」、安永6年(1777)刊「紙譜」には「色紙大小あり、縦大六寸四分、小六寸、横大五寸六分、小五寸三分」とある。藤原定家筆と伝える小倉色紙が最も古いものとして伝世する。「今井宗久茶湯日記書抜」に「天文二十四年(1555)十月二日紹鴎老御会宗久宗二一イロリ細クサリ小霰釜、水二升余入、ツリテ、一床定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、一槌ノ花入紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、一円座カタツキ、水サシイモカシラ一シノ茶ワン備前メンツウ」とあり、紹鴎が始めて掛物に色紙を懸けたとされる。
直心是道場(じきしんこれどうじょう)
「維摩經」に「佛告光嚴童子。汝行詣維摩詰問疾。光嚴白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔出毘耶離大城。時維摩詰方入城。我即為作禮而問言。居士從何所來。答我言。吾從道場來。我問道場者何所是。答曰。直心是道場無虚假故。」(仏、光厳童子に告げて、汝、行きて維摩詰に詣で疾を問え。光厳、仏に白して言く、世尊、我れ彼を詣で疾を問う任に堪えず。所以何となれば、憶念するに我れ昔、毘耶離大城を出る。時に維摩詰まさに入城す。我れ即ち作礼を為し問うて言く、居士、何所より来る。我が言に答え、吾れ道場より来る。我れ、道場は何所是と問う。答えて曰く、直心これ道場、虚仮なき故に。)とある。問疾(もんしつ)/見舞い。憶念(おくねん)/心に思って忘れないこと。毘耶離(びやり)/ヴァイシァーリー。北インドの城市。維摩詰が住んでいた。仏が光厳童子に維摩詰の見舞いに行けというと、光厳は、私は彼の見舞いに行くことができません、なぜなら、忘れもしません、昔、ヴァイシァーリー城を出ようとするとき、維摩詰が城に入ってきたので、礼をして何処から来たかと問うと、道場より来たといい、私が道場は何処にあるのかと問うと、清純な心がそのまま道場なのだ、うそいつわりがないからと答えた。
詩經(しきょう)
孔子(BC552-BC479)が、西周初期から春秋中期(BC11世紀-BC6世紀頃)の約3000の古詩から305編を選んだといわれる中国最古の詩集。五経の一つ。諸国の民謡を集めた「風(ふう)」、貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」、朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」の三部から成る。
食籠(じきろう)
食物をいれる蓋付きの身の深い容器。「篭」は俗字。「喰籠」とも。おおくは円形または角形で、重ね式のものもある。茶人に好まれたことにより、茶席でおもに主菓子を盛り込む菓子器として用いられ、輪花など様々な形が現れた。素材も最初は、漆器であったが、陶磁器も用いられるようになった。書院の棚飾りにも用いられ、「君台観左右帳記」や「御飾記」にも座敷飾として違棚に「食篭」が置かれている。「嬉遊笑覧」には、「食籠は、東山殿御飾記、君台観左右帳記、仙伝抄に棚にかざれる図あり、重に作りたるもの多し、又私の贈り物はこれを用。宗碩の佐野渡に、此ふたりの方より食籠などといふものとりどりにてこまごまと書おくり侍る。貞順故実集、食籠は面向へ不出候、去ほどに貴人へは諸家より進上なく候、世上をわたし候てふるくなる故に、貴人の御前へは斟酌候也といへり」とある。
自在棚(じざいだな)
利休袋棚の中棚と天板を取り去った下の部分をもとにした大棚。一啜斎好み。杉木地で、戸袋部分には格狭間透かしを施し、手前側は建具になっていて横引きに開けることができる。炉・風炉の両方に使う。炉に用いるときは、地板を右、戸袋を左にし、風炉に用いるときは、地板を左にし、戸袋を右にして使う。
時々勤拂拭(じじにつとめてふっしきせよ)
「身是菩提樹。心如明鏡台。時時勤拂拭。勿使惹塵埃。」(身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて拂拭して、塵埃を惹かしむること勿れ。)から出る。この身はさとりを宿す樹のごときもの、心は清浄で美しい鏡台の如きもの、常に勤めて汚れぬように払い拭いて、煩悩の塵や埃をつけてはならない、と言う意味の偈。
中国禅宗の第六祖、慧能(えのう)の説法を弟子の法海が著したという「六祖壇経」に現れる、北宗禅の祖となる玉泉神秀(じんしゅう)の詩偈とされる。
初祖達磨(だるま)大師より第五祖の弘忍(ぐにん)が法嗣を決定するため、悟りの境地を示した詩偈を作れと弟子達に命じた。学徳に優れ信望厚く、六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)がこの詩偈を廊壁に書いた。寺男として米搗きをしていた慧能がこれを聞き、綺麗だが未だ至っていないと、無学文盲のため童子に頼み「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)と壁書した。菩提というのは樹ではなく、明鏡もまた台ではない。もともと何もないではないか、どこに塵埃がつくと言うのか、と言う意味である。これを聞いた五祖弘忍は夜になって慧能を呼び、法と師資相承の証である袈裟を渡し、伝法が済んだ今、ここにいては危ういから一刻も早く立ち去るがよいと、密かに逃がし、別れに臨んで「法縁熟するまで身を隠して聖胎長養し、市塵へ出るな」と忠告したという。道元はこれを偽書とする。
次第(しだい)
茶道具本体に付属する物全般をいう。次第は、茶入や茶碗などの茶道具本体を収める袋(仕服・御物袋など)や包み、箱(内箱・中箱・外箱・付属品の箱・惣箱など)や挽家、書付、付属する添状(伝来書・譲り状・極書など)や蓋・盆など全部を指す。茶道具本体の今までに経過してきた歴史を物語るものとして次第と呼ばれる。
時代物(じだいもの)
作者などのはっきりしない古作の道具をいう。
七官青磁(しちかんせいじ)
中国の龍泉窯(りゅうせんよう)で焼かれた青磁の一種で明末時代から清時代にかけて制作されたものをいう。七官の名の由来は諸説あり、明の七官という位の者が請来した、との説が有力とされる。透明な青緑色の光沢の強い釉で、概して貫入があるのを特徴とする。わが国では、中国青磁を大別して、南宋時代のものを「砧青磁」、元・明時代のものを「天竜寺青磁」、明末時代のものを「七官青磁」と呼び分けている。
繻珍(しちん)
繻子(しゅす)の地に、数種の絵緯(えぬき)と呼ばれる紋様を織るためだけの緯糸(織物の横幅方向の糸)を用い、紋様を織り出した絹紋織物。もと中国明代に始まるといい、七色以上の色糸を用いたので七糸緞(しちしたん)。「朱珍」「しゅちん」とも。
七宝棚(しっぽうだな)
利休袋棚の右側半分をもとにした、天板・地板・中棚が四方の二重棚。有隣斎好。青漆爪紅で、中棚が七宝透かしになっている。初飾りは、地板に水差し、中棚に茶器を飾る。後飾りは、天板の上に柄杓を斜めに、蓋置をその左に置き、茶器を中棚に飾る。柄杓の合を左向こうの柱にもたせ柄杓の端を左前の柱にとめ、蓋置を地板の左前隅に置き、中棚に茶器を飾ることもある。また、柄杓、蓋置を中棚に飾ることもある。このとき茶器は水屋に持ち帰る。
七宝文(しっぽうもん)
文様の一。円周を円弧によって四等分した文様。これを上下左右に連続させた物を「七宝繋ぎ文」、数多く繋ぎ合わせて、その一部を欠いた物を「破れ七宝文」、四つの楕円形を円周の内側に抱いた単独の文は「七宝文」「輪違い文」という。同じ半径の円を円周の四分の一ずつ重ねてゆく四方連続文様で「四方」に連結した文様が広がっていくところから吉祥であるとされ、七宝と音が似通っているため「七宝」の名がついたという。中央に花文を入れることもある。円の繋ぎ目に丸い点をいれたものを「星七宝」という。
七宝焼(しっぽうやき)
銅や銀などの器胎にガラス質の釉を焼き付ける工芸技法。「七宝」、「七宝流し」ともいう。七宝の名は、日本で名付けられたもので、仏典に七種の宝玉を七宝と呼ぶところから、七宝焼の美しさを譬えたものか。稲葉新右衛門(1740-1786)の「装剣奇賞」に「今七宝と称するものは、はじめ海外より来る所にして、七宝とは此方にて名付しにて、正名あるものなるべし、隋帝の七宝焼といへるは、七種の宝玉なるべし、所謂七宝とは、金、銀、瑠璃、頗梨、車渠、瑪瑙、珍珠の七種をいふ、但し此七種をあつめて工めると、おほよそをもて七宝と名付にやしらず」とある。中国では「琺瑯(ほうろう)」といい、また明の景泰年間(1450-1456)宮廷の工房で作られた琺瑯器が最も名高い品であることから、俗に「景泰藍(ちんたいらん)」とも呼ばれる。
七宝の起源は明確でないが、古代アッシリア、エジプトにもあり、中国では秦、漢時代からあり、明の曹昭の洪武21年(1388)「格古要論」に「大食窯出於大食國。以銅作身、用藥燒成五色花者、與佛朗嵌相似。嘗見香爐、花瓶、盒兒、盞子之類、但可婦人閨閣之中用、非士大夫文房清玩也、又謂之鬼國窯。」とあり、元代には「大食窯」「鬼国窯」と称し、アラビヤから伝わったとする。この頃の琺瑯は、いずれも掐絲琺瑯(有線七宝)で、器胎の上に、銅などの細い針金を文様の輪郭に合わせて植線し、焼いて固定させたうえで輪郭内に色釉薬をつめて焼成するもので、明の景泰年間に最盛期をむかえたとされる。その後、有線を使わずに器胎に直接色釉で図案を描いて焼き付ける画琺瑯が、多彩な表現ができ、絵画的なぼかしの描法もできるところから、琺瑯の主流となった。
日本でも6世紀の古墳からの出土品や、正倉院の七宝鏡などがあるが、その後は衰退したのか文献資料が存在せず、室町期になると中国の七宝器が舶載され「七宝」と名付けられた。その後、慶長年間(1596-1615)に平田道仁が朝鮮の工人から技法を学んだとされ、「鏨工譜略」に「道仁平田彦四郎、京都住、慶長年中、依台命朝鮮人より七宝を流す伝を受、東都七宝の祖とす、御金具師也、正徳三年死」とある。「瓢翁夜話」に「七宝は、元来茶器には用ふべからざるものなれど、古渡のものは随分雅味ありて、水指なんどに用ふるものあり、我邦のものにても、寛永ごろの製作は古渡の如く、濃き薬にて、かせたる所ありて面白し」とある。
至道無難(しどうぶなん)
「信心銘」に「至道無難、唯嫌揀擇、但莫憎愛、洞然明白、毫釐有差、天地懸隔、欲得現前、莫存順逆。」(道に至るに難きことなし、ただ揀択を嫌う、ただ愛憎なければ、洞然として明白なり、毫釐も差あれば、天地懸に隔たる、現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ。)とある。揀擇(けんたく)/比較選択の分別。毫釐(ごうもう)/わずか。道に至るに難しいことはない、ただ選り好みするのを嫌うのである。憎むとか愛するとかがなければ、すっきりとあきらかである。わずかの差でもあれば、天地のようにはるかに隔っているのだ。眼の前のことを得たいと思うのなら順序などがあってはならない。「碧巌録」第二則「趙州至道無難」に「舉趙州示衆云。至道無難。唯嫌揀擇。纔有語言。是揀擇是明白。老僧不在明白裏。是汝還護惜也無。時有僧問。既不在明白裏。護惜箇什麼。州云。我亦不知。僧云。和尚既不知。為什麼卻道不在明白裏。州云。問事即得。禮拜了退。」(挙す。趙州衆に示して云く、至道無難。唯嫌揀択。わずかに語言あれば、是れ揀択、是れ明白。老僧は明白の裏に在らず。是れ汝還って護惜すやまた無しや。時に僧有り、問う、既に明白の裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん。州云く、我も亦た知らず。僧云く、和尚既に知らずんば、什麼としてか卻って明白の裏に在らずと道う。州云く、事を問うことは即ち得たり。礼拝し了って退け。)とある。
志戸呂焼(しとろやき)
遠江国(静岡県)榛原郡五和村(島田市)志戸呂の陶器。遠州七窯の一。大永年間(1521-28)に始まり、天正年中(1573-92)に美濃国(岐阜県)久尻の陶工加藤庄右衛門景忠がこの地に来て五郎左衛門と改名して従業し、天正16年(1588)に徳川家康から焼物商売免許の朱印状を授けられ、五郎左衛門の帰国後は弟子の某が加藤五郎左衛門を名乗って業を継いだという。寛永年間(1624-44)小堀遠州の意匠をもって茶器を焼き、遠州好み七窯の一つと称された。また享保年間(1716-36)から「志戸呂」あるいは「質侶」の印を用いたとする。土質は淡赤、釉色は濁黄または黒褐色で、堅焼である。のちに窯は付近の横岡(金谷町横岡)に移ったが振るわなかった。
「工芸志料」に「志戸呂焼は大永年間、遠江国志戸呂(大井川の上流、無間山の麓にあり)に於いて初めて之を製す。当時専ら葉茶壷、花瓶を造り、間々他の諸器をも造りしが、後業甚だ衰う。寛永年間、点茶家の宗匠小堀政一、業を工人に勧む。因りて再び盛んに起こる。工人能く茶壷を造る、其の質粗にして、土色は淡赤、釉色は濁黄にして黒色を帯び、甚だ瀬戸の破風窯に似て、而して陶質堅実なり。今はただ雑器をのみ製出すと雖も、而れども仍お能く古躰を失わず。」、「本朝陶器攷證」に「遠州好七窯の内、島物と瀬戸を写す。薄作なり。呂宋の作振を写す物もあり。上作の茶入は丹波に成てあり。土、黄・白・薄赤・砂利。薬、黒薬に黄と浅黄のうのけ、黒、金気、柿、黒鼠、萌黄、黒鼠に黄の胡麻薬出る。極古きものは黒鼠に黄のごま薬。砂利土にてすこし厚作ゆえ、古唐津と云来る赤土もあり。」
品川棚(しながわだな)
小堀遠州好みの棚。遠州が品川御殿山の茶席に三代将軍を迎えて茶事をした折、茶室の余材で作ったと伝えられる、大きな七宝の透かしのある棚。
志野焼(しのやき)
桃山時代に美濃(岐阜県)で焼かれた白釉の陶器。素地は「もぐさ土」という鉄分の少ない白土で、長石質の半透明の白釉が厚めにかかり、釉肌には細かな貫入や「柚肌」と呼ばれる小さな孔があり、釉の薄い口縁や釉際には、「火色」(緋色)と呼ばれる赤みの景色が出る。絵模様のない「無地志野」、釉の下に鬼板で絵付けした「絵志野」、鬼板を化粧がけし文様を箆彫りして白く表し志野釉をかけた「鼠志野」、鼠志野と同じ手法で赤く焼き上がった「赤志野」、赤ラク(黄土)を掛けた上に志野釉をかけた「紅志野」、白土と赤土を練り混ぜ成形し志野釉をかけた「練り上げ志野」がある。
さらに近年、大窯で焼かれた志野(古志野)と区別し登り窯で焼かれたものを「志野織部」と呼ぶ。天明5年(1785)の「志野焼由来書」に「伝言、文明大永年中、志野宗心と云う人ありて茶道を好む故に、其の頃加藤宗右衛門春永に命じて古瀬戸窯にて茶器を焼出す、是を志野焼と称す。」とあり長く瀬戸で焼かれたとされていたが、昭和5年(1930)の荒川豊蔵(1894-1985)の古窯跡調査以降、美濃の可児・土岐などの窯で黄瀬戸・瀬戸黒・織部とともに焼かれたとされ、志野宗心についても、貞享元年(1684)刊の「堺鑑」に「志野茶碗志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也但し唐物茶碗の由申伝。」とあるように今云うところの志野焼とは異なるとされる。元禄頃までは志野焼は織部焼と目され、千宗旦の弟子の城宗真が、織部好みの焼物に「篠焼」と名付けてから織部焼と区別されたとされる。
仕服(しふく)
茶入や薄茶器・茶碗・挽家などの道具類を入れる袋。「仕覆」とも書く。茶入の仕服には、名物裂・古代裂が多く使用される。茶入によっては、名物裂の替袋(かえぶくろ)を何枚も持つものもある。仕服は、茶入、茶杓とともに客の拝見に供される。もと、茶入に付属する「袋」「挽家」(仕服に入れた茶入を保存する木の器)「箱」「包裂(つつみぎれ)」その他の補装を「修覆(しゅうふく)」といい、修覆が仕覆となり、茶入袋の呼び名になったという。
絞茶巾(しぼりちゃきん)
点前の一。普通の点前では茶巾を定められた通りに畳んで茶碗に仕組み、茶席へ持ち出すが、絞茶巾は水屋で茶巾を絞ったままの状態で茶席へ持ち出し、点前の中で畳み直すもの。絞茶巾の点前には夏冬二通りあり、酷暑の時期に水を含ませた茶巾を客前で絞ることにより涼を感じてもらい、また茶筅通しの湯を捨て、茶碗をいったん膝前において茶巾を絞り畳み直し、その間に茶碗を冷ますという。厳冬の時期には、夏場と逆に茶筅通しの湯を捨てる前に茶巾を畳み直し、その間に茶碗を温めるという。裏千家では、夏に行うものを「洗い茶巾」という。
「南方録」に「茶巾の仕込やうに、さらしと云ことあり。これは勢多かもん、古き高麗の皿のごとくなる茶碗所持す。湯水のとりあつかい、茶筅すヽぎなど、ことの外難儀のものなり。されどもあまり見事なる一体故、秘蔵なり。休に名を付てたまわれりとなり。則水海と付らるヽ。さしわたしの寸、畳十五目なり。休、茶杓を削て、茶碗にそへて送らるヽ、茶杓の名を勢多と云。この茶碗に、かもん始てさらし茶巾を仕出したり。端ぬいなしにて、仕廻の時に、天目のごとく茶巾をさばかれたり。秘蔵といヽ、休の名をつけ、茶杓をそへられたるひらき、尤のこととなり。さらし茶巾一段さはやかにて、休も感心なり。されども冬はさむき心ありと、休申されしなり。これより平目なる茶碗には、夏むき涼しさをこのみて、さらしに仕込む、一段苦しからずと、休もの玉ふ。」とあり、瀬田掃部が始めたものと云う。
下蕪(しもかぶら)
器物の形状の一。筒形の置き花入の胴の下部が、蕪の形に膨らんだもののこと。「蕪」とは、古銅または青磁の尊形の花入で、胴の張った部分をいい、「下蕪」の他に「中蕪(なかかぶら)」、「蕪無(かぶらなし)」がある。
地紋(じもん)
器物の地肌全体に付けられている文様。釜文様の呼び方の一。釜の全体に配された霰・霙・亀甲・花弁など抽象的・幾何学的図象のことで、図柄(絵)とは区別されるというが、一般には図柄も含めていう。織物において、異組織を用いたり、地組織の一部を浮かしたりして模様を織り出すが、浮き織りの模様を上文といい、下の模様を地文という。また紋織物を染めた場合、織の模様を地紋という。
車軸釜(しゃじくがま)
茶湯釜の一。荷車などの車輪の中心部に似ているところからの呼称で、古くからこの名がある。
尺八(しゃくはち)
竹花入の一。竹を筒切にし、根の方を上にした逆竹として用い、花窓はなく、一節を真ん中より下に残し、後方に釘孔を開けた形の花入で、尺八切という。「茶話指月集」に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」とあり、利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて作ったとされる。「尺八」は、高さ27cm、太さ11cm、肉厚の真竹で、立ち枯れと思われる竹を、逆竹寸切(ずんぎり)にし、中央よりやや下に節一つある花入。
尾張藩士・近松茂矩(1697-1778)の「茶窓陂b」に「秀吉公小田原陣中にて、利休韮山竹の、すぐれて見事なるを見出し、是こそよき花筒ならんと、秀吉公へ申上げしに、左あらばきれよとありし故きりしに、利休も是はと驚くほどによく出来し故、さし上しに、存の外、公の御意にかなはず、さんざん御不快にて、庭前へ投捨させられし故、同じ所にて尺八をきりさし上しに、是は大に御意に入し、前の竹よりあしかりしかども、御秘蔵なりしが、利休死罪の時、御怒りのあまりに、打破すてられしを、今井宗及ひそかにとりあつめおき、後につぎ合せ秘蔵す。年経て堺の住吉屋宗無、所持せしが、宗無死後に、同所、伊丹屋宗不値百貫にもとめて、家に伝しとなん。」とあり、秀吉の小田原の陣中で、利休が韮山竹のすぐれたのを見付け、これは良い花入になるであろうと言い、利休も驚くほど良く出来たため、秀吉に進上したところ、思いのほか、気に入らず、大変不機嫌になり、庭前に投げ捨てた。そのためすぐに同じ韮山の竹で、尺八の花入を切って献上した所、今度は意に適い秘蔵した。しかし利休死罪の時、怒りのあまりに、投げて割ってしまった。それを今井宗久がひそかに拾い集め、継ぎ合わせて秘蔵したという。
「茶湯古事談」に「尺八切の花生は、輪なしの寸斗切なりしを、飽林といひし者は哥口をそきとなん。一節こめて切を一節切、二節こめるを尺八切となん。」、「生花口伝書」に「一尺八切百度切差別の事尺八と百度切とは能似たれとも寸法相違あり。百度切は元竹を寸切に伐りたるもの也。これ古織公の作なり。尺八は節一つこめて切也。東山殿茶湯の時、青竹を伐りて花を生け玉ひしより尺八の名ありといひつたへたり。然れ共利休蒜山の竹を切て三つに切られし、其末竹を尺八と名付し事顕然たり。休罪を受て後、公の床頭に休の献せし尺八の花入を懸る。居士を憎るゝのあまり彼花筒を二つにわり、庭上に捨らるゝ。宗久其座にありて、ひそかに是をとりてつき用ゆと也。是今堺の町人住吉屋といふ人所持すとあり。」、「一律僧の事切かきなく尺八の如く三つ節をこめて、尺八よりたけ長し。秀吉公小田原御陣の砌、利休京都より御見舞に伺候す。軍中に御茶を献せらるるに、湯本早雲寺の藪中の竹を伐り花筒とす。御感斜ならすと、利休日記に律僧と銘を付、書判せられしと也。」、「茶道筌蹄」に「醋筒尺八はサカ竹、醋筒はスグ竹、当時は両様とも尺八と云ふ、如心斎始て酢筒を製す、ヘラ筒の通にてフシトメ也、ヘラ筒は節なし」、「置尺八如心斎好、スグ竹ふしなし、千家所持銘伏犠」、「槐記」に「窓なしの花生と、尺八の花生とは、その差別あり、他流には曾てその差別なし、宗和流には、そのさた第一のこと也、凡て一重二重は格別也、輪のなきは皆尺八と云と覚えているはひがこと也、凡そ竹さかさまにきりて、根の方の上になりたるは尺八也、たとへ一重にても尺八と云、真ろくに根を下へなして輪なきを輪なしと云、先日二三にこのことを話したれば、大に感心して申せしは、昔し江戸にて、宗匠の花生の書付に、尺八花生とありて、一重切のありしを、これは箱が、何の世にかちがいたるなるべしと云て、其花生の箱は用まじき由を申たりしは、大なる誤りにてこそ侍しと申したりと仰られし。」とある。
釋門正統(しゃくもんせいとう)
宋代の天台宗の記伝史。全八巻。良渚宗鑑の撰。嘉煕元年(1237)に成る。釈門の正統が天台宗にあることを論述したもので、天台宗以外にも禅宗、華厳宗、法相宗、律宗、密教の相承についてもふれている。
且座喫茶(しゃざきっさ)
「臨濟録」に「到三峰。平和尚。問曰。什麼處來。師云。黄蘗來。平云。黄蘗有何言句。師云。金牛昨夜遭塗炭。直至如今不見蹤。平云。金風吹玉管。那箇是知音。師云。直透萬重關。不住清霄内。平云。子這一問太高生。師云。龍生金鳳子。衝破碧琉璃。平云。且坐喫茶。又問。近離甚處。師云龍光。平云。龍光近日如何。師便出去。」(三峰に到る。平和尚問うて曰く、什麼の処よりか来たる。師云く、黄檗より来たる。平云く、黄檗、何の言句かある。師云く、金牛昨夜塗炭に遭う。直に如今に至るまで跡を見ず。平云く、金風、玉管を吹く、那箇か是れ知音。師云く、直に万重の関を透って、清霄の内にも住まらず。平云く、子が這の一問、太高生。師云く。龍、金鳳子を生じ、碧琉璃を衝破す。平云く。且坐喫茶。また問う。近離甚れの処ぞ。師云く、龍光。平云く、龍光近日如何。師便ち出で去る。)とある。三峰山に行った時、平和尚が問うて言った、どこから来た。臨済が言う、黄檗から来た。平和尚が言う、黄檗はどんな教えをする。臨済が言う、金の牛が昨夜ひどいめに遭い、そのまま今になっても姿が見えない。平和尚が言う、秋風に玉の笛を吹くようだ、誰がこれを聞き分ける人があろうか。臨済が言う、あらゆる関門を透過した晴れ渡った大空のような境地にも留まらない。平和尚が言う、おまえの答えは、たいへん高姿勢だ。臨済が言う、龍が鳳凰の子を生み、青い大空を破くように翔けまわっている。平和尚が言う、まあ坐って、お茶をおあがり。また平和尚が問うた、ところでどこから来た。臨済が言う、龍光。平和尚が言う、龍光はちかごろどんな様子か。臨済はさっさと立ち去った。
社中(しゃちゅう)
共通の目的のもとに人々が集まった組織の仲間、転じて同門の仲間。田宮仲宣の享和元年(1801)刊「橘菴漫筆」に「社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいへり、社中と云は、惠遠法師、庭際の盆池に白蓮を植て、その舎を白蓮社と云、劉遣民雷次宗宗炳等の十八人集合して交をなす、これを十八蓮社といふ、謝霊運その社に入んことを乞ふ、惠遠、謝霊運が心雑なるを以交をゆるさず、斯る潔白なる交友の集会をなせしより、蓮社の交と云、然るに芭蕉の友人山口素道師、致仕の後、深川の別荘に池を穿、白蓮を植て、交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧道専ら社中と云事流行しぬ」、竹内玄玄一の文化13年(1816)刊「俳諧奇人談」に「弱冠より季吟の門に遊んで俳諧の達者と呼ばる。庵の名を今日といひ、又来雪とも、素堂とも言へるも、その別号なり。後にある主家を辞してより深川の別荘に蓮池を掘り交友を集めて晋の恵運が蓮池に擬せしより、俳家もっぱら社中と称するはこれこれらによってなり。」、内田魯庵「芭蕉庵桃青傳」に「素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらんの句を作りて隱然一方の俳宗たり」とあり、中国浄土教の祖とされる東晋の僧慧遠(334-416)が、元興元年(402)仏陀跋陀羅・仏陀耶舎・慧永・慧持・道生等の僧や劉程之・張野・周續之・張詮・宗炳・雷次宗等の在家信者ら念仏実践を望む同志たちと廬山・般若台の阿弥陀像前で誓願を立て、念仏結社を結成したことに始まり、山口素堂(1642-1716)が惠遠の白蓮社に擬して同人を呼ぶのに「社中」の語を用いたのが流行したものという。
明治4年(1871)「慶應義塾社中之約束」にも「今日ハ人ニ学フモ明日ハ又却テ其人ニ教ルコトアリ、故ニ師弟ノ分ヲ定メス教ル者モ学フ者モ概シテコレヲ社中ト唱フルナリ」とあり、江戸後期から明治初期にかけて用いられた。
守一(しゅいつ)
「後漢書」襄楷傳に「其守一如此、乃能成道。」(其の一を守ること此の如し、乃ち能く道を成す)、「五代史」張薦明傳に「夫一、万事之本也、能守一者可以治天下。」(夫れ一は万物の本なり。能く一を守る者は、以て天下を治むべし)とある。
秋菊有佳色(しゅうきくかしょくあり)
陶淵明の「飲酒二十首」の「其七」に「秋菊有佳色、維露掇英。汎此忘憂物、遠我遺世情。一觴雖獨進、杯盡壺自傾。日入羣動息、歸鳥趨林鳴。嘯傲東軒下、聊復得此生。」(秋菊佳色あり、露にぬれたる其のはなぶさをつみ、此の忘憂の物にうかべて、我が世を遺るるの情を遠くす。一觴獨り進むと雖も、杯盡き壺も自ずから傾く。日入りて羣動やみ、歸鳥林におもむきて鳴く。嘯傲す東軒の下、いささかまた此の生を得たり。)とある。
秋天萬里淨(しゅうてんばんりきよし)
唐の王維(699-759)の詩「送綦母校書棄官還江東」(きぼ校書が官を棄て江東に還るを送る)に「明時久不達、棄置與君同。天命無怨色、人生有素風。念君拂衣去、四海將安窮。秋天萬里淨、日暮澄江空。清夜何悠悠、扣舷明月中。和光魚鳥際、澹爾蒹葭叢。無庸客昭世、衰鬢日如蓬。頑疎暗人事、僻陋遠天聰。微物縱可採、其誰為至公。余亦從此去、歸耕為老農。」(明時久しく達せず、棄置、君と同じ。天命、怨色なし、人生、素風あり。おもう君が衣を払いて去るを、四海またいずくにか窮めんとする。秋天、万里きよく、日暮、澄江むなし。清夜、何ぞ悠悠たる、舷をたたく明月の中。和光、魚鳥の際、澹爾たり蒹葭の叢。庸無くして昭世に客たり、衰鬢、日に蓬の如し。頑疎、人事に暗く、僻陋、天聰に遠ざかる。微物たとい採るべきも、それ誰か至公となる。余もまた此より去りて、帰耕し老農とならん。)とある。明時(めいじ)/よく治まっている太平の世。棄置(きち)/官を棄てることと官に在ること。素風(そふう)/生来の性質。澹爾(たんじ):水が揺れ動くのみ。蒹葭(けんか)/芦(アシ)の意。無庸(むよう)/無用に同じ。衰鬢(すいびん)/数の減った髪。頑疎(がんそ)/かたくなでうといこと。僻陋(へきろう)/ひなびて文化が低いところ。天聰(てんそう)/天子の聡明。
秋露如珠(しゅうろたまのごとし)
南朝梁(りょう)の江淹(こうえん:444-505)の「別賦」に「下有芍藥之詩、佳人之歌、桑中衛女、上宮陳娥。春草碧色、春水緑波、送君南浦、傷如之何。至乃秋露如珠、秋月如圭、明月白露、光陰往來、與子之別、思心徘徊。」(下に芍薬の詩、佳人の歌有り。桑中の衞女、上宮陳娥あり。春草は碧色にして、春水はロク波あり。君を南浦に送る、傷めども之を如何せん。乃ち秋露は珠の如く、秋月は珪の如きに至りては、明月白露ありて、光陰往来す。子と之れ別れ、思心徘徊す。)とある。鼓山の晦室師明の「續刊古尊宿語要」に「解夏示衆云。年豐歳稔。道泰時清。唱太平歌。樂無為化。秋露如珠。秋月如圭。」(解夏、衆に示して云く。年豊歳稔。道泰、時清、太平歌を唱す。楽無為化。秋露は珠の如く、秋月は珪の如し。)とみえる。
十徳(じゅっとく)
茶人が式正の場にて身につける羽織に似た服。流派により違いがあるが、一般的には黒の紗や絽の無紋の単衣で、広袖の角袖、折返しの襟がなく、腰に襠あるいは襞をつけ、共紐である。鎌倉時代の末ごろにはじまり、室町時代には旅行服として用いた。伊勢貞丈の「四季草」に「十徳の裁縫は素襖の如く、左右の腋をぬひふさぐなり、革のむなひもゝあり、是に具したる袴はなし、白布又は白練などをたゝみて帯にして、一重なり、前にて結び置なり、十徳に紋を付る事もあり、今も京都にては、門跡方のこしかきの者これを著るなり、江戸にても将軍家の御こしかきの者は著るなり、今世医者の著するも同じ裁縫なれども、羅精好紗などにて縫ひ、色は黒く無紋にして、胸紐に皮を用ひず、十徳と同じきれにて平ぐけにして、短くして結び、帯をせずしてはなち著にするゆゑ、別の物のやうに見ゆれども、実は同じ物也、今は俗人は會てきる事なし、たゞこしかきのきるばかりなり」とあり、江戸期に入って僧侶、医師、儒者、茶頭などが用いるようになり俗人は着なくなり、駕輿丁だけが着た。現在の羽織の祖形ともいわれている。
十徳の語は、鎌倉時代の齋藤助成の永仁3年(1295)「布衣記」に「白布を、十徳のおびのごとく平ぐけにして、其帯をもつて箙を腰に付」とみえる。谷川士清の「倭訓栞」に「じつとく服にいふ、直綴の訛音なるべし、褊綴とも称せり、褊衫より出たる名なるべし」とあり、禅家の褊衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを折衷して単に仕立てた法衣の一種である褊綴(へんとつ)のことで、直綴の訛ったものとする。喜多村信節の文政元年(1818)刊「瓦礫雑考」に「十徳は直綴掇或は綴とも書たりの略製にて、其名をとなへ訛りしまゝに、やがて十徳といふ名さへ出きし也、かく誤りしこともやヽ古く見えて、下学集に直掇とを別に出せり、産業袋といふものに、十徳は直綴のとなへぞこなひ、されば十徳のごとくして袖ながく、四すそを五寸ばかりヅツ綻せたるを褊綴といふ、是にて知るべしといへども、直綴は長袖裳付の衣のこと也、志かれば十徳の仕立やうのものを、直綴といふべき謂なしといへるは、却て非なり、そは省略せるによりて、名の変りたることに心つかざるなり」「さて直綴を省略して十徳と名づくるは、利用多きにもよれるなめれど、その本は直綴の譌音なり。此服今は俗体の人は着ざれども、昔は普く俗に用ひたり、故に下学集等の書にも、みな俗人服用の内に出せり、撮攘集に行旅の具の内に出せるも、便宜なる服なればなり。」、屋代弘賢「古今要覧稿」に「紗十徳は、そのはじめ詳かならざれども応仁の頃清水詣する足軽のもじの十とく着たりと奇異雑談いへば其頃に起れるにや、京都に紹鴎の遺物なりとて黒紗の十徳を持伝へし人あり、裁縫全く今の十徳とおなじくして、たヾ異なる所は腋を紫絲にてかヾりつゆ紐の有るもになり、また腋に陬をとりしもあり、是即今医師其外坊主の用ゆる十徳のはじめ成べし」とある。
十徳姿
江戸時代には、大名も小道服にかえて十徳を用いたこともあり、烏帽子・指貫を併せ用た肖像もあり、茶坊主頭[がしら]は十徳・長袴、茶坊主は十徳・着流しが普通であった。利休の像は道服をつけているが、時代が下がると道服は正装に、十徳は略装とし、やがて十徳が茶道の人たちの正装となったと思われる。また江戸時代には医師も十徳が普通であり、これら公家にあらず、武士・農民・町人に非ざる学問・技芸を事とする、いわゆる文化人は、広袖の人とも呼ばれ、この十徳を用いたものである。また公武家・町人といえども、隠退してその道を離れ、文化人として生きた人たちも、この十徳を愛用したのである。
しかしこの僧服の系列に属する十徳のほかに、御供衆や駕輿丁などの使用するものがある。素袍の上に似て脇をぬいふたぎ、葛布にて製し、紋をつけ、または紋をつけず白布をたたんで帯をする。この時は四幅袴を用いる。この十徳は、当初の「拾徳」であり、十徳の名に昇華する前の姿を残しているのではなかろうか。
十徳は、襟が衣の身の下端まであり、前で斜に合わさない。衽[おくみ]はない。袖は一幅で広袖、袖丈も狩衣や直垂のように長くはない。丈は短く膝位までで、襟は羽織のように折り返さない。紐はくけ紐で胸前につける。身の両脇に袖下のあたりから下に襞又は脇入れをつける。帯をつけない。地は通常紗の無地の単物で、色は黒を例とするが、十徳成立のはじめは萠黄その他白などもあったと思われる。
十徳とはどのようなものであろうか。
今日「十徳」という名を、仏教宗派の法衣として認めている教団は一つもない。また江戸時代にもない。十徳の名が初見するのは、『花營三代記』に、「応永29年[1422]9月18日壬申、有伊勢太神宮御参宮御供事、路次十徳也」とあることで、その後『建内記』には嘉吉元年[1441年]3月23日に、足利義勝が伊勢参宮のとき同じく御供衆は十徳を着たとあるが、これは法衣とは思えない。しかし『足利季世紀』に畠山ト山の陣中姿として「ト山十徳ノ衣ノ中ニヨロヒキテ」とあり、十徳というころもあるので、法衣の中にあるやに思えるが、ト山は18歳にして出家しているが、畠山尾張守尚慶といい、城主としての立場にあるもので、純粋の僧ではない。
十徳は法衣ではないが法衣に准ずるものとして、僧に准ずる人たちの褻の服装として用いられたと思われる。僧に准ずる人たちというのは、法印・法橋・律師等の僧位や検校等の僧職を与えられる人たちである。それは、絵画・彫刻・音楽・医師・歌などの芸能・技術に従事する人たちで、能楽も世阿弥・観阿弥、その他芸阿弥・能阿弥と名のる時宗の僧名を持つ人たちにより大成され、茶道も利休居士というように、在俗にして仏門に入るを通例としている。
学門芸術を司るのは、僧もしくは僧に准じた人たちであり、世を隠退するのと仏門に入るのは同義のように感ぜられ、またその反面、その学問・芸能を以って時の顕門に近侍したものもあり、これらの人々の思潮の中心をなしたものは時宗であった。
南北朝から足利初期の大きな流れの一つである時宗は、庶民の中に根をおろし、庶民の中から文芸を作り上げて行ったのであるが、そのとき、かって「馬衣」[うまきぬ]といやしめられていた「網衣」「あみえ」すなわち裳なしのはふり着が庶民の好みであり、やがては上流の人たちにも愛用されて行ったものが「じっとく」ではなかろうか。
道服が禅衣の直綴から出たとすれば、この「じっとく」は時宗の網衣をもととしたものではなかろうか。「じっとく」は「拾得」であり、もとは下賤の人々の用いる最下位の衣服であったものではなかったか。武士の直垂は、もともと公家に仕える下級に人々の夜着であり、ふだん着であったものが、武士の抬頭とともに武士の式正の式正の服となったように、庶民の中に根ざした服装が庶民の能力と地位の向上と相まって、世に出たものが「じっとく」ではなかったか。
「じっとく」[拾得]は、十徳に通じ、徳のすべてを持つもの、すなわち徳のある衣服とは仏教の法衣であり、この法衣としても差支えないものであるというような解釈から、法衣に准ずるものと考えられたのではなかろうか。しかも「じっとく」は、禅衣の直綴[じきとつ]にも語が通じる。十徳が、僧のごとく、俗のごとくの五とく、五とくで十徳であるという話は、冗談に似てよくそのあたりをうがった言葉ではないかと思われる。
室町時代の禅衣の流行や下剋上の大きな思想の流れが新様式の服装を作りだしたもので、それは禅から出た直綴という法衣・直綴から転じて一般服装化した道服を高級なものとすれば、時宗が取り上げた国民の底辺から作りあげられた非僧・非俗の服装が、この十徳ではないかと思われる。道服を簡素化した小道服より、さらに簡素なものとしての立場が、この十徳に存する。
春屋宗園(しゅんおくそうえん)
享禄2年(1529)-慶長16年(1611)。臨済宗の僧。大徳寺111世。春屋は道号、宗園は法諱、自号は一黙子。「龍賓山志」には「自號一愚子、集云一黙藁」とあり。大徳寺102世江隠宗顕に参じ、江隠示寂後、古渓宗陳と共に笑嶺宗訴に参じ、永禄12年大徳寺に出世開堂。大通庵、三玄院、薬泉寺、龍光院の開山。後陽成天皇の勅問に答えること数度、「大宝円鑑国師」号を特賜される。津田宗及・今井宗久・千利休らと親交。利休の孫宗旦を弟子とする。古田織部、小堀遠州の参禅の師。利休が大徳寺三門の修復を寄進した際、落慶法要の導師をつとめた。遺稿に「一黙稿」がある。慶長10年(1605)道安が「利休」の意味を訊ねたのに対し「参得宗門老古錐平生受用截流機全無技倆白頭日飽対青山呼枕児」(参得す宗門老古錐平生哉流の機を受用す全く技倆なし白頭の日青山に対するに飽きて枕児を呼ぶ)の偈をあたえる。
春慶塗(しゅんけいぬり)
漆塗りの一種。木地を黄または赤に着色し、透漆を上塗りして木目が見えるように仕上げたもの。起源ははっきりしないが、後亀山天皇(1347-1424)のとき和泉国堺の漆工春慶が考案したと伝えられこれを堺春慶というとされ、一説では道元禅師(1200-1253)が中国からつれてきた工人僧の春慶が越前の永平寺にいて創始したともいう。俗に日本三春慶と呼ばれ、岐阜の飛騨春慶、秋田の能代春慶、粟野春慶(水戸春慶)が知られる。「粟野春慶」は、室町時代の延徳元年(1489)に稲川山城主・源義明が粟野(現在の城里町)で始めたといわれ、別名「水戸春慶」と呼ばれるように徳川光圀公も御用塗物師を召し抱えて奨励した。「飛騨春慶」は、慶長11年(1606)高山城主・金森可重の御用大工高橋喜左ェ門が打ち割った木の木目が美しかったので蛤盆にしたものを塗師・成田三右ェ門が木地を隠してしまわない透き漆を工夫して塗り上げ献上したところ、加藤四郎左衛門景正の作とされる名器「飛春慶」の茶壺の黄釉に似ていることから「春慶」と命名したといわれる。命名者は領主金森可重とも子の金森宗和ともいわれる。慶長17(1612)金森可重が、批目面桶・片口・塗木地二組および雉子一掛を将軍秀忠に献上、以後将軍献上は例年のこととなり湯桶・片口・麪桶の三種が献上されたという。「能代春慶」は、霊元天皇(1663-1686)のころ飛騨高山の漆工山打三九郎が、秋田県能代へ移って春慶塗をはじめたとされる。
春秋多佳日(しゅんじゅうかじつおおし)
陶淵明の「移居」に「春秋多佳日、登高賦新詩。過門更相呼、有酒斟酌之。農務各自歸、閑暇輒相思。相思則披衣、言笑無厭時。此理將不勝、無為忽去茲。衣食當須紀、力耕不吾欺。」(春秋佳日多く、高きに登りて新詩を賦す。門を過ぎればこもごも相呼び、酒あらば之を斟酌す。農務には各自帰り、閑暇にはすなわち相思う。相思えば則ち衣をひらき、言笑して厭く時無し。此の理はた勝らざらんや、忽ち茲を去るを為す無かれ。衣食当に須く紀むべし、力耕吾を欺かず。)とある。
春色無高下(しゅんしょくこうげなし)
「圓悟佛果禪師語録」に「小參。僧問。玄沙不過嶺。保壽不渡河。未審意旨如何。師云。直超物外。進云。雪峰三度到投子。九度上洞山。是同是別。師云。別是一家春。進云。恁麼則春色無高下。華枝自短長。師云。一任卜度。」(小参。僧問う、玄沙、嶺を過ぎず、保寿、河を渡らず。いぶかし、意旨如何。師云く、直超物外。進云く、雪峰、三度投子に到り、九度洞山に上る。是れ同か、是れ別か。師云く、別に是れ一家の春。進云く、恁麼ならば則ち春色高下なけれども、華枝おのずから短長。師云く、一に卜度に任す。)とある。「禅林句集」に「春色無高下、花枝自短長。」とあり、注に「春色雖無高下花枝自有短長故長者長法身短者短法身」(春色に高下なしと雖も、花枝おのずから短長あり、故に長者は長法身、短者は短法身。)とあり出典を「普燈十一ノ十丁」とする。「普燈録」巻第十一には「問。玄沙不過嶺。保壽不渡河。未審意旨如何。曰。直超物外。云。雪峰三度到投子。九度到洞山。又作麼生。曰。別是一家春。云。恁麼則春色無高下。華枝自短長。曰。一任卜度。」(問う、玄沙、嶺を過ぎず、保寿、河を渡らず。未審、意旨如何。曰く、直超物外。云う、雪峰、三度投子に到り、九度洞山に上る。また作麼生。曰く、別に是れ一家の春。云う、恁麼ならば則ち春色高下なけれども、華枝おのずから短長。曰く、一に卜度に任す)とある。
春水滿四澤(しゅんすいしたくにみつ)
陶淵明の詩「四時詩」に「春水滿四澤、夏雲多奇峰。秋月揚明暉、冬嶺秀孤松。」(春水四沢に満ち、夏雲奇峰に多し。秋月明輝を揚げ、冬嶺孤松に秀ず。)とある。春水(しゅんすい)/春になって氷や雪がとけて流れる水。四澤(したく)/方々の池や湖。「彦周詩話」には「春水滿四澤、夏雲多奇峰。秋月揚明輝、冬嶺秀孤松。此顧長康詩、誤編入陶彭澤集中。」(春水四沢に満ち、夏雲奇峰に多し。秋月明輝を揚げ、冬嶺孤松に秀ず。此れ顧長康の詩、誤りて陶彭沢集中に編入せん。)とあり、顧卜之(こがいし)の詩とする。「如淨和尚語録」に「除夜小參。年盡月盡日盡時盡。以拂子劃一劃云。盡情劃斷。舉拂子云。者箇無盡。還見麼。喚作清涼拂子。受用無盡。今夜共諸人分歳。説法無盡。所以春水滿四澤無盡。夏雲多奇峰無盡。秋月揚明輝無盡。冬嶺秀孤松無盡。一年如是。過去無盡。一年如是。到來無盡。若恁麼見得。日日眼睛定動。時時鼻孔軒昂。依舊年月日時悉皆無盡。雖然盡與無盡。」(除夜小参。年尽き月尽き日尽き時尽く。仏子を以って画一画して云く、尽情画断。仏子を挙げて云く、者箇尽きず。還た見る麼。喚んで清涼仏子と作す。受用尽きず。今夜、諸人分歳を共にし、説法尽きざる所以、春水四沢に満ち尽きず、夏雲奇峰に多く尽きず、秋月明輝を揚げ尽きず、冬嶺孤松に秀じ尽きず。一年是の如く、過去尽きず。一年是の如く、到来尽きず。若し恁麼に見得し、日日眼睛を定動し、時時鼻孔を軒昂せば、旧年月日時悉皆尽きざるに依り、尽きると雖も与に尽きず。)とある。
春嶺紹温(しゅんれいしょうおん)
臨済宗の僧。大徳寺204世。京の人。諱は紹温或は宗恩。175世随倫宗宜に嗣ぐ。寛文3年(1663)正月19日出世。太清軒に住す。丹波桑田郡法輪寺、勢洲鈴鹿郡亀山正覚寺を再興。寛文7年(1667)9月17日示寂、54才。龍源門下明叟派。
諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさしゅぜんぶぎょう)
「傳燈録」の「道林禪師」に「元和中白居易出守茲郡。因入山禮謁。乃問師曰。禪師住處甚危險。師曰。太守危險尤甚。曰弟子位鎮江山。何險之有。師曰。薪火相交識性不停。得非險乎。又問如何是佛法大意。師曰。諸惡莫作衆善奉行。白曰。三歳孩兒也解恁麼道。師曰。三歳孩兒雖道得。八十老人行不得。白遂作禮。」(元和中。白居易、出守茲郡。因みに入山して礼謁す。乃ち師に問うて曰く、禅師の住むところ甚だ危険。師曰く、太守の危険もっとも甚だし。曰く、弟子、鎮江山に位す、何の険のあらんや。師曰く、薪火相交し、識性停らず、険あらざるを得んや。また問う、如何なるか是れ仏法の大意。師曰く、諸の悪をなすなかれ、衆の善を奉行せよ。白曰く、三歳の孩兒もまた恁麼いうを解す。師曰く、三歳の孩兒も道得ならんと雖も、八十の老人も行い得ず。白、遂に作礼す。)とある。「撓繹「含經」に「尊者阿難便説此偈。諸惡莫作。諸善奉行。自淨其意。是諸佛教」とある。ありとあらゆる悪をなさず、ありとあらゆる善きことは身をもって行えということ。「七佛通戒偈」に「願諸衆生。諸惡莫作。諸善奉行。自淨其意。是諸佛教。和南聖衆。」(願わくば諸の衆生とともに、諸悪は作すこと莫く、諸善は奉行して、自ら其の意を淨せん。是れ諸仏の教なり聖衆に和南したてまつる)とある。
紹鴎袋棚(じょうおうふくろだな)
武野紹鴎が厨子をもとに考案した棚。溜塗や春慶塗などのものがある。大棚で、二枚の襖張の袋戸が引き違いについており、右側に平水指を入れて使う。炉の場合のみ使用する。棚の天板の上には茶道具を飾らない。ただ花入が床の間に置けない時に棚にあわせて小ぶりの花入を飾るとか、硯箱などの文房具を飾るかするのが習い。初飾には、地袋の上中央に薄茶器を飾る。後飾では、袋戸のなかに柄杓と蓋置を飾る。左の袋戸を開け、柄杓を斜めに飾り、蓋置をその手前に飾り袋戸を閉める。
常慶(じょうけい)
樂家二代。永禄4年(1561)-寛永12年(1635)75歳。田中宗慶(そうけい)の子で与次、のち吉左衛門といい、これより樂家では代々吉左衛門を名乗る。田中宗慶は長次郎の妻の祖父で長次郎とともに樂焼を製陶した。樂家の「宗入文書」によると、常慶は田中宗慶の子の庄左衛門宗味の弟であり、秀吉から印と暖簾を拝領したとする。「樂」の字の「白」の部分が「自」(自樂印)になっている。作品は長次郎以来の作風を受け継ぎ重厚であるが、口縁が平らで、見込に茶溜りがなく深く、箆削りに変化をつけているものが多い。沓形の茶碗や土見せの高台など、長次郎茶碗には見られなかった作行きのものもある。また赤黒の二種の釉に加えて白釉(香炉釉)を創始し、茶碗に用いている。長次郎没後、天下一焼物師の名をゆるされる。
正午の茶事(しょうごのちゃじ)
正午頃を席入とする茶事。一年を通じて行われるが、炉正午の茶事が最も正式な茶事とされる。茶会の招きを受けると、「前礼」といい招かれた相手先に挨拶し、当日は「寄付」に集り、客が揃うと案内をうけ「外待合」に通り、亭主の「迎付」を受け「蹲踞」で手水をつかい席入したあと、炉正午の茶事では、初炭、懐石、そのあと菓子が出て初座は終わり、中立となり、銅鑼の合図で再び席入(後入)し、濃茶、後炭と続き、そのあと薄茶が出て後座は終り、客は退出するという、二刻(4時間)にわたる茶事である。風炉正午の茶事では、懐石、初炭、菓子、中立、濃茶、後炭、薄茶の順となる。「茶道筌蹄」に「昼利休居士の時代までは二食なり、巳の刻頃を昼飯といひ、〓(日甫)時を夕飯といふ、夫故昼の茶の湯といへば、巳の刻時分をいふ、当時一日に三食なるゆへ、昼の茶といふは、午時のごとくなりぬ」とあり、午前10時頃だったものが正午頃になったという。
小室六門(しょうしつろくもん)
宋代に達摩関係の書六部をまとめたもの。「心經頌」「破相論(觀心論)」「二種入」「安心法門」「悟性論」「血脈論」の六門からなる。少室六門。少室六門集。
趙州(じょうしゅう)
趙州従諗(言念)(じょうしゅうじゅうしん)。中国唐末の禅僧(778-897)。曹州(山東省)の人。俗姓は郝(赤β)。幼くして曹州の龍興寺で出家し、嵩山の琉璃壇で受戒。後に池陽の南泉普願の下に参じ、師の「平常心是道」で大悟し法嗣となる。南泉の没後60歳で遊方の途に出て、黄檗希運、塩官斉安らの下で修禅する。80歳で趙州(河北省)の観音院(東院)に住し、その後、40年間「口唇皮禅」と称される特異な禅風を宣揚し、120歳で没した。諡して真際大師という。彼と門弟との問答の多くが「公案」として世に大行した。
松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)
「禅林句集」五言対句に「松樹千年翠、不入時人意。」(松樹千年の翠、時の人の意に入らず。)とあり、下注に「薫石田樹作佰。續傳三八丁。石田章同禪類。」(薫石田、樹を佰に作る。續傳、三の八丁。石田章、禅類同じ。)とある。その「續傳燈録」巻三「石田法樞W師」章には「但得本莫愁末。喚恁麼作本。喚恁麼作末。松柏千年青。不入時人意。牡丹一日紅。滿城公子醉。」(但だ本を得て、末を憂えること莫れ。何を喚んでか本となし、何を喚んでか末となすや。松柏千年の青、時の人の意に入らず。牡丹一日の紅、満城の公子酔う。)とある。
清淨身(しょうじょうしん)
蘇軾の七言絶句「贈東林總長老」(東林総長老に贈る)に「溪聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。他日如何舉似人。」(渓声すなわち是れ広長舌、山色あに清浄身にあらずや。夜来八万四千の偈、他日いかんが人に挙似せん。)とある。「普燈録」に「内翰蘇軾居士。字子瞻。號東坡。宿東林。日與照覺常總禪師論無情話。有省。黎明獻偈曰。溪聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。他日如何舉似人。」(内翰蘇軾居士。字は子瞻。東坡と号す。東林に宿し、日に照覚常総禅師と無情話を論じ、省あり。黎明、偈を献じて曰く、渓声すなわち是れ広長舌、山色あに清浄身にあらずや。夜来八万四千の偈、他日いかんが人に挙似せん。)とある。清淨身は、煩悩を去った、清くけがれのない心。「妙法蓮華經」にも「復次、常精進。若善男子、善女人、受持是經、若讀、若誦、若解説、若書寫、得八百身功コ。得清淨身、如淨琉璃、衆生喜見。」とある。「羅湖野録」に「程待制智道・曾侍郎天游。寓三衢最久。而與烏巨行禪師為方外友。曾嘗於坐間舉東坡宿東林。聞谿聲。呈照覺總公之偈。谿聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。它日如何舉似人。程問行曰。此老見處如何。行曰。可惜雙脚踏在爛泥裏。曾曰。師能為料理否。行即對曰。谿聲廣長舌。山色清淨身。八萬四千偈。明明舉似人。二公相顧歎服。吁。登時照覺能奮金剛椎。碎東坡之巣窟。而今而後。何獨美大顛門有韓昌黎耶。雖烏巨向曾・程二公略露鋒鋩。豈能洗叢林噬臍之歎哉。」(程待制智道と曾侍郎天游、三衢に最久く寓して、ともに烏巨行禅師の方外の友と為る。曾、嘗て坐間に挙す、東坡、東林に宿し、渓声を聞き、照覚総に公の偈を呈す。渓声すなわち是れ広長舌、山色あに清浄身にあらずや。夜来八万四千の偈、它日いかんが人に挙似せん。程、行に問いて曰く、これ老見るところ如何。行曰く、惜しむべし双脚を踏むに爛泥裏に在り。曾曰く、師よく料理を為すや否や。行、即ち対して曰く、渓声広長舌、山色清浄身。八万四千の偈、明明人に挙似せん。二公、相顧みて歎服す。ああ、照覚能く奮って金剛椎に登るの時、東坡の巣窟を砕く。而今而後。何んぞ独り美大顛門に韓昌黎ありや。烏巨、曾・程二公に向うに、ほぼ鋒鋩を露わすと雖も、豈に能く叢林噬臍の歎を洗うや。)とある。韓昌黎(かんしょうれい)/韓愈(かんゆ:768-824)。中国唐の詩人。噬臍(ぜいせい)/「噬」は噛むこと。臍(ほぞ)を噛む。後悔すること。悔いること。
精進椀(しょうじんわん)
懐石家具の塗椀の一。禅院で饗応膳として使用された膳椀で、天正時代に頻繁に使われている「鉢の子椀」がこれにあたるのではないかという。飯椀の身が椀形であるのに、飯椀の蓋・汁椀の身蓋とも端反りになっている。朱塗で、高台の内側が黒塗になっている。現在では真の膳椀として、仏事の茶事や格式の高い茶事に用いられる。元禄4年(1691)刊「茶道要録」に「利休形諸道具之代付」として「精進椀但シ三人前二十四銭目。替汁椀但シ一組四銭目。精進二ノ椀十三銭目。大壺皿蓋共十銭目五分。小壺皿同同前。平皿同同前。楪子三ツ七銭目五分。豆子三ツ六銭目。」とあり、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「精進椀利休形、香台の内何れも黒し、平内蓋、楪子底黒、豆子底黒、引鉢皆朱、但し茶会には常の手付飯器も用ゆ、折敷朱角切裏黒、但し坪はなし」、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」に「ふた二つとも汁椀と同形なり、尤、口にひもなし、食椀ばかりひもあり、ぬり内外朱、かうだいの内いづれも黒塗、地すりは朱の方なり、何れも椀の深さなりかつかう汁椀と同事、食椀は一つはなれたる形り格好なり、是を皆朱の精進わんとて利休好なり」とある。
消息(しょうそく)
手紙のこと。天文17年(1548)の辞書「運歩色葉集」に「消は尽なり。通なり。息は生なり。陰と陽に象どるなり。又、息を消すと讀む間、筆にて書くなり。口にて言はずなり。是れ消息なり。」とあり、「消」は死、「息」は生の意味で、本来は安否の意。そこから安否を尋ねる手紙や伝言など、また訪問の意になった。「書簡」の意味で「手紙」が用いられるのは新しいことで、それ以前は「文(ふみ)」「消息」などの語が用いられた。消息は、ふつう和様の書状をいい、本来は仮名消息を消息とするようだが、現在は仮名交じりのものも含めて消息と称している。漢文の手紙は尺牘(せきとく)と呼ぶ。「尺」は長さ1尺、「牘」は文字を記す方形の木札のことで、漢尺1尺(約23cm)の細長い木簡(牘)を細い紐で綴ったものに手紙を書いたことから、後に手紙の意となった。消息が茶席の掛物として用いられるようになるのは、墨蹟、古筆に次ぐが、そのはじめは千利休とされる。
松柏千年青(しょうはくせんねんのせい)
「續燈録」等に「松柏千年青。不入時人意。牡丹一日紅。滿城公子醉。」(松柏千年の青、時の人の意に入らず。牡丹一日の紅、満城の公子酔う。)とある。松柏は、中国では常緑樹の代表として連称されることが多い。この柏は落葉樹の「カシワ」ではなく、「本草綱目啓蒙」に「凡ソ単ニ柏ト称スルハ側柏、扁柏ヲ通ジテ言フ(略)側柏ハ、コノテガシハナリ(略)扁柏ハ、ヒノキナリ」とあり、コノテガシワ或はヒノキ・サワラ・コノテガシワなどの常緑樹の総称。松柏の千年常に変わらぬ青は、世の人々には気に入らない。牡丹の一時の艶やかな花に、満都の貴公子達は酔いしれる。人は不易な本質には意をとめず、表層の現象のみに心を奪われるということか。
松柏見貞心(しょうはくにていしんをみる)
「論語」に「歳寒然後、知松柏後凋也」(歳寒くして、然るのちに松柏の凋むに後るるを知る)とあり、寒い冬なればこそ、葉を落とさない松や柏の木を知ることができるということで、松や柏は冬の霜や雪にも屈せずいつも緑色を変えないことから、君子が逆境にあってもその節操を変えないことを比喩する。「本草綱目啓蒙」に「凡ソ単ニ柏ト称スルハ側柏、扁柏ヲ通ジテ言フ(略)側柏ハ、コノテガシハナリ(略)扁柏ハ、ヒノキナリ」とあり、コノテガシワ或はヒノキ・サワラ・コノテガシワなどの常緑樹の総称。「易経」に「貞正也」(貞は正なり)とあり、貞心とは正しく定まって惑わない心のこと。「晉書」に「誌シ筠之雅操、見貞心於歳暮」、范雲(451-503)の「詠寒松詩」に「凌風知勁節、負雪見貞心」、孟郊(751-814)の「大隱詠三首」に「破松見貞心、裂竹看直文」、何敬宗の「遊仙詩」に「青青陵上松、亭亭高山柏。光色冬夏茂、根柢無凋落。吉士懐貞心、悟物思遠託。」(青青たる陵上の松、亭亭たる高山の柏。光色は冬夏に茂り、根柢は凋落すること無し。吉士は貞心をいだき、物に悟りて遠く託せんことを思ふ。)とみえる。
松風供一啜(しょうふういっせつにきょうす)
「介石禪師語録」の「偈頌」に「瓦瓶破曉汲清冷、石鼎移來壞砌烹。萬壑松風供一啜、自籠雙袖水邊行」(瓦瓶、破暁に清冷を汲み、石鼎、移り来て壊砌に烹る。万壑の松風、一啜に供し、自ら双袖を籠し水辺に行く)とある。「瓦瓶」は「ツルベ」のこと。「壑」は「谷」の意。萬壑(ばんがく)は多くの谷。「江湖風月集抄」に「瓦瓶ー、暁き寅の刻にくむ水をば清華水と云也。清冷なるを以て汲之也。移来は石鼎を懐砌に移来也。又は汲みたる水を石鼎に移来也。万壑のー、煎茶の声如松風也。供一啜にあてんの義。而後に両手を袖裡に入て水辺に横行する也。」とある。多くの谷々から響き渡る松風を、ひと啜りにする義は、大なり小なり、長なり短なりと論ずる上にある絶対の大も小も、長も短もないと、差別を越した一味平等のおしえとあり、「一口吸盡西江水」と同じ境地をあらわしたものという。
松風颯颯聲(しょうふうさつさつのこえ)
「續燈録」對機門の彭州慧日堯禪師に「師云。松風颯颯。細雨微微。紅日銜山。冰輪出海。照古照今。未嘗有間。目前無法。日用分明。法爾熾然。絲毫不立。人人具足。各各圓明。向諸人前。更説箇什麼即得。良久云。參。」(師云く、松風は颯颯と、細雨は微微たり。紅日は山に銜ち、冰輪は海より出ず。古に照らし今を照らすに、未だ嘗て間あらず。目前に法なく、日用は分明たり。法爾は熾然として、糸毫も立たず。人人に具足し、各各に円明なり。諸人の前に向い、更に箇の什麼を説いて即ち得んや。良久して云く、参れ。)とある。「寒山詩」に「可重是寒山、白雲常自閑。猿啼暢道内、虎嘯出人間。獨歩石可履、孤吟藤好攀。松風清颯颯、鳥語聲〓(口官)〓(口官)。」(重んずべきは是れ寒山。白雲常に自ずから閑か、猿啼いて道内を暢べ、虎嘯いて人間を出ず。独り歩んで石を履むべく、孤り吟いて藤を攀じるを好む。松風清く颯颯、鳥の語る声官官。)とある。謡曲「高砂」の「千秋楽」に「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命をのぶ。相生の松風、颯々の聲ぞ楽しむ、颯々の聲ぞ楽しむ」がある。颯颯(さつさつ)/風のさっと吹くさま。また、その音。
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
圜悟克勤の法嗣で大慧派の始祖大慧宗杲(だいえそうこう:1089-1163)の撰した公案集の一つで、古来の宗師の上堂示衆の語句六百六十一則を選び、評唱あるいは著語を付し、最後に大慧自身の示衆一段を付したものと、曹洞宗の開祖道元(1200-1253)の撰したものとがある。日本では「正法眼蔵」といえば後者を指すのが一般的。書名の「正法眼蔵」は、「靈山百萬衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、我有正法眼藏涅槃妙心、附屬摩訶迦葉。」(靈山百萬衆の前にして、世尊、優曇華を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉、破顔微笑せり。我に正法眼藏涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附屬す。)と「正法眼蔵」にあるように、釈迦が、霊鷲山(りょうじゅせん)の山頂で説法していたとき、釈迦が優曇花(うどんげ)の花をひねって瞬きをした、そのとき摩訶迦葉(まかかしょう)が破顔微笑したのをみて、釈迦は言葉ではない正しい教え、悟りの境地がある、それを摩訶迦葉に授ける、とし「いまこの如来一大事の正法眼蔵、無上の大法を禅宗と名づくる」といわれる不立文字・教外別伝の禅の根本義の意。道元が、寛喜3年(1231)より建長5年(1253)にいたる23年間にわたって説示したもので、全95巻。宗門の規則・行儀・坐禅弁道など520編からなる、曹洞宗の根本聖典。
從容録(しょうようろく)
萬松老人評唱天童覺和尚頌古從容庵録。全六巻。南宋末、曹洞の万松行秀が、燕京報恩院の従容庵に在って、宏智正覚の「頌古百則」を提唱し、「碧巌録」にならって、示衆と著語、および評唱を加えたもの。行秀が嘉定十六年(1223)に湛然居士に与えた書、および湛然居士がその翌年に撰した序がある。曹洞宗で重んぜられる。
笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)
永正2年(1505)-天正11年(1583)。大徳寺第107世。古嶽宗亘に参じ、大林宗套の法を嗣いだ。永禄9年(1566)三好義継が義父三好長慶の菩提を弔うため建立した大徳寺の塔頭(たっちゅう)聚光院(じゅこういん)の開山。千利休の禅の師で、同院は茶道三千家の菩提寺となっており、利休居士の月命日にあたる28日には三千家交代で法要を営まれている。 「南方録」に「或人、炉と風炉、夏冬茶湯の心持、極意を承り度と宗易に問れしに、宗易答、夏ハいかにも涼しきやう、冬ハいかにも暖かなるやうに、炭ハ湯のわくやうに、茶ハ服のよきやうに、これにて秘事ハすみ候由申されしに、問人不興して、其ハ誰も合點の所にて候と云ハれたれハ、又、易の曰、さあらは右の心に叶ふやうにして御覧せよ、宗易客に參り、御弟子になるへしと申されける。同座に笑嶺和尚御坐ありしが、宗易の被申やう至極せり。かの諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさしゅうぜんぷぎょう)と鳥〓(上穴下果)(ちょうか:道林禅師)の答へられたる同然ぞとの玉ひし也。」と見える。
初座(しょざ)
中立のある茶事における前半の席。ふつう、席入したあと、炉ならば初炭、懐石、風炉なら懐石、初炭と続き、そのあと菓子が出て初座は終わり、中立となる。「南方録」に「数奇屋ニテ、初座・後座ノ趣向ノコト、休云、初ハ陰、後ハ陽、コレ大法也、初座ニ床ハカケ物、釜モ火アイ衰ヘ、窓ニ簾ヲカケ、ヲノヲノ一座陰ノ躰ナリ、主客トモニ其心アリ、後座ハ花ヲイケ、釜モワキタチ、簾ハヅシナド、ミナ陽ノ躰ナリ、如此大法ナレドモ、天気ノ晴クモリ、寒温暑熱ニシタカイテ変躰ヲスルコト、茶人ノ料簡ニアリ」とあるように、後座の陽に対し陰とされ、茶室の窓には簾が掛けてあり、茶室の中は仄暗くなっており、ふつう床には掛物だけが掛けてある。
初炭(しょずみ)
茶事で、亭主が最初に行う炭点前。炉では、夜咄の時は薄茶(前茶とよぶ)がもてなされた後となるが、普通は席入したのち主客の挨拶があり、そのあとすぐに行う。風炉では、朝茶の時は懐石より先に行うが、普通は懐石がすんだのち行う。
初風炉(しょぶろ)
5月になって初めて開かれる茶会を「初風炉」といい、初夏の趣となる。村田珠光が四畳半に初めて炉を切り、武野紹鴎、千利休が炉の点前を定めるまでは、茶の湯は四季を問わず風炉を用いていたが、現在では夏の風炉、冬の炉と使い分け、立夏(5月5日)頃には炉を閉じ、風炉を用いる。このように炉をふさぎ風炉に改まってから一ヶ月の間も初風炉といい、5月は初風炉の季節とされる。
祥瑞(しょんずい)
中国明代末の崇禎年間(1628-1644年)に景徳鎮窯で作られた染付磁器のこと。日本のからの特定の注文により作られ、素地は精白で、細い線で緻密に描き込まれた地紋と捻文や丸紋などの幾何学文の多様が特徴。一部の器の底に陶工の名と考えられる「五良大甫呉祥瑞造」の銘をもったものがあるためこの名が付いた。古染付とは異なり、最良の青料が用いられ、古来染付磁器の最上とされている。日本でもさかんに写しがつくられた。
人間好時節(じんかんのこうじせつ)
「無門関」の「平常是道」の南泉と趙州の問答に対する無門の評語に「無門曰。南泉被趙州發問。直得瓦解冰消分疏不下。趙州縱饒悟去。更參三十年始得。頌曰。春有百花秋有月。夏有涼風冬有雪。若無閑事挂心頭。便是人間好時節。」(無門曰く、南泉、趙州に発問せられて、直に得たり、瓦解冰消、分疏不下なることを。趙州、縱饒い悟り去るも、更に參ずること三十年にして始めて得ん。頌に曰く、春に百花有り秋に月有り、夏に涼風有り冬に雪有り。若し閑事の心頭にかくる無くんば、すなわち是れ人間の好時節。)とある。無門が言った。南泉は、趙州に質問されて、すぐに崩れ落ちて消えてしまい、弁解も出来ないことが分かった。趙州も、たとい悟つたとしても、まだあと三十年参禅して始めて真の悟りを得ることができるだろう。頌に曰く、春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり。つまらぬ事を心にかけねば、これがこの世の極楽だ。
新月一張弓(しんげついっちょうのゆみ)
白居易(772-846)の五言律詩「秋寄微之十二韻」に「娃館松江北、稽城浙水東。屈君為長吏、伴我作衰翁。旌旆知非遠、煙雲望不通。忙多對酒榼、興少閲詩筒。淡白秋來日、疏涼雨後風。餘霞數片綺、新月一張弓。影滿衰桐樹、香凋晩尅p。饑啼春穀鳥、寒怨絡絲蟲。覽鏡頭雖白、聽歌耳未聾。老愁從此遣、醉笑與誰同。清旦方堆案、黄昏始退公。可憐朝暮景、銷在兩衙中。」(娃館は松江の北、稽城は浙水の東。君を屈して長吏となし、我に伴いて衰翁たり。旌旆遠きにあらざるを知る、煙雲望み通ぜず。忙多くして酒榼に対し、興少くして詩筒を閲けり。淡白なり秋来の日、疏涼なり雨後の風。餘霞数片の綺、新月一張の弓。影は衰桐の樹に満ち、香は晩恵の叢に凋む。飢えて春穀の鳥を啼かしめ、寒くして絡絲の蟲を怨みしむ。鏡を覧るに頭は白しと雖も、歌を聴くに耳未だ聾せず。老愁はこれより遣らん、酔笑は誰と同じくせん。清旦にまさに案を堆くし、黄昏に始めて公より退る。可憐なる朝暮の景、銷して両衙の中に在り。)とある。○旌旆(せいはい)はた。官職を表す旗。○酒榼(しゅこう)さかだる。酒尊。○絡絲蟲(らくしのむし)はたおり。
神光照天地(しんこうてんちをてらす)
「碧巌録」九六則「趙州三轉語」の「偈」に「泥佛不渡水。神光照天地。立雪如未休。何人不雕偽。」(泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。雪に立って未だ休せずんば、何人か雕偽せざらん。)、その「評唱」に「泥佛不渡水。神光照天地。這一句頌分明了。且道為什麼卻引神光。二祖初生時。神光燭室亙於霄漢。又一夕神人現。謂二祖曰。何久于此。汝當得道時至。宜即南之。二祖以神遇遂名神光。」(泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。この一句に頌して分明にし了る。しばらく道え、什麼としてか卻って神光を引く。二祖初め生るヽ時、神光室を燭して、霄漢にわたる。また一夕神人現じて。二祖に謂って曰く。なんぞ此に久しき。汝まさに道を得べき時いたれり。宜しく即ち南に之くべしと。二祖神遇を以て、遂に神光と名づく。)とある。「祖庭事苑」に「神光二祖生時、神光照室、故舊名神光。後達摩改名慧可。」とあり、「神光」とは禅の開祖達磨大師の後を継ぎ二祖とされる「慧可(えか)」のこと。慧可(487-593)は初め名を「光光」といい、40歳の時、神人が現れ南方に行けとのお告げがあり「神光」と名を改め、南方で達磨に相見する。そのとき入門を請うが許されず、片臂を切って決意を示し、許され「慧可」の名をもらう。「泥佛不渡水。神光照天地。」は、土で作った仏は水に溶けてしまうが、達磨の法を伝えた神光によって世の中が明るく照らされている、というところか。
真形釜(しんなりがま)
茶湯釜の最も基本的な形態。口はやや内側に繰り込んだ「繰口(くりくち)」で肩はなだらか、胴の中央に「鐶付(かんつき)」が付き、胴の上部と下部のつなぎ目に庇のように出ている「羽」をめぐらした釜。時代が下がるにつれて肩の張りが強くなり、鐶付の位置がだんだん上の方に上がってくる傾向がある。このかたちは茶の湯の成立以前に厨房で使われていた「湯釜」の形態をとどめており、芦屋釜の古作の多くはこの形をしている。
真塗(しんぬり)
もともとは黒漆の塗り放しのことをいったが、現在は「蝋色塗(ろいろぬり)」(呂色塗)を施した漆工品。蝋色塗とは、本来それほど光沢のない漆に光沢を出すため、油分を含まない蝋色漆を塗り、乾燥させた後表面を木炭で研ぎ出し、その後炭を粉末にした炭粉を水あるいは砥粉を植物油に混ぜて研磨剤として磨く「胴摺り(どうずり)」を行い平滑とし、生漆を漆の面につけて拭う「摺漆(すりうるし)」をして、さらに少量の油と角粉で磨く「角粉磨き(つのこみがき)」をして、表面を鏡の様に仕上げ漆黒の光沢をあらわしたもの。刷毛目を残さないように塗り上げるため高度な技術を要し最高の塗りとされる。  
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翠巌宗a(すいがんそうみん)
江戸初期の臨済宗の僧。慶長13年(1608)-寛文4年(1664)。大徳寺195世。和泉堺生。俗性は半井。江月宗玩(1574-1643)の甥にあたり、その法を嗣いだ。。宗aは名、号に似玉・栖蘆子等。勅諡は法雲大仰禅師。明暦3年(1657)奉勅入寺。大徳寺塔頭寸松庵二世として、紫野寸松庵に住む。本山に引清軒・為隣軒、京北に山陰軒、肥前平戸の春江庵等を創し、宇治の蔵勝庵を再興した。平戸の是興寺、清浄庵、涼月庵の開祖。詩文・書画・茶の湯をよくす。
隨處作主(ずいしょさくしゅ)
「臨濟録」に「師示衆云。道流。佛法無用功處。秖是平常無事。屙屎送尿著衣喫飯。困來即臥。愚人笑我。智乃知焉。古人云。向外作工夫。總是癡頑漢。爾且隨處作主。立處皆真。境來回換不得。縱有從來習氣五無間業。自為解脱大海。」(師、衆に示して云く、道流、仏法は用功の処なし。ただ是れ平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困し来たれば即ち臥す。愚人は我を笑う。智は乃ち焉を知る。古人云く、外に向って工夫を作す、総に是れ癡頑の漢、と。爾、且く随処に主となれば、立処みな真なり。境来たれども回換することを得ず。たとい従来の習気、五無間の業あるも、自ら解脱の大海となる。)とある。師が大衆に示して言った、お前たち、仏法は計らいを加えるところはない。ただ平常で無事がそれである。大小便をしたり、服を着たり飯を喰ったり、疲れたら寝るばかりである。愚人は笑うだろうが、本当に出来た人ならそこが分かる。古人も、外に向って求めるのは、みんな大馬鹿者だ、と言っている。お前たち、どんな場合でも自分が主となれば、存在するところがそのまま真実なのだ。どんな環境になっても振り回されることはない。たとい従来からの身にしみついた習慣や、五種の無間地獄の苦果を受けるような業があっても、それが自然と解脱の大海となる。
硯蓋(すずりぶた)
懐石道具の一。本膳料理で後段の酒の肴を盛ったもので、懐石にも取り入れられ酒の肴を盛った。また干菓子器としても用いられる。天保8年(1837)刊「茶式花月集」に「銚子硯蓋持出酒をすすめ、挨拶有て引事常の如し。」とあり、現在の八寸のように用いられている。弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「総菓子盆」として「菊絵硯蓋桐木地錫縁、菊の絵、花は胡蝶、葉は紺青なり、宗全好」とあり、干菓子器として挙げられている。山東京伝の文化10年(1813)序「骨董集」に「重箱に肴を盛ことは、元禄の末にすたれて、硯蓋に盛ことは、寛永年中に始りしとおもはる、但硯箱の蓋に菓などを載たる事は、古き記録或は歌集などに見えたり、(中略)近世好事の者、古へ菓を盛たるにもとづきて、硯箱の蓋に肴を盛しが始となりて、つひに一種の器物になりしなるべし、(中略)硯蓋に干菓子を盛しは、いにしへ菓を盛しなごりにや、とまれかくまれ肴を盛一種の器物となりしは、寛永以後の事なるべし、今さまざまの形を造かへて、硯蓋と称るは、原をうしなへる也」、篠崎維章の慶応4年(1868)「故実拾要」に「硯蓋とは硯筥の打かぶせの如蓋成物也、梨地、高蒔絵、金の沃懸等ある物也、凡家には喰積の台とて、種々の物を盛飾也、如此の物堂上には聊無之事也、都て堂上諸家中、年始并婚姻、元服、拝賀等の祝義、酒肴の時は、硯蓋に雉子の羽盛、海老の舟盛等を用る事也」とあり、寛永年間(1624-1643)頃から用いられるようになったという。
捨壷(すてつぼ)
所蔵の名品茶壷を卑下して床に飾らず、にじり口あたりにころがしておくこと。武野紹鴎の門下小嶋屋道察が嚆矢という。「南方録」に「捨壷といふ事あり。小嶋屋道察に真壷を求られしに、その比、沙汰あるほど見事のつぼにて、人々見物の所望ありしに、名もなきつぼかざる事いかヾとて、卑下して出されず。ある時、客衆常の会の約束にて参られ、腰かけより人を以て、今日我等ども参候事、第一壷一覧大望ゆへなり。御つぼかざられず候は場ゞ入まじきよし申し入れらる。道察拠なく、にじり上りの脇の方に口覆ばかりしてころがしおき、むかひに出られたり。客くぐりを開て見るに、脇につぼをこかし置たり。床へ御かざり候へと申入しに、道察出て、重々御所望候故、出しては候へども、床へ上げ申すべき壷にても候はず。せめて御通りがけにと存、捨置申候。そのまヽ御覧候へとの挨拶なり。しかれどもいくたびも断にてつゐに一覧のヽち床にかざれしとなり。この壷則小嶋屋の時雨と後には名を得たり。この所作を人々感じ、捨つぼとてはやりたる事なり。宗易云、尤時にとりては左様のはたらきもあるべき事なれども、只所望の上、壷を出すほどならば、床にかざりたらんはおとなしき所作なるべし。捨壷むつかしき事なり。勿論またまねてなどすべき事にあらずと云々。」とある。
砂子(すなご)
金箔、銀箔を細かくしたもの、またそれを用いた料紙や蒔絵の装飾技法の一。一面または部分に細かい金箔、銀箔をまいたもので、竹筒の一端に目の細かい網を張り、その中に細かな金箔、銀箔を入れ、網を通すことで指をより細かくさせながら、漆や礬水(膠を溶かして明礬を加えた液)などを塗った上にまく。細かくまかれた箔が砂のように見えることからこの名がある。金箔を用いたものを金砂子、銀箔を用いたものを銀砂子という。染織にも応用される。
洲浜(すはま)
州浜とは、海に突き出た洲のある浜辺をいい、州浜形は、州浜を上から見おろしたような輪郭に出入りのある形をいう。輪(円)を三角形に三つ組み合わせたような形から、江戸時代は「みつわがた(三つ輪形)」とも呼んだ。平安時代に、貴族の間で、慶事や催しの折り、州浜にかたどった台に岩木・花鳥・瑞祥のものなど種々の景物を載せ飾り、のちに正月や婚礼の島台として肴を盛るようになった。「古今和歌集」に「同じ御時せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるに、くはへたりける歌吹上の浜のかたに菊植ゑたりけるをよめる菅原朝臣秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか浪の寄するか」とある。菓子の州浜は、弘安年間(1278-1288)京都の松寿軒で初めて作られたとされ、水飴・大豆粉・白砂糖などが材料で、三本の竹を用いて横断面を洲浜形にし小口切にしたもの。家紋にも用いられる。
炭点前(すみてまえ)
茶事のとき、亭主が客の前で炉または風炉に炭をつぐ所作。濃茶あるいは薄茶を点てるのに理想的な湯の煮え加減(湯相)になるように炭の加減(火相)を整えるために行う。濃茶の前に炭を直すものを初炭といい、濃茶を点てたあと薄茶を点てる前に直すことを後炭(ごずみ)という。炭点前に使われる炭は、ふつう道具炭と呼ばれ、橡(くぬぎ)の炭で、種類は胴炭・管炭(くだずみ)・割管炭・枝炭三本立・枝炭二本立・毬打(ぎっちょう)・割毬打・点炭・車炭があり、それぞれ炉用・風炉用があり、炉用は大きく、風炉用は小振り。炭道具としては、香合・炭斗・羽箒・鐶・火箸・釜敷・灰器・灰匙などがある。永禄9年(1566)の「古伝書」に「すみ取もち出るなり、まかおろし候時、きゃく人座敷をたち、すこし休息するあひた、座しき其外の仕置をなし、ちゃのゆあり」とあり、亭主が炭斗を持出し釜をおろしたところで客は席を立っており、珠光・紹鴎の頃には客に炭点前を披露する形式は成立しておらず、炭をついだり直したりするのは裏の仕事であったとされる。元亀三年間(1572)頃の「烏鼠集(うそしゅう)」では「一流にハ、主人炭斗もちて出たる刻に客立也、又ハ、主人の火をなをすを見て客立也」とあり、炭を直すところを見てから客が退出するものものあり、次第に炭点前が表の仕事になっていき、利休没後の文禄・慶長の頃には炭点前を客が拝見するのが一般的になったという。
炭斗(すみとり)
炭点前のとき炭を組み入れ、香合・羽箒・鐶・火箸を添えて席中に持ち出す器。最初食籠を転用したが、やがて籠や瓢を用いるようになり、更に各種の木の箱を使うようになったという。「山上宗二記」に「炭斗紹鴎籠、宗久に在り、昔は籠の手、又食籠はやる、当世は瓢箪まてなり」、「茶道筌蹄」に「唐物籠竹組ト組あり。和物籠竹組利休形有馬土産、卒啄斎好、寐覚籠、ト組、藤組、宗全好。菊の檜縁高利休形正親町帝へ進献の形なり杉の木地。瓢利休形手付は元伯好。神折敷一閑張、大は元伯好、小は原叟好。葛桶一閑張、元伯好、大は底に輪なくして深し、小は底に輪ありて浅し。炭台檜、利休形なり。桑箱利休形、勝手物、釜の仕懸仕舞に用ゆ、老人侘者は座敷に用いてもよし。」とあり、炭台は、足付き四方隅切で、口切や席披き、台子に使われる。他に神折敷、唐物籠が真の位の炭斗とされる。風炉、炉用の区別は元禄時代以降という。
宋胡録(すんころく)
日本におけるタイ古陶磁の総称。寸胡録、寸古録とも書く。宋胡録の名は、タイ中北部のスワンカローク(Suwankhalok)の名から転じたというが、当時の窯場はスワンカロークの北20qのシーサッチャナーライという。1238年タイ北部にタイ民族による初めての独立国家スコタイ王朝ができ、第3代ラームカムヘン王の時代に支配地域を拡大、1292年頃から元朝に入貢したが、このとき中国から連れ帰った陶工によって始められたとされ、王都のスコータイと共に窯業が行われた。黒釉、柿釉、白濁釉、黒濁釉、青磁、鉄絵などを生産し、皿、鉢、壺などの器皿類のほか、鮭瓦、タイル、人形、仏像などがある。白化粧を施した上に鉄絵で魚文、花文を描き、透明釉をかけたのが一般で、14-15世紀ころに多く焼成され、15世紀半アユタヤ王朝とスコタイ王朝のタイ北中部の争いが起り、スコータイとシーサッチャナーライの窯は閉ざされ、職人達は他の都市に流れ、北部のカロンやサンカンペン、パーンなどの窯が興ったという。素地に鉄分がある胡麻土に特徴があり、ソコタイと呼ばれるスコータイのものは灰色の粗目の土に砂が噛み、スワンカロークは粘性があり灰白色あるいは狐色に発色して微細な黒胡麻が見えるものが標準という。日本には桃山時代から江戸初期にかけて舶載され、灰釉・鉄絵の蓋物が合子や香合などとして珍重された。「柿の蔕香合」が最も有名で、キンマと呼ぶ嗜好品の容器として大量に製作されたもののようで、果物のマンゴスチンの形をしたものが香合として取り上げられたもの。
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青海盆(せいかいぼん)
砂張・南鐐・唐銅等の丸い盆で、打ち出した鎚目が、半円形を同心円状に重ねた鱗状の青海波紋に似ているところからの名か。ササン朝ペルシアの銀皿にも見られるという。「青海波(せいかいは)」は、新井白石の正徳元年(1711)「楽考」に「唐の世青海舞あり、統秋云、此曲序四遍を輪台といひ、破七遍を青海波と云、按ずるに青海波は則青海破なるべし」、狛近真(1177-1242)の天福元年(1233)「教訓抄」に「大唐楽云々、作者酒錐之云、つまびらかならず、古老伝云、輪台国名也、其国の人蒼海波の衣を著して舞たりしゆへに、やがて付其国名云々、青海波は龍宮の楽也、昔天竺に被舞儀。青波の浪上にうかむ、浪下に楽音あり、羅路波羅門之伝、漢の帝都見之伝舞曲云々」、「青海波有甲、別装束、舞輪台不肩袒、青海波片肩袒」とあり、「青波海(せいがいは)」という舞楽で、昔天竺で波の上に浮かぶ舞と波の下に奏でられる竜宮の楽をバラモン僧正が漢に伝え、更にそれが舞曲に整えられたもので、舞人は青海波の模様のついた袍の片肩を脱いで袖の振りで波の寄せ返す様子を表すが、この演目の「青海波」が文様の名前となったという。
清巌(せいがん)
清巌宗渭(せいがんそうい/1588-1661)。安土桃山・江戸前期の臨済宗の僧。大徳寺第170世住持。近江(滋賀県)の人。姓は奥村、法諱宗渭、道号清巌、自笑子・嫉陋子と号す。9歳で玉甫紹jについて得度し、玉甫の寂後、兄弟子の賢谷宗良に参じて悟道し玉穂の法嗣となる。南宗寺塔頭徳泉庵・臨江庵、東海寺塔頭清光院、伊賀の龍王寺・妙華寺・玉龍寺、豊後の円福寺、豊前の祥雲寺、肥後の泰雲寺を開創。京都の禅華庵・慈眼庵を中興。書は張即之の影響を強く受け、その墨跡は茶掛として珍重される。
千宗旦参禅の師で、宗旦が隠居するにあたって茶席を建て清巌和尚を招いた時、和尚は約束の時間に遅れたので、宗旦は「明日に来てください」と言いおいて外出した。遅れてきた清巌和尚は茶席の板張りに「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず)」と書きおいて帰ってしまう。帰宅した宗旦はこれを見て、清巌に「今日今日といひてその日をくらしぬるあすのいのちは兎にも角にも」という一首を献じて詫びたという。裏千家の茶室「今日庵」の名はこの一事によるもの。寛文元年(1661)寂、74歳。謚号は清浄方然禅師。
青山元不動(せいざんもとふどう)
「景徳傳燈録」に「時有僧問。如何得出離生老病死。師曰。青山元不動。浮雲飛去來。」(時に僧問う有り、如何でか生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山もと不動にして、浮雲飛去来。)とあり、「聯燈會要」に「問如何是一老一不老。師云。青山元不動。澗水鎮長流。手執夜明符。幾箇知天曉。」(問う、如何なるか是れ一は老いて一は老いず。師云く、青山もと不動。澗水、長流を鎮む。手に夜明符を執りて、幾箇の天暁を知る。)とある。澗水は、谷川の水。青山は、人が本来持っている仏性の比喩。人は絶え間ない妄想や煩悩に惑わされるが、それは表面的現象にすぎず、本来は不動の仏性を持っているということ。「禅林句集」には「青山元不動。白雲自去來。」(青山もと不動。白雲自ら去来す。)とある。
青磁(せいじ)
磁器の一種。釉薬の中に少量(2%前後)含まれる鉄分が、還元炎焼成されて酸化第一鉄となり青緑色に発色した磁器。鉄分が少ないと青白磁となり、さらに少なければ白磁となる。また釉薬中の鉄分が多いと黄色から褐色、さらに黒色となる。古く中国の殷・周時代に始まり、戦国(BC403-BC221)から前漢時代(BC206-8)に一般に使用されるようになった灰釉陶が青磁の始源と考えられている。三国・六朝時代(220-589)になると、古越磁(こえつじ)といわれる青磁が越州窯でつくられた。
唐代(618-907)になると、「書言字考節用集」に「青磁唐越州所出之磁器、源氏所謂秘色是矣」とあるように、越窯の中心地域である上林湖(じょうりんこ)で「秘色」と呼ばれる青磁を生産し宮廷にも納められ、「源氏物語」にも見える「秘色」の語は、「河海抄」に「秘色は磁器也、越州よりたてまつる物也、その色翠青にして、殊にすぐれたり、仍是を秘蔵して、尋常に不要之、故号秘色云々」とあり、唐の陸亀蒙(りくきもう)が「秘色越器詩」の中で「九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来」(九秋風露越窯開く、奪って得る千峰の翠色の来たるを)とある。江戸中期の百科事典「類聚名物考」に「青瓷せいじこの瓷の青色なるを、古へことにもてあそびし事にて、秘色の盃などいひしはこの物也、今は音にせいじといへり、賞鑑家に七種の品ありて、時代をわかつ事也、七官、きぬた、天竜寺などの類なり、唐の時に、茶碗にもこの色をこのみしと見えて、茶経にも出せり」とあり、茶経に「若刑瓷類銀、越瓷類玉、刑不如越一也。若刑瓷類雪、則越瓷類冰、刑不如越二也。刑瓷白而茶色丹、越瓷青而茶色香A刑不如越三也。」(もし刑瓷を銀に類すなら、越瓷は玉に類す。刑の越に及ばざる一の理由なり。もし刑瓷を雪に類せば、越瓷は氷に類す。刑の及ばざる二なり。刑瓷は白にして茶の色は丹となり、越瓷は青にして茶の色は緑となる。刑の越にしかざる三なり。)とみえる。北宋(960-1127)になると華北の汝窯や官憲でつくられたが、南宋(1127-1279)になると修内司官窯・郊壇官憲や民窯では龍泉窯で優れた青磁がつくられた。日本ではその時代と色によって、南宋代の粉青色を呼ばれる鮮やかな青緑色の砧手(きぬたで)、元代(1271-1368)から明代(1368-1644)にかけてのやや黄色味を帶びた緑色の天龍寺手(てんりゅうじで)、明代後期の透明性のある淡い翠青色で貫入があるのが特徴とされる七官手(しちかんで)と呼び分けてきた。
高麗時代の初期になると朝鮮に伝えられ,いわゆる高麗青磁がつくられるようになった。10-13世紀にはヴェトナムに,13世紀にはタイにも伝えられた。日本では江戸時代になってから青磁がつくられ,佐賀県有田の伊万里青磁・鍋島青磁などが有名である。
青漆(せいしつ)
青緑色の漆。石黄(黄色の顔料、硫化砒素)とベレンス(青色の顔料)と透漆を混合するか、黄漆と黒漆を混合して作る。
青箬笠前無限事(せいじゃくりゅうのまえむげんのこと)
黄庭堅の浣溪沙に「新婦灘頭眉黛愁。女兒浦口眼波秋。驚魚錯認月沈鉤。青箬笠前無限事。獄ェ衣底一時休。斜風吹雨轉船頭。」(新婦灘頭に眉黛愁い。女兒浦口に眼波秋。驚魚月を沈鉤と錯認す。青箬笠の前無限の事。獄ェ衣の底一時休す。斜風吹雨に船頭を転ず。)とある。唐の詩人張志和の「漁歌子」に「西塞山前白鷺飛、桃花流水鱖魚肥。青箬笠、獄ェ衣、斜風細雨不須歸。」(西塞山前白鷺飛び、桃花流水鱖魚肥たり。青箬笠、獄ェ衣、斜風細雨帰るを須いず)、顧況の「漁歌子」に「新婦磯邊月明。女兒浦口潮平。沙頭鷺宿魚驚。」があるが、蘇軾が張志和の詩をもとに浣溪沙「西塞山邊白鷺飛、散花洲外片帆微。桃花流水鱖魚肥。自庇一身箬笠、相隨到處獄ェ衣。斜風細雨不須歸。」(西塞山辺白鷺飛び、散花洲外片帆微かなり。桃花流水鱖魚肥ゆ。自ら一身を庇うき箬笠、到る所に相い隨う高フ蓑衣。斜風細雨帰るを須いず。)を作り、これを見た黄庭堅が張志和と顧況の二詩を合せて作ったものという。「五燈會元」に「隆興府泐,潭山堂コ淳禪師上堂。倶胝一指頭。一毛拔九牛。華嶽連天碧。黄河徹底流。截卻指急回眸。青箬笠前無限事。獄ェ衣底一時休。」とあり、この句を引く。○箬笠(じゃくりゅう)/竹の皮(または熊笹)で作った編み笠。竹皮笠。○蓑衣(さい)/みの。萱、菅、藁等の茎や葉を編んで作った雨具。○黄庭堅(こうていけん:1045-1105)は中国、北宋の詩人・書家。分寧(江西省)の人。字は魯直(ろちょく)。号は山谷道人、晩年は涪翁(ふうおう)と号す。治平3年(1066)、23歳で進士に及第、山西太和知県、校書郎、著作左郎、起居舎人、鄂州、涪州、戎州、宜州などの知州を歴任。蘇軾に師事、張耒、晁補之、秦観とともに「蘇門四学士」と称された。その詩書画は「三絶」と称され、師の蘇軾(そしょく)とともに「蘇黄」と並称される。宗旦の書に「青箬(着?)笠前無此事緑蓑底一時休」としたものがある。
青松多寿色(せいしょうじゅしょくおおし)
青々とした松はそのままでめでたい色をしているという意味。唐の詩人・孟郊の詩、「西上經靈寶觀(觀即尹真人舊宅)」の「道士無白髮、語音靈泉清。青松多壽色、白石恒夜明。放歩霽霞起、振衣華風生。真文秘中頂、寶氣浮四楹。一片古關路、萬里今人行。上仙不可見、驅策徒西征。」から。
清風動脩竹(せいふうしゅうちくをうごかす)
「普燈録」に「上堂。古人道。墮肢體。黜聡明。離形去智。同於大道。正當恁麼時。且道是甚麼人刪詩書。定禮樂。還委悉麼。禮云禮云。玉帛云乎哉。樂云樂云。鐘鼓云乎哉。僧問。真如界内。本無迷悟之因。方便門中。願示無生之曲。曰。六六三十六。清風動脩竹。云。洪音一剖驚天地。有無情類盡霑恩。曰。一曲兩曲無人會。雨過夜塘秋水深。」(上堂。古人道く、肢体を墮て、聡明を黜け、形を離れ智を去り、大道に同す。正当恁麼の時。且く道え、是れ甚麼なる人の詩書を刪して、礼楽を定む。還た委悉すや。礼と云い、礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い、楽と云うも、鐘鼓を云わんや。僧問う、真如界内、もと迷悟の因なし、方便門中、無生の曲を示すを願う。曰く、六六三十六、清風脩竹を動かす。云く、洪音一剖天地を驚かし、有無情の類ことごとく恩に霑(うるお)う。曰く、一曲両曲人の会する無く、雨過ぎて夜塘に秋水深し。)とある。古人道/「荘子」大宗師篇に「顔回日。堕枝體。黜聰明。離形去知。同於大通。此謂坐忘。」(顔回日く、肢体を堕り、聡明を黜(しりぞ)け、離形を離れ知を去り、大通に同す。此を坐忘と謂う。)、心身一切の束縛を離れ道と一体となる境地を坐忘と言う、とある。正當恁麼時/まさにこういう発問に直面した時。禮云禮云/「論語」陽貨に「子曰。禮云禮云。玉帛云乎哉。樂云樂云。鐘鼓云乎哉。」、礼だ礼だと言っても、玉や絹布のことであろうか。楽だ楽だと言っても、鐘や太鼓のことであろうか(礼や楽は形式よりもその精神こそが大切)、とある。脩竹(しゅうちく)/長い竹。また、竹やぶ。
清風拂明月(せいふうめいげつをはらう)
「普燈録」に「問。如何是先照後用。曰。清風拂明月。云。如何是先用後照。曰。明月拂清風。云。如何是照用同時。曰。清風明月。云。如何是照用不同時。曰。非清風而無明月。」(問う、如何なるか是れ先照後用。曰く、清風、明月を払う。云う、如何なるか是れ先用後照。曰く、明月、清風を払う。云う、如何なるか是れ照用同時。曰く、清風明月。云う、如何なるか是れ照用不同時。曰く、清風あらずんば、すなわち明月なし。)とある。
清流無間斷(せいりゅうかんだんなし)
「普燈録」に「問。如何是廣コ境。曰。清流無間斷。碧樹不曾凋。」(問う、如何なるか是れ広徳の境。曰く、清流間断なく、碧樹かつて凋(しぼ)まず。)とある。碧樹(へきじゅ)/松などの常緑樹。清らかな流れは絶えることなく、常緑樹の青さも衰えることがないとのこと。
席入(せきいり)
茶会のとき、客が茶席に入ること。またその作法。初座では、亭主の迎え付けのあと、蹲踞(つくばい)にて手を洗い口をすすいで、出入り口へ進み、手がかりが切ってある戸に手をかけ開け、扇子を前において軽く頭を下げ、席中をうかがい、床、手前座の位置を見定め、にじって席に入り、草履の裏を合わせ、壁と沓脱石の間に立てかける。床前に進み掛物を拝見し、続いて茶道口近くの踏込み畳まで進んでから道具畳に進み、器物の飾附と釜と爐とを拝見して、正客は次客以下の席入の妨げとならない場所(仮座)に着く。次客は正客が仮座に着いたら、軽く一礼してにじり入り、草履を同様に扱ってから座して正客に一礼し、正客の通り拝見し、正客の下座へ順々に座る。詰(末客)は、先客が床を拝見し立ち上がったときににじり入り、沓脱石の上の自分の草履の向きを置き変え、出入り口の戸を軽く音をたてて閉め、全員の席入りが終ったことを亭主に知らせる。詰が床を拝見し立ち上がったころ、正客は仮座から本来の座に着き、次客以下同様にし、詰は拝見が終わったら本座に着く。客一同が席に着くと、亭主が茶道口を開け挨拶に出る。挨拶が終れば、正客より掛物等について尋ね、問答がある。その後、亭主は炭を直す旨を告げて引き下がり、茶道口を閉める。後座も銅鑼の合図のあと同様に席入をする。
尺牘(せきとく)
漢文体の手紙のこと。尺は一尺、牘は文字を書いた方形の木札のことを指し、一尺ほどの木簡または竹簡に手紙を書いたことから手紙の意で使われるようになり、漢代には書簡一般を指すものとなっていた。手紙。書簡。文書。しゃくどく。せきどく。
膳所焼(ぜぜやき)
滋賀県大津市膳所の陶器。遠州七窯の一つ。通説では、元和7年(1621)膳所城主の菅沼織部定芳が御用窯として始めたといわれる。寛永11年(1634)菅沼定芳が丹波亀山藩へ移封され、石川忠総(1582-1650)が下総国佐倉藩より7万石で入封、小堀遠州の弟子でもあり、遠州指導のもとに大江の地に窯を築き、茶壺や茶入、水指などの茶陶のみを焼かせ、遠州七窯としての膳所焼はこの大江窯のこととされ、特に茶入に優れ中興名物の耳付「大江」茶入などがあり、茶入の名手として陶工太郎右衛門の名が記録にある。
慶安4年(1651)忠総の嗣子石川憲之が襲封すると伊勢亀山藩に移封、本多俊次が入封、膳所窯は延宝年間(1673-1681)まで焼成されたとされるが、「閑友記事」に「膳所焼、宗甫様ごろに候。焼き手は一人一代なり」、稲垣休叟(1770-1819)の文化13年(1816)「茶道筌蹄(さどうせんてい)」に「膳所、近江、遠州時代なり。いまは窯なし。遠州公の好みにて焼きしなり。宗旦時代よりも古し」、「工芸志料」に「寛永年間膳所の城主石川忠総、点茶の宗匠小堀政一の教示に随いて工人に命じて茶壷を造らしむ。其の質茶褐色にして黒釉を施す。或は高取焼、丹波焼等に似たるあり。但し土質の重濃なると釉水の精製なるとを以って異なりとす。其の製する所の器は独り茶器に止まる。忠総卒して後窯廃す。」とあり、遠州好の茶陶は忠総一代だけという。また、御用窯による焼物が始まる以前にも既に桃山時代の末期より「勢多焼」と呼ばれたものがあり、「松屋会記」元和八年(1622)に瀬田焼の名がみえるのがこれとする。天明年間に小田原屋という商人が「梅林焼」と云う交趾風の陶器を初めたが間もなく中絶し、その後幕末にも「雀ヶ谷焼」が興ったが、明治維新とともに中絶した。大正8年(1919)膳所の人岩崎健三が膳所焼の廃窯を惜しみ、友人である日本画家、山元春挙とはかり、別邸の敷地内に登り窯を築いて再興、これを復興膳所焼といい現在は二代目岩崎新定が窯を引き継いでいる。いまではこれら含む諸窯の総称として膳所焼の名を使うようになっている。
雪裏梅花(せつりばいか)
「如淨禪師語録」に「臘八上堂。瞿曇打失眼睛時。雪裡梅花只一枝。而今到處成荊棘。卻笑春風繚亂吹。」(臘八上堂。瞿曇、眼睛を打失する時、雪裏の梅花只だ一枝なり。而今到處に荊棘を成す、却って笑う春風の繚亂として吹くことを。)とある。臘八(ろうはつ)/臘は歳末の意。すなわち十二月八日、釈尊成道の日のこと。瞿曇(ぐどん)/釈迦が出家する前の姓。梵語のGautamaの音写。ゴータマ。眼睛(がんせい)/瞳、目玉、釈尊の慈悲と知恵の象徴。而今(じこん)/ただ今。如浄禅師は道元の師で、道元は「正法眼蔵」でこの一節を引く。
瀬戸唐津(せとからつ)
唐津名物のひとつ。瀬戸の上釉を用いて焼成したために、また素地や釉薬が瀬戸に酷似している唐津であるためにこの名があるという。寛永頃と考えられているが詳細は不明。長石を主とした白色釉を施し亀甲形の釉ひびがある。本手瀬戸唐津といわれる深手の碗形茶碗もある。
瀬戸黒(せとぐろ)
美濃国で天正(1573-1592)ごろに焼かれた黒無地の茶碗。筒形のものが多い。初め轆轤成形と削り出し高台で端整なものから、のち胴の箆削り、底部が平坦に削ぎ出され歪んだ低い高台になるなど作意が加わる。鉄釉が溶けている途中で窯内から引き出し、急冷させて釉薬中に含まれる鉄分を黒色化して漆黒色とするため「引出黒」の名もある。桃山時代の会記にある「クロヤキ茶碗」「クロ茶碗」との関係は不明で、瀬戸黒の名称が確定するのは、伝世品の箱書から宝暦年間(1751-1764)頃と推定され、文献としては「陶器考」附録に「瀬戸黒織部黒と云来る二品を尾州にては引出し黒といふ。焼かけんをみて取出す故なり。やきすきる時は赤き色に変する故なり」とあるのが初出という。また「天正黒」という呼称は大正末期ないし昭和初期からの呼び名という。
瀬戸焼(せとやき)
愛知県瀬戸市並びにその周辺で作られる陶磁器の総称。六古窯(ろっこよう)の一つで成立は古く平安中期の灰釉陶器にまで遡る。鎌倉時代の初めから室町時代の中頃瀬戸窯では、中国や朝鮮から輸入された陶磁器を模倣し、釉薬を器面全体に施したやきものが製作され、この日本の中世唯一の施釉陶器を「古瀬戸」と呼ぶ。加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)が貞応2年(1223)に僧道元(どうげん)に従って入宋し、陶法を修業して帰国し、仁治3年(1242)瀬戸において窯を築いたのが瀬戸焼の始まりとする陶祖藤四郎(とうそとうしろう)伝説が古くから伝えられる。
灰釉のみが使用された前期(12世紀末-13世紀後葉)、鉄釉が開発され印花(いんか)・画花(かっか)・貼花(ちょうか)など文様の最盛期である中期(13世紀末-14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉-15世紀後葉)の三時期の区分がされている。戦国時代になると、大窯により天目茶碗、中国明代の青磁や染付を模倣した供膳具が生産される。 桃山期になると美濃地方を含めた地域で「黄瀬戸」「瀬戸黒(せとぐろ)」「志野(しの)」、さらに17世紀初頭には連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)の導入とともに「織部(おりべ)」といった桃山茶陶(ちゃとう)の生産が全盛期を迎える。
江戸時代中期になると名工達による一品物の制作が盛んに行われ、瀬戸村の春琳(しゅんりん)・春暁(しゅんぎょう)・春宇(しゅんう)・春丹(しゅんたん)・善治(ぜんじ)、赤津村(あかづむら)では春岱(しゅんたい)・寿斎(じゅさい)・春悦(しゅんえつ)、下品野村では定蔵(ていぞう)・品吉(しなきち)・春花(しゅんか)らの名工が幕末期にかけて活躍する。江戸後期になって、文化4年(1807)加藤民吉(かとうたみきち)により有田から染付磁器の製法が伝えられてからは、染付磁器が主流となる。現在、加藤民吉は瀬戸の磁祖(じそ)として窯神神社(かまがみじんじゃ)に祀られ9月の第2土・日曜日には「せともの祭り」が開催されている。
仙雲擁壽山(せんうんじゅざんをようす)
蘇軾(1036-1101)の「皇太后閣六首」に「瑞日明天仗、仙雲擁壽山。倚欄春晝永、金母在人間。」(瑞日、天仗に明かに、仙雲、寿山を擁す。欄に倚れば春昼永く、金母、人間に在り。)とある。瑞日(ずいじつ)は、めでたい日。天仗(てんじょう)は、宮中の儀仗。倚欄(いらん)は、欄干によりかかる。一に猗欄に作る。春昼永(しゅんちゅうながく)は、春の日差しが麗らかで長閑であること。金母(きんも)は、中国で西の果てにいるとされた仙女で天帝の娘ともされる西王母(せいおうぼ)のこと。
千家十職(せんけじゅっしょく)
千家の家元宗匠の好みや工夫で、諸道具を調製する十人の職方。これらの職方を「職家」とよびならわす。大正4年(1915)松阪屋百貨店で展示会がおこなわれたとき、はじめて「千家十職」の呼称が用いられ、以来、職家の通称となった。塗師:中村宗哲、表具師:奥村吉兵衛、焼物師:永楽善五郎、金物師:中川浄益、釜師:大西清右衛門、竹細工・柄杓師:黒田正玄、袋師:土田友湖、茶碗師:楽吉左衛門、一閑張細工師:飛来一閑、指物師:駒沢利斎。
千少庵(せんしょうあん)
安土桃山時代の茶人。天文15年(1546)-慶長19年(1614)。利休の後妻となった宗恩(しゅうおん)実名おりき(-1600)の連れ子。宗旦の父。幼名を猪之助、後に吉兵衛、四郎左衛門と称し、始め宗淳、後に少庵と号す。父は宮王三郎三入という鼓打といわれる。天正6年(1578)母宗恩が利休の後妻となったのを機に利休の養子となる。天正19年(1591)利休切腹のおりには、「千利休由緒書」に「利休御成敗已後、嫡子道安ハ飛騨へ立除、金森中務法印ヲ頼、かくれ罷有候。二男少庵ハ蒲生氏郷へ御あづけ、奥州へ流罪ニて候。」とあるように、会津の蒲生氏郷の許に預けられたとされ、会津若松には少庵が氏郷のために建てた「麟閣」という三畳台目の茶室が残る。利休切腹から3年後の文禄3年(1594)には、蒲生氏郷、徳川家康らの取り成しで豊臣秀吉の勘気もとけ「少庵召出状」により京に 戻ることを許され、本法寺前に地所を与えられ、大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を本法寺前に移す。「千利休由緒書」には「小庵ハ、旧宅本誓願寺下町、葭屋町の宅ハ、公儀へ被召上候。帰洛ノ時ニ、旧宅ヲ払ヒ、本法寺前ニ宅ヲ引テ、構ヘ罷有候。旧宅ヲこぼち取リ、此方へ建申候故、屋敷ハかわり申候へ共、家宅ハ秀吉公家康公御成ノ座敷ニテ御座候。」とある。その後、宗旦に家督を譲り、家康から新知五百石で迎えられるが、これを辞退したといい、西山の西芳寺に「湘南亭」を建てて隠居。慶長19年(1614)9月7日、69歳で亡くなる。
洗心(せんしん)
「易経」繋辞上に「聖人以此洗心。退藏於密。吉凶與民同患。」(聖人此を以て心を洗い、退きて密に藏(かく)れ、吉凶民と患いを同じくす。)とある。
千宗旦(せんそうたん)
天正6年-万治元年(1578-1658)江戸前期の茶人。千利休の孫。利休の後妻の連れ子千少庵の子(利休の実子千道安の子という説もある)。宗旦流の祖。幼名を修理(すり)といい10歳の頃から大徳寺三玄院に喝食(かっしき/見習いの僧)として、春屋宗園のもとで修業していたが、天正19年(1591)14才の時、祖父利休の死にあい、文禄三年(1594)頃父少庵が京都に帰り家を再興すると、宗旦も家に戻り,利休道具も千家に
。慶長5年(1600)頃、少庵が隠居し家督を継ぎ、慶長6年(1601)春屋宗園より「元叔」の号を授けられる。宗旦は、先妻との間に長男の閑翁宗拙(1592-1652)、次男の一翁宗守(1593-1675)、後妻との間に三男の江岑宗左(1613-1672)、娘くれ(久田宗全の母)、四男の仙叟宗室(1622-1697)をもうける。宗旦は市井の茶匠として、仕官の誘いには応ぜず、侘び茶の宗家としての生涯を送った。ただ、経済的には不如意だったようで「乞食宗旦」と呼ばれた。しかし、自身では仕官することを拒んだ宗旦は、子供たちの仕官のためには奔走し、寛永19年(1642)、三男の江岑宗左が、紀州徳川家に茶堂として召し抱えられると、正保3年(1646)、家督を江岑宗左に譲り、その屋敷の北裏に別に隠居屋敷と今日庵を建て、四男の玄室を連れて移る。次男宗守が武者小路千家、三男宗左が表千家、四男宗室が裏千家を興こした。
千道安(せんどうあん)
安土桃山・江戸前期の茶人。千利休の長男。道安(1546-1607)は、利休の先妻宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ/-1577)との子として生まれ、初めは紹安(じょうあん)と称し、のち道安と改め、不休斎(ふきゅうさい)、眠翁(みんおう)と号す。道安が記録に現れるのは永禄9年(1566)12月8日の津田宗及会を初見とする。「山上宗二記」には、「関白様へ召し置かるる当代の茶の湯者田中宗易(千利休)今井宗久津田宗及山上宗二重宗甫住吉屋宗無万代屋宗安田中紹安(千道安)」とあり、天正12年(1584)頃には利休とともに豊臣秀吉の御茶頭八人衆の一人となる。また、同書に「床を四尺三寸に縮めたるは道安にてありしが、休(利休)のよしとおもいけるにや、その通りにしつる也。灰さじも、むかしは竹に土器などさしはさめるを、安(道安)、金にして柄を付けたり。休(利休)、はじめは、道安が灰すくい、飯杓子のような、とて笑いけるが、是も後はそれを用ゆ。」と見え、利休も道安の創意を認め、「秀吉公、宗易(利休)へ、大仏の内陣をかこいて茶の湯すべき者は誰ぞ、と御尋ねありしに、易(宗易)、しばらく思案して、道安が仕るべきよし、申し上ぐる。」とあり、利休が道安を高く評価していたことが窺える。
「武辺咄聞書」に、「利休か嫡子道庵は飛騨へ逃隠れ、鵙屋後家も行方なく成ぬ。少庵は京都に残候を、大政所殿御詫言にて命御助け屋舗迄被下ける。」とあり、利休自刃後はひそかに堺を逃れて飛騨の金森長近の許に身を寄せたとされるが不明である。「茶話指月集」には、「権現様(徳川家康)・利家公(前田利家)、兼ねて宗易の事不便(不憫)がらせ給いて、よきおりとおぼし召し、少庵・道庵御免の御取成あそばされ下され、早速御ゆるし蒙り、その後、道庵を御前へめし、四畳半にて茶をたてさせ、上覧ありて、宗易が手前によく似たる、と御感に預かる。」とあり、文録年間(1592-96)には赦されて再び秀吉の茶道となる。慶長3年(1598)に秀吉が没すると、名を道安と改め堺に戻り利休の家を継ぐ。慶長6年(1601)に細川家の茶頭として宇佐郡水崎村で知行三百石を与えられ、慶長12年(1607)62歳で豊前の地で亡くなる。茶席の道安囲でも知られる。
千利休(せんりきゅう)
戦国・安土桃山時代の茶人。大永2年(1522)-天正19年(1591)。名は與四郎、法名を宗易、抛筌斎と号す。居士号を利休。堺の納屋衆である魚屋(ととや)田中与兵衛の長男として生まれ、与四郎と称した。家名の「千」は足利義政・義尚に同朋として仕えた祖父の田中千阿弥(せんなみ)からとったとされる。幼少のころから茶湯を好み、はじめ北向道陳について東山流の茶を学び、つぎに道陳の紹介で武野紹鴎に学び、また堺南宗寺、大徳寺において大林・笑嶺・古溪の3和尚に参禅。初め織田信長に仕え、元亀元年(1570)4月2日49歳の時、信長の茶会において薄茶を点てたのが信長との交渉の初見。信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、秀吉には知行3千石を与えられ、さらに居士号を得た。秀吉が関白となってからは、天下一の茶湯者と評され、大名から僧侶・町人にいたるまで門下に加わった。政治や外交問題にも参画するなど隠然たる勢力を誇ったが、大徳寺の山門上に寄進した金毛閣(きんもうかく)に自像を安置したことや、自作の茶道具を高価で売ったことなどを口実に、秀吉に処罰され、切腹した。利休の茶道は、子孫である千家によって代々受け継がれ、本流には表千家(不審庵)、裏千家(今日庵)、武者小路千家(官休庵)の三千家があり、傍系はすこぶる多い。
千利休由緒書(せんりきゅうゆいしょがき)
承応2年(1653)、徳川家康の伝記編纂のために行われていた史料蒐集の一環として、紀州徳川家の儒臣李一陽(梅渓)・宇佐美彦四郎(佐助)の二人が、寛永19年(1642)に紀州徳川頼宣に召し出され茶頭であった千宗旦の三男、表千家江岑宗左に、利休のことを尋ねた聞書き。利休の先祖、利休と信長・秀吉の関係、切腹の原因などについて記されている。
禅林句集(ぜんりんくしゅう)
日本で編まれた禅句集。仏典・祖録・仏教以外の外典などから、一言から八言対句まで、字数別に禅門で用いる句を収録している。各類あり、室町以来禅僧の間で広く用いられていた。句双紙。禅林集句。
禪林類聚(ぜんりんるいじゅう)
禅宗の公案と拈頌の最も総合的な集大成の書。全20巻。元の天寧万寿寺善俊、智境、道泰らの編。大徳十一年(1307)に成る。「五燈録」と諸家の語録中より五千二百七十二則を選び、その内容により、これを帝王、宰臣、儒士以下一百二門に分類し、編集したもの。
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宗薫緞子(そうくんどんす)
今井宗薫所持に因む裂。縹地に二重の七宝繋ぎ文に宝尽文と梅花文を入れた緞子。今井宗薫は、安土桃山・江戸前期の茶人。天文21年(1552)-寛永4年(1627)。和泉堺生。今井宗久の嫡子。名は兼久・久胤、通称は帯刀左衛門、別号に単丁斎。父宗久に茶湯を学び豊臣秀吉の茶頭・お伽衆となる。のちに徳川家康・秀忠・家光と三代の将軍に仕え、茶頭をつとめた。「宗薫肩衝」など多数の名物道具を所持。
宗全籠(そうぜんかご)
久田宗全(ひさだそうぜん)好みの置籠花入。女竹を用い、底が長四角で、口は丸く編み上げ、底と四方に細い女竹を当てて藤蔓で粗く結び、口縁は真竹を廻して藤で止め、丸篠を二本合わせた手がついた籠。始め、仙叟宗室の依頼により作った置籠に、創意で手を付けたものと云う。本作の流れとして、同じ形でも油竹の覚々斎好みの「置籠花入」、敬翁宗左(惺斎)好みの「千鳥籠」がある。久田宗全(1647-1707)は、江戸前・中期の茶人。表千家流久田家三世。二世宗利の子。通称は雛屋勘兵衛、号は徳誉斎・半床庵。千宗旦に茶を学ぶ。籠組物などの手工に秀でたとされ、宗全籠も宗全自作といわれる。宝永4年(1707)歿、61才。宗全作の籠には、他に、向掛けの「蝉籠花入」、柱掛けの「振々籠花入」、「掛置花入」、「編み残し籠」、「巻上壷形手付籠」などがある。
宗湛日記(そうたんにっき)
神谷宗湛が、天正14年(1586)から慶長18年(1613)にかけての茶事に関する日記。三巻。「天正十四年丙戌小春二十八日上松浦唐津村を出行」するところから始まり、慶長4年(1599)に至るまで豊臣秀吉や大小名、堺の豪商たちとの茶会を通しての交流が詳しく記述されており、特に名物道具拝見記は詳しい。慶長6年(1601)以降は有楽や織部の茶会の会記がやや詳しく見えるのみで他は茶会の開催のみを記している。天正15年大阪城の大茶湯は興味深く「正月三日寅刻より罷出候時御門外にて宗及御取合にて宗易に始て懸御目候」。堺衆5人と広間に控えていると「奥より石田治部少輔どの御出有りて宗湛一人ばかりを御内に被召連御茶湯のかざりを一返拝見させられ候」。
その後堺衆5人と「御かざりを拝見仕候へとの御諚にて関白様御跡より各同前に拝見仕候處筑紫の坊主どれぞと御尋被成候へば是にて候と宗及御申に候被仰出にはのこりの者はのけて筑紫の坊主一人に能みせよとの御諚に候條堺衆みな縁に出宗湛一人拝見仕」「御膳出候時我々どもは罷立次の広間に罷居候へば、関白様、御諚につくしの坊主にめしをくわせよと被仰出候ほどに座敷まん中になや宗久と宗湛とうしろを合て罷居候。其外には京堺の衆とても一人も御前に無之。御かよいの衆多人数なり、其内石田治少御かよいにて宗湛が前に馳走被成候事」「御茶の時に、関白様御立ながら被成、御諚には多人数なほどに一服を三人づゝにてのめや、さらばくじ取て次第を定よと被仰出候へば、内より長さ三寸よこ一寸ほどの板に名付書て小性衆持参に候御前になげ被出候を座中有之大名衆このふたをばい取にして其後誰々は誰か手前、誰々は誰か手前にとさしよられて御茶きこしめさるゝ時、そのつくしの坊主には四十石の茶を一服とつくりとのませよやと被仰出候ほどに、宗易手前に参一服被下候」と、秀吉の歓待振りが覗える。
宗入(そうにゅう)
楽家5代。寛文4年(1664)-亨保元年(1716)。雁金屋三右衛門の子として生まれ、寛文5年(1665)2歳で一入の養子となる。名は平四郎・惣吉。元禄4年(1691)5代吉左衛門を襲名。宝永5年(1708)剃髪隠居して宗入と号す。雁金屋三右衛門は尾形宗謙の末弟、その子尾形光琳、乾山とは従兄弟にあたる。尾形光琳・乾山の徒弟。元禄元年(1688)に樂家の系図をまとめた「宗入文書」を書いた。器形・釉調ともに長次郎の茶碗を倣っている。全体にやや厚作りで、口作りはむっくりして、胴に変化をつけない。初楽のような肌を再現しようとして、俗に「宗入のカセ薬」と称される黒樂釉を用い、光沢のないざらざらした感じで黒く錆びた鉄塊の如き重厚感がある。五十歳の半白の祝いに焼いた茶碗二百個は数の茶碗の嚆矢である。この茶碗には原叟(げんそう)による「癸巳(きし)」の箱書付がある。印は、俗に崩れ印といって字体がはっきりしない。
續傳燈録(ぞくでんとうろく)
元末の円極居頂(?-1404)の撰。禅宗の史伝の書の一。全36卷。「傳燈録」の後を承けて、「五燈會元」から「傳燈録」と重複する部分を除いて、北宋以後の部分を改編したもの。「五燈會元」「僧寶傳」「分燈録」等から取捨し、北宋初期より南宋末に至る、禅宗の展開を宗派別に記し、機縁、垂示の語句等を録す。
續燈録(ぞくとうろく)
建中靖國続燈録(けんちゅうけいこくぞくとうろく)。「五燈録」の一。仏国惟白の編。「景徳傳燈録」「天聖廣燈録」の後を承ける禅宗史伝の書の一つ。建中靖国元年(1101)に成り、上進して徽宗の序を賜わり入蔵を許されたため、建中靖国の年号を冠して「建中靖國続燈録」という。正宗、対機、拈古、頌古、偈頌、の五門に分類編集されている。
續高僧傳(ぞくこうそうでん)
唐の道宣(どうせん)撰の中国の高僧の伝記集。全30巻。貞観19年(645)の成立。梁の慧皎(497-554)の「高僧傳」に続けて撰せられ、梁の初めから唐の初めに至る約160年の間の僧伝を集めている。全体は訳経・義解・習禅・明律・護法・感通・遺身・読誦・興福・雑科声徳の10篇に分類され、自序では貞観19年に至る144年の僧侶500名(正伝340名、附伝160名)の伝記を収めるとある。「唐高僧傳」(唐傳)ともいう。増補改訂が繰り返されており、現行本には、正伝・附伝あわせて700名余りの伝記が収められている。当該時期の仏教や僧侶に関する状況を知る上での基本的文献とされる。道宣(596-667)は、南山律宗の開祖で「広弘明集」「集古今仏道論衡」「大唐内典録」など、数々の中国仏教史上の重要な著作を残した。また、貞観19年(645)玄奘の訳経に参加を要請され筆受・潤又ともなる。
蘇軾(そしょく)
北宋第一の詩人(1036-1101)。蘇東坡(そとうば)。唐宋八大家の一人。名は軾(しょく)、字は子瞻(しせん)、号は東坡(とうば)。四川省眉山県紗穀行の人。嘉祐2年(1057)21歳で進士となり地方官を歴任、英宗の時に中央に入る。次の神宗のとき王安石の新法に反対して左遷され諸州の地方官を歴任。湖州知事のとき詩文で政治を誹謗したと讒言を受け、元豊2年(1079)投獄ののち黄州に5年間流された。このとき東坡に雪堂を築き、自ら東坡居士と号す。哲宗元祐の旧法党時代に翰林学士兼侍読として中央に復帰したが、紹聖元年(1094)新法党の復活によって広東に配流され、建中靖國元年(1101)常州で病死。死後、文忠公(ぶんちゅうこう)と諡される。父の洵(じゅん)、弟の轍(てつ)と共に三蘇といわれ、洵の老蘇、轍の小蘇に対して大蘇といわれる。
啐啄同時(そったくどうじ)
「碧巌録」第七則「法眼慧超問佛」に「舉僧問法眼。慧超咨和尚。如何是佛。法眼云。汝是慧超。法眼禪師。有啐啄同時底機。具啐啄同時底用。方能如此答話。所謂超聲越色。得大自在。縱奪臨時。殺活在我。不妨奇特。然而此箇公案。諸方商量者多。作情解會者不少。不知古人。凡垂示一言半句。如撃石火似閃電光。直下撥開一條正路。」(挙す。僧、法眼に問う。慧超、和尚に咨す、如何なるか是れ仏。法眼云く、汝は是れ慧超。法眼禅師、啐啄同時底の機あり、啐啄同時底の用を具して、方に能く此の如く答話す。所謂声を超えて色を越えて、大自在を得たり。縱奪の時に臨み、殺活我に在り。妨げず奇特なることを。然れども此箇の公案は、諸方に商量する者多く、情解の会を作す者少なからず。知らず、古人およそ一言半句を垂示するに、撃石火の如く、閃電光に似て。直下に一條の正路を撥開することを。)とある。啐(口卒)(そつ)/驚く、叫ぶ、呼ぶ。啄(たく)/ついばむ。鳥が嘴で物をつつくこと。雛が卵の殻を破って出ようとして鳴く声を「啐」、母鳥が外からつつくのを「啄」とし、師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。機が熟して弟子が悟りを開こうとしているときにいう。禅で、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことを啐啄同時という。
祖庭事苑(そていじえん)
宋の睦庵善卿(ぼくあんぜんきょう)の編纂した禅宗辞典。全八巻。大観2年(1108)に成る。雲門、雪竇、義懐、風穴、法眼らの語録、「池陽百問」「八方珠玉集」「証道歌」「十玄談」「釋名讖辨」などから二千四百余の事項を選んで、一語ごとに詳細な解説を加えたもの。
祖堂集(そどうしゅう)
現存最古の禅宗史伝の一。五代南唐の保大10年(952)に、泉州の招慶寺に住していた浄修禅師の下で、静・均の二禅徳が、過去七仏より天竺の二十七並びに震旦の六祖、大鑑慧能を経て、青原下八世、雪峰義存の孫弟子、南岳下七世、臨済義玄の孫弟子に及ぶ、二百五十六人の伝灯相承の次第と、機縁の語句を二十巻に編集したもの。「祖堂集」は、景徳元年(1004)に成った「景徳傳燈録」に先立つこと52年、総合的な禅宗史伝の書としては現存最古のもので、契嵩(1007-1072)の「夾註輔教編」巻二の「勧書要義」に、韓愈が大顛に学んで仏法に理解をもっていたことの根拠として、「祖堂集」の名を挙げているところから、おおよそ北宋初11世紀末まで中国に行なわれていたらしいが、入蔵されず、高麗に持ち込まれ高麗高宗の32年(1245)に麗版大蔵経の蔵外補版として開版された版木が遺存していたが、20世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかった。朝鮮半島出身の禅僧の伝記を数多く含むほか、「景徳傳燈録」には含まれない独自の問答を収録するなど貴重な史書とされる。
蕎麦(そば)
高麗茶碗の一種。蕎麦の名は、江戸中期以降というが、地肌の色合が蕎麦に似ている、ソバカスのような黒斑がある、作行きが井戸に似ているので「井戸のそば」など諸説あり判然としない。わずかに鉄分を含んだ薄茶の砂まじりの素地に、淡い青灰色の釉が総体に薄く掛かる。時には酸化して淡い黄褐色もある。形は平らめで、高台から伸びやかに開き、轆轤目が入る。口は広くかかえ気味で、見込みに大きく鏡落ちがあり、その部分が外側の腰のあたりで張り出し段になっている。鏡のなかに目跡が残るものもある。
染付(そめつけ)
白素地に藍色の顔料である酸化コバルト(呉須)を含む顔料で絵付けをし、さらに透明な上釉を掛けて還元焼成をした磁器の総称。また下絵付けを施したものに対する広義の名称として用いられる場合もある。「染付」とは、もともとは染織用語から派生した言葉で、室町時代にはじめて中国から輸入されたときに、見かけが藍色の麻布(染付)に似ているので日本ではその名で呼ばれるようになった。中国では青花(華)・釉裏青と呼び、英語ではブルー・アンド・ホワイトという。文献的には室町時代の「君台観左右帳記」には染付の語は見えず、1603年(慶長8)刊行の「日葡辞書」に載る。染付は1,300度といった高火度の還元焼成を必要とするため,相当の築窯技術の発達を背景としていなければならない。中国における染付は宋時代に創設されたことがしだいに明らかにされつつあるが,完成を見るのは明の宣徳期(1426-1435)である。朝鮮の染付は李朝期(16世紀末)に始まるといわれ、日本の染付は、元和・寛永期(1615-1644)李朝染付けの流れをくむ肥前有田の金ケ江三兵衛(李参平)を創始者としている。文化・文政期(1804-1830)には日本の染付は全盛期を迎える。
曾呂利(そろり)
花入の形状の一。「ぞろり」とも。座露吏とも書く。古銅の花入の一種で、文様がなく、首が細長く、肩がなく、下部がゆるやかに膨らんでいて、全体に「ぞろり」とした姿なのでこの名が出たという。「山上宗二記」に「一そろり古銅無紋の花入。紹鴎。天下無双花入也。関白様に在り。一そろり右、同じ花入。四方盆にすわる。宗甫。一そろり右、同じ花入。京施薬院並びに曲庵所持す。四方盆にすわる。」とある。「南方録」には「ソロリ合子獅子ノ飾」に「名物ノ五道具ハ二具アリシト云々」として「杓立ソロリ、柑子口」とあり、杓立として用いられている。「今井宗久茶湯日記抜書」の永禄元年(1558)9月9日の松永久秀会に「一、床ソロリ白菊生テ」とみえる。
存星(ぞんせい)
漆芸加飾技法の一。存清とも。中国では彫填(ちょうてん)とか填漆(てんしつ)と称す。器胎に彩漆を厚めに塗って、研ぎだした素地の表面に模様を色漆で描き、輪郭・細部を線彫りするもの、また彫口に別の彩漆を埋め込んだり、沈金を施したもの。明時代の前半の宣徳期に遺品があるが、文様の輪郭線を沈金(鎗金)の手法によるようになるのは嘉靖期、萬暦期になってからという。茶道具としては、香合、食籠、茶器、盆、椀、盒子、箱などにある。「君台観左右帳記」に「存星ト云物有。赤モ黒キモアリ。チツキンノヤウニホリタル物也。稀也。」とある。天文23年(1554)一謳軒宗全の「茶具備討集」には「彫りに星のようなる物ある故に存星という」とあるという。「万宝全書」の「和漢諸道具古今知見抄」に「存清、唐作者、唐彫物師。存清、作人の名也。赤又黒き地に紋をあさくして地をほりて、ちんきんに似たる物也。まれなる物云々」、「嬉遊笑覧」に「人倫訓蒙図彙堆朱彫の処に唐土にてハ珍星張成其外数多の名人ありといへり。是を按るにいづれもいたく誤れりとみゆ。雍州府志漆器條に有称藤重者、元樽井氏而南京之漆工也、是漆工羽田氏之類也、至今藤嚴十一代、第七世人剃髪号藤重、特為巧手、自?後不称樽井従倭訓号藤重、是専製中次茶器云々、この漆工もと南京の者にて樽井なる故にこれか作れる器を(其始ハ彼国の式にて作りけむハ中次茶器のみにハあらぬなるべし)やがて音に呼て樽井といへるが唐物の漆器をもしか称へしを後に〓(倉戈)金の盆に星のこときもの有から樽井(そんせい)を存星と誤りしものと見ゆ。」とある。
存星盆(ぞんせいぼん)
松屋三名物の一。唐物存星長盆。散逸して現存しない。「長闇堂記」に「松屋源三郎茶湯の時、存成の長盆所望あれハ、はり物の香箱すへて出せる」、「茶道筌蹄」に「存星名高きは、松屋肩衝の許由の長盆なり。」、「嬉遊笑覧」に「東〓(片上戸下甫)子に世に存星の盆といふ古器有て珍蔵す。目利する者存星の若出来或ハ後出来などと鑑定す。存星ハ器物作人の名と覚えたるやう也。作は宋の張成なり。盆の地図に星顕れたれハ存星と称す。張成古今の細工人なりとぞ。南土御門氏所持三種の内存星の盆あり、是ハ東山殿御所持なりしを伝来す。下絵は馬麟なり図ハ許由なりといへり。存星をまた誤りて珍星といひたり。」とある。松屋三名物は、松本肩衝(松屋肩衝)、徐熈の白鷺の絵、存星の長盆。
尊形(そんなり)
器物の形状の一。尊式とも。アサガオ状に開いた口をもつ器形をいう。中国の青銅器製の酒の礼器の形で、商代(殷、BC17-11世紀)中期に現れ、商代末から西周(BC1066-BC771)の時代に盛行した。一般に、アサガオ状に開いた口と膨らんだ胴、末広がりの台をもつ。のちに陶磁器のものがつくられた。後漢(25-220)の許慎(58-147)の撰した最古の字書「説文」に「尊酒器也。从酋廾已奉之。周禮六尊、犧尊、象尊、著尊・壺尊・大尊・山尊、巳待祭祀賓客之禮」とあり、尊は酒器で、酒壷を両手で持ち上げ捧げる姿を表し、「周礼」には六種の尊があり、祭祀や賓客の礼器とある。  
      

 

大海(たいかい)
茶入の形態の一種。だいかい。大ぶりで口が広く、甑(頸部)が短い、肩が横平面に張ったやや扁平な平丸型の茶入で、胴部中位には一条の線刻(胴紐)が巡らされているものが多い。本来は茶席には用いず、茶臼でひいた抹茶を入れておく「挽溜(ひきだめ)」として水屋で使っていたが、侘び茶の流行で、茶席で用いる様になったといわれる。「山上宗二記」に、「一、万歳大海昔代二千貫。但し、当世は数寄に入らず。惣見院御代に失す。一、打曇大海代物千貫。是も当世は数寄に入らず。一、水谷大海当世数寄には如何。右、大海は多し。当世には好悪とも数寄には用いず。昔より中古までは、名物とて用うる也。」とある。「嬉遊笑覧」には、「又茶壷に口の大きなるを大海といふ、小きを内海といふ。「万宝全書」に「むかし大海は茄子或は肩衝茶入に一ツヽ添置て、茶臼より大海に茶をうつして後、茄子へも肩衝へも茶を入替るなり、然れば大海は挽溜の器にして、古へより小座敷へは出たる法なし、自然広間書院の台子には飾り置也、宗易作意にて大海を挽溜に用ては、やきものとやきものとあぶなき事なりとて、引ためには雪吹を用ひられしと也。」とある。
太閤窯(たいこうがま)
初代小西平内(こにしへいない)が、独学で楽焼を習得し、昭和6年(1931)に神戸有馬温泉に窯を築き茶陶を作ったもの。初代小西平内は、明治32年(1899)愛媛県に生れ、若くから大阪に出て、独学で楽焼を習得し、昭和6年(1931)、神戸有馬温泉に太閤窯を築く。また、甲子園ホテルで庭焼を初め、川喜田半泥子に認められ、昭和31年(1956)五島慶太の推薦を得て渋谷東急東横店で個展。昭和33年(1958)兵庫県西宮市甲山に移窯。昭和39年(1964)太平を名乗り隠居。平成3年(1991)没。二代小西平内は、昭和3年(1928)愛媛県に生まれ、昭和21年(1946)初代小西平内に入門。昭和22年(1947)川喜多半泥子の作陶指導を受ける。昭和39年(1964)初代小西平内の引退に伴い二代小西平内を襲名し、楽焼や古伊賀写しを得意とする。
大綱宗彦(だいこうそうげん)
臨済宗の僧。大徳寺435世。大徳寺塔頭黄梅院第14世住職。安永元年(1772)-安政7年(1860)。6歳で黄梅院に入室、融谷宗通に師事。空華室、昨夢と号し、のちに向春庵と称す。和歌、茶の湯を能くし、書画に優れた。裏千家十一代玄々斎宗室・表千家十代吸江斎宗左・武者小路千家七代以心斎宗守・松村宗悦らと親しく、武者小路千家蔵の日記「空華室日記」、示寂後刊行和歌集「大綱遺詠」がある。永楽保全の参禅の師としても知られている。
大正名器鑑(たいしょうめいきかん)
高橋箒庵(たかはしそうあん)編著による、茶入・茶碗の図録。大正10年(1921)から昭和元年(1926)に刊行された。茶入五編・茶碗四編からなり、原寸写真、名称、寸法、付属物、雑記、伝来、実見記が記されている。中興名物については、松平左近将監乗邑の三冊物名物記(追記を除く)と松平不昧の古今名物類聚(拾遺之部を除く)の二書の双方或は一方に記載された大名物以外のものを中興名物としている。
台調(だいしらべ)
茶碗に由来がある場合の点前。天目台を帛紗のかわりとして使う。
台子(だいす)
天地二枚の板でできた茶道具を飾る棚。飾り方に一定の規式があり、これを台子飾りという。この規式は能阿弥が「書院の七所飾」を参考に「書院の台子飾」を制定したとされる。真台子・及台子・竹台子・桑台子・高麗台子などがある。台子は元来は禅寺の茶礼に使用していた道具で、文永四年(1267)南浦紹明(なんぽしようみよう)が宋から将来したと伝えられ、喜多村信節の文政13年(1830)序の「嬉遊笑覧」に「筑前国崇福寺の開山南浦紹明、正元のころ入宋し径山寺虚堂に嗣法し、文永四年に帰朝す、其頃台子一かざり径山寺より将来し崇福寺の什物とす、是茶式の始なるにや、後台子を柴野大徳寺へ送り、又天竜寺の開山夢窓へ渡り、夢窓この台子にて茶の湯を始め茶式を定むといへり」とある。室町初期の台子棚は幅一間ほどもあり現在の台子とは異なったようで、「南方録」に「大台子、東山殿には唐台三つまで御所持ありしかども、はゞ長さカネに合たるは一つと、紹鴎の覚書にあり。所々御台子を用らるゝに付、日本にて能阿弥好にてカネよくこしらへられしと云々。」とある。「源流茶話」には「今用る四本柱の台子ハ利休改正にて大円盆を長盆に改め、茄子又は円壺の茶入に台天目を組合、真行台子の法を被定候」とある。
台天目(だいてんもく)
台に載せた天目茶碗。また、茶の湯の点前の形式の一。伝授物の一。天目茶碗を台に載せたまま行う点前。稲垣休叟(1770-1819)の「茶道筌蹄」に「茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾眞臺子右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、「茶式花月集」に「一傳授之分茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾」とある。
大道無門(だいどうむもん)
「無門關」序に「佛語心為宗。無門為法門。既是無門。且作麼生透。豈不見道。從門入者。不是家珍。從縁得者。始終成壞。恁麼説話。大似無風起浪好肉〓(宛リ)瘡。何況滯言句。覓解會。掉棒打月。隔靴爬痒。有甚交渉。慧開紹定戊子夏。首衆于東嘉龍翔。因衲子請益。遂將古人公案。作敲門瓦子。隨機引導學者。竟爾抄説。不覺成集。初不以前後敘列。共成四十八則。通曰無門關。若是箇漢不顧危亡。單刀直入。八臂那〓(口モ)〓(才闌)他不住。縱使西天四七。東土二三。只得望風乞命。設或躊躇。也似隔窗看馬騎。貶得眼來。早已蹉過。頌曰。大道無門。千差有路。透得此關。乾坤獨歩。」(仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや、門より入る者は、是れ家珍にあらず。縁によりて得る者は、始終成壊す。恁麼の説話、大いに風無きに浪を起し、好肉に瘡を抉るに似たり。何ぞ況んや言句に滞りて、解会を覚むるをや。棒を掉って月を打ち、靴を隔てて痒を爬く、甚んの交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。因みに衲子請益す。遂に古人の公案を将って、門を敲く瓦子と作して、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録するに、覚えず集を成す。初めより前後を以って敘列せず、共に四十八則と成る。通じて無門関と曰う。若し是れ箇の漢ならば危亡を顧みず、単刀直入せん。八臂の那陀、他をさえぎれども住まらず。縱使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得ん。設し或は躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似たり。眼を貶得し来たらば、早く已に蹉過せん。頌に曰く、大道無門、千差路あり。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。)とある。大いなる道に入る門は無く、至るところに道がある。この関を透り得たならば、天地を独歩するであろう。
大徳寺(だいとくじ)
龍寶山大徳禅寺。京都市北区紫野にある禅宗寺院で臨済宗大徳寺派大本山。山号「龍宝山」、本尊は釈迦如来、開基は赤松則村、開山は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。宗峰妙超は、弘安5年(1282)播磨国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれ、11歳で地元の書写山円教寺に入り天台を学ぶが、のち禅宗にめざめ鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに随い鎌倉入りし、徳治2年(1307)印可を受け、東山の雲居庵に住していたが、元応元年(1319)赤松則村(円心)の帰依を受け洛北紫野の地に小院を造った。これが大徳寺の起源とされる。花園上皇は宗峰に帰依し、元亨4年(1324)雲林院菩提講東塔の中の北寄り20丈の土地を与え、正中2年(1325)大徳寺を祈願所とする院宣を発している。後醍醐天皇も当寺を保護し、元弘3年(1333)宸翰で「本朝無双之禅苑」とし門弟に相承せしめ他門が住持となることを禁じ、「五山之其一」にする綸旨を発し、元弘4年(1334)には南禅寺に並び五山の「第一之上刹」とする綸旨を発した。
しかし室町幕府が成立すると、大徳寺は南朝系とされ、かねてから対立していた夢窓疎石(1275-1351)門派が足利氏の外護を受け、康永4年(1345)足利尊氏が夢窓疎石を開山として天竜寺を創建。康暦元年(1379)禅寺を統括する最高位者として僧録司を設け初代僧録に疎石門の春屋妙葩(1311-1388)を任じ、永徳2年(1382)足利義満が夢窓疎石を開山として相国寺を創建するなど勢力を伸ばし、至徳3年(1386)幕府が五山十刹の寺位を定め、天龍寺を五山の一位、相国寺を二位とし、大徳寺は最下位に近い十刹の第九位とされた。永享3年(1431)相国寺鹿苑院(僧録司)より証文等を差し出すよう求められると、十刹となる事は開山の素意と違うとし元の如く弁道所となると申し出て、叢林を退き林下に下る。(五山十刹の寺院を「叢林(そうりん)」と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも在野的立場にある寺院を「林下(りんか)」という。)文安2年(1445)26世養叟宗頤の入山にあたり、元弘の旧規に復し同寺を五山の班に列せしむ綸旨を受け、「蔭凉軒日録」延徳3年(1491)に「大徳寺今為紫衣者四十年以来也、以故南禅天龍前住者不会合大徳衆、慈照院殿無御存知大徳住持為紫衣、以勅旨此、慈照相公御逆鱗有之。」とあるところから、本来五山制度では五山之上の南禅寺住持にのみ許された紫衣を着用するようになり、林下にありながら南禅寺に並ぶ格式を示したと思われる。
応仁元年(1467)の応仁の乱で焼失し衰退したが、文明5年(1473)後土御門天皇から復興の綸旨が出され、文明6年(1474)一休宗純が勅命で住持になり、堺の豪商祖渓宗臨および寿源らを勧進して再興をはかり、また天文年間から畠山義綱・大友義鎮・三好義継らの大名が帰依し、天正10年(1582)秀吉が信長の葬儀を行い総見院を建立、諸大名もあいつぎ帰依し、塔頭の多くがこのころより江戸初期に建立された。寛永13年(1636)開山大燈国師三百回忌に際し、法堂・方丈ほか諸堂を再建し、洛北一の巨刹となり寺領二千二百石を領したが、明治4年(1871)太政官布告第四号で「社寺領現在の境内を除の外一般上知被仰付」と寺領を没収され、多くの塔頭が廃絶した。
大徳寺は、侘び茶を創始した村田珠光が一休に参禅して以来、茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもち、三千家の菩提所となっている。 また、墨跡などの「現大徳」は管長を現わすが、「前大徳」は前管長ではなく前住大徳という位で、また「紫野」と書けるのは塔頭の住職に限られる。
文明7年(1475)の綸旨で「當寺住持職新補事、非前住之擧達者、不可有率爾之勅請」(当寺住持職新補の事。前住に非ざるの挙達は、卒爾の勅請あるべらず)と大徳寺住持補任の制が定められ、元和元年(1615)徳川家康の「大徳寺諸法度」に「一、僧臘転位并仏事勤行等、可為如先規寺法事。一、参禅修業、就善知識三十年、費綿密公夫、千七百則話頭了畢之上、遍歴諸老門、普途請益、真諦俗諦成就、出世衆望之時、以諸知識之連署、於被言上者、開堂人院可許可、近年猥申降論帖、或僧臘不高、或修行未熟之衆、依令出世、匪啻汚官寺、蒙衆人嘲者、甚違干仏制、向後有其企者、永可追却其身事。」と定められ、これについて「祥雲寺文書」に「僧臘之事者、自古僧籍と申て僧名帳御座候、是より自古至今之僧衆座牌の次第、書付之御座候間、戒臘之違申儀無之候、転位之事従下官進上官申儀、次第無相違候、殊自平僧住持長老の位より上申候事、入院開堂之儀式不私候、其人之修行相窮、出世時至候へハ、従為其門中相勤、申一山之評定両度候、第三度よりは、於方丈一山之大衆相集一一列同心之上、即於開山国師之前吹挙状を相調、諸長老連判之仕、当寺自昔之伝奏観修寺殿を以て、禁中へ令言上之時、叡覧有之、其日より住持入院之儀被仰出、勅使其御沙汰候、是ハ依文明七年之綸旨、如此相定法よりて候」とある。
現代では前住大徳は、年齢40歳以上で所定の修行を終えた者が何人かの推薦状を添えて申請し本山で審議の上認可するもので、この位を受けると本山大徳寺にて一日だけ「大徳寺住職」になる「改衣式」を行い、方丈(導師)という役をして本尊と開山をはじめ各祖師に報告の法要をし一山の各住職に披露する。前住大徳は紫の衣を着、「前大徳」と書くことが許される。この上に再住大徳があり、年齢70歳以上で5名以上の推薦を受け、前住大徳の資格を受け付けた順番になるが、これは本山全体に大きな行事が予定されたときのみ選ばれ、再住大徳に選ばれると歴代大徳寺住持の世譜に残る。
管長制度は明治5年(1872)「教部省達第4号」により教導職管長を一宗一名置くこととされて以降のもので、その後明治7年(1874)「教部省達書乙第3号」により各派に管長を設けることができるようになり、明治9年(1876)「教部省達書第27号」により臨済宗の天竜・相国・建仁・南禅・建長・妙心・東福・大徳・円覚の各派に管長を置くことが許可され、明治17年(1884)「太政官布達第19号」により各宗派に管長を置くことが定められて以降大徳寺派管長として再住大徳の中から1名選ばれる。現管長は15代高田明浦(明浦宗哲・室号嶺雲室)。
台目構(だいめかまえ)
台目切(点前畳の外の畳に、点前畳の中心線から上手にかけて炉を切る)の炉のかどに中柱を立てて袖壁をつけ、隅に釣棚をしつらえた点前座の構成を台目構という。「茶湯古事談」に「利休三畳大目構の座敷を作り、初めて炉を中に上て切しより、大目構の炉といひならわし」とあるように、利休が大阪屋敷の三畳台目に試みたのが最初と伝えられ、「宗湛日記」天正15年(1587)正月12日に「利休御会。大阪にて宗湛。宗伝。深三畳半。四寸炉、五徳居。釜、霰姥口。鬼面床の向柱に、高麗筒に白梅入て。手水の間に取て。床に橋立の大壺を置て網に入。次の間小棚の下に土水指唐物也。同茶尻ふくらに入。井戸茶碗に道具仕入て土水覆引切。」、同14年12月21日朝会の「草部や道説御会。宗湛一人。深三畳。勝手の内に一尺程の小棚有。下に土の水指、共蓋。炉、箆被。環、貫弦鉄。棚には台天目あり。手水の間に四方盆に肩衝すへて。勝手畳の中に被置候。土水覆」とあり、このときの「次の間」「勝手」が、台目構の初見とされる。当時は袖壁が下まで付いていて、のちに、客座から道具座が見えるように、袖壁の下方を吹き抜くようになったという。点前座が台目畳でなく丸畳の場合は、特に「上げ台目切」といい、点前畳の中央より上げて切ったようになる。
台目畳(だいめだたみ)
茶室の畳の一。普通の畳の凡そ四分の三の大きさのもの。古くは大目とも書く。台子と風炉先屏風を置く分を切り捨てた寸法に由来する。「南方録」に「中柱の右に炉をなしたるを台目切と云ことは、六尺三寸の畳の内、台子のはヾ一尺四寸と、屏風のあつみ一寸と、かきのけて、則その一尺四寸はヾ、元来一尺四寸四方の風炉の座を、右の畳に出して炉を切たり。一枚だヽたみの内、台子の置目分切のけたるゆへ、台目切の畳、台目かきの畳と云なり。六尺三寸の内、向一尺五寸のつもりにてこれを除き、残て四尺八寸の畳なり。」とあり、6尺3寸の丸畳から1尺4寸の台子の巾と厚さ1寸の屏風の分を切のけた残りの4尺8寸を台目畳の基準とする。茶室の構えにより寸法は若干かわる。
大林宗套(だいりんそうとう)
文明12年(1480)-永禄11年(1568)。臨済宗の僧。大徳寺90世。弘治3年(1557)三好長慶(1522-64)が建立した南宗寺の開山。三好一門はじめ、武野紹鴎、千利休、今井宗久、津田宗達、津田宗及などが参禅。武野紹鴎に一閑の居士号を贈る。後奈良天皇から「仏印円証禅師」、正親町天皇から「正覚普通国師」の号を授かる。春屋宗園の「一黙稿」に「宗易禅人之雅称、先師普通国師見号焉者也」(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり)とあるところから、千利休に「宗易(そうえき)」の道号を与えたとされる。
高砂手(たかさごで)
染付花入の一。中国明代末の景徳鎮の古染付の花入。形状は、砧形で、鯉耳が付いた頸部の裏表に人物、肩に蓮弁紋、胴に水藻が描かれている。茶人が、謡曲「高砂」にちなみ、二人の人物を尉と姥に、水藻を若松に見立て、高砂手と称した。景徳鎮の造形系譜にはない形で、小堀遠州の時代に日本の茶人から注文されたもの、あるいは日本向けに作られたものとされる。
高杯(たかつき)
器物の形状の一。脚がついた杯・盤・折敷の類を云う。元は、食物を盛る土器の下に木の輪を台にしたもので、台も土器にして作り付けにしたものを土高杯といい、後には木製、漆塗りにして菓子などを盛った。またそれに倣った陶磁もある。「貞丈雑記」に「たかつきと云は、食物をもるかはらけの下に、わげ物の輪を置たるを云也。つきと云は杯の字也。土器茶碗などの類を、すべてつきと云也。かわらけの下には輪を置て、杯を高くする故、たかつきといふ也。大草流の書に、式三献の折敷高つき也とあるは、右の土器の下にわげ物を置く事也。今時如此なる物を、木にて作りて高杯と云も、かわらけの下にわげ物の輪を置て、高くしたる形をまなびて作り出したるなり。」とある。
高取焼(たかとりやき)
筑前黒田藩の御用窯で遠州七窯のひとつ。慶長5年(1600)黒田長政が筑前福岡に転封した時、朝鮮出兵の際連れ帰った朝鮮韋登の陶工「八山」に命じ、鷹取山南山麓永満寺宅間に「永満寺窯」を築かせたのが始まり。八山は鷹取山に因み「高取」の姓と「八蔵」の名を賜り高取八蔵重貞と名乗り黒田藩「御用窯」となる。慶長19年(1614)内ヶ磯に移り「内ケ磯窯」を開く。寛永元年(1624)帰国を願い出たため2代藩主忠之の勘気にふれ禄を召し上げられ八蔵親子は山田村唐人谷に「山田窯」を開く。この三窯時代の作品を「古高取」といい陶質は堅硬で茶褐色釉の上に斑に黒色釉を掛け古格があり珍重される。寛永7年(1630)八蔵父子は許され藩命により伏見に赴き小堀遠州の指導を受け、白旗山の山麓に「臼旗山窯」を開く。また唐津城主寺沢氏の浪人五十嵐次右衛門を聘し瀬戸の陶法を学ばせ下釉を施すようになる。これを「遠州高取」という。寛文5年(1665)3代藩主光之の時、初代八蔵の次男八蔵貞明が2代目を継ぎ朝倉郡小石原村鼓に移住し「小石原鼓窯」を開く。これを「小石原高取」という。4代藩主黒田綱政は、宝永5年(1708)小石原から陶工を呼び福岡城下近くに「東皿山窯」を開かせ、皿山奉行を小石原から移し、抹茶碗・茶入・置物などに限定し主として幕府および諸侯への贈答用に当てた。5代藩主黒田宣政は享保3年(1718)西新町窯を開き、もっぱら日用雑器を焼かせた。これは「西皿山」と呼ばれる。明治4年(1871)の廃藩置県により御用窯は閉ざされるが、その後再興され、福岡市内と小石原の2カ所に数軒ある。
高橋道八(たかはしどうはち)
京都清水焼の陶工、高橋家の通名。初代高橋道八(1740-1804)は伊勢亀山藩士の次男に生まれ、名は高橋周平光重。宝暦年間(1751-64)に京に出て作陶を始め、粟田口に開窯。松風亭、空仲、周平と号す。以後代々高橋道八を名乗る。2代道八(1782-1855)は初代道八の次男。松風亭、華中亭。奥田頴川の弟子となり、同門の青木木米と共に当時の三大名工とされる。文化8年(1811)京都五条坂に開窯。仁和寺の宮より「仁」の一字を、醍醐寺三宝院門跡から「阿弥」の称号を拝領して仁阿弥を名乗り、仁阿弥道八が一般的通り名。作風は色絵磁器から茶陶・彫塑など多岐に渡り、特に琳派の画風の「雲錦手」や人物・動物を写実的に模した彫塑の名手。紀州偕楽園御庭焼、高松藩の賛窯、嵯峨角倉家一方堂焼、西本願寺露山焼などに参画。天保13年(1842)伏見に隠居、道翁、法螺山人と称して桃山窯を開く。安政2年(1855)73歳でこの地に没す。尾形周平は弟。3代道八(1811-1879)は幼名道三、名は光英(みちふさ)。華中亭。青磁・雲鶴・三島・刷毛目を得意とし、青花白抜画の釉の上下に濃淡のボカシを出すことを発明、釉薬も改良発明した。
竹台子(たけだいす)
天板、地板ともに桐木地で、竹の四本柱で支えた棚。大小あり、大は珠光好み、小は利休好み。「眞台子」を基本として、村田珠光が上下の板を桐木地とし白竹の柱を立てることを創案し、武野紹鴎に伝わり、紹鴎・利休の時代に現在見られる大きさになったとされる。珠光好竹台子は、幅3尺5分、奥行1尺4寸、高さ2尺2寸と眞台子と同様の寸法となっている。利休好みは台子地板から「風炉の部分」を除いて「炉用」に好んだもの。寸法は、天板長さ2尺4寸8分、幅1尺2寸7分7厘、厚さ5分5厘、地板の長さ・幅は天板と同じで厚さが1寸2分、竹柱の高さは1尺8寸1分。柱は、三節を客柱(右手前)と角柱(左向う)に、二節を向柱(右向う)と勝手柱(左手前)にする。ただし、三節一本の時はこれを客柱に用いる。元来、地板は根のほうを勝手付に、天板は根のほうを客付にする。炉用とされているが風炉に使用するときは小風炉を用いる。
武野紹鴎(たけのじょうおう)
文亀2年(1502)-弘治元年(1555)。室町時代の堺の町衆。通称新五郎。名乗りは仲材、号は一閑、大黒庵。父は武田信久。信久は若狭守護大名武田氏の後裔で、諸国を流浪ののち泉州堺に定着、武野と姓を改め、皮革商を営み産をなした。母は興福寺の衆徒中坊氏の女。紹鴎は若い頃より歌道を志し24歳の時に上洛、27歳のとき連歌師印政の手引で当代随一の文化人、三条西実隆(さんじょうにしさねたか/1455-1537)と対面、古典と和歌を学ぶ。また宗碩ら当代の著名な連歌師にも親しむ。「南方録」に「宗易の物語りに、珠光の弟子、宗陳(そうちん)・宗悟(そうご)と云う人あり。紹鴎は此の二人に茶の稽古修行ありし也」、また大徳寺の古岳宗旦に参じ、次いで大林宋套に参禅し、宗套から一閑居士号を受ける。
「山上宗二記」に「紹鴎、三十マデ連歌師ナリ。三条逍遥院殿「詠歌大概」之序ヲ聞キ、茶湯ヲ分別シ名人ニナラレタリ。」という。戦火を避け31歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鴎を号し茶の湯に専念する。晩年に京都下京四条の夷堂に大黒庵を設ける。「山上宗二記」に「当代千万ノ道具ハ、皆紹鴎ノ目明ヲ以テ被召出也」、「南方録」に「紹鴎に成りて四畳半座敷所に改め、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床の塗うちをうすぬり又は白木にし、之を草の座敷と申されし也。鴎はこの座に台子は飾られず。」、「長闇堂記」に「一つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん」とあるように、珠光の四畳半茶の湯をさらに深化させ、藁屋根の四畳半に炉を切って茶室とし、唐物の茶器のかわりに信楽水指、備前建水、竹自在鉤、釣瓶木地水指、木地の曲物の建水、竹蓋置など、日常雑器を茶の湯に取り入れ、「紹鴎のわひ茶の湯の心ハ、新古今集の中定家朝臣の歌に、見わたせは花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕くれ此歌の心にてこそあれと被申しと也。」「連歌ハ枯レカジカケテ寒カレと。茶ノ湯ノ果テモソノ如クナリタキト、紹鴎常ニ言ウト、辻玄哉言ワレシトナリ」とあるような「わび茶」を完成させた。門下に、今井宗久、津田宗及、千宗易らがいる。
竹花入(たけはないれ)
竹で作られた花入。置花入、掛花入、釣花入がある。「茶話指月集」に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」、「逢源斎書」に「一、竹筒事。小田原陣御供休被参。其時大竹在之故、花入に切被申候。園城寺も其時の花入。日本第一。小田原より帰陣在之。園城寺少庵へみあげ心に越被申候。尺八は堺いたみやに宗不に在之。休持用也。」とあり、利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて一重切「園城寺」(おんじょうじ)、「音曲」(おんぎょく)、逆竹寸切「尺八」(しゃくはち)、その他に二重切「夜長」(よなが)も作ったとされ、「尺八」は秀吉に献上し、「音曲」は織部に送り、「園城寺」を少庵への土産にし、「よなが」は自ら使用したらしく「利休百会記」天正19年1月の会に「よなが」の名がみえる。「茶道筌蹄」に「太閤小田原城を攻られし時、居士供奉し陣中にある事久し、或時伊豆韮山山城内に大竹ある由をきゝて矢文を以て其守将北條美濃守氏規に乞得て華入二筒を製し其一筒は尺八と名付け即ち太閤へ献す、一筒は一重切園城寺と銘し少庵へ与ふ、是竹華入の始也」とあり、これを竹花入の始めとするのが通説となっており、会記にも「天王寺屋会記」天正18年(1590)7月9日の桑山修理の朝会に「床ニ竹ノ切カケ」が初見されて以降、竹花入が頻繁に現れるようになる。
ところが、竹檠を見立て団扇形の花窓を刳り抜いた紹鴎所持「洞切」をはじめ紹鴎作と伝える竹花入が何口か現存する。これについては「逢源斎書」に「一、竹花入の筒事。紹鴎作と申候は無事也。利初に候。」、「随流斎延紙ノ書」に「一、たけ置花入、無事なり、紹鴎たけ置花入とて、片桐石見守切被申候しとなり」とあり紹鴎作を否定している。ただ他にも「天下御作天正十五年十月六日大会」の漆書と利休の花押のある豊臣秀吉作で利休が拝領したとされる根付竹を寸切にした「大会」(だいえ)という銘をもつ竹花入が伝来し、「茶道筌蹄」に「利休二重切に上り亀の蒔絵をなし正親町天皇へ献す、端の坊は利休八幡端の坊にあたふ」とあり、これも伝存するが、正親町天皇は天正14年(1586)には譲位しており、これも利休三筒より前の作ということになるなど、利休以前にも竹花入は存在したが、利休によって正式な花入として認知されたのではないかと云う。
「茶湯古事談」には「秀吉公、小田原御陣の時、利休も茶釜つけたる七節のゑつるの指物さし、馬上にて御供申せし、石垣山の御陣城にも数奇屋をかこはせられ、橋立の御壷、玉堂の御茶入なとにて、家康・玄旨・由古、利休に御茶給り、又信雄卿・忠興・氏郷・景勝・羽柴上総守勝雅に前波半入杯加へられ、御茶給りしとなん。同陣中にて、利休韮山竹の勝れて見事なるを見出し、是そよき花生ならんと秀吉公へ申上しに、さあらは切よと有し故切しに、利休も是はと驚く程によく出来たりし故差上しに、存の外御意に不入、さんざん御不快にて庭前へ投捨にせられし故、同所にて尺八を切差上しに、是は大に御意に入し、前の竹よりあしかりしかとも、御秘蔵なりしか、利休死罪の時御怒りの余り、打わり捨させられしを、今井宗及ひそかに取あつめ置、後つき合せ秘蔵せし、年を経て堺の住吉屋宗無所持せしか、宗無死後に同所伊丹屋宗不値百貫に求めて家に伝しとなん。はしめの竹は、庭の石にあたりひゝき入しか、利休ひろひて、少庵へ土産とせし、或時是を床にかけ花入しに、客か水のしたゝりて畳のぬるゝを見て、いかゝといひしに、此もるこそ命なれといひし、三井寺の鐘のひゝきを思ひよせて、園城寺と名つけ、則筒に園城寺少庵と書付有、後は金粉にてとめて有、後に金屋宗貞かもとにありしを、京の家原自仙か八百両に求置し、或時尾州の野村宗二か京都に遊ひ帰るとて、自仙へ暇乞に行しに、来年の口切頃には必のほられよ、園城寺つゐに茶に出さぬか、来年は始て出さんといひしかは、宗二もそれはかりに又上京せしに、彼園城寺を出し口切せしに、あらたにかこひをたてしか、みゆる所に竹一本も遺さりし、是園城寺の竹に憚りしよし、京中の茶人も称美せし、自仙子なく、甥の徳助を養ひ、家財共に譲りしか、後に不勝手になりかゝりし此、或人江戸の町人冬木にいひしは、兼々園城寺を望まれしか、自仙跡も不勝手に成行は、今にては手にいるへし、本は八百両にてかひしか今は判金にては百枚にはうるへし、弥求め遺すへきやといひしに、冬木大ひに悦ひ、何とそもらひくれよ但し八百両を判金百枚にまけさせる事は望なし、それては道具の威かさかる程に、やつはりもとの値段に八百両にもらひくれよとありしかは、やかて冬木か方へおくりしとなん、又同竹にて音曲を切し、是に狂哥あり、其文いまに京の人所持すとなん、亦よなか、二重筒も利休作にて百会にいたせり、はし之坊と云も同作にて名高しとなん。韮山竹、利休見出し切そめて竹の名所と成し、御当代になりてォりに切事御停止也、故に世にまれなりしとなん。」とある。
「尺八」「一重切」「二重切」の利休三種のほかに、遠州により「藤浪」など上の輪に節を置いた掛切や二重切の輪と柱を切り取った「再来」銘の「輪無二重切」が作られ、「逢源斎書」に「一、花入竹之事。切様在之候。面談に而なく候ヘは不被申候。船は宗旦初而切出し被申候。」とあるように、宗旦により舟形の「横雲」「貨狄舟」「丸太舟」など釣舟が作られ、藤村庸軒により一重切の窓を吹貫にした「置筒花入」が作られ、また利休が薮内剣仲に花を入れて送ったとされる薮内家伝来の手桶形の「送筒」(利休送筒)と呼ばれるものもあり、これは花を運ぶための「通い筒」を見立てたもの。他に、表千家の逢源斎好「長生丸」、覚々斎好「沓舟」、如心斎好「置尺八」「稲塚」「根深一重切」「酢筒」、裏千家の仙叟好「太鼓舟」「旅枕」「窓二重」「ヘラ筒」「鶴首」、又玄斎好「色紙」、玄々斎好「御神酒筒」「三徳」などがある。
畳(たたみ)
畳の大きさは、京都を中心とした関西の畳の寸法を基準とした「畳割り」(内法制)と、東日本の柱の真から柱の真までの間隔を基準寸法とする「柱割り」(真芯制)の違いがあり、地方により畳の大きさがちがう。「畳割り」(内法制)は、畳の寸法を優先して柱の位置を決めていくもので、いわゆる「京間」がこれにあたる。「京間」は別名「本間畳」といい、京都を中心に大阪・瀬戸内・山陰・九州で用いられてきた基本尺で畳の一枚の大きさが長さ6尺3寸×幅3尺1寸5分(1909×955o)で、部屋の大きさが変わっても畳一枚の大きさは一定である。これに対し、「柱割り」(真芯制)は、柱間(柱と柱の間の心々寸法)を6尺(1818o)とし、ここから畳の大きさを決めていくもので、「田舎間」別名「関東間」・「江戸間」と呼ばれる。田舎間は柱の位置や柱の太さにより畳の大きさが決まるため、結果的に部屋の大きさや間取りにより微妙に畳の大きさが異なる。また他に主に愛知・岐阜・三重地方で使用される「中京間」などがある。畳の寸法としては、一般的に、京間6尺3寸×3尺1寸5分(1909×955o)、中京間6尺×3尺(1818×909o)、田舎間5尺8寸×2尺9寸(1757×879mm)となる。
なぜ一間の長さが京間6尺3寸と田舎間6尺になったかについては、寛政6年(1794)の「地方凡例録」には「太閤検地の頃迄は六尺三寸と聞ゆ、今も屋舎等の壱間ハ六尺三寸を京間と云ひ、六尺を田舎間と云、故に田地等も検地の時代知れざる処は、今に六尺五寸四方を壱歩と云ひ習ハせし所もあり、又古検ハすぺて六尺三寸竿を用ることなりといへども、近世は古に復して六尺を壱間とす」とあり、検地竿の違いが、六尺三寸の京間、六尺の田舎間の一間の違いとなったとされる。茶室の畳は、炉の大きさや茶道具が、京畳の大きさに合わせて決められ、置き合せも京畳の短手の目数の縁内64目を基準とされているので、通常京畳を使用する。但し、田舎間を用いる流儀もある。これら一畳まるまるの大きさの畳を「丸畳」と呼び、他に「台目畳」や「半畳」がある。また、茶室内の畳にはそれぞれ用途により、亭主が座って点前をする「点前畳(てまえだたみ)」(茶道具を置くので「道具畳」ともいう)、茶道口の前に敷かれ亭主が茶室に入るとき最初に踏み込む「踏込畳(ふみこみだたみ)」、踏込畳から客畳までに敷かれた「通畳(かよいだたみ)」、客の座る「客畳(きゃくだたみ)」、床の前に敷かれ特別な客(貴人)が座る「貴人畳(きにんだたみ)」、炉が切ってある「炉畳(ろだたみ)」の名がある。
立花大亀(たちばなだいき)
臨済宗の僧。大徳寺塔頭徳禅寺長老。明治31年(1898)-平成17年(2005)。大阪府堺市生まれ。(1921)南宗寺で得度し、妙心寺専門道場で修行。大徳寺511世。大徳寺別院徳禅寺住職などを経て大徳寺宗務総長に就任。大徳寺派管長代務者。昭和57年(1982)から昭和61年(1986)まで花園大学学長。大徳寺最高顧問。如意庵庵主。平成17年(2005)8月25日遷化。
棚物(たなもの)
点前に際し茶道具を飾り置く棚の総称。棚は、四畳半以上の広間に使い、小間には使わない。棚物の、畳に付くいちばん下の棚を「地板(じいた)」、いちばん上の板を「天板(てんいた)」、中間に棚板があれば「中板(なかいた)」という。客が入る前に茶器を飾り付けておくのを「初飾」、点前後に柄杓・蓋置などを飾り残すのを「後飾」、茶碗まで飾り残すのを「総飾」という。棚は大別して、台子、卓(しょく)、袋棚(ふくろだな)に分けられる。台子系の棚として、真台子(しんのだいす)、及台子(きゅうだいす)、竹台子、竹柱四方棚(たけばしらよほうだな)、木瓜棚(もっこうだな)、卓系の棚として、丸卓、矢筈棚、袋棚には紹鴎袋棚と利休袋棚があり、利休袋棚から出た二重棚、烏帽子棚、小袋棚、自在棚があり、その他宗匠好みに、壷々棚、梅棚、蛤棚などがある。「南方録」に、「四畳半にはかならず袋棚已下の置棚、卓子、箪子の類に道具かざりて、茶を立しことなり。畳の上に道具置合することは、二畳敷一尺四寸炉より始り、台目切等、専畳にカネをわり付て置合ることなり。されども四畳半にては、一向の草庵ともいヽがたき心にて、畳の上置合ることなかりしことなり。休の京畳四畳半にて、紹鴎を御茶申されし時、棚なしに前後仕廻れし、これ最初なりと、休のもの語なり。」とあり、棚を使わずに畳に置き付けるようになったのは利休からとする。
莨入(たばこいれ)
莨盆の中に組み込み、刻みたばこを入れるのに用いる道具。「煙草考」に「烟盒俗謂烟草入也。多用漆器、或陶〓、或曲輪(漢人此謂巻環)、梨地(漢人此謂描金)、彫紅、螺鈿、銅鍮、紙器(俗所謂張子之類也)等、其形容不一、各従所好用之、納縷烟居盤上。」とあり、唐物の見立てや檀紙の畳紙など様々ある。
莨盆(たばこぼん)
莨入、火入、灰吹、煙管、香箸など喫煙具一式を納めておく道具。形はさまざまで、大別して手付きと手無しに分けられ、唐物には蒟醤・青貝・漆器・藤組など、和物には唐木・漆器・木地・一閑張・篭などがある。家元の好み物も多く、宗旦・遠州・宗和あたりから好み物の煙草盆が登場する。煙草盆に必ず備えられるのが火入、灰吹で、向って左に火入、右に灰吹を入れ、莨入、煙管、香火箸(香箸)を添えるときは、煙管二本を前へかけ、香火箸を灰吹の右に置く。茶事においては、寄付、腰掛に置かれ、席中では薄茶が始まる前に持ち出され、それぞれ形状、材質、技法など異なったものを用いる。また大寄せでは、最初から正客の席に置かれる。「茶式湖月抄」に「たばこ盆の事は、利休時代まで、稀々に用いしゆえ、莨盆一具などなかりし也。やうやう九十年来、世人なべて用ることとなれり。利休煙草盆あり、これは利休の名をかりたるなるべし。」とあり、江戸後期に莨盆一具が茶事の道具として一般的になったとする。「目ざまし草」には「芬盤といふものは(ある説に、志野家の人、某の侯と謀て、香具をとりあはせたりといへり)、香具を取りあはせて用ひしとなり。盆は即ち香盆、火入は香炉、唾壷は炷燼壷、煙包は銀葉匣、盆の前に煙管を二本おくは、香箸のかはりなりとぞ。後々に至り、今の書院たばこ盆といふ様の物出来ると也。」とあり、莨盆一具は香具を見立てたとする。
田原陶兵衛(たはらとうべえ)
萩焼の陶工。田原家の通名。豊臣秀吉公の文禄・慶長の役に際して、日本に渡来した朝鮮の陶工李勺光の高弟として共に広島から萩に移住し、松本の御用焼物所に御雇細工人として召し抱えられた松本ノ介左衛門を始祖とし、三之瀬焼物所開窯者の一人赤川助左衛門を初代として、代々赤川助左衛門を称す。幕末の九代喜代蔵の嫡男謙治が田原姓を名乗り、以来田原陶兵衛を称する。初代赤川介左衛門、明暦3年(1657)萩松本より深川三之瀬に移住し、蔵崎五郎左衛門に協力し三之瀬焼物所を開窯。
玉子手(たまごで)
高麗茶碗の一種。玉子手の名は、玉子の殻のような滑らかでやや黄味がかった釉調による。熊川または粉引の上手ともいう。姿は熊川に似るが、土が細かく柔らかで、素地が薄く手取りが軽い。口作りは端反りになったものが多く、胴でやや膨らみ、見込みに鏡があることが多く、高台はやや低く竹節、高台内はやや兜巾となる。釉薬はやや黄味がかった乳白色で滑らかで、貫入が入る。窯変で青みが出るものもある。
玉水焼(たまみずやき)
楽家4代楽一入の子、彌兵衛が玉水に開窯したもの。当時は彌兵衛焼と呼ばれた。楽家脇窯とされる。玉水焼初代一元(いちげん:1662-1722)は、一入と伊縫(いぬい)氏との間に庶子として生まれるが、一入は寛文5年(1665)雁金屋三右衛門の子で2歳になる後の宗入を養子とする。後年跡目の問題が起き、庶子の一元がその母とともに、楽家の文書や楽の銀印を持って母の生地である山城国玉水村(京都府綴喜郡井手町字玉水)に移り住み、長次郎以来5代目として一元を称し、新たに楽焼の窯を開いた。2代一空(いっくう:1709-1730)は一元の長男、彌兵衛、一空。3代任土斎(にんどさい)は一空の弟、彌兵衛、任土斎。任土斎は妻を娶らず血統は三代で絶えたが、一元の弟子で玉水村八人衆のひとり伊縫甚兵衛が4代を継ぎ楽翁(らくおう)と号す。5代娯楽斎(ごらくさい)は楽翁の子で、宗助、甚兵衛、娯楽斎。6代涼行斎(りょうこうさい)は、惣助、彌兵衛、涼行斎。7代浄閑斎(じょうかんさい)は惣助、浄閑斎。8代照暁斎(しょうぎょうさい)は、甚兵衛、照暁斎、自ら「伊縫楽甚兵衛」と署名した。明治12年(1879)10月10日没して玉水焼は断絶した。
玉藻焼(たまもやき)
玉藻焼は香川県にあり、主に楽焼を造る。初代氏家常平(うぢいえつねへい)。大正3年(1914)香川県善通寺大麻に生れる。昭和3年(1928)五代清水六兵衛に師事。昭和22年(1947)大川郡大内町に誉水窯を開窯し、愈好斎の指導を受ける。昭和24年(1949)愈好斎が玉藻浦に因み玉藻焼と命名。
溜塗(ためぬり)
漆塗の一種。中塗に朱・紅柄・青・黄などの彩漆を塗り、木炭でみがいて艶消しを行い、上塗に透漆を塗り放したもの。透漆を通して色が透けて見える。朱漆の上に透漆をかけたものを紅溜(べにため)といい、下の赤が透けて濃い栗色になる。この色を「ため色」という。
短冊(たんざく)
和歌・俳句・漢詩・絵画などを書くための細長い料紙。短籍・短尺・短策・単尺などとも書き「たんじゃく」ともよむ。「和歌深秘抄」には「短冊の事、為世卿頓阿申合候哉、長さ一尺にて候、只今入見参候、此題岸柳、為世卿自筆にて候、裏書は頓阿、重而子細は尭孝筆跡にて候」とあり、鎌倉末期、藤原定家の曾孫二条為世(1250-1338)と頓阿(1289-1372)が初めて作ったとされ、寸法は懐紙を竪に八等分にし、巾一寸八分、長さ一尺のものだったが、時代が経つにつれ今日の巾二寸、長さ一尺二寸に変わった。ただ天皇は少し大きめの短冊を用いたともいう。現存する最古の短冊は「宝積経要品紙背短冊」とされ、足利直義の跋によれば、或人が夢に「なむさかふつせむしむさり」(南無釈迦仏全身舎利)の十二字を得、それを一字ずつ首に冠した和歌を募り、光明院・尊氏・直義・細川和氏・高師直・兼好・頓阿・浄弁・慶運らの短冊を得、それらを継合せて一帖に装し、その背景に康永3年(1344)10月兄尊氏、僧夢窓疎石と共に大宝積経の要品を書写して高野山に納めたもの。料紙は、鎌倉末期はいわゆる杉原紙で白無地のの簡素なもので、室町時代以後は和歌の会で短冊を用いることが定着し、素紙に雲形を漉き込んだ打曇紙(うちぐもり)がほとんどであった。室町時代の末には金泥・銀泥で下絵を描いたもの、桃山時代には華麗な装飾や下絵を描いたものが用いられた。
旦入(たんにゅう)
楽家10代。寛政7年(1795)-嘉永7年(1854)59歳。9代了入の次男。文化8年(1811)10代吉左衛門を襲名。弘化2年(1845)剃髪隠居して旦入と号す。紀州御庭焼偕楽園窯にも参加し「清寧」の印を拝領する。作行きは了入の影響を受け、多彩な箆削りの変化を見せ茶碗の各所を引き立たせる箆は更に技巧的にみがかれている。作品は全般に小ぶりで、釉がけは薄く、赤茶碗には濃淡が生じる。口造りは伸びやかな「五岳」をなす。浅い茶溜りがある。天保9年(1838)長次郎の250回忌をつとめ、黒茶碗を250個焼いた。印は、「木楽印」といい、下部が「木」になっている。
丹波焼(たんばやき)
丹波国(兵庫県)立杭(篠山市今田町立杭)を中心として焼かれる陶器の通称。「立杭(たちくい)焼」ともいう。日本六古窯の一つで、平安末期から鎌倉初期から始まるとされ、大同元年(806)長門国萩の陶工・風呂藪(ふろやぶ)惣太郎(宗太郎)が陶法を伝えたという口碑もある。慶長末頃まで三木峠、床谷(とこらり)、源兵衛山、太郎三郎(たきうら)、稲荷山の「穴窯」で種壺や甕(かめ)など無釉の焼締(やきしめ)陶を焼き、これを小野原焼という。慶長16年(1611)頃に「穴窯」に替わり、朝鮮式の「登り窯」が築かれ、左回りの蹴轆轤(けろくろ)、釉薬も使われるようになる。寛永年間、小堀遠州(1579-1647)の指導により茶碗・茶入・水指・建水等が作られ「遠州丹波」と称され、茶入に中興名物「生野」がある。鉄分の多い土で、黒味を帯びさびた味わいがある。釉薬は、灰釉、赤土部(あかどべ)釉、飴黒(あめぐろ)、江戸後期から白釉、土灰釉が使われる。
箪瓢(たんぴょう)
器物の形状の一。瓢箪を逆さにしたように、上が大きく下が小さく膨らんだ形のもの。茶入・水指・釜・建水などにある。箪瓢建水は、七種建水の一。  
ち     

 

乳緒(ちお)
壷飾の際に、茶壷の乳(耳)に通す緒。乳縄(ちなわ)とも。「茶道望月集」に「乳緒と云物は其乳の数幾ツ有ても表を前になして置、其左右に成たる乳二ツ計に附る事と可知。乳毎に悉く附るにてはなし。是を元結とも云也。是も色は紫か赤か。口覆の長緒とは色の替りたる能。此太サは口覆の長緒の太サとは一倍太きが能。組様は四ツ打にして、其打留を六分計切残して、総の如にして留る能。掛様は其乳へ通し二ツに折て、其一方の緒を一重わなにして、一方の緒を其わなへ通して、結び締て下げおく也。悉く筆に及難し。其結び締る所は、上より其長サの三分一程の所にて結び留る能。下へ下るは三分二也。偖此乳緒の用は、此緒を取添て、壷を扱ふ為の用と可知。依て取緒とも云。然共必是を持て、扱ふと云にてもなし先は飾也。」とあり、元来壷を持つために掛けるものという。
千鳥の盃(ちどりのさかずき)
懐石で、八寸のときに行われる主客が盃を応酬する盃事。同じ盃で亭主と客一同とが交互に盃を交わしていくところから「千鳥」と称する。懐石で、食事の段に続き、客が箸洗いを終わったころ、亭主が左手に八寸、右手に銚子を持って出て、正客の前に座り、酒を注ぎ、吸物椀の蓋裏に、八寸の海のもの一種を付け、客は受けた酒と肴を頂く。次客以下も同様にし末客まで一巡したら、亭主は、再び八寸と銚子を持って正客の前に座り、八寸を正客の前に置く。正客は、亭主に盃の持ち出しをすすめ、亭主は「お流れを」と答え、正客は盃を懐紙で拭いて、盃台に載せ、亭主に差し出す。亭主が盃を取ると、次客が酌をし、亭主はそれを飲み、飲み終わった盃を懐紙で拭い盃台に載せ、正客の吸物椀の蓋裏に八寸の山のもの一種を付け、正客に「暫時拝借」と挨拶をして、正客の盃を借り、次客に渡して酌をし、肴を次客に付け、次客が盃を空けると、亭主は次客から盃を受け、三客から酒を注いでもらって飲みというように、詰まで、ひとりずつ肴を付けながら、献酬して回る。これを「千鳥の盃」という。詰との献酬が終わると、左手に八寸を、右手に銚子を持って正客の前に戻り、盃を借りた礼をいい、正客に盃を返して、酌をする。正客は、ころあいを見て、亭主に酒を注ぎ、納盃の挨拶をし、八寸の盃事は終わり、亭主は八寸、銚子を持って給仕口に。
茶入(ちゃいれ)
点前に使用するための、濃茶を入れる陶製の容器。茶壷を「大壷」と呼ぶのに対し「小壷」という。通常は、象牙製の蓋をし、仕服(しふく)を着せる。薄茶の容器のことは薄茶器、茶器という。京都建仁寺の開山栄西禅師が宋から帰朝した際に、洛西栂尾の明恵上人に茶の種を贈るのに用いた漢柿蔕(あやのかきべた)の茶壷が始まりといわれる。元々は薬味入・香料入などに使用されていた容器を転用したもの。
「古今名物類聚」に「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。倭土和薬にてやきたるを古瀬戸といふ。古瀬戸は総名なり。大形に出来たるを大瀬戸と云なり。此手小瀬戸に異なり、小瀬戸といふは小形に出来たるをいふ。此手大瀬戸に異なり、入唐以前やきたるを、口兀、厚手、掘出し手といふ。大名物は古瀬戸唐物なり。誠に唐土より渡たるものをば漢といふ。これは重宝せぬものなり、唐物と混ずべからず。掘出し手といふは、出来悪敷とて、一窯土中に埋みたりしを後に掘出したりとなり。一説には小堀公時代に掘出したるともいふ。総て入唐以前の作は、出来は田夫にて下作に見ゆるなり。古瀬戸煎餅手といふあり、これは何れの窯よりもいづる。窯のうちにて火気つよくあたり、上薬かせ、地土ふくれ出来たるものなり。後唐の土すくなく成たるによりて、和の土を合てやきたるを春慶といふ。春慶は藤四郎が法名なり。二代目の藤四郎作を真中古といふ。藤四郎作と唱るは二代めをさす也。元祖を古瀬戸と称し、二代目を藤四郎と称するは、同名二人つづきたる故、混ぜざるために唱分たるなり。藤四郎春慶も二代めなり。三代め藤次郎、是を中古物といふ。金華山窯の作者なり。四代め藤三郎、是をも中古物といふ。破風窯の作者なり。黄薬といふも破風窯より出たるものなり。正信春慶といふものあり、正信は何人なる事を詳にせず。又後時代春慶と称するは、堺春慶、吉野春慶なり。後窯と称するは、坊主手、宗伯、正意、山道、茶臼屋、源十郎、姉、利休、鳴見、捻貫、八ツ橋、伊勢手、萬右衛門等なり。又遠州公時代に、新兵衛、江存、茂右衛門、吉兵衛等あり。其外国焼と唱るものは、薩摩、高取、肥後、丹波、膳所、唐津、備前、伊賀、信楽、御室なり。祖母懐は美濃の国焼なり。大窯物といふは瀬戸なれども、至て後のものにて、漸百年余りになるもの也。右後窯以下国焼にも遠州名物数多し。」とあり、到来物の茶壷を漢作唐物茶入と称し、瀬戸の加藤四郎左衛門景正が唐から持ち帰った土と薬で瀬戸瓶子窯で焼いたものを唐物としている。
ただ、「茶道筌蹄」にも「藤四郎入唐後を唐物といふ説あれども甚疑はし」あるように伝説にすぎないとの説もある。大別して漢作唐物・唐物・和物・島物に分類されており、漢作唐物・唐物の分類は曖昧で主に伝来に依っているが、漢作唐物は型造りで胴継ぎしたところに継目を押さえた箆跡が胴紐となって残っているものが多く見立によるもの、唐物は轆轤仕上で中国へ注文して作らせたものとする説もある。和物では、藤四郎を陶祖として瀬戸窯を本窯と称し、四代目の破風窯までを個別に扱い五つに分類し、藤四郎が焼いたものを「古瀬戸」または彼の法号をとり「春慶」と称し、二代目が焼いたものを藤四郎窯、真中古(まちゅうこ)、三代目が焼いたとされる金華山窯、四代目が焼いたとされる破風窯を中古物と称する。利休の頃の破風窯以後の瀬戸、美濃、京都などで焼かれたものを後窯(のちがま)と称し、「利休」「織部」「宗伯」「鳴海」「正意」など指導したとされる人物の名を取ったものがある。その他は国焼(くにやき)の名称のもとで、各々その産地を冠して呼び名としている。島物は、南蛮貿易などにより、東南アジア、南中国、ルソン、琉球などからもたらされた容器を茶入として採り上げたものをいう。「茶道筌蹄」に「唐物往古は唐物のみを用ゆ。其内茄子を上品とす。肩衝、文林、是に次ぐ。此三品を盆點に用ゆ。其後品少く成し故、丸肩衝まで用ゆ。」とあり、茶入の姿から、肩の張った物を「肩衝」、林檎に似た形の「文琳」、茄子に似た形の「茄子」、文琳と茄子の合の子のような「文茄(ぶんな)」「鶴首(つるくび)」「丸壺(まるつぼ)」「大海」「尻膨(しりぶくら)」など名付けられ分類されている。
茶会(ちゃかい)
客を招き、抹茶を点ててもてなす集り。本来は茶事をいう。明治28年(1895)益田鈍翁(1847-1938)が近代の大寄せ茶会の先駆け「大師会」を催して以来、多くの客を一同に招き菓子と薄茶(あるいは濃茶)のみをもてなす「大寄せ」が次第に盛んになり、近年はほとんど大寄せ茶会が一般的となったため、茶会というと「大寄せ」をさすことが多くなり、本来の意味を表すためには「茶事」の語を使う事が多い。
茶会記(ちゃかいき)
茶会の道具などを記録したもの。「会記」ともいう。招かれた客がその茶会の記録を記す「他会記」と、亭主が自分の茶会を記録する「自会記」がある。今の茶会記につながる最も古い会記は、天文2年(1533)3月22日に始まる「久政会記」(松屋会記)とされ、利休時代の「松屋会記」「天王寺屋会記」「今井宗久茶湯日記抜書」「宗湛日記」を「四大茶会記」といい、当時の茶の湯を知るのみならず、歴史上、美術史上の史料として高く評価されている。今日の茶会記の大体の形式は、「床」として掛物の筆者、種類・内容、箱書・伝来などを記し、次に「花入」、続いて「釜」「香合」「水指」「茶入」「茶碗」「茶杓」、次に「蓋置」「建水」を一段下げ、続いて「御茶」のみ「御」の字をつけて記し、「菓子」一段下げて「器(菓子器)」と記す。「花入」「釜」「茶入」に付随する、「花」、「風炉」「板(敷板)」「縁(炉縁)」、「袋(仕服)」はそれぞれの次に一段下げて記す。炭点前があれば「香合」の次に一字下げて「炭斗」「羽箒」などと列記する。続き薄茶があれば「茶入」「袋」の次に「茶器(薄茶器)」を記し「替茶碗」が加われば「茶碗」の次に一時下げて記す。改めて薄茶席がある場合は、濃茶のあとにまとめて記す。「花入」「釜」「水指」「茶入」などは産地を先に記し、形の特徴をこれに添える。「茶杓」は作者、筒、箱などを記す。正式の茶事の場合は、日付、場所、亭主、参会者、茶事の様式なども記す。各流派、好みや状況に応じて、必ずしも一定のものではない。
茶経(ちゃきょう)
中国唐代に陸羽(733?-803)が著した世界最古の茶書。唐代と唐代以前の茶に関する知識を系統的にまとめたもの。建中元年(780)刊。「さけい」ともいう。三巻十章よりなり、一之源(茶樹の原産地、特徴、名称、自然条件と茶の品質との関係、茶の効用など)、二之具(茶摘みと製茶道具及び使用方法)、三之造(茶摘みと製茶法、及び品質鑑別の方法)、四之器(茶道具の種類と用途)、五之煮(茶の煎じ方と水質)、六之飲(飲茶の方法、意義と歴史の沿革)、七之事(古代から唐代までの茶事に関する記載)、八之出(全国名茶の産地と優劣)、九之略(一定の条件で、茶摘み道具と飲茶道具で省略することが出来るもの)、十之図(以上それぞれの図)に分かれ、唐代までの茶の歴史、産地、効果、栽培、採取、製茶、煎茶、飲用についての知識と技術を論じたもの。
茶巾(ちゃきん)
茶碗をふくのに使う布。奈良晒(ならざらし)など麻布が多く用いられ、流儀や用途により大きさが異なる。茶布巾。鯨尺で8寸(30.3cm)幅の麻の布を、3寸3分(12.5cm)の長さに裁ち、両端の裁ち目を、片面に縫目、片面には折り込んだ縫代が見えるよう反対にかがり縫いにし、裏表がないようにできている。「分類草人木」に「一、茶巾は、切り口を縫うべし。宗悟は、縫わぬも苦しからずと。」とあり、「南方録」に「惣て端ぬはずにたゝみたるが、茶巾の真なり。名物天目または茶碗も、秘蔵の物に真にすげし。端ぬいして、しぼりふくためたる類は、草の茶巾なり。取りちがへて心得る人あり。」と、端を縫わないのが真の茶巾とする。
茶事(ちゃじ)
茶の湯において懐石、濃茶、薄茶をもてなす正式な茶会。古くは広く茶の湯全般を意味する言葉として使われたが、明治28年(1895)益田鈍翁(1847-1938)が近代の大寄せ茶会の先駆け「大師会」を催して以来、多くの客を一同に招く「大寄せ」が次第に盛んになり、近年の茶会はほとんどこの大寄せ茶会が一般的となったため、これと区別するために使われる。季節や時間、趣向によってさまざまな茶事がある。そのなかで茶事の形態により一定の形式化がされており、「正午の茶事」(昼会)が一番規格の正しい茶事という扱いになっており、これに対し「朝茶」(朝会)、「夜咄」(夜会)があり、「正午」は正午頃を席入とする茶事で一年を通じて行われるが、「朝茶」は主に夏の早朝、「夜咄」は主に冬の日没後の茶事とされ、あわせて「三時の茶」と呼ばれる。これに加え、厳寒の暁天には「暁の茶事」(夜込)が行われる。他に、午前でも午後でも食後に招くものを「飯後の茶事」(菓子会)、貴人などを案内した茶事の道具をそのまま使って参会できなかった客から所望されて催す「跡見の茶事」、突然の客などをもてなす「不時の茶事」(臨時)がある。これら「正午」「朝茶」「夜咄」「暁」「飯後」「不時」「跡見」の茶事を総称し茶事七式という。正午の茶事では、茶会の招きを受けると、「前礼」といい招かれた相手先に挨拶し、当日は「寄付」に集り、客が揃うと案内をうけ「外待合」に通り、亭主の「迎付」を受け「蹲踞」で手水をつかい席入したあと、炉ならば初炭、懐石、風炉なら懐石、初炭と続き、そのあと菓子が出て初座は終わり、中立となり、銅鑼の合図で再び席入(後入)し、濃茶、後炭と続き、そのあと薄茶が出て後座は終り、客は退出するという、二刻(4時間)にわたる茶事である。
茶式花月集(ちゃしきかげつしゅう)
江戸時代の茶書。2編4冊。編者不詳。大徳寺宙寶宗宇の題言がある。前編四巻二冊は天保8年(1837)、後編二冊天保10年(1839)に一楽斎の蔵板を新刻。前編は系図、棚の扱い、炉点前、茶事の順序を記す。後編は一般に「千家寸法」と称される道具寸法書を採録したもの。
茶式湖月抄(ちゃしきこげつしょう)
江戸時代の茶書。湖月老隠著。五編十巻。嘉永4年(1851)刊。初編は、茶史・千家系図・棚物・茶事など。二編は、茶箱・炭斗・莨盆。三篇は、風炉・棗・香合・椀など。四篇は、釜・掛物・花入・茶室。五編は、書院飾・台子飾五十箇条・交会主客大意などを、道具については図入りで納める。
茶室(ちゃしつ)
茶の湯のための室。また、その室に付属する建築を含めてもいう。四畳半以下の席を「小間(こま)」、四畳半以上を「広間(ひろま)」といい、「南方録」に「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。」とあるように、四畳半は珠光の創意で、小間としても広間としても用いられる。「茶室」の語は、一般的には近代になって用いられるようになり、室町時代には「喫茶之亭」「会所」「茶湯座敷」「数寄座敷」「茶湯間」「茶礼席」「茶屋」などと見え、桃山時代には「小座敷」「座敷」「囲(かこい)」「数寄屋」などとある。
「茶道筌蹄」に「四畳半已下を小座敷といふ。(中略)圍の始りは、珠光東山殿正寝十八畳の間を四ッ一ト分かこひたるが濫觴なり。」、「逢源斎書」に「数寄屋と申事きゝにくしとて小座敷と古より申候数寄事をよけ申也」、「茶譜」に「利休流に数奇屋と云事無之、小座敷と云。此小座敷は棟を別に上て、路地よりくぐりを付て客の出入するを云なり。又圍と云は、書院より襖障子など立て茶を立る座敷を圍と云なり。之は床を入てもくぐりを付ても、中柱を立ても、或は突上窓、或は勝手口、通口有之とも、広座敷の内に間仕切て、茶を立るやうに造るゆえ圍なり。右当代は数奇屋とならでは不云。又書院の脇に襖障子を立て、或は三畳、或は四畳半、或は六畳敷にして小座敷のごとくなれば、之も数奇屋と云、又小座敷別に棟を上て、書院と離たも圍と云、何れも誤なり。」とあり、「小座敷」は今日でいう「小間」を指し、「座敷」が一般的な茶室の称で、建物の一部を仕切って作られた茶席を「囲(かこい)」、独立した茶の建物を「数寄屋」という場合が多い。
「南方録」に「宗易はまた草茨の小座敷を専にし、わびを致されし故、紹鴎の座敷も、書院と小座敷の間の物に成しなり。」とあるように、利休は草庵の小間を好み、草庵を茶の湯の主流と位置づけ、「備前宰相殿、浅野殿、宗及へ相談のよしにて、鎖の間とて別段に座敷を作事あり。毎々小座敷すみて、またこの座にて会あり。この事を宗易伝へ聞給ひ。これ後世に侘茶湯のすたるべきもとゐなりとて、わさと御両所へまいり、御異見申されしなり。この後は御成の時も、小座敷なれば小座敷、書院なれば書院、とかく一日に座をかへてのかざり所作、御断申されしなり。」とあるように、特別の場合の外は、別の間を用いることはないが、利休の死後、「古田家譜」に「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、その旨を考へ茶法を改め定むべし」とあるように、利休の茶は堺の町人の茶で武家にふさわしくないから、武家流に改革せよと秀吉が古田織部に命じ、改定したものが「式正の茶」で、侘茶に対し、儀礼の茶で、茶室も草庵でなく「座敷」に隣接し相伴席が付けられ、畳廊下で「書院」が連なる設えとなり、これが小堀遠州に受継がれ、伏見奉行屋敷の「長四畳台目」となる。四畳を横に細長く並べ、その中央側面に台目構えの点前座を配し、躙口を中ほどに造ることにより、左方に床と貴人座、右方に相伴席とし一室の中に取り込み、「松屋会記」寛永18年(1641)正月10日に「通口ヨリ鎖ノ間ヘ出候、并書院、亭へ出候」とあるように「数寄屋」に「鎖の間」「書院」が連なり、「直心ノ交」を求め小間の茶室の独立性を重視した利休とは対照的な構成が現れる。
茶杓(ちゃしゃく)
茶入や薄茶器の中の抹茶を掬って茶碗に移す匙。竹材がほとんどで、他に象牙・木地・塗物・鼈甲・銀・砂張・陶器などのものがある。始めは、金、銀、砂張、鼈甲、象牙などでできた薬匙(やくじ)とされ、茶匙(ちゃひ)といった。村田珠光は、高価な象牙の代わりに竹を用い漆を拭いた茶杓を作ったとされ、薬匙の姿をとどめた珠光作の竹茶杓「茶瓢(ちゃひょう)」(宗旦追銘)が伝わる。以降、素材はほぼ竹と象牙となるが、形は一定していないが、ほとんどに漆が拭いている。武野紹鴎は、切留(きりどめ)に節を残した留節(とめぶし)や、切留近くに節がある下がり節の茶杓を作った。桃山以降は殆どが茶杓の真中に竹の節がくる中節(なかぶし)となり、千利休により茶杓の定型となったという。また利休・織部の頃までは漆を拭いたが、宗旦、遠州から漆を拭かず木地のままの茶杓が定型となった。象牙・節無しの竹を真の茶杓、桑または節が切留の竹を行の茶杓、中節の竹、桑以外の木製のものを草の茶杓とする。「山上宗二記」に「一茶杓珠徳象牙。昔、紹鴎所持、茄子の茶杓なり。口伝。関白様に在り。一竹茶杓珠徳作あさじ。代千貫。惣見殿(織田信長)の御代、火に入りて失す。此の外の珠徳茶杓、かず在るべし。次に、はねふち(羽淵)も茶杓けずり也。右両作、当世はすたりたるか。此(このごろ)は慶首座(南坊宗啓)折ためよし。口伝。」、「茶譜」に「宗旦曰く、昔の茶杓削人は、春渓、周徳、羽淵、宗温、右の三人上手と云ふ、利休時代には慶首座と云ふ出家に上手有之、利休も下削は、此慶首座に削らせしと云ふ、古田織部時代は甫竹と云ふ者上手にて、織部も下削させしと也、小堀遠州時代は一斎と云ふ茶道坊主に下削させしと也。或書に云ふ、珠光は周徳に下削させしと有之。」とあるように、茶杓師として、珠光の珠徳(しゅとく)、紹鴎の窓栖(そうせい)・羽淵宗印(はねぶちそういん)、利休の慶主座(けいしゅざ)と甫竹(ほちく)、古田織部の甫竹、遠州の早見頓斎(とんさい)と村田一斎が知られる。
千利休までの竹茶杓は一会限りの消耗品として扱われており、他に贈るときには筒に入れ、利休作の「タヽイヘ様参」の送り筒のものがある。利休以降作者への敬慕から筒に入れて保存するようになり、秀吉に切腹を命ぜられた利休が自から削り最後の茶会に用いた茶杓「泪(なみだ)」を与えられた織部は四角く窓をくり抜いた総黒漆塗りの筒を作り位牌代わりに拝んだという。利休の頃から銘がつけられるようになり、宗旦、遠州のころに共筒、自筆銘が多くなる。寛永以降共箱が現われ、茶杓、筒、筒書付、銘、箱と一つの形が形成され、千家名物や中興名物に茶杓が取り上げられるようになり道具としての価値をたかめていった。
「茶湯古事談」に「茶杓の名所、先のとかりを露といふ、其留りをは刃先といふ、茶をすくふ所を惣名花形といふ、又かひさきともいふ、真中に一筋落入たる樋の有をうは樋といふ、真中に高き筋有て両方に落入たる樋の有を両樋といふ、節・柄の留、うら、おもて、又ふしなしの茶杓も有、柄のはつれに節のあるも二代の宗左の作なとにわあり。茶杓の作者、守徳(東山時代)、羽淵(守徳か次)、塩瀬(はねふちか次)、此三人は南都の住人なり、宗清、これも南都にて紹鴎の頃の者にてかくれもなき侘すきの名有て茶杓けつる事上手也、慶首座、堺南宗寺の僧にて利休時代に茶名も有、茶杓もよくけつれり、甫竹、利休時代より堺に居て能けつれり、其子も甫竹といふ、利休及ひ宗匠達の茶杓にまきれる物多し、石川六左衛門、尾州に有て茶杓けつるに妙を得たる故に、領分の内いつかたの藪にても竹を切取不苦の命をうけて、よき竹を見立て古作の茶杓を手本としてけつれるに、二本よせては真贋わかち難かりしとなん。代々の宗匠達いつれも茶杓作れり、就中涕の茶杓、内くもりの茶杓は利休作にて名高し、内くもりの内には紹巴の記有となん。」とある。
茶筅(ちゃせん)
茶碗に抹茶と湯を入れ、それを撹拌するために用いる竹製の具。10センチほどの竹筒の先半分以上を細かく裂いて糸で編んだもの。その形は流儀や用途によってさまざまである。普通、表千家では煤竹、裏千家はじめほとんどの流派では白竹(淡竹)、武者小路千家では紫竹(黒竹)が使われ、穂先の形状もそれぞれ異なるが、流儀では穂先が真直ぐになっている。ささら状で軟らかい「数穂」が薄茶用で、数穂の半数くらいの穂の数で堅くしっかりした穂先の「荒穂」が濃茶用。他に天目茶碗に使う「天目茶筅」、筒茶碗に使う「長茶筅」などがある。茶筅の語は、北宋徽宗皇帝の「大観茶論」(1107)に、「筅、茶筅以筋竹老者為之。身欲厚重,筅欲疏勁、本欲壯而未必眇、當如劍瘠之状。蓋身厚重、則操之有力而易於運用。筅疎勁如劍瘠、則撃拂雖過而浮沫不生。」(筅、茶筅は、筋竹の老いたもので作る。身は厚くて重く、筅は疏くて勁いのがよい。筅の本は壮く、末は眇くなければならない。そして剣脊状にすべきである。実が厚く重いと、操るときに力が入って運用いやすく、筅が疎くて勁く剣脊のようであれば、撃払がすぎても浮沫が生じないからである。)とあるのが初出とされるが、中国では15世紀明代に抹茶の衰退とともに茶筅も消滅してしまう。
南宋の「茶具図賛」(1269)に「竺副帥」として載る茶筅の絵は、長くて外穂・内穂の別がないササラ状で、愛媛県のボテ茶、島根県のボテボテ茶、富山県のバタバタ茶、沖縄県のブクブク茶、鹿児島県のフィ茶など各地に残る茶漬けの一種「振り茶(桶茶)」で使用されるのものに相似する。現在のような、外穂・内穂に分けられた茶筅は、山名弾正家の家臣で北野連歌会所宗匠でもあった、高山宗砌(そうぜい:-1455)が、近くに住む称名寺の住職であった村田珠光の依頼で開発したといわれている。「茶湯古事談」に「茶筌は紹鴎の比は蓬莱の甚四郎と云者作りぬ、大和の住人にて利休か比まて居し、代々天下一をゆるされし、又高山甚左も利休時代の上手にて是も秀吉公より天下一号の御朱印を下されし、子孫も甚之丞といふ、今も和州高山より茶筌を作り出せり、又玉林といふ茶筌作りの上手有、利休時代の者にて高山より堺へうつりて住ぬ、此子は甫竹といふて茶杓けつりに成しとなん。茶筌の名所、穂さき、編目、節、本の止、柄。」、武者小路千家蔵本「茶湯秘録全」に「紹鴎時分より、和州室木之甚四郎上手也、玉林是も和州高山之者也、宗易時分之上手也、宗易堺江と呼寄也、今之茶杓削甫竹か為には祖父也」とある。外穂の先端を内に曲げる形状のものは、裏千家流で先端を曲げたことが始まりらしく、利休以降に出現したとおもわれる。官休庵流は利休形に最も近い形をしている。
楪子(ちゃつ)
懐石家具の一。端反りの浅い木皿にやや高い足台をつけたもの。菓子や菜を盛った。現在では、精進椀に付随する。「禅林象器箋」器物門に「楪子。浅而底平。環足。便于累畳也」(楪子、浅くして底は平、環足あり、累畳に便なり)、「和漢三才図会」に「按楪子浅盤而有高台。豆子者壺盤之小者楪子與此漆器僧家多用之盛調菜蓋祭祀器有俎豆二物豆子即豆之畧制矣。」(按ずるに楪子は浅き盤にして高台有り。豆子は壺盤の小者なり、楪子と此と漆器、僧家に多く之を用いて調菜を盛る。蓋し祭祀の器に俎豆の二物あり、豆子は即ち豆の畧制か。)とある。
茶壷(ちゃつぼ)
抹茶になる前の葉茶「碾茶」を入れる壺。葉茶壺。高さは小は20cm、大は50cmに及ぶものがあるが、多くは30cm内外で、首が立ち上がり、肩に2-6個の耳(乳という)が付くが、多くは四耳である。茶壷の中には紙袋に入れた幾種類かの濃茶用の碾茶を収め、その周りに「詰め茶」といわれる薄茶用の碾茶を入れ、木製の蓋をし三重に和紙で包み貼りし封印をする。詰め茶は濃茶の保護と断熱のためのものだが、薄茶として飲用に用いるもの。装束(付属品)として口覆・口緒・網・長緒・乳緒がある。茶入を「小壷」と呼ぶのに対し「大壷」という。
茶壷の語の初出は、南北朝時代の「師守記」興国元年・暦応3年(1340)正月三日条に葉茶を引出物とした旨の記があるという。室町時代初期の「喫茶往来」には「茶壷は各栂尾・高尾の茶袋。」とあり、喫茶の亭に茶壷を飾ったことが見える。「茶道筌蹄」に「呂宋むかしは是非真壷へ茶を貯へしなり。夫ゆへに壷なき者は口切の茶の湯をなさざりしとなり。尤呂宋を上品とす。豊太閤の時代、真壷をもてはやしたるゆへ、世間に少く不足なるに依て、左海の納屋助左衛門、太閤の命をうけて呂宋へわたり、壷五十をとり来る。利休是が品を定め、諸侯へわかちしなり。蓮花王呂宋の上品、かたに蓮花の上に王の文字あり。清香是も呂宋の上品なり、清香の文字あり。瀬戸信楽千家にては、此三品呂宋、瀬戸、信楽、を用ゆ。」とあるように、いわゆる呂宋壺を最上とし、瀬戸・信楽・丹波・備前などでつくられた。呂宋壺の名で総称される壺は、多くは広東省を中心に中国南部で雑器として大量に焼かれたもので、酒、香料、薬草などを入れルソン島を始めとする東南アジア各地に売られたものが、彼の地でさまざまに利用されてきたものを、桃山時代末期にルソン島から大量に輸入されたのに由来するが、これ以前に同種の壺は請来されており、「君台観左右帳記」には「真壷は口肩うつくしく、肩にろくろめ二あり。又ろくろめのなきもあり。そうのなり、すそまでむくむくとなりよく候。土薬は清香とさのみかはり候はず候。清香は口よりなで肩にして、肩にろくろめおほく候はず候。すそすはりにて細長くなりわろく、土薬は真壷にまぎれ候也。よきは真壷にもをとらず候。」とある。
一般的には、「真壷」は銘印も文様ももたない四耳壷とされ、「清香」は模様の様な印の押してあるもので、清香とか洞香とか呼び分けられていたが「清香」の文字の印が最も多いため、しだいに、文字のいかんを問わず印のある壷をすべて「清香壷」と呼ぶようになったという。「蓮華王」(蓮華の模様と王の文字)は、天文23年(1554)「茶具備討集」に初出で、この印も各種ある。「君台観左右帳記」では床飾りには茶壷は用いられていないが、信長・秀吉の時代に書院の飾り道具に用いたことにより、諸大名もこれに倣い争って茶壺を求め、茶器の中でも筆頭道具として位置づけられることになる。
茶道望月集(ちゃどうぼうげつしゅう)
江戸時代の茶書。全四十三巻。久保風後庵又夢著。享保8年(1723)成立。「もちづきしゅう」とも。風後庵又夢久保可季が、師の鳩庵横井等甫から伝授された「庸軒流茶法」四十巻百八十段と「七ヶ条極秘切紙」三巻よりなり、茶事を中心に庸軒流茶法を詳述したもの。
茶湯古事談(ちゃのゆこじだん)
近松茂矩の編になる茶の湯の逸話集。全7巻。本書には享保16年(1731)8月の京都小林質操の序文と元文4年(1739)5月の自身の題言があり、巻末に元文5年(1740)の正六位上源敬忠の跋文がある。第1巻53条、第2巻35条、第3巻43条、第4巻63条、第5巻56条、第6巻26条、第7巻29条の総計305条の逸話が収められている。内容には「茶話指月集」からの引用が随分ある。「茶湯古事談」は、享和4年(1804)に「茶湯古事談」305条の逸話から132条を書き抜き「茶窓陂b」三巻四冊として出版された。近松茂矩(ちかまつしげのり)は、元禄10年(1697)尾張藩士孫兵衛茂清の子として生れる。通称は彦之進。南海、嚢玄子と号す。正徳二年、十六歳で通番となり、翌年江戸詰となって尾張四代藩主吉通の側小姓として仕えた。片山流居合、貴直流兵法、心念流棒術等を修得し、その技量をもってもっぱら奥詰となった。六代藩主継友の代に、馬廻組となり尾張へ帰る。佐枝系長沼流兵学を学び、のち稲富流など数流の砲術を導入して、単騎の伝を輯録して全流錬兵伝(のちに一全流と改称)と号する一派を開き教授した。一方、神道を吉見幸和に受け、歌を観景窓長雄に学び、俳詣では東花坊支考に習って丁牧と号し、また幼少より千家茶道の余流を学び茶道にも通じた。
茶花(ちゃばな)
茶席に生けた草花。茶室においては掛物と花を同時に飾らないのが正式で、両方一緒に飾るのを「双飾り(もろかざり)」といい略式の扱いで、掛物が長い場合は花入は床柱の釘に掛け、横物の場合には花入は下に置く。花の入れ方としては、「南方録」に利休の言葉として「花は野にあるやうに」とあり、同じく「南方録」に「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝、かろくいけたるがよし。勿論、花によりてふわふわといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いや也。四畳半にも成りては、花により二色もゆるすべしとぞ。」とあるように「一種二枝」というぎりぎりまで絞り込んだ花を、作為的なものを排しながらも、人手を加えることにより、「花入に入れた花としての自然」を生み、そこに野に咲く花の本質を表現することにより、かえって自然の花の美しさを際立たせるのを本意とする。その利休の花の逸話として「茶話指月集」に「春のころ、秀吉公、大きなる金の鉢に水を入れて床になおさせ、傍に紅梅一えだ置かせられ、宗易に花つこうまつれと仰らる。御近習の人々、難題かなと囁かれけるを、宗易、紅梅の枝さか手にとり、水鉢にさらりとこき入れたれば、開きたると蕾とうちまじり、水上に浮みたるが、えもいわぬ風流にてぞ有りける。公、何にとぞして、利休めをこまらしようとすれども、こまらぬやつじゃ、との上意、御感斜ならず。」、また「宗易庭に牽牛(あさがお)花みごとにさきたるよし、太閤へ申し上ぐる人あり。さらば御覧ぜんとて、朝の茶の湯に渡御ありしに、朝がお、庭に一枝もなし。尤も無興におぼしめす。扨て、小座敷へ御入りあれば、色あざやかなる一輪、床にいけたり。太閤はじめ、召しつれられし人々、目さむる心ちし給い、はなはだ御褒美にあずかる。是を世に利休があさがおの茶の湯と申し伝う。」
茶袋入(ちゃぶくろいれ)
葉茶を入れた紙袋「茶袋」を入れる箱。「茶道宝鑑」に「茶袋入桐長五寸横二寸二分高サ二寸二分板厚サ二分木口サシ蓋向トメサシ込蓋横カワ前向トモヒキク」とある。
茶碗(ちゃわん)
茶を飲むための容器。日本の窯で焼かれた「和物(わもの)」と和物以外の「唐物(からもの)」に大別し、和物は「楽焼」と楽焼以外の「国焼」に分け、唐物は朝鮮で焼かれた「高麗(こうらい)」とその他に別けられる。高麗には、井戸・熊川・呉器・半使・御本・御所丸・金海・堅手・粉引・玉子手・雲鶴・三島・伊羅保・蕎麦・斗々屋・柿の蔕・絵高麗などがあり、その他唐物には中国の天目・青磁・白磁などがある。国焼には、文禄慶長の役の時連れ帰った朝鮮陶工が起こした萩・唐津・上野・高取・薩摩などの窯と、信楽・備前・丹波・瀬戸・志野・京焼などがある。茶の湯の初期の茶碗は唐物だったが、「山上宗二記」に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」とあるように利休の時代には高麗・国焼が盛んになる。「君台観左右帳記」では、「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能皮盞」「灰潜」「黄天目」「只天目」「天目」「茶碗」などと分けられており、「茶碗。青をば青磁の物と云。白をば白磁の物と云也」とあり、茶碗の語は磁器のものをさしていた事がわかる。「工芸志料」には「時人因りて支那舶来の陶器を名つけて知也和旡(ちやわん)という。又知也宇和旡(ちやうわん)という、既にして又本邦に於いて製する所の陶器の、茶を盛るにあらざるも亦、知也和旡といい知也宇和旡と称す。」とある。
中興名物(ちゅうこうめいぶつ)
茶道具の格付け分類名称。松平不昧の「古今名物類聚」の序に「一凡名物と称するは。慈照相公茶道翫器にすかせ給ひ。東山の別業に茶会をまうけ。古今の名画。妙墨。珍器。宝壺の類を聚め給ひ。なを当時の数寄者。能阿弥。相阿弥に仰せありて。彼此にもとめさせられ。各其器の名と値とを定めしめ給ふ次て。信長。秀吉の二公も。亦此道に好せ給ひ。利休。宗及に仰せて。名を命し値をも定めしめらる。後世是等の器を称して名物といふ。其後小堀遠州公古器を愛し給ひ。藤四郎以下後窯国焼等のうちにも。古瀬戸。唐物にもまされる出来あれとも。世に用ひられさるを惜み給ひ。それかなかにもすくれたるを撰み。夫々に名を銘せられたるより。世にもてはやす事とはなれり。今是を中興名物と称す。それよりしてのち。古代の名物をは。大名物と唱る。」とあるのに始まる。千利休の時代以前の名品を「大名物」とし、小堀遠州の選定によるものを「中興名物」とした。その後、茶入以外の名物道具にも及び、茶入が最も多く、次いで茶碗、茶杓、花入、掛物となる。
宙寶宗宇(ちゅうほうしゅうう)
大徳寺四百十八世宝暦10年(1760)-天保9年(1838)。京都の人。則道宗軌に師事。文化4年(1807)請受開堂。大徳寺塔頭芳春院第13世住職。文化5年(1808)品川東海寺輪番後、晩年は山内の塔頭芳春院内に私寮松月庵を営み、茶の湯を楽しんだ。詩偈、書に優れ、歴代住持中の名筆と称された。号に洛陽人、松月老人、松月叟、破睡など。
長闇堂記(ちょうあんどうき)
奈良春日大社の禰宜で茶人久保利世(くぼとしよ)の随筆。寛永17年(1640)の成立。山上宗二に関する逸話など他書に見られぬものがある。久保利世(1571-1640)は、通称権太夫。長闇子と号す。幼いとき北野大茶湯を見物し茶の湯に志し、利休の弟子の本住坊から学んだといわれる。同書に「然に小遠州殿或時爰にましませしに。此事を語額一ッ書て給はり候へと申せば。打笑給ひ。さらばとて長闇堂二字を書付給へり。いかなる儀にて有ぞと問申せば。昔の長明は物しりにして智明らか成故明の文字叶へり。其方は物しらず智くらふして。しかも方丈を好めるによりて。長の字をとり闇は其心也と笑給へり。去程に七尺の堂をさして長闇堂と名付。長闇子を我表徳号となせり。」とあるように、東大寺を再建した俊乗房重源の影堂の遺構を屋敷内に茶室としたのを、小堀遠州が長闇堂と命名し、自ら長闇子と号した。
銚子(ちょうし)
酒器の一。酒を入れて杯につぐための器。「銚」は「鍋」のことで、源順(911-983)の「倭名類聚抄」に「銚子四聲字苑云、銚、徒弔反、辧色立成云、銚子、佐之奈閇、俗云佐須奈閇。燒器似〓(金烏)ラ、而上有鐶也、唐韵云、〓(金烏)ラ、烏育二音、漢語抄云和名同上、温器也。」、「万葉集」に「刺名倍爾、湯和可世子等(さしなべに、ゆわかせこども)」とあるように「さしなべ」俗に「さすなべ」と云い、注口のある鍋に弦(つる)をつけたもので、湯を沸かしたり酒を温めるのに用いた。柄のついた銚子ができると、弦をつけたものは「提子(ひさげ)」(偏提)と呼ばれた。「和漢三才圖繪」に「按、銚子有両口及柄、官家醋酬必用之、如禮式則用長柄銚子、又以偏提加酌之」とあるように、長柄の銚子が式正の器とされるようになると、提子は銚子に酒の減った時に注ぎ加えるのに用いるものとなる。「貞守漫稿」に「江戸近年式正にのみ銚子を用ひ、略には燗徳利を用ふ、燗して其儘宴席に出すを専とす、此陶形近年の製にて、口を大にし、大徳利より移し易きに備ふ、銅鐡器を用ひざる故に味美也、又不移故に冷えず。式正にも初めの間銚子を用ひ、一順或は三献等の後は専ら徳利を用ふ」とあるように、江戸後期には徳利が流行し、のち徳利をも銚子と通称するようになる。
長次郎(ちょうじろう)
安土桃山時代の楽焼の陶工で、楽家初代。永正13年(1516)-天正17年(1589)。没年は「宗入文書」に「長次郎但戌辰年迄に百年計成」とあり、元禄元年戌辰(1688)より100年前の天正17年(1589)を比定したとされ、楽十三代惺入は、過去帳及び墓石より文禄元年(1592)辰年、九月七日没、享年七十七才としたという。唐人・阿米也(あめや)の子と伝えられる。もとは阿米也と共に装飾瓦を焼く工人で「天正二春依命長次良造之」の刻銘の赤楽獅子留蓋瓦が伝存する。千利休の指導で茶碗をつくり、楽焼を始めたとされ、豊臣秀吉から楽字の金印を拝領して「楽」を称した。黒赤二種の釉薬を用いる。「宗入文書」によると、初期の楽焼は長次郎の他に田中宗慶(そうけい)その子の庄左衛門・宗味(そうみ)と弟の吉左衛門・常慶らの手により作られたとされる。
「茶道筌蹄」に「長次郎飴也の子なり、利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」とある。現在長次郎作とされる楽茶碗には作行きの異なるものが数種類認められる。初期のものとされる「一文字」「大黒」などは利休の切形に従ったと考えられ形姿の基本は半筒形で端然とした姿である。また「俊寛」「杵ヲレ」などは胴にくびれが付き口を内に抱え込むやや作為的な趣がある。ほかに「道成寺」や「勾当」のように口の開いた熊川を想わせる姿のものもあるが、利休の好みによるのか、作風の変化か、異なる作り手の手癖かについては明確となっていない。「道成寺」以外はすべて総釉で、印のあるものは伝えられていない。高台には三-五個の目跡のあるものがある。利休の選んだ七碗(利休七種)として、赤楽の「検校(けんぎょう)」「早船(はやふね)」「木守(きまもり)」「臨済(りんざい)」、黒楽の「大黒(おおぐろ)」「東陽坊(とうようぼう)」「鉢開(はちひらき)」があり、別に外七種として、赤楽の「一文字(いちもんじ)」「太郎坊(たろうぼう)」「聖(ひじり)」「横雲(よこぐも)」、黒楽の「雁取(がんとり)」「閑居(かんきょ)」「小黒(こぐろ)」がある。
長次郎七種(ちょうじろうしちしゅ)
楽家初代長次郎作の楽茶碗から千利休が特に好み銘を付けた七碗と伝えられるもので、「利休七種」ともいう。黒茶碗が「大黒(おおぐろ)」「鉢開(はちひらき)」「東陽坊(とうようぼう)」、赤茶碗が「早船(はやふね)」「検校(けんぎょう)」「臨済(りんざい)」「木守(きまもり)」をいう。すべて長次郎の作かについては異説もある。
朝鮮唐津(ちょうせんからつ)
唐津焼の技法のひとつ。鉄釉と藁灰釉(わらばいゆう)をかけ分けたもの。黒や飴色の鉄釉をかけた上から白色の藁灰釉を流し、景色をつける。黒と白のコントラストや、その境界に生まれる青や紫、黄色などの微妙な変化も見所となる。
朝鮮風炉(ちょうせんぶろ)
風炉の一種。五徳を使わず直接風炉の口に釜をかける「切合(きりあわせ)」(「切掛(きりかけ)」)で足が3本ある三つ足、そのうち1本を正面に向けて置く。唐銅製で、鐶がなく、腰が張り、足が高く、前後に格狭間(こうざま)の窓があり、上部の立ち上がりにも透紋がある。格は行で、真形釜を合わせる。灰は一文字に作る。敷板は真塗または掻合を使う。真夏の風炉として使う。
長入(ちょうにゅう)
楽家7代。正徳4年(1714)-明和7年(1770)。6代左入の長男。亨保13年(1728)7代吉左衛門を襲名。宝暦12年(1762)剃髪隠居して長入と号す。丸みのある大振りなおとなしい作行きのものが多い。厚作りで胴に箆使いがあり、必ず茶溜りがあり、多くは渦巻型である。黒楽は光沢があり、赤楽は深みのある色合いでこまかく貫入が入る。表千家七代如心斎好み「玉の絵茶碗」が著名。細工物にも長じていた。三島、交趾、織部などの写し物もつくっている。正月に使われる大小二つの茶碗を重ねる「島台茶碗」は長入から始まる。印は、楽字の彫りが深く、輪郭の中央に収まっていて、周囲の余白が多い。  
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堆朱(ついしゅ)
漆芸の加飾技法の一。朱漆を何回も塗り重ねて厚い層を作り、これに文様を彫刻したもの。中国では「剔紅(てっこう)」と称し、唐代に始まったと推測されており、おそくとも宋元には行われ、明以後に盛行した。日本では「剔紅」の和名として用いられたが、のちには漠然と「彫漆」一般を指す語となった。「彫漆」は、漆を数十回から数百回塗り重ねてつくった厚い層に文様を彫刻したもので、朱漆を塗り重ねたものを「堆朱」、黒漆を塗り重ねたものを「堆黒」、黄漆を塗り重ねたものは「堆黄(ついおう)」、二色以上の色漆を塗り重ねた層を彫って朱で花を緑で葉を表現した「紅花緑葉」、渦巻文・蕨手唐草文等の曲線の連続文様をV字型の溝に彫りだした「屈輪(ぐり)」などがある。「君台観左右帳記」に「堆朱。色アカシ。是ハ少シ手アサシ。ホリメニカサネノスジモナク。アカキバカリナリ。コレヲツイ朱と云。本地同前。」とあり、剔紅・堆紅・堆朱・堆漆を区別している。日本には室町時代に伝えられ、足利義詮の家臣長充が正平十五年延文五年(1360)我が国で初めて堆朱を造ったとされ、中国元代の堆朱の名工、張成・楊茂の名を一字づつ取り楊成と号し、堆朱楊成家が代々、足利家、豊臣秀吉、徳川家に仕えて堆朱師を務めた。彫漆は製作に多大の時間と経費を必要とするため、木彫に塗装して堆朱に似せた村上堆朱、紅花緑葉に似せた鎌倉彫・讃岐彫などがある。
月知明月秋(つきはめいげつのあきをしる)
「禅林句集」五言対句に「月知明月秋、花知一樣春。」(月は明月の秋を知り、花は一様の春を知る。)とあり、注に「月花無心自不違其時言知作意也」(月花無心なるも自ら其の時を違えず知ると言う作意なり。)とある。出典不詳。
蹲踞(つくばい)
茶事の時、客が席入する前に手を清め、口をすすぐために置かれた手水鉢と役石などを含めた意匠の総称。一般に、「手水鉢」(てみずはち)に、客が手水を使うために乗る「前石」(まえいし)、湯桶を置く「湯桶石」(ゆおけいし)、灯火を置く「手燭石」(てしょくいし)の役石と、「水門」(すいもん)別名「海」(うみ)で構成されている。手水を使うとき「つくばう」ことからその名がある。手水鉢を低く構え、左右に湯桶石・手燭石を配し、前石を据えるのが定式。流儀によって役石の配置は違い、武者小路千家と表千家は左に手燭石、右に湯桶石を配し、裏千家はその逆に配する。亭主の迎付を受けたあと、正客から順に蹲踞に進み、右手で柄杓に手水鉢の水をたっぷり汲み、柄杓半分の水で左手を清め、持ちかえて残りの水で右手を清め、再び右手に柄杓を持ちかえ、水を汲み左手に水を受け、手に受けた水で口をすすぎ、最後に残った水を静かに柄杓を立て流しながら柄杓の柄を清め、元に戻す。
宝永七年(1710)「貞要集」に「一手水鉢の事、内腰懸より躙上りの間に見合居る、臺石を載せ居るなり、地より二尺四五寸迄、前石は景よく大成石を居る、前石の上面より手水鉢の上端迄、一尺より一尺五六寸迄、又前石の前面より手水鉢水溜の口迄、一尺八寸、一尺六七寸迄、柄杓を置見申、遣能程に居申事第一也、水門は両脇景能石を居、松葉をしき、流上に水はぢきの小石、又は小瓦杯置申候、道安流の水門仕様有之候、口伝。一湯桶石、手水鉢我右の方水門へ掛て居ル。其前に相手の石とて居ル也、是は高貴の相伴のもの、御手水懸申時の為に居る石也。又手水鉢中潜軒下、躙上り軒下に居る、雨降候時の為とて、近代軒下に手水鉢居ル事也。一手水鉢水溜を掘申寸法は、横六寸八分、竪は一尺一寸、深サ七寸二分、飯櫃に丸ク堀申候、是は大きなる鉢の寸法也、小キ鉢には七八寸九寸丸ク堀り、深サ六七寸程に堀申候、尤見合第一、また丸鉢には水溜角に堀申事も有。」、寛政11年(1799)越一楓「夢窓流治庭」に「蹲踞手水鉢は水袋と前石の間一尺八寸より二尺位明け置よし、尤も石の大小によるべし、前石高さ土より三寸位。手水鉢は前石より六寸計高く居てよし、蹲踞手水鉢は三ツ石也、椽先手水鉢は三石に限らず。片口石は前石より一寸五分高く居へてよし、左右の石の見合也。手燭石は前石より三寸程高く居へてよし、但し左右恰好見合也。」、文化13年(1816)「茶道筌蹄」に「石手水鉢水溜さし渡し七寸、深サ六寸程、尤石の大小にもよる」とある。
「南方録」に「宗易へ茶に参れば、必、手水鉢の水を自身手桶にてはこび入らるヽほどに、子細を問候へば、易のいわく、露地にて亭主の初の所作に水を運び、客も初の所作に手水をつかふ。これ露地草庵の大本なり。この露地に問ひ問はるヽ人。たがひに世塵のけがれをすヽぐ為の手水ばちなり。寒中にはその寒をいとはず汲みはこび、暑気には清涼を催し、ともに皆奔走の一つなり。いつ入れたりともしれぬ水こヽろよからず。客の目の前にていかにもいさ清く入れてよし。但、宗及の手水鉢のごとく、腰掛につきてあらば客来前考へて入べし。常のごとく露地の中にあるか玄関ひさしにつきてあるは、腰かけに客入て後、亭主水をはこび入べし。それゆへにこそ、紹鴎己来手水鉢のためは、小手桶一つの水にて、ぞろりとこぼるヽほどの大さに切たるがよきと申なりと答へられし。」とある。
辻井播磨(つじいはりま)
山城国の土風炉師。生没年不詳。貞享-享保年間(1684-1736年)に活躍したと伝えられる。土風炉・灰器・手焙・香合などに銘の入った作品が伝世している。陶印は雅号の播磨を用いている。
辻与次郎(つじよじろう)
安土桃山時代の釜師。生没年不詳。永禄から寛永18年(1588-1641)頃の人とされる。近江国辻村の出。名を実久、号は一旦。豊臣秀吉より「天下一」の称号を許された。与次郎在銘や共箱の釜は見出されていないが、京都豊国神社の鉄燈籠に「奉寄進鉄灯籠慶長五庚子年八月十八日天下一釜大工与次郎実久鋳之」、出羽国西善寺鋳銅鐘に「山城国愛宕郡三条釜座鋳物師天下一辻与次郎藤原実久干時慶長拾伍歳庚午六月十八日」の鋳出銘がある。京都三条釜座に住み、西村道仁の弟子と伝えられている。千利休の釜師として阿弥陀堂釜、雲龍釜、四方釜などを鋳造し、羽落ちや焼きぬきを考案したとされる。
津田宗及(つだそうきゅう)
-天正19年(1591)。茶人。堺の豪商「天王寺屋」津田宗達(1504-1566)の子。通称は隼人・助五郎、号は天信・幽更斎。父宗達から武野紹鴎流の茶道を学び、南宗寺の開祖大林宗套から禅を学び、千利休、今井宗久とともに信長の茶頭になり、豊臣秀吉にも仕え、天正15年(1587)の北野大茶湯の茶頭を務める。父宗達が執筆を開始した茶湯日記を書きつぎ、その後宗及の子宗凡に引き継がれ、宗達・宗及・宗凡三代の茶湯日記(それぞれ他会記・自会記に分たれている)を合わせ「天王寺屋会記」と称する。
土田友湖(つちだゆうこ)
千家十職の袋師。帛紗、仕覆などを制作。西陣織の仲買人だった初代が、利休や三斎の袋物を作っていた亀岡家に弟子入りし、業を継ぎ、表千家覚々斎(1678-1730)に引き立てられ千家の袋物師となる。友湖の号は如心斎(1705-1751)から与えられ、初代以降、通称を半四郎、号を友湖と称す。5代までは仕覆を専業としたというが、現在は、帛紗、仕覆の他に、懐紙入、数寄屋袋、茶壺にかける網、口覆、敷絹、糸組釜敷、訶梨勒など多岐にわたり、昔は水屋の布巾・雑巾・手拭や茶巾まで手掛けていたという。
土屋蔵帳(つちやくらちょう)
常陸国土浦藩主土屋家に蔵された器物の目録。主に、小堀遠州の門人であった二代藩主土屋相模守政直(1641-1722)の蒐集にかかるもので、小堀遠州所蔵の中興名物が多い。
豆子(づつ)
懐石家具の一。筒型で小形の木椀。酒や菜を盛った。猪口と壺との中間のもの。現在では、精進椀に付随する。「和漢三才図会」に「按楪子浅盤而有高台。豆子者壺盤之小者楪子與此漆器僧家多用之盛調菜蓋祭祀器有俎豆二物豆子即豆之畧制矣。」(按ずるに楪子は浅き盤にして高台有り。豆子は壺盤の小者なり、楪子と此と漆器、僧家に多く之を用いて調菜を盛る。蓋し祭祀の器に俎豆の二物あり、豆子は即ち豆の畧制か。)とある。
続き薄茶(つづきうすちゃ)
茶事で、濃茶のあとの炭点前(後炭)を省略して続けて薄茶をすること。ふつう、席入したあと、炉ならば初炭、懐石、風炉なら懐石、初炭と続き、そのあと菓子が出て、中立となり、銅鑼の合図で席入(後入)し、濃茶、後炭と続き、そのあと薄茶が出るという流れになっているが、連客の都合、炭の熾りがちょうどよい場合、正客からの所望で濃茶を仕舞わず、続いて薄茶を供する作法を云う。朝茶と夜咄の茶事は、亭主のほうから「続いて薄茶を差し上げます」と挨拶して続き薄茶とするのが通例。
壷飾(つぼかざり)
茶壷を床に飾ること。また、茶壷を床に飾り、客が拝見を所望する場合の習い。小習の一。茶壷は、蓋をしてその上に口覆を掛け、口緒を結び、床中央掛物の下に飾り、客の所望により拝見に出す。正客が「茶壷の拝見を」と請うと、亭主は水屋に戻り、網を持ち出し床に進み、茶壷の左側に網を広げて茶壷を載せ両手で網の取手紐を持ち、包むように下から被せる。軽く一回結んで網を整えてから、もう一回しっかりと結び、その結び目を右手でしっかり持ち左手で抱えて床から運び出し、点前座に進む。かぎ畳正面に座り、茶壷を炉の右横に置く(通常のお道具を拝見に出すように膝前中央に)。網の取手紐の結び目を一つほどいて茶壷を右に寄せ、結び目を解き網を下方へはずし、茶壷を左側(最初に運び出した中央の位置)に置く。網は取手紐と底を持ち半分に、さらに半分に畳んで四折にし、右手で勝手付に置く。口覆の片結びの紐をとき、網の上に置く。口覆のシワをのばし(右手で右向う角と左手で左手前角を、右手で右手前角と左手で左向う角を持ち斜めに引き、しわをのばす)、右回りに二回まわして正面を客に向けて拝見に出す。正客がとりに出て、両手で抱き込むように抱えて席に。まず、正客が口覆をとり拝見の後、次客へと送り順次拝見する。次に茶壷の拝見をするが、まず全体の姿を拝見し少し手前へもってきて、次に茶壷を向こう側へ静かに倒してから、右へ転がしては膝前に戻し転がして拝見する。
全体を拝見したら、茶壷をおこして再度全体を拝見し、次客へ送る。茶壷を扱うときは、掌をつけないように指先で持つ。茶壷は素焼のものが多かったので、手脂をつけないようにとの配慮という。お詰まで拝見が済んだら、出会いで正客に壺を返し、正客からお返しする。正客から茶壷と口覆について問答があり、さらに「入日記はございますか」との所望があれば、茶壷を下げたあと、入日記の貼ってある箱の蓋を運び出し、拝見に出す。「南方録」に「葉茶壺小座鋪にもかざることあり。大方口切の時のことなり。初入にかけ物かけて前にかざるべし。小座鋪にてのかざりは口覆口緒までにてよし。自然に長緒などむすぶとも、やすやす目にたたぬやうにすべし。さまざま、ようがましきむすび形など、物しりがほにてあしし。網は凡小座鋪にてはかけぬなれども、口切にてなき時は壷によりかくるも苦しからず。」、「逢源斎書」に「一葉茶壺床に置候。会席前に一軸懸、真中に置候。口覆か又は網か一色懸候。世二色出候は小座敷には悪敷候。口覆の緒はわなの下を下座、二筋之方を上座に置也。亭主すみ置、仕廻候てから、客壺おろし御見せ候と申候。亭主おろし候て、口覆取壺よこにして、土の方客へ見せ候。壷よこにして置候。口覆も見申候。扨、亭主後取に出候は網を持出候。客は見しまい候て、壺立て置申候」、「茶道望月集」に「古法に小座敷にては、網は不掛事也。併し利休三斎公を招請して壷飾の時、網を掛て飾し事有り。三斎公格好能思召て、小座敷にて壷に網の掛りたるも能き物也、所持の柴栗と云ふ壷にも、重ねては網を掛けて可飾と、御相談有之時、宗易返答には、小座敷にて網を掛けたるは不宜候へ共、此壷は殊の外響多く候故、格別と存じ網に入候と答し事あり。然れば古法には何か故なくては、網に入れる事はなしと可知。」、「正伝集」に「壷を網に入て荘事は紹鴎が頃迄はなき事也。壷を網に入置く事は、勝手にて壷の家より出入の能き故に入る也」とある。流儀では、網は単に茶壷を運ぶためのものとして、網に入れて飾らないのが普通。
壺皿(つぼざら)
懐石家具の一。壺盤、壺椀とも云う。深めの小振りな椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施される。和え物などが盛られる。伊勢貞丈(1717-1784)の故実書「四季草」に「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼるヽゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり。」とある。
壷々(つぼつぼ)
文様意匠の一。三千家家元の替紋。元伯宗旦が、京都市伏見の伏見稲荷の門前で初午の日に売られていた直径一寸ほどの素焼きの壺型の土器「つぼつぼ」を意匠したものといわれる。三千家家元によって各々その組み方には相違がある。「つぼつぼ」は、延宝4年(1676)黒川道祐「日次紀事」(ひなみきじ)に「初巳午日、稲荷社詣、俗称初午詣、又謂福参、(中略)、農民参詣特多、門前家々賣百穀種并雑菜種、又賣大小陶器、其大者謂傳法、言始於摂津傳法海濱製之、故謂傳法焼、今直謂傳法、以是炒物、又盛煙草粉、其小者謂都保々々、此土器於両手掌内、運轉之則有都保々々之音、故名之、参詣男女買之賺兒童、大人亦満塩於其内、入火而焼之資膳食」(初の巳午の日、稲荷の社詣で、俗に初午詣と称す。又た福参と言う。(中略)、農民の参詣特に多し。門前の家々百穀の種并びに雑菜の種を売る。また大小の陶器を売る。其の大なる者伝法と言う。言は始め摂津伝法海浜(大阪市此花区伝法)に於いて之を製す、故に伝法焼と言う。今直に伝法と言う。是を以って物を炒り、また煙草粉を盛る。其の小なる者都保々々と言う。此の土器両手掌の内に於いて、之を運転せば則ち都保々々の音あり、故に之に名り、参詣の男女之を買い兒童を賺す。大人も亦た其の内に塩を満て、火に入れ之を焼きて膳食を資く。)、文政13年(1830)「嬉遊笑覧」に「つぼつぼ、此手遊古きものに見えて、慶長ごろの古画人物の衣のもやうなどにも付たり。犬筑波集、わらはべの縁にてくるふ薬師堂もてあそびぬる瑠璃のつぼつぼ、もと壺とのみいふべきを、小兒の詞のかさねいふ例にて名付るにや。懐子、立別れいなかあたりの朝ひらきつぼつぼほどの涙たる中、重頼。松の落葉、京童といふ東上るり、きさらぎや初午参のみやげとて鈴やつぼつぼ風ぐるま。好色盛衰記、貞享五年、稲荷の前つぼつぼ、かまかま作り売、これも土仏の水あそび云々、これ壺と釜となり。」とある。
壷々棚(つぼつぼだな)
一啜斎好みで、天板と地板が杉木地、竹の四本柱で、腰板が桐木地、畳つきに低い足がついた棚で、腰板に、つぼつぼ紋の透かし彫りがあるところから、この名がある。一啜斎が、松平不昧公の江戸大崎の屋敷での茶事に招かれた折、遠州好みの品川棚を拝見し、これを基にして考案したといわれる。炉の場合にのみ使用する。初飾りは、地板に水指を、天板の中央に茶器を飾る。後飾りは、柄杓を天板勝手寄りに縦に、蓋置を柄杓の右横手前に飾る場合と、柄杓の合をうつぶせにして勝手付の柱に付けるように向こう側の腰板に掛け、蓋置を地板の右手前、茶器を天板の中央に飾る場合がある。
爪紅(つまぐれ)
黒漆あるいは青漆で塗った器物の外縁を朱漆でふちどったもの。端紅とも書く。
詰筒(つめづつ)
茶杓を入れる竹製の容器。ふつう単に筒と呼ぶ。千利休以前の竹茶杓は「折りだめ」といい一会限りの消耗品として扱われており、茶杓を進呈するときに竹筒に栓をして、封印と花押、宛先を記したりした物だったようで、利休作の「タヽイヘ様参」の送筒がある。利休以降作者への敬慕から筒に入れて保存するようになり、秀吉に切腹を命ぜられた利休が自から削り最後の茶会に用いた茶杓「泪(なみだ)」を与えられた織部は四角く窓をくり抜いた総黒漆塗りの筒を作り位牌代わりに拝んだという。宗旦、遠州のころに共筒、自筆銘が多くなる。筒の蓋を「爪(つめ)」といい、杉が一般的。爪と筒の合に筆書や墨判で封印したものを「口判(くちはん)」「〆印(しめいん)」、筒の表に銘や宛名・年号などを書いたものを「筒書(つつがき)」という。筒には「真」「行」「草」があり、「真」は皮を全部削って磨きをかけた筒。「行」の筒は上下に皮目をそろえて残す。「草」は皮を残し、銘などを書く部分だけ削ってある。また、筒の種類には「共筒」「送筒」「追筒」「替筒」「会所筒」「極筒」がある。「共筒(ともづつ)」は茶杓と同じ竹で、同一作者が作ったもの。「送筒(おくりづつ)」は茶杓を人に贈るために入れる共筒。「追筒(おいづつ)」は茶杓の作者以外によって後世の人により作られた筒。「替筒(かえづつ)」は共筒とは別に替えのために新たに作られた筒。「会所筒(かいしょづつ)」は対銘をなす複数の茶杓を収納するための筒。「極筒(きわめづつ)」は筒がない場合、後世の人が筒を作り作者名を書いた鑑定・証明のための筒。
泣露千般草(つゆになくせんぱんのくさ)
「寒山詩」に「可笑寒山道、而無車馬蹤。聯溪難記曲、疊嶂不知重。泣露千般草、吟風一樣松。此時迷徑處、形問影何從。」(笑うべし寒山の道、しかも車馬の蹤なし。連渓曲を記し難く、畳嶂重を知らず。露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松。この時迷径に迷う処、形は影に問う何れ従りかせんと。)とある。聯谿(れんけい)/連なった谷。畳嶂(ちょうしょう)/重なった高く険しい山峰。
釣釜(つりがま)
天井から吊るして使う釜。小間では自在で、広間では鎖で釜を釣る。炉の終わりに近い時季には、暖気に向かって火気の温度を厭うので、炉を深くし、少しの火で湯の沸くように小釜で釣釜にする。筒形、棗形、鶴首、車軸といった細長い目の釜が好まれる。釣釜には、釣(つる)を用い、木瓜形(もくこうがた)、丸釣(まるつる)、鎌刃形(かまはがた)の三種の利休形がある。釣釜では五徳を使用しないのが約束で、その代りに五徳の蓋置を用いることが多い。
釣舟(つりふね)
舟の形をした釣り花入。銅・砂張・竹・陶磁器・籠などがある。床の天井から釣り下げて用いる。釣舟は掛物のほうに舳先を向けるのが約束。釣手が一本と二本両方あるときは一本の方が舳先、二本の方が艪。「山上宗二記」の「花入の事」には名物として二点の釣舟花入が記され「釣舟数多在り。当世主遠きもの也。但し、此の舟は宗易褒美す。数寄道具也。」とあり、当時は必ずしももてはやされなかったようである。また同書の釣舟貨狄の花入に注して「花の入やう口伝多し。舟に口伝在り」とあるように色々約束事が多かった。「南方録」の正月廿七日朝会に「床まきてつり舟但出舟にかくるめ柳」とあり、後世云われる様な「舟の花入れは卯月中旬より八月半迄用」(古今茶道全書)と云うような時季の限定はなかったとみえる。また、舳先を上座にむける出舟、艪を上座に向ける入舟とし、朝から昼までは出舟にかけ、以後は出舟にかける。出舟なら花は梢の方を舳先、入舟は花を勝手に向け、晩には泊り舟といい入舟に釣って花を真中に、なるべく寝るように入れるのが習い(茶道望月集)というような舟の釣り方による区別は、利休時代より後は区別をすること自体を避けるようになっていったと思われる。竹釣舟は、竹筒の先端を斜めに切り落として、舟の舳先に見立てた竹花入。竹釣花入は、「茶道筌蹄」に「舟元伯嵯峨にて筏の流るヽを見て始て好む。丸太舟元伯好前後節きり切りたるなり、原叟此舟に左右へ耳を出す。太鼓舟仙叟このみ根のふし合ひのせまき所にてきり床へかくる由」、「逢源斎書」に「一、花入竹之事。切様在之候。面談に而なく候ヘは不被申候。船は宗旦初而切出し被申候。」とあるように、宗旦が京都嵐山の大堰川の筏を見て想を発し、嵯峨野の竹を切り、藤蔓で釣るようにした「丸太舟」が始めという。宗旦作には、他に「横雲」「貨狄舟」などがある。
釣瓶水指(つるべみずさし)
水指の一。井戸の水を汲み上げる釣瓶の形をした水指で、風炉に用いる。「山上宗二記」に「釣瓶面桶、竹の蓋置、この三色、紹鴎好み出だされ候」、「源流茶話」に「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候」とあり、武野紹鴎が井戸から汲み上げた水をそのまま水屋に置くために木地で好んだのが起こりとされ、それを利休が座敷へと持ち出したとされる。ただ「和漢茶誌」には「本邦宗易始用之、以代水壷。・・・或人曰、紹鴎作之也。不知其所拠。蓋宗易以降也。其底面有花押可見也。」とある。「茶道筌蹄」水指之部同木地之部に「釣瓶利休形、檜の木地柾目。松の板目は妙喜庵形なり」、同和物金類に「釣瓶利休所持、塗蓋、花入に兼用」とあり、利休好は下のやや狭まった角形の檜柾目を鉄釘で止め一文字の角の手が付き二枚の割蓋が添う。そのほか松材を使った妙喜庵形、春慶塗、素銅の釣瓶に塗りの割蓋をつけたものなどがある。夏季に水に十分濡らして、運びや置きで使われる。棚物や長板の上には置かない。なお、古くは一会限りで使うたびに新調したと云う。  
て     

 

貞丈雑記(ていじょうざっき)
江戸時代の有職故実書。16巻。伊勢流武家故実家の伊勢貞丈(1717-1784)が、子孫のために書き記した宝暦13年(1763)から天明4年(1784)の雑録を、没後60年の天保14年(1843)に伊勢貞友らが編集刊行したもの。武家の有職に関する事項を36部門に分けて編集されている。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)
「碧巌録」に「一日僧問趙州。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。僧云。和尚莫將境示人。州云。老僧不曾將境示人。看他恁麼向極則轉不得處轉得。自然蓋天蓋地。若轉不得。觸途成滯。且道他有佛法商量也無。若道他有佛法。他又何曾説心説性。説玄説妙。若道他無佛法旨趣。他又不曾辜負爾問頭。」(一日、僧、趙州に問う、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。僧云う、和尚境をもって人に示すことなかれ。州云く、老僧かつて境ともって人に示さず。看よ、他恁麼に、極則転不得の処に向って転得して、自然に蓋天蓋地なることを。若し転不得ならば、途に触れて滞を成さん。しばらく道え、他仏法の商量ありやまた無しや。若し他仏法ありと道わば、他また何ぞ曾て心と説き性と説き、玄と説き妙と説かん。若し他仏法の旨趣なしと道わば、他また曾て爾が問頭に辜負せず。)とある。「無門關」に「趙州因僧問。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。無門曰。若向趙州答處。見得親切。前無釋迦。後無彌勒。頌曰。言無展事。語不投機。承言者喪。滯句者迷。」(趙州、ちなみに僧問う、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。無門云く、若し趙州の答処に向かって見得して親切ならば、前に釈迦無く後へに弥勒無し。頌に云く、言、事を展ぶること無く、語、機に投ぜず。言を承くるものは喪し、句に滞るものは迷う。)とある。一人の僧が趙州(じょうしゅう)に問う、達磨大師が印度から中国へ来た真意は何か。趙州は言う、庭にある柏の木だ。
貞要集(ていようしゅう)
江戸中期の茶人松本見休による有楽流茶法と点前伝授の書。四巻六冊。宝永7年(1710)成立。利休の台子の伝者である高橋玄旦が、織田貞置に伝授した台子の法を、貞置から松本見休が直伝を受けて書いたものとされている。第一巻で、炉・風炉の台子・長板・袋棚・卓・道幸・茶通箱などの点前21種。第二巻は、数奇屋寸法・露地の腰掛・飛石の据え様および風炉の点前。第三巻は、各種道具の扱い、花・灰・炭および道具寸法図。第四巻は、客亭主の露地入の法、数奇屋寸法と指図を解説する。多くの写本が伝世する。
手桶(ておけ)
取手のついた桶。水をくみ置いたり運んだりするときに用いる。手桶水指は、「草人木」に「是略の三餝也。是珠光の作也、水指は手桶を杉のめのこまかなにて木色にし、わにハと(籐)を上に一ツ、下に二ツつかひて也」とあるように、珠光が杉木地で好み、上下に籐のたがをかけ水指としたと伝える。同書に「ぬり手桶は紹鴎・利休已来也」とあり、紹鴎が真塗に改めて台子用にしたといい、利休も真塗を好んだ。永禄年間(1558-1570)から天正13年(1585)頃までの間の茶会記に最も多く記載されている。
鉄鉢(てっぱつ)
鉄製の鉢。「和漢三才図会」に「「鉢即鉄鉢也、浮屠毎用乞施、有投米者、則発鉢受之」とあり、僧が托鉢で食物などを受けるのに用いる器。口辺が垂直あるいはやや内側に締まって抱え口となり、底には高台がなくて丸くなった形のもの。また、それに似た形の陶磁器や塗物の鉢をも指す。建水、水指、向付や菓子器などにある。「百丈清規」に「鉢梵云鉢多羅此云應量器。今略云鉢。又呼云鉢盂。即華梵兼名。」、「事物紀原」に「本天竺国器也、胡語謂之鉢多羅、漢云応量器、省略彼土言、故名鉢、西国有仏鉢是也」、「釈氏要覧」に「鉢、梵云鉢多羅、此云応器、今略云鉢也、又呼鉢盂、即華梵兼名也」、「和名類聚抄」に「四声字苑云、鉢、(博末反、字亦作盋見唐韻、今案無和名、以音為名)学仏道者食器也、胡人謂之盂也」とあるように、鉢は、梵語のPātra(パートラ)の音訳である鉢多羅(はったら)の略称で、中国では盂、応器または鉢盂、応量器と称した。「四分戒本如釋」に「言鉢多羅者。此是應法之器。謂體色量。三皆應法。體謂鐵瓦。色謂赤K。」とあるように、材質は鉄または土、色は赤黒等が法とされる。
点前(てまえ)
茶を点てたり、炭を置くこと、また客の前で行われるその所作。中国では、北宋徽宗皇帝の「大観茶論」(1107年)に「底深則茶宜立」「蓋撃拂無力、茶不發立」などとあるように、抹茶を茶筅で攪拌して泡立てることを「立茶」といい、これが日本に入り、応永27年(1420)の故実書「海人藻芥」に「建盞ニ茶一服入テ、湯ヲ半計入テ、茶筅ニテタツル時、タダフサト湯ノキコユル様ニタツルナリ」とあるように、茶立、茶を立てるなどと用いられ、さらに「男前」「腕前」「名前」などと同じく接尾語の「前」をつけて「山上宗二記」に「茶の建前は無言」とあるように「茶を立てること」という意味で「たてまへ」(立前・建前)と呼ばれ、その「た」が略され「てまへ」となり「手前」の字が当てられた。現在では「点前」の字を当てている。ただ裏千家では「炭点前」にのみ「手前」の字を使う。「点前」の「点」は「点茶」の点で、中国宋代の蔡襄の「茶録」に「點茶」とあるのが初見となっている。「點」(点)は、「正韻」に「點注也」とあり、液体を容器の中へ少しずつ注(そそ)ぐ意で、転じて茶を点てる意となった。「茶湯古事談」に「利休か手前は少しも目に立つ処なく、たて出しも仕廻も爰そあちしやと見たる事なく、すらりすらりとした事なりし、是そ凡慮をはなれし境ならんかと針屋宗真か常にかたりしとなん」とある。
点心(てんしん)
大寄せの茶会などで、懐石を簡略化した料理や弁当をいう。本来は、定められた食事と食事との間の一時の空腹をいやすための少量の食物のことという。禅家では、昼食の意に用いる。少食を空心(空き腹)に点ずる意とする。間食、軽食、転じて菓子の類も点心と呼ばれる。点心の語は、一般には宋の呉曾の「能改斎漫録」(1141)が初出とされ、宋の王楙の「野客叢書」に「以點心為小食。漫録謂、世俗例以早晨小食為點心、自唐已有此語。」と唐代からこの語があるとある。日本では仁治2年(1241)「正法眼藏」の「心不可得」に、「碧巖録」の「且買點心喫」を引いて、「徳山いはく、もちひをかふて點心にすべし」とあるのが初出とされる。また同書「看經」に「堂裡僧を一日に幾僧と請じて、斎前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。」とある。室町中期頃の国語辞典「節用集」に「點心(テンジン)自須達長者始也。」とあり、「庭訓徃來」に「但時點心之作法僧物布施次第無故実候調菜之仁古老之行者等中器用之仁定令存知候歟委細可示給候也」、「庭訓往来註」に「但時点心の作法須達長者、時(齋)を釈尊に進め、非時を留むることは伽留陀、夕べに鉢を開くに、匹夫の家に至るに、夫は居ざるなり。婦、斗居す、子細を知らず彼の家に入る人、悪みて伽留陀を打擲す。或る夕方に途中に女に會す。彼の女伽留陀を畏る。此の時より非時を禁ずるなり。点心も此の時より始まり佛を請じて餅を進め、伽留陀彼を三ツ受くるなり。」とある。「運歩色葉集」(1548)には「點心(テンシン)」、「籠耳草子」(貞享)に「侍は中食と云ひ、町人は晝食、寺方は點心と云ふ」とあるという。
傳燈録(でんとうろく)
景コ傳燈録(けいとくでんとうろく)。全30巻。「五燈録」の一。中国・北宋代の宣慈禅師道原の編。禅宗の史伝の書の最も代表的なもので、唐代にできた「宝林伝」「続宝林伝」「真門聖胄集」などの後を承けて、過去七仏から西天の二十八代、東土の六代を経て、法眼文益の嗣に至るまでおよそ53世1,701人に及び、俗に「1,700人の公案」と呼ばれるが、実際に伝のあるものは951人である。さらに巻尾に、偈賛、頌銘、歌箴等の代表的なものを併せ録する。景徳元年(1004)に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、年号をとって「景徳傳燈録」と呼ばれる。
天王寺屋会記(てんのうじやかいき)
堺の豪商天王寺屋の茶会記。津田宗達(1504-1566)、子の津田宗及(-1591)、孫の津田宗凡の3代の茶湯日記(他会記・自会記)の総称。宗達は天文17年(1548)から永禄9年(1566)の「宗達茶湯日記自会記」「宗達茶湯日記他会記」。宗及は永禄8年(1565)から天正15年(1587)の「宗及茶湯日記他会記」、永禄9年(1565)から天正15年(1587)の「宗及茶湯日記自会記」(他に道具拝見記)、宗凡は天正18年(1590)の「宗凡茶湯日記他会記」・元和元年(1615)・元和2年(1616)の覚書。津田家は信長、秀吉らと懇意だったこともあり、同政権の茶の湯(特に道具類)に関する記録に詳しく、また関係した諸事件についても明確に記してあり、自会記・他会記がそろっている事など史料的価値が高い。
天命釜(てんみょうがま)
下野国佐野庄天命(栃木県佐野市犬伏町)で作られた茶湯釜の総称。天明、天猫とも書く。鎌倉時代には鋳造が行われていたと考えられており、最古の遺品として「極楽律寺総維坊」「文和元壬辰臘月日(1352)」の銘文のある尾垂(おだれ)釜がある。室町時代以後、筑前芦屋釜と並び称された。作風は大体が厚作で雑器の名残をとどめ、多くは丸形で無地文が多く、鐶付は遠山、鬼面、獅子が多い。芦屋の釜肌が滑らかでいわゆる鯰肌で地紋に重点を置いたのとは対照的に、天命の釜肌は、粒子の粗い川砂を鋳型に打ち重ねた「荒膚」「小荒膚」、手や筆、刷毛で鋳物土を鋳型に直接弾くように付けた「弾膚(はじきはだ)」、型挽きのときあえて挽き目を誇張した「挽膚(ひきはだ)」などの荒々しい肌で、その素朴で侘びた趣が好まれた。桃山時代以前の作を古天命という。小田原でも天命風の釜が作られ古くから天猫と呼ばれたが、天命よりは時代が下り、作風も雑器風のものが多い。
天目(てんもく)
中国宋代、浙江省天目山の禅院で使用されていた、福建省建陽県水吉鎮の建窯(けんよう)などで作られた鉄質黒釉の茶碗。鎌倉時代、天目山にある禅刹へ日本から多くの僧が留学し、帰国に際して寺で使われていた建盞を日本に持ち帰り、天目山の茶碗ということで天目茶碗と呼びならわしたことが「天目」という名称のおこりとされる。特徴は盞形(さんなり)あるいは天目形と呼ばれる形にあり、口が開き底が締まったすり鉢型で、口縁で碗側が一度内に絞ってあり、スッポンの頭の形をしているので鼈口(すっぽんくち)といい、高台は低く小さい。逆円錐状で高台が小さいため専用の台(天目台あるいは貴人台と呼ばれる)に載せて使う。陶土は鉄分を多く含み、高台を除く全面に艶のある黒釉が厚く掛かっている。この釉面の変化によって多くの種類に分けられ、釉面に大小の結晶が浮かびその回りに虹彩を持つ「曜変(ようへん)天目」、釉面に散る斑文群が水に油の滴が浮いているように見える「油滴(ゆてき)天目」、糸のように細い縦縞の線が(稲穂のように)浮き出た「禾目(のぎめ)天目」などの名をつけられ、のちには西安省吉安の永和鎮の吉州窯で焼かれた「玳玻盞(たいひさん)」はじめ他窯の茶碗にも使われるようになる。
「玳玻盞天目」は「吉安(きちあん)天目」、「吉州(きっしゅう)天目」とも呼ばれ、素地は灰黄色で黒釉に藁灰釉を二重かけし鼈甲(べっこう)状に見えるので「鼈甲盞」「鼈甲天目」などとも呼ばれる。内側に文様型紙を貼って文様をつけたものがあり、文様の種類によって「梅花天目」「龍天目」「文字天目」、型紙の代わりに木の葉を置いて焼いた「木の葉天目」などがある。ただ、「君台観左右帳記」には、「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能皮盞」「灰潜」「黄天目」「只天目」「天目」「茶碗」などに区別されており、「曜変。建盞の内の無上也。天下におほからぬ物なり。萬匹のものにてそろ。」、「建盞。ゆてきの次也。これも上々はゆてきにもをとるへからす。三千匹。」、「天目。御物などは一向御座無物也。大名にも外様番所などにもをかるヽ。薬建盞に似たるをば灰かづきと申。上の代五百匹。」(群書類従本)とあり、天目は価値の低いものとされている。「山上宗二記」には、「天目。紹鴎所持一つ。天下三つの内、二つ関白様に在り。引拙の天目、堺油屋に在り。いずれも灰かつぎ也。」、「建盞の内、曜変、油滴、別盞、玳皮盞、此の六種、皆建盞也。代物かろきもの也。」とあり、両書とも天目と他の茶碗について別物との認識ある。しかし、その評価については16世紀の初めと終わりの80年ほどの間に評価が逆転していることが分かる。「山上宗二記」に「惣じて茶碗は、唐茶碗すたり、当世は、高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼の茶碗迄也。」とあるように、侘茶が隆盛して、端正で光り輝く建盞よりも、灰を被ったような翳のある灰かつぎなどの天目に趣を見出し唐物茶碗のうちただ一つ侘び茶にかなうものとして取り上げられ、やがて天目の名が他の黒い唐物茶碗をもさすようになっていったと思われる。「建盞(けんさん)」(盞とは碗や杯のこと)。
天目台(てんもくだい)
天目茶碗を載せる台。茶碗の載る部分を酸漿(ほおずき)、それを受ける幅の広い皿上の部分を羽、へり、下部を土居、または高台という。鎌倉時代、天目山にある禅刹へ日本から多くの僧が留学し、帰国に際して天目茶碗とともに招来されたという。黒塗、堆朱、倶利、存星、青貝入、蒟醤などがある。天目台の種類には、尼崎台、七つ台、貝の台、輪花台などがある。のちには貴人に茶を供する時に使う木地の台も天目台と称するようになる。これを特に貴人台という。
天龍寺青磁(てんりゅじせいじ)
中国の青磁の一種。元代(1271-1368)から明代(1368-1644)初期にかけて龍泉窯で作られた青磁で、釉色が黄味のある沈んだ青緑色のものを呼ぶ。わが国では、中国青磁を大別して、南宋時代のものを「砧青磁」、元・明時代のものを「天竜寺青磁」、明末時代のものを「七官青磁」と呼び分けている。元代になると器は総体に大きくなり、劃花や印花、透かし彫り、鉄絵具を上からさす飛青磁(とびせいじ)といった様々な装飾を施したものが登場し、大量生産が行われ、精良な原料の不足から釉色が退化したとされる。天竜寺の名の由来は、南北朝時代、天龍寺造営を名目とする貿易船・天龍寺船によってもたらされたからとも、夢窓国師が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹の香炉からともいわれる。
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桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)
崔護(さいご)の七言絶句「人面桃花」「去年今日此門中。人面桃花相映紅。人面不知何處去。桃花依舊笑春風。」(去年の今日此の門の中、人面桃花あい映じて紅なり、人面いずれの処ところに去るや知らず、桃花旧に依りて春風に笑む)から。崔護は唐代の人、貞元十二年(796)の進士、字は殷功、博陵(現・河北省定県)の人。この詩については「太平廣記」卷第二百七十四・情感に「博陵崔護資質甚美。孤潔寡合。舉進士第。C明日。獨遊キ城南。得居人莊。一畆之宮。而花木叢萃。寂若無人。扣門久之。有女子自門隙窺。問曰。誰邪。護以姓字對。曰。尋春獨行。酒渇求飮。女入。以杯水至。開門。設牀命坐。獨倚小桃斜柯佇立。而意屬殊厚。妖姿媚態。綽有餘妍。崔以言挑之。不對。彼此目注者久之。崔辭去。送至門。如不勝情而入。崔亦〓(目卷)盻而歸。爾後絶不復至。及來歳C明日。忽思之。情不可抑。徑往尋之。門院如故。而已〓鎖矣。崔因題詩于左扉曰。去年今日此門中。人面桃花相暎紅。人面不知何處去。桃花依舊笑春風。後數日。偶至都城南。復往尋之。聞其中有哭聲。扣門問之。有老父出曰。君非崔護耶。曰。是也。又哭曰。君殺吾女。護驚怛。莫知所答。父曰。吾女笄年知書。未適人。自去年已來。常恍忽若有所失。比日與之出。及歸。見左扉有字。讀之。入門而病。遂絶食數日而卒。吾老矣。惟此一女。所以不嫁者。將求君子。以託吾身。今不幸而殞。得非君殺之耶。又持崔大哭。崔亦感慟。請入哭之。尚儼然在牀。崔舉其首枕其股。哭而祝曰。某在斯。須臾開目。半日復活。老父大喜。遂以女歸之。」とある。「續燈録」に「僧曰。未是直截之機。師云。目前可驗。師乃云。一氣不言。群芳競吐。煙羃羃兮水克R青。日遲遲兮鶯吟燕語。桃花依舊笑春風。靈雲別後知何許。」とみえる。
陶器考(とうきこう)
田内米三郎(梅軒)著の陶磁器の解説書。「陶器考全」と「陶器考附録」からなる。前者は嘉永7年(1854)序の、南蛮・安南・呂宋・高麗物などの概説。後者は安政2年(1855)序で、日本陶磁を窯別に解説する。内容は江戸末期の通説が多い。遠州好七窯の称の初出という。明治16年(1883)京都西村九郎右衛門刊行により流布したという。
東山水上行(とうざんすいじょうこう)
「雲門廣録」に「問如何是諸佛出身處。師云。東山水上行。」(問う、如何なるか是れ諸仏出身の処。師云く、東山水上を行く。)とあり、僧が、仏はどこにいるのかと問うたとき、雲門文堰は東山(湖北省馮茂山)が水の上を歩いて行くと言った。道元は「正法眼蔵」山水経に「雲門匡眞大師いはく、東山水上行。この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷盧等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髓、修證活計に透脱ならん。」とあり、東山水上を行くの意味は、すべての山が東山であり、すべての山が水上を行くということである。それによって、九山(きゅうざん)や迷盧(スメール山)などの山々がありのままに出現し、悟りがある。しかし、雲門自身が果たして、東山についてのそのように悟っていたかどうかはわからない、という。
濤々(とうとう)
「濤」は、つらなる波の音を表す文字で、「涛」は俗字。「濤々」は、一指斎によって建てられた、利休居士を祀る利休堂としての「祖堂」に掲げられた讃岐高松藩12代当主松平頼寿(1874-1944)筆の扁額に記され、釜の湯が煮えるときの音「松風」を表したものという。
道入(どうにゅう)
楽家三代。慶長4(1599)-明暦2年(1656)。楽家2代常慶の長男として生まれる。名は吉兵衛、のち吉左衛門、剃髪して道入、別名「ノンカウ」。存命中より「樂の名手」と称えられ、楽家歴代随一の名工とされる。本阿弥光悦の「本阿弥行状記」には「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に樂等の伝を譲り得て、慰に焼く事なり。後代吉兵衛が作は重宝すべし、しかれど当代は先代よりも不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし」とある。長次郎や常慶の古楽の作風から脱し、釉や窯の改良により、釉薬がよく溶け光沢のある優雅な楽茶碗を完成させた。作品は大ぶり、のびやかな器形で力強く、総じて薄作り。口縁は薄く削り込まれた蛤端(はまぐりば)で、口作りに凹凸のうねりをつける「五岳(ごがく)」といわれるものの基本をつくる。焼成温度が高くなったために、黒・赤釉ともによく溶けて光沢がある。窯変、黄土がけ、飴釉(あめぐすり)の使用、かけ外しなど釉技も変化に富んでいる。薄手の口づくりや大きな見込みにも特色がある。また、黒釉を胴の上部に何度も塗り重ね、焼いているうちに熔けた黒柚が、下部の薄い釉の上に幕のように垂れ下る幕釉(まくぐすり)の技法を生み出した。この時、黒釉中の不純物のため幕状の裾が美しい青白色の、帯状の窯変をおこすことがある。これを蛇蝎釉(だかつゆう)とよぶ。高台土見せのものもある。ノンコウ七種として、黒楽の「獅子」「升」「千鳥」「稲妻」、赤楽の「鳳林(ほうりん)」「若山」「鵺(ぬえ)」がある。銘印は大小二種あり「樂」の字の中の「白」が「自」となっていて「自樂印」と称される。
同朋衆(どうぼうしゅう)
法体(ほったい)で、将軍・大名に近侍して殿中の雑役や諸芸に従事した者。同朋の名は「童坊」あるいは「同行同朋」からきたものといわれる。阿弥号(あみごう)を用い、剃髪(ていはつ)をし法体(出家姿)となる。「阿弥」は、一遍上人のひろめた時宗の信徒に許された号で「南無阿弥陀仏」の中2文字をとったものといわれる。もとは、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に随い、合戦での死者に十念を授け、菩提を弔い、葬送し、遺品を家族に届け、合戦のないときは、和歌や連歌、茶の湯をはじめ様々の雑芸などにも奉仕した。やがて室町初期に幕府の職制に次第に組み込まれ、将軍の近くにいて芸事をはじめ、もろもろの雑務を担当するようになった。猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥、唐物奉行を担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥、香、茶の千阿弥、立花の立阿弥などが、足利義教・義政の同朋衆を務めた。
東陽坊釜(とうようぼうがま)
茶湯釜の一。利休好み。「茶道筌蹄」に「東陽坊天猫作。筒釜鬼面。鉄のカケゴ蓋有。アゲ底。ケキリ真鍮の丸鐶。利休所持を真如堂東陽坊へ送りし故に、東陽坊の名あり。」とある。「茶窓閑話」に「京師真如堂の僧に東陽坊といふあり茶道を好みて。利休の弟子となり尤侘数寄の名誉ありけり。」とある東陽坊長盛に送ったことから、あるいは真如堂東陽坊に送ったことから付されたといわれる。東陽坊長盛(1515-1598)は、安土・桃山時代の天台宗の僧・茶人。京都真如堂東陽坊住職。号は宗珍。茶は千利休に学ぶ。薄茶の先達といわれる。長次郎作黒楽茶碗「東陽坊」などを所持したことで知られる。北野大茶会で東陽坊長盛の好みによってつくられた副席とつたえられる茶室「東陽坊」が建仁寺方丈裏庭にある。
遠觀山有色(とおくみてやまにいろあり)
「續燈録」に「問。楞伽四卷從何得。莫是當初錯下言。師云。蒋白元來是秀才。問。達磨西來。教外別傳。為什麼將往隨後。師云。錦上添花。師云。教外別傳。直指人心。見性成佛。敢問諸人。作麼生説箇見性底道理。良久。云。遠觀山有色。近聽水無聲。」(問う、楞伽四卷とは何に従いて得んや、是れ当初錯下の言にあらずや。師云く、蒋白元来これ秀才。問う、達磨西より来り、教外に別伝す、什麼の為にか将に後に隨いて住す。師云く、錦上に花を添う。師云く、教外別伝。直指人心。見性成仏。敢て諸人に問う、作麼生この見性底の道理を説く。良久して、云く、遠く観て山に色あり、近く聴く水の声なきを。)とある。「禅林句集」五言対句に「遠觀山有色、近聽水無聲。」とあり、注に「禅類十心眼門、佛鑑勤云」とあるが未見。楞伽四卷/楞伽(りょうが)は梵語ランカーの音写。楞伽山。楞伽経。「佛祖統紀」に「祖師達磨以付二祖。曰吾觀震旦所有經教。唯楞伽四卷可以印心。」(祖師達磨以って二祖に付して曰く、吾れ震旦にある所の経の教えを観る。ただ楞伽四卷を以って印心となすべし。)とある。「祖庭事苑」には「此經即宋元嘉中天竺三藏求那跋陀羅之所譯也、豈可宋經而反使梁菩提達磨持來。以此攷之、謬妄之論、不待攷而自破矣。」(この経即ち宋の元嘉中に天竺三藏求那跋陀羅の訳す所なり、豈に宋経の反って梁の菩提達磨をして持来せしむ可けんや。これを以って之を攷うるに、謬妄の論、攷うるを待たず自ら破られん。)とある。
遠山(とおやま)
器物の文様・形状の一。遠山とは、遠くの山、遠くに見える山のことで、道具の模様や部分が遠山の形に似ているものをいう。茶壷においては、茶壷の肩部に箆などで付けられた、山形あるいは波形の沈線。「茶具備討集」に「肩以箆鋭画連山之形也」(肩に箆のさきを以って連山の形を画くなり)とある。ときに肩部に釉薬がなだれかかったものをいう。茶壷の胴部にあるものは「裾野」と呼んでいる。
兜巾(ときん)
修験道の山伏がかぶる小さな布製の頭巾(ずきん)。大日如来の五智の宝冠を擬したもので、無明煩悩を示す黒い漆塗の布で造り、十二因縁にかたどって12の襞をとり、不動明王の八葉蓮華にちなみ前八分にかぶり、十八界を表わす1尺8寸の紐で頤に結びとめるものという。また、その形状をした器物をいう。茶碗などでは、高台の内側の削り痕の中央部が突起をなしているものを兜巾といい、兜巾のある高台を「兜巾高台」という。茶杓の先端である露先の形状が兜巾になった「兜巾形」がある。
徳元(とくげん)
安土桃山時代の鍛冶師。奈良の人。姓は金森。おもに具足を製作し、他に蓋置・火箸・鐶などの茶道具を手がけた。
獨坐大雄峰(どくざだいゆうほう)
「碧巌録」第二六則「百丈大雄峰」に「舉。僧問百丈。如何是奇特事。丈云。獨坐大雄峰。僧禮拜。丈便打。」(挙す、僧、百丈に問う、如何なるか是れ奇特の事。丈云く、独坐大雄峰。僧礼拝す。丈、すなわち打つ。)とある。奇特(きとく)/有難いこと。大雄峰(だいゆうほう)/百丈が住職した江西省百丈山の別名。大雄山。僧が百丈に尋ねた。有難いこととはなんでしょう。百丈が言う、俺が今現に生きてここに坐っておることが一番有り難いと。その答えを聞いた僧は、ひれ伏して百丈を拝んだ。すると、百丈はひれ伏した僧を棒で打った。
得入(とくにゅう)
楽家8代。延享2年(1745)-安永3年(1774)29歳。7代長入の長男。宝暦12年(1762)8代吉左衛門を襲名。明和7年(1770)剃髪隠居して佐兵衛と号す。得入の名は没後25回忌において送られた。三十歳で歿したため、作品数は少なく、長入の作行きの影響がうかがわれる。大部分が赤茶碗で、作風は穏やか。高台の中には兜巾渦巻がある。黒樂の「玉の絵茶碗」に金入りのものがあり「得玉」といって喜ばれる。印は、楽の中央の白の中の「一」が点になっている。
コ不孤必有鄰(とくはこならず、かならずとなりあり)
「論語」里仁篇に「子曰、コ不孤、必有鄰。」(子曰く、徳は孤ならず、必ず鄰あり。)とある。立派な心がけの人が一人ぽっちということはない、かならず仲間がいるとのこと。宋の朱熹(しゅき:1130-1200)の「論語集注(ろんごしっちゅう)」に「鄰、猶親也。コ不孤立、必以類應。故有コ者、必有其類從之、如居之有鄰也。」(鄰、なお親のごときなり。徳は孤り立たず、必ず以って類応す。故に有徳者、必ずその類ありて之に従う、居の隣にある如くなり。)とある。「鄰」は「隣」と同字。隣は、親しいこと。徳は孤立するものではなく、必ず共鳴するものだ。だから有徳者には、必ずおなじ志をもつ仲間が現れる。人には隣人があるようなものである。
床(とこ)
「琵琶床」床の一部に飾り棚風の地袋があり、この棚に、琵琶を飾ったところから琵琶床という。座敷において掛物や花入などを飾る場所のこと。「南方録」に「掛物ほど第一の道具はなし」とあるように、客は席入すると、まず床前に進み掛物を拝見することとなっており、会記においても床として掛物を記する事が慣わしとなっている。一般的な形として、床柱を立て、足元に床框(とこがまち)、上部に落掛(おとしがけ)を設け、床(ゆか)部分には畳が敷かれる。またこれらを略したり変形したものもあり、床柱を立てないものに、壁の一部に掛軸が掛けられようにしてある「壁床(かべどこ)」、壁の前に板や台を置いた「置床(おきどこ)」、落掛けだけの「釣床(つりどこ)」、床框をつけず、床と室内の床の高さが同じ「踏込床(ふみこみどこ)」、床框のかわりに蹴込板をつけた「蹴込床(けこみどこ)」、床の内側の隅の柱を見せないないよう天井まで土壁で塗りまわした「室床(むろとこ)」、前面の片側に袖壁がつけられた「袋床(ふくろどこ)」、袋床の落し掛けと袖壁の壁止めがなく、壁が塗り回しになっている「洞床(ほらどこ)」などがある。「茶話指月集」に「床を四尺三寸に縮めたるは道安にてありしが、休のよしとおもいけるにや、その通りにしつる也。」、「茶湯古事談」に「紹鴎か四畳半は一間床也、道安か四尺三寸に縮めし床を利休見て、是は一段よしとて其後四畳半建し時に四尺三寸になせしより、今も大かた四尺三寸床にすとなん」とある。
土佐光貞(とさみつさだ)
江戸時代中後期の画家。元文3年(1738)-文化3年(1806)。土佐派別家初代。土佐派十九代土佐光芳の次男。幼名茂松丸。字は士享。号は廷蘭。初め内匠と名乗る。宝暦4年(1754)従六位上、内匠大屬となり、本家とは別に一家を立て、禁裏絵所預となる。同11年正六位下、同13年内匠大允、明和元年(1764)左近衛将監.同5年従五位下、安永4年(1775)従五位上、土佐守、天明2年(1782)正五位下、政4年(1792)従四位下、享和2年(1802)従四位上に叙せられた。明和元年(1764)、同8年(1771)、天明7年(1787)等の大嘗会悠紀主基屏風を描く。寛政度内裏造営では清凉殿の障壁画を描いた。墓は京都知恩寺にある。
斗々屋茶碗(ととやちゃわん)
高麗茶碗の一種。斗々屋の名は、利休が堺の魚屋の棚から見出したからとも、堺の商人・斗々屋所持の茶碗からともいわれる。平茶碗のような形が多く、薄手でやや堅め、半透明の釉がごく薄くかかる。俗に「こし土の斗々屋」というように、土が細かく、肌には細かく鮮やかな轆轤目があり、腰に段がつき、竹節高台で、箆削(へらけず)りによる縮緬皺(ちりめんじわ)があり、削り残しの兜巾(ときん)が立っている。その様子が椎茸の裏側に似ているので「椎茸高台」と呼び、特徴となっている。素地は鉄分が多く赤褐色にあがったものが多いが、青みがかかったものは青斗々屋として上作とされる。
土風炉(どぶろ)
土を焼いて作った風炉。磨き上げて乾燥させ素焼きし表面を燻し上げ黒く焼いた黒陶。焼締めたあと外側を研磨し漆を施したものや、黒色のほか灰茶色の素地に黒褐色の窯変のある雲華(うんげ)と呼ばれるものもある。文政13年(1830)序の喜多村信節の「嬉遊笑覧」に「土風炉は奈良をもとゝす」とあり、奈良の春日大社の土器師が造り出したのがはじめといわれ「奈良風炉」とも呼ばれる。「唐銅切合風炉」の形状を模した火鉢形の眉風炉「透木風炉」から始まり、「紹鴎風炉」「利休形眉風炉」へと変化し、やがて「眉」を取り去った前欠風炉(頬当風炉)の「利休面取風炉」や「道安風炉」、「雲龍風炉」「紅鉢風炉」「鳳凰風炉」などが造られる。眉のあるものを「真」、眉のないものを「行」とする。土風炉の炭点前にかぎって、まき灰をし、敷板は横に鉋目のある荒目板を用いる。安芸藩の儒医黒川道祐(?-1691)のまとめた山城国の地誌「雍州府志」に「号土風炉元南部宗善(永楽善五郎家の先祖南都土器座西村家二代宗善:-1594)之所造為上品」、正徳二年(1712)の図説百科辞書「和漢三才図絵」に「奈良風炉也陶工称天下一宗四郎(永楽善五郎家の先祖南都土器座西村家三代宗全の弟)」とあり、今の永楽家が土風炉師として名を上げていたことがわかる。
銅鑼(どら)
金属製の打楽器で、丸盆形のもの。砂張製が最もすばらしい音色を出す。小間の茶事に用いられ、中立して腰掛で待つ客に、茶席の準備がととのったことを知らせるために打つ。縁に紐を付け、天井につるしたり、木製の枠につるしたりして、中央部の半球状に膨らんでいる部分を、塗りまたは彫のある柄の先に球状の皮が付いた銅鑼撥(ばち)で打つ。銅鑼の打ち方は、大中小があり、強弱をつける。夜間には銅鑼の代わりに音の静かな喚鐘(かんしょう)が用いられるが、喚鐘は青銅製の小さな釣鐘で、茶会にあわせて様々な形態のものが用いられる。銅鑼は普通「大小大小中中大」と7点打ち、喚鐘は「大小大小大」と5点打つ。最初の大から小に移る時は間をあけ、中中は重ね打ちとし、最後の大は少し間をおいて打ちとめる。
虎嘯風生(とらうそぶけばかぜしょうず)
虎嘯(こしょう)は、虎がほえること。「禅林句集」に「龍吟雲起虎嘯風生」(龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風生ず)、「周易ノ語」とあり、「易経」の「子曰、同聲相應。同氣相求。水流濕、火就燥。雲從龍、風從虎、聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下。則各從其類也。」(子曰く、同声相応じ、同気相求む。水は湿えるに流れ、火は燥けるに就く。雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人作りて万物観る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。すなわち各各その類に従うなり。)から来たものとする。「如淨和尚語録」に「可謂龍吟雲起。虎嘯風生。」、「碧巌録」に「龍吟霧起。虎嘯風生」とあり、「楚辞」に「虎嘯而谷風至兮、龍舉而景雲往。」、「淮南子」に「虎嘯而穀風至、龍舉而景雲屬。」とある。
緞子(どんす)
絹の紋織物の一種。段子または純子とも書く。経糸(織物の縦の長い方向の糸)と緯糸(織物の横幅方向の糸)が5本以上で織物の表面が経糸か緯糸だけで覆われているように見える繻子(しゅす:朱子)織のひとつ。普通は、経糸と緯糸が各五本ずつの五枚繻子の表裏の組織をそれぞれ地あるいは紋に用いたもの。経糸が緯糸を四本浮かし五本目の緯糸に潜り込むことから、経糸の渡りが大きく地合いが緩むために、手触りが柔らかくて光沢が良く、重量感がある。
「南坊録」に「大方唐物名物などはどんす(緞子)袋多し、金入袋もまたかならず添てあり、普光院殿(足利義教)慈照院殿(足利義政)などの御時までは、渡り来る巻物おおよそは錦なり。金入錦こと更厚くして袋に用いがたし。どんす(緞子)の上品なるはうすくやはらかにて、専ら袋に用られしなり。その後唐へあつらへて、どんす(緞子)地の金入、好の如く織てわたりしゆえ、金入を用る人多し、されども東山殿時分の御賞翫と申せば、一入称することなるゆえ、むかしのどんす(緞子)をかけて古風を思ふ人もあり。所詮金入、金不入袋二つあるべきことなり」とあり、金襴が厚くて袋に用い難く緞子が使われたとする。仕覆としては茶入を痛めず品位もあり、仕覆の名物裂に緞子の数が多い。また「石州三百ケ条」に「昔ハ唐物ニハ古金襴、和物にはかんとう・純子の類を用、利休より布而唐物などに袋をかろく、かんとう・純子のたくひを用、和物なとハ古金襴の類を用いて袋をおもくする也」とあり唐物茶入の袋に緞子を用いるのは利休からとある。
富田焼(とんだやき)
江戸時代、赤松伊助(松山と号す)が、讃岐国志度で長崎から伝えた交趾焼の技法に基づいて源内焼(舜民焼)を焼いていた平賀源内(1728-1779)の弟子となり陶法を学び、香川県大川郡富田西村の吉金に開窯した吉金窯が起こり。大川郡富田は良質の製陶原料に恵まれ、最近の木村広山(富田焼窯元)と田中十三八による富田焼は富田の印を用い抹茶器・煎茶器・花器を製造している。「陶器考」に「一啜斎宗守の好みたる風炉の敷瓦の小口に〓をおしたると、松露の香合あり、此時代のものには小き冨田の印あり、作ぶり信楽によく似て、水薬多く吹たり。」とある。  
      

 

長板(ながいた)
風炉・水指などをのせる長方形の板。「草人木」に「板のはヽ・たけ・あつさハ台子の下の板の寸尺に無別儀」、「南方録」に「台子の上の板を、上段の板、下を長板といふなり。」、「源流茶話」には「長板ハ台子の上板より見立てられ」とあり、台子の地板または上板を型どったもので、真塗が利休形で大小二種あり、大は風炉用、小は炉用に使いる。風炉用は長さ二尺八寸、幅一尺二寸、厚さ六分。炉用は長さ二尺四寸、幅一尺、厚さ四分。また、この他に桐木地や一閑張(宗旦好)などがある。
中置(なかおき)
10月始めから開炉までの時期に、点前畳中央に風炉を据える扱いをすること。風炉は、ふつう畳の中央より左に据え、水指を釜の右側に置くが、10月にもなれば肌寒い日もあり火の気が恋しくなるため、火を少しでも客に近づける気持ちで、それまで道具畳の左に据えられていた風炉を真中に寄せ、その反対に、水を入れた水指は客から遠ざけ風炉の左に置く扱いをする。その場合、水指を置く場所が普段よりも狭くなるため、胴廻りが細く背の高い細水指を使用する。また風炉もできるだけ火が見え、暖かさを感じるものが用いられる。この季節が終わると、いよいよ炉の季節となる。
中川浄益(なかがわじょうえき)
千家十職の金物師。火箸、灰匙、水次薬鑵などを作製。中川家の先祖は、越後で、戦国時代には武具の制作をしていたといわれ、初代紹益が天正年間に京都に上り、利休の茶道具を作り始めたとされる。当代11代。初代紹益(1559-1622)與十郎、紹高、道銅紹益ともいい、鎚物に優れ、千利休に薬鑵を認められたことに始まるとされる。二代浄益(1593-1670)太兵衛、重高。寛永年間に千家出入の職方となる。表千家四代江岑宗左より灰屋紹益と名前が紛らわしいことから、浄益に改めるよう申しつけがあり、これ以降、代々「浄益」を名乗る。
中里太郎右衛門(なかざとたろうえもん)
元和元年(1615)に唐津藩の御用窯となって以来、400年近い歴史をもつ唐津焼の窯元。有田の「柿右衛門」「今右衛門」とならび「佐賀の三右衛門」と称される。元禄14年(1701)唐津藩窯が築かれ、宝永4年(1707)、中里家4代太郎右衛門らは藩命により唐津坊主町に藩窯を築き、藩の御用品を焼き、さらに享保19年(1734)、唐津藩主土井大炊頭利実の命により、5代中里喜平次らが、坊主町から現在の唐人町へ藩窯を移し、御用窯「御茶碗窯」を築く。この窯で焼かれた器物は「献上唐津」と称され、窯は廃藩後も十一代中里天祐(1924年没)まで使用し今も中里太郎右衛門邸内に残る。
中立(なかだち)
茶事において、初座と後座の間に、客がいったん茶室を出て、露地(通常内露地)の内腰掛へ移り休憩すること。この間、亭主は茶室の飾り付けをあらため、濃茶の準備をし、再び客を迎え入れる。
中次(なかつぎ)
薄茶器の一種。円筒の寸切形で、蓋と身の合わせ目(合口)が胴のほぼ中央にあるところからの呼称。「源流茶話」に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」とあるように、肩衝系の茶入の挽家の形が中次とされる。ただ、「日葡辞書」に「ヤロウまたはnacatcugui碾いた茶を入れるある種の小箱」、「雪間草」に「薬籠当世の中次なり黒塗又やろうとも云」とあり、本来薬を入れる器である「薬器」「薬籠」からという説もある。円筒形の胴の中央部に合わせ目(合口)がある「真中次(しんなかつぎ)」、真中次の蓋の肩を面取りした「面中次(めんなかつぎ)」、面中次の蓋を浅くした「茶桶(ちゃおけ)」、茶桶の身の裾も面取りした「雪吹(ふぶき)」、茶桶の蓋を立上がりがほとんどない程浅くした「頭切(ずんぎり)」(筒切・寸胴切)、真中次の合口の部分が細く鼓を立てたような「立鼓(りゅうご)」、上下(蓋・身)を丸くした「丸中次(まるなかつぎ)」などがある。
中有風露香(なかにふうろのかおりあり)
蘇軾の詩「王伯〓(易夂)所藏趙昌花四首」(王伯ヤク蔵する所の趙昌の花・四首)の「黄葵」に「弱質困夏永。奇姿蘇曉涼。低昂?金杯。照耀初日光。檀心自成暈。翠葉森有芒。古來寫生人。妙?誰似昌。晨粧與午醉。真態含陰陽。君看此花枝。中有風露香。」(弱質夏の永きに困しみ、奇姿暁涼に蘇える。低昂す黄金の杯、照輝す初日の光。檀心自ら暈を成し、翠葉森として芒あり。古来写生の人、妙絶誰か昌に似ん。晨粧と午醉と、真態陰陽を含む。君看よ此の花枝、中に風露の香あり。)とある。
中村宗哲(なかむらそうてつ)
千家十職の塗師。中村家の家祖は、豊臣秀吉の重臣中村式部少輔の臣で京都武者小路に隠栖していた。その隣家が千宗旦の二男甚右衛門(一翁宗守)が養子に入った塗師吉文字屋。一翁宗守が千姓に復姓の際、隣家の中村八兵衛に娘を嫁がせると同時に、吉岡家の家業である塗師の技も併せて継承させ、これが初代宗哲となる。「茶道筌蹄」に「宗哲中村八兵衛勇山と号す、一翁宗守の婿也、始は蒔絵師なりしが塗師になりしは、もと一翁宗守は塗師吉文字屋甚右衛門方の養子になりたる人也、後ぬ師を中村八兵衛へ譲り茶人となるなり、夫より塗師を業とす」とある。初代宗哲(1617-1695)号は方寸庵、漆翁、杯斎。名は八兵衛。
名越浄味(なごしじょうみ)
京釜師。「釜師由諸書」に「京作紹鴎時代に京都天下一西村道仁、名越善正なり」とある名越善正の子が京都名越と江戸名越とに分家した後の京都名越初代名越三昌が「浄味」と号し、俗に「古浄味」と称される。与右衛門、浄林。慶長19年(1614)越前小掾に任じられ、京都大仏鐘を鋳る。寛永15年(1638)没70余歳。二代昌高、与右衛門、寛永16年(1639)没。三代昌乗、与右衛門、浄味と号し、のち昌乗斎と号す。宝永5年(1708)没。四代三典、与右衛門、初名を昌晴、剃髪後浄味を号し、俗に「三典浄味」また「足切浄味」という。享保7年(1722)没。五代与右衛門、享保9年(1724)没。六代昌光、与右衛門、剃髪後浄味を号す。宝暦9年(1759)没。七代昌永、与右衛門。八代昌興、与右衛門、剃髪後浄味を号す。九代昌暉、与右衛門。十代昌次。十一代昌文。
梨子地(なしじ)
蒔絵の技法の一。梨地とも書く。主に文様以外の余白に蒔く地蒔(じまき)に用いる。器面に漆を塗り、漆の乾かぬうちに漆の上に金・銀の粉末(梨子地粉)を蒔き、上に梨子地漆を塗って、梨子地粉が露出しない程度に研ぎ出し、漆を通して梨子地粉が見えるもの。梨の果実の表皮に似ているのでこの名がある。鎌倉時代に生まれた技法で、江戸時代には技法が完成し、梨子地粉の蒔き方にも色々な工夫が行われ、梨子地粉をすきまなく蒔いた「詰梨子地」(つめなしじ)、金梨子地の中に大きく厚い平目粉をまばらに蒔いた「鹿の子梨子地」(かのこなしじ)、刑部梨子地粉といわれる不定形の金銀粉末を蒔いた「刑部梨子地」(ぎょうぶなしじ)などが行われた。「梨子地粉」(なしじふん)は、主に梨子地塗りに使われる金属粉の形状的分類で、金銀などの地金をやすりでおろして細かい粉にした「鑢粉」(やすりふん)を薄くのばし大小にふるいわけた「平目粉」(ひらめふん)をさらに圧延して薄く延ばしたもの。鎌倉・室町時代頃までは粉が厚く、いわゆる平目粉で塗面に金粉がのぞいているが、その後梨子地粉の製造が巧妙になり、時代が下るほど薄くなってくる。梨子地漆(なしじうるし)は、上質の透漆(すきうるし)に雌黄(しおう)またはくちなしの実の煮汁を混ぜて練り、上掛けして金銀粉を透かし見た時に発色が良いよう透明で黄色味をもたせた梨子地用の上塗漆。
茄子(なす)
丸形のやや下膨れで、口造りが細まった茶入。全体の形が茄子の実に似ている事に所以する名称。中国では油壺として使用されていたと考えられているが、日本に伝わり茶入として取り上げられ、古くは唐物茶入の最上位におかれた。「茶道秘録」に「茄子は茶入の中の頂上也。然る故に道具の中にては天子の御位に比する也。押出して小壷と茄子の茶入を云也。真行の台子の時は、茄子ならでは用ひぬ也。此時は必盆に載る也。」とある。
なだれ
釉薬が垂れ下がっているもの。「流」や「頽」の字を当てることもある。茶入では上釉のなだれが景色となり、ふつう置形をなす。釉なだれの先端に釉がたまっている釉溜を「露」と称する。
棗(なつめ)
薄茶器の一種で、最も一般的なもの。黒梅擬(クロウメモドキ)科の植物の棗(ナツメ)の実に形が似ているところからの呼称。他の薄茶器にくらべ器全体の角を取り曲面で出来ている。室町8代将軍足利義政(1436-1490)の用命を被ったとされる村田珠光(1423-1502)時代の塗師・羽田五郎(生没年不詳)が、初めて棗形茶器を作ったとされる。武野紹鴎(1502-1555)が好みとして用い紹鴎在判(糸底に花押)の黒小棗(紹鴎棗)が伝わる。「棗」の語の初見は「今井宗久茶湯書抜」の永禄6年(1563)10月27日の項という。棗が塗物茶器として確たる位置を占めるのは利休(1522-1591)の時代からとされる。珠光、紹鴎、利休と次第に寸法が小さくなっている。現在では、利休形棗と呼ばれる棗が定型となっており、大棗・中棗・小棗の三種があり、小棗は濃茶用、大棗は薄茶専用、中棗は兼用とされる。
濃茶には無地棗を用いる。その他、棗系の薄茶器には、大棗を平たくした「平棗」、小棗を上下に引き延ばした「長棗」、中棗で上部よりも下部の方が膨らみを帯びた「尻張(しりはり)棗」、中棗で胴が張った「胴張棗」、碁石を入れる容器に似た「碁筒(ごけ)棗」、まん丸い形で毬棗の別名がある「丸棗」、小棗で蓋から底へかけて次第に膨らんでいる尻張形で、五本の指で上から鷲掴みに取り扱う「鷲(わし)棗」。中棗と平棗の中間の寸法で白粉を解く容器を利用したことに始まる「白粉解(おしろいとき)棗」などがある。また、好み形により種々の名がある。「源流茶話」に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」、「槐記」に「大体棗は、茶入の挽家也。夫故文琳、丸壺、肩衝を始として、夫々の茶入の形に応じて、挽家はある物故、唐物廿四の挽家にある形より、外はなき筈也、と合点すべし。是大事の習也。」、「嬉遊笑覧」に「棗といふ器は、其形棗実に似たれば、やがてかくよべるにて、もと是も茶桶なるべし。棗も中次も皆然り。庭訓に茶箋茶桶茶巾と出たり。元来は桶といひしは曲げものなり。後には曲物ならぬをも桶といへり。」とある。
名取河(なとりがわ)
陸奥国の歌枕。宮城県と山形県の二口峠付近に源を発し仙台市長町の南東で広瀬川と合流し、名取市閖上で太平洋に注ぐ。「名取川瀬々の埋れ木あらはればいかにせんとか逢ひ見初めけん」(読人不知「古今集」)にみられるように、埋もれ木で名高い。埋もれ木とは太古地上に大繁茂していた植物が地中に埋没し樹種炭化作用をうけたもので工芸資材として珍重される。江戸期にはすべてが伊達家に収納され、その一部が宮中に献上された。4代直斎宗守は九條家の諸太夫の家柄の出身で、伊達家より宮中に献上された埋木を九條家との縁で拝領する機会があり、直斎はこの埋木から四方錫縁(すずぶち)の香合を作らせた。長角錫縁の外見は埋もれ木の木地を生かし、身の内側に細い線描きにより川波のさわぐ模様の蒔絵がほどこされている。蓋裏に「名取河」、身の底部に「守(花押)」の文字が漆書されている。これには直斎の添状が「名取河香合送るとて宗守薫物の香や埋木の花の友官休庵直斎(花押)」とある。歴代家元による写しが造られ、波の蒔絵は流儀を代表する図柄となり、数々の道具に用いられている。
生爪(なまづめ)
古田織部所持の伊賀筒花入。織部の愛蔵品であったが、懇望によって上田宗箇に譲られたものであるという。生爪の銘は、織部の宗箇宛て添状に「以上花筒つめをはかし侯やうに存侯宗是ことつて進入侯茶入宗是ニ可被遣侯来春万々可得貴意候間不能詳侯恐惶古織部大晦日重然(花押)宗ケ老人々御中」とあり、「つめ(爪)をはかし侯やうに存侯」と書かれたことに由来するという。伊丹屋宗不の書いた箱書には「覚永九年二月朔日道朴ヨリ来古田織部殿秘蔵に所持侯を上田主水駿無理ニ御所望侯筒也主水殿より道朴被申請候いかやき花筒道朴ヨリ形見ニ来ル古織部殿そへ状有之」とある。
南蛮砂張(なんばんさはり)
砂張の一。南蛮貿易によって日本にもたらされた、中国・東南アジアなどのものとされ、大名物に南蛮砂張淡路屋舟釣花入などがある。「万宝全書」の唐金物之次第に「高麗沙張槌目なし、黒色也南蛮沙張、槌目有るもあり、書写沙張日本之物なり」とあり、黄みを帯びた白銅色できめが細かく、叩出しによる「虎肌」と称する、鎚跡の凹凸の痕跡が全体にあり、斑紋をなしている。
南蛮物(なんばんもの)
安南(ベトナム)、暹羅(シャム/タイ)、呂宋(ルソン/フィリピン)などで焼かれた焼物の総称。また中国南部のものや朝鮮半島の焼物が南蛮物とされている例もある。焼締の無釉陶の壷、瓶、鉢などが多く、室町時代以降、南蛮貿易によって日本にもたらされ、茶の湯の道具に見立てられ用いられるようになった。水指、花入、建水、灰器などにその例は多い。
南蛮縄簾(なんばんなわすだれ)
南蛮物の一。胴部に櫛状の道具で縄簾を掛け連ねたような縦に平行な線を入れた櫛描文(くしがきもん)があるもの。鉄分の多い細やかな土を用い、全面が茶色一色に焼き上がり景色のない物が多い。水指・建水などに見立てられている。南蛮縄簾水指は、筒形ないし寸切形をし、胴に櫛描文がつき、比較的整った姿をしている。安南(ベトナム)で作られたものとされる。この縄簾風の櫛描文が横に入ったものは別に横縄ともいう。
南方録(なんぼうろく)
千利休に師事した堺の臨済宗大徳寺派南宗寺集雲庵主、南坊宗啓が利休から授かった口伝秘事を書き留めたものとされる茶書。南坊宗啓が「南方録」を完成したのは、利休没後二年目の文禄二年(1593)二月二十八日、利休の祥月命日のこととなっており、その翌月、南坊宗啓は飄然と何処かへ姿を消し、再び集雲庵に
ことはなかったとされる。その93年ののち、貞亨三年(1686)福岡藩士立花実山よって書写され、その後実山によって新たに二巻を付加され秘蔵され、その披見は誓紙・血判をとったうえ読み聴かせる形で、極めて限られた範囲の中で厳重に行われたという(立花実山「岐路弁疑」)。「南方録」の流布は、文化文政時代に入って目立ち、「南坊録」の書名も広まるが、「南方録」のほうが正しいようで「茶は南方の嘉木也」(「茶経」)より名付けられるとする。この茶書が永らく尊重されてきたのは「利休にかえれ」を合言葉として元禄以降に隆昌した利休こそ茶の湯の正風であるとする風潮によるものと考えられている。ただ、現在伝来している「南方録」が利休時代の所産でないことも確かで、立花実山らが「利休にかえれ」を目指すあまり、その編述にさいし古風な趣を匂わせようと努めたため、かえってこの茶書に疑念を抱かせ、明治以降この「南方録」を「偽書」と見る向きも現れ、現在の研究では「南方録」は実山が収集した資料に創作を加えて編纂したものであるという見解が一般的である。しかし、その内容は利休の茶の湯の本質を伝えており、立花実山らの編述書と見なしつつも、「利休への回帰」を人々に促す鮮烈な茶書として高く評価されている。
南鐐(なんりょう)
良質の銀の総称。本来は輸入された良質の銀を意味していたが、室町後期からは単に良質の銀を意味するようになった。南挺・南庭・南延ともいう。中国の銀の産地の一つに南鐐という地名があり、そこから銀の異名となった。
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錦(にしき)
二色以上の色糸で文様を織り出した絹織物。錦は、後漢の劉煕(りゅうき)の「釋名(しゃくみょう)」に「錦金也。作之用功重於。其價如金。故其制字帛與金也」(錦は金也。之を作るに功(わざ)を用いる重し。其の価金の如し。故に其制字は帛(はく)と金なり)とあり、「金」に値する「帛」(絹織物)の意とする。紀元前3世紀の秦時代のものである楚錦に始まり、古くは経糸(織物の縦の長い方向の糸)で多色の色糸を用いて文様をあらわす「経錦(けいきん・たてにしき)」で、漢代の錦は全て経錦である。初唐に緯糸(織物の横幅方向の糸)で文様を織る「緯錦(いきん・ぬきにしき)」が西域より伝えられ、以後これが主流になる。我が国では、法隆寺伝来の蜀紅錦は全て経錦で、正倉院には緯錦が多い。名物裂としては、明の錦織物が珍重された。
西村弥一郎(にしむらよいちろう)
京釜師。西村家初代。慶長寛永時代。西村道仁の子ともいわれるが定かでない。
西村道弥(にしむらどうや)
京釜師。西村家2代(生年未詳-1662)。名は吉利。通称は弥三右衛門。俗称「わたるどうや」という。表千家4世江岑宗左(1613-1672)時代の名工。
西村道也(にしむらどうや)
京釜師。西村家3代。名は孝知。通称は弥三右衛門。俗称「なりどうや」という。表千家6世原叟(1678-1730)の頃に活躍した名工で、西村家随一の上手とされている。後に道冶と改める。「茶道筌蹄」に「道也道彌の子也、彌三右エ門と云ふ、後道冶と改む」とある。
西村道爺(にしむらどうや)
京釜師。西村家4代。名は知義。通称は弥三右衛門。俗称「ててどうや」という。京都三条の釜座に住し、表千家7世如心斎宗左(1705-1751)時代の釜師として活躍した。「茶道筌蹄」に「道爺道也の子也、彌三右エ門と云ふ、原叟の時代より如心斎へかヽる、百佗達磨堂は原叟このみ、累座富士は如心斎このみなり」とある。
二重切(にじゅうぎり)
竹花入の一。筒形の竹花入の上下二段に花窓を切った形をいう。上端が輪になっていて、下に窓を二つあけ、水溜も二つあり、釘穴があけてある。利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて「夜長」(よなが)を作ったのが二重切の始めと云う。ただ、「茶道筌蹄」に「利休二重切に上り亀の蒔絵をなし正親町天皇へ献す」とあり伝存するが、正親町天皇は天正14年(1586)には譲位しており、「夜長」より前の作ということになる。また「茶湯古事談」に「二重切は利休か花の切溜の用に、勝手にかけしを、或時興に乗して其儘小座敷にかけしより、今も間々小座敷へも用ゆ、されと好さる事となん」、「生花之伝」に「二重筒は、利休の勝手花生也。然るを、座敷へも出されしとなり」とあり、水屋の切溜に用いていたものを茶席で用いたとする。「茶湯古事談」に「よなか、二重筒も利休作にて百会にいたせり、はし之坊と云も同作にて名高しとなん」、「槐記」に「今の世、利休の橋の坊の形也とて、二重の節をのべて切たる花生多し」、「生花口伝書」に「一端之坊の事二重切なり。内を黒漆にぬりて村梨地なり。寸法定り有よし、今高家の御秘蔵となる。是また小田原竹也。元竹を律僧と云、末竹を端の坊といふ。是も休の銘なり。京都の町人所持するよし云伝ふ。」とあり、同じときに「端坊」(はしのぼう)が作られている。
日日是好日(にちにちこれこうにち)
「碧巌録」第六則「雲門日日好日」に「擧。雲門埀語云。十五日已前不問汝。十五日已後道將一句來。自代云。日日是好日。」(擧す。雲門垂語して云く、十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道い將ち来れ。自ら代って云く、日日是れ好日。)とあり、「雲門廣録」には「示衆云、十五日已前不問爾、十五日已後道將一句來。代云、日日是好日。」とある。「十五日」は、その日が15日の上堂の日とし「今日」のことと解し、雲門が弟子たちに、今日以前のことは問わない。今日以後どうするか一句にして持って来いと云ったが、誰も答えないので、弟子に代って「日日是好日」と云った。「禅林句集」五言対句に「日日是好日、風來樹點頭。」(日々是れ好日、風来たって樹点頭す。)とあり、「禪林類聚」の「雲門偃禪師示衆云。十五日已前不問汝。十五日已後道將一句來。自代云。日日是好日。天童覺云。屬虎人本命。屬猴人相衝。雪竇顯頌云。去卻一。拈得七。上下四維無等匹。徐行踏斷流水聲。縱觀寫出飛禽跡。草茸茸。煙羃羃。空生巖畔花狼籍。彈指堪悲舜若多。莫動著。動著三十棒。海印信云。日日是好日。風來樹點頭。九江煙靄裏。月上謝家樓。大洪恩云。日日是好日。誰言無等匹。甜瓜徹蔕甜。未必甜如蜜。」から海印信の頌を引く。字義的には、毎日が好い日であるという意だが、白隠禅師は「難透難解」、東嶺禅師も「雲宗門の大事」と云う。
仁清(にんせい)
野々村仁清(ののむらにんせい)生没年不詳、江戸時代初期の慶安(1648-1652)から延宝(1673-1681)のころに活躍した陶工。名は清右衛門。丹波国桑田郡野々村から京都の粟田口(あわたぐち)にやってきた丹波焼の陶工と伝えられ、「仁和寺御記」の慶安3年(1650)10月には「丹波焼清右衛門来ル」とある。京都の粟田口や美濃の瀬戸で製陶を学んだ。尾形乾山の佐野伝書に「仁清ハ尾州瀬戸ニ永ク居候テ茶入焼稽古致候由被申聞候」とある。その後京都に戻った仁清は、寛永年間、覚深法親王が仁和寺を再建した際、仁和寺のためにやきものを焼く窯を求めていたのに関わっていた金森宗和に認められ、仁和寺前に窯を築き、御室焼(おむろやき)と称した。御室(おむろ)とは仏門に入った貴人の僧坊をいい、仁和寺は宇多天皇が退位後の御所として以来御室とも呼ばれていたが、やがて仁和寺周辺の地名となる。仁清の号は仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」をとって門跡から与えられたものである。万治2年(1659)には姓を野々村とする。作品はおもに茶匠金森宗和の依頼によってつくられた茶器類が多く、狩野派や土佐派の画風・漆器の蒔絵などを取り入れ、金銀を使った優美華麗な意匠の絵付と神技ともいえる轆轤の妙による造形は仁清の特徴で、のちに「京焼」として受け継がれた。
人天眼目(にんでんがんもく)
宋の晦巌智昭の編した五家の宗旨の綱要書。全六巻。淳熙十五年(1188)に成る。臨済、雲門、曹洞、イ仰、法眼の順に、宗派ごとに分類し、はじめに各派の宗祖の略伝を掲げ、その派の祖師の語句、偈頌等の重要なものをまとめ、最後に「宗門雜録」として、禅宗史伝の考証、その他の補遺事項を集め、巻尾に慧昭可光の跋を付している。道元は「正法眼蔵」において「後來智聰といふ小兒子ありて、祖師の一道兩道をひろひあつめて、五家の宗派といひ、人天眼目となづく。人これをわきまへず、初心晩學のやから、まこととおもひて、衣領にかくしもてるもあり。人天眼目にあらず、人天の眼目をくらますなり。いかでか瞎却正法眼藏の功徳あらん。」という。
ね     

 

根来塗(ねごろぬり)
漆器の一。紀州根来寺の僧侶により作られ、什器として使われていた漆器。技法的に特徴は無く上塗りの朱が磨滅するほど長年の使用に耐えた朱漆器の代表として認識され、下地の黒漆が斑文となってあらわれたものが茶人に好まれたもの。現在では、黒漆の下地に朱色の漆を重ね、炭により表面の朱を研ぎ出し、一種の装飾法として用いたものも「根来塗」と呼ぶ。文献上「根来」は江戸時代以降とされ「根来」「根来もの」とあり、根来寺で作られた堅牢な朱漆器との認識という。「根来塗」の呼称は、明治11年(1878)黒川真頼の「工芸志料」が初見とされ、「根来塗は伝えて云う、紀伊国那賀郡なる根来寺に於いて製造せし所の漆器なりと。正応元年(1288)同国高野山に在る所の僧徒等、故ありて多く此に転住して大いに堂宇を造営し、一山の伽藍を四門に区分して円明寺といい、豊福寺といい、大伝法院といい、密厳院と云う。堂塔祠字其の中に充斥して、子院諸谷の中に〓(門眞)盈(みちあふれる)し、其の繁栄なること比無し。根来碗は蓋し此の際より盛んに製造せしものならん。其の器たるや、膳、椀、豆子(猪口と壺との間の物なり)、〓子(今の盆なり)、椿盤其の他諸器あり。其の〓(上髟下休)法は朱漆を以ってこれを塗る(黒漆を以って唯台輪の内のみをぬりたる者あり)。其の中或は全体黒漆塗のものもあり、これを黒根来という。応仁元年(1467)京師乱あり、海内尋で大いに乱る。これより後根来寺の僧徒の中、常に兵仗を帯して略奪を事とする者あり、四隣之に苦しむ。天正十三年(1585)是より先、関白豊臣秀吉、根来寺の僧徒の暴動を制す。従わず。是に至りて秀吉大兵を発して遂にこれを討滅す。僧徒或は闘死し或は逃亡す(此の際、薩摩国の田代根占と云う所より朱を出す。因りて根来寺破滅して解散せし所の僧徒の中に、此の地に来り朱塗り椀を作り、以って業と為す者あり、其の製は根来塗に同じくして粗なるものなり。是を薩摩椀という。而してその業久からずして廃す)。是に於いて其の地漆器を製する業も随いて廃するに至れり。而して後京師の漆工根来塗を模擬す。是を京根来という。工人業を伝えて今に至る。」とある。
捻貫(ねじぬき)
器物の形状の一。螺旋状の轆轤目のある焼物。捻子の形をしていることからの名で、茶入や水指や建水などにある。「本朝陶器攷證」に「ねじぬきと云は、万器のなに用ゆるなり、鉄砲の筒にねじあり、其名によりていふとぞ」とある。
鼠志野(ねずみしの)
志野の一種。素地に鬼板(酸化鉄)を水に溶かした泥漿を掛け、その上に篦などで掻き落としによる文様を描いて、さらに志野釉(長石釉)を掛けて焼いたもの。掻き落とした部分が白く残り、鉄の部分が窯内の条件などにより鼠色や赤褐色に焼き上がる。鬼板の鉄分含有分が少なかったり、化粧がけが薄かったり、その他窯の調子で赤く発色したものは赤志野と呼ばれる。
拈華微笑(ねんげみしょう)
「無門関」の「世尊拈花」に「世尊昔在靈山會上、拈花示衆。是時衆皆黙然、惟迦葉尊者破顔微笑。世尊云、吾有正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、付囑摩訶迦葉。」(世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。ただ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す。)とあり、釈迦が霊鷲山(りようじゆせん)で説法した際、花を拈(ひね)り大衆に示したところ、だれにもその意味がわからなかったが、ただ摩訶迦葉(まかかしよう)だけが真意を知って微笑した。釈迦は自分には正しく無上の法門、仏と宇宙の根本原理、法の真実の姿、非常に深く不可思議な法門がある。それは言葉ではいい表せない以心伝心のものだが、摩訶迦葉に全て授けるといったという。禅宗で以心伝心で法を体得する妙を示すときの語で、禅宗における師資相承(ししそうじょう)の始まりとされる。「人天眼目」の「宗門雜録」に「王荊公問佛慧泉禪師云。禪家所謂世尊拈花。出在何典。泉云。藏經亦不載。公曰。余頃在翰苑。偶見大梵天王問佛決疑經三卷。因閲之。經文所載甚詳。」とあり、「大梵天王問佛決疑經(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)」を出典とし「爾時如來。坐此寶座。受此蓮華。無説無言。但拈蓮華。入大會中。八萬四千人天時大衆。皆止默然。於時長老摩訶迦葉。見佛拈華示衆佛事。即今廓然。破顏微笑。佛即告言是也。我有正法眼藏涅槃妙心。實相無相微妙法門。不立文字。教外別傳。總持任持。凡夫成佛。第一義諦。今方付屬摩訶迦葉。」とみえる。ただ、建長7年(1255)日蓮の「蓮盛抄」に「禅宗云く、涅槃の時世尊座に登り、拈華して衆に示す。迦葉破顔微笑せり。仏の言く、吾に正法眼蔵涅槃の妙心、実相無相微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し、摩訶迦葉に付属するのみと。問うて云く、何なる経文ぞや。禅宗答えて云く、大梵天王問仏決疑経の文なり。問うて云く、件の経何れの三蔵の訳ぞや。貞元開元の録の中に曾つて此の経無し、如何。禅宗答えて云く、此の経は秘経なり。故に文計り天竺より之を渡す云云。問うて云く、何れの聖人、何れの人師の代に渡りしぞや。跡形無きなり。此の文は上古の録に載せず、中頃より之を載す。此の事禅宗の根源なり。尤も古録に載すべし知んぬ。偽文なり。」とあり、貞元16年(800)円照が編纂した「貞元釈教録」、開元18年(730)智昇が編纂した「開元釈教録」の仏教経典の二大目録に見られないところから偽経とする。
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能阿弥(のうあみ)
応永4年(1397)-文明3年(1471)越前朝倉家の家臣、中尾真能(さねよし)。法名は真能、号は鴎斎、または春鴎斎。東山流書院茶儀の開祖。周文について水墨画を学び阿弥派の祖。。応仁2年(1468)に息子周健の冥福のために描いた「白衣観音図」が唯一の実作として伝わる。また和歌にも優れ連歌もたしなみ、飯尾宗祗(いいおそうぎ/1421-1502)が連歌の名手7人の秀逸句を集成した「竹林抄(ちくりんしょう)」(1476)の宗祇七賢の一人としてあげられ172句が、また「新撰菟玖波集」にも「公方同朋能阿法師四十三」とあり、43句が収められている。将軍家の同朋衆として足利義政に仕え、唐物奉行として舶来品の鑑定・管理・蒐集を行い「東山御物」を選定する。さらに茶道にも通じ、書院飾や台子飾の法式、茶器の扱い方、置き合わせの寸法である曲尺割(かねわり)も能阿弥にはじまり、点茶の際の所作においても、小笠原流の礼法を取り入れ、柄杓の扱いに弓の操方を、能の仕舞(しまい)の足取りを道具を運ぶ際の歩行に取り入れるなど書院茶の作法を完成させたという。また「御物御画目録」「室町殿行幸御飾記」「君台観左右帳記」の撰述者に擬せられているが異説あり。「山上宗二記」に「南都称名寺に珠光と申すもの御座候。」と足利義政に茶の宗匠として村田珠光を推したとある。子の芸阿弥(名は真芸,1431-85)・孫の相阿弥(名は真相,1472-1525)とともに三阿弥と呼ばれる。
ノンコウ(のんこう)
楽家3代道入の別名。慶長4(1599)楽家2代常慶の長男として生まれる。名は吉兵衛、のち吉左衛門、剃髪して道入、別名「ノンカウ」。明暦2年(1656)没。5代宗入の「宗入文書」に「此時宗旦の花入ニのんかうと云銘有以此吉左衛門ヲのんかうと云」と「ノンカウ」の名の由来が見え、千宗旦が伊勢参宮の途中、能古茶屋(のんこ茶屋)近辺でこの竹を見つけ二重切花入を作り「ノンカウ」と銘をつけ吉兵衛に贈り、吉兵衛は毎日これに花を生けたので吉兵衛のことを「のんかう」と呼ぶようになったと伝えられる。存命中より「樂の名手」と称えられ、楽家歴代随一の名工とされる。本阿弥光悦の「本阿弥行状記」には「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に樂等の伝を譲り得て、慰に焼く事なり。後代吉兵衛が作は重宝すべし、しかれど当代は先代よりも不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし」とある。長次郎や常慶の古楽の作風から脱し、釉や窯の改良により、釉薬がよく溶け光沢のある優雅な楽茶碗を完成させた。薄手の口づくりや大きな見込みにも特色がある。薄い胎土に何度も黒釉をかけ、釉が厚くなって垂れ下がり、幕が垂れ下がったように見えるところからノンカウの幕釉(まくぐすり)と呼ばれる。銘印は大小二種あり「樂」の字の中の「白」が「自」となっていて「自樂印」と称される。  
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灰被(はいかつぎ)
炭火などが燃えるにつれて、白い灰に覆われること。窯の中で降灰や灰汁を被った意味で、薪の灰が器胎表面に付着して、熱によってとけて灰釉を掛けたような状態になったもの。「はいかづき」とも。灰被天目。
灰被天目(はいかつぎてんもく)
天目茶碗の一種。鉄釉が二重掛けされ、下に掛けられた釉が灰色となり、釉面が灰をかぶったような翳のある不明瞭な景色を呈したもの。中国・宋時代に福建省南平茶洋窯などで焼かれたとされる。「君台観左右帳記」に「天目。御物などは一向御座無物也。大名にも外様番所などにもをかるヽ。薬建盞に似たるをば灰かづきと申。上の代五百匹。」(群書類従本)「天目、つねのことし。はいかつきを上とする也。上には御用なき物にて候間、不及代候也。」(東北大学蔵本)とあり、価値の低いものとされていたが、侘茶の盛行とともに、それまで珍重された端正で光り輝く、耀変、油滴、建盞などに代わり、灰被天目が注目されるようになり、村田珠光所持の伝承をもつ「珠光天目」が伝世し、「山上宗二記」には「天目。紹鴎所持一つ。天下三つの内、二つ関白様に在り。引拙の天目、堺油屋に在り。いずれも灰かつぎ也。」とあり、高く評価されている。
梅花帶月一枝新(ばいかつきをおびていっしあらたなり)
南北朝時代の臨済宗の僧で臨済宗永源寺派の開祖、寂室元光(じゃくしつげんこう:1290-1367)の「不求名利不憂貧。隱處山深遠俗塵。歳晩天寒誰是友。梅花帶月一枝新。」(名利を求めず貧を憂えず。隠処山深うして俗塵を遠ざく。歳晩天寒くして誰れか是れ友なる。梅花月を帯びて一枝新たなり。)の一節。
梅花和雪香(ばいかゆきにわしてかんばし)
「禅林句集」七言に「一枝梅花和雪香」(一枝の梅花雪に和して香ばし)、下注に「梅雪中發暗香故也」(梅は雪中に暗香を発する故なり)とあり、出典は未記載。「錦江禪燈」に「不是一番寒徹骨。爭得梅花破雪香。」(これ一番寒骨に徹せずんば、いかでか梅花の雪を破りて香ばしきを得ん。)とみえる。
灰器(はいき)
炭点前で、灰匙で蒔くための灰を入れる器。灰炮烙(はいほうろく)。風炉用と炉用があり、風炉用は小振りで釉薬のかかったもの、炉用は大振りで湿り灰(濡灰)を入れるため釉薬のかかっていない素焼のものを用いる。灰器は炉の炭点前には必ず用いるが、風炉の場合には土風炉で蒔灰がしてあるときのみ用いられる。「茶道筌蹄」に「甕蓋南蛮のツボの蓋なり。島物。備前、信楽。楽素焼利休形なり。同薬懸利休形、風炉に用ゆ。同焼抜如心斎好、長入より前になし。同ノンカウ形素焼に押判あり。同内薬卒啄斎好、炉に用ゆ。金入了々斎好、善五郎作、黒に金入、炉に用ゆ。半田之事。泉州半田村にて焼。素焼は炉に用ひ、薬懸風炉也。仙叟好、素焼にて少々小形押形あり炉に用ゆ。大焙烙あり、むかしは底取に用ゆ、長次郎作ある物也。」とある。
灰匙(はいさじ)
炭点前で、風炉や炉に灰をまくための匙。風炉の折は灰形を作るのに用いる。灰杓子(はいじやくし)。鉄や銅などの金属製で、炉用、風炉用の二種類があり、風炉用には小ぶりで柄が長く柄に竹の皮を巻いたもの、炉用には大ぶりで桑の木の柄がついたものが用いられる。「茶話指月集」に「灰さじも、むかしは竹に土器などさしはさめるを、安、金にして柄を付けたり。休、はじめは、道安が灰すくい、飯杓子のような、とて笑いけるが、是も後はそれを用ゆ。」と見え、「茶道筌蹄」に「利休形桑柄ニクロミさし込。少庵形桑柄ベウ打火色。宗全形大判形竹皮巻。仙叟形同断大形なり。長二郎形赤楽焼竹皮巻延付焼なり。」とあり、利休形は桑柄で匙が柄に差込みなっており、少庵好は鋲打ち、特殊なものとして楽焼(元伯好み)のものがある。
灰吹(はいふき)
莨盆の中に組み込み、煙管で吸った煙草の吸殻を落とすための器。煙壷。吐月峰。吐月峰(とげっぽう)は静岡市にある山の名で連歌師宗長(そうちょう:1448-1532)がここに吐月峰柴屋軒を開き自ら移植した竹を使い竹細工をし、灰吹に吐月峰の焼印をして売られたため、吐月峰と書いて灰吹と読むほどになったという。向井震軒の「煙草考」に「烟壷俗謂灰吹也。以棄烟燼、俗謂吸殻也。漢人此謂烟糞。且以吐唾。其器用唐金或瓷器。長三寸許、大一寸餘。其形容方圓不同。或用青竹筒。」とあるが、茶席では通常竹が用いられ、青竹に限らず、普通白竹を用いている。
萩焼(はぎやき)
山口県萩市周辺で焼かれる陶器。一楽二萩三唐津と云われ、ほとんどの場合、絵付けは行われず、大道土、金峯土を基本に、そこに見島土や地土と呼ばれる地元の土を配合して作られた胎土、藁灰を多く配合しこってりと白濁した白萩釉、白萩よりも藁灰の量が少なく釉の厚い部分は白濁し薄い部分は透明に近くなる萩釉などの釉薬のかけ具合、へら目などとともに、登窯を使用した窯変による形成が特徴で、焼き締まりの少ない柔らかな土味と高い吸水性により萩焼の胎土(原土)には浸透性があり、使用するにつれて茶がしみ込み、茶碗の色合いが変わるのを「茶馴れ」といい、色つやが時代とともに微妙に変化するため「萩の七化け」と称し珍重される。萩焼は豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592-1598)で、毛利輝元が連れ帰った李朝の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国し、慶長九年(1604)輝元の萩入府に伴い広島から萩に移り、松本中之倉に屋敷を拝領し、薪山として鼓ケ嶽(唐人山)を与えられ、窯薪山御用焼物所ができたことに始まる。これを松本焼と呼ぶ。一説では、李勺光は秀吉の命令で大阪へ連れてこられ輝元に預けられ、その後慶長の役で弟の李敬を連れて帰ったとも、季勺光と季敬は兄弟ではないとの説もある。
「本朝陶器攷證」には「元祖高麗左衛門と申候、朝鮮の生れ李敬と申者なりしが、朝鮮御征伐之時、道しるべを致し候所、すぐ様中納言の君召つれられ、日本へ渡海仕り助六と申せしが、御帰国の後、其方何業仕候哉と御尋の所、半弓を射、又陶工をいたし候由を申上る。御悦少なからず、長く我国の宝にておはすれとて長門の松本と云所へ家屋敷を給はり、則今以其所にて製す。追々君の御印物等拝領仕、血脈相続いたし、当時新兵衛八世に相当り申候。山号を韓峯と申、俗に唐人山と申す。右高麗左衛門と申は、君より給りし名なり、氏は坂と申、是松本焼物本家筋に御座候。」とある。季勺光の死後、季勺光の子、山村新兵衛光政(松庵)が寛永2年(1625)に毛利秀就より「作之允」に任命され「窯薪山御用焼物所惣都合」を命じられ、坂助八と名乗っていた李敬も同年「坂高麗左衛門(さかこうらいざえもん)」名を受ける。
明暦3年(1657)松庵の子、山村平四郎光俊が三之瀬焼物所惣都合〆となり、大津郡深川村ふかわ三ノ瀬に「三ノ瀬焼物所」を開設、これを深川焼あるいは三ノ瀬焼と呼ぶ。深川では御用窯ながら自家販売が認められ、元禄6年(1693)には庄屋の支配に変わり民窯としての性格が強くなる。深川焼には、山村平四郎光俊の系譜で現在15代に至る坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)、山村平四郎光俊の6代目坂倉五郎左衛門の子、善兵衛が坂田姓に改姓し14代に至る坂田窯、焼物所の職人赤川助左衛門の系譜が13代に至る田原陶兵衛(たはらとうべえ)。赤川助右衛門の系譜で11代の時に赤川姓から新庄姓に改姓し14代に至る新庄窯の四窯がある。12代新兵衛は人間国宝。
寛永三年(1663)2代藩主綱広が、三輪忠兵衛利定と佐伯半六実清を御雇細工人として召し抱え、無田ケ原で御用窯をつとめたのが三輪窯で、初代休雪は元禄十三年(1700)藩命で京都の楽一入について楽焼の修業をし、4代休雪も永享元年(1744年)楽焼きの修行を命じられ、それまで李朝の影響の強かった萩焼の和風化が進められた。10代休雪(休和:1896-1981)、11代休雪(1910-)は人間国宝。
白隠慧鶴(はくいんえかく)
江戸時代中期の臨済宗の禅僧で、近世臨済禅中興の祖とされる。貞享2年(1686)-明和5年(1769)。道号は白隠、法名は慧鶴。別号は鵠林。駿河駿東郡原宿の長沢家の三男として生まれる。1699年(元禄12)同地「松蔭寺」の單嶺祖伝について出家。各地の禅匠に歴参。1708年越後高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟するも満足せず、宝永5年(1708)信儂飯山の正受庵主道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟し、印可を受けた。享保2年(1717)「松蔭寺」に住し、翌年「妙心寺」首座となり白隠と号した。以後自坊「松蔭寺」において大勢の参徒を指導、弟子を育成するとともに、請に応じて各地に仏経・祖録を講じ布教につとめ、曹洞宗・黄檗宗に比して衰退していた臨済宗を復興させ「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と歌われた。宝暦13年(1763)三島(静岡県)の竜沢寺を中興開山。明和5年(1768)松蔭寺で示寂。明和6年(1769)後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号を、また明治17年(1884)明治天皇から正宗国師の諡号を賜る。「槐安国語」「息耕録開筵普説」「荊叢毒蘂」など漢文体の語録と「夜船閑話」「壁生草」「薮柑子」「遠羅天釜」「おたふく女郎粉引歌」「大道ちょぼくれ」などの仮名法語がある。会下に東嶺円慈、遂翁元盧、峨山慈棹、葦津慧隆など多数の禅傑を輩出、鵠林派(こうりんは)ともよばれその厳しい公案禅は臨済宗を席捲し法流を独占するにいたる。明治以降、白隠の名はその墨蹟・禅画に対する興味が先行してひろく知られるようになり、臨済宗十四派は全て白隠を中興とし「白隠禅師坐禅和讃」を坐禅の折に読誦するが、没後100年にはすでに「中興の祖」とする認識が定着し「坐禅和讃」が日課として誦まれるようになっている。
白雲自去來(はくうんおのずからきょらいす)
「禅林句集」にある五言対句「青山元不動。白雲自去來。」(青山もと不動。白雲自ら去来す。)の一句で、白雲は妄想や煩悩などの例えで、雲が次から次へと湧き起こり去来しても、山は元の姿のままそこにあるように、人間は本来の仏性があり、これに気づくなら煩悩や妄想の雲に惑わされることはないとのこと。「景徳伝燈録」に「時有僧問。如何得出離生老病死。師曰。青山元不動。浮雲飛去來。」(時に僧問う有り、如何でか生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山もと不動にして、浮雲飛去来。)とあり、「五燈會元」に「僧問。如何得出離生老病死。師曰。青山元不動。浮雲任去來。」(僧問う、如何でか生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山もと不動にして、浮雲去来に任す。)とある。「祖堂集」には「白雲聴〓(イ尓)白雲」(白雲はなんじの白雲たるにまかす。)、白雲は白雲の好きなように、とある。
白雲片片嶺上飛(はくうんへんぺんれいじょうにとぶ)
「禅林句集」七言に「白雲片片嶺上飛。」(白雲片片嶺上に飛ぶ。)とある。「五燈會元」巻第十二「慧覺廣照禪師」に「上堂。天高莫測。地厚寧知。白雲片片嶺頭飛。告潺潺澗下急。東湧西沒一句即不問。〓(イ尓)生前殺後一句作麼生道。良久曰。時寒喫茶去。」とあり、「續燈録」同師に「上堂云。天高莫測。地厚寧知。白雲片片嶺頭飛。緑水潺潺澗下急。東涌西沒一句即不問爾。生前殺後一句作麼生道。良久云。時寒。喫茶去。」(上堂。云う、天高くして測るなし、地厚くしていずくんぞ知るや。白雲片片嶺頭に飛び、緑水は潺潺として澗下に急なり。東涌西沒の一句は即ち問わず。生前殺後の一句は作麼生道う。良久して云う、時寒、喫茶去)とある。潺潺(せんせん)/水のさらさらの流れるさま。また、その音。澗下(かんか)/谷川の下。東涌西没(とうゆさいもつ)/東からのぼり西に没すること。
白雲起峰頂(はくうんほうちょうにおこる)
「潭州道吾真禪師語要」に「上堂。問。如何是奪人不奪境。師云。庵中闡ナ坐。白雲起峰頂。如何是奪境不奪人。師云。閃爍紅霞散。天童指路親。如何是人境兩倶奪。師云。剛骨盡隨紅影沒。〓(上廾下召)苗總逐白雲消。如何是人境倶不奪。師云。久旱逢初雨。他郷遇舊知。」(上堂。問う、如何なるか是れ奪人不奪境。師云く、庵中間打坐、白雲峰頂に起こる。如何なるか是れ奪境不奪人。師云く、閃爍紅霞を散らし、天童路を指すに親なり。如何なるか是れ人境両倶奪。師云く、剛骨尽く紅影に隨いて没し、(上廾下召)苗総て白雲を逐いて消す。如何なるか是れ人境倶不奪。師云く、久旱初雨に逢い、他郷旧知に遇う。)とある。奪人不奪境(だつじんふだつきょう)/人(にん)は人間・主観、境(きょう)は世界・客観を示す。「臨濟録」に「師晩參示衆云。有時奪人不奪境。有時奪境不奪人。有時人境倶奪。有時人境倶不奪。」(師、晩参、衆に示して云く、有る時は人を奪って境を奪わず。有る時は境を奪って人を奪わず。有る時は人と境と倶に奪う。有る時は人と境と倶に奪わず。)とあり、世界のみがあって自己がない「奪人不奪境」、自己のみがあって世界がない「奪境不奪人」、自己と世界の別がない「人境両倶奪」、自己も世界もそのままにあるがままの「人境不倶奪」の、いわゆる臨済の四料簡(しりょうけん)のこと。
白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)
南朝宋の謝靈運(384-433)の詩「過始寧墅」に「白雲抱幽石、克ツ媚清漣。」(白雲、幽石を抱く、克ツ清漣に媚ぶ。)とあり、これをそのまま引いて「寒山詩」に「重巌我卜居、鳥道絶人迹。庭際何所有、白雲抱幽石。住茲凡幾年、屡見春冬易。寄語鐘鼎家、虚名定無益。」(重巌に我れト居す、鳥道人跡を絶す。庭際何んの有る所ぞ、白雲幽石を抱く。ここに住むことおよそ幾年、しばしば春冬のかわるを見る。語を寄す鐘鼎の家、虚名定まらず益無し。)とある。重巌(ちょうがん)は、巌が重なる山。卜居(ぼっきょ)は、うらなって住居を決めること。転じて、住居を定めること。鳥道(ちょうどう)は、鳥が飛べるほどの狭い道。庭際(ていさい)は、庭の際。幽石(ゆうせき)は、幽寂な石。鐘鼎(しょうてい:釣鐘と鼎)の家は、富貴の家。巌が重なる山に私は居を定めた。鳥だけが通う険しい人跡の絶えたところ。庭先に何があるかというと。白雲が苔むした岩を包み込んでいる。ここに住むこと幾数年。春冬の季節の移り変わりを見てきた。栄華を誇る人々に一言いわせてもらえば、それは空虚なもので意味のないものだ。陶弘景(456-536)の詩「詔問山中何所有賦詩以答」(山中に何の有る所ぞと詔問せられ、詩を賦して以って答う)に「山中何所有、嶺上多白雲。只可自怡悦、不堪持寄君」(山中何の有る所ぞ、嶺上に白雲多し。只だ自ら怡悦すべきのみ、持して君に寄するに堪えず。)とあるを踏まえたものという。
白磁(はくじ)
磁器の一種。素地に高純度の白陶土(カオリン)を用いた白色磁胎に、透明な高火度釉を施し、高温で焼いた白色の硬質磁器。中国六朝時代の6世紀後半・北朝北斉時代に起こり、唐代に入ると一気に流行し、青磁を凌ぐようになる。宋代では、北宋の定窯(ていよう)において蓮華刻文や細かな型押文,象牙色の精巧な白定と呼ばれるものが作られたが、金の侵入で北宋が滅ぶと同時にすたれてしまった。南には景徳鎮(けいとくちん)において陰刻文にたまった釉が青味をおびていることから影青(インチン)と呼ばれる青白磁が作られた。元時代以降は、主に絵付磁器の素地として量産されるようになる。朝鮮半島では、10世紀に白磁の焼成法が伝えられ高麗白磁がわずかに作られたが、李氏朝鮮王朝(李朝)に入りって15世紀から本格的に焼成されるようになり、19世紀には白磁が大衆化する。日本では江戸初期の有田焼に始まる。
白的的(はくてきてき)
「禅林句集」に「明皎皎白的的」(皎皎ハ月ノ明ナル皃的的ハ分明也)、「清寥寥白的的(大慧録八楚石十ノ十七丁)」と載る。「明皎皎白的的」の出典は不詳。「大慧普覺禪師語録」巻八には「示衆。舉龐居士云。心如境亦如。無實亦無虚。有亦不管。無亦不拘。不是聖賢了事凡夫。師云。白的的清寥寥。水不能濡火不能燒。是箇甚麼。切不得問著。問著則瞎却爾眼。以拄杖撃香臺一下。」とある。「碧巖録」第三十四則に「懶瓚和尚。隱居衡山石室中。唐コ宗聞其名。遣使召之。使者至其室宣言。天子有詔。尊者當起謝恩。瓚方撥牛糞火。尋煨芋而食。寒涕垂頤未甞答。使者笑曰。且勸尊者拭涕。瓚曰。我豈有工夫為俗人拭涕耶。竟不起。使回奏。コ宗甚欽嘆之。似這般清寥寥白的的。不受人處分。直是把得定。如生鐵鑄就相似。只如善道和尚。遭沙汰後。更不復作僧。人呼為石室行者。」(懶瓚和尚、衡山石室の中に隱居す。唐のコ、宗其の名を聞いて、使を遣して之を召す。使者、其の室に至つて宣言す。天子詔有り、尊者まさに起つて恩を謝すべし。瓚、まさに牛糞の火を撥つて、煨芋を尋ねて食す。寒涕、頤に垂れて未だ甞て答えず。使者笑つて曰く、且らく勸む、尊者、涕を拭え。瓚曰く、我れ豈に工夫の俗人の為に涕を拭くこと有らん耶といつて、竟に起たず。使、回つて奏す。コ宗、甚だ之を欽嘆す。這般の清寥寥、白的的に似たらば、人の処分を受けず。直に是れ把得定して、生鐵鑄就すが如くに相似ん。只善道和尚の如きは、沙汰に遭うて後、更に復僧と作らず。人呼んで石室行者と為す。)とみえる。
刷毛目(はけめ)
陶器の加飾法の一。泥漿にした化粧土を、刷毛や藁を束ねたもので素地に塗り、塗り目の現われたもの。朝鮮陶器で始められたもので、多くは李朝初期に全羅南道の務安や忠清南道公州郡の鶏龍山(けいりゅうざん)にて焼かれた。李朝で一般庶民の白磁の使用が禁じられたため白磁の代用として焼かれたとされる、鉄分の多い鼠色の素地に白泥を化粧掛けして上から木灰釉などの透明釉を施して焼成した粉青沙器(粉粧灰青沙器)のひとつで粉青刷毛目ともいう。素地を白泥の中に浸す「粉引」が白土の上に透明釉を掛けた二重掛けで素地と釉薬が直接触れていないため強度的に弱く、釉剥がれがおきたり、ピンホ−ルができたりするため、白泥の素地への密着を良くするために刷毛で刷り込むようになったとも、量の潤沢でない貴重な白泥を節約するため、量産するため手間を省いたものともいわれる。白泥を刷毛引きした後、鬼板(鉄分を含む含鉄土石)で下絵を描いて焼成されたものを「絵刷毛目」(鶏龍山で焼かれたところから「鶏龍山」ともいい、素地に白泥をズブ掛けし、その上に文様を施す粉引鉄砂とは区別される。)、線彫や掻落などが行なわれた「彫刷毛目」などがある。日本では、17世紀初頭に、唐津焼において刷毛目の作品が現われる。
刷毛目唐津(はけめからつ)
唐津焼の技法のひとつ。素地の色が黒い場合、白磁に似せるため白土(化粧土)をかけて白くすることを白化粧といい、この化粧土の溶液を刷毛や藁を束ねたもので刷毛塗りし、塗り目の現われたもの。
箱(はこ)
茶の湯の道具を入れ保護するために作られた容れ物。多くは方形で蓋が付く。基本として身・蓋・底から成り、蓋には身の口縁が蓋の中に入る「覆蓋(かぶせぶた)」、身の口の上にのる「置蓋(おきぶた)」があり、「覆蓋」には身の上からかぶせる所謂「覆蓋」と「薬籠蓋(やろうぶた)」、「置蓋」には「平蓋」「桟蓋(さんぶた)」があり、「桟蓋」には「四方桟蓋」「二方桟蓋」、他に「差蓋(さしぶた)」などがあり、底にも「平底」「上げ底」などがある。材質は桐が多く、杉・栃・桑や紫檀・黒檀・鉄刀木などの唐木のものもある。また、木地・真塗・掻合塗・春慶塗・蒔絵などがある。茶道具における箱は、道具の時代と伝来を示すものとして道具とともに尊重され、作者や銘・由来などを記した「箱書」がつけられ、「内箱」「中箱」「外箱」など二重箱・三重箱に納められたり、いくつかの箱を一緒に入れた「総箱」など幾重にも仕立てられたものもある。近世以降、作品を入れる箱に作者が作品の名前、署名、印などを記したものを「共箱(ともばこ)」という。箱に掛けられた紐は、もとは「丸紐」であったが、江戸時代に入ると殆どが「真田紐」となり、流儀により色や柄が異なる。
馬祖(ばそ)
馬祖道一(ばそどういつ)。中国唐代の禅僧(709-788)。漢州(四川省)の人。勅号、大寂禅師。慧能門下の南岳懐譲(なんがくえじよう)の法を嗣ぎ、江西省で禅宗を広め、弟子に百丈懐海らがいる。
八景釜(はっけいがま)
茶湯釜の一。八角形の八面に「夜雨」「晩鐘」「帰帆」「晴嵐」「秋月」「落雁」「夕照」「暮雪」の八景文様を鋳込んだもの。八景とは、中国湖南省の洞庭湖に面した瀟湘(しょうしょう)の景勝八景を北宋の宋迪(そうてき)が「瀟湘夜雨」「遠寺晩鐘」「遠浦帰帆」「山市晴嵐」「洞庭秋月」「平沙落雁」「漁村夕照」「江天暮雪」の山水画「瀟湘八景」に描いたことに始まり、これが日本に伝わり室町時代の明応9年(1500)近衛政家が琵琶湖に遊んだ時、瀟湘八景に倣って琵琶湖の西南岸から「唐崎夜雨」「三井晩鐘」「矢橋帰帆」「粟津晴嵐」「石山秋月」「堅田落雁」「勢田夕照」「比良暮雪」の八景を選ひ自ら絵と和歌をしたためたのが「近江八景」と云われ、八景は牧谿、玉澗、雪村など古来多くの画家達によって取り上げられ、日本人の風景観にも大きな影響を与えたと思われる。その八景を茶湯釜に仕立てたものが八景釜だが、八景すべてがあるのはまれで、六・四・二景ぐらいのものが多く、芦屋釜にもみられるが、脇芦屋、特に博多、伊予釜にみいだされるという。
白珪尚可磨(はっけいなおみがくべし)
「文選」の「初發石首城」(初めて石首城を発す)に「白珪尚可磨、斯言易為緇。」(白珪なお磨く可し、この言は緇を為し易し。)、白い玉はまた磨けばいいが、言葉は黒く汚れ易い、とある。「詩經」大雅の抑の篇に「白圭之〓(王占)、尚可磨也、斯言之〓(王占)、不可為也。」(白圭の(王占)けたるは、なお磨くべし、この言の(王占)けたるは、為(おさ)むべからず。)、白い玉の欠けたのは、また磨けばいいが、言葉を誤ると改めようがない、とあるを引く。珪(けい)/圭の古字。玉。〓(王占)(てん)/欠ける。玉のきず。緇(し)/。黒色。黒く染まる。「從容録」に「丹霞淳和尚道。水澄月滿道人愁。冰盤秋露泣。戀著即不堪也。大荒經。崑崙丘上。有琅〓(王干)玉樹。結子如珠而小也。玄中銘。靈木迢然鳳無依倚。與鶴不停機。皆不許守戀坐著也。鳥寒而凄。不欲落他根株枝葉也。詩抑篇。白珪之〓(王占)尚可磨也。玉内病曰瑕。體破也。外病曰〓(王占)。色汚也。此頌。仰山貴白珪無〓(王占)。不落第二頭。如何是第一頭。大悟後方知不是。」(丹霞淳和尚道う、水澄み月満ち道人愁い、冰盤秋露泣き、恋著即ち堪えざるなり。大荒経、崑崙丘の上に、琅(王干)玉の樹あり、結子珠の如くして小なり。玄中銘、靈木迢然として鳳依倚するなし、与に鶴停機せず。皆な坐著に守恋するを許さざるなり。鳥寒うして而して凄じ。根株枝葉、他に落ちるを欲せざるなり。詩の抑篇に、白珪の(王占)なお磨くべし也。玉内の病を瑕と曰い、体破れるなり。外の病を〓(王占)と曰い、色汚れるなり。此の頌。仰山白珪の(王占)なきを貴ぶ。第二頭に落ちず。如何なるか是れ第一頭。大悟の後まさに不是を知るべし。)とある。
八卦文(はっけもん)
文様の一。三本の算木を組み合わせ易占の八卦をかたどった文様。算木文(さんぎもん)ともいう。
八寸(はっすん)
懐石道具の一。八寸(約24cm)四角の杉木地の盆。転じて、献立の名称。千利休が京都洛南の八幡宮の神器から作ったといわれる。懐石で、食事の段に続き、吸物椀が出て、客が箸洗いを終わったころ、亭主が左手に八寸、右手に銚子を持って出る。八寸には、酒の肴二種をのせ、客に酒をすすめ、主客の盃の応酬がおこなわれる。肴の二種は、海のもの(生臭もの)と山のもの(精進もの)を、客の数に亭主の分を加えて盛る。八寸膳。
花入(はないれ)
茶席に飾る茶花を入れる器。金属・磁器・陶器・竹・籠・瓢などがある。花入は、中釘や床柱の花釘に掛ける掛花入、床の天井や落掛などから吊る釣花入、床に置く置花入などがある。床が畳敷きの場合は置花入の下に薄板を敷く。「茶話指月集」に「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」とあるように、籠花入には薄板は用いない。胡銅・唐銅や唐物青磁などを真、上釉のかかった和物の陶磁器を行、竹・籠・瓢や上釉のかからない陶磁器などを草とする。「南方録」には「小座敷の花入は、竹の筒・籠・ふくべ(瓢)などよし。かねの物は、凡そ四畳半によし。小座敷にも自然には用いらる。」とある。竹花入は、「茶話指月集」に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」とあり、此の頃以降大いに用いられるようになった。
花閑鳥自啼(はなしずかにしてとりおのずからなく)
唐の詩人、皇甫曾(こうほそう:721-785)の「題贈呉門〓(上巛下邑)上人」に「春山唯一室、獨坐草萋萋。身寂心成道、花閑鳥自啼。細泉松徑裏、返景竹林西。晩與門人別、依依出虎溪。」(春山ただ一室、独り坐すに草萋萋たり。身寂、心成道、花閑にして鳥自ら啼く。細泉、松徑裏、返景、竹林の西。晩に門人と別る、依依たり出虎の溪。)とある。萋萋(せいせい)/草木の盛んに茂るさま。身寂/「身寂者、身依七支坐法、使脈結解開、以淨氣息灌注菩提甘露、易生輕安喜樂、顯現明體、或足相架、身支隨其自然。」とある。返景(へんけい)/夕日の照り返し。「初學記」に「日西落、光反照於東、謂之反景」(日西に落ち、光東に返り照る。之を反(返)景と謂う)とある。依依(いい)/枝や葉の茂っているさま。
羽田五郎(はねだごろう)
室町時代の塗師。生没年不詳。稲垣休叟(1770-1819)の文化13年(1816)「茶道筌蹄」に「五郎羽田氏、奈良法界門の傍に住す、夫ゆへ五郎の作を法界門塗と云、羽田盆ともいふ、珠光時代の棗は、五郎作に限りては杉の木地板目なり」とあり、茶器の棗は羽田が珠光のために作ったのが最初であると伝えられる。
羽田盆(はねだぼん)
端が矢筈になった黒漆塗の四方盆。羽田五郎の創意と伝えられる。「茶道筌蹄」に「羽田羽田五郎作。矢筈盆。松屋所持なり。」、「五郎羽田氏、奈良法界門の傍に住す、夫ゆへ五郎の作を法界門塗と云、羽田盆ともいふ。」とある。
羽箒(はぼうき)
炭点前で、炉縁の周囲、炉壇の上、五徳の爪や風炉などを掃くためのもの。三つ羽と一枚羽のものがある。一枚羽は真の羽箒として、炉、風炉共に用いる。三つ羽は行・草の位のもので、炉用は左羽(向って左が広い)、風炉用は右羽(向って右が広い)を使い、ともに三枚合わせて手元を竹の皮などで包んである。
蛤棚(はまぐりだな)
一枚の桐の板を、蛤形にくり抜いて天板とし、その残りを客付の側面に立て、勝手付を竹の柱で補った組み立て式の棚。地板がないため、水指は運び点前のように、点前のはじめに運び出し、終わると運び去る扱いになる。直斎好のものは節が一つの竹柱を使い杓釘がなく、天板に柄杓と蓋置を飾る。愈好斎好は勝手付き側の竹柱に節二つのものを使い、杓釘があり、柄杓の合を掛けて飾る。初飾りには棚の天板の上に茶器を飾り、後飾りで柄杓を柱に掛け、柱の手前に蓋置、天板の上に茶器を飾る。
浜松(はままつ)
浜辺の松。釜の地紋の浜松文様は室町時代の典型的な様式という。東京国立博物館所蔵の重文の「浜松図真形釜(はままつずしんなりかま)」は、室町期の芦屋釜を代表する釜で、下方に霰で洲浜をあらわして,そこに屈曲の多い枝ぶりの松を繊細な調子で鋳出している。
早舟(はやふね)
長次郎七種のひとつ。利休の茶会で、細川三斎がこの茶碗は何焼かと質問したところ、利休が「早船を仕立てて高麗より取り寄せた」と答えたところから「早舟」と名付けられた。 「松屋会記」には「早船茶碗ハ楽焼也。易(千宗易)茶ヲ御立候を忠興公問云。是は何焼に候哉。易答云。早船ヲ仕立テ高麗へ取りに遣候也。後刻忠興ヨリ只今ノ早船を申受度トノ書状参,是ヨリノ名物也。」とある。「利休書簡」に「此暁三人御出、きとくにて候。とかく思案候ニ、色々申被下候而も不聞候。我等物を切候て、大黒を紹安にとらせ可申候、はや舟をハ松賀嶋殿(蒲生氏郷)へ参度候。又々とかく越中サマ(細川三斎)御心へ分候ハてハいやにて候。此理を古織(古田織部)と御談合候て、今日中に御済あるへく候。明日松殿(蒲生氏郷)は下向にて候。何にとも早舟事、そうさなく候ひてもむつかしく候。越中殿(細川三斎)へ無心申候て、右申如候。はや舟をハ飛もし(飛文字。飛騨守のことで蒲生氏郷〕参候。大くろを紹安に可被遣候事、乍迷惑其分ニすまし可申候。已上かしく。十九日両三人まいる」とあるように蒲生氏郷に早舟を授けた。
春來草自生(はるきたらばくさおのずからしょうず)
「廣燈録」に「進云。如何是向上事。師云。秋到黄葉落。春來草自生。」(進云う、如何ならん是れ向上の事。師云く、秋到たらば黄葉落ち、春来たらば草おのずから生ず。)とある。
春入千林處々花(はるはせんりんにいるしょしょのはな)
「春入千林處々花秋沈満水家々月」(春は千林に入る処々の花、秋は万水(ばんすい)に沈む家々(かか)の月)と「禅林句集」にみえるというが未見。「北澗居簡禪師語録」の偈頌には「秋澄萬水家家月。春入千林處處花。為問大悲千手眼。不知明月落誰家。」(秋は万水に澄む家々の月、春は千林に入る処々の花。為に問う、大悲千手眼。知らず、明月誰が家にか落つ。)とみえる。春にはどこの林や野にも草木が芽吹き花が咲き、秋にはどこの家にも月は輝き、どこの水にも月は宿る。このように、目の前の森羅万象すべてに平等に仏の世界(法性)が行き渡り、人という人みな仏性のない人はいない、とのこと。千宗旦の書に、この前半句の「花」を「鶯」に置き換え「春入千林處々鴬」(春は千林に入る処々の鴬)としたものがあり、表千家では初釜の床に掛けられる慣わしという。
半板(はんいた)
長さ一尺四寸、幅一尺二寸の板で、風炉用の長板を半切にした寸法のため半板と称する。主に風炉を中置にする際に用いる。「茶伝集」に「半板と云は、台子を半分に切て用、大台子の半分も有、小台子の半分も有、大小とも半板と申候、茶巾、茶入の小蓋は此板に載せ、蓋置も板の上前の左の角に置て柄杓を引也、此仕方後取違へ、風炉の小板に置也、半板には置、小板には無用、半板に茶杓は利休も置不申候と仰也」、「茶道筌蹄」に「大板一尺四寸四方、台子の板幅を四角にしたる寸法也、真ぬりは紹鴎の好也、当時利斎にて製するは桐のかき合せ、あらめなし。横へ長きは長板を半切にせし也、あらめは好み不知、一閑にても写しを製す」、「茶式湖月抄」に「世に云大板は炉蓋ほど有て真塗なり、是は流儀の形にてなし千家の大板といふは長板を二ツに切たる形なり、世に云半板といふは流儀乃大板の事也、炉蓋は木地なり常に釜不掛節用ゆ」とある。
飯後の茶事(はんごのちゃじ)
食事時を外した茶事。時外れの茶事。食後の時刻に案内し、菓子ばかりで濃茶、薄茶を差し上げるところから、菓子の茶事ともいう。正午の茶事などのように形式は定まっておらず、菓子だけの場合も、吸物、八寸、酒などを出す場合もある。ふつう炉ならば初炭、小吸物、八寸、酒、菓子、中立、濃茶、薄茶となるが、中立なしに床は諸飾とし、初炭、菓子、濃茶、薄茶とし、その後軽い点心を出すこともあり、濃茶の後で点心を出し薄茶を最後にするなど、順番が入れ替わったり、略されたり、時により、主客の都合により、どのようにも変化できる茶事。
「茶道筌蹄」に「飯後菓子茶ともいふ朝飯後は五ツ半時、昼飯後は九ツ半どき、いづれも菓子の茶也、朝飯後は正午の茶会の邪魔にならぬやう、昼飯後は夜ばなしの邪魔にならぬやうに、客の心得第一也」、「和泉草」に「菓子の茶湯は、不時之茶湯の又軽き物なり、常の茶之湯の格に替て、面白仕成専一也」、「南方録」に「是も不時会也、いとまなき人は、わび数寄の饗応をはぶきて、菓子にて可参と云、菓子にて一服可進といふたぐい也、案内有ての不時と心得べし」、「茶道望月集」に「朝飯後にても夕飯後にても、菓子にて茶事催との事ならば、朝飯後ならば、辰の刻支度して辰の過に路次入すべし、夕飯後ならば、未の刻夕飯の支度して、未の過に路次入すべし。朝にても夕にても、本式は吸物酒抔出し、其後菓子を出し茶を点る也、勿論炭は客座敷に入て、追附する事也。床は必掛物と花と両飾なる事也。菓子の器等取込、亭主は最早御手洗には及間敷と云心にて、早水指を持出置合仕形もあり、客は夫共一寸手洗に出候半とて出る能、亭主も其様子ならば差控る事也。腰掛へ行て煙草一服宛呑、最早後入の案内を受るに不及、大方座敷の仕廻あらんと思ふ時分を考、手洗を遣ふて段々如常座入する事也。又侘は吸物酒なしに、菓子計にてする事も可有也、何れも本式茶事に対しては略の事也、炉風炉共同じ心得と可知也。」とある。
半使(はんす)
高麗茶碗の一種。判司・判事とも書く。「茶道筌蹄」に「判事舩中印章を掌る人の役名也、この人の持渡りたる物也」とあり、半使の名は「判司」(朝鮮の役官、あるいは通辞という。判司は、判司訳院事の語が見えるが、「大典会通」に「凡職銜先階次司。宗親儀賓及忠勲府堂上官不称司。次職。如称領事之類則領字在司上。」とあるところから、司訳院の役名か。司訳院は朝鮮の太祖2年(1393)設置された通訳官養成所。)に宛てた字で、判司が日本に来た時この手の茶碗を持参したことによるという。形は呉器風が多い。薄く、やや堅く、半透明の白釉がかかり、焼き上がりが概して青みがかっている。釉に赤い斑が美しく出ているものを「紅葉(もみじ)半使」という。
萬歳萬歳萬々歳(ばんぜいばんぜいばんばんぜい)
「祖庭事苑」卷五に「萬歳呼萬歳、自古至周、未有此禮。按春秋後語、趙惠王得楚和氏璧、秦昭王聞之、遺五書、願以十五城易之。趙遣藺相如奉璧入秦、秦王見相如奉璧、大喜、左右呼萬歳。又田單守即墨、使老弱女子乘城上、偽約降、燕軍皆呼萬歳。馮〓(王爰)之薛、召諸民債者合券、券既合、〓(王爰)乃矯孟嘗君之命、所債賜諸民、因燒其券、民皆呼萬歳。至秦始皇、殿上上壽、群臣皆呼萬歳、見優孟傳。蓋七國之時、衆所喜慶於君、皆呼萬歳。自漢已後、臣下對見於君、及拜恩慶賀、以爲常制。又謂山呼者、漢武帝至中嶽、翌日親登崇高、御史乘屬在廟旁、吏卒盛聞呼萬歳者三。山呼萬歳者、自漢武始也。」(万歳:万歳を呼ぶ、古より周に至るまで此の礼を有せず。春秋後語を按ずるに、趙の惠王、楚の和氏の璧(かしのへき)を得る。秦の昭王これを聞き、五書を遣わし、十五城を以って之に易えんと願う。趙、藺相如(りんしょうじょ)を遣わし、璧を奉じて秦に入る。秦王、相如の奉ずる璧を見、大いに喜ぶ。左右、万歳を呼ぶ。また、田單(でんたん)、即墨(そくぼく)を守るに、老弱女子をして城上に乗らしめ、偽りて降るを約す。燕の軍、皆な万歳と呼ぶ。馮〓(王爰)(ふうかん)の薛(せつ)。諸民の債者を召し券を合わす。券すでに合う。〓(王爰)すなわち孟嘗君(もうしょうくん)の命といつわり、債するところを諸民に賜い、よってその券を焼く。民、皆な万歳を呼ぶ。秦の始皇に至り殿上の上寿に、群臣、皆な万歳を呼ぶ。優孟伝に見る。蓋し七国の時、衆、君における喜慶の所、皆な万歳を呼ぶ。漢より已後。臣下の君に對見し、拜恩慶賀に及び、以って常の制と為す。また、山呼というは、漢の武帝、中嶽に到る。翌日、親しく嵩高に登る、御史乗属、廟の旁に在る吏卒の咸、萬歳を呼ぶ者の三なるを聞く。山呼萬歳は、漢の武より始まるなり。)とある。中国、前漢の時代、元封元年(BC110)正月元日、武帝(BC141-BC87)が天子自ら嵩高(河南省登封県北五嶽のひとつ嵩山)に登り、国家鎮護を祈ると、臣民たちが喊声をあげ、それが五岳の山々に三度こだまして「万歳万歳万々歳」と聞こえたといわれる。
半練(はんねら)
南蛮物の一。無釉の土師質の軟陶器。叩き文が施され、褐色の器胎に炭素を吸着させ黒班を呈したものが多い。江戸時代に多く渡来し、素朴な趣が好まれ、形状により水指、花入、建水、灰器などに見立てられた。また、蓋だけを水指の替蓋として用いることもある。水をしっかりと染み込ませ、色合いが変化することを以って良しとする。名前の由来は定かでない。ハンネラ。
萬法帰一(ばんぽういつにきす)
「傳燈録」に「僧問。萬法歸一一歸何所。師云。老僧在青州作得一領布衫重七斤。」(僧問う。万法一に帰す、一何れの所にか帰す。師云く。老僧青州に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤。)とあり、これが「碧巌録」第四十五則に「舉。僧問趙州。萬法歸一。一歸何處。州云。我在青州。作一領布衫。重七斤。」(舉す。僧、趙州に問う。万法一に帰す。一何れの処にか帰す。州云く、我青州に在って、一領の布衫を作る。重きこと七斤。)と、取り上げられている。ある僧が趙州に、すべてのものは一に帰るというが、その一はどこに帰るのか、と問うた。すると趙州は、わしが青州におったとき、一枚の布衫を作ったが、その重さが七斤あった、と答えた。「圜悟録」には「舉。僧問趙州。萬法歸一。一歸何處。州云。我在青州作一領布衫。重七斤。師拈云。摩醯三眼。一句洞明。似海朝宗。千途共轍。雖然如是。更有一著在。忽有問蒋山。萬法歸一一歸何處。只對他道。饑來喫飯困來眠。」(舉す。僧、趙州に問う。万法一に帰す、一何れの処にか帰す。州云く、我青州に在って、一領の布衫を作る。重きこと七斤。師拈じて云く。摩醯三眼。一句洞明。海朝宗に似る。千途共轍。然も是の如くなりと雖も、更に一著を有すること在り。忽ち蒋山に問う有り。万法一に帰す、一何れの処にか帰す。只だ他に対して道うべし。飢来たれば飯を喫し、困み来たれば眠る)とある。すべてのものは一に帰るというが、その一はどこに帰るのか。ただ、その者に対して言おう。腹が減ったら飯を喰い、疲れたら眠るだけのことだ。○布衫(ふさん):麻などで作った単衣の着物。○斤(きん):一斤160匁=600g。
万宝全書(ばんぽうぜんしょ)
古今和漢萬寳全書。江戸時代の美術工芸等の百科事典。13巻13冊。元禄7年(1694)に上梓されて以来、数度にわたり版行された。巻1、2、3「本朝画印伝」、巻4「唐絵画印伝」、巻5「和漢墨蹟印尽」「本朝古今名公古筆諸流」「古来流行御手鑑目録」、巻6、7「和漢名物茶入肩衝目録」、巻8「和漢諸道具見知抄」、巻9「和漢古今宝銭図」、巻10、11、12「古今銘尽合類大全」、巻13「彫物目利彩金抄」からなる。「和漢名物茶入肩衝目録」は寛文12年(1672)刊の「茶器弁玉集」を踏襲、加筆したもの。「和漢諸道具見知抄」は、茶道具一般にわたる事典となっている。享保3年(1718)版行本には徳川家康、秀忠、家光の筆跡を載せたため幕府から絶版を命ぜられたが、宝暦5年(1755)に3人の筆跡を削った改正版が版行され、明和7年(1770)再版されている。
萬里一條鐵(ばんりいちじょうのてつ)
「傳燈録」襄州鳳凰山石門寺獻禪師章に「問如何是石門境。師曰。烏鳶飛叫頻。曰如何是境中人。師曰。風射舊簾〓(木龍)。因般若寺遭焚。有人問曰。既是般若為什麼被火燒。師曰。萬里一條鐵。」(問う、如何なるか是れ石門の境。師曰く、烏鳶飛叫頻りなり。曰く、如何なるか是れ境中の人。師曰く、風、旧簾槞を射し、因りて般若寺焚に遭う。人ありて問うて曰く、既に是れ般若什麼の為に火焼を被る。師曰く、万里一條の鉄。)とある。「禅林句集」の注に「天人眼目巻上東山外上」とあり、「人天眼目」に「第一訣。針頭削鐵。穿耳胡人。面門齒缺。第二訣。殺人見血。唖子忍痛。無處分雪。第三訣。陽春白雪。水底桃花。山頭明月。如何是第一訣。古コ云。珊瑚枝枝〓著月。如何是第二訣。古コ云。萬里一條銕。如何是第三訣。古コ云。百草頭邊倶漏泄。」(第一訣。針頭に鉄を削り、胡人穿耳し、面門に歯欠す。第二訣。殺人は血を見、唖子は痛を忍び、雪を分かつ処なし。第三訣。陽春の白雪、水底の桃花、山頭の明月。如何なるか是れ第一訣。古コ云く、珊瑚は枝枝に月を〓著(ささ)う。如何なるか是れ第二訣。古コ云く、万里一條の鉄。如何なるか是れ第三訣。古コ云く、百草頭辺に漏泄を倶にす。)とある。「正法眼蔵」に「菩薩の壽命いまに連綿とあるにあらず、佛壽命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上數は、全所成なり。いひきたる今猶は、全壽命なり。我本行たとひ萬里一條鐵なりとも、百年抛却任縱横なり。」とある。
萬里無片雲(ばんりへんうんなし)
「傳燈録」に「問萬里無片雲時如何。師曰。青天亦須喫棒。」(問う、万里片雲なき時、如何。師曰く、青天また須く棒を喫すべし。)とある。「續燈録」に「僧曰。如何是向上事。師云。萬里無片雲。」(僧曰く、如何なるか是れ向上の事。師云く、万里片雲なし。)とある。「禅林句集」は「禪林類聚」を出典にあげ「正覺逸云。倒一説。清人骨。萬里無片雲。放下一團雪。別別。老大禪翁甘滅舌。」(正覚逸云く、倒一説。清人骨。万里片雲なし。放下す一団の雪。別別。老大禅翁甘滅舌。)とある。萬里は、万里の天。片雲は、一片の浮き雲。雲は妄想や煩悩などの例えで、心の隅々まで妄想や煩悩がない状態をいうという。  
ひ     

 

火入(ひいれ)
莨盆の中に組み込み、煙草につける火種を入れておく器。火入に灰を入れ、熾した切炭を中央に埋め、喫煙の際の火種とする。火入の灰にあらかじめ炭火を入れて灰を温めてから、炭火を取り出して火箸で灰をならし、その中央に、客が煙草をつかうときに上部が燃えて灰とならないよう、切炭を黒い部分を残して熾し、熾きた方を下に黒いほうを上にしてして、煙管で吸い付けやすいよう正面から見てやや斜めに頭が少し出るように埋め、灰押で灰を押さえ、火箸で筋を入れる。灰形は放射状に筋を入れたものが多く用いられるが、流儀、火入により異なるものもあるという。「目ざまし草」に「芬盤といふものは、(ある説に、志野家の人、某の侯と謀て、香具をとりあはせたりといへり。)香具を取りあはせて用ひしとなり。盆は即ち香盆、火入は香炉、唾壷は炷燼壷、煙包は銀葉匣、盆の前に煙管を二本おくは、香箸のかはりなりとぞ。」とあるように、香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりで、かつて南京赤絵や染付など、やや大振りのものが使われていたが、今日では志野や綾部、唐津などの筒向付が使われることも多い。
干菓子(ひがし)
水分が少なく乾いた菓子のこと。有平糖、煎餅、打物、押物などがある。有平糖は、南蛮菓子として室町時代に渡来した菓子で、砂糖を煮詰め冷やして棒状にしてから細工をほどこしたもの。煎餅は、小麦粉や米の粉に砂糖などを加えて種を作り焼いた菓子。打物は、粉に砂糖を加えてしっとりさせ、木型に詰めて形成したのち打ち出し、表面に軽く蒸気をあて、乾燥して仕上げるもの。打菓子とも呼ばれ、落雁もこの一種。押物は、もち米や豆などの粉に砂糖やみじん粉などを混ぜあわせ、木枠などに型くずれしない程度に押し付けて成形し仕上げるもので、打物より水分が多いので口溶けがよい。干菓子の盛り込みは、一種類のこともあるが、二種盛り、三種盛りなどがあり、秋の「吹き寄せ」など箕や篭に盛り込むこともある。落雁の類は「真」、有平糖の類は「草」で、「真」の品はできるだけ正しく盛り「草」のものは無造作に盛り付けるが、客数より少し多めに盛る。客は、干菓子を右手で取り、懐紙の上に置く。干菓子が二種盛られている場合は一種ずつ取る。
東山御物(ひがしやまごもつ)
東山殿と呼ばれた足利八代将軍義政が所蔵した美術工芸品全般をいう。内容的には宋・元の名画や茶器を収集した三代将軍義満以来の所蔵品と義政自身の収集品とからなる。同時代の道具については、「室町殿行幸御飾記」「君台観左右帳記」「山上宗二記」などに見える。
飛来一閑(ひきいっかん)
千家十職の一閑張師。初代一閑(1578-1657)は、明代末に中国浙江省杭州の西湖畔の飛来峰の山裾に生まれ、飛来峰の古刹・雲隠寺に帰依していたといわれる。明末の動乱を避け、寛永年間(1624-43)大徳寺の清巌宗渭を頼り日本に亡命し、京小川頭に住み、飛来の姓を名乗る。清巌和尚の共をして宗旦と知り合い、手すさびで自ら木地や張抜などの器物を作り茶を楽しんだといい、その作品の雅味を愛した千宗旦が好み物として用い、名が知られるようになった。木型に和紙を張り重ね、型から抜き取った張抜に漆を塗ったもの、また板物素地に紙をのりで張り重ね漆をほどこすという紙の風合を生かした塗物で、世にこれを一閑張と称した。また書画にも才能を発揮した。茶事を催す折にはいつも懐石なしの「飯後の御入来」と案内したところから、宗旦より「飯後軒」の軒号を与えられたと言う。
初代一閑(1578-1657)朝雪斎。2代一閑(-1683)才右衛門、厳雪。3代一閑(-1715)宗信。4代一閑(-1733)義空。5代来一閑(-1741)才右衛門、信受。6代来一閑(-1746)信禾。7代一閑(-1750)才右衛門、涼月。8代一閑(-1753)才右衛門、夏月。9代来一閑(-1788)浄正。10代一閑(-1830)才右衛門。11代一閑(-1856)才右衛門、有隣斎。12代一閑(-1897)才右衛門、任有斎、徹々斎。13代一閑(-1913)才右衛門、有水。14代一閑(-1977)駒太郎。15代一閑(-1981)才右衛門、禎治。16代当代一閑、敏子。
挽木箱(ひきぎばこ)
「茶道筌蹄」に「茶臼挽木箱和漢ともに用ゆ。挽木箱は桐さし込み蓋にす。」、「茶道宝鑑」に「利休挽木筥桐外法リ長サ八寸一分半横三寸九分高サ三寸二分板厚サ三分二厘三ツホソサシ釘ツキトメ横カワ前向ヒキク底ノ釘長三本横二本」とある。
引出黒(ひきだしぐろ)
鉄釉を施し、釉薬が溶けている途中で窯内から引き出し、急冷させて釉薬中に含まれる鉄分を黒色化して漆黒色としたもの。文様などの装飾を施さず、器種は茶碗に限定される。天正年間(1573-1592)に主に焼かれたため「天正黒」とも呼ばれる。本来は、天目茶碗の釉薬の熔け具合を見る色見用の茶碗からという。大窯の後半に始まり、瀬戸黒などの黒茶碗の代名詞として使われる。広義では、織部黒や黒織部も含まれるが、織部黒や黒織部には器形が同じでも鉄釉の上に長石釉を二重に掛けることで黒色に発色させ、引き出しされていないものもある。引出黒の名称は「陶器考」附録に「瀬戸黒織部黒と云来る二品を尾州にては引出し黒といふ。焼かけんをみて取出す故なり。やきすきる時は赤き色に変する故なり」とあるのが初出という。
挽家(ひきや)
主に仕服に入れた茶入を保存する為に木材を轆轤で挽いて作った挽物の容器。ひきえ。鉄刀木、欅、花櫚、桑、黒柿、沢栗、柚等の木地のものや、塗物、蒔絵、独楽、竹など様々ある。挽家は挽家袋に入れ、箱に納められる。形は、肩衝は中次形、文琳や茄子は棗形、丸壺は丸形、瓢形は瓢形など中身の形に準ずるが、例外も少なくない。蓋の甲に茶入の銘が字形または額彫(字の輪郭を彫り込んで、これに胡粉や緑青を擦り込む)で記され、まれに銘に因んだ絵が彫られたりもする。銘書が歌銘や詩銘ならば胴側に銘書されている。「源流茶話」に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」とあり、挽家が薄茶器となったとする。
瓢籠(ひさごかご)
籠花入の一。瓢箪の形をした籠花入。紹鴎所持の「唐物瓢籠花入」が始まりという。本歌は、民具を見立てたもののようで、紙縒り細工で出来ており、全面に漆を施し、背面に紹鴎の花押が漆書きされている。朝鮮よりもたらされたという説もあると云う。遠州蔵帳所載の「唐物瓢籠(瓢箪)花入」は藤材で編まれ、背に鐶が付き、銅製の受け筒が添う。益田鈍翁旧蔵で、池田瓢阿が鈍翁の依頼で写しを製作したところから瓢の一字を入れた号を鈍翁から与えられた。
久田家(ひさだけ)
茶家の一。三千家の縁戚として表千家の茶を業とする高倉久田家と、江戸中期から分家し久田流を称する両替町久田家とがある。菅茶山の安政3年(1856)刊「筆のすさび」に「茶人の名家たる久田宗全は、雛屋勘兵衛と云て、一條新町に居住す、江岑宗左の弟子なり、宗全先祖は久田刑部と云て、江州佐々木牢人なり、刑部妻は千利休の妹なり、刑部の男を久田新八と云、入道して宗栄と号す、宗栄の子を久田理兵衛と云、入道して宗理と号す、此人宗旦の弟子にて、江岑宗左の妹おくれを妻とす、理兵衛実弟を源兵衛と云、藤村宗徳の養子となる、宗理の嫡男宗全なり、宗全の弟も亦江岑宗左の養子と成る、随流斉宗佐是なり、宗全の嫡男も亦千家の養子となり、原叟宗左是なり、藤村宗徳も佐々木牢人にて、江州藤村の人なり、藤村は藤堂邑の隣村なり、故に高虎朝臣、後に宗徳を御伽に被召て五十人扶持を下し賜はる、宗徳実子なくして、久田理兵衛が弟源兵衛を養子とす、源兵衛も亦宗旦の弟子にて、後に反古庵庸軒と号せし人是なり」とあり、久田家の祖は、姓は岸下と称し、近江国蒲生郡久田村に住し久田を名乗り、佐々木義実の家臣で久田刑部少輔実房が祖とされる。実房は、京都に移り本間または雛屋を称し、千利休の妹宗円を娶ったと伝えられる。このとき利休は茶杓を削って「大振袖」と名づけ「婦人シツケ点前一巻」と共に宗円に与えたという。
この婦人点前が今日久田流に伝わる女点前の源流であるとされている。実房の子は房政といい剃髪して宗栄と名乗り、これを久田家の初代としている。四代不及斎の時、次男の宗悦が半床庵を継嗣し、長男の宗玄は両替町に移り両替町久田家を起こし、久田流を称して主に尾張・三河・美濃に広まる。初代宗栄(1559-1624)近江蒲生生。父は久田実房、母は田中了専の娘で千利休の妹。名は房政、通称は新八、別号に宗玄・生々斎。二代宗利(1610-1685)通称は本間利兵衛、号は受得斉。千宗旦の娘クレを娶り、二男二女をもうけ、二男は表千家4世江岑宗左の養子となった随流斉宗佐。弟の清兵衛当直は藤村庸軒とされる。三代宗全(1647-1707)二世宗利の子。通称は本間勘兵衛また雛屋という。号は徳誉斎・半床庵。千宗旦のもとに茶を学ぶ。籠組物などの手工に秀で「宗全籠」の名が知られている。表千家六世原叟宗左(覚々斎)の実父。四代宗也(1681-1744)三代宗全の弟市三郎の子。幼名は弥二郎、号は不及斎・半床庵。表千家六世覚々斎に師事。五代宗悦(1715-1768)四代不及斎宗也の次男。幼名は弥四郎。涼滴齋、海音楼。六代宗渓(1742-1785)宗慶とも。五代涼滴齋宗悦の長男。弥次郎、号を挹泉斎、磻翁。長男の貞蔵は表千家八世啐啄斎の娘さわ(たく)の婿として養子となった表千家九世曠叔宗左(了々斎)。七代宗也(1767-1819)六代宗渓の次男。号を維妙、皓々斎。表千家八世啐啄斎の四女きく(きと)を娶る。長男勘太郎は若死。次男達蔵が表千家の養子となった十世祥翁宗左(吸江斎)。
八代宗利(-1844)養子。幼名は秀次郎。元は関宗厳と称したが文政3年(1820)入家し宗利と改名。九代宗与(-1862)幼名は岩之介。如心斎内室の実家の住山家八代云々斎楊甫の孫。十代宗悦(1856-1895)玄乗斎。表千家十世吸江斎の子で皓々斎の孫。武者小路千家十世一指斎の異母弟。武者小路千家十一世愈好斎の実父。十一代守一宗也(1884-1946)十代玄乗斎宗悦の長男。無適斎。武者小路千家十一世愈好斎の兄。十二代宗也(1925-)尋牛斎。当代。名は和彦、号は半床庵・尋牛斎。無適斎宗也の長男。京大史学科卒。表千家十三世即中斎に師事。財団法人不審菴理事。両替町久田家。五世宗玄。厚比斎。不及斎の長男。両替町竹屋町上ル西側に住み分家を立てる。六世宗参(1765-1814)高倉久田家五代宗悦の子。号は松園・追遠・関斎。七世耕甫(1752-1820)宗参の子友之助早世のため筑田家より養子となる。八世慶三。三谷宗珍の子。九世宗員(1789-1866)辻川喜右衛門の子。十世無尽宗有。田代宗筌の子で裏千家十一代玄々斎の甥。十一世宗円。十二世宗栄。また、他に尾州久田流があり、大高(現名古屋市緑区)の下村実栗(天保四年九月四日-大正五年十月十六日卒)が久田流六世宗参の弟子の栄甫から久田流を習得した後、独自発案を含めて創流したもの。
柄杓(ひしゃく)
湯や水を汲み取るための柄のついた容器。点前に用いるものは竹製で、湯水を汲む円筒状の容器の部分を「合(ごう)」といい、合に長い柄を取り付けてある。この柄を取り付けた部分が月形になっている「月形(つきがた)」と、柄が合の中まで突き通しになっている「指通(さしとうし)」がある。月形は、一般の点前に用い、風炉用と炉用がある。風炉用は、合が小さく、柄の端の部分である「切止(きりどめ)」の身の方を斜めに削いである。炉用は、合が大きく、切止の皮目の方を斜めに削いである。指通は、特殊な点前に用い普通は用いない。柄杓の扱いでは、炉には合を伏せて釜にかけ、風炉には合を仰向けて釜にかける。風炉の場合には、柄杓を置く時の扱いが、茶碗を洗うための湯を汲んだ後の「切柄杓」、茶を点てるための湯を汲んだ後の「置柄杓」、水を汲んだ後の「引柄杓」の三通りある。「茶湯古事談」に「柄杓の作者は、禅徳(東山殿の時代)、声阿弥(其次)、恵美須堂(紹鴎の比)、養仙坊(利休の頃堺法花寺の僧)、尼阿(養仙坊の弟子)、仙三郎(養仙坊の小姓)、一阿弥(京醒ヶ井の水守也)、此者は秀吉公より天下一の御朱印を下されし也、近代にては宗玄上手也となん」とある。
備前焼(びぜんやき)
備前から産する陶器の総称。岡山県備前市伊部周辺で作られる伊部(いんべ)焼が代表的で、無釉(むゆう)と、長時間の焼き締めによる変化に富んだ器肌が特色。日本国の六古窯(瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前)といわれるなかで最も古い窯で、平安時代に作られた須恵器に源があるといわれるが、今の岡山県備前市伊部周辺に窯が築かれたのは鎌倉時代。村田珠光に、和物の代表として「ひせん物」「しからき物」として取り上げられ、戦国時代末、他の古窯に先駆けて、茶碗、花入、水指などの茶陶づくりが始まり、桃山期から江戸初期、最盛期を迎える。しかし、朝鮮出兵後の日本各地の窯業は磁器と釉薬陶の時代を迎え「きれい寂び」の時代が到来すると、備前は泥臭い「下手物」として扱われるようになり低迷していった。昭和に入り、金重陶陽(人間国宝)が桃山時代の美を現在によみがえらせ、備前が活気づき、その後、藤原啓、山本陶秀、藤原雄と人間国宝が輩出し、現在は400人近い窯元や陶芸家が作陶して活況を呈している。備前焼は窯変(ようへん)で知られ、窯変による主なものは「緋襷(ひだすき)」「桟切(さんぎり)」「胡麻(ごま)」「牡丹餅(ぼたもち)」「青備前(あおびぜん)」「榎肌(えのきはだ)」などがある。
緋襷(ひだすき)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。窯詰めの際に器物同士がつかないように巻いた藁(わら)のアルカリ分と土の鉄分が化学反応して緋色に発色する。緋色の襷をかけたように見えるので緋襷と呼ばれる。
一重口(ひとえぐち)
器物の口造りの形状の一種。器物の口が、内側に折れ曲がったり、外側へ反り返ったりせずに、まっすぐな切り立てのままの造りをいう。水指に多い。
火箸(ひばし)
炭斗から風炉や炉に炭を入れるのに使う金属製の箸。砂張、真鍮、鉄などがあり、多くは鉄製で、細工の方法としては打ちのべ、素張り(空打ち、巣打ち)、鋳ぬきの三種類があり、象眼などで模様を入れたものもある。「南方録」に「炉には桑の柄を用ひ、風炉にはかねの火箸よし」とあるように、炉用と風炉用とに大別され、炉用は木の柄がつき、普通は桑柄が最も多く、利休形でほかに唐木、黒柿、桜皮巻などがある。風炉用は全部金属製。台子・長板の柄杓立に、柄杓に添えて立てる火箸を、飾り火箸といい、これは必ず総金属製で、頭に飾りのある真の位の火箸。ほかに水屋用に、長火箸といい、鉄製で柄のところを竹皮巻きにし麻糸で巻いて留めたものがある。「茶湯古事談」に「いにしへは共柄の火箸のみなりし、利休か比より桑柄の火箸出来しとなん」とある。
微風吹幽松近聴声愈好(びふうゆうしょうをふく。ちかくきけばこえいよいよよし)
「寒山詩」の一節「欲得安身處。寒山可長保。微風吹幽松。近聽聲愈好。下有斑白人。喃喃讀黄老。十年歸不得。忘却來時道。」(安身の処を得んと欲せば。寒山(かんざん)長(とこしなえ)に保つべし。微風幽松(ゆうしょう)を吹く。近く聴けば声愈(いよいよ)好し。下に班白の人有り。喃喃(なんなん)として黄老(こうろう)を読む。十年帰る事を得れざれば。来時の道を忘却す。)から。「平安の境地を得たければ、寒山にずっといなさい。幽松に微風が吹いて、近づいて聴けばその声はますますすばらしい。松の木陰には白髪交じりの老人がぶつぶつと黄帝や老子を読んでいる。十年もここにいると、来た道さえもすっかり忘れ去ってしまう。」というもので、一切の計らいを捨てきって、自然の声を聴き(近聴)、あるがままを好し(愈好)とし、世の中のことや自分のことも忘れ去り、悟りのことさえ忘れ去ったところに絶対の境地があるとの意味という。これは「寒山詩」の中の圧巻とされ、ことに「微風吹幽松、近聴声愈好」の二句は甚深の意ありと古来やかましく言われているという。愈好斎宗匠の名の出典。
百丈(ひゃくじょう)
百丈懐海(ひゃくじょうえかい)。中国唐代の禅僧(749-814)。俗姓は王、名は懐海、福州長楽県(福建省)の人。西山(広東省潮安県)慧照和尚の下で出家し、衡山(湖南省)法朝律師の下で受具した。次いで廬江(安徽省)の浮槎寺で大蔵経を閲していたとき、馬祖道一が南康(江西省)で盛んに宣布しているのを聞き師事し、その法を嗣ぐ。その寂後、その墓守りをしていたが、檀越の請により、江西省南昌府奉新県の大雄山(百丈山)に住して法を宣揚し、禅門の規範「百丈清規(しんぎ)」を定めて自給自足の体制を確立した。門下に黄檗希運・〓(シ為)山霊祐などがいる。
百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)
「碧巌録」第五則「雪峰盡大地」の「頌」に「牛頭沒。馬頭回。曹溪鏡裏絶塵埃。打鼓看來君不見。百花春至為誰開。」(牛頭没し。馬頭回る。曹溪鏡裏塵埃を絶す。鼓を打って看せしめ来たれども君見ず。百花春至って誰が為にか開く。)とある。「牛頭(ごず)」と「馬頭(めず)」は地獄で亡者達を責めさいなむ獄卒鬼。「曹溪(そうけい)」は、曹渓山六祖大鑑慧能禅師。牛頭は没し、馬頭は帰って行った。曹渓の鏡には塵一つ無い。鼓を打って人を集め開眼させようとするけれど君は悟ろうとしない。百花は春になって誰のために咲くのか。誰の為でもなく、何の為でもなく、そうした計らいなく、ただ咲いているだけである。
平常心是道(びょうじょうしんこれどう)
「無門関」の「平常是道」に「南泉因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道。州云。還可趣向否。泉云。擬向即乖。州云。不擬爭知是道。泉云。道不屬知。不屬不知。知是妄覺。不知是無記。若真達不擬之道。猶如太虚廓然洞豁。豈可強是非也。州於言下頓悟。」(南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道、州云く、還って趣向すべきや否や。泉云く、向わんと擬すれば即ちそむく。州云く、擬せずんばいかでか是れ道なることを知らん。泉云く、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、なお太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや。州、言下に於て頓悟す。)とある。趙州が道とはどういうものかと問うと、ふだんの心が道だと南泉が云う。では何を目標に修行すべきかと趙州が云うと、こうありたいと思えば離れてしまうと南泉が云う。修行しないとこれが道だとわからないと趙州が云うと、道は知っているとか知らないとかではない、分かったというのは自分が勝手に納得しているだけで、分からないのは何も無いことだ、もし真の道に達すれば、あたかも大空のようになにもなくなるなる。是だの非だのと分別を入れる余地などないと南泉が云った。趙州はこの言葉を聞いてたちまち悟りを開いた。
瓢花入(ひょうはないれ)
花入の一。ひさごはないれ。自然の瓢箪の芯をくりぬいて花入に仕立てたもの。「茶話指月集」に「瓢箪名顔回此瓢箪むかし巡礼が腰に附たるを休所望して花入となし愛玩せらる」、「茶湯古事談」に「ふくへの花生ハ水筒にて、順礼か腰に付て通りしを、利休道中にて見付、もらひて花生とし、名を顔回と付たりし、是より世人ふくへの花生を好ミしとなん」、「古今茶之湯諸抄大成」に「瓢の花入瓢は冬の物也、釘掛は金物或は緒にてもよし、くり穴はよろしからず、瓢の花入は利休の物数寄なり、利休所持の顔回といふ花入、細川家にあり」、「茶道筌蹄」に「瓢懸は利休。置は元伯、窗切也。仙叟このみは底へ板を入、後如心斎写す。数の物なり。」とあり、利休が瓢箪の上部を切りとり背に鐶を取りつけ掛花入とし「顔回」と名付けたものが始めと云う。「顔回」の銘は「論語」の「子曰、賢哉囘也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、囘也不改其樂、賢哉囘也」から名付けられ、「隋流斎延紙」に「一、顔回瓢花入、肥後の家老に有るよし」とあり、元文3年(1738)細川家の家老松井豊之から五代藩主細川宗孝に献上され、利休自筆の添状とともに伝来し、現在永青文庫蔵。
平皿(ひらざら)
懐石家具の一。平盤、平椀とも云う。浅めの大振りな椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施される。煮物などが盛られる。伊勢貞丈(1717-1784)の故実書「四季草」に「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼるヽゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり。」とある。
天鵞絨(びろうど)
ビロード。経(縦方向)または緯(横方向)に針金を織り込み、織上がった後にその針金を引抜き、輪奈(わな:ループ)にしたり、輪奈を断ち切り毛羽を出したりした、滑らかで光沢のある織物。絹製のものを本天という。正徳2年(1712)頃に成った寺島良安の「和漢三才図会」に「天鵞絨は阿蘭陀・広東・東京・福建、皆之を出す。蓋し絨(音は戎)は練り熟たる絲なり。純黒、純白、柳条筋、その美、光沢、天鵞(はくちょう)の翼に似たる故に名く。」とある。ビロードは13世紀イタリアの発祥とされ、日本には南蛮貿易でポルトガルから伝来し、語音はポルトガル語の「veludo」からとされる。
広口釜(ひろくちがま)
茶湯釜の一。釜の形態からの名称で、炉釜の口径が大きなものをいう。1月から2月の寒い時季、立ち上る湯気で暖かさを感じさせるよう広口の釜を用いる。野溝釜や大講堂釜などは形態上からは広口釜となる。野溝釜(のみぞがま)とは、かつて野溝家が所持したために生まれた呼称で、樹上の猿が水面に映じる三日月に手を差し延べている「猿猴捉月図」を鋳出したもの。大講堂釜(だいこうどうがま)は、比叡山延暦寺の大講堂の香炉を釜に写したとされ、胴の上部と中程に筋目をつけ、その間に「大講堂」の三文字を陽鋳したもの。  
ふ     

 

風通(ふうつう)
表と裏と二重織りの絹物で、表と裏にそれぞれ異なる色糸を用い、紋様に従い表裏を反対に入れ替えて織ったもの。表も裏も同じ柄に織りあがって模様の色が表裏逆になる。表裏の間に、袋状のすき間ができることから風通の名があるという。
帛紗(ふくさ)
茶の湯で、点前の際に茶器を拭いたり、拝見の折に器物の下に敷いたりする方形の布。服紗、袱紗などとも書く。袱紗物(ふくさもの)とも。大きさは8寸8分×9寸3分(曲尺)が利休形とされる。仕立て方は三方縫いで縫い目のない折りめの一辺をわさという。使い帛紗と出し帛紗があり、使い帛紗は、点前のときに、茶器や茶杓を拭き清め、釜の蓋などの熱いものを取り扱う時に使い、用いる裂地は主に塩瀬(畝のある羽二重)で、男は紫色、女は朱色、老人は黄を基本とし、染柄も趣向で用いられる。出し帛紗は濃茶のとき茶碗に添えて出す帛紗で、用いられる裂地は名物裂など。大きさは同じ。小帛紗は武者小路千家では使わないが、裏千家では出し帛紗には主に古帛紗(寸法が5寸2分×5寸で出帛紗より小さい)を使うという。「逢源斎書」に「ふくさきぬの事、休、被成候も、ちいさく角をこし二つけ申候、小田原陣二休御越之時、そうおん、ふくさきぬ大キぬい候て、薬つゝミニと御申候て被進候、休、御らん候て、此かつかう一段よく候、これよりも此様二ふくさきぬハいたし候へと御申候、ふくさ物と申事あしく候、ふくさきぬよく候大キサ十七め、十九め尤二候」とあり、「不白斎聞書」に「寸法は畳の目十九ト貮拾壹目也、此寸法は利休妻宗音より、利休戦場江御供之時、服紗に薬を包被贈、此ふくさ寸法能候、今日より是を可用とて、此寸法に極候也」とあり、帛紗の寸法は、千利休の妻・宗恩の作意によるものとされている。
木津松斎の一啜斎の聞書に「一色は紅・黄・紫三色なり。近年一啜斎にて、栗かわ茶出来申候。紅は十五歳巳下と、古稀以上の人用ゆるなり。寸法ハ九寸五分ニ八寸五分なり。是ハ真伯時代ニ、三家共申合、此寸法ニ極め、其時より一文字屋三右衛門方ニ而申付る。則ふくさ上つつみの紙の書付ハ、如心斎筆跡なり。右寸法相極候より前ハ、少し大きく而、とくときまりし事も無之由に御座候。濃茶之節、茶碗江ふくさを添而出し候事ハ、茶碗あつき斗ニあらず。本焼の茶碗をおもんじての事なり。依而楽茶碗ハ草なるもの故に、ふくさハ添不申候。楽ハわびもの故、草なり。」(起風2008-1)とあり、三千家申合せで寸法を定めたことがあるという。武者小路千家では現在は畳目20目×19目。「茶湯古事談」に「南浦和尚、嘉元三年の秋後伏見院へ召れ参内有しに、奏答御旨にかなひ叡慮殊にうるはしかりし、此時和尚茶を献せられしに、召上られし余りを其儘和尚へ給りしかは、和尚懐中より幅紗を出して、御茶盌をうけのせて頂戴有し、是茶に幅紗を用るはしめならんとなん。ふくさを製するは洛陽塩瀬か製を極品とす、彼か先祖は宋朝の者にて、林浄因と云、かの林和請か末裔と称す、建仁寺第二世龍山禅師、至正二年日本へかへられし時にしたかひ来りて、塩瀬を商号とし南都に住し、後京都へ移り烏丸に住す、但し浄因日本にて子を設け、是を置て、其身は帰朝せしともいへり」とある。
福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)
「妙法蓮華經」觀世音菩薩普門品第二十五「觀音經」に「觀世音淨聖、於苦惱死厄、能為作依怙、具一切功コ、慈眼視?生、福聚海無量、是故應頂禮。」(観世音浄聖、苦悩死厄に於いて、能く為に依怙と作れり。一切の功徳を具し、慈眼、衆生を視る。福聚の海は無量なり、是の故に応に頂礼すべし。)とある。観世音菩薩は清浄な聖者で、苦悩と死と災いにおいて、よく人々の拠り所となる。あらゆる功徳を具え、すべての人間を慈悲の眼で眺めている。その福徳は大海のように無量であり、だからこそつつしんで礼拝すべきだ。「福壽海無量」は「聚」を「壽」に替えたもの。
富士形釜(ふじがたがま)
茶湯釜の一。口が小さく、肩から胴にかけて裾が広がり富士山に似た形の釜。大西浄雪の「名物釜記」に姥口で撮み鐶付の芦屋釜が記載されている。天正(1573-1591)から慶長(1596-1615)にかけて筑前芦屋や博多芦屋で鋳造されており、霰や霙が施されているものが多く、龍目・雁・兎などの地紋のものもある。鐶付は兎・茄子・鉦鼓など和様のものが多い。天命釜では、室町末期の作に、鬼面の鐶付をつけた富士形釜がある。京釜では桜川地紋を鋳出した道仁の作、牡丹紋をあらわした五郎左衛門の作などがある。記録としては「天王寺屋会記」天正19年(1591)2月21日田嶋勘解由左衛門会に「一ふじなり釜」とあるのが最も古いものという。
不時の茶事(ふじのちゃじ)
案内をして、あらかじめ決められた茶事ではなく、不意に来訪した客をもてなす茶事。臨時の茶事。定方がなく、亭主の働きの見せどころの多い茶事。
「南方録」に「朝昼夜三時の外を不時と云、朝飯後にても門前を通掛に云入て、一服と所望の事あり、是急接也、露地は手水鉢の水改むるまでにて、早く案内をすべし、中立前露地内外雪隠等、水たふたふと打べし、床台目共に薄茶の棗抔、棚にありの儘にて呼入、炭加へて濡釜に改、あぶり昆布水栗の類茶請に出し、引合たる濃茶あらば濃茶にすべし、さなくば薄茶を真にはたらきてよし、炭の時棚の棗茶は取入べし、後座掛物巻て客へ花所望すべし、又は初座花ならば取入て、秘蔵掛物抔外題をかざりてもよし、ケ様の事時宜に寄べし、必と云にはあらず、急接の時、にしめの類茶請に出す事ひが事也、我食事の残の様にて悪し、利休壮年、奈良住人宗泉と云者、不図不時に一服所望しけるに、煮染の茶請出され、後悔のよし、度々門弟子に語られしとかや、又は前日前々日にても、朝飯後何時比御茶被下候へと申入、又は主よりも不時に一服と約諾したるは、露地数奇屋のもうけ常の会同前也、少宛の心持は、主の作用分に寄べし、勿論煮染の類、又は吸物にて一献、何にても茶菓子心次第也、不時の会いかにも秘蔵の道具抔、一色も二色も出し、所作真にすべし、心は草がよし」、
「三斎伝」に「不時の客来候はヾ先如何様の体にても不苦、露地の水打にも不構、客の迎に出るが吉、但手水は入させて出べし、客手水遣ふ故也、釜を掛置不申ば火を持出、炭を置、釜を掛申中に、露地に水打たせ、花抔客に所望致べし、花被入候はヾ其中に身拵して罷出花可見、客は不入も能、主客時の様子に依べし、不時は亭主の所作多ければ、余り時宜に不及、花を入るも、亭主方の仕能き物なり、其中に湯沸候はば、先薄く可参哉と尋望みの由に候はヾ薄く点べし、其間に懐石にても茶菓子にても急き出すべし、尤俄に出来不申ものは、仮令有合候共不可出、茶抔も座敷へ聞え候所にて曳きたるが能、前の火弱く成候はヾ中立前又炭置べし、火加減能は中立させべし、座敷に釜掛ある時、不時の客来候はヾ、客座敷へ入られ、則炭斗持出し炭置、釜を勝手へ持入、湯を明て水を替釜を掛る仕方有、是も客亭主に依事なり」、
「和泉草」に「朝昼晩三度の会に似ぬ様に、諸事仕成事肝要也、料理置合等の上も其心得有べし、茶道前勿論なり」、
「茶譜」に「利休流不時の茶湯と云は、兼て約束無之茶を呑に尋行を云也、其行く時刻、或は朝の七つ半時に行て、茶を呑未明に帰り、又は朝飯後に行て吉、飯後は常の飯過て菓子を出す程の時刻を考、座敷に入程に行て吉、或は又晩の七つ過時分に行も吉。不時に茶を呑みに他所へ尋ね行共、右の時刻の外は無用、朝飯後は六つ半より五つ迄の間也、夕飯後は晩の八つ前より八つ過迄の間也、何方にても、其時分は飯後なるべし、又晩の七つ過に尋行は、夜分の心也、灯を見て帰る程なる吉、利休流は晩の七つ半より、石灯籠に灯を灯す事習也、依之七つ半よりは夜の茶湯也、亭主も其時刻々々を考へて、常の路地も座中も其心得して嗜むもの也、之れを不知者は、我が機嫌次第何時の差別無之尋行事不案内故の誤也」とある。
富士見西行(ふじみさいぎょう)
西行法師が富士山を仰ぎ見る図柄。巨大な富士山が描かれ、富士山を仰ぎ見る西行を豆粒のように描いた図柄で、西行を墨染の衣に笈を負い笠を阿弥陀にした後姿で表したもの。その成立過程は必ずしもはっきりしていないが、西行の遊行伝説と「新古今集」の「風になびく富士のけふりの空にきえて行ゑもしらぬわかおもひかな」の歌からという。文人画や浮世絵で好まれ、刀の鍔や、包丁のハガネの紋にも用いられている。西行(さいぎょう:1118-1190)は、平安時代末から鎌倉時代初頭の歌人。鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の9代目の子孫で、曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清、母は監物源清経の娘。俗名を佐藤義清(のりきよ)憲清・則清・範清とも。出家して円位、また西行、大本房、大宝房、大法房と称した。鳥羽院に北面の武士として仕えたが、23歳で出家。草庵に住み、諸国を行脚して歌を詠んだ。家集に「山家集」。「新古今集」には94首が載っている。
無事(ぶじ)
臨済宗の開祖である唐の臨済義玄(りんざいぎげん)の言行を弟子の三聖慧然が編集したとされる「臨濟録」で説かれる語。何ものにもとらわれない、計らいの無い、あるがままの状態を言う。なかでも「無事是貴人」がよく知られる。
「道流、設解得百本經論、不如一箇無事底阿師。爾解得、即輕蔑他人。勝負修羅、人我無明、長地獄業。」(道流、たとい百本の經論を解得するも、一箇無事底の阿師にはしかじ。解得すれば、即ち他人を軽蔑し、勝負の修羅、人我の無明、地獄の業を長ず。):おまえたちが、たとい百部の経典を解き明かすことができても、ひとりの何ものにもとらわれない阿師(大馬鹿者)の足元にも及ばない。おれは利口者だと思うと他人を軽蔑する。人と優劣を争い、ますます迷いを深め、地獄の業を増長する。
「求佛求法、即是造地獄業。求菩薩、亦是造業。看經看教、亦是造業。佛與祖師、是無事人。」(仏を求め法を求む、これすなわち造地獄の業。菩薩を求むるもまたこれ造業。看經看教もまたこれ造業。仏と祖師とはこれ無事の人なり。):仏を求め法を求めるのも地獄へおちる業。菩薩になろうとするのも、また経論を学んだりするのもすべて悪行を作るのだ。仏や祖師とはそんなことのない無事の人である。
無事是貴人(ぶじこれきにん)
「臨濟録」に「無事是貴人。但莫造作、祇是平常。爾擬向外傍家求過、覓脚手。錯了也。」(無事これ貴人。ただ造作することなかれ。ただこれ平常なり。外に向かって傍家に求過して、脚手にもとめんと擬す。錯りおわれり。)とある。無事であることが貴いのだ、計らいをしてはならない、ただ、あるがままがよい。とかく外に向かって何かを求め手懸りとしようとする。それが誤りであるとする。
蓋置(ふたおき)
釜の蓋をのせたり、柄杓の「合(ごう)」をのせる道具。金属、陶磁器類、木、竹などがある。竹の蓋置は炉・風炉の別があり、陶磁器の蓋置は炉・風炉とも使う。ただし、絵柄がある物はその時期に合ったつかい方をする。種類は数多くあり、中でも有名なものとして千利休が選んだとされる7種類の「火舎」「五徳」「三葉」「一閑人」「栄螺」「三人形」「蟹」の蓋置がある。「七種蓋置」といい特別な扱いがある。棚を使った場合、蓋置は点前の終わりに柄杓と共に棚の上に飾られるが、竹製のものは特別の物以外は飾らない。竹の蓋置は引切(ひききり)ともいい、運び点前または小間用で、普通は青竹で、逆竹(さかたけ)を用い、風炉用は「天節(てんぶし)」といい上端に節があり、炉用は「中節(なかぶし)」といい節が真中よりすこし上にある。「山上宗二記」に、「釣瓶・面桶・竹蓋置、此の三色、紹鴎好み出されたり」、「貞要集」に「竹輪は紹鴎作にて、茶屋に置合申候を、利休小座鋪に用来り申候。」、「茶道筌蹄」に「紹鴎始なり、節合を切、一寸三分なり。元水屋の具なりしを、利休一寸八分に改め、中節と上節とを製して、道安と少庵両人へ贈らる。上に節あるを少庵に送り、中に節あるを道安取られしなり、是よりして席に用ひ来る。炉には中節、風炉には上節と定む。」とあり、武野紹鴎が1寸3分に切って水屋に使っていたものを、利休が1寸8分に改めて茶席に使用したという。
縁高(ふちだか)
菓子器の一。縁高折敷の略。縁高重ともいう。菓子椀に代わる正式な主菓子器。利休形と呼ばれる真塗縁高が基本とされ、通常五つ重ねにして総蓋が添うもの。一重に一つずつ菓子を入れ客数だけ重ね、一番上に蓋をし黒文字を載せてすすめる。昔は料理の一部として、現代の会席料理の口取にあたるようなものや果実を、菓子として縁高に盛った。江戸中期の百科事典「類聚名物考」に「縁高折敷ふちだかのおしき今俗には縁高とのみいふ。古は折敷に縁高と、さもなきつねの物有りし故、わかちていひしなり」、伊勢貞丈(1717-1784)の「貞丈雑記」に「ふち高は、ふち高の折敷と云物也。折敷のふちを高くすえたる物也。菓子などをもる為に、ふちを高くする也。大きさ五寸四方計。ふち高さ一寸五分ばかり、角切角(すみきりかく)也。廻りに桂を入る也。」、「嬉遊笑覧」に「按るに今縁高といふものは、足付の折敷(木具とも八寸ともいふなり)の縁の高きものなり。折敷に足付たるは縁高といふへからず。縁高きは物を盛るによければ、櫃のごとく用ひ、蓋をも作りたる也。膳に用ひざれば異ものヽ如くなれり。」とある。
佛祖統紀(ぶっそとうき)
南宋の僧志磐の撰した史伝。全54巻。咸淳五年(1269)に成る。釈迦牟尼仏より宋代に至る高僧の業績とその足跡を中国のいわゆる正史の体裁に従って紀伝体で列記したもの。釈迦より北宋の第3代真宗のころの法智に至る29祖を本紀としてまず記載し、それらの諸祖の傍出の僧を世家としてまとめ、続いて列伝・雑伝・未詳承嗣伝を置き、歴代伝教表・山家教典・浄土立教・諸宗立教・三世出興・世界名体・法門先光顕・法運通塞・名文光教・歴代会要などの志の項目がある。
不東(ふとう)
三蔵法師・玄奘(げんじょう)の、インドへ達せずば東へ戻らず、という気概を示した言葉。「大唐大慈恩寺三藏法師傳」に、玉門関の手前、瓜州(甘粛省安西県)を発ち草原に入ったときに年老いた胡人に西域行きを止められたときの「貧道爲求大法。發趣西方。若不至婆羅門國。終不東歸。縱死中途。非所悔也。」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)。また、玄奘が玉門関の外に五つある烽(狼煙台・要塞)の第一烽で捕まった時に校尉(指揮官)王祥に言った「誓往西方。遵求遺法。檀越不相勵勉。專勸退還。豈謂同厭塵勞。共樹涅槃之因也。必欲拘留。任即刑罰。奘終不東移一歩以負先心。」(西方に赴いて遺法を尋ね求めようと誓ったのです。それなのに貴方は励ますことなく専ら退き返すことを勧めるのですか。苦労を嫌ってどうして共に涅槃の因を植えるといえましょう。どうしても私を拘留しようとするなら、すぐに刑罰につかせて下さい。私はどんなことがあっても東へは一歩も歩みません)。さらに、砂漠で水の入った皮袋を落として水を失い、やむなく十里ほど戻ったときの「自念我先發願。若不至天竺。終不東歸一歩。今何故來。寧可就西而死。豈歸東而生。」(自分は先に願をたてて若しインドに至らなければ一歩も東に帰るまいとした。今なぜ引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきだ。どうして東に帰って生きられよう)の三箇所に見える。玄奘は、仁寿2年(602)-麟徳元年(664)中国唐代の僧。法相宗の開祖。洛州陳留(河南省偃師県)の人。俗姓陳氏。13歳で得度。洛陽の浄土寺で勉学したのち武徳5年(622)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧辨といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けたが、多くの疑義を解決することができず、国禁を犯して貞観3年(629)インドへ出発。中央アジア・カシミール経由でマガダ国に入りナーランダ学院にて戒賢に師事。大乗の唯識学(瑜伽論)を中心に仏教論理学や文法学などを広く研究し、貞観19年(645)帰朝後、没するまで「大般若経」「解深密経」「成唯識論」など総計76部1347巻に及ぶ訳業を完成した。これにより唐初の仏教界に法相宗が生まれ,日本の奈良にも伝えられた。弟子弁機は「大唐西域記」を撰し,慧立に「大唐大慈恩寺三藏法師傳」がある。なお小説「西遊記」は「大唐西域記」や「三藏法師傳」の話にもとづき、明の呉承恩が隆慶4年(1570)ごろ撰したもの。
普燈録(ふとうろく)
嘉泰普燈録(かたいふとうろく)。全30巻。「五燈録」の一。雷庵正受(1146-1208)の編。「傳燈録」「廣燈録」「續燈録」の後を承けて、その欠けたるを増補した禅宗史伝の書の一つ。嘉泰四年(1204)に成り、南宋の第四代皇帝・寧宗に上進して入蔵を勅許された。前三書が出家沙門の事に偏しているのを改め、広く王公・居士・尼僧等の機縁を集める。
船徳利(ふなどっくり)
船の中で使っても倒れないよう底が平たく広がっている徳利のこと。漁師が沖に出魚するときに酒を入れていったといわれる。備前のそれが特に名高く、他に丹波等がある。
船橋玄悦(ふなばしげんえつ)
対馬藩の茶頭。寛永16年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯「和館茶碗窯」に燔師(はんし)としておもむき、朝鮮陶工を指導して御本茶碗を焼いた。いわゆる「玄悦茶碗」は見込みの深い丈高の器形で、やや外開きで高めの高台の内側に、大きく釘彫りが渦巻き状にえぐられ、さらに高台から胴にかけてまでこの彫り筋がめぐり、土は粗めで、鹿の子の窯変がでているものが多く、ところどころに噛んでいる小石が景色となっている。
雪吹(ふぶき)
薄茶器の一。蓋の肩と身の裾の両方を面取りしたもの。「茶道筌蹄」に「大小共黒は利休形、タメは元伯、金のヒナタにて菊桐を甲に書たるは大小ともに原叟このみ、跡先分ちかたきゆへ雪吹と云ふ」とあり、真塗は利休形、溜塗は宗旦好みと云い、上下同じ形をしており天地の判別が付け難いところからの名で、文字まで後先を転じたものと云う。
振出(ふりだし)
菓子器の一。茶箱に仕組んで、金平糖や甘納豆など小粒の菓子を入れる小形の菓子器。振り出して用いることからその名がある。また寄付の汲出し盆に、香煎を入れて用意するのにも用いられる。陶磁器が多く、とりわけ染付物が好まれる。形は口細のラッキョウ形や瓢箪形などがあり、口の栓に菅の蓋が用いられる。右手で振出を取り、左手に持たせ、菅蓋を取り懐紙の右上に置き、容器を両手で回しながら中の菓子を出す。
古田織部(ふるたおりべ)
利休なきあと茶の湯名人として織部流の武家茶道を確立した安土・桃山時代から江戸時代前期にかけての茶人・大名。天文13年(1544)-元和元年(1615)。通称は左介、景安、諱は重然(しげなり)、号は印斎、法名は金甫宗室。美濃国本巣郡の山口城主の弟・古田重定の子。永禄9年(1567)の織田信長の美濃平定のときに父重定とともに信長に従い、信長の死後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)秀吉が関白になると、織部も従五位下織部正に任ぜられ、山城国西岡城主として三万五千石を与えられ、織部と称す。茶湯を千利休に学んで利休七哲の一人とされ、「烈公間話」に「細川三斎、利休ニ問テ曰、貴老五百八十年後被果候以後天下ノ茶湯指南誰ニテ可有、利休答テ曰、世倅道庵事ハタラキタル茶湯也、然トモ人柄悪シ、天下ノ指南成間敷、古田織部杯ニテモヤ可有ト申候由」とある。天正19年(1591)秀吉の勘気を受けて堺に下る利休を淀の渡しで細川忠興と二人だけで見送る。「古田家譜」に、利休の死後、秀吉が織部に「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、その旨を考へ茶法を改め定むべし」とあり、武家茶道を確立し、茶の湯名人として一家を成す。慶長3年(1598)秀吉が死ぬと家督を長男の山城守嗣子重広に譲り隠居したが、関ケ原合戦で徳川方に属し七千石加増され隠居料三千石を合わせて一万石となる。慶長15年(1610)二代将軍徳川秀忠に点茶の式を伝授し、「天下一の茶人」と称された。元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられた。織部の弟子としては、小堀遠州、本阿弥光悦らがいる。織部が瀬戸で造らせた茶陶を織部焼という。
風炉(ふろ)
火を入れて釜を掛ける器物。風炉の語は「茶経」卷中四之器に「風爐:以銅、鐵鑄之、如古鼎形。」と見える。村田珠光が四畳半に初めて炉を切り、武野紹鴎、千利休が炉の点前を定めるまでは、茶の湯は四季を問わず風炉を用いていたが、現在では夏の風炉、冬の炉と使い分け、風炉は大体5月初旬、立夏(5月5日頃)前後から11月初旬、立冬(11月8日頃)前後まで、冬でも炉のないところでは風炉を用いる。鎌倉初期に南浦紹明(なんぽじょうみょう/1235-1308)が、仏具である台子などと共に中国から持ち帰ったと伝えられる。風炉は、材質から「土風炉」「唐銅風炉」「鉄風炉」「板風炉」などがある。使用の別では、五徳を使わず直接風炉の肩に釜をかける「切掛(きりかけ)風炉」(切合風炉)、火鉢形で透木(うすき)を用いて釜をかける「透木風炉」、風炉の中に五徳を据えて釜に掛ける風炉に分かれる。また、風炉の各部により「火口」には木瓜(もつこう)・丸・三角・四角・菱・扇面・団扇・松皮菱・香炉・末広など、「鐶付(かんつき)」には鬼面・獅子面・竜・象・賽・はじき・遠山・松笠・法螺貝・兎・蝙蝠・蝶など、「足」には乳足・軸足・象足・鬼面足・獅子面足・蝶足・唐子足・丸足などがある。
風炉の種類によって灰型を使い分け、火口を引きしるための装飾と点前座のほうへ火気が発散しないように前土器(まえかわらけ)を用いる。また、台子、長板、半板、自在棚以外で風炉を据えるときは、必ず敷板の上に据える。「茶湯古事談」に「風炉は古より南都西の京より焼出せし也、紹鴎の比は、西の京の惣四郎とて上手あり、利休の時にも其子を又惣四郎と云て、是も上手也、秀吉公より天下一号の御朱印を下されしに、利休筆者にて代本銭一貫文と有しか、中比焼失て今はなし、されと今に子孫は相続して惣四郎と云、又利休時代に西の京に善五郎と云上手有、其子も又善五郎と云て、さのみ惣四郎におとらぬ上手也、此末今の京はのほり四条に住となん」とある。
風炉先屏風(ふろさきびょうぶ)
点前のときに道具を置く道具畳の向こうに立てる二枚折りの屏風。ふつう「風炉先」と呼ぶ。四畳半以上の広間に用いられる。道具畳としてのけじめをつけ、部屋を引き締め、道具を引き立てる。風炉先は、室町時代に台子が使用されるようになった時から使われたという。利休形という高さ2尺4寸、横3尺5分、厚み五分、鳥の子白張り、蝋色縁付(ろいろふちつき)のものを基本とし、各流派や好みによって多種多様なものがある。風炉の季節には、腰張りのものや、腰板に透かしをいれたり葭(よし)を張ったものを使ったりもする。
文琳(ぶんりん)
丸形の茶入。林檎(りんご)の形に似ていることに由来する名称。文琳は林檎の雅称。中国唐の第三代皇帝高宗の時、李謹という者が見事なりんごを帝に献じたところ、帝は喜んで李謹を文琳郎の官に任命したという故事による。唐物茶入の代表的な形で、甑が低く、肩から胴へと張りだした美しい形状の小壷。古来、唐物茶入の中で茄子と文琳はその最上位にあるといわれ、名物も多い。伝存する代表的なものに、珠光・本能寺・羽室・筑紫などがある。「茶道秘録」に「文琳の茶入は、壷の作丸くして、口隘く捻返あり清香の如くにて、如何にも形美敷を文琳と云。又何れ共形の知れずして、口に捻返なく、口作を諸そぎ片そぎと云也。口の内外よりそぎたるもあり、又片方よりそぎたるもあり、昔より諸そぎを上とする也。兎角形の知れざる物をも文琳と云習す也。右の通文琳と云来るに二種あり、其内に捻返有て丸く形美しく乳なめらかなる是本意也。」
分類草人木(ぶんるいそうじんぼく)
利休時代の茶書。「永禄7年(1564)甲子季春初吉真松斎春溪(しんしょうさいしゅんけい)」の奥書がある。名物茶器や目利のことについて解説した茶書。真松斎春溪は、武野紹鴎の門下で、堺春慶塗の祖ともいわれるが定かでない。題名の「分類」は内容が「客人類、掛物類、花瓶類、葉茶壷附茶、小壷類、台子附長板・小板・屏風、風炉・囲炉裏類、天目茶碗附茶立様・茶筅・茶巾・柄杓・茶杓、香炉類、座席」に分類記述しているのにより、「草人木」は茶の字を艸、人、木に分けて析字として名づけたもの。
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碧巌録(へきがんろく)
佛果圜悟禪師碧巖録(ぶっかえんごぜんじへきがんろく)。「圜悟禪師評唱雪竇和尚頌古碧巌録(えんごぜんじひょうしょうせっちょうおしょうじゅこへきがんろく)」ともいうように、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん/980-1052)が、「景徳伝燈録」千七百則の中から選んだ百則に頌古(じゅこ)を加えた「雪竇頌古百則」に、圜悟が垂示(すいじ)・著語(じゃくご)及び評唱(ひょうしょう)を加えたもので、圜悟の在世中から刊行された。圜悟の弟子大慧宗杲(だいえそうこう/1089-1163)は、修行僧が参禅実習をおろそかにするとして「碧巖録」を焼き棄てた。元の大徳年間、杭州の張明遠が成都大聖慈寺にあった版本を見いだし校勘を加え「宗門第一書」と冠し大徳4年(1300)出版。以後禅宗第一の典拠となる。「碧巌」の名は圜悟が住した夾山の方丈の扁額「碧巌」を取り、その由来は夾山の開祖善会の「猿抱子歸青嶂後、鳥銜華落碧巖前」から来た。
丿貫(へちかん)
安土桃山時代の侘茶人。生没年未詳。「べちかん」とも。丿桓、丿観、別寛とも書く。なお「丿(ヘツ)」は、「説文」に「右戾也。象左引之形。」とあり、カタカナの「ノ」ではなく漢字である。京都上京の坂本屋の出で、茶の湯は武野紹鴎に学び、初め如夢観と号し、後に改めて人に及ばぬといふ意で丿観と号したが、曲直瀬道三が丿桓の字に変えたと云う。山科に居をかまえて奇行をもって知られ、天正15年(1587)北野大茶会では,豊臣秀吉から賞賛され、諸役免許の特権を与えられたとある。晩年は薩摩に移り同地で没したともいう。象牙茶匙に「珠光茶匕丿貫」と朱漆で直書され、内箱蓋裏の貼紙に「珠光茶匕サウケ咄斎(花押)」と宗旦が書付け、随流斎の極書と、碌々斎が「珠光茶杓丿貫トアリ」と墨で直書した木形が添ったものが伝存する。 江村専斎(1565-1664)述の「老人雑話」に「茶の会に丿観流と云ふ有、是は上京に坂本屋とて茶の湯を好む者あり、をどけたる茶の会を出す、初め号を如夢観と云ひ後に改めて丿観と云ふ、一渓道三の姪婿なり、丿の字は人の字の偏なり、人に及ばずといふこヽろとぞ」とあり、京都上京の坂本屋の出で、初め如夢観と号し、曲直瀬道三の姪婿とする。
栗原信充(1794-1870)の「柳庵随筆」には「茶湯書。丿貫と云人は、伊勢国の者なり。常に牝馬に乗て何方へも行なり。牝馬はしづかなるものとてすきたり。然るに、その牝馬死たり。丿貫云、おのれ生てゐるうちばかり、我に奉公さすることにてはなし。死ても奉公させべしとて、皮をはぎなめしにして、袋に拵へて、内に入様の道具を入て、一生の内、何方へも持あるきしなり。むかしよりへちといふ字はなきを、林道春、この字に被書たるなり。」とあり、伊勢の国の人とする。
神沢杜口(1710-1795)著「翁草」に「丿観流の事茶の会に丿観流と云者有り、是は上京の坂本屋とて、茶の会を会を好む者有り、おどけたる茶の会を出す、初号を如夢観と云、後改て丿観と云、一渓故道三の姪婿なり、丿の字の偏なり、人に及ばぬといふ意とぞ、宗易より少し後なり、私曰世諺に異風なる事を丿た事と云ふも是より出たりと或記に在り」とあり、「老人雑話」を引き、一風変わっていることや人のことを「へち」というのは丿貫から出ているという。藪内竹心(1678-1745)の「源流茶話」に「丿貫は、侘び数奇にて、しいて茶法にもかかわらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす、にじり上り口に新焼の茶壺をかざりて、関守と号す、異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」とある。
北野大茶会の折については、久保利世(1571-1640)の「長闇堂記」に「又経堂の東の方、京衆の末にあたりて、へちくわんと云し者、一間半の大傘を朱ぬりにし、柄を七尺計にして、二尺程間をおき、よしがきにてかこひし、照日にかの朱傘かゞやきわたり人の目を驚せり、是も一入興に入らせ給ひて、則諸役御免を下され。」、享保6年(1721)刊の「除睡鈔」には「此の時に堺の南北に別寛と云ふ数寄者あり、玄以法印を頼み傍らに屋敷を申し受け、竹柱に真柴垣を外にかこひ、土間を美しくならせ無双のあしや釜を自在に掛け雲脚して拵へ、茶碗水指等はいかにも下直なる新焼を求め、以新為要、吾身には荒布の帷子を渋染にて、馬場さきの傍らに侍居たり、さるほどに秀吉公寅の一天より密に入せ玉ひて大名小名かこひの前の蝋燭は只万灯にことならす、百座の会なれは短座と云へども時刻已に移り御還に及ひ秀吉公西を御覧あれば少し引除てかやの庵の見えけり、玄以法印にあれはと問玉へは答に云く、一奥ある茶の湯者にて候、此の度前代未聞御茶湯よそながら拝み奉んと昨日藁屋結ひ候と申上る、秀吉聞召し一奥ある次に而見しと仰せあれば、玄以御供にて案内乞ひ玉ふに、別寛罷り出て首を地付け謹んて而居たり、秀吉公囲のやう御覧ありて面白し、さらば手前にてたてよ一服所望とあれば、別寛承て雲脚をたてヽ奉る、秀吉公の云く、汝有心者哉、百座の茶服内重きに軽々と香煎を出す事、言語道断快然たり、今一服と仰せあれば、其の後紹巴玄以両人飲で一物の作意仕り候と挨拶申されて事の外奥し玉ふ、十月計り過て、別寛を伏見の御城に召し、御手前にて御茶被下、其の上御道具拝見す、皆云ふ数寄の潅頂をうつたる別寛哉と羨けるとなん」とある。
また、千利休などとも交友があったようで、「茶話指月集」に「山科のほとりに、へちかんといへる侘びありしが、常に手取りの釜一つにて,朝毎〓(米参)(みそうず・雑炊)といふ物をしたため食し、終わりて砂にてみがき、清水の流れを汲みいれ、茶を楽しむこと久し。一首の狂歌をよみける。手どりめよ、おのれは口がさし出たぞ、増水たくと、人にかたるな。ある時、利休、日比聞きおよびたる侘び也。たずねてみんとて、これかれ伴いまいられたれば、へちかんが家の外面に石井あり。休、人馬の軽塵いぶせかりけるを見て、此の水にて、茶は飲まれず。各々いざ帰らんといいて、やや過ぐるを、へちかん聞きつけ、表に出てよびかけ、茶の水は筧て取るが、それでもお帰りあるかという。休、その外の人々、それならばとて立ちかえり、茶事こころよく時をうつされけるとなん。」、
「茶湯古事談」に「丿貫といひし者、京の佗人なりしか、数寄道の達人にて異様なる事のみせし、医師古道三と無二の友なりし、或時道三考へて、丿貫の貫の字を桓の字にかへられし、子細は桓の字は木篇に作りは一日一と書り、作りの上の一字を取て木へんの中に入れは、本の字に成也、其本の字を旦の又中へ入れは、三字を分たる時は日本一と云字也、丿の字は人の半分也、然れはヘチクワンは人半分の日本一と云心なりとそ、此丿桓か異風の作意は、根元得道の上からなれは、異にして異ならす、今の世迄も規範と成事多し、葉茶壷を昔より床の真中にかさりしを、或時丿桓か潜り口にかさりし事なと有し、山科に居し比は常に手取の釜一つにて朝毎に〓(米参)と云物を煮て食し、終りて砂にてみかき、山水の流を汲て湯をわかし、茶をたのしみしか、一首の狂歌をよみし、手とりめよおのれは口かさし出たそ増水たくと人にかたるな、或時利休日比聞及し者なり、尋んとて彼是伴ひ行しか、丿桓か家の外に石井有、直に海道にて人馬の塵埃のいふせかりしをみて、此水にては茶はのまれす、各いさ帰らんといひしを丿桓聞付、表へ出て呼かへし、茶の水は筧にて取か夫ても御帰有かといふ、利休其外の人々、それならはとて立かへり、面白く語り、茶をのみ、夫よりしたしかりしとなん」とある。
ただ手取釜の話については、「茶道筌蹄」に「粟田口善法無伝、侘茶人也、手取釜にて一生を楽む、手とり釜おのれは口がさし出たり、雑水たくと人にかたるな」、寛政10年(1798)刊「続近世畸人伝」に「もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路菴がよみしとも、又道六といふ人のよみしともいへど、此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、善輔がよみしに疑なかるべし。」とあり、粟田口善法や一路庵禅海にも同じ歌が挙げられている。
柳里恭の天保14年(1843)刊「雲萍雑志」に「ある人、茶は諂ひありといふことを、利休に問ひし時、こたへけるは、わが友に、丿貫といふものあり。われを茶に招きしとき、時刻を違へたる文おこしたり。時刻をたがへずして行きけるに、内なる潜り戸の前に穴を穿り、上に簀のこを敷きて、あらたに土を置たり。われは心なく、そのうへにのりて、入らんとする折から、地の土くえて、穴に落ちたり。穴の底に、土のねりたるが中へ、ふみ込みたれば、とりあへず湯あみして、再び入りけるを、人々の興としたり。此事、かねて期明と言へふ者、山科へおはせば、かくとはやく我にものがたれど、主のこヽろづかひを、われかねて知りたりとて、穴に落ざらんは、志をむなしくすることのほいなさに、穴としりつヽ落ち入りぬ。扨こそ、その日の興とはなりたり。茶はひたすらに、へつらふとにもあらねど、賓主ともに応ぜざれば、茶の道にあらずといはれき。」、「山科の隠士丿貫は、利休と茶道を争ひ、利休が媚ありて、世人に諂多きことを常にいきどほり、又貴人に寵せらるヽことをいたく嘆きて、常に人にかたりけるは、利休は幼きの心は、いと厚き人なりしに、今は志薄くなりて、むかしと人物かはれり。人も二十年づヽにして、志の変ずるものにや。我も四十歳よりして、自ら棄つるの志気とはなれり。利休は人の盛なることまでを知て、惜いかな、その衰ふる所を知らざる者なり。世のうつりかはれるを、飛鳥川の淵瀬にたとへぬれども、人は替れること、それよりも疾し。かヽれば心あるものは、身を実土の堅きに置かず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなさようにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。蓮胤(れんいん・鴨長明)は蝸牛にひとしく、家を洛中に曳く。我は蟹に似て、他の掘れる穴に宿れり。暫しの生涯を名利のために苦しむべきやと、いとをしく思ふといへりとぞ。丿貫、世を終るの年、みずからが書きたる短冊を買得て灰となし、風雅は、身とともに終わるとて、没しぬ。無量居士と号す。」とある。
薩摩藩が天保14年(1843)編纂した「三国名勝図会」に「丿桓石府城の西南西田村に属す、南泉院の西南一町許、通路の側にあり、名越氏宅地の墻角に傍ふ、丿桓が塚なり、丿桓は茶博武野紹鴎の高弟なり、紹鴎茶道を千利休に皆伝せしを怒ち、我流を立て、すべて左を以て要とし、茶器を馬に負せて徘徊せり、其馬死しければ、皮を剥て袋を製り、茶器を盛て、自らこれを負ひ、終に筑紫に来り、薩摩に於て死す、其年月詳かならず、袋と共に此所に埋めしといひ伝ふ、今の塚石は、旧来の石にあらず、旧の石には、前に三界万霊塔と篆書を彫刻し、背の文字湮滅して読へからず、村田宗仙経寧、茶庵の庭に置き、現在すといへり、織田主計頭貞置、平瀬一鴎に付与する、茶道正伝集聞書に言、初め丿貫と書しを、医師曲直瀬道三(茶事を好む)の言に従て、貫字を桓に改む、桓は木旁に亘とかき、右旁の一を、木旁の中に入て、本の字となる、旦字の中に本の字を置き、三字に分ては日本一と読むべし、しかれば丿は人の半にして、人にあらず、不肖日本一といふ、卑下の名なりとす」とある。
また薩摩の儒僧、南浦文之(1555-1620)の「南浦戯言」の「和人山老詩」に「茶用唐津不要臺、竹筒花入只惟梅、丿觀會席焼塩計、我々数竒鳶舞哉」とあり、丿貫との交遊をうかがわせる。
表千家5代随流斎(1650-1691)の「延紙ノ書」に「利休時代、へちくわんと云侘、皮そうりに牛皮にて裏付、路治へはきたるなり、其時分はへちくわんと申なり、今はせきだと云」とある。
別無工夫(べつにくふうなし)
「羅湖野録」に「建州開善謙禪師。平居不倦誨人。而形於尺素。尤為曲折。有曰。時光易過。且緊緊做工夫。別無工夫。但放下便是。只將心識上所有底一時放下。此是真正徑截工夫。若別有工夫。盡是癡狂外邊走。山僧尋常道行住坐臥決定不是。見聞覺知決定不是。思量分別決定不是。語言問答決定不是。試絶却此四箇路頭看。若不絶。決定不悟此四箇路頭。若絶。」(建州開善謙禅師。平居人に誨えて倦まず。而も尺素を形し、尤も曲折を為す。有るに曰く、時光過し易く、まさに緊緊に工夫を做さんとす。別に工夫なし、但だ放下すれば便ち是なり。ただ将に心識上の所有底を一時に放下す。此れは是れ真正経截の工夫なり。若し別の工夫あらば、尽く是れ痴狂の外辺を走る。山僧尋常に道う、行住坐臥の決定は是ならず、見聞覚知の決定は是ならず、思量分別の決定は是ならず、語言問答の決定は是ならず、試しに此の四箇の路頭の看を絶却せよ、若し絶せずば、決定は不悟、此の四箇の路頭、若絶せよ。)とある。決定(けつじょう)/決まって動かないこと。また、信じて疑わないこと。室町時代の僧、夢窓疎石(むそうそせき:1275-1351)の「夢中問答」に「古人云はく、一切の善悪すべて思量することなかれ、又云はく、直に無上菩提におもむきて、一切の是非管することなかれ、又云はく、別に工夫なし。放下すれば便ち是なりと云云。」とあり有名。
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逢源斎書(ほうげんさいしょ)
表千家四代逢源斎江岑宗左の茶書。上・下二冊。江岑宗左がおもに父の宗旦から聞いた話を書き留めた聞書きで、千家の茶の湯の伝承が一つ書きの形で記されている。巻末に「宗巴一覧之為書申候」とあり、幼少の表千家五代随流斎良休宗佐のために覚え書きを残したものとされるとされる。江岑自筆の茶書「江岑夏書」と内容が殆ど同じだが、一つ書きの順番を入れかえたり、部分的に書き直した箇所などがあり、「夏書」が反古紙に書かれているのに対して、薄手の楮紙に丁寧な字体で記されており、「江岑夏書」の清書本と考えられている。
龐居士(ほうこじ)
中国唐代の代表的な居士。諱は蘊、字は道玄。初め儒学を修め、のち禅門に帰依し、石頭希遷禅師に参じ、のち馬祖道一禅師に参じ、ついにその法を嗣ぐ。生涯出家せず、妻子とともに竹漉を製して業としたという。傅大士と双んで唐土の維摩とよばれる。
帽子茶器(ぼうしちゃき)
薄茶器の一。帽子棗。撫肩でやや裾の張った鐘形の身に、被せ蓋のついたもの。蓋の形が帽子に似ているところからの名。烏帽子棗ともいう。紹鴎好、利休好、宗旦好などあるが、形が少しずつ異なり、最も古格な作に相阿弥在銘品がある。この茶器の原型は、明国から請来した煎茶の葉茶入の金属器の形を写したものではないかという。
棒の先(ぼうのさき)
建水の一。担い棒の先につけられた金具に似ているからの名称とされる。七種建水の一。円筒形で底にやや丸みがある。「茶器名物図彙」に「昔より俗説に唐玄宗皇帝之乗輿の先き之かなものといへり、大中小ありて大中ハ水さしに用ゆ、小ハ水翻に用ゆ」、「茶道望月集」に「棒の先きといふ物有。名物も有と云。碁笥の大さにて、高三寸五分、或は四寸程にして、真録にツツ立タル物也。棒の先に似たる故と云。又底の角にメンの取たるも有。唐物にてはなしと也」とある。
墨蹟(ぼくせき)
禅宗の僧侶が毛筆で書いた字。本来は墨筆で書いた筆跡のことを云うが、特に日本では禅僧の書跡を指す。村田珠光が大徳寺の一休宗純に参禅して、印可の証明として授けられた圜悟の墨蹟を茶席に掛けたのがはじまりとされる。「南方録」に「掛物ほど第一の道具はなし。客亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とす。其の文句の心をうやまい、筆者・道人・祖師の徳を賞玩する也。」とあるように重んじられた。この時代までの墨跡は、宋、元の中国僧、鎌倉、室町初期の禅僧の物を指したが、利休が自らの師「春屋宗園」の一行書を掛けてから、在世の和尚の掛物を掛けるようになったとされる。書蹟としての書法や書格よりは、禅僧の気合が表され、その風格や格外の趣きが珍重される。墨蹟の内容は,偈頌・法語・疏・榜・像賛・問答語・印可状・道号・大字・安名・遺誡・祭文・願文・説文などがある。
北風吹白雲(ほくふうはくうんをふく)
唐の蘇頲の五言絶句「汾上驚秋」(汾上秋に驚く)に「北風吹白雲、萬里渡河汾。心緒逢搖落、秋聲不可聞。」(北風白雲を吹き、万里河汾(かふん)を渡る。心緒(しんしょ)搖落(ようらく)に逢い、秋声聞く可(べ)からず。)とある。冬の北風が白雲を吹き流し、万里のかなたから旅をして、今、汾河を渡る。私の心は、ひらひらと散る落ち葉に遭い、秋の声を聞くに堪えない。蘇頲(そてい)。670-727。字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)進士に及第。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任。玄宗がその文を愛し、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜらる。
細川三斎(ほそかわさんさい)
安土桃山・江戸前期の大名・茶人。永禄6年(1563)-正保2年(1646)。足利義昭に仕えた幕臣・細川藤孝(幽斎)の嫡男。名は忠興(ただおき)、幼名を熊千代。通称は与一郎、号は三斎、法名は宗立。妻は明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)。天正5年(1578)15歳で明智光秀の娘の玉を妻とし、大和片岡城攻撃で戦功をあげ信長から自筆の感状を賜る。織田信忠より「忠」の一字を賜り「忠興」と名乗る。天正6年(1578)越中守。天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀の要請を断り剃髪し幽斎と号した父に代わり家督を相続。羽柴秀吉に与する。天正12年(1584)小牧の役で織田信雄を破り、天正13年(1585)従四位下侍従、羽柴の姓を授けられる。天正16年(1588)左近衛権少将。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などに参陣。慶長元年(1596)従三位参議。秀吉の死後、石田三成と対立して家康に接近。慶長5年(1600)三男忠利を質として江戸へ送り、豊後速見郡杵築6万石を加増、家康の上杉攻めに従軍、三成が挙兵した時、夫人ガラシャは大坂で人質になるのを拒否して自害する。関ヶ原戦後は豊前宮津39万9000石を領した。元和6年(1620)三男忠利に家督を譲り、三斎宗立と号した。和歌、連歌、狂歌、画技、有識故実、その他広くの芸道に通じた。中でも茶の湯は父の幽斎、利休に学び、利休の没後には、その長男道安を助けて豊前で300石の知行を与え、また千家再興にもあずかって、利休七哲の一に数えられている。
牡丹餅(ぼたもち)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。作品を重ねて置いた部分が、そこだけ火と灰が直接あたらないため、のせた器の形に赤く模様ができたもの。あたかも牡丹餅を置いたように見るところからついた。「饅頭抜け」ともいう。
歩歩是道場(ほぼこれどうじょう)
「古尊宿語録」趙州真際禪師語録之餘に「師問座主。所習何業。云。講維摩經。師云。維摩經歩歩是道場。座主在什麼處。主無對。」(師、座主に問う。所習何業。云く、維摩経を講ず。師云く、維摩経、歩歩是れ道場なるに、座主、什麼の処に在る。主、対えるなし。)とある。「明覺禪師語録」に「師問云。維摩老云。歩歩是道場。這裏何似山裏。衆下語師皆不諾。師代云。只恐和尚不肯。」(師、問うて云く、維摩老云く、歩歩是れ道場。這裏は山裏に何れぞ。衆、語を下すも、師、皆な諾さず。師、代わりて云く、ただ和尚肯せざるを恐れるのみ。)とある。這裏(はうり)/この場所。「維摩經」に「直心是道場無虚假故。發行是道場能〓(辛方辛)事故。深心是道場揄v功コ故。菩提心是道場無錯謬故。布施是道場不望報故。(下略)」(直心は是れ道場、虚仮なき故に。発行は是れ道場、能く事故を弁ず故に。深心は是れ道場、功コを揄vする故に。菩提心は是れ道場、錯謬なき故に。布施は是れ道場、報を望まざる故に。)云々とある。至るところすべて修行の場であるとの意。
火舎蓋置(ほやふたおき)
七種蓋置の一。火舎香炉。火舎のついた小さな香炉を蓋置に見立てたもの。火舎とは、香炉・手焙・火入などの上におおう蓋のことで、蓋のついた香炉のことを火舎香炉と呼ぶ。火舎の部分が取り外せるようになっており、蓋置を右手で取って左掌にのせ、火舎の部分を取り、右手で左から右へ打ち返し、香炉の上に裏返して重ねて用いる。棚に飾る時は逆の手順で元に戻して飾る。「源流茶話」に「ほや香炉と申候ハ、いにしへ唐物宝形つくりえ香炉のふたを翻し、釜のふた置ニ見たて、袋をかけ、真の具に被定候、ほやとハ蓋宝形つくりなれは也」とあり、七種蓋置のうち、最も格の高いものとして扱われ、主に長板や台子で総飾りをするときに用いる。火屋・穂屋とも書く。「茶道筌蹄」に「火屋ホヤ香爐をかり用ゆ」、「南方録」に「穂屋天子四方拝の時、用玉ふ香爐といへり、さまによりて蓋置に用る時も、殊外賞翫の一ツ物なり、草庵に用たる例なし、袋棚以上に用、手前の時、賞翫の置所等秘事口傳」とある。
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
永禄元年(1558)-寛永14年(1637)2月3日。名は二郎三郎。自得斎・徳友斎・太虚庵などと号す。室町時代、足利将軍に同朋衆として仕え、刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家職とする京都の本阿弥家に、片岡家より入婿した「刀脇指の目利細工並もなき名人」光二と本阿弥光心の長女妙秀の長子として生まれる。近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称され「光悦様」といわれる独自の書風を完成した能筆家として名高い。元和元年(1615)徳川家康より洛北鷹峰の地を拝領し、洛中小川通り今出川上の地より一門と家職に連なる人々を引き連れ移住し、書画・造本・陶芸・蒔絵・螺鈿・象牙・作庭など多方面にその芸術的才能を発揮し、「不二山」と名付られた楽茶碗は、光悦作陶の最高傑作として高く評価され、三代将軍徳川家光をして「天下の重宝」と言わしめる。
本歌(ほんか)
元来は歌道用語で、古歌をもとに歌を作ったときの、その元歌をいうが、転じて茶道具などで同形同系統の原品または起源・基準となる作をいう。また、模して作ったものを、本歌に対して「写」(うつし)という。
本朝陶器攷證(ほんちょうとうきこうしょう)
金森得水(かなもりとくすい)著の日本陶磁器の解説書。安政4年(1857)跋の木版本全6冊。我が国初の本格的な陶磁器解説書で、窯の成立については古文書の紹介があるが、「陶器考」など同時代の同種の陶書からの抄出転載も多い。明治27年京都文泉堂林芳兵衛蔵板により広く流布したという。金森得水(1786-1865)は、江戸後期の茶人。伊勢田丸藩家老。名は長興、通称は仲、別号に琴屋叟・玄甲舎。文武両道に通じ、茶は初め表千家了々斎、弘化2年(1845)吸江斎より皆伝を受ける。陶器の鑑定にも定評があった。著書に「古今茶話五十巻」「習事十三ヶ条」などがある。
盆点(ぼんてん)
茶の湯の点前の形式の一。伝授物の一。「ぼんだて」とも。唐物茶入・拝領茶入を盆にのせて扱う点前。象牙茶杓または真の茶杓を用いる。「茶之湯六宗匠伝記」に「世に名之為知茶入は名物と云物也、何れも茶之湯時は、必盆點也、取あつかひも大事にかくべし」、「槐記」に「今の世には唐物とさへいへば、盆にのせて盆だてにする、なきことなり。唐物にて盆點にする物は、文琳、丸壷、肩衝、小壷、此四ッのみ也。其外の唐物は、盆に不載、唐物點にする也。」、「茶窓陂b」に「瀬戸の茶入、其外本邦にて焼く所の茶入は、いかようの名物にても盆立にせぬといふ人あれども、休師も瀬戸の肩衝を一両度も盆立にせられし事あれば、苦しからぬにや、殊に貴人より拝領の茶入は、今焼にても盆立にすべしとぞ、一概に思ふべからず」、「茶道筌蹄」に「茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾眞臺子右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、「茶式花月集」に「一傳授之分茶通箱唐物點臺天目盆點亂飾」とある。
本來無一物(ほんらいむいちぶつ)
「六祖壇經」にある中国禅宗の第六祖慧能の「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)の一句。
「聯燈會要」に「有居士盧惠能。來參。師問。汝自何來。云嶺南。師云。欲求何事。云唯求作佛。師云。嶺南人無佛性。若為得佛。云人有南北。佛性豈然。祖默異之。乃呵云。著槽廠去。能入碓坊。腰石舂米。供衆。師將付法。命門人呈偈。見性者付焉。有上首神秀大師。作一偈。書于廊壁間云。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。莫遣惹塵埃。師嘆云。若依此修行。亦得勝果。衆皆誦之。能聞。乃問云。誦者是何章句。同學具述其事。能云。美則美矣。了則未了。同學呵云。庸流何知。發此狂言。能云。若不信。願以一偈和之。同學相顧而笑。能至深夜。自執燭。倩一童子。於秀偈之側。書一偈云。菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何處惹塵埃。」(居士あり、盧惠能。来たりて参ず。師問う、汝はいずこより来るや。云う、嶺南。師云く、何事をか求めんと欲す。云う、唯だ作仏せんことを求む。師云く、嶺南の人に仏性なし、若為ぞ仏を得ん。云う、人には南北あるも、仏性には豈に然らんや。祖、默しこれを異とす。乃ち呵して云く、槽廠に著き去れと。能、碓坊に入りて、石を腰きて米を舂き、衆に供す。師、将に付法せんと、門人に偈を呈するを命ず。見性者付す。上首神秀大師あり。一偈を作る。廊壁の間に書きて云う。身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時時に払拭に勤めよ。何れの処にか塵埃を惹かん。師、嘆じて云く。若し此に依りて修行せば、また勝果を得ん。衆皆な之を誦す。能、聞く。乃ち問うて云く、誦するは是れ何の章句ぞ。同学、其事を具述す。能、云う、美なることは則ち美なり。了ずることは則ち未だ了ぜず。同学、呵して云く、庸流、何をか知らん、此の狂言を発す。能、云く、若し信ぜずば、願くは一偈を以て之を和せん。同学答えず、相顧て笑う。能、深夜に至り、自ら燭を執りて、一童子を倩し、秀の偈の側に、一偈を書きて云く。菩提もと樹に非ず、明鏡もまた台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん。)とある。
初祖達磨(だるま)大師より第五祖の弘忍(ぐにん)が法嗣を決定するため、悟りの境地を示した詩偈を作れと弟子達に命じた。学徳に優れ信望厚く、六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)がこの詩偈を廊壁に書いた。寺男として米搗きをしていた慧能がこれを聞き、綺麗だが未だ至っていないと、無学文盲のため童子に頼み「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)と壁書した。菩提というのは樹ではなく、明鏡もまた台ではない。もともと何もないではないか、どこに塵埃がつくと言うのか、と言う意味である。これを聞いた五祖弘忍は夜になって慧能を呼び、法と師資相承の証である袈裟を渡し、伝法が済んだ今、ここにいては危ういから一刻も早く立ち去るがよいと、密かに逃がし、別れに臨んで「法縁熟するまで身を隠して聖胎長養し、市塵へ出るな」と忠告したという。 
      

 

前土器(まえかわらけ)
風炉の火窓からの火気を防ぐために立てる半円形の素焼きの土器。前瓦とも書く。紅・白二種があり、土風炉には白を、鉄風炉には赤を用いる。酷暑には二枚重ねて用いる。流派により好みがある。
蒔絵(まきえ)
木地に漆で文様を描き、漆が乾かないうちに金・銀・錫などの粉末・色粉等を蒔き、模様をつくり出すもの。「蒔」とは粉末を散らして落とす意。基本的な技法として、平蒔絵(ひらまきえ)、研出蒔絵(とぎだしまきえ)、高蒔絵(たかまきえ)の3種類がある。「平蒔絵」絵漆で文様を描いて粉を蒔き、文様の部分だけ透漆を塗ってその上を磨く技法。「研出蒔絵」絵漆で文様を描いて粉を蒔き、全面に漆を塗り、これが乾いてから木炭で研ぎ、磨いてから仕上げたもの。「高蒔絵」漆や炭粉で高く盛り上げた文様の上に平蒔絵を施したもの。これらの技法を単独あるいは総合して施したり、螺鈿(らでん)、平文(ひょうもん)、截金(きりかね)など他の技法を併用する事もある。螺鈿は、夜光貝、蝶貝、鮑などの貝殻の裏側の真珠光を放つ部分の薄片を貼るもの。平文は、金銀の薄板を文様に切り、漆面に貼って漆で塗り埋め、研ぎ出したもの。截金は、金・銀・銅・錫の箔または薄板を線状或いは細かく切り、これを貼付して種々の文様を施す技法のこと。
真葛焼(まくずやき)
幕末の名工の一人に数えられる宮川長造(1797-1860)が、観勝寺安井門蹟より「真葛」の号を賜り、「真葛」を称する。また晩年華頂宮より「香山」の号を授かる。仁清写しを多く作る。長造の長男・長平が2代真葛長造(-1860)だが早世したため、長造の四男・寅之助(1842-1916)が長平の妻と子を引き取り19歳で家督を継ぎ真葛焼の名をさらに高め、有栖川宮の勧誘と薩摩藩士小松帯刀の後援により明治3年(1870)に家族を連れて横浜に移住。同所の南太田に陶窯を築き、真葛焼「真葛香山」と称した。2代真葛香山(1859-1940)宮川半之助もこれを手伝う。明治26年アメリカ合衆国シカゴで開催された万国博覧会にも出品する等、主に欧米向けに鮮やかな装飾をもって制作され「マクズウエア」の名で広く世界に知られ、明治29年帝室技芸員となる。3代真葛香山葛之輔が昭和20年横浜大空襲に被災して死亡。戦後、3代目の弟智之助が4代目を名乗り復興を目指すが昭和34年に亡くなり「真葛窯」は絶えた。これを「横浜真葛焼」と呼ぶこともある。
莫妄想(まくもうぞう)
「傳燈録」の「汾州無業禪師」章に「凡學者致問。師多答之云。莫妄想。」(およそ学者の問いを致すに、師多く之に答えて云う、妄想する莫れと。)、「碧巌録」に「無業一生凡有所問。只道莫妄想。所以道。一處透。千處萬處一時透。一機明。千機萬機一時明。」(無業一生およそ所問あれば、ただ道う莫妄想と。このゆえに道う、一処透れば、千処万処一時に透る。一機明かなれば、千機万機一時に明かなりと。)とあり、中国唐代の禅僧・無業禅師が多用したことで有名な語。達磨の教えを伝えるとされる「小室六門」に「無妄想時。一心是一佛國。有妄想時。一心是一地獄。衆生造作妄想。以心生心。故常在地獄。菩薩觀察妄想。不以心生心、故常在佛國。若不以心生心。則心心入空。」(妄想なき時、一心これ一仏国。妄想ある時。一心これ一地獄。衆生、妄想を造作し、心をもって心を生ず、故に常に地獄に在す。菩薩、妄想を観察し、心をもって心を生ぜず、故に常に仏国に在す。もし心をもって心を生ぜずば、すなわち心心空に入る。)とある。
曲物(まげもの)
薄い板材を、円形・楕円形などに曲げて底をつけた容器の総称。檜・杉・ヒバ・サワラなど比較的くせのない材料で薄板を作り、熱湯の中につけて煮込む「蒸煮」という工程を経て、柔らかくなった板を曲げ、木または竹の鋏で挟んで乾燥させ、合わせ目を薄く帯状にした桜の皮などで縫い合わせ底を取り付けたもの。曲建水、曲水指などがある。曲建水は、面桶(めんつう)ともいい、「長闇堂記」に「一つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん」、「源流茶話」に「古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて求めがたき故に、紹鴎、侘のたすけに面通を物すかれ候、面通、いにしへハ木具のあしらひにて、茶湯一会のもてなしばかりに用ひなかされ候へハ、内へ竹輪を入れ、組縁にひさくを掛出され候、惣、茶たて終りて、面通の内へ竹輪を打入られ候は、竹輪を重て用ひ間敷の仕かたにて、客を馳走の風情に候」とあり、紹鴎が茶席に持ち込んだとされる。
萬壽棚(ますだな)
棚物の一。利休袋棚の右側をもとにした、一指斎好の青漆爪紅(せいしつつまぐれ)の二重棚。満寿棚とも書く。一指斎が兄の表千家碌々斎と共に一指斎門下の数寄者で近江八幡の豪商西川貞二郎家に長期滞在した際、これを記念して各々が西川家の暖簾印曰(なかいち)を意匠した一閑の作で、一指斎は中棚を一文字形に、碌々斎は四方を糸巻形に抜いて曰(なかいち)にかたどったもので、前者は地板のない運び水指の棚として「青漆爪紅萬壽棚」と名付けられ、後者は地板が取り外しのできる兼用の棚として「青漆爪紅糸巻二重棚」と名付けられている。「萬壽棚」は「枡」に因んで、節分の頃によく用いられる。
斑唐津(まだらからつ)
唐津焼の技法のひとつ。唐津でも最も古い岸岳系の窯で多く用いられた技法で、白色の藁灰釉(わらばいゆう)をかけたもので、全体が乳白色の表面に粘土の中の鉄分や燃料の松灰が溶けだし青や黒の斑点が現れる。「白唐津」ともいう。使い込むほどに色合いが変化していく。
松平不昧(まつだいらふまい)
出雲松江藩七代藩主。宝暦元年(1751)-文政元年(1818)。父は六代藩主天隆院宗衍(むねのぶ)、母は側室大森歌(うた)。幼名鶴太郎。明和元年(1764)十代将軍家治に拝謁。家治から一字を授かり元服、治好(はるたか)を名のる。明和4年(1767)17歳で藩主となり出羽守治郷(はるさと)と改める。明和5年(1768)18歳で石州流茶道を三世伊佐幸琢に学ぶ。明和6年(1769)19歳で麻布天真寺・大巓宗硯禅師に禅を学ぶ。この頃、無学和尚から「未央庵宗納」の号を授かる。明和7年(1770)20歳のとき「贅言(むだごと)」を著す。不昧の号は明和8年(1771)大巓和尚より授かったもの。文化3年(1806)56歳で致仕を許され、茶室11を備えた品川大崎下屋敷に隠居、剃髪して不昧を公称する。「三斎流」「石州流」を極め、後に「不昧流」を立てる。また、茶道具の収集を行い、その総目録である「雲州蔵帳」で、自らの審美眼に従い宝物之部、大名物之部、中興名物之部、名物並之部、上之部、中之部、下之部の7つに格付けし、伝来や購入年、当時における評価額、購入金額まで記録している。著書に、寛政元年(1789)-同9年(1797)にかけ陶斎尚古老人の名で刊行した名物茶道具の図説書「古今名物類聚」(茶入の部7冊(中興名物5、大名物2)、雑の部(後窯・国焼1、天目茶碗1、楽焼茶碗1、雑器の部2)、拾遺の部4冊、裂の部2冊の計18冊。不昧自ら実見したものは詳細な図版入りで所蔵者や法量、付属物までも詳細に記されている)、伝来する和漢の茶入を分類し、整理、論述した文化8年(1811)筆の「和漢茶壺鑒定(わかんちゃつぼかんてい)」(瀬戸陶器濫觴ともいい、「和漢茶壺濫觴」「和漢茶壺竈分」「和漢茶壺時代分」の3巻からなる)がある。
松木盆(まつのきぼん)
松の木地に溜塗の葉入四方盆。「茶道筌蹄」に「松木四方盆葉入春慶。紹鴎より利休へ伝へ、利休より今小路道三に伝ふ。道三箱書付に翠竹とあり、翠竹は道三の院号なり。老松同木にてうつしあり。原叟如心斎も製之。」、「千家茶事不白斎聞書」に「松ノ木盆紹鴎、五葉松也。」とある。「茶式湖月集」に「指度八寸五分惣高八分(表)此キワニチリ四リンカガミ六寸二三分四方(裏)底板一分半大ワ高一分六リン同外高二分一リン大ワ厚二分一リン右利休好ノ寸法。松木ノフシナシヤニ無之松ニテ造リウスクタメ塗ウラヲモテトモ如此外ノ角ハ黒ヌリニテ大輪ヘカケテツクラヒハ強クニシタルモノナリツクライヒ黒ウルシツクラヒ二分ホドノ太ミナリ」などとある。
松無古今色(まつにここんのいろなし)
「禅林句集」五言対句に「松無古今色、竹有上下節。」(松に古今の色なく、竹に上下の節あり。)とある。鎌倉・南北朝の臨済宗の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき:1275-1351)の「夢窗國師語録」に「便向他道、竹有上下節、松無古今色。」(すなわち他に向っていう、竹に上下の節あり、松に古今の色なし。)とあるのが元という。「續燈録」には「問。如何是〓(水為)山家風。師云。竹有上下節。松無古今青。」(問う、如何なるか是れ〓(水為)山の家風。師云く、竹に上下の節あり、松に古今の青なし。)とあり、「五燈會元」も「僧問。如何是〓(水為)山家風。師曰。竹有上下節。松無今古青。」(僧問う、如何なるか是れ〓(水為)山の家風。師曰く、竹に上下の節あり、松に古今の青なし。)とする。松は昔も今も常に青々していてその色を変えることがない。竹はいつも青々しているが、上下の節があり、人はその性は不違だが、現成には歴然とした別がある。
松屋会記(まつやかいき)
奈良の塗師松屋の茶会記。天文2年(1533)に松屋久政(-1598)によって起筆され、のち子の久好(-1633)、孫の久重(1566-1652)の3代にわたって慶安3年(1650)まで書き継がれた他会記。久政は天文2年(1533)から慶長元年(1596)、久好は天正14年(1586)から寛永3年(1626)、久重は慶長9年(1604)から慶安3年(1650)にわたって記されており、全体を久重が編纂したといわれる。千利休の茶会をはじめ、当時の茶の湯を知るうえで貴重な史料。久重は、松屋の他会記や自会記から、利休・織部・三斎・遠州の四人が関わる茶会の様子を編纂し「茶道四祖伝書」を刊行した。
眉風炉(まゆぶろ)
風炉の一。火窓の上が風炉の口までいかず繋がっていて、透かしになっている風炉。真の風炉とされる。火窓の上部と口縁との間のつながった部分が眉に似ているところからの名という。暑い時期に火気がなるべく客に感じられないように使われることが多い。「正伝集」に「眉ありの風炉と云は、金風炉の口の如く、上へ切り揚げず、前に狭間を開きたるを云也。眉ある風炉は多分透木据にする也。是を真の台子の時用ふと也。透木据の風炉の内は、廻りに畦を立て、丸く灰を置廻し候也。前土器は如常立る也。頬当風炉は、軸足にして多分五徳据也。是を草の風炉と云也。当世数多く有之風炉にて子細なし。但し眉有に軸足もあり、頬当に乳足もあり、大方は古より定置候共、時節の作意次第と心得べし。故に宗易時代より以来、口の差別なしに乳足にも、軸足にも、好みに任せ候也。」とある。
丸卓(まるじょく)
二本柱で、天板と地板が丸い一重小棚。中国から伝えられた飾り棚、卓を棚物として応用した棚の一種。炉・風炉いずれの場合も使用される。利休好みは、桐木地で、二本の柱が天板と地板の内側に付いている。地板裏には低い三つの足がついている。宗旦好みは黒の一閑張片木目。二本の柱は天板と地板の外側に付く。地板は厚く足は無い。初飾りは天板に茶器、地板に水指を飾る。後飾りは天板に蓋置と柄杓を飾る。
丸椀(まるわん)
懐石家具の塗椀の一。現在最も一般的に使用されている椀。口から腰にかけて丸味を帯びているところから丸椀という。利休形は四つ椀で、両椀は四重椀、壺皿と平皿は被せ蓋。江戸初期までの会記には見られない。元禄4年(1691)刊「茶道要録」に「利休形諸道具之代付」として「丸椀三人前但シ小道具共ニ五十七銭目。」とあり、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「黒塗丸椀坪平付大小とも利休。」とあり、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」に「大丸小丸差別しらず、右内外黒花塗、花宗旦所持の椀を写ところ」とあり、飯椀と汁椀のみが載る。
萬年松在祝融峰(まんねんのまつしゅくゆうほうにあり)
「續燈録」に「開堂日。問。為國宣揚闢祖闈。九重城裏顯光輝。人人聳聽真消息。未審如何贊萬機。師云。千歳鶴鳴華表柱。萬年松在祝融峰。」(開堂日。問う。為国宣揚、祖闈を闢く。九重の城裏、光輝を顕す。人人聳みて真消息を聴く。未審如何か万機を賛う。師云く。千歳の鶴、華表柱に鳴き。萬年の松、祝融峰に在り。)とある。祝融峰(しゅくゆうほう)は、湖南省衡山県の西北にある衡山(こうざん)の最高峰で標高1290m。祝融を葬ったため、この名があると伝える。祝融は、中国の古伝説上の人物で、火の神、夏の神、南方の神とされる。「山海経」に「南方祝融、獸身人面、乘兩龍」(南方は祝融、獣身人面、双竜に乗る)、郭璞の註に「火神也」とある。また、「禮號謚記」に「伏羲・祝融・神農」、後漢の班固の「白虎通」号篇に「伏羲・神農・祝融」とあるように、中国古代の神話上の帝王である三皇の一人とするものもある。華表柱は、中国で宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱。 
み     

 

三島(みしま)
高麗茶碗の一種。李朝初期15-16世紀の慶尚南道で焼かれた、鉄分が多い鼠色の素地に印や箆(へら)や櫛(くし)で紋様をつけ、白土の化粧土を塗った後、削り又は拭き取り仕上げをし、長石釉や木灰釉を掛け焼成した白象嵌の陶器。「暦手(こよみで)」ともいう。その文様が、伊豆国三嶋明神(現三嶋大社)で版行された摺暦(すりこよみ/木版印刷)である「三島暦」の仮名の崩し文字に似ていることから「みしま」「こよみ」などと呼ばれたというのが通説。「古三島」「礼賓(らいひん)三島」「花三島」「渦三島」「三作(さんさく)三島」「彫三島」「御本三島」などが知られている。「礼賓三島」は、見込みに「礼賓」の字が白象嵌で書いてることによる。礼賓は礼賓寺という外国使臣を接待する役所で、ほかに長興寺・内資寺・内膳・司膳・仁寿府などの文字のあるものも礼賓と称す。この手は官用品として上納されたもので上品が多い。「古三島」来賓に続いて16世紀前半から中期へかけての物が多く、象嵌の手法が来賓ほど緻密ではない。「三作三島」は、内面は三島象嵌で、外側は胴まで粉引で高台脇に刷毛目のあるもの。刷毛目のないものは二作三島という。「彫三島」は、織部の意匠による日本からの注文品で、見込みだけに花紋の押し型を用い、見込み周辺や外側は箆で略紋を施してある。「御本三島」は御本によるもの。
三島唐津(みしまからつ)
唐津焼の技法のひとつ。李朝三島の技法を伝承したもので、素地がまだ乾かないうちに、浅い彫りをいれたり、スタンプ状のものを押し付け、印花紋、線彫、雲鶴等の文様などを施し、化粧土を塗った後、削り又は拭き取り仕上げをし、長石釉や木灰釉を掛け焼成するもの。象嵌(ぞうがん)の一種。
水指(みずさし)
茶碗をすすぐ水や、釜に足すための水を入れ点前座に据える道具。水指の種類は、金属・磁器・陶器・塗物・木地のものなどある。水指には、水を七・八分入れて用いる。季節や棚やその他合わせる道具などによって種々変化する。また、扱いが、水指や用いる棚の種類により、点前のはじめに運び出し終われば運び出す「運び」と、点前のはじまる前に、あらかじめ茶席に据えておく「置き」にわかれる。運び出す時は形に拘らず両側を両手にて持出す。水指の蓋には、水指と同じ材質の「共蓋(ともぶた)」と、元来蓋のないものや、別の用途で使用されていたものを水指に転用したものなどには漆塗りの「塗蓋(ぬりぶた)」をつくり使用される。共蓋のある場合は「替蓋(かえぶた)」と呼ぶ。「源流茶話」に「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候」とある。利休所持のものとしては、南蛮胴張形、井戸雷盆(らいぼん)、瀬戸捻貫(ねじぬき)渋紙手、一重口、信楽一重口、備前破桶、利休好みとしては、木地釣瓶、木地曲、真塗手桶、真塗茶桶形がある。
水緑山青(みずはみどりやまはあお)
「十牛圖頌」返本還源序九に「本來清淨。不受一塵。觀有相之榮枯。處無為之凝寂。不同幻化。豈假修治。水克R青。坐觀成敗。頌曰。返本還源已費功。爭如直下若盲聾。庵中不見庵前物。水自茫茫花自紅」(本来清浄にして一塵を受けず、有相の栄枯を観じて無為の凝寂に処す。幻化(げんけ)に同じからざれば豈に修治を假らんや、水は緑に山は青うして、坐らに成敗を観る。頌に曰く、本に返り源に還って已に功を費す、争でか如らん直下に盲聾の若くならんには。庵中には庵前の物を見ず、水は自ら茫茫、花は自ら紅なり。)とある。「五燈會元」文準禪師章に「上堂。大道縱横。觸事現成。雲開日出。水緑山青。」(上堂。大道は縱横にして、事に觸して現成す。雲開き日出で、水は緑に山は青し。)とある。
水和明月嫁(みずはめいげつにわしてかす)
「五燈會元」に「隆興府景福日餘禪師。僧問、如何是道。師曰、天共白雲曉、水和明月流。」(隆興府・景福日餘禅師。僧問う、如何なるか是れ道。師曰く、天は白雲と共に曉け、水は明月に和して流る。)とみえ、「水和明月嫁」は、「流」を「嫁」に転じたものか。
掬水月在手弄花香満衣(みずをきくすればつきてにありはなをろうすればかえにみつ)
唐の詩人、于良史(うりょうし)の「春山夜月」「春山多勝事、賞翫夜忘歸。掬水月在手、弄花香滿衣。興來無遠近、欲去惜芳菲。南望鳴鐘處、樓臺深翠微。」(春山勝事多し、賞玩して夜帰るを忘る。水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ。興きたれば遠近無し、去らんと欲して芳菲を惜しむ。南のかた鳴鐘の処を望めば、楼台翠微に深し)の中の五言対句。「虚堂録」に「僧問。有句無句。如藤倚樹。此意如何。師云。掬水月在手。弄花香滿衣。」(僧問う。有句無句は藤の樹に倚るが如し。此の意如何。師云う。水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ。)とこの詩が引かれ、有句と無句とは樹にからんだ藤のようなものという意味はどういうことですかと云う僧の問に、水を手ですくえばその水に月が写り、花を摘めばその香りが自分の衣服に満たされると云った。「有句無句。如藤倚樹」は「祖堂集」に「雲嵒至〓(三水為)山。〓(三水為)山泥壁次問。有句無句。如藤倚樹。樹倒藤枯時作摩生。雲嵒無對。」(有句無句は藤の樹に倚るが如し。樹倒るれば藤枯るる時作摩生。)とある公案で、「有句無句」は洞山良价禅師(807-869)の「寶鏡三昧」に「汝是非渠。渠正是汝。如世嬰児。五相完具。不去不来。不起不住。婆婆和和。有句無句。終不得物。語未正故。」(汝これかれにあらず、かれまさにこれ汝。世の嬰児の五相完具するが如し。不去不来、不起不住。婆婆和和、有句無句、ついに物を得ず。語いまだ正しからざるが故に)とある。
三人形蓋置(みつにんぎょうふたおき)
七種蓋置の一。三閑人・三漢人・三唐子ともいい、三人の唐子が外向きに手をつなぎ輪になった形状のもの。中国では筆架・墨台で文房具の一つであるのが、蓋置に見立てられた。三体の内の一人だけ姿の異なる人形があり、その人形を杓筋にして使い、飾るときは、客付側手前にくるように飾る。「茶道望月集」に「三漢人の蓋置迚唐人三人並びたる形あり、其中に羽織着たる人形有もの也、夫を表として、四畳半炉にては真向になし、風炉の向点の炉は前へなして置也」とみえる。
三葉蓋置(みつばふたおき)
七種蓋置の一。大小の三つ葉を上下に組み合わせた形の蓋置。大葉を上にし、その一弁が杓筋になるように置きつける。棚に飾るときは、大葉の方を下にし、その一弁が客付側手前にくるように飾る。
皆口(みなくち)
器物の形状の一。口回りが胴回りと同じで、胴部の切り立ちがそのまま口部になっている、寸胴で円筒形のもの。皆口形。釜・茶入・水指に見られる。
美濃伊賀(みのいが)
桃山時代から江戸時代にかけて、美濃地方の窯で焼かれた、伊賀焼の器形・技法を模した焼物。伊賀焼が無釉の素地に自然釉なのに対し、美濃では厚手の素地に一部分や全体に白化粧を施し、その上に鉄釉を一部分や全体に流し掛けし、匣鉢に入れないで焼成する。伊賀焼よりも明るい雰囲気で重厚さにかける。花入、水指などに多く見られる。美濃織部と呼ぶ場合もある。
宮川長造(みやがわちょうぞう)
宮川長造(1797-1860)。俗称は蝶三郎、号は延寿軒。京都祇園知恩院古門前(真葛ヶ原)の陶工。宮川家11代。宮川家は近江国(滋賀県)の住。宝永年間(1704-1711)7代祐閑のとき京都に出て知恩院門前に住み、9代香斎のときには楽屋と名乗り五条坂で釉薬を商い陶器の焼継ぎを業とした。長造は最初は仁清風の焼物を学び、いったん江戸に出たが帰郷して、青木木米(あおきもくべい)の弟子となり、最晩年の木米の製陶を助ける。のちに祇園真葛原に築窯し、主に茶器を制作したという。窯が真葛原にあるとことから観勝寺安井門蹟より「真葛」の号を賜り、また晩年華頂宮より「香山」の号を授かる。仁清写しに優れた品が多く、染付、赤絵、交趾にも佳品がある。幕末の名工の一人に数えられ、木米、仁阿弥道八(にんなみどうはち)、永楽保全と並ぶ名声を得た。印は「眞葛」(行書体)大小の小判型のものを使用。長造の四男寅之助が、真葛香山(まくずこうざん)=宮川香山(みやがわこうざん)。
明珍(みょうちん)
具足鍛冶師。初代増田宗介紀ノ太郎が、近衛天皇(1141-54)に鎧、轡を献上したところ、触れあう音が「音響朗々、光明白にして玉の如く、類稀なる珍器なりとて明珍の二字を賜ひ」という伝があり、代々「明珍」と称した。元は京都で馬の轡を作る轡師で、室町時代くらいから刀の鐔を作るようになったという。安土桃山時代に宗広が具足のほか火箸・鐶などの茶道具を手がけた。江戸時代に、明珍宗信が江戸に居を構え、元禄・宝永ごろ中興の祖明珍宗介が、系図や家伝書を整備するなどして家元制度を整え、古甲冑を自家先祖製作とする極書を発行し権威付けを始め、弟子の養成に努め、「明珍」の名乗りと名に「宗」の字の使用を許すなどしながら勢力の拡大を図り、甲冑と言えば「明珍」といわれるようになり、明珍派は上州・仙台・越前・土佐など各地にあり俗に脇明珍とよばれる。現在姫路明珍と呼ばれる家系は、前橋から移封され姫路城主となった酒井雅楽守忠清にお抱え甲冑師として仕え、茶道具も製作する。49代明珍宗之のとき明治維新で禄を離れ、千利休の火箸を作ったという伝にならい、それまで余技だった火箸づくりに転じた。当代明珍宗理は、平成4年に第52代明珍を襲名。
三好木屑(みよしもくしょう)
指物師。初代木屑は、通称は弥次兵衛。木屑、知新と号す。天明8年(1788)大阪阿弥陀池に生まれる。文化5年(1808)堀江に移り、淡路屋弥次兵衛と名乗り、大坂城内御用指物師となる。唐木の寄木細工やからくり細工、奇観筐と称する用箪笥など,精巧な細工で名高い。慶応3年(1867)7月歿、80歳。阿波三好郡の郷士大久保家を祖とし、藩主蜂須賀侯より三好の姓を受け帯刀を許される。三代木屑軒也二(もくしょうけんなりじ)は、初代木屑の孫。知新の孫であることから知孫とも呼ばれた。稀代の名工として名高い。茶湯は武者小路千家を学び、平瀬家蔵品の名物棚の図録を編纂した。髹漆・蒔絵・書画・和歌・漢詩・俳句等も能くした。昭和17年(1942)歿、68才。門下に佐藤野州がいる。
看看臘月盡(みよみよろうげつつく)
「續燈録」の明覺禪師(980-1052)に「問。如何是教外別傳一句。師云。看看臘月盡。」(問う、如何なるか是れ教外別伝の一句。師云く、看よ看よ臘月尽く。)とある。看看(かんかん)/ちょっと看るという意味で、看の一字よりも軽微になる。又は、見る間に。臘月(ろうげつ)/陰暦12月の異名。見る間に十二月も終わってしまう。時は見る間に過ぎ去ってしまうということか。「虚堂録」には「香林因僧問。萬頃荒田是誰為主。林云。看看臘月盡。師云。香林雖能坐致太平。要且不通物義。」(香林、因みに僧問う、萬頃の荒田、是れ誰を主と為す。林云う、看よ看よ臘月尽く。師云く、香林、能く坐し太平に致すと雖も、要且物義に通ぜず。)とある。
む     

 

無(む)
「無門関」の「趙州狗子」に「趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。無門曰、參禪須透祖師關、妙悟要窮心路絶。祖關不透、心路不絶、盡是依草附木精靈。且道、如何是祖師關。只者一箇無字、乃宗門一關也。遂目之曰禪宗無門關。透得過者、非但親見趙州、便可與歴代祖師、把手共行、眉毛厮結、同一眼見、同一耳聞、豈不慶快。莫有要透關底麼。將三百六十骨節、八萬四千毫竅、通身起箇疑團、參箇無字、晝夜提撕。莫作虚無會、莫作有無會。如呑了箇熱鐵丸相似、吐又吐不出、蕩盡從前惡知惡覺、久久純熟、自然内外打成一片、如唖子得夢、只許自知。驀然打發、驚天動地、如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、於生死岸頭、得大自在、向六道四生中遊戲三昧。且作麼生提撕。盡平生氣力擧箇無字。若不間斷、好似法燭一點便著。」
(趙州和尚、ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや也た無しや。趙州云く、無。無門曰く、参禅はすべからく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、ことごとく是れ依草附木の精霊ならん。且らく道え、如何が是れ祖師の関。只だこの一箇の無の字、すなわち宗門の一関なり。遂に之をなずけて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州にまみゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あい結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。世に慶快ならざらんや。透関を要するてい有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)をもって、通身に箇の疑団を起こして、箇の無の字に参じ、昼夜に提撕(ていぜい)せよ。虚無の会を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久久に純熟して自然に内外打成一片す。唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動じて、関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧(ゆげさんまい)ならん。しばらく作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。若し間断せずんば、はなはなだ法燭の一点すれば便ち著くるに似ん。)とある。
一人の僧が犬にも仏性があるかと趙州に尋ね、趙州は「無」と答えた。無門がこれを評して、参禅は必ず禅の祖師よって設けられた関門を透過せねばならない。絶妙の悟りに至るには心の意識を完全に滅してしまわねばならない。関門を透ったこともなく心の意識を滅したこともなければ、その人たちはいわば薮や草むらに住みつく幽霊のようなものである。さあ言ってみよ。この祖師の関門とはどんなものか。ただこの「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称する。この関門を透った人は、親しく趙州と会うことができるのみか、歴代の祖師たちと、手に手をとって歩き、互いの眉毛が引っ付く程に親しくなって祖師たちの見たその眼ですべてを見、同じ耳で聞くことができる。本当にすばらしいことではないか。この関門を透過しようではないか。それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、「無」の字に集中し、日夜工夫しなさい。しかし「無」を単に「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。無は、熱い鉄丸を呑みこんでしまったように、吐きたくても吐くこともできず、今までの間違った知識や意識をすっかり洗い落し、時機が熱すると、自然に意識と対象との隔たりがとれ完全に合一の状態に入る。それは聾唖者が夢みたことを人に語れぬように、自分自身では知覚しているが、言葉では説明のしようの無い状態に似ている。突如そのような別体験が発すると、驚天動地の働きで、関羽からその大刀を奪いとって自分の手にいれたようなもので、仏に出会えば釈迦を殺して仏の呪縛を破り、達磨に出会えば達磨を殺して祖師の呪縛を破って、生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、自分という存在を離れた境地に遊ぶことができる。それでは、どのように工夫したらよいのか。平生の精神力をつくしてただ「無」の一字に集中せよ。もし間断なく休止することがなければ、心中に悟りの光が一時に灯るといった境地になる、と云う。
迎付(むかえつけ)
茶事の時、亭主が露地の腰掛で待っている客を迎えに出ること。中門を境に主客が黙礼をかわす。一般的には、客は寄付に揃い亭主よりの案内をうけると露地に出て腰掛に進み、腰掛の下座に円座が重ねられ上に莨盆が置かれているので、次客と詰が腰掛の円座を配り、莨盆を正客の脇に置き、客一同円座に座り亭主の迎え付けを待つ。亭主は、座掃にて席中を清め、最後に音をたてて出入口から掃き出し、次に水を張った倶利桶を持って露地に下り、蹲踞の上水を汲み出し、蹲踞の周りを濡らしてから柄杓の柄を清め、倶利桶の水を音を立てて蹲踞から溢れるように注ぎ、倶利桶を戻したあと中門に向う。客は亭主の姿が見えたら腰掛を立ち、中門のほうに進む。亭主は門を開いて亭主石の上に立ち、中門を挟んで、主客がつくばって無言の一礼をし挨拶を交わす。黙礼後、亭主は手がかりを残して閉め、客はその場で亭主が席のほうに
後姿を見送り、いったん腰掛に戻り頃合いを見計らって正客から順に蹲踞に進み、右手で柄杓に手水鉢の水をたっぷり汲み、柄杓半分の水で左手を清め、持ちかえて残りの水で右手を清め、再び右手に柄杓を持ちかえ、水を汲み左手に水を受け、手に受けた水で口をすすぎ、最後に残った水を静かに柄杓を立て流しながら柄杓の柄を清め、元に戻す。詰は客一同が腰掛から立つと、円座と莨盆を元あったように戻し、蹲踞を使う前に中門を閉め、掛金を掛ける。後座の席入をする時は、亭主は迎付のかわりに銅鑼や喚鐘で合図をする。
ムキ栗(むきぐり)
長次郎作の黒楽茶碗。上部が四角形、下部が円形という特殊な形で、一つしか伝世していない。口縁は平。高台内には兜巾渦巻(中央が盛り上がった渦巻形の削りあと)がある。黒色がくすんで羊羹色をしている。命銘は表千家六代覚々斎(1678-1730)か。内箱蓋裏書付、表千家八代卒啄斎宗左(1744-1808)「長次郎黒四方茶わん覚々銘ムキ栗添状トモ(花押)」。外箱蓋表書付「四角長次郎作利休所持」。外箱蓋裏書付「利休好長次郎焼四方黒茶碗」
向付(むこうづけ)
懐石道具の一。折敷の手前に飯碗や汁碗が置かれ、その向う正面に置き付けるところからの呼称。向(むこう)、お向などともいう。向付は、季節や小間・広間など、それぞれの時と処に応じて使用される。春季には明るい色調のもの、夏季には染付の平皿風のものや、涼味を感じさせる義山が用いられ、秋季には「割山椒」(われざんしょう)など地味な侘びたもの、冬季には筒型の少し深い「筒向」(つつむこう)や、蒸物などの温かいものを盛る蓋付の「蓋向」(ふたむこう)が多く用いられる。深い鉢形を「深向」(ふかむこう)、浅い皿形のものを「平向」(ひらむこう)といい、深い器形の向付を「のぞき」ともいう。「寄向」(よせむこう)といい、名残などのときに、一同に揃いの物を出さず、ひとりひとり別々のものを使うこともある。また、向付に盛る料理も向付と呼ばれ、主に魚介類の造り身が盛られる。朝茶では生の魚介類を避け、一塩物や精進物が用いられる。
無功コ(むくどく)
「祖堂集」に「爾時武帝問。如何是聖諦第一義。師曰。廓然無聖。帝曰。對朕者誰。師曰。不識。又問。朕自登九五已來。度人造寺。寫經造像。有何功コ。師曰。無功コ。帝曰。何以無功コ。師曰。此是人天小果。有漏之因。如影隨形。雖有善因。非是實相。武帝問。如何是實功コ。師曰。淨智妙圓。體自空寂。如是功コ。不以世求。武帝不了達摩所言。變容不言。」(この時、武帝問う、如何なるか是れ聖諦第一義。師曰く、廓然無聖。帝曰く、朕に対する者誰ぞ。師曰く、識らず。また問う、朕は九五に登りてより已来、人を度し寺を造り、写経し造像す、何の功徳かある。師曰く、無功徳。帝曰く、何を以ってか無功徳なる。師曰く、此れは是れ人天の小果にして、有漏の因、影の形に隨うが如く、善因ありと雖も、是れ実相なるにはあらず。武帝問う、如何なるか是れ実功徳。師曰く、浄智は妙円にして、体自ら空寂なり、是くの如きの功徳は、世を以って求めず。武帝、達摩の言う所を了せず、変容して言わず。)とある。「碧巌録」第一則「達磨廓然無聖」に「武帝嘗披袈裟。自講放光般若經。感得天花亂墜地變黄金。辨道奉佛。誥詔天下。起寺度僧。依教修行。人謂之佛心天子。達磨初見武帝。帝問。朕起寺度僧。有何功コ。磨云。無功コ。早是惡水驀頭澆。若透得這箇無功コ話。許爾親見達磨。且道。起寺度僧。為什麼都無功コ。此意在什麼處。」(武帝かつて袈裟を披いて、自ら放光般若経を講ず。天花乱墜し、地黄金と変ずることを感得す。道を弁じ仏を奉じ、天下に誥詔して、寺を起て僧を度し、教に依って修行せしむ。人これを仏心天子と謂う。達磨初めて武帝に見えしとき、帝問う、朕、寺を起て僧を度す、何の功徳かある。磨云く、功徳なしと。早く是れ悪水驀頭に澆ぐ。もし這箇の無功徳の話を透得せば、爾に親しく達磨に見ゆることを。且く道え。寺を起て僧を度す、什麼と為てか都く功徳なき。この意什麼の処にか在る。)とある。
無常迅速(むじょうじんそく)
「傳燈録」に「温州永嘉玄覺禪師者永嘉人也。姓戴氏。丱歳出家遍探三藏。精天台止觀圓妙法門。於四威儀中常冥禪觀。後因左谿朗禪師激勵。與東陽策禪師同詣曹谿。初到振錫携瓶。繞祖三匝。祖曰。夫沙門者具三千威儀八萬細行。大コ自何方而來生大我慢。師曰。生死事大無常迅速。祖曰。何不體取無生了無速乎。曰體即無生。了本無速。祖曰。如是如是。于時大衆無不愕然。師方具威儀參禮。須臾告辭。祖曰。返太速乎。師曰。本自非動豈有速耶。祖曰。誰知非動。曰仁者自生分別。祖曰。汝甚得無生之意。曰無生豈有意耶。祖曰。無意誰當分別。曰分別亦非意。祖歎曰。善哉善哉。少留一宿。時謂一宿覺矣。」(温州永嘉玄覚禅師は永嘉の人なり。姓は戴氏。廿歳に出家し遍く三蔵を探ね、天台止観円妙法門を精にし、四威儀の中に於いて常に禅観を冥す。のちに左谿朗禅師に因って激励され、東陽策禅師と同して曹谿に詣る。初め錫を振り瓶を携え到り、祖を繞ること三匝。祖曰く、夫れ沙門なる者は、三千の威儀、八万の細行を具す。大徳、何方よりして来りて大我慢を生ずや。師曰く、生死事大、無常迅速なり。祖曰く、何ぞ無生を大取して、本と無速なるに了せざるか。曰く、体は即ち無生、了すれば本と無速なり。祖曰く、如是如是。時に大衆愕然たらざるは無し。師方威儀を具して参礼し、須臾にして辞を告ぐ。祖曰く、返ること太だ速きや。師曰く、本と動くに非ず、豈に速きこと有らんや。祖曰く、誰か動くに非ざるを知る。曰く、仁者自ら分別を生ずるのみ。祖曰く、汝は甚だ無生の意を得たり。曰く、無生に豈に意あらんや。祖曰く、無意誰か当に分別す。曰く、分別するもまた意に非ず。祖、歎じて曰く、善きかな、善きかな、少留一宿せよ。時に一宿覚と謂う。)とある。
結び柳(むすびやなぎ)
初釜の床飾りで、柳の枝をたわめ曲げて輪に結び、床の柳釘などに掛けた青竹などの花入から長く垂らしたもの。綰柳(わんりゅう)ともいう。「綰」とは曲げて輪にするという意。中国北魏(386-534)の賈思〓(かしきよう)が著した農書「齊民要術」に「正月旦、取楊柳枝著戸上、百鬼不入家」(正月の朝、楊柳の枝を戸口に挿しておけば、百鬼が家に入らない)とある。また「柳」を「竜」に通ずるものとし、進士に合格する登竜門にあやかろうと、橋のたもとにある柳の枝を一枝折って子に与え、竜(柳)になれと子を励まし、出世を祝ったという。唐の張喬の詩「寄維揚故人」(維楊の故人に寄す)に「離別河邊綰柳條、千山萬水玉人遙。」(離別河辺に柳条を結ぶ、仙山万水玉人遥かなり)とあり、昔の中国では人と別れるとき、送る者と送られる者が、双方柳の枝を持って、柳の枝と枝を結び合わせて別れる風習があった。柳枝を結ぶとは、曲げて輪にすることをいい、これは柳の枝がしなやかでよく曲がるので輪とし、無事に回転して帰るように旅中の平安を祈る意をふくませたものという。この故事から、利休が送別の花として「鶴一声胡銅鶴首花瓶(つるのひとこえこどうつるくびかへい)」に柳を結んで入れたのが,茶席で用いられた最初ではないかといわれる。
無門関(むもんかん)
禅宗無門関(ぜんじゅうむもんかん)。全1巻。南宋の無門慧開(むもんえかい:1182-1260)著。紹定元年(1228)成立。古来からの公案48則を選び、これに評唱と頌を加えたもの。悟りへの入門書として重視される。
村田珠光(むらたじゅこう)
応永30年(1423)-文亀2年(1502)。奈良御門の村田杢市検校の子。11歳のとき称名寺の法林院に入り僧となったが若くして茶を好み当時流行していた奈良流という闘茶にふけり、20歳のころより出家の身を厭ひ寺役を怠ったので両親と寺の両方から勘当され25歳にして還俗した。放浪ののち奈良から上洛し商人として財をなし、のち一休宗純に参禅し、その印可として「圜悟の墨跡」を与えられた。「山上宗二記」に「珠光、開山。」とあり、わび茶の開祖とされる。「南方録」には「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、松板のふちなし天井、小板ふき宝形造、一間床也。秘蔵の墨跡をかけ、台子を飾り給ふ。其後炉を切て及台を置合されし也。大方書院の飾物を置かれ候へ共、物数なども略ありし也。」とあり、茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを遊興から「限られた少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えた。東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云われる。また、象牙や銀製でできた唐物の茶杓を竹の茶杓に替えたり、台子を真漆から木地の竹製に改めたりして、わびの精神を推し進める。加えて一休禅師から宋の圜悟禅師の墨跡を印可の証として授かって以来、床の掛物を仏画や唐絵に代わって禅宗の墨跡を掛けるようになる。「山上宗二記」に「珠光の云われしは、藁屋に名馬を繋ぎたるがよしと也。然れば則ち、麁相なる座敷に名物置きたるが好し。」とあるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の様子がみられる。  
め     

 

目跡(めあと)
窯の中で器を重ねて焼く時に器同士の熔着を防ぐために、団子状にした粘土(胎土目)や砂(砂目)、ほかに貝殻(貝目)や陶石・砂岩(陶石目)、団子状の粘土塊の下に砂を敷いたもの(砂胎土目)などを目として置くが、その跡が器に付いたもの。一番上にのせて焼いたものには目跡はない。下級品を焼くときに使用されるものだが、茶人が見所とした。茶碗の見込みにある場合、景色のひとつとなる。また、皿などが焼成時にへたるのを防ぐために置かれた円錐状のハリと呼ぶ目を窯出し後叩き落としたハリ目跡(はりめあと)、トチン、ハマと称される一品ずつを載せる焼台に熔着しないよう砂を敷き器物を置いて焼成した目跡などがある。
明月上孤峰(めいげつこほうにのぼる)
「續燈録」に「上堂。問。如何是維摩一默。師云。寒山訪拾得。僧曰。恁麼則入不二之門。師云。嘘。復云。維摩大士去何從。千古今人望莫窮。不二法門休更問。夜來明月上孤峰。」(上堂。問う、如何なるか是れ維摩の一黙。師云く、寒山、拾得を訪ねる。僧曰く、恁麼ならば則ち不二の門に入る。師云く、嘘。復た云う、維摩大士、何に従いてか去る。千古今人、窮なからんを望む。不二の法門、更に問うを休めよ。夜来たりて明月孤峰に上る。)とある。不二法門(ふにほうもん)/「維摩經」入不二法門品第九に「爾時維摩詰。謂衆菩薩言。諸仁者。云何菩薩入不二法門。各隨所樂説之。」(その時に維摩詰、衆菩薩に謂って言く、諸の仁者よ、いかが菩薩の不二法門に入る。おのおの所楽に隨いて之を説く。)とあり、諸菩薩が各々所説を述べ、最後に「文殊師利曰。如我意者。於一切法無言無説。無示無識離諸問答是為入不二法門於是文殊師利。問維摩詰。我等各自説已。仁者當説。何等是菩薩入不二法門。時維摩詰默然無言。文殊師利歎曰。善哉善哉。乃至無有文字語言。是真入不二法門。説是入不二法門品時。於此衆中五千菩薩。皆入不二法門得無生法忍。」(文殊師利曰く、我が意の如きは、一切の法は言なく説なし、示なく識なし、諸の問答を離る、是れ不二の法門に入るを為す。是に於いて文殊師利、維摩詰に問う、我等各自已を説く、仁者まさに説け、何等是れ菩薩の不二法門に入る。時に維摩詰、默然無言。文殊師利、歎じて曰く、善きかな、善きかな、乃至、文字語言あること無し。これ真に不二の法門に入る。これ不二の法門に入る品を説く時、此に於いて衆中の五千の菩薩、皆、不二の法門に入り無生法忍を得る。)とあり、文殊師利(文殊菩薩)が、全てのものは、言葉もなく、説明もなく、示すこともなく、識ることもなく、もろのろの問答を離れている、と言葉をもって説いたのに対し、維摩は、黙然無言で答えた。これを「維摩の一黙」という。不二(ふに)/対立していて二元的に見えるものも、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ。「聯燈會要」に「僧問。如何是不遷義。師云。落花隨流水。明月上孤峰。」(僧問う、如何なるか是れ不遷の義。師云く、落花、流水に随い、明月、孤峰に上る。)とある。
名物裂(めいぶつぎれ)
主として室町の足利義満・義政時代以降に中国から舶来した、宋・元・明時代の中国で織られた、金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんとう)を主に、錦(にしき)、風通(ふうつう)、繻珍(しちん)、天鵞絨(びろうど)、印金(いんきん)、莫臥爾(もうる)、更紗(さらさ)などの裂地で、名物といわれる茶器の仕服、掛物の表装などに使われたもの。「名物」の語の初出は、文禄4年(1595)7月15日の奥書のある別所吉兵衛の「名器録」の中に「銘物地也(矢扁+也)」とあり、漢東19種、古金襴32種、緞子11種の名称と略説並びに時代を書いている。元禄7年(1694)刊の「万宝全書」には、後に名物裂と呼ばれるようになった裂類を「時代裂」と称している。この時代裂を名物裂として明確に規定したのは、寛政3年(1791)に上梓された松平不昧の「古今名物類聚」名物裂の部二冊で、緞子、金襴、間道及び雑載に分けて、緞子29種38裂、金襴49種79裂、間道14種23裂、雑載14種26裂の106種166裂の名物裂を彩色によって図示している。古今名物類聚収載裂。さらに文化元年(1804)刊の「和漢錦繍一覧」には、緞子143種、金襴145種、間道35種など342種を収録している。和漢錦繍一覧収載裂。江戸時代の中期になると、茶道各流派独自の名物裂が選定されるところとなり、その結果、その総数は、400種類を超えるほどにもなるという。名物裂は、その由来により様々な名が付けられ、所蔵していた神社仏閣の名称、僧侶・大名・茶人などの人物名、裂地の文様、茶器などの名物品、生産地または所在地、能装束として使われる演目に関するものなどがある。また到来時期から、室町初期(足利義満の頃)の「極古渡り」、室町中期(足利義政の頃)の「古渡り」、室町中期-末期の「中渡り」、室町末期-桃山の「後渡り」、江戸初期の「近渡り」、江戸中期の「新渡り」、江戸中期以降の「今渡り」などと分けることもある。
明歴歴露堂堂(めいれきれきろどうどう)
「圓悟佛果禪師語録」に「僧問。明歴歴露堂堂。因什麼乾坤收不得。師云。金剛手裏八稜棒。進云。忽若一喚便回。還當得活也無。師云。〓(上秋下鳥)子目連無奈何。」(僧問う、明歴歴露堂堂、什麼に因って乾坤の收むるを得ざるや。師云く、金剛手裏八稜の棒。進云く、忽ち一喚すれば便ち回るが若し、還って活を得るやまたいなや。師云く、〓(上秋下鳥)子目連いかんともする無し。)とある。明歴歴露堂堂/歴々と明らかに、堂々と露れる。真理は歴然と明らかにして堂々と顕露しており隠されたものではない、もし見えないとすれば、見ようとしないだけで、目が曇っているに過ぎないとのこと。金剛手(こんごうしゅ)/金剛杵を持つものという意味で金剛手菩薩。金剛杵は方便(慈悲心)を表し人間の煩悩を打ち砕き本来の仏性を引き出すための法具。八稜(はちりょう)/。八画形のの先端を尖らせた形。〓(上秋下鳥)子(しゅうし)/舎利仏のこと。「大佛頂首楞嚴經正脈疏」に「舍利弗。此云〓(上秋下鳥)子。〓(上秋下鳥)乃水鳥。是其母名。母辯流歴。似〓(上秋下鳥)之目。故連母為名。云是〓(上秋下鳥)之子也。」(舍利仏。此れ〓(上秋下鳥)子と云う。〓(上秋下鳥)すなわち水鳥。是れその母の名。母の流歴を弁ずるに、〓(上秋下鳥)の目に似る。故に母に連ねて名と為し、是れ〓(上秋下鳥)の子と云うなり。)とある。目連(もくれん)/釈迦十大弟子の一人、神通第一といわれた。
面桶椀(めんつうわん)
懐石家具の塗椀の一。被せ蓋で、桶形、底は高台付。身に帯紐が廻り、蓋には紐なし。元禄4年(1691)刊「茶道要録」に「利休形諸道具之代付」として「面桶椀但シ三人前三十五銭目。替汁椀但シ一組四銭目。大壺皿蓋共十銭目五分。小壺同同前。平皿同同前。」とあり、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」に「面桶椀利休形、何れもうるみ、外蓋菜盛りばかり、坪平は丸椀を仮用ゆ」、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」に「花塗、うるみ、身蓋とも六つ有、ふたには紋なし、内の形は外に応じ」とあり、飯椀と汁椀と菜入のみが載る。宗旦好みに、潤塗面桶椀で、飯椀、汁椀、菜盛椀の三椀組がある。
面中次(めんなかつぎ)
薄茶器の一。中次の蓋の肩を面取りしたもの。「茶道筌蹄」に「面中次黒は利休、タメは元伯、何れも中ばかりなり、タメ中次に元伯書にて詩を書たるを詩中次と云ふ、原叟写しあり、如心斎又数五十を製す」とあり、真塗は利休好み、溜塗は宗旦好みという。
も     

 

莫臥爾(もうる)
糸に金や銀を巻きつけた撚糸(モール糸)を織り込んで文様を出した織物。モール。経は絹糸で、緯に金糸を用いたものを金モール、銀糸を用いたものを銀モールといい、のち金糸または銀糸だけを寄り合わせたものをいう。莫臥児、莫臥爾、回々織、毛宇留、毛織などの字が当てられる。正徳2年(1712)頃に成った寺島良安の「和漢三才図会」に「按莫臥爾天竺国名、所出之綺、似緞閃而有小異、本朝所織者亦不劣」とあり、インドのモゴル(ムガール)帝国(1526-1857)の所産で、緞子に似ているが少し異なるとしている。わが国には戦国時代から桃山時代にかけて、南蛮貿易によって舶載された。モールの語はポルトガル語の「mogol」からという。
毛織(もうる)
モール。合金の表面に鎚や鏨で文様を叩き出したり、彫り出したもの。織物表面に浮織のあるモールと表面文様が似ているところからの呼び名という。水指、建水などにある。チベットでは、袋形で口縁の下にくびれがあり、胴に連弁の彫文、口に唐花、唐草の打出し文様が施された形の容器のことをモールと呼んでいるという。
茂三(もさん)
対馬藩藩士。江戸寛文年間の人。姓は中庭。寿閑と号す。寛永16年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯「和館茶碗窯」に燔師(はんし)としておもむき、朝鮮陶工を指導して御本茶碗を焼いた。いわゆる「茂三茶碗」は、腰に切り廻しのある井戸形で、口辺は端反らず、高台は低めで小さな竹節状をしている。特徴は見込みの細めの刷毛(鶴刷毛)と高台内の渦で、その中央に小さな兜巾を見せている。釉色は黄味・赤味・青味を交えた枇杷色で、鹿の子の窯変もほどよくみられる。総じて薄作りで、土は細かく、堅く焼き締まっている。
牧谿(もっけい)
中国、宋末から元初の画僧。生没年未詳。蜀(四川省)の人。法名は法常。牧谿は号。西湖畔六通(りくつう)寺の開山と伝える。元代の呉大素の「松齋梅譜」に「僧法常、蜀人、號牧溪、喜畫龍虎、猿鶴、禽鳥、山水、樹石、人物、不曾設色。多用蔗査艸結、又皆隨筆點墨而成、意思簡當、不費粧綴、松竹梅蘭、不具形似、荷鷺蘆雁、倶有高致。一日造語傷賈似道、廣捕而避罪於越丘氏家、所作甚多、惟三友帳為之?品、後世變事釋、圓寂於至元間。」(僧法常、蜀人、號は牧溪、このんで龍虎・猿鶴・禽鳥・山水・樹石・人物を画く。曾て設色せず、多く蔗査(しょさ/甘蔗の搾り滓)・艸結(てつけつ/藁筆)を用い、また皆筆に随い墨を点じて成る。意思は簡当、粧綴を費やさず、松竹・梅蘭は形似を具えず、荷鷺は写して倶に高致あり。一日、造語して賈似道(1213-1275)を傷つけ、広捕せられて罪を越(浙江省紹興)の丘氏家に避く。作る所は甚だ多けれども、惟だ三友帳は之を絶品となす。後世変じ事釈け、至元(1264-1294)間に円寂す。)とある。同時代から毀誉褒貶が甚だしく、粗悪にして古法なく、まことに雅玩に非らず、として中国では重視されなかったが、日本では鎌倉末期以来珍重され、室町期の水墨画に多大な影響を与えた。代表作「観音猿鶴図」。
木瓜形(もっこうがた)
器物の形の一つ。紋所の木瓜のように楕円の四隅が内側に窪んでいる形。阿古陀(あこだ)形、四方入隅(角)形ともいう。木瓜(もっこう、もかう)は、文様としては古く唐時代に用いられわが国へ伝来した。木瓜と記すため胡瓜の切口を図案化したものというが、巣(本字は上穴下果)紋(かもん)ともいわれ、本来は地上の鳥の巣を表現したものとされ、神社の御簾の帽額(もこう)に多く使われた文様であったので、もっこうと呼ばれるようになったと云う。鳥の巣は子孫繁栄を意味し、神社で用いる御簾は吉祥であるということから、めでたい紋とされ、家紋として多く用いられた。
桃尻(ももじり)
古銅花入の一。細口で耳がなく下部が桃の形のように膨らみ高台がなく、上下五段に区切られた文様帯があり、文様帯の中に饕餮文の退化した文様がある花入をいうように思われる。中国明代の製で室町末期に将来したものという。桃底とするものもある。「天王寺屋会記」永禄10年(1567)12月29日朝会に「無もんのもヽしり、梅入テ、四方盆ニすへ」、「天王寺屋会記」永禄11年(1568)4月26日昼会に「住吉屋之もヽしり見申候」「もヽしり拝見申候、色あか色也、もん(文)てきわ(手際)あしきやうに見へ申候、口かたうすあり、むすひれう(結び龍)六ツ半也」、「烏鼠集」に「桃尻にハ耳なし、かう台つきなし、桃の尻のことし、凡ハそろりのなり・ふくらちかふ也、長同意、少ハひさし、六寸三四分、上下に紋なき処少有、肩に猿紋、次に雉の尾、次にすちかひして、間に小紋、横に筋して結龍、又よこ筋してをり入ひし、次無紋にあけそこの桃尻也」、「山上宗二記」に「一桃尻関白様本は紹鴎所持也。但し、古銅花入、天下一名物。五通の文を指す。四方盆にすわる。一桃尻文を五通さす。四方盆にすわる。本は引拙。平野に在り。一桃尻是も名物。文を五通さす。四方盆にすわる。京医師道三に在り。右三つ、花入也。但し、此の外によしあし八つ在り。去れども、それは数寄に入らず。口伝あり。」、「和漢茶誌」に「桃尻鋳五様紋胡銅漢器也」(桃尻五様の紋を鋳る、胡銅の漢器なり)とあり、上下五段に区切られた文様帯があり、文様帯の中に饕餮文の退化した文様があり、これを結び龍と称したと思われる。「山上宗二記」の表千家本は、「一もヽそこ関白様に在むかし珠光所持、天下一の名物也、但ことうの花入、五とをりの文をさし候。四方盆に居る。一もヽそこ昔引拙所持、是も文を五通りさし候、四方盆に居る、平野に在。一もヽしり是も同名物也、文を五とをり指候、四方盆に居る、京医師道三在。右天下三つ之花入也、但此外もヽしり好悪取交七つ八つ在、それは数寄に不入。口伝在之。」とあり、前二者を「もヽそこ」とするが、説明文は同様でその区別が判然としない。天王寺屋会記に無文の桃尻とあるが桃底との混同があるか。
桃底(ももぞこ)
古銅花入の一。細口で耳がなく高台がなく畳付が丸く内側に窪んだ無紋の花入をいうように思われる。室町末期に中国から将来したものという。桃尻とするものもある。「天王寺屋会記」永禄11年(1568)4月25日朝せいとん会に「床もヽしり、四方盆ニ、菊生テ、此花入少かた也」「もヽそこ拝見申候、金かね黒色也、もん一段うつくしくほり申候、むすれう(結龍)七ツ有」と、桃底に結龍の文が七つあると云うが、同じものを桃尻とも云っており混同が見られ、桃尻のことではないか。「茶道筌蹄」に「一、ゾロリ細口輪香台。一、桃底細口輪香台なし。」とあり、、高台のあるものが曾呂利で、高台のないものが桃底という。尾張徳川家伝来の、内箱書「桃そこ」外箱書「唐物砂張ももそこ」とある銘「鶴一声」花入は、無文で、細長い頸に撫肩で曾呂利のようだが、底部が桃のように丸く凹んでいる。
開門落葉多(もんをひらけばらくようおおし)
「禅林句集」五言対句に「聽雨寒更盡、開門落葉多」(雨を聴いて寒更尽き、門を開けば落葉多し)とある。「全唐詩」に収められた、唐僧・無可上人の「秋寄從兄賈島」という題の五言律詩「暝(暗)蟲喧(分)暮色、默思坐(坐思)西林。聽雨寒更徹(盡)、開門落葉深。昔因京邑病、併起洞庭心。亦是吾兄事(弟)、遲迴共(直)至今。」(カッコ内は異本)から。深夜半、屋根打つ雨音が次第に強くなり冷えこみが一段と激しくなった。翌朝、門を開くと一面に敷きつめられた沢山の落ち葉。宋の釋惠洪の「冷齋夜話」に「唐僧多佳句、其琢法比物以意、而不指言一物、謂之象外句。如無可上人詩曰、聽雨寒更盡、開門落葉深、是落葉比雨聲也。」というように、言外に落ち葉の音を雨音に比したのもで、昨夜雨と思ったのは、この落葉が屋根に落ちる音だったのか、との意をこめたもの。紀貫之の「秋の夜に雨と聴こえて降りつるは風にみだるる紅葉なりけり」(拾遺集)は、この詩を元に詠ったという。無可は范陽の人、姓は賈氏、居天仙寺に住す。
      

 

夜学(やがく)
甕形の四方に火灯窓のような大小の透しがあるもの。夜に学問をする際、机上を照らす灯明の火皿の台を転用したものといわれ、小さいものは蓋置、大きいものは香炉や手焙などに用いられる。
八坂焼(やさかやき)
17世紀前半、京都東山八坂の陶工清兵衛が製した陶器。鳳林承章の「隔蓂記」寛永十七年(1640)に「四月六日・・・茶入作之清兵衛初同道茶入共香炉香合掛車而作也」、「五月七日下京之清兵衛(八坂陶工)今日初来・・・清兵衛為持参焼物香合壱ケ恵之、香合之上ニ寿字以朱書之香合也」、正保三年(1646)に「八坂焼梅之紋有之鉢」ほか、八坂の双林寺の近くにあったことが記されており、轆轤を使って茶入・香炉・香合・鉢などを焼き、交趾風な色絵付のものも造っていたとされる。
やつれ
風炉釜の状態を表す語。腐食が激しく荒れたり、一部が壊れた状態になること。または、侘びた風情を出すために故意に打ち欠いた状態。風炉の欄干や口、釜の羽などに表される。ことに、鉄風炉では腐食で口縁部や甑等が欠け落ちることが多かったが、茶人はそこ風情を見出して、そのままか、割れを継いだり、破れに鎹を打って、その詫びたさまを景色に見立てて使い、「やつれ風炉」「欠風炉」「破れ風炉」と称して好んだ。大きな鬼面風炉の姿が多く、元来が釜と切合わせであったものを、風炉の上端を打ち砕いて欠き、異なった釜を掛けるようになったという。江戸中期以降は最初からやつれたものに作ることが多い。十月の名残のころに使用される。
矢筈口(やはずぐち)
器物の口造りの一。矢を弦につがえるために、凹字がたになった矢の頭部を「矢筈」といい、そのような凹形の口をしたものをいう。水指に多く、口造りが口辺から内部下方へ傾きながら狭まった形で、口の内側に置蓋の受けがあり、共蓋をのせるようになっている。日用雑器の見立てではなく、当初から茶陶として造られたようで、一重口で桶型の鬼桶水指にかわり、利休晩年にあたる天正年間(1573-1592)後期頃に流行したという。
矢筈棚(やはずだな)
矢筈とは、矢を弦につがえるために、凹字がたになった矢の頭部をいう。七世直斎宗守好。天板の小口が矢筈状になっていることが、棚名の由来。堂上家で冠を置く棚(冠卓)に真塗で四方に赤い房の下がったものがあり、これをもとに、直斎が好んだ明七宝水指を生かして使うために考案されたという。 真塗の背の低い四方水指棚で、四本柱の右手前1本を柄杓が通いやすいように省き、天板の小口に矢筈形の溝を掘って、それに赤い紐を掛けまわし、省いた一本の柱の代わりに紅染の総(ふさ)を垂らしている。この棚には「判の柄杓」と呼ばれる、柄が一寸長く、柄の部分を煤竹にして裏を黒塗にした柄杓を使用する。
弥七田(やひちだ)
織部焼の一種。素地は薄手で繊細な鉄絵けを施し、薄い発色の緑釉を細く紐状にたらし掛けたものが特徴。名称は、主に岐阜県可児市の弥七田窯で焼かれていることに由来する。 牟田洞、窯下、中窯(岐阜県可児市久々利大萓)の近くに窯跡が残っている。この窯は他の織部よりは時代が下り、慶長末期か寛永の頃まで焼かれていたのではないかといわれる。
山是山水是水(やまこれやま、みずこれみず)
雲門文偃の「雲門廣録」に「諸和尚子莫妄想。天是天地是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗。」、「圓悟佛果禪師語録」に「雲門一日示衆云。和尚子莫妄想。山是山水是水。僧是僧俗是俗。」、「正法眼蔵」に「古佛云、山是山水是水。この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。」とある。江味農居士(1872-1938)の「神經喜喜」に「古コ又云。不悟時、山是山、水是水。悟了時、山不是山、水不是水。山是山水是水者、只見諸法也。山不是山水不是水者、惟見一如也。又有悟後歌云。青山還是舊青山。蓋謂諸法仍舊也、而見諸法之一如、則青山雖是舊、光景煥然新矣。」とあり、悟りに至らないときは山は山、水は水にしか見えない。悟ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水でなくなってしまう。ところが、さらに修行が深まって悟りの心さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってくるとする。
山里棚(やまざとだな)
利休好みの小棚。杉木地で、長方形の地板と、寄付を大きく斜めに切り取った天板を三本の柱で支え、天板と地板の縁に胡麻竹の割竹が張られている。地板は砂摺りになっていて、湿らせて使用することが出来るため、備前・信楽などの素焼きの濡れ水指を用いることができる。大阪城内山里の茶席で初めて使われたという説と大阪城山里丸の仕付板を棚とされたという説がある。藪内剣仲に送ったと言われ、同流の代表的な棚とされ、小棚とも呼ばれている。
山静如太古(やましずかなることたいこのごとし)
北宋の詩人、唐庚(とうこう:1070-1120)の五言律詩「醉眠」(酔うて眠る)に「山靜似太古、日長如小年。餘花猶可醉、好鳥不妨眠。世味門常掩、時光簟已便。夢中頻得句、拈筆又忘筌。」(山静にして太古に似たり、日長くして小年の如し。余花なお酔うべし、好鳥も眠を妨げず。世味には門常に掩い、時光簟に便ぐのみ。夢中頻りに句を得たり、筆を拈ればまた筌を忘る。)とあり、「山靜如太古、日長似小年」に作るもある。時光(じこう)/時間、ひととき。簟(たん)/たかむしろ、竹で編んだむしろ。忘筌(ぼうせん)/「荘子」外物篇に「筌者所以在魚、得魚而忘筌、蹄者所以在兎、得兎而忘蹄、言者所以在意、得意而忘言、吾安得夫忘言之人而與之言哉。」(筌は魚を在るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は意に在るる所以なり。意を得て言を忘る。吾れいずくにか、かの言を忘るるの人を得て、これと言わんかな。)とある。山は静まりかえって太古のようで、日は一年もあるかのように長い。散り残った花を見ながら飲むのがよい。佳い声で啼く鳥は眠りを妨げることもない。門は閉ざしたままで世事ともかかわらず、たかむしろの上でくつろいだ時を過ごすのみ。夢の中で頻りに詩句が浮かんだが、目が覚めて筆をとるとすっかり忘れている。
山中塗(やまなかぬり)
石川県山中町で作られる漆器。天正8年(1580年)山中温泉の上流真砂の地に、良材を求め移住した挽者師たちの「轆轤(ろくろ)挽き」が始まりとされている。初め山中温泉の浴客の土産品として発展し、元禄年間に継燭台、茶托等を作り、宝暦年間漆を塗るようになった。慶安年間、蓑屋平兵衛が糸目挽千筋漆器を創製し、また笠屋嘉平等により蒔絵技術も広まり、山中塗の基礎ができ今日に至る。白木地を鉋と呼ばれる特殊な刃物で回転させながらくりぬく轆轤挽きに優れ、薄くて繊細な木地が特徴。特に棗などの茶道具の木地は全国の8割から9割は山中で挽かれる。木地に鉋で挽目を施し意匠とする筋挽きは、千筋、毛筋、糸目筋、ろくろ筋、びり筋、平みぞ筋、稲穂筋、柄筋など約五十種類の加飾挽きが行われている。塗り方もこの木地や杢目(もくめ)の美しさを引き立たせる拭き漆(ふきうるし、摺り漆とも云う)や木目溜塗が代表的な仕上げ。茶道具の棗などの研ぎ出し蒔絵・高蒔絵の技術にも優れる。
山上宗二(やまのうえそうじ)
安土桃山時代の茶人。天文13年(1544)-天正18年(1590)。薩摩屋を屋号とする堺の商家に生まれる。瓢庵と号す。父は堺の数寄者山上宗壁。名は三二。堺の山上に住んだので山上を姓とした。利休に茶を学び極意を皆伝された。信長に茶を持って仕え、李安忠の「馬の絵」「紹鴎小霰釜」「雀の絵」を拝領して愛顧を得ていたことが知られる。信長の死後は秀吉に仕え、茶頭八人衆のひとりに数えられた。元正10年(1582)秀吉の勘気にふれ浪人となり、浪人中は相模小田原に下り、北条氏の客分となって家臣に茶の湯を指南していた。天正18年(1590)4月小田原征伐の際、一旦は利休の取り成しで助命されたが、層雲時での茶会の席で秀吉の機嫌を損ねる言を吐いて処刑されたという。
「長闇堂記」に「山の上宗二は、いろに火床と云て、切炭にて井筒のごとく組て、中三寸計にして、それら灰仕かけ、扨炭置流入一段能物也。某も久しく是を用たる也。客無時は釜つりさげ一日一夜あるもの也。其時分には火切れざるを手がらとせしなり。かの山の上の宗二さつまやとも云し。堺にての上手にて物をもしり、人におさるヽ事なき人なり。いかにしてもつらくせ悪く、口あらきものにて、人のにくみしもの也。小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、その罪に、耳鼻そがせ給ひし。其子道七とて故相国様の茶道して御奉公申せし。又父の伝をうけて、短気の口わる物にて、上様御風炉の内遊されし跡を見て、つきかへつ仕直しけるによりて、御改易にあひ、牢人して藤堂和泉守殿伊予在国の時下国し、其申ひらきなどして、我もあり合て一冬はなせし也。」とある。茶の湯秘伝書「山上宗二記」は茶道史の基本史料。
山上宗二記(やまのうえそうじき)
千利休の高弟である山上宗二が、茶の湯秘伝を編述した書。豊臣秀吉の茶頭であった山上宗二が秀吉の勘気にふれて浪々の身であったなかで、天正16年(1588)正月から同18年(1590)3月にかけて、子の伊勢屋道七や、弟子の桑山修理大夫重晴・板部融成・皆川山城守広照らのために、村田珠光が書き記した秘伝の目録に、武野紹鴎が追加したものを基本にして、千利休の口伝を含めた宗二の見聞を加えた「珠光一紙目録」を骨子とした書を編述して、与えた書。珠光から紹鴎、利休に至る茶の湯の道統を明かにしたもので、現代の茶道成立史の経緯は、ほとんどこの書によって形作られたといわれ高い評価を受けている。
山の神(やまのかみ)
一翁好の信楽の丸三宝形の蓋置。信楽の粗い土肌で、白い石粒がポツポツと全面に現れ、丸足の裾廻りは大胆に箆で面取りされている。足の部分の内側に「守」の漆書がある。一説には、伊勢神宮の祭器である丸三方に因んで好んだともいう。愈好斎が、一翁の二百五十年忌に際し、昭和15年(1940)1月、永楽妙全に写しを100個作らせている。有隣斎が、一翁の三百年忌に際し作らせたものもある。有隣斎が「山の神」と追銘したもの。
山深雪未消(やまふこうしてゆきいまだきえず)
「虚堂録」に「僧云。老胡今日成道。有何祥瑞。師云。山深雪未消。僧云。諾諾。師以拂一指。」(僧云う。老胡、今日の道を成すに、何の祥瑞かあらん。師云く、山深うして雪未だ消えず。僧云う、諾諾と。師、以って一指を払う。)とある。「老胡」は、「祖庭事苑」に「稱西竺爲胡、自秦晉沿襲而來、卒難變革、故有名佛爲老胡。」(西竺を胡と称すは、秦晉より沿襲して来り、卒に変革し難し、故に名ある仏を老胡と為す。)とあり、達磨大師のことをいう。「祖堂集」に「時大和十年十二月九日、為求法故、立經夜、雪乃齊腰。天明師見問曰、汝在雪中立、有如何所求耶。神光悲啼泣涙而言、唯願和尚開甘露門、廣度群品。師云、諸佛無上菩提、遠劫修行。汝以小意而求大法、終不能得。神光聞是語已、則取利刀自斷左臂、置于師前。師語神光云、諸佛菩薩求法、不以身為身、不以命為命。汝雖斷臂求法、亦可在。遂改神光名為惠可。」(時に大和十年十二月九日、求法の為の故に立ちて夜を経、雪乃ち腰に斎し。天明、師を見て問うて曰く、汝は雪中に在りて立つ、如何なる求むる所有りや。神光は悲啼し泣涙して言く、唯だ願わくば和尚、甘露門を開きて広く群品を度せよと。師云く、諸仏の無上菩提は遠劫に修行す。汝は小意を以って而も大法を求む。終に得ること能わじ。神光、是の語を聞き已って則ち利刀を取りて自ら左臂を断ち、師の前に置けり。師は神光に語げて云く、諸仏菩薩の求法は、身を以って身と為さず。命を以って命と為さず。汝は断臂すると雖も、求法は亦た可なりと。遂に神光を改めて惠可と為せり。)とある一事を指すか。
槍鞘(やりのさや)
器物の形状の一。槍の穂先にかぶせる鞘のような形のもの。茶入・建水などにある。槍鞘建水は、円筒形で寄せ口の建水で、蓋置は吹貫のものを柄杓の柄に刺通して持ち出す。七種建水の一。
薬籠蓋(やろうぶた).
器物の蓋の形態の一。印籠蓋(いんろうぶた)ともいう。器物の身の内側に立ち上がりを作り、蓋をすると身と蓋の境目が同じ高さになり、表面が平らに重なる蓋。身の内側の立ち上がりに蓋がぴったりとはまるため密閉性が高く、薬籠や印籠に見られるため、薬籠蓋、印籠蓋の名がある。  
ゆ     

 

悠然見南山(ゆうぜんとしてなんざんをみる)
中国六朝時代の東晋の詩人、陶淵明(とうえんめい:365-427)の「飮酒二十首」に「結廬在人境、而無車馬喧。問君何能爾、心遠地自偏。采菊東籬下、悠然見南山。山氣日夕佳、飛鳥相與還。此中有眞意、欲辨已忘言。」(盧を結びて人境にあり、しかも車馬の喧しきなし。君に問う何ぞ能く爾る、心遠ければ地おのずから偏なり。菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。山気に日夕に佳く、飛鳥あいともに還る。この中に真意あり、辨ぜんと欲してすでに言を忘る。)とある。東籬(とうり)/東のまがき。「虚堂録」に「師云。弋不射宿。乃云採菊東籬下。悠然見南山。陶靖節雖是箇俗人。卻有些衲僧説話。雖然他是晉時人未可全信。」(師云く。弋して宿を射ず。すなわち云く、菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。陶靖節、これ俗人と雖も、却って些か衲僧の説話あり。然りと雖もかの晋の時の人、未だ全て信ずべからず。)とある。弋不射宿(よくしてしゅくをいず)/「論語」述而に「子釣而不綱、弋不射宿」とあり、狩りはするが巣にいるものは射ないの意。陶靖節(とうせいせつ)/陶淵明のこと。靖節は諡、名は潛、字は淵明、元亮。五柳先生ともいう。
幽鳥哢真如(ゆうちょうしんにょをろうす)
「人天眼目」に「古松搖般若。幽鳥哢真如。況有歸真處。長安豈久居」(古松、般若を談じ、幽鳥、真如を弄す。況んや帰るに真処あり。長安、豈に久居せん。)とある。幽鳥(ゆうちょう)/山の奥深い処に住む鳥。古松が般若を語り、山奥の鳥が真如をもてあそぶ。松風や鳥の声も全て万物の本質である。
雪團團(ゆきだんだん)
「禅林句集」に「雪團團雨冥冥。」とあり「雪團團は雪の積もる皃」とある。出典不詳。
柚肌(ゆずはだ)
器物の肌合の一。表面が柚子の表皮を思わせるような感じになっているものをいう。陶磁器、釜、塗物などにある。陶磁器においては、釉肌の表面に針で突ついたような小さな孔が一面にできたものをいい、本来は釉薬の溶け具合が良好でない欠陥であるが、その景色を茶人が好んだもので、志野焼などでは特徴となっている。釜においては、地肌が柚の皮のように、でこぼこしざらつきのあるものをいい、砂肌の技法に含まれ、丸釜・平丸釜によく使用される。塗物では、絞漆と言われる粘着物を混合した漆を塗り、タンポンで軽く叩いて仕上げ、別名叩き塗りともいうという。
湯相(ゆそう)
湯の沸きかげんのこと。「ゆあい」ともいう。「南方録」に「一座一会の心、只この火相・湯相のみなり。」とあり、茶の湯では湯を沸かすための火の興り具合(火相)、湯の沸き具合(湯相)に特に気を配らなければならないとされ、抹茶ことに濃茶を立てるのに適当な温度は、茶の味や香りを損じやすい沸騰の頂点ではなく、それを過ぎて、少し下り坂の煮え加減の時、あるいは沸騰の一歩手前の時で、この時の釜の煮え音を「松風」という。茶事においては、この湯相が最も適当な「松風」の時に濃茶点前ができるように、炭の加減(火相)が考えられ、炭点前が決められている。千利休は湯相を「蚯音(きゅうおん)」「蟹眼(かいがん)」「連珠(れんじゅ)」「魚目(ぎょもく)」「松風(しょうふう)」の五つに分けて「松風」をよしとしたとされる。
「茶経」に「其沸、如魚目、微有聲、爲一沸、縁邊如湧泉連珠、爲二沸、騰波鼓浪、爲三沸、已上、水老、不可食也。」(其の沸くこと、魚目の如し、微かに声あり、一沸となす。縁辺に湧泉の連珠の如し、二沸となす。波騰がり浪鼓つ、三沸となす、已上は、水老けて、食べるべからざるなり。)、唐の劉禹錫(772-842)の詩「西山蘭若試茶歌」に「驟雨松聲入鼎來、白雲滿〓(上宛-宀下皿)花俳徊」(驟雨松声鼎に入って来たり、白雲碗に満ちて花徘徊す。)、宋の蘇軾(1036-1101)の煕寧5年(1072)の詩「試院煎茶」に「蟹眼已過魚目生〓(風叟)〓(風叟)欲作松風鳴」(蟹眼すでに過ぎ魚目生ず、シウシウとして松風の鳴をなさんと欲す)とみえる。「蚯音(きゅうおん)」はミミズの泣く音とされ、「蟹眼(かいがん)」はカニの目のような小さな泡がたつ状態、「連珠(れんじゅ)」は湧き水のように泡が連なって湧き上がる状態、「魚目(ぎょもく)」は魚の眼のような大さな泡がたつ状態、「松風(しょうふう)」は松籟(しょうらい)とも言い、釜がシュンシュンと鳴る音を表現したもの。沸きすぎると水が「老け」茶に適さないとされ「水老」もしくは「死水」と呼ばれる。
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葉上無愁雨(ようじょうむしゅうのあめ)
「禅林句集」に「芭蕉葉上無愁雨、只是時人聽斷腸。」(芭蕉葉上に愁雨無し、只だ是れ時の人聴いて断腸す。)とあり、「只」字に「自」字を併記する。「全唐詩」の「佚句」に「芭蕉葉上無愁雨、自是多情聽斷腸。」とある。佚句(いつく)/散逸した詩句。名前だけ、あるいは本文の一部分しか伝わっていない詩句。
葉々起清風(ようようせいふうをおこす)
「虚堂録」の「衍鞏珙三禪コ之國清」(衍・鞏・珙の三禅徳、国清にゆく)に「「誰知三隱寂寥中。因話尋盟別鷲峰。相送當門有脩竹。為君葉葉起清風。」(誰か知らん三隠寂寥の中、話に因って盟を尋いで鷲峰に別れんとす。相送って門に当たれば脩竹あり、君が為に葉々清風を起こす。)とある。脩竹(しゅうちく)/長い竹、また竹やぶ。虚堂和尚の住まう鷲峰庵に、法弟三人が天台山の国清寺の三隠(寒山、拾得、豊干)の遺蹟を訪れるため、虚堂和尚に別れの挨拶をしに来たときに詠じたもの。門のところまで見送りに出てきたら、門前の竹薮の一葉一葉がさらさらと音をなして清風を送ってくれている。衍(えん)は石帆惟衍、鞏(きょう)は石林行鞏、珙(王共)(きょう)は横川行珙。
横物(よこもの)
横に長い形のもの。掛物の形態上の呼称では、掛物の本紙の幅が丈よりも長いものをいう。横幅(よこふく)ともいう。本紙の丈が幅よりも長いものは竪物、竪幅(たてふく)という。
吉野椀(よしのわん)
懐石家具の塗椀の一。奈良県吉野地方で作られた塗椀。内外を朱または黒漆で塗り、黒または朱漆で吉野絵とよばれる草花文様を描いた椀。吉野絵は、木芙蓉、芍薬、葛の花を描いたなどといわれるが判然としない。端反りの落込み蓋で、壺皿のみ高台付で、その他は碁笥底となっている。「天王寺屋会記」天正5年(1577)4月13日荒木摂津守会に「吉野こき」と見える。元禄4年(1691)刊「茶道要録」に「利休形諸道具之代付」として「吉野椀但シ三人前三十銭目。替汁椀但シ一組五銭目。二ノ椀十五銭目。大壺皿蓋共同前。小壺皿同同前。平皿同同前。」とあり、三代宗哲(1699-1776)造の丸折敷、飯椀、汁椀、平皿、壺皿、飯器・杓子、手付飯器・杓子、通盆、弦付汁次、湯桶・湯の子掬い、酒次の吉野絵の大揃いがあるが、二ノ椀と大壺皿はなく、弘化4年(1847)刊「茶道筌蹄」には「吉野椀坪付利休形、芍薬椀と云は不可也、葛の花也、親椀ばかり碁笥底、坪は了々斎好、尤以前は上り子の坪平を用ゆ」とあり、嘉永4年(1851)刊「茶式湖月抄」に「真の黒花塗、内外朱にして芙蓉の絵あり、身ふたとも同断、但蓋の糸底地ずり朱、椀四ツとも口も朱のいつかけ有之」とあり、飯椀と汁椀のみが載る。
四つ椀(よつわん)
懐石家具のうち、飯椀、汁椀、平椀、壺椀の四つ揃えの椀。また、飯椀・汁椀の両椀で引入なっていて、身を重ね、蓋をその中へ重ねると四つ重ねに収まる四重椀も云う。
夜咄(よばなし)
茶事七式の一。炉の季節の、冬至に近い頃から立春までの間、夕暮れ時から行われる茶事。午後5時から6時頃の案内で、露地では灯篭や露地行灯に火を灯し、客は手燭で足元を照らしながら腰掛に進み、迎付のとき亭主と正客は手燭の交換をする。茶室では、短檠や竹檠、座敷行灯が使われ、点前や拝見のときは手燭を用いる。初座の挨拶のあと、とりあえず寒さをしのぐため前茶(ぜんちゃ)といって、水次や水屋道具で薄茶を点てる。拝見の所望はせず、正客以外は「おもあい」で一椀で二人が頂き早く済ませるようにする。その後、初炭、懐石、中立、濃茶、続き薄茶の順に進められる。
「茶道筌蹄」に「夜咄むかしは〓(日甫)時より露地入せし故、中立に露地小坐敷とも火を入れる也、昼、夜咄とも、いにしへの事にて、当時は夜咄も暮六ツ時に露地入する也、但し客入込て、炭をせずに前茶点じ、跡にて炭をいたし、水を張、食事を出す事」と、昔は日没前に露地入りし、中立になって灯を点したが、今では暮六ツ時(陽が沈み、まもなく宵闇に包まれる夕暮れ時。およそ冬至では午後5時頃、立春では午後6時頃)よりはじまるとある。「三斎伝」に「夜会に昔は掛物花も不置候、油煙掛物に可掛との事也と申候へ共、利休は掛物花も入申候由、赤き花昔は不入候、余り色過たりとの事か、夜会には白き花を専らとす、艸庵侘は白花なくば赤きも不苦哉、利休は入申候由被仰候」、「茶道望月集」に「座敷拵は床に中字以上の墨跡を用ふる事、夜咄の心得なり、夜は絵讃も見分け難きは不好なり、侘は格別なり」とあり、昔は掛物や花を飾らなかったが、利休が飾るようになり、暗いので掛物は大きな字のもの、花は白花がよいとされる。また、花の替りに払子や如意なども掛ける。夜咄は茶事のうちでも最も難しいものとされ、宗旦は「茶の湯は夜咄にてあがり申す」と教えていたという。
四方釜(よほうがま)
茶湯釜の一種。胴が四角形の釜。古くは芦屋釜や天命釜にも見られるが、「茶湯古事談」に「四方釜も利休このみにて始て鋳させし、去人所持の利休か自筆の文四方釜うけとり申候、与次同道にてはや御出可有候、心み一服可申候、かしく易下道印」とあり、利休好みで辻与次郎に鋳させて以後、弥四郎、藤左衛門などの釜師により多く作られる。「茶道筌蹄」に「四方クリ口、鬼面真鍮の平環、箟被少々切懸ケ、大は少庵好、小は元伯好、椎ツマミなり、当時うつし、大は石目蓋なり、古作は共蓋と唐金石目、花の実鋳ヌキツマミあり、又唐金蓋もあり」とあり、大きいものは少庵好み、小さいものは宗旦好みとされる。四方釜は利休が晩年に頻繁に用い、「利休百会記」によると芦屋作の「利休四方釜」が百回中七十三回使用されたという。四方釜の一種としては、弁釜、角釜、算木釜、観音寺四方釜、井桁釜などがある。
四方盆(よほうぼん)
四方同寸の正方形の盆。茶入盆、花入盆、菓子盆などとして用いられる。「山上宗二記」に「桃尻関白様本は紹鴎所持也。但し、古銅花入、天下一名物。五通の文を指す。四方盆にすわる。」、「紹鴎茄子四方盆に居わる。かんとうの袋に入る。関白様」などとあるように、花入や茶入を載せている。「茶道筌蹄」の「茶入盆之部」に「若狭盆此盆元七枚箱に入て、若狭の浜辺に流れ寄る。唐物の盆なり。此盆に似よりたるを何も若狭盆といふ。内朱外青漆、葉入角なり。いにしへ内朱の盆と云は此盆也。唐物唐物といふは、皆朱の盆の事なり。存星名高きは、松屋肩衝の許由の長盆なり。堆朱丸角ともに内に鏡なきは、茶入盆に不用。青貝青貝は形一定ならず。羽田羽田五郎作。矢筈盆。松屋所持なり。松木四方盆葉入春慶。紹鴎より利休へ伝へ、利休より今小路道三に伝ふ。道三箱書付に翠竹とあり、翠竹は道三の院号なり。老松同木にてうつしあり。原叟如心斎も製之。一閑元伯好。ヒネリ縁の盆なり。初代一閑作。千家伝来。如心斎の書付あり。黒漆保元時代。四方なり。利休所持判あり。千家に伝来す。八卦青貝黒漆に青貝にて八卦あり。大円盆なり。乱飾に用ゆ。如心斎好。宗哲製す。黒の長盆真台子に用ゆ。千家の外は用ゆる事をゆるさず。茶カブキ盆、旦座盆も此模様也。松屋許由の盆と同寸なり。」とあり、茶入を据える四方盆としては「若狭盆」、「松木盆」、「羽田盆」、「黒漆四方盆」を挙げる。また同書「総菓子盆」に「一閑四方ヘギ目あるは元伯好、ヘギ目なきは宗全好。」とある。
寄付(よりつき)
茶会に招かれた客が待ち合わせたり、足袋を替え身仕度を整えて席入の準備をするための場所。掛物などが飾られ、煙草盆が置かれる。ここで通常、白湯などを頂く。袴着、袴付(はかまつけ)とも呼ばれる。客が最初に寄り付くところからの名か。待合(まちあい)。会記においては、武者小路千家・表千家は寄付、裏千家は待合の語を使っている。「和泉草」に「古来は路地なしに、表に潜を切開き、座敷に直に入たる也。」、「茶式湖月抄」に「利休の時代は、何方も一重露地なり。往還の道路よりすぐに露地の大戸を開き内にいり、大戸のきわに腰掛あり、板縁または簀子等の麁相なる仕立なり。露地草庵みなこれ侘の茶の湯なれば、誠に中宿のやすらひ迄なり。其の後古田織部正、小堀遠州等にいたつて、万に自由よきやうとて堂腰掛などいふもの出来て、衣装等をも着更しなり。よつて衣装堂ともいふなり。家来従臣も、ここまては自由に往来なすがゆへに、今は一重うちに塀をかけ中傴を構へ此内にまた腰掛をつけ初入に主中くぐりまで迎に出る。」、三斎「細川茶湯之書」に「昔はかならず外の廬路口まで亭主迎に出たれ共、近年は廬路の内、中のしきりくヾり迄来り、外のくちひらきて、共の者までも外の腰かけにはいりて、そこにてかみゆひなどをし、衣裳をきる客人もあり。」、石州「三百箇條」に「外路次といふ事、昔ハ無之也、利休時分ハ少腰掛なとして待合にせしとなり、金森出雲守可重虎の門の向に屋敷有之、台徳院様(徳川秀忠)へ御茶差上候時に、始て待合を作りしと也、是より待合出来始候」とあるように、江戸時代になって外露地に待合が設けられ、やがて母屋の中に設けられるようになり、露地にあるものは腰掛待合と呼ばれるようになったものか。明治になり待合の語感が好ましくないと寄付の語が用いられるようになったという。
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楽茶碗(らくちゃわん)
楽家歴代によって造られた茶碗、これを本窯物と呼び、楽家以外の脇窯物といわれる、楽家四代楽一入の子、彌兵衛が玉水に開窯した玉水焼の茶碗、楽一入の門人であった長左衛門が金沢の大樋村に開窯した大樋焼の茶碗、楽家の窯で焼かれた茶人の手捏ね茶碗をいう。楽茶碗は轆轤を用いず、手捏ねにより形成され、内窯と呼ばれる家屋内の小規模な窯で焼かれる。釉薬の色から、赤楽・黒楽・白楽などの種類がある。楽茶碗の初見は、「松屋会記」天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン、吸茶、三畳」とされる。ただ、「天王寺屋他会記」の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正七年(1579)、天正八年(1580)を楽焼の創始期とする説がある。いずれにしても天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、「山上宗二記」に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになる。
楽家(らくけ)
樂焼の創始者長次郎を祖とする樂焼本窯の家系で、千家十職のひとつ。楽茶碗を中心に茶の湯の道具のみを焼く。「本阿弥行状記」に「楽焼の事、飴屋長次郎が親は中華の人なり。長次郎陶物を焼はじめし故、飴屋焼きと申せしを、天正十二年豊臣殿下樂といふ字の印を遣わされしより、則これを姓として、楽焼と始(初)めて申せしとぞ。今の吉兵衛(道入)は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に薬等の伝も譲りを得て慰みにやく事なり、後代、吉兵衛が作は重宝すべし。しかれども当代は先代より不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし。」、「茶道筌蹄」楽焼歴代に「飴也朝鮮の人也、或説にあめやは朝鮮の地名、大永の頃日本へ渡り、後弥吉と云ふ、長次郎まで四代あるとぞ」「尼焼日本人貞林と云ふ、飴屋の妻也」「長次郎飴也の子なり、利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」、文政13年(1830)序の「嬉遊笑覧」には「豊臣太閤聚楽にて朝鮮の陶師をめし利休に其法式を命じて茶碗を焼せらる、是を楽焼といふ、聚楽の字を分て印となす、その陶師を朝次郎と称するは朝鮮の一字を取たる也、その子孫今に栄ふ」、天保8年(1837)「茶器名形篇」に「楽焼家系譜飴也。朝鮮人来朝して楽焼の祖となる。妻は日本人飴也。没後長次郎幼少に依て母の剃髪後茶器を造て焼たる尼焼と云。母迄は楽焼とは不言。住所上長者町西洞院東え入北側。」とある。初代長次郎以来15代を数える。
長次郎を祖とする楽家代々の作品をいい、轆轤(ろくろ)を使わず手びねりで成形し、低火度で焼成した軟質陶器で、茶碗を中心に茶の湯の道具のみが焼かれる。また、手捏ねの軟陶の総称としても楽焼の名が使われる。瓦職人であった長次郎が利休に見出され、聚楽第内で千利休好みの茶碗を焼成し、はじめ「今焼」とよばれ、聚楽第で製陶したことから「聚楽焼」と呼ばれ、秀吉より「樂」の印字を賜り、以後家号として「樂」を用い、樂焼の名で呼ばれるようになる。楽焼の基本的技法は、長次郎作と伝える三彩瓜文鉢などからして交趾系のものとされ、伝存する「天正二春依命長次良造之」の刻銘の赤楽獅子留蓋瓦の土や釉が赤楽茶碗「無一物」や「白鷺」などと極めて類似しているところから、天正二年(1574)には楽焼が作られる条件や可能性があったとされる。楽茶碗の初見は、「松屋会記」天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン」とされるが、「天王寺屋他会記」の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正7年(1579)、天正8年(1580)頃に作り始められ、当初は専ら赤楽が作られたが、天正14・5年頃から美濃で焼成される引き出し黒の技法が導入され黒楽が作られたと推測されている。
いずれにしても天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、「山上宗二記」に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになる。おもに京都の聚楽土を用い、手捏ねで成形したあと、鉄や竹のへら、小刀で削って形をととのえ、素焼する。黒楽は、素焼きした素地に加茂川黒石を使った釉をかけ乾燥させることを繰り返し、匣鉢(さや)に入れて1000-1250度の温度の窯で焼成し、窯から鉄鋏で挟み出し急冷する。そのため黒楽は鋏痕がついている。赤楽は、唐土(とうのつち鉛釉)に長石分を混ぜた半透明の白釉を赤い聚楽土の上にかけ、800-1000度くらいの低温で短時間で焼成する。赤楽には見込みに目がある。最近のものでは白素地に黄土で化粧がけした上に透明な楽釉をかける。
螺鈿(らでん)
漆工芸の技法の一。鮑貝、青貝、夜光貝、白蝶貝、阿古屋貝などの貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠質の部分を薄く研磨したものを、さまざまな模様の形に切り、漆地や木地の彫刻された表面に嵌め込んだり、貼り付けたりする技法。「螺」は螺旋状の貝殻の意で、「鈿」は広義に貝殻を嵌めこむ意。嵌め込んだ後の貝片に更に彫刻を施す場合もある。中国唐代に発達、日本へは奈良時代に伝来し、平安時代には盛んに蒔絵に併用された。薄貝を用いたものは特に青貝ともいう。「貞丈雑記」に「螺鈿の事、螺は青貝、鈿は切金也。又青貝ばかりをも螺鈿と云なり。又古書に貝を摺るとあるも螺鈿の事也。金貝と云も螺鈿の俗称也。金貝鞍、太平記、建武式目追加、室町記等に見たり。金貝とて、別にはあらざるべし。切金と青貝にて飾りたるなるべし。山岡浚明が名物考に云、螺鈿今俗に云青貝の事にて、古き物には、貝すつたる鞍などいへり。鈿は飾也と云り。されど螺鈿の本儀は青貝と切金也。壺井義知云、螺鈿、本儀は金と貝にてあるべけれども、皆貝斗を用て螺鈿と云例也云々。鈿は玉篇に曰、徒練切、金花也。又鈿、字彙云、金華飾、又螺鈿云々。」とある。  
り     

 

梨花一枝春(りかいっしのはる)
白楽天の「長恨歌」に「玉容寂寞涙闌干、梨花一枝春帶雨。」(玉容、寂寞として涙闌干、梨花一枝、春、雨を帯ぶ。)とある。玉容(ぎょくよう)/美しい容貌。寂寞(じゃくまく)/ひっそりとして寂しいさま。闌干(らんかん)/涙が盛んに流れるさま。美しい顔(楊貴妃)がひっそりと寂しげに涙を流す。梨の花が一枝、春の雨に濡れるかのごとく。「楚石梵g禪師語録」に「師云。書頭教娘勤作息。書尾教娘莫〓(石盍)睡。還識娘面觜麼。玉容寂寞涙闌干。梨花一枝春帶雨。喝一喝。」(師云く、書頭、娘を作息に勤めしめ、書尾、娘をカイ睡することなからしめ、還って娘の面觜を識るか。玉容、寂寞として涙闌干、梨花一枝、春、雨を帯ぶ。)とみえる。
利休形(りきゅうがた)
利休の当時に用いられていた器物などから利休が採りあげたとされるもの。利休によって意匠された「利休好み」と分けて理解されている。
利休間道(りきゅうかんとう)
名物裂の一。縹と浅葱の細かな千鳥格子。利休が大名物「松屋肩衝茶入」に贈った仕覆裂を本歌とする。元来は白と紺の格子縞であるが、白糸が時代を帯び、全体に萌黄調になったという。一般には、経緯共に木綿糸を用い、二本引きそろえた斜子糸使いで平織にしたもの。紹鴎間道によく似ているが紹鴎間道は経緯共に細い絹糸を使用している。紹鴎所持の裂を利休が仕覆に好んだと見る向きもある。地風が素朴で、色調・格子柄もいかにも質素で侘びた紬風な間道で「木綿間道」の名もある。大名物「松屋肩衝茶入」は、通説では松本珠報が足利義政に献じ、村田珠光が拝領し、弟子の古市播磨に伝え、その後奈良の塗師松屋源三郎の所有となったとされるもので、珠光が唐草と竜の竜三爪緞子を添え、利休が木綿風の間道、織部が青海波に梅鉢紋散しの波梅鉢緞子、遠州が唐草に捻梅の捻有縁唐草緞子の仕覆を贈っている。
利休梅(りきゅうばい)
利休が愛用した黒棗の仕覆に使用された名物裂「利休緞子」に表された梅模様。円を中心に、それより少し大きい円を5個ならべた「星梅鉢(ほしうめばち)」を線で結んだもの。本歌の利休緞子は、薄縹色の五枚儒子地に梅鉢紋を黄茶色の糸で規則正しく織り並べた緞子で、天啓(1621-1627)頃の染付磁器や椎朱盆に盛んに梅花紋散らしがもちいられていることから、明末清初の製で、利休好みの表具にも使用された形跡が無く、「古今名物類聚」にも「和漢錦繍一覧」にも見当たらないという。利休四百年忌に三千家家元好として利休梅絵の棗が中村宗哲により造られた。
利休袋棚(りきゅうふくろだな)
桐木地の大棚で、左に地袋、右に違棚風に棚板があり、脇板は香狭間透(こうざますかし)となっている。香道の志野宗信(しのそうしん)が、文房具や化粧道具を置くために平安時代以来用いられていた厨子棚(ずしだな)をもとにして、香道具を飾るために作った志野棚を、利休がお茶用に改造したと伝えられる。棚の天板の上には茶道具を飾らない。ただ花入が床の間に置けない時に棚にあわせて小ぶりの花入を飾るとか、硯箱などの文房具を飾るかするのが習い。 利休袋棚は、その間口が畳の幅と同程度のいわゆる大棚だが、これから変化した小棚には、利休袋棚の右側だけを独立させて棚にした二重棚、利休袋棚の左側だけを独立させて棚にした小袋棚、利休袋棚の中央の部分を横に取った自在棚がある。
利休遺偈(りきゅうゆいげ)
千利休が自刃するに際し、天正19年(1591)2月25日にしたためた辞世の偈。
表千家5代随流斎(1650-1691)の「延紙ノ書」に「万代屋宗貫、今日にて茶の湯可仕候由にて、利休遺偈を借り、それより返し不申候」とあり、万代屋宗貫(利休の女婿、万代屋宗安の子)が、京で茶の湯をするのでと借用し、その後行方知れずとなっていたが、7代如心斎(1705-1751)の時、江戸深川の豪商・冬木家上田小平治が所持していることがわかり、寛延4年(1751)6月千家に戻った。千家からは長次郎作「北野黒」の茶碗と利休の織部宛消息「武蔵鐙の文」がおくられたという。宗旦の写には、「人生七十力囲希咄吾這寳劒祖仏共殺提ル我得具足の一ツ太刀今此時そ天に抛」とあり、「世」が「生」、「〓(口の中にカ)」が「囲」となっている。「囲」は「圍」の俗字。「圍」は略して「口」と書かれることもあり、「圍」であることを明示する場合に「韋」の上の「カ」を口の中に書くことがあったという。(以下囗カと記す。)愈好斎宗匠は、その著で宗旦がその字句を正したとする。「力〓(口カ)」について本来は、雲門禅師の「雲門匡真禪師廣録」に「咄咄咄。力口希。禪子訝。中眉垂」(力韋希とするものもある)と見えるように、字数を調えるため「〓(口カ)」の字を分解し「力口」と使ったものを、利休が誤って「力〓(口カ)」と書いたとする。また元の廬山東林寺の普度が1305年に著した「廬山蓮宗寶鑑」巻十の「辯關閉諸惡趣門開示涅槃正路」にある「諸惡趣門者。乃身口意三業也。所謂身殺盜婬。口妄言綺語惡口兩舌。意貪瞋癡。修淨業人正心向道。截斷已上十不善行。則不入惡道。謂之關閉諸惡趣門也。開示者指出也。涅槃者不生不滅也。正者不偏路。即西方之道也。今有愚人指口為諸惡門。鼻為涅槃路。教人臨終時緊閉其口。令氣從鼻出。謂之出門一歩。又妄將〓(囗カ)字以為公案。教人口裏著力忍了氣透這一關。或云。〓(囗カ)字四圍是酒色財氣。或言。地水火風。或言。生老病死等。皆是卜度妄計曲説。嗟乎這一箇〓(囗カ)字瞞盡多少人。殊不知此字。玉篇明載戸臥切。即阿字去聲呼也。此箇〓(囗カ)字一切世人。口中未嘗不説。喩如失物人忽然尋見。不覺發此一聲是〓(囗カ)字也。宗門多言此字者。蓋尋師訪道之人。參究三二十年。忽然心花發現。會得此事。不覺〓(囗カ)地一聲。如失物得見。慶快平生。是其字義也。如是則念佛之人。但於念念中。仔細究竟本性彌陀。忽然親悟親見真實。到〓(囗カ)地一聲處。自然明徹矣。故智覺壽禪師云。心外求法。望石女而生兒。意上起思。邀空花而結果。本非有作。性自無為。智者莫能運其意像者。何以状其儀。言語道亡。是得路指歸之日。心行處滅。當放身捨命之時。可謂唯此一事實餘二即非真」をもって(囗カ)の明瞭な義解とする。なお、近重物安が、美濃の大仙寺の活山和尚のの書き記したものを妙心寺塔頭霊雲寺の老師が書き抜いたものとして、蜀の成都の人、幹利休の偈頌「人生七十力口希肉痩骨枯気未微這裏咄提王宝剣露呈仏祖殺機」を紹介し、利休号と偈を用いたのではないかと指摘している。幹利休については未詳。
陸羽(りくう)
中国、唐の文人で「茶經」を著し、茶祖・茶神として仰がれる。開元21年(733)?-貞元20年(804)。字は鴻漸、名は疾。季疵。桑苧翁と号す。復州竟陵(湖北省天門市)の人。捨て子だったといわれ、3歳の時に競陵龍盖寺の智積褝師に拾われ、占で「漸」の卦を得、卦辭に「鴻漸於陸,其羽可用為儀。」とあるところから姓を「陸」、名を「羽」、字を「鴻漸」とつけたという。寺の茶会の段取りの良さと点茶に秀で師の茶淹を任されていたという。天宝4載(745)寺を逃げ出し、劇団に入るが、風采が上がらず吃音(どもり)のため醜角(三枚目)ばかりであったが、「詼諧(かいかい)」(おどけ歌)数千言をつくり、都から左遷され競陵に来た競陵太守李斉物に認められ、太守手ずから詩を教え、火門山の鄒夫子に師事させる。天宝11載(752)左遷された元の礼部郎中崔國輔と知り合い文人としての付き合いをする。至徳元年(756)安史之乱が起き、乱を避けるため、故郷を離れ江南地区に渡り、乾元元年(758)升州(江蘇南京)の棲霞寺に寄居し茶事を研鑽し、上元元年(760)霞山麓の〓溪(浙江省湖州)の山間に隠棲し門を閉じて「茶經」を著述する。
広徳2年(764)「茶經」の初稿が出来上がり、世人は競って抄を伝えたという。大暦10年(775)左遷され湖州刺史として来ていた顏真卿は百科事典「韻海鏡源(いんかいきょうげん)」の編纂に陸羽を参加させ、浩然の妙喜寺に「三癸亭」という居を建て住まわせた。建中元年(780)「茶經」が正式に出版された。「東官府」の「太子文学」に任命されたが、任官せず処子のままで過ごした。宋代の陳師道(1053-1101)が「茶經序」に「夫茶之著書、自羽始、其用於世、亦自羽始。羽誠有功於茶者也。」(茶について本を著すのは陸羽から始まる。茶が世に使われるのも陸羽から始まる。陸羽は誠に茶の功労者だ)とあるように「茶聖」「茶神」と尊ばれるようになる。
理平焼(りへいやき)
理平焼(理兵衛焼)は、讃岐高松藩の藩祖松平ョ重が、京都粟田口の陶工、森島作兵衛重利を招いて焼かせた御庭焼。別名に、高松焼または御林焼、利兵衛焼、石清尾焼、稲荷山焼などが知られる。明治初期の田内梅軒の「陶器考」に「高松焼利兵衛と云もの仁清に陶法を習ふ、是を利兵衛焼と云、作ぶり仁清に似て厚し、安南を写たる茶碗、朝鮮を写たる茶碗など有、土白、薄赤、黄、浅黄。薬白、浅黄」とあるように、その作風は京焼との見分けが困難である。「紀太家由緒書」では作兵衛の父、森島半弥重芳を初代とする。初代半弥は豊臣秀頼に仕え千三百石を領していたが、大坂の役後故郷の信楽に閑居し雲林院某に製陶を習い焼物を業としたという。その子森島作兵衛が京都三條粟田口に野居して作陶を継いだが、正保4年(1647)松平頼重から10人扶持、切米15石とお林庭に屋敷を与えられ、名を紀太理兵衛重利と改め(松浦文庫「松平頼重年譜」)、紫峰と号し、高松藩別邸栗林荘の北に窯を築く。理兵衛重利を古理兵衛あるいは高松仁清と呼ぶ。以後、高松藩の御庭焼として紀太家子孫が代々「理兵衛」を襲名。3代理兵衛重治以降は、破風「高」の印を押すようになる。一説によると高松藩の高の字を拝領されたともいわれる。9代理兵衛の時、明治維新で廃藩置県となったため、11代が京都に出て高橋道八に学び、名も紀太理平と改め、明治33年に現在地の栗林公園北門前に理平焼として再興し、現在14代紀太理平まで続く。初代森島半弥重芳。2代紀太理兵衛重利(初代理平)。3代重治。4代行高。5代惟久。6代惟清。7代惟持。8代惟晴。9代惟貞。10代惟道。11代紀太理平林蔵(以下代々「理平」を名乗る)。12代福寿。13代克美。14代洋子(当代)。平成6年(1994)松平頼武より「理平」の字を賜り、14代より「理平」の印も用いる。世代については、12代福寿が、陶業については森島半弥重芳を初代とし、理平については2代作兵衛重利を初代とするとし「十二代理平」を名乗ったためこれに従うとある。
流泉作琴(りゅうせんをきんとなす)
「碧巌録」三七則「盤山三界無法」の頌に「三界無法。何處求心。白雲為蓋。流泉作琴。一曲兩曲無人會。雨過夜塘秋水深。」(三界無法。何れの処にか心を求めん。白雲を蓋となし。流泉を琴となす。一曲両曲人の会するなし。雨過ぎて夜塘に秋水深し。)とある。
立鼓(りゅうご)
器物の形状の一種。上下が開き、中央がくびれたもの。鼓を立てた形に似ているところからの名称。花入、水指、蓋置などに見られる。千切(ちぎり。手でちぎったような形または、契り=約束の意にかけて使うことも)ともいう。「貞丈雑記」に「りうごは立鼓と書くなり。鼓はつづみなり。つづみを立れば中ほどくびれたる形なり。これに依り中のくびれたる物をゆうごと云。」とある。
柳緑花紅(りゅうりょくかこう)
柳は緑、花は紅(やなぎはみどりはなはくれない)。「全唐詩」の魏承班の「生査子」に「煙雨晩晴天、零落花無語。難話此時心、梁燕雙來去。琴韻對熏風、有恨和情撫。腸斷斷弦頻、涙滴黄金縷。寂寞畫堂空、深夜垂羅幕。燈暗錦屏欹、月冷珠簾薄。愁恨夢難成、何處貪歡樂。看看又春來、還是長蕭索。離別又經年、獨對芳菲景。嫁得薄情夫、長抱相思病。花紅柳濠ヤ晴空、蝶舞雙雙影。羞看繍羅衣、為有金鸞並。」、蘇東坡の禅に関する詩文と逸話、および仏印禅師(?-1098)との問答を収録した徐長孺(益孫)編「東坡禪喜集」に「柳緑花紅真面目」、「禪林類聚」(1307)に「海印信云。見不及處。江山滿目。不睹纖毫。花紅柳香B白雲出沒本無心。江海滔滔豈盈縮。」とみえる。一休禅師の道歌に「見るほどにみなそのままの姿かな柳は緑花は紅」、沢庵禅師に「色即是空空即是色柳は緑花は紅水の面に夜な夜な月は通へども心もとどめず影も残さず」があるという。柳は緑、花は紅、ただそれだけのことである。
立礼(りゅうれい)
椅子に腰掛けて行う点前。明治五年(1872)第一回京都博覧会において、京都府参事槇村正直から外人も楽しめるような茶席がほしいと依頼され、建仁寺正伝院の茶席をもった前田瑞雪(1833-1914)に相談された裏千家十一代玄々斎宗室が、椅子と卓による点前を考案したもの。会場には「囲い点(かこいだて)」と「椅子点」の席が設けられ、数奇屋大工二代目木村清兵衛が造った台子を点茶卓に利用し、天板に風炉釜を据え、皆具を飾り、椅子に腰掛けて点前をしたという。現在裏千家で「点茶盤(てんちゃばん)」と称されるものが、このときの点茶台を基に考案されたもので、卓子(テーブル)に風炉釜・水指などを置き、亭主は円椅(椅子)に腰掛け点前を行い、客は喫架(客用机)、円椅(客用椅子)を用いる。現在ではこの椅子式の点前が各流儀においても取り入れられ、各種の立礼棚、立礼卓(りゅうれいじょく)が造られている。
了入(りょうにゅう)
楽家9代。宝暦6年(1756)-天保5年(1834)78歳。7代長入の次男。8代得入の弟。得入が25歳で隠居したため明和7年(1770)14歳で9代吉左衛門を襲名。文政8年(1825)剃髪隠居して了入と号す。文政二年(1819)には紀州家御庭焼にも参加している。楽家中興の名人といわれ、薄作り、箆削りを強調した作品を残している。黒釉はつやがあり、赤釉も鮮明で、釉のかけ分け、二つ以上の印を捺した数印の茶碗も試みている。寛政元年(1789)長次郎二百回忌のときにつくった赤茶碗二百個に使用した草樂印を「寛政判」または「茶の子判」という。天明8年(1788)の大火で焼けるまでの印を、「火前印」といい、楽字の白が自になっているが、その自の横棒3本が右下がりになっている。大火後、隠居するまでの印を「中印」といい、自楽印の自の横棒3本は、水平である。隠居してからは草書の楽字印を使い、これを「草楽印」又は「隠居印」という。文政元年(1818)表千家了々斎から「翫土軒」の額を貰ってからは、「翫土老人」と陽刻した印も使う。
両椀(りょうわん)
懐石家具のうち、飯椀と汁椀とをいう。一般的には利休形小丸椀が用いられている。利休形小丸椀は、黒漆塗が多く、入子になっていて、飯椀が汁椀より少し大きく、身の方を重ね、蓋をその中へ重ねると四つ重ねに収まる。「茶道筌蹄」に「利休までは尽く朱椀也、利休より黒椀を用ゆ、朱椀も兼用」、「黒塗丸椀坪平付、大小とも利休」、「嬉遊笑覧」に「黒漆の椀は賤きものにて、田舎にのみ用ひたりしを、宗易(千家)好事に、茶席に用ひたりしより、会席椀と称するものを、ことさらに作ることヽはなれり」とある。
緑水繞青山(りょくすいせいざんをめぐる)
「普燈録」に「僧問馬祖。如何是佛。曰。即心是佛。云。如何是道。曰。無心是道。云。佛與道相去多少。曰。佛如展手。道似握拳。師曰。古人方便即不可。山僧這裏也有些子。若無人買。山僧自賣自買去也。如何是佛。岩前多瑞草。如何是道。澗下絶靈苗。佛與道相去多少。數片白雲籠古寺。一條告繞青山。」(僧、馬祖に問う、如何なるか是れ仏。曰く、即心是れ仏。云う、如何なるか是れ道。曰く、無心是れ道。云う、仏と道とは相い去ること多少ぞ。曰く。仏は手を展べる如く、道は拳を握るに似る。師曰く、古人の方便即ち可とせず。山僧、這裏也、些子あり。もし買う人なければ、山僧、自ら売り自ら買うなり。如何なるか是れ仏。岩前、瑞草多し。如何なるか是れ道。澗下、霊苗絶える。仏と道とは相い去ること多少ぞ。数片の白雲古寺を籠め。一条の緑水青山をめぐる。)とある。即心是仏(そくしんぜぶつ)/人間が本来もっている心そのままが仏であること。
輪花(りんか)
碗・皿・盤などの口縁に一定の規律で刻みを付けたり、胴に縦筋をつけ、花弁のような形にした装飾の形。
臨濟録(りんざいろく)
鎮州臨濟慧照禅師語録(ちんじゅうりんざいえしょうぜんじごろく)。全1巻。唐代の禅僧で臨済宗の開祖、臨済義玄(?-866)の法語を弟子の三聖慧然が編集したものとされるが、現在一般に流布されているものは北宋の宣和2年(1120)に円覚宗演が重開したもの。臨済宗で最も重要な語録とされる。
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呂宋壺(るそんつぼ)
桃山時代、ルソン(フィリッピン)を経由して舶載した茶壷。るすん、呂寸、呂尊。呂宋壺の語は、小浜の豪商組屋旧蔵のいわゆる「組屋文書」の文禄3年(1594)組屋甚四郎宛の「請取るすん壺京都にて売代金之事合拾参枚四両者右、民部法印へ出所之面皆済如件、文禄三年十二月十一日石田治部少輔内駒井孫五郎(花押)長束大蔵内竹内伊右衛門(花押)増田右衛門尉内上原久兵衛(花押)わかさ甚四郎まいる」とあるのが初出という。呂宋壺の名で総称される壺は、多くは広東省を中心に中国南部で雑器として大量に焼かれたもので、酒、香料、薬草などを入れルソン島を始めとする東南アジア各地に売られたものが、彼の地でさまざまに利用されてきたものを、「太閤記」に「泉州堺の菜屋助右衛門と云し町人、小琉球呂尊へ、去年の夏相渡、文禄甲午、七月廿日帰朝せしが、其此之代官は、石田杢助にてありし故、奏者として、唐の傘、蝋燭千挺、生たる麝香二疋上奉り、御礼申上、則真壷五拾、懸御目にしかば、事の外御機嫌にて、西之丸の広間に並べつゝ、千宗易などにも御相談有て、上中下段段に代を付させられ、札をおし、所望之面々誰々によらず執候へと被仰出なり。依之望の人々、西丸に祗候いたし、代付にまかせ、五六日之内に悉く取候て、三つ残りしを取て帰り侍らんと、代官の杢助に菜屋申しければ、吉公其旨聞召、其代をつかはし取て置候へと被仰しかば、金子請取奉りぬ。助右衛門五六日之内に、徳人と成にけり」と、呂宋助左衛門なる人物が呂宋で得た真壷を秀吉が大坂城西ノ丸に陳列し、千利休などと相談の上で値段をつけ、諸大名に購入させたという説話があるように、文禄3年(1594)から慶長年間(1596-1614)にルソン島から大量に輸入されたため、これ以前に招来され真壷として珍重された古渡りの茶壷と区別して「るすん壺」「新真壷」と呼んだとされる。寛永年間(1624-1643)ころよりその区別が混乱し、古渡りの真壷を含め舶載された茶壷のすべてを呂宋壺と総称したり、そのうちの上等品を指すなどとするものなどが現れるようになる。  
れ     

 

聯燈會要(れんとうえよう)
宗門聯燈會要。全30巻。南宋の晦翁悟明の編。淳熙十年(1183)に成る。「五燈録」の一。過去七仏より西天二十八祖、東土六祖を経て、南岳下十七世天童咸傑、青原下十五世浄慈慧暉に至る六百余人の祖師の機縁語句と問答を録し、伝灯相承の次第によって分類したるもの。 
ろ     

 

炉(ろ)
畳の一部を切って床下に備え付けた茶用の小さな囲炉裏のこと。1尺4寸四方で、通常は壁塗の炉壇が用いられる。11月はじめから5月はじめ頃まで茶席で湯をわかすために用いられる。「南方録」に「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、松板のふちなし天井、小板ふき宝形造、一間床也。秘蔵の墨跡をかけ、台子を飾り給ふ。其後炉を切て及台を置合されし也。」とあり、村田珠光が四畳半に初めて炉を切ったとされる。炉には、大炉、長炉、丸炉など色々あるが、「茶湯古事談」に「紹鴎の比まては炉の広さ一尺五寸七分半四方なりしか、余りひろ過て見苦しとて紹鴎一尺四寸四方に切初しより、今に其寸法を用ゆとなん」、「南方録」に「紹鴎、四畳半に炉ありといへども、いまだ炉の広狭定らず、釜の大小に随て切しなり。休公と相談ありて、二畳敷出来、向炉隅切に台子のカネを取て、一尺四寸の炉を始られ、その後四畳半にも、いなか間四畳半には一尺三寸、京畳には一尺四寸なり。」、「草庵の炉は、初は炉の寸法定まらず、紹鴎、利休、くれぐれ相談の上、大台子の法を以て万事をやつし用て、向炉一尺四寸に定めらるるなり」とあり、利休が永禄12年(1560)の堺の茶会で用い、席中に切る点前の炉としては、1尺4寸四方に規格化されたとされる。
炉の切り方には,「入炉(いりろ)」と「出炉(でろ)」とがある。「入炉」は、点前畳の中に入った炉で、「向炉」と「隅炉」がある。「出炉」は、点前畳に接した外に切った炉で、「四畳半切」と「台目切」がある。このおのおのに本勝手と逆勝手があるとすると合わせて8通りの炉の切り方があり得るので「八炉の法」が唱えられているが、本勝手が普通で、これは亭主の右側に客が座し、左が勝手付になる。また、大炉(おおろ)」は1尺4寸より大きい炉で、裏千家では玄々斎が北国の囲炉裏から好み「大炉は一尺八寸四方四畳半左切が本法なり。但し、六畳の席よろし」とし、逆勝手での点前がある。「長炉(ながろ)」は、長方形で水屋などに使う。「丸炉(がんろ)」は円形の鉄炉で、水屋の控え釜などに使う。
臘雪連天白(ろうせつてんにつらなってしろし)
「虚堂録」に「感首座問法昌。昔日北禪烹露地白牛。今夜分歳有何施設。昌云。臘雪連天白。春風逼戸寒。感云。大衆喫箇甚麼。昌云。莫嫌冷淡無滋味。一飽能消萬劫飢。」(感首座、法昌に問う、昔日北禅露地の白牛を烹る。今夜分歳、何の施設やある。昌云く、臘雪天に連なって白く、春風戸に迫って寒し。感云く、大衆箇の甚麼をか喫す。昌云く、嫌うことなかれ冷淡にして滋味なきことを、一飽能く万劫の飢えを消せしむ。)とある。北禪(ほくぜん)/慧能の南宗禅に対し神秀(じんしゅう)の漸悟主義の北宗禅。露地白牛(ろじのびゃくご)/「法華經」譬喩品の「爭出火宅。是時長者見諸子等安隱得出,皆於四衢道中露地而坐・・・・駕以白牛」から。「祖堂集」に「謂露地者佛地。亦名第一義空。白牛者諮法身之妙慧也。」(謂く、露地は仏地なり。亦た第一義空と名づく。白牛は法身を諮るの妙慧なり。)とある。臘雪(ろうせつ)/陰暦一二月に降る雪。一飽(いっぽう)/一度食事をして満腹になること。萬劫(まんごう)/極めて長い年月。「禅林句集」に「臘雪連天白、春風逼戸寒。」とあり「禪林類聚」巻十四歳時門を出典とするが未見。
轆轤目(ろくろめ)
轆轤(ろくろ)の上に粘土を置き、轆轤を回転させて指で粘土を引き上げて成形していくときに、轆轤の回転につれて指の痕が表面に周回条についたもの。一種の装飾として、茶入、茶碗では見所になっている。箆(へら)、鉋(かんな)などによるものもある。
羅湖野録(ろごやろく)
宋代の禅門の逸話集。全二巻。大慧の嗣、暁瑩仲温の編。紹興乙亥(1155)の自序、紹興庚辰(1160)の無著妙ハ(1095-1170)の跋がある。羅湖上に菴居して、当代禅門の逸話を集録したもの。
露地(ろじ)
茶室に付随する庭の通称。一般的に飛石、蹲踞、腰掛、石燈籠などが配される。露地とは、もともとは町屋の家と家とを結ぶ細長い通路のことで、茶室に通じる路のことを路地、あるいは道すがらという意味の路次の字をあてていた。「和泉草」に「古来は路地なしに、表に潜を切開き、座敷に直に入たる也。」、「長闇堂記」に「昔は四畳半えん差にして、六畳四畳土間屋根の下有手水、それにすわりぬけ石の石船すえ、又木をもほり、桶をもすへしなり。」とあり、古い時代には露地はなく表に潜戸を作り、この潜戸を通り「山上宗二記」の紹鴎座敷の指図に「坪ノ内」とみえるような細い通路を通って茶室に入り、手水鉢も縁側か軒の内にあったとされる。
「茶式湖月抄」に「利休の時代は、何方も一重露地なり。往還の道路よりすぐに露地の大戸を開き内にいり、大戸のきわに腰掛あり、板縁または簀子等の麁相なる仕立なり。露地草庵みなこれ侘の茶の湯なれば、誠に中宿のやすらひ迄なり。其の後古田織部正、小堀遠州等にいたつて、万に自由よきやうとて堂腰掛などいふもの出来て、衣装等をも着更しなり。よつて衣装堂ともいふなり。家来従臣も、ここまては自由に往来なすがゆへに、今は一重うちに塀をかけ中傴を構へ此内にまた腰掛をつけ初入に主中くぐりまで迎に出る。」、三斎「細川茶湯之書」に「昔はかならず外の廬路口まで亭主迎に出たれ共、近年は廬路の内、中のしきりくヾり迄来り、外のくちひらきて、共の者までも外の腰かけにはいりて、そこにてかみゆひなどをし、衣裳をきる客人もあり。」、石州「三百箇條」に「外路次といふ事、昔ハ無之也、利休時分ハ少腰掛なとして待合にせしとなり。金森出雲守可重虎の門の向に屋敷有之、台徳院様(徳川秀忠)へ御茶差上候時に、始て待合を作りしと也、是より待合出来始候」とあるように、露地を垣根などで仕切り中門を配し、露地口から中門までの外露地と、中門から茶室までの内露地を作った二重露地、さらに外露地と内露地の間に中露地を加えた三重露地が出来上がってくるのは織部・遠州の時代とされる。露地に飛石を据えることは「長闇堂記」に「路次に飛石するとの始を云に、東山殿の御時、洛外の千本に、道貞といふ侘数奇の者ありて、其名誉たるによりて、東山殿御感有て、御鷹野の帰るさに、道貞の庵へ御尋有し時、御脚口わらんづなりけれは、童朋に雑用を敷せて、御通り有しを学びて、其後石を直せるとなり」とあるが、「南方録」に「休の露地にとび石なき露地あり。その時は玄関の外に、ひくき竹すのこにても、板ばりにても、小ゑんを付て、げたにても、せきだにても、ふんぬぎて小ゑんにあがり、それより、くゞりにても、せうじにても、あけて入なり。」「もず野は、露地すべて芝生なり。とび石なき事相応なり。集雲のは苔地、草履のうら、しめりていかゞと思へども、石はこびむつかしくて、ふんぬぎにしてをくなり。」とあり、必ずしも全てに飛石が据えられたわけでもないようである。また露地に石燈籠を据えるのは、「貞要集」に「石燈籠路次に置候は、利休鳥辺野通りて、石燈籠の火残り、面白静成体思ひ出て、路次へ置申候よし、云伝有之候、又等持院にてあけはなれて、石燈籠の火を見て面白がり、夫より火を遅く消し申由云伝る」とあり、利休の晩年の事とされる。
「茶窓閑話」に「紹鴎が利休へ路次の事をしへるとて心とめて見ればこそあれ秋の野の生にまじる花のいろいろ此歌にて得心せよとありしとかや。しかればそのかみは路次にも花咲く木草をきらはざりしが。小堀遠江守政一其座敷の花を賞鑑させんとて。路次に花ある木を栽られざりしより。今はなべてうゑぬ事となりし」とあり、遠州が露地に花の咲く木を嫌い、これは以後露地に花の咲く木を避けるようになったとある。露地の字が使われるようになるのは江戸中期とされ、「南方録」に「露地と云こと、紹鴎、利休、茶の本意これにとヾまる大切のことなるに、俊伝には幽宅以来伝授これ無き哉、またいづれその時忘却したるや、夢にもこの露地の沙汰なきゆへ、心ぎたなきことにも成けるなり。あまりに忘却して、露地と云文字さへ知らず。路地、路次、廬地などかきあやまれり。俊自筆の書等にも、路地、路次とかけり。この一事にて、俊伝の茶論ずるにたらざること知ぬべし。路次なども連続の字なれども、道路のことなり。かの露地の意味茶の大道なるを弁へずしては、何に依て茶とも湯とも云べきぞ。」、「露地は草庵寂寞の境をすへたる名なり、法華譬喩品に長者諸子すでに三界の火宅を出て、露地に居ると見えたり、又露地の白牛といふ、白露地ともいへり、世間の塵労垢染を離れ、一心清浄の無一物底を、強て名づけて白露地といふ」とあり、高い精神性を付与するようになる。
炉開き(ろびらき)
風炉の使用をやめて炉を使い始めること。開炉(かいろ)。炉を開き、初夏に摘んで寝かせていた新茶を初めて使う「口切」が行われるため「茶人の正月」と呼ばれる。普通、陰暦亥(い)の月の初亥(い)の日(2005年は11月11日)に開くとされる。中国から伝わり、平安時代に宮中行事となった「玄猪(げんちょ)」という儀式に由来するといわれ、陰暦十月上亥の日に餅を食すと万病が避けられるということで、その餅を亥子餅といい、また猪は子をたくさん産むことから子孫繁栄を祝うものとされたので、女房の間でお互いに餅を送りあうことが盛んに行われていた時期もあった。鎌倉時代の有職故実書「年中行事秘抄」に、「朱塗りの盤四枚に紙を立て、台の上に据え、女房がこれを取り、朝飼(あさがれい)に置く。次いで蔵人所の鉄臼に餅を入れて搗く。猪子形に作り、寝所の四隅に挿す」、鎌倉時代の事典「二中歴」に「亥子餅七種粉、大豆・小豆・大角豆・胡麻・粟・柿・糖」とある。また江戸時代には、亥は陰陽五行説の極陰(水性)にあたり、火難を逃れるというところから、この日に炉や炬燵を開き火鉢を出す習慣があったという。
炉縁(ろぶち)
炉(囲炉裏)を作る際、畳を切って中に炉壇を入れ、その上にかける木の枠のこと。炉縁は大別して木地縁と塗縁がある。木地は一般的に小間に用いられる。初期の炉縁は木地の「沢栗(さわぐり)」で、利休時代の名工として「久以(きゅうい)」「長以(ちょうい)」「半入(はんにゅう)」などがあり、それぞれに刻印を用いている。当時の木地縁は使うたびに洗ったので「洗い縁」とも呼ばれ、水に強い沢栗材が用いられた。他に黒柿・縞柿・桑・桜・紅梅・松・桐・杉等さまざまで、北山丸太や皮付丸太等の丸太物や、鉄刀木(たがやさん)・花梨などの唐木、社寺の古材を仕立てることある。木以外に竹を使用することもあり、角竹を使ったもの、木地に胡麻竹や煤竹を貼りつけたものもある。塗縁は、無地と蒔絵にわかれ、塗縁は一般的に広間(四畳半以上)で使用し、桧材真塗を正式とするが、あらゆる漆加工が使用される。
塗には真塗・溜塗・掻合塗・朱塗・青漆・布摺・春慶・荒目等がある。蒔絵も、好みによって各種の文様が施される。 炉縁の寸法は、1尺4寸四方、高さ2寸2分5厘、天端1寸2分5厘、面取2分5厘を原則とし、田舎間の場合1尺3寸四方、また好みにより違いがある。「南方録」に「草庵の炉は、初は炉の寸法定まらず、紹鴎、利休、くれぐれ相談の上、大台子の法を以て万事をやつし用て、向炉一尺四寸に定めらるるなり」とあり、利休が永禄12年(1560)の堺の茶会で用いている。山田宗偏の「茶道要録」に「春は洗縁を用ゆ、陽気〓を挙る故に見て悪し、故に用、客毎に洗ひて用べし。沢栗の目通を以て作る。冬は塗縁を用ゆ、洗縁の古びたるを掻合に漆塗て用。是侘なり。又不侘人は真塗を用。是は檜地也。」、「茶湯古事談」に「炉縁、利休時代迄は四畳半の炉には真の塗縁、四畳半よりせまき座敷には栗のあらひ縁を用ひて、冬春の分ちなりし由、然に中比より冬はぬり縁、春は洗ひ縁といひ、又一説には片口・面桶もあたらしく、木地を用れは、口切には洗ひ縁、春に及んてはぬり縁を用ゆともいふ、一概には論しかたしとなん」とある。
     

 

我庵(わがいお)
直斎手造の赤楽の掛花入。銘「我庵」。赤楽の、尻張りの筒型で、口縁に太い二本の彫込線が入り、一枚の板をくの字に曲げて屋根のような手を付けた、寸法が20cm程度の小振な掛花入。愈好斎が金重陶陽に備前火襷の写を作らせている。
吾心似秋月(わがこころはしゅうげつににたり)
「寒山詩」に「吾心似秋月、碧潭清皎潔。無物堪比倫、教我如何説。」(吾が心秋月に似たり、碧潭清くして皎潔たり。物の比倫に堪ゆるは無し、我をして如何が説かしめん。)とある。皎潔(こうけつ)/白く清らかで汚れのないさま。比倫(ひりん)/ならぶもの。たぐい。比類。私の心は秋の名月に似て、青々とした深い水のように透明で汚れがない。これにならぶことのできるものは他に無い。私はこれをどのように説明すればいいのか分からない。
若狭盆(わかさぼん)
唐物漆塗盆の一。四方入隅形端反で低い高台がつく。塗りは内朱・外青漆・底黒。縁と見込の境にわずかな段がある。茶入盆・花入盆・干菓子器などに使われる。「茶道筌蹄」に「若狭盆此盆元七枚箱に入て、若狭の浜辺に流れ寄る。唐物の盆なり。此盆に似よりたるを何も若狭盆といふ。内朱外青漆、葉入角なり。いにしへ内朱の盆と云は此盆也。」、「千家茶事不白斎聞書」に「若狭盆、ふちせいじ内朱。是は若狭へ唐人著之時持来る。」、「和漢茶誌」に「按、世傳云、若狭盆者、北斎渤海之制。或云、明朝之初、漂流於若州海浜也。其證未詳。又曰、先来者五枚、後来者七枚。未聞其所據、且底裏文字及紋不同。或識徳字、或畫梅様形。是茶入盆最極品者也。」とある。葉入角(よういりかく)とは、四方入隅のこと。
和敬清寂(わけいせいじゃく)
千利休が茶道の精神をあらわしたとされる語。出典は「茶祖伝」(1730)とされ、その元禄12年(1699)の序文において巨妙子(大心義統:だいしんぎとう/1657-1730:大徳寺第273世)が「今茶之道四焉、能和能敬能清能寂、是利休因茶祖珠光答東山源公文所云」と著している。茶祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神をたずねられたとき、「一味清淨、法喜禪ス。趙州如此、陸羽未曾至此。人入茶室、外卻人我之相、内蓄柔和之コ、致相交之間、謹兮敬兮清兮寂兮、卒以及天下太平。」と答えたといわれたことを踏まえ、利休が「能く和し能く敬し能く清く能く寂」の「四諦(よんたい)」を茶の湯の根本として定めたことを述べている。「謹敬」は「韓非子・内儲説下」、「和敬」は「礼記・楽記」にみえる。茶道の精神をあらわす語として、特に江戸時代後期によく用いられた。
和光(わこう)
「老子」に「知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、亦不可得而疏。不可得而利、亦不可得而害。不可得而貴、亦不可得而賤。故爲天下貴。」(知る者は言わず、言う者は知らず。その兌を塞ぎ、その門を閉じ、その鋭を挫き、その紛を解き、その光を和し、その塵に同じくす。これを玄同と謂う。故に得て親しむべからず、また得て疏んずべからず。得て利すべからず、また得て害すべからず。得て貴ぶべからず、また得て賤しむべからず。故に天下の貴となる。)とあり、「和光同塵(わこうどうじん)」の成句で知られ、「摩訶止觀(まかしかん)」に「和光同塵結縁之始。八相成道以論其終。」(和光同塵は結縁の始め、八相成道はもつてその終りを論ず)と、仏が菩薩が衆生済度のためにその本地の知徳を隠し煩悩の塵に同じて衆生に縁を結ぶことの意に用いられている。
輪島塗(わじまぬり)
石川県輪島市で作られる漆器。輪島塗の発祥は諸説あり、天平年間に真言宗の行基により鳳至郡門前町に総持寺が創建された際に畿内より伝来、また室町時代中期頃、紀州の根来寺の寺僧が輪島・重蓮寺に来て同寺の什器類を製造し伝来、または福蔵(ふくぞう)という者が根来に行き技術を伝習等がある。現在も残る最古のものとしては、大永4年(1524)に作られたとされる市内河井町にある重蔵宮の重蔵権現本殿の朱塗扉がある。寛文年間(1661-1673)には輪島で発見された珪藻土の一種を焼成し粉末にした「地の粉(じのこ)」を漆に混入し塗る「本堅地(ほんかたじ)」の技法が始まり、享保年間(1716-1735)に、城五郎兵衛(たちごろべい)により沈金技法が考案され、文政期(1818-1829)に会津の蒔絵師・安吉(やすきち)が輪島に移住し蒔絵技術を伝え、幕末に浜崎宗吉(はまさきそうきち)により完成したとされる。輪島塗の特徴は、木地に生漆を塗付した後、縁など破損しやすいところに「着せもの漆」を塗った麻布や寒冷紗(綿布)などの布を張って補強する「布着せ(ぬのきせ)」をし、生漆に米のり及び「地の粉(じのこ)」を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返し、上塗りは精製漆を用いて「花塗」または「ろいろ塗」、加飾は沈金または蒔絵によることにある。
輪無二重切(わなしにじゅうきり)
竹花入の一。二重切の上部の輪と柱を切り除いた姿の竹花入。小堀遠州(1579-1647)が娘婿で医者の半井琢庵に贈った二重切竹花入の輪が破損し、手直しを頼まれた遠州が上の窓を切り取ってこの形を作り「花筒再来いたし候、天下一の大人に生替り候、云々」との書状を添えたところから「再来」と名付けられ、輪無二重切を「再来切」ともいう。「再来」は中興名物。裏面には、遠州の筆で「再来宗甫」の銘が金粉字形で入れられている。ただ、利休作、少庵作の輪無二重と伝えられる作が伝存し、「茶道筌蹄」に「輪無二重利休形」、天保12年(1841)刊「茶家酔古襍」には「輪無二重道安好」とあり、春古洞斎船越貞常の文化8年(1811)奥書の「生花口伝書」に「一輪なし二重切の事二重切の上の輪を取たる物ゆへ斯いふ也。また異名を車僧といふ。利休の制作也。哥に世の中を何とかめくる車僧のりも得るへき輪かあらはこそ是にて付たる名なり。又道安切といふ有。別巻に記す。元来二重切の上の輪かけて取れたるゆへなり。」、「一輪なし二重差別の事車僧と道安切とは別也。茶道秘録に元伯好みに、上を尺八の如く切り、下の節間口壱つ開て用ゆるとあり、これ道安切なるへし。是真中に花口有りて、上下の尺同様なり。かちきね共いふ。車僧の寸法また別也。当流にのみ用ゆると知へし。」とある。
 

 

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