茶の湯文化

茶の本茶の湯文化日本茶茶道茶の湯史静岡茶漆器陶芸会津塗の歴史最後の御茶壺道中中国茶の歴史・・・
 

雑学の世界・補考   

茶の本 岡倉覚三

第1章 人情の碗
茶は日常生活の俗事の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達す/茶道は社会の上下を通じて広まる/新旧両世界の誤解/西洋における茶の崇拝/欧州の古い文献に現われた茶の記録/物と心の争いについての道教徒の話/現今における富貴権勢を得ようとする争い
第2章 茶の諸流
茶の進化の三時期/唐(とう)、宋(そう)、明(みん)の時代を表わす煎茶(せんちゃ)、抹茶(ひきちゃ)、淹茶(だしちゃ)/茶道の鼻祖陸羽/三代の茶に関する理想/後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想ではない/日本においては茶は生の術に関する宗教である
第3章 道教と禅道
道教と禅道との関係/道教とその後継者禅道は南方シナ精神の個人的傾向を表わす/道教は浮世をかかるものとあきらめて、この憂(う)き世の中にも美を見いだそうと努める/禅道は道教の教えを強調している/精進静慮することによって自性了解(じしょうりょうげ)の極致に達せられる/禅道は道教と同じく相対を崇拝する/人生の些事(さじ)の中にも偉大を考える禅の考え方が茶道の理想となる/道教は審美的理想の基礎を与え禅道はこれを実際的なものとした
第4章 茶室
茶室は茅屋(ぼうおく)に過ぎない/茶室の簡素純潔/茶室の構造における象徴主義/茶室の装飾法/外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂
第5章 芸術鑑賞
美術鑑賞に必要な同情ある心の交通/名人とわれわれの間の内密の黙契/暗示の価値/美術の価値はただそれがわれわれに語る程度による/現今の美術に対する表面的の熱狂は真の感じに根拠をおいていない/美術と考古学の混同/われわれは人生の美しいものを破壊することによって美術を破壊している  
第6章 花
花はわれらの不断の友/「花の宗匠」/西洋の社会における花の浪費/東洋の花卉栽培(かきさいばい)/茶の宗匠と生花の法則/生花の方法/花のために花を崇拝すること/生花の宗匠/生花の流派、形式派と写実派  
第7章 茶の宗匠
芸術を真に鑑賞することはただ芸術から生きた力を生み出す人にのみ可能である/茶の宗匠の芸術に対する貢献/処世上に及ぼした影響/利休の最後の茶の湯
第1章 人情の碗

茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては8世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。15世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。というのは、倫理、宗教と合して、天人(てんじん)に関するわれわれのいっさいの見解を表わしているものであるから。それは衛生学である、清潔をきびしく説くから。それは経済学である、というのは、複雑なぜいたくというよりもむしろ単純のうちに慰安を教えるから。それは精神幾何学である、なんとなれば、宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。それはあらゆるこの道の信者を趣味上の貴族にして、東洋民主主義の真精神を表わしている。
日本が長い間世界から孤立していたのは、自省をする一助となって茶道の発達に非常に好都合であった。われらの住居、習慣、衣食、陶漆器、絵画等--文学でさえも--すべてその影響をこうむっている。いやしくも日本の文化を研究せんとする者は、この影響の存在を無視することはできない。茶道の影響は貴人の優雅な閨房(けいぼう)にも、下賤(げせん)の者の住み家にも行き渡ってきた。わが田夫は花を生けることを知り、わが野人も山水を愛(め)でるに至った。俗に「あの男は茶気(ちゃき)がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽(こっけい)を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通(はんかつう)を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。
よその目には、つまらぬことをこのように騒ぎ立てるのが、実に不思議に思われるかもしれぬ。一杯のお茶でなんという騒ぎだろうというであろうが、考えてみれば、煎(せん)ずるところ人間享楽の茶碗(ちゃわん)は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇(かわき)のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。してみれば、茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい。人間はこれよりもまだまだ悪いことをした。酒の神バッカスを崇拝するのあまり、惜しげもなく奉納をし過ぎた。軍神マーズの血なまぐさい姿をさえも理想化した。してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。象牙色(ぞうげいろ)の磁器にもられた液体琥珀(こはく)の中に、その道の心得ある人は、孔子(こうし)の心よき沈黙、老子(ろうし)の奇警、釈迦牟尼(しゃかむに)の天上の香にさえ触れることができる。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖(そで)の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮(さつりく)を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道--わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術--について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆(きも)を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮(はす)の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。まだまだおもしろい種になることはいくらでもあろう、もしわれわれ諸君についてこれまで、想像したり書いたりしたことがすっかりおわかりになれば。すべて遠きものをば美しと見、不思議に対して知らず知らず感服し、新しい不分明なものに対しては、口には出さねど憤るということがそこに含まれている。諸君はこれまで、うらやましく思うこともできないほど立派な徳を負わされて、あまり美しくて、とがめることのできないような罪をきせられている。わが国の昔の文人は--その当時の物知りであった--まあこんなことを言っている。諸君には着物のどこか見えないところに、毛深いしっぽがあり、そしてしばしば赤ん坊の細切(こまぎ)り料理を食べていると!否、われわれは諸君に対してもっと悪いことを考えていた。すなわち諸君は、地球上で最も実行不可能な人種と思っていた。というわけは、諸君は決して実行しないことを口では説いているといわれていたから。
かくのごとき誤解はわれわれのうちからすみやかに消え去ってゆく。商業上の必要に迫られて欧州の国語が、東洋幾多の港に用いられるようになって来た。アジアの青年は現代的教育を受けるために、西洋の大学に群がってゆく。われわれの洞察力(どうさつりょく)は、諸君の文化に深く入り込むことはできない。しかし少なくともわれわれは喜んで学ぼうとしている。私の同国人のうちには、諸君の習慣や礼儀作法をあまりに多く取り入れた者がある。こういう人は、こわばったカラや丈(たけ)の高いシルクハットを得ることが、諸君の文明を得ることと心得違いをしていたのである。かかる様子ぶりは、実に哀れむべき嘆かわしいものであるが、ひざまずいて西洋文明に近づこうとする証拠となる。不幸にして、西洋の態度は東洋を理解するに都合が悪い。キリスト教の宣教師は与えるために行き、受けようとはしない。諸君の知識は、もし通りすがりの旅人のあてにならない話に基づくのでなければ、わが文学の貧弱な翻訳に基づいている。ラフカディオ・ハーンの義侠的(ぎきょうてき)ペン、または「インド生活の組織」の著者のそれが、われわれみずからの感情の松明(たいまつ)をもって東洋の闇(やみ)を明るくすることはまれである。
私はこんなにあけすけに言って、たぶん茶道についての私自身の無知を表わすであろう。茶道の高雅な精神そのものは、人から期待せられていることだけ言うことを要求する。しかし私は立派な茶人のつもりで書いているのではない。新旧両世界の誤解によって、すでに非常な禍(わざわい)をこうむっているのであるから、お互いがよく了解することを助けるために、いささかなりとも貢献するに弁解の必要はない。20世紀の初めに、もしロシアがへりくだって日本をよく了解していたら、血なまぐさい戦争の光景は見ないで済んだであろうに。東洋の問題をさげすんで度外視すれば、なんという恐ろしい結果が人類に及ぶことであろう。ヨーロッパの帝国主義は、黄禍のばかげた叫びをあげることを恥じないが、アジアもまた、白禍の恐るべきをさとるに至るかもしれないということは、わかりかねている。諸君はわれわれを「あまり茶気があり過ぎる」と笑うかもしれないが、われわれはまた西洋の諸君には天性「茶気がない」と思うかもしれないではないか。
東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことはやめにして、東西互いに得る利益によって、よし物がわかって来ないとしても、お互いにやわらかい気持ちになろうではないか。お互いに違った方面に向かって発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ちつきを失ってまで膨張発展を遂げた。われわれは侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることができますか、東洋はある点で西洋にまさっているということを!不思議にも人情は今までのところ茶碗(ちゃわん)に東西相合している。茶道は世界的に重んぜられている唯一のアジアの儀式である。白人はわが宗教道徳を嘲笑(ちょうしょう)した。しかしこの褐色飲料(かっしょくいんりょう)は躊躇(ちゅうちょ)もなく受け入れてしまった。午後の喫茶は、今や西洋の社会における重要な役をつとめている。盆や茶托(ちゃたく)の打ち合う微妙な音にも、ねんごろにもてなす婦人の柔らかい絹ずれの音にも、また、クリームや砂糖を勧められたり断わったりする普通の問答にも、茶の崇拝は疑いもなく確立しているということがわかる。渋いか甘いか疑わしい煎茶(せんちゃ)の味は、客を待つ運命に任せてあきらめる。この一事にも東洋精神が強く現われているということがわかる。
ヨーロッパにおける茶についての最も古い記事は、アラビヤの旅行者の物語にあると言われていて、879年以後広東(カントン)における主要なる歳入の財源は塩と茶の税であったと述べてある。マルコポーロは、シナの市舶司が茶税を勝手に増したために、1285年免職になったことを記録している。ヨーロッパ人が、極東についていっそう多く知り始めたのは、実に大発見時代のころである。16世紀の終わりにオランダ人は、東洋において灌木(かんぼく)の葉からさわやかな飲料が造られることを報じた。ジオヴァーニ・バティスタ・ラムージオ(1559)、エル・アルメイダ(1576)、マフェノ(1588)、タレイラ(1610)らの旅行者たちもまた茶のことを述べている。1610年に、オランダ東インド会社の船がヨーロッパに初めて茶を輸入した。1636年にはフランスに伝わり、1638年にはロシアにまで達した。英国は1650年これを喜び迎えて、「かの卓絶せる、かつすべての医者の推奨するシナ飲料、シナ人はこれをチャと呼び、他国民はこれをテイまたはティーと呼ぶ。」と言っていた。
この世のすべてのよい物と同じく、茶の普及もまた反対にあった。ヘンリー・セイヴィル(1678)のような異端者は、茶を飲むことを不潔な習慣として口をきわめて非難した。ジョウナス・ハンウェイは言った。(茶の説・1756)茶を用いれば男は身のたけ低くなり、みめをそこない、女はその美を失うと。茶の価の高いために(1ポンド約15シリング)初めは一般の人の消費を許さなかった。「歓待饗応(きょうおう)用の王室御用品、王侯貴族の贈答用品」として用いられた。しかしこういう不利な立場にあるにもかかわらず、喫茶は、すばらしい勢いで広まって行った。18世紀前半におけるロンドンのコーヒー店は、実際喫茶店となり、アディソンやスティールのような文士のつどうところとなり、茶を喫しながらかれらは退屈しのぎをしたものである。この飲料はまもなく生活の必要品--課税品--となった。これに関連して、現代の歴史において茶がいかに主要な役を務めているかを思い出す。アメリカ植民地は圧迫を甘んじて受けていたが、ついに、茶の重税に堪えかねて人間の忍耐力も尽きてしまった。アメリカの独立は、ボストン港に茶箱を投じたことに始まる。
茶の味には微妙な魅力があって、人はこれに引きつけられないわけにはゆかない、またこれを理想化するようになる。西洋の茶人たちは、茶のかおりとかれらの思想の芳香を混ずるに鈍ではなかった。茶には酒のような傲慢(ごうまん)なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。1711年にすでにスペクテイター紙に次のように言っている。「それゆえに私は、この私の考えを、毎朝、茶とバタつきパンに1時間を取っておかれるような、すべての立派な御家庭へ特にお勧めしたいと思います。そして、どうぞこの新聞を、お茶のしたくの一部分として、時間を守って出すようにお命じになることを、せつにお勧めいたします。」サミュエル・ジョンソンはみずからの人物を描いて次のように言っている。「因業(いんごう)な恥知らずのお茶飲みで、20年間も食事を薄くするにただこの魔力ある植物の振り出しをもってした。そして茶をもって夕べを楽しみ、茶をもって真夜中を慰め、茶をもって晨(あした)を迎えた。」
ほんとうの茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行なって偶然にこれが現われることが何よりの愉快である。」というところに茶道の真髄を伝えている。というわけは、茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑うけだかい奥義である。従ってヒューマーそのものであり、悟りの微笑である。すべて真に茶を解する人はこの意味において茶人と言ってもよかろう。たとえばサッカレー、それからシェイクスピアはもちろん、文芸廃頽期(はいたいき)の詩人もまた、(と言っても、いずれの時か廃頽期でなかろう)物質主義に対する反抗のあまりいくらか茶道の思想を受け入れた。たぶん今日においてもこの「不完全」を真摯(しんし)に静観してこそ、東西相会して互いに慰めることができるであろう。
道教徒はいう、「無始」の始めにおいて「心」と「物」が決死の争闘をした。ついに大日輪黄帝(こうてい)は闇(やみ)と地の邪神祝融(しゅくゆう)に打ち勝った。その巨人は死苦のあまり頭を天涯(てんがい)に打ちつけ、硬玉の青天を粉砕した。星はその場所を失い、月は夜の寂寞(せきばく)たる天空をあてもなくさまようた。失望のあまり黄帝は、遠く広く天の修理者を求めた。捜し求めたかいはあって東方の海から女(じょか)という女皇、角(つの)をいただき竜尾(りゅうび)をそなえ、火の甲冑(かっちゅう)をまとって燦然(さんぜん)たる姿で現われた。その神は不思議な大釜(おおがま)に五色の虹(にじ)を焼き出し、シナの天を建て直した。しかしながら、また女は蒼天(そうてん)にある2個の小隙(しょうげき)を埋めることを忘れたと言われている。かくのごとくして愛の二元論が始まった。すなわち2個の霊は空間を流転してとどまることを知らず、ついに合して始めて完全な宇宙をなす。人はおのおの希望と平和の天空を新たに建て直さなければならぬ。
現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大(ばくだい)な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇(やみ)に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行なわれている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜(りゅう)のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女(じょか)を必要とする。われわれは大権化(だいごんげ)の出現を待つ。まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜(ちゃがま)に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。
第2章 茶の諸流

茶は芸術品であるから、その最もけだかい味を出すには名人を要する。茶にもいろいろある、絵画に傑作と駄作(ださく)と--概して後者--があると同様に。と言っても、立派な茶をたてるのにこれぞという秘法はない、ティシアン、雪村(せっそん)のごとき名画を作製するのに何も規則がないと同様に。茶はたてるごとに、それぞれ個性を備え、水と熱に対する特別の親和力を持ち、世々相伝の追憶を伴ない、それ独特の話しぶりがある。真の美は必ず常にここに存するのである。芸術と人生のこの単純な根本的法則を、社会が認めないために、われわれはなんという損失をこうむっていることであろう。宋(そう)の詩人李仲光(りちゅうこう)は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。
芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶(せんちゃ)、抹茶(ひきちゃ)および掩茶(だしちゃ)すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表わしている。と言うのは、人生はわれらの内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。孔子いわく「人いずくんぞ(かく)さんや、人いずくんぞ(かく)さんや」と。たぶんわれわれは隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事(さじ)に自己を顕(あら)わすことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔(こうしょう)と同じく人種的理想の評論である。愛好する葡萄酒(ぶどうしゅ)の違いでさえ、ヨーロッパのいろいろな時代や国民のそれぞれの特質を表わしているように、茶の理想もいろいろな情調の東洋文化の特徴を表わしている。煮る団茶、かき回す粉茶、淹(だ)す葉茶(はぢゃ)はそれぞれ、唐(とう)、宋(そう)、明(みん)の気分を明らかに示している。もし、芸術分類に濫用された名称を借りるとすれば、これらをそれぞれ、古典的、ローマン的、および自然主義的な茶の諸流と言えるであろう。
南シナの産なる茶の木は、ごく早い時代からシナの植物学界および薬物学界に知られていた。古典には、※(た)、※(せつ)、※(せん)、(か)、茗(みょう)、というようないろいろな名前で書いてあって、疲労をいやし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチの痛みを軽減するために、煉薬(れんやく)として外用薬にも用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼らが長時間の黙想中に、睡魔予防剤として広くこれを服用した。
4-5世紀のころには、揚子江(ようすこう)流域住民の愛好飲料となった。このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。これは明らかに、古い「※(た)」の字の俗字であろう。南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫(ほうまつ)」を熱烈に崇拝した跡が見えている。また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原始的なものであった。茶の葉を蒸して臼(うす)に入れてつき、団子として、米、薑(はじかみ)、塩、橘皮(きっぴ)、香料、牛乳等、時には葱(ねぎ)とともに煮るのであった。この習慣は現今チベット人および蒙古(もうこ)種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。ロシア人がレモンの切れを用いるのは--彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが--この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。
茶をその粗野な状態から脱して理想の域に達せしめるには、実に唐朝の時代精神を要した。8世紀の中葉に出た陸羽(りくう)をもって茶道の鼻祖とする。かれは、仏、道、儒教が互いに混淆(こんこう)せんとしている時代に生まれた。その時代の汎神論的(はんしんろんてき)象徴主義に促されて、人は特殊の物の中に万有の反映を見るようになった。詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認めた。彼はその有名な著作茶経(茶の聖典)において、茶道を組織立てたのである。爾来(じらい)彼は、シナの茶をひさぐ者の保護神としてあがめられている。
茶経は3巻10章よりなる。彼は第1章において茶の源を論じ、第2章、製茶の器具を論じ、第3章、製茶法を論じている。彼の説によれば、茶の葉の質の最良なものは必ず次のようなものである。
胡人(こじん)の(かわぐつ)のごとくなる者蹙縮然(しゅくしゅくぜん)たり 牛(ほうぎゅう)の臆(むね)なる者廉※然(れんせんぜん)たり 浮雲の山をいずる者輸菌然たり 軽(けいえん)の水を払う者涵澹然(かんせんぜん)たり また新治の地なる者暴雨流潦(りゅうりょう)の経る所に遇(あ)うがごとし
第4章はもっぱら茶器の24種を列挙してこれについての記述であって、風炉(ふろ)に始まり、これらのすべての道具を入れる都籃(ちゃだんす)に終わっている。ここにもわれわれは陸羽の道教象徴主義に対する偏好を認める。これに連関して、シナの製陶術に及ぼした茶の影響を観察してみることもまた興味あることである。シナ磁器は、周知のごとく、その源は硬玉のえも言われぬ色合いを表わそうとの試みに起こり、その結果唐代には、南部の青磁と北部の白磁を生じた。陸羽は青色を茶碗(ちゃわん)に理想的な色と考えた、青色は茶の緑色を増すが白色は茶を淡紅色にしてまずそうにするから。それは彼が団茶を用いたからであった。その後宋(そう)の茶人らが粉茶を用いるに至って、彼らは濃藍色(のうらんしょく)および黒褐色(こくかっしょく)の重い茶碗を好んだ。明人(みんじん)は淹茶(だしちゃ)を用い、軽い白磁を喜んだ。
第5章において陸羽は茶のたて方について述べている。彼は塩以外の混合物を取り除いている。彼はまた、これまで大いに論ぜられていた水の選択、煮沸の程度の問題についても詳述している。彼の説によると、その水、山水を用うるは上(じょう)、江水は中、井水は下である。煮沸に三段ある。その沸、魚目のごとく、すこし声あるを一沸となし、縁辺の涌泉蓮珠(ゆうせんれんしゅ)のごとくなるを二沸となし、騰波鼓浪(とうはころう)を三沸となしている。団茶はこれをあぶって嬰児(えいじ)の臂(ひじ)のごとく柔らかにし、紙袋を用いてこれをたくわう。初沸にはすなわち、水量に合わせてこれをととのうるに塩味をもってし、第二沸に茶を入れる。第三沸には少量の冷水を(かま)に注ぎ、茶を静めてその「華」を育(やしな)う。それからこれを茶碗に注いで飲むのである。これまさに神酒!晴天爽朗(そうろう)なるに浮雲鱗然(ふうんりんぜん)たるあるがごとし。その沫(あわ)は緑銭の水渭(すいい)に浮かべるがごとし。唐の詩人盧同(ろどう)の歌ったのはこのような立派な茶のことである。
一椀(わん)喉吻(こうふん)潤い、二椀孤悶(こもん)を破る。三椀枯腸をさぐる。惟(おも)う文字五千巻有り。四椀軽汗を発す。平生不平の事ことごとく毛孔に向かって散ず。五椀肌骨(きこつ)清し。六椀仙霊(せんれい)に通ず。七椀吃(きつ)し得ざるに也(また)ただ覚ゆ両腋(りょうえき)習々清風の生ずるを。蓬莱山(ほうらいさん)はいずくにかある 玉川子(ぎょくせんし)この清風に乗じて帰りなんと欲す。
茶経の残りの章は、普通の喫茶法の俗悪なこと、有名な茶人の簡単な実録、有名な茶園、あらゆる変わった茶器、および茶道具のさし絵が書いてある。最後の章は不幸にも欠けている。
茶経が世に出て、当時かなりの評判になったに違いない。陸羽は代宗(だいそう)(763-779)の援(たす)くるところとなり、彼の名声はあがって多くの門弟が集まって来た。通人の中には、陸羽のたてた茶と、その弟子(でし)のたてた茶を飲み分けることができる者もいたということである。ある官人はこの名人のたてた茶の味がわからなかったために、その名を不朽に伝えている。
宋代(そうだい)には抹茶(ひきちゃ)が流行するようになって茶の第二の流派を生じた。茶の葉は小さな臼(うす)で挽(ひ)いて細粉とし、その調製品を湯に入れて割り竹製の精巧な小箒(こぼうき)でまぜるのであった。この新しい方法が起こったために、陸羽が茶の葉の選択法はもちろん、茶のたて方にも多少の変化を起こすに至って、塩は永久にすてられた。宋人の茶に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。食道楽の人は互いに競うて新しい変わった方法を発見しようとした、そしてその優劣を決するために定時の競技が行なわれた。徽宗(きそう)皇帝(1101-1124)はあまりに偉い芸術家であって行ないよろしきにかなった王とはいえないが、茶の珍種を得んためにその財宝を惜しげもなく費やした。王みずから茶の24種についての論を書いて、そのうち、「白茶」を最も珍しい良質のものであるといって重んじている。
宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫(えいごう)はこれただ瞬時--涅槃(ねはん)はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解(じしょうりょうげ)の一つの方法となって来た。王元之(おうげんし)は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快(そうかい)な苦味は善言の余馨(よけい)を思わせると言った。蘇東坡(そとうば)は茶の清浄無垢(むく)な力について、真に有徳の君子のごとく汚(けが)すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が苦心丹精(たんせい)の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨(ぼだいだるま)の像の前に集まって、ただ一個の碗(わん)から聖餐(せいさん)のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して15世紀における日本の茶の湯となった。
不幸にして13世紀蒙古(もうこ)種族の突如として起こるにあい、元朝(げんちょう)の暴政によってシナはついに劫掠(こうりゃく)征服せられ、宋代(そうだい)文化の所産はことごとく破壊せらるるに至った。17世紀の中葉に国家再興を企ててシナ本国から起こった明朝(みんちょう)は内紛のために悩まされ、次いで18世紀、シナはふたたび北狄(ほくてき)満州人の支配するところとなった。風俗習慣は変じて昔日の面影もなくなった。粉茶は全く忘れられている。明の一訓詁学者(くんこがくしゃ)は宋代典籍の一にあげてある茶筅(ちゃせん)の形状を思い起こすに苦しんでいる。現今の茶は葉を碗(わん)に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。
後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服しまたはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋(とうそう)時代の茶の湯のロマンスは彼の茶碗(わん)には見ることができない。
日本はシナ文化の先蹤(せんしょう)を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも729年聖武(しょうむ)天皇奈良(なら)の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。801年には僧最澄(さいちょう)茶の種を携え帰って叡山(えいざん)にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族僧侶(そうりょ)の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は1191年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西(えいさい)禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所京都に近い宇治(うじ)は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播(でんぱ)し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。15世紀のころには将軍足利義政(あしかがよしまさ)の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来(じらい)茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶(せんちゃ)は、17世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
日本の茶の湯においてこそ始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。1281年蒙古(もうこ)襲来に当たってわが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動をわれわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった、今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞(せきばく)たる人世の荒野における沃地(よくち)であった。疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇(かわき)をいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉(かき)、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう--こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことには、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。
第3章 道教と禅道

茶と禅との関係は世間周知のことである。茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟関尹(かんいん)に始まり、函谷関(かんこくかん)で「老哲人」にまず一碗(わん)の金色の仙薬(せんやく)をささげたと書いてある。道教の徒がつとにこの飲料を用いたことを確証するようないろいろな話の真偽をゆっくりと詮議(せんぎ)するのも価値あることではあるが、それはさておきここでいう道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現われている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。
遺憾ながら、道教徒と禅の教義とに関して、外国語で充分に表わされているものは今のところ少しもないように思われる。立派な試みはいくつかあったが。
翻訳は常に叛逆(はんぎゃく)であって、明朝(みんちょう)の一作家の言のごとく、よくいったところでただ錦(にしき)の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸は皆あるが色彩、意匠の精妙は見られない。が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。古(いにしえ)の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた、というのは半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく終わりに聞く者をして賢ならしめた。老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。「道」は文字どおりの意味は「径路」である。それは the Way(行路)、the Absolute(絶対)、the Law(法則)、Nature(自然)、Supreme Reason(至理)、the Mode(方式)、等いろいろに訳されている。こういう訳も誤りではない。というのは道教徒のこの言葉の用法は、問題にしている話題いかんによって異なっているから。老子みずからこれについて次のように言っている。
物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず。周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾(われ)その名を知らず。これを字(あざな)して道という。強(し)いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。
「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。「道」は道教徒の愛する象徴竜(りゅう)のごとくにすでに反(かえ)り、雲のごとく巻ききたっては解け去る。「道」は大推移とも言うことができよう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。
まず第一に記憶すべきは、道教はその正統の継承者禅道と同じく、南方シナ精神の個人的傾向を表わしていて、儒教という姿で現われている北方シナの社会的思想とは対比的に相違があるということである。中国はその広漠(こうばく)たることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江(ようすこう)と黄河(こうが)はそれぞれ地中海とバルト海である。幾世紀の統一を経た今日でも南方シナはその思想、信仰が北方の同胞と異なること、ラテン民族がチュートン民族とこれを異にすると同様である。古代交通が今日よりもなおいっそう困難であった時代、特に封建時代においては思想上のこの差異はことに著しいものであった。一方の美術、詩歌の表わす気分は他方のものと全く異なったものである。老子とその徒および揚子江畔自然詩人の先駆者屈原(くつげん)の思想は、同時代北方作家の無趣味な道徳思想とは全く相容(あいい)れない一種の理想主義である。老子は西暦紀元前4世紀の人である。
道教思想の萌芽(ほうが)は老(ろうたん)出現の遠い以前に見られる。シナ古代の記録、特に易経(えききょう)は老子の思想の先駆をなしている。しかし紀元前12世紀、周朝(しゅうちょう)の確立とともに古代シナ文化は隆盛その極に達し、法律慣習が大いに重んぜられたために、個人的思想の発達は長い間阻止せられていた。周崩解して無数の独立国起こるにおよび、始めて自由思想がはなやかに咲き誇ることができた。老子荘子(そうじ)は共に南方人で新派の大主唱者であった。一方孔子はその多くの門弟とともに古来の伝統を保守せんと志したものである。道教を解せんとするには多少儒教の心得がいる。この逆も同じである。
道教でいう絶対は相対であることは、すでに述べたところであるが、倫理学においては道教徒は社会の法律道徳を罵倒(ばとう)した。というのは彼らにとっては正邪善悪は単なる相対的の言葉であったから。定義は常に制限である。「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない。屈原(くつげん)いわく「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行なう。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。世の中そのものがばかばかしいのにだれがよくまじめでいられよう!といい、物々交換の精神は至るところに現われている。義だ!貞節だ!などというが、真善の小売りをして悦(えつ)に入っている販売人を見よ。人はいわゆる宗教さえもあがなうことができる。それは実のところたかの知れた倫理学を花や音楽で清めたもの。教会からその付属物を取り去ってみよ、あとに何が残るか。しかしトラストは不思議なほど繁盛する、値段が途方もなく安いから--天国へ行く切符代の御祈祷(ごきとう)も、立派な公民の免許状も。めいめい速く能を隠すがよい。もしほんとうに重宝だと世間へ知れたならば、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落とされよう。男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。
道教思想の雄渾(ゆうこん)なところは、その後続いて起こった種々の運動を支配したその力にも見られるが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けたその力に存している。秦朝(しんちょう)、といえばシナという名もこれに由来しているかの統一時代であるが、その朝を通じて道教は一活動力であった。もし時の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学家、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家および後の江畔自然詩人らに及ぼした影響を注意して見るのも興味あることであろう。また白馬は白く、あるいは堅きがゆえにその実在いかんを疑った実在論者や、禅門のごとく清浄、絶対について談論した六朝(りくちょう)の清談家も無視することはできぬ。なかんずく、道教がシナ国民性の形成に寄与したところ、「温なること玉のごとし」という慎み、上品の力を与えた点に対して敬意を表すべきである。シナ歴史は、熱心な道教信者が王侯も隠者も等しく彼らの信条の教えに従って、いろいろな興味深い結果をもたらした実例に満ち満ちている。その物語には必ずその持ち前の楽しみもあり教訓もあろう。逸話、寓言(ぐうげん)、警句も豊かにあろう。生きていたことがないから死んだこともないあの愉快な皇帝と、求めても言葉をかわすくらいの間がらになりたいものである。列子とともに風に御(ぎょ)して寂静無為(じゃくじょうむい)を味わうこともできよう、われらみずから風であり、天にも属せず地にも属せず、その中間に住した河上の老人とともに中空にいるものであるから。現今のシナに見る、かの奇怪な、名ばかりの道教においてさえも、他の何道にも見ることのできないたくさんの比喩(ひゆ)を楽しむことができるのである。
しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を--われら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの分かれるところである。「現在」は移動する「無窮」である。「相対性」の合法な活動範囲である。「相対性」は「安排」を求める。「安排」は「術」である。人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂(う)き世の中にも美を見いだそうと努めている。宋代(そうだい)のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈迦牟尼(しゃかむに)、孔子、老子が人生の象徴酢瓶(すがめ)の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸(す)いと知り、仏陀(ぶっだ)はそれを苦(にが)いと呼び、老子はそれを甘いと言った。
道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣(ひけつ)である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩(いんゆ)で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
道教徒のこういう考え方は、剣道相撲(すもう)の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。
生の術をきわめた人は、道教徒の言うところの「士」であった。士は生まれると夢の国に入る、ただ死に当たって現実にめざめようとするように。おのが身を世に知れず隠さんために、みずからの聡明(そうめい)の光を和らげ、「予(よ)として冬、川を渉(わた)るがごとく、猶(ゆう)として四隣をおそるるがごとく、儼(げん)としてそれ客のごとく、渙(かん)として冰(こおり)のまさに釈(と)けんとするがごとく、敦(とん)としてそれ樸(ぼく)のごとく、曠(こう)としてそれ谷のごとく、渾(こん)としてそれ濁るがごとし。」士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず。」ということであった。
さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語(ぼんご)の禅那(ぜんな)(Dhyana)から出た名であってその意味は静慮(じょうりょ)である。精進(しょうじん)静慮することによって、自性了解(じしょうりょうげ)の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密(ろっぱらみつ)の一つであって、釈迦牟尼(しゃかむに)はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉(かしょう)に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀(あなんだ)に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えてついに第28祖菩提達磨(ぼだいだるま)に至った。菩提達磨は6世紀の前半に北シナに渡ってシナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。禅を哲学的に見れば昔の禅学は一方において那伽閼剌樹那(ながあらじゅな)のインド否定論に似ており、また他方においては商羯羅阿闍梨(しゃんからあじゃり)の組み立てた無明(むみょう)観に似たところがあるように思われる。今日われらの知っているとおりの禅の教理は南方禅(南方シナに勢力があったことからそういわれる)の開山シナの第六祖慧能(えのう)(637-713)が始めて説いたに違いない。慧能の後、ほどなく馬祖(ばそ)大師(788滅)これを継いで禅を中国人の生活における一活動勢力に作りあげた。馬祖の弟子(でし)百丈(ひゃくじょう)(719-814)は禅宗叢林(そうりん)を開創し、禅林清規(ぜんりんしんぎ)を制定した。馬祖の時代以後の禅宗の問答を見ると、揚子江岸(ようすこうがん)精神の影響をこうむって、昔のインド理想主義とはきわ立って違ったシナ固有の考え方を増していることがわかる。いかほど宗派的精神の誇りが強くて、そうではないといったところで、南方禅が老子や清談家の教えに似ていることを感じないわけにはいかない。道徳経の中にすでに精神集中の重要なことや気息を適当に調節することを述べている--これは禅定に入るに必要欠くべからざる要件である。道徳経の良注釈の或(あ)るものは禅学者によって書かれたものである。
禅道は道教と同じく相対を崇拝するものである。ある禅師は禅を定義して南天に北極星を識(し)るの術といっている。真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。さらに禅道は道教と同じく個性主義を強く唱道した。われらみずからの精神の働きに関係しないものはいっさい実在ではない。六祖慧能(えのう)かつて二僧が風に翻る塔上の幡(ばん)を見て対論するのを見た。「一はいわく幡動くと。一はいわく風動くと。」しかし、慧能は彼らに説明して言った、これ風の動くにあらずまた幡(ばん)の動くにもあらずただ彼らみずからの心中のある物の動くなりと。百丈が一人の弟子と森の中を歩いていると一匹の兎(うさぎ)が彼らの近寄ったのを知って疾走し去った。「なぜ兎はおまえから逃げ去ったのか。」と百丈が尋ねると、「私を恐れてでしょう。」と答えた。祖師は言った、「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。この対話は道教の徒荘子の話を思い起させる。ある日荘子友と濠梁(ごうりょう)のほとりに遊んだ。荘子いわく「魚(じょうぎょ)いで遊びて従容(しょうよう)たり。これ魚の楽しむなり。」と。その友彼に答えていわく「子(し)は魚にあらず。いずくんぞ魚の楽しきを知らん。」と。「子は我れにあらず、いずくんぞわが魚の楽しきを知らざるを知らん。」と荘子は答えた。
禅は正統の仏道の教えとしばしば相反した、ちょうど道教が儒教と相反したように。禅門の徒の先験的洞察(どうさつ)に対しては言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。この絶対を愛する精神こそは禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばしめるに至ったのである。禅学徒の中には、偶像や象徴によらないでおのれの中に仏陀(ぶっだ)を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になったものさえある。丹霞和尚(たんかおしょう)は大寒の日に木仏を取ってこれを焚(た)いたという話がある。かたわらにいた人は非常に恐れて言った、「なんとまあもったいない!」と。和尚は落ち着き払って答えた、「わしは仏様を焼いて、お前さんたちのありがたがっているお舎利(しゃり)を取るのだ。」「木仏の頭からお舎利が出てたまるものですか。」とつっけんどんな受け答えに、丹霞和尚がこたえて言った、「もし、お舎利の出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか。」そう言って振り向いてたき火にからだをあたためた。
禅の東洋思想に対する特殊な寄与は、この現世の事をも後生(ごしょう)のことと同じように重く認めたことである。禅の主張によれば、事物の大相対性から見れば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極致を求めんとする者はおのれみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。禅林の組織はこういう見地から非常に意味深いものであった。祖師を除いて禅僧はことごとく禅林の世話に関する何か特別の仕事を課せられた。そして妙なことには新参者には比較的軽い務めを与えられたが、非常に立派な修行を積んだ僧には比較的うるさい下賤(げせん)な仕事が課せられた。こういう勤めが禅修行の一部をなしたものであって、いかなる些細(ささい)な行動も絶対完全に行なわなければならないのであった。こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪菁(かぶら)を切りながらでも、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議が次から次へと行なわれた。茶道いっさいの理想は、人生の些事(さじ)の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的なものとした。
第4章 茶室

石造や煉瓦(れんが)造り建築の伝統によって育てられた欧州建築家の目には、木材や竹を用いるわが日本式建築法は建築としての部類に入れる価値はほとんどないように思われる。ある相当立派な西洋建築の研究家がわが国の大社寺の実に完備していることを認め、これを称揚したのは全くほんの最近のことである。わが国で一流の建築についてこういう事情であるから、西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである。
茶室(数寄屋(すきや))は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋(ぼうおく)に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従っていろいろな漢字を置き換えた、そして数寄屋という語は「空(す)き家」または「数奇家」の意味にもなる。それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「空(す)き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。茶道の理想は16世紀以来わが建築術に非常な影響を及ぼしたので、今日、日本の普通の家屋の内部はその装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。
始めて独立した茶室を建てたのは千宗易(せんのそうえき)、すなわち後に利休(りきゅう)という名で普通に知られている大宗匠で、彼は16世紀太閤秀吉(たいこうひでよし)の愛顧をこうむり、茶の湯の儀式を定めてこれを完成の域に達せしめた。茶室の広さはその以前に15世紀の有名な宗匠紹鴎(じょうおう)によって定められていた。初期の茶室はただ普通の客間の一部分を茶の会のために屏風(びょうぶ)で仕切ったものであった。その仕切った部分は「かこい」と呼ばれた。その名は、家の中に作られていて独立した建物ではない茶室へ今もなお用いられている。数寄屋は、「グレイスの神よりは多く、ミューズの神よりは少ない。」という句を思い出させるような5人しかはいれないしくみの茶室本部と、茶器を持ち込む前に洗ってそろえておく控えの間(水屋(みずや))と、客が茶室へはいれと呼ばれるまで待っている玄関(待合(まちあい))と、待合と茶室を連絡している庭の小道(露地(ろじ))とから成っている。茶室は見たところなんの印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。それにその建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。しかしこれはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。よい茶室は普通の邸宅以上に費用がかかる、というのはその細工はもちろんその材料の選択に多大の注意と綿密を要するから。実際茶人に用いられる大工は、職人の中でも特殊な、非常に立派な部類を成している。彼らの仕事は漆器家具匠の仕事にも劣らぬ精巧なものであるから。
茶室はただに西洋のいずれの建築物とも異なるのみならず、日本そのものの古代建築とも著しい対照をなしている。わが国古代の立派な建築物は宗教に関係あるものもないものも、その大きさだけから言っても侮りがたいものであった。数世紀の間不幸な火災を免れて来たわずかの建築物は、今なおその装飾の壮大華麗によって、人に畏敬(いけい)の念をおこさせる力がある。直径2尺から3尺、高さ30尺から40尺の巨柱は、複雑な腕木(うでぎ)の網状細工によって、斜めの瓦屋根(かわらやね)の重みにうなっている巨大な梁(はり)をささえていた。建築の材料や方法は、火に対しては弱いけれども地震には強いということがわかった。そしてわが国の気候によく適していた。法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂(こんどう)や薬師寺(やくしじ)の塔は木造建築の耐久性を示す注目すべき実例である。これらの建物は12世紀の間事実上そのまま保全せられていた。古い宮殿や寺の内部は惜しげもなく装飾を施されていた。10世紀にできた宇治(うじ)の鳳凰堂(ほうおうどう)には今もなお昔の壁画彫刻の遺物はもとより、丹精(たんせい)をこらした天蓋(てんがい)、金を蒔(ま)き鏡や真珠をちりばめた廟蓋(びょうがい)を見ることができる。後になって、日光や京都二条の城においては、アラビア式またはムーア式華麗をつくした力作にも等しいような色彩の美や精巧をきわめたたくさんの装飾のために、建築構造の美が犠牲にせられているのを見る。
茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なってただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所(おうしょ)、仏壇の後ろに禅宗の開祖菩提達磨(ぼだいだるま)の像か、または祖師迦葉(かしょう)と阿難陀(あなんだ)をしたがえた釈迦牟尼(しゃかむに)の像があるのを除いてはなんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華(こうげ)がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗(わん)から次々に茶を喫(の)むという禅僧たちの始めた儀式であったということはすでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは禅院の仏壇は、床の間--絵や花を置いて客を教化する日本間の上座--の原型であったということである。
わが国の偉い茶人は皆禅を修めた人であった。そして禅の精神を現実生活の中へ入れようと企てた。こういうわけで茶室は茶の湯の他の設備と同様に禅の教義を多く反映している。正統の茶室の広さは四畳半で維摩(ゆいま)の経文(きょうもん)の一節によって定められている。その興味ある著作において、馥柯羅摩訶秩多(びからまかちった)は文珠師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)と八万四千の仏陀(ぶっだ)の弟子(でし)をこの狭い室に迎えている。これすなわち真に覚(さと)った者には一切皆空(いっさいかいくう)という理論に基づくたとえ話である。さらに待合から茶室に通ずる露地は黙想の第一階段、すなわち自己照明に達する通路を意味していた。露地は外界との関係を断って、茶室そのものにおいて美的趣味を充分に味わう助けとなるように、新しい感情を起こすためのものであった。この庭径を踏んだことのある人は、常緑樹の薄明に、下には松葉の散りしくところを、調和ある不ぞろいな庭石の上を渡って、苔(こけ)むした石燈籠(いしどうろう)のかたわらを過ぎる時、わが心のいかに高められたかを必ず思い出すであろう。たとえ都市のまん中にいてもなお、あたかも文明の雑踏や塵(ちり)を離れた森の中にいるような感がする。こういう静寂純潔の効果を生ぜしめた茶人の巧みは実に偉いものであった。露地を通り過ぎる時に起こすべき感情の性質は茶人によっていろいろ違っていた。利休のような人たちは全くの静寂を目的とし、露地を作るの奥意は次の古歌の中にこもっていると主張した。
見渡せば花ももみじもなかりけり
    浦のとまやの秋の夕暮れ
その他小堀遠州(こぼりえんしゅう)のような人々はまた別の効果を求めた。遠州は庭径の着想は次の句の中にあると言った。
夕月夜(ゆうづくよ)海すこしある木(こ)の間(ま)かな
彼の意味を推測するのは難くない。彼は、影のような過去の夢の中になおさまよいながらも、やわらかい霊光の無我の境地に浸って、渺茫(びょうぼう)たるかなたに横たわる自由をあこがれる新たに目ざめた心境をおこそうと思った。
こういう心持ちで客は黙々としてその聖堂に近づいて行く。そしてもし武士ならばその剣を軒下の刀架(とうか)にかけておく、茶室は至極平和の家であるから。それから客は低くかがんで、高さ3尺ぐらいの狭い入り口〔にじり口〕からにじってはいる。この動作は、身貴(たっと)きも卑しきも同様にすべての客に負わされる義務であって、人に謙譲を教え込むためのものであった。席次は待合で休んでいる間に定まっているので、客は一人ずつ静かにはいってその席につき、まず床の間の絵または生花に敬意を表する。主人は、客が皆着席して部屋(へや)が静まりきり、茶釜(ちゃがま)にたぎる湯の音を除いては、何一つ静けさを破るものもないようになって、始めてはいってくる。茶釜は美しい音をたてて鳴る。特殊のメロディーを出すように茶釜の底に鉄片が並べてあるから。これを聞けば、雲に包まれた滝の響きか岩に砕くる遠海の音か竹林を払う雨風か、それともどこか遠き丘の上の松籟(しょうらい)かとも思われる。
日中でも室内の光線は和らげられている。傾斜した屋根のある低いひさしは日光を少ししか入れないから。天井から床に至るまですべての物が落ち着いた色合いである。客みずからも注意して目立たぬ着物を選んでいる。古めかしい和らかさがすべての物に行き渡っている。ただ清浄無垢(むく)な白い新しい茶筅(ちゃせん)と麻ふきんが著しい対比をなしているのを除いては、新しく得られたらしい物はすべて厳禁せられている。茶室や茶道具がいかに色あせて見えてもすべての物が全く清潔である。部屋(へや)の最も暗いすみにさえ塵(ちり)一本も見られない。もしあるようならばその主人は茶人とはいわれないのである。茶人に第一必要な条件の一は掃き、ふき清め、洗うことに関する知識である、払い清めるには術を要するから。金属細工はオランダの主婦のように無遠慮にやっきとなってはたいてはならない。花瓶(かびん)からしたたる水はぬぐい去るを要しない、それは露を連想させ、涼味を覚えさせるから。
これに関連して、茶人たちのいだいていた清潔という考えをよく説明している利休についての話がある。利休はその子紹安(じょうあん)が露地を掃除(そうじ)し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら1時間もかかってからむすこは父に向かって言った、「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石燈籠(いしどうろう)や庭木にはよく水をまき蘚苔(こけ)は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹を揺すって、庭一面に秋の錦(にしき)を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。
「好き家」という名はある個人の芸術的要求にかなうように作られた建物という意味を含んでいる。茶室は茶人のために作ったものであって茶人は茶室のためのものではない。それは子孫のために作ったのではないから暫定的である。人は各自独立の家を持つべきであるという考えは日本民族古来の習慣に基づいたもので、神道の迷信的習慣の定めによれば、いずれの家もその家長が死ぬと引き払うことになっている。この習慣はたぶんあるわからない衛生上の理由もあってのことかもしれない。また別に昔の習慣として新婚の夫婦には新築の家を与えるということもあった。こういう習慣のために古代の皇居は非常にしばしば次から次へとうつされた。伊勢(いせ)の大廟(たいびょう)を20年ごとに再築するのは古(いにしえ)の儀式の今日なお行なわれている一例である。こういう習慣を守るのは組み立て取りこわしの容易なわが国の木造建築のようなある建築様式においてのみ可能であった。煉瓦(れんが)石材を用いるやや永続的な様式は移動できないようにしたであろう、奈良朝(ならちょう)以後シナの鞏固(きょうこ)な重々しい木造建築を採用するに及んで実際移動不可能になったように。
しかしながら15世紀禅の個性主義が勢力を得るにつれて、その古い考えは茶室に連関して考えられ、これにある深い意味がしみこんで来た。禅は仏教の有為転変(ういてんぺん)の説と精神が物質を支配すべきであるというその要求によって家をば身を入れるただ仮りの宿と認めた。その身とてもただ荒野にたてた仮りの小屋、あたりにはえた草を結んだか弱い雨露しのぎ--この草の結びが解ける時はまたもとの野原に立ちかえる。茶室において草ぶきの屋根、細い柱の弱々しさ、竹のささえの軽(かろ)やかさ、さてはありふれた材料を用いて一見いかにも無頓着(むとんじゃく)らしいところにも世の無常が感ぜられる。常住は、ただこの単純な四囲の事物の中に宿されていて風流の微光で物を美化する精神に存している。
茶室はある個人的趣味に適するように建てらるべきだということは、芸術における最も重要な原理を実行することである。芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。伝統や型式に屈従することは、建築に個性の表われるのを妨げるものである。現在日本に見るような洋式建築の無分別な模倣を見てはただ涙を注ぐほかはない。われわれは不思議に思う、最も進歩的な西洋諸国の間に何ゆえに建築がかくも斬新(ざんしん)を欠いているのか、かくも古くさい様式の反復に満ちているのかと。たぶん今芸術の民本主義の時代を経過しつつ、一方にある君主らしい支配者が出現して新たな王朝をおこすのを待っているのであろう。願わくは古人を憬慕(けいぼ)することはいっそうせつに、かれらに模倣することはますます少なからんことを!ギリシャ国民の偉大であったのは決して古物に求めなかったからであると伝えられている。
「空(す)き家」という言葉は道教の万物包涵(ほうかん)の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。茶室はただ暫時美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。何か特殊な美術品を臨時に持ち込む、そしてその他の物はすべて主調の美しさを増すように選択配合せられるのである。人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。かくのごとくわが茶室の装飾法は、現今西洋に行なわれている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品(こっとうひん)のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌(こんとん)たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。
「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良(なら)時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表わすものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜(かま)を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。黒釉薬(くろうわぐすり)の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。香炉や花瓶(かびん)を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬよう注意せねばならぬ。少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。
この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。お祝いの饗宴(きょうえん)に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物(くだもの)の丹精(たんせい)こめた彫刻をおくのであるか。何ゆえに家伝の金銀食器を取り出して、かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。
茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。16世紀日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士(もののふ)にとって茶室はありがたい休養所となった。17世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。偉大なる芸術品の前には大名も武士も平民も差別はなかった。今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。
第5章 芸術鑑賞

諸君は「琴ならし」という道教徒の物語を聞いたことがありますか。
大昔、竜門(りゅうもん)の峡谷(きょうこく)に、これぞ真の森の王と思われる古桐(ふるぎり)があった。頭はもたげて星と語り、根は深く地中におろして、その青銅色のとぐろ巻きは、地下に眠る銀竜(ぎんりゅう)のそれとからまっていた。ところが、ある偉大な妖術者(ようじゅつしゃ)がこの木を切って不思議な琴をこしらえた。そしてその頑固(がんこ)な精を和らげるには、ただ楽聖の手にまつよりほかはなかった。長い間その楽器は皇帝に秘蔵せられていたが、その弦から妙(たえ)なる音(ね)をひき出そうと名手がかわるがわる努力してもそのかいは全くなかった。彼らのあらん限りの努力に答えるものはただ軽侮の音、彼らのよろこんで歌おうとする歌とは不調和な琴の音ばかりであった。
ついに伯牙(はくが)という琴の名手が現われた。御(ぎょ)しがたい馬をしずめようとする人のごとく、彼はやさしく琴を撫(ぶ)し、静かに弦をたたいた。自然と四季を歌い、高山を歌い、流水を歌えば、その古桐の追憶はすべて呼び起こされた。再び和らかい春風はその枝の間に戯れた。峡谷(きょうこく)をおどりながら下ってゆく若い奔流は、つぼみの花に向かって笑った。たちまち聞こえるのは夢のごとき、数知れぬ夏の虫の声、雨のばらばらと和らかに落ちる音、悲しげな郭公(かっこう)の声。聞け!虎(とら)うそぶいて、谷これにこたえている。秋の曲を奏すれば、物さびしき夜に、剣(つるぎ)のごとき鋭い月は、霜のおく草葉に輝いている。冬の曲となれば、雪空に白鳥の群れ渦巻(うずま)き、霰(あられ)はぱらぱらと、嬉々(きき)として枝を打つ。
次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。空にはつんとした乙女(おとめ)のような冴(さ)えた美しい雲が飛んだ。しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟(けんげき)の響きや駒(こま)の蹄(ひづめ)の音を歌った。すると、琴中に竜門(りゅうもん)の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々(ごうごう)たる雪崩(なだれ)は山々に鳴り渡った。帝王は狂喜して、伯牙に彼の成功の秘訣(ひけつ)の存するところを尋ねた。彼は答えて言った、「陛下、他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわかりませんでした。」と。
この物語は芸術鑑賞の極意(ごくい)をよく説明している。傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。長く忘れていた追憶はすべて新しい意味をもってかえって来る。恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬(どうけい)が、栄(は)えばえと現われて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。
美術鑑賞に必要な同情ある心の交通は、互譲の精神によらなければならない。美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧者は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない。宗匠小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、みずから大名でありながら、次のような忘れがたい言葉を残している。「偉大な絵画に接するには、王侯に接するごとくせよ。」傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。宋(そう)のある有名な批評家が、非常におもしろい自白をしている。「若いころには、おのが好む絵を描く名人を称揚したが、鑑識力の熟するに従って、おのが好みに適するように、名人たちが選んだ絵を好むおのれを称した。」現今、名人の気分を骨を折って研究する者が実に少ないのは、誠に歎かわしいことである。われわれは、手のつけようのない無知のために、この造作(ぞうさ)のない礼儀を尽くすことをいとう。こうして、眼前に広げられた美の饗応(きょうおう)にもあずからないことがしばしばある。名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている。
同情ある人に対しては、傑作が生きた実在となり、僚友関係のよしみでこれに引きつけられるここちがする。名人は不朽である。というのは、その愛もその憂(うれ)いも、幾度も繰り返してわれわれの心に生き残って行くから。われわれの心に訴えるものは、伎倆(ぎりょう)というよりは精神であり、技術というよりも人物である。呼び声が人間味のあるものであれば、それだけにわれわれの応答は衷心から出て来る。名人とわれわれの間に、この内密の黙契があればこそ詩や小説を読んで、その主人公とともに苦しみ共に喜ぶのである。わが国の沙翁(しゃおう)近松(ちかまつ)は劇作の第一原則の一つとして、見る人に作者の秘密を打ち明かす事が重要であると定めた。弟子(でし)たちの中には幾人も、脚本をさし出して彼の称賛を得ようとした者があったが、その中で彼がおもしろいと思ったのはただ一つであった。それは、ふたごの兄弟が、人違いのために苦しむという「まちがいつづき」に多少似ている脚本であった。近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて行く舞台の上の人々を哀れむ。」と。
大家は、東西両洋ともに、見る人を腹心の友とする手段として、暗示の価値を決して忘れなかった。傑作をうちながめる人たれか心に浮かぶ綿々たる無限の思いに、畏敬(いけい)の念をおこさない者があろう。傑作はすべて、いかにも親しみあり、肝胆相照らしているではないか。これにひきかえ、現代の平凡な作品はいかにも冷ややかなものではないか。前者においては、作者の心のあたたかい流露を感じ、後者においては、ただ形式的の会釈を感ずるのみである。現代人は、技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。竜門(りゅうもん)の琴を、なんのかいもなくかき鳴らそうとした楽人のごとく、ただおのれを歌うのみであるから、その作品は、科学には近かろうけれども、人情を離れること遠いのである。日本の古い俚諺(りげん)に「見えはる男には惚(ほ)れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。
芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。その会するやたちまちにして芸術愛好者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は永劫(えいごう)を瞥見(べっけん)するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表わすことはできない。彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。昔日本人が大芸術家の作品を崇敬したことは非常なものであった。茶人たちはその秘蔵の作品を守るに、宗教的秘密をもってしたから、御神龕(ごしんかん)(絹地の包みで、その中へやわらかに包んで奥の院が納めてある)まで達するには、幾重にもある箱をすっかり開かねばならないことがしばしばあった。その作品が人目にふれることはきわめてまれで、しかも奥義を授かった人にのみ限られていた。
茶道の盛んであった時代においては、太閤(たいこう)の諸将は戦勝の褒美(ほうび)として、広大な領地を賜わるよりも、珍しい美術品を贈られることを、いっそう満足に思ったものであった。わが国で人気ある劇の中には、有名な傑作の喪失回復に基づいて書いたものが多い。たとえば、ある劇にこういう話がある。細川侯(ほそかわこう)の御殿には雪村(せっそん)の描いた有名な達磨(だるま)があったが、その御殿が、守りの侍の怠慢から火災にかかった。侍は万事を賭(と)して、この宝を救い出そうと決心して、燃える御殿に飛び入って、例の掛け物をつかんだ、が、見ればはや、火炎にさえぎられて、のがれる道はなかったのである。彼は、ただその絵のことのみを心にかけて、剣をもっておのが肉を切り開き、裂いた袖(そで)に雪村を包んで、大きく開いた傷口にこれを突っ込んだ。火事はついにしずまった。煙る余燼(よじん)の中に、半焼の死骸(しがい)があった。その中に、火の災いをこうむらないで、例の宝物は納まっていた。実に身の毛もよだつ物語であるが、これによって、信頼を受けた侍の忠節はもちろんのこと、わが国人がいかに傑作品を重んじるかということが説明される。
しかしながら、美術の価値はただそれがわれわれに語る程度によるものであることを忘れてはならない。その言葉は、もしわれわれの同情が普遍的であったならば、普遍的なものであるかもしれない。が、われわれの限定せられた性質、代々相伝の本性はもちろんのこと、慣例、因襲の力は美術鑑賞力の範囲を制限するものである。われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設けるものである。そして、われらの審美的個性は、過去の創作品の中に自己の類縁を求める。もっとも、修養によって美術鑑賞力は増大するものであって、われわれはこれまでは認められなかった多くの美の表現を味わうことができるようになるものである。が、畢竟(ひっきょう)するところ、われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。すなわちわれら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。茶人たちは全く各人個々の鑑賞力の及ぶ範囲内の物のみを収集した。
これに連関して小堀遠州に関する話を思い出す。遠州はかつてその門人たちから、彼が収集する物の好みに現われている立派な趣味を、お世辞を言ってほめられた。「どのお品も、実に立派なもので、人皆嘆賞おくあたわざるところであります。これによって先生は、利休にもまさる趣味をお持ちになっていることがわかります。というのは、利休の集めた物は、ただ千人に一人しか真にわかるものがいなかったのでありますから。」と。遠州は歎じて、「これはただいかにも自分が凡俗であることを証するのみである。偉い利休は、自分だけにおもしろいと思われる物をのみ愛好する勇気があったのだ。しかるに私は、知らず知らず一般の人の趣味にこびている。実際、利休は千人に一人の宗匠であった。」と答えた。
実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着(むとんじゃく)に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利(あしかが)時代の傑作よりも美術鑑賞の糧(かて)としてもっと消化しやすいであろう。彼らにとっては、作品の良否よりも美術家の名が重要である。数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する。今日いずれの方面を見ても、擬古典的嫌悪(けんお)を感ずるのは、すなわちこの真の鑑賞力の欠けているためである。
なお一つ一般に誤っていることは、美術と考古学の混同である。古物から生ずる崇敬の念は、人間の性質の中で最もよい特性であって、いっそうこれを涵養(かんよう)したいものである。古(いにしえ)の大家は、後世啓発の道を開いたことに対して、当然尊敬をうくべきである。彼らは幾世紀の批評を経て、無傷のままわれわれの時代に至り、今もなお光栄を荷(に)のうているというだけで、われわれは彼らに敬意を表している。が、もしわれわれが、彼らの偉業を単に年代の古きゆえをもって尊んだとしたならば、それは実に愚かなことである。しかもわれわれは、自己の歴史的同情心が、審美的眼識を無視するままに許している。美術家が無事に墳墓におさめられると、われわれは称賛の花を手向(たむ)けるのである。進化論の盛んであった19世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られた。収集家は一時期あるいは一派を説明する資料を得んことを切望して、ただ一個の傑作がよく、一定の時期あるいは一派のいかなる多数の凡俗な作にもまさって、われわれを教えるものであるということを忘れている。われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。
同時代美術の要求は、人生の重要な計画において、いかなるものにもこれを無視することはできない。今日の美術は真にわれわれに属するものである、それはわれわれみずからの反映である。これを罵倒(ばとう)する時は、ただ自己を罵倒するのである。今の世に美術無し、というが、これが責めを負うべき者はたれぞ。古人に対しては、熱狂的に嘆賞するにもかかわらず、自己の可能性にはほとんど注意しないことは恥ずべきことである。世に認められようとして苦しむ美術家たち、冷たき軽侮の影に逡巡(しゅんじゅん)している疲れた人々よ!などというが、この自己本位の世の中に、われわれは彼らに対してどれほどの鼓舞激励を与えているか。過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している。ねがわくは、ある大妖術者(だいようじゅつしゃ)が出現して、社会の幹から、天才の手に触れて始めて鳴り渡る弦をそなえた大琴を作らんことを祈る。
第6章 花

春の東雲(しののめ)のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を観賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿でなくて、どこに処女(おとめ)の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。百合(ゆり)の花をもって礼拝し、蓮(はす)の花をもって冥想(めいそう)に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。病める人の枕(まくら)べに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇(やみ)の世界に喜悦の光をもたらすものではないか。その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊(ていかい)するものは花である。
悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣(きんじゅう)の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼(おおかみ)はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は10で禽獣、20で発狂、30で失敗、40で山師、50で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩(ぼんのう)のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊(ほうかい)して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚(た)く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ!われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!
星の涙のしたたりのやさしい花よ、園に立って、日の光や露の玉をたたえて歌う蜜蜂(みつばち)に、会釈してうなずいている花よ、お前たちは、お前たちを待ち構えている恐ろしい運命を承知しているのか。夏のそよ風にあたって、そうしていられる間、いつまでも夢を見て、風に揺られて浮かれ気分で暮らすがよい。あすにも無慈悲な手が咽喉(のど)を取り巻くだろう。お前はよじ取られて手足を一つ一つ引きさかれ、お前の静かな家から連れて行ってしまわれるだろう。そのあさましの者はすてきな美人であるかもしれぬ。そして、お前の血でその女の指がまだ湿っている間は、「まあなんて美しい花だこと。」というかもしれぬ。だがね、これが親切なことだろうか。お前が、無情なやつだと承知している者の髪の中に閉じ込められたり、もしお前が人間であったらまともに見向いてくれそうにもない人のボタン穴にさされたりするのが、お前の宿命なのかもしれない。何か狭い器に監禁せられて、ただわずかのたまり水によって、命の衰え行くのを警告する狂わんばかりの渇(かわき)を止めているのもお前の運命なのかもしれぬ。
花よ、もし御門(みかど)の国にいるならば、鋏(はさみ)と小鋸(このこぎり)に身を固めた恐ろしい人にいつか会うかもしれぬ。その人はみずから「生花の宗匠」と称している。彼は医者の権利を要求する。だから、自然彼がきらいになるだろう。というのは、医者というものはその犠牲になった人のわずらいをいつも長びかせようとする者だからね。彼はお前たちを切ってかがめゆがめて、彼の勝手な考えでお前たちの取るべき姿勢をきめて、途方もない変な姿にするだろう。もみ療治をする者のようにお前たちの筋肉を曲げ、骨を違わせるだろう。出血を止めるために灼熱(しゃくねつ)した炭でお前たちを焦がしたり、循環を助けるためにからだの中へ針金をさし込むこともあろう。塩、酢、明礬(みょうばん)、時には硫酸を食事に与えることもあろう。お前たちは今にも気絶しそうな時に、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼の治療を受けない場合に比べると、2週間以上も長くお前たちの体内に生命を保たせておくことができるのを彼は誇りとしているだろう。お前たちは初めて捕えられた時、その場で殺されたほうがよくはなかったか。いったいお前は前世でどんな罪を犯したとて、現世でこんな罰を当然受けねばならないのか。
西洋の社会における花の浪費は東洋の宗匠の花の扱い方よりもさらに驚き入ったものである。舞踏室や宴会の席を飾るために日々切り取られ、翌日は投げ捨てられる花の数はなかなか莫大(ばくだい)なものに違いない。いっしょにつないだら一大陸を花輪で飾ることもできよう。このような、花の命を全く物とも思わぬことに比ぶれば、花の宗匠の罪は取るに足らないものである。彼は少なくとも自然の経済を重んじて、注意深い慮(おもんぱか)りをもってその犠牲者を選び、死後はその遺骸(いがい)に敬意を表する。西洋においては、花を飾るのは富を表わす一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土(ふんど)の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れなものはない。
どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥はその追い手から飛び去ることができる、人が上着にしたいとむさぼる毛皮のある獣は、人が近づけば隠れることができる。悲しいかな!翼ある唯一の花と知られているのは蝶(ちょう)であって、他の花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。われわれは、黙々としてわれらに仕えわれらを愛する人々に対して絶えず残忍であるが、これがために、これらの最もよき友からわれわれが見捨てられる時が来るかもしれない。諸君は、野生の花が年々少なくなってゆくのに気はつきませんか。それは彼らの中の賢人どもが、人がもっと人情のあるようになるまでこの世から去れと彼らに言ってきかせたのかもしれない。たぶん彼らは天へ移住してしまったのであろう。
草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。植木鉢(うえきばち)をいじる人は花鋏(はなばさみ)の人よりもはるかに人情がある。彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉(かき)栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好(しこう)とその愛好する花卉はしばしば物語や歌にしるされている。唐宋(とうそう)の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎(うさぎ)の毛で作ったやわらかい刷毛(はけ)でその葉を洗うのであった。牡丹(ぼたん)は、盛装した美しい侍女が水を与うべきもの、寒梅は青い顔をしてほっそりとした修道僧が水をやるべきものと書いた本がある。日本で、足利(あしかが)時代に作られた「鉢(はち)の木」という最も通俗な能の舞は、貧困な武士がある寒夜に炉に焚(た)く薪(まき)がないので、旅僧を歓待するために、だいじに育てた鉢の木を切るという話に基づいて書いたものである。その僧とは実はわが物語のハルンアルラシッドともいうべき北条時頼(ほうじょうときより)にほかならなかった。そしてその犠牲に対しては報酬なしではなかった。この舞は現今でも必ず東京の観客の涙を誘うものである。
か弱い花を保護するためには、非常な警戒をしたものであった。唐の玄宗(げんそう)皇帝は、鳥を近づけないために花園の樹枝に小さい金の鈴をかけておいた。春の日に宮廷の楽人を率いていで、美しい音楽で花を喜ばせたのも彼であった。わが国のアーサー王物語の主人公ともいうべき、義経(よしつね)の書いたものだという伝説のある、奇妙な高札が日本のある寺院(須磨寺(すまでら))に現存している。それはある不思議な梅の木を保護するために掲げられた掲示であって、尚武(しょうぶ)時代のすごいおかしみをもってわれらの心に訴える。梅花の美しさを述べた後「一枝を伐(き)らば一指を剪(き)るべし。」という文が書いてある。花をむやみに切り捨てたり、美術品をばだいなしにする者どもに対しては、今日においてもこういう法律が願わくは実施せられよかしと思う。
しかし鉢植(はちう)えの花の場合でさえ、人間の勝手気ままな事が感ぜられる気がする。何ゆえに花をそのふるさとから連れ出して、知らぬ他郷に咲かせようとするのであるか。それは小鳥を籠(かご)に閉じこめて、歌わせようとするのも同じではないか。蘭(らん)類が温室で、人工の熱によって息づまる思いをしながら、なつかしい南国の空を一目見たいとあてもなくあこがれているとだれが知っていよう。
花を理想的に愛する人は、破れた籬(まがき)の前に座して野菊と語った陶淵明(とうえんめい)や、たそがれに、西湖(せいこ)の梅花の間を逍遙(しょうよう)しながら、暗香浮動の趣に我れを忘れた林和靖(りんかせい)のごとく、花の生まれ故郷に花をたずねる人々である。周茂叔(しゅうもしゅく)は、彼の夢が蓮(はす)の花の夢と混ずるように、舟中に眠ったと伝えられている。この精神こそは奈良朝(ならちょう)で有名な光明皇后(こうみょうこうごう)のみ心(こころ)を動かしたものであって、「折りつればたぶさにけがるたてながら三世(みよ)の仏に花たてまつる。」とお詠(よ)みになった。
しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢(おご)る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁。」弘法大師(こうぼうだいし)いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。」われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵(ブラーマン)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。拝火教徒が火中に迎えたものは、「すべてを呑噬(どんぜい)するもの」の影であった。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂(つるぎだましい)の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩(ぼんのう)のきずなを断つ。われらの屍灰(しかい)の中から天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。
花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚(こうしょう)にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚(せいそ)」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。
わが茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的の尊敬をもって花を見る事に気がついたに違いない。彼らは一枝一条もみだりに切り取る事をしないで、おのが心に描く美的配合を目的に注意深く選択する。彼らは、もし絶対に必要の度を越えて万一切り取るようなことがあると、これを恥とした。これに関連して言ってもよろしいと思われる事は、彼らはいつも、多少でも葉があればこれを花に添えておくという事である。というのは、彼らの目的は花の生活の全美を表わすにあるから。この点については、その他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行なわれるものとは異なっている。かの国では、花梗(かこう)のみ、いわば胴のない頭だけが乱雑に花瓶(かびん)にさしこんであるのをよく見受ける。
茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置く。その効果を妨げるような物はいっさいその近くにはおかない。たとえば一幅の絵でも、その配合に何か特殊の審美的理由がなければならぬ。花はそこに王位についた皇子のようにすわっている、そして客やお弟子(でし)たちは、その室に入るやまずこれに丁寧なおじぎをしてから始めて主人に挨拶(あいさつ)をする。生花の傑作を写した絵が素人(しろうと)のために出版せられている。この事に関する文献はかなり大部なものである。花が色あせると宗匠はねんごろにそれを川に流し、または丁寧に地中に埋める。その霊を弔って墓碑を建てる事さえもある。
花道の生まれたのは15世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政(あしかがよしまさ)時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥(そうあみ)は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人珠光(しゅこう)はその門人であった。また絵画における狩野(かのう)家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元専能(せんのう)もこの人の門人であった。16世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽(おだうらく)、古田織部(ふるたおりべ)、光悦(こうえつ)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、片桐石州(かたぎりせきしゅう)らは新たな配合を作ろうとして互いに相競った。しかし茶人たちの花の尊崇は、ただ彼らの審美的儀式の一部をなしたに過ぎないのであって、それだけが独立して、別の儀式をなしてはいなかったという事を忘れてはならぬ。生花は茶室にある他の美術品と同様に、装飾の全配合に従属的なものであった。ゆえに石州は「雪が庭に積んでいる時は白い梅花を用いてはならぬ。」と規定した。「けばけばしい」花は無情にも茶室から遠ざけられた。茶人の生けた生花はその本来の目的の場所から取り去ればその趣旨を失うものである。と言うのは、その線やつり合いは特にその周囲のものとの配合を考えてくふうしてあるのであるから。
花を花だけのために崇拝する事は、17世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶(かびん)が課する法則のほかには全く法則がなくなった。新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。19世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派(かのうは)に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪(さんせつ)や常信(つねのぶ)の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。
時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われるが)は興味あることであろう。彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)のことを述べている、そしてこれらの原理をかたどらない生花は没趣味な死んだ花であると考えられた。また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生ける必要を詳述している。第一は舞踏場へ出るものものしい服装をした花の姿を現わし、第二はゆったりとした趣のある午後服の姿を現わし、第三は閨房(けいぼう)にある美しい平常着の姿を現わすともいわれよう。
われらは花の宗匠の生花よりも茶人の生花に対してひそかに同情を持つ。茶人の花は、適当に生けると芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているからわれわれの心に訴えるのである。この流派を、写実派および形式派と対称区別して、自然派と呼びたい。茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他のことは花みずからの身の上話にまかせた。晩冬のころ茶室に入れば、野桜の小枝につぼみの椿(つばき)の取りあわせてあるのを見る。それは去らんとする冬のなごりときたらんとする春の予告を配合したものである。またいらいらするような暑い夏の日に、昼のお茶に行って見れば、床の間の薄暗い涼しい所にかかっている花瓶(かびん)には、一輪の百合(ゆり)を見るであろう。露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われる。
花の独奏(ソロ)はおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲(コンチェルト)となれば、その取りあわせには人を恍惚(こうこつ)とさせるものがある。石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥(そうあみ)の描いた鴨(かも)の空を飛ぶ絵をかけた。紹巴(じょうは)という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌をもってした。その客人の一人は、その全配合の中に晩秋の微風を感じたとしるしている。
花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。16世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精(たんせい)こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤(たいこう)のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工(そうざいく)の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
こういう例を見ると、「花御供(はなごく)」の意味が充分にわかる。たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。彼らは人間のような卑怯者(ひきょうもの)ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野(よしの)や嵐山(あらしやま)のかおる雪崩(なだれ)の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」というようである。
第7章 茶の宗匠

宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い軌範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
茶の宗匠たちの芸術に対する貢献は実に多方面にわたっていた。彼らは古典的建築および屋内の装飾を全く革新して、前に茶室の章で述べた新しい型を確立した。その影響は16世紀以後に建てられた宮殿寺院さえも皆これをうけている。多能な小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、桂(かつら)の離宮、名古屋(なごや)の城および孤篷庵(こほうあん)に、彼が天才の著名な実例をのこしている。日本の有名な庭園は皆茶人によって設計せられたものである。わが国の陶器はもし彼らが鼓舞を与えてくれなかったら、優良な品質にはたぶんならなかったであろう。茶の湯に用いられた器具の製造のために、製陶業者のほうではあらん限りの新くふうの知恵を絞ったのであった。遠州の七窯(なながま)は日本の陶器研究者の皆よく知っているところである。わが国の織物の中には、その色彩や意匠を考案した宗匠の名を持っているものが多い。実際、芸術のいかなる方面にも、茶の宗匠がその天才の跡をのこしていないところはない。絵画、漆器に関しては彼らの尽くした莫大(ばくだい)の貢献についていうのはほとんど贅言(ぜいげん)と思われる。絵画の一大派はその源を、茶人であり同時にまた塗師(ぬし)、陶器師として有名な本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に発している。彼の作品に比すれば、その孫の光甫(こうほ)や甥(おい)の子光琳(こうりん)および乾山(けんざん)の立派な作もほとんど光を失うのである。いわゆる光琳派はすべて、茶道の表現である。この派の描く太い線の中に、自然そのものの生気が存するように思われる。
茶の宗匠が芸術界に及ぼした影響は偉大なものではあったが、彼らが処世上に及ぼした影響の大なるに比すれば、ほとんど取るに足らないものである。上流社会の慣例におけるのみならず、家庭の些事(さじ)の整理に至るまで、われわれは茶の宗匠の存在を感ずるのである。配膳法(はいぜんほう)はもとより、美味の膳部の多くは彼らの創案したものである。彼らは落ち着いた色の衣服をのみ着用せよと教えた。また生花に接する正しい精神を教えてくれた。彼らは、人間は生来簡素を愛するものであると強調して、人情の美しさを示してくれた。実際、彼らの教えによって茶は国民の生活の中にはいったのである。
この人生という、愚かな苦労の波の騒がしい海の上の生活を、適当に律してゆく道を知らない人々は、外観は幸福に、安んじているようにと努めながらも、そのかいもなく絶えず悲惨な状態にいる。われわれは心の安定を保とうとしてはよろめき、水平線上に浮かぶ雲にことごとく暴風雨の前兆を見る。しかしながら、永遠に向かって押し寄せる波濤(はとう)のうねりの中に、喜びと美しさが存している。何ゆえにその心をくまないのであるか、また列子のごとく風そのものに御(ぎょ)しないのであるか。
美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。大宗匠たちの臨終はその生涯(しょうがい)と同様に絶妙都雅なものであった。彼らは常に宇宙の大調和と和しようと努め、いつでも冥土(めいど)へ行くの覚悟をしていた。利休の「最後の茶の湯」は悲壮の極として永久にかがやくであろう。
利休と太閤秀吉(たいこうひでよし)との友誼は長いものであって、この偉大な武人が茶の宗匠を尊重したことも非常なものであった。しかし暴君の友誼はいつも危険な光栄である。その時代は不信にみちた時代であって、人は近親の者さえも信頼しなかった。利休は媚(こ)びへつらう佞人(ねいじん)ではなかったから、恐ろしい彼の後援者と議論して、しばしば意見を異にするをもはばからなかった。太閤と利休の間にしばらく冷ややかな感情のあったのを幸いに、利休を憎む者どもは利休がその暴君を毒害しようとする一味の連累であると言った。宗匠のたてる一碗(わん)の緑色飲料とともに、命にかかわる毒薬が盛られることになっているということが、ひそかに秀吉の耳にはいった。秀吉においては、嫌疑(けんぎ)があるというだけでも即時死刑にする充分な理由であった、そしてその怒れる支配者の意に従うよりほかに哀訴の道もなかったのである。死刑囚にただ一つの特権が許された、すなわち自害するという光栄である。
利休が自己犠牲をすることに定められた日に、彼はおもなる門人を最後の茶の湯に招いた。客は悲しげに定刻待合に集まった。庭径をながむれば樹木も戦慄(せんりつ)するように思われ、木の葉のさらさらとそよぐ音にも、家なき亡者(もうじゃ)の私語が聞こえる。地獄の門前にいるまじめくさった番兵のように、灰色の燈籠(とうろう)が立っている。珍香の香が一時に茶室から浮動して来る。それは客にはいれとつげる招きである。一人ずつ進み出ておのおのその席につく。床の間には掛け物がかかっている、それは昔ある僧の手になった不思議な書であって浮世のはかなさをかいたものである。火鉢(ひばち)にかかって沸いている茶釜(ちゃがま)の音には、ゆく夏を惜しみ悲痛な思いを鳴いている蝉(せみ)の声がする。やがて主人が室に入る。おのおの順次に茶をすすめられ、順次に黙々としてこれを飲みほして、最後に主人が飲む。定式に従って、主賓がそこでお茶器拝見を願う。利休は例の掛け物とともにいろいろな品を客の前におく。皆の者がその美しさをたたえて後、利休はその器を一つずつ一座の者へ形見として贈る。茶わんのみは自分でとっておく。「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない。」と言ってかれはこれをなげうって粉砕する。
その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別(けつべつ)をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄無垢(むく)な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚(こうこつ)とながめて、次の絶唱を詠(よ)む。
人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾(わ)が這(こ)の宝剣 祖仏共に殺す
笑(え)みを顔にうかべながら、利休は冥土(めいど)へ行ったのであった。
 
楽しみの茶と嗜みの茶 / 中国から見た茶の湯文化

楽しみながら飲むお茶から生まれたのは「茶芸」であり、嗜みとして点てるお茶から生まれたのは「茶道」であります。緑茶、黒茶、青茶(ウーロン茶)、紅茶、白茶、黄茶・花茶(ジャスミン茶)が使われる茶芸に対して、茶道は抹茶、煎茶を媒介にして、"一期一会"と"一座建立"が好まれます。
茶というのは、人間の顔に喩えるなら、大きく二つの違う表情に分けられましょう。またその違う表情によって、それぞれのメッセージをわれわれに伝えてくれます。中国人の「快楽」を味わうような楽しみのお茶と日本人の「精神」を修養し、礼儀作法を究めるような嗜みのお茶には、それぞれ「楽」と「苦」「快」と「寂」の世界が展開されています。
「快楽」主義的な茶飲みからは、「客来敬茶」(客に茶をもてなす)、「以茶養身」(茶で身体を癒す)という茶芸が派生します。「精神」修練的な茶飲みからは「和敬清寂」「修身得道」(身を修め、道を得る)という茶道が受け継がれています。
楽しみとしての「茶芸」にしても、嗜みとしての茶道にしても、両方を融合すれば、茶の「芸道」になります。即ち、芸には道があり、道には芸があります。この茶の「芸道」に秘められているのは、言うまでもなく、「人と人の輪」の広がりと「世の中の和」の安定に帰するのではないでしょうか。
たかがお茶なのに、なぜこの茶の葉に対し、我々人類がこれだけの熱情を注ぎ込んで、宗教的な心を込めたのか。いろいろな樹木類の葉があるのに、また野菜類のホウレンソウとかキャベツとか大根の葉もあるのに、どうしてこの茶樹の葉にだけ傾倒したのか。言ってみれば魔力のある葉なのではないでしょうか。フランスのある歴史学者は、お茶を「文明植物」とも称したのです。
私がお茶と出会ったのは、今から15年前のことでした。当時、国立民族学博物館の熊倉功夫教授が、裏千家訪中団とともに来訪され、わが大学の図書館で主に本大学の日本語学科の教員と大学生、そのほか、副学長、関係部署の教職員に「茶道と日本文化」という題で講演をされました。通訳は私が勤めました。とても緊張しました。なぜなら、お茶についての知識は殆ど無いと言っていいぐらいなのが一つ、二つ目は、日本語学科の教員と日本語専攻の大学生を前に、通訳をするということでした。誤った通訳をすると、メンツがなくなってしまうからです。ここで中国人の精神に浸み込んでいるこの「メンツ観」は、いかに重要であるかがわかることでしょう。熊倉功夫教授の講演が終わった後、裏千家の実演を見学し、一碗一碗の抹茶を皆でそれぞれ味わいました。この日はとにかく何とかクリアしましたが、翌日も、上海のあるホテルで、再度出馬してはどうかという駐上海日本総領事館の文化担当の方からの依頼があり、ほぼ同じような内容かと思って、その会に臨んでみると、熊倉先生はいきなりお茶と哲学の話をはじめました。なぜ昨日とは打って変って、いきなりこんな難しい話をされたのかと思ったら、出席者は上海市政府関係者のほかに、殆どが日本人の方々ばかりではありませんか。このように、2日間も緊張感を味わいました。後で考えてみましたが、やはりこのような緊張感はあってよいものです。中国人にはこれまであまり緊張感がなかったから、近代化を遅らせたのではないかと思います。このような緊張感のおかげだったのか、或いは、茶の湯心に魅了されたのか、そのときから、日本語教育の傍ら、お茶への勉強と考察が始まったわけです。
さて、今日のテーマの中で、動詞の連用形とする「楽しみ」の漢字は、音読では、「楽」と言います。つまり「楽茶」と言っても差支えありません。しかし、よく考えてみると、「音楽」の方は、確かに「がく」と発音します。同じ字なのに、なぜ発音が違うのか。この「らく」と「がく」の字義は同じだったのかを考えました。
古代中国における「楽」という言葉の意味は「音楽」だそうです。でも「音楽」という言葉は、「論語」「孟子」「荀子」などにはまだ出ていません。出たのは、「氏春秋」という文献でした。「楽」の字は古代楽器を表す象形文字で、音楽と舞踊の意味があります。この点で、日本の上代の楽という古語にも「歌舞」や「あそび」という意味があって、つまり漢語としての「楽」の字を当てたものです。
ここで、私が考えた「楽しみの茶」というのは、やはり昔の中国人が、「歌舞」や「あそび」をしながらお茶を飲んでいたのではありませんか。つまり、何かを楽しみながらお茶を飲みます。それに対して、何かを慎み、遠慮し、または我慢する気持ちを込めながらお茶を飲む場合もあります。
茶の湯という言葉は何時ごろ成立したのか、今から1200年前の陸羽の「茶経」第五章「茶の煮立て方」には、「(前略)第二沸のとき、湯一杓を酌みだし、竹きょうで湯の中心をぐるぐるかき回し(後略)」とあり、茶の湯の湯を使っていました。
日本の場合は、807年に中国の唐に渡った空海が日本に戻った時、その典籍、図絵、法典類の一部を当時の嵯峨天皇に献じました。弘仁5年(814年)7月28日付けの「空海奉献表」(性霊集)巻4には、「窟観余暇、時学印度之文、茶湯坐来、乍閲振旦之書」とあり、学問の間に茶の湯を飲む空海の姿を彷彿とさせるものである。と記されています。
このように、陸羽の「茶経」に出た茶の湯についての記録が、およそ400年近く後に、日本の文献にも「茶の湯」という言葉で現れました。しかし、今日の日本の奥深い茶の湯の世界のほかに、まだ、銭湯の湯もあります。この湯はあくまでもわれわれの体を包んでしまう湯のことです。
国立民族学博物館の名誉教授でいらっしゃいます石毛直道先生が、国民一人あたり年間200杯以上のお茶を飲む国はお茶の国民とし、同じく国民一人当たり年間200杯以上のコーヒーを飲む国をコーヒーの国民とし、そして、国民一人当たり年間お茶もコーヒーも200杯以上飲んでいる国をお茶とコーヒーの国民としています。
無論中国は「お茶の国民」です。しかし、お茶の国民は中国だけではありません。日本もインドも恐らくイギリスもお茶の国民と言えましょう。東アジアの一隅に発した茶は、ますます世界に進出して、やがては、お茶の国民になろうとしている国が増えつつあるのではないでしょうか。現に世界に2000以上の民族がある中で、恐らくお茶を飲む民族はもう少なくはないでしょう。
茶はただの木の葉ですが、私たちの日常生活に欠かせないものです。なぜでしょうか。考えさせられる問題意識のもとに、次に、「茶の起源と茶の利用」「茶の湯に潜む精神主義」と「茶芸の茶道に学ぶべきもの」を中心に述べてみたいと思います。
茶の起源と茶の利用
同源異形というのは、中日のお茶を飲む習慣や思想などがそれぞれ違うということです。具体的に言うと、つまり「成仙思想」と「茶禅一味」のことです。
中国の茶芸は道仏儒観の影響を大きく受けています。
例えば、大昔のことですが、伝説上、「神農 百草を嘗め尽くし、1日に72の毒に遭遇して、茶を得て解毒した」という。
これは、お茶は、神農にその源を発するという伝説記録です。記載にはまた次のようにあります。「ある日、神農がある種の葉を飲み込んだ後、お腹の中を葉が歩き出した。なんと腸を隅から隅まで歩きまわる。すると、腸のすべてがきれいに洗われたがごとく、気持ちがとてもよい。その後、神農はこの種の葉を脳裏に焼きつかせて、毎日口に入れては摘み、摘んでは口に入れ、やがて、それに茶という名前を与えてしまったのである」とあります。
無論、神農は、伝説上の存在です。その神農がはじめてお茶を発見し、また自らの体感を通して、私たちに、「これを口に入れてもいいんだよ」というメッセージを伝えてくれたとは、到底考えられません。しかし、そのような伝説上の神の実在性は別にして、この物語自身が、少なくとも我々人間によるお茶の発見、体感を繰り返し、口に入れても別段命に害がなく、健康によいという認識を得た過程を暗示しているのではないかと思われます。それにしても、お茶の葉をはじめて咀嚼し、味わった人はやはりたいしたものだと思います。お茶に限らず、そもそも人間の自然への認識において、初体験者または第一発明者は、やはり皆に敬われるものです。
お茶が正式に商品化されたのは、いまから、およそ2060年前のことです。中国の前漢の時(紀元前59年)、王褒の「僮約」(奴隷売買の契約)という文章に、その記載があります。
この文には、王褒が未亡人の楊恵から奴隷の便了を買い取り、便了の日常にやるべきことがこまごま証文に書き付けてあります。その中に「荼を煮る」ことと「武陽で荼を買う」こととがあります。実は、この記載で、茶の字は、「荼(tu)を用いています。その文字の意味は"苦菜"(にがな)ですが、しかし、わざわざ武陽まで、新鮮な野菜のようなものを買い求めに行くはずはありません。武陽は、四川の成都市内から77Kmも離れたところにあります。それゆえ、ここで「買う」ものは、ほかでもないお茶と考えられます。これは、中国漢代の四川省の文人墨客の世界で、お客の接待には、お茶の姿があったことの最初の記録です。言ってみれば、この世の中で、お茶としては、初めて文化的「市民権」が獲得されたわけです。
陸羽の名著「茶経」が誕生したのは、恐らく紀元760年ごろのことです。著書は3巻10章からなっています。その10章は次の通りです。一之源(茶の起こり)二之具(製茶器具)三之造(製茶法)四之器(茶器)五之煮(茶の煮立て方)六之飲(茶の飲み方)七之事(茶の資料集)八之出(茶の産地)九之略(略式の茶)十之図(一幅書いて掛けておくこと)ということです。お茶の「茶」の字は、陸羽の「茶経」という書物が誕生したのと同時に現われたわけです。いまから1240年前のことです。
古来、飲茶にまつわる詩が無数に作られてきました。「中国茶文化経典」には、唐宋時代の茶詩が680首ほど収められており、中国茶の至福の世界を垣間見ることができますが、中では、茶芸を詠った詩も少なくありません。紙面の都合上、ここでは茶芸を詠った名詩を一つ紹介してみたいと思います。
盧仝という唐の中期頃の詩人(?-835)が居て、彼は、「走筆謝孟諫議寄新茶」という作品の中で、「七碗茶」を披露しました。
最初の一碗で、自分は唇と喉を潤し、第二碗で淋しさを破ります。
三碗目で文才なき自分の枯れた腸を探るのですが、そこには見慣れない字句が五千巻分並べられているばかり。
四碗目で少し汗を流し、日々のわずらいが毛穴を通って去っていきます。
五碗目で自分の全身は清められ、六碗目で茶が私を不老の世界へと誘います。
でも、もうこれ以上飲めません。今はただ袖に涼しい風を感じるだけです。
蓬莱山はどこでしょうか。この優しい風に乗り、漂いながらそちらに帰りたいなあ。
ここではお茶が仙霊に通じると表現しています。つまり、中国のお茶は、道教からの仙人になる思想が反映されています。
東アジアの一隅に発するお茶の歩みを、日本へのルートについて見てみますと、次のようです。
日本のお茶は、平安時代の初期、弘仁年間(810-824年)になって現れました。最澄、空海、永忠などによって、断続的に紹介されたのです。その後も、中国に渡った僧侶たちは、それぞれ寺院の中でのお茶の姿に接しました。ですから、中国の寺院茶の姿を見よう見真似で学び取って持ち帰ったのではないでしょうか。今でも、お寺の中に茶室が設けられるところが多いようです。そして、お寺の中に、「供茶」という習慣も残っています。ここでは、日本の茶の湯は宗教と深く関わっている状況が見られます。茶禅一味の考え方は、現在も比較的強いのです。このような日本の茶の湯の姿に対して、中国のお茶は、最初に薬として、庶民によって発見され、そして庶民の間に直接浸透していき、やがては、茶の効用などが認識されることによって、寺院茶とか、宮廷茶とか、最後に唐・宋・明時代の文人茶がそれぞれ発達してきました。中国茶文化史から見れば、文人とお茶との関わりが一番長いのではないでしょうか。日本は、どちらかと言うと、僧侶とお茶との関わりの歴史が長く、しかも現代にも続いています。
茶の葉から生まれた文化は、いつの間にか、お茶の淹れ方と飲み方によって、だんだんと人間の精神にまでしみ込んでまいりました。お茶に秘められているものは、ますますわれわれの探求心を誘ってくれます。
この二つのお茶の道程が違うことによって、現に、20世紀の80年代の終わりから、90年代の初めごろ、中国大陸では、いろんなお茶が使われながら「型」に仕上げつつある楽しみのお茶から生まれる中国の茶芸と、寛永年間(1624-1643)に、茶の湯の「型」ができつつあった嗜みのお茶から生まれる日本の茶道が、我々の前で演出されています。
このように、お茶を、我々人類が発見し、認識して、ついに今日の我々の生活に欠かせないものにまでなっています。このような光景を思い浮かべていただけると思いますが、新幹線に乗られた場合、必ず車内の女性販売員が「お茶はいかがですか」と手押し車を押して車内販売に努めるということです。そして、海外旅行中の飛行機の中で、「Tea or Cafe(ティー オア カフェ)」と、機内サービスを受けた経験もあるし、またビジネスの会合の場でも、お客さんに「お茶ですか、それともコーヒーですか」と尋ねる場面もしばしばあるでしょう。
では、次の内容に入りましょう。
唐の時代は坐りながらお茶を飲んでいたのでしょう。宋の時代の茶法は、立ちながらお茶を立てていました。
茶芸とは茶を品評する技芸と味わう芸術です。「茶は、三割は喉の渇きをいやすため、七割は味わうために飲むものである」と言われています。陸羽の功績は、茶を味わう芸術をはじめて唱えたことで、ただ喉の渇きをいやすためのものだった飲み方を、丁寧に淹れてゆっくりと味わう飲み方に変えることによって、一つの芸術に昇華させ、文化的意義を加えたことにあります。
「茶経」は茶の煎じ方から飲み方まで一連の理論を記し、とくに「四之器(茶器)」「五之煮(茶の煮たて方)」「六之飲(茶の飲み方)」では必要な道具を列記し、茶芸の手順を定めています。これにより、当時の人々は実践の中で茶の技芸化の過程に対する初歩的な認識を得ました。
唐代になると、茶は文士や僧侶と結びついて、その世界を深め、陸羽の製茶法や飲茶法の出現が茶文化の基礎を築き上げました。宋代に入ると、献上茶制度の確立にしたがって、茶への要求は苛酷を極めていきます。宋代の宣和年代には、次のような茶の格付けが見られます。「白茶」「龍団勝雪」「密雲龍団」「小龍団」「石乳」などです。明清代になると、茶芸を広めるために、人とお茶との関わりあいについて、いろいろと論じられました。このように、唐から宋明清の時代にわたって、中国文人たちは茶芸のようなものを媒介にしながら、お茶を楽しんでいました。
長年の歳月を経て、お茶は我々の生活の必需品であると同時に、文化の一つにまで進化してまいりました。中国の歴史文献の中には、茶に関する書籍が、たくさんあります。それは、茶の文化性を物語っています。茶書の中では、宋の時代には、30部あまりの専門茶書があり、多作期としては、恐らく明の時代でしょう。専門的茶書は、50部あまりもあります。しかし、260年近くの歴史を持つ清の時代では、残念ながら茶書は10部ぐらいしかありません。中国茶書の特徴は、技芸史的に捉えながら書かれている印象が強いのです。
さて、これまでは、中国の飲茶思想や習慣などをお話しました。次に、日本の茶道、茶禅一味について、述べます。
茶の湯に潜む精神主義
遣唐僧の空海と最澄一行が804年の7月に中国の長安に到着しました。唐代の飲茶法を最初に日本にもたらしたのは、最澄であると一般的に述べられていますが、一年足らずしか唐にいなかった最澄にとって、茶法など身に付くはずはありません。中国仏教思想をはじめ、唐代の飲茶法や製法などを、最澄に教えたのは、実は永忠という和尚さんです。かれは、777年から唐に渡り、在唐30年以上のベテランの遣唐僧です。大僧都永忠は中国に30年も住んでいて、お茶とも関わりが深い。彼はお寺で留学生の接待の任に当たっていて、最澄などが渡ったときに世話役をしていた人物です。先にも触れましたが、唐代の760年ごろ、陸羽が「茶経」を著しています。大僧都永忠は陸羽との付き合いがあったかどうかはわかりませんが、たとえ付き合いがなかったとしても、陸羽時代のお茶の姿に、きっと大僧都永忠は何らかの形で接したのではなかろうかと考えられます。もし付き合いがあったことが確認されれば、茶文化研究史上の大発見ではないかと思います。
「日本後紀」の弘仁6年(815年)4月22日の条に「この日、嵯峨天皇は近江の唐崎に行幸された。天皇は、崇福寺をへて、凡釈寺に至って詩宴をもよおしたが、そのあとで、同寺の大僧都永忠が、みずから煎茶して、これを天皇に献じた」とあります。805年に帰朝して、10年後に嵯峨天皇に献茶したのは、果たして団茶であったのか、または、後の遣唐僧に分けてもらったのかは、疑問の一つです。とにかくお寺での献茶でした。
中日茶文化交流史において、894年の遣唐使の撤廃によって、お茶の往還は、長い間、閉ざされてしまいました。それにしても、平安初期の唐の飲茶風は、平安後期にも依然として残っていて、後にはその飲茶風が九州にまで及んでいました。製茶も行われていたのです。
5-6年前に、私は、わが大学の協定校である佐賀大学の要請で、「中国のお茶の現状について」、と題して、佐賀の日中友好協会の皆さんにお話をしたとき、お茶に詳しい方から、こう話しかけられました「こちらの嬉野茶は依然お国の南方の釜炒り茶の姿そのままですよ」と。いつごろの茶法なのか。恐らく明の時代の中国の緑茶の茶法でしょう。
中国と日本の製茶および飲茶法をわかりやすく理解していただくために、筒井紘一先生が考えられたことをもとに年表を作りました。
歴史上、平安時代は唐から「団茶法」、鎌倉時代は宋から「抹茶法」、江戸時代は清から「煎茶法」がそれぞれ移入されたと言われています。
しかし、筒井先生はそうは考えていません。上の表のように、日本の飲茶のプロセスには、平安朝には、「煎茶法」、鎌倉時代には「点茶法」、そして、江戸時代には、「淹茶法」か「泡茶法」が用いられたと主張されました。しかし、これまでの著書の殆どは、江戸中期に日本に伝わったのは、きわめて自由な方法で喫茶の趣味を楽しもうとする煎茶法であると述べています。現在も、煎茶という言葉がそのまま使われています。北京大学の滕軍先生は、「中国両宋時代の点茶法(茶研または石臼で茶を挽いて、茶粉状にしてから、茶筅で撃沸をする)が和様化し、日本的茶の湯文化が形成されました。それと同じように、煎茶の受け入れも、やはり明の時代の釜煎茶で、また文人精神を背景に、清の時代(19世紀60年代)に、日本的煎茶道が形成されました。それまでは禅宗精神をモチーフに点茶法の世界として展開されていました」と指摘しました。江戸時代に、一体「煎茶法」が伝わったのか、または、「泡茶法」が伝わったのかは、今後の研究の成果を待つしかありません。
この表で、一つのことが分かりました。すなわち、飲茶作法そのものは中日双方で違いますけれども、飲茶思想はそれぞれの文化の一つとして、進化し、発展し、今日にいたっています。
世界のお茶の現状から考えてみれば、中国も印度もイギリスもお茶の消費大国でしょう。日本は、お茶の消費大国であると同時に、茶文化の大国でもあるでしょう。
日本にはお茶に関して三つの姿があります。一つは茶道、二つは、江戸中期に黄檗宗の開祖・隠元によって招来された煎茶道、もう一つは、缶やペットボトルに入った、いわゆるニュー・ティーであります。このように三種のお茶の姿があります。イギリスとインドも茶の消費大国ですが、彼らは主に紅茶を飲み、またその飲み方もそれぞれ違います。
日本が茶文化の大国であるということは、この図を見てもわかっていただけるでしょう。
臨済宗の開祖となった栄西は、永治元年(1141年)備中(岡山)に生まれ、14歳で出家しました。比叡山で修行した後、27歳で宋に渡りました。彼は、1168年と1187年の2回入宋し、2回目は1191年に帰国しましたが、この時、宋から茶の苗を持ち帰り、背振山(今の佐賀県に所在)で栽培する一方、「喫茶養生記」を著し、この中で茶の薬としての効用を強調しています。その効用について、エピソードによれば、栄西が宿酔による頭痛にかかった将軍源実朝に茶を薬として勧め、すぐ治したということです。その折、栄西がこの「喫茶養生記」を献上しました。本の中で、栄西の説明によれば、人間の五臓は、それぞれその好むところの五味を多く摂取することによって、もっと健康になるということをアピールしました。例えば、肺臓は辛い味を好み、肝臓は酸っぱい味を好み、脾臓は甘い味を好み、腎臓は塩辛い味を好み、最後の心臓は苦い味を好みます。これによって、喫茶の風習はやがてお寺から武家社会あるいは一般の庶民にまで進出し始めたと見られます。
栄西が宋から伝えた喫茶は、それまでの団茶・餅茶ではなく、当時の宋に広まっていた抹茶(点茶)であり、早朝に摘んだ茶を蒸し、それを火にあぶって乾燥させてから瓶に詰めて保存し、飲用する直前に、これを臼で挽いて粉末にして湯に溶いて、茶筅で攪拌したあとで飲むという、今の抹茶の飲み方でした。この抹茶による茶の飲み方は、その後中国では廃れ、現在では行われていません。その代わり、日本では、これをモチーフに、茶の湯の世界をどんどん創造していきました。
日本が茶文化の大国という根拠は、歴史上の人物が存在するばかりでなく、数多くの茶書からも見られます。
日本の茶書については、江戸時代に出版された茶書は、筒井紘一氏の調査では、249あります。しかも同一本の出版が繰り返される場合もあり、無刊記本まで入れると330点を超えています。現在伝えられる茶書の総数は一万点を越すと言われています。それらは、メモ程度の簡単なものから、備忘録としての手前書に至るまでのものが大部分を占めています。これらの膨大な茶書群の中から選ばれて出版されたものは、2%あまりに過ぎないと言われています。
さて、日本の精神世界では、茶道の美意識は大きく日常生活に影響を及ぼしています。
日本茶道の中の美意識について
美意識は、精神世界に属し、具体的な形もないようなものと思われますが、実は、そうではありません。茶道はその形で美意識を表しています。
日本の茶の湯における先駆者の一人として、村田珠光(1423-1502)という人物がいます。彼は、最初に禅宗の礼法を茶の湯に取り入れ、禅を茶の湯の思想にしていました。そして、彼はまた初めて茶の湯の心を考え出した人ではないでしょうか。村田珠光は80歳まで生き、彼の遺文に「心乃文」があり、400字未満の文章ですが、とても難解なものでした。全体を五つの部分に分けて論じています。一、茶の湯を思想・精神を含む「道」としてとらえ、いわゆる心の我慢、我執を主張 二、和漢渾然一体を主張 三、第二段に対しての付け加え、唐物と和物との関係説を披露 四、藤原定家の「みわたせば はなももみじも なかりけり うらのとまやの あきのゆうぐれ」の歌を引き、花紅葉(最高の唐物)と、苫屋(無一物)を唱え 五、"心の師となれ"の主張など、を語っていました。
珠光は簡素な茶に憧れ、わびの境地を作り上げました。完全なものより、不完全、或いはやつれた物の方が美しい。"月も雲間になきはいやにて候"に代表されています。つまり、不足の美、余白の美こそが本当の美である、と言います。それは具体的にどのような形式をとるかと言えば、書院の正式の床であれば張付床といって、床に紙を張り込み、描いた襖が床壁に張り付けてあります。こうした床が多いのを、珠光はただ白紙の鳥子紙の貼り付けにしたというところに現われています。何も描いていない白紙は、逆に一切を描き尽くした「無」に通じるであろうと珠光は考えました。
このような発想を受け継いだのは、武野紹(1502-1555)です。紹は珠光のわび茶の精神を受け継ぎ、歌学、連歌、書と茶の湯を習い、閑寂・清澄な世界、あるいは枯淡の境地をあらわしていくようになります。例えば、紹は民家の荒壁にも通じる土壁を求めながら、そこに秘められる美意識を「わび」という言葉で表現しました。そして、連歌を茶の湯に見立てて、ワイワイガヤガヤの雑然とした雰囲気を嫌い、しみじみとした風情を求める清雅の気こそ、茶の湯の会の行き方ではないか。紹は、茶の湯の独特の雰囲気や境地を、実践を通して独自の「わび・さびの世界」を考案していました。このもの静かでどことなく寂しげな境地のような枯淡な趣を美意識として発展させたところに、日本文化的なるものを十分察知することができるのではないでしょうか。
茶の湯の型と理念を完成させたのは、千利休であったと言われます。
千利休は17歳ごろから茶の湯の修行をはじめ、19歳の時、武野紹に入門しました。最初の師匠は北向道陳でした。24歳の時、宗易という称号をもらいました。1585年に禁裏茶会にて、正親町天皇より「利休巨士」号を賜り、「天下一宗匠」と称されました。
千利休のわび茶の実践例としては、私は、このように捉えています。一、侘び茶の伝統を受け継いだこと。若年より親しんだ禅の精神を茶の湯に反映させながら精神性を深め、茶道の型を確立して茶聖と称されました。利休は従来の遊興性の強い茶会を排しました。二、茶の心の美の発見。茶の道具などに対し、直接目に見える美しさではなく、その風情のなかに美的な境地や、心の充足を探求しようとする精神をもって見ることのできる美しさ、すなわち「目」ではなく、「心」で見る美しさが利休の「わび」であり、利休のわび茶の湯を語るキーワードとも言えます。三、茶会と点前の形式を完成させ、独創的な茶室と道具を創造したこと。
イ、茶碗について。当時の茶の湯では、唐物や高麗物のほかに和物では瀬戸、美濃といった茶碗が主に用いられていましたが、利休と長次郎との出会いが「楽茶碗」という当時としては斬新なスタイルの茶碗を生み出したのです。楽の茶碗の特質は、轆轤を用いず、すべて手作りで、高台まで全体に釉薬がかかり、茶人の要求に応えて、ごく少数焼かれた茶碗です。ほとんど模様らしい意匠をもたず、色も赤と黒の二色に分かれ、無一物の境涯を追究するがごとく静かな形態と釉調に特色があります。いわば利休は、楽茶碗を通して己の侘び茶の美と心を表現しようとしたのです、楽の茶碗は、茶道具を目的として創造された最初の茶碗であったと言えましょう。
ロ、懐石料理について。一汁三菜という簡素な懐石料理も利休のわびの理念から生み出されたものと言えます。利休にとって、茶の湯の料理の目的は美味であるとか、珍味であることではなく、侘び茶人らしいわびの表現であることでした。それが、わび茶の料理であるかぎり、亭主によるわび茶の趣向の表現の一部に料理も位置づけられていました。料理が亭主から客へのメッセージを含むことはしばしばありますが、茶の湯料理の場合、わびの表現という新しいメッセージが料理に託されました。わびの表現はそのなかに季節感の問題や、食器のデザイン、食礼などをも含み、それらを総合した料理を生み出す力となりました。ここに懐石とよばれる茶の湯料理の新しい主張が生じました。「南方録」には、「わび茶の小座敷の料理は汁一つに菜が二種か三種、酒も軽くすること、わび座敷にいかにも結構な料理ぶったことはふさわしくない」と書いてあります。
ハ、茶室について。聚楽屋敷のように、利休は「四畳半」から「二畳」、さらには「一畳半」に至るまで狭小化していく傾向を実践していきます。例えば、現存する待庵に見られる二畳の茶室は、わび茶を表現するための、亭主と客の最小の空間となります。また重要な要素として、客が潜り入るにじり口の工夫もしました。こうしたすべての要素により、茶室の中は緊張感に満ちた聖なる空間となったのです。待庵は二畳敷という最小の茶室です。二畳といえば、亭主が茶をたてるための座一畳を除いて、客に許された空間はわずか一畳にすぎません。ここまで徹底すると、茶の湯は強い緊張感を持つようになり、その内部での作法は、かえって非日常的なふるまいを要求することとなりました。
以上の分析から、「不完全な美を愛する」「素朴な美を好む」「わびから生まれる自然観」という日本人の美意識を窺い知ることができます。そして、このような美意識が日本人の思想、行動、日常生活などにも影響していきます。
茶道の礼儀もいろいろあるでしょう。例えば、寺院茶を見てみましょう。南浦という僧が宋の時代に中国の浙江省の径山寺で学んだ寺院茶礼は、その一つです。また、大名茶や町衆茶の茶礼なども皆様のご存じの通りでしょう。
日本茶道の中の礼儀
ここでは、武将茶を取り上げて、お話いたします。
日本の武家社会は、大体三つの段階を経たのではないかと思います。1185年から1336年までの鎌倉幕府、1336年から1573年までの室町幕府(この後に、日本歴史の時代区分の上では、つまり15世紀後半から16世紀の末、織田信長・豊臣秀吉により天下統一が実現するまでの約1世紀の戦国時代がある)と1603年から1857年までの徳川幕府です。
封建時代の武家社会のシンボルとなるのは、剣を所持するかどうかで身分が分かれていました。「士農工商」の中の武士階級は、他の三者を圧倒する特権を持っていました。こういった武士たちを、一体どのように、思想教育をしたらよいか、幕府当局または将軍が、考えていました。儒教思想の中の「忠」の精神とか、禅の中の「無」の思想とか、茶の湯の中の「礼」の精神など、つまり日本前近代の精神論が、いろんな場面で展開されていたのではないでしょうか。
さて、人間の精神とは何なのか?広辞苑にいわく、精神とは、「心、またはたましい。多くの観念論的形而上学では、世界の根本原理とされているもの」とあります。精神の「神」は神という字のように、普遍的に捉えたら、つまり人間の体にいつか神が宿ると、精神というものが成り立ってくるのでしょう。では、茶の湯の中の精神性とは、一体何なのか。茶書「茶話指月集」(1636)には、かなりの行数で茶の湯の精神を論じていたことがわかりました。
茶の湯は武士の礼式の構築に大きな役割を果たしました。特に織田信長の「茶湯御政道」によって、武士から大名または将軍まで茶の礼式を、必須の条件として見なし、やがて、戦国時代の武将たちの精神に沁みこんだのではないでしょうか。
「松平頼重伝―高松藩祖」(1964年)という書物の中で、学術技芸趣味などの章節の「茶道と能」の項目に、松平頼重が若くして茶道に練達、お能も拝見などが記載されています。今で言えば、いわゆる知事の座についても、こうした茶道の礼とか、あるいは能などの教養も大事にすべきであるということなのでしょう。
こうした前近代の人々の教養ぶりが、近代化後の岡倉天心、高橋草庵、益田孝という人々にも大きな影響を及ぼしたのでしょう。
日本茶道の中の権力観
将軍は、長期にわたって、権力の中枢にいるか、あるいは権力そのものです。しかし、お茶を無視することはできませんでした。江戸時代の職種の茶坊主の組織構造を見てみましょう。そもそも「茶坊主」とは何でしょうか。江戸城内において、「僧形剃髪、法服」でいろいろな雑役に従事する者たちを総称して「坊主」と呼んでいました。江戸時代の城内を整理、管理する必要性から生まれた一種独特の職種です。
江戸城は表(幕府役所)と奥(大奥)の大区画に分かれています。「表」は男だけの世界であり、「奥」すなわち「大奥」は女だけの世界で、その中に入っていける男は将軍と、緊急の場合の医師と僧侶だけです。この「表」の雑用を受け持っているのが、茶坊主衆でした。炊事(賄い方)、掃除や湯茶の接待、案内と取次ぎなど、当時広い江戸城でしたから、坊主衆の担当区域も分けられていて、その呼称も異なっているのです。
数寄屋茶坊主(すきやちゃぼうず)   御三家と溜之間詰めの大名の接待(大名家の序列により控の席が決まっており、重要人物の接待の仕事)
紅葉山茶坊主(もみじやまちゃぼうず) 城内紅葉山にある将軍御霊廟の管理
奥茶坊主(おくちゃぼうず)      将軍の住居(御用部屋、執務部屋)の管理
表茶坊主(おもてちゃぼうず)     表座敷を管理し、諸大名、旗本の接待を担当
彼らは大名たちに給仕するため、茶湯を持って廊下や座敷をうろうろしているところから、俗に「茶坊主」と呼ばれています。これは室町時代からの「お茶頭」の風習を受け継いだものです。
数寄屋坊主は、江戸時代の当初は茶の湯の達者な者が任命されていましたが、次第に将軍の茶道具の保管や、将軍が賓客を茶の湯でもてなす際の介添えなどの働きが、主な任務です。毎年新茶が採れる時期になると、数寄屋頭は、将軍御用の宇治茶を納める茶壷を京都から運んできます。時代劇の中で、とかく悪名高い「お茶壺道中」という言葉のように、かれらは、いつも将軍の権力を傘に着ていたのです。実は利休時代の茶に秘められていたのもやはり強い権力でした。
ここまで、日本の茶道の美意識や礼や権力観などに触れてまいりましたが、お茶は文化としても、それなりの役割を果たしてまいりました。これからも今まで以上の役割を果たすことでしょう。つまり平和の役割を果たすに違いないと考えています。そういう意味においては、裏千家の第十五代家元千玄室氏の功績が大きいのです。氏が提唱されました「一碗の茶」の平和理念はもう全世界に普及しつつあります。それは、以下のようなデータでわかります。
お茶を媒介にして、一期一会という理念のもとに、人と人との触れ合いによる平和のネットワークを構築している今日、茶道の主張している平和思想は、洋の東西を問わず、より多くの人々に受け入れられています。
裏千家淡交会の海外ネットワークとしては、北米、中南米、アジア、オセアニア、アフリカそしてヨーロッパへと広がり、世界30数ヶ国100ヶ所ほどの裏千家の拠点があります。裏千家宗家から派遣された茶道講師が常駐する海外出張所は、ニューヨークをはじめ、ワシントン、サンフランシスコ、シアトル、ホノルル、バンクーバー、ロンドン、パリ、ローマ、デュッセルドルフ、サンパウロ、メキシコ・シティー、シドニー、ソウル、北京、天津、大連など世界の要所におかれています。また、裏千家寄贈の茶室も、ハワイ、バンクーバー、パリ、ロンドン、ミュンヘン、ブリュッセル、ヘルシンキ、リマ、サンパウロ、北京、天津など多くの主要都市にあり、茶道普及のみならず日本文化の紹介と友好のシンボルとして大きく貢献しています。それに対し、同じお茶の大国としての中国の茶文化は、今後どのように日本の茶の湯文化と同じように世界に発信していくのかが大きな課題だと思います。楽しみの茶と嗜みの茶の両方から発信できたら、もっともっと大きな力になるに違いないでしょう。この二つの茶、いいえ、さらに、印度、イギリスや他の国々の茶も一緒に加わって、世界にもっともっと輪を広げようではありませんか。
茶道の平和思想が世界の人々に受け入れられていることは、日本国内における茶道の伝承とその活動によって支えられています。茶道裏千家淡交会のほかに、表千家、武者小路千家、薮内流などの茶道の活動もあります。茶道の中国における活動は、日中両国関係の進展とともに、活発になりつつあります。両国の文化交流にも寄与しています。例えば、裏千家は、100回以上にわたって、中国と交流を行い、茶道の「道」ということを具体的に表し、相互理解を深めてきました。
二つの茶の世界
中国では、「道」ではなく、「芸」という形で、中国の茶文化を豊かにしつつあります。茶芸の「芸」とは、技芸ないしは芸術という意味で、中国の茶芸は、「いかに美しいお茶を入れるか、または美味しいお茶を飲むかという"身心"への効用と快楽を求めるもの」です。それに対して、日本の茶道は、「わび・さびという含意で、即ち茶道は唯美的かつ"心身"的な修練を重ね、世俗的時空を超越するもの」です。
日本では、茶道以外にも歌道、蹴鞠道、香道、華道、剣道、柔道、弓道、書道、将棋道、空手道、神道、武士道の世界もありますが、「道」は大きく有形と無形に分けられると思います。有形なものとしては、体を媒介にするものです。しかし、神道や武士道となると、無形のものでしょう。この二つの「道」の世界があります。中国では「道」が付くものは一つもありません。付けられているのは「法」「芸」「術」であって、たとえば書道の場合は「書法」であり、華道は「花芸」、剣道は「剣術」です。中国の茶文化は数千年を経たにもかかわらず、茶道というような表現にはなりませんでした。今日では、茶芸というものは、私たちの生活を賑わしています。例えば、中国各地の町を歩きまわると、茶芸館があちこちに見受けられます。
たかがお茶なのに、どうして「道」が日本では必要になったのか。片や、中国はなぜ茶道の「道」を積極的に主張しなかったのか。私は四つの原因があると考えています。(1)陸羽は最高の哲学理念をもった「茶道」という言葉を積極的に提唱しませんでした。(2)後継者不足で、茶法の道を提唱する者がいませんでした。(3)孔子の「早聞此道、夕可死矣(朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)」に現れる倫理道徳が論語に帰結し、「道」という字の使用を敬遠したのではないでしょうか。(4)宋代に献上茶工芸が発展するにしたがい、茶芸の典型的な闘茶(茗戦)が起こり、宮廷の茶、功利の茶、風俗の茶、遊芸の茶が生まれ、それによって、茶道の精神を主軸とする人倫の茶が生まれませんでした。
では、茶芸の事例を見てください。これは、茶芸師の実演の写真です。
茶芸に欠かせない要素の一つは、茶席です。では茶席とは、何でしょうか。「茶席とは、茶道具を媒介にして、ある基準に基づいて芸術の型を演出するものである」と考えたいのです。茶席の要素には次のようなものがあります。
茶席の構造:舞台の空間的調和(装置などの大小・明暗・高低・遠近・左右)
茶席の構成:(1)茶品、(2)道具の組み合わせ、(3)敷物、(4)生花、(5)絵掛け、(6)茶菓子、(7)舞台の効果と雰囲気(音楽などを含む)
茶席の種類:(1)少年茶席、(2)都会茶席、(3)地方茶席、(4)模倣茶席(古代のもの)
茶席の内容:(1)緑茶、(2)ウーロン茶、(3)ジャスミン茶、(4)プーアル茶
茶席の形態:一人演出 数人演出 坐式演出 立式演出 膝付き演出
茶席の方法:コップ式(緑茶) 陶磁製茶碗式 紫砂壷セット式(花茶か緑茶)
「茶芸」の「茶道」に学ぶべきもの
茶芸が茶道に学ぶべきものは、もちろん、作法(型)です。茶芸には茶道のような精神世界を作りだす土台がないと思います。それと同じように、日本の茶道には中国の茶芸のような表現が現れないでしょう。茶道のような精神世界は中国人が受け入れるには精神的に難しい面もあるからです。しかし、「日本の茶の湯の姿、または形から生まれた心へ」あるいは「日本茶の湯の心から姿へ、または形へ」という、この形への執着心といった精神を学び、少しでも中国の茶芸における人間形成の役割を果たしてゆきたいものです。そういう意味において、「茶芸」の茶文化史における位置づけと今後のあるべき姿を、日本の茶の湯の世界のように、政策誘導面、人材育成面、広告宣伝面と文化研究面でも、大いに力を入れるべきではないかと考えられます。
お茶というものは、実に奥深いものです。しかし、一方では、たんに我々の生活に密着したお茶のイメージもあるでしょう。私たちの「茶」の字は、「草・人・木」を組合わせて、作り上げられています。これらの言葉は、お茶に秘められている中国人と日本人の知恵を端的に表現しています。
私はここで、まず茶芸とは一体何かを定義してみます。茶芸とは、すなわちお茶の入れ方(茶選び、水貯え、道具整えなど)と、美味しいお茶の飲み方(色、香、味、形という諸要素の美)、並びに立派な茶芸人の育成(教養のある人間形成)という三要素を備えた生活的かつ健康的な総合芸術です。
ご承知のように、中国にはいろいろな文化的要素がありますが、ただそれを仕上げていく人がそう多くはいないような気がします。この点においては、日本の研究者の方々に学ぶべきところがあると思います。つまり日本の学者はこれまで西洋的学術研究方法で、「一から二が生まれる」という細分化する方法で、自国の文化の細部にまで分析を加え、たえず新しい研究成果が積み上げられてきているという点です。それに対し、中国の場合の学術研究法は、正に「二から一が生まれる」かのような、たいへんスケールの大きな観点で物事を論じていきます。
お茶はシルクロードと同じように長い道程を歩んできました。それで「ティー・ロード」とまで呼ばれるようになっています。この「文明植物」があるからこそ、我々の飲食生活は、一層豊かになりました。そしてまた、我々一人ひとりの人間が、正にこのお茶の色、香りと味を毎日楽しみながら、それに秘められる「和美」の精神と対話しているのではないかと感じてなりません。
お茶って本当にいいですね。茶寿の108歳を目安に、もっともっと長生きできるよう毎日おいしいお茶を入れて、楽しいお茶を忘れずに飲みましょうね、ありがとうございました。
 
日本茶

茶の歴史
茶道は代表的な日本文化の一つであるが、茶の元祖は中国である。我が国にも自生する茶の木は存在したがその葉を利用する方法は知られておらず、飲料としての茶は中国で生み出され、日本に伝来したのが始まりとされる。中国での茶の歴史は、前漢の宣帝の時代(紀元前1世紀)の史書に初見されるが、実際にはそれよりはるか昔から茶は用いられていたと考えられ、中国雲南省西南部あたりが茶の原産地であろうという説が近年有力である。現在でも四川省・貴州省・雲南省には千年以上の樹齢を持つ原生大茶樹が生息しており当初は飲料ではなく煎じ薬として伝わっており、一般大衆の利用できるものではなかったようだが、唐代の書物には喫茶法も記載されており、少なくとも飲料としての茶は中国の一部では紀元前500年頃の春秋時代には普及していたものと見られている。
一方日本では8世紀の聖武天皇の時代に「僧が茶を広めた」という記録があることから、遣唐使らの手によって奈良時代以降にもたらされたと考えられている。中国の文物を珍重した朝廷は茶園を設けるなど積極的に茶の習慣を取り入れるなどしたものの、当時の茶は、加熱・乾燥という工程の後で発酵させた「団茶」と呼ばれるものであったために、その渋さと独特の風味のせいで10世紀の半ば頃からしだいに茶を飲む風習は廃れていった。再び盛んになったのはそれから300年ほども後の鎌倉時代のことで、二度にわたって宋へ出向いた禅僧・栄西によって脚光を浴びるようになったのだという。臨済宗の祖でもある栄西は13世紀初頭に「喫茶養生記」を著して茶の作法や思想を説き、「茶の祖」とも呼ばれている。これをきっかけに茶はまず禅僧の修行や寺院の生活に欠かせないものとして定着し、後の鎌倉・南北朝時代に茶の湯文化として発展した。
闘茶
鎌倉時代の後期には茶の栽培も全国に広がりをみせ、各地に名産地茶が誕生してきた頃には茶を飲んで産地を競って当てる「闘茶」という遊技が中国・宋から伝わった。当初は上流階級の遊技であったが庶民にも流行し、しだいにギャンブル性を帯びたので、中には家屋敷まで賭ける者も出てきて乱世の一因にまで発展したという。そして南北朝時代の1336年、足利幕府により闘茶の禁令が出されて以降徐々に衰退していったのに対し、賭博性のない茶の湯の文化(茶道)が興隆を極めることになる。
[お茶の作法]
茶の作法は禅の影響を強く受けた日本独自の文化である。我が国に伝わった当時の茶は極めて貴重なものであったが、平安初期の僧・空海が中国から持ち帰った茶を栽培したことによって、禅寺で修行する僧が修行の一部として飲用を習慣化したという。後の茶道のマナーは僧が茶を飲む際の作法が基となって定着したもので、武家階級の唐物趣味の会所の茶から和物の茶道具を使用し、四畳半茶室を創出して草庵茶の湯を考案したのは室町時代の村田珠光である。その後、草庵茶の湯に哲学的な思考性や美の世界への審美性を加え「侘茶」を完成させたのが、安土桃山時代の茶人で茶の湯の大成者・千利休である。その子孫、表・裏・武者小路千家などの流派に分かれて今日まで引き継がれている。ここで茶道とは何たるかを取り上げると長くなってしまうが、茶事を簡略に言えば「自然体で季節感を大切にし「もてなし」「しつらえ」の美学を基本にした文化」だと言われる。「楽茶碗」に表されるように極限まで無駄を排し、目に見えない美・たたずまいを追求した利休の思想は、現在の茶道に息づいている。一方で、抹茶(挽茶)を用いる茶道に対し、煎茶を用いる「煎茶道」も江戸時代に始められた。煎茶が大衆化するに伴って煎茶道は廃れたが、文人の間で広く流行していたという。
一番茶と二番茶
一番茶は春の初めに摘み取ったお茶のことをいい、その後に生えてきたお茶のことを二番茶という。一番茶は4月末ごろから5月の初めにかけて摘み取られるのが一般的で、いわゆる新茶とも呼ばれる。冬の寒い時期は茶の芽は成長しないために栄養分は根などに蓄えられているが、その栄養分が春の暖かさのなかで少しずつ葉に送られて柔らかく成長していくときが一番茶の収穫の時だという。二番茶は、一番茶を摘み取っておよそ45日程度で摘み取るが、気温も高く日差しも強くなっているため成長は早く、栄養分も一番茶ほどはない。一番茶と二番茶の大きな違いはこの栄養の量と成長のスピードの差にあるといわれる。また、一番茶には二番茶と比べてお茶の旨み成分のアミノ酸がかなり多く含まれているために、一番茶の方がおいしいお茶だという。一方、二番茶には旨み成分のアミノ酸は少ないもののカテキンが多く含まれているので、一番茶に比べて健康にいいお茶といえる。この栄養成分の違いも、一番茶と二番茶の大きな相違点である。
茶の種類
国内で生産されるお茶の大半が緑茶だが、製造方法などによってさまざまな種類に分類される。前述の「一番茶」「二番茶」は摘み取る時期による分類だが、自然光下で栽培する一般的な茶に対して20日前後の被覆栽培を行ったものは「玉露」というし、蒸した煎茶に対して釜で炒る「釜炒茶」があり、加工の段階では「番茶」「ほうじ茶」「抹茶」「玄米茶」などその分類は多種多様である。近年は緑茶のみならず烏龍茶や紅茶、ハーブティーなども広く愛飲されており、特にペットボトル飲料が登場して手軽に飲めるようになったこともあり、茶の種類は急増している。
お茶文化
ちゃぶ台、茶柱、お茶漬けなど、お茶は暮らしの中で多くの文化を築いてきました。今もどこかの茶の間に残るお茶話あれこれ。
お茶の間
テレビの画面から「お茶の間のみなさん」とよびかけられることがある。ふだん何気なく聞き流してしまうこの「茶の間」というもの、いったい何なんだろう。マスコミが「お茶の間向け」というとき、そこには、ほどほどの娯楽性をもった万人向けの内容といった調子がこめられている。いずれにしても、「茶の間」は「家族の団らん」とイコールのものとしてとらえている。
ひところ、テレビのホームドラマでは、しばしば茶の間での食事シーンが出てきた。考えてみれば、家族が会話する場所としての茶の間がいかに大きな位置をしめているかがわかる。茶の間を除いて家族がつながる場というものは考えられないほどだ。
家族と茶の間
それでは、なぜ家族団らんの場所を「茶の間」と呼ぶようになったのだろう。茶の間は、茶の湯が行われる茶室が変化していったものなのだろうか。それにしては、茶の間のくつろいだ雰囲気にくらべ、茶室のあらたまった心構えは、同じ「茶」ということばでありながら、むしろ対極をなす空間のように感じる。
「お茶が入りましたよ」の一声で、それまで別のことをしていた家族が、茶の間という一所に集まり、談笑し互いに心通わせる。茶の間にはそうした温かさがある。
茶の間のルーツ
茶の間のルーツをたどっていくと、かつての囲炉裏にいきあたるという。たしかに囲炉裏の風景と茶の間の温かさには共通点が見い出せる。昔から囲炉裏は日常生活の中心であった。囲炉裏を核として人々は語り合い、食事をし、そして茶を楽しんだ。茶の間が囲炉裏であるとすると、茶室は家でいえば奥座敷、客間にあたる。
秦恒平氏が茶の間の「茶」の意味についてこう述べている。
「一期一会(いちごいちえ)の「会」の文字には、本来、人と人との寄り合う陽気や愉快や、また何事かを共に成そうという共感や決意が託されている。そういう共感や決意の原質を日本人が一家屋の部分に繋ぎとめてきたのが「茶の間」なのであって、そのもつ意義や機能が言わず語らずに認められつづけていればこそ、今日も昨日もテレビは「茶の間のみなさん」と語りかけてくる。「茶の間」の茶のはたらきが、今日もなお日本人の暮らしに十分な存在理由をもっている証拠である。」
つまり、茶の間の「茶」は、もう単に飲み物を指しているのではなく、長い間培ってきた心jの絆にまでなっているという。人に街で声をかけるとき、「お茶でもいかが?」と自然に言う。お茶飲む時間をともにすることで、親しみを感じあうことを誰もが知っているからこそ使われている表現なのだといえる。
 
茶道

茶は稲作や仏教などと共に大陸文化の一つとして日本に伝えられたもので、禅の修行に用いられたことから最澄や空海、永忠、そして栄西禅師などがその伝来と普及に関わったと考えられている。なかでも栄西は持ち帰った茶の種を京都・栂尾(とがのお)の明恵上人に贈ったことから同地では上質な茶を得るようになったという。以下、茶道の歴史に関するものを挙げてみた。
闘茶
鎌倉初期に京都の栂尾(とがのお)で始まった茶の栽培が各地に普及すると、それぞれの産地によって異なる茶の比較が生じ、栂尾産を「本茶」、その他の産地のお茶を「非茶」として飲み比べをする遊びが上流階級の間に流行した。これを闘茶といった。「本茶」と十種類の「非茶」を飲み比べをする茶飲みゲームだが、会場を豪華に飾り付け、香木や砂金、鎧、太刀など高価な懸賞物と酒宴まである華美でぜいたくな遊びであったという。
茶の湯の誕生
こうした茶会の風潮に疑問を感じた僧・村田珠光が、栄西が広めた茶の薬効と味わいを楽しむ禅宗の質素で簡潔な喫茶法を主張し、禅と茶の精神を統一させた“侘び茶”を説いた。また、茶人としても高い見識を認められた珠光は、心の在り方や道具に対する態度を明確に示した。少人数の客を茶席に招き、心を込めてもてなすことを何よりとする侘び茶は当時の喫茶の世界に大きな影響を与え、後の“茶の湯”の発展につなげた。
武野紹鴎
わび茶は珠光に次いで世に出た武野紹鴎が完成させた。応仁の乱で京都が荒廃すると戦乱を避けた人々は自由都市堺の地へと集まるようになり、上洛して村田珠光の流れを継ぐ茶人について茶の湯を学んでいた紹鴎も31歳のときに堺に戻り、剃髪して紹鴎と号して茶の湯に専念した。大徳寺派南宗寺集雲庵主、南坊宗啓の書『南方録』によれば、「四畳半座敷所々あらため、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床のぬりぶちを、うすぬり、または白木にし、これを草の座敷と申されしなり。鴎はこの座に台子は飾られず。弓台をかざられたる時は、かけ物、置物、珠光同然。袋棚の時は、床に墨蹟、花入の外は置かれず。」とあるように、紹鴎は藁屋根の四畳半に囲炉裏を切って茶堂とし、日常品を配置する侘び茶の形を定着させた。このように、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびという精神をもった「道」に昇華していった。
千利休
信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖として“茶聖”と称される千利休は、天文7年(1538)、17歳で東山流の書院茶をくむ北向道陳に書院・台子の茶を学び、道陳の紹介で武野紹鴎の弟子となった。今井宗久、津田宗及とともに信長によって茶頭(さどう、茶の湯の師匠)に重用され、信長の没後は豊臣秀吉によって重用されて秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りした。しかし、後年秀吉の怒りをかって切腹して生涯を閉じた。「利休」の号は、63歳のとき、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を取り仕切った際に天皇からを賜ったもので、彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。
天下人の茶の湯
16世紀後半から17世紀前半にかけて、茶の湯はすこぶる華やかな時代を迎え、その前半は、千利休によってわび茶が大成された。永禄11年(1568)に上洛した織田信長は、名物狩りを行って茶の湯の名物道具を蒐集したり、「御茶湯御政道」と称して、特定の家臣に茶の湯を許可したりした。こうして茶の湯は信長によって正式の武家儀礼としての資格を担い、茶の湯に政治的権威が与えられるようになった。茶の湯の政治化は、豊臣秀吉政権のもとで最高潮を迎え、天正13年(1585)の禁裏茶会、同15年の北野大茶の湯は、秀吉の政治の舞台を茶の湯が華々しく飾った象徴的な出来事であった。こうした秀吉の大茶会を演出したのが茶堂の利休であった。徳川幕府の時代になると茶の湯の政治性は希薄になり、利休なきあと、古田織部、小堀遠州、片桐石州が徳川将軍家の茶の湯指南として活躍したが、遠州の死によって天下人の茶の湯の時代は終わりを告げた。茶の湯は明治時代に入ると衰退の一途を辿ったが、昭和15年(1940)ごろから数奇者に代わる家元を中心とする流儀の茶の湯が大きな発展を見せ始め、近代の女子教育のなかで茶の湯がとり入れられたこともあって隆盛となった。
 
茶の湯史

花は野にあるやうに
茶花とは、茶室に生ける花を云いますが、茶室にも草庵、書院、広間の別があって、これらの各室に生けられた花を茶花と称しますが、普通茶花と云えば草庵式の茶室に生けられた花を云います。
茶の湯の正式の催しを「茶事」といい、茶事には茶事七式といって「正午」「朝茶」「夜咄」「暁」「飯後」「臨時」「跡見」の茶事がありますが、その中で正午の茶事が一番規格の正しい茶事という扱いになっています。この正午の茶事を例に茶室における花の扱いを見てみます。
客が席入したところで亭主が挨拶に出て「炭点前」をしたあと「懐石」を出し、最後に菓子をさしあげ、そこで客は一旦茶室を出ます。これを「中立(なかだち)」と云います。亭主は茶室の飾り付けを変え、客にもういちど茶室に入っていただきます。
これを「後入(ごいり)」と云い、このあと「濃茶」「薄茶」を差し上げます。
茶室の床には「中立」までは「掛物」だけが掛けてあります。そして「中立」の間に「掛物」をとったあとの床壁にある「中釘(なかくぎ)」に「花入」を掛け、そこに花を入れます。
このように茶室においては掛物と花を同時に飾らないのが正式な扱いで、これに対し両方一緒に飾るのを「双飾り(もろかざり)」と云って、略式の扱いとするしきたりで、「双飾り」の場合には、掛物が長いものでしたら花入は床柱に打ってある釘に掛け、横物の場合には花入は下に置くというあしらいをします。
また「中立」までの茶室の窓には簾が掛けてあり、部屋の中は仄暗くなっています。「後入」の時も、その仄暗いなかに入っていくわけですが、客が座った頃より外から簾をはずしていきます。すると少しずつ部屋の中が明るくなり、床に掛けた花がライトを浴びたように少しずつ浮かび上がってくるのです。
その茶室の花を入れるのも、いわゆる生花とは異なります。
千利休の口伝秘事を書きとどめたとされる「南方録」に、「茶は服のよきやうに点て、炭は湯の沸くやうに置き、花は野にあるやうにさて夏は涼しく冬暖かに、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ。」という言葉があります。これは後世「利休七則」あるいは「利休七ケ条」と呼ばれ、茶の湯の極意を現しているとされています。
「花は野にあるやうに」という教えは、野原に咲いているそのままの眺めを再現することではないのです。「あるように」ということは、「あるままに」ではないのです。つまり、その花が咲いていた状態を感じさせる姿に生けるということであり、咲いていた状態を再現することではありません。
同じく「南方録」に「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝、かろくいけたるがよし。勿論、花によりてふわふわといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いや也。四畳半にも成りては、花により二色もゆるすべしとぞ。」とあるように、「一種二枝」というぎりぎりまで絞り込んだ花を、作為的なものを排しながらも、人手を加えることにより、「花入に入れた花としての自然」を生み、そこに野に咲く花の本質を表現することにより、かえって自然の花の美しさを際立たせるものなのです。
茶の湯前史

唐の時代に茶聖と呼ばれる陸羽(733-804)が書いた「茶經」には「茶之爲飲、發乎神農氏」とあり、喫茶は神農(しんのう/紀元前2780年頃)に始まるとしています。また神農は「食経」を著し「荼茗久服、令人有力ス志。(荼茗久しく服すれば、人をして力あらしめ、志を悦ばしむ)」との記載があったとしています。
「神農本草経」には「神農嘗百草、日遇七十二毒、得荼而解之」(神農が100種類の草を食べて、ある日72種の毒に冒されたが、茶で解毒する事ができた)と記載されています。
「神農本草経」は、2世紀後半には原型が整理されていたと考えられていますが、後代になると、薬数や条文などに相違のある多くの伝本が生じていたらしく、陶弘景((とうこうけい/456-536)が、西暦500年前後に、当時伝えられていた古書をまとめ、計730薬の「神農本草経」3巻を編纂します。その上巻は凡例と薬物論である序例、中・下巻は薬物の各論で、玉石・草木などの自然分類中に上中下の3品分類が併用されており、本来の「神農(本草)経」から採用された365薬とその条文は朱筆で、「名医別録」という少なくとも730薬以上を収録していた薬書より引用した365薬と条文は墨筆で記し、両者が区別されていました。陶弘景はさらに全体にわたり自注を加え「本草集注」3巻とし、のち7巻本に改められました。
周公(-BC753)の「爾雅(じが)」と言う辞書に「荼(と)。苦菜なり」「〓(木賈)(か)。苦荼なり」という記載があり、郭璞(かくはく:276-324)の「爾雅注」には「樹小似梔子、冬生葉、可煮羹飲。今呼早取爲荼、晩取爲茗、或一曰〓(上艸下舛)、蜀人名之苦荼」「樹は小さく、梔子(くちなし)に似る、冬に葉を生ず、煮て羹(あつもの)として飲むべし。今、早く取りしものを呼びて荼(と)となし、晩く取りしものを茗となす、一に〓(上艸下舛)(せん)と曰く、蜀人はこれを苦荼(くと)と名づく」とあり、茶を煮てスープのように食べたものと思われます。
孔子(BC551-BC479)が古来の詩のなかから300編を選んだと伝えられる中国最古の詩集「詩経」に「誰謂茶苦、其甘如斉」と茶の記述があり、晏嬰(あんえい/-BC500)の「晏子春秋」には「食脱粟之飯,炙三弋五卵,茗茶而已」とあり、この時代に茶がある程度の広がりを見せていたことがわかります。
王褒(おうほう)の、漢代の神爵三年(BC59)正月十五日の日付のある「僮約(どうやく)」(奴隷との契約文)に「烹荼盡具(烹茶、具を尽くす)」(茶を煮る道具を整頓すること)、「武陽買荼(武陽で茶を買う)」(武陽で茶を買うこと)とあり、武陽まで荼を買いに行くことが奴隷との契約文に入っていることから、既に当時、茶が商品となっていたことがわかります。ただ「僮約」自体は、王褒が下宿した楊恵という未亡人の便了という奴隷が、酒を買ってくるようにと命じられたのに対し墓を守る契約で買われたので酒を買う事はできないと抗したのに対し、王褒は一万五千銭をもって楊恵から便了を買い取り、便了を懲らすため「晨起早掃食了洗滌」(早く起きて掃除し食べ終わったら洗い物)と朝から晩までの百役を課し、背けば笞一百という契約を作り、あまりのことに便了が始めから酒を買いに行けばよかったと嘆くという、戯文です。
三国時代(220-280)の魏の国の張輯(ちょうしゅう)の著した「廣雅(こうが)」という字書には、「荊巴間、採葉作餅、葉老者、餅成以米膏出之。欲煮茗飲、先炙令赤色、搗末置瓷器中、以湯澆覆之、用葱、姜、橘子〓(上艸下毛)之。其飲醒酒、令人不眠。」(刑巴(けいは)の間、葉を採り餅(へい)と作す、葉の老いたるものは、餅成するに米膏(べいこう)を以って之を出(つく)る。茗を煮て飲まんと欲すれば、先ず炙(い)りて赤色ならしめ、末に搗(つ)きて瓷器(じき)の中に置き、湯を以って澆覆(ぎょうふく)し葱・薑・橘子を用いて之を混ぜる。其れを飲めば、酒を醒まし、人を眠らざらしむ。)(荊(荊州、湖北省)と巴(四川省重慶地方)の間では、葉を採集して餅を作る。老いた葉は米の糊で固めて餅にする。茗を煮て飲もうとするには、まず赤色になるまで、火で炙り、、臼で搗いて磁器に入れ、お湯で漬して戻し、葱、生姜、みかんの皮を混ぜる。これを飲むと、酒の酔いが醒め、眠れなくなる)というように、茶葉を餅状に成型し、飲む時は、まず臼で搗いて粉末にして、それを磁器の器に入れ湯を指し、薬味をいれて飲むようです。これは後述する「茶経」にいう飲み方とあまりかわりません。
唐の封演の「封氏聞見記」巻六に「茶早采者爲茶、晩采者爲茗。本草云、止渇令人不眠。南人好飲之、北人初不多飲。開元中、泰山靈岩寺有降魔禪師。大興禪教。學禪務於不寐。又不夕食、皆許其飲茶。人自懷挾、到處煮飲。從此轉相倣效、遂成風俗。自鄒、齊、滄、棣、浙至京邑。城市多開店舖、煎茶賣之。不問道俗、投錢取飲。其茶自江淮而来。舟車相継、所在山積、色額甚多。楚人陸鴻漸爲茶論、説茶之功效并煎茶炙茶之法。造茶具二十四事、以都統籠貯之。遠近敬慕、好事者家藏一副。有常伯熊者、又因鴻漸之論広潤色之。於是茶道大行、王公朝士無不飲者。」「茶は早く採るものを茶といい、晩く採るものを茗(みん)という。「本草」には、渇きを止め人をして眠らざらしむとある。南の人は好みてこれを飲み、北の人は初め多くは飲まず。開元(713-741)中に泰山の霊厳寺に降魔師がいて、大いに禅を興した。禅を学ぶには、寝ずに務め、夕食を取らないが、茶を飲むこことは許された。そのため自ら懐中に挟み、いたるところで茶を煮て飲んだ。このことにより転じて倣うようになり、ついには風俗となった。鄒、齊、滄、棣から遂に都にまで及んだ。都の城内には多くの店舖が開き、茶を煎じて売られた。道俗を問わず、銭を出して茶を飲む。その茶は江淮から来、船や車で続々と運ばれ、至るところに山積みされて、種類も非常に多い。楚の人の陸鴻漸が茶論を著し、茶の効用や煎茶・炙茶の法を説き、茶具二十四事を造り、都統籠に貯えた。遠近敬慕し、好事者は家に一副を藏した。常伯熊という者があって、鴻漸の論によって広くこれを潤色したので、茶道が大いに流行し、王公・朝士で飲まない者はいなくなった。」とあるように、唐代(618-907)になると、禅院での喫茶の習慣が、中国全土に広まり、一般大衆の間にも喫茶の風が浸透し、玄宗の開元年間(713-41)のころから、長安の街には茶房が現れます。また「茶道」の語は、この「封氏聞見記」に初めて見えます。
そのようななかで、陸羽によって上元元年(760)前後に「茶經」が著されます。日本では奈良時代に当たります。「茶者、南方之嘉木也」(茶は、南方の嘉木なり)で始まる茶経は、唐代と唐代以前の茶に関する知識を系統的にまとめたもので、宋代の陳師道(1053-1101)が「茶經序」に「夫茶之著書、自羽始、其用於世、亦自羽始。羽誠有功於茶者也。」(茶について本を著すのは陸羽から始まる。茶が世に使われるのも陸羽から始まる。陸羽は誠に茶の功労者だ)とあるように、陸羽は「茶聖」「茶神」と尊ばれるようになります。
「茶經」の「三之造」に「其日、有雨不采。晴有云不采。晴采之。蒸之。搗之。焙之。穿之。封之。茶之干矣。」(其の日、雨あらば採らず。晴れるも雲あらば採らず。晴れてこれを採る。これを蒸し、これを搗き、これを焙り、これを穿ち、これを封ずる。これ茶の干く。)とあり、採取された茶葉は蒸され、杵と臼でつき、型に入れて固められ、焙炉(ほいろ)であぶり、穴をあけて封をして、茶が乾けば出来上がるという、茶葉を圧搾して固形にする「餅茶(へいちゃ)」で、その餅茶を、炙って、薬研で挽いて粉末にし、釜の湯の中に入れ、竹箸でかきまぜ、碗に注いで飲むというのが、唐代の茶でした。
晩唐には郷貢進士の王敷が「茶酒論」という、擬人法で茶と酒に各々の効能を述べさせ、優劣を争わせるという滑稽本を著すまでになっていました。
わが国においては、仏教の伝来とともに喫茶の風習を早くから受け入れたと思われ、奈良時代(710-84)の「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」に「荼(と)十五束」や「荼七把」などの文字があります。
一条兼良(1402-81)の「公事根源(くじこんげん)」に、「二月八月に大般若経を百敷にて講ぜらる。四ケ日の事にて、第二日には引茶とて僧に茶を給ふ事あり。天平元年(729)四月八日に始めらる。貞観の比ほひは、毎季行はれけるとかや。」とあり、「東大寺要録」に行基(668-749)が「諸国に堂舎を建立すること四十九ヶ所、並びに茶木を植う」とあります。
延暦24年(805)に唐から帰朝した最澄が茶種を唐より持ち帰り比叡山の麓・坂本の地に植えたという伝説(「日吉社神道秘密記」)や、天保4年(1833)に書かれた「弘法大師年譜」には「大師入唐帰朝の時、茶を携え帰って、嵯峨天皇に献ず」とあり、大同元年(806)に帰朝した空海も中国から茶を持ち帰ったことが伝えられています。
正史に現れたものとしては「日本後記」に、弘仁6年(815)4月嵯峨天皇(786-842)に大僧都永忠(だいそうずえいちゅう/743-816)が近江の梵釈寺において茶を献じたことが、「廿二日、近江国滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠、護命法師等、衆僧を率い、門外に迎え奉る。皇帝輿を降り、堂に上り、仏を礼す。更に梵釈寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。皇太弟および群臣、和し奉るもの衆し。大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す。」と記されています。嵯峨天皇は同6月に令して、機内および近江・丹波・播磨などの諸国に茶を植え、毎年献上することとしています。
弘仁5年(814)撰上の嵯峨天皇勅撰漢詩集「凌雲集(りょううんしゅう)」に「夏の日に左大将軍藤冬嗣の閑居院」と題された御製の詩の一節に「詩を吟じて厭わず香茗を搗く、興に乗じて偏に宜しく雅弾を聴くべし」とあり、「文華秀麗集」(818)には、大伴親王(後の淳和天皇)が詠まれた詩の一節に「琴を提げて茗を搗く老梧の間」とあり、天長4年(827)の「経国集」には、嵯峨天皇の宮女が「出雲臣太守の茶歌に和す」として詠んだ詩には「山中の茗、早春の枝。萌芽を摘み採って茶とする時。山傍の老は愛でて宝となし。独り金鑪に対い炙(あぶ)り燥(かわ)かしむ」、などと当時の上流階級が茶を愉しんでいる詩が残されています。
茶の湯の始まり

日本における茶の湯は、鎌倉時代に日本臨済宗の開祖栄西(1141−1215)が臨済禅とともに抹茶法を伝えたことに始まるということになっています。栄西の伝えたのは宋代の茶です。
「吾妻鏡」の建保2年(1214)2月4日の条に、「将軍家(実朝)聊か御病悩。諸人奔走、但し是れ若しくは去夜、御淵酔の余気か。爰に葉上の僧正(栄西)、御加持に候するの処、此事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一戔召し進めらる。而して一巻の書を相い副え、之を献じ令しむ。茶徳を誉める所の書也。将軍家其の感悦に及ぶ。」とあるように、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が二日酔いに悩んでいた折に一杯の茶を進め、その折に「喫茶養生記」も献じられたとあります。
同書の「六者、明調様章」に、「見宋朝焙茶様、朝採、即蒸、即焙之。懈怠怠慢之者、不可為事也。焙棚敷紙。紙不焦許誘火入、工夫面焙之。不緩不急、終夜不眠、夜内焙上。盛好瓶、以竹葉堅閉、則経年歳而不損矣。(宋朝にて茶を焙る様を見るに、朝に採って即ち蒸し、即ち之を焙る。懈怠怠慢の者はなすべからざる事なり。焙る棚には紙を敷く。紙の焦げざる様に火を誘い、工夫して之を焙る。緩めず。怠らず、終夜眠らずして、夜の内に焙り上る。好き瓶に盛り、竹葉を以て堅く閉じれば、則ち年歳を経ても損ぜず)」とあります。
これをみると基本的なところは現代の碾茶(てんちゃ:これを石臼で挽くと抹茶になる)の荒茶(あらちゃ:茎や葉脈を取り除く精選前の茶)の製法と同様です。
ここに見える製法は、千利休と同時代に日本に滞在した宣教師ジョアン・ロドリゲス(JoaoRodriguez,1561-1634)が「日本教会史」のなかで記述した、宇治における碾茶(てんちゃ=抹茶にひく前の葉茶)の製法とも基本的には同様のようです。
それによると、焙炉(ほりろ)は蓋(ふた)のない深い木製の箱ともいうべきもので、中で炭をおこす。それに灰をかぶせて火勢を弱め、上には細竹の格子をかけて厚紙を敷き、蒸した茶葉を投げ込んで、焦がさないように絶えず紙を動かしながらゆっくりあぶる、とあり、栄西の見たであろう製茶法が千利休の時代と同様であったとはいえるようです。
しかし、「喫茶養生記」の「一、喫茶法」には、「白湯、只沸水云也。極熱点服之、銭大匙二三匙、多少随意、但湯少好、其又随意云云。(白湯、沸いた水をいうなり。極めて熱きを点て之を服す。銭大の匙にて二・三匙。多少は意に随う。但し湯は少なきを好しとす。其れも又意に随う云云)」とありますが、粉末を入れて湯を注ぐ飲み方は、抹茶のみならず餅茶も同様ですので、この記述だけでは抹茶か餅茶かは分かりません。
茶筅の使用も確認は出来ません。文献上茶筅が登場するのは、北宋徽宗皇帝の「大観茶論」(1107年)に、「筅、茶筅以筋竹老者為之。身欲厚重、筅欲疏勁、本欲壯而未必眇、當如劍瘠之状。蓋身厚重、則操之有力而易於運用。筅疎勁如劍瘠、則撃拂雖過而浮沫不生。」(筅、茶筅は、筋竹の老いたもので作る。身は厚くて重く、筅は疏くて勁いのがよい。筅の本は壮く、末は眇くなければならない。そして剣脊状にすべきである。実が厚く重いと、操るときに力が入って運用いやすく、筅が疎くて勁く剣脊のようであれば、撃払がすぎても浮沫が生じないからである。)とあるのが初めです。
それ以前には、宋の蔡襄(1012-1067)の「茶録」に、「茶匙要重、撃拂有力、黄金為上、民間以銀鐵為之。竹者輕、建茶不取。」(茶匙は、重くなければならない。撃払に威力があるからである。黄金を最上とするが、世間では銀か鉄で作っている。竹は軽すぎ、建安の茶では使わない。)とあり、匙で点てていたことがわかります。
さらに遡って、唐代では陸羽の「茶經」の「四之器」に「竹〓(上竹下夾)或以桃、柳、蒲葵木爲之,或以柿心木爲之。長一尺、銀裹兩頭。」(竹夾は、或は桃や柳や蒲葵の木でも作る。或は柿木の芯でも作る。長さ一尺、銀で両頭を包む。)、「五之煮」に「第二沸、出水一瓢、以竹環激湯心、則量末當中心而下、有頃、勢若奔濤濺沫、以所出水止之、而育其華也。」(第二沸のとき、湯一瓢を酌み出し、竹夾で湯の中心をぐるぐる掻き回し、茶の粉を量って中心に落とす。しばらくして湯の勢いが大きな波が飛沫をそそくようになると、くみ出しておいた湯で之を止め、茶の華を育てる。)とあり、竹夾(竹箸)を用いていた事がわかります。
「大観茶論」が著わされるのは、栄西の入宋の前であり、このころまでには、抹茶を攪拌し、泡立てるための道具として唐代の竹夾(ちくきょう)、北宋の茶匙(ちゃさじ)にかわって、茶筅が使用され始めたことが窺えます。栄西が茶筅をもって茶を点てていたとしても矛盾はありません。
ただ、南宋の「茶具図賛」(1269年)には「竺副帥」として茶筅の絵が載せてありますが、これは現在あるいは千利休の時代の茶筅とは形状が異なります。現在私たちが使っている外穂・内穂に分けられた茶筅は、村田珠光の依頼で高山宗砌が開発したといわれています。利休もこの形状の茶筅を使っています。仮に栄西が茶筅を使って抹茶を建てたとしても、それは利休時代のものとはかなり趣を異にしたものだったでしょう。
栄西が創建した建仁寺では、毎年4月20日の栄西の誕生を祝する法要(開山降誕法要)に「四頭(よつがしら)茶会」と呼ばれる茶会が開かれます。
四頭とは「4人のお正客」を置くことからつけられ、1人のお正客につき8人のお相伴がつくため総勢36人で行われます。大方丈の室礼は、客殿の正面に、栄西の頂相を本尊として、脇絵としては左右に水墨画の「龍虎図」の三幅対がかけられます。前卓には、香炉・花瓶・燭台の三具足を飾り、部屋の中央の卓には大香炉が置かれます。四人の正客と相伴客が部屋の周囲に敷かれた畳に着席すると、まず侍香の僧が献香し、つづいて「供給」と呼ばれる四人の僧が、すり足で入ってきて縁高に入れられた菓子とあらかじめ茶の入れられた天目茶碗を順次客に配ります。そののち僧は浄瓶(ジンビン)の先に茶筅をはめたものを両手で持って入室し、正客の前では胡踞(左立膝の姿勢)低頭して、天目台にのせた茶碗を客に持たせたまま、茶筅を注口から抜き、茶筅を横にして注口にあてがい、浄瓶から天目茶碗に湯を注いだあと、浄瓶を左手で持ったまま右脇下に抱え込むようにして右手の茶筅で茶を点てます。相伴客の前では立ったまま中腰で同じように点てます。客も天目台ごと茶を喫します。
仏前飾りがなされ、立ったまま点茶を行なう茶礼は、禅院茶礼の古い形態だと考えられています。ただ、栄西がこのようにして茶をたてたか否かはわかりません。ただ、室町後期の武家故実家の伊勢貞頼の大永8年(1528)奥書「宗五大艸紙」に、「菓子はふち高にすハり候也。七種又ハ五種、長老の前ハけんさんの上に、ふち高をすへて被出候。惣ヘハ菓子の臺にすへて、持て被出候を一づつ御取候。天目に茶を入候て盆にすへて持て出候。是を一ヅツ被取候。扨とうびんに湯を入、口に茶せんをさして持て、湯を天目に入て、そとふりて被通候。喝食小僧の役にて候。立ながら茶せんをふられ候。」とあり、同様に茶をたてていたことが知られます。
禅院における喫茶儀礼は、宋の慈覚大師宗〓(臣責)が崇寧二年(1103)に撰した「禅苑清規」に詳しく定められています。
「禅苑清規」は、現存する最古の清規で、唐の百丈懐海禅師(749-814)が大小乗の戒律を博約折衷して禅院の規矩を初めて定めた「百丈清規」を整理し、当時行なわれていた法式を添加したものといわれます。建仁寺で栄西の高弟子明全に師事し、その後貞応2年(1223)渡宋して天童山景徳寺に入り、嘉禄3年(1227)帰朝し禅宗の一派である曹洞宗を開いた道元禅師(1200-1253)も「禅苑清規」を規範として、「典座教訓」(1237)「対大己五夏闍梨法」(1244)「弁道法」(1245)「知事清規」(1246)「赴粥飯法」(1246)「衆寮清規」(1249)のいわゆる「永平清規」を制定し、曹洞宗大本山永平寺の規則を定めます。
また、嘉貞元年(1235)渡宋し杭州径山万寿寺に入り、仁治2年(1241)帰朝した聖一国師円爾弁円(1202-1280)も帰朝の際一千余の典籍を持ち帰り、「禅苑清規」をもとに臨済宗東福寺派大本山東福寺の規則を定め、そのなかに喫茶の儀礼も含まれています。
「禅苑清規」には、多くの茶礼についての定めがありますが、「赴茶湯」として住持などが多くの僧を招いて特別に行う茶礼について、「院門特為茶湯。禮數慇重。受請之人不宜慢易。既受請已。須知先赴某處。次赴某處。後赴某處。聞鼓版聲及時先到。明記坐位照牌。免致倉遑錯亂。如赴堂頭茶湯。大衆集。侍者問訊請入。隨首座依位而立。住持人揖乃收袈裟。安詳就座。棄鞋不得參差。收足不得令椅子作聲。正身端坐不得背靠椅子。袈裟覆膝。坐具垂面前。儼然叉手朝揖主人。常以偏衫覆衣袖。及不得露腕。熱即叉手在外。寒即叉手在内。仍以右大指壓左衫袖。左第二指壓右衫袖。侍者問訊燒香。所以代住持人法事。常宜恭謹待之。安祥取盞〓兩手當胸執之。不得放手近下。亦不得太高。若上下相看一樣齊等則為大妙。當須特為之人專看。主人顧揖然後揖上下間。喫茶不得吹茶。不得掉盞。不得呼呻作聲。取放盞〓不得敲〓。如先放盞者。盤後安之。以次挨排不得錯亂。右手請茶藥フ之。候行遍相揖罷方喫。不得張口擲入。亦不得咬令作聲。茶罷離位。安詳下足。問訊訖。隨大衆出。特為之人須當略進前一兩歩問訊主人。以表謝茶之禮。行須威儀庠序。不得急行大歩及〓鞋踏地作聲。主人若送迴。有問訊致恭而退。然後次第赴庫下及諸寮茶湯。如堂頭特為茶湯。受而不赴(如卒然病患。及大小便所逼。即託同赴人説與侍者)。禮當退位。如令出院。盡法無民。住持人亦不宜對衆作色嗔怒(寮中客位并諸處特為茶湯。並不得語笑)。」とあります。
道元の「永平清規」では、喫茶についての記述はほとんどなく、「赴粥飯法」に「如堂内大坐湯、上床下床、並如此式。」(堂内の大坐湯の如き、上床下床、並に此の式の如し。)と、特為茶湯について「大坐湯」として、その語のみが見えます。
また、「弁道法」に「喫湯随意。或献湯時、寮首座就位而座。寮主焼香。然後行湯。寮首焼香時、大衆合掌。或寮主著〓(木叉)衣而焼香、或寮主塔袈裟而焼香。或衣住持人指揮、或衣寺院旧例。寮主焼香之法、先到当面、向聖僧問訊罷、歩寄香炉之前、右手上香罷叉手、右転身、還到当面問訊訖、叉手歩到上問之両板頭中間、問訊訖叉手右転身、経正面而歩到下間之両板頭中間、問訊訖叉手右転身、歩到正面、向聖僧問訊了叉手而立。然後行湯行茶。茶湯罷、又焼香問訊、行李如初。」(喫湯は随意なり。あるいは献湯の時は、寮首座は位に就いて座す。寮主焼香して、然して後に湯を行う。寮首焼香の時は、大衆合掌す。あるいは寮主著〓(木叉)衣にして焼香し、あるいは寮主塔袈裟にして焼香す。あるいは住持人の指揮により、あるいは寺院の旧例による。寮主焼香の法は、先づ当面に到り、聖僧にむかって問訊し罷んで、香炉の前に歩み寄り、右手に上香し罷んで叉手して、右に身を転じ、還って当面に到り問訊し訖って、叉手して上問の両板頭の中間に歩み寄り、問訊し訖って叉手して右に身を転じ、正面を経て下間の両板頭の中間に歩み寄り、問訊し訖って叉手して右に身を転じ、正面に歩み寄り、聖僧に向かって問訊し了って叉手して立つ。然して後に湯を行い茶を行う。茶湯罷んで、また焼香し問訊す。行李は初めの如し。)とあり、喫湯(薬石=夕食)に付随して行茶のあることが記されています。
よって、喫茶儀礼のことを、臨済宗では茶礼といい、曹洞宗では行茶といいます。
闘茶の流行

時代が下がって南北朝のころには、一定の場所に集まって茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である闘茶が流行しました。
「本」とは栂尾(とがのお)産の茶のことをさし、「非」とはその他の土地でとれた茶のことで、栄西の弟子であり京都・栂尾の高山寺の住職であった明恵上人は、ここで茶の栽培に成功し、それがきわめて良質であったために「本茶」と呼ばれるようになったためです。
「異制庭訓往来」には、「我朝名山者以栂尾為第一也仁和寺、醍醐、宇治、葉室、般若寺、神尾寺、是為輔佐此外大和室尾、伊賀八島、伊勢八島、駿河清見、武蔵河越茶皆是天下所皆言也」とあり、また、茶筅、茶巾、茶杓等の茶道具の名が出てくるから、当時、既に、今日で言う抹茶を用いる喫茶法が行われていたことが判ります。
「喫茶往来」に「そもそも彼の会所の為体、内の客殿には珠簾を懸け、前の大庭には玉沙を舗く。軒には幕を牽き、窓には帷を垂る。好士漸く来り、会衆既に集まるの後、初め水繊酒三献、次いで索麺、茶一返。然る後に、山海珍物を以て飯を勧め、林園の美菓を以て哺を甘す。其の後座を起ち、席を退き、或いは北窓の築山に対し、松柏の陰に避暑し、或いは南軒の飛泉に臨んで、水風の涼に披襟す。ここに奇殿あり。桟敷二階に崎って、眺望は四方にひらく。これすなわち喫茶の亭、対月の砌なり。左は、思恭の彩色の釈迦、霊山説化の粧巍々たり。右は、牧渓の墨画の観音、普陀示現の蕩々たり。普賢・文殊脇絵を為し、寒山・拾得面貌を為す。前は重陽、後は対月。言わざる丹果の唇吻々たり。瞬無し青蓮の眸妖々たり。卓には金襴を懸け、胡銅の花瓶を置く。机には錦繍を敷き、鍮石の香匙・火箸を立て、嬋娟たる瓶外の花飛び、呉山の千葉の粧を凝す。芬郁たる炉中の香は、海岸の三銖の煙と誤つ。客位の胡床には豹皮を敷き、主位の竹倚は金沙に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝り、四皓は世を商山の月に遁れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山によって眠る。白鷺は蓼花の下に戯れ、紫鴛は柳絮の上に遊ぶ。皆日域の後素に非ず。悉く以て漢朝の丹青。香台は、並びに衝朱・衝紅の香箱。茶壷は各栂尾・高尾の茶袋。西廂の前には一対の飾棚を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物を構う。中に鑵子を立て湯を練り、廻りに飲物を並べて巾を覆う。会衆列座の後、亭主の息男、茶菓を献じ、梅桃の若冠、建盞を通ぐ。左に湯瓶を提げ、右に茶筅を曳き、上位より末座に至り、茶を献じ次第雑乱せず。茶は重請無しと雖も、数返の礼を敬し、酒は順点を用うと雖も、未だ一滴の飲に及ばず。或いは四種十服の勝負、或いは都鄙善悪の批判、ただに当座の興を催すに非ず。将に又生前の活計、何事か之に如かん。盧同云う、茶少なく湯多ければ、則ち雲脚散ず。茶多く湯少なければ、則ち粥面聚まる云云。誠に以て、興有り感有り。誰か之を翫ばざらんや。而して日景漸く傾き、茶礼将に終わらんとす。則ち茶具を退け、美肴を調え、酒を勧め、盃を飛ばす。三遅に先だって戸を論じ、十分に引きて飲を励ます。酔顔は霜葉の紅の如く、狂粧は風樹の動くに似たり。式て歌い式て舞い、一座の興を増す。又絃し又管し、四方の聴を驚かす。夕陽峯に没し、夜陰窓に移る。堂上には紅蝋の燈を挑げ、簾外に紫麝の薫を飛ばす。そうそうの遊宴申し尽くさず。」とあり、茶室は「喫茶の亭」といい、二階建てで、四方に窓があり、室内は明るく、周囲には庭があって地面に白砂が敷かれています。
金閣、銀閣などもこのような茶亭であったと推測されています。
まず客が来るとはじめに酒を三献、つぎに索麺(そうめん)で茶を一杯、それから山海の珍味を出して飯をすすめ、つづいて菓子などでもてなし、このあと庭を眺めたり、木陰で休息をとったりし、やがて茶会の開始にともない二階へ上がるが、内部の壁にはさまざまな仏画の類が掛けられ、堆朱など渡来品の工芸品もあり、また、賞品として提供される珍奇な品々がいろいろと並べられていました。
机には金襴を懸け、客は豹の皮を敷いた椅子に坐っているといった豪華なものでした。
闘茶は四種十服、つまり四種類の茶を十回ずつ飲んで茶の本非を区別し、より多く正解であった者が勝ちとなるというものでしたが、闘茶が終わった後は、美肴が出て酒を飲み、管弦により歌ったり舞ったりという宴会が深夜まで続くというものでした。
「太平記」には、佐々木道誉(1296-1373)をはじめとする大名たちの闘茶の様子が「又都には佐々木佐渡判官入道々誉を始として在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽すに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧をして、皆曲ロクの上に豹・虎の皮を布き、思々の段子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双て坐し給へるに不異。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈とて、座の囲四方一丈に珍物を備ふなれば、其に不可劣とて、面五尺の折敷に十番の斎羹・点心百種・五味の魚鳥・甘酸苦辛の菓子共、色々様々居双べたり。飯後に旨酒三献過て、茶の懸物に百物、百の外に又前引の置物をしけるに、初度の頭人は、奥染物各百充六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置。三番の頭人は、沈のほた百両宛、麝香の臍三充副て置。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立たる鎧一縮に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くゝみたる刀に、虎の皮の火打袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様をかへ数を尽して、如山積重ぬ。」のように描かれています。
また、「本堂の庭に十囲の花木四本あり。此の下に一丈余りの鋳石の花瓶を鋳懸て、一双の花に作り成し、其の交に両囲の香炉を両の机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在るが如し。其の陰に幕を引き、曲りくを立双べて、百味の珍膳を調へ、百服の本非を飲みて、懸物山の如く積み上げたり。」というようなものまでありました。
なお、闘茶のやり方は利休の時代に改革されて茶かぶきといわれ、三種五服の茶会わせと称して今日に伝えられて、千家七事式のひとつに数えられています。
北山文化・東山文化

「山上宗二記」に「「夫れ、茶湯の起こりは、普光院殿(足利義教)・鹿苑院(足利義満)の御代より、唐物・絵讃等、歴々集まり畢んぬ。其の頃御同朋衆は善阿弥・毎阿弥なり。」とあるように、足利義満の金閣寺に代表される「北山文化」の時代になると茶室や茶会の趣向も次第に変化してきました。喫茶の亭と呼ばれた茶室も、このころは「会所」といわれましたが、これは歌合わせや連歌の会所の転化と思われます。道具の飾りつけはそう変化ないようですが、「古今和歌集」や「和漢朗詠集」の趣向をとり入れた風雅な闘茶となっています。
また、公家の茶寄り合いでは、茶の本非を当てることを目的としない、ささやかな茶事が開かれるようになります。
室町時代の歌人正徹(1381-1459)の「正徹物語」に「歌の数寄に付きてあまた有り。茶の数寄にも品々あり。先づ茶の数寄と云う者は、茶の具足をきれいにして、建盞・天目・茶釜・水差などの色々の茶の具足を、心の及ぶ程たしなみ持ちたる人は、茶数寄也。是を歌にていはヾ、硯・文台・短冊・懐帋などうつくしくたしなみて、何時も一績など読み、会所などしかるべき人は、茶数寄の類也。又茶飲みといふ者は、別而、茶の具をばいはず、いづくにても十服茶などをよく呑みて、宇治茶ならば、三番茶也。時分は三月一日わたりにしたる茶なりとも飲み、栂尾にては、是はとばたの薗とも是はさがざまの薗とも飲みしるやうにて、其所の茶と前山名金吾などの様に飲みしるを茶呑みといふ也。是を歌にては歌の善悪を弁へ、詞の用捨を存じ、心の正邪を明らめ悟り、人の歌をもよく高下を見分けなどせんは、いかさまにも歌の髄脳にとをりて悟りしれりと心得べし。是を先の茶飲みの類にすべし。さて茶くらひといふは、大茶碗にて、ひくつにても吉き茶にても、茶といへば呑みゐて、更に茶の善悪をも知らず、おほく呑みゐたるは、茶くらひなり。是は歌にては、詞の用捨もなく、心の善悪をもいはず、下手ともまじはり、上手ともまじはりて、如何程ともなく読む事を好みて詠みゐたるは、茶くらひの類也。此三の数寄は、いづれにてもあれ、一の類にてだにあれば、座に連なる也。」とあり、茶の湯に集う人々を三種類に分類しています。
その三種の人々というのは、「茶数寄」と「茶飲み」と「茶くらい」の三つでした。「茶数寄」というのは、諸道具を所持し茶の湯を楽しむ人でした。「茶飲み」というのは、闘茶で茶の銘柄を飲み分ける人で、「茶くらい」というのは、茶の寄合があるといえば何はともあれ参加して飲むという人たちです。また、歌の数寄を語るのに茶の数寄者を引いており、和歌・連歌などの寄合に付随していた茶の湯が、独自の芸能として認識されはじめたことがわかります。このなかで色々の茶の具足を持つことが茶数寄の条件とされています。
のちの時代になりますが、「分類草人木」にも「数寄と云う事、何れの道にも好み嗜むを云うべし。近代、茶の湯の道を数寄と云うは、数を寄するなれば、茶の湯には物数を集むる也。侘びたる人も、風炉釜・小板・水指・水翻・蓋置・茶入・茶碗・茶筅・茶杓・茶巾・囲炉・自在・炭斗・火箸・花入・画・墨跡・葉茶壷・茶臼等を集むる也。諸芸の中に、茶の湯ほど道具を多く集むる者これ無し。」とあり、道具を持つことが数奇の本来の意味だとしています。このように、茶の湯の歴史の中で、茶の具足、つまり道具を持つことがその本質に含まれていきます。
一方、室町中期になると、淋汗茶の湯が催されるようになります。淋汗茶の湯とは、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものです。淋汗(りんかん)とは、夏場に身体を清潔にするための入浴のことで、禅院では清規(しんぎ)によって月の内、四と九の付く日(四九日)に「開浴(かいよく)」といって入浴することが定められていますが、夏には身体を清潔にするための臨時の入浴もあり、これを「淋汗」といい、開浴は正式の入浴なので「浴司百拝(よくすひゃっぱい)」と呼ばれる儀式が行われるのに対し、「淋汗」は正式な開浴でないため浴司百拝などの儀式を行いません。
奈良の興福寺大乗院門跡の記した「経覚私要抄」の文明元年(1469)5月23日の條に、「今日林間(淋汗)初之、召仕者共並古市一族若党相交可焼之由仰付了。於風呂は茶湯在之、茶上下二器(一ハ宇治茶・一ハ雑茶)、白瓜二桶、山桃一盆、又索麺在之、荷葉桐副之置之、予入畢、則有一献、上後古市以下一族若党長井、横井、厳原者共大方百五十人計入云々、男党悉上て後、古市女中入了」、同7月3日には、「今日有林間、又有茶湯、又披立花、風呂中荘観見物なる者也」とあり、更に同10日には、「又懸字二幅東西懸之、立花又水舟之上に小屏風を立て、懸絵一幅在之、花二瓶、香炉一置之、湯舟の天井の上におしまわして花を立、郷者共衆人令群集見物」などとあります。風呂場に屏風をたて、絵や香炉・花瓶で飾り立て、茶席には掛け字を二幅掛け、花を飾り、客が風呂からあがると闘茶がはじまり、点心には果物と素麺が出されています。また、これを見物するひとびとが遠方から集まっています。
なお利休以後、風呂の茶は完全になくなったわけではなく、江戸後期の数寄大名・松平不昧の茶室「菅田庵(かんでんあん)」の待合いには蒸風呂がついており、淋汗の名残が見られます。
室町中期の「東山文化」の時代になると、貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、会所で催されていた茶会が書院の広間で行われるようになり、飾りも会所飾りから書院飾りというものに変化し、台子に茶器を飾りつけて茶を点てる方法も考案されます。なお、書院飾りは南北朝時代の佐々木導誉(ささきどうよ:1296-1373)から始まったといいます。
「太平記」によれば、「ここに佐渡判官入道々誉都を落ける時、わが宿所へは定てさもとある大将を入替んずらんとて、尋常に取したゝめて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈(かんゆ)が文集、眠蔵(めんざう)には、沈の枕に鈍子(どんす)の宿直(とのゐ)物を取そへて置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸ならべ、三石入ばかりなる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、誰にてもこの宿所へ来らん人に一献を進めよと、巨細を申置にけり。楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候と、色代(しきたい)してぞ出迎ける。」とあり、佐々木導誉が南朝方の軍勢に攻められて都落ちするとき、会所に畳を敷き詰め、本尊・脇絵・花瓶・香炉などの茶具、また王羲之の草書の偈と韓退之の文を対幅にした茶道具一式を飾りつけたのが「書院七所飾り」の始まりといわれています。
さて、書院茶の時期には専用の茶室というものはありませんでした。書院の部屋は連歌や能といった文芸・芸能共通の場であり、したがってそこで茶会が催されたとしても、専用の茶室とはいえないし、ましてや後年の茶室のように炉も切られていませんでした。つまり、書院茶では、「点茶する場所」と「喫茶する場所」とが分離している、いわゆる点て出しの茶でした。足利義教の東山山荘には「茶湯の間」と呼ばれる点茶所がありましたが、そこで同朋衆の手によって点てられた茶が、書院へ運ばれていたのです。足利義満・足利義教の同朋衆の能阿弥は唐物を日本風の書院に飾りつける「書院飾り」を完成させ、仏に茶を献じる仏具である台子を茶事に使う「台子飾り」も考案し、また柄杓の扱いに弓の操方を取り入れるなど武家の礼法を取り入れたり、能の仕舞の足取りを道具を運ぶ際の歩行に取り入れて、書院茶の作法を完成させました。
村田珠光と武野紹鴎

能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに大徳寺の一休宗純から学んだ禅の精神を加味して,精神的・芸術的内容をもつ茶道を作ります。
「南方録」に、「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。秘蔵の圜悟の墨跡をかけ、台子をかざり給ふ。その後炉を切て弓台を置合られし也。大方、書院のかざり物を置かれ候へども、物数なども略ありしなり。床にも、二幅対のかけ絵、勿論、一幅の絵かけられしなり。前には卓に香炉、花入、あるひは小花瓶に一色立華、あるひは料紙、硯箱、短尺箱、文台、或は盆山、葉茶壷など、これらは専かざられしなり。」とあるように、珠光は四畳半の茶室を考案しました。茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを遊興から「限られた少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えます。
「山上宗二記」に「何か珍敷御遊在るべきと御諚ありしに、能阿弥謹んで得心して、憚りながら申し上ぐる。御釜の熱音は松風を猜む。且つ又、春・夏・秋とも面白き御遊にて候。このころ南都称名寺に珠光と申すもの御座候。此の道に尤深く、三十歳巳来、茶の湯に身を抛ち、又は孔子の道をも学びたるものにて候と、珠光より蜜伝の事、口伝の事、并びに二十一箇条の仔細を以って悉く言上す。又、唐物御厳は、非時の物を眼前に見る。是れ又名物の徳也。小壺・大壺・花入・香炉・墨蹟等、古美たる御遊は、茶の湯に過ぎたる事在る間敷、又、禅宗の墨蹟を茶の湯に用いる事在り。是は、珠光が休和尚より圜悟の墨蹟を得て、是を一種に楽しむ。然れば、仏法も茶の湯の中にあると、委細に次第を言上す。これに依って、慈照院殿(足利義政)、珠光を召し出され、茶の湯の師匠と定め給い、第一世の御たのしみ、此の一事也。」とあり、能阿弥の推薦で足利義政の茶の湯の師匠ともなり、東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云われます。
また、象牙や銀製でできた唐物の茶杓を竹の茶杓に替えたり、台子を真漆から木地の竹製に改めたりして、わびの精神を推し進める。加えて一休禅師から宋の圜悟の墨蹟を印可の証として授かって以来、床の掛物を仏画や唐絵に代わって禅宗の墨蹟を掛けるようになります。
なお、珠光の生涯や彼の佗び茶の性格に関する同時代の記録はほとんどなく、千利休の弟子である山上宗二が著した茶の湯の秘伝書「山上宗二記」によるところが大きいのですが、「山上宗二記」に「珠光の云われしは、藁屋に名馬を繋ぎたるがよしと也。然れば則ち、麁相なる座敷に名物置きたるが好し。」とあるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の様子がみられます。
珠光が他界したあと、武野紹鴎がわび茶を完成させることになります。応仁の乱で京都が荒廃し、戦乱を避けた人々は自由都市堺の地へと集まっていきました。紹鴎も上洛し歌道を研究するかたわら村田珠光の流れを継ぐ茶人について茶の湯を学んでいましたが、31歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鴎を号し茶の湯に専念します。
「南方録」に、「紹鴎に成て、四畳半座敷所々あらため、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床のぬりぶちを、うすぬり、または白木にし、これを草の座敷と申されしなり。鴎はこの座に台子は飾られず。弓台をかざられたる時は、かけ物、置物、珠光同然。袋棚の時は、床に墨蹟、花入の外は置かれず。」とあるように、藁屋根の四畳半に囲炉裏を切って茶堂とします。
唐物の茶器のかわりに信楽水指、備前建水、竹自在鉤、釣瓶木地水指、木地曲物の建水、竹蓋置など、日常雑器を茶の湯に取り入れ、「紹鴎のわひ茶の湯の心ハ、新古今集の中定家朝臣の歌に、見わたせは花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕くれ此歌の心にてこそあれと被申しと也。」「連歌ハ枯レカジカケテ寒カレと。茶ノ湯ノ果テモソノ如クナリタキト、紹鴎常ニ言ウト、辻玄哉言ワレシトナリ」「侘ということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれ共、ちかくは、正真に慎み深く、おごらぬさまを侘と云う。」とあるような「わび茶」を完成させました。
このようにして、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に昇華していきます。
千利休

千利休は、大永2年(1522)堺の納屋衆である、魚屋(ととや)田中与兵衛(一忠了専)と母月岑妙珎との間に生まれ、与四郎と称しました。
利休が、史料に初めて現れるのは、堺の開口神社の天文四年乙未卯月廿八日「念仏差帳日記」という、「念仏寺大回之築地修理」の奉加帳に、「与四郎殿せん」とあるのが初見とされ、壱貫文を収めた十カ町百十四人のなかの一人として加わっています。時に14歳とされます。
利休の祖父は、田中千阿弥(せんなみ)とされており、足利義政の同朋衆として仕えていたされ、千阿弥の千の字をとり千氏とも称したのが「千」の姓の由来といわれています。
「千利休由緒書」には、「一、利休先祖之儀は、代々足利公方家に而御同朋に而御座候。先祖より田中氏にて御座候。就中利休祖父は、田中千阿弥(初専阿弥と号す、大祖は里見太郎義俊の二男田中五郎義清が末孫なりと云。)と申候而、東山公方慈昭院義政公の御同朋に而御座候。応仁元年五月山名持豊宗全と、細川右京大夫勝元と中悪く罷成、それより天下の大乱に罷成候。其節公方御所にて、山名方へ内通の逆心と申儀候て、御近習の侍十二人、書付を以而細川勝元は公方ヘ申上打果可申企に付、同年八月廿三日に御所を立除申候。其衆中は一色式部少輔、佐々木大原太夫、上野形部、宮下野守、結城下野守、伊勢備中守、荒尾、三上斉殿を始、十二人に而候。利休祖父田中千阿弥も其内にて御座候。千阿弥は堺へ立除、名字をかヘ、かくれ罷有候。文明五年に山名宗全、細川勝元病死、其年東山公方義政公隠居にて、御子義尚公九歳にて、御家督、是を常徳院殿と申候。田中千阿弥も帰洛いたし、御奉公申上候、長享元年に公方常徳院義尚公江州御陣中にて御他界、田中千阿弥発心いたし、泉州堺へ閑居仕候。其子与兵衛は田中の名字を改め、父の名の一字を取、名字にいたし、千与兵衛と申し而、堺の今市町にて、商家に罷成候。其子を千与四郎と申候而、今市町にて商買仕候所、茶道をすき候而、朝夕心を尽し申し而、後には武野紹鴎弟子に相成、剃髪いたし、千宗易と名乗申候。」とあります。
若くして茶の湯に親しみ、「松屋久政筆記」天文6年(1537)9月13日条に、「京都与四郎殿へ宗易事也久政」とあり、16歳の利休が京都で朝会を開いたとされますが、別人であるとの説もあります。
天文7年(1538)、利休は17歳で東山流の書院茶をくむ北向道陳に書院・台子の茶を学び、道陳の紹介で武野紹鴎の弟子となり珠光流の草庵の茶を学びます。
「南方録」には、「宗易は与四郎とて、十七歳の時より専ら茶を好み、かの道陳に稽古せらる。道陳の引き合わせにて紹鴎の弟子になられしなり。」とあります。
天文9年(1540)、19歳の時父与兵衛を亡くし、同じ年紹鴎に入門したとされ、紹鴎に入門する際に大徳寺に入り剃髪したとされます。春屋宗園の「一黙稿」に、「宗易禅人之雅称、先師普通国師見号焉者也」(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり)とあるところから、このとき大林宗套より「宗易(そうえき)」の号を与えられたのではないかといわれます。
「松屋会記」天文13年(1544)2月に、「廿七日堺千宗易へ右二人」とあり、奈良称名寺の住職恵遵房と松屋久政が宗易に招かれた茶会で、「宗易」の名が始めて記録に現れます。宗易23歳の茶会でした。
弘治元年(1555)4月朔日、宗易は万代屋宗安、今井宗久、宗好とともに紹鴎を招いて朝会を開きます。
同年10月19日宗易の師であった紹鴎が没します。「山上宗二記」は、「紹鴎は五十四にて遠行、茶湯、正風体盛りじ死去也。物にたとへば、吉野の花盛を過て、夏も過、秋の月、紅葉に似り」と記します。
永禄5年(1562)41歳の時、津田宗達(宗及の父)、北向道陳、今井宗久の三人を客として朝会を催し、床に圜悟の墨蹟を掛けています。「宗湛日記」には、「圜悟ノ文字ハ、一休ニ只モライテ、是ヲ珠光ノ表具セラルト也、此光ハ一休和尚ノ法ノ弟子ニテ候間、只被進候也、今千貫文ニ宗易トラセラレ候トノ御雑談ナリ」と、宗易が圜悟の墨蹟を一千貫文で買ったことが記されています。
永禄11年(1568)9月7日、織田信長が、足利義昭を奉じ、上洛すべく美濃国岐阜城を出発します。
「信長公記」10月2日に、「池田筑後守降参を致し、人質進上の間、御本陣芥川の城へ御人数打納れられ、五畿内隣国皆以て御下知に任せらる。松永弾正は我朝無双のつくもかみ進上申され、今井宗久是又隠れなき名物松嶋ノ壺、并に紹鴎茄子進献。」とあるように、今井宗久は名物茶器を献上し、積極的に信長に接近します。
このとき信長が、堺に2万貫文の矢銭(軍資金)を課すと、堺の町衆は抗戦の構えを見せますが、今井宗久は信長に付きます。
永禄12年(1569)8月17日付、今井宗久の三淵藤英宛書状には、「去年より公方様ならびに信長御台御料所、拙者に仰せつけらる」とあります。「続応仁記」に、「扨泉州の堺津は大富有の商家共集居たる所なれば、三万貫を差上ぐべき事子細有らじと申付らる。」と矢銭(軍資金)を課すと、「然る処堺の津は皆三好家の味方にて庄官三十六人の長者共、中々御請申すことなく、同心せざるの由を申す。然らば早速に堺の津を攻破らんと有ければ、三十六人の者ども弥以を怒を含み、能登屋、臙脂屋の両庄官を大将とし堺津一庄の諸人多勢一味し、溢れ者諸浪人等相集て、北口に菱を蒔き堀を深くし、櫓を揚げ専ら合戦の用意して信長勢を防がんとす。」とあります。
しかし、翌永禄12年(1569)1月、三好三人衆が堺浦に兵を集め京都を襲うと、信長が出陣し、「去六日に、於山崎桂河、公家様衆与三好方一戦あり、三好方打まけ候、阿州従堺出申」(「津田宗及茶湯日記」)、「永禄十二年己巳正月九日、信長本圀寺に至る。江・濃・尾の兵、迅速に馳せ登り、五万人に及ぶ。信長今度戦功の輩を賞し、且今度泉南堺津大商の長三十六人が三好家に荷担して、彼の津に於て軍用を調へしむる罪を鳴らし、尽く焼討にすべき旨沙汰せらる。」(「武徳遍年集成」)、1月10日使者を堺南北荘へ遣わすと、「依其故、堺中従十二日さわぎ出候也。去年十月比より、堀をほり、矢倉をあげ、事外用意共いたし候事無專、堺津中之道具女子共迄、大阪・平野へ落とし申候也。」(「津田宗及茶湯日記」)、と大混乱となり、ついに屈服して、「手を束ね侘言しければ、信長是を承引して実にさも有るべき事也と、重て堺町中の者共、向後一人も浪人も抱置べからず、又三好家の者共に弥一味すまじき由、三十六人の庄官等に請合の証文連判させ、其上に今度の首代として二万貫の黄金を上納させて堺の庄を破却せず、元の如く立置る。」(「続応仁後記」)、2月11日には堺接収に信長の上使衆が派遣され、津田宗及は百人を超える上使衆を自宅に招き終日振舞をしています。
今井宗久は山科言継らとともに岐阜に下り、永禄12年(1569)8月1日、先ず「微音」音曲と囃子が奏でられ、次いで晩食があり、信長が自ら陪膳し、次いで「上之権現」などの城中の方々を見物するなど、信長の歓待を受けています。また、今井宗久は堺五ヶ庄の代官に任じられます。
畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じ、茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになります。そのため名器は、一国一城にも値するようになります。茶の湯を利用した信長の政治は、「御茶湯御政道」ともいわれます。
「名物狩り」は、「信長公記」永禄12年(1569)に、「然而信長、金銀・米銭御不足なきの間、此上は、唐物、天下の名物召し置かるべきの由、御諚侯て、先、上京大文字屋所持の一、初花。祐乗坊の一、ふじなすび。法王寺の一、竹さしやく。池上如慶が一、かぶらなし。佐野一、雁の絵。江村一、もくそこ。以上。友閑・丹羽五郎左衛門御使申し、金銀八木を遣し、召置かれ、天下の定目仰せ付けらる。」、また、翌元亀元年(1570)3月には、「名物召し置かるゝの事。さる程に、天下に隠れたき名物、堺に在り候道具の事。天王寺屋宗及一、菓子の絵。薬師院一、小松島。油屋常祐一、柑子口。松永弾正一、鐘の絵。何れも覚えの一種ども、召し置かれたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて、仰せ出ださる。違背申すべきに非ず侯の間、違儀なく進上。則ち代物金銀を以て仰せ付けられ候ひき。」とあります。
「御茶湯御政道」の語は、秀吉が信長の三男信孝の老臣斉藤玄蕃允と岡本太郎左衛門に宛てた書状に、「上様重々御褒美御感状、其上但州金山御茶湯道具以下迄取揃被下、御茶湯雖御政道、我等は被免置、茶湯を可仕と被仰出候事、今生後生難忘存候。たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へは、昼夜泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事。」と見えます。
堺を支配下に置いた信長は、信長に付いた堺の町衆を茶頭として召しだします。今井宗久と親しかった関係から、宗易も宗久、宗及とともに仕えるようになります。
「千利休由緒書」には、「一、利休は信長公へはいつ時分被召出候哉。宗左御受に、堺の住人今井宗久、津田宗及は茶道の名有之候に付、三千石づヽ被下候条、宗久は利休と親友にて候故、信長公に申上候に付、利休を安土城へ被召寄茶之湯を被仰付候処、すくれたる事故、即座に三千石被下被召出候。其後は安土に相詰、毎度の御茶之湯と茶堂被仰付、無双之出頭にて御座候。」とあります。
千利休と信長との関係が文献に見られるのは、永禄13年(1570)4月2日、宗易49歳の時に信長の茶会において薄茶を点てたというのが初見です。「今井宗久茶湯書抜」の、永禄13年(1570)4月2日の条に、今井宗久が信長の御前で、宗易の点前で薄茶を賜ったことが記されています。さらに、天正元年(1573)11月24日京都妙覚寺で信長の茶会が催されたときには、宗易が濃茶の点前を行った事が記されます。
天正2年(1574)、津田宗及が信長に招かれたとき、1月28日に岐阜に着くと、塙九郎左衛尉を介して、宗及が未だ見ていない道具を書立てを出すようにという信長からの連絡があり、宗及が今まで拝見した道具の名を書いて差し出すと、信長から未見の道具名の書付が来て、それらの道具を用い、宗及一人を招いての茶会が、2月3日朝に開かれます。「津田宗及茶湯日記」には、「御通御坊様、但殿様ノ御老姪子様也、勘十郎殿御子息也」、「御通ハ御茶筅様、殿様之御子息様也」、「御飯之再進殿様御自身被下候、其外、忝仕合、大かたならぬ躰ニ候也」とあり、食事のときの給仕を信長の子供や甥がし、信長みずからも給仕をするというの歓待ぶりでした。また、天正2年(1574)3月28日奈良に下向した信長は、正倉院御物の名香「蘭奢待」を一寸八分切り取りますが、それを津田宗及と宗易の二人だけに下賜します。
「天王寺屋会記」天正2年(1574)4月3日昼相国寺御会に、「御会過テ、蘭奢侍一包拝領申候、御扇子すへさせられ、御あふきとともに被下候、宗易・宗及両人ニ迄被下候、香炉両人所持仕候とて、易・及ニ東大寺拝領いたし候、其外堺衆ニハ何へも不被下候」とあります。「信長公記」天正3年(1575)に、「十月廿八日、京・堺の数寄仕り候者、十七人召し寄せられ、妙光寺にて御茶下され侯。御座敷の飾、一、御床に晩鐘、三日月の御壺、一、違棚に置物。七つ台に白天目。内赤の盆につくもがみ。一、下には合子しめきり置かれ、おとごせの御釜。一、松島の御壺の御茶、一、茶道は宗易。各生前の思ひ出、黍き題目なり。已上。」とあり、ここに初めて茶頭として宗易の名が見えます。
天正4年(1576)には安土城が竣工し、翌5年(1577)閏7月7日には、宗易を茶頭として安土城の茶席開きが行われています。宗易と秀吉の関係については、元亀末か天正初(1573頃)の、木下助兵衛尉宛ての秀吉と抛筌斎宗易の連署状が初見とされます。「抛筌斎(ほうせんさい)」の斎号もこれを初見とし、筌(魚を採る篭)を抛(なげう)つということろから、魚屋の業を棄て茶湯者として立つという意があったのではとみる向きもあります。
天正4年(1576)に、「七月朔日より重ねて安土御普請仰せつけられ、何れも粉骨の働きに依つて、或は御服、或は金銀・唐物拝領其数を知らず。今度名物、市絵、惟住五郎左衛門上意を以てめし置きき申され、大軸の絵、羽柴筑前取り求められ、両人名物所持仕られ侯事、御威光あり難き次第なり。」(「信長公記」)と、羽柴筑前(秀吉)が信長から牧谿の絵を与えられ、翌年12月にも乙御前の釜を与えられており、この頃に秀吉は茶の湯の許しを得たとされ、天正5年(1577)8月26日朝の宗及の口切に秀吉と友閑が招かれ、天正6年(1578)10月15日播州三木での口切で、秀吉は宗及を相手に乙御前の釜を釣っています。
また、天正9年(1581)には、「歳暮の御祝儀として、羽柴筑前守秀吉播州より罷り上り、御小袖数弐百進上、其外、女房衆かたそれぞれへ参らせられ、か様の結構生便敷様躰、古今承り及ぱず、上下共耳目を驚かし候訖。今度、因幡国取鳥、名城と云ひ、大敵と云ひ、一身の覚悟を以て、一国平均に申付けらるゝ事。武勇の名誉前代未聞の旨、御感状頂戴なされ、面目の至り申すばかりなし。信長公御満足なされ、御褒美として、御茶の湯道具十二種の御名物、十二月廿二日御拝領侯て、播州へ帰国侯なり。」(「信長公記」)とあり、同23日の今井宗久・宗薫宛秀吉の書状には「種々御懇に被加御諚、御茶湯を仕、堺方之仕取を慰懸可申旨被成御免候。其上御道具被下候事。」と、信長は秀吉に名物道具一式を与え、堺の茶頭らと茶を嗜んでよいとの許しを与えます。
天正7年(1579)4月22日に、宗易が秀吉から贈られた丸壷を用い、天正9年(1581)6月12日、播州姫路城の秀吉の朝会に「霰釜但、宗易より来候釜也」を用いるなど、このころ秀吉と宗易の茶の湯の交渉が始まったとされます。(「津田宗及茶湯日記」)
天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀反により、信長が本能寺で横死します。備中国高松城攻めをしていた秀吉は、取って返し、同年6月13日山崎での合戦において明智光秀を滅ぼします。
このあと、宗易は秀吉に仕えることとなります。「長闇堂記」に、「天正八年の比かとよ。織田信長公天下をきりしたかへ給ひ。同十年京都本能寺を御宿所としてましませし時。明智日向守謀反のいきどをり有て。丹波亀山の城より夜打にし奉り。天下又みだれかはしき所に。羽柴秀吉公其比中國退治し給ひけるが。日向守山崎表に出陣せし所。秀吉公一戦に打勝ち給ひ。明智夜まぎれに近江路さして落ちけるが。天罰にやありけん。一揆原に殺され畢。秀吉公御上洛有て。天下治りおだやかにして。御身大坂城にましまして後。御心をやすめ。御慰の品々御茶湯をも有。其時千宗易。天王寺や宗及。ならや宗久。三人は堺より召出され御領地被下。専御茶湯なれば。下々に至る迄此道たしなみあへり。南北に宗及弟子六十人計。宗易弟子三十人程有しを。秀吉公御師匠に召れしより。世の中皆宗易かゝりの茶湯とはなれる物なり。」とあります。
天正10年(1582)10月15日、秀吉は大徳寺において信長の葬儀を執り行います。同年11月7日に山崎で秀吉の茶会が開かれ、宗及、宗易、宗久、宗二の四人の堺衆が招かれたことが「今井宗久茶湯書抜」に見えます。現存する茶室のうちで、江戸時代初期から利休の茶室として伝えられてきた、二畳隅炉の待庵が、このころに造られたと考えられています。
天正11年(1583)4月21日、秀吉は賤ヶ岳において佐久間盛政を破り、柴田軍を追撃、4月24日柴田勝家が自ら北庄城に放火し自刃します。「津田宗及茶湯日記」の天正11年(1583)5月24日、近江の坂本での秀吉の朝会に、「茶堂宗易」と見え、この頃までには秀吉の茶頭になっていたとされます。宗易62歳のときです。
天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築くと同時に、城内に山里丸という一郭を設け、そこに「山里の座敷」と呼んだ二畳の茶室を営み、翌天正12年(1584)正月3日座敷披きを行い、宗及、宗易が茶頭をつとめます。
天正13年(1585)7月11日、秀吉は近衛前久の猶子として関白宣下を受け、翌年には豊臣の姓を賜って太政大臣に就任します。同年10月7日、秀吉は宗易を利休居士と号して随行させ参内し、禁裏御茶会を開きます。「兼見卿記」に、「早天出京、直ニ向上乗院、著衣冠参内、摂家門跡其外不残御参也。巳刻殿下御参内、直ニ常之御所へ祗候。御相伴伏見殿、龍山近衛入道殿、殿下、菊亭院、御三御所在一献之儀云々、於紫宸殿摂家諸門清華乱座敷歟、在一献之儀雑カン美濃守任宰相中将、袍指貫公卿之著也、紫宸殿北之御座敷ニ於テ近衛殿左府、大門御相伴也、次御前之一献過テ、小御所へ出御、御三御所同前御茶之儀在之、殿下御茶道也、御前七人也、次御三御所還御、次於端之御座敷ニ於テ御茶之儀在之、理休居士茶道、台子之御茶湯也、一番一条殿ヘ参也、七人籤取、第一一条殿被取之参也、次清華之衆、次客数人無尽期、関白仰云、一服タテ不相果、既及夕、初花、新田、二ツノ壺ノ茶ヲ責ヒホノ釜ヘ在之、同並テ松花南四拾石北綱ヲ懸テ御座敷ニ直ニ在之、度々見之、過分之儀也、御前之御道具進上之云々、但懸物二幅、花生、茶入架子、是ヲハ無進云々、きぬた茶壷其外悉進上之云々」とあります。
これを機に、宗易に「利休」という居士号が勅賜されます。古渓宗陳の「蒲庵稿」に「泉南乃抛筌斎宗易、廼予三十年飽参之徒也。禅余以茶事為務。頃辱特降倫命、賜利休居士之号。」とあります。
この頃の利休の大阪城における権勢を伝えるものとしては、天正14年(1586)4月5日に、秀吉の弟である羽柴秀長が大友宗麟へ、「内々之儀者宗易、公儀之事者宰相存候。御為ニ悪敷事ハ不可有之候(内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(羽柴秀長)存じ候)」と述べ、「宗易ならてハ関白様へ一言も申上人無之と見及申候(宗易ならでは関白様へ一言も申しあぐる人これなしと見及び申し候)」ということが「大友家文書録」に見えます。
天正14年(1586)2月21日、秀吉は京都に聚楽第を造るべく自ら土地を定め、23日に縄打ちを行い、造営が開始されます。「松屋会記」天正14年10月13日朝、中ノ坊井上源吾茶会に「宗易形ノ茶ワン」として、初めて楽茶碗が登場します。
同年(1586)5月4日、日本イエズス会の副管区長ガスパル・コエリュらが大坂城を訪れたとき、秀吉は朝鮮・シナへの出兵するための、船舶の斡旋を依頼します。ルイス・スロイスの「日本史」に、「日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この国を弟の美濃殿に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。それゆえその準備として大軍を渡海させるために二千隻の船舶を建造するために材木を伐採せしめている。なお予としては、伴天連らに対して、十分に艤装した二隻の大型ナウを斡旋してもらいたい外、援助を求めるつもりはない。」とあります。
同年(1586)11月、九州博多の豪商神谷宗湛が、秀吉の招きで上坂します。秀吉は、信長が堺衆を歓待したように、宗湛を歓待します。「宗湛日記」天正15年(1587)正月3日大阪御城内にて大茶湯之事に、「御かざりを拝見仕候へとの御諚にて関白様御跡より各同前に拝見仕候處筑紫の坊主どれぞと御尋被成候へば是にて候と宗及御申に候被仰出にはのこりの者はのけて筑紫の坊主一人に能みせよとの御諚に候條堺衆みな縁に出宗湛一人拝見仕」「御膳出候時我々どもは罷立次の広間に罷居候へば、関白様、御諚につくしの坊主にめしをくわせよと被仰出候ほどに座敷まん中になや宗久と宗湛とうしろを合て罷居候。其外には京堺の衆とても一人も御前に無之。御かよいの衆多人数なり、其内石田治少御かよいにて宗湛が前に馳走被成候事」「御茶の時に、関白様御立ながら被成、御諚には多人数なほどに一服を三人づゝにてのめや、さらばくじ取て次第を定よと被仰出候へば、内より長さ三寸よこ一寸ほどの板に名付書て小性衆持参に候御前になげ被出候を座中有之大名衆このふたをばい取にして其後誰々は誰か手前、誰々は誰か手前にとさしよられて御茶きこしめさるゝ時、そのつくしの坊主には四十石の茶を一服とつくりとのませよやと被仰出候ほどに、宗易手前に参一服被下候」とあります。
天正15年(1587)3月1日、秀吉は九州征伐のため八万の軍勢を率い大坂城を発します。同年4月21日、秀吉は肥後八代で副管区長ガスパル・コエリュと定航船のポルトガル人を引見し、再び海外派兵を口にします。スロイスの「日本史」に、「日本全土を平定し秩序立てたうえは、大量の船舶を建造せしめ、二十万から三十万の軍勢を率いてシナに渡り、その(国)を征服する決意であるが、ポルトガル人らはこれを喜ぶや(いなや)と付け加えた。そしてその問に対する(ポルトガル人らの)答えを聞くと、関白は無上に満悦(した様子)を示した。」とあります。
同年5月8日島津義久が剃髪して降伏すると帰途につき、6月7日筑前国箱崎に到着、滞陣し、九州の国割りや博多の町割りを行いますが、6月15日に対馬国宗氏に命じて朝鮮国王の来朝を促し、服従しなければ出兵することを通告します。
同年6月25日、箱崎の二畳半茶室で、秀吉は宗湛をもてなすのに、宗及らに努めさせていますが、宗及が小姓のようだったと記しています。「宗湛日記」には、「床にはにしきのしとね敷て、関白様被成御座。御膳御あがり候。御茶の時は下におりさせられてきこしめさるヽ也。」、「次之間に宗及、休夢、其外宗及御知音大名衆三人御座候て、御膳など御肝煎候也。先九鬼大隈殿、山崎志摩殿、今一人御名忘候。関白様御前御通は休夢也。茶湯仕掛、其外道具などは宗及御肝煎也。小姓の如く悉と申候事也」とあります。
同年7月14日、秀吉が九州平定を終え大阪に凱旋すると、北野天満宮の松原で大茶会を催すことになり、洛中をはじめ畿内一円に高札を立てて参加者を募ります。この北野大茶湯において、秀吉の御茶事四席の茶頭を津田宗及、今井宗久とともに務めます。
同年9月、聚楽第が完成し、9月13日に秀吉は大坂城から聚楽第に移ります。利休も、聚楽第の城下の葭屋町元誓願寺前に屋敷を設けます。
この頃のことか、江岑宗左の覚書に「一、休、一畳半致シ被申候。大甲御意ニ不入候故、二畳敷ニ致シ、路地之外ニかきして白壁ニシテ、松樹被申候、是も御意ニ不入なおし被申候、又門ノ上ニかく上被申候、是も御意ニ不入、おろし被申候、其時より少ツヽ御意ニちかい被申候」と、利休の作意が秀吉の意に適わなくなっていたことが記されています。
天正16年(1588)3月、大友義統に随行して上洛した浦上長門入道宗鉄が、国許の若林中務入道道閑に宛てた3月20日付書状に、「其許にては、宗易の作に候竹の蓋置、又面桶、釣瓶、今焼茶碗、皆々すたり候由申候、いささかも誠にてはなく候。既に関白様御沙汰候間、御推量有るべく候。」とあり、九州では利休の茶がすたれたとの噂があったことが見えます。
同年9月4日、利休は聚楽屋敷において、秀吉の怒りにふれて九州に流されることになった古渓宗陳の送別の茶会を、春屋宗園、玉甫紹jと本覚坊同座で開きます。このとき利休は、内密に秀吉秘蔵の生嶋虚堂の墨蹟を掛物として使います。
天正17年(1589)利休は、亡父母や亡童、利休夫婦の永代供養の寄進を行います。大徳寺「聚光院文書」に「為聚光院へ寄進米合七石取定納也永代進上如件一一忠了専十二月八日一月岑妙珍十月七日一利休宗易逆修一宗恩逆修一宗林童子八月一日一宗幻童子七月十七日以上一但墓ニ石灯籠在之利休宗恩石灯籠シユ名在之天正十七年已丑正月日利休(花押)聚光院常住納所御中」との聚光院への永代供養寄進状が残っています。
同年12月5日、利休の寄進により大徳寺三門・金毛閣の上層が完成、3日後の12月8日に利休は聚光院において父一忠了専の50回忌を営み、その導師を春屋宗園と古渓宗陳が勤めます。
天正18年(1590)3月1日、秀吉は北条氏征伐のため京都を発ち、北条氏は同年7月5日に降伏開城します。この陣中において、4月11日、利休第一の弟子山上宗二が秀吉の命で処刑されます。「長闇堂記」に「小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、その罪に、耳鼻そがせ給ひし」とあるように、利休の目の前で、耳をそぎ、鼻をそぐむごい仕打ちで殺されたとされます。
その宗二の「山上宗二記」に、「慈鎮和尚の歌にけがさじとおもう御法のともすれば世わたるはしとなるぞかなしき常に此の歌を吟せられし也。宗易を初め、我れ人ともに、茶の湯を身すぎにいたす事口おしき次第也。」とあり、利休が常にこの歌を吟じていたことが記されています。
利休賜死の半年ほど前、天正18年(1590)9月10日昼に、琉首座と宗湛を招いた茶会で、そのころ秀吉に重用されていた宗湛の前で、秀吉が嫌った黒茶碗を、台子に一つ飾りに飾り、茶を点て終わってから瀬戸茶碗に替えて飾り、上様(秀吉)が嫌うのでこうするのだと言ったということが見えます。「宗湛日記」に、「上に黒茶碗ばかり置。中に台子の先の壁に春甫の文字掛て。先振舞有。其後に茶の時に内より棗袋に入持出て。前に置点ぜらる。茶の後又内より瀬戸茶碗持出て。台子の上の黒茶碗に取替へらるヽ也。黒きに茶点候事。上様御きらひ候程に此程に仕候と。」とあります。
また、「宗湛日記」同年10月20日に、「利休老御会。聚楽にて。宗湛。二畳敷。炉。雲龍釜。環付。松かさ。環唐金。共ぶた。折入。中次。黒茶碗道具入。土水指。瀬戸水覆。引切。手水の間に。床に橋立の壺置て。紺の網に入。緒から結。濃茶過て大壺を網をのけて。床の前に投げころばして見せらるる也。」とあり、宗湛一人を招いた会で、利休所持の名物橋立の茶壺を宗湛見せるのに、壺を放り出しています。捨壺と見る向きもあります。
天正19年(1591)正月22日、秀吉の弟羽柴秀長が没し、一ヶ月もたたぬうちに大徳寺三門に収めた利休の木像が問題化し、利休に蟄居が命ぜられ、2月13日利休は堺に下ります。「千利休由緒書」によると、出発に際し「利休めはとかく果報乃ものそかし菅丞相になるとおもへハ」という狂歌一首を竪紙に書き、上書きに「お亀におもひ置く利休」と書いたといいます。
堺に下る利休を、細川忠興と古田織部だけが密かに淀の渡しまで見送りに来たことが、松井佐渡守康之宛の利休自筆書状に「態々御飛脚、過分至極候。富左殿、拓左殿御両所、為御使、堺迄可罷下之旨、御諚候条、俄昨夜罷下候、仍、淀迄羽与様、古織様御送候て、舟本ニて見付申、驚存候、忝由頼存候、恐惶謹言二月十四日宗易(花押)松佐様利休」と見えます。
また前田利家が密使を遣わし、大政所や北政所を頼って秀吉に詫びるようすすめたが、断ったことが、「千利休由緒書」に「加賀大納言利家卿より御内緒ニテ大政所様北ノ政所様ヲ奉頼御詫事申上候ハヽ御免可被成と御申候。利休うけごい不申、天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、御女中方ヲ頼候てハ、無念に候。たとへ御誅伐に逢候とても、無是非候とて、承引不仕」と記されています。
堺蟄居の間に利休は道安に財産処分状を書いています。「問ノ事泉国ある程の分同佐野問しほ魚座ちん銀百両也田地ハ今渡被申分もす深井にて候済候但泉州ノ内にても別ニ名を書ゆつり候分有之宗易今ノ家但我死テ後十二ケ月ノ間ハ子持アケましき事候西本家今小路西之浦すち弥三郎事こん屋丁地子すこし才木丁西同すこし中すちの事也但紹ニ北となりの地子屋ちん石橋のあね也大かた此分了専時より分也此外家共今ある分宗易代ニ取之候分を分候也やうきひ金ノ瓶風一双(紹安花押)古渓和尚様進上候也金ノ二枚併風右ノかハり也一々是ハ紹安也桑良屋道珠家質物之代本銭六拾貫文徳輝墨蹟是ハ今うり候や又覚す也是ハはやうりわたし候(紹安花押)栢樹子古渓和尚様此書おきニ不入候分一円不可存候也(花押)」
2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒されます。伊達家家臣鈴木新兵衛が国元に送った手紙に「右の宗易、その身の形を木像に作り立て、柴野大徳寺に納められ候を、殿下様より召し上げられ、聚楽の大門もどり橋と申す所に、張り付けにかけさせられ候。木像の八付(はりつけ)、誠にゝゝ前代未聞の由、京中において申す事に候。見物の貴賎際限無く候。右八付の脇に、色々の科(とが)ども遊ばるる御札を相立てられ候。おもしろき御文言、勝げて計うべからず候。」とあります。
利休は25日に遺偈を記すと、翌26日上洛を命じられ、上杉勢三千の兵が取り囲む京都の自宅に戻り上使を待ちます。天正19(1591)年旧暦2月28日、検使として尼子三郎左衛門、安威攝津守、蒔田淡路守の三人が使わされ、京都葭屋(よしや)町の屋敷で切腹します。興福寺多聞院英俊の「多聞院日記」の天正19年2月28日の条に、「数寄者の宗易、今暁腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧の頂上なりとて、以ての外、関白殿立腹」とあります。
「北野社家日記」には、「廿八日、今日大雨降、カミなりなる、あられ、大あられ也・・・廿九日、宗ゑきと申者、天下一之茶之湯者ニて候つれ共、色々まいす仕候故御清はい(後成敗)有之也、大徳寺三門之こうりう仕、末代迄名を残と存木そうを我すかたニ作、セきたをはき、つゑをつき□有之、いわれ関白様へ申上候へハ、猶いよいよさいふかく成申候間、くひをきり、木そう(像)ともにしゆらく(聚楽)大橋にかけ置候也、大徳寺之長老衆も両三人はた物ニ御あけ候ハんと儀候つれ共、大政所様・大納言殿こうしつ(後室)、各上様へ御詫言により長老衆御たすけ分也、玄以法印・山呂玄羽御はな分也、木そうハ一日○よりかかり申候」と見えます。
また、「武辺咄聞書」には、「秀吉公冨田左近を以父利休に被仰出鵙屋か後家を聚楽へ御宮仕させ候へと頻りに被仰遣けれ共、利休は少も不肯娘を商売物にして我身を立ん事恥辱難遁と終に御請申上されけれは、秀吉公義理の筋目は御破難被成けれ共、無わり御心入の叶はぬ事を残念に思召事人情なれは、御心底には深く挿結て、一両年過て、利休運の尽にや、大徳寺古渓和尚と相議して山門を再興し棟札を打、其上に利休木像を造り山門に安置せり。其木像は立像にしてつぶぎりの紋の小袖八徳を着せ、角頭巾を右へなけさせ、尻切を履せ、杖をつき、遠見仕たる体をそ作りける。其事世に無隠。秀吉公御耳に達し、内々悪しと思召折節なれは、讒言も指つとひ、利休近年茶具の目利にも親疎の人々により私有」由をそ申上る。父子の間さへ遠さくる讒言也。いかに況君臣の間をや。讒言度重りしかは、天正十九年二月廿八日利休御成敗に極り、被仰出けるは大徳寺の山門の上に己か木像に草鞋をはかせ置。此山門は天子も行幸、親王摂家も通り給ふに、其上に如此の不礼の木像を置事、絶言語次第也。又定茶具の品を定るにも依怙有由被聞召間、御成敗被遊候由にて、尼子三郎左衛門・奥山佐渡守・中村式部少輔検使にて利休か宿所に至る。利休は少も不騒、小座敷に茶の湯を仕かけ花を生茶を点し、弟子の宗厳にも常の如く万事を申付、扨茶湯終りて、阿弥陀堂の釜鉢開の茶碗石燈篭をは細川越中守忠興方へ形見に遣し、又自分茶杓と織筋茶碗は弟子の宗厳にとらせ、利休は床の上に上り、腹十文字に掻切、七拾一歳にて終りぬ。宗厳利休の首を直綴に包腰掛へ持出し、三人の上使に渡候。秀吉公則石田治郎少輔三成に被仰付、大徳寺山門に上け置たる木像を引出し、利休か首をかんなかけにのせ、木像を柱にくゝり付、利休か首を木像に踏せ、一条戻り橋に獄門に梟て被曝。毎日見る者市の如し。」とあります。
「見聞談叢」に、「千宗易道号利休、泉州堺の庄今市町にて、もと千与四郎と云ふ(堺より名人多く出たりと云ふ。牡丹花肖柏、紹鴎道陳両人とも茶人。宗椿みな堺より出たれば名人多し。)天下茶の宗匠と称し紹鴎道陳などは、その時代に田舎宗匠と称すと。豊臣公へ利休召し出され、知行拝領大罪ありて、天正十九年二月二十八日堀河通一条の南側獄門にかけらる。存生の内自身の像を作り、柴野大徳寺の山門へ上げをき、その像に木履をはかせおけり。太閤それを御覧、貴人高家も通り玉ふ上に木履をはき居れること甚にくみ玉ひて、その像も山門の下に磔にせらると。自身にも讒言と思へると見へて末期に至りて娘の方へよみて送れる歌に、利休めはとかく果報の者ぞかし菅丞相になると思へば
死にのぞみて唱えたる偈又歌あり。
人世七十力圍希咄吾這寳劒祖佛共殺提ぐるわが得具足の一太つ刀、今この時そ天になげうつ
一説に切腹被仰付、像斗を一条にはりつけと先子伝聞の咄もその通りなり。なにさま奥の偈と、をくの歌とを見れば切腹とみふ。」とあります。
「千利休由緒書」によると、「御尋一利休御誅伐ノ次第ハ如何様ノ事ニ候哉。○宗左御受に、大徳寺ノ山門ヲ再興仕り申候御とかめにて御座候。大徳寺山門は、応仁ノ乱ノ後、大破仕候テ、取立候人も無之候所、連歌師島田ノ宗長飯尾宗祗カ弟子也再興仕り候へ共、資料銀不足ニテ、門斗再興、上ノ閣ヲハ立不申候所ヲ、利休則チ門ノ上ニ閣ヲ建候テ、金毛閣ト名付申候。棟札ニモ、利休カ姓名を書記シ、金毛閣の額榜をもかけ、其身木像ヲ造リ置候ニ、頭巾ヲ冠らせ、尻切ヲはかせ候。利休天下ニ秀、出頭無双ヲソ子ミ、時々讒言仕候輩有之候ニ付、秀吉公機嫌損申候。龍宝山の山門ハ、主上も行幸被遊、院も行幸、摂家清家ノ尊貴皆被通候。其門の上ニ、己か木像ニ、草履ヲはかせ置候段、不礼不義、不可勝斗との御咎ニテ、天正十八年ノ霜月より御勘当、翌十九年正月十三日ニ堺へ被追下、閉門被仰付候。加賀大納言利家卿より御内緒ニテ大政所様北ノ政所様ヲ奉頼御詫事申上候ハヽ御免可被成と御申候。利休うけごい不申、天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、御女中方ヲ頼候てハ、無念に候。たとへ御誅伐に逢候とても、無是非候とて、承引不仕、二月二十六日ニ召ニテ京へ罷上り、葭屋町の宅へ着候所、弟子中の諸大名より利休ヲうはい助んとの沙汰御座候ニ付、秀吉公より上杉景勝へ被仰付、侍大将三人、足軽大将三人、已上六組三千斗ニテ、利休屋敷ヲ取まき、両日番仕候。同月廿八日ニ尼子三郎左衛門安威摂津守蒔田淡路守検史ニテ切腹仕候。辞世の頌、和歌御座候。前紙ニ書付宇佐美彦四郎ニ相渡シ申候。」、「御尋一利休生害ハ娘ゆへニて有之、左様ノ品も有事ニ候哉。○宗左御受ニ、世上ニテハ、左様ノ品も申伝ヘ候、しかと不存候。利休女子三人御座候。一人ハ千ノ紹仁が妻、一人は石橋良叱か妻、一人は万代屋宗安が妻ニテ御座候。世上にて申候ハ、宗安か後家ノ事ニテ御座候様ニ申候。私家ニハしかと不申伝候。」とあります。
利休の後嗣

千利休(1522-1591)には、眠翁道安(1546-1607)、少庵宗淳(1546−1614)の2人の息子がいました。また、「千利休由緒書」に「利休女子三人御座候。一人ハ千ノ紹仁が妻、一人は石橋良叱か妻、一人は万代屋宗安が妻ニテ御座候。」とあるように、3人の娘がいました。
道安は、利休の先妻宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ/-1577)の子として生まれ、初めは紹安(じょうあん)と称し、利休とともに豊臣秀吉(1537-1598)の御茶頭八人衆の一人に加わっています。
「山上宗二記」には、「関白様へ召し置かるる当代の茶の湯者田中宗易(千利休)今井宗久津田宗及山上宗二重宗甫住吉屋宗無万代屋宗安田中紹安(千道安)」とあります。
また、「茶話指月集」に「床を四尺三寸に縮めたるは道安にてありしが、休(利休)のよしとおもいけるにや、その通りにしつる也。灰さじも、むかしは竹に土器などさしはさめるを、安(道安)、金にして柄を付けたり。休、はじめは、道安が灰すくい、飯杓子のような、とて笑いけるが、是も後はそれを用ゆ。」と見え、利休も道安の創意を認め、「秀吉公、宗易(利休)へ、大仏の内陣をかこいて茶の湯すべき者は誰ぞ、と御尋ねありしに、易(宗易)、しばらく思案して、道安が仕るべきよし、申し上ぐる。」とあり、利休が道安を高く評価していたことが窺えます。
少庵は、利休の後妻となった宗恩(しゅうおん/実名おりき/-1600)の連れ子で、幼名を猪之助といい、後に、吉兵衛、四郎左衛門と称し、始め宗淳、後に少庵と号します。
父は宮王三郎三入という鼓打といわれていますが、確かな記録は残されていません。天正6年(1578)母宗恩が利休の後妻となったのを機に、利休の養子となります。
少庵については、「江岑夏書」に「大徳寺門前ニ利休屋敷取被申候、先少庵、堺より上り被申候、屋敷取候て、茶之湯少庵被致申候、青竹ふた置など其時被致候へハ、堺より、めんよの数寄者上申候と、京衆申候て、茶を皆望申候」とあり、大徳寺前の利休屋敷は天正8年(1580)頃に構えたとされ、そのころには「めんよ(名誉)の数寄者」と評判されたことが記されています。
また、同書には「ね竹のふた置、ふしなしとふし在と二つ易切候て、少(少庵)・道安前へ出し候へハ、少ハふしなしを取り、道安ハふしありを被取申候、易被申候ハ、ふしなし能候由被仰候、其ふた置ハ少より旦(宗旦)へ参候を、古肥前守殿へ旦より被進候、事外肥前殿秘蔵被成候由ニ候」とあります。
群書類従本「北野大茶湯之記」に「左座之方利休。民部法印。茶院。紹安。宗安。圓乗坊。大納言殿。少庵。日野殿。古渓和尚。水野惣兵衛殿。稻種與八郎殿。山崎志摩殿。羽柴下野殿。長谷川宗閑。右座之方宗久。三枝松。宗及。長岡玄旨。羽柴筑前守殿。羽柴出羽守殿。富田左近殿。羽柴監物殿。津田隼人殿。羽柴左衛門殿。巻村兵太夫殿。」とあり、天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が京都北野神社の境内において開催した大茶会において利休とともに道安と少庵が参座しています。
天正19年(1591)旧暦2月28日、京都の葭屋町の自邸で千利休が70歳で自刃したとき、道安と少庵は、ともに46歳で、道安はひそかに堺を逃れて飛騨の金森長近の許に身を寄せたとされます。
「千利休由緒書」に「利休御成敗已後、嫡子道安ハ飛騨へ立除、金森中務法印ヲ頼、かくれ罷有候。二男少庵ハ蒲生氏郷へ御あづけ、奥州へ流罪ニて候。」、「武辺咄聞書」には「利休か嫡子道安は飛騨へ逃隠れ、鵙屋後家も行方なく成ぬ。少庵は京都に残候を、大政所殿御詫言にて命御助け屋舗迄被下ける。」とあります。
少庵は、会津の蒲生氏郷の許に遁れたとも、預けられて蟄居を命ぜられていたともいわれ、会津若松には少庵が氏郷のために建てた「麟閣」という三畳台目の茶室があります。
また、少庵の息子の元伯宗旦(1578−1658)は、利休が自刃したときには、大徳寺塔頭三玄院の春屋宗園のもとで喝食(有髪の侍童)となっていました。
千家の再興

利休切腹から3年後の文禄3年(1594)には、蒲生氏郷、徳川家康らの取り成しで、豊臣秀吉の勘気もとけ、少庵は京に戻ることを許されます。
この秀吉の赦免の意を伝える徳川家康、蒲生氏郷の連署状は「少庵召出状」として知られ、現在も表千家に伝わります。
京に戻った少庵は、本法寺前に地所を与えられ、千家の再興を果します。利休の跡を継いだ少庵は大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を本法寺前に移します。
「千利休由緒書」には、「利休御成敗已後、嫡子道安ハ飛騨へ立除、金森中務法印ヲ頼、かくれ罷有候。二男少庵ハ蒲生氏郷へ御あづけ、奥州へ流罪ニて候。其後御赦免ニテ帰洛仕候。秀吉公仰にハ、利休かたへ、節々御成被成候時、十歳斗の喝食宮仕いたし候。是ハ子か孫かと御たつね、石田三成申上候ハ。少庵世忰ニテ、利休孫ニテ御座候ト申上ル。利休欠所ノ中、よき道具ヲ三棹、彼子ニくれ候へと上意ニテ被下候。此喝食ハ後ニハ宗旦ト申候。則我等父にて、当年七十五ニ罷成、京都ニ罷有、此度の御たつねも、宗旦かたへ尋遣シ、度々御うけ申上候。少庵ハ、旧宅本誓願寺下町、葭屋町の宅ハ、公儀へ被召上候。帰洛ノ時ニ、旧宅ヲ払ヒ、本法寺前ニ宅ヲ引テ、構ヘ罷有候。旧宅ヲこぼち取リ、此方へ建申候故、屋敷ハかわり申候へ共、家宅ハ秀吉公家康公御成ノ座敷ニテ御座候。」とあります。
「茶話指月集」には、「権現様(徳川家康)・利家公(前田利家)、兼ねて宗易の事不便(不憫)がらせ給いて、よきおりとおぼし召し、少庵・道庵御免の御取成あそばされ下され、早速御ゆるし蒙り、その後、道庵を御前へめし、四畳半にて茶をたてさせ、上覧ありて、宗易が手前によく似たる、と御感に預かる。」、また「宗旦、始めは柴阜(柴野の大徳寺)の喝食にて有りしが、秀吉公度々宗易へ御成の時分、御給仕相勤め、公御身知りあるにより、宗易跡の数寄道具、かの喝食にとらせよ、との上意にて、長櫃三棹拝領す。」とあります。
「千家系譜」によると慶長5年(1600)には少庵は、宗旦に家督を譲り、「茶湯古事談」に「少庵は御当代になりてめし出され、紫野古御所にて五百石の地を下されし、其時御礼に下りて一休和尚一筆の平家物語全部指上ぬ、後に御断申上て致仕せりとなん。」とあるように、家康から新知五百石で迎えられますが、これを辞退したといい、西山の西芳寺に「湘南亭」を建てて隠居。慶長19年(1614)9月7日、69歳で亡くなります。
「茶湯古事談」に「秀吉公或時囲炉の形を何かと御好み有しか、加様のときに利休をころして事欠と御意有しかは、家康卿・利家卿折よしと道安・少庵御免の御願有しに、早速御ゆるされし、其後道安をめし四畳半にて茶をたてさせ御覧あり、利休か手前によく似しと御感有し、これより又千家再興して今に綿々と絶す繁栄せりとなん。」とあるように、道安は、文録年間(1592-96)には赦されて再び秀吉の茶道となり、慶長3年(1598)に秀吉が没すると、名を道安と改め堺に戻り利休の家を継いだようで、春屋宗園の「一黙稿」に「泉南の道安老人遠く白楮を寄せ、余に就いて雅称を需む。固辞すること克わず、これを字して眠翁と曰う・・・慶長五稔・・・」と慶長5年(1600)の年記があり、また「松屋会記」の慶長8年(1603)に「十月十二日朝堺千道安へ久好一人」とあり、堺で道安に招かれた会記があり、このころは堺にいたことが知れます。
また、「茶話指月集」に「ある時、道安、我宗旦也をつれて古織(古田織部)の茶の湯にゆきしが、亭主(織部)、鎖の間にて炭所望あり。安(道安)、灰土鏑をひきよせ、炉中をとくと直して後、炭を置く。その炭、ことに興に入る。予、帰路におよんで、織部は今の宗匠なるに、炉中の直し、以ての外に覚え候といえば、安(道安)、よし宗匠にもあれ、何にもあれ、炉中あしくては炭が置かれぬといいし。」とあります。
宗旦が織部を今の宗匠(当代随一の茶の湯の宗匠)と言っているところから、利休亡き後道安が赦されてからのことですが、織部や宗旦と交渉を持っていたことが知れますが、今をときめく宗匠であり大名でもある織部に対しての振る舞いに、道安の剛直さと矜持があらわれているようです。
慶長6年(1601)に細川家の茶頭として、宇佐郡水崎村で知行三百石を与えられ、慶長12年(1607)62歳で豊前の地で亡くなったといいます。
千宗旦

「茶話指月集」に「宗旦、始めは柴阜(柴野の大徳寺)の喝食にて有りしが、秀吉公度々宗易へ御成の時分、御給仕相勤め、公御身知りあるにより、宗易跡の数寄道具、かの喝食にとらせよ、との上意にて、長櫃三棹拝領す。世に利休所持の道具といえるは、おおくは千家より出でて、宗旦拝領のうちなるべし。」とあるように、宗旦(1578−1658)は、幼名を修理(すり)といい11歳の頃から大徳寺三玄院に喝食(かっしき/見習いの僧)として、春屋宗園のもとで修業していましたが、天正19年(1591)14才の時、祖父利休の死にあい、文禄三年(1594)頃父少庵が京都に帰り家を再興すると、宗旦も還俗して家に戻り,利休道具も千家にことになります。
少庵は赦されてまもなく西山の西芳寺に「湘南亭」を建てて隠居したので、「千家系譜」によると慶長5年(1600)には少庵から家督を譲り受け、翌慶長6年(1601)大徳寺の春屋宗園より「元叔」の号を授けられます。
利休亡き後の天下の茶の湯は、古田織部(1544-1615)のもとにあり、、「多聞院日記」の慶長4年(1599)3月22日の条に「伏見より織部と云茶湯名人来候」と見えるところから、すでに当時利休亡き後の茶の湯の名人として名を世に知られていたことが分かります。
織部は、「慶長見聞録案紙」に「此此、数寄者の随一、古田織部駿府江戸へ参向、将軍様御茶之湯御稽古遊ばされ、これに依り、上下これを奔走す」とあり、また慶長15年(1610)ニ代将軍徳川秀忠に点茶の式を伝授するなど、茶道指南ともなり、「茶話指月集」にも「織部は今の宗匠」と宗旦が織部を今の宗匠(当代随一の茶の湯の宗匠)と言っているように、「茶湯名人」「天下の宗匠」として「織部好み」の茶が一世を風靡します。
慶長20年(1615))6月11日古田織部(72)が、豊臣方に内通した罪を問われ、伏見の自邸で切腹したあと、織部の後に続いたのは、織部の弟子であった小堀遠州(1579-1647)で、三代将軍徳川家光の茶道指南となります。
このように織部・遠州の茶が風靡するなかで、「茶話指月集」に「休(利休)が孫千宗旦元伯と号すという人あり。生涯、利門名路に奔らず、常に窓簾をたれて清味を甘うこと已に七十余年。雪のあした、月の夕、興いたる時は茶友を招き、興つくる時は独座す。」「普公茶話(ふこうちゃわ)」に「小庵嫡子宗旦といひしハ、幼少の時喝食にて、大徳寺春屋和尚に仕へ侍る。利休膓害の時は、若年なり。其後、小庵の遺跡千の家を相続し、絶たるを継、廃れたるを興し、茶道又世に明らか也。是をもてはやすこと都鄙、遠近をわかたず、朝に来り、暮に往て、倶に茶席に交りを結ばずといふ事なし。利休の在世盛なりしにも劣らず、辱も禁裏仙洞にもかくれなく、殊に将軍家より再ひまで御召あれども、上意にもしたかはず、宗旦ハ壮年より実の茶湯を以て楽とせり。茶の具とても有る任せ、得るに随ひて、昨日を忘れ、明日をはからず、小座敷を今日庵と号して、老の身の明暮に、茶釜に向ひて端座する時は、おのつから禅定なるへし。安楽の実体、区々の窺ひ知るへきにあらず。或時は琵琶を抱て閑窓の月に嘯き、頌を作りて戯れとす。倩おもふに、利休の茶湯は時を得て其名を発す。宗旦ハ一味平等、乃供水心法の理味をよく飲み、心地安閑にして、不退の茶席に冬凍春暖を経て一生いみじく、八十一歳にして万治元年戊戍十二月十九日に逝す」、「本阿弥行状記」に「或年宗旦子を御大名方より達て御招きに付、江戸表へ被参候事極り、大津迄行て、俄に不快とて終に出府止候由。實は虚病にて、其人へ屈し候て御館入の事,、一向に不同心故と相聞申候。我等なども別て念比に候へ共、此氣先に於ては甚だ以て心恥敷存る事度々有之候。」とあるように、宗旦は仕官(御館入)の誘いには応ぜず、市井の茶匠として、侘び茶の宗家としての生涯を送ります。
ただ、経済的には不如意だったようで「乞食宗旦」と呼ばれます。
「普公茶話」に「宗旦以後は宗拙、宗守、宗左とて実子あり、将軍の命に宗旦したがひ給はざる時、此兄弟の人々嘆きて、かやうの時節にあひ奉る事こそ幸なれ、いそぎ江府に下り給はば、其余力一家の為になどかならざらんやとて、泪を流していへども、宗旦心に叶はず、知行に茶湯を替てよしなし、面々の茶湯器量なければ力及ばず、我は一生此藪の中こそ楽なれとて、中々承引なく、宗旦在世の間、家貧しければ持伝へたる器を価にかへて、清貧を楽しめり」、「茶話指月集」に「ある時、今日庵主、古宗左へ物がたりに、宗易は尻脹(しりぶくら)の茶入を嗜きて、二つまで所持す。一つは三斎へまいらせ、一つは予が家に伝えたるを、若き時煩らいて厨乏しかりければ、姪の九兵衛に其の茶入替わりにつかわし、金子調えさせつるが、そのままにして、え取りもどさず。先にはかかるものともしらで、うずもれやしつらん。」と、利休道具を手放したりもしています。
寛永10年(1633)8月、宗旦は床なしの一畳半(台目)の茶室を造ります。「元白宗旦文書」に、「一畳半止床なし見事ニ出来候、今日炉入候、来月七日ニ育公ト清泉御弟子さ蔵主ト宗リトヲ呼可申カト存候、古在ニ面こまい竹ふき板トヲとヽのへ申候、其外ハ少もかい不申候・・・一畳半出来かへいてき路次石すへふるたヽミをしき候て、夜前任甫呼一服申候、殊外一畳半気相ニ応申、一人心よく候可心易候・・・八月十六日宗旦花押道安壁庵へも状遣し候沢庵和尚へも進申候宗受まいる」とあります。
宗旦は、この一畳半に「不審庵」の額を掲げ、9月7日に席披きを行い、9月18日には時の太閤近衛信尋(このえのぶひろ/1599-1649)を招きます。
「茶話指月集」に「さいつ比桜の御所(近衛公)、千の宗旦茶の湯御所望ありて御成候とき、旦(宗旦)、常の通り茶を点てて、茶碗を御前へさし出す。御所、なにと宗旦、台天目にては、何れの人へ茶をまいらするぞと御尋ねあれば、旦、御所のようなる貴人へ進上申し候。され共、かかる容膝の小庵、おもしろく思し召し、まげて御成あそばされるるにより、わざと常人のごとくもてなし奉るにて候。其のうえ、むかしは長押に張付したる四畳半に台子を飾り、茶の湯を仕り候を、宗易、数寄道の本意、侘びたるにありと覚悟いたし、竹椽・錆渋紙ようの栖居にしつらい替え候ゆえ、かようの小座敷には、台子取り合い申さず候。書院には、台子かざり置き申し候。後程、あれへ御出あそばし候わば、いかにも台天目にて御茶上げさぶらわんと申す。御所、最におぼしめし、御機嫌よく御茶まいり、還御遊ばされけると也。」とあるように、利休の侘び茶を鋭く強調します。近衛公は、その後もたびたび御成り。これより、宗旦の名があがります。
宗旦は、先妻との間に長男の閑翁宗拙(かんおうそうせつ/1592-1652)、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ/1593-1675:武者小路千家)、後妻との間に三男の江岑宗左(こうしんそうさ/1613-1672:表千家)、娘くれ(久田宗全の母)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ/1622-1697:裏千家)をもうけています。
宗旦の長男宗拙、次男宗守が生まれたのは、宗旦が大徳寺にいた頃になり疑問が呈されていますが、納得できる説はありません。ただ近年武者小路千家より新説が提示されています。
自身では仕官することを拒んでいた宗旦ですが、子供たちの仕官のためには奔走したことが「宗旦文書」に見えます。
寛永19年(1642)、三男の江岑宗左が、紀州徳川家に茶堂として召し抱えられると、正保3年(1646)、家督を江岑宗左に譲り、その屋敷の北裏に別に隠居屋敷と二畳台目の「今日庵」を建て、四男の玄室を連れて移ります。
正保3年(1646)6月13日付の江岑宗左宛の手紙に、「うらの作事はようけとらせ候て、大工所もこしらへ候。盆前に出来様願、四間に三間の家に候、小座敷は二畳敷候」と記しています。「松屋会記」慶安2年4月5日に「隠居の二畳敷、但一畳半敷て、残りは板畳也、中柱有之、但むきは無之候」とあり、今の今日庵と同一である事がわかります。
この「今日庵」の名は、宗旦参禅の師清巌和尚を招いた時、和尚は約束の時間に遅れたので、宗旦は「明日に来てください」と言いおいて外出した。遅れてきた清巌和尚は茶席の板張りに「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず)」と書きおいて帰ってしまう。帰宅した宗旦はこれを見て、清巌に「今日今日といひてその日をくらしぬるあすのいのちは兎にも角にも」という一首を献じて詫びたという一事によるものといいます。  
宗旦とその息子たち

宗旦には、先妻の子である長男の閑翁宗拙(かんおうそうせつ/1592-1652)、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ/1593-1675)、それに後妻の子である三男の江岑宗左(こうしんそうさ/1613-1672)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ/1622-1697)の四人の息子がありました。
長男の宗拙は、加賀前田家に出仕しますが、すぐ辞職したようです。「宗旦文書」によると、宗旦が沢庵和尚や柳生但馬守などに依頼して、紀州徳川家か相模小田原城主稲葉正勝への有付(就職)を望みましたがうまくいかず、宗旦は「さりとてハうつけにて候」と怒っています。しかし「何トソして我等息災之中ニ宗拙ヲ京ニ有付申度候」と、自分の生きているうちに何とかて有付させようとしますが、肯じなかったようで「一世対面おもひもよらず候」と勘当されてしまいます。
「続近世畸人伝」の本阿弥光悦の条には、「又茶を好みて、初メ宗旦と善し。後其子宗拙父に勘当せられし時、もとより光悦が書の弟子なれば、ひそかに野間玄沢鷹峰の隠者にあづけたるを、旦聞出て深くうらみ、交リをたちしはいかなる故なりけん。」とあり、千家を出た宗拙は、医師の野間玄琢(のまげんたく)方に身を寄せたようですが、正保2年(1645)玄琢が没したため、西賀茂の正伝寺に奇遇したようです。
稲垣休叟の「茶祖的伝」には、「元伯四男一女有、嫡子宗拙壺天と号す又沢庵和尚、閑翁と号せり、所授墨跡千家にあり、若年より父の不興をうけて家を継す、所々に寄食しゐられしとそ、一端阿波候へ出られしかと又京に帰り、大源庵天室和尚へ身をよせ、大徳寺和尚方より父元伯へいろいろ取合せ給し、翁の晩年に不興を免除ありしとそ、され共不審庵ハ江岑相続ゆへ、其身ハ西加茂正伝寺中に寓居す、一翁宗守同腹の兄たるにより衣食のこと、ともしからす贈られしとそ、又宗拙妾腹に女子あり、一翁養ひとりて其息文室宗守に配ス、宗拙卒日ハ承応二癸巳閏五月六日、碑石正伝寺中正覧院にあり。」とみえます。
武者小路千家所蔵の閑翁宗拙の好みの鉄雲龍風炉と雲龍釜の天明4年(1784)の年号のある極め書きに「此鉄雲龍風炉ハ千宗旦ノ惣領子閑翁宗拙ト申人ノ好ナリ。右宗拙阿州茶堂ニテ勤被居候所大ノ隠者ニテ隙ヲ取リ京都ニ一翁宗守ノ世話ニテ住居。茶道ノ上手名人ナリ。後西加茂ノ正傳寺瑞仙禅庵ニ一性茶ヲ楽此立波ノ風炉ヲ好。」(財団法人官休庵「起風」第25号)とあり、ここにも阿波の蜂須賀家の茶堂となったことが記されています。
次男の宗守は、兄宗拙と共に先妻の子で、武者小路にある塗師・吉文字屋、吉岡与三右衛門のもとへ養子に出され、吉岡甚右衛門(よしおかじんうえもん)と名乗り塗師を業とします。
三男の江岑宗左は、「武辺咄聞書」に「宗旦子宗左と云。宗佐、寺沢志摩守・生駒壱岐守に仕、後は紀州に奉公。」とあるように、はじめ寛永10年(1633)に、大徳寺の玉舟和尚や清泉寺の和尚の肝煎りで、肥前唐津藩寺沢家12万3千石に出仕し、名を宗受と改めます。
しかし寛永15年(1638)、唐津藩寺沢家が島原の乱(1637-1638)の責で減封され、失職します。その後の寛永16年(1639)、玉室・玉舟両和尚の世話で、讃岐高松藩生駒家17万3千石に出仕し、名を宗左と改めますが、寛永17年(1640)7月、生駒家はお家騒動の責で讃岐17万3千石を没収、出羽由利1万石に転封され再び失職します。
その後寛永19年(1642)、柳生但馬守宗矩の斡旋で、徳川御三家の一つ、紀州徳川家55万5千石に茶道頭として召し抱えられ200石を賜ります。
四男の仙叟宗室は、幼名を長吉郎といい、はじめ宗旦の意向で、二代将軍秀忠,三代将軍家光の侍医でもあった野間玄琢(のまげんたく)について医学を学び、玄室と称しました。
しかし、正保2年(1645)玄琢の急死に会い、宗旦のもとに戻ります。宗旦は、野間玄琢に弟子入りしていた四男の玄室が帰ったのを機に、翌正保3年(1646)、三男の江岑宗左に家督を譲り、隠居します。
宗旦が隠居するにあたっての三男の江岑宗左への譲り状に、「当家屋敷南北四十一間東西十六間南ニ而十四間あり千宗左ニゆつり置候此屋しき内北十六間四方隠居屋しきニ定置候其段以来書置可申候為後日如此如件正保三年卯月十三日千元伯宗旦(花押)千宗左」とあります。
宗旦は、屋敷の北裏十六間四方に、隠居屋敷と茶室「今日庵」を建て、慶安元年(1648)玄室を連れて移ります。
千家の家督を継いだ三男の江岑宗左は、翌年宗旦の一畳半「不審庵」を解き、三畳半(台目)の茶室を造り「不審庵」の額を掲げ、これが「表千家」となります。
宗旦は、家にもどってきた四男玄室の有付について、加賀前田家の家老本田家でも、東福門院の薬師にでもと望みますが、うまくいかず、「玄身上有付候様ニ計思くらし候」「玄室有付候へは我等死去おもひなく」と、玄室の身の振り方を心配しています。
慶安4年(1651)7月、四男の玄室が、小堀左馬助正春の肝煎りで、加賀小松家前田利常に召し抱えられることが決まります。この年の8月に宗室と改名したとされます。
宗旦は、仙叟宗室が有付くと、「有付仕合候ハヽ、我等の家わたし候て、うらのわらや三間ニ間ニ候て弥引こみすまし可申と存候」と、再び隠居することにします。
承応2年(1653)、宗旦は隠居屋敷と茶室「今日庵」を四男の仙叟宗室に譲り渡し、四畳半の庵「又隠(ゆういん)」を建て、再度隠居します。「又隠」の名は、また隠居するという意味から命名したとされます。
「今日庵」を継いだ四男の仙叟宗室が「裏千家」となります。
次男の宗守は、その後塗師の業を女婿の中村八兵衛(千家十職初代中村宗哲/1617-1695)に譲り、千氏に復して、武者小路小川東入に居を構えます。その後は茶人としての道を歩み、慶安2年(1649)57歳の時、大徳寺185世、玉舟和尚から一翁宗守の号を授かります。
寛文4年(1664)、宗守は讃岐高松藩の百俵十人扶持茶道頭格となります。
寛文7年(1667)、宗守は松平侯の茶堂としての仕事を隠退し、武者小路の地に茶室「官休庵」を建てました。この茶室の名である官休庵はそのまま家を代表する名となり、その所在地から「武者小路千家」と呼ばれるようになります。
 
静岡茶

聖一国師 (しょういちこくし)
静岡茶の始祖
聖一国師は鎌倉時代の高僧で、静岡茶の始祖と伝えられている人です。聖一国師は宗国より仏書千余巻とともに茶の実を持ち帰り、生誕地である駿河国安倍郡三和村足窪(現足久保)の地にそれを蒔いたと伝えられています。
栃小僧が国を代表する僧侶に
五歳で仏門に
聖一国師は建仁二(1202)年駿河国阿倍郡大川村栃沢(現静岡市)に生まれ幼名を龍千丸といいました。たいへん聡明な子で、二歳にして人の言葉を聞き分け、年を重ねるごとにその行いや言葉は異彩を放っていたといいます。投じは僧侶が外国文化導入の先駆者であり、あらゆる新知識をもって幾多の宮廷人の帰依を受けていたことから、平家一門であった両親は龍千丸が五歳の時、その一生を久能寺に托しました。
五歳にして久能寺の小僧となった龍千丸は、沙弥(しゃみ)を辧円、字名を円爾(えんに)と呼ばれました。「聖一国師年譜」によると
師登リ久能山投ス尭弁ノ室ニ即チ授ク倶舎頌ヲ而誦ス之ヲ
(円爾は久能山へ来てすぐに「倶舎頌(くしゃのじゅ)」を読んだ)
と記されており、他に「元亨釈書」などにも栄西は八歳の時、道元は九歳の時、円爾は五歳の時に「倶舎頌」を読んだと記されています。当時故郷の栃沢で円爾は「栃小僧」(とちこぞう)と呼ばれていました。
国内での修行時代
承久元(1219)年円爾18歳の春、師尭弁(ぎょうべん)の許しを得て、当時名山として知られた江州園城寺(おんじょうじ・三井寺)大本山に入山。間法修行を重ね、半年で南都(現奈良)の東大寺で受戒を受け、正規の出家と認められました。その後各地の名刹で修行を重ね、貞応二年、栄西の法弟として知られた栄朝のもとで修行するため、友僧神子栄尊と共に上野国長楽寺に入門。栄朝は円爾の非凡な才覚を見て取り、蘊畜(うんちく)のすべてを授けました。一年を経ずして故郷久能山へ帰り一年を過ごすと、さらに仏法の奥義を求めて政治の中心地である鎌倉へ旅立ちます。しかし円爾は鎌倉で寄寓した寿福寺で開いかれていた講座に疑問を抱き、「もはや日本国内の名僧を訪ね歩いても得るものはない」と渡宗の志を抱くようになり、すでに友僧栄尊が渡宗の準備をしているという長楽寺の栄朝のもとに帰りました。
禅知識を求めて渡宗
時は四条天皇の天福元(1233)年、円爾32歳の春。栄朝から渡宗を許され、栄尊と共に九州へ向かったものの出航を待って一年以上を博多で過ごします。やがて嘉禎元(1235)年の春、宗国への渡航が実現しました。
宗国において禅知識の志に燃えた二人は、阿育王山廣利寺、天童山を詣でるなど勢力的に修行した後、杭州都下にて天竺の僧栢庭月公(はくていげっこう)から諸種の経文を授けられました。二人は名山霊地を遍歴し、北山の寧退耕という僧に会見した折「径山の萬寿寺で宗師師範無準師範(ブシュンシバン)という方が大法輪を説いておられる」とおしえられ、すぐさま径山に赴き無準禅師の門下となりました。無準禅師のもと円爾は求法のため刻苦修行をつづけ、その明敏な頭脳と非凡な資質は同門の名僧たちの中にあっても傑出していたと伝えられています。
こうして萬寿寺の門に身を投じて二年の歳月が流れ、円爾36歳の秋、無準禅師から印可証明を授けられるに至ります。無準禅師より、南岳恵譲禅師から無準禅師五十四世に加えて円爾に至るまでの宗派の図、無準禅師の祖密庵傑禅師より親授の法衣、竹杖、楊技方会禅師の伝法衣、「仏法大明録」の一部など貴重な品々を手渡され、帰国して広く禅を説くよう勧められます。
こうして 宗において数々の知識と仏法の教えを身に付けた円爾は、仁治二(1241)年五月一日に船出。諸宗の教典、儒書、易書、漢方の医薬書など広範多岐にわたる貴重な書籍千余巻を持って帰国の途につきます。
知識人として活躍
中世日本の要人たちとの関わり
仁治二(1241)年七月に帰朝した円爾は、宗で共に修行した湛慧の崇福寺、長楽寺で同門であった栄尊の萬寿寺、博多においては太宰少弐藤原資頼(すけより)が建立した後の承天寺などを開山。九州を中心に禅を広め、その布教伝法は寺々を通じて各階級におよび、円爾の法徳は京洛まで知れ渡るに至りました。寛元元(1243)年二月、藤原(九条)道家公の熱心な請いに応じて、円爾は博多から京へ上りました。道家公は円爾を建立中であった東福寺の月輪別殿に迎えて日ごとに法を問いました。円爾の幅広く奥深い禅道の教えに感激した道家公は法位を与えようとしましたが、円爾が固く辞退したため、聖人第一者との意から親しみをこめて「聖一和尚」の四字を揮毫してこれを円爾に贈りました。
聖一和尚は道家公の庇護のもと、その広く深い知識を公家社会において浸透させ、亀山上皇はじめ多くの要人たちを受戒し、朝廷からも厚い帰依を受けるなど宗教的な権威を高めていきます。また、建長元(1249)年正月には、鎌倉幕府の北条時頼の懇請で建長寺建立の地鎮祭を行っています。以来京洛の地と政治の中心地鎌倉の禅門両方に多大な影響を与え、国を代表する知識人として政治や外交、文化など多方面に活躍しました。
幅広い禅知識と宗国文化を残して示寂
いよいよ建長七(1255)年の夏に東福寺が完成し、聖一和尚は東福寺大法堂において盛大荘厳な開堂の盛儀を行いました。東福寺を開山した聖一和尚は、渡宗の折に手に入れた書籍を東福寺普門院の文庫に納め、大陸で得た知識をもとに国内寺院における礼式の基礎を築きました。この東福寺建立により聖一和尚の名はますます全国の僧俗を問わず広く世間に知れ渡ることとなり、聖一和尚は集まる人々に対して禅道を懇切に教え導いたといわれます。晩年、病を覚えるときも勤行を怠ることなく続け、自らの禅知識の基礎を後世仏教界を導く標となる三教(仏儒道)の所蔵書籍目録「典籍目録」一巻を著し書庫に備えました。このように聖一和尚はわが国の宗学導入の先駆として偉業をつくし、弘安三(1280)年79歳のとき常楽寺にて示寂。その没後応長元(1311)年、円爾の功徳を嘉し花園天皇から国師の号を賜りました。
聖一和尚とお茶
聖一国師の茶に関する文献は、「東福寺誌」に「国師の駿河穴窪の茶植え…」とあるほかに見るべきものはありません。伝えられるところによると、寛元二(1244)年に長楽寺へ栄朝を訪ねた後、駿州の故郷栃沢に帰り着いた師が、母への土産として宗国から持ち帰った茶の種子を栃沢から一山越した足窪村へ播いたといわれています。足窪に植えられた茶は、足久保川沿いの山あいの風土に適して広く各村に普及し、質も向上していきました。後世、御用茶の生産などによって足窪の村はたいへん豊かになり、聖一国師を茶祖とあがめるようになります。
また、聖一和尚が宗国から持ち帰った多くの書物の中に、日本の茶の湯の根源をひらいた「禅苑清規十合(ぜんおんしんぎ)」一冊がありました。「清規」の意味は、禅院では茶礼をふくめて僧侶の守らなければならない行儀作法のこと。喫茶喫飯の儀礼が含まれるこの書は、わが国に後世花開いた茶の湯の文化の根底を説いた書ともいわれます。
現在静岡市内に茶業関係者が建立した茶祖堂(臨済寺内)があり、聖一国師の木像が安置されています。毎年四月下旬には新茶を献上して茶業発展を祈願する献茶式が行われ、今も多くの茶業者から敬仰されています。
杉山彦三郎
茶の品種改良に心血を注いだ人 / 安政4年-昭和16年(1857-1941)
現在、日本各地に広がる茶園の8割近くを「やぶきた」品種が占めています。この茶の優良品種「やぶきた」を選抜した功労者が杉山彦三郎翁です。氏の持論は「良い樹から良い芽を採って良い茶をつくる」。今ではあたりまえのこの説が理解されたのは、やぶきた発見から半世紀余後のことでした。
生い立ち
杉山彦三郎は、安政四(1857)年、安倍郡有度村(静岡市)に生まれました。父は造り酒屋のかたわら漢方医を営んでいましたが、体の弱かった彦三郎は、家業は弟にまかせて農業をはじめました。彦三郎が農業をはじめた明治初頭は茶業の勃興期。自ら山林原野を開拓し、20歳までに3ヘクタールの茶園を造成しました。この頃の彦三郎氏は、生葉を摘んでもそれを製茶する技術がなく、かといって茶師を得られず困っていたといいます。加えて、粗悪茶を造りながらも安倍郡茶業組合の幹事を勤めることとなり、不正茶を取り締まるこの役職に就いたことは、さらに困り果て恥じ入りもしたと、後に述懐しています。
品種の違いを発見
製茶の研究にあたっては、勧農局の多田元吉、支那人胡秉樞らにつき、緑茶、紅茶の製造を学びました。また、明治10年頃、遠縁にあたる小笠の茶師、山田文助を自宅に招いて製茶伝習所を造りました。
文助は、自ら揉む見事な茶を「天下一」と称し、これを造るには上手な茶摘みに摘ませた軟い葉のみを選別しなければなりませんでした。彦三郎は文助を同伴して茶摘みをしましたが、文助の満足する生葉は茶園でなかなか見つかりません。良い芽を摘むために何日も茶園を歩いているうちに、彦三郎は、摘んだあとに硬化する葉もあれば、軟芽でいる葉もあり、茶樹には発芽時期、芽の具合や色合いに差異があることに気付いたのです。
あだ名は「イタチ」
早・中・晩の区別、さらに良い樹と悪い樹があることに気付いた彦三郎は、良い芽を摘むにはどうしたらよいか思案しました。そこで、良質な芽が出る茶樹から実を取って捲いてみますが、すべて良い樹ができるわけでもない。また、人から継ぎ木が良いと聞けば試みても、台木から芽が吹いてしまう。彦三郎は品種選定や改良について学問的基礎知識がないまま、一つの結果を得るために何年もかかる試験を繰り返し続けたのでした。
良いと思った品種を植えては失敗する彦三郎を見て、人々がつけたあだ名は「イタチ」。品種改良という概念が無い時代でしたから、他家の茶園に入り込んで茶樹を探して這い回る姿を、周囲は道楽、変人と笑ったといいます。当時は製造技術重視で、日本茶の伝統は混植によって良い茶が生産されると考えられていましたから、単品種製造を認める者は無く、品種改良に没頭する彦三郎は異端視されていたのです。
やぶきた発見
そんな人々の嘲笑をよそに、彦三郎は品種研究を続けました。そして明治25(1892)年の「晩一号」という品種を皮切りに、彦三郎は生涯で百種に及ぶ品種を世に送りだしています。中でも「やぶきた」は今でこそ全国の茶園の8割を占める優良品種ですが、優良性が認められ普及するには、発見から実に半世紀の歳月を要しました。 「やぶきた」は、静岡市谷田の試験地に隣接した中林という地区の、竹薮を開墾して播種した茶園の中から、明治41 (1908)年に2本を選抜し、北側のものを「やぶきた」南側のものを「やぶみなみ」と命名したものです。
試験中の茶樹が薪となる
前述のように品種改良の成果は、すぐに世に認められたわけではありません。時代は未だ品種改良に対する理解がなく、彦三郎は知事や茶業先駆者たちに品種改良の必要性を力説し、実践して理解を求めました。
彦三郎が50歳を過ぎた明治43-44年(1910-11)頃、初めての理解者、茶業中央会議所会頭大谷嘉兵衛氏と出会います。品種改良の必要性に理解を示した大谷氏は、二町七反歩の土地を自費で買い上げて中央会議所へ寄付する形で谷田試験地として提供し、彦三郎の品種改良事業を激励しました。
この試験場で品種研究に従事した昭和3-9年の間、彦三郎は単品種製造の茶を造り詳細に記録しています。品種別に品質、特徴、収穫量を知ることで、早・中・晩の必要性を証明し、茶業における品種改良の必要性を解こうとしたのです。
ところが昭和二年、大谷氏が会頭を辞すると彦三郎は再び孤立し、品種改良への投資を快く思わない会議所から地代を請求されることになります。とうとう昭和9年、会議所は試験地を含めた一切を県に委譲。彦三郎は引き渡しを余儀無くされました。このとき、二十数年の研究成果である茶樹はことごとく抜根され、山積みにして焼却されてしまったそうです。
彦三郎の人生において、この時ほど辛いことはなかったでしょう。氏が77歳の時のことです。
しかし、経済的支援を失っても彦三郎の品種改良への情熱が失せることはなく、安倍郡美和村に自費で模範茶園を購入し、近隣農家の青年を指導しながら早・中・晩の品種試験を再開しました。
農業青年の育成と地域貢献
氏の茶業への貢献は、品種改良だけに留まりません。77歳にして試験地を追われ、自園で研究を再開した折りには、近隣の青年に手伝いを請いました。後に、青年たちを使ったのは、後世品種改良の方法を伝えていく必要を感じてのことだと述べています。 また、明治32年、高林式粗揉機が発明されて、これに動力を応用した機械製茶の試験を開始し、明治34年には阿部郡有度村谷田に日本初の水力を応用した動力機械製茶工場を新設しました。他にも、郷土を貫通する巴川の改修工事、茶園の石垣造成など、数々の先進的事業を行い地域農業に貢献しました。
品種選定の苦心
彦三郎の品種選定の苦労は並々ならぬものでした。県下各地は言うに及ばず、埼玉、九州、沖縄、朝鮮まで行脚し、これはと思った茶樹に出会えば採集して持ち帰り試験地に栽培しました。旅先には必ず水コケを持参し、それが無いときには大根に刺して枝をもち帰ったそうです。
試験地では昼夜を問わず茶園を巡り、株にかがみ込んで枝を見、生葉を噛んでは良種の目星をつけて品種選定をし、それを圧条増殖しました。選定した茶樹も、成長するに従って株の張り具合や葉の形状に個性が出るため、理想的な茶樹を見つけることは苦心の連続だったといいます。増殖方法も学術的な知識がない中で試行錯誤して見つけた方法で、現在も氏の選び出した取木法での苗木生産が行われています。
適地適種を称揚
彦三郎は「茶樹にも適地があり、その地方に最も適する品種を選ぶことが経営上最も留意すべき点である」と述べています。また「喫茶養生記にも八十八夜の茶が薬になると書いてあるわけでもなく‥‥」と皮肉を込めて言いながら、良茶は時期を問わず高価であるべきとも説き、苗木というと誰もが早生を欲しがることを戒めています。品種研究を始めた二十代の頃より「早・中・晩の区別をして摘採するのが良質茶ができ、長い間よい茶を製造し得るのだから、経済的効果も高い」が氏の持論であり、品種研究の目的でした。研究成果の一端は認められながらも、時の流れは、彦三郎の多面的構想とは別の道を進んできたのかもしれません。
やぶきたの隆盛を見ず他界
杉山彦三郎翁は、60余年に及ぶ品種改良の功績を残しながら、「やぶきた」の隆盛を見ることなく、昭和16年2月7日の寒い朝、84歳で生涯を閉じました。
明治41 (1908)年に発見された「やぶきた」は、23年後の昭和6年頃になって、その樹勢や品質の優良性を試験的に認める結果が出されました。後年ご子息は、「選定した数種の国立試験場による審査表があるはずだ」との父の遺言‥‥と述べていますから、最期まで普及を切望しながらも目にすることができなかった彦三郎は、さぞ残念であったことでしょう。
その後も戦乱や戦後の食料増産など時代的な事情から、本格的に普及をみたのは戦後になってからのことです。早場で霜に強く収穫が安定していることから、「やぶきた」は昭和30(1955)年に奨励品種に指定され、茶輸出、改植新植ブームに乗って爆発的に普及しました。 96年、全国の「やぶきた」栽培面積は19,272ヘクタール。全国の8割、静岡県内では9割のシェアーを占め、それまで植えられていた在来種に取って代わりました。
「やぶきた」の原樹は昭和36年に天然記念物に指定されました。県立美術館北側入口に移され、杉山の顕彰碑とともにあります。樹は今も有志によって管理され、大人の背丈をはるかに越える樹冠は今も濃緑の葉をいっぱいに茂らせています。静岡城趾駿府公園には、氏の遺徳を慕う人々が建立した彼の胸像が立てられています。
杉山彦三郎略歴
年齢 年      できごと
-- 安政四年(1857) 七月五日阿部郡有度村(現静岡市国吉田)生
20 明治10(1877) 多田元吉らに師事し山田文助をホイロ頭に招く
品種改良事業に着手
25 明治15(1882) 古庄戸長役場勧業委員当選
27 明治17(1884) 茶業組合創立に基づき幹事長就任
茶業取締所集会員当選
32 明治22(1889) 阿部郡茶業組合有度村選出茶業委員就任
33 明治23(1890) 有度村村会議員当選
36 明治26(1893) 静岡県議会議員当選(同29年退任)
38 明治28(1895) 地方青年教育の必要性を感じ、有修学舎設立
同36年私立有度農業補修学校創設
41 明治31(1898) 茶業組合総合会議員当選
42 明治32(1899) 高林式粗揉機発明を受け、機械製茶の試験開始
44 明治34(1901) 阿部郡有度村谷田に水力応用機械製茶工場新設
46 明治36(1903) 有度村長当選(同37年退任)
47 明治37(1904) 静岡県茶業組合総合会議所議員当選
50 明治40(1907) 茶業中央会議所・生産改良調査委員嘱託
51 明治41(1908) やぶきた発見
52 明治42(1909) 阿部郡茶業組合製茶研究所設立時理事
52 明治43(1910) 同所を静岡県茶業組合総合会議所東部研究所として引継
56 大正2(1913) 有度村会より村治功労者として感謝状銀盃受領
58 大正4(1915) 茶業組合中央会議所試験茶園監督嘱託(有度村谷田)
63 大正9(1920) 阿部郡茶業組合長当選
64 大正10(1921) 東洋輸出品博覧会総裁従三位勲三等、功労賞
66 大正12(1923) 静岡県茶業組合総合会議副議長当選
67 大正13(1924) 試験茶園廃止退職に際し会議所会頭より感謝状受
71 昭和3(1928) 静岡県知事従四位勲三等表賞
73 昭和5(1930) 昭和天皇御巡幸に功労者として列立拝謁
77 昭和9(1934) 谷田試験地を県に明け渡し
78 昭和10(1935) 静岡県茶業組合連合会議所特別議員任命(同13年退職)
84 昭和16(1941) 有度村国吉田自宅にて死去
中條景昭 (ちゅうじょうかげあき)
牧之原開墾の功績者
幕末、開国によって日本の体制は大きく変革し、政治経済はもちろん思想、教育、庶民の風俗まで一大変革をもとめられた時代。武士の地位が崩壊していく混乱の世で、中條景昭たち旧徳川幕府に仕えた幕臣たちは、牧之原開墾に自分達の第二の人生を賭けました。数百人の開墾士族をまとめあげた時代のリーダー中條景昭は、今も彼等が開墾した地牧之原で遠くひろがる茶園を見守っています。
武士たちの失業
中條景昭は、文政十年、江戸六番町に旗本の庶子として生まれました。嘉永七年(1854)より13代将軍家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣術・柔術世話心得などを歴任する剣客であったといいます。
慶応三年(1867)、将軍徳川慶喜が大政を奉還して江戸城から水戸に退く時、慶喜の護衛に当たった精鋭隊(のちに新番組)の一員として慶喜とともに駿府(静岡)へ下りますが、当時の情勢はめまぐるしく変化し、家達が藩知事となると新番組は使命を終えて解散。大量の武士たちが失業することになります。明治新政府の朝臣となる者、剣を捨てて農民や商人となる者、あくまで幕臣の道を歩もうとする者...旧幕臣たちは、生き抜く術を自ら決断しなければならない転換期に立たされていました。
剣を捨てて鍬をとる
中條景昭隊長以下数百名の隊員たちは、半年ほどのあいだ久能村(現清水市)に住んでいましたが、協議の末、牧之原開拓に入ることを当時の静岡藩大参事の平岡丹波、藩政補翼の勝海舟らに申し入れました。後に伝えられた勝海舟座談によれば、このとき中條は、「聞くところによると遠江国の金谷原はギョウカク不毛の土地で、水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及んでいる。若し、我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」 と誓い、その志が通じて勝らの協力が約束され牧之原入植の方針が決まったといいます。その後、江戸留守居関口隆吉、松岡万など、現地の事情に通じた人々に検討され、士族の開墾方としての身分を得ました。中條の言葉にあるように、牧之原は広大な面積があるばかりでなく、幕府直領として放置されていた土地であったことが開墾の許可を容易にしました。
明治2年7月、家達の許可を得て、中條らは「金谷原開墾方」と称して牧之原荒野の開墾を開始します。約250戸の元幕臣たちが牧之原へ転住し、1,425町歩の開墾を始めました。当時、組頭(隊長)中條は42歳、頭並(副隊長)大草太起次郎は34歳で、開墾方には先輩格が38名、30歳未満の者が160名と若年の者が多く、身分の高い武士もいれば能楽師もいました。これらさまざまな人々2百名余を昨日までの地位身分に関係なく、農耕開拓団として統率していかなければなりません。中條ら開墾方の首脳たちは、この開墾組織を運営していくにあたって多くの仲間をまとめ、さまざまな取り決めや仕組みをつくりあげていった優秀なリーダーであったことがわかります。入植に不安を抱いて脱落する者も多い中で、中條ら幹部は着々と開拓を進め、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達しました。(これには、明治4年に入植した川越人足や農民の開墾も含まれると思われます。)
製茶会社設立構想
牧之原はやせた土地のため種を蒔いた後の生育が遅く、初めて少量の茶芽を摘採できたのは、明治6年のことでした。その明治6年になると、それまで官有地であった土地は、浜松県から各人に下付され私有地が確立したので、農民等に対する売買もできるようになり、徐々に中條らの統制から離れてゆくことになりました。明治7-8年頃に、中条は神奈川県令(知事)にとの誘いを受けましたが、「一たん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」と一笑にふしたといいます。初心を曲げず、開墾方の頭として人々をまとめ、その後も開墾に励みました。
また、中條は明治11年2月には、牧之原氏族全員の連署で、時の県令大迫貞清に牧之原製茶会社(株式)を設立し、個々に製茶していたものを数百町歩の茶を集めて共同製茶し、輸出を図りたい、さらに情勢によっては紅茶製造も考えたいという大きな構想をうち出しています。結局この事業資金の請願は却下されましたが、当時、茶は生糸とともに日本の代表的な輸出品目であり、その再生や輸出利益は外国資本に握られていたため、政府が茶の直輸出に力をそそぎはじめたことが影響していると思われます。加えて丸尾文六が、明治11年にやはり株式会社組織で対米輸出を始めています。会社設立は果たせなかったものの、時代の流れを見据えて組織の反映に尽力した中條ら首脳陣の前向きな努力が窺われます。
中條は生涯頭の丁髷を切らず、前の「最後はお茶のこやしになる」のことばどおり明治29年1月19日に77歳をもって、生涯を捧げた牧之原の一番屋敷で死去しました。葬儀には、勝海舟を葬儀委員長として初倉村(現島田市初倉)種月院に葬られ、士族たちは中條の死を悲しんで三七21日の間、墓参を続けたといいます。昭和63年、島田市は市制施行40周年と全国茶行品評会を地元で開催をする期に関係者によって中條景昭の偉業をしのび、谷口原に立像と記念碑を建立しました。
高林謙三
製茶機械発明家 / 天保3年-明治34年(1857-1941)
19世紀末期、産業革命によって動力の活用が盛んとなった頃、日本の主な輸出品目は生糸と緑茶でした。そのため、緑茶の生産に資産家が財を投じて参入し、大量に生産するために機械化が業界から望まれていました。この時代に、人生を賭けて開発に没頭した製茶機械開発の先駆者が高林謙三です。
生い立ち
高林謙三は、天保3(1832)年武蔵国高麗郡平沢村(現在の埼玉県日高町)の貧しい農家に生まれました。名を小久保健二郎といい(37歳の時に高林謙三と改名)、人一倍頭脳に優れ、学問好きな子供でした。
16歳で医学を志して隣郷の権田直助に漢方を学び、次いで佐倉藩侍医順天堂佐藤尚中の門に入り、西洋外科医術を修得します。下武蔵国入間郡小仙波村で医院を開業し、西洋医の権威として知られるようになりました。
茶経営の乗り出す
医者になった謙三は、明治元年頃には、かなりの財を成していたようです。 その頃、開港による輸入増加に対して、日本の輸出品は生糸と緑茶だけという状態でした。貿易の不均衡は著しく、「国益のためには茶の振興が急務」と一念発起した高林謙三は、茶園経営を始めます。 しかし、従来の手揉製茶法では、一人1日たかだか数キロしか生産できません。高林謙三は「緑茶の量産と生産費用の低減を図るためには機械化以外にない」と思い立ち、自ら私財を投じて製茶機械発明にその生涯を賭けました。
製茶機械の特許取得
明治14(1881)年、謙三は、茶壺の中のお茶が、壺が動くたびに動くのをヒントに焙茶器の製作を試みますが、なかなかうまういきません。明治16年にやっと、味、色共に焙炉製より数段優るものができあがり、数回の機械改良を重ねて、明治17年、ついに焙茶器械を完成させました。謙三の発明した焙茶器械は、素人でも上手に良いほうじ茶ができ、茶の葉が粉になって無駄になることがなくなるため評判が良く、毎月何十台とよく売れました。 また、謙三は焙茶器と平行して、生茶葉蒸し器械、製茶摩擦器械の考案研究も行っていましたが、明治18年にこれらの器械も完成させました。
謙三は、明治18年7月1日、日本に特許条例が施行されるのを待って直ちに出願し、同年8月には生茶葉蒸器械に専売特許証第2号が、焙茶器に第3号、製茶摩擦器械に第4号が下附されています。ちなみに、専売特許証第1号は、宮内省技師の発明した軍艦塗料なので、いわゆる民間発明家としての特許第一号は高林謙三の作品であるといえます。 この他、明治18年11月に改良扇風機で特許第60号を、明治19年3月には茶葉揉捻機で特許第150号を取得しています。
自立軒製茶機械の失敗
自立軒製茶機械は謙三の理想の機械で、蒸しから乾燥までの工程を順次に機械がやるというものでした。蒸器に搓揉機(さじゅうき・粗揉機の前身)と揉捻機を組み合わせて、これらの機械を経て出てきた茶が最後の乾燥機にかけられる、今のオートメーションの前身を目指したのです。 明治19年、医師を辞めて自立軒製茶機械の製作に没頭した謙三は、翌20年に満足のいく製茶をするまでに完成させました。 この機械の完成を喜んだ当時の埼玉県令吉田清英氏は、早速農商務省に報告し、全国の茶業者に対してこの機械の使用講演会を開催させています。その時、3府8県にわたり数千人が参加したといいますから、機械化に対する要望がいかに強かったかがわかります。講習生や見物人たちは、労力や経費が四分の一になるとの話を聞いて感心して帰っていき、その後各地から機械の注文が入りました。この功績をたたえて、明治21年に埼玉県から功労表彰が贈られました。
ところが、自立軒製茶機械の購入者から苦情が相次ぎ、謙三が関係する埼玉製茶会社で製茶したお茶まで、この機械で製茶した茶の全てが不良品のため返送されてくるという事態になってしまい、自立軒製茶機械の失敗が証明されてしまいました。謙三は機械代金も満足に支払ってもらえず、経済的苦境に陥ってしまいます。
茶葉揉乾機の発明
自立軒製茶機械が失敗したうえ類焼で自宅を焼失した謙三は、明日の暮らしにも事欠く中にあっても、機械の発明を続けていきました。 明治26年、農商務省農務局のはからいで、染井の藤堂屋敷内に広い研究用製茶工場を設けました。そして、明治28年、手揉みの動作を機械内部に備え付けた「茶葉揉乾機」を思いつき、試作を重ねて明治30年に完成させました。この機械は 粗揉機として発売されて各地で予想以上の好評を得て注文が相次ぎ、謙三はうれしい悲鳴をあげるほどの忙しさとなりました。この茶葉揉乾機は、明治31年12月、茶葉粗揉機として特許第3301号を取得しています。
この機械の後援を続けてきた東京西ヶ原農事試験場の大林雄也技師は、日本一の茶師と言われた榛原郡初倉村(現・島田市)の大石音蔵と謙三の茶葉揉乾機を対決させました。結果は、能率的にはもちろん、品質においても機械の圧勝でした。大石音蔵は、それまで機械を見くびっていましたが、対決の三日後に謙三を訪ね「あの機械を譲って欲しい」と願い出て、明治31年に改良された茶葉揉乾機を郷里の初倉に持ち帰りました。
販売権と製作特約を静岡の松下幸作が取得
小笠郡茶業組合教師検査員の山下伊太郎は、明治31年、謙三に機械を注文し、その後もたびたび謙三を訪ねて懸命に取り入り、後に粗揉機の一手販売の特約を申し入れます。静岡方面では、この機械の販売権や製作権をめぐって激しい競争が始まって大騒ぎとなっていたのです。
謙三は、山下伊太郎のグループの代表者である松下幸作氏と明治31年8月に販売特約を結び、また同32年2月には機械製作に関する特約を締結しました。松下幸作はこの契約と同時に、静岡県掛川町西町に松下工場を創立し、製造を開始しました(同年8月に、菊川町堀之内へ工場移転)。
謙三、菊川で永眠
松下幸作が掛川に工場を創立したので、謙三は機械の製造の相談や造った機械に焼印を押すために、松下工場へ出かけるようになりました。
明治32年4月、二度目に掛川に出かけた折の会食中に、謙三は突然脳溢血で倒れました。急速に全快する見込みがないため、家族は掛川に移り住み手厚い看護を続けましたが、なかなか快方には向かわず、松下氏は堀之内に住居を新築して謙三たちを住まわせました。その後、体の具合が良いときには、ふくよかな柔和な顔で長いあごひげをなでながら、工場の機械を眺めたり、製造の相談を受けたりして過ごしたといいます。
明治34年4月1日。容態が急変し、高林謙三は逝去しました。享年70歳。茶業に大きな革新をもたらした高林謙三は、郷里の名刹喜多院の閻魔(えんま)堂に葬られました。現在、高林家の墓は、川越市の市指定史跡に指定されています。また、松下幸作氏は、高林家への墓参が滞りがちになることに心を痛め、夫妻の墓碑を菊川の報恩寺に建立しています。
杉本権蔵
中山新道開通と御林開拓 / 文政12年-明治42年(1829-1909)
明治維新を迎えて日本の政治が激変し、徳川の封建制度の終焉によって人々の暮らしや生業は大きな変革を迎えました。当時の人にとって、この目に見えない状況、将来への期待と不安は計り知れないものだったことでしょう。 この明治時代をたくましく生きた杉本権蔵は、御林の茶園開墾と、日本最初の民営優良道路中山新道開設という、2つの大事業を成し遂げた人物です。
生い立ちと人柄
杉本権蔵は、金谷宿に生まれ、金谷の旧家桜井家で育ちました。幼いころは貧しい身の上で、13-14歳頃には川根の家山に魚の行商などに出掛けたといいます。
後に、五和村奥の大代山官林の伐採許可を得て、一躍政府に取り入ることができ、江戸を往復するようになりました。この縁で明治になってから御林開墾に任じられたものだろうと、孫の良氏は述べています。また、権蔵の人柄について、佐夜郡長在任中に御林開墾地を巡視した岡田淡山氏が、著書「郡中小孝節録」で次のように述べています。「…権蔵は金谷宿の人也。性頗る仁侠、維新の際大井川渡渉を廃して渡船の挙あるや、河越人足為に生活を失せんとするを恐れ、将に非挙に及ばんとす。権蔵奮て曰く、汝等誤る勿れ、吾必ず汝等の為に哀願することあらんとす、吾が命苟も存す、決して汝等をして飢渇せしむる無けんと、則ち自ら衆に代て東京に直訴す。…」この文章から、入植を一大決心した権蔵の積極果 敢な素質がうかがわれます。 
川越人足救済役として御林開墾
明治維新で激変する時代の中で、徳川方士族による牧ノ原開墾、仲田源蔵をリーダーとする川越人足の入植と並んで、権蔵も明治3(1870)年、40歳で川越人足75名を引き連れ、初倉村の大塚新平、赤堀啓三両氏と協力して茶園開墾を世話する任務を受けました。この開墾事業は佐夜郡管下のもとに行われ、日坂宿の東北「御林」375町歩(約372ha)の払下げを受けることが決まり、750両の交付を受けています。
しかし、大井川の川越しという荒仕事に従事する者たちを大人数引き連れての入植は、一介の町民であった権蔵にとって容易なことではありませんでした。 権蔵たちは、東山境の字大平に家屋を建てて「御林跡開墾会所」と呼び、その南方の林に川越連中のための合宿舎を建てて入植の準備をしていました。ところが、開墾着手直前になって、開墾事業の困難さと成功を危ぶみ躊躇する人足が続出。権蔵らは、日坂や金谷の他業へ転じる者たちには、しかたなくこれを認め、金十両を与えて送りだしました。そのため、入植開墾は世話人自ら行うことに決まり、3人の世話人が一家をあげて御林へ移住し、明治3年より開墾に着手します。
その後、杉本権蔵、大塚新平らは数年の間に1万円の資金を投じて田八反歩、畑十四町二反歩を開墾し、うち半分は権蔵の所有する土地となりました。こうして、川越人足の救済の目的は果 たせませんでしたが、その後付近の農民も入植して開墾に加わるようになり、牧ノ原開墾に大きな功績を残しています。
中山新道の着想
急速に近代化がすすむ明治時代に入っても、金谷・日坂間を行き来するには小夜の中山峠を越えるほかありませんでした。当時の明治政府は財政難でしたから、道路整備や治水事業にまで手がまわらず、明治4(1871)年、各種事業を民間に委託するため「太政官布告」を発令しました。それは、険路を開き、橋梁を架けるなど、諸般 運輸の便利を興した者は、導銭、橋銭などの徴収を許可する」というもので、個人の資力でつくった場合には、通 行料を取ってもよいというものでした。入植して御林を開墾していた権蔵らにとって、荷車の通 れる道をつくることは急務であり、なんとか峠道を改修して通行の便をはかりたいと考えていました。権蔵は、この太政官布告にもとづいて明治7年に中山新道を計画しましたが、資金不足のために実現しませんでした。
また、新道の開通にあたっては、両駅を結ぶのにどこを通って道とするかで関係部落の賛成や反対があり、権蔵は一部反対部落の説得に骨を折ったと伝えられています。そのためか、権蔵は、小夜の中山の主「水申」が夢枕に立ち、「中山御林を貫通 して日坂金谷間に新道開通の儀(中略)至極結構の儀とは存じますが、唯私の棲家が無くなるので困却、御配慮いただきたい」と三夜にわたって出現したため、村人数十人を伴って山霊水申を上流へと送った、と語っています。
中山新道開通
ようやく明治11(1878)年、静岡の富豪伏見忠七らの資金的な協力を得て、県へ出願。翌明治12年8月4日付で内務卿伊藤博文より太政大臣三条実美あてに「中山新道開鑿(かいさく)之儀付伺」が出されました。それは、金谷と日坂の間の小夜の中山峠は従来険峻にして、通 行人ははなはだ難渋しているが、このたび有志の者から新道の計画願が出された。その内容は、工事費のうち7千円を国より借用し、31年間通 行料を取って、その返済に充てたいという趣旨であるが、出資者たちの出資金を償却することだけを考えれば12年以内で償却可能なので、国から7千円を出資したい―というものでした。
ことは順調に進み、9月4日に工事許可が下り、10月15日には助成金7千円をもらって工事に着手しました。新道工事の収支計画は、工事費総額3万2千100円40銭、7千円を国から助成を受け、残り2万5千100円40銭を発起人たちの出資で賄うというもので、道銭1年間の純益見込を1,845円19銭とし、26年目に出資金全額を償却できるという計画でした。
道路工事といっても当時は人力で、ツルハシや鍬、モッコを使って土砂を運ぶ作業で、人夫延べ数万人を要する難工事でした。新道の長さは6.66km。ルートは、金谷駅南側にある長光寺の西、坂町から始まり、旧東海道と分かれて金谷隧道(JRのトンネル)の上を横切り、百楽園の前を上って諏訪原城の東側を北に行き、城の北端で牧ノ原を横断し、牧ノ原斜面 を西に下り、大鹿の集落へ入ります。菊川上流を渡って、不動の滝の上で菊川と逆川の分水嶺、今の小夜の中山トンネルの上を切り通 しにして峠を越え、「七曲がり」といわれる曲がりくねった逆川に沿って下り、常現寺の北側より日坂本町に出ました。
こうして、明治13(1880)年5月30日中山新道開通式を行いました。このあたりでは初めて大アーチに提灯をちりばめた、華々しい催しだったそうです。 道銭の徴収は、初めは金谷側と日坂側の二ヶ所にありましたが、明治14年に菊川橋西の仲田宅一ヶ所としました。この当時の料金は右のとおりです。
東海道本線開通の影響
開通した中山新道は、陸軍の演習を行う軍人や牛馬による貨物輸送、秋葉山や伊勢道中への参詣者、外国人の旅行などで、年々利用者が増え、多い日には1日に荷車300台、旅客千人もあったそうです。 ところが、明治22(1889)年4月に、国鉄東海道本線新橋・神戸間の全線が開通したとたん、中山新道を通 る人がすっかり減ってしまいました。この時はまだ、出資金の残額が1万6千円余りある状態です。維持に窮したことから、権蔵の長男杉本伊太郎と伏見忠右衛門の連名で県へ嘆願を提出しました。「公のためにつくった道だから、中山新道を県に移管して、その際未償却金の代償として金谷から日坂までの旧東海道の道路敷と土居敷に属する地所や立木を払下げてもらいたい」と請願したのです。また、このころ、天下の公道で通 行料を取るとは、汽車にも乗れない窮民を苦しめる悪法だと言う人が多くなり、地域のために努力した事業がいつしか時代の流れに取り残された形となっていました。
しかし、この請願に対して明治35年に県から未償却補償として支払われたのは千円だけでした。そして、払下げを請願した旧東海道は、明治37(1904)年に里道に編入され、中山新道も明治38(1905)年、国道となったのです。このとき新道の経営を長男伊太郎に譲っていたとはいえ、権蔵の気持ちは如何であったことでしょう。
この年、日本は日露戦争に沸き立っている時でした。
それから4年後の明治42(1909)年、中山新道をつくることに心血を注いだ杉本権蔵は、その開拓精神に満ちた生涯を閉じました。 権蔵の生涯について、孫の良氏は、著書「小夜の中山御林百年」の中で、権蔵は号を「起利(ゆきとし)」利益を起こすとしており、その利益とは国利国益のことであろうと、その無欲に社会貢献した人生を辿られています。
 
漆器・陶芸

漆器
“漆”は、辞書によれば「ウルシ科の落葉高木の樹液のことで、採取したままのものを生漆(きうるし)といい、成分の80パーセントはウルシオール。これを加温して水分を除き顔料などを加えたものを製漆(せいうるし)といい、塗料として用いる。」とある。漆器は今日では人々の生活に深く溶け込み、上質な日常器具として位置付けられている。
[漆の歴史]
日本で最も古い漆器具は縄文時代前期(約5,500年前)のもので、福井県三方郡三方町の「鳥浜貝塚遺跡」から漆を塗った土器や木器の断片が出土した。縄文時代後期になると、是川遺跡や亀ヶ岡遺跡(ともに青森県)から椀・鉢・装身具や装飾太刀・弓など各種用途の漆製品が出土し、竹を編んで黒漆や赤漆を塗った“籃胎漆器もこの時代に出現した。その後、布を貼り重ねて漆を塗る“夾紵(きょうちょ)”の技法が中国から伝わると漆工芸技術は飛躍的に発展して金属や皮も素地に用いるようになった。蒔絵のもととなったとみられる“末金鏤(まっきんる)”の技法の伝来もこのころだといわれるが、この時代を代表する「法隆寺の玉虫厨子」は発掘による出土品以外では日本最古の漆工芸品である。平安時代に入ると日本的で優雅な文化が興隆して研出蒔絵や平蒔絵、螺鈿などの技法が発達し、鎌倉時代には朱漆が普及して寺社を中心に什器に用いられるようになった。室町時代から戦国時代にかけては、中国の沈金や彫漆を取り入れた作品が出現し、また、漆器が日本を訪れた宣教師や船員の手によって海外にも紹介されると、漆は「ジャパン」と呼ばれて輸出されるようになった。漆器生産が盛んになったのは江戸時代のことだが、幕府や各藩がこぞって漆工芸を奨励したことから本阿弥光悦や尾形光琳などの手による、今日に残る絢爛豪華で優れた工芸品が数多く作られた。
[漆の性質]
ウルシノキの分泌液には、水分のほかにウルシオール、ラッカーゼ、ゴム質などが含まれているが、主成分は天然のフェニール基をもったウルシオールである。粘液質の樹液が時間の経過によって固形化するのは、酸化酵素の一種であるラッカーゼが空気中の酸素を吸収するためにウルシオールが酸化作用を起すもの。漆は摂氏20度〜25度、湿度75%〜85%でラッカーゼが最も活発に働いて最良の皮膜が得られるという。
[塗料]
漆の特徴は極薄の皮膜を作ることができることと、乾燥すると強い接着力が生まれることである。そのために漆は塗料として優れた特性を有し、漆塗りを施したものは見た目が美しいだけでなく、酸やアルカリ、塩分やアルコールなどによる侵食に強く、漆の薄い膜が素地をしっかり保護するのだという。漆のもう一つの特徴として知られているのが「漆かぶれ」である。過敏に反応する人はウルシノキの下を歩いただけで皮膚にかぶれを起すこともあるというが、原因はまだ乾ききっていないウルシオールのせいである。
[漆器の産地]
全国各地に散在する産地のうち、「伝統的工芸品」の指定を受けた産地は次の22か所である。津軽塗(青森県)、秀衡塗(岩手県)、浄法寺塗(岩手県)、鳴子漆器(宮城県)、川連漆器(秋田県)、会津塗(福島県)、鎌倉彫(神奈川県)、小田原漆器(神奈川県)、村上木彫堆朱(新潟県)、木曽漆器(長野県)、飛騨春慶(岐阜県)、高岡漆器(富山県)、輪島塗(石川県)、山中漆器(石川県)、金沢漆器(石川県)、越前漆器(福井県)、若狭塗(福井県)、京漆器(京都府)、紀州漆器(和歌山県)、大内塗(山口県)、香川漆器(香川県)、琉球漆器(沖縄県)。 
陶芸
辞書によれば、“陶器”は「素地(きじ)に吸水性があり光沢のある釉(うわぐすり)を施したもの。粗陶器と、磁器に近い精陶器がある。」“磁器”は「陶器より高温で焼成。素地(きじ)はガラス化し、透明または半透明の白色で硬く、吸水性がない。軽く打つと澄んだ音がする。中国宋代末から発達し、日本では江戸初期に有田で焼き始められた。」とある。“やきもの”は、土で形を作りそれを高温で焼き固めたものの総称である。原料の土づくりから焼き上がりまでの工程はやきものの種類や窯場での技法の違いもあって必ずしも一定ではないが、標準的な工程は次のとおりである。
[やきものが出来るまで]
1土作り:採土したものを天日で乾燥させ、小石やごみなどの不純物を取り除いた後に小豆大に砕き、粘土の硬さを均一にし、更に土中の気泡を完全に抜くよう丁寧に練り上げる。2成形:「ろくろ」を使用する場合は円盤の中心に置いた土を両手で挽き上げと挽き下げを繰り返して(土殺しという)形をつくる。3素地加工:生乾きの状態で、高台を削り出したり文様を彫るなどする。4乾燥:成形が終わったものを、風や直射日光を避けながらゆっくり乾燥させて水分を抜く。5素焼き:下絵付けや施釉をしやすくするために700〜800度で焼く。6下絵付け:素焼きした器に呉須・鉄・銅などで直接絵付けを施す。7施釉:絵付けをした器には透明な釉薬を、絵付けしない器には各種の釉薬をかける。8本焼:陶器と磁器では焼く温度など異なるが、高温で長時間かけて焼き上げる。9上絵付け:本焼した器に色絵具で更に絵文様を描く。I低温焼付:専門の絵付窯を使って700〜800度で焼く。J窯出し:火を止めた後、十分に窯の熱を下げてから取り出す。
[成形法]
1手づくね(手びねり):ろくろや型に頼らずに手先だけで形を作る方法。楽焼茶碗が代表例。2紐づくり:粘土を延べてつくった底の部分の外輪に沿って、平らにした紐状の粘土を順次積み上げていく方法。長い一本の紐を螺旋状に積み上げるのを「巻き上げ」といい、輪状にして一段ずつ積むものを「輪積み」という。3タタラづくり:タタラとは板状にスライスした粘土のことで、同じ厚さのタタラを必要な大きさと形に切って何枚も継ぎ合わせる方法。4型づくり:石膏で作った型に粘土を押し当て、石膏の吸水性を利用して成形する方法。同種のものを多量につくるのに適した成形法。5ろくろ成形:粘土を回転台の中央に乗せ、遠心力を利用して粘土を挽き上げて形づくる方法。昔ながらの「手ろくろ」や足で蹴って回す「蹴ろくろ」もあるが、主流は回転の速さが調節できる「電動ろくろ」である。
[施釉]
“うわぐすり”ともいい、表面をガラス質の皮膜で覆う役割。1釉薬の種類:800度前後の低温で溶ける三彩・緑釉・鉛釉など主に色絵に使われる上絵具(低火度釉)と、1100度以上の高温で溶ける透明釉・灰釉・鉄釉・青磁釉・黄瀬戸釉・織部釉などを初め多くの釉薬がある。(高火度釉)2施釉の方法:器に釉薬をかける際の技法で「浸し掛け」「杓掛け」「流し掛け」「塗り掛け」「吹き掛け」などがあるが、掛ける釉薬の厚みによつて発色や趣が変化する。ほかにも「二重掛け」や二種類の釉薬を掛け合わせたりする技法もある。
[窯の種類]
原始時代は野焼きであったが、古墳時代に朝鮮からもたらされた穴窯を工夫改良した大窯・登釜へと変遷した。なかでも、小さな燃焼室が幾つも連なった登窯は熱効率が良いことから各地の窯場で使用されてきた。近年は「石炭窯」「重油窯」「ガス窯」「電気窯」など新しいエネルギーによる窯がよく使われている。
[炎]
窯の中に酸素を十分に送り込んで焼く「酸化炎焼成」と、酸素の供給を制限して燻すように焼く「還元炎焼成」の二種類がある。酸化炎焼成では素地土や釉薬に含まれる金属が酸化されることで特有の発色があり、鉄釉は茶系から黒褐色になる。一方、酸素の供給量が少ない還元炎焼成では素地土が含有する金属に還元反応が起こり、鉄釉でいえば青灰色から緑系の色となり、辰砂は酸化銅が還元されて紅色に発色するようになる。こうした作用からやきものの窯焚きを“炎の芸術”と称することもある。 
織物(振袖・着物)
我が国では、3世紀ごろにはすでに養蚕が行われ、絹織物が生産されていたと考えられている。その後、大宝1年(701)の大宝律令によって錦や綾、羅、紬など織物を管理する「織部司」が設けられ、以降、宮廷文化を中心に発展した。今日、全国各地に名だたる織物産地が散在するが、よく知られた織物を幾つか取り上げると、北から順に次のようなものがある。
[主な各地の織物]
1結城紬:茨城県結城市や栃木県小山市が主産地で、撚りをかけない手紡ぎ糸で織り上げた丈夫な織物。20近い工程があり、うち「糸紡ぎ」「絣括り」「機織」の三工程は国の重要無形文化財の指定を受けた。2小千谷縮:越後麻布から始まった北国の代表的な織物で、主に夏の着物地として用いられている。白色の麻布を縮めたもので江戸中期からの歴史がある。3本塩沢:塩沢紬と同じように十字絣や亀甲絣など精緻な柄が特徴的な織物で、通常の7倍から8倍もの強い撚りをかけた「八丁撚糸」と呼ばれる御召糸を使う。4黄八丈:伊豆諸島の八丈島に古くから伝わる絹織物の総称。島に自生する植物染料で染められた艶やかで深みのある色と縞や格子柄が特徴。5西陣織:京都市の北西部にある約3平方キロのエリアの呼称で、室町期の応仁の乱の際に西軍が張った陣の後であることにちなんで名付けられた。平安期以前から織物にかかわっていたといわれ、高級な綾織や錦織、唐織などが高い技術で作られていたという。6博多織:福岡市を中心に織られている織物で、主に帯地として用いられる堅くてしなやかな絹織物。鎌倉期に中国に渡った博多商人が技術を持ち帰ったのが始まりという。7久留米絣:木綿絣の代表的な織物で、藍の濃淡と白の清々しいコントラストで知られる。福岡県久留米市や筑後市が主産地で、江戸後期に12歳の井上伝が藍染めの白い斑点に興味を抱いたのが始まりという。8本場大島紬:奄美大島が主産地で、一説によれば1500年の歴史があるといわれるが盛んになったのは江戸期のことで、精緻な絣柄と「泥大島」などの泥染で知られる。ソテツの葉や魚の目など奄美大島の自然を模様化した伝統的な絣柄が勇名である。
[振袖]
袖の袂(たもと)が長い着物のことで、今日では、裾模様の黒留袖や訪問着に相当する礼装として未婚の女性が着ることが多い。もともとは身頃と袖との間の縫い付け部分に振りのある袖をもつものの総称。室町時代から存在していたが、当時は子供が着用するもので袖も現在のもののように長くはなかったという。若い女性が長い袖の振袖を着るようになったのは江戸期以降のことで、袂を左右に振ったり前後に振ったりして異性に対する自らの意思表示のサインとする風習ができたのだという説もあり、既婚女性はその必要がないということで留袖を着るようになったとのこと。今日でも男女関係で「振る」、「振られる」、「袖にする」といった言葉にその名残があるという。
[着物]
我が国の民族衣装である着物は時代の変遷につれて形を変えてきたが、原形は平安時代の“小袖”である。弥生期での「貫頭衣」が日本の衣服の出発点といわれるが、高松塚古墳の「飛鳥美人図」で知られるように飛鳥・奈良時代の衣服は明らかに大陸の影響を受けたものである。また、養老3年(719)に出された「衣服令」で、衿は右を先に合わせる「右衿着装法」が用いられるようになった。平安時代に入って大陸との交流が途絶えると和風文化が形成されるようになり、貴族社会では日本の気候に合わせた重ね着の風習が生まれる一方、庶民は筒袖をもった小袖を着始めたという。鎌倉期に武士が進出してくると平安期の優雅な服装は影を潜め、動きやすく現実的なものとして小袖が主流となり、江戸期ではそれが定着するとともに意匠や染色技術の発達で華やかなものも登場するようになったという。小袖は明治維新以降に初めて“着物”と呼ばれるようになったが、「丸帯」「羽織」「紋付・羽織袴」「訪問着」など現在の着物や帯に通ずるアイテム類の多くは江戸期に続々と登場したものである。 
 
会津塗の歴史

漆器商人と株仲間
江戸時代を通じて発達した各漆器産地の産業構造をそれぞれ完成した形で大まかに分類すると三つに分けることが出来る。第一は輪島、川連、津軽などの応需生産型、第二が会津(若松)、山中、駿府などの市場生産型、そして第三は黒江にみられるような第一第二の中間的形態である。第一型の場合職人、特に塗師屋が主導権を握り、木地、塗、加飾が其に従属する。第二型の場合商人(問屋)が主導権を取り、職方一般が従属的であった。第三の黒江の場合は問屋と共に塗師屋も流通に係わっていた。ここでは半田市太郎氏の分類に従い第一を職人型、第二を商人型、第三を職商並立型とよんで話を進めていきたい。
会津(若松)の場合、問屋は商品としての塗物の集積を行うのに、産地に置ける問屋的経営の買い問屋としての機能と、原資源の供給による問屋制的生産における生産問屋としての機能を合わせ持っている。
こうした産業構造は、江戸時代を通じて漆器業を歴代領主が保護、奨励するとともに、
町人身分の塗物商人を中核として、山間居住の木地師や、惣輪師・塗師・蒔絵師などの職方を分断支配したために出来上がってきたという歴史的経緯があり、同じ会津地方でありながら、農民の農間期余業的な生産として展開された喜多方の漆器生産とは異なっている。
塗物商人は近世初頭においては、塗師ないし万商人が流通への門口であり、元禄頃から専業の塗物商人が現れ、問屋、問屋仲間、諸出仲間への発展の過程で塗師が流通から締め出され販売は商人の独占となったのである。特に、十八世紀半ば宝暦・明和頃には江戸を主とする消費地の問屋との関係に大きな変化が生じ、会津の漆器産業は全国規模の流通の中に位置づけられていったと言っても過言ではあるまい。文化文政期から幕末にかけては、前述した様な問屋制生産に職方が組み込まれた時期である。そして、江戸(東京)を最大の消費地とする流通体制と、商人型の産業構造は明治、大正、戦前の昭和期を通じて基本的に変わらず、戦後に到っても受け継がれている部分が多い。
小文においては、このような会津の漆器産業と漆器商人の発生発展の経緯を商業全体の発展変化の中に位置づけて考えて見ることとする。 
葦名時代
中世末期の、会津の商業組織は簗田氏と同じく葦名氏の旧臣出身の吉原氏等がそれぞれの縄張りを持って市場商人たちを傘下におさめていた。領主葦名氏は、天正頃から領内の産業と商業の育成に力を入れていたようであるが、金融業者である土倉など極少数の特権商人を除いてはまだ、商業活動は各地で開かれる定期市を中心としたものであった。葦名盛氏は簗田氏を商人司に任じた。これによって簗田氏は市及び市祭りを取り行い、商人についての司法権を任され、関所通過のための鑑札を発行して手数料を徴収している。だが、この時点では簗田氏の支配はまだ領内全域には及んでいなかった。
この時代の塗物生産については資料が乏しく、伝説の域を出ないものが殆どであるが、『新編会津風土記』によれば、元亀二年(一五七一)に檜原から木地小屋村に木地師の移住があったという記事があり、また、葦名氏により漆樹栽培が奨励され、御用漆が徴収されていたことからも、領内で漆器が生産されいたことはほぼ間違いないと考えられるが、他領への移出がおこなわれるほどの生産量があったとは考えられない。
伊達政宗の会津入りによっても、簗田氏の支配権は安堵され、そうじて政策に変化は無かった。天正十八年に政宗は白金屋木左衛門に「會津郡中、守護不入の無嫌、蝋の役下置き候也、仍如件」(小熊家文書)という朱印状を下していることから、この頃蝋がすでに重要な産品として商取引の対象になっており、葦名時代からの漆木の保護統制はむしろ実からとれる蝋を重要視してのことだったことが分かる。 
漆器産業の始まり
天正十八年に蒲生氏郷が会津の領主となって、城下町の建設を積極的に推進した。氏郷は近江日野町、伊勢松坂で城下町の繁栄を計るため楽市楽座令を出している。氏郷が没し秀行が襲封した直後の文禄四年七月(一五九五)に浅野長政から蒲生の重臣宛に出された
「掟条々」に「当町の塩役.しほの宿、ろうやく、かうし役、駒役此ほか諸座これあるべからざること」(簗田文書)とあり、これは氏郷の方針を踏襲したものと考えられるが、少なくとも文禄以降は、いくつかの重要産品除いて楽市楽座の政策が取られていたことが分かる。
また、氏郷は入部に際し近江君畑から木地師を招致したことが『会津風土記』にみえる。塗師もまた吉川和泉助を頭として組子の者四六人を連れてきたことが知らているおり、初めて、産業としての塗物の振興をはかろうとした。
木地師は始め城下七日町に屋敷地を賜り、始めのうちは原材を山元から城下まで農民賦役により運搬させるなど木地挽きの便をはかっている。塗師についても郭内に居住させ扶米を与えるなどし、その後城下に出されても、素人細工を禁じるなどして職人の保護をはかっている。
しかし、度々の禁令にも係わらずもぐりの塗師が跡を絶たず、慶長年間になると『塗師頭記録』に「秀行様御代、大石宗右衞門・油源左衞門と申者、白人ニ而塗師細工いたし、内所ニ而違背申大勢ニ而細工可致工仕候間、・・・」と言う記述が見え、漆器業が盛んになって特権的領主工業の枠組みに収まりきれなくなって来たことを物語っている。
一方漆・蝋については、蒲生、上杉、再蒲生、加藤を通じて政策は一貫しており、重要な原資材政策として漆樹の栽培を奨励するとともに、領内倹地においては漆木の本数を調べ租税元とするなど漆蝋制度の強化をおこなった。
慶長四年(一五九九)には、漆木の自由伐採の禁止令が出され漆樹が藩の直接管理下に入った。この年の本数改めでは二十万本弱であったが、これが寛永十八年には二六万本強を越えている。元和二年には、漆売買の掟が定められた。『新編会津風土記』によれば
他所他国よりあきなひうるし入候儀、堅御停止候。口々相止留候へ共、若町中にて漆売かひ有之者、宿共に可被行曲事之間、可成其意者也
として、領外から漆を購入することを禁じている。これは領主が恣意的な値段で漆を販売し、かつ専売の漆を用いさせることによって漆器の生産管理をも行おうとしていたことを物語っている。また、慶長六年(一六〇一)には商人に蝋を販売することは堅く法度である旨の禁令が出され、元和八年(一六二二)荷は年貢蝋を皆済した残蝋も全て領主が買い上げることが定められている。このように、会津領内で最も重要な産物である漆と蝋が自由に市場に流通することが出来なくなったのは、交通の発達と商品流通の増大の結果領主が産物を専売し換金権を掌握した方が寄り有利であり、領外商人と領内市場が直接自由に結びついて、領主が疎外され商品流通が掌握し切れなくなることを恐れたためであり、農と商を分断して封建支配を確立するためたからである。重要産物を集中させて、城下町を経済的優位に位置づけようとする意図でもあった。
売買価格についても統制しようとする意図は現れて来る。寛永三年(一六二六)野沢原町の市の掟を下して、
一、市場売買は問屋直段可用之事
一、市場金銭差引商人問屋帳面可用之事(『新編会津風土記』巻九十四)
とあり領主へ課役を収めている問屋の定める値段で売買するように定めて、すでに問屋を通じた流通掌握の考え方がみられる。
加藤明成の時代になると、寛永十五年(一六三八)の自序のある『毛吹草』が、「名物」として「陸奥薄椀・同盆会津漆」をあげており、すでに会津の漆が著名であったことが知られる。しかし、箔椀、箔盆を意味する「薄椀・同盆」が会津産だと特定することには無理があろう。
この時代海東五兵衛なる人物が大和町に間口四〇間奥行き二〇間余の漆器作業場を造り、多数の漆器職人を集中して製造し、多額の製品を江戸に輸送したため江戸街道では駅毎にその荷を見る盛況であったといい、そのため人呼んで街道五兵衛と称した。と言う伝説があるが、前述した蒲生氏郷招致の塗職人が集団で生産にあたった気配はあるもののこの後の会津漆器の生産形態をみると、このような形での漆器生産は行われていたとは考えにくい。 
初期株仲間の発生
城下町が整備され、楽売楽買の政策と諸産業の生産力の向上による流通機構の変化を背景として、商業支配の権限も次第に分解されていき、町方商業にあっても、簗田家による直接支配という従来の形態は修正されて、新しい商人層を含む仲間組織を結成する傾向が現れてくる。
元和年間には既に現れているこうした初期の仲間組織は同業者が自主的に作ったものではなく、簗田氏の支配力の下に商人が強制的に加入させられたもので、組の中に上下関係があり、罰則規定を持つものであって、領外との自由な商売を妨げるものであった。そのため、寛永二年(一六二五)には、簗田氏が私的に構えて作ったものであるとして、訴えられたこともあったが、けして私的な目的のための組織ではなく、むしろ領主の支配を貫徹させるために有効なものとして組織されていたものだった。初期の仲間帳の前書法度に、その事が見てとれる。
一、其組々請人可取事
一、中間江不入者ニ木綿分口を越申間敷事
一、中間江入申候とて非分成儀申者於有之者仲間をはづし可申候事
一、御国之御沙汰何ニ不寄批判申間敷候
一、御留物商売仕間敷候事
(以下略)(簗田文書.『木綿売中間帳』元和7年)
従って、この簗田市支配下の仲間・組は、その後も規模を大きくしていき、次第に公的な統一性をもつようになっていった。寛永19年(一六四二)には「商人仲間掟」として一つの定まった前書法度が定められその後法度に統一されて行く。そして寛文延宝期にはいって、一斉に統一された仲間組織が各種成立してきたのである。

一、御公儀寄り被仰出候万事御法度之趣、可相守之事
一、御国之御沙汰何ニ不寄批判仕間敷之事
一、御法度之物、何ニ而も売買仕間敷之事
一、押売押買仕間敷之事
一、売抜買抜仕間敷之事
一、於中間ニ、喧嘩口論万事如何様之義、出来申候共、為惣中間と、相済可申候事
一、古手何方へ参候共、為惣中間と、直段を立買可申候事
一、見せ場之儀、中間者壱所ニ可罷有候事。但、居り申処ハ右之次第、
一、此中間之内ニ、目ニ見へ大分之損仕候者、於有之者、惣中間より少宛合力仕、身上相立可申候事
右之条々、相背候者、於有之者、則中間をはつし可申候事。其時一言之異儀申間敷候
寛永拾九年拾月廿日 (簗田文書『商人中間掟』)
但し、この寛永年間にはまだ中間を構成する商人たちは定店を持たない市場商人であったことも「見せ場の儀、中間者壱所ニ可罷有候事」あることから推測されよう。 
城下町経済の発展
寛文・延宝期に入ると、城下町を中心とした藩の経済圏が確立し、簗田氏が最後まで拮抗していた高田市の統括者吉原氏をもその組下にした時期であり、簗田氏の統括する仲間に多く在郷成員が見られるようになる。そして、城下町を中心とした商業の発展で仲間成員が次第に経済力を蓄えて来ると、今まで商人達と領主との間に合って役人的機能を果たしてきた簗田氏の地位は相対的に低下していき、商人たちと領主の新たな関係が取り結ばれることになる。明確な資料は無いが元和期からぼつぼつ常設店舗を持つものが現れ、延宝期にいたって支配的になったと思われるが、店舗の常設化によって一層資本の蓄積が進んだであろうことは論を待たない。
この時期の漆蝋、及び木地はどのような状況であったろうか。年代を追って整理すると
寛永二十年(一六四三)には漆の国外移出が禁止され、
正保二年(一六四五)余漆の販売も奉行の手形付の許可が必要になり、
正保四年(一六四七)木地の類を無断で他方へ出すこを禁じる旨の令が出されている
同年漆の苗木を植えることが奨励され
慶安二年(一六四九)漆木など第七木の伐採が禁止され
承応二年(一六五三)漆蝋の脇売りが禁止される。
寛文五年(一六六五)ここに到って漆の領主による専売制は、ほぼ完成をみた。また、漆器の生産の増加による木地の不足、値上がりがおき、このように木地も御留物になっている。 
職人仲間の結成とその後
塗師仲間の初見の資料は、寛永十八年(一六四一)の渋地塗師寄合に寄る「中間定」の改定についてのものである(『塗師頭記録』大島文書)。ただし、同じく『塗師頭記録』にこれより先の慶長期と考えられる記述が前掲のようにあって、素人細工を阻止するための仲間組織がすでにあったことを示唆しているのである。さらに、享保二十年の喜多方塗師の『□願書』に
且又細工等□抜き等無之様被仰付、其上御城下北方塗師共の儀は格別秘伝有之に付、他方へ職業不致為に若松御諏訪宮にて塗師総集之上神文被仰付、則相守其□奉差上候
北方は小荒井村、塚原村、清次袋村、松新田村塗師総集会之仕、御役所より御出役有之、神文被仰付候に付相守り、若松同様之蒙仰り、其□奉差上候。
とある。保科正之時代の出来事と思われるのだが、領主側から強制される形での塗師仲間が存在したこと、その目的が特権を与える一方塗師の他領流出の阻止にあったことを伺わせる。
承応四年(一六五二)当時ともなると、塗師一四四人が二人の塗師頭の下に十組に編成されていただけでなく、「仲間定」を持っていて、品質管理、徒弟制維持について仲間の統制を図るとともに、漆価格の引き下げや、木地の移出と素人細工の阻止に努め、椀販売の自由を巡って城下町商人と抗争するなど、積極的且つ組織的な動きをしている。このことは、塗師仲間がその発生において上からの組織であったにも係わらず、彼ら自身の同職的組織として機能するように成ってきていたことを示している。蒔絵師、下細工人についても仲間組織があったらしい。
延宝から貞享期に入ると塗師が二百人余に増え、徒弟制による生産が行われていた。貞享二年(一六八五)の『会津風俗帳』に塗師が「段々塗出し申盆」を「他領之商人方」に地払しており、塗師が他領の商人と直接取引を行っていたことがわかる。 
全国への普及
十七世紀後半は塗師が漆器産業の中心をなしていて、木地師に対しては直接の買い手として優位にあり、商人にたいしてもより強い立場にあった。
一七世紀末、元禄二年の『御用日記』(簗田文書)に、岩城平の伝右衞門なるものが、「塗荷物調儀」のため来会しており、宝永年間二は三春、白河、棚倉、福島、米沢、庄内、最上、越後、佐渡、秋田、武州、上総、野州、江戸、勢州、紀州、などから「塗物調儀」にきている。これらのことから、この頃には会津が漆器生産地として産地体制を確立していたと考えられよう。
連句集『猿蓑』に「形なき絵を習ひたる会津盆」という服部嵐雪の句があり、また李由.許六の俳文『南紀ノ行』(『風俗文選』宝永二年)は伊勢参りの紀行文であるが「二日、聖夜ぶかく起て、非番の男を起す。煤気たる行燈の影に、会津盆の打ちひらめたるに、日野椀の壺皿、いとさびしげにつきすえたり。見る目いぶせく胸ふさがり、やがてもかからず。・・・」とあって、元禄の頃すでに会津の漆器が「会津盆」と固有名でそれと知られるほど行き渡っていて、その範囲は少なくとも伊勢辺りまで及んでいたことがわかり、『御用日記』の記述の傍証と言えよう。更に一点読み取れることは、「会津盆」が漆絵でも書きなぐったものなのだろうか、どちらかというと粗末な物と評価されていたことであり、会津蝋燭が「牡丹芍薬に敷金を盡し、蘇鉄海石に財をついやす。伽羅は文趾をくべて蚊ふすとし、燭は会津をたてて、月の光りを奪ふ。」『閑居ノ賦』(『風俗文選』宝永二年)として高級品の代表とされているのと好対照である。また、会津漆器のレベルは「日野椀」と同程度の物と考えられ、一緒に用いられていることも見てとれる。後述するように、享保年間に江戸において日野と黒江が漆器産地として会津と競合関係にあることが知られるのであるが、すでに元禄年間にその萌芽があったのかもしれない。
全国的にみても、大阪に延宝年間、木地問屋が二軒、紀州五器問屋が二軒あったことが知られ(『大阪経済資料集成』第五巻)、江戸においても、明暦頃塗物屋の小売商仲間が出来ていたことが知られている。伝説的人物ではあるが、椀久こと椀屋九右衞門が、延宝四年没であるから、この時代に、漆器を商うことで豪商といわれるほどの規模の商売が出来たこと、即ちそれだけ生産と流通の量が増えてきていた事を物語っている。 
塗物商人の台頭
寛文・延宝期を過ぎ元禄期に入ってくると、元禄七年(一六九四)江戸町人三谷三九郎御用金を調達して三十人扶を与えられ、元禄十年酒の運上銭の取り立てが始まるなど、次第に充実する商人に対する藩の経済的依存が始まる。
若松城下における塗物商人については、寛文六年(一六六六)『町中之由来』(簗田文書)にあげられている商人の中にはまだ専業塗物商人は現れていないが、既に寛永から慶安かけての一の町棚商人の例にあるように、おそらく万商人として塗物を扱うものはあったと考えられる。
正徳二年(1712)の検断坂内氏の記録によれば、天和三年(一六八三)と元禄一六年(一七〇三)にそれぞれ一軒づつ塗物店が開店している。しかしこの時点では、まだ慶安期同様、塗師による椀販売と並立していたと考えられ、小売店で一部行商人相手の卸を兼ねる程度のものだったと考えられる。
一七世紀に入ると、坂内文書にみえるだけでも、宝永四年、同六年、正徳二年、同四年、享保元年、同一四年、元文二年(一七三七)と続けて塗物商売に関する記事が出ており、次第に盛んになってきたことが分かる。これらのうち酒造・麻苧商売との兼業、青物商売からの転業の例があり、伝承ではあるが木綿太物商売からのこの時期の転業の例もあり、既成商人の参入が多い一方、前時代に盛んであった塗師による塗物販売からの専業化の事例を見出すことが出来ない。逆に商人が、前渡し金による塗物差引によって生産支配に到る傾向がすでに現れ、前掲の坂内文書にも、次のような類の記事が散見される。
私儀先年上七日町へ出店致塗物商売仕候処、大町二ノ町市丞と申物塗師細工仕罷有候、依五年以前亥年(宝永四)、帳面へ判形為致塗物前金段々相渡シ差引候、
更に、問屋の発生もあり、一七世紀における塗師中心から商方優位の時代へと移り変わっていくのである。
宝永二年(一七〇五)、白河湯本木地小谷の木地師達が、穀留に対する訴えをを出しているが(簗田文書)、これによってこの頃まで木地は木地師自身の手によって若松へ運ばれ塗師達に売り渡されていたことがわかる。ところが、宝永七年頃になると山で作られた木地は次第に仲買の手によって町に運ばれ始めている。これを禁止し、藩の指定の問屋三ノ町直右衞門、原ノ町八郎兵衞、当麻中町半助の三人を仲介として木地を塗師へ売却するように定めている。こうして、木地師は次第に流通から遮断され山間部に生産者として定着させられることとなる。
ここで江戸時代の問屋の取引仕方について少し触れたい。
一七世紀前半の初期特権商人の問屋の経営方法は自己の資金で買い取った商品を卸売するのではなく、各地の荷主からの委託荷物を引受、保管管理するもので、販売手数料や(口錢)や蔵敷料を収益とする受動的なもので、荷受問屋とよばれる。各藩の年貢枚米や専売品の売り捌きに関係し、領主権力と結んで一国の産品多種を扱うことが多い。一七世紀後半になると商品ごとの専業の問屋が現れ、それらは地方から商品を買い取って自己の計算で仲買に売却するようになる。これが仕込問屋、または仕入問屋といわれるものである。
実際にはこの両者は江戸時代を通じて混在して存続しているが、加工業の発達と産地の多様化によって、従来の特権的問屋商人による流通支配は貫徹しなくなってくる。この転換期が十八世紀半ばなのであるが、次に述べる三河屋事件もこうした事件の先駆けとして捉えることが出来る。 
三河屋事件
享保七年(一七二二)までくると、江戸商人三河屋が、江戸出塗問屋として江戸向け会津漆器の販売独占願い出るという事件が起こった。
会津藩江戸屋敷出入り商人の三河屋清右衛門が、「御国より御当地え相廻り申候塗物・多葉粉商人共之問屋私ニ被仰付下置度」ことを願い出たことであるが、三河屋の提示した見積書によれば当時の塗物の江戸出荷分を椀一万個としており、同時に願い出ているたばこの独占を併せると、諸経費千五百三十両と御用金五百両を差し引いても千六百両余りの莫大な利益となる計算である。藩はすでに元禄年間に江戸町人三谷三九郎の御用金調達などにみるように、財政の手詰りにより大商人に対する経済的依存を強めていることがあって、この申し出に触手を伸ばしたのであろう。この三河屋の願い出に対して、翌八年二月、城下の塗物たばこ商人に支障の有無の問い合わせがあり、馬場町定善寺の惣町商人「寄合」で故障を申し立て、、阻止に成功している。この一件は会津における塗物商人の成長、江戸商人、及び三河屋と江戸における十組問屋仲間のうち塗物店組との関連において、きわめて重要な意義をもつ。詳しい顛末は以下の通りである。
三河屋からの願出
乍恐口上を以御願申上候
一、御國元御當地江相通り申候塗物、多葉粉商人共之問屋私ニ被仰付被下置度願上候左候へは慥成金元證人相立御請負仕度奉存候左様仕候へは御國元之商人之荷物若江戸ニ而時々相場下直ニ而商人共賣兼申候ハ相應ニ金子ヲ取替右之商人共御國元江相返譯ニ而尤時之相場見合商人共之勝手ニ茂罷成申様ニ可仕候惣而商人共御當地長逗留仕候ハ諸失却等大分掛り申候得者御國元之御責ニ茂可被成又ハ商人共之儀損ニ可被成奉存候へは(中略)
私ニ何とそ被仰付被下置候ハ諸商人之會所相立(中略)御家中之御荷物壱ヶ月ニ江戸御屋敷御國元江弐拾駄相届ケ御國元江戸御屋敷江弐拾駄届ケ壱ヶ月合四拾駄宛之駄賃錢者私方ニ而相拂候御荷物無相違相届ケ差上ケ可由□候御大切之御荷物之儀御座候間御才料之儀者御屋敷様御附取極可下置候道中諸入用等私方相拂可申候(中略)四十駄の駄賃銭者御奉公ニ仕差上ケ別紙書付金高之内を以毎高金五百兩宛御用金差上ケ可申候万一相滞申候右請負人證人差上可申候(下略)
享保七年寅十一月三河屋清右衞門
御役人衆中様

一、塗物椀一萬個但一ケ四十人前入一ケに付金二兩宛
藏式口錢の儀は一ケに付二目五分宛
塗物金高二萬兩程右の藏式口錢の金高八百三十三兩一分程
一、多葉粉四萬個但一ケ四十斤入百ケに付藏式口錢金七兩宛
右藏式口錢金高二千八百兩程
二口〆金三千六百三十三兩一分

土藏三十戸前一戸前一ヶ月に金二分宛代金百八十兩
手代二十人給金飯米共に一ヶ月に付代金三百兩
働男十人同一ケ月に付代金百兩
内働の者十人右同断代金百兩
駄賃錢代金三百五十兩程
諸入用金五百兩
右者有増積りに御座候
〆金千五百三十兩但三千六百二十三兩一分の内
千五百三十兩引
残而二千百三兩一分也
此内為御用金五百兩宛指上可申候
十一月齋藤清兵衞
三河屋側の条件と言い分を整理すると次のようになる。
1 三河屋が「金元」となり、証人を立てて請け負う。
2 江戸で相場が下値になり、商人たちが売りあぐねている時は、三河屋がすぐに金を立て替えて商人達が会津に帰れるようにする。そして、相場を見計らって商人たちの有利になるように売買を代行する。
3 三河屋が商人の為の会所を設立し、長逗留による出費が嵩まぬようにする。
4 御家中の荷物を江戸から会津へ一ヵ月20駄、会津から江戸へ1000駄、運ぶ。
5 4のうち、40駄分については、運賃は三河屋が負担する。
6 荷物の運送取扱権は領主から取り決めて(三河屋に)与えてほしい。
7 道中の(運送費以外の)諸費用は、三河屋側で負担する。
8 別紙書き付けにある金高の内、毎年500両づつ御用度金として上納する。
9 もし、8の金が滞った時は請負人と証人が負担して上納する。 
会津側の反論
一、塗物の件、近年商賣薄に相成申候に付過半問屋へ荷物揚不申所縁或者近付最寄の方へ持參仕候類數多御座候、其上藏敷口錢雑用等掛り不申候様仕度御屋敷様方並店々へ直賣に仕、勝手次第に所々へ宿着仕候、尤塗物の件は利潤薄物に御座候へば店々へも相對直賣に仕、御屋敷様方よりも御用の塗物御註文を申受け、其上細々の塗物作り合致參直賣に仕候へば問屋相立申候ては甚不益に奉存候事
一、紀州塗物日野塗物、其外國々より江戸へ出し塗物共勝手次第に所々へ持參商賣仕候處、御當地塗物問屋御定被成置候はばだ自然と塗物商賣彌々薄罷成、塗商人共塗師共に迷惑可仕様に奉存候
以下略
会津側の言い分を整理すると次のようになる
1 近年は商いの利益が薄いので、問屋に持ち込む例は少なく縁者、最寄りのところに荷を置き、蔵敷口銭を節約して直接顧客や小売店に直売している。顧客、小売店と相對で注文を受けて細かいニーズに応ずるようにしているから、指定問屋制は不利益だ。
2 紀州、日野を始めとする諸国の塗物産地も勝手売りをしているのだから、指定問屋制
をとれば(産地間競争に負ける結果となり)商人のみならず塗師にとっても不利益だ。
なお多葉粉商人は、今まで受込問屋五、六軒の問屋に分散して指値で売っており、下値の場合高値の問屋に移して売買している。三河屋一軒に決められ、前金を受け取るようなことになると、値段については問屋のいいなりとなると懸念し、また蔵敷口錢が相場からみて暴利であるとして、反対している。
右の三河屋、会津側双方の申したてから当時の状況を考察してみると次のことが分かる
1) 三河屋は二種類以上の商品を扱っている。
2) 会津藩に多額の上納金を納めるかわりに、領主の権力を背景として、会津の商人達に対して特権的立場に立った売買をしようとしている。
3) 蔵敷口錢をとった委託販売の形式であるが、実際上は前金という形で仕入れて、自己の裁量で販売しようという意図である。
4) 会津の塗物商人たちは問屋を通さぬ直売りをしてきていたし、他産地もそうである
5) すでに、紀州、日野などの他産地と産地間競争があった。
この時点で三河屋は国問屋であってまだ完全な仕入問屋ではなく、買い手としての優位と問屋間の仲間組織によって、産地を支配するような段階にはまだ到っていなかった。従って、藩の権力に依存しなければ産地を支配できなかった。
それに対して会津側では、必ずしも消費地問屋を通さなければ荷さばきが出来ないほどの生産高には未だ達しておらず、顧客からの受注生産の一面も残っていたため、指定問屋制は搾取されるばかりで何らメリットがないこと。領主側もそれを押し切ってまで指定問屋制をとるほどには財政悪化は進んでいなかったことがあり、為にこの一件は会津側の商人の申したてが通ったのだと考えられる。
ところが、丁度この頃江戸では、享保の改革に伴い仲間結成令(享保六〜十一にかけて)に始まる一連の仲間公認政策によって、すでに寛文〜貞享に始まっていた江戸十組問屋仲間が江戸市場独占体制を成立させている。塗物についても専業問屋による江戸塗物問屋仲間(一番組・2番組)によって独占されることになり、地方の領主権力頼みとせずとも、産地支配を貫徹させていくことになる。従って、会津商人側の勝利も一時的なものでしかなく、後述する天保年間のような状態に立ち到ることになるのである。 
溜銭制と問屋制度
三河屋事件でからもわかるように、享保期には会津の漆器商人は自らの手で江戸まで商品の販売に乗り出していたのであり、すでに問屋の機能も備えていただろうことが想像されるのである。記録の上でも、元禄十年(一六九七)には、一ノ町忠三郎なる塗物問屋が現れている(『御用日記』簗田文書)。更に享保一四年(一七二九)の椀問屋又三郎の記録(『塗師頭記録』坂内文書)によれば、・・・・・とあって、建前上は塗師からの委託の形をとりながら、じっさいは前渡し金による仕入れをしていたこがわかる。すでに単なる荷受問屋ではなく仕入問屋に近いものになっていたといえよう。
漆問屋もまたこの時期に成立している。塗物産業の発展に伴って漆の絶対量が不足し、藩は他国漆の搬入を認めざるをえなくなり、藩の専売制維持は難しくなってきていた。
宝暦十一年(一七六一)「御招請御婚礼等之御物入ニ依、」御内証の難渋と六年来の不作、加えて蝋の相場が下がったことで、藩の財政はかつてない危機を迎え、井深主水の発案で溜銭をはじめた。「義倉之主意ニ基キ諸商売物より口錢御取り立て被下仰付」と言うものである。魚鳥類、味噌、加羅油など十六品目余にかけられ、その中には、他所出之塗物も含まれていた。溜銭は所謂蔵出し税なのであるが、これが可能であった背景には既に商品流通の要を問屋が握っており、小売商人→問屋→検断というルートで売上把握がなしうる状況があった。逆に、この機会に問屋を通さない無印商品の摘発というかたちで、増えつつあった脇々商人を問屋制度の中に囲込んでいく目的もあったと思われる。
この宝暦・明和の溜銭制は当初から年限を限ったものであり、途中責任者之井深主水が宛物手形発行の失敗により出奔するなど、財政破綻を救うものとはなりえず、明和七年(一七七〇)に廃止されている。しかし、藩財政の補ぎないと商業統制の目的でこの後も、天明の一時期を除いてはずっと続けられた。
明和四年(一七六七)年町奉行大元〆兼務井深主水が出奔した年、牧原直太夫が御暇をされているが、これも井深事件の一端であったと考えられる。直太夫は二ノ町町人平兵衞等とはかり、藩の財政立て直しのため、大坂商人越後屋家城太郎次郎に「会津惣塗物諸産物大問屋」を引き受けさせ、井深主水の内々の同意を取りつけて、自ら家来を使い、諸産物の買い付けに奔走するが、それに失敗したと言う事件である。この一件から、このころ
まだ江戸の問屋体制の変化が会津藩では充分認識されておらず、依然として、領主権力と特権商人の結び付によって商業支配と財政補填が可能であると考えていたらしいことがわかる。しかし、財政破綻による藩の威信の低下したこの時代、塗物に関してだけでも宝暦年間にはすでに板物漆器の制作が盛んであって膳椀のみならず手箱類から雛道具までそうとう多品目に渡ってきており、また仕入問屋の一般化した時代に前渡し金の準備のないこうしたやり方では、新規事業においては送り出す商品の集荷すら儘なら無くなっていたことが知られるのである。 
塗物商人仲間の成立
江戸出塗仲間の初出は、宝暦九年(一七五九)年過ぎに書かれた資料ではあるが『延亨二年丑十月江戸塗仲間牒』(簗田文書)があり、延亨二年(1745)に江戸出塗仲間の存在があったことを確認できる。この仲間帳は前書法度と仲間商人の列記からなりすでに三九人、宝暦三、八、九、年の追加を併せると実に五十名のメンバーを数えている。ただし、前書法度の内容は前述した延宝年間の木綿仲間の法度となんら変わらず、簗田家支配下の商人仲間としての規制を受けており江戸出し仲間としての独自性はまだみられない。ところで、延亨四年(1747)の仲間帳が同じく簗田文書中に存在し、表題無しではあるが、十五名から成る塗物屋仲間であることは確実であり、内容から田舎出塗商人仲間と思われる。延亨二年の江戸出仲間と同時期に別の仲間が存在し、しかも四名が重複している。
また、これらの二つの仲間帳から延亨四年当時の塗物屋の分布は七日町十一人を筆頭として二三町に及んでいることがわかる。
明和八年(一七七一)に到ると、一般的な仲間法度を以て規制される段階を脱皮して、特有の特権の表示である仲間公認の荷印を持ち、独自の仲間寄合を持つ仲間組織となっている。ただし、原則として仲間加入を認め、名義売買の自由を認めるなど、後年の独占閉鎖的な株仲間とはまだ大分異なったものであった。
この時点で、仲間商人は延亨時の成員が十五名までに淘汰され、新たに加わったもの五名を加えて二十名となっている。
前述の様に寛文以前の仲間は商人・商業の統制をするという目的を主なものにしたが、寛文期以降になると、それに加えて運上金を納め、その代わりに仲間商人は独占を擁護されるという、相互依存が生まれるようになってきた。それが、元禄期から見られる運上金関係である。この時期には前述したように仲間は成員数を固定した〆株にはなっていなかったし、それゆえ、この時代の仲間が全て運上金や冥加金を納めていた訳ではない。
しかし、商業の発展に伴って同業間の競争が激しくなると、自衛のため、既得権の保護と、新規参入の阻止を領主に求めるようになり、一方領主側は財政逼迫の解消を経済力をつけてきた商人たちから運上金を取ることで解決をはかろうとした。払い下げ米の必要な酒造仲間の場合などは早くも元禄十年から運上金を納めており、新規参入を認めない〆株にはやくからなっっている。塗物仲間が〆株となったのは、遅くとも天明年間以前であろうと思われる。
文化十四年(1817)の『江戸出仲ケ間帳』(簗田文書)に前文として「天明五年巳六月仲ケ間定法相極候扣」とあることによって、天明の時点で次のような「仲間定法」があったことがわかり、その内容をみると、江戸出塗仲間が完成されたといえる要件を満たしている。 
流通体制の確立と株仲間
家老田中玄宰を中心とする天明〜寛政の改革で漆器においては、漆樹栽植奨励、工人の招聘、新技法の導入、国産主役の任命、海外輸出計画、江戸会津産物会所の設立などがはかられた。
江戸産物会所とは、天明の改革の一環として、殖産興業と交易促進のため、交易係による一切の国産品江戸移出の直計らいを理想として設けられたものであった。寛政五年(一七九三)江戸御用達町人田畑源兵衞の発案で、江戸中橋横丁の平兵衞店を借り受けて設置されたものであるが、そのための元入金の問題と急激な体制転換にともなう混乱を避けるために、一応在来の直計らい品を中心とした国産品の捌き場所となったらしい。だが、当時江戸出し塗物商人仲間によって塗物の江戸だしが平行して行われており、産物会所が塗物の江戸移出と販売にどのような役割を占めていたかは明らかでない。
また、享和二年(一八〇三)年には塗物長崎貿易計画があったことが伝えられるが、成功したか否かについてはこれも明らかでない。
延亨〜天明期の「江戸塗仲ケ間」(江戸出し塗商人仲間)や「田舎出し塗商人仲間」(と思われるもの)の成立、天明・寛政の改革などを通じて漆器の流通体制は次第に整備されつつあった。やがて文化・文政期を迎えると、「塗物店仲間」の株究め、「大坂出塗物株」の形成、「江戸出し塗商人仲間」の株究め、「田舎出し塗商人仲間」の株究めなどいわゆる株仲間の成立によって完成される。
文化三年(一八〇六)の『塗物店仲間株改帳』(白木屋文書)の場合、仲間法度は前述したような簗田氏支配下の一般的仲間法度と自分たち自身の仲間定との二部からなっている。前者荷おいては、すでに「見世場」云々の条項は消えており、後者では、譲り株・貸し株に関する規定や仲間出銭に関する規定を持ち、月行事による統制や商品の値段統一を掲げて塗物販売に関する株仲間であることを一目明瞭にしている。ただし、塗物輸送に関する規定を欠いていることから城下において販売を行ういわゆる地店仲間であることがわかるのである。当時の仲間は一七名である。
「大坂出塗商人株仲間」は文化九年(一八一二)の『大坂出塗物株帳』(簗田文書)によってその成立の経緯がわかるが、荷判・名前貸しの禁止、自由競争・値崩しの禁止などをあげ株仲間法度の体裁をとってはいるが、商人司簗田氏の署名があり当初は一人のみの単独株であって、市場開拓の功績に対する恩賞として上から与えられたものである。
『江戸出仲間帳』(簗田文書・文政八年)によると「江戸出し塗商人仲間」の株究めは文化一五年であった。これによると、この株究めは江戸における既得市場の防衛と維持のために自由加入仲間の防止策として仲間自身から発議されたものであった。仲間成員二二名だが、内明和八年の二十人の仲間の内、この文化十五年まで残ったものは僅かに四人のみであった。
「田舎出塗商人株仲間」は文政一三年に、前述の延亨四年のが復古成立したものであることがわかる。株譲りや荷判出荷の規定売崩し禁止により仲間の特権利益防衛を計ると共に、旧業者も含めて株金の徴収があり、江戸大坂出しを禁止して他の仲間との競合を避けるなど会津全体としての流通体制が整備されたことをうかがわせる。仲間人数は三一人で、関東、奥州、北国筋の東日本一円に販路をもっていた。
尚、一人の人間が複数の仲間に入っている場合もあった。また、各組は「行事」と「組頭」を定め、例えば月並箱銭の取り立ては行事があたり、商売筋に関しての出願には組頭の加印が必要であるなど、庶務担当者としての月替わりの行事と総括的代表者としてかなり長期に渡りその任に当たる組頭を持つ組織になっていた。
このようにして外部に閉ざされた〆株としての株仲間の制度が整い、溜銭も株仲間組織を通じて徴収されるようになっていく。 
会津塗物出入一件
全国的な流通の変化に会津側の認識が立ち遅れていたことは前述した通りであるが、そのつけが天保に入ると一気に露呈してくる。
天保二年会津藩江戸勘定所出野村右膳は、江戸産物会所が荷物の受け渡しばかりで諸産物の相場を保つなどの機能は果たしていないとして、当時の江戸市場における会津の塗物商人の実情を詳しく述べているが、その要点を整理すると次のようになる。
1 現在、江戸の取引先は問屋二十七、八件で、その他の店へは売捌けない決まりである。
3 会津の商人は十四、五人が年に二度上京し、両組(一、二番組)の店々へ売り渡す。
4 他の国々では直接卸売しており、中には江戸に出店を構え一年中商売する例もある。
5 4のため、江戸における塗物商売の利潤は少なく、問屋は専ら会津産の塗物によって利益をあげているようすである。
1〜5のような事情から会津の塗物商人の現状は、季節的に且つ個々に商品を持ち歩き販売するため懐具合は荷物の多寡で問屋側に見透かされ無理な条件買い叩かれる。しかし、零細な商人達のことであるからやむをえず相手の言い値で売り、その上支払は為替手形で渡される。それも以前は二、三十日ものであったのが、現在では半年の延べ手形になっている。
また、会津の商人は帰り荷として呉服、小間物、等を仕入れるのでその資金繰りのため売り急ぐ者もいる。これでは値段を保つことは出来ない。その上、去年藩の骨折りで漸く六分程値上げ出来たが、秋になって難しい条件を付けたり談合をするなどの無法をした。このような問屋側の条件が通ったのでは、会津の商人たちは進退極まってしまう。
また、思いがけず現金買取りの場合も、厳しく値切り、そのうえ番頭や手代が寄り集まって接待を強制するので、費用が少なからず懸かって、迷惑この上ない。資本力のあるものは資金繰りの方策もあるが、不渡りを出し取引停止にされて大変難渋するものもいる。
このようなわけで結局は地元の職人に皺寄せが行く。商人が職人から塗物を買い上げるのが遅れたり値段を抑えにかかったりするので、職人は行き詰まり自然と手抜きするようになる。中には離散して他所へ移って仕事をするものもいる。新潟で板物など盛んに作られたり、仙台まで産地が広がっている。これ以上他に産地が広がったら会津の漆器業の妨げになる。
それ故に右膳は、江戸取引の根本的な改革が必要であるとして、改革案を提示している。つまり、現金買い上げ以外の商品は悪条件で問屋に引き取って貰うよりも、会所が買い上げ、しかるのち、需要と相場を見合って、会所が問屋宛に商品を捌く、その代金も会所が取り立てる・・という方法を提案している。
そのための方策として
1 国元に大問屋を建て、厳重に品質管理をして、妥当な値段を取り決める。
2 荷物が江戸に着き次第、値段の決まった商品は早速代金を立て替えて支払ってやる。
3 値段が決まらず、相場眺めになる商品については、(予想値段の)七割程度を立て替払いにして、商品が捌け次第精算することとする。
江戸会所による、一種の専売制に近いものが意図されていたといえよう。だが、検断、町役所から、このような専売類似法はこれまでも試みられたが長続きせず、法令規則の朝令暮改に商人が拒否反応を示しており、また、田舎出商人による江戸への抜荷の恐れがあり、売掛の焦げつき等で資金繰りに詰まる可能性もある等々の反対が出て、引き替え貸し金についてはその実施を検討するというだけの成果しか得られなかった。
ここにみたように、天保頃の塗物取引に関する問題は、
1) 価格交渉における江戸問屋側の一方的優位
2) 残り荷処分については入札という形式を取ってはいるが、実は談合で下値に落札される。
3) 延べ為替決済による支払いのため会津商人の資金繰り難。
さらにもう一点ここにはあからさまに触れられてはいないが損害保証という名目の、事実上税(運上金)の納入業者への転嫁である積金徴収がなされており、これは幕府により禁止されていたものであるにも係わらず、産地問屋に強制されていたという問題がある。
この不満が雛道具というリスクの高い商品を巡って一気に吹き出したのが天保三年の「会津塗物出入り一件」である。更に天元年当時の二番組行事でありかつストライキ中の抜荷を企てて、双方からの指弾を受けた会津屋徳兵衞の件が絡まって、事態は拗れ訴訟になったのである。
江戸二番組問屋仲間から次の二点を理由として会津側を相手とする訴訟が起こされた。
1 会津の商人が天保3年分の雛道具類の注文を承知しながら、暫時引受量を減らし、ついには辰年分の雛道具の江戸移出を中止したことで、江戸問屋側は営業上多大な迷惑を被った。
2 雛道具の一件及びこれに到る価格交渉過程における江戸問屋会津屋徳兵衞の言動を不快としてか、会津側から取引停止を通告してきたことは得意先に対して不実なやり方である。 
会津側の要求案
1 積金につては、中止または過徴分の返還を要求。
2 残り荷について−−会所捌き・田舎捌き・その他何れの方式によってでも残り荷の相對売りを認める。その為には、積金の支払いを呑んでもよい。
3 会津屋については、詫び状を一札とる。
4 雛道具荷送りについては、旧規定通りであれば再開する。
天保三年七月一日に提訴され九回の召喚を経て、九月八日に両者の示談が成立し証文を取り交わした。妥結の要点は次の三点である。
1 会津屋徳兵衞には心得違いの点が在ったので江戸仲間に詫び、会津の御領主様の方へも、仲介者(一番組行事)から充分お詫び申し上げるので、今まで通り徳兵衞方とも取引を行うこと。
2 雛道具については、今まで荷主側から差し出していた五分の「出銀」をやめて、先年の規定どおりに取引を行うこと。
3 一般商品の取引について従来荷主より差し出されていた「直下ケ銀(値下げ金)」と呼ばれる一分の出銀については、会津側では「積金」あると言い、江戸側では抜荷検査費用であると主張して、双方共証拠が無いので、特別の措置として五厘差し出すようにすること。
このようにして、一応会津側の言い分が通ったものの、違法性のある積金を出しても、会津側の最大目標であった直売権を獲得することは叶わなかった。かえって、奉行所がわですら十組問屋仲間にたいしては、ある程度の黙認と言う形を示したのであった。
天保末期に一時廃止されたものの、幕末まで株仲間は商業機構の中核をなし、維新後の組合制度にもその影響を色濃く残していくのである。 
寛政から
寛政二年(一七九〇)の『御用日記』(簗田文書)に、塗師組頭が木地卸を扱っていたが、これを取り止め、以後七日町中条市兵衞宅を卸場として、必ずこの問屋場を経由して木地の売買は行うよう塗師職人共へ申しわたすという記事があり、同じく寛政八年には、職人共に限り他所で商賣してはいけない、必ず問屋に差し出すように、という命令が出ている。どちらも生産者が直接製品を売買することを禁じたもので、製品が必ず問屋を経由することによって、問屋を通じた生産者の支配がとられ始めたことを示している。 
 
最後の御茶壺道中

ずいずいずっころばし
ごまみそ ずい
ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
たわらの ねずみが
こめ食って チュウ
チュウ チュウ チュウ
おっとさんが よんでも
おっかさんが よんでも
いきっこなしよ
いどのまわりで おちゃわんかいたの だれ
わらべ歌「ずいずいずっころばし」の歌詞です。この歌詞の中で
ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
というフレーズがありますが、今回のお話の主人公でもあるんですよね。
江戸時代、徳川幕府は将軍家御用達(たし)として宇治茶を献上させていました。
その役目を担っていたのが、「宇治採茶使」と呼ばれた幕府の役人たちでした。彼らによって、毎年江戸〜宇治間を往復していたのです。
慶長18年(1613)に幕府が宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を初めて派遣したのが始まりで、寛永10年(1633)に制度化されます。
多い時で100個以上あった茶壺を交代制で任命された「徒歩(かち)頭」を中心に、茶道頭や茶道衆(茶坊主)、その他御茶壺の警備の役人なども含めて最大で1000名近くの役人が行列をなして江戸城に向かいます。これを「御茶壺道中」といいます。
しかも、その地位は摂家や門跡に準じる格式で、御三家クラスの大名でもでも例外ではありませんでした。
例えば、参勤交代の途中でこの御茶壺道中に出くわした大名は、駕籠を降りて下座拝礼をしなければならないのです。
なので、中には御茶壺道中を見つけるとさっと脇道や宿所に入って、その行列を避けたといわれています。
庶民たちは尚の事で、御茶壺通行の節は、被り物などを取って下座拝礼」しなければならないといった京都町奉行所の厳しい御触も出されています。
上記の
ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
などは、概ね
御茶壺道中の行列がやって来たので、沿道の住民らは戸口をピシャっと閉めて家に逃げ込み、行列が通り過ぎたら、ホッと胸を撫で下ろして、やれやれ、ホッと一息という感じ…
で、御茶壺道中の物々しさを風刺した歌なんですよね。
ところが、その御茶壺道中も慶応3年(1867)江戸幕府の終焉によって、その役目を終えようとします。
その年、慶応3年(1867)は将軍である徳川慶喜は在洛中であり、随行していた元御数寄屋(おすきや)組頭の鈴木春碩が二条城から宇治に来て、必要とするだけの御茶壺を江戸城に向けて発送させています。
つまり、最後の御茶壺道中は、役人が御茶壺に同行せず、御茶壺のみを宿次人足の手に委ねて江戸城へと運送させたわけです。
御茶壺が宇治から出荷したのが、6月10日の事。通過途中の中山道鏡宿では、
六月十一日夜、本陣に小休これ無く、御壺ばかり四棹程、夜八ッ時より夜通しに相仕舞候(『蒲生郡志』)
とあります。
通常の御茶壺道中なら東海道ルートで12日間、中山道、甲州街道ルートで13〜14日間の行程なのですが、警護の武士も御数寄屋坊主も同行していない、いわば単なる荷物だった事から、通常の御茶壺道中より早く運ばれていたようです。
こうして御茶壺道中は幕を閉じたのです。 
 
中国茶の歴史

1.茶はいつから飲まれたか
中国に「漢方は二千五百年。茶は四千年」という言葉があるそうです。漢方薬は二千五百年前から使われ出し、茶は四千年前からあると言うことだそうです。
現在「茶」の木の原産地は雲南省と四川省に近い山間部とされています。その雲南省の南糯山に「茶樹王」と言われる大木があります。樹齢は八百年、主幹の直径1.08m、樹高9mといわれます。
この大木の説明は「哈尼族の伝説によれば、すでに五十五代の人が茶を植えてきている」とされています。またこのような「茶」の大木は雲南省だけで三十件が確認され、中には樹高三十mのものあるとのことで、それらが自然種か栽培種か学術的に判断が下せないそうです。そうであるならば茶樹の栽培は相当な歴史を持っていることになります。
中国の伝説では「農業や薬草の神」とされる「神農」が木陰で湯を沸かしているとき、一枚木の葉が鍋に落ちたが、その木の葉の落ちた湯が何とも芳しい香りがしたため、思わずその湯を飲んだ。これが「神農」の「茶の発見」といわれています。
この伝説を彷彿とさせるものとして、雲南省のタイ族やワ族に現在まで伝わる「焼茶」とよばれる飲み方があります。枝ごと摘んできた茶葉を囲炉裏で炒ると、そのまま湯の鍋の湯に入れぐらぐらと鍋で煮て飲む方法です。
この方法と人が最初に茶を飲料として利用した姿とは、余り大差がないと思われます。古代は現代より生活に火が身近にありました。薪として採ってきた小枝を囲炉裏にくべると、芳しい香りがしたので、これは使えると思ってお湯に入れて炊き出すことは、十分に考えられることです。
茶の利用が余りに身近で、特段の技術も必要がないことは、逆に利用の起源を遡ることを難しくしています。そのようなことは専門家に任せて、我々は先を急ぎましょう。 
2.歴史上の茶
「茶」の聖典といわれる「茶経」によれば、喫茶習慣は「神農」氏の時代から始まり、周公旦も「茶」も楽しんだことになりますが、これは現段階ではまだ「伝説」に属する話です。歴史上の書物に「茶」の記載があったとしても、それが「生薬」(漢方薬)としてか、「食品」としてか、「飲料」としてか、その用途が解らなければ意味がありません。
また、どのような状況を「喫茶習慣」の始まりと見るかによっても、結論がことなります。特に古代は茶樹を栽培するより、野生茶樹を利用したと考えるほうが妥当でしょう。ともすれば野生の茶樹が利用できる一部地域の「風土的習慣」から「茶」が「商品」として取引され、地域外の人々が最初から「茶」を飲むことを目的に、「茶」という商品を購入するようになった時点。つまり「茶」が商品として成立した時点、と小生は考えています。
では最初にこのような記述が現れる文献を探す前に、「茶」を表す文字に付いて考えておかねばなりません。
「茶」の意味として「茶」の文字が使われるのは「唐代」になってからです。それまでは「荼」と・「茗」めい・「舛」せん等の文字が使われていました。「荼」は「にが菜」の意味で薬用のキク科の植物です。これが「苦い」という共通点で「茶」の意味も含むようになったとされています。
「茗」は字形から祭りの際に奉げられる植物のことでしょうか、舛はソムク・ムカウ・タガウの意味ですので、何か如術に使う植物でしょうか。どちらにしても中国は「漢字の国」です。新しいものには「新しい文字」が必要です。しかし、新しいものが普及するまでは他の字に「仮住まい」させてもらうしかありません。
この三ツの文字が「茶」の仮住まいに選ばれたことは、「茶」が飲料となる前身は「薬草」であったことを偲ばせる感があります。
さて文章に戻りましょう。これに該当する最初の文献は、前漢の宣帝の神爵三年(BC59)に、王褒(おうほう)が表した戯文「僮約」です。ここでの「僮」は「わらべ」の意味ではなく「しもべ」の意味です。
つまり「しもべ」イコール「奴隷」との契約書の形にした戯れの文章ということです。この「僮約」に「包鼈烹荼」(ほうべつほうと)と「武陽買荼」(ぶようばいと)の文章があります。これは奴隷が毎日の仕事としてやるべきことを書かれた中にあります。「包鼈烹菟荼」とはスッポンを煮て「荼」を煮ることです。この場合の「荼」の字は、料理に使われるものとして「にが菜」の意味とされます。
つぎの「武陽買荼」は「武陽」に「荼」を買いにいくことですが、この文章の舞台は四川省の「成都」です。「武陽」までは直線距離で70kmです。当時としては往復四日の遠くまで、料理用の菜を買いに行くでしょうか。ですのでこの場合の「菜」は「荼」の意味とされます。
この前漢の宣帝時代には、遠くまで買いに行かねばなりませんが、産地や集散地まで足を伸ばせば、商品としての「茶」手に入ったのでしょう。この「茶」が一般に普及するには「唐代」まで待たなければなりませんが、その「唐代」に「茶」が「荼」の文字から独立して、「茶」の文字が成立します。 
3.漢代以降のお茶
残念なことに「漢代」にどのような茶が飲まれていたか、それを示す文献は現在のところ、発見されていません。それに最も近いものとして、次代「三国時代」の魏の張揖(ちょうしゅう)の著書、「広雅」に当時の「茶」のことが記されています。
『刑巴(けいは)の間、葉を採り、餅(へい)と作す、葉の老いたるものは、
餅成するに米膏(べいこう)を以って、茗を煮て飲まんと欲すれば、
先ず炙(い)りて赤色ならしめ、末に搗(つ)きて瓷器(じき)の中に置き、
湯を以って澆覆(ぎょうふく)し葱・薑・橘子を用いてこれを混ぜる。
それを飲めば、酒を覚まし、人を眠らざらしむ。』
と記されています。つまりこの時代の「茶」は葉茶ではなく、「黒茶」で述べたような「固形茶」の一種の「餅茶」ということになります。
摘んだままの葉茶はいくら搗いても「餅茶」にはなり辛いでしょうから一旦は蒸したと思われます。
次に若い葉はそのままでも餅状に成型できるが、成熟してしまった葉は粘り気が少ないのでしょう、米の糊を混ぜるようです。飲む時は、まず臼で搗いて粉末にして、それを磁器の器に入れ湯を指し、薬味をいれて飲むようです。これは後述します「陸羽」の「茶経」にいうのみ方とあまりかわりません。
それ以上に「陸羽」が嫌う薬味を入れた飲み方そのものです。なにより荊巴の間とは、湖北省から四川省東部にかけての一帯をいいます。「武陽買茶」の「成都」や「武陽」とも同一地域といえるでしょう。「紙の発明」は「後漢時代」です。「三国時代」は「紙」は貴重品です。当然「前漢時代」にはありません。
「茶」のようなデリケートな商品を販売するとすれば、その形態はこのような「固形茶」でしかないと考えます。これなら持ち運びも簡単ですし、糊を使って固めてあれば「茶葉」より湿気に気を使わなくて済みます。
たとえ粉末にして湯を注いだ時、糊が解けて「茶」にトロ味がついたとしても、、薬味を入れることを考えると、その方が味の調和が良いかも知れません。「茶」の商品化は愛飲者を増やし、需要の高まりは原料の「茶葉」を大量に必要とします。
そのような環境から「茶樹」の栽培が増加すると、良質の「茶葉」が大量に入手出来るようになると共に農家にとって貴重な「換金商品」の「茶」は各地に「製茶農家」を出現させ、地方地方に「銘茶」を誕生させたに違いありません。そのような社会的背景の成立を持って、「唐代」に「茶聖・陸羽」が舞台に登場します。 
4 .陸羽と茶経
長い歴史から現在まで、「茶」に関する書物で「茶経」が最高のものとされ、現代のように出版物が溢れる時代になっても、その評価は些かも褪せることはありません。この書は以後のすべての「茶」に関する書物に影響を与えたと言っても過言ではありません。それは日本の茶道に対しても同じで、「千利休」の高弟「南坊宗啓」の書「南方録」は、「茶経」の「一之源」の書き出し「茶は南方の嘉木なり・・」に基づいています。また「五之煮」に記載される「茶」の立て方は、瑣末な点を除けば、現在の日本茶道となんら変わりません。「陸羽」はまた「一之源」で「茶」を飲むに相応しい人として、「行い精れ、倹の徳のある人の飲物に最もふさわしい」と表現しています。「倹」とは倹約の「倹」で、「華やか」の対極にあり、「侘び茶」と一脈通じる処もあります。「陸羽」の生まれたとされる733年は、「唐朝」の玄宗皇帝の治世に当たります。世界帝国としての「咲く花の臭うがごとく」と言われた全盛期です。華やかなことこの上なしの時代です。都の「長安」では金や銀の器で「茶」が飲まれ、麗々しい衣装で身を飾った名門貴族が尊ばれる、「煌びやかな文化」が確立していたのです。「陸羽」が活躍した湖北省は辺境の田舎に過ぎません。しかし、そんな田舎でも時代の風潮として「煌びやかな文化」が尊ばれていたでしょう。ではなぜそんな時代に「陸羽」は「倹」を説いたのでしょうか。「華美な風潮への警鐘」などという説教めいたことでもなく、「時代へのアンチテーゼ」というような芸術家めいたことでもないと思います。 
5.陸羽その生い立ち
今の湖北省天門市に「陸羽」は生まれます。貧しい家に生まれたのでしょう、三歳のときに「西塔寺」の参道にあった「雁橋」の辺に捨てられます。その捨て子を拾ったのは寺の智積禅師ですが慈善事業でなしたことではありません。仏門の人ですから慈悲の心はあったでしょうが、それで捨て子を拾っていては、当時の社会では寺はすぐに孤児院になってしまいます。「唐代」の寺は広い荘園を持ち、文化的学問的エリートの僧達の組織体です。下僕としての労働力はいくらでも欲しいのです。当然「陸羽」は将来の労働力として期待されたのです。寺が一人の捨て子に何の愛情も持っていなかったことは、彼が名前すら付けて貰えなかったことでも明白です。彼自身の伝記によると、「陸羽」は吃もりで、醜悪な容貌であったそうです。しかし利発なことは人一倍で、そこを見込んで智積禅師は「陸羽」に対して九歳から読み書きを教えたそうです。これでも禅師が「陸羽」に愛情を持っていなかったことが解ります。現在でこそ九歳からの勉学は遅いと言えませんが、当時の感覚では遅すぎるのです。つまり彼が利発さを発揮しなければ、単なる労働力と見られその機会は与えられなかったでしょう。彼は読み書きを覚えてから、自分で筮竹を引いて「易経」に照らして、「陸羽」という名を自分に与えたそうです。その後、禅師は仏教を彼に教えようとしますがそれに反発して「儒教」に興味を持ち、堂々と禅師に反論したようです。このあたりに「陸羽」の人となりが感じられます。史上華やかな「大唐帝国」もそれは支配階級だけのことです。寺の外に一歩出れば、食うや食わずの庶民の生活です。孤児の彼に用意されている運命は、奴隷になるか、野垂れ死にしかありません。それが今は寺に拾われ、働かされたでしょうが勉学の機会もあり、仏教の手ほどきも受ける身なのです。将来努力すれば僧侶にも寺の庶務を預かる執事にもなれます。庶民からすれば大変な出世です。なぜ「陸羽」はそれを拒否するのでしょう。それは後年に「茶の文化」を創造することと大きな関係があると思われます。小生は「陸羽」は「自己の証明」と「自己の価値」を求めていたと考えます。我々は名前と家族を持っています。「○田○夫」と言う名は強烈な自己証明です。またその存在を無条件で容認してくれる家族がいます。しかし幼少の彼は自分が何者かも解らず、存在を無条件に認めてくれる者も有りません。当時は名門貴族であっても容姿で出世が決まりました。奴隷でも容姿の良い者は価値が高いのです。ところが彼は容貌醜悪で、その上吃もりです。周囲の人々からどのような罵声を浴びせられたか簡単に想像できます。幼い頃から利発さを発揮し、人に議論を吹っ掛けることや自分自身で「易経」という権威を借りて命名することは、「陸羽」の「自己の証明」と「自己の価値」の追求なのです。僧侶になることは「俗世の縁」を絶つことです。かれは絶つべき「縁」がない故に、それを強烈に求めているのです。「儒」は反対に「俗世価値」を高めてくれるものです。当然の興味といわねばなりません。しかしいくら「儒教」を学んでも、絶対の出世コースである「科挙」という任官テストからは、遠い処に居るのが彼です。「陸羽」は既存の価値ではない、もっと新しい価値を見出そうとしたと思われます。当時ようやく普及してきた「茶」、高僧も王侯貴族も士大夫も熱中していた「新しい飲物」です。それは単なる飲物でなく「文化の香り」がするのです。しかしまだ系統立てた「茶の法」がありません。それを自分が確立することができれば何よりの「自己の価値」の創造になるのです。当時禅寺と「茶」は深く結びついていました。高貴な来客にも、修業中の僧侶にも「茶」は供されていたのです。幼い使用人の「陸羽」その給仕に働かされていたでしょう。身近な「茶」がどのような価値を持つものなのか、利発な彼は理解していたでしょう。十代の後半でしょう、30頭の牛の世話を命じられていた彼は、仕事の間も寸暇を惜しんで勉学に勤しんだのですが、同僚や上司からはサボりにま見られます。制裁や「いじめ」もあったのでしょう。「陸羽」の方から寺を見限り出奔して、芝居小屋で何をするのかと思えば、そこは世の中うまくしたもので、道化師から出発します。しかし、読み書きの出来る者が極端に少ない時代です。まして簡単な筋書きの出来る者は貴重です。すぐに芝居の脚本を書くようになります。「自己表現」を求めていた彼にはぴったりの仕事です。小生はこの芝居の一座で、「陸羽」は彼らから「世間の事」や「人付き合い」を学んだのでしょう。このような封建的な時代に田舎芝居で生きていくには、世間を知り抜いた上での「人付き合い」のプロでなければなりません。「陸羽」も人の機微が解らなければ、大衆受けする脚本は書けない筈です。「陸羽」ここで初めて人情を知り、「人の表と裏」を学んだと思われます。このことがこの後、彼に幸運を呼び込むことになります。次々と才能を認め、伸ばしてくれる人にめぐり合うのです。 
6.その後の陸羽
これにより「茶聖・陸羽」にむかって次々と幸運の階段が用意され、彼は急速に高みに昇り始めます。直ぐにそこに迫った、「唐朝」の屋台骨を揺るがす「安史の乱」ですら、彼には「詩歌の幸い」となってしまいます。 「陸羽」の居た芝居の一座が竟稜の滄稜で開かれた地方館員が民衆に酒食を振舞う行事に招かれます。何の偶然か都から左遷されたばかりの、新任の竟稜太守「李斉物」の知遇を得ます。「太守」いえば地方長官です。その「太守」が「陸羽」にどのような才能をみだしたのでしょうか、太守手ずから「詩」を教え、火門山に住む「鄒夫子」という学問の師に付かせました。このとき「陸羽」は数えで十四歳か十八歳。余程非凡な光る才能がなければ掴めない幸運です。その六年後、また都から左遷された竟稜司馬「崔国輔」とも知己を得ます。司馬は地方警察の本部長というところでしょうか。太守よりは数段下の官職ですが、極端な「官尊民卑」の時代です。志井の人間からすれば「神」にも似た遠い存在の筈です。しかし、竟稜太守「李斉物」の時よりは「陸羽」の学業も進んでいたでしょう。左遷されて官界にも飽き、暇を持て余していた「崔国輔」にとって、田舎には稀な教養人の「陸羽」は気の置けない話し相手であったかも知れません。「李斉物」や「崔国輔」にとって「陸羽」一人の生活の援助はポケットマネーで済むことです。この「崔国輔」と出会った時代が、彼に取って人生で初めての、落ち着いた余裕のある生活ではなかったと思われます。小生はこのとき「崔国輔」の援助で不朽の名著「茶経」が出来たと思っております。 この後直ぐに「安史の乱」(755年)が始まり、戦火を逃れる流民と共に「陸羽」も難を避け、流浪の果てに湖州(浙江省)に落ち着きます。(760年頃)。この流浪ですら生涯の友となる詩僧「皎然」との出合い、湖州への転居は、唐の忠臣で当代の大文化人で、大臣経験もある大書家「顔真卿」との縁を生むのです。773年「顔真卿」は湖州刺史(州の長官)として赴任してきます。実はこれも左遷だったのです。「陸羽」よくよく左遷された人に縁があるようです。既に「茶経」の著者としての「陸羽」を知っていたのでしょう。「顔真卿」は文化事業の「韻海鏡源」の編纂に彼を参加させ、「浩然」の「妙喜寺」に「三癸亭」という住宅まで建てて住まわせました。この二人と「陸羽」との付き合いは多くの詩に残され、今でも窺い知ることができます。当時「陸羽」の名は世に知れ渡っていました。「東官府」の「太子文学」に任命されましたが、任官せず処子のままで過ごしています。 ここまでの「陸羽」を世に出した幸運も、彼の側からすればコンプレックスに苛まれたものかも知れません。いくら学業を積んでも、いくら対等に付き合いが出来ても、彼らと違って、「陸羽」の前には官界での活躍の道は開かれていません。全てに対等に付き合うには彼らの「価値」とは別の、全く新しい「価値」を創造することが求められたのです。それが拾われた「寺」で知った、新しい「文化の萌芽」を秘めた「茶」であったのではないかと、小生はそう思っています。其れはちょうど「太閤」の地位にまで登りながら、寒門の出身のコンプレックスを「茶の湯」で対抗した豊臣秀吉であり、絶対の権力に「文化的権力」で対抗した千利休にも似たものを感じます。 
7.茶経
さて、ここからが本題の「茶経」です。「唐代」の書物は史書や制度を記したものを除くと、殆どが散文風のもので、体系立てて文章を構成することはありません。しかし、「茶経」は項目別に部を設けて、まるで箇条書きのように、「茶」の全容を体型付けて記述されています。ここにも「陸羽」の従来の慣習に捕らわれない新規性と、全てを語ろうとする「若さ」を感じます。 内容は「一の源」で茶の起源を、「二之具」では製茶に使う道具を、「三之造」では製茶工程を、「四之器」では茶器に付いて語り、「五之煮」は茶の点て方と火や水の良否、「六之飲」は飲料に付いてと、茶に関連した主要人物、当時の茶の種類、悪しき飲み方等、「七之事」では「茶経」以前の茶に関連する書物、「八之出」では茶の産地とその優劣、「九之略」では略式の茶の作法、「十之図」では茶席には「茶経」を掛け軸にして掛けて置くべき事を説いています。特に「十之図」は「喫茶文化」の創造者たる自負と、それに従わしめようとする強い意志を感じます。まさに「新しい価値の創造者」です。このテキストでは全てを扱う余裕はありません。また「茶経」が主に扱う「茶」は、「緑茶」の「餅茶」で、それを粉末にした「抹茶」の点てかたです。このため以下の説明は、現在の中国茶にとって必要なものだけに止めます。「唐代」は国の中心は都の長安と副首都格の洛陽です。「陸羽」が活躍した竟稜や湖州は田舎と表現しても良い処です。その田舎で著わされた「茶経」が大きな影響力を持ち、著者の「陸羽」の名は「茶の仙人」のようなイメージで天下に轟いたでしょう。「新唐書」の「隠遁列伝」にその名を刻んでいます。 
8.「三之造」(「二之具」を含む)
ここで記述される「製茶方法」は当時の一般的手法と見るより、「陸羽」が納得できる、ある意味では最高級品を作り出す方法でしょう。また湖州顧渚山の「陽羨茶」は、「陸羽」の進言で「貢茶」(皇帝に献上される茶)となったといわれます。その
「陽羨茶」の中でも「貢茶」とされるのは最高の「紫笋茶」といわれろものです。この紫色の蜀形(たぶん茶の芽の形)といわれる「陽羨茶」も同じ方法で造られてと想像しています。 以下に説明する「製茶工程」は「二之具」と「三之造」を合わせまとめたものです。
1. 茶摘
三月〜五月(太陽暦)に茶摘を行います。(「紫笋茶」の場合は四月)蜀形の芽の取れる茶樹は、石灰岩や砂岩の風化した土壌(爛石)に生えている。芽の長狭12〜15cm(雲南大茶葉種か)で蕨が初めて芽を伸ばしたときに似ている。茶摘は朝早く朝霧を踏むようにして行うが、雨天や曇天には行わない。
2. 殺青と揉捻
摘まれた葉は、竃に刃釜を掛け、木製か素焼きの蒸篭に入れて蒸します。次に蒸し上げた茶葉を臼と杵で搗き上げます。
3. 成形
「承」という木製か石製の台の上に布を敷き、その上で「規」という型に茶を詰めて成型します。このとき相当な圧力を掛けるようで、「承」を半分土に埋めると指示しています。また「規」も円形や方形、花型と各種あり、材質も鉄製や、木製、曲げ木のものがあります。一つ固めるごとに布を取り替えるとされていますので、水分を吸収させる目的が有るのかも知れません。この布は油絹(目の細かい滑らかな絹)か雨衣の一種の古着で作ります。
4. 乾燥
「茶経」による「乾燥工程」は二段階」に別れ、成型の終わった「固形茶」を、二本の竹の間に竹の皮を網代に編んだものを張った「は莉」という篩の上の上に並べ、天日乾燥する。次に「固形茶」に小穴を開けて、そこに竹串を通す。「焙」という半地下式に乾燥炉を造り、「固形茶」を刺し通した竹串を並べて焙り乾かします。このとき、炭火等の直火なのか、温風や煙による乾燥なのかは文献にありません。
5. 保存・熟成
こうして製品化された「固形茶」は「育」という保存箱に収納して置きます。木製の枠に竹で編んだ壁をつけ、そこに紙を張った「密閉容器のようなもので、熱い灰を入れた火桶を中に入れて温度を保ち熟成させます。また江南の梅雨時は熱い灰ではなく火を炊いて温度を払います。
このようにして出来上がった「茶」は、「蒸青緑茶」の「固形茶」と見なすことができます。これが現在のように荒く「茶葉」の形を残したものか、菓子の「落雁」のように殆ど「茶葉」の形を止めていないものかまでは不明です。「茶経」では完成した「固形茶」を八等級に分けて優劣を論じていますが言葉も難しく、ここでは省きます。ただ、下記のような文は興味深いので記載しておきます。
『光と黒さとでこぼこのないものを嘉という者は、鑑定の下等の者である。皺と黄色とでこぼこを以って佳と言う者は、鑑定の次等の者である。もし以上に挙げた条件をにな嘉とし、またみな不嘉という者は、鑑定の上等の者である。その理由は精分を外に出しているものは光があり、精分を内に含んでいるものは皺があり、一晩たって作ったものは黒く、その日の内に出来上がったものは黄色であり、蒸して押さえることでこぼこがすくなくなり、緩めるとでこぼこになる。これらのことは、茶でも他の草木の葉でも同一である。茶の良否は口訣にある。』
ここでは「固形茶」は外見からは判断できず、良否は口訣にあるとしています。外見の特徴では一概に言えず、その物を見て一つ一つ判断しなければならないと言う意味でしょうか。一晩おいて作ったものは黒いと言っています。これは常温で放置した茶葉が自然蒸発したことでしょう。またその日の内に作ったものは黄色と言っています。前者は半醗酵の「青茶」、後者は無醗酵の「緑茶」でしょう。小生流に解釈すると「茶は飲んでみなければ解らない」ということです。値段や銘柄に惑わされたり、入門書や人の意見では、「自分が美味しいと確信できる茶」には巡り合わないということです。 
9.「六の飲」
ここでは「茶経」が著わされた当時の「茶」の種類について書かれています。「茶」を分類して「そ茶」・「散茶」・「末茶」・「餅茶」の四種としている。この内「そ茶」は現在でいう「毛茶」にあたる半製品のように「荒茶」か、もいくは文字の意味通りの「粗茶」かもしれません。小生自身は「白牡丹」の低級品のように、摘み取った葉のそのままの姿を残したものではないかと想像しています。つまり「茶葉」を天日乾燥しただけのものだと思っています。次の「散茶」は明らかに「葉茶」のことですが、これも現在の「葉茶」ではなく、蒸した「葉茶」を固めた現在流の「固形茶」だと思っています。この形であれば長距離の運搬も簡単で、保存に関しても風通しの良い所に吊るすなどの方法が取れます。正体が不明なのは「抹茶」で、「餅茶」を粉末にしたものとの説もありますが、これは商品としての運搬や保存性に問題が残りますし、「茶経」の中でも「餅茶」の粉末を「抹茶」と呼んでいません。これも小生の想像ですが、「散茶」を小売段階で刻んでから炒って、洗い粉末状にしたもので、主に葱や生姜等と一緒に煮て飲む、「スープのような茶」に使われるもので、食味や喉越しを考えて粉末状にされていると思っています。この文章の続きとして、湯を注ぐだけで飲む「えん茶」という飲み方が紹介されています。これは『茶の葉をきり、いり、ついて造り、瓶や缶の中に貯える。湯を沃ぐだし方を「えん茶」という』とあります。これは茶の飲み方ですので、これを主に「散茶」を飲む方法とすればつじつまが合います、「きり」とはざっくりと切るとの意味ですので、現在の「餅茶」を切るには適当な表現ですし、「いり」は水気をとるとの意味で、また「ついて」は穀物を搗くとの意味ですから、荒く搗く、ここではつきほぐすの意味でしょう。これで切った「餅茶」の一片を軽くあぶり、搗きほぐして湯を注ぐ訳ですから、現在の「普耳茶」の飲み方とあまり変わりません。「六の飲」では先ほどの「スープのような茶」を「陸羽」は、「溝の捨て水」と呼んで排撃しています。現在の私達もその考えに賛成しますが、寺で使われる。茶や、貴族や官僚の館で用いられる茶は、確かに高級品で「茶」そのものの味が味わえなかったでしょうが、製茶技術の未発達の時代に、庶民が飲む茶は「スープのような茶」にしなければ飲めないものだったかもしれません。 
10.「八之出」
この「八之出」では「陸羽」が知る限りの茶産地と、そこから生産される「茶」を上等・次等・下等・又下等の四階級に分けて品評しています。八世紀の地名を現在に当てはめることは難しく、明確な部分で解っているものの内、今も茶を生産している処を抜書きしてみます。
原文『山南では峡州が上等、襄州・荊州は次等。衛州は下等。金州・梁州は又下等』
原注による県名   現在の県名           現在生産の茶銘
峡州-遼安県⇒湖北省宣昌専区遼安県⇒遼安鹿苑(黄茶)・鹿苑毛尖(黄茶)
     宣都県⇒湖北省宣昌専区宣都県 
    夷遼県⇒湖北省宣昌市⇒峡州碧峰(緑茶)・宣紅工夫(紅茶)
襄州-南しょう県⇒湖北省襄陽専区南しょう県
荊州-江陵県⇒湖北省荊州専区江陵県
衡州-衡山県⇒湖南省衡陽専区衡山県⇒南岳雲霧茶(緑茶)
     茶陵県⇒湖南省湘澤専区茶陵県⇒韻峰?(緑茶)
金州-西城県⇒陜西省安康専区安康県
    安康県⇒陜西省安康専区漢陰県
梁州-褒城県⇒陜西省韓中市の西北
    金牛県⇒陜西省韓中専区べん県の西 
11.唐の茶
「茶経」の説明で「唐代」の「茶」がどのようなものであったかは、想像してもらえるでしょう。その「茶」の飲み方ですが、「陸羽」の説く方法は、まず「固形茶」を柔らかくなろまで炙り、紙袋に入れて精気が逃げないようにしてから冷まします。
次に漢方薬で使う「薬研」(やげん)で粉末にします。それを紙箱の下が引き出しになった、絹張りの「篩」(ふるい)でとおした、きめ細かいものを使います。目の細かい絹の水濾しでろ過した水を釜で沸かします。湯が湧き出すと塩味をつけ柄杓一杯の湯を汲みだしておきます。
竹箸で湯をグルグルかき回して、その中心に用意した「茶の粉末」を入れます。湯が沸騰寸前になると、汲み出しておいた水を釜に戻して沸騰を止める。
これで「茶筅」(ささら)を使って点てた「抹茶」のようになり、茶碗に汲み分けて飲みます。
この飲み方も、ここで使われる「固形茶」もあくまで支配者階級のものです。確かに「唐代」で「茶」は一般に普及しましたが、一般庶民は前述しました、「茶」に湯を注いで飲む「えん茶」という方法で飲んでいたでしょう。
食べることに精一杯の庶民が、これだけの道具立てを揃えることは不可能です。いやそれよりも、庶民は現代に近い美味しい「茶」の飲み方を工夫していたかも知れません。 
12.宗代の茶
「陸羽」が活躍した「盛唐」から「晩唐」へと時代が下るに伴って、「餅茶」製法は発展し、「晩唐」になると蒸した。「茶」を臼で搗いて型に詰めるのでなく、蒸した「茶」を「しめぎ」に掛けてから、「すり鉢」で滑らかに磨り潰して、型に入れて成型する方法に発展します。
この「しめぎ」は文献では図示されていませんので、想像する他は無いのですが、酒や油を搾る道具に似たものでしょう。この方法では「餅茶」より相当に緻密な「固形茶」が出来、これを「研膏茶」(けんこうちゃ)と呼び、時の皇帝へ献上していました。
これが更に発展して「蝋面茶」(ろうめんちゃ)が造られるようになります。「固形茶」の表面が「蝋」のように緻密で艶やかな処からこの名があるとも、「茶」を茶を点てた時、表面に「ミルク状」のものが浮かぶので名づけられたとも言われています。「宗代」は文献上は「龍団鳳餅む」に代表される、「固形茶」全盛の時代ですが、その素地は「唐代」から始まっていたのです。
「宗代」は慎ましやかで繊細な文化の時代です。万事派手好みの「唐代」とは時代精神が異なります。反面、豪華な貴族の生活を支えるために「膏血」(こうけつ)を絞られていた庶民は、「宗代」になると商品経済の発展から、生活水準を向上させることが出来るようになります。
この時代「茶」の分類は「散茶」と「片茶」(へんちゃ)に大別されます。「散茶」には「末茶」も含まれ、その「末茶」は「末散茶」・「屑茶」(砕末、粉茶のことか)・「末茶」に分類されます。
つまり、王侯貴族や士大夫の支配階級用の高級茶としての「片茶」と普段使いの庶民向けの「散茶」に大きく分かれたとも言えるでしょう。それだけ庶民の茶の消費量も多くなったのです。
ただ「散茶」についてはどのような製法で、どのような製品に仕立てられたかが不明です。これは小生の想像ですが、「宗代」は文化的には「中華帝国」なのですが、軍事力は脆弱ですので、「茶葉交易」に用いる「茶」の量も膨大であったでしょう。「宗代」にこそ、「唐代」の「餅茶」製造法から派生して、現在の「固形茶」(片茶)が出来たと思っています。
かりに当時の「殺青」方法が「蒸青」しかなかったとしましょう。蒸した茶葉を広げて乾燥させれば「緑茶」は完成します。この広げるという工程が簡単な「揉捻」に当たるのではないでしょうか、これで庶民用の散茶が造られ、この軽度の「揉捻」された「茶葉」を乾燥前に固形化したものが、初期の「片茶」(固形茶)だと思っています。
前出の庶民用の「散茶」は軽度な「揉捻」ですし、当時、初期の乾燥は天日に頼らざるを得ないでしょう。となれば天候に左右され、大量に生産するとなれば乾燥不良の商品も多い筈で、これを防止するため「茶葉」を最初は刻むとかの方法が取られたでしょう。
後に「宗代」の特徴の一つ、石炭の使用が一般化し、中華料理が現在の形に一変したように、燃料が確保されると、釜で炒りながら乾燥させる方法が発達し、「炒青緑茶」が誕生するのではないでしょうか。
ここでは「緑茶」としましたが、茶摘した「茶葉」を何時蒸すかによって、「緑茶」も「青茶」も出来上がったと思っています。但し、当時は別種の茶として区分する意思は無かったでしょう。 
13.これはもう芸術品、「宗の片茶」
「晩唐」から「五代十国」に入ると「研膏茶」や「蝋面茶」は各地で造られるようになり。「五代十国」の「南唐」の後主「李U」(りいく)は文化人や詩人(詞)としても高名で、有り余る財力で「澄心堂紙」(ちょうしんどうし)や「李廷珪墨」(りていけいぼく)などの、「文房四宝」の名品を作らせたことでも有名な人物ですが、彼は「龍鳳茶」という極めつけの「片茶」を「建安の北苑」(福建省建甌県の東、鳳凰山付近)で作れらせました。
「宗」はこれを受け継ぎ、「建安の北苑」を「帝室御用茶園」にして、「龍団鳳餅」を造り始めます。「龍茶」は皇帝や執政、親王や公主だけの専用とし、「鳳茶」はその他の皇族や大臣・将軍用とされ、それ以下の者には「白乳」や「的乳」といわれる茶が下賜されました。このように書くだけで「龍団鳳餅」が凄いものだと思われますが、これを上回るものが現れます。
「仁宗朝」に(在位1022〜1063)、書家・文章家として名高い「祭襄」(さいじょう)が、「建安の北苑」を管轄する「福建路転運使」であったとき、「小龍団」を造り献上しました。この茶は「上品龍茶」と改名されますが、ことのほか「仁宗」が気に入り、誰にも下賜しませんでした。
ただ一度だけ「中書省」と「枢密院」の正副八人の大臣に、「上品龍茶」を二つだけ下賜したことがあります。この「お茶」は二十八片で一斤の重さとされていますので一片は21.4gです。これを八人で分けたのですから一人は5.3g。どの大臣も家宝にして飲まなかったそうです。
二代下がって「神宋朝」に「瑞雲翔龍」が造られると、「上品龍茶」は次品に落とされます。しかし、「宗」の皇帝の「片茶熱」は冷めるどころか益々熱中し、芸術家皇帝「徽宗」即位すると、次々と新しい「片茶」を作り出します。大観年間には「御苑玉芽」・「万寿龍芽」・無比寿芽」がつくられ、宣和(せんな)二年には究極の「龍園勝雪」が造りだされます。
このように精製の精製を重ねて作り出される「片茶」が、現在の我々の感覚からして美味しいものか否かは以下の製造工程を読んで判断してください。 
14.「片茶」の製造方法
1. 茶摘
啓蟄の頃(3月5日頃)より茶摘を始めます。茶摘は夜明け前から日の出までとし、長時間摘んで畑を荒らすようなことは避けます。茶葉の摘み方も爪で断ち切るようにし、指で捻じ切るように摘んではなりません。
このようにして摘んだ最高の茶葉は「小芽」(しょうが)・「雀舌」(じゃくぜつ)・「鷹爪」(ようそう)等と呼ばれます。これから「蕊」(ずい)を取り出し清水に浸して「水芽」に仕立てます。(茶葉の名称は茶書によって他に色々あります。
2. 製茶
「水芽」を良く洗ってから蒸し、蒸しあがったものを「小しめぎ」に掛け水分を抜き、次に「大しめぎ」に掛けて粘り気を取り去ります。
その後「片茶」一片に必要な量をすり鉢に移して、水を加えて磨り潰しますが、この加えた水が無くなるまで摩り続けなければなりません。また加える水の量は品質に大きく影響があるとされます。
摩り上がった「茶葉」はよく手で揉んで滑らかにしてから、型に入れて成型します。型では円形や方形や華形の枠を「圏」(けん)といい、上下を押さえる。模様や文字が浮き彫りになったものを「摸」(も)といいます。
3. 乾燥と仕上げ
成型された「茶」は、炭火の強火で炙ってから熱湯を潜らせることを、三回繰り返します。その後一晩火に入れて置きます。この火に入れるとは、炭火の熱い灰の中に置くことと解釈しています。
文字通り火の中にいれると燃えてしまいます。(当然です。ハイ)翌日より「煙焙」の中に六〜十五日間入れて乾燥させます。この「煙焙」とは、薪の煙で乾燥させる「燻製炉」のようなものでしょう。
こうして完全乾燥した「片茶」は湯気に当てて色出しを行います。次に密閉した室内で、扇いで急冷させると色艶が自然に出るとされています。
この製造工程は「片茶」の一般的なもので、これが「龍園勝雪」になると、使用する「茶葉」は選び抜かれた芽の中の「蕊」一本を穿り(ほじり)出して、清水に晒した「銀の針」のようなものだけを使うとされます。
ここまで来ると現代人からは、半分狂気が混じっているとしか思えません。 
15.「片茶」の点て方
「茶経」にいう「唐代」の点てかたは釜の中で行い。尚且つ、塩を調味料として使っていました。
これが「宋代」なると、瑣末な点を除けば現代の「茶道」の「お点前」と変わらないものとなり、茶碗の中で点て、塩も使いません。
また「茶筅」を使うのも「徽宗」の時代から始まりました。
1. 保存と準備
「片茶」は原則として蒲の若葉で包み「焙炉」(ほいろ)に入れて置きます。この「焙炉」には三日一度火を入れ、「片茶」を常に人肌に暖めて置きます。「焙炉」に入れない「片茶」は「茶籠」に入れて高い所に置いて湿気をさけます。
新茶でない場合は点てる前に、「片茶」の表面が一重か二重剥がれるまで湯に漬けます。次にとろ火にかざして乾燥させ、紙できっちりと包んでから、槌で砕き、「薬研」(茶の場合は茶ツで磨り潰します。
丁寧にする場合は、石臼で挽きより細かい粉末にします。その後篩で通して「茶」の準備が出来上がります。
2. 点て方
「茶」を一銭(3.7g)取って茶碗に入れます。少量の湯を注ぎ、むら無く練ってから湯を足し、茶碗の四分の一になると止めます。これで茶碗の中一面が真っ白に泡立ち、「水痕」が無ければ良く点てられた「お茶」ということになります。 
16.元の茶
超高級な「片茶」造りに励んだ「宋」は、余りにも繊細華奢な国風と丈弱な軍事力のために、最初は「金」に国土の半分を奪われ「南宋」となりましたが、豊かな江南の経済力を背景に、「北宋」に勝る経済力を誇りました。
しかし最後には精強な「元」の軍事力の前に、広州湾の崖山に追われて、幼い皇帝と共に「宋」の命脈は海に沈みました。
帝室御用茶園の「建安の北苑」も最盛期は四十六もの茶園を数え、茶摘に借り出される人々は壱千人を越えたと言われる程の繁栄を見せましたが、「元」の支配下では帝室御用茶園の地位を、「武夷山」に奪われます。これは「武夷山」が急に舞台に登場したのではなく、その前の「南宋」の頃より、茶産地としての名声を勝ち得ていた証です。
小生は「武夷山」「片茶」によって名声を博したとは思えません。「元」の皇帝や高級官僚から帝室御用茶園に指定されるのは、それないの理由があるはずです。「元」の皇帝や高級官僚の「蒙古族」に、好まれる「茶」を生産できることが最大の理由でしょう。
小生はそれを「宋代」にいう「散茶」ではないかと思っています。「蒙古族」が飲み慣れている「茶」は「散茶」を固形化した「餅茶」や「磚茶」です。つまり高級な「葉茶」を製造できる、技術開発がなされていたのではないでしょうか。
しかし、その製品形態はまだ「末散茶」や「餅茶」の形かも知れませんが。なぜこのように思うのかと言えば、「南宋」の時代に新たに「栄西」により我国に「導入された「茶文化」に「片茶」が含まれていないことと、百年に満たない「元」の、次の王朝の「明」では、「貢茶」は「葉茶」に革められ、「片茶」は忘れ去られます。
とすれば「元」の時代に「葉茶」の技術が完成し、その前の「南宋」にその萌芽があったと思うからです。
「武夷山」に元の帝室御用茶園が置かれるきっかけとなったのは、「南宋」の首都「臨安」を攻略した、「元」の将軍「伯顔」(バヤン)の部下であった「高與」です。彼は「臨安」陥落(1276年)後、福建の平定に従事し、これを気に入った皇帝は「大徳六年」(1302年)「武夷山」に「御茶園」を置いたのです。
「宋代」の片茶に「的乳」や「白乳」の名があったことは前述しました。この「白乳」がどんな「茶」であったかは小生はまだ知りません。これを知ることが自身の推理の正誤を判断できるのですが。この「高與」はもと「南宋」の臣下です。彼は「南宋」を裏切りましたが、「武夷山」に取っては功労者かもしれません。
現在に「武夷山茶」に「石乳香」という「青茶」があります。この「茶」が「白乳」の子孫であれば面白いのですが。 
17.明の茶
「元末」の混乱の中から「漢民族王朝」を復活させたのは、乞食坊主から「民衆反乱軍」に身を投じた「明」の高祖「朱元璋」です。「明」の創生期は彼は定めた年号の「洪武」が示す通り、「尚武」の気風が漂う時代です。また「洪武帝」が社会の最下層の出身であったため、贅沢なもの、貴族的なものを極端に嫌い、農民等に手厚い施策を講じました。
しかし、その反面では官僚や士大夫を信用せず、秘書警察を設けて彼等を監視し、少しでも皇帝を当てこすった文章を見つけると、「文字の獄」と呼ばれる、容赦のない粛清を実現しました。
「明」は「底知れない影を従えた、破天荒に明るい時代」なのです。「宋」では究極まで高められた「片茶」の伝統を、「光武帝」は惜しげもなく切り捨ててしまいます。
確かにその輝く「伝統」は、それを献上する農民に多大な苦労を強いていたのです。それ以上に「南宋」の混乱期から「元」の時代の中で、「片茶」そのものが魅力を失い、「葉茶」が日常の「茶」から、賞味するに足りる「茶」に進歩していたことが、より大きな原因だと小生は考えています。
何はともあれ、「光武帝」は「貢茶」を「片茶」から「散茶」(葉茶)にすっぱりと切り替えてしまいました。
その「明代の茶」を説明する方法として、同時代の「最高の茶書」とされる「許次しょ」が著わした「茶疏」(ちゃそ)を解説することにします。 
18.茶疏
この「茶疏」が著わされたのは、万暦三十年前後とされます。「明」の建国から約230年後、滅亡まで40年という時代です。著者の「許次しょ」については、広州の人で没年が万暦三十二年ということ以外、詳しいことは不明です。しかし、「明代」に著作し、その内容からも、相当に豊かな士大夫(読書人)であるようです。
この項では「茶疏」が著わされた万暦三十年前後(1600年前後)当時の「銘茶」が説明されています。まず、長江以北の「茶」として「六安茶」が挙げられています。名前の「六安」は群名で実際は「霍山県」の「大蜀山」に産し、生産量が最も多く、河南・山西・陜性の人々に飲まれているが、山のものは製法が悪く、食事用にしか使えない。
江南では、「唐人」が第一と称する「陽羨」と、「宋人」が最も重んじる「建州」があり、今でも「献上茶」は両地のものが最も多いが、「陽羨」は伝統として名のみで、「建州」も最上と言えず「武夷山」の「雨前」(穀雨の前・4月20日頃)が最も優れている。
近頃喜ばれるのは「長與県」の「羅崙茶」(字は異なる)で、これはおそらく古人のいう「顧渚の紫筍茶」であろう。山と山にはさまれたところを「崙」(字は異なる)といい、「羅」氏(五代の羅隠)が隠棲した処なので「羅」と名付けられた。「崙茶」は故は数箇所で作られていたが、今日では「洞山」のものが最も良い。
「歙州」(きゅうしゅう)の「松羅」(しょうら)、「呉県」の「虎丘」、「銭塘」(せんとう)の「龍井」等は香気にあふれみな「崙茶」に拮抗する。往時、「郭次甫」は「黄山」を貴んだが、この茶は少し飲み過ぎると腹が張るので私が品を下げた。これを非とする者が多かったが、近頃、茶の味を知る者がこれを信じるようになった。
「浙江」の産としては、「天台」の「雁宕」(がんとう)、「括蒼」(かっそう)の「大盤」、「東陽」の「金華」、「紹與」の「日鋳」(にっちゅう)等の茶が知られていて、「武夷」のものと優劣がない。
しかし、名だたる産地の「茶」であっても、製造法や貯蔵法がいい加減であれば、一旦山から出されると味や香りが半減してしまう。「銭塘」の諸山は「茶」を産する処が非常に多いが、「南山」のものはみな良いが、「北山」のものはやや劣る。「北山」はどんどん肥料をやるので、茶樹は良く芽が吹くが、香りは返って薄い。往時は「睦州」(ぼくしゅう)の「鳩坑」(きゅうこう)、「四明」の「朱渓」を盛んに称したが、今日では品に入らない。
「福建」では「武夷」の外に、「泉州」の「清源」がある。これを良い職人に造らせれば「武夷」に次ぐ品となるが、今は焦げてカラカラになっている場合が多いので失望する。
「楚」(湖南省)の産としては「宝慶」があり、「てん」(雲南省)の産としては「五華」がある。これらは良く知られた有名なもので「天台」の「雁宕」より上である。その他、名山で茶を産するものはこれに止まることではないが、それらは私の知らないものや、まだ名の出ていないものなので、これ以上論及しない。
以上が「茶疏」の「茶産」の要約ですが、ここで重要なことが二つあります。一つ目は「賞味」する「茶」と、日常の食事などに供される「茶」とに分化されていることです。
つまり現在と同じように、ことさら言うまでもないように日常で「茶」を使い、それとは別に特別に味わうことを目的としての「茶」が存在しています。
もう一つは、ここでは茶葉の産地を挙げていますが、まだ「銘茶」や「商品名」は挙げられてはいません。これは何を意味するのでしょうか。
ここからは小生の得意の推理が始まります。当時は各地で色々の茶の栽培や製法が開発され、ある段階の完成はされていたでしょうが、まだそれは生産者個人の段階で、製品として固有の「製造法」にまでは確立されてはいなかったと見るべきでしょう。
しかし、同じ産地でも「良い処」と「悪い処」に区分されていますので、産地が製造方法を確立し、一つの「銘柄商品」の完成させるのは、この「茶疏」が著わされた後、直ぐのことではないでしょうか。 
19.清の茶
清は女真族による征服王朝ですが、「入関」後は最も中華帝国らしい王朝でした。中でも乾隆帝の治世は文化的に史上最盛期で、政治的にも領土が史上最大の版図を持つ等、「乾隆の春」と賞賛される時代でした。この乾隆帝は銘茶の伝説にもその名の挙がる皇帝です。
大雑把に見て、その時代までに現代の「茶の製法」の基礎が固まったのではないでしょうか。言い換えるならば清代の前半に「茶」は一般商品化し、各地で特色ある銘茶が生産され、飲み方も現代と同様の水準に発展した「ものと思われます。このため産地を限って生産する「帝室御用茶園」を設ける必要もなかったでしょう。
ここでは中国の「茶書」ではなく、日本の長崎奉行の中川忠英が寛政年間に監修した「清俗紀聞」から、清代の「茶」がどのようなものであったかを見てみましょう。寛政年間は乾隆帝の治世の最晩年にあたります。当時の中国の風俗習慣を知るために、長崎に渡航する中国船の通訳から聴取した記事を纏めたものが「清俗紀聞」と言われますので、風俗習慣は正確に伝わっていると思われます。 
20.清俗記聞から見たお茶
1. 製茶                 
三月穀雨節(陽暦四月二十日頃)に茶を摘み取り、鉄鍋にて炒り、莚に移し、手を持って揉み絞り、その後数編鍋にて炒る、上茶は大方二十編程も炒るなり。
銀1刄=米2キログラムで換算すると銀1刄=600円
2. 茶名
茶の名大略として、茶の地名や茶銘、値段が記載されています。
朱蘭茶(茶銘。値段一斤につき二刄ほど)……100g=200円
朱蘭は高さ3メートル程の木で、葉は茉莉花に似て、蘭の香りに似て、蘭の香りに似た黄色い花が咲く。つまり花茶ということになります。安徽省歙県松羅山産が有名との注があります。現在は同じ歙県から朱蘭花茶が生産されています。
当時(寛政年間)日本に渡来する茶の中では第一の珍品として人気を博した。
松羅茶(地名。値段一斤につき二刄より三、四刄)…100g=200〜400円 
これは地名ということですから、安徽省歙県松羅山で生産されている茶ということです。そのためでしょうか値段に相当の差があります。現在のものと変わらない青茶と考えられます。
武夷茶(地名。値段一斤につき上二刄、中七刄、下三〜四刄)…100g=400〜1200円
これも地名とされますから、現在のものと変わらない武夷山茶でしょう。さすがに値段も高く、現在のものと変わらない青茶と考えられます。
…以下はまた記入します。
3. 茶簍
総じて茶は大いなる簍(かご)に入れて売り買いす。旅行または進物等には三十目五十目ほどずつ入る小簍を用い、あるいは錫鑵(すずかん)に入れる。もっとも錫鑵に入れて買うには鑵の大小によりて値段高下あり。日用の茶は磁壺・錫瓶(すずかめ)等にいれておくなり。
4. 茶の点て方
茶煎じょうは、清水を炭火にてよく煮立て、煮えあがりたるとき、水を少し入れ、茶碗に茶を少し入れ、そのうえ滾湯を茶碗八文目まで入れ、しばらく蓋をしてすすむ。 
21.終わりに
清は17世紀中頃から20世紀初頭まで続いた長期政権です。この時代に現代の「お茶」の完成を見ると共に、「宣與紫砂」を代表とする中国茶器も現代の形に発展しました。そればかりか欧米特に英国での喫茶習慣も一般化し、紅茶文化が確立したのも清朝の恩恵でしょう。
ある意味でこの王朝は「現代茶の時代」を創ったともいえます。反面、本格化した欧米への茶の輸出は「アヘン戦争」という理不尽な戦争を招き、中国の半殖民地化を進め、それは太平洋戦争(第二次世界戦争)での日本の敗戦まで長く尾を引く結果となりました。
また、インドでの本格的紅茶生産の影には、植民地政策による反奴隷労働があったことも忘れてはならないことです。幽玄で優雅な「お茶」の世界の影に、私達と同じ人々の呻吟する苦労があったのです。
残念なことに、旧時代の中国では歴史は士大夫と呼ばれる支配階級の人々によってしか残されていません。このため、茶の資料も「茶経」などの例外を除くとほとんどが趣味の域や自己の職責の域を出ず、個人の主観の強い散文形式の資料です。このため「現代茶」が何時確立されたのか、それを示すような製茶業者や製茶職人の手による明確な資料はありません。
しかし、専門家でない私達がそこまで歴史にこだわるよりも、如何にすれば美味しいお茶を飲むことができるか、今後どんなお茶と巡り合うことができるかを、楽しみましょう。 
 

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