石原莞爾将軍の遺書

石原莞爾将軍の遺書石原莞爾
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失敗に学ぶものがあるか

雑学の世界・補考   

新日本の進路 / 石原莞爾将軍の遺書

人類歴史は統制主義の時代にある
フランス革命は專制主義から自由主義えの轉換を決定した典型的自由主義革命であり、日本の明治維新もこの見地からすれば、自由主義革命に属する。自由主義は專制主義よりも遙かに能率高き指導精神であつた。しかるに第一次大戰以後、敗戰國もしくは後進國において、敗戰から立上り、或は先進國に追いつくため、自由主義よりも更に能率高き統制主義が採用された。ソ連の共産黨を含み、あらゆる近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、遲れ馳せながらスペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等はいづれもこれである。依然として自由主義に止つた諸國家も、第二次大戰起り、ドイツのフランス、イギリスにたいする緒戰の壓倒的勝利、さてはドイツの破竹の進撃にたいするソ連の頑強なる抵抗を見るにおよんで、自由主義をもつてしては到底統制主義の高き能率に匹敵し得ざることを認め、急速に方向を轉換するに到つた。自由主義は人類の本能的欲求であり、進歩の原動力である。これにたいし、統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となつている。しかして今やアメリカにおいても、政府の議會にたいする政治的比重がずつと加わり、最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。その掲ぐるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、實質は統制主義國家に変貌し來つたのである。專制から自由え、自由から統制えの歩みこそ、近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。
日本は統制主義國家として獨立せねばならぬ
アメリカは今日、日本を自由主義國家の範疇において獨立せしめんとしている。しかし嚴密なる意味における自由主義國家は、既に世界に存在しない。そもそも、世界をあげて自由主義から統制主義に移行したのは、統制主義の能率が自由主義に比べて遙かに高かつたからである。イタリア、ドイツ、日本等、いづれも統制主義の高き能率によつて、アメリカやイギリスの自由主義と輸贏を爭わんとしたのである。これがため世界平和を攪亂したことは嚴肅なる反省を要するが、それが廣く國民の心を得た事情には、十分理解すべき面が存するであろう。ただしアメリカが自由主義から堂々と統制主義に前進したに反し、イタリアもドイツも日本も、遺憾ながら逆に專制主義に後退し、一部のものの獨裁に陷つた。眞のデモクラシーを呼號するソ連さえ、自由から統制えの前進をなし得ず、ナチに最も似た形式の獨裁的運營を行い、專制主義に後退した。唯一の例外に近きものは三民主義の中國のみである。かく觀じ來れば、世界は今日、統制主義のアメリカと專制主義に後退せるソ連との二大陣營の對立と見ることもできる。この觀察にはいまだ徹底せざる不十分さがあるかも知れぬが、日本が獨立國家として再出發するに當つては、共産黨を斷然壓倒し得るごときイデオロギー中心の新政黨を結成し、正しき統制主義國家として獨立するのでなければ、國内の安定も世界平和えの寄與も到底望み得ざるものと確信する。もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、日本の再建は遲々として進まず、アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。日本は今次の敗戰によつて、世界に先驅けた平和憲法を制定したが、一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。日本は世界の進運に從い、統制主義國家として新生してこそ過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。
東亞的統制主義の確立 / 東亞連盟運動の回顧
世界はその世界性と地方性の協調によつて進まねばならぬ。東亞の文化の進み方には、世界の他の地方と異る一つの型がある。故に統制主義日本を建設するに當つても、そのイデオロギーは東亞的のものとなり、世界平和とよく協調しつつ東亞の地方性を保持して行かねばならぬ。前述のごとく、幾多の統制主義國家が專制主義に後退した。しかるに三民主義の中國は、蒋介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、蒋氏は常に反省的であり、衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが見られる。毛澤東氏の新民主主義も、恐らくソ連のごとき專制には墮せず、東洋的風格をもつ優秀なる思想を完成するに相違いない。我等は國共いづれが中國を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亞的指導原理の確立に努力すべきである。この態度はまた、朝鮮新建設の根本精神とも必ず結合し調和し得るであろう。しからば日本はどうであるか。大政翼賛會は完全に失敗したが、私の関係した東亞連盟運動は、三民主義や新民主主義よりも具体案の点において更に一歩進んだ新しさを持つていたのではないかと思う。この運動は終戰後極端なる保守反動思想と誤解され、解散を命ぜられた。それは私の持論たる「最終戰論」の影響を受けていたことが誤解の原因と想像されるが、「最終戰論」は、これを虚心に見るならば、斷じて侵略主義的、帝國主義的見解にあらず、最高の道義にもとづく眞の平和的理想を内包していることが解るであろう。東亞連盟運動は、世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、その基礎的團結として、まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東亞諸民族相携えて民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、支那事変や大東亞戰爭には全力をあげて反對したのである。東亞連盟の主張は、經濟建設の面においても一の新方式を提示した。
今日世界の經濟方式は、アメリカ式かソ連式かの二つしかない。しかしこれらは共に僅かな人口で、廣大な土地と豊富な資源のあるところでやつて行く方式である。日本は土地狹く資源も貧弱である。しかも人口は多く、古來密集生活を營んで來た文化的性格から部落中心に團結する傾向が強い。こんなところでは、その特殊性を生かした獨自の方式を採用せねばならぬ。アメリカ式やソ連式では、よしトルーマン大統領やスターリン首相がみづから最高のスタツフを率いてその衝に當つても、建設は成功し難いであろう。東亞連盟の建設方式によれば、國民の大部分は、各地方の食糧生産力に應じて全國農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として一村を構成し、食糧を自給しつつ工業其他の國民職分を擔當する。所謂農工一体の体制である。しかして機械工業に例をとれば、農村の小作業場では部品加工を分擔しこれを適當地域において國營もしくは組合經營の親工場が綜合統一する。この種の分散統一の經營方式こそ今後の工業生産の眼目たるべきものである。しかしてかくのごときは、事情の相似た朝鮮や中國にも十分參考となり得るのではあるまいか。また東亞連盟運動は、その實踐においても極めてデモクラチツクであり、よくその統制主義の主張を生かした。組織を見ても、誰もが推服する指導者なき限り、多くの支部は指導者的支部長をおかず、すべて合議制であつた。解散後數年を經た今日、尚解散していないかのごとく非難されているが、これは運動が專制によらず、眞に心からなる理解の上に立つていた實情を物語つている。
今日私は、東亞連盟の主張がすべて正しかつたとは勿論思わない。最終戰爭が東亞と歐米との兩國家群の間に行われるであろうと豫想した見解は、甚しい自惚れであり、事實上明かに誤りであつたことを認める。また人類の一員として、既に世界が最終戰爭時代に入つていることを信じつつも、できればこれが回避されることを、心から祈つている。しかし同時に、現實の世界の状勢を見るにつけ、殊に共産黨の攻勢が激化の一途にある今日、眞の平和的理想に導かれた東亞連盟運動の本質と足跡が正確に再檢討せらるべき緊急の必要ありと信ずる。少くもその著想の中に、日本今後の正しき進路が發見せらるべきことを確信するものである。
我が理想
超階級の政治
マルクスの豫言によれば、所謂資本主義時代になると社會の階級構成が單純化されて、はつきりブルジヨアとプロレタリアの二大陣營に分裂し、プロレタリアは遂に暴力革命によつてブルジヨアを打倒するといわれている。しかしこの豫言は、今日では大きく外れて來た。社會の階級構成はむしろ逆に、文明の進んだ國ほど複雜に分化し、ブルジヨアでもプロレタリアでもない階級がいよいよ増加しつつあり、これが社會發展の今日の段階における決定的趨勢である。共産黨はかかる趨勢に對處し、プロレタリアと利害一致せざる階級或は利害相反する階級までも、術策を弄して自己の陣營に抱込み、他方暴力的獨裁的方式をもつて、少數者の獨斷により一擧に事をなさんとしている。しかし右のごとき社會發展の段階においては、國家の政治がかつてのブルジヨアとかプロレタリアのごとき、或階級の獨裁によつて行われることは不當である。我等は今や、超階級の政治の要望せらるべき時代を迎えているのである。今日までの政治は階級利益のための政治であつた。これを日本でいえば、民主自由黨はブルジヨアの利益を守り、共産黨がプロレタリアの利益を代表するがごとくである。しかるに政治が超階級となることは、政治が「或階級の利益のために」ということから「主義によつて」「理想のために」ということに轉換することを意味している。ナチス・ドイツやソ連の政治が共にイデオロギーの政治であり、アメリカのデモクラシーも最近ではイデオロギー的に変化して來たこと前述の通りであるが、これらは現實にかくのごとき世界的歴史的動向を示すものである。かくして政治はますます道義的宗教的色彩を濃厚にし、氣魄ある人々の奉仕によつて行わるべきものとなりつつある。私は日蓮聖人の信者であるが、日蓮聖人が人類救濟のために説かれた「立正安國」の教えは、「主義によつて」「理想のために」行われる政治の最高の理想を示すものである。「立正安國」は今やその時到つて、眞に實現すべき世界の最も重大なる指導原理となり來つたのである。人は超階級の政治の重大意義を、如何に高く評價しても尚足りぬであろう。
經濟の原則
超階級の政治の行わるべき時代には、經濟を單純に、資本主義とか社會主義とか、或は自由經營とか官公營とか、一定してしまうのは適當でない。これらを巧みに按配して綜合運用すべき時代となつているのである。ここにその原則を述ぶれば次のごとくである。
第一。最も國家的性格の強い事業は逐次國營にし、これが運營に當るものは職業勞働者でなく、國家的に組織されたる青年男女の義務的奉仕的勞働たるべきである。我等はブルジヨアの獨裁を許し得ざるごとく、プロレタリア、つまり職業勞働者の獨裁をも許し得ざるものである。
第二。大規模な事業で、國民全体の生活に密接なる関係あり、經營の比較的安定せるものは逐次組合の經營に移す。かくして國家は今後組合國家の形態に發展するであろう。戰爭準備を必要とする國家においては、國家權力による經濟統制が不可欠である。しかし日本は既に戰爭準備の必要から完全に解放された。組合國家こそ、日本にとつて最適の國家体制である。
第三。しかし創意や機略を必要とし、且つ經營的に危險の伴う仕事は、やはり有能なる個人の企業、自由競爭にまかすことが最も合理的である。特に今日の日本の困難なる状勢を突破して新日本の建設を計るには、機敏に活動し、最新の科学を驅使する個人的企業にまつべき分野の極めて多いことを考えねばならぬ。妙な嫉妬心から徒らに高率の税金を課し、活發なる企業心を削減せしめることは嚴に戒しむべきである。
生活革命
我等の組合國家においては、國民の大部分は農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として農工一体の新農村を建設する。各農村は組合組織を紐帶として今日の家族のごとき一個の共同体となり、生産も消費もすべて村中心に行う。これが新時代における國民生活の原則たるべきである。一村の戸數は、その村の採用する事業が何名の勞働力を必要とするかによつて決定される。概ね十數戸乃至數十戸というところであろう。この体制が全國的に完成せらるれば、日本の經濟は一擧に今日の10倍の生産力を獲得することも至難ではないと信ずる。しかし農工一体の實現は、社會制度の革命なしには不可能である。日本の從來の家族は祖父母、父母、子、孫等の縱の系列をすべて抱擁し、これが經濟單位であり、且つ生活單位でもあつた。この家族制度は日本の傳統的美風とされたが、一面非常な不合理をも含んでいた。我等の理想社會は、經濟單位と生活單位とを完全に分離するものである。即ちそこでは、衣食住や育兒等の所謂家事勞働のすべては、部落の完備せる共同施設において、誠心と優秀なる技術によつて行われる。勿論家庭單位で婦人のみで行う場合より遙かに僅少の勞働力をもつて遙かに高い能率を發揮できよう。かくして合理的に節約される勞働力は、男女を問わずすべて村の生産に動員される。しかして各人の仕事は男女の性別によらず、各人の能力と関心によつてのみ決定する。生産の向上、生活の快適は期して待つべく、婦人開放の問題のごときも、かかる社會においてはじめて眞の解決を見るであろう。かくのごとき集團生活にとり、最も重要なる施設は住宅である。私は現在のところ、村人の數だけの旅客を常に宿泊せしめ得る、完備した近代的ホテルのごとき共同建築物が住宅として理想的だと考えている。最高の能率と衞生、各人の自由の尊重、規律ある共同的日常行動等も、この種の住宅ならば極めて好都合に實現し得るのではあるまいか。新農村生活はまた、舊來の家族制度にまつわる、例えば姑と嫁との間におけるごとき、深刻なる精神問題をも根本的に解決する。そこでは老人の扶養は直接若夫婦の任務ではない。また老人夫婦は若夫婦の上に何等の憂も懸念ももつ必要はない。それぞれの夫婦は、完全に隔離された別室をもち、常に自由なる人生を樂しむであろう。そこでは新民法の精神を生かした夫婦が新たなる社會生活の一單位となり、社會生活は東洋の高き個人主義の上に立ち、アメリカ以上の夫婦中心に徹底するのである。親子の間を結ぶ孝行の道は、これによつて却つて純粹且つ素直に遵守されるものと思われる。この間、同族は單に精神的つながりのみを殘すこととなるであろう。眞に爭なき精神生活と、安定せる經濟生活とは、我等が血縁を超えて理想に生き、明日の農村を今日の家族のごとき運命共同体となし得た時、はじめて實現し得るものである。
全體主義に關する混迷を明かにす
「新日本の進路」脱稿後、これに使つた「統制主義」という言葉が「全体主義」と混同され、文章全体の趣旨を誤解せしむる惧れありとの忠告を受けた。ここに若干の説明を加えて誤解なきを期したい。近代社會は專制、自由、統制の三つの段階を經て發展して來た。即ち專制主義の時代から、フランス革命、明治維新等を經て自由主義の時代となり、人類社會はそこに飛躍的發展をとげたのであるが、その自由には限度あり、増加する人口にたいし、土地や資源がこれに伴わない場合、多くの人に眞の自由を與えるため若干のさばきをつける、所謂「統制」を與える必要を生じた。マルクス主義はその最初の頃のものであり、以後世界をあげて統制主義の歴史段階に入つた。ソ連の共産黨はじめ、イギリス、フランス等の近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、スペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等がその世界的傾向を示すものであることは本文中に述べた通りである。しかしよく注意せねばならぬ。「統制」はどこまでもフランス革命等によつて獲得された自由を全うするために、お互の我ままをせぬということをその根本精神とするものである。統制主義はかくのごとき社會發展の途上において、自由を更にのばすための必要から生れた、自由主義よりも一歩進んだ指導精神である。しからばこの間、全体主義は如何なる立場に立つものであるか。第二次世界大戰以後、全体主義にたいする憎しみが世界を支配し、その昂奮いまだ覺めやらぬ今日、これにつき種々概念上の混迷を生じたのは無理からぬことであるが、これを明確にせぬ限り、眞に自由なる世界平和確立の努力に不要の摩擦を起す惧れが多分にあり、特に行過ぎた自由主義者や共産黨の陣營において、かつて獨善的日本主義者が自己に反對するものは何でも「赤」と攻撃したごとく、自己に同調せざるものを一口に「フアツシヨ」とか、「全体主義」とか、理性をこえた感情的惡罵に使用する傾向あることは十分の戒心を要するであろう。即ち全体主義に関する我等の見解は次のごとくである。世界は多數の人の自由をますますのばすために統制主義の時代に入つたが、人口多くして土地、資源の貧弱なるイタリア、ドイツ、日本特にドイツのごとき、清新なる氣魄ありしかも立ちおくれた民族は、その惡條件を突破して富裕なる先進國に追つくため、却て多數の人の自由を犧牲にし、瞬間的に能率高き指導精神を採用した。尤もナチのごときでも國民社會主義と稱して居り、決して前時代そのままの個人の專制に逆轉したわけではないが、國民全体のデモクラシーによらず、指導者群に特殊の權力を與えて專制を許す方式をとつたのである。しかるに恐るるものなき指導者群の專制は、個人の專制以上に暴力的となつたことを我等は認める。これを世間で全体主義と呼んでいるのは正しいというべきであろう。かくしてムツソリーニに始められた全体主義は、ヒトラーによつてより巧みに利用され、日本等またこれに從つて國力の飛躍的發展をはかり、遂にデモクラシーによつて順調に進んでいる富裕なる先進國の支配力を破壞して世界制覇を志したのが、今次の大破局をもたらしたのである。
この間すべてを唯物的に取運ばんとするソ連は、今日アメリカと世界的に對抗し、眞のデモクラシーを呼號しつつ、實はナチと大差なき共産黨幹部の專制方式をとり、一般國民には多く實情を知らしめない全体主義に近づいているが、日本共産黨はみづからこの先例に從つて全体主義的行動をとりつつあるにかかわらず、眞の自由、眞のデモクラシーの發展をもたらさんとする正しき統制主義を逆に「全体主義」「フアツシヨ」等と惡罵しているのである。しかし比較的富に余裕あるイギリスのごときを見よ。既に社會主義政府の實現により立派に統制主義の体制に入つても、尚デモクラシーを確保することを妨げないではないか。フランスもまた同樣である。特にアメリカのごときは、ニウ・デイール、マーシヤル・プラン等の示すごとく雄大極まる統制主義の國家となりながら、どこまでもデモクラシーをのばしつつある。アメリカに比較すれば、富の余裕大ならざるイギリスにおいて種々の國營を實施しているのにたいし、最も富裕なるアメリカが、強力なる統制下に尚大いに自由なる活動を許容し得ていることは特に注目されねばならぬ。中國の三民主義は、東洋的先覺孫文によつてうちたてられた統制主義の指導原理である。現在中國の國富は貧弱であるが、國土廣大なるため、統制を行つても或程度自由をのばし得ている。この間の事情を人はよく理解すべきである。今日統制主義の体制をとらねばならぬことはいづれの國も同樣である。ただアメリカのごとき富裕なる國においては、最小の制約を加えることによつて、いよいよ自由をのばし得るが、しからざる國においては制約の程度を強化せざるを得ず、そこに國民全体のデモクラシーを犧牲にし少數の指導者群の專制におちいる危險が包藏されるのである。イタリア、ドイツ、日本等が全体主義に後退し、遂にそのイデオロギーを國家的民族的野心の鬪爭の具に惡用するに到つたのは、ここにその最大の原因が存したのである。全体主義につき從來いろいろの見解があつたが、我等はこれにつき統制主義の時代性を理解せず、指導者群の專制に後退したもの、繰返していうが、その弊害は個人の專制以上に暴力的となつたものと見るのである。しかしそれにもかかはらず、統制主義は今日、眞の自由、眞のデモクラシーを確保するため、絶對に正しく且つ必要なる指導精神であり、既にその先例はアメリカ、イギリス等に示されている。我等は本文に強調したるごとく、東亞の地方性にもとづき、現實に即したる正しき統制主義の指導原理を具体化することによつてのみ、よく世界の平和と進運に寄與し得るであろう。
(昭和24年8月10日)
 
石原莞爾(いしわらかんじ)

 

明治22年1月18日-昭和24年8月15日(1889-1949)昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、戦犯指定を免れた。
軍学校時代
明治35年(1902)仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。明治38年(1905)陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や佐藤鉄太郎に会っている。明治40年(1907)陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。士官学校卒業後は原隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目3時間または3時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(「長岡藩士・河井継之助」)であった。
在外武官時代
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923)国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。
関東軍参謀時代
昭和3年(1928)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
二・二六事件の鎮圧
昭和11年(1936)二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられるものの事なきを得ている。
左遷
昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)開始時には参謀本部作戦部長。参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原にとっても、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたかった。内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、同年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。
関東軍
1940年に満洲国から贈られた勲記昭和12年9月(1937)に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東條も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。しかし太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。
立命館大学講師
現役を退いた石原は昭和16年4月(1941)立命館・中川小十郎総長が新設した国防学講座の講師として招待された。日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の「立命館要覧」によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任して第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた「国防政治論」を、昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。
評論・政治活動
太平洋戦争(大東亜戦争)に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われるハルノートとほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、サイパンの要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るが、重光葵や米内光政の反対にあい失敗した。「世界最終戦論」(後、「最終戦争論」と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。
戦後の活動
1945年頃の石原莞爾東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。
東京裁判での主張
東京裁判には証人として出廷し、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した。また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と述べたと書かれることが多いが、実際には「石原莞爾宣誓供述書」によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和30年に手記を公表してからである。
 
最終戦争論・戦争史大観
第一部 最終戦争論

 

第一章 戦争史の大観
第一節 決戦戦争と持久戦争
戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争--これを私は決戦戦争と命名しております。ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる--比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。これを持久戦争と言います。戦争本来の真面目(しんめんぼく)は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。戦争やらスポーツやら分からぬ。それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います。
第二節 古代および中世
古代--ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。これは必ずしも西洋だけではありません。日本でも支那でも、原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、戦争も同じことであります。ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。国民皆兵であり整然たる戦術によって、この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは割合に政治の掣肘(せいちゅう)を受けないで決戦戦争が行なわれました。ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵(ようへい)になった。これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。今日まで、その状況がずっと継続しましたが、今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。
第三節 文芸復興
それが文芸復興の時代に入って来る。文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。それは鉄砲が使われ始めたことです。先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。それでお侍(さむらい)の一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、再び昔の戦術が生まれ、これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、いわゆる重商主義の時代でありましたから、金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、ローマ末期の傭兵にかえったのであります。ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、常に沢山の兵隊を養ってはいられない。それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。必然的に持久戦争に堕落したのであります。しかし戦争がありそうだから、あそこから300人傭って来い、あっちからも百人傭って来い、なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。敬礼の際「頭右(かしらみぎ)」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。それは武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。金で備われて来る兵士に対しては、どうしても専制的にやって行かねばならぬ。兵の自由を許すことはできない。そういう関係から、鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、味方の損害を減ずるためにも、隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。横隊戦術は高度の専門化であり、従って非常に熟練を要するものです。何万という兵隊を横隊に並べる。
われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。何百個中隊、何10個大隊が横隊に並んで、それが敵前で動くことは非常な熟練を要することであります。戦術が煩瑣(はんさ)なものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。それで戦闘が思う通りにできないのです。ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。それを濫費することは、君主としては惜しいので、なるべく斬り合いはやりたくない。そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。30年戦争や、この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、その代表的なものであります。持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。この二つの手段が主として採用されるのであります。フリードリヒ大王は、最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、遂に機動主義に傾いて来たのであります。フリードリヒ大王を尊敬し、大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、1789年、次の如く言っております。「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。将来は大きな戦争は起きまい。また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります.しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている1789年はフランス革命勃発の年であります。そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。
第四節 フランス革命
フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍--実質はそれだけなかったと言われておりますが--を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。ところが横隊戦術は熟練の上にも熟練を要するので、急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が、できっこはないのです。善いも悪いもない。いけないと思いながら縦隊戦術を採ったのです。散兵戦術を採用したのです。縦隊では射撃はできませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、その後方に運動の容易な縦隊を運用しました。横隊戦術から散兵戦術へ変化したのであります。決してよいと思ってやったのではありません。やむを得ずやったのです。ところがそれが時代の性格に最も良く合っていたのです。革命の時代は大体そういうものだと思われます。古くからの横隊戦術が、非常に価値あるもの高級なものと常識で信じられていたときに、新しい時代が来ていたのです。それに移るのがよいと思って移ったのではない。これは低級なものだと思いながら、やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由にあこがれたフランス国民の性格によく適合しました。これに加えて、傭兵の時代とちがい、ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、大将は国王の財政的顧慮などにしばられず、思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。こういう関係から、18世紀の持久戦争でなければならなかった理由は、自然に解消してしまいました。ところが、そういうように変っても、敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、依然として18世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。このとき、フランス革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて敵線を突破し、突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。敵の軍隊を撃滅すれば戦争の目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。
敵の大将は、ナポレオンが一点に兵を集めて、しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。だからナポレオンの戦争の勝利は対等のことをやっていたのではありません。在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。ナポレオンは敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、遂に戦争の神様になってしまったのです。白い馬に乗って戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまった。猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。それまでは30年戦争、7年戦争など長い戦争が当り前であったのに、数週間か数カ月で大きな戦争の運命を一挙に決定する決戦戦争の時代になったのであります。でありますから、フランス革命がナポレオンを生み、ナポレオンがフランス革命を完成したと言うべきです。特に皆さんに注意していただきたいのは、フランス革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、鉄砲の発明という兵器の関係でありました。けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術に、持久戦争から決戦戦争に移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。フリードリヒ大王の使った鉄砲とナポレオンの使ったものとは大差がないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。このあいだ、帝大の教授がたが、このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。兵器の進歩によってフランス革命を来たしたことにしなければ、学者には都合が悪いらしいのですが、都合が悪くても現実は致し方ないのであります。ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、社会制度がフランス革命まで、これを阻止していたと見ることができます。プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、1806年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから、はじめて夢からさめ、科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、ナポレオンの戦術をまねし出しました。さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言いますけれども、ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのです。しかし相手もナポレオンのやることを覚えてしまったのです。人間はそんなに違うものではありません。皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。けれども大した違いではありません。ナポレオンの大成功は、大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。
天才ナポレオンも、もう20年後に生まれたなら、コルシカの砲兵隊長ぐらいで死んでしまっただろうと思います。
諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。
ヒットラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。フリードリヒ大王とナポレオンの用兵術を徹底的に研究したクラウゼウィッツというドイツの軍人が、近代用兵学を組織化しました。それから以後、ドイツが西洋軍事学の主流になります。そうしてモルトケのオーストリアとの戦争(1866年)、フランスとの戦争(1870-71年)など、すばらしい決戦戦争が行なわれました。その後シュリーフェンという参謀総長が長年、ドイツの参謀本部を牛耳っておりまして、ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、敵の両翼を包囲し騎兵をその背後に進め敵の主力を包囲殲滅(せんめつ)すべきことを強調し、決戦戦争の思想に徹底して、欧州戦争に向ったのであります。
第五節 第一次欧州大戦
シュリーフェンは1913年、欧州戦争の前に死んでおります。つまり第一次欧州大戦は決戦戦争発達の頂点に於て勃発したのです。誰も彼も戦争は至短期間に解決するのだと思って欧州戦争を迎えたのであります。ぼんくらまで、そう思ったときには、もう世の中は変っているのです。あらゆる人間の予想に反して4年半の持久戦争になりました。しかし今日、静かに研究して見ると、第一次欧州大戦前に、持久戦争に対する予感が潜在し始めていたことがわかります。ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である1905年12月案には、アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、パリを大兵力をもって攻囲した上、更に7軍団(14師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました。ところが1906年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、その右翼はパリにも達せず、敵のパリ方面よりする反撃に遇(あ)うともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、甚だ不徹底なものと言わねはなりません。シュリーフェン案を決行する鉄石の意志と、これに対する十分な準備があったならば、第一次欧州大戦も決戦戦争となって、ドイツの勝利となる公算が、必ずしも絶無でなかったと思われます。しかし私は、この計画変更にも持久戦争に対する予感が無意識のうちに力強く作用していたことを認めます。即ちシュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、この方面への兵力増加の原因であります。また大規模な迂回作戦を不徹底ならしめたのは、モルトケ大将が、シュリーフェン元帥の計画では重大条件であったオランダの中立侵犯を断念したことが、最も有力な原因となっているものと私は確信いたします。ザール鉱工業地帯の掩護(えんご)、特にオランダの中立尊重は、戦争持久のための経済的考慮によったのであります。即ち決戦を絶叫しっつあったドイツ参謀本部首脳部の胸の中に、彼らがはっきり自覚しない間に持久戦争的考慮が加わりつつあったことは甚だ興味深いものと思います。4年半は30年戦争や七年戦争に比べて短いようでありますが緊張が違う。昔の戦争は30年戦争などと申しましても中間に長い休みがあります。七年戦争でも、冬になれば傭兵を永く寒い所に置くと皆逃げてしまいますから、お互に休むのです。
ところが第一次欧州戦争には徹底した緊張が4年半も続きました。なぜ持久戦争になったかと申しますと、第一に兵器が非常に進歩しました。殊に自動火器--機関銃は極めて防禦に適当な兵器であります。だからして簡単には正面が抜けない。第二にフランス革命の頃は、国民皆兵でも兵数は大して多くなかったのですが、第一次欧州戦争では、健康な男は全部、戦争に出る。歴史で未だかつてなかったところの大兵力となったのです。それで正面が抜けない。さればと言って敵の背後に迂回しようとすると、戦線は兵力の増加によってスイスから北海までのびているので迂回することもできない。突破もできなければ迂回もできない。それで持久戦争になったのであります。フランス革命のときは社会の革命が戦術に変化を及ばして、戦争の性質が持久戦争から決戦戦争になったのでしたが、第一次欧州大戦では兵器の進歩と兵力の増加によって、決戦戦争から持久戦争に変ったのであります。4年余の持久戦争でしたが、18世紀頃の持久戦争のように会戦を避けることはなく決戦が連続して行なわれ、その間に自然に新兵器による新戦術が生まれました。砲兵力の進歩が敵散兵線の突破を容易にするので、防者は数段に敵の攻撃を支えることとなり、いわゆる数線陣地となりましたが、それでは結局、敵から各個に撃破される危険があるため、逐次抵抗の数線陣地の思想から自然に面式の縦深防禦の新方式が出てきました。すなわち自動火器を中心とする一分隊ぐらい(戦闘群)の兵力が大間隔に陣地を占め、さらにこれを縦深に配置するのであります(上図参照)。このような兵力の分散により敵の砲兵火力の効力を減殺するのみならず、この縦深に配置された兵力は互に巧妙に助け合うことによって、攻者は単に正面からだけでなく前後左右から不規則に不意の射撃を受ける結果、攻撃を著しく困難にします。こうなると攻撃する方も在来のような線の敵兵では大損害を受けますから、十分縦深に疎開し、やはり面の戦力を発揮することにつとめます。横隊戦術は前に申しましたように専制をその指導精神としたのに対し、散兵戦術は各兵、各部隊に十分な自由を与え、その自主的活動を奨励する自由主義の戦術であります。しかるに面式の防禦をしている敵を攻撃するに各兵、各部隊の自由にまかせて置いては大きな混乱に陥るから、指揮官の明確な統制が必要となりました。面式防禦をするのには、一貫した方針に基づく統制が必要であります。即ち今日の戦術の指導精神は統制であります。しかし横隊戦術のように強権をもって各兵の自由意志を押えて盲従させるものとは根本に於て相違し、各部隊、各兵の自主的、積極的、独断的活動を可能にするために明確な目標を指示し、混雑と重複を避けるに必要な統制を加えるのであります。自由を抑制するための統制ではなく、自由活動を助長するためであると申すべきです。右のような新戦術は第一次欧州大戦中に自然に発生し、戦後は特にソ連の積極的研究が大きな進歩の動機となりました。
欧州大戦の犠牲をまぬがれた日本は一番遅れて新戦術を採用し、今日、熱心にその研究訓練に邁進しております。
また第一次欧州大戦中に、戦争持久の原因は西洋人の精神力の薄弱に基づくもので大和魂をもってせば即戦即決が可能であるという勇ましい議論も盛んでありましたが、真相が明らかになり、数年来は戦争は長期戦争・総力戦で、武力のみでは戦争の決がつかないというのが常識になり、第二次欧州大戦の初期にも誰もが持久戦争になるだろうと考えていましたが、最近はドイツ軍の大成功により大きな疑問を生じて参りました。
第六節 第二次欧州大戦
第二次欧州大戦では、ドイツのいわゆる電撃作戦がポーランド、ノールウェ―のような弱小国に対し迅速に決戦戦争を強行し得たことは、もちろん異とするに足りません。しかし仏英軍との間には恐らくマジノ、ジークフリートの線で相対峙し、お互にその突破が至難で持久戦争になるものと考えたのであります。ドイツがオランダ、ベルギーに侵入することはあっても、それは英国に対する作戦基地を得るためで、連合軍の主力との間に真の大決戦が行なわれるだろうとは考えられませんでした。しかるに5月10日以来のドイツの猛撃は瞬時にオランダ、ベルギーを屈伏せしめ、難攻と信ぜられたマジノ延長線を突破して、ベルギーに進出した仏英の背後に迫り、たちまち、これを撃滅し、更に矛(ほこ)を転じてマジノ線以西の地区からパリに迫ってこれを抜き、オランダ侵入以来わずか5週間で強敵フランスに停戦を乞わしめるに至りました。即ち世界史上未曽有の大戦果を挙げ、フランスに対しても見事な決戦戦争を遂行したのであります。しからば、果してこれが今日の戦争の本質であるかと申せば、私は、あえて「否」と答えます。第一次欧州大戦に於ては、ドイツの武力は連合軍に比し多くの点で極めて優秀でありましたが、兵力は遥かに劣勢であり、戦意は双方相譲らない有様で大体互角の勝負でありました。ところがヒットラーがドイツを支配して以来、ドイツは真に挙国一致、全力を挙げて軍備の大拡充に努力したのに対し、自由主義の仏英は漫然これを見送ったために、空軍は質量共に断然ドイツが優勢であることは世界がひとしく認めていたのであります。今度いよいよ戦争の幕をあけて見ると、ドイツ機械化兵団が極めて精鋭且つ優勢であるのみならず、一般師団の数も仏英側に対しドイツは恐らく1/3以上も優勢を保持しているらしいのです。しかも英雄ヒットラーにより全国力が完全に統一運用されているのに反し、数年前ドイツがライン進駐を決行したとき、フランスが断然ベルサイユ条約に基づきドイツに一撃を加えることを主張したのに対し英国は反対し、その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと信ぜられます。フランスの戦意はこんな関係で第一次欧州大戦のようではなく、マジノ延長線も計画に止まり、ほとんど構築されていなかったらしいのです。戦力の著しく劣勢なフランスは、国境で守勢をとるべきだったと思われます。恐らく軍当局はこれを欲したのでしょうが、政略に制せられてベルギーに前進し、この有力なベルギー派遣軍がドイツの電撃作戦に遇(あ)って徹底的打撃を受け、英軍は本国へ逃げかえりました。英国が本気でやる気なら、本国などは海軍に一任し全陸軍はフランスで作戦すべきであります。英仏の感情は恐らく極めて不良となったことと考えられます。かくてドイツが南下するや、仏軍は遂に抵抗の実力なく、名将ペタン将軍を首相としてドイツに降伏しました。このように考えますと、今次の戦争は全く互格の勝負ではなく、連合側の物心両面に於ける甚だしい劣勢が必然的にこの結果を招いたのであります。
そもそも持久戦争は大体互格の戦争力を有する相手の間に於てのみ行なわれるものです。第一次欧州大戦では開戦初期の作戦はドイツの全勝を思わせたのでしたが、マルヌで仏軍の反撃に敗れ、また最後の1918年のルーデンドルフの大攻勢では、北フランスに於ける戦場付近で仏英軍に大打撃を与え、一時は全く敵を中断して戦争の運命を決し得るのではないかとさえ見えたのでしたが、遂に失敗に終りました。両軍は大体互格で持久戦争となり、ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏したのであります。フィンランドはソ連に屈伏はしたものの、極めて劣勢の兵力で長時日ソ連の猛撃を支え、今日の兵器に対しても防禦威力の如何に大なるかを示しました。またベルギー戦線でも、まだ詳細は判りませんが、ブリュッセル方面から敵の正面を攻めたドイツ軍は大きな抵抗に遇い、容易には敵線を突破できなかった様子です。現在は第一次欧州大戦に比べると、空軍の大進歩、戦車の進歩などがありますが、十分の戦備と決心を以て戦う敵線の突破は今日も依然として至難で、戦争持久に陥る公算が多く、まだ持久戦争の時代であると観察されます。
第二章 最終戦争

 

われわれは第一次欧州大戦以後、戦術から言えば戦闘群の戦術、戦争から言えば持久戦争の時代に呼吸しています。第二次欧州戦争で所々に決戦戦争が行なわれても、時代の本質はまだ持久戦争の時代であることは前に申した通りでありますが、やがて次の決戦戦争の時代に移ることは、今までお話した歴史的観察によって疑いのないところであります。その決戦戦争がどんな戦争であるだろうか。これを今までのことから推測して考えましょう。まず兵数を見ますと今日では男という男は全部戦争に参加するのでありますが、この次の戦争では男ばかりではなく女も、更に徹底すれば老若男女全部、戦争に参加することになります。戦術の変化を見ますと、密集隊形の方陣から横隊になり散兵になり戦闘群になったのであります。これを幾何学的に観察すれば、方陣は点であり横隊は実線であり散兵は点線であり、戦闘群の戦法は面の戦術であります。点線から面に来たのです。この次の戦争は体(三次元)の戦法であると想像されます。それでは戦闘の指揮単位はどういうふうに変化したかと言うと、必ずしも公式の通りではなかったのでありますが、理屈としては密集隊形の指揮単位は大隊です。今のように拡声器が発達すれば「前へ進め」と3千名の連隊を一斉に動かし得るかも知れませんが、肉声では声のよい人でも大隊が単位です。われわれの若いときに盛んにこの大隊密集教練をやったものであります。横隊になると大隊ではどんな声のよい人でも号令が通りません。指揮単位は中隊です。次の散兵となると中隊長ではとても号令は通らないので、小隊長が号令を掛けねばいけません。それで指揮単位は小隊になったのであります。戦闘群の戦術では明瞭に分隊--通常は軽機一挺(ちょう)と鉄砲10何挺を持っている分隊が単位であります。大隊、中隊、小隊、分隊と逐次小さくなって来た指揮単位は、この次は個人になると考えるのが至当であろうと思います。単位は個人で量は全国民ということは、国民の持っている戦争力を全部最大限に使うことです。そうして、その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心としたものでありましょう。われわれは体以上のもの、即ち四次元の世界は分からないのです。そういうものがあるならは、それは恐らく霊界とか、幽霊などの世界でしょう。われわれ普通の人間には分からないことです。要するに、この次の決戦戦争は戦争発達の極限に達するのであります。戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。人間の闘争心は無くなりません。闘争心が無くならなくて戦争が無くなるとは、どういうことか。国家の対立が無くなる--即ち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります。これまでの私の説明は突飛だと思う方があるかも知れませんが、私は理論的に正しいものであることを確信いたします。戦争発達の極限が戦争を不可能にする。例えば戦国時代の終りに日本が統一したのは軍事、主として兵器の進歩の結果であります。
即ち戦国時代の末に信長、秀吉、家康という世界歴史でも最も優れた3人の偉人が一緒に日本に生まれて来ました。3人の協同作業です。信長が、あの天才的な閃(ひらめ)きで、大革新を妨げる堅固な殻を打ち割りました。割った後もあまり天才振りを発揮されると困ります。それで明智光秀が信長を殺した。信長が死んだのは用事が終ったからであります。それで秀吉が荒削りに日本の統一を完成し、朝鮮征伐までやって統一した日本の力を示しました。そこに家康が出て来て、うるさい婆さんのように万事キチンと整頓してしまった。徳川が信長や秀吉の考えたような皇室中心主義を実行しなかったのは遺憾千万ですが、この3人で、ともかく日本を統一したのであります。なぜ統一が可能であったかと言えば、種子島へ鉄砲が来たためです。いくら信長や秀吉が偉くても鉄砲がなくて、槍と弓だけであったならば旨く行きません。信長は時代を達観して尊皇の大義を唱え、日本統一の中心点を明らかにしましたが、彼は更に今の堺(さかい)から鉄砲を大量に買い求めて統一の基礎作業を完成しました。今の世の中でも、もしもピストル以上の飛び道具を全部なくしたならば、選挙のときには恐らく政党は演壇に立って言論戦なんかやりません。言論では勝負が遅い。必ず腕力を用いることになります。しかし警察はピストルを持っている。兵隊さんは機関銃を持っている。いかに剣道、柔道の大家でも、これではダメだ。だから甚だ迂遠な方法であるが、言論戦で選挙を争っているのです。兵器の発達が世の中を泰平にしているのです。この次の、すごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。要するに世界の一地方を根拠とする武力が、全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することとなります。しからばその決戦戦争はどういう形を取るかを想像して見ます。戦争には老若男女全部、参加する。老若男女だけではない。山川草木全部、戦争の渦中に入るのです。しかし女や子供まで全部が満州国やシベリヤ、または南洋に行って戦争をやるのではありません。戦争には二つのことが大事です。一つは敵を撃つこと--損害を与えること。もう一つは損害に対して我慢することです。即ち敵に最大の損害を与え、自分の損害に堪え忍ぶことであります。この見地からすると、次の決戦戦争では敵を撃つものは少数の優れた軍隊でありますが、我慢しなければならないものは全国民となるのです。今日の欧州大戦でも空軍による決戦戦争の自信力がありませんから、無防禦の都市は爆撃しない。軍事施設を爆撃したとか言っておりますけれども、いよいよ真の決戦戦争の場合には、忠君愛国の精神で死を決心している軍隊などは有利な目標でありません。最も弱い人々、最も大事な国家の施設が攻撃目標となります。
工業都市や政治の中心を徹底的にやるのです。でありますから老若男女、山川草木、豚も鶏も同じにやられるのです。かくて空軍による真に徹底した殲滅戦争となります。国民はこの惨状に堪え得る鉄石の意志を鍛錬しなければなりません。また今日の建築は危険極まりないことは周知の事実であります。
国民の徹底した自覚により国家は遅くも20年を目途とし、主要都市の根本的防空対策を断行すべきことを強く提案致します。官憲の大整理、都市に於ける中等学校以上の全廃(教育制度の根本革新)、工業の地方分散等により都市人口の大整理を行ない、必要な部分は市街の大改築を強行せねばなりません。今日のように陸海軍などが存在しているあいだは、最後の決戦戦争にはならないのです。それ動員だ、輸送だなどと間ぬるいことではダメであります。軍艦のように太平洋をのろのろと10日も20日もかかっては問題になりません。それかと言って今の空軍ではとてもダメです。また仮に飛行機の発達により今、ドイツがロンドンを大空襲して空中戦で戦争の決をつけ得るとしても、恐らくドイツとロシヤの間では困難であります。ロシヤと日本の間もまた困難。更に太平洋をへだてたところの日本とアメリカが飛行機で決戦するのはまだまだ遠い先のことであります。一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行なわれる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねはなりません。飛行機は無着陸で世界をクルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代り大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終る。それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降ると見て笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。
第三章 世界の統一

 

西洋歴史を大観すれば、古代は国家の対立からロ―マが統一したのであります。それから中世はそれをキリスト教の坊さんが引受けて、彼らが威力を失いますと、次には新しい国家が発生してまいりました。国家主義がだんだん発展して来て、フランス革命のときは一時、世界主義が唱導されました。ゲーテやナポレオンは本当に世界主義を理想としたのでありますが、結局それは目的を達しないで、国家主義の全盛時代になって第一次欧州戦争を迎えました。欧州戦争の深刻な破壊の体験によって、再び世界主義である国際連盟の実験が行なわれることとなりました。けれども急に理想までは達しかねて、国際連盟は空文になったのです。しかし世界は欧州戦争前の国家主義全盛の時代までは逆転しないで、国家連合の時代になったと私どもは言っているのであります。大体、世界は四つになるようであります。第一はソビエト連邦。これは社会主義国家の連合体であります。マルクス主義に対する世界の魅力は失われましたが、20年来の経験に基づき、特に第二次欧州戦争に乗じ、独特の活躍をなしつつあるソ連の実力は絶対に軽視できません。第二は米州であります。合衆国を中心とし、南北アメリカを一体にしようとしつつあります。中南米の民族的関係もあり、合衆国よりもむしろヨーロッパ方面と経済上の関係が濃厚な南米の諸国に於ては、合衆国を中心とする米州の連合に反対する運動は相当強いのですけれども、しかし大勢は着々として米州の連合に進んでおります。次にヨーロッパです。第一次欧州戦争の結果たるベルサイユ体制は、反動的で非常に無理があったものですから遂に今日の破局を来たしました。今度の戦争が起ると、「われわれは戦争に勝ったならば断じてベルサイユの体制に還すのではない。ナチは打倒しなければならぬ。ああいう独裁者は人類の平和のために打倒して、われわれの方針である自由主義の信条に基づく新しいヨーロッパの連合体制を採ろう」というのが、英国の知識階級の世論だと言われております。ドイツ側はどうでありましたか。たしか去年の秋のことでした。トルコ駐在のドイツ大使フォン・パーペンがドイツに帰る途中、イスタンブールで新聞記者にドイツの戦争目的如何という質問を受けた。ナチでないのでありますから、比較的慎重な態度を採らなけれはならぬパーペンが、言下に「ドイツが勝ったならばヨーロッパ連盟を作るのだ」と申しました。ナチスの世界観である「運命協同体」を指導原理とするヨーロッパ連盟を作るのが、ヒットラーの理想であるだろうと思います。フランスの屈伏後に於けるドイツの態度から見ても、このことは間違いないと信ぜられます。第一次欧州戦争が終りましてから、オーストリアのクーデンホーフが汎ヨーロッパということを唱導しまして、フランスのブリアン、ドイツのストレーゼマンという政治家も、その実現に熱意を見せたのでありますが、とうとうそこまで行かないでウヤムヤになったのです。
今度の大破局に当ってヨーロッパの連合体を作るということが、再びヨーロッパ人の真剣な気持になりつつあるものと思われます。最後に東亜であります。目下、日本と支那は東洋では未だかつてなかった大戦争を継続しております。しかしこの戦争も結局は日支両国が本当に提携するための悩みなのです。日本はおぼろ気ながら近衛声明以来それを認識しております。近衛声明以来ではありません。開戦当初から聖戦と唱えられたのがそれであります。如何なる犠牲を払っても、われわれは代償を求めるのではない、本当に日支の新しい提携の方針を確立すればそれでよろしいということは、今や日本の信念になりつつあります。明治維新後、民族国家を完成しようとして、他民族を軽視する傾向を強めたことは否定できません。台湾、朝鮮、満州、支那に於て遺憾ながら他民族の心をつかみ得なかった最大原因は、ここにあることを深く反省するのが事変処理、昭和維新、東亜連盟結成の基礎条件であります。中華民国でも三民主義の民族主義は孫文時代のままではなく、今度の事変を契機として新しい世界の趨勢に即応したものに進展することを信ずるものであります。今日の世界的形勢に於て、科学文明に立ち遅れた東亜の諸民族が西洋人と太刀打ちしようとするならば、われわれは精神力、道義力によって提携するのが最も重要な点でありますから、聡明な日本民族も漢民族も、もう間もなく大勢を達観して、心から諒解するようになるだろうと思います。もう一つ大英帝国というブロックが現実にはあるのであります。カナダ、アフリカ、インド、オーストラリア、南洋の広い地域を支配しています。しかし私は、これは問題にならないと見ております。あれは19世紀で終ったのです。強大な実力を有する国家がヨーロッパにしかない時代に、英国は制海権を確保してヨーロッパから植民地に行く道を独占し、更にヨーロッパの強国同士を絶えず喧嘩させて、自分の安全性を高めて世界を支配していたのです。ところが19世紀の末から既に大英帝国の鼎(かなえ)の軽重は問われつつあった。殊にドイツが大海軍の建設をはじめただけでなく、3B政策によって陸路ベルリンからバグダッド、エジプトの方に進んで行こうとするに至って、英国は制海権のみによってはドイツを屈伏させることが怪しくなって来たのです。それが第一次欧州大戦の根本原因であります。幸いにドイツをやっつけました。数百年前、世界政策に乗り出して以来、スペイン、ポルトガル、オランダを破り、次いでナポレオンを中心とするフランスに打ち克って、一世紀の間、世界の覇者となっていた英国は、最後にドイツ民族との決勝戦を迎えたのであります。英国は第一次欧州戦争の勝利により、欧州諸国家の争覇戦に於ける全勝の名誉を獲得しました。しかしこの名誉を得たときが実は、おしまいであったのです。まあ、やれやれと思ったときに東洋の一角では日本が相当なものになってしまった。
それから合衆国が新大陸に威張っている。もう今日は英帝国の領土は日本やアメリカの自己抑制のおかげで保持しているのです。英国自身の実力によって保持しているのではありません。カナダをはじめ南北アメリカの英国の領土は、合衆国の力に対して絶対に保持できません。
シンガポール以東、オーストラリアや南洋は、英国の力をもってしては、日本の威力に対して断じて保持できない。インドでもソビエトか日本の力が英国の力以上であります。本当に英国の、いわゆる無敵海軍をもって確保できるのは、せいぜいアフリカの植民地だけです。大英帝国はもうベルギー、オランダなみに歴史的惰性と外交的駆引によって、自分の領土を保持しているところの老獪極まる古狸でございます。20世紀の前半期は英帝国の崩壊史だろうと私どもも言っておったのですが、今次欧州大戦では、驚異的に復興したドイツのために、その本幹に電撃を与えられ、大英帝国もいよいよ歴史的存在となりつつあります。この国家連合の時代には、英帝国のような分散した状態ではいけないので、どうしても地域的に相接触したものが一つの連合体になることが、世界歴史の運命だと考えます。そして私は第一次欧州大戦以後の国家連合の時代は、この次の最終戦争のための準決勝戦時代だと観察しているのであります。先に話しました四つの集団が第二次欧州大戦以後は恐らく日、独、伊即ち東亜と欧州の連合と米州との対立となり、ソ連は巧みに両者の間に立ちつつも、大体は米州に多く傾くように判断されますが、われわれの常識から見れば結局、二つの代表的勢力となるものと考えられるのであります。どれが準決勝で優勝戦に残るかと言えば、私の想像では東亜と米州だろうと思います。
人類の歴史を、学問的ではありませんが、しろうと考えで考えて見ると、アジアの西部地方に起った人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。この二つが最後の決勝戦をやる運命にあるのではないでしょうか。軍事的にも最も決勝戦争の困難なのは太平洋を挟んだ両集団であります。軍事的見地から言っても、恐らくこの二つの集団が準決勝に残るのではないかと私は考えます。そういう見当で想像して見ますと、ソ連は非常に勉強して、自由主義から統制主義に飛躍する時代に、率先して幾多の犠牲を払い幾百万の血を流して、今でも国民に驚くべき大犠牲を強制しつつ、スターリンは全力を尽しておりますけれども、どうもこれは瀬戸物のようではないか。堅いけれども落とすと割れそうだ。スターリンに、もしものことがあるならば、内部から崩壊してしまうのではなかろうか。非常にお気の毒ではありますけれども。それからヨーロッパの組はドイツ、イギリス、それにフランスなど、みな相当なものです。とにかく偉い民族の集まりです。しかし偉くても場所が悪い。確かに偉いけれどもそれが隣り合わせている。いくら運命協同体を作ろう、自由主義連合体を作ろうと言ったところで、考えはよろしいが、どうも喧嘩はヨーロッパが本家本元であります。その本能が何と言っても承知しない、なぐり合いを始める。因業な話で共倒れになるのじゃないか。ヒットラー統率の下に有史以来未曽有の大活躍をしている友邦ドイツに対しては、誠に失礼な言い方と思いますが、何となくこのように考えられます。ヨーロッパ諸民族は特に反省することが肝要と思います。そうなって来ると、どうも、ぐうたらのような東亜のわれわれの組と、それから成金のようでキザだけれども若々しい米州、この二つが大体、決勝に残るのではないか。この両者が太平洋を挟んだ人類の最後の大決戦、極端な大戦争をやります。その戦争は長くは続きません。至短期間でバタバタと片が付く。そうして天皇が世界の天皇で在らせらるべきものか、アメリカの大統領が世界を統制すべきものかという人類の最も重大な運命が決定するであろうと思うのであります。即ち東洋の王道と西洋の覇道の、いずれが世界統一の指導原理たるべきかが決定するのであります。悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰であります。今日、特に日本人に注意して頂きたいのは、日本の国力が増進するにつれ、国民は特に謙譲の徳を守り、最大の犠牲を甘受して、東亜諸民族が心から天皇の御位置を信仰するに至ることを妨げぬよう心掛けねばならぬことであります。天皇が東亜諸民族から盟主と仰がれる日こそ、即ち東亜連盟が真に完成した日であります。しかし八紘一宇の御精神を拝すれば、天皇が東亜連盟の盟主、世界の天皇と仰がれるに至っても日本国は盟主ではありません。
しからば最終戦争はいつ来るか。これも、まあ占いのようなもので科学的だとは申しませんが、全くの空想でもありません。再三申しました通り、西洋の歴史を見ますと、戦争術の大きな変転の時期が、同時に一般の文化史の重大な変化の時期であります。この見地に立って年数を考えますと、中世は約一千年くらい、それに続いてルネッサンスからフランス革命までは、まあ300年乃至400年。これも見方によって色々の説もありましょうが、大体こういう見当になります。フランス革命から第一次欧州戦争までは明確に125年であります。1000年、300年、125年から推して、第一次欧州戦争の初めから次の最終戦争の時期までどのくらいと考えるべきであるか。1000年、300年、125年の割合から言うと今度はどのくらいの見当だろうか。多くの人に聞いて見ると大体の結論は50年内外だろうということになったのであります。これは余り短いから、なるべく長くしたい気分になり、最初は70年とか言いましたけれども結局、極く長く見て50年内だろうと判断せざるを得なくなったのであります。ところが第一次欧州戦争勃発の1914年から20数年経過しております。今日から20数年、まあ30年内外で次の決戦戦争、即ち最終戦争の時期に入るだろう、ということになります。余りに短いようでありますが、考えてご覧なさい。飛行機が発明されて30何年、本当の飛行機らしくなってから20年内外、しかも飛躍的進歩は、ここ数年であります。文明の急激な進歩は全く未曽有の勢いであり、今日までの常識で将来を推しはかるべきでないことを深く考えなければなりません。今年はアメリカの旅客機が亜成層圏を飛ぶというのであります。成層圏の征服も間もなく実現することと信じます。科学の進歩から、どんな恐ろしい新兵器が出ないとも言えません。この見地から、この30年は最大の緊張をもって挙国一致、いな東亜数億の人々が一団となって最大の能力を発揮しなければなりません。この最終戦争の期間はどのくらい続くだろうか。これはまた更に空想が大きくなるのでありますが、例えば東亜と米州とで決戦をやると仮定すれば、始まったら極めて短期間で片付きます。しかし準決勝で両集団が残ったのでありますが、他にまだ沢山の相当な国々があるのですから、本当に余震が鎮静して戦争がなくなり人類の前史が終るまで、即ち最終戦争の時代は20年見当であろう。言い換えれば今から30年内外で人類の最後の決勝戦の時期に入り、50年以内に世界が一つになるだろう。こういうふうに私は算盤を弾いた次第であります。
第四章 昭和維新

 

フランス革命は持久戦争から決戦戦争、横隊戦術から散兵戦術に変る大きな変革でありました。日本では、ちょうど明治維新時代がそれであります。第一次欧州大戦によって決戦戦争から持久戦争、散兵戦術から戦闘群の戦術に変化し、今日はフランス革命以後最大の革新時代に入り、現に革新が進行中であります。即ち昭和維新であります。第二次欧州大戦で新しい時代が来たように考える人が多いのですが、私は第一次欧州大戦によって展開された自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展と見るのであります。昭和維新は日本だけの問題ではありません。本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備を完了するのであります。明治維新の眼目が王政復古にあったが如く、廃藩置県にあった如く、昭和維新の政治的眼目は東亜連盟の結成にある。満州事変によってその原則は発見され、今日ようやく国家の方針となろうとしています。東亜連盟の結成を中心問題とする昭和維新のためには二つのことが大事であります。第一は東洋民族の新しい道徳の創造であります。ちょうど、われわれが明治維新で藩侯に対する忠誠から天皇に対する忠誠に立ち返った如く、東亜連盟を結成するためには民族の闘争、東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行かなければならないのであります。その中核の問題は満州建国の精神である民族協和の実現にあります。この精神、この気持が最も大切であります。第二に、われわれの相手になるものに劣らぬ物質力を作り上げなければならないのです。この立ち後れた東亜がヨーロッパまたは米州の生産力以上の生産力を持たなければならない。以上の見地からすれば、現代の国策は東亜連盟の結成と生産力大拡充という二つが重要な問題をなしております。科学文明の後進者であるわれわれが、この偉大な生産力の大拡充を強行するためには、普通の通り一遍の方式ではダメです。何とかして西洋人の及ばぬ大きな産業能力を発揮しなければならないのであります。このごろ亀井貫一郎氏の「ナチス国防経済論」という書物を読んで非常に心を打たれました。ドイツは原料が足りない。ドイツがベルサイユ体制でいじめられて、いじめ抜かれたことが、ドイツを本当に奮発させまして、20年この方、特に10年この方、ドイツには第二産業革命が発生していると言うのです。私には、よくは理屈が判りませんが、要するに常温常圧の工業から高温高圧工業に、電気化学工業に変遷をして来る、そうして今までの原料の束縛からまぬがれてあらゆる物が容易に生産されるに至る驚くべき第二産業革命が今、進行しているのであります。それに対する確信があってこそ今度ドイツが大戦争に突進できたのであろうと思います。われわれは非常に科学文明で遅れております。しかし頭は良いのです。
皆さんを見ると、みな秀才のような顔をしております。断然われわれの全知能を総動員してドイツの科学の進歩、産業の発達を追い越して最新の科学、最優秀の産業力を迅速に獲得しなくてはならないのであります。これが、われわれの国策の最重要条件でなけれはなりません。ドイツに先んじて、むろんアメリカに先んじて、われわれの産業大革命を強行するのであります。この産業大革命は二つの方向に作用を及ぼすと思う。一つは破壊的であります。一つは建設的であります。破壊的とは何かと言うと、われわれはもう既に30年後の世界最後の決勝戦に向っているのでありますが、今持っているピーピーの飛行機では問題にならない。自由に成層圏にも行動し得るすばらしい航空機が速やかに造られなけれはなりません。また一挙に敵に殲滅的打撃を与える決戦兵器ができなければなりません。この産業革命によって、ドイツの今度の新兵器なんか比較にならない驚くべき決戦兵器が生産されるべきで、それによって初めて30年後の決勝戦に必勝の態勢を整え得るのであります。ドイツが本当に戦争の準備をして数年にしかなりません。皆さんに20年の時間を与えます。十分でしょう、いや余り過ぎて困るではありませんか。もう一つは建設方面であります。破壊も単純な破壊ではありません。最後の大決勝戦で世界の人口は半分になるかも知れないが、世界は政治的に一つになる。これは大きく見ると建設的であります。同時に産業革命の美しい建設の方面は、原料の束縛から離れて必要資材をどんどん造ることであります。われわれにとって最も大事な水や空気は喧嘩の種になりません。ふんだんにありますから。水喧嘩は時々ありますが、空気喧嘩をしてなぐり合ったということは、まず無いのです。必要なものは何でも、驚くべき産業革命でどしどし造ります。持たざる国と持てる国の区別がなくなり、必要なものは何でもできることになるのです。しかしこの大事業を貫くものは建国の精神、日本国体の精神による信仰の統一であります。政治的に世界が一つになり、思想信仰が統一され、この和やかな正しい精神生活をするための必要な物資を、喧嘩してまで争わなければならないことがなくなります。そこで真の世界の統一、即ち八紘一宇が初めて実現するであろうと考える次第であります。もう病気はなくなります。今の医術はまだ極めて能力が低いのですが、本当の科学の進歩は病気をなくして不老不死の夢を実現するでしょう。それで東亜連盟協会の「昭和維新論」には、昭和維新の目標として、約30年内外に決勝戦が起きる予想の下に、20年を目標にして東亜連盟の生産能力を西洋文明を代表するものに匹敵するものにしなければならないと言って、これを経済建設の目標にしているのであります。その見地から、ある権威者が米州の20年後の生産能力の検討をして見たところによりますと、それは驚くべき数量に達するのであります。
詳しい数は記憶しておりませんが、大体の見当は鋼や油は年額数億トン、石炭に至っては数10億トンを必要とすることとなり、とても今のような地下資源を使ってやるところの文明の方式では、20年後には完全に行き詰まります。この見地からも産業革命は間もなく不可避であり、「人類の前史将に終らんとす」るという観察は極めて合理的であると思われるのであります。
第五章 仏教の予言

 

今度は少し方面を変えまして宗教上から見た見解を一つお話したいと思います。非科学的な予言への、われわれのあこがれが宗教の大きな問題であります。しかし人間は科学的判断、つまり理性のみを以てしては満足安心のできないものがあって、そこに予言や見通しに対する強いあこがれがあるのであります。今の日本国民は、この時局をどういうふうにして解決するか、見通しが欲しいのです。予言が欲しいのです。ヒットラーが天下を取りました。それを可能にしたのはヒットラーの見通しであります。第一次欧州戦争の結果、全く行き詰まってしまったドイツでは、何ぴともあの苦境を脱する着想が考えられなかったときに、彼はベルサイユ条約を打倒して必ず民族の復興を果し得る信念を懐いたのです。大切なのはヒットラーの見通しであります。最初は狂人扱いをされましたが、その見通しが数年の間に、どうも本当でありそうだと国民が考えたときに、ヒットラーに対する信頼が生まれ、今日の状態に持って来たのであります。私は宗教の最も大切なことは予言であると思います。仏教、特に日蓮聖人の宗教が、予言の点から見て最も雄大で精密を極めたものであろうと考えます。空を見ると、たくさんの星があります。仏教から言えは、あれがみんな一つの世界であります。その中には、どれか知れませんが西方極楽浄土というよい世界があります。もっとよいのがあるかも知れません。その世界には必ず仏様が一人おられて、その世界を支配しております。その仏様には支配の年代があるのです。例えば地球では今は、お釈迦様の時代です。しかしお釈迦様は未来永劫この世界を支配するのではありません。次の後継者をちゃんと予定している。弥勒菩薩という御方が出て来るのだそうです。そうして仏様の時代を正法(しょうほう)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)の三つに分けます。正法と申しますのは仏の教えが最も純粋に行なわれる時代で、像法は大体それに似通った時代です。末法というのは読んで字の通りであります。それで、お釈迦様の年代は、いろいろ異論もあるそうでございますが、多く信ぜられているのは正法千年、像法千年、末法万年、合計一万二千年であります。ところが大集経(だいしっきょう)というお経には更にその最初の2500年の詳細な予言があるのです。仏滅後(お釈迦様が亡くなってから後)の最初の500年が解脱(げだつ)の時代で、仏様の教えを守ると神通力が得られて、霊界の事柄がよくわかるようになる時代であります。人間が純朴で直感力が鋭い、よい時代であります。大乗経典はお釈迦様が書いたものでない。お釈迦様が亡くなられてから最初の500年、即ち解脱の時代にいろいろな人によって書かれたものです。私はそれを不思議に思うのです。長い年月かかって多くの人が書いたお経に大きな矛盾がなく、一つの体系を持っているということは、霊界に於て相通ずるものがあるから可能になったのだろうと思います。
大乗仏教は仏の説でないとて大乗経を軽視する人もありますが、大乗経典が仏説でないことが却(かえ)って仏教の霊妙不可思議を示すものと考えられます。その次の500年は禅定(ぜんじょう)の時代で、解脱の時代ほど人間が素直でなくなりますから、座禅によって悟りを開く時代であります。以上の千年が正法です。正法千年には、仏教が冥想の国インドで普及し、インドの人間を救ったのであります。その次の像法の最初の500年は読誦多聞(どくじゅたもん)の時代であります。教学の時代であります。仏典を研究し仏教の理論を研究して安心を得ようとしたのであります。瞑想の国インドから組織の国、理論の国、支那に来たのはこの像法の初め、教学時代の初めなのです。インドで雑然と説かれた万巻のお経を、支那人の大陸的な根気によって何回も何回も読みこなして、それに一つの体系を与えました。その最高の仕事をしたのが天台大師であります。天台大師はこの教学の時代に生まれた人です。天台大師が立てた仏教の組織は、現在でも多くの宗派の間で余り大きな異存はないのです。その次の像法の後の500年は多造塔寺(たぞうとうじ)の時代、即ちお寺をたくさん造った時代、つまり立派なお寺を建て、すばらしい仏像を本尊とし、名香を薫じ、それに綺麗な声でお経を読む。そういう仏教芸術の力によって満足を得て行こうとした時代であります。この時代になると仏教は実行の国日本に入って来ました。奈良朝・平安朝初期の優れた仏教芸術は、この時に生まれたのであります。次の500年、即ち末法最初の500年は闘諍(とうじょう)時代であります。この時代になると闘争が盛んになって普通の仏教の力はもうなくなってしまうと、お釈迦様が予言しています。末法に入ると、叡山の坊さんは、ねじり鉢巻で山を降りて来て三井寺を焼打ちにし、遂には山王様のお神輿をかついで都に乱入するまでになりました。説教すべき坊さんが拳骨を振るう時代になって来たのであります。予言の通りです。仏教では仏は自分の時代に現われる、あらゆる思想を説き、その教えの広まって行く経過を予言していなければならないのでありますが、一万年のお釈迦様が2500年でゴマ化しているのです。自分の教えは、この2500年でもうダメになってしまうという無責任なことを言って、大集経の予言は終っているのです。ところで、天台大師が仏教の最高経典であると言う法華経では、仏はその闘争の時代に自分の使を出す、節刀将軍を出す、その使者はこれこれのことを履(ふ)み行ない、こうこういう教えを広めて、それが末法の長い時代を指導するのだ、と予言しているのであります。言い換えれば仏滅から数えて2000年前後の末法では世の中がひどく複雑になるので、今から一々言っておいても分からないから、その時になったら自分が節刀将軍を出すから、その命令に服従しろ、と言って、お釈迦様は亡くなっているのです。
末法に入ってから220年ばかり過ぎたときに仏の予言によって日本に、しかもそれが承久の乱、即ち日本が未曽有の国体の大難に際会したときに、お母さんの胎内に受胎された日蓮聖人が、承久の乱に疑問を懐きまして仏道に入り、ご自分が法華経で予言された本化上行(ほんげじょうぎょう)菩薩であるという自覚に達し、法華経に従ってその行動を律せられ、お経に述べてある予言を全部自分の身に現わされた。
そして内乱と外患があるという、ご自身の予言が日本の内乱と蒙古の襲来によって的中したのであります。それで、その予言が実現するに従って逐次、ご自分の仏教上に於ける位置を明らかにし、予言の的中が全部終った後、みずから末法に遣わされた釈尊の使者本化上行だという自覚を公表せられ、日本の大国難である弘安の役の終った翌年に亡くなられました。そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。ここで、仏教教学について素人の身としては甚だ僭越でありますが、私の信ずるところを述べさせていただきたいと存じます。日蓮聖人の教義は本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の三つであります。題目は真っ先に現わされ、本尊は佐渡に流されて現わし、戒壇のことは身延でちょっと言われたが、時がまだ来ていない、時を待つべきであると言って亡くなられました。と申しますのは、戒壇は日本が世界的な地位を占めるときになって初めて必要な問題でありまして、足利時代や徳川時代には、まだ時が来ていなかったのです。それで明治時代になりまして日本の国体が世界的意義を持ちだしたときに、昨年亡くなられた田中智学先生が生まれて来まして、日蓮聖人の宗教の組織を完成し、特に本門戒壇論、即ち日本国体論を明らかにしました。それで日蓮聖人の教え即ち仏教は、明治の御代になって田中智学先生によって初めて全面的に、組織的に明らかにされたのであります。ところが不思議なことには、日蓮聖人の教義が全面的に明らかになったときに大きな問題が起きて来たのです。仏教徒の中に仏滅の年代に対する疑問が出て来たのであります。これは大変なことで、日蓮聖人は末法の初めに生まれて来なければならないのに、最近の歴史的研究では像法に生まれたらしい。そうすると日蓮聖人は予言された人でないということになります。日蓮聖人の宗教が成り立つか否かという大問題が出現したというのに、日蓮聖人の門下は、歴史が曖昧で判らない、どれが本当か判らないと言って、みずから慰めています。そういう信者は結構でしょう。そうでない人は信用しない。一天四海皆帰妙法は夢となります。この重大問題を日蓮聖人の信者は曖昧にして過ごしているのです。観心本尊鈔に「当ニ知ルベシ此ノ四菩薩、折伏(シャクブク)ヲ現ズル時ハ賢王ト成ツテ愚王ヲ誠責(カイシャク)シ、摂受(ショウジュ)ヲ行ズル時ハ僧ト成ツテ正法ヲ弘持(グジ)ス」とあります。この2回の出現は経文の示すところによるも、共に末法の最初の500年であると考えられます。そして摂受を行ずる場合の闘争は主として仏教内の争いと解すべきであります。
明治の時代までは仏教徒全部が、日蓮聖人の生まれた時代は末法の初めの500年だと信じていました。その時代に日蓮聖人が、いまだ像法だと言ったって通用しない。末法の初めとして行動されたのは当然であります。仏教徒が信じていた年代の計算によりますと、末法の最初の500年は大体、叡山の坊さんが乱暴し始めた頃から信長の頃までであります。信長が法華や門徒を虐殺しましたが、あの時代は坊さん連中が暴力を揮った最後ですから、大体、仏の予言が的中したわけであります。折伏を現ずる場合の闘争は、世界の全面的戦争であるべきだと思います。この問題に関連して、今は仏滅後何年であるかを考えて見なけれはなりません。歴史学者の間ではむずかしい議論もあるらしいのですが、まず常識的に信じられている仏滅後2430年見当という見解をとって見ます。そうすると末法の初めは、西洋人がアメリカを発見しインドにやって来たとき、即ち東西両文明の争いが始まりかけたときです。その後、東西両文明の争いがだんだん深刻化して、正にそれが最後の世界的決勝戦になろうとしているのであります。明治の御世、即ち日蓮聖人の教義の全部が現われ了ったときに、初めて年代の疑問が起きて来たことは、仏様の神通力だろうと信じます。末法の最初の500年を巧みに二つに使い分けをされたので、世界の統一は本当の歴史上の仏滅後2500年に終了すべきものであろうと私は信ずるのであります。そうなって参りますと、仏教の考える世界統一までは約6、70年を残されているわけであります。私は戦争の方では今から50年と申しましたが、不思議に大体、似たことになっております。あれだけ予言を重んじた日蓮聖人が、世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言をしておられるのに、それが何時来るという予言はやっていないのです。それでは無責任と申さねばなりません。けれども、これは予言の必要がなかったのです。ちゃんと判っているのです。仏の神通力によって現われるときを待っていたのです。そうでなかったら、日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきものだと信ずるのであります。この見解に対して法華の専門家は、それは素人のいい加減なこじつけだと言われるだろうかと存じますが、私の最も力強く感ずることは、日蓮聖人以後の第一人老である田中智学先生が、大正7年のある講演で「一天四海皆帰妙法は48年間に成就し得るという算盤を弾いていると述べていることです。大正8年から48年くらいで世界が統一されると言っております。どういう算盤を弾かれたか述べてありませんが、天台大師が日蓮聖人の教えを準備された如く、田中先生は時来たって日蓮聖人の教義を全面的に発表した--即ち日蓮聖人の教えを完成したところの予定された人でありますから、この一語は非常な力を持っていると信じます。
また日蓮聖人は、インドから渡来して来た日本の仏法はインドに帰って行き、永く末法の闇を照らすべきものだと予言しています。日本山妙法寺の藤井行勝師がこの予言を実現すべくインドに行って太鼓をたたいているところに支那事変が勃発しました。英国の宣伝が盛んで、日本が苦戦して危いという印象をインド人が受けたのです。そこで藤井行勝師と親交のあったインドの「耶羅陀耶」という坊さんが「日本が負けると大変だ。自分が感得している仏舎利があるから、それを日本に納めて貰いたい」と行勝師に頼みました。
行勝師は一昨年帰って来てそれを陸海軍に納めたのであります。行勝師の話によると、セイロン島の仏教徒は、やはり仏滅後2500年に仏教国の王者によって世界が統一されるという予言を堅く信じているそうで、その年代はセイロンの計算では間もなく来るのであります。
第六章 結び

 

今までお話して来たことを総合的に考えますと、軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、また科学、産業の進歩から見ましても、信仰の上から見ましても、人類の前史は将に終ろうとしていることは確実であり、その年代は数10年後に切迫していると見なければならないと思うのであります。今は人類の歴史で空前絶後の重大な時期であります。世の中には、この支那事変を非常時と思って、これが終れは和やかな時代が来ると考えている人が今日もまだ相当にあるようです。そんな小っぽけな変革ではありません。昔は革命と革命との間には相当に長い非非常時、即ち常時があったのです。フランス革命から第一次欧州大戦の間も、一時はかなり世の中が和やかでありました。第一次欧州大戦以後の革命時は、まだ安定しておりません。しかしこの革命が終ると引きつづき次の大変局、即ち人類の最後の大決勝戦が来る。今日の非常時は次の超非常時と隣り合わせであります。今後数10年の間は人類の歴史が根本的に変化するところの最も重大な時期であります。この事を国民が認識すれば、余りむずかしい方法を用いなくても自然に精神総動員はできると私は考えます。東亜が仮に準決勝に残り得るとして誰と戦うか。私は先に米州じゃないかと想像しました。しかし、よく皆さんに了解して戴きたいことがあるのです。今は国と国との戦争は多く自分の国の利益のために戦うものと思っております。今日、日本とアメリカは睨み合いであります。あるいは戦争になるかも知れません。かれらから見れば蘭印を日本に独占されては困ると考え、日本から言えば何だアメリカは自分勝手のモンロー主義を振り廻しながら東亜の安定に口を入れるとは怪しからぬというわけで、多くは利害関係の戦争でありましょう。私はそんな戦争を、かれこれ言っているのでありません。世界の決勝戦というのは、そんな利害だけの問題ではないのです。世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、永遠の平和を達成するには、なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、刃(やいば)に※(ちぬ)[血+半]らずして、そういう時代の招来されることを熱望するのであり、それが、われわれの日夜の祈りであります。しかしどうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全です。理屈のやり合いや道徳談義だけでは、この大事業は、やれないらしいのです。世界に残された最後の選手権を持つ者が、最も真面目に最も真剣に戦って、その勝負によって初めて世界統一の指導原理が確立されるでしょう。だから数10年後に迎えなければならないと私たちが考えている戦争は、全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲であります。われわれが仮にヨーロッパの組とか、あるいは米州の組と決勝戦をやることになっても、断じて、かれらを憎み、かれらと利害を争うのでありません。
恐るべき惨虐行為が行なわれるのですが、根本の精神は武道大会に両方の選士が出て来て一生懸命にやるのと同じことであります。人類文明の帰着点は、われわれが全能力を発揮して正しく堂々と争うことによって、神の審判を受けるのです。東洋人、特に日本人としては絶えずこの気持を正しく持ち、いやしくも敵を侮辱するとか、敵を憎むとかいうことは絶対にやるべからざることで、敵を十分に尊敬し敬意を持って堂々と戦わなけれはなりません。ある人がこう言うのです。君の言うことは本当らしい、本当らしいから余り言いふらすな、向こうが準備するからコッソリやれと。これでは東亜の男子、日本男子ではない。東方道義ではない。断じて皇道ではありません。よろしい、準備をさせよう、向こうも十分に準備をやれ、こっちも準備をやり、堂々たる戦いをやらなければならぬ。こう思うのであります。しかし断わって置かなければならないのは、こういう時代の大きな意義を一日でも早く達観し得る聡明な民族、聡明な国民が結局、世界の優者たるべき本質を持っているということです。その見地から私は、昭和維新の大目的を達成するために、この大きな時代の精神を一日も速やかに全日本国民と全東亜民族に了解させることが、私たちの最も大事な仕事であると確信するものであります。
 
第二部 「最終戦争論」に関する質疑回答

 

第一問 世界の統一が戦争によってなされるということは人類に対する冒涜であり、人類は戦争によらないで絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う。
答 生存競争と相互扶助とは共に人類の本能であり、正義に対するあこがれと力に対する依頼は、われらの心の中に併存する。昔の坊さんは宗論に負ければ袈裟をぬいで相手に捧げ、帰伏改宗したものと聞くが、今日の人間には思い及ばぬことである。純学術的問題でさえ、理論闘争で解決し難い場面を時々見聞する。絶大な支配力のない限り、政治経済等に関する現実問題は、単なる道義観や理論のみで争いを決することは通常、至難である。世界統一の如き人類の最大問題の解決は結局、人類に与えられた、あらゆる力を集中した真剣な闘争の結果、神の審判を受ける外に途はない。誠に悲しむべきことではあるが、何とも致し方がない。「鋒刃の威を仮らずして、坐(いなが)ら天下を平げん」と考えられた神武天皇は、遂に度々武力を御用い遊ばされ、「よもの海みなはらから」と仰せられた明治天皇は、遂に日清、日露の大戦を御決行遊ばされたのである。釈尊が、正法を護ることは単なる理論の争いでは不可能であり、身を以て、武器を執って当らねばならぬと説いているのは、人類の本性に徹した教えと言わねばならない。一人二人三人百人千人と次第に唱え伝えて、遂に一天四海皆帰妙法の理想を実現すべく力説した日蓮聖人も、信仰の統一は結局、前代未聞の大闘争によってのみ実現することを予言している。刃(やいば)にちぬらずして世界を統一することは固より、われらの心から熱望するところであるが、悲しい哉、それは恐らく不可能であろう。もし幸い可能であるとすれば、それがためにも最高道義の護持者であらせられる天皇が、絶対最強の武力を御掌握遊ばされねばならぬ。文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、あらゆる準備に精進しなければならない。最終戦争によって世界は統一される。しかし最終戦争は、どこまでも統一に入るための荒仕事であって、八紘一宇の発展と完成は武力によらず、正しい平和的手段によるべきである。
第二問 今日まで戦争が絶えなかったように、人類の闘争心がなくならない限り、戦争もまた絶対になくならないのではないか。
答 しかり、人類の歴史あって以来、戦争は絶えたことがない。しかし今日以後もまた、しかりと断ずるは過早である。明治維新までは、日本国内に於て戦争がなくなると誰が考えたであろうか。文明、特に交通の急速な発達と兵器の大進歩とによって、今日では日本国内に於ては、戦争の発生は全く問題とならなくなった。文明の進歩により戦争力が増大し、その威力圏の拡大に伴って政治的統一の範囲も広くなって来たのであるが、世界の一地方を根拠とする武力が全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを迅速に屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一されることとなる。更に問題になるのは、たとい未曽有の大戦争があって世界が一度は統一されても、間もなくその支配力に反抗する力が生じて戦争が起り、再び国家の対立を生むのではなかろうかということである。しかしそれは、最終戦争が行なわれ得る文明の超躍的大進歩に考え及ばず今日の文明を基準とした常識判断に過ぎない。瞬間に敵国の中心地を潰滅する如き大威力は、戦争の惨害を極端ならしめて、人類が戦争を回避するに大きな力となるのみならず、かくの如き大威力の文明は一方、世界の交通状態を一変させる。数時間で世界の一周は可能となり、地球の広さは今日の日本よりも狭いように感ずる時代であることを考えるべきである。人類は自然に、心から国家の対立と戦争の愚を悟る。且つ最終戦争により思想、信仰の統一を来たし、文明の進歩は生活資材を充足し、戦争までして物資の取得を争う時代は過ぎ去り人類は、いつの間にやら戦争を考えなくなるであろう。人類の闘争心は、ここ数10年の間はもちろん、人類のある限り恐らくなくならないであろう。闘争心は一面、文明発展の原動力である。しかし最終戦争以後は、その闘争心を国家間の武力闘争に用いようとする本能的衝動は自然に解消し、他の競争、即ち平和裡に、より高い文明を建設する競争に転換するのである。現にわれわれが子供の時分は、大人の喧嘩を街頭で見ることも決して稀ではなかったが、今日ではほとんど見ることができない。農民は品種の改善や増産に、工業者はすぐれた製品の製作に、学者は新しい発見・発明に等々、各々その職域に応じ今日以上の熱を以て努力し、闘争的本能を満足させるのである。以上はしかし理論的考察で半ば空想に過ぎない。しかし、日本国体を信仰するものには戦争の絶滅は確乎たる信念でなけれはならぬ。八紘一宇とは戦争絶滅の姿である。口に八紘一宇を唱え心に戦争の不滅を信ずるものがあるならば、真に憐むべき矛盾である。日本主義が勃興し、日本国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。
第三問 最終戦争が遠い将来には起るかも知れないが、僅々30年内外に起るとは信じられない。
答 近い将来に最終戦争の来ることは私の確信である。最終戦争が主として東亜と米州との間に行なわれるであろうということは私の想像である。最終戦争が30年内外に起るであろうということは占いに過ぎない。私も常識を以てしては、30年内外に起るとは、なかなか考えられない。しかし最終戦争は実に人類歴史の最大関節であり、このとき、世界に超常識的大変化が起るのである。今日までの戦争は主として地上、水上の戦いであった。障害の多い地上戦争の発達が急速に行かないことは常識で考えられるが、それが空中に飛躍するときは、真に驚天動地の大変化を生ずるであろう。空中への飛躍は人類数千年のあこがれであった。釈尊が法華経で本門の中心問題、即ち超常識の大法門を説こうとしたとき、インド霊鷲山(りょうじゅせん)上の説教場を空中に移したのは、真に驚嘆すべき着想ではないか。通達無碍の空中への飛躍は、地上にあくせくする人々の想像に絶するものがある。地上戦争の常識では、この次の戦争の大変化は容易に判断し難い。戦争術変化の年数が千年→三百年→百二十五年と逐次短縮して来たことから、この次の変化が恐らく50年内外に来るであろうとの推断は、固より甚だ粗雑なものであるが、全くのデタラメとは言えない。常識的には今後30年内外は余りに短いようであるが、次の大変化は、われらの常識に超越するものであることを敬虔な気持で考えるとき、私は「30年内外」を否定することはよろしくないと信ずるものである。もし30年内外に最終戦争が来ないで、50年、70年、百年後に延びることがあっても、国家にとって少しも損害にならないのであるが、仮に30年後には来ないと考えていたのに実際に来たならば、容易ならぬこととなるのである。私は技術・科学の急速な進歩、産業革命の状態、仏教の予言等から、30年後の最終戦争は必ずしも突飛とは言えないことを詳論した。更に、第一次欧州大戦までは世界が数10の政治的単位に分かれていたのがその後、急速に国家連合の時代に突入して、今日では四つの政治的単位になろうとする傾向が顕著であり、見方によっては、世界は既に自由主義と枢軸の二大陣営に対立しようとしている。準決勝の時期がそろそろ終ろうとするこの急テンポを、どう見るか。また統制主義を人類文化の最高方式の如く思う人も少なくないようであるが、私はそれには賛成ができない。元来、統制主義は余りに窮屈で過度の緊張を要求し、安全弁を欠く結果となる。ソ連に於ける毎度の粛清工作はもちろん、ドイツに於ける突撃隊長の銃殺、副総統の脱走等の事件も、その傾向を示すものと見るべきである。統制主義の時代は、決して永く継続すべきものではないと確信する。今日の世界の大勢は各国をして、その最高能率を発揮して戦争に備えるために、否が応でも、また安全性を犠牲にしても、統制主義にならざるを得ざらしめるのである。
だから私は、統制主義は武道選手の決勝戦前の合宿のようなものだと思う。合宿生活は能率を挙げる最良の方法であるけれども、年中合宿して緊張したら、うんざりせざるを得ない。決戦直前の短期間にのみ行なわれるべきものである。統制主義は、人類が本能的に最終戦争近しと無意識のうちに直観して、それに対する合宿生活に入るための産物である。最終戦争までの数10年は合宿生活が継続するであろう。この点からも、最終戦争はわれらの眼前近く迫りつつあるものと推断する。
第四問 東洋文明は王道であり、西洋文明は覇道であると言うが、その説明をしてほしい。
答 かくの如き問題はその道の学者に教えを乞うべきで、私如きものが回答するのは僭越極まる次第であるが、私の尊敬する白柳秀湖、清水芳太郎両氏の意見を拝借して、若干の意見を述べる。文明の性格は気候風土の影響を受けることが極めて大きく、東西よりも南北に大きな差異を生ずる。われら北種は東西を通じて、おしなべて朝日を礼拝するのに、炎熱に苦しめられている南種は同じく太陽を神聖視しながらも、夕日に跪伏する。回教徒が夕日を礼拝するように仏教徒は夕日にあこがれ、西方に金色の寂光が降りそそぐ弥陀の浄土があると考えている。日蓮聖人が朝日を拝して立宗したのは、真の日本仏教が成立したことを意味する。熱帯では衣食住に心を労することなく、殊に支配階級は奴隷経済の上に抽象的な形而上の瞑想にふけり、宗教の発達を来たした。いわゆる三大宗教はみな亜熱帯に生まれたのである。半面、南種は安易な生活に慣れて社会制度は全く固定し、インドの如きは今なお4000年前の制度を固持して政治的に無力となり、少数の英人の支配に屈伏せざるを得ない状態となった。北種は元来、住みよい熱帯や亜熱帯から追い出された劣等種であったろうが、逆境と寒冷な風土に鍛錬されて、自然に科学的方面の発達を来たした。また農業に発した強い国家意義と狩猟生活の生んだ寄合評定によって、強大な政治力が養われ今日、世界に雄飛している民族は、すべて北種に属する。南種は専制的で議会の運用を巧みに行ない得ない。社会制度、政治組織の改革は、北種の特徴である。アジアの北種を主体とする日本民族の歴史と、アジアの南種に属する漢民族を主体とする支那の歴史に、相当大きな相違のあるのも当然である。但し漢民族は南種と言っても黄河沿岸はもちろんのこと、揚子江沿岸でも亜熱帯とは言われず、ヒマラヤ以南の南種に比べては、多分に北種に近い性格をもっている。清水氏は「日本真体制論」に次の如く述べている。「寒帯文明が世界を支配はしたけれども、決して寒帯民族そのものも真の幸福が得られなかった。力の強いものが力の弱いものを搾取するという力の科学の上に立った世界は、人類の幸福をもたらさなかった。弱いものばかりでなくて、強いものも同時に不幸であった。本当を言うと、熱帯文明の方が宗教的、芸術的であって、人間の目的生活にそうものである。寒帯文明は結局、人間の経済生活に役立つものであって、これは人間にとって手段生活である。寒帯文明が中心となってでき上がった人間の生活状態というものは、やはり主客転倒したものである。……この二つのものは別々であってよいかと言うに、これは一つにならなければならないものである。インド人や支那人は、実に深遠な精神文化を生み出した民族であるが今日、寒帯民族のもつ機械文明を模倣し成長せしめることに成功していない。
白色人種は、物質文化の行き詰まりを一面に於て唱えながらも、これを刷新せんとする彼らの案は、依然として寒帯文明の範疇を出ることができない。……とにかく、日本民族は明白に、その特色をもっているのである。この熱帯文明と寒帯文明とが、日本民族によって融合統一され、次の新しい人間の生活様式が創造されなければならない。どうも日本民族をおいて、他にこの二大文明の融合によって第三文明を創造しうる能力をもったものが、外にないと思われる。つまり、寒帯文明を手段として、東洋の精神文化を生かしうる社会の創造である。西洋の機械文明が、東洋の精神文明の手段となるときに、初めて西洋物質文化に意味を生じ、東洋精神文化も、初めて真の発達を遂げうるのである。」寒帯文明に徹底した物質文明偏重の西洋文明は、即ち覇道文明である。これに対し熱帯文明が王道文明であるかと言えば、そうではない。王道は中庸を得て、偏してはならぬ。道を守る人生の目的を堅持して、その目的達成のための手段として、物質文明を十分に生かさねばならない。即ち、王道文明は清水氏の第三文明でなければならない。同じ北種でも、アジアの北種とヨーロッパの北種には、その文明に大きな相異を来たしている。日本民族の主体は、もちろん北種である。科学的能力は白人種の最優秀者に優るとも劣らないのみならず、皇祖皇宗によって簡明に力強く宣明せられた建国の大理想は、民族不動の信仰として、われらの血に流れている。しかも適度に円満に南種の血を混じて熱帯文明の美しさも十分に摂取し、その文明を荘厳にしたのである。古代支那の文明は今日の研究では、南種に属する漢人種のものではなく、北種によって創められたものらしいと言われているが、その王道思想は正しく日本国体の説明と言うべきである。この王道思想が漢人種によって唱導されたものでないにせよ、漢民族はよくこの思想を容れ、それを堅持して今日に及んだ。今日の漢民族は多くの北種の血を混じて南北両文明を協調するに適する素質をもち、指導よろしきを得れは、十分に科学文明を活用し得る能力を備えていると信ずる。西洋北種は古代に於て果して、東洋諸民族の如き大理想を明確にもっていたであろうか。仮にあったにせよ、物質文明の力に圧倒され、かれらの信念として今日まで伝えられるだけの力はなかったのである。ヒットラーは古代ゲルマン民族の思想信仰の復活に熱意を有すると聞くが、ヒットラーの力を以てしても、民族の血の中に真生命として再生せしめることは至難であろう。ヨーロッパの北種はフランスを除けば、イギリスの如き地理的関係にあっても南種の混血は比較的少なく、ドイツその他の北欧の諸民族は、ほとんど北種間のみの混血で、現実主義に偏する傾向が顕著である。
殊にヨーロッパでは強力な国家が狭小な地域に密集して永い間、深刻な闘争をくり返し、科学文明の急速な進歩に大なる寄与をなしたけれども、その覇道的弊害もますます増大して今日、社会不安の原因をなし、清水氏の主張の如く、これも根本的に刷新することが不可能である。西洋文明は既に覇道に徹底して、みずから行き詰まりつつある。王道文明は東亜諸民族の自覚復興と西洋科学文明の摂取活用により、日本国体を中心として勃興しつつある。人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。
最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。
第五問 最終戦争が数10年後に起るとすれば、その原因は経済の争いで、観念的な王道・覇道の決勝戦とは思われない。
答 戦争の原因は、その時代の人類の最も深い関心を有するものに存する。昔は単純な人種間の戦争や、宗教戦争などが行なわれ、封建時代には土地の争奪が戦争の最大動機であった。土地の争奪は経済問題が最も大きな働きをなしている。近代の進歩した経済は、社会の関心を経済上の利害に集中させた結果、戦争の動機は経済以外に考えられない現状である。自由主義時代は経済が政治を支配するに至ったのであるが、統制主義時代は政治が経済を支配せねばならぬ。世の中には今や大なる変化を生じつつある。しかし僅々30年後にはなお、社会の最大関心事が依然として経済であり、主義が戦争の最大原因となるとは考えられない。けれども最終戦争を可能にする文明の飛躍的進歩は、半面に於て生活資材の充足を来たし、次第に今日のような経済至上の時代が解消するであろう。経済はどこまでも人生の目的ではなく、手段に過ぎない。人類が経済の束縛からまぬがれ得るに従って、その最大関心は再び精神的方面に向けられ、戦争も利害の争いから主義の争いに変化するのは、文明進化の必然的方向であると信ずる。即ち最終戦争時代は、戦争の最大原因が既に主義となる時代に入りつつあるべきはずである。文明の実質が大変化をしても、人類の考えは容易にそれに追随できないために、数10年後の最終戦争に於ける最初の動機は、依然として経済に関する問題であろう。しかし戦争の進行中に必ず急速に戦争目的に大変化を来たして、主義の争いとなり、結局は王覇両文明の雌雄を決することとなるものと信ずる。日蓮聖人が前代未聞の大闘争につき、最初は利益のために戦いつつも争いの深刻化するに従い、遂に頼るべきものは正法のみであることを頓悟して、急速に信仰の統一を来たすべきことを説いているのは、最終戦争の本質をよく示すものである。第一次欧州大戦以来、大国難を突破した国が逐次、自由主義から統制主義への社会的革命を実行した。日本も満州事変を契機として、この革新即ち昭和維新期に入ったのであるが、多くの知識人は依然として内心では自由主義にあこがれ、また口に自由主義を非難する人々も多くは自由主義的に行動していた。しかるに支那事変の進展中に、高度国防国家建設は、たちまち国民の常識となってしまった。冷静に顧みれば、平和時には全く思い及ばぬ驚異的変化が、何の不思議もなく行なわれてしまったのである。最終戦争の時代をおおむね20年内外と空想したが、この期間に人類の思想と生活に起る変化は、全く想像の及ばぬものがある。経済中心の戦争が徹底せる主義の争いに変化するとの判断は、決して突飛なものとは言われない。
第六問 数10年後に起る最終戦争によって世界の政治的統一が一挙に完成するとは考えられない。
答 最終戦争は人類歴史の最大関節であり、それによって世界統一即ち八紘一宇実現の第一歩に入るのである。しかし真に第一歩であって、八紘一宇の完成はそれからの人類の永い精進によらねばならない。この点で質問者の意見と私の意見は大体一致していると信ずるが、それに関する予想を述べて見ることとする。諸民族が長きは数千年の歴史によってその文化を高め、人類は近時急速にその共通のあこがれであった大統一への歩みを進めつつある。明治維新は日本の維新であったが、昭和維新は正しく東亜の維新であり、昭和13年12月26日の第74回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数10年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。明治維新は明治初年に行なわれ、明治10年の戦争によって概成し、その後の数10年の歴史によって真に統一した近代民族国家としての日本が完成したのである。昭和維新の眼目である東亜の新秩序即ち東亜の大同は、満州事変に端を発し支那事変で急進展をなしつつあるが、その完成には更に日本民族はもちろん、東亜諸民族の正しく深い認識と絶大な努力を要する。今日われらは、まず東亜連盟の結成を主張している。東亜連盟は満州建国に端を発したのであり当時、在満日本人には一挙に天皇の下に東亜連邦の成立を希望するものも多かったが、漢民族は未だ時機熟せずとして、日満華の協議、協同による東亜連盟で満足すべしと主張し、遂に東亜新秩序の第一段階として採用されるに至った。東亜の新秩序は、最終戦争に於て必勝を期するため、なるべく強度の統一が希望される。東亜諸民族の疑心暗鬼が除去されたならば、一日も速やかに少なくも東亜連邦に躍進して、東亜の総合的威力の増進を計らねばならぬ。更に各民族間の信頼が徹底したならば、東亜の最大能力を発揮するために諸国家は、みずから進んで国境を撤廃し、その完全な合同を熱望し、東亜大同国家の成立即ち大日本の東亜大拡大が実現せられることは疑いない。特に日本人が「よもの海みなはらから」「西ひがしむつみかわして栄ゆかん」との大御心のままに諸民族に対するならば、東亜連邦などを経由することなく、一挙に東亜大同国家の成立に飛躍するのではなかろうか。われらは、天皇を信仰し心から皇運を扶翼(ふよく)し奉るものは皆われらの同胞であり、全く平等で天皇に仕え奉るべきものと信ずる。東亜連盟の初期に於て、諸国家が未だ天皇をその盟主と仰ぎ奉るに至らない間は、独り日本のみが天皇を戴いているのであるから、日本国は連盟の中核的存在即ち指導国家とならなければならない。
しかしそれは諸国家と平等に提携し、われらの徳と力により諸国家の自然推挙によるべきであり、紛争の最中に、みずから強権的にこれを主張するのは、皇道の精神に合しないことを強調する。日本の実力は東亜諸民族の認めるところである。日本が真に大御心を奉じ、謙譲にして東亜のために進んで最大の犠牲を払うならば、東亜の諸国家から指導者と仰がれる日は、案外急速に来ることを疑わない。日露戦争当時、既にアジアの国々は日本を「アジアの盟主」と呼んだではないか。東亜連盟は東亜新秩序の初歩である。しかも指導国家と自称せず、まず全く平等の立場において連盟を結成せんとするわれらの主張は世人から、ややもすれば軟弱と非難される。しかり、確かにいわゆる強硬ではない。しかし八紘一宇の大理想必成を信ずるわれらは絶対の大安心に立って、現実は自然の順序よき発展によるべきことを忘れず、最も着実な実行を期するものである。下手に出れば相手はつけあがるなどと恐れる人々は、八紘一宇を口にする資格がない。最終戦争と言えば、いかにも突飛な荒唐無稽の放談のように考え、また最終戦争論に賛意を表するものには、ややもすればこの戦争によって人類は直ちに黄金世界を造るように考える人々が多いらしい。共に正鵠を得ていない。最終戦争は近く必ず行なわれ、人類歴史の最大関節であるが、しかしそれを体験する人々は案外それほどの激変と思わず、この空前絶後の大変動期を過ごすことは、過去の革命時代と大差ないのではなかろうか。最終戦争によって世界は統一する。もちろん初期には幾多の余震をまぬがれないであろうが、文明の進歩は案外早くその安定を得て、武力をもって国家間に行なわれた闘争心は、人類の新しい総合的大文明建設の原動力に転換せられ、八紘一宇の完成に邁進するであろう。日本の有する天才の一人である清水芳太郎氏は「日本真体制論」の中に、その文明の発展について種々面白い空想を述べている。植物の一枚の葉の作用の秘密をつかめたならば、試験管の中で、われわれの食物がどんどん作られるようになり、一定の土地から今の恐らく1500倍ぐらいの食料が製造できる。また豚や鶏を飼う代りに、繁殖に最も簡単なバクテリヤを養い、牛肉のような味のするバクテリヤや、鶏肉の味のバクテリヤ等を発見して、極めて簡単に蛋白質の食物が得られるようになる。これは決して夢物語ではなく、既に第一次欧州大戦でドイツはバクテリヤを食べたのである。次に動力は貴重な石炭は使わなくとも、地下に放熱物体--ラジウムとかウラニウム--があって、地殻が熱くなっているのであるから、その放熱物体が地下から掘り出されるならば、無限の動力が得られるし、また成層圏の上には非常に多くの空中電気があるから、これを地上にもって来る方法が発見できれば、無限の電気を得ることになる。
なお成層圏の上の方には地上から発散する水素が充満している。その水素に酸素を加えると、これがすばらしい動力資源になる。従って飛行機でそこまで上昇し、その水素を吸い込んでこれを動力とすれば、どこまでも飛べる。そして降りるときには、その水素を吸い込んで来て、次に飛び上がるときにこれを使用する。このようにして世界をぐるぐる飛び廻ることは極めて容易である。この時代になると不老不死の妙法が発見される。なぜ人間が死ぬかと言えば、老廃物がたまって、その中毒によるのである。従ってその老廃物をどしどし排除する方法が採られるならは生命は、ほとんど無限に続く。
現にバクテリヤを枯草の煮汁の中に入れると、極めて元気に猛烈な繁殖をつづける。暫くして自分の排出する老廃物の中毒で次第に繁殖力が衰えてゆくが、また新しい枯草の汁の中に持ってゆくと再び活気づいて来る。かくして次々と煮汁を新しくしてゆけば何時までも生きている。即ち不老不死である。しからば人間が不老不死になると、人口が非常に多くなり世界に充満して困るではないかということを心配する人があるかも知れない。しかしその心配はない。自然の妙は不思議なもので、サンガー夫人をひっぱって来る必要がない。人間は、ちょうどよい工合に一人が千年に一人ぐらい子供を産むことになる。これは接木や挿木をくりかえして来た蜜柑には種子がなくなると同じである。早く死ぬから頻繁に子供を産むが、不老不死になると、人間は淡々として神様に近い生活をするに至るであろう。また時間というものは結局温度である。人を殺さないで温度を変える。物を壊さないで温度を上げることができれば、10年を1年にちぢめることは、たやすいことである。逆に温度を下げて零下273度という絶対温度にすると、万物ことごとく活動は止まってしまう。そうなると浦島太郎も夢ではない。真に自由自在の世界となる。更に進んで突然変異を人工的に起すことによって、すばらしい大飛躍が考えられる。即ち人類は最終戦争後、次第に驚くべき総合的文明に入り、そして遂には、みずから作る突然変異によって、今の人類以上のものが、この世に生まれて来るのである。仏教ではそれを弥勒(みろく)菩薩の時代というのである。清水氏の空想の如き時代となれば、人類がその闘争本能を戦争に求めることは到底考えることができない。要は質問者の言う如く、世界の政治的統一は決して一挙に行なわれるのではなく、人類の文明は、すべて不断の発展を遂げるのである。しかし文明の発展には時に急湍がある。われらは最終戦争が人類歴史上の最大急湍であることを確認し、今からその突破にあらゆる準備を急がねばならぬ。
第七問 戦争の発達を東洋、特に日本戦史によらず、単に西洋戦史によるのは公正でないと思う。
答 「戦争史大観の由来記」に白状してある通り、私の軍事学に関する知識は極めて狭く、専門的にやや研究したのは、フランス革命を中心とする西洋戦史の一部分に過ぎない。これが最終戦争論を西洋戦史によった第一の原因である。有志の方々が東西古今の戦争史により、更に広く総合的に研究されることを切望する。必ず私と同一結論に達することを信ずるものである。過去数百年は白人の世界征服史であり今日、全世界が白人文明の下にひれ伏している。その最大原因は白人の獲得した優れた戦争力である。しかし戦争は断じて人生や国家の目的ではなく、その手段にすぎない。正しい根本的な戦争観は西洋に存せずして、われらが所有する。三種の神器の剣は皇国武力の意義をお示し遊ばされる。国体を擁護し皇運を扶翼(ふよく)し奉るための武力の発動が皇国の戦争である。最も平和的であると信ぜられる仏教に於ても、涅槃(ねはん)経に「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊(きゅうせんぼうさく)を持すべし」「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者は正に刀剣器仗を執持すべし」と説かれてあり、日蓮聖人は「兵法剣形の大事もこの妙法より出たり」と断じている。右のような考え方が西洋にあるかないかは無学の私は知らないが、よしあったにせよ、今日のかれらに対しては恐らく無力であろう。戦争の本義は、どこまでも王道文明の指南にまつべきである。しかし戦争の実行方法は主として力の問題であり、覇道文明の発達した西洋が本場となったのは当然である。日本の戦争は主として国内の戦争であり、民族戦争の如き深刻さを欠いていた。殊に平和的な民族性が大きな作用をして、敵の食糧難に同情して塩を贈った武将の心事となり、更に戦の間に和歌のやりとりをしたり、あるいは那須の与一の扇の的となった。こうなると戦やらスポーツやら見境いがつかないくらいである。武器がすばらしい芸術品となったことなどにも日本武力の特質が現われている。東亜大陸に於ては漢民族が永く中核的存在を持続し、数次にわたり、いわゆる北方の蕃族に征服されたものの、強国が真剣に相対峙したことは西洋の如くではない。殊に蕃族は軍事的に支那を征服しても、漢民族の文化を尊重したのである。また東亜に於ては西洋の如く民族意識が強烈でなく、今日の研究でも、いかなる民種に属するかさえ不明な民族が、歴史上に存在するのである。しかも東亜大陸は土地広大で戦争の深刻さを緩和する。ヨーロッパは元来アジアの一半島に過ぎない。あの狭い土地に多数の強力な民族が密集して多くの国家を営んでいる。西洋科学文明の発達はその諸民族闘争の所産と言える。
東洋が王道文明の伝統を保ったのに対し、西洋が覇道文明の支配下に入った有力な原因は、この自然的環境の結果と見るべきである。覇道文明のため戦争の本場となり、且つ優れた選手が常時相対しており、戦場も手頃の広さである関係上、戦争の発達は西洋に於て、より系統的に現われたのは当然である。私の知識の不十分から、研究は自然に西洋戦史に偏したのであるが、戦争の形態に関する限り甚だしい不合理とは言えないと信ずる。私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、一般文明が西洋中心であると言うのではないことを特に強調する。
第八問 決戦・持久両戦争が時代的に交互するとの見解は果して正しいか。
答 ナポレオンはオーストリア、プロイセン等の国々に対しては見事な決戦戦争を強行したのであるが、スペインに対しては実行至難となり、またロシヤに対しては彼の全力を以てしても、ほとんど不可能であった。第二次欧州大戦で新興ナチス・ドイツはポーランド、オランダ、ユーゴー、ギリシャ等の弱小国家のみならず、フランスに対しても極めて強力に決戦戦争を強制した。ソ連に対しては開戦当初の大奇襲によって肝心の緒戦に大成功を収めながら、そう簡単には行かない状況にある。またナポレオンも英国に対しては10年にわたる持久戦争を余儀なくされたが、ヒットラーも英国に決戦戦争を強制することは至難である。右の如く同一時代に於て、ある時には決戦戦争が行なわれ、ある所では持久戦争となったのである。決戦・持久両戦争が時代的に交互するとの見解は十分に検討されなければならない。如何なる時、如何なる所に於ても、両交戦国の戦争力に甚だしい懸隔があるときは持久戦争とはならないのは、もちろんであり、第二次欧州大戦に於けるドイツと弱小国家との間の如き、これである。戦争本来の面目はもちろん決戦戦争にあるが、戦争力がほぼ相匹敵している国家間に持久戦争の行なわれる原因は次の如くである。
軍隊価値の低下
文芸復興以来の傭兵は全く職業軍人である。生命を的とする職業は少々無理があるために、如何に訓練した軍隊でも、徹底的にその武力を運用することは困難であった。これがフランス革命まで持久戦争となっていた根本原因である。フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民的軍隊に帰ったことである。近代人はその愛国の赤誠によってのみ、真に生命を犠牲に供し得るのである。支那に於ては、唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度が破れて以来、その民族性は、極端に武を卑しみ、今日なお「好人不当兵」の思想を清算し得ないで、武力の真価を発揮しにくい状態にある。日本の戦国時代に於ける武士は、日本国民性に基づく武士道によって強烈な戦闘力を発揮したのであるが、それでもなお且つ買収が行なわれ当時の戦争は、いわゆる謀略中心となり、必要の前には父母、兄弟、妻子までも利益のために犠牲としたのである。戦国時代の日本武将の謀略は、中国人も西洋人も三舎を避けるものがあった。日本民族はどの途にかけても相当のものである。今日、謀略を振り廻しても余り成功しないのは、徳川300年の太平の結果である。
防禦威力の強大
戦争に於ける強者は常に敵を攻撃して行き、敵に決戦戦争を強制しようとするのである。ところが、そのときの戦争手段が甚だしく防禦に有利な場合には、敵の防禦陣地を突破することができないで、攻者の武力が敵の中枢部に達し得ず、やむなく持久戦争となる。フランス革命以来、決戦戦争が主として行なわれたのであるが、第一次欧州大戦に於ては防禦威力の強大が戦争を持久せしめるに至った。第二次欧州大戦では戦車の進歩と空軍の大発達が攻撃威力を増加して、敵線突破の可能性を増加し、第一次欧州大戦当時に比し、決戦戦争の方向に傾きつつある。戦国時代の築城は当時の武力をもってしては力攻することが困難で、それが持久戦争の重大原因となった。謀略が戦争の極めて有力な手段となったのは、それがためである。ナポレオンは10年にわたるイギリスとの持久戦争を余儀なくされ、遂に敗れた。イギリスはその貧弱な陸上兵力にかかわらず、ドーバー海峡という恐るべき大水濠の掩護によって、ナポレオンの決戦戦争を阻止したのである。今日のナチス・ドイツに対する頑強な抵抗も、ドーバー海峡に依存している。イギリスのナポレオン及びヒットラーに対する持久戦争は、ドーバー海峡による防禦威力の強大な結果と見るべきである。
国土の広大
攻者の威力が敵の防禦線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、自然に持久戦争となる。ナポレオンはロシヤの軍隊を簡単に撃破して、長駆モスコーまで侵入したのであるが、これはナポレオン軍隊の堅実な行動半径を越えた作戦であったために、そこに無理があった。従ってナポレオン軍の後方が危険となり、遂にモスコー退却の惨劇を演じて、大ナポレオン覇業の没落を来たしたのである。ロシヤを護った第一の力は、ロシヤの武力ではなく、その広大な国土であった。第二次欧州大戦に於て、ソ連はドイツに対する唯一の強力な全体主義国防国家として、強大な武力をもっていた。統帥よろしきを得たならば、スターリン陣地を堅持して、ドイツと持久戦争を交え得る公算も、絶無ではなかったろうと考えられるが、ドイツの大奇襲にあい、スターリン陣地内に大打撃を受けて作戦不利に陥り、まさにモスコーをも失おうとしつつある。しかしスターリンが決心すれば、その広大な国土によって持久戦争を継続し得るものと想像される。今次事変に於ける蒋介石の日本に対する持久戦争は中国の広大な土地に依存している。右三つの原因の中、3項は時代性と見るべきでなく、国土の広大な地方に於ては両戦争の時代性が明確となり難い。ただし時代の進歩とともに、決戦戦争可能の範囲が逐次拡大することは当然であり、ある武力が全世界の至るところに決戦戦争を強制し得るときは、即ち最終戦争の可能性が生ずるときである。1項は一般文化と不可分であり、2項は主として武器や築城に制約される問題であって、時代性と密接な関係がある。ただし海軍により海を以て完全な障害となし得る敵に対しては、今日までは決戦戦争が不可能であった。空軍が真の決戦軍隊となるとき、初めてその障害が全く力を失うのである。即ち土地の広漠な東洋に於ては、両戦争の時代性が明確であると言い難いが、強国が相隣接し国土も余り広くなく、しかも覇道文明のために戦争の本場である欧州に於ては、両戦争が時代性と密に関連し、従って両戦争が交互に現われる傾向が顕著であった。特に現代の西欧では、軍隊の行動半径に対し土地の広さはますます小さくなり、しかも兵力の増加は敵正面の迂回を不可能にするため、戦争の性質は緊密に兵器の威力に関係し、全く時代の影響下に入ったものと言うべきである。
第九問 攻撃兵器が飛躍的に進歩しても、それに応じて防禦兵器もまた進歩するから、徹底した決戦戦争の出現は望み難いのではないか。
答 武器が攻防いずれに有利であるかが、戦争の性質が持久・決戦いずれになるかを決定する有力な原因である。刀槍は裸体の個人間の闘争には決戦的武器であるが、鎧の進歩によってその威力は制限され、殊に築城に拠る敵を攻撃することは甚だしく困難となる。小銃は攻撃よりも防禦に適する点が多い。殊に機関銃の防禦威力は、すこぶる大きい。これに対し、火砲は小銃に比し攻撃を有利にするが、その威力も築城と防禦方法の進歩により掣肘(せいちゅう)される。即ち近時の機関銃の出現と築城の進歩とは防禦威力を急速に高めたが、大口径火砲の大量使用は一時、敵線の突破を可能ならしめた。しかるに陣地が巧みに分散するに従って、火砲の支援による敵線の突破は再び至難となった。戦車は攻撃的兵器である。第一次欧州大戦に於ける戦車の出現は、戦術界に大衝動を与えたが、その質と量とは未だ持久戦争から決戦戦争への変化を起させるまでには至らなかった。爾来20数年、第二次欧州大戦に於ける戦車の数と質の大進歩は、空軍の威力と相俟って、ドイツ軍が弱小国及びフランスに果敢な決戦戦争を強制し得た原因の一つである。しかし真剣な努力を以てすれば、戦車の整備に対し対戦車砲の整備は却って容易であり、戦車による敵陣地の突破は、十分に準備した敵に対しては今日といえども必ずしも容易とは言えない。しかるに飛行機となると、戦車が地上兵器としては極めて決戦的であるのに対しても、全く比較を絶する決戦的兵器である。地上の戦闘では土地が築城に利用され、場所によってはそのまま強い障害ともなり、防禦に偉大な力となる。水上では土地の如き利用物がなく、防禦戦闘は至難であり、防ぐ唯一の手段は攻めることである。更に空中戦に於ては、防禦は全く成立しない。海上よりの攻撃に対する陸上の防禦は比較的容易である。大艦隊をもってしても、時代遅れの海岸要塞を攻略することの不可能であった歴史が多い。しかも海上から陸上を攻撃し得る範囲は極めて狭い。しかるに空中からの陸上や海上に対する攻撃の威力は極めて大きいのに対し、防空は至難である。対空射撃その他の防空戦闘の方法は進歩しても、成層圏にも行動し速度のますます大となる飛行機に対しては、小さな目標はとにかく、大都市の如き大目標防衛のための地上よりする防禦戦闘は、制空権を失えば、ほとんど不可能に近い。空軍のこの威力に対し、あらゆるものを地下に埋没しようとしても実行は至難であり、仮に可能としても、各種の能力を甚だしく低下させることは、まぬかれ難い。空軍に対する国土の防衛は、ますます困難となるであろう。成層圏を自由自在に駆ける驚異的航空機、それに搭載して敵国の中枢部を破壊する革命的兵器は、あらゆる防禦手段を無効にして、決戦戦争の徹底を来たし、最終戦争を可能ならしめる。
第十問 最終戦争に於ける決戦兵器は航空機でなく、殺人光線や殺人電波等ではなかろうか。
答 小銃や大砲は直接敵を殺傷する兵器ではない。それによって撃ち出される弾丸が、殺傷破壊の威力を発揮するのである。軍艦の艦体即ち「ふね」は敵を撃破する能力はない。これに搭載される火砲や発射管から撃ち出される弾丸や魚雷によって敵艦を打ち沈める。飛行機も軍艦と同様である。飛行機によって敵をいためるのではない。迅速に、遠距離に爆弾等を送り得ることが、飛行磯の兵器としての価値である。もし殺人光線、殺人電波その他の恐るべき新兵器が数千、数万キロメートルの距離に猛威をほしいままにし得るに至ったならば、航空機が兵器としての絶対性を失い、空軍建設の必要がなくなるわけである。しかし最終戦争に用いられる直接敵を撃滅する兵器が、みずからかくの如き遠距離に威力を発揮し得ない限り、将来ますます行動力の飛躍的発展を見るべき航空機によることが必要であり、空軍が決戦軍隊として最終戦争に活用されなければならない。即ち破壊兵器として今日の爆弾に代る恐るべき大威力のものが発明されることと信ずるが、これを遠距離に運んで、敵を潰滅するために航空機が依然として必要であろう。
第十一問 最終戦争に於ける戦闘指揮単位は個人だと言うが、将来の飛行機はますます大型となり指揮単位が個人と言うのは当らないのではないか。
答 指揮単位が個人になるとの判断は、今日までの大勢、即ち大隊→中隊→小隊→分隊と分解して来た過程から推察して次は個人となるだろうというので、考えには無理がないようであるが、次に来たるべき戦闘方法に対する判断がつかないため、私としても質問者と同様、具体的に考えると何となく割り切れないものがある。最終戦争の実体は、われらの常識では想像し難い点が多く、決戦は空軍によると言っても、その空軍は今日の飛行機とは全く異なったものの出現が条件である。ここでは折角の質問に対し、私の常識的想像を述べることとする。決して権威ある回答ではない。戦闘機は燃料の制限を受けて行動半径が小さいのみでなく、飛行機の進歩に伴い、余り小型のものは、いろいろな掣肘を受け、大型機の速度増加に対して在来の如き優位の保持が困難となるし、大型爆撃機の巧妙な編隊行動と武装の向上によって、戦闘機の価値は逐次低下するものと判断されたのである。しかるに支那事変及び第二次欧州大戦の経験によれは、制空権獲得のためには戦闘機の価値は依然として極めて高い。敵に爆弾を投ずる爆撃機の任務は固より重大であるが、将来とも空中戦の主体は依然として戦闘機であるとも考えられる。動力の大革命が行なわれ小型戦闘機の行動半径が大いに飛躍すれば、戦闘機は空中戦の花形として、ますます重要な位置を占める可能性がある。大型機は編隊行動と火力のみでなく、装甲等による防禦をも企図するであろうが、空中では水上のような重量の大きな防禦設備は望み難く、小型機はその攻撃威力を十分に発揮できる。空中戦の優者が戦争の運命を左右し、空中戦の勝負は主として小型戦闘機で決せられるものとせば、指揮単位が個人と言うのが正しいこととなる。
第十二問 最終戦争に於ける戦闘指導精神はどうなると思うか。
答 現時の持久戦争から次の決戦戦争即ち最終戦争への変転は再三強調したように、真に超常識の大飛躍である。地上に於ける発達と異なり、想像に絶するものがある。数学的発達をなす兵数(全男子より全国民)、戦闘隊形の幾何学的解釈(面より体)、戦闘指揮単位(分隊より個人)は別として、運用に関する戦闘隊形が戦闘群の次にどんなものになるかは、戦闘方法が全く想像もつかないのであるから判断ができない。同じく運用に関する戦闘指導精神が統制の次に、いかなるものであるかも、全く判断に苦しむ。それでこの二つは正直に白欄にしてあるのであるが、敢えて大胆に意見を述べることとする。統制には、混雑と力の重複を避けるために必要の強制即ち専制的威力を用いると同時に、各兵、各部隊の自主的独断的活動は更に多くを要求されるのである。専制的強制は自由活動を助長するためである。即ち統制は自由から専制への後退ではなく、自由と専制を巧みに総合、発展させた高次の指導精神でなければならない。専制は封建時代に於ける社会の指導精神であり、封建はすべての優秀民族が一度は経験したところである。文化のある時期には封建を必要とするのである。朝鮮の近世の衰微は、過早に郡県政治が行なわれ、官吏の短い在職期間に、できるだけ多く搾取しようとした官僚政治により、遂に国民の生産的、建設的企図心を根底的に消磨し、生活し得る最小限度の生産が、人民の経済活動の目標となった結果であった。封建君主がその領土、人民を子孫に伝えるため、十分にこれを愛惜する専制政治は、その時代には最もよい制度であったのである。しかし人智の進歩は遂に専制下では十分にその進歩的能力を活用し得ないようになり、フランス革命前後に優秀諸民族の間に自由主義革命が逐次実行され、溌剌たる個人の創意が尊重されて、文明は驚異的進歩を見た。しかし、ものにはすべて限度がある。個人自由の放任は社会の進歩とともに各種の摩擦を激化し、今日では無制限の自由は社会全体の能率を挙げ得ない有様となった。統制はこの弊害を是正し、社会の全能率を発揮させるために自然に発生して来た新時代の指導精神に外ならない。戦闘指導精神が自由から統制に進んだと同一理由である。新しく統制に入るには、自由主義時代に行き過ぎた私益中心を抑えるために、最初は反動的に専制即ち強制を相当強く用いなければならないのは、やむを得ないことである。殊に社会的訓練の経験に乏しいわが国に於て、ややもすれば統制が自由からの進歩ではなく自由から統制への後退であるが如き場面をも生じたのは、自然の勢いと言わねばならぬ。しかし統制によって社会、国家の全能力を遺憾なく発揮するためにも、個人の創意、個人の熱情が依然として最も重要であるから、無益の摩擦、不経済な重複を回避し得る範用内に於て、ますます自由を尊重しなければならない。
元来、理想的統制は心の統一を第一とし、法律的制限は最小限に止めるべきである。官憲統制よりも自治統制の範囲を拡大し得るようになることが望ましい。即ち統制訓練の進むに従って、専制的部面は逐次縮小されるべきである。準決勝戦時代の統制訓練により、最終戦争時代の社会指導精神は、今日の統制より遥かに自由を尊重して、更に積極的に国家の全能力を発揮し得るものに進歩するであろう。「戦争史大観」では、兵役がフランス革命までの傭兵時代に於ては「職業」であったのに、フランス革命以後「義務」となったが、最終戦争時代は更に「義務」から「義勇」に進むものと予断している。英米の傭兵を義勇兵と訳するのは適当でない。ここに言う「義勇」は皇運扶翼のために進んで一身を捧げる真の義勇兵である。フランス革命後、兵力が激増し殊に準決勝時代である今日の持久戦には、全健康男子が戦線に動員される。かくの如き大動員は義務を必要とする。最終戦争では、敵の攻撃を受けて堪え忍ぶ消極的戦争参加は全国民となるが、攻勢的軍隊は少数の精鋭を極めたものとなるであろう。かくの如き軍隊には公平に徴募する義務兵では適当と言えぬ。義務はまだ消極的たるをまぬがれない。人も我も許す真に優れた人々の義勇的参加であることが最も望ましい。ナチスの突撃隊、ファッショの黒シャツ隊等は、この傾向に示唆を与えているのではなかろうか。戦闘指導精神も兵役と同一の方向をとり、最終戦争時代の社会指導精神と同じく、今日の統制よりも更に多くの自由を許すことにより、戦闘能力の積極的発揮に努めることとなるであろう。即ち自由と統制との総合発展ではなかろうか。更に最終戦争終了後、即ち八紘一宇の建設期に入れば、人々の自由は更に高度に尊重され、全人類一致精進の中にも、各人は精錬された自由の精神を以て、自主的に良心的にその全能力を発揮するような社会状態となるであろう。統制主義の今日は、人類歴史中最も緊張した時代であり、少々の無理があっても最短期間に最大効果を挙げようとする合宿時代である。
第十三問 日本が最終戦争に於て必勝を期し得るという客観的条件が十分に説明されていない。単なる信仰では安心できないと思う。
答 われらは30年内外に最終戦争が来るものとして、20年を目標に東亜連盟の生産力をして米州の生産力を追い越させようとするのである。たしかに驚くべき計画であり、空想と笑われても無理はない。われらも決して楽観してはいない。難事中の至難事である。しかし天皇の御為め全人類のために、何としてもこれを実現せねばならぬ。この頃の日本人は口に精神第一を唱えながら、資源獲得にのみ熱狂している。ドイツの今日は資源貧弱の苦境を克服するための努力が科学、技術の進歩をもたらしたのである。ドイツを尊敬する人は、まずこの点を学ぶべきである。特に最終戦争と不可分の関係にある、いわゆる第二産業革命に直面しつつある今日、この点が最も肝要である。資源もある程度は必要である。しかるに日満支だけでも実に莫大な資源を蔵している。世界無比の日本刀を鍛えた砂鉄は80億ton、あるいは100億tonと言われている。これだけでも鉄について日本は世界一の資源を持っていると言える。ただ砂鉄の少ない西洋の製鉄法を模倣して来た日本は、まだ砂鉄精錬に完全な成功を収めなかった。最近は純日本式の卓抜な方法が成功しつつある。楢崎式の如き、それである。満州国の鉄の埋蔵量もすばらしい。石炭は日本内にも相当にあるが、満州国の東半分は、どこを掘っても豊富な石炭が出て来る。更に山西に行けば世界衆知の大資源がある。石油は日本国内にも、まだまだある。熱河から陜西、甘粛、四川、雲南を経てビルマに至るアジアの大油脈があることは確実らしく、蘭印の石油はその末端と言われる。現に熱河には石油が発見され、陜西、甘粛、四川に油の出ることは世人の知るところである。大規模な試掘を強行せねばならぬ。石炭液化も今日まで困難な路を歩んで来たが、そろそろ純日本式の簡単で優秀な世界無比の能率よい方式が成功しつつある。前記の楢崎式の成功は、われらの確信するところである。その他の資源も決して恐れるに足りない。山西、陜西、四川以西の地は、ほとんど未踏査の地方で、いかなる大資源が出るかも計り難い。東亜の最大強味は人的資源である。生産の最大重要要素は今日以後は特に人的資源である。日本海、支那海を湖水として日満支三国に密集生活している五億の優秀な人口は、真に世界最大の宝である。世人は支那の教育不振を心配するが、大したことはない。支那人は驚くべき文化人である。世界の驚異である美術工芸品を造ったあの力を活用し、速やかに高い能力を発揮し得ることを疑わない。ただ問題となるのは、この人的物的資源を僅々20年内に大動員し得るかである。固より困難な大作業である。しかし革命によって根底的に破壊したソ連が、資源は豊富であるにせよ、広大な地域に資源も人も分散している不利を克服し、あの蒙昧な人民を使用して5年、10年の間に成功した生産力の大拡張を思うとき、われらは断じて成功を疑うことができない。
ただし偉大な達見と強力な政治力が必要だ。一億一心も滅私奉公も、明確なこの大目標に力強く集中されて初めて真の意義を発揮する。特に私の強調したいのは、西洋人が物質文明に耽溺しているのに、われらは数千年来の父祖の伝統によって、心から簡素な生活に安んじ得る点である。日本の一万トン巡洋艦が同じアメリカの甲級巡洋艦に比べて、その戦闘力に大きな差異があるのは、主として日本の海軍軍人の剛健な生活のためである。先日、私は秋田県の石川理紀之助翁の遺跡を訪ねて、無限の感にうたれた。翁は10年の長い年月、草木谷という山中の4畳半ぐらいの草屋に単身起居し、その後、後嗣の死に遇い、やむなく家に帰った後も、極めて狭い庵室で一生を送った。この簡素極まる生活の中に数10万首の歌を詠み、香を薫じ、茶をたてつつ、誠に高い精神生活を営み、且つ農事その他に驚くべく進歩した科学的研究、改善を行なったのである。この東洋的日本的精神を生かし、生活を最大級に簡素化し、すべてを最終戦争の準備に捧げることにより、西洋人の全く思い及ばぬ力を発揮し得るのである。日本主義者は空論するよりも率先してこれを実行せねばならぬ。この簡素生活は目下国民の頭を悩ましつつある困難な防空にも、大きな光明を与えるものと信ずる。困難ではあるが、われらは必ず20年以内に米州を凌駕する戦争力を養い得るだろう。ここで注意すべきことは、持久戦争時代の勝敗を決するものは主として量の問題であるが、決戦戦争時代には主として質が問題となることである。しかし、われらが断然新しい決戦兵器を先んじて創作し得たならば、今日までの立遅れを一挙に回復することも敢えて難事ではない。時局が大急転するときは、後進国が先進者を追い越す機会を捉えることが比較的に容易である。科学教育の徹底、技術水準の向上、生産力の大拡充が、われらの奮闘の目標であるが、特に発明の奨励には国家が最大の関心を払い、卓抜果敢な方策を強行せねばならぬ。発明奨励のために国民が第一に心掛けねばならないのは、発明を尊敬することである。日本に於ける天才の一人である大橋為次郎翁は、皇紀2600年記念として、明治神宮の近くに発明神社を建て、東西古今を通じて、卓抜な発明によって人類の生活に大きな幸福を与えてくれた人々を祭りたいと、熱心に運動していた。私は極めて有意義な計画と信ずるが、残念ながら創立できなかった。願わくば全国民が胸の中に発明神社を建てて頂きたい。この重大時期に於て天才はややもすれば社会的重圧の下に葬られつつある。発明奨励の方法は官僚的では絶対にいけない。よろしく成金を動員すべきである。独断で思い切った大金を投げ出し得るものでなければ、発明の奨励はできない。発明がある程度まで成功すれば、その発明家に重賞を与えるとともに、その発明を保護したものに対しては勲章を賜わるようお願いする。
現在では勲章は主として官吏に年功によって授けられる。自由主義時代ならば、国家の統制下にある官吏が特別の恩賞に浴するのは当然であろうが、統制時代には、真に国家に積極的な功績のあったものに、職域等にこだわらず、公正に恩賞を賜わることが肝要である。
発明の価値によっては、その保護者に授爵も奏請すべきである。更に一代の内に儲けた財産に対しては極めて高い相続税を課する等の方法を講じたならば、成金は自分の儲けた全部を発明奨励に出すことになるだろう。自分の力によって儲けた富を最終戦争準備の発明奨励に捧げることは、昭和時代の成金の名誉であり、誇りでなければならぬ。成功の確実な見込がついた発明は、これを国家の研究機関で総合的学術の力によって速やかに工業化する。大研究機関の新設は固より必要であるが、全日本の研究機関を、形式的でなく有機的に統一し、その全能力を自主積極的に発揮させるべきである。最終戦争のためには、どれだけの地域をわが協同範囲としなければならないかは一大問題である。作戦上及び資源関係よりすれば、なるべく広い範囲が希望されるのであるが、同時に戦争と建設とはなかなか両立し難く、大建設のためにはなるべく長い平和が希望される。徒らに範囲拡大のために力を消耗することは、慎重に考えねばならぬ。このことについても持久戦争時代と異なり、決戦戦争に徹底する最終戦争に於ては、必ずしも広い地域を作戦上絶対的に必要とはしないのである。優秀な武力が一挙に決戦を行ない得るからである。以上の如く、われらが最終戦争に勝つための客観的条件は固より楽観すべきではないが、われらの全能力を総合運用すれば、断じて可能である。そしてこの超人的事業を可能にするものは、国民の信仰である。八紘一宇の大理想達成に対する国民不動の信仰が、いかなる困難をも必ず克服する。苦境のどん底に落ちこんでも泰然、敢然と邁進する原動力は、この信仰により常に光明と安心とを与えられるからである。日本国体の霊力が、あらゆる不足を補って、最終戦争に必勝せしめる。
第十四問 最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、科学的に説明されない限り現代人には了解できない。
答 この種の質問を度々受けるのは、私の実は甚だ意外とするところである。私は日蓮聖人の信者として、聖人の予言を確信するものであり、この信仰を全国民に伝えたい熱望をもっている。しかし「最終戦争論」が決して宗教的説明を主とするものでないことは、少しく丁寧に読まれた人々には直ちに理解されることと信ずる。この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、仏の予言は政治史の大勢、科学・産業の進歩とともに、私の軍事研究を傍証するために挙げた一例に過ぎない。私の軍事科学の説明が甚だ不十分であることは、固より自認するところである。しかしかくの如き総合的社会現象を完全に科学をもって証明することは不可能のことである。科学的とみずから誇るマルクス主義に於てすら、資本主義時代の後に無産者独裁の時代が来るとの判断は結局、一つの推断であって、決して科学的に正確なものとは言えない。この見地に立てば、不完全な私の最終戦争必至の推断も相当に科学的であるとも言い得るではなかろうか。日本の知識人は今日まで軍事科学の研究を等閑にし、殊に自由主義時代には、歴史に於て戦争の研究を、ことさらに軽視していた。戦争は人類の有するあらゆる力を瞬間的に最も強く総合運用するものであるから、その歴史は文明発展の原則を最も端的に示すものと言うべきである。また戦争は多くの社会現象の中で最も科学的に検討し易いものではなかろうか。近時、宗教否定の風潮が強いのに乗じ、「「最終戦争論」に予言を述べているのは穏当を欠く。予言の如きは世界を迷わすものである」と批難する人が多い由を耳にする。人智がいかに進んでも、脳細胞の数と質に制約されて一定の限度があり、科学的検討にも、おのずから限度がある。そしてそれは宇宙の森羅万象に比べては、ほんの局限された一部分に過ぎない。宇宙間には霊妙の力があり、人間もその一部分をうけている。この霊妙な力を正しく働かして、科学的考察の及ばぬ秘密に突入し得るのは、天から人類に与えられた特権である。人もし宇宙の霊妙な力を否定するならば、それは天御中主神の否定であり、日本国体の神聖は、その重大意義を失う結果となる。天照大神、神武天皇、釈尊の如き聖者は、よく数千年の後を予言し得る強い霊力を有したのである。予言を批難しようとする科学万能の現代人は、「天壌無窮」「八紘一宇」の大予言を、いかに拝しているのか。皇祖皇宗のこの大予言は実にわれらが安心の根底である。
第十五問 産業大革命の必然性についての説明が不十分であると思う。
答 全くその通りである。私の知識は軍事以外は皆無に近い。「最終戦争論」は、信仰によって直感している最終戦争を、私の専門とする軍事科学の貧弱ながら良心的な研究により、やや具体的に解釈し得たとの考えから、敢えて世に発表したのである。その際、軍事は一般文明の発展と歩調を同じくするとの原則に基づき、各方面から観察しても同一の結論に達するだろうとの信念の下に、若干の思いつきを述べたに過ぎない。この質疑回答の中にも、私の分を越えた僭越な独断が甚だ多いのは十分承知しており、誠にお恥ずかしい極みである。志ある方々が、思想・社会・経済等あらゆる方面から御検討の上、御教示を賜わらんことを切にお願い申上げる次第である。「東亜連盟」誌上の橘樸氏の発表に対しては、私は心から感激している。
 
第三部 戦争史大観

 

第一篇 戦争史大観  
第一 緒論
一 戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。即ち、一般文化の進歩を研究して、戦争発達の状態を推断し得べきとともに、戦争進化の大勢を知るときは、人類文化発達の方向を判定するために有力なる根拠を得べし。
二 戦争の絶滅は人類共通の理想なり。しかれども道義的立場のみよりこれを実現するの至難たることは、数千年の歴史の証明するところなり。
戦争術の徹底せる進歩は、絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、その時期は既に切迫しつつあるを思わしむ。
三 戦争の指導、会戦の指揮等は、その有する二傾向の間を交互に動きつつあるに対し、戦闘法及び軍の編成等は整然たる進歩をなす。
即ち、戦闘法等が最後の発達を遂げ、戦争指導等が戦争本来の目的に最もよく合する傾向に徹底するときは、人類争闘力の最大限を発揮するときにして、やがてこれ絶対平和の第一歩たるべし。
第二 戦争指導要領の変化
一 戦争本来の目的は武力を以て徹底的に敵を圧倒するにあり。しかれども種々の事情により武力は、みずからすべてを解決し得ざること多し。前老を決戦戦争とせば後者は持久戦争と称すべし。
二 決戦戦争に在りては武力第一にして、外交・財政は第二義的価値を有するに過ぎざるも、持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い、財政・外交等はその地位を高む。即ち、前者に在りては戦略は政略を超越するも後者に在りては逐次政略の地位を高め、遂に将帥は政治の方針によりその作戦を指導するに至ることあり。
三 持久戦争は長期にわたるを通常とし、武力価値の如何により戦争の状態に種々の変化を生ず。即ち、武力行使に於ても、会戦を主とするか小戦を主とするか、あるいは機動を主とするか等各種の場合を生ず。しかして持久戦争となる主なる原因次の如し。
軍隊の価値低きこと。17-18世紀の傭兵、近時支那の軍閥戦争等。
軍隊の運動力に比し戦場の広きこと。ナポレオンの露国役、日露戦争、支那事変等。
攻撃威力が当時の防禦線を突破し得ざること。欧州大戦等。
四 両戦争の消長を観察するに、古代は国民皆兵にして決戦戦争行なわれたり。用兵術もまた暗黒時代となれる中世を経て、ルネッサンスとともに新用兵術生まれしが、重金思想は傭兵を生み、その結果、持久戦争の時代となれり。フリードリヒ大王は、この時代の用兵術発展の頂点をなす。
大王歿後3年にして起れるフランス革命は、傭兵より国民皆兵に変化せしめて戦術上に大変化を来たし、ナポレオンにより殲滅戦略の運用開始せられ、決戦戦争の時代となれり。モルトケ、シュリーフェン等により、ますますその発展を見たるも、防禦威力の増加は、南阿戦争、日露戦争に於て既に殲滅戦略運用の困難なるを示し、欧州大戦は遂に持久戦争に陥り、タンク、毒ガス等の使用により、各交戦国は極力この苦境より脱出せんと努力せるも、目的を達せずして戦争を終れり。
五 長期戦争は現今、戦争の常態なりと一般に信ぜられあるも、歴史は再び決戦戦争の時代を招来すべきを暗示しつつあり。しかして将来戦争は恐らくその作戦目標を敵国民となすべく、敵国の中心に一挙致命的打撃を加うることにより、真に決戦戦争の徹底を来たすべし。
第三 会戦指揮方針の変化
一 会戦指揮の要領は、最初より会戦指導の方針を確立し、その方針の下に一挙に迅速に決戦を行なうと、最初はまずなるべく敵に損害を与えつつ、わが兵力を愛惜し、機を見て決戦を行なうとの二種に分かつを得べし。
二 しかして両者いずれによるべきやは、将帥及び軍隊の特性と当時の武力の強靭性いかんによる。
ギリシャのファランクスは前者に便にして、ローマのレギヨンは後者に便なり。これ主として両国国民性の然らしむるところ。ギリシャ民族に近きドイツと、ローマ民族に近きフランスが、欧州大戦初期に行なえる会戦指導方針と対比し、ここに面白き対照を与う。また、その使用せる武力の性質によりしといえども、ドイツ民族より前者の達人たるフリードリヒ大王を生じ、ラテン民族より後者の名手たるナポレオンを生じたるは、必ずしも偶然とのみ称し難きか。
三 横隊戦術に於ては前者を有利とするに対し、ナポレオン時代の縦隊戦術は兵力の梯次的配置により戦闘力の靭強性を増加し、且つ側面の強度を増せるため自然、後者を有利とすること多し。
爾後、火器の発達により正面堅固の度を増すに従い、戦闘正面の拡大を来たし逐次、横隊戦術に近似するに至れり。欧州大戦初期に於けるドイツ軍のフランス侵入方法は、ロイテン会戦指導原理と相通ずるものあり。欧州大戦に於て敵翼包囲不可能となるや、強固なる正面突破のため深き縦長を以て攻撃を行ない、会戦指揮は、またもや第二線決戦を主とするに至れり。
第四 戦闘方法の進歩
一 古代の密集戦術は「点」の戦法にして単位は大隊なり。横隊戦術は「実線」の戦法にして単位は中隊、散兵戦術は「点線」の戦法にして単位は小隊を自然とす。戦闘の指導精神は横隊戦術に於ては「専制」にして、散兵戦術にありては「自由」なり。
日露戦後、射撃指揮を中隊長に回収せるは苦労性なる日本人の特性を表わす一例なり。もし散兵戦闘を小隊長に委すべからずとせば、その民族は既にこの戦法時代に於ける落伍者と言わざるべからず。
戦闘群戦術は「面」の戦法にして単位は分隊とす。その戦闘指導精神は統制なり。
二 実際に於ける戦闘法の進歩は右の如く単一ならざりしも、この大勢に従いしことは否定すべからず。
三 将来の戦術は「体」の戦法にして、単位は個人なるべし。
第五 戦争参加兵力の増加と国軍の編成
一 職業者よりなる傭兵時代は兵力大なる能わず。国民皆兵の徹底により逐次兵力を増加し、欧州大戦には全健康男子これに加わるに至れり。
二 将来、戦闘員の採用は恐らく義務より義勇に進むべく、戦争に当りては全国民が殺戮の渦中に投入せらるべし。
三 国軍の編制は兵力の増加に従い逐次拡大せり。特に注目に値するは、ナポレオンの1812年役に於て、実質に於て三軍を有しながら、依然一軍としての指揮法をとり、非常なる不便を嘗(な)めたりしが、欧州大戦前のドイツ軍は既に思想的には方面軍を必要としありしも遂に、ここに着意する能わずして、第一・第二・第三軍を第二軍司令官に指揮せしめ、国境会戦にてフランス第五軍を逸する一大原因をなせり。
戦史の研究に熱心なりしドイツ軍にして然り。人智の幼稚なるを痛感せずんばあらず。
第六 将来戦争の予想
一 欧州戦争は欧州諸民族の決勝戦なり。「世界大戦」と称するは当らず。
第一次欧州大戦後、西洋文明の中心は米国に移りつつあり。次いで来るべき決戦戦争は日米を中心とするものにして真の世界大戦なるべし。
二 前述せる戦争の発達により見るときは、この大戦争は空軍を以てする決戦戦争にして、次に示す諸項より見て人類争闘力の最大限を用うるものにして、人類の最後の大戦争なるべし。即ち、この大戦争によりて世界は統一せられ、絶対平和の第一歩に入るべし。
真に徹底せる決戦戦争なり。
吾人は体以上のものを理解する能わず。
全国民は直接戦争に参加し、且つ戦闘員は個人を単位とす。即ち各人の能力を最大限に発揚し、しかも全国民の全力を用う。
三 しからばこの戦争の起る時機いかん。
東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。
米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。
決戦用兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること。
右三条件はほとんど同速度を以て進みあるが如く、決して遠き将来にあらざることを思わしむ。
第七 現在に於ける我が国防
一 天皇を中心と仰ぐ東亜連盟の基礎として、まず日満支協同の完成を現時の国策とす。
二 国防とは国策の防衛なり。即ち、わが現在の国防は持久戦争を予期して次の力を要求す。
ソ国の陸上武力と米国の海上武力に対し東亜を守り得る武力。
目下の協同体たる日満両国を範囲とし自給自足をなし得る経済力。
三 満州国の東亜連盟防衛上に於ける責務真に重大なり。特にソ国の侵攻に対しては、在大陸の日本軍とともに断固これを撃破し得る自信なかるべからず。
第二篇 戦争史大観の序説 (戦争史大観の由来記)

 

私が、やや軍事学の理解がつき始めてから、殊に陸大入校後、最も頭を悩ました一問題は、日露戦争に対する疑惑であった。日露戦争は、たしかに日本の大勝利であった。しかし、いかに考究しても、その勝利が僥倖の上に立っていたように感ぜられる。もしロシヤが、もう少し頑張って抗戦を持続したなら、日本の勝利は危なかったのではなかろうか。
日本陸軍はドイツ陸軍に、その最も多くを学んだ。そしてドイツのモルトケ将軍は日本陸軍の師表として仰がれるに至った。日本陸軍は未だにドイツ流の直訳を脱し切っていない。例えば兵営生活の一面に於ても、それが顕著に現われている。服装が洋式になったのは、よいとしても、兵営がなお純洋式となっているのは果して適当であろうか。脱靴だけは日本式であるが、田舎出身の兵隊に、慣れない腰掛を強制し、また窮屈な寝台に押し込んでいる。兵の生活様式を急変することは、かれらの度胆を抜き、不慣れの集団生活と絶対服従の規律の前に屈伏させる一手段であるかも知れないが、しかし国民の兵役に対する自覚が次第に立派なものに向上して来た今日では、その生活様式を国民生活に調和させることが必要である。のみならず更にあらゆる点に、積極的考慮が払われるべきではないだろうか。
軍事学については、戦術方面は体験的であるため自然に日本式となりつつあるものの、大戦略即ち戦争指導については、いかに見てもモルトケ直訳である。もちろん今日ではルーデンドルフを経てヒットラー流(?)に移ったが、依然としてドイツ流の直訳を脱してはいない。
日露戦争はモルトケの戦略思想に従い「主作戦を満州に導き、敵の主力を求めて遠くこれを北方に撃攘し、艦隊は進んで敵の太平洋艦隊を撃破し以て極東の制海権を獲得する……」という作戦方針の下に行なわれたのである。武力を以て迅速に敵の屈伏を企図し得るドイツの対仏作戦ならば、かくの如き要領で計画を立てて置けば充分である。元来、作戦計画は第一会戦までしか立たないものである。
しかしながら日本のロシヤに対する立場はドイツのフランスに対するそれとは全く異なっている。日本の対露戦争には単に作戦計画のみでなく、戦争の全般につき明確な見通しを立てて置かねばならないのではないか。これが私の青年時代からの大きな疑問であった。
日露戦争時代に日本が対露戦争につき真に深刻にその本質を突き止めていたなら、あるいは却ってあのように蹶起する勇気を出し得なかったかも知れぬ。それ故にモルトケ戦略の鵜呑みが国家を救ったとも言える。しかし今日、世界列強が日本を嫉視している時代となっては、正しくその真相を捉え根底ある計画の下に国防の大方針を確立せねばならぬ。これは私の絶えざる苦悩であった。
陸大卒業後、半年ばかり教育総監部に勤務した後、漢口の中支那派遣隊司令部付となった。当時、漢口には一個大隊の日本軍が駐屯していたのである。漢口の勤務二個年間、心ひそかに研究したことは右の疑問に対してであった。しかし読書力に乏しい私は、殊に適当と思われる軍事学の書籍が無いため、東亜の現状に即するわが国防を空想し、戦争を決戦的と持続的との二つに分け、日本は当然、後者に遭遇するものとして考察を進めて見た。
ロシヤ帝国の崩壊は日本の在来の対露中心の研究に大変化をもたらした。それは実に日本陸軍に至大の影響を及ぼし、様々に形を変えて今日まで、すこぶる大きな作用を為している。ロシヤは崩壊したが同時に米国の東亜に対する関心は増大した。日米抗争の重苦しい空気は日に月に甚だしくなり、結局は東亜の問題を解決するためには対米戦争の準備が根底を為すべきなりとの判断の下に、この持続的戦争に対する思索に漢口時代の大部分を費やしたのであった。当時、日本の国防論として最高権威と目された佐藤鉄太郎中将の「帝国国防史論」も一読した。この史論は、明治以後に日本人によって書かれた軍事学の中で最も価値あるものと信ぜられるが、日本の国防と英国の国防を余りに同一視し、両国の間に重大な差異のあることを見遁している点は、遺憾ながら承服できなかった。かくて私は当時の思索研究の結論として、ナポレオンの対英戦争が、われらの最も価値ある研究対象であるとの年来の考えを一層深くしたのであった。明治43年頃、韓国守備中に、箕作博士の「西洋史講話」を読んで植え付けられたこの点に関する興味が、不断に私の思索に影響を与えつつあったのである。
ただ、箕作博士の所論もマハン鵜呑みの点がある。後年、箕作博士が陸軍大学教官となって来られた際、一度この点を抗議して博士から少しく傾聴せられ来訪をすすめられたが、遂に訪ねる機会も無くそのままとなったのは、未だに心残りである。
大正12年、ドイツに留学。ある日、安田武雄中将(当時大尉)から、ルーデンドルフ一党とベルリン大学のデルブリュック教授との論争に関する説明をきき、年来の研究に対し光明を与えられしことの大なるを感知して、この方面の図書を少々読んだのであるが、語学力が不充分で、読書力に乏しい私は、あるいは半解に終ったかとも思われるが、ともかくデルブリュック教授の殲滅戦略、消耗戦略の大体を会得し得て盛んにこの言葉を使用し、陸軍大学に於ける私の欧州古戦史の講義には、戦争の二大性質としてこの名称を用いたのであった。
ドイツに赴く途中、シンガポールに上陸の際、国柱会(こくちゅうかい)の人々から歓迎された席上に於て、私はシンガポールの戦略的重要性を強調し、英国はインドの不安を抑え、豪州防衛のために戦略的側面陣地価値ある同地を、近く要塞化すべきを断じたのであったが、この後、間もなく実現したので、当時列席した人から感慨深い挨拶状を受けたことがあった。
ドイツ留学の2年間は、主として欧州大戦が殲滅戦略から消耗戦略に変転するところに興味を持って研究したのであるが、語学力の不充分と怠慢性のため充分に勉強したと言えず、誠にお恥ずかしい次第である。欧州大戦につき少しく研究するとともに、デルブリュックとドイツ参謀本部最初の論争戦であったフリードリヒ大王の研究を必要とし、且つかねての宿望であったナポレオンを研究し、大王の消耗戦略からナポレオンの殲滅戦略への変化は欧州大戦の変化とともに軍事上最も興味深い研究なるべしと信じ、両名将の研究に要する若干の図書を買い集めたのであった。
明治の末から大正の初めにかけての会津若松歩兵第65連隊は、日本の軍隊中に於ても最も緊張した活気に満ちた連隊であった。この連隊は幹部を東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設されたのであったが、それが一致団結して訓練第一主義に徹底したのである。明治42年末、少尉任官とともに山形の歩兵第32連隊から若松に転任した私は、私の一生中で最も愉快な年月を、大正4年の陸軍大学入校まで、この隊で過ごしたのである。いな、陸軍大学卒業までも、休みの日に第4中隊の下士室を根城として兵とともに過ごした日は、極めて幸福なものであった。
私自身は陸大に受験する希望がなかったのであるが、余り私を好かぬ上官たちも、連隊創設以来一名も陸大に入学した者がないので、連隊の名誉のためとて、比較的に士官学枚卒業成績の良かった私を無理に受験させたのである。私の希望通り陸大に入校しなかったならば、私は自信ある部隊長として、真に一介の武人たる私の天職に従い、恐らく今日は屍を馬革に包み得ていたであろう。しかるに私は入学試験に合格した。これには友人たちも驚いて「石原は、いつ勉強したか、どうも不思議だ」とて、多分、他人の寝静まった後にでも勉強したものと思っていたらしい。余り大人気ないので私は、それに対し何も言ったことはなかったが、起床時刻には連隊に出ており、消灯ラッパを通常は将校集会所の入浴場で聞いていた私は、宿に帰れば疲れ切って軍服のまま寝込む日の方が多かったのである。あのころは記憶力も多少よかったらしいが、入学試験の通過はむしろ偶然であったろうと思う。しかしこれは連隊や会津の人々には大きな不思議であったらしい。
山形時代も兵の教育には最大の興味を感じていたのであるが、会津の数年間に於ける猛訓練、殊に銃剣術は今でも思い出の種である。この猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の念であり、心を悩ますものは、この一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信念感激をたたき込むかであった。私どもは幼年学校以来の教育によって、国体に対する信念は断じて動揺することはないと確信し、みずから安心しているものの、兵に、世人に、更に外国人にまで納得させる自信を得るまでは安心できないのである。一時は筧(かけい)博士の「古神道大義」という私にはむずかしい本を熱心に読んだことも記憶にあるが、遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、大正9年、漢口に赴任する前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮聖人の「前代未聞の大闘諍(とうじょう)一閻浮提(えんぶだい)に起るべし」は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。
戦闘法が幾何学的正確さを以て今日まで進歩して来たこと、即ち戦闘隊形が点から線に、更に面になったことは陸軍大学在学当時の着想であった。いな恐らくその前からであったらしい。大正3年夏の「偕行社記事別冊」として発表された恐らく曽田中将の執筆と考えられる「兵力節約案」は、面の戦術への世界的先駆思想であると信ずるが、私がこの案を見て至大の興味を感じたことは今日も記憶に明らかである。教育総監部に勤務した頃、当時わが陸軍では散兵戦術から今日の戦闘群の戦法に進むことに極めて消極的であったのであるが、私が自信を以て積極的意見を持っていたのは、この思想の結果であった。
私の最終戦争に対する考えはかくて、
1 日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。
2 戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。
3 戦闘隊形は点から線に、更に面に進んだ。次に体となること。
の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった。大正何年か忘れたが、緒方大将一行が兵器視察のため欧州旅行の途中ベルリンに来られたとき、大使館武官の招宴があり、私ども駐在員も末席に連なったのであるが、補佐官坂西少将(当時大尉)が5分間演説を提案し最初に私を指名したので私は立って、「何のため大砲などをかれこれ見て歩かれるのか。余り遠からず戦争は空軍により決せられ世界は統一するのだから、国家の全力を挙げて最優秀の飛行機を製作し得るよう今日から準備することが第一」というようなことを述べたのであるが、これは緒方大将を少々驚かしたらしく数年後、陸軍大臣官邸で同大将にお目にかかったとき、特に御挨拶があった。大正14年秋、シベリヤ経由でドイツから帰国の途中、哈爾賓(ハルビン)で国柱会の同志に無理に公開演説に引出された。席上で「大震災により破壊した東京に10億の大金をかけることは愚の至りである。世界統一のための最終戦争が近いのだから、それまでの数10年はバラックの生活をし戦争終結後、世界の人々の献金により世界の首都を再建すべきだ」といったようなことを言って、あきれられたことも覚えている。
ドイツから帰国後、陸軍大学教官となったが、大正15年初夏、故筒井中将から、来年の2年学生に欧州古戦史を受け持てとの話があり、一時は躊躇したが再三の筒井中将の激励があり、もともと私の最も興味をもっていた問題であったため、遂に勇を鼓してお受けすることになった。
かくて同年夏、会津の川上温泉に立て籠もり日本文の参考資料に熱心に目を通した。もちろん泥縄式の甚だしいものであったが、講義の中心をなす最終戦争を結論とする戦争史観は脳裡に大体まとまっていたので、とりあえず何とか片付け、大正15年暮から15回にわたる講義を試みたのであった。「近世戦争進化景況一覧表」はそのときに作られたのである。
昭和2年の同2年学生に対する講義は35回であったが、今度は少し余裕があったため、ドイツから持ち帰った資料を勉強し、更にドイツにいた原田軍医少将(当時少佐)、オーストリア駐在武官の山下中将をもわずらわして不足の資料を収集した。昭和元年から2年への冬休みは、安房(あわ)の日蓮聖人の聖蹟で整頓した頭を以て、とにかく概略の講義案を作成した。もちろん、根本理論は前年度のものと変化はないのである。当時、陸軍大学幹事坂部少将から熱心な印刷の要望があったが、充分に検討したものでもないので、これに応ずる勇気も無く、現在も私の手元に保存してある次第である。
昭和3年度のためには、前年の講義録を再修正する前に、私の年来最大の関心事であるナポレオンの対英戦争の大陸封鎖の項に当面し、全力を挙げて資料を整理し、昭和2年から3年への年末年始は、これを携えて伊豆の日蓮聖人の聖蹟に至り、構想を整頓して正月中頃から起草を始めようとしたとき、流感にかかり中止。その後、再び着手しようとすると今度は猛烈な中耳炎に冒されて約半歳の間、陸軍軍医学校に入院し、遂に目的を達せずして終ったのであった。その後もこの研究、特に執筆を始めると不思議にも必ず病気にかかるので「アメリカの神様が必死に邪魔をするんだろう」などと冗談を言うような有様であった。
昭和2年の晩秋、伊勢神宮に参拝のとき、国威西方に燦然として輝く霊威をうけて帰来。私の最も尊敬する佐伯中佐にお話したところ余り良い顔をされなかったので、こんなことは他言すべきでないと、誰にも語ったことも無く、そのままに秘して置いたのであるが、当時の厳粛な気持は今日もなお私の脳裏に鞏固(きょうこ)に焼き付いている。
昭和3年10月、関東軍参謀に転補。当時の関東軍参謀は今日考えられるように人々の喜ぶ地位ではなかった。旅順で関東庁と関東軍幹部の集会をやる場合、関東庁側は若い課長連が出るのに軍では高級参謀、高級副官が止まりで、私ども作戦主任参謀などは列席の光栄に浴し得なかった。満鉄の理事などにも同席は不可能なことで、奉天の兵営問題で当時の満鉄の地方課長から散々に油をしぼられた経験は、今日もなお記憶に残っている。
関東軍に転任の際も、今後とも欧州古戦史の研究を必ず続ける意気込みで赴任した。特に万難を排しナポレオンの対英戦争を書き上げる決心であった。しかし中耳炎病後の影響は相当にひどく、何をやっても疲れ勝ちで遂に初志を貫きかねた。漢口駐屯時代に徐州で木炭中毒にかかり、それ以来、脈搏に結滞を見るようになり、一時は相当に激しいこともあり、また漢口から帰国後、マラリヤにかかったなどの関係上、爾後の健康は昔日の如くでなく、且つ中年の中耳炎は根本的に健康を破壊し、殊に満州事変当時は大半、横臥して執務した有様であった。
かような関係で族順では遂に予定の計画を果し得なかったが、しかし陸大教官2個年間の講義は未消化であり、特にデルブリュックの影響強きに失し、戦争指導の両方式即ち戦争の性質の両面を「殲滅戦略」「消耗戦略」と命名していたのは、どうも適当でないとの考えを起し、この頃から戦争の性質を「殲滅戦争」「消耗戦争」の名を用いて、戦略に於ける「殲滅戦略」「消耗戦略」との間の区別を明らかにすることにした。
「殲滅戦争」「消耗戦争」の名称を「決戦戦争」「持久戦争」に改めたのは満州事変以後のことである。
昭和4年5月1日、関東軍司令部で各地の特務機関長らを集め、いわゆる情報会議が行なわれた。当時の軍司令官は村岡中将で、河本大佐はその直前転出し、板垣征四郎大佐が着任したばかりであった。奉天の秦少将、吉林の林大八大佐らがいたように覚えている。この会議はすこぶる重大意義を持つに至った。それは張作霖(ちょうさくりん)爆死以後の状況を見ると、どうも満州問題もこのままでは納まりそうもなく今後、何か一度、事が起ったなら結局、全面的軍事行動となる恐れが充分にあるから、これに対する徹底せる研究が必要だとの結論に達したのであった。その結果、昭和4年7月、板垣大佐を総裁官とし、関東軍独立守備隊、駐箚(ちゅうさつ)師団の参謀らを以て、哈爾賓、斉々哈爾(チチハル)、海拉爾(ハイラル)、満州里(マンチュウリ)方面に参謀演習旅行を行なった。
演習第一日は車中で研究を行ない長春に着いた。車中で研究のため展望車の特別室を借用することについて、満鉄嘱託将校に少なからぬ御迷惑をかけたことなど思い出される。第2日の研究は私の「戦争史大観」であり、その説明のための要旨を心覚えに書いてあったのが「戦争史大観」の第一版である。第3日は吟爾賓に移り研究を続け、夜中に便所に起きたところ北満ホテルの板垣大佐の室に電灯がともっている。入って見ると、板垣大佐は昨日の私の講演の要点の筆記を整理しているのに驚いた。板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためとのみ思っていた私は、この勉強があるのに感激した次第であった。
この頃から満蒙問題はますますむずかしくなり、私も大連で二、三度、私の戦争観を講演し、「今日は必要の場合、日本が正しいと信ずる行動を断行するためには世界の圧迫も断じて恐れる必要がない」旨を強調したのであった。時勢の逼迫(ひっぱく)が私の主張に耳を藉(か)す人も生じさせていたが、事変勃発後、私の「戦争史大観」が謄写刷りにされて若干の人々の手に配られた。こんな事情で満州建国の同志には事変前から知られ、特に事変勃発後は「太平洋決戦」が逐次問題となり、事変前から唱導されていた伊東六十次郎(むそじろう)君の歴史観と一致する点があって、特に人々の興味をひき爾来、満州建国、東亜連盟運動の世界観に若干の影響を与えつつ10年の歳月を経て、遂に今日の東亜連盟協会の宣言にまで進んで来たのである。
昭和7年夏、私は満州国を去り、暮には国際連盟の総会に派遣されてジュネーブに赴いた。ジュネーブでは別にこれという仕事もなかったので、フリードリヒ大王とナポレオンに関する研究資料を集め、昭和8年の正月はベルリンに赴いて坂西武官室の一室を宿にし、石井(正美)補佐官の協力により資料の収集につとめた。帰国後も石井補佐官並びに宮本(忠孝)軍医少佐には、資料収集について非常にお世話になった。固より大したものでないが、前に述べた人々の並々ならぬ御好意に依って、フランス革命を動機とする持久・決戦両戦争の変転を研究するための、即ち稀代の名将フリードリヒ大王並びにナポレオンに関する軍事研究の資料は、日本では私の手許に最も良く集まっている結果となった。私は先輩、友人の御好意に対し必ず研究を続ける決心であったが、その後の健康の不充分と職務の関係上、遂に無為にして今日に及んでいる。資料もまた未整理のままである。今日は既に記憶力が甚だしく衰え且つドイツ語の読書力がほとんどゼロとなって、一生私の義務を果しかねると考えられ、誠に申訳のない次第である。有志の御研究を待望する。
支那事変勃発当時、作戦部長の重職にあった私は、到底その重責に堪えず10月、関東軍に転任することとなった。文官ならこのときに当然辞職するところであるが軍人にはその自由がない。昭和13年、大同学院から国防に関する講演を依託されて「戦争史大観」をテキストとすることとなり若干の修正を加えた。
「将来戦争の予想」については、旧稿は日米戦争としてあったのを、「東亜」と西洋文明の代表たる「米国」たるべきことを明らかにしたが、「現在に於ける我が国防」は根本的に書き換えたのである。昭和4年の分は次の如くであった。
1 欧州大戦に於けるドイツの敗戦を極端ならしめたるは、ドイツ参謀本部が戦争の本質を理解せざりしこと、また有力なる一原因なり。学者中には既に大戦前これに関する意見の一端を発表せるものあり、デルブリュック氏の如きこれなり。
2 日露戦争に於ける日本の戦争計画は「モルトケ」戦略の直訳にて勝利は天運によりしもの多し。
目下われらが考えおる日本の消耗戦争は作戦地域の広大なるために来たるものにして、欧州大戦のそれとは根本を異にし、むしろナポレオンの対英戦争と相似たるものあり。いわゆる国家総動員には重大なる誤断あり。もし百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく、またもし勝利を得たりとするも戦後立つべからざる苦境に陥るべし。
3 露国の崩壊は天与の好機なり。
日本は目下の状態に於ては世界を相手とし東亜の天地に於て持久戦争を行ない、戦争を以て戦争を養う主義により、長年月の戦争により、良く工業の独立を完うし国力を充実して、次いで来るべき殲滅戦争を迎うるを得べし。
昭和4年頃はソ連は未だ混沌たる状態であり、日本の大陸経営を妨げるものは主として米国であった。昭和6年「満蒙問題解決のための戦争計画大綱」を起案している。固より簡単至極のものであるが当時、未だ「戦争計画」というような文字は使用されず、作戦計画以外の戦争に関する計画としては、いわゆる「総動員計画」なるものが企画せられつつあったが、内容は戦争計画の真の一部分に過ぎず、しかもその計画は第一次欧州大戦の経験による欧州諸国の方針の鵜呑みの傾向であったから、多少戦争の全体につき思索を続けていた私には記念すべき思い出の作品である。
昭和13年には東亜の形勢が全く変化し、ソ連は厖大なその東亜兵備を以て北満を圧しており、米国は未だその鋒鋩(ほうぼう)を充分に現わしてはいなかったが、満州事変以来努力しつつあったその軍備は、いつ態度を強化せしむるかも計り難い。即ち日本は10年前の如く露国の崩壊に乗じ、主として米国を相手とし、戦争を以て戦争を養うような戦争を予期できない状態になっていたのである。
そこで持久戦争となるべきを予期して、米・ソを中心とする総合的圧力に対する武力と経済力の建設を国防の目標とする如く書き改めた。
「若し百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく……」というような古い考えは、自由主義の清算とともに一掃されねばならないことは言うまでもない。
昭和10年8月、私は参謀本部課長を拝命した。三宅坂の勤務は私には初めてのことであり、いろいろ予想外の事に驚かされることが多かった。満州事変から僅かに4年、満州事変当初の東亜に於ける日・ソの戦争力は大体平衡がとれていたのに、昭和11年には既に日本の在満兵力はソ連の数分の一に過ぎず、殊に空軍や戦車では比較にならないことが世界の常識となりつつあった。
日本の対ソ兵備は次の二点については何人も異存のないことである。
1 ソ連の東亜に使用し得る兵力に対応する兵備。
2 ソ連の東亜兵備と同等の兵力を大陸に位置せしめる。
私はこの簡単明瞭な見地から在満兵備の大増加を要望した。しかしそのときの考えは余りに消極的であったことが今となれば恥ずかしい極みである。小胆ものだから自然に日本の現状即ち政治的関係に左右されたわけである。しかし世間では石原はド偉い要求を出すとの評判であったらしい。
その頃ちょうど上京中であった星野直樹氏(私は未だ面識が無かった)から、大蔵省の局長達が日本財政の実情につき私に説明したい希望だと伝えられたが、私はその必要はない旨を返答したところ、重ねて日本の国防につき、できるだけのことを承りたいとのことであったので遂に承諾し、山王ホテルの星野氏の室で会見した。先方は星野氏の他に賀屋、石渡、青木の三氏がおられた。賀屋氏が、まず日本財政につき説明された。それは約束と違うと思ったが私も耐えて終るまで待っており、私の国防上の見地を軍機上許す限り私としては赤誠を以て説明した積りである。終ると先方から、「現在の日本の財政では無理である」「無い袖は振られない」というようないろいろの抗議的説明や質問があったが、私は「私ども軍人には明治天皇から「世論に惑わず政治に拘らず只一途に己が本分」を尽すべきお諭(さと)しがある。財政がどうであろうと皆様がお困りであろうと、国防上必要最少限度のことは断々固として要求する」旨お答えして辞去した。
私のこういう態度主張を、世の中には一種の駆引のように考える向きもあったらしいが、断じてそんなことはあり得ない。いやしくも軍人がお勅諭を駆引に用いることがあり得るだろうか。
世はいよいよ国防国家の必要を痛感して来た。国防国家とは軍人の見地から言えば、軍人が作戦以外のことに少しも心配しなくともよい状態であることで、軍としては最も明確に国家に対して軍事上の要求を提示しなければならない。私は世人の誤解に抗議するとともに、私のこの態度だけは、わが同僚並びに後輩の諸君に私のようにせられることを、おすすめするものである。
私は一試案を作ってそれに要する戦費を、その道に明るい一友人に概算して貰った。友人の私に示した案は私の立案の心理状態と同一で、どうやら内輪に計算されているらしい。
私の考えでは軍は政府に軍の要求する兵備を明示する。政府はこの兵備に要する国家の経済力を建設すべきである。しかし当時の自由主義の政府は、われらの軍費を鵜呑みにしてもこれに基づく経済力の建設は到底、企図する見込みがないところから、軍事予算は通過しても戦備はできない。考え抜いた結果、何とかして生産力拡充の一案を得て具体的に政府に迫るべきだと考え、板垣関東軍参謀長と松岡満鉄総裁の了解を得て、満州事変前から満鉄調査局勤務のため関東軍と密接な連絡があり事変後は満鉄経済調査会を設立した宮崎正義氏に、「日満経済財政研究会」を作ってもらい、まず試みに前に述べた私案に基づき日本経済建設の立案をお願いしたのである。誠に無理な要求であり、立案の基礎条件は甚だ曖昧を極めていたにかかわらず、宮崎氏の多年の経験と、そのすぐれた智能により、遂に昭和11年夏には日満産業五個年計画の最初の案ができたのである。真に宮崎氏の超人的活動の賜物である。この案はもちろん宮崎氏の一試案に過ぎないし、その後、軍備の大拡充が行なわれた結果、日本の生産拡充計画も自然大きくなったことと信ずるが、いずれにせよ宮崎氏の努力は永く歴史に止むべきものである。宮崎氏は後に参謀本部嘱託となり幾多の有益な計画を立て、国策の方向決定に偉大な功績を樹てられたことと信ずる。
この宮崎氏の研究の要領を聴き、私も数年前自由主義時代・帝政ロシヤ崩壊時代に、「百万の軍隊を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく」と日本の戦争力を消極的に見ていた見地を心から清算した。即ち日本は断固として統制主義的建設により、東亜防衛のため米・ソの合力に対抗し得る実力を養成することを絶対条件と信じ、国家が真に自覚すればその達成は必ず可能なるを確信するに至ったのである。
経済力が極めて貧弱で、重要産業はほとんど英米依存の現状に在った日本は、至急これを脱却して自給自足経済の基礎を確立することが第一の急務なるを痛感し、外交・内政の総てをこの目的達成に集中すべく、それが国防の根本であることを堅く信じて来たのであるが、満州国は12年から計画経済の第一歩を踏み出したものの、日本は遂にこれに着手するに至らないで支那事変を迎えたのである。国家は戦争・建設同時強行との、えらい意気込みであったが、日本としてこの二大事業の同時遂行は残念ながら至難なことが、戦争の経験によって明らかとなった。しかし、いかなることが起るとも米・ソ両国の実力に対抗し得る力なき限り、国防の安定せざることを明らかにしたのが昭和13年の訂正である。
昭和14年、留守第16師団長中岡中将の命により、京都衛戌講話に「戦争史大観」を試みたが、その後、人々の希望により、昭和15年1月印刷するに当り、既に第二次欧州大戦が勃発したため、若干の小修正を加えたのが現在のものである。
フランス革命から第一次欧州戦争の間が決戦戦争の時代であり、この期間は125年である。その前の持久戦争時代は大体3-400年と見ることができる。もちろんこの時代の区分や、その年数については、簡単に断定することに無理はあるが、大勢は推断することができると信ずる。第一次欧州大戦から次の大変換即ち最終戦争までの持久戦争期間は、この勢いで見れば、すこぶる短いように考えられる。同時に私の信仰から言えば、その決勝戦に信仰の統一が行なわれねばならぬ。僅か数10年の短い年月で一天四海皆帰妙法は可能であろうか。最終戦争までの年数予想は恐ろしくて発表の勇気なく、ただ案外近しとのみ称していた。
昭和13年12月、舞鶴要塞司令官に転任。舞鶴の冬は毎日雪か雨で晴天はほとんどない。しかし旅館清和楼の一室に久し振りに余り来訪者もなく、のどかに読書や空想に時間を過ごし得たのは誠に近頃にない幸福の日であった。
この静かな時間を利用して東洋史の大筋を一度復習して見たい気になり、中学校の教科書程度のものを読んでいる中に突如、一大電撃を食らった。私は大正8年以来、日蓮聖人の信者である。それは日蓮聖人の国体観が私を心から満足せしめた結果であるが、そのためには日蓮聖人が真に人類の思想信仰を統一すべき霊格者であることが絶対的に必要である。仏の予言の適中の妙不可思議が私の日蓮聖人信仰の根底である。難しい法門等は、とうてい私には分かりかねる。しかるに東洋史を読んで知り得たことは、日蓮聖人が末法の最初の500年に生まれられたものとして信じられているのであるが、実は末法以前の像法に生まれられたことが今日の歴史ではどうも正確らしい。私はこれを知ったとき、真に生まれて余り経験のない大衝撃を受けた。この年代の疑問に対する他の日蓮聖人の信者の解釈を見ても、どうも腑に落ちない。そこで私は日蓮聖人を人格者・先哲として尊敬しても、霊格として信仰することは断然止むべきだと考えたのである。
このことに悩んでいる間に私は、本化上行(ほんげじょうぎょう)が二度出現せらるべき中の僧としての出現が、教法上のことであり観念のことであり、賢王としての出現は現実の問題であり、仏は末法の500年を神通力を以て二種に使い分けられたとの見解に到達した。日蓮教学の先輩の御意見はどうもこれを肯定しないらしいが、私の直感、私の信仰からは、これが仏の思召にかなっていると信ずるに至ったのである。そして同時に世界の統一は仏滅後2500年までに完成するものとの推論に達した。そうすると軍事上の判断と甚だ近い結論となるのである。
昭和14年3月10日、病気治療のため上京していた私は、協和会東京事務所で若干の人々の集まりの席上で戦争論をやり、右の見解からする最終戦争の年代につき私の見解を述べた。この講演の要領が人々によって印刷され、誰かが「世界戦争観」と命名している。
昭和15年5月29日の京都義方会に於ける講演筆記(第二次欧州大戦の急進展により同年8月印刷に付する際その部分を少し追補した)の出版されたのが、立命館版「世界最終戦論」である。要するにこれは私の30年ばかりの軍人生活の中に考え続けて来たことの結論と言うべきである。空想は長かったが、前に述べた如く真に私が学問的に戦史を研究したのは、主としてフリードリヒ大王とナポレオンだけであり、しかもその期間も大正15年夏から昭和3年2月までの約1年半に過ぎないのである。研究は大急ぎで素材を整理したくらいのところで、まだまだ消化したものではなく、殊に私の最も関心事であったナポレオンの対英戦争は、その最重要点の研究がまとまらずにいるのである。最終戦争論に論じてあるフリードリヒ大王以前のことは真に常識的なものに過ぎない。
私は常に人様の前で「軍事学については、いささか自信がある」と広言しているが、このように真相を白状すれば誠に恥ずかしい次第である。日本に於ける軍事学の研究がドイツやソ連の軍事研究に比し甚だ振わないことは、遺憾ながら認めざるを得ない。私は、戦友諸君はもちろんのこと、政治・経済等に関心を有する一般の人士も、軍事につき研究されることを切望して止まないのである。
満州問題で国際連盟の総会に出張したときに、ある日ジュネーブで伊藤述史公使が私に、「日本には日本独特の軍事学があるでしょうか」と質問されたが、私は「いや、伊藤さん、どうも遺憾ながら明治以後には、さようなものは未だできていない」と答えると伊藤氏は青くなって、「それは大変だ。一つ東京に帰ったらお互に軍事研究所を作ろうではないか」と提案された。なぜ、さようなことを伊藤氏が言ったかと聞いて見ると、伊藤氏がフランス大使館の書記生の時代に、田中義一大将がフランスに廻って来て盛んに外交官の無能を罵倒したらしい。それで伊藤氏は大いに憤慨したが、軍人はともかく政治・経済の若干を知っているのに、外交官は軍事学を知っていないことに気がつき、フランスの友人から軍事学の先生を探して貰った。それが当時陸軍大学の教官であったフォッシュ少佐で、同少佐から主としてナポレオン戦争の講義を聞いたのである。第一次欧州大戦後、フォッシュ元帥から「フランスを救ったものはフランス独特の軍事学であった。独特の軍事学なき国民は永遠の生命なし」との意見を聞き、伊藤公使の脳裡に深い印象を与えているらしい。フランスが第二次欧州大戦によってこんなふうに打ちのめされた今日、フォッシュ元帥のこの言葉は素人には恐らく大きな魅力を失ったであろうが、この中に含むある真理はわれらも充分に玩味すべきである。伊藤氏はそのときの講義録を私にくれるとてパリの御宅を再三探して下さったが遂に発見できなかった。私はあきらめかねてなおも若し見付かったらと御願いして置いたが、パリを引払われた後も何らの御通知がないから、遂に発見されなかったのであろう。
世人は、軍が軍事上のことを秘密にするから軍事の研究ができないようなことを言うが、それはとんでもないことである。もちろん前述の通り軍人間の軍事学の研究も不振であるから、日本語の軍事学の図書は残念ながら西洋列強諸国に比して余りに貧弱である。しかし公刊の戦史その他の出版物が相当にあるのだから、研究しようとするなら必ずできる。私は少なくも政治・経済の大学には軍事学の講座を設くべしと多年唱導して来た。配属将校は軍事学を講義すべきものではなく、また多くの人はそんな力は持っていない。西洋人の軍事学の常識に比し、日本知識人のそれはあまりに劣っている。ドイツの中産以上の家庭には通常、ヒンデンブルグやルーデンドルフの回想録は所有されており、広く読まれている。これらの図書は立派な戦史書である。一家の主婦すら相当に軍事的知識を持っていることは私の実見せるところである。
第三篇 戦争史大観の説明

 

第一章 緒論
第一節 戦争の絶滅
東西古今、総ての聖賢の共同理想であり、全人類の憧憬である永久の平和は、現実問題としては夢のように考えられて来たのである。しかし時来たって必ず全人類の希望が達成せられるべきを信ずる。固より人類の闘争本能を無くすることは不可能であるから、この希望は世界の統一に依ってのみ達成せらるるであろう。最近文明の急速な進歩はその可能を信ぜしむるに至った。世界統一の条件として考えられるものは大体次の三つである。1 思想信仰の統一。2 全世界を支配し得る政治力。3 全人類を生活せしむるに足る物資の充足。心と物は「人」に於て渾然一体である。その正しき調和を無視して一方に偏重し、いわゆる唯心とか唯物とかいう事はむずかしい理屈の分からぬ私どもにも一方的理屈である事が明らかである。しかし心と物は平等の結合ではなく、どこまでも心が主であり物が従である。思想や信仰の観念的力をもってして人類の戦争を絶滅する事が不可能である事は数千年の歴史の証明するところであるが、戦争の絶滅に思想信仰の統一が絶対に必要であり、しかもそれが最も根本的の問題である事は疑うべからざるところである。ただしこの統一も単なる観念の論議のみでは恐らく至難で、現実の諸問題の進展と理論の進歩の間には微妙なる関連が保たるべきものと信ずる。すなわち思想の統一は自然、人格的中心を要求する。ソ連でさえマルクスだけでなくレーニン、スターリン等を神格化しているではないか。我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。かつ、人類が正しきこの信仰に達するには日本民族、日本国家等の正しき思想、正しき行為だけでは不可能であり、正義を守る実力が伴わねばならぬ。結局文明の進歩により、力の発展により逐次政治的統一の範囲を拡大し、今日は4個の集団に凝結せんとする方向にある人類はやがて二つ、すなわち天皇を信奉するものとしからざるものの二集団に分かれ、真剣な戦いに依って統一の中心点が決定し、永久平和の第一歩に入り戦争の絶滅を見るに至るであろう。人類歴史は政治的統一範囲を逐次拡大して来たのであるが、それは文明の進歩に依り主権の所有する武力が完全にその偉力を発揮し得る範囲をもって政治的統一の限度とする。すなわち将来主権者の所有する武力が必要に際し全世界到るところにある反抗を迅速に潰滅し得るに至った時、世界は初めて政治的に統一するものと信ぜられる。そして世界が統一した後も内乱的戦争は絶滅しないだろうと考えらるるだろう。
それには前に述べた信仰の統一が強い力であることが必要であるが、同時に武力が原始的で、何人も簡単にこれを所有し得た時は内乱は簡単に行なわれたのであるが、武器が高度に進歩する事が内乱を困難にして来た事も明らかに認めねばならない。刀や槍が主兵器であったならば、今日の思想信仰の状態でも世界の文明国と云われる国でさえ内乱の可能性は相当に多いのであるが、今日の武器に対しては軍隊が参加しない内乱は既に不可能である。しかし私は信仰の統一と武力の発達のほか、一般文明の進歩に依り全人類の公正なる生活を保証すべき物資が大体充足せらるる事が必要であると考える。すなわち人類の精神的生活が向上して無益なる浪費を自然に掣肘(せいちゅう)し、かつ科学の進歩が生活物資の生産能率を高むる事が必要であって、物欲のための争いを無限に放置されていた今日までの如き状態は解消せらるべきだと信ずる。これは信仰の統一、武力の発達の間に自然に行なわるる事であろう。
第二節 戦争史の方向
戦争は人類文明の綜合的運用である。戦争の進歩が人類文明の進歩と歩調を一にしているのは余りに自然である。武力の発達すなわち戦争術の進歩が人類政治の統一を逐次拡大して来た。世界の完全なる統一すなわち戦争の絶滅は戦争術がその窮極的発達に達した時に実現せらるるものと考えねばならぬ。この見地よりする戦争の発達史および将来への予見が本研究の眼目である。戦闘は軍事技術の進歩を基礎として変化して来た。また国軍が逐次増加し、それに伴ってその編制も大規模化されて来た。こういうものは一定方向に対し不断の進歩をして来ているのである。しかるにその国軍を戦場で運用する会戦(会戦とは国軍の主力をもってする戦闘を云う)はこれを運用する武将の性格や国民性に依って相当の特性を認めらるるけれども、軍隊発達の段階に依って戦闘に持久性の大小を生じ、自然会戦指揮は或る二つの傾向の間を交互に動いて来た。また武力の戦争に作用し得る力もまた歴史の進展過程に於て消極、積極の二傾向の間を交互し、決戦戦争、持久戦争はどうも時代的傾向を帯びている。以上の見地から戦闘法や軍の編制等が最後的発達を遂げ、会戦指揮や戦争指導が戦争本来の目的に合する武力本来価値の発揮傾向に徹底する時、人類争闘力の最大限を発揮する時であって、これが世界統一の時期となり、永久平和の第一歩となる事と信ぜられる。
第三節 西洋戦史に依る所以
この研究は主として西洋近世戦史に依る。第二篇に於て述べたように私の軍事学の研究範囲は極めて狭く、フリードリヒ大王、ナポレオンを大観しただけと云うべく、それもやっと素材の整理をした程度である。東洋の戦史については真に一般日本人の常識程度を越えていないために、この研究は主として西洋の近世史を中心として進められたのである。誠に不完全な方法であるが、しかし戦争はどうも西洋が本場らしく、私が誠に貧弱なる西洋戦史を基礎として推論する事にも若干言い分があると信ずる。今日文明の王座は西洋人が占めており、世界歴史はすなわち西洋史のように信ぜられている。しかしこれは余りにも一方に偏した観察である。西洋文明は物質中心の文明で、この点に於て最近数世紀の間西洋文明が世界を風靡しつつあるは現実であるが、私どもは人類の綜合的文明はこれから大成せらるべくその中心は必ずしも西洋文明でないと確信する。東洋文明は天意を尊重し、これに恭従である事をもって根本とする。すなわち道が文明の中心である。西洋人も勿論道を尊んでおり、道は全人類の共通のものであり、古今に通じて謬(あやま)らず、中外に施して悖(もと)らざるものである。しかも西洋文明は自然と戦いこれを克服する事に何時しか重点を置く事となり、道より力を重んずる結果となり今日の科学文明発達に大きな成功を来たしたのであって、人類より深く感謝せらるべきである。しかしこの文明の進み方は自然に力を主として道を従とし、道徳は天地の大道に従わん事よりもその社会統制の手段として考えられるようになって来たのでないであろうか。彼らの社会道徳には我らの学ぶべき事が甚だ多い。しかし結局は功利的道徳であり、真に人類文明の中心たらしむるに足るものとは考えられぬ。東洋が王道文明を理想として来たのに自然の環境は西洋をして覇道文明を進歩せしめたのである。覇道文明すなわち力の文明は今日誠に人目を驚かすものがあるが、次に来たるべき人類文明の綜合的大成の時には断じてその中心たらしむべきものではない。戦争についてもその最も重大なる事すなわち「戦」の人生に於ける地位に関して王道文明の示すところは、私の知っている範囲では次のようなものである。1 三種神器に於ける剣。国体を擁護し皇運を扶翼(ふよく)し奉る力、日本の武である。2 「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊(きゅうせんぼうさく)を持すべし。」「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし。」(涅槃経) 3 「兵法剣形(けんぎょう)の大事もこの妙法より出たり。」(日蓮聖人) このような考え方は西洋にあるか無いかは知らないが、よしんばあっても今日の彼らの文明に対しては恐らく無力であろう。戦争の本義はどこまでも王道文明の指南に俟(ま)つべきである。しかし戦争の実行は主として力の問題であり、覇道文明の発達せる西洋が本場となったのは当然である。近時の日本人は全力を傾注して西洋文明を学び取り摂取し、既にその能力を示した。しかし反面西洋覇道文明の影響甚だしく、今日の日本知識人は西洋人以上に功利主義に趨(はし)り、日本固有の道徳を放棄し、しかも西洋の社会道徳の体得すらも無く道徳的に最も危険なる状態にあるのではないか。世界各国、特に兄弟たるべき東亜の諸民族からも蛇蝎(だかつ)の如く嫌われておるのは必ずしも彼らの誤解のためのみでは無い。これは日本民族の大反省を要すべき問題であり、東亜大同を目標とすべき昭和維新のためよろしくこの混乱を整理して新しき道徳の確立が最も肝要である。しかしこれ程に西洋化した日本人も真底の本性を換える事は出来ない。外交について見れば最もよく示している。覇道文明に徹底せるソ連の外交は正確なる数学的外交である事は極めて明らかであるのに、日本人の一部は日本が南洋進出のため今日の如き対ソ国防不完全のままソ連と握手しようと主張している。誠に滑稽であるが、しかもこれは日本人の本質はお人好しである事を示しているのである。日英同盟廃棄数年後になっても日本人は英国が日英同盟の好誼を忘れた事を批難し、つい最近まで第一次欧州大戦に於ける日本の協力を思い出させようとしているのに対し、あるドイツ人が「日本は離婚した女に未練を持っている有様だ」と冷笑した事があった。これらも日本人は根本に於ては、外交に於ても道義を守るべしとの考えが西洋人に比して遥かに強い事を示している一例とも考えられる。日本の戦争は主として国内の戦争であり、かつまた民族性が大きな力をなして戦の内に和歌のやりとりとなったり、或いは那須与一の扇の的となったりして、戦やらスポーツやら見境いがつかなくなる事さえあった。東亜大陸に於ても民族意識は到底西洋に於ける如く明瞭でなかった。もちろん漢民族は自ら中華をもって誇っておったものの、今日東亜の大陸に歴史上何民族か判明しない種族の多いのを見ても民族間の対立感情が到底西洋の如くでなかったことを示している。かく東洋は王道文明発育の素地が西洋に比し遥かに優れている。これに加うるに東洋に於ては強大民族の常時的対立が無く、かつ土地広大のため戦争の深刻さを緩和する事が出来た。欧州では強大民族が常に対立して相争いかつ地域も東亜の如く広くなく、戦争術の発展が時代文明との関連を表わすに自然に良い有様であった。
覇道文明のため戦争の本場であり、かつ優れたる選手が常時相対峙しており、戦場も手頃である関係上戦争の発達は西洋に於てより系統的に現われたのである。すなわち私の研究が西洋に偏していても「戦争」の問題である限り決して不当でないと信ずる。私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、一般文明が西洋中心であると云うのではない。
第二章 戦争指導要領の変化

 

第一節 戦争の二種類
国家の対立ある間戦争は絶えない。国家の間は相協力を図るとともに不断に相争っている。その争いに国家の有するあらゆる力を用うるは当然である。平時の争いに於ても武力は隠然たる最も有力なる力である。外交は武力を背景として行なわれる。この国家間の争いの徹底が戦争である。戦争の特異さは武力をも直接に使用する事である。すなわち戦争を定義したならば「戦争とは武力をも直接使用する国家間の闘争」というべきである。武力が戦争で最も重要な地位を占むる事は自然であり、武力で端的に勝敗を決するのが戦争の理想的状態である。しかし戦争となっても両国の闘争には武力以外の手段も遺憾なく使用せられる。故に戦争遂行の手段として武力および武力以外のものの二つに大別出来る。この戦争の手段としての武力価値の大小に依り戦争の性質が二つの傾向に分かれる。武力の価値が大でありこれが絶対的である場合は戦争は活発猛烈であり、男性的、陽性であり、通常短期戦争となる。これを決戦戦争と名づける。武力の価値が他の手段に対し絶対的地位を失い、逐次低下するに従い戦争は活気を失い、女性的、陰性となり、通常長期戦争となる。これを持久戦争と命名する。
第二節 両戦争と政戦略の関係
戦争本来の真面目(しんめんぼく)は武力をもって敵を徹底的に圧倒してその意志を屈伏せしむる決戦戦争にある。決戦戦争にあっては武力第一で外交内政等は第二義的価値を有するにすぎないけれども、持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い外交、内政はその価値を高める。ナポレオンの「戦争は一に金、二にも金、三にも金」といった言葉はますますその意義を深くするのである。即ち決戦戦争では戦略は常に政略を超越するのであるが、持久戦争にあっては逐次政略の地位を高め、遂に政略が作戦を指導するまでにも至るのである。戦争の目的は当然国策に依って決定せらるるのである。この意味に於てクラウゼウィッツのいわゆる「戦争は他の手段をもってする政治の継続に外ならぬ」、しかし戦争の目的達成のため政治、統帥の関係は一にその戦争の性質に依るものである。政治と統帥は通常利害相反する場合が多い。その協調即ち戦争指導の適否が戦争の運命に絶大なる関係を有する。国家の主権者が将帥であり政戦略を完全に一身に抱いているのが理想である。軍事の専門化に伴い近世はかくの如き状態が至難となり、フリードリヒ大王、ナポレオン以来はほとんどこれを見る事が出来なかった。最近に於てはケマル・パシャとか蒋介石、フランコ将軍等は大体それであり、また第二次欧州大戦に於てはヒットラーがそれであるが如くドイツ側から放送されているが、それは将来戦史的に充分検討を要する。政戦両略を一人格に於て占めていない場合は統帥権の問題が起って来る。民主主義国家に於てはもちろん統帥は常に政治の支配下にある。決して最善の方式ではないが止むを得ない。ローマ共和国時代は、戦争の場合独裁者を臨時任命してこの不利を補わんとした事はなかなか興味ある事である。ドイツ、ロシヤ等の君主国に於ては政府の外に統帥府を設け、いわゆる統帥権の独立となっていた時が多かった。この二つの方式は各々利害があるが大体に於て決戦戦争に於ては統帥権の独立が有利であり、持久戦争に於てはその不利が多く現われる。これは統帥が戦争の手段の内に於て占むる地位の関係より生ずる自然の結果である。これを第一次欧州大戦に見るに、戦争初期決戦戦争的色彩の盛んであった時期には、統帥権の独立していたドイツは連合国に比し誠に鮮やかな戦争指導が行なわれ、あのまま戦争の決が着いたならば統帥権独立は最上の方式と称せられたであろうが、持久戦争に陥った後は統帥と政治の関係常に円満を欠き(カイゼルは政治は支配していたけれども統帥は制御する事が出来なかった)。
これに反し、クレマンソー、ロイド・ジョージに依り支配せられその信任の下にフォッシュが統帥を専任せしめられた大戦末期の連合国側の方式が遂に勝を得、かくて大戦後ドイツ軍事界に於ても統帥権の独立を否定する論者が次第に勢いを得たのである。ドイツの統帥権の独立はこの事情を最もよく示している。フリードリヒ大王以後統帥事項は当時に於ける参謀総長に当る者より直接侍従武官を経て上奏していたのであるが、軍務二途に出づる弊害を除去するため陸軍大臣が総ての軍事を統一する事となっていた。大モルトケが参謀総長就任の時(1857年心得、1858年総長)はなお陸軍大臣の隷下に在って勢力極めて微々たるものであった。1859年の事件に依って信用を高めたのであったけれども、1864年デンマーク戦争には未だなかなかその意見が行なわれず、軍に対する命令は直接大臣より送付せられ、時としてモルトケは数日何らの通報を受けない事すらあったが、戦況困難となりモルトケが遂に出征軍の参謀長に栄転し、よく錯綜せる軍事、外交の問題を処理して大功を立てたのでその名望は高まった。国王の信任はますます加わり、1866年普墺戦争勃発するや6月2日「参謀総長は爾後諸命令を直接軍司令官に与え陸軍大臣には唯これを通報すべき」旨が国王より命令せられ、ここに参謀総長は軍令につき初めて陸軍大臣の束縛を離れたのである。しかも陸軍大臣ローン及びビスマークはこれに心よからず、普墺戦争中はもちろん1870-71年の普仏戦争中もビスマーク、モルトケ間は不和を生じ、ウィルヘルム一世の力に依り辛うじて協調を保っていたのである。しかしモルトケ作戦の大成功と決戦戦争に依る武力価値の絶対性向上は遂に統帥権の独立を完成したのであった。それでもこれが成文化されたのは普仏戦争後10年余を経た1883年5月24日であることはこの問題のなかなか容易でなかった事を示している。その後モルトケ元帥の大名望とドイツ参謀本部の能力が国民絶対の信頼を博した結果、統帥権の独立は確固不抜のものとなった。しかもその根底をなすものは、当時決戦戦争すなわち武力に依り最短期間に於ける戦争の決定が常識となっていたことであるのを忘れてはならぬ。第一次欧州大戦勃発当時の如きは外務省は参謀本部よりベルギーの中立侵犯を通報せらるるに止まる有様であり、また当時カイゼルは作戦計画を無視し(1913年まではドイツの作戦計画は東方攻勢と西方攻勢の両場合を策定してあったのであるがその年から単一化せられ西方攻勢のみが計画されたのである)、東方に攻勢を希望したが遂に遂行出来なかったのである。持久戦争となっても統帥権独立はドイツの作戦を有利にした点は充分認めねばならぬが、遂に政戦略の協調を破り徹底的潰滅に導いたのである。すなわち政治関係者は無併合、無賠償の平和を欲したのであるが統帥部は領土権益の獲得を主張し、ついに両者の協調を見る事が出来なかった。我が国に於ては「統帥権の独立」なる文字は穏当を欠く。「天子は文武の大権を掌握」遊ばされておるのである。もとより憲法により政治については臣民に翼賛の道を広め給うておるのであるけれども、統帥、政治は天皇が完全に綜合掌握遊ばさるるのである。これが国体の本義である。
政府および統帥府は政戦両略につき充分連絡協調に努力すべきであり、両者はよく戦争の本質を体得し、決戦戦争に於ては特に統帥に最も大なる活動をなさしむる如くし、持久戦争に於ては武力の価値低下の状況に応じ政治の活動に多くの期待をかくる如くし、その戦争の性質に適応する政戦両略の調和に努力すべき事もちろんである。しかし如何に臣民が協調に努力するも必ず妥協の困難な場面に逢着(ほうちゃく)するものである。それにもかかわらず総て臣民の間に於て解決せんとするが如き事があったならば、これこそ天皇の天職を妨げ奉るものである。政府、統帥府の意見一致し難き時は一刻の躊躇なく聖断を仰がねばならぬ。聖断一度び下らば過去の経緯や凡俗の判断等は超越し、真に心の奥底より聖断に一如し奉るようになるのが我が国体、霊妙の力である。他の国にてフリードリヒ大王、ナポレオン、乃至ヒットラー無くば政戦略の統一に困難を来たすのであるが、我が大日本に於ては国体の霊力に依り何時でもその完全統一を見るところに最もよく我が国体の力を知り得るのである。戦争指導のためにも我が国体は真に万邦無比の存在である。
第三節 持久戦争となる原因
持久戦争は両交戦国の戦争力ほとんど相平均しているところから生ずるものであり、その戦力甚だしく懸隔ある両国の間には勿論容易に決戦戦争となるのは当然である。今ほとんど相平均している国家間に持久戦争の行なわるる場合を考えれば次のようなものである。1、軍隊の価値低きこと後に詳述する事とするがルネッサンスに依り招来せられた傭兵は全く職業軍人である。生命を的とする職業は少々無理あるがために如何に精錬な軍隊であっても、徹底的にその武力の運用が出来かねた事が仏国革命まで、持久戦争となっていた根本原因である。フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民軍隊に帰った事である。実に近代人はその愛国の誠意のみが真に生命を犠牲に為し得るのである。「18世紀までの戦争は国王の戦争であり国民戦争でなかったから真面目な戦争とならなかったが、フランス革命以後は国民戦争となった。国民戦争に於ては中途半端の勝負は不可能である」との信念の下にルーデンドルフは回想録や「戦争指導と政治」の中に「敵国側の目的はドイツの殲滅にあるからドイツは徹底的に戦わねばならぬ」との意味を強調している。すなわちドイツ参謀本部は、戦争を18世紀前のものと以後のものとに区別したが、戦争の性質に対する徹底せる見解を欠いていた。欧州大戦は既にナポレオン、モルトケ時代の戦争と性質を異にするに至った事を認識しなかった事が、第一次欧州大戦に於けるドイツ潰滅の一因と云われねばならない。支那に於ては唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度破れ、爾来武を卑しみ漢民族国家衰微の原因となった。民国革命後も日本の明治維新の如く国民皆兵に復帰する事が出来ず、依然「好人不当兵」の思想に依る傭兵であり、18世紀欧州の傭兵に比し遥かに低劣なものでその戦争に於ては武力よりも金力がものを言った。戦によって屈するよりも金力によって屈し得る戦に真の決戦戦争はあり得ない。かるが故に革命後の統一戦争が何時果つべしとも見えなかったのは自然である。私どもは元来民国革命に依り支那の復興を衷心より待望し、多くの日本人志士は支那志士に劣らざる熱意を以て民国革命に投じたのであった。しかるに革命後も真の革新行なわれず、軍閥闘争の絶えざるを見て「自ら真の軍隊を造り得ざる処に主権の確立は出来よう筈は無い。支那は遂に救うべからず」との結論に達したのであった。勿論あの国土厖大な支那、しかも歴史は古く、病膏肓に入った漢民族の革命がしかく短日月に行なわれないのは当然であり、私どもの判断も余りに性急であったのであるが、一面の真理はこれを認めねばならない。
劣悪極まる軍隊の結果は個々の戦争を金銭の取引に依り決戦戦争以上の短日月の間に解決せらるる事もあったけれども、それは戦争の絶対性を欠き、その効力は極めて薄弱にして間もなく又戦争が開始せられ、慢性的内乱となったのである。孫文、蒋介石に依り革命軍の建設は軍隊精神に飛躍的進歩を見、国内統一に力強く進んだのは確かに壮観であり我らの見解に修正の傾向を生じつつあったのである。しかも中国の統一はむしろ日本の圧迫がその国民精神を振起せしめた点にある。支那事変に於てはかなり勇敢に戦ったのであるがこの大戦争に於てすらもなお未だ真の国民皆兵にはなり難いのである。数百年来武を卑しんだ国民性の悩みは深刻である。我らは中国がこの際唐朝以前の古(いにしえ)に復(かえ)り正しき国民軍隊を建設せん事を東亜のために念願するのである。日本の戦国時代に於ける武士は日本国民性に基づく武士道に依って強烈な戦闘力を発揮したのであるが、それでもなお且つ買収行なわれ、当時の戦争はいわゆる謀略が中心となり、必要の前には父母兄弟妻子までも利益の犠牲としたのであった。戦国時代の日本武将の謀略は中国人も西洋人も三舎を避くるものがあったのである。日本民族はどの途にかけても相当のものである。今日謀略を振り廻しても成功せず、むしろ愚直の感あるは徳川300年太平の結果である。2、攻撃威力が防禦線を突破し難き事如何に軍隊が精鋭でも装備その他の関係上防禦の威力が大きく、これが突破出来なければ決局決戦戦争を不可能とする。第一次欧州大戦当時は陣地正面の突破がほとんど不可能となり、しかも兵力の増加が迂回をも不可能にした結果持久戦争に陥ったのであった。戦国時代の築城は当時これを力攻する事困難でこれが持久戦争の重大原因となった。そこで前に述べた謀略が戦争の極めて有力な手段となったのである。3、軍隊の運動に比し戦場の広き事決戦戦争の名手ナポレオンもロシヤに対しては遂に決戦戦争を強いる事が出来なかった。露国が偉いのではない。国が広いためである。ナポレオンは決戦戦争の名手で数回の戦争に赫々たる戦果を挙げ全欧州大陸を風靡したが、海を隔てたしかも僅か30里のドーバー海峡のため英国との戦争は10年余の持久戦争となったのである。但しこれはむしろ2項の原因となるべき点が多いが、その何れにしろ、日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい。広大なるアジアの諸国間に欧州に於けるように決戦戦争の可能性の少なかった事はアジアの民族性にも相当の影響を与えたものと私は信ずるものである。
以上の原因の中3項は時代性と見るべきでない。ただし時代の進歩とともに決戦戦争可能の範囲が逐次拡大せらるる事は当然であり、前述の如く一根拠地の武力が全世界を制圧し得るまでに文明の進歩せる時、すなわち世界統一の可能性が生ずる時である。1項は一般文化と密に関係があり、2項は主として武器、築城に依って制約せらるる問題であって、歴史的時代性とやはり密な関係がある。以上綜合的に考える時は決戦戦争、持久戦争必ずしも時代性があると云えない点があり、同一時代に於てもある地方には決戦戦争が行なわれある地方には持久戦争が行なわれた事があるが、大観すれば両戦争は時代的に交互に現われて来るものと認むべきである。
殊に強国相隣接し国土の広さも手頃であり、しかも覇道文明のため戦争の本場である欧州に於てはこの関係が最も良く現われている。決戦戦争では戦争目的達成まで殲滅戦略を徹底するのであるが、各種の事情で殲滅戦略の徹底をなし難く、攻勢の終末点に達する時戦争は持久戦争となる。持久戦争でも為し得る限り殲滅戦略で敵に大衝撃を与えて戦争の決を求めんと努力すべきであるが、かならずしも常に左様にばかりあり得ないで、消耗戦略に依り会戦によって敵を打撃する方法の外、或いは機動ないし小戦に依って敵の後方を攪乱し敵を後退せしめて土地を占領する方法を用いるのである。すなわち会戦を主とするか、機動を主とするかの大略二つの方向を取るのであるが、それは一に持久戦争に於ける武力の価値に依って左右せられる。すなわち持久戦争は統帥、政治の協調に微妙な関係がある如く、戦略に於ても特に会戦に重きを置き時に機動を主とする誠に変化多きものとなる。
第四節 欧州近世に放ける両戦争の消長
文明進歩し、ほとんど同一文化の支配下に入った欧州の近世に於ては両戦争の消長と時代の関係が誠に明瞭である。重複をいとわずフランス革命および欧州大戦を中心としてその関係を観察する事とする。古代は国民皆兵であり、決戦戦争の色彩濃厚であったが、ローマの全盛頃から傭兵に堕落し遂に中世の暗黒時代となった。この時代の戦争は騎士戦であり、ギリシャ、ローマ時代の整然たる戦法影を没し一騎打ちの時代となったのであるが、ルネッサンスとともに火器の使用が騎士の没落を来たし、新しく戦術の発展を見た。しかしいにしえの国民皆兵に還らずして傭兵時代となり、戦争は大体持久戦争の傾向を取りフランス革命に及んだのである。この時代の用兵術はフリードリヒ大王に於て発達の頂点に達し、フリードリヒ大王は正しく持久戦争の名手であった。30年戦争(1618-48年)には会戦を見る事が多かったが、ルイ14世初期のオランダ戦争(1672-78年)及びファルツ戦争(1689-97年)に於てはその数甚だ少なかった。スペイン王位継承戦争(1701-14年)には3回だけ大会戦があったけれども戦争の運命に作用する事軽微であった。またこの頃殲滅戦略を愛用したカール12世は作戦的には偉功を奏しつつも、遂にピーター大帝の消耗戦略に敗れたのである。かくてポーランド王位継承戦争(1733-38年)には全く会戦を見ず、しかもその戦争の結果政治的形勢の変化は頗る大なるものがあった。すなわちフリードリヒ大王即位(1740年)当時の用兵は持久戦争中の消耗戦略中、甚だしく機動主義に傾いていたのである。当時かくの如く持久戦争をなすの止むなき状況にあり、しかも消耗戦略の機動主義すなわち戦争の最も陰性的傾向であったのは政治的関係より生じた不健全なる軍制に在ったのであるが、今少しくこれにつき観察して見よう。1、傭兵制度 18世紀の戦争は結局君主が、その所有物である傭兵軍隊を使用して自己の領土権利の争奪を行なった戦争である。しかるに軍隊の建設維持には莫大な経費を要し、兵は賃金のために軍務に服しているが故に逃亡の恐れ甚だしく、しかも横隊戦術は会戦に依る損害極めて多大であった。これらの関係から君主がその高価なる軍隊を愛惜するために会戦を回避せんとするは自然である。また兵力も小さいため、遠大なる距離への侵入作戦は至難であった。2、横隊戦術 横隊戦術は火器の使用により発達したのであるが、依然火器の使用には大なる制限を受けるのみならず運動性を欠くことが甚だしかった。しかしながら、専制的支配を必要とする傭兵であったため、18世紀中には遂にこの横隊戦術から蝉脱(せんだつ)する事が出来なかった。主将は戦役(戦役とは戦争中の一時期で通常1カ年を指す)開始前又は特別な事情の生じた時、「会戦序列」を決定する。この序列は行軍、陣営、会戦等の行動一般を律するものである。会戦のためには、その序列に従い、横広(大王時代通常四列、プロイセンに於ては現に三列)に並列した歩兵大隊を通常二戦列と、両翼に騎兵を配置し、当時効力未だ充分でなかった砲兵はこれを歩兵に分属して後方に控置したのである。盲従的規律を要する傭兵には横隊を捨て難く、しかも指揮機関の不充分はかくの如き形式的決定を必要としたのであるが、行軍よりかくの如き隊形に開進し、会戦準備を整うる事は既に容易の業でなく、またかくの如き長大なる密集隊形の行動に適する戦場は必ずしも多くなく、かつ開進後の整いたる運動は平時の演習に於てすら非常な技術を要する。敵火の下ではたちまち混乱に陥ることは明らかであり、また地形の影響を受くる事は極めて大きい。殊に前進と射撃との関係を律する事は殆んど不可能に近い。すなわち一度停止して射撃を始める時は最早整然と発進せしむる事は云うべくして行ない難い。砲兵の威力は頼むに足らない。以上の諸件は攻撃の威力を甚だしく小ならしむるものである。すなわち一方軍が会戦の意志なく、地形を利用して陣地を占領する時は攻撃の強行は至難であった。又たとい敵を撃退せる場合に於ても軽挙追撃して隊伍を紊(みだ)る時は、敗者のなお所有する集結せる兵力のため反撃せらるる危険甚大で、追撃は通常行なわれず、徹底的な戦捷の効果は求め難かった。3、倉庫給養 30年戦争には徴発に依る事が多かったが、そのため土地を荒し、人民は逃亡したり抵抗したりするに至って作戦に甚だしい妨害をしたのである。それ以来反動として極端に住民を愛護し、馬糧以外は概して倉庫より給養する事となった。傭兵の逃亡を防ぐためにも給養は良くしなければならないし、徴発のため兵を分散する事は危険でもあり、殊に30年戦争頃に比し兵が増加したため、到底貧困な地方の物資のみでは給養が出来なくなった。そこで作戦を行なう前に適当の位置に倉庫を準備し、軍隊がその倉庫を距たること3-4日行程に至る時は更に新倉庫を設備してその充実を待たねばならぬ。敵の奇襲に対し倉庫の掩護(えんご)は容易ならぬ大問題であった。4、道路及び要塞 欧州道路の改善は18世紀の後半期以後急速に行なわれたもので、ナポレオンは相当の良道を利用し得たけれども、フリードリヒ大王当時は幅は広いが(軍隊は広正面にて前進し得た)ほとんど構築せられない道路のみで物資の追送には殊に大なる困難を嘗(な)めた。水路はこれがため極めて大なる価値があり要塞攻撃材料の輸送等は川に依らねばほとんど不可能に近い有様で、エルベ、オーデル両河は大王の作戦に重大関係がある。17世紀ボーバン等の大家が出て築城が発達し、各国が国境附近に設けた要塞は運動性に乏しかった軍の行動を掣肘する事極めて大きかった。以上の諸事情に依って戦争に於ける武力の価値は低く、持久戦争中でも消耗戦略の機動主義に傾くは自然と云うべきである。当時の戦争の景況を簡単に説明する事にしよう。一国の戦争計画は先ず第一に外交に重きを置き、戦役計画の立案も政治上の顧慮を重視して作戦目標および作戦路を決定し、その作戦実施を将軍に命令する。攻勢作戦を行なわんとせば先ず巧みに倉庫を設備する。倉庫は作戦を迅速にするためなるべく敵地に近く設くるを有利とするも、我が企図を暴露せざるためには適当に撤退せしめねばならない。準備成り敵地に侵入した軍は敵軍と遭遇せば、特に有利な場合でなければ決戦を行なう事なく、機動に依り敵を圧迫する事に勉める。会戦を行なうためには政府の指示に依るを通例とする。両軍相対峙するに至れば互に小部隊を支分して小戦に依り敵の背後連絡線を遮断し、また倉庫を奪い、戦わずして敵を退却せしむる事に努力する。敵の要塞に対してはその守備兵を他に牽制し、要すれば正攻法に依りこれを攻略する。作戦路上にある要塞を放置して遠く作戦を為す事はほとんど不可能とせられた。かくして逐次その占領地を拡大して敵の中心に迫り、この間外交その他あらゆる手段に依り敵を屈伏して有利な講和をすることに勉める。両軍、要地に兵力を分散しているのであるから一点に兵力を集中してそこを突破すれば良いように考えられるが、突破しても爾後の突進力を欠き、却(かえ)って背後を敵に脅かされて後退の余儀なきに至り、ややもすればその後退の際大なる危険に陥るのである。1744年第二シュレージエン戦争に於てベーメンに突進したフリードリヒ大王が、敵の巧妙な機動戦略のため1回の会戦をも交える事なく甚大の損害を蒙って本国に退却した如きはその最も良き一例である。1812年ナポレオンのロシヤ遠征はこれと同一原理に基づく失敗であり、この種の戦争では遊撃戦(すなわち小戦)の価値が極めて大きい。
作戦は通常冬期に至れば休止し、軍隊を広地域に宿営せしめて哨兵線をもって警戒し、この期間を利用して補充、教育その他次回戦役の準備をする。時に冬期作戦を行なう事あるもそれは特殊の事情からするもので、冬期作戦に依る損害は通常甚だ大きい。故に一度敵地を占領して要塞、河川、山地等のよき掩護を欠く時は冬期その地方を撤退、安全地帯に冬営するのが通常である。ナポレオン以後の戦争のみを研究した人にはなかなか想像もつかない点が多いのである。しかしこの事情をよく頭に入れて置かねばフランス革命の軍事的意義、ナポレオンの偉大さが判らないのである。
第五節 フリードリヒ大王の戦争
フリードリヒ大王が1740年5月31日、父王の死に依り王位に就いた時は年29で、その領土は東プロイセンからライン河の間に散在し、人口250万に過ぎなかった。当時墺(オーストリア)は1300万、フランス2000万、英国は950万の人口を有していたのである。大王は祖国を欧州強国の列に入れんとする熱烈なる念願のため、軍事的政治的に最も有利なるシュレージエン(当時人口130万)の領有を企図したのである。シュレージエンはあたかも満州事変前の日本に対する満蒙の如きものであった。あたかも良し同年10月20日ドイツ皇帝カール6世が死去したので、これに乗じ些細の口実を以て防備薄弱なりしシュレージエンに侵入した。弱国プロイセンに対する墺国女王マリア・テレジヤの反抗は執拗を極め、大王は前後3回の戦争に依り漸くその領有を確実ならしめたのである。大王終世の事業はシュレージエン問題の解決に在ったと見るも過言ではない。終始一貫せる彼の方針、あらゆる困難を排除して目的を確保した不撓不屈の精神、これが今日のドイツの勃興に与えた力は極めて偉大である。ほとんど全欧州を向うに廻して行なった長年月にわたる持久戦争は戦争研究者のため絶好の手本である。仕事の外見は大きくないが、大王こそ持久戦争指導の最大名手であり、七年戦争は正しく軍神の神技と云うべきである。1、第一シュレージエン戦争(1740-42年)大王は12月16日国境を越えてシュレージエンに侵入し、2-3要塞を除きたちまち全シュレージエンを占領し、1月末国境に監視兵を配置して冬営に入った。バイエルン侯がフランスの援助に依りドイツ皇帝の帝位を争い、墺国と交戦状態に在ったため、大王は墺国は自分に対して充分なる兵力を使用することが出来ないだろうと考えていたのに、1741年4月初め突如墺軍が国境を越えて攻撃し来たり、大王の軍は冬営中を急襲せらるるに至った。普(プロイセン)軍は狼狽して集結を図り、4月10日モルウィッツ附近に於て会戦を交え普軍は辛うじて勝利を得た。墺軍はナイセ要塞に後退し、爾後両軍相対峙する事となった。大王と墺軍の間には複雑怪奇の外交的躯引が行なわれ、墺軍は大王と妥協して10月シュレージエンを捨て巴(バイエルン)・仏軍に向ったが大王は墺軍の誠意なきを見て一部の兵を率いてメーレンに侵入し、ベーメンに進出して来た巴・仏軍と策応したのである。しかるに墺軍は逆にドナウ河に沿うてバイエルンに侵入し、ために連合軍の形勢不利となり墺軍は大王に対して有力なる部隊を差向ける事となったのである。
そこで大王は1742年4月ベーメンに退却し、後図を策する考えであった。墺軍はこれを圧して迫り来たり、大王の戦勢頗る危険であったが、大王は5月17日コツウジッツに於てこれを迎え撃ち、勝利を得たのである。全般の形勢は連合側に不利であったが、英国の斡旋で大王は6月11日墺軍とブレスラウの講和を結び、シュレージエンを獲(え)た。2、第二シュレージエン戦争(1744-45年)大王が戦後の回復に努力しつつある間、墺英両国は仏・巴軍を圧してライン河畔に進出した。大王はいたずらに待つ時は墺国より攻撃せらるるを察知し、再び仏・巴と結び1744年8月一部をもってシュレージエン、主力を以てザクセンよりベーメンに入り、9月18日プラーグを攻略した。プラーグ要塞は当時ほとんど構築せられていなかったのである。大王は同地に止まって敵を待つ事が当時の用兵術としては最も穏健な策であったが(大王自身の反省)、軍事的に自信力を得た大王は更に南方に進み、墺軍の交通線を脅威して墺軍を屈伏せしめんとしたが、仏軍の無為に乗じて墺将カールはライン方面より転進し来たり、ザクセン軍を合して大王に迫って来た。カールの謀将トラウンの用兵術巧妙を極め、巧みに大王の軍を抑留し、その間奇兵を以て大王の背後を脅威する。大王が会戦を求めんとせば適切なる陣地を占めてこれを回避する。大王は食糧欠乏、患者続出、寒気加わり、遂に大なる危険を冒しつつ、シュレージエンに退却の余儀なきに至った。トラウンは巧妙なる機動に依り一戦をも交えないで大王に甚大なる損害を与え、その全占領地を回復したのである。外交状態も大王に利なく1744年遂に大王は戦略的守勢に立つの他なきに至った。そこで大王は兵力をシュワイドニッツ南方地区に集結、敵の山地進出に乗ずる決心をとった。敵が慎重な行動に出たならば大王の計画は容易でなかったと思われるが、大王は巧妙なる反面の策に依り敵を誘致し得て、6月4日ホーヘンフリードベルクの会戦となり大王の大勝となった。この会戦は第一、第二シュレージエン戦争中王自ら進んで企て自ら指揮したほとんど唯一の会戦であり(大王が最も困難な時会戦を求めたのである)、大王が名将たる事を証した重要なるものであるが、全戦争に対する作用はそう大した事は無く、敵はケーニヒグレッツ附近に止まり、王は徐々に追撃してその前面に進出、数カ月の対峙となった。けれども大王は兵力を分散しかつ糧秣欠乏し、遂に北方に退却の止むなきに至った。墺軍はこれに追尾し来たり、9月30日ゾール附近に於て大王の退路近くに現出した。
大王はこれを見て果敢に攻撃を行ない敵に一大打撃を与えたけれども、永くベーメンに留まる事が出来ず、10月中旬シュレージエンに退却冬営に就いた。しかるに墺軍は一部をもってライプチヒ方向よりベルリン方向に迫り、カール親王の主力はラウジッツに進入これに策応した。そこで大王はシュレージエンの軍を進めてカールに迫ったのでカールはベーメンに後退した。大王は外交の力に依ってザクセンを屈せんとしたが目的を達し難いので、ザクセン方向に作戦していたアンハルト公を督励して、12月15日ザクセン軍をケッセルスドルフに攻撃せしめ遂にこれを破った。大王はこの日ドレスデン西北方20Kmのマイセンに止まり、カールはドレスデンに位置して両軍の主力は会戦に参加しなかったのである。
カールは再戦を辞せぬ決心であったが、ザクセン軍は志気阻喪して12月25日遂にドレスデンの講和成立し、ブレスラウ条約を確認せしめた。3、七年戦争(1756-62年)第二シュレージエン戦争後七年戦争までの10年間大王は国力の増進と特に前二戦争の体験に基づき軍隊の強化訓練に全力を尽し、自ら数個の戦術書を起案した。かくて大王はその軍隊を世界最精鋭のものと確信するに至ったのである。この10カ年間の大王の努力は戦争研究者の特に注目すべきところである。イ、1756年 墺国の外交は着々成功し露、スウェーデン、索(ザクセン)、巴等の諸邦をその傘下に糾合し得たるに対し、大王は英国と近接した。また大王は墺国のシュレージエン回復計画の進みつつあるを知り、1756年開戦に決して8月下旬ザクセンに進入、10月中旬頃ザクセン軍主力を降服せしめ、同国の領有を確実にした。ロ、1757年 敵国側の団結は予想以上に鞏固(きょうこ)で1757年のため約40万の兵力を使用し得るに対し、大王はその半数をもってこれに対応することとなった。大王は熟慮の後ベーメン侵入に決し、冬営地より諸軍をプラーグ附近に向い集中前進せしめた。この前進は当時の用兵上より云えば余りに大胆なものであり種々論評せらるるところであるが、大王10年間の研究、訓練に基づく自信力の結果でよく敵の不意に乗じ得たのである。5月6日プラーグ東方地区で墺軍を破り、これをプラーグ城内に圧迫した。プラーグは当時既に相当の要塞になっていたので簡単に攻略する事が出来ず、5月29日より始めた砲撃も弾薬不充分で目的を達しかねた。ところが墺将ダウンが近接し来たり、巧みに大王の攻囲を妨げるので大王は止むなく手兵を率いてこれに迫り、6月18日コリン附近でダウンの陣地を攻撃した。しかしながら大王軍は遂に大敗し、止むなくプラーグの攻囲を解き、一部をもってシュレージエン方向に主力はザクセンに退却した。大王のコリンの失敗はほとんど致命的と云うべき結果であったのに、更に仏・巴軍が西方および西南方より迫り来たったので形勢愈々急である。幸い墺軍の行動活発ならざるに乗じ大王は西方より迫り来たる敵に一撃を与えんとした。敵は巧みにこれを避け大王をして奔命に疲れしむるとともに墺軍主力はシュレージエンの占領を企図したので、大王も弱り抜いて10月下旬遂にシュレージエンに転進するに決した。その時西方の敵再び前進し来たるの報告に接しただちにこれに向い、11月5日22000の兵力をもって6万の敵をロスバハに迎撃、これに甚大の損害を与えた。この一戦はほとんど絶望の涯てに在った普国を再生の思いあらしめた。しかしシュレージエン方面の状況が甚だ切迫して来たのでただちにこれに転進、途中ブレスラウの陥落を耳にしつつ前進、12月5日有名なロイテンの会戦となった。この会戦は35000をもって墺軍の65000に徹底的打撃を与えた、大王の会戦中の最高作品であり、大王のほとんど全会戦を批難したナポレオンさえ百世の模範なりとして極力賞讃したのである。墺軍はシュレージエンに進入した9万中僅かにその1/4を掌握し得、大王は約4万の捕虜を得てシュワイドニッツ要塞以外の全シュレージエンを回復、平和への希望を得て冬営についた。ハ、1758年 マリア・テレジヤの戦意旺盛にして平和の望みは絶え、露軍は昨年東普に侵入退却したが、この年1月22日遂にケーニヒグレッツを占領し、夏にはオーデル河畔に進出を予期せねばならぬ。幸いロスバハ、ロイテンの戦果に依り英の態度積極的となり、仏に対する顧慮は甚だしく減少した。しかし大王の戦力も大いに消耗、もはや大規模な攻勢作戦を許さない。またいたずらに守勢に立つは大王の性格これを許さぬ。ここに於て大王はなるべく遠く墺軍を支え、為し得ればこれに一撃を与え、露軍の近迫に際し動作の余地を有するを目的とし、4月中旬シュワイドニッツ攻略後主力をもってメーレンに侵入、オルミュッツ要塞を攻略するに決心した。あたかも1916年ファルケンハインのいわゆる「制限目的をもってする攻勢」であるベルダン攻撃に似ている。5月22日から攻囲を開始したが、敵将ダウンの消耗戦略巧妙を極めて大王を苦しめ、6月30日4千輛よりなる大王の大縦列を襲撃潰滅せしめた。大王は躊躇する事なく攻城を解き、8月初め主力をもってランデスフートに退却した。露軍は8月中旬オーデル河畔に現われスウェーデン軍また南下し来たったので、大王は主力をもって墺軍に対せしめ、自ら一部をもって露軍に向い、8月25日ズォルンドルフ附近に於て露軍と変化多き激戦を交え、辛うじてこれを撃退した。大王の損害も大きかったが露軍は墺軍の無為を怒り、遠く退却して大王の負担を減じた。墺軍主力はラウジッツ方面よりザクセンに作戦し、西南方より前進して来た帝国軍(神聖ローマ帝国に属する南ドイツ諸小邦の軍隊)と協力してザクセンを狙い、虚に乗じて一部はシュレージエンを攪乱した。大王は寡兵をもって常に積極的にこれに当ったが、ダウンの作戦また頗る巧妙で虚々実々いわゆる機動作戦の妙を発揮した。10月14日大王はホホキルヒで敵に撃破せられたけれども大体に於て能(よ)く敵を圧し、遂にほとんど完全に敵を我が占領地区より駆逐して冬営に移る事が出来た。この戦は両将の作戦巧妙を極めたが、結局会戦に自信のある大王がよく寡兵をもって大勢を制し得たのである。ニ、1759年 辛うじてその占領地を保持し得た大王も、昨年暮以来墺軍の防禦法は大いに進歩し、特に有利なる場合のほか攻撃至難となった旨を述べている。大王の戦力は更に低下して最早攻勢作戦の力無く、止むなく兵力を下シュレージエンに集結、敵の進出を待つ事となった。6月末露軍がオーデル河畔に出て来るとダウンは初めて行動を起し、ラウジッツに出て来たが、行動例に依って巧妙で大王に攻撃の機会を与えない。大王は止むなく墺軍を放置して露軍に向い、8月12日クーネルスドルフの堅固なる陣地を攻撃、一角を奪取したけれども遂に大敗し、さすがの大王もこの夜は万事終れりとし自殺を決心したが、露軍の損害また大きく、殊に墺軍との感情不良で共同動作適切を欠き、大王に英気を回復せしめた。9月4日ドレスデンは陥落した。露軍はシュレージエンに冬営せんとしたが大王の巧妙なる作戦に依り遂に10月下旬遠く東方に退却した。大王はこの頃激烈なるリウマチスに冒されブレスラウに病臥中、カール12世伝を書いて彼の軽挙暴進の作戦を戒め、会戦は敵の不意に乗じ得るかまたは決戦に依り、敵に平和を強制し得る時に限らざるべからずと述べている。病気回復後、大王はザクセンを回復せんと努力したが、11月21日その部将フンクがマキセン附近でダウンに包囲せられて降伏し、墺軍はドレスデンを固守し両軍近く相対して冬営する事となった。ホ、1760年 大王の形勢ますます不良、クラウゼウィッツの言う如く敵の過失を発見してこれに乗ずる以外また策の施すべき術もない有様となった。ダウンは自ら大王をザクセンに抑留し、驍将ラウドンをしてシュレージエンに作戦せしめた。大王は再三シュレージエンの危急を救わんとしたが、ダウンは毎度巧みに大王の行動を妨げてこれをザクセンに抑留した。しかしシュレージエンの形勢ますます悪化するので大王は8月初め断固東進、8月10日リーグニッツ西南方地区に陣地を占めた。ダウンは大王と前後して東進、ラウドンを合して10万となり、3万の大王を攻撃する決心を取って更に露軍をオーデル左岸に誘致するに勉めた。大王は苦境を脱するため種々苦心し色々の機動を試みたが、14日払暁突如ラウドンと衝突、適切機敏なる指揮に依りこれを撃破した。リーグニッツの不期戦は風前の灯火の感あった大王を救った。大王は一部をもって露軍を監視、主力をもってダウンをベーメンに圧迫せんとしたが、露軍と墺軍の一部は10月4日ベルリンを占領したので急遽これが救出に赴いた。露軍の危険は去ったので是非ザクセンを回復せんとして南下したが、ダウンはトルゴウに陣地を占めたので大王は遂に決心してこれを力攻した。大損害を受け辛うじて敵を撃退し得たがダウンは依然ドレスデンを固守して冬営に移った。トルゴウの会戦は1918年のドイツ軍攻勢にも比すべきものである。ともに困難の極に達したドイツ軍が運命打開のため試みた最後的努力である。ただし大王は1918年と異なりなお存在を持続し得たのである。ヘ、1761年 同盟軍はダウンをして大王の軍をザクセンに抑留し、ラウドンおよび露軍をもってシュレージエンおよびポンメルンに侵入せんと企てた。大王は一部をザクセンに止めて自らシュレージエンに赴き、ラウドンと露軍の合一を妨げ、機会あらば一撃を加えんとしたが敵の行動また巧妙で、遂に8月中旬55000の兵をもって15万の敵に対し、シュワイドニッツ附近のブンツェルウッツに陣地を占め、全く戦術的守勢となった。露軍はその後退却したがラウドンは大王の隙に乗じてシュワイドニッツを奪取、墺軍は初めてシュレージエンに冬営する事となり、北方の露軍また遂にコールベルクを陥してポンメルンに冬営するに至った。ト、1762年 ナポレオン曰く「大王の形勢今や極度に不利なり」と。しかし天はこの稀代の英傑を棄てなかった。1762年1月19日すなわち大王悲境のドン底に於て露女王の死を報じて来た。後嗣ペーテル3世は大の大王崇拝者で5月5日平和は成り、2万の援兵まで約束したのである。スウェーデンとの平和も次いで成立した。大王はこの有利なる形勢の急転後、熟慮を重ねてその作戦目標をシュレージエンおよびザクセンに限定した。しかも極力会戦を避け、必要以上にマリア女王の敵愾心の刺戟を避けその屈服を企図したのである。露援軍の来着を待って7月行動を起し、シュワイドニッツ南方にあった墺軍陣地に迫り、これを力攻する事なく、一部をもって敵の側背を攻撃せしめて山中に圧迫、更に10月9日シュワイドニッツを攻略、ザクセンに向い、ドレスデンは依然敵手にあったが他の全ザクセンを回復し、一部の兵を進めて南ドイツの諸小邦を屈服せしめた。英仏間には11月3日仮平和条約なり、さすがのマリア・テレジヤも遂に屈服、1763年2月15日フーベルスブルグの講和成立、大王は初めてシュレージエンの領有を確実にしたのである。クラウゼウィッツは大王の戦争を、1757年を会戦の戦役、1758年を攻囲の戦役、1759-60年を行軍および機動の戦役、1761年を構築陣地の戦役、1762年を威嚇の戦役、と称しているが、戦争力の低下に従って止むなく逐次戦略を変換して来た。そして状況に応ずる如くその戦略を運用し、最悪の場合にも毅然として天才を発揮し、全欧州を敵として良く7年の持久戦争に堪えその戦争目的を達成した。それには大王の優れたる軍事的能力が最も大なる作用を為しているが、しかし良く戦争目的を確保し、有利の場合も悲境の場合も毫も動揺しなかった事が一大原因である事を忘れてはならぬ。持久戦争に於ては特に目前の戦況に眩惑し、縁日商人の如く戦争目的即ち講和条件を変更する事は厳に慎まねばならぬ。第一次欧州大戦ではドイツは遂に定まった戦争目的なく(決戦戦争より戦争に入ったため無理からぬ点が多い)、戦争後になって、戦争目的が論じられている有様であった。そしてこれが政戦略の常に不一致であった根本原因をなしている。
第六節 ナポレオンの戦争
フリードリヒ大王の時代よりナポレオンの時代へ
1持久戦争より決戦戦争へ
18世紀末軍事界の趨勢。七年戦争後のフリードリヒ大王の軍事思想はますます機動主義に傾いて来た。一般軍事界はもちろんである。1771年出版せられたフェッシュの「用兵術の原則および原理」には「将官たる者は決して強制せられて会戦を行なうようなことがあってはならぬ。自ら会戦を行なう決心をした場合はなるべく人命を損せざる事に注意すべし」とあり、1776年のチールケ大尉の著書には「学問に依りて道徳が向上せらるる如くまた学問に依り戦術は発達を遂げ、将軍はその識見と確信を増大して会戦はますますその数を減じ、結局戦争が稀となるであろう」と論じている。仏国の有名な軍事著述家でフリードリヒ大王の殊遇を受け、1773年には機動演習の陪観をも許されたGuibertは1789年の著述に「大戦争は今後起らぬであろう。もはや会戦を見ることはないであろう」と記している。七年戦争につき有名な著述をした英人ロイドは1780年「賢明なる将軍は不確実なる会戦を試みる前に常に地形、陣地、陣営および行軍に関する軍事学をもって自己の処置の基礎とする。この理を解するものは軍事上の企図を幾何学的の厳密をもって着手し、かつ敵を撃破する必要に迫らるる事無く戦争を実行し得るのである」と論じている。機動主義の法則を発見するを目的として地理学研究盛んとなり鎖鑰(さやく)、基線、作戦線等はこの頃に生れた名称であり、軍事学の書籍がある叢書の中の数学の部門に収めらるるに至った。ハインリヒ・フォン・ビューローは「作戦の目的は敵軍に在らずしてその倉庫である。何となれば倉庫は心臓で、これを破れば多数人の集合体である軍隊の破滅を来たすからである」と断定し、戦闘についても歩兵は唯射撃するのみ、射撃が万事を決する、精神上の事は最早大問題でないと称し、「現に子供がよく巨人を射殺することが出来る」と述べている。かくて軍事界は全く形式化し、ある軍事学者は歩兵の歩度を1分間に75歩とすべきや76歩とすべきやを一大事として研究し「高地が大隊を防御するや。大隊が高地を防御するや」は当時重大なる戦術問題として議論せられたのである。
2フランス革命に依る軍事上の変化
「最も暗き時は最も暁(あかつき)に近き時なり」と言ったフリードリヒ大王は1786年この世を去り、後3年1789年フランス革命が勃発したのである。革命は先ず軍隊の性質を変ぜしめ、これに依って戦術の大変化を来たし遂に戦略の革命となって新しき戦争の時代となった。
3新軍の建設
革命後間もなく徴兵の意見が出たが専制的であるとて排斥せられた。しかし列強の攻撃を受け戦況不利になったフランスは1793年徴兵制度を採用する事となった。しかもこれがためには一度は83州中60余州の反抗を受けたのであった。徴兵制度に依って多数の兵員を得たのみでなく、自由平等の理想と愛国の血に燃えた青年に依って質に於ても全く旧国家の思い及ばざる軍隊を編制する事が出来た。
新戦術 / 革命軍隊も最初はもちろん従来の隊形を以て行動しようとしたのであるが、横隊の運動や一斉射撃のため調練不充分で自然に止むなく縦隊となり、これに射撃力を与えるため選抜兵の一部を散兵として前および側方を前進せしむる事とした。即ち散兵と縦隊の併用である。散兵や縦隊は決して新しいものではない。墺国の軽歩兵(忠誠の念篤いウンガルン兵等である)はフリードリヒ大王を非常に苦しめたのであり、また米国独立戦争には独立自由の精神で奮起した米人が巧みにこれを利用した。しかし軍事界は戦闘に於ける精神的躱避(たひ)が大きいため単独射撃は一斉射撃に及ばぬものとしていた。縦隊は運動性に富みかつ衝突力が大きいためこれを利用しようとの考えあり、現に七年戦争でも使用せられた事があり、その後革命まで横隊、縦隊の利害は戦術上の重大問題として盛んに論争せられたが、大体に於て横隊説が優勢であった。1791年仏国の操典(1831年まで改正せられなかった)は依然横隊戦術の精神が在ったが、縦隊も認めらるる事となった。要するに散兵戦術は当時の仏国民を代表する革命軍隊に適するのみならず、運動性に富み地形の交感を受くる事少なくかつ兵力を要点に集結使用するに便利で、殲滅戦略に入るため重要な要素をなしたのである。しかし世人が往々誤解するように横隊戦術に比し戦場に於て必ずしも徹底的に優越なものでなかったし(1815年ワーテルローでナポレオンはウエリントンの横隊戦術に敗れた)、決して仏国が好んで採用したものでもない。自然の要求が不知不識(しらずしらず)の間にここに至らしめたのである。「散兵は単なる応急策に過ぎなかった。余りに広く散開しかつ衝突を行なう際に指揮官の手許に充分の兵力が無くなる危険があったから、秩序が回復するに従い散兵を制限する事を試み、散兵、横隊、縦隊の3者を必要に応じて或いは同時に、或いは交互に使用した。故に新旧戦術の根本的差異は人の想像するようには甚だしく目立たず、その時代の人、なかんずく仏人は自己が親しく目撃する変化をほとんど意識せず、また諸種の例証に徴して新形式を組織的に完成する事にあまり意を用いざりし事実を窺い得る」とデルブリュック教授は論じている。革命、革新の実体は多くかくの如きものであろう。具体案の持ち合わせもないくせに「革新」「革新」と観念的論議のみを事とする日本の革新論者は冷静にかかる事を考うべきであろう。
4給養法の変化
国民軍隊となったことは、地方物資利用に依り給養を簡単ならしむる事になり、軍の行動に非常な自由を得たのである。殊に将校の平民化が将校行李の数を減じ、兵のためにも天幕の携行を廃したので1806年戦争に於て仏・普両軍歩兵行李の比は1対8乃至1対10であった。
5戦略の大変化
仏国革命に依って生まれた国民的軍隊、縦隊戦術、徴発給養の3素材より、新しき戦略を創造するためには大天才の頭脳が必要であった。これに選ばれたのがナポレオンである。国民軍隊となった1794年以後も消耗戦略の旧態は改める事がなかった。1794年仏軍は敵をライン河に圧して両軍ライン河畔で相対峙し、僅か2-30万の軍がアルサスから北海に至る全地域に分散して土地の領有を争うたのであった。ナポレオンはその天才的直観力に依って事物の真相を洞見し、革命に依って生じた軍事上の3要素を綜合してこれを戦略に活用した。兵力を迅速に決勝点に集結して敵の主力に対し一挙に決戦を強い、のち猛烈果敢にその勝利を追求してたちまち敵を屈服せしむる殲滅戦略により、革新的大成功を収め、全欧州を震駭せしめた。かくして決戦戦争の時代が展開された。この殲滅戦略は今日の人々には全く当然の事でなんら異とするに足らないのであるが、前述したフリードリヒ大王の戦争の見地からすれば、真に驚嘆すべき革新である事が明らかとなるであろう。ナポレオン当時の人々は中々この真相を衝き難く、ナポレオンを軍神視する事となり、彼が白馬に乗って戦場に現われると敵味方不思議の力に打たれたのである。ナポレオンの神秘を最初に発見したのは科学的な普国であった。1806年の惨敗によりフリードリヒ大王の直伝たる夢より醒めた普国は、シャルンホルスト、グナイゼナウの力に依り新軍を送り、新戦略を体得し、ナポレオンのロシヤ遠征失敗後はしかるべき強敵となって遂にナポレオンを倒したのである。フリードリヒ大王時代の軍事的教育を受け、ナポレオン戦争に参加したクラウゼウィッツはナポレオンの用兵術を組織化し、1831年彼の名著「戦争論」が出版せられた。
6 1796-97年のイタリア作戦
1805年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。20万の大軍が広大なる正面をもって1000Km近き長距離を迅速に前進し、一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、18世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。しかしこれは外形上の問題で、新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。その意味で1796年のイタリア作戦、特にその初期作戦は最も興味深いものである。クラウゼウィッツが「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。ナポレオンの立案せる計画は、当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。ナポレオンは1796年3月2日弱冠26歳にしてイタリア軍司令官に任ぜられ、同26日ニースに着任、いよいよ多年の考案に依る作戦を実行することとなった。イタリア軍の野戦に使用し得る兵力は歩兵4師団、騎兵2師団で兵力約4万、主力はサボナからアルベンガ附近、その一師団は西方山地内に在った。縦深約80Kmである。軍前面の敵はサルジニアのコッリーが約一万をもってケバ要塞からモントヴィの間に位置し墺軍の主力はなおポー河左岸に冬営中であった。ナポレオンはかねての計画に基づき、両軍の分離に乗じ速やかに主力をもってサボナからケバ方向に前進し、サルジニア軍の左側を攻撃、これを撃破する決心であった。当時海岸線は車も通れず、騎兵は下馬を要する処もあった。海岸からサルジニアに進入するためにはサボナから西北方アルタールを越える道路(峠の標高約500m)が最良で、少し修理すれば車を通し得る状態であった。ところがナポレオン着任当時のイタリア軍の状態は甚だ不良で、ナポレオンがその天性を発揮して大活躍をしても整理は容易な事でなかった。ナポレオン着任当時、マッセナはゼノバに於ける(ゼノバは当時中立で海岸道不良のため同地は仏軍の補給に重要な位置を占めていた)外交を後援するため、一部をボルトリに出していたのである。ナポレオンは墺軍を刺戟する事を避くるため同地の兵力撤退を命令したが、前任司令官の後任をもって自任していたマッセナは後輩の黄口児、しかも師団長の経験すら無いナポレオンの来任心よからず、命令を実行せず、かえってボルトリの兵力を増加し、表面には調子の良い報告を出していた。
しかるに4月に入って墺軍前進の報を耳にしたナポレオンの決心は変化を来たし、4月2日ニースを発してアルベンガに達し、マッセナに命令するにボルトリを軽々に撤退する事無く、かえって兵力増加を粧うべき事を命令した。蓋(けだ)しナポレオンは墺軍の前進を知り、なるべくこれを東方に牽制してサルジニア軍との中央に突進し、各個撃破を決心したのである。マッセナは敵兵増加の徴(しるし)に不安を抱き、同日は狼狽してこのまま止まるは危険な旨を具申している。主力をポー川左岸に冬営していた墺軍の新司令官老将ボーリューはゼノバ方面に対する仏軍活動開始せらるるを知り南進を起し、3月30日にはゼノバ北方の要点ボヘッタ峠を占領して仏国の突進を防止する決心をとったが、その後仏軍の行動の活発でないのに乗じ、更に4月8日にはボルトリを占領して敵とゼノバの連絡を絶ち、かつボルトリにあった製粉所を奪取する事に決心した。同時に右翼の部隊をもってサボナ北方のモンテノット附近を占領せしめ、サルジニア軍と連絡して要線の占領を確実ならしむる事とした。行動開始前の4月9日に於けるポー川以南にある部隊の位置、右図の如し。即ち約3万の兵力が攻撃前進を前にして縦深60Km、正面約80Kmに分散しており、しかも東西の交通は極めて不便でボルトリから右翼の方面に兵力を転用するためにはアックイを迂回するを要する。ボルトリの攻撃にはビットニー、フカッソウィヒ両部隊のうち、9大隊を使用してボーリュー自らこれに臨み、モンテノットの攻撃はアルゲソトウ部隊に命令した。アルゲントウは後方に主力を止め、攻撃に使用した兵力は5大隊半に過ぎなかった。これが当時の用兵術である。ナポレオンは10日サボナに到着、この日ボルトリは墺軍の攻撃を受け同地の守兵は夜サボナに退却す。ナポレオンは11日更に東方に前進して情況を視察したが、ボルトリを占領した敵は相当の兵力であるが追撃の模様がない。然るにこの日モンテノットも敵の攻撃を受けて占領せられたが、ランポン大佐はモンテノット南方の高地を守備してよく敵を支えている事を知った。ナポレオンはこの形勢に於て先ずモンテノット方面の敵を撃滅するに決心し、僅少なる部隊をサボナに止めてボルトリの敵に対せしめ、主力は夜間ただちに行動を起して敵の側背に迫る如き部署をした。この決心処置は迅速果敢しかも適切敏捷に行なわれナポレオンを嫉視ないし軽視していた諸将を心より敬服せしめるに至った。
ある人は「ナポレオンはこの命令で単に墺軍に対してのみでなく、部下諸将軍連に対しても勝利を得た」と言っている。かくて12日、ナポレオンは約1万人を戦場に集め得て、3-4000の敵を急襲して徹底的打撃を与えた。ナポレオンはこの戦闘の成果を過信して墺軍の主力を撃破したものと考え、予定に基づき主力をもってサルジニア軍に向い前進するに決し、その部署をした。前衛たる部隊は13日コッセリア古城を守備していた墺軍を攻撃、14日辛うじてこれを降伏せしめたが、ナポレオンはこの間敵の部隊北方デゴ附近に在るを知って該方面に前進、14日敵を攻撃してこれを撃破し、再び西方に向う前進を部署した。
しかるにデゴ戦闘後に狂喜した仏兵は、数日の間甚だ不充分なる給養であったため掠奪を始め、全く警戒を怠っていた所を、15日ボルトリ方面より転進して来た墺軍の急襲を受け危険に陥ったが、ナポレオンは迅速に兵力を該方面に転進し遂にこれを撃破した。しかも軍隊は再び掠奪を始め、デゴの寺院すらその禍を蒙る有様であった。ボーリューは12日の敗報を受けてもこれは戦場の一波瀾ぐらいに考え、その後逐次敗報を得るも一拠点を失ったに過ぎないとし、側方より敵の後方に兵を進めてこれを退却せしむる当時の戦術を振りまわして泰然としていたが、16日に至って初めて事の重大さに気付き、心を奪われてアレッサンドリア方面に兵力を集中せんと決心したが、諸隊の混乱甚だしく、精神的打撃甚大で全く積極的行動に出づる気力を失った。ナポレオンは17日主力をもって西進を開始したが、コッリーは退却してタナロ川左岸に陣地を占めた。仏軍はケバ要塞を単にこれを監視するに止めて前進、19日敵陣地を攻撃したが増水のため成功せず、21日攻撃を敢行した時はサルジニア軍は既に退却していたが、これを追撃してモントヴィ附近の戦闘となり遂にコッリー軍を撃破した。サルジニアは震駭して屈伏し28日午前2時休戦条約が成立した。この2週間の間に墺軍に一打撃を与えサルジニア国を全く屈伏した作戦は今日の軍人の眼で見れば余りに当然であると考え、ナポレオンの偉大を発見するに苦しむであろうが、フリードリヒ大王以来の戦争に対比すれば始めてその大変化を発見し得るのである。このナポレオンの殲滅戦略を戦争目的達成に向って続行し得るところに即ち決戦戦争が行わるる事となるのである。サルジニアを屈したナポレオンは再び墺国に向い前進、ポー川左岸に退却せる敵に対しポー川南岸を東進して5月8日ピアツェンツァ附近に於てポー川を渡り、敵をしてロンバルデーを放棄の止むなきに至らしめ、敵を追撃して10日有名なるロジの敵前渡河を強行、15日ミラノに入城した。5月末ミラノを発しガルダ湖畔に進出、ボーリューを遠くチロール山中に撃退した。当時の仏墺戦争は持久戦争でありイタリア作戦はその一支作戦に過ぎない。ナポレオンは新しき殲滅戦略により敵を圧倒したが結局ここに攻勢の終末点に達した。殊にマントア要塞は頗る堅固でナポレオンはこの要塞を攻囲しつつ4回も敵の解囲企図を粉砕、1797年2月2日までにマントアを降伏せしめた。
1916年ファンケルハインが、いわゆる制限目的を有する攻撃としてベルダン攻撃案を採用しカイゼルに上奏せる際「若し仏軍にして極力これを維持せんとせば恐らく最後の一兵をも使用するの止むなきに至るであろう。若し斯くの如くせばこれ我が軍の目的を達成せるものである」と述べている。1916年ドイツのベルダン攻撃はこの目的を達成しかね、ドイツ軍は連合側に劣らざる大損害を受けて戦争の前途にむしろ暗影を投じたのであったが、ナポレオンのマントア攻囲はよくファンケルハインの企図したこの目的を達成したのである。墺軍は4回の解囲とマントアの降伏で少なくとも10万の兵力を失った(仏軍の損失は25000)。マントア攻囲前の墺軍の損失は2万に達するから、1年足らずの間に墺軍はナポレオンのために12万を失ったのである。これは当時の墺国としては大問題で、これがため主戦場から兵を転用し、最後にはウインの衛戌兵までも駆り集めたのである。墺国の国力は消耗し、ナポレオンは1797年3月前進を起し、4月18日レオベンの休戦条約が成立した。
その後の大観 / ナポレオンの天才的頭脳が新戦略を生み出し、その新戦略に依ってナポレオンはたちまち軍神として全欧州を震駭した。かくしてフランスはナポレオンに依って救われた。ナポレオンは対英戦争の第一手段として1798年エジプト遠征を行なったが、留守の間仏国は再びイタリアを失い苦境に立ったのに乗じ、帰来第一統領となって1800年有名なアルプス越えに依って再び名望を高めた。一度英国と和したが1803年再び開戦、遂に10年にわたる持久戦争となった。1804年皇帝の位に即き、英国侵入計画は着々として進捗、その綜合的大計画は真に天下の偉観であった。これは今日ヒットラーの試みと対比して無限の興味を覚える。海軍の無能によってナポレオンの計画は実行一歩手前に於て頓挫し、英国は墺、露を誘引して背後を覘(ねら)わしめた。ナポレオンは1805年8月遂に英国侵入の兵を転じて墺国征伐に決心した。ドーバー海峡に集結訓練を重ねた約20万の精鋭(真に世界歴史に見なかった精鋭である)は堂々東進を開始して南ドイツに侵入、墺、露両軍の間に突進して9月17日墺のほとんど全軍をウルムに包囲降伏せしめた。ナポレオンはドノー川に沿うてウインに迫り、逃ぐる敵を追ってメーレンに侵入したが、攻勢の終末点に達ししかも普国の態度疑わしく、形勢楽観を許さぬ状況となったが、ナポレオンは巧みに墺、露の連合軍を誘致して12月2日アウステルリッツの会戦となり戦争の目的を達成した。1806年普国と戦端が開かれるとナポレオンは南ドイツにあったその軍隊を巧みに集結、16万の大軍三縦隊となりてチュウリンゲンを通過して北進、敵をイエナ、アウエルステートに撃破し、逃ぐるを追って古今未曽有の大追撃を強行、プロイセンのほとんど全軍を潰滅した。しかもポーランドに進出すると冬が来る。物資が少ない。非常に苦しい立場に陥った1807年6月25日漸(ようや)く露国との平和となった。対英戦争の第三法である大陸封鎖強行のため1808年スペインに侵入したところ、作戦思うように行かず、ナポレオン失敗の第一歩をなした。英国の煽動により1809年墺国が再び開戦し、ナポレオンの巧妙なる作戦は良くこれを撃破したが一方スペインを未解決のまま放任せざるを得ない事となり、またアスペルンの渡河攻撃に於ては遂に失敗、名将ナポレオンが初めて黒星をとった。
この大陸封鎖の関係から遂に1812年露国との戦争となり、モスコーの大失敗となった。1813年新兵を駆り集め、エルベ河畔での作戦はナポレオンの天才振りを発揮した面白いものであったが、遂にライプチヒの大敗に終り、1814年は寡兵をもってパリ東方地区に於て大軍に対する内線作戦となった。1796年の作戦に比べて面白い研究問題であり、彼の部将としての最高の能率を発揮したと見るべきである。しかも兵力の差が甚だしく、殊に普軍がナポレオンの新用兵術を体得していたので思うに任せず、連合軍に降伏の止むなきに至った(この作戦は伊奈中佐の「名将ナポレオンの戦略」によく記されている)。1815年のワーテルローは大体見込なき最後の努力であった。対墺、対普の個々の戦争は巧みに決戦戦争を行なったが、スペインに対して地形その他の関係で思うに任せず、対露侵入作戦は大失敗をした。しかも、全体から見てナポレオンはその全力を対英持久戦争に捧げたのである。海と英国国民性の強靭さは天才ナポレオンを遂に倒したのである。ヒットラーは今日ナポレオンの後継者として立っている。
第七節 ナポレオンより第一次欧州大戦へ
持久戦争では作戦目標が多く自然に土地となるが(持久戦争でも殲滅戦略を企図する場合はもちろん軍隊)、決戦戦争の特徴は殲滅戦略の徹底的運用であり、作戦目標は敵の軍隊であり、敵軍の主力である。決戦戦争に於ては主義として戦略は政略より優先すると同じく、戦略と戦術の利害一致しない時は、戦術に重点を置くのを原則とする。我らが中少尉時代は盛んにこの事を鼓吹せられたものである。フランス革命前に於ける用兵思想の克服戦が、決戦戦争の末期まで継続せられていたわけである。感慨深からざるを得ない。決戦戦争の進展は当然殲滅戦略の徹底で基礎をなす。即ち敵軍主力の殲滅に最も重要なる作用をなす会戦が戦争の中心問題であり、その会戦成果の増大に徹底する事が作戦上の最大目標である。会戦成果を大ならしむるためには敵を包囲殲滅する事が理想であり、それがためモルトケ時代からは特に分進合撃が唱導せられた。会戦場に兵力を集結するのである。即ち分進して軍隊の行動を容易にし、会戦場にて兵力を集結し特に敵の包囲に便ならしめる。しかるにナポレオンは通常会戦前に兵力を集結するに勉めた。もちろん常にそうではなかったので、例えば1806年の晩秋戦、1807年アルレンスタインに向う前進、およびフロイシュ、アイロウ附近の会戦、1809年レーゲンスブルグ附近に於けるマッセナの使用、1813年バウツェン会戦に於けるネーの使用等は一部または有力なる部隊を会戦場に於て主力に合する事を計ったのである。しかしその場合もフロイシュ、アイロウでは各個戦闘を惹起して形勢不利となり、またバウツェンでも統一的効果を挙げる事は出来なかった。それはナポレオン当時の軍隊は通信不完全で一々伝騎に依らなければならないし、兵団の独立性も充分でなかった結果、自然会戦前兵力集結主義としなければならなかったのである。モルトケ時代は既に電信採用せられ、鉄道は作戦上最も有利な材料となり、かつまた兵力増加、各兵団の独立作戦能力が大となったのみならず、プロイセンの将校教育の成果挙り、特に1810年創立した陸軍大学の力とモルトケ参謀総長自身の高級将校、幕僚教育に依り戦略戦術の思想が自然に統一せらるるに至った結果、分進合撃すなわち会戦地集結が作戦の要領として賞用せらるるに至った。しかしモルトケも必ずしも勇敢にこれを実行し得なかった事が多い。
モルトケ元帥は1890年議会に於ける演説に於て「将来戦は七年戦争または30年戦争たる事無きにあらず」と述べている。しかし商工業の急激なる進歩は長期戦争は到底不可能と一般に信ぜられ、また軍事の進歩も甚だしく1891年から1906年まで参謀総長であったシュリーフェンは殲滅戦略の徹底に全力を傾注した。シュリーフェンの「カンネ」から若干抜粋して見る。「完全なる殲滅戦争が行なわれた。特に驚嘆に値するは本会戦が総ての理論に反し劣勢をもって勝利を得たる点にある。クラウゼウィッツは「敵に対し集中的効果は劣勢者の望み難きところである」と云っており、ナポレオンは「兵力劣勢なるものは、同時に敵の両翼を包囲すべからず」と云っている。然るにハンニバルは劣勢をもって集中的効果を挙げ、かつ単に敵の両翼のみならず更にその背後に向い迂回した」「カンネの根本形式に依れは横広なる戦線が正面狭小で通常縦深に配備せられた敵に向い前進するのである。張出せる両翼は敵の両側に向い旋回し、先遣せる騎兵は敵の背後に迫る。若し何らかの事情に依り翼が中央から分離する事があってもこれを中央に近接せしめた後、同時に包囲攻撃のため前進せしむる如き事なく、翼に近接最捷路を経て敵の側背に迫らねばならぬ」要するに平凡な捷利に満足することなく、重大な危険を顧みず敵の両側を包囲し絶大な兵力を敵の背後に進めて完全に敵全軍を捕捉殲滅せんとする「殲滅戦」への徹底である。彼はこの思想を全ドイツ軍に徹底するため熱狂的努力を払った。彼の思想は決して堅実とは言われぬ。彼の著述した戦史研究等も全く主観的で歴史的事実に拘泥する事なく、総てを自己の理想の表現のために枉(ま)げておる有様である。危険を伴うものと言わねばならぬが、速戦即決の徹底を要したドイツのため止むに止まれぬ彼の意気は真に壮とせねばならぬ。彼が臨終に於ける囈語(うわごと)は「吾人の右翼を強大ならしめよ!」であった。外国人の私も涙なくして読まれぬ心地がする。タンネンベルグ会戦は彼の理想が高弟ルーデンドルフにより最もよく実行せられたのである。彼が参謀総長として最後の計画であった1905年の対仏作戦計画は彼の理想を最もよく現わしている。ベルダン以東には真に僅少の兵力で満足して主力をオアーズ河以西に進め、ラフェール、パリ間には10個軍団を向け、パリは補充6個軍団で攻囲し、更にその西南方地区より敵主力の背後に7個軍団を迂回して全仏軍を捕捉殲滅せんとするのである。
殲滅戦の徹底と見るべきである。
第八節 第一次欧州大戦
ドイツで殲滅戦が盛んに唱道せられ、決戦戦争への徹底を来たしている時、日露戦争、南阿戦争は持久戦争の傾向を示したものであるが、それらは皆殖民地戦争のためと簡単に片づけられた。もちろん土地の兵力に対する広大と交通の不便が両戦争を持久戦争たらざるを得ざらしむる原因となったのであるが、両戦争を詳細に観察すれば正面突破の至難が観破せられる。これは欧州大戦の持久戦争となる予報であったのだ。ドイツはこの戦争の教訓に依り重砲の増加に努力した。着眼は良かったが、まだまだ時勢の真相を把握するの明がなかった。第一次欧州大戦開始せられると、殖民地戦争の経験に富むキチナー元帥は、戦争は3年以上もかかるように言うたのであるが、一般の人々は誰もが戦争は最短期間に終るものと考え、殊にドイツではクリスマスはベルリンでと信じ、軍隊輸送列車には「パリ行」と兵士どもが落書したのである。しかるに破竹の勢いでパリの前面まで侵入したドイツ軍はマルヌ会戦に破れて後退、戦線はスイスから北海に及んで交綏状態となり、東方戦場また決戦に至らないで、遂に万人の予想に反し4年半の持久戦争となった。1914年のモルトケ大将の作戦は1905年のシュリーフェン案に比べて余りに消極的のものであった。即ちシュリーフェンが一軍団半、後備4旅団半、騎兵6師団しか用いなかったメッツ以東の地区に8軍団、後備5旅団半、騎兵6師団を使用し、ベルダン以西に用いた攻勢翼である第1ないし第4軍の兵力は合計約21軍団に過ぎない。ドイツ軍の右翼がパリにすら達しなかったのは当然である。シュリーフェン引退後、連合国側の軍備はどしどし増加するに反してドイツ側はなかなか思うように行かなかった。第一次欧州大戦前ドイツの政情は満州事変前の日本のそれに非常に似ていたのである。世は自由主義政党の勢力強く、参謀本部の要求はなかなか陸軍省の賛成が得られず(しかも参謀本部の要求も世間の風潮に押されて誠に控え目であった)、更に陸軍省と大蔵省、政府と議会の関係は甚だしく兵備を掣肘する。英国側の宣伝に完全に迷わされていた。日本知識階級は開戦頃の同盟側の軍備は連合側より遥かに優越していたように思っていた人が多いようであるが、実際は同盟側の167師団に対し連合側は234師団の優勢を占めていたのである。同盟側の軍備拡張は露、仏のそれに遥かに及ばなかった。
シュリーフェンの1912年私案は仏国側の兵力増加とその攻勢作戦(1905年頃は仏国が守備に立つものとの判断である)を予想して故に先んじてアントワープ、ナムールの隘路通過は期待し難く、従って最初から敵翼の包囲は困難で一度敵線を突破するを必要と考え、全正面に対し攻撃を加えるを必要(1905年案ロートリンゲン以東は守勢)とした。これがため兵力の大増加を必要とし、全既教育兵を動員し、かつ師団の兵力を減ずるも兵団数を大増加すべしと主張した。もちろん主力は徹底的に右翼に使用する。シュリーフェンは退職後も毎年作戦計画の私案を作り、クリスマスには必ず参謀本部のクール将軍に送り届けたのである。日本軍人もって如何となす。自由主義政治の大勢に押されていたドイツ陸軍もモロッコ事件やバルカン戦争並びに仏露の軍備充実に刺戟せられて1911年以来若干の軍備拡張を行ない、殊に1913年には参謀本部が平時兵力30万の増加を提案して117000の増加が議会を通過した。これらの軍拡が政治の掣肘を受けず果敢に行なわれたならばマルヌ会戦はドイツの勝利であったろうとドイツ参謀本部の人々が常に口惜しがるところである。しかしドイツ軍部もこの頃は国防の根本に対する熱情が充分でなく、ややもすれば行き詰まりの人事行政打開に重点を置いて軍拡を企図した形跡を見遁す事が出来ない。平時兵団の増加は固よりよろしいが、応急のため更に大切なのはシュリーフェンの主張の通り全既教育兵の完全動員に先ず重点を置かるべきであったと信ずる。モルトケ大将の作戦計画はシュリーフェン案を歪曲したものとして甚だしく攻撃せられる。これはたしかに一理がある。若しシュリーフェンが当時まで参謀総長であったならば、ドイツは第一次欧州大戦も決戦戦争を遂行して仏国を属し戦勝を得たかも知れない(仏国撃破後英国を屈し得たか否かは別問題である)。しかしモルトケ案の後退には時代の勢いが作用していた事を見逃してはならない。1906年すなわちシュリーフェン引退の年、換言すれば決戦戦争へ徹底の頂点に在ったとも見るべき年にドイツ参謀本部は経済参謀本部の設立を提議している。無意識の中に持久戦争への予感が兆し始めておったのである。この事は人間社会の事象を考察するに非常な示唆を与えるものと信ずる。特に注意を要するは、作戦計画の当事者が最も早くこれを感知した事である。
言論界、殊に軍事界に於て経済的動員準備の必要が唱道せらるるに至ったのは遅れて1912年頃からである。しかしそれも固より大勢を動かすに至らず、財政的準備以外は何ら見るべきものが無かった。「1914年7月初旬、内務次官フォン・デルブリュックは当時ロッテルダムに多量の穀物が在ったため、急遽ドイツ帝国穀物貯蓄倉庫を創設せんとした。しかしながらこれには5百万マルクを必要とし、大蔵大臣はこれを支出する事を肯(がえ)んじなかった。大蔵大臣はデルブリュックに書簡をもってこの由を申し送った。曰(いわ)く「吾人は決して戦争に至らしめないであろう。若し余が貴下に500万マルクの支出を承諾するならば、穀物を国庫の損失補償の下に売却すると同じである。これは既に困難なる1915年度の予算編成を更に一層困難ならしむるであろう」と。結局資金は支出されず、予算編成は滞りなく済み、75万人のドイツ人は飢餓のため死亡した!」(アントン・チシュカ著「発明家は封鎖を破る」)モルトケ大将はモルトケ元帥の甥で永くその副官を勤め、陸軍大学出身でなく参謀本部の勤務も甚だ短かった。
参謀総長になったのはカイゼルとの個人関係が主であったらしい。シュリーフェンの弟子ではない。これがかえってモルトケをして時代性を参謀本部の人々よりも敏感に感受せしめたらしい。シュリーフェンの計画はベルギーだけでなくオランダの中立をも躊躇する事なく蹂躙するものであった。私がドイツ留学中少し欧州戦史の研究を志し、北野中将(当時大尉)と共同して戦史課のオットー中佐の講義を聴くことにした。同中佐は最初陸大で学生にでも講義する要領で問題等を出して来たが、つまらないのでこちらから研究問題を出して相当に苦しめてやった。ある日シュリーフェンはオランダの中立を犯す決心であったろうと問うたところ、何故かと謂うから色々理由を述べ、特に戦史課長フェルスター中佐の著書等にシュリーフェンがアントワープ、ナムールの隘路を頻りに苦慮するが、それより前にリェージュ、ナムールの大隘路があるではないか、それを問題にしないのはオランダの中立侵犯の証拠であると詰(なじ)り、フェルスター課長に聞いて来るように要求した。ところで次回にオットー中佐は契約書にサインを求めるから読んで見ると「貴官と戦史を研究するがドイツの秘密をあばく事等をしない」と云うような事が書いてあった。オットー中佐はその知人に「日本人は手強い」とこぼしていたそうである。フェルスター中佐の名著「シュリーフェンと世界戦争」の第二版にマース川渡河強行のことを挿入したのはこの結果らしい。今でも愉快な思い出である。フェルスター氏は更にその後アルゲマイネ・ツァイツングに「シュリーフェン伯はオランダも暴力により圧伏せんと欲したりや」という論文を出した。結局オランダを蹂躙するのではなく、オランダと諒解の上と釈明せんとするのである。ところが1922年モルトケ大将の細君がモルトケ大将の「思い出、書簡、公文書」を出版しているのを発見した。それを読んで見ると1914年11月の「観察および思い出」に「……シュリーフェン伯は独軍の右翼をもって南オランダを通過せんとした。私はオランダを敵側に立たしむる事を好まず、むしろ我が軍の右翼をアーヘンとリンブルグ州の南端の間の狭小なる地区を強行通過する技術上の大困難を甘受する事とした。この行動を可能ならしむるためにはリュッチヒ(リエージュ)をなるべく速やかに領有せねばならない。
そこでこの要塞を奇襲により攻略する計画が成立した」と記している。オランダの中立を侵犯しないとせば独軍の主力軍がマース左岸に進出するのにオランダ国境からナムール要塞の約70Kmを通過せねばならず、この間にフイの止阻堡とベルギーの難攻不落と称するリエージュの要塞がある。リエージュは欧州大戦で比較的簡単に(それもこの計画の責任者とも云うべきルーデンドルフが偶然この攻撃に参加した事が有力な原因である)陥落したため、世人は軽く考えているが、モルトケとしては国軍主力のマース左岸への進出に、今日我らの考え及ばぬ大煩悶をしたのを充分察してやらねばならぬ。敵は既にアルザス・ロートリンゲンに対し攻撃を企図している事は大体諜報で正確だと信ぜられて来た。ところがロートリンゲンのザール鉱工業地帯のドイツ産業に対する価値は非常に高まっている。もちろん決戦戦争に徹し得れば、一時これを犠牲とするも忍ばねばならないとの断定をなし得るのであるが、持久戦争への予感のあったモルトケとしてはこれも忍びない。そこでモルトケ大将は、敵の攻撃に対しメッツ要塞を利用し、いわゆるニードの「袋(わな)」に敵を誘致して一撃を与え、主力はマース右翼の敵の背後に迫るような作戦を希望したものらしい。ある年の参謀旅行で、敵がロートリンゲンに突進して来るのに、作戦計画の如く主力をマース左岸に進めんとする専習員の案に対し、モルトケは「その必要はない。マース右岸の地区を敵の側背に迫るべきだ」と講評したとの事である。しかし無力なモルトケが、断然シュリーフェン伝統の大迂回作戦を断念する勇気はあり得ない。参謀本部の空気がそれを許すべくもない。また実際モルトケもそこまで徹底した識見は無かったであろう。永年の伝統に捉われない自由さから、他の人々より持久戦争に対する予感は強かったのだが、さりとて次の時代を明確に把握する事も出来なかったろう。モルトケを特に凡庸の人というのではない。ナポレオンの如く、ヒットラーの如く特に幾億人の一人と云われる優れた人でなければ無理な事である。1914年8月18日頃のモルトケの煩悶はこの辺の事情を見透せば自ら解るではないか。敵は予期した通りロートリンゲンに侵入して来た。しかしその態度が慎重でどうもニードの「袋(わな)」にかかるかどうか。リエージュはその間に陥落する。
集中は予定通り出来る。敵の攻勢を待とうか、待ちたいが集中は終る。大迂回作戦を躊躇する事は全体の空気が許さないと云うような彼の心境であったろう。不徹底なる計画、不徹底なる指揮は遂にマルヌ会戦の結果となった。しかし事ここに至ったのは一人のモルトケを責める事は少々無理である事が判ったであろう。時の勢いと見ねばならぬ。モルトケ大将はマルヌに敗れて失脚し、陸相ファルケンハインが参謀総長を兼ねる事になった。彼は軍団長の経験すらなき新参者で大抜擢である。ファルケンハインは西方に於て頽勢の挽回に努力したが遂に成功しなかった。ルーデンドルフ一党からは1914年、特に1915年ルーデンドルフ等の東方に於ける成功に乗じ、彼らの献策を入れて敢然東方に兵力を転用しなかった事を攻撃せられる。彼らの云う如くせば、露国に一大打撃を与え戦争全般の指導に好結果をもたらしたであろう。しかし広大なる地域を有する露国に決戦戦争を強いる事は、当時恐らく困難であったろうと判断せられる。
ファルケンハインの失脚に依りヒンデンブルク、ルーデンドルフの世の中となった。ドイツの軍事的成功は偉大なものがあったが、経済的困難の増加に伴い全般の形勢は逐次ドイツに不利となりつつあった。ドイツとしては軍事的成功を活用し、米国大統領の無併合、無賠償の主義を基礎として断固和平すべきであった。政略関係は総て和平を欲していたのにルーデンドルフは欧州大戦はクラウゼウィッツの「理念の戦争」であり連合国は同盟国を殲滅せざれば止まないのだから、この戦争に於ける統帥は絶対に政治の掣肘を受くべきにあらずとして政戦略の不一致を増大し、「こうなった以上は最後まで」と頑張って遂にあの惨敗となったのである。ルーデンドルフ一党はデルブリュックの言う如く戦争の本質に対する明確な見解を持たなかったのである。即ちナポレオン以後は決戦戦争が戦争の唯一のものであると断定して、彼らが既に持久戦争を行ないつつある事を悟り得なかったのである。しかしあのドイツの惨敗、あの惨忍極まるベルサイユ条約の強制が、今日ナチス・ドイツの生まれる原動力をなした事を思えば生半可の平和より彼らのいわゆる「英雄的闘争」に徹底した事が正しかったとも云えるのである。天意はなかなか人智をもっては測り難いものである。ルーデンドルフは潜水艇戦術その他彼の諸計画は皆殲滅戦略に基づくものだと主張している。
殲滅戦略、消耗戦略問題でデルブリュック教授と頻りに論争したのであるが、特にルーデンドルフは両戦略の定義につき曖昧である。政治の干渉を排して無制限の潜水艇戦を強行したから殲滅戦略だと言うらしいが、我らの考えならば潜水艦戦は厳格な意味に於て殲滅戦略とは言い難い。露国の崩壊によって1918年西方に大攻勢を試みたルーデンドルフはこれを殲滅戦略の断行と疾呼する。その軍事行為の一節を殲滅戦略と云い得るにせよ、ルーデンドルフにはあの戦略を最後まで徹底して実行し、大陸の敵主力を攻撃し、少なくも仏国に決戦戦争を強制せんとする決意ではなかったのである。即ち、持久戦争中の一節として殲滅戦略を行なったに過ぎない。フリードリヒ大王が持久戦争の末期に困難を打開せんとして断行したトルゴウ会戦と類を同じゅうする。ルーデンドルフが1918年の3月攻勢の攻勢方面につき、クール大将の提案であるフランデルン攻勢とサンカンタン攻勢を比較するに当り、戦略上から云えば前者を有利と認めている。しかるにサンカンタン案をとったのは専ら戦術上の要求に依ると称している。真に仏国に決戦を強いんとするならばサンカンタン附近を突破し、英仏軍を中断して運動戦に導き、敵主力を破る事が戦略上最も有利とする事は云うまでもない。しかるにルーデンドルフは当時の独軍は既にかくの如き運動性を欠くと判断し、英軍を撃破して英仏海峡沿岸を占領するのが敵の抵抗を断念せしむる公算が大きいから、フランデルン攻勢は戦略上有利と主張したのである。ルーデンドルフは現実に決戦戦争は行なえぬものと考えていたのである。3月攻勢の目標は英軍を撃破して英仏海峡に突進するにあった。それで仏軍に対しては攻勢の進展に伴いソンムの線を確保して左側を完全にする考えであった。しかるに攻勢初期は予期以上に好結果を得たので、ルーデンドルフは何時の間にやら最初の目標を変えてソンム南岸に兵を進め、更に大規模な作戦に転じようとしたのである。しかしながらこの攻勢は遂に頓挫してしまった。彼は後に、攻勢頓挫につき「運動戦に到達することが出来なかった」と云うておる。結局彼は英仏海峡にも達し得ず、大規模の運動戦にも転じ得ず、かえって新しき占領地区の左翼方面に不安を来たしたのである。
再度言うが、ドイツ軍事界の戦争の性質に関する見解の固定が、開戦前に予期したと全く異なった戦争状態になってもなおそれらを悟り得なかった事が、1918年攻勢の指導にまで重大な影響を与えたのである。かくてドイツは統帥部の「こうなった以上は徹底的に」と云う主張に引きずられ、軍部も実は自信を失い政治はもちろん信念はなかったに拘らず、遂に行く所まで行ってベルサイユの屈辱となったのである。万人の予期に反して4カ年半の持久戦争となったその第一原因は兵器の進歩である。機関銃の威力は甚だ大きく、特に防禦に有利である。堅固に陣地を占め、決意して防禦する敵を突破する事は至難である。これに加うるに兵力の増大が遂に戦線は海から海におよび迂回を不可能にした。突破も出来なければ迂回も不可能で、遂に持久戦争になったのである。これはフランス革命で持久戦争から決戦戦争になったのとは状態を異にしている。即ちフリードリヒ大王の使った兵器も、ナポレオンの使用したものもほとんど同一であったのであるが、社会革命が軍隊の本質を変化し、在来の消耗戦略を清算し得た事が決戦戦争への変転を来たしたのであった。
第九節 第二次欧州大戦
持久戦争は勢力ほぼ相伯仲する時に行なわれるのである。第二次欧州大戦でドイツのいわゆる電撃作戦が、ポーランドやノルウェーの弱小国に対して迅速に決戦戦争を強行し得た事はもちろん驚くに足らない。英仏軍と独軍はマジノ、ジーグフリードの陣地線の突破はお互にほとんど不可能で、結局持久戦争になるものと常識的に信ぜられていた。しかるに1940年5月10日、独軍が西方に攻勢を開始すると疾風迅雷、僅かに7週間で強敵を屈伏せしめて、世界戦史上未曽有の大戦果を挙げ、仏国に対しても見事な決戦戦争を強行し得たのである。5月10日攻勢を開始すると、先ず和(オランダ)、白(ベルギー)、仏三国の主要飛行場を空襲して大体一両日の中に制空権を得て、主として飛行機と機械化兵団の巧妙な協同作戦に依って神速果敢なる作戦が行なわれた。殊に民族的にも最も近いオランダには内部工作が巧みに行なわれていたらしく、空輸部隊の大胆な使用と相俟って5日間にこれを屈伏せしめる事が出来た。ベルギー方面に侵入した独軍また破竹の勢いでマース川の大障害を突破して西進、特にアルデンヌ地方に前進した部隊は仏軍の意表に出でて5月10日既にセダン附近に於てマースを渡河し、マジノの延長線を突破したのである。シュリーフェン以来独軍の主力は右翼にあるものと定まっていたのに、今日はアルデンヌの錯雑地を経て一挙北部フランスに突入した。奇襲的効果は甚大であった。セダンの破壊口からドイツ軍は有力な機械化兵団を先頭として突入し、1918年3月攻勢にルーデンドルフが考えたようにエーヌ、オアーズ、ソンム等の河や運河を利用して左側背の掩護を確実にしながら主力は一路西進、たちまちアブヴィルに達した。同地では仏軍の一部が悠悠錬兵場で訓練中であったとの事である。いかに独軍の進撃が神速であったかを物語っている。かくてフランデルとアルトアにあった英白軍および仏の有力部隊は瞬く間に包囲せられ、5月22日頃にはその運命が決定した。独軍の包囲圏は刻々縮小せられ、形勢非なるを見てとった英軍は匆々(そうそう)本国への退却を開始した。この情況を見たベルギー皇帝は5月28日無条件で独軍に降伏した。形勢は更に急転、英仏軍は多数の降伏者を生じ、6月4日にはダンケルク陥落、遂にこの方面の作戦を終了した。僅々2週間で和、白両国は降伏。英仏軍の有力なる部隊は撃滅せられその一部が辛うじて本国に逃げ帰った。6月5日には独軍は早くもソンムの強行渡河に成功、仏国の抵抗意志は急速に低下して到るところ敗退、6月14日独軍パリに入城、6月25日休戦成立した。
ドイツの作戦はまるで神業のようで持久戦争の時代は過ぎ去り、再び決戦戦争の時代到来せるやを信ぜしめる。しかしそれについては充分慎重な観察が必要である。先ず第一に戦術上の観察を試みよう。独軍の成功は主として飛行機、戦車の威力であった。第一次欧州大戦当時に比して、この両武器は全く面目を一新しており、殊に飛行機が軍事上の革命を生ぜんとしている事は確実である。しかしこの両武器に対して、しかく簡単に正面は突破せらるべきであろうか。独軍はたちまち制空権を獲得して思う存分仏軍の後方を攻撃した。ために交通は大混乱に陥り、かつ集団して行動する部隊は絶対なる脅威を受けて動作の自由を失った事は当然である。しかし戦闘展開を終り準備を終えている軍隊に対する飛行機の攻撃はさして大なる威力を発揮し得るものではない。戦車は準備なき軍隊、特に狼狽した軍隊に対してはその威力は頗る大きい。けれども地形の制限を受ける事多く、戦場ではほとんど盲唖である。沈着かつよく準備せられた軍隊に対しては左程猛威を逞しゅうし得るものではない。殊に考うべきことは対戦車火器の準備は戦車の準備に比して容易な事である。戦車が敵陣地を突破し得てもその突破口が敵に塞がれ、続行して来る歩兵との連絡を絶たれる時は、戦車は間もなく燃料つきて立往生する。であるから真に近代的に装備せられ、決心して守備する敵陣地の突破はなかなか容易の事ではない。マジノ線を仏国人は難攻不落のものと信じていた。しかるに独軍占領後の研究に依れば、マジノ線の築城編成は第一次欧州大戦の経験を主として専ら火砲の効力に対抗する事だけを考えて、攻者の新兵器に対する考慮が充分払われていなかった。即ち自由主義フランスはドイツの真剣なる準備に対抗する迫力を欠いていたのである。ドイツ軍は空軍と戦車、それに歩工兵の密接なる協力に依って築城の中間地を突破する方式に出て、フランス軍の意表に出たのである。殊に自由主義国フランスの怠慢はマジノ線の北端をベルギー国境に託して自ら安心し、迂回し得る陣地であった事である。いわゆるマジノ延長線は紙上計画に止まり大体有事の日、工事に取りかかる考えであったが、開戦後は労働力の不足等の関係で大して工事を施されていなかった。またマジノ線に連接してベルギーがリエージュを主体としてマジノ線に準じた築城を完成する約束であったが、事実は大して工事が行なわれていなかった。ドイツ軍は実にこの虚をついたわけである。
運動戦となるや独軍の極めて優れた空軍と機械化兵団が連合軍の心胆を奪って大胆無比の作戦をなし遂げ得た。あの極めて劣勢なフィンランドが長時日良く優秀装備のソ軍の猛攻を支えた事は今日でもいかに防禦力の大であるかを示している。今度の作戦でもフランデル方面に於て敵の正面に衝突した独軍の攻撃はなかなか簡単には成功しなかったらしいのである。空軍の大進歩、戦車の発達も充分準備し決心して戦う敵線の突破は至難である事を示している。第一次欧州大戦では仏、白の戦闘意志は英国のそれに劣らぬものであったが、今回は余程事情を異にしていたらしい。
フランスの頽廃的気分、支配階級の「滅公奉私」の卑しむべき行為はアンドレ・モーロアの「フランス敗れたり」を一読する者のただちに痛感するところである。英国の利己的行為は仏、白との精神的結合を破壊していた。数年前ドイツがライン進駐を決行した時、仏国が断然ベルサイユ条約に基づいてドイツに一撃を加うべく主張したのに対し英国は反対し、その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと伝えられる。真に二国が衷心一致してドイツの進攻に抗する熱意があったならば独、自国境の築城は必ず完成されているべきであったし、今後の作戦についても更に緊密な協同が行なわれたであろう。戦略的に見れば戦力の著しく劣った仏国は国境で守勢をとるべきであり、軍当局はこれを欲したであろう。しかし政略はこれを許さない。止むなく有力な主力軍をベルギーに進め、ドイツの電撃作戦に依って包囲せらるるや、利己主義の英国はたちまち地金を現わして本国へ退却の色を見せる。若し英国が真に戦うならば本国は全く海軍に一任し、あらゆる手段を尽してその陸軍を大陸に止むべきであった。英国の態度はベルギーの降伏となり、フランスの戦意喪失となったのは当然である。かく考えて来る時は無準備でしかも統一と感激なき自由主義国家と、鉄の如き意志に依り完全にしかも深き感激の下に統一せられ、総力を極度に合理的に集中運用せる全体主義国との対立であって、断じて相匹敵する戦争力の争いではない。即ち時代が決戦戦争となったのでなく、両方の力の著しき差があの歴史上無比の輝かしき決戦戦争を遂行せしめたのである。特にこの際我が国民に深き反省を要求するのは、自由主義国家と全体主義国家の戦争準備に対する能力の驚嘆すべき差である。老大富裕国英仏が、戦後の疲れなお医(いや)し切れなかった貧乏国ドイツに対し、ナチス政権確立後僅々数年でかくの如き劣勢に陥ったのである。この事は満州事変後我が国が極東作戦準備につきソ連との間に充分経験した事である。満州事変頃は両国の戦争力相伯仲していたが、僅かに数年のうちに彼我戦力の差に隔りを見た事がその後の東亜不安の根本原因である。速やかに我らは強力なる統制の下に世界無比の急速度をもって我らの戦争力を向上せしめねばならぬ。今日フランスに対しては輝かしき決戦戦争を完遂したドイツも、海を隔てた英国に対しては殲滅戦略の続行が出来なくなり持久戦争になる公算が依然極めて大きい。ドイツが英国に対し殲滅戦略、即ち上陸作戦を強行するためには英仏海峡の制海権が絶対に必要である。
また制海権を得たとしても上陸作戦の困難は極めて大きい。制海権のため海軍力の劣勢なドイツは主として空軍に頼らねばならぬ。我らは常識的に、仏国海岸を占領したなら空軍の優勢なドイツは英近海の海運に大打撃を与え、英国はそれだけでも屈伏するだろうと考えていたが、今日までの結果を見ると飛行機による艦船の爆沈は潜水艦の威力に及ばぬ状態である。英仏海峡は依然英国海軍の支配下にあるらしい。今後果してドイツがこの海峡の制海権を獲得し得るや否やが決戦戦争の能否の第一分岐点である。昨年9月以降のロンドン猛爆の結果より見て、今日の発達した空軍でもなお空軍による決戦戦争は不可能のようである。要するにフランス革命に依って国民的軍隊が生まれ、職業軍時代の病根を断って殲滅戦略が採用せられ、その威力の及ぶ範囲に於て決戦戦争が行なわるる事となった。しかし兵器の進歩は攻防両者に対する利益は交互的に現わるる傾向があるものの、大勢は防者に有利となり逐次正面の突破を困難にした。それでも兵力少ない時代は敵翼を迂回包囲する見込みがあったのである。正面突破の困難増大し、しかも決戦戦争の要ますます切となって来たドイツが、シュリーフェンの「カンネ」思想を生んだのはこの時代的要求の結果である。国民皆兵の徹底が兵力を増大し、人口密度大なる欧州の諸国家では国軍をもって全国境を守備するに足る兵員を得るようになり、遂に迂回を不可能として持久戦争の時代に入ったのである。毒ガス、戦車等第一次欧州戦争の末期既に敵正面突破のため相当の威力を示して持久戦争から脱け出そうとあせったが、大戦後は空軍の進歩甚だしく、これに依って敵軍隊の後方破壊と直接軍隊の攻撃に依って敵陣地を突破せんとする努力と、更に進んで敵政治の中心を攻撃する事に依って敵国を屈伏せんとする二つの考えが生じて来、決戦戦争への示唆を与えつつ第二次欧州大戦となった。ドイツは飛行機、戦車の巧妙なる協同に依り敵陣地突破に成功して大陸諸国に対し決戦戦争を遂行した。しかしこれは結局相手国がドイツに対する真剣な準備を欠いたためで、地上兵力に依る強国間の決戦戦争は依然至難と考えられる。第二の空軍をもって敵国中心の攻撃に依る決戦戦争は、英、独の間に於ける実験により今日なお殆んど不可能である事を実証した。しかし空軍主力の時代が来れば初めて海も持久戦争の原因とはならない。空軍の徹底的発達がこの決戦戦争を予告し、それも地上作戦でなく敵国中心の空中襲撃に依る事は疑いを入れない。
地球の半周の距離にある敵に対し決戦戦争を強制し得る時は、世界最終戦争到来の時である。
第三章 会戦指導方針の変化

 

第一節 会戦の二種類
戦争の性質に陰、陽の二種あるように、会戦も二つの傾向に分ける事が出来る。1 最初から方針を確立し一挙に迅速に決戦を求める。(第一線決戦主義) 2 最初は先ず敵を傷める事に努力し機を見て決戦を行なう。(第二線決戦主義) 両者を比較すれば、第一線決戦主義 一、将帥は決戦の方針を確立して攻撃を行なう。二、第一線の兵力強大、予備は少し。三、最初の衝撃を最も猛烈に行なう。四、偶然に支配せらるる事多く奇効を奏するに便なり。第二線決戦主義 一、将帥は会戦経過を見て決戦の方針を決定す。二、極めて有力なる予備隊を設く。三、最後の衝撃を最も猛烈に行なう。四、堅実にして偶然に支配せらるる事少なく兵力が最も重大なる要素なり。
第二節 二種類に分るる原因
1 武力の靭強性 2 国民性および将帥の性格 攻撃威力が強い、逆に防禦の能力の脆弱な戦闘、換言すれば勝敗の早くつく戦闘では自然第一線決戦主義が採用せらる。例えて言えば騎兵の密集襲撃のようなものである。これに反し防禦が靭強である時は急に勝負がつき難い。妄(みだ)りに猪突するは危険で第二線決戦主義が有利となる。それ故この二種類はその時代の軍隊の性格に依る事が最も多い。特に兵器が進歩して来れば来る程、国民性や将帥の性格の及ばす影響が小さくなるのは当然である。古代、兵器が極めて単純であった時代は、国民性の会戦指導要領に及ばす影響は比較的大であり得た訳である。ギリシャ人は強大な大集団を作りこれをファランクスと名付けた。この大集団に依る偉大な衝力に依り一挙に決勝を企図したのである。これに対しローマ人はレギオンと称し比較的小さな集団を編制した。これは行動の自由を利用して巧みに敵に損害を与え、敵を攪乱し、適時機を見て決戦を行なわんとするのである。すなわちギリシャ人は第一線決戦主義に傾き、ローマ人は第二線決戦主義を好んだのである。第一線決戦主義は理想主義的であり、第二線決戦主義は現実主義的である。蓋(けだ)しギリシャ人は哲学や芸術に秀で、ローマ人は実業に秀でている民族性と会戦方式に相通ずるものが有るを見るであろう。田中寛博士の「日本民族の将来」に依れば、古代ギリシャ人は今日のギリシャ人と異なり北方民族であった。今日段々高度の武装をなし民族性の影響は昔日に比し大となり難いのであるが、第一次欧州大戦初期の両軍作戦を見るに、固より他にも色々の事情はあったであろうが、ローマ民族に近いフランスは第一第二軍をして先ず敵地に侵入せしめ後方に第四軍等を集結し、戦況に応じて主決戦場を決定せんとする態勢を整えているのに対し、ギリシャ人に近いドイツは主決戦場を右翼に決定、強大兵団をこの目的に応じて戦略展開を行ない、一挙に敵軍の左側背に殺到せんとしたのである。今日でもなお民族性が会戦指揮方針のみならず軍事の万般にわたり相当の影響を与えつつある事を見るのである。将帥の性格も同じ意味に於て個性を発揮するものと云うべきである。ナポレオンもアウステルリッツの如く第一線決戦を企図した事はある。また当時の縦隊戦術は後述する如く自然第二線決戦主義を有利とするのであるけれども、第二線決戦はナポレオンの最も得意とするところである。地中海民族から第二線決戦の最大名手を出した事は面白いではないか。
また北方民族から第一線決戦の最大名手フリードリヒ大王を出したことは時代の勢いであったとは言え必ずしも偶然とのみ言えない。用兵上に民族性が作用する事は当然軍事学上にも同じ傾向となって現われる。フォッシュ元帥が伊藤述史氏に言うたように軍事学もまた当然民族の性格の影響を受ける。帰納的であるクラウゼウィッツと演繹的であるジョミニーは独仏両民族の傾向を示すものと云うべきだ。1870-71年独仏戦争に於ける大勝の結果、フランスに於てもモルトケ、クラウゼウィッツの研究が盛んになった。1902年のボンナール「独仏高等兵学の方式について」には「ジョミニーの論述する如き一般原則から敷衍(ふえん)せる戦法の系統は謬妄、危険で絶対に排斥すべきもの」と言っている。しかしフランスでは依然ジョミニー流の思想が相当有力で、殊に第一次欧州大戦の勝利はクラウゼウィッツの排撃派に勢いを与えたようで、1923年発行カモン将軍の「ナポレオンの戦争方式」には「1870年以後は普軍に倣う風盛んで、先ずホーエンローネー、ゴルツ、ブルーメー、シェルフ、メッケル等が研究され、次いでその源泉であるクラウゼウィッツに及んだ。1883-84年にはカルドー少佐が陸軍大学でクラウゼウィッツにつき大講演を行なった。……兎に角1883年以来、クラウゼウィッツの主義は我が陸軍大学で絶えず普及せられ、ナポレオンの戦闘方式の完全なる理解に大なる障害を為した」と論じ、ジョミニーの為した如くナポレオンの方式を発見するに力を払っている。ドイツの有名な軍事学者フライタハ・ローリングホーフェンは「仏人の思想は戦争の現象を分析するクラウゼウィッツ観察法よりも、ジョミニーの演繹(えんえき)法、厳密なる形式的方法を絶対的に好んでいる」と評し、ジョミニー流であるワルテンブルグ(「将帥としてのナポレオン」の著者)の研究が独軍に大なる影響を与えなかった事を喜んでいる。フライタハはクラウゼウィッツ研究の大家である。クラウゼウィッツの思想は全独軍を支配している事言を俟(ま)たない。我ら日本軍人が西洋の軍事学を学ぶについてはよく日本民族の綜合的特性を活用し、高所大所より観察して公正なる判断を下し独自の識見を持たねばならぬ。
第三節 歴史的観察
民族性、将帥の性格が会戦指揮方針に与える作用も前述の如く軽視出来ないが、兵器の進歩に依る当時の武力の性格の影響は更に徹底的であり、大体は時代性に左右せられる。横隊戦術、殊にその末期軍隊の性質に制せられて兵器の進歩と協調も失うに至った後の横隊戦術は技巧の末節に走り、鈍重にして脆弱であり、特にその暴露した側面は甚だしい弱点を成形していた。横隊戦術は第一線決戦主義が最も合理的である。殊に当時猛訓練と軍事学の研究に依って軍隊の精鋭に満腔の自信を持っていたフリードリヒ大王には世人を驚嘆せしむる戦功を立てしめたのである。第一線決戦の特徴として兵力の多寡は第二線決戦のように決定的でない。フリードリヒ大王時代は寡兵をもって衆を破る事が特に尊ばれたのである。大王は13回の会戦中敗北3回で、10回の勝利のうち6回は優勢の敵を破り、一回といえども著しい優勢をもって戦った事はない。有名なロイテンの如きは二倍強、ロスバハは3倍の敵を撃破したのである。しかしかくの如き大勝も既に研究した如く持久戦争の時代に於ては、ナポレオンの平凡なる勝利の程にも戦争の運命に決定的影響を与え得なかったのである。消耗戦略、機動主義の必然がそこに存在したのである。フランス革命に依って散兵--縦隊戦術となると、この隊形は傭兵に馴致(じゅんち)せられた横隊戦術の矛盾を一擲して強靭性を増し、側面に対する感度を緩和した。会戦は自然に第二線決戦式となったのである。戦場に敵に優る強大な兵力を集結する戦術一般の原則が最も物をいう事となった。ナポレオンは30回の会戦中23回は勝利を占め、うち13回は著しい優勢をもって戦い、劣勢をもって勝ったのは僅かに3回でしかも大会戦と認むべきはドレスデンのみである。第一線決戦式に比し第二線決戦式は奇効を奏する事が比較的困難であり、ナポレオンの有名な会戦中マレンゴはあやしい勝利であり、特に代表的であるアウステルリッツ(第一線決戦)、イエナでも技術的に見てフリードリヒ大王のロイテン、ロスバハには及ばない。然しナポレオンの勝利はほとんど常に戦争の運命に決定的作用を及ぼしたのである。モルトケ元帥は幕僚長で将帥ではない。殊にモルトケ時代の普国の戦争には皆卓越せる戦争準備によって敵国を撃破した。当時の会戦は大体第一線兵団を戦場に向う前進に部署するだけで、実行は第一線司令官に委ね、フリードリヒ大王やナポレオンの会戦のように強烈なる最高統帥の指揮を見なかった。
兵器特に撃針銃の採用進歩は散兵の威力を増加して逐次戦闘正面を拡大して再び横広い隊形となった結果、自然会戦指揮は再び第一線決戦主義に傾いて来たが、シュリーフェン全盛時代までは「緒戦、戦闘実行、決戦」と会戦時期を3区分していたように、やはりナポレオン時代の第二線決戦の風も当時残っていたのである。シュリーフェン時代となると戦闘正面はますます拡大せられ、敵の側背を狙う迂回包囲はますます大胆となるべく唱導鼓吹せられ、第一線決戦主義に徹底して来た。会戦の方針は、既に集中決定の時に確立せられ、敵の側背に向い決戦を強行断行するのである。シュリーフェンの「カンネ」の一節に「翼側に於ける勝利を希うためには最後の予備を中央後でなく、最外翼に保持せねばならぬ。将帥の慧眼が広茫数10里に至る波瀾重畳の戦場に於て決戦地点を看破した後、初めて予備隊を移動するが如き事は不可能である。予備隊は既に会戦のための前進に当り、脚下停車場より、更に適切に云えば鉄道輸送の時から該方面に指向せられねばならぬ」と言っており、この大軍の会戦への前進はモルトケ元帥の如く単に方針のみを与えて第一線司令官の自由に委せるのではなく、全軍あたかも大隊教練のように「眼を右、触接左」に前進すべき事を要求している。丁度フリードリヒ大王の横隊戦術を大規模にした観がある。第一次欧州大戦初期は前に述べたようにフランス軍の会戦方針はやや第二線決戦的色彩を帯びていたが(勿論徹底せるものではない)、独軍は第一線決戦主義が極めて明確である。シュリーフェン案の如く徹底したものではなかったが、兎に角独軍のベルギー侵入よりマルヌまでの作戦はあたかもロイテン会戦を大々的に拡大した観を呈している。ところが持久戦争に陥り戦線が逐次縦深を増して来るに従い、会戦指揮の方針は自然第二線決戦主義となって来た。局部的戦闘では奇襲に依り第一線決戦的に指導せらるる事もちろんであるが、それだけでは縦深の敵陣地帯を完全に突破する事は至難で、その後絶大なる予備隊の使用に依って会戦の決定を争う事になる。ドイツが最後の運命を賭した1918年の攻撃は5回にわたって行なわれ、第5回目に敵の攻勢移転にあって脆くも失敗、遂に戦争の決を見るに至った。普通に見れば一回の攻勢が一会戦とも言われるけれども、更に大観すれば3月から8月にわたる全作戦を一大会戦とも見ることが出来る。
即ちドイツ軍は多数師団の大予備隊を準備し、数次にわたって敵の戦術的弱点を攻撃してなるべく多くの敵の予備隊を吸収(即ち個々の攻撃は全軍の見地からすれば一戦闘である)し、敵予備隊の消耗を計って敵が予備の貯え無くなった時、自分の方は未だ保存している強大なる予備隊に依って一挙に敵を突破する方式であったと見ることが出来る。独軍最高司令部は必ずしもそう考えていなかったし、各攻勢の間隔大に過ぎ(準備上短縮は不可能であったろう)て、敵に対応の準備を与え、敵も巧みに予備隊を再建し得て、独軍7月15日の攻勢には既にその勢い衰えつつあったのに乗じ、全軍の指揮を一任せられたフォッシュ将軍の英断と炯眼(けいがん)によって独軍攻勢の側面を衝き、遂に攻守処を異にして連合軍勝利の基を開いたのである。
固より独軍の全敗は国内事情によること最も大であるけれども、作戦方面から見れば仏軍があたかも火力をもって敵をいため、敵の勢力を消耗した好機に乗じ攻勢に転ずるいわゆる「火力主義の攻勢防禦」を大規模にした形で最後の勝利を得たのである。第一線決戦の名手フリードリヒ大王の傑作ロイテンと第二線決戦の名手ナポレオンの傑作リーニーの両会戦につき簡単に述べて参考としよう。一、ロイテン会戦 ロスバハに仏軍を大いに破ったフリードリヒ大王は戦捷の余威を駆って一挙に墺軍をシュレージエンより撃攘せんとしブレスラウに向い転進した。12月5日大王はジュミーデ山よりロイテン附近に陣地を占領せる敵軍を観察し、その左翼を攻撃して一挙に敵を撃破するの決心を固めた。これがため大王は普軍の先頭がベルン村近くに到着せるとき、これを左へ転廻せしめ巧みに凹地及び小丘阜を利用しつつ我が企図を秘匿してロベチンス村に入り、横隊に展開せしめた。午後1時大王は梯隊をもって前進すべきを命じた。墺軍は普軍の斜行前進によりその左翼を急襲せられ、その翼をロイテン東方に下げて普軍に対せんとしたのであるが普軍の猛烈果敢なる攻撃と適切なる砲火の集中により全く対応の処置を失い、たちまちにして潰乱するに到った。本戦闘は午後1時より4時過ぎまで継続せられたがオーストリア軍の死傷は1万、砲131門、軍旗55旒を失い、その捕虜は約12000に達した。本戦闘はフリードリヒ大王が35000の寡兵をもって64000の墺軍を撃破せる大王会戦中の傑作であって、兵力を一翼に集結し一挙に決戦を強要せる好範例である。二、リーニー会戦 1815年6月15日オランダ国境を突破せるナポレオンはネー将軍に一部を授けて英軍に対せしめ、主力(73000)を率いて、ブリュッヘル軍を攻撃すべくリーニーに向い前進した。ブリュッヘルは3軍団の兵力(81000)をもって、リーニー川の線に陣地を占領し、英将ウエリントンの来援を頼んでナポレオンと決戦せんと企図していた。ナポレオンはフルイルース附近を前進中詳細なる偵察の後、一部をもって普軍の左翼を牽制抑留し、右翼中央に対し攻撃を加えて普軍の全力を吸収消耗せしめ、その疲労を待って予備隊をもって一挙に止めを刺さんと計画を立てた。これがため敵の左翼に対してはグローチの騎兵隊をもって牽制せしめ、敵の右翼に対しては第3軍団をもってセント・アルマント村を、中央に対しては第4軍団をもってリーニー村を攻撃せしめ、予備隊として近衛、第4騎兵軍団並びに後続第6軍団をあてた。戦闘は午後2時頃より開始せられた。グローチ元帥は巧妙なる指揮によりプロイセン第3軍団をその正面に抑留するに成功したが、我が左翼方面に於ては第3軍団は、セント・アルマント村の争奪を繰り返し、戦況は極めて惨澹たるものがあった。午後5時頃普将ブリュッヘルは待機中の残余部隊をリーニー、セント・アルマント村に進め仏軍の左翼を包囲せんと企図し猛烈なる攻撃を加えてきた。ナポレオンは一部をもって前線を救援せしめたがなお主力は参加せしめず戦機の熟するを待った。午後7時過ぎ普軍は全くその予備隊を消耗するに至った。あたかもよし、後続第6軍団はこの頃戦場に到着した。ここに於てナポレオンは、砲70門をもって普軍の中央に対し準備砲撃を加え、近衛の一部、騎兵第四軍団、第6軍団を以ってリーニーに向い中央突破を敢行せしめた。普軍は戦力全く消耗して対応の策なく遂に敗退しブリュッヘルは危うく捕虜とならんとして僅かに逃るる事が出来た。本会戦はナポレオン得意の中央突破戦法であって第二線決戦の好範例である。
第四章 戦闘方法の進歩

 

第一節 隊形
古代の戦闘隊形は衝力を利用する密集集団方式であった。中世騎士の時代となって各個戦闘となり、戦術は紊(みだ)れて軍事的にも暗黒時代となった。ルネッサンスは軍事的にも大革命を招来した。火薬の使用は武勇優れた武士も素町人の一撃に打負かさるる事となって歩兵の出現となり、再び戦術の進歩を見るに至ったのである。火薬の効力は自然に古(いにしえ)の集団を横広の隊形に変化せしめて横隊戦術の発達を見た。横隊戦術の不自然な停頓と、フランス革命による散兵戦術への革新については詳しく述べたから省略する。一概に散兵戦術と云うも最初は散兵はむしろ補助で縦隊の突撃力が重点であった。それが火薬の進歩とともに散兵に重点が移って行った。それでもなおモルトケ時代は散兵の火力と密集隊の突撃力との併用が大体戦術の方式であった。それが更に進んで「散兵をもって戦闘を開始し散兵をもって突撃する」時代にすすみ、散兵戦術の発展の最後的段階に達したのがシュリーフェン時代から欧州大戦までの歴史である。第一次欧州大戦で決戦戦争から持久戦争へ変転をしたのであるが、戦術もまた散兵から戦闘群に進歩した。フランス革命当時は、先ず戦術的に横隊戦術から散兵戦術に進歩し、戦争性質変化の動機ともなったのであるが、今度は先ず戦争の性質が変化し、戦術の進歩はむしろそれに遅れて行なわれた。最初戦線の正面は堅固で突破が出来ず、持久戦争への方向をとるに至ったのであるが、その後砲兵力の集中により案外容易に突破が可能となった。しかし戦前逐次間隔を大きくしていた散兵の間隔は損害を避けるため更に大きくなり、これは見方に依っては第一線を突破せらるる一理由ともなるが、その反面第一線兵力の節約となり、また全体としての国軍兵力の増加は、限定せられた正面に対し使用し得る兵力の増大となり、かくて兵力を数線に配置して敵の突破を防ぐ事となった。いわゆる数線陣地である。しかし数線陣地の考えは兵力の逐次使用となって各個撃破を受くる事となるから、自然に今日の面の戦法に進展したのである。欧州大戦に於ける詳しい戦術発展の研究をした事がないから断定をはばかるが、私の気持では真に正しく面の戦法を意識的に大成したのは大戦終了後のソ連邦ではないだろうか。大正3年8月の偕行(かいこう)社記事の附録に「兵力節約案」というものが出ている。
曽田中将の執筆でないか、と想像する。それは主として警戒等の目的である。一個小隊ないし一分隊の兵力を距離間隔600mを間して鱗形に配置し、各独立閉鎖堡とする。火力の相互援助協力に依り防禦力を発揮せんとするもので、面の戦法の精神を遺憾なく発揮しているものであり、これが世界に於ける恐らく最初の意見ではないだろうか。果して然りとせば今日までほとんど独創的意見を見ない我が軍事界のため一つの誇りと言うべきである。古代の密集集団は点と見る事が出来、横隊は実線と見、散兵は点線即ち両戦術は線の戦法であり、今日の戦闘群戦術は面の戦法である。而してこの戦法もまた近く体の戦法に進展するであろう。否、今日既に体の戦法に移りつつある。第二次欧州大戦でも依然決戦は地上で行なわれ、空中戦はなお補助戦法の域を脱し得ないが、体の戦法への進展過程であることは疑いを容れない。線の戦法の時でも砲兵の採用は既に面の戦法への進展である。総ての革新変化は決して突如起るものではない。もちろんある時は大変化が起り「革命」と称せられるけれども、その時でさえよく観察すれば人の意識しない間に底流は常に大きな動きを為しているのである。ソ連邦革命は人類歴史上未曽有の事が多い。特にマルクスの理論が百年近くも多数の学者によって研究発展し、その理論は階級闘争として無数の犠牲を払いながら実験せられ、革命の原理、方法間然するところ無きまでに細部の計画成立した後、第一次欧州大戦を利用してツアー帝国を崩壊せしめ、後に天才レーニンを指導者として実演したのである。第一線決戦主義の真に徹底せる模範と言わねばならぬ。しかし人智は儚(はかない)いものである。あれだけの準備計画があっても、やって見ると容易に思うように行かない。詳しい事は研究した事もないから私には判らないが、列国が放任して置いたらあの革命も不成功に終ったのではなかろうか。少なくもその恐れはあったろうと想像せられる。資本主義諸列強の攻撃がレーニンを救ったとも見る事が出来るのではないか。資本主義国家の圧迫が、レーニンをしていわゆる「国防国家建設」への明確な目標を与え大衆を掌握せしめた。もちろん「無産者独裁」が大衆を動かし得たる事は勿論であるが、大衆生活の改善は簡単にうまく行かず、大なる危機が幾度か襲来した事と思う。
それを乗越え得たのは「祖国の急」に対する大衆の本能的衝動であった。マルクス主義の理論が自由主義の次に来たるべき全体主義の方向に合するものであり、殊に民度の低いロシヤ民族には相当適合している事がソ連革命の一因をなしている事を否定するのではないが、列強の圧迫とあらゆる困難矛盾に対し、臨機応変の処理を断行したレーニン、スターリンの政治的能力が今日のソ連を築き上げた現実の力である。第一線決戦主義で堂々開始せられた革命建設も結局第二線決戦的になったと見るべきである。ナチス革命は明瞭な第二線決戦主義である。ヒットラーの見当は偉い。しかしヒットラーの直感は革命の根本方向を狙っただけで、詳細な計画があったのではない。大目標を睨みながら大建設を強行して行くところに古き矛盾は解消されつつ進展した。もちろん平時的な変革ではない。
たしかにナチス革命であるが大した破壊、犠牲無くして大きな変革が行なわれた。大観すればナチス革命はソ連革命に比し遥かに能率的であったと言える。この点は日本国民は見究めねばならない。第二次欧州大戦特に仏国の屈伏後はやや空気が変ったが、国民が第一線決戦主義に対する憧憬余りに強くソ連の革命的方式を正しいものと信じ、多くの革新論者はナチス革命は反動と称していたではないか。この気持が今日も依然清算し切れず新体制運動を動(やや)もすれば観念的論議に停頓せしめる原因となっている。日米関係の切迫がなくば新体制の進展は困難かも知れない。蓋(けだ)し困難が国民を統一する最良の方法である。今日ルーズベルトが全体主義国の西大陸攻撃(とんでもない事だが)を餌として国民を動員せんとしつつあるもその一例。リンドバーグ大佐がドイツより本土攻撃せられる恐れなしと証言せるは余りに当然の事、これが特に重視せらるるは滑稽である。
第二節 指揮単位
「世界最終戦論」には方陣の指揮単位は大隊、横隊は中隊、散兵は小隊、戦闘群は分隊と記してある。理屈はこの通りであり大勢はその線に沿って進歩して来たが、現実の問題としてそう正確には行っていない。横隊戦術の実際の指揮は恐らく中隊長に重点があったのであろう。横隊では大隊を大隊長の号令で一斉に進退せしむる事はほとんど不可能とも言うべきである。しかし当時の単位は依然として大隊であり、傭兵の性格上極力大隊長の号令下にある動作を要求したのである。散兵戦の射撃はなかなか喧噪なもので、その指揮すなわち前進や射撃の号令は中隊では先ず不可能と言って良い。特に散兵の間隔が増大し部隊の戦闘正面が拡大するにつれてその傾向はますます甚だしくなる。だから散兵戦術の指揮単位は小隊と云うのは正しい。しかしナポレオン時代は散兵よりも戦闘の決は縦隊突撃にあったのだから、実際には未だ指揮単位は大隊であった。横隊戦術よりも正確に大隊の指揮号令が可能である。散兵の価値進むに従い戦闘の重点が散兵に移り、密集部隊も戦闘に加入するものは大隊の密集でなく中隊位となった。モルトケの欄に、散兵の下に「中隊縦隊」と記し、指揮単位を「中隊」としたのはこの辺の事情を現わしたのである。日露戦争当時は既に散兵戦術の最後的段階に入りつつあり、小隊を指揮の単位とした。しかるに戦後の操典には射撃、運動の指揮を中隊長に回収したのであった。その理由は、日露戦争の経験に依れば、1年志願兵の将校では召集直後到底小隊の射撃等を正しく指揮する事困難であると云うのであった。若し真に日本軍が散兵戦闘を小隊長に委せかねるというならば、日本民族はもう散兵戦術の時代には落伍者であると言う事を示すものといわねばならぬ。もちろんそんな事はないのであるから、この改革は日本人の心配性をあらわす一例と見る事が出来る。更に正確にいえば、ドイツ模倣の1年志願兵制度が日本社会の実情に合しない結果であったのである。欧州大戦前のドイツで中学校(ギムナジュウム)に入学するものは右翼または有産者即ち支配階級の子供であり、小学校卒業者は中学校に転校の制度はなかったのである。即ち中学校以上の卒業者は自他ともに特権階級としていたので、悪く言えば高慢、良く言えば剛健、自ら指導者たるべき鍛錬に努力するとともに平民出身の一般兵と同列に取扱わるる事を欲しないのである。
そこに特権制度として1年志願兵制度が発達し、しかもその価値を発揮したのである。しかるに明治維新以後の日本社会は真に四民平等である。また近時自由主義思想は高等教育を受けた人々に力強く作用して軍事を軽視する事甚だしかった。かくの如き状態に於て中学校以上を卒業したとて一般の兵は2年または3年在営するに対し、僅か1年の在営期間で指揮官たるべき力量を得ないのは当然である。本次事変初期に於ても1年志願兵出身の小隊長特に分隊長が指揮掌握に充分なる自信なく、兵の統率にやや欠くる場合ありしを耳にしたのである。これはその人の罪にあらずして制度の罪である。この経験とドイツ丸呑みよりの覚醒が自然今日の幹部候補生の制度となり、面目を一新したのは喜びに堪えない。しかし未だ真に徹底したとは称し難い。学校教練終了を幹部候補生資格の条件とするのは主義として賛同出来ぬ。「文事ある者は必ず武備がある」のは特に日本国民たるの義務である。親の脛をかじりつつ、同年輩の青年が既に職業戦線に活躍しある間、学問を為し得る青年は一旦緩急ある際一般青年に比し遥かに大なる奉公の実を挙ぐるため武道教練に精進すべきは当然であり、国防国家の今日、旧時代の残滓とも見るべきかくの如き特権は速やかに撤廃すべきである。中等学校以上に入らざる青年にも、青年学校の進歩等に依り優れたる指揮能力を有する者が尠(すくな)くない。また軍隊教育は平等教育を一抛し、各兵の天分を充分に発揮せしめ、特に優秀者の能力を最高度に発展せしむる事が必要であり、これによって多数の指揮官を養成せねばならぬ。在営期間も最も有利に活用すべく、幹部候補生の特別教育は極めて合理的であるが、猥(みだ)りに将校に任命するのは同意し難い。除隊当時の能力に応ずる階級を附与すべきである。序(ついで)に現役将校の養成制度について一言する。幼年学校生徒や士官候補生に特別の軍服を着せ、士官候補生を別室に収容して兵と離隔し身の廻りを当番兵に為さしむる等も貴族的教育の模倣の遺風である。速やかに一抛、兵と苦楽をともにせしめねばならぬ。率先垂範の美風は兵と全く同一生活の体験の中から生まれ出るべき筈である。将校を任命する時に将校団の銓衡会議と言うのがある。あれもドイツの制度の直訳である。ドイツでは昔その歴史に基づき将校団員は将校団で自ら補充したのである。
その後時勢の進歩に従い士官候補生を募集試験により採用しなければならないようになったため、動(やや)もすれば将校団員の気に入らない身分の低い者が入隊する恐れがある。それを排斥する自衛的手段として、将校団銓衡会議を採用したものと信ずる。日本では全く空文で唯形式的に行なわるるに過ぎない。私は更に徹底して幹部を総て兵より採用する制度に至らしめたい。かくして現役、在郷を通じて一貫せる制度となるのである。世の中が自由主義であった時代、幼年学校は陸軍として最も意味ある制度であったと言える。しかし今日以後全体主義の時代には、国民教育、青年教育総て陸軍の幼年学校教育と軌を同じゅうするに至るべきである。
即ち陸軍が幼年学校の必要を感じない時代の1日も速やかに到来する事を祈らねばならぬ。それが国防国家完成の時とも言える。そこで軍人を志すものは総て兵役につく。能力により現役幹部志願者は先ず下士官に任命せられる。これがため必要な学校はもちろん排斥しない。下士官中、将校たるべき者を適時選抜、士官学校に入校せしめて将校を任命する。今日「面」の戦闘に於ては指揮単位は分隊である。しかしてこの分隊の戦闘に於ては分隊が同時に単一な行動をなすのではない。ある組は射撃を主とし、ある組はむしろ白兵突撃まで無益の損害を避けるため地形を利用して潜入する等の動作を有利とする。操典は既に分隊を二分するを認めており、「組」が単位となる傾向にある。この趨勢から見て次の「体」の戦法ではいよいよ個人となるものと想像せられる。「体」の戦法とは戦闘法の大飛躍であり、戦闘の中心が地上特に歩兵の戦闘から空中戦への革命であろう。空中戦としては作戦の目標は当然敵の首都、工業地帯等となる。そして爆撃機が戦闘力の中心となるものと判断せられ、飛行機は大きくなる一方であり、その編隊戦法の進歩と速度の増加により戦闘機の将来を疑問視する傾向が一時相当有力であったのである。しかるに支那事変以来の経験によって戦闘機の価値は依然大なる事が判明した。今日の飛行機は莫大の燃料を要し、その持つ量のため戦闘機の行動半径は大制限を受けるのだが、将来動力の大革命に依り、戦闘機の行動半径も大飛躍し、敵目標に潰滅的打撃を与うるものは爆撃機であるが、空中戦の優劣が戦争の運命を左右し、依然戦闘機が空中戦の花として最も重要な位置を占むるのではないだろうか。
第三節 戦闘指導精神
横隊戦術の指導精神は当時の社会統制の原理であった「専制」である。専制君主の傭兵が横隊戦術に停頓せしめたのである。号令をかける時刀を抜き、敬礼する時刀を前方に投出すのはこの時代の遺風と信ずる。精神上から言ってもまた実戦の必要から言っても、号令をかける場合刀を抜く事は速やかに廃止する事を切望する。猥(みだ)りに刀を抜き敵に狙撃せられた例が少なくない。そうすれば指揮刀なるものは自然必要なくなる。日本軍人が指揮刀を腰にするのはどうも私の気に入らない。今日刀を抜いて指揮するため危険予防上指揮刀を必要とするのである。フランス革命により本式に採用せらるるに至った散兵戦術の指導精神は、フランス革命以来社会の指導原理となった「自由」である。横隊の窮屈なのに反し、散兵は自由に行動して各兵の最大能力を発揮する。各兵は大体自分に向った敵に対し自由に戦闘するのである。部隊の指揮単位に於てなるべく各隊長の自由を尊重するのである。大隊戦闘の本旨は「大隊の攻撃目標を示し、第一線中隊をして共同動作」せしむるに在った。そうして大隊長はなるべく干渉を避けるのである。戦闘群の戦術となると形勢は更に変化して来た。敵は散兵の如く大体我に向き合ったものが我に対抗するのではない。広く分散している敵は互に相側防し合うように巧みに火網を構成しているから、とんでもない方から射撃せられる。散兵戦術のように大体我に向い合った敵を自由に攻撃さしたなら大変な混乱に陥る恐れがある。そこで否が応でも「統制」の必要が生じて来た。即ち指揮官ははっきり自分の意志を決定する。その目的に応じて、各隊に明確な任務を与え各隊間共同の基準をも明らかにする。しかも戦況の千変万化に応じ、適時適切にその意図を決定して明確な命令を下さねばならない。自由放任は断じてならぬ。昭和15年改正前の我が歩兵操典に大隊の指揮に対し、大隊長の指揮につき「大隊戦闘の本旨は諸般の戦況に応じ大隊長の的確かつ軽快なる指揮と各隊の適切なる協同とに依り大隊の戦闘力を遺憾なく統合発揮するにあり」と述べ更に「……戦況の推移を洞察して適時各隊に新なる任務を附与し……自己の意図の如く積極的に戦闘を指導す」と指示している。この統制の戦術のためには次の事が必要である。
1、指揮官の優秀、およびそれを補佐する指揮機関の整備。2、命令、報告、通報を迅速的確にする通信連絡機関。3、各部隊、各兵の独断能力。3に示す如く、統制では各隊の独断は自由主義時代より更に必要である。いかに指揮官が優秀でも、千変万化の状況は全く散兵戦術時代とは比較にならぬ結果、いちいち指揮官の指揮を待つ暇なく、また驚くべき有利な機会を捉うる可能性が高い。各兵も散兵に比しては正に数10倍の自由活動の余地があるのである。一兵まで戦術の根本義を解せねばならぬ。今日の訓練は単なる体力気力の鍛錬のみでなく、兵の正しき理解の増進が一大問題である。我らの中少尉時代には戦術は将校の独占であった。第一次欧州大戦後は下士官に戦術の教育を要求せられたが、今日は兵まで戦術を教うべきである。統制は各兵、各部隊に明確なる任務を与え、かつその自由活動を容易かつ可能ならしむるため無益の混乱を避けるため必要最少限の制限を与うる事である。即ち専制と自由を綜合開顕した高度の指導精神であらねばならぬ。近時のいわゆる統制は専制への後退ではないか。何か暴力的に画一的に命令する事が統制と心得ている人も少なくないようである。衆が迷っており、かつ事急で理解を与える余裕のない場合は躊躇なく強制的に命令せねばならない。それ以外の場合は指導者は常に衆心の向うところを察し、大勢を達観して方針を確立して大衆に明確な目標を与え、それを理解感激せしめた上に各自の任務を明確にし、その任務達成のためには広汎な自由裁断が許され、感激して自主的に活動せしめねばならない。恐れ戦き、遅疑、躊躇逡巡し、消極的となり感激を失うならば自由主義に劣る結果となる。社会が全体主義へ革新せらるる秋(とき)、軍隊また大いに反省すべきものがある。軍隊は反自由主義的な存在である。ために自由主義の時代は全く社会と遊離した存在となった。殊に集団生活、社会生活の経験に乏しい日本国民のため、西洋流の兵営生活は驚くべき生活変化である。即ち全く生活様式の変った慣習の裡(うち)に叩き込まれ、兵はその個性を失って軍隊の強烈な統制中の人となったのである。陸軍の先輩は非常にこの点に頭を悩まし、明治41年12月軍隊内務書改正の折、その綱領に「服従は下級者の忠実なる義務心と崇高なる徳義心により、軍紀の必要を覚知したる観念に基づき、上官の正当なる命令、周到なる監督、およびその感化力と相俟って能(よ)くその目的を達し、衷心より出で形体に現われ、遂に弾丸雨飛の間に於て甘んじて身体を上官に致し、一意その指揮に従うものとす」と示したのである。
これ真に達見ではないか。全体主義社会統制の重要道徳たる服従の真義を捉えたのである。しかし軍隊は依然として旧態を脱し切れないで今日に及んでいる。今や社会は超スピードをもって全体主義へ目醒めつつある。青年学校特に青少年義勇軍の生活は軍隊生活に先行せんとしつつある。社会は軍隊と接近しつつある。軍隊はこの時代に於て軍隊生活の意義を正確に把握して「国民生活訓練の道場」たる実を挙げねばならぬ。殊に隊内に私的制裁の行なわれているのは遺憾に堪えない。しかも単に形式的防圧ではならぬ。時代の精神に見覚め全体主義のために如何に弱者をいたわることの重大なるかを痛感する新鮮なる道義心に依らねばならぬ。東亜連盟結成の根本は民族問題にあり。
民族協和は人を尊敬し弱者をいたわる道義心によって成立する。朝鮮、満州国、支那に於ける日本の困難は皆この道義心微(かす)かなる結果である。軍隊が正しき理解の下に私的制裁を消滅せしむる事は日本民族昭和維新の新道徳確立の基礎作業ともなるのである。
第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制)

 

第一節 兵役
火器の使用に依って新しい戦術が生まれて来た文芸復興の時代は小邦連立の状態であり、平常から軍隊を養う事は困難で有事の場合兵隊を傭って来る有様であったが、国家の力が増大するにつれ自ら常備の傭兵軍を保有する事となった。その兵数も逐次増加して、傭兵時代の末期フリードリヒ大王は人口400万に満たないのに10数万の大軍を常備したのである。そのため財政的負担は甚大であった。フランス革命は更に多くの軍隊を要求し、貧困なるフランスは先ず国民皆兵を断行し、欧州大陸の諸強国は次第にこれに倣う事となった。最初はその人員も多くなかったが、国際情勢の緊迫、軍事の進歩に依って兵力が増加せられ、第一次欧州大戦で既に全健康男子が兵役に服する有様となった。第二次欧州大戦では大陸軍国ソ連が局外に立ち、フランスまた昔日の面目がなくなり、かつ陸上作戦は第一次欧州大戦のように大規模でなかったため第一次欧州大戦だけの大軍は戦っていないが、必要に応じ全健康男子銃を執る準備も列強には常に出来ている。日本は極東の一角に位置を占め、対抗すべき陸軍武力は一本のシベリヤ鉄道により長距離を輸送されるソ連軍に過ぎないために服役を免れる男子が多かった。ソ連極東兵備の大増強、支那事変の進展により、徴集兵数は急速に大増加を来たし、国民皆兵の実を挙げつつある。兵役法はこれに従って相当根本的な改革が行なわれたが、しかも更に徹底的に根本改正を要するものと信ずる。国家総動員は国民の力を最も合理的に綜合的に運用する事が第一の着眼である。教育の根本的革新に依り国民の能力を最高度に発揮し得るようにするとともに、国民はある期間国家に奉仕する制度を確立する。即ち公役に服せしむるのである。兵役は公役中の最高度のものである。公役兵役につかしむるについては、今日の徴兵検査では到底国民の能力を最も合理的に活用する事が出来ない。教育制度と検査制度を統一的に合理化し、知能、体力、特長等を綜合的に調査し、各人の能力を充分に発揮し得るごとく奉仕の方向を決定する。戦時に於ける動員は所要兵力を基礎として、ある年齢の男子を総て召集する。その年齢内で従軍しない者は総て国家の必要なる仕事に従事せしめる。自由企業等はその年齢外の人々で総て負担し得るように適切綿密なる計画を立てて置かねばならない。空軍の発達に依り都市の爆撃が行なわるる事となって損害を受くるのは軍人のみでなくなった。全健康男子総て従軍する事となった今日は既成の観念よりせば国民皆兵制度の徹底であるが、既に世は次の時代である。
全国民野火の禍中に入る端緒に入ったのである。次に来たるべき決戦戦争では作戦目標は軍隊でなく国民となり、敵国の中心即ち首都や大都市、大工業地帯が選ばるる事が既に今次英独戦争で明らかとなっている。すなわち国民皆兵の真の徹底である。老若男女のみならず、山川草木、豚も鶏も総て遠慮なく戦火の洗礼を受けるのである。全国民がこの惨禍に対し毅然として堪え忍ぶ鉄石の精神を必要とする。空中戦を主体とするこの戦争では、地上戦争のように敵を攻撃する軍隊に多くの兵力が必要なくなるであろう。地上作戦の場合は無数の兵員を得るため国民皆兵で誰でも引張り出したのであるが、今後の戦争では特にこれに適した少数の人々が義勇兵として採用せらるるようになるのではなかろうか。イタリアの黒シャツ隊とかヒットラーの突撃隊等はその傾向を示したものと言える。義勇兵と言うのは今日まで用いられていた傭兵の別名ではない。国民が総て統制的に訓練せられ、全部公役に服し、更に奉公の精神に満ち、真に水も洩らさぬ挙国一体の有様となった時武力戦に任ずる軍人は自他共に許す真の適任者であり、義務と言う消極的な考えから義勇と言う更に積極的であり自発的である高度のものとなるべきである。
第二節 国軍の編制
フリードリヒ大王時代は兵力が相当多くても実際作戦に従事するものは案外少なくなり、その作戦は「会戦序列」に依り編成された。それが主将の下に統一して運動し戦闘するのであたかも今日の師団のような有様であった。ナポレオン時代は既に軍隊の単位は師団に編制せられていた。次いで軍団が生まれ、それを軍に編制した。ナポレオン最大の兵力(約45万)を動かした1812年ロシヤ遠征の際の作戦は、なるべく国境近く決戦を強行して不毛の地に侵入する不利を避くる事に根本着眼が置かれた。これは1806-7年のポーランドおよび東普作戦の苦い経験に基づくものであり、当時として及ぶ限りの周到なる準備が為された。一部をワルソー方向に進めてロシヤの垂涎(すいぜん)の地である同地方に露軍を牽制し、東普に集めた主力軍をもってこの敵の側背を衝き、一挙に敵全軍を覆滅して和平を強制する方針であった。主力軍は二個の集団に開進した。ナポレオンは最左翼の大集団を直接掌握し、同時に全軍の指揮官であった。今日の常識よりせばナポレオンは三軍に編制して自らこれを統一指揮するのが当然である。当時の通信連絡方法ではその三軍の統一運用は至難であったろう。けれどもナポレオンといえども当時の慣習からそう一挙に蝉脱出来なかった事も考えられる。何れにせよ事実上三軍にわけながら、その統一運用に不充分であった事がナポレオンが国境地方に於て若干の好機を失った一因となっており、統一運用のためには国軍の編制が合理的でなかったという事は言えるわけである。モルトケ時代は既に国軍は数軍に編制せられ、大本営の統一指揮下にあった。シュリーフェンに依り国軍の大増加と殲滅戦略の大徹底を来たしたのであるが、依然国軍の編制はモルトケ時代を墨守し、欧州大戦勃発初期、国境会戦等であたかも1812年ナポレオンの犯したと同じ不利を嘗めたのは興味深い事である。独第五軍は旋回軸となりベルダンに向い、第四軍はこれに連繋して仏第四軍を衝き、独主力軍の運動翼として第一ないし第三軍が仏第五軍及び英軍を包囲殲滅すべき態勢となった。第一ないし第三軍を一指揮官により統一運用したならばあるいは国境会戦に更に徹底せる勝利となり、仏第五軍、少なくも英軍を捕捉し得たかも知れぬ。そう成ったならマルヌ会戦のため更に有利の形勢で戦わるる事であったろう。しかるに独大本営は自らこの戦場に進出し直接三軍を指揮統一することもなさず、第二軍司令官をして臨時三個軍を指揮せしめた。
しかるに第二軍司令官ビューローは古参者であり皇帝の信任も篤い紳士的将軍であったが機略を欠き、活気ある第一軍との意見合致せず、いたずらに安全第一主義のために三軍を近く接近して作戦せんとし、遂に好機を失し敵を逸したのである。ナポレオンの1812年の軍編制や運営につき深刻な研究をしていた独軍参謀本部は、1914年同じ失敗をしたのである。1812年はナポレオンとしては三軍の編成、その統一司令部の設置はかなり無理と言えるが、1914年は正しく右翼三軍の統一司令部を置くべきであり、万一置いてない時は大本営自ら第一線に進出、最も大切の時期にこの三軍を直接統一指揮すべきであった。戦争の進むにつれて必要に迫られて方面軍の編成となったが、若しドイツが会戦前第一ないし第三軍を一方面軍に編成してあったならば、戦争の運命にも相当の影響を及ぼし得た事であったろう。現状に捉われず、将来を予見した識見はなかなか得られない事を示すとともに、その尊重すべきを深刻に教えるものと言うべきである。
第六章 将来戦争の予想

 

第一節 次の決戦戦争は世界最終戦争
かつて中央幼年学校で解析幾何の初歩を学んだ。数学の嫌いな私にもこれは大変面白く勉強出来た。掛江教官が「二元の世界すなわち平面に住む生物には線を一本書けばその行動を掣肘し得らるるわけだが、三元の世界即ち体に住む我らには線は障害とならないが、面で密封したものの中に入れられる時は全く監禁せられる。しかし四元の世界に住むものには我々の牢屋のようなものでは如何ともなし得ない」等という語を非常に面白く聴いたものである。鎌倉に水泳演習の折、宿は光明寺で我々は本堂に起居していた。十六羅漢の後に5-6歳の少女が独りで寝泊りしていたが、この少女なかなか利発もので生徒を驚かしていた。ある夜の事豪傑連中(もちろん私は参加していない)が消灯後海岸に散歩に出かけ遅く帰って廊下にあった残飯を食べていた。ところが突如音がして光り物が本堂に入って来た。さすがの豪傑連中度胆を抜かれてひれ伏してしまった。この時豪傑中の豪傑、今度の事変で名誉の戦死を遂げた石川登君が恐る恐る頚を上げて見ると女が本堂の奥に進んで行く。石川君の言によると「柱でも蚊帳でも総てすうと通り抜けて行く」のであった。奥に寝ていた少女が泣出す。誰かが行って尋ねて見ると「知らない小母さんが来て抱くから嫌だ……」とて、それからはどうしても一人で本堂に寝ようとはしなかった。この少女は両親を知らず、ただ母は浅草附近にいるとの事であったが、我らは恐らくその母親が死んだのだろうと話しあったのであった。石川君の実感を詳しく聴くと、掛江教官の四元に住むものとして幽霊の事が何だかよく当てはまるような気がする。宗教の霊界物語は同じ事であろう。しかし我ら普通の人間には体以上のものは想像も出来ない。体の戦法は人間戦闘の窮極である。今日の戦法は依然面の戦法と見るべきだが、既に体の戦法に移りつつある。指揮単位は分隊から組に進んでいる。次は個人となるであろう。軍人以外は非戦闘員であると言う昨日までの常識は、都市爆撃により完全に打破されつつある。第一次欧州大戦で全健康男子が軍に従う事となったのであるが、今や全国民が戦争の渦中に投入せらるる事となる。第二次欧州大戦では独仏両強国の間にさえ決戦戦争となったが、これは前述せる如く両国戦争力の甚だしい相違からきたので、今日の状態でも依然持久戦争となる公算が多い。即ち一国の全健康男子を動員すればその国境の全正面を防禦し得べく、敵の迂回を避ける事が出来る。
火砲、戦車、飛行機の綜合威力をもっても、良く装備せられ、決心して戦う敵の正面は突破至難である。次の決戦戦争はどうしても真に空中戦が主体となり、一挙に敵国の中心に致命的打撃を与え得る事となって初めて実現するであろう。体の戦法、全国民が戦火に投入と言う事から見ても次の決戦戦争は正しく空中戦である。しかして体以上の事は我らに不可解であり、単位が個人で全国民参加と云えば国民の全力傾注に徹底する事となる。即ち次の決戦戦争は戦争形態発達の極限に達するのであり、これは戦争の終末を意味している。次の決戦戦争は世界最終戦争であり、真の世界戦争である。過去の欧州大戦を世界大戦と呼ぶのは適当でない。西洋人の独断を無意識にまねている人々は戦争の大勢、世界歴史の大勢をわきまえぬのである。
第二節 歴史の大勢
戦争の終結と云う事は国家対立の解消、即ち世界統一を意味している。最終戦争は世界統一の序曲に他ならない。第一次欧州大戦を契機として軍事上の進歩は驚嘆すべき有様であり、特にドイツおよびソ連の全体主義的国防建設が列強のいわゆる国防国家体制への急進展となりつつある。全体主義は国力の超高速度増強を目標とするのであり、「自由」から「統制」への躍進である。全国力を徹底的に発揮するため極度の緊張が要求せられる。全体主義はあたかも運動選手の合宿鍛錬主義の如きものであり、決勝戦の直前に於て活用せらるべき方式である。一地方に根拠を有する戦力が抵抗を打破し得る範囲により自然に政治的統一を招来する。これがため武力の進歩が群小国家を整理して大国家への発展となった。欧州大戦後、軍事および一般文明の大飛躍は国家の併合を待つの余裕をあたえず、しかも力の急速なる拡大を生存の根本条件とする結果、国家主義の時代から国家連合の時代への進展を見、今日世界は大体四個の大集団となりつつある事は世人の常識となった。昭和16年1月14日閣議決定の発表に「肇国(ちょうこく)の精神に反し、皇国の主権を晦冥(かいめい)ならしむる虞(おそれ)あるが如き国家連合理論等は之を許さず」との文句がある。興亜院当局はこれに対し、国家連合理論を否定するものでなく、肇国の精神に反し皇国の主権を晦冥ならしむる虞あるものを許さぬ意味であると釈明したとの事である。若し国家連合の理論を否定する事があるならばそれはあまりにも人類歴史の大勢に逆行するものであり、皇国は世界の落伍者たる事を免れ難き事明瞭である。興亜院当局の言は当然しかあるべきである。然し閣議決定発表の文がかくの如き重大誤解を起す恐れ大なるは遺憾に堪えない。人類文化の目標である八紘一宇の御理想に基づき、政治的には全世界が天皇を中心とする一国家となる事は疑いを許さぬ。しかしそれに到達するには不断の生々発展がある。国家連合の時代に入りつつある世界は、第二次欧州戦争に依りその速度を増して間もなく明確に数個の集団となるであろう。その集団はなるべく強く統制せらるるものが、良くその力を発揮し得るのだから統制の強化を要望せらるる反面、民族感情や国家間の利害等によりその強化を阻止する作用も依然なかなか強い。結局各集団の状況に応じ落着くべきに落着き、しかも絶えずその統制強化に向って進むものと考えられる。
合理的に無理なくその強化が進展し得るものが優者たる資格を得る事となるであろう。右の如く発展をしながら各集団の間に集散離合が行なわれてその数を減じ、恐らく二個の勢力に分れ、その間の決戦戦争によって世界統一の第一段階に入るものと想像せられる。二個勢力に結成せらるるまでが人類歴史の現段階であり、戦争より見れば第一次欧州戦争以来の持久戦争時代がそれである。持久戦争と言うても局部的には決戦戦争が行なわれて集団結成を促進するのであるが、武力の活動範囲に未だ制限多く自然に数集団となるわけである。今日はこの意味に於て人類の準決勝時代と言うべく、この時代の末期である世界が二個の勢力に結成せられる時、次の決戦戦争の時代に入り最終戦争が行なわれる事となる。ラテン・アメリカの諸国は人種的にも経済的にも概して合衆国よりも欧州大陸と親善の気持を持っているにも拘らず、第一次欧州大戦以後は急速に米州連合体の成立に向いつつある事は即ち歴史の必然性である。ドイツは天才ヒットラーにより戦争の中に於て着々欧州連盟の結成に努力し、恩威併行の適切なる方策により輝かしき成果を挙げている。ソ連は最もよく結合の実を挙げ、今日は名は連邦であるが既に大国家とも見る事が出来る。日本はその実力によって欧米覇道主義の侵略を排除しつつ、一個の集団へ結成せんとしつつあるが、我が東亜は今日最も不完全な状態にある。しかし遠からず支那事変を解決し、必ずや急速に東亜の大同を実現するであろう。現下の事変はその陣痛である。これらの未完成の四集団は既にいわゆる民主主義陣営と枢軸陣営の二大分野に分れ、ソ連は巧みにその中間を動いて漁夫の利を占めんとしつつあるが、果してしからばその将来は如何に成り行くであろうか。今日民主主義、全体主義の二大陣営と言うも必ずしもそれは主義によるのではない。現に民主主義という英、米は全体主義の中国を味方に編入し、殊に全体主義の最先鋒ソ連に秋波を送りつつある。主義よりもむしろ利害関係ないし地理的関係が主である。しかし文明の進展するところ、結局は矢張り主義が中心となって世界が二分するであろうと想像する。この見地から究極に於て、王覇両文明の争いとなるものと信ずる。我ら東洋人は科学文明に遅れ、西洋人に比し誠に生温い生活をして来た。しかし反面常に天意に恭順ならんとする生活を続けたのである。東洋人は太古の宗教的生活を捨て去っていない。
西洋は力を尚ぶが、我らの守る処は道である。政治上に於て我らは徳治を理想とするに対し彼らは法治を重視する。道と力は人生に於ける二大要素であり、これを重んじないものはない。問題はその程位如何にある。何れが主で何れが従であるかに在る。この差は今日の日本人には大したものでないと思わるるかも知れない。しかしこれが大きな問題である。今日の日本人は西洋文明を学び、大体覇道主義となっている。あるいは西洋人以上の覇道主義者である。見給え、平気で「油が入用だから蘭印をとる」と高言しているではないか。西洋人でも今少しは歯に衣(きぬ)をかけた言い方をするであろう。
日本人は一時心も形も全部西洋風となったのであった。近時所謂日本主義が横行して形は日本に還ったが、しかし彼らの大部の心は依然西洋覇道主義者である。八紘一宇と言いながら弱者から権利を強奪せんとし、自ら強権的に指導者と言い張る。この覇道主義が如何に東亜の安定を妨げているかを静かに観察せねばならない。クリステイーの「奉天30年」には日清戦争当時のことについて「若し総ての日本人が軍隊当局者のようであったなら、人々は彼らの去るのを惜しんだであろう。しかし他の部類のものもあった。軍隊の後から人夫、運搬夫等に、そして雑多なる最下級の群が来て、それらは支那人から恐怖の混じた軽蔑をもって見られた。……彼らは兵士の如く厳格なる規律の下に置かれなかった」と述べてある。軍隊は兵卒に至るまで道義的であったらしい。しかるに日露戦争については「この前の戦争の時に於ける日本軍の正義と仁慈が謳歌され、総ての放埒は忘れられていた。戦争者が満州の農民と永久的友誼を結ぶべき一大機会は今であった。度々戦乱に悩まされたこれらの農民達は日本人を兄弟並みに救い主として熱心に歓迎したのである。かくしてこの国土の永久的領有の道は拓けたであろう。而して多くの者がそれを望んだのであった。しかるに日本人の指導者と高官の目指した処は何であるにもせよ、普通の日本兵士並びに満州に来た一般人民はこの地位を認識する能力が無かった。……かくして一般の人心に、日本人に対する不幸なる嫌悪、彼らの動機に対する猜疑(さいぎ)、彼らと事を共にするを好まぬ傾向が増え、かつ燃えた。これらの感情はこれを根絶する事が困難である」と記している。日露戦争では既に兵士のあるものは非道義的に傾いた。今次事変は如何であろうか。悪いのは一般日本人と兵士だけに止まるであろうか。北支の老人は「北清事変当時の日本軍と今日の日本軍は余りに変った」と嘆いているそうである。若し我が軍が少なくとも北清事変当時だけの道義を守っていたならば、今日既に蒋介石は我が戦力に屈伏していたではないだろうか。蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。「派遣軍将兵に告ぐ」「戦陣訓」の重大意義もここにありと信ずる。北清事変当時の皇軍が如何に道義を守ったかに関して北京の東亜新報の2月6-8日の両三日の紙上に「柴大人の善政、北城に残る語り草」と題し、今なお床しき物語が掲載されている。
それを参考までに大略申述べるとこんな事である。(一)、「千仏寺胡同、この北京の北城の辺こそ、我ら日本人が誇りとしてよい地区なのである。光緒26年、つまり明治33年の7月21日は各国連合軍が北京入城の日であった。日本軍は朝陽門より守備兵の抵抗を排除して先ず入城、順天府署に警務所を設け、当時公使館附武官であった柴五郎大佐が警務長官となった。柴大佐は後の柴大将であるが、大将の恩威並び行なう善政は全く北京人をして感涙にむせばせたものであった。柴長官は先ず安民公署という分署を東西北八胡同と西四牌楼北報子胡同の二個所に設け、布告を発して曰く、「軍人の住民の宅に入りて捜査するを許さず、若し違反する者あらば住民はその面貌 等を記して告発す可し」と。そして清刑部郎中・端華如等をしてその事務を処理させた。当時の北京は各国軍がそれぞれ駐屯区域を定めていたのだが、日本軍駐屯の北城地域が最も平和で住民が安居し、ロシヤ、フランス、イギリス等の駐屯区域では兵隊が乱暴するので縊死するもの、井戸に投じ、焼死するものが続出し、そうした区域からの避難民は争って日本軍駐屯の北城区域へ避難して来た。こうした避難民のため、その当時寂びれていた鼓楼大街の如きは忽ち繁華の街となった程である。善政というものは比較されて見た時にはっきりとその真価が分る。北清事変で各国の軍隊が各警備の縄張りをきめたこの時ほど西欧の軍隊の野獣的なる行為に比べ皇軍の仁愛あふるる軍規と施設の真価が発揮せられた事はあるまい。この時の日本軍敬慕の北京人の感情は、その後の日露戦争に於て清国をして親日一色ならしめた有力な原動力たり得たのである。」(二)、「ここは鼓楼東大街の北である。そして日本軍の善政ゆえに更生した街である。橋川時雄氏の調査によると、当時の柴大人(ツァイターレン)の仁政として今も古老の感謝しているところは、大人が警務長官となるや各米倉を開いてその蓄米を廉売し、いわゆる“糧荒”の虞(おそれ)なからしめた事であるそうである。その他に現存している古老が口伝している柴大将についての挿話には次のような話がある。【古老の話 その一】その頃柴五郎というお方は日本人ではない。満州旗籍の出身だが日本に帰化したのだ。つまり柴大人がこのような仁政を施すのは故郷へ帰ってきて故郷を愛するためだという噂が専らでした。この話は当時その恩に感じた住民達が半分想像まじりで話した噂だろうが、本当の事として宣伝されたわけである。
【古老の話 その二】柴大人が職を去って日本へ帰る日はいやはや大変な事でした。柴公館には、その日朝暗いうちから人がわんさと押しかけて皆餞別の贈り物をしました。その多くは貧民や苦力どもで、皆手に手に乾鶏等を贈ってその行を惜しんだのです。あの時の有様は今でもありありとこの眼に浮かんで来ます。【古老の話 その三】柴大人の威勢というものはその頃は大したもので、流行歌にまで歌われたものです。
つい20年位までは、この北城一帯では子供らがあんまり悪戯をすると母親達は“柴大人来了(ツァイターレンライラ)”(そんなおいたをすると柴大人が来ますよ)と言ってなだめていた程です。この三つの口伝は橋川氏の集めたものであるが、またもって日本軍人柴大人の威徳を偲ぷに充分なるものがあるではないか」、「宝鈔胡同の柴大人の民心把握の偉大な事蹟をたずねた方がこの際特に意味深いであろう。満州人敦厚の“都門紀変三十首絶句”というのは多分拳匪の乱を謳ったものらしいが、その中の第七首“粛府”にこういうのがある 。
  桐葉分封二百余、蒼々陰護九松居、
  無端燬倣渾間事、同病応憐道士徐。
この詩にいう道士徐というのは東海に行った徐福が戦乱に苦しんでいる民衆を慰めているというわけで、柴大人の仁政を謳ったものであると解釈されている。この詩の中には“安民処処巧安排、告示輝煌総姓柴”と云って、柴長官の告示によって人民が安心した事も詠(よ)まれている。“拳匪紀略”には、「日本軍が北城を占領したので、市民は初めて外国兵が北京に入城した事を知ったのは23日である。それに便乗して土匪が数百家を荒し尽したが北城は何の事もなかった。ここは日本兵が占領していたからで、北城の人民達は皆日本兵の庇護を受けた」とあり、また“驢背集”という詩集には、「日本軍の入城に依って宮城が守られ、逃げる隙なく宮中に残った数千人のものは日本軍に依って食を与えられた。宮中には光緒帝も西太后も西巡していて恵妃(同治帝の妃)のみが国璽を守っていたが、柴大人に使を派して謝意を述べ、大人の指示によって宮中の善後措置を講じた」という意味の談がある。誠に当時の日本軍隊の恩威並び行なわれた事蹟は、40年後の今なお古老の口から聴く事が出来、残る文書に読む事が出来る。英、仏の乱暴の跡といみじくも正邪のよい対照をなして居るではないか」以上は東亜新報掲載記事である。明治維新以後薩長が維新の功に驕っていわゆる藩閥横暴となった事が政党政治招来の大原因となり、政党ひとたび力を得るやたちまちその横暴となって間もなく国民の信を失った。今日軍は政治の推進力と称せられている。自粛しなければ国民の怨府となるであろう。日本歴史を見れば日本民族は必ずしも常に道義的でなかった事が明らかである。国体が不明徽となった時代の日本人は西洋人にも優る覇道の実行者ともなった。戦国時代の外交は今日のソ連外交にも劣らざる権謀、謀略の歴史であるとも言える。しかし我が国体の命ずる道は道義治国であり、八紘一宇に依る御理想は道義による世界統一である。アメリカの米州統制もドイツの欧州連盟もソ連の統一も総ては力中心の覇道主義である。悲しい哉、我が日本に於ても東亜の大同につき力の信者、即ち覇道主義が目下圧倒的である。東亜連盟論に対する反対はその現われである。しかし東亜連盟論の急速なる進展は国民が急速に皇道に目を醒しつつある証左である。力をもってする方法は端的であり、即効的である。しかし力は力に敗れる。結局道をもっての結合がむしろ力以上の力である。議論はいらぬ。天皇の思し召しがそれである。
我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない。結局世界最終戦争が王、覇両文明の決勝戦であり、東亜と西洋の決勝戦である。この見地から最終戦争の中心は太平洋であろうと信ずるものである。もちろん我らは道義を中心とするが、しかも力を軽視するものではない。西洋人も道義を軽視しないが、覇道主義者が道を真に信奉する事は至難であるのに、我らが力を獲得するのは決して困難でない。一方東方道義に速やかに目を醒ますとともに一方西洋科学文明を急速に摂取、最終戦争に必勝の体制を整えねばならぬ。日本に於てさえ道義より力、物を中心としていた時代が多い。覇道は動物的本能であり、王道への欲求、憧憬が人間の万物の霊長たる所以である。今後も人類は本能の暴露を繰返すであろう。しかし大道は人類の王道への躍進である。王道に対する安心定まった時、人類は心から、天皇の御存在に心からの感謝を覚え、不退の信仰に入り、真の平和が来るであろう。而して日本民族の正しき行ない、強き実行力が人類の道義に対する安心を定めしめるのである。
第三節 将来戦争に対する準備
科学文明の急速なる進歩が最近世界を狭くし、遠からず全世界は王道、覇道両文明の二集団に分るる事となるべく、その日は既に目前に迫りつつある。その二集団が世界統一のための最終戦争を行なうためには、これに適した決戦兵器が必要である。静かに大勢を達観すれば、世界二分と決戦兵器の出現は歩調を一にして進んでいる。それは当然である。この二つの間には文化的に最も密接な関係があるのである。即ち、兵器の発達は自然に人類の政治的集団の範囲を拡大し、世界二分の政治的状態成立の時は既に両集団に決戦を可能ならしむる兵器の発明せらるる時である。この最終戦争に対する準備のため、1、世界最優秀決戦兵器の創造 2、防空対策の徹底 この二点が最も肝要である。この徹底せる決戦戦争に於ては武力戦が瞬間的に万事を決定するであろう。今日ドイツが大体制空権を得ているようにみえるが、しかし依然多数の船舶は英国の港に出入している。飛行機による船舶の破壊は潜水艦のそれに及ばぬらしい。あの英仏海峡の制海権もなかなかドイツに入り難い様子である。これ飛行機の滞空時間が長くない事が第一の原因である。またロンドンを日夜爆撃してもなかなかロンドン市民の抵抗意志を屈伏せしむる事が出来ない。今日の爆弾では威力が足りぬのである。僅かに英仏海峡を挟んでの決戦戦争すらほとんど不可能の有様で、太平洋を挟んでの決戦戦争はまるで夢のようであるが、既に驚くべき科学の発明が芽を出しつつあるではないか。原子核破壊による驚異すべきエネルギーの発生が、巧みに人間により活用せらるるようになったならどうであろうか。これにより航空機は長時間すばらしい速度をもって飛ぶ事が出来、世界は全く狭くなる事が出来るであろう。またそのエネルギーを用うる破壊力は瞬間に戦争の決を与える力ともなるであろう。怪力光線であるとか何とか、どんな物が飛び出して来るか知れない。何れにせよ世界二分となった頃には、必ず今日の想像し得ない決戦兵器が出て来る事、断じて疑いを容れない。今日は主として量の時代である。しかし明日は主として質の時代となる。新しき革命的最終戦用決戦兵器を敵に先んじて準備する事が最終戦勝利者たるべき第一条件である。科学文明に遅れて来た東亜が僅かの年月の間に西洋覇道主義者を追越すため、この予想せらるる革命的兵器出現の可能性が我らに一道の光明を与えるのである。国策最重点の一つはこの科学的発明とその大成に指向せられねばならぬ。これがためには発明の奨励と大研究機関の設備を必要とする。発明奨励は断じて官僚的方法では目的を達し難い。若し真に優れた天才的直感力を有する人があり、国家がその人物を中核として、その人物に万事を一任して発明の奨励を行ない得るならは国家的事業とするも可なりである。しかしそれはほとんど不可能に近い。それで私は資産家特に成金の活用を提唱する。国家は先ず国防献金等を停止する。自由主義時代に於て軍費の不足を補うため国防献金を奨励した事は止むを得ない。また自発的の国防献金は国防思想の徹底向上に効果ある事は否定しない。しかし今日は国防の如き最高国家事業は総て税金に依って為すべきである。
今日は既に軍費が問題でなく国家の生産能力が事を決定する。国防献金ももはや問題とならない(但し恤兵(じゅっぺい)事業等は郷党の心からなる寄附金による事が望ましい)。資産家特に成金を寄附金の強制から解放し、彼らの全力を発明家の発見と幇助(ほうじょ)に尽さしめる。国家の機関は発明の価値を判断して発明者には奨励金を与え、その援助者には勲章、位階、授爵等の恩賞をもって表彰する。一体統制主義の今日、国家の恩賞を主として官吏方面に偏重するのは良くない。恩賞は今日の国家の実情に合する如く根本的に改革せねばならぬ。信賞必罰は興隆国家の特徴である。発明は単に日本国内、東亜の範囲に限る事なくなるべく全世界に天才を求めねばならぬ。しかし科学の発達著しい今日、単に発明の奨励だけでは不充分である。国家は全力を尽して世界無比の大規模研究機関を設立し、綜合力を発揮すべきである。発明家の天才と成金の援助で物になったものは適時これをこの研究機関に移して(発明家をそのまま使用するか否かは全くその事情に依る)、多数学者の綜合的力により速やかにこれを大成する。研究機関、大学、大工場の関連は特に力を用いねばならない。今日の如くこれらがばらばらに勝手に造られているのは科学の後進国日本では特に戒心すべきである。全国民の念力と天才の尊重(今日は天才的人物は官僚の権威に押され、つむじを曲げ、天才は葬られつつある)、研究機関の組織化により速やかに世界第一の新兵器、新機械等々を生み出さねばならない。次は防空対策である。何れにせよ最終戦争は空中戦を中心として一挙に敵国の中心を襲うのであるから、すばらしい破壊兵器を整備するとともに防空については充分なる対策が必要である。恐るべき破壊力に対し完全な防空は恐らく不可能であろう。各国は逐次主要部分を地下深く隠匿する等の方法を講ずるのであろうが、恐らく攻撃威力の増加に追いつかぬであろう。また消極的防衛手段が度を過ぎれば、積極的生産力、国力の増進を阻害する。防空対策についても真に達人の達観が切要である。私は最終戦争は今後概ね30年内外に起るであろうと主張して来た。この事はもちろん一つの空想に過ぎない。しかし戦争変化の速度より推論して全く拠り処無いとは言えぬ。そこで私は「世界最終戦論」に於て、20年を目標として防空の根本対策を強行すべしと唱道した。必要最少限の部門はあらゆる努力を払って完全防空をする。どれだけをその範囲とするかが重大問題である。
見透しが必要である。その他はなるべく分散配置をとる。そこで「最終戦論」で提案したのは、第一に官憲の大縮小である。統制国家に於てはもちろん官の強力を必要とする。しかし強力は必ずしも範囲の拡大でない。必要欠くべからざる事を確実迅速に決定して、各機関をして喜び進んで実行せしむる事が肝要である。今日の如くあらゆる場面を総て官憲の力で統制しようとするのは統制の本則に合しないのみならず、我が国民性に適合しない。
民度の低いロシヤ人に適する方法は必ずしも我が国民には適当でない。この見地から今日の官憲は大縮小の可能なるを信ずる。官憲の拡大が人口集中の一因である。第二は教育制度の根本革新である。日本の明治以後の急発展は教育の振興にあったが、今日社会不安、社会固定の最も有力な原因は自由主義教育のためである。教育は子弟の能力によらず父兄の財力に応じて行なわれる。その教育は実生活と遊離して空論の人を造り、その人は柔弱で鍛錬されておらない。勇気がない。勤労を欲しない。しかもこの教育せらるる者の数は国家の必要との調和は全く考えられていない。非常時に於て知識群の失業が多いのは自然である。あらゆる方面から見て合宿主義時代に全国民が綜合能力を最高度に発揮せしむる主旨に合しない。中等学校以上は全廃、今日の青少年義勇軍に準ずる訓練を全国民に加え、そのうち、適性のものに高度な教育を施し、合理的に国民の職業を分配すべく、教育と実務の間に完全なる調和を必要とする。そうすれば自然都市の教育設備は国民学校を除き全部これを外に移転し得る。都市人口の大縮小を来たすであろう。第三には工業の地方分散である。特に重要なる軍事工業は適当に全国に分散する。徹底せる国土計画の下にその分配を定める。大河内正敏氏の農村工業はこの方式に徹底すれば日本工業のためすばらしい意義を持ち、同時に農村の改新に大光明を与える。取敢えず今日より建設する工業には国家が計画的に統制を加うべきである。以上の方法をもってして都市人口の大縮小を行ない、しかも必要なる政治中心、経済中心は徹底せる防空都市に根本改革を断行する。各地方は一旦事ある時、独立して国民の生活を指導し得る如く必要の処置を講ぜねばならない。右の如く大事業を強行するだけでも自然に昭和維新は進展するであろう。本来大革新は境遇の必要に迫られて自然に行なわれる。軍事革命が当時の軍人の自覚なく行なわれたと同一である。そこには自然に大犠牲が払われた。しかるにソ連革命は全く古来の歴史と異なってマルクス以来約百年の研究立案の計画により断行せられた。全人類今日なおこれに魅力を感じている。殊に戦乱の中心から離れていた日本にはそれが甚だしい。自称日本主義者すら心の中にマルクス流のこの理論計画先行の方式にほとんど絶対的の魅力を感じているらしい。ヒットラーのナチス革命は右両者の中庸である。
その天才的直感力に依りて大体の大方針を確立し、その目的達成のために現実の逼迫を巧みに利用して勇猛果敢に建設事業に邁進する。方法は自然にその中に発見せられ、勇敢に訂正、改善して行く。その後を学者連中が理論を立てて行くのである。何ら組織的準備のない日本の昭和維新は断じてマルクス流に依るべきでない。否やりたくとも計画がない。否でも応でもヒットラー流の実行先行の方式に依らなければならない。それには万人を納得せしむる建設の目標が最も大切である。今日、日米戦争の危機が国民に防空の絶対必要を痛感せしめた。右のような1年前に空想に過ぎなかった大計画も、今日は国民に尤(もっと)もと思わしむるに足る昭和維新原動力の有力な一つとなった。  
第七章 現在に於ける我が国防

 

第一節 現時の国策
速やかに東亜諸国家大同の実を挙げ、その力を綜合的に運用して世界最終戦争に対する準備を整うるのが現在の国策であらねばならぬ。明治維新の廃藩置県に当るべき政治目標は「東亜の大同」である。「東亜大同」はなるべく広い範囲が、なるべく強く協同し、成し得れば一体化せらるる事が最も希望せらるるのであるが、それはそう簡単には参らない。範囲は大アジアと書いても一つの空想、希望に過ぎない。我が(我が国および友邦)実力が欧米覇道主義の暴力を制圧し得る範囲に求めねばならぬ。東亜連盟の現実性はそこにある。爾後東亜諸民族により時代精神が充分理解せられ、かつ我が実力の増加に依り範囲は拡大せらるるのである。協同の方式も最初は極めて緩やかなものから逐次強化せられる。即ち国家主義全盛時代にも言われた善隣とか友邦とかから東亜連盟となり、次いで東亜連邦となり、遂には全く一体化して東亜大国家とまで進展する事が予想せられる。近頃、東亜連盟は超国家的思想である。各国家の上に統制機関を設け、その権力をもって連盟各国家を統制指揮するは怪しからぬ等との議論もあるようである。かくの如きは全く時代の大勢を知らない旧式の思想である。一国だけで世界の大勢に伍して進み得る時代は過ぎ去った。如何にして多くの国家、多くの民族を統制してその実力を発揮するかが問題である。それゆえ統制はなるべく強化せられねばならぬ。日満両国間はその歴史的関係によって相当強度の統制が行なわれている。見方によっては両国は連盟の域を脱して、既に連邦的存在、ある点では大国家的存在とも言える。しかし日華両国は現に東亜未曽有の大戦争を交えている。幸い近く平和が成立したところで急速に心からの協同は至難である。無理は禁物である。理解の進むに従って統制を強めて行かねばならない。最初は善隣友好の範囲を遠く出づる事は適当であるまい。覇道主義者は力をもって先ず条約的に権益ないし両国の権利義務を決定しようとするに反し、我らの王道主義者は先ず心からの理解を第一とせねばならない。法的問題は理解の後に続行すべきである。そこで「東亜連盟」論では、今日はほとんど統制機関を設けようとしていないのである。しかしそれは決して理想的状態でない。理解の進むに従い適切に敏活なる協同に要する統制機関を設置すべきである。
「最終戦論」には「天皇が東亜諸民族から盟主と仰がるる日、即ち東亜連盟が真に完成した日であります」と述べている。その頃になれば連盟の統制機関も相当に準備せられているであろう。元来東亜連盟の完成した日は、即ち連邦となる日と言うべきである。あるいは物判りの良い東亜諸民族が、真に王道に依って結ばれ、王道の道統的血統的護持者であらせらるる天皇に対し奉る信仰に到達したならば、連邦等は飛越えて大国家に一挙飛躍するのではないだろうか。そんな風になれば今日までの科学文明の立ち遅れ等は容易に償い得るであろう。満州建国間もなく、民族協和徹底のためには東亜新秩序成立の必要が痛感せられ、東亜連邦、東亜連盟が唱道せられたが、日満間は兎に角、日華間には連邦への飛躍は到底期待し難いので東亜連盟論が自然に採用せられ、昭和8年3月9日協和会の声明となった。私は昭和7年8月満州国を去りこの協和会の声明は知らないでいたが、昭和8年6月某参謀本部部員から「石原は海軍論者なりという上官多し、意見を書いてくれ」と要求せられた。当時私は対米戦争計画の必要を唱えていたからであろう。それで筆を執った「軍事上より見たる皇国の国策並国防計画要綱」なる私見には、 一、皇国とアングロサクソンとの決勝戦は世界文明統一のため、人類最後最大の戦争にしてその時期は必ずしも遠き将来にあらず。 二、右戦争の準備として目下の国策は先ず東亜連盟を完成するに在り。 三、東亜連盟の範囲は軍事経済両方面よりの研究に依り決定するを要す。人口問題等の解決はこれを南洋特に濠州に求むるを要するも、現今の急務は先ず東亜連盟の核心たる日満支三国協同の実を挙ぐるに在り。 と言うている。この文は印刷せられ次長以下各部長等に呈上せられた筈である。恐らく上官が東亜連盟の文字を見られた最初であろう。協和会の公式声明を知らなかった私はその後の満州国、北支の状況上、東亜連盟を公然強調する勇気を失っていたが、昭和13年夏病気のため辞表を提出した際、上官から辞表は大臣に取次ぐから休暇をとって帰国するよう命ぜられたので軽率な私は予備役編入と信じ、9月1日大洗海岸で暴風雨を聴きながら「昭和維新方略」なる短文を草し、満州建国以来同志の主張に基づき東亜連盟の結成を昭和維新の中核問題としたのである。しかるに同年9月15日の満州国承認記念日に、陸相板垣中将がその講演に東亜連盟の名称を用いられた。更に次いで発表せられたいわゆる近衛声明は東亜連盟の思想と内容相通ずるものがある。実は私は板垣中将が関東軍参謀長時代から東亜連盟は断念しているだろうと独断していたのであったから、これには相当驚かされたのであった。爾後板垣中将は宮崎正義氏の「東亜連盟論」や、杉浦晴男氏の「東亜連盟建設綱領」に題字を贈り、かつ近衛声明は東亜連盟の線に沿うたのである事を発表せられた。昭和15年天長の佳辰に発せられた総軍司令部の「派遣軍将兵に告ぐ」には、事変の解決のため満州建国の精神を想起せしめ、道義東亜連盟の結成に在る事を強調せられた。これに誘致せられて中国各地に東亜連盟運動起り、11月24日南京に於ける東亜連盟中国同志会の結成となり、昭和16年2月1日東亜連盟中国総会の発会式となった。日本に於ては昭和14年秋東亜連盟協会なるもの成立、機関紙「東亜連盟」を発行、翌15年春から運動が開始せられた。在来の東亜問題に関する諸団体は大体活発に活動を見ないのにこの協会だけは急速な進展を見、中国東亜連盟運動発展の一動機となったのである。東亜連盟の内容については日華両国の間に未だ完全な一致を見ていないようである。日本が国防の共同というのに中国は軍事同盟、経済一体化に対して経済提携と言うているし、日本が国防の共同、経済の一体化を特に重視しているのに中国は政治独立に特別な関心が見える。しかしこれらは両国の事情上当然の事と言うべきである。将来は逐次具体的に強調して来るであろう。兎に角東亜連盟の両国運動者には既に同志的気持が成立している事は民国革命初期以来数10年ぶりの現象である。感慨深からざるを得ない。
東亜連盟運動が正しく強く生長、東亜大同の堅確なる第一歩に入る事を祈念して止まない。
第二節 我が国防
現時の国策即ち昭和維新の中核問題である東亜連盟の結成には、根本に於て東亜諸民族特に我が皇道即ち王道、東方道義に立返る事が最大の問題である。国家主義の時代から国家連合の時代を迎えた今日、民族問題は世界の大問題であり、日本民族も明治以来朝鮮、台湾、満州国に於て他民族との協同に於て殆んど例外なく失敗して来たった事を深く考え、皇道に基づき正しき道義観を確立せねばならぬ。満州建国の民族協和はこの問題の解決点を示したのである。満州国内に於ける民族協和運動は今日まで遺憾ながらまだ成功してはいない。明治以来の日本人の惰性の然らしむるところ、一度は陥るべきものであろう。しかし一面建国の精神は一部人士により堅持せられ、かつ実践せられつつあるが故に、一度最大方針が国民に理解せられたならばたちまち数10年の弊風を一掃して、東亜諸民族と心からなる協同の大道に驀進するに至るべきを信ずる。この新時代の道義観の下に、世界最終戦争を目標とする東亜大同の諸政策が立案実行せられる。しかしそれがためには我が東亜の地域に加わるべき欧米覇道主義者の暴力を排除し得る事が絶対条件である。即ち東亜(我が)国防全からずして、東亜連盟の結成は一つの夢にすぎない。東亜連盟の結成が我が国防の目的であり、同時に諸政策は最も困難なる国防を全からしむる点に集中せらるる事とならねばならぬ。国策と国防はかくて全く渾然一体となるのである。いわゆる国防国家とはこの意味に外ならない。東亜連盟の結成を妨げる外力は、 1 ソ連の陸上武力。 2 米の海軍力、これには英、ソの海軍が共同すると考えねばならぬ。 であるからこれに対し、 1 ソ連が極東に使用し得る兵力に相当するものを備え、かつ少なくもソ連のバイカル以東に位置するものと同等の兵力を満州、朝鮮に位置せしむ。 2 西太平洋に出現し得べき米、英、ソの海軍力に対し、少なくも同等の海軍力を保持せねばならぬ。 陸軍当局の言うところによれば極東ソ軍は30個師団以上に達し、約3000台の戦車及び飛行機を持っている。それに対する我が在満兵力は甚だしい劣勢ではあるまいか。この不安定が対ソ外交の困難となり、また一面今次事変の有力な動機となった。而して日ソ両国極東兵備の差は僅々数年の間にこんな状態となったのである。全体主義的ソ連の建設と自由主義的日本の建設の能力の差を良く示している。ナチス政権確立以来数年の問に独仏間の軍備の間に生じた差と全く同一種類のものである。我らは一日も速やかに飛躍的兵備増強を断行せねばならぬ。アメリカ最近の海軍大拡張はどうであるか。海相は数は恐るるに足らぬ。独自の兵備によってこれに対抗し、断じて心配ないと言うているし、また一部南進論者は3年後には米国の製艦により彼我海軍力に大きな差を生ずるから今のうちに開戦すべしと論じている。しかし更に根本的の問題は、我らは万難を排してソ連の極東軍備およびアメリカの海軍拡張に対抗せねばならないことになる。ソ連が極東に30師団を持って来れば我が軍も北満に30師団を位置せしむべく、ソ連戦車3000台なら我も3000台、また米国が6万屯の戦艦を造るなら我もまたこれと同等の建艦を断行すべきである。そんな事は無理だと言うであろう。その通り我が国の製鉄能力は今日ソ連の数分の一、米国に比しては更に著しく劣っているのは明らかである。しかし造るべきものは造らねばならぬ。断々乎として造らねばならぬ。この一歩をも譲ることを得ざる国防上の要求が我が経済建設の指標であり昭和維新の原動力である。この気力無き国民は須からく八紘一宇を口にすべからず。3年後には日米海軍の差が甚だしくなるから、今のうちに米国をやっつけると言う者があるが、米国は充分な力がないのにおめおめ我が海軍と決戦を交うると考うるのか。また戦争が3年以内に終ると信ずるのか。日米開戦となったならば極めて長期の戦争を予期せねばならぬ。米国は更に建艦速度を増し、所望の実力が出来上るまでは決戦を避けるであろう。自分に都合よいように理屈をつける事は危険千万である。我が財政の責任者は今次事変の直前まで、年額2-30億の軍費さえ我が国の堪え難き所と信じていた。然るに事変4年の経験はどうであるか。日本が真に八紘一宇の大理想を達成すべき使命を持っているならばソ連の陸軍、米の海軍に対抗する武力を建設し得る力量がある事は天意である。
これを疑うの余地がない。国防当局は断固として国家に要求すべし。この迫力が昭和維新を進展せしむる原動力となる。しかしてかくの如き厖大な兵器の生産は宜しく政治家、経済人に一任すべく、軍部は直接これに干与することは却って迫力を失う事となる。国防国家とは軍は軍事上の要求を国家に明示するが、同時に作戦以外の事に心を労する必要なき状態であらねばならぬ。全国民がその職分に応じ、国防のため全力を尽す如き組織であらねばならぬ。以上陸、海の武力に対する要求の外更に、 3 速やかに世界第一の精鋭なる空軍を建設せねばならない。これは一面、将来の最終戦争に対する準備のため最も大切であるのみならず、現在の国防上からも極めて切要である。ソ連が東亜に侵攻するためにはシベリヤ鉄道の長大な輸送を必要とするし、また米国渡洋作戦の困難性は大である。即ち極東ソ領や、ヒリッピン等はソ、米のため軍事上の弱点を形成し彼らの頭痛の種となるのであるが、その反面、ソ、米は我が国の中心を空襲し我が近海の交通を妨害するに便である。それに対し我が国は有利なる敵の政治、経済的空襲目標もなく、敵国に対し、死命を制する圧迫を加える事はほとんど不可能に近い。即ち彼らは片手を以て我らと持久戦争を交え得るのに対し、我らは常に全力を傾注せねばならぬ事となる。持久戦争に非常な緊張を要する所以である。この見地から空軍の大発達により我が軍も容易にニューヨーク、モスクワを空襲し得るに至るまで、即ちその位の距離は殆んど問題でならなくなるまで、極言すれば最終戦争まではなるべく戦争を回避し得たならば甚だ結構であるのであるが、そうも行かないから空軍だけは常に世界最優秀を目標として持久戦争時代に於ける我らの国防的地位の不利な面を補わねばならない。ドイツ空軍は第二次欧州大戦の花形である。時に海上に出て、時に陸上部隊に、水も洩らさぬ緊密な協同作戦をする。真に羨ましい極みである。我が国の国防的状態はドイツと同一ではなく、ただちにドイツの如くなり得ない点はあるであろうが、極力合理的に空軍の建設を目標として着々事を進むると同時に、航空が陸海軍に分属している間も一層密接なる陸海空軍の協同が要望せられる。この頃そのために各種の努力が払われているらしく誠に慶賀の至りに堪えない。器材方面では既に密接な協力が行なわれているであろうし、また運用についても不断の研究によって長短相補う如くせねばならぬ。例えば、東ソ連の航空基地は満州国境から何れも(西方は別として)余り遠くなく、しかも極東には有利なる空爆目標に乏しいのであるから、対ソ陸軍航空部隊は軽快で特に速度の大なるものが有利と考えられる。海軍は常に長距離に行動せねばならない。かくの如き特長は互に尊重せらるべきだと信ずる。海軍機が支那奥地の爆撃に成功したとて、陸軍機がただちにこれに競争する必要はない。
陸海軍の真の航空全兵力を戦争の状態に応じ一分の隙もなく統一的に運用し、陸海軍に分属していても空軍の占める利益をも充分発揮し得る如く全部の努力が払われねばならない。恐らく今日はそうなっている事と信ずる。防空に関し最終戦争のために20年を目標として根本的対策を強行すべき事を主張したが、今日はそれに関せず応急的手段を速やかに実行せねばならぬ。第一の問題は火災対策である。木材耐火の研究に最大の力を払い、どしどし実行すべきである。現に各種の方法が発見せられつつあるではないか。消防につけても更に画期的進歩が必要である。またどうも高射砲等の防空兵器が不充分ではないか。これには高射砲等の製作の会社を造り急速に生産能力を高めねばならぬ。総て兵器工業は民間事業を特に活用するを要するものと信ずる。各種会社、工場等は自ら高射砲を備えしめては如何。そうして応召の予定外の人にて取扱い者を定めて練習せしめ、時に競技会でも行なえばただちに上達する事請合いである。弾丸だけは官憲で掌握しておれば心配はあるまい。有事の場合必要に応じてその配置の統制も出来る。航空部隊を除く防空はなるべく民間の仕事とした方が良いのではあるまいか。しかし防空全般に関しては今日以上の統制が必要である。防空総司令官を任命(成し得れば宮殿下)し、これに防空に任ずる陸海軍部隊および地方官憲、民間団体等を総て統一指揮せしめる。持久戦争であるから上述の軍需品の他、連盟の諸国家国民の生活安定の物資もともに東亜連盟の範囲内で自給自足し得る事が肝要である。即ち経済建設の目標は軍需、民需を通じて、統一的に計画せられねばならない事は言うまでもない。アメリカでさえ総ての物資は自給自足をなし得ないのである。最少限度の物資獲得の名に於て我らの力の現状を無視していたずらに外国との紛争を招く事は充分警戒を要する。戦争は最大の浪費である。戦争とともに長期建設と言うも、言うは易く実行は至難である。ドイツの今日あるはあの貧弱なる国土、恵まれざる資源に在ったとも言える。即ち被封鎖状態が彼らの科学を進歩せしめた。資源もちろん重要であるが、今日の文明は既に大抵の物は科学の力により生産し得るに至りつつある。資源以上に重要なるものは人の力であり、科学の力である。日、満両国だけでも資源はすばらしく豊富にある。
殊にその地理的配置が宜しい。我らが科学の力を十二分に活用し、全国力を綜合的に運用し得たならば、必ずや近き将来断じて覇道主義に劣らざる力を獲得し得るであろう。鉄資源としては日本は砂鉄は世界無比豊富であり、満州国の鉄はその埋蔵量莫大である。精錬法も熔鉱炉を要しない高周波や上島式の如き世界独特の方法が続々発明せられている。石炭は無尽蔵であり、液化の方法についても福島県下に於て実験中の田崎式は必ず大成功をする事と信ずる。その他幾多の方法が発明の途上にあるであろう。熱河から陜西、四川にわたる地区は世界的油脈であると推定している有力者もあると聞く。断固試掘すべきである。
その他必要な資材は何れも必ず生産し得られる。機械工業についても断じて悲観は無用である。天才人を発見し、天才人を充分に活動せしむべきである。国家が生産目標を秘密にするのは一考を要する。ソ連さえ発表して来た。国民の統制完全であり、戦争目的第一であるドイツは機密としたが、日本の現状はむしろ勇敢に必要の数を公表し、国民に如何に彪大な生産を要望せらるるかを明らかにすべきであると信ずる。国民の緊張、節約等は適切なるこの国家目標の明示により最もよく実現せらるるであろう。今日のやり方は動(やや)もすれば百年の準備ありしマルクス流である。理論や機構が第一の問題とせられる。いたずらにそれらに遠慮してしかも気合のかからぬ根本原因をなしている。どんな事があっても必ず達成しなければならぬ生産目標を明示し、各部門毎に最適任者を発見し、全責任を負わしめて全関係者を精神的に動員して生産増加を強行する。政府は各部門等の関係を勇敢親切に律して行く。そうすれば全日本は火の玉の如く動き出すであろう。資本主義か国家社会主義か、そんな事は知らない。どうでも宜しい、無理に資本主義の打倒を策せずとも、資本主義がこの大生産に堪え得なければ自然に倒れるであろう。時代の要求に合する方式が必ず生まれて来る。昭和維新のため、革新のための昭和維新ではない。最終戦争に必勝の態勢を整うるための昭和維新である。必勝せんとする国民、東亜諸民族の念力が自然裡に昭和維新を実行するのである。この意気、この熱意、この建設は自然に世界無比の決戦兵器をも生み出す。即ち今日持久戦争に対する国防の確立が自然に将来戦争に対する準備となるのである。
第三節 満州国の責務
ソ連が東亜連盟を侵す径路は三つある。第一は満州国であり、第二は外蒙方面より蒙疆地方への侵入、第三は新疆方面である。その中で東亜連盟のため最も弱点をなすものは第三であり、最も重要なるものは第一である。満州国の喪失は東亜連盟のためほとんど致命的と言える。日華両国を分断しかつ両国の中心に迫る事となる。満州国は東亜連盟対ソ国防の根拠地である。東亜連盟が直接新疆を防衛する事は至難であるが、満州国のソ領沿海州に対する有利な位置は在満州国の兵備が充実しておれば間接に新疆方面をも防衛することとなる。この大切な満州国の国防は、日満議定書に依り日満両国軍隊共同これに当るのである。満州軍の建設には人知れざる甚大な努力が払われた。これに従軍した人々の功績は満州建国史上に特筆せらるべきものである。しかるに満州軍に対する不信は今日なお時に耳にするところである。たしかに満州軍は今日も背反者をすら出す事がある。しかし深くその原因を探求すべきである。満州軍の不安は実に満州国の不安を示しているのである。満州国内に於て民族協和の実が漸次現われ、民心比較的安定した支那事変勃発頃の満州軍は、恐らく最良の状態にあったものと思う。その後事変の進むに従い漢民族の心は安定を欠き、一方大量の日系官吏の進出と経済統制による日本人の専断が、民族協和を困惑する形となり、統制経済による不安と相俟って民心が逐次不安となって来た。この影響はただちに治安の上に現われ、満州軍の心理をも左右するのである。満州軍は要は満州国の鏡とも見る事が出来る。支那事変に於ける漢民族の勇敢さを見ても、満州国が真にその建国精神を守り、正しく発展するならば満州軍は最も有力なる我らの友軍である。若し満州軍に不信ならば満州国人の心理に深く注意すべく、自ら満州国の民心を把握していない事を覚らねばならぬ。満州国の民心安定を欠く時は共産党の工作が進展して来る。非常に注意せねばならない。これがため共産党の取締はもちろん大切であるが、更に大切なのは民心の安定である。元来漢民族は共産主義に対し、日本人のように尖鋭な対抗意識を持たない。防共ということはどうもピンと来ぬらしい。彼らは共産主義は恐れていない。故に防共の第一義は民心を安定し、安居楽業を与える事である。多くの漢人に対し共産主義の害毒を日本人に対するように宣伝をしてもどうも余り響かないらしい。
共産主義が西洋覇道の最先端にある事を明らかにし、国内で真に王道を行なえば共産軍は大して心配の必要なく、民心真に安定すればスパイの防止も自然に出来る。民心が離れているのに日系警官や憲兵でスパイや謀略を防がんとしても至難である。満州国防衛の第一主義は民心の把握であり、建国精神、即ち民族協和の実践である事を銘心せねばならぬ。かつて昭和12年秋関東軍参謀副長として着任、皇帝に拝謁の際、皇帝から「日系軍官」の名を無くして貰いたいとの御言葉を賜って深く感激したことがある。これは今日も遺憾ながら実現せられていない。私としては誠に御申訳ないと自責しているのである。複合民族の国家では各民族軍隊を造る事が正しいと信ずる。即ち満州国では日本人は日満議定書に基づき、日本軍隊に入って国防に当るのであるが、それ以外の民族は各別に軍隊を編制すべきである。現に蒙古人は蒙古軍隊を造っているが、朝鮮軍隊も編成すべきである(一部は実行せられているが、大々的に)。回々(イスラム)軍隊も考えられる(これは朝鮮軍隊ほど切実の問題ではない)。軍隊は兵器を持って危険な存在だから、言語や風俗を異にする民族の集合隊は適当と言えぬ。日本人が漢民族の軍隊に入って働くのを反対するものではない。しかしそれは漢人の一員たる気持であらねばならぬ。皇帝が日系軍官の名称を止めよと仰せられた御趣旨もここにあると拝察する。諸民族混住の国に於て官吏は日系、満系、朝鮮系等のあるは自然であるが、軍隊は各民族軍隊を造るのであるから、漢民族の軍隊の中に「日系軍官」なる名称の有せらるるは適当でない。田舎の満州人警察の中に少数の日系警官を入れて指導する考えらしいが、この日系警官が満州国不安の一大原因となっているのは深く反省せねばならぬ。他民族の心理は内地から出稼ぎに来た人々に簡単に理解せられない。警官には他民族の観察はほとんど不可能であり、また満州人警官の取締りも適切を欠く。満州国内匪賊の討伐は実験の結果に依ると、日本軍を用うるは決して適当でない。匪賊と良民の区別が困難であり、各種の誤解を生じ治安を悪化する虞が大きい。満州国の治安は実に満州軍が主として匪賊討伐にあたるようになってから急速に良くなったのである。満州国内の治安は先ず主として満州軍これにあたり、逐次警察に移し、満州軍は国防軍に編制するようにすべきである。
国兵法の採用により画期的進歩を期待したい。有事の日は、日本陸軍の主力は満州国を基地として作戦する事自明であるが、その厖大な作戦資材、特に弾薬、爆薬、燃料等は満州国で補給し得るようにせねばならない。満州国経済建設はこれを目途としている事と信ぜられるが、その急速なる成功を祈念する。糧秣その他作戦軍の給養を良好にするため北満の開発が大切であり、北辺工作はその目的が多分に加味されている事は勿論である。しかし日本軍自体もこの点については更に更に明確な自覚を必要とする。
ソ連が5個師団増加せば我もまた5個師団、10個師団を持って来れば我もまた10個師団を進めねばならない。それには迅速に兵営等の建築が必要だが、今日までの如き立派なものでは到底間に合わない。幸い青少年義勇軍の古賀氏の建築研究は着々進んでいるから、これを採用すれば必ず軍の要求に合し得るものと信ずる。浮世が恋しい人々は現役を去るが宜しい。昭和維新のため、東亜連盟結成のため、満州国国防完成のため、我らは率先古賀氏のような簡易な建築を自らの手で実行し、自ら耕作しつつ訓練し、北満経営の第一線に立たねばならぬ。新体制とか昭和維新とか絶叫しながら、内地式生活から蝉脱出来ない帝国軍人は自ら深く反省せねばならぬ。我ら軍人自ら昭和維新の先駆でなければならぬ。それがために自ら今日の国防に適合する軍隊に維新せねばならぬ。北満無住の地は我らの極楽であり、その極楽建設が昭和の軍人に課せられた任務である。
(昭和16年2月12日)
 
戦争遂行スローガン

 

八紘一宇(はっこういちう)
「世界一家」を意味する語。戦時中の大日本帝国では、「日本を中心(一宇)に、世界(八紘)を統合すること」の意味に便用され、戦争遂行スローガンとなった。
日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した超国家思想をもつ田中智學が1903年(明治36年)、日蓮を中心にして、「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味で、「日本書紀」巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から「八紘一宇」としたものである。
この八紘の由来は、
九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也–[淮南子]地形訓–である。本来、「八紘」は「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。
日中戦争から第二次世界大戦まで、大日本帝国の国是として使われた。日本の降伏後にGHQに占領されると、神道指令で、国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における使用が禁止された。1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことであると定められた。
八紘一宇の説明として、日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、としている。また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明されている。また、1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永光は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と説明、1983年(昭和58年)1月衆議院本会議で、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明した。
Tanaka Memorial(田中上奏文)を歴史的真実として東京裁判冒頭から判決を導く裁判を進めていた検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、-1930年に先立つ10年の間- これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが、清瀬弁護人は「秘録・東京裁判」のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。また、元高校教諭上杉千年は、仲間内の講演会で「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。また、八紘一宇の思想自体に問題があるのではなく、軍部が都合よく利用したことが問題とする声もある。
国柱会(こくちゅうかい・國柱會)
元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる独自の国粋主義運動で知られる。国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。日蓮を末法の世に現れた本化の上行菩薩であるとし、その宗旨、妙法蓮華経による宗教であることから、本化と妙法をあわせて正式名称を「本化妙宗」と称している。また、智学の造語であり、戦前日本における国家主義のスローガンに多用された「八紘一宇」という言葉を最初に標榜したのは国柱会であった。
智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言する。1885年(明治18年)には修行の正範である「妙行正軌」を定め、仏教史上はじめてとなる結婚式(本化正婚式)を正式に導入した。1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表。1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化宗研究大会を開催し、智学はその中でも神武天皇御陵の前で講演した「皇宗の建国と本化の大教」において「王仏冥合」、祭政一致の思想に開顕したとされる。
1914年(大正3年)、名称を現在の「国柱会」に改名。「国柱会創始の宣言」が智学より発せられる。1922年(大正11年)には芸術を通しての教化活動と銘打って「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「国性芸術」を展開した。会員であった作家の宮沢賢治もこの時、法華経による文学、国体による文学の活動に感化された。1923年(大正12年)には政治活動として「立憲養正会」が結成され、国柱会の根本教理である「国立戒壇」建立を主張、天皇の法華経帰依による広宣流布と宗教革命を目指した。智学の次男・田中澤二が総裁に就任したが帝国議会の議席獲得には至らなかった。1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契機に「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願が実り明治節が制定された。また、宮沢と同じく著名な会員であった帝国陸軍・石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、ひいては石原が関東軍参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、智学も満州に渡っている。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日連系諸教団の中でもエリート主義と目され、有数な著名人が会員であったことが知られている。
昭和期・戦後 / 1928年(昭和3年)に、智学の念願であった法華経の宝塔を彷彿とさせる壮大な「妙宗大霊廟」を東京・一之江に創建し、「私の卒業論文」と言わしめた。同年、日蓮650年遠忌を契機として「祖廟中心・宗門統一」をスローガンのもと「身延登詣団」を結成し、現在でも毎年続けられている。1939年(昭和14年)に智学が示寂し、智学の長男・田中芳谷が次代総裁に就任。1945年(昭和20年)、戦災によって本部講堂を消失、また敗戦に伴い勢力は著しく減退した。現在も「純正日蓮主義」を掲げ、国粋主義を掲揚する団体として独自に活動を行っているものの、戦後、日蓮正宗や創価学会など他の日連系教団に「国立戒壇」などの思想を流用されたり、その独自の右翼思想も時代に埋没してかつての活況を見せていない。
思想・信仰 / 江戸時代に始まった寺檀制度によって形骸化された宗門の一新を目的とした在家教団であり、国柱会はこうした宗門の革新運動を原点とする。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、ひいては法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一のための宗教革命を基本理念とし、皇祖天照大神を法華経に出現する久遠実成の本仏と同一視して崇拝するため、日蓮仏教の中でも特色のある全体主義史観を有している。また、智学の思想に基づき、全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべきという主張も有する。なお、本化妙宗としての個別の信仰は、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。日蓮聖人門下連合会加盟団体でもある。
五族共和(ごぞくきょうわ・五族協和)
1912年に中華民国が成立した際に唱道された理念で、中国国内の主な種族である漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の5種族が協同して新共和国の建設に当たることを意味する。孫文ら革命の指導者たちは中華民国成立以前の清朝中国は満州族が権力を握り、他の4族はすべて奴隷的地位に圧迫されていたとし、五族が平等の立場にたち、同心協力して、国家の発展を策し、平和と大同を主張し、世界人類の幸福を中国人によって保証しようというスローガンを唱えた。
しかし、清の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベットの実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であることを主張するに至った。
つまり、五族共和の実態とは、漢族を中核にして旧清朝皇帝臣下であった全政治集団治下の民を、新たな中華民国の国民に再組織化するためのスローガンに他ならなかった。この中華民国の国家戦略は中華人民共和国にも引き継がれ、現在は漢族と55の公認された少数民族からなる中華民族が、古代からの中国の分割不能な国民であるとする公式見解へとつながっている。
大東亜共栄圏
欧米諸国(特にイギリス・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、大東亜戦争(太平洋戦争)において日本が掲げた大義名分である。
日本・満洲国・中華民国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。しかし「共栄」とはともにさかえるとよみ、日本人が侵略ではなく「共に栄えたい」という思いが読み取れる。仮に敗戦に至ったのは何故かとすれば、それまでの連合国各国の実情、歴史を理解することができるだけの、教育制度、国同士の外交がとられなかったからだという可能性がある。
用語としては岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、昭和15年(1940年)7月に近衞文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する松岡洋右外務大臣の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては昭和16年(1941年)1月31日の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて昭和13年(1938年)には「東亜新秩序」の語が近衞文麿によって用いられている。
大東亜共同宣言 / 昭和16年(1941年)に日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告をして大東亜戦争が起こり、アジアに本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏を対外的な目標に掲げることになった。昭和18年(1943年)には日本が占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択された。
ナチズム(ファシズム)との関係 / 昭和13年3月17日には近衛内閣が提出した国家総動員法案に対する討議中、社会大衆党の西尾末広議員が演説の中で「ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、スターリンの如く」勇往邁進すべしと近衛を激励したことが問題となって、23日には同議員が議員を除名されるという事件がおこっている。この事件は政民両党が軍部の強い圧力で結局しぶしぶながら国家総動員法案賛成を表明せねばならぬ場面に追い込まれていたのに対し、社会大衆党は当初から積極的に法案に賛成し、ひとり近衛内閣の与党の如く振舞ったので、政民両党が言葉尻をとらえてその報復を試みたものといってよいであろう。社大党は国家総動員法を「社会主義の模型」ととらえていたのである。
大東亜共栄圏の実態と評価 / 大東亜共栄圏の目的は、アジアの欧米列強植民地をその支配から解放、独立させ、現在の欧州連合のような対等な国家連合を実現させることであった。*上段画像参照 大東亜宣言には直接植民地にしない「相互協力・独立尊重」などの旨が明記されている。(独立尊重とは、民族自決権である)
一方で日本軍占領下で独立を果たした国々(フィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国、満州国)の政府と汪兆銘政権(中華民国)は、いずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権または属国ともいわれている。現在のアメリカが世界に展開してる軍隊の駐留や政権・資本主義経済による文明・文化・宗教の服属化のそれと近い。
このため、ソ連に対する東欧諸国のような民族自決権を認めない事実上の植民地(衛星国)やナチス・ドイツがアメリカやロシアに対抗するために超大国となるべくドイツ帝国を模った領土拡大を目指した生存圏の獲得や、中華人民共和国の行う周辺民族への軍事的弾圧と民族同化主義による領土拡大とは違い現在のアメリカが日本や韓国に対して強いるそれと同様に宗主国たる盟主へのための収奪的経済ブロックと宗教圏の確立を目指したものであるという見方ができる。また、日本政府での大東亜共栄圏諸国に対する外交の管轄は外務省ではなくイギリス植民省をモデルに新設された大東亜省であったというのも万国公法から見える帝国主義的藩属体制の典型的な統治方といえる。
特に、フィリピンとビルマには既に民選による自治政府が存在しており、日本軍の占領下に置かれたことで実質的な独立からはむしろ遠ざかったという見方もある。日本軍占領下にあっては選挙等の民主的手続きは一切行われず、政府首脳には日本側が選任した人物(つまり、親日的、協力的な人物)が就任していた。また、昭和18年(1943年)5月31日に決定された「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤ、オランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた(ただし蘭印については、戦争末期の小磯声明で将来的な独立を約束した)。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦(仏印)では、日本軍占領下(仏印進駐)における植民地支配をフランス本国でヴィシー政権が崩壊したのちの昭和20年(1945年)3月9日まで承認していた。
日本軍は占領地域に対して実質的な独立を与えぬまま敗北し、日本占領下において日本語による皇民化教育や皇居遙拝(ようはい)の強要、人物両面の資源の収奪などが行われたことから、日本もかつての宗主国と同じか、それ以上の侵略者、搾取者に過ぎなかったという見方がある。一方で日本軍が宗主国勢力を排し、現地人からなる軍事力を創設したことが独立に繋がったという評価や、日本軍占領下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の公用語化、在来民族の高官登用、華人やインド人等の外来諸民族の権利の剥奪制限など)が行われたため、特に350年(全域支配されていたわけではないが)も統治しながら現地人の識字率が全人口のわずか4%にとどまっていた蘭印におけるオランダなど旧宗主国に比べれば日本はよりましな統治者であったという見方もあり、その功罪に関しては今なお議論が続いている。現地有力者も、日本を「独立の母」ととらえる見方から、(皇国史観教育や日本語教育などについて)「文化的侵略者」ととらえる見方まで、様々である。大東亜共栄圏そのものには賛成だが、八紘一宇には、日本文明的な思想(神道や皇国史観など)、日本文化的な習慣を押し付けられるという理由から反対だったという声もある。
日本の敗戦 / 大東亜共栄圏は崩壊し、旧宗主国(オランダ)が植民地支配の再開を図ったが太平洋戦争を機会に独立心が芽生えたアジア諸国では独立運動が行われ、インドネシアやインドシナでは武力衝突が発生した。しかし、日本軍政時代はデヴィ婦人で有名なスカルノ元大統領のその後に多大な影響を与えた。
日本軍はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放しオランダのキリスト教主義によって弾圧されていた現地のイスラーム教徒(*インドネシアはイスラム教国)を解放、1908年より自立形成されてきたインドネシア共和国の国家民族の独立を大いに助け戦後、再度植民地に乗り出してきたオランダとも独立戦争を戦う事となり日本軍政時代以前のオランダによる峻烈な植民地搾取の脅威から、インドネシア民族による祖国独立を目指す人々の戦意は高かった。
そのため、現在のインドネシア共和国は祖国が再度外国によってバラバラに支配されないように日本帝国を見習った共和国体を国家形成として参考にしているという。またこの独立戦争には、スカルノやハッタらインドネシアの民族主義者が掲げた理念(独立宣言)に共感し軍籍を離脱した一部の日本人2,000人(軍人と軍属)もインドネシア独立戦争に加わり、その結果およそ1,000人が戦死した。
戦後、日本政府が経済力により強く主導権を発揮したことで、政治的にアジア諸国を纏めようとする背景から国内外から「大東亜共栄圏の復活」と揶揄されることも多くODAを多用した「ばらまき外交」に徹するトラウマの原因になったとの指摘もある。
皇国史観
日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観である。
南北朝時代に、南朝の北畠親房が著した「神皇正統記」が、皇国史観の先駆である。江戸時代には水戸学や国学で皇国史観の基礎が作られ、幕末になると尊王攘夷運動の過程で強化された。
薩摩藩・長州藩などの下級武士を中心とした勢力が、天皇の権威を利用して新政府を確立したのが明治維新である。「文明開化」と「富国強兵」を推進する明治政府は、「神国日本」を掲げる皇国史観を、正統な歴史観として確立していく。近代国家に必要な政教分離、信教の自由、学問の自由を意識はしたが、実際は祭政一致をかかげ国家神道を国教とするのを基本政策としたのである。自由民権運動への対抗もあり、1889年に制定された大日本帝国憲法では万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治することを明記した。翌1890年には教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布され、国民教育の思想的基礎とされた。戦前の国定歴史教科書は、神武建国につながる日本神話から始まり、天皇を中心に出来事を叙述し、歴史上の人物や民衆を天皇に対する順逆で評価し、天皇の気分や天皇の死で変わる元号で時代を区分した。又、戦前の学校では、宮城遥拝や御真影(天皇の写真)への敬礼も行われた。この風潮は、1930年代に強まり、第二次世界大戦で極限に達した。
1880年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし、1891年には帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。
その後、1920年代には大正デモクラシーの高まりを受けて、歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。
世界恐慌を経て軍国主義が台頭すると、1935年には憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が、それまで学界では主流であったにも拘らず問題視されて、美濃部が不敬罪の疑いで取調べを受け、著書は発禁処分となった(天皇機関説事件)。1940年には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり、著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。そして、第二次世界大戦が勃発すると、「世界に一つの神の国」と記載した国定教科書が小学校に配布された。
南北朝正閏論争 / 1911年には、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では、南朝を正統と唱えていた。又、幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論争以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。
戦後 / 日本国憲法が施行されて思想・信条の自由が保障され、戦前に弾圧されたマルクス主義の唯物史観が復活して興隆した。これにより、皇国史観ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。又、「古代」「中世」「近代」「現代」といった名称も用いられるようになった。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れが発達する中で、皇国史観は超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」(岩波ブックレット、1983年)と批判されて影を潜めた。
しかし近年では社会主義思想の衰退に伴って、唯物史観による発展段階論に基づいた時代区分への批判、戦後民主主義教育に批判的な新しい歴史教科書を作る会の活動(自由主義史観)など、皇国史観への見直す動きが一部にある。
 
石原莞爾批判

 

石原莞爾は軍人であって、まずそのとった軍事的手段について検討される必要がある。満州事変で夜盗・追剥のような手法で、広大な不動産を確保したといったところで、軍人または作戦家としての評価には値しない。
石原についてまず非難すべき点は、支那事変勃発時における判断の誤りである。全面戦争に訴える(ファルケンハウゼン)という蒋介石の意図を見誤り、陽動作戦にひっかかり当初部隊配置を誤ったことである。
支那事変勃発時、1937年7月18日、次のように語っている(田中新一陸軍省軍事課長談。石原が杉山陸相に述べたもの)。
「本年度の動員計画師団数は30コ師団、そのうち11コ師団しか支那方面にあてられないから、到底全面戦争はできない。然るにこのままでは全面戦争の危険が大である。この結果は、あたかもスペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際、思い切って北支にあるわが軍隊を一挙に山海関までさげる。そして近衛首相自ら南京に飛び膝づめで日支の根本問題を解決すべきである」
これは程度の低い議論である。まず、本年度の動員計画とは参本が予算獲得のため年次計画をつくるもので、平時の机上計画である。戦争となれば、敵や作戦の情況によって新たな動員計画をつくるのは当然である。
石原は支那との全面戦争できないと断言するが、1937年の支那事変は全面戦争そのものであって、日本軍は勝利した。事実をもって石原の言は成立しない。
次にナポレオンの比喩はゲリラ戦についてであるが、1937年においてゲリラ戦のようなものは発生しなかった。近代軍にたいしてゲリラ戦で対抗するためには良好な補給網をもつ必要がある。華南の交通はクリークを利用した舟運であり、ゲリラ戦ができるところではない。この段階では石原は、蒋介石の上海包囲作戦をまったく見通すことができなかった。
山海関までの撤退とは天津軍をさげることである。天津軍は北清事変の講和条約によって、北京公使館地区の護衛のため駐屯が認められたものである。このときでも仏軍や伊軍は駐屯を継続していた。日本だけ責任を免れる(ただし居留民を犠牲にして)ことが得策だろうか?
最後の首脳同士の話し合いというのは論外である。ヤクザのトップ会談の決着のように外交は進まない。このとき日中間には満州国問題があった。さらにいえば、日本は中国全土を占める独裁政権樹立阻止を外交目的としていた。
懸案事項が解決されてトップは親密になれるのであって、ただ話をしても意味がない。
1937年8月18日16時すぎ、軍令部長、続いて参謀総長参内のとき天皇は次のように下問した。
「戦局漸次拡大し上海の事態も重大となれるか青島も不穏の形勢にある由 かくの如きにして諸方に兵を用ふとも戦局は長引くのみなり 重点に兵を集め大打撃を加へたる上にて我の公明なる態度をもって和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや 即ち支那をして反省せしむるの方途なきや」
これに対して石原莞爾は、参謀総長に次のような意見を述べた。
陸軍兵力の一部を上海に、又要すれは青島に派遣して居留民の現地保護に任せしむ
北支に対しては更に若干師団を動員増加(要すれは南満に控置す)し北部河北省及察哈爾省の主要地を占拠し敵か北上攻撃し来るあらは之を迎撃す
前二項の態勢において戦争持久の場合に対処することとし何等かの関係によりて生ずる講和の機を待つ
戦争の結末を求むる為に海軍の強力なる対南京空爆の成果に期待す
日本の陸軍参謀本部作戦部長の天皇の希望に対する発言がこれである。河北省は察哈爾省には軍閥軍しかおらず、ここに陸軍を置いて、「何等かの関係」で講和の機運が生じるだろうか?講和とは戦局の変化によって生じるのであって、迎撃するために待機するとは、戦略的にまったく意味がない。
石原莞爾は蒋介石がイニシアチブをとり先制攻撃してきた事実をなんとしても直視したくないようにみえる。この当時の参謀本部若手にとり石原莞爾は出世した英雄であったためか、部内ではあまり論難されていないが、そのそも石原のソ連脅威論は実効のあるものだろうか。そのあと中国には総計40個師団内外を派兵したが、このときを除いてソ連配備の関係から中国への派兵量が論じられることはなかった。
海軍航空に期待する議論は当時の軍事界の流行ではるが、結果としては謬論である。当時の爆撃機は地上砲火に脆弱であった。96式陸攻は大きな被害を受けた。海軍をためにする議論としか思えないのだが。
8月31日、石原莞爾は近藤信竹軍令部第1部長を訪ね、次のように申し入れている。
上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞-江湾-閘北の線くらいであろう)北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。
陸軍統帥都としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。陸軍大臣は誰に吹き込まれたのか、穏和な平和条件には満足しないようである。
両統帥部で条件決定を促進したい。参謀総長は自ら陸軍大臣に話してもよいと言われている。陸海軍両次長の懇談により大綱を決めたい。国民は戦時体制になっているのに軍部は平時のままになっているので、大本営設置に進みたい。
事実は上海方面に兵力をつぎ込むことにより、戦局は日本軍有利に転換した、石原の観測は軍人とも思えぬ誤ったものである。
この時点で杉山陸相に固執すべき講和案があったとは思えない。講和とは戦局が決定的にならねば機運が生じないのは自明である。蒋介石から攻められたことがまだわからない石原莞爾は日本が「寛大な」講和条件を示せば、戦争が止み、講和できると考える平和ボケした男であった。
9月27日、石原莞爾は関東軍副長に更迭された。石原を嫌う東條英機が参謀長にいたため制御できると考えられたのであろう。そのあと第16師団長に板垣陸相が「強訴」したので親補されたが、直後予備役編入となり、軍人としての生命を終えた。これらの発言は支那事変初動に関するものであるが、国家が侵略をうけたとき、何をせねばならないかという点で危機管理の悪例を残した。
関東軍参謀に左遷され、その後、板垣陸相によって第16師団長に栄転した石原は、そこで竹田宮から支那事変初期の処置について質問を受けそれに答えている(『現代史資料9日中戦争2』「石原莞爾中将回想録」みすゞ書房)。

一般ノ空気ハ北支丈ケデ解決シ得ルダラウトノ判断ノ様デシタガ然ツ私ハ上海二飛火スル事ハ必ズ不可避デアルト思ヒ平常カラソウ言ツテ居ツタノデアリマシタ
抑々上海二飛火ヲスル可能性ハ海軍ガ揚子江二艦隊ヲ持ツテ居ル為デアリマス 何トナレバ此ノ艦隊ハ音支那ガ弱イ時ノモノデ現今ノ如ク軍事的二発展シタ時ニハ居留民ノ保護パ到底出来ズ一旦緩急アレバ揚子江二浮ソデハ居レナイノデアリマス
然ルニ軍令部ハ事変ガアル前二之ヲ引揚ゲルコトガ出来ナカツタ為事変後軍艦ヲ下航セシムル際漢ロノ居留民ヲ引揚ゲシムルコトトナリマシタ大体漢ロノ居留民引揚ハ有史以来無イコトデアリ若ツ揚子江沿岸ガ無事二終ツタナラバ海軍ノ面子ガナイコトニナリマス
即チ今次ノ上海出兵ハ海軍ガ陸軍ヲ引摺ツテ行ツタモノト云ツテモ差支ヘナイト思フノデアリマス
ソレカラ私ハ上海二絶対二出兵シタクナカツタガ実ハ前二海軍ト出兵スル協定ガアルノデアリマス其記録ニハ何トアツタカハ記憶シテ居リマセソガドウシテモ夫レハ修正出来ナイノデ私ハ止ムヲ得ズ次長閣下ノ御賛同ヲ願ツテ次ノ様ナ約束ヲシタノデアリマス
夫レハ海軍ガ呉淞鎮ト江湾鎮ノ線ヲ確保スル約束ノ下二必要ナルニ至レバ速カニ陸軍ガ約一ケ師団ヲ以テ同線ヲ占領スルコトトシタノデアリマス
更二参謀本部デハ要スレバ青島二当テテアツタ一ケ師団ダケハ持ツテ行ク裕リヲトツテ置ク考ヘデアリマシタ

これは虚言の塊である。この当時、英米仏も揚子江に砲艦を派遣していた。『和泉』が上海飛び火の原因というのは言うに事欠く虚言と言わざるを得ない。「飛び火」とは軍事用語ではない。軍人は「飛び火」したならば、誰が飛び火させたのか考えねばならない。
攻撃された自国軍(海軍)があって、その原因は、自国軍が砲艦を遊弋させていたからだという珍説は、単なる大アジア主義者の謬見ではなく、石原には日蓮宗≒儒教が根底にあり、中華主義(=中国は全部正しい)から離れることができなかったからであろう。 
石原莞爾は、自ら自分を批判することは簡単だといい、次の点をあげる。
西洋=覇道、東洋=王道という分類、これほど単純か。
最終戦争論 戦争で絶対平和(世界の政治的統一)が達成される。なぜ戦争か。
持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)が交互に発生する。実証的でない。
最終戦が日蓮宗により説明されているがおかしい。
以上のことは1941年の段階で疑問点として照会され石原が自ら回答を書いている。つまり戦争の敗者は普通、戦後の秩序を前提に批判さるが石原の論はすでに太平洋戦争勃発の直前に概ね周辺の人々により疑問視されていた。今日の目からみて当時の疑問はいずれも正当だろう。
つまり石原の論はその時代でかつ特定地域しか受け入れられない議論の範疇にも入らないのだ。つまりその時でも陸軍の一部にしか通用しない議論だった。
歴史上有名人の行った議論の普遍性欠如の原因はかなり定型的である。一つは人種・民族・特定グループ(職業または階級・性別・信心・収入・疾病など)差別または攻撃を伴うことである。また、自然科学で未解明のことを予言的に議論することである。これは仮説をたてることだから、科学者は普通のことだが基礎的教育のない政治家や軍人・官僚また僧侶が叫ぶと独断に陥る。この二点が、概ね失敗の原因だ。
石原はアジア北部人種が世界で最も優秀な民族集団とみなしていた。とくに中国人をそのようにみていたようだ。そしてロシア人は無知蒙昧な種族だとする。アジア北部人種とは日本、朝鮮、中国、モンゴル、満州をさしいわゆる五族協和の五族である。このあたりは満州国設立の張本人だからそう主張したのかもしれない。
満州の帰属が当然中国(国民)に属するという見解を石原はとらなかった。これは理由のあることだ。忘れられた大義であるが、満州の東半部は朝鮮族の故地だった。高句麗の4世紀ごろまでの首都丸都は満州にあった。そして高句麗の遺民が建国したと推定される渤海国は満州を基盤としている。その後も女真族による支配まで再三朝鮮族は満州を支配下に置いている。
満州を中国の現政権の指図に従属し東北と呼んで恥じない人々はこの点をどう考えるのだろうか。ともあれ満州は1948年まで漢民族の全面支配に入ったことはない。地名について言えば中国(共産)政府が満州をあたかも以前から漢民族の支配する地域の一部のように東北と呼び、満州族の定めた地名奉天を明時代のあまり使われなかった地名審陽に戻したりすることに納得できない。(国民党政府は東三省と称す)これは先住民の地名は残すべきで権利を尊重すべきと思うからだ。英語はマンチュリアで満州からの地名を維持している。固有名詞について、対象となる国におもねる必要はない。
そのうえ辛亥革命(第1革命)時、アメリカを除き各国とも中国(袁世凱)が大清帝国の継承国家と認めていなかった。中国(袁世凱)は清国旧債や既条約について継承を拒否していた。満州が漢民族に当然属するという見解は万里の長城が存在する以上歴史上難しい。石原は北満無住者地帯論を唱えるが、そこに無理があるとは思わない。
ところが第2革命の時、日本政府は満州が中国に帰属することをを含み(決定的表現ではない)袁世凱政府を承認した。つまり石原らによる満州傀儡政権樹立は日本の承認した行為と矛盾した。また背後に隠れる問題は日中外交は近代外交のルールに乗らず、当事者主義に則るべきだ、という安易な東洋的逃げ道である。中世的中華秩序や王道による外交とは何だろうか?リットン調査団で真実を暴かれ、逆上して国際連盟脱退という方法を選ぶ前に正々堂々と国際ルールに依拠するやり方があったのではないか。これからも噴出する子供っぽい軍人の謀略と言えばそれきりだが。
ただ石原の上司板垣征四郎の発言、「満州人といったって人口の数パーセントに過ぎず、溥儀をたてるのは時代遅れだ」というのは現実の認識としては正しいのだろう。ただ、この考え、すなわち多数派の人口で領土を決めることを単純に認めるわけにはいかない。例えば漢族の流入は満州だけに止まらなかった。尼港事件のニコライエフスク(樺太の間宮海峡を隔てた対岸)の漢族人口はその事件が発生したとき日本人人口の数十倍ありロシア語を喋るロシア人を上回った。そしてこのシベリア居住の中国人は1939年までにスターリンによりほぼ絶滅させられた。この事件は中国国内の生活苦による流民の発生も一因だ。流民によって領土の帰属が決まるとすれば難民を暖かく迎える国はなくなってしまう。
石原の基調をなす点は北部アジア人種が、ヨーロッパ人種にたいし優越するので現状打破の点から最終戦争に導かれ、最終的に世界は日本の指導下に置かれるとする。これにより大アジア主義が根本として人種差別意識に基づいていることがわかる。
そして、以降の統治の基本をなすのは農本主義とする。これは人口を農村に集めすべての人間に耕作を義務つけ、副業として工業をやらせるというポルポト張りの施策だった。これは緑の革命という農業革命が起きたことがわからず、労働生産性の向上、肥料、種子の改善を石原は理解できないことによる。現在でも耕地面積の縮小が収穫の減少ととらえる人は多いが。残念ながら現場にいるよりは大学の農学部に行ったほうが良い。これは社会科学でなく自然科学だ。現在先進国で専業農家の総所帯に占める比率はどこも5%以下だ。
社会科学たとえば歴史学、経済学や軍事学はナポレオンが言うように素人にチャンスは十分ある。しかし自然科学では基礎の教育が無ければ、発言権はない。ところが例えば毛沢東もこの単純なことがわかっていなかった。雀撲滅運動や土法鉱炉という自然科学軽視は軍人的人物の方が陥りやすい。日本の戦時生産をみればわかる。日本以外は第2次大戦で戦闘機の生産は全て文民が責任者だった。もちろん、科学的知識によって得られた物の使用方法やその優先順位は、科学者とは直接関係しない。
以上はよく知られた石原の謬点だ。ところが軍事論も無視できない誤りがありかつ興味を引く点だ。
石原は戦争を持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)に分類する。
そして決戦戦は殲滅戦であるとする。そして第1次大戦のシュリーフェンプランは、小モルトケが右翼の比重を落としたことで失敗したという。そうだろうか。
まず石原はドイツ右翼を第1軍(クルック)から第4軍(アルブレヒト、ウユルテンベルグ公)までとする。通説は第1軍から第3軍までを右翼とする。それは定義の問題で重要ではない。そしてマルヌ戦前の実際のドイツ軍右翼の総兵力を約21個軍団だと言う。
これは実際は16個軍団だった。第1次大戦で日本の観戦武官はフランス側だったから戦中にドイツ軍右翼の編成を知ることはできなかった。石原の数字は1921年から2年ドイツ国防軍に留学した際得た数字だろう。そして石原は偽りの数字をつかんで来たのだ。ただ作戦重点の軍でも1個軍が5個軍団以上保有することはまずないから、石原は疑問に思ったに違いない。それが約という言葉に表れたのだろう。
別に、シュリーフェンの原案ではオランダの中立をも侵犯する計画だったと石原は見抜いたことを自慢している。だが最近のシュリーフェンプランの研究では案自体は大きいもので6回見直され、全てのバリエーションを入れれば64通り存在した。すなわち共通国境通過、アルデンヌ通過も含めあらゆる可能性が検討されていたのだ。ロシアだけと交戦する計画は忘れられていたが、これだけの大掛かりな計画でバリエーションを研究するのは当然だろう。この委細についてもドイツ側は石原に教えていなかったのだ。
そして、フランス軍の作戦重点がロレーヌにあったという。しかしこれも量から言えばアルデンヌだろう。つまりロレーヌにもフランス軍は攻めたがそちらは陽動だった可能性が強い。ところがフランス軍はロレーヌを主攻としなければシュリーフェンの思惑通りになったとは言えない。このためドイツ人はシュリーフェンの無謬性を主張したいがためにロレーヌ主攻説をとる。ここでも石原はドイツ参謀軍人に乗せられている。
このような偽りのドイツ側証言にたって第1次大戦持久戦論を展開している。すなわちシュリーフェンプランがシュリーフェンの言うと通り行われなかったから持久戦になったと。実際はシュリーフェンの言うようにするとフランス軍が緒戦でドイツ軍右翼を殲滅したかもしれない。第1次大戦で機関銃を始め防御兵器が向上し長期戦となったのは事実だ。しかし長期戦、短期戦が交互に来るとか、短期戦が死滅したというのは一般化できない。戦争結果が必然というのはまずない。いわんや様相が必然というのはとてつもない誤りだ。石原は中隊長程度で政治的陰謀をめぐらすのは得意だが1軍を率いさせてはいけないことがわかる。
もっとも酷評かもしれないが東條は中隊長も危ない。吉田茂が日露戦争のときの日本の将軍と比較して第2次大戦の陸軍軍人との懸隔の激しさを指摘している。それでも硫黄島の栗林中将のような名将もいた。とにかく人事の名人が参謀総長になってはいけないのだろう。
それでも石原はこの時の日本の参謀将校の例にはずれて連合国の最終攻勢については攻勢防御と攻勢移転について正しい判断を加えている。これは陸軍の公式文書ではまずみられない。
一般的に第1次大戦の旧軍の記録でドイツ側の証言にたったものは史実に反するものが多い。つまりゼークト参謀本部は日本軍人など騙しにかかっていたのだ。この時ドイツ参謀本部は蒋介石と密接だったから当然だろう。反面、英仏側の証言は極めて正確である。同盟というのはそういうものだ。ところが東條、永田ら幼年学校=陸大組みを筆頭にドイツに傾斜して行く。
石原は最終攻勢についてフォシュの功績としている。ドイツ留学の関係からフランスについては情報が入りにくくペタンが落ちているのはやむを得まい。ただいわゆるフランスのエラン(鋭気)については正しく理解しているのだろうか。石原は日米の重巡同士では精神力にまさる日本が強いという。これは水兵の砲術能力などが上回るという意味だと思うが、フォシュの言う敵に優る精神力はこのような意味ではない。例をあげれば戦争の勝敗はどちらかの司令官が敗北を認識したら決まるというのがある。
唯物論者はこれをとんでもない観念論だと一蹴するが、果たしてそうだろうか。第1次大戦のドイツの敗戦はルーデンドルフの敗北認識または停戦を利用した謀略が最大の原因だったのではないか。これには異論があるかもしれない。しかしユトランド海戦で逃げたドイツ外洋艦隊はやはり被害を多く与えても負けではないのか。すなわち負けるという認識は戦況が不利なことで生じる。しかし決戦場面では彼我ともに膨大な被害を受けている。最後どちらかが継戦が無理だと感じるのはやはり将領の頭脳にある。1914年のマルヌでジョフルはフロンティアの戦いであれほどの損害をうけながらあくまでフランス軍とフランスに自信をもっていた。1918年のルーデンドルフは、連合国の最終攻勢でドイツ軍とドイツに自信をもっていただろうか。銃後の反乱とか初年兵がノロマだとかあげくのはては同盟国が信頼できないなどジョフルは決して言わなかった。
ジョフルはBEFのフレンチが海峡を渡って帰ろうとしても、イギリス人は自ら名誉を毀損することはしないことまた友好関係は決して崩れないことを信じていた。それでも戦術家・参謀としてはルーデンドルフはジョフルより優秀かもしれない。だがそういう問題ではない。
つまりエランの発揮されるのは兵や参謀ではなくて将領の方なのだ。日本の陸軍は日本の兵卒の精神力が優れていることを主張する。しかし必要なのは将領の精神の涵養だ。そしてエランの本質は将領が目的を一つに絞り込むことだ。
そして陸士16期以降は石原のようにドイツに留学させられる。そこで学ぶのが偏頗な知識に基づく軍事学と唯物論=社会主義だった。このときドイツは戦争の敗北を将領にではなく兵卒と銃後に求めていた。そしてこれは唯物論に十分な根拠を与えた。そしてフランスへの観戦武官の多くは宇垣軍縮とともに陸軍を去っていった。
石原は王道楽土を満州に求めた。そこを問題にしてはならないだろう。満州が先住民のものか、多数派の流民のものか、軍事的優越者のものか、地球上の全ての土地のようにわからない。ただ、差別をすれば満州国民は生まれない。そして差別が無くなれば、満州国は成立しない。解決方法はあるかと問われればあるだろう。民族浄化と強制移住だ。もちろんこれはできない。日本の君主制はそれを許さない。しかし中国(共産)がチベットで現在これを実行中である。
張作霖爆殺事件に始まるテロ、陰謀そして長期にわたる目的のない政治工作・戦争のうち、たしかに石原の進めた満州事変だけは勲章や栄達、要するに人事抗争とは無縁で目的も明確だった。しかし、この状態で非道を繰り返す北部アジア人種がどうして王道種族なのか。そして王道が武力によらず友好関係による調整だとすれば、満州事変によるヨーロッパにある友好国との関係破壊は無視できないだろう。
自分達またはそのグループが何らかの点で優れていると思うことは自然だ。しかし日本は明治から軍事でも経済でもそのことを常にデモンストレートしているではないか。日本の現代史はそのことの究明にあるといってよい。このうえ、世界に冠たる必要があるのだろうか。石原はあると考えた。それが魅力かもしれない。
また石原の大アジア主義の根幹をなす東亜連盟(日満支同盟)という外交政策について言えば、その実現性にたいする当然の批判はともかく従来の外交政策について変更する必要を認めたのは確実だろう。当時(満州事変前)日本の外交政策はドイツ人に「棄てられた女房(イギリス)に未練を残す男やもめ。」と揶揄されたという。
このとき外交政策としては3通り考えられた。
英・米を基調とするゆるやかな協調方針
ドイツまたはソ連との同盟
非同盟で東アジアに割拠
1番は幣原が追及した方針。2番は広田が追及した方針。3番は石原が主張する内容だ。石原は宗教的またはイデオロギー的考えから自由主義の英米と共産主義のソ連とは同盟できないとした。
そして前提だが、戦間期一貫して同盟者としてアメリカを追及したのはイギリスだけだということだ。現在までに公開されたイギリスの外交文書によればほとんど毎年のようにイギリスはアメリカの戦時におけるコッミトメントを求めている。これに孤立政策からアメリカは一切の言質を与えていない。日本はイギリスのようにドイツという脅威がない。石原はスターリンの5ヵ年計画の成功による工業力強化と極東軍事配置増加に警鐘を鳴らしている。そしてそれは的中した現状把握だった。
歴史では日本は防共協定締結(1936年)のときにドイツとの同盟を選択した。ドイツの言う通り日本は満州事変勃発(1931年)からおそらく5年間考える時間=男やもめの期間があった。石原は日本を盟主とする東アジア同盟でまず力を蓄え、アメリカとの最終戦争に臨もうとした。石原を嘲るのは簡単だ。しかし、不承認・不干渉・無約束主義を貫いている隣国アメリカとどうつきあえばよいのか。また経済ではアメリカは日本に興味があった。そしてイギリスは日本に経済的興味はない。
この前提で孤立した日本が、外交方針を決定することの困難さは同時代人でなければわからないのかもしれない。
外交官からみれば石原の大アジア主義は一部支那通を除けば、現実味のないものだった。満支両国が目先の紛争に何個師団送れるのか。そして政府は国内には大東亜共栄圏を言い自存自衛が国策だとした。しかし背後の裏付けはドイツの軍事力だった。
現在非同盟中立主義とか東アジア同盟を唱える人はなお存在する。それは戦前の外交官の失敗と同じではないのか。そもそも同盟というのはできてすぐ機能するものではない。第1次大戦のイタリーをみればわかる。それは場合によれば戦争で肩を組み、文化・経済で網の目のように交流し始めて機能する。英仏協商はもうすぐ100年を迎える。日米が安政の和親条約以来対立したのはこの150年間のうち僅か15年にすぎない。この枠組みを無視して新思考外交を展開するのは無理がある。また不幸なことにドイツは第2次大戦までソ連は現在も同盟が短期的相互利益を目的として成り立つと考えている。これはチンメルマンノート的誤りだ。同盟とは世界全体または大地域の安定に寄与するという側面を無視してはならない。またそれでなければ長続きしない。
満州事変は当時国民に人気のある戦争だった。恐らく小さい武力行使で地図上広大な地域を得たという頭が働いたのだろう。欧米諸国はおろか革命に忙しい中国(国民)やソ連も武力による干渉または経済制裁はできなかった。この事態はおそらく石原の予想を裏切るものだっただろう。だが当時の国民を納得させてかつ成功する外交政策は存在したのだろうか。 
ときどき石原の外交策が実行されたときを考えることがある。満州国を保護国とする大日本二重帝国が成立する。そして非同盟、対華不干渉を実行する。おそらく欧米の植民地は生き残り大陸では混乱が続くだろう。日本は大陸の大混乱を座視できないアメリカをあやそうとする。満州国では隠然たる不満が残り反乱が絶えない。日本経済は成長に失敗し統制経済に移行しようとしますます傷口を広げる。ソ連またはドイツの脅威は増大し国内の政争は収まるところをしらない。現在とどちらがよいのだろうか。
ここでは批判が中心なので石原の正しい論点についてはあまり触れなかった。しかし石原がルーデンドルフの問題点を昭和軍人のなかでは最も適切に指摘していることは特筆したい。
石原の論の根本はソ連警戒であり、また軍事的には上海で塹壕戦として膠着することを恐れたものである。この見解は当時の軍事認識として一級のものだと認めざるをえない。
第1次大戦を参考にして欲しい。塹壕戦としてすでに膠着したにもかかわらず、機動戦が展開できるとルーデンドルフですら1918年だが予期したのだ。
ただ現実に戻れば石原と昭和天皇は1937年7月蒋介石が設定した上海決戦をめぐり対立のピークに達した。石原はこのとき満州事変開始の帰結がこれだったと気づき動転した。攻撃されたにもかかわらず反撃する策を立案できず、また得意の謀略=私的外交、船津工作に走った。軍人にもかかわらず、この子供のような弱気を愛するべき否かは人によって異なるのかもしれない。しかし国家は攻撃されたならば反撃し、友軍が孤立したならば救援せねばならない。
昭和天皇は石原の無能を見抜き、すぐさま上海決戦に応じる処置を要求した。攻撃をしようとしている人間に交渉を行い取りやめを頼んでも意味がない。国家と個人は異なる。石原は得意の長期戦不可避論を展開し煙に巻こうとしたようである。昭和天皇は自然科学者であり石原のようなロマンチストではない。1937年9月27日、石原は作戦部長の地位をおわれ、二度と重要な役職につくことはなかった。

昭和天皇による石原莞爾批判
〜『文藝春秋』2007・4月特別号「小倉庫次侍従日記」解説半藤一利
昭和14年7月5日「后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出でたる所。「跡始末は何【ど】うするのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁、御前を退下す。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止【とどめ】らせらざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願ひ、他は明日遊ばされ度き旨言上、御前を下る。今日の如き御忿怒に御悲しみさへ加へさせられたるが如き御気色を未だ嘗て拝したることなし(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。
板垣征四郎は、東京裁判で刑死するまで石原信者であった。板垣がもちだした陸軍人事とは石原莞爾の第16師団(京都)長補任に係るものであった。「御独語」と書くが、じっさいには板垣にやめるよう面罵したのであろう。そして板垣は、いっさい喋らず、天皇が黙ったところで退出する。残された天皇は立憲君主として裁可せざるをえなかった。陸軍人事とは陸軍省が所轄する「軍政事項」であり、統帥権とは関係がない。このときすでに、日本の(軍)官僚は「省内お手盛り人事」に明け暮れていたのである。
昭和17年12月11日「閑院さんの参謀総長で今井が次長であり、石原莞爾が作戦部長であったが、石原はソヴィエト怖るるに足らずと云ふ意見であったが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変った」
昭和天皇は蒋介石が上海陸戦隊を攻撃してきたとき、見捨てるのではなく反撃すべきだと石原に訴えたが、石原は臆病風に吹かれ拒絶した。石原にとってのソ連は口実でしかなく、内心ではスターリンに感心していたのである。 
 
先輩東條英機を侮辱した石原莞爾の受けた報復  
満州事変を起こし、満州国を作った発案者が石原莞爾で、実行したのが板垣征四郎。関東軍は、昭和6年(1931年)23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の軍を率いて、日本本土の3倍もの面積を持つ満州を占領。
満州国を作ったという歴史的な事実について、その善悪を言う前に、まず、日本という国が過去に何をしたか、私たちが知らないと、話にならない。ということで、近代日本に何が起きたか、何をしたか、それを知ろう!ということで、石原 莞爾を取り上げる。
石原 莞爾の生い立ち。
山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として誕生。莞爾=にっこりと笑うさま。ほほえむさま。意味は(にこやかな様子)であるが、キレもの過ぎて、笑っている印象は少ない。長男、次男が亡くなり、莞爾が事実上の長男。四男は1940年6月に航空機事故で殉職。 五男は一歳で亡くなり、六男は昭和51年まで西山農場で暮らす。
幼年期は乱暴な性格。しかし利発な一面もあり、校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績で、また三年生の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また小児時代は病弱で、麻疹ハシカ、種痘を何度か受ける。近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、将来の夢は「陸軍大将になる」と言っていた。
明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に合格し、ここでは総員51名の中で一番の成績。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などは不得意。
三年後、明治38年(1905年)には、陸軍中央幼年学校に入学。(陸軍幼年学校は、旧制中学1年から旧制中学2年修了程度に受験資格を与えた。)石原は、図書館に通って戦史や哲学、社会科学などの書物をよく読んだ。「国柱会」設立した田中智学の法華経に関する本を読み始めた。(「国柱会」=純正日蓮主義を奉じる宗教右派)また東京に在住していたため、晩年の乃木希典や大隈重信の私邸を訪問、教えをこうている。明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学。勉強は教室と自習室で済ませ、学科成績は350名中で3位、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は原隊復帰し見習士官の教官として厳しい教育訓練を行った。軍事学以外、広く哲学や歴史の勉学にも励んだ。南次郎(昭和9年、第8代朝鮮総督。内鮮一体化を唱え、1民族語の復活 2朝鮮語教育の推進 3創氏改名など進めた)からアジア主義の薫陶を受けた。
連隊長命令で、陸軍大学校を受験。陸軍大学校の受験科目:初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史など、各科目三時間または三時間半で解答する。石原は受験に対して、どうせ受からないと試験前は全く勉強しなかった。普段の部隊勤務をこなし、試験会場に一切の参考書を持って来なかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学。
今まで図書館で独学していた石原には、陸軍大学の宿題も楽にこなした。残った時間は、思想や宗教の勉強に充てた。石原の戦術知識は高く、討論でも教官を言い負かすことがあった。大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。(北越戦争=戊辰ボシン戦争:薩摩藩・長州藩の新政府軍と、奥羽越列藩同盟(旧幕府勢力)が戦った日本の内戦)
石原莞爾「卒業論文」ポイントは、長岡藩兵は継之助の巧みな用兵により、新政府軍の大軍と互角に戦ったが、長岡城を奪われた後、逆襲に転じ、夕刻、敵官軍の意表をついて八丁沖渡沼作戦を実施し、長岡城を奪還。これは軍事史に残る快挙“河井継之助”の小を以って大に勝つ作戦である。
昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領。アイディアは石原莞爾、実行統率が板垣征四郎と考えられる。
二人の関係を表すエピソードがある。
参謀部の北満演習旅行があったとき、 このとき石原莞爾は「戦争史大観」の講演を行い、板垣大佐をはじめとする関東軍参謀の面々が聞いていた。その日の夜、石原がホテルの寝床でふと目を覚まし、トイレにたったとき、板垣大佐の部屋の窓には明かりが灯っており、戸が半開きになっていた。明かりに誘い込まれるように板垣大佐の部屋に入ると、大佐は一心腐乱に何やら書き物をしている。
板垣「おお、君か。どうしたのだ。こんな夜更けに」
石原「板垣大佐、何を書いておられたのですか」
板垣「君が昼間の講演で語った戦略理論が、あまりにもすばらしい内容で深い感銘を受けたのでそれを忘れないようにと思って、要点を思い出しながら整理し、まとめているところなのだ」 
まったく先輩、後輩の垣根のない、板垣の純粋な心、素直な姿勢が見て取れる。
石原はこのとき「板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためのみと思っていた私は、この勉強があるのに感激した」と後に出版した「戦争史大観」に書いている。
満州国の建国スローガンは「王道楽土」「五族協和」。それが石原 莞爾の中で、満蒙独立論へ転向していく。日本人は、国籍を離脱して満州人になり、日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。冷静に考えてみれば、日本人が“欲”を出して独占を考えないで、五族の協力が可能なら「東洋のアメリカ」は理想の実現である。その実、裏では、石原独自の最終戦争、日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための「民族協和」であったと指摘する研究者もいる。
その後、満州国は日本の敗戦と共に、崩壊する砂上の楼閣であったように言われるが、「理想国家」を夢想した、人類の実験であった・・・という面も持っていた。
二・二六事件、昭和11年(1936年)の際、石原莞爾は、参謀本部作戦課長であり、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にあった。この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて、参謀本部へ登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため、登庁することができた。安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入り口で阻止したが、「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。
満州事変以降、関東軍は内地中央の方針を無視する態度が目立つようになった。1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう、石原莞爾は説得に出かけた。現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。
武藤章:(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。
盧溝橋事件=支那事変(日中戦争)開始時、1937年(昭和12年)7月には、ここでも参謀本部作戦課長の武藤などは、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは、反対に対中国強硬政策を主張。
石原は「早期和平方針を達成できない」と判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したが、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。
石原は、“戦線が泥沼化する”と予見して不拡大方針を唱え、在華ドイツ大使トラウトマンを介して中華民国政府との和平工作を行ったが、この石原莞爾の方針は当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢は反対し、参謀本部から関東軍の参謀副長として左遷された。これ以後、東條英機との確執は激しくなった。
石原莞爾は、昭和12年(1937年)9月に関東軍に戻り、参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。1940年(昭和15年)に満洲国から勲一位柱国章(勲一等瑞宝章に準ず)が贈られた。
翌年の春から、東條英機が関東軍参謀長に着任。東條参謀長と石原参謀副長は、満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。
東條 英機(明治17年(1884年)7月30日〜昭和23年(1948年)12月23日):日本の陸軍軍人、政治家。陸軍大将。明治38年(1905年)陸軍士官学校を卒業。大正元年(1912年)〜大正4年(1915年)陸大を卒業。
石原 莞爾(明治22年(1889年)1月18日〜昭和24年(1949年)8月15日): 明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学 大正4年(1915年)〜大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)。
石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。
気性の激しい石原莞爾は、東條の5歳年下であったが、以後、東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒、事ある毎に東條を無能呼ばわりした。一方東條の側も、石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原を「許すべからざるもの」と思っていた。東條の根回しにより、昭和13年(1938年)に石原は関東軍参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に左遷され、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長にされた。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。
以後、大学で講義したりの生活をしていたが、東條の指示で憲兵がスパイのように付きまとっていた。そのいちいち報告が東條へ伝わっていた。石原は、A級戦犯になるべき身であったが、体が病魔に冒され、免れた。A級戦犯の処刑昭和23年12月より長く生きたとはいえない昭和24年8月15日に病没した。
東條は、敵対するライバル、あるいは東條の意向に逆らう人材を徹底的に消していく話はいくつか聞く。その代わり、自分の意向に従う飼い犬同様な人材を重用した。東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称される。
三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄
田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、評判のよくない、且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因と思ふ」と名指しされた。田中隆吉(兵務局長)は、東條の腰巾着と揶揄され、戦後は一転、連合軍側の証人として、東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い。富永は、東條の陸軍大学校教え子で、東條陸軍大臣時、仏印進駐の責任問題で、二人の将官が予備役編入処分される中、人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永は(戦況悪化で)フィリピンで特攻攻撃を命令、自らも特攻すると訓示したが、富永自身は病気(胃潰瘍)を理由に戦場離脱、台湾で温泉保養する。評判悪い男。帝国陸軍最低の将官との評価である。 
 
東條英機の遺書

 

遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは昭和20年(1945年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。
家族に宛てたもの
以下は長男英隆に宛てたものである。これは昭和20年9月3日。すなわち日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日に書かれたものである。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。

昭和二十年九月三日予め認む
一、父は茲に大義のため自決す、
二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし
逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)
以下は昭和20年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされるものである。この遺書は昭和27年(1952年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。

英米諸国人に告げる
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
日本同胞国民諸君
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
日本青年諸君に告げる。日本青年諸君各位
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
処刑前
昭和23年11月12日の死刑判決の6日後の11月18日、花山信勝師と面談時の遺書。

花山師と面晤(めんご)の機あるに依り左件を  東條
一、裁判も終わり一応の責任を果たし、ほっと一安心し、心安さを覚える。刑は余(よ)に関する限り当然のこと、唯(ただ)責を一身に負い得ず、僚友に多数重罪者を出したること心苦しく思う。本裁判上、陛下に累(るい)を及ぼすなかりしはせめてもなり。
二、裁判判決其(そ)のものについては、此(こ)の際言を避く、何(いず)れ冷静なる世界識者の批判に依り日本の真意を了解せらるる時代もあらん。唯(ただ)、捕虜虐待等(など)、人道上の犯罪に就(つ)いては、如何にしても残念、古来より有(あり)之(これ)日本国民、陛下の仁慈(じんじ)及び仁徳(じんとく)を徹底せしめ得ざりし、一(いつ)に自分の責任と痛感す。
然(しか)して之(これ)は単に一部の不心得より生ぜるものにして、全日本国民及(および)軍全般の思想なりと誤解なきを世界人士(じんし)に願う。
三、第二次大戦も終わりて、僅か二・三年、依然として現況を見て、日本国の未来に就中(なかんずく)懸念なき能(あた)わざるも、三千年の培われたる日本精神は、一朝にしてか喪失するものにあらずと確信するが故に、終局に於いては、国民の努力に依(よ)り、立派に立ち直るものと信ず。東亜に生くる吾(われ)は、東亜の民族の将来に就いても此(こ)の大戦を通じ世界識者の正しき認識の下にその将来の栄冠あるべきを信ず。
四、戦死戦病死並びに戦災者の遺家族に就(つ)いては元より連合国側に於(お)いても同情ある救済処置を願いたきものなり。之(これ)も亦(また)誠(まこと)国に殉ずるものにして罪ありとせば、吾吾(われわれ)指導者の責にして彼らの罪にあらず。而(しか)して吾吾は処断せられたり。彼等を悲運に泣かしむるなかれ。然(しか)も彼等を現況に放置するは遂に国を挙(あげ)て赤化に追込むに等し、又現在巣鴨にある戦犯者の家族に就いても既に本人各罪(つみ)に服しあるものなるに於(おい)て、其(そ)の同情ある処置を与えられたきものなり。ソ連に抑留せられしものは一日も速やかに内地帰還を願いて止まぬ。
敗戦及(および)戦禍に泣く同胞を思うとき、刑死するとも其(そ)の責の償い得ざるを。
処刑前
以下は処刑前に花山教誨師に対して口頭で伝えたものである。書かれた時期は判決を受けた昭和23年(1948年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰(なぐさ)められておるが、国内的の自らの責任は死を以(もっ)て贖(あがな)えるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈(じんじ)の御志(おんこころざし)に依(よ)り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。此度(このたび)の戦争に従事してたおれた人及び此等(これら)の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨(のぞ)まなければならないのではないか。此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位(おんちい)は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如(ごと)く大きな恩(めぐみ)は忘れられぬものである。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相(あい)協力すべきものである。東亜民族も亦(また)他の民族と同様に天地に生きる権利を有(も)つべきものであって、その有色たるを寧(むし)ろ神の恵みとして居る。印度(インド)の判事(パール判事の事)には尊敬の念を禁じ得ない。これを以(もっ)て東亜諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争に因(よ)りて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。
現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。
今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢(たいせい)がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯(か)くの如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。
今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為(ため)なりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依(よ)って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因(いん)たらしめた。米英の指導者は之(これ)を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。
日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄(ほうき)した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然(しか)らざれば、盗人が跋扈(ばっこ)する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
私は戦争を根絶するためには慾心(よくしん)を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何(いず)れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を抛棄(ほうき)しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此(こ)の通りである。それ故(ゆえ)、第三次世界大戦は避けることが出来ない。
第三次世界大戦に於(お)いて主(おも)なる立場にたつものは米国およびソ連である。第二次世界大戦に於いて日本と独乙(ドイツ)というものが取り去られてしまった。それが為(ため)、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。
第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此(こ)の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等(なんら)かの考えがなければならぬ。米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。凡(およ)そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如(ごと)きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速(すみ)やかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事(きんじ)、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少(すくな)くない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。
今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者(りさいしゃ)の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等(これら)については衷心(ちゅうしん)謝罪する。
然(しか)しこれと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫(れんびん)して悔悟(かいご)あるべきである。
最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確(たしか)に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇(ようこ)兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
学校教育は従前の質実剛健(しつじつごうけん)のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。俘虜(ふりょ)のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
辞世
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき

大東亜戦争とは、白人による世界征服の阻止、有色人種解放のために日本が戦い、負けざるを得なかった戦いだと自分は考えている。開戦した直接的な理由は自衛戦争のためだが、ABCD包囲網で石油などの重要資源の輸入を白人に止められ、戦わざるを得なかったわけである。資源に乏しい日本が、近代国家の血液である石油を止められれば失血死する以外に道はない。失血死するくらいならたとえ少ない勝機であっても戦おうというのが開戦時の日本人の考え方であり、ハワイ諸島のように戦わずにアメリカに併合されるくらいなら、負けるのを覚悟で戦った方がまだマシだったのである。
大東亜戦争の世界史的な意義は非常に重大で、あのタイミングで大東亜戦争が起こらなければ、現在のような国際社会の実現は不可能だったように思われる。大東亜戦争が起こらずに核兵器の開発が成功し、世界各地に植民地を持つ欧米の列強国が核兵器で武装していれば、永遠にアジア・アフリカの植民地が解放されることはなかっただろうと思われるからである。大東亜戦争を戦わないことで日本一国は生き延びられたかもしれないが、日本がもし戦わなければ、アジア・アフリカ諸民族は核兵器の力を背景に半神半人と化した白人に半永久的に支配される悪夢のような世界が展開されていた可能性は非常に強い。
大東亜戦争が無ければ、植民地の独立勢力に対して原爆が使用された可能性も考えられ、そんな蛮行を許せば、誰も白人の支配に対抗しようなどとは思わなくなるだろう。いわば植民地が解放可能なギリギリのタイミングで大東亜戦争が起こり、日本は有色人種の未来を背負って戦い、白人の業を背負って敗れたのである。
日本の戦争責任をやかましく唱える反日左翼勢力は国内にたくさん存在するが、もし日本が戦わなかったならば、という状況を考える人間は一人もいない。彼らは単に戦勝国の価値観を代弁しているに過ぎず、戦勝国や敗戦利得者である朝鮮人の手先以上の存在ではないからである。その最たるものが日本のマスコミであり、マスコミの世論操作や洗脳によって、日本人は正しい歴史観や大和魂を失い、現在の堕落した日本人が生まれたのはご承知の通りである。
東條英機の残した遺書を読むと、決して彼がヒトラーのような独裁者や狂った軍国主義者などではなく、非常に識見や教養が高い、道徳的にも極めてまともな日本人だったということが良く理解出来る。そのまともな人間を持ってしても「開戦やむなし」という考えに至らしめたのが当時の日本を取り囲む状況であり、世界情勢だったのである。小学生の頃、わけも分からず東京裁判の映画を見せられた記憶があるが、何だか一方的な内容だった印象がある。現在のように日本がアメリカや中国、韓国の属国のような立場ならば、東條英機の扱いが変わることはないかもしれないが、せめて彼が靖国神社に祀られていることを良しとするしかないようである。
国内的な責任を痛感し、戦勝国による処刑をむしろ積極的に受け入れる東條の心情は胸を打つが、彼が無罪を主張した理由が国際法的な日本の立場を考えてのものであり、決して自分の命惜しさに主張したものではないことを 多くの日本人に知ってもらいたいものである。少なくとも同じ日本人が日本人に対し、日本の戦争責任という戦勝国の価値観を主張するべきではないと思うが、朝日新聞のように道徳的に破綻した存在になりたくなければ、日本人は先人の魂に対して襟を正す必要があるように思える。東京裁判で戦犯と呼ばれた人達は戦勝国側が一方的に非合法的に裁いたのであって、日本人が裁いて処刑したわけではない。そのことは常に忘れないようにしたいものである。 
 
「興津弥五右衛門の遺書」 / 乃木希典の殉死 1

 

某(それがし)儀明日年来の宿望相達候て、妙解院殿御墓前に於いて首尾よく切腹いたし候事と相成候。然れば子孫のため事の顛末書き残し置き度、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。
某祖父は興津右兵衛景通と申し候。永正十七年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申し候。
父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙(ちち)を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五右衛門景一と名のり、母の族なる播磨国の人佐野官十郎方に寄居いたし居り候。さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、慶長の初めまで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介と共に丹後国田辺の城を攻められ候。当時田辺の城には松向寺殿三斎忠興公御立籠遊ばされ居り候ところ、神君上杉景勝を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、跡には泰勝院殿幽斎藤孝公御留守遊ばされ候。景一は京都赤松殿邸にありし時、烏丸光広卿と相識に相成り居り候。これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子光賢卿に松向寺殿の御息女万姫君を妻(めあわ)せ居られ候故に候。さて景一光広卿を介して御当家御父子とも御心安く相成り居り候。田辺攻めの時、関東に御出遊ばされ候三斎公は、景一が外戚の従弟たる森三右衛門を使いに田辺へ差し立てられ候。森は田辺に着いたし、景一に面会して御旨を伝え、景一はまた赤松家の物頭井門亀右衛門と謀り、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣り候。森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。この年赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国に参り、慶長六年御当家に召抱えられ候。元和五年御当代光尚公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君と申し候。景一は六丸君御付と相成り候。元和七年三斎公御致仕遊ばされ候時、景一も剃髪いたし、宗也と名のり候。寛永九年十二月九日御先代妙解院殿忠利公肥後へ御入国遊ばされ候時、景一も御供いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去遊ばされ、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年八十四歳に候。
兄九郎兵衛一友は景一が嫡子にして、父に付きて豊前へ参り、慶長十七年三斎公に召し出され、御次勤仰せ付けられ、のち病気により外様勤と相成り候。妙解院殿の御代に至り、寛永十四年冬島原攻めの御供いたし、翌十五年二月二十七日兼田弥一右衛門と共に、御当家攻め口の一番乗りと名のり、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義心英立居士と申し候。
某は文禄三年景一が次男に生まれ、幼名才助と申し候。七歳の時父に付きて豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召し出され候。元和七年三斎公致仕遊ばされ候時、父も剃髪いたし候えば、某二十八歳に弥五右衛門景吉と名のり、三斎公の御供いたし候て、豊前国興津に参り候。
寛永元年五月安南船長崎に到着候時、三斎公は御薙髪遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事に御用いなされ候珍しき品買い求め候よう仰せ含められ、相役横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸いなる事には異なる伽羅の大木渡来いたし居り候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差し下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望みを掛け互いにせり合い、次第に値段を付け上げ候。
その時横田申し候は、たとい主命なりとも、香木は無用の翫物に之れあり、過分の大金を擲ち候事は然るべからず、所詮本木を伊達家に譲り、末木を買い求めたき由申し候。某申し候は、某はさようには存じ申さず、主君の申し付けられ候は、珍しき品を買い求め参れとの事なるに、このたび渡来候品の中にて、第一の珍物はかの伽羅に之れあり、その木に本末あれば、本木の方が尤物中の尤物たること勿論なり、それを手に入れてこそ主命を果たすに当たるべけれ、伊達家の伊達を増長いたさせ、本木を譲り候ては、細川家の流れを[涜]す事と相成り申すべくと申し候。横田嘲笑いて、それは力こぶの入れ所が相違せり、一国一城を取るかやるかと申す場合ならば、あくまで伊達家に楯をつくがよろしからん、たかが四畳半の炉にくべらるる木の切れならずや、それに大金を捨てんこと存じも寄らず、主君御自身にてせり合われ候わば、臣下として諫め止め申すべき儀なり、たとい主君が強いて本木を手に入れたく思召されんとも、それを遂げさせ申す事、阿諛便佞の所為なるべしと申し候。当時三十一歳の某、このことばを聞きて立腹いたし候えども、なお忍んで申し候は、それはいかにも賢人らしき申し条なり、さりながら某はただ主命と申す物が大切なるにて、主君あの城を落とせと仰せられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍しき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖(もと)り候事は格別、その事柄に立ち入り候批判がましき儀は無用なりと申し候。
横田いよいよ嘲笑いて、お手前とてもその通り道に悖りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具などならば、大金に代うとも惜しからじ、香木に不相応なる価を出さんとせらるるは若輩の心得違いなりと申し候。某申し候は、武具と香木との相違は某若輩ながら心得おる、泰勝院殿の御代に、蒲生殿申され候は、細川家には結構なる御道具許多(あまた)之れ有る由なれば拝見に罷り出づべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候に、泰勝院殿は甲冑刀剣弓槍の類を陳ねてお見せなされ、蒲生殿意外に思されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見いたしたく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先には道具と仰せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば、それも少々持ち合わせ候とて、始めて御取り出しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心がけ深くおわしまし、旁(かたがた)歌道茶事までも堪能にわたらせらるるが、天下に比類なきところならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀もすべて虚礼なるべし、我れらこのたび仰せを受けたるは茶事に御用に立つべき珍しき品を求むるほか他事なし、これが主命ならば、身命にかけても果たさでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候は、その道のお心得なき故、一徹にさよう思わるるならんと申し候。横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛けに掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合わせ、ただ一打ちに横田を討ち果たし候。
かくて某は即時に伽羅の本木を買い取り、仲津へ持ち帰り候。伊達家の役人はぜひなく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申し候は、主命大切と心得候ためとは申しながら、御役に立つべき侍一人討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹仰せ付けられたくと申し候。三斎公聞召され、某に仰せられ候は其方が申し条一々尤至極せり、たとい香木は貴からずとも、此方が求め参れと申し付けたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、すべて功利の念をもって物を見候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてや其方が持ち帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞くたびに珍しければ郭公(ほととぎす)いつも初音のここちこそすれ」と申す古歌にもとづき、銘を初音とつけたり、かほどの品を求め帰り候事あっぱれなり、但し討たれ候横田清兵衛が子孫遺恨を含み居ては相成らずと仰せられ候。かくて直ちに清兵衛が嫡子を召され、御前において杯を申し付けられ、某は彼者と互いに意趣を存ずまじき旨誓言いたし候。然るに横田家の者どもとかく異志を存する由相聞こえ、ついに筑前国へ罷越し候。某へは三斎公御名忠興の興の字を賜わり、沖津を興津と相改め候よう御沙汰之れあり候。
これより二年目、寛永三年九月六日主上二条の御城へ御幸遊ばされ妙解院殿へかの名香を御所望之れあり即ち之れを献ぜらる、主上叡感有りて「たぐひありとたれかはいはむ末ににほふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と名づけさせ給う由承り候。某が買い求め候香木、畏くも至尊の御褒美を被り、御当家の誉れと相成り候事、存じ寄らざる儀と存じ、落涙候事に候。
その後某は御先代妙解院殿よりも出格の御引き立てを蒙り、寛永九年御国替のみぎりには、三斎公の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ召し具せられ候。然るところ寛永一四年島原征伐の事之れあり候。某をば妙解院殿御弟君中務少輔殿立孝公の御旗下に加えられ御幟を御預けなされ候。十五年二月二十二日御当家御攻め口にて、御幟を一番に入れ候時、銃丸左の股にあたり、ようよう引き取り候。その時某四十五歳に候。手傷平癒候て後、某は十六年に江戸詰め仰せ付けられ候。
寛永十八年妙解院殿存じ寄らざる御病気にて、御父上に先き立ち、御卒去遊ばされ、当代肥後守殿光尚公の御代と相成り候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより先寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城において御薨去なされ候。かの末木の香は「世の中のうきを身に積む柴舟やたかぬ先よりこがれ行くらん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。
某つらつら先考御当家に仕え奉り候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引き立てを蒙りしは言うもさらなり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。
先年妙解院殿御卒去のみぎりには、十九人の者ども殉死いたし、また一昨年松向寺殿御卒去のみぎりにも、簑田平七正元、小野伝兵衛友次、久野与右衛門宗直、宝泉院勝延行者の四人直ちに殉死いたし候。簑田は曾祖父和泉と申す者相良遠江守殿の家老にて、主と共に陣亡し、祖父若狭、父牛之助流浪せしに、平七は三斎公に五百石にて召し出されしものに候。平七は二十三歳にて切腹し、小姓磯部長五郎介錯いたし候。小野は丹後国にて祖父今安太郎左衛門の代に召し出されしものなるが、父田中甚左衛門御旨に忤(さか)い、江戸御邸より逐電したる時、御近習を勤め居たる伝兵衛に、父を尋ね出して参れ、もし尋ね出さずして帰り候わば、父の代わりに処刑いたすべしと仰せられ、伝兵衛諸国を遍歴せしに廻り合わざる趣にて罷り帰り候。三斎公その時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと仰せらせ候て、助命遊ばされ候。伝兵衛はこの恩義を思い候て、切腹いたし候。介錯は磯田十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺御籠城の時功ありて、新知百五十石賜わり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹の山伏にて、筒井順慶の弟石井備後守吉村が子に候。介錯は入魂の山伏の由に候。
某はこれらの事を見聞き候につけ、いかにもうらやましく技癢に堪えず候えども、江戸詰め御留守居の御用残り居り、他人には始末相成りがたく、むなしく月日の立つに任せ候。然るところ松向寺殿御遺骸は八代なる泰勝院にて荼[毘]せられしに、御遺言により、去年正月十一日泰勝院専誉御遺骨を京都へ護送いたし候。御供には長岡河内景則、加来作左衛門家次、山田三右衛門、佐方源左衛門秀信、吉田兼庵相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺中高桐院に御納骨いたし候。御生前において同寺清巌和尚に御約束之れあり候趣に候。
さて今年御用相片付き候えば、御当代に宿望言上いたし候に、已みがたき某が志を御聞き届け遊ばされ候。十月二十九日朝御暇乞に参り、御振舞に預かり、御手づから御茶を下され、引出物として九曜の紋赤裏の小袖二襲を賜わり候。退出候のち、林外記殿、藤崎作左衛門殿を御使いとして遣され後々の事心配いたすまじき旨仰せられ、御歌を下され、また京都に参らば、万事古橋小左衛門と相談して執り行なえと懇(ねんごろ)に仰せられ候。そのほか堀田加賀守殿、稲葉能登守殿も御歌を下され候。十一月二日江戸出立の時は、御当代の御使いとして田中左兵衛殿品川まで見送られ候。
当地に着候てよりは、当家の主人たる弟又次郎の世話に相成り候。ついては某相果て候のち、短刀を記念に遣し候。
餞別として詩歌を贈られ候人々は烏丸大納言資慶卿、裏松宰相資清卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都興福寺の長老たちに候。
明日切腹候場所は、古橋殿取り計らいにて、船岡山の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁筵三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆い之れあり候由に候。いかにも晴れがましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非無く候。立ち会いは御当代の御名代谷内蔵之允殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も臨場せられ候。倅(せがれ)才右衛門も参るべく候。介錯はかねて乃美市郎兵衛勝嘉殿に頼みおき候。
某法名は孤峰不白と自選いたし候。身不肖ながら見苦しき最期もいたすまじく存じ居り候。
この遺書は倅才右衛門あてにいたしおき候えば、子々孫々相伝え、某が志を継ぎ、御当家に対し奉り、忠誠を擢(ぬき)んずべく候。
正保四年丁亥十二月朔日
興津弥五右衛門景吉華押  
     興津才右衛門殿
正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山のふもとに建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。後ろに立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声をかけた。白無垢の上から腹を三文字に切った。乃美は項(うなじ)を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と言った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。 仮屋の周囲には京都の老若男女が堵のごとくに集まって見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井にあげおきつやごゑを掛けて追腹を切る」というのがあった。
興津家の系図は大略左のとおりである。
○右兵衛景通→弥五右衛門景一→
  |→九郎兵衛一友
  |→○弥五右衛門景吉→才右衛門一貞→弥五右衛門→弥忠太→(2)
  |        →(2)九郎次→九郎兵衛→栄喜→才右衛門→弥五右衛門
  |→作太夫景行→弥五太夫
  |→四郎右衛門景時→四郎兵衛→作右衛門→登→四郎右衛門→(3)
  |        →(3)宇平太→順次→熊喜→登
  |→八助、後宗春
  |→又次郎→市郎左衛門
弥五右衛門景吉の嫡子才右衛門一貞は知行二百石を給わって、鉄砲三十挺頭まで勤めたが、宝永元年に病死した。右兵衛景通から四代目である。五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文四年に病死した。六世弥忠太は番方を勤め、宝暦六年に致仕した。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。八世九郎兵衛は養子で、番方を勤め、文化元年に病死した。九世栄喜は養子で、番方を勤め、文政九年に病死した。十世弥忠太は栄喜の嫡子で、のち才右衛門と改名し、番方を勤め、万延元年に病死した。十一世弥五右衛門は才右衛門の二男で、のち宗也と改名し、犬追物がじょうずであった。明治三年に番士にせられていた。
弥五右衛門景吉の父景一には男子が六人あって、長男が九郎兵衛一友で、二男が景吉であった。三男半三郎はのち作太夫景行と名のっていたが、慶安五年に病死した。その子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太はのち四郎右衛門景時と名のった。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると言って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国亀山に行って、本多下総守俊次に仕えた。次いで坂下、関、亀山三か所の奉行にせられた。寛永十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利と黒田右衛門佐光之とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三か所の人馬を買い締めて、山の中に隠しておいた。さて綱利の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利は土山水口の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、のちに江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持二十石を給わって、中小姓組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子登は越中守宣紀に任用せられ、役料とも七百石を給わって、越中守宗孝の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。登の子四郎右衛門は物奉行を勤めているうちに、寛延三年に旨に忤(さか)って知行宅地を没収せられた。その子右平太は始め越中守重賢の給仕を勤め、後に中務太夫治年の近習になって、擬作高百五十石を給わった。次いで物頭列にせられて紀姫付になった。文化二年に致仕した。右平太の嫡子順次は軍学、射術に長じていたが、文化五年に病死した。順次の養子熊喜は実は山野勘左衛門の三男で、合力米二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎はのち四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷つけて、行歩不自由になった。宗春と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国の佐野官十郎の孫一郎左衛門を養子にした。  
「興津弥五右衛門の遺書」
森鴎外の晩年を飾る一連の歴史小説のさきがけともなった「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の明治天皇への殉死を直接のきっかけとして書かれたものである。この殉死については、鴎外は日記の中で次のように記している。
大正元年九月十三日、晴、轜車に扈随して宮城より青山に至る、午後八時宮城を発し、十一時青山に至る、翌日午後二時青山を出でて帰る、途上乃木希典夫妻の死を説くものあり、予半信半疑す
十五日、雨、午後乃木の納棺式に臨む
十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す
鴎外は明治天皇の棺を載せた車に従って青山の斎場に行き、深夜家に帰る途上、乃木希典殉死の噂を聞いて半信半疑になった。しかしそのうわさが真実であったことがわかり、愕然としたのだった。乃木の納棺式に臨んだ上、十八日には告別式に参列し、そしてその告別式の催された当の日に、「興津弥五右衛門の遺書」を中央公論史上に寄せているのである。
鴎外が五日という短い間に、乃木の殉死をテーマにした文を草したのは、どういう事情によってなのか、さまざまな臆説がなされている。単に中央公論社から感想を求められたのに対して応えたのだという、割り切った見方もある。
だが鴎外には、乃木希典の殉死が、当時の日本人に忘れかけられていた、ある尊い感情を思い起こさせたのではなかったか。当時の一般の論調は、乃木に同情するものもあったが、否定的な見方をするものが、大新聞をはじめ多かった。中には、乃木は発狂したのだとか、別の事情があって自殺したのだといった解釈まで横行した。鴎外はそうした論調を眼にするたびに、忘れられつつある古来の美徳が、改めて足蹴にされるのを見るようで、腹立たしくなったのではないか。
この作品は、熊本藩で起きた古い殉死事件について、本人の遺書という形をとって、その経緯や意味するところを、鴎外なりに再構成したものであるが、それは鴎外が乃木にかわって、殉死の真理を弁蔬したものといえるのである。
今日鴎外の全集類に載っているものは、殆どが後になって手を加えた再稿版であるが、初版の文は、この弁蔬という色彩が非常に強いものであった。
この文は、まず死後の名聞のために遺書をしたためておくのだという言葉から始まり、主君忠興の13回忌に当たって忠孝を尽くすために死ぬのであること、その忠孝は生前に忠興から賜った恩義からすれば当然の義なのであり、自分はこれまで延引して果たせなかった主君への殉死をこうして晴れやかになすのだと、宣言することで終っている。
興津弥五右衛門自身の弁蔬という形をとった文であるから、そこには鴎外自身の意見はあからさまには出ていないが、この文が鴎外の乃木の殉死に対する弁蔬となっていることは明らかである。つまり乃木は世間で言われているように、自分の事情によって死んだのではなく、明治天皇への忠孝のあかしとして殉死したのであると、鴎外はいっているのである。
鴎外はこのように、乃木の殉死を美化することによって、封建道徳の水準に己を立たせたのだろうか。
鴎外はこの文を、京都町奉行所与力神沢貞観の著「翁草」によって書いた。翁草は忠興と弥五右衛門との主従関係について触れた後に、弥五右衛門が忠興の三回忌にあたって、船岡山の西麓で潔く殉死したということを簡単に書いているに過ぎない。鴎外はこれを遺書の形に書き換えるに際し、弥五右衛門の忠孝とその結果としての殉死の必然性を強調したのであった。
だが何故殉死が弥五右衛門にとって必然となり、それが人倫に照らして賞賛すべきものとなるのか、その辺の事情については、遺書という形式の制約上必ずしも明らかにはなっていない。鴎外はただ、この文を通じて、乃木の殉死の持つ意味を、世間に投げかけてみたといえるのかもしれない。
この作品を書いたことで鴎外は殉死というものについて、改めて考察を加え、その結果を「阿部一族」という作品に投入した。阿部一族については稿を改めて述べたいが、鴎外はそこで、殉死にはただに忠孝という側面のみではなく、打算的な部分もあるのだということに気づいた。そこから殉死をめぐって複雑な議論を展開するようにもなる。
鴎外は、阿部一族を書き上げた後で、「興津弥五右衛門の遺書」をほぼ全面的に書き換えた。初版をいろどっていた弁蔬の色彩はやや後退し、殉死に向きあう弥五右衛門の思いを、淡々と述べさせている。鴎外自身の言葉をそこに介在させ、物語に脚色を加えることもしていない。弥五右衛門の子孫たちのその後について、簡単に触れているのみである。
こうした執筆の経緯をたどってみると、殉死という問題について、鴎外がいかに複雑な感情をもっていたか、伺われよう。
ともあれ、この作品が、殉死という古い封建的な行為に改めて光を当てたことは間違いない。しかし、鴎外がそこでとまっていたとしたら、大した文学的な意味は持ち得なかっただろう。鴎外は殉死を突き詰めて考えていくうち、そこに単なる義理や忠孝を超えた、もっと大事な人間の感情が介在しているのではないかと考えるようになった。
「阿部一族」以降に現れる一連の歴史小説は、こうした人間の普遍的感情とは何か、それに答えていくための、営為であったともいえる。  
「阿部一族」
簡浄を努めなければならない、という。晩年の鴎外が自身に戒めた文体のことである。
鴎外が「簡浄の文」を書くようになったのは、乃木大将が夫人とともに自害してからのことだった。50歳になっていた。それまでの鴎外も加飾を好む人ではなかったが、明治天皇を追って乃木希典が殉死を決行してから突然に書きはじめた歴史小説あるいは史伝の連打では、まるであらかじめこの時を待っていたかのように、簡浄要訣な文体が敢然として選ばれ、結露した。
最初は「興津弥五右衛門の遺書」である。明治45年の9月に乃木夫妻が殉死して、翌月に発表した。「午後乃木希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す」と日記にある。
作品はまさに遺書になっている。「それがし儀、明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿御墓前において首尾よく切腹いたし候ことと相成り候」というふうに始まる。明日切腹をする者が後世の者のために、一筆経緯を認(したた)めた。
その経緯というのが変わっていて、主君の細川三斎忠興に「名物を入手して参れ」と言われて、家来の弥五右衛門が同輩の横田某と長崎に赴き、そこで伽羅の大木に出会った。ところがこれを求めようとする者に伊達政宗の家来がいた。伊達家は本木のほうを所望していて、そうなると細川家は末木(うらき)になってしまう。
そこで弥五右衛門はなんとか本木を入手しようとするのだが、横田はそんなことは阿諛便佞(あゆべんねい)であると言う。しかも国家の大事ではない。たかが茶事のことではないか。自分は一徹なる武辺者で、そういうことは理解できない。お前がそれほど本木を買いたいというなら表芸(武芸)を見せろと言って、脇差を投げ付けた。弥五右衛門はこれをサッとかわして、違い棚に掛けてあった刀をもって横田を斬り倒してしまった。
「老耄したるか、乱心したるか」と、のちに鴎外が何度も採りあげることになる場面のひとつである。
弥五右衛門は、あの城を落とせと言われれば鉄壁であろうと乗っ取りにかかり、あの首を取れと言われればそれが鬼神であろうとも討ち果たし、珍しき品を求め参れと言われれば、この上なきものの入手に身命をかけるのは、それが主君の命令ならば当然という考え方なのである。
しかし相役(あいやく)を切り捨てた以上は、その責任は免れない。そこで弥五右衛門は主君忠興に切腹を申し出るのだが、許可がない。むしろお前の行為の意味の「あっぱれ」を通して家門に伝えよと言われる。こうして伽羅の本木は「初音」の銘を付けられ、弥五右衛門は主君に重用され、横田との遺族との遺恨も残さぬように申し付けられる。
やがて忠興の三男忠利が卒去すると家来19人が殉死した。ついで忠興の卒去のみぎりにも殉死者が相次いだ。しかし弥五右衛門は殉死はできない。いったい殉死できた者が「あっぱれ」なのか、残った者が「あっぱれ」なのか。
主君の十三回忌がやってきた。弥五右衛門はついにこの日が来たと決意して、身辺を整え、明日は船岡山の下に仮屋を設け、畳一枚に白布を覆ってそこで果てようと覚悟した。介錯は乃美市郎兵衛に頼んだ。あとは明日を待つばかり。そういう遺書である。
鴎外はこの遺書の紹介のあとに、弥五右衛門が当日になって「頼む」と声をかけ、白無垢の上から腹を三文字に切ったこと、乃美の介錯は頂(うなじ)を一刀裂いたものの深さが足りず、弥五右衛門は一声「喉笛を刺されい」と放ったが、そのまま絶命したこと、仮屋には京童の老若男女が見守って、そのなかの落首に「比類なき名をば雲井に揚げおきつやごえを掛けて追腹を切る」の一首があったことだけを、書き加えている。
これらをただ事実を紹介するように、淡々と書く。しかし鴎外こそは、これでみごとに転身を果たしたのである。はっきりいうなら過去の鴎外を切腹させたのだ。
鴎外の作品は、なんといっても晩年である。とくに「遺書」から始まった史伝もの、「阿部一族」「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」が群を抜いている。
ぼくは最初に「阿部一族」を読んだのだが、これが鴎外だったのかというほどの衝撃をうけた。頭(こうべ)が垂れたというより、頭(こうべ)が落ちた。
歴史小説といっても、鴎外は史伝や稗史を書いたのではない。人間を克明に記録していけばそこにいったい何が出現してくるのか、その問いを書いた。ただし問の文句は決して書かなかった。
鴎外はそもそもが軍人であって医者なのである。22歳で軍医学調査のためにドイツに入り、26歳では陸軍大学校の教官となり、日清戦争直前の31歳のときには軍医学校長になっている。医学論文の量は夥しく、クラウゼヴィッツの「戦争論」を講義すれば右に出る者などいなかった。
その精緻な観察力と分析力をもって、それを「文章」という処方に徹すれば、それが歴史に埋もれた一介の人物のことであればあるほどに、そこに人間の歴史的症状の本質が次々に“斑紋”のごとく浮かび出てくるはずだった。なんといっても医学は一介の名もない患者からこそ、後世に寄与する症例とその処置とその意味を出現させてきたものだ。鴎外にはいつもこのような“医事の眼”のようなものが付き纏う。
その鴎外が木下杢太郎や吉井勇たちが「昴」(スバル)を創刊した明治42年のときは、一方では文学博士の学位をうけ、他方では「ヰタ・セクスアリス」を書いた。47歳であった。
これは作品というよりも、作品の体裁を借りた鴎外自身のための処方箋である。切腹しきれない鴎外が解毒剤を呑んだか浣腸をしたかのようなところがある。何を書いたかというと、鴎外の分身とおぼしい金井滋(しずか)君のことを書いた。
金井君は哲学を職業としているものの、まだ何も書いていない学徒である。大学を出るときはブッダ以前の六師外道とソクラテス以前の哲学との比較をしていたが、その後は哲学書よりも小説など書いてみたいと思っている。
そこへ夏目金之助君が小説を発表し、田山花袋君らの自然主義文学が興ってきた。読めば必ず性欲的描写が出てくる。ゾラやスタンダールもそういう場面を描いていた。しかし金井君はそれらに較べて自身の性欲があまりに冷澹でフリジディタス(性的不感症)なのではないかと疑う。
あるときオーストリアの審美学の本を読んでいたら、あらゆる芸術はリーブスヴェルブング(求愛)の所産であって、サディズムもマソヒズムもその変形にすぎないと書いてある。医学書を読むと、性教育の必要が問うてある。それが欠ければ人間性に偏向がおこるという勢いだ。金井君はそれならばと発起して、むしろ哲学や研究をするより自身の性的なるものを振り返って記述するべきではないかと思った。 
このように「ヰタ・セクスアリス」は始まって、以下が金井君のカミングアウト、すなわち鴎外自身の告白になった。いま読めばとても春情を催す手のものではないが、「昴」に発表されたときはすぐに発禁になっている。
ともかく鴎外はそこまで自身に踏み込み、自分を曝してみたわけだったのだが、しかしこれほどの下剤的告白をもっても、乃木夫妻の殉死の「寡黙な一撃」の前ではすべてが色褪せた。
ここにおいて鴎外はついに愕然として悟ったのである。大転換を遂げることにしたのだ。「興津弥五右衛門の遺書」は、それまでの鴎外への決別だったというべきなのである。
かくして鴎外は、「遺書」の翌年に「阿部一族」を書く。またまた殉死を扱ったばかりでなく、「遺書」に登場した三代藩主細川忠利の死と四代光尚の代替わりの“あいだ”を凝視した。
当時の殉死は「亡君許可制」であるにもかかわらず、許可なく追腹を切った者も、結果としては武家社会の誉れとして同格に扱われた。この「制度」と「生き方」が組み合っておこす矛盾や溝を原因に、さまざまな悲劇がおこる。鴎外はそこに着目する。
たとえば、主君に願い出て殉死を許された者はよいが、主君の許可が出ず、やむなく日々のことに従事している者には、「おめおめと生きながらえている」「命を惜しんでいる」という評が立った。鴎外自身も自分の「おめおめ」が一番嫌いだったのだが、「阿部一族」の阿部弥一右衛門も、この「命を惜しんでいる者」とみなされた一族の長だった。しかし、どうすれば弥一右衛門は「あっぱれ」に組み入ることができるのか。
出来事は二段、三段、四段に深まっている。鴎外がそのような段取りを作ったのではなく、事実、そういう出来事が続いた。そこを鴎外が「簡浄の文」をもって抜いてみせた。ざっとは、次のような出来事が連続しておこったのである。
主君の忠利が卒去した。その日から殉死者が十余人出た。荼毘に付された日には忠利が飼っていた二羽の鷹が空を舞っていたが、人々が見守るなか、その鷹が二羽とも桜の下の井戸にあっというまに飛び込んだ。
中陰がすぎても殉死はぽつぽつあった。17歳の内藤長十郎はかねて主君の夜のお供として病いに罹った主君の足など揉んでいたのだが、あるとき死期の近づく主君に、そのときは殉死する覚悟なのでお許し願いたい旨をおそるおそる申し出た。許可はなかったので長十郎は家来のいる折、主君の足を揉むままにその足を額に当て、再度の追腹の許可を願った。主君は軽く二度頷いた。
長十郎は嫁をもらったばかりであったが、母に殉死の覚悟を伝えると、少しも驚かず嫁に支度をさせなさいとだけ言った。長十郎は菩提所東光院にて腹を切った。
結局、この長十郎を加えて18人の殉死者が出た。しかし弥一右衛門はそれまで主君を諌める言動をしていたせいか、忠利にはその存在が煙たく、「どうか光尚に奉公してくれい」と言うばかり、いっこうに殉死の許可をもらえない。煙たいから死んでよいというのではない。煙たい奴には武士の本懐の死などを下賜できないということなのだ。
18人の殉死者が出てしばらくして、「阿部はお許しがないのをさいわいに、おめおめ生きるつもりであるらしい。瓢箪に油を塗って切りでもすればいい」という噂が立った。
憤然とした弥一右衛門は家の門を集めて、自分はこれから瓢箪に油を塗って切るから見届けられたいと言うと、子供たちの前で腹を切り、さらに自分で首筋を左から右に貫いて絶命した。子供たちは悲しくはあったが、これで重荷を下ろしたような気がした。
ところが、である。城内では誰も弥一右衛門の覚悟の死を褒めないばかりか、残された遺族への沙汰には「仕打ち」のようなものがあった。
寛永19年3月、先代の一周忌がやってきた。父の死が報われていないことを知った子の権兵衛は、焼香の順番がきて先代の位牌の前に進み出たときに、脇差の小柄を抜いて自身の髻(もととり)を押し切って仏前に供えた。家来が慌てて駆け寄り、権兵衛を取り押さえて別室に連れていくと、権兵衛は「父は乱心したのではない、このままでは阿部の面目が立たない、もはや武士を捨てるつもりだ、お咎めはいくらでも受ける」と言った。
新しい藩主光尚はこれをまたまた不快におもい、権兵衛を押籠めにした。一族は協議のうえ、法事に下向していた大徳寺の天祐に頼んで処置を頼むのだが、権兵衛は死罪との御沙汰、ではせめて武士らしく切腹をと願い出るのだが、これも聞き入れられず、白昼の縛首となって果てた。
こうして阿部一族が立て籠もることになった。藩内では討手が組まれ、表門は竹内数馬が指揮をする。
阿部一族のほうでは討手の襲撃を知って、次男の弥五兵衛を中心に邸内をくまなく掃除し、見苦しいものはことごとく焼き捨て、全員で密かに酒宴を開いたのち、老人や女たちはみずから自害し、幼いものたちは手ん手に刺しあった。残ったのは屈強の武士たちばかりとなった。
阿部一族が立て籠もった山崎の屋敷の隣に、柄本又七郎という人物がいた。弥五兵衛とは槍を習い嗜(たし)みあう仲だった。又七郎は弥五兵衛一族の「否運」に心痛していた。そこで女房を遣わせて陣中見舞をさせた。一族はこれを忝けなくおもい、「情」(なさけ)を感じる。しかし又七郎は、「情」と「義」とは異なることも知っていた。ここは「義」を採って討手に加わるべきだと決意する。そのために阿部屋敷の竹垣の結縄を切ることにした。
一方、討手の竹内数馬はこの討伐をもって討死するつもりであった。それまで近習として何の功績をあげていないのを、ここで主君の御恩を果たしきるつもりだったのである。そこで前夜、数馬は行水をつかい月代(さかやき)を剃り、髪には先代を偲んで「初音」を焚きしめた。白無垢白襷白鉢巻をして、肩に合印の角取紙を、腰に二尺四寸五分の正盛を差し、草鞋の緒を男結びにすると、余った緒を小刀で切って捨て、すべての準備を整えた。
卯の花が真っ白く咲く払暁である。怒涛のような戦闘が始まった。弥五兵衛は早々に又七郎と槍を交えたのだが、ちょっと待ていと言って奥に下がって、切腹した。
切腹できたのは弥五兵衛一人、そのほかの者はことごとく討死であった。数馬も討死である。
かくて阿部一族は消滅した。又七郎は傷が癒えたのち光尚に拝謁し、鉄砲十挺と屋敷地を下賜され、その裏の薮山もどうかと言われたが、これを断った。
阿部一族の死骸はすべて引き出されて吟味にかけられた。又七郎の槍に胸板を貫かれた弥五兵衛の傷は、誰の傷よりも立派だったので、又七郎はいよいよ面目を施した。
以上が鴎外の記した顛末である。いくら「お家大事」の江戸初期寛永の世の中とはいえ、異常きわまりない話である。いったいどこに「価値」の基準があるかはまったくわからない。
たしかに「建前」はいくらもあるが、それとともに人間として家臣としての「本音」もあって、それがしかも「建前」の中で徹底されていく。「情」と「義」も、つぶさに点検してみると、どこかで激突し、矛盾しあっている。どこに「あっぱれ」があるかもわからない。鴎外は「遺書」や「阿部一族」をまとめて「意地」という作品集に入れるのであるが、その「意地」とは、いつ発揮されるかによってまったく印象の異なるものだった。
しかし鴎外はそのような史実の連鎖にのみまさに目を注いだのである。もし意地や面目というものがあったとしたら、それは乃木大将のごとく最後の最後になって何かを表明すべきものもあったのである。
鴎外も「鴎外最後の謎」とよばれるものを作った。自分の墓には森鴎外という文字を入れてはならない、ただ森林太郎と残してほしいと遺言したことである。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と。
こうした決意を鴎外がどこでしたのかは明確になっていないけれど、ぼくはあきらかに明治が瓦解していったときのこと、すなわち「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」のあたりだったと思っている。
鴎外は、このあとにも「大塩平八郎」「堺事件」「栗山大膳」「高瀬舟」「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」と書き継いで、いずれも非の打ち所がないほどに「無欠」の作品を発表できた。
これらの作品には、鴎外が付け加えるべき感情の表現など、ほとんど施されてはいない。これはすでに森鴎外が森鴎外を欲する必要がなくなっていたことを意味していたにちがいない。実際にも「北条霞亭」を書いたまま、鴎外は大正11年に60歳で“森林太郎”として死んでいった。  
 
殉死 2

 

乃木希典は土地にくわしいとの推測で旅順の任についた
なにぷん、在来の作戦計画には旅順要塞の攻撃という要素が入っていないため、参謀たちのこの点の知識は白紙に近く、その要塞内容に関する諜報も入っていない。それに秘密主義の徹底したロシア軍は旅順については厳重に緘口してきており、外国武官もそれについての知識がなく、日本の在欧駐在武官をしてそれを間接的に聞きこませるという手もなかった。
それに日本陸軍は近代要塞を攻撃したという経験がなく、知識にもとぼしい。その知識は、在来不要であった。ロシアが南満州を占領するまでは、日本は支却を仮想敵国として作戦計画をたてておればそれで済んだからである。事実、日活戦争のときには、日本陸軍は旅順の存在には触れた。この港は清帝国の北洋艦隊の根拠地であり、その港の周囲には清国は清国なりに多少の支那式砲台を築いていた。この要塞ともいいがたい防衛陣地を、当時の第一師団は一日で陥してしまっている。そのときの土佐藩出身山地元治中将指揮下の旅団長が、少将時代の乃木希典であった。
「乃木は旅順を知っている。乃木がよかろう」という人選の発想はそういうところにある。乃木中将は旅順という土地の案内にくわしい、ということであり、この近代戦のなかで最も困難な課目とされている要塞攻略の権威であるということではない。このような評価で人選されたことも、乃木にとって不幸であった。
現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が八年の歳月とセメント二十万棒をつかってつくりあげた永久要塞で、すべてベトン(コンクリート)をもって練り固め、地下に無数の客室をもち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それら室と室とを地下道をもって連結している。たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても山の土砂をむなしく吹きあげるのみですこしの効果もない。
これについて参謀本部はどの程度知っていたか、いまとなってはわからない。
すこしも知らなかったということが定説になっているが、そうであろうか。日清戦争後、日本の参謀本部の仮想敵国はロシアになっており、ロシア研究については貧困であったとは思えない。たとえ旅順関係の情報を一片も持っていなくても、ロシア陸軍の規模、予算、思考癖、行動僻というのは十分わかっているであろう。ロシアの極東における帝国主義が旅順港をもっとも重視していることも明白であり、彼がこの旅順を得てから八年になるのである。右の基礎条件から考え、旅順がいまどういう現状になっているかということぐらいは、想像力さえあれば素人でも想像できるであろう。その程度の想像力も参謀本部になかったということは、どうにも考えられない。
が、現実の参謀本部にあっては、開戦早々のころ、田中義一、大庭二郎などの少佐参謀他がこの問題について意見書を出したとき、「旅順の兵備はなお薄弱である」という文章を書いており、この点からみると、かれらは事実無智なようでもある。 
乃木の最初の不運は旅順軽視論者を参謀長と副参謀長にしたこと
伊地知は参謀本部の第一部長であったりして、対露作戦計画の事実上の担当者の一人であった。これほどの重職者を、大本営がみずからの不便を忍んで乃木のもとにつけたというのは、好意といえば好意であり、−伊地知なら大丈夫。
という大本営の安堵もそこから出たのであろう。しかし伊地知がそれほどの謀将であるのかどうか、よくわからない。
旅順要塞の攻略を海軍が要請した、ということは、さきに述べた。この大本営会議で海軍側が、「海軍重砲隊を協力せしめましょう」と、提議した。海軍砲は口径も大きく、その貫徹能力も大きいため、当然陸軍としてはこの申し出を受けるのが得策であろう。これについては砲兵科の出身であり、かつて参謀本部の第一部長でもあった伊地知幸介が答えねばならない。
「その必要もなかろう」と、伊地知は−かれだけでなく、参謀本部の課長たちも−はねつけている。海軍の応援をうけたということでは陸軍の沽券にもかかわる。それに旅順要塞は「日活戦争のときであの程度であったが、いまは当時と多少違うにしても陸軍の手だけで十分である」といった。伊地知はその参謀副長として自分の参謀本部時代の旧部下であった大庭二郎中佐をひきぬいて同行することにしたが、この大庭は少佐参謀のころに「旅順の敵配備は手薄である」という旨の説をたてた人物であり、これはさきに述べた。
要するに乃木の最初の不運は、名だたる旅順軽視論者をその参謀長と副参謀長にしたことであろう。
ちなみに、日本陸軍の慣習は、司令官の能力を棚上げにするところにある。作戦のほとんどは参謀長が立案し、推進してゆき、司令官は統制の象徴であるという役割のほか、作戦の最終責任をとる存在であるにすぎない。 
国内線の慣習である降伏の勧告したことがロシアの士気と団結を高めた
参謀長伊地知幸介は、この総攻撃開始までのあいだに、いまひとつ劇的な手を打った。敵の旅順要塞司令官アナトーリィ・ミハイーロウィッチ・ステッセルに対し、戦わざる前に降伏を勧告したことであった。この突如の勧告に、ステッセルはおどろいたことであろう。
由来、日本人の慣例として−おもに戦国時代の−敵城の包囲を完了したとき、なんらかの方法で降伏を勧告する。日本戦史は単一民族のあいだにおこなわれた国内戦であり、それだけに敵味方とも何等かの縁故で結ばれていることが多く、降伏勧告もその点で無意味ではなかった。第一、城(要塞)とは防衛上の殺人機関であり、これに正面から攻めかかるのは人命を必要以上に損耗するため、できるだけ外交と謀略をもっておとすほうがいい。その意味で伝承されつづけてきた国内戦の城攻め慣習−非戦降伏の勧告−を、他国家の、異教徒の要塞に用いるというのはどういうことであろう。西洋の場合は敵が傷つき、ついに戦力の大半をつかいはたしたとき、とどめを刺す以前に降伏を勧告するのが通例であり、ステッセルもロシア人である以上、その常識しか知らない。
第三軍司令部から派遣された降伏勧告使は陸軍砲兵少佐山岡熊治であった。しかしながらステッセルはこれをきびしくはねつけた。だけでなく、この勧降は旅順要塞における四万四千のロシア将兵の戦意を沸騰させ、逆にかれらの士気と団結を高めしめる結果になった。 
全権が児玉に移ることで旅順攻撃が一変する
その夜、児玉と乃木とは、右の穴のなかにもぐりこんで語り合った。広さは畳二帖ほどしかなく、そこにアンベラと毛布を敷きつめ、小さな机を置き、頭上からカンテラを垂らした。この装置に児玉は満足し、「これでやっと水入らずだ」と、乃木にいった。乃木の生涯と日本の運命にとってもっとも重要な、もっとも言いづらいことを児玉はこの装置のなかでいわねばならない。
−このおれに、第三軍指揮の全権をまかせよ。
ということであった。もし乃木がことわるならば、児玉は大山巌の密書をとりだし即座に乃木を馘首して自分が第三軍の司令官代理にならねばならなかった。児玉はその癖で栗鼠のように小首をかしげ、何度も乃木の顔をのぞきみつつ、「どうだろう」といったであろう。その情景は推測するほかなく、ついに両人とも墓場へゆくまでこれについてはロを閉ざした。ただ明白なことは児玉が多くの言葉を費やすまでに乃木が児玉の提案を受け入れたことであった。この瞬間以後、旅順攻略の指揮権は陸軍大将男爵児玉源太郎に移り、乃木はそのおもてむきの表徴となり、伊地知参謀長以下はその作戦機能を停止させられたことになる。
この児玉と乃木の穴居会談はよほど内外記者団を刺激し、かれらは早暁から起きてこの穴のまわりにあつまり、児玉と乃木が起きてくるのを待った。
やがて児玉が小動物のように這いだしてきて穴の前に立ち、いかにも愉快げに嘲笑し、「なんの、重要な話なんぞは出なかった。昔語りをしていたのさ」と笑いながら帽子を頭にのせた。しかし記者団はそれだけではおさまらず、さらに質問すると、「乃木の寝屁は格別の臭味じゃったよ。わが輩の苦戦は二〇三高地にまさるものがあったな」と、頭を激しくふりながら笑ったため、記者団はそれ以上に追求しなかった。が、旅順攻略の様相はこの児玉が穴から遣い出てきたとき以来一変したといっていいであろう。 
児玉の指揮でロシアは旅順艦隊を五日間で失った
とにかく児玉の指揮に入って以来、一昼夜の歩兵戦闘のあげく、ついにこの山を奪った。児玉はすぐ有線電話をもって山頂の将校をよびだし、「旅順港は見おろせるか」ときいた。その返答ほど児玉にとって感動的なものはなかったであろう。「見おろせます」と、その受話器が叫んだ。「すべての軍艦が見おろせます、みな錨をおろして動く気色もありません」と、ひきつづき叫んだ。児玉は送受話器をおろし、かたわらの田中国重少佐と海軍の連絡将校を等分に見つつ、「すぐ観測隊をして山頂へ進出せしめるように」と命じた。これが児玉のこの旅順攻囲軍における最後の命令になった。
山頂占領後一時間経ってから山頂観測隊が活動しはじめ、礪盤溝から射ち出す二十八珊榴弾砲の射撃を誘導しはじめた。ほとんど二階から石臼をおとすほどの容易さでその射撃は進行し、港内の戦艦ポルターワ、レトウィザン、ベレスウエートなどの諸艦はつぎつぎに撃沈され、その総計約十万トンの各種軍艦のうち戦艦セ・ハストポールだけはわずかに港外へのがれたが、包囲中の東郷艦隊の水雷攻撃のために撃沈され、ロシア側はその旅順艦隊のことごとくを五日間のうちにうしなった。東郷艦隊はこれに安堵し、やがて到来するであろうバルチック艦隊への迎撃準備のために燕順港外の包囲戦務から解放され、全艦を補修すべく佐世保へ去った。
ロシア側の旅順要塞司令官ステッセルにとっても、この結末は、その戦務からの解放を意味したであろう。なぜならば軍港における陸上要塞は港内の艦隊を抱きまもるためにあるのだが、その守る艦隊が港内の海底に沈んだ以上、これ以上の流血防衛はその第一義的な目的をうしなったことになる。それに二〇三高地の喪失以来、旅順の市街地にも日本人の砲弾がたえまなく落下兵員も市民も逃げ場をうしなった。そのあと二十数日を経てステッセルは降伏開城を乃木のもとに申し入れた。
この時期には児玉はすでにこの第三軍から姿を消していた。かれは二〇三高地陥落後四日目に当地を去り、満州における総参謀長としての本務にもどった。かれがやらねばならないのは、旅順などよりも北方戦線におけるグロバトキンとの決戦であった。 
乃木日本武士の典型として世界を駆けめぐった
乃木の名は世界を駆けめぐり、一躍、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶された。もし児玉が乃木の位置にいたならばこれほどの詩的情景の役者たりえなかったであろう。乃木は独逸留学以来、軍事技術よりもむしろ自分をもって軍人美の彫塑をつくりあげるべく、文字どおりわが骨を錬むがような求道の生活をつづけてきた。乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。
この評判は、あるいはかれとかれの参謀たちを救ったことになるかもしれなかった。大本営内部や満州軍の高級幕僚のあいだでは、この旅順攻囲戦が終結ししだい、乃木とその幕僚は更迭されてしまうだろうという観測が圧倒的であった。が、乃木はその軍人としての最大の恥辱からまぬがれた。それをまぬがれしめた理由のひとつは明治帝の乃木に対する愛情であり、ひとつには陸相寺内、参謀総長山県の長州人としての友情であり、いまひとつはもし乃木を旅順攻略後に罷免するとすれば旅順における日本軍の戦闘が、最後は勝利をおさめたとはいえ、その途上において記録的な敗戦をつづけたということを世界に喧伝する結果になり、外国における起債にひびくことはあきらかであった。このため、乃木と伊地知以下の人事は国際信用のためにもさわることはできなかった。 
寝ているときでさえ軍用のズボンを脱がない極端な自律生活に入った
結婚後も、希典は毎夜泥酔して帰ってきた。三年のあいだに勝典と保典がうまれたが、このことはおさまらなかった。姑はその罪を静子にあるとし、はげしくあたった。このため静子は心労し、一時期、希典の諒解のもとに両児をつれて本郷湯島に別居をした。静子が二十九歳のとき希典は欧州差遣を命ぜられ、彼女が三十歳のとき希典は帰朝した。この帰朝後、乃木希典は豹変し、別な男になった。このことについては前稿でのべた。希典は茶屋酒をやめただけでなく、帰宅後非軍人的な和服に着かえることもやめた。独逸軍人がそうであるように寝るまで軍衣軍袴をぬがず、寝てからも軍用の補絆、袴下をぬがず、さらにこの習性が昂じてくるとかれは寝ているときでさえ軍用のズボンである軍袴をうがっていた。かれはそれを自分だけの規律でなく陸軍の全将校の規律たらしめるよう陸軍省に上申したが、かれが考えている軍人の様式美についての意識は狭く強烈でありすぎ、宗教的ですらあったため陸軍部内で理解されず、不幸にも黙殺された。それ以後、かれはその規律を自分だけの閉鎖されたなかだけに通用するものとし、副官にすらすすめなかった。かれの相貌がどこか行者のそれに似はじめてきたのも、かれが極端な自律生活に入ったこの前後からであったかもしれない。 
希典は明治帝にとって誠実の提供者
この皇孫ほど明治帝の期待の大きかったひとはないであろう。帝はこの皇孫が初等科に入学するにあたって、乃木希典をして学習院院長たらしめようとした。希典をして、かつての帝における山岡鉄舟、元田永字たらしめようとされたのであろう。希典も帝の期待に応えようとした。かれは他の児童、生徒に対しては院長という立場で臨んだが、この皇孫に対してだけはひとりの老いた郎党という姿勢をとった。自然、皇孫は他の者のように希典を恐れず、恐れる必要もなく、無心にかれに親しみ、親しんだればこそ、学校における他の者とはちがい、希典の美質を幼童ながらも感じとることができた。希典がこの幼い皇孫に口やかましく教えたのは一にも御質素、二にも御質素ということであ。
帝は、それら、希典の教育ぶりに満足されているようであった。他のふたりの皇孫についても希典の訓化を要求された。浮宮(秩父官)と光官(耗松官)であったが、この両宮はまだ幼すぎたせいか、希典にはなつかなかった。希典も帝位継承者である皇孫穀下ほどには思いを入れずこの両宮に対してほのかに疎略であった。
−きょうは乃木は来ないのか。と老帝がときどき左右にきかれるほど、希典が宮中に姿をみせることが多くなった。このことは、帝にとって楽しみであったようだが、かといってどれほどの談話があるというわけでもない。
帝にとってこの忠良な老郎党のたたずまいは、一種の愛嬌とおかしみを帯びていた。愛嬌とおかしみがあればこそ帝にとって郎党なのであろう。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などにはそういうところがなかった。かれらは帝にとって能力の提供者であり、希典は帝にとって誠実の提供者であり、誠実はときとして滑稽感をともなう。 
夫人・静子に自殺を迫り、すぐに遂げてしまった
かれは先々月、先帝の死とともに死を決意したあとも静子のことが気がかりであった。二児を非業に喪い、さらに夫を非業に喪うというほどの打撃をこの静子にあたえたくなかったし、その老後の寂蓼をおもうと、むしろ死を選ばせたほうがいいともおもっていた。このことは希典の論理であり、希典の論理はつねにそうであった。この論理が希典において正しい以上、かれはいま一歩を進めることができた。
「それならばいっそ、いまわしと共に死ねばどうか」希典の脳裏にはすでに順が浮かんだ。自分よりもむしろ静子こそさきに死ぬほうがいい。なぜならば静子が女である以上、自害の仕損じがあるかもしれず、その場合は自分がその完結へ介添えしてやることができる。一さらに静子のいうように後日死ぬ、というのはよくない。それこそ自殺を仕ぞこねて恥をのこすかもしれず、さらにひとびとの制止や、ひとびとの監視をうけて思わぬ苦しみをあじわわねばならぬかもしれない。
が、このことには静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。
「整理が」と静子はいったであろう。−家財の整理など、他の者がする。と、希典はいったであろう。しかし家財の整理はそうであっても、婦人のことであり、身のまわりにはさまざまなことがある。たとえば家のなかの鍵のかくし場所などもひとびとに言い遺しておかねばならず、身辺のもの物品書類なども焼くべきものは焼かねばならぬであろう。さらにたとえば辞世の歌などもそうであり、いまから十五分のあいだにそれをつくれといわれても作れるものではない。しかしこの辞世の歌については、結局は静子はみごとなものを遺した。「いでまして帰ります日のなしと聞く今日のみゆきにあふぞ悲しき」というものであった。いかにも希典の調べの帝に似ている。希典がいくつかの辞世の草稿をもっていたとすれば、それを静子のために譲ったかとおもわれるが、しかしあるいはそうでなく、静子が即座につくったかもしれなかった。それがいずれであるにせよ、そのことは死のための項末な形式にすぎないであろう。
ただ、静子は当惑した。当惑のあまり叫んだ声が、階下にまできこえた。
−今夜だけは。という静子のみじかい叫びが階上からふってきて、階下にいた彼女の次姉馬場サタ子らの息を詰めさせた。そのあとすぐ癇の籠った声が二三きこえたが意味はききとれず、すぐ静かになった。
そのあと数分経過した。階下のひとびとは沈黙をつづけた。階上でふたたび気配がきこえた。重い石を畳の上におとしたような、そういう響きであった。馬場サダ子は、人の死を直感した。サダ子と下婦ひとりが階段をのぼった。鍵穴からサダ子が叫び、希典の名をよび、静子に罪があるなら自分が幾重にも詫びます、と泣きつついった。血のにおいが廊下にまで流れていた。 
 
「殉死」に見る惨劇 3

 

 1
以前にも触れたように乃木大将に対する評価は、明治世代と大正世代の間で鋭く対立している。明治世代は彼を軍神と仰ぎ、その遺徳をたたえるために東京赤坂の乃木神社を含め全国に四つもの乃木神社を作っている。
明治世代で注目すべきは、世間一般の民衆だけでなく、当時最高の知性だった森鴎外・夏目漱石すらも乃木に敬意を払っていたことだろう。鴎外は、乃木殉死の報を聞いて即座に、「興津弥五右衛門の遺書」という作品を書いているし、漱石は乃木の遺書「明治十年の役において軍旗を失い、その後死所を得たく心がけ候もその機を得ず」を読んで感動し、作品「心」に「先生」の言葉として、こう書いている。
「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日迄生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。・・・ 西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります(「心」)」
明治の教養人は、乃木大将の古武士的性格やストイックな生き方を高く評価していたのだ。彼らの中から、「乃木式」といわれる簡素な生活法を実践する者が続出したのも不思議ではない。鴎外も又、乃木式生活の実践者の一人と見られていた。その頃、これら実践者たちは「精神家」と呼ばれた。乃木は「精神家」の輝ける開祖だったのである。
大正世代が反発したのも、この精神家に対してだった。大正世代はヒューマニズムの洗礼を受けていたから、ナショナリズムと結びついた精神主義など容認するはずがなかった。新時代の若者たちの目には、彼ら精神家はむしろ精神屋というべき存在であり、精神主義の名のもとに習俗に媚びているように見えたのだ。乃木大将は日露戦争後に明治天皇のお声掛かりで学習院の院長になったが、武者小路実篤・志賀直哉など学習院に学ぶ学生たちにとって軍神乃木希典など単なる道化役者に過ぎなかった。
大杉栄の父親は職業軍人で、新発田連隊の内部では「精神家」と呼ばれていた。この父親の下から、アナーキスト大杉栄が生まれたのである。乃木大将に対する評価は、世代対立ということを抜きにしても賛否両論に分かれ、「殉死」という小説で乃木を描いた司馬遼太郎も、乃木を半ば否定するような書き方をしている。
司馬遼太郎はこれまで乃木について書くに当たって主人公のプラス面を7割、マイナス面を3割の割合で書いているように思われる。だが「殉死」では、乃木のマイナス面を7割、プラス面を3割の比率で書き、彼の作品としては珍しく辛口の仕上りになっている。そのため、彼は発表に際して読者から反発されるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。
彼はこの作品で、「毎日芸術賞」を授与されたのである。私も世評の高さに惹かれて「殉死」を読み、私の知っている司馬作品の中では一番の出来ではないかと感じている。
では、司馬遼太郎は殉死の原因となっている軍旗を奪われる場面をどう書いているのだろうか。
乃木は、問題の西南戦争に熊本鎮台歩兵台十四連隊の連隊長心得として出陣している。連隊長といっても、彼にはまだ実戦を指揮した経験が一度もなかった。彼はもともと軍人には不向きの人間だった。少年の頃から神経質で脅えやすく臆病だった。長州藩士の子供は、試し切りのために日頃、野良犬や猫を切ったといわれるが、乃木は恐怖が先だって試し切りすることが出来なかった。それでも十代の頃、彼は六ヶ月ほど洋式軍事訓練を受けている。
これだけの経験しかなかったのに、薩摩藩の黒田清隆が口をきいてくれたおかげで、乃木は23才のとき東京に呼び出されて陸軍少佐に任命されている。そして、その4年後に連隊長心得になって小倉に赴いたのだ。
乃木少佐にとって最初の戦闘は、彼の率いる部隊が熊本城を包囲していた西郷軍の一部と接触したことによって起きた。乃木隊は400余名、西郷軍もほぼ同数で、昼間の間は、敵味方一進一退で戦っていたが、夜になって薩摩の抜刀隊が夜襲を仕掛けてくると、乃木隊は算を乱して退却し始めた。
動転した乃木は離れた地点にいた配下の一個大隊を呼び寄せるために、自ら伝令になって走り出したのである。連隊長ともあろうものが部隊を捨てて伝令に飛び出すようなことは、どこの国の戦史にも例がない。
乃木連隊長と共に最前線にいた連隊旗手の河原林少尉以下の10名は、取り残された状況下で敵の襲撃を受け、河原林少尉は戦死し、軍旗を奪われることになった。翌日、敵は奪った軍旗を前線に持ち出し、官軍に見せびらかした。帰隊した乃木は軍旗を取り戻すために必死になって戦ったものの、六日目に左足を負傷して野戦病院に送られる。指揮官を失った乃木連隊は他の部隊に組み込まれて雲散霧消してしまう。乃木にとってこれ以上の恥辱はなかった。
司馬遼太郎は、「殉死」のなかにこう書いている。
「乃木の敗戦についての自責がすさまじく、久留米の野戦病院から脱走してふたたび戦線に加わったという、そういう悲痛な狂操ぶりも軍首脳に好感をもたせた。薩軍が熊本からひきあげたあと、熊本城に入った乃木にはひどく思いつめた様子があり、だれの目にも自殺の危惧があったために、同郷の少佐児玉源 太郎がしきりに説諭し、監視し、ついには監視しやすいように児玉が上申して鎮台司令部付の参謀にした。(「殉死」)」
乃木の自責はそれだけで終わらなかった。参謀の身でありながら、熊本城内から彼は不意に姿を消してしまったのだ。兵士たちは手分けをして乃木を捜し、行方不明三日後に山王山の奥で餓死しようとしている乃木を発見した。西南戦争以後、乃木の人柄はがらっと変わったように見えた。それ以前の乃木は、ダンディーな洒落者だったと陸軍大将田中義一は語っている。
「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。着物でも紬のそろいで、角帯を締め、ゾロリとした風をして、あれでも軍人か、といわれたものだ」
遊び人風だった乃木が、軍旗事件以後、表情に陰鬱の色が加わり、大酒を飲むようになった。そして、酒を飲めば必ず荒れるのである。しかし、乃木の変化にはまだ先があった。ドイツ留学後にもう一度彼の人柄は、がらりと変わるのである。 
 2
西南戦争終了後、乃木は中佐に昇進し、東京に呼び戻されて歩兵第一連隊長に任命されている。西南戦争ではポカばかりしていた乃木が順調に昇進をしていったのは、彼の閲歴の中に陸軍の大ボス山県有朋の副官をしていたという事実があったからだ。乃木の出世はその後も続き、明治18年には37才で少将になり、熊本の旅団長になっている。そして、その翌年には、ドイツに留学しているのである。
この頃、陸軍では、不思議なことが行われていた。
軍制をフランス式からドイツ式に切り替えたという事情もあったろうが、少将や中将が次々にドイツ留学を命じられているのだ。森鴎外のようなドイツ語に精通していた若い尉官が留学を命じられるのなら理解できる。だが、乃木希典などの将官はドイツ語の素養がほとんどなく(フランス語をマスターしている者なら相当数いた。乃木もフランス語を解したといわれる)、年齢も中年に達していたのである。それが相継いでドイツに留学しているのだ。
ドイツに着いた乃木は、ドイツ軍大尉を教官にして作戦全般について学び始める。講義を聞いた後で、教官が出す練習問題に答案を書き、採点してもらうのである。乃木と同時に留学し、同じ教官から講義を受けた川上操六の進歩は目覚ましかったが、乃木は作戦よりもドイツ軍の服装や容儀に関心を抱いていた。
一年間の課程を終えて帰国した乃木は、時の陸軍大臣大山巌に留学報告書ともいうべき「意見具申書」を提出している。内容は二つあって、一つは「操典」の必要性を論じたもので、もう一つは軍人の服装・容儀に関するものだった。乃木の献策が陸軍によって採用された気配はない。しかし「意見具申書」を提出してからは、彼の生き方は急変する。司馬遼太郎はその変化をこう述べている。
「乃木少将(の態度)だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも──乃木式といわれ、死にいたるまでひとを驚嘆せしめたことだが──寝巻を用いず、軍服のままで寝た。・・・・独逸人ならば洋式家屋で起居(あたりまえだが)しているために洋服生活は自然であったが、畳の上で生活をする乃木希典にとってはこの行態は傍目にはいかにも窮屈であり、違和感があり、それがために傍目には悲痛にさえみえた(「殉死」)」
乃木は西南戦争で大失敗を演じたのだから、近代的な戦闘技術や作戦について本格的に勉強すべきだったのだ。だが、彼はドイツ留学の便宜をはかってもらいながら、指揮官としての基本を学ぶ代わりに、精神主義の方向に逸脱して行ったのである。
司馬遼太郎は、「精神主義は無能な者の隠れ簑であることが多い」と記したあとで、「乃木希典のばあいにはそういう作為はない」と保証している。だが、これは読者サービスのための断言であって、乃木の精神主義には自己を隠蔽しようとする偽装の面がかなり強いのである。
精神家乃木希典のモノマニアックな行動で、最も大きな被害を受けたのは彼の家族だった。乃木は30歳の時、10才年下の静子と結婚し、勝典、保典の二人の子供をもうけている。結婚生活は順調とはいえなかった。静子が二児をつれて別居したのは、乃木自身の乱酔癖のためでもあったが、乃木家に「口やかましい母と心の曲がった妹がいた」ためだったらしい。
彼は結婚式の当日、照れ隠しのためか予定の時刻より5時間も遅れて帰宅している。そして酒宴になると、同僚や部下と深酒をして杯盤の散乱する中に倒れ込んで起きあがることが出来なかった。彼は後述するように「そとづら」が極めて良く、多くの知友に愛されていたが、身内に対しては常に無理無体を押し通していたのである。
二人の息子は長じると、軍人になることを嫌がった。母親の静子も、子供を陸軍に入れることに反対だったが、乃木は委細構わず二人を陸軍に押し込んでいる。そのため、長男は陸軍士官学校に入学したものの、休日に帰宅すると、そのまま学校に戻ろうとしなかった。母の静子は勝典に同情して、これを機に士官学校を退学させたいと思ったけれども、それには夫の許可が必要だった。
この時乃木は、第十一師団師団長になって、四国の善通寺に単身赴任していた。思いあまった静子は夫と相談するため、四国に出かけた。静子が東京から四国まで汽車や船を乗り継いでやっと夫の間借りしていた金倉寺に辿り着いたのに、乃木は頑として妻に会おうとしなかった。当日は大晦日だったから、乃木は寺院内の自室に閑居して本を読んでいたのである。普通なら、一家の家長は帰省して年末年始を家族と共に過ごすところだが、彼はそうしないで任地から動かなかったのだ。
寺の住職があまりのことに立腹して乃木をなじったが、彼は平然としている。住職が静子を憐れんで、寺の別室に泊めてやろうとすると、乃木はそれも拒んだ。静子はやむを得ず多度津まで引き返して、そこで宿を取らなければならなかった。乃木が妻に会うことを拒否した理由は、バカバカしいの一語に尽きる。静子が事前に来訪する許可を得ていなかったからだというのだ。妻が切羽づまって手順を踏んでいる余裕がなかったと察していながら、乃木は妻に会うことを拒否し続けたのである。
更に愚かしいのは、これを美談として世人が寺の境内に石碑を建てたことだ。題して、「乃木将軍妻返しの松」というのである。日露戦争が始まり、休職中の乃木希典は呼び出されて第三軍の司令官になった。第三軍の任務はロシア軍の築いた旅順要塞を落とすことだったから、司令官には日清戦争で旅順攻撃を担当した乃木がよかろうということになったのである。乃木を任命した参謀本部も、任命された乃木も、前回の旅順戦が簡単にケリがついたので、旅順攻略を最初から楽観していた。大本営の方針は、「強襲ヲモッテ、一挙旅順城ヲ屠ル」というものであった。
第三軍参謀長として乃木に与えられたのは伊地知幸介で、少尉任官後にフランス陸軍に留学し、中尉になると今度はドイツ陸軍に入学したエリート参謀だった。彼は、「ロシア側の旅順配備は手薄」と予測して肉弾攻撃を計画していた。その後この予測を裏切るような事実が出てきても、乃木も伊地知も最初の作戦を変えようとしなかった。司馬遼太郎は、乃木司令部の作戦についてこう言っている。
「ともあれ、旅順の山なみを遠望しっつ乃木の軍司令部がたてた攻略計画ほど愚劣なものはなかったであろう。その作戦とは、要塞群の間隙を縫い、歩兵による中央突破を断行して一挙に旅順本要塞の郭内に入る、というものであった。この計画では敵の砲兵は眠っているにすぎず、敵の監視硝は盲人であるということを前提としているのであろう。ほとんど、童話といっていい。しかし、乃木も伊地知も正気であった(「殉死」)」
乃木と伊地知は、大本営や海軍から203高地が手薄だから直ぐ攻撃するようにと指示されても聞き流し、もっと強力な大砲が必要ではないかと問われても必要なしと答え、ひたすら無謀な肉弾攻撃を繰り返した。すべての助言に耳をふさぎ、連日夥しい戦死者を累積させて行く乃木司令部のやり方は、専門家の目から見れば、無能というより狂人の振る舞いに近いと思われた。この旅順攻撃戦で乃木は勝典、保典を戦死させている。
乃木が苦しんでいなかったわけではない。苦しみ悶えたあげく、彼のしたことは、昔と同じであった。
「 乃木は、戦場での死を求めるようになり、しばしば戦線視察に出ようとし、出れば不必要なまでに進出し、わざと敵の飛弾を浴びょうとした。その乃木の挙動に副官たちは異常さを感じ、現場で制止したり、監視したりした(「殉死」)」 
 3
乃木司令部による絶望的な旅順攻略戦を打ち切らせ、瞬く間に旅順を陥落させたのは児玉源太郎だった。満州軍総参謀長だった児玉は、現地に乗り込んで乃木司令部の指揮権を奪い、自ら陣頭指揮して旅順要塞を落としたのだ。児玉源太郎の経歴を見ると、彼は何度となく乃木が失策した後をカバーする仕事をしている。最初は西南戦争で軍旗を敵に奪われて動揺した乃木を落ち着かせる仕事だった。次は、日清戦争後に台湾総督になった乃木が台湾統治失敗の責任を取って辞職したとき、その後を引き継いで台湾総督になり、島の治安を回復することに成功している。そして、今度は旅順攻略の作戦を転換させ乃木の失敗の尻ぬぐいをする仕事だったのである。
児玉は乃木希典の無能を誰よりも知りながら、乃木の美点も承知していた。乃木には軍人の才能が全くなかった。乃木は旅順戦の後、奉天会戦に参加したが、ここでも大きな失敗をしている。だが、軍人としての才能がゼロに近い乃木ほど、軍人らしい男はいなかったのも事実だった。乃木は戦場では惨憺たる結果しか残せなかった。けれども、旅順戦の後に敵将ステッセルに示した態度などは誰にも真似の出来ないものだった。
司馬は、乃木がスッテセルと水師営で会見した場面を次のように書いている。
「乃木は降将ステッセル以下に帯剣をゆるし、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木はその副官をして慇懃に断わらしめた。敵将にとってあとあとまで恥が残るような写真をとらせることは日本の武士道がゆるさない、というものであり、このことばは外国特派員のすべてを感動させた(「殉死」)」
また、「日本の百年(筑摩書房)」の著者は、乃木がアメリカからやってきた老写真師をいたわって相手の宿舎に果物の篭を届けた挿話を記したあとで、乃木の性格をこう説明している。
「乃木のなかにある悲劇的なストイシズムは、激情的な人情愛と結びついて、一種の謎めいた印象を与えることがあった。冷血と素朴な人情との不思議な結合がその人がらであった」
戦争が終わって凱旋した乃木は、第三軍司令官として明治天皇に拝謁して報告を行った。
「このあと、自分の戦闘経過を記述した復命書にも、『旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天附近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ因り退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我左側背ニ行動スルニ当り、コレヲ撃推スルノ好機ヲ獲ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ』と書いている。自分の屈辱をこのように明文して奏上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう。この復命書を児玉が私(ひそか)に読んだとき、『これが乃木だ』と、その畏敬する友人のために讃美した。児玉にとって乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さのゆえに殺したいはどに腹だたしかったが、しかし軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のようなまねはできない自分を知っていた(「殉死」)」
乃木には確かに人間としての美点が少なくなかった。司馬遼太郎は、乃木が自分を常に悲壮美の世界に置き、自らに酔う精神の演技者だったといっている。だが、彼が見え透いた自己劇化を繰り返したのは、その性格の中に根深い劣等感と女性的なナルシシズムが絡み合う形で混在していたからではないかと思われる。
司馬は、乃木が殉死する前に近所の写真師を呼んで写真を撮らせていることを弁護するためか、彼は昔から写真を撮らせることが好きだったと強調している。が、彼が新聞記者に写真を撮らせるだけでなく、自分でも写真師を呼んで写真をとらせていたのは、自己愛の欲求と無関係ではなかった。
大体、日清・日露の戦争に参加した将軍のうちで、乃木だけが生前から聖将だの軍神だのと喧伝されること自体がおかしいのである。姉崎嘲風も、「御大葬の当日に自殺するがごとき、何等か芝居気染みたり」と指摘しているという。古武士的だったといわれる乃木の行動には、ウケ狙いのスタンドプレーと思われるものが多い。「御馳走する」と予告して客を呼んでおいて、出されたものは蕎麦だけだったというような話が目につきすぎるのである。
劇的なことの好きなナルシストが演じる最後にして最大の演技は、自殺にほかならない。三島由紀夫は、空襲警報が鳴ると真っ先に防空壕に逃げ込むほど臆病だったが、切腹自殺をしている。彼が敢えて切腹という壮絶な死に方を選んだのは、生来の臆病を上回るほどナルシシズムが強かったからだ。生命よりも「名を惜しむ」気持ちの方が勝っていたのである。
三島の場合と違って、乃木には死を望む切実な理由があった。明治世代の人々は乃木殉死の必然性を理解し、その点に共感したから彼の死に対して惜しみない敬意を払った。が、大正世代の若者は乃木の自殺をウケ狙いのスタンドプレーとしか解しなかった。そして乃木希典の妻静子も、大正世代に近い目で殉死を見ていたと思われるのである。
乃木が殉死する少し前、乃木邸に家人や親類の者が集まって雑談していたことがある。妻の静子は、皆の集まっていることに勇気を得て前々から気にしていた問題を持ち出した。夫と二人だけの時には切り出せなかった話題である。
「跡目のことですけど、天子様さえ御定命のことはどうにもなりません。あなたにもしものことが、私が難渋します」
「べつに、こまりはすまい」と乃木はいった、「もし困ると思うなら、お前もわしと一緒に死ねばよかろう」
「いやでございます」と静子はハッキリといった、「わたくしはこれからせいぜい長生きをして、芝居を見たり、おいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」
静子がこれだけのことを言ってのけたのは、前述のように親戚の者たちが同席していたからだった。結婚生活34年の間、彼女には楽しいことが何一つなかった。頼りにしていた二人の息子にも死なれて、最早、先のよろこびもない。夫と死別したら、まず人生を楽しみたいというのが彼女の正直な気持ちだったのである。
──いよいよ、御大葬の日がやってきた。
乃木は前夜に予約しておいた近所の写真師がくると、「今日の写真は自然な格好がいいだろう」といって新聞を読むポーズをとった。しかし服は陸軍大将の礼装で、胸にはありったけの勲章を並べた。
静子はまだ夫の決意を知らなかったから、乃木が御大葬に参列するものと思っていた。その点を確かめると、夫は、「行かぬ」という。夕刻になって彼女が二階の乃木の部屋の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。乃木が室内から、書生や女中を御大葬の拝観に出かけさせるように命じた。
書生と女中を外に出して静子が二階に戻ると、鍵がはずしてある。乃木は軍服姿で端座していた。かたわらに軍刀が置いてある。窓の下の小机に、「遺言状」と墨書した封筒が乗っている。
「察しての通りだ」と乃木はいった、「午後八時に御霊柩が宮城を出る。号砲が鳴る。そのときに自分は自決する」
午後八時までには15分しかなかった。乃木が葡萄酒を求めたので、静子は階下の台所に行って、そこに来ていた姉の馬場サダ子と姉の孫英子と言葉を交わし、二階に戻った。乃木は葡萄酒を静子に注いでやって別れの盃を交わした。──分かっているのはこのへんまでである。
乃木と静子は話しているうちに、静子も死ぬことになったらしかった。それまでは、乃木も妻を道ずれにするつもりはなかったから、遺言状の宛名に静子の名前もあり、妻に言い残す言葉もちゃんと添えられていたのである。
階下にいた姉の耳に、不意に静子の叫ぶ声が聞こえてきた。
「今夜だけは」
姉は緊張して息を詰めた。そのあと、意味の聞き取れない疳のこもった声が二、三続いた。少しの間があり、二階から重い石を畳に落としたような音が聞こえてきた。姉は階段を駆け上り、鍵穴から乃木の名を呼んで必死に叫んだ。彼女は妹が乃木に折檻されていると思ったのである。
「静子に罪があるなら、私が幾重にもお詫びします」
室内から、乃木の返事が聞こえてきたが、何と言っているのか意味は聞き取れなかった。静子は恐らく夫と一緒に死ぬ積もりになったものの、女の身で色々始末しておきたいものがあったに違いない。それで今夜だけはと頼んだのだが、乃木が叱りつけて即座に自死を決行させたのだろう。静子は短刀で三度自ら胸を刺したけれども、死にきれなかった。次は司馬の推測である。
「(刺し傷は)浅かった。希典が手伝わざるをえなかっ たであろう。状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコブシをもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切先が欠けていた(「殉死」)」。
この状況を想像すれば、静子は無理心中で殺されたような印象を受ける。まさに惨劇だったのである。 
 
「粛軍に関する質問演説」 (斎藤隆夫遺稿)

 

一大革新の国家的要求
我国の歴史に拭うことの出来ない一大汚点を添えたる彼の叛乱事件の後を承けて広田内閣が成立し、身を挺して国政一致の衝に当らるることは、吾々の最も歓迎する所であり、同時に国家の為に衷心より其成功を祈るものであります。
広田首相は曩に大命を拝せられ、組閣に入るに先立って天下に向って一の声明書を発表して、将来に対する決意を明にせられたのでありまするが、其声明書を見ますると云うと、旧来の積弊を芟除し、庶政を一新し、確乎不抜の国策を樹立して、以て其実現を期す、昨日此所に於ての御演説に於きましても、此趣旨を敷衍せられて居るのでありまして、洵に我意を得たるものであるのであります。御説の如くに今日我国内外の情勢を見ますれば、最早旧来陋習を追うて優柔不断の政治は許されない、速に此陋習を打破して一大革新を為すべき国家的、国民的、要求は澎湃として吾々の眼前に押寄せて来て居るのである。(拍手)
それ故に今日何人が政治の局に立つと雖も、此決心と此覚悟を以て当らねばならぬことは当然の次第であります。何より是迄歴代の政府に於きましても其考がなかったのではありますまい。其証拠には何れの内閣も成立直後に於きましては、或は施政の方針を声明する、或は政綱政策を発表して、国民の前には政治の革新を誓いまするけれども、それ等の方針、それ等の政綱政策が全部は愚か、其幾分たりとも実行の跡を残さずして一両年経てば内閣は崩壊してしまうのであります。是は何故であるかと言へば、畢竟するに総理大臣を初めとして、閣僚全体が真に今日我国内外の情勢を認識して、国政改革を断行するだけの熱意もなけれは気魄もない、勇気もなければ真剣味もない、唯目前に現わるる所の国務を弥縫して以て一日の安きを貪る、斯の如き弛緩せる政治状態が過去幾年かの間継続致しました結果、遂に今日の現状を惹起したのであります。
此秋に方りまして広田首相が組閣の大命を拝せられ、敢然して国政改革の断行を誓わるるに当りましては、天下何人と雖も之を歓迎しない者はないのであります。併ながら翻って考えて見ますると云うと、国政の改革、国策の樹立、之を唱えることは極めて易いのでありまするが、之を行うことは中々困難であります。固より是等の題目は今日初めて現われたのではない、又現内閣の新発明でも何でもない、従来政府之を唱え、政党之を唱え又有ゆる政治家が之を唱えて国民に向っては何かの期待を抱かせて居たのでありまするけれども、之を具体化して以て其の実行に着手したる者は殆ど見出すことが出来ないのである。申す迄もなく政治は宣言ではなくして事実である。百の宣言ありと雖も、一の実行なき所に於て政治の存在を認めることは出来ないのであります。(拍手)
それ故に今日は斯る政治上の題目を繰返して、之に陶酔して居る秋ではない。速に之を具体化して以て其実行に取掛るべき秋であります、故に私は此見地に立って是より現内閣施設の大要に付て御尋をするのでありまするから、其御積りを以て御聴取を願いたいのであります。 
政治革新論の検討
先ず第一は革新政治の内容に関することでありまするが、−体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。革新を唱えない者は経世家ではない、思想家ではない、愛国者でもなけれは憂国者でもないように思われて居るのでありまするが、然らば進んで何を革新せんとするのであるか、どう云う革新を行わんとするのであるかと云えば、殆ど茫漠として捕捉することは出来ない、言論を以て革新を叫ぶ者あり、文章によって革新を鼓吹する者あり、甚しきに至っては暴力に依って革新を断行せんとする者もありまするが、彼等の中に於て、真に世界の大勢を達観し、国家内外の実情を認識して、仮令一つたりとも理論あり、根底あり、実効性ある所の革新案を提供したる者あるかと云うと、私は今日に至る迄之を見出すことが出来ないのである。
国家改造を唱えるが如何に国家を改造せんとするのであるか、昭和維新などと云うことを唱えるが、如何にして維新の大業を果さんとするのであるか、国家改造を唱えて国家改造の何たるかを知らない、昭和維新を唱えて、昭和維持の何たるかを解しない、畢竟するに生存競争の落伍者、政界の失意者乃至一知半解の学者等の唱える所の改造論に耳を傾ける何ものもないのであります。(拍手)
而も此種類の無責任にして矯激なる言論が、動もすれば思慮浅薄なる一部の人々を刺戟して、此処にも彼処にも不穏の計画を醸成し、不逞の兇漢を出すに至っては、実に文明国民の恥辱であり、且つ醜体であるのであります(拍手)
併し私は今日此処に於て斯くの如き革新論を批判せんとする者ではない。此壇上は斯の如き種顆の議論を試みる処ではないと云うことは十分に承知して居ります。私の目指す所は広田首相が抱懐せられて居る所の革新政治、其の内容を聴かんとする者であります。便宜の為に政治革新の方法を二つの方面より御伺致します。第一は政治機関の改革である。即ち立法、行政、司法此三機関の構成に関する所の改革であります。第二は是等の機関に依って運用せらるる所の実際政治に対する所の改革であります。
先ず第一の政治機関の改革、其中の立法機関の改革に付て広田首相は何かの意見を持って居られるのでありますか、近頃貴族院改革と云う議論が現われて居りますが、是は主として貴族院議員の間に唱えられて居るのでありまして、政府の意見として現われたるものは聞かない、又衆議院の改革に付ても議論がございまするが、是亦政府の意見として現われたものはない、要するに広田首相は是等立法機関の改革に付て、何か手を著けられる御積りであるか、又手を著けられると云うならば、何か之に付いて相当の腹案があるかないか、之を一つ伺いたいのであります。
次は行政機関の改革であります、吾々は随分長い間行政刷新、即ち行政機構の改革と云うことを聞かされて居る、例えば省の廃合であるとか、或は無任所大臣を新設する、其他中央地方の行政組織を根本的に改革して、之に依って行政を簡易化する、行政を刷新する、行政費を節約する、繁文褥礼の積弊を芟除する、斯う云う議論は随分長い間聞かされて居る、政府も之を唱えるし、政党も亦之を唱えるけれども、今日までそれが実行せられた例はないのであります。
昨日総理大臣は此処に於て行政機構の改革をすると云うことを明言して居らるるが、本当に腰を入れて真剣にやる積りであるかないか、若しやるとするならば、何かそこに一つの腹案がなければならないのであるが、相当の腹案を握って居られるのであるかないか、司法機関の改革に付きましては、今日別に問題になって居りませぬ、後に運用に付て一言触れることがあるかも知れませぬ、詰り革新政治の第一義でありまする所の政治機関の構成に関する改革、之に付てどう云う御考を持って居られるのであるか、先ず之を承りたいのでありまするが念の為に一言注意をして置きます。私は決して政府が改革をすると云う所の決意を聴かんとするのではないのであります。
私の聴かんと欲する所のものは、改革の決意ではなくして、改革の方法であり、又改革の内容であるのであります。改革をしたい考は持って居るけれども、まだ何等の腹案はない、是から調査をする。例に依って委員でも設けて慎重審議して、それから後に改革をするかしないかを決める、そう云う御意見であるならば、別に御答は要らぬのであります。私等は随分長い間そう云う答弁を聞かされて来たのであります。此上同じような答弁を聴く所の忍耐力は持って居らない、既に改革をやると云う以上は其前に於て相当の輪廊が出来て居らなければならぬ。内容は備って居らぬけれども改革をやると云う決意だけでは、吾々は承服することは出来ない。 
制度よりは人の問題
此際一言致して置きますが、私の観る所に依りますと云うと、今日我国の政治機関、立法、行政、司法を通じて是等機関の根本に付て、甚しき改革を加える点は考えて居らないのであります。御承知でもございましょうが、我国の政治組織は、明治維新以来欧米先進国の長を採り短を捨て、之に我国の歴史と国情を加味して作られたものでありまして、其後時代の進運に応じて度々改正を加えて、今日に至って居るのであります。それ故に制度としては相当に完備して居りまして、之を何れの文明国の制度に比べても決して遜色はないのであります。故に問題は制度の改革と云うよりか、寧ろ此制度を運用する人である(拍手)
人が役に立たねば如何に制度の改革をした所が、決して其実績は挙がるものではないのであります。(拍手)
例えば近頃無任所大臣を新設すると云う議論があるようでありまするが、是等のことも畢竟するに是までの大臣が役に立たぬからであります。内閣大臣たるものは一方に於ては行政長官として、他の一方に於ては国務大臣として、大所高所より国家の現状を眺めて、国政燮理の任に当って居りましたならば、現行制度の下に於ては、国務の統一が取れない、予算分捕の弊に堪えない、斯う云う理由を以て新に無任所大臣を置くなどと云う議静が出て来る訳はない。御覧なさい、今日の制度に於きましても、総理大臣は内閣の首班して国務を統一するに足るべき権限を完全に握って居るのであります。
試に内閣官制を見ますると云うと、其第二条に於きまして、内閣総理大臣は各省大臣の首班として、行政各部の統一を保持す。又第三条に於きましては、内閣総理大臣は須要と認むるときは、行政各部の処分又は命令を中止せしむることを得、内閣総理大臣は現内閣官制に於て、是だけの権限を授けられて居るのであります。それで国務の統一が取れないと云うならば、それは制度の罪ではなくして、全く総理大臣其人の罪である。(拍手)
或は予算分補の弊に堪えない、予算の争奪戦をやる、何んたる事であるか、毎年予算編成の時期になりますると云うと、斯の如き醜態を暴露するのは何が故であるか、畢竟するに政府の政策が決まらない、政治止の大方針が決まらないからである、若し政治上の大方針が決まって居りまするならば、各省大臣が勝手気儘に予算の要求を為すべき訳はない。是等の弊害は現行制度の運用に依って、如何様にも芟除することが出来るのであります。況や立憲政治は何処迄も責任政治でなくてはならぬ、内閣が政治の中心となって、全責任を負うて国政燮理の任に当る、若し力が足らないならば、其職を去るのみであります。
然るに此道理を弁えずしては動もすれば自己の無能無力を補うが為に種々の工作をやる、畢竟するに弱体内閣の慣用手段でござりまして(笑声)
憲政の本義を紊り、人の為に官職を設け、国政を玩弄するの甚しきものでありまするからして(拍手)
大いに戒めねばならぬのであります。御断りを致して置きまするが、私は決して制度の改革に反対をする者ではない、改革すべき必要があるならば、速に改革をしなくてはならぬのでありまするが、唯近頃の改革熱に浮かされて、何か改革をしなくては面目が立たない、改革の名を得るが為に、強いて不自然なる改革をすることに付ては、私共は断乎として反対をするのであります。(拍手) 
実際政治改革の経論如何
次は実際政治の改革に関することでございまするが、是は極めて広汎に亙って重大なる問題でございまするが、此実際政治の改革に付て広田首相はどう云う経論を持って居られるのであるか、広田首相の声明を見ますると、旧来の積弊を芟除し、秕政を一新すると云うことでありまするが、若し旧来の政治に積弊があり、又秕政がありとするならば、前両内閣に歴任せられた所の広田首相の如きも、亦確に其責任の一端を負わねばならぬのでありまするが、私はそう云う責任論は決して致さないのであります。
唯広田首相が認めて以て積弊と称し、又秕政と称するものは、主にどう云う点を指して居らるるのであるか(「そうそう」と呼ぶ者あり、拍手)
何処を目標とし何処を狙って居るのであるか、是が明にならねば、如何に自ら苦心焦慮せられた所が、如何に駄馬に鞭打たれた所が、到底改革の実績を挙ぐることが出来るものではないのであります。(拍手)
今日政治問題として最も重きを置かれて居る所のものは、言う迄もなく国防と財政でございまするが、国の内外を見渡しますると云うと、政府が改革の大斧鉞を揮わねばならぬ所のものは、中央地方を通じて、大小共に算えることの出来ない程沢山あるのであります。例えば学制改革、昔々は随分と長い間学制改革を聞かされて居りまするが、今以て実行が出来て居らぬ、文部大臣は是まで口に学制改革を宣伝する。或は其実行に手を著けたことがありますけれども、悉く失敗に帰して居る。
御承知でもござりましょうが、学制改革は今日世界文明国に於て最も重大なる問題となって居るのであります、それは何処から来て居るかと云うと、詰り欧羅巴戦争から来て居る、欧羅巴戦争は十九世紀の文明、即ち旧文明、旧文化を根低から破壊し去って、其の欠陥と其弊害が遺憾なく暴露せられて居る、如何にして之を立直すことが出来るかと各国の識者、政治家が研究努力致した結果、其根本問題として一決致したる所のものは即ち教育方針の改革であるのであります。文化の立直しは教育の立直しであると云うことに一決して、其中独逸の如きは三年を出でざる中に学制改革を断行した、殊に近時「ナチス」の政治の時代に至りましてから、一層青年教育にカを尽して、御承知の通りに青年の労働奉仕団と云うが如き特色を発揮して居ることは、世界周知の事実であるのであります。
是は独逸ばかりではない、其外英吉利でも、仏蘭西でも、伊太利でも、欧羅巴の諸国は悉く―其国情に依って教育の精神と内容は違いますけれども、何れも独逸と相前後して学制改革を断行して、青年の教育に向って最も力を注いで居ることは御承知の通りである。然るに我国の教育は如何なるものであるかと云うと、相変らず旧式教育を追うて居って、所謂過度の詰込主義に偏して、精神主義、人格主義を殆ど無視して居る、是が為に甚しきに至っては青年の教育までも害して中途に倒れる者がどれだけあるか分らぬ、斯う云う無理解なる、斯う云う時代遅れの教育を施して居りながら、是等の青年に向って将来の日本を背負って立てよ、所謂躍進日本の運命を担えと迫った所で、是が出来ることか出来ないことか、考える迄もないことである。
昨日文部大臣は此処に於て従来の学問偏重の教育を廃して、人格主義の教育を施すと言われた、是は私も同感でありまするが、斯う云うことは、歴代の文部大臣からして度々聴いて居るのでありまするが、是が実行出来ぬ、学制改革と云うような大問題は、微々たる一大臣の力を以て出来るものではない(笑声)
内閣全体政府全体の圧力を以て、之に向はなければ(「謹聴」と呼ぶ者あり)
何時迄経っても是は解決することが出来ないと思うがどうであるか。
或は裁判権の運用、是は、前の議会に於きましても一言述べたことでありますが、それは何であるかと云うと、我が日本の裁判が非常に遅れることであります。凡そ世界文明国に於て我国の裁判程甚しく遅延する処はない、欧羅巴諸国の裁判がどう云う工合になって居るかと云うことは、時々現われる所の外国電報に依っても分るのであります。前年亜米利加の大統領が狙撃せられた、幸に傷は負わなかった、或は墺太利の総理大臣が暗殺せられた、又近くは亜米利加の社会を聳動せしめた所の彼の「リンデー」の小児殺害事件、斯う云う事件でも犯人が発覚するや否や、一二週間を出でずして死刑の宣告をして、直ちに執行してしまうのであります。
然るに我国の裁判はどうであるかと云うと、例えば天下知名の士が或処に於て殺害せられた、犯人は其場に於て捕えられた、犯罪の証拠は極めて歴然たるものがあるに拘らず、二年も三年もしないと云うと、一審の裁判すら済まないのである。或る政治家の涜職事件の如きは八年懸って居るがまだ済まない。斎藤内閣辞職の原因となりました所の彼の帝人事件の如きも、其後二年有余になりますけれども、まだ一審裁判所の事実審理すら済まない。聞く所に依れば是まで百回以上の事実審理をやって、是からまだ二百回以上の事実審理、前後合せて三百回以上事実審理をやるにあらざれば、一審の判決を下すことが出来ないと云うが如き、吾々の常識を以てしては想像することが出来ないのであります。
斯う云う裁判のやり方をして居って、どうして時代の要求に応ずることが出来るか(拍手)
どうして此大切なる所の人権自由を保護することが出来るか、若し裁判の手続が複雑でありますならば、是は速に改めて簡易にするが宜しい、裁判官の数が足りない、金が無いと云うならば、金を要求し、又政府は金を出せば宜しいのであります。或方面に於てはどしどし金を出すが、国民の大切なる所の人権自由を保護する此裁判所に於て、金が出せない訳はないのである。(拍手)
或は又近頃各地に於て人権蹂躙の問題が起って居りますが、其事実を聞きますと、実に驚くべきものがある、所謂粛正選挙、選挙取締を励行することは極めて宜い事でありますが故らに……(「内務大臣どうした」「大臣の出席を求めます」と呼ぶ者あり)
犯罪を製造するが為に法規を濫用して、濫りに人民の自由を拘束する、人民の自由を拘束するばかりではない、強いて虚偽の自白を求むるが為に之を虐待し、之を拷問し、或は人身に傷を負わせ甚しきに至っては拷問の結果、良民を死に至らしめたものがある(拍手)
何たる野蛮の行為でありましょう(「政務官は居りますか」と呼ぶ者あり)
苟も立憲政治の下に於きまして、殊に昭和の聖代に於てはあり得べからざる事であります、何れ此事は他の機会に於て吾々の同僚より、証拠を示して論争せられることと思いますから、私は此以上は申しませぬが、是等のことに付きましても、政府当局は真剣に其の事実を調査して、従来の弊害を一掃することに努める大責任を担って居るのであります。
是は唯一二の例を示したのに過ぎないのでありますが、今日司法及び行政の行われます所の実際の有様を見ますと、斯の如き事例は天下到る処に累々として横わって居るのである、此の積弊を根抵より洗去ってしまうと云うのが、即ち政治革新の要諦であるのであります、時代の要求に応じて革新政治を標榜して起たれたる所の広田首相に於かれましては、無論今日の政治状態に付ては十分なる御理解があるには相違ありませぬが、此実際政治の改革に付て、どう云う考を持って居られるのであるか、細かしいことは必要ありませぬが、大体の抱負経論だけを伺って置けば宜しいのであります。 
不動の国策を樹立せよ
次に国策の樹立に対して御尋ねを致したいと思う、広田首相の声明の中には、確乎不抜の国策を樹立して以て之を実現する、近頃国策と云う言葉が流行って居りまするが、一方に政策と云う言葉がある。国策と政策とはどう違うのであるか、甚だ曖抹に用いられて居りまするが、私は今日言葉の詮議立ては致さない、併し国策と云う以上は、少くとも日本国家の進むべき大方針であるに相違ない、日本国家の進むべき大方針が、今日に於ても未だ決って居らぬ、是から研究して決めるなどと云うことは、私に取っては甚だ受取れない。
私の観る所に依りますると云うと、国家の進むべき大方針は既に、明に決って居る、遠く遡って見まするならば、明治維新の皇謨に現われて居る所の開国進取、是が即ち日本国家の進むべき大方針でありまして、是が時代の進運に応じて拡張せられたる所のものが、即ち世界の平和と我が民族の発展であるのであります。所が世界の平和と云うことが真に得らるべきものであるかないか、欧羅巴戦争が生み出しました所の国際連盟、世界平和を目的として居る所の国際連明も、国家競争の前には何等の威力も発揮することが出来ない。如何なる条約も力の前には蹂躙せられてしまうことは、昔も今も変りない。
今日国際関係を支配する所のものは、正義の掛声でもなければ、道義の観念でもない、昨日の世界を支配したるものが力であるが如く、今日の世界、明日の世界を支配するものも亦力である。軍縮会議は見事に失敗に帰した。各国は軍備の競争をやって、軍国主義を追うて進んで居る、其の結果どうなるかは推して知るべきのみであります、私は昨年此処に於て欧羅巴の空には微かに戦雲の閃が見えると申しましたが、今日は戦雲の閃どころではない、既に欧羅巴の一角に於ては戦争が勃発して、今や将に終結を告げんとして居る、戦争が始まれば、所謂弱肉強食、正義や人道の声は露程の効目もない、来年の此頃にはどう云う事が起って居るか分らぬ、故に私共は世界の平和などと云うようなことは、中々未だ期待して居らないのであります。
吾々の望む所のものは広き世界の平和ではなくして其の一部でありまする所の此東亜の平和である、東亜の平和を維持することは、我が日本帝国の大方針であり、又大使命であり、又責任であるのであります。歴代の政府も此処に於て屡々其趣意を述べて居る、広田首相も外務大臣として度々此壇上に於て力説せられて居るのであります。所が東亜の平和が真に得らるべきものであるかないか、東亜の平和を維持する所の根拠が今日大磐石に確立して居るのであるか否や、之を私は疑うのである。
吾々は近頃満蒙の国境或は其他の処に於て時々起りまする所の、彼の局部的の、又断片的の事件、斯う云うものに重きを置くものではない。斯の如き事件は其場限り、如何様にも解決することが出来るでありましょうが、之を大局の上から見まして、東亜の平和を保持する所の外交上の大工作が行われて居るのであるか否や、之を私は聴きたいのであります。広田首相は自主的、積極的外交と云うことを云って居られまするが、我国の外交が自主的でなくてはならぬことは当然であります。積極的であると云う所に、相当の期待が掛けられて居るのであります。
然るに今日吾々が東亜の天を眺めますると云うと、東亜の天は極めて静かであって、且つ明朗であると云う感じが起らない、現に広田首相も昨日此処に於て東亜の天は明朗を欠くと云うことを言うて居られるのであります。広田首相が斯く申さるるのでありますから是は疑いない、何れにするも今日は逡巡躊躇して居るべき秋ではない。所謂曠日弥久、日を曠しくして久しきに弥るべき秋ではない、大悟一番百年平和の基礎に向って積極的に外交上の大工作を施すべき秋ではないか。
而して外交上の工作は必ずや事実の上に現われて来なくてはならぬ。外交上の工作が事実の上に現れると云うことはどう云うことであるかと云うと、詰り国防計画の変更であるのであります。一方に於ては軍備の競争をなして居りながら、他の一方に於て外交上の工作成功せりと言うものは悉く偽りである(ヒヤヒヤ)
吾々はそう云う虚偽の外交を望まない、そう云う姑息的な、そう云う弥縫的な外交を望まない。吾々の望む所のものは真実の外交である、精神的なる徹底せる外交であって、其の外交の結果が事実の上に於て現われて来なけれはならぬ、是以外に昔々の望む所の外交の何物もないのであります。
然るに一方に於て軍備の競争をやる、彼が軍備を拡張すれば我も亦拡張する、我が拡張すれば彼も亦拡張する、彼が或る地点に防備を整えれば我も亦之に対抗する、斯う云う勢を以て進んで居りましたならば末はどうなるものであるか、其結果は推して知るべきのみである、国策の樹立を声明して、是が実現を期すると言われた所の広田首相に於きましては、此刻下の重大問題に付て、更に一歩を踏み出さるべきでないか、之を私は伺って置きたいのであります。
尚お民族の発展及び国民生活等のことに付きまして御尋を致したい事でございますが、他の問題に付て御尋をする必要から、総理大臣に対する質疑は之を以て一時中止を致しまして、是より軍部大臣に向って御尋をして見たいことがあるのであります。 
軍人の政治関与は不可
二月二十六日帝都に起りました所の、彼の叛乱事件の経過に付きましては、昨日公開及秘密会を通じて、陸軍大臣より詳細の御説明があり、又之に対して吾々の同僚より質疑がございまして私は謹んで之を拝聴して居ったのであります。然る所私白身の立場から申しますと、平素考えて居りますることに付て、どうしても少し聴かねばならぬことがある。此の機会を逸すると更に他の機会を掴むことは甚だ困難でありまするから、今少しく時間を拝借致しまして、極めて大要に亙って此関係に於て質問することを許されたいのであります。
御断りして置きまするが、私は今回の事件の為に、苟且にも軍に対して反感を懐く者ではない。又軍部大臣を指弾せんとする者でもない。殊に寺内陸軍大臣は此事件の跡始末をするが為に、又斯る事件を未来永久根絶するが為に、苦心努力して居られることは、十分知って居るのであります。又或る一部の人々が妄想する如く、吾々は之に依って苟且にも反軍思想を鼓吹するとか、或は軍民離間を策するとか云うような、そう云う邪念は一切持って居らないのであります。唯国家の将来に対して聊か憂うるの余り、敢て質問を致すのでありますから此点は誤解なからんことを予め御断りして置きます。
凡そ何事に拘らず此の世に現われます所の事件の原因を質して見ますると、遠きものもあれば近きものもある。所謂近因もあれば遠因もあるのでありまして、之を遡って究めますると、全く際限のないことでござりまするが、今回の事件の如きもそれと同様でござりまして、此事件が由って起りました所の原因を調べて見ますれは、現在の政治上、社会上、経済上、其外諸般の事情が伏在して居るに相違ござりませぬが、私は今回是れ等の事情を吟味するだけの時は持たないのでありますから、此事件の比較的直接の原因として認むべき二三の事実を指摘して、之に対して陸軍大臣の御答を求めて見たいと思うのである。
其の第一は何であるかと云うと、軍人の政治運動に関することであります(拍手)
満洲事件は国の内外に亘って非常な影響を及ばして居ることは、今更申す迄もないことでありまするが、其中に置きまして、青年軍人の思想上に於きましても或変化を与えたものと見えまして、其後軍部の一角、殊に青年軍人の一部に於きましては、国家改造論の如きものが台頭致しまして、現役軍人でありながら、政治を論じ政治運動に加わる者が出て来たことは、争うことのできない事実である。
此傾向に対して是まで軍部当局はどう云う態度を取って居られるのであるか、之を私は聴かんと欲するのであります。申す迄もなく軍人の政治運動は上御一人の聖旨に反し、国憲、国法の厳禁する所であります。彼の有名なる明治十五年一月四日、明治大帝が軍人に賜りました所の御勅諭を拝しましても、軍人たる者は世論に惑わず、政治に拘らず只々一途に己が本分たる忠節を守れと仰出だされて居る。聖旨のある所は一見明瞭、何等の疑を容るべき余地はないのであります。
或は帝国憲法の起草者でありまする所の故伊藤公は、其憲法義解に於てどう云うことを載せて居られるかと云うと
「軍人は軍旗の下に在て軍法軍令を恪守し専ら服従を以て第一義務とす故に本章に掲くる権利の条規にして軍法軍令と相抵触する者は軍人に通行せず、即チ現役軍人は集会結社して軍制又は政治を論ずることを得ず。政事上の言論著述印行及請願の自由を有せざるの類是なり」
又陸軍刑法、海軍刑法に於きましても、軍人の政治運動は絶対に之を禁じて、犯したる者に付ては三年以下の禁錮を以て臨んで居る。又衆議院議員の選挙法、貴族院多額納税議員互選規則を見ましても、現役軍人に対しては、大切なる所の選挙権も被選挙権も与えて居らないのであります。
斯の如く軍人の政治運動は上は聖旨に背き国憲国法が之を厳禁し、両院議員の選挙被選挙権までも之を与えて居らない、是は何故であるかと言へば、詰り陸海軍は国防の為に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ、それ故に軍人の教育訓練は専ら此方面に集中せられて、政治・外交、財政、経済等の如きは寧ろ軍人の知識経験の外にあるのであります。加之若し軍人が政治運動に加わることを許すと云うことになりますると云うと、政争の末遂には武力に愬えて自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢でありまして、事茲に至れば立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありますからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります(拍手) 
純真なれど単純なる思想
殊に青年軍人の思想は極めて純真ではございまするが又単純である、それ故に是等の人々が政治に干渉すると云うことは、極めて危険性を持って居るものであります。私は前年彼の五・一五事件の公判筆記を読み、又自ら公判を傍聴致しまして、痛切に其感を深くした者であるのであります。有体に申しますると云うと、法廷に於ける被告人等の態度は、極めて堂々たるものであったのであります。犯罪の動機、犯罪の事実を何等包み隠さずして陳述する所は、流石青年軍人の面目実に躍如たるものがあったのであります。
是は固より彼等の為したる事が決して破廉恥的の性質を有するものではなく、一に国家社会を思う所の熱情より迸りたる、所謂憂国慨世の国士的の行動でありまするからして、内に顧みて自ら疚しき所はないのみならず、難に臨んで卑怯千万の振舞をしてはならない軍人精神の発露としては当然のことであるのであります。併しながら惜しむべきことは、如何にも其思想が単純でありまして、複雑せる国家社会を認識する所の眼界が如何にも狭隘であることである。それは其筈でありましょう。彼等は何れも二十二、三から三十才に足りない所の青年でございまして、軍事に関しては一応の修養を積んで居るには相違ありませぬが、政治、外交、経済等に付きましては、無論基礎的学問を為したることはなく、況や何等の経験も持って居らないのである。
然るに是等の青年軍人が平素無責任にして誇張的でありまする所の言論機関の記事論説を読み、或は怪文書の如きものを手にする、或は一部の不平家、一部の陰謀家の言論に耳を傾け、或は処士横議の士と交わり、或は世の流言蜚語を信じて、如何なる考を起したかと云うと、今日の政党、財閥、支配階級は悉く腐敗堕落して居る、之を此儘に放任して置いたならば国家は滅亡してしまう、之を救うには彼の大化の革新に倣うて、日本国家の大改造をやるより外に途はない。従来の外交は軟弱である、倫敦条約は屈辱である、天皇親政、皇室中心の政治を行わねばならぬ、是が為には軍人内閣を捧へ拵ねばならぬ、直接行動に愬えねばならぬ。犯罪の動機は何であるかと問わるると、権藤某の自治典範を読んで感動した、北某の日本改造法案を読んで感激した、朝日某の斬好状を読んで刺戟された、其思想の単純であることは思い知らるるのであります。
それでありまするから公判廷に於ける彼等の陳述を聴いて居りますると、悉く不徹底なことばかりであって、要点に達しているものは何等認めることは出来ない。例えば倫敦条約は統帥権の干犯であると云うことを言うて居りますが、憲法上から見て何処が統帥権の干犯になるかと云うことは少しも究めて居らぬ、天皇親政、皇室中心の政治と云うようなことを言うが、一体どう云う政治を行わんとするのであるかと云うと、さっぱり分って居らぬ。
唯或者が今日の政党、財閥、支配階級は腐って居ると言うと、一図に之を信ずる、倫敦条約は統帥権の干犯であると云うと、一図に之を信ずる、国家の危機目前に迫る、直接行動の外なしと言えば、一図に之を信ずる、斯の如くにして、軍人教育を受けて忠君愛国の念に凝り固まって居りまする所の直情径行の青年が、一部の不平家、一部の陰謀家等の言論を其儘鵜呑みにして、複雑せる国家社会に対する認識を誤りたることが、此事件を惹起すに至りたる所の大原因であったのであります(拍手)
それ故に青年軍人の思想は極めて純真ではありまするが又同時に危険であります。禍の本は総て此処から胚胎して居るのでありますから、此の思想を一洗するにあらざれば、将来の禍根を芟除することは到底申来ないと思って居りますが(拍手)
陸軍大臣は此点に付てどう云う考を持って居られるのであるか、之を一つ承って置きたいのであります。 
事件と軍部当局の処置
それから次は是等の青年軍人の思想が或は陰謀となり、或は直接行動となって世に現われた其行動に対する軍部当局の態度であります。第一は昭和六年に現われた所の所謂三月事件、第二は同年に現われました所の十月事件、此事件の内容は申しませぬが、事件の性質其ものは、其後に現われた所の五、一五事件及び今回の叛乱事件と同一のものでありまして同一の系統に属するものであるのであります。然るに此両事件に対し、軍部当局は如何なる処置を執られたかと云うと、之れを闇から闇に葬ってしまって、少しも徹底した処置を執って居られないのであります。(拍手)
凡そ禍は之を初に断切ることは極めて容易であります。容易であると同時に、将来の禍を防ぐ唯一の途であるに拘らず、之を曖昧の裡に葬り去って、将来の禍根を一掃することが出来ると思う者があるならば、それは非常なる誤であるのであります。昔の諺にも寸にして断たざれは尺の憾あり、尺にして断たざれば丈の憾あり、仮令一本と雖も之を双葉のときに伐取ることは極めて容易でありますが、其根が深く地中に蟠居するに至っては、之を倒すことは中々容易なことではない。
彼の頼山陽が、中古政権が武門に帰したる其原因を論じて、歴代朝廷が源平二氏に対する所の姑息倫安優柔不断の態度を指摘して、異日搏噬壊奪の禍此に基くを知らずと喝破して居るが、事柄は違いますけれども、道理は同じであります。若し彼の三月事件に付て、軍部当局が其原因を芟除して、所謂抜本塞源の徹底的の処分をせられたならば必らずや十月事件は起らなかっに相違ない(拍手)
又遅れたりと雖も、十月事件に付て同様の処置をせられたならば、後の五・一五事件は必ず起らなかったに相違ない(拍手)
此の両事件に対する軍部の態度が延いて五・一五事件を惹起するに至った大なる原因の一つであると私は考えて居る。
更に進んで、五・一五事件に対する態度であります、苛も軍人たる者が党を結んで白昼公然総理大臣の官邸に乱入し天皇陛下の親任せらるる所の一国の総理大臣を銃殺する、国を護るが為に授けられたる所の兵器を以て、国政燮理の大任に当って居ります所の、国家最高の重臣を暗殺する、其罪の重大であることは固より申す迄もないことであります。(拍手)
然るに此重大事件に対して、国家の裁判権は遺憾なく発揮せられて居るのであるか。
当時海軍軍法会議に於きまして、山本検察官は畢生の力を揮うて堂々数万言の大論告を為した、即ち事件の重大性と、直接行動の許すべからざることを痛論して、動機の如何に拘らず国法を破ることは出来ない、軍紀は乱すことは出来ない、軍紀を紊り国法を破りたる者に対しては、法の命ずる制裁を加うることは国家の存立上万已むを得ないと論じて、其首魁と目せらるる三名に対して死刑の要求を為したのであります。(「ヒヤヒヤ」拍手)
海軍刑法に依りますと、叛乱罪の首魁は死刑に処す、死刑一途でありまして選択刑は許されて居らないのであります。
然るに此論告に対して如何なる事態が現われたかと云うと、或る一部に於きましては猛烈なる反対運動が起った。監督の上司は之を抑制する所の力がない、山本検察官の身上には刻一刻と危険が迫る、多数の憲兵を以って検察官の住宅を取巻いて之を保護する、家族一同は遠方に避難する、斯う云う事態の下に於て、裁判の独立、裁判の神聖がどうして維持することが出来るか(拍手)
果せる哉裁判の結果を見ますると、死刑の要求が十三年と十五年の禁錮と相成って居ります。軽きは一年二年の懲役に処せられて而も執行猶予の宣告が附いて居るのであります。
然るに同じ事件に関係して居ります所の民間側の被告に対してどう云う裁判が下されて居るかと見ますると、彼等は固より犬養首相の殺害の手を下したるものではない、唯或る発電所に爆弾を投じたけれども、是は未発に終って何等の結果を惹起して居らない、それにも拘らず、其首魁は無期懲役に処せられて居るのであります(拍手)
同じ事件に連累して其為したる役目は違うと雖も、或者は一国の総理大臣を殺害したるにも拘らず、其人が軍人であり、且つ軍事裁判所に管轄せらるるが為に、比較的軽い刑に処せられ、或者は僅に発電所に未発の爆弾を投じただけであるにも拘らず、其人が普通人であり、普通裁判所の管轄に属する者であるが故に、重き刑罰に処せられた。
申す迄もなく司法権は、天皇の御名に依って行われるのであります。天皇の御名に依って行われる裁判は徹頭徹尾独立であり、神聖であり、至公至平でなければならないのであります。然るに人と場所に依って裁判宣告に斯の如き差等を生ずる、是で国家裁判権が遺憾なく発揮せられたりと言うことが出来るか、是で刑罰の目的であります所の犯罪予防の効果を完全に収めることが出来るか、軍務当局者は真剣に考えなければならぬ所の重大問題であるのであります(拍手)
要するに斯の如き次第でありまして、三月事件に対する軍部の態度が十月事件を喚び出し、十月事件に対する軍部の態度が五・一五事件を喚び出し、五・一五事件に対する軍部の態度が実に今回の一大不祥事件を惹起したのであると、斯様に私は観察を下して居るのでありますが、若し此観察に過ちがあれば正して戴きたいのであります。(拍手) 
青年将校の背後を衝く
更に今回の事件に対しましては、色々御尋したいことがございますけれども、大体昨日の本会及び秘密会に於ける質問応答に依って分りましたから、唯一点だけ伺って置きたいことがあります。
それは何であるかと云うと、此の事件に関係致しました所の青年将校は二十名であるのであります。公表せられる所の文書に依ると二十名である、所が此以外により以上の軍部首脳者にして此事件に関係して居る者は一人も居ないのであらうか。(拍手)
固より事件に直接関係はして居らぬでありましょう、併しながら平素是等の青年将校に向って或る一種の思想を吹込むとか、彼等が斯る事件を起すに当って、精神上の動機を与えるとか、或は斯る事件の起ることを暗に予知して居る、或は俗に謂う所の裏面に於て糸を引いて居る、斯う云う者は一人もなかったのであるか。私の観る所に依りますると云うと、世間は確に之を疑って居るのであります。
陸軍大臣は過般の地方官会議に於きまして、左様なことを宣伝する者は反軍思想を鼓吹する者である。非国民の軍民離間的態度であると云うて一蹴せられて居りまするが、斯様なことを故ら宣伝する者があるかないか、それは知りませぬ、併しながらそう云う疑を持って居る者は確にあるのであります。而して其疑が無理であるかと云うと、そうでもないのである。
例えば先程引用致しました所の山本検察官の論告に於て、斯う云うことがある
「凡そ事の成るは成るの日に成るに非ず、由って来る所があるのであります、本件も亦其由って来る所久しく、一朝一夕に起ったものではないのであります。被告人古賀清志の当公廷に於ける陳述に依りますれば、古賀は某事件に参加したる経験に依りまして、今回被告人等の企図しましたる、戒厳にして宣告せらるるの情況に立至れる時は、当然、之を収拾して呉れる相当の大勢力の有するものであることを知り云々」
或は
「尚お此機会に於て一言して置きたいことは、部下指導に関する上司の態度に付てであります。此点に関し、本件発生当時某官憲が上司に提出したる意見書中に所見があります、日く、上司中往々彼等の所見に対し、極めて曖昧模糊たる態度を執り、彼等をして上司は其行動を認容し居りたるものの如く誤信せしめたるやの形跡なきに非ず」
「上司たる者、下給者を指導するに際し、明に是は是とし、非はこれを非として、其方向を誤まらざらしむる如く努むることが極めて必要である」
山本検察官が神聖なる法廷に立って、斯の如きことを明言して居る、即ち古賀清志等が彼の五・一五事件を起して、彼等の計画する戒厳を宣告せしめたならば、何れの所よりか大勢力が現われ来て、之を収拾して呉れる、斯う云う確信を以て彼等は旗挙げをしたのである。或は上司たる者は、部下の者に対しては事の是非曲直を明にして、彼等を迷はしめないようにしなくてはならぬに拘らず、言語及び態度の曖昧にして、何となく上司が彼等の行動を容認して居るかの如く誤解せしめて居ると云う事実を、四五年前の五・一五事件の公判に於て山本検察官が既に論じて居るのであります。
故に斯の如き疑を起すと云う者は、唯非国民であるとか、或は軍民離間を策する者であるとか言うて一蹴しただけでは国民の疑は霄れるものではない。(拍手)
若しそう云うことがあったならば、是は極めて重大事件であります。故に事件の跡始末をするに付ては、先以て此方面からして洗い去るにあらざれば、事件の根本的清掃というものは断じて出来るものではないと思うのであります。(「ヒヤヒヤ」拍手) 
立憲君主制こそ国民の進むべき道
以上私が申述べました所のことを約言致しますると云うと、事件の原因は大体二つあります、即ち一つは青年軍人の思想問題である、又一つは事前監督及び事後に対する軍部当局の態度であります、近来青年軍人の一部、極めてそれは一小部分でございましょうが、一小部分の青年軍人の思想が、一種の反動思想に傾いて居ると云うことは事実であります。時々起りまする所の事件の原因及び国民不安の原因は実に茲にあるのである。
元来我国民には動もすれは外国思想の影響を受け易い分子があるのであります、欧羅巴戦争の後に放て「デモクラシー」の思想が旺盛になりますると云うと、我も我もと「デモクラシー」に趨る、其後欧州の一角に於て赤化思想が起りますると云うと、又之に趨る者がある、或は「ナチス」「ファッショ」の如き思想が起ると云うと、又之に趨る者がある、思想上に於て国民的自主独立の見識のないことはお互に戒めねばならぬことであります。(拍手)
今日極端なる所の左傾思想が有害であると同じく、極端なる所の右傾思想も亦有害であるのであります、左傾と云い右傾と称しまするが、進み行く道は違いまするけれども、帰する所は今日の国家組織、政治組織を破壊せんとするものである、唯二つは愛国の名に依って之を行い、他の一つは無産大衆の名に依って之を行わんとして居るのでありまして其危険なることは同じことであるのであります。我が日本の国家組織は建国以来三千年牢固として動くものではない、終始一貫して何等変りはない。又政治組織は明治大帝の偉業に依って建設せられたる所の立憲君主制、是れより外に吾々国民として進むべき道は絶対にないのであります。(拍手) 
軍首脳部の指導方針
故に軍首脳部が宜く此精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間に於て怪しむべき不穏の思想が起る訳は断じてないのである。若し夫れ軍部以外の政治家にして、或は軍の一部と結託通謀して政治上の野心を行わんとするが如き者が若しあるならば、是は実に看過すべからざるものであります。(拍手)
苛も立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治止の争を為すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てる如きは、立憲政治家として許すべからざることである。況や政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是は政治家の恥辱であり堕落であり、(拍手)
又実に卑怯千万の振舞であるのである。此点に付きましては軍部当局者に於きましても相当に注意をせらるる必要があるのではないかと思われる。
其外事前の監督、事後の処置に対しては、私共現寺内陸軍大臣を絶対に信頼して居りまするからして、是等に付て質問をする所の必要はござりませぬが、要するに一刀両断の処置を為さねばならぬ(拍手)
御承知でもござりましょうが、支那の兵法の六韜、三略の中にも
「怒るべくして怒らざれば奸臣起る、殺すべくして殺さざれは大賊現わる」
私は全国民に、私は全国民に代って軍部当局者の一大英断を要望する者であります(拍手) 
二・二六事件に対する国民的感情
尚最後に一言致して置きたいことは、此事件に対する国民の感情であります。此事は各方面の報告に依って、固より軍部当局者は十分に御承知のことでござりましょうが、私の見る所に依りますると云うと、今回の事件に対しては、中央と云わず、地方と云わず、上下有ゆる階級を通じて衷心非常に憤慨をして居ります(拍手)
非常に残念に思って居るのであります。殊に国民的尊敬の的となって居られた所の高橋蔵相、斎藤内府、渡辺総監の如き、誰が見た所が温厚篤実、身を以て国に尽す所の陸下の重臣が、国を護るがため授けられたる軍人の銃剣に依って虐殺せらるるに至っては(拍手)
軍を信頼する所の国民に取っては実に耐え難き苦痛であるのであります。(拍手)
それにも拘らず彼等は今日の時勢、言論の自由が拘束せられて居ります所の今日の時代に於て、公然之を口にすることは出来ない。僅に私語の間に之を洩し、或は目を以て之を告ぐる等、専制武断の封建時代と何の変る所があるか。(拍手)
啻にそればかりでない、例えば今回叛乱後の内閣組閣に当りましても、事件に付て重大なる所の責任を担うて居られる所の軍部当局は、相当に自重せられることが国民的要望であるにも拘らず、或は其々省内には政党人入るべからず、其々は軍部の思想と相容れないからして之を排斥する。最も公平なる所の粛正選挙に依って国民の総意は明かに表明せられ(拍手)
之を基礎として政治を行うのが明治大帝の降し賜いし立憲政治の大精神であるに拘らず(拍手)
一部の単独意志に依って国民の総意が蹂躙せらるるが如き形勢が見ゆるのは、甚だ遺憾千万の至りに堪えないのであります。(拍手)
それでも国民は沈黙し、政党も沈黙して居るのである。併ながら考えて見れば、此の状態が何時まで続くか、人間は感情的の動物である、国民の忍耐力には限りがあります。私は異日国民の忍耐力の尽き果つる時の来らないことを衷心より希望するのであります。(拍手)
満洲事件以来、国の内外に非常な変化が起りまして、世は非常時であると唱えられて居るのであります。此非常時を乗切る物は如何なる力であるか、場合に依っては軍隊の力に依頻せねばならぬ。併しながら軍隊のみの力ではない、又場合に依っては銃剣の力に保たねばならぬ、併し銃剣のみの力ではない、上下総ゆる階級を通じて一致和合したる全国民の精神的団結力(拍手「ヒヤヒヤ」)
是より外に此難局を征服する所の何物もないのであります。(拍手)
因より軍部当局は是位なことは百も千も御承知のことでござりましょうが、近頃の世相を見ますると云うと、何となく或る威力に依って国民の自由が弾圧せられるが如き傾向を見るのは、国家の将来にとって何に憂うべきことでありますからして(拍手)
敢て此一言を残して置くのであります。
重ねて申しまするが吾々が、軍を論じ軍政を論ずるのは即ち国政を論ずるのであります、決して是が為に軍に対して反感を懐くのではない、軍民離間を策する者でもなければ、反軍思想を鼓吹する者でありませぬからして、此誤解は一切除去せられて、時々起る所の――時々軍部の一角から起る所の反軍思想であるとか或は軍民離間であるとか云うような言辞に付ては、将来一層の御注意ありたい(拍手)
私の質問は大体是位でございまするが、忌憚なく詳細に御答弁あらんことを希望致します。(拍手) 
 
淮南子「墬形訓」 (地形訓)

 

(えなんじ) 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(BC179-BC122)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
巻四墬形訓(地形訓) / 八紘一宇の由来。『日本書紀』神武天皇のことば「掩八紘而爲宇」に「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」が引用された。 
墬形之所載,六合之間,四極之內,照之以日月,經之以星辰,紀之以四時,要之以太歲,天地之間,九州八極,土有九山,山有九塞,澤有九藪,風有八等,水有六品。 
何謂九州?東南神州曰農土,正南次州曰沃土,西南戎州曰滔土,正西弇州曰並土,正中冀州曰中土,西北台州曰肥土,正北泲州曰成土,東北薄州曰隱土,正東陽州曰申土。 
何謂九山?會稽、泰山、王屋、首山、太華、岐山、太行、羊腸、孟門。何謂九塞?曰太汾、澠厄、荊阮、方城、肴阪、井陘、令疵、句注、居庸。何謂九藪?曰越之具區,楚之雲夢澤,秦之陽紆,晉之大陸,鄭之圃田,宋之孟諸,齊之海隅,趙之钜鹿,燕之昭餘。 
何謂八風?東北曰炎風,東方曰條風,東南曰景風,南方曰巨風,西南曰涼風,西方曰飂風,西北曰麗風,北方曰寒風。 
何謂六水?曰河水、赤水、遼水、K水、江水、淮水。 
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里,水道八千里,通穀其名川六百,陸徑三千里。禹乃使太章步自東極,至於西極,二億三萬三千五百里七十五步。使豎亥步自北極,至於南極,二億三萬三千五百里七十五步。凡鴻水淵藪,自三百仞以上,二億三萬三千五百五十裏,有九淵。禹乃以息土填洪水以為名山,掘昆侖虛以下地,中有搶驪繽d,其高萬一千里百一十四步二尺六寸。上有木禾,其修五尋,珠樹、玉樹、琁樹、不死樹在其西,沙棠、琅玕在其東,絳樹在其南,碧樹、瑤樹在其北。旁有四百四十門,門間四裏,里間九純,純丈五尺。旁有九井玉,維其西北之隅,北門開以內不周之風,傾宮、旋室、縣圃、涼風、樊桐在昆侖閶闔之中,是其疏圃。疏圃之池,浸之黃水,黃水三周複其原,是謂丹水,飲之不死。河水出昆侖東北陬,貫渤海,入禹所導積石山,赤水出其東南陬,西南注南海丹澤之東。赤水之東,弱水出自窮石,至於合黎,餘波入於流沙,絕流沙南至南海。洋水出其西北陬,入於南海羽民之南。凡四水者,帝之神泉,以和百藥,以潤萬物。 
昆侖之丘,或上倍之,是謂涼風之山,登之而不死。或上倍之,是謂懸圃,登之乃靈,能使風雨。或上倍之,乃維上天,登之乃神,是謂太帝之居。扶木在陽州,日之所曊。建木在都廣,眾帝所自上下,日中無景,呼而無響,蓋天地之中也。若木在建木西,末有十日,其華照下地。 
九州之大,純方千里,九州之外,乃有八殥,亦方千里。自東北方曰大澤,曰無通;東方曰大渚,曰少海;東南方曰具區,曰元澤;南方曰大夢,曰浩澤;西南方曰渚資,曰丹澤;西方曰九區,曰泉澤;西北方曰大夏,曰海澤;北方曰大冥,曰寒澤。凡八殥八澤之雲,是雨九州。 
八殥之外,而有八紘,亦方千里,自東北方曰和丘,曰荒土;東方曰棘林,曰桑野;東南方曰大窮,曰眾女;南方曰都廣,曰反戶;西南方曰焦僥,曰炎土;西方曰金丘,曰沃野;西北方曰一目,曰沙所;北方曰積冰,曰委羽。凡八紘之氣,是出寒暑,以合八正,必以風雨。 
八紘之外,乃有八極,自東北方曰方土之山,曰蒼門;東方曰東極之山,曰開明之門;東南方曰波母之山,曰陽門;南方曰南極之山,曰暑門;西南方曰編駒之山,曰白門;西方曰西極之山,曰閶闔之門;西北方曰不周之山,曰幽都之門;北方曰北極之山,曰寒門。凡八極之雲,是雨天下;八門之風,是節寒暑。八紘、八殥、八澤之雲,以雨九州而和中土。 
東方之美者,有醫毋閭之c玗h焉;東南方之美者,有會稽之竹箭焉;南方之美者,有梁山之犀象焉;西南方之美者,有華山之金石焉。西方之美者,有霍山之珠玉焉;西北方之美者,有昆侖之球琳、琅玕焉。北方之美者,有幽都之筋角焉;東北方之美者,有斥山之文皮焉;中央之美者,有岱嶽以生五穀桑麻,魚鹽出焉。 
凡地形,東西為緯,南北為經,山為積コ,川為積刑,高者為生,下者為死,丘陵為牡,溪穀為牝。水圓折者有珠,方折者有玉。清水有黃金,龍淵有玉英。土地各以其類生,是故山氣多男,澤氣多女,障氣多喑,風氣多聾,林氣多癃,木氣多傴,岸下氣多腫,石氣多力,險阻氣多癭,暑氣多夭,寒氣多壽,穀氣多痹,丘氣多狂,衍氣多仁,陵氣多貪。輕土多利,重土多遲,清水音小,濁水音大,湍水人輕,遲水人重,中土多聖人。皆象其氣,皆應其類。故南方有不死之草,北方有不釋之冰,東方有君子之國,西方有形殘之屍。寢居直夢,人死為鬼,磁石上飛,雲母來水,土龍致雨,燕雁代飛。蛤蟹珠龜,與月盛衰,是故堅土人剛,弱土人肥,壚土人大,沙土人細,息土人美,毛土人醜。食水者善遊能寒,食土者無心而慧,食木者多力而𡚤,食草者善走而愚,食葉者有絲而蛾,食肉者勇敢而悍,食氣者神明而壽,食穀者知慧而夭。不食者不死而神。 
凡人民禽獸萬物貞蟲,各有以生,或奇或偶,或飛或走,莫知其情,唯知通道者,能原本之。天一地二人三,三三而九,九九八十一。一主日,日數十,日主人,人故十月而生。八九七十二,二主偶,偶以承奇,奇主辰,辰主月,月主馬,馬故十二月而生。七九六十三,三主鬥,鬥主犬,犬故三月而生。六九五十四,四主時,時主彘,彘故四月而生。五九四十五,五主音,音主猿,猿故五月而生。四九三十六,六主律,律主麋鹿,麋鹿故六月而生。三九二十七,七主星,星主虎,虎故七月而生。二九十八,八主風,風主蟲,蟲故八月而化。鳥魚皆生於陰,陰屬於陽,故鳥魚皆卵生。魚游于水,鳥飛於雲,故立冬燕雀入海,化為蛤。 
萬物之生而各異類,蠶食而不飲,蟬飲而不食,蜉蝣不飲不食,介鱗者夏食而冬蟄,齧吞者八竅而卵生,嚼咽者九竅而胎生,四足者無羽翼,戴角者無上齒,無角者膏而無前,有角者指而無後,晝生者類父,夜生者似母,至陰生牝,至陽生牡。夫熊羆蟄藏,飛鳥時移。是故白水宜玉,K水宜砥,青水宜碧,赤水宜丹,黃水宜金,清水宜龜,汾水蒙濁而宜麻,泲水通和而宜麥,河水中濁而宜菽,雒水輕利而宜禾,渭水多力而宜黍,漢水重安而宜竹,江水肥仁而宜稻。平土之人,慧而宜五穀。東方川穀之所注,日月之所出,其人兌形小頭,隆鼻大口,鳶肩企行,竅通於目,筋氣屬焉,蒼色主肝,長大早知而不壽;其地宜麥,多虎豹。南方,陽氣之所積,暑濕居之,其人修形兌上,大口決𦚚,竅通於耳,血脈屬焉,赤色主心,早壯而夭;其地宜稻,多兕象。西方高土,川穀出焉,日月入焉,其人面末僂,修頸卬行,竅通於鼻,皮革屬焉,白色主肺,勇敢不仁;其地宜黍,多旄犀。北方幽晦不明,天之所閉也,寒水之所積也,蟄蟲之所伏也,其人翕形短頸,大肩下尻,竅通于陰,骨幹屬焉,K色主腎,其人蠢愚,禽獸而壽;其地宜菽,多犬馬。中央四達,風氣之所通,雨露之所會也,其人大面短頤,美須惡肥,竅通於口,膚肉屬焉,黃色主胃,慧聖而好治;其地宜禾,多牛羊及六畜。木勝土,土勝水,水勝火,火勝金,金勝木,故禾春生秋死,菽夏生冬死,麥秋生夏死,薺冬生中夏死。木壯,水老火生金囚土死;火壯,木老土生水囚金死;土壯,火老金生木囚水死;金壯,土老水生火囚木死。音有五聲,宮其主也;色有五章,黃其主也;味有五變,甘其主也;位有五材,土其主也。是故煉土生木,煉木生火,煉火生雲,煉雲生水,煉水反土。煉甘生酸,煉酸生辛,煉辛生苦,煉苦生鹹,煉咸反甘。變宮生征,變征生商,變商生羽,變羽生角,變角生宮。是故以水和土,以土和火,以火化金,以金治木,木得反土。五行相治,所以成器用。 
凡海外三十五國,自西北至西南方,有修股民、天民、肅慎民、白民、沃民、女子民、丈夫民、奇股民、一臂民、三身民;自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、裸國民、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;自東南至東北方,有大人國、君子國、K齒民、玄股民、毛民、勞民;自東北至西北方,有跂踵民、句嬰民、深目民、無腸民、柔利民、一目民、無繼民。雒棠、武人在西北陬,蛖龍魚在其南,有神二人連臂為帝候夜,在其西南方,三珠樹在其東北方,有玉樹在赤水之上。昆侖、華丘在其東南方,爰有遺玉,青馬、視肉、楊桃、甘樝、甘華,百果所生。和丘在其東北陬,三桑、無枝在其西,誇父、耽耳在其北方。誇父棄其策,是為ケ林。昆吾丘在南方,軒轅丘在西方,巫鹹在其北方,立登保之山,暘谷、榑桑在東方,有娀在不周之北,長女簡翟,少女建疵。西王母在流沙之瀕,樂民、拏閭,在昆侖弱水之洲。三危在樂民西,宵明、燭光在河洲,所照方千里。龍門在河淵,湍池在昆侖,玄耀、不周、申池在海隅。孟諸在沛。少室、太室在冀州。燭龍在雁門北,蔽於委羽之山,不見日,其神人面龍身而無足。後稷壟在建木西,其人死復蘇,其半魚,在其間。流黃、沃民在其北方三百里,狗國在其東。雷澤有神,龍身人頭,鼓其腹而熙。江出岷山,東流絕漢入海,左還北流,至於開母之北,右還東流,至於東極。河出積石。睢出荊山。淮出桐柏山。睢出羽山。清漳出楬戾,濁漳出發包。濟出王屋。時、泗、沂、出臺、台、術。洛出獵山,汶出弗其,西流合於濟。漢出嶓塚。出薄落之山。渭出鳥鼠同穴。伊出上魏。雒出熊耳。浚出華竅。維出覆舟。汾出燕京。衽出濆熊。淄出目飴。丹水出高褚。股出嶕焦山。鎬出鮮於。涼出茅廬、石樑,汝出猛山。淇出大號。晉出龍山結結,合出封羊。遼出砥石,釜出景,岐出石橋,呼沱出魯平,泥塗淵出樠山,維濕北流出于燕。 
諸稽、攝提,條風之所生也;通視,明庶風之所生也;赤奮若,清明風之所生也;共工,景風之所生也;諸比,涼風之所生也;皋稽,閶闔風之所生也;隅強,不周風之所生也;窮奇,廣莫風之所生也。厃生海人,海人生若菌,若菌生聖人,聖人生庶人。凡厃者生於庶人。羽嘉生飛龍,飛龍生鳳皇,鳳皇生鸞鳥,鸞鳥生庶鳥,凡羽者生於庶鳥。毛犢生應龍,應龍生建馬,建馬生麒鹿麟,麒麟生庶獸,凡毛者,生於庶獸。介鱗生蛟龍,蛟龍生鯤鯁,錕鯁生建邪,建邪生庶魚,凡鱗者生於庶魚。介潭生先龍,先龍生玄黿,玄黿生靈龜,靈龜生庶龜,凡介者生於庶龜。暖濕生容,暖濕生於毛風,毛風生於濕玄,濕玄生於羽風,羽風生嬤介,嬤介生鱗薄,鱗薄生暖介。五類雜種興乎外,肖形而蕃。日馮生陽閼,陽閼生喬如,喬如生幹木,幹木生庶木,凡根拔木者生於庶木。根拔生程若,程若生玄玉,玄玉生醴泉,醴泉生皇辜,皇辜生庶草,凡根茇草者生於庶草。海閭生屈龍,屈龍生容華,容華生蔈,蔈生萍藻,萍藻生浮草,凡浮生不根茇者生於萍藻。 
正土之氣也,禦乎埃天,埃天五百歲生缺,缺五百歲生黃埃,黃埃五百歲生黃澒,黃澒五百歲生黃金,黃金千歲生黃龍,黃龍入藏生黃泉,黃泉之埃上為黃雲,陰陽相搏為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于黃海。 
偏土之氣,禦乎清天,清天八百歲生青曾,青曾八百歲生青澒,青澒八百歲生青金,青金八百歲生青龍,青龍入藏生青泉,青泉之埃上為青雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于青海。 
壯士之氣,禦於赤天,赤天七百歲生赤丹,赤丹七百歲生赤澒,赤澒七百歲生赤金,赤金千歲生赤龍,赤龍入藏生赤泉,赤泉之埃上為赤雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合於赤海。 
弱土之氣,禦于白天,白天九百歲生白礜,白礜九百歲生白澒,白澒九百歲生白金,白金千歲生白龍,白龍入藏生白泉,白泉之埃上為白雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于白海。 
牝土之氣,禦于玄天,玄天六百歲生玄砥,玄砥六百歲生玄澒,玄澒六百歲生玄金,玄金千歲生玄龍,玄龍入藏生玄泉,玄泉之埃上為玄雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于玄海。 
准南子地形訓の基礎的研究

 

はじめに
漏友蘭氏はかつて中国の哲学史を大きく二つの時代に分け、経註という中国哲学史上の大きな存在がまだ権威を備えていない時代を子学時代と呼んだ。この子学時代の終りごろには戦国末一秦一漢という政治的騒々しさの申で知的興奮がおこり、さまざまな問題に対する活発な思想活動がみられたのだが、その中には自然そのものを考察の対象とするものもあった。例えば天空・天体への高い関心と深い理解がみられるわけだが、夫と並称される「地」への興味のたかまりと知識の蓄積も進行していった。「史記」貨殖列伝の司馬遷の観点や近年馬王堆三号墓出土の二枚の地図などは、当時の地理的知識の豊かさと合理性とを示すものであるが、また同時に島伝などの思索による宇宙論的世界像の構築も考えられていた。こういつた思想状況の申で、出代初露霜王劉安の命によって作られたという「准南子」には、地理・地形に関する知識・学説を豊富に盛り込んだ地形訓と思う文がある。
地形訓の内容を「准南子」要略訓によってうかがうと次の通りである。
所以窮南北之脩、極東西之広、経山陵之形、区川谷之居、明万物之主、知生類之衆、列国淵廟堂、規遠近聴路。
地の大きさから地形、地上のさまざまの生き物などを記したものとあり、具体的な内容は陰陽・五行の説や海外の異国・神山星斗山の描写などとまことに多彩である。この地理・地形論編集の目的は、先の要略によれば「人をして通廻周備して、動くに物を以ってすべからず、驚くに怪を以てすべからざらしむ」というように「地」に関する知識を提供することであり、それは「終始を言ひて天地四時に明ならざれば、則ち避緯する所を知らず」となるからだという。これはいわば「史記」に収められている「呂氏春秋」の標語「天地万物古今の事を備えたり」をもじれば「地のことを備えたり」というものである。
しかし、従来地理思想・地形論の変遷を解明する資料として珍重されてきた地形訓であるが、これ自体を研究の対象としたものは稀であるように思ケ。これは「准南子」全体にを共通する傾向だが、収められている考えの雑多さや前後の内容のつじつまがあわないことなどが原因となっているのであろう。しかし、ここに収められている知識・学説が地形訓の中でどのような意味・役割ゆを持たされているのかを考えてみると、雑然としバラバラであるようにみえる地形訓にも編集の意図・方法といったようなものがうかがわれるし、また内容的にみていくつかのグループに分けることも可能である。そこで今回は地形訓の文に検討を加えそこにみられる編集の傾向性を考え、あわせて検討の中で気がついた地形訓、ひいては「准南子」の著述の仕方の性格について触れてみたいと思う。
※本文の検討に入る前に、論証の便を図る為に地形訓を十三の節に分けておく。これは、内容的に同じと考えられるものを一グループとしたものだが、便宜的に分けたもので小論の中においてのみのものとする。各節の冒頭部分を挙げる。
地形之所載、六合之間……
中有増城九重、其高万一千里百一十四歩二尺……
九州之大、純方千里……
東方之美者、有轡母聞三三牙瑛焉……
凡地形東西為緯、南北為経……
東方 川谷之所注、日月之所出……
雄勝土、土勝水、・三:
凡海外三十六国。自西北至西南……
維粟武人、在西北阪。硯魚在三三……
江出口山、東流絶漢…… 

では地形訓の本文の検討に入るが、まず第一節から順番に、特に第四節までをやや詳しくみてゆく。
第一節
地形之所載、六合之間、四極之内、昭之以日月、経甘貝星辰、紀之以四時、要之以太歳。
天地之間、九州八極。三三九山、山有心塞、県有九薮、県有八等、水有六品。
何謂九州、東南神州日農土、正南次州日沃土……正東甲州日曜土。
何回九山、会稽、泰山、王屋……孟門。
何謂九塞、日大沿、浬陀、……居庸。
何回九三、日越三具区、楚三雲夢……燕之三余。
何回八風、東北日四三、東方日條風……北方日寒風。
何謂三水、日河水、赤水……三水。
闘四海之内、東西二万八千里、南北二万六千里、水道八千里、通谷六(旧作其牛王下塵改)、名川六百、陸径三千里。
禺夏干太章耳当三極三千二極、二億三万三千五百里七十五歩、早苗亥歩出北極三襟南極、二億三万三千五里七十五歩。
凡節水淵薮自三百侭以上、二億三万三千五百五十里。有九淵。七番以息土、墳洪水、以為名山。、加里三月、以下地。
終りの方は禺の治水伝説を仲立ちとして第二節とつながってしまっているが、だいたい右の部分まででひとまとまりといえよう。
まずはじめの一行は、「地形の位する所」と「地形」という語ではじまり、地と天体・季節などとの関連の深さをのべたもので馬いわば「地とは何か」を書いた地形訓の序文的な部分である。
次に天地の間、大地の上には九つの州・山・塞・沢・八つの風、六つの州があるとして、各々の名称をあげている。
これは地理目録とでもいうべきものだが、この目録は単に山や川の名をあげたというだけではなく、中国の地上の名噛山・名川を収めたということにより地上のことを網羅したとする目録なのである。例として山をみていくと、山としてここに会稽山・泰山などの九つの山があげられているのだが、このことは同時に九つの山をあげることによって山のことは総て書いた、述べきったというものである。つまり、この九山は申国の山の代表なのであり、それ故、「九山」即「中国の全山」なのである。そしてこの九つの山名は実在のものか、空想上のものかに関係なく、おそらく当時山−名山として広く認められていたものを九つあげたものであろう。「九」という数字が先にあって山名を九つ選択したものか、名山と呼ぶにふさわしいものがたまたま九つあったのかということはここではあまり問題ではない。
ともかく地形訓では「山は九山」とされているのである。
このような目録的記述の性格をより明確にするために次の資料をあげておく。
○東方之美者、有雷母間之殉牙赤墨。東南方之美麗、有会稽之竹箭焉。……(第四節)
○崖脊三三其東南方、愛有遺玉……和丘在其東北阪……昆吾在南方……(第九節)
第五節は醤母間山以下岱(泰)山まで九つの山をあげているのだが、その山名で先の「土の九山」と一致しているのは会稽・華山・岱山の三つのみである。詳しくは後で述べることにするが、第五節の九つの山はそれぞれある方角に結びつけられているものであり、方角の象徴としての九山なのである。九といケ数は方角からきたものにすぎず、またここに山のことが書いてあるからといってそれによって「全山」を網羅したというものでもない。また第九節は地誌的に有名な山の名前を列挙したもので、その山の記事がここに収められているというところに意味がある。それ故ある特定の数にこだわる必要ばなく、収録している山の数を増減したところで文全体が成りたたなくなるというものではない。
右の二つの資料と比較すれば「九山」という目録の意味することは明らかであろうが、実は「九山」の持つ目録的、意味というものは「地のこと」全体にも及ぼしうるものである。それは第一節では地のこととして、州・山・塞・沢・風・水の六項目が挙げられているわけだが、このこ乏は同時に、州・山などの六項目が「地のこと」を代表しており、「地のこと」全てを意味しているというものである。つまり、州・山らを収録している地形訓第一節は「地」のことを網羅しているのである。こういつた目録的意味は他の文献の目録的文にもみえるが、次に二つ例をあげておく。
○天有九野、地有九州、土有九山、山田薬量、沢有九薮、風有八等、水嚢六川。
何謂九野、申央日回天、其三角充氏。東方旧蒼天……。
何謂九州、河漢之間為豫州、周也。両河之間為翼州、晋也……。
何謂九山、会稽、太山……。
……(以下、九塞、九三、八風、六水の記述あ.り)……(「呂氏春秋」有理覧)
○両河間日翼州、河南日豫州……三日営州。九州。
魯有大野、晋有大陸(……固有焦諜。十三。,
東陵院、南三三慎、……八陵。(「爾雅」釈地」)
「雨雅」は字書であるが、山のような固有名詞に関しては地名目録的な性格を持つ。釈地篇で・は九州・玉食・幕電といったタイトルのもとに具体的な地名をあげているが、これは州・薮・陵を網羅したものでまた「地のこと」を網羅したというものである。「呂氏春秋」隠逸覧は、地のことについては九州を除く九山・九二・九沢・八風・西水が項目のみならず個々の名称まで一致しており璽、その目録の持つ意味が「准南子」と同じく「網羅」にあろうことは間違いない。ただ有感覧では「天に九野あり」と天上のことも一緒に収められているが、これは「呂氏春秋」では天地のことをひとまとめに有糠雨に書き、「准南子」・では天のことは天文訓に、地のことは地形訓にと分けて書いたものだといえよう。尚、類似する「九州」については後に述べ.る。
では第一節の検討にもどるが、右の地理目録に続いて、四海の大きさ困水道や陸径の総長をあげ、また禺が太章・三三という者に測らせたとして四極の大きさをのべるの爵にまつわる説話的要素を取b除くと£、この部分は中国・大地の大きさ・河川の総長などを記したもので、「いろいろな地の大きさ」をのべようとした為のといえよう。
以上の検討をまとめると、第一節は、
・地の天・四時との関係
・地の物の目録
・地の大きさ
という三点を記述したものであり、どれも地を概括的に述べたものということができよう。
第二節
(毘喬虚)中有増城九重、其高万一千里百一十四歩二尺六寸。
上有大禾、其脩五罪。珠樹玉樹旋樹不死樹在其身、沙業痕耳糞其東、葺草在遡求、碧樹瑠樹在其北。
労有四百四十門。門間四里、門(旧作里間、依三二改)九純、二丈五尺。
労有九三、玉横維其西北阪。北門開、以内不周之風。傾宮阜室。
三三・涼風・奨桐在毘喬間閨直中、是其三半。疏圃異事、浸之黄水。黄水三周。復中原。是銀水、飲之不死。
河水出営喬東北阪、貫渤海、入当所導積石山。赤水出其東南阪、西南注南海丹沢之東。赤水之東、盛事。出自窮石、
至皇祖黎。余波入墨流沙、,絶流沙、南至南海。洋水出其西北阪、入子南海羽民之南。凡細水者、帝之神泉、以和金薬、以潤万物。
毘嵜之丘、或上下之、是謂涼風之山、登之而不死。或一倍之、是心懸圃、登之乃霊、国使風雨。或上下之、笹葉上天、登之乃神、是謂太帝之居。
抹木在陽州、日之所噴。
建木三都広、衆帝所自上下、日中無景、呼三無響、蓋天地之中也。
若木在建木西、末有十日、其華照下地。
第二節は、毘喬虚という不思議な山と、太陽と関孫のある三本の神樹についての記事である。この両者の持つ意味は同じものであると考えられるが、とりみえず三木の樹木のうちの建立についてみてみる。
まず建木のある位置をみると、「日中無景」つまり南中時に太陽が頭上にくるところにあるわけで、こういつた地点は大地の真中といいかえてもよかろう。またそこでは「呼而無智」と音が吸いこまれてしまっている。つまり音という自然界の物理がそこで調和しているのである。更に建木は「衆帝自所上下」とあるように天上と地上とを結ぶものなのであり、天と地の接点なのである。そしてこれらの性質から胴木は「蓋し天地の中」なのだという。
地形訓の第二節は箆喬山の描写としてかなりまとまったものといえるが、終りの方で、堺田i涼風之山−懸圃一上天という四層構造をのべ、「之を登れば乃ち神たロ。是れ太平の居なり」とこの隣層を上昇していけば天上に行きつけるとしている。これは、昆黒山が天と地の接点−入口であるということを示すものである。毘群山のこの天への入,口という性格は他の文献にもみえる。
○朝三三於蒼梧骨 夕余至縣圃 欲少留此霊鑑号 日忽忽其将暮(「楚辞」雷撃)
○黄帝遊乎赤水之北、登乎三三之丘、而四望還帰。(「荘子」天地篇)
○支離三三旧離旧観於冥伯之丘・毘喬之虚、黄帝之所休。(「荘子」至楽篇)
離騒の主人公が天上遊覧の途中に立ちよった縣圃は毘下山の上にあるもので、これは毘喬山一縣圃が地上から天上への道程に存していることを意味しよう。また「荘子」にも黄帝が毘喬へ来たことがあるというのも、昇天する帝黄帝と箆野山との関わりの深さを示しているといえる。また昇天と毘喬山との関わりは、准南王劉安の昇仙伝説を批判した三三の言葉にもみえ(←、かなり一般的な考えであったことがわかる。
さて右の天への連絡ロー入口という性格も含め、この下川山とは大地の申央に位置するものだという見解がある。直接の文献資料としては「地の週央を昆需と日ふ」「昆喬なる者は地の中なり」という河図括地象(いずれも初学楽句に引。安居香山・中村璋八両氏編「緯書集成」による)などがあるが、神話学の立場からMHエリアーデ氏の考えをもとに毘三山とは大地の中心のシンボルなのであるというものがあ妖・最近では小南一郎氏がまとめておられるE。氏の使われる文献資料は右の緯書の他、「准南子」よりもやや後のものと思われる「毘喬嘘は西北に在り、嵩高を去ること五へ万里、地の中なり。其の高さ万一千里、河水其の東北阪より出づ」 という,「水経」の文である。「准南子」の文には直接、「事忌山は地の中なり」という記述はないが、その高さが万一千里であることや黄河の水源であるという記述が、「水連」と地形訓は一致しているし、また天と地とを結ぶという性格が「天地の中」なる建木と同じであることなどから考えると、地形訓においても昆喬山は地の中心として意識されていたものとみてよかろう。
以上より言えることは毘仁山も連木もともに天と地の接点であり、大地の中心なのであることである。つまり第二節は地の中心について述べたものといえよう。
先に地形訓と「本意春秋」政始覧にも地の大きさを記した後に次のような地形訓第二節に類似する文を収めている。
○極星与天上遊、而天下不移。冬至運行遠道、周行四極、命為玄明。夏至日行近道、乃参干上。当枢之下、無昼夜。
白民之南、建木之下、日中無影、呼而無響、蓋天地之中也。
先に述べたごとく有始覧は天と地の両方のことを述べている風なので、ここには天と地の二本の柱1天枢と建木がみえる。この簡略な記述ではこの二本の柱についての詳しい性格はわからないが、“「天枢移らず」「枢の下に当たりては昼夜無し」とあり、天分とは天体の軸即ち天の中心なのである。建玉は地形訓とほぼ同じ描写であり、地の中心だといえる。幽この「呂氏春秋」有機覧と「准南子」地形訓という二つの文献の先後関係についてはあえて触れないこととするが、今地形訓の立場に立ってこの二つの資料を比較してみる。そうすると、有五弦に天と地の二つの中心の記事があるのに対し、地形訓ではそもそも問題が地に限定されている。そこで地形訓では天に関する記事は削り、かわりに丸木・若木の記述を加え、更に地の中心の性格を持つ毘喬山の記事を追加したのだということになる。いずれにせよ、目録的記述−地の大きさの記事に続いてなんらかの「中心」の記事がぎていることでは、両者は一致する。
第三節
九州之大、純方千理。九州之外、乃有八演。直方千里。港北東方日大沢日無二……(略)……。
凡八殖八沢之雲、是雨九州。八殖聖目、刻目八紘。亦方千里。自東北方日和二日荒土……(略)……。
三八紘之気、是出寒暑、目合八正、必以風雨。八紘之外、乃有八極。自東北方日方土之山日蒼門……(略)
凡八極之雲、是雨天下。八門之風、是節寒暑。八紘八二八沢通雲、以雨九州融和中土。
略した部分はきわめて図式的なので次に図示する。(図1)
この第三節に述べてあるのは一種の同心円的世界像である。中央の一州とその八方にある八州とからなる九州を中心とし、その外側に九州と同じ方一千里という広さを持つ領域が、黄身一八紘−八極と重なっていくという四層の同心円的世界像となっている。この世界嫁に似たものは「尚書」園山の「五百里旬服、百里賦納総、二百里納蛭、三百里納結、服、四百里粟、五百里米。五百里候服……。五百里綾服……。五百里要服……。五百里調書……」といった五服の制や、.「灘南」の王制などにみられる。これら  や王制の服制は天子のいる都を頂点としており、その外側に広がる地域は都から遠ければ遠いほど政治的・文化的に低位にあるというもので、いわば天子を中心とする社会的な同心円である。それに対し地形訓の同心円は自然地理的なものであるといえる。以下検討する。
一番外側の八極をみると「東北方は磁土の山と日い、自門と日ふ」とあるように、山と門からなっている。ここでそれぞれの持つ意味を考えてみると、山とは行きどまり、即ち地の果てを象徴していると考えられ、また門は、先ほどの第二節に「北門開き以て不周の風を内る」とあり、ここでも「八二の風」といっているように、風の入るところを意味しているものと思われる。つまり世界の八方の果てには門があってその各々から中央に向って風が吹き込んでいるというのである。これは第六節の「中央は四達、風気の通ずる所、雨露の会する所なり」という記述ともつながるものであろう。また九州の外側の八面には、例えば南方でいえば浩沢といったように各々に大きな湖があり、そこから雲がたち昇り「是れ九州に雨ふらす」とある。八演の外側の八紘からもそれぞれ気がたち昇っており「是れ寒暑を出す」とある。これは八演・八紘から各々の地域に特有の雲や気がたち昇り、それらが八極から吹く風によって中央に運ばれ九州や備前に寒暑や雨をもたらすというこの世界像の構造を示していよう。このように第三節の世界像は自然現象を合理的に解釈しようとした自然地理的な同心円的世界像だといえよう心尚この八風と寒暑・降雨との関係を時間的に並べ時令説としたものが天文訓にみえる→)。
次の節の検討に入る前に第一節で残してお・いた九州説についてのべておく。この第三節では中心部分の中国人の居住する地域を九州としその外側に同じ広さの地域が四方八方に広がるという整然とした構造になっている。ここで仮に九州を有始覧のように現実の地理知識に基づいたものとすると、その各州の位置関係はいびつなものとなってしまい、外側の整然としたひろがりと異質なものとなってしまう。それ故、ここでは九州とは中央一八方というきちんとした位置関係のものでなければならなかったわけで、がとられているのであろう。
この九州説にひつばられて第一節においても同心円的な九州説
第四節
東方之美者、三三旧聞三二牙瑛焉。東南方書美者、
以下中央まで九つあるのだがこれも図示する。(図2)
この部分は同じものが「爾雅」勝地に九府というタイトルを附して収められているが、四方八方と中央の特産物をあげたもので、いわば博物誌である。ところで一般に博物誌というものは多くはある地方・地域の特産品を記したもので、またそういった知・識の豊富さを誇るものである。
東方、川谷之所動、日月之所出、……其道宜麦、多虎豹。南方、陽気重言積、……其地宜稲、多三洋……。(第六節)
右は東方や南方といった地域の特産物をのべたものであり、禺貢も州という一つの地域ごとに産物をあげているし、「史記」貨殖列伝なども旧戦国諸侯国を一つの領域とレて各々の特色・産物をのべる。これらに対し地形訓のこの博物誌は、特産物を特定の山と方角という「点と線」に結びつけて記述している。このことの持つ意味を以下考えてみる。
中央の記事をみると、特産物として五穀桑麻魚塩をあげている。ところが「史記」貨殖列伝によれば「夫れ山西は材竹穀……に饒に、山東は魚塩漆練声色多し。江南は……」とあり、特産物という場合、魚塩は山東、即ち全中国の東側のものとなっている。」それなのに地形訓ではこれが中央の産物とされているというのは、つまり地形訓のいう中央とは斉などの山東北方を含んだ一般的な中国全域を指していることになろう。東方の産物をいう際、珂耳鼻なるおそらくは宝石であろう物をあげているのも、東方という時に斉などの山東方面はとびこえていることを示す。ところが「西南方の美なる者は、華山の金石有り」という西南方の山、華山は、苗代の弘農華陰の華山であり、もし山東あたりを申央に含めるのならばこの華山周辺も中央に属するものとされてよいものである。また「東南の美なる者は、会稽の竹箭」という会稽山は、第一節では中国を代表する九山のうちに入れられており、中央に属するとしてもよい。このことから考えると、ここにいう華山や会稽はその山のある弘農とか越とかいった場所・地域を代表しているのではなく、西南方とか東南方とか中央からみてその山のある方角を代表しているものであろうど考えられる。つまりここにある九つの山はそれぞれある方角の象徴として使われているのである。だから泰山は申央の象徴としてここにあげられているのであって,、実際に泰山付近で塩がとれなくて込かまわないのであり、華山は西南方を連想させるものとしてあげられているわけで、現実にはそこで五穀がとれても「西南方の華山」というのである。
第四節の性格は亡羊の位置の中央からの距離からも考えられる。会稽・華山といった山を地図の上においてみた場合、中央−泰山からの距離がまちまちになってしまうが、これは先の第三節のような同心円的発想と違いこの部分は距離に関心が薄いということを意味しよう。また、会稽のような実際の地理知識に裏づけられた実在の山も、幽都・毘命といったおそらくは空想上の山もここでは同じ扱いを受けているが、ある山の名をあげればすぐ特定の方向を連想させるという点では同じなのである。このことはこの部分の考え方においては距離感が欠落していることを示していよう。
更にこの九つの産物をみると、些些の産物は先ほど述べたように中国人の生活必需品であり、南北・東南・北・南の四方の特産物は異国的なものとしてそれぞれの方角にふさわしいものがあげられている。東・西などの残る四方はいずれも宝石・玉石らしいものを特産物としているが、これは「山←石」という連想を手助けとして、中央一八方のバランスをとるために採用されたものではないかと思われ、この部分が方位の整合性をとろうとしているということを示していよう。
以上のことから第四節をふり返ると、この部分は博物誌の型をとりながら、中央−八方という方角を印象づけようとしているものといえよう。
以上第一〜第四節に検討を加えてきたが、ここまでをみると、九州説・九二山説話から風による気候の説明・博物誌など内容は多彩でまとまりのないもののようにみえる。しかしとりあえずそれぞれの節のいわんとすることをあげてみると次のようになる。
第一節・地と天・四時との関係 噛・地上の物の目録・地の大きさ
第二節・地の中心
第三節・地の同心円的構造
第四節・地上の方角と地誌
これちをみると確かに内容的には様々なものだが、地・大地というものを巨視的に見、地全体をトータルなものとして携えるという態度が共通しているといえよう。つまりこの第一〜四節は「地の全体像」というテーマのもとに様々な学説・考えを集めたものなのであり、言いかえると、大きさや中心、構造といったいくつかの異なった面から大地を描こうとしたものなのである。
ただ、右で様々なものを集めたといったが、その際に、ある一つの学説を中心としてまとめてあるということはなさそうである3。例えば、岡惚説話と建木説話とが中心弔いう第二節にともに収められているし、同じく東方・東南方といった八方位を言いながらも領域の広がりをいう第三節と方角を強調する第四節とでは違いがある。しかし、これらのいずれか一方が他方より劣位にあるとか、学説間のくいちがいの合理化−折衷が図られているということはなさそうで、もとの考えがかなり生のままで並べられているようである。こういつた問題は各々の学説・考えの背景やそれら相互のつながりの意味の今少しの検討を待って考えることとし(今は、さまざまなものがさまざまなままに収録されているという点に注目しておく。
さて、地形訓の第一−第四節があ6テーマを共有するグループとみなしうるということを指摘したがハ第五節以降をみるとそこには更に二つのテ.ーマと二つのグループがみられる。馬丁ではその二つのテーマの検討に入る。 

第二のグループは第五−七節にあたり、地形・地上のものの差異・変化を記し、あわせてそれをもたらす要因・原理を述べたものである。
第五節は「凡そ地形は東西を緯とし馬南北を経とす」と、緯−経という一つの「対」を最初にあげ、「山は積徳有り、川は墨刑有り。高き者は生為り、下き者は死為り……」以下丘陵と難谷口川の二折と方骨など地形の特徴を「対」をなすものととらえ、この対によってそこに産するものの差異を説明するものからはじまり、「土地は各々其の類を以て生ず」「是の故に山気は男多く、沢気は女多し」といった、気・土・水などをそこに産する物との関係を説いたり、「堅土の人は剛、宇土の人は肥」「土を食む者は心安くして慧なり、木を食む者は力多くして……」と土質とそこに住む人間の体格や、食物とそれを食用としている動物との関係を説くといった、同類相応説の土地版といったものがみられる。また「凡そ人民禽獣万物貞虫は各々以て生ずる有り」「天一地二人三、三三にして九。九九にして八十。一は日を主とし、日の数は十。日は人を主とす。人故に十月目して生ず」というようにその動物に因縁の深い数から在胎月数を割りだすといった「数のマジック」的なもの、「鳥魚は皆陰に属す、陰は陽に属す。故に毒魚は皆卵生なり。魚は水に遊び、鳥は雲に飛ぶ。故に立冬に鷲雀海.に入り、化して蛤となる」という陰陽説によって動物の性質・変態を説明しようという月令文に似た文などが全体の脈絡をあまり感じさせずに続いている。これらは多彩でばらばらの記述のようにみえるが、つまり陰陽説・対の組み合わせ・数のマジック・土質などに地上の万物の差異・変化の原因をもとめ、そういった原理・学説を沢山収録したものといえる。そうしてこれらには何か一つの申心的・統一的学説があるわけではなく、個々の学説相互に矛盾しないような調整が施されているわけでもない。つまり第五節は地形・地理に関するさまぎまな原理をあげたものといえる。
続く第六節は地域の特徴を記した一種の地誌であるが、地域の特徴を五方位に帰そうとしており、右の第五節でみた原理のうち五行説などをとり入れて中央と四方との地域差を説明しようというものである。内容をみると、或る程度は経験的知識による記事もあろうが、単に事柄を記すのみでなく、方位などの性格によってその地域の特徴を述べようという傾向が強い。例えば「東方は川谷の注ぐ所、日月の且つる所なり。其の人は分形小頭、隆鼻大口、鳶肩企行す。霰は目に通じ、筋気焉に属す、蒼色は肝を漏り、長大早知にして寿ならず。其の地は麦に開く、虎豹多し」とあるが、目・蒼・肝・麦などは五行説などを裏づけとしているものと思われる。つまりこの第六節は説明的な地誌であるといえる。
また第七節にはさまざまの五行説が収められている。「木は土に勝ち、土は水に勝ち……」という五行相理説から、「木型にして、水は老、火は王、金は囚、土は死たり。火窪にして……」という王相野、「音に五声有り、宮は其の主なり。色に五章あり、黄は其の主なり」といった五音・五章などの説がある。これは五行説に関するまとまった学説がいくつか集められているものであって、ここでもこれらの五行説のうちいずれかが主導的であるかということよりも、五行に関する学説がたくさん集めてあるという点に注目しておく。
以上の第五−七節の第ニグループをまとめると次のようになる。第五節においてはさまざまの地上の「自然原理」を列挙し、第六節では右の諸原理のうち「五」に関する原理によって説明された地誌が書かれ、第七節は自然界の原理のうちの五行説について詳しく述べたものとなっている。つまりこの塁上グループは、地形・地上のものの多様さをそれをも尤らすいろいろな原理とあわせて述べ、そのことにまって「地のことを備えたり」としたものである。 
第三のグループは第八−第十節であるが、ここに収められているものは皆知識の量を誇る地誌的なものである。
まず第八節は異域志・異国誌とでもいうべきものである。「凡そ海外三十六国有り。西北より西南方に至るまで、脩股民.天民.粛慎民……有り。酒南より東南方に至るまで、替民.羽民.…、」以下百東南至東北L.百東北至西北」とあり、海外の東西南北方に三十六の国或いは民族があるとする。この三十六国はそれらと同じとみなしうるものが「山海経」海外経にほぼみえ伺書との関係の深さをうかがわせるが、注目したいのはこの三十六国の配置である。その分布をみると、西方−十国、南方一十三国、東方−六国、北方−七癖と方位によって国の数にバラつきがある。せっかく三十六という三・四の倍数になっているのに、第一節や第三節でみた整然とした図形をなしておらず、第五節にあった「対」のバランスもとれていない。これはこの異国志が海外にある異国を記すことそのものを目的としており、「そのことを知っている」という知識の量をほこるものであって、そこに何がしかの世界像や原理を含んではいないことを示している。
第九節は山・沢・丘などとそこ、に産する動植物や神・人間を記したもので一種の博物誌といえる。しかしその書き方をみると、「雛巣・武人 其の東北阪に在り」と指事語「其」の指すものがよくわからない文から始まり、「神二人有り。腎を連ね帝の為に夜に候す。其の西南阪に有り」といった短文が羅列的に続いているのみであって、何かまとまりに欠けるものである。ただ、この書き方をみると「山海経」に似たものがある。例えば「男乗丘は西方に在り、巫威は其の北に在り」・「流黄・三民は其の北方三百里に在り、軍国は其の東に在り」というように、ある一つの事物をのべ、次にそれからみたある方角し距離にある別の事物を順だにのべていくという書き方、「委羽の山に蔽はれて日を見ず、其の神は人面馬身にして足無し」・「后稜瀧は野木の西に在り、其の人は死して復た蘇す。其の半ばは魚となりて其の盟に在り」というように地名をあげ次に「其の神は」「其の人は」と書くやり方などである。
○南山在其東南……比翼鳥在其東っ(「山海経」海外南経)
○凡雛山之首、自招心界山、以賢母尾之山、凡十山、二千九百五十里。其神・皆皆車身而静瞥。(「同」南山経)
「山海経」との直接の園係は不明だが、当時の地誌の書き方の一型式であるのかもしれない。ただ、「山海経」と同様、地の全体像といったものとは無縁であり、また何かの統一、まとまりを持たせようという意図も感じられないものである。これも前節同様、地理的知識の豊富さを眼目としているものである。
最後の第十節は河川に関するもので、河川誌とでもよびうる地理的記録である。「江は黒山より出で、東流して漢を絶え海に入る。左還北流して開母の北に至り、奉還東流して東極に至る。河は積石より出で、睡は荊山より出づ……」。江についてやや詳しく川筋を述べ以下、河・唯・准・漢など三十七の河川の河源をのべたものである。第二節には「赤水は其の東北阪より出で、西南して南海に注ぐ」といった四つの川の流れを記したものがあったが、第二節の赤水などがいずれも箆籍山の四隅を河源とするという図形的なもので、いわば毘喬山の高さ・聖性を示すものであったのに対し、この第十節の河源と川筋にはそういった役割りはみられず、知識としてのみでここに収録されている。
つまりこの部分も詳しさ・豊富さを生命とする地誌だといえる。
以上第三のグループをまとめると、これは異域誌・博物誌・河川誌であり、地理上の知識の詳しさ・豊富さを固有名詞をたくさん挙げることによって示した地誌なのである。そしてこの知識の豊富さによって「地のことを備えたり」というのである。 

以上、地形訓に含まれるいろいろな地理・地形に関する学説・考えを、各々の持つ意味・役割りに着目して検討してきたが、それによりみられた地形訓の構成・編集の仕方は次のごとくである。
「准南子」地形訓は
@当時存したさまざまな地理・地形に関する論文・伝承を集めたものだが、これらはバラバラに並んでいるのではなく、
A「全体豫」・「地上の諸原理」・「地理的知識」という三つのテーマに従って配されており、この三方面から「地のこと」を照らし出そうとしたものである。そして
Bこの三つのテーマ、またその各テーマのいずれかが支配的・中心的であるということはなく、同じレベルのものである。また、これらは、
C「地のこと」という大テーマ又はAでみた三つの小テーマの名において結びつけられているものであり、各学説・考えの間にみられるくいちがい・矛盾点などはあまり問題としていない、というものである。
ところで地形訓の右の編集の仕方を今少し一般的に言うと、ある一つの問題に対し多方面からアプローチするということであり、答えをいくつも用意するということである。
ところが地形訓をみるとこの方法と表裏一体と思われる次のようなものがある。それは同一のものである思想・事柄を別々のテーマのところに分けて書くことにより、その思想・事柄自身の内包する矛盾点・問題点を表面化させないですむというものである。例えば毘喬山という神山でいえば、これのもつ「大地の中心」という意味と「中国からみて西北方にある」という伝承との落ち着きの悪さは、「中心性」に関する記述は第二節の北の申心を述べた部分に、「西北方」にあるという記述は方角を述べた第四節にと分けて書くことにより、一応解消されている。また、思索と知識の蓄積による地誌の混乱−例えば、五行説によれば東方の地は青色に関わる地方なのだが、「大人国・聴器」などという異民族がいるとか、「轡母聞」という山があるとか、大廟・少海という沢があるなどの知識の蓄積があったりするなど、これらをまとめようとするのは至難のワザである。そこで五行説による東方の属性は地の原理をのべる第六節に、異民族の知識は異国誌の第八節にといったようにテーマに分けて書き、お互いあまり干渉しあわないことによって混乱を避けようというのである。
右のような「分けて書く」という方法は、前にみた「八風」が天文訓では時令説と結びついてのべられ、地形訓では方位と結びついてのべられていることや、そもそも「呂氏春秋」では有恩覧にまとめられていた天地のことを「准南子」では天文訓に天のことを、地形訓に地のことをと分けて書いてあるように、地形訓のみにとどまらず、「潅南子」の他の篇にもわたっている。この記述の方法が、「准南子」全体を通貫するものであるか、また、「准南子」の特色乏みなしうるかは、他の篇の検討を待たねばならないが、この方法で「地」に関すること以外を論じているものもみられる。次に一章を設けて紹介しておく。 

「分けて書く」という方法で論じているのは時鳥訓の時令の処理である。そもそも時令説のもつ五行の五と十ニケ月の十二(或いは四季の四)という数字は公約数を持たない為、この数の問題の解決が時令説の展開上大きな問題となってじた。この五と十二とのくいちがいを時則訓では二つに分けて書くことによってやわらげようとする。まず十二に基づく事柄については一年を十ニケ月に分ける月令として書く。「孟春忌月、招揺指差」に始まる時則訓前半を占める月令文がこれで、ここでの各月と五行の関係を図示すると次のようになる。
これは土の記事を「中央土」として季夏紀の末尾につけた「呂氏春秋」十ゴ紀に比べると、一ケ月ながら土が現実の月を持っているという点で五を生かした月令説であるといえる。しかし〜その為五行の持つ月数はまちまちとなり、やはり落ち着きが悪い。ところが時則訓にはこの丹令文に続いて「五位」というものがある。地上を中央と四方という五つの地域に分け、「東方の極、端石穿り朝鮮を過ぎ……」と地理的知識によって各地域のリアリティを出し、「太息・句芒の司さどる所の者なり、万二千里。其の令に曰はく、群禁を挺し……」という時令説の如き文が収められている。ところが実はこの司さどる所の神・人や「令に日はく」の政令文は五にもとずいた時令文からとったものなのである。つまり五と十二という割り切れ起い数の要素を持った時令説を、五の部分は方位にからめて平面上に配し、十二の部「分は一年十二ヶ月にからめて従来通りの時間の周期の上に配したもので、このように分けて書くことにより五つある政令も十二ある政令もそれが実行される場を得るのである。 
おわりに
以上の検討により、従来雑多なよせあつめとされた「准南子」地形訓にも何らかの編集の立場があることを明らかにした。今後は、この編集方法自体の意味するものを考えること、地形訓にみられたいろいろな地理・地形学説についてはそれらの背景となる思想・精神を考えることが課題となろう。それには、「准南子」の他の管巻や、地理・地形に関する他の文献との比較検討が必要であろう。また、地形訓と親近性のあるとみられる「山海経」、比較的政治思想の要素が強いと思われる緯書の地理説などに対し、本論のような検討を加え、その意図するところをさぐることが必要となろう。 
淮南子「精神訓」

 

古未有天地之時,惟像無形,窈窈冥冥,芒芠漠閔,澒濛鴻洞,莫知其門。有二神混生,經天營地,孔乎莫知其所終極,滔乎莫知其所止息,於是乃別為陰陽,離為八極,剛柔相成,萬物乃形,煩氣為蟲,精氣為人。是故精神,天之有也;而骨骸者,地之有也。精神入其門,而骨骸反其根,我尚何存?是故聖人法天順情,不拘於俗,不誘於人,以天為父,以地為母,陰陽為綱,四時為紀。天靜以清,地定以寧,萬物失之者死,法之者生。夫靜漠者,神明之定也;虛無者,道之所居也。是故或求之於外者,失之於內;有守之於內者,失之於外。譬猶本與末也,從本引之,千枝萬葉,莫不隨也。 
夫精神者,所受於天也;而形體者,所稟於地也。故曰:一生二,二生三,三生萬物。萬物背陰而抱陽,沖氣以為和。故曰:一月而膏,二月而胅,三月而胎,四月而肌,五月而筋,六月而骨,七月而成,八月而動,九月而躁,十月而生。形體以成,五臟乃形。是故肺主目,腎主鼻,膽主口,肝主耳,外為表而內為裡,開閉張歙,各有經紀。故頭之圓也象天,足之方也象地。天有四時、五行、九解、三百六十六日,人亦有四支、五藏、九竅、三百六十六節。天有風雨寒暑,人亦有取與喜怒。故膽為雲,肺為氣,肝為風,腎為雨,脾為雷,以與天地相參也,而心為之主。是故耳目者,日月也;血氣者,風雨也。日中有踆烏,而月中有蟾蜍。日月失其行,薄蝕無光;風雨非其時,毀折生災;五星失其行,州國受殃。夫天地之道,至紘以大,尚猶節其章光,愛其神明,人之耳目曷能久熏勞而不息乎?精神何能久馳騁而不既乎?是故血氣者,人之華也,而五藏者,人之精也。夫血氣能專于五藏而不外越,則胸腹充而嗜欲省矣;胸腹充而嗜欲省,則耳目清、聽視達矣。耳目清,聽視達,謂之明。五藏能屬於心而乖,則孛攵志勝而行不僻矣;孛攵志勝而行之不僻,則精神盛而氣不散矣。精神盛而氣不散則理,理則均,均則通,通則神,神則以視無不見,以聽無不聞也,以為無不成也。是故憂患不能入也,而邪氣不能襲。故事有求之于四海之外而不能遇,或守之於形骸之內而不見也。故所求多者所得少,所見大者所知小。夫孔竅者,精神之戶牖也,而氣志者,五藏之使候也。耳目淫于聲色之樂,則五藏搖動而不定矣;五藏搖動而不不定,則血氣滔蕩而不休矣;血氣滔蕩而不休,則精神馳騁於外而不守矣;精神馳騁於外而不守,則禍福之至,雖如丘山,無由識之矣。使耳目精明玄達而無誘慕,氣志虛靜恬愉而省嗜欲,五藏定寧充盈而不泄,精神內守形骸而不外越,則望於往世之前,而視於來事之後,猶未足為也,豈直禍福之間哉?故曰:其出彌遠者,其知彌少。以言乎精神之不可使外淫也。是故五色亂目,使目不明;五聲嘩耳,使耳不聰;五味亂口,使口爽傷;趣舍滑心,使行飛揚。此四者,天下之所養性也,然皆人累也。故曰:嗜欲者,使人之氣越;而好憎者,使人之心勞;弗疾去,則志氣日耗。 
夫人之所以不能終其壽命,而中道夭于刑戮者,何也?以其生生之厚。夫惟能無以生為者,則所以修得生也。夫天地運而相通,萬物總而為一。能知一,則無一之不知也;不能知一,則無一之能知也。譬吾處於天下也,亦為一物矣,不識天下之以我備其物與?且惟無我而物無不備者乎?然則我亦物也,物亦物也,物之與物也,又何以相物也?雖然,其生我也,將以何益?其殺我也,將以何損?夫造化者既以我為坯矣,將無所違之矣。吾安知夫刺灸而欲生者之非惑也?又安知夫絞經而求死者之非福也?或者生乃徭役也?而死乃休息也?天下茫茫,孰知之哉?其生我也不強求已,其殺我也不強求止。欲生而不事,憎死而不辭,賤之而弗憎,貴之而弗喜,隨其天資而安之不極。吾生也有七尺之形,吾死也有一棺之土。吾生之比於有形之類,猶吾死之淪於無形之中也。然則吾生也物不以益眾,吾死也土不以加厚,吾又安知所喜憎利害其間者乎?夫造化者之攫援物也,譬猶陶人之埏埴也,其取之地而已為盆盎也,與其未離於地也無以異,其已成器而破碎漫瀾而複歸其故也,與其為盆盎亦無以異矣。夫臨江之鄉,居人汲水以浸其園,江水弗憎也;苦洿之家,決洿而注之江,洿水弗樂也。是故其在江也,無以異其浸園也;其在洿也,亦無以異其在江也。是故聖人因時以安其位,當世而樂其業。 
夫悲樂者,コ之邪也;而喜怒者,道之過也;好憎者,心之暴也。故曰:其生也,天行;其死也,物化。靜則與陰俱閉,動則與陽俱開。精神澹然無極,不與物散,而天下自服。故心者,形之主也;而神者,心之寶也。形勞而不休則蹶,精用而不已則竭。是故聖人貴而尊之,不敢越也。夫有夏後氏之璜者,匣匱而藏之,寶之至也。夫精神之可寶也,非直夏後氏之璜也。是故聖人以無應有,必究其理;以虛受實,必窮其節;恬愉虛靜,以終其命。是故無所甚疏,而無所甚親。抱コ煬和,以順於天。與道為際,與コ為鄰,不為福始,不為禍先,魂魄處其宅,而精神守其根,死生無變於己,故曰至神。所謂真人者也,性合於道也。故有而若無,實而若虛;處其一不知其二,治其內不識其外。明白太素,無為複樸,體本抱神,以游于天地之樊。芒然仿佯於塵垢之外,而消搖於無事之業。浩浩蕩蕩乎,機械之巧弗載於心。是故死生亦大矣,而不為變。雖天地覆育,亦不與之摟抱矣。審乎無瑕,而不與物糅;見事之亂,而能守其宗。若然者,正肝膽,遺耳目,心志專于內,通達耦于一,居不知所為,行不知所之,渾然而往,逯然而來,形若槁木,心若死灰。忘其五藏,損其形骸。不學而知,不視而見,不為而成,不治而辯,感而應,迫而動,不得已而往,如光之耀,如景之放,以道為紃,有待而然。抱其太清之本,而無所容與,而物無能營。廓惝而虛,清靖而無思慮。大澤焚而不能熱,河、漢涸而不能寒也。大雷毀山而不能驚也,大風晦日而不能傷也。是故視珍寶珠玉,猶石礫也;視至尊窮寵,猶行客也;視毛嬙、西施,猶<其頁>醜也。以死生為一化,以萬物為一方,同精於太清之本,而游于忽區之旁。有精而不使,有神而不行,契大渾之樸,而立至清之中。是故其寢不夢,其智不萌,其魄不抑,其魂不騰。反覆終始,不知其端緒,甘暝太宵之宅,而覺視於昭昭之宇,休息於無委曲之隅,而游敖於無形埒之野。居而無容,處而無所,其動無形,其靜無體,存而若亡,生而若死,出入無間,役使鬼神。淪于不測,入於無間,以不同形相嬗也,終始若環,莫得其倫。此精神之所以能登假於道也。是故真人之所游。若吹呴呼吸,吐故內新,熊經鳥伸,鳧浴蝯躩,鴟視虎顧,是養形之人也,不以滑心。使神滔蕩而不失其充,日夜無傷而與物為春,則是合而生時於心也。 
且人有戒形而無損於心,有綴宅而無耗精。夫癩者趨不變,狂者形不虧,神將有所遠徙,孰暇知其所為!故形有摩而神未嘗化者,以不化應化,千變萬化,而未始有極。化者,複歸於無形也;不化者,與天地俱生也。夫木之死也,青青去之也。夫使木生者豈木也?猶充形者之非形也。故生生者未嘗死也,其所生則死矣;化物者未嘗化也,其所化則化矣。輕天下,則神無累矣;細萬物,則心不惑矣;齊死生,則志不懾矣;同變化,則明不眩矣。眾人以為虛言,吾將舉類而實之。 
人之所以樂為人主者,以其窮耳目之欲,而適躬體之便也。今高臺層榭,人之所麗也;而堯樸桷不斫,素題不枅。珍怪奇異,人之所美也;而堯糲粢之飯,藜藿之羹。文繡狐白,人之所好也;而堯布衣掩形,鹿裘禦寒。養性之具不加厚,而摧V以任重之憂。故舉天下而傳之於舜,若解重負然。非直辭讓,誠無以為也。此輕天下之具也。禹南省方,濟于江,黃龍負舟,舟中之人五色無主,禹乃熙笑而稱曰:“我受命於天,竭力而勞萬民,生寄也,死歸也,何足以滑和?”視龍猶蝘蜓,顏色不變,龍乃弭耳掉尾而逃。禹之視物亦細矣。鄭之神巫相壺子林,見其徵,告列子。列子行泣報壺子。壺子持以天壤,名實不入,機發於踵。壺子之視死生亦齊矣。子求行年五十有四,而病傴僂,脊管高於頂,<月曷>下迫頤,兩脾在上,燭營指天。匍匐自窺于井,曰:“偉哉!造化者其以我為此拘拘邪?”此其視變化亦同矣。故睹堯之道,乃知天下之輕也;觀禹之志,乃知天下之細也;原壺子之論,乃知死生之齊也;見子求之行,乃知變化之同也。 
夫至人倚不拔之柱,行不關之塗,稟不竭之府,學不死之師。無往而不遂,無至而不通。生不足以掛志,死不足以幽神,屈伸俯仰,抱命而婉轉。禍福利害,千變萬化,孰足以患心!若此人者,抱素守精,蟬蛻蛇解,游於太清,輕舉獨往,忽然入冥。鳳凰不能與之儷,而況斥鷃乎!勢位爵祿,何足以概志也!晏子與崔杼盟,臨死地而不易其義。殖、華將戰而死,莒君厚賂而止之,不改其行。故晏子可迫以仁,而不可劫以兵;殖、華可止以義,而不可縣以利。君子義死,而不可以富貴留也;義為,而不可以死亡恐也。彼則直為義耳,而尚猶不拘於物,又況無為者矣。 
堯不以有天下為貴,故授舜。公子劄不以有國為尊,故讓位。子罕不以玉為富,故不受寶。務光不以生害義,故自投於淵。由此觀之,至貴不待爵,至富不待財。天下至大矣,而以與佗人;身至親矣,而棄之淵;外此,其餘無足利矣。此之謂無累之人,無累之人,不以天下為貴矣!上觀至人之論,深原道コ之意,以下考世俗之行,乃足羞也。故通許由之意,《金滕》、《豹韜》廢矣;延陵季子不受吳國,而訟間田者慚矣;子罕不利寶玉,而爭券契者愧矣;務光不汙於世,而貪利偷生者悶矣。故不觀大義者,不知生之不足貪也;不聞大言者,不知天下之不足利也。 
今夫窮鄙之社也,叩盆拊瓴,相和而歌,自以為樂矣。嘗試為之擊建鼓,撞巨鐘,乃性仍仍然,知其盆瓴之足羞也。藏《詩》、《書》,修文學,而不知至論之旨,則拊盆叩瓴之徒也。夫以天下為者,學之建鼓矣。尊勢厚利,人之所貪也;使之左據天下圖,而右手刎其喉,愚夫不為。由此觀之,生尊於天下也。聖人食足以接氣,衣足以蓋形,適情不求餘,無天下不虧其性,有天下不羨其和。有天下,無天下,一實也。今贛人敖倉,予人河水,饑而餐之,渴而飲之,其入腹者不過簞食瓢漿,則身飽而敖倉不為之減也。腹滿而河水不為之竭也。有之不加飽,無之不為之饑,與守其篅{屯}、有其井,一實也。人大怒破陰,大喜墜陽,大憂內崩,大怖生狂。除穢去累,莫若未始出其宗,乃為大通。清目而不以視,靜耳而不以聽,鉗口而不以言,委心而不以慮。棄聰明而反太素,休精神而棄知故,覺而若昧,以生而若死,終則反本未生之時,而與化為一體。死之與生,一體也。 
今夫繇者揭臿,負籠土,鹽汗交流,喘息薄喉。當此之時,得茠越下,則脫然而喜矣。岩穴之間,非直越下之休也。病疵瘕者,捧心抑腹,膝上叩頭,踡跼而諦,通夕不寐。當此之時,噲然得臥,則親戚兄弟歡然而喜,夫修夜之寧,非直一噲之樂也。故知宇宙之大,則不可劫以死生;知養生之和,則不可縣以天下;知未生之樂,則不可畏以死;知許由之貴於舜,則不貪物。牆之立,不若其偃也,又況不為牆乎!冰之凝,不若其釋也,又況不為冰乎!自無蹠有,自有蹠無,終始無端,莫知其所萌,非通於外內,孰能無好憎?無外之外,至大也;無內之內,至貴也;能知大貴,何往而不遂!衰世湊學,不知原心反本,直雕琢其性,矯拂其情,以與世交。故目雖欲之,禁之以度;心雖樂之,節之以禮。趨翔周旋,詘節卑拜,肉凝而不食,酒澄而不飲,外束其形,內總其コ,鉗陰陽之和,而迫性命之情,故終身為悲人。達至道者則不然,理情性,治心術,養以和,持以適,樂道而忘賤,安コ而忘貧。性有不欲,無欲而不得;心有不樂,無樂而不為。無益情者不以累コ,而便性者不以滑和。故縱體肆意,而度制可以為天下儀。 
今夫儒者不本其所以欲,而禁其所欲;不原其所以樂,而閉其所樂。是猶決江河之源,而障之以手也。夫牧民者,猶畜禽獸也,不塞其囿垣,使有野心,系絆其足,以禁其動,而欲修生壽終,豈可得乎!夫顏回、季路、子夏、冉伯牛,孔子之通學也,然顏淵夭死,季路菹于衛,子夏失明,冉伯牛為氏B此皆迫性拂情,而不得其和也。故子夏見曾子,一臞一肥。曾子問其故,曰:“出見富貴之樂而欲之,入見先王之道又說之。兩者心戰,故臞;先王之道勝,故肥。”推其志,非能貪富貴之位,不便侈靡之樂,直宜迫性閉欲,以義自防也。雖情心鬱殪,形性屈竭,猶不得已自強也。故莫能終其天年。 
若夫至人,量腹而食,度形而衣,容身而遊,適情而行,餘天下而不貪,委萬物而不利,處大廓之宇,遊無極之野,登太皇,馮太一,玩天地於掌握之中。夫豈為貧富肥臞哉!故儒者非能使人弗欲,而能止之;非能使人勿樂,而能禁之。夫使天下畏刑而不敢盜,豈若能使無有盜心哉!越人得髯蛇,以為上肴,中國得之而棄之無用。故知其無所用,貪者能辭之;不知其無所用,廉者不能讓也。夫人主之所以殘亡其國家,損棄其社稷,身死於人手,為天下笑,未嘗非為非欲也。夫仇由貪大鐘之賂而亡其國,虞君利垂棘之璧而禽其身,獻公豔驪姬之美而亂四世,桓公甘易牙之和而不以時葬,胡王淫女樂之娛而亡上地。使此五君者適情辭餘,以己為度,不隨物而動,豈有此大患哉! 
故射者非矢不中也,學射者不治矢也;禦者非轡不行,學禦者不為轡也。知冬日之箑、夏日之裘無用於己,則萬物之變為塵埃矣。故以湯止沸,沸乃不止,誠知其本,則去火而已矣。 
 
東條英機

 

 
東條英機  
(明治17年-昭和23年 1884-1948) 日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機とも表記される。陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。日本の対米英開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され、1948年11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。 
生涯 

 

生い立ちと経歴
東條英機は1884年(明治17年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。
東條家は桓武平氏繁盛流大掾氏分流多気氏の末裔で江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考え、この反長州閥の考えは英機にも色濃く受け継がれたという。
番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校入学、陸軍士官学校卒業(17期生)。 
陸軍入隊
1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東条のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった。同年に長男の英隆が誕生。
1912年(大正元年)に陸大に入学。1913年(大正2年)に父の英教が死去。1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。1915年(大正4年)に陸大を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。
1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという。
1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。
この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。
1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。 
関東軍時代
1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった。同年12月1日に陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する。
日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。 
陸軍次官
1938年(昭和13年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局額田課長に無理やり行わせる。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣大臣の下、多田参謀次長、中島総務部長、飯沼人事局長と対立し、板垣大臣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果多田次長は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。 
陸軍大臣
1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。
1941年(昭和16年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。 
首相就任
近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦を推す声が強かった。皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。ところが木戸幸一内大臣は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だというふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。
木戸はのちに「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。
東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢をただちにあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻す。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の二つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。
東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求をがんとしてはねつけており、陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」とまで述べていた。しかし内閣組閣後のこの東條の態度・行動は、陸相時の見解とは全く違ったものの表れであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく伺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカが飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信ありげだったという。
しかし日本側の提案はアメリカ側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまう。11月末、アメリカ側はハル・ノートを提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷外相でさえ「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるをえなかった。これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するにいたる。対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから幾度も上奏中に涙声になったといわれ、また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。
なお現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号『東條首相施政演説』がそれである。東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。東條が多用した「今や……であります」という言い回しは、当時の青少年たちにも真似された。 
太平洋戦争(大東亜戦争) 

 

開戦
1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。その後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアメリカ本土、オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。 この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった米英大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である。」「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね。」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。 
海軍による真珠湾攻撃と東條
連合国は東京裁判でハワイへの攻撃は東條の指示だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條が、日本時間1941年12月8日の真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、参謀総長を兼任して以降である。
小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、昭和16年8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には永野海軍軍令部総長と杉山陸軍参謀総長が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。
しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況である。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾奇襲や外務省による開戦通知の遅れは東條の責任に帰することはできないものであった。 
戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下
緒戦の日本の快進撃もミッドウェイ海戦の敗北により行き詰まりを見せ始める。参謀本部は戦局を打開するため、オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等が考案され、ガダルカナル島を確保するべく海軍はこの付近に大兵力を投入する作戦に出た。陸軍にも応援を要請しておこなわれた過去3度にわたるガ島争奪作戦はいずれも失敗する。多くの海戦がおこなわれ、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦などでは日本側は米軍の多くの軍艦を撃沈撃破した。しかし日本側も損害も少なくなく、とくに日本側の陸軍輸送船団はガダルカナル到着以前に殆どが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、作戦どころの話ではなくなってしまった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画する。参謀本部は民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求するが東條はそれを拒否する。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であった。過去に投入した輸送船団は全滅状態で輸送作戦の成功の可能性は少なく、また参謀本部の要求を通すと国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためである。
東條の反対に怒った参謀本部の田中新一作戦部長は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する佐藤賢了陸軍軍務局長と討論の末とうとう殴り合いになった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いて激論を展開、東條ら政府側にむかって「馬鹿野郎!」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねばならぬ。」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。
しかしガダルカナル作戦はさらに行き詰まり、1943年2月にはガ島撤退が確定する。その後もニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが殆どが撃沈され、南方方面の日本軍は各地で補給不足に陥ることになった。またアメリカは軍事生産力の大拡充計画をスタートさせ、日米の軍事力に相当の開きがあらわれはじめる。1943年と1944年を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6800万トン、航空機生産182216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。また技術面でもそれまで優位を誇っていた日本側の零戦を凌駕するF6FやP51などの新戦闘機がアメリカ側に登場、レーダー、ソナー、VT信管などの開発においてもアメリカが格段に優位をみせていく。
この頃から東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなりはじめ、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動をおさえつけた。 
大東亜会議主催
戦局が不利に展開する中、東條は戦争の大義名分を確保するため、1943年11月大東亜会議を東京で開催し、日本の手で形式的に独立させたアジア各国の政府首脳を召集、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言を採択し、有色人種による政治的連合を謳いあげた。インドネシア代表の不参加などの不手際もあったが会議は概ね成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者深田祐介はかかる肯定的な評価をあげる一方、念には念を入れる東條を「準備魔」と表現している。
東條は戦後「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。しかし、1942年(昭和17年)9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。 
三職の兼任
1943年11月、タラワ島が陥落、1944年1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。またこの頃になると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ機動艦隊が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった。戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などから来る様々な弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。
1944年(昭和19年)2月17日、18日にアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲、またたくまに太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し、2月19日に、木戸内大臣に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山総長の勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山元は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした。海軍軍令部の永野総長も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、嶋田海相が総長を兼任することになった。
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携しはじめる。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという。 
退陣
1944年に入りアメリカ軍は長距離重爆撃機B29の量産を開始、マリアナ諸島をアメリカ軍に奪われた場合、日本本土が大規模空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。
しかし1944年6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で海軍は大敗、アメリカ艦隊にほとんど何の損害も与えられないまま後退した。連合艦隊は使用可能な全航空戦力498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも1944年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導をおこなっていた南雲忠一中部太平洋方面艦隊司令長官は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸つぶれになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。サイパンにつづいてグアム、テニアンも次々に陥落する。
マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、そのあとに訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊の戦力が健全でありさえすれば、サイパン島その他が奪われたとしても奪回はいくらでも可能であるのに、それが以後まったく無理になったことを意味するからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、ニ・ニ六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱をみせはじめ、6月30日の海軍大将全員を集めた戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田海相が、幹部や退役海軍大将の今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)
東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうとはかり内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸内大臣は、1.東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、2.嶋田繁太郎海軍大臣の更迭、3.重臣の入閣を要求。実は木戸は東條を見限ってすでに反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸へ東條が泣きつくと予期していた岡田や近衛たち反東條派の策略であった。
木戸の要求を受け入れて東條はまず国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介に辞任を要求する。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の敗退によって戦局の絶望を感じ、講和を提言して東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでほしい」と連絡、岸もこれに同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)
東條は岸の辞任を強要するため、四方諒二東京憲兵隊長を岸のもとに派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ!」と岸に辞任を迫ったが岸は「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ!」と整然と言い返し、脅しに屈しなかった。同時に佐藤賢了を通じておこなった重臣の米内光政の入閣交渉も、すでに東條倒閣を狙っていた米内の拒否により失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられて帰ってくるというありさまであった。
追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。
東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、梅津美治郎参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となったとされる。赤松秘書官は回想録で、周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまったとしている。
広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。 
東條英機暗殺計画
戦局が困難を極める1944年には複数の東條英機暗殺が計画された。
1944年9月には陸軍の津野田少佐と柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉、実行犯として使われることになっていた(「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也)。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。計画実行直前に東條内閣が総辞職して決行されなかった。
また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。 
重臣
辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが抗戦を徹底して主張し重臣の中で孤立していた。 
終戦工作への態度
1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と楽観的予想を述べたが、この予想は完全にはずれることになった。
終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正大尉に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。
しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたかというわけではない。戦争初期、1942年8月20日にアメリカ抑留から帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが近年判明している。 
敗戦と自殺未遂 

 

1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦ミズーリにおいて対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。 東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑がかからないようにしている。その頃、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」。「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する。」と複雑な心中を吐露しており、果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。 
GHQによる救命措置
銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」、「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、日本人の豹変振りに東條は大きく落胆したという。 
未遂に終わったことについて
これまでにも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。
拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の朝日・読売・毎日の各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった。
なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説もある。
東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。 

東條英機と言えば強硬に日米開戦を主張し、戦争に導いていった首相・・・と思っている人が多いでしょう。私も自分で歴史を調べてみるまでそう思っていました。また、戦後、東京裁判のとき自殺を図ったものの失敗したのもみっともない、と考えている人もいるかもしれません。東條英機は昭和20年9月10日、逮捕前日に時の陸軍大臣下村定氏に次のように話をしています。
「自分は皇室および国民に対して最も重大な責任がある。このおわびは死をもってするしかない。国際裁判のためには詳細な供述書を作り、目下清書中であるから、自ら法廷に立つ必要はない」
すでに東條英機は向かいに住んでい鈴木医学博士に相談して心臓のところに墨で印をつけてもらっていました。そして娘婿ですでに自決した古賀少佐のピストルを使って自決を敢行したのです。頭を撃たなかったのは連合軍がみにくい姿を世間に示すだろうと思ったからでした。
9月11日、東條逮捕にGHQの憲兵が向かいました。戦犯容疑者は本来は日本政府を通じて書面で呼び出すことになっていました。その急なためか、東條は利き腕が左腕であり、左で心臓を撃ちにくかったのか、結果、心臓をかすって弾は貫通し、一命をとりとめました。
このときの東條英機の評判は非常に悪いものでした。
笹川良一という人をご存知の方は多いと思います。日本船舶振興協会の「世界は一家、人類は兄弟」というCMを覚えている方も多いでしょう。この人は国会議員でしたが、連合国非難をして戦犯指定になりました。東條英機とは犬猿の仲だったのですが、法廷闘争の経験があり、国難にあたって東條英機に法廷闘争の極意を伝授したといいます。
「東條さん、あなたには大変お気の毒なことだが、あなたはおそらく死刑を免れることはできないだろう。近衛公(近衛文麿元首相のこと)が自殺した今となっては、開戦時の最高責任者はあなたしかいないからだ。あなたが死刑になるということを前提にした上で、あなたにお願いがある。まず第一に、このたびの戦争は日本の侵略戦争ではなかったということ、自衛のためにやむを得ず立ち上がった戦争だということを、最後までとことん主張していただきたい。第二に開戦の決定はあなた自身の責任によって行ったのだということ、開戦の責任は天皇の責任ではなかったということを、表明していただきたい」
この笹川良一の伝授を受け、東條英機は検察側の主席検事であるキーナン検事と法廷で対決し、見事な主張を展開しました。GHQによって言論統制された国民は溜飲を下げたことでしょう。オランダの判事レーリンクはこう回想しています。
「実際、東條は裁判に対する態度によって日本人の尊敬を再び勝ち得ました。すべての被告人には自分自身で弁明する権利がありました。東條は非常に長い、非常に印象的なスピーチをして、その中で、彼は、自分の動機や日本政府の政治的到達点について説明しました。東條は自分の責任を否定しませんでしたが、『アジア人のためのアジア』という概念、日本が敵対勢力に包囲されるようになっていた事実、そして石油の供給削減のため日本の命運に関わる利権が危機に晒されたことを強調しました。あのスピーチは2日間続きましたが、日本の人々の視線の中に東條の威厳を取り戻しましたね」
東條英機としては自殺未遂は不本意だったでしょうが、笹川良一の登場によって思わぬ展開となり、歴史的に見ても「日本の立場」をはっきりと刻むことができたのです。  
米軍MPによる銃撃説
なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、イキナリ拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている。 歴史家ロバート・ビュートも保阪正康も銃撃説を明確に否定している。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。 
戦陣訓
下村陸相は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた。
重光葵は「敵」である米軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と東條は語っていたという。 
東京裁判 

 

東京裁判は、戦勝国が検事と裁判官をかねて敗戦国の「開戦責任」と「経過責任」を断罪する「勝者の裁き」であったが、同時に文明的な裁判方式を取った「文明の裁き」として、日米弁護人の弁護を受けつつ、敗戦直後の占領下の日本において戦勝国を恐れず対等な主張が可能な唯一の場ともなった。 
スケープゴートを引き受けた東條
東條は東京裁判をとおして自己弁護は行わず、この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言している東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した。
東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料にもとづいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどしてキーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。また開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけであると明確に証言し、この証言が天皇の免訴を最終的に確定することになった。検察側は弁護人を通じて東條に、天皇免訴のためにスケープゴートとなることを要請しており、東條の証言はそれを受け入れてのものであった。
日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。 
判決と処刑
東條は1948年(昭和23年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。
東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった。 
辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」 
仏教への信仰
晩年は浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で浄土真宗に深く信心した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。
浄土真宗に深く学ぶようになってからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。
また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。
さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。
処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。
「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」 「明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」 「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく」 
遺骨
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。
小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。
東條英機はみずからが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出していたが、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀している。
なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。 
軍官僚としての実力 

 

渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。
1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。 
 
東條に仮託される批判 

 

政治的敵対者を陰謀をもって死においやるという手法を利用したという批判が東條にはつきまとう。
竹槍事件では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとした。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と批判的な記事を書いたためであったとされる。
また、逓信省工務局長松前重義を勅任官待遇だったにもかかわらず42歳(徴召集の年限上限は45歳)で二等兵として召集し、南方に送った。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、40代の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ。
旧加賀藩主前田本家当主で陸軍軍人であった前田利為侯爵は、東條を「頭が悪く先の見えない男」として批評していた。しかし、東條が台頭すると前田は予備役に編入された。1942年(昭和17年)4月に召集された前田は、9月5日ボルネオ守備軍司令としてクチンからラプラン島へ移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から遺品と遺骨の一部が収集された。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも寺内総司令官が弔辞で戦死とした。11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條は馬奈木ボルネオ守備軍参謀長に対して「今回は戦死と認定することはできない」とし、東條の命を受けた富永人事局長によって「戦死」ではなく「戦地ニ於ケル公務死」とされた。これにより前田家には相続税に向けた全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた。但し、その後同じく飛行機で消息を絶った古賀峯一大将は戦地での公務死であるにもかかわらず戦死とはならなかった。
尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。
政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一、有馬英治、浜田尚友に対して、東條が懲罰召集したとする主張がある。
東條の不興をかって前線送りになった将校は多々おり、例えば陸軍省整備課の塚本清彦少佐は戦局に関して東條に直言し、即日サイパン送りとなった。塚本は1944年(昭和19年)6月13日、第31軍の守備参謀として送り出され、1ヵ月後グアムで玉砕している。
第17師団の師団長だった平林盛人中将は、太平洋戦争初期に進駐していた徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しかった。しかし、平林は東條と馬が合わなかったといわれる。彼もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された。
特高、憲兵の利用
特高警察と東京憲兵隊を重用し、民間人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題があると秦郁彦は批判している。1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している。また秦郁彦は、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音夫検事に対して、その報復として召集令状が届いたとしている。 
民政に対する態度  

 

「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。
ゴミ箱あさり
また、区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという。これに関連して、1943年(昭和18年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「そんな事は、朝早く起きて、街の塵箱をあさっとる奴にでも聞け」と答えた。塵箱あさりとは東條首相のことである。東條は烈火の如く怒り、西尾を予備役とした。
言論統制に関して
中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度がうかがえたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している。 
評価 

 

批判的な評価
政治姿勢に対する批判
自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)。
「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。 戦時中の言論統制下でも石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。 東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年年末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして会談は空振りに終わった。
その他、国内での批判など
秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている。
福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理大臣の採点表』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下へのやさしい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。 
好意的な評価
昭和天皇からの信任
日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれがうかがえる。
昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、参謀本部の反対を押し切って正当な軍事裁判を行ったこと、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。また内閣退陣のときの東條の態度に関しても、いさぎよく立派なものであったと述べている。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と同情的に回想し、内閣の末期には田中隆吉、富永恭次などのいかがわしい部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、東條という人間は思慮周密で仕事熱心、話せばよくわかるすぐれた人物であったと高く評価している。「私は東條に同情している」という発言さえみえる。
『昭和天皇独白録』は昭和前期の政治家・軍人の多くに対し、きわめて厳しい昭和天皇の評価がいわれているが(たとえば石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたがわかる。
国内の好意的な評価
重光葵の評
重光葵は「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている。
徳富蘇峰の評[日露戦争指導層との対比
徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物欠乏」を挙げて「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている。
井上寿一の評
井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。 国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している。
来栖三郎の評[大東亜主義に対する姿勢]
来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている。
山田風太郎の評
山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。
外国からの好意的な評価
バー・モウの評
ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。
レーリンクの評
東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。
トケイヤーの評
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、1937年(昭和12年)にハルビンで開催されたドイツの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し、当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている。 
諸評価1
東條英機の人物像は極めてつかみ辛い。彼を単純に「悪人」と評するのは非常に簡単だろう。「人事権の濫用で政敵を懲罰的に召集した」「憲兵を使って国民生活を監視し、言論弾圧を行った」「戦争指導力があるとはお世辞にも言えず、大局的ななビジョンも無く目先の戦局を打開する事しか頭にない無能」など、数え上げたらキリが無い。それに加え、東京裁判において「昭和3年から一貫して行われた共同謀議の頭目」などという大物(実際に彼が政治に携わることになったのは昭和15年からのはず(記憶違いなら申し訳ない))に仕立てられた事も関係しているのか、戦後の日本社会において悪評が更に高まった感がある。例えば彼が陸相時代に発布した「戦陣訓」の一節である「死して虜囚の辱めを受けず」が日本軍の玉砕や、軍人だけでなく住民にまで及んだ自決の元凶となったという話を良く聞くが、自決する意思の無い人間が、上記文章を読んだだけで自ら死を選ぶような境地に至るという解釈には少々違和感が残る。北ビルマ作戦における捕虜と戦死者の比率はなんと1対120との事で、確かに日本兵の心情に「捕虜になる事を恥」という概念が強くあった事は疑うべくも無いが、その心情が戦陣訓の一節から生み出されたものであるという意見には流石に賛同しかねる。推測であるが、結局の所これは東條叩きの手段でしか無いのではないだろうか?
東京裁判で戦犯指名された中で死刑判決を言い渡されたのは7名であるが、その中でも知名度が最も高い(というより別格)のが東條英機だろう。誰もが「東條だけは絶対に死刑だ」と考えていたようで、当の本人もそれは確信していた。検事団すら死刑判を意外に感じ、減刑を求める署名運動まで起こった広田弘毅とは対照的だと言える。
東條が東京裁判の証言台に立って答弁した際に、彼自身の口述により作成された供述書を弁護人が朗読した。その内容をかいつまんで言えば、「対外的に日本に戦争責任は無いが、国内における責任(いわゆる敗戦の責任)は全て自分にある」と、一切自己弁護の類をしていない。その姿勢だけなら「男らしい」と少しは好感が持てるような気もするのだが、実際には内外から非難の嵐だったそうである。敗戦、自殺未遂と言った事柄が全て東條の悪評に繋がっており、もはや彼の成すこと全てに負のイメージがつきまとっていた事は疑いない。
いつもの事ながら無知な私が語っても余り意味は無いだが、断片的な情報を元に個人的に抱いた東條英機像というのは、とにかく面倒臭い人間では無かったかという事である。恐ろしく几帳面で細かく神経質、規律にやかましく物凄く些細な事にまで神経を尖らせる。プライドも自意識過剰なまでに高く、少しでも気に障る事を言えば懲罰を受ける。仕事内容については、事務職にはとことん向いておりその能力は高く評価されているものの、管理職としては長期的なビジョンも持たず、具体性の無い精神論ばかり語っているなど、上司として付き合うのは御免被りたいタイプの人間であるように思う。実際に彼の下で働いた人間の多くが「七面倒臭い親父」という印象を抱いていたのでは無いだろうか?何というか、側にいると非常に疲れる人物のような印象が強いのだ。
私が知る限りにおいて、東條を脚色無く最も的確に評価した人物は、同じくA級戦犯として起訴された重光葵では無いだろうか?
「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅博である。彼は勉強家である。頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と行動力と決断とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もしも彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は将来しなかったであろう。」
タイトルに書いてある通り、東條に対する戦後日本の評価のされ方と、戦前の日本に対する評価のされ方が似ているような気がしているのだ。「日本が悪」という前提の下、国家の行為とは定義されない事柄を「国家の犯罪」として扱うなど、戦前日本の悪い面だけを執拗なまでに強調する姿勢は特にだ。繰り返しになるが、東條を悪人と見なす事自体は極めて容易なのである。彼の経歴からネガティブなものだけ抜き出せば、それこそヒトラーと同等の独裁者などと言ってのける事も可能だ。こういう手合いに対し、東條を肯定的に捉える意見や彼の言動を弁護するような意見を紹介しても無意味だろう。戦前の日本と同じで、東條英機を悪く思おうと思えば、それはいくらでも可能なのである。 
諸評価2
太平洋戦争開始時の首相、そしてA級戦犯の代表格ということで有名な東條英機ですが、彼の評価については現代において色々あって分かれており、あくまで私感で述べると昭和の時代までは時局もあったのか否定的な評価が支配的でしたが近年は逆評価のような肯定的な評価のされ方が増えて来ているように思います。そんな東條に対する私の評価をどんなものかというと、先に書いてしまうとこの人は首相、軍人である以前に人としてもどうかと思うほどどうしようもない人物だったと見ています。
まず東條への批判として最も多いのは勝算の見込みが全くないにもかかわらず太平洋戦争を開戦した(参謀本部はシミュレーションだと全部日本の敗戦だったのに、「勝負はやってみるまで分からないよ」と言い切ったらしい)という点が挙がってくるでしょうが、これについては私はあまり気にしていません。何故なら東條一人が旗を振ったから当時にあの戦争に突入したわけでなくそれ以前からの長年の積み重ねと、これは近年になってようやく主張できるようになりましたが軍部だけでなく当時は国民の大半も中国、アメリカとの戦争を望んでいました。それゆえ東條がたとえ存在しなくとも戦争に突入したであろうと私は考え、開戦の責任まで東條に負わせるのは真相を解き明かす上で致命的な躓きになりかねないと考えています。
ではそんな東條のどこが嫌いなのかといえば、我ながら結構細かいですが一つ一つのエピソードがどれも気違いじみているところに激しい嫌悪感を覚えます。そんな気違いじみたエピソードの代表格は、バーデン=バーデンの密約で、これは大学受験レベルの日本史ではまず出てこないのですが是非とも後世に伝えるために指導するべきだと私一人で主張している史実です。これは1921年に東條を含む欧州に滞在していた陸軍若手官僚同士がドイツのバーデン=バーデンに集まり、陸軍の近代化や後に国家総動員法として後に実施される案をお互い一致団結して目指すということを誓ったという会合で、この時集まったメンバーらは後の統制派、皇道派という戦前陸軍の二大派閥の指導者となっていきます。
仮にこれだけの内容であればさして気にするほどでもないのですが、この時に示し合わされた議題の一つに当時の陸軍で権勢を振るっていた長州閥の排除も含まれていました。東條自身も自分の父英教が陸大一期を首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだと信じ込んでいた節があり(事実かどうかは不明)、長州閥への憎悪は強かったようです。
そんなことを誓い合った東條達はどんな方法で長州閥の追い出しにかかったのかというと、なんと自分たちが陸大の入学選抜に関わって長州出身者を徹底的に排除するというやり方を取りました。具体的にどんな方法かウィキペディアの記事によると、入学選抜の口頭試験において長州出身者のみに対し、「貴官は校門から、試験会場まで、何歩で到着した?」、「陸軍大学のトイレに便器はいくつあるのか?」などという全然選抜する上で関係のなく、答えられるはずのない質問をして落としていったそうです。その甲斐あってある年を境に長州出身の陸大入学者は、陸大が廃止されるまで10年以上に渡って現れることがありませんでした。
このエピソードだけでも十分神経というかいろいろ疑うのですがこれ以外にもこういった人間の小ささをアピールするかのようなエピソードが東條には多く、陸軍内部で人事権を握るや能力如何にかかわらず自分と馬が合うかどうかで人事を決めていき、戦時中もノモンハン事件の辻正信やインパール作戦の牟田口廉也など軍人として致命的なまでに能力が欠けていて実際に大失敗をやらかした人物らに対し、「名誉挽回のチャンスを与えねば」と、どんどんと中央に上げていって戦争指揮を任せています。その一方で陸軍内部で良識派と呼ばれ実際に多大な戦果を挙げた今村均や山下奉文については「仲間」だと判断しなかったせいか、中央に呼び寄せることなく延々と現地司令官のままに据え置きました。石原莞爾に至ってはお互いに犬猿の仲だったこともあり、左遷から予備役にまで追い込んでます。
このほかにも戦時中に、「竹槍で勝てるものか」と批判記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者(当時37歳)を報復のために硫黄島へ送ろうとしたり、東條内閣退陣を促そうとした逓信省工務局長の松前重義(当時42歳)を二等兵として招集し、こちらは実際に南方に送っています。しかも40代という明らかに徴兵年齢としては高齢過ぎる松前を目立たせないよう、松前に近い年齢の老兵を合わせて数百人も招集するほどの手の入れようだったそうです。
極めつけが終戦直後で、戦時中に「敵の捕虜になるくらいなら自決しろ!」と言っていたにもかかわらず本人は阿南大将と違ってなかなか自決せず、GHQが逮捕に来た段階に至ってようやく拳銃自殺を図り、案の定未遂に終わっています。この時に東條は腹部を撃っていますが、いろいろ意見が言われているものの普通自決するなら頭を撃つのが自然じゃないかと思いますし、そもそももっと早くに自決してればよかったのではという気がしてなりません。公家出身の近衛文麿ですら当時既に自決してたのに。
その後は知っての通りに東条は極東国際軍事裁判で裁かれるわけですが、この裁判において東條は戦争責任が昭和天皇に及ばないように自身がスケープゴートになろうと努めたと巷間言われておりますが、私はこの説に対して率直に疑っております。東條自身がスケープゴートたらんという意識を持っていたということに対しては否定しませんが、東條がそう務めたからと言って何かが変わったのかといえば何も変わりはしなかったと思います。こう思う根拠としてアメリカは日本のポツダム宣言受諾以前から対日占領政策を研究しており、その研究の中で天皇制を維持することは占領政策にかなうとはっきりと結論を出しており、天皇への戦争責任は初めから見逃されることが決まっていたからです。
そのためこういうと実も蓋もないですが、東條=スケープゴート説というのは彼を無理矢理にでも肯定的に評価しようとする人たちに作られた説、もしくは東条とその支援者らが自己満足するために作られた話ではないかと見ています。第一、スケープゴートになろうってんなら初めから自決未遂なんかしてるんじゃないよと言いたいし。少なくとも、東條がいてもいなくても昭和天皇は戦争責任から外されていたであろうことを考えると取り上げる価値もありません。
最後に東條の靖国合祀について一言を添えると、「死ねと命令した人間」と「死ねと命令された人間」が同じ場所に合祀されるのはやはりおかしな気がします。それもまともな戦争指揮ならともかくインパール作戦をはじめとしたかなり偏った、異常な価値観で決められた戦争だとするとなおさらです。 
腹心の部下 

 

鈴木貞一 陸軍中将。
加藤泊治郎 陸軍中将。憲兵司令部本部長など。
四方諒二 陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。東京憲兵隊長。
木村兵太郎 陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。
佐藤賢了 陸軍中将。陸軍省軍務局長など。
真田穣一郎 陸軍少将。参謀本部第一部長など。
浜本正勝 陸軍少佐。総理秘書官付内閣嘱託。総理専属通訳。元・ゼネラルモーターズ満州国・極東地区支配人。
赤松貞雄 陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東条秘書官機密日誌』を残している。
田中隆吉 陸軍少将。
富永恭次 陸軍中将。陸軍省人事局長、陸軍次官など。
評価
東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある。
三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄
田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた。 田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で他の二人の将官が予備役編入される中、半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動して温泉で英気を養うなど評判最悪の男で、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている男である。 
パーソナリティ、エピソード

 

学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった。
非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。また、メモに記録し、兵士の名前を覚えた。総理在任中は官邸のスタッフを自宅に招いて食事をしたり運動会や宝探しなどを行った。
タバコは吸うものの、酒はほとんど嗜まず、たまに疲れたとき晩酌するほどであり、決して深酒するようなことはなかった。飲み方も一合瓶で予め飲む量を目算して、それ以上は決して飲まないという強い自制心があった。
女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。次妹の息子山田玉哉(陸軍中佐)が末妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を官邸に呼びつけ殴打した。東條の目には涙が浮かんでいたという。
1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた。
日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた。
部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた。
精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例をあげれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている。 
遺言 

 

東條の遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。
家族に宛てたもの
日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の1945年(昭和20年)9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。
処刑を前にした時のもの
処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた1948年(昭和23年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として世紀の遺書に収録されている。
逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)
1945年(昭和20年)9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、1952年(昭和27年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。
 
大東亜会議

 

大東亜会議を開いたことは日本の財産である
太平洋戦争当時、アジアの国々は日本とタイを除いては欧米列強から植民地支配を受けていました。そんな中、東條英機内閣が、アジア初のサミットとも呼べる会議を開いたのが大東亜会議です。現在はAPECがあります。アジア太平洋経済協力(Asia-Pacific Economic Cooperation)はアジアだけでの経済圏を作らせないためにアメリカが介入していますが、大東亜会議は正真正銘のアジア人によるアジア人のための初の会議だったのです。
戦後教育の中では全く評価されていないこの会議ですが、ここからアジアの独立運動がスタートし、戦後はすべて各国が独立していった事実を見るとこの会議の意義は大きい。とくにインド、インドネシアでは東條英機に対する評価は絶大である。
東條内閣が開催した「大東亜会議」の意義
植民地だったアジア各国の首脳を集めたアジアで初めての国際会議。それが大東亜会議であり、この会議をもとに各国が独立を誓い、戦後勝ち取っていった。現在の歴史教育ではあまり取り上げられないのですが、ここで紹介します。
「大束亜会議」が開催されたのは1943(昭和18)年11月5日で、ドイツの敗色はすでに濃くなっており、日本の劣勢も明らかになってきていた。
参加者: 日本首相東条英機 / 中華民国政府主席江兆銘 / 満洲国国務総理張景恵 / ビルマ(現ミャンマー)政府主席バー・モウ / フィリピン大統領ラウレル / タイ国首相ピブン名代ワンワイタヤコン殿下
陪席者: 自由インド仮政府主席チャンドラ・ボース
日本はアジアから欧米の支配者を追い出し自分たちが新しい支配者になった、という批判がある。しかし、日本の勝利の見込みがなくなっていた時期に、日本の敗戦後の危険を知りつつも集まってきたアジアの民族独立指導者たちの思いとは何であったのか。日本と共にアジアで列強の植民地にならなかったタイも、ピブン首相こそ会議に参加しなかったが、その代わりワンワイタヤコン殿下を送ってきた。
確かに日本の中には、日本がアジアの盟主?たらんとする考えもあったし、軍事的に自治やアジア諸国の独立に消極的であった面はある。日本も純粋な正義感だけでアジア諸国の独立支援をしたわけではない。しかし日本は、戦争協力を得るという国益を優先させながらも、アジアの独立を支援しようという考えや動きがあったことも事実である。フィリピンやビルマは戦時中に独立を確定した。
日本に味方し、日本が敗れた場合は、民族独立運動そのものがつぶされるかもしれない、また個人的には抹殺されるかもしれないという危険があった。そうならないためには日本を批判しておいた方がよい、日本に抵抗しておいた方がよい、と考えるのは当然である。ビルマ(現ミャンマー)・インドネシアは最終的にはそのように振舞うが、それはお互いの立場を理解し合ってのことであった。日本の中にも、せっかく獲i得したものを手放して独立させるのは損だという気持ちもあったであろうが、やはり独立を助けるのが正しい、という思いもあったはずである。そうでなければ、敗戦後約2000人もの多くの日本人が現地に残り、インドネシア独立のため、再び植民地支配に戻ってきたオランダ軍と戦い400人が命を落とした説明がつかないではないか。
日本が資源確保のため独立を直ぐに認めようとせず、独立指導者を失望させたことはあった。鈴木敬司大佐はビルマの独立指導者アウンサンに「ビルマ人が独立のために反乱を起こしても何の不思議もない。当然のことだ。……。おれが日本軍に銃口を向けると国家への反逆になるからそれはできない。おれがお前たちの祖国独立に邪魔だというなら、さあ、この軍刀でまずおれを殺せ。それから独立の戦いをやれ……」と言って反乱を思いとどまらせた(『重光・東郷とその時代』岡崎久彦)。このアウンサンとは、アウンサン・スーチー氏の父君である。少なくともアウンサンには、日本の独立支援が単なる口先だけのプロパガンダか、本気なのか理解できたのであろう。
1957(昭利32)年来Elしたインドネシアのプン・トモ情報・宣伝相は日本の政府要人に「ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。……日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。……独立は近いと思った。そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。それなのに日本だけに担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった」と述べた(『新歴史の真実』前野徹)。インドネシアやビルマの親日感情はこうしたところから生まれたのである。
そして終戦後、日本に戦い方を教わった彼らが中心となって、次々と欧米の植民地から独立を勝ち取っていったことは厳然たる事実なのである。

大東亜会議、11月6日に採択された大東亜共同宣言の全文を紹介します。
抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ増進ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス
自由インド仮政府主席 チャンドラ・ボースと大東亜会議
大東亜会議二日目のこの日、ボースは、「自由にして繁栄に充ちたる新東亜の建設」 にあたり、日本が指導的立場に立たねばならないのは、歴史の必然であるとして、一九〇四年、明治三十七年、日本がロシアに対して 「蹶起(けっき)( STOOD UP TO RESIST )して以来、日本にはこうした指導的使命が生じたのだ、と説く。
日露戟争の当時、戦争の行方に、ボースおよび幾億の老幼インド人が歓喜し、熱情を注いだことか、そしてこれはインド人、インドの児童のみならず、全アジア人の経験したところなのである。
西洋の圧迫は、インドにとっては大英帝国という形を取るのだが、ボースほ断言する。
「印度にとりましては、英帝国主義に対する徹底的抗戦以外に途はないのであります。対英妥協は奴隷化との妥協を意味するものである。奴隷化との妥協は決して之(これ)を行わざる決意を有するものであります」
チャンドラ・ボースの出身地たるベンガルに関連した事件に限っても、英国の圧制たるや筆舌に尽し難いものがある。
一八五七年のベンガル軍の傭兵(セポイ)が口火を切った「セポイの反乱」において、英軍は史上稀に見る大量虐殺を行ない、一八五七年九月のデリー侵攻後は破壊、虐殺、掠奪の限りを尽した。
ほとんど同時期、紡績機械を発明した英国は、機械制大工業によって生産した安い綿布をインド市場に大量に輸出、インドの手工業による綿布生産を破滅、崩壊させた。それまで繁栄していた綿工業の町ダッカは貧困の極に達し、インド総督は「この窮乏たるや商業史上にほとんど類例を見ない。木綿布工たちの骨はインドの平原を白くしている」と発言するのである。
さらにはこの昭和十八年の秋、おなじベンガルで未曾有の飢饉が生じ、百万単位の餓死者が路頭に倒れているのだ。かくも惨憺(さんたん)たる結果をもたらしたのは、先にも触れたごとく米英軍および重慶軍の無茶な食糧調達と英国当局の無為無策のためといって過言ではない。
こうした事実に照らせば、ボースの「奴隷化」の言葉は、重い現実感を伴って迫ってくる。
この大東亜会議の席に坐っていても、やがてこの有史以来の宿敵と、インドの国境あるいは平原において戦わねばならぬ数々の戦闘の情景が浮かんでくる、とボースは述べ、「今、われわれは、日本という無敵の友と各代表の支援を得て、解放の日近きことを確信して、戦場に赴(おもむ)かん、とするものであります」と語る。
すさまじいのは、ここでボースが、「個人の生死は関係ない、生き延びてインドの解放を目撃できるか否かなどは私の意に介するところではない、唯一の関心事はインドが英米から解放されるという事実である」とまでいいきったことである。
さらにボースは「大東亜共栄圏の建設は全アジア民族、全人類の重大関心事」であり、世界聯盟(れんめい)への途、「強奪者の聯盟に非ずして真の国家共同体への道を拓(ひら)くものである」ことを強調する。
ボースは、岡倉覚三(天心)および孫逸仙(孫文)の理想が実現されることを祈り、本日午後、採択せられた「大東亜共同宣言」が「全世界の被抑圧国民(サブレスト・ピープル)の憲章たらんことを祈る」とスピーチを盛りあげていった。
ボースの英語は明快で美しく、名調子で全議場を魅了した。
「出席者各位は、新日本、新アジアの建設者(メーカー)としてのみでなく、新世界の建設者(メーカー)として永く其の名を歴史に止められるであろうことを、私は確信するものであります」
ビルマ(現ミャンマー)政府主席 バー・モウと大東亜会議
「策士」バー・モウの、内なる理想主義は、この十盲吉の夕刻、あらゆる現実を超えて炎のように燃えさかる。
大東亜会議に最も酔ったのは、バー・モウだといわれるゆえんである。
演壇に立ったバー・モウは熱弁をふるった。
「私の胸に浮んで参りますのは、過去に於て政治情勢の然らしむる所に依り、西洋に於て出席を余儀なくせられたる諸会議の想出であります。しかしながら私は常に他処(よそ)者が、他処者の中に在る感じを免れることが出来ず、恰(あたか)も古代羅馬(ローマ)に於ける希臘(ギリシャ)奴隷の如き感を懐くのが常であったのであります」
「本日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生れ出る感情は之をいかように言い表わしても、誇張し過ぎることはあり得ないのであります。多年ビルマにおいて、私は亜細亜(アジア)の夢を見続けて参りました。私の亜細亜人としての血は、常に他の亜細亜人に呼び掛けて来たのであります。昼となく夜となく、私は自分の夢の中で、亜細亜が其の子供に呼び掛ける声を聞くのを常としましたが、今日此の席に於て私は、初めて夢に非(あら)ざる亜細亜の呼声を現実に聞いた次第であります。我々亜細亜人は、此の呼声、我々の母の声に応えて茲(ここ)に相集うて来たのであります」
「これをしも私は、我等の亜細亜の血の呼声と称するのであります。今や我々は心を以て考うる時期ではなく、将(まさ)に血を以て考うべき時であり、私がはるばるビルマより日本へ参りましたのも、此の血を以て考える考えの致す所なのであります」 
 
第二次大戦を総括

 

はじめまして。東條英機の孫にあたります、東條由布子です。
日本が昔、アメリカと戦争をしたことをご存じない世代も出てきているそうですが、私は、その、アメリカと開戦したときの首相である、東條英機を祖父に持っています。
今、私は日本だけでなくさまざまな国々で活動しています。これは、単に、A級戦犯である祖父の汚名返上名誉挽回のためではなく、日本の将来のために必要だから行っているのです。
また、のちにも述べますが、A級戦犯、という言葉も私は適当でない、と考えています。後ほど詳しく述べたいと思いますが、よろしくお願いいたします。
まずは東京裁判について
まず、いわゆるA・B・C級戦犯と呼ばれるものは、俗に言う東京裁判で決められました。
ということは、この東京裁判について知らなければ、AもBもCも、そもそも戦犯という言葉の意味からして違ってきてしまいます。どこかで誤解されている方もいらっしゃるでしょうから、未来に向けたメッセージとして、ここでまずは東京裁判について語りたいと思います。
東京裁判は、実は戦争中に行われました。皆さんご存知ですか?講和条約を結んでいない以上、戦争状態が続いています。当時の日本が受諾したのはポツダム宣言です。ポツダム宣言を受諾、ということですが、これは休戦協定というべきものです。ポツダム宣言に述べられている条件を守ってくれるなら、日本もとりあえず武装解除しますよ。というものです。当然ですが、条約として、国際的に効力のあるものですが、ポツダム宣言に書かれた、いわゆる連合国側自らが謳った条件をやぶり、違法・脱法・無法的に行われた裁判でした。
ちなみに、私の祖父である東條英機は、今上天皇ご生誕日である12月23日に処刑されています。これは、連合国側の嫌がらせであることは言うまでもありません。祖父は、陛下の忠臣であることを至上としておりました。また、陛下も、祖父に対しては大きな信頼を寄せていただいておりました。こういうことを知っていた上での嫌がらせです。
マッカーサー証言
さて、そんな違法裁判を行っていた連合国軍のトップであるマッカーサーは、のちに、アメリカ議会できちんと宣誓をしてから、次のような証言をしています。要旨のみお伝えします。
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
これを日本語に訳すと
したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。
となります。
祖父は、敗軍の将として、国内的には責任を取る、というつもりでしたが対外的には、あの戦争は自衛戦争だった、と繰り返し述べています。日本を守るために行ったと。
ちなみに、マッカーサーは、昭和26年5月3日にアメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会でこのような証言をしています。
祖父が処刑されて半年も経たないうちに。
これで、お分かりでしょう。東京裁判とは、白人社会が世界を動かしていた近代における、最後の強権発動だったのです。彼らがこれまで行ってきた国際政治の手法から、振り上げたこぶしは必ず振りぬかねばならず、また、それをもって他国に対してのけん制とするわけです。そういった、彼らの論理のために、日本の自衛戦争が侵略戦争に捻じ曲げられ、かつ、その流れの中で戦犯が生まれました。
この事実ひとつで、東京裁判がいかに恣意的だったかお分かりいただけるでしょう。
戦犯と言われるものものも、いかに根拠が薄く、また、恣意的なものかがお分かりいただけるかと思います。
くれぐれも誤解していただきたくないのは、これは、すべて、祖父の名誉のために行っているわけではなく、こういうことをはっきりさせなければ、過去と向き合わなければ日本にとって不利益だ、と思うからです。
日本の未来にとって必要なこと。それは、連続した歴史をしっかりと噛み締めて生かしていくことです。
そのために、このようなお話をしていることをご理解下さい。
さて、続いては、いわゆる戦犯というものが、戦後どのように扱われ現在に至るのかについてのお話です。
戦犯について
いわゆる『戦犯』というものについては別項目でお話しするとして、戦後、日本国民が『戦犯』をどのように考え、扱ってきたのか、についてお話します。
まず、意外に思われるかもしれませんが、戦後すぐ、戦犯釈放を願う署名運動を、なんと社会党がはじめました。
そして、当時の日本の人口は7000万人ですが、あっという間に4000万人もの署名が集まったのです。これを受け、日本国内的には戦犯という汚名は完全に返上されました。国際的にも、東京裁判が違法だった、とは言えない連合国側の面子の問題もあり、ふれないようにされていますが、一部の国を除き、もはや戦犯と取り上げることはほとんどありません。
祖父は、敗軍の将は、敗戦の責任を取らねばならない、と言っておりました。そういった意味で、国内的に誰かが責任を取らねばならないとしたら、開戦当時の首相である自分だ、と自ら自覚しておりました。しかし、戦犯という、不名誉な汚名は、いまやすでに、社会党からすら認めない、という結論が出ているのです。
安倍首相は保守的な方として信頼に足る人物だと思います。今後にも非常に期待したいと思います。その安倍首相は、村山談話を、閣議決定というプロセスを経たものとして、尊重すると発言しています。それならば、4000万人もの署名を集め、戦争犯罪人というわけのわからない汚名を返上した日本国民の決定も、ぜひ引き継いでもらいたいものです。
繰り返しますが、かつて、東京裁判という恣意的な舞台で決められた戦犯というものは、戦後すぐになくなっているのです。 
 
いまだ戦争は終わらず

 

世界中の人々が希望に燃えて迎えた新しい千年紀の幕開けから二年が過ぎた今、世界情勢は騒々しくなってきた。アメリカを直撃した航空機テロ、アフガニスタンに潜むテロヘの徹底反撃、イスラエルとパレステナの戦いも激しさを増してきた。世界中の人々が心を一つにした平穏なあの日はもう一戻らないのだろうか―
戦火の中を逃げ惑う幼い子供たち、その頬を伝う涙を見るたびに平和な咽本に生きていることの有り難さを思う。しかし、戦争が無いことイコール平和ではない。最近の乱れ放題の社会風潮、どん底の経済不況、続発する政界の不祥事、気付かぬ内に勢力を延ばす反日思想、戦う相手の顔が見えないだけに、日本の将来に危機感を募らせる人は多い。
戦後の徹底した占領政策が功を奏し伝統的な日本人の価値観が大きく揺らいだことも原因の一つであろう。『国を守る』『日本人としての誇りを持つ』『先人に感謝する』『先輩を敬う』『他人を思いやる』ことなど国家の一員として当然でも、国家という言葉さえ理解できずに育つ子供たちが親になり、教師になり政治家になり、裁判官になる時代になった。自由、平等、人権などが先行する民主主義教育が半世紀をかけて浸透した結果が現代の風潮であれば、それを是正するには長い歳月を要することは言うまでもない。悠久の歴史の中で培われた日本民族の伝統的な精神もその価値観を失ってしまったのだろうか?
半世紀前、国家存亡の危機に立たされた日本は、国の威信にかけて戦争という苦汁の選択をした。
若者たちがペンを銃に代え学び舎を離れ、愛しい人々への思いも断ち切って戦場に散った。青春を謳歌することもなく、妻を娶ることもなく、父母の暖かい懐を離れ国家の危急に立上がった彼等の心情を思うと、やり切れない哀しさが込み上げる。記念館に掲げられている出撃前の僅かなひとときを子大と戯れる愛くるしい面影を残す若き荒鷲たちの真の思いは知るよしもないが、出撃を前にした彼等の表情の何と凛々しく爽やかなことであろう。訪れる学生たちが感動で目を潤ませているが、事の善し悪しは別にして己の命をかけて国や愛しい人を守った先輩たちの生き方は、彼等が生きてゆく上で、何らかの指針になるかも知れない。

海軍少佐/西日高光命/神風特別攻撃隊、爆装零戦に搭乗し南西諸島洋上にて戦死(二十二歳)
学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…。おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに……。
出撃二日前に従軍記者に語った心境だが、彼は戦後の国際社会で苦境に立つであろう日本の立場まで推察し、その講和条約における日本の条件が少しでも有利に展開するなら己の命は……。
個を以て国や同胞を救う民族愛の強さに感動する。彼らが戦場に飛び立つ際に書き残した遺書の行間に祖国を思い肉親の平穏を祈る至純な思いがあふれている。彼等のこうした思いを礎に平和な日本が築かれていることも教えない現代の風潮は、国家を乱す大きな要因であるといつても過言ではない。
毎年、八月十五日になるど繰り返される靖国神社を取り巻くあの時一騒を英霊がたは天上でどんな思いで眺めていることだろう。日本のために命を捧げた日本人を祀る聖地に、外圧によって日本の総理が参拝できないという理不尽な風潮は皆で真剣に考え直す時である。
現在の国の在り方を象徴するように、異国の戦場の洞窟には、いまだ鉄兜を被リロイドメガネをかけ軍靴を履き胸には手櫂弾を抱えた日本の将兵の遺骨が放置されたままである。現代の日本政府が過去の戦争責任を問われるならば、国策として多くの将兵を戦場に送った国家責任はどうなのか? 膨大な赤字債券を抱えてまで利権絡みの膨大な金額のODA支援をする前に、国の責務として異国に放置したままの百二十万柱の同胞の遺骨を帰還させるべきではなかろうか。
いまだ南浜の果に、凍上の荒野に、孤島の洞窟には120万柱の将兵の亡骸が放置されているという事実を知る人は少ない。先人がたへの感謝の心も教えず、ひたすら過去の日本を非難する教育をする国家がどうして栄えよう。
若い兵士たちが散華する際に書いた遺書を教科書に載せれば当然、先輩を尊敬する気持が湧いてくる。国会を喧騒の場にしている国会議員たちが先人の遺書を座右の書にすれば、国民のための良策が出てくるかも知れない。

平成十一年九月、私たちは米軍からの″日本の将兵の遺骨を収集しよう―″という有り難い呼びかけに応じて『日米合同遺骨収集団』を結成しパラオ・ペリリュウー島に渡島した。日本側からは中学生、高校生、大学生、神官、主婦、元軍人などを含め三十一名の隊員が参加してくれた。この島の陸、海に関するあらゅる詳しい情報を持つ米軍の元軍人たちの先導でジャングルを登り山陰に掘られた沢山の洞窟に入った。米軍人たちの適格な道案内と隊員たちの命懸けの努力のお陰で三十二柱の御遺骨が収集できたが、厚生省職員が同道しないと焼骨できないと言われ、残念ながらペリリュー神社の納骨堂に安置してきた。
帰国後、南洋諸島の遺骨収集はすでに終了としたとする厚生省に、南洋諸島にはいまだ数多の遺骨が放置されている現状を詳細に報告した。
それから二年五か月の歳月が流れ厚生省もやっと重い腰を上げ、十四年ぶりにパラオ・ペリリュー島に遺骨引取りと遺骨収集に行くことになった旧厚生省から二名の職員と諸費用が全額負担になった指定三団体から七名が参加し、当方、遺骨収集を目的に設立したNPO法人「環境保全機構」からは神官「仏教の修行僧、元軍人、経済人、報道関係の人を含めて十三名が参加した。平成十一年に『日米合同遺骨収集団』が収集しペリリュー神社に納骨してきた三十二柱の御遺骨と、戦友会、遺族会が収集した十八柱を焼骨し日本にお帰り頂くことが今回の主な目的のようだった。今回、新たな遺骨も収集でき百十柱を焼骨した。
厚生省とNPO法人関係者が良い関係で協力し合えたのは、団長、副団長の誠実な人柄のゆえかも知れない。しかし、この企画書を作成した援護局外事課の書類には、同じく日本から出発するにも関わらずNPO法人『環境保全機構』の隊員を『現地協力者』と書く厚生省の差別意識には怒りを覚えた。また、指定三団体以外には一切の費用は出さない慣例を敷く厚生省の在り方に大きな矛盾を感じ不満を持った。

鬱蒼と茂るジャングルの樹々の枝をかき分け、足に絡み付くガジュマルの蔦に足元をすくわれ、転げ落ちそうになりがら急峻な崖をよじ登る。ガジュマルは地面深く根を張り断崖の表面のいたる所に縦横無尽に大い枝を延ばしている。足を滑らせれば後ろの人も巻き添えにする危険があることを意識しながら木に掴まる手にも力が入る。米軍の火炎放射器で麓から頂上まで焼き尽くされていた山々も、半世紀の歳月の間に樹木は過しく成長し南国特有のガジュマルが遅しく生い茂り行く手を阻む。掴まった本が根元からポキリと折れることも何度かあった。上を登る隊員の激しい息づかいが聞こえてくる、言葉を交わす余裕もないほど体力が消耗するが命懸けで黙々と登る。体が直立するほど急勾配な断崖もある中で、重い取材のカメラを担いでいる登る隊員の体力と気力は並大抵ではない。限られた日数の中で一柱でも多くの英霊の遺骨を日本に連れ帰りたい!そんな切実な思いで隊員たちは南国の過酷な自然と向き合いながら洞窟を探す。切り立った断崖の途中の見えない所に沢山の洞窟が掘られていた。枯れ葉に埋もれて洞窟の入り回は見えにくいが泥を掻きわけて中に滑り込む。奥に入れば背が立つほどに広い所もあれば、二、三人がようやく座れる程度の所もあり、幾つかの洞窟が奥でつながっているのもあった。まだ足を踏み入れた痕跡の無い大きな洞窟に入った。隊道が左右に分かれ、大きなドラムカンが幾つも転がり、その下に大いガジュマルの枝が執拗に絡み付いている。若い隊員が鋸で枝を落としながらドラム缶をどかすと沢山の遺骨が埋まっていた。悲しい話だが、カジュマルの茂る洞窟には必ずと言って良いほど遺骨があり、私の数少ない経験から洞窟の壁近くの方が遺骨は沢山埋まっている。体力の消耗を防ぐために壁に寄り掛かって過ごす時間が長かったことは容易に察することができる。昼間でも真っ暗な洞窟の中を僅かに照らすヘツドランプの明りを頼りに瓦礫の混じった土を掘る。ヘッドランプを装着した工事現場用のヘルメットが重みで何度も作業する手元にドスンと落ちる。明りが欲しい!滴り落ちる汗をジャンパーの袖で拭う。時折カメラマンが照らしてくれる明るい照明に元気づいてまた掘り進む。蒸し暑い洞窟に長いこと座って掘っていると下着までびっしょり濡れてくる。眼鏡のレンズにしたたり落ちた汗が溜まる。兵隊さんたちはこんなに寂しくて暗いコウモリが飛び交う洞窟の中に昼間はひそみ、夜間攻撃をかけていたのかと思うと涙が込み上げてくる。劣悪な自然環境の戦地で重い銃器を担ぎ、体力を使う岩盤掘りをやりながら戦つていたことを思えば"熱い""疲れた″などと言っては罰が当たる。気を入れて鉄の熊手で懸命に掘る。手相弾が散乱する洞窟には鉄製の道具は禁物だが燐鉱石の岩盤は固いものでないと掘れないのも事実だ。小さな小指の一片でも見逃さないように丹念に瓦礫の混じる泥をかきわけて探す。広げた白い布にみるみる内に骨の山ができる。"外の空気を吸って一息いれませんか?"と声がかかる。時間も忘れて掘っているが洞窟の奥の酸素が薄くなっているようだ。暗い隊道を這うようにして、岩のデコボコに何度も頭や肩や腰をぶつけながら、入り回の明りを使りに洞窟の外に出てくると、爽やかな風が吹いている。若い隊員が背負って来てくれた水をゴクゴクと飲むと疲れが吹き飛ぶ。水が感動するほど美味しい。平和な日本の生活からは想像もできない別世界で、互いの泥まみれの顔も服も頼もしくさえ見えるのが不思議だ。
パラオ共和国は広島県から真南に南下すること三千キロ、南方洋上に数百の島々を擁して浮かぶ、一万六千人の小さな独立国である。第一次世界大戦後、ドイツから委譲され、日本が二十数年間統治し南洋諸島の中心地として日本はこの島を大切にした。島の中で今も最も栄えているのがコロール島だが、日本統治時代は淵洒な洋風の南洋庁舎があり、美しい並木にモダンな街並が続いていたようだ。市中には官幣大社である南洋神社が偉容を誇っていた。中でも日本が最も重要視し、敵の標的になったのがペリリュー島に敷設された大きな二本の滑走路だった。日本軍は一万三千人の将兵を投入しても死守したかった島であり、米軍も破壊するために七千余人の戦死者を出しながら熾烈な戦いを繰り広げた。かつて、この島は、昭和天皇が十一回も激励電報を打たれたゆえか「天皇の島」と呼ばれていた。昭和十九年十一月、ペリリュー島で一万三百名、アンガウル島で、千八百余名の将兵が玉砕したおり、最後の突撃をかける決意をした現地の司令官は、本国の軍司令部に「ただ今より通信機を破壊し最後の突撃をかけます」という電報を打って突撃し全員玉砕した。その電報を持って宮中を訪れた杉山陸軍大臣に昭和天皇は「激励の返電を打つように」と言われたという。「通信機は破壊され現地には届きませんが」と恐る恐る進言する杉山大臣に陛下は「それでも打て」と命じられたという。電報を受け取る将兵の居ないペリリュー島に敢えて激励電報を打てと命じられた天皇陛下の悲壮な胸中を察した杉山大臣は、副官として宮中に同行した伊藤忠商事の特別顧間である瀬島元参謀が間う「陛下は何と言われましたでしょうか」という言葉に返答せず車の窓から皇居をじっと見つめておられたという。それほど昭和天皇は悲劇の島「ペリリュー島」に深い思いを寄せられていた。
ペリリュー神社の境内に、日本と激烈な戦いをした米大平洋艦隊司令長官、C・W・ニミッツ提督が作られた次のような詩が刻まれた碑が建っている。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
太平洋艦隊司令長官 C・W・ニミッツ
ペリリュー島に慰霊にくる人々はこの詩に大変感動する。ペリリュー島は燐鉱石の島だが、六百とも八百とも言われる大小様々な洞窟が掘られたと言う。昼間は洞窟に籠り夜間に紛れて攻撃してくる日本兵たちは恐怖だったと当時日本軍と熾烈な戦いをした米軍の元海兵隊員たちが語ってくれた。玉砕してもなお洞窟の奥深く籠り攻撃をしかけてくるような恐怖を覚え、米軍は引き上げる時に洞窟にパーム弾を投げ込み、火炎放射器で焼き、入り口をコンクリートで封印して引き上げたようだ。焼き尽くされた頃の山々の洞窟の入り回は、麓からもはつきりと見えたそうで、断崖の上の方の洞窟の入り口にはコンクリートで封印された跡が残っていた。米軍の海兵隊員が上陸時に戦死し海が朱に染まったというオレンジビーチの近くに、二千人の日本兵士の屍をブルドーザーで埋めてコンクリートで塞いだという巨大な地下墓地があると州の高官や村人から聞いた。米軍の戦勝記念塔がその上に建っている。遺骨収集をする時にいつも話題になるが、それを開く時期である。それが事実なら一日も早く官・民・自衛隊も協力してこのコンクリートを開けて遺骨を収集したい。厚生省は平成二年から平成十四年三月まで、ペリリュー島での遺骨収集を行っていないが、その間、民間のグループや戦友会などが自費でコツコツと遺骨収集を続けてきたが、まだ洞窟の三分の一ほどしか開けられていないという。ペリリュー島が戦場になる直前、日本の現地司令部はパラオ国民を戦争に巻き込まないために、全ての住民を本島に移した。現地の人々は今でも日本の兵隊さんたちのお陰で命が助かったと言い、真摯に慰霊を続けてくれている。しかし、そんな中でも日本兵とともに銃をとり勇ましく戦ったパラオの若者たちもいた。戦死した十数名の名前を刻んだ慰霊碑が南洋神社の境内に清流社により建立された。
清流社は国学院大学の学生が二十数年前からサイパン島、テニアン島、ペリリュー島、アンガウル島での遺骨収集を熱心につづけ、神社を再建した青年神官のグループである。毎年、春・秋の彼岸、盆には神社の掃除と参拝のために島を訪れる。英霊を崇敬し慰霊を続けている彼等の深い思いは強い。主宰者はすでに頭に白いものが混じるが、国学院大学の学生だった当時のパラオ諸島にはワニが上がってきたという。それを捌いて肉を食べ、雨水を溜めて飲み水にしたという。棒に結ばれたワニを皆で担いでいる写真があった。屋外のテントに野宿しながら遺骨収集をしていた頃からすでに三十年近くの歳月が流れる。今なお慰霊事業を続けている彼等の精神には敬服するばかりである。
今回、焼骨した御遺骨は平成十一年九月、ペリリュー島で収集した。日米の戦いが日本軍の玉砕で終結して五十五年の歳月が流れ、米軍が上陸した九月十五日に日米両国の戦没者合同慰霊祭が行われた。米国からは二百五十余名が参列し軍楽隊も参加した。軍楽隊が奏でる葬送のマーチに合わせて若い兵士が隊列を組み行進し星条旗を揚げる光景を目の当たりにした時、戦死者を弔う国家の在り方の余りの違いに愕然とし、同じく国家のために戦い散華した日本将兵の御霊に、相済まなさが込み上げてきた。日本側で行った慰霊祭には、神官たちが現地の葉で即席に作った榊の枝を見よう見真似で神殿に捧げて手を合わせる姿に笑も漏れ皆は胸を熱くした。
ハワイのパールハーバーにあるアリゾナ戦争記念館に真珠湾を攻撃し戦死した九名の日本将兵の勇ましさを称えた写真入りの大きなポスターが張られ売店でも売られている。米国は敵味方を問わず、国家に忠節を尽くした人間を価値ある人として称えるという。
かつての日本はそうであった。日露戦争で勝利した乃木将軍は露軍の将兵を悼み称える大きな慰霊碑を建立し、一年後に日本将兵を癒す小さな慰霊碑を建てた。それが二千数百年、営々と築かれてきた伝統的日本精神の神髄なのであろう。
慰霊祭で私は日米両国の英霊に心からの祭文を読んだ。この日、夫を父上を祖父をこのペリリュー島で亡くされた親子、孫三代のご家族が参加されていた。お祖母さまは二十数年前、厚生省にペリリュー島に余りに多くの遺骨があるので収集して欲しいという願いを出されたが、もうこの島の収集は終わったと言われ悲憤にくれたという。彼女は自分で収集することを決心し中古車もこの島に置かれ、三か月ごとにペリリュー島を往復されコツコツと家族だけで遺骨収集をつづけてこられて来たそうだ。ある時、収集した遺骨を引取りに来た厚生省の職員から「貴女は四百数十柱の遺骨を収集しました」という約五倍の数の証明書が渡されて愕然としたと言う。
「私は百柱ちょっとしか収集していません、どんな数え方をしたのですか―」その時、厚生省職員が頭蓋骨が一柱、腕が二本で二柱、足が二本で二柱で、合計五柱という数え方をしているのを知って、もう収集が終わったという厚生省のやり方を知り、その余りにも英霊に対する愛情の無さに涙がこぼれたという。私も渡島する前にその数え方を知らされ、まさかと思っていたが彼女の話を聞いて改めて変な納得をした。厚生省の援護局、外事室長は、それは昔の数え方で今は違うと否定されたが、今年の二月二十六日の沖縄の遺骨収集の要領にも、今回も同じような数え方の方法が書かれていた。ますます厚生省への不信感が募った。だからこそまだ百二十万柱の同胞の遺骨が放置されているにも関わらず、南洋諸島は終わったとする厚生省の態度が理解できた。本来国家が収集するのが義務であるにも関わらず、民間が自費でやっている理由も分かってきた。
平成十三年の春、桐生市で「キトープリント」という印刷会社を経営されている菊池貴子さんという方にお目にかかったことがある。職業軍人だったお父上は、生前よく南洋諸島の旧戦場に戦友の遺骨収集に行かれていたという。
昭和天皇が崩御されたその日、それまでお元気だった父上なのに縁側の揺り椅子に揺られたままの姿で、あたかも殉死するかのように安らかな御顔で人知れず黄泉の国に旅立たれていたという。そのお父上が遺骨収集された時の思いを詩文にして残されたものをカレンダーに印刷され頂戴した。その詩を読んだ時、あたかもお父上が私の心の中に入って、私の思いをそのまま詩に託されたような錯覚にとらわれた。
御遺骨が山野に放置されている状況を、これほど正確に情景描写される才能に感動したのは無論だが、戦友を思う父上の思いの深さに感動して読みながら涙が止まらなかった。南洋の孤島、ペリリュー島で目の当たりにした光景そのままだったからである。

軍歌「戦友」の詩に読み替えて作られたという。
一、比処は、お国幾千里 遥かに遠き南海の 鳥も通わぬ島かげに 倒れし戦友よ今何処
二、戦に敗れ国亡び 戦友が勲は無となり 戦友がむくろはすておかれ 草木と朽ちて苔むしぬ
三、幾度月日はめぐるらん 弔ふ身よりの一人なく 額づく友の影もなく 訪なふものは雨と風
四、やがて輝く日の御旗 戦友がいまわの戦場に はらから集い来て見れば のどけき島のたたづまい
五、一度入りてジャングルの 奥みに戦友を求むれば 無残なるかや遠近に 野晒ならぬシャレコウベ
六、戦友が遺骨の傍に 淋しき年月まもりしは 穴のあきたるてつかぶと まだ朽ちやらぬ軍靴
七、雨と降りくる砲爆に 戦友の多くは倒れゆき 返す力の術もなく リーフに砕く波しぶき
八、かはきをいやす水もなく 飢をしのぐ食もなく ましてや弾丸もつきはてぬ ただひたすらに國のため
九、捧げし生命はおしまねど かかる運命にあはんとは 戦友が無念が身にしみて 頭をたれて只なみだ
十、いざや帰らんもろとも 四季うるはしき父母の國 蓋す誠に差はあれど 心安けくねむれかし 心安けくねむれかし
軍歌の詩にあるように弾丸飛び交う中で傷ついた戦友を気遣いながら戦い戦友を背負って戦場を駆ける将兵でなくては、こんな素晴らしい詩は浮かんでこない。お父上が戦死した戦友に寄せられる深い思いと、死を悼む悲しみが胸を打つ。
真っ白く美しく揃った歯が残された頭蓋骨を胸に抱いて涙を流したあの日の悲しみが込み上げてきた。
"凛々しい顔だちの青年だったに違いない"と生前の面影を偲びながら思わず落とした涙がシャレコウベに滲んで広がっていった。殆ど欠けていない頭蓋骨を洞窟の奥からそっと持って這い上がり、五十数年ぶりに外の新鮮な空気を吸わせてさしあげた。
昼間でも暗いジャングルの生い茂った樹葉を通して天空から一筋の光が射し込みシャレコウベを照らした。神秘的な情景に息を呑んで見つめる若い隊員たちの表情が忘れられない。異国の戦場に戦ったままの姿で放置されている将兵にとり戦争はまだ終わってはいない。
日本をすっぽりと覆った霧が晴れるのはいつの日か!世界のいかなる国にもない悠久の輝やかしい歴史を持つ日本に誇りを持ち、聖徳太子が諸外国に示されたあの『日本は陽出づる国』であるという堂々たる自信を政治家が取り戻した暁には、国のために戦った御霊が眠る靖国神社に総理大臣が背を向けるような恥かしいことはさせまい。
靖国神社はかって日本の軍人であった台湾の人も、韓国の人も、沖縄から本州に疎開中に撃沈された対馬丸に乗っていた九百余名の小学生も、従軍看護婦さんも、樺太で殉死された九名の電話交換手も、また世界中の戦場で亡くなった異国の人々も祭られているのを、マスコミ自身も知らない。報道の姿勢次第では国民の意識は変わる。靖国神社に遺骨が埋葬されていると信じている人が沢山いることは嘆かわしい。
神社に祀られた御霊は分祀することは出来ないという事実さえ知らぬマスコミ人は多い。靖国神社は独立した宗教法人である。仮りに日本政府が、いわゆるA級戦犯七人を「分祀すべし」という決定を下し法制化したとしても、宗教法人に政治が介入することは出来ない。政教分離を声高に主張するマスコミが一番良く知っている筈である。靖国神社や千鳥ガ淵墓苑がありながら、近隣国の要請で膨大な税金を使い国立墓苑の建設が自民党中枢の要人により進められているという新聞記事を読んだが、かりそめにも税金を使いそんな愚かな無駄をしないで欲しい。国立墓苑建設の推進派の日本遺族会々長の女性会長から、靖国神社参拝推進派の自民党の政治家が変わったが、就任早々に中国に表敬訪問し従来とは違う発言を堂々としているのを聞き、政治家の身代わりの早さに驚くばかりである。 
 
東條英機宣誓供述書

 

わが經歴

私は一八八四年(明治十七年)東京に生れ、一九〇五年(明治三十八年)より一九四四年(昭和十九年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。私は一九四〇年(昭和十五年)七月二十二日に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治には關係しませんでした。私はまた一九四一年(昭和十六年)七月十八日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。一九四一年十月十八日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。(同日陸軍大將に任ぜらる)。内務大臣の兼攝は一九四二年(昭和十七年)二月十七日に解かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがあります。一九四四年(昭和十九年)二月には參謀總長に任ぜられました。一九四四年(昭和十九年)七月二十二日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、豫備役に編入せられ、爾來、何等公の職務に就いては居りませぬ。即ち私は一九四〇年(昭和一五年)七月二十二日に政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然四年後の同じ日に責任の地位を去つたのであります。

以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、本件の御審理に關係あり、且參考となると思はれる事實を供述します。ここ[玆]に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在つた」とかいふ語を使用する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、從つて其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味はありませぬ。

但し、ここに唯一つ一九四〇年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項があります。それは外でもない一九三七年六月九日附の電報(法廷證六七二號)のことであります。私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事を否認するものではありませぬ。然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の一〇四頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。檢察官は私の發した電文は『對「ソ」の作戰に關し』打電したと言つて居りますが、右電文には實際は『對「ソ」作戰準備の見地より』とあります。又摘要書作成者は右電文が『南京を攻撃し先づ中國に一撃を加へ云々』と在ることを前提とするも電報本文には『南京政權に一撃を加へ』となつて居るのであります。(英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依る)。本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場より對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せるものであつて、軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違し、下僚間の連絡程度のものであります。
當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の脅威、平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の危險情態に曝されて居りました。此儘推移したならば濟南事件(一九二八年)南京事件(一九二八年)上海事件(一九三二年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せられました。而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對ソ防衞の重責上、滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありました。之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかつたのであります。中國との間の終局的の國交調整の必要は當然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むるか、然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。この關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。
この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。然し本意見は採用する處とはなりませんでした。蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)は本電とは何等關係はありません。蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であつたことに依ても知られます。 
第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢

先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衞内閣の成立に關する事實中、後に起訴事實に關係を有つて來る事項の陳述を續けます。私は右政變の約一ケ月前より陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。七月十七日陸軍大臣より歸京の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌十八日午後九時四十分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。其時の印象では大命を拜された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。乃ち近衞公は我國は今後如何なる國策を取るべきか、殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解しました。

その夜、近衞首相候補から通知があつたので、翌七月十九日午後三時より東京杉並區荻窪に在る近衞邸に出頭しました。此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。この會談は今後の國政を遂行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談でありましたから、會談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであります。近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと等を提唱せられまして、之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。政治に關する具體的のことも話に出ました。内外の情勢の下に國内體制の刷新、支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものであります。陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、自分は希望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。此の會合は單に意見の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。閣僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、我々はその結果については通報を受けました。要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。その後近衞公爵に依り閣僚の選定が終り、同月二十二日午後八時親任式がありました。
當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。即ち(一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、(二)軍の統帥を一層確立すること、(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。

ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置く必要があります。此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來三年に相成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出して居りません。重慶に對する米英の援助は露骨になつて來て居ります。これが支那事變解決上の重大な癌でありました。我々としてはこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大なる變化を世界に與えました。東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚になつて來て居ります。それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。從つて帝國としてはこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。第三に米英の日本に對する經濟壓迫は日々重大を加へました。これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありました。
對内問題について言へば第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相でありました。之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。第三に米英等諸國の我國に對する各種の壓迫に伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになつて來て居りました。 
二大重要國策

斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。その一つは一九四〇年(昭和十五年)七月二十六日閣議決定の「基本國策要綱」(法廷證第五四一號英文記録六二七一頁、及法廷證第一二九七號英文記録一一七一四頁)であります。その二は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」と題する連絡會議の決定(法廷證一三一〇號英文記録一一七九四頁)であります。私は陸軍大臣として共に之に關與しました。此等の國策の要點は要するに二つであります。即ちその一つは東亞安定のため速に支那事變を解決するといふこと、その二つは米英の壓迫に對しては戰爭を避けつゝも、あくまで我が國の獨立と自存を完ふしようといふことであります。
新内閣の第一の願望は東亞に於ける恒久の平和と高度の繁榮を招來せんことであり、その第二の國家的重責は適當且十分なる國防を整備し國家の獨立と安全を確保することでありました。此等の國策は毫末も領土的野心、經濟的獨占に指向することなく、況んや世界の全部又は一部を統御し又は制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。
私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題は解決を要する最重大問題であつて、私の明白なる任務は、力の限りを盡して之が達成に助力するに在りと考へました。私が豫め侵略思想又は侵略計劃を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。又私の知る限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。

七月二十六日の「基本國策要綱」は近衞總理の意を受けて企畫院でその草案を作り對内政策の基準と爲したのであります。之には三つの要點があります。その一つは國内體制の刷新であります。その二は支那事變の解決の促進であります。その三は國防の充實であります。第一の國内體制については閣内に文教のこと及び經濟のことにつき多少の議論があり結局確定案の通り極まりました。
第二の支那事變の解決については總て一致であつて國家の總ての力を之に集中すべきこと、又具體的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。
第三の國防充實は國家の財政と睨み合せて英米の經濟壓迫に對應する必要上國内生産の自立的向上及基礎的資源の確保を爲すべき旨が強調せられたのであります。大東亞の新秩序といふことについては近衞總理の豫てより提唱せられて居ることでありまして此際特に論議せられませんでした。要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇國の大精神」(英文記録六二七二頁、英文記録一一七一五頁)といふことはもっとも最も道徳的意味に解せられて居ります。道徳を基準とする世界平和の意味であります。三國同盟そのものについては此時は餘り議論はありませんでした。唯、現下の國際情勢に對處し、從來の經緯に捉はるゝことなく、彈力性ある外交を施策すべきであるといふ點につき意見の一致を見たと記憶します。

「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。これは七月二十七日に連絡會議で決定せられました。此の要綱の眼目は二つあります。その一は支那事變解決の方途であります。その二は南方問題解決の方策であります。此の要綱の討議に當り、議論になつた主要な點は凡そ四つほどあつたと記憶します。
(A)獨伊關係、獨伊關係については支那事變の解決及世界變局の状態よりして日本を國際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。支那事變を通じて米英のとりたる態度に鑑み從來の經緯に拘らず獨伊と提携し「ソ」聯と同調せしむるやう施策すべしとの論であります。當時は日獨伊三國同盟とまでは持つて行かずたゞ之との政治的の聯絡を強化するといふ意味でありました。又對「ソ」關係を飛躍的に調整すべしとの論もあつたのであります。
(B)日米國交調整、全員は皆、獨伊との提携が日米關係に及ぼす影響を懸念して居りました。近衞總理は天皇陛下の御平生より米英との國交を厚くすべしとの御考を了知して居りましたから、此點については特に懸念して居られました。乃ち閣僚は皆支那事變の解決には英米との良好關係を必要とすることを強く感じて居りました。たゞ「ワシントン」會議以來の米英の非友誼的態度の顯然たるに鑑み右兩者に對しては毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。松岡氏の主張は若し對米戰が起るならばそれは世界の破滅である、從つて之は極力囘避せねばならぬといつて居ります。それがためには日米の國交を改善する必要があるがそれには我方は毅然たる態度をとるの外はないといふのであります。會議では具體案については外相に信頼するといふことになりました。
(C)對中國政策、對中國施策としては援蒋行爲を禁止し敵性芟除を實行するといふにありました。何故斯の如きことが必要であるかといへば今囘の事變の片付かないのは重慶が我が國力につき過小評價をして居るといふことと及び第三國の蒋介石援助に因るからであるとの見解からであります。從つて蒋政府と米英との分斷が絶對的に必要であるとせられたのであります。
(D)南方問題、對「ソ」國防の完壁、自立國家の建設は當時の日本に取つては絶對の課題でありますが之を阻害するものは(1)支那事變の未解決と(2)英米の壓迫であります。右のうち第二のことについては重要物資の大部分は我國は米英よりの輸入に依つて居るといふことが注意せられます。もし一朝この輸入が杜絶すれば我國の自存に重大なる影響があります。從つて支那事變の解決と共に此事に付ては重大關心が持たれて居りました。之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完壁を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。但し支那事變の進行中のことでもあり日本は之がため第三國との摩擦は極力これを避けたいといふのであります。 
三國同盟
一〇
以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。右條約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。自分は單に陸軍大臣として之に參與致しました。國策としての決定は前に述べました第二次近衞内閣の二大國策に關係するのであります。即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を強化すとの項目に該當致します。(英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本供述書九項中(A)として述べた通りであります。
この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りました。第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、此の問題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。吉田海軍大臣は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。九月四日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫めの打合せもなく突如議題として提案せられました。
それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。右會合は之に同意を與へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に會見して居ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議及御前會議となつたのであります。「ここで申上げますが檢事提出の證據中一九四〇年(昭和十五年)九月十六日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られますが(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同年八月一日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」
一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議では同月四日の四相會議の合意を認めました。此の會議で私の記憶に殘つて居ることは四つであります。
其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るかの點でありますが、松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。
其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。此點に付ては松岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。
三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點でありますが、松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふることが出來る。從つて米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、萬一米國參戰の場合には我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へました。
四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、松岡外相は此點は獨逸も希望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、參會者も亦皆松岡外相の説明を諒と致しました。
右會議後同日午後三時頃より御前會議が開かれました。同日の御前會議も亦連絡會議の決議を承認しました。此の御前會議の席上、原樞府議長より「米國は日本を獨伊側に加入せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白とならば對日壓迫を強化し、日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、之に對し松岡外相は「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる御機嫌とりでは恢復するものではない。只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。
一一
此の條約締結に關する樞密院の會議は一九四〇年(昭和十五年)九月廿六日午前十時に審査委員會を開き同日午後九時四十分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのであります。(法廷證五五二號、同五五三號)樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海相、藏相だけであります。同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました。星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは單に説明者でありまして、審議に關する責任はありませぬ。責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして同會議陪席の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合致するといふことは保證出來ません。此の會議の場合に於ても左樣でありました。
此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作戰計劃の一部として考へて居つた對米作戰計畫に基いて説明したものであります。斯る計畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして國家が對米開戰の決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。統帥部としては將來の事態を假想して平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。これは統帥の責任者として當然のことであります。尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があつたのに對し松岡外相より條約案第五條及交換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しました。以上樞密院會議の決定を經て翌二十七日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。
一二
右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く右同盟締結の目的は之に依て日本國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、併せて歐洲戰の東亞に波及することを防止せんとするにありました。
三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。唯、「持てる國」の制覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へました。大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つものでありまして、其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定して居ります。又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありません。之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。 
北部佛印進駐
一三
一九四〇年(昭和十五年)九月末に行はれたる日本軍隊の北部佛印進駐については私は陸軍大臣として統帥部と共に之に干與しました。日本の南方政策は引つゞき行はれたる米英側の經濟壓迫に依り餘儀なくせられたものであつて、其の大綱は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」(法廷證一三一〇號)に定められてあります。この南方政策は二つの性格を有して居ります。その一は支那事變解決のため米英と重慶との提携を分斷すること、その二は日本の自給自足の經濟體制を確立することであります。ともに日本の自存と自衞の最高措置として發展したものであつて、而もこれは外交に依り平和的に處理することを期して居つたのでありますが、米英蘭の對日壓迫に依り豫期せざる實際問題に轉化して行つたのであります。
一四
私は以下に日本軍の少數の部隊を北部佛印に派遣したことにつき佛印側に便宜供與を求めたことを陳述致します。元來この派兵は專ら對支作戰上の必要より發し統帥部の切なる要望に基くのであります。
前内閣時代である一九四〇年(昭和十五年)六月下旬に佛印當局は自發的に援蒋物資の佛印通過を禁絶することを約し、其の實行を監視する爲日本より監視機關を派遣することになつたのであります。(法廷證六一八)當時「ビルマ」に於ても同樣の措置が取られました。然し實際にやつてみると少數の監視機關では援蒋物資禁絶の實施の完璧を期することの出來ぬことが判明しました。加之、佛印國境閉鎖以來重慶側は實力を以て佛印ルート再開を呼號し兵力を逐次佛印國境方面に移動したのであります。故に日本としては斯る情勢上北部佛印防衞の必要を感じました。なほ統帥部では支那事變を急速に解決するため支那奧地作戰を實行したいとの希望を抱き、それがため北部佛印に根據を持ちたいとの考を有しました。七月下旬連絡會議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになつたのであります。此の要求の要點は北佛自體に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵力を通過せしめることの要求であります。その兵力は前者六千、後者は二千位と記憶して居ります。右に關する外交交渉は八月一日以來、松岡外相と日本駐在の「シヤール、アルセイヌ、アンリー」佛蘭西大使との間に行はれ、同年八月三十日公文を交換し話合は妥結したのであります。(法廷證六二〇の附屬書第十ノ一、及二)。即ち日本側に於ては佛領印度支那に對する「フランス」の領土保全及主權を尊重しフランス側では日本兵の駐在に關し軍事上の特殊の便宜を供與することを約し、又此の便宜供與は軍事占領の性質を有せざることを保證して居ります。
一五
右八月三十日の松岡「アンリー」協定に於ては右の原則を定め現地に於ては日本國の要望に滿足を與ふることを目的とする交渉が遲滯なく開始せられ、速かに所期の目的を達成するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を發せらるべきものとしたのであります。そこで前に監視機關の委員長として現地に出張して居つた西原少將は大本營の指導の下に右日佛兩國政府の協定に基き直ちに佛印政廳との間に交渉を開始し、九月四日には既に基礎的事項の妥結を見るに至りました。(法廷證六二〇號の附屬書第十一號)引續いて九月六日には便宜供與の細目協定に調印する筈でありましたが、不幸にも其前日たる九月五日に佛印と支那との國境に居つた日本の或る大隊が國境不明のために越境したといふ事件が起りました。(其後軍法會議での調査の結果、越境に非ざることが判明しましたが)無論これは國境偵察の爲でありましたから一彈も發射した譯ではありませんが、佛印側は之を口實として細目協定に調印を拒んだのであります。當時佛印當局の態度は表面は「ヴイシー」政府に忠誠を誓つて居つたようでありましたが、内實はその眞僞疑はしきものと觀察せられました。一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、それでも最後まで平和的方法で進行したしとの念を棄てず、これがため參謀本部より態々第一部長を佛印に派遣し、此の交渉を援助せしめました。その派遣に際しても參謀總長よりも、陸軍大臣たる私よりも、平和進駐に依るべきことを懇切に訓諭したのでありました。それでも細目協定が成立しませぬから、同月十八、九日頃に大本營より西原機關に對し同月二十二日正午(東京時間)を期して先方の囘答を求めよといふことを申してやりました。これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐を承諾せるに拘らず、現地の作爲で遲延するのであるから、自由進駐も止むを得ずと考へたのであります。從つて居留民等の引上げもその前に行ひました。
佛印側との交渉は二十二日正午迄には妥結に至りませんでしたが、我方も最後に若干の讓歩を爲し、それより二時間程過ぎた午後二時過に細目協定の成立を見るに至つたのであります。(それは證六二〇號の附屬書十二號であります)然るに翌二十三日零時三十分頃に佛印と支那との國境で日佛間に戰鬪が起りました。それは當時佛印國境近くに在つた第一線兵團は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居つたがため、連絡が困難で二十二日午後二時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であつたのと、「フランス」側に於ても、その通知の不徹底であつたからでありますが、此の小衝突はその日のうちに解決しました。海防方面の西村兵團は「フランス」海軍の案内に依つて海防港に入ることになつて居つたのでありますが、北方陸正面で爭の起つたのに鑑み海防港には入らず、南方の海濱に何等のことなく上陸しました。なほその後同月二十六日日本の偵察飛行隊が隊長と部下との信號の誤りから海防郊外に爆彈を落した事件が起りました。これは全くの過失に基くもので且一些事であります。
一六
要するに我國が一九四〇年(昭和十五年)九月末に佛印に派兵したことは中國との問題を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとしたのであります。又實際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遙か以内なる四千位であつたと記憶します。一九四一年(昭和十六年)十二月八日、米國「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書(法廷證一二四五號J)中に
陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、これに依て五千又は六千の日本軍隊を北部佛印に入れ、それより以北に於て中國に對し作戰中の日本軍を保護する許可を得た
と述べて居ることに依ても當時の事情を米國政府が正當に解釋して居つたことを知り得ます。
以上説明しましたやうな次第で不幸にして不慮の出來事が起りましたが、之に對しては私は陸軍大臣として軍紀の振肅を目的として嚴重なる手段を取りました。即ち聯隊長以下を軍法會議にかけ、現地指揮官、大本營幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。之はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、又陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居つたのに基くもので、軍内部の規律に關することでありまして、之は固より日本が佛印側に對し國際法上の責任があることを意味したものではありません。 
日華基本條約と日滿華共同宣言
一七
第二次近衞内閣に於て一九四〇年(昭和十五年)十一月卅日、日華基本條約を締結し日滿華共同宣言を發するに至りました事實を述べ、これが檢察側の主張するような對支侵略行爲でなかつた事を證明致します。これは一九四〇年(昭和十五年)十一月十三日の御前會議で決定せられた「支那事變處理要綱」に基くのであります。(辯護側證第二八一三號)何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたのかと申しますに、これより先、從前の政府も統帥部も支那事變の解決に全力を盡して居りました。一九四〇年(昭和十五年)三月には南京に新國民政府の還都を見ました。これを承認しこれとの間に基本條約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出發し、南京に滯在して居りましたが、南京との基本條約を締結する前に今一度重慶を含んだ全面和平の手を打つて見るを適當と認めました。また當時既に支那事變も三年に亘り國防力の消耗が甚だしからんとし、また米英の經濟壓迫が益々強くなつて來て居るから我國は國力の彈撥性を囘復する必要が痛感せられました。この支那事變處理要綱の骨子は
(一)一九四〇年(昭和十五年)十一月末を目途として重慶政府に對する和平工作を促進する
(二)右不成立の場合に於ては長期持久の態勢に轉移し帝國國防の彈撥性を恢復す
といふのでありました。
一八
右要綱(一)の對重慶和平工作は從來各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つたのでありますが、此時これを松岡外相の手、一本に纒めて遂行したのでありましたが、この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのであります(證四六四、英文記録五三一八頁)。この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出來たものであつて彼の一九三八年(昭和十三年)十二月二十二日の近衞聲明(證九七二、英文記録九五二七頁)の主旨を我方より進んで約束したものであります。又同日日滿華共同宣言(證四六四號英文記録五三二二頁)に依つて日滿華の關係を明かにしました。なほ基本條約及右宣言の外に附屬の秘密協約、秘密協定並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換せられて居ります。(證四六五號英文記録五三二七以下)
一九
右の一九四〇年(昭和十五年)十一月三十日の日華基本條約並に日華共同宣言、秘密協約、秘密協定、交換公文を通じて陸軍大臣として私の關心を持つた點が三つあります。一は條約等の實行と支那に於ける事實上の戰爭状態の確認、二は日本の撤兵、三は駐兵問題であります。
第一の條約の完全なる實行は政府も統帥部も亦出先の軍も總て同感で一日も早く條約の實行を爲すべきことを希望して居つたのであります。然るに我方の眞摯なる努力にも拘らず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戰鬪を續行し事實上の戰爭行爲が進行しつゝありました。占據地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の保護のためにも、亦新政府自體の發展のためにも、條約の實行と共にこの事實上の戰爭状態を確認し、交戰の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。これが基本條約附屬議定書中第一に現在戰鬪行爲が繼續する時代に於ては作戰に伴ふ特殊の状態の成立すること又、之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認せられた所以であります。(法廷證四六四號英文寫四頁)第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事變が解決すれば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなかつたのであります。我國の國防力の囘復のためにも其の必要がありました。然し撤兵には二つの要件があります。その中の一つといふのは日支の間の平和解決に依り戰爭が終了するといふことであります。その二つは故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。撤兵を實行するのには技術上約二年はかゝるのでありまして、後方の治安が惡くては撤兵實行が不能になります。これが附屬議定書第三條に中國政府は此期間治安の確立を保證すべき旨の規定を必要とした所以であります。(法廷證四六四、英文寫四頁)
第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。「防共駐兵」とは日支事變の重要なる原因の一つであるところの共産主義の破壞行爲に對し日支兩國が協同して、之を防衞せんとするものでありまして、事變中共産黨の勢力が擴大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是非必要と考へられました。之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。(法廷證四六四、四六五)そして所要の期間駐兵するといふことであつて必要がなくなれば撤兵するのであります。
以上は私が陸軍大臣として此條約に關係を持つた重なる事柄でありまして此の條約は從前の國際間の戰爭終結の場合に見るような領土の併合とか戰費の賠償とかいふことはありません。これは特に御留意を乞ひたき點であります。たゞ附屬議定書第四條には支那側の義務と日本側の義務とを相互的の關係に置き支那側の作戰に依つて日本在留民が蒙つた損害は中國側で賠償し中國側の難民は日本側で救助するといふ條項がある許りであります。(法廷證四六四、英文四頁)中國の主權及領土保全を尊重し、從前我國の持つて居つた治外法權を抛棄し租界は之を返還するといふ約束をしました。(基本條約一條、七條、法廷證四六四)
而して治外法權の抛棄及租界の返還等中國の國權の完備の爲に我國が約束した事柄は一九四三年(昭和十八年)春迄の間に逐次實行せられました。なほ一九四三年(昭和十八年)の日華同盟條約法廷證四六六に於て右基本條約に於て日本が權利として留保した駐兵其他の權利は全部抛棄してしまひました。 
日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐
二〇
次に日「ソ」中立條約に關し陸軍大臣として私の關係したことを申上ます。一九四一年(昭和十六年)春、松岡外相渡歐といふ問題が起りました。一九四一年(昭和十六年)二月三日の連絡會議で『對獨伊「ソ」交渉案要綱』(辯護側證第二八一一號)なるものを決定しました。此の決定は松岡外相が渡歐直前に提案したものでありまして、言はば外相渡歐の腹案であつて正式の訓令ではありません。
此の「ソ」聯との交渉は「ソ」聯をして三國同盟側に同調せしめこれによって對「ソ」靜謐を保持し又、我國の國際的地位を高めることが重點であります。かくすることによつて(イ)對米國交調整にも資し(ロ)ソ聯の援蒋行爲を停止せしめ、支那事變を解決するといふ二つの目的を達せんとしたのであります。
二一
右要綱の審議に當つて問題となつた主たる點は四つあつたと記憶致します。その一つは「ソ」聯をして三國側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此點については既に獨「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り豫て内容の提示してあつた「リツペントロツプ」腹案(此本文は法廷證第二七三五號中に在り)なるものにも獨逸も「ソ」聯を三國條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があつた次第もあり、「ソ」聯をして三國に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。
その二は我國の「ソ」聯との同調に對し獨逸はどんな肚をもつて居るであらうかといふことでありました。此點については獨逸自身既に「對」ソ不可侵條約を結んで居る。
加之、現に獨逸は對英作戰をやつて居る。それ故當時の我國の判斷としては獨逸は我國が「ソ」聯と友好關係を結ぶことを希望して居るであろうと思いました。かくて「ソ」聯をして日獨に同調せしめ、進んで對英作戰に參加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。
その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我國はある程度の犧牲を拂つても此の目的を達して行きたい。然らば日本として拂ふことあるべき犧牲の種類と限度如何といふ問題でありました。そこで犧牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の權利並に北樺太の油田に關する權利を還付するといふ肚を決めたのであります。尤も對獨伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を爲すといふ事項がありますが之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍にも大なる關係がありますから無論その意見を取り入れたのであります。
その四は外相の性格上もし統帥に關する事項で我國の責任又は負擔となるようなことを言はれては非常な手違となりますから、參謀總長、軍令部總長はこの點を非常に心配されました。そして特にそのことのないやうに注意を拂ひ、要綱中の五の註にも特に「我國の歐洲戰參加に關する企圖行動並に武力行使につき帝國の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れたのであります。
二二
此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を爲したり、或は制覇を爲すといふ意味ではありません。唯、國際的に隣保互助の精神で自給自足を爲すの範圍を豫定するといふの意味に外なりません。
二三
當時日本側で外相渡歐の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、當法廷で檢察側より獨逸から押收した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電報(法廷證五六七乃至五六九)並に「ヒトラー」總統及「リツペントロツプ」外相松岡外相との會談録(證五七七乃五八三)に記載してあることは右腹案に甚しく相違して居ります。
松岡外相歸朝後の連絡會議並に内閣への報告内容も之とは絶對に背馳して居ります。
二四
松岡外相が渡歐したときは當時日本として考へて居つたこととは異なり獨逸と「ソ」聯との間は非常に緊張して居り「ソ」聯を三國同盟に同調せしめるといふことは不可能となりました。又、獨逸は日本と「ソ」聯とが中立條約を結ぶことを歡迎せぬ状態となつたのであります。從つてその斡旋はありません。即ち此點については我國の考へと獨逸のそれとは背馳するに至りました。結局四月十三日松岡外相の歸途「ソ」聯との間に中立條約は締結いたしましたが(證第四五號)その外に此の松岡外相渡歐より生じた實質的の外交上の利益はなにもなかつたのであります。詳しく言へば(1)松岡外相の渡歐は獨伊に對しては全く儀禮的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の單獨不媾和といふことは話にも出て居りません。(2)統帥に關することは初めより松岡に禁じたことでもあり、また「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。(3)又、檢察官のいふ如き一九四一年(昭和十六年)二月上旬日獨の間に軍事的協議をしたといふことも事實ではありません。
二五
日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我國の國策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の關係もありません。此の中立條約があるがため我國の「ソ」聯に備へた北方の兵備を輕くする効果もありませんでした。乍然、我國は終始此の中立條約の條項は嚴重に遵守し、その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の現地を與へ獨逸側の要求がありましても「ソ」聯に對し事を構へることは一度も致しませんでした。たゞ「ソ」聯側に於ては中立條約有効期間中我國の領土を獲得する條件を以て對日戰に參加する約束をなし、現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。 
第二次近衞内閣に於ける日米交渉
二六
所謂日米諒解案(證第一〇五九號と同文)なるものを日本政府が受取つたのは一九四一年四月十八日であります。
此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に關與しました。但し私は職務上軍に關係ある事項につき特に關心を有して居りまして、其他のことは首相及外相が取扱はれたのであります。
斯る案が成立しましたまでのことについて私の了解するところでは、これは近衞首相が三國同盟の締結に伴ひその日米國交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に一九四〇年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米國に於て、話合が續けられて來て居つた如くでありました。米國に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米國側では大統領國務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官からの報道を受けて居りました。
右諒解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も國務長官も之を承知し特に國務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に對する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉が開始されたものと認めたのであります。
二七
此案を受取つた政府は直ちに連絡會議を開きました。連絡會議の空氣は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め或る氣輕さを感じました。何故かと言へば我國は當時支那事變の長期化に惱まされて居りました。他方米英よりの引續く經濟壓迫に苦んで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開いたと思つたからであります。米國側も我國との國交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出來ますからこれには相當熱意をもつものと見て居りました。米國側に於て當初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶豫を稼ぐために交渉に當るなどといふことは日本では夢想だもして居らなかつたのであります。連絡會議は爾來數囘開會して最後に四月二十一日に態度の決定を見ました。當時は松岡外相は歐洲よりの歸途大連迄着いて居つてその翌日には着京する豫定でありました。一九四一年(昭和十六年)四月二十一日の態度決定の要旨は
一、此の案の成立は三國同盟關係には幾分冷却の感を與へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥結を圖ること
二、我國の立場としては次の基準で進むこと即ち
(イ)支那事變の迅速解決を圖ること
(ロ)日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
(ハ)三國同盟關係には多少の冷却感を與ふる事は可なるも明かに信義に反することは之を避けること
といふのであります。我方では原則論に重きを置かず具體的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事變解決と自存自給體制の確立といふ問題があるからでありました。
三國同盟條約との關係の解釋に依つて此の諒解案の趣旨と調和を圖り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を獨逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました以上の趣旨で連絡會議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大體異存なき旨を直ちに野村大使に電報しようといふことになりましたが、此點については外務大臣も異存はない、たゞ松岡外務大臣が明日着京するから華盛頓への打電は其時迄留保するといふ申出を爲し會議は之を承認して閉會したのでありました。
二八
しかし翌四月二十二日(一九四一年昭和十六年)松岡外相が歸つてから此の問題の進行が澁滯するに至つたのであります。松岡外相の歸京の日である四月二十二日の午後直ちに連絡會議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡歐の報告のみをして右案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。之が進行の澁滯を來した第一原因であります。外相は又、此の諒解案の内容を過早に獨逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の澁滯と混亂の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は(A)囘訓に先だち歐洲戰爭に對する「ステーメント」を出すことを主張し(B)又日米中立條約案を提案せんとしました。此等のことのため此の問題に更に混亂を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思はれます。松岡氏は初めは此の諒解案は豫て同外相がやつて居つた下工作が發展して此のようになつて來たものであらうと判斷して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より發生したものではなく、又一般の外交機關により生れて來たものでもないといふことを覺知するに至りました。それが爲松岡氏は此の交渉に不滿を懷くようになつて來ました。又松岡外相は獨伊に行き、その主腦者に接し三國同盟の義務履行については緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より觀取することが出來ました。なほ松岡外相の持論である、米國に對し嚴然たる態度によつてのみ戰爭の危險が避けられるといふ信念がその後の米國の態度に依り益々固くなつたものであると私は觀察しました。
二九
斯くて我國よりは漸く一九四一年(昭和十六年)五月十二日に我修正案を提出することが出來ました。(法廷證一〇七〇號)「アメリカ」側は之を我國よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では四月十八日のものを最初の案とし之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨についてその主なる點を説明すれば
(一)その一つは三國同盟條約の適用と自衞權の解釋問題であります。四月十八日案では米國が自衞上歐洲戰爭に參加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米國の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに五月十二日の該修正案では三國同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。――三國同盟の目的の一つは「アメリカ」の歐洲戰爭參加の防止と及歐洲戰爭が東亞に波及することを防止するためでありました。米國は此の條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出來ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釋により處理しようといふ考へでありました。即ち我方は實質に於て讓歩し協調的態度をとつたのであります。
(二)二は支那事變關係のことであります。四月十八日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政權に對し日支交渉を爲す勸告をしよう、而して蒋政權が、之に應ぜざれば米國の之に對する援助を中止するといふ事になつて居ります。我方五月十二日案では米國は近衞聲明、日華基本條約及日滿華の三國共同宣言(法廷證九七二ノH四六四)の趣旨を米國政府が了承して之に基き重慶に和平勸告を爲し、もし之に應ぜざれば米國より蒋政權に對する援助を中止することになつております。尤も此の制約は別約でもよし、又米國高官の保證でもよいとなつております。乃ち米國は元來支那問題の解決は日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。
元來支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重點があります。その一つには支那事變自體の解決であります。その二は新秩序の承認であります、我方の五月十二日案では近衞聲明、日華基本條約及日滿華共同宣言を基本とするのでありますから、當然東亞に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。撤兵の問題は四月十八日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基づくといふことになつて居ります。五月十二日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸開放のことも四月十八日案と五月十二日案とは相違しないのであります。四月十八日案には支那領土内への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、五月十二日案は之には觸れて居りません。
三〇
五月十二日以後の日米交渉の經過につき私の知る所を陳述いたします。五月十二日以後右の日本案を中心として交渉を繼續しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三點に於て米側と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中國に於ける日本の駐兵問題、その二は中國に於ける通商無差別問題、その三は米國の自衞權行使に依る參戰と三國條約との關聯問題であります。五月三十日に米國からの中間提案(法廷證一〇七八)が提出されなど致しましたが、此の間の經緯は今、省略いたします。結局六月二十一日の米國對案の提出といふことに歸着いたしました。
三一
六月二十一日と言へば獨「ソ」開戰の前日であります。此頃には獨「ソ」戰の開始は蓋然性より進んで可能性のある事實として世界に認められて居りました。我々は此の事實に因り米國の態度が一變したものと認定したのであります。この六月二十一日の案は證第一〇九二號の通りでありますが、我方は之につき次の四點に注意致しました。
その一つは米國の六月二十一日案は獨り我方の五月十二日修正案に對し相當かけ離れて居るのみならず、四月十八日案に比するも米國側の互讓の態度は認められません。米國は米國の立場を固守し非友誼的であるといふことが觀取せられます。その二つは三國條約の解釋については米國が對獨戰爭に參加した場合の三國同盟條約上の我方の對獨援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して來ました。(證一〇七八號中に在り)その三は從前の案で南西太平洋地域に關して規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋地域の全體に適用することを求めて來たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。四月十八日案にも五月十二日案にも米國並に南西太平洋地域に對する日本移民は他國民と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が與へられるであらうとの條項がありました。六月二十一日の米案はこの重要なる條項を削除して來ました。六月二十一日の米提案には口頭の覺書(オーラル・ステートメント)といふものが附いて居ります。(證一〇九一號)その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ獨逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信認を表現する辭句がありました。之は日本の關係者には内政干渉にあらざるやとの印象を與へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乘り上げたのであります。
三二
しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。
一、六月二十二日獨ソ戰爭が開始したこと
二、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部佛印への進駐を原因として米國の態度が變化したこと
三、七月二十五日及二十六日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る經濟封鎖
四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衞内閣の總辭職
以上の内一及二の原因により米國の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は佛印問題を中心として行はるゝようになりました。四の内閣變更の措置は我方は如何にしても日米交渉を繼續したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では國の死活に關する問題として此の交渉の成立に對する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を續けたのであります。 
對佛印泰施策要綱
三三
以上述べました日米交渉よりは日時に於ては少し遡りますが、ここに佛印及泰との關係を説明いたします。
一九四一年(昭和十六年)一月三十日の大本營及政府連絡會議に於て「對佛印泰施策要綱」といふものを決定しました。(辯護側證第二八一二號本文書記入の日附は上奏の月日を記入せるものであります。法廷證一一〇三、及一三〇三參照)これは後日我國が爲した對佛印間の居中調停、佛印との保障及政治的了解及經濟協定の基礎を爲すものであります。右要綱の内には軍事的緊張關係の事も書いてありますが、此部分は情勢の緩和のため實行するに至らなかつたのであります。
一九四一年(昭和十六年)七月下旬の南部佛印進駐は同年六月廿五日の決定に因るものでありまして、今ここに陳述する一月卅日の施策要綱に依るのではありませぬ。從て南部佛印進駐の事は今ここには陳べませぬ。
三四
右對佛印泰施策要綱は統帥部の提案であります。
自分は無論陸軍大臣として之に參與しました。其の内容は本文に在る通りであります。而して其の目的とする所は、帝國の自存自衞のため佛印及泰に對し軍事政治、經濟の緊密不離の關係を設定するにありました。本件に關する外交交渉は專ら外相に依り取り運ばれましたので詳細は承知して居りませんが此の當時の事情は概ね次の如くであつたと承知して居ります。
(一)日本は一九四〇年(昭和十五年)六月十二日、日泰間の友好和親條約を締結し(證五一三)日泰間の緊密化に努力して來ましたが、泰國内には英國の勢力の強きものが存在しております。
(二)日本と佛印の間には松岡「アンリー」協定の結果表面は親善の關係に在り、なほ日佛印の交渉も逐次具體化したのであります。しかし、佛印の内部には種々錯綜した事情がありました。第一佛印内には「ヴイシー」政權の勢力と「ドゴール」派の勢力とが入亂れて居り「フランス」本國の降伏後「フランス」の勢力が弱くなるにつれ米、英の示唆により動くような事情も生じましたため、佛印政廳は我國に對し不即不離の態度をとるのみでなく、時には反日の傾向をさへ示したのであります。
(三)一九四〇年(昭和十五年)十一月以來泰國が佛印に對し失地囘復の要求を爲したるに端を發し、泰、佛印間の國境紛爭は一九四一年(昭和十六年)に至り逐次擴大し第三國の調停を要する状態となりました。「イギリス」は此の調停を爲すべく暗躍を始めましたが當時は「イギリス」と「フランス」本國とは國交斷絶の状態でありましたから是亦適當の資格者ではありません。
(四)東亞安定のため支那事變遂行中の日本はその自存自衞のためにも一刻も早く泰、佛印の平和を希望せざるを得ません。以上の如き各種の事情が此の要綱を必要とした所以であります。
三五
此の要綱の狙いは二つあります。その一つは泰、佛印間の居中調停を爲すといふことであります。その二は此の兩國に對し第三國との間に我國に對する一切の非友誼的協定を爲さしめないといふことであります。
居中調停は一九四一年(昭和十六年)一月中旬にその申出を爲し、兩國は之を受諾し、同年二月七日より東京に於て調停の會合を開き三月十一日に圓滿に調停の成立を見、之に基いて五月九日には泰佛印間の平和條約成立し(法廷證四七)、引續き現地に於て新なる國境確定が行はれました。泰は當初は「カンボヂヤ」を含む廣大な地區の要求を致しましたが我國は之を調停し彼條約通りの協定に落着かせたのであります。
第二の我國に對する非友誼的な協約を爲さずとの目的に關しては右と同時に松岡外相の手で行はれ五月九日の日佛印間及日泰間の保障及諒解の議定書となつたのであります。(證六四七中に在り)此の間の外交交渉については自分は關與致して居りません。 
南部佛印進駐問題
三六
一九四〇年(昭和十五年)九月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保ちましたが、一九四一年(昭和十六年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、我國は佛國との間に共同防衞の議を進め、一九四一年(昭和十六年)七月二十一日にはその合意が成立しました。之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月二十三日には成立し、之に基いて一部の軍隊は二十八日に、主力は二十九日に進駐を開始したのであります。尤も議定書は同月二十九日に批准せられました。以上はその經過の大略であります。
三七
右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。之は一九四一年(昭和十六年)六月二十五日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くものであります。此の決定は源を同年一月三十日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施策要綱」に發して居るのであります。その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが情勢が緩和致しましたから、之を差控へることにしました。然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉は六月十日頃には決裂状態にあることが判明しました。そこで同年六月十三日の連絡會議の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが松岡外相の要望で一時之を延期し之を同月二十五日に持越したのであります。(證一三〇六號)斯樣な次第でありますから南部佛印進駐のことは六月二十二日の獨「ソ」開戰よりも十日以前に決心せられたもので決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。此の「南方施策促進に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しました。此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り又七月十八日第三次近衞内閣となつてからは、豐田外相がその局に當つたものであります。
本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て佛國印度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります(辯護側文書二八一四号)。此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。
三八
南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。その要點は凡そ三つあります。(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設定(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること(三)佛印側が之に應ぜざる時は武力をもつてその貫徹を圖る。從つて之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふことであります。然しその實行に當つては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は行使せずにすみました。
三九
右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。(法廷證六五一號)此議定書の要點は四つあります。(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合には日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、(二)佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、(三)「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、(四)日佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。但し此の軍事上の協力の約束は之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。
四〇
然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由があります。その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分斷すること、その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、對日包圍圏の結成、米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫的の言動、三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入手妨害、四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認めらるること、五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。
以上の理由、特に對日包圍陣構成上、佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行はれないとは言へないのであつて日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる必要を感じたのであります。
四一
右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へますから、右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。
本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。(辯護側證第二九二三)
先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居つた数種の報道を擧げますれば(1)一九四〇年(昭和十五年)七月にはハル國務長官は英國の「ビルマルート」經由援蒋物資禁止方につき反対の意見を表明して居ります。(2)一九四〇年(昭和十五年)十月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て國防のため英國及重慶政權を援助する旨の演説を致しました。(3)一九四〇年(昭和十五年)十一月には米國は重慶政權に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。(4)一九四〇年(昭和十五年)十二月二十九日には「ルーズヴエルト」大統領は三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。(5)一九四〇年(昭和十五年)十二月三十日には「モーゲンソー」財務長官は重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して居ります。一九四一年(昭和十六年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となつて來ました。(6)一九四一年(昭和十六年)五月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため重慶に到着しました。(7)一九四一年(昭和十六年)二月には「ノツクス」海軍長官は重慶政府は米國飛行機二百臺購入の手續を了したる旨を発表しました。(8)同海軍長官は一九四一年(昭和十六年)五月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。(9)その翌日には「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。斯る情勢に於ては支那事變の迅速解決を望んで居つた我國としては蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず佛印及泰よりする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。
四二
第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りました。
(1)米國は一九四〇年(昭和十五年)七月より一九四一年(昭和十六年)五月迄の間には三百三十億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。(2)此當時米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至りました。即ち一九四〇年(昭和十五年)八月には「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第十三海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。(3)同年九月には太平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費八百萬弗の内譯が公表せられました。(4)同年十二月には米國は五十一ケ所の新飛行場建設及改善費四千萬弗の支出を「スチムソン」「ノツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。此等は米國側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。
一九四〇年(昭和十五年)九月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し同方面の現状維持を主張する旨の聲明が發せられました。同年七月八日には「ヤーネル」提督はUP通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。同年十月には「ノツクス」海軍長官は「ワシントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。又同年九月には米海軍省は一九四〇年(昭和十五年)度の米海軍の根本政策は兩洋艦隊建設と航空強化の二點にありと強調致しました。一九四〇年(昭和十五年)十一月「ラモント」氏は對日壓迫強化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。同年同月十一日休戰紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報を得て居ります。同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致しました。更に一九四一年(昭和十六年)に入り五月二十七日に「ルーズヴエルト」大統領は無制限非常時状態を宣言いたしました。
これより先一九四〇年(昭和十五年)十月八日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上げを勸告して居ります。上海在住の米國婦女子百四十名は同月中上海を發し本國に向かひました。米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。同じ一九四〇年(昭和十五年)十月十九日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。
以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。
四三
第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したことを陳べます。一九三九年(昭和十四年)七月二十六日「アメリカ」の我國との通商航海條約廢棄通告以來米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。その事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月には「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。米國政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を行ふ旨發表いたして居ります。同年十月初旬には「ルーズヴエルト」臺帳料は屑鐵の輸出制限令を發しました。以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は當時の鐵材不足の状態と我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。
四四
第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由の二、三を申上げますれば、泰、佛印の要人は一九四〇年(昭和十五年)以來「シンガポール」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。その結果日本の生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのであります。日本の食糧事情としては當時(一九四一年即昭和十六年頃にあつては)毎年約百五十萬噸(日本の量目にて九百萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。此等の事情のため日佛印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に經濟協定を結んで七十萬噸の米の入手を契約したのでありましたが佛印は契約成立後一ケ月を經過せざる六月に協定に基く同月分契約量十萬噸を五萬噸に半減方申出て來ました。日本としては止むなく之を承諾しましたところ七、八月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。泰に於ては英國は一九四〇年(昭和十五年)末に泰「ライス」會社に對して「シンガポール」向け泰米六十萬噸といふ大量の發註を爲し日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しました。「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約六萬噸であります。その中日本は僅かに一萬五千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米國は佛印の「ハノイ」領事に對し佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取得を妨碍し又、英國はその屬領に對し一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本及圓ブロツク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。
四五
第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。一九四〇年(昭和十五年)九月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。當時石油が米英より輸入を制限せられたため我國としては之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望んだのであります。然るに蘭印の方も敵性を帶び來り六月十日頃には事實上決裂の状態に陷り六月十七日にはその聲明を爲すに至つたのであります。「オランダ」外相は五月上旬「バタビヤ」に於て蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄して居ります。
以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。日本の自存は脅威せられ且以上のような情勢の下で統帥部の切なる要望に基き六月廿五日に右南方施策促進に關する件(證第一三〇六號)が決定せられ之に基く措置をとるに至つたのであります。
四六
日本政府と「フランス」政府との間には七月廿一日正午(「フランス」時間)共同防衞の諒解が成立し、七月二十二日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌二十三日細目の協定が成立し、海南島三亞に集結して居つた部隊にはその日進駐の命令が發せられ、二十五日三亞を出發しました。廿六日には之を公表しました。三亞を出發した部隊の一部は二十八日に「ナトラン」に、二十九日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。日本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は二十九日調印を見て居ります。
四七
「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實でありますが、「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。從つて起訴状にある如く「ドイツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。又起訴状は「ヴイシー」政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、しかし、日本軍が進駐の準備として三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。又、前に述べます如く、此の措置は「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もないのであります。日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であつて断じて米、英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。
一九四一年(昭和十六年)十二月七日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J)に依れば
「更に本年春及夏「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入れることを許可した。但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計畫もなかつたことは確實であると信ずる」
と述べられて居ります。乃ち佛印に對しては攻撃を行つた事もなく攻撃を計畫した事もなかつたと断言し得ると信じます。
當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでした。即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思つたのであります。何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるからであります。又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷定致して居ります。之は誣告であります。南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居ることはその通りでありますが、南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味するものではありません。之は南方に向かつての防禦のための航空基地であります。そのことは大本營が四月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明かであります。
これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。 
 
東條英機の歴史的評価

 

誤解を恐れずに、などと言う弁解をせずに言う。小生は、昭和史の人物で東條英機を昭和天皇陛下の次のNo.2にあげる者の一人である。東京裁判でのキーナン判事に対する弁論を高く評価する人物ですら、大抵は有能な秀才官僚に過ぎないという評価を与える人が多い。事実を閲して見ればそうではないことが分かる。
その前に大東亜戦争開戦が日露戦争に比べて無謀だったという説に反論しておこう。伊藤総理にしても児玉源太郎にしても、開戦するにあたって講和の見通しを立てていたのに、大東亜戦争の指導者はそのような手筈を全くしていなかったという批判が司馬遼太郎を筆頭とする多くの識者によりなされている。しかし単純に考えて欲しい。日露戦争当時は世界で戦争をしているのは日本とロシアだけであった。だから講和を斡旋する第三国の存在の可能性はあった。ところが第二次大戦に参戦していない欧米の大国と言えばアメリカだけである。そのアメリカは日本の戦争相手なのである。大東亜戦争の指導者を批判する人は、どこの国を講和の斡旋国と想定しているのだろう。どういう終戦を想定することが可能だったというのだろう。これでは批判のための批判である。
昭和18年の大東亜会議は、多くのアジア諸国の独立を果たした画期的な会議である。発想したのは東條自身ではないのにしても東條の指導力により実現したのには間違いはない。日本人が大東亜会議を大西洋憲章と比較して低く評価しているのは、東京裁判と言論統制によるアメリカの洗脳によるものである。そもそも民族自決をうたったとされる大西洋憲章もチャーチルは、ヨーロッパにしか適用されないと明言しているし、ルーズベルトも有色人種には適用されない、としている。こんな民族自決に何の意味があるというのであろうか。何の事はない。ドイツに占領されたヨーロッパを開放せよ、と言っているだけで、アジアの植民地の解放とは関係ない。アフリカなどは脳裏の隅にもなかった。これに比べ実際に民族自決を実現した大東亜会議の方が余程重要である。
意外と思われるのはインパール作戦であった。インパール作戦はインド国民軍INAの指導者のチャンドラボースのインド独立戦争の情熱にほだされて東條が実行を決定したものであった。作戦で倒れた多くの兵士には哀悼の意を捧げるしかないが、その作戦目的はインド独立と言う壮大なものであった。インパール作戦に日本の勝機があったことは英軍の幹部が証言している。最大の問題は作戦発動の時期が遅かったことであった。しかしインド独立の始まりはそのINA幹部を処刑しようとした英国に対して全国で暴動が起きた事である。インパー作戦は実際にインド独立の契機となったのである。
大東亜会議にしてもインパール作戦にしても、秀才官僚の発想ではないことは明白である。開戦の御前会議の夜、昭和天皇の意に反して開戦の決定をしたことを悔いて、一晩泣き明かしたことも知られている。自らの行為について、これほどの責任感を持つ政治家が戦後の日本にいるであろうか。ぐず元と呼ばれた杉山元陸相ですら、夫妻で自決した。優柔不断と揶揄される近衛文麿も自決した。当時の日本人の責任感に優る現代日本人はいないのである。
評価を落としたのは自決に失敗した事である。死なないようにわざと小型拳銃を使用したと批判する御仁がいる。これはとんでもない間違いで、東條が使用したのは女婿が自決したときに使用した大型拳銃であった。心臓の位置を記していたのは律儀さの故である。米軍は東條を裁判で晒しものにするために大量の輸血で助けた。そのような治療が無ければ確実に死んだのであって、助かったこと自体が奇蹟に等しい。おかげで東條はインチキ裁判でキーナン検事を圧倒したのであり、我々は東條の宣誓供述書を今読むことができる。今は解説書まで出ているので一読して欲しい。東條の歴史観は確固としたものであり、マクロな思想もある。昨今の平和主義者のような薄っぺらなものではないことが分かるだろう。
付言するが、東條の自決と戦陣訓と結び付けるのはいくつもの意味で間違っている。東條は自ら言うとおり、正規の手続きを踏まずに米軍がやってきて捕縛しようとしたら自決するつもりであったのであって、令状なりがきたら出頭するつもりだったのである。まさに米軍は東條家に突如押し入ったのである。戦陣訓の生きて虜囚となるなかれ、と言うのは、支那の軍隊の捕虜に対する極めて残酷な処刑をされるなら自決の方が楽だという意味で、当時の軍隊では明言しなくても常識であった。米軍ですら、日本兵が投降しなくなったのは米軍の残虐な扱いの結果だと、大西洋横断飛行で有名な、かのリンドバーグらのアメリカ人自身が書いている。そもそも東條は大東亜戦争当時から戦闘員であった事はなく政治家であった。捕虜と言うのは敵に捕縛され武装解除された戦闘員である。捕虜でもないのに戦陣訓は適用されない。そのことは先にあげた東條の自決の理由とも合致する。
東條の処刑の時の態度も尊敬に足るものである。何よりも精神の修養ができていた証拠であり、付け焼刃で出来るものではない。東條の大和民族に対する最大の貢献は、皇室を守ったことである。国体を護持したことである。東京裁判で東條は、天皇は平和を愛する旨と日本臣民たるものは天皇の命令に従わないことは考えられない、と証言した。このことは天皇の開戦における責任に言及したと受け取られかねない。それに気付いた者たちのアドバイスもあって、次回の証言では、それは感情問題であって、開戦には陛下は反対であったが、輔弼の進言にしぶしぶ同意されたのである、と答えて見事に開戦責任問題を解決した。
この点では米国は既に天皇については追及しないことにしていたとは言うものの、中ソは執拗に天皇の訴追や処刑を画策していたから対応を間違えれば大変なことになりかねないのであった。それに天皇の意思に反して開戦したというダブルスタンダードは東條自身の苦悩の元でもあった。そして天皇を免責することによって自身が後世にまで犯罪者の汚名を着る覚悟がなければできないことであった。当時の恥を知る日本人には死よりも大きな苦痛であった。事実東條はその覚悟を「一切語るなかれ」として弁解を禁じている。現在でも東條に感謝すべき日本人自身が「A級戦犯の靖国神社合祀反対」などと言っているではないか。さすがに当時の日本は東條が皇室を守ったことを知っていて、先の証言によって東條の評価は回復したのであった。東條は身を捨てて国体を護持したのである。皇室のない日本は日本ではない。その日本を後世に残したのである。保身に陥りやすい官僚の発想ではないことは言うまでもない。
余談だが、東條の次男の輝雄氏は父に軍人より技術者になるように勧められ、航空技術者になっている。東條の父、英教は会津閥なので出世できなかったため、東條は軍人になって仕返しをした、などと言うのはこのことからも下衆の勘繰りであることが分かろう。また、東條輝夫氏は三菱自動車の社長会長まで勤めている。出世レースにおいて「A旧戦犯」の息子であるというのは大きなハンディキャップであったろう。輝雄氏はそれを乗越えるような人格者であったのであろう。これも父英機の薫陶も大きかったのだと信じる。
残念ながら小生は山本五十六を評価できない。真珠湾攻撃でもミッドウェー作戦でも作戦目的が不徹底であって失敗している。真珠湾の海軍工廠と燃料タンクを破壊しなかったのはその後の米軍の反攻を容易にした。軍艦の航続距離からも真珠湾が軍港として使えなければ、太平洋の波濤を超えての反攻作戦はできないのである。破壊を実施するよう上申する部下に山本が、南雲はやらんよ、と言ったという説があるが、事実なら無責任であり確実に実施するよう指示すべきである。おそらくは山本は破壊の重要性を知っていたと弁護する作り話であろうと推定する。なぜなら工廠などの破壊をすべきと考えていたのなら、当初から作戦計画に織り込んでいたはずであるから。
連合艦隊が作戦実施中に愛人と同室していたことがある、と言う説がある。小生は当時の風潮として愛人がいたことを批判するものではない。しかし作戦中は陣頭指揮ではなくても刻々入ってくる情報を基に指揮を執るのが連合艦隊司令長官である。最悪なのはガダルカナル方面でだらだらと陸攻と零戦による攻撃作戦を行って、膨大な搭乗員を消耗してしまうのを放置し無策だった事である。石原莞爾と気が合ったであろうと考える向きもあるが、石原は海軍の攻勢終末点を超えた作戦行動を批判していたのであり、それを強引に実行したのは真珠湾攻撃の大戦果で批判することができるものがいなくなった山本自身であった。
以上閲するに、小生には東條を超える人物は昭和天皇以外に見当たらないのである。石原莞爾は戦略の天才であった。石原の戦略に従って日本陸軍が行動していれば、日本にも勝機はあったと小生は考えるものである。海軍は、補給路遮断や上陸支援などによって陸軍の作戦を支援するものであって勝利は陸戦、最後の勝利は歩兵によって得るものである。日本海海戦が生起したのは、大陸と日本との補給路遮断しようとウラジオストックに向かうバルチック艦隊を、そうはさせじと日本艦隊が入港を阻止しようとするために発生したものである。その後日本海軍が艦隊決戦を戦略目標においたのは本末転倒である。残念ながら石原には組織を動かす行動力に欠け、戦史に貢献することが無かった、と言わざるを得ない。 
 
東條英機氏の自決未遂は狂言だったのか

 

何故東條英機氏一人が批判され悪く言われ嫌われ憎まれるのか
東條英機氏を大東亜戦争遂行の最大責任者とし、東條氏一人を悪者にして、靖國神社にお祀りすることすらこれを否定する人が外國のみならず日本國内にもいる。大東亜戦争の意義を認める人の中にも「東條だけは許せない」とか「戦犯は靖國神社に祭るべきではない」と主張する人もいる。
大東亜戦争という有史以来未曾有の大戦争が、東条英機氏一人の力で開始できたわけがない。にもかかわらず満州事変以来終戦までのわが國の國家指導者は数多くいるのに、何故東條氏一人が批判され悪く言われ更には嫌われ憎まれるのであるか。仮に万一、東条氏が内閣総理大臣在職中のみならず様々な公職にあった時に、日本國にとって不利益になることをし、日本國民に対して罪を犯したのならば、日本國民自身が正当な法的手続きを経て東條氏を裁き、有罪の判決を下すべきだったのである。
日本人は、誰か一人を生贄(スケープゴート)にしてその人を責め苛めば、世の中の矛盾や不満を解消できるかのように思う癖がある。戦争直後は、東條英機氏がその対象であったし、暫く経つと、「吉田を倒せ」の大合唱、そして「岸を倒せ」「佐藤を倒せ」「田中を倒せ」と続いた。それはそれで理由や原因があった事なのだろうが、一人の人に責任の総べてをかぶせて、それで良しとするのは日本人の悪い癖のように思える。
石原慎太郎氏と佐々淳行氏の東條氏自決未遂事件についての発言
東條英機氏について、最近、石原慎太郎東京都知事は、『産経新聞』九月五日号掲載の『日本よ』という論文で、次のように論じた。
「私は毎年何度か靖國に参拝しているがその度、念頭から私なりに何人か、あの戦争の明らかな責任者を外して合掌している。」「A級戦犯の象徴的存在、かつ開戦時の首相東条英機は、戦犯として収容にきたMPに隠れて拳銃で自殺を図ったが果たさずに法廷にさらされた。彼を運び出したアメリカ兵は、彼が手にしていた拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径なのを見て失笑したそうな。そうした対比の中で、ならばなぜ大西中将や阿南陸相は合祀されないのか、私にはわからない」「あの裁判の非正当性にかまけて我々があの戦争の真の責任者について確かめることなしに過ぎてしまうなら、他國からいわれるまでもなく、われわれはあの戦争という大きな体験を将来にかけてどう生かすことも出来はしまい。」「南京大虐殺なるものも…靖國に祭られる者の資格云々と共に我々自身の手で検証されるべきと思うのだが。」
また、石原氏及び佐々淳行氏は、『諸君』九月号掲載の「陛下、ご参拝を…!」という対談記事で、

佐々氏「東条陸相は昭和十六年、『戦陣訓』を布達し…その第八条が…『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ』です。東条の勇壮な演説に送られた学徒の多くが生きて帰らなかった。…それに対して、東条大将はピストルで自殺に失敗し、『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケ』た。軍人にあるまじき失態です。」
石原氏「ピストルで自決を試みたというけれど、『二十二口径で胸を撃つなんて』とMPが笑っていたそうだ。」
佐々氏「鉄砲のことをわかっている人にはお笑い種ですね。あれは空気銃みたいなもので、パワー不足で頭にあてても死ねないかもしれない。」
石原氏「手でポンと払っても防げるような代物ですよ。」
佐々氏「だから、私は東条さんは靖國に祀るべきではないと思う。」 と語った。

この文章及び対談を読むと、石原氏は、「東條英機元総理自決未遂は、はじめから死ぬ意志のない行動であった」と判断しているとしか受け取れない。石原氏はその根拠を「二二口径のピストルを用いた」という点に置いている。しかし石原氏は、「最小の22口径なのを見て失笑したそうな」「『二十二口径で胸を撃つなんて』とMPが笑っていたそうだ。」と推測でものを述べ、断定しれてはいない。
東條氏の自決未遂は死を覚悟したものであり使用した拳銃は三二口径であった
小生は、東條英機元総理の自決未遂は、死を覚悟したものであり、死ぬ気はなかったなどという事はあり得ないと考える。また、使用された拳銃は二二口径ではなく、三二口径であると考える。
その根拠は次の通りである。
東條英機氏は、昭和二十年九月十一日の自決未遂以前に、長男の東條英隆氏宛に
「英隆への遺言 昭和二十年九月三日予め認む 一、父は茲に大義のため自決す、(以下略)」
との遺言をのこしている。
この遺書について保阪正康氏は次のように論じている。
「東條は『九月三日』の段階ですでに自決することを密かに自らに課していたのだ。」
「九月二日に、東京湾上に停泊するミズーリ号上で降伏文書への調印が行なわれた。これによって、ポツダム宣言に明記されていた『一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし』という一項を、日本もまた公式に承認することになったのである。東條には、連合國側がいう『戦争犯罪人』のリストの最初に自らが名を列ねていることは充分に予測できた。九月三日に遺書を認めたのは、自らが國際法上から見ても死を予定される部隊に引き出されることへの反撥からであったと見るべきである。」
「重光のルートで、戦犯逮捕があるかもしれない、そのリストの最初にあるのは貴下の名であるので諒承しておくようにとの伝言も東條には伝わってきた。東條は隣家の医師のもとに行って、心臓はどの位置にあるかを確認し、そこに墨で〇印をつけた。風呂からあがるたびに、新たに〇印をつけたともいう。」
「東條には天皇への戦争責任が及ぶことはなんとしても避けなければならないと思いつつ、しかし自らの責任にも決着をつけなければならないという迷いがあったというのがこれまでの一般的な解釈であったが、この遺書はそうした推測を否定する内容を持つ。つまり東條は確固とした自決の意思をもっていて、(以下略)」
「東條はこの時代の軍人のすべてと同じように、天皇に対する忠誠精神は強い。天皇に責任が及ぶような事態は避けたい。しかし、法廷に立つ屈辱には耐えられない。遺書にいう『大義ノタメ』というのは、具体的には明確ではないが、臣下の者として敗戦の責任を負って自決するという考えだったように思われる。」(『諸君』平成六年七月号所載・「東条英機の遺書を読んで」)  
東條氏自決未遂事件及び使用した拳銃についての証言
また、自決未遂事件及び使用した拳銃については、次のような証言がある。
「秘書官赤松貞雄氏の手記・東京裁判について」(『東京裁判と東條英機』所収)
「(東條氏は)『戦争責任者としてなら自分は一身に引受けて國家のために最後の御奉公をしたいが、戦争犯罪者というなら承服出来ない。なお自分の一身の処置については米國の出様如何に応じて考慮する。』と言っておられた。そこで九月十一日、米軍憲兵が用賀に逮捕にやって来た時自決しようとしたのである。これが失敗に終った事について、巷間悪評がいい伝えられていたが、後日、花山博士の質問に対して次のように答えられた。即ち『自分には不意に日本政府を通さないで直接に憲兵が逮捕に来た。私を俘虜にするつもりだと思った。自分は戦陣訓の中で、生きて虜囚の辱めを受くる勿れと申しておりながらおめおめ逮捕されては相済まぬと思って決行した』と申されました。…護身用に何時も持っていたのは米國製の小型拳銃であったが、当時は女婿古賀氏が使用した制式(拳銃)大型を用いて自決を決行した為、若干手許が狂った点はあったかも知れない。然し憲兵達は直に病院に収容し、心臓部の穴を血液を粉にした血漿で塞ぎ、絶望と思われていたのが救われ再生出来たのである。即ち直に適切な処置が出来たからであり、米國の医術が日本の医術よりはるかに進歩していたからなのである。この点に就いては大森拘禁所で東條さん自ら私の親友榊原大佐に申されておるのである。一度再生された以上は『あくまでも健康を保って最高責任者として十分弁明しお上には累を及ぼさぬ様にしたい』と決心し、昔はバタ、チーズなどは一切口にしなかったものを我慢して摂取して東京裁判に出られたのである。」
片倉衷氏の証言(二〇二師団長)(『東京裁判と東條英機』所収)
「(昭和二十年八月二十二日)…東條邸を訪ね…東條は私に次のように語った。『俺は裁判にでも何でも行って堂々と所信を述べるつもりである。天皇陛下には絶対ご迷惑をかけたくない。戦争に対する全責任は自分がとるためにも敢えてこの道を選んだ。しかし、連合軍がなすべき道を履まず、不当な処置(例えば捕虜の取扱いをするが如き)をとる時は俺は自ら処するの覚悟である』と。沈痛な表情の中にも毅然たるものがあった。」
佐藤早苗著『東条英機「わが無念」』
「(東條が)出頭すべき時は内務省から前もって正式に連絡があるという約束になっていた」「九月十一日午後四時、東條家はMPや米兵たちに突然包囲され、マッカーサー元帥の命令を持った憲兵は『トージョー、お前を逮捕する』と乗り込んできたのだ。これは明らかに約束違反であった。東條に思考する時間はなかった。とっさに日頃の信念に従った。それは妻かつ子にも言っていたことである。『自分は、生きて虜囚の辱を受けず、という戦陣訓をつくった本人だ、米軍が礼を守って自分を迎えるなら、戦争責任者として堂々と法廷に立ち、自分の立場を主張する。しかし、罪人扱いをするようなら自決するつもりだ』であった。」
「戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で連行するという取り決めになっていたのである。」
「東條は失神したまま、応急措置を受け米陸軍の野戦病院に運ばれた。…そこで急遽米兵の一軍曹が提供したB型の血液を輸血され、命をとりとめたのである。このときマッカーサー元帥は“東條を生かして裁判で正当な報いを受けさせたい。このまま安らかに死なせては、手ぬるすぎる。私がフィリッピンで過ごしたあの屈辱の日々のお返しをしてやりたい”と言い、東條はマッカーサーの絶対命令で生かされたのであった。…失敗の理由はいくつもあげられた。米軍の陸軍病院で手術に立ち会った軍医の証言によると、東條の心臓は人と異なるところに位置していたというのであった。そして、東條は左ききであったことも失敗の理由にあげられる。そしてさらに東條が使ったピストルが、娘婿・古賀秀正が自決に使った大型の重いもので、発射のショックが大きいこと等があげられる。しかし、いずれにしても当時の日本の医学ではとうてい命をとりとめることができない傷であり、出血であった。それをマッカーサーの強い意志と、アメリカの進んだ医学が、東條を再び生かしたのである。」
佐藤早苗氏著『東条勝子の生涯』
「東條は逮捕に来た米兵たちを玄関の外に待たせておいて、応接間でピストル自殺を図った。使用したピストルは、八月十五日古賀秀正が割腹した時、とどめに口中を撃ったもの(アメリカ製コルト、三二口径)であった。」
佐藤早苗氏著『東条英機・封印された真実』
「重光葵外相とGHQの間では、戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者氏名を通告し、日本官憲の手で連行する、という取り決めになっていたのである。ところが東條家は突然包囲されて『トージョー、お前を逮捕する』と詰め寄られたのだ。東條はその無礼なやり方に対し、かねてからそういうときの行動として考えていたように、即座に自決をはかったのである。…東條は自決した場合、生命をとりとめるなどとは考えてもいなかった。当然であろう。日本には覚悟の自決をするとき、解釈をして自決の手助けをすることはあっても、病院に担ぎ込んで強引に生き返らせるなどという文化はなかった。ところが、東条はマッカーサーの絶対命令によって、アメリカの最新の医学で蘇生させられてしまった。」
東條由布子氏著「祖父東条英機『一切語るなかれ』」
「(進駐軍が身柄拘束に来た事を知ると)応接間にこもった祖父は、すでに書いておいた遺言状をテーブルの上に置き、二挺の拳銃と短刀を並べた。…正式な逮捕状ではないことを確認した祖父は、以前から用意していた古賀の叔父が自決した時のピストルの銃口を、かねてから隣の鈴木医師に印をつけてもらっていた心臓の部分に当てて引き金を引いた。祖父が普段、護身用として身につけていたブローニング社製の小型のピストルとは違い、古賀の叔父のピストルはアメリカ製のコルト三二口径の大きなものだった。左ききの祖父が射ったピストルの弾はわずかに急所を外れ、自決は未遂に終わり、生涯、無念の思いを残す結果になった。」「祖父が巣鴨拘置所でつけていた昭和二十年十二月十七日の日記…『聞く処に依れば近衛公、昨十六日自殺逝去せりと。余としては其の心中了解し得、寧ろ死を全うせしこと羨望に不堪』近衛文麿公の自決を『羨望に不堪』と日記につける軍人としての祖父の心を思うと切ない。」
塩田道夫氏著『天皇と東条英機の苦悩』
「東條は終戦と同時に、戦争犯罪人として米軍に逮捕される事を察していた。しかし、日本の将来のために生きて責任をとりたいが、米軍が直接逮捕するようなことがあれば、その時は『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓を作った責任者だったため、自ら捕えられることは『屈辱』だと思っていたのである。」
「午後四時過ぎ、クラウス中佐の指揮する二個分隊のMPが到着した。…しかもこの逮捕は日本政府を通じる正式ルートの逮捕ではなく、GHQからやって来たMPの手による逮捕なのだ。これは東条がもっとも嫌っていた状態となった。いかに敗戦國とはいえ、これは一國の元首相であり、陸軍大臣だった東条の立場を無視した行為であった。」
「東条は部屋の中央に置かれた椅子で横たわり、左胸をピストルで射ったのか、白い開襟シャツは鮮血で汚れていた。東条は意識があり、クラウス中佐が近づくとピストルを床におとしたが、使用したピストルは米國製のコルト式三二口径であった。このピストルは、八月十五日に割腹した二女満喜枝の夫・古賀秀正が終戦に反対し近衛師団のクーデターに失敗して自殺する時のとどめに撃ったものだった。」
「東条の多量な出血は手早く応急処置がとられた。東条邸を警備する警官が近所を走り回り、日本人の医者を呼んでくると東条の傷の治療が行なわれた。…止血の処置をしたため、東条の一命がとりとめられると、午後六時二十五分に米軍の軍医が到着した。軍医はモルヒネを注射して応急処置をした。東条英機の自決は未遂に終わったのである。…午後七寺、東条の身柄は、横浜市中区本牧一丁目の大島國民学校にある米軍の『第九十八野戦病院』に収容された。ここで東条の手術は直ちに行なわれた。左肺を貫通していたピストルの弾丸の摘出がなされた。この結果、東条勝子がすでに亡くなったと思っていた夫・英機の生命は甦ろうとしていた。」
美山要蔵氏(元陸軍省高級副官)の発言(『対談・大東亜戦争と終戦秘話』・「創」昭和四十九年八月号)
「(東條の自決未遂について・註)新聞などでは、日本の新聞でも、アメリカでもですが、東條のおもちゃのピストルでやったと。そうなんじゃない。あれは、東條さんの娘婿が終戦の時のゴタゴタの責任をとって自殺をされた拳銃なんです。」
「東條さんは毎日お風呂に入って、心臓の部分に墨で印をつけ、絶対間違えないように気をつけておった。ところが、それでもおそらく急がれて、右手でパッと……。そこで、心臓の左上にそれたわけですな。直角に持って撃てば失敗はなかったわけです。そういうわけで拳銃は難しい。そういう例はたくさんありますね。東條さんは狂言自殺と見られる結果になりましたけど、ぼくが今までお話したことからも、自決をする気持は強かったんじゃないかと思います。」  
逮捕に出向いたアメリカ軍憲兵に、東條氏は次のような遺言をしている。「一発で死にたかった。時間を要したことを遺憾に思ふ、大東亜戦争は正しき戦ひであった。……法廷に立ち戦勝者の前で裁判を受けるのは希望ではない、寧ろ歴史の正当な批判に俟つ……。切腹は考へたが兎もすれば、間違ひがある、一思ひに死にたかった、あとから手を尽して生かへるやうなことをしないでくれ……責任者としてとるべきことは多々あると思ふが勝者の裁判にかゝりたくない、勝者の勝手な裁判を受けて國民の処置を誤つたなら國辱だ……」(昭和二十年九月十二日付『朝日新聞』)。
東條氏が蘇生させられたのは「生きて虜囚の辱を受け」させようとするアメリカの意志による  
以上、東條英機氏の自決未遂事件についての様々な証言や記録により、小生は次のように考える。
東條氏は、戦争犯罪人としてアメリカ軍によって直接捕えられる事は、東條氏が『戦陣訓』で日本将兵に対し「第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」と示達した本人である以上、「生きて虜囚の辱を受け」る事を潔しとせず自決せんとしたのである。東條氏が子息東條英隆氏宛の遺言で、「父は茲に大義のため自決す」と書いた「大義」とはこの事であったと考える。
東條氏が蘇生させられたのは、東條氏に文字通り「生きて虜囚の辱を受け」させようとするアメリカの意志によるのであって、東條氏の意志ではない。
二二口径を使用したなどという事は誰も証言していない。思うに、「二二口径使用説」は、「日本國の戦争指導者であった東条が、いかにずるくて卑小な人間だったか」と印象づけるために、アメリカ側によって流布された意図的な、歪曲プロパガンダだったと思われる。また、至近距離ではピストルの致死性は口径とは関係ないといわれている。
石原・佐々両氏には、いかなる文献・資料・証言に基づいて、東條氏が自決未遂の際に用いた拳銃が「二二口径だった」と推測するのか、その根拠を明示する責任がある。
東條氏には、多くの批判がある。憲兵や特高警察を使った東條批判派弾圧は小生も許し難いと思っている。特に、東條氏を批判した人を前線に送るといういわゆる「懲罰召集」は、大東亜戦争そして前線で戦い戦死していった多くの英霊に対する冒瀆である。前線で戦うことが何ゆえ「懲罰」なのか。もっとも「懲罰召集」などいう言葉を東條氏自身が使ったとは思われない。憲兵隊か当時の報道機関が用いたのであろう。
しかし、東條氏が覚悟の自決をしようとしたことは事実である。これを否定することはできない。また、東京國際軍事裁判における東條氏は立派だった。
『極東國際軍事裁判』は國際法を無視した復讐劇にすぎなかったのだから無効である
東條氏をはじめとする「戦争犯罪人」といわれる人々は、平和条約締結以前に行なわれ戦争状態の継続であり戦争行為の一部である『極東國際軍事裁判』という名の戦場で戦い、絞首刑を言い渡され、敵軍によって殺された方々であって、立派な戦死者であり殉難者である。「英霊」「戦死者」として靖國神社に祀られるべき方々である。石原氏が東條氏の御霊に手を合わす合わさないは石原氏の自由であるかもしれないが、戦死者の御霊を祀る靖國神社に東條氏が祀られるのは当然である。
また、総理大臣の靖國神社参拝について、「『サンフランシスコ講和条約』という、一國が最も守らなければならない条約を、日本が守るかどうかという問題だから、参拝すべきではない」という意見がある。
日本文の『サンフランシスコ平和条約』第十一条には、「日本國は、極東國際軍事裁判所並びに日本國内及び國外の連合國戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とある。この日本文の条文は、「判決」という意味の「judgments」を「裁判」と訳した誤訳であり、正しくは「判決を受諾し」である。その意味は、判決で禁固刑を言い渡された人で刑期を終わっていない人の刑をそのまま執行する義務を日本政府が約束したに過ぎない。だからこそ、昭和二十七年十二月九日の國会において、『戦争犯罪による受刑者の釈放などに関する決議』が左右社会党を含む圧倒的多数で可決された。二十八年八月には、社会党を含む全会一致で『戦傷病者戦没者遺族など援護法』が部分改正されいわゆる「戦犯遺族」に対しての遺族年金と弔慰金が支給されるようになった。同時に『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議』が再度可決された。
わが國政府は、「極東國際軍事裁判を受け入れた」という全く誤れる判断を速やかに撤回すべきである。『極東國際軍事裁判』そのものが國際法を無視した復讐劇にすぎなかったのだから無効である。そのようなものにわが國が拘束される必要はない。『A級戦犯』といわれる方々こそ、英霊であり殉國の御霊なのである。
「極東國際軍事裁判」は「裁判」などと呼称しているが、戦勝國による敗戦國への復讐にすぎない。「平和と人道に対する罪」を裁くなどとしていたが、わが國に原爆を二発も投下し、全國の都市に焼夷弾による絨緞爆撃を行い、無辜の日本國民を殺戮したアメリカ、わが國が決定的に不利になった時期に『日ソ中立条約』を一方的に踏みにじって参戦し、満州・樺太・千島に侵攻し、無辜のわが國國民を殺戮し強姦し抑留した旧ソ連こそ、「平和と人道に対する罪」を犯した國である。そのような國が裁判官となり検事となってわが國の「平和と人道に対する罪」なるものを告発し裁く資格は毛筋の横幅ほどもありはしなかった。
東條英機氏は、アメリカ軍が理不尽なやり方で身柄を拘束しようとした時、内閣総理大臣としての戦争責任(戦争犯罪ではない)を負うと共に、名誉、武人としての名誉を護るために自決を図ったが果たせなかった。しかし、「裁判」という名の復讐の場において、わが國體と昭和天皇を命懸けでお護りし、臣下のとしての使命を果たして、死地に赴いたのである。

東條氏の遺詠を記す。
「たとへ身は 千々に裂くとも 及ばじな 栄えし御世を 堕せし罪は」
「続くものを 信じて散りし 男の子らに 何と答へん 言の葉もなし」
「さらばなり 苔の下にて われ待たむ 大和島根に 花薫るとき」
かくの如き切実な反省をし、且つ、覚悟の自決をしようとし、ついに敵國によって処刑された人を貶めることはできないと思う。 
 
今も「平和な東條英機」は無数にいる 例え話1

 

指導力不足、無責任体質のトップでは勝ち残れない
東條英機らA級戦犯7人が処刑された日に隠されていた「暗号」を、僕は『ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』(文藝春秋)で解き明かした。一方で、東條英機という存在は、いまの日本人にとっても他人事ではない。現在の閉塞感につながる歴史の重荷がそこにはある。
世に名高い「バーデンバーデンの密約」
NHKのスペシャルドラマになった『坂の上の雲』(原作・司馬遼太郎)を見てもわかるように、明治維新当初というのは、社会システムができあがっていなかったから、いろいろなチャンスが転がっていた。明治維新で徳川幕府を倒したのは、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)、肥前(佐賀県)だった。藩閥政府と呼ばれた。出世には藩閥のコネがものを言った。ただしコネのある人がエリートコースを歩んでいく一方で、コネのない人々も、今でいう“ノンキャリア”からはじめて、抜擢されてはい上がることが可能だった。
東條英機の父・英教(ひでのり)も、“ノンキャリア”からはじめて陸軍少将にまでなった。だが、東條英教の時代は、藩閥が幅を利かせていた。父親が少将で退役させられた事実を息子の東条英機は不公平な人事だと思っていた。
東條英機はコネ社会を打倒するために、世に名高い「バーデンバーデンの密約」を1921年10月に結んだ。

「岡村はある計画をもっていた。モスクワに駐在している小畑敏四郎、やはりヨーロッパ出張でスイス、フランス、ドイツを回っている永田鉄山、それに岡村の3人は同期生の縁でドイツのバーデンバーデンで会い、密約を交わしていた。日本陸軍改革のために手を携えて起ちあがろうとの意思のもとに3つの目標を定めていた。その密約に、ベルリンにいる東條も加えさせようというのが彼らの肚づもりだった。
『どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか』
岡村は東條のアパートで熱心に口説いた。
『長州閥を解消し人事を刷新するのが第1点、つぎに統帥を国務から明確に分離し、政治の側から軍の増師には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第3点だ』
いずれも東條には共鳴できる目標だった」(『東條英機と天皇の時代』より)
ペーパーテスト秀才によって陸軍は指導力不足になった
藩閥のコネではなく、人事は公平な基準で行われるべきだと話し合ったのである。
その後、藩閥の力が相対的に低下していくなかで、陸軍の人事システムは大きく変わっていった。それまでのコネや抜擢は消え、かわりに「成績至上主義」が基準になった。「30歳前後の2年間の成績が、あらゆる力量のバロメーターとなる不思議な集団になってしまった」(同)のである。
東條英機は、この「成績至上主義」のなかでトップにのぼりつめた軍人だった。動乱の時代が過ぎ、学校での席順がその後の人生を決める世の中になった。
幼少から暗記が得意な優等生だった東條英機は、そういう時代に合っていた。のちに首相になったとき、「幼年学校時代に、いちど習ったところを徹底的に暗記してみた。すると成績はあがった。努力とはそういうものだと思った」(同)と語っている。
このとき、日本人は価値観の評価を捨て、試験で1点や2点の差がすべてという客観指標に逃げたといえる。ペーパーテスト秀才によって陸軍は指導力不足になり、無責任体質が昭和の混迷をもたらし、敗戦という悲劇を生んだ。
東條英機のような秀才には、一度動き出した事態を変えることができなかった。それは彼個人だけではなく、リスクをとって事態を止める人材が出てこないようなシステムに問題があった。
戦後日本は、ふたたびカオスの時代になった。弱肉強食の世界では、客観指標ではなく、価値観の評価による抜擢やリスクテイクが活発になる。そこから、ソニーやホンダのような日本を代表する会社が誕生した。
しかし、高度成長期をむかえ、1960〜70年代になると、人材を囲い込むために年功で賃金が上がっていく年功序列システムが完成した。退職金カーブも定年間近になって急上昇するようになっており、最後まで会社にいなければ損をする構造になった。
労働者の側も、会社に最後までいたいと望み、年功序列・終身雇用をあてにするようになった。安定志向の学生が増え、優秀な学生はリスクをとらず、大手銀行や大手電機メーカーなどに殺到した。
旧陸軍と同じシステムがいまだに日本の中心に残っている
日本社会の賃金体系が公務員型になっているために、人々はローリスク・ミドルリターンを狙うようになった。安定した雇用が確保された有名な会社に入るために、できるだけ有名な大学に入る。有名な大学を目指して、有名な高校、中学、小学校に入るという人生設計が広まった。学校での成績こそが、その人の市場価値になったのである。
しかし、グローバルな世界を眺めれば、一番優秀な学生はハイリスク・ハイリターンを志向する。優秀な人が新しい発想で新しいビジネスを起こすことで、グーグルのような会社が誕生する。
日本はいつしか、若いときから公務員型になれていて、守りに入る社会になってしまった。旧陸軍と同じ失敗を繰り返そうとしている。これでは、社会が硬直化するから、新しいものが生まれてこない。
人々が年功序列システムを謳歌していた1970年代から、じつは綻びは見えていた。僕の同級生の友人たちは、1969年に就職試験を受けている。しかし、そのときは全共闘運動の時代で、大学はバリケードだった。僕はバリケードの内側から、就職試験を受けに行くのは潔くないと思って受けなかった。卒業してから受ければよいと考えていたら、それは甘かった。日本の年功序列システムでは、新卒時に就職しないと、二度と入口に立つことができない。僕は「非正規第1号」だったのである。
それでも、日本の大企業はバブル崩壊までは新卒を一定数採用し続けることができたので、システムが破綻することはなかった。しかし、バブル崩壊後の日本経済はパイが増えなくなり、会社は新卒採用を減らして人員調整をした。
長い目で考えれば、景気によって新卒採用数を極端に増減させることは好ましくない。景気に関係なく、毎年同じくらいの新卒を採用した方が社員教育という観点からもいいに決まっている。
しかし、会社は少し景気が良くなると新卒採用を増やすが、景気が悪くなると極端に採用数を絞る。転退職という出口ではなく、新卒採用という入口での調整が行われた結果、就職氷河期に正社員からあぶれて、非正規雇用になる20代、30代の人たちが急増した。
いちど非正規になっても、横断的な労働市場があれば、景気が良くなったときに正社員としてやり直すことができる。しかし、日本にはそのような市場がない。雇用の流動性が極端に低いために、非正規になった人はそこから再チャレンジすることが難しくなっている。
問題は若い人だけではない。雇用の流動性が担保されていない状況では、中高年がリストラされると行き詰まり感しかない。だから、海外に比べて日本では絶望感から自殺する人も多くなる。流動性がない労働市場が最大のネックなのである。
いまこそ明治維新や終戦のような「チェンジ」を
「東條英機はなぜ出世したか」という問いと同じジレンマに、いまの日本も陥っている。東條英機は真面目な人物だったが、リーダーシップが欠如していた。無数の「東條英機」を抱える日本軍が、アメリカに勝てるはずもなかった。いまも無数の「平和な東條英機」が日本社会の要所要職を占めている。
最近の20代を見ても、情報感度が低すぎる。それは、新卒で会社に入ることがゴールだから、その後は必死にアンテナを立てる必要がないのだ。社会人になってからも自分の市場価値がつねに試される世の中なら、おのずと感度は高くなる。
いまこそ明治維新や終戦のような「チェンジ」が起こらなくてはいけない。しかし、期待の民主党も「チェンジ」をするようでしていない。このままでは、グローバル化する世界から日本がどんどん取り残されていく。 
 
小泉純一郎と東條英機 例え話2

 

小泉純一郎と言えば、現在の自由民主党総裁であり、且つ日本国総理大臣です。いずれも、一応民主的手続きに則って選任されています。一方、東條英機はかつての陸軍大臣兼総理大臣兼参謀総長。役職だけで見れば、平清盛以来の独裁者で且つA級戦犯です。一方は、戦後民主主義の申し子、片一方は軍国主義の代表です。両者に共通点などあるはずがないというのが、大方の見方でしょう。ところが、両者は様々な点で似通っているのです。
1 異常な高支持率
第一次小泉内閣の85%に及ぶ内閣支持率は驚異的ですが、東條内閣も発足時支持率75%近くもありました。この数字も驚異的です。何故、このような高支持率が得られたのでしょうか。小泉の場合は、国民が従来の自民党派閥政治に飽き飽きし、小泉ならこういう古い政治体質に風穴を空けてくれるだろう、と期待したからです。何故、期待されたかというと、小泉はかつての権力派閥、即ち橋本派と無縁で、橋本派による政治支配を断ち切れると考えたからです。東條の場合も同様で、国民は軍による政治の壟断、その軍部も幾つかの派閥に分かれ、互いに争う状態に飽き飽きしていたのです。東條は東京の出身、薩摩・長州という権力藩閥とは無縁。中央省庁の勤務は満州事変当時の参謀本部動員課長、その後の陸軍省軍事課長ぐらいで、その後は地方の旅団長や関東軍勤務が主になる。5.15から2.26に繋がる動乱の時期に、東京の政治家や財閥との繋がりが薄かった。これらの点から、これまでの藩閥出身者や政治将軍が出来なかったことを、東條なら出来ると期待されたのです。
両者が国民に人気があったもう一つの理由に、見せかけだけだが筋を通すということがあります。小泉の場合、内政的には構造改革、外交では日米同盟重視を一貫として主張し、内閣や党執行部人事も派閥バランスは考慮していない。これは筋を通している様に見えます。ただし、ただ単なる頑固な天の邪鬼という見方も出来ます。甘やかされて育った駄々っ子によく見られるパターン。
東條の場合はどうだったでしょう。当時の日本の最大課題は対中問題の解決にあります。歴代の政府は様々なルートで対中交渉を試みました。政府だけではなく、軍部の一部にも対中解決工作をする動きがありました。例えば、石原完爾による近衛工作、支邦派遣軍による桐工作などです。いずれも日本側の大幅譲歩を前提としています。又、これらの工作は一部の人間による秘密工作です。現代でいうところの、国民の目に見えない密室協議なのです。一般国民からは批判対象になります。こういう工作を通じて何とか対中交渉を始めようとすると、軍部強硬派や右翼政治家、それに悪のりするマスコミが、筋論を展開して工作を批判し、結果として世論を対中強硬論に誘導していったのです。そして、批判勢力の代表が、軍部では関東軍総参謀長東條英機中将(後、陸軍大臣大将)、政治家では鳩山一郎、平沼麒一郎、マスコミでは朝日新聞らだったのです。かれらの主張は、当に日本人にとって筋論であり、正論でした。しかし、東條大将は中国に対する筋を通すことに熱心であったばかりに、対中問題を解決不可能なレベルに押し上げたのです。現代の安部他、見せかけタカ派と似ていませんか。
2 派閥、軍閥との関係
小泉純一郎は一見、派閥と無関係の様に見えます。本人もその様に振る舞う。しかし、彼がそもそも大蔵族議員で、且つ旧福田派のチャキチャキであることを忘れてはいけません。彼の売りである郵政民営化、道路公団改革も、狙いは橋本派の壊滅にあることは顕かです。特殊法人改革にしても、狙われているのは、敵対派閥に連なる組織で、旧大蔵省関連法人が一向に槍玉に挙がらないのは何故か。我々の感覚では、最もたちの悪い特殊法人は財務省のそれなのだが。客観的に見れば、彼は旧派閥を壊滅させ、自前派閥を作ることを目的としているとしか見えません。ではどういう派閥でしょうか。小泉内閣の構成を見ると極めて特徴的な現象があります。それは慶応が異常に多いことです。竹中は一橋ですが、入閣前は慶応教授ですから、これも慶応と見なすと、第一次も第二次も7人前後が慶応出身です。内閣の、おおよそ半数を一大学出身者が占めるというのは、極めて異常なことです。小泉は慶応による日本支配を狙っているのでしょうか。
東條も無派閥どころか、統制派のチャキチャキ。永田鉄山の子分を自認し、永田斬殺後は永田敵対派の弾圧に容赦はしなかった。彼が陸相就任後、陸軍の方針が南進論に傾くのは、東條が永田の遺志を継いだまでです。しかし、これによりアメリカと直接対立することになってしまいました。その永田は信州出身で非薩長。陸相になってからは古い軍人や、彼が敵対的と見なした軍人・・・その代表が石原完爾・・・の首を次々に斬って、知らないうちに東條派と言うべき派閥を作ってしまいました。梅津、杉山、寺内、牟田口・・・これらの尻にくっついていたのが辻、服部ら・・・らです。この中で薩長閥に属するのは寺内だけ。彼らは統制派の中でも更に強硬な、改革派と云われる連中です。そういえば東條は満州で、革新官僚と云われる岸信介、新財閥の代表鮎川義介らと親交を重ねました。彼らは改革派を自認し、世間もそう呼んでいたのです。小泉も東條も派閥・軍閥とは無関係ではない。それどころか大変濃密な関係を持っていたのです
3 生まれと育ち
小泉は三世議員。父親は国務大臣をやったらしいが、どの内閣のどの職務だったかはよく知られていない。権力派閥に属していなかったため、党内序列はあまり高く無く、マスコミの注目度も低かったのかもしれません。これが逆に彼の権力派閥に対する敵愾心とも云える反発心を作ったとも考えられるのです。
東條大将の家系も徳川以来の御家人。二代続いた軍人家系で、父は戦術の権威といわれた東條秀教中将。日露戦争の前に待命予備役編入。大将になれなかったのは、賊軍の出身だから薩長閥に疎まれたという説があります。東條大将がこの説を信じない筈がありません。東條が古い軍閥を憎んだのは当然なのです。
このように両者とも、その世界では名門に生まれていながら、父親が必ずしも世間・・・というより時の権力者に受け入れられなかった点が共通しているのです。この手の人間は、しばしば異常に向上心が強かったり、既製権力階層に敵愾心を燃やすのです。従って、この原体験がその後の人格形成に無関係であったとはいえないでしょう。
4 性格
両者の性格上の共通点として、正直で涙もろいことがまず挙げられます。つまり、性格は本質的に感動型で、特に自分に近い者に対する情愛が、他より深い傾向になります。これを裏返すと、激情型で敵に対して執念深く、自分との距離が遠いものには関心が薄く冷淡にもなるのです。以下、両者について検討してみましょう。
(小泉純一郎)
就任直後、靖国参拝戦争記念館で特攻隊の写真を見た時に涙を流したり、負傷した貴乃花の優勝旗授与に感激したり、更に国会答弁で髪の毛振り乱しての絶叫など、彼が激情型である証拠は十分にあります。又、今回の内閣改造でも、あれほど与・野党から評判の悪い竹中金融相、川口外相、山崎幹事長、飯島秘書官らを留任又は昇任させています。自分に近い人間には甘いのだ。一方で、彼は自分の興味が無いテーマについては極めて冷淡です。首相就任直後、明石で歩道橋事故が生じた。数100人の死傷者が出る大事故です。台湾や韓国なら、政府首脳の談話があってもおかしくないレベルです。しかし、かれは箱根で静養中で、前後は息子とキャッチボールをしていました。また、あるテーマについて官僚が説明しても、興味が無ければ質問もせず、黙って資料を突き返したりすると云われます。つまり、極めて感情の起伏が大きく、外的刺激に対する反応が極端で、周辺社会との調和性に欠けるのです。このタイプは、神戸のA.S或いは長崎の少年に見られる性格と共通しています。現代の精神病理学では環境不適応症と診断されます。
(東條英機)
東條大将の特徴は冷徹で合理的である、と云われます。常にメモを欠かさず、あらゆる点について数字を根拠に説明する。その態度が、科学者である昭和天皇にいたく気に入られた所以と云われます。しかし、大将の性格はこれだけでは割り切れません。昭和12年、シナ事変が発生すると、東條中将は関東軍を指揮して北支に侵攻します。参謀長が軍隊を指揮する、という帝国陸軍にあってはならない事態です。それはそうとして、中将は野戦病院を見舞って負傷兵を見ると、思わず落涙したり、兵士の家族の窮状を聞くと、俸給袋を投げ出すなど、結構涙もろく、感激家タイプなのです。太平洋戦争の戦況が逼迫すると、東條内閣に対する世間の眼も厳しくなります。特に評判が悪かったのは、海軍から「東條の男妾」などと蔑称された海軍大臣島田繁太郎大将です。しかし、大将は最後まで島田大将を庇い続けました。又、現地軍からも、参謀本部からも、陸軍省からも無謀とされたインパール作戦を、子分の牟田口に泣きつかれると、認可してしまいました。自分に近い者には甘いのです。しかし大戦中、大将が前線を視察して兵士を励ましたという記録は殆どありません。自分から距離の遠い者に対しては冷淡なのです。敵のチャーチルやローズヴェルトは、機会を見て前線視察を繰り返していたにも拘わらずです。これではやっぱり戦争に負けるでしょう。
二人の性格上の共通点は正直で、律儀で頑固だということです。根は善良なのです。ブッシュも本質的にはこれです。正直で善良であることは、日本ではそれだけで全て良い人になります。しかし、この徳目は平和な時代にのみ有効なのです。東條大将も平和な時代であれば、実直な官僚軍人として着実に出世の階段を登り、但し想像力に乏しい傾向があるので大臣・総長は無理だから、教育総監あたりで待命予備役編入、一件落着になったと思う。時代が彼のような凡庸な人間を権力者に押し上げたのでしょう。小泉にしても、周りが勝手に墜ちていったから浮き上がっただけです。そして、歴史では指導者が正直で善人である国家ほど、国民が不幸になるケースが多いのです。
5 女性問題
女性問題「といっても、色恋沙汰ではありません。両方とも、この種の問題には恬淡としていたようです。ここで云う女性問題とは、政策決定に関し特定の女性により、影響を受けていた疑いがあるのです。小泉総理については、よく週刊誌で取りざたされる二人の姉の存在です。東條大将の場合は、婦人で国防婦人会会長だった勝子です。田中隆吉手記によれば、大将の恐妻家ぶりは有名で、細部に至るまで婦人と相談して決定し、婦人は将官人事まで干渉していたと云われます。
小泉氏の姉が何処まで干渉しているかは不明ですが、彼自身幼少期に母を亡くし、更に離婚経験者である点を考えると、小泉氏と姉との関係は通常のものでは無いだろう、というのは容易に想像出来ます。
6 敵に対する報復
両者の更に共通点として、私敵に対して権力を使って執念深く報復することが挙げられます。まず、東條から述べて行きましょう。先に述べたように、東條は統制派で永田鉄山の子分を自認していました。相沢事件当時は関東軍憲兵司令官。事件が起こると、関東軍内の皇道派将校に目星をつけ、2.26事件が発生すると一斉に検挙しました。事件との関わりあるなしに拘わらずです。永田の報復以外の何者でもありません。昭和13年、石原完爾が関東軍参謀副長として満州に着任します(東條は総参謀長)。同じ統制派でも、東條と石原では肌が合うはずがありません。石原は東條の頭の悪さにあきれて、おおっぴらに東條軍曹と呼び、更に東條上等兵までエスカレートして、とうとう勝手に日本に帰ってしまいました。石原は、その後、舞鶴要塞司令官、京都第16師団長になりますが、その時東條が陸軍次官として、中央に帰ってきます。東條は憲兵を使って石原の身辺を調査し、難癖を付けて予備役に編入してしまいます。石原は立命館大学総長末川博の招きで、立命館大学教授に就任しますが、東條は更に憲兵を使って立命館にも圧力を加えたため、とうとう石原は立命館も辞職して、郷里の鶴岡に帰ることになったのです。

一昨日の(10/19)インターネットで、小泉首相が中央線の開かずの踏切対策を、国土交通省に指示したことが報じられました。しかもタイからです。たかが1鉄道の交通対策など、総理大臣の口出しすることですか!。問題区間は民主党代表管直人氏の選挙地盤です。選挙目当てであることは顕かで、かつて東條がゴミ箱の中身を調べて国民の人気とりを計ったのと同じ発想です。更に、小泉はこれまで管氏に国会で何度も恥をかかされてきました。小泉の頭の中に、管への復讐の念があってもおかしくないのです。個人的な復讐を国家権力を使って果たす。まさに東條にそっくりです。 
 
朝日新聞の主張する「東條英機の論理」 例え話3

 

きょうは8月15日である。この日に、いつも日本人が自問するのは「日本はなぜあんな勝てない戦争に突っ込んだのだろうか」という問いだろう。これにはいろいろな答があるが、一つは東條英機を初めとする陸軍が日本の戦力を過大評価したことである。陸海軍の総力戦研究所が「補給能力は2年程度しかもたない」と報告したのに対して、東條陸相は「日露戦争は勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからん」とこれを一蹴した。
こういう客観情勢を無視して「大和魂」さえあれば何とかなると考える主観主義は、日本の伝統らしい。朝日新聞の大野博人氏(オピニオン編集長)は8月7日の記事でこう書いている:
脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)原発をやめるべきかどうか。
(2)原発をやめることができるかどうか。
多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。原発をやめる場合、再生可能エネルギーには取って代わる力があるか。コストは抑えられるか。 [・・・]これらの問いへの答えが「否」であれば、「やめることはできないから、やめるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。 脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。冒頭の二つの問いに戻るなら、まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。

私はこの記事を読んだとき、東條を思い出した。ここで「脱原発」を「日米開戦」に置き換えれば、こうなる。
日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)戦争をやるべきかどうか。
(2)戦争に勝つことができるかどうか。
多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。戦争をする場合、米国に勝てる戦力・補給力があるか・・・これらの問いへの答えが「否」であれば、「勝つことはできないから、戦争はやるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし戦争について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで鬼畜米英を放置すべきだということではないか。まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。大東亜戦争は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。

朝日新聞は、おそらくこれと似たような社説を70年前の12月8日の前にも書いたのだろう。それがどういう結果になったかは、いうまでもない。河野太郎氏も、私の「再生可能エネルギー100%というのは技術的に無理ですよ」という質問に対して「できるかどうかだけ考えていたら何もできない。まず目標を掲げれば、不可能も可能になるんです」と語っていた。
この「東條の論理」には、二つの欠陥がある。まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始めるということだ。これは当然、どこかで「やっぱりだめだ」という判断と撤退を必要とする。その判断ができないと、かつての戦争のような取り返しのつかないことになるが、撤退は誰が判断するのか。また失敗による損害に朝日新聞は責任を負うのか。
もう一つの欠陥は、実現可能なオプションを考えないということだ。最初からできるかどうか考えないで「悪い」原発を征伐するという発想だから、その代案は「正しい」再生可能エネルギーという二者択一しかなく、天然ガスのほうが現実的ではないかといった選択肢は眼中にない。
朝日新聞は、かつて対米開戦の「空気」を作り出した「A級戦犯」ともいうべきメディアである。「軍部の検閲で自由な言論が抑圧された」などというのは嘘で、勇ましいことを書かないと新聞が売れないから戦争をあおったのだ。今回も世論に迎合し、脱原発ができるかどうか考えないで勇ましい旗を振るその姿は、日本のジャーナリズムが70年たっても何も進歩していないことを物語っている。 
「東條英機の論理」について反論
脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)原発をやめるべきかどうか。
(2)原発をやめることができるかどうか。
・・・まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。なぜ、これが東條英機的なのかというと、問題の設定の仕方は以下の論理とパラレルだからだという。
日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)戦争をやるべきかどうか。
(2)戦争に勝つことができるかどうか。
ようするに、「まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始める」敗北主義が東條英機的だということらしい。
この論説を読んで、その手品的手法に感動した。
問題は「原発をやめるべきかどうか?」とちゃいますか?
素直に考えれば、問題の立て方を大東亜戦争の継続についての議論に適用するのなら、二番目の問いは「戦争に勝つことができるかどうか」ではなく「戦争をやめることができるかどうか」となるはずだ。ところが、サラリと「戦争に勝つことができるかどうか」という問いにすり替えている。別に朝日新聞の擁護をする気はないが、あまりにひどい藁人形攻撃なので、可笑しくて可笑しくて、ここで取り上げることにした。
「はじめに原発ありき」の理論
さて、もしも問題設定の仕方を、原発の継続論議に関して行うとどうなるか?答えは(1)「原発を続けるべきかどうか」 (2)「原発を成功させることができるかどうか」ということになるだろう。かかる問題設定をした上で、「まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む」という立場をとると・・・?つまり、「まず原発は続けるべきである」と覚悟を決めて、その上で「原発を成功させることが出来るかどうか」という課題に挑む・・・おお!!まさしく、原発村の論理になるではないか。 3.11以降、「原発はやめるべきではない」という、「初めに原発ありき」の立場をとり続けている。そのうえで、しかしながら、大衆が無知でアホで非合理的で放射線恐怖症であんなに安全な原発を怖がっているから、日本で原発を成功させるのは難しいというようなことを論じている。なんのことはない。「鬼畜米英打倒」に突き進んだ東條英機のような覚悟もない、上から目線の原発擁護論でしかない。
ハルノートを突きつけられる前に・・
ところで、日本の原発を大東亜戦争になぞらえて考えてみると、3.11の事故は支那事変あたりに該当するのだろうか。「事故」を「事象」と呼ぶあたり、「戦争」を「事変」と呼んでいた当時の日本に似ているし・・・、それとも、ノモンハン事件かな。どちらでもいいが、中国という手出し無用の魔境に深入りしていった当時の日本と、原発地獄にのたうつ今の日本が重なって見えるのは私だけだろうか。ハルノートを突きつけられる前に撤退の道筋をつけたほうがよいように思う。
核武装オプションのための原発は必要!
とはいえ、私は再生可能エネルギーなんかに期待をもっていない。そもそも、脱原発なんて、核廃絶とか戦争放棄とかと同じで一国だけでやっても大した意味はない。それでも原発の縮小をするべきだと思うのは、日本のようなとんでもない地震国で頻繁にゴジラが出るような国に多くの原発を設置するのは危機管理上好ましくないということと、財政赤字と類似の「未来へのつけ回し」がいやだということと、日本の政治経済制度では東電のような地域独占を制御できないという理由からだ。とくに三番目の理由が重要だ。それは、安全性が確かめられない限り原発をやるべきではないというような「安全性の考え方」より、巨大技術に伴う悪質な地域独占の登場を阻み、競争が機能するような制度的枠組みが作れないのなら原発はやるべきではないという発想からだ。
その一方で、原発を完全になくしてしまうのには反対だ。それは石破茂も言っているように、核武装オプションを放棄するべきではないからだ。いや、いますぐ核武装をすればいいと思う。まず、核武装をするべきとの覚悟を決め、その上で核武装が可能かどうかという課題に挑むべきだろう。 
 
東條英機の戦局見通し

 

東條英機は大戦が終末に近づいた1945年2月26日、宮中にて昭和天皇に現下の戦局見通しについて上奏した。形式は一方的講話の形をとり、昭和天皇は一つだけ質問し終了した。以下は侍従長藤田尚徳(海軍大将)の証言である。

東條英機の戦局見通しについての説明
去る二月七日より行われたるクリミヤにおける、三巨頭会談が、今後の政戦両略の基礎たるべし。その一応表面に露れたる所は、もっぱら対独処理に存するごとく見ゆるも、その裏面において太平洋問題が大きく扱われ、大体基礎的了解をとげられたものと思考す。その理由としては日ソ中立條約の廃棄を決する最後の日、四月二十五日を選び、桑港において会議を開き、これに重慶、ソ連の参加を発表すると時を同じゅうして、この対独案件に対して非公式なれど、太平洋調査会の決議を発表ありしが、その後諸情報により調査考究して逐次この両者の関係を明らかにするを得たり。すなわちクリミャにて表面議題として伝えられざる対日間題は、事前に米国首脳者がソ連に赴きて談合せられありたるものなり。
さて今後、太平洋問題は如何に展開し来るべきや。比島戦をみるに、我はマニラを捨て主として山地に陣地を結集しあるをみて、相当の抵抗を持続し得るの算ありと判断すべく、四月二十五日より前に我軍潰滅というが如きことはあり得ず。敵軍十二個師団に対し、我また相当の兵力あり。比島戦遂行の現下、米国が今後、後詰として用い得る兵力は十個師団なりという。これを米国として何処に用いんとするか、クリミヤ会談前にては比島の増強、南支の新作戦等のことも考えられたるが、会談の結果より考えるに、これはやらぬと思う。敵は四月二十五日を目標として、それ迄に対日政戦両略のあらゆる手を打ちて、日本を立つこと能わざらしむるの状態を造りあげる。ドイツはソ連、米、英にて、それまでに片付け終り置く。
そこで四月二十五日に各国を集めて、日本が手も足も出せぬという状態をみせるという広い手をうつ。これが敵の狙う所なり。故に今において比島や南支には新行動を起すことなしと思う。(以下略)
聖上にも御回想下されることと拝察致す所であるが、大東亜開戦の御決定において、十七年度にはソ連は立つことあるべしとせられしが然らず。外交的には成功を得たりというべし。敵側三個の企図のうち、その二点まではこれを打破りたり。
只今深刻に太平洋上に起りつつある進展に対しては全体に観察して、成功不成功相半ばすとすらみる所以なり。(中略)
次に申上ぐることは、今日不幸なことながら我国に思想的、精神的に二つの懸念すべき点あり。御前にて言い過ぐる如きも申上ぐ。戦局の不利、爆撃の激化は人心に不安を招来し、これに加うる敵の宣伝によりて敗戦思想を植えつける。然しながら今日、太平洋戦局をみるに、硫黄島に敵は上陸し来りたるに至れるも、従来敵の占領に委せたるは外域にして、而も占領地または委任統治により新付のものにして純粋の領土にあらず。真の日本の皇土に敵をみるは今回が最初のことなり。敵は開戦前四週間にして日本を屈服せしめ得と豪語せるが、四年後の今日漸く硫黄島にとりつき得たりともいい得。
空爆の程度もドイツに比すれぼ序の口なり。新聞報によるもドイツに対しては四千機と伝う。我にありてはB29は二千数百キロの遠方より五日または七日に一回、百機内外のものが来るに過ぎず。機動部隊よりする戦爆連合も最近始まりたるも、これも長続きするものでなし。かく見来れば、今回の我本土空襲も、近代戦の観点よりすれば序の口に過ぎず。この位のことにて日本国民がへこたれるならば、大東亜戦完遂と大きなことはいえず。
なお近代戦における宣伝の効力については、一般に認識不足なることより敗戦思想に冒さるるものなるが、下層民または青年につきては大した心配は要せずと思考す。
生活問題に対する懸念、配給の現状、生活困難につきては、とかくの論議はあれど、最近フィンランドより帰朝せる者の談を聞くに、日本の現状は、フィンランドやドイツに比して苦しからず。日本に帰りて冬に野菜を食するを得たるが、これは数年来、かの地にて経験せざるところなり。配給量も少なしと思わずとのことなり。配給に対する苦情も、従前の飲食に対する考えより起る。陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず。
然らば如何にすべきや。第一に肝要なことは政戦両略ともに陛下御親政、御親裁の下にあることを明瞭に顕現することなり。東條在職中にも申せしが如く、このことは形の上に直ちにわかるようにするを要す。却ち大本営を真に陛下の御膝元にあることをはっきりさせることなり。大本営陸軍都、大本営海軍部と分在しあることは国民の異様に感ずるところたり。次に閣議も総理大臣の住宅である官邸で行うことをやめ、宮中において催すべきものと思う。在職当時、これを実行喧しも今は旧に返りたり。次に枢密院、元帥府が眠っていてはならぬ。陸海軍もまた渾然一体なるべし。
四月二十五日に至ってソ連は日ソ中立条約の廃棄を通告し来るやも知れず。かくなりても我は正義の上に立つ戦なり。皇国不減を信じて立っならば悲観に及ばず。その後起り来る欧州の情勢の変転を注視し平和をつかみ得べし。一度へこたれんには、爾後の日本は度外視せらるべし。かくなりては万事終焉なり。実に四月二十五日の前後は重大なる時期なりと思う。
東條大将の自発的な奏上は以上で終った。陛下はただ一言、ぽつりと御下問になる。
陛下 「ソ連が武力的に立ち上ることはないと思うか」。
東條 「その点につきましては一月ほど前にフィンラソドより帰朝した者と、二週間ほど前にシベリヤ経由で帰朝した者の観測がちがっています。前者はソ連の人民には戦意はないとみています。その論拠は、彼が同車した退役陸軍少佐の飛行機搭乗員が、公然とこの戦いはお互にやめたいと言っていたことで、ソ連は今日最大限に兵力を用いているので、四月二十五日以前にドイツが崩壊すれば、その時に兵力の余裕が生じますが、そうでなければ兵力の源泉は枯渇いたします。故にドイツが毅然として戦争を継続する間は欧州より兵力を抜いてシベリヤに送り得ませぬ。また仮りにドイツが崩壊しても、米英ソの間には深刻な争いがあって、有力な兵力を欧州に止めおかなければならず、大兵力を、シベリヤに抜くことは不可能でございます。事実、今日疲労していて立て直しの必要兵力を、シベリヤに転用することは困難で、これが前者のソ連立たたずとする観測でございます。それに対して後者は、日本を攻撃する大きなチャンスさえあれぼ、大兵力を引き抜くことも、ソ連は辞さないと観測していますが、いずれとも判断は難しいが、今日関東軍と勢力が平衝状態にあるソ連軍は、ドイツの様子如何によって、増強されることは考えられます。従って対日参戦は五分と五分と思考いたします。目下硫黄島に四個師団、我軍は一個師団と海軍六、七千人で戦い、敵は苦戦しております。補給途絶は時間の問題でございましようが、四月二十五日までに陥落することはございませぬ。台湾、琉球に対しても心配はありますが、防備は充分なので容易に敵手に委ねることがあるとは思えませぬ。ただし、海軍力が十分でないので、補給には困難がございます。この情勢にてソ連が、直ちに中立を放棄することは考えられませぬ。しかし硫黄島を失い、台湾、琉球、支那大陸を敵に委ねるならぼ、敵は日本も問題なしに今一押し押せばよいと考え来るでありましょう。従って今のところ五分五分と思考いたします」。

第二次大戦の軍事指導者の発言としては、もっとも愚かなものであろう。こういった指導者を擁いて開戦したことは、日本の長い歴史の中でも大失敗というしかない。同時代の藤田尚徳もこの愚かさに気づき、次のように批判している。
昭和二十年二月末であるのに、東條大将のこの戦局判断の強気は、陛下を驚かせるものがあったようだ。連合国側のクリミヤ、テヘラン会談の情勢判断、連合国の作戦日程に対しての見通しはともかくとして、米国の戦力の認定の甘さは誤りも甚だしいものではなかったか。また日本の戦争遂行能力についても余力があると断言しているが、生産力の低下を前首相である東條大将が、この程度にしか承知していないとすれぱ事は重大である。陛下の御表情にも、ありありと御不満の模様がみられた。しかし、東條大将は委細構わず、立て板に水を流すような雄弁を続げる。しかも、それは極めて重要な点であった。彼は和平工作を痛烈に批判しはじめたのである。
東條大将の国民生活に対する大きな錯誤は、いまさら指摘するまでもあるまい。国民の真の姿を把握していない。生活の苦しみについても、一方的な認識しかもっていなかったようだ。塗炭の苦しみを味わっていた国氏が、これを聞けばどう感じたであろうか。私も、いささか情ない思いで東條大将の言葉を聞いていた。また米軍の空襲についても、甘い判断しかもっていなかった。、事実は旬日の後に東京の半ばは灰燼に帰し、米機動部隊は終戦まで半年間、縦横に日本近海を遊弋していたのだから、東條大将の軍事的判断の不正確さは歴史の批判を受げるまでもない。一方的な詭弁であったといってよかろう。
遠慮のない発言には好意をもったけれど、私の聞いた感じでは、自分が内閣首班で行ってきた施策を、現内閣が改変して、逆に国民の戦意を衰えさせているといったふうの独善が感じられた。和平に対しては真向から敗戦主義であると罵倒したが、その戦局判断の甘さとともに、これも後世史家の批判を受ける点であろう。東條大将は、一陛下の御心が何を求めておられたかを着取していなかったのではないか。
陛下自らお考えになり召致された重臣の意見は、以上のように種々と分かれていた。誰が陛下の心に近く、誰が隔りがあったか。陛下は判然と識別になったに違いない。天皇は、国の政治へ直接の発言はなさらない。しかし陛下に心中深く、戦争終結の御決心がついたのも、この頃であったと拝察する。私は侍従長としての職分を守り、毫も陛下のこの件について言上することはしなかったが、君臣の問に一脈の流れを感じとることができた。
このとき、東條英機は上奏のため陸軍省から十分軍事情報をうけとれる立場にあった。にもかかわらず、空襲と硫黄島戦の見通しについて完全に失敗している。硫黄島戦の将、栗林忠道は「一人一殺を試みるので、和平に遺漏なきを帰せ」と打電しているにもかかわらず、和平そのものに反対しているのである。
さらに、太平洋戦争(問題)はドイツ勝利を前提として、内南洋に不敗の体制をとることが日本の大戦略であった。戦争に勝つためには「敵の芝生を踏む」「敵野戦軍を殲滅する」「敵指導部を無力化する」の三つの方法しかない。このいずれの方策もたたず日本は開戦したのである。この戦略的失敗を脇においても、太平洋問題とは海軍同士の戦いである。陸兵が孤島で補給の断たれた戦いをすれば敗北は必至である。補給を維持できるかできないかは空母と潜水艦によっており、それに敗北したことはこのとき東條においても認識されていた。すなわち、戦略の破綻を外政(和平工作)や軍事でいかに乗り切るかが諮問されていたのである。
東條英機にとり、内政、すなわち国民の士気を維持すること、具体的には閣議や大本営の各種会議の場所を変更することが唯一の方針なのである。
藤田のいうように昭和天皇は明らかにご不興であったろう。開戦時点では東條を信認するしかなかったにせよ、この時点では完全に喪失していた。昭和天皇の東條にたいする見方は劇的に変わったとみてよい。 
 
東條英機の統帥権についての述懐

 

重光葵と東條英機は、巣鴨に同じA級「戦犯」として収監されていて、太平洋戦争の敗因についてしばしば語り合った。そのうちの統帥権についての議論である。

東條大将は、巣鴨で記者に対して、敗戦の原因を論じたことがあった。彼は、
「根本は不統制が原因である。一國の運命を預るべき総理大臣が、軍の統帥に関与する権限のないやうな國柄で、戦争に勝つわけがない。
その統帥がまた、陸軍と海軍とに判然と分れて、協力の困難な別々のものとなつてゐた。自分がミッドウェーの敗戦を知らされたのは、一ケ月以上後のことであつて、その詳細に至つては遂に知らされなかった。
かくの如くして、最後まで作戦上の完全な統一は實現されなかつた」と述懐した。
沈黙を厳守してゐた彼が、この最後的の述懐をしたのは、余程のことであったと思はれる。東條大将は、最初に陸軍大臣であり、次いで首相兼陸相として、戦争を指導し、最後には参謀総長を自ら兼ねて、政治と統帥とを統制せんとして、その権力を一身に集めた人である。死を前にした彼の言説は、少なからず価値のあるものと思はれた(重光葵『昭和の動乱』下 中央公論社 1952)。

東條は不統制によって敗戦した、と説明している。これの当否は別にして、「総理大臣が軍の統帥に関与できなかった」ことが、その具体的内容なのである。これは支那事変以来、近衛文麿が説いていたことでもあった。近衛は、総理大臣が統帥に関与できなければ、外交が失敗する、すなわち講和または休戦できないことを主張した。これは、戦場で勝っていた支那事変にはあてはまるが、太平洋戦争にはあてはまらない。
さらに外交についていえば、戦場の勝敗は、いったん戦争が始まれば、新たな同盟国の獲得または主敵からの離反を誘うことでしか影響しない。また、そういった同盟の離反などは戦局に左右されるのが普通である。しこうして戦局を左右するものは「統帥権の有無」ではなくて、「統帥権の分裂」なのである。
首相であり陸軍の事実上の最高権力者が、もっとも戦局を左右する戦闘の詳細を知らされることなくて、陸軍の作戦計画をたてることは不可能である。
ただ、東條英機の統帥権の理解は、ゴーストップ事件を統帥権独立問題として扱う皇道派首領荒木貞夫などよりは、的確であったといえるだろう。ただし、東條の軍人としての戦略眼は凡庸の域を出ず、法律または官僚の手続論において俗流統帥論に屈していた。
東條の下僚であった服部卓四郎は戦後、次のように書いている。

旧憲法下における日本は、天皇がこれを統治せられた。然し天皇は無当責の地位に在られ、国務即ち国の行政は、国務大臣の輔弼により施行せられ、その責任は輔弼の任に当る国務大臣が負うものであった。
〔統帥権独立−国務との併立〕
而して統帥即ち作戦用兵は、旧憲法第11条に基づき、天皇の大権事項として行政の圏外に置かれ、陸海軍の統帥は、国務大臣の輔弼によらずに、陸軍にあっては参謀総長、海軍にあっては軍令部総長による如く定められていた。即ち明治41年改定の参謀本部条例によれば、「参謀本部は国防及用兵を掌る所とし、参謀総長は天皇に直隷し、帷幄の軍務に参画し国防及用兵に関する計画を掌る」旨規定されている。従って統帥に関しては、参謀総長又は軍令部総長が、直接天皇に上奏し、内閣または内閣総理大臣を経由しないのであった。かかる状態を統帥権独立といい、日本特異の制度であった。
天皇無当責の法理は、統帥に関してももとより同様であって、統帥上の最高の責任はその補翼機関の長たる参謀総長又は軍令部総長が、これを負うべきであった。
従つて統帥組織上天皇直隷の最高司令官といえども、参謀総長又は軍令部総長に意見を具申するに止まり、これらを経由せずして、直接天皇に意見を上奏することはなかつた。
かかる制度は、大体プロシャの制度を斟酌して定められたもので、陸海軍は、統帥の決断性、一貫性、機密性等を重視して、この統帥権確立の制度を尊重確守して来た。
〔帷幄上奏−軍部大臣の特殊地位〕
以上の如き国務と統帥との併立関係を諒解することは、必ずしも困難ではないが、ここに問題となることは、国務と統帥との中間的性質を帯びる事項が存在することである。これを混成事項又は広義統帥事項と称していたが、その基礎は旧憲法第十二条の陸海軍の編制及び常備兵額の決定に関する所謂編成大権であつて、伊藤博文の憲法義解によれぱ、若十二条に関し次の如く述べていることによつて明かである。
本条は陸海軍の編制及常傭兵額も亦天皇の親裁する所なることを示す此れ固より責任大臣の輔翼に依ると難亦帷幄の軍令と均く至尊の大権に属すべくして而して議会の干渉を須たざるべきたり所謂編制の大権は之を細言すれぼ軍隊、艦隊の編制及管区方面より兵器の傭用、給与、軍人の教育、検閲、紀律、礼式、服制、衛戊、城塞及海防、守港並に出師準備の類皆其の中に在るたり常備兵額を定むると謂ふときは毎年の徴員を定むること亦其の中に在るなり
右混成事項も、陸軍においてはその内容に応じ、陸軍大臣、参謀総長、教育総監稀に陸軍航空総監が、単独又は他の輔翼機関との連帯の下にその制定の責に任じた。但しこれが施行の責任は常に陸軍大臣であつた。
海軍においても同様であつた。即ち混成事項も一般国務大臣の行う行政の圏外に置かれ、当該輔翼機関の長が直接天皇に上秦していた。
陸海軍大臣が以上の外、一般国務に関する軍事行政事項を主管していたことは勿論である。却ち陸海軍大臣は国務大臣として国務全般につき内閣に参賛するとともに、軍事行政の主管大臣として、一般国務に属する軍事行政事項を主管し、且つ前記混成事項に関する天皇補翼の責任を負っていたのである。

服部卓四郎はここで、統帥権と帷幄上奏について述べている。このうち、帷幄上奏に関連する「軍部大臣の特殊地位」については、法律の曲解である。憲法12条によって、混成事項が定められたとするが、憲法が業際的なことについて触れることはない。
伊藤博文の『憲法義解』の一部を流用しているが、そこでは、軍部大臣や内閣が「陸海軍の編制」を決定するといっており、軍令参謀本部長が決定するとはいっていない。従って、軍令参謀本部長が、「陸海軍の編制」について帷幄上奏することはできない。できるのは「統帥事項」なのである。
ただし服部は、統帥事項については「決断性」「一貫性」「継続性」をあげているが、それが戦時の統帥および戦前の戦争計画の策定に絞ることを意味するのであれば正しい。ただ、これの延長線上に統帥の2元化(陸海軍の統帥の分裂)はでてこない。海軍がミッドウェーの敗北について軍令部長限りとして参謀本部長が知らないとなれば、元来一人の天皇が行なう統帥事項について、有責の人間がどこにもいなくなってしまう。これの論理的帰結は戦争の敗北であろう。

東條英機の東京裁判宣誓供述書 (昭和22年12月26日提出)
起訴状に於ては一九二八年(昭和三年)より一九四五年(昭和二十年)に至る間日本の内外政策は「犯罪的軍閥」に依り支配せられ且つ指導せられたりと主張されて居ります。然し乍ら日本に於ては「犯罪的軍閥」は勿論所謂「軍閥」なるものは遠い過去は別として起訴状に示されたる期間中には存在して居った事実はありません。
尤も明治時代の初期に於て封建制度の延長として「藩閥」なるものが実際政治を支配した時代に於ては此等藩閥は同時に又軍閥でもあったのであります。当時此等の者は「閥」即ち徒党的素質をもって居ったとも言えます。
然るに政党政治の発達に伴い斯る軍閥は藩閥と共に日本の政界より姿を消したのであります。その時期は起訴状に言及した時期よりは以前のことであります。その後帝国陸海軍は国家の組織的機関として制度的に確立し自由思想の発生するに及び最早、事実的に斯の如き徒党的存在は許されざるに至りました。
その後政党勢力の凋落に伴い軍部が政治面に擾頭した事はあります。しかし、それは過去の軍閥が再起したものではありません。仮りに検察側が之を指して居るのであったならば軍閥という言葉は当りません。それは軍そのものであり徒党的存在ではないからであります。而してそれは日本の内外より受くる政治情勢の所産であります。
彼の「ナチ」または「ファッショ」のような一部政治家により先ず徒党を組織し、構成して、国政を襲断せるものとは全然その本質及政治的意義を異にして居ります。軍が政治面に撞頭せることについては次の如き政治情勢が重大なる関係をもって居ります。
(一)満洲事変前後に於ける日本の国民生活の窮乏と、赤化の危険に対応する革新機運の擾頭と、陸海軍の之に対する同情
(二)支那事変の長期化に伴い目本の国家体制が次第に総動員体制に移り、太平洋戦争勃発以後は完全なる戦時体制に移り、軍部の発言権の増大せること
(三)右と関連し日本独特の制度たる統帥権の独立が発言権を政治面に増大せること
右の中(一)の事柄、即ち満洲事変前後のことについては私自身の責任時代のことではありませんが、我国の運命に関する事柄の観察として之を述べる事が出来ます。第一次世界大戦後の生産過剰と列強の極端なる利己的保護政策とに依り自由貿易は破綻を来したのであります。
此の自由貿易の破綻は惹いては自由主義を基礎とせる資本主義の行詰りという一大変革期に日本は当面したのであります。斯くて目本の国民経済に大打撃を与え国民生活は極度の窮乏に陥りました。而も当時世界的不安の風潮は日本にも滔々として流れ込んだのであります。斯くて日本は一種の革命期に突入しました。
此の革命期には日本には大別して二種の運動が起りました。其の一つは急進的な暴力革命の運動であります。他の一つは漸進的で資本主義を是正せんとする所謂革新運動であります。
急進的暴力革命派は軍人若くは軍隊を利用せんとし、青年将校等を煽動し且つ捲込まんとしました。その現われが五・一五事件(一九三二年即ち昭和七年)二・二六事件(一九三六年即ち昭和十一年)等でありました。
蓋し、農山漁村困窮の実状が農山漁村の子弟たる兵士を通じて軍に反映して青年将校等が之に同情したことに端を発したのであります。而して軍は二・二六事件の如き暴力行為は軍紀を破壊し国憲を紊乱しその余弊の恐るべきものあるに鑑み、廣田内閣時代寺内陸相に依り粛軍を断行し之を処断すると共に、軍人個々の政治干与を厳禁しました。
他面陸軍大臣は国務大臣たる資格と責任に於て政治的に社会不安(即ち国民生活の窮乏と思想の混乱)を除去する政策の実行を政府に要求致しました。検事側の間題とする陸海軍現役制の復活も此の必要と粛軍の要求とより出たものであります。
斯の如き関係より軍が政治的発言をなすに至ったのであります。検察側の考うるが如く暴力的処置に依り軍が政治を支配せんとしたものではないのであって、以上の如き政治情勢が自ら然らしむるに至ったのであります。
次に(二)の理由即ち支那事変の長期化に伴い総動員体制に移行したとき、又太平洋戦争勃発以後の戦時体制と共に軍の発言権の増大につきては私は関係者の一人としてここに説明を加えます。以上の事変並に戦争のため国家の運営が戦争の指導を中心とするに至りました。そして、それは当然に軍事中心となりました。殊に一九三七年一昭和十二年)十一月大本営の設置せられたる以来、次に述べる第三の理由とも関連して政治上に影響を持つに至りました。
この傾向は太平洋戦争勃発後に於て戦争の目的を達するため国家の総カを挙げて完勝の一点に集中せしむる必要より発した当然の帰結であります。軍が政治面に強く台頭したのは斯くの如き自然的政治情勢の然らしめたところであります。
之を以て軍の横暴というならぱそれは情報の欠如に基く見解の相違であります。之を犯罪的軍閥が日本の政治を支配したということは事実を了知せる私としては到底承服し得ざるところであります。
第三の点、即ち統帥部の独立について陳述いたします。旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通念として居りました。このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。
従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持たなかったのであります。唯、単に連絡会議、御前会議等の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵には触れることは許されなかったのであります。
その結果一度作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む外なき状態を呈したことも少しと致しません。
然るに近代戦争に於ては此の制度の制定当時とは異なり国家は総力戦体制をもって運営せらるるを要するに至りたる関係上斯る統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。
又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に指向する軍を抑制する機関を欠き、殊に之に対し政治的抑制を加え之を自由に駆使する機関とてはなしという関係に置かれました。これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。
又私が一九四四年一昭和十九年一二月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも此の苦悩より脱するための一方法として考えたものであって、唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。
斯の如き関係より軍部殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であって戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりという如き皮相的観察とは大に異なって居ります。

近衛は東條を筆頭とする統制派を共産主義者団体と認定したが、東條の現状分析は確かにスターリン=コミンテルンのものと酷似している。資本主義の全般的危機と資本主義国家の腐朽といった点である。
論証の中心は連合国検事による「共謀」団体=軍閥は存在せず、「軍」が政治団体化したというもので、「閥」を軍隊内派閥あるいは「藩閥」=陸軍内長州派などなかったということであろう。これ自体は検事の論を認めているようなものでなんら反駁になっていない。
官庁系弁護団がいかに英米法に無知であったかがわかる。またこの論から東條は、軍の平時における政治関与、軍の戦時における統帥の独立及び陸海分裂に批判的であったことがわかる。 
 
統帥権の独立

 

二重政府は成立するか
吉野作造は、1922年(大正11年)2月、『東京朝日新聞』に「帷幄上奏論」を発表した。
「国民は多年帷幄上奏をもって、いわゆる二重政府なる日本独特の政治的疾患の根源となし、これによって専横を恣にする軍閥の跋扈を憎んでいた。―中略―
陸海軍大臣は一種特別の地位を保ち、参謀本部海軍軍令部と相連なって軍事に関する専門機関を形づくり、全く内閣の牽制の外にある。国防用兵のことは国務大臣としての陸海軍大臣の輔弼を経たといえればそれで憲法上の要件を具備したわけだが、輔弼は各大臣の連帯責任とし、一般政府の権限に包含せねばならぬという政治的要求からすれば即ち軍事はいわゆる政府各大臣の輔弼の外にあるといってもいい訳になる。
換言すれば輔弼によらざるものがあるゆえに、人民が制度の上で凡ての政治的行動に与ることができない訳になる。政府の輔弼以外に、別個の国権発動の源泉を認めることになるから、いわゆる二重政府の非難も起こる。
この論文は、大岡育造(衆議院議長、明治前期でもっとも新聞社会面を賑わせた花井お梅事件[待合を営む「毒婦」花井お梅が明治20年、雇い人峯吉を殺害した事件]の弁護を引きうけ、人権派弁護士であった)の「明治憲法下では帷幄上奏なるものがあり、総理大臣もこれに関与できず、随意に国庫負担を増加させることができるとすれば、列強は日本の平和主義を疑うであろう」という議会における質問に触発されたとされる。
統帥権をめぐる議論は吉野作造が「二重政府」批判、すなわち参謀本部と文民政府の二つが日本にあると論難したことから始まる。吉野の批判は明治憲法の法理を理解せず、単なるジャーナリスト的批判を与えただけである。
ただし、この誤った議論が軍人に「二重政府」が本当に存在すると思わせた。昭和軍人の暴走=政治干与はこのマスコミの無責任な言論から生じたともいえるのである。
そもそも軍隊とは、政府の保持がなければ存在できない。国軍とは国法によって規制され国費によって賄われ、国民が信頼する国民軍である。元来、国軍は行政府の一部であって、政府と分離すれば、立ち行かなくなる。
陸海軍が国政3権に介入したり、支配しようとすれば、じっさいに実行した軍人が「政治家」になるだけであって、他の行政・司法・議会について責任をもつしかなくなる。
昭和軍人が統帥権の独立=二重政府を叫ぶことが、究極的に外交や議会を支配することにつながったことは、この結果であった。手段はクーデターによるか「サーベルをがちゃつかせる」(永田鉄山)によるしかなかった。つまり、平時における統帥権の独立は明治憲法の法理からの逸脱であった。

明治憲法下の統帥権独立は、法理上、戦時に限られた
帝国憲法(明治憲法)
第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」
以上が戦前猛威を振るったとされる「統帥権」について憲法条項の全てである。ただし、後述の通り、第12条は統帥権について述べたものではない。これではいわゆる統帥部(参謀本部・軍令部)がどのように天皇を補佐するのかは明文化されていない。これは国務各大臣が天皇を輔弼することが明文で示されているのに比べ憲法上の扱いが低い感は免れない。

この憲法11条の解釈は「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦上のこと)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見は政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」と美濃部達吉は西園寺の求めに応じ回答している。
つまり平時における編制・常備兵額を軍令部・参謀本部が決定に参画できる権能を有することはない。そして、憲法11条と12条は直接関係がない。
憲法第12条はあくまでも内閣が議会と離れて、編制および常備兵額を定めることができるとしたものだ。これは当然のことでもし軍令部・参謀本部が常備兵額(艦隊の構成)などを決定することができれば予算についても自ら決めることができ議会の権能は失われてしまう。つまり憲法を停止すると同義である。このような乱暴な議論はドイツ・オーストリアなど立憲君主制を標榜する国家でも生じることはなかった。憲法12条がなぜ明治憲法に入ったかと言えば、予算が否決されたさいに天皇の個人財産により支出することで兵力を一時的にせよ維持するという考えがあったようだ。この項目は他国の憲法にはあまりないと思われる。
ロンドン軍縮会議に伴う統帥権干犯問題は、直接には法務官僚の平沼騏一郎が権力欲から海軍に迎合し表に出たものだが、理論的には北一輝ら社会主義者と官僚・軍官僚がこの当然の法理をネジ負げた。驚くべきことに議会でも政友会総裁の鈴木喜三郎が義弟の鳩山一郎と組んで、平沼や軍令部に迎合した。鳩山という人物は金銭にも汚く、育ちがよい家庭を作れたとは思えない。

それでは各種政令等ではどうだろうか。
軍令参謀本部条例では第2条が関係する。
「参謀総長ハ陸軍大将若シクハ陸軍中将ヲ以テ親補シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス」
これによれば天皇に意見を表明しまたその命令を受けることができるのは参謀総長に限定される。参謀総長はこの権能を通して実際の統帥を実行するのが普通である。ドイツ(第二帝政)では参謀総長は参謀本部と野戦軍すべての人事を総覧し、作戦計画も参謀総長の名前で命令される。ところが日本では人事は陸軍省(大臣・教育総監)が掌握し、戦時の作戦計画とりわけ戦闘序列の発令は天皇の命令(勅令)によるものとされた。
これでは参謀総長の権限は著しく限定されたものとなる(参謀総長の統帥上の命令も天皇から了解を得た動員・開進計画の範囲を越えると奉勅命令「勅命にもとづいた参謀総長の命令」が必要だった。ただ作戦計画は野戦軍司令官が命令するのが建前である。そして動員・開進計画は陸軍予備経費を越えると臨時予算となり議会の承認も必要である。すなわち戦前の軍事行動は参謀総長が独走したものではなく、必ず議会の承認があったことを忘れてはならない。実際参謀総長や参謀本部次長が好戦的であった形跡はあまりない。そして衆議院は男子のみに限定された普通選挙が昭和以降の選挙では実施されていた)。
更に内閣官制では第7条が関係する。
「事の軍機軍令ニ係ワリ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニヨリ之ヲ内閣ニ下付セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」
悪文で何をいいたいのかよくわからない。意図的にそうしたのだろう。これの解釈は戦時における作戦は参謀総長が天皇に直接報告することがあるが、それ以外は陸軍大臣を通して首相に直ちに報告し、また戦時の作戦についても天皇への報告後直ちに首相に報告する意味だとされる。
この解釈を条文から推定できるのは相当に役所言葉に精通するか、またはこの条項を利用して何か企むものしかいないだろう。ただこの規定に先立つ太政官達内閣職権からはこのようにしか解釈できない。
すなわち参謀総長は陸軍大臣を通じて戦時でも作戦を首相に報告せねばならないのだ。ところが参謀本部は自分の職掌のみを考え作戦遂行に不利のなる意見を首相から言われるのを避け、また首相は陸相や外相すら指導できない状態に陥っていた。すなわち首相が内閣官制にもとづき断乎として陸相に作戦を知らせるよう要求すれば可能だった。つまり戦時の統帥権の独立すら日本には完全には存在していなかった。
ロンドン条約に端を発した統帥権干犯問題は北一輝の造語自体の強さから出たものである。加藤寛治、末次信正の主張は常備兵額(=艦隊)は内閣と独立して軍令部長が決定すべきものだ、というもので、当時の法理全般の解釈とは異なり、当時の言論界でも受け入れられなかった。
そして、陸軍大学の教科書である『統帥参考』や『統帥綱領』の中の統帥権独立は軍令で決められた解釈を越えるものであって、これ自体も異常の説である。そもそも、この二つは軍事機密とされ陸大卒業生や受験生にしか読まれない性格のもので、周知を目的とする法令とは異なる。また素直に『統帥参考』、『統帥綱領』を信じれば天皇の命令にすら従う必要がなくなる。
全体として統帥権の解釈については、軍令や内閣官制の漢字から来る異様な響き(統帥・軍機・軍令・帷幄など)と曖昧さが、単純な混乱を招いたにすぎず、内閣が断乎として法制上の連続性を維持すれば回避できたと思われる。 
俗流統帥論
統帥権は戦時における作戦の秘匿から生じた法理であるにもかかわらず、統帥部強いては軍参謀部、師団参謀部が内閣または上級司令部と独立して軍事作戦を計画・実行できると俗流軍人が思い始めたのは満州事変がきっかけである。
それまでは、政治が統帥に屈することはまずなかった。1928年4月、第二次山東出兵が発動されたが、田中義一首相は第一次山東出兵が空振りに終わったため及び腰であり、4月19日、天津軍のうち3個中隊(小泉大隊)だけ派遣した。ところが済南情勢はにわかに悪化し、第6師団全部を派遣しても追いつかない形勢となった。この急変をうけて、陸軍内で会議がもたれた(出席者:陸相白川義則、次官畑英太郎、参謀総長鈴木荘六、参謀次長南次郎、作戦部長荒木貞夫)。
この会議での出兵強硬論者は荒木貞夫であった。だが、畑は荒木に向かって「君は二言目には統帥、統帥というが、だいたい政治の前には統帥もヘチマもないではないか」と政治の優位を説いた。これは当然であろう。これにたいし荒木は「あなたも軍人ではないか。すでに軍事参議官も集まって、軍としての出兵を決定したのに、政府の反対で、これが蹂躙されてよいのか、こんなことをしていると、憲法の軽視となり、その波及するところ、ついに不測の事態をおこすであろう」と畑に食って掛かった。
このとき、統帥部はこのように内閣に弱かったのである。
だが、張作霖爆殺事件、満州事変(1931年)と進むと、独断専行も統帥権と関係があるように論じられた。いわば緊急避難行為をもって、クーデターが合理化されるようになったのである。そして、大阪ではゴーストップ事件(1933年6月)というような軍刑法(軍律)に関連する事件までもが、統帥権と関係づけられて論じられた。
軍事問題について陸軍に全てを任せる首相、有事法制に熱心さを欠いた議会がむしろ問題で、憲法の条項や陸軍の体質より、軍事問題から逃げ回ろうとする社会そのものが問われるべきだろう。簡単にいえば、軍事作戦では法制と離れて司令官が独断専行せざるを得ない。
事前作戦計画でその任務を与えられていないとしても、友軍や自国の民間人が攻撃され全滅の危機にあるのをみて野戦軍司令官が放置することはいかなる角度からも許されない。つまり、時には事前の計画に反する行動を野戦軍司令官はとる必要がある。原始的には統帥権独立とは軍事作戦でしばしば起こるこういった緊急避難措置に対する免責規定にすぎず、そこから軍事作戦を内閣に報告しなくてよい、とする法理は出てこない。
内閣法制局は、この俗流統帥論を否定することができず、太平洋戦争勃発のさいは、「戦争開始」について軍令参謀本部長が提案した。東條英機や近衛文麿が俗流統帥論を信じていたうえ、下僚も法体系を認識しながら、満州事変に染まり万能感にとりつかれた年代を説得できなかった。東條英機は、俗流統帥論によって発生した「統帥二元」にかえって苦しめられることになった。
俗流統帥権は、「軍事作戦を秘匿する」という本来の「統帥権独立」からの逸脱であった。この見解は吉野作造を淵源とするが、さらに発展させると美濃部達吉の論にいきつく。
元老の西園寺公望から解説を求められ、美濃部はこの明治憲法第十一条について次のように説明した。
「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦中)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見を政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」
戦後になるとこの解説をもって統帥権独立論は成立しないかのようにとられることが多い。天皇機関説はともかくとして、美濃部の「大権=参考にすればよい説」は誤りではないだろうか?
美濃部の大権説に従うと無数の大権ができてしまう。曰く「統帥権」「軍政権」「教育権」「外交権」「財政権」であり、政府の各省・各局ごとにできてしまう。統帥権について憲法で一条を設けていることは、やはり他の「大権」とは違う意味があるのではないか。これが「作戦の秘匿」であろう。
官僚の任務分掌とは、自らの「組織」(局・課)の受け持ち範囲について決めるにすぎないにもかかわらず、「大権」論によって、組織のトップが自身の進退も含めて決定できるかのような錯覚を与えたのである。
荒木貞夫による「真崎教育総監辞任拒否論」や外務官僚による「外交大権論」はその誤りの直接の反映である。 
俗流統帥権独立論の帰結
明治憲法の法体系では、統帥権の独立は存在しない。ところが、陸軍省部軍人は、統制派も皇道派も統帥権独立は存在し、二重政府論、すなわち平時においても内閣の決定に従わない軍令参謀本部の存在を標榜した。
そのうちでも陸軍大学を卒業した参謀将校(天保銭組)は、「専門家集団のみが国家の運命を左右する軍事を指導できる」と理由付け、参謀本部のみが難しい軍事に関与すべきと結論づけた。当然、参謀本部は内閣や司法、議会の干渉を受けない。
昭和5年、陸軍省の山脇正隆大佐は『統帥権について』という論文を書き「統帥の問題は戦争を基礎に考えねばならない。戦争は元来勝利の獲得をもって、先決唯一の目的とするものであって、統帥の良否は直ちに国家の興亡を決定する」と論じた。
これにたいして、2・26青年将校に代表される無天軍人は、軍人勅諭から敷衍される「上官の命令は天皇陛下の命令と思え」から来る現場の日本人的な「マトマリ意識」、すなわち部下に突撃を命令するさいの「命をオレに預けてくれ」の心情を重視した。「部隊をまとめる指揮官が優秀である」との「体育会的結合」がなにより重要であると発想する。
上官の命令そのものが神聖であり、その命令は部下の心情(例えば、農村の青年の辛苦)を慮らねばならず、さらにその上の「天皇陛下の命令」や「参謀本部の命令」「天保銭組の命令」は、自分と部下の心情に沿わねば無効と考える。
天保銭組=参謀将校の「専門家集団は干渉を受けない」論にしても、現実の戦争ではなく、将来の戦争に備えなければならないとすれば、平時における軍部独裁を合理化することになる。
統制派も皇道派も俗流統帥権独立論では一致しており、陸軍は内閣に従わないか、あるいはクーデターのよって陸軍独裁に突き進むことになった。 
 
戦争の昭和史

 

この章では主題たるべく「太平洋・大東亜戦争とは何であったのか」を述べてみたい。とは言ってもテーマはあまりにも広大で難解である。日本は60数年前になにゆえ世界を相手に戦ったのかは、この章の最後に譲るとして、どのような戦争をして現実に戦った軍人とは、軍部とはどのような存在だったのかに焦点を当ててみたいと思う。それが開戦にも敗戦にも大いに関係してくるものと思う。だからと言って先の戦争をいささかも擁護するものではない。現在の日本は平和そのものだが「平和憲法」を守っていて昔のような軍隊がないから「平和なのだ」といった多分に底の浅い平和論議や「自虐史観」なる大東亜戦争見直し論にも断然与したくない。当時の大国アメリカによって戦争に引きずり込まれたのは事実にしても、軍人や政治家の擁護にはならない。私の父親を含めた310万人の戦死者・戦病死者は抗する術は何もないのである。
私の言いたいのは単純である。「平和」の反対は「戦争」である。平和というものをあくまで願うのなら「戦争」の実態から目を逸らすのは正しくないと思う。私と同じ昭和19年生まれのキャスター・久米宏はそう遠くない以前に「ニュースステーション」なる番組で「僕はなるべく戦争からは遠ざかりたいと思います」という発言をしたことがあった。正論のようにも思えるが、その実、戦争の何たるかは知りたくないという平凡な、歴史から現実から目をつぶること以外なにものでもないように思う。高校生の「日本史」の教育が選択制になっていることにも原因の何割かはあるが、日本全体が老若男女誰しもが、過去の戦争は学者・評論家など専門家に任せておいてなるべく触れたくない、面倒臭いという認識・態度と言って差し支えないだろう。この国では、こと「戦争」のことになると悲惨な状況と、その戦争責任問題になる。戦争の悲惨さを強調してのみただ戦争に反対というのは、戦争に至る過程や原因の究明・分析に踏み込むことに躊躇いや惑いがあるからのように思う。次項で明らかにしたいと思うが、日本人は戦前も戦後も現実に対応し切れないことには忌避する性格があるのではないか。そうした「国民性」は今も昔も変わりがないのではないか。戦争とは国家間の冷徹な政治の世界の原因と結果だと思う。日本人は基本的には「稲作農耕」民族である。稲作農耕の世界には共同システムが必要で無益な戦いは要らない。この地理的風土と気候的風土に育まれたからこそ叙情的・非論理の世界に終始し、その原因や分析は国民的な苦手意識に覆われているように個人的には思う。だがその風潮を非難するのではなく逆に私は、近代史の負の財産として捉えるべきと思うのである。戦後も含む「昭和」の歴史は、貧困・軍閥・戦争・侵略・暗殺・テロ・占領・経済成長と正と負の財産があると言って差し支えない。昭和は決して懐古趣味的なものでなく、昭和の前半は国民的作家・司馬遼太郎の言う「魔法使いがポンと杖を叩いた」かのように「統帥権」を弄んだ結果としての悲惨な歴史であった。2000年の長い歴史の中の20年を狂わせた張本人は、どう弁明しても司馬が晩年まで追求した「統帥権」を持つ大日本帝国の軍人だったのは間違いない。
戦後60年以上を経過して太平洋・大東亜戦争を批判するのは容易い。日本全国民が一路邁進したのは戦前の「軍国主義」が悪かったというのは最もポピュラーな評価である。しからば軍国主義とは、どういう主義で誰がその主義を行使して悲惨な結末に至ったかとなると、大抵は「極東国際軍事裁判」で断罪され、絞首刑になったA級戦犯7人という結論になる。「軍国主義」とは少し詳しく言えば、軍事主導国家主義ということになる。日本はほんとうに軍事主導国家だったのか。天の邪鬼な私は本当に日本が「軍事主導国家」だったのならアメリカという当時の大国と戦争などしなかったのではないかと思う。それでは軍事国家の誰が戦争を始めたのだろうか。アメリカと戦って勝てると思ったのか。戦争を始めたのは勅語を出した昭和天皇だろうか、総理大臣だろうか、よく言うところの大本営の陸・海軍の軍人だろうか。当時の政治を壟断していたのは、あきらかに軍部である。しからば軍部とは何を指すのか、簡単に軍国主義とか軍部とか言っても、3章で述べたように軍の権限は、例えば当時の総理大臣・東條英機に集中していたわけでは決してない。開戦当時、東條英機は陸軍大臣を兼ねていたが、海軍のことには一切口を出せず、戦争を遂行するのは大本営作戦部だった。行政の長に祀り上げられた東條は軍部の陸軍の代弁者に過ぎなかったのではないか。
『「軍部」というのは、参謀本部、軍令部などの作戦部、あるいは陸軍省、海軍省の軍務局など、軍の政策や戦略を司る中枢部のことをいう。そうした中枢部が発する命令、彼らの時代認識から来る戦略がどういうものだったか、それを指して定義するものである』(「あの戦争とは何だったのか」P19)つまり軍部とは言っても、陸軍省・海軍省は行政機関であって、主に軍事に関する戦略・準備、戦争の実際の遂行は大本営だった。大本営陸軍は「参謀本部」、大本営海軍は「軍令部」と称された。今風の言葉で言えば行政側はあくまでハードという装備・準備、そのハードを動かすソフトつまり戦争の命令・遂行は主権者「天皇」の輔翼である統帥権を持つ大本営の軍人だった。従って「軍部」と簡単に言っても組織としては4つの構造から成っていた。当時の内閣総理大臣が「開戦」を決意したにしても戦争を計画したのは大本営、始めたのは陸海軍のエリート軍人だった。因みに昭和16年の開戦時の軍部の責任者は次の通り。
◇参謀本部(大本営陸軍) 参謀本部総長 杉山元(陸軍士官学校12期)
◇軍令部(大本営海軍)   軍令部総長  永野修身(海軍兵学校 28期)
◇東條英機内閣陸軍省  陸軍大臣    東條英機(陸軍士官学校17期・首相)
◇東條英機内閣海軍省  海軍大臣    嶋田繁太郎(海軍兵学校 32期)
この四者が太平洋・大東亜戦争の開戦・遂行・終戦にどう関わったのか、ほんとうにA級戦犯として極東国際軍事裁判で絞首刑を下された東條英機に一切の戦争責任があったのか。「真珠湾攻撃」を指揮して昭和18年4月に戦死した山本五十六なのか。あるいは戦争を許可した昭和天皇なのか、単に「太平洋戦争の戦争責任」と言っても即座に断定できるものではない。しからば「戦争責任」とは何なのか。戦争責任と言えば簡単ではないが、この場合国民に塗炭の苦しみを味わわせたと言った場合、それが軍部だけなのか、政治家は、メディアは、当時の国民には一切の責任はないのか。簡単に現在の平和感覚を以てして過去の戦争に関わる全てを否定することは、反戦にも平和にも決して貢献することにはならない。だが前記4人に関しては、太平洋・大東亜戦争にどう関わったのか。やはり日米開戦には最も責任があると考えて差し支えない。この章の別項で追求してみたい。
平和の反対が戦争と考えるなら、悲惨な結末と惨状のみ強調しがちなテレビ番組的感覚は避けたい。少なくとも次の4点くらいはその触りだけでも考える意欲を持ちたい。
1 戦争はなぜ起きるのか
2 戦争はどうしたら防げるのか
3 戦争に巻き込まれたらどうするのか
4 日本はなぜ戦争を起こしたのか
せめて最低限、このくらいのことは理解しておくべきではないのか。だがこの章では4点全てに詳細な論を展開しようとは思わない。そのスペースもない。それは国家の中の為政者やメディアが率先して追求すべきものであろう。素人ながら付け加えれば未来永劫、イスラム教・キリスト教が存在し、その宗教の教義を克服しない限り戦争の火種は消えないとだけ言いたい。また専門家にしろ個人にしろイデオロギーにおいても様々な「戦争と平和」の意見・主張がある。しかしこの章の最後で「日本はなぜ負ける戦争を始めたのか」で4の理由だけは自分なりに著してみたい。「私の戦争論」の原点はここにある。戦争に突入しなかったら私の父親は戦病死などしなかったのである。この章では大きな理由として、今も昔も世界の大国アメリカとなぜ負けるべくして始めたと言えば、日本とアメリカは国力が1桁違うで国と国であったからと言えば説明がつく。小学生でも簡単に答えられるやさしい問題である。ここでは分かり切ったこと、戦争は悲惨だからという感情論を廃し、日本の戦争の典型的な作戦の原因と結果を論じてみたい。そこに見えてくるものは論理的・合理的計算は殆ど為されていないのである。
『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(中公文庫)という優れた文庫の書がある。この書は「なぜ戦争に負けたのか」「なぜ負ける戦争に訴えたのか」でなく、個別的作戦における共通の失敗の組織論的研究である。6つの作戦とは次の通りだが、太平洋・大東亜戦争の分岐点とも言うべき作戦であり、また日本の軍人に多数の死者を出したからこその研究でもあろう。これは悲惨な結末とか、残酷な結果とを象徴している訳ではない。日本の軍隊の典型的な失敗を抽出しているのである。日米開戦前の無謀な作戦も含まれる。1ノモンハン事件(昭和14年)2ミッドウェイ海戦(昭和17年)3ガダルカナル作戦(昭和17年)4インパール作戦(昭和19年)5レイテ海戦(昭和19年)6沖縄戦(昭和20年)に分別されている。
ここですべての作戦の詳細と解釈は、専門家ではない私でさえ膨大なページを必要とする。この章では『インパール作戦』についてのみ述べてみたい。そこには一人の功を焦る陸軍中将の思惑から博奕のような出鱈目な作戦の実態が浮かび上がる。その陸軍軍人とその上官は大量の戦死者を出した悲惨な結末の責任を問われることなく、戦後20年も生き仰せたのである。つまり自国の多数の無惨な兵士の死は、アメリカへの開戦・遂行責任ではないのだからという理由で犯罪にはならなかったのである。陸軍士官学校22期卒業、陸軍中将・牟田口廉也(むたぐちれんや)という軍人に、私は大日本帝国の矛盾が最も凝縮されているように思うからである。この作戦は前掲の『失敗の本質』に限らず太平洋・大東亜戦争のどの本にも必ず触れられている作戦である。因みに結論から述べて置けば、8〜10万人の兵員が導入された「インパール作戦」は戦死者が7万人におよび、生存率は10パーセントに満たなかった。しかもその大半が戦闘行為でなく病死・餓死だったのである。
大本営陸軍部、すなわち参謀本部は、昭和18年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を許可した。だがどの昭和史の書でもその作戦計画は極めて杜撰と指摘されている。川幅の広いチンドウィン川を渡り、更に標高2000m級の山の連なる剣呑なアラカン山脈のジャングル内に分け入り、かなりの長距離を進撃しなければならなかった。日本で言えば東京と岐阜の距離を、箱根を越え、南アルプスを越え木曾川を渡るようなものだった。川の両岸は日本の河川敷のようなものはなく断崖に近いものであったという。むろん高速道路があるわけはなく、道とは言え杣道である。雨季になればどろんこ道だった。その距離を3週間で歩くのである。さらに言えば補給が全く軽視されたと言うより無視されたのである。それでイギリス軍に勝てると思ったのか、いわゆる援蒋ルート(中華民国・蒋介石を援助する連合国の補給ルート)を断ち切れると思ったのだろうか。作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘された。当初はこの15軍の上の「ビルマ方面軍」「南方軍」「大本営」までも上級司令部がその実施に難色を示していたのは当然である。
平成4年12月から6回に渡ってNHKで「ドキュメント太平洋戦争」という番組があった。6回とも綿密に取材された番組だった。平成7年には文庫化され「太平洋戦争 日本の敗因」という本になった。4回目は「責任なき戦場インパール」である。VTRでも文庫でもその拙劣で無茶な作戦が余すところなく語られている。とくに映像には臨場感があり訴えるものがある。第15軍の参謀長・小畑信良陸軍少将(陸士30期)は、20年を経験する輜重(しちょう)隊のベテランだった。輜重とは兵站(へいたん・戦争物資の補給)部隊のことである。小畑は兵站の推進能力を計算し、この作戦はできないと断定した。参謀とはスタッフであって指揮官ではない。強気で傲慢な牟田口が参謀の言うことなど聞く耳は持たなかった。小畑はこの無謀な作戦をむろん兵站の立場から、いわば取り付く島のない牟田口でなく15軍の中でも18師団の師団長、田中新一中将に大本営からの補給はあるのかと訊く。子細は省くとして第15軍司令官を無視して一師団長に上級の意向を確認したのが徒になった。ことの是非・内容ではなく統帥の秩序を乱したというのである。私は小畑は大阪出身らしくきわめて現実的で正しいと思う。詳しくは触れないが、大本営にも南方軍も当初はこの作戦は否定的だった。だが反対者は小畑も上級の将校も結局は罷免される。すでにここに「戦争に勝つ」という単純な動機の具体的準備は考慮されず、多分に忌避され命令系統を乱したという極めて日本的な組織の論理がまかり通るということである。
牟田口の言い分は、
「わたしは盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は更に拡大してしまった。遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としても、まさにこのうえなきことである」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P57)というもの。
今から思えば止せばいいのに、と思うばかりである。何が「男子の本懐」だと言うのか。ここに当時の軍人の傲岸不遜ぶりが解ろうというものである。だが昭和19年初頭、最終的に認可されたのは、敗北続きの戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いていたのである。この頃、東條英機首相は陸軍大臣も参謀本部総長も兼ねた独裁者だった。東條とすれば戦局打開と大東亜共栄圏死守のために昭和18年11月、東南アジアの指導者とともにインドのチャンドラ・ボースを招集、大東亜会議を開き、内外へのプロパガンダを狙った。ここは放送にも文庫にも収録されているが、翌年昭和19年の2月の作戦会議では「ビルマ方面軍の中永太郎参謀長(陸士26期・少将)ら反対意見の正論を言う者たちを、牟田口司令官が強引に押さえ込むという様相で進んだ。当初から後方補給が問題点だったが、計画案はそれを無視し、各部隊が三週間分の食糧、弾薬を持って一か月以内にインパールを攻略するということが骨子に変わりはなかった。補給は初めから諦めて、所持していくことにしたわけである」(「前掲書」P94)
ここで叙述は少し横道にそれる。この補給や情報無視の作戦は様々な「昭和史」の本で指摘されるところである。戦争の個々の細かい失敗に詳しい『日本軍小失敗の研究』という文庫がある。ここにもインパール作戦が触れられている「司令官の牟田口は過敏な神経の持ち主で、日頃から持ち歩いている鞭で自分の幕僚さえ叩くような男であった。そのためもあって、部下は意見を述べることを控えていたと言われる。したがって、補給手段の強化といった進言も、一人として言い出す者がいなかった。そしてそれが、数万人という餓死者につながったのである」「陸軍の場合、常に「兵隊がいて、小銃と弾さえあれば戦争はできる」と考えていたようである。そしてまた、歩兵の突撃によってすべての敵を圧倒できると信じていた。この考え方は、太平洋戦争でもまったく変わっていなかった。日清、日露戦争の勝利さえ、冷静に分析すればそのすべてが薄氷の上を歩くようなものでった事実が理解できたはずである。倣り高ぶった陸軍首脳は、それに気づかず前線の兵士に無用な犠牲を強いていた」(「日本軍小失敗の研究」P32)つまり第一線の現場では極めて日本的な「触らぬ神にたたりなし」ということである。
著者の三野氏の日本の軍隊が日露戦争以来の「白兵突撃主義」だったという指摘は理解できるが、私に言わせれば「エリート軍人が、それに気づかなかった」というのは少し違うと思う。「知っていて改善することをしなかった」というのが正しいと思う。軍を維持するのに懸命な軍人が「戦争に勝つ装備」には関心がなかったのだと思う。軍人は兵隊を人間として扱うのでなく、いくらでも補充できるモノとしての存在であったのではないか。このことは次項で軍隊の編成と共に「大日本帝国軍人の人間関係」として著したい。ここでは一人の兵隊が背負い、携帯する装備に触れて置きたい。
「費用の問題も当然あるにはあったのだろうが、日本陸軍には、強力な戦車、装甲車を揃えての機甲戦術、あるいは自動貨車(トラック)を大量に使用した機動戦術を採用しようとした努力も、また本格的に研究しようとした痕跡も見られなかった」「日中戦争に駆り出された歩兵は、40ないし60キログラムの荷物を肩に、連日行軍しなくてはならない。これは召集されたばかりの二等兵も同じであった。昭和10年頃の日本の成人男性の体格の平均は、身長160センチ、体重55キロといったところであろうか。本当にこれだけの重量の装備を持ち歩いたのかという疑問も生ずる。
◇三八式歩兵銃3.9キロ
◇銃弾120発、銃剣1挺、手榴弾2発、擲弾筒(てきだんとう・小型の迫撃砲)の砲弾5発、合計約10K
◇鉄帽(鉄かぶと)、皮製の剣のさや、銃弾入れ2個、兵器の手入れ用具一式、小型シャベル、ガスマ スク、合計約10キロ
◇食糧、米7日分6キロ、乾パン、缶詰、味噌、醤油、合計約8キロ
◇衣類の予備、地下たび、水筒、飯食、携帯テント、洗面具、筆記用具、これを入れる雑嚢(リュックサック)合計8キロ。これだけで約40キロである。夏ならこの程度ですみそうだが、冬ともなれば、毛布2枚、厚手のコート、携行燃料なども持っていかなくてはならない。加えて二等兵は、銑弾の予備(約60発)、擲弾筒の砲弾の予備(5発、1発の重さは800グラム)を持たせられたのである」(「日本軍小失敗の研究U」P29)これが平地での基本である。インパール作戦の司令部では、インパールまでを平地でしか計算しなかったらしい。これでは戦争に行くのではなく自殺する準備と思われても仕方ない。私は日本軍が局地的にそれまで勝利したのは装備が手薄な中国大陸でのことだと思う。
このインパール作戦が発令されるビルマ方面の当時のヒエラルキー(組織の主従関係)は、次の通り。(祭・烈・弓の名は師団の通称である)
◇大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山元元帥(陸軍士官学校12期)
◇南方軍総司令官             寺内寿一元帥(陸軍士官学校11期)
◇ビルマ方面軍司令官          河辺正三中将(陸軍士官学校19期)
◇第十五軍司令官             牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)
 第十五師団(祭)師団長           山内正文少将(陸軍士官学校25期)
 第三一師団(烈)師団長           佐藤幸徳少将(陸軍士官学校25期)
 第三三師団(弓)師団長           柳田元三少将(陸軍士官学校26期)
この時点でも大本営にもまだ良識ある軍人も居た。大本営作戦部第1部長、真田穣一郎(陸士31期・少将)は「作戦は無理なので思い留まってもらいたい」と南方軍綾部橘樹(きつじゅ)副長(陸士27期・最終階級は中将)に言うが、大本営杉山参謀総長の「寺内さんのたっての要望であり、できる範囲で希望通りやらせてよいではないか」の発言で作戦は決定した。(「前掲書」P97)杉山は陸士で寺内より1期後輩でありながら、上官の立場で先輩に華を持たせようとでも思ったのか。この杉山元(はじめ)参謀総長は、昭和天皇にはひどく評判の悪い軍人だった。この章の最終項で少し触れたい。ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍では、インパール作戦実施を強硬に反対した総参謀副長稲田正純(いなだまさずみ・陸士29期)少将が東條英機首相によって昭和18年10月に更迭され、第15軍内部でも作戦に反対した軍人は牟田口自身によって直接罷免された。次第に無謀な戦いの空気は醸成されて行くことになる。
ここでインパール作戦開始後の師団長の解任(昭和19年5〜7月)まで、罷免された軍人を整理して置きたい。
◇南方軍                     稲田正純少将(陸士29期)昭和18年10月解任
◇ビルマ方面軍                中永太郎少将(陸士26期)年月理由不明
◇第十五軍参謀長             小畑信良少将(陸士30期)昭和18年05月解任
◇第十五軍第十五師団(祭)師団長 山内正文少将(陸士25期)昭和19年06月解任
◇        第三一師団(烈)師団長 佐藤幸徳少将(陸士25期)昭和19年07月解任
◇        第三三師団(弓)師団長 柳田元三少将(陸士26期)昭和19年05月更迭
これまでに私は、インパール作戦に関する軍人の陸軍士官学校および将官位を記述したが、後述するが上官の命令は絶対であったがゆえと言いたいのである。上記の小畑以下の4人の軍人は調べれば調べるほど理性的・理知的軍人であったようだ。ここがインパール作戦の最大の悲劇なのは、司令官の牟田口廉也がひたすら猪突猛進型の軍人なのに対し、三人の師団長は揃って全く逆に理性的・合理主義的発想の欧米型の軍人だったことにある。「第33師団の柳田元三師団長は陸軍大学在学当時から合理主義的発想を好むタイプとして知られ、空虚な精神論を侮蔑していた。第15師団長の山内正文は、昭和初年代にアメリカの陸大に留学を命じられ、そこを最優秀の成績で卒業しているし、昭和10年代にはアメリカで駐在武官をつとめ、アメリカ軍の事情にも精通していた。山内も牟田口のようなタイプを軽侮していた。さらに第30師団長の佐藤幸徳は、インパール作戦そのものに不信感をもち、補給も十分でない状態で兵士を戦線に送りだすことはできないと主張していた。兵士思いの師団長として下僚に慕われていた。
牟田口は三人の師団長がよほど煙たかったのか、一月に各師団に作戦計画を示達するときに、三人の師団長を第十五軍司令部に呼ばずに参謀長や作戦参謀だけを呼んで命令を下した。三人の師団長はとくべつに打ち合わせをしていたわけではなかったが、ともに牟田口に対して反感をなおのこと強くもつにいたった。これが作戦開始後に抗命、罷免、更迭といった事態を生むことになった。三人の師団長と牟田口の対立は、昭和陸軍の根本的な問題を露出していた。それは精神論と合理主義的分析の対立という側面と、高級指揮官がひとたび理知や知性を失ったらどうなるかを示すケースともいえたのだ」(「昭和陸軍の研究・下」P197)
私はもとより近代史の専門家ではないが、それにしても「ある作戦」の起案はどういう目的で誰が作成してどういう経路を辿り、あるいは報告されて認可されるのか、よく解らない。全ての作戦の決定権は大本営にあることは解る。「インパール作戦」が牟田口の多分に昇進狙いの冒険であり、思いつきであるのが解らないではない。昭和18年4月、真珠湾の攻撃で名高い山本五十六の戦死、「ガダルカナル戦」では無残な敗退を余儀なくされた。敗色の影が忍び寄る「帝国陸海軍」が、牟田口の思うようにインド東部が攻略出来れば、東條英機も日本国民も喜ぶであろう。だが牟田口はビルマ方面軍の第15軍の司令官にすぎない。一人で大軍を動かすことは不可能である。昭和18年6月、ラングーンで第15軍は「兵棋研究」を行った。(「前掲書」P79)「兵棋演習」とは机上での想定作戦である。この研究はビルマ方面軍司令官以下、第15軍の司令官、参謀も全員参加した。更に上級の南方軍、大本営からも参謀が参加した。結果は「ノー」であった。私はここに「インパール作戦」の重要なポイントがあるように思う。「日米開戦」と一つの作戦の開始の動機があまりにも似ているからである。第一線を経験してきた理知的軍人の判断、大阪出身の具体的な兵站のベテランの反対があったにもかかわらず、作戦は決定される。「インパール作戦」は一旦は沙汰止みになったかに思われた。兵棋研究の後の半年間の「大本営の本意」は謎であるらしい。記録が無いからである。ここで想起されるのが前述の通り昭和16年春からの「日米開戦」までの経緯と相似していることである。猪瀬直樹氏の「空気と戦争」は昭和16年春の若手官僚の模擬内閣が出した結果を詳述している。すなわち「日本は緒戦の勝利を見込んでも物量において日本の勝機はない。戦争は長期となり、ソ連参戦すら招く」とまで完璧な結論だった。東條英機は青ざめ、こめかみが震えていたという。計算と現実は違うと口外厳禁を命じた。しかし今、思えば当事の若手官僚の緻密な計算予測はあまりにも正確だった。
元朝日新聞のインパール作戦従軍記者の丸山静雄は「準備命令というのはね、これは一種の責任逃れですね。何も大本営は、やれといっているんじゃないんだと。やる場合に備えて準備せよといっているだけなんだと。でもこれはエクスキューズ(注・「弁解」より「言い訳」が相応しい)でしょう。確かに準備命令というのは、その作戦をやれとかやるなということにいっさい言及していないですね。要するに『作戦の準備をせよ』ということだけをいうんですよ。そうすると、どうにでもエクスキューズができるんですね、大本営としては──しかし、それを受け取る側の立場について考えると、これはもうインパールの場合に限らず、準備命令というのは、やれということを前提としての命令だ、というふうに、みんな解釈するんですね。というのは、やらなければいいけれども、もしやることになった場合、準備というのは簡単にすぐできるもんではないですからね。かなり時間がかかるし、いろんな費用もかかるでしょう。だから、そういう命令が出た以上は、準備する。準備というのは、やる場合を前提としての準備ですからね。そうすると、支那事変でも日中戦争でもそうですけど、だいたい準備ができてくると、やっぱりみんなそれに自信を持ってきて、やりたくなるし、準備命令が出た場合には、結局、実行してますね。要するに、指導部はいつもそうした無責任な指示を出すんですね」(「前掲書」P88)前述のキャスター久米宏は「人間、武器を持ったら使ってみたくなるもんです」という発言もあった。この場合久米の指摘は当たっているのかも知れない。久米がこの「準備命令」や海軍の「出師(すいし)命令」に詳しいとはとても思えないのだが…。
半年後にまたも、今度はメイミョウで兵棋研究が行われる。だがその直前、南方軍の稲田正純、ビルマ方面軍の中永太郎も解任されていた。この誰が見ても無謀な計画が、会議で議論された。出席した南方軍の今岡豊後方担当参謀(陸士37期・大佐)は次のように証言する。「私はちょっと心配だったものですから、研究の時に、ほんとうに一か月似内にインパールを落とせるのなら何とかなるでしょうが、もし作戦が頓挫してひっかかったらどうしますかと聞いたんです。そうしたら作戦主任の木下さんが真っ赤な顔をして「絶対にそんなことはありません!」と言うもんですから…、牟田口さんも、その通りだということでね、私もああそうですか、と言って聞いとったんですが…。私は現地を充分見てないし、詳しい資料もなかったし、だいたい作戦関係のやつらが誰も何も言わないんですよ。(中略)その間題はそこで終わってしまったんですよ」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P94)もうここに「空気」は醸成されていたと言っていい。
第31師団の師団長、佐藤幸徳は陸士25期、当時は少将、牟田口は22期で中将、この3年の違いがインパール作戦の悲劇とも言える。佐藤は豪放磊落で上司にもずけずけものを言う軍人だったらしい。太平洋・大東亜戦争の書に接すれば接するほど、科学的・合理的な物理的正論を言う軍人は、牟田口のような傲慢不遜で軍人精神一辺倒の将校には極めて日本的な情実で外されたらしい。典型的な例が東條英機と満州事変を起こした石原莞爾の関係である。この指摘は次項にする。
昭和40年代『日本人とユダヤ人』の名著で知られる山本七平も、九死に一生を得た体験を『一下級将校の見た帝国陸軍』でジャングルでの行進と戦いを微に入り細に入り語っている。山本は九死に一生どころではない。「九百九十九に一生」を得たとも形容できる将校体験をしている。「いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。黙って一回撲られた方が楽なのである」(「一下級将校の見た帝国陸軍」P303)山本の指摘は正鵠を得ている。上官の命令は「天皇の命令で絶対だった。上官の考えに疑問があっても逆らう言葉は閉ざされていたのである。一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対だった。緻密な作戦と周到な準備を具申すれば「弱腰」とされ口を封じられた。  
 
太平洋・大東亜戦争とは何だったのか [戦争の昭和史]

 

「昭和19年1月7日に「インパール作戦」が正式に発令されたのち、第15軍下の3個師団は急ぎその準備を進めていた。いちばん険しい北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動道路の開設と、物資の集積に懸命だった。それともう一つ、五千頭もの牛の訓練に追われていた。牟田口司令官は、現地の農民から一万頭以上の牛や羊を調達せよという命令を出していた。それらの動物に物資を運搬させ、目的地に着いたのちは食糧にしようという計画で「ジンギスカン作戦」と自画自賛した。だが、この牛の群が、逆にイギス軍に作戦を察知される要因にもなった」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P143)これは今だから言えるのかも知れないがこんな準備で連合国へ立ち向かうことができると思ったのか。事実は違うらしい。私には圧倒的なアメリカの物力で敗色濃い太平洋戦線から目を逸らし、当初は非力だったイギリス軍に勝利したことが終始念頭にあったのではないか。前述の陸軍大学の教育を簡単に言えば、歩兵・砲兵を主力とする指揮官の育成が主流で重用され、情報・兵站という地味な部門は軽視されたことにある。ここでも各師団の具体的な一人の兵が所持する荷物が記述されている。つまりは補給なしの三週間分の食糧・弾薬を携行して、一気にインパールを攻略するという日本軍の相変わらずの理知的計算・情報無しの短期決戦計画だった。それが一人の持ち運べる量から計算した三週間の根拠だったらしい。第31師団58連隊第二大隊の副官だった亀山正作中尉の話では、
『当時の兵隊の定食は、一食2合、一日6合だった。それの3週間分というと、だいたい重さ18キロぐらい。それに調味料や副食もありました。それから小銃弾240発、手榴弾6発、着替え、鉄帽、穴を掘るための円匙(シャベル?)、天幕、雑嚢(布製カバン)、雨外套、防毒面、水筒など全部で40キロになりますよ。とくに軽機関銃のような弾をたくさん発射する火器を持った者は、弾丸をよけい持たなければなりませんから、50キロぐらい背負ったでしょう。そうするとね、休憩になると、兵隊は全部、上を向いて引っくり返るんですよ。自分一人では起き上がれなくなってしまうんです。前で手を引っ張ってもらわないと。これで2000メートルからの山を、いくつも登ったり降りたりして戦争しに行ったんですからね」「では、作戦が頓挫したときは、食糧はどうするのか。軍では、ジャングルに生えている野草を食べる研究を、大真面目で行なっていた。牟田口司令官は、兵士たちに次のように訓示した。「日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食料に困るなどというのは、ありえないことだ」』(「前掲書P147)この牟田口の考えは、後世の我々はどう理解すべきなのか。後述する「馬鹿の4乗」の一角を占めるとすれば簡単だが作戦展開を科学的・物理的に考慮したとは全く思えない。牟田口が「ムチャグチ」と言われる所以でもある。
物資の不足から補給・増援が約束されないのに、3月8日、第15軍3個師団を主力とする日本軍は(8〜10万人とされる)予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は3方向よりインパールを目指すことになった。だが作戦が順調であったのはごく初期のみだった。牟田口が自画自賛した「ジンギスカン作戦」は、すぐ頓挫する。家畜の牛は映像で見ても痩せている。チンドウィン川という大河では、大半が流されて水死、さらにジャングルや急峻な杣道では兵士が食べる前に脱落・破綻した。またこの多数の家畜の移動がイギリス軍の格好の標的にもなった。爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸したと言う。さらに急峻な地形は重砲などの運搬を困難にした。映像ではトラックを解体して、兵員が分散して担いで行軍するという驚いた行為である。これでは戦う前に移動そのものが兵力の消耗と言って過言でない。各師団とも前線に展開したころには戦闘力を既に消耗していた。1000キロになんなんとする山河を一人の兵隊が40〜50キロの荷物を背負って越えて行くのである。「牛の連行は著しく行動を妨害した。牛鞍に積んである荷物は下り斜面には牛の首の根元まで下がって、この可憐なる動物は全く動けなくなるのである。また上り斜面にかかると、この荷物は牛の尻の方からするすると抜けてしまう。目的は急進である。一瞬といえども停滞を許さない。食糧がなくなる。後方からの補給は空挺隊のために全然見込みがない。予は断固として、部隊ごとに放牧に適する箇所に放牧するよう命令した」「それでも第31師団は、4月5日にはインパールの北方の要衝コヒマまで到達した。途中数か所で敵と激しい戦闘を交じえ、多数の死傷者を出しながらも、目標地点まで目標の日数でたどりついたのである。しかし、持っていった食糧は、ほとんど食べ尽くしていた。問題はここからだった。連合軍はコヒマ方面に兵力を増強し、反撃に転じた。コヒマの南西、インパール方向への道路が山腹をぬって走る丘陵地帯、いわゆる三叉路高地をめぐって、両軍の激しい戦闘が繰り返された」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P151)
物資が欠乏した各師団は事実上ここまでが戦争の態をなしていたと言っていい。各部隊が補給が来るのを信用したのは当然だろう。だが事実上補給は無いに等しいものであったろう。戦争行為は3週間と決めてあったからである。「4月に入ると、食糧は輸送部隊のところにさえ来なくなった。輸送に使っていた馬の馬糧が尽き、馬はガリガリに痩せ衰えていった。山砲の弾薬の搬送も人間が行なうようになった。大砲の重い弾を一人2発を背負って、山道を前線まで歩いていくのである。そんなやり方では、前線での激しい戦闘に、弾薬が間に合うはずはなかった。そのうち傷病兵が続出し、それらの兵士を担架で後方の野戦病院へ運ぶ作業に追われるようになった。山道での担送はつらい仕事だった。やがて担ぎ手の兵隊も疲弊し、バタバタと病いに倒れていった」(「前掲書」P174)余談だが私ならいくら鍛錬しても50キロを背負ったなら1キロと持たないであろう。冗談ではなく東京・岐阜の距離なら私なら多摩川を越せないで、心臓麻痺でも起こしているに相違ない。
4月に入って雨季が始まり、いわゆる補給線が伸びきった中で、アメリカの物資の支援を受けた空路からのイギリス軍の強力な反攻が始まった。前線では補給を断たれて飢える兵が続出、死者・餓死者が大量に発生する事態となったのは当然である。飢えや戦傷で衰弱した日本兵はマラリアに感染する者が続出し、戦争どころではなくなった。もともと長距離を基本的には徒歩で移動する物理性を無視したこの「インパール作戦」が科学的・医学的に考慮などされていないのは当然である。飛行機・車など決定的に脆弱な日本軍は、雨季のしかも山岳地帯での戦闘行動は無理そのものである。しかし牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわった。この日付にこだわったのは解らない。3月8日から3週間の予定では3月末ということになる。糧秣も弾薬も途切れているのが解らなかったのか。「作戦決定過程でも、方面軍や南方軍の指揮官たちに、天長節までには必ずインパールを落として見せます、というのが口癖のようになっていた」(「前掲書」P176)。それが事実ならこの作戦は最初から出鱈目である。なぜなら作戦開始以前から3週間の物量なのに3月末から4月末までの1カ月間の物量はどう考えたのかである。小学生でも解る算術である。
むろん天長節になってもインパール作戦が成功するわけはなかった。平成5年の映像ではかなり若く見えるが70歳前後であろうか、第31師団への補給部隊、独立輜重兵第2連隊の本田孝太郎少尉の部隊では「五月に入っていよいよ食糧が底をつきはじめていた。小隊一〇〇人の一日分が、手の平一杯ほどの米になっていた。それをジャングルの野草といっしょに煮て食べた。タケノコや野イチゴはもちろん、ヘビ、カエル、カタツムリ、食べられる物は何でも食べた」(「前掲書」P177)。映像では、かなりあっけらかんとその時を回想している。だが事実は凄まじいものであったらしい。栄養失調と霖雨で兵士はマラリア、アメーバ赤痢、デング熱で倒れる者が続出したという。
私には医学的知識はないが、人が死んで遺体が白骨化するにはある程度時間がかかるだろうと思う。しかし亜熱帯のビルマ(現ミャンマー)でのハエとウジ虫の実態はすさまじいとしか言いようがない。映像でも文庫でも第15軍司令部・中井梧四郎中尉が赤裸々に語っている。ジャングルの中での遺体は3日で白骨化したという。その様子はここには詳細には記述しない。
「前線から後方へ退がってくる兵隊たちは、日増しに多くなっていった。栄養失調でガリガリに痩せ、血便をたれ流しながらボロボロの軍服で歩いてくる。服を着ている兵隊は、まだよかった。ふんどしもなく、バナナの大きな葉を腰に巻いたり、ほとんど素っ裸の者もいた。すさまじい雨と泥のせいで、着ている物がボロボロになっていくのである。30センチもの泥の中に両足を突っ込み、立ったまま死んでいる者もいた」(「前掲書」P182)弾も食糧も尽きた日本軍将兵の状況は、いよいよ限界に近づいていた。第31師団の佐藤幸徳師団長は、5月25日、第15軍司令部に電報を打った。「師団は今や糧絶え山砲及び歩兵重火器弾薬も悉く消耗するに至れるを以て、遅くも6月1日迄には『コヒマ』を撤退し補給を受け得る地点迄移動せんとす」(原文は漢字カタカ文)驚いた軍司令部では、対策を協議したが、とにかく佐藤師団長の翻意を促すことにして、返電した。「貴師団が補給の困難を理由に『コヒマ』を放棄せんとするは諒解に苦しむところなり。尚10日間現態勢を確保されたし。然らば軍は『インパール』を攻略し軍主力を以て貴兵団に増援し、今日迄の貴師団の戦功に酬いる所存なり。断じて行えば鬼神も避く」(「前掲書」P183)
司令部はビルマの軽井沢というメイミョウにあり、牟田口は戦線の実情を知ってか知らずか督促の電報しか出さなかったようである。6月1日朝、佐藤師団長は独断命令を下達し、第31師団をコヒマから撤退させた。上官の命令を逆らうのは決して大仰ではなく、師団長と言う陸軍の要職にある者が、上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件である。6月1日に兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却させた。だがウクルルにも弾薬・食糧が無いところから更に独断で更にフミネまで後退した。陸軍刑法に反することは佐藤は覚悟した。「師団長は親補職と呼ばれ、天皇自らが直々に任命する要職である。その師団長が軍の統帥を無視することは、日本陸軍という組織を根本から揺さぶる大事件だったのである」(「前掲書」P184)だが佐藤には軍人としてより人間的心情があったようである。しかしこうした果敢な決断でも撤退は悲惨な状況に追い込まれる。どの太平洋・大東亜戦争の書にも紹介される「白骨街道」はこの撤退が更に追い討ちを掛ける。
ここから先は「昭和陸軍の研究・下」(P209〜219)に紹介される件である。
インパール作戦に従軍した第15軍のなかの三個師団は、第15師団が京都・滋賀の連隊、第33師団は水戸・宇都宮・高崎、第31師団は高田・福岡・奈良の連隊を中心に編成されていた。15師団の主として第60連隊に組み込まれ、インパール作戦に従軍した生存兵士は少なからず京都周辺に住んでいる。平成2年頃の戦友会の機関紙に掲載された詩である。
ジャングルを行く、
目指すはインパール/知らされたのはその一言/唯一の指針は/複写された英軍の/二十五万分の一の地図/二十日間の糧株/携行兵器、手相弾/任務だけが肩に重い
夜半の敵前渡河/たよる地図にも/谷の深さは未知数/山路の上り下り幾度か/突如地図の道路は消えた/あとは遮二無二進む/ジャングルの迷路
無気味な敵機の飛来/轟く砲声が烈しさを増す/若さと責任と体力と/不屈の精神が/灼熱の暑さをふっとばし/汗にまみれ泥にまみれ/死を想い生を省みる暇もなく/朝に夕に一向(ひたすら)進む
これが戦争なのか/明日の生命もわからぬまま/漆黒のジャングルを/ただ進む
末期の水
やっと見付けた 小さな流れ
先着の二人の兵がいる
「おーい水はきれいか」
返事が反ってこない
どこで傷ついたか 病を得たのか
座ったままの後姿
軍服の主は 既に 白骨化した君
髑髏(しゃれこうべ)は無言でいつまでも
水を飲み続けている
「インパール作戦では、いちばん南の第33師団は、カレワからティディムを通って、インパールを真南から攻略する計画だった。途中トンザン、シンゲルで激戦を繰り広げ、連合軍は北へ逃走したが、この時の師団長指揮が第15軍司令部で問題になった。せっかく敵を包囲殲滅するチャンスがあったのにみすみす逃がした、これは作戦が消極的すぎる、いわゆる「統制前進」ではないか、というのである。柳田元三師団長は、臆病風に吹かれているといわれた。牟田口司令官は、この時の柳田師団長の指揮を激しく非難、5月になって師団長を更迭した。また、ヌンガ、サレイコンなど西方からインパール平野に迫ろうとしていた第15師団では、山内正文師団長が病いに倒れた。病気を理由に、山内師団長も6月に解任された。そして、第31師団の佐藤師団長は、7月に、独断撤退を責められて解任される。作戦中に、当該師団の師団長が全員解任されるというのは、たいへんな異常事態である。もはや第15軍は、組織としての体を成さなくなっていた」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P201」だが日本の軍部の上層部とは何とでたらめなのだろうか。4月末、大本営の秦彦三郎参謀次長(陸士24期・中将)がビルマを訪れた。むろん秦が実情を知る由もない。帰京後、東條英機参謀長に報告した。
東條参謀総長は「戦は最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と怒鳴ったという。東條は5月16日に、天皇に次のように上奏した。「インパール方面の作戦は昨今精々停滞が御座いまして前途必ずしも楽観を許さないので御座いまするが、幸い北緬(北ビルマ)方面の戦況は前に申し上げました如く一応大なる不安がない状況で御座いますので、現下に於ける作戦指導と致しましては、剛毅不屈、万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」(「前掲書」P204)
私には意味不明の状況報告にしか思えない。昭和天皇はこんな上奏の東條をよく信用したものである。だが「サイパン島陥落」も相俟って昭和19年7月18日に辞任に追い込まれる。私には遅きに失したと思う。更に言えば東條内閣崩壊を以て戦争は終結すべきだった。
私のこの章ではここでやっと顔を出すことになるが、第15軍を統括したのはビルマ方面軍である。指揮するのは河辺正三(かわべまさかず・陸士19期)中将である。むろん恩賜の軍刀組でエリートである。陸軍大学同期に東條英機、本間雅晴、今村均(ひとし)などがいた。東條は陸士では2期上だから東條は2年の浪人ということになる。河辺は5月末前線に赴いて戦場を視察する。『日記』には「小部隊ヲ見テ憐憫ノ情ニ堪エズ。嗚呼是誰ノ責カ」と書いた。
戦後書いた『日記抄』には、6月6日の項に註として次のような記載がある。「(註)牟田口司令官の面上にはなお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも、予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る。この感想は遂に当年の日記にも誌しあらずといえども、情景は今なお彷彿す」
これに対し牟田口司令官は、戦後の『回想録』で、この時の会談について次のように書いている。「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すべく脈をとりに来られた事は充分に察知した。私は最早、作戦断念の時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても将軍にこれを吐露する事は出来なかった。私はただ私の風貌によって察知して貰いたかったが、河辺将軍は後日当時を述懐されて、牟田口の顔貌ではこれを察知することが出来なかったと申して居られる。当時私の意気なお軒昂たるものがあったかも知れぬが、一にはまた河辺将軍自らが断念したくないとの御考えであったが故に脈がとれなかったかも知れない」(「前掲書」P207)
大本営にも日本軍のインド進攻の戦略があったにせよ、あれほど「男子の本懐」とせがんだ!牟田口の強硬な作戦であったはず。なぜか自信もあると言った。私の顔色で判断して貰いたかったとは、何という言い草であろうか。これでは責任のなすり合いをしているとしか思えない。この会談はビルマ南部の司令部インタンギーで行われたらしいが、日本の戦争の決断の常として的確な判断を下すことなく顔色をみただけで「作戦中止」とはならなかった。前述した『失敗の本質』に共通する過去の経験に学ばない合理性よりも極めて日本的な優柔不断な心情に終始したことになる。こうしている間にも第一戦の兵士たちは、さらに悲惨な戦いを強いられたのである。ここでの会談は6月5日である。正式な作戦中止は6月22日である。もしインタンギーの司令部で両司令官が作戦中止を決定していたなら、戦死者の数は間違いなく、減っていたと思われる。私が唖然とするのは作戦中止の決定の仕方である。幕僚が上級のビルマ方面軍へ「作戦中止命令」を出して欲しい旨をほのめかす電報を打つのを牟田口は黙って決裁したのだと言う。「男子の本懐」には「潔さ」は入らないのか。失敗を認めることは入らないのか……。
陸軍大学を出て、言ってみれば常に最前線に追いやられた軍人の典型的な例がここにある。前掲書の件である。『6月6日のインタンギーの両司令官会談から間もなく、第15軍司令部は、クンタンに進出した。そこには司令官宿舎の横に小高い丘があった。牟田口司令官は丘にいたる道に白木の鳥居を建て、頂上をならして白砂を敷き詰めた。そして毎朝、鳥居をくぐって頂上に土下座し、八百万の神に祈った。彼特有の透き通った高い大きな声で、毎日夜明けに祈った。第15軍司令部付情報将校だった中井悟四郎中尉は、その光景をよく覚えていた。「私たちはアメーバ赤痢にかかって便所通いしているもんですから、夜も寝てないし、腹に何も入っていない。その声が体にこたえましてねえ。最初は、どこのばか野郎だ、こんな朝早くから呪文みたいなもの唱えやがってと話していたら、軍司令官だというではありませんか。そんな神頼みをはじめたというので、こりゃ、この作戦はいよいよダメだと思いました」牟田口司令官は、ある朝、どしゃ降りの雨の中、将校たちを丘の上に集合させた。皆体力がなくなっており、丘に登るのもやっとだった。牟田口司令官は長々と訓示した。「31師団の佐藤の野郎は、食うものがない、撃つ弾がない、これでは戦争ができないというような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。それを泣き事言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ、手がなくなったら足で蹴れ、足がなくなったら歯でかみついていけ…」長広舌を聞くうちに、将校たちはフラフラになり、バタバタとその場に倒れたという』(「前掲書」P209)
私は別項で「天佑神助論」なるものを記述したが、やはりここでも最後は神頼みなのか。天佑神助で有名なのは、斎藤隆夫の「粛軍演説」(昭和11年)、「反軍演説」(昭和15年)はあまりにも有名である。権力を持つ者の「神頼み」を日米開戦前にすでに論文を著して批判していた。むろん戦争反対の主張だったので当時は完璧な「非国民」だった。牟田口の「神頼み」は、最初から物量・糧秣を無視した「戦争精神論」の成れの果てと言えよう。他に後世の私達には何もコメントすることはない。
「2週間、作戦中止の命令がない中、事実上撤退を余儀なくされた前線の兵士は悲惨を極めた。自ら命を絶つ者が続出した。小銃を持っている者は、口の中へ銃口を入れ、足で引き金を引いた。銃を持っていない者は手榴弾を抱き、うつぶせになって爆発させた。手榴弾を持っていない者は、通りかかる兵隊たちに手榴弾をねだった。そうした自殺は夕方に多かった。日が暮れる頃、あちこちでパーン、バーンと小銃や手樽弾の音が聞こえ、それが山々にこだました。本田少尉の部隊は、最初120名いたが、最終的には48名になっていた。72名の死のうち戦闘で死亡した者は、わずかに4名だった。あとは皆、病死、餓死である。本田少尉は「ほんとうに惨めな野たれ死、犬死ですよ」と、吐き捨てるようにいって涙を流した」(「前掲書」P215)
「以後の敗走は悲惨をきわめた。「靖国街道」と呼ばれた道端に息もたえだえに横たわる負傷兵の眼や鼻や口にはウジ虫がうごめいていた。のびた髪の毛に集まった裏白なウジ虫で白髪のようになった兵士が、木の枝に妻子の写真をかけて、それをおがむように息絶えていた。水を飲もうと沼地に首をつっこんだ兵士がずらりと行列のまま白骨となり、頭髪だけが水草のように泥水にただよっている光景や、ばっくりあいた腿の傷に指をいれてウジをほじくりだして食う兵士、泥に埋まったまま「兵隊さん、兵隊さん、手榴弾を下さい、兵隊さん」と呼びかける兵士の姿がそこにみられた。(「日本の歴史25」 P353)私は戦争の悲惨さを強調して「平和」を語ることは避けたい、と思いながらも昭和40年代発行の「日本の歴史」という決して分厚い歴史書でないのに26巻の中の一冊の書のなかに、かように紹介されているのは見過ごせない。
この「帝国陸海軍は何をしたのか」は「インパール作戦」という史上稀に見る悲惨な経緯を辿ってきたが、ここでいちばん重要な記述をしておきたい。平成5年のNHKの「ドキュメント太平洋戦争」6本と、角川文庫の「太平洋戦争 日本の敗因」6巻は映像と文章の違いがあるが、綿密に取材されている。だが映像のナレーションと文庫の文章ではその量が違う。文章では更に綿密になる。文庫には多くの資料が引用されていた。私が不思議に思うのはいちばん先に撤退を決めた第31師団の佐藤幸徳中将の件である。私はこれまで3年間200冊にのぼる昭和史や太平洋戦争の本を読んできた。月刊誌「文藝春秋」などの特集も含めてであるが、どの本なのか肝心なことをメモして置かなかったのが致命的であった。太平洋戦争の為政者を「馬鹿の4乗」と喝破した指摘があったのである。私はそれを昭和15年9月の「日独伊三国同盟」について会談した4人だと思っていた。すなわち近衛文麿の荻外荘(てきがいそう)に集まった面々である。近衛首相、外務大臣・松岡洋右、陸軍大臣・東條英機、海軍大臣・吉田善吾である。その指摘が誰の「言」だか解らないのはいささか消化不良であり、苛立ちでもあった。200冊を全部点検したわけではないが、はっきり太平洋・大東亜戦争時代の指導者を「馬鹿」としかも「馬鹿の4乗」とまで言ったのは誰なのか、それがやっと判明したのである。NHKの放送「ドキュメント太平洋戦争4」の映像のナレーションであった。しかも文庫では、その部分が割愛されていた。これでは言い訳になるが、2年余も解らなかったわけである。佐藤幸徳中将は戦後の叙述で『大本営・総軍(南方軍)・ビルマ方面軍・第15軍の「馬鹿の4乗」がインパールの悲劇をもたらした』と言った。7万人の戦死者、それも大半が病死、餓死、自殺となれば佐藤の言うことが正しいと思う。だが文庫では、最悪のコンビ河辺・牟田口の遺族の了承を得て両者の「日記」が引用されている。日記は防衛庁戦史室に収められていてなかなか閲覧できぬものらしい。これでは河辺・牟田口両家の悪口は言えなかったであろう。だが映像にはないが、文庫には記述されている場面もある。これはこれですごい指摘なので引用する。
『7月9日、撤退の途中で、第31師団の佐藤師団長は、師団長解任の電報を受けた。佐藤中将は、12日になって第15軍司令部が置かれているクンタンに到着した。雨の降りしきる夜中だった。司令部の小屋は、街道から少し離れた所にあった。そこへいたる小道の入口には、木下高級参謀以下幕僚が出迎えていた。佐藤中将は、すぐに司令部へ向かおうとした。「牟田口はいるんだろうな」木下高級参謀が小道の入口を塞ぐようにして答えた。「いえ、今、司令官は第一線の戦闘指導に行っておられて留守です」「ウソを言うな!いるはずだ。会わせろ」「いや、どうしてもいらっしゃいません。小屋に上がって点検していただいても結構ですが、いらっしゃらないものはいらっしゃいません。木下はウソを言いません」「参謀長はいるだろう」「参謀長閣下は病気で寝ています」「貴様、たたっ切るぞ」佐藤中将が軍刀を抜いた。木下高級参謀(この軍人は調査不足)は両膝をついて、首を前に出しこう言った。「どうぞ私を切って気が済むのでしたら、私を切って下さい」「貴様みたいな者を切ってもどうにもならん。おれは牟田口を叩き殺すんだ!牟田口に会わせろ!」第15軍司令部付の中井中尉は、その場に居合わせた。「いやもう震え上がりました。真っ暗闇ですから松明(たいまつ)を掲げていましたが、その火に照らされた佐藤さんの顔は、雷神かと思うような恐さでした。雨が沛然と降っていましてね。もう鬼神の如く思われましたよ。恐かったですね。今思い出しても恐いですね」結局、押し問答の末、佐藤中将はあきらめ、それまでの軍司令部の無責任な態度を詰るだけ詰って、その場を離れた』(「太平洋戦争 日本の敗因4」P219)
私はこの時、牟田口が居たら本当に佐藤は凶行に及んだと思う。多くの部下を失った佐藤は彼らに成り代わって遺恨を果たしたに違いない。牟田口は、佐藤中将が独断撤退を始めた時、軍法会議にかけるべきだと強く主張したらしい。佐藤は「抗命罪」を覚悟し、むしろ軍法会議の法廷で軍の責任を糾弾するつもりでいた。ところが、河辺方面軍司令官は、佐藤中将を軍法会議にかけることによって、インパール作戦失敗の責任を、自分をはじめとする軍の上級指揮官たちが問われることになりかねないと考えた。
「師団長は、天皇が直々に復命する親補職でもあり、責任の追及が軍の中枢、さらには天皇にまで及ぶことを恐れた。そこで、佐藤中将を軍法会議にかけることを避け、心身喪失という診断を下して、責任の所在を曖昧にしようとしたのである。軍医の診察は3日間に及び、佐藤中将の脊髄から液をとる検査も行なわれた。診察が終わると方面軍の法務部長坂口大佐が、事情聴取をはじめとする調査を始めた。佐藤中将は軟禁状態におかれた」(「前掲書」P221)。佐藤は牟田口によって解任されたのだが、現場の司令官が親補職たる師団長を解任する権限はなかった。戦後、一部にインパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら三人の師団長が共謀して招いたものとされて非難を浴びたが、むしろ佐藤らは将兵の生命を第一に考え、自分の判断が正しいことを強く確信していた。インパール作戦での撤退によって命を救われた部下は、多くが四国出身者だった。佐藤に感謝する元兵士らによって、香川県高松市に佐藤を悼む碑が建立されたも言う。
「インパール作戦に関わった陸軍の指導者たちは、ほとんどその責任を問われることはなかった。作戦決定当時の参謀総長杉山元元帥は、小磯内閣で陸軍大臣となった。南方軍総司令官の寺内寿一元帥は、終戦までその職に留まり、南方地区の全ての作戦を指揮した。太平洋戦争では、各地区の作戦の失敗について、大本営や軍の指揮官、参謀が責任をとらされることは、まずなかった。むしろ、現地へ赴いて苦労すれは、彼らを慰労しようという空気の方が強くなった。作戦失敗の犠牲は、全て前線の将兵たちに集中したのである。インパール作戦は、そうした日本陸軍の組織としての欠陥が、如実に現われた作戦だった。失敗すべくして失敗した、典型的な作戦だった」(「前掲書」P226)放送でも文庫でもNHK・山本肇キャスターは「この根本的欠陥は、50年後(平成5年)の今も様々な組織の中に棲んでいる」と総括した。言われなくても「雪印」「三菱ふそう」など隠蔽体質は戦後も変わらないのは、十分承知するところであろう。
「インパール作戦は、昭和19年3月8日にはじまり、7月4日に作戦中止命令がだされた。むろんこれは大本営の命令が発動された日ということであり、実際に牟田口が撤退命令をだしたのは7月15日のことである。兵士たちは英印軍の追撃を受けながら退却しつづけていたが、その結末はきわめてあいまいで、その後の英印軍との新たな戦いに投入された者も少なくない。したがってインパール作戦での日本軍の将兵の戦死者、戦病者も不明なのだが、公式には戦死者30502人、戦傷者41970人とされている。しかし、戦傷者のなかからものちに多くの戦死者がでている。結局、7万5千人近くの将兵が死亡したとの推計もある。もう一つ別な数字をみると、インパール作戦の終結時の各師団の将兵は、戦争開始時から、
 第31師団(烈)約5500人 8.5%
 第15師団(祭)約3000人 9.0%
 第33師団(弓)約3300人 9.0%
にまで減っていた。この作戦は約13万人余の将兵が投入されて90%の将兵が戦死ないし戦傷を受けた計算になる。太平洋戦争の戦闘のなかでもっとも大きな被害を受けた戦闘であったが、大本営発表は8月12日15時30分にインパール作戦については短い発表を行っただけで、その被害の大きさについては国民は戦後になるまでまったく知らなかった」(「昭和陸軍の研究・下」P206)この作戦のあとのフィリピン戦線にこれが教訓とされる筈もなかった。フィリピンではさらに50万人もの日本人兵士が病死・餓死した。これでは戦争の体を成していない。「玉砕」とはつまらない言葉である。「玉砕」は「特攻」とともに実質的には自殺・棄民であり、それも軍部の強要だった。
インパール作戦は牟田口廉也ひとりの責任ではないが責任は重い。だが結論だけ言えば自国の兵隊を何人死に至らしめても、極東国際軍事裁判ではアメリカに逆らったわけではないので無罪だったのである。作家半藤一利氏は、戦後何度もあって取材したと言う。「牟田口廉也には、私は何べんも会いました。彼は小岩に住んでいましたが、訪ねていってもどういうわけか、うちへ入れてくれないんですね。「君、外で話そう」とか言ってスタスタ歩いていってしまう。江戸川の堤までいって土手に座って話しました。―─話していくとこの人はかならず最後には激昂するんです。戦後しばらくしてイギリスからインパール作戦に関する本が出たのですが、その本に日本軍の作戦構想をほめている部分があったのです。牟田口はその論旨を力説しまして、なぜ俺がこんなに悪者にされなくてはならんのか、ちゃんと見ている人は見ているのだ。君たちはわかってない!と、何べんも何べんも怒られましたよ―─自己顕示欲の強い変わった人でしたね。インパール作戦の当時、ビルマでだれがつくったのか知りませんが「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女性の意)、三に新聞ジャーナリスト」という冷やかしの歌が流行ったのだそうです。牟田口の功名心の強さは当時もそうとう目立っていた」(「日本の名将と愚将」P200)
昭和史に詳しい保阪正康氏との対談が前掲の新書だが、保阪氏はインパール作戦に参加して生き残った元兵士に何人もインタビューしている。「彼らには共通する言動がありまして、大体は数珠を握りしめながら話すのです。そして牟田口軍司令官の名前を出すと、元兵士のだれもが必ずと言っていいほどブルブル身を震わせて怒った。「インパール作戦での日本軍兵士の第一の敵は軍司令官(むろん牟田口のこと)、第二は雨期とマラリアの蚊、第三は飢餓、そして英印軍はやっと四番目だと戦場で話し合った」と言う生存兵士もいました。牟田口が前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で栄華をきわめた生活をしているといううわさは矢のように前線の兵士に伝わっていたようですし、実際に牟田口はそこからひたすら「前進あるのみ」と命令をだしていた―─インドからビルマヘ、仲間たちの死体で埋め尽くされた「白骨街道」を引き上げてきた無念の思いは生涯消えることばなかったと思いますね」(「前掲書」P201)
昭和の帝国陸軍軍人でこの「牟田口廉也」と「辻政信」を弁護する人は皆無といってよい。牟田口は昭和12年の「盧溝橋事件」と「インパール作戦」、辻は昭和14年の「ノモンハン事件」、日米開戦後の「ガダルカナルの戦い」で悲惨な結末となる。
牟田口廉也という軍人を無謀な勝ち目のない作戦に掻きたてたものは何か。私の今日までの知識では、ひとつには地方出身ということ。ひとつには陸軍大学で恩賜の軍刀組でなかったこと。更には省部(陸軍省・参謀本部)を歩むことがなかった「皇道派」だったからであると思う。それが勲功を欲しての中央へ凱旋するための闘争心ではなかったのか。陸大での成績は「中の上」と昭和史の書に紹介されている。「軍刀組」とは陸軍大学で1期50人程度卒業の上位一割の5人くらいが天皇より軍刀を賜る軍人で、いわばエリートであった。同じ中将でも陸士3期上の河辺正三は軍刀組だった。河辺は痩せて小柄、性格的に静かで用心深く僧侶のような軍人らしからぬ、牟田口の前では強くモノを言えぬ秀才のお坊ちゃんタイプではなかったのか。細面に似つかわしくない八の字ヒゲである。牟田口は精神的にも肉体的にも対照的に野心的で情熱家。盧溝橋事件以来のコンビだったが、牟田口には何でこの軍人が自分の上官なのか、といったひそかな不満と自負がない交ぜになっていたのではないか。どういう経緯か判然としないが、陸軍内に対立する「統制派」「皇道派」のうち二・二六事件を引き起こした皇道派に属していたという。(「指揮官と参謀─コンビの研究」P67)このことは「二・二六事件」前の昭和一桁の陸軍人事にまで遡ることにある。ともあれ事件後の人事刷新で牟田口は「支那駐屯軍」に転出される。実質上、今で言えば左遷であろう。これが響いて最後まで中央に戻れなかった。河辺は終戦間際、作戦敗退の事実とは関係なく序列人事で昭和20年3月「大将」に昇進するのである。河辺は「インパール作戦」の責任は牟田口と共に問われなかったことになる。それらは陸軍内のことで一般にはおろか、天皇・重臣にまで報告されることはなかった。それでは肝心の牟田口廉也のその後はどうなったのか。さすがに作戦の失敗は拭い難く予備役(今でいえば自宅待機)に退いたが、間もなく予科仕官学校の校長に就任する。陸軍においては、それは軍部全体にいえることなのだが、どんな出鱈目な作戦の失敗であっても罪は問えなかった。牟田口を問うことは軍部全体を問うことになるからである。戦後、連合軍に逮捕・拘束されるが逆にイギリス軍の作戦遂行を容易にしただけなので不起訴処分となったのである。7万人の日本人兵士に謝罪したかどうかは知らない。
ここに私は主に「映像」と「文庫」によって「インパール作戦」とは何であったのかを自分なりに叙述してきた。特に映像に見る、乾いた土ぼこりのもうもうたる山岳地帯の行進は驚くべきリアリズムがある。そして雨季の兵隊の折り重なる死体は見るに耐えない。私は冒頭に戦争とは残酷で悲惨だから「戦争反対」というのは、戦争そのものを考えていないと述べた。今もその考えに誤りはない。しかし結果として悲惨な結末の叙述のみに終始したと言えなくもない。
前述の山本七平は「帝国陸軍では、本当の意志決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。というのは、その決定が「命令」という形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、わからないからである。そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。(中略)一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上官が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。戦後、帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。このことは日本軍の「命令」なるものの実体がよく示している。多くの命令は抽象的な数カ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである」(「一下級将校の見た帝国陸軍」P319)
ここで私がハタと思うのは今で言う「丸投げ」ではないのか。「帝国陸海軍が何をしたのか」は、エリート軍人が現代で言うなら「この予算の範囲」で「製品を作れ」という大企業の下請け・孫請けへの丸投げとよく似ているように思う。成功したら自分の手柄、失敗したら「知らぬ存ぜぬ」である。インパール作戦は昭和19年6月22日、牟田口をしてようやく決意され、7月1日大本営は許可した。サイパン島には6月15日、米軍が上陸、7月9日陥落した。主婦と思われる女性が玉砕を余儀なくされて崖の上から海へ飛び込み、浮かぶシーンはテレビのドキュメント映像でよく見る。東條英機内閣が崩壊したのは7月18日だった。
河辺正三と牟田口廉也が「顔色で察して貰いたかった」という6月5日の会談から作戦中止まで2週間強、決定がさらに10日後である。第一線の兵士は結果として7万人が死んだ。作戦中止の決意が早かったなら生き延びた兵士は少なからず居た筈である。無惨な死を余儀なくされた兵士と入れ替わりのように昭和19年6月17日早朝、私はこの世に生を享けた。二人の将校が作戦の後始末に陣頭指揮をしたという話は聞かない。6月5日からの1ヶ月間、このコンビは何をしていたのか解らない。だが第一線の撤退の非情さは知っていた筈である。言ってみれば不作為は、「敵前逃亡」と同様にしか思えない。私の父親は中国・広東省での戦病死である。だが、私が「インパール作戦」にこだわるのは、彼ら白骨化した若い兵士の二人分の人生を、そして父親の二倍の人生を今、享受しているからである。
この牟田口廉也を輩出した日本陸軍とはいったい何かを別項で著したい。ひとことで言えば帝国陸軍とは、私には、極東の小さな島国において昭和の前半、日本国民の半数以上を占める貧民の有力な受け皿であったのではないのかと思う。 
 
東條英機の人間関係 [戦争の昭和史]

 

石原莞爾 明治22年(1889)─昭和24年(1949年)陸軍士官学校第21期卒。
東條英機を語るとき最も対照となるのが、石原莞爾である。昭和3年、関東軍作戦主任参謀として満蒙領有計画を立案。昭和6年、板垣征四郎らと僅かの関東軍で、占領を実現。これがきっかけとなり満州国が建国される。石原は「王道楽土」「五族協和」をスローガンとし、満蒙独立論へ導く。石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国だった。この二人の相克を秀才が天才を嫉妬したと見るのが東大教授の山内氏。東條英機が総理大臣にまで昇りつめたのは優秀な行政官だったのは大方の認めるところ。石原は『最終戦争論』などを著した戦略家。軍人は誰でも作戦計画はできるが、国家権力の戦争という観点に立てば、東條は戦術家であっても一国を率いるには凡庸だった。石原は原爆の出現、水爆の出現も予見「東條上等兵」と呼んで馬鹿にし、東條も石原の無遠慮な見解に不快感を持っていた。昭和16年に予備役へ編入される。この対立によって東京裁判で戦犯の指名から外れた。
板垣征四郎 明治18年(1885年)―昭和23年(1948年)陸軍士官学校第16期卒。
板垣の場合、A級戦犯として刑死した7人の中の一人だが、満州事変の立役者として石原莞爾とセットで語られることが多い。満州事変の内実は、東京裁判で明らかにされ多くの国民が驚いた。なぜならそれまでリベラルな報道のメディアが満州事変で大いに日本の権益を大上段に据えたからである。国民もそれを信じた。板垣は昭和4年に関東軍の高級参謀。昭和7年建国の満州国執政顧問。軍政部最高顧問、関東軍参謀副長、駐満大使館付武官、関東軍参謀長。二・二六事件後の第一次近衛内閣では陸軍大臣になる。日中和平交渉に際しては強硬論を譲らず、交渉不成立の原因を招く。近衛文麿の「以後国民政府を相手にせず」という有名な声明で日中戦争は泥沼化する。この頃、陸軍次官になったのが東條英機である。実際、満州国を運営したのは星野直樹や松岡洋右だが、結局最後は事変の責任者として断罪される。板垣は一流の軍歴を誇るが酒豪で「頭に祭り上げられる型の軍人」とも評された。
永田鉄山 明治17年(1884年)―昭和10年(1935年)陸軍士官学校第16期卒。
永田鉄山といっても昭和史に興味が無ければ殆ど未知の軍人である。だが昭和11年2月、雪の日のクーデター二・二六事件は近代史に鮮明に刻まれている。永田はその前年、陸軍中佐・相沢三郎に暗殺された。満州事変以来、軍部が政治に台頭してくる頃の陸軍内の象徴的な事件だった。永田暗殺によっていわゆる「統制派」と「皇道派」の派閥抗争は一層激化し、翌年、皇道派の青年将校が二・二六事件を起こす。その後、永田が筆頭であった統制派は東條英機が継承して行く。これが不幸の始まりである。日米開戦当時の企画院総裁だった鈴木貞一は戦後「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言った。当時「高度国防国家」という観点から軍部を改革しようとした永田は、誰しもが納得する陸軍創設以来の逸材だった。軍務官僚の本流を歩み「将来の陸軍大臣」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」とも言われた。
梅津美治郎 明治15年(1882年)―和24年(1949年)陸軍士官学校第15期卒。
陸士、陸大共に首席で卒業した秀才。一般には昭和20年9月、ミズーリ号甲板での降伏文書調印式に重光葵と共に全権となった事で知られる。それ程の秀才なら東條英機より2期先輩なのだからもっと目立っていい筈だが政治の表舞台に出ることを避け続けた。梅津の生涯で最も歴史に残る事件は支那駐屯軍司令官時代に日中間で結ばれた昭和10年の「梅津・何応欽協定」。昭和11年、二・二六事件の後、寺内寿一陸軍大臣の下に次官に就任。皇道派を壊滅に追い込む粛軍人事を断行、陸軍省に軍務課を新設、軍人の政治介入を顕著にする。広田内閣での「軍部大臣現役武官制」など陸軍組織の利益を守るのに優秀であったのは確か。終戦時の御前会議で、阿南陸軍大臣と参謀本部総長の梅津は本土決戦を主張。実際は陸軍中枢部の謀反を押さえたと阿南・梅津の大分コンビは戦犯ではないと擁護する人もいる。第一次近衛内閣で無名の東條英機を陸軍次官に据えたのは梅津その人で、これだけで罪は深い。
鈴木貞一 明治31年(1888)―平成元年(1989)陸軍士官学校第22期卒。
いわゆるA級戦犯としては、唯一平成元年百歳まで生きた。晩年を取材した保阪正康氏によれば頭は冴えていたが、ベッドに寝たきりで耳も遠かったと言う。筆者が理解する鈴木貞一は企画院総裁である。企画院と言えば軍国主義が台頭して来た昭和10年に設立された国策調査機関。日米開戦時の昭和16年春に30代の若手が今で言うシミュレーションを実施、模擬内閣で国力調査を纏めた。結果は「開戦後の勝利は見込めるが、長期戦には日本は耐えられない、戦争末期にはソ連の参戦もある」というもの。模擬内閣の窪田角一首相の指摘は的を射ていた。これをもたらした「総力戦研究所」は日本必敗の結論。結果は日米開戦ありきである。鈴木は対米戦争は困難という分析結果を認識しながら東條英機内閣の成立と同時に「海軍の責任で損耗率を抑えるから大丈夫だ」と主張変更。「モノが無いから仕方なく戦争に訴えた」とは話にならない。東條英機側近の「三奸四愚」一人と言われても仕方がない。
佐藤賢了 明治28年(1895)―昭和50年(1975年)陸軍士官学校第29期卒。
佐藤賢了と言えば必ず「黙れ!事件」が語られる。昭和13年3月、衆議院の「国家総動員法」を審議する特別委員会において、政府委員でもないのに陸軍省の説明員として出席していた軍務局課員の佐藤が、法案の精神・信念などを長時間の演説をした。これに対し他の委員から「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛び、佐藤が「黙れ!」と一喝した。陸軍の一中佐が並み居る衆議院の代議士に「黙れ」と怒鳴ったのである。政党が軍部に屈服した象徴とされる所以である。陸軍大臣・杉山元が陳謝したが佐藤には何の処分もなかった。この事件の後、なぜか大佐に進級して陸軍省の新聞班長兼務で大本営報道部長になる。この時の直属上司が次官の東條英機だった。昭和5年から2年間アメリカ駐在武官を経験、部内では知米派の扱いだった。だがその対米観は、貧弱なもので科学的・論理的でなく多分に感情論だったようだ。A級戦犯では最も若く昭和31年に釈放。戦後も米国嫌いで通した。
武藤章 明治25年(1892)―昭和23年(1948)陸軍士官学校第25期卒
東京裁判ではA級戦犯として死刑。東條英機は判決後、武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と告白。武藤の軍歴を見ると昭和12年、参謀本部作戦課長となり、昭和12年「盧溝橋事件」のあと石原莞爾の中国戦線不拡大の考えに抵抗したとある。だが実際の拡大派は当時関東軍参謀長の東條英機や輩下の富永恭次だった。昭和14年には陸軍省軍務局長就任。軍務局とは他の省庁との政治折衝や国策の打ち合わせなど激務である。武藤を評価する人の理由は、昭和16年春から秋まで「日米交渉」を精力的に取り組んだことにある。前年秋に来日したアメリカ人神父二人はむしろ日米戦争に導くためのスパイだったことが判明している。この時期の立場が対米開戦の責任となる。東京裁判で兵務局長だった田中隆吉元陸軍少将が武藤を名指し「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と証言したことが死刑の決め手になる。事実は陸軍省での勢力争いで私怨だった。
田中新一 明治26年(1893)―昭和51年(1976)陸軍士官学校第25期卒。
田中は「盧溝橋事件」では戦争拡大派の中心となり、出兵論を主張、太平洋戦争には参謀本部第一部長として強硬に開戦を主張した。東條英機を語る上で最も有名なエピソードが「東條首相罵倒事件」である。昭和17年暮、ガダルカナル島をめぐる船舶問題で「黙れ事件」の佐藤賢了とガダルカナルへの船舶増強問題で殴り合いの喧嘩になった。その場は収まったが、翌日政府・統帥部の間で妥協案を模索。今度は東條首相が「閣議決定どおり」として事態は紛糾。東條首相は船を出さないことで「ガダルカナル作戦「を諦めさせようとした思惑があった。首相の部屋には木村陸軍次官・殴り合った佐藤軍務局長・富永人事局長が同席していた。激論の果て「この馬鹿野郎」と怒鳴った。田中は結局辞任したが、自ら身を引く切掛けにしたいうのが真相。戦争遂行は参謀本部の作戦課、用兵・装備は陸軍省という当時の軍部を象徴する事件だと思う。その間、ガダルカナルでは多くの日本兵が病死餓死した。
服部卓四郎 明治34年(1901)―昭和35年(1960)陸軍士官学校第34期卒。
同期に秩父宮雍仁親王、赤松貞雄がいる。赤松は東條英機の秘書で戦後、東條の代弁者となった。服部は陸大42期卒業で辻政信は43期。ノモンハン事件で関東軍は、中央の意向を無視し独断専行で作戦の拡大を実行。無残な結果を招く。だがこの服部・辻は軽い処分で済んだ。思えばこの陸軍の組織原理が更に悲惨な戦いを招く。知謀の服部、実行の辻は、後年ノモンハン事件を取材した司馬遼太郎をあきれさせた。日米開戦へと突き進んだ時の上司は大本営作戦部長の田中新一。太平洋戦争開始時の陸軍の作戦は多くが、この田中―服部―辻のラインで形成されたと断言できる。ノモンハンの記憶が「南部仏印進駐」に駆り立てて日米対立が決定的となる。開戦後は東條英機陸相秘書官。実際に戦争指導したのは参謀本部という大本営。開戦時には服部も辻も参謀というスタッフだったので戦犯を免れた。終戦後GHQの元で日本の再軍備に関係。警察予備隊の幕僚長の予定は、吉田茂首相に反対された。
辻政信 明治35年(190)―1961年?)陸軍士官学校第36期卒。
辻政信は、ノモンハン事件・シンガポール華僑虐殺事件・バターン死の行進・ガダルカナルの戦いと常に問題とされた作戦に関わった。陸大をトップで卒業後、昭和6年第一次上海事変で中隊長を皮切りとして強硬で専断な軍人人生が始まる。陸軍士官学校事件での謀略は結果、統制派と皇道派の対立に激化、相沢事件、二・二六事件へと至る。昭和14年のノモンハン事件ではソ連軍優位に進み、8月に日本軍は撤退。無謀拙劣な作戦で死傷率は32%に達した。辻と共に関東軍を取り仕切った参謀・服部卓四郎と共に一旦左遷されるが昭和15年にあっさり参謀本部部員に返り咲く。16年6月に服部は作戦課長、部長は田中新一。日米開戦時の陸軍の作戦は多くが、辻―服部―田中のラインで形成された。辻は戦後、東南アジアに潜伏。戦後は参議院議員に当選。日米開戦へ誘導、捕虜大量虐殺の罪は余りにも大きい。それを可能にしたのが陸軍の派閥人事。軍の暗部は辻政信に象徴されるとして過言でない。
石井秋穂 明治33年(1900)―平成8年(1996)陸軍士官学校第34期卒
昭和14年8月、陸軍省軍務局高級課員に就任。開戦直前には日米交渉の陸軍省側主務者として武藤章軍務局長の下、早期開戦を唱える参謀本部を牽制しつつ交渉妥結に尽力。石井は陸軍側の担当者として多くの国策の起案。避戦を望むが交渉は失敗、戦争政策を進める羽目になる。昭和16年7月の国策要綱で「日米開戦ヲ辞セス」という文言を入れたことを悔いていた。戦後は山口県で晴耕雨読の生活を送る。平成4年・NHK『御前会議』ではその当時を真摯に語っている。「わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ」良識的陸軍軍人と保阪正康氏は評価。手紙の交換は二百通を越えたと云う。
嶋田繁太郎 明治16年(1883年)―昭和51年(1976年)海軍兵学校第32期卒。
海軍兵学校の同期に山本五十六がいる。嶋田と山本を比較するのが海軍を語るのに一番手っ取り早いかも知れない。主に軍令部という大本営に在籍したが、昭和16年10月発足の東條英機内閣で海軍大臣になったばかりに危うく東京裁判で死刑になるところだった。当初は日米不戦論だったが、当時の軍令部総長・伏見宮博恭王の「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」という勧告を拒否出来なかった。海軍の石川信吾など少壮軍人の言いなりだったことにも依る。「海相一人が戦争に反対したため戦機を逸しては申し訳ない」と対米開戦を容認。戦機を判断しても勝機は考えていなかったのは明らかである。陸軍に対して当時唯一ものが言える存在だった海軍は政治への不干渉・沈黙を暗黙の了解としていた。戦局が悪化すると「東條首相の男メカケ」とまで酷評された。戦後は海軍の関係者達とは一切の縁を切り、回想録の執筆も断り続けたが、遺族には数千枚の原稿用紙に及ぶメモが遺されているらしい。
富永恭次 明治25年(1892)―昭和35年(1960年) 陸軍士官学校第25期卒。
富永恭次を語るとき、避けて通れないのが「神風特攻隊出撃命令」「敵前逃亡」。陸大卒業後、順当に昇進し昭和14年、参謀本部第一部長に就任。16年陸軍省人事局長。「東條英機の腰巾着」と言われた。東條内閣はイエスマンばかりで固めた。この時、参謀本部は強気一点張りの田中新一、作戦課長は服部卓四郎、班長が辻政信で最悪である。東條内閣総辞職と共に昭和19年、第4航空軍司令官に転出。実戦経験の無い軍人が絶望的な南方の司令官となった。フィリピン決戦に於て陸軍初の航空特別攻撃隊の出撃命令を出す。出撃前の訓示で「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言う一方で帰還した隊員は容赦なく罵倒、約四百機の特攻を再命令し全員戦死させた。昭和20年1月、司令官・参謀等高級将校は残り少ない戦闘機を駆り出し護衛させ、台湾台北へと続々と逃亡。富永に見捨てられた兵士達は地上部隊に編成替えさせられ、脆弱な歩兵部隊となりその殆どが戦死した。
田中隆吉 明治26年(1893)―昭和47年(1972)陸軍士官学校第26期卒。
昭和21年に始まった極東国際軍事裁判では、初めて国民に知らされることが多く国民は戦慄さえ覚えた。怨嗟・罵倒は東條英機へと向けられた。南京大虐殺などは、その東條さえ知らなかったのではないか。田中隆吉は日米開戦時に陸軍省兵務局長という要職にあったがGHQ検事側の証人として出廷、被告も国民も唖然とした。名指しで東條英機・橋本欣五郎・板垣征四郎・土肥原賢二・梅津美治郎などの責任を証言した。特に武藤章には「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言で死刑が確定したのは明らか。だが武藤は逆に日米開戦には慎重であったことが判明していて逆恨みであろう。田中は日本軍の数々の謀略に直接関与し、日本軍の闇の部分に通じた人物。殊に中国清朝の末裔だった日本名・川島芳子と男女の関係になった。川島の語学・明晰な頭脳・行動力を利用し謀略工作の世界に引き込んだ。裁判後、武藤の幽霊が現れると言う精神錯乱に陥った。鬱病とも言われている。
杉山元 明治13年(1880年)―昭和20年(1945年) 陸軍士官学校12期卒。
杉山は太平洋戦争開戦時の参謀総長。満州事変勃発時には陸軍次官。二・二六事件では反乱軍鎮圧を切っ掛けに出世コースに乗る。昭和11年教育総監、昭和12年、陸軍大臣に就任。つまり陸軍の要職をすべて経験した軍人。これは海軍の永野修身と同じで経歴から言えば昭和における最高の軍人であることになる。だが識者によれば、これが最悪のコンビで日本の不幸であったと言われる。つまり粛軍人事などで優秀な人材が枯渇した偶然の産物と言えよう。盧溝橋事件では強硬論を主張、拡大派を支持。昭和15年から参謀総長に就任、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。だがその殆どは中堅幕僚の言いなりだった。対米開戦をめぐる昭和天皇とのやりとりは昭和史のどの書にも出てくる。帝国国策遂行要領決定時に対米戦争の成算を問われ杉山の楽観的な回答に天皇は厳しく問い詰めた。この時、天皇は41歳、杉山は61歳。東條英機よりはるかに先輩である。敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。
永野修身 明治13年(1880)―昭和22年(1947)海軍兵学校28期卒。
大正2年、米国駐在武官としてハーバード大学に留学。大正9年のワシントン・昭和5年のロンドン海軍軍縮会議に出席、だが満州事変を切っ掛けとして条約を脱退。昭和11年、広田弘毅内閣では海軍大臣。この時に山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢。海軍の歴史上、一人で海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長全てを経験したのは永野だけ。昭和16年9月の御前会議で『帝国国策遂行要領』は採択されたが、昭和天皇は輔翼の最高責任者である両総長杉山・永野の上奏に立腹。その際、永野は例え話を交えて天皇を説得。天皇が「絶対に勝てるか?」との問いに「絶対とは申し兼ねます」などとくどくど説明。8月の米国の対日石油禁輸は、永野自身がゴーサイン出した「南部仏印進駐」が原因。海軍首脳は「米国と戦争しても勝てない」と認識していた。永野は陸軍と喧嘩覚悟で避戦するよりは海軍の利益の為に開戦をOK。軍人全体に言えるが「戦争をしない」選択肢はなかった。
徳富蘇峰 文久3年(1863)―昭和32年(1957年) 歴史家、評論家。
徳富蘇峰は言論界の巨人と称された。筆者が中学生時代の昭和32年、死去の新聞記事は記憶している。御用新聞と目された國民新聞社は明治38年の日比谷焼打事件、大正2年第一次護憲運動では暴徒の襲撃を受けた。貴族院議員にもなるが言論・評論家として名高い。昭和16年太平洋戦争開戦の詔書を添削だった。東條英機のあの甲高い精神論の演説は全て蘇峰の添削。昭和天皇は後に『独白録』の冒頭に大東亜戦争の遠因に「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させる」と発言したが、蘇峰の主張は排日移民法が利害の問題ではなく日本人の面目の問題であると強調した。日露戦争以来、満州蒙古の権益は日本人が血であがなったという意識は政府以上に国民に根強く存在していた。満州事変が支持されたのも欧米のアングロサクソンに対する感情論が底流にあった。今では戦争政策を煽った言論人の重鎮と定着している。60年の言論活動と三百冊に及ぶ著書は、近代日本の歩みと矛盾を体現している。
Richard Sorge 1895年10月―1944年11月 ドイツ人でソ連軍のスパイ。
日本の近代を語る時、昭和16年(1941)全体が負の遺産だが重要のように思う。忘れがちだがドイツ人スパイ・ゾルゲを割り引くことはできない。昭和8年、ドイツの新聞社特派員として来日。上海時代に知り合った近衛内閣のブレーン尾崎秀実・西園寺公一等と親しくなる。ナチスの党員でもあったゾルゲは駐日ドイツ大使館にも信頼される。ゾルゲの最大の成果は、日本軍の矛先が対ソ参戦に向かうのか、南方へ向かうのかを正確にキャッチ、10月初頭、ソ連本国へ打電した。9月6日の「御前会議」の内容は筒抜けだった。結局日本の「南部仏印進駐」は致命的なミスとなり日米開戦へ至る。参謀本部の田中新一らのいわゆる「関特演」は単なる恣意行為であることも正確に見抜いていた。ソ連は日本軍の攻撃に対処するため国境に配備していた精鋭部隊を移動、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返し、1945年5月独ソ戦に勝利。ソ連の勝利はゾルゲの情報がもたらしたと言って過言ではない。
新名丈夫 明治39年(1906)―昭和56年(1981)評論家・元毎日新聞記者。
東條英機の懲罰招集を語るとき最も引合いに出されるのが、新名丈夫と後述する松前重義。もはや英米に勝てないのではないかと誰もが感じ始めた頃、昭和19年2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に「勝利か滅亡か、戦局はここまできた」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事が載る。新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という趣旨で陸軍の本土決戦構想に反対する海軍の主張そのもの。新名は海軍記者クラブの記者だった。ここへきても陸・海軍は英米と戦争する以前から身内で戦っていた事になる。東條は自分に批判的なものは総て「お上に楯突く」事だと考えて憚らなかった。新名を二等兵として召集し、硫黄島へ送ろうとした。自分に逆らう人間を激戦地へ送るという行為が、殊に南方が酷いことを東條が認識して証左であろう。辻褄を合わせで招集された丸亀連隊の(第11師団歩兵第12連隊)二百五十人は、硫黄島で全員が玉砕・戦死した。
松前重義 明治34年(1901年)―平成3年(1991年) 政治家・科学者・教育者
拙宅のある平塚市北部に東海大学がある。この創立者が松前重義。昭和30年代、一社会党代議士だったように記憶する。科学的にどんなものか解らないが、当時の満州・奉天から東京までの通信技術に画期的な発明を成した。昭和16年、逓信省工務局長に就任。日米開戦後は、電波科学専門学校(東海大学の前身)を創設。昭和18年「東條内閣の政策は非科学的で、軍需生産計画もでたらめ」と批判した。これが東條を刺激した。天皇の勅任官で42歳という年齢であるのに二等兵として中国の戦地に送られた。松前を直接的に抹殺できないため、病気に見せた暗殺工作だったとする説もある。この報復は辻褄合わせで招集された同年齢の老兵数百人が戦地に着くことなく海没した。高級官僚だった松前がなぜマンモス大学に仕上げたのか、なぜ対ソ民間交流が可能だったか、様々な伝説がある。だが松前の思想は欧米に対抗できる科学技術が根底にあった。精神主義に陥った東條英機と合わないわけである。
木戸幸一 明治22年(1889)―昭和52年(1977)政治家・最後の内大臣
昭和5年、近衛文麿の推薦で内大臣秘書官長、昭和12年文部大臣、昭和15年に内大臣。西園寺公望や牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与。この間、東條英機は第一次近衛内閣で陸軍次官、第二次では陸軍大臣となる。昭和16年10月、近衛文麿が内閣を投げ出したあと木戸が東條英機を次期首相に推薦した。陸軍に精通する東條自身に中枢部を押さえようとしたとされるが、日米開戦必至と敗戦さえ見越して東條に首相を押し付けたと二通りの見方がある。私は後者のように思う。戦争中は東條内閣を支えたが和平を早く考えたとも言われる。だが「聖断」工作を決意したのは昭和20年6月である。東京裁判では自らの日記『木戸日記』を提出して如何に自分が軍国主義者と戦い、非力であったかを述べて判事にも被告の軍人をも呆れさせた。英国の検事から「親英米派であった天皇の意向に何故沿わなかったか」を問われた。荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並び5対6で死刑を免れた。
近衞文麿 明治24年(1891)―昭和20年(1945)第34、38、39代内閣総理大臣
昭和12年、各界の期待を一身に集め第一次近衛内閣を組織。昭和13年に「爾後國民政府を對手とせず」の声明で講和の機会を閉ざす。昭和16年9月6日の御前会議後、日米首脳会談の実現を強く訴えた。アメリカ国務省は無論拒否。10月12日、荻外荘会談で東條英機と対立。後継首相は東久邇宮稔彦王を推すことで一致。だが皇族に累が及ぶことを懸念する昭和天皇によって拒否される。だが拒否されるのは木戸幸一には計算ずくだった。もう誰も陸軍を押さえ切れなくなっていたのが実情。毒を以て毒を制すると考えたのか東條が次期首相となる。近衛は日米開戦後吉田茂と接近、吉田はスイスで英米との交渉を行う案を提案。だが木戸に握り潰された。昭和19年7月のサイパン島陥落に伴い東條内閣は退陣。終戦後、東久邇宮内閣で近衞は国務大臣に復帰。新憲法制定等に携わるが、昭和20年12月16日未明、服毒自殺。同窓生木戸幸一の裏切りで戦犯指定にされたのではないかという説が工藤氏の指摘。
高松宮宣仁親王 明治38年(1905)―昭和62年(1987) 大正天皇の第三皇子。
昭和天皇に戦争の詳しい実態が届いていないことを憂えた近衛文麿秘書、細川護貞の高松宮への情報収集が「情報天皇に達せず」となり、後に『細川日記』となる。ここには近衛が憲兵に常にマークされていたことなど赤裸々に書かれている。高松宮は戦争中は開戦当初から和平を主張して、海軍の実力者米内光政、外交官・吉田茂等の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した感がある。一時は信任する米内光政の部下、高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して嶋田海相の更迭や東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていた。昭和天皇は高松宮を「周囲の者や出入りの者の意見に左右される」「開戦後は悲観論で陸軍に反感が強かった」と手厳しい。だがどれもこれも高松宮や近衛を嫌っていた木戸幸一の存在がある。木戸は軍部にも天皇にも面従腹背であったことが今日では判明している。後に高松宮が肺癌に倒れたときは、昭和天皇は三度にわたって自ら高松宮のもとへ足を運び見舞っている。
昭和天皇 明治34年(1901)―昭和64年(1989) 第124代天皇。
戦後のいわゆる東京裁判で昭和天皇に戦争責任が及ぶのか、及ばないのか連合国GHQも日本側も考えざるを得なかった。そもそも「戦争責任」という概念自体に問題があるがここでは触れない。『昭和天皇独白録』は外交官だった寺崎英成の記録だが、独白は昭和21年初頭とある。明らかに東京裁判を意識したものには違いないが、独白録を吉田裕氏は天皇の単なる回顧録などではなく天皇が一個の政治的主体だったとする。だがそれにしては日米開戦を問われるであろう東條英機を「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」等と弁護するような部分もあるのは何故か。責任逃れではないと思ってもいいのではないか。二・二六事件の際、昭和天皇は鎮圧を指示した。戦争終結時の「御聖断」も共に「君臨すれども統治せず」に反する行為でもある。東條を肯定的に捉えたのは後述する大本営の杉山元と永野修身の上奏が信用ならなかったからではないのか。 
 
帝国陸海軍とは何だったのか [戦争の昭和史]

 

この項を書き始め、およそ完成したのが平成20年の暮である。昭和23年12月、極東国際軍事裁判(以下・東京裁判)に於いてA級戦犯に判決が下り、7人に刑が執行されて60年目だった。月刊の総合雑誌『文藝春秋』『中央公論』『歴史読本』、平成21年1月号で廃刊となった「現代」等でそれぞれ太平洋・大東亜戦争の特集があった。TVでは、この種の番組では珍しく民放・TBSで「あの戦争とは何だったのか・日米開戦と東條英機」が放映された。人気タレント「ビートたけし」が東條を演じたが、いささかミスキャストでもあった。坊主頭にロイドメガネ、チョビヒゲで甲高い声の俳優なら大体演じられるというのも特別秀でた人物ではないとの意味で示唆的でもある。私にはNHKのドキュメンタリー番組「A級戦犯は何を語ったのか」で演じた新劇俳優の「外山高士」の方が相応しいと思った。いわゆるA級戦犯は28人、松岡洋右・永野修身は病死、大川周明は精神障害で除外、25人に判決が下った。このうち15人が陸軍関係者だった。更に元外交官で首相だった廣田弘毅以外は、6人の陸軍軍人に絞首刑が言い渡され直ちに執行された。なかでもA級戦犯の代名詞ともなり、日米開戦の責任を負わされたのが東條英機である。この項では軍人のまま第40代・総理大臣に就任し、2年9カ月もの間、戦争指導をした人物を改めて一市民の視点で取り上げてみたい。日本を「軍国主義に陥れた悪い奴」と切って捨てるほど簡単なことはない。だからと云って東條英機なる軍人総理を擁護するなどということではない。またそんな必要も無いし、決して殉教者などではない。私は顧みるのも汚らわしく、ただ忌避するだけというのは甚だ近代史に不誠実であると思う。この軍人総理の誕生と崩壊を辿るだけで「帝国陸・海軍とは何だったのか」の正体を知ることにも繋がることと断言できる。
この項の結論を先に言ってしまえば実に簡単である。帝国陸・海軍とは、その内実は東條英機に代表される個人的な人間の好き嫌いが優先して情実人事で動いた組織だった。大国アメリカに「戦争をして勝つ」ということが本当に可能かどうかという極めて素朴な計算が成されたとも思えない。私には軍部とは、日本の国力を知らない、高度な政治的判断のできない、国際的慣習を知らない甚だ自己本位の希望的観測に満ち満ちたものだったと思う。小さな村の自治会をそのまま大きくしただけの組織だったかのようでもある。とは言ってもこの「帝国陸・海軍」という日本の歴史史上最大の組織と機構を語るのは容易ではない。
インターネットでは自由に語ることが可能で、悲惨で貴重な内容の兵士の戦争体験論、真摯な平和探求論、あるいは学術的なものかは解らないが「戦争を語り継ぐ会」などたくさんのホームページがある。「太平洋戦争悲劇論」「大東亜戦争肯定論」とそれぞれの立場で様々な主義主張があって、それこそ百花繚乱である。この項の目的は自分の父親がなにゆえ戦病死しなければならなかったのかということに尽きる。一町工場の一工員を日本の危機的状況の戦場に駆り出し、巷間言うところの「犬死に」「無駄死に」を強いたのは何故なのか。遺骨なのか小石なのか、ひとかけらが小さな木箱に入れられて帰還した結末は特段珍しいことではないのだろう。それが何故なのかを探るのは単なる興味ではなく、遺児として自分自身に課された義務だと思う。だが通り一遍の義憤だけでなく、では何故そうなったかを問いたい。二等兵で招集され、戦病死して「上等兵」に二階級特進した父親の死に様は少しも名誉ではない。その所属した帝国陸海軍とは何であったのか。当時のメディアの言うように聖戦を遂行する組織だったのか。
ここはA級戦犯で刑死したから悪い人として取り上げられるこのとの多い東條英機は、最初から誤った戦争指導者というレッテルを貼ることはせず、できるだけ史実より解っている事実の抽出を試みたい。最初から極悪人だったなら総理大臣などになれるわけが無いからである。ある作家は、昭和史の書を叙述するとき中心となる人物の相関図を作成することから始まると言う。私が刑死した軍人総理を中心にして叙述しても、それは二番煎じだが「太平洋・大東亜戦争とは何だったのか」「帝国陸・海軍とは何だったのか」その組織とは、日本の歴史の中でどういう位置を占めるのか、という命題に少しでも近づくことが出来るかも知れない。昭和天皇も含めて東條英機に関わりのある人物24人をこの項の前半に簡単に著して、その繋がりを理解したい。それだけでも「帝国陸・海軍とは何だったのか」のある断面に迫れると思う次第だ。この章では父親が守備兵として徴用された陸軍に焦点を当てる。
限りなく乱読と言えようが、ハードカバーから文庫・新聞まで手を広げると、つまらないことだが、面白いことに気が付く。「東條英機」「東条英機」という「條」「条」の字の正字・略字の表記である。半藤一利氏の大著『昭和史』を除けば、概ね岩波新書『アジア・太平洋戦争』の吉田裕氏などは「東条」と表記、『東條英機と天皇の時代』の保阪正康氏、『現代史の争点』の秦郁彦氏などは「東條」。若い学者・牛村圭氏、「フリー百科事典・ウィキペディア」などもきちんと正字である。文字通り昭和の終わりに発行された『昭和の歴史』8巻(小学館)は、多分にマルクス主義史観の学者の著述であろう。内容は詳細を極め十分「昭和史」に相応しいが、申し合わせたように「東条」である。どんなに悪い人でも苗字・名前くらいは正字にしても良いのではないか。前述の吉田氏は同じ岩波新書で、日米開戦のときの海軍大臣は嶋田繁太郎は「島田」としていないのはどういうわけか。新字体だからというわけでもなさそうに思える。意図的でないことを願うばかりだ。私にはそこに個人名の表記から面倒であるという感情論が支配しているようにも思う。中には産経新聞の「東京裁判」特集に「東條英機氏」と敬称付きというのもいささか面妖でもある。因みに一級史料の『細川日記』では書き易いからか、東条、島田と表記している。
私には一次史料というものは『木戸日記』『細川日記』『高松宮日記』くらいしか持ち合わせはない。いきおい昭和史に詳しい作家・学者の書からの孫引きになるのは止むを得ないが、この項では、できるだけたくさんの書から東條英機という軍人の出世歴、関わりのある軍人、政治家、人柄、性格、私生活などのエピソードを抽出してその人間関係に迫ってみたい。東條英機をその生まれから刑死するまで丹念に追ったのが前述の保阪正康氏の昭和55年発行『東條英機と天皇の時代』という大部の書である。その全貌を知るにはこれを読破するに限る。文庫2冊分の七百ページに及ぶ。私は再読、三読した。

前述の如く東京裁判のA級戦犯28人のうち15人が陸軍軍人だが、東條英機は陸軍士官学校の序列では8番目に過ぎない。「上官の命令は天皇の命令で絶対である」とたたき込まれた陸軍士官学校と陸軍大学の序列意識は、現代の官僚組織にも脈々として引き継がれているのだが、その序列を飛び越えて現役軍人のまま総理大臣になったのは、それなりの理由があったのだと言えるだろう。参謀本部という戦争遂行の組織の中核を成したのは「恩賜の軍刀組」と云われる陸軍大学卒業の各年度の少数者で、東條はその数少ないエリートからは程遠いのである。因みに東條の先輩の戦犯は次の通り。
南   次郎  06期 陸軍大将 昭和04年 朝鮮軍司令官 昭和06年 陸軍大臣
荒木 貞夫  09期 陸軍大将 昭和06年 陸軍大臣 昭和13年 文部大臣
松井 石根  09期 陸軍大将 昭和08年 台湾軍司令官 昭和12年上海派遣軍司令官
土肥原賢二 16期 陸軍大将 昭和06年 奉天特務機関長 昭和20年 教育総監
畑  俊六   12期 陸軍元帥 昭和11年 台湾軍司令官 昭和14年 陸軍大臣
板垣征四郎 16期 陸軍大将 昭和04年 関東軍参謀長 昭和13年 陸軍大臣
小磯 国昭  12期 陸軍大将 昭和14年 拓務相 昭和19年 総理大臣
梅津美治郎 15期 陸軍大将 昭和11年 陸軍次官 昭和19年 参謀総長
東條 英機  17期 陸軍大将 昭和15年 陸軍大臣 昭和16年 総理大臣
5期先輩の小磯国昭は東條のあと、総理大臣に就任したが、戦争を収拾する力は無かった。むしろ副総理格の海軍大臣・米内光政が首相に相応しく、陸軍との妥協の産物で首相は小磯になったに過ぎない。それぞれの軍人に考察を加える必要はないが、東條英機は何しろ総理に就任のあと2年9カ月もその地位に留まっていた。昭和19年7月、総辞職する頃は大本営・参謀本部総長も兼ねていた。このことから東條英機を日独伊三国同盟という枠組みにおいて、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニと並んで独裁者だったと思われがちである。しかしそれは正しくない。東條は陸軍士官学校・陸軍大学の卒業年次に基づいて多分に年齢序列的に役職を得たのである。(『歴史読本・論点検証大東亜戦争』平成20年09月号P131)東條が強権を用いたり、クーデターなどで総理大臣に昇りつめたのではないということである。ここはA級戦犯に限ったが東條より先輩の7人は陸軍内の派閥抗争及び官吏としての差であるのかも知れない。経歴からなら2期先輩の梅津美治郎の方がはるかに総理大臣に相応しい。梅津は陸軍士官学校・陸軍大学をトップで卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」といわれるエリート中のエリートである。昭和20年09月、東京湾ミズーリ号甲板での敗戦の調印式に出ることを最期まで嫌がったことでも解るように表に立つことを終始避けたと云われる。それでいて昭和11年の二・二六事件の後の粛軍人事、そのあとの廣田広毅内閣では「軍部大臣現役武官制」復活などに深く関わっているのである。その「軍部大臣現役武官制」こそが、軍人が日本国家を壟断することになるのである。このことからも梅津美次郎は戦争責任が重いという識者も多い。こういう軍人に限って証拠となるような史料を残していないらしい。廣田は「軍部を押さえ切れなかった」ことの不作為で、また法廷で一切弁明しなかったことでA級戦犯として絞首刑になった
東條の人となりは秘書官だった赤松貞雄大佐が美点を列挙している。(『現代史の争点』P240)「真面目で責任感が強い。金銭欲が薄い。努力家で人情家。実行力があり用意周到。天皇に忠誠心が強い」などいいことづくめで一国の総理大臣としては申し分ない。だが東條に近い知人は「最大の欠点は感情的で偏狭、愛憎の念が強い」との指摘は今、思えばその通りであろう。その偏狭さ、愛憎の念が政権末期に自分に逆らった人間への数々の報復行為となって表れる。日米開戦当時のアメリカのコーデル・ハル国務長官は「彼は典型的な日本の軍人で、小さい、単純な、一本気の男だった。彼は片意地で我意がつよく、バカで勤勉で馬力があった」 (『ハル回顧録』P176)と手厳しい。日本に来たことのないハル国務長官がこれだけ冷静に人物評価をしているのは、後年書かれた回顧録というだけの理由ではないのだろう。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーの観察もあろうが、何よりも昭和16年頃の日本の外務省の連絡などはすべてマジックという暗号解読で東條はおろか、重要な日米開戦の起点となる昭和16年9月の「御前会議」の内容すら解っていたのである。序でに言えばリヒャルト・ゾルゲにも筒抜けだった。ここで判ることは、組織の長として能吏だったが、個人的な性格から好き嫌いの極めて日本的な素朴な人物が戦争を指導したことが顕著だということである。
自ら進んで東京裁判の証拠として提出、太平洋戦争の一級史料とも言えるのが『木戸幸一日記』である。記録としては昭和5年から20年に及ぶ。A5版2冊の大部の書である。内容は日記であり、殊に昭和15年から昭和天皇の側近・内大臣としての記録は貴重と云えよう。巻末には人名索引がある。圧倒的に多い登場人物は原田熊雄、近衛文麿、松平康昌である。原田・近衛・木戸は京都大学の同窓生であって頻繁に記述されているのは当然かも知れない。東條英機の名は、近衛文麿の半分に満たない。木戸日記に登場するのは昭和13年、近衛内閣の陸軍大臣を補佐する次官に推されたのが最初である。(『木戸日記・下巻』P645・木戸日記のノンブルは2冊に跨がっている)
少々くどくなるが東條英機の登場は最小限理解しておきたい。第一次近衛文麿内閣は昭和12年06月に発足。翌月07月には「盧溝橋事件」が発端となって日中戦争が起きる。「支那事変」という呼称は対外的な詭弁である。昭和06年以来の「満州国」の安定に関東軍と事実上満州を牛耳る日本人官僚が、日本の内閣・議会に対して大いに不満に思っていたようである。とりわけ近衛文麿首相の優柔不断は面白くなかった。今、思えば他国に傀儡政権を作ったのである。それはそれで問題だが、昭和初期の日本全体の貧しさに「満州国」は、国民にはこぞって歓迎された。このことは次項で中心にして言及したいが、昭和に入ってからの日本は帝国などと言えるような国際情勢・経済状況などではなく、全体の7割を占めたのが第一次産業で殊に農民はその半数以上が小作人だった。このことが「太平洋・大東亜戦争」の或いは最も重要な背景となっているのだと私は思う。
第一次近衛内閣は翌年瓦解するが、根本は日中戦争が解決しないからだった。無論、近衛は日中戦争不拡大の方針である。近衛文麿と中国国民政府・蒋介石との間に停戦協定が結ばれようとしていた。その密使の宮崎龍介(労働運動家)は陸軍憲兵隊に逮捕され、停戦協定は頓挫する。近衛は自分が思ったほどの力が発揮できず辞任したいが、近衛を推した西園寺公望などに止められる。辞意を翻す代わりに内閣改造をする。近衛は陸軍大臣には、その宮崎の逮捕に毅然とした態度を示さなかった当時の杉山元(はじめ)陸軍大臣と次官の梅津美治郎を推すつもりは無かった。支那事変と称される日中戦争を解決したい近衛は、杉山と梅津に我慢がならなかったに相違ない。序でに云えば杉山・梅津は終戦まで省と部の陸軍に居続けることになる。今から思えば戦争をすることしか能のない軍人の典型がこの二人である。終戦後、杉山はピストル自決。梅津は終身刑で病死する。近衛改造内閣で陸軍大臣になったのが「満州事変」の一方の立役者、板垣征四郎である。ここで陸軍次官に抜擢されたのが東條英機で表舞台に立つことになる。近衛は「東條とは何者か」と尋ねた事実がある。まだここで日本という国の不幸などと言うつもりはないが、次官としての東條は「カミソリ東條」と言われ、テキパキと仕事をこなしたらしい。その仕事ぶりが重用されて木戸幸一や昭和天皇の目に止まるのだろうか。この時の参謀本部総長は閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王。皇室の血脈につらなる軍人なので、事実上の総長は次長の多田駿(ただはやお)だった。当時の参謀本部は石原莞爾、多田駿が主流で日中戦争不拡大論である。満州は独立国で日本の植民地ではないとする立場である。陸軍次官にならない前の東條英機は、関東軍参謀長に任命され満州で、満州国運営に力を発揮した。ここでは取り上げないが参謀本部の参謀にすぎない東條が指揮して満州国では、かなり残酷な作戦を遂行、中国人に多大な犠牲者を出している。(昭和12年・内蒙古チャハル作戦)天才型の軍人とも言われた石原莞爾の理論は理論として今でももてはやされている。だが、満州国に於いて能吏としての東條は、石原莞爾という軍人の性格と合わなかった。又その満州事変の司令官でもあった板垣ともしっくり行かなかった。陸軍大臣・板垣と参謀本部次長・多田は「オレ・オマエ」の間柄で、陸軍次官を頭越しにする疎通は、政治の機構上、東條には我慢ならなかった。(『東條英機と天皇の時代』P191)こんな処に東條の人となりを知ることができる。組織の機構と秩序を重んじることが何をもたらすのか、まだ此の時点では悲惨な日米戦争の結果を誰も知らない。
ここでもう一度、省部を確認しておきたい。同じ陸軍でも「陸軍省」は内閣の一部、統帥部と言われる「参謀本部」は直接、天皇主権に直結する部署である。戦争を指揮する参謀本部には内閣総理大臣は口出しができないのである。作戦・用兵は参謀本部の専権事項だった。陸軍省は今で云う行政府の一員で作戦の背景となる政策や予算が持ち場だった。参謀本部の「作戦部」は陸軍大学を優秀な成績で卒業した者にしか入室さえ許されなかった。陸軍省の中核を成すのは「軍務局」だった。東條英機は省・部ともに経験している。昭和16年の日米開戦時に限って言えば、参謀本部のトップ、参謀総長は昭和天皇には全く評判のよくない杉山元だった。作戦部長は田中新一、作戦課長は服部卓四郎、作戦班長は辻政信、それぞれの軍人はこの項の後半に寸評を入れるが、戦争をしたくて堪らないとも云うべき最悪のトリオだった。(『文藝春秋平成19年6月号』P117)陸軍省と云えば、前述の保阪正康氏が良心的軍人と評価するのが当時の軍務課高級課員の石井秋穂大佐である。高級課員とは現在で言えば各省庁の課長補佐と言うべきか。多くの政策の起案書を作成した少壮の軍人だった。日米開戦時は首相兼務の陸軍大臣は東條英機。軍務局長は武藤章、軍務課長は佐藤賢了、軍事課長は後に東條には嫌われる岩畔豪雄(いわくろひでお)・真田穣一郎である。日米開戦は、軍務局の武藤と参謀本部の田中新一が喧嘩腰のやりとりが屡々あった。(『陸軍良識派の研究』P57・189)だが東京裁判で絞首刑になったのは開戦に否定的な武藤章だった。昭和天皇の戦争責任に直結する「参謀本部」の軍人は実際は戦争に積極的だったのに罪を免れる。戦後GHQはこの統帥部と陸軍省の権力の相違が理解できなかったと言った方が正しいようだ。戦後巧みに責任を免れて再軍備を画策したのが服部卓四郎である。辻政信に至っては僧侶に化けて東南アジアに隠れていた。しかも辻は戦後、国会議員になった事実は何を物語るのか。戦争の作戦遂行は統帥部と云う「参謀本部」で予算と装備は「陸軍省」の管轄と云うのは今でもなかなか理解し難い。
第二次近衛内閣に陸軍大臣として入閣したのが東條英機である。何故推されたかが問題だが中国大陸が膠着状態でダレきった陸軍の事務的要請だったのは衆目の一致するところ。「カミソリ東條」と言われてきぱきと事務を処理する能力に長けていた。それまでは寺内寿一・杉山元・板垣征四郎・畑俊六と居るだけの陸相だったらしい。近衛文麿が昭和16年10月、第三次内閣を投げ出したあと、内大臣・木戸幸一は東條英機を総理大臣に指名した。昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と言ったことで有名である。中国大陸から撤兵すると決して言わない陸軍の態度を変えさせるのは、陸軍の利益大優先の東條をおいてほかに適当な人物が居なかったからと云われる。「元来東條という人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた。それに、田中隆吉(十七年九月まで兵務局長)とか富永次官(恭次・兼人事局長)とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」(『昭和天皇独白録』P103)昭和天皇が東條を評価したというより参謀本部・軍令部総長の杉山や永野のいい加減さに我慢がならなかったのが正解だと思う。これは後述する。
文藝春秋編『完本・太平洋戦争』(文庫判では4冊)の解説者、秦郁彦氏は、第二次大戦時におけるルーズベルト・チャーチル・スターリン、蒋介石などとくらべて東條英機は貫禄と風格に欠けるのは当時から指摘されていたと述べている。(『完本・太平洋戦争3』P11)その主たる理由が極めて日本的な人の好き嫌いに因るものである。対米戦争にアメリカをよく知る軍人を排除、意図的にアメリカを軽視する軍人を重用した。その代表的人物が佐藤賢了である。佐藤は昭和13年の議会で「国家総動員法」の質疑で野党の「辞めさせろ」の言葉に「黙れ」と一喝したことで有名である。佐藤の「アメリカ人は軟弱」とういう教唆が東條のアメリカ感を冗長したに相違ない。東條が自分に対するイエスマンで固めたことは前述の通り。陸軍の軍務を律義にこなす東條英機を首相に指名したのは昭和天皇との歴史が定着しているが、私には内大臣の木戸幸一が巧みに誘導したものと思っている。
東條を取り巻く連中は、「三肝四愚」の名が高かったと云う。(『完本・太平洋戦争』VP19)「三肝」は鈴木貞一(企画院総裁)、加藤泊治郎(憲兵司令官)、星野直樹(内閣書記官長)または四方諒二(東京憲兵隊長)を指す。三肝のうち二人が憲兵である。「四愚」は、木村兵太郎(陸軍次官)、佐藤賢了(軍務局)、真田穣一郎(参謀本部部長)、赤松貞雄(秘書)の四人だというが、秦郁彦氏は富永恭次(人事局長、陸軍次官)をぜひ加えたいと言い、インパール作戦の司令官・牟田口廉也も加えたいと言う。このような「三肝四愚」のレッテルが当時の現場の評価か、海軍が発信源か、戦後の評価かはよく解らない。ただそれが今では正しいと思うと呆れると云うより悲しいと言った方が適切か。特に佐藤・富永・牟田口は悪しき軍人の代表として太平洋・大東亜戦争の書では必ず言及されている。こういう軍人が政策決定、作戦決定に深く関与しているのに東京裁判では重い罪を免れて戦後のうのうと生き仰せたのである。
政府と統帥部の戦争遂行の権力調整が「政府・大本営連絡会議」、それを承認したのが「御前会議」だった。平成3年放送の『御前会議』の冒頭には東京裁判の尋問シーンがあった。証言者・木戸幸一は「御前会議」は「がん」であったと証言している。判事が「がん」とは何か聞き返すシーンが印象的でさえある。木戸の「癌」などという唐突な釈明は自分が出席しなかった御前会議に責任のウェートを乗せる意図も見え隠れする。だが天皇に責任を及ぼさないためには不治の病に譬えたのか。昭和天皇が昭和16年10月に入って東條を指名せざるを得ぬように画策したのは木戸自身であったことはすでに述べた。その御前会議だが、当時国民に知らされることはなく事実上の国策決定機関だったのは間違いがない。。御前会議は、天皇臨席のもとに重要な国策はすべて決定された。会議は、昭和開幕から太平洋戦争開戦までに八回開催されている。とくに昭和16年は4回を数える。対米戦争へ大きく傾いたのは7月2日の御前会議以後である。その出席者一覧は次の通り。
第五回(昭和16年07月02日)
近衛 文麿  総理大臣
平沼騏一郎 内務大臣
松岡 洋右  外務大臣
東條 英機  陸軍大臣
及川古志郎 海軍大臣
河田  烈   大蔵大臣
鈴木 貞一  企画院総裁
杉山  元   参謀本部総長
永野 修身  軍令部総長
塚田  收   参謀本部次長
近藤 軍竹  軍令部次長
原  嘉道   枢密院議長
武藤  章   陸軍省軍務局長
岡  敬純   海軍省軍務局長
富田 健治  書記官長
第六回(昭和16年09月06日)
近衛、田辺内相、豊田貞次郎外相、東條、及川、小倉蔵相、鈴木総裁、杉山、永野、塚田、伊藤軍令部次長、原、武藤、岡、富田
とくに御前会議はセレモニーの様相を呈する。むろんそれ以前に大本営の上奏があるからである。16年09月06日、御前会議の前の上奏は天皇には大いに不満があった。参謀本部総長は杉山元、軍令部総長は永野修身である。昭和天皇が近衛文麿辞任のあと東條英機を指名したのは、私はこの両総長のいい加減な上奏に起因すると思う。同席した近衛文麿の『失はれし政治』に書かれている有名なくだりがある。(『ドキュメント太平洋戦争への道』P292〜295)私もこの上奏は作戦を遂行する大本営の矛盾が凝縮されていると思っている。孫引きだが少々長い。
近衛はルーズヴェルトとの日米頂上会談に固執しているうちに09月03日「帝国国策遂行要領」が決まる。その決議案を見せられて、天皇は「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じをうける」と納得しなかった。このあと、急遽、杉山参謀総長、永野修身軍令部総長が呼び出される。
天皇 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの期間にて片付ける確信があるか。
杉山 南洋方面だけは三カ月で片付けるつもりであります。
天皇 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「事変は一カ月くらいにて片付く」と申したように記憶している。しかし四カ年の長きにわたり、まだ片付かないではないか。
杉山 支那は奥地がひらけており、予定どおり作戦がうまくゆかなかったのであります。
天皇 支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって三カ月と申すのか。
杉山は答えられず永野がそばから助け船をだした。
「統帥部として大局より申し上げます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術をしないで、このままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常な危険があるが、助かる望みもないではない。……統帥部としては、あくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、思いきって手術をしなければならんと存じます……」
二人の統帥部の長の不満足な、矛盾した説明に対して、天皇は大いに不満だった。そこで天皇は訊ねた。
「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違ないか」両総長は「そのとおりであります」
天皇は納得しなかったが、それ以上は追及しなかった。できなかったのが正解か。それが9月6日の御前会議で、これもかなり有名件だが明治天皇の御製を読み上げることになる。
「四方(よも)の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」
昭和天皇が直接命令できない軍部に対する最大にして最後の警告だった。識者にはここで昭和天皇が明確に戦争に「ノー」を突き付けるべきだったという指摘もある。天皇自身は『昭和天皇独白録』に日米開戦をあくまで貫いたら「自分は幽閉されたかも知れない」と述べている。
東條英機なる軍人総理を俎上に乗せるとき、それを最もよく知る歴史的事実は、昭和16年09月06日の「御前会議」から東條首相誕生の10月17日までの推移であろう。事務的決定事項を重んじる東條には、甚だ曖昧な態度の及川古志郎海軍大臣や日米首脳の頂上会談にこだわる近衛文麿首相には大いなる疑問を持った。ことの内容よりは事務的手続きが形骸化されることに東條の性格が許さなかった。臨席した天皇へ背くこととして捉えたのは、その頃の政治体制としては正解なのか。「近衛の暖味な態度はその場かぎりの辻褄合わせに思えたようだ。もともと東條も、海軍が戦争に勝算がないといえば再度検討しなければと考えているのに、及川からはその言がきかれないのに苛立っていた。ただひたすら09月06日の決定をくつがえすことに逃げこむ近衛や豊田、及川の態度に、憎悪に近い感情をもつようになった」(『東條英機と天皇の時代』P283)
<十月十日のことである。東條のもとに、軍事調査部長三国直福が情報をもちこんだ。
「木戸を中心とする宮中、近衛首相、外務省、海軍の連合軍で陸軍を包囲し、アメリカの提案を呑ませるべく圧力をかける」というものだった。三国はこれを陸軍省詰めの新聞記者から聞かされたといい、それが事実か否かは不明とつけ加えた。
「こんどはおれの番か。おれを辞めさせようったって簡単じゃないぞ。おれは松岡ではない。松岡の二の舞になどなるものか」>(『前述書』P283)
この東條の告白は完全に面子とともに事態の推移にさえ憎しみを持っていたようだ。御前会議とその前日行われた政府・大本営の決定が金科玉条なのであろう。戦争に勝つ、戦争を処理する、戦争に目途をつけるなどの最も重要な政治・軍事目的はなく、陸軍という組織の中の自分の位置、一旦決着した事務的形式の遵守という地点から一歩も踏み出せないでいるのである。東條は近衛文麿が「日米開戦」に終始反対であるのを知っていた筈である。だからこそその懸念の元凶が陸軍であるとの近衛の態度を徹底的に否定せざるを得なかったと云えるだろう。
あらゆる昭和史の書でも拙論でも何度でも繰り返すことになるのが「統帥権」である。どこの国でも軍部ではそれぞれ何らかの対立があるに違いないし抗争もあるだろう。だが結局は民主主義の国であれ、独裁者の国なら当然だが政治上の最高指導者が国策にしろ戦争にしろ決断をする。ところが日本の戦争指導は甚だ曖昧だった。統帥権を総攬するのは天皇だった。主権は天皇にあった。政治は政治家が補弼、軍事は統帥部が輔翼したが、政治家も軍人も政治を軍事を任されている自覚があまりにも希薄だった。いい加減と言っても差し支えない。そのいい加減の最も顕著な事態が昭和16年の秋である。10月17日東條英機内閣が出現する。繰り返すが近衛文麿は終始英米との戦争には否定的だったのは間違いない。昭和16年9月6日の「御前会議」以降、近衛文麿首相と東條英機陸相の対立は頂点に達する。責任の所在がはっきりしないし最高指導は天皇に預けたままゆえに、それぞれの指導者は自分の位置するセクトからの視点でのみ、組織としてものごとを判断する。これが諸悪の根源と言ってしまえば事は簡単である。日米開戦において最も責任の重いのは「陸軍」であるのが定説だが、結論としてどこに責任の所在があるかは断定できない謗りもある。陸・海軍とも軍人とて今日で言うほど馬鹿ではない。海軍は非公式ながら「アメリカには勝てない、だから戦争回避のためにはアメリカの要求に従って中国からの撤退も考慮するべきである」と伝えて来ていたと言うのである。陸軍は陸軍で陸軍省軍務局武藤章が内閣書記官長富田健治に「日本海軍はアメリカ海軍に勝てない」と公式に表明してもらいたいと伝言を頼んだ。(『「大日本帝国」が好くわかる本』P177)東京裁判で一人の絞首刑を出さなかった海軍はここがずるいところである。「正式には言えない開戦の決定は総理大臣の判断」として公式には陸軍の期待には応えなかった。総理大臣・近衛文麿は陸軍に中国大陸からの陸軍撤退を迫ったのである。陸軍大臣・東條英機は百万人を越す組織の長である。到底自分から撤退を明言できる筈もない。撤兵は降伏と同義語だった。この開戦責任のトライアングルで東條は9月6日の御前会議の決定、つまり「外交交渉が不首尾なら日米開戦止むなし」の国策決定の手続きにこだわったのである。近衛文麿の首相辞任は無責任・軟弱ということになっているが、陸軍を押さえる力は無かったし、あくまで日米避戦を貫いたらテロ・暗殺に晒されたに相違ない。その暴力を最も恐れたのが内大臣木戸幸一である。後継は陸軍大臣・東條英機だった。東條が予備役として世田谷区用賀の自宅に蟄居する覚悟だったのは少々疑わしいが、思いもよらぬことだったのは正直かも知れない。「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」の昭和天皇の発言は、やはり統帥部に対する不信の証明であろう。

東條英機内閣が誕生した三日前10月15日、ソ連のスパイ・ゾルゲが逮捕された。そして陸軍省兵務局長だった田中隆吉の手記には東條腹心の憲兵司令部長が「東條を総理にしろ」と木戸幸一を脅迫したエピソードもある。田中は、膠着状態の中国大陸での謀略は夙に知られ、悪名高いが東京裁判では、免責と引き換えに陸軍内部を告発する側に回り「日本のユダ」とも称された。だがとにかく首相になった東條英機は天皇の意に添い「御前会議白紙還元」を試みることになる。東條英機は「日米開戦止むなし」の立場に変わりはないが、首相に就任してからは避戦を試みたと言えなくもない。これも何度も指摘することになるが、10月23日からの「陸海軍項目別再検討会議」である。これが1週間も続いたが平和を模索などということには無論なる筈もなかった。11月に入ると政府大本営連絡会議が開かれ日米開戦への流れとなってゆく。ここに至っても海軍大臣・嶋田繁太郎には昭和天皇から「一、航空燃料不足の為に作戦に支障を生ずることなきや、二、蘭印油は航空燃料に適せざるにあらずや」の御下問があった。「日米開戦は避けよ」ということだろう。しかしそれから5日後の昭和16年11月05日「御前会議」で日米開戦は事実上決定する。「原枢府議長より質問及び意見陳述ありて、可決。三時二十分、御裁可遊さる。未曾有の重大時局に当り、御勇断真に恐懼に堪えざると共に、御英明畏き極みなり」(『完本・太平洋戦争 T』P18)とすでに引き返せない事態に陥ったとして差し支えない。第三章で述べたことだが、このころはもう完全に「マジック」によって日本の上層部の意志はアメリカ政府には筒抜けだった。アメリカが日米開戦を確信したのは想像に難く無い。統帥部は戦争をすることしか頭にないからどうしようもないが、政府は天皇の意を受けていまだ外交による手段を捨ててはなかった。だが決定的なのは外交をしながら戦争の準備と着々と進める事態にアメリカが理解する筈もなかった。日本外交が信用されないのも仕方ないと云えば言える。外務大臣がいつアメリカを急襲するのかを全く知らなかったことでも解ることである。11月初旬の東京朝日新聞は「見よ米反日の数々/帝国に確信あり/今ぞ一億国民団結せよ」と反米親独一辺倒だった。首相官邸には手紙の類が殺到した。「何をしてるか」「米英撃滅」「対日包囲陣撃滅」(『東條英機と天皇の時代』P328)と弱腰の総理大臣を戦争へ煽るものが圧倒的だった。その間にも第七十七臨時帝国議会もあったが議会も日米開戦は必至だった。官邸には総数三千通もの手紙が殺到した。いわゆる「ハルノート」の最後通告があって日米開戦を避けきれない東條英機は天皇の外交重視、戦争回避の心情を知りながら殆んど打つ手は無かった。真珠湾攻撃の前日12月06日の深夜、東條は首相官邸の家族用の部屋で皇居に向かって号泣したのである。号泣は慟哭だった。(『前述書』P349)自分で解決できないだらしなさが陸軍大将・総理大臣をして泣くのである。後世の大局が解っている私であっても泣いてことが解決するなら長閑なものだと思う。
2年9カ月もの間の戦争の実態はここでは省く。前項でも触れたし、この章4項でも触れたい。ただ東條英機という軍人総理を語るのにふさわしい事実があって、これは触れて置かなければなるまい。日本が敗戦への道を転げ出したのは昭和17年06月03日の「ミッドウェイ海戦」だが、この無様な敗戦は海軍がひた隠しに隠したからだが、東條は総理大臣にあっても海軍のこと、戦争そのものを遂行する大本営に関しては口出しができなかったのである。だが若くして大本営作戦部に重用されて6年間も在籍した瀬島龍三はその事実を知っていて東條には知らせなかったというのである。知ったにしても東條はその「負け戦」を自分の責任で認めたくないから「戦陣訓」が示すように精神論に逃げ込み、現場の最前線の惨状から目を背けたのだと思う。私はここに東條英機の最大の誤りがあり、責任があり、軍人としても政治家としても限界があったように思う。終戦後、東京裁判で明らかになるのだが、東條は世界情勢や国際法など嘘のように無頓着で尋問する連合国検察が呆れたという結果もある。戦局の打開に東條ができることは、機構を弄り、市民の生活の一部を覗いたりすることに終始したことにも見られる。東條英機とは、市民として父親としては金銭に潔白、家族思いで真面目だが、為政者としてはひたすら先人の通過してきた「富国強兵」のレールの上を走っているだけで立ち止まって「これでいいのか」と反省した形跡もなく、ひたすら軍部を維持するのに精一杯だった。そのために都合のいい人物・軍人を配しただけだった。
この項の結論はすでに出たも同然だが、東條英機という政治家の拙劣さを象徴するのがいわゆる懲罰人事である。これも「三肝四愚」と共にあらゆる昭和史の本でも言及されているので2点挙げて置く。
昭和19年02月23日『毎日』第一面の真ん中に、新名丈夫記者の記事が掲載された。
「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」。
「太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐつて戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻して来るにおいては最早万事休すである。……敵が飛行機で攻めて来るのに竹槍をもっては戦い得ない。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものはわが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないのか」
「然らばこのわれに不利の戦局はいつまでも続くのか、どこまで進むのか。われ等は敵の跳梁を食い止める途はただ飛行機と鉄量を、敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るに西太平洋と中央太平洋における戦局は右の要求を一向に満たされないことを示す。一体それはどういうわけであるか、必勝の信念だけで戦争には勝たれない」(『太平洋戦争と新聞』P404)
この記事には全国から賛辞が寄せられたらしい。「勝った勝った」の戦争が嘘であるらしいことに国民は、この時点で感じとっていた。この記事を書いたのは「黒潮会」の毎日新聞記者・新名(しんみょう)丈夫だった。黒潮会とは海軍の記者クラブである。新名の記事は東條批判というより陸軍への批判だった。今から思えば正解と思えても陸海軍の対立は最後まで解消しなかった。「日本との戦争に勝つ」というアメリカ軍の政略・戦略に軍部の対立は聴いたことはない。この記事への懲罰は毎日新聞だけにとどまらず新名個人へも執拗に続けられることになる。事件は新名記者をめぐる陸海軍の対立へとエスカレートする。新名は極度の近視ですでに兵役免除になっていたが37歳の新聞記者への召集でだった。これだけでもはや異常である。海軍省は猛然と抗議した結果、陸軍は新名と同じく大正生まれの兵役免除者250人を突然召集して、つじつまを合わせたのである。新名のとばっちりをくって再召集された丸亀連隊の中年二等兵たち250人は、硫黄島に送られ全員玉砕させられた。何ともコメントできない結末でよくこんなことがまかり通ったものである。こういう事実は理解し難く愚かであるにしても正確に歴史に刻むべきである。
東海大学の創立者松前重義への懲罰召集も知られるところである。松前は昭和16年、逓信省工務局長に就任。昭和17年には、航空科学専門学校、電波科学専門学校(後に東海科学専門学校として合併)を創設。教育界に進出する。この官僚時代に無装荷ケーブルというの国宝級という発明をなし、当時の日本の通信技術に大きく貢献した。だが科学者の立場から東條内閣の方針に強硬に反対した。当時42歳でかつ少将相当の天皇の勅任官であるにもかかわらず二等兵として中国大陸の戦地に送られることになる。反東條派の東久邇宮稔彦王・中野正剛と共に働きかけを行なった松前を直接的に抹殺できないため、陸軍首脳の暗殺工作であったとする説もある。のちに召集解除・復員が叶い、松前は生還したが、気の毒なのは松前を日立たせぬためお相伴の召集を食った同年配の老兵たち数百人で、ほとんどが船もろとも海没してしまった。(『現代史の争点』P243)これら二つの懲罰人事は狂気の沙汰である。かような内容の軍部であったればこそ軍国主義・ファシズムと片づけられ、戦後でさえ軍事・防衛さえ忌避される要素となっているものと思う。今、現在の保守・革新の区別なく、これらは細部にまで検証されるべき軍人総理の側面である。太平洋・大東亜戦争は決して特攻と玉砕だけが悲劇ではない。

お上の御威光を体現している自分に逆らうことは、お上に楯突くことと信じて疑わない東條の死生観とはどんなものだったのか。懲罰人事で戦死することの可能性が高い戦争の最前線へ追いやることは、いかに最前線が酷いものかは知っていたことの重要な証明である。太平洋・大東亜戦争の特徴は、210万人をかぞえる戦死者の大半が、敵の弾丸以外の原因で倒れた点にある。実数や内訳は正確に計算できるものではないが、「ガダルカナルの戦い」「インパール作戦」に象徴されるが餓死と戦柄死は七割を越えると推定されている。
<これだけのスケールになると、国力の格差とか、明治憲法体制の欠陥とか、国民性などを並べたてても、遺族は納得してくれない。「日本兵はコメを食わせないと戦えない。そのコメ俵を運ぶ途中で輸送船もろとも沈んだから仕方がなかった」式の説では言い訳になるまい。世界戦史に例のない大量餓死をもたらした責任が明らかにさないと、死んだ兵士たちは浮かばれないだろう>
<昭和20年02月、天皇が重臣(首相経験者)を別々に呼んで、戦局に関する意見を聞たことがあった。東條との問答は侍立した藤田尚徳侍従長が『侍従長の回想』(中公文庫)に記録している。それによると、東條は全般戦局について「成功不成功相半ば」と強気一方の見通しを開陳したあと、「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」と断言した。これを聞いて「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」だったというが、どうやらこの軍人宰相の頭のなかでは、餓死も病死も「名誉の戦死」で一括されていたのではなかろうか>(『現代史の争点』P229)
日米開戦の原因は、それぞれの立場で諸説ある。政治・軍事・外交・メディアごとに検証すれば、それだけで分厚い政治史・軍事史・外交史・メディア史となる。だが敗戦の責任は省・部に関係なく軍部の分析・現状把握・決断のなさがいちばん責任を負うべきだろう。
昭和19年に至ると新名丈夫毎日新聞社記事に見られるように戦局は好転するはずもなかった。大日本帝国憲法下において総理大臣東條英機にできることは後述する機構いじりだったのかも知れない。陸軍・海軍・統帥部・重臣・宮中らの詳細なニュアンスは知るべくもないが木戸日記にはその痕跡は残っている。<二月十八日夜。官邸に陸軍省の富永恭次陸軍次官(人事局長も兼任)、佐藤賢了軍務局長が呼ばれる。ここで東條から参謀総長兼任の意思が告げられ、関係者に根回しを行うよう命じられる。「憲法公布以来の重大事である。だがこの事態はこれでしか乗りきれない。自分の人格を国務と統帥とに分けて乗りきりたい」東條の言に富永も佐藤もうなずく。二人は東條の腹心の部下であった。この二人は午後九時すぎに官邸をでて根回しのために動き始める。教育総監部本部長の山田乙三を説得にいったと思われる。というのは、陸相、参謀総長、教育総監本部長の改造人事については現職の三人が合意のうえで後任者を指名するのが慣例だったからである。午後十時、東條は内大臣の木戸幸一を私邸に訪ねている>(『昭和陸軍の研究・下』P162)。

一、統帥一元強化
陸海軍統制を更に強化一元化する為め、
(イ)杉山総長の辞任を求め、東條首相陸軍大将の資格に於て兼任せむとす─負担の増大については御許を得ば次長を二人(作戦、後方兵粘)とし、一人を大将級を以てする大次長とす。軍令部総長の問題には直には触れず、海軍大臣に其の意図を予め話すに止む。但し交迭は寧ろ歓迎するところなり。海軍側にて豊田[副式〕大将をと云ふことなれば是も一向差支なし。
(ロ)元帥府の強化活発化、出来得れば常時宮中に在りて陛下を 輔佐し奉る。
(ハ)大本営両総長は宮中に於て執務す。
一、内閣改造
賀屋大蔵、岩村司法、山崎農商、八田運通の四大臣の辞任を求め、石渡を大蔵、高橋三吉大将を司法、内田信也を農商、五島慶大を運通に奏請したし。
一、天皇御親政の実を示す為め、大本営の宮中設置と共に、閣議も宮中に於て開き、時に応じ親臨を仰ぐこととし度し。(『木戸幸一日記』下P1089)
東條の考えるには、自分は完全に天皇に信任されている。宮中で統帥や国務の会議、さらに天皇のすぐ近くで執務を行えば、戦争遂行はスムーズに行くだろう。自分が独裁者になりたいのではなく飽くまで、今までより戦局が改善するくらいに考えたのではないか。「君臨すれど統治せず」という立場の天皇であるのに積極的な戦争関与を願ったのであろうか。このことによってそろそろ木戸幸一には東條英機に疑問を感じたものと思われる。だがもうこの頃、陸軍の主流派から外れていた「皇道派」や総理大臣経験者の重臣からは日本の敗戦は必死とみられ、戦争を止めるには先ず東條英機を首相の座から下ろすことに重点が置かれたと思う。重臣に強引に引き下ろす力はむろん無く、何より東條がまだ天皇に信任されていた。昭和天皇に正確な戦争の実態が知らされていないのは常時輔弼(ほひつ)の木戸幸一に向けられ、総理大臣辞任以来、上奏の適わなかった近衛文麿が秘書の細川護貞に対して天皇の弟宮・高松宮へ情報提供を指示した。それが『細川日記』として結実している。
<昭和19年07月11日「余帰りの車中にてしみじみ思ふに、今日の事態がかく混乱し居るは、要するに木戸内府に私心あればなり。木戸侯は東条と同一に見らるゝを恐れ、何とか彼と別物なることを示さんとあせりつゝあり、故に東条と全く傾向の異りたる者が現るれば、自然東条の責任を追及することとなり、ひいては木戸侯の責任問題となるを以て東条の次に寺内等を持ち来り、責任を多少なりともボカし、次いで和平内閣に持ち行かんとの下心なるべし。余も侯には御世話になりたる身なれども、此の大戦争をなしたる東条を推薦し、ひいて戦争指導を誤れる東条を弁護したる責任は、決して軽からず。その結果幾十万の青年は死に、家族は悲嘆に暮れ、銃後国民生活は逼迫し、数億の国帑(こくど)を費し、加ふるにぬぐふ可からざる敗戦の汚点を国史に印せんとする、此の有様は一に掛つて内府常時輔弼の責ならざるはなし。而も此期に及んで「唯々一身の打算によりて行動せんとするは、断じてゆるす可からず>(『細川日記』P264)
細川の妻が近衛文麿の娘で近衛の女婿であっても、細川には閉塞感ただよう当時の状況はその矛先が木戸幸一に向けられている。
<昭和19年07月11日「余は更に思ふ、木戸内府は私心ありて決意せず、公は亦優柔不断濫りに口舌を弄んで決起の勇なくんば、遂に日本は亡国に到るべし。よつて最後の手段として、東条を刺殺し、高松宮殿下の令旨を奉じ、御殿に於て木戸内府を圧迫して後継首相に殿下を推戴し、陸軍小畑、海軍米内、外務吉田等の顔触れを以て、所信を断行するは一つの考へなり。余は車中瞑目して実行の細部に到る迄検討す。余の一身につきては思ひ惑ふ所なし。唯事の成否殊に最後の成否に到りては、一に聖慮に掛る。若し軽々に事を発し、事志と異ふのことあらんか、国家として重大なる結果を招来すべし。然れども此の点を研究して備へざるべからず>(『前述書』P266)
現実味のある「東條暗殺計画」は、首相にもなった米内光政海軍大臣の軍務局主務官として仕えた高木惣吉海軍少将(当時は海軍中佐)の手になるものだった。
「結局、米国のギャングなどがよくやる自動車事故の方法が、実行も簡単だし確実性が大きい。自動車を衝突させ、ストップしたところヘピストルを打ち込むのが一番良かろうということになった。ただ、相手方の先駆車、随行車に邪魔されることも予想されるので、襲撃側としても二台、できれば三台の車が欲しい。そして、土壇場で妨害されたり、実行後追跡されたら拳銃で撃ちまくる─という大筋のプランができあがった。そのころ東條首相は、魚市場を見回ったり、火の見やぐらに上ったり、あるいは軍需工場の門前に立って工員の出勤ぶりを監視するなど、かなり神経症的な行動が目立っていた。したがって、機会はいくらでもあったが、一発で決めないと警戒が厳しくなり、二度とチャンスは巡ってこない心配があった。要撃の場所は交差点で、それも四差路以上の地点が襲撃にも逃走にも便利だ。だが、事前に自動車の隠し場所がある地勢でないとまずい」(『東條暗殺計画』P33)
結局はここでも近衛文麿やその周辺および重臣には決断力が鈍く勇気もなかったことにある。東條英機の憲兵を使った露骨な監視や取締りだけではない、戦争を終わらせる確固とした信念がなかったことに尽きる。何よりも怖かったのはテロ・暗殺だった。このことは昭和前半の歴史に特筆されるべきことで「暗殺・テロ」それ自体で「太平洋・大東亜戦争」のかなりのウェートを占めるものとして成り立つ。昭和19年前半の重臣たちは暗殺が怖いから暗殺で対抗しようとしたようにも思う。その中核をなす岡田啓介は二・二六事件で辛うじて襲撃を免れていたし、ルーズヴェルトとの会談を望んだ近衛文麿にも当てはまるし、昭和20年に入ると経験豊かで欧米に精通する外交官・吉田茂も終戦工作を嗅ぎつけられ逮捕された。日米開戦前に米内光政内閣も廣田弘毅内閣も陸軍の圧力で潰されていた。だがそれら重臣に出来そうにもない計画に関係なく絶対国防圏という物理的崩落によってようやく東條英機内閣は落城した。

そろそろ此の項の核心に迫りたい。戦前の特に昭和10年代の軍部とは、司馬遼太郎の指摘を待つまでもなく、アメリカと戦争をして勝つという組織では到底なく、上に立つ軍人の好悪、面子、派閥、出身地など極めて日本的な情緒に左右された結果が、多くの庶民を死に至らしめたのではないかと思うのである。この後も再三指摘することになるが戦争とは運命ではなく科学、精神を云う前に物理的な兵器と兵器がぶつかる物量の多寡なのではないかと云いたいのである。太平洋・大東亜戦争の敗戦責任を、簡単に言ってしまえば大日本帝国陸・海軍は、世界を相手に戦争する論理的・科学的・物理的な思考と仕組みの組織ではなかったのだと思う。あるのは論理ではなく情緒、科学ではなく運命、物理ではなく精神だということである。つまりエリート軍人こそが「戦争に勝つ」という単純且つ明快な目的から程遠いのではなかったのか。彼らの人間関係をみると「大国アメリカに戦争を仕掛けて勝つ」という目的に、この日本の国民に何を強いるのかと考えた形跡は多分に伺えないでいる。軍の組織を維持し、そこに身を置く軍人の終始、児戯にも等しい日本人的好き嫌いが、軍部をひいては日本を動かしていたように思う。悲しいかな、その最も象徴的人物が東條英機なのであろう。
生き残った軍人はなべて「九死に一生」、東南アジアの劣悪な最前線では生きながらえた軍人は神様が助けてくれたような紙一重の偶然、奇跡といっていい。平成14年に亡くなったが、昭和45年『プレオー8の夜明け』で芥川賞を受賞した作家・古山高麗雄氏はビルマ・サイゴンでの戦争体験を小説に昇華した。戦争をするために生まれてきたという大正9年・1920年生まれである。<「なんで日本はあんな愚かな戦争をしたのですかね」と作家保阪正康氏のインタビューにこう答えた。「それは簡単ですよ。軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究していますよ。だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ」それは今の官僚たちだって同じこと、企業人にだって言えるし「日本人って、そう急に良くなるもんじゃない」と口にした。>(『昭和の空白を読み解く・昭和史忘れえぬ証言者たち2』P93)
古山高麗雄の発言に誰もがコメントすることはないだろう。この発言がこの項のすべてを物語っている。ただしこうした軍部を支持せざるを得なかった国民心理は次項に譲る。

自分のホームページに「無明庵」と称して「私の戦争論」なるものを起ち上げた一つの動機と言えるものが「私の太平洋戦争―昭和万葉集」「日米開戦不可ナリ─ストックホルム―小野寺大佐発至急電」の番組視聴だった。その後は平成3・4年頃録画した「太平洋戦争─日本の敗因1─6」「御前会議」「東京裁判」などである。平成20年夏には24本もの太平洋戦争関連の再放送があった。すべて録画したのは言うまでもない。また昨年春、実父の実家の未亡人とクリニックで再会し、数々の父親の戦病死の史料をもらいうけて、第二章の推敲となっている。
昭和史に詳しい作家・半藤一利氏は、現在の墨田区向島に昭和05年に生まれ「東京大空襲」は15歳で九死に一生を得た。それが数々の著書として結実した動機となっているように思う。かように軍国少年、軍国少女を余儀なくされた私より一回り上の世代は「終戦の日」を境に正反対の価値観を押し付けられた。それがトラウマになっていると言っていいのかも知れない。したがってその頃の政治家、軍人、言論人、メディアに大いなる不信感があるのは頷ける。私はと言うと前述の録画番組における数々の太平洋戦争のシーンに少なからず影響されている。その最たるものが日米戦争勃発の「真珠湾攻撃」を報道する映像と声である。昭和16年12月8日朝の『大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』この甲高い声は鳥肌が立つほどのおぞましさを覚える。このとき国民は日本列島隅々まで昂揚したのが、この上ずった声と誇らし気な映像に象徴されている。もう一点は昭和18年10月、学徒出陣のときの東條英機総理大臣の万歳三唱の映像と甲高い声である。「天皇陛下万歳」と叫び、ワンテンポ遅れて白い手袋を嵌めた両手をV字型に手を挙げる。東條英機の先祖は岩手南部藩の能役者であるらしい。その血筋かDNAか見事なまでのパフォーマンスである。「天皇陛下万歳」を叫んで戦争に勝てると本当に思っていたのだろうか。学徒出陣は敗戦濃い拙劣な戦争の最前線へ若者を送り出すということである。私の父親も昭和18年秋に召集された。むろん日本本土へ帰還することはできなかった。
大日本帝国陸・海軍は日本全体を兵舎にして恥じない日本の歴史の中で最も愚かな組織であったと私は思う。エリート中のエリートである少数の軍人は、今では中学生でも判るようなことが判らず、判ろうとせず、三百十万人もの日本人を死に追いやった。当時のエリート軍人の頭脳には「敗戦」あるいは「降伏」の二文字がなかった。
これがこの項の結論である。 
 
栗林忠道の総括電報

 

膽(第109師団のコードネーム)参電第351号(三・七・二三〇〇)
参謀次長宛膽部隊長(栗林忠道)蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度感状速ニ上聞ニ達セラレ将兵愈々感奮興起セリ 御懇情謹ンテ御礼申上ク硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ
現代艦砲ノ威力二対シテハ「パイプ」山(摺鉢山)地区ハ最初ヨリ之ヲ棄テ水際陣地施設設備モ最小限トシ又主陣地ハ飛行場ノ掩護二拘泥スルゴトナク更二後退シテ選定スルヲ可トス(本件因ツテ来ル所海軍側ノ希望二聴従セシ嫌アリ)
主陣地ノ拠点的施設ハ尚徹底的ナラシムルヲ要ス其ノ然ルヲ得サリシハ前項水際陣地ニ多大ノ資材、兵力、日子ヲ徒ニ徒費シタルカ為ナリ
主陣地二於テ陣前撃滅ノ企図ハ不可ナリ数線ノ面的陣地二夫々固有部隊ヲ配置スル縦深的抵抗地区ヲ要ス
本格的防備二着手セシハ昨年六月以降ナリシモ資材ノ入手困難、土質工事不適当、空襲ノ連続等二依リエ事ノ進捗予期ノ如クナラサリシ実情ナリ又兵力逐次増加セラレシ為兵カ部署ハ彌縫的トナリシ怨ミアリ
海軍ノ兵員ハ陸軍ノ過半数ナリシモ其ノ陸上戦闘能力ハ全く信頼ニ足ラサリシヲ以テ陸戦隊如キハ解隊ノ上陸軍兵力ニ振リ向クルヲ可トス
尚本島ニ対シ海軍の投入セシ物量ハ陸軍ヨリ遥カニ多量ナリシモ之カ戦力化ハ極メテ不充分ナリスノミナラス戦闘上有害の施設(*1)スラ実施スル傾向アリシニ鑑ミ陸軍ニ於テ之カ干渉指導の要アリ之カ陸海軍ノ縄張的主義ヲ一掃シ両者ヲ一元的ナラシムルヲ根本問題トス
絶対制海、制空権下ニ於ケル上陸阻止ハ不可能ナルヲ以テ敵ノ上陸ニハ深ク介意セス専ラ地上防禦ニ重キヲ置キ配備スルヲ要ス
敵ノ南海岸上陸直後並二北飛行場二突破楔入時攻勢転移ノ機会アリシヤニ観ラルルモ当時海空ヨリノ砲撃、銃撃極メテ熾烈ニシテ自滅ヲ覚悟セサル限リ不可能ナリシカ実情ナリ
防備上最モ困難ナリシハ全島殆ト平坦ニシテ地形上ノ拠点ナク且飛行場ノ位置設備カ敵ノ前進楔入ヲ容易ナラシメタルコトナリ
殊ニ使用飛行機モ無キニ拘ラス敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機二至リ中央海軍側ノ指令ニヨリ第一、第二飛行場の拡張ノ為兵カヲ此ノ作業二吸引セラレシノミナラス陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ
防備上更二致命的ナリシハ彼我物量ノ差余リニモ懸絶シアリシコトニシテ結局戦術モ対策モ施ス余地ナカリシコトナリ
特二数十隻ヨリノ間断ナキ艦砲射撃並ニ一日延一六〇〇機ニモ達セシコトアル敵機ノ銃爆撃二依リ我カ方ノ損害続出セシハ痛恨ノ至リナリ
以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ何卒御笑覧下サレ度
終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル
(細木重辰『栗林騎兵大尉の絵手紙ほか』)

*1 南地区隊陣地の左翼、海岸近くにあった魚雷庫。2月17日、海軍重砲陣地は掃海艇にたいし砲撃、位置を暴露したため、大口径艦砲による反撃を招き壊滅した。その夜、魚雷庫は大爆発を起し、近くに駐留した1個中隊を全滅させてしまった。この事故により南地区陣地に穴があき、2月20日上陸翌日に米軍に占領される結果となった。

本件電報は1945年3月7日に参謀本部に打電されたものである。米軍の硫黄島上陸は2月19日であり、すでに日本軍は3割程度の兵員が残るのみで、弾薬は尽きていた。栗林忠道は3月26日に戦死したと推定されている。栗林は参本宛ではあるが、同じ騎兵畑である蓮沼侍従武官長(そのあと終戦クーデターを阻止する側にたった)にも披瀝されることを希望している。おそらくこれが硫黄島戦についての司令官による総括的文書である(なお防衛研究所『硫黄島戦史』や陸戦史研究普及会『硫黄島作戦』陸戦史集15(第二次世界大戦)原書房1970、では第5項がなぜか省略されている。編集者が自衛隊関係者であるだけに理解に苦しむ。栗林が決死の気持ちで陸海二元統帥の誤りを説いた箇所を故意に欠落させており、戦史に学ぶ気概がないとも評することができる)。
栗林の工夫は敵の上陸予定地点(幅3キロの砂浜)に対し、縦に数線からなる縦深的抵抗地区をつくり、そこに兵員を貼り付けることだった。これは、フランスのペタンの戦略的縦深陣地を応用して、第1線陣地に戦術的縦深性を施したものといえる。栗林が陸大教官であった蓮沼蕃から陸大在学中の1923年(大正12年)ごろ教授されたものであろう。
縦深陣地戦術を成功させるためには準備がもっとも大切である。制空権を失った地上軍はいっさい、「目標」をつくってはならない。水際にトーチカ網や重砲陣地をつくることは無駄なのである。さらに飛行機がない飛行場は破壊の対象ではあれ防禦上意味をもたない。結局、島嶼に基地航空をおき、相互に連絡することによって持久が可能だとする「内南洋絶対国防圏」は、海上における決戦に敗れれば、島嶼においた陸軍部隊を徒に斃死させる策であった。この戦略で戦争を開始した海軍首脳部と陸軍東條一派は、軍事学に疎いという意味で、万死に値する。栗林は1923年に縦深防禦について研究し、当然戦略的縦深も教授されていたのである。島嶼防衛網がいかに陸戦常識にはずれたものだったのか、政治干渉を好む陸軍省部将校は理解できなかったのである。 
 
戦争責任論

 

はじめに
日本の敗戦まで、天皇は陸海軍の大元帥であり、その統帥権はなんびとも侵犯できなかった。その天皇の命令で、日中戦争も太平洋戦争も戦われ、多くの軍人、軍属、民間人が死亡し、家や家族を失った。天皇の戦争責任は、東條英機よりも近衛文麿よりも重い。昭和天皇はなんら詫びることなく死に、皇族で戦犯となったのは梨本宮ただ一人とはいえ、昭和天皇こそ、超A級戦犯に他ならない。その戦争責任は、今後とも追及されねばならない。そうでなければ、「上官の命令は天皇の命令」と命令一つで命を落とした兵が浮かばれぬ。以下、天皇および皇族、宮中人脈の戦争責任について述べる。

梨本宮守正王 / (明治7年-昭和26年 1874-1951) 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年(明治7年)に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。陸軍士官学校卒業後、1903年(明治36年)にフランス留学。これに先立つ、1900年(明治33年)に鍋島直大侯爵の二女伊都子と結婚。方子女王、規子女王(広橋真光夫人)の2女をもうける。日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第三軍付き武官として出征した。戦後、再度フランスへ留学。フランス陸軍大学を卒業。陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜った。軍事参議官、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任。1943年(昭和18年)、伊勢神宮祭主に就任した。伊勢神宮祭主で国家神道の代表人物であったことから、その戦争責任を連合軍に追求され、皇族としてただ1人A級戦争犯罪人として逮捕される。巣鴨プリズンに拘置されるも、「証拠不十分」として半年後に釈放される。明らかな戦争犯罪人であると国民の目にもうつっていたにも関わらず、その間の経緯、いかなる政治的意図があって、梨本宮を釈放したのか不明。1945年(昭和20年)、皇典講究所第6代総裁就任。1951年(昭和26年)78歳で逝去。 
東久邇宮稔彦王の「一億総懺悔論」
1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争の終戦で、鈴木貫太郎内閣が総辞職した直後の8月17日から、日本の降伏文書への調印や、陸海軍の武装解除・元軍人の復員帰郷など、敗戦処理を専ら行った東久邇宮稔彦王という皇族首相が同年10月5日までのごく短期間であるが、内閣を組閣していた。その後東久邇宮稔彦王は皇籍を離脱、名前も東久邇稔彦として、様々な事業に手を出しては失敗するものの、百歳以上の長命を保って、1990年(平成2年)になくなっている。
その波瀾に富んだ生涯には、別の興味も湧くが、問題はこの東久邇稔彦が首相だったときに、日本の戦争指導部が行ってきたことにたいして、正しい清算を考えなかったことである。自らが陸軍大将で、第四師団長や航空本部長などを歴任してきた人物であるから、戦争指導部の責任を追及できる立場ではなかったかもしれないが、真摯な反省をするべきだった。
その東久邇宮首相の論たるや、有名な「一億総懺悔論」である。これは、1945年(昭和20年)9月5日の国会施政方針演説のなかで語られた。以下が、そのポイントである。

敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります。

これは、戦争を指導した側や協力した側にたっていたか、協力した側といっても自発的・積極的に協力したのか、状況から妥協したのか、あるいは戦争に協力しなかったのかといった国民のそれぞれの立場を無視して、「国民悉く」総懺悔といっており、責任の所在を明らかにするどころか、まったく逆行している。もしくは、戦争責任を免罪するかのようである。
そもそも、太平洋戦争はいかにして始められたのか。それは、日本がアジア、とりわけ中国大陸に侵略の矛先を向け、解決できなかった日中戦争の泥沼を脱却すべく、今度はインドネシアなどの南方の資源と権益に目をむけ、これを奪取すべく始めたのである。「南進論」というと聞こえはよいが、実態は東南アジアに攻め込んで、豊富な石油などの資源を獲得し、アメリカなどの包囲網に対抗しようとしたのに過ぎない。日中戦争が泥沼化し、膨大な戦費を消費していた日本は、蒋介石を援助していた米国と対抗することを主眼として、米英とそれに連なる勢力に対し、1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟を締結した。
その戦争指導部とは、言うまでもなく、天皇を大元帥とする軍部であり、宮中や元老なども大きな戦争責任を有していた。それを「一億総懺悔論」ではわざとぼかし、全ての国民に戦争責任があるとしたのである。 
杉山参謀総長らに念押しして「帝国国策遂行要領」を承認した天皇
よく昭和天皇は、太平洋戦争の開戦には消極的で、軍部に押し切られて開戦を決め、終戦は天皇が「聖断」によって決定したという論議がある。つまり、陸海軍の大元帥といっても、開戦時と戦争遂行時にはさほどの指導力がなく、いわばお飾りだったのが、なぜか終戦の時だけ尋常ならざる指導力を発揮したという奇妙な考え方である。これが、いかに眉唾であるかは、すべて戦争行動は奉勅命令により行われ、開戦にあたっても御前会議で議論を行い天皇が裁可していることをもってしても、明らかである。
太平洋戦争の開戦に向けて大きくかじをきろうとした帝国国策遂行要領は、1941年(昭和16年)9月3日の大本営政府連絡会議で若干の修文をもって事実上決定し、その内容について近衛文麿首相が9月5日に内奏すると、昭和天皇は統帥上の問題について懸念を示した、では陸海軍の両総長をお召しになっては近衛が奏上すると、昭和天皇は「それでは直ぐ両総長を呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」と命じ、杉山元陸軍参謀総長、永野修身海軍軍令部総長が近衛立会のもとで、御前会議の前日の「御下問」「奉答」を行うことになった。
天皇は、外交と戦争準備は外交を先行してやるように指示したが、戦争の場合の見通しについても詳細疑念のあるところを質した。杉山参謀総長が残した「杉山メモ」によれば、杉山参謀総長は、英米を相手に「勝てるか」と昭和天皇に聞かれ、「南洋方面だけは3ヶ月くらいで片づけます」と比較的短期間でことが済むような答えをした。昭和天皇は間髪いれず、「予定通り出来ると思うか、お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると言うたが未だやれぬではないか」と問いつめた。答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございますので」と言い訳すると、昭和天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」と一喝したという。
さらに、昭和天皇は大声で「絶対に勝てるか」と質問し、「絶対とは申し兼ねます、しかし勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申上げ兼ねます」という杉山の答えに、天皇は大声で「ああ、わかった」といったのである。
また、杉山参謀総長への叱責の後をうけて、永野軍令部総長が奉答にあたった際に、「永野より、『・・・戦の要素には確実ならざるもの多く、その成功は天佑によらざるべからざる場合もございます。ただ成功の算と申すものはございます。例えばここに盲腸炎にかかれる子供あり。・・・手術するも七十パーセントまでは見込みなきも、三十パーセント助かる算あることあり。親として、断乎手術するのほかなき場合がございます』と申し上げしところ、御気色和らぎたり。永野は『原案の一項(対米英戦決意)と二項(外交交渉の継続)との順序を変更いたし申しべきや、否や』と奉聞せしが、御上は『それでは原案の順序でよし』とおおせられたり」とやり取りがあったことを終戦直後、永野は回想のなかで述べている。これは当初、外交を重視しべしとの姿勢だった天皇が、日独伊三国同盟や南進政策を変更する気はなく、対米英戦への決意に傾斜したことを示している。
結局、天皇はこの帝国国策遂行要領の内奏を「わかった。承認しよう」といって承認した。
このように、太平洋戦争開戦に際して、昭和天皇は何度も「勝てるか」「勝てるか」と、念押ししたのである。その翌日の9月6日に開かれた午前会議にて帝国国策遂行要領は決定した。だから、昭和天皇は太平洋戦争の開戦に消極的だったどころか、事実はまったく逆である。
なお、英米に対する開戦を意識しつつ、期限を10月とさだめた対米外交交渉と南方権益確保などの方針を規定した帝国国策遂行要領は以下の通りである。その後、対米交渉が進展せず、先に御前会議で定めた10月上旬の期限は到来ということとなった。
その対米交渉の経過については、特命全権大使であった来栖三郎が、以下のように書いている(「日米交渉の経緯」東京日日新聞社(1942)より引用)。
「太平洋の平和保持に真剣なる考慮を払いつつあった帝国政府は、昨年の春以来引続き華府におきまして極力日米妥結の達成に努力を尽し来りつつありったのでありますが、米国側が交渉半ばにして前述の如き資産凍結令、石油禁輸等の如き挑戦的圧迫を加えて参りましたのみならず、前後十ヶ月を通じて何ら互譲の精神を示さず、終始一貫全然東亜の現実を無視した独善的抽象論を繰返すに過ぎないに拘らず、なおあくまで戦禍の太平洋地域波及を防止するために最後の瞬間まで局面打開を試みんとしたのでありまして、まったくこの趣旨に出たのであります。然るに米国側におきましては、われ等の妥協達成の熱意に対して遺憾ながら初めから共鳴応酬の態度を示さず、交渉は常に同一の概念論、原則論を中心として無限に回転するのみでありましたので、われわれは当時殆んど刻々に緊迫しつつありました危局を転換し、息詰る如き雰囲気を出来る限り緩和せんとする極めて実際的考慮から昨年十一月廿日附をもって一種の暫定案を提出いたしました。その内容は既に公表せられました通りでありまして、要するに資産凍結令、その他により著しく事態が悪化した以前の状態に一応引戻そうという趣旨でありますが、米国側はこれに対し十一月廿六日附をもって、三国条約よりの実質上の離脱、支那並に仏印よりの全面的徹兵、南京政府の否認、多辺的不可侵条約による華府会議体制の再建等、わが国の受諾到底不可能なること最初より明瞭なる諸点を含みましたノートを突きつけて参りましたので、交渉はここに最後の重大なる難関に逢着するにいたったのであります。」
これはもちろん、一方の当事者の記録で、しかも戦時中に出版されてあるから割り引いて考えねばならないが、いずれにせよ対米交渉は当初の10月上旬では見込みが立たなかった。ちなみに、来栖の書いているノートとは、ハルノートのことであるが、その内容については以下に原文がある。

開戦決意か交渉継続かという閣内意見不統一によって、10月16日に近衛内閣は総辞職、開戦を決意すべきとした陸軍大臣である東條英機が天皇によって次期首班に任命された。これは昭和天皇自身が開戦の決意をもっていなければ、近衛の後継者に東條を据えることなどありえず、その意思が明瞭にあらわれている。当時の内大臣である木戸幸一が、「『万一戦争になる場合でも戦争のできる内閣』を考えた」と敗戦直後に語ったように、東條内閣の誕生は昭和天皇および宮中グループが対米開戦の道を選択したことを示している。
そうした事態の推移によって、11月5日の御前会議決定となっている。
この御前会議は、「武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す」と具体的な戦争準備の日限を決めた。
昭和十六年九月六日御前会議決定された帝国国策遂行要領
帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾撥性に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に依り遂行す
帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
帝国は右に平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む
別紙
対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度
第一 対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項
米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
帝国の日支基本条約及日満支三国共同宣言に準拠し事変を解決せんとする企図を妨害せざること
ビルマ公路を閉鎖し且蒋政権に対し軍事的並に経済的援助をなさざること
米英は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること
日仏間の約定に基く日仏印間特殊関係を容認すること
泰、蘭印、支那及極東ソ領内に軍事的権益を設定せざること
極東に於ける兵備を現状以上に増強せざること
米英は帝国の所要物資獲得に協力すること
帝国との通商を恢復し且南西太平洋に於ける両国領土より帝国の自存上緊要なる物資を帝国に供給すること
帝国と泰及蘭印との間の経済提携に付友好的に協力すること
第二 帝国の約諾し得る限度
第一に示す帝国の要求の応諾せらるるに於ては
帝国は仏印を基地として支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること
帝国は公正なる極東平和確立後仏領印度支那より撤兵する用意あること
帝国は比島の中立を保証する用意あること
昭和十六年十一月五日御前会議決定
帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為比の際対米英蘭戦争を決意し左記処置を採る
武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す
対米交渉は別紙(甲案、乙案)に依り之を行う
独伊との提携強化を図る
武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立す
対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す
別紙 甲案
九月二十五日我方提案を左の通り緩和す
1.通商無差別問題
九月二十五日案にて到底妥結の見込みなき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す」と修正す
2.三国条約の解釈及履行問題
我方に於て自衛権の解釈を濫りに拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては従来?々説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
3.撤兵問題
本件は左記の通り緩和す
A.支那に於ける駐兵及撤兵
支那事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙疆の一定地域及び海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始治安確立と共に二年以内に之を完了すべし
(註)所要時間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途ろするものなる旨を以て応酬するものす
B.仏印に於ける駐兵及撤兵
日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す、現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし、尚四原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明なるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避するものとす
乙案
日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを確約す
日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとす
日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国政府は所要の石油の対日供給を約す
米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
備考
必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部に移駐するの用意あること並に日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は前記日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支なし
必要に応じては甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する既定を追加挿入するものとす

東條英機に総理大臣の大命を降下した昭和天皇であったが、その際首班奉請のための重臣会議で、開戦論の東條に責任を持たせて陸軍の強硬派を抑えるのがよいうという木戸内大臣の意見が通り、臨席した昭和天皇も「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と同意した。また、11月5日の御前会議で、「御上は説明に対し一々頷かれ何等御不安の御様子を拝せず」(杉山メモ)というように、昭和天皇は開戦の決意をさらに固めたのである。
このように、1941年(昭和16年)9月5日の段階で「勝てるか」と陸海軍の両総長に確認し、さらに翌10月に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と開戦論の東條英機を首班に任命したという行為は、昭和天皇自体が次第に開戦論に傾いていったことを証明するものであって、それは御前会議という「儀式」を経て国の方針として開戦が決意され、最終的には12月1日の御前会議にて米英蘭への開戦が決定されたのである。 
「聖戦完遂」の美名により国民に犠牲を強いた戦時統制経済
日本軍が蘆溝橋事件を契機として日中戦争を開始した1937年(昭和12年)7月以降、戦線の拡大は、同年12月の南京占領までに陸軍が戦時編成の16個師団を送り、対ソ戦の準備も並行して行われた。
日中戦争を進める一方、対ソ、対米英の戦争に備えて、軍備を拡張させるために軍事予算は一挙に膨張、北支事件費、臨時軍事費として1941年(昭和16年)末までに支出された戦費は223億円にのぼった。この軍需をまかなうために、国家総動員の経済統制が進められた。それを法制化したのが、国家総動員法である。国家総動員法は、1938年(昭和13年)4月1日第1次近衛文麿内閣の下で、国家総動員法が公布され、5月5日施行された。国家総動員法は、国家総動員を、事変を含む戦時に際し「国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」ことであると定義し、国家総動員上必要と認められる事柄について、政府が広範な統制を行えるよう定めた。
「銃後」をまもる国民にとっても、日中戦争、太平洋戦争の戦時統制経済は、大きな負担、犠牲を強いることになった。
その負担、犠牲は、学業半ばでの勤労動員、産業の民需から軍需方面への強制転換、中小企業の強制的な整理統合、「勤労報国」の実践など、枚挙にいとまがない。それを巨視的にとらえると、以下の表のようになり、年次を経ると国民総生産が上昇しているが、その内容は軍需中心となり、1944年には国民総生産の半分を超えることになった。
国民総生産の推移(単位:十億円、 1940年価格)
なお、太平洋戦争当時の国民総生産は、米国の約十の一。いかに、無謀な開戦であり、その経済力のなかで、大幅に軍需を拡大させていったことが異常なことであったことがよくわかる。そうした軍需中心の経済政策は、現実に企画院などで立案、実行されていった。
日米航空機の生産量も、1941年:日本5,088機、米国19,433機、1942年:日本8,861機、米国49,445機、1943年:日本16,698機、米国92,196機、1944年:日本28,180機、米国100,725機と、年次を経るごとに両国とも増加するが、日本を1として、米国は4ないし5と、格差は変わらず推移している。
こうした状況にも拘らず、開戦を決定し、しかも早くに終戦を決意できずに、戦争を継続した戦争指導層の罪は深い。 
戦後うやむやにされた天皇の戦争責任
昭和天皇は、太平洋戦争のみならず、日中戦争を含めた十五年戦争において、一貫して戦争遂行の最高責任者であり、陸海軍を統帥する高度に訓練された戦争指導者であった。
天皇は陸海軍を統帥する大元帥として、直接作戦に介入し、戦争指導を行ってきた。十五年戦争の期間において、参謀総長は5人交代し、軍令部総長は6人が交代したが、昭和天皇のみが大元帥であり続け、すべての情報が集中する最高の地位に座り続けたのである。
そもそも日本の軍隊は、軍人勅諭に、
「歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし」云々とあるように、天皇が兵権をもつ、天皇親率の軍隊であった。例え、大将、元帥といえども、大元帥たる天皇の命には逆らえず、戦争遂行もまた天皇の指導によって行われたのである。
さて、開戦論に傾いた天皇や取り巻きの宮中グループ、そもそも開戦論であった東條英機に代表される軍部によって、太平洋戦争の開戦が決定され、真珠湾攻撃や仏領インドシナへの電撃攻撃が行われて以降、緒戦の勝利に天皇も含め、殆どの日本国民が酔いしれてた。それも束の間、1942年(昭和17年)6月5日〜7日のミッドウエー海戦の敗北に象徴される大きな戦闘での敗北、南太平洋からの撤退などが重なった。戦争経済も、そのころから行き詰まり、サイパン陥落をきっかけに支配層での東條英機への不信感が高まると、重臣である岡田啓介が東條内閣の倒閣を画策、さらに木戸らの宮中グループも加わって、1944年(昭和19年)7月18日に、ついに東條内閣は総辞職した。これは戦争終結の好機でもあったが、天皇を含めた戦争指導部はそうはしなかった。後をうけた小磯国昭を首班とする内閣でも、ただ戦争を継続することが至上命題とされた。
太平洋戦争開戦論の中心人物の東條が、総理大臣をおろされても、国民には真相が伝えられず、また国民の側もそのころから大本営発表や政府声明が眉唾だと見抜くようになっていた。
戦局がいよいよ不利になり、米軍がフィリピンのレイテ島に上陸したのに対し、日本軍は決戦を挑んだが、敗退。1944年(昭和19年)10月23日から25日にかけてのレイテ戦の敗北で日本軍の太平洋の戦線はまったく崩壊した。そのころには、特攻隊の出撃や、絶望的な斬り込みなどが繰り返され、多くの犠牲者が出ている。本来ならば、一刻も早く終戦の交渉を行い、戦争を終結させるべきであったが、戦争指導者たちは惰性のごとく戦争を継続させていた。しかし、1945年(昭和20年)に入り、ドイツの壊滅が時間の問題となり、沖縄に米軍が迫ると、ようやく戦争終結のひそかな気運が高まる。しかし、それは天皇制を維持する、すなわち「国体護持」のためであって、戦線の敗退と戦禍によって塗炭の苦しみをなめていた日本国民の苦衷を思ってのことではない。
それは、1945年(昭和20年)2月14日の以下に掲げる近衛文麿の上奏文によって、象徴されるが、驚いたことに「敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」を恐れたのである。

昭和20年2月14日 近衛文麿の上奏文
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしど存候。
国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。
即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。我国民はソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。
ソ聯が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ聯は欧州に於て、其周辺諸国にはソヴィエット的政権を、爾余の諸国には少くも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。
ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼(ルーマニア)、勃牙利(ブルガリア)、芬欄(フィンランド)に対する休戦条約を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以って、内閣総辞職を強要いたし候。
瑞西(スイス)がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以って親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
米英占領下の仏蘭西、白耳義(ベルギー)、和蘭に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞はれつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。
独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。
ソ聯は、かくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ聯の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、共産主義者入閣・・・ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く・・・治安維持法及び防共協定の廃止等々)。
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。
職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以って、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。
此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。
かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。
以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。
戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。
尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思われ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。

そして、1945年(昭和20年)8月、天皇の地位の保障のみを条件とすべきという東郷茂徳外相の意見と、自主的な武装解除などの条件をくわえるべきとする軍の主張が対立し、終戦の決定ができないでいるうちに、8月6日に広島、8月9日に長崎には原子爆弾が投下され、またその間も特攻機は飛び立っていき、無益な血が流れて行った。
天皇は東郷茂徳外相の意見を採用して、終戦後の天皇の地位のみを条件として、降伏することとしたが、連合軍はあくまで無条件降伏を日本につきつけた。かくして日本は、ついにポツダム宣言を受諾して無条件降伏することになり、8月15日に昭和天皇のいわゆる「玉音放送」が行われ、軍人、民間人に同時に終戦が布告されることとなった。マッカーサー元帥が厚木に降り立ったのは、その2週間後。9月2日には米戦艦ミズーリの艦上において、重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らの日本全権団は降伏文書に調印した。
その後、天皇の人間宣言などや各種民主改革が行われたが、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも結局天皇を戦争犯罪人とすることはなかった。
それは日本を占領した連合軍が米軍を中心としていたため、アメリカの対アジア戦略が大いに占領施策に影響したのだが、そのアメリカが天皇の政治的、文化的影響力を温存し、それを対日政策に利用しようとしていたためである。連合国のイギリス、オーストラリア、ソビエト連邦、中華民国は天皇の戦争責任を追及、、とりわけオースラリアは天皇の戦争責任を厳しく追及しようとしたが、そうした連合国のなかにあって強い影響力をもったアメリカの指導層の意向により、戦争を指導した昭和天皇を訴追しなかったこと、さらには終戦直後には退位の意思もあった昭和天皇をその地位に止めたことは、東久邇宮内閣のときから天皇の戦犯訴追だけは避けたかった日本の支配層にとっては僥倖以外の何者でもなかった。それは、天皇を新憲法体制に組み込み、独特の日本型民主主義体制を作って戦後の日本と世界を支配したいというアメリカの対アジア戦略に基づいている。そこで、アメリカは、天皇は平和主義者で戦争遂行に関しては形式的な役割しか果たさなかったという「物語」作りのキャンペーンを大々的に展開し、これに反する議論は強力な検閲で禁止した。
こうして、戦争の最高責任者である天皇の責任を法的にも道義的にも不問に付したことは、終戦前からの日本支配層の戦争指導、遂行における無責任なありようとあわせ、日本人の戦争責任の意識を希薄にした。つまり、戦争犯罪(なかには戦後の軍物資隠匿・横領もあろう)も裁かれなければやり得、黙っていれば良いという考え方にもつながった。実際、公職追放となった政治家たちも、やがて続々と追放解除で復帰し、戦犯であった岸信介は総理大臣の任につくにいたった。また、戦争責任は、戦争指導部の中でも東條ら軍部の一部に限られ、戦時経済を推進していた軍需産業の財界人、官僚等の責任は殆ど不問にふされた。さらに、2000万人ともいわれるアジア民衆に対する戦争犯罪の責任追及が軽視され、それは判事団のうち3名しかアジア人がいなかったことにもあらわれるなど、極東国際軍事裁判は、アメリカ主導の政治的意図をもって進められ、日本人の手で戦犯を裁きたいという声は封殺されて、結果として裁かれない戦争犯罪人が多数存在することになった。
戦争責任に関する意識の希薄さは、南京事件など、アジア民衆への戦争責任、あるいは慰安婦や沖縄での「集団自決」などのもろもろの問題について、非人道的な言辞をもって、悪行を擁護する輩が、いまだに存在することにもあらわれている。 
戦争責任追及のドイツとの違い / 結びにかえて
第二次世界大戦で敗北した同じ枢軸国であるドイツと日本とは、ドイツについては、旧東ドイツの領域をソ連が、旧西ドイツの領域を米英およびフランスの西側諸国が占領したため、国自体が東西に分割されたのに対し、日本は樺太や千島などを除いて、ほぼ全国土がそのままとなったなど、大きく戦後の出発点が異なるが、戦争責任追及の在り方もかなり異なっている。
ドイツでは、敗戦によって、ドイツの国家体制もナチス党も崩壊し、旧ナチス党員であったものは、徹底的に追及された。同時に、ドイツの官僚制も、それまでの75%もの官僚が解雇され、補充を再雇用でまかなうことが行われ、ナチス政権を支え、協力してきた土台が替えられた。ナチスが行ってきた悪行が、ドイツ国民の手で明らかにされ、ナチス的なものは徹底して排除された。それは新生ドイツとして、生まれ変わるためであり、国歌さえメロディーは同じでも歌詞は書き換えられたのである。
かたや日本はといえば、米国を中心とした連合国の占領下に、新憲法の制定を中心とした民主化改革を進めたが、新憲法自体、大日本帝国憲法を改正したものであり、「象徴」の名のもとに天皇制の存続を認め、天皇の国事行為さえ定めるというものであった。さらに、軍隊は一応解体したものの、官僚組織はそのままでとされた。日本の戦争指導者、支配層が、終戦の際に、もっとも拘ったのは天皇制の維持であり、ポツダム宣言を日本政府が受諾したときの条件は「国体の護待」に他ならなかった。
そして、戦争責任を日本政府自ら明らかにし、これを追及しようという熱意は、殆どなく、東久邇宮首相の「一億総懺悔論」に代表されるように、責任の所在を明確化せず、あいまいなままにしておくことが横行したのである。これは一般大衆においても、「勝てば官軍、負ければ賊軍」といったように捉えるむきもあり、米国の占領施策や支配層の意向ばかりとはいえないものがある。
しかしながら、戦争責任を明確化し、二度と戦禍を繰返さないことは、日本国民の将来を保障するだけでなく、アジア、とりわけ近隣諸国との友好関係を保ち、国際貢献していくうえでも重要である。具体的には、国の政策、施策として、以下のようなことが追及されるべきであろう。
学校教育における反動化を廃し、日本の侵略戦争が引き起こした惨禍について事実に基づいて正しく教育する。
戦争遺跡の保存、戦時体験の伝承について、現在の法律の改正も視野にいれ積極的な支援をおこなう。
地方自治体とも協力して、戦争の悲惨さ、戦時の困難な生活などをリアルに伝えるイベントを定期的に開催、もしくは常設の戦争資料館をつくり、展示や解説をおこなう。
南京事件やシンガポール華僑虐殺事件などへの視察を学校や青少年団体に推奨する。
その他、啓蒙活動を積極的におこなう。 
 
大東亜共栄圏と西田幾多郎

 

大東亜共栄圏が日本の太平洋戦争の大義だった。そして日華事変でこの大義は叫ばれなかった。理由は明白だろう。日華事変と太平洋戦争は陸軍が考えるように連続していない。そしておそらくこの大義や東亜新秩序によって太平洋戦争が開始されたわけではないのだろう。近衛文麿がこの標語の主唱者であり、東條英機がそれを継承した。
これの思想的基盤はすなわち世界がブロック化されるのが必然的な流れであり、日本を盟主とする東亜ブロックはその流れの一つである。そして世界が数ブロックに分かれた後、恒久平和の世界連邦が形成されるとする。
これはただの迷信であるが、現在でもEC(かつてのコメコン諸国なども)などをみて同様の主張がなされる。これは広域帝国の主張にすぎず、スターリンやブレジネフが夢想した東ヨーロッパ帝国もその一種である。ECは自由貿易圏の中途半端なものに過ぎず、かつてのドイツ関税同盟とかわる所はない。そして連邦や帝国の第一歩では決してない。そこには戦争という名の暴力が介在するからだ。そして近世の歴史とあらゆる人々の苦悩を巻き込んで成立した自由や平等とブロック国家の出現は矛盾し、連邦がその名前を越え政治権力をもてば、官僚組織による圧政に陥る。
そして実現してもスターリンの帝国で典型的にみられたように、それは暴力と退歩の世界となる。歴史について必然を主張する人々の背後には暴力を必要悪として認める思想が隠されている。つまり必然だからその実現に関しては暴力の行使が許されるという見方である。
この論理はしかし日本的で、おそらく儒教的な中華思想、すなわち中華民族による天下統一という理念が頭にあるのだろう。近衛は元来中華趣味をもっており、京都大学で西田幾多郎(哲学)や河上肇(経済学)の影響を受けていた。
下の文章は西田幾多郎の大東亜戦争賛歌である。ただし全集からは消去されている。 
世界新秩序の原理
要旨
真の世界平和は全人類に及ぶものでなければならない。しかるにかかる平和は、世界史的な使命を自覚せる諸国家、諸民族が、先ず地縁及び伝統に従って一つの特殊的世界即ち共栄圏を形成し、更に共栄圏が相協力して真の世界即ち世界的世界を実現することによってしか到達されない、そしてかかる共栄圏の確立及び各共栄圏の協力による世界的世界の実現こそは、現代の担っている世界史的課題である。
大東亜戦争は、東亜諸民族がかかる世界史的使命を遂行せんとする聖戦である。歴史が炳として(明らかに)示す如く、飽くなき米英の帝国主義は東亜諸民族を永く足下に蹂躙してその繁栄を阻止し来った(して来た)。この米英帝国主義の桎梏を脱し、東亜を東亜諸民族の手に回復する道は、東亜諸民族自らが、共通の敵米英帝国主義の撃滅、根絶を期して結束する以外にない。すなわち大東亜戦争を完遂して東亜を保全し、東亜共栄圏を確立して共栄の楽を偕にすることが、現代東亜諸民族の第一の歴史的課題である。
今や志しを同じうする独、伊、その他の諸国は欧州の天地に新秩序を建設すべく勇敢に闘っている。亜欧両州におけるこの二大事業の完成する秋、真の世界平和を招来すべき世界的世界は実現するであろう。東亜共栄圏を通じて世界的世界の実現に努力すること、これが東亜諸民族の第二の歴史的課題である。
解説
世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、歴史的必然を以って推移する。
今ヨーロッパの最近世について見るに、一八世紀は個人的自覚の時代、いわゆる個人主義、自由主義の時代であった。一八世紀に於いては未だ一つの世界的空間に於いての国家と国家の対立というまでに到らなかった。大局から云えば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云い得るであろう。しかるに一九世紀の世界的空間に於いて、ドイツがフランスとが対立し、更に進んで植民地を含む一層大いなる世界的空間に於いてドイツとイギリスとの一大勢力が対立するに到った、これが前世界大戦の原因である。一九世紀は国家的自覚の時代、即ち国民主義の時代であった。しかしながらこの国家主義には、未だ国家の世界史的使命の自覚がなかった。従って一九世紀の国家主義は帝国主義となって発展した。即ち、各国民が、何処までも他を従えることによって自己自身を強大にすることが、歴史的使命と考えられたのである。
しかるに、国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つ限り、資本主義的傾向を採らざるを得ないのであり、従ってまた階級闘争の出現を免れない。一九世紀以来の世界が、帝国主義の時代たると共に階級闘争の時代でもあった所以である。しかしながら、階級闘争を主張する共産主義は一面に於いて全体主義ではあるが、その原理は、一八世紀の個人的自覚による抽象的世界理念の思想に基づくものである。思想としては、一八世紀思想の一九世紀的思想に対する反抗と見ることもできる。故に共産主義は今日に於いては、帝国主義と共に過去に属するものであり、従って新たなる世界史を形成する指導原理たる資格を喪ったものである。全体主義はかかる指導性を喪った帝国主義及び共産主義に対する反撃であって、一方帝国主義の侵略に抗すると共に他方共産主義による内部攪乱に備えんとしたものである。全体主義が国民の全体性を強く主張したのはその為である。
今日の世界は、世界的自覚の時代である、各国民が、各自世界史的使命を自覚することによって、一つの全く新しき時代、換言すれば、世界史的世界即ち世界的世界を構成しなければならない時代である。前世界大戦の終了と同時に世界は現にこの段階に入ったのである。今次の世界大戦はその発展たるに過ぎない。
過去の世界に於いては、各国家各民族は、地理的制約の為に十分連絡づけられていなかった。しかるに科学の進歩は交通の発達を促がし、その結果今日に於いては、近接する諸国家諸民族が一つの世界的空間に於いて緊密なる関係の置かるるに到った。かかる世界的空間に於いて強大なる国家と国家が対立する場合、世界は当然激烈なる闘争に陥らざるを得ない。そしてこれを解決する途は、各国家が世界史的使命を自覚し。各自自己に即しつつ自己を越えて一つの世界的世界を構成する以外ない。現状を以って国家民族の世界的自覚の時代という所以である。
注=特に民族と云うは、蒙古、仏印、ビルマ、フィリッピン、印度及び南方諸民族を考慮せるためである。
しかしながら各国各民族が自己に即しつつ自己を越えて一つの世界を構成すると云うことはウィルソンの主張せる国際連盟に於いての如く、各民族の現実的能力を考慮せずして、何れの民族に対しても一律平等に独立を与えんとすることではない。凡ての民族に対し無差別平等に独立を与えることは、却って民族の為に考えざるものである。如何にして弱小民族を育成するかが問題である。かかる民族主義の考える世界は十八世紀的な抽象的世界理念に過ぎない。かかる思想によって現実的課題の解決の不可能なることは、今次の世界大戦が証明するところである。
事実に於いて、凡ての国家凡ての民族は、いづれも固有の歴史的地盤に成立したものであり、従ってそれぞれ固有の世界史的使命を有するものでなければならない。そこに各国家各民族が各自の歴史的使命を有するのである。故に各国家各民族が一つの世界的世界を構成するということは、国家及び民族が各自に即しつつ自己を越えて、それぞれの地域、伝統に従って先ず一つの特殊的世界即ち共栄圏を形成し、斯くて歴史的地盤から構成された特殊的世界が相結束して、更に一つの世界的(世界全人類を含む世界)を構成することである。かかる世界的世界に於いては、各国各民族が各自の個性的生命に生きると共に、自己の構成する特殊的世界(共栄圏)を通じて、一つの世界に結合するのである。これが今次の世界大戦によって要求される世界新秩序の原理でなければならない。
今次世界大戦の課題が斯くの如きものであり、世界新秩序が斯くの如きものであるならば、東亜共栄圏の原理も自ら此から出てこなければならない。従来東亜諸民族は米英の帝国主義の為に蹂躙せられ、各自の世界的使命を奪われていた。今や大東亜戦争と共に、東亜諸民族は何れもその世界史的使命を自覚し、各自自己に即しつつ自己を越えて一つの特殊的世界、即ち東亜共栄圏を構成し、以って真の平和を招来すべき世界的世界を実現しなければならない。日本民族は、世界的使命の自覚における先進であり、大東亜戦争はこの世界史的使命遂行の烽火である。日本民族が、一億一心如何なる犠牲をも恐れず、国運を賭して戦争遂行に直進しつつあるのは、東亜共栄圏の確立が、アジアを救うと共に、全人類に光明を与うるものであることを確信するからである。然しながらこの確信は単に我等日本人だけではない。我等の声に応じて、欣然大東亜戦争に参加した東亜諸民族に於いて共通である。
更にまたドイツ、イタリアを始め枢軸側諸国は、ヨーロッパ新秩序を建設する為に勇敢に戦いつつある。ヨーロッパ新秩序の完成と共に、世界新秩序の完成に寄与するものであることは疑いを容れないのである。
重ねていう、大東亜戦争に伴う東亜共栄圏の確立は、一つの新しき世界、換言すれば世界史的世界の形成に到る第一過程である。皇道を表明する八紘為宇の理念は、かくて世界的世界形成即ち世界史的世界形成の原理として理解されるのである。世界史的世界形成主義即ち新世界主義こそは、米英帝国主義を克服する使命を担うものである。 
西田の悪文
この文章を最後まで読んだ方は相当に忍耐強い。西田の文章の冗長さと繰り返しは常態だが、この文章はとりわけ悪文である。解説のなかだけで「世界」という文字が55回出てくる。
ところがこの傾向は実は西田に限られていない。ヒトラー、ローゼンバーグ、ゴットフリート・フェーダーなどドイツ国家社会主義党(NSDAP)の論者にも共通する。ヒトラーは「摂理」を繰り返す。すなわちユダヤ人差別などを肯定する際に、それは摂理だと強調するわけである。
西田にとり現在の「世界」は必然的にある未来の「世界」に向かうとする。つまり地球がブロック化し世界連邦となり永遠の平和が達成される。この流れは必然であり諸民族が参加せねばならないとする。それを阻むものは(ユダヤ人やソ連共産主義でなく)米英帝国主義だとする。英はともかくフィリッピンに独立を約束した米が帝国主義だというのは珍しい論旨だが当時の(現在も極右・極左の多くの)日本人はそう思い込んでいた。 
世界連邦
西田はいわば恒久平和の世界連邦実現の1ステップとして、現下の世界大戦完遂を訴えた。
これもよくある論理で現在でもブロック経済は必然だとか、国境をとりはらった国家連合=共栄圏を作ろうと、まともな教育をうけた人間が臆面もなく主張する。歴史が必然だと主張する人々の論理は西田に限らず武力行使を肯定する、即ち暴力を容認する。ところが国境は歴史によって裏打ちされており、歴史が必然的に動くなどという論理よりは重い。近世の人間は金銭や食糧よりも理念で動かされる。しかし各国の歴史も覆すことができない事実を背負っている以上、単なる頭の中の未来よりも重い。そして民主主義や現在の繁栄はあくまでも一国の中で成立しているに過ぎない。
世界連邦は共和制をやるのか、誰が指導者となるのか、それとも民主主義は無視するのかという簡単な疑問により覆される。もし地域主義が出てくれば、その単位での民主主義は成立しない。これは現在の国連への疑問と同一である。
戦間期や終戦後しばらくこの世界連邦という空想は日本人に非常にによく受け入れらた。あまり論理的に説明されたものはないが、世界共通語とか世界宗教などの奇妙な概念が流行した。西田のいうように国家や国民は歴史を背負って現在生きている。それだからといって歴史に逆らって悪いことはない。例えば朝鮮民族が日本にその本貫の地を植民地とされたからといって、その歴史に逆らって独立運動を展開することは悪いことではない。そして現在の朝鮮人が日本人に植民地化したことは悪いことだと非難しても、日本の歴史が悪いことにはならない。すなわち歴史とは現在の人々との対話でなく過去の人々との対話でなされるべきで、そしてそこに善悪があったとしても人々の心の中を支配するだけである。つまり過去隣国に虐待されたとしてもそれについて忘れないのは自由だが損害賠償を要求したり復仇戦争を開始することは違う話で現代の政治=外交に属することだ。同様に現在異民族のいる地域を支配しているからといって、それを不可分の領土として永遠のものとして固定することなど許されない。
世界連邦とは心の中の話であり、それの実現のために国政を動かしたり武力行使するのはインテリの妄想である。心の中のことをを公的なことに出さないのが啓蒙主義であり西田の嫌う十八世紀の個人主義である。 
マルクス主義者亜流としての西田
この必然論はマルクス主義の影響をうけている。つまりマルクスは階級闘争が歴史の原動力だとするが、西田はそれを一旦肯定し、それを国家間(=国民間)の戦争に止揚せねばならないという。このような雑駁な論理に反論は不要だろう。
そしてマルクスの最大の主張、唯物論を肯定する。唯物論は日本マルクス主義者に言わせれば奥が深く常人には理解しがたいものらしいが、ここでは簡単に理解する。つまり人間が戦争(革命・内乱)に駆り立てられるとすれば、それは明日の食事や職、賃金によってに違いないと即断することである。これはインテリの労働者蔑視から来ている。つまり労働者は左様に動くが自分達はその行動をつかみ指導するのだという思い上がりである。
西田はインテリとしてマルクスに同意した。 
西田の呼びかけは表面に出ることがなかった
聖戦完遂を訴える西田の呼びかけはしかし表面に出ることがなかった。つまりこの文章は陸軍省の求めに応じたものだが、陸軍省はボツにした。これはなぜだろうか。西田の呼びかけはマルクス主義的な歴史必然論に軌範が置かれているだけで力がないからだ。つまり侵略戦争=敵に第1弾を撃つ、の呼びかけは簡単なものではない。ヒトラーは独立ポーランドを崩壊させることにより第二次大戦を開始した。この時ヒトラーは謀略を使いポーランドが先に侵攻したのだと外観を取り繕った。そしてソ連と戦端を開始した時は、スラブ人よりドイツ人の方がより文明的であると差別を拠り所とした。
真珠湾を攻撃についてこの種の言辞を弄することは難しい。戦争開始のさい国民に奮起を呼びかける言葉は「今、敵がこの美しい国土を蹂躙しようとしています。愛する祖国と愛する家族を敵の手から守るため諸君がその義務を果たすことを期待します。」というものが一般的だ。明日の賃金を守れとか、明日君が耕すことができる土地がそこにあるとかの呼びかけに力はない。つまり国民は敵に侵略されない限り容易に銃をとることはない。そして多くの軍人は誤解するが歴史上侵略される事態に立ち至るとそれまで最も頑強に反戦を主張していた人々が最も徹底的に戦おうとする。多くの侵略者はこれを事前に予見できず失敗する。
東條は大東亜共栄圏と自存自衛を開戦の理由として選んだ。自存と自衛は一致しないがともかく防衛戦争だと主張することが得策だと思ったのだろう。 
それでも西田は弾圧された
ところが西田は陸軍東京憲兵本部とそこに巣食う文化人に付け狙われた。
弾圧の中軸をなしたのは役所の30代の若手の課長補佐と呼ばれる階層の人々だった。手始めに西田門下生の三木清を投獄し拷問にかけ殺害した。これにたいした理由はない。あるとすれば東條への忠誠心争いのようなもので個人の栄達を狙ったものである。これらに手をくだした人々は戦後責任を問われることもなく、一部は革新陣営に走った。教科書問題を始めに問題にした人物もこれに該当する。また社会党の代議士となった人物もいる。これは本当に恐ろしいことである。
彼らは自分で犯した犯罪を反省するどころか、その後も他人に攻撃的であり続けた。誰でも高校生の世界歴史の教科書をみればすぐにわかる。そこには第一次大戦は帝国主義の戦争であり市場を求める大会社がひき起こしたと書かれている。大会社(営利会社)がひき起こす戦争などこの世に存在しない。
もちろん彼らが太平洋戦争を引き起こしたのではない。むしろ近衛や東條の大東亜共栄圏の思想が一定の影響を与えたというべきだろう。また彼らは教育界などの狭いサークルを除けば現在全く影響力はない。しかしこういった事実が存在したことは歴史の一部であり忘れられることはないだろう。
最後に奇妙な事実がある。西田の逮捕手続きは実際になされたが、それを止めたのは東條の一の子分佐藤賢了だった。
現在でも満州事変(日華事変?)からまたは真珠湾からの戦争を大東亜戦争と呼ぶべきだと主張する人々は絶えることがない。歴史的呼称であり当時の政府がそう呼ぶと主張したことは事実である。しかしその呼称の背後にこのような主張がなされたことを承知しているのだろうか? 
西田幾多郎 
京都の銀閣寺近くの疏水沿いに「哲学の道」という小径がある。西田幾多郎が思索に耽りながらこの道を散策したと言われている。「人は何のために生き、何のために死ぬのか」という問いに取り組みながら、散策したのであろう。西田は「人生」と格闘し、その問いを考え続けた学者である。
四高を退学
西田幾多郎は、「西田哲学」と呼ばれる独創的哲学を打ち立てた哲学者である。また京大教授として、中村元、和辻哲郎など優れた学者を育成したことでも知られている。こうした外面的には華やかに彩られた彼の人生ではあったが、家庭的には不遇の連続で、深い苦悩に打ちのめされていた。偉大な彼の哲学は悲哀の中から、生まれたのである。
1870年5月19日に石川県河北郡宇ノ気村(現在のかほく市)に、代々の大庄屋(農民を治める代官)であった父得登と母寅三の長男として生まれた幾多郎の人生のつまずきは、第四高等中学校(四高)の時に訪れた。もともと校風は質実剛健ではあったが、師弟の間は親しみに溢れ、全体が一つの家族のような温かみのある学校であった。そこに薩摩出身の校長が派遣され校風は一変した。たちまち規則ずくめの武断的学校に変わってしまったのである。
西田は、規則ずくめで息苦しい学校に耐え難くなった。興味をひく講義もない。その上、彼が師と仰ぐ北条時敬も一高に転任し、尊敬すべき教師もいなくなった。すっかり嫌気がさしてしまった彼は、四高を退学してしまう。そこに眼病が重なり、読書することもできない悶々とする日々が続いた。初めて味わう人生の挫折であった。
東大選科へ
絶望のどん底にうち沈む西田を励まし、背中を押してくれたのが母の寅三であった。当時、夫が破産して土地を売却したお金から西田の学費を捻出し、学問のために上京を促してくれたのである。21歳の西田は、東京帝国大学文科大学哲学科選科を受験した。
晴れて入学を果たしたものの、選科生というものは実に惨めなものであった。本科生との差は歴然としていた。図書室の閲覧室で読書することもままならず、図書の検索も許されなかった。卒業しても、卒業資格もなく、学士号も賦与されるわけでもない。当然、就職も厳しい。今で言う聴講生に似た立場である。その上、四高にいた同窓生が本科生として入学していた。彼らから下に見られる屈辱に耐えなければならなかった。しかし、四高を中退した西田が学問を志すには、選科生なる他に選択肢はなかったのである。
彼は「なんだか人生の落伍者となったように感じた」と述べているが、元来が負けず嫌いの西田である。その屈辱をバネにして3年間、必死に勉強した。幸いであったのは、選科生は何事にもとらわれることなく、自由に勉強できることであった。後の大哲学者は、選科生であったからこそ、生まれた可能性がある。
恩師と禅
運良く新設の石川県立尋常中学校七尾分校の主任として採用された西田は、倫理、英語、歴史を担当した。翌年には四高のドイツ語担当の嘱託として採用された。しかし、四高内部の腐敗問題が雑誌で暴露されたことで、学内は大きく揺れ動いた。新たに着任した校長は、改革に取り組む様子はなく、それどころか改革派と目された西田らを解任してしまった。西田は2年前に寿美と結婚しており、すでに長女弥生が誕生していた。経済的なゆとりのない彼は、27歳にして絶体絶命の危機に直面した。
その危機を救ったのは、恩師北条時敬である。山口高校の校長であった北条は、窮地の教え子を救うべく西田を山口高校に招聘したのである。その後、北条が四高の校長に転出したのを機に、西田も北条の招きで四高の教授に就任した。こうして、敬愛する北条のもとにあって信頼も厚く、西田は大きな試練を克服した。心の動揺や不安は解消され、落ち着いて学問に取り組む心構えができたし、自己の内面を見つめ、深く自己を内省する人間に成長した。まさに北条は西田にとって人生の師であり、大恩人であった。
また元来が我執の強い西田を救ったのは、坐禅であった。友人鈴木大拙(禅僧)の影響もあったであろう、自己の内に去来する妄念との葛藤に苦しんだ彼は、心の統一を激しく求め、坐禅に打ち込んだ。そして、「無」の境地を目指してきたのである。その「無」を哲学することに、西田自身の人生があったと言っても過言ではない。
苦悩と悲哀
西田の代表作『善の研究』が刊行されたのは1911年2月、40歳の時である。この著作は最初の精魂込めた苦闘の研究成果であり、「明治以後、邦人の手になる最初のまた唯一の哲学書」との評価を得た。京都帝国大学の助教授(倫理学担当)として招かれた直後のことであり、それも語学ではなく哲学を講じたいという願望が叶った招聘であった。西田の前途は洋々として開かれているように思われた。
しかしながら、過酷な試練が次々に西田を襲ったのは、この京大時代の半ばからであった。44歳で京大哲学科の主任教授となり、押しも押されもせぬ哲学科の中心的存在となって4年目、京都に移って8年目のことである。平安な時代が終わりを告げ、暗澹たる悲哀と苦悩の日々が突然、西田一家に襲いかかった。まずは母寅三の死である。元来が家族愛の強い西田である。特に最大の心の支えであった母の死は、思い出すことすら耐え難い苦痛となった。しかし、この不幸は、彼の苦悩と悲哀の人生のほんの序章に過ぎなかった。
亡き母の一周忌を執り行った直後、突然妻の寿美が西田の名を呼びながら、そのまま人事不省に陥ってしまった。脳溢血である。妻は1925年の死までの6年間、病床の人となった。西田家の生活は、たちまち暗い不幸のどん底に突き落とされてしまう。育ち盛りの男の子2人をはじめ、まだ手のかかる女の子4人(他2人は夭折)をかかえ、西田は途方に暮れた。日記に「当惑かぎりなし」と書き、ただおろおろするばかりであった。妻が病床に伏した西田家の様子を次男が書き記している。「襖は破れ、戸障子は自由に開かず、畳は汚れる有様であった」と。惨憺たる実生活がうかがい知ることができる。
妻が倒れた翌年、さらなる不幸が襲う。長男の謙が腹膜炎を患い、心臓内膜炎を誘発してしまい、22歳の若さで命を失った。謙は当時、三高在学中で西田は格別な期待を長男に寄せていた。彼の落胆ぶりは計り知れない。西田は日記に書いた。「天はなぜにかく貧弱なる一老学究を苦しめるのか」。
長男を失った翌年(1921年)のことである。三女の静子が母の看病疲れのせいか、結核を発病。長く安静が必要となる。その翌年には、四女の友子と六女の梅子が、苺を食べて倒れ込んでしまった。友子は一時絶望的状態になったが、何とか危機を脱したものの、高熱に冒されたために脳に障害を残すことになった。まるで呪われているかのように、次々と不幸が襲う。西田の憂苦は尽きることがなかった。その頃、飼っていた猫が死んだ。西田は書いた。「猫も死んでしまった」と。辛く悲しい心の内が伺える。
「西田哲学」
西田はこの苦境を耐え抜いた。崩れ落ちるわけにはいかなかったのだ。学問上の完成を目指していたし、何よりも家族を守らなければならなかった。その頃、西田は「何もかも忘れて学問に逃避するのだ」と語っている。何かに没頭しなければ、悲嘆の中で押し潰されていたことだろう。
後に「西田哲学」と称される学説は、多難な家庭の苦境を通して生み出されたものであった。悶絶の苦しみの中で、西田の心はひたすら内に向かい、彼の思索は独自の境地を切り開いていった。彼は、「人生の不幸ほど、人生を深くするものはありません。真の宗教も哲学もここからと思います」と語り、「哲学の動機は驚きではなく、深い人生の悲哀から始まる」とまで言い切るのである。「悲哀の哲学者」と言われたゆえんである。
西田はしばしば故郷の能登などの海辺に出かけ、じっと沖を見つめながら物思いに耽っていたという。波の音さえかき消すような深い静寂。そんな時、人間を超えた大いなる存在の懐の中に生かされていると感じることができた。苦悩の底から垣間見られる一時の安らぎ。悲哀は個々の思いを超えて、天の運命にまで通じていると実感する瞬間であった。
西田哲学の中心思想である「絶対無」や「絶対矛盾的自己同一」とは、すなわち彼自身の宗教体験を言葉にした概念に他ならない。自己の内に自己を超えた永遠なるものがあり、自分とそれは別々のようであって、実は一つである。西田は坐禅を通して、こうした境地を学んでいた。悲哀と苦悩の体験の中でそれを体感するに至るのである。
西田は、理論理性の限界を突き詰めながら、その限界の向こうに「意志」(神的なもの)を認めようとする。彼の哲学が批判されたゆえんであった。しかし、それは彼の苦悩と悲哀の人生から生まれた実感がもとになっていたのである。西田は言う。「偉大なる信念の根底には、常に偉大なる見神(神を感知すること)あることを」。
1945年6月7日、終戦の直前、西田幾多郎は75歳の生涯を終えた。彼の子ら8人の内、父よりも長く生きたのは、わずか3人に過ぎなかった。次男外彦は「人の死に対する父の思いは、著作の一編に現れている。今の自分はこれを読むに堪えない」と語っている。苦悩に満ちた人生と哀れなまでに格闘していた父の姿が、脳裏に焼き付いて離れないからであろう。しかし、西田が繰り返し物事の「深さ」を求めるとき、それはきまって耐え難い困難に直面しているときであった。日本を代表する偉大な哲学は、悲哀と苦悩の人生の中から生まれたのである。 
 
近衛文麿と東條英機の対決

 

近衛公手記『平和への努力』(一)日中戦争に就いて、(二)三国同盟に就て、(三)日米交渉に就いて、(四)覚書、の四偏に補遺として、(一)平沼内閣総辞職より阿部内閣成立まで、(二)阿部内閣総辞職より米内内閣成立前後、の二篇を付加したものである。日本新生の根基となるものは、開戦の経緯並に敗戦の原因を徹底的に究明し、これに基いて深刻な目己反省をすることにある。近衛公は或る意味で近代日本の気品と理性の象徴であった。公に日中戦争以来、軍部と政界が激成しつつあった日本の不幸を冷静に観察し、これを回避しようと絶えず努力したと思わわる。しかも公の人柄は、敢然身を挺して彼等を清掃する戦を、克く成し遂げ得なかった。そこに公の脆弱性があり、更に公の悲劇と日本の悲劇が胚胎したことが悲痛に回想される。そしてそれだけに、激動のさ中に立って独り苦悶する公の手記は、この間の事情を語り尽くして余りない。
近衛文麿
明治24年10月12日〜昭和20年12月16日 (1891〜1945) 東京生まれ。政治家。五摂家筆頭の家柄で、父は公爵近衛篤麿。京都帝国大学で河上肇に学ぶ。大正5年(1916)貴族院公爵議員。西園寺公望の随員としてパリ講和会議に出席。昭和6年(1931)貴族院副議長、8年(1933)に同議長に就任。12年(1937)第1次近衛内閣を組閣。同年7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入したが、新体制運動の中心人物として以後3次にわたり首相をつとめた。15年(1940)大政翼賛会設立、日独伊三国同盟締結。戦後、A級戦犯の容疑者として、逮捕直前に自殺。
東条英機
明治17年12月30日〜昭和23年12月23日 (1884〜1948) 東京生まれ。陸軍軍人、政治家。父は陸軍軍人東条英教。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。昭和12年(1937)関東軍参謀長、翌年陸軍次官となり、能吏ぶりを発揮して「かみそり東条」といわれる。航空総監兼航空本部長を経て、15年(1940)第2次、第3次近衛内閣の陸相。16年(1941)近衛文麿に代わって首相に就任し、陸相、内相を兼任した。対米英戦での初期の作戦成功を背景に、17年(1942)立候補者推薦制度による翼賛選挙を行う。それにより議会は形骸化し、独裁的な戦時体制が強化された。19年(1944)2月参謀総長を兼務したが、戦局の悪化に伴い重臣内部の批判が高まり、7月には内閣総辞職となった。敗戦後、自殺を図ったが失敗。極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となった。  
日米交渉に就いて(昭和十九年四月談話筆記)
諸言
近衛内閣に於ける日米交渉は、昭和十六年四月より十月迄半年の長きに亘り継続された。
交渉は最初より極秘に進められたが、漸次外部に洩れると共に種々の勝手な臆測が行はれ、之を基礎として凡ゆる批難攻撃が政府に集中した。
然も余は最後まで交渉成立の望を捨てず、専心之に向って努力を傾注した。
それは日米の衝突を極力回避せねばならない理由があったからである。
第一はドイツとソ連の戦争勃発である。
第二は我海軍首脳部の意向である。
第三は物資関係である。
第一に三国同盟は日独伊三国の連携を前提として締結されたのである。
然るに独ソ開戦によってこの前提が覆り、ソ連は英米の陣営に入り、我国は米ソ両国を敵とすることになる最悪の事態に直面するに至ったのである。
尚この事に就いては別稿三国同盟を参照されたい。
第二は海軍の意向である。
三国條約締時に付いては、余は海軍が容易に賛成しないと思って居たのである。
これは平沼内閣当時からの海軍の態度から見て当然予想されることである。
吉田海相が組閣当初に於て三国枢軸強化ということには同意した。
然しながら進んで軍事上の援助を含む三国同盟となっては海軍として大問題である。
果して吉田海相は大いに煩悶したらしい。そして心臓病が昂じ俄かに辞職した。
然るに及川大将が海相となるや直に海軍は三国同盟に賛成したのである。
余は海軍の余りにあっさりした賛成振りに不審を抱き、恩田海軍次官を招いてその事情を尋ねた。
次官曰く「海軍としては実は腹の中では三国條約に反対である。然しながら海軍がこれ以上反対することは、最早国内の政治事情が許さない。故に止むを得ず賛成する。海軍が賛成するのは政治上の理由からであって、軍事上の立場から見れば未だ米国を向うに廻して戦う丈の確信はない」
余曰く「これは誠に意外な事を承る。国内政治のことは我々政治家の考えるべきことで、海軍が御心配にならんでもよいことである。海軍としては純軍事上の立場からのみ検討されて、もし確信なしというならば飽く迄反対されるが国家に忠なる所以ではないか」
次官曰く「今日となっては海軍の立場も御了承願いたい。只この上は出来るだけ三国條約に於ける軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によって之を防止する外に道がない」
その後暫くして連合艦隊司令長官、山本五十六大将が上京したので会見した。
同大将は最強硬なる同盟反対論者で、平沼内閣当時、米内海相が頑強に三国條約に反対したのも当時の次官だった山本大将の補佐が与って力があったと思われる。
余は大将に、豊田次官よりかくかくの話があると述べると、大将は「今の海軍本省は余りに政治的に考え過ぎる」と言って痛く不満の様子であった。
余は日米戦争の場合大将の見込如何を問うた処、同大将曰く
「それは是非やれと言われれば、初めの半年か一年の間は随分暴れて御賢に入れる。然ながら二年三年となれば全く確信は持てない。三国條約が出来たのは致方ないが、かくなる上は日米戦争を回避するよう極力御努力を願いたい」とのことであった。
これで海軍首脳部の肚は解ったのである。
海軍の吐がかくの如しとすれぱ、三国條約の実際の活用は余程慎重にやらねばならない。
たとえソ連が同盟側に付くとしても海軍の考がこうである以上、日米衝突は極力回避せねばならない。
日米交渉の始るや、最初は陸海軍共熱心にその成立を希望した。
しかし八月頃になると陸軍の熱意は次第に少くなった。
かかる節にも海軍首脳部の意向は依然として変らなかった。
海軍中堅以下には漸次に硬論が台頭して来たことを耳にしたが、之を首脳部に質すと首脳部は何時も事も無げに「かかる盲動は之を鎮圧する」と言った。
連絡会議に於て軍令部総長は「米国と丈なら何とか戦う自信はある。しかしソ連が加わり、北にも南にも作戦するということになると確信はない」と明言した。
十月に入り、内閣総辞職の直前にも海軍首脳部の肚は依然交渉継続論であった。
只陸軍との関係、部内の関係から表面には之を口にせず、首相一任という形を採ったに過ぎないのである。
第三には物資関係である。
物資、殊に軍需の英米依存は我が一大弱点であって、之を脱却することの可能性に就ては、第一次近衛内閣当時からしばしば企画院に命じて調査研究させたのであるが、その結果は何時も”不可能”であった。
日米交渉の一項目である日米通商関係の正常化、及び南西太平洋に於ける経済活動ということも、その主たる目的はこれ等物資の獲得にあったといい得るのである。
然るに交渉進行途上に於て資産凍結令の発動あり、これ等物資の獲得補給が全然不可能となったので、問題は更に切実さを加えたのである。
この侭に推移すれば我が貯蔵物資は漸減し、所謂ジリ貧状態となる。
即ち”対米開戦は一日一刻も早いのが可とする”とは、主戦論者の主張の根本的な理由であった。
この軍需物資のジリ貧状態に陥ることを防ぐ為には、日米交渉の成立によって物資獲得を自由ならしめるか、国内生産を増強して少くとも軍需を充足させる外ないのであって、政府が日米交渉の成立のために熱意を傾注した理由の主なる一つはここにもあったのである。
日米交渉が逼迫した際、更に企書院総裁に命じて調査させた所、その報告は、
「問題は石油だけでその他の物資は何とかなること、石油にしても人造石油事業に二十億円を投じて拡張すれば、昭和十八年末には五十万トン、昭和十九年中には四百万トンは生産できる見込あること。一方武力を以て蘭印(インドネシア)を攻略しても、敵は石油施設を破壊すること必定で、又輸送の関係もあり、第一年に於て三十万トン、第二年に於て百五十万トン位より期待出来ず、五百万トンに達するには五六年を要するものと思わなけれぱならない」とのことであった。
即ち武力を行使しても、早急には我所有量の石油を獲得出来ず、却て人造石油事業の拡張増産により軍需物資のジリ貧状態に陥ることを防ぐという目的が、略々達しられるということが明らかにされたのであった。
九月六日の御前会議決定は、日米交渉が十月上旬頃になっても尚、我要求を貫撒する目途なき場合”直に対米(英蘭)開戦を決意する”とあるのだから、交渉成立の”目途あり”として開戦の決意をなさないことも差し支えなく、又開戦の決意はしても、”開戦する”とはならないのであるから、もし日米交渉が不成立に終ったとしても、経済断交の侭、戦争なしで行くことも出来るのである。
事実政府に於ては己むをえない場合は、そうして徐々に第二段の方策を講じようとの考もあったのである。
然るに開戦論者は飽く迄も軍需物資ジリ貧論を振り回して譲らなかったので、鈴木企画院総裁に対し、
「国内生産の増強によって石油その他軍需物資のジリ貧を防ぎ得るものならば、たとえ何十億の資金でも投じて国内生産設備の増強を図るべきである。その物資の為の対米英戦争と言うが如き大犠牲を払うことは如何にも馬鹿々々しいではないか」
と言うと、鈴木総裁の答は
「それはその通りだが、開戦は国内政治てすから」と言うことであった。
間もなく内閣の総辞職となり、総ては終ったのである。
是は後日のことであるが、東條内閣がとうとう太平洋戦争に突進する直前、十一月廿九日に催された重臣会議に於て、自分が
「国内生産の増強に依って軍需物資のジリ貧状態に陥るを防ぐことも可能ではないか、果して然らば必ずしも対米英蘭戦争を開始する必要もないではないか、経済断交の侭、戦争なしにて進み、後で図を策してはどうか」
と質問したのに対し、東條首相は
「内閣成立以来今日に至る迄その点に集中して検討したのであるが、経済断交のまま戦争なしで行ったのでは、結局ジリ貧状態に陥るを免れずという結論に達したので、とうとう開戦に決定した次第である」と答弁したのであった。
東條首相は「ジリ貧は免れず」といい、鈴木総裁は「ジリ貧を防ぎ得る」というのであるから、何れか一方が嘘を言ったことになる。
鈴木総裁の「開戦は国内政治である」の一言、なかなか含蓄があると言わなければならない。
以上述べた三つの理由により余は半年の間、隠忍に隠忍を重ね、且世の非難攻撃をも顧みず執拗に日米交渉を継続したのである。
以下、四月以来の交渉経過の概要を述べよう。 ( 一〜十九 省略 ) 
二十
所が野村、ルーズ−ベルト会談の行はれた九月三日には、東京では、一個の対米申入案が、連絡会議の議題に上っていた。
その案は外務省の起案にかかるものであって、従来の野村、ハル非公式会談で付議されていた了解案とは別の建前の下に之を簡略化した案であった。
その案は次の如し。
一、仏印(現ベトナム)以上に進駐しない。
二、三国條約に対する日本の解釈を自立的に行う。
三、日中協定に従い中国より撒兵する。
四、中国に於ける米国の経済活動は公正なる基礎に於て行われる限り之を制限しない。
五、南西太平洋に於て通商上の無差別待遇の原則を樹てる。
六、日米の正常なる通商間係の恢復に必要なる措置を構ずる。
以上の事項を約諾し、米国も之にreciprocate(交換)するというのである。
外務省は非常な期待をこの案に懸けて、九月四日、豊田外相からグルー大使へ、野村大使からハル長官へと二重伝達の形をとったのである。
この案は別に新たな提案ではなく、従来日本としては言うべきことは言いつくしたことであり、且四月以来交渉の基礎となる了解案中、根本的原則的主張に付き議論を上下する時は、何時果てるとも思われず、かくては目前の危局に処することが出来ないから、先づ当面緊急の具体的問題だけ抽出し、之を首脳者会談の基礎としようという趣旨であったのである。
然るに米国では、日本は全面的了解案が成立困難なる為に之を避けて、新たなる方針の下に新たなる提案をしたものと解した。
かくて外務省側の非常な期待に反し、九月四日案なるものは徒らに誤解と混乱とを招いたに過ぎなかった。
米国がこのように誤解したのは無理もなかった。
というのは、米国としては六月に十一日案なるものを米国の最後案として日本側に提示して居る。
之に対する日本の回答は前述の如く七月十五日発せられたが、政変その他の理由から野村大使は之を米国側に伝えて居らない。
即ち米国側としては六月二十一日案に対する日本の対案を受取らない間に、この九月四日案が来たのである。 これが米国側に誤解を起させた重大の原因であったと思う。
このような複雑で然も果てしない外交折衝が東京とワシントンの間に行われている時、東京では特筆大言すべき問題が政府内に起っていた。
それは米国と何処までも交渉を続けるべきか、それともいい加減に見切をつけるべきか、そればかりでなく見切を付けて米国と戦うべきかという重大問題であった。
元々この日米了解の外交交渉は政府、陸海軍、統帥部何れも極く上層の首脳部の間だけで始められたものであり、下の方には絶対極秘で進められていたのである。
そして首脳部の間では、唯一人松岡外相を除いては、何れも交渉成立を希望し、又その為にこそ反対を恐れて秘密裡に之を行っていたのである。
所が漸次漏れ始め、殊に松岡外相の独伊への内報等を契機として、おぽろげ乍ら交渉の全貌が判って来るにつれ、下の方から反対の気勢が起って来た。
殊に陸軍に反対が強くなって来た。
恰もその時、ドイツ−ソ連開戦の衝撃があり、政府首脳部は対ソ即時開戦の硬論論は押へたが、一種の代償として仏印進駐の廟議を一決せざるを得ないことになり、同時に第一の場合に備へて対英米戦の準備を本格的に進める勢となってしまった。
戦争準備と戦争そのものとの区別は、最も厳格に守らねばならないものであると同時に、その困難なことも否定できない。準備が進むにつれ、日米交渉反対の声が高まって来た。
然も、仏印進駐の効果は、即時且、強烈であった。
この米国の強烈な反発は、当然日本の反米陣営を又それだけ反発させた。
日米交渉に対する反対は、今や公然たる事実となり、その為に生れて来たような内閣の行く手は、難論を極めたのであった。
遂に余として自ら米国大統領に会見を申込む決意をさせたのであるが、その所謂”近衛メツセージ”が野村、大統領の会談から洩れ、内容の判らない侭に徒らな臆測が横行して、交渉は益々困難の度を加えた。
八月頃から参謀本部関係は、首脳部まで概して交渉無用、日米戦争論にたっていたと見られるのである。
その対策に腐心する余と陸海外相との懇談、連絡会議の度数が八月後半から目立って多くなった。
或る程度で交渉を打切り対米英戦に突入すべしという”国策”が議題に上っていたのである。
こうして九月六日、御前会議を以て「帝国国策遂行要綱」が決定されるに至った。
その要項次の如し。

帝国国策遂行要綱(御前会議議題)
帝国は現下の急迫せる情勢特に米、英、蘭等各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢、及び今回国力の弾発性等に鑑み、”情勢の推移に件う帝国国策要綱”中、南方(東南アジア)に対する施策を下記に依り遂行する。
一、帝国は自存自衛を全うする為、対米(英・蘭)戦争を辞さない決意の下に、概ね十月下旬を目途として戦争準備を完整する。
二、帝国はこれに並行して米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努める。対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項、並に之に関し帝国の約諾し得る限度は別紙のとおり(別紙は省略する)
三、前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも、尚我要求を貫徹しうる目途がない場合に於ては、直に対米(英蘭)開戦を決意する。
対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い、直に米ソの対日連合戦線を結成させないように勉める。 

この第三項中「十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹しうる目途がない場合」とあるが、これは最初統帥部提出の原案には「貫徹できない場合」とあったのを政府側が交渉して目途がない場合と訂正したのである。
御前会議前日、余は参内して議題帝国国策遂行要綱を内奏した処、陛下には
「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受けた。この点に就て明日の会議で統帥部の両総長に質問したいと思うが……」
と仰せられた。余は之に対し奉り、
「一二の順序は必ずしも軽重を示すものではない。政府としては飽くまで外交交渉を行い、交渉がどうしても纏らぬ場合に戦争の準備に取かかるという趣旨なり」
と申上げ、尚
「この点につき統帥部に御質問の思召ならば、御前会議にては場所柄如何かと考えられますから、今直に両総長を御召になりましては如何でしょう」
と奏上すると
「直に呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」との御言葉であった。
両総長は直に参内拝謁し、余も陪席した。陛下は両総長に対し、余に対する御下問と同様の御下問あり、両総長は余と同じ奉答をした。
続いて陛下は杉山参謀総長に対し、
「日米で事が起れば、陸軍としては幾許の期間に片付ける確信があるのか」
と仰せられ、総長は
「南洋方面だけは三ヵ月位にて片付けるつもりであります」
と奉答した。陛下は更に総長に向わせられ、
「汝は日中戦争勃発当時の陸相である。この時陸相として、『戦争は一ヶ月位にて片付く』と申したことを記憶している。然るに四ヶ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」
と仰せられ総長は恐惶して、中国は奥地が開けており予定通り作戦できない事情をくどくどと弁明申上げた処、陛下は励声一番、総長に対して
「中国の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信があって三月と申すか」
と仰せられ、総長は唯、頭を垂れて答えられず、この時軍令部総長が助け船を出し
「統帥部として大局より申上げます。今日、日米の関係を病人に例へれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来て居ります。手術をしないでこの侭にしておけば、段々衰弱してしまう処があります。手術をすれば非常な危険があるが助かる望みもないではない。その場合、思い切って手術をするかどうかという段階であるかと考えられます。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思い切って手術をしなければならないと存じます。この意味でこの議案に賛成致して居るのであります」
と申上げた処、陛下は重ねて、
「統帥部は今日の所、外交に重点をおく主旨と解するが、その通りか」
と念を押させられ、両総長共その通りなる旨奉答した。
翌九月六日午前十時、御前会議が開かれた。席上原枢密院議長より
「この案を見るに、外交より寧ろ戦争に重点がおかれている感がある。政府統帥部の趣旨を明瞭に承りたい」
との質問があった。
政府を代表して海軍大臣が答弁したが、統帥部からは誰も発言したかった。
然るに、陛下は突然御発言あらせられ、
「只今の原枢相の質問は誠に尤もと思う。之に対して統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である」
として御懐中より明治天皇の御製
――四方の海 みな同胞と思う世に などあだ波の 立ちさわぐらむ――
を記したる紙片を御取出しになって之を御読み上げになり
「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めて居るものである」
と仰せられた。満座粛然、暫くは一言も発する者がない。
応て永野軍令部総長立ち、曰く
「統師部に対する御咎(おとが)めは恐縮に堪えません。実は先程海軍大臣が答弁致しましたのは、政府、統師部双方を代表したものと存じ、沈黙して居りました次第であります。統帥部としては勿論海軍大臣のお答え致したる通り外交を主とし、万已むを得ざる場合戦争に訴えるという主旨に変りはございません」
と答えた。かくて御前会議は未曾有の緊張裡に散会した。 
二十一
日米了解の交渉が進みそうで進まず、又首脳者会見の提案が大統領の心境をかなり動かしながら、今一歩の所で容易に実現しそうもないのは、一には東京ワシントン間の電報訓令に基く野村大使の努力だけでは、先方に充分日本の真意が伝っていないからでもあった。
そこで余は自らグルー大使に会って話をする決意をした。
九月六日、ここに述ぺた”国策要綱”が決定された日、陸海外三相の了解の下に、余は極秘裡に大使と通訳のドユーマン参事官と会食懇談した。
余は現内閣が陸海軍も一致して交渉の成立を希望していること、この内閣を措いて外に機会ありとも覚えずと強調し、又
「今この機会を逸すれば、我々の生涯の間には遂にその機会が来ないであらう」
と、最も含蓄ある言明をなした。
陸海外共その代表の人選まで大体済んでいる事実も語り、この際一日も早く大統領と会見し、根本問題に就いて意見を交換する必要を力説した。
グルー大使は、ハルの四原則に対する余の意見を質し、余は
「原則的には結構であるが、実際適用の段となると種々問題が生じ、その問題を解決する為にこそ会見が必要になるのだ」と説いた。
一時間半にわたる懇談の後、グルー大使は直接大統領宛のメッセージとして、今日の会議内容を報告することを約し
「この報告は自分が外交官生活を始めて以来、最も重要な電報になるであらう」
と感慨をこめて述べたのである。 
二十二
四月以来の日米交渉も、日本側からは余と大統領の直接会談を申込むという大きな手を打ち、又余は大統領にメッセージを送り、グルー大使にも意中を打明ける等、殆んど尽くすべきは尽くして来たのであるが、一方、九月六日の御前会議で決定された重大な国策に依って、交渉は日本としては謂わば期限付となったのである。
ついに最後の段階に押し詰められたという感じが強くなって来た。
この頃では交渉の難点も大胆判り、米国の肚もほぼ見当がついてきた。
即ち原則的には”四原則”であり、具体的には中国問題中の駐兵問題、経済機会均等原則の問題、三国条約問題であった。
”四原則”は米国側も日本に異議ないものと一応解釈して居り、又余も”主義上は結構である”とグルー大使へ言明したのであるから問題は無さそうな筈でありながら、陸軍及び外務の一部には主義上の同意にも反対する強諭が消えなかった。
(米国が八月二十八日の日本の申入をこのように解釈したのは、野村大使の誤解に基くものであるから、その取消を申入れよ、とか、大使を召還せよとかの議論まで出たのである。)
然しながらこの四原則をすら今更否定するのでは、日米交渉は全く不可能となることは明白であるから、余はその取扱方に少からす苦慮したのである。
経済原則の問題では、日本は既に中国に於ける機会均等を認める肚であり、唯中国との地理的特殊関係は米国でも分らない筈がないとの楽観があり、又三国条約問題に関しては文言として表すことこそ出来ないが、余と大統領の会見さへ実現すれば、米国側との話合がつかないことはないてあらうという見込であった。
唯駐兵問題は陸軍側に於て、或時は名義や形式はどうでもよいとの穏健論があるかと思うと、翌日には絶対不動という硬論が伝えられ、日本政府部内でも問題は何としてもこの一点だという感が強かった。 
二十三
政府は一方に於いては日米交渉の運行と、他方に於ては九月六日御前会議で決定した国策要領の運用とのかね合いの為、急に深刻な悩みを続けた。
余が官邸日本間に寝泊りする日が多くなった。
九月二十四、二十五両日にわたって余は陸海外相及び企画院総裁と長時間の会談を続けた。
二十七日から十月一日までは鎌倉に休養を取ったが、その間、及川海相を招き、都内の空気を具(つぶ)さに聴取した。
同四日には余は参内拝謁、後、局長連を退けて閣僚と統帥首脳とだけで連絡会議を催し、五日夕には荻窪に陸相の来邸を求め、あくまで交渉を継続しようしこする決意を披歴した。
東條陸相は七日夜遅く余を日本間に訪ね
「駐兵問題に関しては米国の主張するような、原則的に一応全部撤兵、然る後駐兵という形式は軍として絶対に承服し難い」
と余に強談判を持ちかけた。
陸軍側の強硬態度に鑑み、余は六日、八日、再次にわたって海相、外相と個別的に会談し、危局回避方を協議した。
外相は更に十日余を訪ねること両度に及び、何とかして交渉を継続させる方途につき懇談した。
連絡会議も十月十一日開催された。
この間三長官、特に鈴木総裁の動きは際立って注目の的となっていた。
十月十二日、五十回誕生日、日曜にも拘らず午後早々、陸海外三相と鈴木企画院総裁とを荻窪に召集して、和戦に関する殆ど最後の会議を開いた。
その会議前に海軍の軍務局長より書記官長に、
「海軍は交渉の破裂を欲しない。即ち戦争を出来るだけ回避したい。しかし海軍としては表面に出して之を云う事は出来ない。今日の会議に於ては海軍大臣から和戦の決は首相に一任すると云う事を述べる筈になっているから、その御含みで願いたい」
という報告があった。
果して劈頭に海軍大臣より次の発言があった。
「今や和戦何れかに決すべきかの瀬戸際に来た。その決定は総理に一任したい。で、和でゆくならば何処までも和でゆく。即ち多少の譲歩はしても交渉を飽くまでも成立させるという建前で進むべきである。交渉半ばにして交渉を二三ヶ月してから、どうもこれではいかんというので、さあ、これから戦争だ。と、言われては海軍としては困る。戦争をやると決すれば、今ここで決めなければならん。今がその時機に来ている。やらないと云う事であれは、飽くまで交渉を成り立たせるという建前の下に進んで貰いたい」
それに対して余は、
「今日ここで何れかに決すべしと言うならば、自分は交渉継続と云う事に決する」
といった。所が陸相は、
「その総理の結論は早すぎる。一体交渉成立の見込のない交渉を継続して、遂に戦機を逸すると云う事になっては一大事である。一体外務大臣は交渉成立の見込ありやと考えるかどうか」
と外務大臣に向って質問した所が外務大臣は、
「それは条件次第である。今日の問題の最難点は、結局中国の駐兵問題だと思うが、之に就て陸軍が従来の主張を一歩も譲らないと云う事ならば交渉の見込はない。然しその点に於て多少なりとも譲歩しても差支ないと云う事であれば、交渉成立の見込は絶対にないとは言えない」
然るに陸相はこれに対して
「駐兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない」
と云うことであった。自分は
「この際は名を拾てて実を採り、形式はアメリカの言うようにして、実質に於て駐兵と同じ結果を得れば好いではないか」
と言ったのに対して、陸相は遂に承服せず、結局会議は二時から八時までに及んだけれども、結論に到達せずして散会した。
翌十三日、余は参内して内閣の直面する危局に就て委曲奏上、更に木戸内府とも懇談し翌十四日朝九時、閣議前に官邸に陸相の来邸を求めて再び駐兵の問題につき陸相の再考を求めた。
「余は日中戦争に重大責任があり、この戦争が四年に互って未だ決定を見ない今日、更に前途の見通しの付かない大戦争に入ることは何としても同意し難い。この際、一時屈して撤兵の形式を彼(米国)に与え、日米戦争の危機を救うべきである。又この機会に日中戦争に結末を付けることは国力の上から考えても、国民思想の上から考えても必要であると考える。国家の進運発展はもとより望む所であるが、大いに伸びる為には時には屈して、国力を培養する必要もある。」
と誠意を披歴して陸相を説いた。之にたいして陸相は、
「この際米に屈すれば、彼は益々高所的に出てとどまる処がないであらう。撤兵の問題は、名を捨てて実を採ると言われるが、これは軍の士気維持の上から到底同意し難い」
と主張して動かなかった。
こうして陸相との話は物別れとなって閣議が開かれるや、陸相は日米交渉の最早継続すべからざる所以を、興奮的態度で力説した。 
二十四
以上数次に亙る東條陸相との会談に於て次のような話が交された。
「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ。」
と言ったのに対し、
「個人としてはそういう場合も一生に一度や二度あるかも知れないが、二千六百年の国体と一億の国民のことを考えるならば責任のある地位にあるものとして出来ることではない」
と答えたことだった。
これは陸相に話したことではないが、”乾坤一擲”(けんこんいってき:のるかそるかの大勝負)とか、”国運を賭して”とかいう者があり、松岡外相もしばしば口にしたが、自分はそれを聞くと何時も不愉悦に感じたのであった。
”乾坤一擲”とか”国運を賭して”とかは壮快は壮快ではあるが、前途の見透しも付かない戦争など始めることは、個人の場合と違い、苟も二千六百年の無疵の国体を思うならば軽々しく出来ることではない。
たとえ因循(いんじゅん)と言われ、姑息と評されても自分等にはそう云う事は出来ない。
如何に遠回りでも安全第一、百パ一セント安全でなければ、戦争など避けねばならないと堅く信じて居る。
この頃、軍人の中にはこう云う事をいうものがよくあった。
日清日露の大戦争も百バーセントの勝算があるなどと云う事は有り得ないと。
余は陸相と会談の際、このことに言及し、

『自分等は伊藤博文、山県有朋が日露開戦するに当って、充分成算があったものと思う。もし勝算なしでやったのならそれは怪しからん話である。日露開戦の前、明治天皇には容易に御決心がおつきにならなかった。当時の桂首相が今日こそは御聖断を仰ごうとした時に、伊藤公はこれを押へて、もう一晩、御考えを願おうと云う事にしたのであった。その翌朝、伊藤公を御召になり、日露開戦に就いて成算があるかとの御下問を賜ったのに対し、伊藤公は「少くとも朝鮮には露軍を一歩も入れす、鴨緑江を壕にして一ヶ年間は持ち堪へ得ると。一ヶ年間その地位を維持する中には、第三国の調停を期待し得ること。第三国といっても英国は我が同盟国であり、仏、独はロシア側であって、頼むは米国の外にはないが、それには直にその工作に取りかかり、且つ成算もあること。」という趣旨を奉答したので、陛下にも御安心なって同日の御前会議で聖断が下ったのである。然るに今度は、第三国というものがなくなるのだから調停に立つものがなく、従って前途の見通しは全然付かない訳である。それにも拘らず之に飛び込むと云う事は国体と云う事を考えると、余程慎重にやらねばならないと思う。』

と話したのであった。
十月十四日朝、官邸で東條陸相と最後の話合をした時、陸相は
「総理の論は悲観に過ぎると思う。それは自国の弱点を知り過ぎるぐらい知っているからだが、米国には米国の弱点がある筈ではないですか。」
との見解を述べて居った。
その時の会談は、撤兵問題に関して正面衝突の形になったのであるが、陸相は最後に
「これは性格の違いですなあ」
と感懐を込めて言ったのであった。 
二十五
十月十四日の閣議に於ける陸相の発言は余りに突然だったので、他の閣僚は些(いささ)かあっけにとられ、之に対して発言するものがなかった。
閣議は他の難題を決定した後、この問題には触れずに散会した。
同日午後、武藤軍務局長が書記官長の処に来て
「どうも総理の吐が決らないのは、海軍の腹が決らないからだと思われる。で、海軍が本当に戦争を欲しないのならば陸軍も考えなければならない。然るに海軍は陸軍に向って表面はそう云う事は口にしないで、唯”総理一任”と云う事を言っている。総理の裁断と云う事だけでは、陸軍の部内を抑へることは到底出来ない。然し”海軍がこの際は戦争を欲せず”と云う事を公式に陸軍の方に言って来るならば、陸軍としては部下を抑へるにも抑へ易い。何とか海軍の方からそういう風に言って来るよう仕向けて貰えまいか」
と云う事であった。
そこで書記官長はこのことか岡海軍々務局長に話した処が、岡軍務局長は
「海軍としては戦争を欲しないと云う事は、どうも正式には言えない。海軍として言い得ることは、”首相の裁断に一任”ということだけが精一杯である」
又同夜、陸軍大臣の使として鈴木企画院総裁が萩窪に来訪した。
東條陸軍大臣の伝言は次の如くである。

「段々その後探る処によると、海軍が戦争を欲しないようである。それなら何故海軍大臣は自分にそれらをはっきり言ってくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば、自分としても亦考えなければならんのである。然るに海軍大臣は全部責任を総理にしている形がある。之は洵に遺憾である。海軍がそういうように腹が決まらないならば、九月六日の御前会議は根本的に覆へるのだ。従って御前会議に列席した首相初め陸海軍大臣も統師府の総長も皆、輔弼の責を十分に尽くさなかったと云う事になるのであるから、この際は全部辞職して今までのことを御破算にして、もう一度案を練り直すということ以外にないと思う。それには陸海軍を抑えて、もう一度この案を練り直すという力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には、今度は宮様に出て頂くより以外に途はないと思う。その宮様は先づ東久邇宮殿下が最も適任と思う。それで自分としては総理に辞めてくれとは甚だ言いにくいけれども、事ここに至ってはやむを得ない。どうか東久邇宮殿下を後継首相に奏請することに御尽力を願いたい」

翌十五日参内、その後の経過を奏上した。その時
「昨夜、実は東條からの伝言で、後継内閣の首班に東久邇宮殿下と云う事を言って来て居ります。」
陛下の御内意を伺ってみた所が陛下は
「東久邇宮殿下は参謀総長としては実は適任であると思って居った。然し皇族が政治の局に立つことは之は余程考えなければならんと思う。殊に平和の時ならば好いけれども、戦争にでもなるという処のある場合には、尚さら皇室の為から考えても皇族の出ることはどうかと思う」
と仰せられたが、絶対に反対であらせられるようにも拝せられなかった。
帰途、木戸内府に会い、東久邇宮の問題を持出した所が、内府はどうも一向気乗りしない模様であった。
同夜、秘かに東久邇宮殿下の御邸に訪問し、東條陸相の意向を申上げ、殿下の御奮起を促した所が、殿下は、
「こと余りに重大であるから二三日考えさせてほしい」
との御事であった。翌十六日朝、電話で内府と話した所が、
「宮殿下の問題は、宮中方面に於ても到底行われ難い」
という旨を伝へられた。
然も時局は一日の猶予も許されない。
そこで午前十時頃より各閣僚個別に官邸日本間に来て貰って辞職の止むを得ない理由を述べ、了解を求めて夕刻全部の辞表を取纏めた上参内した。
その時の総理の辞表は次の如くである。

臣文麿
ここに図らずも三度大命をうけて内閣を組織するや、現下の国際政局に処して国家将来の伸張を期せんが為には、速に米国との友好関係を調整し依て以て日中戦争の急速解決を図らざるベからずと確信し、米国政府に対し全力を挙げて数次の交渉往復を重ね、大統領に対しては親しく両者会談の機を与えられんことを要望し、以て今日に及ベり。
然るに最近に至り東條陸軍大臣は、この交渉は其の所望時期(慨ね十月中下旬)までには到底成立の望みなしと判断し、乃ち本年九月六日御前会議の議を経て勅裁を仰ぎくる「帝国国策遂行要領」中、三の「我要求を貫徹し得る目途なき」場合と認め、今や対米開戦を用意すベき時期に到達せりと為すに至れり。
熟々惟みるに対米交渉は仮すに時日を以てすれば、尚その成立の望みなしとは断ずべからざると共に、最も難関なりと思考される撤兵問題も、名を捨て実を取るの主旨に依り、形式は彼に譲るの態度を採らば、今尚妥結の望ありと信じられるを以て、日中戦争の未だ解決しない現在に於て、更に前途の見透せない大戦争に突入するが如きは、日中戦争勃発以来重大なる責任を痛感しつつある臣文麿の、到底忍び難き所なり。
因てこの際は政府軍部協カ一致その最善を尽して、飽くまで対米交渉を成立させ、以てー応日中戦争を解決せんとするは、国力培養の点より云うもよく、又民心安定の上より見るも現下喫緊の要事にして、国運の発展を望めば寧ろ今日より大に伸びるが為に、善く屈し国民をして臥薪嘗膽、益々君国の為に邁進せしむるを以て、最も時宣を得たものなりと信じ、臣は衷情を披露して東條陸軍大臣を説得すベく解決したり。
之に対し陸軍大臣は、総理大臣の苦心と衷情とは深く了とする所なるも、撤兵は軍の士気維持の上より到底同意し難く、又一度米国に屈する時、彼は益々矯横の措置に出て、殆んど停止する所を知らざるベく、たとえ一応日中戦争の解決を見たとしても、日中関係は両三年を出でずして、再び破綻するに至ることも、亦予想される。
且、国内の弱点は彼我共に存するを以て、時期を失せずこの際開戦を同意すべきことを主張して已まず。
懇談四度に及ぶも終に同意させるに至らず。
ここに於て臣は遂に所信を貫徹して、輔弼の重責を完了すること能はざるに至れり。
是れ偏に臣が非才の致す所にして、洵に恐縮の至りに堪えず。
仰ぎ願わくば聖断を垂れ給い、臣が重職を解き給わることを、臣文麿、誠惶誠恐謹みて奏す。
昭和十六年十月八日 内閣総理大臣 公爵 近衛文磨

こうして近衛内閣は総辞職をして、翌日重臣会議が開かれ、東條陸相に次期内閣組織の大命が降下した。
東條陸相の奏薦は主として木戸内府の発議であったようである。
併しながら内府が東條陸相を推したのは日米開戦の方へ持って行こうという腹からではなかったようである。 即ち両三日来の話によっても分る様に東條陸相に海軍の意向がハッキリしない以上は、一度全部御破算にして案を練り直すということも言っている位だから、陸相に大命が下っても直に戦争に突入することはあるまい。
殊に大命降下の際何等か御言葉でも賜れば、陸相としては一層慎重な態度を採るだらうというのが、内府の考であったようだ。
内閣更迭の事情は以上の通りである。
即ち表面より見れば日米交渉を継続しようとする首相と、之を打切ろうとする陸相との意見衝突から内閣不統一の結果総辞職となったのである。
従って次の内閣組織の大命が陸相に降下したことは、当然日米交渉打切り、惹いては日米開戦を意味するものと一般に解せられても無理はない。
然しながら裏面に於ては以上述べたような経緯があったので、陸相に大命が降下したことは直に日米戦争を意味するという結論にはならないのである。
近衛内閣総辞職後開かれた重臣会議に於ても之に説いて質問が出て、内大臣は以上の経緯を語り重臣連は陸相に大命が降下してもそれが直ちに日米開戦にならぬという確言を得て、安心して東條大将奏薦に同意したと云う事である。
余が辞職後グール大使に書翰を送り、余の辞職は必ずしも日米開戦を決定した結果でなく、交渉の余地は尚存する旨を申し送ったのもかかる事情があったが為である。
一方、米国に於ても近衛内閣総辞職の報は相当ショックを与えた。
野村大使帰朝後の談によると近衛内閣総辞職して東條内閣に代るや、米国政府は”日米交渉もはや見込なし”と観念したそうである。
即ち野村大使と親交ある作戦部長クーナー提督(斎藤大使の遺骸を送って来た当時の艦長)が大使を来訪しての話に、近衛内閣が辞めたのは、近衛首相がルーズベルト大統領に会見を申込んだのに大統領が之に応じないので、日米交渉見込なしとして退陣したのであらう。
併し大統領は頭から会談を拒絶したのではなく、ただ二三、念を押して置きたいことがあっただけで、それさえ判れば喜んで御目にかかるつもりなのである。
この意味のことを大統領から、日本天皇陛下に親電として発送することに決定、その手続は既に取られた筈であるとのことだったが、二三日経って提督は再ぴ大使を来訪し、過日の話は内政干渉になるとの議論が政府部内に起り、結局取り止めになったと話したそうである。 
二十六
以上、日米交渉難航の歴史を回想して痛感されることは、統帥と国務の不一致という事である。
しかも統帥が国務と独立して居ることは歴代の内閣の認める所であった。
今度の日米交渉に当っても政府が一生懸命交渉をやっている一方、軍は交渉破裂の場合の準備をどしどしやっているのである。
しかもその準備なるものがどうなって居るのかは、吾々に少しも判らないのだから、それと外交と歩調を合せる訳に行かない。
船を動かしたり動員したりどしどしやるので、それが米国にも判り、米国は我が外交の誠意を疑うことになるという次第で、外交と軍事の関係が巧く行かないのは困ったものであった。
この日米が戦うや否やという逼迫した昨年九月以降の空気の中で、自重論者の一人であらせられた東久邇宮殿下は、
「この局面を打開するには、陛下が屹然として御裁断遊ばされる以外に方法なし」
と御言明になった事があるが、陛下には、自分にも仰せられたことではあるが、
「軍にも困ったものだ」
と云う事を、東久邇宮にも何遍か仰せられたと拝聞する。
その時、殿下は
「陛下が批評家のようなことを仰せられるのは如何でありましょう。不可と思召されたら、不可と仰せらるべきものではありますまいか。」
と申上げたと承っている。
このように、陛下が、御遠慮勝ちと思われる程、滅多に御意見を御述べにならないことは、西園寺公や牧野伯などが英国流の憲法の運用と云う事を考えて、陛下は或るべく、イニシャアチブをお取りになられぬようにと申上げ、組閣の大命降下の際に仰せられる三ケ條――憲法の尊重、外交上に無理をせぬこと、財界に急激なる変化か与えぬこと――以外は御指図遊ばされぬことにしてあるためかと秘かに拝察される。
然るに日本の憲法というものは、天皇親政の建前であって、英国の憲法とは根本に於て相違があるのである。 殊に統帥権の問題は政府には全然発言権なく、政府と統帥部との両方を押へ得るものは陛下御一人である。
然るに陛下が消極的であらせられる事は、平時には結構であるが和戦何れかというが如き国家生死の瀬戸際に立った場合には、障害が起り得る場合なしとしない。
英国流に陛下が激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ないことを、今度の日米交渉に於て特に痛感したのである。
ここで、最後に一言する。
立憲君主としての陛下の御態度はかく消極的ではあらせられたが、陛下の御意図は飽く迄太平洋の平和維持にあり、何とかして前途見通しの付かない戦争に突入することを避けて、二千六百年の国体を無疵のままに護持したいという御念願と御苦慮の御有様は、御痛々しいまでに拝せられたのである。 
 
御前会議

 

昭和16年宮中の一室である重要な会議が開かれていた。天皇が臨席した御前会議である。
昭和16年の7月から12月にかけて、この部屋で4回の御前会議が開かれた。日本はその4回の御前会議で太平洋戦争の開戦を決断したのである。しかし当時国民は御前会議の存在さえ知ることはなかった。開戦をめぐる御前会議は終戦後の東京裁判で初めて国民の知ることとなった。天皇の側近だった内大臣木戸幸一は、法廷で御前会議の複雑な実態を初めて証言した。
防衛庁防衛研究所。ここに昭和16年の御前会議をめぐる重要な資料が残されている。御前会議の議事録である。この資料は東京裁判中は関係者の手で隠され、連合国側の目に触れることはなかった。御前会議とは果たしてどのような会議だったのか。その実像を知る手がかりは今なお限られている。
昭和16年12月1日の太平洋戦争開戦を決めた御前会議の議事録。4回の御前会議はどのような経緯で開かれ、太平洋戦争の開戦はどのように決められていったのか。
御前会議に諮られる国の最高政策の原案を書いた元陸軍軍人が今も健在で(注・平成8年死)ある。山口県宇部市に住む石井秋穂氏である。当時、陸軍大臣東條英機の側近であった石井氏は国策つまり戦争にかかわる国の政策の立案を任務としていた。石井氏はみずからかかわった国策の立案と、その国策が御前会議で決定されていったいきさつについて初めて語った。
石井秋穂談
「わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に第一弾をやればそれは大切な国策になるんですな。そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。それもみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ」
昭和16年、日中戦争は既に4年近く続き、日本はその打開に苦しんでいた。中国を支援するイギリス・アメリカとの対立は深まる一方であった。そうした中で、重慶に追い込んだ蒋介石の国民政府への攻撃が続けられていた。
ヨーロッパでも、昭和16年6月、ヨーロッパ各地を席捲していたドイツが突如ソビエトに侵攻、独ソ戦争が始まった。ドイツ・イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、極めて重大な岐路に立たされたのである。御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。
陸軍の参謀本部が日々の行動を記録した機密戦争日誌。今回初めて撮影が許されたこの資料は、御前会議に至る陸軍を中心とした国策立案の経緯と、当時の陸軍の情勢判断を伝えている。独ソ戦争の開始直後陸軍は、本次大戦は「ドイツは有終の美をおさむべし」と、ドイツの勝利への期待を記している。
一方海軍も、この機に後の日本を左右する重大な国策の策定に乗り出した。国策の原案を書いたのは、後に連合艦隊司令長官山本五十六の参謀となった藤井茂中佐である。元海軍大佐の大井篤氏(注・平成6年死)の手元には藤井茂の資料が残されていた。藤井茂が綴っていた日誌。この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。従来からの海軍の主張を独ソ戦争を契機に実行しようという目論見であった。原案には「歴史に残る大文章なり」と記され藤井の興奮を伝えている。当時海軍が進出を目論んだ南方とは、今の南部ベトナム、当時のフランス領インドシナであった。そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。二人は陸軍と海軍で戦争にかかわる国策の立案に携わり、連絡をとりながら国策をまとめていった。当時国策は次のように決められた。
既に日中戦争によって戦時態勢にあった日本の国策とは、戦争を巡る国の最高政策である。そのため、原案は陸海軍の中堅官僚によって起案され、調整を経て陸海軍の部局長会議に上げられた。その後、大本営と政府との連絡会議に諮られ、ここで合意に至ると国策として事実上決定された。しかし太平洋戦争開戦のような国策については御前会議が開かれ、天皇を前にした会議で天皇が納得したという形がとられた。
起案から二日後、直ちに首相官邸で政府と軍部との会議が開かれた。会議は三日間に及び、当時の松岡外務大臣は南方進出に反対し、ソビエトとの開戦を主張した。この松岡外務大臣の開戦の主張は会議では採択されず、軍隊を国境地帯に動員し、ソビエトとの戦争を準備するという結論に落ちついた。
こうして独ソ戦争後の新しい国策が決められた。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」である。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外務大臣と陸軍が主張した対ソ戦準備という、二正面での作戦展開であった。南方進出について軍部は事前に天皇に報告している。いわゆる上奏である。上奏は陸軍参謀総長杉山元、海軍軍令部総長永野修身が行なった。この上奏に天皇がどう答えたか。防衛庁に残る「御下問つづり」に天皇の言葉が記録されている。天皇は「国際信義上どうかと思うが、まあよろしい」という言葉を残している。
昭和16年7月2日、宮中、東一の間において独ソ戦争後の国策を議題とした御前会議が開かれた。主な出席者は、
 総理大臣     近衛文麿
 陸軍大臣     東條英機
 海軍大臣     及川古志郎
 外務大臣     松岡洋右
 陸軍参謀総長  杉山 元
 海軍軍令部総長 永野修身
 企画院総裁   鈴木貞一
 枢密院議長   原嘉道
であった。原は発言しない慣習になっている天皇にかわり疑問点を質問し、意見を述べる役割を担っていた。議題は事前に合意されており、会議の議論は形式的なものであった。しかし、ここで決められた国策は国家の不動の意思となった。 
原 / はっきり伺いたいのは、日本が仏印に手を出せばアメリカは参戦するや否やの見通しの問題である。
松岡 / 絶対にないとは言えぬ。
杉山 / ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う。もちろん平和的にやりたい。
原 / 解った。自分の考えと全く同じである。すなわち英米との衝突はできるだけ避ける。この点については政府と統帥部とは意見が一致していると思う。ソ連に対してはできうるだけ早く討とうということに軍部・政府に希望をいたします。ソ連はこれを壊滅せしむべきものである。以上の趣旨により本日の提案に賛成である。
最後の原枢密院議長の要請はソビエトとの戦争の準備を計画していた陸軍に弾みをつけることになった。こうして独ソ戦争後の国策は起案からわずか10日間で御前会議で決断された。
加瀬俊一談
「御前会議っていうものは、大本営政府連絡会議が決定したものを、それでは御前会議で正式の国策に致しましょうということになると、何月何日御前会議を開きたいという。そして陛下のお許しを得て開く。その連絡会議の決定というものは、その直前ぐらいに宮中に回るんですね。連絡会議の決定だけでは、それだけの権威は持っていないわけですね。政府と軍部の関係大臣が集まって、一つの決定をしたという。やっぱり陛下が親臨された場で、可決されれば、これはもう不動の国策になったという形ですね」
当時の明治憲法では主権者である天皇の大権のもと、国務をつかさどる政府と、統帥つまり軍隊の動員・作戦は制度上明確に分けられていた。政府は統帥については全く立ち入ることができなかった。日中戦争以後、統帥の最高機関として大本営が設置され、国策は政府の要求で設けられた大本営政府連絡会議で事実上決められた。しかし、開戦など戦争をめぐる重要な国策は、さらに天皇が出席した御前会議に諮られる慣習になっていた。
7月2日の御前会議決定を受け、軍部は直ちに国策を実行に移した。北方のソビエトに対しては演習を名目に国境を接する満州に70万人を超える兵力を大動員した。独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。しかし、ほどなく独ソ戦争が膠着状態となり、この計画は中止された。
一方、南方については南部仏印への進駐が実行された。南部仏印一帯(フランス領インドシナ・現ラオス付近)はアメリカにとっても重要な戦略拠点であった。日本の進出を東南アジア一帯を支配する計画的な一歩ととらえたアメリカは日本に対し強い懸念を抱いていたのであった。アメリカは日本への警告として、まず日本の在米資産の凍結を実施。アメリカでの日本の経済活動をすべてアメリカ政府の管理下に置いた。そして日本の進駐を確認した上で、石油の対日輸出禁止という強硬策を打ち出した。当時日本はアメリカに石油の75%を依存していた。アメリカ政府は日本の南部仏印進駐がアメリカの安全保障にとって死活的な問題であると言明し、初めて軍事上の脅威であるという認識を示した。
アメリカの強硬策は南方進出を強く主張した海軍に大きな衝撃を与えた。海軍省軍務局の高田利種課長は戦後こう証言している。
高田利種談
「南部仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったんです。そして私も南部仏印まではいいと思っていたんです。よかろうと思っていたんです。根拠のない確信でした。私はだれからも外務省の意見も聞いたわけではない。何となくみんなそう思っていたんじゃないですか。南部仏印ぐらいまではよかろうと。これは申しわけないです。申しわけなかったですよ」
近衛首相は思わぬ事態の進展に驚いた。そして直ちにルーズベルト大統領との首脳会談を提唱し、危機的な日米関係の打開を図ろうとした。
牛場友彦談
「アメリカとの交渉の結果、支那の撤兵をやめなきゃもう会談は実現しないと思ってましたからね。近衛さんは支那の撤兵を東条をつかまえて何遍議論しましたかね…。東条は絶対に言うこときかない。及川海相も応援してくれたんですけど絶対だめでした。これは(支那は)日本軍の心臓だって言うんです。絶対撤兵は許さないという…」
当時アメリカは日本の大陸政策を厳しく批判していた。昭和16年の4月以来続けられていた日米交渉においても国務長官ハルは絶えず日本に厳しい要求を突きつけていた。日本の野村吉三郎大使は苦しい交渉を強いられた。一連の交渉に際し、アメリカ側が繰り返し主張していた原則がある。いわゆるハル4原則である。
1 他国の領土保全と主権の尊重
2 他国の内政への不干渉
3 通商上の機会均等(この3つは中国大陸での日本の行動を牽制するもの)
4 太平洋の現状維持(これは東南アジアでの日本の行動への懸念を表明したもの)
それまでソビエトを戦争の相手と考えてきた参謀本部はアメリカの強硬な対応に激しく動揺した。参謀本部の「機密戦争日誌」は「対英米戦を決意すべきや、この苦悩連綿として尽きず」と記している。この苦悩は巨大な国力を誇るアメリカを前にしたおびえでもあったと言える。
アメリカの国力を軍部はどう認識していたのか。参謀本部からアメリカの国力調査に派遣された一人の軍人の資料が最近研究者の手で明らかにされた。参謀総長杉山元が出した辞令には「対米諜報ヲ命ズ」と記されている。任務を命ぜられたのは陸軍主計大佐新庄健吉(注・昭和16年死)であった。
新庄健吉が任務についたのはニューヨークである。新庄は活動の舞台を三井物産ニューヨーク支店に選んだ。当時エンパイアステートビルの7階にあった三井物産。新庄は物産の社員を装って諜報活動に専念していった。当時三井物産はアメリカに最大のネットワークを誇る日本の企業で、新庄はその情報量をフルに活用した。新庄はこうした企業や軍の情報をもとに当時のアメリカの国力を徹底的に調査していったのである。当時既に世界一の工業生産力を誇っていたアメリカは民主主義陣営の兵器工場を自認していた。そして全米の工場をフル操業させて生産を続け、ドイツや日本と戦うイギリスや中国に対し武器を送り続けていた。新庄健吉がアメリカで調査した内容を伝える文書が残されていた。そこにはアメリカの工業生産の実態が細かく記され、日本の国力はアメリカの20分の1という結論であった。
古崎 博・元三井物産社員談
「戦争したら20対1の戦力は厳然として太平洋の上に残る。太平洋での戦争は機械の戦争ですから5%のこっちの損失に対して、アメリカの損失を100%にしなければ、そのバランスはずっと執
れていけないわけですね。これは実際問題として、それは新庄さんもよく言ってらっしゃいましたけども、まあ戦争すりゃ大体五分五分だよと。だから5%こっちが損害があれば向こうさんにも5%損害があると。それが続いていったら日本はゼロになるし、向こうはいつまでたっても100だと。それはもう明らかに、数学の計算上そうなるじゃないかと。戦争は絶望的に勝つ見込みがないなというのが新庄さんの結論でした」
東京の陸軍省でも秘密裏に日米の国力調査が行われていた。調査担当者は、陸軍省戦争経済研究班。ここには多くの民間の学者も加わった。責任者は秋丸次朗陸軍中佐(平成4年死)だった。
秋丸次朗談
「大体、1対20というような見当ですかね。我々の調査も、新庄さんの調査も合わせて考えて、そして、その戦争指導班にいろいろと意見を述べたんですけどね。いる人はみんな居眠りしとったです。聞いていない」
資産凍結、石油禁輸という事態を受けて日本では感情的な主戦論が台頭し、急速に戦争の機運が高まっていった。
陸軍の石井中佐も新たな国策の立案を急いでいた。
石井秋穂氏談
「資産凍結を受けてね、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した」
しかし新たな国策の原案は海軍から先に提出された。海軍で国策の立案に当たった藤井茂。藤井日誌には石油禁輸を受けた二日後の8月3日に原案を書き、局長の同意を得たと記されている。しかし陸軍は対米戦争の決意が明記されていないと、海軍案に反発した。戦争準備を急いでいた陸軍は国の最高方針として戦争決意を固めることを求めた。
石井秋穂談
「問題ちゅうのはね、それでいけなかったときにはね、えーと、9月末にね、最後的、最後的措置を講ずと。どうするの、わからん。だってそう書いてある。最後的措置を講ずると、戦争に訴えるというような意味に、正直に書いた」
陸軍によって戦争決意が明記された国策案は直ちに部局長会議に上げられた。しかし海軍は戦争決意の表明に難色を示した。陸軍案は当初「戦争を決意し…」と明記。しかし海軍首脳がそれに反対したため結局、「戦争を辞せざる決意のもとに」という海軍案で落ちついた。戦争決意という重大な問題が文章上の表現をめぐる議論に終始したのである。この国策に軍部は重要な項目を追加した。南方地域の天候、石油の事情など、作戦上の理由からアメリカなどとの外交交渉に10月上旬という期限をつけることを要望したのである。
こうして資産凍結という新たな事態に即した国策「帝国国策遂行要領」がまとまった。第1項には「帝国は自存自衛を全うするため対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとにおおむね10月下旬を目途とし戦争準備を完成す」と記され、戦争の決意が示された。第2項に「帝国は右に並行して米英に対し、外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む」と第1項の戦争決意の後に外交交渉の努力が記された。さらに軍部の主張どおり外交の交渉期限は10月上旬と明記されたのであった。この新たな国策は9月3日、たった1回の大本営政府連絡会議で合意された。大本営政府連絡会議から2日後の9月5日、天皇の要望により参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身が国策の内容を上奏した。
このとき天皇は第1項に戦争決意、第2項に外交努力を記した国策に対し、なるべく平和的に外交でやれと強調した。杉山は天皇の質問に対し、南方上陸作戦を説明した。すると天皇は怒りをあらわにして、絶対に勝てるかという言葉を杉山に投げかけた。杉山はそれに対し、絶対とは言えぬが見込みはあると述べている。天皇は9月6日、御前会議の直前に内大臣木戸幸一を呼び、今日の御前会議で質問したいと述べた。それに対し木戸は、会議の最後に外交が成功するように協力すべしと軍部に警告するように進言している。 
昭和16年9月6日、この年2回目の御前会議が開かれた。
「対米戦争の決意」という重大な問題をめぐる国策を議題とした御前会議であった。
原 / 今日はどこまでも外交打開に努め、それで行かぬときは戦争をやらなければならぬとの意と思う。戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力して万やむを得ないときに戦争をするものと解釈する。
及川海軍大臣 / 書いた気持ちは原議長と同じであります。帝国政府としては事実において日米国交は今日まで努めているところである。現在の事態に直面し、やむなきときは辞せざる決意をもってやるということを取り上げて書いたのである。第1項の戦争準備と、第2項の外交とは軽重はない。
原 / 本案は政府と統帥部の連絡会議で定まりしことゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと同じと信じて自分は安心いたしました。戦争決意につきましては、慎重審議せられるということですが、首相の努力がついに行われなかったときには、いよいよ戦争という最悪の場合となる。そうなると統帥部の言うように戦争決意をせざるを得ない。この戦争決意は慎重に審議するというから、これ以上質問をしない。
御前会議議事録によると質疑は短く終わった。しかしこの後、極めて異例のことが起きた。天皇が初めて御前会議で発言したのである。御下問つづりによると、杉山・永野両統帥部長に質問するという形で天皇は発言した。 天皇は、明治天皇の歌を詠み、感想を求めたのであった。天皇が詠んだ「四方(よも)の海みなはらからと思う世になど荒波の立ち騒ぐらむ」という歌は明治天皇が日露戦争の際に詠んだもので、軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だとされている。その意味で、昭和天皇も戦争に対し疑問を呈したと言われている。
後に近衛首相は手記の中で、9月6日の御前会議は未曾有の緊張のうちに終わったと述べている。会議に出席していた企画院総裁鈴木貞一はこの日の御前会議をめぐり近衛首相と次のような会話を交わしたと証言している。
鈴木貞一談
「私がその問題で近衛さんと話したときに近衛さんはだ「いや、そりゃまだその政府としては決定しないと。最後の戦争をするかしないかというものは御聖断によって決めなくちゃいかんとか。だから軍はだ、大いに戦争を主張するというのも、それは何もその、今は別にそうするんじゃないと。自分の意思ははっきり言うと、こういうことなんですかね。だから政府としてはね、何も決めていないんです。けれどもその、統帥部はこれでもう戦争に行く下地ができたと、こう考えたわけですね」
政府が干渉できない統帥権のもと、参謀本部は直ちに軍隊の動員を命じ、ひそかに南方に作戦部隊を集結していった。
牛場友彦談
「僕はね、近衛さんがもっと、もうだれが反対しようと天皇に会って、ほんとうに気持ちを、ぶちあけたらどうだと…統帥権というものを何とか一時中止にさせてもらう。何で止めさすことはできないか、そういうことを言うべきだったと思うですね。近衛さんに言う勇気がなかったとすりゃ、その点だけですよ、私の不満は。どうしても、天皇陛下にお会いして、統帥権というものを何とかしなきゃね。とにかく日本に内閣が二つ、政治するところが二つあるんですからね(政務と統帥)。いかに内閣総理大臣がこうしようと言っても統帥権でそれはだめだ。軍がこうすると言えば、絶対に通るんですからね…。陛下も戦争をやらない気があるのなら、歌を詠まれるかわりに戦争はやめようと一言言われれりゃ、それきりなんですがね…」
アメリカ・ワイオミング州キャスパー。ここに天皇が御前会議について率直に述べた貴重な資料が残されている。マリコ・テラサキ・ミラーさんが保管している、いわゆる『昭和天皇独白録』である。天皇の言葉を書き記したのは、戦後天皇の御用掛を務めた寺崎英成である。この資料は昭和21年3月から4月にかけて5回にわたって天皇が側近に語った言葉を記したものである。天皇は「御前会議というものはおかしなもので、全く形式的なものであり、天皇には、会議の空気を支配する決定権はない」と述べている。さらに大本営政府連絡会議という仕組みに欠陥があったとしている。「四方の海……」という明治天皇の歌を詠んだ9月6日の御前会議を「実に厄介な会議だった」と述べている。
御前会議の終わった9月6日の夜、近衛首相は駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談した。外交交渉に期限をつけられた近衛首相は時間が切迫していることを強調し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打った。国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。
当時国務省の対日政策に大きな影響力を持っていたのは、顧問のスタンレー・ホーンベックであった。ホーンベックは国務省の中国通であったが、日本に関する知識は乏しかった。スタンフォード大学にホーンベックの膨大な資料が残されている。
これらの資料から当時の彼の対日認識を知ることができる。ホーンベックは頻繁にハル国務長官に意見を具申しており、長官にあてて提出した覚書が多数残されている。ホーンベックは近衛首相のもとで日中戦争が始まり、三国同盟が結ばれ、南部仏印進駐が行われたとして近衛に対し不信感をあらわにし、その責任を追及している。ハル長官もこうしたホーンベックの意見に同調し、首脳会談には消極的であった。しかし、東京のグルー大使は繰り返し首脳会談の実現を訴えた。グルーは、日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいていると述べ、首脳会談が危機打開の最後のチャンスだと訴えた。
しかし、ホーンベックはグルーの意見に反論。断固たる態度こそ日本を抑えることができるとし、妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと主張した。こうして10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
日本の陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断した。当時参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。機密戦争日誌には「外交の目途なし、速やかに開戦決意の御前会議を奏請するを要す」と記されている。急速に対米戦争の機運が高まる中で、長期戦となる公算が強い戦争に海軍上層部の間で疑問の声が上がり始めていた。
10月6日、幹部会談の記録。海軍上層部が中国の撤兵問題のみで日米が戦うはばかげたことという点では共通の認識を持っていたことがわかる。しかしこの席で及川海軍大臣が陸軍とけんかしてでも戦争に反対することを主張したのに対し、永野軍令部総長が「それはどうかね」と反対し、海軍大臣の決意に水を差したことが記されている。外交交渉の期限もいよいよ迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衛首相は政府の重要閣僚を自宅に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる荻(てき)外荘会談である。この会談では9月6日御前会議決定の国策が問題となった。 
及川 / 外交で進むか、戦争の手段によるかの岐路に立つ。期日は切迫しておる。その決断は、総理が判断してなすべきものである。もし外交でやり、戦争をやめるならばそれでもよろしい。
東條 / 問題はそう簡単にはいかない。御前会議決定により兵を動かしつつあるものにして、今の外交は普通の外交と違う。日本では統帥は国務の圏外にある。総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可能である。政府と統帥部の意見が合い、御聖断を必要とする。軍のやっている基準は御前会議決定によっておるのだ。
豊田 / 遠慮ない話を許されるならば、御前会議の決定は軽率だった。前々日に書類をもらってやった。
近衛 / 今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん。
東條 / これは意外だ。戦争に自信がないとはなんですか。それは国策遂行要領を決定するときに論ずべき問題でしょう。なお、細部について言えば、駐兵問題(注・中国)は陸軍としては一歩も譲ることはできない。
外交交渉に行き詰まった近衛首相は開戦にも踏み切れず、ついに政権を投げ出した。軍部に押し切られ、最後まで政治的主導権を握れずに終わったのである。新しく首相に任命されたのは対米強行派の東條英機陸軍大臣であった。海軍大臣は島田繁太郎。島田は艦隊勤務が長く中央の情勢に疎かった。外務大臣は東郷茂徳。東郷は外交交渉の継続を条件に入閣した。東條内閣の成立は陸軍でも驚きをもって迎えられた。
東條内閣には「9月6日御前会議の決定にとらわれることなく、内外の情勢を再検討するように」という天皇の意向が木戸内大臣から伝えられた。東條陸軍大臣を首相に推薦したのは木戸内大臣であった。企画院総裁鈴木貞一も東條内閣誕生に深くかかわりを持った。東條を首相に推薦したねらいを戦後こう証言している。
鈴木貞一談
「東條さんをやったのは、陛下がご発言になって、それはやっちゃいかんと。陸軍は非常にあれだろうけれども、とにかくシナから撤兵をしてアメリカと仲よくなるのを……。だけど交渉だけするようにしなさいということを一言おっしゃっていただいてね。そうすりゃこれはね、東条という人は非常にああいう忠誠心の強い人だから、もう断じてこれ抵抗しませんよ」
天皇も東條内閣について言葉を残している。いわゆる天皇独白録では「組閣の際に条件さえつけておけば陸軍を抑えて順調に事を運んでいくだろうと思った」という言葉が記されている。天皇は東條を信頼していたと言われる。東條は天皇への忠誠心が強く、きめ細かく天皇に上奏したからだとされている。東條首相は9月6日御前会議で決定された国策の再検討のため、大本営政府連絡会議を開いた。会議は8日間にわたった。再検討はヨーロッパ情勢、作戦の見通しなど多岐にわたったが、中でも国力の判断がその中心の課題であった。
事務方としてこの再検討に携わった元陸軍大佐中原茂敏。彼は陸軍省資材班長として国力判断を担当していた。当時国力判断の基礎となるのは船舶の保有量であった。国力の維持には南方から船でいかに資源を運ぶかが重要なかぎとなったからである。そのため再検討は敵の攻撃による船の沈没予想量を海軍が出すことから始まった。1年目は80万トン。2年目は60万トン。3年目は70万トンと、横ばいのまま推移するとされた。一方造船量は次第に増加し、3年目には沈没量を超えると楽観的に予想されていた。しかし実際に戦争が始まると沈没量は予想をはるかに上回り、造船量も思うように伸びなかった。そのため国力維持が全く不可能になるというずさんな計画であった。さらに作戦時期にこだわる軍部は国策再検討を急がせていた。連絡会議議事録には「4日も5日もかけてやるのは不可、早くやれ、簡明にやられたし」という軍部の要望が記録されている。
中原茂敏談
「だから両総長は、私なんか8日間缶詰でやっとるときに、時々あらわれて「いつまで議論しとるんだ」と。海軍は永野さん。陸軍は杉山さんですよ。だから僕はあっちのほうには再検討のご命令がなかったと、そのときはなかった。陛下のご心配も国力がついていくかどうか。それに伴って戦力もついていくかどうかをもう一回再検討を、白紙還元しなさいと…こういうことだったですね」
再検討が進む一方で島田海軍大臣は開戦を決意した。沢本海軍次官の手記には10月30日島田海軍大臣が決意表明したことが記されている。島田は、自分は突然場末から飛び込み、いまだ中央の情勢はわからずも空気からして容易に事態は挽回できず戦争を決意すると述べたとされている。11月1日、再検討の結論を出すべく最後の連絡会議が開かれた。会議は17時間に及び、この席で鈴木企画院総裁は国力判断について企画院としての結論を出した。連絡会議議事録には「物的には不利のように考えているようだが心配はない、物の関係は戦争したほうがよくなる」という鈴木総裁の言葉が記されている。
しかし会議の最後の段階で東郷外務大臣が危機的な日米関係を打開する外交の切り札を提案した。東郷外務大臣の提案は「乙案」と呼ばれる日本の妥協案であった。この案は交渉の議題を南方に絞り、南部仏印からの日本軍の撤退という画期的な内容を含んでいた。撤退により資産凍結以前の日米関係に戻すことが、そのねらいであった。軍部は東郷外務大臣の辞職をおそれ、しぶしぶ乙案を認め外交交渉を続けることに同意した。しかし、戦争決意が明確に打ち出され、結果的には国策の再検討はできずに連絡会議は終わった。連絡会議の結果、新たな帝国国策遂行要領が合意された。そこでは戦争を決意し武力発動の時期は12月上旬と明記された。しかし12月1日までに交渉が成功すれば武力発動は中止することも最後に盛り込まれたのであった。国策の再検討終了後、ただちに天皇への上奏が行なわれた。天皇はこの時開戦の大義名分について東條に問いただしている。戦争機密日誌は、この時の天皇の様子を「お上はすでにご決意あそばされあるものと拝察する。安堵す」と記してある。昭和16年11月5日、宮中東一の間において開戦の決意を固める御前会議が開かれた。 
この年3回目の御前会議である。
原 / 本日決定の御前会議の議題は9月6日の御前会議の決定の延長である。9月6日の決定は第1に日米交渉の進展に関することであったが、これが妥協を見ざるは遺憾である。交渉の内容については、余は全然承知しあらず。
本日までに提示されているこの文書だけではわからん。まずもってどういう点が本案の成立前までにできたかということを外相に伺いたい。
東郷 / 欧州の戦争に対する両国の態度に関しては、拡大を防止する点は大体一致している。日中の和平問題に関しては、駐兵問題において一致せず、アメリカ側は全面撤退の声明をなすべきと主張し、日本はこれに応ぜられぬ。
太平洋の政治問題は双方ともに武力進出をせざることにしあり。これについては仏印の撤兵問題であって、これは話はついていない。
原 / 本日のご説明によると、前回と今日とアメリカの態度は何ら変化なく、今日はかえってますます横暴をきわめておる。したがって本交渉も望み薄と見て甚だ遺憾に思う。しかし、アメリカの言うことをそのままに受け入れることは国内情勢から見ても、また国の自存から見ても不可能であって、日本の立場を固守せねばならぬ。今をおいて戦機を逸してはアメリカに対し開戦を決意するもやむなきものと認める。初期作戦はよいのであるが、先になると困難も増すが何とか見込みあると言うのでこれを信ずる。
東條首相に国策の再検討を命じた天皇は、この日の御前会議では慣例に従い何も発言しなかった。
アメリカに対しては乙案が提示され(注・全て暗号解読されていた)、交渉継続の意思が伝えられた。ワシントンの大使館には交渉期限は11月25日と打電された。アメリカは南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討を始めた。アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲンソー財務長官である。国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわらない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。暫定協定案では、日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力を2万5000人に止どめれば資産凍結を緩和し民間用の石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。ハル国務長官は中国・イギリスなどの大使を呼び暫定協定案を提示し理解を求めた。しかし中国の胡適駐米大使が猛然と反発。直ちに本国の蒋介石に暫定協定案の内容を送った。重慶の蒋介石はアメリカが中国を犠牲に日本と取引をするのではないかと激しく動揺した。そして夫人の宋美齢とともにアメリカ政府の説得を試みた。ワシントンでは宋美齢の兄の宋子文が胡適大使とともに説得工作に当たった。宋子文はアメリカの大学で学び、アメリカ政府に知己が多かった。
このとき、蒋介石が出した秘密電報が台湾に残されている。かつて蒋介石が住んだ陽明山。ここに蒋介石の資料が多数納められている。今回初めて公表された蒋介石の機密電報。アメリカが暫定協定案を取り下げるようワシントンの中国大使館に説得工作を指示した電報である。宋子文あてに出された電報。宋子文には陸・海軍の長官を説得するように指示している。この電報には「日本に対する石油禁輸と資産凍結を緩和すれば、中国人民はアメリカが中国を犠牲にして日本と取引したと受け取らざるを得ない。4年半に及ぶ我々の多大の犠牲と、史上類を見ない破壊を伴った日本との戦いはむだに終わるであろう」と記されている。一方、胡適大使にあてた電報ではハル国務長官を説得するように指示している。ここでは「今妥協すると中国はかつてチェコスロバキアやポーランドがドイツの犠牲にされたのと同じ災難をこうむる」と訴えている。中国側は繰り返しアメリカ政府への説得を試みた。ハル国務長官は洪水のごとく大量の電報が寄せられたと後に述べている。中国の反対は功を奏し、ハル長官はルーズベルト大統領あてに、中国政府の反対により「暫定協定案の提出は留保する」という意見書を提出するに至った。さらに陸軍長官から日本軍が南方へ移動中との情報も入り、ルーズベルト大統領は暫定協定案の放棄を決断したのであった。11月26日、アメリカは従来の四原則に加えさらに厳しく中国・インドシナからの全面的な撤兵を要求した、いわゆる「ハル・ノート」を日本に提示した。事実上の最後通告であった。
石井秋穂談
「和解となればね、あのときは日本は支那から撤退せにゃいけなくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退となると満州をも含む。それにもかかわらず賛成する人があろうかと…おったらそれはほんとの平和主義者か。そういう人がずっと上の人から、下のほうの幹部に至るまで、だれかおるだろうかと考えたら、おらん、だれも。理論的に申せばどれもこれもみな問題はあったことになりますけどね…(しばし沈黙のあと)
それを正直に申せばね…侵略思想があったんですね。ええ。それで限りなくね、あっちこっち、これが済んだら今度はこれというふうに、侵略思想があったんですよね、そういうことになりましょうね……」
中国からの全面撤退を求めた「ハルノート」を日本政府は拒否、外交交渉は終わった。陸軍参謀本部は、こう情勢判断した。「これにて開戦決意は踏み切り容易」。また、当時の天皇の様子について陸軍の機密戦争日誌には「お上も十分納得あそばされたるがごとし」と記されている。昭和16年12月1日、開戦を決断する御前会議が開かれた。この日初めて政府の全閣僚が出席し、会議の冒頭、東條首相は、自存自衛を全うするため、やむなく開戦に至ったと説明した。会議は2時間で終わり、太平洋戦争開戦は決断された。12月8日、日本は真珠湾を攻撃。およそ3年9カ月に及ぶ太平洋・大東亜戦争に突入していった。
昭和16年に開かれた4回の御前会議。その合わせて10時間余りの会議が、その後の日本の運命を大きく変えた。 
 
陸軍大将東條英機

 

はじめに
東條英機陸軍大将については、戦後永らく、「極東国際軍事裁判(東京裁判)」における「A級戦犯」というレッテル(ないしはその名称がイメージさせる悪い「印象」)が独り歩きしたこともあって、ナチスドイツのヒトラー総統と並ぶ「独裁者」であり、大東亜戦争の「戦争責任」の大部分が開戦当時総理大臣であり陸軍大臣であった東條大将にあるものと、漠然と一般的に認識されてきた様に思います。この曖昧で不正確な認識は、未だ十分に克服されておりません。総理大臣等として戦争指導に参画した以上、少なくともその在任間の行動についてその権限に応じた行政上の責任が在るのは否めませんし、その点は御本人も生前に明確に認めておられるところです。しかし、これまで世間で言われてきたような様々な批判が果たして的を得たものであったのかどうかについては、客観的に見て大いに疑問があります。
平成20年12月24日夜、TBS系列局で放送されました『日米開戦と東条英機』(「東条」は誤り。「東條」が正しい。)は、そんな中にあって比較的客観的に論じていたものと感じられますが、まだ旧来の先入観から抜けきれていない場面や公正さを欠く証言等の垂れ流し等も多々見受けられました。
そこで、本項では、甚だ不十分ながらも、良いことは良い、悪いことは悪いとして、東條大将について簡潔ですが客観的に記してみたいと思います。中には事実誤認や不適切な評言などがあるかも知れませんが、その場合はそれらについてご指摘・ご教授下されば幸いです。 
誕生からドイツ駐在まで
東條英機陸軍大将は、今から120年前の明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第一期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の三男(二人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生しました。
因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條大将の御令息である東條俊夫元空将補によりますと、次のような事情があったための様です。本籍は既に東京に移していましたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、東條英機大将も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していたそうです。このため、東條大将は「岩手出身」であると言われていたそうです。いわば周囲の勘違いといったところでしょうか。
東條大将の祖父東條錠之助英俊は、盛岡藩士として南部家に仕えていました。
父東條英教陸軍中将は、明治6年に陸軍教導団に入り、23歳で西南戦争に従軍、明治11年9月16日に少尉に任官しました。陸軍大学校第一期生首席卒業の俊才で陸軍の知嚢を謳われました。後に記した「戦術・麓の塵」という著作は初の戦術書と言われています。日清戦争では大本営参謀としてドイツ留学で得た新しい知識を駆使して功績を挙げ、戦後は戦争の推移について「隔壁聴談」という戦史書を編纂し参謀本部に寄贈しました。しかし、「隔壁聴談」の中で当時の政府の動きや山縣大将(戦争中、第一軍司令官)の言動や作戦指導等について率直な批判を記したために不興を買い、中央の参謀から一転して姫路の歩兵第八旅団長へ追いやられてしまいました。日露戦争ではそのまま歩兵第八旅団長として出征しましたが、病気のために早く帰還して留守近衛歩兵第一旅団長に補せられました。ついで歩兵第三十旅団長に補せられましたが、明治40年11月7日陸軍中将昇進と同時に後備役編入、大正2年12月26日歿。享年59歳(数え年)でした。東條英教中将は極めて優秀な軍人でしたが、その能力に比してあまり栄達を果たせず早くに後備役編入となったのは、当時陸軍部内で強力だった山縣大将を筆頭とする長州閥のためだと言われています。このことは、後に東條英機大将の軍内派閥打倒の指向性につながっていったとも言われています。
さて、東條英機少年は、城北中学校から東京地方幼年学校に入り、陸軍中央幼年学校を経て明治37年6月陸軍士官学校に入校、翌38年3月陸軍士官学校を360人中10番の優秀な成績で卒業しました。卒業後、見習士官として近衛歩兵第三聯隊に赴任、陸軍歩兵少尉任官は、同年4月21日です。当初の補職は近衛歩兵第三聯隊補充隊附でしたが、日露戦争では第十五師団歩兵第五十九聯隊(宇都宮)の小隊長として出征しました。明治38年7月東京出張、その後鉄嶺付近に駐屯、更に朝鮮守備黄海道海州に駐屯して警備に当たっていました。明治40年、近衛歩兵第三聯隊附として原隊に復帰、同年12月21日に陸軍歩兵中尉に昇進しました。
明治42年4月11日、当時日本女子大学国文科の学生だった伊藤勝子(かつ子)と結婚、同44年には長男英隆が誕生しています。
大正元年、東條中尉は晴れて陸軍大学校に入校、大正3年(1914年)二男輝雄誕生、大正4年(1915年)6月に陸軍歩兵大尉に昇進して近衞歩兵第三聯隊中隊長に補せられました。同年12月、陸軍大学校を卒業して陸軍省副官を拝命しました。陸軍省勤務間、生真面目で律儀な性格が軍務に適していることを周囲の人々に印象づけたといいます。そして、大正7年には長女・東條光枝(結婚後、杉山光枝)が誕生しています。
陸軍省での勤務成績が良好だったこともあり、大正8年7月25日にドイツ駐在発令。スイスのチューリヒ、オーストリアのウィーンを経てドイツに入り、翌年8月ライプツィヒで陸軍歩兵少佐に昇進しました。同年10月27日、南ドイツのバーデンバーデン(Baden-Baden)という保養地で欧州出張中の岡村寧次少佐を、スイス公使館付武官の永田鉄山少佐とロシア大使館付武官の小畑敏四郎少佐が迎えて、いわゆる「バーデンバーデンの会合」が開かれました。3少佐とも陸士16期出身です。翌日にはドイツ駐在中の東條英機少佐(陸士17期)も加わったとされます。岡村少佐の日記によれば、この会合の席上、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢につき密約」がなされたとされています(ただし、この密約の内容は、後で岡村少佐が日記を捏造して書いたものだという説もあります。)。
東條少佐は、この当時もその後もずっと軍内部の派閥を心底から嫌っていました。「天皇陛下の軍隊の中に派閥があってはならない。それは私兵の思想だ。」との堅い信念によるものでした。東條少佐は永田鉄山少佐(後に陸軍省軍務局長)の陸軍改革構想に共鳴し、永田少佐を心から尊敬していました。そして、二人の親交は、その後もずっと続きました。 
帰朝から聯隊長勤務まで
ドイツ駐在武官を終えて帰朝後の大正11年11月、陸軍大学校兵学教官となり、翌年10月に、参謀本部部員と陸軍歩兵学校研究部部員の兼務を拝命しました。同年、次女・東條満喜枝(はじめ近衛師団参謀古賀秀正陸軍少佐と結婚、古賀少佐自決後再婚して田村満喜枝)が誕生しています。大正13年には陸軍歩兵中佐に昇進、翌大正14年には三男東條敏夫(通称「俊夫」、のち陸士59期生として陸軍士官学校在校中に終戦。戦後、民間会社勤務を経て航空自衛隊に入隊し空将補で退官)が誕生しました。大正15年3月23日、陸軍省軍務局軍事課高級課員を拝命、7日後には陸軍大学校兵学教官の兼務を命ぜられました。
昭和3年3月8日、東條中佐とつながりのあった永田鉄山大佐(当時)は、自分の後任として東條中佐を陸軍省整備局動員課長に据えています。この在任中、東條課長はその持ち前の真面目さを発揮して永田前課長が描いた国家総動員体制構想に関して深く研究したと言われます。同年8月、陸軍歩兵大佐に昇進。
翌昭和4年8月、東條大佐は歩兵第一聯隊長を拝命しました。帝都駐屯の頭号聯隊の聯隊長になるということは陸軍将校にとって非常に名誉なことであり、実際それなりの然るべき人物がこの職に補されます。余談ですが、歩兵第一聯隊の所在地は、戦後米軍による接収の後防衛庁が入り、数十年にわたり使用されてきましたが、市ヶ谷移転に伴い建物などは全て取り壊され現在高層ビル建設が予定されています。ただし、営門と歩哨の哨所は市ヶ谷に移設され保存されています(遺跡遺構展示館を参照)。
歩一での東條聯隊長の有名なエピソードとして、次の様なものがあります。例えば、私語をしている兵に対して、東條聯隊長は指揮下将兵の名前、年齢、出身地、成績まで全て事前に覚えていて、直に名前で「誰々、私語するな。」と指導していたと言います。その他にも、聯隊内の栄養状況について深い関心を抱いた聯隊長は、毎晩密かにゴミ箱を開けて覗き込み、兵達が食事を残して密かに捨てている事実を知ると、炊事班長を呼びつけて「消化が良くておいしいものを作ってやれ。」と命じたと言います。かなり「細かい」聯隊長と言うべきですが、その分兵達にとっては、自分達のことをよく気遣ってくれる聯隊長として大変人望があったといいます。なお、聯隊長になった昭和4年、三女・東條幸枝(結婚後、鷹森幸枝)が誕生しています。 
冷遇の時代
昭和6年8月1日、参謀本部総務部編制動員課長に就任、9月には陸軍通信学校研究部部員、陸軍自動車学校研究部部員の兼務を命ぜられました。参謀本部の編制動員課長となったものの、この頃から軍部内での相剋が深まっていきました。東條大佐は尊皇心旺盛であったのですが、荒木貞夫中将(当時)らのいわゆる「皇道派」と呼ばれる派閥には組みせずにいたために、昭和8年3月に陸軍少将となったものの参謀本部附となり、ここから暫くの間省部(陸軍省と参謀本部のこと)の要職から離れての勤務が続きました。同年8月に陸軍兵器本廠附、軍事調査委員長を拝命、その後、陸軍省軍事調査部長、陸軍士官学校幹事を経て、昭和9年8月に福岡県久留米の第十二師団歩兵第二十四旅団長(隷下部隊は、大村の歩兵第四十六聯隊、久留米の第四十八聯隊)となり、九州に赴任しました。東條少将にとっての国内地方勤務はこれが初めてです。それまでの経歴から見て唐突な印象を受けるこの人事には、実は大きな背景がありました。当時「陸軍三長官」の1つである教育総監であった真崎甚三郎陸軍大将は陸軍内で隠然たる勢力を持ち、何とか東條少将を予備役に編入したいと考え、自分の息のかかった香月清司陸軍中将(陸士14期、後に近衛師団長・第一軍司令官等を経て昭和13年7月29日予備役編入)が師団長を務める第十二師団隷下の歩兵旅団長に東條少将を就けて、その予備役編入の機会をうかがうことにしたのです。
なお、これまでの間、昭和7年に四女・東條君枝(結婚後、キミエ・ギルバートソン)が誕生しています。
予備役編入という目的のために旅団長に補任された東條少将でしたが、師団の「旅団対抗演習」の際に相手の旅団長を捕らえて捕虜にしてしまうという「戦果」をあげるなどしたため、予備役に追いやる合理的な口実がなかなか見つからず、東條少将をやめさせたい側の思い通りには進みませんでした。この時、旅団参謀として東條旅団長を強力に補佐したのが、井本熊男陸軍歩兵大尉(陸士37期。後に大佐、大臣秘書官、第二総軍作戦課長、陸上自衛隊幹部学校長・陸将)でした。
しかし、旅団長になってから丁度1年後の昭和10年(1935年)8月1日、遂に東條少将は第十二師団司令部附を拝命しました。地方部隊での「司令部附」という人事発令は、全部が全部そうであるというわけではありませんが、大体は予備役編入前の配置であり、次の人事異動期に待命、予備役編入となるのが一般的でした。通常ですと、東條少将もこのまま事実上陸軍を去ることになってしまうところでした。 
時代が生み出した上昇気流
ところが、第十二師団司令部附となってから11日後の昭和10年8月12日、荒木大将と並ぶ「皇道派」の領袖であった真崎教育総監の罷免(同年7月16日)に怒った相沢三郎中佐が、いわゆる「統制派」のリーダーと目されていた永田鉄山陸軍省軍務局長を、その執務室において軍刀で斬殺するという大事件が起きました。当時久留米の日吉小学校4年生だった東條俊夫元空将補は、永田軍務局長斬殺の知らせを聞いた父東條少将の愕然とした表情をよく覚えておられるそうです。東條少将がいかに強い衝撃を受けたかは想像に難くありません。事件当日に永田局長が着用していた血染めの軍服は、東條少将が御遺族から御形見として頂戴し、長く東條家で大切に保管されていましたが、東條大将がお亡くなりになった後に東條かつ子夫人により御遺族に返却されたそうです。
なお、「統制派」とは、永田軍務局長をはじめとする軍内部の派閥解消や軍制改革を指向する人々の総称(俗称)であり、実際に派閥を形成していたというわけではありません。東條英機少将もこの中に含まれますが、派閥の解消を主張していたこうした人々が、外部から見るとまるで派閥を形成しているかのような誤解を受けたのは、全く皮肉の限りだと言うべきでしょう。
この事件の翌日に人事異動があり、幼年学校時代からの同期生で東條少将と親しかった後宮(うしろく)淳少将が参謀本部第三部長から陸軍省人事局長に転じました。この後宮人事局長の取り計らいで東條少将は予備役編入を免れ、昭和10年9月21日関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に補されました。ここで予備役編入とならず関東憲兵隊司令官に転じたのは、東條少将にとって極めて大きな分岐点であったと言えます。因みに、この間の人事異動の事情について、終戦時の陸軍省人事局長であった額田坦(ぬかだひろし)中将は、戦後その著書「陸軍省人事局長の回想」(芙蓉書房出版)の中で「経緯は詳知していない。」と記しています。
東條少将が帝国陸軍史上に本格的に姿をあらわし頭角を発揮するのは、関東憲兵隊司令官として満洲国に赴任した時以降だと言えます。特に、昭和11年2月26日に帝都東京で発生した「二・二六事件」は、決起した青年将校らとは立場を異とする東條少将らの人事上の上昇気流を生み出すこととなりました。事件自体は、天皇陛下の「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧せん。」との断固たる御意志の表明により、わずか4日後に鎮圧されました。
この事件の余波は非常に大きく、時の岡田啓介内閣は事件発生の責任を取って総辞職し、替わって広田弘毅内閣が成立しました。しかし、戒厳令下の組閣であったこともあってか、軍に好意的な人物が多数入閣すると共に、陸海軍大臣を現役の大中将に限るとする「陸海軍大臣現役武官制」が復活されました。これはすなわち、「大日本帝國憲法」最大の欠陥であると言われる「統帥権の独立」に基づき陸海軍が人事権を有する現役の大将・中将を内閣に入れなければ組閣が出来なくなってしまうという、まさに政府の命脈を握る大きな影響力を軍が有することを意味しています。また、陸軍内部でも、川島義之陸相から替わった寺内寿一陸相が徹底的な「皇道派」粛清の粛軍人事を断行し、「皇道派」将校や、それに近い人々は次々と予備役に編入されました。これにより、それまで人事的に「冷や飯」を食っていた「統制派」の軍人の勢力が伸張するに至ったと言われています。東條少将も、関東憲兵司令官在任中の昭和11年12月1日に陸軍中将に昇進し、更に翌年3月1日には関東軍参謀長という要職に補されました。この頃から、東條少将は、いわゆる「統制派」の後継者的存在となったと言われています。参謀長となって満洲の実力者の一人と目されるようになった東條英機中将、星野直樹国務院総務長官、岸信介産業部次長(戦後、内閣総理大臣)、松岡洋右南満洲鉄道総裁、鮎川義介満洲重工業社長の5人は、実質的に満洲国を動かす実力者として「二キ三スケ」と呼ばれました。
関東軍参謀長在任中の昭和12年7月7日の「廬溝橋事件」を発端とする北支事変(のち、9月2日に「支那事変」に改称。支那事変については、参考資料展示館戦史室の「支那事変」をご参照下さい。)勃発時には、「膺懲南京政府、親日地方政権樹立」を陸軍中央に上申したと言われます。
8月15日、蒋介石は「全国総動員令」を発して全面戦争の体制を整えたため、日本側もそれまでの不拡大方針を放棄しました。これより先、8月上旬中国軍は察哈爾(チャハル)省に2コ師、河北・山西省境に3コ師、更に保定付近にも進出し、日本の支那駐屯軍(軍司令官は東條参謀長の元上司である香月中将)の側背を脅かしました。そこで、参謀本部は、支那駐屯軍に対して南口の攻撃を、関東軍に対してこれの支援を命じました。支那駐屯軍は、8月11日から独立混成第十一旅団、次いで内地から到着した第五師団(師団長は板垣征四郎中将)に攻撃を命じました。関東軍では、参謀長東條英機中将を指揮官とする察哈爾(チャハル)兵団(通称「東條兵団」。歩兵3コ旅団基幹。)を派遣して作戦に協力させました。察哈爾兵団は、8月27日(東條大将自筆の経歴書では24日)に張家口、9月13日に大同、24日に平地泉、10月14日に綏遠、そして17日には包頭を占領しました。
なお、最近筆者は、察哈爾作戦時に本来指揮権を有さない幕僚である参謀長が部隊を指揮して出陣したのは、「統帥権の干犯」であり「軍を私物化したもの」だ、という趣旨の批判記事を某所で見かけましたが、この点については、一応専門家の端くれである筆者から一言説明を加えておきたいと思います。第一に押さえておかねばならないのは、幕僚(参謀)だからといって部隊を指揮することが制度上不可能なわけではないということです。部隊の指揮権は当該部隊指揮官(本件の場合は関東軍司令官)にあるわけですが、この指揮官が幕僚を含む部下(ここでは東條参謀長)に指揮権の一部を命令で委任することにより、委任された者はその委任の範囲内において指揮官の権限を行使することが出来ます。常識的に考えて、委任命令なしに大部隊を指揮・運用する(できる)ということはあり得ません。当たり前のことですが、法的に権限のない者が指揮しようとしたところで隷下部隊長は動きはしません。 
陸軍次官就任
第一次近衛文麿内閣が昭和13年(1938年)5月30日に行った人事改造で、板垣征四郎中将が陸相として入閣すると、軍政に疎い板垣の次官として東條中将が起用されました。東條中将の陸軍次官就任の背景は概ね次のようなものであったと言われています。
ことの発端は、前年昭和12年7月に始まった「支那事変」にまで遡ります。当初、それまでも大陸各地で散発していた局地的な小競り合い程度の認識しかなく、簡単に収束すると予測していた当時の近衛内閣や陸軍中央の予想を裏切って、事態はエスカレートしていきました。
やがて、近衛首相は、昭和13年初めに、「今後は蒋介石を対手とせず」という声明を出してしまいました。近衛首相の狙いは、当時北支や中支に陸軍が作った地方政権によって事変を収拾しようというところにあったのですが、この目論見は外れ、かえって事態の収拾が困難となってしまいました。さすがに近衛首相自身も失敗だったと認めざるを得なくなりました。そこで、近衛首相としては、自分の失敗をどのように挽回してあらためて蒋介石の国民政府を対手として和平交渉の途を掴むかについて苦慮することになりました。そこで近衛首相が考えたのは、先の問題となった声明に関与した当時の杉山陸軍大臣を辞めさせて内外の印象を良くすることでした。昭和13年5月に行われた近衛内閣改造の本当の狙いは杉山陸相を罷免することにあったのです。
ところが、杉山陸相は簡単に辞めるとは言いませんでした。困った近衛首相は、当時参謀総長であった閑院宮殿下に杉山大臣罷免の件を依頼しました。閑院宮参謀総長はこれに応じ、結局、杉山陸相は渋々辞職を承諾しました。次に近衛首相は、当時第五師団長として北支にいた板垣征四郎中将を後任の陸軍大臣に持ってくることを考えました。ところが、この人事処置が今度は当時陸軍次官であった梅津美治郎を緊張させました。梅津次官は陸士15期、板垣師団長は16期で後輩でした。これはすなわち、後輩の板垣が大臣になれば先輩である自分は次官を当然辞めなければならなくなることを意味していました。杉山将軍は、その茫洋とした外見に比べて内面は繊細な神経の持ち主で処世術に長けていましたが、この梅津もまた頭脳明敏でなかなかの策士でした。この2人は、近衛首相がすべての面で扱いやすい板垣を大臣に据えて軍を自分の思い通りに動かすつもりだとみたようです。この時、2人の頭に浮かんだのが当時関東軍参謀長として新京にいた東條中将でした。律儀で真面目な東條中将なら板垣の脱線を止められるだろうと読んだのです。この様にして、東條中将は板垣陸相の「目付役」として利用しようとする陸軍中央から呼び寄せられる格好で陸軍次官に任じられたのでした。当時近衛首相は東條次官のことをよく知らなかったようであり、当時二人の間には後年のような確執はありませんでした。
東條中将はその高い行政能力を遺憾なく発揮し、「カミソリ東條」の異名を戴くことになります。特に、兼務していた陸軍航空本部長として航空兵力の充実を図ったことは、ドイツがポーランドで史上初めて実施する「電撃作戦」(昭和14年9月)の前のことであり、特筆に値すると思います。 
内閣総理大臣就任
その後、昭和15年に第二次近衛内閣に陸軍大臣として初入閣し、第三次内閣にも留任しました。この間三国同盟締結、南部仏印進出を推進しました。昭和16年(1941年)年1月には戦後に問題とされる「戦陣訓」を布達しています(ただし、実際は「戦陣訓」はそれほど軍にも民間にも普及せず、軍の人間でさえ戦後までその存在を知らない人も多数いました。従って、「戦陣訓」が軍人や民間人の自決を増やした等の戦後の批判は、歴史的に見て適正な評価とは言えません。)。
当時日米交渉が、支那からの日本軍撤兵問題で難航していましたが、東條陸相はこれを拒絶し、近衛首相は内閣を投げ出して10月16日に総辞職しました。
東條中将が内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣に任ぜられるのは、昭和16年10月18日です。しかし、本人はその直前まで自分が首相となることなど予想もしていませんでした。
当初、近衛前首相は自分から投げ出した内閣の後継首班として、東久邇宮殿下を推したい考えであり、東條陸軍大臣もその意向に賛成していました。しかし、当時内大臣として天皇の側近にあった木戸幸一内大臣は、万一の場合、皇族が和戦の決定を下さなければならなくなることをおそれて、東久邇宮による組閣に反対しました。(またこれは天皇の意向でもありました。) そして、東條中将を総理大臣に推したのは他ならぬ木戸内大臣でした。木戸内大臣は、「主戦派」の東條中将に戦争をさせない約束をさせておいて、日米交渉に尽力させる意図であったと言われています。「東條なら開戦に逸る陸軍を抑えることができるかもしれないと思った。」と、木戸本人は戦後かなり経ってから朝日新聞のインタビューで述懐していますが、果たしてそれは真実を語ったものだったのでしょうか。木戸内大臣から東條中将による組閣の案を聞いた天皇陛下は、「虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということだね。」と答えられたといいます。いずれにせよ、東條中将に大命が下ることになるその背景には、天皇陛下の東條中将に対する深い御信任があったことは間違いありません。
昭和16年10月17日、東條中将は皇居に参内する前、令夫人かつ子に対して、「今日、首を言い渡されるだろう。」と告げていたといいます。しかし、参内した東條中将は組閣の大命を受けたのです。自分に大命が降下したとき、東條中将は、ことの意外さにその場でしばし茫然となったといいます。当時陸軍省軍務局軍事課長として東條中将の近くにいた佐藤賢了大佐(当時)は、参内を終えて陸相官邸に戻った東條中将の顔は緊張でこわばり、蒼白となっていた、という意味のことを書いています(文藝春秋新社「東條英機と太平洋戦争」昭和35年)。このとき天皇陛下は、東條中将に対し、木戸内大臣を介していわゆる「白紙還元の御諚」を命じていました。この「白紙還元」とは何のことかと言いますと、昭和16年9月6日の御前会議の席上、政府(近衛内閣)と大本営が対米英戦争決意の下に戦争準備を進めるいう内容の「帝國國策遂行要領」を決定したことについて、これを無かったことにして戦争回避に努めよという意味だったのです。皇居からの帰途、陸軍省に立ち寄った東條中将は、その旨をふれて廻ったといいます。当時はどの軍人にとっても天皇陛下は絶対的存在でありその命じられるところは何があっても追求しなければならないものでありましたが、人一倍尊皇心旺盛であった東條中将にとってはなおさら重要なものであったはずです。東條中将ほどの「忠臣」は他にいなかったと言えるでしょう。
翌18日、東條中将は陸軍大将に昇進し、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣となりました。東條首相は陸相時代の強硬な「主戦派」から一転して「交渉派」に変わり、「日米不戦」の天皇陛下の御意志を体して努力を重ねました。ところが、当時の参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」を見ると、「東條陸相が総理となるや、お上をうんぬんして決心を変更し、近衛と同様の態度をとるとはそもそも如何、東條陸相に節操ありや否や」等の記述が散見され、陸軍中央(海軍も大同小異でしたが)が天皇陛下やその意を受けた東條首相の意志や努力に反して開戦に躍起になっていたことがわかります。また、開戦を指向していたのは軍だけではありませんでした。現在は戦前と正反対の路線を進んでいる朝日新聞をはじめとするなど大新聞は、連日のように威勢のいい記事を書き続け、国民の好戦意識を煽っていました。更に、帝國議会でさえ、ある代議士が「政府は何をはばかりおそれているのか?一日も早く開戦せよ。」と主張するなど、天皇陛下や東條首相の意図に反して、全体的に国を挙げて戦争へ突き進んでいく風潮にあったのです。この辺の事情・状況を、戦後の日本人はあっさりと忘れてしまったのでしょうか。 
大東亜戦争開戦
昭和16年月11月5日、御前会議で対英米開戦を決定しますが、それでもなお、東條首相は天皇陛下のご真意を反映して再度交渉のため、来栖三郎特使をアメリカに派遣しました。開戦のほぼ1ヶ月前のことであり、ぎりぎりまで東條首相が戦争を回避しようと努力し続けたことがよくわかります。
ところが、このような日本側の必死の努力にもかかわらず、同年11月26日、米国のハル国務長官からいわゆる「ハル・ノート」が突きつけられることとなりました。「ハルノート」とは、実質的な対日最後通牒であり、その内容は当時の日本にとって到底承服しがたい過酷極まりないものでした。(その概要は、1満洲の権益放棄、2支那からの全兵力撤収、3日独伊三国同盟の死文化の3つの要求が柱でした。)
この米国の主権国家同士の外交とはとても思えない傲慢無礼な態度と要求を受けて、東條内閣で特に開戦反対の硬骨漢であった東郷茂徳外務大臣でさえ遂にサジを投げ、日本は昭和16年12月1日の御前会議でやむをえず開戦を決定しました。まさに、米国により無理矢理開戦に追い込まれたわけです。
昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英に宣戦布告して、ハワイ・マレー半島・フィリピン等を攻撃するに至りました。当初の半年ほどはほとんど圧勝をおさめていました。
国内政治においては、昭和17年4月に衆議院翼賛総選挙を実施して翼賛政治会を確立すると、同年6月には官製国民運動6団体を翼賛会の傘下に編入、8月には部落会、町内会、隣組を翼賛会に組み込み、挙国一致の政治体制を完成させました。
しかし、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で海軍の誇る聯合艦隊が主力の航空母艦4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)と航空機約300機、そしてかけがえのない優秀な航空機搭乗員多数を失ってその海空戦闘力が一挙に減退、これを契機として太平洋方面では全般的に守勢に転じ、やがて海軍の無謀な飛行場建設に端を発するガダルカナル攻防戦でも大きな損害を出して敗退し、そのまま後退を重ねることとなりました。ガダルカナル撤退の後、大本営は「絶対国防圏」を設定しました。これは、これ以上は後退できないという要地を地図上の線で結んだ全長約1万3千キロにも及ぶ長大な「防衛線」で、地域としては、カムチャッカ半島南域からサイパン島を中心とするマリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニアのヘルビング湾、チモール島、スマトラ島、ベンガル湾、ビルマに至るものでした。
昭和18年11月1日、政府は大東亜省、軍需省、農商務省、運輸通信省を設置して官僚機構を統合再編、戦時行政特例法などで行政権を強化しました。
また、同年11月5〜6日の間、東京で「大東亜会議」が行われました。この会議は、戦後は、「傀儡政権の集まり」だとか散々に言われていますが、アジアの諸国代表が史上初めて一堂に会する機会を持ったということは、歴史的に意義深いことだと言うべきでしょう。それまでの白人優越の世界において、有色人種による国際会議が行われることなど想像もできなかったことだったのです。11月5日午前10時、各国代表が議事堂の中の会議場に入場、大東亜会議は東條首相の代表演説から始まりました。東條首相は、米英のアジア侵略の歴史をもとに、「洵(まこと)に米英両国の抱く世界制覇の野望こそは、人類の災厄、世界の禍根」とし、日本に対しても経済断交をもって屈従を迫ったので、自存自衛のため開戦のやむなきにいたった経緯を述べました。そして「大東亜各国は正に其の自主独立をば尊重しつつ、全体として親和の関係を確立すべきもの」と「万邦共栄」の理想を謳いあげました。アジアの有色人種が大同団結することを東條首相は心底喜んでいました。東條首相が常時軍服のポケットに入れてあった「修養録」には、この会議で採択された「大東亜宣言」が記載されています。
軍がガダルカナル奪回に失敗し、戦局がどんどん悪化していくのを見て、東條首相は焦燥感を急速に募らせていたと言われます。そのため、首相自身が具体的に直接指示したかどうかは別にして、東條政権は戦後になって「憲兵政治」等と揶揄されることになる厳しい政策をとるに至りました。しかし、東條首相自身は大変真摯でした。首相は時折下町の様子を自ら視察して、干してある洗濯物を手にとって、「まだ木綿だ、大丈夫。」とつぶやいたと言われます。 
統帥権独立の弊害と参謀総長兼務
昭和19年2月、東條首相は、当時の参謀総長杉山大将を強引に説得して、自らが参謀総長を兼任するに至りました。これは勿論陸軍史上前例のないことであり、このために重臣や海軍からも反発を買い、陸軍内部においても支持者を減らすことになりました。細川護貞侯爵(近衛元首相の女婿、細川護煕元首相の父)などは、「東條が望むものは、道鏡の地位か。」と憤慨しています。しかし、この細川侯爵の見解は完全に間違っています。なぜならば、東條首相がこの様な周囲から横暴だととられることが分かりきっている挙にでたのかというと、それは私利私欲のためではなく、大東亜戦争に勝ちたいという一心からであったからです。東條英機という人物には、私欲とか世間体などといった行動の足枷となるような感情があまり無く、純粋で、几帳面なほど真面目で一途な人物だったようです。そういう人物でなければ、そもそも、当時も戦後も「暴挙」と批判されるような行動に敢えてでることなどあり得ないでしょう。
なお、東條首相がこの時期になぜ参謀総長を兼任しようとしたのかについては、東條首相の性格だけではなく、当時の行政・統帥システム上の致命的欠陥にも言及しなければなりません。まず、当時は一般の行政権と陸海軍の統帥権とが全く別個の存在だったことを認識しなければなりません。帝國陸海軍は現在の自衛隊とは異なり、天皇陛下(大元帥陛下)に直接隷属するものであって、行政(国務)に属する内閣総理大臣・陸軍大臣(陸軍大臣は人事・予算・制度等の「軍政」のみを所掌)といえども、軍令(作戦・部隊運用など)に関しては一切指揮権を持たなかったのです。軍が行う作戦内容は勿論、その結果すら国務関係者には全く知らされませんでした。東條元空将補のお話では、東條首相が所管事項を内奏の際、陛下から戦況等の統帥事項をそっとお教え頂いたとの事を仄聞した事があるそうです。当時の東條首相兼陸相が置かれていた立場に立って見てみますと、次のようになります。日本の軍事に関して自分でコントロールできるのは、陸軍の人事・予算・制度等に関する「軍政」事項だけであり、肝心の大本営陸海軍部の立てる作戦については何も関与できず、加えて海軍に関しては軍政事項さえも全く触れることができませんでした。それまでの大本営の戦争指導をもどかしく見ていた東條首相は、このままだと戦争に勝てないと判断したのか、海軍のことは制度上如何ともし難いが、せめて陸軍だけは作戦面も掌握したいと考え、敢えて批判承知で参謀総長を兼任する決心をしたものです。しかし、参謀総長を兼任したからといって、それでも海軍は全く掌握できないという状況であり、戦後に言われているような東條首相がヒトラーの様な「独裁者」だったという見方は、全く無知で不見識なものだと言わなければなりません。東條首相には、ヒトラーどころか敵国である米国大統領ほどの権限さえなかったのです。「東條=独裁者」というイメージは、戦後の極東国際軍事裁判により作り上げられた(と言うよりデッチ上げられた)虚構に過ぎません。
現在、御令息である東條元空将補の御手元に、戦時中東條大将が記録していたメモ(いわゆる「東條メモ」)が1冊だけ残っています。それは昭和18年2月23日から同年9月11日に至る限られた期間のものではありますが、そのうち5月21日の記事には、『政府と統帥部との関係に就いて』との記事があり、その中には「組閣当初より苦心を払いたる最大のもの…」とか、「政務の施行中最も頭を悩めしはこの点にして、時には“ 堪えられず”と密かに感じたる場合もなしとせざりき。」との記載があります。また、巣鴨拘置所で東條大将がしたためた膨大な資料も保管されていますが、その中に、『統帥と 国務との関係に就いて』と題する一文があり、この文面からは、統帥と国務との間で如何に心労 したかが推察できます。この本文の最後に「日本に於ては、国防及用兵行為即ち統帥行為の本体は、制度上政府の政治的責任外に独立して存在し、統帥機関其の責任に任ず。故に諸外国の観念を以てすれば、帝國には二重政府の存在となる。」と書いてあります。東條元将補は、「現在の総理大臣と異なり、統帥権に触れることは勿論、閣僚の任免権すら持っていなかった当時の総理大臣・陸軍大臣たりし父にとって、陸海空三軍の最高指揮官をも兼ねる米国大統領の軽快な政略・戦略を相手にして、さぞや口惜しい思いだったろうと推察しています。この状況を多少でも好転させたいと考えた手段が参謀総長兼任という方法だったと思います。父の遺書の後段に、『最後に軍事的問題について一言する。我国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。』とだけ簡単に書いてありますが、統帥権問題が父の最大の難問だったと思います。」 と述べておられます。 
倒閣工作と内閣総辞職
昭和17年6月11日、米軍艦載機による猛爆撃によりサイパン島上陸作戦が開始され、激戦の後、海軍中部方面太平洋艦隊(長官は南雲忠一海軍中将)と第四十三師団(師団長は斎藤義次陸軍中将)等の守備隊は敢闘むなしく玉砕しました。これは、先に設定した「絶対国防圏」の重要な一角が突き崩されたことを意味し、更にはサイパンと日本本土との距離が新型長距離爆撃機B29の航続圏内に入ったことから、米軍にとっては日本本土空襲が容易になりました。
かくして戦局が悪化すると、それまで東條首相を支持していた重臣(当時の「重臣」とは、主に首相経験者のことを差し、具体的には若槻礼次郎、平沼騏一郎、岡田啓介、近衛文麿等のこと)や陸海軍内部に批判勢力が起こり、嶋田海相も海軍で孤立感を深めると、重臣・海軍・政治家・在野勢力などに反東條の協力体制ができ、暗殺計画やクーデター計画等が相次ぎ、倒閣工作が行われるようになりました。特に、近衛元首相は、昭和19年4月頃、東久邇宮殿下に対して、「このまま東條大将に政局を担当させておく方が良い。戦局は誰に替わっても好転することはないのであるから、ヒトラーと共に世界の憎まれ者となっている東條大将に最後まで全責任を負わせるようにしておいたら良い。」という趣旨の発言をしたといいます。この言葉にこそ、近衛元首相のみならず、東條首相にすべての戦争責任を押しつけて自分たちは逃れようとする重臣達やその他勢力の本音がよく現れているのではないかと思われます。一般的には、戦後天皇陛下に累が及ばないようにするために、敢えて東條首相に責任を押しつけたのだと解釈されている様ですが、仮にそういう狙いがあったにせよ、果たしてそれが全てだったのでしょうか。
昭和19年7月18日、東條大将は依頼により参謀総長を免じられ、22日には、サイパン陥落等の責任と、重臣工作により東條大将を自ら強く推挙したはずの木戸内大臣が反東條に廻ったことによって内閣総辞職に至りました。同日附で免本官並びに免兼官となり、即日予備役編入となりました。この時の重臣達の東條内閣打倒の口実は、連合国との「和平促進」ということにあったのですが、後継首班を決める重臣会議においてそのことは少しも論じられず、むしろ徹底抗戦を口にする人が多くいました。東條内閣を倒したものの、国家の政策を転換させる見通しなど立つわけもなく、紆余曲折の末、当時朝鮮総督であった小磯國昭陸軍大将(予備役)が選ばれました。しかし、天皇陛下は元々小磯大将とその内閣をあまり信頼しておられなかったといいます。 
天皇陛下の御信任
東條内閣は一般に不人気であったと言われますが、それにもかかわらずこの政権が長く続いたのは、東條首相に対する天皇陛下の御信任が極めて厚かったためだと言われています。東條大将は前述のとおり元々尊皇の心に満ちていた人物でしたが、首相の当時も政務・軍務の要点は細大漏らさず上奏しました。また、陛下の御下問には誠心誠意をもって御答えしました。歴代の首相や参謀総長等の表面的かつ形式的で要領を得ない上奏や奏答に苛立ちを感じておられた陛下が、誠実な東條大将に好意を抱き信頼するのは当然の帰結だと言えるでしょう。天皇陛下は、高松宮殿下や三笠宮殿下のような直宮(じきみや)の進言を受け付けないほど東條大将を信頼しておられたといいます。重臣達が東條内閣を倒閣しようとした原因の一つがここにもあると考えられます。
この様な天皇陛下の御信任に関して、東條元将補は次のように記しておられます(要旨)。
「我が家の夕食は家族一緒に食卓を囲むのが常で、時に秘書官方も御一緒することも間々あった。家族の前で公事を口にする父では無かったが、食後屡々秘書官方に「心掛け」等を話すことがあった。私が強い印象を受けたのは次の話だった。『私が頻繁に天皇陛下に内奏申し上げるのを諸君は不思議がっている様だが、この様に考えるからだ。陛下に内奏申し上げると色々とご下問がある。勿論十分研究し尽くして内奏申し上げているから、その場ですぐ奉答申し上げるが、それでも尚御疑問をお持ちの様に感じたら、更に研究・確認して再度でも再々度でも奉答せねばならぬと考えているからである。急ぐとか何とかこちらの都合によって少しでも御疑問をお持ちのまま勅許を仰ぐことは出来ない。若しその様な事をすれば、それは幕府政治と何等変わらない。「天皇御親政」とは、こうしたものだと思う。』と。其の時秘書官の方から、「閣下が内奏に上がると、陛下からすぐ“お椅子を賜 う”そうですネ。」との話があったが、ゆっくりと話が聞きたいとの思召しだったのだろうか。」
「父は参謀総長退任に当たり、畏くも天皇陛下から御嘉賞の勅語を賜っています。この勅語は前述の修養録に書き写されています。参謀総長退任ニ当リ賜りタル勅語(昭和19年7月20日午前10時20分) 『卿、参謀総長トシテ至難ナル戦局ノ下、朕ガ帷幄ノ枢機ニ参劃シ、古ルク其任ニ膺レリ、今其職ヲ解クニ臨ミ、茲ニ卿ノ勳績ト勤労ヲ惟ヒ、朕深ク之ヲ嘉ス。時局ハ愈々重大ナリ。卿益々軍務ニ精励シ、以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ。』」
「父が巣鴨で書いた日記があります。その昭和22年2月7日(金)の記事に、『穂積弁護士ヲ通ジ、聖上ノ御言葉ヲ拝ス。死シテ恨ナシ。』との記載があります。残念乍ら、御言葉の内容についての記載は無いものの、父が「死シテ恨ナシ」と書いていることから、優握な御言葉を賜った事は十分想像出来ます。日頃尊崇申し上げていた天皇陛下からの御言葉を頂いた父はさぞ満足し、感謝申し上げたことでしょう。」 
予備役編入後
東條前首相は、予備役となってからは世田谷用賀の自邸で過ごす時間が長くなり、重臣会議等に出かける以外は外出することもめっきり少なくなったと言います。東條内閣は連合国との「和平促進」のために倒されたはずだったにもかかわらず、その後も戦争は延々と継続され、人的物的損害は加速度的に増加し、戦局はどうしようもないくらい悪化していきました。海軍が誇った聯合艦隊は相次ぐ損害のため実質的に消滅し、燃料不足等の為まともに動く艦艇はほとんどない状況になりました。また、陸軍も、支那派遣軍などはまだまだ健在でしたが、精強を誇った関東軍は部隊の南方転用が続いたため戦闘力が極度に低下し、ビルマ方面軍は「インパール作戦」で大損害を出して攻撃力を喪失、太平洋方面の各部隊も悲惨な状況にあり、海軍に引きずられて広大な地域に分散・配置された各部隊が十分な補給も得られないまま死闘を繰り広げ、次々と玉砕ないし壊滅していきました。この間も、確かに東條大将は重臣会議などの席上強気の発言を繰り返していましたが、それは陸軍大将という立場上そう発言せざるを得なかったものと思われます。重臣に列しているとはいえ、実質上戦争指導にほとんど関与できず、明らかに敗戦へと向かっていく状況を見ていなければならなかった東條大将の心情は察するにあまりあります。
そして、昭和20年8月14日、遂に日本は「ポツダム宣言」を受諾するに至り、やがて北方領土など一部を除いて、帝國陸海軍の火砲は沈黙することになりました。 
新たなる戦場「極東国際軍事裁判」
「極東国際軍事裁判」とは、第二次世界大戦後に戦勝国である米国を中心としてドイツのニュールンベルクと日本の東京市ヶ谷で行われた「国際軍事裁判」(これらはとても「裁判」と呼べるものではなく、「裁判」に名を借りた戦勝国による一方的かつ野蛮な「国際公開リンチ」とでも呼ぶべきものですので、じ後「 」で括ってこの用語を使用します。)のうち東京で行われたものをいい、通称「東京裁判」とも呼ばれます。この「極東国際軍事裁判」は、大東亜戦争停戦後、日本の戦前・戦中の戦争指導者28人(昭和天皇は結局訴追されませんでした。)を「A級戦犯」(政府・軍部首脳が対象)として審理したもので、「ポツダム宣言」第10項の戦犯処罰規程を根拠に、11カ国の連合国名によって「平和に対する罪」、「殺人と通例の戦争犯罪」及び「人道に対する罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づく起訴状により、昭和21年4月29日(嫌がらせのつもりなのか、当時の天長節=天皇誕生日にわざと日程を設定しています。こうした事例はこの後他にも何回も出てきます。)に起訴されました。この「法廷」は起訴直後の5月3日に開廷され、2年6カ月後の昭和23年11月12日(開廷から判決まで924日間)に「刑」が宣告されました。判事(裁判官)は、戦勝国11カ国から1名ずつ任命され、オーストラリアのウェッブ判事が裁判長に選任されました。なお、この「裁判」に公正さがないことの一つの表れとして、スイスなどの中立国からは1人も裁判官が選ばれなかったことも挙げられると思います。キーナン首席検事以下の国際検事団に対して、弁護団は鵜沢総明(うざわ・ふさあき、後に明治大学総長に就任)が弁護団長に、清瀬一郎が副団長となりました。
連合国を代表して日本占領の最高責任者(=支配者)として日本へやってきた米陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは、進駐初日に「東條を逮捕せよ。そしてその他のA級戦犯のリストを作成せよ。」という口頭命令をCIC(対敵諜報部)のソープ准将に下達したといいます。この命令は、「ポツダム宣言」第10項の戦犯処罰規定に基づき発せられたものでしたが、命ぜられた側の准将は当初とまどったといいます。なぜならば、少なくとも当時の国際法における戦争犯罪とは、捕虜や非戦闘員に対する虐待(まさに現在一部の米軍将兵がイラク人に対しておこなっていることそのものなのですが。)などに代表されるものであって、新たに連合国が後付けで考え出した「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」といった法的概念は存在しないからでした。そこで准将は、A級戦犯の定義を「戦争を自らの政治活動の道具にしたと考えられる者」と決め、早速戦犯リストの作成を指示しました。当然ながら、はじめは資料も乏しく、仕方がないので開戦当時の人事興信録を参考にしたといいますから、相当いい加減なものでした。小泉親彦元厚生大臣(陸軍軍医中将)や橋田邦彦元文部大臣(生理学者)など、恐らく不起訴になったと思われる人まで「A級戦犯」に指名され、その結果自決してしまいました。連鎖反応を恐れたGHQは、これ以降日本側に事前通告して出頭させ拘留する方法に切り替えました。
しかし、最初の逮捕者である東條大将の場合はそうではありませんでした。昭和20年9月11日、戦犯容疑者として、占領軍当局から「A級戦犯」の指定を受けていた東條大将は、東京世田谷の自宅を突然予告なしに現れたCIC隊員やMP約20名に取り囲まれました。東條大将は米兵を外で待たせ、その隙に拳銃で自決を図りましたが、弾がわずかに急所を逸れて失敗してしまいました。
その前日、東條大将は当時の陸軍大臣下村定大将に呼ばれました。下村陸相は、東條大将が戦犯に指名された場合自決する覚悟でいることを部下の陸軍省高級副官美山要蔵大佐(陸士35期)から聞き、美山大佐の意見具申を受け入れて自決をやめるよう説得しようとしたのでした。そして二人は約2時間にわたり、大臣室で話し合いました。しかし、東條大将の決意は堅かったので、美山大佐は後日再度下村陸相から説得してもらうつもりでいました。ところが、下村陸相は多忙を極めていて、そのまま機会を逸していたところ、突然の逮捕劇となったものです。
当時の政府としては、誰かを犠牲にしてでも「法廷」に立ってもらい、大東亜戦争が自衛のため、道義のための戦争であったことを主張してもらう必要を強く感じていたのです。そして、その役には東條大将が最も適任であることは客観的に見ても明らかでした。しかし、9月11日、前述のとおり東條大将は自決を図るのでした。前日9月10日付で東條大将がしたためた遺書は、逮捕当日現場で押収されたまま行方不明になっていたのですが、その原文コピーが米国立公文書館で見つかり平成10年12月にマスコミで報道されました。その遺書には、「大東亜戦争モ遂ニ今日ノ如キ不詳ノ結果ニ陥リ」、「開戦当時ノ責任者トシテ深ク其ノ責任ヲ痛感スル處ニシテ茲ニ自決シ其ノ責ヲ」、「帝国ノ正シキ行為ハ将来ノ歴史ニ依リ決スルモノナリト信ズ。勝者ノ裁判ニ決スルモノニアラズト信ズ。敵側引渡ノ要求ニ対シテハ他ニ自ラ途アルベシ」などと、明確に自決の意思が書かれていました。東條大将の「自決未遂事件」は当時話題となり、武人にあるまじき失態として非難の的になりました。国中あげて東條大将ひとりに敗戦の罪を擦り付ける風潮さえ生まれました。
昭和21年春からの「裁判」に出廷した東條大将は、何かふっきれたかのように淡々としていました。しかし、東條大将は戦勝国によるこの「裁判」の本質をしっかりと掴んでいて、最初から死刑になるのを覚悟で戦いました。自分を有利にするための弁護側証人は最後まで一人も申請しませんでした。
キーナン首席検事は、冒頭陳述で、「東京裁判は世界を破滅から救うための文明の闘争である。」と位置付けました。この時点で既に検察側の主張がリーガルマインドから遠くかけ離れた抽象的で曖昧模糊としたものであることがよくわかりますが、これに対して弁護側は、「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」へと勝手に拡大された戦争犯罪の概念が国際法上まったく未確立な上、そもそも「日本には侵略する意図はなく、満州事変から大東亜戦争にいたる戦争はすべて自衛のための戦争である。」という法的にも歴史的にも公明正大な正論をもって反論し、検察側と激しく対立しました。
ブルーエット弁護人が丸二日かけて読み上げた東條大将の宣誓供述書は、本格的に政治の表舞台に立った陸軍大臣在職時代から始まり、日米交渉、首相就任と開戦決定の経緯、ビルマ・フィリピンの独立、大東亜会議の開催へと続く事柄を、史実に照らしてもかなり正確に、156項目にわたり包み隠さずに述べていきました。勿論、内外情勢についての見通しの甘さはあるでしょうが、当時日本が置かれた立場を理解していれば、実に堂々たる供述でありました。
その後、東條大将は、そもそも大部分の裁判官が極度に偏向している中、キーナン主席検事らと堂々たる戦いを繰り広げました。傍聴券を入手できなかった判決公判を除いて約2年半の公判のほとんどを傍聴した富士信夫元海軍少佐は、著書「私が見た東京裁判」(講談社学術文庫)の中で、東條大将とキーナン検事のやり取りについて、「カミソリ東条いまだ衰えず。」と評しています。
当時、オーストラリア人のウエッブ裁判長をはじめとして、イギリスやソ連などから、天皇陛下の戦争責任追及を要求する声がまだ高かったのですが、それをキーナン主席検事とのやり取りの中で、東條大将が「責任は我にあり」という証言をしたことは、天皇陛下が訴追を免れるのに決定的な効果をもたらしました。
「A級戦犯」として起訴された28人中、裁判途中で死亡(松岡洋右元外務大臣、永野修身元元帥海軍大将)、病気免訴(大川周明)となった3人を除いて、25人の被告全員が「有罪」となり(55の訴因中10の訴因を認め、満州事変から大東亜戦争にいたる日本の軍事行動を「侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定しました。)、その内絞首刑7人(東条英機元首相、板垣征四郎陸軍大将、土肥原賢二陸軍大将、松井石根陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅元首相)、終身禁固16人、禁固20年 1人、禁固7年1人でありました。
判決は多数決によりましたが、少数意見の裁判官が5人いました。そのうちの1人であるウエッブ裁判長は、「どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきではない。」と判決文にしたため、フランスのベルナール判事は、「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くことができるのか。」と述べました。中でも、インドのパール判事は、日本の「無罪」を主張し、アメリカの原爆投下を非難しました。
判決後、弁護側は、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に対して再審を申し立てますが却下され、直ちにアメリカ連邦最高裁に訴願しましたが、これも却下されました。
そして、昭和23年12月23日、皇太子殿下(現在の今上天皇)の誕生日に死刑が執行されました。享年64歳。辞世は、「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん國に酬ゆることの足らねば」でした。「死刑」が執行されたその場所は、現在、東池袋中央公園となっており慰霊碑が建立されています。
起訴されなかった「A級戦犯」容疑者に対する第2次起訴が当初予定されていましたが、米ソ冷戦構造の激化で見送られました。戦犯容疑で収監され最後(昭和23年12月24日)まで未決勾留されていたのは、後に総理大臣となり、日米安保条約改定(60年安保)を行った岸信介、ロッキード事件で病床尋問された児玉誉士夫、笹川良一、後藤文夫、天羽(あもう)英二、須磨弥吉郎ら17人(このうち、岸・児玉両氏は第2次のA級戦犯として起訴が予定されていました。)。また出頭を命じられた「A級戦犯」容疑者は100人を上回りました(杉山元元第一総軍司令官、小泉親彦元厚生大臣、近衛文麿元首相らは出頭を拒否して自決しました。)。
また、「極東国際軍事裁判」で有期・無期の禁固刑に処せられた「A級戦犯」18名のうち、獄中で病死した梅津美治郎・白鳥敏夫・東郷茂徳・小磯国昭の4氏以外の人たちも相次いで仮釈放の形で出所、昭和33年4月の連合国通達により刑が免除されました。結局彼らは、昭和23年11月に「終身・有期禁固刑」に処されながら、10年も経たない内に出所したことになります。かたや絞首刑、かたや早期釈放という形になったわけで、如何に連合国側が一貫性のない、いい加減極まりない対応をしたのかがよくわかります。
その後、「A級戦犯」として「絞首刑」になった東條大将ら7人をはじめ14人は、昭和53年10月から靖國神社に「昭和受難者」として合祀されました。また、意外と知られていないことですが、東条大将ら「絞首刑」になった7人については、国内法では「刑死」ではなく「公務死」の扱いになっており、昭和26年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっています。禁固7年とされた重光葵元外務大臣は、戦後、鳩山内閣の副総理兼外相となりました。また、終身刑とされた賀屋興宣元大蔵大臣は、池田内閣の法務大臣を務めています。このことからも、「極東国際軍事裁判」について、日本国政府が何らの権威も正当性も公式かつ完全に認めていなかったことがよくわかります。 
おわりに
東條大将は、「極東国際軍事裁判」の宣誓供述書の最後をこう締め括っていました。この文章にはすべてが集約されているように思いますので最後に紹介させていただきたいと思います。
「戦争が国際法上から見て正しき戦争であったか否かの問題と、戦争の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。第一の問題は外国との問題であり且法律的性質の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だ嘗て我が国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられたるとは考へたことはありませぬ。第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私は之を受託するのみならず衷心より進んで之を負荷せんとすることを希望するものであります。」 
 
東條英機と岡田啓介の対決

 

慶応4(1868)年、福井県に生まれる。海軍兵学校、次いで海軍大学校を卒業。海軍の要職を歴任して大正13年、海軍大将となり、昭和2年に田中義一内閣の海相に就任、同9年斎藤実内閣のあとをついで首相となる。昭和11年の二・二六事件では首相官邸を襲われ、九死に一生を得た。第2次大戦の戦局悪化に伴い、反東條運動の中心人物としてその退陣に尽力し、終戦工作に従事した。昭和27(1952)年10月死去、84歳。 
1 まず東條内閣打倒へ
さて、太平洋戦争は突然はじまってしまった。はじめのうちは勢いがよかった。一気にマレー、フィリピン、ビルマ、オランダ領東インドまでも占領し、国民を一応ほっとさせはした。シンガポールを日本がとったとき、英国が和平交渉を持ちこんできたとか、この頃でもそんな話をする人がいるが、根も葉もないことだ。英国がそんな馬鹿げたことをするはずもない。私は、不安ながら成行きを傍観していた。無理な戦争でも、勝てればいい。勝てればそれに越したことはないんだが、しかし、だんだん無理の結果が現れてきた。ガダルカナルにアメリカが上陸して、日本はソロモンをめぐる一年の戦争で大変な消耗をしてしまった。私がいても立ってもおられなくなったのはその頃からだ。
これでもう、勝負はついたと思わざるを得なかった。すでに重要な攻撃兵器である飛行機は質・量ともに優劣が決定的となり、電探(レーダー)の登場によって日本海軍は得意の夜戦が出来なくなっている。潜水艦は補給戦に使われて壊滅してしまい、潜水作戦もやれない。
もともと、日本には英米を相手に戦争するような国力のないことは判っている。生産力だっておよびもつかないんだ。戦争は個人の勝負ごととは違う。全国民の運命をかけなければならん。かりそめにも、やってみたら先はなんとか道が開けるだろうくらいの気持で始めるべきではない。とことんまで考えて、勝てる見込みがつかぬ限り、避けなければならんことで、無理な戦争をしちゃいかん。としきりに言っていたのはそのためだが、前線の海軍の連中の間でも、もう戦争は敗けだ、という悲痛な空気のあることが判った。
しかし、中央の強がりをいう連中には、まだこのことがピーンときていないらしかった。現代の戦争は生産戦で、こうも決定的な差がついた以上、このさき戦勢を盛り返す望みはまるでない。
私事を言うようだが、私の長男の貞外茂は軍令部一部一課で作戦のことをやっているし、二・二六事件のとき、私と間違えられて殺された義弟の松尾の娘婿で瀬島竜三というのが陸軍の参謀本部に中佐でいる。それに企画院にいる迫水、これだけの縁つづきのものが、戦争の中心で勤いていたわけだが、ひと月に二度くらい私のところに集まって食事をすることがある。そんなときに、詳しい戦争の進行状態が手にとるように判るんだ。政府が高官にまで隠している損害も判ってしまう。これが私の情報網だったんだが、貞外茂が十九年の十二月戦死し、瀬島が二十年七月に敗戦思想があるというんで満州へやられてしまうまで、こんな会合が続いた。
そのほか、海軍関係の連中からいろいろな情報を聞けば聞くほど、じっとしておれなくなった。このまま戦争を続けてゆけば、日本は国力の最後まで使いはたし、徹底的に破壊されて、無残な滅び方をしなければならない。勝負がはっきりついたからには、一刻も早く終結させる道を考えた方がよい。せっかくここまで築き上げた国が、不名誉なことになるのはいたし方ないとしても、今のうちにでも救えるものなら、なんらかの手を打たなくちゃならん。ただ滅びるにまかせては不忠のいたりだ。
どうすれば適当な方法で戦争を終結させるか、ということを私は真剣に考えた。最後の働きのつもりで知能をしぼり、方策を立ててみた。しかし終戦ということは、戦争をはじめた内閣には出来ないことだ。しかも東條のやり方を見ていると、口では戦争の終結を考えなければならんといいながら、まるで策を立てようとせず、戦争一本やりで、つっ走っているばかりだ。戦争をやめる方向へもっていくには、まずこの東條内閣を倒すのが第一歩だ、ということに思い当たって、私は決心を固めた。東條を辞めさせるところへどういうふうにもっていくか。それについて思案をめぐらしている際、私に大変いい方法を見つけさせたのは木戸のいった言葉だった。
木戸に会いに行ったのは、私自身ではなく、迫水に旨を含めて使いに出した。そのとき私が考えていたのは、……東條だって、むざむざ内閣を投げだすような男ではあるまい。今の時局に倒閣運動をやっても成功することはあり得ないんだから、東條が面目をそこなわずに、首相の地位を去るようにした方が上策だ。この方法はたった一つしかない。
東條を参謀総長に転出するように、とりはからうことだ。
それで、それとなく東條の推薦者である木戸を動かしてみようというわけで、迫水をやった。迫水はじかに面会をもとめるのもよろしくなかろうと思って、有馬頼寧伯に手引してもらい、九月のある日(木戸日記によれば十八年八月八日〈日〉)私の使いであることをあからさまに見せぬため、美濃部洋次という友人と一緒に荻窪の有馬邸を訪れ、木戸と昼食をともにすることになった。
その席上で迫水は、私に言い含められていたことを言ったわけだ。いろいろと東條内閣の批評をやったあげく、戦局がますます重大になってきた今日、もっとも重大なことは国内の政治よりむしろ軍の作戦指導である。極端にいうと首相は誰でもよいが、参謀総長には立派な人がならなければならぬ。だからこの際、東條を参謀総長に転任させて、戦争のことを専門にやってもらい、国内政治は適当な人を首相にしてやらせることにしてはどうだろうか、と切り出してみた。
木戸は、「内大臣というものは鏡のようなものであって、つまり世論や世間の情勢をうつして、そのまま陛下にお目にかける役目をするものだ。自分自身の意見で動いてはならんし、世論を自分の感情でゆがめて、陛下にお伝えするのもつつしみたい。だから東條の件についても、その意見はよくわかるが、個人的な意見だけでは自分にはどうにもならない。もし世論が、東條内閣に反対だということになったら、そのときは陛下にお取次する。自分はあくまでも東條内閣を支持するつもりはない」と言ったそうだ。
そこで、迫水がつっこんだわけだ。でも世論というものはどんなものなのか、と。もし新聞の論調が世論だとするならば、新聞は検閲制度で口を封じられている際、正確な世論の反映とはいえないし、議会だって今は翼賛政治だ。たとえ内心東條に反対しているものがいても、表に出せる状態ではない。そうすると形の上で世論というものは現れてこない。国民の心の中に、いわず語らずのうちに湧きあがっている気持を取り上げて、世論と見なすわけにはいかないか、といったところ、「世論というのは、そういう形の上のものばかりでもあるまい。たとえば、重臣たちが、一致してあることを考えたとする、それもひとつの世論ではないか」と木戸が、なかなか味のある言葉を出した。
帰ってきた迫水からこの話を聞いて、これはいい暗示だと思った。重臣の意見をまとめることが一つの世論をつくることになるとすれば、東條を退かせる道は今の場合これがもっとも有力で、かつ手近なことだ。私は、まずこの方法を押していってみよう、と秘かに考え、準備にとりかかった。 
2 慰労名義で東條を呼ぶ
それまで重臣が会同するといえば、政府側から招待されるとか、内閣更迭のときにお召しを受けて参集するときだけで、重臣が自分たちの方から集まろうと言い出すことはなかった。そこで私は国家多難の折から、重臣もたまには集まって意見を交換し、同時に政府に対しても思う存分言ってみてはどうか、と近衛や平沼男爵にはかり、この三人の思いつきということにして重臣一同に相談したところ、みんな賛成した。第一回の会合には、日夜苦労している東條を呼んで、首相の戦局に対する考えを聞くことに話をまとめて、平沼、近衛に私ら三人の連名で招待状を出したわけだ。
近衛やその他の人たちも、東條に遠慮のないところを言ってやろうという気持はもっていたらしいので、いい機会だと喜んだ。十月のことだ。会場を華族会館に決めて、迫水に招待状を持たせてやった。東條への口上はこうなんだ。「これまでは、いつも総理大臣の招待にあずかり、ごちそうになっているが、こちらから総理大臣をよんで、労をねぎらうということのなかったのは残念である。それでお返しの意味で、一席招きかたがた御意見を承ろう」と。これに対して、東條は喜んで出席する、と返事したんだが、やっぱり相手もなかなかのものだった。
出るといっておいて、しかし自分一人では、御意見を聞いたり話をしたりするのに差し支えるから、少なくとも大本営、政府連絡会議に出席する閣僚たちを同伴して、伺うといってきた。それでは東條を真ん中にすえておいて、大いに言ってやろうと思っていた計画がくずれてしまう。そこで、そう大勢こられてはなかなか打ちとけた意見の交換も出来かねるから、総理一人で来てもらえんか、と再三申し入れをし、近衛なども、それは困る、どうしても東條を一人きりにしなければならぬと主張していたが、東條の側では、たって一人で来いということならば出席を断わるといってきたので、やむを得ない、またの機会を待つことにして、このときは東條が手兵を率いて出席し、それもお座なりに終わってしまった。大いに当てがはずれた気持だったよ。
しかし機会はいつかは来る、と私は考え、あせっては事を仕損じると、気長に待つことにした。その次の月には、東條がお返しだといって重臣を招待して、閣僚たちととりとめのない話をし、それからというものはひと月おきに重臣が主催したり、東條側が主催したりして、懇談会を続けていたが、待てば、やっぱり機会はくるものだ。事を計画して五ヵ月目、年が明けて十九年の二月に重臣側が招待したとき、東條は一人でやってきた。毎月同じことを繰り返しているうちに気楽に出てきたんだね。
その間、私は他に若槻さんや平沼、近衛などとしばしば会同して、意見や情報の交換をしていたんだが、東條にまかせておいては国の前途は大変なことになる、と意見が一致してきていた。こうして、やっと東條一人をみんなで取り囲む好機をつかまえた。これを逃がしてはならん、というので、そのときは手厳しく東條をやった。言葉こそおだやかであったが、その気持を表現するなら、みんなで匕首(あいくち)を東條に突きつけた、ともいえるだろう。
みんなそれぞれものを言ったが、若槻さんが一番痛烈だった。若槻さんの東條に対する追及は理路整然たるもので、政府は口では必勝をとなえているようだが、戦線の事実はこれと相反している。今は引き分けという形で戦争がすめば、むしろいい方ではないか、ところがそれも危ない。こうなれば一刻も早く平和を考えなければならんはずだが、むやみに強がりばかりいって、戦争終結の策を立てようともしない。どうするつもりか、と突っ込んでいた。和平の糸口を見つける手段について若槻さんは、戦争と関係のない国へしかるべき人をやっておくことを説いていたが、東條は、さんざんみんなにやられたものだから苦い顔をして、「そんな手だてはない」と答えていた。
この会合は、相当の効果があった。近衛は席上の様子を会う人に吹聴する。独善的な東條に反感を持つ人たちは日ましに増えていたのだから、東條が重臣にいじめられたという話は、誰でもうれしがって聞く。それからそれへと伝わって、とうとう議会のうちにもいわず語らずのうちに反東條の空気が濃くなった。議会へ東條が登壇すれば、拍手で迎えていたものだが、こんどは東條が重々しく現れても、手ひとつ鳴らないということになった。
東條もこの状態を察したらしく、内閣の補強をやりだした。まず国防と統帥との緊密化をはかるといって、自ら参謀総長をかねて首相、陸相と三者を一身に集め、独裁体制を完全に確立してしまった。東條を参謀総長にして、首相の地位から退かせようとした私の案は、思わぬ形で実現したわけだ。これについては有馬伯も迫水に向かって、「君の案は妙なふうに実現したね」と苦笑しながら言っていたそうだが、もちろん東條が私の意向を見抜いて、そうしたんだとは思えない。 
3 米内・末次の協調実現
その頃すでにアメリカ軍はソロモンを越えて、マーシャルを制圧し、クェゼリンやルオットの日本軍が全滅したばかりか、トラック島まで機動部隊の大襲撃をうけて、日本は破局に近づいていた。
このうえは、一刻もじっとしていることは出来ない。そこで第二段の策を立てた。それは島田海軍大臣を辞めさせることだ。島田も東條にならって軍令部総長を兼ねていたが、こういうことは海軍のすじみちに反することで、誰もよくいわない。島田は兵学校ではよく出来たそうだが、あんまり東條に同調しすぎた。海軍は陸軍とならぶ存在なんだから、海軍の運営については海軍大臣として部内の意見を代表して動くべきなんだが、なにからなにまで、東條のいいなりになる。そのためすっかり部内の信望をなくしていて「島田副官」というあだなさえついていた。つまり、東條の副官にすぎんという意味なんだ。
島田が鈴木貫太郎に会って、「山本は戦死しました」と報告したとき、鈴木が驚いて「それはいつのことだ?」と思わずきいた。すると、島田は「軍の機密に属することですからお話できません」という。鈴木が「おれは帝国の海軍大将だ」といって怒り、よっぽど腹が立ったとみえて、たびたび「けしからん奴だ」と話していた。
島田が閣内にいては、海軍が独自の立場から事に処していくことは出来ない。同時に島田を海軍大臣の地位から退かせることは、東條の独裁体制をくずすことにもなる。後任海軍大臣の任命について、海軍が東條内閣へ不協力態度をとれば、内閣は更迭せざるを得なくなるかもしれないし、後任を出しても、海軍大臣が軍令部総長を兼任することは、その機会に改めることが出来るから、陸軍側の東條だって、自分だけ兼任しているわけにはいくまい。
その用意として、私は米内を現役に復帰させておくことを考えた。今のところ海軍を率いて、難局に対応し、内閣のいく方向を正しくする人としては米内が最適任者だ。そこで米内のことを伏見宮殿下にお願いしておいたんだが、海軍には米内の流れと末次の系統とがあって、米内を現役に復帰させるなら、末次も現役に帰した方がよいというものが出て来た。つまり米内を海相に、末次を軍令部総長にせよ、というのだ。
末次はどうでもよかったが、米内を円満に現役に復帰させるために必要なら、それもよかろう、と私は思った。ところが困ったことに、米内と末次とは仲が悪かった。会っても口をきかないくらいなんだ。二人を現役に復帰させて要職につかせるには、どうしても仲直りさせなければ、はなはだ具合が悪い。それでとにかく三人で会う機会をつくろうと思い、秘かに使いを走らせた。ことはすべて秘密を要した。東條は、この時局に倒閣を策すのは敗戦主義者であるとして、実に熱心に、そして意のままに憲兵を使って、私らの動きを見まもっている。うかつなことは出来ないんだ。それで米内系の矢牧章と高木惣吉、末次系の石川信吾、私には迫水がついて、その四人がいろいろ打ち合わせて、間を取り持つことにし、六月二日、三人で会談する運びになった。藤山愛一郎が、なみなみならぬ好意を見せてくれて、その邸宅を提供すると言ったので、三人はそれぞれ別々の時間に、藤山邸からほど遠いところで車を降り、憲兵の目にふれぬようにして、落ちあったわけだ。
藤山が席をはずしてから、私は米内と末次に向かい、「この際、日本のために仲直りしてくれんか。今やもう非常な事態にたちいたっているんだ」と言ったところ、二人とも国を救うため一個の感情などどうでもよい、一緒に力をつくそうと言ってくれた。それはありがたい、と私も喜んで、記念に寄せ書きなどしてその日は別れた。
島田を辞めさせるについては、まず伏見官殿下のお力を借りることにしたが、それは私も殿下には日ごろ親しく願っていたし、また殿下は島田を以前から可愛がっておいでだった。島田は殿下の寵児だ、といわれているくらいなので、殿下の御同意を得たうえで、ことを運んだ方がいいと思ったからだ。
殿下のところへ伺い、「今はもう島田が辞めて、海軍の空気を一新すべき時にたちいたっているように思われますが……」と申上げたところ、殿下は「そうもあろう。私から島田に言うことにする」とおっしゃった。一方木戸にも会って私の考えを述べたところ、木戸は一応東條の耳にも入れておこうといって赤松秘書官をよんで伝えさせた。赤松は、東條の機嫌のよいときに言おうと思って、とうとう言わずじまいになったらしい。
殿下が御同意になったので、私は、じかに島田に会った。六月十六日のことだった。
私が「米内と末次を現役に復帰させる。同時に海軍大臣と総長の兼任をといて、海軍大臣は、後任に譲ってはどうだ」と説いた。島田は「今海軍大臣を辞めるのは内閣をつぶす結果になる」といい、言を左右にして断わる。その日はもの別れになって帰ったが、島田は、このことをすぐ東條に知らせたんだね。あくる日、東條から私に、会いたいから首相官邸まで出向いてほしい、と言ってきた。 
4 ついに東條と対決
とうとう東條と対決する時が来たわけだ。東條にしても、私がいろいろ動いていることはとっくに感づいていたにちがいないが、島田の一件が起ったので腹を立てて、もうじっとしておれなくなったんだろうと思う。どういうことが起こるかわからないので、私の身辺にいる連中はみな心配そうな顔をした。東條と会ったら、どんな態度に出てやろうか、とぼけてやろうか、とも考えたが、向こうだってもう判っていることだし、こちらもはっきりしていた方がいいだろうと思い、一人で官邸へ出かけていった。
おもしろいことに、その日は島田も伏見宮殿下のお呼び出しがあって官邸へおもむき、殿下から「もうお前も海軍大臣をやめては……」という意味のお言葉をうけている。私が首相官邸につくと、すぐ閣議室の隣にある応接室に通された。果し合いにのぞむような気持だった。私と向かい合って座った東條は、心の中はどうだったか知らんが、言葉はすこぶるおだやかで、ていねいに「閣下」と呼びかけた。
「閣下は海軍大臣に辞職を勧告されたそうですが、そういうことは総理にあらかじめ了解をもとめて下さるのが穏当と存じます。内閣に対して遺憾なことだったと思われますが……」
と、たしかこう切り出してきたと憶えている。
私は、
「いや、言葉を返すようだが、私は閣下に断りなしに勧告した覚えはありません。さきに木戸内大臣に会見の際、内大臣から閣下の秘書官赤松大佐にも伝え、総理の耳にいれておくよう話をしてあるはずです」
と答えた。東條は意外そうな顔をした。たぶんあとで赤松が困ったことだろうと思う。東條はさらに追及してきた。
「この多難な時局に際して、そういうことをなされては、内閣に動揺をきたすことになるので、はなはだ困ります」
そこで私は、
「こういう際だから、島田海軍大臣がその職にとどまっていることは国のためによろしくないと考え、そのような勧告をしたわけです。とにかく島田ではもう海軍部内はおさまらぬ。今の状態では、ますます悪くなるばかりです。閣下もよくお考え願いたい。私は政府のためになるようにやっているのです」
東條は重ねて、「ではなぜ、宮殿下までわずらわすようなことをするのか」といった。
結局、東條は、
「海軍大臣を更迭させることは内閣を不安定にする結果となります。重大な時期に政変があっては、国家のためによろしくありません」
と強引に出てきた。私が、戦局に対応するためには、海軍大臣の更迭はぜひ必要だといっても、東條はどこまでも私の動きを難じ、おつつしみにならないと、お困りになるような結果を見ますよ、と暗に私をおどかした。そこで私は、
「それは意見の相違である。私は私の考えを捨てない」
と言い切った。
会見は三十分もかかったか。そのときの東條の言い分では、今にも戦局を盛り返して五分五分のところへもってゆくような様子だったが、そう言われては、これ以上いうのも無駄だと思いながらも、玄関へ出るまで私は海軍大臣更迭の必要を説いた。しかしついにもの別れだった。あとで伝え聞いたところによると、私をその場から憲兵隊へ拘引しようと考えていた者も東條の周囲にはいたらしい。
一方、伏見官殿下から勧告された島田は、即座にお断り申し上げて引き下がったそうだが、あくる日になって、また官邸へおもむき、
「殿下がここにいらっしゃると政治問題に利用されることになって、おもしろからざることになります。しばらく熱海の御別邸へおいでになっていていただきたい」
と、熱海にお引きこもりになることを勧告申上げたそうだ。やむなく殿下は東京をおたちになる前に、わざわざ私のところへ中根事務官を使いによこされて、こういうお言葉があった。
「しばらく会うこともないだろうが、もしなにか連絡したいことがあったら中根を仲介にしてくれ」
と。そして殿下は熱海へお引きこもりになった。私は島田の不遜の態度を憤らざるを得なかった。
私は、島田更迭について、陛下にも申上げたいと思っていた。しかし陛下は、国務については責任者以外の者の意見をお聞きにならないというお心構えをもっておられる。
私のような責任外のものがとやかく申上げるのはおそれおおいので、伏見宮殿下に島田の更迭を御相談申上げた折、陛下へしかるべく申上げるよう、お願いしたことがあった。そのとき殿下は、
「陛下に拝謁を願いたいんだけれど、このごろ陛下は私がお目にかかっても椅子も賜わらぬほどだから、拝謁を願ってもお許しがあるかしら」
とおっしゃるので、私は木戸にこの旨伝えて、殿下が拝謁されるよう取り計らってほしいと頼んだ。木戸の計らいで殿下は陛下にお目にかかり、海軍大臣の件について、言上なさったとのことだが、この模様はついに承る機会がなかった。殿下はさらにこういうお言葉を中根に託されていた。「お前の国に対する忠節は、自分も決して忘れないだろう」と。
私はそのお言葉をありかたく聞くとともに国の前途を思って暗然となった。
その頃アメリカ軍はすでにサイパンに上陸して、日本軍の死闘がつづいていた。東條は私と会見の際、サイパン戦はいまのところ五分五分だといっていたが、これはなにも知らされていない、素人へ言うのならともかく、すでにマリアナ沖海戦では、海軍は大事な空母を失うなどの大きな犠牲を払っている。その犠牲のあまりにも大きいのは、ソロモン攻防戦の損耗で、艦隊編成も不完全な形になっていたためだ。 
5 絶対防衛線も壊滅
絶対防衛線だといわれていたサイパンの線まで危機に瀕しながら、東條がむなしい強がりを言っていることは、悲しむべきことだった。
もしサイパンがおちたら、本土が爆撃機にふみにじられてしまうのは明らかだ。局面を収拾する人物の出現は、一刻も早ければ早いほど日本のためだ、と考え、私がとるべき手段を練り、とにかく島田の更迭が手っとり早い道筋なので、こまめに動きまわった。鈴木貫太郎にも会って話してみた。鈴木もこれには賛成で、ひとつ高松宮殿下に申上げようじゃないかと誘われ、官邸へ伺った。
高松宮殿下は、ひとの意見をお聞きになるときは一応、その意見と反対の見方からかなりつっこんだ御質問をなさって、よく事情を了解なさるという慎重な方のように思われる。このときも、いろいろ情勢についてきわめて詳細な御質問をうけて、こちらも種々御説明申し上げた。戦局はどうかというと、サイパンの日本軍は苦闘の末についに敗れて、日本本土を護るべき絶対抵抗線はアメリカの手に握られてしまった。トラックは連合艦隊の根拠地だったが、すでにそこは大襲撃をうけて、機能を失っていた。そのうえサイパンまでとられては、残存艦艇は、瀬戸内海にでも息をひそめていなければならん。
今でも思いだすことだが、サイパン戦がたけなわだったころ、鹿児島の出身で神という大佐がぜひ私に聞いてもらいたいといって訪ねてきたことがある。神はこう言うんだ。
サイパンをとられてはおしまいだ。海軍がいつまでも「武蔵」「大和」のような大艦を保存していてもしようがない。いよいよというときは、サイパンに近接するまでは護衛機のかさをかぶせて、両艦を出動させ、形勢転換をはかる。やむを得なければ、両巨艦を浅瀬に乗りあげて砲台の代わりにしてもいいから、ものすごい威力ある主砲を撃ちこむことは考えられんものか、としきりに私に説くんだ。
せめて今、サイパンを守りおおせたら、しばらくはゆとりが出るから、その間にあとの作戦も練ることが出来よう、と言い、私からぜひ軍令部へ進言してほしい、と熱心に話す。サイパンの防衛がいかに大切であるかは、ソロモンで敗れたころから軍首脳部でもしきりに論議されていたのに、マーシャル、ギルバートをとられても、なお具体的にどうしようということもなくぐずぐずしている間にこの始末となったのだから、もうどうにもならん。東條は参謀総長として、インパール作戦というあきれた作戦を無理押しに現地軍に押しつけて、統帥の首脳としての頭の狂いを現し、陸軍部内でも信望をなくしていた。
それはともかくとして、神の熱心さにほだされて、私は軍令部にこの話を取り次いでおいたが、結局日本海軍が後生大事にしていた「大和」などは、沖縄で特攻作戦に使ってしまった。その頃島田は、海軍の現役、予備の大将会の席上、サイパンを失ってのちの作戦について質問をされても答えられない。陸軍側でも、いよいよ東條ではどうにもならん、との声があちこちに起こって、ただならぬ空気が濃くなっている。内外ともに東條には不利だ。
そこで東條は島田と相談のうえ、内閣強化をはかって、反対空気に対抗する気だったんだろう。七月十三日に木戸内大臣を訪ねて、強化策について相談し、力を借りようとしたらしい。そのときの木戸の言葉は、東條の予期に反するものだった。木戸はあべこべに、総長と大臣とを切りはなして統帥を確立させる、海軍大臣を更迭させる、重臣を入閣させて挙国一致内閣をつくる、という三条件を示した。案に相違して東條は、「いったいそれは誰の案であるか」と反問したら、木戸は「陛下の御意志によるものだ」と答えたという。東條はそれでもまだ信じなかったのか、あくる日拝謁の際、陛下に伺ってみると、全く陛下はそうお考えになっておられた。東條もこれでどうすることも出来なくなったわけだ。
こうして島田は辞めなければならなくなった。そこで島田は後任大臣に沢本をと考えて、自分が伏見宮殿下に熱海引こもりを強要したのも忘れ、殿下を訪問して御同意を得ようとしたが、お断りをうけた。しかたがないから野村直邦を呉から呼んで、後任に推薦したわけだ。 
6 内閣補強策の裏をかく
一方、東條は重臣を入閣させて、内閣を補強しようとしている様子だ。これこそ私らが待ち望んでいた好機だった。ここにおいて私は、大いに思案したわけなんだが、重臣を入閣させるとすれば、閣僚の空席をつくらなければならん。つまり、閣僚のうちの誰かが辞表を出すこととなる。東條はいったい誰を辞めさせようとするだろうか。そのへんの事情につき、いろいろ情報を集めてみると、東條はこれまでも閣僚の入れかえをやっているが、それには星野直樹のいうことをよく取り上げているようだ。星野は、自分の気にいらぬものを次々に辞めさせるようにしている形跡がある。鈴木貞一の辞めたのも、賀屋が辞めたのも、星野の考えから出たものらしい。
次にそういうことが起こるとすれば誰だろうか、と迫水に聞くと、岸国務大臣だろうということになった。岸信介は、私はよく知らないが迫水がよく知っている。さっそく迫水に行ってもらった。その帰っての話によると、……迫水は、岸に向かって、東條はどうしても閣僚の空席をつくらねばならんはずだから、きっと君のところへ辞めてくれといってくる。岡田も君の頑張りに期待しているし、ひとつ力になってくれ。辞表を出せといってきても断われ、といったところ、岸も東條にはあきたらない思いをもっていたようであるが、「辞めさせられる理由はどこにもない、もし辞表を出すようにいってきても断わる」
とはっきりいったそうだ。
果たしてあくる日、その通りのことが起こった。深夜、岸のところへ東條の使いとして星野が現れ、内閣を強化するため退いてくれ、といってきた。岸は「返事は直接総理にする」と星野を帰して首相官邸へ行き、東條に対してきっぱり辞職勧告を断ってしまった。
東條は困っただろうと思う。四方とかいう憲兵などがやってきて、なかばおどかし、なかばすかして岸を辞めさせようとしたが、岸も強硬に承知しない。
東條の改造策は、これで行き詰まってしまった。閣内でも重光葵や内田信也などから、改造よりももう総辞職をしたがよいという意見が現れるようになり、今や四面楚歌の格好になった。東京の事情にうとい野村直邦は、後任海軍大臣の交渉をうけ、東條にだまされたような形で七月十七日親任式にのぞんだが、その日平沼の邸では重臣が集まり、重臣は一人も入閣しないことに決め、東條内閣不信任の態度をはっきりと表明した。大変暑い日で、若槻さんが伊東から出てくるし、近衛、広田、米内、阿部、私に主人側の平沼の七人が顔をそろえ、密議のはじまったのは午後四時頃だった。
会談の座長をつとめた若槻さんは、
「東條内閣は、もう信望を失っていると思われるが、それについて今日はみなの意見を伺いたい」
とまず切りだした。
そのときの空気は、もうはじめから東條は退陣してしかるべきだ、という結論が出ているようなものだった。ただ阿部はすこし考えが違っていて、一応東條のいうことも聞いて警告しよう、それでも駄目だったら総辞職をうながした方がいいというのであったが、米内は東條から入閣の交渉をうけたが、拒絶したという話をして、「今や内閣そのものの更迭が必要なのである」とはっきりした態度を見せるし、若槻さんも今さら東條に警告することもあるまい。東條ではとても駄目だという結論が出ているから退いてもらうのであって、阿部が個人的に東條に話をするのなら勝手であるが、重臣のみんなの考えとして東條に忠告する必要はないときっぱりしたものだった。
米内のところには、岡軍務局長がやってきて、海軍全体の希望だからぜひ国務大臣として東條内閣に入ってほしい、との話だったそうだ。広田にもこれは入閣の交渉だったかどうか、あるいはそんなはっきりしたものではなかったかもしらんが、援助をもとめてきたというんだ。しかし広田も入閣の意志などさらになく、こうして一同の申合せははっきりした形で決まり、「この際、内閣改造ということは、多難な時局の前途に対してなんの効果もない。国民全部の心をつかんで、道を切り開いてゆく強力な挙国一致内閣の登場が必要である」
ということをていねいな文書にして、九時すぎ会議は終わった。
私は、この申合せを書いたのをもって平沼邸を出て赤坂にある木戸の私邸を訪ねた。
木戸にさきほどの集まりの模様を話すと、木戸は内閣の更迭についてはちっとも反対しなかった。私のもっていった申合せは、上奏されることになるだろう、と考えられたので、二人で、もう一度文案を練り直して渡してきた。かって木戸の言ったいわゆる「世論」は、こうやって実現したわけだ。東條を退陣させて、国難に新局面を開こうと決心してから一年あまりかかったことになる。
東條は、あれほどほしいままに憲兵を使って、自分に不利なことをしようとする人たちの動きを監視していたのに、この日の重臣の集まりをまるで知らなかったらしい。重臣がこんな申合せをして木戸のところへもっていったことが東條の耳にはいったのは、十八日の夜明け方だったようだ。さしもの東條もこれで身動きがとれなくなって、ついに総辞職を決意した。私は初めの頃は米内が海軍大臣として入閣し、局面打開の役目をすることを期待して、その方へ力を入れたりしたが、東條の方から内閣改造をはかってくるにおよんで、みるみるうちにその総辞職にまで事が運んだ。 
7 小磯が後継首相に
東條はその朝総辞職を言上するため拝謁を願い出たが、木戸に会った際、後継内閣についてなにか考えはないかと聞かれて、
「こんどの政変は重臣の動いた結果であるから、重臣に聞いてみたがよかろう」
と言ったそうだ。重臣会議は夕方ひらかれた。私は陛下のお気持をもっともよく現せる内閣がいいと考え、いつも側近にいる内大臣を首班にしてはどうかとの意見をもちだしてみたが、だいたいにおいてまず原則を決めようということになり、つまり陸軍の系統から出すか、海軍の方から出すか……、やっぱり陸軍の系統から出すことにして、いろいろ候補者が出た。近衛もなかなかよくものを言った。日華事変以来のややいい加減なところのあった自分の政治やその結果について、いろいろと考えたにちがいないんだ。時局の収拾について真剣になっている様子が判った。結局こういう順序で候補者があげられ、第一に寺内寿一大将、第二に畑俊六大将だが、二人とも現役で、重要な責務を負っているから、念のために予備の方から考え、第三に小磯国昭朝鮮総督があげられた。小磯がもし具合が悪いときは海軍の方から出そうというので米内があげられたが、現役の二人は、この際現地から連れて来ることは出来ないというので、三番目の小磯に大命が降下することになった。
私は東條以外のものが出てくれば、おのずから戦争に対する批判も生まれてくるだろうと思っていたが、小磯も有頂天になっただけだった。ただそのときは内閣首班は小磯だったが、大命は小磯と米内の二人に降下する形となっていた。米内を考えたのは木戸あたりから出たんだと思うが、米内はすでに心の中で、終戦を考えていたように感じられる。
米内の現役復帰はこのとき実現したんだが、末次の方の話はついにそれっきりだった。
握りつぶされたようだね。軍令部なら召集官でもなれるんだから、末次を召集の形で連れてきてはと米内にすすめるものもいたらしいが、米内は応じなかったようだ。末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね。
その頃ロシアヘ特使を派遣しょうという論が一部にあった。九月頃のことだ。それは終戦へもっていくという考えから起こったものではなしに、ソ連がいつ参戦するかわからんから、そうならんょうにしておこうというのが理由だったらしいが、あわよくばアメリカやイギリスとの間をソ連に斡旋させようとの気持もいくらかあっただろう。外務省が反対するのを小磯が押し切って、駐ソ大使の佐藤尚武へ電報を打ったわけだ。それに従って佐藤はモロトフに会い、日本からソ連へ特使を派遣したいが、とさぐりを入れてみた。モロトフは、
「貴国とわが国との間には特使の派遣を受けるような事態はない。本官は貴官を信用し、貴国の外務大臣はマリクを信用しているじゃないか」
と言下に断り、別れぎわに佐藤に向かってこう言ったそうだ。
「今、自分はギリシャの哲学者の言葉を思い出した。万物は変わる、という……」 
 
「ハル・ノート [Hull note] 」1

 

太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。正式にはアメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan、日米協定基礎概要案)と称する。日米交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。ハル・ノートに関しては、「(事実上の)最後通牒であった」とする解釈と、「最後通牒ではない」とする解釈とがある。
前段
Strictly confidential, tentative and without commitment
極秘文書。試案にして法的拘束力無し。
November 26, 1941.   1941年11月26日。
Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan
日米協定として提案する基本方針の概略
Section I   第一項
Draft Mutual Declaration of Policy 共同宣言の方針案
第二項概略
ハル・ノートは、日米交渉において日本側の当事者野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案である。その内容は、アメリカが日本とイギリス、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ、およびアメリカ合衆国の包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めるものである。と、当時は解釈され伝えられた。概要は以下の10項目からなる。
1.アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重及び経済協定の締結
3.日本の支那(中国)及び仏印(フランス領インドシナ)からの全面撤兵
4.日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中国国民党政府以外のいかなる政府を認めない
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄 - 日独伊三国軍事同盟の廃棄を含意する、と日本側は捉えていたようである。
10.本協定内容の両国による推進 
提示までの経緯
1941年11月20日、日米交渉において、日本側は以下の内容の乙案を提示した。
1.日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
2.日米は蘭印(オランダ領東インド)において石油やスズなどの必要資源を得られるよう協力する
3.アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:(A) 交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する (B) 日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する
これに先立ってアメリカ側ではハル・ノートの原案と暫定協定案の2通りの案を平行して検討していた。ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官が18日にハルに示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本側に提示されていた可能性はある。ホワイト原案はハル・ノートにかなり近いと言ってよいと思われる。ただし中国については原案では明確に満洲を除くという記述があった。
アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し、対案を示すこととした。暫定協定案の原案はそれ以前から検討されていたが、22日までに更に協議され以下の内容となった。
1.日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25,000人以下とする
2.日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す
3.この協定は3ヶ月間有効とする
暫定協定案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部が要望していた対日戦準備までの交渉による引き延ばしにかなった案である、アメリカ政府はこれについてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っている。25日まではこの暫定協定案が検討されていたが、おそらく26日早朝までに、ハル国務長官とフランクリン・ルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハル・ノートが提示された。なぜ急に暫定協定案を放棄しハル・ノートを提示したかは現在、明確ではない。ルーズベルト大統領は、ホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言ったという。
ハルの日記は25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述となっている。ルーズベルトについては26日午前、ヘンリー・スティムソン陸軍長官からの日本軍の船艇が台湾沖を南下しているという情報に際し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。ただし、これは日本の輸送船団をアメリカ軍が戦後まで軍艦と取り違えていたことがわかった。以上より、25日午後ないし26日早朝、ルーズベルトはスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り、(後述するように戦争覚悟で)暫定協定案を放棄しハル・ノートを提示したと思われている。ただしこの情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではない。 
日本政府の反応
東郷茂徳外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され、ハル・ノートの内容にも失望し外交による解決を断念した。東郷は「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」と述べている。当時、東郷は中国の暗号を解読することでアメリカ側で日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている。東郷の失望はそうしたものも合わせたものとも考えられる。
なお、ハル・ノートの前段には“Strictly Confidential, tentative and without commitment(極秘、試案にして拘束力なし)”との記述があり、ハルノートは試案であることが明記されているのにもかかわらず、なぜ外務省が“tentative and without commitment”の箇所を削除して枢密院に提出し、東郷が昭和天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになったのか、外務省および東郷外相の真意は不明である。(日本の国立公文書館の記録では“tentative and without commitment”の箇所は有り) ただし、撤兵の項目(英文のオリジナルはThe Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina)に、日本政府が翻訳時に「即時」という文言を付け加えたとするのは俗説に過ぎない。
日本政府はハル・ノートを最後通牒であると受け取り、東條英機総理大臣も「これは最後通牒です。」と述べた。日米交渉に対して日本政府内では当初妥協派が優位であったが、ハル・ノートを提示されたことで軍部を中心に強硬意見が主流になり、昭和天皇も「開戦やむなし」に傾いたとされる。この結果、12月1日御前会議にて対英米開戦が決議され、ハル・ノートが提示される以前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて12月1日5時30分、真珠湾攻撃の攻撃命令が発せられた。
但し、米国側も、日本との外交交渉を行う上で、事前にまとめていた日本に関する詳細なレポート(日本の内情に関するレポートや日清・日露戦争の経緯と経過、そして交渉が決裂した場合の日本側の行動予測などに関するレポート)と暗号解読機「マジック」による日本政府(外務省)の暗号電文の解読によって、日本政府がハルノートを最後通牒と見なすだろうと事前に予測しており、日本側にハルノートを提示した、11月26日中にアジア各地の潜水艦部隊に対し「日米が開戦した場合には、たとえ、武装していない商船でも警告なしに攻撃してもよい」と無制限潜水艦作戦を発令。 
アメリカ政府の意図
現在、ハル・ノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確ではない。ハル長官はハル・ノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、説明を加えず、ほとんど問答無用という雰囲気であり、投げやりな態度であった。更にまた両大使と会見したルーズベルトは、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという。ハル・ノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハルに電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と言われたと答えている。
またハル・ノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていない。ルーズベルトは暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに言っており、ハル・ノートが受諾される見込みはないと考えていただろう。しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議するための12/8議会演説ではハル・ノートにより交渉を進めていたように演説をしている。
スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と書いている。また、11月27日にはハルがスティムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた。私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」と伝えたとされる。
アメリカは、満州事変に対するスティムソン・ドクトリン、日中戦争に対する「隔離演説」など満州事変以後の日本の行動について承認しないことを表明し続けていた。ハル・ノートで要求した満州事変以後の既成事実の全面放棄は、実力による阻止行動を取って来なかった日本の行動についてその清算を求めたに過ぎないとも言える。 
様々な評価
歴史家の一部[誰?]には、「ハル・ノートにより日本は対米開戦を余儀なくされた。ハル・ノートは最後通牒である。」と批評している人たちが多くいる。これは日本人の書いた多数の歴史書がハル・ノートの存在を強調し、NHKの番組でもここが歴史の転換点であったかのように描く事から確認できる。漁夫の利(中国の政権奪取)を得ようとする中国共産党は国民党・日本の両者の共倒れを狙っていた。日本は多大な挑発に対抗する強い意志があり、戦争の維持のため南方に進出したが、国民党を通しての中国大陸の権益拡大を目論むアメリカ、そしてそこでの権益を失うことを恐れるイギリス等による経済制裁によって石油などを禁輸されてしまい、戦略資源の窮乏による国家的危機を迎えた。日本にはまだ外交交渉による平和維持の意志があったが、アメリカの全ての中国権益を放棄せよという強硬な対日要求によりやむなく開戦に至ったと考えている。この解釈は帝国主義が大国の常識であった当時において、仏印進駐は中国侵攻を維持するための行為であり、むしろアメリカの対日禁輸政策が日本のアジアでの権利を犯す行為であるとするもので、大東亜戦争は自衛の為の戦争であるという考え方の背景にもなっている。
一方、ハル・ノートにかかわりなく、基本的に日本が11月15日の御前会議で決定された国家方針により戦争を開始したのであり、ハル・ノートは外交交渉上の一案にすぎず、大きな意味はないとする見解[誰?]も存在している。アメリカの教科書や歴史書ではハル・ノートは言及されず単に日本が警告なく攻撃をしかけたと記述されている。日本の教科書でもハル・ノートに触れていないものもある。アメリカ側から見ればハル・ノートの中国からの撤兵など厳しい対日要求も、アメリカのアジアでの基本政策の確認にすぎず、ここから交渉すべきものであり問題にはならない。ここにはそれまでの交渉経緯や、日本が11月末で外交交渉を打ち切ろうとしている時期に交渉困難な案が軍事行動を促す可能性への考慮はない。そこではあくまで日本が先に軍事行動を行ったことが問題にされる。秦郁彦は11月26日に既に機動部隊が出航していることを重視し、ハル・ノートにかかわりなく既に日本は対米開戦の意志を持っていると見なしている。また、同年9月の帝国国策遂行要領を天皇は拒否したが、陸海軍首脳部はこの時点で開戦を決心したと見ることもでき、9月以降、参謀本部命令で南方各地の兵要地誌の収集と各在留邦人との接触や、まだ研究訓練段階であった落下傘部隊を早急に戦力化するよう督促している。(「大陸指924号」(昭和16年8月12日発)では南部仏印進駐後、ジャングルにおける戦闘や機械化部隊の長距離行軍の訓練、橋梁の修理などの研究、上陸作戦の研究が指示された。「大陸命557号」(昭和16年11月6日発)では香港攻略の準備を、「大陸命558号」「(空白)」の攻略を(自衛戦闘は許可されている)、「大陸命559号」では船舶の準備に関して、大陸命569号では支那派遣軍の一部部隊を南海支隊への編入など)
ちなみに近年では、ハルノートで言うところの「中国」には“満州は含まれていない”とする研究結果が出ている。 『11月になり東条内閣が成立し、東郷茂徳が外相となった。天皇の意向もあり東条内閣も日米交渉には最後まで外交的努力をすることとなり、最後の提案というべき甲案・乙案を用意し、また栗栖三郎大使を野村の補佐として派遣した。日本の暗号電報をすべて解読していたアメリカ側は、このままでは戦争になると危惧し、国務省は日本への対案として3ヵ月休戦の暫定協定案を作った。これはかなり妥協的な案であり、戦後東京裁判でこれを見せられた東条英機は、これがくればと絶句したと伝えられている。しかしアメリカはこれを手渡すことなく、結局強硬な原則を示した。いわゆるハル・ノートを寄こした。
11月26日にこれを見た、さしもの和平派であった東郷も、これは日本の国家的な自殺を要求するものとして絶望感にとらわれ、御前会議でも日米開戦やむなしとの結論になったのである。日本がハル・ノートを絶対に受け入れられないと感じたのは、満州をも含む全中国大陸からの撤兵を要求し、実質的に満州国の放棄を要求していると解釈したからである。現在でもこのことを信じている人達が大部分である。だがここにまた重大な錯覚があった。アメリカ側の研究者から近年、ハル・ノートの中国には満州は含まれていなかったとの説が出された。これは悲劇的な誤解であったというのである。日本側がほぼ全員といってよいほど「満州を含む全中国からの撤兵」と解釈しているのとくらべると大きな違いである。たしかに現在ハル・ノートを読んでみれば、満州を含むなどとはどこにも書いてない。思い込みとは恐ろしい。』 「機密,試案であって義務を伴わない日米交渉11月26日米側提案(Strictly confidential, tentative and without commitment November 26, 1941)」 (京都産業大学教授 ・須藤眞志「『錯覚』この恐るべきもの」より)
こうしたアメリカ側の立場から見れば、多くの日本人の歴史認識は「アメリカにより開戦を強いられた」という「広義の陰謀論者」となる。スティネットらの主張する陰謀説はルーズベルト大統領が事前に真珠湾攻撃を知っていたとする「狭議の陰謀論」だが、それはアメリカを対ドイツ戦争に引き入れるための大きな計画のための方策であり、彼ら陰謀論者と言われるアメリカ側も日本の多数派と同じ批評をしている。このようにハル・ノートの批評はどんな事実があったかという問題と共に、戦争における対立する両国の立場を反映している。
条項を読めばわかるとおり、アメリカ側は提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件であった(原文参照のこと)。特に当時の日本政府が受け入れがたい条項と問題視したのが、上記項目3,4,9であり、これらの項目に関しての両国の争いが日米開戦のきっかけとなったと言えよう。
日本側からみれば、それまでの交渉経緯で譲歩を示したとの認識であったことが、ハル・ノートでの中国に関する非妥協的提案が、態度を硬化させる一因であるともいわれる。後の東京裁判で、弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と日本を弁護している(また、判事であった、ラダ・ビノード・パールも後に引用している)。
ただ、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、ルーズベルトの意向もあり、急遽より強硬なものに作り変えたため、ハルはこの提案を自身の意に反しており芳しく思っていなかったと後に述べている。また、米国政権はアメリカ人の交渉の常として、最初に強硬案を示し、そこから相手側の譲歩を引き出すという手段をとったものと考えられている。このことから、ハル・ノートが太平洋戦争の一つの直接の引き金となったことは、日米の文化(あるいは国際認識)が衝突した典型例と言う者もある。ただ、日本の防衛上(石油の残量)、日本側が一から交渉を続けようとしたとしても、日米首脳会談(近衛文麿企画)の例に見られる様に、米国が誠意を持った態度で交渉に臨むとは限らず、ただ米国の戦争準備を助けるだけの交渉で終わってしまった可能性もあり、実際にどうなったかは不明である。実際、ハルが提示しようとした穏健案も時間稼ぎを前提としたものであったことから、日本側の内情とアメリカ側の態度、そしてドイツとイギリス、中国との関係からどのように推移したかはわからない。
また、ヨーロッパでは、ネヴィル・チェンバレン英国首相の宥和政策によってアドルフ・ヒトラーの台頭を許したと考えられたこともあり、アメリカ内での宥和政策に対する反発が高まっていたためだともされる。 
批評
『詳説 日本史』(2006年文部科学省検定済、2007年発行、日本の高校日本史教科書)
「木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東条陸相を後継首相に推挙し、首相が陸相・内相を兼任する形で東条英機内閣が成立した。新内閣は9月6日の決定を再検討して、当面日米交渉を継続させた。しかし、11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された。」
中村粲『大東亜戦争への道』
「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」 「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」 「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」
ハーバート・ファイス『真珠湾への道』
「ハルノートは米国の東洋全般にわたる政策の最大限の要求」 「この米国の対案(ハルノート)を最後通牒と見なすのは政治的にも軍事的にも妥当ではない」 「東郷等の態度は妥当ではない。日本は武力で占拠した地域からの退去を要求されただけだ、日本の独立はなんら犯されていない、日本軍は安泰である」 一方日本の乙案の評価についてはハル長官の言葉を批判せず引用している。「日本の乙案を受け入れることは、全く降伏に等しいものだ」そしてこの乙案に同意しても戦争は避けられなかっただろうとしている。
『The American Pageant』(アメリカの高校歴史教科書)
「日本との最後の緊迫した交渉が1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、限られた規模での貿易再開を申し出た。日本の帝国主義者は面子を失うことを恐れ同意せず、アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるかの選択に迫られ、剣を選んだ。」 「攻撃は東京が意図的にワシントンで交渉を長引かせている間に真珠湾で行われた」
J・プリチャード 他『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と経過』
「(日米開戦は)米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ・柔軟性・想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果」 「日本人と同じく、力づくでなければ通じないと思いこんだ米国は交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」 「米国が中国の陳情とチャーチルの言葉通りにすると、真の暫定協定の可能性も消えた、日本はこれ以上の話し合いは全く無益であると悟った」  
作成に関与した国々
アメリカは、中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を送っていた。さらに日本軍の仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を1年にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。
この交渉に対する働きかけとして、アメリカ側に対して、アメリカ参戦を希望する国民党や英国の影響力が及んでいたことが指摘されている。
中国の思惑・影響力
軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、支那事変の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。
英国チャーチルの思惑
また当時は既にドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国は暫定協定案に対してはやむなく賛成する電報を送ったが、反対であったのは明らかで他に公開されていない電報が存在する。またその他の働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの喜びぶりが描かれている。ただし、日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦となるわけではない。独ソ戦に日本が参戦しなかったように、日独伊三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の援助義務は発生しない。アメリカがヨーロッパ・アフリカ戦に参加することとなったのは、真珠湾攻撃を知ったナチス・ドイツのヒトラーがアメリカに対して宣戦布告を行ったからである。
ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせるためのあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハル・ノート作成に関わったハリー・ホワイト財務次官補である。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった。また、比較的穏便な内容を過激な内容に改め、ハル長官名義でハル・ノ−トを作成したのはホワイトである。
日本側にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目がソ連に向いていないかと関東軍特種演習などの情報を収集し、報告し続けた。なお、近衛文麿もコミンテルンや共産主義には理解者であったとされる。 
 
「ハル・ノート」2

 

アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか
わが国に日米開戦を決断させたとされる「ハル・ノート」を書いたのは、後にソ連のスパイであったことが判明した米国財務省次官のハリー・ホワイトであった。また当時のルーズベルト政権の内部や周りには、ハリー・ホワイトだけでなく数多くのソ連スパイや工作人、協力者が存在したことが、戦後アメリカが解読に成功したソ連の情報文書(『ヴェノナ文書』)で判明しているのだ。
この『ヴェノナ文書』だけでは信じられない人もいるだろうが、旧ソ連側からも工作人が「ハル・ノート」作成に関与したことを裏付ける証言が近年になって出てきている。元ソ連NKVD(内閣人民委員部、後のKGB)工作員であったビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、当時このホワイトに接触し、ホワイトが草案を書くにあたって参考にするようメモを見せたと、近年になって証言しているのである。
パブロフは1995年にホワイトとの交渉などを『スノウ作戦』という自著に記し、1997年にNHKの特別番組の取材を受けて、その内容についてはわが国でも放送されたそうだが、この時のインタビューの内容の詳細が須藤眞志氏の『ハル・ノートを書いた男』(文春新書p.129-164)に記述されている。
須藤氏の著書によると、パブロフとホワイトが会ったのは1941年の5月で、ワシントンで昼食を共にした時間にパブロフはホワイトにメモを渡している。証拠を残さないためにそのメモはその場で回収されたために内容の検証は不可能だが、そのメモの内容のいくつかが「ハル・ノート」の草稿に少なからずの影響を与えた可能性が高い。
またパブロフの著書『スノウ作戦』の内容の一部が産経新聞社の『ルーズベルト秘録 下』に紹介されている。
パブロフがホワイトに渡したメモがそのままハル・ノートになったわけではないようなのだが、その『スノウ作戦』という本には「作戦は見事に成功し、日本に突きつけられた厳しい対日要求、ハル・ノートこそがその成果だった」と書いていることは注目して良い。
では、ハル・ノートとはどのような内容で、なぜわが国はその内容を最後通牒と考えたのか。その点についてはあまり教科書には書かれていないのである。
この内容が日本側に失望を与えたというのだが、そのことは8か月にわたる日米交渉の経緯をある程度知らなければ理解しづらい。

1941(昭和16)年11月20日に日米交渉においてわが国は以下の「乙案」を提示した。
1.日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
2.日米は蘭印(オランダ領東インド)において石油やスズなどの必要資源を得られるよう協力する
3.アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:(A) 交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する (B) 日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する

アメリカ政府は日本の「乙案」についての対応を11月21日に協議し、3か月間は日米の通商関係を資産凍結令以前の状態に戻すなどの内容の「暫定協定案」を検討していたが、26日早朝までにハル国務長官とルーズベルト大統領との協議が行われ、「暫定協定案」が放棄されて、ホワイト作成の「ハル・ノート」を提示することになったという。

「ハル・ノート」について、わが国が到底飲めなかった部分は以下の点である。
・支那大陸やフランス領インドシナからの即時無条件完全撤退(第2項-3)
・汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて重慶の蒋介石政権(重慶政府)を支持すること(第2項-4)
・日独伊三国同盟の死文化(事実上の破棄)(第2項-9)

我が国に対しこれだけのことを要求しておきながら、わが国が最も強く求めていた経済封鎖解除に関する回答は一言もない。これでは石油などの必要資源が得られる保証が全くない。
今まで何度か紹介した倉前盛通氏の解説を紹介しよう。
「この電文をうけとった時、日本の首脳部は青天の霹靂に打たれた感を持ち、米国は、どうしても日本との戦争を欲しており、もし日本が手を出さなかったなら、米国の方から攻撃が加えられることをはっきり知らされた。それは、完全な日本への無条件降伏要求であり、『日本は明治維新以前の四つの島にもどれ』という通告であった。… 極東軍事裁判の判事として列席したインドのパール判事は、その判決文、『日本無罪論』の中で、『アメリカ政府が日本政府へ送ったものと同じ通牒をうけとった場合、モナコ王国、ルセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう』と述べている。およそ、世界の外交史でハル・ノートのように極端に挑発的な最後通告は空前絶後といえるであろう。… 米国が何故、この時点で態度を急変させたか、それは米国の戦争準備が完了したからである。大戦に参加する決意をさだめてから、米国は鋭意、戦争の準備をすすめていた。10か月にわたる日米交渉も、実はアメリカが時を稼ぐための芝居にすぎなかった。徹頭徹尾,不誠意であったのはアリカの方である。… ハル国務長官は、ハル・ノートを日本につきつけたあと、米国の陸海軍首脳に対して、『これで僕の仕事は終わった。あとは君たちの仕事だ』と洩らしている。英国大使にも同じことを伝えた。ルーズベルトは、日本の回答を待つことなく、11月27日付で米国前哨指揮者に『戦争体制に入れ』という命令を発した。真珠湾は断じて不意打ちではなかったのである。」
前回の記事に書いた通り、当時のわが国の石油消費量は年間約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていた。また当時のわが国の石油の備蓄は600万トン程度しかなく、その状態でアメリカは7月に石油をわが国に輸出しないことを一方的に通告してきたのである。それから約4か月日米交渉が続いた結末がハル・ノートで、石油の備蓄はさらに減って、開戦したころは1年分程度の備蓄しかなかったのである。これではハル・ノートを受諾したところでわが国の経済が成り立つはずがないではないか。満州や朝鮮半島や台湾やインドシナの権益をすべて捨てて石油も資源も手に入らないのでは、国民の支持が得られないどころか、暴動になってもおかしくない。
当時の海軍大臣であった嶋田繁太郎はこう語ったという。
「十一月二十六日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、だれ一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で、手いっぱいなことを、政府も軍部も知りすぎる程知っていた。天皇は会議のたびに、日米交渉の成り行きを心から憂慮されていた。第二次近衛内閣も、東条内閣も、平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して任命され、政府の使命は日米交渉を調整することかかっていた。」
また当時の外務大臣であった東郷茂徳は、こう述べている。
「ハル・ノートを野村大使からの電報で受けとった時、眼もくらむばかりの失望にうたれた。日本が、かくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートを送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した」
驚くなかれ、アメリカ陸軍元帥、GHQ最高司令官を歴任したダグラス・マッカーサー自身が1951年の5月に上院軍事外交共同委員会で、この戦争を日本の自衛戦争だという趣旨のことを述べている。
「日本が抱える八千万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿が無く、羊毛が無く、石油製品が無く、スズが無く、ゴムが無く、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。」
マッカーサーは朝鮮戦争でソ連軍と対峙してはじめて、満州を共産勢力に渡さないことが、わが国が国を守る為に必要であったことを理解したのだろうか。いずれにせよ、この発言の4か月後にアメリカはわが国の占領政策を変更し、わが国を独立させようとバタバタとサンフランシスコ講和条約を締結することになるのである。
「窮鼠猫を噛む」のことわざの通り、「ハル・ノート」を受け取ったわが国は生存権をかけて日米開戦の道を選択せざるを得なかったというのが真相であったと思うのだが、敗戦国の悲しさで、この戦争の責任のほとんど全てがわが国に擦り付けられた状態にあるのが現実である。
アメリカやロシアや中国など戦勝国にとって都合の悪い史実のほとんどが伏せられているために、わが国はリアリティのない浅薄な歴史記述を押し付けられて、それがマスコミや教科書に拡散され、いつの間にか日本人の常識になってしまっているのは残念なことだ。
しかし、この洗脳を解かないことには、本当の意味でわが国の「戦後は終わらない」のだと思う。 
 
日米交渉11月26日米側提案 / ハル=ノート

 

「合衆国及び日本国間の基礎概略(Out line of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)」 1941年11月27日来電、第1192号、1193号
日米交渉一九四一年十一月二十六日米側提案
厳秘 一時的且拘束力ナシ
[ 日本語原文 ]
合衆国及日本国間協定ノ基礎概略
第一項政策ニ関スル相互宣言案
合衆国政府及日本国政府ハ共ニ太平洋ノ平和ヲ欲シ其ノ国策ハ太平洋地域全般ニ亙ル永続的且廣汎ナル平和ヲ目的トシ、両国ハ、右地域ニ於テ何等領土的企図ヲ有セス、他国ヲ脅威シ又ハ隣接国ニ対シ侵略的ニ武力ヲ行使スルノ意図ナク又其ノ国策ニ於テハ相互間及一切ノ他国政府トノ間ノ関係ノ基礎タル左記根本諸原則ヲ積極的ニ支持シ且之ヲ実際的ニ適用スヘキ旨闡明ス
1 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
2 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
3 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
4 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
日本国政府及合衆国政府ハ慢性的政治不安定ノ根絶、頻繁ナル経済的崩壊ノ防止及平和ノ基礎設定ノ為メ相互間並ニ他国家及他国民トノ間ノ経済関係ニ於テ左記諸原則ヲ積極的ニ支持シ且実際的ニ適用スヘキコトニ合意セリ
1 国際通商関係ニ於ケル無差別待遇ノ原則
2 国際的経済協力及過度ノ通称制限ニ現ハレタル極端ナル国家主義撤廃ノ原則
3 一切ノ国家ニ依ル無差別的ナル原料物資獲得ノ原則
4 国際的商品協定ノ運用ニ関シ消費国家及民衆ノ利益ノ充分ナル保護ノ原則
5 一切ノ国家ノ主要企業及連続的発展ニ資シ且一切ノ国家ノ福祉ニ合致スル貿易手続ニ依ル支払ヲ許容セシムルカ如キ国際金融機構及取極樹立ノ原則
第二項合衆国政府及日本国政府ノ採ルヘキ措置
合衆国政府及日本国政府ハ左ノ如キ措置ヲ採ルコトヲ提案ス
1 合衆国政府及日本国政府ハ英帝国支那日本国和蘭蘇連邦泰国及合衆国間多邊的不可侵条約ノ締結ニ努ムヘシ
2 当国政府ハ、米、英、支、日、蘭及泰政府間ニ各国政府カ仏領印度支那ノ領土主権ヲ尊重シ且印度支那ノ領土保全ニ対スル脅威発生スルカ如キ場合斯ル脅威ニ対処スルニ必要且適当ナリト看做サルヘキ措置ヲ講スルノ目的ヲ以テ即時協議スル旨誓約スヘキ協定ノ締結ニ努ムヘシ
斯ル協定ハ又協定締約国タル各国政府カ印度支那トノ貿易若ハ経済関係ニ於テ特恵的待遇ヲ求メ又ハ之ヲ受ケサルヘク且各締約国ノ為メ仏領印度支那トノ貿易及通商ニ於ケル平等待遇ヲ確保スルカ為メ尽力スヘキ旨規定スヘキモノトス
3 日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸、海、空軍兵力及警察力ヲ撤収スヘシ
4 合衆国政府及日本国政府ハ臨時ニ首都ヲ重慶ニ置ケル中華民国国民政府以外ノ支那ニ於ケル如何ナル政府若クハ政権ヲモ軍事的、経済的ニ支持セサルヘシ
5 両国政府ハ外国租界及居留地内及之ニ関連セル諸権益並ニ一九○一年ノ団匪事件議定書ニ依ル諸権利ヲモ含ム支那ニ在ル一切ノ治外法権ヲ抛棄方ニ付英国政府及其他ノ諸政府ノ同意ヲ取付クヘク努力スヘシ
6 合衆国政府及日本国政府ハ互恵的最恵国待遇及通商障壁ノ低減並ニ生糸ヲ自由品目トシテ据置カントスル米側企図ニ基キ合衆国及日本国間ニ通商協定締結ノ為メ協議ヲ開始スヘシ
7 合衆国政府及日本国政府ハ夫々合衆国ニ在ル日本資金及日本国ニアル米国資金ニ対スル凍結措置ヲ撤廃スヘシ
8 両国政府ハ円弗為替ノ安定ニ関スル案ニ付協定シ右目的ノ為メ適当ナル資金ノ割当ハ半額ヲ日本国ヨリ半額ヲ合衆国ヨリ供与セラルヘキコトニ同意スヘシ
9 両国政府ハ其ノ何レカノ一方カ第三国ト締結シオル如何ナル協定モ同国ニ依リ本協定ノ根本目的即チ太平洋地域全般ノ平和確立及保持ニ矛盾スルカ如ク解釈セラレサルヘキコトヲ同意スヘシ
10 両国政府ハ他国政府ヲシテ本協定ニ規定セル基本的ナル政治的経済的原則ヲ遵守シ且之ヲ実際的ニ適用セシムル為メ其ノ勢力ヲ行使スヘシ  
[ 日本語現代語訳 ]
合衆国及び日本国間協定の基礎概略
第1項 政策に関する相互宣言案
合衆国政府及び日本政府は共に太平洋の平和を欲し其の国策は太平洋地域全般に亙(わた)る永続的且つ広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於いて何等領土的企図を有せず、他国を脅威し又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく又その国策に於いては相互間及び一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し且つ之を実際的に適用すべき旨宣明す。
一切の国家の領土保全及び主権の不可侵原則
他の諸国の国内問題に対する不干与の原則
通商上の機会及び待遇の平等を含む平等原則
紛争の防止及び平和的解決並びに平和的方法および手続に依る国際情勢改善の為国際協力及び国際調停遵拠の原則
日本国政府及び合衆国政府は慢性的政治不安定の根絶、頻繁なる経済的崩壊の防止及び平和の基礎設定の為め、相互間並びに他国家及び他国民との間の経済関係に於いて左記諸原則を積極的に支持し、且つ実際的に適用すべきことを合意せり
国際通商関係に於ける無差別待遇の原則
国際的経済協力及び過度の通商制限に現れたる極端なる国家主義撤廃の原則
一切の国家に依る無差別的なる原料物資獲得の原則
国際的商品協定の運用に関し消費国家及び民衆の利益の十分なる保護の原則
一切の国家の主要企業及び連続的発展に資し、且つ一切の国家の福祉に合致する貿易手続きによる支払いを許容せしむるが如き国際金融機構及び取極め樹立の原則
第2項 合衆国政府及び日本国政府の採るべき措置
合衆国政府及び日本国政府は左記の如き措置を採ることを提案す
合衆国政府及び日本国政府は英帝国支那、日本国、和蘭(オランダ)、蘇連邦、泰国、及び合衆国間多辺的不可侵条約の締結に努むべし
当国政府は米、英、支、日、蘭、及び泰政府間に各国政府が仏領印度支那の領土主権を尊重し、且つ印度支那の領土保全に対する脅威に対処するに必要且つ適当なりと看做(みな)さるべき措置を講ずるの目的を以って即時協議する旨誓約すべき協定の締結に努むべし
斯かる協定は又協定締約国たる各国政府が印度支那との貿易若しくは経済関係に於いて特恵的待遇を求め、又は受けざるべく且つ各締約国の為仏領印度支那との貿易及び通商に於ける平等待遇を確保するが為尽力すべき旨規定すべきものとす
日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし
合衆国政府及び日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府、若しくは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし
両国政府は外国租界及び居留地内及び之に関連せる諸権益並びに1901年の団匪事件(義和団事件の事)議定書に依る諸権利を含む支那に在る一切の治外法権を放棄すべし
両国政府は外国租界及び居留地に於ける諸権利並びに1901年の団匪事件議定書による諸権利を含む支那に於ける治外法権廃棄方に付き英国政府及び其の外の政府の同意を取り付くべく努力すべし
合衆国政府及び日本政府は互恵的最恵国待遇及び通障壁の低減並びに生糸を自由品目として据え置かんとする米側企図に基き合衆国及び日本国間に通商協定締結の為協議を開始すべし
合衆国政府及び日本国政府はそれぞれ合衆国に在る日本資金および日本国に在る米国資金に対する凍結措置を撤廃すべし
両国政府は円払い為替の安定に関する案に付き協定し右目的の為適当なる資金の割り当ては半額を日本国より半額を合衆国より給与せらるべきことを合意すべし
両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しおる如何なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及び保持に矛盾するが如く解釈せらるべきことを同意すべし
両国政府は他国政府をして本協定に規定せる基本的なる政治的経済的原則を遵守し、且つ之を実際的に適用せしむる為其の勢力を行使すべし 
 
真珠湾に向かう日本軍に手を出させなかったアメリカ側事情

 

アメリカで1935年に成立した「中立法」という法律があるのだが、この時代を読み解くにあたっては、この法律を理解しておくべきであることを最近になってようやく分かってきた。
この法律を調べると、米大統領が、戦争状態にある国が存在していることまたは内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、交戦国または内乱国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止する法律であると説明されている。
例えば、盧溝橋事件を契機にわが国と中国とがお互いに宣戦布告をせずにずるずると軍事衝突の継続状態に入ったのだが、もしいずれかが宣戦布告をしていたとすれば米大統領により「戦争」状態と宣言されてアメリカの「中立法」の適用対象となってしまう。
中国はアメリカから武器や軍需物資の支援を受けられなくなって戦うことが困難となり、わが国はアメリカから石油や資源が輸入できなくなってしまって自国の経済が成り立たなくなってしまう。
だから日中は宣戦布告をしないまま戦い続けながら、この争いを「戦争」と呼ばずに「支那事変」などと呼び、日中両国がお互いにアメリカとの貿易がストップすることを避けようとしたということなのだ。
しかしながら、そもそも「中立法」は、アメリカが二国間の紛争などに巻き込まれることがないようにするための法律である。アメリカの議会では、日中間における「事変」については実質的には「戦争」であるから「中立法」を適用し、日本に戦争資材供給を禁止せよとの議論がかなりあったようだ。
ところが、「中立法」が発動されると、アメリカはわが国の交戦国である中国に対し武器の輸出が出来なくなってしまうことに、強く反対する国内勢力が存在した。
アメリカ政府は「相互に宣戦布告を行っていない両国間の関係で、アメリカが戦争の存在を確認するのは好ましくない」という理由で、日中の軍事衝突に関して「中立法」の発動を避けたという経緯があったようなのだ。
この「中立法」にからんで、もう一つの問題があった。同盟国からの参戦要請があっても簡単には応じられない点である。現にアメリカはイギリスのチャーチル首相から参戦の要請を受けていた。アメリカがすぐに参戦できなかったのは、参戦に反対する当時の世論もあったのだが、参戦すること自体が「中立法」に抵触することが問題であったようだ。
倉前盛通氏の『悪の論理』に、こう書かれている。
「昭和16年6月、ドイツがソ連と戦端を開いたとき、米国のルーズベルト大統領は、いよいよ、欧州の大戦に介入すべき時が来たと判断した。… 当時、米国には中立法という法律があり、海外の戦争に介入することを禁止していた。欧州でナチス・ドイツと英仏の間戦争がはじまり、フランスが降伏し、英国もドイツの猛烈な空襲と、ドイツ潜水艦による通商破壊戦のため、絶体絶命の危地に陥ってしまった。ルーズベルト大統領としては、この英国の危機を救うために、何とかして、欧州の戦争に介入してドイツと戦いたいと焦慮したが、中立法があるために意にまかせなかった。しかし、米国は昭和15年、50隻の駆逐艦を英国に売り、その代償としてバミューダ島の永久租借権を得た。これは明らかに中立国としての国際法違反である。その上、米国駆逐艦によって、英国商船隊の船団防衛をおこなった。これは、もはや米国海軍の直接的な公然たる戦争介入であった。ヒトラーは米国の挑発に乗らぬようドイツ潜水艦に厳命を下していたが、米国駆逐艦による不法な爆雷攻撃が、あまりに執拗に続けられたので、たまりかねて、正当防衛のため、ドイツ潜水艦が米駆逐艦を撃沈してしまうという事件が発生した。ルーズベルトは、こおどりして喜び、早速、議会に対し、「ドイツ潜水艦の不法攻撃のため、米駆逐艦が撃沈された。ただちにドイツに宣戦しよう」と提案したが、米議会がよく調べたところ、中立法を破って英国船団を護衛していたのは、米国の軍艦であったことが判明し、かえって、議会から「悪いのは米国海軍の方ではないか」とやっつけられ、ルーズベルトの目算は外れてしまった。
そこで、次に目をつけられたのが日本であった。」
アメリカがドイツと戦いたくてもできなかったのは「中立法」のためであった。では、どうすればアメリカがドイツと戦うことが可能となるのかというと、アメリカがドイツから攻撃される状態になるということ、すなわちアメリカが自衛のために戦わざるを得ない状態に持ち込むことが必要であったという事である。しかし、アメリカはその演出に失敗してしまった。
そこで、資源を持たない日本を経済制裁して資源が手に入らないようにした上で、挑発して戦争におびきよせて、うまく日本に先制攻撃をさせれば、日本の同盟国であるドイツに対してもアメリカが参戦できる正当な理由になる、とルーズベルトは考えたのではないのか。
この、アメリカ側の事情を理解すると、何故アメリカが我が国を異常に挑発したのかが見えてくる。アメリカは、どこかの国に攻撃されなければ第二次世界大戦に参戦したくともできなかったのだ。だからこそ、日本が応諾するはずのない「ハル・ノート」を突き付けたということではないのか。
1941年11月25日の戦争閣僚会議でルーズベルト大統領が議題としたのは和平の見通しではなく、戦争はいかにして開始されるかという事だったという。この会議に出席したスチムソン陸軍長官のこの日の日記にはこう書かれているそうだ。
「…大統領は対独戦略ではなく、専ら対日関係を持ち出した。彼は多分次の日曜日(12月1日)には攻撃される可能性があると述べた。…問題は我々自身に過大な危険をもたらすことなく、いかに日本を操って最初の発砲をなさしめるかと云ふことであった」(中村粲『大東亜戦争への道』)
この日記の下線部分は何を意味するのか。普通に考えれば、ドイツ参戦に失敗したアメリカは日本にターゲットを絞り、経済制裁とハル・ノートで日本が戦わざるを得ない状況にまで追い詰めた上で、最初の一発だけは日本に打たせてから参戦するという方針が決まっていたということだろう。ルーズベルトは初めから日米和平などは考えていなかったと思うのだ。
こういう議論をすると、必ず『陰謀論』とレッテルを貼る人がいるのだが、アメリカやイギリスにはルーズベルトが陰謀を考えていたという証言や記録がいくらもあり、歴史上の重要人物が自ら自国に不利なことを書いているのだ。普通に考えれば、陰謀がなかったと考える方が不自然だと思えるくらいである。
開戦に至る日米交渉に関する日本側の暗号電信などが、事前にアメリカ側に傍受され解読されていたことは常識である。
スティネットの『真珠湾の真実』という本には、ルーズベルトが刻々と真珠湾に向かっている日本軍の動きを知っていたことを、膨大な資料を掲げて実証している。
たとえば、この本の第9章を読むと、ヒトカップ湾から南雲中将の機動部隊が北太平洋に向けて出発した11月25日(ワシントン時間)の1時間後に、米海軍作戦本部はキンメル宛に「太平洋を横断する(米国及び連合国の)船舶の航路はすべてトレス海峡(ニューギニアとオーストラリアとの間の海峡)とする」との電報を出している。このことは、北太平洋を真空海域にし、日本海軍の進路を妨害するなという事を意味する。
その2週間前にはキンメル太平洋艦隊司令長官が疑心暗鬼のあまり、ハワイ北方海域での日本機動部隊の捜索を命じたのだが、ホワイトハウスは直ぐに探索を中止し、艦隊を北太平洋海域から真珠湾に戻すことを指示している。これは日本軍の真珠湾攻撃を成功させるためのものと考えるのが自然であろう。
その命令にキンメルが抗議した公文書も存在しているようだ。
またルーズベルトの前の米大統領であったフーバーまでもが、ルーズベルトのことを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判しているのだ。
フーバーの回想録「Freedom Betrayed(裏切られた自由)」の原稿は、フーバー自身が生前に出版することを希望しながら封印されて、死後47年経った昨年12月にようやくアメリカで出版されたばかりだ。この回想録に関する論文が一部紹介されているが、たとえば対日経済制裁についてはフーバーはこう書いている。
「…ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、一九四一年七月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた」
またイギリスのチャーチル首相は『第二次世界大戦回想録』の中で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、日本軍が勝利したにもかかわらず、これで強力なアメリカの参戦が決まったと述べたあと、「戦争の結果については、もはや疑いようもなかった」と勝利を確信したことが書かれている。
この言葉は誰が読んでも、チャーチルが、アメリカの参戦を妨げていた中立法の束縛がとれたことを喜んだと考えるしかないだろう。
陰謀があったという説が正しい説に立てば、わざわざ真珠湾に太平洋艦隊を並べて見せたのは『オトリ』だということになるのだが、そのことは開戦当時の太平洋艦隊司令官セオポルト少将が『真珠湾の秘密』という本で明言し、証拠も上げていることである。
日本軍による真珠湾の奇襲である程度の被害が出なければ、世論を開戦に導くことはできないとのアメリカの計算があったのではないか。日本軍による奇襲により、アメリカは戦艦5隻沈没、航空機188機破壊、戦死者2345名などの損害が出たのだが、それによってアメリカは中立法の束縛から離れて、即日にわが国に宣戦布告している。
一方、ドイツは日独伊三国同盟によって、日本より少し遅れてアメリカに宣戦布告をし、このことによって、アメリカは堂々と第二次世界大戦に参戦し、日本だけではなくドイツとも戦ってイギリスを援けることのできる大義名分を得たのである。
先程紹介した、イギリスのチャーチル首相が『第二次世界大戦回想録』の中で、勝利を確信した理由がここにある。
アメリカは、わかりやすく言えば、裏口から第二次世界大戦に参戦した。そのためにわが国は経済制裁で追い詰められ、アメリカはハワイの米国艦隊を犠牲にしたというのが正しい解釈ではないかと考えている。 
 
太平洋戦争における保守と革新

 

戦後の日本人は、保守と革新が右派と左派の関係にあり、保守勢力が好戦的であるのに対して、革新勢力は平和主義者であると考えがちである。しかし、戦前の日本を満州事変以降の自滅的な侵略戦争に駆り立てたのは、保守勢力ではなくて、一見すると右翼的であるが、実は左翼的な革新勢力であった。保守と革新という観点から、近現代の日本の歴史を振り返ってみたい。 
1. 保守の戦争と革新の戦争
大日本帝国の歴史は、侵略戦争と領土拡大の歴史であったと一括りにされる傾向があるが、大日本帝国時代の日本の戦争は、第一次世界大戦以前と満州事変以後では、その性格が大きく異なる。すなわち、第一次世界大戦までは、日本は、勝つ見込みのある戦争しかしなかったし、実際ほとんどの戦争で勝ち続けていた。また、戦争は、当時の国際法に則って行われ、戦争による領土の獲得も、すべて国際的に承認されていた。しかし、満州事変から太平洋戦争に到る一連の戦争は、勝つ見込みのほとんどない無謀な戦争であったし、満州国建国以降の支配圏の拡張は、国際的に非難されるものであった。要するに、リスクの大きさと国際的な承認という点で雲泥の差があったのである。
このような違いはなぜ生まれたのだろうか。私は、第一次世界大戦までの日本の戦争が保守派による戦争であったのに対して、満州事変から太平洋戦争に到る一連の戦争は、革新派によって惹き起こされた戦争であったがゆえに、その性格が大きく異なるのではないかと考えている。保守派とは、社会の上層部を占める特権階級で、自分の利権を確実に増やす、勝つ見込みのある戦争ならするが、利権をすべて失うことになる、勝つ見込みのない冒険的戦争に対しては慎重になる。これに対して、特権から疎外された社会の下層部は、失う恐れのある利権をほとんど持たないがゆえに、自分たちの待遇改善のためなら、ハイリスクな戦争をも辞さない。それどころか、彼らの中には、戦争に負けた方が革命を起こしやすいという理由で戦争を支持する共産主義者たちまでいる。
明治維新以後、特権階級となった保守派とは、維新政府樹立に功績があった薩長土肥、なかんずく、薩摩藩と長州藩の出身者たちである。彼らは、維新政府樹立後、藩閥を形成し、維新政府と敵対した佐幕派、とりわけ、戊辰戦争で最後まで維新政府と戦った東北諸藩の出身者たちを長らく冷遇し続けた。日本の軍部も第一次世界大戦の頃までは、薩長の軍閥によって支配されていた。なかでも、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争で軍功をあげた長州出身の軍人、山県有朋は、軍閥の象徴的存在で、1921年に失脚するまで、日本の陸軍、否、日本の国家権力の頂点に君臨した。
山県は、議会を無視した超然主義の方針を採り、そのため、山県の軍国主義は、民主主義を無視したファシズム期の軍国主義と安易に同一視されがちである。たしかに、山県は、日露戦争後、ロシア帝国との協調により、中国から英米を排除するという、日ソ中立条約を結んで、日中戦争を行ったファシズム期の日本の軍国主義者と似たような外交戦略を試みたこともあったが、1917年にロシア革命が起きてロシアが共産主義の支配下に入ると、山県は自分の外交戦略の失敗を認め、1918年以降、親英米派の原敬を、盛岡藩出身で、立憲政友会総裁であるにもかかわらず、首相にして、英米との協調に努めた[川田 稔(1998)原敬と山県有朋―国家構想をめぐる外交と内政,p.153]。このあたりが、勝つ見込みがなくなっても、際限もなく戦争を続行したファシズム期の軍国主義と異なるところである。 
2. 内ゲバ型革新と外ゲバ型革新
山県が権力を掌握していた間、日本は、無謀な戦争や国際的に非難される戦争はしなかった。また、日本の軍部がクーデターを起こしたり、内閣の意向を無視して暴走したりしたことはなかった。このことは、山県がリーダーとして優れていたということを意味していない。仮に山県がもっと早い時期に失脚ないし死去したとしても、保守派は、第一次世界大戦終結の頃までは保守的な政治と外交を続けることに成功しただろう。ところが、第一次世界大戦終結以降、日本経済は、明治維新以来例を見ないほど長期的で深刻なデフレを経験するようになり、これが革新勢力の台頭を許すこととなった。山県は失脚後すぐに死去し、元老は西園寺公望一人だけとなった。彼は、英米との協調を主張し、革新勢力の台頭を抑えようとしたが、結局それには失敗した。
藩閥政治に対する非特権階級の不満は、維新政府発足当時からあった。ただし、経済が順調に成長していた明治時代においては、その不満はあまり先鋭化することはなく、藩閥外勢力は、言論を通じて自由民権運動を進め、穏健な手段で藩閥政治の弊害を是正しようとした。ところが、世界恐慌(日本では昭和恐慌)でデフレが深刻になると、下層民たちはもっと過激な方法で、つまりゲバルトを用いて階級社会を打破しようとするようになった。これからみるように、格差を解消するために、ゲバルトは、国家の内向きと外向きに向かった。それぞれを内ゲバ型革新と外ゲバ型革新と名付けることにしよう。
まず、内ゲバ型革新であるが、これは、ゲバルトを国内の特権階級に振り向け、階級なき平等な社会を国内だけでも作ろうとする左翼的な革新運動で、その代表的な理論的指導者は北一輝であった。北一輝は右翼思想家と一般に認知されているが、彼の主著『日本改造法案大綱』を読めばわかるとおり、彼が言っている「改造」とは、社会主義(共産主義)革命以外の何物でもない。1931年の三月事件、十月事件、1932年の血盟団事件、五・一五事件、陸軍士官学校事件、1933年の神兵隊事件、1936年の二・二六事件といった昭和恐慌の時代に起きた軍部のクーデターは、実はたんなるクーデターではなくて、君側の奸(藩閥)を取り除き、天皇親政による階級なき平等な社会を作ることを目指す社会主義(共産主義)革命であった。
内ゲバ型革新の最後にして最大のものは二・二六事件である。二・二六事件というと、陸軍内部における皇道派と統制派という二つのセクトによるたんなる権力争いと見られがちであるが、もともと「皇道派というのは藩閥に反旗を翻した荒本、真崎等を中心として」[目撃者が語る昭和史(4)2.26事件]集まった青年将校たちのグループであるのだから、やはり藩閥政治打破のための革命と位置付けることができる。
二・二六事件を率先して鎮圧したのは、当時戒厳司令部参謀だった石原莞爾であった。しかし、石原は、決して国内の革新に反対していたわけではなかった。石原は、東北の出身ということもあって、藩閥政治には批判的だった。山口重次は、庄内藩士だった父からの影響として、次のようなエピソードを紹介している。
父の啓介は、よく言い聞かせていた。
「東北には、ずいぶん、すぐれた人物がいたが、薩長政府にそむいたために、賊という汚名をかぶせられてしまった。維新後、薩長政府は、四民平等というて、士農工商の差別をとりのぞいた。それで農民でも、町人でも、足軽でも、どんな身分のひくい者でも、立派な地位につくことが出来たとはいえ、この恩恵に浴するのは、自分たちの藩だけで、一旦敵となった東北人のことなどは念頭におかなかった。だが、これからは、それでは通らぬ。お前の時代になったら、名ばかりの四民平等でなく、真の四民平等が実現されて、理非曲直の明白な道義の世界をつくりあげなくては、本当でない」
感受性の強い彼がうけた、この父の一言は、彼の一生をとおして貫いたという。[山口重次(1952)石原莞爾―悲劇の将軍]
石原は、しかしながら、国内だけで平等を実現するというスケールの小さな内ゲバ型の革新を目指したのではなかった。石原は、ゲバルトを外部へと振り向け、最終戦争(日米決戦)に勝つことにより、白人が有色人種を支配する階級社会を地球規模で是正し、それにより、同時に国内の革新も実行しようとしていた。石原は、関東軍作戦参謀だった1931年に、東北(盛岡藩)出身の関東軍高級参謀、板垣征四郎とともに、満洲事変を惹き起こしたが、後に彼が述べたように、これは、昭和維新という国内外の革新を行うための手段だった。
当時私共の当面の敵は支那軍閥であつた、然し此敵と戦ひ、之を撃破し乍ら、私共は絶えず次の国際的な相手を顧慮し、此欧米覇道勢力の完全な覆滅の為の物心両面の備を保持して居らねばならなかつた、世界最終戦を予想して の八紘一宇の為の次の階梯への準備である。
更に日本国内の維新改革も重大な問題であつた。満洲事変は当時の日本国内の政治、経済思想の行詰りと之が維新の要求とにも大きな関聯を有して居たのである。昭和維新の先駆としての満洲事変の性格である。[石原莞爾(1941)満州建国前夜の心境,現代史資料 続・満州事変]
石原は第二次世界大戦参戦前夜の心境を次のように語っている。
第二次欧州大戦で新しい時代が来たように考える人が多いのですが、私は第一次欧州大戦によって展開された自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展と見るのであります。
昭和維新は日本だけの問題ではありません。本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備を完了するのであります。明治維新の眼目が王政復古にあったが如く、廃藩置県にあった如く、昭和維新の政治的眼目は東亜連盟の結成にある。満州事変によってその原則は発見され、今日ようやく国家の方針となろうとしています。
第一次欧州大戦以来、大国難を突破した国が逐次、自由主義から統制主義への社会的革命を実行した。日本も満州事変を契機として、この革新即ち昭和維新期に入ったのであるが、多くの知識人は依然として内心では自由主義にあこがれ、また口に自由主義を非難する人々も多くは自由主義的に行動していた。しかるに支那事変の進展中に、高度国防国家建設は、たちまち国民の常識となってしまった。冷静に顧みれば、平和時には全く思い及ばぬ驚異的変化が、何の不思議もなく行なわれてしまったのである。[石原莞爾(1940)最終戦争論]
ここからもわかるように、石原は、昭和維新を明治維新とのアナロジーで理解している。但し、石原が考えていた昭和維新は、たんなる国内の革新ではなくて、国内外に及ぶ革新であるという点において、さらに、維新の指導者が、維新成就後、特権を要求せずに、平等な社会を目指すという点において明治維新とは異なる。
東亜連盟は東亜新秩序の初歩である。しかも指導国家と自称せず、まず全く平等の立場において連盟を結成せんとするわれらの主張は世人から、ややもすれば軟弱と非難される。しかり、確かにいわゆる強硬ではない。しかし八紘一宇の大理想必成を信ずるわれらは絶対の大安心に立って、現実は自然の順序よき発展によるべきことを忘れず、最も着実な実行を期するものである。下手に出れば相手はつけあがるなどと恐れる人々は、八紘一宇を口にする資格がない。[石原莞爾(1940)最終戦争論]
もしも、昭和維新の指導者(日本)が、最終戦争で特権を持つようになれば、その特権から疎外された国々は、格差を解消しようとして再び維新を企てるようになり、かくして最終戦争が、最終の戦争ではなくなってしまう。石原は、満州国を日本の傀儡国家ではなくて、日本と対等の独立国家にしようとしたが、これは、革新が新たな格差を生み出してはいけないという考えに基づいていた。
満州事変で突破口を開いた外ゲバ型革新は、その後、アジアを白人支配から開放するという大義名分の下、日中戦争から太平洋戦争へと戦争の規模を拡大しつつ、続けられた。石原の指摘の通り、一連の戦争により、日本は自由主義経済から統制主義経済、すなわち、当時「革新官僚」と呼ばれていた人たちによる計画経済へと移行し、国内の革新も遂行された。そして、戦時経済への突入により、日本経済はデフレから脱却することができたが、その代償はあまりにも大きかった。
石原は、各民族を平等に扱う東亜新秩序を夢見たが、それでは、何のために日本人が血を流しているのかわからなくなる。日本国内の世論の支持を得られなかったという点で、石原の戦略は非現実的であったと言わざるを得ない。石原が始めた外ゲバ型革新は、その後もっとエゴイスティックに日本の国益を追求する侵略戦争へと変質していき、石原が最終戦争で日本が同盟するべきだと考えていた中華民国と日本が戦うことになった。石原は日中戦争を進める東条英機と対立して、左遷された。最終的に太平洋戦争を始めたのは東条英機であるが、彼もまた東北(盛岡藩)出身の家系に位置していた。 
3. 直接的革新と間接的革新
保守勢力が日本を支配していた時、日本は、当時の世界の覇権国家であった英米と協調しつつ、手堅く戦争に勝利してきた。しかし、山県失脚後、革新勢力が台頭し、日本は、覇権国家の英米と戦争をするという、当時の日本の国力を考えると無謀としか言いようのない賭けに出た。日本がこのような自殺行為に打って出た理由は何か。石原は、日本が最終戦争に勝てると考えていたが、外ゲバ革新を推進した人たちは、必ずしもそういう愛国者たちばかりではなかった。尾崎秀実のように、日本が敗北した方が、日本で共産主義革命を起こしやすいという理由で、日本の戦争拡大を謀った人もいた。尾崎は、近衛文麿のブレーンで、日中戦争が起きた時、近衛が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という声明を出して、日中戦争の泥沼化させた背景には、尾崎の画策があった。
石原と尾崎を区別しようとするならば、内ゲバ型革新と外ゲバ型革新という区別だけでは不十分である。非特権階級が特権階級をゲバルトを用いて直接倒そうとする直接的革新と特権階級同士を戦わせ、非特権階級が漁夫の利を得る形で権力を握ることができるようにしようとする間接的革新という新しい区別が必要である。日中戦争は、こうした間接的革新を実行しようとする共産主義者たちの策略に日本と蒋介石が嵌められたことによって起こった。日本と蒋介石の中華民国が力を消耗すればするほど、毛沢東率いる中国共産党にとっては有利になったのである。
1964年に、当時社会党の副委員長であった佐々木更三と会見した時、毛沢東は、侵略戦争を謝罪する佐々木に対して、次のように言ったと伝えられている。
日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。おかげで、中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。[総評資料頒布会(1980)大衆政治家佐々木更三の歩み]
尾崎は、後にゾルゲ事件で逮捕され、ソ連のスパイであることが発覚した。この事件にショックを受けた近衛は、終戦間際に、以下のような見解を昭和天皇に上奏した。
職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
抑も満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なリと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。[近衛上奏文]
共産分子に躍らされた革新シンパは、「無知単純なる軍人」だけではなかった。近衛本人もそうだった。 
4. 米国版革新としてのニューディール
共産主義者は日本だけでなくて、米国にもいた。フランクリン・ルーズベルト大統領の側近に多くのソ連のスパイがいたが、これは、ルーズベルト大統領本人が共産主義シンパであったためである。財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトの強硬な試案がハル・ノートとして採用され、日米開戦を決定的にしたり、国務省高官のアルジャー・ヒスの活躍により、ソ連に有利なヤルタ協定が結ばれたりして、ソ連が目指す世界の共産主義化に有利な事態が展開した。
私は、米国の参戦は、ルーズベルトにとってニューディール政策の継続であったという解釈を提示した[ニューディールは成功したのか]。その時には、ニューディール政策という言葉を、たんに、財政支出の拡大によるリフレ政策という意味で使っていたのだが、ここで、ニューディールとは何だったのかということを、その語源にさかのぼって、改めて考えてみたい。ニューディール(New Deal)という英語は、本来、トランプゲームでカードを配り直して新たにゲームを始めることをいう。トランプゲームは勝ち組と負け組みという格差を生み出す。これに対して、ニューディールは、カードを回収して、格差を解消し、もう一度新たなルールの下でゲームをすることを意味する。だから、私は、「ニューディール」という言葉は、当時の日本での流行した「革新」に相当すると思う。ちなみに、漢字の「革」は、『説文』(三下)にあるように、「獸皮なり。其の毛を治去して、之れを革更するなり」、すなわち、毛を剃ってゼロから新たに始めるという意味の漢字であり、革新は、格差という、長く伸びてしまった毛を根こそぎ除去するという意味で、ニューディールなのである。
ルーズベルトは、社会主義的な政策により、資本家と労働者の格差を是正し、所得の再配分を行おうとした。しかし、国内の革新は、議会における保守派の反対で思うように進まなかった。そこでルーズベルトは、日本を挑発して、真珠湾を攻撃させ、この「裏口」を通って、第二次世界大戦に参戦した。これは、石原莞爾が外ゲバ型革新によって国内外を革新しようとしたのと同じである。ルーズベルトは第二次世界大戦終結前に死去したが、ニューディールを世界全体に広げようとする彼の野望は、第二次世界大戦後の共産主義勢力拡大により、かなりの程度実現した。すなわち、イギリスやフランスといったかつての植民地大国や日本やドイツといった新興工業国家の手から多くのカードが取り上げられ、共産主義者へと新たに配り直された。そして戦時経済を通して、米国経済は、自由主義経済から軍産複合体が支配する混合経済へと変貌していったのである。 
5. 格差を固定する保守とリセットを目指す革新
一般的に言って、戦争や競争が起きると、勝ち組と負け組みが決まり、格差が生まれる。勝ち組は、自分たちが手にした既得権益を永続的に維持しようとして、勝ち組ゆえに持っている権力を使って、格差を固定しようとする。合法的に上昇する道を閉ざされた負け組みが、固定された格差を解体しようと思ったら、直接的にか間接的にか、内的にか外的にかは別として、ゲバルトを用いるしかない。
長州藩と薩摩藩は、明治維新における勝ち組だったが、江戸時代においては、負け組みだった。関が原の合戦と大坂の陣は、江戸維新とでも言うべき日本国内における直接的内ゲバ型革新であり、戦国時代の勝ち組だった豊臣家は、これにより没落し、豊臣秀吉に臣従していた徳川家康が、新たな勝ち組となった。徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に積極的に賛同したが、これは、秀吉が海外遠征で力を消耗することを期待した上でのことであり、家康からすれば、間接的外ゲバ革新ということになる。江戸時代になってから、関が原の合戦で西軍に所属していた、あるいは豊臣家とつながりが深かった大名は外様大名として冷遇された。毛利氏と島津氏は、西軍であったから、外様大名として、長州藩と薩摩藩に封じられていた。
パクス・トクガワーナは、200年以上続いたが、幕末になると、江戸幕府の支配体制は揺らぎ始めた。江戸幕府の反体制派は、当初、攘夷という外ゲバ革新を試みたが、幕府にその意思がないことから、内ゲバ型革新に転じた。それは明治維新として成功した。その後、十分な特権に与ることができなかった多くの士族は、征韓論を唱えて、外ゲバ革新を試みたが、維新政府にその意思がないことから、内ゲバ型革新に転じた。だが、そうした不平士族の反乱は、西南戦争を最後に、完全に鎮圧された。かくして、薩摩藩と長州藩の出身者が特権的な地位を占める藩閥政治が始まった。この格差社会を打破するために、非特権階級がどのような革新を企てたかに関しては、これまで述べてきたとおりである。
日本を共産主義化しようとする革新勢力の試みは失敗し、戦後の日本は、米国の占領政策により、自由主義的要素を残す混合経済となった。とりわけ、米ソの対立が表面化してから、米国はレッド・パージを行うなど、革新勢力の弾圧を始めた。この動きは、当時「逆コース」と呼ばれたが、こうした名称は、太平洋戦争が革新勢力ではなくて、保守勢力によって推進されたという誤解に基づいている。戦後の日本の政治は、新米の保守勢力と反米の革新勢力という米ソの対立を反映した対立軸のもと、資本家階級と労働者階級の対立と和解を主な争点としてきた。しかし、現在の日本の社会では、これとはまた異なる格差の問題が出てきた。
それは、正規労働者と非正規労働者という格差である。この格差は、必ずしも労働者の能力によって決まるわけではなくて、学校を卒業した時の景気の良し悪しという偶然時に大きく依存している。たまたま卒業時に、景気が良ければ、新卒で正社員となり、その人の一生の生活はほぼ保障される。しかしたまたま景気が悪くて、正社員になれなければ、そのまま非正規労働者として一生を終えることになる。両者の生涯賃金や社会保障には大きな格差がある。ちょうど関が原の合戦で生じた格差が江戸時代を通して維持され、明治維新で生じた格差が明治時代を通して維持されたように、学校卒業時での競争で決まった勝ち組と負け組みの格差が一生を通じて固定され、維持されるのである。
正規労働者の地位を獲得した勝ち組は、自ら自分たちの特権を放棄しようとはしない。この結果、負け組みである非正規労働者のフラストレーションは、大きくなる一方である。非正規労働者たちは、社会的弱者ではあるが、《親米反中の保守派》対《反米親中の革新派》という伝統的な政治的対立軸の中で、必ずしも後者を支持しているわけではない。伝統的な革新政党は、労働組合に加入している正社員の権利の保護にばかり力を入れてきた。また、彼らは概して親中的であるが、非正規労働者たちは、中国のような新興工業国のおかげで、自分たちの待遇が悪くなったといった意識を持つ傾向があり、反中的になりやすい。おそらく彼らの不満の受け皿となるのは、《親米反中の保守派》でもなく、《反米親中の革新派》でもなく、《反米反中の革新派》であろう。
「プロレタリア型右翼」で提示した分類を使うならば、《親米反中の保守派》は保守主義者、《反米親中の革新派》は左翼、《反米反中の革新派》は右翼ということになる。もしも、今後、正規労働者と非正規労働者との格差が固定的に維持され、後者が増え続けるならば、将来、彼らは、極右政党を支持して、国内における格差と日米間の格差を同時に解消しようとするかも知れない。しかし、日本は、太平洋戦争と同じ間違いを繰り返すべきではないだろう。正規労働者と非正規労働者との格差の問題を根本的に解決するには、「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」で既に主張したように、正規社員の雇用に対する過剰な保護を撤廃し、固定的な格差社会から流動的な格差社会への移行を目指すべきである。 
 
帝国陸軍の戦争 / 権力のありか・あり方

 

陸軍というもの
昭和四四年(一九六九年)発表、平成二〇年に新潮文庫に再録された伊藤圭一 『兵隊たちの陸軍史』 を読んだ。伊藤の時代小説の愛読者でもある私は、彼が兵隊小説を書いていることも知っていたし、図書館の本棚で見てすぐ興味をもった。ただし解説の保坂正康がこれで「日本陸軍のほとんどのことが理解できる」と保証するほどの本にしては、あんまり感心しなかった。内容が、歴史書というよりは、著者の体験と主観(思い込み)と伝聞だけで出来上がっている随筆に、陸軍部隊の一覧表を付け加えたものにすぎなかったからである。
練達の小説家であり、実際にシナ事変に従軍して兵隊の苦労を味わった著者がいい加減なことをいっているとは思わない。その証拠に、著者が体験しなかった南方の戦線については、いちばん最後のページで、伝聞として、ニューギニアの部隊のことがちょっと出てくるだけである。
でも、それだけに始末が悪いのだ。
ごく普通の日本人同胞である兵隊たちが、勤勉で善良であったこと、天皇など信じていなくとも、「お国のために」どこの国の兵士と比べても、愚直であり、勇猛果敢に戦ったこと、要するに、極めてマトモであり人間的であったことは、 『兵隊の陸軍史』 を待つまでもなく、当然そうであっただろうと私も思う。当り前でなかったのは、帝国陸軍の組織の方であった。
いったい伊藤は何のためにこの本を書いたのだろうか。本書で彼がいいたかったことは、「大東亜戦争だけをみても、これだけよく戦い、これだけ出血し、しかもこれだけ報いられなかった兵隊の姿は、おそらく世界史にもその例をみないかもしれない」というくだりであろうが、思わず洩らしたにしても、これほどセンチメンタルな文章もない。
そうして、それは思わず洩らしたという程度のことではなかった。「英霊にどう申し開きをするのか」というのが、シナ事変のすべての和平交渉をぶち壊す陸軍の決まり文句だったが、伊藤も含め、この一言に抵抗できる日本人は少ないからである。
でも、戦争について考える場合、死者にたいしてセンチメンタルになるのはちっとも役に立たない。とくにあまりにも大量の死者にたいしては。死者たちこそ戦争の実相だという主張は分かるけれども、戦争の結果である死者たちを偲ぶのは別のところでやってもらいたいと思ってしまう。一九六九年といえば、私たちは、帝国陸軍にしろ、シナ事変にしろ、大東亜戦争にしろ、すでに第二次世界大戦という歴史事象の総括を始めていた。どんな下っ端の兵隊でも、勝っている方には力の驕りとその行使の楽しさがあり、負け方に回ればたちまち立場が逆転する。どんな悲惨な戦場の体験も、戦争の権力ゲームのありようまでは帳消しにしない。戦場の実態を書くと称して、伊藤がことさらに兵隊たちの戦場での美談を集めて本を書こうとした動機は、負ける方に回った彼の被害妄想以外には考えられない。それは、日本が勝ち側にいた日清・日露戦争とアジア・太平洋戦争初期のことを考えてみれば分かる。勝った側が死者を悼み讃えるのはけっしてセンチメンタルな感情からではない。それは権力のありか・あり方の誇示であり、いってみれば、金ピカ・荘厳に飾り立てた国家の最高のプロパガンダである。一転、負け側に回れば、死者たちはもう汚辱でしかない。昔なら捕虜がみんな殺されても文句はいえなかった。だからこそ戦死者への賛歌(オマージュ)が成り立つのも、負け戦で死んでも、後になって勝ち側に回り名誉が回復されることが前提だったのである。偉大なオマージュといえるフランス・レジスタンスの挿話も、ジョージ・オーウェルの 『カタロニア賛歌』 もみんなそうだった。自由のために死んだからこそ、屈辱にまみれた死であっても、彼らはみな名誉が回復できたのだ。それにひきかえ、アジア・太平洋戦争の私たちの死者の多くが七十年経った今でもまだ名誉を回復できずにいる。どこか別のところでセンチメンタルに偲ぶしかないではないか。
センチメンタルといえば、思いつくことがもう一つある。昭和期の日本に顕著だった「転向」という特異な社会現象だ。私たちの社会によくある一種の何気ない慣習としての行動ではあったが、それが結果として、自由のために死んだ者としての名誉回復をややこしくし、せっかくの戦後民主主義の世の中で、私たちを勝ち側に引き戻すチャンスを殺している。転向した者は、またそれを許した者もまた、いくら周囲の状況が変わっても、もう元には戻れまい。だから、オマージュもつくってもらえない。
つまり私がいいたいのは、こういうことである。歴史と銘打っているわりには、 『兵隊の陸軍史』 の著者伊藤の中では戦争の客体化ができていないのではないか。そのせいで、被害意識と自分としてはこうありたかったと思う伝聞とが交じり合い、ひどくセンチメンタルになってしまっている。帝国陸軍は、いってみれば山県有朋好みの、細々として規則をあげつらい、形の上ではいっさいの違犯を許さない態の、日本でもっとも権力主義的・官僚主義的な組織の一つであったことを骨身に沁みて知っているからこそ、伊藤は、その中に閉じ込められた兵隊たちがいかに庇いあい人間的であったかを語りたいとあがくのだろう。その結果が、著者が実際に携わったシナ戦線での体験と大東亜戦争の各戦場での伝聞による、伊藤が聞きたいと熱望するところの美談となって全編を蓋うことになったのだった。
伊藤の叙述の功績は自分の感情を偽ることなく語ることで、それがおのずから権力のあり方を、その構造組織の末端から映し出していることにある。権力はその頂点にだけあるのではない。組織の全体に、少しずつあり方を変えながら、あるいはいはその切れ味を和らげつつ、構造として、広く深く浸透しているだろう.服従を強いられるだけの使い捨ての兵隊だって、軍隊という組織の一部であるかぎりで、やっぱり征服した相手には権力の代弁者として映っている。
陸軍について書いた本を、ここでもう一冊紹介したい。それは、中央公論社から出ている「日本の近代」という歴史シリーズの第九巻、戸部良一 『逆説の軍隊』(一九九八年)。題名にある「逆説」というコトバが分かりにくいが、エピローグによると、近代化されたはずの陸軍がこと志と違って、封建時代顔負けの非合理性・ファナティズムの塊になってしまったことを逆説的といっている。
例えば、統帥権の独立である。本来は軍隊の政治関与を防止するための独立であったのに、いつの間にか政治に口を出すどころか、政治そのものを乗っ取り、ほしいままな権力を振るうほどになってしまったのを指していう。さらに近代的国民国家機構への忠誠と国民を護ることこそが義務だったはずの近代的な軍隊の将校たちが、国家の頂点にいる天皇個人への忠誠しか思いを致さず、封建時代の持ちつ持たれつの君臣関係さえ飛び越えて、原始的な神懸り的天皇崇拝に陥ったことも逆説的といっている。要するに、著者がいいたいのは、明治という時代が目指した近代化・西洋化の先駆けとなるはずの軍隊が、どう間違って、前近代的な機能不全・自己破壊的な組織になってしまったかを問いたいということであろう。
著者のまなざしは、軍隊が良いものか悪いものかを問うことにはなく、そもそも軍隊は、警察同様、近代国民国家にとって必須のものであるのだから、行政の長のもとに、うまくコントロールされているかどうかを問うことに向かう。さしあたり、今の私たちはまだ「陸軍」をもっていない。そうして帝国陸軍の問題点は、彼らが行政の下に納まっていなかったことにある。陸軍を統轄する参謀本部は天皇直属で、軍隊を動かす統帥権を預かり、内閣総理大臣の命令には従わなかった。明治維新政府を近代国民国家と定義するとして、またそうであるからこそ、統一国家として、これはマズイことであった。なんといわれようとも、それは近代化・西洋化に反するもの、著者のいう「逆説的」な事態だったのである。アジア・太平洋戦争が終るまで、ある程度まではその機微を心得ていた明治の元勲がいなくなったあと、時を追ってますます酷くなる矛盾と組織の肥大化と、その結果としての自壊現象はすべてそこに胚胎する。
だから、陸軍の歴史は必ず「統帥権の独立」をめぐって語られなければならなかったのだ。
統帥権の独立の始まりは、明治一一年(一八七八年)参謀本部が太政官から独立して天皇直隷となったことにあるという。とはいっても、そこは権力者の駆け引きの場でのこと、そんなにはっきりした決定ではなかった。なにしろ統帥権をもっているのは日本中でいちばん偉い天皇で、だから問題は、ぶっちゃけていえば、太政官あるいは内閣と参謀本部のどっちが上手に天皇を手なずけているかということに過ぎなかった。軍を統轄しているのは参謀本部なのだから、どっちが権力を握っているにせよ、組織の上では、統帥権(軍の指揮権)は参謀本部を通じてなされるというだけのことである。つまり、本当の問題は権力のありか・あり方にあって、軍部が実際にそんな力を振るっていた昭和の時代を私たちがどう検証するかに集約される。
明治一八年(一八八五年)、古代さながらの太政官制度が廃止されて近代的な内閣制度が発足したとき、統帥権事項は内閣総理大臣の管掌外であることが明らかにされた。しかしそう条文に書かれていたわけではなく、統帥権をもっている天皇がそれをどういう手順で使うかについては何も書かれていないことをもって、政権と兵権の分離ということが事実上認められたと解釈できるというだけのことだった。
事実、その後にできる大日本帝国憲法でもそのありようは変わらなかったのだが、一般には、統帥権の独立は、軍の政治介入を意図したものではなくて、軍の政治的中立性を確保し、軍人の政治不関与を保証するためのものと合意されていたのだった。
このことは大変重要である。明治政権の指導者たちには、内閣総理大臣は、天皇のことと軍隊のことは、いわば天皇大権事項として、直接には口を出さないシステムにしておく方がよいと暗黙のうちに了解していたが、でもそれは内閣総理大臣が国家のすべてについての最高の責任者であることを否定するものではなかった。あとでマズイことになったが、天皇がすべてを統べる国では、最高責任者(総理大臣)の権力のあり方をあいまいにしておくのが、そのときの彼らの知恵というものだったのだ。 
軍人と権力
軍人が政治に関与するとろくなことにはならないというのは、世の東西を問わず、私たちが培った知恵である。そうでなくとも、軍人たちはつねに政権の中枢に近いところにいて、しかも彼らがそこにいる理由である暴力機構と武器をしっかりと握っているのだ。もっとも、だれであれ、身分不相応な権力をもった人が政治に口を挟みたくなるのはよくあることで、軍人が政治に興味をもっても不思議はなかったのである。
山県有朋だって、あるいは彼だからこそというべきかも分からないが、それはよく承知していた。だから明治一一年(一八七八年)に頒布した 『軍人訓戒』 にも、ご本人は政治に関与したくて仕方がなかったくせに、あえて、軍人たる者、政治に関与してはいけないと書いたのである。常日頃、己の野心をひた隠し、自分は一介の武辺だというのが口癖だった山県が、軍人精神の中身を忠実・勇敢・服従としたのは、組織の人間として、上官(領主)の命令に絶対に服従しなければならない天皇の忠勇な軍人の立場では、やっぱり政治に深入りするのは危険なことだと思う心があったからに違いない。それは、明治一五年(一八八二年)に発布された 『軍人勅諭』 になるともっとはっきりと出る。山県の指示で西周が原案をつくった軍人勅諭は、教養のない兵士にも読めるように口語風になっていた。「上官の命令は即ち朕の命令である」と謳うこの諭へは、続けて、命は鴻毛よりも軽いのだから、「政治に関わらず、ただただ一途に忠節を守る」ことを全員に求めたのだった。勅諭の修正に携わった井上毅は「天子は兵馬の元帥にして、軍人は王室の爪牙なり」と建議書に記していたという。平安時代の源氏の大将がいいそうなこのコトバは、守旧派の木村の言としても、いささか常軌を逸している。しかもこの建議書には文明開化の明治政権を担う一人であるはずの山県も名を連ねているのだ。国民国家の盾として近代化された軍隊の理念など、そもそも初めからきれいに吹っ飛んでしまっているのである。
一九四一年(昭和一六年)、ときの東条首相が全軍に示した 『戦陣訓』 は、「死して虜囚の辱めを受けず」というくだりばかりが有名だけれども、本当は、略奪・暴行・強姦という戦場での軍規の弛緩に手を焼いた軍中央が、たまらず出した全軍への戒めであった。そうとると、捕虜になるなという戒めもだらけきった将兵に活を入れる表現だったといえないこともない。「仁恕の心で無辜の住民を愛護せよ」とか「酒色に溺れ欲情に駆られて身を誤らないように」などあからさまに記述されているのを見ればそれは分かる。当局は、これら目に余る軍規の緩みはみな現代の日本人が自由主義・デモクラシーという亡国の思想に染まった結果だと見ていたらしいのである。つまりは近代化の負の部分というわけだ。近代化されなければならなかった天皇の軍隊のなかで、まさにそれが軍隊そのものの堕落の原因だったという笑えない喜劇を日本の軍隊は背負っていた。
近代国民国家の軍隊を謳うのであれば、それは何よりもまず国民を守るのでなければ理屈に合わない。でも、天皇の軍隊を名乗る以上、その辺りはあいまいにしておくしかない。もっとも開明的だったと思われる伊藤博文でさえも、憲法と同様、近代国家の軍隊も、第一義的には国民のためにあるという点をはっきりさせないでおくことを選んだ。いやしくも近代化路線を採用した明治以後の政権担当者および私たち国民が、天皇ではなく、「国民」こそが国家を形づくる根幹であることを知らなかったとは私も思わない。ただ、明治から昭和初期にかけて日本の国力が増すにつれて、とくにそれが軍事力の増大とイコールだっただけに、この国の権力のありどころとそのあり方が、ただ一元的に天皇を中心としているかのような、あいまいな形にしておくことがいちばんいいという判断が働いたのだろう。ただし、それが私たちにとって唯一の知恵だったかどうかははなはだ疑わしい。その疑わしさ・愚かさを、統帥権の独立についての議論の委細・経過がよく示している。
私たちをそういう判断に向かわせたのが一君万民の思想であった。
「一君万民」とは、「国体」を賛美するために日本で作られたコトバで、万民が平等に天皇に忠誠を尽くすさまをいい、幕藩体制下の将軍中心の思想を改め、天皇中心の政治を実現させたイデオロギーと定義されている(原武史 『直訴と王権』 一九九六年)。つまり、天皇だけがとび抜けて偉く尊いこの国のただ独りの支配者で、家柄のいい向きも、政治家も役人も、才能のある者も、分限者も、取るに足らない庶民もみな平等に天皇を敬い従うあり方をいい、天皇の前では特権階級などないというのが「一君万民」の理念である。でもそれはあくまでも建前というもので、実際の国家の運営はすべて権力を握っている者、身分の高い者、お金を持っている者など選ばれた者が取り仕切っていることを知らない者はいない。そうして、それに歯止めをかけるのはデモクラシーの思想だけであって、一君万民の思想ではないということもまた。
それはちょうど、仏さまと凡下の者たちとの関係に似ているだろう。
仏さまから見れば、凡下の者たちは等しくみな彼が愛し信頼する弟子で、差別などありようがない。でも、仏さまにちょっとでも近づこうと念じている凡下の身からすれば、修行とか、普段の行いを清く正しく保つとか、心の持ち方がどうだとか、とにかく極楽に少しでも近づくには、その前に、気の遠くなるようなさまざまな務めをこなければならない。自分が選ばれた者になりそうもないことは分かっているし、越えられそうにない壁が幾重にも立ちはだかっていると実感もし、諦めてもいる。いかに凡愚の私たちだって、一足飛びに極楽へ行けると楽観するほどおめでたくはないのだ。同様に、一君万民は天皇から臣民を見た論理であって、民の方からすれば、統治を司る代官たちしか見えないし、彼らが権力に寄りかかって強いるありとあらゆる無法や差別やえこ贔屓を我慢しなければならない。いってみれば、権力のありか・あり方において、仏さまや天皇から見ればそれはまことに単純なものなのだが、凡下や民の方から見れば、無数の異なった物差しと統治の網の目のなかにがんじがらめになっている差別のありようそのものということになる。私が生まれたのは満州事変が始まった昭和六年であるが、それからほぼ十年が経って物心がついたころ、私の目には、陸軍の将校さんといえば金ピカに輝く遠い遠い存在だった。
その組織の典型が昭和期の日本の陸軍だった。
日本の軍隊は、新しい国民国家に相応しく、高度に近代化されかつ官僚化された自律的組織を目指して、他の政府機関に先駆けてつくられたはずだったが、実はその始めから、そうはならないような矛盾を抱えていた。軍人勅諭の教えの通りに、一君万民の思想に従い、将軍から一兵卒にいたるまで全組織を挙げて天皇ご一人に忠誠を尽くし、政治に関わらず、いっさいの私心を棄てて上官の命令と軍規に従うという、一見完全無欠にみえるそのシステムは、どう見たって、近代的とはいいかねる。国家・国民を護るという建前はあっても、彼らの気分は天皇の爪牙という、ただ天皇を護ればいいというところにあって、しかも、明治維新が立ち上げたはずの近代国民国家の軍隊と、解消したはずの前近代の国王陛下の軍隊との区別がついていないというありさまだったのだから。
完全に自律的な組織などない。組織はまことに腐りやすいものであって、それは日本の軍隊に限らない。権力のありかが定まらず、しかもすぐ動いてしまうばかりか、そのあり方もさまざまで、集団の中の人びとの行動はたえず喧嘩、駆け引き、屈服と、その場に応じて、なんでも使い分ける。交渉しあい、助け合うことがない。どこにでもあることだが、そのシステムが周囲の環境に合わせて自律的に変容していくようになっていないと、どこかが錆びついたように動きが滞ってしまう。その明らかな徴候は、派閥がはびこり、そこここに互いに抗争するグループが生まれては消えていき、陰謀が渦を巻き、暴力沙汰がたえず起こることである。初めから健全な発達など望めなかった日本の軍隊には、当然のことながら、上に挙げたことのすべてが備わっていた。
およそ考えられない事件がいくつも帝国陸軍の中には起きていた。
その一つが、大正一〇年(一九二一年)のバーデン=バーデンの盟約であった。当時少佐だった永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧二の三人がこのドイツの温泉場に集まって、皇軍の革新を目指し、盟約を交わしたのである。この盟約には東条英機も後で加わったといわれることが多いけれども、岡村が会談の後でライプチッヒにいた東条を訪ねて、その次第を説明し、盟約の同志にしたということだったらしい。
昭和期軍閥史については、すでにたくさんの人びとが書いているが、よく知られている事件の内幕を教えてくれるものは多いが、軍隊という組織の構造を探り、それぞれの事件を、そこで起こるべくして起こったものとして説明する点に物足りないものがあった。その中で、筒井清忠 『二・二六事件とその時代』 (二〇〇六年、ちくま学芸文庫)は、私の不満を満たしてくれた本である。しかもこの論文では、二・二六事件の経過と事実関係にはできるかぎり正確を期したと著者自身がいっている。歴史の叙述が一つの解釈だということはいうまでもないことで、ただ事実を羅列するだけでは歴史にならない。私たちは、日本陸軍というかなり特異な現象を、歴史的な背景だけでなく、その集団の中の人間関係と彼ら同士の付き合い及び葛藤から生まれる感情、感覚、思考の形が醸しだす全体を、いわば構造的に、見詰めかつ分析する必要がある。そこにはいくつものアプローチが考えられるだろう。それはそれぞれに違う基準による解釈といってもいいし、一定の構造的な理解といってもいい。いずれにせよ、この論文集は、私も及ばずながら関心をもっている歴史社会学という分野のリーダーの一人である著者のアプローチの典型を示しているのであった。
そんなわけで、「昭和期日本の構造」という副題のついた筒井の『二・二六事件とその時代』 を私はここに紹介したい。
一九七六年から八四年までの間に書かれた全部で七つの論文を収めた本書は、著者がまだ二十代の一九七六年に書いた「日本ファシズム論の再考察」という丸山真男を批判した論文を皮切りに、超国家主義者たちの群像を日本陸軍の将校たちの中に探り、歴史社会学の方法で分析してみせた論文集である。それを私は、私なりに彼らが手にしかつそれと戯れた権力の問題として考えてみたい。
私はまず陸軍の中枢にいた将校たち、とくに中堅の幕領たちを当時の典型的なエリート官僚として捉えることから始める。いうまでもなく、そこには制度的に戦後のわがエリート官僚たちとも通い合うものを想定している。ただし、彼らには超国家主義者あるいは国家総動員体制主義者というレッテルを貼って、歴史的に特異な現象として扱う。分析のキーワードは「革新官僚」である。そうして、同じことであるが、彼らを一定の思想集団として捉える。
三人の将校が会合したというだけでは、その意味を過大に評価することはできないが、バーデン=バーデンの盟約をして帰国した彼らがその後の一連の事件の起爆剤になったことだけは確かであった。
同期の陸士十六期生を中心にして二葉会という研究会が生まれ、活発に活動を始めるのである。盟約の中身というのは、派閥解消(長州閥の排除)と軍政改革(国家総動員体制の確立)なのだったが、早速彼らは陸軍の中の長州閥を排除することから取り掛かった。
しかも、そのやり方というのがまことに前代未聞なのである。あたかも永田・小畑・岡村・東条が順次陸軍大学教官になるのだが、その立場を利用して、すべての山口県(長州)人の陸大入学を阻もうと企てたのである。しかもそれが簡単にできてしまうのだ。少なくとも、大正一一年から昭和元年まで、山口県出身の将校はただの一人も陸大には受からなかった。帝国陸軍のような閉鎖社会では、偉くなる人の供給源はただ一つ陸大だけだから、やがて陸軍首脳部には山口県人はほとんどいなくなってしまった。
盟約の十四年後に殺される永田鉄山といえば、陸軍きってのキレ者で知られる。生きていれば、東条の代わりに首相になっていただろうという向きは多い。そんなキレ者が理非を弁えないはずはないと思うのは、我が陸軍を知らない人である。永田も東条も、入試の面接試験で山口県人に片っ端から落第点をつけることに不都合があろうなどとはこれっぽっちも考えなかったようである。彼らは目的を達成するためなら、どんな方法も正当化できると考えていた。フェア(公正)であることというルールは、彼ら将校たちには無用なものだったというしかないだろう。一事が万事というやつで、こんなことは陸軍という組織のなかではごく当り前のことに違いなかった。伊藤圭一が描く軍隊生活のなかにも、それを示すエピソードには事欠かない。「正義とは公正であることだ」とジョン・ロールズはいった。私はロールズの見方に賛成だから、その限りで、帝国陸軍には正義など薬にしたくもなかったといっているのである。
以前書いたエッセイ 『革新官僚の研究』 のなかで、私は帝国軍隊の将校たちを「ゼンマイ仕掛けの将校たち」と呼んだことがある。これには二つの意味があって、一つは彼らが自分の所属する組織の存続だけを願って、他を顧みることがいっさいない姿勢を官僚的とした。
二つ目は、派閥によって多少の違いはあるが、個々の人がつねに組織がインプットするプログラムのままに機械的に行動するということだった。官僚は一般的に個人的な判断を職掌のなかに滑り込ませないのを身上とする。だから、とりわけ軍規にうるさい軍人たちがそうあるべきであるのを非難できない。だがそれは、現代の公僕たちがそうであるように、あくまでも彼らの組織が正義の枠組に収まっている場合である。国家の暴力機構を担う軍隊が正義(公正)であることを重んじないとすれば、過去も現在もしばそうであったし将来もまたあるとしても、それはまことに困ったことである。なぜなら、官僚的ということがゼンマイ仕掛けであることを意味するだけなら、公正さを入れる余地などなく、状況の変化に対応することがシステムを生き延びさせるという私たちの理解と矛盾することになる。事実、日本の軍隊組織がそうだった。
例えば、筒井は二・二六事件の決起青年将校たちに二つの型があったという。一つは「天皇主義者」型というべきもので、ただ君側の奸さえ取り除いてしまえば、あとは太陽が雲間から現れ出るように、自然に国体(天皇親政)が現れ出てすべてうまくいくと考える。天皇への忠誠だけがインプットされているごく単純なプログラムのままに動く彼らには、操られているという自覚さえなかった。むろん何かの政治的な工作をするなど論外である。当時は一般民間人だって、青年将校というものはそんなものだと思っていたのだから、彼らの行動が不思議がられることもなかった。ずっと後になっても三島由紀夫などは、ただ操られていただけのそういう類型を理想的なものと信じていたくらいである。もう一つの型は、「改造主義者」型で、実際にクーデターを計画実行した首謀者というべき人たちである。彼らの計画は、レーニンのソヴィエト革命なども参考にして、巧妙に細かいところまで計画を立て、すんでのところで成功するところだったと筒井はいう。
そうして木戸幸一ら天皇側近の対応が少しでも誤っていたら、その時の状況下では、天皇もまた決起青年将校たちの説得に応じたことは十分に考えられると。
ただ彼ら青年将校たちの弱点もまた、天皇絶対信仰に北一輝の『日本改造案大綱』 がない交ぜになってインプットされたプログラムのロボットだったということにあり、彼らがゼンマイ仕掛けで動いていたという事情は、前者と比べて、ちっとも変わっていたわけではないのだった。いうまでもなく、それは二十一世紀の今から見るからこそいえることで、同時代の人びとにとっては分かりにくいことであった。 
牧民の官
つい先ごろ、原武史著 『直訴と王権』(一九九六年)という本を読んだ。著者は政治思想史の研究者で、朝鮮史に詳しい。朝鮮王朝において特徴的だった直訴ということをテーマにしたユニークな歴史叙述になっている。著者によれば、一八世紀の朝鮮では、李王朝の下で、一般の人びとが国王に直訴することが合法化されていたという。そしてそれを可能にしたのが「一君万民」の思想だった。でもこのコトバは日本製で、朝鮮で使われたことはなかった。それを著者は、朝鮮の政治状況に当てはめて、国王と人民が直接にきずなを結び、一体となって政治が行われるさま、つまり「君臣共治」(日本なら、天皇親政というだろう)の思想と捉えたのだった。それは、「天下は君のためにあるのではなく、民のためにある」という儒教の「民本思想」に基き、朝鮮でもっとも広く行き渡った朱子学の考え方によるという。そうして、この原理が明治政権の「国体」思想にも受け継がれて、「一君万民」というコトバが生まれたのだった。
朝鮮政治の弊害はヤンバン(士族)の勢力が強いことにあった。皇帝の臣下としてのヤンバンが王政の政治・司法・行政を牛耳り、君主と人民の間を閉鎖してすべてを取り仕切っていた。とくに守令と総称される直接人民に接する下級官吏は、ほしいままに暴政・搾取を行っていたと原はいう。守令たちの非道を正すのに君側の高官たちは役に立たず、民衆は直接主君に訴えるしかなかった。そんな訴えを聞き届けるのは、儒教の教えに忠実な英明な君主であり、そんなヒーロー型の君主が一七二五年に即位した李王朝の英祖だった。彼によって、直訴が合法化されたばかりか、実際に機能することになった。
直訴あるいは越訴という行為は、合法化こそされていなかったが、幕藩体制下の日本でも認められていた。だいいち、直訴という行為には、合法か非合法かということはあまり意味をもたないだろう。合法的な手段で認めてもらえないからこそ直訴が出てくるのだから。施政者の側からすれば、あくまでもそれは越権行為なのだ。それ以前のことは分からないが、原によれば、徳川政権の全期を通じて、将軍への直訴は五回しかなかったという。その中でいちばん名高いのが佐倉惣五郎の直訴である。つまり、直訴はあくまでも例外的なことなのであって、しかも実行した者は例外なく死刑になる。ほとんどの場合、訴えは取上げられず、殺され損に終る。日本では、直訴というコトバはあっても、機能していなかった。ただし、惣五郎の場合のように、問題が公になると、それ相応の効果はある。それは、頻発した百姓一揆の後始末を見れば分かる。実は、直訴そのものが一揆なのだが、大騒ぎにならないうちに取り押さえることができずに、世間に知れわたってしまったら、法で当人を裁くことはもちろんでも、不正の告発にたいして頬被りで済ますわけにはいかず、なんらかの措置を取らなければならない。手段はそれぞれでも、そこに抵抗というものの意味があり、犠牲を承知で、決行があとを絶たないわけである。支配者と被支配者とがいる限り、抵抗というものはけっしてなくなりはしない。温情とまではいかなくとも、抵抗そのものを認めるということでなしに、いつの間にか、どこかが密かに改善されているというのが、幕藩体制下のしきたりなのだった。
民主主義の世ならともかく、王権の時代には抵抗は非合法であるほかはなく、それを承知で、直訴を容認し、それを手段として認めていた李王朝の英祖という王は、やっぱりどこか変である。民主主義の世の中だって、訴えにはすべて決まった手続が決められていて、その手続を外した訴えは、無効とはいえなくても、正しくやり直す必要がある。結局、「直訴」ということがあぶりだしている問題とは、いかなるカタチの法治国家のもとでも、統治者の始末できない不正・不法が絶えることがないという事実と、私たちがそれとどう向き合うかということなのであろう。
明治維新直後、いっとき直訴が公認されていたときがあるという。
だが、すぐに禁止されて、それは不敬罪ということにされた。すでに国会があるのだから、そんなものをあえてしようと思う者などいなかったけれど、一度だけ直訴する者があった。その人とは、足尾銅山の鉛害を訴えた田中正造である。このときは、不起訴の扱いで罪にはならず、世間の非難が高まって、効果のほどはともかく、対策が取られたのであった。
これらのやっかいな事どもは、すべて権力というものの構造に由来すると考えればいいのではあるまいか。
およそ人が集まり、社会ができるところでは、どこでも統率の源あるいは権力の集まるところがあり、力の濫用がある。だから、それは人の属性というよりは、社会あるいは組織の中に構造的に組み込まれている力学的な現象のあり方と考えた方がいい。建物や機械を設計する技術者がいつも万有引力を計算に入れているように、政治家やお役人ばかりでなく、何か仕事をしようとする企業家もつねに権力の配分に苦慮している。権力は政府の専売特許ではないのだ。宇宙空間に持ち込む装置の設計者は、引力の不在によって、逆に苦労が増す。権力を考慮に入れない、あるいは権力に左右されない組織をつくろうとする人は、それが不可能であることを知るであろう。
だから政治というものは、ある意味では、剥き出しの権力をいかにして和らげるかの知恵比べでもあった。民主主義・公民権・人権というコトバは、現代の私たちが到達したかけがえのない知恵であるが、中世や古代の王権だって、それなりに知恵を働かせていたのであって、その一つが「仁政」である。
仁政とは、コトバを変えれば、「牧民」(民をやしなう)ということである。牧民ということが江戸時代には広く普及した理念であったことを明かした本がある。小川和也 『牧民の思想―江戸時代の治者意識』(二〇〇八年)である。私はこの本を始めから終りまで興味をもって読んだけれども、読みながら絶えず二つの相容れない考えに引き裂かれていた。それは、著者が「はじめに」でいっている「国家思想の根幹は、治者がいかに統治者に支配関係・統治関係を認めさせるかという点、つまり統治権の正統性に関わる」ことだというところに凝縮される。この言説は間違っていないけれども、ただ、統治の形態によってその中身がまるで変わってしまう点が見逃されている。
現代の私たちにとっては、仁政はすでに過去の思想である。民主国家の公民である私たちは、政治は自分たちが参加するもので、その結果として、民生は自分たちで自分に与えるものと理解する。もはや私たちはお上から養ってもらう必要などなく、政治家や役人を使って自分で自分をやしなっているのだ。
理屈はたしかにそうでも、実態はぜんぜん違うと人はいうに違いない。ハローワークにしろ、生活保護にしろ、警察にしろ、みんな私たちが払う税金によって賄われているが、それでも、私たちがお上にやしなってもらっているという気分からは逃れられそうにない。政府のエリート高官たちが公平で立派な人たち揃いであるのはいうまでもないが、下っ端のお役人も駐在所の巡査も、たいていは親切で、こっちの身になって心配してくれる。たとえ少数でも、そんな彼らは、打算から動いているのでない、まさに「牧民の官」にふさわしい人たちであるといえる。でもやっぱり、現代の公務員は、江戸時代の「牧民官」とは、狼と羊ほども違うのである。昔は役人が民を養っていたが、今は逆に民が彼らを養っている。なにしろ彼らは公僕(パブリック・サーヴァント)なのだからね。
小川の言うところを聞こう。江戸時代に官民の間に広く流布した牧民の書とは、宋末期の人張養浩(一二六九〜一三二九)が著わした『牧民忠告』が元禄頃に渡来、それの数ある注釈書をひっくるめて指す。その書が広め、深く日本の社会に浸透した「牧民の思想」は、当然のことながら、変革の思想ではなく、現行の政治体制と秩序を維持するための、そして、その手段としての民衆の生活と生命を保全するためのイデオロギーであった。具体的には、仁政を施した名君の話として示されることになる。
江戸時代の幕藩体制は、将軍が全国を統べ、その下にある藩主が領民を統治するという二重構造になっているが、領民から見れば、藩はすでに立派な国なのであった。ただし、それは国といっても、現代の私たちが属する近代国民国家とはまったく違うものである。まして、一九四五年以降の民主主義の国家と比べれば、そのお役人のありようは、原則において、ほとんど別物であるといっていい。彼らの理想が「牧民の官」であったのにたいして、私たちのお役人は「公僕」(国民の召使)なのだから。
この点をまずはっきりさせておいたうえで、小川の本を読んでいこう。 『牧民忠告』 は中国の本であるから、日本の注釈は、当然なことながら、日本の実情に合わせたものに読み替えられている。本家の『牧民忠告』 は、天子に任命された地方官のいわば心得あるいは手引書で、牧民とは牛馬のごとく施政者にやしなわれる意味であり、その仕置を任せられた官吏のあり方は、自己の修練を怠らず、天子の代わりになって、民をやしないいつくしんで善い政治を施すことが肝要と教えているのだった。この本が朝鮮から渡ってきた写本であって、その時すでに仁政の志に燃えた名君話が織り込まれていたのだが、それが日本に来ると、藩士はもとよりだが、とりわけ藩主の仁政の心得が強調されるようになったのだった。
最初の注釈書を書いたのは桑名藩主松平定綱で、書の題名は『牧民後判』 という。寛永一二年(一六三五年)ごろのことである。
「後判」というのは後世に藩国を判する(治める)の意味で、子孫への家訓としたのである。つまり、あくまでも藩主たる自分への戒めであって、実際に主に代わって仁政を施すことが期待されている藩士が見習うのは当然としても、その前に、将軍から領地の仕置を命じられた大名が守るべき教訓であった。定綱は将軍直属の番方という旗本の身分から桑名一一万石の大名にまで出世した敏腕の官僚だったのだから、なによりも徳川家大事、大名はただ領地の仕置を将軍家から任される者という想いが強かったのだろう。この家訓は、百四十年後に田安家から白河藩一一万石松平家に養子に入った定信にも引き継がれている。老中として、節倹、質実剛健の旗を振り翳して、政治改革の指揮を取った彼もまた名君の名をほしいままにするのである。
次に取り上げるのが 『牧民忠告諺解』。天和の頃(一六八一・二年)、大老堀田正俊の依頼で儒者林鷲峰が書いたもの。正俊もまた家光・家綱・綱吉三代の将軍に仕えた徳川家の忠臣であった。とくに四十年も家綱の側にあって、公私ともに支えたのだから、家綱を名君と観じ、その治世を理想化したとしても不思議はなかった。鷲峰との合作というべき『諺解』の要点は、仁政を行うのは君によって選ばれた村々の何万という牧民の官であるという 『牧民忠告』 の思想を伝えながら、藩主である大名こそが牧民思想のもっとも中心であるべきだと説くところにある。藩そのものを独立した国と見做しかねない、領内の仕置は将軍に諮ることなくすべて藩内で行ってよいというお達しが出るのは正俊の死後、柳沢吉保が側用人となって政治を取り仕切りだしてからである。
天和元年(一六八一年)、四十歳の若さで死んだ家綱を継いだ五代将軍綱吉のもとで、堀田正俊はめでたく大老となる。彼が自らの手で理想とする牧民の政治を実現しようと張り切ったのは当然だったが、その時は、ご本人が四年後の貞享元年(一八六四年)に暗殺されることになるとは夢にも思っていない。
大老二年目の天和二年(一六八二年)に、正俊は総勢四百七十人に及ぶ朝鮮使節団を迎える。その際、天人合一という朱子学の理論を知ったと小川はいう。天下は一人の天下ではい。天子の上に天理がある。人はみな天に服し、天と一つになるというその思想を生かすならば、治者は驕り高ぶらず、奢侈に流れず、徒に争わず、つねに誠を尽くして民をやしない、きちんと法が守られる平穏な社会が出現すると正俊は信じたのだろう。綱吉は君臣一体を地でゆく理想の将軍になるだろうと彼は思った。
彼の心積もりでは、牧民の務めは公儀の務めであり、牧民の官として仁政を行うのはなによりもまず将軍や大名たちでなければならないのであった。民をいつくしみ養うことが第一であるからには、彼らにたいして法をあんまり厳格に適用することは慎むべきだともいっている。でも、綱吉の偏執的な性格が露わになるにつれて、大老正俊の見込みは外れ、新将軍は「牧民の官」からは程遠い君主になっていく。
突然の死によって、綱吉が天下の悪法生類憐れみの令を出し、厳罰主義に走ってすっかり人心が離反、君臣一体とは大違いの困った将軍だったことを、正俊が知らずにすんだのは幸いであった。
その後も牧民の書は続々と出てくるのだが、十八世紀に入り、尾張藩士樋口好古という人が書いた 『牧民忠告解』 は、初めて大手の書肆から刊行されて、日本国中浦々浦々まで流布したのだった。好古は本居宣長の弟子で、微禄から尾張六十一万石の代官にまで出世した敏腕の農政専門家で、彼の本はだれにも分かり易く書かれていただけでなく、ただの注釈書ではなしに、村の経営に役立つ農書なのだった。村が立たなければ、藩の窮乏が救えないし、村が立つためには、村興しに熱心な領主が不可欠である。そんなわけで、牧民の思想と仁政を施す名君とはセットになっているのだ。徳川時代を通じて、名君といわれる人は数百を数えると小川はいう。それも藩財政のやりくりがつかなくなる後の方が多くなってくるのも皮肉である。
名君といえば、何といっても、上杉鷹山(一七四六〜一八二二)であろう。名前だけはむろん知っているが、どんなことをした人だったかは藤沢周平の小説を読んだくらいで、いちいち調べようとも思わなかったが、そんな必要もないくらいに、鷹山をもって代表される「仁政イデオロギー」は私たちみんなにお馴染みである。
まず私たちは、仁政がいつも飢饉とセットになって出てくることを知る。藤沢周平の小説でも、鷹山の事跡はつねに米沢藩の貧窮とともに語られる。そこには米沢藩独自の理由もあったらしいのだが、要は、飢饉の年が多く、藩財政の勘定が合わなくなったのだった。名君は一八世紀には流行のようにいたる所に輩出している。それを裏返してみれば、この時期が飢饉の時代であり、領民たちの暮らしがどうしようもなく行き詰っていた時代ということである。すでに領主がどんな人だったかなど問題ではない。だれがやっても、およそやることは限られている。そんなことが出来るかどうかはともかく、領主たる者、父母の如く赤子たる領民と接するよりほかに策の立てようもないのであった。だからだれでもよい、役人たちは必死なってカリスマを探した。藩の重役も当人もよく知っていたように、名君とは仕立てられたカリスマという以外の意味はないだろう。だからこそ、そこに報徳の仕法で名を挙げた二宮尊徳が出現すれば、彼らは争って彼に助けを求めることになるのだった。
明治御一新になっても事情は変らない。形の上では天皇独裁国家である明治の新国家は、国民に向けて、仁政を演出しなければならない。「父母の如く赤子たる国民をいつくしむ」天皇は、何をおいても名君でなければならなかったから、明治国家は挙げてその神話をつくることに狂奔する。明治政府は牧民思想をなによりも必要としていた。
明治六年には、地方官会議で、牧民官としての立場を自覚して励むようにとの勅が出されたくらいである。山県有朋が地方分権の制をつくろうと図ったとき、彼の頭の中にあったのが牧民の思想だった。しかもそれは昭和の御世になっても続いている。一九三八年、安岡正篤は『牧民忠告』を改めて国民に紹介するが、それは朝鮮と台湾の植民地経営が失敗続きであるのを憂いて何とかしなければと思ったからだったといったそうである。
でも、牧民と仁政を真正面から貶した人もいる。福沢諭吉は、仁政思想は「効かない薬」であり、牧民官のパターナリズムなど迷惑以外のなにものでもないといったという。さすがに近代化ということを第一に考えた福沢ならではの言であろう。役人たる者、民衆の心をわが心とし、生活感情を同じくすることが必要である。それはその通りなのだが、天皇の官吏が百姓とともに苦しみ、わが子のように民衆を思いやれば、たしかに百姓からの不満は出てこないかもしれないが、それが仁政だというのなら、そんなものは民主的な近代国家にはすでに無用なものである。 
地方自治と牧民の思想
私の畏友小林孝雄は、明治初期に日本の地方自治がどのようにして出来上がったについて一冊の本を書いた(小林 『大森鐘一と山県有朋―自由民権対策と地方自治観の研究』 一九八九年)。その詳細は本文についてもらうしかないが、明治一五年(一八八二年)と明治一七年(一八八四年)の地方自治制度改革に関わった本書主人公大森鐘一の動静を軸に、山県有朋の主導による改革案の作成と成立の過程を事細かに追っている。それを通して、明治政権が考えていた自治というものの姿が見えてくることを期待して、小林の本を読んでいきたい。
太政官制という古めかしい制度を取ってはいたが、西洋に学ぶのを至上命令としていた明治政府は、地方自治権についてもそれを尊重することにした。西洋に習った組織のありようは、基本的には、自治制度の採用にある。でも自由民権運動などというものが騒がしく叫ばれるようになると、天皇独裁国家としては、やっぱりそれを野放しには出来ない。しかも、自治そのものは、私たち日本人にもけっして無縁のものではないのだった。幕藩体制の時代から、庄屋とか肝煎りといった村の世話役は、デモクラシー型の公選というわけではなくとも、互選といった形で自然に決まってくる。それが中世から日本の村共同体に伝わる自治の形であった。しかも村の事は、領主さえも立ち入ることができない寄合で決せられ、そこには多数決がなく、全会一致があるだけである。山県ら御一新の新しい政治家たちが挑んだのはそんな慣行である。
明治政府の地方自治制度は、明治一一年(一八七八年)のいわゆる三新法で決まった。それは郡区町村制編制法、府県会規則、地方税規則の三つを指す。これらの法に則って、府県と区町村ではそれぞれ選挙で選ばれた議員さんたちが、折からの自由民権運動の流れに乗って、喧々諤々の議論を戦わしていたのであった。前年には、西南戦争があり、大久保利通暗殺があり、世情騒然として、国庫は空になり、とにもかくにも、政府としては、これ以上国民に無用な刺激を与えるわけにはいかなかった。地方自治は、とくに税金の使い方を中心に、人心収攬を目当てにとりあえず承認されたのである。
でもそれは政府の、とりわけこわもての山県有朋の本意でなかったことは、いわずとも明らかだった。明治一五年七月、大森書記官は参事院議長山県の慫慂を受けて、地方巡視に向かう。税金の奪い合いをめぐり、各地の地方議会で収拾のつかない混乱が生じていたからである。山県は、地方の実情を調べ、その年の暮れまでに改革案を纏める準備を大森に任せたのだ。のちに清浦圭吾らとともに山県直系の内務官僚四羽烏の一人と謳われることになる大森が山県の下についた秋であった。山県と清浦が自治とか仁政などとはまるで縁のない人だったのにたいし、大森だけはそのあとも牧民の志をずっと持ち続けるありさまが小林の筆で生き生きと描かれる。
流行りものの自由民権か何か知らないが、まともな市民とはとてもいえないような、事を好む士族崩れの連中が何かというと故障を申立て、府知事県令と配下の役人の仕事を妨害する。地方に少しでも文明開化の恩恵を及ぼしてやろうという政府の牧民の思いはちっとも伝わらず、徒に紛争ばかりが増えるありさまである。山形のホンネは、自治などほんの形ばかりのものにして、地方行政も国家の威令をもって完全に治めていくことにある。いってみれば、県会や町会が県令の決めた国家の大事な土木工事に使う金の支出にいちいち口を出すのは怪しからんというわけであった。
なかでもいちばん知られているのが、かの福島県令三島通庸が明治一五年に強行した福島・山形・新潟三県にまたがる道路開削大工事についてのいざこざであろう。国庫負担では足りず、県令が多数の住民を苦役に駆りだすのに要する費用を地方税から捻出しようとしたのだ。その目論見を頓挫させた県会の騒動を福島事件という。結局、三島は中央政府の後押しで工事を強行するのであるが、そのような抵抗を封じ込めるのが、山県が考えていた「正しい」地方分権のあり方というものだったのである。国民は国家が言いつける通りにやっていればいい。それが一君万民というものである。天皇の命令だけをかしこまって受け、それを民草に伝え施してやるのが天皇の官吏の役目で、地方自治もまたその仕組みの一部である。その枠を超えて勝手に税金の使い方を決めることなど許されないのだ。
ともあれ、大森の巡視報告で、地方自治制度改革の原案が出来上がる。その骨子は、大きくいって二つある。一つは、地方税の使い方を無頼な議員たちの勝手放題にさせないこと。政府が選んだ知事や県令とその背後に控える内務省がそのすべてを取り仕切ることである。
もう一つが、地方自治組織のすべてを政府の統治機構の一端に取り込むことである。しかもこのことは、西洋の制度に倣った地方自治の権利がちゃんと国民に保証されているという体裁を取ったうえでなされなければならない。そこに山県の苦心があった。
山県の意を受けた大森ら中央の官僚たちが取り組んだのは、その見かけのカタチがどうあれ、地方議会の権限をどうやって抑えるかにあったことは間違いない。彼らは、いわば憲政の常道に従って、「政治の機関として最も重要であるべき」府県会・市町村会に地方税の徴収とそれを使って支払う払う事柄の議定権を与えたけれども、実は、内務省が選任する府知事・県令を通じて、しっかりとそこに箍を嵌めていたのであった。内務卿はいつでも府県会を停止することができるし、停止の間は、予算の施行にはいちいち内務卿の認可がいるのである。
でも、形式的には、地方議会で決められる予算の中身はむしろ充実する。内容の充実は、国の監督の口実が増えることでもある。いまや水利土木事業、学術・勧業・衛生・教育に関わる事業、土地・家屋所有権の処分等に彼らの論議が及ぶことになった。
明治一五年の改正は一番目の問題しか解決できなかった。そこで、山県はさらに二番目の改正に乗り出すのである。
ここで働いたのも大森鐘一だった。明治一七年、山県内務卿のもとで、町村会の法的規制が全面的に改正されて、戸長の公選が官選に切り替えられる。昔からの習慣で、町や村の寄合を総領するのは庄屋名主と決まっていた。それが近代的な制度に変ったからといっても、ほとんどの所で、相変わらず区町村会の議長を庄屋名主(戸長)が務めていた。そうしてそれが明治になっても変わらぬ村社会のあるべき姿であることを大森ははっきりと理解していたと小林はいう。だから、大森が提案し山県も賛成した改正が、戸長の資格を問うことではなくて、同じ顔ぶれで戸長を官選することになったのだろう。町村寄合の旧習をそれほど損なうことなく、いかに新しい区町村会に移行させるかが大森の苦心だったのである。それとともに、戸長役場所轄区域はすべて府知事か県令が決めることとなり、議員も村に住む戸主で土地か家屋の所有者に限定される。無頼の民権論者は区町村議会からことごとく締め出された。さらに村の万事に相談に預かっていた総代の名称がただの「用掛」に変えられた。彼らの給与も戸長が適切に取決めることになり、昔の総代たちはいまや使い走りの末端の行政官として位置づけられることになった。
せっかく纏めた議案だったのに、一言居士ばかりの元老院はすべて否決廃案としてしまう。でも、山県は直ちに上から圧力を加え、形ばかりの修正で元老院に差し戻し、ついに明治一七年の地方自治改正が成立する。これを大森は自ら「自治に官治が付け加わった」ものと評したということである。
明治二一年市制・町村制公布、明治二二年大日本国憲法と皇室典範発布、明治二三年府県制・群制公布。そうして同じ年に第一回帝国議会が召集される。ここに日本の地方自治が確立したわけであった。
同時に、大森鐘一は内務省県治局長に栄転するのである。
明治・大正・昭和を生き抜いた大森鐘一(一八五六〜一九二七)の回顧録に、自分は生涯を地方牧民の官として過ごしたという意味の述懐があるという。彼はその立場を、「政党政派の外に超然独立すべきもの」と解していたようである。さらにいう。「地方は超然として上調停と下万民との間に在て偏せず党せず、一点の私なかるべし」と。
これを政党嫌いの長州閥政権が拠り所とする「超然主義」の受け売りだというのは易しい。山県の配下だった大森が超然主義を批判することなどありえなかったけれども、大森はそれを一君万民思想と結びつけることによって、牧民の思想をそこに重ね合わせていた。幕臣として、明治新政府の天皇の官僚として、大森が、私利私欲を棄て、ひたすら民をやしなうことをもって正しい役人のあり方だと信じたのは、それはそれで正しかったといえる。国民を思いやることから、国民の自立の権利を守ることは、近いとはいえなくても、明治の思考からのデモクラシーへの変容の一歩ではあろうから。明治の官僚たちは、天皇親政を認めることはしなかったけれども、天皇独裁には反対しなかった。天皇の官吏たる大森ももちろんその一人だった。牧民の官とはその彼なりの表現であった。  
明治から昭和へ
明治維新から始まった私たちの近代国家建設は、昭和に入った一九二六年にはすっかり私たち日本人らしい顔に仕上がっている。
強いリーダーシップをもった政治家はいなくなってしまい、どんぐりの背比べのような似た者同士が代わりばんこに総理大臣になる政党政治の時代に入っていた。政党政治の大スターだった原敬は一九二一年に暗殺されてしまい、超然政治の大ボスだった山県有朋は一九二二年に目出度く長寿を全うして世を去っていた。
大正時代に確立した政党時代を彩るのは、政友会と憲政会である。
時に応じて、彼らはそれぞれの頭に立憲という名称を冠し、それは帝国憲法を遵守するという意味なのだから、両者の違いを綱領や性格から区別することはとても難しい。なにはともあれ、それが日本流のやり方なのであった。大正天皇が死んだのはもう暮も押し迫った一二月だったから、実質的に昭和は一九二七年からである。その年、総理大臣になったのは政友会の田中義一だった。彼に限らず、当時の政治家たちのいちばんの関心事は、中国における日本の権益をいかに守るかにあった。とりわけ満蒙をしっかりと確保するために、敵か味方かはっきりしない張作霖の扱いをどうしようかという点に。張作霖の爆殺は一九二八年(昭和三年)のことであり、田中はその犯人処理の仕方をめぐって総理大臣の職を棒に振り、その直後、心労のあまり生命さえ棒に振ってしまった。中国軍の仕業に見せかけた鉄道爆破事件をでっち上げた陸軍の謀略から満州事変が始まったのは、その三年後の一九三一年(昭和六年)である。
ここからアジア・太平洋戦争までの間の事件の経過が、北岡伸一『日本の歴史五 政党から軍部へー一九二四〜一九四一』(一九九九年)にとても要領よくまとめられているので、それを活用したい。
大正から昭和始めにかけての社会情勢の特徴として、よく大正デモクラシーというコトバが使われる。民主主義、民本主義、ポピュリズムとその実態はなんであれ、この国の政治が、国民がどう思っているか、彼らの思いが向かう矛先、動向といったものに無関心でいられなくなったということだった。国民がお上のいうままにならなくなったのである。
国民が自由を意識し始めたことは、折からのロシア革命の影響で共産主義が日本に入ってきたことに象徴的に現れている。日本に最初の労働組合が生まれたのは明治三三年(一八九八年)、アメリカ帰りの片山潜が立ち上げた鉄工組合だった。もちろんロシア革命が起こるのはまだずっと後で、むしろ開明派といわれる官僚たちが、あまりの労働条件の酷さに、子供や女のためにイギリス風の工場法を日本にも作ろうと企むほどだった。そうして、自前でつくられたわが労働組合のカタチもやっぱり伝統に則った日本らしい顔をしていたのである。
そのころの労働者たちは、江戸時代のお店者とちっとも変らない処世訓に従って、主には逆らわず、粗暴な行為を慎み、勤勉実直に働き、他人をあてにせずに互いに助け合うという村社会の掟をそっくり会則のなかに書き込んでいた。
労働組合の指導者たちがマルクシズムの洗礼を受け、西洋風の理論で武装し、外国風の振る舞いを身につけるのは大正も末になってからだ。モスクワで開かれたコミンテルン(国際共産主義連盟)から帰った人たちを中心に日本共産党が結成されたのが一九二二年(大正一一年)なのだが、その中核に座るのは、日本風の社会主義者である堺利彦・山川均・荒畑寒村らで、徳田球一のようなピカピカの国際派マルキストは裏方に回っていた。一八二三年(大正一二年)には最初の共産党の一斉検挙、大杉栄の虐殺事件、大逆事件と立て続けに弾圧があり、翌年には共産党そのものが解散してしまうのである。普通選挙法と治安維持法の発布は一九二五年(大正一四年)であり、一九二六年(大正一五年)に生き残った党員の手で共産党が再建されたときには、福本和夫を委員長とする幹部はすべてパリパリの西欧型マルキストで固められ、堺・山川・荒畑らの名前はすでに党員名簿からは消えている。
いわゆる無産政党というものは、すでに昭和三年(一九二八年)の最初の普通選挙で八人の当選者を出しているくらいに国民の間に知れ渡っていたが、彼らに特徴的なこととして、北岡は、共産党コンプレックスから出発していることだといっている。数ある無産政党の名前や主張を挙げることはしないけれども、北岡によれば、彼らが集合離散を繰り返すそのポイントは、大部分が自分たちと共産党との距離をどうするかにあったのだという。繰り返し弾圧を受け、検挙されながら、その都度顔ぶれを新たに不死鳥のように甦る昭和初期までの恐れを知らない共産党員は、民衆にとってはちょっとした悪漢ヒーローである。同じ義賊を気取る運動家たちが共産党を物差しとして見るのは当然だった。
その頃の日本はとてつもない格差社会だった。会社の重役さんたちは利益の一割から五分を自分の懐に入れていたし、昭和四年ころの社長さんの平均給与は年額で十五万一千円もあったのに、大学卒の新入社員は千五百円で、百倍もの差があった。それでもまだ都会の大卒はいい方で、家族を抱えて働くこの国の一世帯当たり平均年収は千五七十一円五十銭だったし、農家の年収にいたっては八百円以下だった。当時と比べると、現在(二〇〇〇年)の物価はほぼ五千倍の見当だろうということである。無産政党というものに民衆が関心をもまたざるをえない環境がたしかに存在した。
だが、そんな人びとのアカや平等への熱い思い入れは、満州事変を境に消え去ってしまう。権力のありかが、陸軍にあることが疑いのない事実となって見えてきたからである。しかも彼らは、その権力を、光を和らげ、親しみ易い顔をつくるどころか、むき出しの、気違いじみた容赦のないありようで使い始めていて、気紛れなアカへの同情などこれっぽっちも認めてくれそうもない。それでも、国民はまだほんとうの権力は天皇のもとにあると信じていたけれども、私たちのあずかり知らないところで、学者たちの間では、天皇機関説というものが密かに合意されていたという事実を私たち国民は知らされていなかった。天皇機関説によれば、権力のありかが天皇にあるといっても、それは制度としての天皇の法的な地位に属し、天皇個人にはないといっていることまではほとんどの国民は知らなかった。
権力とは一筋縄ではいかないものである。いくら法令で決まっていても、しばしば形式と実態とが離れてしまうし、どこにその中心が留まっているかということも、それぞれの立場や場合でそのあり方が違ってくるし、しかもそのありかは移ろいやすく、どんどん変っていってしまう。権力そのものは一つの磁場みたいなもので、それが宿るところはそれぞれがみんな違った顔をしている。昭和軍閥に宿った権力のあり方もまた独特であった。 
石原莞爾という現象
ここで話をもう一度昭和の陸軍軍閥に戻す。何よりも陸軍の動向を握る中堅から高級の将校たちが、革新官僚のカタチをしていたということを思い出して欲しい。ほとんどが陸軍中央の陸軍省軍令部とか参謀本部作戦部とかに屯して、世間から隔絶した空間で、自分たちだけの共同幻想に耽っている。
以前書いたエッセイの中で、私は「ゼンマイ仕掛けの将校たち」というタイトルのもとに何人かの将校たちの名を挙げた。彼らのことを調べるのに、大江志乃夫『天皇の軍隊』(「昭和の歴史第三巻」一九八二年)が大いに役に立った。それによると、彼らのほとんどが一八八〇年代から一九〇〇年代の初めに生まれていて、日露戦争には間に合わず、したがって実戦の経験がなかった。その代わりに、いちばん多感な時代にロシア革命と第一次世界大戦に出会い、その見聞から多くのことを学んだのであった。そしてそれが彼らなりの西洋化・近代化だった。
自分たちの手で満州事変を始めた一九三一年(昭和六年)には、そろって四十歳から五十歳の年齢に達していて、階級でいうと佐官になっている。満州事変は彼らにとって初めての戦争だったのである。
それから日中戦争を含むアジア・太平洋戦争に至る十五年の間に、彼らは将官に出世する。中途で暗殺された永田鉄山を除いて、いちいち名前を挙げることはしないけれども、この三つの戦争こそ彼らの戦争だった。
その中で、石原莞爾(一八八九〜一九四九年)を取上げてみたい。
その理由は、彼がいろんな点で幕領(帷幄に属する参謀)としての陸軍将校の典型であったと同時に、個人的に、そこに納まりきれない度外れな人物でもあったからだ。その特異な性格が、逆に、彼ら全体の際立った特徴をよく示すかもしれない。
石原は早くから「天才的な傑出した人材だが、自信が強すぎて妥協性に乏しく、無遠慮な常軌を逸した放言が相手の感情を害することが多い人」と周囲からは見られていたようである(横山民平 『秘録石原莞爾』 一九九五年)。幼年学校―陸士―陸大と進み、学生のころにすでに優秀な戦術理論家と見做されていて、いわば陸軍の秘蔵っ子の一人だった。陸軍という閉鎖的な組織に特有の身内意識がとりわけ強いエリート将校の間では、一方では顔を顰めながらも、口先ばかりの駄々っ子ぶりを、かえって出来のいい子と認めてしまう傾向がある。そうしてだれがどう思っているにせよ、それが全体の評価になるのである。任官後もつねに中央にあって、順調に出世していき、一九二四年(昭和三年)には四十歳で歩兵中佐になった。石原が満州事変を引き起こすのはその三年後である。
一介の中佐が独断専行で破壊工作をでっち上げて、それをもとに戦争を始めたことを陸軍ではだれも咎めなかった。秦郁彦は、「柳条湖事件(自分で鉄道を爆破しておきながら、中国軍がやったように偽装した)の成功により、軍人が、浪人が買収した中国人の手でテロや破壊などの事件を作為して、中国側の犯行とこじつける手法が恒例化し、新任の司令官が部下の用意した据え膳を食うスタイルが普及した」(秦 『盧溝橋事件の研究』 一九九六年)といっている。陸軍の幕領クラスの下剋上がここから始まり、それがアジア・太平洋戦争まで絶え間なく続いたのだった。もちろん石原の独断専行は、軍内部のホンネと呼応していなければ成功は覚束ない。永田鉄山をはじめ気鋭の将校たちから将軍にいたるまで、本気で石原を支持していた者がいくらもいたということである。つまり、ホンネとタテマエとがものの見事に分離していて、それを都合よく利用することをだれも怪しまなかったのである。それが、山県有朋が心血を注いで作り上げた「天皇の軍隊」というものだった。
昭和六年に石原が書いた 『満蒙問題私見』 というパンフレットがあって、そこにはこう書いてある。「日本国家改造をやるのに、地道にいってはラチが開かない。弱いシナあたりと戦争を起こして、民心を沸騰団結せしめ、景気好転したときを見計らうのがいちばんだ。満州を堂々と侵略し我が領土とするのが国家的な正義で、そのためにはいかなる謀略も正当化される」と。今から八十年も前の好戦論者の議論だとして見ても、これが「天才」の考えだったとされていたことの是非は読者に任せて、私としては判断を保留しておこう。
出先の軍が正式な命令もなしに戦争を始め、自然の勢いの赴くところ、それを将軍たちが追認して正規軍を動かす。成功するにしろ、失敗するにしろ、そこに合理的な判断による制動がまったく利かない、その結果にたいして生じる責任をだれも引き受けるという考えがない組織。そもそも指揮官がほとんど名ばかりで実質的な責任を取る必要がない組織。事実上の指揮官が心理的な自虐・煩悶にまま陥ることはあっても、彼らの決断と結果の過程がつねに曖昧なままに埋没することが慣習化している組織。繰り返すけれども、それが「天皇の軍隊」の組織であった。
一八三六年(昭和一一年)、満州国の建設を手柄に日本に戻った石原は、参謀本部作戦本部作戦指導課長の要職にある。文字通り、陸軍の中枢に座ったのである。この時の石原は、紛れもなく、凄腕の革新官僚の顔をしている。「日満財政経済研究会」というのは国や財界支援者の金を惜しみなく使ってつくった石原の私的機関である。彼のブレーンだった宮崎正義が宰領する研究会は重要産業五カ年計画を発表して、それが鮎川儀鋤の満州重工業へと発展するのだが、それはそれとして、その時すでに、実は、石原莞爾の影響力というものは自分でそう思っていたほどのことはなかったのであった。昭和一二年、日中戦争が始まると、彼をめぐる状況はがらりと変ってしまう。それまでに参謀本部第一部長になっていた石原は、日中戦争の派兵・拡大には反対だった。そこには天才と謳われた彼自身の理論があり、さらに国家の安全に責任をもつ指導官僚としての見識もあったのだが、陸軍全体の意志は彼の考えとは違っていたのだ。
近衛首相と石原第一部長は、陸軍の大勢の意向に押されてしぶしぶ派兵を決めるけれども、これが全面的な侵略戦争に発展するかもしれないと懸念していた通り、それが彼らの致命的な失敗になった。
協調性のなさと自説にたいする過信が、すでに周囲と噛み合わなくなっていたことに石原は気がついていなかった。満州から呼び戻されたことはたしかに栄転ではあったけれど、その裏には、満州への野心をむき出しにした岸信介と東条英機の思惑が働いている。石原を体よく追い出し、満州国のおいしいところを食べ尽くしたのは彼らだったのだし、自分たちの帰国後の華々しい経歴の設計についても彼らの方がずっと上手だったのである。
石原は、東条とともに永田に連なる統制派将校だったし、岸と同じ革新官僚でもあったが、彼らと決定的に違ったのは、権力への執着という点にあった。彼らと比べれば、石原莞爾という男は権力闘争の場ではあまりにも脆かった。その脆さは、対立相手の皇軍派将校にそっくりであった。状況がどう変ったにせよ、たった二ヵ月で、参謀本部作戦部長から満州の関東軍参謀副長に転出し、主任参謀だった東条の配下に落ちぶれてしまったのだから。岸や東条のように用心深く、根回しを怠らない官僚ならけっして陥らない失敗である。そうなってみて初めて、天才石原はこの屈辱的立場にはとうてい耐えられない自分と向き合う。東条を成り上がり者と罵ってももう遅いのである。自暴自棄になって周囲に逆らった揚句、彼はもう二度と陸軍内で脚光を浴びることはなかった。東条が総理大臣になり、アジア・太平洋戦争が始まった一九四一年(昭和一六年)、石原は予備役に編入されて軍隊を去った。日中戦争からから始まった東条との根深い確執が、皮肉なことに、のちに石原を戦犯に指名されることから救うのである。
若いころから日蓮宗に帰依していた石原は、三十歳のころ、官財界の名士を多数抱え、宮沢賢治もその会員の一人だった田中智学の国柱会のメンバーになった。輝かしい才能に恵まれた自分の考えが軍隊という枠を超えて広がり、世間に知れ渡るようになることを願っていたのだろうか。それから十年後の一九三〇年(昭和一三年)、石原莞爾は東亜連盟協会を結成して会長になる。もちろんその目標は、満州に打ち立てる官僚統制国家経営の理念をそこで鍛えることである。
連盟は 『昭和維新論』 というパンフレットを発行した。この冊子は、その後何度も改定を加えられて、なんと戦後まで出し続けられたのだった。冒頭にいう。「昭和維新は統制主義革命である」さらにいう「人類歴史の最大関節たる世界最終戦争は、数十年後に近迫しきたれり。
昭和維新とは、東亜諸民族の全能力を総合運用して、この決戦に必勝を期することにほかならず」と。敗戦直後、ときの総理大臣東久邇宮は石原の東亜連盟同志会(改名)を応援して、酒田市で開かれた大会のために無理を通して臨時列車を都合してやった。石原の人気は絶頂にあり、全国から二万の人が酒田に集ったという。彼らがそこで高らかに唱えた内容は、国体の護持、軍国政治の打倒、軍備の撤廃、官僚制の打倒、特高警察の廃止、信仰の自由とまことに勇ましい。そうして日本は民主主義国家となると宣言する。
でも一九三〇年以来、東亜連盟は世界最終戦争の勝利をその使命としているはずであった。石原が盟主である限り、その使命は戦後一九四五年になっても変わるものではない。とりあえず、八紘一宇の理念のもとに同志が結束し、国体を護り抜き、国民総懺悔・質素生活によって日本再建を果たすけれども、世界戦争が数十年先に迫っているという「事実」が忘れられたわけではない。石原は 『世界最終戦争論』 を十万部印刷して配る計画も立てていた。最終戦争の準備のために、軍国政治を打倒し、国民に謝罪して、軍備を撤廃する。新たな戦争を敢行する軍隊は今とはまったく別の新しい軍隊でなければならない。彼らはやがて進駐してくる占領軍が最初の敵になると覚悟を決めていたようである。本気か嘘かは分からないけれども、「敵進駐後は状況により地下活動に入る」といっていたのだから。でも現実にアメリカ軍が進駐してきたときには、そんなことはけろりと忘れて、一九四六年、GHQが連盟に解散を命じると、あっさりと地下抵抗を撤回してしまうのだった。あとはジリ貧になる一方で、石原が膀胱癌に懸かったとたんに組織は消滅してしまう。
石原莞爾は一九四八年に極東国際軍事裁判酒田出張法廷での証言を最後に病床に伏し、翌年、ひっそりと息を引き取った。六十一歳であった。彼の名誉のために付け加えておくと、権力にも金銭にも恬淡としていた彼が最後を過ごした家は、すきま風といっしょに雪が舞い込むあばら家だったそうである。
石原莞爾は自分が属した組織からの食み出し者であったが、それは彼がゼンマイ仕掛けのおもちゃの兵隊にはなりきれなかったせいだろう。組織と体制を外からの攻撃から守るという共通の利害から、進んで同じ鋳型にはまりながら、一方で、組織の中では規則・規範を無視するとともに、下の者には理非を無視した暴君のように振舞うのがエリート将校たちの特徴だった。あるいは無頼のように、あるいは甘やかされた放蕩息子のように振舞っても、上官や同僚から見て見ぬふりをしてもらええること、失敗を庇いあうことなどが、鉄の規律と同居している。将校たちがみんなそうだったというのではない。外の社会と同様に、穏和で理非を弁えた人たちもたくさんいたことを疑っているのではない。だが、大正・昭和という時代に、陸軍のエリート将校になること、そこで順調に上がっていくことには、自分から望んで鋳型にはまることが必須の条件だった。彼らの性格は、陸軍という組織のなかの平均タイプということではなく、そのなかで多数だというわけでも、昇進を目指す若者が目標とする理想のタイプというわけでもない。そうではなくて、それはエリート陸軍将校独特の性格類型であるというほかはないのだ。目的のためにはどんな手段を取ることも許される、あるいは手段そのものが目的となっている、使命感と決断はめっぽう速いが、己の判断の結果については無責任、周囲の状況には無関心、先の見通しにはまるで無頓着というのが、ざっと見渡していえる性格である。合法的支配を何よりも重んじる西欧型の本来の官僚の範疇には入りそうにない将校たちの性格は無頼というほかはなく、その限りで、組織の枠内に収まり切らない連中はけっして例外というわけではないのだった。石原のような人こそたまたま弾き出されてしまったけれど、大部分の場合、陸軍部内では巧みに彼らを食み出し者にしないような仕組みが、言わず語らずのうちに機能していたというべきである。そうでなければ辻正信のような人が免職にもならずに敗戦まで生き残っていたことの説明がつかない。 
彼らは権力のありかを知っていた
二・二六事件でクーデターをやろうとした青年将校たちには二つのタイプがあったと筒井清忠はいう(筒井 『二・二六事件とその時代』前掲書)。その一つのタイプが「天皇主義者」で、天皇を理想の君主としひたすらその政に服従するという「一君万民」思想に凝り固まった連中たちである。彼らが従事するのは大掃除だけで、叛乱を起こしたあとの始末というか、腐った現政権を倒したあとに取り掛からなければならない新しい政府の建て直しにはてんで頭が回らない。大義のために高官たちを暗殺しても、そのあとの組織の行方には関わらない。とはいえ、彼等は彼等なりに権力のありかを嗅ぎつけていたのである。たとえプログラムをインプットされたロボットの行動と変わりがなかったとしても、それが彼等の決断であり賭けであった。謀略をめぐらすことと権力への野望とには縁がない純真な憂国の青年だったという彼等にたいする世間の評価は、この第一のタイプを念頭に置いている。
でも曲りなりにもクーデターが、そんな単細胞の青年だけでできるはずはないのである。すんでのところで成功したかもしれないクーデターを実行したのは、それとは別のタイプの青年将校たちであった。
筒井が「改造主義者」と呼ぶ彼らは、独自の日本国家改造のプログラムをちゃんと用意しているのである。もとより、それは彼らの独創というわけにはいかない。ネタは北一輝だったり、だれかがレーニンからそっくり戴いて書いた 『ソヴィエト革命武装暴動指導要領』 だったりするが、要は、日本政府の実態を熟知し、それに対応する彼らなりの戦略がともかくも存在していたということである。
彼らは権力のありか・あり方をリアルに認識していた。宮廷を占拠し、彼らの決起の趣旨が合法的な仕方で天皇に伝われば、天皇もそれを認めるはずだと信じていた。失敗の跡だけを見ている私たちは、そんなことはありえなかったと思うかもしれないが、筒井によれば、事がうまくいけば、そうなった可能性は十分にあったのだった。それを間一髪で止めたのが、内大臣秘書官長木戸孝一の天皇への説得だったという。二・二六事件の歴史を顧みて、昭和天皇が終始決起した青年将校たちを憎みぬいていたという私たちの常識は、はたして正しいのだろうか。間崎甚三郎や荒木貞夫といった皇軍派将軍たちによる暫定内閣の実現はありえないことではなかった。その時、天皇が彼らを拒否できたとは思えないと筒井はいう。いうまでもないことだろうが、昭和天皇は、私たちがそう思いたがっているような西欧型知識人である前に、たえず動き回る権力の中核のいちばん近くにいて、時々の権力のありか・あり方に身を添わせなければならない立場にいた人である。天皇が自らの判断で決断を下したのは、二・二六事件とポツダム宣言受諾の二回だけだったという。それがともに西欧型知識人の立場からの発言であるとされていることを考えると、私はどうしてもその判断の自主性を疑いたくなってしまう。天皇が権力のありかを巡る強者つまり陸軍に馴染むのはやむをえない仕儀であったろうし、決定的なときに都合よく下される「聖断」に窺われる、天皇という権力者の周りにいつも付き纏っている作為のあとに気がつかないという方がむしろ不思議だろう。何十ぺんも状況に屈しながら、二回だけは自主性を発揮したというのは、歴史の構造分析からは出てこない理解だと思う。
満州事変が始まった昭和六年からアジア・太平洋戦争が終る昭和二〇年までの十五年間、ずっと権力がそこに居座っていた陸軍部内には、権力のありかを巡る闘争あるいは駆け引きが絶えない。しかもその駆け引きに参加したのは将軍たちだけではないので、中佐から大佐クラスの中堅将校もその仲間に加わった。それどころか、駆け引きを演じた主役はむしろ彼らの方だったのである。それが日本型の組織特有の現象だったとはいえないにしても、責任の所在をあいまいなままにしておくのを好む態度が災いにて、私たちの組織はいつも不安定で、ちょっとしたことで権力のありか・あり方が揺れ動きやすいのであった。つまり、日本の社会では、だれかが長い間完全に権力を繋ぎとめておくのが難しい構造になっている。
でも例外はある。中でも稀に見る独裁的な権力をしっかりと握った一つの例が、昭和一六年アジア・太平洋戦争の勃発から負けに回った昭和一九年の総辞職にいたるまでの東条英機首相だった。初戦の勝利に沸き返った国民的人気を背景に、彼はあらゆる権力を一手に集中した。
でも、その東条首相さえも、ヒットラーやスターリンのような掛け値なしの独裁者だったとはとてもいえない。
海軍を自分の意のままにすることができなかったし、政治の場においても、彼の権力の源泉は天皇とその側近たち、いわゆる宮廷グループの厚い信任があったればこそだった。天皇は、個人的にも、東条の忠臣ぶりにいたく満足し、心から信用していたといわれる。東条は毎日のように宮中に参上して、まだ結果が出ていないようなものまで、何ごとも隠さず天皇に報告し、それらについての天皇の意思を確認していたという(吉田裕 『アジア・太平洋戦争』 二〇〇七年)。独裁者である前にカミソリといわれたほどの能吏であった彼は、つねに冷静にものごとを考え処理していくタイプだったが、同時に、純粋培養型の機械仕掛けの陸軍高級将校でもあったわけで、つねに理性的に振舞うということではなく、置かれた状況に応じて、いつでもその振る舞いは、傲岸、酷薄、無謀、非常識という陸大出のエリート将校によくある性格を曝け出すのであった。
東条を崇拝していたある側近の手記に、「政治とは、日本の国柄として国民一人ひとりがお上の赤子であるのだから、その国民の気持ちを結集してお上に帰一させることが大事である」という東条のコメントが引かれている。このくらいなら、東大の教授にだって同じようなことをいった人はいくらもいる。でも、「今日もお上にやりこめられた。
私たちはいくら努力しても人格、お上は神格である。子が親にやり込められるのはあたりまえのことだ」と口癖のようにいっていたとなると、どう贔屓目に見ても、とてもカミソリと呼ばれた利け者の言葉とは思えないだろう。忠臣楠公に自らを擬していたらしい彼の、存外、それが本音だったかもしれないのである。天皇が彼を頼りにしていたと同じくらい、あるいはそれ以上に、彼の方でも天皇を頼っていたふしがある。口には出さずとも、いざというときは、天皇が自分を庇って積極的に決断してくれるのをアテにしていたのだろうか。
宮廷グループが東条に権力の執行を委ねていたのも、彼が天皇をないがしろにして独断的には行動しないという暗黙の了解があって、それが彼らの東条支持の源になっている。いずれにしても、天皇がウンといえば、宮廷グループの面々だって戦争を受け容れることは運命だと思うしかない。でも、権力の中心が陸軍にあるとき、天皇がノーといわないことはおそらくだれにも分かっていた。最後まで分からなかったのは、その場を仕切る「顔」をだれにすればよいかということだけだった。そういう意味では、日本の最高権力は、昭和天皇以下の側近グループと東条以下の軍部とがなれあうように分け合っていたというのが真相で、どっちが決断しても、当事者間の心の中では、互いに相手に責任を擦りつけることができたのだった(江口圭一 『十五年戦争小史』 一九八六年)。東京裁判の初期の段階で、東条は自分と天皇とがどんなに親しかったか、どんな情報でも分かち持っていたことを訴えようとしていたが、そんなことをいえば天皇に災いが振りかかるという木戸孝一らの説得に従って、結局、ひとことも言い訳がましいことをいわずに絞首刑になった。つまり彼は「忠臣」だったのだ。平家物語や太平記の作者なら、東条あわれ、と書くところだろう。
首相になった東条には政治資金が豊富にあった。独裁者なら当り前のことであるが、彼はそのほとんどを地位を確保しておくための工作に使った。同じ独裁者でも、金を出させるのになんの遠慮もいらないヒットラーやスターリンなら、自分の権力をさらに絶対化するために側近や手下やスパイを養ったり、あるいは自分自身の栄耀栄華の生活には好き放題に金を使っただろうが、その金をだれかへの賄賂に割こうとは思わなかったに違いない。だが東条は、自分を取り巻く有力者たちの歓心と助力を買い、さらに言うことを聞かない相手を黙らせるために、なによりも金を必要としていた。伊藤博文の顰に倣ったのかどうか、とりわけ皇族への付け届けには金を惜しまなかったようである。陸軍がジャワで手に入れたアメリカ製の自動車を皇族たちに届けたこともある。それらの支出に使われたのが、兼任していた陸相の地位を利用した陸軍の機密費の付回しだった。いつも一度に二百万、三百万という金を国の金庫からもっていったという。そのほかにも、アヘン密貿易から上がる利益を使っていたという噂もある。「東条が持つ金は十六億円を下るまい」と鳩山一郎が洩らしていたという(吉田裕 『アジア・太平洋戦争』 二〇〇七年)。石原莞爾を追い出したあとの満州で、岸信介とともに大杉栄斬殺事件の甘粕元大佐を使って満蒙のアヘンを流して莫大な収益を懐に入れていたという噂は、実証こそないが、本当だと信じている人はたくさんいるのである。 
歴史のイフ
私たち日本人は、権力はつねに分散しているか、あるいはそのありかがあいまいなままにされていることを好むのだろう。アジア・太平洋戦争の開戦の経過を読むと、つくづくその感を深くする。私たちは、決断をいつも運命的なもの、個人の宰領を超えたところで下そうとする傾向がある。「もし日本がこの挑戦に応じなければ、日本は亡びると東条と彼の一派は痛感した。彼らの見解によれば、日本がまだ戦争を遂行する力を持っている間に戦争をするほかには、まったく選択する余地がなかったのである。日本は敗れるかもしれなかったが、しかし敗北はまだ屈辱と屈服よりはましであった」と「日本の開戦決断」( 『歴史的決断』 中野五郎訳、二〇〇四年所載)というリポートで、ルイス・モートンという軍事専門家が書いている。膨大な記録文書を使いできる限り批判を交えずに記した、それぞれの作戦を始める際の決定過程を分析したリポートを、アメリカ陸軍の要請でグリーンフィールドという軍事史家が編修したこの本は、全体としてはおそろしく退屈だが、巧まずして、作戦の非情さをリアルに描いているのだった。
勝った側からの分析であるという点を考慮に入れると、この日本の開戦決定について下した判定がとても客観的なものだったことは認めていい。事実、研究者を含めて、ほとんどの日本人が同じ見方をしているに違いない。
歴史に「イフ」(もし)はいけないというのは常識である。すでに済んでしまったことを扱う歴史には後戻りなどないからだ。でも数多くのアジア・太平洋戦争の歴史叙述についていえば、それはもう、驚くほどたくさんの「イフ」が繰り返されるのだ。それはまだこの戦争が私たちの間では終っていない証拠かも分からないし、あるいは、私たちにとってあまりにも悔いが残る戦争だったかのいずれかである。
私がそのことを痛感したのは、入江昭 『太平洋戦争の起源』(篠原初江訳、一九九一年)を読んだときであった。この本は、ハーヴァード大学教授であった入江が欧米の若手の研究者を含む一般読者に向かって太平洋戦争のいきさつを分かり易く解説する目的で書き、一九八七年にロンドンで出版された。原文はもちろん英語だから、私はそれを翻訳で読んだ。
その「あとがき」に、「日本の指導者が、太平洋戦争に至る道で、国際社会にたいしてどのような態度で臨み、どのような点で失敗挫折し、あるいは誤りを犯したかを学ぶ必要がある」とあるのが、著者の執筆の動機をあますところなく伝えている。無分別な戦争にはまっていく日本の立場の変遷を、国際社会の中に追う著者がこの本で出した結論は、「日本は、総じて機会主義的、独善的で、自主性のない政策を続けたため、国際社会の中で孤立してしまったが、そのすべてが必然的であったわけではない。一九三一年の満州侵略以降、日本の選んだ道はほとんどすべてが孤立化を助長することになってしまったが、それでもいくつかの道は残されていた」というのであった。
満州事変後の処理はもとより、日中戦争が始まった一九三七年でも、日本の出方しだいで、列強とうまくやっていくことはできたし、陸軍中央も近衛首相も、この戦争をいつまでも続けていくつもりなどなかったのだから、だれかが責任をとってリーダーシップを発揮していれば、和平交渉を纏めることがそんなに難しかったとは思えない。ただし、それには、条件つきであれ、中国からの撤兵が必須の条件であった。当時、内閣の外相を勤めていた佐藤尚武は開放経済を持論にしていて、もし政府が軍の強硬派を抑えることができれば、国際協調の方向にもっていけたかもしれない。明治維新以来、西洋化・近代化を目指した日本政府がイギリスやアメリカとうまくやっていくのは、わが高官たちのお家芸でもあったのだから。
陸軍という組織のなかで生まれた昭和の「ゼンマイ仕掛の将校たち」にほんのちょっとでも長州閥の先輩たちの政治感覚があればよかったのである。だが、苦労知らずの彼等が、欧米からの物資の輸入の途絶を慮って、小賢しく戦争を事変だと言い張っていれば輸入は止まらず、内では国際協調体制は健全だという理屈がまかりとってしまう。もしも彼等がそんな屁理屈など外では通用するはずもなく、撤兵という具体的な提案を飲まないかぎり、和平交渉はうまくいかないというリアルな政治認識をもっていたら、事情が少しは変わっていたかもしれない。だからこそ、ついに業を煮やした強硬派が騒ぎ出し、優柔不断の近衛総理もそれに乗って、蒋介石の国民政府を相手にせずと宣言してしまった一九三八年の初めが大戦争への重大な転換期だったと入江はいうのである。日中戦争の国際化が軌道に乗ろうとしていたとき、つまり列強との話し合いによって戦争の停止が具体性を帯びてきたまさにそのときに、国家の安全に責任をもつべき私たちの政府が、国際的に唯一承認されている中国の現在の政府を真っ向から否認してしまったのであった。
陸軍将校としては珍しく確かな国際感覚に恵まれていた大将宇垣一成外相の説得で、それが暴挙だったことはもちろん近衛もすぐに気がついたが、すでに後の祭りだった。宇垣はその才覚でのし上がってきた知性派だったが、ゼンマイ仕掛の将校たちとはちょっと肌合いの違っているところが災いして、陸軍内で影響力を失い、辞職してしまう。日本の外交にとっては不幸なことであったが、この時日本は、ワシントン体制といった国際協調の路線を自分から外れ、戦争に向かって後戻りでのきない最初の橋を渡ったのだった。「もし」近衛に分別と勇気があったら、「もし」宇垣を陸軍内の理性派が後押ししていたら、この橋を渡らずにすんだかもしれないと考えるのは許されていいことである。なぜなら、当時の状況のなかでも、近衛の行動は政治家として信じられないくらい無分別なことだったのだから。前年一九三七年の予算二十六億円のうち戦費が二十五億円にも上っていた。そうして以後の日本の国家予算は、膨れ上がる戦費でその何倍にも達することになる。こと戦争に関していえば、古今東西を問わず、決断、それも流れを止めるための決断が何よりも国民の運命にとって決定的であることを私たちの知恵が教えている。しかも、それはいつも「もしも」そうであったらという、ありえない状況のもとでの指導者の器量に負うことが多いのであった。
太平洋戦争は起こるべくして起きた戦争ではなかったと入江はいう。少なくとも、一九四一年の七月までは、なお日米政府双方が戦争の回避を諦めていなかったし、それは可能だったと。可能でなくなったのは南部仏印への進駐を決定したときで、その八月九日が戦争への最後の分岐点になったのだった。
国際関係におけるこれ以上の変動(南部仏印進駐)には断固として対処するというアメリカとイギリスの決意を日本が読み損なったことが、あまりにも重大な結果を招いたのだった。でもその後でも、つまり九月六日の御前会議での開戦決定、それを受けた一〇月一七日の東条内閣の誕生の後でも、なお開戦を回避することは可能だった。なぜなら、この戦争に勝てる見込みがあるとはだれも思っていなかったからだ。およそまともな理性の持主なら、見通しの立たないこのような無謀な決断を下すことを思い止まったはずだと想いが、七十年経った今でも私たちの心のなかにはある。宮廷グループの信任を受けていた東条は、首相就任後なお、これまでのいっさいを白紙に戻し、気分一新して新たな任務を遂行するという覚悟をしていたとされている。遺憾なことに、権力のありかがあいまいなまま、すでに周囲の環境・状況からしてもう止めることができなかったという事実のみが後に残ることになった。
入江の 『太平洋戦争の起源』 は、当時大きな反響を読んだ江口圭一 『十五年戦争少史』(一九八六年)の翌年に出ている。江口の本がやはり学生・一般人向けの教科書として書かれたのを考えると、いささかの共通点が認められるだろう。つまり、アジア・太平洋戦争がやっと一つの客観的な歴史として見直される機が熟してきたということ。そうして入江の本を一つの転換点として、満州事変・日中戦争・太平洋戦争を通じて、国際感覚をもたず、さりとて確固たる国の方針ももっていない日本の指導者たちがはまり込んだ泥沼が抜き差しならない運命的なものだったということのみを強調する研究態度から、その時々にどれかを選ぶいくつかの選択肢があり、それぞれに賢明な策を取ることができたのに、どうしてこうなってしまったのかを検証していく態度への変化を見ることができると思う。この時期の日本の政治的・社会的趨勢とその結果だけを踏まえて見るかぎり、アジア・太平洋戦争は必然であり、悲惨な結末を迎えるよりなかったかもしれない。だが、その記憶から逃れられない私たちでも、戦争が避けられたかもしれないという視点を導入してみれば、そこに初めて個々の出来事にたいする対応を柔軟な目で見つめることが可能になり、贖罪者のセンチメンタルな目を離れて、事実の客観的な分析を行える素地ができるかもしれない。入江の本から感じ取ったいちばん大きなことは、そうした方法の開拓者としての姿勢であった。
それにしても、十五年の戦争を通じて、軍部はもとより政界の指導者にいたるまで、こうも間違った判断を下し続けたというのは尋常ではない。その意味では、アジア・太平洋戦争は、ある意味で、むしろ分析に適した歴史現象であり、構造的な分析がその最良の武器になるかもしれない。 
社会史の視点
歴史社会学の作法からすれば、歴史における「イフ」という禁断の試みも一つの方法である。昭和の陸軍軍閥の歴史を見るにつけ、私たちはどうしても、彼等がもしもこんなバカなことをしでかさなかったらどうなっていただろうか、という問いを繰り返さずにはおれない。
さまざまな本を読んでみて、「もしも」という問い掛けがなかった仕事を私はほとんど知らない。まさに、ホゾを噛むという表現が当てはまる文章によく出会う。
このエッセイを書くとき、最近中央公論社から出た「日本の近代シリーズ」を何冊か読んで、とても参考になった。一九七〇年代に同じ社から出た「日本の歴史」シリーズ全二十六冊のように、これもまた分かり易く面白くてタメになる歴史の本として推奨したい。だが三十年の歳月は両者に間に大きな差を生んでいた。いちばん強く感じるのは方法論の違いである。最近の歴史学は、その方法において、社会史の方に近づく傾向を強めていると思う。このシリーズが社会史の分野にすっぽりとはまっているのはたしかだが、なかでも「オーラル・ヒストリー」という方法を意図的に取り入れている点が異色である。私自身「口述歴史」というコトバをこのシリ−ズの第三巻で知ったくらいで、どんなものかきちんと説明することはできないが、論文を読んだかぎりでは、叙述が平明であること、いわゆる一級資料あるいは研究書よりも世間一般の資料(雑誌・新聞・時事評論・随筆)の類いを多用し、とくに現場にいた個人へのインタビュー(口述)を重んじることに特徴がある。とうぜん資料の出所も作者も専門の歴史研究者には拘らない。
実はこのシリーズの最後を飾る第十六巻 『日本の内と外』 が近代史家伊藤隆の担当になっているのだが、この本は、まさに現代のありとあらゆる資料の蒐集で有名な著者に相応しい市井の挿話で埋まっているのだ。とくに「共産主義の世紀 一九一七〜一九五一」と題された第二部は、脇社会の歴史(社会史)も見逃さずに書くというこれまでにはなかった姿勢の表れとしてとくに印象が深い。
面白かったのは、このシリーズが「もしもこうだったら」という問い掛けを社会史の方法論として遠慮なく利用していることだった。
その代表として、五百旗頭真 『戦争・占領・講和 一九四一〜一九五五』 を取上げる。五百旗頭が講和と占領の時期の政治史の第一人者であることはいうまでもない。本書でも日米開戦から敗戦それに占領期の経過をたくさんの資料と見聞に基づいて綿密に描いている。
そのプロローグで、知るとは行動するのと同義であるという陽明学に親しんでいた山本五十六がたった独り主張した真珠湾攻撃について、山本は、それが「桶狭間とひよどり超えと川中島を合わせ行う」ほどの無謀で危険で困難な作戦だと分かっていて、正統的な答といえば負けるにきまっている戦争をしないことしかないのに、それでもなお誤った国家の決定も国家意思であり、悪しき戦争も祖国の戦争であると潔く観念して踏み切ったのである、と書いているのがとりわけ印象的であった。ここで彼は、止めようにも止める立場になかった山本の無念を代弁していると思うからである。
ここに五百旗頭の基本的な立場が示されている。彼は軍部の中にも合理主義的国際派がいて、戦争回避に動いていたことを否定しない。しかしながら、「どれほど非常識な内容であっても、この国では、圧倒的な社会的気運がある方向に動こうとするとき、それに協賛しない者は非国民とされる」といい、「危機に直面した国のトップリーダーが全体的合理性を貫くことへの責任感と気迫をもたないことほど、大きな国民にたいする犯罪は存在しない」とも書くのである。そうして「なんでも人任せにしてずるずると決断を引き伸ばし、強さからでなく、弱さから大胆な行動を取り、それがことごとく破滅的な結果に繋がった近衛」を断罪する。九月六日の御前会議で、天皇は陸海軍統帥部長杉山元帥に戦争反対の意志表示をしながら、ついに前回の会議で決まっていた開戦決議を書き改めよとはいわなかった。「天皇が最後の一押しで決定を覆していれば」戦争は避けられたかもしれない。
それでも総理大臣の近衛が決定事項を白紙に還元すると宣言したら、あるいは海軍大臣及川古四郎が対米戦争には反対だと明言すれば、まだ戦争を回避することはできた。でも「肝心なときにいつも国家利益に即した決定ができないのが日本の病である」からには、そんなことはおこりえなかった。「大局観と統合機能を欠いた政治の弱体という制度的欠陥がいつも最悪の結果を出してしまう」のである。
政治史の研究者としての五百旗頭が、研究者としての領分を越えてもなおいっておきたかったのは、もしも彼等が合理的な行動を取っていたら、歴史は変わっていたはずだという想いであったに違いない。
同じ想いを、私たちは、吉田の 『アジア・太平洋戦争』(前掲書)にも読み取ることができる。南部仏印進駐をいいながら、充分な勝算のない対米戦争はできれば回避したいというのが海軍の本音だったと吉田はいう。だが彼等は、実際に権力を握っていた陸軍の意向に逆らうことができず、対米英戦争を決意せざるをえない状況に追い込まれていく。でも「海軍が開戦を拒否すれば、陸軍も戦争を強行することはできなかった」(森山優『日米開戦の政治過程』による)のだから、実は、その意味では、海軍がカギを握っていたわけで、海軍の開戦決意こそが戦争の引き金を引いたともいえる。それと同じ意味で、互いに秘密情報を隠し合っていた陸軍と海軍に比べ、最高度の軍事情報が集中していた天皇に、もし判断の自由があり、開戦の意思がなかったとしたら、戦争が回避できた可能性は大きかった。
つまりこういうことである。権力を握っていた陸軍がどんなに言い張っても、もし天皇と海軍が大局に立って国益を判断でき、「ノー」といっていたら歴史は変わっていたかもしれない。でも現実に、それはありえなかったというしかない。経過を詳しく見詰めればみつめるほど、「歴史のイフ」はそこで行き止まりになってしまう。 
大東亜戦争を賛美する者
その点で、けっして「イフ」を持ち出さないのが守旧派である。
彼等にとって、いつも歴史はあるがままのものだから。伝統や仕来りはけっして変化しない、あるいはしてはならないと信じる人びとを私たちは守旧派と定義するのだが、そんな彼等にとって、変化はつねに犯罪的なものとしか映らない。もし何か得体の知れないものが発生したら、それは直ちに修復されるか廃止されるかすべきもので、あとは再発防止のために発生源の犯罪者を突き止めるだけである。この犯罪に時効はないし、いかなる恩赦もない。守旧派というのは妙な連中で、もし何か従来とは違う新しい行動を取った場合、良い変化が生まれたかもしれないと考えることを絶対にしないらしい。天皇なり海軍なりが、ある危機の瞬間に、それまでの行動パターンを変えて決然と異なった行動を取るということなどありえないのである。少なくとも、みんなが待ち望んだ「聖断」はすでに異なったパターンの行動とはいえまい。しかも、彼等は惰性的な慣習に従っただけの不決断に対してさえ、例えそれがどんな実害を伴ったものであったとしても、即座になにかリッパな理由を思い付くだろう。
でもそんな性質を備えた守旧派は、明治維新を経験したあとのこの国ではすでに絶滅種になっていて、今ではみんな保守主義者と呼ばれる方がずっと好きになっている。
少々脇道にそれるかもしれないが、ここで、社会学者カール・マンハイムの古典的な著作 『保守主義的思考』(一九二七年、日本版森博訳、一九九七年)にその辺りのことが的確に指摘されているのを思い出した。マンハイムは保守主義をはっきりと伝統主義(守旧派の考え方)と区別して、特別な近代的・歴史的現象であると位置づけたのであった。つまりそれは、近代国民国家が成立したあと、その制度・秩序を維持していくためのイデオロギーだというわけである。保守主義とは、十八〜十九世紀に誕生した国民国家すべてをひっくるめてそのままでよいのだといい、ゆるやかに推移していくその既存社会を全体としてそのままに保っていこうとする考え方である。そうして、マンハイムはその思考の源をドイツのロマン主義に見たのであった。彼はそれを身分的保守主義とか保守的ロマン主義とか保守主義ヘーゲル主義者とかいろいろに呼ぶのだが、細かいことはさておき、要するに、保守主義的思考とは「人が国家の全体意思をみずからのなかに取り入れることによって自由になる」と考えることだという。たしかにそれはヘーゲルがいっていることでもあるけれど、言い換えると、革命なり変革なりを毛嫌いし、過去にあったことすべての最終段階として現在を認めることになる。結局、現にある身分制度そのままを何よりも大切に思うロマン主義が保守主義的思考の典型で、それは、現在あるがままの状態を変えようと外から加わる衝撃に反応して、それをエネルギーとして自分のやり方で反撃するような運動を指す。具体的には、封建主義に片足をおきながら、絶対王政に対応し、さらに近代資本主義をも取り込んでいくというプロイセンの貴族階級とブルジョワ階級に実際に起きた運動・姿勢のことだとマンハイムは考えたのである。
それを、私はそっくりわが明治維新を体験した日本人にあてはめてみた。マンハイムの仮説は、新しい明治絶対天皇制度を立ち上げ、日本に資本主義体制を作り上げ、それを維持し続けた人材の多くが武士階級のなかから出たという事実をうまく説明すると思う。
私はこのエッセイの締めくくりに、大東亜戦争についての「守旧派的思考」を二例紹介したい。ただし守旧派といっても、実は、本来の守旧派とは似て非なるものである。マンハイム風の保守的ロマン主義というのがその正体であることをまずお断りしておきたい。明治を経験した私たちは、みんなまず自分たちを西洋化・近代化したうえで、ほんのちょっぴり伝統に戻っていく。だいいち、伝統そのものがもうすっかり西洋の風に晒されていて、私たちが守旧派的思考の担い手と呼ぶ人びとの振る舞いそのものが、すでに近代化の産物である近代保守主義(ナショナリズム)と呼ぶべきものになっているのだ。
第一の例は、服部卓四郎 『大東亜戦争全史』(一九六五年初版)。
服部卓四郎(一九〇一〜一九六〇)は山形県出身。仙台陸軍幼年学校から陸軍士官学校(三十四期生)、陸軍大学を卒業し、一九三一年(昭和六年)に参謀本部編成部に勤務した。ちょうどその年に満州事変が起こっている。当時三十歳の服部が、命令を無視して満州事変を引き起こした石原莞爾を憧れの眼で見たのは大いにありそうなことである。彼より十二歳年上の石原は、その後参謀本部作戦部長にまで出世している。服部の方は、フランス駐在を経て関東軍参謀になるが、一八三四年のノモンハン事変の独断専行の責任を問われ、辻政信とともにいったん左遷された。でも、一九四一年(昭和一六年)には参謀本部・大本営作戦課長に抜擢され、東条首相秘書官を勤めたあと、一九四三年より首相兼任の東条参謀総長のもとで大本営作戦課長として太平洋戦争を通じて陸軍の作戦指導を担うことになる。
敗戦は、陸軍大佐・歩兵第六十五連隊連隊長として中国で迎えた。一九四六年五月、連合軍の指令により単身復員、同年一二月から第一復員局史実調査課長ついで復員局資料整理課長。一九四七年から河辺虎四郎らとともに連合軍最高司令部(GHQ)歴史課勤務、参謀本部第二部ウィロビー中将の厚遇を得た。警察予備隊の発足に際し、旧陸士の将校たちを組み入れようと暗躍したことが吉田首相に咎められて、野に下る。史実研究所をつくって所長となり、 『大東亜戦争全史』 を刊行した(朝日新聞社 『現代人物辞典』 一九七七年)。
占領軍のコラボレイター(協力者)になった服部が彼の戦史の「あとがき」で、「この戦史執筆にあたっては、事実を枉げて日本の立場や軍の行動を正当化しようとする如きは、絶対にこれを排し、主観を挟まず史実の客観的叙述に限定することを期した」とまるでまともな歴史研究者のような顔をして書き記すのは不思議ではない。その努力の跡がたしかに見てとれるのも、アメリカ軍御用達という性格を合わせもつ本書にあっては当然のことだった。美化や偶像化をできるだけ排した結果は、ソ連抑留や玉砕の場面など一部を除いて、事実の経過だけを坦々と記し、まるで砂を噛むように退屈である。前に挙げたアメリカ軍の 『歴史的決断』 でもそうだったが、客観的というよりは無難に語ろうとする意識ばかりが強い「公式な戦史」ではどうしてもそうなりがちだ。組織の中にある構造的な問題に原因が行き着かないように用心するあまり、叙述がどうしても平板なものになってしまうのだろう。ウソも書かない代わりに、都合の悪いところも書かないというこのスタイルは、例えば防衛庁資料部の戦史にもそのまま受け継がれている。
開戦までの経過を簡潔に述べる冒頭の「歴史的展望」は、つけたりだから仕方がないけれども、ひどくありきたりである。明治以来欧米列強の侵略を跳ね返してきた日本が「独立国として死中に活を求めるやむにやまれぬ戦争であった」というくだりなど、今もって日本人の間で古いレコードみたいに繰り返される「公式」(仮説)の一つで、いくら賞味期限が切れていようが、だれが言ってもかまわない仮説なら、占領軍がいなくなった今、それを記すのには何の不都合もないと居直っているだけのこと。同じことは、開戦を決意する御前会議で公然と出された「米英では生活態度が高いから、戦争が長引けば、すぐに厭戦気分が広がり、向こうから停戦を申し出てくる」はずだという理由付けを、この期に及んでもなお、著者がそれをタダの理由付けとは受け取っていないらしいことにも示されるのである。あまりにも敵を知らなかったといわれればそれまでだけれども、もしこれからアメリカと決戦しようというときにこのざまではと自嘲した当事者だっていたはずだという推測は服部の頭にはけっして浮かばない。
昭和一九年夏、フィリピンの戦場で初めて体当たりという戦術が五十近いヴェテラン士官の手で実行された。このときの事情を服部は、「この肉弾戦は上からの命令ではない。ただし、第一線舞台ではもはや必死殺戦法しかないという気運が台頭し、大本営では特攻の軍隊を正式に編制することには反対もあったが、義烈の士の懇望を退けることもできず、ついにこれらの戦士をもって臨時に特攻隊を編制した」と記す。もちろんこれはウソではないであろう。でも本当のことでもない。そこに実在したはずの軍隊組織内部に醸された反抗不可能な雰囲気を、彼はわざと見逃す。終戦の際、何人かの将軍や将校が自死した。それを坦々と列挙した少し後で、服部は、日本人が全体として敗戦を受け容れなかった心理状態を憶測しつつ、満州での邦人撤収の状況を持ち出してこういう。「満州では、関東軍は新京地区の邦人を一般市民・国策会社・官・軍の順序で避難させることとし列車十両を用意したが、永年住み着いた邦人の避難は、到底迅速に実行できない状況にある旨の回答が関東軍になされた。よって関東軍はやむなく手軽に動かしうる軍人家族から輸送を開始した」と。これもあながちウソとはいいきれない。しかし、それは軍隊というものの構造的な分析を無視したあまりにも同情のない言い方である。しかも、その後に発生した大混乱を著者自身認めているのだ。
一千頁に及ぶ大著の最後の文章を次に引く。おそらくこのリフレーンみたいな文章が著者のいちばん言いたかったことなのである。「世界普通の軍隊であったならば、終戦の遠く以前に大量の降服又は戦意喪失の事態を惹き起こしたであろう。しかるに祖国の戦勝を祈る不屈の精神は、これら舞台の闘魂を愈々振起せしめ、最後まで奮戦を継続せしめつつあったが、終戦の聖断一度下るや、これら部隊は万斛の涙を呑んで克く大命を奉じ、心気一転、承詔必謹、一糸乱れざる統制を以って終戦のことに当たるにいたった」と。たとえ三百万の死者を出そうとも、伝統はけっして変らないという守旧派の面目躍如ではないか。
二つ目は、林房雄 『大東亜戦争肯定論』 上下、一九六四・六五年。林房雄(一九〇三〜一九七五)本名後藤寿夫、大分市生まれ。五高在学中に社会主義運動を始め、東大法学部に入ってからは東大新人会に属した。中退後、志賀義男を助けて雑誌「マルクス主義」の編集を手伝った。一九二六年学生連合会の委員長として、治安維持法違反で逮捕され、三〇年から三二年まで下獄。共産党員ではなかったが、共産主義者を自称し、その宣伝のために活動していた。小説家としての出発は、一九二六年の雑誌「文芸戦線」に載った 『林檎』 である。
二九年には早くも朝日新聞夕刊に連載小説を書いている。三度目で最後となる刑務所暮らしの後、メンバーだったプロレタリア作家同盟の幹部と衝突し、共産主義活動からも離れた。発表した三つの転向記は、その率直で隠し立てをしない内容において異彩を放っている。一九三三年、明治維新に名をなした勤皇の志士たちの若き日々を描いた 『青年』 を発表する。それを書くために彼等のことを調べながら、林は次第に勤皇攘夷の思想に深く染まっていったに違いない。その行き着いた先が、三九年に発表した 『西郷隆盛』 なのだろう。
一九四〇年以降、左翼転向者保護観察団体機関紙「横浜湘風会」に 『転向について』、さらに朝日新聞に 『勤皇文学序説』 を発表して、左翼あるいは近代派文学運動批判の論陣を張るが、一九四六年公職追放になる。その一方で、家庭の幸福を追求する中間小説を盛んに執筆して人気作家となった(朝日新聞社 『現代人物辞典』 一九七七年)。
林は、いってみれば「転向者の星」である。その意味では、本来の回顧趣味派あるいは守旧派とはいえない。彼は共産主義者から勤皇主義者へと変容を遂げたわけだが、そのいずれにおいても、党派に組み込まれ、あるいは特定の主義主張に順応することを嫌っていたし、伝統や習慣にしがみつきいかなる変容も嫌う人を守旧派と呼ぶとすると、西洋化することにはちっとも抵抗を感じなかった林のような転向者をそう呼ぶのはすでに適切ではないだろう。しかしながら、もう後戻りができないくらい西洋化したあげく、ちょっぴり伝統に戻ってくる近代日本のナショナリストたちを、普通、私たちは何と呼べばいいのだろうか。
マンハイム風にいえば、林房雄のような人こそ生まれついてのロマンティストというのではあるまいか。外からの衝撃をエネルギーとして自分のなかに取り込み、それを利用して自国に害をなす外敵に立ち向かう。勤皇攘夷の志士たちが明治維新で創り上げた日本の近代国民国家の秩序を守り抜こうとするドン・キホーテのような人物。
戦中から戦後にかけての作家・文芸評論家たちの作風を追った橋川文三の 『日本浪漫主派批判序説』 は、日本浪漫派の起源を精神史上の事件としての満州事変にまで辿り、「現実の革命運動につねに随伴しながら、その挫折の内面的必然性を非政治的形象に媒介・移行することによって、同じく過激なある種の反帝国主義に結晶した」という。ちょっと表現が難しいけれども、砕いていえば、日本を植民地にしようと押しかけてきた西欧列強の帝国主義を打ち砕くという気概が維新の尊王攘夷と重なりあって、伝統回帰の浪漫主義になったということだろうか。一九六〇年に初めて刊行されて以来、二十数版を重ねている橋川の本はすでに古典といってもいい仕事であるが、私にもお馴染みの売れっ子作家のほとんどがこの系譜に組み込まれてしまうのだ。
西欧の列強に反抗する意味で「反帝国主義」と称されてはいるが、ミイラ取りがミイラになって、日本自体が帝国主義になってしまったのは、西洋の真似から始まった文明開化の当然の帰着だったといえ、それはまた別の話というわけであろう。いかさま、浪漫主義は一つの反知性主義であり、その典型的代表を小林秀雄に見る橋川の分析は、そっくりそのまま林房雄に当てはめることができる。
これから林房雄の 『大東亜戦争肯定論』 を読んでいくのだが、その前に、私がこの本を結構楽しんで読んだということをいっておかなくてはならない。一読して、スカッとした気分になったというか、カタルシスを覚えたというか、いずれにせよ、辛抱しながらやっと読んだのではなかったのである。その活躍ぶりからいっても、開けっぴろげで言い訳をしない語り口からいっても、独善的かつ痛快な毒舌からいっても、林房雄はみんなから嫌われるような人ではなかった。それはたぶん、それを認めるか認めないかはべつにして、だれの中にも多かれ少なかれロマンティストが棲んでいるからである。なによりも、私自身、彼の文芸評論と中間小説の熱心な愛読者だったのだから。
でも今は林の人柄を論じるときではない。本の中身に絞って、本人自らトンデモナイ仮説と自覚しているらしい「東亜百年戦争」に目を凝らして、その考え方の特徴を探ってみることにしよう。
本の論旨はマンガみたいに単純である。「私は日露戦争の直前に生まれた。生まれてこのかた、戦争の連続であった」と書き出す著者は、「明治維新をはるかにさかのぼるある時期に、東漸する西力に対する日本の反撃戦争が開始」されていて、それを戦い抜いた私たち日本人の戦いを「東亜百年戦争」と名づけて物語るのである。「西洋の強制に反撥し抵抗する国力と、同時に西洋文明を直ちに受け容れる能力をもった人材を内臓している不思議な国日本だけが、少なくとも彼等の完全勝利を許さなかった」と書く林に共鳴する日本人は今でも多いはずである。
著者によれば「東亜百年戦争は、維新の約二十年前(弘化・嘉永年間)に始まり、昭和二五年八月一五日に終った」が、それらはそもそも初めから勝ち目のなかった抵抗であって、戦わなければならないやむにやまれぬ戦争だった。つまり、「東亜百年戦争は外から火をつけられた大火であり、欧米諸国の周到な計画のもとに、適当な機会を狙って次からつぎえと放火された火災だった」という。
実は、この言い方は林が傾倒していた徳富蘇峰そっくりなのである。
戦犯に指名されながら老齢のため裁判への出廷を免除された蘇峰は、昭和二一年に提出した宣誓供述書で、この戦争は徹頭徹尾受身の戦争で、日本人にとって好ましくはなかったが、しいて相手から押し付けられた自衛自存の戦争であったと主張した。「立つに立たれず、座るに座れず、この上は死中に活を見出し、暗中の飛躍をなすのほかなしと、決心するに至りたるその意味合いは、予は今日においても正しかったと確信している」と。林房雄の心中もこれとまったく同じだったに相違ない。林は蘇峰の 『近世日本国民史』 を愛読していた。明治維新を対外的な危機にたいする国民的精神の発揮であると捉える蘇峰の見方は、そのまま林の信条でもある。ただし、蘇峰がその対応として積極的に世界に植民地を広げようとひたすら勇ましかったのにくらべると、林の方は、あくまでも東亜への欧米の侵略を阻止するためのやむをえない受身の戦いであったというところが違うかもしれない(杉原志啓 『蘇峰と近世日本国民史』 一九九五年)。この辺りに、林が一時はのめり込んだマルクシズムの影響を見ることができるかもしれない。でも 『大東亜戦争肯定論』 を読むかぎりでは、両者の間にそんなに違いがあるとは思わない。生き延びるための必死の戦いには、侵略と防禦の区別などないからである。
何を言っても何をしても、いつも道徳が頭から離れない蘇峰が口癖のように「忠実にして義烈なる愛国の人民」の育成(坂本多加雄『市場・道徳・秩序』 二〇〇七年)を叫んでいたのは不思議ではないが、言い方こそ違え、林の想いもまたそこにあったはずである。
明治維新の前までは伝統的な日本の政治・経済事情は万事うまくいっていたといわんばかりの守旧派には、蘇峰も林も同調しない。彼等にとって、明治維新は大成功した国家変容のありようであった。林が説こうとしているのは、見事に仕上がった新しい祖国に襲いかかる西洋の暴力に及ばずながら応戦する東亜百年戦争のことであり、その見事な負けっぷりなのである。では彼にとって、昭和二〇年八月一五日で歴史は終ってしまったのだろうか? あるいはそうかもしれぬ。
倒れた戦士と傷ついた国民に、彼はただゆっくりと休めと語りかける。
林房雄は、当の日本人を含めて、世界中のだれも書いてくれそうにない帝国陸軍へのオマージュを、自分自身の手で書いたのである。
日本はついに負けてしまったが、この百年の間に、初めから負けと知りながら闘った宿命の愛国者として林が挙げる人たちのなかに、西郷隆盛のほかには維新の元勲は一人もいない。ただ「日本の悲壮な運命を体感しつつ破滅に向かって挺身した」右翼の大物たちがずらっと並んでいるその中に、福沢諭吉と板垣退助と中江兆民がいるのには驚ろかされる。それは、彼等が「東亜百年戦争とは、ただ一つ、世界をおおった植民地主義にとどめを刺すための努力であり奮闘であった」という著者の定義に合っているせいだろうか。
林は昭和期の右翼たちとくに大川周明と北一輝を称揚するが、それは彼等が「挫折したる英雄」だからである。林は骨の髄までのロマンティストだから、権力のありかに近いところに自ら擦り寄る人間を好かない。だからこそ、右翼にせよ左翼にせよ、革命家というものの心情に共鳴するのである。文学者としては、権力に裏切られた者の悲劇を好むことになる。だから彼は、満州事変と日中戦争で我が世の春を謳歌する軍人たちが「覇道」への道にのめりこんでいくありさまを悲しむのである。林が王道主義者と好意的に呼んでいる石原莞爾は、結局は権力闘争に負けて自ら亡びた人なのであった。
大東亜戦争は敗れて悔いなき戦争だったと林はいう。それはただ一つ、日本を植民地化しようとした欧米列強の野望を打ち砕くという大義に決着をつける意味がこの戦争にはあったからである。「百年戦争を負けはしたがみごとに遂行した日本の戦死者たちは、犬死したのではない、歴史の定めた運命に黙々と従い、最も悲劇的で英雄的な死を遂げた」のだという林には、当然のことながら、「明治・大正・昭和の三天皇もまた、宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った」という認識がある。東京裁判などは捕虜虐殺のイカサマに過ぎないが、「別の意味で、戦争責任は、弁護の余地なく、天皇にも皇族にもある」という林は、ただ自らの仮説に忠実なだけなのだ。浪漫的保守主義者でもなく、ただの迎合的な守旧派にすぎない服部卓四郎との違いは歴然としている。そして林の姿勢は、明治生まれの多くの言論人の姿勢でもあった。
二つの本の間には双子の兄弟みたいな共通点がある。それは大東亜戦争を仕掛ける日本側の権力のあり方・仕組みについての記述がまったくないこと。別の言葉でいえば、反省の材料を見つける姿勢がさっぱり見当たらないこと。外からの理不尽な圧力からわが身を護る受身の戦争には権力のありようなどまったく問題ではないといわんばかりである。護るべき秩序にはいっさい手を触れないと思い定め、被害妄想にしがみついて、どこまでも正義を押し通したつもりでいる。
戦争をすべてやむにやまれぬレジスタンスで説明してしまう。つまり戦争というテーマを取上げて描きながら、社会史になっていないということである。
林房雄の東亜百年戦争という仮説は、彼の文芸評論がそうであるように、読者を唸らせたのは間違いない。ミステリアスな仮説だからこそ、この不幸な戦争が避けられたかもしれないという問い掛けにはいっさい耳を貸さず、ただ一つの結末に向かう物語として気楽に読むことができたのであった。
でも私たちはあくまでも、小説ではなしに、私たちの体験が埋め込まれた新しい伝説を必要としている。アジア・太平洋戦争が私たち日本人に残した体験を記録するのにいちばん相応しいのが社会史の方法であり、ロマンティストの仕事が一段落した今、その出番が回ってきたということだと思う。
少なくとも戦争の記憶が残っているかぎり、無駄ではあっても、あの戦争は避けられたかもしれないと問い続けること。それが、私がこのエッセイで言いたかったことだ。  
 
満州事変とは何だったのか

 

序にかえて
私は満州事変が勃発した昭和六年(一九三一年)に生まれた。いわゆる十五年戦争はその年に始まったのだから、私たちの世代はまさに昭和の戦争の申し子みたいなものだといっていい。もちろん私はまだ赤ん坊だったのだから、世間をいろいろ体験したとはいえないが、それでもはっきりとその時代を覚えている。あるいは子供心だからこその曇りのない思い出といえないこともない。少なくとも、その思い出は好きだとか嫌いだとかの感情を伴わない。もとより閉塞感だとか絶望だとかの色合いも帯びてはいないし、満州事変という名前さえ充てられてはいない。
子供だった私が齢を重ねて現代史に題材をとったエッセイを書くようになった。年寄の強みは古い思い出にある。それはまぁ生きている証だといっていえなくもないのだから利用しない手はないのだが、古い記憶のなかには間違った思い込みも当然含まれている。そんな思い込みにあたるかどうか、満州事変を「ボクたちの失敗」だったと捉える視点から私はこのエッセイを書いていこうと思っている。失敗はだれにでもあることだから、いつか取り返せばいいが、それには代償を払わなければならない。実際、満州事変の代償は高くついたのだった。
まずは思いつくままにいくつかのコトバを並べて序に代えようと思う。
「満州は日本の生命線である」
いつからかは分からないが、このコトバならよく知っていた。小学校に上がったころには、年中聞かされていたのだろう。その意味は、満州は日本が生きていくのに何がなんでも必要なところだということ。
だれがいちばん先に言い出したかは問題ではない。ちょっと考えればそんなことが嘘っぱちなのはすぐ分かるのだが、明治の時代からもう日本人はみなそのように思い込んでいて、おそらく台湾と朝鮮が日本の植民地になったときには、それらはぴったりと張り付いた私たちの身体の一部みたいなものにみえた。だから、周囲の事情さえ許せば、ほんとうは満州だって朝鮮並みに植民地にしてしまいたかったのである。ただし満州が日本の領土になれば、その外側に「生命線」の縁となる防衛地帯がもう一つ必要になる。満蒙というコトバがいつも一緒に唱えられたのは、その時には蒙古が防衛地帯となるという用意であった。
「満州は国防国家である」
これは子供の記憶のレヴェルのコトバではない。だから大人になってから知った。でも満州国というものを考えるとき、いかに変てこに聞こえようとも、このコトバがいちばん的をついているのである。日本の軍人も役人も民衆も、最終的に、それが満州のあるべき姿であるという点では合意に達していたといえるだろう。つまり領土でもない、植民地でもない、といって仲間でもない、自分たちがすがる防壁みたいな、しかも自分たちのいいなりになる偽の皇帝のいる大陸の縁の帝国とは、それが何であれ、そういうしかないのであった。
「満州国は移民の楽土である」
満州は過剰人口の最良の捌け口だというのが政府関係者の合言葉だった。
いってみれば、せっかく取り入れた資本主義と自由主義の競争にもまともに参加させてもらえないまま、日本の村々に取り残された人たち、食うや食わずの小作人・貧窮者らをひっくるめて満州に移住させれば、彼らはみんなその日から、取り残された人間でない、自作農から資本家にだってなれる。しかも土地も当座の資金も嫁さんまで政府が面倒を見てやろうというのだから、これはもう天国だ。そんな楽土で地付きの満人ドレイを使ってしっかり増産する食糧を安く輸出すれば、さらに大々的に工業を興し武器をどんどん造って、移住民の若者たちにその武器を持たせて国家の盾となって頑張ってもらえば、日本帝国の行く末は万々歳だと軍部と政府では考えたのである。彼らが盾となってくれるその敵とはロシアとアメリカと中国であったのだが、どんな思惑でそうなっているのかは今一つ分からない。分かっているのは、満蒙を超えて広がる日本帝国の正当な分け前、我が宰相山県有朋の言葉を借りれば「利益線」だが、その境界線を陰に陽に窺う怪しからんやからがこの三つだと想定されているのであった。ブラジルやパラグアイに移民を募るのに比べれば、こっちの方がずっと正解だと政府関係者は声を大きくしていった。
「五族協和と王道楽土」
強いていえば仲良くやろうということだろうが、このコトバには実質的には何の内容もない。だから少々座りが悪くとも構わないし、その意味を問う必要もない。お経の文句と同じで、ただみんなでそう唱えているだけでよい。そういえば、これはお経の文句に馴染みのある向きが考え出したものだった。でも旗と同じで、振りかざしていれば、それなりの効果はあるのだ。
「民主主義と資本主義は満州国には入れない」
「資本主義の独占もなく、共産主義の横行もなく、三民主義の欺瞞もなく、したがって人民の負担が軽減ぜられ、国民の生活が富裕になる」と保証しているのが、一九三二年に発足した満州国で認められた唯一の政治団体である協和会なのだが、同会は「本会の目的は王道を主義とし、民族の協和を念とし、もって王道政治の宣化をはからんとするにあり」と宣言するのであった。満州国には議会がなかったので、彼らはただ軍と政府のやることに賛成するばかりで、どんな政治形態を望むかという点にはさっぱり関心がない。皇帝をはじめ政府・関東軍・満鉄の偉いさんがこぞって参加している協和会とは、各地の協議会を通じて民意を表すというのは建前ばかりで、責任者不在の一大国民組織である。一九四〇年に日本国内で発足する大政翼賛会の先駆けとなる政治団体であった。
もう一つ陸軍のエリート将校たちがこだわったのが、満州の天地では資本家をのさばらしてはいけないということだった。彼らは明治維新の失敗を資本主義と民主主義の横行に見たのだ。偉そうで鼻持ちならぬお上品な財閥の紳士たちを見ると、多くは農村の出である陸軍の将校たちはヘドが出そうになった。市場経済も自由競争も、陸軍士官学校では教わらなかったせいもあったけれど、彼らの目には堕落退廃を極めた社会現象としか映らない。連中にとって唯一選択しうるシステムとは、中央の管理による計画経済だけしかなかった。
「総動員態勢の国」
早い話が、利益も幸せも生活も、何もかも天皇の陸軍の指揮のもとに総動員して日本帝国の防衛に身を呈して邁進するのがこの国のあるべき姿なので、いちばん最初のコトバ「日本の生命線」に戻って満州国は上がりになるのだった。なに、本当の目的は、満蒙問題という名の侵略行為だったのだけれどね。
と、こう並べてきて、飲み込めば消化不良になりそうなこんな変なものばかりでは、八幡様のドロボウ市だって商売にならない。すべては考えの足りない陸軍の将校たちのことだからそれも当然なのだが、彼らのやったことといえば、ウソと騙しとはったりだけでそっくり満蒙を頂いてしまおうというすぐに底が割れる陰謀だったと要約できる。
彼らが掲げたコトバも、彼らにとっての美辞麗句というだけで、今から見れば理屈にもならないタワゴトに過ぎなかったが、日清・日露の戦争を経て「臥薪嘗胆」の心境だった当時の国民にとっては、この上なく心躍らせる夢であった。満州国は日本帝国の将来を託す夢の国だったのだ。西洋人から伝授された帝国主義というコトバこそ使わなかったが、近隣諸国を侵略する理屈とテクニックだけはちゃっかり我がものとした帝国陸軍の将校たちは、こっちに実力さえあれば、アジアの盟主という掛け声だけで満蒙を頂戴しても誰からも文句をつけられる筋合いはないと思っていたし、それを我が国民大衆も信じたのだった。 
幻想の帝国
たったの十三年五カ月しか続かなかったのだから、それ自体夢まぼろしだったといってもおかしくはないのだが、それにしても満州国がいかに非現実的なものだったかを示すのが、満州国民といえる人びとがさっぱり見当たらないことなのだ。
一九三一年一〇月関東軍が「満蒙問題解決案」というものをつくり、満州を独立国とすることを決めたと発表したとき、本当かどうかわからないけれど、在満日本軍はそっくり日本国籍を離脱するつもりだったと書いてある本を読んだことがある(易顕石『日本の大陸政策と中国東北』一九八九年)。翌三二年二月には東北各省は正式に中国政府との関係を絶ち、三月一日に満州国の建国宣言が出るのである。初めは植民地のつもりだったのが、独立国に化けてしまったのだ。そんな背景もあって、いちいち難癖をつける口うるさい参謀本部のお偉方に向かって、満州国生みの親である関東軍の将校たちの一部が、気負ったあまり「オレたちも独立だ」と口走ったというのはありそうな話だったが、実際問題として、そんなことがあろうはずはなかった。彼らは生みの親であるとともに、本当の満州の所有者である日本の天皇の代表いわば代官であり、誇り高い陛下の忠勇な臣民であるからには、召使同然に連れてきた満州国皇帝の臣民に甘んじることなど間違ってもありえなかった。満州国は満州人のものといっていたらしい石原莞爾などは、真っ先に日本国民を辞めて満州国民になり満州国に骨を埋める覚悟で国防大臣か何かになるのが筋だったと思うのだが、そんな気配はまるでなく、参謀本部に栄転が決まるとさっさと日本に帰ってきてしまう。
実際、我が身のことと考えてみれば、移住と移民とは別で、外国に渡ったからといってすぐそこの国籍を取ろうとは思わない。まずは日本人としてその地で暮し存分に溶け込んでからでなければ、その国の国籍を取る気にはなれないだろう。しかも多くの国で、そんな簡単には国民として受け入れてくれない。とくに国と国との間の話し合いで取りきめた計画的移民の場合のほかは、移住した人びとはずっとそのまま日本人でいることが多く、彼らの子供の代になってやっとその国の国民としての顔ができる。国民になるということは、ただそこに行っただけではダメで、ましてこっちに侵略の意図があったりすればこれはもう論外である。その土地で生活し、そこの社会の認知された一員とならなければ、国籍の有無に関わらず、国民になるとはいわないだろう。そういう点で一般に、私たち日本人は、閉鎖的な長い歴史を踏まえているせいもあるけれど、日本人であることをやめて外国人に鞍替えすることにはことのほか臆病であるとともに、不器用でもある。しかも私たちの国は二重国籍を認めているので、たまたま外国籍を持っていても日本人であるという人がいくらもいるのだ。日本で生まれたからには、どの国に住んでいようと、どこかに日本人としての戸籍を持っている。渡満した日本人は例外なく、あくまでも日本人として生き、日本人として死ぬつもりだったのだから、そこで自分が満州人なのか日本人なのかで悩むことがなかったのは当たり前だったのである。彼らが満州を愛することがあったとしても、日本人として自由に振る舞い、楽に暮していけるところだったからだ。つまり彼らにとって、満州はどこまでも植民地以外のものではなかったのである。しかもいちばんそんな心理の強かったのが、日本から渡った満州国の高官たちだったのは皮肉である。というより、満州国政府で働きながら、彼らには満州国人のために働いているという自覚に乏しく、まして満州国人になってこの国に骨を埋めようという覚悟などまったくなかった。そんな役人がこの国に国籍法を作らなかったのは驚くにあたらない。
初代総務庁長官だった駒井徳三は、満州建国の実際を取り仕切った人であるが、政府機構が型どおりに整ったところで辞職し、二年後には日本に帰ってしまう。少なくとも彼にとって満州国は上から与えられた国外の一つの新しい事業にすぎず、基礎さえできれば、中身の運営は本部から来ただれかに引き継げばいいのであった。俗にニキ・三スケという。満州に君臨した五人の男たち、総務庁長官星野直樹、関東軍参謀長東条英機の二キと、産業部次長岸信介、満鉄総裁松岡洋祐、満重社長鮎川義介の三スケをいう。満州でほかに名をはせた人はいくらもいるが、満州を足がかりにしてあとで日本政府の要人に成り上がった点で彼らは共通している。彼らにとって満州での地位は、本店の日本政府における出世の一つの階段に過ぎず、満州国の将来のことなど知ったことではないのだ。東条と岸は日本国の総理大臣になったし、松岡は外務大臣になった。星野は東条首相のもとで内閣書記官長であったし、戦後はいくつかの一流企業の社長を歴任した。
鮎川は戦後衆議院議員になり、岸内閣のもとでは最高顧問として遇されている。そうして生き延びた者の戦後民主主義時代のとりすました顔はともかく、いずれも資本主義経済よりは国家統制経済の方が好きな人たちでもあった。
だからというべきか、満州国には国籍についての法律がなかった(小峰和夫『満州—マンチュリアの起源・植民・覇権』一九九一年)。でもこの点については今一つはっきりしない。私が読んだ本にはそのほとんどに国籍についての記述がなかったし、役人も開拓移住民も、日本人である限り、満州国籍についてはまったく関わりがなかったように扱われ、かつ論じられているのだ。敗戦後、ほうほうのていで帰国した人たちが無国籍問題で悩んだという話も聞かない。その一方で、満州にいる中国人について、彼らの国籍がどうなっているかについてどの日本人研究者もまったく無関心である。例え十三年という短い命でも、いやしくも一つの国家がその国民の身分の整備・保証・確認を怠っていたというのは実に不思議なことといわなければならない。当然私も含めたくさんの人がそれに疑問をもった。
試みにインターネットで調べてみたら、そんな疑問がたくさん寄せられていて、その答も載っている。それで国籍法といえるものが無かったらしいことは確認できたが、それでも疑問は残る。
一九一二年に清朝が滅んで、革命運動の英雄孫文の指導のもと中国で最初の共和政体の国ができ、それを中華民国と称した。それを私などは未だに中国人の国の名だと思い込んでいるが、実はその名称はすぐに使われなくなって、いろいろな事があり、一九二七年に蒋介石が南京につくった国民政府というのが、満蒙問題で日本が対決したときの中国政権の名称なのだった。蒋介石は、中国全土の統一は無理だったとしても、少なくとも諸外国に対しては、国民政府という名の下に中国人が一括して認知されたと理解していい。満州国ができて、その住民たちの一部が中国国民政府と関係を絶ったという記述は、彼らが無国籍になったということではなく、満州国民としての自分たちの身分を主張することができるということであろう。日本の支配下にある満州国に住む中国人たちは、法制がないのだから国籍もないということでは済まされない。それは好き嫌いの問題ではなく、実際にどうなっているかがよく分からないことこそが問題なのだった。
何よりも満州国は日本の侵略行為が創りだしたものだった。関東軍がその統治のいっさいを仕切っていたわけだが、そこに彼らの当初の筋書きにあったとは思えないシナ事変(日中戦争)が一九三七年に勃発し、一九四一年には太平洋戦争が始まったのである。もとより関東軍の軍人たちは、ナチス・ドイツ風の国家総動員態勢をモデルに、それをうまくコントロールしながら彼らの領土を運営してみせると考えてはいたのだ。でも現実はそんなに甘くなかった。満州事変をおっぱじめた時に、彼らは次の日中戦争の種を播いたのだし、その戦争が太平洋戦争のいわば決定的な原因をつくりだしてしまった。日本の移住者たちが腰を落ち着けて何年もかかる開拓に励むヒマなどなかった。引き続き日本臣民のままである彼らは、文字通り国防の盾として、日本政府によって戦場に駆り立てられる。そんな戦時の総動員態勢が十三年間の満州国を、息つくひまもなく追い立てていたのだから、国籍法など、例えその気があったとしても、整備・施行する余裕は無かっただろう。だが少なくともこれだけはいえる。満州に住む中国人たちが、満州国籍にせよ日本国籍にせよ、日本人以上に、それを取得することを喜ばなかったことだけは間違いないと。
つまりこういうことだ。
君主や独裁者でなく、そこで生活している国民が近代の国家をつくる以上は、国民のいない満州国は国家ではありえなかった。 
総動員態勢でつくった国
逆に考えてみれば、そこに住む「国民」の間に国民としての一体感も自覚もなく十三年もよくもったものである。その秘密が総動員態勢だった。
つまり、満州は十三年間つねに戦時態勢の非常時であったのである。仕切っていた者が満州国だか日本国だかはっきりしなくとも、関東軍の権力と金が続いている間は、だれもそれを疑う者なんかいなかった。
それを具体的に語った本がある。ルイーズ・ヤングというアメリカの研究者が一九九八年に出した『ジャパンという全体主義帝国』(日本語版、加藤陽子他訳『総動員帝国—満州と戦時帝国主義の文化』、二〇〇一年)という本で、ヴェトナム戦争と湾岸戦争という二つのアメリカの戦争から大きな衝撃を受けた著者が、日本近代史を研究の対象に選び、そのなかで満州事変の経緯を調べてみて、アメリカと日本の帝国主義がじつにたくさんの共通性をもっていることを見つけたのがこの本を著した動機だといっている。前に何冊かの満州に関する本を読んでいたのだが、この本にぶつかって正直びっくりした。本書が扱うのは、満州というユートピアに日本人が抱いたイメージについての総体的な観察である。事変を引き起こした将校たちの名前さえ一つも出てこない。実は、同じような感想を著名な日本近代史の研究家であるジョン・ダワーが漏らしている。彼もまたヴェトナム戦争を経験して、戦争の過程に日本とアメリカに共通するものを見つけたのが日米戦争について考えるきっかけになったという。二人とも日本には深い理解と好意をもつ知日家であるが、それだけに自分たちの国アメリカの行動にことよせ、私たち日本人の愚かな振る舞いにたいする批判もまた鋭い。つまり理想の国アメリカも、日本同様、もはや無実ではないということを踏まえた上での考察なのだ。
彼らの本に共通する特色は、日本の社会の中に起きていたさまざまな現象を事細かに述べながら、一つの立場に立って、近代日本のありようを探っていこうという社会史の方法である。それはまた満州建国当時の日本の時代相を描くことを目的にして一九七九年に出版され、二〇〇八年新たにちくま文庫に収録された『日本の百年七 橋川文三編著 アジア解放の夢一九三一〜一九三七』にも共通する。その解説で橋川はいう。「本書で扱った満州事変から南京虐殺までの一九三一〜一九三七年は、日本の近代史において[異常]という印象をもっとも強烈にあたえる時代であろう。それはたんに政治史的な形象としてあらわれた事件の異常さをいうのでなく、それらの事件の主体となったさまざまな人間像の異様さと結びついている」と。昭和という時代とくに一九三〇年代は、まさに橋川がいう通りの時代だったと私たちも思う。それはまたアメリカ人史家が日本のこの時代を取り上げたときの動機でもあった。私たちはこのエッセイのなかに折にふれてこれらの本を引用させて貰うが、何よりも私たちはそれらの異常さがすべて総動員態勢の満州国に凝縮されたと考えている。
まず総動員態勢がいつから始まったかを調べてみる。総動員態勢は戦時体制ということでもある。だから日本がこれまでやってきた戦争を数え上げることから始めよう。
明治維新以来、日本が外国とやった始めての戦争は一八九四年(明治二七年)の日清戦争だった。それから日露戦争(一九〇四年)、満州事変(一九三一年)、日中戦争(一九三七年)と続き、一九四一年に始まり一九四五年に終わった太平洋戦争までほぼ五十年の間に五つの大きな戦争をこなしたわけである。でも日清・日露の戦争と、その後の三つの戦争とでは、切っても切れない繋がりはあるものの、その性格ははっきりと違う。間もずいぶん離れているけれど、日清・日露の時代には日本はまだ好戦的な国というわけではなかった。戦争は国民総掛かりでやるものと観念されていたわけではなく、少なくとも前線と銃後ははっきりと区別されていたし、政府への批判もかなり自由に行われていた。好戦的といわれた陸奥宗光だって、この戦争は東洋における西洋文明の代表者である日本が、西洋的文明の側に立って、いわば西洋の代理として、東亜的旧文明と衝突するカタチなのだという風に見ていたのである。だから福沢諭吉にしても、いちばん気に掛けていたのは、戦争の勝利が欧米の世論に支持されるかどうかだった(三谷太一郎『近代日本の戦争と政治』、一九九七年)。
三谷は、近代の戦争がつねに政治がらみであること、つまり戦争が政治体制を改善し、民主化あるいは福利を増す方に向かって結果を出すものになっているという。国民総掛かりで戦う近代の戦争は、少なくとも表向きは自国民のためにならなければ理解と協力を得られるはずがないからだ。
もう一ついえば、総掛かりの戦争は、負けること、不幸な結果を招くことをまったく想定していないのである。三谷の指摘を私はたいへん重要だと考える。
日清・日露の戦争までは、日本もまたそんな西欧風な戦争観を共有していたのである。三谷は、その証拠として、日露戦争を挟んで日本の選挙権者が四倍に増えて、政党政治が大いに進展したこと、一九〇五年に朝鮮総督府長官に就任した伊藤博文が軍隊を使用する際の命令権を要求して、文官優位の立場をはっきりと打ち出したことを挙げている。結局それは伊藤一代限りのことだったけれども。
そんな戦争観の流れが一段とはっきりしたのが、第一次世界大戦であった。これほど悲惨で苛酷な結果を世界規模で招来した戦争はかってなかったので、国家についての考え方そのものが丸ごと変わってしまったのである。戦争を通じて、まるで見知らぬ他国の人とももう無縁ではないことを人びとは知ったし、どんな国もこれからは外国との付き合い・国際化を免れることができなくなったことを覚った。それはつまり国民挙げての政治化であるとともに、戦争とは結局は外交駆け引きの果ての政治の一つの形態であること、従って表向きだけでも、好戦的ではなく、非軍国主義でなければ国の体面が保てないことになったのだ。戦争が政治の形の一つであることはすでにいわれたことだけれども、ロシアで共産主義革命が成功したことで、その考えは一段と広まったのだった。
革命とまではいかなくとも、戦争が国民の平等化・民主化を進めることにはいくつもの実例がある。それもどちらかといえば、自由放任主義というよりは、社会民主主義の方向に偏っている。無制限な自由を抑えて、国民の大多数を占める貧困者にやさしい社会主義的な政策が採用される度合いが多いのだ。そのもっとも目覚ましかったのが、第二次世界大戦後のイギリスで実現した社会保障制度である。労働党の手によって実現しその後の世界の常識を変えた福祉制度は、すでに保守派のチャーチルも同意していたように、ドイツとの戦争に総力を挙げて勝ち抜いたイギリス国民への政府からの贈り物なのだった。
戦争が総動員態勢で戦われる以上、戦時の制度は万事が統制、統制である。なかでも統制経済は絶対に外せない。行きつく先が共産主義革命だというのは論外にしても、国を挙げて協力し合った記憶が国民のなかに引き継がれるのは間違いないし、人権・平等ということを考えれば、節度のある統制あるいは計画化にメリットがあることもまた確かであった。イギリスのように典型的だった資本主義国家が、大戦の経験から真っ先にそれ相応の社会主義化の必要を痛感したのがその一つの例である。
でも天皇制イデオロギーに支配されていた我が日本では、当然のことながら総動員態勢は違った道筋を辿る。むしろ私たちの統制のシステムは、やり方に限っていえば、ロシアの共産主義革命の方がずっと参考になったのだった。つまり、根っから統制好きな我が革新官僚や軍人たちのことをいっている。
もともと統制・統合というのは、明治維新以来、私たちにはよく馴染んだコトバだった。天皇の赤子として一致団結が建前である日本国民は、経済界だって戦時体制下となれば直ちに国民統合の一端を担わなければならぬ。満州事変からこちら、大財閥を中心とする経済共同体的秩序が生まれるのは自然の成り行きで、それが外に向かえば東亜新秩序となり、内では官僚と財閥の癒着による競争原理の抑制となり、やがて国家総動員態勢となって実を結び、その先にあったのが国を挙げての大戦争だった。三谷は「日中戦争・太平洋戦争は、イデオロギー的には、普遍主義的秩序原理対地域主義的新秩序原理の対立抗争として説明されるだろう」といっているが、前者が西欧中心の民主主義的・自由主義的なルールのこととすれば、彼がいう地域主義的新秩序とは、具体的には、まさに自由の対極である総動員態勢下の満州国にほかなるまい。天皇の国の総動員態勢は、満州事変の前後から始まっているのである。
帝国主義といい、領土侵略といい、すべては西洋から教わったのだが、でもそいつを実地に自分でやろうという考えを起こしたのは、前にもいったが、日清・日露の戦争の後のことであった。「大陸への政治的膨張(侵略)が近代日本の宿命であったと私たちは考えがちだけれども、それは事実ではない」と高橋秀直がいっている。明治維新の元勲たちは、日本はまだ当分の間は「小さな政府」でやっていこうと思っていたのだ(高橋『日清戦争への道』一九九五年)。日清戦争に勝ちを収めたりしなければ、私たちだってそんな気になどならなかったかもしれない。なまじ勝てそうもなかった相手に勝って西洋列強に日本というものを認めてもらい、西欧帝国主義クラブの端っこに加えてもらったおかげで、私たち国民も植民地を獲得することに野心をもった。そうすると、その相手が昔馴染みの朝鮮半島と中国大陸になったのは自然の成り行きというものだ。
日露戦争の結果、日本がロシアから関東州の租借地と南満州鉄道の権利を譲り受けたのが満州国の始まりである。ここに基礎を置いた関東軍と満鉄とが、その後ずっと満州の心臓であり骨であったのだ。清国を滅亡させた満蒙独立運動がずっと中国大陸を騒がせていた間、日本の軍部はそれに陰に陽に関わっている。その間に第一次世界大戦とロシア革命があり、中国の大地はますます騒がしく、張作霖のような昔ながらの軍閥が跋扈し、そいつを利用する関東軍将校が謀略を巡らせば、それにつれて抗日運動も燃え盛った。その果てに満州国が建てられた複雑ないきさつはすでに諸家の研究に詳しい。それらを参考にして、私たちは何よりもまず満州国が植民地として画策されていたことを確認しておきたい。国のカタチこそしていても、それは周囲の状況に応じて、たまたまそうなったということにすぎない。まして満州を手に入れるために動いた将校たちの頭の中に、総動員態勢というシステムはあっても、その担い手となるはずの肝心の国民となるその地に住んでいる人のことなどさっぱり浮かばなかったのは当り前だったろう。動員するのは満鉄と内地の日本人だけで充分だった。
一九三一年(昭和六年)九月に柳条湖事件をでっち上げてから半年で満州を占領し、一九三二年三月一日に目出度く満州国が発足した。当初の政体を「民主共和制」としながら、一九三四年には「君主制」に変わり満州帝国と名乗るご都合主義。そもそも民主共和制というのからして茶番なのだから、呼び名は何でもいいのであった。憲法はなく、その代わりに政府組織法というのがある。議会もなく、その代わりに会員を満州国全住民とする協和会という「建国精神の普及と国民訓練のための唯一つの思想的、教化的、政治的実践団体」(全日本百科事典)があった。中国人が首長に座る満州帝国の中央官庁はすべて名ばかりのもので、その下にある日本人を長とする総務庁・資政局・法制局・興安局がすべての実権を握っていた。
総務長官は皇帝溥儀よりもずっと偉いのである。第一、一九三四年からは関東州にある関東軍司令官が満州国全権大使を兼ねるようになり、彼は天皇の名代つまり代官なのだから総務長官よりも皇帝よりも偉く、したがって満州帝国全体が日本帝国の意のままに動く家来なのであった。その意味でも、満州国民というものはもともといるはずがなかったのである。 
ガイジンが見た昭和
まずダワーの『昭和—戦争と平和の日本』(明田川融監訳、二〇一〇年)を読んでみる。彼は独自の視点で現代日本の諸相を鋭く描き出すことで定評があるらしい。私にとってはこれが初めてのダワーの本なのだが、原著は一九八〇年代に発表された十一篇のエッセイを集め、一九九三年に出版された。その「まえがき」で著者は、一九六〇年代から七〇年にかけて国論を二分した反戦運動と草の根の抵抗にアメリカと日本が似ている点に共感を覚えたこと、ヴェトナム戦争の経験がリベラルなアメリカの知識人にすでに彼らの自由主義が世界のお手本ではなくなっていたことを覚らせ、それが過去に侵略戦争を繰り返し、もっとずっと痛烈な形で同じ経験を経た日本人への研究へと向かわせていると記すのである。私はダワーの本にたくさん共鳴する点を見出した。
彼は一九三〇年代の日本を研究することから始め、日本が得意とする行政指導がこの時代に始まったこと、経済官僚が企画院などを通じて戦争経済を取り仕切ったやり方が、実はそっくり一九四五年戦後の通産省や経済企画庁の行政指導に引き継がれていることを指摘する。そうしてチャーマーズ・ジョンソンが、西欧式の普通の資本主義と区別して、戦中・戦後を経て一貫して今に続いている日本の資本主義を呼んださまざまな呼び名を紹介するのである。曰く、官僚主導による大衆・中間所得層重視型多元主義、管理された競争、誘導された自由企業、管理された資本主義、国家が指導する資本主義。いってみれば、それは「仕切られた資本主義」である。
ダワーは、その資本主義は、戦争という坩堝の中で完成され、民主主義の形だけは尊重するが、その精神は時に応じて忘れてしまうというやり方で誰かに仕切られてきたのだという。その次第を述べる本書の第一章は「役に立った戦争」(ユースフル・ウォー)と題されているのだ。遅れてやって来た日本の資本主義の効率化に戦争がどれほど役に立ったか。それはけっして皮肉でも軽蔑して言っているのでもないのだ。他人からそう言われるとちょっときついけれど、それはまさに私たちが生き抜いてきた道筋を示している。私たちの「昭和」をつくったのは確かに戦時態勢・非常時だったのだから。
ダワーの独壇場といってもいい戦時中の日本映画についてのエッセイが本書に採録されている。彼はその頃の日本の戦争映画を「古い文化的価値を仕立て直し、新たな神話を創りだし、人びとの心に訴えるようなイデオロギーを説いた」という意味で、大衆向けプロパガンダの傑作だったと賞賛する。事実、それらを作った黒沢明、木下恵介、溝口健二、亀井文夫、山本薩夫らはいずれも日本の名だたる監督で、ただの戦意昂揚映画とはいえ、手抜きのあろうはずがないことはその昔映画通だった私が保証する。
彼らがそこに描き出した戦う日本人は、みんな疑いもせず自分の任務を遂行する謙虚な若者たちで、腹黒いところはみじんもなく、戦争映画なのに物悲しくて、戦争賛美とみられるところもほとんどないのだった。とりわけダワーが褒めちぎる「西住戦車隊長」は、私も子供のころ夢中になって見た。西住隊長を演じた上原謙のさわやかな笑顔を今でもはっきりと覚えているほどだ。
だが、と最後にダワーはいう。これらの映画には「尋常でない純潔にたいする執着、運命の犠牲者としての戦争に対する個人的責任の欠落、他国民を殺している罪悪感などあらゆるレヴェルでの他者への配慮の欠落が認められる」と。そうして別のエッセイで、喧伝された大和魂の扇情的なスローガンを鵜呑みにし、全員一丸となって驚くほどの調和を示しつつ戦争をやり遂げた日本の民衆の間に、それとは裏腹に、実は、絶え間なく不穏な流言飛語が囁かれ、いずれも札付きの共産主義者の手になるものとはいえ、「天皇を殺せ」というようなコトバが強い共感とともに飛び交っていたことを資料を操って示すのである。柄の悪い週刊誌だってけっして皇室を悪しざまには言わないのが日本人のたしなみなのに、天皇の呪縛が利かないアメリカ人ダワーには遠慮というものがないのだ。
文化・伝統・環境に違いを認めながら、それでも民衆はどこでもいっしょだというのがダワーの考えなのだった。戦争に勝っても負けても、民衆が望むのは民主主義であり、平等で平和な市民生活であるという信念は、今ではアメリカ人だけのものとはいえない。
でも社会史の視点で見渡せば、私たちには、その時代時代の国情を示す異常なエピソードがいくらも見えるはずだ。問題は、平等で平和な市民生活の立場から、それをどう処理するかである。エピソードの読み方の中にも、人それぞれのパターンがある。ダワーの場合は、まず大いに持ち上げておいて、その後でグサリと突く。そこから随所にキラリと光る鋭い観察が生み出されるのである。でも私には、そこに彼のこだわりというか姿勢みたいなものが仄見える気もしたのだった。それは共産主義にたいする恐怖である。彼が日本に好意をもつのは、明治維新のときと一九四五年の敗戦の際、日本に政治革命が起きなかったことに共鳴する想いがあったからではあるまいか。その証拠に、彼は天皇も日本の官僚も嫌いではない。この二つはたぶん共産主義にたいする日本人の抵抗の砦なのであるし、それはまたアメリカ式民主主義がアメリカ人の砦であるのに見合うだろう。
一九八八年に書かれた「日米関係における恐怖と偏見」というエッセイも見逃せない。ここで彼は、西欧人から見た日本人がかなり特殊な存在であることを示そうとする。アメリカ人は日本人には尊敬すべきところが多々あることを否定しないが、それでも日本人になりたいという声を聞くことは滅多にないとダワーがいうとき、それは日本人自身が尊敬はされても自分たちが他国人から羨ましがられることは決してないと自覚しているという彼の観察とセットになっているのだ。戦争中アメリカ人を鬼畜生と罵っていた日本人は、アメリカではドイツ人よりも嫌われていたらしい。
欧米人から見て、ドイツ人は悪辣でも人間の部類に入るが、日本人は猿や害虫と見做されていた。日本人の性格を精神病的・妄想的・狂信的・ヒステリックなど貶していた彼らにすれば、戦後になっても「ニューヨーク買います」などと言い出す日本人は相変わらずだということになったのだった。人種的同質性・純潔性・独自性という特徴を備える日本人は、欧米人を「鬼」に譬えるのが好きだとダワーはいう。「鬼」という表現は、ダワーが日本研究から得た知見の一つで、鬼を怖いもの、恐ろしいものとする反面、私たちは日常の生活圏の外からやってきた救いと福をもたらすものでもあると捉えている。彼の指摘は、ある意味では、本人が思っている以上に真実をついている。つまり、ガイジンから見れば、日本人とはやっぱりどこか理解し難い国民だということである。 
戦争の昭和
一九三〇年代(昭和五〜一五年)といえば、一九八八年(昭和六三年)まで続いた昭和の四分の一にも当たらないが、それでもその年月こそが昭和という時代を象徴する。いつまでを戦後と呼んだらいいのかよく分からないが、戦争と戦後が昭和という時代をつくっていることだけは間違いない。私の個人的な思い込みにすぎなくとも、十五年戦争こそは私にとっての昭和なのだし、従ってこの戦争時代を中心にして見ることが私にとっての現代史なのだ。
ダワーが強いインパクトを受けた日本の一九三〇年代を、集中的に取り上げている社会史風の『アジア解放の夢 一九三一〜一九三七年』からこの時期に何が起っていたかを見てみよう。
三一年秋から北海道・東北を飢饉が襲った。一九三四年、岩手県十万戸の農家のうちで、食べるものに窮した七万四千戸、四十二万二千人の家族が救済の手を求めていて、それは九十万の全人口の半ばに達していた。岩手県が米の県外移出を始めたのが一九三一年で、農民たちは自分で食べる備蓄米を売ってでも現金を手に入れることに夢中になっていたから、飢饉になればすぐに困った。慣れない貨幣経済に振り回され、僅かな財産を蕩尽したあげく、高利貸から金を借り、借金まみれになってしまう者が後を絶たなかった。金利は高い。二割四分が普通で、三年経てば、元利合計で三倍にもなった。親は娘を売り、娘も当たり前のように売られていった。
前借金の相場は、六年で千円だった。東北五県で売られた娘は一年に数万に達したという。産まれたばかりの赤ん坊は容赦なく殺された。養育費をつけた赤子を貰う商売があった。むろんその赤ん坊が育てられることはなく、親に代わって彼らの手ですぐ殺されてしまうのだ。その頃、町で流行るのがエロ・グロ・ナンセンスで、その流行を支えるのが全国で三万軒を超すカフェーとバーであった。流行の中心はいわずと知れた東京銀座で、そこには七千軒の店に二万二千人の女給が働いていた。風俗の乱れは階級を問わず、それを風俗の乱れといっていいかどうかは分からないが、上流階級の子女の間に共産主義が流行った。学習院に共産党のオルグができ、プロの党員顔負けの公爵令嬢が検束・転向・釈放されたあげく、その夜自殺するという事件もあった。三原山で心中騒ぎが相次いだのもその頃のことである。
これらのことどもは珍しいことでもないし、さりとてこれらの断片が世相の特徴を伝えているわけでもない。世間はいつだって同じような珍事で満ち溢れている。取り締まりが窮屈か緩やかかによってそこ・ここに出現する事象を眺めて、そこから時代の意味を読みとるのは無理である。編著者橋川が狙ったのは、あくまでもそれらが満州事変とともにあるからだった。意味があるとすれば、それは世相の方にではなくて、満州事変の方にある。
陸軍の将校を含めて、孫中山を取巻く中国革命に想いを馳せる日本人たちがいた。彼らにとって、中国革命は不徹底に終わった明治維新の延長であり、その成功が本当の明治維新となるはずだったと橋川はいう。でも明治維新を成し遂げた皇室の藩塀政治家たちは、革命の精神をたちまち忘れてしまった。孫文の革命の中に維新の精神を見る目さえ失ってしまった大方の日本人は、国民政府に警戒心を募らせるばかりで、もはや彼らとの連帯を感じることもない。中国浪人ともいわれた一握りの日本人同志もまた一九二五年の孫文の死とともに消滅するしかなかったのだった。
一九一五年に日中両国で協約が成立した対華二十一個条の要求とは、まさにそんな時代背景と気分の具体的な表現だったといえる。中国に日本が要求した二十一の特殊権益のことだ。すでに日本にとって中国大陸は、ただ自分たちが獲物を狩る狩場でしかない。一号から五号と内容は五つに分かれる。第一号は四条あり、第一次大戦に連合国側についた日本が山東省のドイツの権益を肩代わりすることを認めること。第二号は七条あって、南満州と東蒙古における優越なる日本の地位を承認することだ。日露戦争で取得した旅順と大連(関東州)の租借権と南満州鉄道を九十九年間延長することと、この地帯で日本人が商工業を自由勝手に行うことの確認である。とりわけ日本はこの地での鉱山の採掘権と鉄道の敷設権に強い関心を抱いていた。第三号は二つで、特定の企業名を挙げて、双方の合弁でうまくやっていきましょうということ。第四号はそれだけで完結し、「日本国政府及びシナ国政府は、シナ国領土保全の目的を確保する為、シナ国政府はシナ国沿岸の港湾及び島嶼を他国に譲与または貸与してはならない」とする。
第五号は七条あって、中国の軍隊や警察に日本人を招聘・雇用したり、武器を買ったり、その他何でも相談してくれという日本からの押し売りである。さすがに第五号の方はうやむやになったらしいのだが、要するにそのコンタンははっきりし過ぎるくらいはっきりしていた。満蒙を領有するのが日本の利益であり、いずれ実現するはずのこの利益を手放すつもりはまったくないということ。この要求が中国はもとより、アメリカやイギリスからも、日中関係を損なう屈辱的な条約と見做されていたことはいうまでもなかったが、日本側から見れば、これらの要求が筋の通ったものかどうかをいう前に、何がなんでも中国全土に日本の影響力を楔のように打ち込んでおくという固い意志の表れだったのである。その証拠に、以後日本は国際的な一切の異論には耳を貸さず、満蒙における特殊権益は二十一個条の「条約」によって確保されているとただひたすら繰り返すことになる。
一九三〇年代にさらに何が起きていたか、橋川の本をもう少し辿ってみよう。一九二〇年(大正九年)ころから日本の社会に目立ってくるのが共産主義の運動で、それはさまざまな形で日本の知識階級の間に影響を与えずにはおかなかった。それは、日本近代史シリーズ『日本の内と外』(二〇〇一年)で伊藤隆が取り上げているように、「共産主義という素晴らしい未来」を少なからぬ若者たちに夢見させた時代でもあったのだ。伊藤はその代表的人物として尾崎秀美を取り上げ、彼のことをただのスパイとしてではなく、明治維新以来のイギリス型自由主義的資本主義体制から日本を脱皮させ、ソ連共産党支配体制をモデルにした東亜新秩序体制への無血革命を狙う愛国的な日本国家主義者として描いている。そんな考え方は、ある意味で、北一輝にも通じるところがあるだろう。大正時代とは、自由主義的な民主主義者はもとより、剣呑で急進的な国家社会主義者をたくさん培養した時代でもあった。そうして、橋川が強調するところもまた同じなのだ。自由主義と左翼主義に染まった陸軍士官学校出の士官には、国体に疑問をもつ者さえ珍しくなかったと彼はいう。軍人にはタブーだったはずの政治にも積極的に口を出す。一九三〇年、橋本欣五郎中佐を中心に桜会が結成される。それらの背景はともかく、彼らの手で引き起こされた政治事件は、一九三一年の一〇月事件、三二年の五・一五事件、三六年の二・二六事件とある。同時に、満州では陸軍の謀略に始まった満州帝国の建設が進行しているのだった。
「赤旗」が創刊されたのは一九二八年(昭和三年)だった。初めはガリ版で、部数も数百程度だった。一九三二年(昭和七年)になって十頁ほどの活版印刷となり、一部三銭で月に六回発行されたのである。共産党の活動が盛んだったときで、党員も最高の七千人に達していた。それが、満州国建設頃のことであるのは偶然ではあるまい。一方で軍人たちのごり押しがあれば、他方では権力への反抗が高まってくる。ちょうど国家総動員思想が目に余るアカの連中の排除を考え始めるときに当たり、権力に逆らうのが命がけの仕事になる分岐点でもあった。一九三二年に発表された共産党テーゼは、「天皇主義的国家機構は、搾取階級の原罪の独裁の強固な背景をなしている。これらを粉砕することこそ日本における革命的主要任務の第一のものと見做さなければならぬ」と宣言するのだ。一九三〇年には共産党の大検挙があり、三二年から三三年にかけて何人もの幹部党員が虐殺されている。彼らの中に私たちは小林多喜二や野呂栄太郎の名を見出すのだが、一九二四年(大正一四年)に公布されていた治安維持法が国体変革の運動指導者に死刑を認めているのに、彼らのなかの一人として裁判による死刑を執行された者がいないのである。悪名高い特別高等警察が設けられたのは一九一一年(明治四四年)なのだが、それが共産主義者専用になったのが一九二四年なのだった。橋川が引用する当時の内務省事務官の述懐を聞こう。「日本の共産党員は刑務所という学校に入れて教育を与えたり、自ら反省せしめると、大半転向してその非を覚るにいたる・・・日本の国体観念が彼らの内に蘇ってくるからだ」と。思想統制の検事たちは過激な青年にたいしておおむね温情主義で臨んでいたらしいのだ。一九三三年の佐野・鍋山の『共同被告者同志に告ぐる書』と題された転向声明が即座に一割を超す転向者を誘発したのは彼らの方針の正しさを示す。家父長の国に育った私たち日本人は、だれでも家族の温情には弱いのだ。
国を挙げて国防国家造りに励むこの時代(一九三〇年代)を象徴し、いわばその見せ場だったのが満州事変と日中戦争であったことはいうまでもないが、でも侵略行為そのものを正当化した理屈はずいぶんご都合主義的だったといわざるをえない。
その辺の事情をはっきりいっているのが、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(日本近現代史五、二〇〇七年)である。二つの戦争が、どんな場合でもけっして政治に頭を突っ込んではいけないと教え込まれていたはずの軍人の手になるあくどい謀略から始まったことがすでに知られているけれども、そのいずれもみんなシナ人が悪いので、日本はただ彼らの不正な行為を止めさせる措置を取っただけと理由づけているのだった。はっきり国際法を犯しながら、ぜったいに犯してなどいないとシラを切り通すのが軍人というものの習性ではあるのだが、普通は、実権を文官である政府が握っているから問題にはならない。でも戦前の日本では事情が違って、軍隊を統べる統帥権は天皇大権の一つとなっていて内閣総理大臣にはない。
だから軍人と内閣との力関係が揺れ動くたびに、つまりどっちの天皇への影響力が強いかに応じて、軍人の言い分がまかり通ってしまうのが避けられない。昭和はまさにその軍人が政治を凌ぐ力を振るった時代であり、端的にいうと、満州事変とシナ事変が国としては望んでいなかったのに起こってしまったのはそのせいであった。
だから著者(加藤)が次のように言うのも無理はないのだ。「多くの日本人にとっては戦争とは故国から遠く離れた場所で起こる自分とは直接関係のないものだった・・・日中戦争から太平洋戦争へ、日本人にとってそんな状況は自分たちの預かり知らない泥沼でしかなかった」と。これを読んだときには、実はちょっと虚をつかれた。当時の一般の日本人が戦争を他人事のように考えていたという言い方は、私には思いもよらないことだったから。著者の加藤は一九六〇年の生まれというから私よりもちょうど三十年つまり一世代若い。この齢の差が私との考えのズレを生んでいるのだろう。軍人たちは謀略を弄んだが、同時に計算づくであり、巧妙かつ効率的だったという著者の説明も私には納得できるものではない。彼らが狡猾に振る舞ったのは、彼らの頭には天皇に対する無批判な忠義があるだけで、正義についての考慮がまったく抜け落ちていたからにすぎないだろう。一九三一年には、陸軍は誰の目にも日本でいちばん強力な機関だったし、私たち日本国民はすでに「満蒙は日本の生命線だ」というスローガンを熱狂的に信じていたし、積極的・消極的の違いはあっても、天皇の陸軍が指導する国民総動員に参加することを躊躇う者などいなかったか、いてもごく僅かだった。
加藤は、日本が満州事変とシナ事変を引き起こした背景として、日本の満蒙権益は条約(対華二十一カ条)によって確保されていること、総力戦の時代に日本にはそれに耐える準備も資源もないことを理由に、満蒙を領有するのが正しいことだと一途に思い込んだことを挙げている。それは事実だったかもしれないが、中国国民の目からすればとても受け入れられるはずのないリクツだった。少なくとも、国際外交の場で満蒙占領が正当なものとして認められる見込みなどあるはずがないことは、外交官なら分かっていただろう。むしろ世界恐慌と金解禁に翻弄され、底しれぬ不満・不安を抱えた国民の目を外に逸らせるために満蒙問題を利用したという説明の方に説得力があるだろう。現に石原莞爾などは、はっきりそういっているのだ。
著者が本書で挙げる参考文献のいくつかは私も読んでいる。それで分かるのだが、必要に応じて引用するのはいいとして、著者は文献作者の考えがどこから来たかをあまり斟酌しない。歴史は解釈の業ともいうけれど、とくに近代史の場合解釈が一定することは少なくて、だからこそ立場をはっきりとさせておくことが望ましい。満州事変の性格についてはだいたい見方が固まっているとはいえ、それでもまだ記憶が生々しいだけに、解釈の揺らぎが収まっているとはいえない。
例えば、著者はクリストファー・ソーン『満州事変とは何だったのか』(日本版、一九八九年)を何度が引用している。私は、友人に勧められて、一時話題を呼んだが今ではほとんど顧みられないソーンの本を二冊読んでいる。この原著は一九七二年に書かれたもので、「国際関係全体を規定する法則なるものは存在しない。外交政策において、重要な決定が意識的に行われることは滅多にない」と信じる国際政治学者ソーンの論点は、満州事変と日中戦争および太平洋戦争の間には繋がりがないことを論証することにあった。ヨーロッパの当時の外交担当者の揺れ動く個人的意見や感想を果てしなく引用しながらソーンが描き出すのは、満州事変にかかわる国際上のゴタゴタにはおよそ筋の通った意味などあろうとは思われず、ましてそこから一貫した政策や決定が生まれるはずもなかったということなのだ。
古いヨーロッパ人によくあるレイシスト(白人優越主義者)でもあったらしい著者が東アジア問題を語るとき、西欧人の人種差別意識を重要な要素と考えていることは広く知れ渡っていて、結果として、欧米の勢力を駆逐してアジア諸国に独立をもたらすことになった「大東亜戦争」の動機を正しく評価しているという風に読みたがる日本の読者の好みに合っていたのが日本でよく読まれた理由だったのだ。日本版の題名の付け方を見ればそれがよく分かる。原題は『西欧と国際連盟における一九三一〜一九三三年の極東問題、外交政策の限界』というので、日本と中国の紛争になすすべもなかった西欧外交のご都合主義・無能ぶりを述べたものだった。だから日本版も『欧米にとって満州問題とは何だったのか』とでもすれば、売れなかったかもしれないが、もっとよく内容を表わしていた。このエッセイのタイトルに、私は本書のタイトルをそっくり使わせて貰っているが、それは逆の意味で満州国というものを問題にしたかったからである。私が読んだもう一つのソーンの本は『戦さの果て、それぞれの国それぞれの社会にとっての一九四一〜一九四五年』(一九八五年)である。これも日本版(一九九四年)では『太平洋戦争とは何だったのか』という題名になっている。
この本では、太平洋で戦われたこの戦争を「本質的には、アメリカでなく、イギリス対日本の戦争だった」という。それは中国をはじめ東洋に支配を広げた大植民地帝国をつくったイギリスこそが白人対有色人という対立構図をつくった張本人だからであろう。ソーン自身がどう思っていたかは別にして、ここに大東亜戦争をもって白人からのアジアの解放戦争だったと読み取る人が現れたのは必然だったといえる。
ソーンについての先入観を斟酌すれば、著者の加藤が彼女の本にソーンと並んで江口圭一『十五年戦争少史』を引用するのを見たときに私が感じた戸惑いが少しは理解してもらえるかもしれない。私がどう思おうと、それが字義通りに正しく引用されていれば問題はないのだけれど、例えば、江口が「日本の帝国主義各支配層は、それぞれの期待をもって、満蒙地方を略奪することのうちに(世界恐慌がもたらした)危機からの活路も求めはじめた」(「世界恐慌と満州事変」、岩波世界講座 世界歴史現代四『世界恐慌』一九七一年所載)と書くその口調と、加藤の「日本が満蒙に獲得した権益はすべて(日清・日露の)戦勝によって獲得したもので、東インド会社のような私企業が獲得したものとは異なり、すべて戦勝による条約つまり国際法上の正当な権利に基づくというのが日本の理屈だった。その権利が侵略によって得たものである限り、国際法上認められないという矛盾を日本は認めることができなかった。一九三二年に国際連盟脱退を演じた松岡洋祐は、満蒙問題で中国の主張が採択されることは、日本人にとって主権や社会契約や国家を成り立たせている憲法原理(国体)に対する攻撃に等しいという不退転の立場に立っていた」という言説を比べてみると、戦争の動機に仕掛けと受け身という解釈の違いが認められる。満州事変から日中戦争への経緯については、同年輩の江口から私が教わったことはとても多い。何事もまず経済的な背景から始めるからといって、江口をマルクス史家と決めつけようとは思わないし、帝国主義という呼び名を使ってこの時代を説明していくことにも違和感はない。当然、加藤の叙述の方が正確かつ合理的だとも思わない。問題の立て方が違うのだから、彼らの力の入れどころが違っていると思うだけである。いずれにせよ、日本が戦勝による条約という国法上の権利にすがって満州事変を起こしたというのは差末な事柄にすぎない。それは、戦後民主主義の時代に大人になった私たちが、自分たちが引き起こした侵略戦争を語るときの言い方ではない。
欧米の人びとにとって満州事変は一つの挿話にすぎなかったかもしれないが、日本人にとっては、それは生存を賭けた試みだった。普通の日本人には、満州に渡った兵士や移住民は自分たちとは直接関係がない一部の人たちに過ぎなかったが、それでも、彼らは天皇を父として戴く日本人の大家族の一員なのだから、満州事変から始まった十五年戦争は、建前としては、天皇の家族が総動員でやっつける我らの戦争だった。「一億一心火の玉だ」というスローガンはけっして誇張ではなかったのである。
石原莞爾は、人となり明朗で、扇動家で、つねにものごとの核心をつく話をする面白いヤツであると思われていた。一九二八年「我が国防方針」という講演で、「日本国内からは一厘も出さずに戦争をやる。ロシアは貧弱な兵力しかないから取るに足りない。アメリカとだってシナの国土資源を利用すれば二十年でも三十年でも戦争がやれる」といったという。ナポレオンのように「戦争によって戦争を養う」のであって、出征軍はシナの占領地で自活すればよいという趣旨である。無責任な豪傑が述べるに相応しい暴論をまた始まったかと見ているぶんにはいいが、石原の場合には、それ相応の影響力があったのだから困る。
少しばかり規格外れだといって見過ごすわけにいかないのは、それが陸軍の将校の典型的なものの考え方だったからである。海軍についてはあまり知らないのだが、おそらく陸軍士官学校とか陸軍大学では、先生たちも平気でそんなことをいっていたのではあるまいか。知性などそっちのけの豪傑気取りというやつだね。最小の費用で最大の効果、攻撃こそ最大の防御で、勝つためにならどんな手を使うことも躊躇わないと考えるのが軍人というものである。政治とは相手を煙に巻くことで、計画はつねに合理的である必要などないと信じる人たちに彼らは属する。普通私たちは熟慮を重ねて計画を練り、合理的でないと思われる部分を取り除こうとするだろう。もちろん人間のやることだから、とことん非合理的な部分を取り去ることなどできやしない。でも最後までそうなるように努力する。そうしなければ正しいやり方で事を運べないと思うから。正しいやり方で事を運ばなければ、たぶんその目標も結果も正義に外れたものになってしまう。でも戦争にはそんなやり方は馴染まないし、石原や陸軍の参謀将校たちもまた、そうは思わなかった。満州事変から太平洋戦争までの間、私たちは嫌というほどその実例を見てきた。
これからやろうとしている自分の行動が引き起こすものを丁寧に吟味してみて、とても褒められる計画ではないと知れば、合理的な人ならその計画を選択しない。それは正義に外れた公正でない計画だからだ。とくに引き合いはしないけれども、このエッセイを書くとき、私はジョン・ロールスの影響を少なからず受けていた。ここで一つ彼を引用しておきたい。「誤った信念が支持する欲求は、その信念の元になっているインチキが計画を失敗させ、企てられていたかもしれない善い方の計画を採用することを妨げる度合いに従って、不合理である」(ロールズ『正義論』、川本隆史他訳)。
説明はいるまい。どう言い繕おうと、帝国陸軍の将校たちは正義の側にいなかった人たちであった。 
ボクたちの満州国
満州国では関東軍が認めないことは何も起きない。だから関東軍とその愛人である満鉄に関わることは、ここではすべて意外でもなければ例外的なものでもない。普通は、国家といえば、まずその領域に住む雑多な人たちと、彼らに纏わるややこしい歴史とそれを組織した指導者のグループがあって、それらの全部が混じり合い作用し合って、一つの社会ができる。
それは、いわば自然の営みに譬えられるものである。その仕組みの成り立ちには、個人や少数のグループが立てる計画・企画は馴染まない、あるいは従ったとしても、その通りにはいかない、一筋縄ではいかない、いわば偶然の力といったものが働いている。それを自然の法則といってもいいし、運命といってもいい。
もともと満州というのは通称で、正式な地域の名ではなかった。現に中国では東北と呼び、それ以外の名前を受け付けない。その中に黒竜江省・吉林省・遼寧省の三つの区域と内蒙古自治区とがあって、ひっくるめて中国東北部と称している。その昔、明帝国が満州の地に進出したのは一三八七年だとされるが、未開の東北地方に住んでいた女真族の別名を満州族といったのがその名の起こりである。明の朝廷に貢物を差し出す彼らが扱う産物は毛皮や薬用人参だった。その女真族の中から一人の英雄が出現して自分たちの国を起こした。アイシン・ギョロ(愛新覚羅)家のヌルハチという。その国の名を満珠国といった。満珠とは文殊菩薩のことである。初めは明の属国だったのが、やがて彼は明からの独立を決意し、国名を大金国と変えた。一六一六年のことである。ヌルハチの死後、彼が創設した八旗と称する後の馬賊を髣髴させる勇猛な大金の軍団が、しばしば明を脅かしていたが、ついに一六四四年に明が滅びると、その後釜として、北京を都に帝国を立てた。それが清国である(小峰和夫『満州—マンチュリアの起源・植民・覇権』一九九一年)。
これから満州国を舞台にした「ボクたちの失敗」をいくつか挙げる。話は前後するし、繰り返しもあるけれど、それぞれに脈絡はある。もちろん全部挙げることなんかできないし、する積もりもない。特異なその性格が窺われる現象のいくつかを紹介できればそれでいい。それは例えば、軍人と官僚と事業を企てた人と移住民と、要するに、この幻の国を食い物にした男たちである。
理屈っぽくいうつもりは毛頭ないのだが、日露戦争は日清戦争の埋め合わせであり、満州事変は日露戦争で取りそこなった獲物の埋め合わせであった。日清戦争と日露戦争には十年の開きがあり、日露戦争と満州事変の間には二十六年の開きがある。とはいえ、最初の二つの戦争と満州事変から打ち続く日中戦争と太平洋戦争ぜんぶが、相互に密接な関係で結ばれていることには疑う余地がないだろう。ということは、その間の外交交渉と駆け引きのすべてがやっぱりみんな関連し合っている。外交もまた戦争の一部であるからには。 
シベリア派兵
満蒙問題というのは大陸政策と言い換えてもいい。日本のアジア大陸進出願望を表わすコトバなのだが、具体的には、大陸の鉄道を手に入れたいということに集約される。これだけ茫洋とした広い大陸に出ていくためには、まず交通手段を確保しなければどうにもならない。そこで何とか鉄道を敷いて、それを拠点にしようと考えるのは日本人ばかりではなく、ロシア人もまた同様であった。
アジアへと触手を伸ばすロシアにどうしても必要だったのがシベリア横断鉄道である。シベリア鉄道の建設が始まったのが一八九一年。一八九四年の日清戦争をきっかけに清の国力は見る影もなく衰え、西欧列強の餌食になって食い荒らされてしまうのだが、それとともにロシアが国の将来を賭けたシベリア鉄道の行く先も決まったのだった。鉄道の終点は大連になったのである。一八九八年、遼東半島の大連と旅順を租借地にすると、ロシア人は直ちに満州のハルビンを拠点に東支鉄道の建設を始める。北東に向かう東西線は北満州を横断してシベリア鉄道に繋がり、南に向かう南部線は大連へと通じた。わずか三年でロシアは全線を開通させ、モスクワから大連までを二週間で結ぶアジアへの鉄の道が実現、一九〇三年営業が開始された。今やハルビンは「東洋のモスクワ」と呼ばれて、巨額の金が投資され、たくさんのロシア人が移住してきた。日露戦争が始まるまでは、満州の開発は断然ロシアが主役だったのである。
一八九三年には北京から山海関を通って奉天に達する京華鉄道も開通している。それとともに華北から満州へと移住する漢族の数が急増した。そのころの満州にはおよそ千二百万の人がいたが、その内の千百万人が漢族だったという。彼らはこの地の主である牧畜民の満州族に替わり、農業をもって生活を立てていた。満州族の国清が支配する満州の土地はそのほとんどが形の上でこそ官領地か満州族豪族の土地だったが、大部分は未開の荒地のままで、そこに漢族が勝手に流れ込んだのだった。彼らは所有権のないままに定住し、土地を耕して、生活していた。清が衰えた今、そこはいわば主のいない大地なのであり、だれが開拓しようと文句の出る気遣いはなかった。まさに植民地を取り合うロシアと日本の恰好の狩り場だったといっていいのである(小峰和夫『満州』一九九一年)。
第一次大戦後の一九一七年、そのロシアに革命が起こり、それまでとはまったく毛色の違った共産主義政権ソヴィエト・ロシアが誕生した。ロシア革命は平和を目指した革命でもあった。新しい政権は直ちにドイツとの戦争を中止して、無賠償の講和を決定する。まだドイツと戦争中の各国は当惑した。彼らが何とも理解し難いボリシェビキ政権を承認したくないのは確かだったが、さりとて国家としての決定を無視することもできない。
イギリスとフランスは協定を結んで、反革命を支持するのではないことを慎重に告げながら、なお複数の政権があるのであれば、それらとも交渉を絶つことはないと宣言した。用がなくなったロシア戦線の八十万のドイツ軍が西部戦線に移ってくるという悪夢が現実になりつつある以上、連合国側が、とりあえずシベリアの情勢を安定させておくために日本とアメリカの軍隊を借りたいと考えたのはごく自然な成り行きだった。そこからシベリア派兵問題が始まるのである。
この部分は、細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(一九五五年)によって書いている。アホらしいとしかいいようがないほどの失敗に終わったわが国のシベリア出兵の研究は、戦前ずっとタブー視されてきたが、それを戦後早い段階で取り上げた本書はとても示唆に富んだ好著である。戦争と外交が実は一つのものであること、その外交の未熟を見せつけた帝国陸軍と政府の考えのズレ、その結果としてのアメリカとの関係悪化がのちの太平洋戦争にまで尾を引いたかもしれないという事実、これらの要素を含んだ細谷の研究は今も新しい。
日本の兵力を極東ロシアに投入させようとする英仏の工作は積極的かつ執拗だったと細谷はいう。そしてそれは、永年の脅威だったロシアの変質あるいは弱体化によるわが国の大陸政策にとっての千載一遇のチャンスだと、陸軍を初めとする一部の膨張主義者の目には映ったのだった。この機会にシベリアに勢力を伸ばすシナリオを、革命の当初から参謀本部はすでに描いていたと著者は述べる。日露戦争を境に、満州で主役を交代した日本が、次のターゲットである蒙古・華北への足掛かりとして、満鉄の延長であるシベリア鉄道を狙ったのは、彼らにしてみれば当然なことだった。
シベリア出兵の要請は、まさに向こうから転がり込んできた、願ってもないチャンスだった。とはいえ、我が国にも外交を知る穏健派はいる。明治維新生き残りの元老と民衆に目を向ける政治家たちは、アメリカと一緒でなければ、ロシアにそんな干渉をすべきでないと強く主張して譲らなかった。名前を挙げれば、牧野伸顕と原敬である。とにかく国際社会ではまだ欧米クラブの新米である日本が、英仏はもとより、アメリカの後ろ盾を失ってはとてもやっていけないと思っていたのは、外交的には、妥当な態度ではあったのだ。細谷の分析ももちろんその線で進む。
さまざまな議論、駆け引き、状況の推移の果て、結局一九一八年八月、共同出兵に合意したアメリカと日本の軍隊は、それぞれウラジオストックに上陸するのである。その際、アメリカのウイルソン大統領ははっきりした制限を派遣軍の人数につけたのだが、参謀本部はたちまちその約束を破ってしまう。北満州とシベリアへ、この機会に大量の軍勢を送り込んでおこうというのが参謀本部の本音であって、ひとたび派兵が実現したからには、統帥権の独立という錦の御旗を掲げる陸軍のやることに反対できる者はもうどこもいないのだった。日米協調というのもまったくの見せかけ・嘘っぱちにすぎなかった。十月末、シベリアの原野には、実に七万二千の日本軍が展開している。しかもその頃すでにドイツは休戦に追い込まれていて、シベリア派兵の名目も大方消滅していた。十一月アメリカ政府は、約束違反にたいし、厳重な抗議を日本に突き付ける。一九二〇年四月、アメリカはシベリアから手を引いたが、日本だけはなお単独で派遣軍を維持し続ける。今や大義名分も無く、駐留の意味さえ失った日本軍は、現地のパルチザンからは襲撃されるし、肩入れする反革命派コサック兵は勝手に略奪を繰り返すし、住民の怨嗟の声が日増しに上がるばかりである。一九二二年一〇月、二年半にわたって、夥しい人を犠牲にし、莫大な戦費を浪費したあげく、シベリア派遣軍は、日本にたいするロシア民衆の憎悪と悪感情だけを残して、撤退した。
鉄道の建設とシベリア派兵は、私たちの満州の前史として無視できない問題と教訓を孕んでいると思う。それは満州事変がやっぱり日露戦争の埋め合わせだったということと同時に、いみじくも細谷が「二重外交」というコトバで陸軍と政府とのすれ違いを表現したことに示されているように、一九三〇年代の日本の政治が、そこから経済を軸にした近代世界の国際協調というありようについての教訓を引き出し損なったことを明かしているからである。 
ノモンハン事件
シベリア出兵同様、帝国陸軍の大失態だったノモンハン事件もまたタブーとして戦前ほとんど語られることはなかったが、その事情はいまでもあんまり変わっていない。司馬遼太郎がノモンハン事件を書こうと資料を集めていたが、結局断念したという話をどこかで聞いたことがある。なぜやめたのかは分からないけれど、資料が少なかったこともあるが、納得がいかない屈辱的な敗北をどう考えるべきかに迷ったのかもしれなかった。すでにタブーではないわけだが、むしろ大勢に影響のない些細なエピドードとして軽く扱っておいた方がいいという判断ならまだ残っていそうだ。この事件については、一九六〇年代に書かれた島田俊彦の『満州事変』と『関東軍』に詳しい。島田は戦時中海軍の戦史編纂に携わっていた関係で、敗戦時焼却処分を命じられた軍令部の文書を隠し持っていたのがのちの戦史研究に大いに役立ったのだった。戦前の陸軍がその不名誉な記録をひた隠しにしたうえに、ソ連側の資料も少ないとかで、現在でも私たちが知りうる当時の事件の経緯はほとんどがここに書かれていることに尽きている。
関東軍の謀略好きにはあきれてしまうが、いずれにせよ、この戦いが日本軍の完敗だったことは間違いなかった。ノモンハン事件については、今もって全体像がはっきりしていないが、これだけはいえる。ノモンハン事件は、シベリア出兵とともに、帝国陸軍とボクたちの失敗としての満州のありようを見つめるには欠くことのできないコマとして、きっちりと現代史の中にはめ込んでおいた方がいいと。
一九七八年という、やはりかなり早い時期に書かれた岡部牧夫の『満州国』は、二〇〇七年に新しく講談社学術文庫に収められて手軽に読めるようになったが、満州国の全貌が分かりやすく見渡せる本である。たいていのことは見逃さない。本書と島田の二冊の本に従って、ここにノモンハン事件の概要だけでも紹介しておきたい。
一九三七年四月から満州産業開発五ヶ年計画というのが始まった。その目的の一つは対ソ戦の準備であったが、七月にシナ事変(日中戦争)が起こると、計画の進行と金の流れがにわかにあわただしくなり、本土から派遣された高級官僚たちがその実施に携わることになった。相手になるソ連が、一九三三年以降、極東地方の経済開発の一環として、シベリアで軍備を増強していることはすでに知られており、現地シベリアの工業化が目に見えて進んでいた。それはシベリア出兵以降、ロシア側から見る日本がいちだんと警戒を要する相手となったことからしても、当然の結果だったといえる。
極東ソ連軍は戦車を五倍、飛行機を四倍半も増強した。一九三六年にはおよそ千二百機が配備されていたという。とくにアグネヤワ・トーチカと呼ばれた小型要塞を、満蒙全国境線に、四百から五百メートルおきに構築した。攻撃するにせよ防衛に徹するにせよ、彼らは本気だった。当然のことながら、どっちが先に手を出すということでなく、国境紛争も頻繁に起こる。一九三八年、朝鮮・満州・シベリアの三国が接する日本海沿岸地域張鼓峰に起こった紛争は、ノモンハン事件の前哨戦であったが、国境を挟んで向かい合った両国の守備隊がいつどこでも一触即発の状態にあったことを明かす。そもそも満州の国境は、満州という国がそうであるように、どこもあいまいではっきりしていないのだった。向き合ったソ連と日本の守備隊が、その時々の状況に応じて、代わる代わる自分で主張する国境を占拠していたのが実情だったらしい。島田はそういっている。だから紛争はしょっちゅうで、少なくとも日本側では、関東軍参謀と中央の参謀本部の勇ましい連中がここはいっちょう強硬にいってやろうといえばいつでも戦いが起こったのである。
ノモンハンは、一九二四年に社会主義人民共和国を宣言した外蒙古と満州の間を流れるハルハ河沿いのホロンバイル高原にある。ここでも国境線はまったく不確かで、日本ではハルハ河を国境だと主張していたが、外蒙古・ソ連側では、国境は河の東側にあるといって譲らない。すでに何度も紛争が起こっていた。ここで、関東軍の権威を失墜させたノモンハン事件が起こったのだった。
戦いは二回繰り返され、一九三九年(昭和一四年)の五月から八月に起こった。第一次事件は五月一三日とされ、ソ連側の一方的な越境攻撃に対し我が軍が応戦したと発表された。この戦いに日本守備軍は敗れ、ほぼ全滅に近い状態で退却する。第二次事件は、日本軍に関するかぎり、六月一九日ソ連軍から攻撃を受けたという小松原師団長の電報から始まった。攻撃はソ連空軍の爆撃を伴った。関東軍はこの機会にソ連軍を徹底的に撃ち懲らしめておこうと思ったのだろう、第二十三師団一万五千の兵に戦車と航空部隊を加えた大兵力を動員する。でも前回の敗戦で参謀本部には懸念があったのだろうか、作戦中止を説得するつもりだった。だがその前に、関東軍が独断で爆撃を敢行してしまう。こうして、第二次ノモンハン事件が始まった。攻撃は辻政信参謀が独断で命令を下したとされているが、帝国陸軍のそれまでのありようからすれば、ありえないことではなかったというよりも、むしろ想定された通りだったといった方が当たっているだろう。関東軍はおそらく、初めから終わりまで、ソ連軍の力を過小評価していた。だからこっちがちょいと本気を出せば、すぐにやっつけられると踏んでいたのだろう。生きるか死ぬかというような本格的戦争を彼らはたぶん想定していなかったし、そんな覚悟もなかった。謀略に明け暮れる関東軍の将校たちをみると、どうしてもそんな気がするのである。
最初の攻撃に失敗すると、関東軍はさらに兵力を増強して第二回の攻勢を仕掛けた。だが手ぐすね引いて待ちかまえていたソ連軍は、新型戦車を先頭に、我が方を大きく上回る戦力で反攻に出る。兵力装備ともに劣勢な日本軍はたちまち追い込まれた。ついに防戦一方となった日本軍は長期戦を覚悟するのだが、その矢先の八月、ジューコフ将軍指揮下のソ連軍が大攻勢をかける。彼らの前に、全軍がたちまち蹂躙された。一万五千の兵のうち一万二千人の死傷者を出したほどの惨敗であった。
でもハルハ河東側の国境線を確保したソ連軍は、それ以上には出てこなかった。圧倒的な勝利にも関わらず、停戦の条件も穏便なものだった。それを聞いた参謀本部稲田作戦課長をして、我が関東軍に比べ、彼には軍の装備も統制も著しい差があるのに、この処置は敵ながらあっぱれといわしめたと島田は付け加えている。どうでもいいことであるけれど、この部分が美談として書かれているのにはちょっと異論がある。私などには、むしろ稲田の精神の子供っぽさの表れとも読めるのだ。ソ連軍が停戦に応じたのは、圧倒的な軍事力を見せつけながら、先行きの不確かな長期戦を避けて決着を外交に委ねたということであって、状況を見て、戦争の一部である外交を使う大人の分別を備えていただけのことだろう。そうして、紛争の真相もまた藪の中と思われるのだ。島田によれば、満ソ国境紛争は一九三六年だけで二百三件もあったという。二日に挙げず起きていたことになる。それがいちいちどんな性質のものか知るよしもないが、まさか発砲騒ぎというものではないだろう。想像するに、それらは何でもないことなのだが、当事者がどう処置するかによって紛争になるかそうでないかが決まるのだろう。軍隊が対峙するとき、紛争はいつも、普段なら何でもないことが、突っ張ったある種の軍人の頭の中で起きる。真相は分かりにくいというよりも、むしろ綿密な検証と想像力によって初めて顔を見せる。秦郁彦の日中戦争の発端となった盧溝橋事件の研究(一九九六年)は、まず全体の状況そして偶然・思い違い・お互いの行き違い・謀略・国家意思などのすべてが入り混じった軍事紛争をできりかぎり解き明かした決定版といってもいい仕事であるが、それでも全貌がはっきりしたとはいえない。ただ私たちは、彼の研究を通して、紛争に関わった人たちの判断というか外交の駆け引きがやっぱり決め手だったということを知るのである。そうして、私たちは、盧溝橋のこの場面で否応なしに浮かび上がる異常な時代の異様な人物をまたしも見るのであった。太平洋戦争のインパールとガダルカナルで勇名をはせた牟田口と一木。
ノモンハン第二次事件の発端が師団長の敵進攻の電報だったことは先ほどいったが、その真相も分からないままだ。伝えられる第一次戦争の経緯が札付きの服部・辻両参謀の証言によるもので、その内容が信用ならないのはいうまでもないが、参謀本部が未曽有の敗北に終わった第二次の戦いに踏み切ったきっかけも、やっぱり同じくらいに不確かな現地の師団長の電報だった。敗けっぷりだけでなく、決定の過程や動機を見ても、この戦争の全体にわたって、参謀本部と関東軍が合理的判断などまったく顧みない組織であったことが浮かび上がってくる。 
降伏がない戦争
帝国陸軍が不敗だと言いだしたのはいつからだろうか。日清・日露でもすでにそんな気配はあったが、まだ絶対というわけではなかったと思う。
不敗が絶対のものと観念されるようになったのは、おそらく関東軍からである。彼らは「北向きの軍隊」といわれていたけれども、本当にソ連と戦争をやると覚悟を決めていたのだろうか。弱い相手との謀略戦争についてはやりたいだけやったくせに、幻の満州帝国同様、実地の大戦争となると関東軍もまた幻想の中を彷徨よっていただけではないのか。そうでなければ、ノモンハンであれだけ完璧にやっつけられてなお、誰も負けを認めようとしなかった理由が想像できない。戦さで降伏すべきとき降伏しないのはまことに異常なことだ。私は、昭和陸軍の歴史の中で、戦場での降伏という事実がかならずどこかに隠されているはずだと密かに疑っている。
とまれ、兵士たちがなすすべもなくソ連の戦車に牽き殺されながら、我が関東軍は戦争を止めなかったし、降伏もしなかった。昭和時代の私たちはそれを不思議なこととは思わなかったけれど、降伏がない戦争は、通常の意味では、戦争ではない。しかも、それは私たちの時代以外の日本人にとっての常識でもあった。負けるのも戦さのうちと割り切っていた戦国武将が、ときに相手を皆殺しにするのは、たいていは見せしめか戦略的な理由があってのことで、命を永らえるために降伏するのを不謹慎なことと信じていたからではなかった。でもその中で一つだけ、けっして降伏しなかった戦争がある。それがどれほど戦国武士や一般民衆にとって大きな衝撃だったかを、神田千里が一連の研究で明かしている。その戦争とは、キリシタンの島原の乱である。死ねば天国へ行けると信じたキリシタンは殺されることを厭わず、けっして降伏しなかった。神田は、乱鎮圧の総大将だった松平信綱がそんな相手にどんなに困惑したかを記す。
信仰の徒とはいえないけれど、関東軍の将校・兵士たちの心理を推し量ると、まさにそんなキリシタンの軍勢を連想してしまう。実は島原城に籠城した一揆民の中に、無理に連れてこられて、内心では大いに困っていた人がたくさんいたという。攻める幕府軍の呼びかけに応じてたくさんの人が、城から逃げ出して降伏し、許されて無事に家に帰ったのだった。ノモンハン事件の関東軍の兵士に中にも、機会さえあれば、逃げ出したかった人もたくさんいたと思う。神田の指摘を待つまでもなく、私たち日本人は一つの信念に凝り固まることを好まない傾向があると思っている。私たちの間では、自分とは異なる他の信仰や立場を一方的に排斥し、抹殺することさえ辞さない狂信的な人びとは一般に嫌われる。なにしろ私たちは、なぁなぁ主義の神仏習合を習いとする国の民なのだからね。
満州事変から始まる帝国軍人の戦争観というものは、内地の国民大衆もそうだったが、元来、毛色の変わった信念も立場もそのまま受け入れて、相手を追い詰めない心情が持ち味だった私たちの社会が、満蒙問題という侵略主義の呪縛にはまった異常な日本人のカタチだったといっていいのである。それは一九三〇年代に始まったのだが、太平洋戦争が終わる一九四五年まで解ける間がなかったのだった。 
謀略
戦さは謀略にまさった方が勝つ。それはいうまでもない。だが近代の国家総動員戦争ではそうはいかない。それに気がつかなかったわけではないだろうが、我が帝国陸軍は最後まで謀略でなんとかなると思っていたふしがある。
一九二八年石原莞爾中佐が関東軍作戦主任参謀として旅順に着任し、翌二九年に板垣征四郎大佐が高級参謀に就任して、満州事変謀略の幕が上がった。二八年に張作霖が殺された。その後は、孫文ゆかりの中国革命軍を率いる蒋介石の北伐、奉天軍閥張学良との間にいろいろのいきさつがあり、中国民衆の反乱、独立運動と、大陸の情勢もややこしく、その間に割り込んだ関東軍特務機関がいろいろと手管を弄して、何かあればすぐに軍隊を派遣して、漁夫の利を占めようと躍起になっている。謀略好きには堪えられない状況であった。その混乱を陰で操っていたのが、軍人でない駒井徳三を頭に戴く関東軍統治部という組織だった。その辺の経緯は私などの手に負えないので、鈴木隆史『日本帝国主義と満州一九〇〇〜一九四五年』(一九九二年)や島田の『満州事変』(一九六六年)などを見て戴くしかないが、最後の段階で、天才石原中佐が登場するのである。
一九二七年(昭和二年)の六月に、田中儀一首相が東京で東方会議を開いた。満蒙を日本の特殊地域として中国本土から分離し、武力によって日本の特殊権益を守るという国の方針がこの会議をきっかけに確認される。
ただ田中は、陸軍の独走に怒る昭和天皇との板挟みになって、軍隊を動かすふんぎりがつかない。結局、一九二八年六月四日、関東軍参謀河本大作大佐が手を下して張作霖を爆殺、皮肉なことに、それが田中内閣もいっしょに吹き飛ばしてしまう。もう誰のいうことにも聞く耳を持たない関東軍は、着々と準備を進めるのである。一九三一年(昭和六年)八月に関東軍司令官に着任した本庄繁中将は、外務省の意向などなんのその、軍事行動開始の指示を密かに示すのだ。九月一八日午後一〇時半、中国軍の仕業に見せかけて、柳条湖の満鉄線路が爆破され、直ちに関東軍は張学良の宿営北大営と奉天城を攻略、翌日には主要都市を占領する。おまけに、関東軍が吉林を攻めると、奉天方面の備えが手薄になったとして朝鮮方面軍の林銑十郎司令官は独断で越境、満州攻略に出陣する。世にいう「越境将軍」の名の起こりである。この暴挙で名を挙げた林はのちに総理大臣にまで出世する。その年のうちに大陸は完全に制覇された。
以上がたれも知る満州事変のあらましなのだが、その絵を描いたのが石原と板垣であった。こうして、戦国武将だってびっくりする謀略戦争は見事に成功した。そして成功してみれば、統帥権を一人占めする天皇でさえあえてそれに文句をいえる筋合いのものではなかったのだ。 
皇帝溥儀
一九三五年四月、満州帝国の皇帝溥儀は初めて日本を訪れて天皇家に手厚く迎えられた。でもそれは、軍部がすべてを演出して、満州皇帝はもとより日本の天皇までを完全にロボット化した瞬間だったと橋川はいう(『アジア解放の夢一九三一〜一九三七』)。
天津で亡命生活をしていた清朝最後の皇帝溥儀を、新しい満州帝国の王として担ぎ出したのは、関東軍奉天特務機関長の土肥原賢二大佐だった。
もちろん彼らは、毛並みが良くて、何でも言うことをきく操り人形の王様が欲しかっただけなのである。貴種として崇めていたわけでも敬っていたわけでもなかった。しかも外交というものを屁とも思っていなかった子供っぽい彼らは、それを無礼極まりないやり方で表わした。至高の地位に付けながら、軍人たちは招待した満州皇帝への表敬を断固として拒否するものだから、そうやって満州国を完全に属国と見せようと図った演出が、せっかく自ら接待した天皇の意志までも踏みにじり、日本国の天皇の権威をすっかりコケにしてしまう結果になった。ロボットになった天皇は、孤独な犠牲者同志かえって溥儀に奇妙な友情を覚えたのだろうか、親身になってもてなし、溥儀の方でもことのほか和んでいたという。でもそれは束の間のことにすぎなかった。溥儀は清王朝の末裔であるという誇りと信条を蹂躙され、軍の命じるままに、天照大神礼拝と三種の神器拝受という屈辱に耐えなければならない。ちょうどその時、天皇機関説の違法を問われた美濃部達吉が警察で尋問されていた。これらの事どもが事実かどうか私には確認するすべがない。でも、どれもが満州国というものの実態を見事に暴露していると思う。前の年一九三四年に溥儀が皇帝になったとき、関東軍とは別組織の八万三千の満州国軍はそっくり日本軍中央の指揮下に入っている。日本の軍人勅諭が渙発され、軍の統帥権は満州国軍を統率する天皇の名代である関東軍の手に置かれた。それは同時に満州国の政権もまた関東軍の手の中に入ったということでもあった。以後、関東軍参謀部第四課が満州国政府を強力に「内面指導」することになったからである。第四課の課長は片倉衷大佐であった。石原の手先となって、参謀として北満州を蹂躙した軍を指揮した人物である。 
総動員帝国満州
前に紹介した加藤陽子も訳者の一人であるヤングの『総動員帝国—満州』を読んでみよう。ある意味では当然なのだが、ヤングは日本研究では先輩にあたるジョン・ダワーと日本を見る見方がよく似ている。満州事変当時の日本社会のさまざまな動き・様相を事細かに、社会史の方法で描くのもそうなら、それらへの批判の口ぶりに至るまでそっくりなのである。そうしてそれは私にも大いに共鳴できり視点でもあるのだった。
彼女が事細かく描いた満州事変時代の日本社会のさまざまな現象を思い出すままに紹介したい。それらは目にしたたくさんの資料から彼女が書き写したものなのだが、もとより彼女の研究に協力した日本の研究者たちの何人かは私も親しんだ人たちなのである。それらはばらばらに見れば、一見世間によくありそうな、ただの流行りものめいた事柄には違いないのだが、それでも私は、著者が収集した事象の中に、この本を貫く一本の構想を見たように思った。出来事がただの出来ごとに終わらないように細工が施されているのだ。私がヤングを買うのはそこのところである。「帝国(満州も含めた日本トータル帝国のこと)のあらゆる機関を通じて、すべての構成員が、意志と目的が違ったまま、満州国プロジェクトに動員されたのであった。その意味で、満州の帝国建設は大部分が想像あるいは幻想の中にあった」と彼女は書く。
幻想と呼ぶにふさわしいさまざまな現象が日本国内に起こっていた。
一九三一年八月一八日、数人の軍人の謀略から始まった小さな戦争が満州の地に出現したとき、日本国内に軍事ブームが巻き起こった。それはマスメディアと大衆文化のお祭りだった。日本評論社、実業之日本社、平凡社、新光社などが一九三二年だけで満州に纏わる五百以上の本を出した。
その中でヤングは『陸軍読本』『海軍読本』『男装従軍記』『忠列爆弾三勇士・肉弾五勇士』といった題名を挙げている。戦死者の数があまり多くなく、国民の大多数にとっては身近に犠牲者がいなかったから、死の美化が容易だったのだろう。暴戻なシナ人を易々とやっつける日本軍の描写がそれに花を添えた。一九三一年には、早々と、大阪朝日新聞は「現在の軍部及び軍事行動に対しては絶対非難・批判を下さない」と宣言し、大阪毎日新聞は「シナ人の氏名に対しては敬称を用いない」と決定した。NHKは一九三二年に、満州に関する番組を百七十九本も放送した。与謝野鉄幹は「爆弾三勇士の歌」をつくり、奥さんの晶子は「日本国民朝の歌」を書き、軍人の英雄的な死を賛美した。日露戦争のときには反戦歌を書いていた晶子の心境の変化は、一九二八年に招待されて行った四十日間の満州旅行で見た植民者の姿に感動したからであった。満州国はまさに、八万人の戦死者と三十八万人の負傷者を出した日露戦争の埋め合わせだったのだ。日露戦争の軍歌「戦友」が復活し、その後ずっと歌い継がれることになるし、「満州行進曲」には日露戦争の勇士を讃える文句が挿入されている。「キング」「家の光」などの大衆雑誌は、毎号満州を「無限の宝庫」と囃し立てるが、そんな彼らに言わせれば、シナ人はその大切な生命線を日本人から奪い取ろうとする悪いヤツらにほかならない。国際連盟は脱退したが、西洋人への劣等感を拭いきれない日本人は、みんなシナ人が悪いので、殉教したイエス・キリストみたいに迫害される日本人のことは、いずれ国際社会だって悪かったと後悔する時が来るに違いないと強がってみせ、しかしその一方では、本当はやりたくない彼らとの戦争を覚悟し始めているのだった。
「日本もし戦わば」というのが論壇でお馴染みの話題になっていたが、そこには隠しても隠しきれない不吉な予感が潜んでいた。
満州での軍事行動拡大の原動力は、即席に政治権力や社会的地位を獲得することを熱望する人びとの利益に合致している限りで、彼らの中にその尽きざる源泉を見出した。大陸への進出と領土の拡張こそ我が日本の将来を安泰にするただ一つの道だというのがずいぶん前、たぶん二十世紀に入ってすぐから陸軍に沁みついた考えだったが、満州事変の過程で、それは日本国民全体の合意として形作られる。そうしてその時期こそ、帝国陸軍がときの内閣を凌ぐ強いリーダーシップを持つにいたった時なのであった。
昭和六年(一九三一年)、首相は若槻礼次郎、外相は幣原喜重郎だったが、彼らがよって立つ議会政治は、もう陸軍の言うことには何一つ逆らえなくなっている。九月二二日に開かれた閣議は、あっさりとウソで固めた軍の開戦状況の説明を鵜呑みにし、その経費の支出も承認してしまう。陸軍省から内閣に提出された関東軍の報告書には、満州事変はシナ軍が攻撃を仕掛けた結果だと述べているのだが、軍中央さえも、そうでないことを知っていながら、それをコトバ通りに信じるしかないありさまだったのだ。実はその前の日に、参謀総長はともかくも天皇に事の次第を上奏する予定だったのだが、すっだもんだの揚句、それも取り止めになっている。政府より偉い陸軍を取り仕切っているはずの将軍たちが頼りなくて、まったく出先の関東軍を抑えることができないのであった。
国民はもちろん、日本最大の組織であり、天皇の御旗のもとたれ憚ることのない権勢を誇る陸軍の言い分を鵜呑みにする。全国各地で満蒙確保の絶対的必要を認め、挙国一致して国防に努めるという決議が行なわれ、その趣旨を認めた請願が政府宛てに電報で連日のように送られてきていた。
東京帝国大学で行われたアンケートでは、満蒙を日本の生命線と見做すべきか、満蒙問題は軍事行動によって解決すべきかという質問に、九割の学生がイエスと答えた。陸軍はいわゆる陸軍パンフレットをしきりに発行して宣伝に努めるほか、全国に散らばる各連隊でいっせいに国防思想昂揚の講演会を開き、最初の一カ月で国民の二割にあたる六千五百万人以上がそれを聞いたという。平和を撹乱するシナ軍から満州を守る陸軍は、いつも受け身に徹して、ひたすらイジメに耐えてきたが、今国防に総力を振り絞って立ち向かわなければ、日本は滅びてしまうと訴える陸軍パンフレットに国民は燃え、新たに決意を固めるのであった。
その気持ちを表わそうと、国民みんなが献金をした。一九三三年には献金の一千万円で飛行機を七十六機も買い、各地名をそれぞれの機体につけたという。国防献金運動でトップを占めたのは朝日新聞だったが、労働組合だって負けていない。神野信一が率いる石川島造船労働組合では十万円の献金を集めて、東京日日新聞上で褒められたくらいである。労働者たちは揃ってそんな神野に心酔し、いまや共産党の労働運動は見る影もないありさまだ。一九三三年には、彼はメーデーに代わる愛国労働祭を立ち上げるのである。
戦争支援の最も力強い味方は女性たちだった。カフェの女給も花柳界の芸者たちもこぞって献金した。陸軍大臣荒木貞夫がとくに女性雑誌に寄稿して讃えるほどに、女性たちは進んで国防戦争を支える礎になったのである。一九三五年には国防婦人会の会員は百万に達し、市川房江も「これこそ婦人の解放運動だ」と叫んで指導者の一人に加わった。普通のサラリーマンの月給が百円に満たなかった不況時、仕事にあぶれた人がたくさんいた一九三四年に、彼女らが集めた血の滲むような献金は二百万円を超えたが、それは軍事費全体から見れば、わずか〇・〇八パーセントにすぎなかった。献金運動は、結局は象徴的なものでしかなく、英雄の家族支援や、お祭りや、栄誉を讃える出版物などに使われたのである。人気一番の戦争英雄の遺族には洪水のように支援金が寄せられ、彼らは一夜にして財産を手に入れた。「肉弾勇士への遺族の慰問金一万円突破」と一九三二年二月二七日の東京日日新聞が伝えているが、その母親たちは大阪本社に招待されてさらに一万円を手渡された。数はそう多くはなかったけれど、戦死者は盛大な儀式で栄誉を讃えられた。「これらの帝国主義的イデオロギーは軍事帝国主義の文化というべきもので、それが集まって政治的・社会的効果を国全体に及ぼして帝国の一体感を生んだ。大衆社会・大衆政治の形が民衆的帝国主義の形を出現させ、帝国のために国民総動員を可能にした」とヤングは述べている。
たくさんの日本人が満州に渡ってきて、新しい植民地を近代的ユートピアに創り変えた。内地では費用とかしがらみとかでとても実現しそうになかった野心的な計画を胸に、挫折したマルキストや知識人がたくさんやってきて、実際に満鉄に職を見つけて、理想的な植民地の設計に携わったのである。大々的な都市建設が進められ、軍事施設がぞくぞくと造られるかたわら、内地でもお目にかかれないような上下水道が整備される。鉄道と都市計画こそ満州近代化のシンボルなのだった。そうして、いうまでもなく近代化とは西洋化のことなのだから、出来上がった都市の姿は隅から隅まで西洋風だったのである。美しい道路、壮麗な公園、純西洋風の建物、ハイカラなデザインの記念碑、すべてのオフィスと住居に設置された水洗便所と、首都になった新京はまさに理想の近代都市だった。一九三四年(昭和九年)、満鉄は大連—新京—ハルビンを結ぶ特急列車アジア号の運行を開始する。首都新京まで所要時間八時間半、平均時速八二・五キロ、最大時速一一〇キロの新弾丸列車は、当時の内地のどの列車よりも速く豪華だった。
ハイカラな都市建築の展示場ともいうべき満州は、旅行者の憧れの的でもあった。一九一四年に日本交通公社(JTB)が支店を開設してからほどなく独立採算制になった大連支社は躍進を続け、一九三六年には、三百二十一人のスタッフを擁するまでになり、四一年には内地の本社を抜く千四百八人の規模にまで膨れ上がっている。満州旅行はブームだったのだ。でも参加費用はけっして安くはない。二週間のツアーで、一二四円九七銭から一八三円四三銭と下っ端サラリーマンの月給の二倍以上もしたのだ。とりわけ小説家仲間の間で大流行し、そこに目をつけた雑誌社の招待も混じって、競って朝鮮・満州旅行に出かけていき、旅行記を発表するのが流行作家の証みたいになっている。前に挙げた与謝野晶子もその一人で、名だたる夏目漱石の旅行記などは私も愛読したものだった。彼らはおしなべて高い評価を満州国に与えていて、満州を見聞することが、時局に明るい彼らの高い見識の一部を支えていたほどである。 
産業化の夢
満州はずっと開拓が遅れていたが、もともと肥沃な土地だったという。
農業に疎い女真族(満州族)らが住んでいたときは、農産物もわずかなものだったが、後で漢族がやってきて開拓を始めてから、大豆がこの地の特産物になっていった。満州を目指した我が開拓民も、まず日本に大豆を輸出して儲けるつもりだった。
それはともかく、満州を手に入れた陸軍が農産物だけで満足するはずはない。ここを日本防衛の基地にしようと目論む彼らは、鉱工業を大いに振興させる夢を描いていた。奉天を中心とする地域に、続々と石炭、鉄鉱石の鉱山が開かれ、鉄鋼業、紡績業、金属機械工業が興った。ただ残念なことに、軍人はあまりにも自惚れが強く、自分の思い込みに溺れ易くて、早い話が企業ということについて何にも分かってなかった。生半可な国家社会主義の知識に頼って、自由競争が看板の資本家と企業家を締め出し、自分たちだけで産業振興の事業をうまく運べると思っていたのだ。参謀本部作戦課長となり、ともかくも国策を操ることのできる、彼としては最高の地位に栄進した石原莞爾がつくった満州財政経済研究所の所長宮崎正義が満州五ヶ年計画を纏めたのは一九三六年で、これには商工省の岸信介が関わっている。この計画は日中戦争が始まった三七年に承認され、それに応じた形で、鮎川義介が満州に進出して満州重工業をつくるのである。
「資本主義は満州に入るべからず」などと突っ張っていた参謀たちも、本当は三井や三菱といった財閥の力を借りたかったのだ。だれかに資金を出させなければならない。日本から派遣された革新的な官僚たちが軍部と図って満州に国家統治経済体制を打ち立てるのには膨大な金が要り、その調達には最後はやっぱり資本家に頼らなければならず、自由競争と資本主義は締め出すといった手前、後でしまったと思っても、資本家の親玉である三井・三菱財閥にそっぽを向かれてはどうにもならない。結局、彼らは債権と借款という手段によって、国家の保証で資本家たちに金を出させるのである。こうして財界と関東軍はお互いに不満をもちながら協力したのだけれども、本音をいえば、経済開発によるおいしい果実への期待では、両者変わるところなどなかったのだ。満州侵略による対日ボイコットという打撃を受けていた繊維業界などは、もはや見栄も外聞もなく、乗り遅れまいと、みんな揃って大連産業視察団に参加する。そうして、それらを取り仕切ったのが財閥だった。日満統制経済に敵対するのはうわべだけで、裏では実業界と軍部は慣れ合っていた。やり方はどうあれ、転がり込んできたおいしい獲物を逃す手はない。事実、満州債はいくらでも売れた。満州国の内債が資金調達の八割を占め、それに応じて、満州中央銀行はどんどんお札を印刷する。
国策会社をつくれば資本主義の改革ができるという考えに変わりはなかったけれど、行き詰った国内企業の救済を満州進出に賭けていた実業界と軍部との思惑はやっぱりずれていたというしかない。石原は初めから満州に持っていく企業として、軍国化政策には迎合的であった新興財閥の鮎川を予定していたのだが、その前に、国家統制経済を満州で実践するには一業一社を徹底させて競争を排除する必要があるという前提があり、それには、いかに関東軍の想い者だとはいえ、あらゆる事業を抱え込んで自存する何でも屋の満鉄が邪魔になっていた。満鉄を解体して、国家統制主義を貫くためには鮎川が必要だった。官僚たちは、満鉄の重工業部門の資産を買収して、それを満州国出資として新会社満重に提供した。満鉄十一万従業員の誇りは打ち砕かれ、甥の岸からは何もしらされていたかった時の満鉄総裁松岡洋祐は激怒する。
でもそのおかげで、満州への日本の輸出額が何層倍にも増えた。重工業製品でいうと、一九三九年までに輸出額は十五倍の五億三千九百万円になったという。その反面、開拓の掛け声も空しく、農業生産は停滞し、大豆の輸入量は落ち込む一方である。半分は債権・国債といった国の保障によるリスクを伴わない軍部の開発プロジェクトとでもいうべき投資は、一九四一年までに実に五十六億六千万という額に達していたが、その投資額の源泉はやっぱり三井・三菱だった。満重などは、利益を官民半々、向こう十年間は六分の利益と元本の保証という親方日の丸会社だったが、国策会社はどこも大繁盛だったけれども、さすがに一九三〇年代の終わりには開発も行き詰まり、利益が出なくなってくる。戦争が重荷になって、前代未聞の軍主導による国家資本主義の実践も、太平洋戦争が始まり、総動員体制の楽観主義から覚めてみれば、資金は枯渇し、膨大なツケだけが残ることになった。 
一旗あげようと集まってきたあぶれものの群
植民地はいつもそうだが、満州にも一旗挙げようとやってくる人の群がある。とりわけ目立ったのが、軍人と官僚のほかに、技術者、シナ通の知識人たちで、その中には挫折したマルキストもたくさんいた。彼らはみなこの植民地を新しいユートピアに築き上げようようと夢見ていたのである。
たぶんこの気分が、一九三〇年代の満州に特有な異常さを作り出したのだろう。そして、前述したように、ユートピアに相応しい鉄道建設と都市計画が満州近代のシンボルだった。官僚や満鉄職員や大企業から派遣されたビジネスマンなど、そんな素晴らしい都市に住む人とたちはみんな、内地では及びもつかない高級な生活を楽しんでいた。これこそまさにあぶれものたちが夢想し、そこに集まった動機だったのである。
だが私は、そんなありふれた連中よりも、かれらの代表として、張作霖爆殺事件の犯人河本大作と大杉栄殺害事件の犯人甘粕正彦の二人を挙げる。
ともにたれ知らぬ者もない一九三〇年代の異様さを象徴する人たちだ。
兵庫県篠山の素封家の家に生まれた河本大作(一八八二〜一九五五年)は、軍隊にあっても並みの人ではなかった。金にあかせて、料亭などで遊びまくっていたという。一九一六年(昭和五年)参謀本部に配属され、一八年にシベリア派遣軍の参謀としてウラジオストックに赴任した。二三年参謀本部シナ班長、二六年大佐に昇進し関東軍参謀となる。二年後の一九二八年、張作霖が乗った列車を爆破して彼を殺した。事件を起こしたときの河本は、文字通りの確信犯である。彼は「張の没落は親政権の樹立に必要だ・・・新政権を開くには中国内部をまず崩壊させることで、そのために張作霖の殺害こそが切要」などと手紙に書いている。張の爆殺事件は日本政府に大きな衝撃を与えた。もちろん事件の真相は決して明かされなかったけれども、やった者についてはだれにも察しはついていたのだ。まず天皇が怒った。田中儀一首相は彼の怒りを宥めるために、この事件は軍が関与している可能性が強い、かならずや犯人を捜し出して軍法会議に掛けると約束するが、首相の約束は守られない。彼は、閣僚や軍に反対されると、軍法会議はおろか事件そのものを隠蔽してしまうのである。事件は行政処分で処理された。河本は停職となっただけで、予備役に編入されたあと引退。その後彼は実業界に入って活動する。犯罪歴はぜんぜん邪魔にならない。戦後、中国の戦犯として逮捕され、一九五五年(昭和三〇年)服役中の刑務所で死んだ。
仙台の名望家に生まれた陸軍憲兵大尉甘粕正彦(一八九一〜一九四五年)は、一九二六年(大正一五年)アナーキストの大杉栄一・伊東野枝と七歳の甥の一家三人を憲兵隊に連行して虐殺、死体を古井戸に投げ棄てた事件の首謀者として懲役十年の実刑判決を受け、千葉刑務所に収監されたが、恩赦によりわずか二年十ヶ月で仮釈放される。その後すぐフランスに留学、昭和二年から四年まで滞在していたが、その費用はすべて陸軍から出ていた。彼の伝記を書いた佐野真一は、甘粕事件はすべて陸軍が仕組んだ無政府主義者暗殺の謀略の一部であり、実際に手を下した者は別にいて、甘粕はその罪を一人でひっ被ったと推測している。それを裏付けるように、フランスから帰るとそのまま満州へ送られ、奉天の土肥原機関の一員として特殊工作に従事した。土肥原が溥儀を満州皇帝として連れ出した時には、その下で工作をした。スパイ活動のかたわら、阿片ビジネスのリーダーでもあった。岸や東条に可愛がられ、阿片でつくった金を彼らに渡していたという噂がある。満州建国の後、表舞台に現れ、協和会の総務部長になった。昭和一四年、岸信介が創った満州映画協会の理事長に就任、満州に渡った俳優や映画関係者の世話をして、彼らから大いに頼りにされた。俳優森繁久弥は、「甘粕先生は大きな夢を実現させることのみ念じた、私利私欲のない人だった」と褒めている。昭和二〇年八月ソ連軍が満州に進攻した十日後の八月二〇日、青酸カリを飲んで自殺した。
ここで、江口圭一が書いた『日中アヘン戦争』(一九八八年)から、満州の阿片事情を紹介しておこう。日本帝国主義は阿片を公然と取り扱い、商売にしていた。一八九七年台湾阿片令が公布されて、阿片はすべて政府の専売になり、その害毒を考慮して、二〇歳以上の特許を与えられた者に限って吸飲できるとされた。阿片を吸う習慣は関東州で盛んだったが、一九一五年(大正四年)以降、大連宏済善堂がその輸入と販売を任せられ、同時に特許権を与えられてから嗜む者が急増した。一九三〇年代の満州国の阿片政策は、専売制による抑制・禁止が意図されたのだけれども、事実上、無制限に公認されていた。麻薬中毒の害よりも、巨額な販売利益を維持する方が、その他に有望な商品がない満州産業の現状ではずっと大事なことだったのだ。一九四二年度の日本政府が後ろ盾になっていた満疆政権の特別会計の歳入は七千百十一万円だったという。そのほとんどが阿片からの収益だったが、その取引のぜんぶに一旗組のあぶれ日本人が絡んでいた。江口によると、日本の阿片ビジネスを仕切っていたのは、日本の首相が総裁、各大臣が副総裁を務める興亜院とその後身の大東亜省で、阿片の取引はすべてそこで立案され、指導され、国策として、展開されていったのである。後の総理大臣大平正芳が満疆政権の阿片売買に重要な役割を果たしていたことは、はっきり語られることはないけれど、知らぬ者はいない。
とまれ、私たちは満州でうごめくはぐれものの群れ、とくにその代表としての河本や甘粕の異様な人間像に、満州という異常な事件の殉教者の姿を見ないわけにはいかない。 
開拓移民
「日本の生命線」である満州に日本の農民を大量に送り込んで、「王道楽土」を創るという夢を実現すべく、一九三六年(昭和一一年)関東軍司令部は「満州農業移民百万戸移住計画案」という大型移民計画を発表した。
それは今後二十年で百万世帯、五百万人を移住させるという大計画だったが、その計画に乗って、実際に一九四五年の敗戦までに移住したのは三十万人にすぎない。それもいろいろと無理をしての話である。満州国の開拓などいくら夢の中の話だったといっても、それでも彼らが見た夢はけっこう長い。すでに一九一〇年(明治四三年)に、時の外務大臣小村寿太郎が二十年で百万人という大和民族満蒙大移動計画をぶち上げていたのだ。そうしてそれは、日露戦争に勝った日本がロシアに代わって満州を手に入れたご褒美でもあった。
一九〇五年(明治三八年)のポーツマス講和条約で、ロシアから日本は一銭の賠償金も取れなかった。人道主義を無視できない今でこそ珍しいことではないが、ついこの間まで、勝った方が負けた方から賠償金をとるのはしごく当り前な話だった。金庫も底をつき、これ以上戦争を続けるのは無理と政権指導者たちには分かっていたが、そんな事情を知らない、背負いきれない借金と犠牲を払ってやっと勝ち取った大勝利に酔う日本国民が、賠償金放棄に憤慨したのも無理はなかったのである。ポーツマス条約の全権代表だった小村はそのことで国民大衆からさんざんこきおろされた。でも彼らは満州を手に入れることには成功した。遼東半島(関東州)の租界権と南樺太の割譲、満州での鉄道守備のための日本兵の駐留などの権利を日本がロシアから肩代わりしたのである。もとよりそれはロシアから譲り受ける性質のものではなく、主権国の清が決めることなのだが、すでに死に体の清の都合が事前に確かめられることはなかった。すべては日本が清と交渉し、あとになって認めさせたのである。
日露戦争は日本とロシアが、自国から離れた清国の領土で、当の清国の都合など考慮せずに、利権を目指して争ったイギリスとフランス・ドイツの代理戦争だったという見方がある。それは莫大な戦費を賄いきれない日本はイギリスから、ロシアはフランスとドイツからそれぞれお金を借りて戦った戦争だからである。たしかにそういう面もないとはいえないが、植民地という獅子の分け前を取り合う西欧列強の面々は、目先の利益だけで相手構わず手を結ぶのが普通だったのだから、だれがどっちの後押しをしているなんてことは簡単には分からない。強いていえば、すでに植民地をたくさん持っている古つわものとこれから獲得に乗り出そうとする新興国の対立という構図が厳としてあるということだろう。その意味では、ドイツとロシアとごく新米の日本と英仏の対立という形に落ち着くはずだった。
でも力関係だけで動く自国中心主義の世界では、得さえすれば、手を結ぶその組み合わせはつねに行き当たりばったりなのである。だから日本とロシアとがお互いにあれだけ国民の命を犠牲にしながら、その結末に肝心の当事者の希望が叶えられることは少ない。果たして、講和条約にも双方を後押しする列強の意向が反映していて、日本は賠償金を我慢し、ロシアは満州を諦めることで決着したのだった。
代理戦争とまでは言わずとも、日本もロシアもお粗末な外交のあげく、おだてに乗って戦争に突入した。日本はどうやら勝ったけれどもすでに力を使い果たし、まだ手付かずの軍勢がたくさん残っていたロシアだって国民の政府への反感がこうも高まってしまってはにっちもさっちもかない。
列強が仕切る講和条約において、日本が満州を手に入れたのは上首尾というべきだった。翌年、ロシアから分捕った鉄道を利用した南満鉄鉄道の発足を見て、小村が国民向けに満州は我々の庭みたいなものだと見栄を切って移民計画をぶち上げた気持ちも分かるのである。
ただし満州事変に至るまで、関東州を中心に移住したのは二十万人あまり、それもほとんどが開拓とは無縁な人たちで、農業移民となると千人にも満たなかった。その計画自体に批判的だった矢内原忠雄(一八九三〜一九六一年)は、「関東州で日本人移民の農村を見たが、今は半分も残っておらず、それもみな負債に苦しんでいる。関東州の在住日本人の過半数は満鉄職員と役人だから、いずれも内地より生活程度が高い。それに似た生活を望めばいきおい移民たちの負担が重くなる道理だ。要するに農民移住に期待をかけることが無理なのである」といっている(橋川、前掲書)。矢内原が一九二〇年代に植民政策学者として出した結論は、我が国の植民地である朝鮮と台湾に自治を認めて、それを通して帝国日本を再編成しようとするものだった。だが優良な土地のほとんどすべてを内地人が握り、資産を取られた朝鮮人はみんな貧乏になってしまったという彼は、資本主義・帝国主義に基づく植民政策はすでに行き詰ったと考えざるをえない。イギリスの植民地を調べて、植民地に生じる社会問題(抗議・解放の運動)が必然的に社会主義化の方向に向かうという懸念を矢内原は抱いた。「植民政策は結局己に反抗する者を作り出すしかないのだから、参政権を与えられた朝鮮が独立国家となれば、それこそ我が植民地政策の成功であり、日本国の名誉になる」と満州事変のはるか以前に言っていたこのクリスチャンは、筋金入りの大正リベラリストだったといえる(住友陽文「大衆ナショナリズムとデモクラシー」『日本歴史講座9 近代の転巻』二〇〇五年所載)。
満州事変は、そんな開拓移住の風景を一変させた。一攫千金を夢見たあぶれものたちがどっと満州に押し寄せたのである。とはいえ、彼らはあぶくみたいなもので、組織化された移民とはいえない。いずれは消え失せてしまう。国策に沿った移住計画が必要であった。
国策と深く結びついた大陸移民を組織した二人の人物がいた。東宮鉄男と加藤完治である。石原莞爾の仲介で二人が奉天で顔を合わせたのが一九三二年。張作霖爆破事件にも一役買ったといわれる東宮の移民目的には、はっきりと満州国軍の支援、対露国防、治安維持が謳ってあって、早くもその年の内に閣議で彼が提案した移民案が可決されるのである。そうして、四百人を超える第一次武装移民団が送られたのだった。ロシア国境に近い吉林省佳木斯(チャムスク)の近くに先住民からタダ同然に買い上げた土地が、彼らの移住地に充てられた。ただし現地の受入れ態勢はまったく酷いものだったらしく、ノイローゼになる者が続出、五年の後には一五七人が退団して帰国してしまったという。でも東宮はなんとか残った人たちを宥め、指導して、最初の移民定着地とすることに成功した。それが理想の開拓地としてその名も高い「弥栄村」である。続いて第二次移民団が送られて、「千振村」が造られる。その他にも大和村とか瑞穂村とか、名前からしていかにも拵え物じみて胡散臭いのだが、いずれの開拓村の内情も、宣伝とは裏腹に、ご難続きだったようである。日本で募集された花嫁がそうとは知らずにやってきて、彼女たちを迎える東宮はたいへんご機嫌だったという。でもその甲斐もなく、一九三六年まで移民団に加わった入植者は、正確な数は分からないが、五千人に満たなかったと思われる。武装移民団と普通の移民団との区別ははっきりしないが、送り出した機関が関東軍絡みなら武装移民で、当然、配置されたのは危険な地域が多かっただろう。
事実、抗日ゲリラに襲われた村も一つや二つではない。一九三六年(昭和一一年)になると、前述した移民百万戸計画が発表され、同時に、民間の移民団を大量に送り込む装置である満州拓殖株式会社が創られた。一九三八年には満州国国務院の中に開拓総局ができ、短命な満州国限りでの区分であったが、竜江・浜江・三江・吉林・牡丹江の各省にそれぞれ開拓庁が設置されたのだった。いってみれば、国を挙げての移民団送り出しの活動だったのだが、それとともに「移民」の名が廃されて、「開拓民」と呼ぶよう改められた。三八年(昭和一三年)というのは、前年の日中戦争勃発を機に「国家総動員法」が可決施行された年である。そしてまた、青少年開拓義勇軍とか分村集団移民とか自由移民など、多様な開拓移民が政府に後押しされた形で続々と満州に渡っていった年でもある。東宮自身はその後日中戦争に従軍し、一九三七年に戦死している。
現地での指導者が東宮だったとすると、内地で移住民を送り込む活動をしたのが加藤完治(一八八四〜一九六七年)だった。肥前平戸藩主の血筋を引く加藤は、何よりもまず満州開拓青少年義勇軍という特異な組織の主催者として知られる。一九三四年九月に東宮と組んで吉林省に送り込んだ最初の十四人は、大和村と名付けた入植地で、寮生活をしながら、開拓と国防の任務についたのだった。橋川がその寮則を紹介している。「大大和民族の大使命を自覚せよ。天に二日なく地に二君なし。皇道以外は邪道なり。
大アジアの建設は日本が強くなり、正しく東亜を統一化するの日に成り、世界の平和は全世界を天皇陛下が統治し給う日に来る。満州国建設の大精神もまたここに存す」と。やたらに大の字が出てくるのには閉口するけれども、加藤がまれにみる大アジテーターだったことは間違いないようである。農本主義者加藤はもともと教育者で、一九二六年に日本国民高等学校という学校を創立、校長になった。満州国ができた一九三二年にはいち早く分校を奉天につくり、そこから義勇軍構想が生まれたのだった。国家総動員法が成立した一九三八年(昭和一三年)には、本校を茨城県内原に移し、満蒙開拓義勇軍内原訓練所と称した。十六歳から十九歳までの青少年で構成される義勇軍はまずそこに入って、訓練を受ける。加藤がそこで授けた教育は「やまとばたらき」と称する体操を毎日やらせるといった精神主義に徹した特異なもので、日中戦争の非常時が日常化していた時だからこそ、とんでもなく滑稽な風景といわれずに済んだのだろう。西も東も分からない貧しい農家の子供を、地の果てともいうべき満州に連れて行って、軍人でもないのに、武器を持たせ、御国の盾にしようとするのだから、発想そのものがすでに常識を外れている。
だが加藤はただのアジテーターではなかった。革新官僚とがっちり手を結んで、国策の一端を担う策士でもあった。大恐慌で行き場を失った農村の改革を目指す活動家たちが彼の話に乗った。彼の講習を受けて満州に渡っていった者も、初めはほとんどが大人だった。暮しに困った農民たちを満州という無尽蔵の新天地に送り出して余剰人口問題と不況問題を解決するために、国の資金が用意され、一九三〇年末(昭和十四年)までに合わせて三十万人以上の農民が満州に移住していったのである。移民に応じたのは長野県と山形県の農民が圧倒的に多かった。両県で満州移民の二割近くを占める。加藤が活動を始めたのも山形であった。三六年から三八年にかけては、開拓民計画のあの手この手のなかでも、分村計画というのが盛んだった。長野・山形の両県に多かったのだが、村単位で開拓民を募り、集団で移住した先に故郷と同じ名前をつける。これなら知った顔同士、見知らぬ土地に行く怖さもよほど減殺され、故郷の村ともいつまでも繋がりが保てるというものだ。しかも引率者はその村の役人か世話役から選ばれたのから、選ばれた当人にはずいぶん迷惑な話だったろうが、成果は大きかった。でもやがてそれも先細り、最後は成人が払底して、青少年ばかりになった。青少年義勇軍が満州開拓移民の主流になっていくのである。
大陸移民を日本帝国主義の特徴的な現象として総括するのが適切かどうかはさておいて、日本帝国の拡張と経済問題の解決策として国が挙げて関わったことは確かである。すでに二十世紀初頭に満州大移民政策が打ち出されていたことはいったけれども、それに呼応する形で、一九〇八年には朝鮮半島へ二百万人の移住を目指して半官半民の東洋植拓会社(東拓)が創設された。だが実際には、一九二六年までに朝鮮に渡った移民はわずか二万人で、それもほとんどが現地の農民から取り上げた土地に今度は彼らを労働者として雇う地主だった。東拓自身が十五万町歩をもち八万人の耕作民を雇う大地主だった。一九三二年に加藤らの呼びかけで満州移民が動き出すと、東拓と新たに創られた満州拓殖会社が入植者のあっせんでにわかに忙しくなった。それまでは、農村更生運動というのは、零細農民・小作農民の債務問題をどうするかが主題であって、債務放棄を地主たちが納得するはずもなく、とうてい解決の見込みのない問題の見本みたいなものだったのだが、国の援助資金を使って満州へ移住するという新しい案は、それを一挙に解決する魔法の方程式だったのである。そんなやり方は経済法則を無視しているという批判はいとも簡単に無視される。移民を前提に、小作人の債務には国の保障が与えられた。一九三六年に拓殖省がつくった「北満における集団農業移民の経営標準案」という文書があるという。そこには小作制度のない社会が描かれ、二十町歩の土地、開拓民一人に牛一頭、馬一頭、牝羊十頭のほかに納屋と馬車、農具などが支給されることになっている。開拓民は共同経営を行い、一村は三百戸で、農業機械と事務所を共同で使うことになっていた。その上に、自給自足体制が整うまでの三年間は政府負担で衣食住すべてを支給すると謳われている。まさに小作人のユートピアといえた。
でも陸軍と政府とアジテーターたちがつくり上げたそんな夢みたいなプランが実際に通用するわけはない。まず現地で自作農・自給自足・共同経営の三本柱がまったく機能しなかった。満州でもすでに中国人の農民が大部分の耕作可能な土地を所有し、そこに自由市場が存在し、土地風土に慣れない日本人がつくるよりもずっと安い値段で農産物を売っていたのだから、すでに新たな移住民開拓者が参入する余地などなかった。理想的な開拓村として日本中に知れ渡った千振村の場合、三八年から四八年の間、毎年二百万円の損失を出していて、その大部分が支払賃金だったという。弥栄村では必要物資の半分近くを自給できずに外から買っていて、その損失は国が穴埋めするしかなかった。それは農本主義というより底なしの福祉主義とでもいうべきもので、とうてい続けていけるはずがなかった。
一九七八年に出版された岡部牧夫の『満州国』は、満州国の全体図を記した戦後比較的早い時期に書かれた本である。その中で、著者は「一九三二年から四五年までに、三十万近い日本の農民が満州に移住したが、そのほとんどは自分の本意からではなく、周囲の空気に押されて海を渡り、結果的に悲惨な目に合った」といっている。すでに定説となっているといっていい満州の姿を記す本書から、繰り返しになるけれど、実態を紹介しておこう。四五年五月までに満州に渡った移民は三十二万一八七三人で、「帝国国防第一線の確保上絶対緊急に必要なこと・・・一旦有事のときは、敢然武器をもって起つこと」が関東軍統治部によって期待されていた。だからこそ、移民用地はみんな国が用意したのだった。一九三九年までに政府が用意した移住地は千六十八万ヘクタール(一ヘクタールは約一町)に及び、そのうち二百四万ヘクタールが既耕地であった。これは日本国内の耕地の三分の一に当たる。開拓民には十〜二十町歩の耕地が与えられたが、内地で貧農だった者にはそんな広い耕地は手に余るばかりで、ほとんどは地付きの中国人や朝鮮人たちを雇って作らせるか、小作に出すしかなかった。その労賃が払いきれないほど大きな負担になっても、形の上では、彼らはみな念願の地主になったのだ。千振村では、半分以上の土地を小作に出すのが普通で、三万を超す中国人がここで自前の農地を耕していたのであったが、日本人が来てからはみんな農地を取り上げられて小作人に転落してしまった。彼らが恨んだのは当然としても、日本人農民の方でも中国人に民族的な偏見を持っていたから、開拓地全体に抗日感情が広く深く渦巻き、共通の国民感情も友情も生まれるはずがない。
東北の中国人たちが当時を語った思い出を収録した本があって、ほとんどうろ覚えで、内容もあいまいではあるが、戦後の日本の研究者が知りえない部分をよく補う。西田勝・孫継武・鄭敏編『中国農民が証す満州開拓の実相』(二〇〇七年)と題されたこの本は、彼らが日本から来た青少年義勇軍に相当てこずらされた様子を垣間見せる。竜江省に鳥取県から入植した百五十人の青少年義勇隊には団長と配属将校がつき、いつも軍事教練をやっていて、彼らの目的が戦場の兵士の補充にあることが明らかだった。
団長は柳川といい、入植地に豪勢な家を建てた。その他に広島からやって来た二百人の開拓者もいて、彼らは二百ヘクタールもの土地を耕し、馬も機械も豊富に持っていたが、それはみんな本部から貸し与えられたものだった。しかも彼らはみんな耕作には素人で、満足な収穫も得られず、馬の飼料にも足りないありさまだった。それなのに彼らは米を作りたがった。
米も麦もすべて官給品で、彼らはそれを常食としていたが、中国人にはけっしてくれなかった。休みの日には女性は和服を着、病気になると本部にある衛生所で治療を受けた。小学校もあった。
さきに引いたヤングの本は、この岡部の本を参考にしているのだが、彼女が示すデータでは、一九四一年までに日本政府が満州で手に入れた土地は、全土一億四千万ヘクタールのうちの二千万ヘクタールだった。だがその内ですでに耕地だったのは三百五十万ヘクタールにすぎず、さらに千五百万ヘクタールの耕作地を買収したり没収したりしたという。買収はほとんどが強要によるもので、通常一ヘクタール五十円から百円だったものを十五円で買収したという。しかも、ちゃんと支払ったのはその半分にも満たなかった。一九四一年(昭和一六年)一二月の太平洋戦争の勃発が事態をさらに複雑にした。もう開拓どころではなかった。一九四三年になると戦局が悪化し、関東軍の一部が南方戦線に配置換えされる。開拓民たちは事実上無防備の状態になった。兵役免除のはずだった開拓民の男たちの現地招集が始まり、対ソ防衛と中国抗日ゲリラ向けに配備される。青少年義勇軍も二十歳になるとみんな召集されていった。一九四五年(昭和二〇年)にドイツが降伏した後、すでに戦闘力を失っていた関東軍は、満州の四分の三にあたる土地を棄てる。その外側の開拓民は「自殺するしかない」と役人が言い捨てるしまつだ。八月九日にソ連軍が侵入すると、一二日に政府は一般日本人を置き去りにして通化に逃げ出してしまうのである。一九五六年の調査では、敗戦時に満州にいた開拓民二十二万三千人のうちの六十三パーセントにあたる十四万人しか帰国できなかった。三分の一にあたる七万八千五百人が敗戦直後に飢餓や病気で亡くなっている。それは敗戦後に死んだ日本人の四十五パーセントを占める。
「総動員帝国日本」という視点に立ったヤングの本は、満州国をつくった条件を六つ挙げる。三〇年代初期の戦争熱狂期のバカ騒ぎ、陸軍を筆頭に満蒙問題に纏わる利益団体が軍事膨張の後押しをしたこと、帝国建設の夢物語、ユートピアへの最新型の進歩と使命感、日本人の優越性と開拓美談、劣等な中国人の善導と管理という日本人にとって気持ちのいいフィクションである。約めていえば、これこそ経済の国家統制を持論とする革新官僚と陸軍参謀たちが仕掛けたことであり、かつ彼らが踊ってみせた舞台の見せ場だった。でもそれは同時に悪夢でもあった。太平洋戦争が始まるころには、満州国はすでにはっきりと崩壊し始めていた。そうして、それこそ一九三一年に始まった小さい戦争の勝利が、日本を一九四五年の敗北へと導いたその不可避的な経過であり結果であったのだとヤングは最後に述べる。この結論に、私は全面的に賛成する。 
終わりにかえて
満州事変の失敗のツケを私たちは太平洋戦争で支払ったというと、不謹慎だといわれてしまうかもしれない。そうだとしても、戦争に負け、辛い時期を過ごしたあとで、民主主義を身をもって知った私たち日本人の大多数が、どこか重荷を下ろしたような、ほっとした気分で生きてきたのは確かである。
一九四五年八月の敗戦の時、満州にはどのくらいの日本人がいただろうか。一九四二年(昭和一七年)に百十五万人ほど住んでいたというから、百万に近い日本人がいたはずで、これには関東軍の兵士は含まれていないだろうが、それでも「王道の楽土」建国の意気込みからすればずいぶん少ない。それに引き換え、中国人は四千万もいた。戦後の一九六〇年ころの中国東北地方の人口は三千四百万だったというから、日本人がいなくなった後、すっかり寂れてしまったわけではなさそうだ。日本の植民地開拓が頓挫しても、彼らにとってはあんまり関係がなかったのだろう。ちなみに肥沃な東北地方の面積は約百万平方キロほどもある。この百万平方キロの植民地を失ったアジア・太平洋戦争の埋め合わせを私たち日本人が企てることはもうあるまいと私は信じる。日清戦争からこの方、海外侵略にかけては私たちもずいぶんと気張ってやってきたのだが、でもその侵略実行に腰が据わっていなかったというか、不正義に決まっている侵略に徹する国家としては外交が甘く、驚くほど準備も足りなかった。秀吉の朝鮮征伐から太平洋戦争まで、掛け声と謀略だけで何とかなると思っていたらしい私たちは、攻めるのは如何にも速いが、その後、腰を落ち着けて守り切る戦略を持たないのであった。まるで失敗を初めから予期していたように、私たちは慌てて事を運ぶ。手の内を出し切った後、やったことの辻褄を合せることばかりに拘って、その後をどうするかに考えが及ばない。その典型が満州事変と日中戦争であった。
最後の戦争からもう六十年以上が経って、私たちも、自分たちの持って生まれたご都合主義というか、原理原則にどこまでも拘ることがない性格が、相手を征服する場合でも、ともに天を戴かざる敵として皆殺しにしてしまい、残らず分捕ってしまう行き方は自分に似合わないというか、手に余るということをようやく思い出したらしい。大好きな謀略の範囲ではずいぶん不人情に振る舞っても、見知った相手はとことん追い詰めないように、他人にも寛容であるという伝統が私たち日本人の意識の中には生きている。相手に不意討ちをかけるその前に、まずみんなで心を合わせていっしょにやっていけるかどうか値踏みする。そんなやり方が良かったかどうかをいう前に、この狭い島で、その伝統が私たちの社会共同体を育んできたという事実をまず確認しておきたい。
ここでちょっと寄り道をする。私は一冊の古い岩波新書を大切に持っている。昭和三十二年版の中島健蔵『昭和時代』である。この本を私は史書として評価しているわけではないが、私よりもほぼ三十年年長で、大正から昭和の時代を体験したフランス文学者の述懐が、若輩の我が身にも強く響いたからだった。ある意味では、一九三〇年代に子供だった私はこの時代の出来事からは免責されているといえなくもないけれど、中島はそこにどっぷりと浸かり、まさにそのことをこの本に書いているのだった。
昭和一〇年(一九三九年)前後の思い出話。細かいことまで口を出す軍人に翻弄される教学刷新評議会と彼が会長をしたペン倶楽部のことなど。戦時統制の下、「国体明徴」を信奉することがあらゆる人に求められ、社会から追い出されたくなかったら、全員がそれに合意する必要があった。「国体明徴」とは、「大日本帝国は万世一系の天皇天祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ我が万古不易の国体なり。この大義に基づき一大家族として億兆一心聖旨を奉体しよく忠孝の美徳を発揮す云々」(教学刷新に関する答申)とされるのが、それである。当時のさまざまな答申、決議、実施項目などを縷々と引用したあとで、「国家権力が全面的にその方向に動き出して、組織的な活動を開始している。官僚各自は必ずしも狂信者ではなかった。しかし、例外なく、彼らは職務として疑わしい違反者を摘発しなければならない。そうでないと自分自身の身が危うくなった・・・多かれ少なかれ一種の催眠状態におちいりながら、覚めた部分が残っている人間は覚めた半分の苦悶を味わっていた」と中島は書く。官僚だけではなかった。それ以上に、学者もまたその「覚めた半分の苦悩」を痛切に感じている。その中には、中島自身はもとより、「世界歴史の舞台から離れて何千年来孤独的に発展した日本も、たとえ神話の如きものでも理論的内容を蔵したものとして、矛盾的自己同一へと発展し来たったのである。しかし何処までも皇室を中心として自己同一を保ってきたところに我が日本精神というものがあった」と、妙ちきりんなリクツをつけて、あいまいな言い方で書くことを余儀なくされた西田幾太郎だって入っている。
『昭和時代』が当時そこに巻き込まざるをえなかった大部分の日本人の苦しさ・苛立たしさを率直に書いていることに、私たちは共感を覚えるのである。満州事変のことを書きながら、私はいつも中島のこの本が念頭にあった。私たちの心の半分は、いつも事無かれ主義でもなければ、侵略戦争を肯定していたわけでもない。実際、侵略戦争の言い訳をこれくらい熱心かつ組織的にやっていた民族は少ないのではないか。ウソにせよ私たちは、満州へ行くのに、これは正しい日本精神の発露だと自分に言い聞かせなければ一歩も踏み出だせなかった。
これは結論でも何でもないけれど、私たちには侵略戦争は似合わない。
手に余る。西洋人のように、永年の世界制覇で培った心理から、ある程度自分はワルだと自覚していれば、植民地獲得だって外交的にもっとうまくやれたのだろうが、私たち日本人はそうはいかない。朝鮮と台湾は植民地にしたけれど、いろいろな情勢に負けて、満州は植民地なのに独立国という建前にせざるをえなかった。西洋人は、二十世紀の世界ともなれば、植民地だって住民に主権を保障し、いずれは独立国として認めてやらずばなるまいと見通しをつけていただろうが、その辺りの呼吸が、デモクラシーに疎い日本人とくに軍人にはさっぱり通じないのだ。せっかく国家を建てながら、その当人が君主あるいは独裁者になることもなく、代官に収まることで満足してしまう。あるいは住民を主役に据えるつもりだったのなら、国民主権はおろか国籍まで頬被りでいるのは、これはもうお話にならない。
そんなおツムで近代侵略戦争を実行しようというのでは、はなから失敗が約束されていたというしかない。国籍もない、自分のカネを投じたわけでもないお仕着せ開拓移民に、愛国心とまではいかずとも、執着心でも期待するのはする方が無理である。現に彼らは、ソ連軍が侵入してきたとたん、自分の土地を守って踏みとどまろうとする者が一人もなく、クモの子を散らすみたいに故国に逃げ帰った。逃げ切れないと観念した者は自殺するしかなかった。
私たち日本人には、同じ民族のよしみで、親兄弟、親戚、お隣ご近所など、少なくとも知り合い同士だけは事を荒立てずに仲良くやっていこうという知恵がある。少し範囲を広げれば、頼りにできるムラ社会とか、地域共同体とかいうものになって、意見を異にする人びとも排斥せず、信仰についてさえも、お互いに折り合い、助け合っていくシステムが長い間に出来上がったのだろう。もちろん例外はいくらもある。その一つが、キリシタンだった。共産党と無政府主義者もそうなら、絶対に降伏しない軍隊というのもそうである。日清・日露の戦争までは、将軍たちだってまだ天皇の軍隊は絶対に降伏しないとまでは言わなかった。でもそれから二十五年を経て始まった総動員体制時代の特徴は、軍人だけでなく、まさに国民ぜんぶがそのように信じ込んでいたことにある。明治維新に始まった近代国家が西洋化しきれなかった部分が「国体明徴」だったとすれば、その行きついたところに、満蒙問題があった。この国でいちばんの権勢を誇る帝国陸軍の「内面指導」のもと、私たち国民が、それまで想像したこともない異様な思想を振りかざして戦争をやったのが一九三〇年代だったと思う。
それこそ、日本人が途方もないツケを払わざるをえなかった満州国という「ボクたちの失敗」だった。 
 
軍人勅諭と戦陣訓

 

 
陸海軍軍人に賜はりたる勅諭 (軍人勅諭)  
陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)
我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
一 軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし
一 軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
一 軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閑にな思ひそ
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
明治十五年一月四日  
現代語訳
わが国の軍隊は代々天皇の統率したまう所にある。昔、神武天皇みずから大伴物部の兵たちを率い、国中の帰順せぬ者どもを討ちたいらげ、皇位につき天下を治められてから、二千五百年余りを経た。この間、世の移り変わりに従い、兵制の改革もまたしばしばであった。古くは天皇がみずから軍を率いられる制度であり、時には皇后皇太子が代ることもあったが、およそ兵権を臣下に委ねることはなかった。中世に至り、政治軍事の制度をみな唐にならわせ、六の衛府を置き左右の馬寮を建て、防人などを設けて兵制は整った。しかしうち続く平和になれ、朝廷の政務もしだいに文弱に流れたため、兵と農はおのずから二つに分かれ、古代の徴兵はいつとなく志願の姿に変わり、ついには武士となった。軍事の権限は、すべて武士たちの頭領である者に帰し、世の乱れとともに政治の大権もまたその手に落ち、およそ七百年のあいだ武家の政治となった。世のさまの移りでかくなったのは、人の力では挽回できなかったともいえるが、それはわが国体に照らし、かつわが祖先の制度に背く、嘆かわしき事態であった。
時が下って、弘化嘉永の頃から徳川幕府の政治は衰え、あまつさえ外国との諸問題が起こって国が侮りを受けかねない情勢が迫り、わが祖父仁孝天皇、先代孝明天皇をいたく悩ませられたことは、かたじけなくも又おそれ多いことであった。しかるに朕が幼くして皇位を継承した当初、征夷大将軍が政権を返上し、大名小名は版籍を奉還した。年を経ずに国内が統一され、古代の制度が復活した。これは文武の忠臣良臣が朕を補佐した功績であり、民を思う歴代天皇の遺徳であるが、あわせてわが臣民が心に正逆の道理をわきまえ、大義の重さを知っていたからこそである。そこでこの時機に兵制を改め国威を輝かすべしと考え、この十五年ほどで陸海軍の制度を今のように定めたのである。軍の大権は朕が統帥するもので、その運用は臣下に任せても、大綱は朕がみずから掌握し、臣下に委ねるものではない。子孫に至るまでこの旨をよく伝え、天皇が政治軍事の大権を掌握する意義を存続させ、再び中世以降のように、正しい体制を失うことがないよう望む。
朕は汝(なんじ)ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。国の威信にかげりがあれば、汝らは朕と憂いを共にせよ。わが武威が発揚し栄光に輝くなら、汝らは朕と誉れをともにすべし。汝らがみな職分を守り、朕と心を一つにし、国家の防衛に力を尽くすなら、我が国の民は永く太平を享受し、我が国の威信は大いに世界に輝くであろう。朕の汝ら軍人への期待は、かくも大きい。そのため、ここに訓戒すべきことがある。それを左に述べる。
一 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。我が国に生をうける者なら、誰が国に報いる心がないことがあろう。まして軍人となる者は、この心が固くなければ、物の役に立つとは思われぬ。軍人にして報国の心が堅固でないならば、いかに技量に練達し、また学術に優れても、なお木偶(でく)人形にひとしいのだ。隊伍整い規律正しくとも、忠節の存在しない軍隊は、有事にのぞめば烏合の衆と同じである。国家を防衛し、国権を維持するのは兵の力によるのであるから、兵力の強弱はすなわち国運の盛衰であることをわきまえよ。世論に惑わず、政治に関わることなく、ただ一途におのれの本分たる忠節を守り、義務は山より重く、死は羽毛より軽いと覚悟せよ。その志操を破り、不覚をとって汚名をうけることのないように。
一 軍人は礼儀を正しくすべし。軍人は上は元帥から下は一兵卒に至るまで、階級があって統制に属すだけでなく、同じ階級でも年次に新旧があり、年次の新しい者は、古い者に従うべきものだ。下級の者が上官の命令を受ける時には、実は朕から直接の命令を受けると同義と心得よ。自己の所属するところでなくとも、上官はもちろん年次が自己より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くすべし。また上級の者は下級のものに向かい、いささかも軽侮し傲慢な振るまいがあってはならぬ。公務のため威厳を主とする時は別、そのほかは努めて親密に接し、慈愛をもっぱらに心がけ、上下が一致して公務に勤めよ。もし軍人たる者で礼儀を破り、上を敬わず下をいたわらず、一致団結を失うならば、ただ軍隊の害毒であるのみか、国家のためにも許しがたき罪人である。
一 軍人は武勇を尊ぶべし。武勇は我が国において古来より尊ばれてきたところであるから、我が国の臣民たるものは、武勇なくしてははじまらぬ。まして軍人は戦闘にのぞみ、敵に当たる職務であるから、片時も武勇を忘れてよいことがあろうか。ただ武勇には大勇と小勇があり同じではない。血気にはやり、粗暴に振るまうなどは武勇とはいえぬ。軍人たるものは常によく義理をわきまえ、胆力を練り、思慮を尽くして物事を考えるべし。小敵も侮らず、大敵をも恐れず、武人の職分を尽くすことが、まことの大勇である。武勇を尊ぶ者は、常々他人に接するにあたり温和を第一とし、人々から敬愛されるよう心がけよ。わけもなく蛮勇を好み、乱暴に振舞えば、果ては世人から忌み嫌われ、野獣のように思われるのだ。心すべきことである。
一 軍人は信義を重んずべし。信義を守ることは常識であるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも隊伍の中に加わっていることが難しい。信とはおのれの言葉を守り、義とはおのれの義理を果たすことをいう。従って信義を尽くそうと思うならば、はじめからその事が可能かまた不可能か、入念に思考すべし。あいまいな物事を気軽に承知して、いわれなき係わりあいを持ち、後になって信義を立てようとしても進退に困り、身の置き所に苦しむことがある。後悔しても役に立たぬ。始めによくよく事の正逆をわきまえ、理非を考えて、この言はしょせん実行できぬもの、この義理はとても守れぬものと悟ったならば、すみやかにとどまるがよい。古代から、あるいは小の信義を貫こうとして大局の正逆を見誤り、あるいは公の理非に迷ってまで私情の信義を守り、あたら英雄豪傑が災難にあって身をほろぼし、死後に汚名を後世まで残した例は少なくない。深く警戒しなくてはならぬ。
一 軍人は質素を旨とすべし。およそ質素を心がけなければ、文弱に流れ軽薄に走り、豪奢華美を好み、ついには貪官となり汚職に陥って心ざしもむげに賤しくなり、節操も武勇も甲斐なく、人々に爪はじきされるまでになるのだ。その身の一生の不幸と言うも愚かである。この風潮がひとたび軍人の中に発生すれば、伝染病のように蔓延して武人の気風も兵の意気もとみに衰えることは明らかである。朕は深くこれを危惧し、先に免点条例を施行してこの点の大体を戒めた。しかしなおこの悪習が出ることを憂慮し、心が静まらぬため又この点を指導するのである。汝ら軍人は、ゆめゆめこの訓戒をなおざりに思うな。
右の五か条は軍人たらん者は、しばしもゆるがせにしてはならぬ。これを行うには誠の一心こそが大切である。この五か条はわが軍人の精神であって、誠の心一つは、また五か条の精神なのである。心に誠がなければ、いかに立派な言葉も、また善き行いも、みな上べの装飾で何の役に立とうか。誠があれば、何事も成しとげられるのだ。ましてこの五か条は、天地の大道であり人倫の常識である。行うにも容易、守るにも容易なことである。汝ら軍人はよく朕の教えに従い、この道を守り実行し、国に報いる義務を尽くせば、朕ひとりの喜びにあらず、日本国の民はこぞってこれを祝するであろう。
 
戦陣訓 1

 

1941年1月8日に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。
示達と流布
背景
当時、中国戦線では戦況が膠着状態に入ったことにより、将兵の士気は落ち、放火、掠奪、強姦が問題となった。軍紀建て直しの必要性を感じた陸軍は、「焼くな」「盗むな」「殺すな」の「三戒」を徹底させ、規律ある軍人となるような方法を模索していた。そこで、「戦陣訓」というかたちで、軍規を徹底させることを主眼においており、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節のみが主旨であったわけではない。当時の陸軍大臣であった畑俊六が発案し、教育総監部が作成を推進した。当時の教育総監であった山田乙三や、本部長の今村均も関わっている。国体観・死生観については井上哲次郎・山田孝雄・和辻哲郎・紀平正美らが参画し、文体については島崎藤村・佐藤惣之助・土井晩翠らが参画している。
戦陣訓の浸透
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。軍人への浸透のため、陸軍省は『軍隊手牒』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。翌1942年の版からは軍隊手牒に印刷することとした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。
『戦陣訓』の軍隊内部への浸透を示すものとして、「奉読することが習慣になっていた」という再評価・調査報告や同様の体験談がある一方で、『軍人勅諭』は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかった事例も見られ、浸透の程度は不均一であったと言えよう。ただし、丸暗記を否定するものでも、戦陣訓の内容は理解していることが当然とされていた。東條英機と対立していた石原莞爾陸軍中将(『戦陣訓』発令の同年8月東條により罷免され予備役)は、1941年9月には著書で『戦陣訓』の重要性を力説していながら、「軍人勅諭を読むだけで充分」と部下には一切読ませなかったという説がある。しかし、玉砕戦において自決した諸将兵は死んでいるために彼らの『戦陣訓』に関する正確な詳しい証言は得ることができない。
昭和18年、中支の戦場において『戦陣訓』を受け取った、のちの戦記作家・伊藤桂一(当時・陸軍上等兵)は一読したあと 「腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。「戦陣訓」は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」を抛(ほお)つたのは、実に激しい羞恥に堪えなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。」と証言している。
○平成20年新潮文庫 兵隊たちの陸軍史 伊藤桂一著
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。なお、現在でも陸上自衛隊中央音楽隊による演奏の行進曲「戦陣訓」(発売:日本クラウン)がある。
「生きて虜囚の辱を受けず」
一部では、太平洋戦争中で発生したとされる日本軍の所謂バンザイ突撃と玉砕(=全滅)、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
本訓其の二第八「名を惜しむ」の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を題材とした小説や映画・ドラマなどで日本軍の人命軽視の行動を否定する際に引用されることも多い。戦時中は例えば戦国時代に「生きて虜囚の辱を受けず」を実践した人物をモデルとして映画法による国策映画『鳥居強右衛門』(日活1942年)が作られ、この一節は推奨されていた。
ただしこの一文は「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の一部を引用したものであり、全文では無い。「生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし」で知られる「第七 生死観」につづくもので、全文は以下の通りである。
○恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ / 『戦陣訓』「本訓 其の二」, 「第八 名を惜しむ」
以下、解釈が分かれているので両論並記とする。(ただし、2番目のものは現時点では論拠が不明な個所が多く、事実性・信頼性は低い。)
1. 「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」という意味である。戦陣訓で示された規範については『軍人勅諭』の内容とほぼ同じであるが、『国史大辞典』は「生きて虜囚の辱を受けず」の徳目を例にあげて「(軍人勅諭)を敷衍するための説明であるという態度をとっているが」、「新たに強調した徳目も多い」としている。しかし、菊池寛は「これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。」と「話の屑籠」(1941年(昭和16年)『文藝春秋』に連載)に記していることから、当時はその解釈についてはさまざまであった。当時は単に『軍人勅諭』の施行細則とのみ意識し、「新たに強調した徳目」に気づかぬ者もいたのである。
2. 「軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになったり、同郷の者や故郷の家族から面目の立たないことになるのであるから、そういった軍人として恥ずべき行いはやってはいけない。」という意味である。今日では戦陣訓自身を再評価しようとする研究家・歴史家や、戦陣訓の絶対性を否定する研究者も存在する。
降伏・投降の否定の思想
日本兵の降伏拒否や自決は、『戦陣訓』が示達される以前から発生しており、『戦陣訓』によって日本軍の玉砕や自決が強制されたようになったとは考えにくいとする意見もある。例えば、日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋は、日清戦争における清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令(これが「生きて虜囚の辱を受けず」の原型であろうとの指摘もある。この点については渡洋爆撃#不時着時の悲劇も参照。)や、俘虜の待遇に関する条約(ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理由とのひとつとして、軍部による「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発した例が有る。以上のように、「捕虜になれば敵軍によって残虐な扱いを受ける」ということが特に日清戦争において発生したため、日本軍において「捕虜になるくらいなら自決したほうがましである」という思想が出た一因であるという意見もある。
俘虜と家族の運命
太平洋戦争中の日本兵は、捕虜となることは不名誉されることが多かったが、それ以前は特にそのようなことはなかった。
○1941年12月8日真珠湾攻撃時の俘虜となった日本兵の家族への扱い
太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった酒巻和男海軍少尉(海軍兵学校卒)は真珠湾攻撃で、特殊潜航艇に艇長として搭乗した。しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられた。大本営は傍受したVOAの報道から捕虜第1号の存在を初めて知り、同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した(大本営発表)。酒巻の家族は人々から「非国民」と非難された(酒巻和男『捕虜第一号』新潮社、1949年)。そして、それ以後捕虜になった者たちは親族が「非国民」とされるのを恐れ、偽名を申告し、ジュネーブ条約に基づいて家族に手紙を出すようなことも控えることが多かった。結果、その者達は“未帰還”(戦死またはMIA)となった。
戦陣訓と軍機漏洩
日本軍は兵士が捕虜になることを想定せず、捕虜となった場合にどうふるまうべきかという教育も一般兵士に施さなかった。日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を容易く話したため、これが問題となり、以降「捕虜になっても敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底されたという。真珠湾攻撃の際に捕えられた酒巻は海軍兵学校出の将校であったため機密を漏らすことはなかったが、一般兵士はいったん敵軍に捕えられてしまうとどうふるまうべきかを知らなかった。1942年、アメリカは日系二世兵士を中心とするATIS(南太平洋連合軍翻訳尋問部隊)を組織し、捕虜や日本兵の陣中日記から日本軍の情報を割り出していった。捕虜から情報を引き出すには、手厚い待遇が功を奏したが、同時に「捕虜の本名を日本に伝える、という脅し方」も有効であったという。
戦陣訓と玉砕
『戦陣訓』は複数の戦場において、玉砕 を命令する際の命令文中に引用されている。(以下抄録)
○アッツ島玉砕
1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令 / 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり / なお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷萩報道部長の談話)
○サイパン島玉砕
1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一中将、「サイパン島守備兵に与へる訓示」 / サイパンの戦いにおいて総切り込みの行動開始時刻決定の際に以下の発表を行った。「断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受**けず』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生きるを悦びとすべし。」この結果、戦死約21,000名、自決約8,000名、捕虜921名となった。そして南雲自身も自決したと伝えられている。(サイパンの戦い参照。サイパン島の民間人についてはバンザイクリフ参照。)
○沖縄戦
沖縄戦では日本軍将兵による沖縄県民への集団自決強制が為され、結果、座間味島では少なくとも島民130人が死に追いやられたとされる(2008年3月28日最高裁判所『沖縄ノート』名誉毀損訴訟判決)。このように、投降を拒否する考えを示すために、わかりやすい表現の一つとして『戦陣訓』が引用されていたことは事実である。さらにアッツ島の玉砕においては、軍属に対しても投降拒否の考えに従うことが命令されている。
また、上記命令が海軍中将から発令されていること、新聞紙上の見出しとして使われていることからも、陸海軍、民間を問わず『戦陣訓』の存在は広く知られていたことが再確認できる。
戦陣訓と軍法との関連性
当時の陸海軍の軍法においては、「敵ニ奔リタル者」を罰する逃亡罪の規定(陸軍刑法77条)や、指揮官が部隊を率いて投降することを罰する辱職罪の規定(陸軍刑法40-41条)が存在した。他方、捕虜となることそのものを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在しなかった。しかし、戦陣訓は勅命と解釈されたため、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われていた。ただ、軍法において捕虜となる権利が否定されることは無かった。当時の大日本帝国憲法下の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。しかし、戦陣訓が一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であり、立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることが明白であったにもかかわらず、当時の軍部にはそのような法制度の認識は無かった。
 
戦陣訓 2

 

(日中戦争の長期化で、軍紀が動揺し始めた昭和16年(1941)1月8日、東条英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的に公布した具体的な行動規範。戦後、悪の代名詞みたいに言われましたが、特に「生きて虜囚の辱を受けず」の部分が明確に降伏を否定しているため、これによって多くの兵士が無駄死にしたとされます。)
陸訓第一号
本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
昭和十六年一月八日  陸軍大臣 東條英機 

夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘並に練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に促はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。 
本訓 其の一
第一 皇国
大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
第二 皇軍
軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。
第三 皇紀
皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。
第四 団結
軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。
第五 協同
諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。
第六 攻撃精神
凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。
第七 必勝の信念
信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。 
本訓 其の二
第一 敬神
神霊上に在りて照覧し給ふ。心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。
第二 孝道
忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。
第三 敬礼挙措
敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。
第四 戦友道
戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。
第五 率先躬行
幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざけば下必ず紊る。戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。
第六 責任
任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。
第七 生死観
死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
第九 質実剛健
質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。
第十 清廉潔白
清廉潔白は、武人気質の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物慾に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。 
本訓 其の三
第一 戦陣の戒
一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
二 軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
五 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。
第二 戦陣の嗜
一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。
三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹を愛護せよ。
五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。国際の儀礼亦軽んずべからず。
九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。 

以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。戦陣の将兵、須く此趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。 
 
「戦陣訓」の起草

 

白根孝之中尉こそ、1941(昭和16)年、東条英機陸相によって発せられた「戦陣訓」の起草者なのである。
「たいがいこれで良いと思う。あとは文章だな。御苦労だが、島崎藤村先生に見てもらってください」今村均中将から命じられた。
南寧の第五師団長から教育総監部本部長に転任した今村は、かねて「戦陣訓」の作成に携わっていた白根孝之中尉らの研究提案の下、和辻哲郎、井上哲次郎ら倫理学者、哲学者の意見も訊いた上で、原案をとりまとめたのである。出発は、支那事変であった。日清、日露での戦場でも多少の不祥事はあったが、事変では桁違いの非違犯行が、発生した。
上官暴行、戦場離脱、放火、強姦、掠奪……。一部では、軍紀が弛緩し収拾がつかない有様になっていた。軍法会議にかけられた者だけでも数万に及んだ。そのため教育総監部は、軍人勅諭を補足する道徳訓を造ろうとしたのである。
はじめは士官学校出身者のみで作成しようとしたが、それでは多様な召集兵には対応できない。上層部の判断で、九大哲学科で教育学を専攻、高等師範で教鞭を執った経歴をもっていた白根が前線から呼ばれたのである。白根は、昭和十二年に応召して以来前線におり、召還当時は、中支廬山で騎兵中隊長として蔣介石軍に対峙していた。軍法会議の事例を分析した後、白根は原案を作りあげた。
前線の部隊長、陸大教官、幼年学校、士官学校など各方面に送付したところ、原案の数十倍にも及ぶ付箋がついて返送されてきた。それをさらに部内で検討した後、ようやく形が付いたのが昭和十五年の秋であった。
明治天皇の軍人勅諭のような簡明さを貫く事が出来ず、兵士たちが暗唱するのに苦労する長いものになってしまった。その長さに、昭和の陸軍の難しさが現れていた。
(本当は、「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」、「戦陣苟も酒色に心奪われ、又は慾情に駆られて本心を失い、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし」といった条項を主体に考えたのだが、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答うべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の方を重く取られたのは、残念だったな)
ある時、白根は今村中将に尋ねた事がある。「閣下は、師団長時代、宿舎の従卒に、慰安所になぜ行かないか、行くようにと命令されたと聞きましたが」 今村は、憂鬱そうな貌を作り、しばらくしてから云った。「命令はしませんでしたが、行くように、なぜ行かないかないのか、とは云った事があります」 行かないには、いろんな訳がある。もとより慰安婦と接する事を厭うものもあれば、経済的な理由もある。
「後方では、どんな事でも云えるけれど、戦場ではそうはいかない。正気を保つだけでも大変な努力が必要になります。そのためには、慰安所は必要だ。人間であり続けるためには。まあ、私は慰安所という言葉は好きではありませんが。列国のように特殊看護婦隊というような名前にするのが、好ましいと思うのですが」。
「戦陣訓」は昭和十六年一月八日、東條英機陸軍大臣から、全軍に示達された。 
「恥ヲ知ル者ハ強シ。常ニ郷党家門ノ面目ヲ思ヒ、愈々奮励シテソノ期待ニ答フベシ。生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ」
昭和16年1月8日  『陸訓 第1号(戦陣訓)』「名ヲ惜シム」の項
この一文の呪縛によって死に至り、または至らざるを得なかった日本の青年がいかに多かったことか。
「日本人捕虜の戦争に対する態度調査報告(1945年12月29日、米国務省臨時国際情報部作成)」によると、戦時中にビルマ、インド、南西太平洋などの各戦線で捕虜になった日本兵1953人を対象にした面接調査で、3分の2以上が捕虜になったことを恥辱と思い、家族への通知や所属会社への復帰を希望しなかった。また、自決を否定したものは25パーセントしかおらず、75パーセンが自決または処刑を希望したという。事実、私がインタビューした元捕虜たちもそのほとんどが「生」を望まず、であったと答えているし、公判された手記でも大部分の人がそのように書いている。
「捕虜になってはいけない」は古来の伝統だとされる。しかし、なかにはいくつも「捕虜になるのはやむをえない、恥ではない」とするものもある。
『東鑑(吾妻鏡)』(13世紀後半)に次の一節がある。1189(文治5)年、源頼朝が藤原泰衡を滅したときのことである。
(頼朝の家臣畠山)重忠手自敷皮を取り、由利(八郎、泰衡の郎党)が前に持ち来たり之に坐せしめ礼を正しく誘ひて曰く、弓馬に携わる者怨敵の為めに囚るるは漢家本朝の通規也。必ずしも恥辱と称すべからず。……貴客生虜の号を蒙らむと雖も始終沈淪の恨みを貽すべからざるか……このあと頼朝は八郎の態度に感じ入って、助命のうえ重忠に任えさせたという。
ただ、これとて、わざわざ「必ずしも恥辱と称すべからず」としてからが、既に一般的に「捕虜は恥」という観念ができていたから、あえてこう記述せしめた例と見ることもできそうだ。 
近代において、捕虜になることを禁じたのは日清戦争(1894〜5)時の山縣有朋第1軍司令官による『申告』がはじめてである。1894(明治27)年8月14日、山縣は現職の枢密院議長のまま、強い希望を示して、同司令官に就任、9月8日、桂太郎中将以下の第三師団の将兵を従えて宇品を出発、同13日、京城に入った。
このとき山縣は「檄して名誉ある我が帝国軍隊の将校に告ぐ」にはじまる『申告』を発し、成歓、牙山など緒戦の勝利をもって敵を慢侮する心を部下に持たせてはならぬ、などと述べたあと、「終りに於て尚一言す」として全体の3分の1を費して以下のように「捕虜」について触れた。
我が敵とする所の者は、独り敵軍とす。其他の人民に在ては我が軍隊を妨害し、若しくは害を加へんとする者の外は我れ敵視するの限りにあらず、軍人と雖も、降る者は殺すべからず。
として、「敵軍」と「人民」や「降人」とを区別し、捕虜の殺害を戒めたあと、有名な次の一文でこの『申告』をしめくくった。
敵国は古より極めて残忍の性を有せり。戦闘に際して若し誤て其生檎に遇はば、必ず酷虐にして死に勝るの苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為を以て其身命を戕賊せらるるは必然なり。故に、萬一如何なる非常の難戦に係はるも、決して敵の生檎する所となるべ可らず。寧ろ潔よく一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全ふすべし。
要するに、清国の捕虜になるとひどい目にあうから決して捕虜になってはいけない、その時は潔く死ね、といっているのである。 
この『申告』と『戦陣訓』の成立事情は大いに異なり、これを敷衍して『戦陣訓』やその中の「生キテ虜囚ノ……」が出来た、ということでは全くないが、これも日本人の捕虜観のひとつの集約された形であり、後に影響を残したものである。
ただ、山縣が一人、突然「捕虜になるな」といったわけでもなく、同様に『戦陣訓』がいきなり、捕虜を禁じたものでもなく、古来の「日本男児の名誉」がそうすることによって保たれるのだ、と説いているわけである。
島崎藤村らの校閲を経た『戦陣訓』に比べ「一介の武弁」と自称した山縣の『申告』は流暢な表現とはいえないが、それだけにズバリ、その他の「武弁」たちにも分かりやすく表現しているといえそうだ(詳細は、拙稿「捕虜になるべからず」アンリー・デュナン教育研究所『会報』15号)。
國學院大学日本文化研究所の大原康男学兄(注:現國學院大學教授)とともに西永福の白根孝之さんのご自宅に伺うことになったとき、『戦陣訓』の作成を担当した人というからには“軍人精神”の固まりみたいな人かとも思ったが、あらかじめ経歴を調べてみて、正直なところびっくりした。
九州帝大卒で、哲学者、教育学者であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の草創期の調査部長をし、わが国の戦後教育、とりわけ視聴覚教育界の先駆者、ないし大御所なのである。東京造形大学の教授で、日体大、早大でも教鞭をとられた。
ちなみに、国立国会図書館の著者目録でカードをめくると、次のような著書が出てくる。
<昭和25年>『百万人の哲学』(W・J・デュラン)訳書。『インテグレーション──カリキュラムの原理と実際』(L・T・ホプキンズ)共訳。
<昭和27年>『プラトンの教育論』著書。『教育心理学』(A・メルヴィル)訳書。
<昭和34年>『テレビジョン──その教育的機能と歴史的運命』著書。
<昭和37年>『教育と教育学』著書。
<昭和39年>『教育テレビジョン』著書。
<昭和40年>『テレビの教育性──映像時代への適合』著書。
<昭和46年>『ヒューマン・コミュニケーション──エレクトロニクス・メディアの発展』著書。『人間の発達の学習』著書。 
だが著者目録の中にはただ一つ、異色のものがある。
『戦争と平和──日本の将来と青年』(1947年、山形の青年タイムズ社)である。
白根さんが戦争直後、どういうご縁か山形の青年団に招かれて講演し、その速記録に手を加えて出版されたものである。白根さんはまず、戦争中は軍部の旗に踊り、若しくは踊らんとしてそのお声がかりを待っていたくせに、戦争がこんな終局になると、牢獄から飛び出した反戦論者の尻馬に乗って、始めから肚の中はマルクスの徒であったかのような自己弁護の辞を弄して赤旗を振り歩き、連合軍司令部からアメリカは共産主義を好まずと鶴の一声がかかるや、あわてふためいてコソコソと物蔭に身をかくすような、みっともない文化人がいるというのは、その教養や知識の内容に肝腎の心張棒が1本足りなかったからである。と、戦前・戦後に一貫した思想や行動を保てない“文化人”を痛烈に批判している。
戦前に『戦陣訓』をつくり、戦後はマス・メディアの先駆者となる、というのも一見華麗なる転身ととれなくもないが、白根さんの頭の中では両者とも教育、とりわけ大衆レベルの向上という大きな共通したもので結びついていたのではなかったか、とインタビューを終えて強く感じた。
〔注〕われわれはまず第1に個々の人間として、正しい歴史的知識と広い世界的展望に立つ豊かな常識と理性と品性とを身につけ、自主独立の判断と行動の主体たり得るものでなくてはならない。
日本人の教養、知識の内容に哲学・文学・芸術・趣味のほかに、新しく歴史と科学とがつけ加えられねばならない。
第2にわれわれはこのような個人によって構成される一般社会、
即ちわれわれが日常の生産・消費・煩暇の生活の中で入りこむ社会関連を尊重する国民とならなければならない。
而して第3に、この関係を押しひろめて、地上に生を営む一切の人類が、国家という過渡的中間段階を超えて、直接人間と人間として結び合う一つ世界の尊重にまで到達せねばならない。
その時はじめて、われわれは現在のような世界中の猜疑と監視とそして憐びんと嫌悪とから放たれ、世界の人に伍し、或はこれに率先して、一つの世界の建設という、人類史的課題の解決に立ち向かうことが出来るのである。<白根孝之『戦争と平和──日本の将来と青年』 
白根孝之氏の山形での講演はこのように個の確立に基づく全地球的規模での人と人との結びつき、ないし世界連邦的な結論の呈示で終わっている。
『戦陣訓』は制定に加わった人たちの意とは別に「生キテ虜囚ノ……」の部分だけが暴走したように私には思える。
それよりはるか以前からの日本人の捕虜観を書き記しただけのものにすぎなかったのに、例えば次の一文のように糾弾されている。
〔注〕(中国側ゲリラの捕虜になって救出された)鈴木一等兵はウツ伏せになり手榴弾をあて自決したのだった……。部隊長は「鈴木、よく死んでくれた。武人の華である」とほめたたえた。
これを聞いていた太郎(中国人人夫の李)は「共産軍でさえ手厚い看護をしてやっていたのに、なぜ部隊長は喜ぶのだ」と言った。私は黙っていた。この理由を話しても太郎たちには分かるはずがない。
やがて太郎は部隊長に向って「東洋鬼」と叫び、私に向って「平野大人再見(さようなら)」と言って出て行った。そして二度と再び帰ってこなかった。
─恥を知る者は強し。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ─
戦陣訓のこの一節は氷のごとく冷たく、一片の人間愛もなかった。28歳の鈴木一等兵は、このために自ら命を断ったのだった。
太平洋戦争では250万もの若き命が、アッツ、サイパンなどに玉砕し、ニューギニア、ビルマなどでは食糧のない餓鬼地獄の中で散って行った。
食糧、弾薬が尽きたなら、すでに戦いの責任は果たしたはずだ。降伏しさえすれば、どのくらいの貴い命が助かったことであろうか。
思えば、この戦陣訓は憎みてあまりあり、本人はもとより、遺族にとっても、痛恨きわまりないものであった。
いったい!だれがこの戦陣訓をつくったのだ。そしてこれを全軍に布告した者こそ、太郎のいう人命の貴さ、人間愛を知らぬ東洋鬼である。
<平野正己(主計、階級不詳)「戦陣訓は許すことなし」週刊朝日編 『父の戦記』13〜15頁(抄)>
白根さんの語り口は老教授らしくあくまで知性に満ちた静かな落ち着いたものだった。
30代後半だった孫みたいな私たちに対して、いかにも宝物のありかを語り継ぐように、省みていささか失礼と思われる質問にも答えてくれた。
そして、それから一年も経たないうちに、訃報をきいた。 
こんな立派な軍律があるのに……
── 『戦陣訓』の成立当時の事情を伺いたく参上致しました。
白根 あれもずいぶんつけまわされましてね。出たのは確か昭和16年でしたね。日本の社会全体が戦時色になっていましたよ。確か1月でしたね。
── ええ、16年の1月8日付です。
〔注〕昭和16年1月7日、東条陸相は、宮中に参内、天皇陛下に拝謁を仰付けられ、『戦陣訓』について上奏し、御裁可を仰ぎ、その翌8日、陸軍始観兵式に際し、「陸訓」第1号を以て、これを左のとほり全軍に示達し、戦陣道徳昂揚の資に供した。
<陸訓 第一号>
本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
昭和16年1月8日  陸軍大臣 東条英機
(中略)
『戦陣訓』は、ただ前線の将兵のみならず、内地に在る現役軍人及び在郷軍人をはじめ、銃後の一般国民にも甚だ肝要なる訓練資料である。特に、やがて皇軍の軍籍に入り、興亜の聖業完遂の大任を負へる後継者たる青少年には、心魂の底まで、この教訓を感銘せしめ、これによって、皇国臣民の人格を築き上げることが必要であろうと思ふ。<三浦藤作『戦陣訓精解』>
『戦陣訓』の公布後も「対上官犯」は根絶しがたく、陸軍省は昭和17年12月19日、同犯根絶を図るべく、1上級指揮官の指導監督及び処断の強化、2下級幹部の能力向上、3在郷軍人の軍紀風紀の緊縮、4私的制裁の根絶、5酒害対策、6「年令年次ノ著シク異ナル兵ヲ混合シテ軍隊ヲ編成スルハ成ルヘク避クヘキコト」など、具体的に示した通牒を発した。
『戦陣訓』の全文は約3千字。序文、本訓其の1(第1皇国、第2皇軍、第3軍紀、第4団結、第5協同、第6攻撃精神、第7必勝の信念)、本訓其の2(第1敬神、第2孝道、第3敬礼挙措、第4戦友道、第5率先躬行、第6責任、第7死生観、第8名を惜しむ、第9質実剛健、第10清廉潔白)、本訓其の3(第1戦陣の戒、第2戦陣の嗜)、結び、の大別して20項目で成立っている。「生キテ虜囚ノ……」は、本訓其の2の第8にあたる。
白根 そうでしたね。16、17年頃は僕はジャーナリストに追いかけまわされた時でしたよ。
── どこにお住まいでしたか?
白根 ここ(杉並区西永福)です。まだまだ元気でしたからね。もう齢80近くなって、ようやくここしばらく、この問題について訪ねて来る人は途絶えていたのです。それが最近またちょいちょい復活してきましたね。
── 申し訳ございません(笑)。
白根 いや、こうして生きている以上は、自分でお役に立つことがあれば、後の世代の人に伝えることも重要ですからお会いしているのです。
── 当時つけまわされたというのは、どういう意味ですか。
白根 新聞記者の常ですからね。本能ですから……。内面をさぐろうさぐろうとしていたんですね。ところが真相とか裏面となると人を傷つけ、自らも傷つくわけですから、なかなか話せるものじゃないですよ。その後しばらく途絶え、それから1、2度ありましたかねえ。
── 戦後ですか?
白根 ええ、昭和23年以後ですね。
── しかし、戦後いろいろあったというのは、主として、「生キテ虜囚ノ……」に焦点を合わせ、ああいうものをつくったのが「いけない」と考えている人が調べようとしていたのではないですか。
白根 いや、そういうことはありません。そういうことで反対をするためにやってきたということはないです。新聞や週刊誌では始終反対されていましたが、そういうことを真正面から責めるなんてありません。むしろ、あべこべですよ。
── 外国人がこれを見て非常に感心しますね。私も外国の人とつきあいがいろいろあるものですから。「立派な軍律だ」「各国にあるものと比較しても大変すぐれている」と彼らはいいます。外国のこの種のものを研究されたことはないのですか。
白根 それを集めたくても、集める方法がなかったですね……。スパイかなにかで持って来なくては……。でも知っている外人はみな「ワンダフル、ワンダフル」といいますね。びっくりしました。
── 今でもみなそういうふうにいいます。私はソ連の将軍からも感想をきいたことがあります。ソ連でも捕虜になるな、といっているようですよ。
〔注〕(1942年5月)党機関誌「ボリシェヴィーク」(現在の「コムニスト」)に、「わが母国の歴史における愛国的精神」と題する長大な論説が掲げられた。この論説はロシアにおける最古代からの歴史的愛国主義者たちの列伝ともいうべきもので、遠い昔の<伝説>的な誰か彼れが「捕虜となるより死を選ぼう」と言った、
「ロシアを救うか、この首を捧げるかだ」と言った、「名誉の死は恥辱よりましだ」と言った、「外国による束縛より死の方がましだ」といった──等々の<戦陣訓>を書き連ねた……。<清水威久『ソ連と日露戦争』>
M・A・ミルステイン中将(ソ連)「日本軍が1941年に新しい軍訓を出したことは少したったころ知った。全部読んだこともある。すばらしい軍訓だと思う。捕虜になるなというのはソ連の軍隊でも厳しく教育する。徹底抗戦してだめなら、かじりついても戦わねばだめだ。詳しく調べたわけではないが、1929年の捕虜に関するジュネーブ条約にソ連と日本が加入しなかったのは、自国の軍人で捕虜になる者はほとんどいないという考え方があったからではなかっただろうか」
白根 世界に出して恥しくない軍訓ないし武訓ですよ。英語訳は確かにできていたわけです。
── 戦争当時に翻訳されていたのですか。
白根 そうです。少なくともアメリカではね。
── 米国の手に入って、先方が英訳したのでしょうね。
白根 アメリカが訳したのです。それには日本人の何人か手助けしたと思われますが……。私の知り合いの外国人もこんな立派なものがあるのに、なぜ日本の軍隊は、ああいうことをしたのかと訝っていましたよ(涙声)。私も残念です。しかし、こういうことをしてもなお、日本の軍隊には乱れがあったのです。本当に残念なことです。
── 16年の春、『戦陣訓』が発表されたのですが、準備にとりかかられたのはいつごろのことですか。
白根 13年ですかね。私はまだ中支(華中)の一線部隊の中隊長をやっておりました。ある日突然、連絡がきて「教育総監部付を命ず」というんですね。何事だろうと思いました。師団長以下、びっくりしました。何事か、と検討もつきませんでした。
〔注〕中支・九江の廬山で全面的反攻に出てきた蔣介石軍と相対峙していたとき、突然、降ってわいたように陸軍教育総監部第1部へ来いという配置転換命令を受けた。昭和14年春のことである。……そのころ、騎兵部隊の一中隊長であった私などには無縁のポストなのである。……私を指名されたのは教育総監部第1部第1課内において道徳教育を担当していた班長の浦辺彰少佐(のち戦死)で、中隊長時代に自分の中隊長室の前に“軍隊教育研究所”という看板をかかげたことのあるエピソードの持ち主で、いわゆるモーレツ人間の集団だった。 <白根孝之「『戦陣訓』はこうして作られた」>
── どうして白根先生が指名されたわけですか。
白根 それはね、その人は残念ながら戦時中に交通事故で亡くなりましたが、浦辺という現役の少佐がいましてね、彼が教育総監部の第1部に在籍していました。その人の目に私の書いたものがとまっていたんですね。まあ、『戦陣訓』のようなものをつくろうと火をつけてやいのやいのいったのは岩畔さんあたりだったんですね。
〔注〕浦辺彰(うらべ・あきら)少佐=1904年、茨城県鹿島生れ。大阪地方幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、大正13年10月、陸士兵科第38期生徒となる。同15年7月、同期生339名とともに卒業。第74連隊中隊長当時の昭和11年7月号の「偕行社記事」に「機会を求めて実践陶冶を施す精神教育の具体的方案」の論文を(所題の懸賞論文に応募して、選外佳作として同誌に掲載されたもの)載せている。
同年12月、教育総監部に入る。『戦陣訓』完成後、第一線部隊長となるも、同17年、再度教育総監部勤務となり、出張中の同18年5月21日、南方戦線にて「陣没」した。
同19年5月、同部が遺稿を集めて『陣頭録』(全364頁)を成武堂から刊行している。未定稿。
ほかにも「偕行社記事」に「軍隊教育者として戦場心理考察上の参考」(同13年6月号)、「思想対策的見地よりする部下取扱上の一参考──戦時下下級幹部のために」(同14年6月号)が掲載された。
岩畔豪雄(いわぐろ・たけお)大佐(のち少将)=大正5年12月、陸士歩兵科30期生として入校、同7年5月卒(同期生630名)。陸軍中枢部にあって切れ者として著名。南方においても岩畔機関を率いて活躍。戦後は、京都産業大学世界問題研究所長(当時の部下で岩畔についで同研究所長に就任したのが若泉敬教授)などを務めた。著書『戦争史論』。
白根 岩畔さんが陸軍大臣にこれを意見具申したら「お前がやればいいじゃないか」といわれたそうですが、結局、これは軍人教育の問題ですから教育総監部(注・山田乙三総監、今村均本部長)でやれ、ということになり、陸軍大臣から総監に話があって適当な人捜しをやったんですね。
〔注〕(教育総監部本部長に)就任して間もないある日、部下の課長後藤大佐(光蔵、浦辺の遺稿集の序文を執筆、当時少尉──吹浦注)から次のことを報告された。
「岩畔軍事課長(後の少将)が支那の各方面戦線を視察した後、東条陸軍大臣に対し、『明治大帝より下賜された勅諭の5ヶ条を軍人精神の根拠とすべきことは永久に変えてはなりませんが、実状に照して戦地の異常環境に即応する具体的教訓を示す必要のあることを痛感しました』と報告いたしましたところ『すぐそれを起案して提出せよ』と指令され、軍事課を中心として幾人かの起案委員を設け、手をつけては見ましたもののなかなかはかどらず、結局“こういう教訓書の起案は教育総監部に依嘱すべきだ”ということになり、こちらに交渉してまいりました。
戦陣に於ける教訓といえば出征軍人軍隊に対するものであり、多年総監部が主張しております“出征部隊の軍隊教育こそ、当然当部の関与すべきものである”の懸案をこの際解決するために、右の起案に着手してはいかがでしょう」<今村均『続・一軍人六十年の哀歓』>
そして専任には浦辺少佐がいいということになりました。浦辺という人は軍人の中でもめずらしく文学のわかる青年将校でした。
そして彼が主任に任命されまして、人集めにかかったわけです。
当時はもちろん『戦陣訓』などという名前はありません。
『軍人に賜りたる勅語』があるし、その一部の面だけを謳歌するようなものをつくる必要はない、という意見も相当強くて、喧喧囂囂、随分、議論をやりました。
それが「1、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」では余り抽象的で実践訓にならないではないか、もう少し具体的にとらえてはどうか、というところに落ち着いたわけです。
〔注〕「陸海軍人に賜った勅諭、または典範令において軍人精神・戦闘訓練等総ては尽されてゐるが、一兵士の心掛けとして一層具体的に親切に説明する必要のあることを思ひ慎重に研究した。『戦陣訓』の題は教育総監部が主体となって練り定めたもので、文中の国体観等は相当の学者が参与したのである」<『戦陣訓』制定に関する東条陸相の談、昭和16年1月8日付『東京日日新聞』>
関東軍と京都師団の石原莞爾中将とがその不要論を力説したが、支那総軍は急速な公布を希望してきた。<今村『続・一軍人六十年の哀歓』>
『戦陣訓』は「結」のところで「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。さればこれを戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず」と述べ、その由来と根拠を明確に規定しているけれども、公布当初から、たとえば石原莞爾のように勅諭のほかにそのような屋上屋を重ねるが如きものは不要である、と主張し、配布を拒否した者もいた。<大原康男『帝国海軍の光と影── 一つの日本文化論として』>  
 
「集団自決」その真相を墓場の中まで

 

日米戦闘への思惑
沖縄戦を解説するとき、その思想的バックボーンの「戦陣訓」が諸悪の根源としてよく引き合いに出される。「戦陣訓」は、近衛内閣の陸相だった東條英機が一九四一年一月に督戦のための訓諭として全陸軍に通達したもので、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ――」はいつしか、将兵の心得の一条が絶対化され、捕虜となることが厳しく否定されたのだ。それ故に多くの将兵が無益な死を強いられることになった。そして「集団自決」も「戦陣訓」の一種の呪縛によって、死に追い話められたという見解が成立している。
一方、日本軍の総司令官牛島満中将が一九四四年八月に、サイパンが玉砕して敗色濃厚になった頃、沖縄戦を目前にした訓示として、軍民一体の戦闘協力を強調し、「現地自活二徹スヘシ」と題して、次のような方針を打ち出した。「極力資材ノ節用増産貯蔵二努ムルト共に創意工夫ヲ加ヘテ現地物資ヲ活用シ一木一草トイヘトモ之ヲ戦力化スヘシ」と。この訓示は、高圧的でごり押しの主張と要求でもあるが、どこか自暴自棄と悲壮感のおもむきがある。
それにしても、「戦陣訓」にしろ、「一木一草」という訓示にしろ、戦時中一部の指導者的階層の人達を除けば、どれほど一般的に理解し流布していたかについては、かなり覚束無い。しかし「鬼畜米英の捕虜になると、男は八つ裂きにされ、女は凌辱されてから殺される」といった類のデマならば、マスコミや人の噂によって、戦時中、公然と宣伝されていたようだし、その強迫観念は一般に浸透していたにちがいない。
しかしながら、集団自決の要因は、「戦陣訓」の一種の呪縛によるという説明では十分でないと思う。他面、集団自決は日本軍の圧倒的な力による強制と誘導によって生じ、これが肉親同士の集団の殺し合いになったとする主張がある。
ここで「集団自決」という名称が適切かどうかを論ずることもできるが、今まで使用されてきた慣例に筆者は従うことにする。たとえば「強制集団死」という表現は、主張に即した名称ではあるが、なんだか語感になじまない。一方、用語としての「自決」を考えるとき、「自決」を軍事用語だと、規定する人もいるようだか、必ずしもそうではないだろう。自決について広辞苑には、1他人の指図を受けず自分で自分のことをきめること。2自殺すること。また、大辞泉には、1自分の意志で態度・進退を決めること。2自分の手で生命を絶つこと。自殺。自害―などと出ている。―― 自決には一種の美意識があって、戦時に適しているようだ。むしろある種の論考でよく使用される被害意識の「強制」という言葉が幾度も幾度もくり返されて書物や新聞等に出てくる現象については、さらに再考して然るべきことだと思う。軍がすべての集団自決に関与しているということは頭から否定はできないし、また日本兵の残虐性の実例等も認めざるを得ないとしても、軍の命令や強制だけがその原因だと説く説明では、複合的な要素があるだけにまるごと鵜呑にはできない。
視点を変えて集団自決の死者の数の多寡と、惨たらしい残忍性について言うならば、日本軍の「関与」に勝るとも劣らず米軍の方の、砲爆撃や銃撃や火炎放射器等による無差別の掃討作戦によって、県民への被害は何倍も大きくなったというべきだろう。
戦争とは、相手を殲滅させようと、情け容赦も無く殺し合うことだと思えば納得できる。その上に日本軍は完全に敗北したし、勝者の米軍は勝ち誇りと潤沢な物量の余裕からか、応急医療や最低の生活保護等を忘れなかった。そうしたことを米軍のヒューマニズムだと賞賛する傾向があるが、だからと言って米軍の徹底した仕打ちを隠蔽する必要はどこにもないのである。 
捏造の所在について
戦後六十余年間に二百冊以上をかぞえる沖縄戦記関係書が出版されているという。そのほとんどの書籍の基本方針は、戦後最初に沖縄発の戦記『鉄の暴風』(初版・一九五〇年八月十五日発行、編著・沖縄タイムス社、発行所・朝日新聞社)の趣旨をまるごと踏襲している。大江健三郎も、「沖縄ノート」は「鉄の暴風」を根拠に執筆したと言っている。従ってそれらは、死者への憐欄と日本軍への弾劾となっている。そして自決命令については、同書に次のように記載されている。
住民に対する赤松大尉の傳言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう。」ということも駐在巡査から傳えられた。
同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
「事、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必 勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する。」とい うのである。
右の文章は「第二章 悲劇の離島」の「一、集団自決」の渡嘉敷島での命令する文脈の箇所であるが、劇的で臨場感がある。また、ニの座間味島のことでは、わずか一頁に十二行しか書かれてなくて、その中間に玉砕命令のくだりの一行があり、最後の三行は次のように記されている。
日本軍は米軍が上陸した頃、ニ、三カ所で歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地に こもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を 遂げたことが判明した。
そこに書かれた「梅沢少佐のごときは――」という蔑んだ言い方もさることながら、許せないのは現に生きている者を死者に仕立てあげていることだ。しかもこの誤記は三十余年間も放置されていた。そうした過誤は、十頁ほどの集団自決の項に、少なくとも十数力所以上も点在している。当時の状況では仕方がなかったと言えぼそれまでだが、現地取材を一度もせずに民間情報と若千の手記と米軍情報部からの資料をべースに書き上げている。それ故に間違いだらけだが、まるで見てきたかのようにまことしやかに上手に表現されている。そして肝心なのは、なんの根拠もないのに隊長の玉砕命令があったということが文章の根幹に設定されていることだ。このことは他のほとんどの沖縄戦記や証言の隅々にまで影響を及ぼしていると言えるだろう。
玉砕命令がなかったという証明は難しいが、軍命令があったという証明も実は簡単ではない。隊長命令があったそうだ、とは聞いた話であって、どれもこれもすべて伝聞なのだ。ほとんどが人から聞いた話がいつしか直接聞いた話になっている。それでも命令が無かつたよりは、あったと言った方が真実味がある。なぜなら、軍は国民全体に「玉砕」を美化した形で促していたし、牛島総司令官も悲壮なその訓示の中で玉砕を暗示していたのだから、県民は国のために自分たちも死ぬことになるかもしれないと不断から思っていたはずで、いわば潜在的自決願望を抱くよう洗脳されていた状況があったと言えよう。
隊長命令や軍命の有無の問題と捏造について考えてみる。すると思い付くことは、根拠がないのに当然あるかのような形を示し得るスタイルで、うまく誤魔化している場合があるということだ。また根拠や理由は不明瞭でも当然起きたはずだというような、妥当性の範疇の推量でもって真実性を想像させ得る背景もある。たとえば軍命令の有無が裁判で争点になっていようとも、その背景や根本問題に真摯にむき合っていると受け取られることによって、賛同が得られる場合もある。そしてそれらの間隙に、「捏造」が挿入され得るのである。
ここで『渡嘉敷村史 通史編』の「第五節 渡嘉敷島の戦闘と住民」を参照し一部を引用したい。当時、『鉄の暴風』では、赤松隊長も水上特攻艇隊を指揮して、自ら米艦船に突入することになっていた。だが、「もう遅い、かえって企画が暴露するばかりだごと出撃中止を命じたとなっている。筆者が四十年ほど前に取材したときは、赤松隊長は巡回視察に来た大町大佐と出撃について議論し、大佐の命令に屈して特攻舟艇マルレを自沈したという話だった。しかし『鉄の暴風』には大町大佐は登場しないばかりか、「隊長は陣地の壕深く潜んで動こうともしなかった。」となっている。先の通史編では、「軍船舶隊長の大町茂大佐が作戦指揮のため慶良間列島巡視に来ていて、米軍主力上陸前に特攻艇を使用することは『企図秘匿上適当ならず』として特攻艇の自沈を命じた。」と記されている。通史編は一九九〇年三月三十一日発行になっているので、『鉄の暴風』とは四十年の隔たりがある。この歳月の流れの中で、詳細な補填が得られている。そのうえ信じられないような証言が加筆されているのだ。それは一部の研究家の間で話題になった「富山証言」(一九九〇年)である。そこで『富山証言』の要旨を次に列挙してみたい。
(前略)渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。
1 一九四五年三月二〇日、赤松隊から伝令が来て兵事主任 の新城真順に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順は、軍の指示に従って「一七歳末満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
2 そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手棺弾を二個ずつ配り訓示をした。米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必要である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。)
3 三月二七日米軍が渡嘉敷に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民は軍の西山陣地近くに集結せよ)というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
4 三月二八日恩納河原の上流フィジガーで、住民の(集団死)事件が起きた。このとき、防衛隊員が手橘弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。
右の「富山証言」の1を読んで筆者はすぐに疑問を抱いた。まず戦後四十五年経っていること。これまで村史に富山眞順氏は、港の空襲の話などを書いているが、玉砕命令については一言も触れてない。富山氏はそれに類した発言を全くしてない。なぜだろうか。はっきり言ってそこには第三者の圧力や要望があったとしか考えられない。しかし富山氏はすでに故人になっていて、死人に口なしである。彼しか証明できないことなのでこれ以上は進展しないが、疑惑はいくつかあるのであげてみる。
まず筆者が調べた限り村の一七歳未満の少年たち(当時)の多くは、少なくとも数人以上確認してみた範囲ではそういう弾薬の受け渡しは無かったという証言だった。また当時それくらいの年齢だった金城重明(兄弟)も手櫓弾は受け取ってないと裁判で証言している。
次に、『渡嘉敷漁協創立90周年記念誌』(平成五年四月発行)に掲載されている、富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」の中から一部を抜粋してみる。
(前略)赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したかと喜んだ。
暫くすると赤松隊長は又呼ぼれたので、何かまたあるのかと思った。隊長のもとに現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、
「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった
赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。 (以下省略)
右の手記が書かれた一九九三年(平成五年)は、「富山証言」の三年後である。そこには「自決を命じた旧軍人への憎悪」は微塵も感じ取れない。否むしろ、「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出して、自決が実行された日の翌日の出来事に関しては、手記の富山真順氏と赤松隊長との関係が親密さに満ちている。これは何を意味するのだろう。戦後四五年も経って、「富山証言」をするような間柄であったとは到底信じ難い。そこには何かある目的を持った勢力に強いられたため、富山氏は心ならずも証言させられたと思われるし、そこに捏造が読みとれるのである。
また、平成元年六月発行の渡嘉敷村老人クラブ連合会「創立20周年記念誌」に、故富山眞順氏が記念誌発刊によせて」と題するエッセイを寄稿している。その中から出会いの部分だけを抜粋してみる。本土旅行を通して遺族会の会員たちと、旧赤松隊員が連絡し合って久しぶりに会ったときの様子が記されている。
(中略) 最も想い出深いのは、九州旅行である。旅行が決定したので、ご迷惑と思いましたが、近くの大分市中央通りで大きなホテル経営の佐伯氏に、ハガキで一目逢いたいと。老人クラブを案内していると通知していた処が、佐伯さんの指示で樋口梅雄氏が原鶴のホテルで迎えられて、全員にお土産や色々寄贈があり、大宴会でした。
別府へ行くと四国建設社長の谷本小次郎氏がレストランで迎えていた。連下政一氏、福山市の池田幸政氏、岡山市等地獄廻りを済ませてホテルに着くと佐伯さんの奥様や長男を同伴して、素晴らしいお酒等御持参して大歓迎を受け生涯忘れぬ想い出となりました。(以下省略)
裁判では「富山証言」を「軍の命令」と「軍の関与」の根拠にしているが、右の文面からは「残虐非道な軍人たち」とはとても思えないし、会ったときの喜びや懐かしさ、温かい心の交流が感じられる。
もう一つ、決定的な作為を感ずるものがある。それは村史の通史編に掲載されたグラビアの説明文だ。死体が散乱した惨たらしい写真の下の余白に「親が子を、子が親を殺した集団死だろうか それとも…一九四五年三月〜七月」と暖昧に記されている。だが、恐らくこの写真が渡嘉敷島の集団自決のものでないことを、編集者は百も承知していながら、写真の迫力を見せたいがためにわざわざ選択して、キヤプションをぽかしたのである。人物の頭部らしきものが上の斜面にふっ飛んで転がっている箇所はカットされているが、左側の端に現場にはないアダンの葉が数本のぞいていることからも渡嘉敷島でないことは判明する。
――さらに、『写真記録 沖縄戦後史』(一九八七年十月二四日発行 沖縄タイムス社)そのトップの見開きグラビアに同じ写真がある。そのキャプションは「集団自決 米軍の捕虜になるのを恐れて、集団自決をしたとみられる民間婦女子たち=一九四五年六月二一日」となっている。もう一冊の『沖縄日本軍最期の決戦』=一九九二年五月二〇日発行 新人物往来社)にも同じ写真があり、これには詳細な説明文が付いている。「米軍の従軍カメラマンは『米第32連隊の布陣地帯から逃れようとして砲弾に斃れた非戦闘員たち』と説明を加えているが、写真の情景と六月二一日の撮影月日から見て、戦闘末期に島尻戦線で続発した集団自決の現場と思われる」という記載。いずれにしても米軍のこの写真が渡嘉敷の集団自決でないことは明白である。
沖縄戦での集団自決は、それぞれの立場と条件で原因や死にかたは異なるが、いざとなったら肉親や身内と一緒に死のうという漠然とした決意と、敵には絶対に捕まりたくないという強い意志とを抱き、米軍に捕まると虐殺されるものと信じ込んでいたことが大きな要因であろう。無論、それだけではなく、これまでの国策による皇民化教育と軍事教育の影響も強かったであろうし、これまで沖縄人は差別されていただけに、より日本人でありたいという願望も作用したであろう。またそのときの状況とは別に、何らかの切っ掛けにもよる場合もある。そこには、ある運命共同体を感じさせるものがある、という言い方は死者への冒漬になるだろうか。
沖縄戦の集団自決で最も多く話題になってきた現地は、慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島であるが、伊江島のアカシャ原のアハシャガマ(自然洞窟壕)と、読谷村波平の海岸近くにあるチビチリガマ(自然洞窟壕)でも集団自決があった。このニヵ所は米兵が近寄ってきて、発砲するか投降勧告するかの行動を起こす直前に集団自決が起こった。日本軍が直接的にはほとんど千渉していないという特色が濃厚である。
伊江島には新設の飛行場があったので、米軍のターゲットとなって日米の激戦地となったが、著名な従軍記者アーニー・パイルが戦死したところでもある。戦車砲等で猛攻撃する米軍に対し、日本軍は夜襲の斬込みを企図し、少年義勇軍と民間婦人部隊も参加させて反撃し、勇敢に戦って多くの死者と負傷者を出したのだった。一方、アハシヤガマでは、約二〇世帯一五〇人ほどが食糧を持ち込み、外部との連絡を断っていたため、避難民は伊江島戦が終了しているのも知らずにいた。四月二二日頃、数人の防衛隊がそこへ逃れ込んできたとき、米兵が後を追ってきたので、とっさに隊員が爆雷を爆発させて住民を巻き添えにしたのである。唯一人の生存者新城カマダさんが五〇年の沈黙を破って語ったという。
読谷村のチビチリガマでは一九四五年四月二日、米軍上陸の翌日約一四〇人の住民が避難していたが、ガマ(洞窟)は米海兵隊に包囲されていた。米軍はスピーカーで投降勧告をしたが、洞窟内の住民は容易に勧告に応じなかった。中にいた警防団員二人と女性一人は潔く斬込みするつもりで竹槍を突撃の構えにして出て行ったが、すぐに男二人は壕の前で米兵に射殺された。すると壕内の住民は絶望感でパニック状態におちいった。玉砕か投降か、生死を分ける議論をして一夜が明けた。包丁や鎌やカミソリで首をかき切る者、毒薬注射で絶命する者、布団や衣類を燃やして酸欠煙を吸って失神する者、一四〇人のうち八三人が死亡した。その八三人のうち四九人が未成年で、うち三三人が一〇歳以下の子供たちだった。老幼婦女子の死様はまさに阿鼻叫喚のきわみだったようだ。『読谷村の戦跡めぐり』
チビチリガマから一キロほど離れた巨大なシムクガマ(自然洞窟壕)には同じ頃に約一千人の避難民集団が入っていた。その中にたまたまハワイ移民の帰国者、比嘉平治と比嘉平二の二人がいて「アメリカーガーチュオ タルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難民をなだめすかし説得して、ついに投降へと導いた。避難民はぞろぞろと洞窟から外へ出て、全員無事投降したという。
ハワイ帰りの二人の判断と住民との信頼関係が幸運をもたらし、生死の明暗を分けたのだ。とすれば、集団自決というものも、ある特殊な条件下でたまたま起こった例外的な事件であったと言えないだろうか。 
避難壕の自決とその謎
去年(二〇〇九年)十二月中旬に、筆者は那覇市の繁多川図書館で同地在住の知念勇(76歳)さんからミー壕(新壕)にまつわる話を聴かせてもらった。そのいろいろ含みのある話のなかには驚くべき事実が隠されていた。
昭和十九年十月に米軍爆撃機による那覇市を中心に大空襲があった。いわゆる10・10空襲であるが、那覇の市街はほとんど全焼し灰燼に帰した。丘陵地帯の繁多川は被害が少なく、多くの民家は焼け残った。繁多川にはガマ(洞窟)が五つか六つ散在していて、ここは安全地帯とばかりに住民のほとんどは疎開を拒んで踏み止まる家庭が少なくなかった。その当時(同年十一月頃)真和志国民学校六年生だった知念勇さんたちは、学校の授業はほとんどなく、毎日のようにトロッコ押しをして土運びをしたり、壕掘り作業に狩り出されたりしていた。腕白小僧だった知念さんの仲間たちは、ときたま学校も作業もサボってよく識名の森で遊んだ。そんなある日、ビーダマ遊びしていてたまたまビーダマを落として見失ってしまったので、探し回っているうちに、岩間の小さい穴から、「アチコーコーぬ風ぐゎが出てきたさ」(生暖かい風が穴から吹きあげてきた)という。そのことを友達が父親に話して、周辺の人たちに伝わり、大人たちによって新洞窟が確認され、無数の垂れ下がった鍾乳石を削り取ったりして、洞窟内の整備に取りかかった。ところが百畳敷ほどの空間の周りは岩盤が頑丈なので空気穴を削岩するには素人の手に負えず、村役場に相談したら、逆に「譲って欲しい」と言われ、それでこちらからも協力依頼せざるを得なかった。
村役場は警察の許可を得てダイナマイトを仕掛けて削岩し、空気穴を三つも作り、また数十米の煙道も作った。その工事の合い間に知念勇少年は、自分が発見者だという自負を持っていて、一人熱心にミー壕に通いつめ尖った鍾乳石を削り、平板に近い石台を平らに削ってかっこいい石の寝台を作った。その彼に刺激されて、大人たちも自分たちの領域をきめて整備作業をするのだった。さてミー壕が役場の「避難壕」になったとき、こんどは警察署が目を付けて共同使用ということになった。やがて「警察壕」のイメージが強くなった。警察関係者が約七〇名、役場職員家族が約六〇名・周辺の家族が約二〇名というふうに人数が厳選され、入居を暗黙のうちに互いに承認し合っていた。知念さんにとって何よりも口惜しかったのは、彼が苦労して作った石の寝台が、警察署長・具志堅宗精氏の寝台になっていたことだ。つまり有無を言わさず当然のごとく使用されたのだった。「僕のべットなのに横取りして」と知念少年は怒ったが、「君が作ったのか、よく出来ているよ」と署長は微笑を送ったとか。しかしその寝台を署長は自ら島田知事のために蒲団を敷いて提供し、夜の休息をとって貰っていた。だが一ヵ月ほどして知事は天長節間際に、山川泰邦氏の案内で真地の「県庁壕」に移動した。
五月上旬のある日、知念さんの母が壕の入口で艦砲の直撃を受け即死した。頭と顔をやられてぐしゃぐしゃになって見るも無残であった。近所の人たちが手助けして丁重に埋葬してくれたそうだ。やがて、米軍が押し寄せてくるだろうことが肌身で感じられた。そのころ突然、球部隊のある中隊から、作戦上の必要を理由にこの警察壕を明け渡すよう要請する連伝が届いた。壕内は騒然となった。知事の承諾を得てそこに避難しているのだから、知事の命令なくしては移動できないと伝えると、翌早朝、軍刀の音をガチヤつかせながら、面相のきつい中年将校が部下二人と共にあらわれて、「真和志村の村長はおまえか。作戦の必要によりこの洞窟を軍が使用する。本日の午前中に移動しろ、わかったか。それとも軍に協力しないのかッ」と脅迫した。村長はぶるぶる震えながら、「承知しました」とだけ答えた。将校たちが去った後、壕内は打ちひしがれたように悄然となったが、それでも住民たちの多くは、身の回りの品をまとめはじめた。署長代理は「今出て行くと危険だから、様子を見てから、署員の誘導に従って下さい」と告げた。
数時間後には、ミー壕から次々と住民は出て行き、民間人は具志堅夫婦とその息子の古康さんと勇さんと父親の五名が残った。夕方、今朝の中隊が押しかけてきた。そして中隊長にあてる部屋がないという理由で、那覇署の領域に兵隊たちが割り込んできて、那覇署員を片隅に押し込んでしまった。兵隊たちは自暴自棄になっているらしく、沖縄批判や住民スパイ説など悪態をついたりしていた。そこで那覇署長が軍人のあるべき姿など力強い訓示をしたら、それ以来ぴたりと私語は静まった。
突然、歩哨が駆け込んで来た。とすぐ、那覇警察署員たちは移動し始めた。その後、日本軍も間もなく撤退して出て行った。米軍が押し奇せてくる予報があったのであろう。小一時間後に、数人の米兵がどかどかと入ってきた。彼等はすぐに合図し合って、具志堅古康さんと勇さんの父親を黙って引っ張って壕から外へ連れ出した。一人の米兵は残って勇さんたちを見張っていたかと思ぅと、ニ、三分もたたぬうちにカービン銃の音がバラバラと外から聞こえた。すぐに米兵が立ち去った後、少し間をおいて勇さんは父親たちを探しに外へ出た。一面瓦礫の空地には人影らしきものが見当たらず誰もいなかった。勇さんの父親は五十歳くらいで一般住民の姿をしていたが、具志堅古康さんは軍服を着ていたからまぎれもなく日本兵に見られただろう。二人は抵抗しようとしたのか逃げようとしたのか分からないが、何かトラブルがあって射殺されたにちがいない。連れて行かれた二人はその後永久に姿を見せなかった。 年老いた知念勇さんの話はここまでである。
ところが、筆者は『那覇市史 資料篇第3巻7』の中に「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で捕虜に」と題して知念勇さんの手記が載っているのを見つけた。それには「(前略)父はある日突然日本兵に連れ出された。父が連れ出されて後、ニ、三発の銃声がしたが、父と共に連れ出された二〇歳くらいの青年と共に。再び壕には帰ってこなかった(後略)」(410頁)と記載されている。末尾に採話者「嘉手川重喜」とある。筆者の知人でもあるがすでに彼は鬼籍の人である。
後日、再び知念勇さんに会って確かめてみた。「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に二度も三度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替えたのだろう?」と本人はいぶかしがるのであった。
渡嘉敷村の座間味昌茂氏(元村長 平成六年〜一〇年)が最近筆者に語ったことによれば、戦時中渡嘉敷村の青年団長だった兼城清新氏(現在九〇歳)から座間味氏がやっと訊き出したという話は、次のような内容だった。
兼城清新氏(当時二六歳)の証言―― 軍が住民を本部陣地の北方へ集結させたのは、戦隊の機密漏洩防止のためであった。将校たちから聞いた話だが、住民への信用度が薄かったようだ。三月二八日(集団自決の日)に、自決に失敗した住民が本部陣地になだれ込んできた時は、まだ陣地壕は末完成で、穴はニ、三メートルほどしか掘られていなかった。
――右の証言から、住民の恩納河原への集結命令はあったものの、玉砕命令ではなかったということ。山中の本部陣地は、米軍が上陸した時点では、まだ構築中であった、という二点がおよそ判明したと言える。その背景が見えてくる。 
島空間の歪み
いま沖縄戦を考える人たちの間で、軍命とか軍関与とかを問題にして、しきりに攻撃的に論じている観がある。是が非でも軍命と軍関与ありきの主張を採用したいのである。その関連した意味性を含む二つの言語は、同義語と見倣すことができる。
キーワードは他にもあるであろうが、ここでは問題提起として考えてみたい。軍命は絶対服従の決定事項だし、軍関与は、軍に関わることだが少し悪徳のイメージがあり一つの固定観念でもある。二つとも色合と響きがデリケートに重なる。それらは軍に関係することだから、自衛隊を保持する現在の日本では全く無関係とは言えないと思う。そこから一部危惧の観念が浮上する。強い軍国日本のイメージである。遠い過去の、沖縄戦の隊長の自決命令の有無についても、人によっては、軍命が有ったとか無かったとかどうでもよいことだと云々する人もいる。また、だから何なの?と言って尊大に構える御仁もいる。しかし一蹴してはすまされない大事なことなので、じっくり考えてみる必要があるだろう。
短兵急に結論を先に言えば、軍国主義の時代は当然すみずみまで軍命は空気の如く国中に浸透していたわけで、軍関与がなかったとは断じて言えない。しかし隊長命令があったという証拠もないし、戒厳令が布かれない限り軍は本来一般住民に命令はできないはずだ。研究者によっては旧戒厳令用語の「合囲地境」を持ち出して、軍命を当てはめて既成事実として論じているようだが、一種の牽強付会ではなかろうか。また筆者がかつて個人的に調査したときも、全く軍命があったとは感じ取れなかった。ところがこの数年来、マスコミの執拗なキャンペーンにもよるが、また以前から離島では軍命ありきになっていて、人々はただ口を噤みこの件については触れたくない態度をとってきた、と主張する。
一方、「慶良間戦況報告書」という手書きのガリ版刷では、執筆者も日付もなく不詳だが、「渡嘉敷島における戦争の様相」の内容では、『鉄の暴風』と同じ文面があって気になる。その中の「座間味戦記」では、「(前略)タ刻に至りて梅沢部隊長よりの命令に依って住民は男女を問わず若きものは全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、予供は全員村の忠魂碑の前に於て玉砕する様にとの」事であった。(後略)」と記述されている。また、『沖縄敗戦秘録 悲劇の座間味島』(昭和四三年三月二六日発行非売品」には宮城初枝の手記があり、39頁の記述では「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命がもたらされました。「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし(後略)」となっている。
また、『座間味村史』下巻の「村民の戦争体験記」には二〇数名の体験記が記載されている。それらすべては伝聞ではあるが、隊長命令があったと記された証言が多い。
そこで次々と、座間味村の集団自決に至る各人の動きを、時系列で証言の中から任意に拾ってみた。 三月二五日のタ方、野村村長から米の配給の連絡を受ける(宮城初枝)。配給を受けて炊いて食べた(宮里美恵子)。その夜九時頃、宮平秀幸(15歳)さんは本部壕に偶然立ち寄ったとき村の役員達が梅沢隊長と問答しているのをこっそり聞く(本人の証言による)。九時三〇分頃、助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城盛助、役場吏員の宮平恵達、女子青年団員の宮城初枝ら五名揃って参上。助役は本部壕の梅澤部隊長に懇願する、「もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、老人と予供たちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい。」と懇願する。隊長は「お帰り下さい」とくり返し断る。夜十時半頃、恵達と初枝は助役に呼ばれ、「みんな忠魂碑の前に集まるよう連絡しなさい」と恵達に言い付け、初枝には「役場の壕から重要書類を忠魂碑に持ってくるように」と命じた。そこで初枝は大城澄江、小嶺つる子、つる子の弟、初枝の妹を誘って五人で書類を運んだ。
座間味島の二五日のタ刻から深夜にかけて、玉砕を覚悟した住民の代表宮里盛秀ら五人が本部壕で梅澤隊長に武器弾薬の貸し出しを交渉する。しかし、隊長から断られて引きさがる。ここまでは表現の微妙な差異はあってもどの戦記もほぼ一致している。宮里盛秀がすべてにおいて率先しているわけだが、その後、住民はどうなったか。次にそれぞれの証言から読みとることにしよう。 
宮里美恵子(農業組合保険部勤務、29歳)
二五日夜十一時ごろ、「みんな玉砕命令が下っているから忠魂碑の前に集合してください」と宮平恵達(19歳)さんは、あっちこっちの壕にふれまわっていた。伝令を聞いたとき私はすぐに死ぬ気になって、お国のためであればそれは本望だと思った。私は産業組合の壕を出て四歳になる子を背負い、組合帳簿と現金を持って、父は二人の予供の手をとって忠魂碑に向かった。「ヒューヒュー」と火の弾が飛んで、「ドローン、ドローン」とものすごい艦砲射撃がはじまった。忠魂碑の前まできたら、そこには婦人会長しかいなかった。急に怖くなって引き返すことにした。そして産業組合の壕に来てみたら、壕の入口は中から鍵がかかってあかない。それで私たちはすぐ近くの壕に入った。三月二六日夜十時、すぐ近くで「パラパラパラ」と機関銃の音が聞こえた。それからしばらくして、防空壕の入口に立ててあった畳が少しずつ動いた。とつぜん大きい爆発音がして畳が燃えはじめた。とっさに私は畳をひっくり返して飛び出てみたら、驚いたことにすぐそばにアメリ力兵がずらりと大ぜい立っていた。その中から「おばさん、おばさん心配するな」というはっきりした日本語が聞こえてきた。しばらくして、近くの産業組合の壕の前から突然、私の姉さんが飛び出てきて、ああこっちはみんな死んでいるよ!と叫びながら逃げて行った。私が夢中で壕の中を覗いたら、戦闘帽をかぶり足にゲートルを巻いて銃を持ったまま死んでいる人が倒れていた。すぐに私は予供たちを連れてそこから逃げた。(以下省略) 
宮里米子(旧姓 宮平 当時15歳)
(前略) 忠魂碑前に着いてみると、わずか二・三の家族がいるだけで、全住民が集まったとは思えません。(中略)そこで一人のあるおじいさんが、集まった人々に向かって「みんな、帰ってナーメーメー(それぞれ)でやりなさい。ご飯を腹いっぱい食べて、きれいな着物を着てやりなさい」と泣きながら話しているのが聞こえてきたわけです。私の家族もそれを聞いて引き返すことにしたのですが、でも、玉砕しようとは全く考えませんでした。(中略)
どこへ行くともなくヒジャーヌクシあたりを歩いていると、田園の中に爆弾が落ちたため、私たちはその泥をかぶって真っ黒になってしまいました。泥だらけのままヒジャーの山に登っていくと、途中、何やら人の声が聞こえてきたのです。敵だかだれだかわかりませんから、相手に気づかれないよう、雑木の間からこっそり見てみると、役場職員の一人が銃をもって胴体いっぱいに弾薬を巻きつけ、ひとかたまりになっているある家族を殺そうとしているわけです。
父親が「トー ナマヤシガぎあ、今だよ)」と役場職員をうながすと、子供たちが泣き出したため、この人はしばらくためらった。すると、おばあさんが「ナー シムサ シムサ」(もう、いいから、いいから)と彼を止めるように言うたため、彼は銃を下ろした。そのとき、「伝令!」という声が聞こえてきたかと思うと、一人の青年が「敵はただいま座間味に上陸しました」と、役場職員に対して敬礼をした。ですから、私たちは驚いて、急いでその場を離れました。(後略『座間味村史下巻』)
右の役場職員は恐らく助役の宮里盛秀であり、父親というのは村の長老の宮村盛永、伝連は若い吏員の宮平恵達であろうと思われる。それ以外には考えられない。 
吉田春子(二〇〇九年八月一八日 現地で筆者が本人から取材した。)
私は当時十八歳で、朝四時から午後五時まで軍の炊事場で働いていた。給料はなく奉仕作業だった。食材は軍からの配給で兵士たちの食事を作っていた。炊事場には兵士が数人いて、炊事係の女子は五名で全体の責任者は水谷少尉だった。空襲のときは、みんなで一緒に逃げて高月山の麓にある壕へ行くと、一期上のお姉さんたちや妹たちと出合った。そこではニ、三〇人の突貫兵たちが夕食をしていたが、斬込みに行くということだった。兵士たちが出て行つたので私たちは中へ入ることができた。 
数日すると、上陸した米軍との射撃戦があった。そして負傷した長谷川少尉と軽傷の三人の兵士たちも一緒に私たちは手当をするため残っていた。ある日突然、水谷少尉は私に水を汲んでこいと言い付けたが、外に出るのが怖かったので断った。すると一緒にいた元看護婦のノブ姉さんが代わりに行ってくれて、水筒に水を汲んできた。
これで何事もなく終ったと思ったが、高月山の拝所までみんなで行くことになったとき、一人で歩けない長谷川少尉を私が支えるようにして歩いていたら、不意に水谷少尉が私に向かって、「貴様、斬り捨ててやろう」と言って軍刀を抜いて振りかざした。月夜だったので、日本刀が「ピカピカ」光っていた。「斬ったらおれはどうなるんだ?と長谷川少尉が言ったら、水谷少尉は黙って軍刀を鞘に収めた。とても怖かったし長谷川少尉のおかげで命拾いした思いがした。
その後、水谷少尉が阿佐部落を突っ切って向こう側の友軍と合流したいと言い出した。中間には米軍の陣地があるはずだから非常に危険なので、みんなで止めたが、水谷少尉は聞く耳をもたず、「ここで別れて自由行動をとろう」と言いながら、自分の背嚢から乾パンなど携帯食品を取り出して私たちに分け与えるのだった。そして彼は一人で闇の中へ消えて行ったが、二度と帰ってはこなかった。
(別の証言集では、水谷少尉が軍刀を抜いて振りかざしたところで、ここのくだりは打ち切られている…。)
そこで思うに、集団自決が軍隊の強制と誘導によるものという見解もある程度認められないことはない。また、肉親や親族への「愛」から起きたとする見方も成立し得るが、必ずしもそうではないだろうと思う。親族以外の人を何人か殺害している自決未遂者の例がいくつかあるからだ。島という狭隘な村落共同体からくる精神作用があったとも考えられるのである。当時の風潮から捉えると、集団自決は天皇制の国家思想と、暴力を肯定する軍隊の営為のなかに介在する「死の美学」と合体した国民感情に、敗戦の絶望感と表裏一体の献身の死への願望の所産ではないかと思わ る。従ってそこにはパニック状態に陥り、自らを狂気に突人させた、「殉国死」の思想がなかったとは言えないだろう。天皇のためにという愛国心が働いていたことは否定しがたいのである。たとえ当時の天皇制思想が間違っていたとしても、それを国民は信奉していたのであり、そうした忠誠を誓った住民の上に、米軍の無差別の猛攻爆撃を受けて、殉国死へと導かされていったとは考えられないか。今でこそ、「殉国死」が悪の塊りのように見下げられているが、当時は真から崇高なこととして見上げられていた。今日的には決して肯定できる思想ではないが、はっきり言って、軍の命令で集団自決が決行されたと言ってしまえば明解のようだが、何か片手落ちで、これでは主張に溺れて早とちりしているように思えてならない。 
援護法の適用と歪曲の狭間
援護法が公布されたのは一九五二年(昭和二七年)四月であるが、その対象は国内の軍人・軍属であった。軍属の枠はきびしかったが、政府は迅速に実施するため援護法を沖縄にも適用することを考慮して、同年七月『那覇日本政府南方連絡事務所』(南連)を創設した。五三年四月から援護法の適用が承認され、琉球政府の社会局に援護課が新設された。援護法が沖縄に適用され援護事務が開始されたのは、同年十一月からであり、まず戸籍の整備促進が図られた。
当初の援護法適用時点では、女子学徒・看護婦が最初に配慮され、すぐに軍属として取り扱われ、後に調査検討がなされて男子学徒は軍人とすることが確定された。その後、各方面から南連や厚生省への陳情があって、五五年頃からはスムーズに業務が運ばれた。しかしそこへ至るまでの紅余曲折の関係者の苦労がなかったわけではない。五九年(昭和三四年四月)から戦闘参加の実態調査と陳情により、一般住民も「準軍属」として障害年金、遺族給与金が支給されることになった。また、六歳未満等の遺族に対しても六二年(昭和三七年)には「沖縄戦戦斗協力者死没者等見舞金支給要綱」により、死没者一人あたり二万円の見舞金が支給され、六歳未満の処遇については、沖縄戦傷害者の会等の陳情活動により、国は81年(昭和56年)10月から沖縄戦に参加した当時6歳未満の戦傷病者及び戦没者についても援護法を適用し処遇することとなった。――以上が沖縄県の援護業務の沿革の概略である。(『沖縄援護のあゆみ』参照)
旧厚生省が「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)を沖縄に適用するにあたって、沖縄戦で多大な犠牲を蒙った沖縄のために、適切な解決法の手だてとして、「隊長命令(軍命令)があった」という設定によって、住民の「戦闘参加者」が認定され、「準軍属」指定も成立したわけである。現在の大江・岩波裁判は、原告側から見ると、半世紀以上前に国が決めた戦後処理の業務の根幹に対し名誉回復と真実追求のために、期せずしてそれを覆そうとしていることになる。それに対し、被告側は、戦争責任を問うだけではなく、日本の旧軍国主義に当然のごとく汚名を多く被せて、一つの理念遂行を目指して、逆襲している観がする。
いってみれば過去において国は、善意の救済措置の下に、靖国神社と国体護持とを結びつけて処理し、一つの方便によって現在へとそれを継続させていると言えるだろう。
つまりその経緯をそっちのけにして、慶良間諸島の集団自決の隊長命令の有無の論争は、保革の政治思想が争点になった観があるのだ。その接点を分析するとおよそ二点あげることができる。1日本軍の残虐行為の強調と誇大表示は、米軍政府が沖縄統治をやりやすくするために有効である。2援護法による救済支給の裏面に介在した、封印する住民の堅い沈黙は、利害関係と無関係ではないが、長い沈黙を破っての(実は破られてないが)証言というかたちで、歴史歪曲を育んでいる。
以上のことを踏まえて現在の争点を押し進め、ついに「軍命令はなかった」と判決が下ったとすると、「集団・自決者」は「戦闘参加者」ではなくなって、遺族年金は支給されなくなり、長年の支給されてきた金額も返済しなければならない、という難問が発生するかもしれないと、一部の人たちは大いなる危惧があるとおどかす。しかし原点が旧厚生省であり、老練な自作自演であるわけで、そうはならないだろう。
さて、具体的に誰が援護法を適用し業務をすすめてきたかは重要なことだが、いまその余裕がないので省略して若干実例にそってのべておきたい。
座間味村では援護係でもあり総務課長でもあった宮村幸延氏(故宮里盛秀の実弟)は、集団自決補償の陳情・交渉のために、一九五七年八月に上京している。彼はそれよりも前に前後三回、「琉球遺族連合会」等と一緒に、また単独でも上京し、厚生省から手続き上の指導を受けている。琉球政府社会局援護課が一九五四年(昭和二九年)いよいよ調査段階に入ったとき、局長の山川泰邦氏も上京して厚生省事務次官とも掛け合っている。それから五五年(昭和三〇年)三月から五八年(昭和三三年)七月まで日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務した馬渕新治氏(元大本営船舶参謀・総理府事務官)の沖縄戦戦没者への深い思い入れによる働きかけがあり、その尽力は大きかった。また五三、四年頃、南連に着任する以前にも馬渕氏は来沖していて、沖縄戦の実状の下調べなどして戦後処理の準備をしていたようだ(旧援護課勤務の複数の人の証言による)。かくて五七年以降に「軍命」が決め手となって、次々と援護法による傷害年金、遺族給与金が支給される段階となった。
座間味村の援護法による調査係兼審査員は主に今井要氏であったが、渡嘉敷村は照屋昇雄氏であった。照屋氏は戦後「沖縄日報」の記者だったが、一九五三年に援護業務嘱託として勤務して、渡嘉敷島に同年五月に渡って集団自決の約百人の遺族のために、「行動経過書」「戦闘参加者についての申立書」や「現認証明書」等を一週間で調査・代筆したという。現認証明書の末尾には、富山眞順氏の署名・捺印をすることが多かったようで、それは書類で見ることができる。また五五年(昭和三〇年)の十二月に照屋氏は玉井村長に呼ばれて、来年の一月何日かの閣議に間に合わさなければならないので、援護法の申請の書類を全部仕上げて欲しいと頼まれ、二人して安謝の「渡嘉敷ヤードゥイグヮー」に泊り掛けで整理作業をしたことがあったという。玉井村長も陳情で上京もしているし、孤軍奮闘して、書類作成ではきわどい手段も用いたらしく、広島,長崎の原爆の被爆者には援護法の適用は認可されなかったのに、沖縄に認可されたのは玉井村長ら幾人かの尽力によると言えよう。
座間味村では同じ書類に主に宮村幸延氏が署名捺印したが、渡嘉蔵村では富山眞順氏がその役を果たしていた。また、「証言」の文章はほとんど国の指導通りに「軍命令」か「隊長命令」と記入されてある。そうでないと書類を突っ返されることがあった。それは直接命令ではなく伝聞であるが、島の最高権力者の命令と受け取れるような文脈に仕立てあげてあった。そして暗に書類の裏には明確ではないが捏造を感じさせるものがあったことは否定できないだろう。
援護法と軍命令の有無に関連して、二〇〇七年一月五日付の沖縄タイムス社会面に、七十代の男性の顔写真入りのトップ記事が載っている。「国、当初から実態把握『担造説』根拠覆す。慶良間諸島の沖縄戦時の状況ははっきりしていた。集団自決の犠牲は『準軍属』として処遇することは明確だった」として、「一九五六年、琉球政府援護課に奉職した金城見好さんは、当時の国や琉球政府の方針を明快に説明していた」、という記事だ。そして『軍命』の存在は「調査担当者ではないわれわれの耳にも入った」と証言して、「『軍命』握造説」を否定した」というのだ。
取材するときの陥りやすい陥穿は、あらかじめストーリーを作ってから取り掛かってしまうことである。右の記事は虚偽の報告ではないが、トリック的表現である。「調査を行った人々から、われわれにも(軍命があったことを)聞かされた」とか、「早い時期に申請ができた」という証言を受けて、記者の主張を裏付けているという仕掛けである。因みに筆者は金城見好氏に去年十二月上旬に会う機会を得たが、その時の彼の立場からの話では、「当時自分はまだ二一か二二歳だったから、何も分からず、先輩たちの手掛けた仕事を見よう見まねでやっただけ。それほど難しい仕事ではなかった」。そして「当初から住民を『準軍属』として扱うことは決まっていたようだ」とも話していた。しかし、これは住民側からの切実な要請の結果であり 後で厚生省によって設定されていたことを意味する。集団自決者を「準軍属」に該当させるまでの苦心のほどを彼は知るよしもなかったらしく、いつどんな風にそれが指定されたかについても、知らなかった。昭和二九年頃にできたはずの援護マニュアルの、二〇項目に分類された『戦闘参加者概況表』を彼は見ながら業務をしたと話していた。
――であるならば、部外者は都合よく解釈せず、その内実をしっかり吟味する必要があると思う。ちなみに、金城見好氏は数年後には、実務上の条文の解説書の類の小冊子を作成するまでになっていたそうである。 ところで、防衛省・自衛隊の中にある防衛研究所が所蔵する『沖縄戦における島民の行動』と題する資料がある。その中にある付録の『集団自決の渡嘉敷戦』(付録三)と『座間味村の集団自決』(付録四)の二点に対して、後から「見解」と「所見」が付されている。その付録は誰が執筆したか不明とされている。問題はその「見解」と「所見」の内容だ。『沖縄戦における島民の行動』というのは、馬渕新治氏が陸上自衛隊の幹部学校で講演したその内容をまとめたものである。馬渕氏は、沖縄において三年間援護業務に従事していたが、それ以前から沖縄戦の実態を取材調査するため来島していたし、沖縄の遺族を救済しなければならないという使命感で執筆もし講演もしていた。
馬渕氏の「住民処理の状況」(「被告準備書面の要旨」より)は、――沖縄において日本軍人が、住民に無用の圧迫,暴行を加え、威嚇強制のうえ住民を壕から立ち退かせ、非常用食糧を強奪し、母親に強制して赤児を殺害させ、無実の住民をスパイ視して処刑するなどの蛮行を働き、住民に悪感情を持たれていた――ことなどを指摘する。
右の記述はある程度事実であろうが、その表現には日本軍の悪辣な行為を強調したきらいがある。まるで軍と住民は敵対関係にあって、残虐非道の極みを軍から住民はやりたい放題やられてきたという内容だ。あたかもそれは中国戦線においての日本軍対中国の便衣隊との対立関係に酷似している。そこには沖縄住民の忠誠心もひたむきな戦争協力も全く見えてこない。それなのに次に続く言葉はこうである。
戦闘協力者(戦闘参加者)として住民を遺族援護法の適用の対象とすることについて、「今年(昭和三二年)は沖縄戦の十三周年忌を迎えることになった為、これの早急の処理が叫ばれ、近く厚生省から担当事務官三名が長期に亘って現地に派遣させられる段階となった。(中略)慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数三二九名)、座間味村(住民自決数二八四名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり、強く当時の部隊長に対する反感が秘められております」と述べている。
すなわち馬渕氏は一九五五年(昭和三〇年)に赴任して以来、座間味島や渡嘉敷島を訪問し、調査をしたが、両島の住民はみんな部隊長から自決命令があったと証言していたという。従って、日本政府(沖縄南方連絡事務所)も当初から、座間味村及び渡嘉敷村の集団自決は日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていたというわけである。すなわち、日本政府が集団自決を「戦闘協力者」には該当しないとしていたのに陳情により対象としたというような経緯はなかったことが明らかになったと被告側は結論づけている。しかし、そこにはある複雑な作為が感じ取れるのだ。馬渕氏が調査したのは、正式には敗戦から十年経っていて、『鉄の暴風』発行から五年経っているが、彼の発言には、「鉄の暴風」やその他の隊長命令の記録の影響を感じさせるものがある。またもっと濃厚なのは、馬渕氏の経歴からして、ある種の蹟罪意識と日本政府の面子への配慮とがどことなく読みとれるのである。そうでなくても、住民は現地に実在する憎しみとは異なる感情がら、実際に一九五〇年代初期から中期にかけて、沖縄から厚生省へ陳情に幾度か通ったことは事実だし、それをもみ消すような断定的否定には、ある種の圧力を感じさせるものがあるのだ
ところが、馬渕氏の『沖縄戦における島民の行動』の本文の内容に対する「防衛研究所戦史部」の付録は、その「見解」と「所見」併せて、全く裏腹な、反対の解釈になっている。同じ書類に相反する報告文が綴られているのだ。そのことを馬渕氏が知らないはずはないし、認めているふしがある。それは何を意味するのか。その一部を次に抜粋する。「『日本軍側の旧悪を暴く』という風潮の中で、事実とは全く異なるものが、あたかも事実であるかのごとく書かれたものである」というのが「見解」なのだ。また「所見」では、戦史編纂官を務めた伊藤常男氏が昭和四一年二月一七日付で「内容には相当の誤りがあるが、住民の気持ちの一端が知られる。日本軍に対する相当の誹誇が記述されているが、実際より誇張されていると思われる」となっている。その他にも、『渡嘉敷島及び座間味島における集団自決の真相』と題して、調査員・永江太郎氏が平成十二年十月一八日付で「軍命令による集団自決とされていた両島の事件が、村役場の独断であり、戦後補償のために軍命令をした経緯に関する当事者の貴重な証言である」という「所見」である。また『沖縄渡嘉敷島、座間味島集団自決』という資料には、戦史編纂官・川田久四郎氏によって、昭和四七年八月二二日付で「軍誹謡の記事」「事実をねつ造」などと、付されている。
それらの「見解」や「所見」に対し、沖縄側は黙ってはいなかった。沖縄県の国会議員の糸数慶子氏(平成二〇年一月一八日提出)と同じく照屋寛徳氏(平成二〇年一月二三日提出)のお二人がほぼ同じ内容の抗議と受け取れる質問主意書を参議院議長江田五月宛に提出している。お二人にはそれ相当の裏付けと根拠をお待ちであろうと思われる。少し気になるのは、防衛研究所関係の複数の調査員が四〇数年も前から軍命令の存在を否定する立場を守り、現在も持続した見解であるということだ。単に立場だけの主張ではなさそうである。そこで単に質問に終らず、沖縄側はどのように究明すべきか問われていると受け止めたい。反対のための反対にならないように、また同調圧力だと批判されないためにも、この問題には慎重に取り組む必要があるだろう。
教科書検定意見に対しての文科省と県民との争点は、集団自決の強制・関与の有無であるが、沖縄の新聞では国の動きに危機感を抱いているという議論が出ている。もう一つ驚いたことに、沖縄戦研究の到達点として、ある人は、「住民の集団死は日本軍による住民虐殺の中に含まれる」と結論づけているのだ。日本軍による住民虐殺については、もっと詳細に調べる必要があると思う。スパイ容疑等で処刑したことについても、かなり誇張されてた面がなきにしもあらずである。
そして軍命があって、集団自決が起きたという単刀直入なその解釈にも疑問がある。
また、一部の住民の死を国家のための「自決」と見ることもできるはずなのに、ひたすら強制によるものと理解せよと押しつける発想には、常に軍命のみが裏付けとして存在する感じなのだ。幼児は別として、自決者が国のために死のうと考えたときには、決して強制ではなく、自主性がそこにあると思う。仮に、軍の存在や言行が、すべて国民への命令であると考えるならば、軍命はいずこにも存在したということになる。パニック状態でも捕虜となりたくないという恐怖心から死を選択する心境は、ある程度理解できる。そして「正確な沖縄戦の史実の継承」という発言については、一方では立派な標語だが、イデオロギーに囚われすぎると、史実を歪めてしまう恐れがあることも肝に銘じたい。
国のために、あるいは天皇のために、自決するという因縁がつくと、賛美の形になるようなので、今日の時代にそぐわないのかもしれない。しかし当時の、晴れ着に着替えて、親が子を殺し、子が親を殺し、兄が弟妹を殺すような集団自決に対して、左派の論理に従い日本軍による指導・誘導・強制・命令による「強制集団死」と見なし、そこへ是非とも到達させることには無理があるようだ。大方は、戦時中の日本の体質としてその傷口の膿に似たものに象徴されるような、悲劇的な時代の波動とも見なされるわけだが、そこには別のコアがあるように思われる。
他面、戦時中の軍民の「殉国死」を全く認めようとしないような観念形態が高じると、理想を思うあまり過去の事実を隠蔽して、見えすいたウソを堂々とついてしまうことにもなりかねない。そこで、殉国死とは直接関係ないが、ごく卑近な例をあげてみる。〇七年九月二九日の歴史教科書記述に抗議する県民大会が一一万六千人も結集したという報道の誇大数字は、現在も記述から消えていない。一種の自虐ジョークならば納得もできるが、大上段に一一万余人だと唱えるに至っては、明らかにプロパガンダによる自己中心的な拡大宣伝になってしまう。いかにも真実味があるようでないので、逆効果ではないか。そうした拡大表示は氷山の一角のようにさえ思われてくる。
くり返しになるが、「集団自決」の悲劇を皇民化教育と軍国主義教育の影響による洗脳作用に起因するという見解は、当たっていて自明の理である。それのみならず、島社会の血縁・地縁の共同体の体質の作用にもよるだろう。その他にも二重・三重の要素が含まれていると思われる。なによりも地上戦で国内が戦場であることと、米軍の織烈をきわめた無差別攻撃が被害の最大要因だと言いたい。なぜこのことで米軍を糾弾しないのか。
問題はほかにもまだまだ山積している。その中には、山川泰邦著『秘録 沖縄戦記』(昭和四四年一二月一日発行)と、復刻版・山川泰邦著『秘録 沖縄戦記』(二〇〇六年一〇月二八日山川一郎発行)との相違点の意味とその背景。また宮城晴美著『母の遺したもの』二〇〇〇年一二月六日発行)と、
同題名・同著者の『新版』(二〇〇八年一月三〇日発行)との相違点が母への背反行為にあたらないか等々。その他にも放っておけない問題がある。そうした集団自決にまつわる諸問題は、今後もっと調査して究明すべきだろう。
筆者は三〇数年もこのゆゆしき問題等に対し一種の諦念を抱いていたが、現在の沖縄の大きな潮流の傾向には納得がいかず、微力ながら黙っておれなくなったのである。
数年ほど前の話だが、渡嘉敷島の兵事主任だった富山眞順氏が亡くなる一年ほど前に、たまたま集団自決について、軍命があって起きたのか、軍命などはなかったのに起きたのか、というある人の問いかけに対して、富山氏はおもむろに「真実は自分だけが知っている……これは墓場の中まで持って行くことにした」と答えたという。
真実のすべては、島の住民が墓場へ持ち去ったのだろうか。この軍命の有無についての謎の迷路は、座間味島においても疑心暗鬼をかきたてて、深まるばかりだ。生還した梅澤裕元隊長は、高齢者ながら汚名を晴らそうと苦悩し、あの手この手で試行錯誤を繰り返したが、今だに信じてもらえず、一部では犯罪者扱いにされている。
一方、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長は、生存中に島の慰霊祭に招待されて出掛けたが、那覇空港で抗議団体から激しく罵倒され、もみくちやにされて、泊港でも島への渡航を阻止された。無念の帰宅をした赤松氏は、その後も何度か「自決命令は出していない」ことを手記にしたためたが、沖縄の人達からは信じて貰えず、一顧だにされずに他界した。
ここで、沖縄の新聞を代表する世相を端的に言えば、沖縄では一般的に、二人の隊長の命令によって、集団自決が決行され、惨たらしく多数の住民が犠牲になったという見解だ。それでは、もっともらしいが、よく考えると奇々怪々にさえ思えてくる。今や軍命に異を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷痕を暴く悪趣味にすぎないと批判されるだろう。しかし沖縄戦の真実は、隠蔽された影の部分を剥がさない限り、見えてこないだろうし、そのような視線にこそ重要な意味があるような気がしてならない。 
 
戦陣訓虜囚の辱の意味 / 戦陣訓本意 囚人を捕虜と63年間捏造報道

 

「生きて捕虜の辱」そんな「私心」で玉砕したのではない。生きて生きて生きて生きて生き抜いて護国「公」(義)のため戦ったが、最後に力尽きて、結果が玉砕となったのだ。皆「公」、『軍人勅諭』「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」に対しての殉死だ。「義」(公)は死よりもはるかに重い、「公」(義)を果たさない汚名を受くるなかれと『軍人勅諭』は述べている。
「義」(公)は死よりもはるかに重い『軍人勅諭』の皇軍の兵に、臣(けらい)東條英機は手本の『軍人勅諭』を無視し、「義」(公)の為ではなく、「私心・私利私欲」(捕虜になるのは辱だ)で死ねと教え(訓)たというのだ。規範の『軍人勅諭』を完全否定。ヒトラーはスターリングラード戦で、直々に「降伏禁止令」という、 狂気の極みとも言える命令を出し、凄まじい悲劇となった。東條英機をヒトラーと 同罪にするため、ただの単なる教え(戦陣訓)さえも、「降伏禁止令」であるかのように報道させた。明々白々な捏造だ。
軍人が敵の捕虜になる場合は、投降(戦時下の降伏と、終戦のための降伏)と負傷(戦時下)により捕虜になる。気を失ったり、動けない負傷者までもが捕虜にならず死ねとは、動けないのに自殺などできない。終戦後も捕虜とならないで自殺せよ。こんな無茶苦茶な実現不可能な命令は、どこにも無いし、在りえないし、誰一人実行しなかった(戦陣訓ごときが原因で、だれも自決していない。東条英機が自決の理由「私心」にしたのは訳があったからだ。アメリカの東條英機自殺捏造の項目参照)。実現不可能な命令は、命令にならないので、出すはずが無い。結果、古今東西の歴史上に、こんな命令は存在しない。訓(教え)を命令にすり替えた、捏造だ。
戦陣訓を過大評価しすぎです。皆さんは紙切れに書かれた1/2行で死ねますか?。
命令としては存在し得ない命令を、あたかも在ったかのように61年間マスコミと咀嚼せず鵜呑み知識の鵜人と反日が、撒き散らし続け、終戦後戦陣訓を一人歩きさせた。結果嘘が定説となってしまった。 
日本のマスコミと鵜呑み知識の鵜人は、戦争をあおったことによって、戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていた。だから、戦争責任を逃れんがために、責任を軍人に全て押し付け、米軍に迎合し、プロパガンダ(捏造宣伝)に励んだ。後に、反日が侮日目的で便乗した。
「捕虜となるよりは自殺せよ」は、戦時下一部マスコミがつまみ食いし、戦後に、米軍とマスコミと反日に、大々的に捏造宣伝されたものだ。
軍人が不可抗力で敵の捕虜になることと、軍人が罪禍「ざいか(法律や道徳に背いた行為)」を犯し日本国にとらわれ処罰される事と、皆さんは、どちらが軍人としての虜囚の辱(はずかしめ)だとおもわれますか。
「戦陣訓」示達の目的。中国戦線での軍紀の乱れを正すため、陸軍軍人だけに示達された。大東亜戦争の為にではない。内容は、「盗むな・殺すな・犯すな」を、「訓」なので直接表現せず、婉曲表現している。命令ではなく、法律でもなく、単なる「訓(教え)」である。
○戦陣訓・文意からの考察
戦陣訓
『第七 死生観 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容〔しょうよう(ゆったり)〕として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。』
『第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』
『第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党〔きょうとう(同郷の人々)〕家門〔かもん(家柄)〕の面目〔めんもく(名誉)〕を思ひ、愈々〔いよいよ(ますます)〕奮励〔ふんれい(はげむ)〕して其の期待に答ふべし。生きて(生きてる時も)〔虜囚の辱〕(りょしゅうのはずかしめ)〔皇軍の兵が、罪禍(法律)を犯し、日本国の囚人となり、実刑で服役するような軍人としての恥ずかしい汚名。〕を受けず、死して(死んだ時も)罪禍〔ざいか(法律や道徳に背いた行為)〕の汚名を残すこと勿(なか)れ。』 補筆真実史観
○戦陣訓第八の意訳文
『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』
『第七 死生観・生死を超越し・・・悠久の大義(公)に生くることを悦びとすべし。』と教え『第八名を惜しむ・捕虜は辱(恥辱)(私心)なので捕虜にならず(大義でなく私心で)死ね。』こんな矛盾した解釈は成立しない。明白な捏造だ。広辞苑で虜囚を引くと、「とらわれた人(とらわれ人・囚人・めしうど)(主語が日本)。とりこ(生け捕りにした者・敵国に捕まえられた者)(主語が日本と敵国)。捕虜(敵国に捕まえられた者・生け捕りにした者)」(主語が日本と敵国)」と出てくる。虜囚、は、日本国の囚人(罪科を犯し捕まえられた者)と、とりこ、捕虜(生け捕りにした者と敵国に捕まえられた者)、の意味があるということになる(戦後61年後の現代においては)。意味が混濁しているのが判明する。言葉の意味に能動と受動相反する意味が存在することはおかしい。どちらかが後付けされた意味で、本来の意味から変化したものだ。辞書を繰ると「虜囚」の最後尾は「捕虜」、「捕虜」の最後尾は「とりこ」、「とりこ」の最後尾は「捕虜」。仮説とぴたり一致した。辞書は皆、新しい意味を書き足す、書き足された意味を外して整理してみよう。
虜囚の意味「とらわれた人(とらわれ人・囚人・めしうど)(主語が日本)。とりこ(生け捕りにした者)(主語が日本)」となり明確になる。「捕虜」の意味は(敵国に捕まえられた者)となりこれも明確になる。意味の変遷は時代の証人。捏造の巨魁は報道屋。なんと辞書が暴いたのだ。
なぜ虜囚を用いたか?。類語には、「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」、「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」、「捕虜・俘虜(ふりょ)・虜(とりこ)」、がある。
「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は、明らかに囚人だ。
「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、明らかに敵国の捕虜だ。
「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・とりこ」は、日本国の囚人と敵国の捕虜両方の意味が有るという(戦後61年後の現代においては)。
誇り有る軍人の訓だ。生きて「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」の辱、とは余りにあからさまで、使えない。やはり、格調高く、響きも良い(旅愁を連想)、「生きて虜囚(とらわれた人)の辱」、しかない。しかし、この格調の高さが、婉曲表現となり、あいまいさとなって、つけ込まれ、マスコミの歪曲(つまみ食い報道)の起因となった。兵士の中にも、つまみ食い読みをしたものがいた。この項最終章の「カウラの大脱走」も、そうだ。格調の高さが、婉曲表現となり、あいまいさとなって、悲劇を生んでしまった。 「サイパン島守備兵に与える訓示」のように「捕虜の辱め」は「私心」なのに、捕虜とならないで死ぬこと(私心)が、あたかも大義に準じるかのように混同して訓示した者もいた。下記赤字は「大義」で黒字は「私心」だ。なんと中将クラスでさえも、内容を理解していなかったのだ。戦陣訓の内容理解度は、推して知るべしだ。
1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一中将、斉藤義次中将連名「サイパン島守備兵に与える訓示」 「断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生きるを悦びとすべし」。
「1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令
非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり 」(注・戦陣訓の虜囚の辱ではない、捕虜の辱めをと、なっている。この発令はウィキ以外は、見当らず出自不明)。
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事。
なお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷荻報道部長の談話)」戦陣訓 - Wikipedia。谷荻大本営報道部長の放送で、談話ではない、ウィキ捏造。放送内容に「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」は一切皆無、ウィキ捏造。朝日の記事が二ヶ所で戦陣訓を引用し、「虜囚の辱」をアッツ島米軍皆殺し作戦(玉砕)と結び付けている。
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事以後「虜囚の辱=降伏禁止」が、兵士としての建前「最後まであきらめずに戦う」(現代の戦うスポーツ選手の標語と同じ)と結合し、日本軍の一部は、この記事で洗脳された。
国民の一部も、朝日新聞捏造記事で洗脳された。
沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実・曽野綾子著
「・・・『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉を、少なくとも私はあの時代に疑ったことはなかった。まだ13才と何ヶ月(1931年生まれ+13歳で1944年の出来事である)の少女だったから見抜く力がなかった、と私は言わないつもりである。私がもっと分別のある年頃であったとしても、私はその言葉に虚偽的なものを感ずる能力はなかったと確信している。なぜなら私はそのように育てられ、それ以外の価値観がこの世に存在することを知らないに等しかった・・・」
このような朝日新聞の捏造報道で、虜囚=捕虜と雲忠一中将のように信じてしまった人もいる。後述するが当時の「虜囚」は、敵を生きながら捕らえ来ることで、敵に捕まえられる受動の意味皆無。活字が糧の新聞屋が、知らなかったと言ったら嘘になる。当然知ってて捏造した。朝日新聞は戦前も戦後も、捏造の巨魁だ。ウイキペデアの虜囚=捕虜は、この報道や南雲忠一斉藤義次中将の訓示を、根拠にしている。報道1943年5月、訓示 1944年7月、中将が、この報道を知らなかったはずは無い。新聞屋の捏造報道が、ウイキペデアの根拠なのだ。ウイキペデアは右翼左翼発言多発(ノート)、WW2史は侮日捏造団の巣窟、逆が真実だ。
マスコミの部分つまみ食い報道の「生きて虜囚の辱めを受けず」には、「生きて虜囚(A敵国の捕虜となった辱め。B日本国にとらわれ囚人となった辱め)を受けず」とA・B二つの解釈が成り立つのだが(戦後61年後の現代においては)、これまでマスコミは降伏禁止の、Aの部分をだけを戦後拡大偏向つまみ食い報道してきた。
しかし全文は上記である、文意が合わない。
生きて・・・死して・・・勿(なか)れ。
生きている時も・・・○を・・・受けず、死んでも罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ。
簡略すると、「生きても○ず、死しても罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ。」と呼応し、○を強調した文なので、○=罪禍の汚名となる。「A敵国の捕虜=罪禍(法律や道徳に背いた行為)の汚名」では一致しない。B皇軍の兵が罪過(法律)を犯し、日本国の囚人となり、軍人としての恥ずかしい汚名=罪禍(法律や道徳に背いた行為)の汚名となり、一致する。この場合罪禍=『戦陣訓』示達の目的 「(盗むな)(殺すな)(犯すな)」になる。
結果、生きている時も・・・「皇軍の兵が、罪禍(法律)を犯し日本国の囚人となり、軍人としての恥ずかしい汚名」を・・・受けず、死んでも・・・罪禍「ざいか(法律や道徳に背いた行為)」の汚名を残すこと勿(なか)れ。となる。
生きて(法律に背く)の汚名、死して(道徳に背く)の汚名=罪禍「ざいか(法律や道徳に背いた行為)」の汚名を残すこと勿(なか)れ=『第八 名を惜しむ』表題と、呼応した文となる。
戦陣訓戦後の定説は、虜囚の辱=敵国の捕虜。軍人が敵国の捕虜になる場合は、A戦時下の投降(部隊・個人)、B戦時下の負傷のため投降(個人)、C終戦による投降(国の敗戦)と、戦後の定説(虜囚の辱=敵国の捕虜)では三者三様の捕虜になる。Bは動けず実行不可。Cは終戦なのに自殺せよと矛盾し実行不可。よって、(虜囚の辱=敵国の捕虜)は成立せず。
規範の明治天皇の「軍人勅諭」に一切明記の無い(降伏禁止)を、陸軍大臣(家来)東條示達の「戦陣訓」に記載は出来ない。それでも(降伏禁止)記載ありと主張するのは、捏造以外の何ものでもない。
訓より上位の陸軍刑法、海軍刑法、法にも「降伏禁止」は、一切記載無し。無いものを有りとするのは、捏造以外の何ものでもない。
大正6年初版昭和15(1940)年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。
「今こそ戦後の呪縛を断ち切れ」といくら叫んでも侮日プロパガンダ・捏造戦陣訓が有る限り無駄なのです。NHKを初めとする戦陣訓責任転嫁捏造報道は、日本国民の心を傷つけ、相当に罪深いものがあります。今、日本国民は、パール判事の予言のように、歪められた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流されて生きています。このままでは、あまりにも子孫が哀れです。
○インドのパール判事(ラダ・ビノード・パール) 
「意見書の結語」
時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう
昨年、虚偽の「戦陣訓」の、その仮面を剥ぎとりました。戦後62年の今年は、正義の女神の出番です。正義の女神となり、今年は、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求しなければなりません。上述のように国民は戦陣訓で病んでいます。多くの正義の女神の助けが必要です。マス・メディアや国民は戦勝国のプロパガンダを62年経ても未だに引きずっています。日本人の心の戦後は、いまだ訪れてはいません。まず真実の戦陣訓の流布。真実の戦陣訓に覚醒すれば、他は自ずと覚醒します。
終戦62年後の今年、正論で戦勝国のプロパガンダを絶ち切り、正義の女神となり、真実の戦陣訓を流布し、日本人の心の戦後を迎えましょう。そして、子孫に実事求是の真実の歴史を残しましょう。 
 
■戦時諸話

 

 
戦時中の内閣  
第四十代 第三次近衛文麿内閣 (1941.7.18-1941.10.18)
成立過程
もともと松岡洋右外相を除くための総辞職であったから、近衛に組閣の大命が降下することはほぼ確実な形勢であった。そして果たして大命は再降下し、近衛第三次内閣が成立する。外相には海軍から豊田貞次郎が迎えられた。この内閣の最大の課題は、日米交渉にほかならない。
経過
しかし、日米交渉を進展させようとする一方で、近衛内閣は南部仏印(ベトナム南部からカンボジアにかけて)に産出されるゴムと蘭印(インドネシア)に産出される石油を欲した。そこで北部仏印の兵をさらに南下させようと試みたが、それは列強の植民地へのあからさまな野望を露呈するものであった。アメリカをはじめとする各国は国内日本資産を凍結する措置に出たが、近衛内閣は南部仏印出兵を強行した。
その直後、かつて協調外交である「幣原外交」が破綻して政界から退いていた幣原喜重郎は、近衛と会い、仏印進駐を必死に諫めた。
近衛公は私に向かって、「いよいよ仏印の南部に兵を送ることにしました」と告げた。私は、「船はもう出帆したんですか」と訊くと、「エエ、一昨日出帆しました」という。
「それではまだ向こうに着いていませんね。この際船を途中台湾か何処かに引戻して、そこで待機させるということは、出来ませんか」
「すでに御前会議で論議を尽くして決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」との答えであった。
「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」と私がいうと、公は、
「そんな事になりますか」と、目を白黒させる。私は、
「きっと戦争になります。それだから出来るならば途中から引き返させて、台湾か何処かの港に留めておきワシントンの日米交渉を継続して、真剣に平和的解決に全力を挙げられたいものです。しかしもう日本軍がサイゴンか何処かに上陸したならば、アメリカと交渉しても無益ですから、それはお止めになったらよいでしょう。交渉を進行する意味はありません」というと、公は非常に驚いて、
「それはどうしてでしょうか。いろいろ軍部とも意見を戦わし、しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない。こちらから働きかけることをしないということで、漸く軍部を納得せしめ、話を纏めることができたのです。それはいけませんか」というから、
「それは絶対にできません。見ていて御覧なさい。一たび兵隊が仏印に行けば、次には蘭領印度(今のインドネシア)へ進入することになります。英領マレーにも侵入することになります。そうすれば問題は非常に広くなって、もう手が引けなくなります。私はそう感ずる。もし私に御相談になるということならば、絶対にお止めする外ありません」
ジッと聞いていた近衛公は顔面やや蒼白となり、「何か外に方法がないでしょうか」という。
「それ以外に方法はありません。この際思い切って、もう一度勅許を得て兵を引き返す外に方法はありません。それはあなたの面子にかかわるか、軍隊の面子にかかわるか知らんが、もう面子だけの問題じゃありません」と、私は断言したのであった。
日本の南部仏印進駐を受け、アメリカはついに対日石油禁輸を断行する。「アメリカはさほど強い態度には出るまい」と考えていた近衛は、泡を食った。日米交渉は一挙に障碍を受けたと言える。また、アメリカの国益上もすでに対日宥和政策をとる必要はなかった。ヨーロッパでは独ソ戦が開始され、当面アメリカのもっとも怖れる、ドイツのグレートブリテン島上陸、イギリスの屈服というシナリオの可能性が遠のいたからである。
近衛はそこで、米国ルーズヴェルト大統領との頂上会談によって事態の打開をはかろうと試みた。近衛とルーズヴェルトの間を周旋したのは、駐日米大使ジョゼフ・グルーである。滞日十年の知日家グルーは、
「国粋主義者と狂信者を除けば、多くの日本人は、日本のメンツが立つような合意ができて、決められたスケジュールに従って中国や東南アジア(満州は別にしても)から撤兵できることを心から望んでいる」
と考えていた。そして、ルーズヴェルトも、野村吉三郎大使に、
「ホノルルは日程的にむりだが、アラスカのジュノーなら日程的に可能だ」
「近衛公と三日か四日を共に過ごすことに非常に関心がある」
と述べていた。そのワシントンが豹変したのは、グルーの秘書官であったロバート・フィアリーによれば、ハル国務長官の極東問題顧問スタンレー・ホーンベックがハルを強く説いたためであるという。
近衛は、グルーとともに日米戦争回避のために尽瘁した。現存していないが、フィアリーが確かにその存在を証言しているグルー・レポートは、近衛が中国・インドシナからの期限付き撤兵や、米独戦争が起っても日本はドイツに荷担しないこと、そして撤兵完了後はアメリカと日本のあいだに新しい通商条約と航海条約を設定するなどの条件を示した上で、これが合意に至った暁には、政府・軍首脳部がこの条約に同意である旨を詔勅を得てラジオ放送する積もりであったという。
しかし、もはや対日宥和政策をとらないことを決したアメリカは、これに冷淡に対応してもまったく問題なかった。ハル国務長官は野村大使にそのように対応し、近衛を失望させた。日米戦争回避の望みは、露と消えた。
さて、アメリカの対日石油禁輸によって、いままで強硬な戦争論者であった陸軍に加えて、海軍もこれに与した。
海軍の艦艇は、当然の事ながら石油がなければ動かない。このままでは国内備蓄の石油が底を尽き、にっちもさっちも行かなくなるためである。また、アメリカと日本の国力、建艦能力でゆけば、懸絶している。事態の推移を座して見守れば、力関係は一層懸隔するであろう、というのが海軍の見通しであった。
永野修身軍令部総長はこのような背景をもとに、天皇に上奏して曰く、
「日米国交調整が不可能になって油の供給源を失うとなれば、二年間分の貯蔵量を有するのみであり、戦争となれば一年半で消費してしまう。むしろこの際打って出るほかなし」
と言っている。天皇は果たして陸海軍部が出師準備を整えていることに危惧をおぼえ、九月五日、近衛首相に「これを御前会議で下問してよいか」と訊ねると、近衛は、御前会議の場でのご下問はおもしろからず、いま此処で両統帥部総長をお召しになって御下問あそばされるやいかん、との旨を答え、両総長が呼ばれることになった。
以下、近衛の手記による。余とは近衛自身のことである。
御前会議前日、余は参内して議題帝国国策遂行要綱を内奏した処、陛下には
「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げてある。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き印象を受ける。此点に就て明日の会議で統帥部の両総長に質問したいと思ふが・・・」
と仰せられた。余は之に対し奉り、
「一二の順序は必ずしも軽重を示すものに非ず、政府としては飽まで外交交渉を行ひ、交渉がどうしても纏らぬ場合に戦争の準備に取りかかるといふ趣旨なり」
と申上げ、尚
「此点につき統帥部に御質問の思召あらば、御前会議にては場所柄如何かと考へられますから、今直に両総長を御召しになりましては如何」
と奏上せしに
「直に呼べ尚総理大臣も陪席せよ」
とのお言葉であった。両総長は直に参内拝謁し、余も陪席した。陛下は両総長に対し、余に対する御下問と同様の御下問あり、両総長は余と同じ奉答した。
続いて陛下は杉山参謀総長に対し、
「日米事起らば、陸軍としては幾許の期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、総長は「南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもりであります」
と奉答した。陛下は更に総長に向はせられ、
「汝は支那事変勃發当時の陸相なり。その時陸相として『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。しかるに四カ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」
と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地が開けており予定通り作戦し得ざりし事情をくどくどと弁明申上げたところ、陛下は勵聲壱番、総長に對せられ
「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなほ廣ひではないか。如何なる確信あつて三月と申すか」
と仰せられ、総長は唯頭を垂れ答ふるを得ず、此時軍令部総長助け船を出し
「統帥部として大局より申上げます。今日日米の関係を病人に例へれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来て居ります。手術をしないでこの儘にしておけば段々衰弱してしまふ虞があります。手術をすれば非常な危険があるが助かる望みもないではない。その場合、思ひ切って手術をするかどうかといふ段階であるかと考へられます。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思切つて手術をしなければならんと存じます。此の意味でこの議案に賛成して居るのであります」
と申し上げた処、陛下は重ねて、
「統帥部は今日の処外交に重点を置く趣旨と解するが、其通りか」
と念を押させられ、両総長共其通りなる旨奉答した。
このような基礎の下に、九月六日、御前会議が開かれ、「帝国国策要領」が決定された。
一、帝国は自存自衛を全うする為、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
二、帝国は右に並行して、米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む
三、前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)戦争を決意す
この文を読めば、確かに天皇の危惧の通り、まるで戦争準備完整が第一義的であるような印象を受ける。そこで、これを不審に思った原嘉道枢密院議長が、
「外交交渉が主であるのか、戦争準備完整が主であるのか、伺いたい」
と発言したところ、海軍大臣のみが答弁して両統帥部総長は黙っていた。天皇はここで、
「ただいまの原枢相の質問はまことにもっともと思う。これに対して統帥部がなんら答えないのははなはだ遺憾である」
と言い、その上であらかじめ懐中に持っていた明治天皇の御製(明治天皇が自ら詠まれた詩)、
「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」
を読ませられ、
「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めておるものである」
と言った。陸海軍主戦派は、まさに震駭した。
東條陸相は、
「聖慮は平和にあらせられるぞっ」と、佐藤賢了秘書官に叫び、杉山元参謀総長は青ざめた顔を小刻みにけいれんさせていたという。
しかし、天皇のこの発言によっても、ついに御前会議の決定は原案通り決定された。近衛はこのあと、十月十五日まで、苦しい日米交渉の道を探ったが、ついに妥結できず、野村吉三郎大使も、「日米交渉はついにdeadlockとなれる感あり・・・・」と本国外務省に打電。ついに十月十五日を過ぎても妥結ならなかった。
陸軍は、はげしく近衛首相を突き上げたが、海軍は、しかし、対米戦争にみずから踏み切れる自信がなく、「近衛首相に一任」という態度をとった。近衛内閣はついに万策尽きた。近衛としては戦争に踏み込むことはどうしてもできなかった。東條陸相は、
「人間たまには清水の舞台から飛び降りることも必要だ」
と語ったが、近衛はかぶりを振って、「人間なら人生の間にそういうこともあるかもしれないが、一億の国民と万邦無比の国体をもつ国家がやることではない」と反論した、すると東條は、
「これは性格の相違ですなぁ」
と、深々とため息をついた。
近衛はついに総辞職の道を選び、政権はなげだされた。近衛は、東條と合議の上、時局収集のために後継首班として皇族の出馬を願い出た。 
第四十一代 東條英機内閣 (1941.10.18-1944.7.22)
成立過程
前首相近衛文麿、陸相東條英機は両名とも、時局収拾のために皇族内閣を希望していた。
近衛の日米妥協策を外交によって模索するため、九月六日御前会議の決定を白紙に戻さねばならないと考えていたし、東條も、海軍が日米開戦に消極的である以上、九月六日御前会議の決定をなんとかせねばならないと考えていた。これができるのは、皇族しかなく、具体的にあげられたのは、陸軍大将・東久邇宮稔彦王である。
しかし、これに反対したのは、木戸幸一内府である。その理由は、「木戸幸一日記」によれば、
一、皇族の御出馬を願ふは万不得止場合にて、例へば陸海軍に於て意見は一致したるも行掛りあり、皇族の御力にすがり解決したしと云ふが如き場合なれば、或は実現の可能性なきにあらざるも、
一、昨夜来の話にては、難問題は未解決の儘にて、此の打開策を皇族に御願すると云ふは絶対に不可なり。
一、一面に於ては臣下に人なきかと云ふことにもなるべく、又万一皇族内閣にて日米戦に突入するが如き場合には之は重大にて、即ち近衛首相が御前会議にて決定したる方針を敢て実行し能はざりし程重要なる何等かの理由ある此の問題を、皇室の一員たる皇族をして実行せしめられ、万一予期の結果を得られざるときは皇室は国民の怨府となるの虞あり。
かくして、十月十七日に開かれた重臣会議において、若槻礼次郎は宇垣一成を推し、これに対して木戸内府は東條を推した。木戸は、軍部を抑えるには、かつて宮城で失火があった際、警備に当たっていた田中静壹、賀陽宮などを断然更迭して陸軍部内に信望のあった東條を、逆説的ながら首相にするのが良いというのが、木戸の判断であった。
重臣会議は揉めに揉めた。先述の宇垣案を若槻、そして岡田啓介と、92歳の老齢ながら出席した清浦奎吾が賛同し、また木戸は一時海軍大臣であった及川古志郎に組閣させるのも一案、としたが、これは海軍OBの岡田と米内光政が断固反対。そして遂に木戸が東條内閣案を持ち出すと、若槻と岡田がこれに食ってかかった。
重臣会議は事実上、宇垣案、東條案にまっぷたつに割れたが、清浦が宇垣に「会議の経緯より見れば、結局宇垣説に落ち着く」とは語ったものの、重臣会議はそもそも奏薦の決定権を持たない。実際の奏薦権は内大臣に握られていたから、木戸の東條支持によって東條内閣が成立することになった。昭和天皇は、これを聞き、
「いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだね」
とたとえた。しかし皇族のうちには東條に対し、抜きがたい不安を持つ人々もまた、いた。東久邇宮は日記に記している。
「東條は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東條を後継内閣の首班に推せんし、天皇陛下がなぜこれをご採用になったか、その理由が私には判らない」
東條内閣は、十月十八日、東條首相が陸相、内相を兼ねる形で発足した。
経過
東條は、聖慮に従い、九月七日御前会議の再検討を開始したが、東條自身が「日米交渉の余地なし」として近衛内閣の倒閣に動いたのであるから、もともと説得力がなかったし、再検討を試みる大本営連絡会議に於いても結論といえるものはでず、延引した。むしろ、陸海統帥部においてはすでに開戦あるものとして準備が進められていたのである。
大本営連絡会議においての結論として提出された三案は、以下の通りである。
一、戦争は極力避け、臥薪嘗胆す
二、開戦を直ちに決意し、政戦略の諸施策をこの方針に集中する
三、戦争決意のもとに作戦準備を完整するとともに、外交施策を続行してこれが妥協に努める
一案にとくに反対し、二案を支持したのは、永野修身軍令部総長である。永野総長は「じり貧論」を展開し、このままでは日本の国防は危殆に瀕する、と語った。そして賀屋興宣蔵相が
「それじゃ、いつ戦争したら勝てるのか」
と問うと、
「今!戦機は後には来ぬ」
と言って賀屋蔵相、東郷茂徳外相を退けた。第一案否決、第二案へ討議が移った。ここで紛糾したのは外交のできる期限であったが、東條首相、東郷外相は必死にこの遷延を狙ったが、塚田攻参謀本部次長は、
「十月十三日までならよろしいが、それ以後は統帥を乱します」
と言い、嶋田海相が話に入るや、
「黙っていてください。そんなことはだめです」
とまさにとりつく島もなかった。結局、折衷案である第三案に落ち着き、十一月三十日夜十二時が外交のタイムリミットとなった。次の案件は、外交条件であったが、甲案、乙案が提示されたものの、南部仏印よりの撤退をせぬまま日米妥協をはかる甲案で折り合いがつかぬ場合に、南部仏印撤収の対価としての石油禁輸解禁を要求する乙案が提示されることになった。そしての会議で決定された綱領が、「帝国国策遂行要領」として発表された。
帝国国策遂行要領
一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際対英米蘭戦争を決意し、左記措置を採る
(一)、武力の発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す
(二)、対米交渉は別紙要領に依り之を行う
(三)、独伊との提携強化を図る
(四)、武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す
二、対米交渉が十二月一日午前零時までに成功せば、武力発動を中止す
この後、東條首相は来栖三郎をワシントンに特派することにしたが、東條は、
「和平は成立三割、決裂七割と思うが、くれぐれも努力してくれ、なお撤兵要求だけは呑むことが出来ない、それをしたら私は靖国の方角へ足を向けて寝られない」
と告げた。さて方やアメリカは、甲案で妥協する気はさらさらなく、また日本の電文を傍受、解読していたために日本が甲案の他に乙案を持っていることもあらかじめ知っていた。その上で、アメリカ国務長官コーデル・ハルは、十一月二十六日、いわゆる「ハル・ノート」を突きつけたのである。
ハル・ノートの骨子は、
(一)中国及び仏印からの日本の陸海軍及び警察の全面撤退、
(二)日華近接特殊緊密関係の放棄、
(三)三国同盟の破棄、
(四)中国における蒋介石政権以外の一切の政権の否認(満州国、汪精衛政権も含む)
であり、国際的には満州国是認の風潮が強まっていたのを鑑みれば、まさに日本にとって死活線を踏み越えられた要求であった。
十一月二十八日、東郷外相参内。ハル・ノートについて言上、外交による平和の模索はここに途絶えた。天皇はかねてから予定の重臣会議を開催し、それぞれの意見を徴した。特に米内光政は、
「俗語を使って恐れ入りますが、じり貧を避けようとしてどか貧に陥らぬよう、十分の御注意を願い上げます」
と発言し、若槻礼次郎は、
「現下の状態で戦争することは憂慮に耐えない」
と言上した。十二月一日、御前会議は対米開戦を決定し、「此の様になることは已むを得ぬことだ、どうか陸海軍はよく協調してやれ」と激励した(杉山メモ)。一方アメリカでは、ハル長官がスティムソン陸軍長官に対し、
「私は手を洗った、あとは君とノックス(アメリカ海軍長官)、陸軍と海軍の問題だ」
と語り、開戦間近いことを伝えた。そして十二月八日、日米は開戦した。日本軍はマレー半島に上陸し、千島ヒトカップ湾を発した機動艦隊から飛び立った飛行艇群は、アメリカ太平洋艦隊が集結するハワイ真珠湾を空爆、甚大なる損害を与えた。しかし、これは世界に不名誉な奇襲の名を残す。日本外務省から打電された訓令があまりに冗長だったためと、ワシントンの日本大使館の職務怠慢により、その手交が遅れたためである。
アメリカはこの事態を最大限、活用することになる。そして一方、日本が盟友として頼みにしていたナチス・ドイツ軍は、モスクワの市街を望見しつつ、ついに猛烈な吹雪に追いまくられ、戦線の縮小と撤退を命じた。日本は国際情勢が悪化する下り坂で、勝負に打って出たのであった。

さて、木戸幸一は日記に十二月八日の事を、こう記す。
七時十五分出勤、今日は珍らしく好晴なり。赤坂見附の坂を上り三宅坂に向ふ、折柄、太陽の赫々と彼方のビルディングの上に昇るを拝す。思えば愈々今日を期し我国は米英の二大国を相手として大戦争に入るなり。今暁既に海軍の航空隊は大挙布哇を空襲せるなり。之を知る余は其の成否の程も気づかはれ、思はず太陽を拝し、瞑目祈願す。
七時半、首相と両総長に面会、布哇大成功の吉報を耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。
十一時四十分より十二時迄、拝謁す。国運を賭しての戦争に入るに当りても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは誠に有難き極なりき。
当初、戦局は有利に進み、十二月二十五日香港、翌年二月十五日シンガポールでイギリス軍が屈服。またフィリピンのマニラを抑えた日本軍は、更に南下してコレヒドール島で駐比米軍と干戈を交えたが、三月十七日には駐比米軍の長官・マッカーサー将軍が「アイ・シャル・リターン」の台詞を残してオーストラリアに脱出した。
戦果赫赫たるものあり、昭和十七年の宮中新年会ではその話題でもちきりであった。開戦に慎重であった岡田啓介ですら「杯を重ねて大変な勢い」であったし、天皇も機嫌すこぶる良かったという。
東條は、この情勢を背景に、議会を自家薬籠中のものにしようとした。ここで議会を解散し、親政府の人々を議員にすることによって政府と議会の連動をはかろうと考えたのである。内相を兼ねる東條は、内務官僚OBとして著名な湯沢三千男や軍務局長・武藤章、そして腹心の佐藤賢了などを中心として候補者推薦制度による選挙を策定させ、いわゆる「翼賛選挙」を実施しようと試みた。
もちろん、政府が直に公認したというのでは憲法他様々な面で角が立つから、阿部信行・元首相を中心とし各界の著名人らを集めて組織された翼賛政治体制協議会(翼協)が推薦を担当し、政府の全面的なバックアップによって投票促進キャンペーンが張られた。もちろんそれは仮の姿であって大規模な選挙干渉が行われたことは言を待たない。
地方では翼賛壮年団(翼壮)がこの運動を推進し、翼協推薦候補には全面的な拍手を送ったが、わずかながら居た非推薦候補に関しては「親英米的」「自由主義者」、果てには「非国民!」の罵声を浴びせ付けた。
非推薦候補として立候補したのは、かつて政友会の一方の領袖であった鳩山一郎、自由民権の闘士・尾崎行雄、東方会の中野正剛、外交官出身の芦田均、五・一五事件で射殺された犬養毅の息子・犬養健、「反軍演説」でならした斎藤隆夫などである。
そして選挙の結果は、当然ながら推薦候補の圧勝であった。町田忠治、大麻唯男など民政党系の人々、政友会系の人々のほか、官僚・退役軍人の当選も目立った。商工大臣岸信介、陸軍中将四王天延孝、陸軍大佐橋本欣五郎らが当選した。非推薦候補叢出の院内会派・同交会は36議席からわずか9議席まで減少し、鳩山一郎、尾崎行雄などが残ったに過ぎない。
全体として見れば、ともかく議会を取り込もうとした東條の意図は成功したと言えるが、しかし実際は、かつての議会全盛期を夢見る老朽政治家が多く当選しており、東條の言う「新進」が芽を出す機会は少なかった。東條はこの後、翼協を中心とする「翼賛政治会」を結成させたが、結局、反撥集団としての議会を矯正することはできなかった。
のち、議会は東條退陣に当たり一方の働きを為すことになる。

戦局は、ミッドウェー海戦の敗北を境に急転、苦境に追い込まれた。
米軍がガダルカナル島へ上陸し、南洋の諸島では激烈な戦闘が行われた。戦局苦境のまま、昭和17年は暮れ、翼18年二月にはガダルカナル島からの「転進」、四月には南方戦線督励のためにラバウルに旗艦を移していた連合艦隊司令長官・山本五十六大将がブーゲンビル島上空で米航空隊の迎撃にあって戦死、その後任に古賀峯一大将が着任したが、その磊落な人柄で人気のあった山本大将の戦死は痛手であった。五月にはアッツ島玉砕。戦線はいよいよ危機的な状況を伝えた。
同時に、日本国内では強力な言論統制が敷かれるようになった。
新聞には「ミッドウェー沖に大海戦、アリューシャン列島猛攻」などの勇壮な文字が踊り、政府に協力的でなかったり、挙国一致に冷笑的である言論は容赦なく検閲にかかり、はねられた。中央公論連載の谷崎潤一郎の「細雪」は「自粛」され、岸田國士の戯曲「かえらじと」が皇軍侮蔑のかどで発禁となった。
特高警察と憲兵も暗躍し、東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた中野正剛をそのシンパの「勤王まことむすび」なる右翼一派とともに検挙し、釈放の後に中野を割腹に追い込んだのは憲兵であったし、「横浜事件」で温泉への慰安旅行を共産党再建準備会議だとして踏み込み、自白を得るために凄惨な拷問も行われた。このように、国民は耳目を覆われていたのである。
さて、政府の中では、明治憲法に定められた機構の分裂状態では戦争完遂は難しいという考え方が支配的となり、ついに東條首相は陸相に加えて参謀総長を兼任し、嶋田繁太郎海相も軍令部総長を兼ねるにいたった。しかし、この「統帥の独立性」を失わせる措置は違憲であるとの評価が高まり、「東條幕府」との批判を、影ながら発生させた。不満は高まり、以前から東條内閣の方向性に疑問を持っていた近衛文麿元首相などの重臣グループや嶋田繁太郎が東條の副官のような態度をとっているのに不満であった海軍、そして議会の一部が策動し、東條内閣を倒閣に追い込もうとした。
しかし、東條は宮中の支持を受けていた。とりわけ、木戸内大臣は重臣会議で東條を推薦した当事者であったから、東條支持の意向は強いものがある。天皇の意志を「東條不信任」に追い込むためには、木戸を抱き込む必要が生じてくる。
重臣グループの蠢動がはじまる。

東條内閣を倒すのに中心となったのは、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、若槻礼次郎などの重臣グループと高松宮を中心とする皇族一派であったが、近衛を中心として連絡をとりあうために奔走したのが細川護貞(細川護煕・元首相の父)である。
細川は、もとは高松宮宣仁親王が「原田(熊雄)のように方々駆け回って各方面の意見を聞いてくるものがあるといい」と言ったことに端を発し、近衛が親戚筋の細川侯爵家から護貞が適格者だと思い、依頼したことに始まる。細川はこの経過を克明に日記にとり、のちに乞われて出版した(最初「情報天皇ニ達セズ」、ついで「細川日記」)。
細川は二月二十三日、東條が陸相に加えて参謀総長、嶋田海相が軍令部総長を兼ねたことを聞き、憂憤を湛えつつ日記に記した。
・・・・一昨二十一日午後四時発表となりたる、椙山、永野両統帥首脳者の引退と、その後任に東條、嶋田が陸海軍大将を以て継ぎたることなり。東條は実にかねての宿望を達したるなり。憲法上の重大問題ならんも、実は憲法は今日既に有名無実にして、徒に残骸と虚名を残すのみ。次に東條が望むものは、道鏡の地位か。
近衛周辺では、木戸内府が東條とともに楽観論で天皇を惑わし、時局に対する判断を鈍らせているとの評がもっぱらであった。とはいえ、木戸内府こそ天皇に対して東條更迭を進言しうる地位にある唯一の人物であったから、彼の言動こそ最後の扉へ至るキイであったといっていい。その木戸内府に、舅の岡田啓介の依頼を受けた迫水久常(企画院官僚)は、婉曲に東條批判をしたところ、木戸から
「聖上が東條に御不審を抱かれるためには、世論が必要となる。しかし新聞などマスコミのみが世論というわけでもあるまい。たとえば重臣が一致してあることを申し上げたとする。これも一種の世論と言えまいか」
という言質をみちびきだした。迫水はこれを岡田に報告、岡田は「これはいい暗示だ」と、ひそかに近衛文麿、若槻礼次郎、平沼騏一郎などの重臣らと横の連携をとって動こうとした。
最初は重臣連が東條を会食に招き、そこで東條の今後の政策に関する言質を取ってやりこめてやろうと考えていたが、これは失敗。次は岡田啓介が海軍方面から働きかけて、まずは「東條の副官」と揶揄され、海軍部からはまったく信望を失っていた嶋田海相を更迭する方法に切り換えた。海軍は陸海軍を統合して「国軍」とし、陸軍がそのイニシアティブを握ることによって海軍を消滅させようと陸軍が企んでいることにも危惧の念を持っており、そういう意味でも海軍は重臣連と共同して、東條内閣に対抗する動きが発生する余地は十分にあったのである。岡田はまず米内光政を現役に復帰させ、嶋田を更迭して米内を海相に据えようとしていた。
この目論見を持って岡田が海軍の皇族OB・伏見宮に働きかけている間にも、近衛を中心とするグループは木戸内府や皇族連に積極的な接触を開始していた。次期首班として近衛は、小林躋造を中心とする皇道派内閣か、それとも東久邇宮内閣を取りざたしていたが、一方で、
「自分としてはこのまま東條にやらせる方がよいと思ふ。・・・・・夫れは若し替へて戦争がうまく行く様ならば当然替へるがよいが、若し替へても悪いと言ふことならば、せつかく東條がヒットラーと共に世界の憎まれ者になつているのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」
とも東久邇宮に語った。そのころには東條への悪評は柳原義光を通して後宮、皇太后からも天皇の耳に入っているようだったし、木戸も重臣連、海軍連も動くに至って、ついに反東條の旗幟を明確にしはじめていた。「細川日記」六月七日、近衛は細川に、「木戸侯は自分も顔負けするほど反東條になつて居つた」と語っている。
その東條政権をついに突き落としたのは、サイパン失陥の知らせであった。
六月十六日にサイパン島に連合軍上陸。東條の顔色と権力は、目に見えて悪くなっていた。東條は仲のいい東久邇に、「最近になつて自分は自信を失つてきたので、誰か適当な人があれば辞めたい」と言い始める。近衛と細川はこれを聞いて、
其処で公(近衛)は、「このまま東條が自殺する様なことがあつたら、政治的には非常にやりにくくなる。東條が、自分が悪かつたとの遺書でも書いて死ねば、国論は多少違うかとも思ふが」。余(細川護貞)は、「遺書くらいなら偽作してもいいではないですか」と言ひて笑ひたり。
東條は進退窮まった。彼はついに、木戸にも見捨てられる。木戸は、嶋田を外し、自身も参謀総長をおりるという内閣改造で危機を乗り切ろうとする東條にはっきり言った。
「皆心配しているのは改造と言ふが如きことではなく、統帥の確立と言ふことが、全きや否やとのことなり、而して是は御上のご意向なり」
東條はこれを聞いてまっ青になり、急遽参内して天皇の真意を確かめたが、それはさらに激越なものであった。しかし東條はそれでも天皇に注意された点のみを改めてなお乗り切ろうとした。
しかし、改造はうまくいかなかった。米内光政を海相に迎える工作は、米内のあくまでの拒否で失敗。ここでさらに閣内から造反が起こる。岸信介が造反し、重光葵もこのままでは自信がなく、また人心も離れていることを説得した。東條はついにあきらめざるをえなかった。
七月十八日、東條内閣総辞職。東條は、政変の理由が重臣の陰謀にあるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。 
第四十二代 小磯国昭=米内光政連立内閣 (1944.7.22-1945.4.7)
成立過程
東條内閣は重臣・宮中の陰謀によって退場した。
木戸日記には、東條の瞋恚をあらわすエピソードとして、こうある。
(木戸は東條に)円満に政変を推移せしむる為め自分の含み迄に後継首相に御考えあらば承り度しと尋ねたるに、(東條)首相は今回の政変には重臣の責任が重しと考ふ、従って重臣には既に腹案が御ありのことと思ふ故、敢へて自分の意見を述べず。
ともかく東條は退場し、後継首班が論ぜられた。
東條内閣倒閣工作の間は、小林躋造(海軍大将)を首班とする皇道派内閣が擬せられていたが、天皇が皇道派に対して嫌悪感を示していたことからこれは事前に雲散霧消し、七月十九日の後継首班を論ずる重臣会議では、若槻礼次郎が宇垣一成を推し、阿部信行が同席の米内光政を推薦した。米内はこれに対して、
「自分は戦争は出来るも、政治のことはわからぬ。従つて文官の人が出て、軍人は一切政治から手を引くべきである」
と言ったが、近衛文麿が、
「原則論としては賛成なるも、自分の経験からみるも、軍の実情を知る者にあらざれば、到底出来ず」
と発言、平沼と若槻がこれに賛同したことによって、軍人内閣は既定路線となった。広田弘毅は、梅津美次郎を推したが、梅津は参謀総長となったばかりだから、ということで木戸に反対された。
かねてから、軍部の統制派は日本赤化の御筆先だと考えていた近衛がここで皇道派軍人をだすべき、と暗示したが、平沼がこれに気づいて賛成したのみで若槻などは話題を転じ、今度は現役軍人ではなく退役の人々にも論が及んだ。平沼は、敬神家だという理由で小磯国昭を推し、また寺内寿一と畑俊六の名前も出た。この三名を、寺内、小磯、畑の順番で候補とすることで落ち着いたが、寺内は南方総軍の総司令官ということもあって「ここで寺内を動かすは面白からず」と、統帥の関係上、梅津総長が奉答。
かくして、お召の電話は小磯国昭にかかった。
大命は小磯、さらに近衛の勧めもあって米内にも降下した。米内も副総理格として入閣することになった。「小磯・米内連立内閣」と呼ばれるゆえんである。
経過
小磯は一戦勝利を収めての講和を望んだ。もはや客観的にも彼我の兵力差は懸絶しており、米英支三国に全面的勝利を収めることは無理ではあったものの、米軍に決戦して勝利を収め、その後に講和に持ち込むのがもっとも理想的であろうと、彼は考えたのである。
しかし戦局日に日に非にして、小磯が「決戦場」として考え、陸海軍とも主戦力を傾注したレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅し、十月十二日には台湾が空襲され、二月八日、マニラが陥落。いよいよ米軍の沖縄上陸も目睫に迫るの間があった。
折しも、北方国境も徐々にあやしくなりつつあった。
ソ連のスターリンが議会で演説し、公然日本を侵略国と規定し、真珠湾攻撃を指して最も不愉快な事実と言い、日本の敗戦はもはや必至であると言ったことである。これに対して駐ソ大使・佐藤尚武は抗議を申し入れたが、モロトフ外相はこれまでの事実を言ったまでであると冷淡に対応した。
このソ連に仲介してもらい、和平しようと言う動きが当時、外務省にはあった。これを主導していたのは重光葵外相であり、木戸内府などもこれに賛成していた。彼らは、まず独ソ戦を日本の仲介によって講和させ、ソ連を連合国側から切り離そうと試みていた。しかしいまや戦局はソ連に圧倒的に有利となりつつあり、仲介には日本の大幅な譲歩が必要であろうと思われた。
和平へのルートはもう一本あった。こっちは蒋介石の重慶政権に働きかけて和平を目指そうという動きもあった。これを支持したのは情報局総裁・緒方竹虎と石原莞爾、そして小磯首相らである。この対支工作は、「繆斌(みょうひん)工作」と呼ばれた。
そもそも繆斌は汪精衛政府(汪精衛は十一月十日、名古屋で死亡)の考試院副院長であり、ひそかに重慶政府に密通していたが、これに目を付けた緒方の要請で単身羽田にやってき、緒方と懇談。小磯と東久邇宮はこれに乗ったという筋書きであったが、この交渉自体が外務省と軍部の反対に遭い、木戸も反対側に与したために葬り去られることになった。
一方、対ソ交渉も無惨なものであった。なぜなら、テヘラン会談で
「ドイツ敗北の暁には、シベリアに増兵できるし、われわれは共同の戦争で日本を負かすことが出きる」
またモスクワを訪れたチャーチルに対し、
「ソ連はドイツ降伏後三カ月以内に対日攻撃を行うであろう」
と、スターリンは明言したためである。日本はソ連の手のひらの上で踊らされていたと言っていい。
さて、この頃天皇は、木戸とあいはかって、重臣を一人一人引見し、その時局に対する見方を徴した。老人である重臣たちが、ほとんど有効な意見がはけない中、参内した近衛の上奏文は日本赤化の危惧という、近衛の持論を展開したものであるだけにきわめて興味深いため、ここに記載する。
いわゆる「近衛上奏文」である。
昭和二十年二月十四日拝謁上奏
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提に申し述べ候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の与論は今日迄の所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存候。
国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
つらつら思ふに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。
即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我国民はソ連の意図を的確に把握し居らず。かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。(中略)
戦局の前途につき、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変依頼、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存じ候。彼等は既に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と響応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従つて戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。(後略) 「細川日記」三月四日項より抜粋
さて、三月二十九日に米軍が沖縄上陸。このころから小磯後継内閣案が重臣の間、特に近衛と岡田の間でまとまりつつあり、四月七日に総辞職した。終戦内閣と成り得なかった、中途半端な性格の内閣であった。 
第四十三代 鈴木貫太郎内閣 (1945.4.7-1945.8.15)
成立過程
小磯内閣の後継首班は、木戸幸一内府は阿南惟幾(陸軍中将)を擬していたが、三月末、重臣・近衛文麿は岡田啓介と会談、また岡田は平沼騏一郎と会談し、小磯の次には鈴木貫太郎枢相に出馬を願うことに意見一致した。若槻礼次郎もこれに同意し、東條英機を除く重臣グループは鈴木貫太郎擁立で一致した。
また、高松宮も鈴木擁立に賛意を示した。高松宮邸を訪問した細川護貞に、宮は、
「鈴木(貫太郎)大将を総理にすると云ふ案は、考へて見るとなかなか面白いと思ふ。第一、御上の御信任が厚いと云ふこと、第二に御上の御思召し通りに政治を運営しようと努力するだらうこと、第三に意志が強固だと云ふこと」。(細川が)鈴木大将が御引き受けしないと思ひますと申し上げたる所、「夫れは政治はやらないかもしれないが、もうかうなれば政治でもないし、まして御親政ということならば、思し召しを具体化することのみやればよいのだから、其の点から説いたらよいではないか」 (細川日記、昭和二十年四月三日)
こういった経緯を経て、四月五日、小磯内閣後継を議する重臣会議が開催された。出席者は、木戸内府のほか、重臣は近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、広田弘毅、東條英機、若槻礼次郎、枢密院議長として鈴木貫太郎が出席した。まず最初に、木戸内府から「参考まで」として、陸海軍統帥部、また陸海軍大臣から戦局の見通しが「作戦は益々困難なるべきも、全然望み無しとのことに非ず」と語られた後、議事に入った。
それより人選の方針を決定することとなり、時局の関係上、陸海何れかの軍人と定まる。此の時木戸内府は、沈黙し居られたる鈴木大将に意見を質したる処、大将は、
「近衛公を推す」
由を述べられ、公は、
「既に人選の方針決定せり」
とて此の議を斥く。次いで東條は畑(俊六。元帥)大将を後継首相に推薦、
「陸軍軍人に非ざれば陸軍は『そっぽ』を向くであらう」
と述べるや、岡田大将は怒気を交え、
「今日此の際『そっぽ』を向くとは何事だ」
とつめより、東條は、「そっぽ」を向くとの言を取り消し、陸軍に理解なくば都合悪しとの意味なりと訂正す。
而して東條の言に耳傾くるものなく、平沼は鈴木大将を推薦、鈴木大将は、
「自分は従来から軍人が政治に関与することに反対し来りたる立場もあり、御受けすることは極めて困難だ」
と述べ、平沼は、
「大将は現役を退かれてより既に長年月、文官として御奉公になり、現に枢密院に御在職なるを以てしても、充分文官としての御経験もあるべし」
と念を押し、鈴木大将はそのまま黙し居られたり。よつて散会し、鈴木大将のみ居残り、木戸内府と会談せらる。 (細川日記、昭和二十年四月五日)
四月六日、鈴木枢相に大命降下。組閣参謀は迫水久常(鈴木内閣書記官長)。内相に安倍源基、陸相は阿南惟幾、海相には米内光政が入閣した。細川が見るところ、この内閣は、
実に何とも不可思議なる内閣にて、所謂近衛系(村瀬直義・法制局長官、豊田貞次郎・軍需運輸相、左近司政三・国務相、石黒忠篤・農商務相)あり、平沼系(太田耕造・文相)あり、革新官僚(迫水久常翰長、広瀬豊作・蔵相、安倍源基・内相)等あり、加ふるに秋永を総合計画局長官に擬する由。
是を要するに、此の内閣の誕生は、革新官僚の陰謀によりて岡田大将が動かされ、平沼一派の別働隊と偶然一致して、鈴木大将を推したる為、急速に実現したる内閣にて、革新官僚系、即ち陸軍内の左翼は目的を達成するわけにて、平沼系が又しても鳶に油揚げをさらはれんとしたる形なり。(中略)
然れども、時が時なり。殊に鈴木大将とて軍人なれば、阿南一派の玉砕論に荷担すべく、或は此のまま最悪の事態に立到るに非ずやとも思はるる次第なり。 (細川日記、昭和二十年四月九日)
しかし、細川の心配は杞憂であった。鈴木首相は天皇の心事が終戦にあることを「以心伝心」感知した。そして、「官邸居間にしばし瞑目した余(鈴木)は、ふと自己の生命はかの二・二六事件の血に染んだ未明に一度死んでいることを回想した」(鈴木貫太郎自伝)。
こうして、鈴木老首相の終戦に向けた努力がはじまる。
経過
戦局もさりながら、国際状況は日本にとって急加速度的に悪くなりつつあった。
四月五日、ソ連は日ソ中立条約不延長を通告。二十二日、ソ連軍ベルリン市街に突入。二十七日、ムッソリーニ逮捕、翌日銃殺。そして三十日、ヒトラー自殺、翌五月二日、ドイツは降伏した。もはや日本は世界の孤児となり、米軍の空襲攻撃も苛烈を極めた。
いわゆる東京大空襲がおこなわれたのは、四月二十四、五日からである。炎は東京西部、北部、中部一帯を焼き尽くした。その範囲には、赤穂浪士で有名な泉岳寺のほか、乃木神社、芝増上寺と徳川霊廟、そして三笠宮、秩父宮、大宮御所に続いて宮城まで炎上した。情報局総裁・下村海南(宏)の戦後著した「終戦秘史」によれば、
四辺の火の手もやや下火になった。防空壕を出て首相、翰長と官邸の屋上に登る。山王神社の森から麻布の連隊へかけ、芝から京橋、日本橋へかけ、山の手も下町も見ゆるかぎり赤黒い焔である。・・・(中略)・・・何よりも大内山の青黒い森の中から燃え上る火焔は次第に高く大きく数しげくなってくる、まさしく皇居の炎上である。何ということであろう、暗然として頭を垂れ、階を下ったのであった。

さて、近衛の終戦工作は功を奏しつつあった。彼が木戸内府と懇談したとき、木戸は、
「最近御上は、大分自分の按摩申し上げたる結果、戦争終結に御心を用ひさせらるることとなり、むしろこちらが困惑する位性急に、『その方がよいと決まれば、一日も早い方がよいではないか』と仰せ出される有様なり」
と近衛に述べた。木戸も、天皇の意志を受けてついに終戦工作に乗り出そうとした。また、鈴木首相も施政方針演説で意味深長な発言をした。これは、松村謙三など議会人の判る人々にはわかり、「総理の真意は判った。しっかりやってくれ」と言うものもあれば、「総理はけしからぬ事を言った」と憤慨する向きもあった。
木戸は近衛に言っている。
「海軍大臣が(和平を)言い出すかと思っていたが一向やらぬ。此の上は自分がやらねばならぬ。さうすれば殺されるだろうが、後は頼む」
と。木戸の腹案は、天皇の直截の意志表示によって軍部を抑え、一挙に終戦に持ち込もうとするものであった。木戸は、まず別個に鈴木首相、米内海相、東郷外相を説得した。首相は「ぜひやりませう」と力強くうなずき、ついに最後には阿南陸相もこれに不承不承賛同した。木戸は既に天皇からもこの計画について許しを得ており、天皇は深く満足して彼等にも、
「此際従来の観念に囚わるることなく、速かに具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」
と勅語を与えた。
さて、東郷外相の下、終戦工作の一環として、再びソ連に和平を仲介してもらう案が出ており、天皇は近衛を呼んでこの特使方を依頼した。しかし、スターリンとモロトフ外相は戦後処理の案件でドイツのポツダムに向かったため、「回答は遅延するであろう」。六月二十七日、米英支によるポツダム宣言が発せられたが、日本政府はこの回答を保留し、なお対ソ工作に望みを掛けた。ポツダム宣言には国体に関する条項がなく、政府としてはこれが心配だったのである。これに対する米英の回答は、八月六日の広島への原子爆弾投下。ソ連の回答は、実力を持ってあらわれた。八日、ソ連は対日宣戦布告。露満国境は突破され、最強を謳われた関東軍の潰走がはじまる。
(八月十日の聖断)
「天佑であるかも知れん」
近衛は、細川護貞からソ連参戦のことを聞き、陸軍を抑えるためにはこれは天佑かもしれんと考えた。
八月九日深夜、小磯内閣の元で設置された最高戦争指導会議が開催されたが、ポツダム宣言受諾に関し、意見はまっぷたつに割れていた。すなわち、東郷茂徳外相と米内光政海相は、国体護持を唯一の条件として受諾すべきだとしたのに対し、阿南惟幾陸相、梅津美次郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、国体護持の他、1)本土の保障占領をせざること、2)在外日本軍は降伏、武装解除なしで撤退という形をとらしめること、3)戦争犯罪人については日本がこれを処罰する、の三点を付随せしめることを説いて譲らなかった。
その後の閣議においても平行線が辿られ、八月十日に開かれた最高戦争指導会議の場において、ついに首相は決を採る代わりに、
「議をつくすことすでに数時間に及べども議決せず、しかも事態はもはや一国の遷延を許さず。まことに異例でおそれ多きことながら、聖断を拝して本会議の結論といたしたく存ずる」
皆は一様に固唾を呑んだ。
天皇は、まず外相の意見に賛成の旨を仰せられ、
大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。
本土決戦といっても防備の見るべきものがない。
このままでは日本民族も日本も滅びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。
しかし忍びがたきを忍び、万世のため平和の道を開きたい。
自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい。
(中略、以下「大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある」の内容である。
九十九里浜の防備について、参謀総長の話したところと侍従武官の視察せるところと、非常な差があり、予定の十分の一もできていない。また決戦師団の装備についても、装備は本年の六月に完成するという報告を受けていたが、侍従武官査閲の結果では、今日に至るも装備はまったくできていない。かくのごとき状況にて本土決戦とならば、日本国民の多くは死ななければならない。いかにして日本国を後世に伝えうるのか。

八月十二日朝、米国バーンズ国務長官から回答が到着した。大要下の通り。
一、降伏ノ時ヨリ、天皇及日本国ノ国家統治ノ権限ハ、降伏条項ノ実施ノ為、其ノ必要ト認ムス措置ヲ執ル連合軍最高司令 官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。
二、天皇ハ日本国政府及日本帝国大本営ニ対シ、「ポツダム」宣言ノ諸条項ヲ実施スル為、必要ナル降伏条項署名ノ権限 ヲ与ヘ、且之ヲ保証スルコトヲ要請セラレ、又天皇ハ一切ノ日本国陸海空軍官憲及何レノ地域ニ在ルヲ問ハズ、右官憲ノ  指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ、戦闘行為ヲ終止シ、武器ヲ引渡シ、及降伏条項実施ノ為最高司令官ノ要求スルコトアル ベキ命令ヲ発スルコトヲ命ズベキモノトス。
三、日本国政府ハ降伏後直ニ俘虜及被抑留者ヲ、連合国船舶ニ速カニ乗船セシメ得ベキ安全ナル地域ニ移送スベキモノト ス。
四、日本国政府ノ確定的形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ、日本国国民ノ自由ニ表明スル意志ニ依リ決定セラルベキモノトス。
五、連合国軍隊ハ「ポツダム」宣言ニ掲ゲラレタル諸目的ガ完遂セラルル迄日本国内ニ留マルベシ。
 (「細川日記」八月十二日)
問題となったのは、
「天皇の権限は連合軍最高司令官の制限の下に置かるるもの(Subject to)とす」
という点、また
「日本国政府の確定的形態は、日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす」
であった。これでは、唯一の条件、国体護持すら守られないことになるではないか。
そう唱えた、阿南陸相と両統帥部総長は頑強に再照会を主張し、譲らず、閣議も、翌日九時から開かれた最高戦争指導会議も割れた。再照会に絶対反対したのは東郷外相で、鈴木首相と米内海相がこれを支持。
しかも、十四日朝、米軍飛行機が連合国側の回答をビラにして撒布しているとの報が入った。そのビラを侍従から受け取った木戸は、
「このままでは軍がクーデタを起こす」
と一驚し、天皇に拝謁した。すでに再照会をしている時間的余裕は、なかった。天皇は、異例であるが、御前会議を自ら開催した。天皇が臨席すると、鈴木首相はこれまでの閣議の経過を逐一申し上げ、「改めて、重ねて聖断をあおぎたき旨」を奉答した。
阿南、梅津、豊田三軍人は各々立って国体護持の点に疑念あることを申し上げた。安部内相も手に原稿らしきものを持っていたが、鈴木首相が「意見を申し上げるものはこれだけでございます」と言ったので、着席した。
天皇は、頷いて明確に言葉を発せられた。
「外に意見がなければ、わたしの意見を述べる。皆のものは、わたしの意見に賛成してほしい」
満座、粛として謦一つなし。
(八月十四日、二度目の聖断)
天皇の言葉は、下村国務相が記録している。この記録は、左近司国務相、太田文相、米内海相の手記と照合し、鈴木首相の校閲を経て、もっとも真に近いものという。
外に別段の発言がなければ私の考を述べる。
反対側の意見はそれぞれよく聞いたが私の考は此前に申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考へる。
国体問題に就いて色々疑義があるといふことであるが、私は此回答文の文意を通じて先方は相当好意を持って居るものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があると言ふのも一応は尤もだが私はさう疑ひたくない。要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、此際先方の申入を受諾してよろしいと考へる、どうか皆もさう考へて貰ひたい。
更に陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領と云ふ様なことは誠に堪へ難い事で夫等の心持は私には良くわかる。しかし自分は如何にならうとも万民の命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応へが出来ない。和平の手段によるとしても素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いことは当然ではあるが、日本が全く無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさへすれば更に又復興と云ふ光明も考へられる。
私は明治大帝が涙を呑んで思ひ切られたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、此際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思ふ。今日まで戦場に在て陣没し或は殉職して非命に倒れたる者、又其遺族を思ふときは悲嘆に堪へぬ次第である。又戦傷を負ひ戦災を蒙り家業を失ひたる者の生活に至りては私の深く心配するところである。此際私としてなすべきことがあれば何でも厭はない。国民に呼びかけることが良ければ私はいつでも「マイク」の前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずに居ったのであるから突然此決定を聞く場合動揺も甚しいであろう。陸海軍将兵には更に動揺も大きいであらう。この気持をなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、良く治まる様にして貰ひたい。必要があれば自分が親しく説き諭してもかまはない。此際詔書を出す必要もあらうから政府は早速其起案をしてもらひたい。
以上は私の考えである。
御諚を拝するうちにここかしこに嗚咽涕泣の声が高まった。軍部も聖断に服した。
一五日早暁、玉音放送のレコードを奪おうとした陸軍中央の中堅幕僚たちが企てたクーデタ計画が行われたが、結局田中静壹大将がこれを鎮圧、失敗に帰した。正午、玉音放送。
阿南陸相は鈴木首相に謝罪した後、「一死以て大罪を謝し奉る」との遺書を残し、自裁。
鈴木内閣は、ここで総辞職した。戦争終結は鈴木内閣が為した。戦後収拾は、人臣の手では成らないであろう。いよいよ「宮様内閣」の登場となる。
 
東條英機と天皇

 

バーデン・バーデンの密約
大正十年秋、ベルリンの大使館にひとりの軍人が立ち寄った。 岡村寧次、陸士十六期、陸大二十五期の中堅将校だった。 歩兵第十四連隊付の肩書でヨーロッパ出張を命じられ、ベルリンに来たのである。 中国での駐在を終え、とくに目的もなく「ヨーロッパを見てこい」と送りだされた旅行だった。 軍内要職に進む者に必須のヨーロッパ見聞旅行であった。
岡村はある計画をもっていた。モスクワに駐在している小畑敏四郎、やはりスイス公使館付武官の肩書で スイス、フランス、ドイツを回っている永田鉄山、それに岡村の三人は同期生の縁で ドイツのバーデンバーデンで会い、密約を交わしていた。 日本陸軍改革のために手を携えて起ちあがろうとの意思のもとに三つの目標を定めていた。 その密約に、ベルリンにいる東條も加えようというのが彼らの肚づもりだった。
「どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか」
岡村は東條のアパートで熱心に口説いた。
「長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに統帥を国務から明確に分離し、 政治の側から軍の増師には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ」
いずれも東條には共鳴できる目標だった。
岡村によれば、永田も小畑も先人の愚行に眉をひそめ、 「長州出身というだけでなぜ重用されるのか」と、三人は名前を挙げて人事の不公正を確かめあったという。 こうした先人たちに新しい時代に対応できる感覚があるというのか。 いまや戦術戦史もドイツの天才的軍人ルーデンドルフの説く総力戦体制の時代になっている。 戦争は軍人だけのものではない。 国家のあらゆる部門を戦争完遂に向けなければならない。 それがドイツでの教訓ではないか。日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。 岡村の言は激しいものだった。
「新たに閥をつくるというのではない。 それではせっかくの長閥打倒も意味がなくなってしまう。 さしあたりは、永田が国家総力戦の文書をまとめて局長に具申している。 われわれはそれを支えなければならぬ」
その意見にも東條は賛成であった。
「岡村さん、実は、私も同じことを考えていました。 まったく異論はありません。ぜひ同志に加えてください。 相結んで協力していきたいと思います」
「よし、それでは永田と小畑にも貴様の意思を伝えておこう」
東條の強い調子に、岡村は意を強くした。 この男の父親を見れば、密約に加わるのは当然だと思っていたのが、はからずも当たったからである。
東條閥の萌芽
教官は自らを盛りたてるのに値する学生をさがし、 学生は将来の陸軍指導者への道を歩みそうな教官に媚態を示す。 事実、学生の間には「マグ」ということばがあった。マグネット(磁石)の略である。 栄達を極めそうな教官を見つけ、そこににじり寄っていく。その有様を指すことばである。
東條は一部の学生のマグの対象となった。 佐藤賢了、有末精三、富永恭次らがそうで、立食パーティでは、彼らが東條の周囲にはりついた。 なかでも東條にもっとも親近感を示したのは佐藤賢了で、彼は足繁く東條家にも通った。 講義の内容を確かめにきたり、故郷の金沢の土産だといってつぐみを届けたりした。 親しみをもって近づいてくる者に、東條はすぐに胸を開いた。
東條と甘粕
関東大震災直後、アナキスト大杉栄を虐殺したとされている甘粕正彦に ひそかに手をさしのべていたのは、東條と甘粕の同期生たちだった。
「甘粕が自殺を考えているそうだ。拘置所で絶食している。すぐに諫めてこい」
東條は区隊長時代の部下を呼び、甘粕の説得に赴かせたこともある。 甘粕もまた、終生その厚情に頭を下げつづけたという。
一夕会結成
〈河本につづけ〉の声は、 省部の三十代(陸士二十期から三十期)の将校にも広まった。 張作霖爆死を満蒙解決の決め手にと考える将校は、「国策を研究する」との名目でしばしば会合を開くようになった。 ここに集ったのは石原莞爾、村上啓作、根本博、沼田多稼蔵、土橋勇逸、武藤章ら陸士二十二期から二十六、七期生で、 彼らはこの会合を「無名会」と称した。 そして無名会の有力会員に、「われわれと共に研究しよう」と半ば強圧的に働きかけたのが、 永田鉄山と東條だった。
昭和四年五月十九日、双葉会と無名会が合体して「一夕会」という組織ができた。
初会合で一夕会は三つの方針を決めた。 (一)陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める、(二)満蒙問題の解決に重点を置く、 (三)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛りたてる――。 宇垣系、上原系と争っている人事抗争に歯止めをかけ、荒木、真崎、林ら人望のある将軍の時代にぬり変えるというのが、 彼らの願望だった。 三人の将軍を盛りたてるのは、三人とも長州とは関係がなく、長州に好感をもっていなかったからである。
当面の政策としては、満蒙分離計画を政治的、軍事的に進めるというのが、彼らの結節点となった。 また満蒙分離計画を政治的に進めるために、外務官僚との接触を進めることも決めた。 もっとも、接触といっても、陸軍が行なう軍事的行動を容認し、あわせてその“正当性”を外国世論に納得させるために、 つまり陸軍の尻ぬぐいをさせるために、手なずけておこうという程度の意味しかなかった。
東條連隊長の「就職斡旋委員会」
昭和四年、五年といえば、金融恐慌に端を発し失業者が増大し、 農村は疲弊していた時代だった。 二年の兵役を終え除隊する兵隊の多くは、明日からの職の心配をしなければならなかった。 そこで東條は、第一連隊の中に、「就職斡旋委員会」をつくった。 働く場所のない兵隊の職場をさがしまわるのが、この委員会の役目だった。 委員には中隊長、大隊長が命じられた。 委員といっても、実際は会社回りをすることだった。 どこも従業員を解雇しているときに、新たに採用してくれと頭を下げて歩くのが、その仕事だった。
「小使いでもいい。掃除夫でもいい。うちの兵隊をつかってくれないか」
将校は頭を下げて回った。こうして、とにかく除隊日までには全員の職場をさがした。
半面でこの委員会の運動は、将校の社会的な関心を広げることにもなった。 彼らのほとんどは陸軍幼年学校、陸軍士官学校出身者で、終生、陸軍の中でしか生活しない。 そういう将校が、会社回りをするうちに、自分たちのまったく知らない社会の断面に触れるのである。
桜会結成
ロンドン軍縮条約が枢密院で批准されたころ、すなわち昭和五年十月、 「桜会」が誕生した。 日ごろから「腐敗堕落した議会政治を改革するために、早急にやらねばならぬことは革命である」と豪語する 参謀本部ロシア班長橋本欣五郎が中心となった組織で、綱領の第一項には、結社の目的として、 国家改造のために武力行使も辞せずと唱えていた。 さらに趣意書の一節には「・・・・・・明治維新以来、隆々として発達し来たりし国運は 今や衰頽に向かわんとし、吾人をして痛憤憂愁措く能わざらしむるものあり」ともあった。 会員は「中佐以下国家改造に関心を有し私心なき者」に限ると明記されていた。
桜会には、根本博、土橋勇逸、武藤章、富永恭次ら無名会の会員も加わった。 だが彼らはまもなく脱会している。一夕会の会合で、東條が熱っぽく説いたためだ。
「クーデターを起そうというような連中と共に集ってはいかん。 過激な行動は断固排撃し、あくまでも合法的手段に頼るべきだ。 もうすこし待て。そうすれば永田さんを中心にしたわれわれの時代になる。 すべてはそこからはじまる」
そのあとを継いで、永田と岡村が口をはさんだ。
「国事は心配せんでいい。軽挙妄動は慎んで軍務に専念しろ」
そのことばで勇む会員も、彼らの側に戻った。 もうすこしの時間を辛抱することで多くのものが得られるとあれば、焦ることはないというのであった。
士官学校事件
十一月に、いわゆる士官学校事件が起っている。 辻が、士官学校生徒を青年将校の村中孝次、磯部浅一のもとに出入りさせ、 彼ら青年将校が不穏な非合法計画を練っていると摘発した事件である。 この計画を、辻は、参謀本部の片倉衷少佐や憲兵隊の塚本誠大尉らと共に陸軍次官に訴え、鎮圧を要求した。 その結果、村中と磯部は拘禁され、取り調べを受けた。 ふたりは国家改造運動に熱心な皇道派の将校だったから、これは永田の指し金であると騒いだ。 辻も片倉も永田に近かったから、これも説得力があった。 のちに真崎が著わした『備忘録』には、永田一派の策略であったときめつけている。 むろん東條も、この策略の一部を担っていたとの意味が含まれている。
東條がこの策略に加わっていたか否かは明確ではない。 が、士官学校内に根強い皇道派の人脈を神経質な目で見ていたのは事実だし、 生徒が外部の勢力と接するのを嫌い、辻にも相当厳しい目で監視するように命じたことも想像に難くない。 辻はひときわ功名心に駈られている軍人だ。 彼が東條や永田に忠勤を励んで、事件をでっちあげたこともありえないことではない。
昭和十年に入るや、村中、磯部は停職、士官学校生徒五人が退学処分となった。 すると村中と磯部は、辻と片倉を誣告罪で告訴し、軍法会議で却下されるや「粛軍ニ関スル意見書」を書き、 軍法会議の柳川平助議長に送り、三月事件、十月事件の経緯をこと細かに明らかにして、 陸軍士官学校事件も、永田一派が教育総監の真崎を失脚させようと仕組んだものだと訴えた。 これも無視された。すると皇道派将校はいっそうその活動を強めていった。
真崎教育総監更迭
昭和十年七月、軍中央では新たな権力闘争が起こっていた。 林陸相と真崎が人事をめぐって応酬していた。
「こんどの人事異動は、私の手で行ないたい。 ついてはこの際、君も現役を退いてもらえないか」
顔色のかわった真崎を無視して、林はことばを足した。林も内心ではふるえていた。
「部内の総意なのだ。君が派閥の中心となって統制を乱しているのが、その理由だ」
「それはおかしいではないか。天皇のこの軍隊は部内の総意で動くのか」
林のもとには人事局長今井清、陸軍次官柳川平助の作成した案が届いている。 それとは別に永田や参謀次長杉山元が加わっての人事構想もできあがっている。 ふたつの案とも山岡重厚、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木率道ら荒木、真崎系の将校を省部から外すのを眼目としている。 この事情を知った真崎は激しく抵抗した。 三回にわたる話し合いでも、林の決意は動かない。 すると真崎は、「こんな筋のとおらない人事を強行すれば何が起こるかわからない」と脅した。 軍の最高人事は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官で決めるという内規があるではないか。 それに陛下の教育総監として仕えている以上、私の意見を無視するのは統帥権干犯ではないか ――真崎はくり返した。この意見を林は退けた。
青年将校は真崎に加担した。 彼らは「天皇の大権を侵すのは、永田と林だ」と軍内にふれ回り、林は永田のロボットだから、 元兇は永田であると公言した。
七月十五日、真崎の罷免が決まり、皇道派の重鎮は軍中央から消えた。 青年将校の怒りは頂点に達し、永田の周囲では、テロの危険があるから外遊でもしたらどうかという声があがった。
東條と甘粕
東條のもとには軍外の来訪者も多かった。 協和会総務部長甘粕正彦は、しばしば彼を訪れ、自らの人脈を東條に紹介した。 そのいっぽうでは東條も、甘粕を頼みにした。 粛軍人事で予備役に追いこまれた軍人のなかにも、東條を頼って満州に職を求めて来る者があり、 彼らを甘粕の縁で協和会に送りこまねばならなかったからだ。 第二十四旅団長時代の副官佐々木清もそのひとりで、彼も、「困ったことがあったら何でも相談に来い。 だがこんどはお国の方針に叛いてはならんぞ」といわれ、協和会の職員になって、東條人脈の一員に加わった。
「二キ三スケ」の時代
参謀長に就任してからの一ヵ月間、東條は満州国要人、 日本人官吏を参謀長室に招き、建国五年目を迎えた満州の様子を熱心に学んだ。 この時期、昭和十一年夏に立案された満州経済開発五ヵ年計画の円滑な実施が、満州国官吏の主要な職務になっていた。 そのことは、建国当時の石原莞爾、板垣征四郎らが企画した独立国家の野望を捨て、 この計画を実現して満州国を日本の植民地、後方基地に変質させるという国策を採用したことを意味した。
東條に課せられた職務のひとつに、重工業化促進のため、本土資本の導入があった。 折から鮎川義介の日産資本導入をめぐって論議がつづいていて、 関東軍参謀は日産資本を導入して一気に後方基地化しようとしていた。 東條は、この導入により満鉄資本が先細り、満州経済が混乱するのを恐れた。 それで松岡洋右総裁や満鉄社員の抵抗やサボタージュを防ぐために、 満州国総務長官星野直樹と産業部次長岸信介を呼び、松岡を説得するよう頼んだ。 その結果、満鉄は日産資本の導入を認めた。 これにより五ヵ年計画が軌道にのった。
一般に喧伝される〈ニキ三スケ〉の時代は、このときからはじまった。
林内閣成立
昭和十二年二月、陸軍内部の満州派の将校が林銑十郎内閣を成立させていた。 この中心は、参謀本部第一部長石原莞爾で、彼はかつての無産政党議員浅原健三を動かし、 政界上層部に林内閣を打診し、それを最終的に元老西園寺公望に納得させた。
カンチャーズ島事件
六月十九日、カンチャーズ島沖でソ連軍と満州国軍の間に衝突が起こった。 もともと国境は密林、山岳、河川で曖昧だったし、この曖昧さのなかにカンチャーズ島があった。 この衝突を知ると、東條はすかさず軍中央に電報を打った。 すると軍中央からは現状保持(不拡大)に努めよとの訓電がはいった。 関東軍は一個師団を送った。軍中央は外務省や海軍と協議して、 この地帯で軍事行動を起こす必要はないと、第二次訓電を打ってきた。 石原が軍内に根回ししたのである。ところが現地軍はこの訓電を無視した。 一方的に砲撃を浴びせソ連軍の砲艦を沈めた。 だがモスクワでの外交交渉で、ソ連は撤退を約束し、関東軍が原駐地に戻り、事態は収まった。
だがこれは政治的には大きな意味があった。 のちに参謀本部作戦部員西村敏雄が、この一ヵ月後の支那事変の伏線として、 モスクワの腰の弱さを知ったことがあげられると告白している。 〈ソ連は日本の対支攻勢に干渉するだけの力がない〉と日本陸軍は自己過信したのである。
ノモンハン事件
ノモンハン付近の国境線は、日本と満州国はハルハ河と主張していたが、 ソ連と蒙古はノモンハンとみなしていたため、しばしばこぜりあいがあった。 五月十二日の蒙古軍と日本軍の衝突のあと、日満ソ蒙は兵力増強をつづけ、 六月から九月にかけて二次にわたり戦闘が行なわれたが、日本軍は完膚なきまでにたたきのめされ、 戦死者行方不明者八千三百名、戦傷戦病を含めると一万七千人もの兵隊が戦力から脱落した。 この戦闘の結果、「ソ連地上兵力の主戦力である砲兵、戦車の火力、装甲装備は日本軍とは段違いに強力であること」が 明らかになったし、航空兵力も当初は日中戦争の経験を積んだ日本空軍が優勢だったが、 そのうちソ連空軍は速力、火力での優位を利用して戦力を向上して猛爆撃を加えてきた。
参謀本部は「ノモンハン事件研究委員会」を設けて敗因を検討したが、 抜本的な装備には手をつけず、あるていどの火力装備補強で当面の欠陥をカバーすることにした。 歩兵の白兵主義という戦術を一掃する機会であったのに、それを捨てる勇気はなかったのだ。
ノモンハン事件は植田関東軍司令官、磯谷廉介参謀長の消極論に対して、 参謀の辻政信、服部卓四郎らが強硬論を唱え、参謀本部を説得して進めたものだった。 圧倒的なソ連軍の航空機と戦備のまえに、無暴な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけ、 自殺を強要するという、これらの幕僚の無責任さはその後の日本軍の退廃の予兆だった。 しかも植田と磯谷は予備役に編入されて責任はとったのに、 辻も服部も閑職に追われただけで、のちに東條によって重用されたのは、 東條人事の専横さを裏づけるものとして汚点になった。
兵務局長田中隆吉と憲兵政治
部下のなかには兵務局長田中隆吉のように、 武藤にライバル意識をもち、東條の腰巾着として積極的にふるまう者もでてきた。 彼は信頼する憲兵に命じて、要人の電話盗聴、小型カメラをつかっての写真撮影などを行ない、 それを得意気に東條のもとに届けて忠勤に励んだ。 もし東條が均衡のとれた指導者であったら、こうした田中の処置をそくざに中止させただろうが、 彼はむしろ、この情報に興味をもちすぎてしまった。 陸相官邸の執務室に座っていて、近衛や木戸、そして議会の有力者が何を考え、誰に会い、 どのような話をしているのかがわかるとあれば、必要以上に関心を示してしまうのも無理はなかった。
東條と天皇
陸軍省の実力者となり、閣議でも重みのある発言をするようになっても、 あるいは近衛や松岡にそれなりに遇されるようになっても、東條自身は充足感を味わったわけではなかった。 彼がもっとも気にしているのは、天皇との関係だった。
陸相になってはじめての上奏で、「身体のふるえがとまらなかった」と、赤松貞雄に述懐したとおり、 東條の上奏はいつまでもその緊張ぶりのなかでつづいていた。 彼も他の陸軍の将校と同じように、天皇が陸軍を信用していないのを知っていた。 しかも三国同盟には賛成でない様子を示しているともきかされていた。 英国流の教育を受けた天皇は、独伊の側に好意をもっていないのは公然の秘密だったのである。
天皇が陸軍を嫌っているのは、そのほかにも理由があると噂されていた。 これまでの陸相や参謀総長の杉山元が、天皇のまえで、前回と異なったことをいい、 あるいはちぐはぐな言い訳をし、ときに質問されても答えることができず、「次回に詳細をご報告いたします」と退出して、 あわてて部下に説明を求めることもあったからだ。 ところが東條は、メモをとり克明に整理することでほとんどを暗記し、天皇のどんな質問にもこたえた。 それが細部にまで及んだ。 前任者の態度とはまったく異なっていた。 面接試験に答える生徒の図であるにしても、東條の上奏態度は、天皇の疑問にこたえ、不安をなくする、 それこそが政務を輔弼する自らの責任だとかたく信じている節があった。 それが天皇の信頼を得た理由だと、省部では信じられた。
「われわれは人格である。しかしお上は神格である」
上奏のあと、きまって東條は赤松にそう言った。
「今日はお上にやりこめられた」
ときには宮中からの帰りの車の中でつぶやき、子供のように頬を染めた。
近衛内閣2総辞職
七月十五日、松岡が欠席した閣議のあと、 近衛は平沼騏一郎内相、及川海相、それに東條を呼びとめ、松岡の罷免をそれとなくもちだした。 東條にも異論はない。それどころか内相と海相を制して言ったほどだ。
「これまでなんとか協調していきたいと努力してみた。 だがもう限界にきている。こうなったら総辞職か外相更迭しかない」
近衛は喜び、アメリカの要求を受けいれたように見えぬように、形式だけの総辞職をしようと言った。 松岡にさとられぬような秘密行動で、近衛の総辞職劇は進み、予定どおり重臣会議で近衛が推され、 第三次近衛内閣が誕生した。七月十八日である。 外相には海軍出身の豊田貞次郎が座り、東條は陸相としてとどまった。
大西洋会談
ルーズベルトとチャーチルは、米英両国の共同戦線結成を目標に、 ニューファンドランド沖の軍艦上で八月九日から十四日まで秘かに会談をつづけた。 彼らはソ連を陣営にひきいれることで一致し、日本とは当面摩擦を起こさないよう努めることで合意した。 しかし日本のこれ以上の武力進出には警告をだすことを決めた。 最後通牒にも等しい警告をだしておけば、日本はタイや蘭印に進出することはあるまいと考えたのだ。
チャーチルの対日認識
チャーチルは下院で演説し、大西洋会談の報告を行なった。 そこにはつぎの一節があった。 「日本は中国の五億の住民を侵害し苦しめている。 日本軍は無益な行動のために広大な中国をうろつきまわり、中国国民を虐殺し、国土を荒らし、 こうした行動を“支那事変”と呼んでいる。 いまや日本はその貪欲な手を中国の南方地域にのばしている。 日本はみじめなヴィシー・フランス政府から仏印をひったくった。 日本はタイをおどし、英国と豪州の間の連結点であるシンガポールを脅迫し、 米国の保護下にあるフィリピンをも脅している」――
ルーズベルトとチャーチルは、アメリカの軍備が整いしだい、日本にたいして仏印、中国からの撤兵を 押しつけると予想される意味をもつ演説であった。
東條内閣成立
次期首班に誰が座るのか、東條も武藤もそして佐藤も、 軍務局の将校たちも落着かぬ様子で、午後からの重臣会議の終わるのを待っていた。 陸相官邸の芝生に椅子をもちだして、彼らは雑談にふけりながら、まもなく発表されるであろう東久邇宮内閣か、 それに近い皇族内閣を想定し、誰を陸相に推挙するかを話し合った。 二・二六事件以後、陸軍の政治的意思を担うことになった陸軍省軍務局の将校たちは、 陸相を推すだけでなく、希望する閣僚名簿まで用意するのが慣例であった。 この日午前中に、その名簿が武藤の机の上には用意されていた。 東條はこの名簿を見ていなかったが、それが自らにつきつけられる名簿になろうとは知る由もなかった。
午後一時すぎから、宮中では、重臣会議が開かれていた。 木戸が倒閣にいたる経緯を説明し、そのあと次期首班についての検討にはいった。 若槻礼次郎が宇垣一成を推し、林銑十郎は皇族内閣とするなら海軍関係の皇族がいいと言った。 発言が止まるのを見定めて、木戸が強力に東條を推した。
「この際必要なのは陸海軍の一致をはかることと九月六日の御前会議の再検討を必要とするのだから、 東條陸相に大命を降下してはどうか。 ただしその場合でも東條陸相は現役で陸相を兼任することとして、陸軍を押えてもらう」
重臣会議は重苦しい空気になった。 木戸ののこした『木戸幸一関係文書』によれば、かれの主張は、東條なら九月六日以後の情勢を逐一知りぬいていること、 それに陸軍の動きを押えることが可能であるが、若槻が推す宇垣では陸軍を押さえることはできぬというのであった。
東條の名前があがったとき、重臣のなかにも反撥する者はあった。 若槻は外国への影響が芳しくないといい、枢密院議長原嘉道は、木戸の考えている旨をよく東條に伝えるならば ・・・・・・と注文をつけた。 広田弘毅、阿部信行、林銑十郎は賛成し、近衛も岡田啓介も強いて反対はしなかった。 午後四時すぎ、木戸は天皇に会い、東條に大命降下するように決まったと告げた。 午後四時半、宮内省の職員が陸相官邸の秘書官に電話して、東條陸相の参内を要請した。
赤松貞雄から参内の伝言を聞いた東條は、顔をしかめ、日米交渉の資料と支那撤兵に異議申し立てをする上奏文を 鞄につめこみ、自動車に乗った。「相当厳しいお叱りがあるのだろう」、彼は不安気に赤松に洩らしている。 しかし宮中で、東條の予想は裏切られた。
「卿に内閣組織を命ず。憲法の条規を遵守するよう。 時局極めて重大なる事態に直面せるものと思う。 この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ。 なお後刻、海軍大臣を召しこの旨を話すつもりだ」
天皇は、視線を伏せている東條にそういって大命降下を告げた。 この瞬間、東條は足がふるえて、なにがなんだかわからなくなったと赤松に述懐した。 のちに東條自身が綴った記録には、「然ルニ突然組閣ノ大命ヲ拝シ全ク予想セサリシ処ニシテ茫然タリ」とある。 天皇から大命を受けたあと、木戸の部屋で、改めて東條と及川に聖旨が伝えられた。
「・・・・・・尚、国策の大本を決定せられますに就ては、九月六日の御前会議にとらわれることなく、 内外の情勢をさらに広く検討し、慎重なる考究を加うることを要すとの思召しであります」
白紙還元で、改めて国策を練り直せというのである。 控室に戻ってきた東條は、興奮のため下を向いているだけだった。 よほど衝撃的な叱責を浴びたにちがいないと、赤松は思った。 自動車に乗っても無言だった。自動車が走りだすと、明治神宮に行くように言い、また口を結んだ。 赤松は「どうかされましたか」とおそるおそるたずねた。 すると東條は震える声で大命降下を受けたことを告げた。 こんどは赤松のほうがことばを失った。 明治神宮、そして東郷神社、靖国神社と自動車を回しながら、東條は「このうえは神様の御加護により 組閣の準備をするほかなしと考えて、このように参拝している」といって長時間参拝した。
このころ陸軍省にも、「東條に大命降下」の報がはいっていた。 武藤、佐藤をはじめとする将校は、その意をはかりかね、天皇は戦争の決意をしたのかと緊張した。 そういう緊張とは別に、政策決定集団の中枢になっている陸軍に組閣の命が下ったことは、 彼らにいくぶんの充足感を与えたことも否定できなかった。
ハルの東條観
ハルは、その回顧録に「東條は典型的な日本軍人で、 見識の狭い直進的な、一本気の人物であった。 彼は頑固で我意が強く、賢明とはいえないが勤勉でいくらか迫力のある人物」と書いている。 もっとも、駐日大使グルーの報告によって、この内閣は近衛路線を継ぎ、日米交渉に尽力すると知るや、 ハルは警戒を解いている。 だが、政治的に、この内閣を利用することだけは忘れなかった。
国民の開戦願望
自らの内閣がさまざまに受けとられている様子は、 軍務課の将校によって東條にも伝えられた。 〈軍人は世間の評価を気にしてはいけない〉といわれているのを守って、 東條はその報告をあまり重視しなかった。 しかし日を経るうちに、官邸に殺到する激励の手紙の数がふえていくことに衝撃を受けた。 日中戦争から五年目、耐乏生活に倦いた国民感情は強力なカタルシスを求めていたが、 それが東條に殺到したのである。 その凄じさに、東條は恐怖を感じた。 国民も軍人も民間右翼も、東條に期待しているのは、対米強硬態度、その果ての対米戦争であった。 激励文とはそういう内容で満ちていた。 それがこれまでの東條の帰結だったからである。
武藤軍務局長の提案
会議が終わるたびに、東條は武藤と打ち合わせて、陸軍省の態度を確かめた。 ときに佐藤賢了、真田穣一郎、石井秋穂の軍務局の将校も官邸に呼び、彼らの意見に耳を傾けた。 東條は、日米交渉に全力を尽くすが、その一方で作戦準備も進めるという考えを採り、 この方向で陸軍省を統一したいと、彼らに言った。 そのために統帥部の強い態度にどう対応するか、頭をひねった。 杉山や永野は開戦論にこだわり、そこから動こうとせず、 東郷や賀屋に強圧的な発言をくり返すばかりで、これがつづけば東條内閣の基盤も危くなるという危惧もあった。 武藤は「白紙還元の方向で努力するには参謀本部の強硬派、田中新一部長を更迭しなければならない。 そのために私も身を退く」と東條に人事での相撃ちを申し出た。
だが東條は統帥部の人事に手をつけなかった。 本来ならこの案を受けいれるべきだった。 しかし田中更迭で参謀本部がいっそう態度を硬化させるうえに、 新たに就任した者が事情に精通するまでかなりの時間を要するのが不安だった。 それに日米交渉をまとめるには武藤の政治力が必要だと、東條は考えていた。
主戦テロ
陸軍省の中枢である東條と武藤が日米交渉に本気で取り組んでいるという噂が 陸軍内部に広がると、公然とテロがささやかれだした。 「天誅を加えると公言する者がいる」と憲兵隊は情報をもってきたので、 軍務局長室には終日護衛の憲兵がついた。 東條もまた数人の護衛が身辺を守った。
東條に白紙還元の枠をつけて推挙したのが内大臣木戸幸一だという事実は、 広く政策集団や民間右翼にも知れわたった。 木戸襲撃という噂も流れ、二十名に近い護衛が彼の周囲を警戒する事態になった。 木戸も東條も、一面では自らのこれまでの幻影に脅えているともいえた。
1941年の対米感情
国民は国策が着々と動いていることなど知らない。 だがアメリカにたいする国民の憎悪は高まった。 新聞、雑誌、書物、そしてニュース映画。 そこで描かれたアメリカは、個人主義、金権万能主義、エロティシズムの氾濫する国であり、 アメリカ陸軍の士気は弛緩し、軍隊の体裁をなさぬ国として扱われていた。 そしてこのアメリカが、ABCD(アメリカ、イギリス、支那、オランダ)包囲陣の音頭をとり、日本を苦しめ、 生存を脅かそうとしているのだとあった。 東京朝日新聞が「見よ米反日の数々/帝国に確信あり/今ぞ一億国民団結せよ」と檄をとばした。 反米的記事の隣りに、ドイツ軍の猛攻で、ソ連の降伏も時間の問題という記事が飾ってある。 スターリンは弱音を吐いているとあった。
「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」
十一月十五日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。 ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。 二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、 蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、 そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。 この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。 そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、 中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。 願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。
ルーズベルトの決断/ハル・ノート
ハルと国務省のスタッフがまとめた二つの案、すなわち「暫定協定案」と 十ヵ条から成る「平和解決要綱」が最終的に成文化されたのは二十二日である。 「暫定協定案」には、両国が平和宣言を発し、太平洋地域で武力行使せず、 日本は南部仏印から撤退し、仏印駐留の全兵力を二万五千名に制限するとあり、 これを日本側が受けいれれば対日禁輸緩和を認めるとあった。
ハルは、この案を英・蘭・中国・濠州の大使に説明した。 事態が進展すれば相談すると約束していたからだ。
しかし蒋介石は、駐米大使からこの報告を受けるや失望の色を濃くした。 日本の「乙案」、アメリカの「暫定協定案」、それは彼のもっとも恐れている日米戦争回避の可能性を示していたからだ。 〈断じて潰さなければならぬ〉――彼は外交部長宋子文と駐米大使胡適にたいして、 ハルや国務省首脳、陸海軍有力者を説得するよう命じ、彼自身もチャーチルに「われわれの四年以上の抗戦も ついに無益に終わるだろう」「わが軍の士気は崩壊しよう」「わが国をいけにえにして日本に譲歩するのか」と訴えた。
この電報を読んだチャーチルは、蒋介石が同盟から離脱するのではないかと懸念した。 チャーチルはハルから示された案を受けとったとき、 日米戦争勃発になればイギリスだけで対独戦を戦わねばならぬのではないかと不安に思ったのだが、 蒋介石の電報を読んでからは、蒋介石の自棄的な行動が心配になったのだ。 インドをはじめアジアに植民地をもつ英国としては、アジア人のアジアという日本の宣伝を裏づけてしまうのを恐れて、 中国をつねに陣営に引きいれておかねばならないと考えていた。 彼はルーズベルトに宛てて、「われわれは明らかにこれ以上の戦争を望んではいない。 われわれは一点だけを心配している。・・・・・・われわれは中国について心配している。 もし中国が崩壊したならば、われわれの共通の危険は非常に大きくなる」と警告した。 このメッセージが、国務省に届いたのは十一月二十六日の早朝だった。 ところがこれが、実際にルーズベルトに大きな影響を与えることになったのである。
メッセージが届く三時間まえ、ワシントンでは最高軍事会議が開かれ、 日本の最終期限をひとまず延長させるため「暫定協定案」の提案を検討していた。 会議に集う者は、それが事態の本格的解決にならないことも知っていた。 会議は難航したが、ルーズベルトが「日本人は無警告に奇襲をかけることで名高いから、 もしかすると十二月一日ごろに攻撃されることもありうる」と発言してから、出席者たちは、 この奇襲こそが救いになると気づいた。 戦争反対の声や孤立主義に傾く世論を燃えあがらせるには、第一弾を日本に発射させるべきだというのである。 対独戦に参加するためにも対日戦は必要だという暗黙の諒解がそれに輪をかけ、「暫定協定案」より「平和解決要綱」を 示したほうが、日本に第一弾を投じさせることになるかもしれないという誘惑が彼らを虜にした。 しかし最終的な結論をださぬまま、会議は休会となっていた。
この休会の間にルーズベルトはチャーチルの電報を読み、すぐ宋子文と胡適に会って蒋介石の要望を丹念に聞いた。 またハルも陸海軍の責任者に会い、日本からの攻撃に反撃できるかを確かめた。 そのあとルーズベルトとハルは長時間話し合い、この際事態を延ばす途を採らず、 日本に第一弾を投じさせる途を選択することにした。
十一月二十六日午後五時、ハルは野村と栗栖を呼び、「平和解決要綱」を手渡した。 いわゆる「ハルノート」である。 国務省の応接間にはいるまえ、ハルは陸軍長官スチムソンと海軍長官ノックスに、 「まもなく日米間の主役は交代するだろう」と事態が政治から軍事に移ることを予言した。 そして事態はそのとおりに動きはじめたのである。
正式名称「大東亜戦争」決定
十二月十日、連絡会議はこの戦争を大東亜戦争と称することを正式に決めた。 海軍は「太平洋戦争」「興亜戦争」を主張したが、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものとして、 戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」という陸軍の意見がとおった。 自給自足、資源確保を重視する海軍と、自給自足と大東亜共栄圏建設の折衷を戦争目的と考える陸軍の 微妙な対立がここにはあらわれていた。
東條首相の民情視察
地方に出るまえ、東條はまず東京都内を視察した。 戦時下とあって、すべてが配給制なのだが、末端役人の不誠実、不明朗が目にあまり、 尊大な態度で〈与えてやる〉式の態度をとる者があるらしく、庶民の訴えが官邸にも数多く寄せられた。
そこでその訴えの役所を視察に行き、役人をどなりつけることが重なった。
「役人は重点をつかんで国民をひっぱっていかなければならぬ」
最高権力者の声は絶対である。役人はうなだれ、叱られた子供のようにうつむく図が、 東條のまえにあった。
たまたま東京の千住署を視察したときだった。 「身上相談所」という看板のまえに人が並んでいるのに、だれひとり応対をしていなかった。 すると例によって東條は、署長を呼びつけた。
「係員がいないのであれば、署長が窓口に立つのはあたりまえではないか」
署長がうつむいていると、東條が窓口に座って相談に応じはじめた。
徴兵検査の視察にもでかけた。 かつて陸相就任時に強調した健兵育成の推移を調べるためだった。 米穀店の倉庫に入り、貯蔵状況も確かめた。配給所では、応急米の配給の様子も見た。 配給を受け頭を下げている老婆がいた。 係員はそれを無視してつぎの者に配給をつづけると、東條はどなった。 「君も挨拶しなさい。ちょっとの気持で同じ一升が二升にもなる。 逆に五合にもなってしまうこともある。役人根性は捨てなければいかんではないか」。 係員は万座のなかでうつむいた。東條の叱責は正論でもあり執拗だった。
ドゥーリトル爆撃隊、東京・名古屋・神戸などを空襲
戦後明らかになったところでは、この爆撃はアメリカの示威行動だった。 アメリカ軍上層部は、昭和十七年の初期に日本の面子を失なわせる奇襲作戦で米国民の士気を鼓舞しようと考え、 〈日本本土爆撃〉を太平洋艦隊のキング提督が主張し、ドウリットル陸軍中佐を隊長とする爆撃隊が編成されたのである。 キングは「大損害を与えることは期待できぬが、日本の天皇にはいろいろ考えさせることは確かだ」と、 空母ホーネットからB25型爆撃機十六機を六六八マイル離れた東京をめざして飛び立たせた。
ドウリットル爆撃隊は、東京を爆撃してから中国奥地の基地に逃げこむことになっていた。 が、爆撃隊は日本国内では日本軍によって撃ち落されなかった。 このニュースはアメリカ国内を沸きたたせた。 アメリカのマスコミはしきりに「反転攻勢」ということばをつかって情勢の転換を期待したが、 この爆撃はその象徴的なてきごとと、とらえられたのである。
アメリカの対日戦略
アメリカの戦略は、まず日本を執拗なまでの消耗戦にまきこむことだった。 物量をつぎこんで消耗させる作戦にかえていた。 ルーズベルトは議会で報告し、二年間は生産に力をいれ、昭和十九年からは大反抗にでるといったが、 それが国民にも共鳴をよんだ。 態勢を整えつつあるアメリカのこの実態を、日本の指導者は見抜けないでいた。 むしろ開戦前よりも軽視が深まっていた。 あまりの戦果に具体案をつくるのを忘れ、かわって空虚なことばと、戦争協力に名を借りた指導者の傲慢がはじまった。
尾崎行雄逮捕
尾崎行雄は東條宛に「憲政の大義」と題する一文を送ってきたが、 そこには「閣下が主宰し、巨大な国費を使用する所の翼賛会が、直接と間接とを問わず、総選挙に関与し、 遂に翼賛会をして候補者を推薦せしめたるに至っては、私が閣下のために嘆惜する所であります」とあった。 だが東條はまったく無視した。 それどころか東條は尾崎を憎み、身柄を拘束できる理由をさがさせたのち、 東京三区の応援弁士として演説した尾崎の言のなかに不敬罪に抵触する部分があるとして、 強行に逮捕させた。ところが尾崎を逮捕させたことは政党政治家の閣僚のなかに反撥を招いた。 閣議でも即時釈放を主張する者もあるほどで、このあまりの抗議に東條もまた驚き、 尾崎を釈放するように警保局長に命じざるを得なかった。
反東條の軍人たち
東條によって陸軍を追いだされた石原莞爾は、 東亜連盟会長のポストに就きながら、東條憎悪に燃え、 ときに東久邇宮のもとに行ってはその怒りを語った。 「日本は重慶政府と和平交渉し、アメリカとの戦闘はこれ以上深入りしないほうがいい」。 そして「今回の翼賛選挙で、人心は悪化し、国民は東條内閣と陸軍を恨んでいる。 この内閣は一日も早く交代し、外交および国内問題を解決しなければならない」と訴えた。
真崎甚三郎、柳川平助、香椎浩平、小畑敏四郎ら皇道派の重鎮は予備役になっていて、 陸軍内部に影響力はなかったが、訪う者には反東條を公言した。 香椎は、「あんな男が戦争指導などできるわけはない」と罵った。 皇道派ではないが、西尾寿造、谷寿夫、酒井鎬次、それに多田駿らは東條の包容力のない性格を皮肉った。 予備役という自由な立場で、彼らは、しだいに軍外の要人とも接していくことになる。 逆に東條が嫌った軍人は、『東條英機』(東條英機刊行会編)によれば、 「同期十七期の篠塚義男、鈴木重康、前田利為、一期後の十八期の山下奉文、阿南惟幾、安井藤治、 二十二期の鈴木率道などがその最たるものであり、これに皇族の秩父宮、朝香宮、東久邇宮・・・・・・」という。 いずれも「頭脳明敏で批判精神の旺盛な人々であったので、東條陸相の下では余り重く用いられることはなかった」と書いている。 東條の度量のなさが露骨にあらわれているというのである。
武藤軍務局長更迭
軍務局長武藤章は二年半にわたってその職にあり、 開戦前の日米交渉では、東條の右腕だった将校であり、しばしば大胆な直言もした。 はじめのうち東條もその言を受けいれたが、真珠湾攻撃以来の戦果のまえに、 しだいに渋い表情を見せるようになった。 武藤は、東條内閣の他の閣僚より政治、軍事の両面に発言権をもち、なかでも書記官長星野直樹をぬくほどの権勢をもった。 それが徐々に星野との対立に発展した。東條自身は星野の側に立った。
四月にはいって、東條は武藤を南方の占領地視察に赴かせたが、その間に、 武藤を南方の近衛師団長に転勤させることを決意した。 直接のきっかけは、星野や鈴木貞一が東條に働きかけたためといわれている。 東條を補佐するその役割に、東條のほうがしだいに疎んじるようになったとみるほうがあたっている。 立川の飛行場に戻った武藤に、副官の松村知勝が転任の命令書を手渡した。 無礼といわれても仕方のない方法だった。このとき激昂した武藤は、迎えに出ていた松村にむかって、
「東條は政治亡者になったのか。 クーデターを起こして東條を倒すか。このままではズルズルと亡国だ」
とまで口走ったという。しかし軍務局長という激務に疲れていたこともあって、 彼は黙したままスマトラのメダンに赴任していった。
東條とミッドウェー海戦
昭和十七年六月十日午後に、大本営海軍部はミッドウェー作戦を 「我が方損害(イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、(ロ)未帰還飛行機三十五機」と発表した。 東條もこのていどの数字しか知らされてなかった。 ところが政務上奏の折りに、天皇が何げなく実際の数字を洩らしたのである。 秘書官赤松貞雄は、「天子様がミッドウェーで喪失した隻数を洩らされ、この海戦への憂慮を示されたおりに、 東條さんは自分に報告されている数字とあまりにも違っているのに驚き、 改めてそれを調べてみるとやはり相当の被害があることが判ったのです」と証言している。 実際の数字は、空母四隻を喪失、重巡洋艦一隻、巡洋艦一隻、潜水艦二隻が大破していた。 しかも三千二百名の死傷者をだし、このなかには多くのベテランパイロットが含まれていたのだ。
米軍、ガダルカナル島上陸/ソロモン海戦1/一木支隊全滅
八月七日にソロモン群島の最南端の島ガダルカナル島にアメリカ軍の急襲があった。 ラバウルから南へ千キロの距離にあるこの島には、航空基地を設営した海軍の陸戦隊二千人が守備にあたっていたが、 充分な防禦基地もできていなかったので、あっさりと上陸を許した。 アメリカ軍はガダルカナル、ツラギ両島に日本軍が航空基地を設営するのを警戒し、 早めにこれをたたいておこうというのであった。
日本軍は、この急襲を重視しなかった。 陸軍中央はガダルカナル島という名前さえ知らなかった。 ましてやこの島で半年間にわたり死闘がつづくことになろうとは予想もしなかった。 急襲の翌日、日本軍は第八艦隊(三川艦隊)が攻撃をかけ、アメリカの重巡四隻と四千名の乗組員を沈めた。 これが大本営にアメリカ軍の実力を過小評価させた。 全力をあげれば、ガダルカナル奪回は容易であるとして、ミッドウェー占領を予期してトラック島に待機したままの 一木支隊九百名に作戦命令が下された。 八月二十一日、一木支隊は夜襲をかけたが、戦車と砲火の集中攻撃を浴び全滅した。 このことはアメリカ軍が急激に態勢を整えていることを意味した。 実際、アメリカ軍はガダルカナルに滑走路を完成し、爆撃機と戦闘機を進出させて制空権を握り、 攻撃圏内に日本の輸送船の侵入を許さない戦略をとっていたのである。
東條と東郷の対立
占領地行政の責任者は軍司令部が兼務するとなっているが、 その実態は歴史上で誇れるものではなく、占領地を補給地と考え、戦勝国の傲慢さで日本化を要求した。 現地の人びとに日章旗への礼拝を要求し、神社への参拝を求め、真影への敬礼を強要する・・・・・・。 そういう占領地行政が各国での軍司令官の実態だった。
「主権を尊重して経済協力の基礎のうえで善隣外交を行なわなければだめだ」
東郷は言い、武力統治一本槍でなく、文官統治へと変えていくべきだと主張した。 閣議に大東亜省設置がもちだされたとき、東條の意を受けて東郷と論争したのは、 企画院総裁の鈴木貞一であり、情報局総裁の谷正之だった。 彼らには東條の根回しができていたからだった。
だが東郷は猛然と反論した。
「外交が二元化されるではないか」
この執拗な反論に、東條がこんどは答えた。
「従来の外務省の外交だけでは、東亜の諸国はその他の諸外国なみだと不満に思い、 日本にたいし不信の念を抱くことになろう。 これらの国々の自尊心を傷つけては独立尊重の趣旨に反する」
東條はきわめて都合のいい論で対抗し、そして最後に本音を吐いた。
「大東亜諸国は日本の身内として他の諸外国とは取り扱いが異なる」
だが東郷もひるまず、外交二元化の不利をなんどもくり返した。 外交関係があるのはドイツ、イタリア、ソ連、バチカン、スイスなどわずかの国々だ。 このうえ東亜各国との外交交渉から手をひいてしまえば、外務省としても手足をもぎとられたと同然だという反撥が彼にはあった。 それだけに東郷も必死だったのだ。 ふたりの論争は意地のはりあいとさえなった。 (中略)
閣議後もふたりで話し合ったが、結局結論はでなかった。 かつての近衛と東條のような険悪な雰囲気となり、東郷は辞意をほのめかした。 閣内不一致で東條内閣総辞職につながる恐れに、東條は鈴木貞一を呼んで命じた。
「木戸と賀屋を説得して、とにかく大東亜省の設置を認めさせろ」 (中略)
八月三十一日、鈴木は賀屋と木戸に会い、大東亜省設置を説き、消極的な賛成を得た。 その報告を受けた東條は、きわめて手のこんだ手段で東郷追いだしをはかった。 九月一日の午前、東條は東郷に通知せず、閣議を開いた。 そこで閣僚に大東亜省の設置の諒解を求め、全員が賛意を示すと、 「どんなことがあっても結束を乱さないように・・・・・・」と確約をとった。 午後、東條は東郷を官邸に呼んだ。 東郷を待ち受けながら、すでに東條は興奮を押さえきれずに言いつづけた。
「国務大臣たる者は犠牲を忍んでこそ、そこに発展がある。 第一線で将兵は大君のために名誉の戦死をしている。 大戦下になればこそ、このくらいの心がけがなければ国務大臣たる資格はない」
自らはあらゆる政治的責任から免責された地位にいるという認識、 そして自らこそ聖慮の具現者であるとの自負だけが彼に宿っていた。
ふたりの会話は初めからかみあわなかった。
「大東亜省設置案は断固実施する予定だ。 この案に不賛成ならば、午後四時までに辞表を書いていただきたい」
東郷が出て行くと、東條は宮中に木戸幸一をたずねた。 外相が辞職しないときは閣内不統一で総辞職のほかはない、と言った。 木戸は驚き慰留した。この期に首相がかわるのは、内外に与える影響は大きいというのである。天皇も驚いた。
「内外の情勢、戦争の現段階、ことにアメリカの反抗気勢の相当現われ来れる今日、 内閣の総辞職は絶対に避けたい」
天皇のことばは木戸をつうじて、たちまちのうちに政策集団内部に広まった。 そうなると東郷も打つ手がなく、辞表を書かざるを得なくなった。
きわめて狡猾な東條の戦術だった。 この期に首相更迭ができるわけはないと知っている。 しかも天皇に信頼されていると自負している。 それを読みとって木戸に恫喝をかけた。思惑どおり成功したのである。
「戦時宰相論」と東條
元日付の朝日新聞に掲載された囲み記事、東方同志会の中野正剛が、 「戦時宰相論」と題して原稿を寄せていた。 ビスマルク、ヒンデンブルグ、ルーデンドルフを引用しながら、非常時宰相は強くなければならぬ、 戦況が悪化したといって顔色憔悴してはならぬ、と説いていた。
「・・・・・・非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄足らずともその任務を果たし得るのである。 否日本の非常時宰相はたとえ英雄の本質を有するも、英雄の盛名をほしいままにしてはならないのである」 ――。桂太郎は貫禄のない首相と見えたが、 人材を活用してその目的を達したと賞め、「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。 強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しこうして気宇広大でなければならぬ」と結んであった。
新聞記者出身の中野正剛の文章だが、読みようによっては東條を激励していると受けとめられる。 彼の政治経歴はそのほうがふさわしい。 が、東條は、自分へのあてこすり、批判、中傷と読みとった。 一語一句にこもっている意味は、戦局への対応を誹謗しているというのであった。
すぐさま電話をとり、情報局検閲課を呼びだして「新聞紙法第二十三条により発売禁止にしろ」と命じた。 すでに内相の椅子を離れている彼の行為は、この二十三条の〈内務大臣の権限で、安寧秩序を紊したと認めたとき発売、 頒布を禁止できる〉という条項そのものに違反していたが、東條は、 こんな記事をパスさせるのは検閲課の官僚が寝ぼけまなこで仕事をしているからだと疑って、 そんなことにはお構いなしだった。
東條とチャンドラ・ボース
このころ東條自身、精神論を吐く者に異常なまで傾斜した。 たとえば、インド独立運動の志士チャンドラ・ボースとの出会いがそうであった。 マライのペナンでドイツ潜水艦から日本の潜水艦に乗りかえて日本に来たボースは、 日本にいるビハリ・ボースと手を結んで反英活動に入ろうとしていたが、 そのまえに協力を求めようと、東條に面会を申し込んだ。 だが東條は申し込みを無視した。 〈自国の独立運動を自国で進めていないうえにドイツの力に頼ろうとしている〉、それが不快の因だった。
東條が、ボースの執拗な依頼にやっと応じたのが六月十四日だった。 翌十五日から第八十二帝国議会がはじまるが、その最終的な打ち合わせで忙しいときに、 わずかの時間をさいて会おうというのであった。
その日、官邸の応接室にはいってきたボースは、東條に会うなり、射るような視線でまくしたてはじめた。 インド人がインド独立のためにどれほど熾烈に反英運動をつづけているか、 ことばは途切れることなく、通訳が口をはさむのももどかしげに吐きだした。 東條はこの男に関心をもった。
「明日もういちどお会いしましょう。私のほうもあなたといまいちど話したい」
翌朝、ボースは官邸にたずねてきて、また自説を述べた。 雄弁は彼の最大の武器であった。
「日本は無条件でインド独立を支援して欲しい。 インドの苦衷を救えるのは日本しかないのだから、その点は約束して欲しい」
ボースの申し出に東條はうなずいた。
「もうひとつお願いがあるが、インド内にもぜひ日本軍を進めて欲しい」
さすがにそこまで東條は約束できない。 これは統帥にかかわる問題だったからだ。 だが、この日からボースと東條の交際がはじまった。
「あの男は本物だ。自分の国をあれほど思いつづけている男を見たことはない。 なんとか協力したいものだ」
いちど胸襟を開くとあとは肝胆相照らす仲になる癖をもつこの首相は、いままた新しい友人を見つけたのである。
軍需省設置
このころ航空機生産は、陸軍と海軍の対立のなかにあった。 両者とも一日も早く、一機でも多く航空機を手に入れたいと、三菱飛行機や中島飛行機に予算を先に払ったり、 相手の生産工程の工員をひきぬいたりの足のひっぱりあいをしていた。 機種の選定も運用も陸海軍まちまちで、大量生産の組織も作業順序もできていなかった。
まず陸海軍で調整し、資材を適当に配分し工程を整えるのが必要だった。
「航空機、船舶だけを生産管理する組織、軍需省が必要だ」
それが機構組織を点検したうえでの東條の結論だった。 陸軍と海軍の間では「軍需省に庇を貸して母屋をとられる」警戒心が働いたが、 十一月一日を期して企画院、商工省、それに陸海軍の航空兵器総局を加え軍需省をつくることにまとまった。 東條は自身が軍需相に座って、航空機生産の陣頭指揮をとる心算だった。
中野正剛自決
いまや東條には、中野は目障りだった。 このまま野放しにすれば議会で何を言いだすかわからないと恐れた。 二十六日からの第八十三帝国議会の開会前にその動きを封じたいと考えていた。 しかし警視庁から届く報告は、中野の容疑はひとつとして固められないというのである。 議会召集日の前日、二十五日の夜、東條は首相官邸に安藤紀三郎内相、岩村通世司法相、松阪広政検事総長、 薄田美朝警視総監、四方諒二東京憲兵隊長を集め、中野正剛の処置を打ち合わせた。 このとき、東條は戦時に準じて法解釈すべきだと、松阪と薄田に詰めよった。
「警視庁からの報告のていどでは身柄を拘束して議会への出席を止めることはできない」
と松阪は拒み、薄田も同調した。 そこで東條は四方に意見を求めると、四方はそくざに「私のほうでやりましょう」と応じた。 それは議会に出席させないための罪状をつくりあげようという意味であった。 そして二十六日早朝、中野の身柄は憲兵隊に移され、四方は腹心の大西和夫に「二時間以内に自白させろ」と命じた。 午前中に拘留手続きをとらなければ、中野の登院阻止ができないからだった。
大西と中野がどのような会話をしたのかは明らかでない。 だがある憲兵隊関係者は、中野の子息を召集し最激戦地に送り込むと、大西が脅迫したという。 妻、長男、次男の三人をこの三年の間に亡くしていた中野は驚き、 それで憲兵隊の意に沿うような証言をしたとしている。 中野と親しかった人物が、昭和五十二年に岐阜に住んでいる大西をさがしだし、 脅迫的に証言を迫ったが、彼は震えるだけで決して詳細をもらさなかったという。
この日の夜、自宅に戻った中野は、隣室で大西ともうひとりの憲兵に監視されていたが、秘かに自決した。
この報は開会中の議会にも伝わった。 原因は不明とされたが、あの豪気な中野が自決するには東條の圧力があったからだと噂した。 噂はふくれあがり、東條が中野に向かって「不忠者」とどなりつけたとか、 日本刀を渡して暗に自決を勧めたとか、ひそひそ話となって流れた。 「東條という男は何をするかわからん」という恐れを露骨に口にだす者もあった。
大東亜会議
大東亜会議は、十一月五日、六日の二日間、帝国議会議事堂で開かれた。 議長席に東條が座り、式の一切は日本側の手で進んだ。 東條自身がもっとも得意の絶頂にあったのは、このときだったろう。 首相退陣後、彼はこの大東亜会議をしきりに話したし、昭和二十年九月に自殺未遂を起こしたとき、 彼の応接間にとびこんだMPの眼を最初に射たのは、このときの会議の写真である。
この会議の初めに、東條は、いつものかん高い声で、「英米のいう世界平和とは、 すなわちアジアにおいての植民地搾取の永続化、それによる利己的秩序にほかならない」と言い、 日本はその解放者であり、独立を援助する救世主だと説いた。 そこにはルーズベルトやチャーチルに向けての意味もあった。 つづいて各国の指導者が演説した。 ラウレルは「中国が速やかに統一され、三億五千万のインド民衆がボース氏指導のもとに完全に独立し、 再びイギリスの支配に帰するがごときことのないよう希望する」といい、 ビルマのバーモも同意した。 しかしラウレルの演説のなかに、日本の軍部の占領行政を批判した部分があったが、 それは、不思議なことに東條には訳されなかった。
翌六日、自由インド臨時政府を代表してボースが発言した。 インド民衆は、イギリス帝国主義に抗して自由を戦いとらねばならぬといったあと、 「岡倉覚三(天心)および孫逸仙(孫文)の理想が 実現に移されんことを希望する」と結んだ。 雄弁に長けている彼は、この戦争を自国の独立運動、アジアの解放に結びつけ、 日本の自存自衛の戦争だけではないぞと宣言したのである。
ボースの演説が終わると、東條は発言を求め、 彼にしては珍しく芝居気たっぷりにメモを読んだ。 「帝国政府はインド独立の第一段階として、もっか帝国占領中のインド領アンダマン諸島およびニコバル諸島を、 近く自由インド臨時政府に隷属せしむるの用意ある旨を、本席上において闡明する」――。 ボースの表情が大仰に喜色にかわり、自由インド臨時政府の幹部たちと肩を抱きあった。 それは彼のスケジュールが成功したことを物語っていた。 来日するや、東條に、アンダマン、ニコバル諸島への自由インド臨時政府の進出を許可してほしいと訴えつづけ、 それを受けいれた東條は、この日の午前中に連絡会議を開いて、 急遽、ボースの申し出を受けいれることを決めたのである。 国土をもたなかった自由インド臨時政府は、これによってはじめて自国の領土に足がかりをもつことになった。
軍需省発足
軍需相に東條、軍需次官岸信介、総動員局長に椎名悦三郎が座り、 付設された航空兵器総局には長官遠藤三郎、総務局長大西瀧治郎が就き、 さしあたり昭和十九年四月からの生産計画を練り直した。 昭和十九年七月までに十八年九月の二・一倍の航空機生産、つまり月間三千八百機を目標とすることに決めた。
マリアナ沖海戦
六月十九日朝、日本の艦隊とアメリカ軍艦隊が遭遇した。 小沢提督は、第一次、第二次と三百四十機の攻撃機を出撃させた。 先制攻撃で一気に決着をつける考えだった。 ところが同じ日の朝、陸上航空部隊が米軍の執拗な攻撃を受け、 グァム、トラックの航空部隊はすでに機能を失なっていた。 そのため「あ号」作戦の狙いである母艦航空部隊と陸上航空部隊が一体となっての航空決戦構想は、あっけなく崩れた。
日本軍は空母搭載機だけで戦わねばならなかった。
アメリカ軍には高性能レーダーがあり、これが日本軍の攻撃機接近を捉えた。 四百五十機の戦闘機が待ちかまえていた。 日本軍の第一次攻撃隊は、この迎撃の網にかかり、 辛うじてこれを突破した攻撃機も戦艦からの対空砲火を受け撃墜された。 四分の一がやっと母艦に帰りついた。 第二次攻撃隊はもっと惨めだった。 技倆未熟な搭乗員では遠距離攻撃が無理だったためもあるが、ほとんどがアメリカ軍の攻撃で撃墜された。
航空兵力だけでなく、空母翔鶴、大鳳は魚雷を打ちこまれ炎上した。 不沈空母とされていた大鳳が魚雷一本で炎上を起こしたのは、海軍の首脳部には衝撃だった。 空母瑞鶴に乗り移った小沢は、翌二十日に再び攻撃をかけようと戦力を点検したところ、 艦載機が百機に減っているのに驚かされた。 さらにこの日夕刻、アメリカ軍は日本の機動部隊に攻撃をかけ、空母千代田、瑞鶴の飛行甲板を破壊し、 飛鷹を爆発炎上させた。 豊田連合艦隊司令長官は、ここに至って全軍の撤退を命じたが、 日本海軍は三隻しかない大型空母のうちの二隻と三百九十五機を越す艦載機、 それに四百名近くのパイロットを失なっていた。 アメリカ機動部隊に被害らしい被害を与えることができなかったばかりか、 決戦まえには誰ひとりとして想像しなかったほどの惨敗であった。
東條・岡田会談
六月二十七日の朝、赤松が岡田をたずね、 首相に会って陳謝し、今後は自重して策動と思われるような行動を慎しむ旨をはっきり述べて欲しいと求めた。 岡田はうなずいた、と赤松は言う。そのあと、赤松は沢本海軍次官をたずねて、 岡田と東條が和解することになろうとの見とおしを述べた。 岡田の動きを批判的にみていた沢本は、そのことを歓迎すると言った。
この日午後、岡田は東條に会いに来た。 いくつかの不明朗な動きに岡田は遠回しに謝まった。 しかし岡田は、海軍部内で嶋田の評判は悪く、部内掌握もできていないと海相交代を要求することは忘れなかった。 岡田はその回顧録で、「果たしあいにのぞむような気持だった」と言っている。 東條は岡田の申し出を、この期に政変があっては国家のためによろしくないと拒み、つぎに睨み据えて言った。
「現今、注意すべきは反戦策動である。 ひとつは近衛公を中心とする平和運動、二番目は某々らの赤組、三は各種の倒閣運動で、 閣下はこれらのものに利用されているのを承知されたい」
そのあとに、つぎのようにつけ加えた。
「おつつしみにならないとお困りになるような結果を招きますよ」
まさに脅しだった。のちに岡田は、回顧録のなかで、このとき暴力的な脅威を感じたと告白している。
東條のいう「某々らの赤組」というのは、石原莞爾と東亜連盟の動きをさしていて、 この人脈と岡田との接触を東條は恐れていたのである。
岸国務相、辞職拒否
十七日朝、東條は岸を呼んで、当然のことのように辞職を促した。 すると岸は、東條の期待に反して意外なことを言いだした。 彼は、「挙国一致内閣」ができる保証がない限り辞職はしない」と言ってから、 「しばらく時間が欲しい、木戸内府に相談する」とつけ加えたのである。
それはどういうことか――東條は困惑した。 飼い犬に手を噛まれたような気持になった。 岸が退出したあと、東條は側近たちを集めた。 そして憲兵隊に岸の終日監視を命じ、富永や星野には有力者をたずねて情報を集めるよう伝えた。
岸は二時間ほど経てから、再び官邸に来て東條と話し合った。 彼は辞表の提出を拒み、改造が完了するまで国務相としての発言権を留保すると言いだした。 東條の申し出を拒否するというのだ。 『岸信介回想録』(毎日新聞連載)によれば、「・・・・・・この戦争の状態をみると、 もう東條内閣の力ではどうしようもない。だからこの際、総理が辞められて、 新しい挙国一致内閣をつくるべきというのが私の原則だ」と言ったとある。
岸の造反は、東條だけでなく陸軍省軍務局の幹部たちを怒らせた。 彼らは岸の電話を盗聴し、この二、三ヵ月の行動をさぐり、さまざまな情報を集めてきた。 「岸と木戸は一体のようだ。岸は他の重臣とも連絡をとり後押しを受けている」 「松平康昌内大臣秘書官長の話と、これまで届いた憲兵情報や警視庁情報をつき合わせると岸の造反をにおわせている。 やはり岡田らが元兇だ」「岸は閣内で自爆覚悟である」――。
東條内閣総辞職
岸への辞職勧告が暗礁にのりあげたと同様に、 米内光政の説得も進まなかった。 海軍省軍務局長岡敬純、大麻唯男、石渡荘太郎がのりだして説得したが、 米内は他の重臣との約束を守り、入閣要請には決してうなずかなかった。 米内の背後では、海軍の反東條の幕僚が説得に負けぬようにネジをまいていた。 最後に佐藤賢了が米内邸に来て、威圧した。
「あなたは東條内閣だから入閣しないのではないですか。 それともいかなる内閣でも入閣するつもりはないのですか」
「いかなる内閣であっても入閣するつもりはない」
米内はあっさり答えた。
ここで東條の延命策は停滞した。 十七日夕刻、陸相官邸に、東條は、富永、佐藤、赤松ら腹心の将校を呼び、対策を打ち合わせた。 彼らの怒りは深く、「国賊どもを逮捕しろ」という激したことばがなんども吐かれた。 木戸や重臣は君側の奸だ、彼らをはずして直接天皇を説得しようという案も語られた。 民間右翼をつかい、岸に圧力をかけ辞表を書かせようという案。 ついで陸軍の兵隊を動かしてのクーデターに近い方法も練られたが、 それでは国内の摩擦が大きすぎるという結論が出て沙汰やみとなった。 ところがこの打ち合わせの席に新たな情報がもたらされてから、東條の意思は急に萎えた。
その情報というのは、重臣阿部信行からのもので、 平沼邸での重臣会議の結果、挙国一致内閣樹立が必要で、 一部の閣僚の入替えでは何の役にもたたないという結論をだしたというのであった。 阿部の伝言は、「これに抗したのは自分だけで、全員の見解がこれに集約され、 この方針のもとに木戸から上奏されることになろう」といっていた。 東條内閣では人心掌握はできないというのが切り札だともいい、 はじめから重臣たちは入閣の意思などなかったことも明らかになった。
部下たちの激怒をよそに、東條の辞意はかたまった。 天皇には重臣の入閣を約束していたのに、それが無理なことが裏づけられたのである。
「お上のご信任にこたえられなくなった以上、もうこの地位にとどまることはできぬ」
そのあと無念そうにつけ加えた。
「重臣たちの排斥にあって退陣のやむなきに至ったのだ。 むずかしい改造計画をだしてきて、しかもそれを邪魔するというのだから言語道断な話だ」
その夜、東條は、家族に荷物の整理を命じた。 二年十ヵ月に及ぶ官邸生活は、この住居を自分のものであるかのように錯覚させていたことに気づくと、 改めて重臣を呪詛することばを吐いた。 が、これまでと同じように、そこに自省のことばはなかった。
東條英機自殺未遂
午後一時すぎになると、ジープがつぎつぎと横づけされた。 新聞記者と、銃を肩にしたMP三十人あまりが東條家の回りを徘徊し、ある者は邸内に入りこんで、 ガラス越しに室内を覗きこんだ。
〈なぜ何も言ってこないのだろう〉
東條は首をひねった。彼は連合軍が逮捕に来たと思ったが、それよりも前に射殺されてしまうかもしれぬと恐れた。 そのまえに自殺しようと心に決めた節がある。 それで応接間を死に場所にふさわしいように最後の点検をした。 長年つかっていた机、椅子、書類棚。ソファの後ろには等身大に近い肖像画があり、 机には彼の心の拠り所である大東亜会議の写真を飾った。 そして応接セットのテーブルに遺言状を置き、二挺の拳銃と短剣一刀を並べた。 それから部屋の隅に大将の肩章と六個の勲章の略綬をつけた軍服をたたみ、その脇に軍刀三刀を立てた。 それが帝国軍人の最後を見守る舞台装置であった。
動きがはじまったのは午後四時近くになってからである。 二台の高級将校用のジープが玄関前に横づけになると、数人のMPが降り、 これまで監視をしていた兵隊を指揮して玄関と応接間周辺をとりまいた。 MP隊長ポール・クラウス中佐が玄関をノックした。 と同時に、邸をとりまいていたアメリカ兵が一斉に銃をかまえた。 彼らも銃撃戦を覚悟したのである。
ノックの音をきくと、東條は女婿の古賀の形見の拳銃をテーブルにのせた。 たぶん彼は、軍服を最後の衣装としたかったにちがいない。 そうしておいて彼は、半袖開襟シャツにカーキ色の乗馬ズボンという服装で応接間の窓をあけ、 「拘引の証明書をもっているか」とたずねた。 するとMPのひとりが書類を見せたので、東條は「いま玄関をあけさせよう」と言って窓を閉め、鍵をかけた。 軍服に着がえる時間はなかった。 のちに東條が巣鴨拘置所で語ったところでは、このあと彼はソファに座り、左手に拳銃を握り、 ○印の個所をシャツ越しに確かめて古賀の拳銃を発射させた。 しかし彼が左利きだったことと、発射の瞬間に拳銃がもちあがったことで、弾丸は心臓から外れた。
一発の銃声はアメリカ兵たちを驚かせた。 彼らは、東條とその護衛たちが絶望的な戦いを挑んできたと考えた。 すぐに応射し、何発もの弾丸を家に射ちこんだ。しかし邸内からの応射はない。 幾人かが玄関を破り、拳銃を手に応接間のドアを壊しにかかった。 興奮した英語が応接間のなかに投げこまれた。
このときカツは、隣家の庭で農婦を装いながら様子をうかがっていた。 邸内から一発の銃声が響き、それに応じてMPの乱射があり、 あとは喧騒が自宅を支配しているのを知って覚悟をきめた。 軍人らしい死に方であって欲しい・・・・・・と合掌し、夫はそのように死んでいったであろうと確信して、 彼女は庭から離れた。 高台の道を降りていくと、あちこちにジープがとまり、待機しているMPが無線にとびついているのが眼についた。 ジープのなかに機関銃が無造作に積みこまれてあり、もしもの場合にはアメリカ兵は射ちあいを覚悟していたのだと思った。 それが夫への〈対応〉だったのかと、彼女は不快の念を押さえることはできなかった。
東條英機ら7人、絞首刑執行
花山は、東條につづいて板垣、木村、土肥原と面会を終えた。 そのあと彼は、モーニングの上に法衣をまとい、第一棟の一階一号室に駈けつけた。そこが仮りの仏間だった。
花山が水を入れたコップ七つとブドウ酒のコップ七つを準備してまもなく、 土肥原、松井、武藤、東條が二階から降りてきた。 午後十一時四十分だった。四人の姿を見た花山は絶句した。 彼らの姿はあまりにも異様だったからだ。 両手に手錠がかけられ、その手錠は両股と結ばれ固定してあった。 正装して死にたいという彼らの望みはかなえられず、アメリカ軍の作業衣のままで、 背中と肩のところにはプリズンの「P」の字が刷りこんである。 それが彼らの最後の衣裳だった。 靴はアメリカ陸軍の兵隊たちが履いている編みあげ靴、両足には鎖がついていた。 彼らの誇りは一顧だにされていない。
両側に立つ将校は、いつもとちがって身体の大きな者にかわっていた。 連合軍の警戒が厳重なのは、ニュールンベルクの教訓のためである。 処刑場にカメラマンをいれて処刑の様子を撮影させたため、被告は興奮状態になり、 あばれる姿がそのまま世界に報じられた。 これは死者への冒涜であるとして花山は総司令部に訴えていたが、巣鴨ではカメラマンは入れないことになった。 しかし七人が錯乱状態になって暴れることを想定し、がんじがらめにすることだけは忘れていなかった。 四人には暴れる徴候はなかった。
仮りの仏間での最後の儀式が行なわれた。 花山が線香に火をつけ四人に渡し、四人はそれを香炉にいれた。 辞世の句を書いてもらおうと用意していた筆と硯をさしだし、せめて名前だけでもと花山が言うと、 四人は動かぬ右手に筆を握り、土肥原、松井、東條、武藤の順で署名した。
つぎに花山はブドウ酒のコップを手にして、四人の口にあてた。 アメリカ人将校の差し入れのブドウ酒だった。 彼らはぐいぐい飲んだ。「うまいなあ」東條だけが声を発した。花山が『三誓偈』の一部を読経した。
護衛の将校が処刑場にむかうよう促した。 そのとき誰いうともなく、「萬歳を・・・・・・」ということになり、武藤が「東條さんに」と名ざしした。 すると東條は「松井さんに」と答えた。松井は彼の先輩にあたる。 松井が音頭をとり「天皇陛下萬歳」を三唱した。 ついで「大日本帝国萬歳」を三唱した。両手を下げたままの萬歳だった。
このころ「萬歳」は、アメリカ人が嫌うというので、あまり聞かれることばではない。 しかし四人の将軍は、アメリカ人のまえで三唱できたことに充足を覚えたようであった。 大日本帝国の「大」も「帝国」も消滅したのに、彼らは死の瞬間まで大日本帝国でしかものを考えられないことに、 花山はいささかの異和感をもった。
萬歳三唱のあと四人は、両隣りの兵士に「ご苦労さん、ありがとう」と言った。 それから花山の手を握り、期せずして同じことばを吐いた。
「先生、いろいろお世話になりました。 どうか国民の皆さんによろしく。家族もよろしく導いてください。先生もお身体をお大事に・・・・・・」
入口の扉が開いた。将校が先導し、そのあとを花山とアメリカ人教戒師が並び、 土肥原、松井、東條、武藤とつづいた。 そしてその後ろにさらに数人の将校がつづいた。 「南無阿弥陀仏」と花山が唱えると、四人は唱和した。花山は空を見た。 星が無数に散っている夜で、それはいかにも彼らの葬送にふさわしく思えた。
処刑場の窓からは電灯の光が洩れていた。 が、厚手のカーテンがかかっていて内部は窺えなかった。 ドアが開いたが、花山と教戒師の入場は許されない。 だが室内には明るいライトがあり、四つの階段が中央にできあがっているのが垣間みえた。 四人はもういちど花山の手を握った。 東條は数珠をはずし、花山に渡した。 そして身をかがめるようにして処刑場にはいっていった。
そのあと花山と教戒師は、いま来た道を戻った。 つぎの組の準備をしなければならなかったからだ。 三、四メートルほど歩きかけて星空をみた。 そのとき処刑場からガタンという音がきこえた。反射的に時計を見た。午前零時一分だった。
板垣、広田、木村も同じような儀式を終え、たんたんと刑場に消えていった。
総司令部の発表では、四人の死亡時間は午前零時七分から十三分までと分かれているが、 それは六分間から十分間、彼らが仮死状態にあったことを意味している。
そのあと花山は、処刑場内部へ招じられた。 七人は七つの寝棺に横たわっていた。 彼はひとりずつに念仏をとなえ、回向をつづけたが、どの顔にも苦痛はなかった。 平常心そのままに死に就いた七人に、花山自身は感銘にも似た気持を味わった。
虚像の起源
引用新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、 そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方であった。 憎悪と侮蔑で七人を謗れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。 彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった。 やがて七人のなかの東條だけが〈普通名詞〉に転化していったのは、その培養の結果といえた。
東條英機の名誉も基本的人権も踏みつけであった。
ひとつの例をあげれば、ある有力な新聞が二十四日の朝刊に、 「幼児の心持つ東條――満足し死の旅に、夜通し祈った勝子夫人」と題して センセーショナルに報じた記事が指摘できる。 それは「この日勝子夫人は一切の面会をさけ独り静かに冥福を祈っていたが、 特に本社記者に次のような談話を発表した」と前書きして、東條はすでに幼児の心境になっていたとか、 これからの時代に東條の遺族として負けずに生きていこうとか書かれていたが、 この記事を書いた婦人記者松田某は、その日の夕方、この新聞をもって謝罪にかけつけたという。 また彼女は、判決宣告の翌日にも東條夫人の手記として、 「主人の精神的な命は敗戦と同時に終りました。 今は肉体的生命の有無は問題ではありません。 主人として死は願うところでしょうし、私共家族といたしましても主人の願うところはつまり家族の願うところであり・・・・・・」 といったような記事を捏造していた。 その日も訂正を求める家族に、「男性と伍していくには、こういうことでスクープする以外にないんです」と 得手勝手をいいつつ、問題を大きくしないように懇願して帰っていったという。
この種の記事がいたるところで見られた。 東條と舞踊家某との情事、連日の豪遊といった根拠もない話が氾濫し、 外地のある捕虜収容所では、思想改造の手っとりばやい方法として、 東條が酒色と金銭を目的に日本人民を欺いていたと、彼を卑劣な無頼漢にしたてあげた。 
昭和史の中の昭和天皇
昭和史の中で昭和天皇が果した政治的な役割と云うのは、意外と大きいものだった。半藤一利さんは、「昭和史」のなかでそんな評価をしているようだ。それも昭和天皇を、世界情勢を自分なりに認識されたうえで、この国を誤った方向から救い出そうと努力された人として見ているところがある。実際に日本がたどった道を見れば、昭和天皇の意思とは異なった方向に走ってしまったわけだが、天皇は立憲君主制の枠の中で、機会が訪れるたびに、自分の意思を表明しようとされた。
昭和天皇が、天皇と云うものの政治的な機能について真剣に考えさせられた事件がある、と半藤さんはいう。張作霖爆死事件だ。
この事件が関東軍の謀略であることは、政府部内では公然の秘密であった。そこで天皇みずから、この事件の真相を調査して、責任者を厳重に処分せよと、総理大臣の田中義一に命じたところ、田中はふにゃりふにゃりとして、半年も無駄に過ごし、一向に事件の始末をつけようとしなかった。そこで天皇は御怒りになり、「おまえなぞやめてしまえ」といわれた。
田中総理大臣は天皇に怒られて恐縮し、内閣総辞職をした直後に死んでしまった。一説には自殺したともいわれる。
この事件がきっかけになって、軍部の方は、天皇の側近たちが正しく進言しないからこんなことがおきるのだと、彼らを「君側の奸」と呼んで敵視するようになった。
一方天皇は、自分の介入が政治を混乱させたことを反省し、「この事件あって以来、私は内閣の上奏するところのものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」
側近中の側近である西園寺公望が、「国務と統帥の各最上位者が完全な意見の一致をもって上奏してきた事は、仮に君主自身、内心においては不賛成なりとも、君主はこれに裁可を与ふるを憲法の常道なりと確信する」と昭和天皇を説得したことも大いに影響したようだ。
天皇は若い頃に英国に留学されたこともあって、イギリスとアメリカに対して親和的な感情を持たれていた。基本的には、体英米協調路線を支持されていたわけである。だが、日本の政治は軍部が中心になって、次第に半英米的な色彩を強くする。そうした傾向に、天皇は非常に不安を感じておられたが、なるべくその不安を表には出さないようにしておられた。
そんな昭和天皇だが、昭和12年に勃発した2.26事件の際には政治の表舞台に乗り出された。天皇は側近から事件の一報を聞くと、すぐさま軍服に着替え、「反乱軍」の鎮圧のために第一線にたたれた。
天皇はこれを「陸軍の反乱である。したがって軍事問題であって内政問題ではない。大元帥として対処すべきだ」と考えたに違いないと半藤さんはいっている。つまり天皇は大元帥の立場から反乱軍の鎮圧に乗り出したのだと。
天皇をそうさせたのは、若手将校たちが自分の育ての親ともいうべき人たちをひどい目にあわせたことへの怒りがあったとも半藤さんはいっている。襲われた鈴木貫太郎侍従長は天皇にとっては子供の頃から父親代わりの人、その妻のたかさんは乳母として自分を育ててくれた敬愛すべき女性だ。そのたかさんから、侍従長が弾丸四発をうちこまれて瀕死の重傷を蒙ったと知らされた天皇は怒り心頭に発したというのだ。
昭和天皇が政治に対して露骨に干渉したことがもうひとつあった。昭和14年に独ソ不可侵条約の締結が明らかにされて、平沼内閣が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を呈しましたので」という迷文句を残して総辞職し、そのあとを陸軍大将阿部信行が引き継ぐことになったが、その阿部に向かって天皇は厳しい条件を出した。
・英米に対しては強調しなければならない
・陸軍大臣は自分が指名する。三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監のこと)がどういおうとも、梅津か畑のどちらかにしろ。
これはあまりにも異常な事態といわねばならない。それほどまでに天皇は、暴走する軍部に苦い思いをしていたに違いないのだ。
だがその後、天皇は、事態がますます自分の意見とは正反対の方向へと動いていくのを前にして、殆ど何もいわなくなった。陸海軍の暴走ぶりに時に激しく怒ることはあっても、政治的な場で政治的な発言をすることは慎しまれたのである。
そんな昭和天皇がいやがおうでも、政治的な役割を引き受けざるを得なくなる事態が、もう一度やってくる。戦争終結へ向けて国論を統一し、無条件降伏と云う屈辱的な決定をすることだ。
こうしてあの「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」という言葉を以て、戦争に明け暮れた昭和の一時代が幕を閉じることになる。 
昭和天皇独白録
文春文庫版の「昭和天皇独白録」を読んだ。昭和21年3月18日から同4月8日までの延5回にかけて、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、松平康昌宗秩寮総裁、稲田周一内記部長及び寺崎英成御用掛の5人に、昭和天皇が独白と云う形で、大東亜戦争の遠因から戦争遂行への天皇自身のかかわりなどについて率直に語られたものを、寺崎英成が記録したものだ。
これを読んで筆者が感じた全体的な印象は、昭和天皇は巷間言われているよりはるかに主体的に日本の政治にかかわり、大東亜戦争にも大きな影響を行使していたということだ。これまでの昭和天皇の標準的な像は、立憲君主としての自覚のもとに、政治には極力距離を置いてきたというものだったが、実際の昭和天皇は内閣の組閣から解散、日本外交のあり方に対する発言など、歴史の節々で影響ある行動をなされている。
この独白録は張作霖爆殺事件のことから始まっている。この事件が陸軍の陰謀であると疑った天皇が首相田中義一に調査を命じたところ、田中がのらりくらりとして何もしないのに苛立ち、辞表を出してはと、天皇は強い語気でいった。その直後田中内閣は総辞職し、田中自身は程なくして死んだ。
このことに多少の反省をなされた昭和天皇は、「内閣の上奏するところのものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」というが、事実はその後も天皇は節々に政治の動向に主体的にかかわった。あるいはそうせざざるを得なかった事情があった。
昭和天皇が大東亜戦争にとって果たした決定的な役割と云えるものは、日米開戦を認めたことと、無条件降伏を決定したことだろう。
米英との戦争については、昭和天皇は一貫して反対だった。そして節々でその意思を政治家たちに示した。しかし誰も昭和天皇のいうとおりに動いたものはいなかった。そういう状況を前に昭和天皇は、諦めのような気持ちから日米戦争を認めるようになるのだが、自分が何故そうした態度をとられたかについて、こんな興味深いことをいわれている。
「若しあの時、私が主戦論を抑へたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈するといふので、国内の世論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであらう。実に難しいときであった」
またこうも言っておられる。「若し私が海戦の決定に対してベトーしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それはよいとしても結局強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったと思ふ」
昭和天皇は昭和17年12月10日に伊勢神宮を参拝された時の気持ちを、次のように述べられている。
「勝利を祈るよりもむしろ速やかに平和の日が来るやうにお祈りした次第である」と。つまり、ご自身は一貫して平和を望んでおられたと。事実天皇は、何度か国民向けに戦意高揚の檄を飛ばしてもらいたいとの要望に対しては、戦争を煽らぬのが日本の皇室の伝統であることを根拠にしてことごとく断られた。
終戦に当たっての昭和天皇の役割には偉大なものがあった。何も決められぬ政治家や重臣たちを尻目に、昭和天皇は自ら終戦の意思を固め、それを最高戦争指導会議と閣僚との合同御前会議で表明し、日本の国論を終戦に向けて強力に引っ張ったと自負しておられる。
たしかに昭和天皇が存在していなかったら、日本の近代史がどのような方向に向かったか、考えさせられる点である。
なおこの独白録には、日本の政治家たちや軍人に対する天皇の極めて辛辣な人物評が盛り込まれている。
まづ、政治家の中では昭和天皇と最も近い間柄にあり、昭和天皇も一定の評価をしていたといわれる近衛文麿のことを「確固たる信念と勇気を欠いた」と評されている。
東条英樹の後を継いだ小磯国昭については、「側からいはれると直ぐ、ぐらつく、云ふことが信用できない」と評し、宇垣一成については、一種の妙な癖(曖昧な言い方をする)があり、「このような人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」といっている。また広田弘毅については、玄洋社出身かもしれぬが軍人のような物の言い方をするといって煙たがっておられるようである。
昭和天皇がもっとも嫌悪していたのは松岡洋右だ。その性格の悪さまで云々し、「一体松岡のやることは不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人のたてた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別に苦にしない、特別な性格を持ってゐる」といい、その松岡がドイツびいきになったのはヒトラーに買収でもされたのではないかと辛辣なことをいっておられる。
昭和天皇がもっとも信頼していたのは米内光正だった。また東条英機もある程度は信頼していた。「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮稠密で中々よいところがあった」
その東条が人に嫌われたのは、「事務的にはいいが、民意を知り・・・特にインテリの意向を察することができなかった」と同情せられている。 
 
A級戦犯とは何だ!

 

一 序にかえて
いわゆるA級戦犯論議の発端と問題点
昭和60年8月15日、中曽根首相は8月15日としては、戦後はじめて靖国神社公式参拝を実施しました 。公式参拝実施に当っては、内閣官房長官の私的諮問機関である「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」からの報告書に基づき、従来まで「憲法上疑義がある」との政府見解を改め「公式参拝は合憲」との内閣法制局の新たな解釈のもと実現に至ったわけです。
しかしながら、日本国の国内問題である靖国神社公式参拝に対し中国外務省から「中国人民の感情を傷つける」とか「靖国神社にA級戦犯が合祀されている」 など干渉的抗議がはじまるや、我が国の政府首脳の中に、「中国側が問題にしているのは、戦犯(A級戦犯)の人が祀られている点だ…東條元首相がなぜ祀られ るのか」(昭和60年10月28日、政府・与党首脳会議における金丸幹事長)「戦犯が一般戦没者と一緒に祀られていることは私も知らなかった…」(昭和 60年10月30日、二階堂副総裁・駐日中国大使との会見)などあまりにも基本的な問題に対する認識不足の発言が続き、さらにその後も、後藤田内閣官房長 官が、「A級戦犯合祀が公式参拝継続の障害になる 。」(昭和61年8月19日衆議院内閣委員会)など、暗に靖国神社にA級戦犯合祀の改善を求めるような発言をし、従来、靖国神社公式参拝は憲法問題として 捉えられてきたものが、中国からの干渉によって問題の焦点が変わってしまい、靖国神社が“A級戦犯”を祀ったのがあたかも悪いかのような印象を与えること となったのです。
論議は、東京裁判論からサンフランシスコ平和条約第11条に
A 級戦犯合祀問題が取り上げられるや、識者、評論家の問に、いわゆる“戦犯”が生まれた東京裁判(正式名称は、極東国際軍事裁判)に対する論議が盛んになり ました。しかしその捉え方については大きな違いはなく、東京裁判は国際法に準拠する形を見せながらこれを極端に歪曲拡大解釈し、敗者に対する勝者の一方的 な報復裁判であったとする意見が圧倒的でした。
ところが、東京裁判が不当な裁判であったと認める評論家の中に、「サンフンシスコ平和条約第11条でその判決の理論を受諾しているのだから、東京裁判史 観は批判できても、その国際的誓約は無視できない」とする論を展開する者があらわれました 。そして政府首脳の中からも「サンフランシスコ対日平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」(昭和61年8月19日、衆 議院内閣委員会の後藤田内閣官房長官発言)と発言があったり、また、外務大臣経験者である桜内義雄氏なども中国を訪れた際「靖国神社へのA級戦犯合祀は、 戦犯を認めたサンフランシスコ平和条約第11条からみて問題である」
(昭和60 年12 月4 日)と軽率な発言をするなど、問題は、サンフランシスコ平和条約 第11 条の解釈をめぐって論議がなされるようになりました。
多岐にわたる問題点
前記の通り、A 級戦犯の問題は多岐にわたっていますので、特に次の点について正しい理解がされていないと判断を誤まる結果となることに注意したいと思います。
そこで、これらの点について以下解説を加え、この問題の正しい理解促進のための資料に供したいと思います。
最後に、A 級戦犯論は、すなわち、東京裁判論といえるわけで、東京裁判について正しい理解がなされれば解決できる問題ですが、今日、このような論議が起 こる背景には、A 級戦犯論といわゆる“A 級戦犯”とされた個人(27 名)に対する感情とが錯綜して問題を複雑にしているということがあります 。当然個人に対する感情は十人十色であろうと思いますが、この点は、純粋なA 級戦犯論とは別に論ずべきものだということも、理解していただきたい重要な点 だと思います。
二、 ポツダム宣言と東京裁判
戦犯とは誰が名付けたか
昭和20年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌15日には「終戦ノ詔書」がラジオを通して発表され、日本軍は降伏しました。
ポツダム宣言の第10条には、「……吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ……」とあります。我が国政府とし ても戦争終結を決意した時点で、連合国の法廷で日本人戦犯が裁かれることを予期していたと思われますが、当時はまだナチス・ドイツの戦犯を裁く「国際軍事裁判所条例」 も公表されてはおらず、あのような形で戦争指導者の個人責任までが問われようとは考えられてはいませんでした。
8月30日に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着 。9月2日に戦艦「ミズーリ」で降伏文書調印式が行われ、それ以後、日本は連合国軍の軍事的管理下に入り、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれました。 GHQの占領目的は、ポツダム宣言を日本に実行させることにありましたが、それを一言で言えば、「日本の軍国主義および軍国的国家主義を根絶し、日本を再び世界(連合国)の平和と安全の脅威にならぬようにする」ことでした 。これらは具体的な形で次々と実行に移されていきましたが、その中で憲法改正、旧指導者の追放(公職追放)とともに占領政策の大きな支柱の一つとなったのが戦争犯罪人の処罰でした。
戦争犯罪人の処罰は、前述したように「ポツダム宣言」に明記された降伏条件の一つですが、第1次世界大戦までの戦争裁判のように、ただ単に捕虜虐待等の戦争 法規違反者のみを処罰しただけでは、占領目的
である“日本の軍国主義・超国家主義の根絶”にはつながらない、戦争当時の日本政府並びに軍の責任ある立場に あった者をも処罰しなければその目的は達成し得ない、と連合国側は考えました 。要するに、日本の指導者を戦争犯罪入として連合国の法廷に引き出せば、彼らの権威を引きはぐとともに、その権威が基礎を置いていた理念-連合国のいうい わゆる軍国主義・超国家主義-を日本国民自ら否定させる効果が期待できると考えたのです。
そして裁判の形をとる以上、連合国が戦争に勝ったのは単に軍事的に優勢であっただけでなく、連合国にこそ“正義”が存在したからだ、ということを日本国民に見せつける効果もあると考えたわけです。
そこでGHQでは、すぐに戦争犯罪人容疑者の選定と逮捕に踏み切るとともに、裁判運営の為の訴訟手続きの策定など戦犯裁判の準備を急ぎ、翌昭和21年1月19日マッカーサー連合国軍最高司令官名で「極東国際軍事裁判所条例」を布告しました。
この条例は、ナチス戦犯を裁いたニュールンベルク裁判のための国際軍事裁判所条例に全面的に依拠しており、戦争犯罪の定義として、次の三つを定めました。
(1) 「平和に対する罪」(共同謀議して、侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行して世界の平和を撹乱したという罪)
(2) 「通例の戦争犯罪」(戦争の法規および慣例に違反したという罪)
(3) 「人道に対する罪」(非戦闘員に対して加えられた大量殺戮、奴隷的虐待、追放その他の非人道的行為)
そして4月29日、極東国際軍事裁判所の検察局は多数の戦犯容疑者のうちから28名をA級戦争犯罪人として同裁判所に起訴し、5月3日より公判が始まりました。
このA級戦犯を裁いた裁判がいわゆる“東京裁判”です 。判決は、2年後の昭和23年11月12日に下され、7名が死刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑となりました(大川周明氏は進行麻揮のため免訴、松岡洋右・永野修身の両氏は裁判中病死)。
これらA級戦犯のほかにも、「通例の戦争犯罪」を行ったとされて、内地をはじめ中国・東南アジア・太平洋地域の各地で開かれた連合国各国の軍事裁判で有罪となった人々も多数います 。この人々は“B・C級戦犯”と呼んでA級戦犯と区別されています。B級とは「俘虜虐待行為の監督、命令に当たった者」、C級は「その直接実行者」としていますが、これらは、パリの不戦条約(昭和三年)を不法に拡大解釈するとともに、これまでの国際法の一切の実定法・慣習法にもない、一方的に曲解した法解釈をでっちあげた結果によるものです 。因みに、極東国際軍事裁判所を始め、各地の戦犯法延で裁かれ、「戦犯」として死刑の判決を受けた人の総数は一千名をこえ、そのうち九百余名に死刑が執行されました。
三、東京裁判は国際法を無視した報復裁判
東京裁判については、先に述べたところですが、そもそも「戦争犯罪人であるか、ないか」は、結局“東京裁判を如何に考えるか”という問題に帰着します 。それでは、はたして東京裁判は、正しい裁判だったのでしょうか。
従来、戦争は国際法の上から見て合法的な手段であると認められていました。クラウゼヴィッツが有名な『戦争論』の中で「戦争はかたちをかえた政治的手段である。」と主張しているように、戦争は容認され、国家に与えられた基本権だったのです。
ただその中で、戦争の手段・方法は、人道的見地から法的に規制されていました。当時、交戦法規違反として禁じられていたのは、例えば、非戦闘兵の殺傷、非防守都市ないし非軍事目標への攻撃、不必要な残虐兵器の使用、捕虜の虐待であり、戦争自体を計画 することや準備すること、実行すること、戦争それ自体は、違法ではなかったのです。つまり、当時考えられていた「戦争犯罪人」とは、交戦法規に違反した者 のことで、相手側の交戦国が戦時中にこの者を捕えたときには「戦争犯罪人」として処罰することができたのです。
また、連合国が起訴する際の基礎にした不戦条約には、1国際紛争解決のため戦争に訴えることを不法とし、2一切の紛争を平和的手段により解決すべきこ と、が定められ、侵攻戦争を違法化していましたが、自衛のための戦争は禁止していませんでしたし、何が侵攻戦争であり何が自衛戦争であるかも、当事国の解 釈に委ねられていました 。そして、たとえ侵攻行為の認定が可能だとしても、その違法行為(国際不法行為)責任は生じますが、犯罪責任は生じ得なかったのです。 このように考えてくると、ポツダム宣言第10条にある「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人」の中に、東京裁判で訴因として上げられた「平和 に対する罪」「人道に対する罪」は、決して当時の国際法上の「戦争犯罪」に含まれるものではなかったことが、はっきりわかります。
インド代表のパール判事は、「復讐の欲望を満たすために、たんに法律的な手続きを踏んだにすぎないようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い 。こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけのものであって究極的には後悔をともなうことは必然である。」として「全員無罪」を主張しましたが、 その主張のように、連合国は国際法に準拠する装いをしながら、実際には国際法を無視した違法な報復裁判を実施したわけです。
さらに、東京裁判が国際裁判であるならば当然、戦争の勝者だけでなく敗者と中立国も加えて裁判を構成しなければならないはずですが、東京裁判では、裁判を構成する判事11名が何れも戦勝国で占められ、検事の役割も戦勝国のみで担当されました 。このようなところからも、勝者である連合国が敗者である我が国を一方的に裁いた裁判であったということができます。
さらに重要なことは、この裁判が、法の不遡及の原則(事後法禁止の原則)と罪刑法定主義の原則に違反していることです。
法治国においては、この2つは根本原則となっています 。その原則からいえば、東京裁判の法的根拠となっているポツダム宣言が発せられた昭和20年(1945年)7月26日の時点における戦争、即ち大東亜戦争 のみが裁判の対象とならなければならないのに、対象を拡大して昭和6年(1931年)の満州事変以降、大東亜戦争までの一切を対象としています。
昭和58年5月28・29日の両日、東京池袋のサンシャインシティ(元巣鴨拘置所跡)で行なわれた「『東京裁判』国際シンポジウム」の際、西ドイツ・ルール大学学長のクヌート・イプセン博士は、-「平和に対する罪〔侵攻戦争を行った罪〕を裁く東京裁判の管轄権は、その当時有効であった国 際法に基づくものではなかった」「裁判所条例は、事後立法を含んでいて、東京裁判自体により“一般的な正義の原則”と認められていた罪刑法定主義とは相い れないものだった」「大多数の国は現在でも、国際法上の犯罪に対する個人責任を認める用意ができていない」と国際法に対する違法性を端的に述べています。
これが、今日の東京裁判理解の常識といえましょう。
以上のように、東京裁判は、国際法準拠を装いながらも、実際はそれを歪曲拡大解釈し、我が国の戦時指導者を戦争犯罪人としたものであり、我が国に対する報復裁判以外の何物でもなかったのです。
四、A級戦犯論と東條英機論
A級戦犯と東條英機論は混同すべきではない
最近雑誌誌上で、東條英機元首相の評価に関する論文をたびたび見かけます。東條氏に対する評価については、終戦直後より多くの人々によって議論されて来ましたが、その論点は複雑多岐で、当分は合意に達しそうにもありません。
上記に引用したのは雑誌『諸君』昭和62年3月号の読者欄に掲載された投書の一部ですが、これは戦後より今日に至るまで見られる、代表的な反東條論の1つということができます。
ここに引用した一文の是非はともかくとして、このように東條論はとかく東條英機個人に対する感情論となりやすい一面を持っています 。しかし反面、東條英機という人物について肯定的な評価をしている人々の尐なくないことも事実です。
さらに東條論の議論を複雑にしているのは、実に多様な論点があることです 。例えば、大東亜戦争開戦時のことから戦時中の種々の政治姿勢や輔弼責任についての問題、あるいは東京裁判中の問題から人物論に至るまで、数え切れない論点があります。
その評価も甚だ多岐なのですが、既に戦争体験者が国民総人口の半数を割っているとはいえ、戦争を知る世代が続く限り、こういった肯定・否定の種々の論が東條論を複雑にしていくことでしょう。
東條英機という人物を正しく評価するには、公正な資料に基づいた、感情にとらわれない、客観的な議論がさらに増えることが望まれます。
靖国神社への“A級戦犯”の合祀が問題になって以来、A級戦犯論と東條英機論の混同が目につきます 。先に引用した一文もこの例に漏れません。
東條英機論を一言でいえば、大東亜戦争開戦時の首相であり、その戦争の大半を指導し、敗戦後戦勝国によりA級戦犯に指名され処刑された東條英機個人に対する是非論ということになるでしょう。
すなわち、A級戦犯論が複数の人格を対象とするのに対し、東條論はあくまでも個人に対する議論であり、両者を混同することはできません 。 もし、A級戦犯論を東條論と同じ姿勢で論じたならば、議論の収拾はつかなくなるでしょう。
連合国によって“A級戦犯”と決めつけられたのは以下の人たちです。
[絞首刑]7名(敬称略、以下同じ)
東條英機
板垣征四郎
土肥原賢二
松井石根
木村兵太郎
武藤章
廣田弘毅
[終身禁錮刑]16名
荒木貞夫
橋本欣五郎
畑俊六
平沼騏一郎
星野直樹
賀屋興宣
木戸幸一
小磯國昭
南次郎
岡敬純
大島浩
佐藤賢了
嶋田繁太郎
白鳥敏夫
鈴木貞一
梅津美治郎
[禁錮刑20年]1名
東郷茂徳
[禁錮刑7年]1名
重光葵
[未決拘留中の死亡者]2名
松岡洋右、永野修身
この他にも、“A級戦犯”として逮捕収監、一度は東京裁判の被告席に座らされながらものちに釈放された大川周明氏や、岸信介氏を始めとする約250名の“A級戦犯”容疑者がいます。
そればかりでなく、処刑者の中にも、釈放後公職に返り咲いた人が何人かいます 。禁錮7年の刑を宣告された重光葵氏はのちに、中曽根前総理や桜内元外相も所属した改進党の総裁となり、鳩山内閣では副総理兼外相として活躍しましたし、終身禁錮刑を宣告された賀屋興宣氏も再び入閣しました 。こうした事実を、靖国神社への“A級戦犯”合祀に反対する人たちは、いったいどう説明するというのでしょうか。
これが、A級戦犯論と東條論を混同すべきでない理由です 。東京裁判において、戦勝国により“A級戦犯”という名称を一方的につけられた尐なからざる人たちに対し、その個人個人に対する評価の議論を始めれば、議論はとめどもなく広がって行き、収拾がつかなくなることは間違いありません 。
その意味からも、“A級戦犯”とは何であったかということを正しく認識しておくことが大切です。
「戦争責任」論と「敗戦責任」論
いま1つ、A級戦犯論を議論する場合混同しがちなのは、「敗戦責任」論です。
東京裁判が裁いたのは、我が国の「戦争責任」です 。「戦争責任」とはとりも直さず「開戦責任」ということができます。なぜなら、戦争に勝った連合国が、敗戦国であるわが国の「敗戦責任」を問うわけがなく、また問うたとしても何の意味もないからです 。 整理すれば、東京裁判が裁いた「戦争責任」論が、戦争を「犯罪」又は「道義的悪」として糾弾する戦勝国の立場に立つのに対し、「敗戦責任」論は、敗戦に至った原因を正しく分析していこうとする我が国および国民の立場に立つものです 。 「敗戦責任」論の中には、“A級戦犯”として処刑された25名の方々に対する評価も含まれましょう。また、先に挙げた東條英機論も勿論その中に含
まれるといえましよう 。しかし、A級戦犯論を論ずるにあたっては、これもまた立場の違いから混同を避けるべきものなのです。
五、 東京裁判と講和条約
昭和61年8月19日の衆議院内閣委員会で、後藤田正晴内閣官房長官は、共産党の柴田睦夫氏が東京裁判についての認識をただしたのに対して、「サンフランシ スコ平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」と述べた上で、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考 えを表明したと報道されました。
この後藤田内閣官房長官の答弁のように、サンフランシスコ対日平和条約第十一条をもって東京裁判の正当性を肯定し、さらに、東京裁判の判決が今日においてもなお日本政府、延いては、日本国家を強制すると考える風潮があります。
はたしてそうでしょうか。サンフランシスコ対日平和条約第11条の意味を考えながら、この点をあきらかにしていきましょう。
まず、問題の第11条の条文には何が規定されているのでしょうか。
つまり、第11条の条文では、
1. いわゆるA級およびB・C級戦争犯罪人と称せられる人々を裁いた東京裁判所をはじめとする連合国側の軍事法廷が、日本人被告に言い渡した刑の執行を、条約締結後には日本政府が肩代りをすること。
2. 受刑者の赦免・減刑・仮出獄等についての手続。
の2点が定められています。
しかし、このサンフランシスコ対日平和条約第11条には、いくつかの問題点があります 。問題点は、次の2つに大きく別けられます。
1、第11条条文の表記に関する問題点
(1)日本語正文の問題<「裁判」か「判決」か>
2、第11条条文の内容に関する問題点
(1)条文設定に関する問題点
(2)条文解釈に関する問題点
1、第11条条文の表記に関する問題点
条文の表記の問題とは、日本語正文の問題です。条文は、条約調印地であるサンフランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語、スペイン語と日本語で書かれていますが、問題点は、日本語正文で「裁判を受諾し」となっている部分です 。本条約の草案を起草した国の言葉(英語)では、この部分は「accepts the judgment」となっています。日本語正文で「裁判」と翻訳されている単語「judgment」は、英米の法律用語辞典に照らしてみても「判決」と訳すのが適当のようです 。この条文の大切な部分を「裁判」を受諾すると解するのと、「判決」を受諾すると解するのとでは、条文の意味(内容)が随分変わってきます。 「judgment」を「判決」と課さず、「裁判」と何故訳したのかという問題もありますが、ここでは第11条の日本語正文の翻訳に問題点があるということ、つまり、第11条で日本政府が受諾したのは「裁判」ではなく「判決」であることを指摘したいと思います 。
第11条の条文内容に関する問題について考える前に指摘しておきたい問題があります 。それは、サンフランシスコ対日平和条約を何故「受諾」したのかという問題です。
平和条約は、連合国において起草されました。敗戦国である日本国には「交渉」する権利さえ与えられていませんでした 。つまり、日本には、条約の条文(内容)について口をはさむこと、まして、条文の修正を要求することなどは許されてはおらず、ただ平和条約を「受諾」するか「拒否」するかの二者択一の道しかなかったわけです 。当時の日本の国情を考えますと「受諾」の道しかなかったといえましょう 。この条約の「受諾」が力づくで強制されたという歴史事実を踏まえて、以下問題とする第11条の内容も考えることが必要です。
2、第11条条文の内容に関する問題点
(1)条文設定に関する問題点
第11条を設けた連合国側の目的(意図)はどこにあったのでしようか。国際法では、関係交戦国問の平和状態の回復を基本目的とする平和条約が発効するのが通例とされています。
第1次世界大戦以前までは、交戦諸国が平和条約の中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」、即ち、「アムネスティ条項〔amnesty Clause〕」と呼ばれる「国際法上の大赦」を設けるのが通例でありましたが、交戦諸国間で慣行とされている事実を踏まえ、かりにそのような規定が設置されなくても、戦犯の放免は戦争終了に伴うものとして国際法上当然とされていました。
このアムネスティ条項について理解すれば、おのずと、第11条を設定した目的がはっきりしてきます。
第 11条設定の目的は、講和成立によって独立権を回復した日本政府が、国際法の慣例に従って、東京裁判をはじめあらゆる戦犯裁判の判決の失効を確認した上 で、連合国が戦犯として拘禁していた人々-刑死者の場合は致し方ないが-をすべて釈放するに違いないと予想して、そのような事態が起こるのを阻止すること だったのです 。つまり、一言でいえば、日本政府による自主的な刑の執行停止を阻止することを目的とした規定であったわけです。
このアムネスティ条項を無視した第11条の設定については、平和条約の草案を検討した昭和26年9月のサンフランシスコ平和会議において、連合国の問でもメキシコやエル・サルバドル、アルゼンチンなどから強力な反対論が出された、と記錰されています。
私達は、このような目的で設定された第11条の性格を正しく理解する必要があるといえましょう。
(2)第11条の解釈に関する問題点
冒頭にも述べましたように、第11条をもって東京裁判の正当性を主張する風潮があります。
しかしながら、前述したように第11条では、東京裁判については、日本政府が連合国に代わり刑を執行する責任を負うことについて規定されているに過ぎず、それ以上はなにも規定されていません 。つまり、日本政府の「受諾」の対象は、判決主文(刑の言い渡し)であって、判決理由ではないわけです。
昭和61年の8月24日から30日までの1週問にわたって世界的な学会・国際法協会〔ILA(International Law Association)〕の大会が、大韓民国の首都ソウルで開催されました。
青山学院大学教授の佐藤和男博士がその大会に参加した際に、外国の当代一流の国際法学者とサンフランシスコ対日平和条約第11条の解釈について話し合ったところ、諸外国の国際法学者は、平和条約第11条について、 第11条は、日本政府による刑の執行の停止を阻止することを狙ったものに過ぎず、講和成立後に日本政府がいつまでも東京裁判の正当性を認め続けるよう義務づけたものではない 。 という共通の見解を表明しました。この法解釈は、今日の国際法学界では、常識とされています。
以上述べてきたように、第11条には東京裁判を正当化する拘束力はまったくありません 。私達はこの点を正しく読みとる必要があります。 なお、平和条約第11条解釈の問題の一つに、中華人民共和国との問題があります 。この点について尐し触れておきましょう。
現在、中国からいわゆるA級戦犯合祀問題に対する批判を受けています 。しかしながら、中国がサンフランシスコ対日平和条約第11条に基づいて戦犯問題、延いては、東京裁判について発言する法的資格がないということを述べておきましょう。
中国(もちろん当時は中華民国で、中華人民共和国ではありませんが)は、連合国側で終戦をむかえましたが、サンフランシスコ条約調印には、中国は代表権問題で米英の意見が一致せず会議には招集されませんでした 。
サンフランシスコ対日平和条約第25条では、「この条約に署名し且つこれを批准した」当該国を「連合国」と定義し、「この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権限又は利益を与えるものではない」と明記しています 。
このような理由で中国(中華民国、したがって中華人民共和国にも)には、平和条約第11条に基づいて発言する法的資格はありません。昭和27年4月28日、 サンフランシスコ対日平和条約の発効により、戦争状態は終結され、日本は独立権を回復し、独立国としての道を歩み出しました 。独立を確保した日本国政府が、東京裁判の判決理由中に示されている歴史観-東京裁判史観-を、そのまま受け入れる義務はまったくありません。
東京裁判の判決主文や判決理由に、どのような批判を述べることも自由です 。この自由こそが、講和成立後、多大なる代償を払って回復した、独立国家の実質的意味なのです。
六、政府とA級戦犯
前章で触れた戦争裁判によって刑を受けた者(一般には戦犯と呼ばれている)に対する当時の国民感情は、決して犯罪者に対するものではなく、寧ろ同情的であったといえます 。その証拠は、日本弁護士連合会の「戦犯の放免勧告に関する意見書」を皮切りに全国各地に広がった戦犯釈放運動でも明らかであり、その署名数も約4千万、国会政府政党への陳情も夥しい数にのぼりました。
やがて、このような一大国民運動が結実し、昭和28年8月3日には「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が衆議院本会議で決議、関係各国の同意を得て、A級は昭和31年3月31日までに、B・C級は昭和33年5月30日をもって釈放されたのです。
一方、ポツダム宣言受諾後「日本の侵略戦争を助長したもの」として、勅令第68号(恩給法の特例に関する件・昭和21年2月1日)により停止された軍人恩給 が、昭和28年ようやく復活されるにあたっても、これら戦争裁判受刑者(戦犯)も一般戦没者同様に取り扱うべきであるとの国民世論が国会でも大きく取り上 げられました。
この年、恩給法、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下援護法という)未帰還者留守家族援護法の3法が審議され、戦争裁判受刑者(戦犯)遺族に対する援護措置が 講じられるようになりますが、当初の政府案では、戦争裁判受刑者(戦犯)の中でもとりわけ恩給年限に達しないうちに刑死・獄死した者の遺族には、生活保護 法以外、何ら保障がなされない内容になっていました。
しかし「これら戦犯者は戦争に際して国策に従って国に忠誠を尽し、たまたま執行した公務のある事項が不幸にして敵の手によってまたは処置によって生命を奪わ れた方々であります。これらの方々に対しまして、でき得れば恩給法の対象としたいという気持を持っております。恩給法の対象になり得ない場合は、せめてこ の援護法の対象と致したいのであります。」(厚生委員会・青柳一郎議員)といった意見が相次ぎ、自由党・改進党・右・左派社会党の全会一致で援護法が修正 され、援護法附則第20項によりこれら遺族にも遺族年金や弔慰金が支給されるようになったのです。
この修正論議の中で政府は、当時の国際関係を配慮し、「戦犯を恩給法は勿論、援護法の対象とすることは、政府自ら戦犯刑死者を公務死と認めることにな る」と、その対象を拡大することに躊躇する姿勢を示していますが、(援護法は軍人恩給復活に伴う暫定措置であり、援護法、恩給法の第1条には、公務上の負 傷、疾病…の言葉が使われていることによる)、「戦犯というものに対しまして、われわれ日本人としての見方と、それから勝った国が負けた国に対して、かつ 個人的にその責任を追求して戦犯というものをこしらえました動機、その間には私は非常に差があると思います」とか「拘禁中の戦犯者の諸君が国家の戦争のた めの犠牲者であるという、ただいまの御質疑の御趣旨はよくわかります」といった政府側の発言や、議員修正がなされる以前の政府案でも、戦争裁判受刑者(戦 犯)の中には恩給法や援護法の対象になっていた者があることからもわかるように、政府は決してこれらの方々に対する援護について消極的であった(政府はい わゆる戦犯者というものを犯罪者と見做していたが、世論に屈服してその措置を講じた)わけではなく、恩給停止の経緯や国際関係への配慮から、恩給法、援護 法に戦争裁判受刑者といった言葉を明記することを出来得る限り避けたかったものと考えられます(つまり戦争裁判受刑者というような言葉を用いないと、これ らの方々全てを援護の対象とすることができなかった)。
この援護法の改正を契機として翌年から恩給法が逐次改正され、いわゆる戦犯者に対する援護措置が充実されていきますが、このような経緯を見てみると政府は一貫していわゆる戦犯を“戦犯”なるが故に国内において特 別な扱いをしてきたことはなく、ましてや“A級戦犯”をはじめ戦争裁判で刑死・獄死した者をも公務による死亡者(公文書では法務関係死亡者“法務死”という)として、一般戦没者と同様に扱ってきた事実がわかります。
特に恩給法では同法第九条で「死刑又ハ無期若ハ3年ヲ越ユル懲役若ハ禁錮ノ刑」に処せられた者はその恩給権が消滅するにも拘わらず、いわゆるA級をはじめと する“戦犯”には恩給が支給されていましたし、「現在在監中の人たちには国内法は適用しないと政府はたびたび声明しておられるし、この前の選挙において現 にその人たちの清き1票がみな行使されておるのであります 。」(昭和28年内閣委員会・辻政信委員)と、禁錮以上の刑に処せられその執行を終るまでの者は剥奪されることになっている選挙権が与えられていたことか らも、政府をはじめ国民の“戦犯”に対する態度が一層はっきりします。
終戦直後の混乱期、日々の生活の向上と戦争で失った肉親が靖国神社に祀られることを熱望する遺族にとって、援護法・恩給法の整備はまさしく経済的保障であり、靖国神社合祀は遺族に対する精神的保障であったといえましょう 。
当時、神道指令により宗教法人とされ、200万に及ぶ戦没者を独自で調査・合祀することが物理的に不可能であった靖国神社に対し、国民世論に裏付けられて「憲法の政教分離の見地から、国が直接合祀に対して援助するわけにいかないことは、はなはだ遺憾 。しかし恩給法・援護法の整備によって通知される際に、何らか靖国神社の合祀と結びつけてこれを行うという便宜的方法もあるのではないかと考える 。」と政府が示した積極姿勢が、やがて政府の靖国神社合祀事務協力につながったことを合わせて考えると、戦犯合祀は靖国神社が独断で行なったものとはいえず、そこには国民や政府の戦犯に対する、同じ日本人としての感情が反映されていたように思われます。
靖国神社が“援護法に基づいて戦犯を合祀してきた”ことについて「援護法は遺族を対象とした社会保障であって、この法律により戦犯と一般戦没者が同等に扱わ れるようになったと考えるのはおかしい」との反論もありますが、それこそ法律改正の経緯や当時の国民感情を全く無視した意見といわざるを得ません。
七、昭和殉難者の靖国神社合祀
靖国神社は終戦まで陸軍省、海軍省の共同管轄下にあり、祭神の選定も両省が行なっていましたが、敗戦により両省が廃止されてからは、厚生省が戦争による「公務死」と認定したものを、神社において合祀することになりました 。もちろん新たな祭神合祀にあたっての決定権は、昭和21年2月2日の「宗教法人令改正」によって一宗教法人 となった靖国神社にあるわけですが、神社創建以来「戦時または事変において戦死・戦傷死・戦病死もしくは公務殉職した軍人・軍属およびこれに準ずる者」と いう合祀の選考基準に変わりはなく、戦争による公務死に該当するか否かは靖国神社当局が勝手に判定し得るところではありませんので、国の認定に従うのは当 然の手続きだといえるでしょう。
そこでいわゆる“A級戦犯”がどのような経緯で靖国神社に合祀されたかは次の通りです。
昭和27年4月28日、サンフランシスコ対日平和条約が発効、その直後の30日の国会で「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が成立し、戦後はじめて国による 遺族援護が行なわれるようになり、翌28年8月1日には同法の1部が改正され戦争裁判による死亡者も適用対象者として認められ、遺族に対しても一般戦没者 と同じように遺族年金および弔慰金が支給されることになりました。
また恩給についても、昭和29年6月30日の恩給法改正によって、拘禁中獄死または刑死した者の遺族は一般戦没者の遺族と同じ処遇を受けることとなり、 戦争裁判受刑者本人に対する恩給も昭和30年の同法改正によって、拘禁期間を在職期間に通算するとともに、拘禁中の負傷または疾病を在職中の負傷または疾 病とみなして同じように支給されるようになりました。
このような一連の法改正により、戦争裁判による死亡者や拘禁中の傷病者は、一般の戦没者、戦傷病者と同様の取り扱いを受けることとなったのです 。つまり、まず国がA級たるとB・C級たるとを問わず戦争裁判による死亡者を一般戦没者と同様の戦争による公務死と認定し、これを「法務死」と称して国内法上の犯罪と区別してきたのは、前章でも触れた通りです 。 さらに昭和31年4月19日、厚生省引揚援護局は「靖国神社合祀事務協力について」と題する通知を同局長名で発し、都道府県に対し合祀事務の協力を要請しました。この通知に基づき、
という方式で合祀事務への協力が進められ、昭和31年から昭和46年まで15年間にわたって続けられたのです。
こうした合祀事務協力のもと、靖国神社は、厚 生省の引揚援護局より送付された通知「祭神名票」により新しい祭神の合祀を行なったのですが、時と共にその範囲も拡大し、軍の要請によって戦闘に参加した 満州開拓団、義勇軍などから、国家総動員法に基づく徴用者、国民義勇隊員、徴用された船舶の船員なども含まれるようになり、戦争裁判による確定判決を受け て死亡した者(いわゆる“戦犯”)も昭和34年の春季合祀祭において一般戦没者と共に初めて合祀されました。
その後数次にわたり戦犯の合祀が進み、昭和41年には、いわゆる“A級戦犯”の祭神名票が引揚援護局から送付されましたが、これを受けて靖国神社は崇敬者総代会において、“A級戦犯”合祀を了承しました 。しかし、当時国会において「靖国神社法案」(昭和44年から審議されていましたが昭和49年廃案 。)が審議されていたなどの種々の事情があって考慮され、昭和53年、再度の崇敬者総代会の了承を得て同年の秋季合祀祭においていわゆる“A級戦犯”は昭和殉難者として合祀されたのです。
以上がいわゆる"A級戦犯"合祀に至る経緯で すが、靖国神社当局は、「神社は従来から自ら発言し、政治問題の渦中に巻き込まれぬ立場を堅持している」(社報「靖国」昭和61年2月1日号)と述べてい るように、「不言」の方針により、新聞、雑誌等あらゆるマスコミに対し見解を発表したり、質問に答え対談に応ずるようなことはしておりません 。
ただ「昭和殉難者靖国神社合祀の根拠」(昭和 61年3月1日号)と題し、合祀の根拠を宮司名にて社報「靖国」に掲載しており、それによれば、「国家機関、地方自治体、公の機関では戦犯刑死者と言ふ語 を用ゐず、すべて法務死亡者、法務関係遺族と言ふ用語を使用してゐる」ことを公文通知書の史料により紹介した上で「昭和27年4月28日、講和条約発効翌 年の第16国会の議決により援護法が改正され、連合国側が定めたA・B・C級等の区分には全く関係なく、法務関係死亡者、当神社の呼称する昭和殉難者とそ の御遺族が、一様に戦没者、戦没御遺族と全く同様の処遇を国家から受けられる事になったと言ふ事実を篤と認識されたい 。
援護の実施は、さかのぼって28年4月1日からと決った。従って所謂A・B・C級戦犯刑死の方々は、その時点を以て法的に復権され、これを受けて、靖国神社は当然のことながら合祀申し上げねばならぬ責務を負ぶことになった 。」と述べております 。このように靖国神社の立場は至極当然の事であり、今までの考察でもわかるようにそれに関わる手続においても何ら問題はなく、いわゆる“A級戦犯”合祀は妥当な措置だといえるでしょう。  
 
戦争指導者としての東條英機

 

はじめに 「戦争指導者不明」
イギリスの皮肉屋の歴史家A.J.P. テイラーは、第2 次世界大戦の戦争指導者を描いた本のなかで、日本の戦争指導者を別扱いにしている。彼はこの本で交戦5 ヵ国の戦争指導者を扱った各章に、それぞれムッソリーニ、ヒトラー、チャーチル、スターリン、ルーズヴェルトという個人名のタイトルを付けているのに、日本についてのタイトルを「戦争指導者不明(War Lords Anonymous) 」としているのである。テイラーによれば、日本には戦争指導者の名に値する人物はいなかった1。
だが、ここで問題にしたいのは、日本の「戦争指導者不明」ということではない。実は、タイトルは「戦争指導者不明」とされながら、本の表紙には東條英機の顔が他の5人と並べられているのである。このことのほうが、むしろ注目されよう。戦争指導者の名に充分には値しないとはいえ、第2 次世界大戦下の日本の指導者を誰か1 人に代表させるとすれば、やはり東條ということになる。
実際、東條は開戦時に首相のほかに陸相と内相を兼ね、開戦後には軍需相を兼任し、さらに参謀総長をも兼ねた。その役職と権限の大きさからすれば、他の5 人と同等の戦争指導者とされないほうがむしろ不思議なほどである。また、彼は現役の陸軍大将で、プロの軍人であった。他の5 人の中にプロの軍人はいない。したがって東條は、戦争指導の中できわめて重要な部分を占める軍事に関して、他の5 人に比べて最も精通しており、この点でも戦争指導者の資格を充分に有するはずであった。
にもかかわらず、テイラーは東條を他の5 人と同列には扱わなかった。東條は本来の戦争指導者の名に値しないとされた。このような戦時の指導者としての東條の姿には、当時の日本の戦争指導そのものの実態が反映されている。以下では、日本の対英戦争指導の特徴を、東條に焦点を当てて考えてみよう。
1 制度の拘束
東條が本来の戦争指導者とは言えない理由は、制度的な文脈からすれば、かなり単純である。まず、参謀総長を兼ねるまで、彼は統帥事項を指導できなかった。それ以上に重大なのは、彼が海軍のことにはほとんど関与できなかったことだろう。他の 5 人の戦争指導者が、しばしば戦略・作戦計画の立案や実施に主導的役割を果たしたことに比べると、東條が果たした役割はやはり見劣りする。また、他の5 人の軍事への関与は、陸海空という軍種を問わなかった。
戦争指導者としての東條に課された制度的制約の大きな部分が、いわゆる統帥権の独立に由来することについては、詳しく説明する必要はないだろう。支那事変発生後の1937 年11 月に大本営が設置されたが、その構成メンバーは軍人だけであった。これと同時に大本営政府連絡会議が設けられ、政治と軍事の両面にわたる戦争指導を実行する役割を期待されたが、実態は文字どおり大本営と政府の「連絡」に終始し、いわゆる政戦両略の一致・統合を実現するには程遠かった。
このような制度的制約の中で、東條が現役のままで陸相を兼ねたことの意味は大きい。軍人が現役のままで首相となり陸相を兼ねたのは、1885 年に内閣制度が始まって以来のことである。陸相兼任は、本来、和戦の決定にあたって陸軍部内を統制するために取られた措置であったが、これは戦争指導のあり方にも影響を及ぼした。東條は現役であることによって陸相を兼ねることができ、陸相を兼ねることによって大本営に列することができたからである。
東條によれば、彼が開戦前に真珠湾奇襲計画のことを知り得たのは、陸相で大本営の一員であったからだという2。つまり、首相というだけでは、そうした作戦計画の内容を知り得なかったということになる。このような意味で、東條は陸相であることによって、統帥に関与することができた。大本営に列することにより、陸海軍の作戦計画や戦況に関する情報に触れることもできた。だが、作戦に関与することとそれを指導することとは同じではない。陸相は、大本営に列することはできても、作戦計画の立案に関わったり、その実施を指導することができたわけではない。できなかったがゆえに、東條は後に参謀総長を兼任する措置に訴えたのであった。
言うまでもないが、統帥権の独立は昭和になってつくられた制度ではない。実は、日清戦争時にも、日露戦争時にも、統帥権の独立という制度はあったのである。しかし、この制度が明治期の2 つの戦争で戦争指導を厳しく制約することはなかった。日清戦争では首相の伊藤博文が、外相陸奥宗光とともに文官でありながら大本営に列し、しばしば作戦にも口を出した。日露戦争では、首相の桂太郎が軍人出身ではあっても予備役であり、制度上は統帥に関与できなかったはずだが、実際には軍の長老を含む元老たちとともに、大本営の重要な会議に列席し戦争指導に主導的な役割を果たした3。
要するに、伊藤や桂は、統帥権の独立が戦争指導の実効性を妨げる場合には、この制度を無視したのである。必要な場合には無視することによって、すぐれた戦争指導を実現したとも言えよう。では、なぜこの2 人が制度を無視できたのに、東條にはできなかったのか。
その理由として、例えば、次のような点を指摘できよう。明治期の指導者は統帥権独立の制度を創った人たちであり、制度制定の本来の目的を知っていたから、この制度に合わない事態が生じた場合には、制度を無視することを躊躇しなかった。これに対して、東條のような昭和期の軍指導者は、言わばこの制度によって育てられた世代に属し、しかもこの制度によって軍人としての自律性と特権を保障されてきた。それゆえ、彼らはこの制度に拘束されてしまった。
制度制定の目的からすれば、統帥権独立は必ずしも戦争指導のために創られた制度ではなかった。したがって、それに拘束される必要もなかった。実際、過去には、拘束されない戦争指導が行われた例もあった。だが、東條はこれに拘束された。この拘束を無視することは、周囲の抵抗から考えても、自己の心理的抵抗からしても、きわめて難しかったからだろう。こうして東條には、その政権末期に至るまで、制度の拘束を乗り越えようとする発想が生まれなかった。彼は、制度の拘束の枠内で、戦争指導を実践しようとしたのである。
2 東條の戦争指導スタイル
東條が実践した戦争指導のスタイルを、いくつかのエピソードから取り上げてみよう。1941 年10 月、東條内閣組閣の際、彼は陸軍省の彼の幕僚を組閣本部から完全にシャット・アウトしたという4。これは、「けじめ」をつけることを重んじた彼の生真面目さを示すエピソードとして紹介されている。それに加えて、このエピソードは、政治と軍事の関係についての彼の基本的な考え方を表している点でも、興味深い。つまり、東條は、政治的思惑(あるいは党派的考慮)が軍事に介入することを忌避すると同時に、軍事が政治に関わることも極力防ごうとしたのである。東條は、まず、政治と軍事の分離を前提とし、その上で戦争指導者になろうとした。
だが、実際に戦争が始まってみると、政治と軍事を分離したままで戦争指導を行うことは無理であった。では、東條はこの2 つをどのようにして統合しようとしたのか。東條が採用したのは、生真面目ではあったが、きわめて官僚的な方式であった。端的に言えば、彼は首相であると同時に、陸相でもあろうとしたのである。彼の行動記録を見ると、週に何度かは必ず陸相官邸で執務し、陸相としての職務をこなしている5。東條は生真面目に首相としての立場と陸相としての立場を使い分けようとした。首相としての立場に陸相としての立場を取り込み、権力を自己に集中させることによって政治と軍事の融合を図るのではなくて、彼は2 つのポストを巧みに使い分けることに並々ならぬ努力を傾けたのである。
東條の戦争指導のスタイルについて、もうひとつ面白いエピソードがある。1942 年春、陸軍省軍務局長に就任したばかりの佐藤賢了に対し、東條は次のように注意を与えたという。陸海軍の間に揉め事が起こったら、軍務局長同士で解決すべきであり、大臣レベルまで問題を上げてこないように、と。つまり、問題が大臣レベルまで上がってきて、そこで決着がつかなければ、最終的には首相が間に立って調停しなければならないが、陸相が首相を兼ねている以上、その調停はありえなくなる。そうなると陸海軍が分裂してしまうので、そうした事態を避けるためには、どうしても軍務局長レベルで解決をしておかねばならない、というわけである6。
日本以外の主要交戦国の5 人の戦争指導者ならば、おそらくこんなことは言わなかっただろう。むしろ、陸海軍を分裂させるかもしれないほど重大な問題ならば、トップの指導者たる自分が直接決定し、分裂を抑え、部下にその決定の実行を命じただろう。だが、東條には、そうした発想はなかった。厳しい対立を招きかねない問題は、部下による調整に委ねようとした。自らの決定を押しつけて軋轢を生じさせることは、できるだけ避けようとしたのである。
こうした態度は、海軍に対してだけとられたのではない。統帥部に対してもそうであった。東條は統帥部と意見の相違が生じた場合、正面から争って問題を紛糾させることを躊躇した。そもそも統帥権に挑戦しようという発想はなかった。軍政と軍令との区別(けじめ)も大事であった。こうして、統帥部の行き過ぎを抑えようとするとき、東條は間接的で迂遠な抑制措置しかとらなかった。例えば、統帥部の方針に抗してガダルカナルからの撤退を図ろうとしたときの措置が、その好例である。
このとき陸軍省は、ガダルカナル攻略作戦の継続を主張する統帥部に対して、作戦そのものには異を唱えず、作戦継続のために要求された輸送船の量を削減することによって、撤退に導こうとした。東條が指導する政府あるいは陸軍省は統帥部に正面から挑戦・干渉せず、行政的な側面から抑制・牽制を試みたのである。東條がとろうとした措置は、統帥部との直接対決を避け、その意味で迂遠なものであったが、それでも統帥部では、軍政当局の干渉が強まったとの反発が出た7。
1942年4月に東條陸相の秘書官から陸軍省軍事課長に転じた西浦進によれば、軍政当局が統帥部の作戦構想に対して異論を持つ場合、3 つのケースがあったとされている。すなわち、第1 に資源(予算、資材、人員)の面で作戦が不可能と考えられる場合、第2 に作戦が内閣の政策と一致しない場合、第3 に純軍事的な見地から軍人として作戦に同意できない場合、である。第1 の場合、統帥部が資源の不足を承知しつつ、それを我慢して作戦を実行すると言い張れば、軍政当局としては反対する筋合いのものではなかった、と西浦は言う。また、第3 の純軍事的な見地からの異論は、個人的見解として伝えることはあっても、統帥部にそれを押しつけるべきではない、というのが慣わしであった。そうすると、軍政当局が統帥部に反対を表明しそれを強要することが許容されるのは、第2 の場合、作戦が内閣の方針に反するケースだけということになる8。軍政当局の長としての東條も、基本的には西浦と同じ立場にあったと考えられよう。ちなみに、ガダルカナルのケースは、西浦の言う第1 の場合であった。
周知のように、ミッドウェー海戦とガダルカナル攻略戦以後、日本は敗退を重ねる。陸海軍統帥部は戦勢挽回を図って新たな作戦を計画し、そのたびに膨大な量の船舶徴用を要求した。大量の船舶が作戦に徴用されると、占領地からの重要資源の輸送を圧迫し、軍需生産を含む国力造成に支障を来した。こうして、敗勢とともに、戦争指導と統帥(作戦指導)との乖離はいよいよ大きくなった。1943 年10 月に陸相秘書官となった井本熊男によれば、東條が「統帥権独立の下では戦争指導はできない」とこぼすのをよく聞いたという9。これは西浦の第2 のケースに該当したはずだが、東條は軍政当局としての反対を作戦当局に強要しようとはしなかった。
東條の統帥部に対する不満と不信が頂点に達したとき(1944 年2 月)、彼が選択したのは参謀総長兼任という、いかにも東條らしい措置であった。このとき、これは首相が兼任するのではなく、陸相が兼任するのでもない、陸軍大将東條英機の人格において参謀総長に就任するのであって、二位一体である、と説明された10。しかし、この措置もうまくいったかどうか疑問である。東條は、これまでの執務体制と同様に、週に何度か参謀本部で執務した。そのためか、大本営内の事務の進行が早くなったと評価する向きもあった 11。たしかに、事務ははかどるようになったかもしれない。だが、それで国務と統帥が統合されたことにはならない。東條が戦争指導者としての役割を充分に遂行できるようになったわけでもない。実際には、ここでも彼は自分に権力を集中させず、首相、陸相、参謀総長という職務を生真面目に使い分けただけだった。政治と軍事の統合ではなく、その衝突回避と事務の進捗を図ろうとしただけであった。
いったい東條にとって戦争指導とは何だったのだろうか。やや強引に彼の戦争指導の論理を再構成してみよう。まず、東條にとって、統帥とは戦力を使用することであり、国務とはその戦力を造成することを意味したのではないだろうか。戦力造成には、文字どおり人的・物的資源の戦力化のほかに、それを実現するための国内融和や国民協力の調達も含まれよう。とすれば、国務(政治)の側は、戦力の限界の面から統帥(軍事)に注意を喚起することはできる。しかし、統帥の側が、限られた戦力でも作戦を実行できると主張すれば、国務の側がそれ以上の異議申し立てをしないように調整することが戦争指導の役割となる。他方、統帥が戦力造成そのものを妨げる場合は、国務の側が統帥を抑制せざるを得なくなる。そうしたときの戦争指導の役割は、両者の衝突を未然に防ぎ、摩擦や対立が顕在化するのを防止することであった。東條にとっての戦争指導とは、このように理解できよう。何らかのヴィジョンやグランド・デザインを提示して、その方向に戦力の造成と使用を合致させようとしたのではなかった。
3 イギリス屈服策
では、対英戦において東條はどのような戦争指導を行ったのか。まず注目すべきは、日本の戦争計画(グランド・ストラテジー)において、イギリスを屈服させることが戦争終結の鍵とされていたことである。
開戦直前に決定された戦争計画によれば12、日本はまず東アジアと南西太平洋の敵の根拠地を覆滅して戦略的優位の態勢を確立し、重要資源地域と主要交通線を確保して長期自給自足を図り、これによって「長期不敗態勢」を構築するとされていた。ただし、これだけで戦争終結に持ち込めるわけでなかったし、まして戦争に勝利できる保証はなかった。それゆえ、上述の戦争計画では、中国(重慶政権)を屈服させ、独伊と提携してイギリスを屈服させることによってアメリカに継戦意志を失わせる、という戦争終結のシナリオが描かれていた。
東條もこの計画を支持していたと見ていいだろう。開戦前、東條は、日本には「敵の死命を制する手段」がないので戦争の短期終結はむずかしく、長期戦にな る公算が80パーセントくらいになるだろう、と述べている。彼によれば、短期終結を導くことができるかもしれないのは、1アメリカ主力艦隊の撃滅(日本がフィリピンを占領した場合、アメリカがこれを奪回しようとすれば、成功の公算がある)、2ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によってアメリカの戦意喪失を図ること、3通商破壊戦によりイギリスを危機的状況に追い込みアメリカの態度を変えること、の3 つのケースしか考えられなかった13。2も3も、実質的にはドイツ頼みの他力本願で、やはりイギリス屈服を通じてアメリカの戦意喪失を目論むものであった。
開戦後、東條が予想したとおりではなかったにせよ(彼が真珠湾攻撃計画を知らされたのは1 週間前だったといわれる)、アメリカの主力艦隊は真珠湾で撃滅されたが、これで短期終結の効果が生まれたわけではなかった。ただし、緒戦段階で、日本の戦争計画の第一段階がほぼ達成されたことは間違いない。つまり、日本は敵の根拠地を覆滅して戦略的優位を確立し、資源地域と交通線を確保した。このとき陸軍は、開戦前の戦争計画にしたがい、「長期不敗態勢」を確立し戦略的持久に入ろうとした。ところが、海軍は戦勝の余勢を駆って太平洋での攻勢の継続を主張し始める。海軍は、アメリカとの決戦によって戦争終結を目指そうとしているかのようであった。これに対して陸軍は、戦略的持久を図りつつ、イギリスと重慶を屈服させることによって戦争終結に持ち込むという従来の計画をあらためて強調した。
このような陸海軍の対立の中で、東條は、戦争指導方針の再検討を促す。1942 年2月、東條は大本営政府連絡会議(以下、連絡会議と略記する)で、今後いかに戦争を指導してゆくべきかの問題は統帥関係のみならず国家として大いに研究しなければならない、と発言したのである14。これを受けて大本営は新たな戦争指導方針の検討に入った。
東條はなぜ戦争指導方針の再検討を示唆したのか。開戦前の計画にしたがい、長期不敗態勢を確立しイギリス屈服に重点を置くという陸軍の主張に、東條も同調していたことは疑いない。ただし、東條は緒戦の成功が予想以上のものであると判断していた15。おそらく彼は、長期不敗態勢確立を図りながら、緒戦の戦果をイギリス屈服に、より直接的に結びつける方策を模索しようとしたのだろう。そうすることによって彼は、太平洋での攻勢継続に傾きつつある海軍に、既定の戦争計画の基本方針を再確認させようとしたものと考えられる。東條はビルマ攻略が重慶屈服に及ぼす効果に期待し、イギリス屈服のために西アジア進出を望んだ16。
だが、同年3 月に決定された新しい戦争指導方針では、陸海軍の主張を並べた次のような曖昧な合意がつくられただけだった。つまり、イギリスを屈服させアメリカの戦意を喪失させるため引き続き既得の戦果を拡充して長期不敗の政戦態勢を整えつつ機を見て積極的な方策を講じる、これが新しい戦争指導方針であった17。これでは、長期不敗の戦略持久にも、対米決戦の機会創出にも、どちらにも解することができる。事実、陸海軍は、この方針をそれぞれ都合の良いように解釈した。東條は、戦争指導方針の再確認を企図しながら、それを果たせなかったと言えよう。また、陸海軍の曖昧な合意がつくられつつあるとき、彼がその明確化のために積極的に動いた形跡もなかった。
ただし、その後、ある一時期、戦争指導に関する陸海軍の方針を同一方向に向けることができそうに見えたときがある。それは、1942 年6 月、海軍がミッドウェーで敗北したため、太平洋での対米決戦を断念しインド洋でのイギリス屈服を優先する方針に回帰するのではないか、と考えられたときである。しかも、その頃、北アフリカ戦線でロンメル率いる枢軸軍がリビアの要衝トブルクを陥落させ、エジプトに攻め入った。こうして、西からエジプトを横断した独伊軍がスエズを経て西アジアに入ってくるのに呼応して、東からは日本軍がインドを経由して西アジアに進入し、そこで枢軸3 軍が手を握る、という壮大な構想が現実性を帯びてきたように思われた。このいわゆるインド−西アジア打通作戦はかねてより陸軍が大きな期待を掛けていたイギリス屈服の一方策であったが、従来は独伊が西アジアに進出してくるのは、もっと先の1943 年以降だろうと観測され、見送られてきたものであった。 1942年6月以降、陸軍は北アフリカの独伊軍の動きに大きな関心を寄せた。なかでも東條の関心は異常なほどだったという18。開戦前から東條は、ドイツ軍がコーカサスや近東に進出してきた場合、日本もこれに呼応する可能性を論じていた19。
この頃、陸軍統帥部では、インド洋作戦(セイロン攻略作戦)、重慶攻略作戦、インド進攻作戦が検討された。このうち東條は、インド洋作戦に積極的であった。当時、ほぼ同時に提起された重慶作戦にはやや慎重であったのに比べると、インド洋作戦への積極性は彼にしては珍しいほどであった。インド洋作戦は西アジア進出への一環と考えられ、陸海協同作戦だったからかもしれない。田中新一作戦部長の回想によれば、海軍がイギリス屈服に同調して戦争指導の統一性が回復されつつあるように見えたことに、東條は満足していたようであった20。このエピソードは、東條が陸海軍の協調(対立回避)をどれだけ重視したかをよく示している。
しかし結局、インド洋作戦は実現しなかった。8 月に入り、米軍のソロモン進出に対抗するため再び海軍は対米戦に向かってゆく。やがて陸軍もガダルカナルの戦闘にのめり込んでいってしまう。東條も当初はガダルカナル攻略に積極的であった。だが、ガダルカナルでの敗北が相次ぎ、補給がきわめて危機的な状況に陥ると、東條は撤退に傾いた。そのための輸送船舶の制限という措置が、統帥部との対立を生んだことは前述したとおりである。
ガダルカナルでの敗色が濃厚となったとき、イギリス屈服の可能性は遠のいていた。エル・アラメインの戦い以後、北アフリカ戦線の形勢は逆転した。日本もインド洋での本格的な作戦やインド進出を企てる余力はなくなっていた。1943 年2 月下旬、連絡会議で東條は、イギリス屈服によって戦争終結を図るという戦争指導方針に疑問を呈した21。その疑問はまことに的確であったが、そのとき彼が、従来の戦争終結計画に代わる新たな戦争指導方針を提示したわけではなかった。
連絡会議やその他の統帥部との意見調整の場で東條が投げかけた疑問や質問は、多くの場合かなり的確であった。緒戦の成功の後に戦争指導方針再検討を示唆したことや、ガダルカナル敗北の後にイギリス屈服による戦争終結計画に疑問を呈したことなどは、その好例である。だが、問題は示唆や疑問を投げかけながら、東條が何らかの具体的なヴィジョンあるいは指針を示さなかったことである。彼の示唆によって戦争指導方針の再検討が始まりながら、それが彼の目論見どおりに進まなくても、東條は敢えて検討の方向を正そうとはしなかった。イギリス屈服による戦争終結計画に疑問を呈しても、東條はその代替構想を提示しなかった。
4 インドとビルマ
1943年段階でイギリス屈服策は放棄された。日本の戦争計画は転換を余儀なくされた。やや大胆に言えば、独伊との提携によるイギリス屈服がほぼ不可能になり、太平洋でアメリカの本格的反攻を受けて戦略環境が悪化すると、日本は勝利の展望を失ったのである。もともと日本の戦争計画は、長期不敗態勢の構築を目指し、負けないことを追求するものであった。それが暗黙のうちに意味していたのは、ドイツに依存してイギリス屈服を図り、アメリカの戦争意志を喪失させることでしか勝利を得ることはできない、ということであった。イギリス屈服が不可能となれば、アメリカの継戦意志を失わせることもきわめて困難と考えざるを得なくなった。こうして日本は、勝利そのものよりも負けないことに、ますます戦争指導の重点を置くようになってゆく。
1943年9月下旬、南太平洋での戦局悪化とイタリアの戦線離脱のために、御前会議は新しい戦争指導方針として、千島列島−小笠原諸島−内南洋−西部ニューギニア−スンダ列島−ビルマを連ねた線で囲まれた地域を「絶対国防圏」とし、これを戦争目的達成上絶対に確保しなければならない、と定めた22。勝つことではなく、負けないことが、いよいよ強調されたのである。このとき、日本のコントロール下にある東南アジア諸地域の戦争協力を増進するため、その民心を掴むことも、戦争指導方針のひとつに掲げられた。敵の本格的反抗とともに強まることが予想される政治攻勢に対抗するために、原案にこの方針を追加させたのは、東條である23。
もともと東條は、東南アジア諸地域の民心を掴むという意味での「政謀略」に、開戦当初から積極的であった。1942 年初め、ビルマ攻略作戦を開始する前後に、東條は、ビルマ人が日本に協力するならば独立を与えると声明した。ビルマの独立を促進し、それを通じてインドの独立を刺激して、イギリスとこの地域とを遮断しようとする「政謀略」の一環であった。また、同年4 月、インドに戦争協力を求めたクリップスとガンジーとの会談が不調に終わった頃、東條は帝国議会で、「ビルマ人のビルマ」に次いで「印度人の印度」が実現さるべきことを呼びかけた。同じ頃、東條は、日本軍によるインド爆撃がインド人の対日反感を生むことを懸念し、政治的に微妙なときにインド爆撃を行うべきではない、と統帥部に注意を促した24。軍事行動がもたらす意図せざる政治的副次効果に、東條は敏感でもあった。
1943年になると、「政謀略」はイギリス屈服のためというよりも米英の反攻に対抗することに比重を移してゆく。東條は、1943 年5 月にフィリピンを、6 月から7 月にかけてタイ、シンガポール、インドネシアを訪問した。日本の首相としては初めての東南アジア訪問であった。同年8 月、日本はビルマの独立を認め同盟条約を結んだ。東條はビルマに足を踏み入れることはなかったが、その指導者バー・モウとは5 回も会見した。それは、彼が行った東南アジアの指導者との会見のなかで最も多い回数であった25。東條は、ドイツから潜水艦に乗って日本に来たインド独立運動の指導者チャンドラ・ボースも、積極的に支持した。10 月に日本はチャンドラ・ボースの自由インド仮政府を承認し、11 月に大東亜会議が開催されると、開催日の翌日にアンダマン諸島とニコバル諸島をインド仮政府に帰属させることを決定した。ボースの要請を入れて、東條が連絡会議に突如持ち出し、決定に持ち込んだものであった26。
大東亜各国の「自主独立」と「互恵」を高らかに謳い上げた大東亜共同宣言に示されている戦争の理念に、東條が共感を寄せていたことは認めるべきだろう。だが、東南アジア諸地域の指導者との関係に言及するとき、東條がしばしば彼らを「抱き込む」という表現を用いていたことに示されているように27、彼の念頭にあったのが「理念」そのものではなく、戦争遂行のために彼らの協力を取り付けるという「政謀略」だったことは疑いない。
このように、東條は「政謀略」という観点からビルマ及びインドに関心を持ち続けたが、これに加えて彼は、ビルマが連合軍の反攻のターゲットになるのではないか、とも予想していた。すでに1943 年1 月の段階で、敵の反攻に備えるために彼はビルマへの兵力増加を示唆していたようである28。同年5 月、チュニスが陥落し北アフリカでの独伊軍の戦闘が事実上終了すると、連合軍はそこの海空戦力をインド洋方面に振り向ける余力を持つことになり、ビルマ南部のアンダマンやニコバルへの敵軍進出が懸念されるようになった。ビルマは「絶対国防圏」の南西要域であり、たしかに太平洋の主戦場に対して支戦場ではあるとはいえ、そこに敵の反攻があり得るとすれば、その防衛を真剣に考えなければならなかった。ここに、悲劇的なインパール作戦の出発点がある。
インパール作戦実施に至る経緯をここで詳述する必要はないだろう29。インパール作戦の悲劇は、その作戦計画の杜撰さに根差していた。まず、作戦目的は本来、ビルマ防衛のための、敵の反攻の機先を制する攻勢防御であったはずなのに、それが一貫しなかった。作戦を担当する第15 軍司令官牟田口廉也が、ビルマ防衛を超えて、インド進攻という途方もない目的を追求したからである。たしかに、緒戦の勝利を収めた直後の1942 年段階であれば、イギリス屈服を図るためのインド進攻という戦略オプションもあり得たかもしれない。しかし、もはや戦局はそれが成り立つ状況ではなかった。
作戦計画の杜撰さは敵の戦力を過小評価し、補給を軽視した点に最も集中的に現れていた。1943 年7 月、眞田穰一郎作戦課長は、大本営から現地に派遣された参謀の報告を聞いて、第15 軍の計画が「無茶苦茶の積極案」であるという印象を受けた30。だが、様々の理由が働いて、結局、大本営はインパール作戦を認可してしまうのである。1944年1 月初旬、作戦認可の通報を受けた東條は、次の5 項目を質問したという31。
1インパール作戦実施中、ベンガル湾のビルマ南部にイギリス軍が上陸した場合、その対応措置が執れるか。
2インパール攻略によって、さらに兵力の増加を必要とする結果にはならないか。また防衛上不利をきたさないか。
3劣勢な航空兵力で、地上作戦に支障はないか。
4補給は作戦に追いつけるか。
5第15 軍の作戦構想は堅実か。
例によって、いずれももっともな、的を射た質問ばかりであった。東條は あらためて統帥部に念を押すよう部下に指示し、その確答を得た上で作戦認可に同意したという。
しかし、よく知られているように、牟田口第15 軍司令官は、こうした陸軍中央の懸念と注意にもかかわらず、自らの信念にしたがって、インパールへ猪突猛進した。1944年3 月中旬、インパール作戦が発動されて間もない頃、前月から参謀総長を兼ねていた東條は、次のように述べている。ビルマでは、ビルマ北部を通るインド・中国の連絡ルートを切断することが第一の任務であり、敵がビルマ南西岸沿いにタイを攻撃する作戦線を与えないことが第二の任務である、と32。これもまことに的確な指摘であった。
作戦は当初うまくいっているように見えた。日本本国では、太平洋戦場での敗戦の報が相次ぐなかで、ビルマの勝報は一筋の光明のようにも感じられた。しかし、現地ではやがて作戦の破綻が否定できなくなった。4 月末には戦力が40 パーセント前後に低下し、限界に近づきつつあった。しかも雨期が例年より早く始まっていた。その頃、東條は、天皇への上奏のなかでインパール作戦の進捗ぶりを次のように報告していた。5 月中旬頃の雨期入り前にインパール作戦の目的を達成し、雨期明けには北部ビルマの敵を撃破してインド・中国の連絡を根底から断ち切る所存である、と33。現場の状況からかけ離れた、何とも楽観的な見通しではあった。
4月末、ようやく現地の状況が思わしくないことに気づいた大本営は、秦彦三郎参謀次長をビルマに派遣した。5 月中旬、帰国した秦参謀次長は、同行した部下から「作戦は不成功と断じて間違いない」と報告してほしいと要請があったにもかかわらず、「作戦の前途はきわめて困難である」とかなり婉曲な言葉で東條に報告した。これに対して東條は、「戦は最後までやってみなければわからぬ。そんな弱気でどうするか」と言わんばかりの強気の態度を示したという。
しかし、これは東條の真意ではなかったようである。この報告の場には、参謀本部・陸軍省の課長以上の幹部が同席していたので、東條としては陸軍中央が敗北主義に陥ることを憂慮したのであろう。このあと別室で2 人の参謀次長だけとの協議になったとき、東條は「困ったことになった」と頭を抱えるようにして困惑していたという34。
問題は、現地の苦境を知った後でも、東條が作戦中止を命じなかったことである。秦参謀次長も中止を主張しなかった。彼によれば、インパール作戦は現地軍の要求によって始まった作戦であるので、作戦中止も現地軍から申請するのが筋である、と考えたのだとされている35。東條もそう考えたのかもしれない。ただし、中止の決定が遅れれば、それだけ犠牲が増え続け、しかもビルマ防衛自体も危機的状況に瀕することになった。それを参謀総長の東條は、結果的には、放置してしまったのである。それは彼に責任感が欠如していたというよりも、むしろ明確な戦略ヴィジョンが欠けていたからではないだろうか。参謀総長となり、戦略策定に主導的役割を果たし得る立場になっても、東條はそのイニシアティブをとろうとはしなかった。イニシアティブをとらなかったのは、ヴィジョンがなかったからである。ヴィジョンがなければ、弱気を戒める「精神論」を語り、部下の意見具申を待つ以外になかったといえよう。
むすび
戦後、佐藤賢了は東條の性格を次のように評している36。
「東條さんは決して独裁者でなく、その素質も備えてはいない。小心よくよくの性格である。意地っ張りでもあり、頑張り屋でもあった。自分の意見は押し通す迫力と実行力とに富み、それぞれの責任者以外からの意見は聞かない。眼界は割合狭い。だから、ちょっとみると独裁的に見える。それに当時の大きな権限を持っていたから、なお更そう見え、世間では独裁者にしてしまった。しかしその反面に弱い心があった。特に責任観念が強過ぎたので、常に自己の責任におびえているような面があった。ほんとうの強い独裁者でも、自己の責任におびえることは確かにあり、そこで神仏に頼ろうとする例は少なくない。東條さんはその頼りを天皇陛下に求めた。」
この佐藤の東條評はなかなか鋭く、東條の性格をよく言い当てている。もともと天皇に対する忠誠心が強かった東條は、その点を買われて首相に起用されたわけだが、戦時宰相となるに及んで、戦争指導の責任の重圧を、天皇へのさらなる忠誠によって耐えようとしたかのようであった37。
東條は勉強家であり、努力の人であった。無用の来客との面会や夜の宴会は極力避け、毎日、夜の12 時近くまで書類を読み、日曜の午前中も官邸で書類を整理することがあった。秘書官が夕方に書類箱一杯の報告や文書を届けると、翌朝までには全部に目を通し、必要なものには処置方針を記入して返したという。首相となる前の陸相時代には、陸軍省のいくつもの局長を同時に兼任できると言われたほど、各局のことをよく知っていた。いくつもの局長どころか、いくつもの課長すら兼任できるのではないかと思われるほどであった38。のちに、大臣や参謀総長を兼任し、その職務をそつなくこなしたことの原点は、ここにあったのだろう。部下の報告をよく聞き、上がってくるすべての書類に目を通して、決裁を仰ぐ問題には適切な処置方針を示す、これが東條の仕事のやり方として評価される所以であった。
東條は部下の報告をいちいちメモにとり、それをあとで整理して事項別と年月別に分け、これを特別製の書類箱に収めていた。また、このメモに基づき、3 種類の手帳を使っていたという39。毎日、深夜まで時間がかかるはずである。また事務処理がはかどるはずでもあった。連絡会議等での彼の的確な質問や示唆は、こうした、やや偏執狂的な努力と勉強に支えられていた。
これまで指摘してきたとおり、軍事に関する東條の判断は、多くの場合、客観的で、少なくとも的外れではなかった。プロの軍人としての識見がよく反映されていた。だが、問題は、彼がそれを貫き通さなかったことである。疑問を提示し、示唆を投げかけても、戦略策定のイニシアティブをとらなかったことである。勝利への明確なヴィジョンを示さなかったことである。おそらく、そこには制度的制約も作用していただろう。それに加えて、戦時の指導者としての東條の性格も関わっていたことは疑いない。東條の言行録を編纂した伊藤隆教授は、言行録からうかがわれる東條の思考・行動様式の特徴のひとつとして、次のような点を指摘している。東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない、と40。
おそらく東條にはそうしたイメージやヴィジョンがなかったのだろう。東條は戦時中、側近たちに自らのことを次のように語っている41。
人は良く自分のことを政治家としても云々と云ふが、 自分は政治家と云はるることはだいきらひだ。自分は戦術家と云はるるならばともかくもちつとも政治家ではない。
只、多年陸軍で体得した戦略方式をそのままやつてゐる丈だ。
彼の言う「戦略方式」が戦略ヴィジョンでないことは明らかである。彼が言いたかったのは、戦場での状況変化に柔軟に、あるいは効率的に対応することではなかったかと思われる。自ら状況変化をつくり出すことではなかった。
東條は自ら戦略ヴィジョンをつくり出すことができなかった。平時であるならば、そうしたヴィジョンがなくても、東條のような実務型の指導者ならば、充分に政治指導が可能であったかもしれない。だが、戦時の戦争指導者としては、戦略ヴィジョンの欠如は重大な欠陥となってしまったのである。

1  A. J. P. Taylor, The War Lords (Hamish Hamilton, 1977), p. 158.
2 塩原時三郎「東條メモ」(東條英機刊行会・上法快男編『東條英機』〔芙蓉書房、1974 年〕341 頁)。
3 雨宮昭一『近代日本の戦争指導』第 1 章(吉川弘文館、1997 年)。
4 佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』(徳間書店、1966 年)179 頁及び佐藤賢了『佐藤賢了の証言』(芙蓉書房、1976 年)366−367 頁。
5 伊藤隆ほか編『東條内閣総理大臣機密記録・東條英機大将言行録』(東京大学出版会、1990 年)を参照。
6 佐藤『大東亜戦争回顧録』264 頁。その2、3 ヵ月前、ポルトガル領チモールへの進駐をめぐって東條と永野修身軍令部総長との間に激論が交わされた。永野が海軍の作戦上の必要から進駐を唱え、東條は中立国ポルトガルを敵にまわすことの不利を説いた。両者はその後しばらく口もきかなかったという(種村佐孝『大本営機密日誌』〔ダイヤモンド社、1952 年〕115−116 頁)。この海軍との衝突が、佐藤新軍務局長への注意を促したのかもしれない。
7 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部〈5〉』(朝雲新聞社、1973 年)309 頁及び林三郎『太平洋戦争陸戦概史』(岩波新書、1951 年)101−102 頁。
8 西浦進『昭和戦争史の証言』(原書房、1980 年)193−194 頁。
9 井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』(芙蓉書房、1979 年)517 頁。
10 種村『大本営機密日誌』162 頁。
11 同上、169 頁。
12 「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」1941.11.15 連絡会議決定(参謀本部編『杉山メモ:大本営・政府連絡会議等筆記』上〔原書房、1967 年〕523−525 頁)。
13 佐藤早苗『東條英機 封印された真実』(講談社、1995 年)76 頁。
14 『杉山メモ』下、16 頁。
15 同上、51 頁。
16 『戦史叢書 大本營陸軍部〈3 〉』(朝雲新聞社、1970 年)342 頁。
17 「今後 採ルへキ戦争指導ノ大綱」1942.3.7 連絡会議決定(『杉山メモ』下、81−82 頁)。
18 『戦史叢書 大本營陸軍部〈4 〉』(朝雲新聞社、1972 年)356 頁。
19 佐藤『東條英機 封印された真実』72−74 頁。
20 『戦史叢書 大本營陸軍部〈4 〉』406 頁。
21 『杉山メモ』下、379 頁。
22 「今後採ルへキ戦争指導ノ大綱」1943.9.30 御前会議決定(『杉山メモ』下、473 頁)。
23 『杉山メモ』下、465、467 頁。
24 『戦史叢書・大本營陸軍部〈3 〉』552 頁。
25 後藤乾一「東条首相と『南方共栄圏』」(ピーター・ドウス、小林英夫編『帝国という幻想—「大東亜共栄圏」の思想と現実』青木書店、1998 年)278 頁。
26 『杉山メモ』下 515 頁。
27 後藤「東条首相と『南方共栄圏』」273 頁。
28 『戦史叢書 大本營陸軍部〈6 〉』(朝雲新聞社、1973 年)109 頁。
29 やや詳しくは、戸部良一ほか『失敗の本質−日本軍の組織論的研究』(中公文庫、1991 年)141 −177 頁を参照されたい。
30 『戦史叢書 大本營陸軍部〈7 〉』(朝雲新聞社、1973 年)101 頁。
31 『戦史叢書 インパール作戦』(朝雲新聞社、1968 年)159 頁。
32 『戦史叢書 大本營陸軍部〈8 〉』(朝雲新聞社、1974 年)245 頁。
33 同上、301 頁。
34 『戦史叢書 インパール作戦』520−521 頁及び種村『大本営機密日誌』168−169 頁。
35 『戦史叢書 インパール作戦』521 頁。
36 佐藤『佐藤賢了の証言』399−400 頁。
37 東條の天皇への忠誠については、波多野澄雄「政治指導者としての東條英機」(『明治聖徳記念学会紀要』第35 号、2002 年6 月)を参照。
38 西浦『昭和戦争史の証言』147、171 及び145 頁。
39 赤松貞雄『東條秘書官機密日誌』(文藝春秋、1985 年)37 頁。
40 伊藤ほか『東條内閣総理大臣機密記録・東條英機大将言行録』19 頁。
41 同上、509 頁、519 頁。 
 
東条英機とアジア・太平洋戦争

 

東条英機は評価の揺れの激しい政治家である。プラスの方向に評価する者は、彼の実践力とまじめな性格を強調する。昭和天皇が東条に好意的だったことは良く知られているが、それは天皇が東条のまじめさを評価したからだった。
他方、マイナスの方向に評価するものは、彼が日本をひきずって、どう見ても勝ち目のない戦争に国民を巻き込んだ張本人であり、そのスタイルの独善性とあいまって、日本という国を誤らせたに点を非難する。
「アジア・太平洋戦争」の著者吉田裕氏も後者の立場に立っている。氏は東条政権を独裁政治とまで言い切っている。
その理由は基本的には日本の政治体制を、戦争遂行を目的とした全体主義体制として再構築し、国民に対して抑圧的に臨んだことにある、と氏はいう。日本の政治を戦争目的に従属させていくという点では、東條の前の近衛内閣からその傾向が強められていたが、東条はそれを大規模な形で完成させた。しかも強制の外観をまとわず、あくまでも国民の支持のもとでという外観を持たせたうえで。
1942年4月に、東条は総選挙を実施した。実に5年ぶりの選挙だったが、この選挙に東条は徹底的に介入し、自分の意に従う議会を作り上げた。翼賛政治会の成立である。東条はこのために候補者たちを金で買収した。その金は臨時軍事費からひねり出した。公金を私物化したわけである。
東条はまた宮中の有力者たちも金で買収した。その資金源はおそらく、中国でのアヘン売買からでているのだろうと、近衛はいったそうだ。
軍部内での東条の足場は強固なものだった。東条は首相と陸軍大臣を兼ねることによって、権力を自分の手に集中し、政治と統帥の両面から決定を下す立場に立った。それが東条の独裁政治を支える基盤として機能したというのだ。
東条は自分に反対する者を効果的に粉砕するために憲兵組織を使った。憲兵はもともと軍隊内の規律違反を取り締まる組織だが、東条は一般人の取り締まりにも憲兵を動員し、反戦運動や反軍気運の弾圧、政敵の監視や弾圧にもあたらせた。憲兵の私物化といわれるこうしたやり方は、東条のイメージを暗くする上で、大きな役割を果たしたことは否めない。
東条は自分の独裁に強い根拠を持たせるために、民衆からの直接の支持を獲得しようとした。東条の独裁性がヒトラーと対比されるのは、民衆を前にした彼らの派手なパフォーマンスの共通性に主な理由がある。
映像や音声を最大限利用した最初の政治家として、東条にはヒトラーと共通するところがある。彼は国策映画を作らせて、それに登場することで民衆の前に直接姿を現した。民衆はそんな東条を見て、初期の華々しい戦果を東条の姿に重ね合わせて熱狂したという。
東条はまた、絶えず民衆の目に自分の姿をさらすように努めた。ヒトラーを気取ってオープンカーを乗り回し、抜き打ち視察と称して様々な場所に出没しては民衆と直接語らった。この点ではヒトラー以上にスター性にこだわったわけだ。
宇垣一成はそんな東条を苦々しく思い、「陸軍大臣や総理になった時の様子を見ると、何かと芝居がかりの点が多い。かねて聞いていたが、東条の家は元々能・狂言の筋だというから、これも尤もだろう」と日記にしたためた。実際に、東条の曽祖父は能楽宝生流の出であったという。
戦局がまだ日本に傾いている間は、東条の国民的な人気は圧倒的なものだった。彼は一躍時代のアイドルになったのだ。作家の保坂正康はその頃の東条についてつぎのように書いている。「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れ渡り、その姿を一目見ようと路次の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという<神話>が生まれた」まさに軍神扱いである。
しかし戦局が日本にとって怪しくなってくると、東条の人気にも陰りが見えてくる。東条はもともと極端ともいえる精神主義者として知られていたが、その精神主義が鼻持ちならぬ方向へと傾いた。
1944年5月、東条は陸軍航空士官学校を抜き打ち視察したが、その折に生徒を捕まえて敵機は何で落とすかと訊いた。生徒が機関銃で、と答えると、東条は、「違う、敵機は精神力で落とすのである」と恫喝して、学校長らに鼻しらむ思いをさせた。学校長は東条の言葉を無視して、生徒たちに科学的精神を持つように訓示したというのである。
独裁者として威光を極めた東条が失脚したのは、天皇に見放されたことが原因だったとされる。マリアナ諸島の失陥によって日本の敗戦が誰の目にも明らかになった時、反東条・早期和平のグループが結束して東条の追い落としにかかった。この攻防の過程で、天皇と木戸内大臣は東条を見捨てた、その結果さしもの東条も舞台から降りざるを得なくなった、というのである。
結局日本の政治舞台には独裁者は相応しくないのだろう。東条の場合には天皇が政治的な重しとして作用し、彼の独裁の永続を阻んだといえる。 
 
アジア・太平洋戦争と大東亜共栄圏

 

1941年12月8日に始まり1945年8月15日の日本の全面降伏で終わったあの壮大な戦争を、歴史学者の吉田裕は「アジア・太平洋戦争」と呼んでいる(「アジア・太平洋戦争」(岩波新書))。戦争の最中、当事者である日本の指導者たちが使った大東亜戦争という言い方は、あまりにもイデオロギー的だし、かといって歴史学者の間でよく使われている太平洋戦争という言葉では、この戦争の規模がカバーしきれない。この戦争は、太平洋の島々にとどまらず、北は満州から南は東南アジアのほぼ全域をカバーする壮大な戦争だったのだ。
1941年12月8日の出来事も、真珠湾攻撃だけではなかった。それよりもわずかではあるが早い時点で、陸軍によるマレー侵攻作戦が始まり、同時にフィリピン上陸作戦が行われた。陸海両軍がそれぞれ威信をかけて、米英はじめとする連合国に戦争をしかけていった。その結果、戦線は次第に拡大し、西はインドシナ半島とビルマ、南はインドネシアのほぼ全域とニューギニア、東は中部太平洋に浮かぶ島々まで、実に壮大な範囲を占領するに至ったわけである。
何故こんなことをしたのか。つまりこの戦争の目的はなんだったのか。戦線開始の責任者である東条英機に対して昭和天皇が下問したことがあったそうだ。すると東条は俄には答えることができなかったという。いま研究中ですので、追って奏上申し上げるといったそうなのである。
戦争の最高責任者がこの始末であるから、日本がこの戦争を合理的な作戦に基づいて履行する可能性ははじめから低かったといわねばならない。彼らは目的も明らかではなく、また展望も持たない中で、やみくもに戦争に向かって突進し、挙句の果ては強大な敵を前にしてあえなく敗退したというわけだ。だからといって、これを笑い話として済ますわけにはいかないだろう。
実際には、満州事変から支那事変を経て全面的な戦争状態に陥った中国との関係の延長線上に、対米戦争をせざるを得ない羽目に自ら陥っていったというのが正直なところだろう。
アメリカとの戦争が何を意味するか、少なくとも海軍の方は分かっていた。アメリカとの戦争は長期的に見れば勝ち目はない、何故なら近代的戦争は総力戦の形をとるのであり、国力において圧倒的な差があるアメリカには、勝てるはずがない。もしその可能性があるとすれば、短期間でアメリカを完膚なきまでに叩き潰し、その戦意を喪失させる以外に方法はない。幸い1941年12月時点での戦力に限って言えば、日本はアメリカにまさるものを持っていた。短期的な戦争に終われば、つまりアメリカがあっけなく戦意を喪失すれば、日本にも勝てる見込みがある。
一方陸軍の方は、ドイツとの同盟の効果を過信するところもあり、対米戦については海軍ほど悲観的ではなかった。アメリカとの実力の差は、畢竟資源の差である。しからば、南洋の諸国を併呑してその資源を獲得すれば、アメリカに対抗できる実力はもてる。占領地を効果的に統治し、軍は占領地で自給自足しながら、日本にとって必要な資源を内地に送り続ける。そうすれば、戦争がたとえ長引いても、十分にやっていけるはずだ。こんな妄想を抱いていたわけである。
しかし現実はそんなに甘くはなかった。初戦の真珠湾作戦とマレー作戦は大成功に終わったが、わずか半年後の1942年6月には、日本海軍はミッドウェーで敗北し、8月にはガダルカナルの戦闘で日本軍は大敗北を喫し、以後制空権と制海権をアメリカに牛耳られることになる。戦争開始後わずか一年で、日本の敗色は歴然としたものになったのである。
しかし日本軍はいったん占領した地域を自分から手放そうとはしなかった。制海権を握られたことで、島々の間の補給ルートが遮断されたにもかかわらず、それらの占領地から撤退することはなかった。作戦上の常識からいえば、戦線を縮小して兵力を集中し、敵との戦いに臨むのが筋であるのに、伸びきった前線の各地に兵力・資源を分散させたまま、敵の攻撃に身をさらし続けた。
陸軍は終始意気堅硬なままだった。戦争を始めた当初は、目的の如何も言えなかったのだったが、アジアの広大な地域を占領し、それらの国々の人々を統治するうちに、選良意識が働いて、この戦争を合理化できるようにもなった。いわく「大東亜共栄圏」の創造、アジアの民衆を欧米のくびきから解放する聖なる戦争という位置づけである。
この意見は、靖国神社がこの戦争の意義附けとして今でも主張しているものである。アジアの国々は欧米の帝国主義によって奴隷化されている、その欧米を日本が追っ払って、アジアの国々を開放する、つまり大東亜戦争とは、日本がアジアの国々を欧米の支配から解放するための戦いなのであり、アジアの諸国民の利益にもなる、そう主張しているわけなのだ。
しかし日本に占領されたアジアの国々は、むろんそんな風に思うはずもなかった。中国では国共合作が成功し、国を挙げて抗日戦争に立ち上がった。日本は対米戦争と同じ程度の戦力を対中戦争にも裂かねばならなかった。そしてやがて必然化するであろう対ソ戦争にも備えて、関東軍の実力も温存していなくてはならなかった。二方面どころか多方面作戦を自らに課してしまったわけである。戦争のやり方としては最低のやり方だ。
吉田氏の著書「アジア・太平洋戦争」は、日本側の戦争への動機を掘り下げて解明するとともに、戦争に臨む日本の政治のお粗末な意思決定過程についてあぶりだしている。 
 
日本人はなぜ戦争へと向かったのか

 

今年は日米開戦から70年目の節目の年だ。そこでNHKが、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」と題して、日米開戦に至った歴史的経緯を改めて検証する番組を、4回に分けて放送することとした。
その背景には、一定の歴史的な時間の経過を経て、この戦争を一層冷めた目で検証する機運が熟したことを踏まえ、新たな研究が世界的な規模で行われるようになってきたこと、また、戦争を指導した人物たちの生の声を収めた資料が発見されるなど、これまで知られていなかった一級資料が、公開されてきたという事情もあったようだ。
切り口は、軍、メディア、リーダーそして外交である。この戦争が、いわれるように、軍部を中心にした軍国主義勢力だけでなく、日本国民全体の関与によって始まったということを、強調する狙いがあるようだ。
第一回目は、「外交敗戦 孤立への道」と題して、日本外交のちぐはぐさが、日本を世界的な孤立へと追いやり、その結果無謀な戦争をもたらした過程をあぶりだしていた。
まず冒頭に、木戸内大臣をはじめとした、戦争指導者たちの肉声が聞かされる。木戸内大臣はいう、「アメリカと戦うなど、無謀であることは、誰だってわかっていましたよ、それがどうしてああいうことになったのか、」まるで他人事のようである。
木戸に限らず、当時の日本の指導者たちは皆無責任だった、どうも番組はそう言いたいようである。
その政治的な無責任さが、日本の外交をめちゃくちゃなものにし、その結果日本を国際的な孤立状態へと追い込み、ついには無謀な戦争に走らせた、こういう筋書きになるようだ。
日本外交にとって分かれ目になったのは、1932年12月の国際連盟脱退だった。この時の全権大使は周知のとおり松岡だが、この男がどうも、日本の国益を十分に理解していたかどうか、はなはだ疑問であるところに、軍部が自分勝手な外交活動を展開したこともあって、日本の外交は祖国の安全という目的を十分果たせるような状態にはなっていなかった。
そもそも日本の国際連盟脱退は、1931年の満州事変に対する国際的な非難への対抗としてなされたものだ。だがこうした行為が、日本の国益にとってどういう意味を持つか、誰でもわかっていたはずだ。それが、もののはずみで実行されてしまう、そこのところに恐ろしさを感じる。
満州事変が軍部の独走によるものだとは、公然のことだ。その軍部も、いったん始めた戦争が、独自の論理で展開していくものであり、したがってそう簡単に制御できないことは、半分は分かっていたようだ。「戦は始めるとやめられない」という、当時の軍指導者の言葉にあるように、軍部は戦線を次々と拡大していく。
それでも外務省サイドは、英米との協調の道がないかどうか、吉田茂などがいろいろと探った形跡があるが、軍部の方は、自分の都合に基づいて、ナチスドイツに接近した。
防共外交とは、英米との協調の糸口を見つけるために外務省サイドが力説したことであったが、いつの間にか軍部に都合の良いように解釈され、1936年の日独防共協定、その翌年の日独伊防共協定締結のための理屈づけに転用された。
日独伊防共協定が、日本の国益上ほとんど意味をもたなかったことは、たしかなことだ。
こうして日本は、国際的な孤立を深め、ついには無謀な戦争へと突き進んでいく。その戦争を、国民もまた熱狂的に支持したのである。
ところで筆者は、この番組の中で展開される日本外交の幼稚さを見て、北条政権の外交姿勢を思い出したりしたものだ。いや、北条政権にはそもそも、外交という意識自体がなかったといってもよい。だからこそ元との間で、やらなくてもよい無謀な戦争をやるはめになった。
元との戦争の折には、幸い、神風が吹いて、日本は負けずに済んだが、日米戦争ではそうはいかなかった。日本は手痛い敗北を喫することとなった。その責任の一端が、そもそも責任というものを負う能力がなかった日本外交にもあった、番組はそういいたいのだろう。 
 
東京裁判

 

東京裁判については、筆者もそうだが、日本人の多くは両義的な感情を抱いているのではないか。一方では、敗戦国である日本を戦勝国であるアメリカ以下の国が裁いたという点で、極めて政治的な出来事だったのであり、法的な正義をそこに見出すことはできないと感じながら、もう一方では、日本を無謀な戦争に引きずり込み、国を破滅させたばかりか、自分ら国民をひどい目にあわせた戦争責任者たちも許せない、そういった感情も働くという具合なのではないか。
こんな両義的な感情をいだきながら、児島襄著「東京裁判」を読んだ。
児島さんはジャーナリスト出身らしく、この裁判の過程をドキュメンタリー風に描いている。政治的なあるいは法的な価値観よりも、裁かれる人や裁く人たちの人間性の方に重心がある。したがって読み物としての面白さもある。
この裁判の政治的な性格や、法律上の問題点などは、自分自身の口から述べるのではなく、登場人物の口を借りて述べさせている。たとえば、この裁判の違法性をついたアメリカ人弁護士の論旨や、最終判決に当たって少数意見を述べた裁判官の論旨を紹介することで、この裁判が色々な意味で問題を含んでいたことをあぶりだしている。
だからといって、この裁判が本当に問題があったと、著者自身断定するわけでもない。その問題点を、他者の口を通じて間接的に述べることによって、最終的な判断は読者にゆだねようとするつもりのように見える。
ところで、これは余談になるが、A級戦犯というものの定義づけを、この本を通じてあらためて知った。それまで筆者はABCのランク付けを、重大性の程度を表す指標と誤解していたのだが、実際には戦勝国側が提出した犯罪類型をあらわしたものだった。つまりA級は平和に対する罪、B級は通常の戦争犯罪、C級は人道に対する罪と云った具合だ。
A級は、戦争を開始しそれを遂行することで国際平和を踏みにじった罪だということになる。だから太平洋戦争を開始した時の総理大臣はじめ、戦争遂行にかかわった最高責任者たちが裁かれたわけだ。それ以外のBC級戦犯は、中国はじめ各国の裁判所によって裁かれた。それらは具体的な戦争犯罪を対象としたものだからだ。
死刑にされたものはB級戦犯が圧倒的に多い。この書物では920人ということになっている。それに対して東京裁判で死刑を宣告されたA級は7名にとどまる。それでも著者は、ナチスの裁判に比較しても日本の指導者たちは重すぎる刑を科せられたのではないか、と疑問を呈している。 
 
BC級戦犯裁判

 

第二次大戦後に、日本やドイツなどの敗戦国に対して適用されたいわゆる戦犯三類型のうち、日本人を対象にしたBC級戦犯裁判の実態については、これまで組織的な研究がなされてきたとは言い難かった、と林博史氏はいう。この著作「BC級戦犯裁判」は、そうした状況に一石を投じるつもりで書いた、と氏はいうのだが、筆者なども、この問題が今後組織的に研究されることを期待している。というのも、先般は南京事件を巡って、某名古屋市長の放言をきっかけに、日中の歴史認識に齟齬のあることがあぶりだされたばかりであり、歴史的な事実に対しては、曇りのない目で向き合うことが肝要だと、あらためて思い知らされたからである。
A級戦犯を裁いた東京裁判についても、戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた不公平な裁判であり、審理の実態も、政治的な思惑に彩られた不合理なものだったとの批判が、日本人の中には根強い。筆者自身も、児島襄氏などの研究を通じて、そんな印象を持たないでもなかった。
BC級戦犯については、上述したような批判に加え、裁判のやり方が一方的で、無実の者の多くが絞首刑になったり、本来責任のあるものが責任を問われず、現場に居合わせた兵士たちが、上官の命令に従っただけなのに、重大な責任を問われて絞首刑になった、といった不満が強かったようだ。
こんなことから、BC級戦犯裁判問題は、感情的になる要素が強すぎて、客観的な検証が困難だったとは言えよう。だが、感情的になる余りに、この歴史的な問題をきちんと検証しておかなければ、日本人は、ちゃんとした未来を切り開いていけないだろう。
ところで、BC級戦犯と一言でいうが、実体としては、C級である「人道への罪」が、日本人について裁かれたことはなかった。ナチス・ドイツの場合には、ユダヤ人やロマの組織的虐殺をはじめとして、このカテゴリーがクリティカルになったのとは異なり、日本の場合には、伝統的な戦争犯罪、すなわちB級戦犯がもっぱら裁かれた。
裁いた国は8か国、裁かれた日本人は(ソ連の場合を除いて)5700人、ソ連によるものを含めれば1万人程度だと推測されている。というのは、ソ連で行われた戦犯裁判の実態が、いまだに闇に包まれたままだからである。
ドイツやイタリアなどヨーロッパの枢軸国を対象にした戦犯裁判では、9万人が裁かれたというが、それはドイツなどに占領された国々が、自国の国内で行われた戦争犯罪を徹底的に追求したことを反映している。それに対して日本の場合には、フィリピンを除いては、占領された国が直接日本を裁くことはなく、イギリス、フランス、オランダといった宗主国が裁いたのであり、それらの宗主国は日本人による植民地人民の被害については、必ずしも同情的ではなかった。
裁かれた5700人のうち、死刑になったのは984人、そのうち死刑が執行されたのは934人である。死刑になったものの内訳としては、下士官が最も多く、下級の将校がそれに続いている。そのことは、作戦に責任のある上級将校ではなく、個々の事件に直接かかわった現場の責任者たちが罰せられたということを物語っている。しかし、「わたしは貝になりたい」などで情緒的に問題とされた、二等兵や一等兵が上官の命令に従っただけで死刑になった、という事例は存在しない、と氏はいっている。
どんなケースを対象にして、戦争犯罪を追及したかについては、裁いた国によって特徴がある。アメリカは主として米兵捕虜の虐待問題を取り上げた。その象徴は、石垣島に不時着した米軍機のパイロット3人を、日本人がよってたかって虐殺したというもので、これに対しては、下級兵士も含めて、当初は40人以上に死刑判決をだしたほど、厳しい姿勢で臨んだ。
イギリスは、自国兵捕虜の虐待のほかに、植民地住民への虐待も積極的に取り上げた。というのも、イギリスは戦後旧植民地の回復を図るうえで、宗主国としての威厳を保つ意味でも、住民に対して行われた、日本軍による残虐行為を厳しく裁く姿勢をみせる必要があると判断したためだろう、と氏は推測している。
これに対して、フランスとオランダは、もっぱら自国民への虐待を取り上げて、植民地住民についてのケースには冷淡だった。というのも、戦後ヴェトナムやインドネシアなど、両国の植民地が独立を巡って、宗主国と対立関係に入ったという事情があったからだと氏は推測している。
氏の議論のうち、ひとつ印象的だったのは、「当局は、残虐行為の責任者を裁判で処罰する政策を打ち出すことによって、民衆が自力で報復することを抑えようとした。法による裁きは何よりも当事者による報復をやめさせるという働きがある」と指摘している点だ。実際中国では、一部で民衆による直接の報復があったともいわれているが、大部分の場合、現地住民による私的制裁といったような事態は起きていない。
注目すべきなのは、裁かれた戦犯の中に、朝鮮人(148人、うち死刑23人)と台湾人(173人、うち死刑21人)が含まれていることである。朝鮮と台湾は日本の属国とされ、朝鮮人と台湾人は日本国民とされていた。よって彼らは日本人戦犯として裁かれたわけである。
しかし日本政府は、敗戦後、朝鮮人らが独立によって日本国籍を失ったという理由で、彼らやその家族への援護を拒否した。その結果、日本人戦犯については、1952年の独立後、減刑や釈放などの方針がとられ、1958年までには、すべての戦犯が釈放されたにもかかわらず、朝鮮人、台湾人の戦犯は、その恩恵に与れなかった。このことについて、氏は次のようにいっている。
「当時は日本人だとして戦争に駆り立てておきながら、戦争が終わると日本人ではないといって援護を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、卑劣としかいいようのない政策をとったのである」
一人の日本人として、なんとも考えさせられる指摘である。 
 
終戦 なぜ早く決められなかったのか

 

戦後67年もたつというのに、アジア太平洋戦争の全貌はいまだに明らかになっていない。それは全貌解明のために必要な情報が出そろっていないことに原因がある。そうした情報は、終戦時に隠滅されたり、あるいは重要情報を知る人物が固く口を閉ざしてきたことで、なかなか出そろわなかったのだが、近年になって、少しずつ明るみに出てくるようになった。その一つとして、ソ連参戦にかかわる重要情報が最近明らかにされた。それも日本国内からではなく、イギリスの国立公文書館から。
これまで、天皇以下日本の最上層部は、ソ連参戦の情報を最後まで知らなかったとされていた。8月9日にスターリンが対日戦争を宣言したのは寝耳に水のことだったと広く解釈されてきた。その裏話として、日本政府はソ連に対して終戦の斡旋を依頼し、近衛前首相の派遣まで打診していたという、いまとなっては笑えない事実もある。ところが、少なくとも軍の上層部は、ソ連参戦の情報を終戦の年の5月頃には、確実に知っていたという事実が明らかになった。西洋各国の日本大使館の武官たちが本国に送った電報を傍受したイギリス側が、その記録を国立公文書館に保管し、それをこのたび公開したのであるが、それらの電報の中で、駐在武官たちがソ連参戦に関する情報を、本国に送っていたというのだ。
そのいきさつをNHKが取材の上、紹介した。
ソ連の対日参戦が正式に決まったのは1945年2月のヤルタ会談の席でだが、その情報は5月頃には、西洋各国で公然の秘密になっていた。それを察知した各地の駐在武官たちが、5月から7月にかけ、本国に向けて危機感を以て打電していた。だから、軍部のトップはそのことを知っていたはずだというのだ。もしそうならば、事態は深刻なわけで、終戦を急がなければ、対ソ連でも戦火を交えねばならない事態になる。逆にいえば、終戦をもう少し早めていれば、ソ連参戦によって蒙った膨大な損害はもとより、広島・長崎への原爆投下も防げたはずだ、こう番組は指摘して、日本のトップたちの間で、終戦をめぐってどのようなやり取りがあったのか、そのことを改めて検証していた。
日本のトップが終戦について真剣に検討を始めるのは、ナチスドイツの降伏直後の5月中旬のことだ。大本営政府連絡会議の後身というべき「最高戦争指導会議」の場においてであった。これには、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、寺内海相、梅津参謀総長、豊田連合艦隊司令官(軍令部総長の代理としてだろう)の6人が参加していた。いずれも天皇を直接に輔弼乃至補佐する立場として、平等の資格である。この最高の意思決定の場で、構成員たる6人は、情報を共有しながら共通の目的に向かって努力しなければならなかったわけだが、実際にはそうはならなかった。ソ連参戦に関する重要な情報について、阿南も梅津も一言も言わなかったのである。
こんな大事なことを軍部のトップは、首相や外相のみならず天皇に対しても黙っていた。その結果日本は、国家存亡の危機にあたって正しい判断をすることができなかった。
何故軍部は、黙っていたのか。阿南らは、できれば本土決戦まで頑張って、そこで敵に一撃を加え、そのことで少しでも有利な立場を作ったうえで終戦の交渉に臨みたいという、馬鹿げた考えを持っていた。それに固執したことで、ソ連参戦の影響を理性的に評価することができなかった。番組はそんなふうに解釈していたが、阿南らが本当にそう考えて、ソ連参戦の情報を隠匿したのだとしたら、実に馬鹿な奴らだといわざるをえない。
6月22日には天皇も臨席し、終戦の見込みについて検討している。その場で天皇は、いわゆる一撃論を排斥したが、それにもかかわらず阿南らは、ソ連参戦の情報について一言も言わなかった。そのために、終戦についてソ連に斡旋をお願いしようという馬鹿げた方針が出された。実際その方針に基づいて近衛前首相の派遣が検討され、その場合には終戦の条件は近衛に一任するという無責任な結論を出しているが、その近衛が終戦の条件として、沖縄・小笠原の放棄や強制労働の受け入れ(日本人の奴隷化)まで考えていたということについては、筆者も別稿で言及したことがある。
それにしても、戦争を遂行していた日本の指導者たちの無責任ぶりには、改めて愕然とする。開いた口がふさがらないといった、生易しい気持ちではない。 
 
広田弘毅、近衛文麿、松岡洋右

 

昭和時代前期の戦争の時代に登場する日本の政治家には、遠大な展望と精緻な分析をもとに国家を正しい方向へと導けるようなスケールの大きな政治家はいなかった。日本国民にとって不幸なことに、近視眼的な展望と混濁した意識しか持ち合わせない矮小な政治家はいくらでもいた。その連中が、日本と云う国を誤らせた、これが昭和史前期の政治家群像に関する半藤一利さんの基本的なスタンスだ。
半藤さんが忌々しそうに語るそうした矮小な政治家たちの中でも、最も我慢がならないのは、広田弘毅、近衛文麿、松岡洋右の三人のようである。
広田弘毅は、作家の城山三郎が「落日燃ゆ」のなかで持ち上げたために、たいそう立派な人間のように思っている人が多いが、それはとんでもないことだ。彼が2.26事件の後にやったことと云えば、軍部の要求をいちいち取り入れて、「従来の秕政を一新」することだった。秕政とは悪い政治という意味だ。そうした悪い政治を排して軍部が独走する、そんな道筋を立てたのが広田内閣なのである。
まず、「軍部大臣現役武官制」というものを20数年ぶりに復活させた。これは現役の軍人でなければ陸軍大臣や海軍大臣になれないという制度だ。軍部はこれを盾に取ればいとも簡単に内閣をひっくり返すことができる。気に入らぬ内閣には現役の軍人を送らねばよいからだ。
二つ目には、ドイツとの間で防共協定を結んだ。なにもこの時点でドイツとそんな協定を結ぶことは少しも必要なかった、むしろドイツと接近することで英米との距離が大きくなる危険があった。昭和天皇はそのことを大いに憂えたが、あえて口をはさむことはしなかった。
三つ目には、陸軍の統制派が握る幕僚グループが海軍の軍令部と手を握り、国の政策を決定するようなあり方に道筋をつけた。その政策の大綱とは、ソ連に対して北を守りながら、南へと進出する「北守南進」の政策だった。
これに加えて、広田内閣は「不穏文書取締法」を作り、ありとあらゆる言論を弾圧するようになった。
つまり日本と云う国を軍国主義に染め上げていくうえで、広田弘毅は決定的な役割を果たしたというのである。
近衛文麿は優柔不断なインテリと云った印象があるようだが、実際はそうではない。彼なりに確固とした信念があり、その信念に基づいて一貫した行動を通した。だが国民にとって不幸なことは、その信念なり行動なりが、日本の国益と齟齬をきたしていたことだ。そんな近衛を半藤さんは「まことに始末に負えない首相」と断じている。
近衛は第一次内閣の時の昭和12年にシナ事変に遭遇した。遭遇したというのは、自分が政治的に主導した事件ではなく、軍部が起こした事件を追認したに過ぎないという事情があるからだ。これだけでも問題なのに、近衛は大きな戦争に発展する可能性が高いこの事変をまじめに収束しようとはしなかった。それどころか、「蒋介石を相手にせず」などと、唯我独尊的なことをいって、和平の試みを退け、事変がなし崩し的に拡大していくのを放置した。
また国家総動員法を制定して、日本の国力のすべてを戦争遂行と云う目的のために動員する体制を築いた。近衛は筋金入りの好戦主義者という側面を持っていたのだ。
近衛は昭和15年に第二次近衛内閣をつくるが、その時代に、日独伊三国同盟を締結した。
近衛はどうも反英米主義者であったらしく、アングロサクソンの世界制覇に対して懸念するところがあった。彼のドイツびいきは、アングロサクソンへの対抗意識がもたらしたものらしいのである。
いづれにしても、近衛内閣のもとで、日本は着実に対英米戦争への道を進んでいった。心配した昭和天皇が、英米相手に勝ち目はあるのかと近衛に問いただしたところ、若しも負けたら自ら討ち死にする覚悟ですなどと、話にならない返答をしたということだ。
近衛は自尊心の強い男だったらしいが、松岡の方は、自尊心と云うより、自己愛の塊のような男といってよかった。とにかく、目立ちたがり屋だった。国際連盟を脱退するときのポーズなどは、自ら酔いしれているような風情がある。
松岡は日独伊三国同盟調印のために、ドイツまでいってヒットラーと会った帰りに、モスクワにたちよってスターリンと会った。するとスターリンの方から、日ソ中立条約の締結を持ちかけてきた。
松岡はこの思いがけない申し出に飛びついた。ソ連はドイツとの間でも不可侵条約を結んだばかりだ。もしそのソ連と中立条約を結ぶことができれば、日本は満州国境を心配することなく、南進政策を進めることができる、そう判断したのだ。実際は、独ソ不可侵条約はこの直後に破られ、ヒットラーはソ連侵攻を決断する。スターリンはスターリンで、そのことを察知して、日本との関係を無害なものにしたうえで、対独戦に臨もうという配慮が働いていたものと考えられる。
こうしたことは露も解しない松岡は、帰国後大規模な歓迎の挨拶を受け有頂天になる。しかしそんな彼には、世界史の流れを冷静に見つめる目は備わってはいなかったのだ。その曇った目が、日本をあらぬ方向へと導いていくひとつの原動力ともなったわけだ。 
 
戦争を煽った新聞社

 

昭和初期の新聞社が軍部と結託して戦争を煽ったことについては、先稿「熱狂はこうして作られた:メディアの戦争責任」の中でも触れたところだ。その中で、最も戦争礼賛に熱心だったのは東京日日新聞(今の毎日新聞)で、朝日新聞などは批判的なところもあったと書いたが、それは事実ではなかったようだ。半藤一利さんの「昭和史」を読むと、大新聞は一貫して戦争を煽り立てていたということになる。
新聞が戦争報道に熱心だったのは、戦争の記事が良く売れるからだ。戦争のことを書き、勝った勝ったと叫びたてればたてる程新聞は良く売れるのだ。だから新聞各社は、軍部と結託して戦争熱を煽り、読者の熱狂を新聞の売り上げに結びつけようとした。軍部もそれをよく理解していて、戦争遂行に最大限新聞を利用した。
戦争記事が紙面を賑わすようになるのは、満州事変のすぐ後からだ。新聞各紙は毎日のように、戦争の状況を報道し、国民の熱狂を煽っていく。新聞社は記事を派手にするために、巨額の金を使って現地取材を行い、また高級軍人に取り入って情報ネタを仕入れようとした。半藤さんは、新聞社の幹部が「星ヶ岡茶寮や日比谷のうなぎ屋などで、陸軍機密費でごちそうになっておだを上げていたようです」と書いている。
そうしたうわさは民間にも流れていたようで、永井荷風などはそれを日記の中で取り上げ、慨嘆した。
「同社(朝日新聞社)は陸軍部内の有力者を星が岡の旗亭に招飲して謝罪をなし、出征軍人義捐金として金十万円を寄付し、翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りしことありという。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり。かつまた陸軍省の行動は正に脅嚇取材の罪を犯す者と云ふべし(昭和七年二月十一日)」
これは、朝日が一時期戦争に批判的だったことの根拠のひとつとして引合いに出されるところだが、ともあれその朝日も、陸軍の尻馬に乗って「売らんかな」のため「笛と太鼓」で扇動した事実を消すことはできない。
満州国の建国に際しては、朝日新聞は次のように書いて、祝福した。
「新国家が禍根たりしがん腫瘍を一掃し、東洋平和のため善隣たる日本の地位を確認し、共存共栄の実をあぐるに努力すべきであろうことは、いうだけ野暮であろう」
癌腫瘍とは反日運動のことをさす、そんなことはやめて日本と共存共栄しようと新国家に呼びかけているわけだ。
満州事変をめぐって国際連盟での風当たりが強くなり、日本が孤立を深めるようになると、新聞は次のように言って、孤立を恐れるなと、発破をかける始末。
「これ実にこれ等諸国に向かって憐みを乞う怯惰の態度であって、徒に彼らの軽侮の念を深めるのみである・・・我が国はこれまでのように罪悪国扱いをされるのである。連盟内と連盟外の孤立に、事実上何の相違もない」(東京日日新聞)
そして国際連盟が日本軍の満州からの撤退勧告案を採択すると、新聞は連盟からの脱退に向けて、政府の方針を尻押しする。
新聞はまた、日独伊三国同盟の締結に熱心であり、そのために反英世論を煽ることにも努めた。昭和14年におこった天津事件を巡って、日本軍はイギリスとの間で緊張状態に入ったが、その時に日本の新聞社は次のような共同社説を載せて、反英熱を煽った。
「英国はシナ事変勃発以来、帝国の公正なる意図を曲解して援蒋(蒋介石を援助すること)の策動を敢えてし、今に至るも改めず。為に幾多不祥事件の発生をみるに至れるは、我等の深く遺憾とするところなり。我らは聖戦目的完遂の途に加えられる一切の妨害に対して断固これを排撃する敵信念を有するものにして、今次東京会談の開催せらるるに当たり、イギリスが東京における認識を是正し、新事態を正視して虚心坦懐、現実に即したる新秩序建設に協力もって世界平和に寄与せんことを望む。右宣言す」
随分と勇ましい宣言だが、その勇ましさに的確な現実認識が伴っていないことに、当時の大新聞をはじめ日本国民全体の不幸の原因があったわけだ。
戦争末期になると、新聞は事実の報道と云う本質的な機能を全く果たさなくなり、国民に対して嘘の報道ばかりするようになる。というより、軍部の傀儡となって、軍部のいうことを単に横流しするだけの、情けない存在に堕していったのである。  
 
東條英機は日本の独裁者だったのか?

 

今度の12月8日は、日米開戦から数えて71年目である。開戦時の内閣総理大臣は東條英機陸軍大将であった。
東條英機は開戦直前の昭和16年10月18日、近衛文麿内閣の総辞職後、木戸幸一内大臣の後継首班推挙を天皇陛下が承認し、第40代内閣総理大臣となり、昭和19年7月22日まで、1009日間勤めている。
タイトル名は、先日借りてきた「父が子に教える昭和史 あの戦争36のなぜ?」にあった一編からとったものである。著者はノンフィクション作家の保坂正康氏である。氏は東條像を、「とくべつな見識や理念はなく、ひたすら日本陸軍の組織原理に忠実で、小心翼翼とした生真面目な軍官僚」と評している。
東條を身近に見た者に共通する評価としては、カミソリのような頭のキレは認めるものの、あまりにも狭量であることをあげる。陸軍省や参謀本部の将校さえ、「あの時代に東條さんに日本を託さなければならなかったのは、東條さんにとっても、日本にとっても不幸だったと今になって思う」と認めている。
総理大臣就任に際し、天皇陛下から「戦争回避に力を尽くすように」と直言されており、信任は厚かったようである。その意を受け戦争回避には努力したものの、時は既に遅くいかんともしがたかった。開戦日の未明、官邸の自室で皇居に向かい、号泣しながら力不足を天皇に詫びている。
戦時下においては「救国の英雄」と褒めそやされたものの、戦局が悪くなると人心はどんどん離れ、遂に総辞職に追い込まれる。以外と思われるかもしれないが、天皇陛下からの信頼は随分と高かった。失脚時には異例の「感謝の言葉」を贈られている。また、「思慮周密で仕事熱心、話せばよくわかるすぐれた人物であった」と評価され、「東條には同情している」との発言さえある。マイナス点としては、「憲兵の多用と、いかがわしい部下への抑えがきかなかった」ことをあげている。以前取り上げた天才肌の石原莞爾(いしわらかんじ)とはタイプが真逆である。
終戦後は、ご承知のとおり極悪非道の犯罪者のごとく、世の中からそしられた。東條をそしることで国民は敗戦の鬱憤をはらそうとしたきらいがある。しかしこれは、極東国際軍事裁判(東京裁判)において東條をA級戦犯とし、絞首刑にするというGHQのシナリオによる世論操作があったとも言われている。
裁判において自己弁護に走る者が多い中、東條は国家弁護と天皇擁護・免訴に徹しており、その姿勢は高く評価されていい。判決は、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」による絞首刑であり、従容として死に就いている。だか、この罪が成り立つとするならば、アメリカへの開戦通知が遅れた外務省と、真珠湾攻撃を強引に画策・推進した山本五十六が担わなければならない罪ではないだろうか。
余談を二つほどあげる。
何代もの総理大臣に仕えた運転手の話であるが、「歴代の総理大臣のうち、東條閣下ほど立派な方はおられない。隅々まで部下思いで、『あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか』と相当の気配りをされていた」とのことであり、案外人気があったようである。なかなかの好々爺であった。
もう一つは女性に対して、極めて禁欲的なようであった。甥が、親戚宅において戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ官邸に呼びつけ殴打している。そのとき東條の目には涙が浮かんでいたとのことである。いつぞや早稲田で講演を聞いた渡辺淳一先生とは大違いである。さて、諸姉はどちらのお方に興味をお持ちになるのだろうか。
晩年は浄土真宗に深く信心した。政治家は仏教に学ぶべきだと述べている。辞世の歌として次のものがある。享年65(満64歳)。
我ゆくもまたこの土地にかえり来ん 国に報くゆることの足らねば 
 
石原慎太郎の忘れ得ぬ屈辱 / 東京裁判

 

東條英機は「日本のヒトラー」だったのか? 残された遺族たちは…
雨が降っていた。正確な日時は覚えていない。旧制湘南中学校の学生だった元東京都知事、石原慎太郎(83)は、隣に住む大学生に連れられて東京裁判(極東国際軍事裁判)の傍聴に行った。父、潔がどこからか傍聴券を手に入れてくれたからだった。
法廷があったのは、大戦中は大本営陸軍部が置かれた東京・新宿区の陸軍士官学校(現市ケ谷記念館)。2階の傍聴席につながる大理石の階段を上がると踊り場で進駐軍の憲兵(MP)に肩をつかまれた。
「キッド(小僧)!」
大声で怒鳴られたが、何を言っているのか分からない。大学生が「『うるさいから下駄(げた)を脱げ』と言ってるぞ」と耳打ちした。
仕方なしに下駄を脱ぐと、MPは下駄をけり払った。石原ははいつくばって下駄を拾い、胸に抱いて裸足でぬれた階段を上った。
傍聴席から下を見下ろすと、被告席にA級戦犯として起訴された被告がずらりと並んでいた。元首相の東條英機の顔も見えた。
英語なので何の審理をしているのか、さっぱり分からなかったが、戦勝国が「支配者」として一方的に敗戦国を裁こうとしていることだけは伝わった。あの屈辱感は今も忘れない。

東京裁判の法廷は、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の法廷を模して作られた。
かつて天皇の玉座だった講堂の正面部分は無残に破壊されて通訳席となり、判事席と被告席が対面するよう配置された。
昭和21年5月3日から23年11月12日まで続いた東京裁判は、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが、自らを「極東の統治者」として演出するための政治ショーでもあった。被告席は傍聴席から見やすいよう配置され、被告の顔が記録フィルムにくっきり映るよう照明は増設された。
20年8月30日、愛機バターン号で厚木飛行場に到着したマッカーサーは、その日のうちに米陸軍対敵諜報部隊長(准将)、エリオット・ソープにこう命じた。
「戦争犯罪人の逮捕者リストを作れ。そしてまずトージョーを逮捕しろ」
指令を受けたソープは当惑した。リストを作成しようにも戦争遂行に関与した人物どころか、日本政府の指導体制や大戦の経緯など基礎知識がほとんどなかったからだ。もちろん東條の自宅さえ知らなかった。
作業が遅々として進まぬことにいらだったマッカーサーは9月8日にソープを呼び出し、怒鳴りつけた。
「私の命令が10日間も実行されないのは前代未聞だ。48時間以内にリストを提出しろ!」
追い詰められたソープはふと思いついた。
「そうだ。マッカーサーはトージョーと言っているのだから、とりあえず真珠湾攻撃を仕掛けたトージョー内閣の閣僚を中心にリストを作ればよいのだ…」
こうしてソープは翌9日に40人近いリストを作成した。日本軍に協力した元フィリピン大統領やビルマ独立義勇軍のアウン・サン少将まで含まれるずさん極まりないリストだったが、これを基に戦犯容疑者の一斉拘束が始まった。
「居所が分からない」とされた東條は東京・世田谷の自宅にいた。AP通信記者からこの情報を聞いた連合国軍総司令部(GHQ)は、9月11日にMPを拘束に向かわせたが、東條は直前に短銃自殺を図った。
東條は何とか一命を取り留めたが、その後もGHQの失態は続き、キーマンとなる人物が相次いで自殺した。
近衛文麿はその象徴だといえる。12年7月の日中戦争開戦時の首相で、16年の日米開戦直前まで首相を務めた近衛は、日本の戦争責任を追及する上で最重要人物だったが、どうやらGHQは気づいていなかった。
その証拠に、近衛は終戦後の東久邇宮内閣に国務大臣として入閣し、20年10月4日にはマッカーサーが直接会って憲法改正を指示している。この時点では、GHQは従順な近衛に占領政策の一翼を担わせる考えだったのだろう。
近衛は戦犯リスト入りをひそかにおびえていたが、GHQが相次いで発表する追加リストにその名はなかった。11月9日には米戦略爆撃調査団から日中戦争の経緯などを3時間も追及されたが、19日発表のリストにも名前がなかった。
そこで近衛はようやく安堵(あんど)したようだが、12月6日に突如としてリストに名を連ねた。近衛は出頭期限の16日、東京・荻窪の自宅で「戦争犯罪人として米国の法廷で裁判を受けることは耐え難い」と書き残して青酸カリで服毒自殺した。
近衛のリスト掲載が遅れたのは、中国が南京の軍事法廷への引き渡しを要求したこともあるが、GHQが大戦の経緯を理解していなかったことが大きい。
近衛の自殺により、「軍人だけでなく文官も戦争犯罪人として処罰する」というマッカーサーの構想はもろくも崩れ、戦争への関与が極めて薄い元首相、広田弘毅が代わりに処刑されることになった。

東京裁判のずさんさは数え上げれば切りがない。検事団も判事団も戦勝国のみ。A級戦犯の「平和に対する罪」は戦後編み出された概念にすぎない。被告側の戦勝国に不都合な証言は通訳を停止し、記録に残さなかった。
しかも被告の選定には、戦勝国の利害が露骨にからんだ。
21年4月10日、GHQはA級戦犯26人を確定した。ところが、遅れて来日したソ連検事団が、日ソ間の協定で解決済みの張鼓峰事件(13年)とノモンハン事件(14年)を蒸し返し、元駐ソ大使の重光葵と元関東軍司令官の梅津美治郎の追加をねじ込んだ。
重光が禁錮7年の刑となったことには首席検事のジョセフ・キーナンにも自責の念があったようだ。後に重光の弁護人に「重光が無罪になることを期待する十分な理由があり、有罪となって非常に困惑した」と手紙で吐露している。

そんな戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東條だった。
キーナンによる東條への尋問は22年12月31日から23年1月6日まで続いた。
キーナン「米国は日本に軍事的脅威を与えたのか?」
東條「私はそう感じた。日本もそう感じた」
東條はこう語り、米国にハル・ノートを突きつけられ日米開戦が避けられない状況だったことを縷々(るる)説明し、キーナンの「対米侵略戦争論」を跳ね返した。
東條は尋問直前に提出した口述書でも「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反せぬ。(略)勝者より訴追せられ、敗戦国が国際法の違反者として糾弾されるとは考えたこととてない」と主張。その上で「敗戦の責任は総理大臣たる私の責任である。この責任は衷心より進んで受諾する」と結んだ。
自らも認めた通り、東條が大戦時の指導者として多くの兵や国民を死なせた責任は大きい。陸相時代の16年1月に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節を含む戦陣訓を示したことを非難されても仕方がない。逮捕時に自殺を図ったことも不評を買った。
東條の指導力や先見性にも疑問符がつくが、GHQが貼った「日本のヒトラー」というレッテルはあまりに酷だろう。少なくとも東條が昭和天皇を守る盾になる一心で東京裁判に臨んだことは論をまたない。

「日本=侵略国、米国=正義」というGHQの世論操作もあり、東條の遺族に対する戦後日本社会の風当たりは凄まじかった。
東條の長男、英隆は父親と反りが合わず軍人ではなかったが、戦後は就職できず、長く妻の内職で生計を立てた。その長男(東條の孫)の英勝は、小学校では誰も担任を引き受けたがらず、友達もいない。よく登り棒の上から教室をのぞいて過ごした。自殺を図ったこともあったという。就職にも苦労したが、「一切語るなかれ」という家訓を死ぬまで守り続けた。
東條の曽孫、英利(43)も幼い頃から大人の冷たい視線を感じて育った。小学校の担任教諭は何かにつけて「東條英機の曽孫の…」と接頭語をつけた。
小学4年の時、母親に連れられてドキュメンタリー映画「東京裁判」を見に行った。被告席で東條が国家主義者の大川周明に頭をポカリと殴られたシーンを見ていると、母から「あれがひいおじいちゃまよ」と耳打ちされた。
同じ年に東條英機の妻、かつ子が99歳で死去。玄関に飾られた曽祖父の軍服姿の写真を見て、何となく自分の家族の置かれた状況が分かるようになった。高校では、社会科で世界史を選択した。授業中に教諭に東條英機の話を振られるのが嫌だったからだ。
「私も多少不快な思いをしたけれど父の代に比べればかわいいものです。父に『これだけは誇りを持て』と言われたのが、GHQがいろいろと探したのに不法な金品財宝が一切なかったこと。おかげで貧乏暮らしでしたが、今は曽祖父に感謝しています」
こう語る英利は、自分の息子の名にも「英」をつけた。重い歴史を背負う東條家の意地だといえる。 
 
東條英機の宣誓供述書1

 

昭和天皇の苦悩
陛下の苦しみは、東京裁判の開廷と共に強烈なものになったと云う。他国民に与えた人物的損害や自国民に与えた苦痛を原因とする心の葛藤、退位に関するお気持ちをそのまま、御座所でそのまま訴えておられた。それは大変激しいもので、ご自身を責めにせめておられた。
また、侍従次長であった徳川義寛の日記に、以下のような記述がある。
東条らの処刑の日。自分の死ぬべくところを代わってくれたというようなご心境であられたと思う、と村井は遠くから陛下のご様子を拝していたが、当夜、天皇が三谷侍従長と交わされた会話について、直接田島長官から聞く機会があった。村井が書き残したメモに従って再現してみよう。
陛下 / 三谷、私は辞めたいと思う。三谷はどう思うか。
三谷 / お上が、ご苦痛だと思し召すほうをこの際はお選びになるべきであります。お上がおいやになるほうを、ご苦痛と思われるほうをお選びになるべきであります。
東條由布子 まえがき (抜粋)
私はよく神田の古書店街で、「東條英機 宣誓供述書」を見つけ、私はひどく驚いて、しばし呆然としていたのですが、我に返ってすぐにそれを買いもとめました。
本の奥付を見ると、昭和二十三年一月二十日、洋洋社発行とあります。後で分かったのですが、この本は、私の祖父である東條英機が陸軍大臣となつた昭和十五年七月から、総理大臣として内閣稔辞職した十九年七月までの四年間の活動について、祖父自身が振り返って語ったものを、主任弁護士の清瀬一郎先生が書き起こしたものだったのです。
宣誓供述書というのは、裁判を迅速に進行させるために、被告の言い分をあらかじめまとめておく書類のことです。つまりこの書類が裁判の行方を左右することになります。そのためこれを作成するにあたっては、法廷で不備を指摘されないよう、きちっと年代順に、しつかりとした事実に基いて書き進めなければなりません。ですから、この書類の作成にあたった弁護士や秘書官の方々は随分と苦労されたようです。
一方でまた、祖父の几帳面な性格も幸いしました。祖父は手帳に、自分の言ったことから部下の方々が答えたことまで、細かく記録していました。だからこそ事実に基づいた完壁な宣誓供述書ができ上がったのでしょう。
それがどういういきさつで洋洋社から出版されることになつたかは不明です。ところが出版されるとすぐ、連合軍総司令官のマッカーサー元帥によって昭和二十年九月から敷かれていた報道管制の一環として、この『東條英機 宣誓供述蓋は「発禁第一号」に指定されてしまいます。そのため、長いあいだ日の目を見ることがなかったというわけです。
それでも、当時この本が世に出たということは、ひじょうに重要なことだったと私は思うのです。連合軍の検閲によって、発行者には“後ろに手が回る”という危険もあったことでしょう。そのような危険も顧みずこの本を出版した方の「勇気」に、私は敬意を表さずにはいられません。終戦直後の日本にあって、これこそが国民のいちばん欲していたものだったのではないでしょうか。
この本を読み進むにつれ、私はつくづく祖父の「勇気」に感じ入りました。あれだけの四面楚歌の状況の中で、しかも国際裁判の法廷という場で、日本国の立場を正々堂々と主張していたということが、改めて分かったからです。
「断じて日本は侵略戦争をしたのではありません、自衛戦争をしたのであります」
私はこれぞ本物の軍人魂、これぞ日本人だと感じました。死を覚悟していたからこそ、これだけのことが言えたのでしょう。祖父はそのほかにも、自分が開戦の責任者であったこと、日本の国家を弁護するのは自分以外にないということを、はっきりと言い切っています。これだけの強い覚悟、信念があったからこそ、日本国としての主張を堂々と言うことができたのでしょう。読み終えたとき、私は感動を禁じえませんでした。
戦後、日本は連合軍の政策にすっかり洗脳されてしまいました。日本が行った戦争を「侵略戦争」であったと刷り込まれた上に、GHQの検閲により「自衛戦争」という主張は掻き消されていました。日本人は目も耳も塞がれていたのです。
いま中国や韓国が盛んに言い立てる靖国の問題にしても、東京裁判に関する問題にしても、すべてはこの「自衛戦争をしたのであります」という一行が鍵を握っていると思います。戦後の日本人が、心して思っていなければならなかった一行です。この一冊の真髄といえる部分だと思います。これさえしっかりと心に持っていれば、こんな日本にはならなかったはずなのです。
陛下に戦争責任無し
ハルノートを突きつけられた後に於いても、陛下の御意志は下記のごとく、一貫して米英開戦の回避を望んでおられました。そして、時の首相で或東條英機もまた、陛下の御意志を受け、最後まで開戦を回避しようとされていました。その苦渋の後については、是非原書を手にとって頂きたいと思います。
「十一月三十日午後三時過ぎ突然陛下の御召ありただちに参内拝謁しましたところ、陛下より先程高松宮より海軍は手一杯でできるならこの戦争は避けたしとのことであった。総理の考えはどうかとの御下問でありました。」
東條英機は、国策の決定に対し、陛下は拒否されることは無いことを以て、陛下に戦争責任無しと断言しております。
通例の手続により決定したる国策については、内閣および統帥部の輔弼(国務大臣)および輔翼(朝廷の補佐)の責任者においてその全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。この点に関しては私は既に一部分供述いたしましたが、天皇陛下の御立場に関しては寸毫の誤解を生ずるの余地なからしむるため、ここに更に詳説いたします。これは私に取りて真に重要な事柄であります。
要するに天皇は自己の自由意思を以て内閣および統帥部の組織を命じられることはありません。内閣及び統帥部の進言は拒否されることはありません。天皇陛下のご希望は内大臣の助言によります。しかもこのご希望が表明されたときにおいてもこれを内閣および統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否されることはありません。これが戦争史上空前の重大危機における天皇陛下の御立場であられたのであります。
現実の慣行が以上のごとくでありますから、政治的、外向的および軍事上の事項決定の責任は全然内閣および統帥部にあるのであります。それゆえ昭和一六年十二月一日開戦の決定の責任もまた内閣閣員および統帥部の者の責任でありまして絶対的に陛下の御責任ではありません。
大東亜政策に関して東條内閣が実現を図りたる諸事項
そもそも日本の大東亜政策は第一次世界大戦後世界経済のブロック化に伴い近隣相互間の経済提携の必要からこの政策が唱えられるに至つたのであります。その後東亜の赤化と中国の排日政策とにより支那事変は勃発しました。そこで日本は防共と経済提携とによつて日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。しかるに日本の各般の努力にもかかわらず米、英、蘇(ソ連)の直接間接の援蒋行為により事態はますます悪化し、て来ました。日本はこれに努力しましたが、米、英はかえつて対日圧迫の挙に出たのであります。ここにおいて日本は止むを得ず、平和的手段により、仏印、泰更に蘭印と友好的経済的提携に努むるとともに東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。
しかるに日本に対する米英蘭の圧迫はますます加重せられ、日米交渉において局面打開不可能となり、日本はやむを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。
右武力行使の動機は申すまでもなく日本の自存自衛にありました。
東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。
大東亜政策の実現の方策としてはまず東亜の解放でありついで各自由かつ独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。
あたかも約一世紀前の昔ラテンアメリカ人がラテンアメリカ解放のために戟つたのと同様であります。当時、東亜民族が列強の植民地としてまたは半植民地として、他よりの不当なる圧迫のもとに苦悩し、これよりの解放をいかに熱望しておつたかはこの戦争中、一九四三年(昭和十人年)十一月五日、六日東京に開催せられたる大東亜会議における泰国代表ワンワイタヤコーン殿下の演説に述べられた所によりこれを表示することができます。
「特に一世紀前より英国と米国とは大東亜地域に進出し来り、あるいは植民地として、あるいは原料獲得の独占的地域とし、あるいは自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。したがつて大東亜民族はあるいは独立と主権とを失い、あるいは治外法権と不平等条約によつてその独立および主権に種々の制限を受けしかも国際法上の互恵的取扱を得るところがなかつたのであります。かくしてアジアは政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります。かかる事情により生れたる苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留まつているのであります」と。
また同会議において南京政府を代表して江兆銘氏はその演説中において中国の国父として尊敬せられたる孫文氏の一九二四年(大正十三年)十一月二十八日神戸においてなされた演説を引用しております。
「日支両国は兄弟と同様であり日本はかつて不平等条約の束縛を受けたるため発憤興起し初めてその束縛を打破し東方の先進国ならびに世界の強国となつた。中国は現在同様に不平等条約廃棄を獲得せんとしつつあるものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放はすなわち東亜の解放である」
以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。これが東亜各地に欝積せる不平不満であります。
一次世界大戦後の講和会議においてはわが国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することの提案をなしたのであります。しかし、この提案は、あえなくも列強により葬り去られまして、その目的を達しませんでした。よつて東亜民族は大いなる失望を感じました。一九二二年(大正十一年)のワシントン会議においてはなんらこの根本問題に触るることなくむしろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九ケ国条約により再確認を与えられた結果となり東亜の解放をねがう東亜民族の希望とはますます背馳するに至つたのであります。ついで一九二四年(大正十三年)五月米国において排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年七月一日から有効となりました。これより先、すでに一九〇一年(明治三十四年)には濠州政府は黄色人種の移住禁止の政策をとつたのであります。かくのごとく東亜民族の熱望には一顧も与えられずにますますこれと反対の世界政策が着々として実施せられました。
そこで東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としては、戦争の発生とともにこれを以て戦争目的の一つとしたのであります。
大東亜建設の理念
大東亜各国はで始まる五つの性格があります。
(一)共同して大東亜の安定を確保し共存共栄の秩序を建設する
大東亜共存共栄の秩序は大東亜固有の道義的精神に基くべきものでありまして、この点において自己の繁栄のために他民族、他国家を犠牲にするごとき旧秩序とは根本的に異なると信じたのであります。
(二)相互に自主独立を重んじ大東亜の親和を確立する
親和の関係は相手方の自主独立を尊重し、他の繁栄により自らも繁栄し以て自他ともに本来の面目を発揮し得るところにのみ生じると信じたのであります。
(三)相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸長し、大東亜の文化を昂揚する
由来大東亜には優秀なる文化が存しておるのであります。ことに大東亜の精神文化には崇高幽玄なるものがあり、今後これを長養醇化し広く世界に及ぼすことは物質文明の行詰まりを打開し人類全般の福祉に寄与することは少なからずと考えました。
(四)互恵のもと緊密に提携しその経済発展を図り大東亜の繁栄を増進する
大東亜の各国は民生の向上、国力の充実を図るため互恵のもと、緊密なる提携を行い共同して大東亜の繁栄を増進すべきであります。
(五)人種的差別を撤廃し文化を興し進んで資源を開放して世界の進運に貢献する
口に自由平等を唱えつつ他国家他民族にたいし抑圧と差別とをもつて臨み自ら膨大なる土地と資源とを壟断し他の生存を脅威して顧みざるごとき世界全般の進運を阻害するごとき旧秩序であってはならぬと信じたのであります。
仏印および泰国との国交の展開の上においても、すべて平和的方法によりその達成を期せんとしておることは前にも述べた通りであります。この主旨は一九四三年(昭和十人年)十一月五日開催の大東亜会議に参集しました各国代表の賛同を得て同月六日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。
※下記に、米国の意図する東亜諸国の自由と平等について記述します。
どうしても日米関係の打開を図ろうと、両国首脳会談を申し込んだ日本に対し、1941年10月2日、ハル長官は太平洋の全局の平和維持の為に、予め下記の四項目の了承を必要とし申し出た。ようするに、首脳会談を拒絶したのです。
この各項目には、東亜諸国の独立と主権尊重は歌われていません。一見、そのように受け取れるのですが、前提は西洋諸国が植民地支配を続けるという条件があることを忘れては成らない。
上記(1)〜(5)の根本理念とは妥協できないことが明確に分かります。だから、日米の和平交渉は成立しなかった一面もあるのでしょう。
1、各国の領土ならびに主権の尊重
2、他国の内政不干渉主義の支持
3、通商上の機会均等を含む均等原則の支持
4、平和的手段によるのほか太平洋における現状の不変更
1941年11月26日、ハルノート
日本陸海軍はいうに及ばず警察隊も支那全土(満州含む)および仏印より無条件に撤兵すること。
満州政府の否認
南京国民政府の否認
三国同盟条約の死文化(※米国との交渉を有利にすること、防共協定が目的で、独の参戦要望に対して日本は拒否している。) 
ハルノートの作成者について
実際、後に東京裁判のパル裁判官はアメリカの現代史家ノックを引用して、ハル・ノートのような覚書を突きつけられたら、「モナコ王国やルクセンブルク大公国のような小国でも、アメリカに対して矛を取って立ち1がったであろう」と言っているが、まさにそのとおりである。
ハル・ノートと言われるが、本当はハル国務長官の案ではなく、財務省高官であったハリー・ホワイトが起草し、ルーズベルト大統領が「これで行け」と言ったものであることが戦後明らかになった。野村・ハル会談の流れにない案が突然出てきたのは、この理由からである。
ホワイトは戦後も要職にあったが、その後スパイ容疑が出て自殺した。ハル・ノートは、ソ連の指導者スターリンの意向を受けて日本を対米戦争に追い込むための条件が書かれた文書と理解してよいであろう。ルーズベルトの周囲には当時、数百人のコミンテルン協力者がいたと言われるが、これもその一例と言える。
アメリカはシナ大陸に利権を求めたいがために、排日移民法を作り、のちには石油を止めることもやった。また真珠湾には大艦隊を集結させた。しかも、近代国家として日本が存在できないような経満封鎖を行った。不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約。一九二八年=昭和三)を提唱したアメリカの国務長官ケロッグも、アメリカ議会における答弁の中で、「侵略戦争とは国境を越えて攻め入るようなことだけでなく、重大な経済的脅威を与えることも侵略戦争と見なされる」という主旨のことを言っている。このケロッグの定義によれば、石油禁輸などは、日本に対する侵略戦争開始と言える。
第二次世界大戦の真因
「イギリスやアメリカに対抗するためには、日本も自給自足圏を作るしかない」と考える日本人が出てくるのも当然の展開であった。つまり、東アジアにおいて、日本を中心とする経済ブロックを作り、その中でおたがいに貿易を行うことで、この大不況を生き残ろうというのである。その考えは、やがて「日満ブロック政策」(日本と満洲(中国東北部)を一つの経済圏とする政策)となり、これが日本国民の広い層の支持を得ることになった。だが、アメリカやイギリスがブロック経済化する以前は、日満ブロックのような考え方を日本は支持していなかったのである。
ヨーロッパでもドイツやイタリアのような「持たざる国」では、英米のような「持てる国」の経済ブロック化に対抗して、国家社会主義化(ファッショ化)が国民の支持を得るようになつた。一九三〇年代のファッショ化の引き金は、アメリカとイギリスが引いたのである。
第二次世界大戟は、ドイツや日本が始めたものだとされるが、本当はドイツや日本を戦争に追い込んだのは「持てる国」がブロック経済をやり出したためである。そのことを最もよく知っているのは正にアメリカやイギリスであった。
それで大戦の終結が見え出した一九四四年(昭和十九)七月、アメリカのニューハンプシャー州のブレトンウッズで戦後の世界経済を考える会議を開き、自由貿易体制の世界を作る金融機関設置を決めたのである。つまりこの会議は、第二次大戦は自由貿易制度の破壊その元凶は、アメリカのホーリー・スムート法とイギリスのオタワ会議であったことをアメリカとイギリスが、自白したことを示すものであったと言える。
大東亜諸国に対する施策
A ビルマ国の独立
一九四三年(昭和十人年)八月一日、日本はビルマ民族の永年の熱望に答え、そのビルマ国としての独立を認めかつ同日これと対等の地位において日緬同盟条約を締結しました。ビルマ民族がその独立をいかに熱望しておつたかは同年十一月六日の大東亜会議におけるビルマ同代表バー・モー氏の演説中に明らかにされております。その中の簡単な一節を引用します。
「わずかに一千六百万のビルマ人が独力で国家として生まれ出づるために闘争したときは常に失敗に終りました。何代にもわたつてわれわれの愛国者は民衆を率い打倒英国に邁進したのでありますがわれわれが東亜の一部に過ぎないこと、一千六百万人の人間がなし得ないことも十億のアジア人が団結するならば容易に成就し得ることこれらの基礎的事実を認識するに至らなかつたためにわれわれの敵に対するあらゆる反抗は仮借するところなく蹂躙されたのであります。かくて今より二十年前に起つた全国的反乱の際にはビルマの村々は焼き払われ婦女子は虐殺され志士は投獄されあるいは絞殺されまたは追放されたのであります。しかしながらこの反乱は敗北に終つたとはいえこの火焔、亜細亜の火焔はビルマ人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へと繰りかえされこのようにして闘争は続けられたのであります。しかして今日漸くにしてついにわれわれの力は一千六百万のビルマ人の力のみではなく十億の東亜人の力である日が到来したのであります。すなわち東亜が強力である限りビルマは強力であり不敗である日が到来したのであります」
B フィリピン国の独立
一九四三年(昭和十人年)十月十四日、日本はフィリピンにたいし全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。また同日これと対等の地位において同盟条約を締結しました。
C 泰(タイ)国の独立と自立
一九四三年(昭和十八年)十一月六日の大東亜会議において泰国代表ワンワイタヤコーン殿下はこれにつき次のごとく述べております。「日本政府は宏量、よく泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります(かくて日本政府はマライ四州およびシャン二州の泰国領編入を承認する条約を締結されたのであります。これじつに日本国は泰国の独立および主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民にたいして深甚なる感謝の意を表する次第であります」
D 欄領印度(インドネシア)の独立
戦略上ビルマなどのように、即独立を認めることは出来ず、将来独立を認めようとしていたのだが、その前に東条内閣は総辞職する。しかし、次の小磯内閣においてインドネシアの独立を声明し、東條自身もこれに賛成している。
E インド独立へ
帝国政府は一九四三年(昭和十八年)十月二十一日自由印度仮政府の誕生を見るにおよび十月二十三日にこれを承認しました。右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心としてシュバス・チャンドラ・ボース氏の統率の下に印度の自由独立および繁栄を目的としてこれを推進する運動より生れたのであります。帝国はこの運動にたいしては大東亜政策の趣旨よりして印度民族の年来の宿望に同情し全幅の支援を与えました。なお一九四三年(昭和十人年)十一月六日の大東亜会議の機会においてわが国の当時の占領地城中唯一の印度領たるアンダマン、ニコパル両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意ある旨を声明しました。これまたわが大東亜政策の趣旨に基きこれを実行したのであります。
大東亜会議の模様
本会議は強制的のものでなかつたことは、その参集者は次のような所感を懐いておることより証明ができます。フィリピン代表のラウレル氏はその演説中において次のごとく述べております。
「私の第一の語はまず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。すなわち、この会合において大東亜諸民族共同の安寧と福祉との諸問題が討議せられまた大東亜諸国家の指導者閣下におかれましては親しく相交ることによりて互に相知りよつて以て亜細亜民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設およびこれが恒久化に拍車をかけられる次第であります」
また陪席せる自由印度仮政府代表ボース首班の発言中に下記の様に述べています。
「本会議は戦勝者間の戦利品分割の会議ではありません。それは弱小国家を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、また弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありましてこの会議こそは解放せられたる諸国民の会議でありかつ正義、主権、国際関係における互恵主義および相互援助等の尊厳なる原則に基づいて世界のこの地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります」
更にビルマ代表バーモー氏は本会議を従来の国際会議と比較し次のごとく述べております。
「今日この会議における空気は全く別個のものであります。この会議から生れ出る感情はいかように言い表わしても誇張し過ぎる事はないのであります。多年ビルマにおいて私は亜細亜の夢を夢に見つづけて参りました。私のアジア人としての血は常に他のアジア人に呼びかけて来たのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中でアジアはその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが今日この席において私は初めて夢であらざるアジアの呼声を聞いた次第であります。われわれアジア人はこの呼声、われわれの母の声に答えてここに相集うて来たのであります」
人種平等世界の出発点となった「大東亜会議」 / 大東亜会議七十周年記念
1.戦争目的を世界に向けて宣明
今から七十年前の昭和十八年十一月五、六日に、大東亜会議が帝国議会(現国会)議事堂において催された。
議事堂を囲む銀杏が黄ばむころ、東條首相、汪精衛中国(南京政権)行政院長、タイのワンワイタヤコン首相代理殿下、張景恵満州国国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、チャンドラ・ボース自由インド仮政府主席が、一堂に会した。
この会議は有色人種のリーダーが集って、人種平等を高らかに宣言した人類史上最初のサミットだった。
大東亜会議はアジアを白人の数世紀にわたる植民地支配による「樫桔(枷)から解放」し、「道義に基く共存共栄の秩序を建設」することを掲げた、大東亜共同宣言を採択した。
私の亡父は敗戦の九月、東京湾に浮ぶ敵戦艦『ミズーリ』号で行われた降伏調印式に、全権として調印した重光英外相に随行した。重光全権のすぐわきに父が立っている。私は父にその時の心境を、たずねたことがあった。「重光も私も『戦いに敗れたが、日本はアジアを解放し、大きな世界的な使命を果した』誇りをいだいて、甲板を踏んだ」と述懐した。
日本は国家としては敗れたが、民族として勝ったのだった。
日本が白人の大帝国ロシアに対する日露戦争に勝ったことによって、全世界の有色民族が覚醒し、前大戦を戦うことによってアジアを解放し、人類にまったく新しい歴史を拓いた。大東亜会議は開戦三年目に入るのに当たって、戦争目的を世界へ向けて宣明するものだった。
日本はペリー艦隊が江戸湾に侵入し、要求に従わされた後に、西洋列強によって一連の屈辱的な不平等条約を強いられた。
日本国民は二つの大きな悲願を、いだいた。不平等条約の撤廃と、人種平等の世界を創ることだった。最後の不平等条約は、日露戦争後になって撤廃されたが、人種平等の世界を招き寄せる夢を見つづけた。
私は一九五〇年代末にアメリカに留学したが、黒人に対する差別は、それは酷いものだった。選挙権も奪われ、教会から水飲み場まで、白人と黒人用に分けられていた。
日本がアジアを解放すると、その高波がアフリカも洗って、アフリカ諸民族が次々と独立した。アメリカは戦後も、国内で黒人に対する差別を続けた。だが、アフリカの外交官を差別することができなかった。すると、一九六〇年代に黒人による公民権運動が起って、ついに黒人が不当な差別から解放された。
多くの州で白人と黒人のあいだの性交渉や、結婚を犯罪としていたが、一九六七年になって最後の三つの州で、撤廃された。
大戦後、アメリカのメジャーリーグで、はじめて黒人がプレイできるようになった。七〇年代に入ると、黒人もテニスやゴルフを楽しめるようになった。
今日、アメリカで黒人のオバマ大統領が登場したが、先の大戦で生命を捧げた、数百万の御英霊と、国民の犠牲によるものである。
大東亜会議は人類の長い歴史のはてに、人種平等の理想の世界を創りだした。白人もいまでは、人種差別を行ったことを悔いている。日本は人類の光だった。私たちの幕末からの夢が、結実した。
昭和十八年十月に、大東亜会議に参加するために、首脳たちがつぎつぎと来京した。インド独立の英雄であるボース主席がいた。ボースは会議で演説して『大東亜宣言』が「全世界の被抑圧人民の憲卓早である」と、結んだ。
日本はアメリカの不当な圧迫に耐えられず、自衛のために立ち上ったが、大東亜会議こそ今日では当然のことになっている、人種平等の世界の出発点となった。
2.『大東亜会議七十周年』を祝う国民集会
この十一月六日に 『大東亜会議七十周年』を祝う国民集会を憲政記念館で催す準備を憂国の同志とともに進めており、渡部昇一先生、ニューヨーク・タイムズ元東京支局長のH・ストークス氏、ボース首席の孫のボース氏、私が講演する。
アジアではチベット、ウィグル、南モンゴル (中国が外モンゴルと呼ぶ)、中国、北朝鮮をはじめとする諸民族が、いまだに過酷な圧政のもとで苦しんでいる。
アジア解放の夢は、まだ実現していない。私たちは先人たちから、アジア解放の戦いを続けてゆく崇高な使命を、托されている。
3.「君は大東亜会議を知っているか?」
いったい、今日の日本の若者の何人が、大東亜会議を知っているだろうか。宮沢内閣による教科書の書き直しや、村山首相談話によって、日本は侵略国家の汚名を着せられてきた。
日本国民が大東亜会議を学ぶことによって、日本がアジアを侵略したのではなく、解放した真実を知ることになるのを、願っている。
日本を占領したGHQが公開禁止にした、昭和18年のニュース
貴重な映像がNHKのサイトにありました。昭和18年の大東亜会議開催の報道です。
日本を占領したGHQが公開禁止にした理由がよく解るのは、「大東亜共同宣言」は昭和16年の米英の大西洋憲章に対峙したものだからです。大東亜会議は世界史上初のアジアサミットで、重光葵が発案しました。ところが、来年が戦後70年になる現在でも、全くこのニュースの意義が報じられないのは、日本がまだ米国を中心とする連合国軍に占領されているということではないでしょうか?
自由インド仮政府代表のチャンドラ・ボースが羽田に到着するシーンで、上海の朝鮮人によるテロ事件で片足を失った彼が、脚を引きずりボースを迎える光景が非常に印象的です。
重光は敗戦後のミズーリ艦上の降服文書調印でも有名ですが、東京裁判でA類戦犯として起訴され7年の刑を受けました。日本の主権回復前の昭和25年に仮釈放されますが、主権回復後は連合国と日本のサンフランシスコ講和条約の規定に基づき、日本政府と東京裁判に参加した全ての国の政府との合意で刑の執行を終了しています。
その後、この偉大な重光葵は自由民主党の結成に参加し、鳩山内閣で外務大臣を務めました。つまり、いわゆる「A級戦犯」のA類戦犯でも外務大臣に就任したわけで、A類戦犯が靖国に祀られているからという理由で日本の政治家の靖国参拝を問題視するのは、幼稚な反日プロパガンダであることがよく解ります。

古きアジアの終焉を告げ、新しき世界歴史の進展を宣言する大東亜会議。大東亜各国代表は、東京羽田飛行場に相次いで到着いたしました。昭和18年11月1日、中華民国代表、行政院院長汪精衛閣下、並びに列席者。続いて満洲国代表、国務総理大臣張景恵閣下、並びに列席者。翌2日、フィリピン国代表、大統領ホセ・ベ・ラウレル閣下、並びに列席者。3日、泰国代表首相代理ワンワイ・タヤコン殿下、並びに列席者。続いてビルマ国代表、内閣総理大臣、ウ・バー・モウ閣下、並びに列席者。これより先10月31日、自由インド仮政府首班、スバス・チャンドラ・ボース閣下は、帝国政府の同政府承認に対し、感謝の意を表明するため来朝し、たまたまこの世紀の大会議に陪席する光栄を担ったのであります。かしこくも天皇陛下には、大東亜会議に列席し、共栄圏の輝ける歴史に燦たる1ページを記録すべき重大使命を担って来朝せる中華民国、泰国、満洲国、フィリピン国、ビルマ国の代表を、11月4日宮中に召させられ、御歓待・御激励の思し召しをもって午餐を御催し遊ばされました。
5日、この日、世界の視聴を浴びて帝都にそびえる白亜の議事堂に、大東亜6ヶ国の代表、一同に会す。劈頭(へきとう)、帝国代表東條総理立って所見を開陳。
今次の戦争は大東亜の全民族にとりましては、実にその興廃の分かるる一大決戦であります。この戦いに勝ち抜くことによりまして、初めて大東亜の諸民族は永遠にその存立を大東亜の天地に確保し、共栄の楽しみをともにいたしますることができるのであります。もとより、米英はその頼みとする物質的戦力を挙げて、大東亜に反攻を繰り返すことは当然であります。大東亜の諸国家はその全力を尽くし、これを徹底的に破砕し、さらに彼らに痛撃を加え、もって戦争を完遂して、大東亜永遠の安定を確保しなければならんのであります。道義に基づく大東亜の新建設は、現に(音声中断)の真っ只中にあって着々として、実現を見つつあるのであります。
日本代表東條首相1
これより再開をいたします。本日午前の議事におきまして、議案に関する質疑および討論を終了いたしました。よって、ただいまから採決を行います。ここに改めて議案を朗読いたします。大東亜共同宣言。そもそも世界各国が各々そのところを得、相倚り、相扶けて、万邦共栄の楽しみをともにするは、世界平和確立の根本要義なり。しかるに米英は自国の繁栄のためには、他国家他民族を抑圧。特に大東亜に対しては、あくなき侵略、搾取を行い、大東亜隷属化の野望をたくましうし、遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり。大東亜戦争の原因、ここに存す。大東亜各国は相提携して、大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放して、その自存自衛を全うし、左の綱領に基づき、大東亜を建設、もって世界平和の確立に寄与せんことを期す。一つ、大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設す。一つ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実をあげ、大東亜の親和を確立す。一つ、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢し、大東亜の文化を高揚す。一つ、大東亜各国は互恵のもと緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進。一つ、大東亜各国は万邦との交誼(こうぎ)を篤うし、人種的差別を撤廃し、あまねく文化を交流し、進んで資源を開放し、もって世界の進運に貢献す。」
日本代表東條首相2
満場一致をもちまして、事案は採択されました。よってここに、大東亜共同宣言は成立をいたしました。これをもちまして予定の議事を終了いたしましたが、他に別にご発言はありませんか。
イギリス帝国主義の圧迫のもと、いばらの道をともに歩み励ましあって今日の喜びの日を迎えたビルマ国代表バー・モウ首相立って、自由インド仮政府支援の発言をなす。
インドの独立なくしてアジアの自由なし。インドとビルマの共同の敵は、かのイギリス帝国である。私は私の闘争の体験から、武力なき戦いは無力であると痛感するに至った。かかる見地から、インドの武力奪還を提唱され、かつ闘争されてきた、我が友スバス・チャンドラ・ボース閣下こそは、独立首相の最適任者である。アジア10億の民衆、団結なった今日、インドの独立、また近きを確信する。
大東亜会議が送る絶大の支援に対し、自由インド仮政府首班ボース閣下立って、インドにあっては完全なる独立か、しからずんば死滅あるのみと、抗英武力決戦の固き決意を披瀝(ひれき)。熱烈たるその叫びは、深く一同の胸に食い入り、インド4億の民衆の先頭に立ち、イギリス打倒に驀進(ばくしん)する偉大なる指導者に、満場の聴衆、粛然として無言の激励を送る。
日本代表東條首相3
憂国のインド人は立ち上がり、そのインドを思い、アジアを思う熱情の切々たるものありますることは、ただいま自由インド仮政府首班閣下の演説におきましても、これを明、明らかにされたところであります。同政府のもとに、決起せる同志の(聞き取り困難)、貫徹の気迫、烈々として、結束とみに(聞き取り困難)の現状にかんがみまして、ここにインド独立の第1階梯(かいてい)といたしまして、帝国政府といたしまして、目下帝国軍において占領中のインド領でありまするアンダマン諸島、およびニコバル諸島を、近く自由インド仮政府に帰属せしむるの用意ある旨を、この席上において帝国はこれを闡明(せんめい)いたす次第であります。
かくて第2日の大東亜共同宣言に見る、偉大なる成果を収めた大東亜会議は、ここに幕を閉じたのであります。
陸軍と政治との関係
第一次世界大戦後の生産過剰と列強の極端なる利己的保護政策とにより自由貿易は破綻を来したのであります。この自由貿易の破綻はひいては自由主義を基礎とせる資本主義の行き詰まりという一大変革期に日本は当面したのであります。かくして日本の国民経済に大打撃を与え国民生活は極度の窮乏に陥りました。しかも当時世界的不安の風潮は日本にも滔々として流れ込んだのであります。かくて日本は一種の革命期に突入しました。
この革命期には大別して二種の運動がありました。その一つは急進的な暴力革命の運動であります。他の一つは斬新的で資本主義を是正せんとするいわゆる革新運動であります。急進的暴力革命派は軍人もしくは軍隊を利用せんとし、青年将校等を扇動しかつ巻き込まんとしました。その現れが五・一・五事件(1932年、昭和七年)、二・二・六事件(昭和十一年)等でありました。けだし、農山漁村困窮の実情が農山漁村の子弟たる兵士を通じて軍に反映して青年将校等がこれに同情したことに端を発したのであります。しかして軍は二・二・六事件のごとき暴力行為は軍紀を破壊し国憲を紊乱しその余弊の恐るべきものあるにかんがみ、廣田内閣時代寺内陸相により粛軍を断行しこれを処断するとともに、軍人個々の政治関与を厳禁しました。他面陸軍大臣は国務大臣たる資格と責任において政治的に社会不安(すなわち国民生活の窮乏と思想の混乱)を除去する政策の実行を政府に要求致しました。検事側の問題とする陸海軍現役生の復活もこの必要と粛軍の要求とより出たものであります。かくのごとき関係より軍が政治的発言をなすに至つたのであります。検察側の考えるごとく暴力的処置により軍が政治を支配せんとしたものではないのであって、以上の如き政治情勢が自らしからしむるに至ったのであります。
ABCD経済封鎖(東條英機の証言)
一九三九年(昭和十四年)七月二十六日アメリカのわが国との通商航海条約廃棄通告以来米国のわが国に対する経済圧迫は日々にはなはだしきを加えております。その事実中、わずかばかりを記憶により陳述いたしますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月にはルーズベルト大統領は屑鉄、石油等を禁輸品日に追加する旨を発表いたしました。米国政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用ガソリンの西半球外への輸出禁止を行う旨を発表いたしております。同年十月初旬にはルーズベルト大統領は屑鉄の輸出制限令を発しました。以上のうち特に屑鉄のわが国えの輸出制限は当時の鉄材不足の状態とわが国に行われた製鉄方法にかんがみわが朝野に重大な衝撃を与えたのであります。
また日本の生存に必要なる米およびゴムをタイ・インドネシアの地区において買取ることの妨害が行われたのであります。日本の食糧事情としては当時(一九四一年頃にあつては)毎年約百五十万トン(日本の量目にて九百万石)の米を仏印および泰より輸入する必要がありました。これらの事情のため日仏印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に経済協定を結んで七十万トンの米の入手を契約したのでありましたが仏印は契約成立後一ケ月を経過せざる六月に協定に基く同月分契約量十万トンを五万トンに半減方申出て来ました。日本としては止むなくこれを承諾しましたところ七、八月分についてもまた契約量の半減を申出でるという始末であります。泰においては英国は一九四〇年(昭和十五年)未に泰ライス会社にたいしてシンガポール向け泰米六十万トンという大量の発注をなし日本が泰における米の取得を妨害いたしました(ゴムについては仏印のゴムの年産は約六万トンであります。その中日本はわずかに一万五千トンを米ドル払いで入手していたのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米国は仏印のハノイ領事にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害しまた、英国はその属領にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害しまた、英国はその属領にたいし一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本および円ブロック向けゴムの全面的禁止を行いました。
対ソ外交と共産主義(防共)
尚、[近衛文麿上奏文]にも共産主義による破壊工作が述べられています。
他面日本帝国は第三インターナショナルの勢力が東亜に進出し来ることに関しては深き関心を払つて来ました。けだし、共産主義政策の東亜への浸透を防御するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱し、ひいて世界平和を脅威にするに至るべきことをつとに恐れたからであります。これがため、国内政策としては一九二五年(大正十四年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)一九四一年(昭和十六年)更にこれを改訂し、以て国体変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備え、また対外政策としては、支那事変において、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるにかんがみ、共同防共を事変解消の一条件とせることも、また東亜各独立国家間において「防共」を以て共通の重要政策の一としたることも、これはいずれも東亜各国共同して東亜を赤化の危機より救い、かつ自ら世界赤化の障壁たらんとしたものであります。これら障壁が世界平和のためいかに重要であつたかは、第二次世界大戦終了後この障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁にこれを物語つております。
敗戦の責任は我にあり
本供述書は事柄の性質が複雑かつ重大なるよりして期せずして相当長文となりました。ただ私は世界史上長も重大なる時期において、日本国家がいかなる立場にあつたか、また同国の行政司掌の地位に選ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、その権限内において、いかなる政策を樹てかつこれを実施するに努めたかを、この国際的規模における大法廷の判官各位に御了解を請わんがため、各種の困難を克服しつつこれを述べたのであります。
かくのごとくすることにより私は太平洋戦争勃発に至るの理由および原因を描写せんとしました。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、わが国に取りましては無効かつ惨害をもたらしたところの一九四一年(昭和十六年)十二月八日に発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因しわが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。なお東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身をも含めて)がなぜ戦争を欲したのかの理由は他にも多々存在します。これは私の供述の中に含まれております。ただわが国の開戦は最後的手段としてかつ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げます。
満州事変、支那事変および大東亜戦争の各場面を通して、その根底に潜む不断の侵略計画ありたりとなす主張にたいしては私はその荒唐無稽なる事を証するため、最も簡潔なる方法を以てこれを反証せんと試みました。わが国の基本的かつ不変の行政組織において多数の吏僚中のうち小数者が、長期にわたり、多の内閣を通じて、一定不変の目的を有す共同謀議(この観念は日本には 在しないが)をなしたなどいう事は理性ある者の到底思考し得ざる事なることがただちに御了解下さるでありましょう。私はなぜに検察側がかかる空想に近き訴追をなさるかを識るに苦しむ者であります。
日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが大東亜戦争開始の計画に追加された事、なおこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため本法廷に多数の証拠が提出せられました。これにたいし私の証言はこの合理にしてかつ自然に発生したる導因の本質を白日のごとく明瞭になしたと信じます。
私はまた国際法と大東亜戦争の開始に関する問題とにつき触れました。また日本における政府と統帥との関係ことに国事に関する天皇の地位に言及しました。私の説明が私および私の同僚の有罪であるか無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸せであります。
終りに臨み−−恐らくこれが当法廷の規則の上において許さるる最後の機会でありましょうが−−私はここに重ねて申上げます。日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位にあつた官吏の採つた方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手続きに従いこれを処理して行きましたが、ついにわが国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷したわれわれとしては、国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途でありました。われわれは国家の運命を賭しました。しかして敗れました。しかして眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。
戦争が国際法上より見て正しき戦争であつたか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別のできる二つの異なつた問題であります。
第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私はいまだかつてわが国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。
第二の問題は、すなわち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。
右ハ当立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス
 同日於同所  立会人 清瀬一郎
宣誓書
良心二従ヒ真実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ
   署名捺印 東條英機
昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於東京、市ヶ谷
   供述者 東條英機
東條英機元首相公的遺書全文
昭和23年12月22日夜、死刑執行(12月23日零時)数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が朗読した遺言である。
開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰なぐさめられておるが、国内的の自らの責任は死を以もって贖あがなえるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志に依り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。此度の戦争に従事してたおれた人及び此等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならないのではないか。此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如ごとく大きな恩めぐみは忘れられぬものである。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も亦他の民族と同様に天地に生きる権利を有べきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。印度の判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以もって東亜諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争に因よりて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。
現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。
今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯かくの如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。
今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為ためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。
日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に放棄した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然からざれば、盗人が跋扈する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何いずれも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。それ故、第三次世界大戦は避けることが出来ない。
第三次世界大戦に於て主なる立場にたつものは米国およびソ連である。第二次世界大戦に於いて日本とドイツというものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。
第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。凡生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速すみやかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少すくなくない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。
今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等これらについては衷心謝罪する。
然これと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。
最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。』
辞世
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき
いまだ戦争は終わらず
世界中の人々が希望に燃えて迎えた新しい千年紀の幕開けから二年が過ぎた今、世界情勢は騒々しくなってきた。アメリカを直撃した航空機テロ、アフガニスタンに潜むテロヘの徹底反撃、イスラエルとパレステナの戦いも激しさを増してきた。世界中の人々が心を一つにした平穏なあの日はもう一戻らないのだろうか―。
戦火の中を逃げ惑う幼い子供たち、その頬を伝う涙を見るたびに平和な日本に生きていることの有り難さを思う。しかし、戦争が無いことイコール平和ではない。最近の乱れ放題の社会風潮、どん底の経済不況、続発する政界の不祥事、気付かぬ内に勢力を延ばす反日思想、戦う相手の顔が見えないだけに、日本の将来に危機感を募らせる人は多い。
戦後の徹底した占領政策が功を奏し伝統的な日本人の価値観が大きく揺らいだことも原因の一つであろう。『国を守る』『日本人としての誇りを持つ』『先人に感謝する』『先輩を敬う』『他人を思いやる』ことなど国家の一員として当然でも、国家という言葉さえ理解できずに育つ子供たちが親になり、教師になり政治家になり、裁判官になる時代になった。自由、平等、人権などが先行する民主主義教育が半世紀をかけて浸透した結果が現代の風潮であれば、それを是正するには長い歳月を要することは言うまでもない。悠久の歴史の中で培われた日本民族の伝統的な精神もその価値観を失ってしまったのだろうか?
半世紀前、国家存亡の危機に立たされた日本は、国の威信にかけて戦争という苦汁の選択をした。
若者たちがペンを銃に代え学び舎を離れ、愛しい人々への思いも断ち切って戦場に散った。青春を謳歌することもなく、妻を娶ることもなく、父母の暖かい懐を離れ国家の危急に立上がった彼等の心情を思うと、やり切れない哀しさが込み上げる。記念館に掲げられている出撃前の僅かなひとときを子と戯れる愛くるしい面影を残す若き荒鷲たちの真の思いは知るよしもないが、出撃を前にした彼等の表情の何と凛々しく爽やかなことであろう。訪れる学生たちが感動で目を潤ませているが、事の善し悪しは別にして己の命をかけて国や愛しい人を守った先輩たちの生き方は、彼等が生きてゆく上で、何らかの指針になるかも知れない。
海軍少佐   西日高光命
神風特別攻撃隊 爆装零戦に搭乗し南西諸島洋上にて戦死 二十二歳
学鷲は一応インテリです。
そう簡単に勝てるなどとは思っていません。
しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…。
おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう、民族の誇りに……。
出撃二日前に従軍記者に語った心境だが彼は戦後の国際社会で苦境に立つであろう日本の立場まで推察し、その講和条約における日本の条件が少しでも有利に展開するなら己の命は……。
個を以て国や同胞を救う民族愛の強さに感動する。彼らが戦場に飛び立つ際に書き残した遺書の行間に祖国を思い肉親の平穏を祈る至純な思いがあふれている。彼等のこうした思いを礎に平和な日本が築かれていることも教えない現代の風潮は、国家を乱す大きな要因であるといつても過言ではない。
毎年、八月十五日になると繰り返される靖国神社を取り巻くあの騒動を英霊がたは天上でどんな思いで眺めていることだろう。日本のために命を捧げた日本人を祀る聖地に、外圧によって日本の総理が参拝できないという理不尽な風潮は皆で真剣に考え直す時である。
現在の国の在り方を象徴するように、異国の戦場の洞窟には、いまだ鉄兜を被りロイドメガネをかけ軍靴を履き胸には手櫂弾を抱えた日本の将兵の遺骨が放置されたままである。現代の日本政府が過去の戦争責任を問われるならば、国策として多くの将兵を戦場に送った国家責任はどうなのか? 膨大な赤字債券を抱えてまで利権絡みの膨大な金額のODA支援をする前に、国の責務として異国に放置したままの百二十万柱の同胞の遺骨を帰還させるべきではなかろうか。
いまだ南浜の果に、凍上の荒野に、孤島の洞窟には百二十万柱の将兵の亡骸が放置されているという事実を知る人は少ない。先人がたへの感謝の心も教えず、ひたすら過去の日本を非難する教育をする国家がどうして栄えよう。
若い兵士たちが散華する際に書いた遺書を教科書に載せれば当然、先輩を尊敬する気持が湧いてくる。国会を喧騒の場にしている国会議員たちが先人の遺書を座右の書にすれば、国民のための良策が出てくるかも知れない。』   東條由紀子
日本がいまだやり残していること / 東條由紀子
街の電光掲示板が今世紀の残り日数を刻々と告げている。「二十世紀」という呼び名と別れる寂しさがより募ってくる。今世紀の最後の日、私の心の中の走馬灯には自分の人生に大きな影響を与えた人々の面影が映し出されるに違いない。
昭和五十年代、我が家には百歳の祖母と四歳の曾孫が同じ屋根の下に暮らし、楽しそうに会話をしていた。母方の祖母マサは長崎で医学を修めた父親の勧めで上京し女子教員を養成する大学に入った。日露戦争が勝利した年、彼女は大学を卒業し郷里に帰り教師になった。ほぼ同じ頃、父方の祖母かつ子も福岡から上京し女子大に入った。平塚女史が女子教育に情熱を傾けていた頃である。三十年後、二人は夫の勤務地である満州で子供たちの結婚話で会うことになる。無論当時はそれを知るよしも無い。祖母たちは髪を桃割れに結い上げ、くくり袴に編み上げ靴を履き平均台を渡リテニスに興じた。新しい国造りの担い手として若者にかけられる期待は大きく、彼等も西欧の知識を精力的に吸収した。祖母が残したノートには初めて見聞きする西欧教育に胸を躍らせる文字が目につく。舞踏会華やかなりし鹿鳴館時代に祖父母たちは青春時代を送った。
東條家の家系図を見ると軍人は英教、英機の二代だけで、元は『能』の宝生流の宗家だった。曾祖父・英教は山県有朋に見出だされ四人の若者たちの一人としてドイツに留学した。後にメッケル将軍は“東洋にこんな優秀な男がいたのか!”唸ったという。祖父・英機も父親と同じ軍人の道を歩み、女子大の学生だった、かつ子と結婚し陸軍大学に進んだ。
こうした生活環境の東條家に熊本の片田舎の教師の娘だった母が二十歳で嫁いできた。「東條家にとっての今世紀は?」と問われれば、首相の座にあった栄光の時代から、戦後の四面楚歌の中で人目を避けて生きてきた時代を含め、東條家の歴史と共に歩んできた母の人生と重なる部分が多い。「東條家に嫁いで本当に幸せだった」という母の心には、戦後の悲しい時代は消え東條の祖父母の懐かしい面影と優しい言葉しか残っていない。母が嫁いできたばかりの頃、祖父が買ってくれた若草色のショールと、初孫の兄が生まれた時に、祖父がデパートから買って病院に持って来てくれたベビー布団とお宮参りの祝い着が今も大切に母の箪笥にしまわれ、その機月を物語る。
母にとって舅・英機は世界中からいかなる謗りを受けようとも最も敬愛する優しい義父であった。弟が小学校に入学した日、担任の女教師から“東條君のお祖父さんは「泥棒」よりも悪いことをした人”と級友に紹介され泣いて帰った時、母は「世間の誰が何と言っても、お祖父さまは御国のために命を捧げられた立派な御方です。東條家に生まれた誇りを持ちなさい」と毅然と言った。この自信に満ちた『誇りを持て』という言葉が戦後の人生を支えてくれた。両親を戦争で亡くした近所の三姉弟に追いかけられ、石をぶつけられ、小さな妹と弟を兄と私が一人ずつ抱えてうずくまり薪で叩かれている時、物心ついていた兄は何を考えて耐えていたのだろうか?また、転校先で担任のなり手が無い時、毎日ポールに登って窓から級友の姿を眺めていた幼い兄の心を思うといじらしくてならない。当時、獄中に在った祖父に兄は幼い文字でその胸中を書き送っている。『僕はお祖父ちゃまのことを誰が何と言っでも黙っています。お父ちゃまがお返しをしてはいけないと言うので殴られても我慢しています。本当は僕だってお返しぐらいは出来るけど!』と。
獄中の祖父から祖母や父母宛てにくる手紙には、必ず兄「英勝」の名前が見える。傷ついた幼い心が綴ったこの手紙を祖父はどんな思いで読んだのか。
あれから半世紀が流れたころ、『昭和天皇独自録』が出版された。一人の人間として赤裸々に胸中を述べられた文中に東條に信頼を寄せられている文字が多々あった。長年、鬱積していた思いが吹っ切れた。母の手箱の中に大切に保存されていた膨大な数の祖父母からの手紙や絵葉書や育児日記など、我が家に残された祖父母に関する資料を全て網羅して、家庭を軸にした東條英機像を描いた本を書いた。それが文春文庫に収まっている『祖父東條英機「一切語るなかれ」である。平成十年春には東條英機を主人公に、東京裁判の真相を公開した映画『プライド 運命の瞬間』が上映され百三十万人の観客を動員した。私への取材攻勢からしても、海外のマスコミもいかに東京裁判の真相を知りたがっているかが分かった。大きな時代のうねりが確かにやって来た。“百年の後の名を期せ、真実が明かされる日が必ずやって来る”と言った祖父の言葉が心に甦る。
祖父の遺書の中に見える一つの悲願成就のために、私は新たな一歩を踏み出した。平成十一年九月十日、日米合同の遺骨収集団の日本側団長として南の島、パラオ・ペリリュー島に渡った。異国の戦場にはいまだ百二十万柱の遺骨が放置されたままである。祖父が生きていたら、飛んで行って詫び自らの手で収集したであろうにと胸が塞がれる思いだった。密林の洞窟の奥深く半世紀もの間、放置されたままの遺骨の前に額ずき"こんなに暗くて寂しい所に、ごめんなさい、 一緒に故郷に帰りましょう″と、温れる涙がハラハラと遺骨を濡らした。若い団員が母のような優しさで遺骨を胸に抱く姿に涙し、かつての敵国だった米国軍人たちが命懸けで日本兵の遺骨を探してくれるその崇高な心に感動した一間もなく忘れ得ぬ激動の二十世紀が終わる。しかし、遺骨収集の旅が終わる日はいつの事か、その目処も立たない。
日本青年への 東條英機首相の遺書
日本青年諸君に告げる。 / 日本青年諸君各位
我が日本は神国である。
この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。
諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。
思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花もお散る木の実も心なき さそうはただに嵐のみかば」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
という歌を残されて淡々としかし堂々の最後を遂げられました。
東條由布子さん逝去
2013年2月13日に、享年74歳の人生を閉じられました。心からご冥福をお祈りいたします。
戦後、東條家の方々は大変苦労されました。弟が小学校に入学した日、担任の女教師から、「東條君のお父さんは泥棒より悪いことをした人」、と級友に紹介され泣いて帰ってきた時、また良心を戦争でなく舌近所の姉妹に石をぶつけられ、小さな妹と弟を兄と私が一人ずつ抱えてうずくまり、薪で叩かれている時、母は「世間に誰が何と言おうと、お父様はお国のために命を捧げられた立派な御方です。東條家に生まれた誇りを持ちなさい」と毅然と言った。この自信に満ちた『誇りを持て』という言葉が戦後の人生を支えてくれたという。
東條英機が当時の日本の首相として、戦争をしたことや戦争に負けたことに対しての謝罪ではなく、その結果として天皇と国民に惨禍を招いたことに対する責任を取られたのだと思います。一切語るなかれ!という思いは、東條家の一員としてその誹りを受けても耐えなさいということです。GHQや国民からも天皇への戦争責任を追及されることがないよう、自らがその防波堤となることで、天皇が国民を思う気持ちを自らの責任で代弁されのだと思います。GHQに対して日本が侵略戦争をしたという反省と謝罪の為に「一切語るなかれ!」と言ったのではなく、東條家の一員として私と共に、国体護持の為に今は耐えてくれ!と。そして、いつかこの戦争は日本の自衛の為の戦争であったことを証明する時 が来るからと。母はそのことを知って「誇りを持ちなさい」と子供たちに教えたのではないでしょうか。我が国は復讐の為の欺瞞の東京裁判を認めたのではなく、国体護持の為にその諸判決を認めたのでした。
我が国は先の大戦で反省も謝罪もする必要はありません。それは当時も今も同じです。
我が国との交戦国ではないシナ・朝鮮に靖国参拝や領土問題を問われる所以は一切ない。将に火事場泥棒です。日米を分断し、日本の国力を弱め、属国にして支配しようとしている。最終的にはチベットのように我が国の国体を破壊することで、彼らは目的を達成しようとしている。そして、太平洋に進出し、次は米国を倒し、全世界を支配しようと狙っているのです。そのことに私達日本国民は気付かなければなりません。
東條由布子さんこそが、祖父の遺志を継ぐ、天の配剤ではなかったでしょうか。これからも(今までも、今もそうですが)、天上界の神々は、高潔で真摯な方々を、背後から支え続けられることでしょう。一人一人の役割が知らず知らずのうちに。一つの目的を目指している日本国民の姿こそが、世界に対する日本の使命としての天の配剤なのだと思います。
東條英機が「宣誓供述書」を書き遺し、孫の由布子さんがその本を復刻し世に問われた。その遺志は、今、直系ひ孫の東條英利さんに受け継がれました。こうして一つの目的の為に、時代を超えてその遺志を継承できるのは、目に見えない「日本の家」という血縁によるものだろう。 英利さんは、全国の神社情報「神社人」を主宰し、昨年著書「日本の証明」を出版され、私達がこの日本の国に生まれ、生きている本質的な意味を問うておられます。そのことについて著書の中で、著者ご自身が次のように告白されていることは、私自身(鷹)の思いとも合い通じるものがあるので記して置きたい。

昔の人は、何かいいアイディアが浮かんだりすりと、これを決して、自分のお蔭、自分の閃きは将に天才的だと自画自賛することはなく、神様がそっと後押しをしてくれたからだと謙遜したという。私もこうした往古の日本人の解釈に習うならば、曾祖父を含めた先人の苦労があったからこそ、自分のやるべき役割の中に、こうした過去と現在の結節点を導き出す宿命を見出せたのだと思う。そして、それはきっと自然の摂理でもあるのだろう。それが、私自身が、何十年とアイデンティティから逃避して来た自分自身の宿命を認識した瞬間であり、自己のアイデンティティと真正面に向かい、熟慮を重ねた自分なりの回答となったのである。東條家というレッテルを貼られることによって、自分を保ってきた。しかし、そこには本質的な自分は存在せず、現実逃避にも似た虚飾にまみれたものだったと言えるだろう。だから、思想的にも右往左往し、空虚なる自我と共にコンプレックスを感じ続けたのである。しかし、海外での体験を通じ、東條という名の以前に存在する日本人というアイデンティティーを感じた結果、わたしは、自分自身の原点と向き合い、その自覚を持つことの大切さを知った。そうした虚と実が一体となった瞬間、そこには、自然と自分の中に日本人としての誇りが見え始めた。現在日本国が陥っている閉塞感は、まさに、この虚実の一体感の無さから来ているのではないだろうか。今の日本人は、物質主義にまみれることで、仮初めの享楽に溺れ、実体のない降伏を求め、もうずっと迷走を 繰り返してきている。仮に、その感覚が無くても、世の中の仕組みを感じ取ろうとしたとき、意識は外に向き、内なる自我に向いていないことは明らかである。
しかし、ここで一歩立ち止まって、冷静にその足元を見て頂きたい。振り向いてみれば、先人たちがどれだけの奇蹟と可能性を齎してくれていたかが分かるはずである。そのきっかけは自分の原点を見つめるという、ほんの些細な意識の変化でしかない。ただ、多くの人はその術を知らないだけである。・・・」以上  
 
東條英機の宣誓供述書2

 

わが經歴

私は一八八四年(明治十七年)東京に生れ、一九〇五年(明治三十八年)より一九四四年(昭和十九年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。私は一九四〇年(昭和十五年)七月二十二日に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治には關係しませんでした。私はまた一九四一年(昭和十六年)七月十八日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。一九四一年十月十八日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。(同日陸軍大將に任ぜらる)。内務大臣の兼攝は一九四二年(昭和十七年)二月十七日に解かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがあります。一九四四年(昭和十九年)二月には參謀總長に任ぜられました。一九四四年(昭和十九年)七月二十二日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、豫備役に編入せられ、爾來、何等公の職務に就いては居りませぬ。即ち私は一九四〇年(昭和一五年)七月二十二日に政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然四年後の同じ日に責任の地位を去つたのであります。

以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、本件の御審理に關係あり、且參考となると思はれる事實を供述します。ここ[玆]に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在つた」とかいふ語を使用する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、從つて其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味はありませぬ。

但し、ここに唯一つ一九四〇年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項があります。それは外でもない一九三七年六月九日附の電報(法廷證六七二號)のことであります。私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事を否認するものではありませぬ。然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の一〇四頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。檢察官は私の發した電文は『對「ソ」の作戰に關し』打電したと言つて居りますが、右電文には實際は『對「ソ」作戰準備の見地より』とあります。又摘要書作成者は右電文が『南京を攻撃し先づ中國に一撃を加へ云々』と在ることを前提とするも電報本文には『南京政權に一撃を加へ』となつて居るのであります。(英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依る)。本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場より對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せるものであつて、軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違し、下僚間の連絡程度のものであります。
當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の脅威、平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の危險情態に曝されて居りました。此儘推移したならば濟南事件(一九二八年)南京事件(一九二八年)上海事件(一九三二年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せられました。而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對ソ防衞の重責上、滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありました。之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかつたのであります。中國との間の終局的の國交調整の必要は當然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むるか、然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。この關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。
この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。然し本意見は採用する處とはなりませんでした。蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)は本電とは何等關係はありません。蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であつたことに依ても知られます。 
第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢

先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衞内閣の成立に關する事實中、後に起訴事實に關係を有つて來る事項の陳述を續けます。私は右政變の約一ケ月前より陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。七月十七日陸軍大臣より歸京の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌十八日午後九時四十分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。其時の印象では大命を拜された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。乃ち近衞公は我國は今後如何なる國策を取るべきか、殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解しました。

その夜、近衞首相候補から通知があつたので、翌七月十九日午後三時より東京杉並區荻窪に在る近衞邸に出頭しました。此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。この會談は今後の國政を遂行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談でありましたから、會談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであります。近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと等を提唱せられまして、之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。政治に關する具體的のことも話に出ました。内外の情勢の下に國内體制の刷新、支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものであります。陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、自分は希望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。此の會合は單に意見の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。閣僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、我々はその結果については通報を受けました。要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。その後近衞公爵に依り閣僚の選定が終り、同月二十二日午後八時親任式がありました。
當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。即ち(一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、(二)軍の統帥を一層確立すること、(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。

ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置く必要があります。此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來三年に相成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出して居りません。重慶に對する米英の援助は露骨になつて來て居ります。これが支那事變解決上の重大な癌でありました。我々としてはこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大なる變化を世界に與えました。東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚になつて來て居ります。それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。從つて帝國としてはこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。第三に米英の日本に對する經濟壓迫は日々重大を加へました。これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありました。
對内問題について言へば第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相でありました。之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。第三に米英等諸國の我國に對する各種の壓迫に伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになつて來て居りました。 
二大重要國策

斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。その一つは一九四〇年(昭和十五年)七月二十六日閣議決定の「基本國策要綱」(法廷證第五四一號英文記録六二七一頁、及法廷證第一二九七號英文記録一一七一四頁)であります。その二は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」と題する連絡會議の決定(法廷證一三一〇號英文記録一一七九四頁)であります。私は陸軍大臣として共に之に關與しました。此等の國策の要點は要するに二つであります。即ちその一つは東亞安定のため速に支那事變を解決するといふこと、その二つは米英の壓迫に對しては戰爭を避けつゝも、あくまで我が國の獨立と自存を完ふしようといふことであります。
新内閣の第一の願望は東亞に於ける恒久の平和と高度の繁榮を招來せんことであり、その第二の國家的重責は適當且十分なる國防を整備し國家の獨立と安全を確保することでありました。此等の國策は毫末も領土的野心、經濟的獨占に指向することなく、況んや世界の全部又は一部を統御し又は制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。
私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題は解決を要する最重大問題であつて、私の明白なる任務は、力の限りを盡して之が達成に助力するに在りと考へました。私が豫め侵略思想又は侵略計劃を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。又私の知る限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。

七月二十六日の「基本國策要綱」は近衞總理の意を受けて企畫院でその草案を作り對内政策の基準と爲したのであります。之には三つの要點があります。その一つは國内體制の刷新であります。その二は支那事變の解決の促進であります。その三は國防の充實であります。第一の國内體制については閣内に文教のこと及び經濟のことにつき多少の議論があり結局確定案の通り極まりました。
第二の支那事變の解決については總て一致であつて國家の總ての力を之に集中すべきこと、又具體的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。
第三の國防充實は國家の財政と睨み合せて英米の經濟壓迫に對應する必要上國内生産の自立的向上及基礎的資源の確保を爲すべき旨が強調せられたのであります。大東亞の新秩序といふことについては近衞總理の豫てより提唱せられて居ることでありまして此際特に論議せられませんでした。要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇國の大精神」(英文記録六二七二頁、英文記録一一七一五頁)といふことはもっとも最も道徳的意味に解せられて居ります。道徳を基準とする世界平和の意味であります。三國同盟そのものについては此時は餘り議論はありませんでした。唯、現下の國際情勢に對處し、從來の經緯に捉はるゝことなく、彈力性ある外交を施策すべきであるといふ點につき意見の一致を見たと記憶します。

「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。これは七月二十七日に連絡會議で決定せられました。此の要綱の眼目は二つあります。その一は支那事變解決の方途であります。その二は南方問題解決の方策であります。此の要綱の討議に當り、議論になつた主要な點は凡そ四つほどあつたと記憶します。
•(A)獨伊關係、獨伊關係については支那事變の解決及世界變局の状態よりして日本を國際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。支那事變を通じて米英のとりたる態度に鑑み從來の經緯に拘らず獨伊と提携し「ソ」聯と同調せしむるやう施策すべしとの論であります。當時は日獨伊三國同盟とまでは持つて行かずたゞ之との政治的の聯絡を強化するといふ意味でありました。又對「ソ」關係を飛躍的に調整すべしとの論もあつたのであります。
•(B)日米國交調整、全員は皆、獨伊との提携が日米關係に及ぼす影響を懸念して居りました。近衞總理は天皇陛下の御平生より米英との國交を厚くすべしとの御考を了知して居りましたから、此點については特に懸念して居られました。乃ち閣僚は皆支那事變の解決には英米との良好關係を必要とすることを強く感じて居りました。たゞ「ワシントン」會議以來の米英の非友誼的態度の顯然たるに鑑み右兩者に對しては毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。松岡氏の主張は若し對米戰が起るならばそれは世界の破滅である、從つて之は極力囘避せねばならぬといつて居ります。それがためには日米の國交を改善する必要があるがそれには我方は毅然たる態度をとるの外はないといふのであります。會議では具體案については外相に信頼するといふことになりました。
•(C)對中國政策、對中國施策としては援蒋行爲を禁止し敵性芟除を實行するといふにありました。何故斯の如きことが必要であるかといへば今囘の事變の片付かないのは重慶が我が國力につき過小評價をして居るといふことと及び第三國の蒋介石援助に因るからであるとの見解からであります。從つて蒋政府と米英との分斷が絶對的に必要であるとせられたのであります。
•(D)南方問題、對「ソ」國防の完壁、自立國家の建設は當時の日本に取つては絶對の課題でありますが之を阻害するものは(1)支那事變の未解決と(2)英米の壓迫であります。右のうち第二のことについては重要物資の大部分は我國は米英よりの輸入に依つて居るといふことが注意せられます。もし一朝この輸入が杜絶すれば我國の自存に重大なる影響があります。從つて支那事變の解決と共に此事に付ては重大關心が持たれて居りました。之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完壁を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。但し支那事變の進行中のことでもあり日本は之がため第三國との摩擦は極力これを避けたいといふのであります。 
三國同盟
一〇
以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。右條約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。自分は單に陸軍大臣として之に參與致しました。國策としての決定は前に述べました第二次近衞内閣の二大國策に關係するのであります。即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を強化すとの項目に該當致します。(英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本供述書九項中(A)として述べた通りであります。
この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りました。第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、此の問題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。吉田海軍大臣は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。九月四日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫めの打合せもなく突如議題として提案せられました。
それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。右會合は之に同意を與へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に會見して居ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議及御前會議となつたのであります。「ここで申上げますが檢事提出の證據中一九四〇年(昭和十五年)九月十六日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られますが(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同年八月一日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」
一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議では同月四日の四相會議の合意を認めました。此の會議で私の記憶に殘つて居ることは四つであります。
其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るかの點でありますが、松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。
其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。此點に付ては松岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。
三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點でありますが、松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふることが出來る。從つて米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、萬一米國參戰の場合には我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へました。
四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、松岡外相は此點は獨逸も希望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、參會者も亦皆松岡外相の説明を諒と致しました。
右會議後同日午後三時頃より御前會議が開かれました。同日の御前會議も亦連絡會議の決議を承認しました。此の御前會議の席上、原樞府議長より「米國は日本を獨伊側に加入せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白とならば對日壓迫を強化し、日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、之に對し松岡外相は「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる御機嫌とりでは恢復するものではない。只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。
一一
此の條約締結に關する樞密院の會議は一九四〇年(昭和十五年)九月廿六日午前十時に審査委員會を開き同日午後九時四十分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのであります。(法廷證五五二號、同五五三號)樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海相、藏相だけであります。同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました。星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは單に説明者でありまして、審議に關する責任はありませぬ。責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして同會議陪席の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合致するといふことは保證出來ません。此の會議の場合に於ても左樣でありました。
此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作戰計劃の一部として考へて居つた對米作戰計畫に基いて説明したものであります。斯る計畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして國家が對米開戰の決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。統帥部としては將來の事態を假想して平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。これは統帥の責任者として當然のことであります。尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があつたのに對し松岡外相より條約案第五條及交換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しました。以上樞密院會議の決定を經て翌二十七日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。
一二
右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く右同盟締結の目的は之に依て日本國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、併せて歐洲戰の東亞に波及することを防止せんとするにありました。
三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。唯、「持てる國」の制覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へました。大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つものでありまして、其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定して居ります。又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありません。之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。 
北部佛印進駐
一三
一九四〇年(昭和十五年)九月末に行はれたる日本軍隊の北部佛印進駐については私は陸軍大臣として統帥部と共に之に干與しました。日本の南方政策は引つゞき行はれたる米英側の經濟壓迫に依り餘儀なくせられたものであつて、其の大綱は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」(法廷證一三一〇號)に定められてあります。この南方政策は二つの性格を有して居ります。その一は支那事變解決のため米英と重慶との提携を分斷すること、その二は日本の自給自足の經濟體制を確立することであります。ともに日本の自存と自衞の最高措置として發展したものであつて、而もこれは外交に依り平和的に處理することを期して居つたのでありますが、米英蘭の對日壓迫に依り豫期せざる實際問題に轉化して行つたのであります。
一四
私は以下に日本軍の少數の部隊を北部佛印に派遣したことにつき佛印側に便宜供與を求めたことを陳述致します。元來この派兵は專ら對支作戰上の必要より發し統帥部の切なる要望に基くのであります。
前内閣時代である一九四〇年(昭和十五年)六月下旬に佛印當局は自發的に援蒋物資の佛印通過を禁絶することを約し、其の實行を監視する爲日本より監視機關を派遣することになつたのであります。(法廷證六一八)當時「ビルマ」に於ても同樣の措置が取られました。然し實際にやつてみると少數の監視機關では援蒋物資禁絶の實施の完璧を期することの出來ぬことが判明しました。加之、佛印國境閉鎖以來重慶側は實力を以て佛印ルート再開を呼號し兵力を逐次佛印國境方面に移動したのであります。故に日本としては斯る情勢上北部佛印防衞の必要を感じました。なほ統帥部では支那事變を急速に解決するため支那奧地作戰を實行したいとの希望を抱き、それがため北部佛印に根據を持ちたいとの考を有しました。七月下旬連絡會議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになつたのであります。此の要求の要點は北佛自體に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵力を通過せしめることの要求であります。その兵力は前者六千、後者は二千位と記憶して居ります。右に關する外交交渉は八月一日以來、松岡外相と日本駐在の「シヤール、アルセイヌ、アンリー」佛蘭西大使との間に行はれ、同年八月三十日公文を交換し話合は妥結したのであります。(法廷證六二〇の附屬書第十ノ一、及二)。即ち日本側に於ては佛領印度支那に對する「フランス」の領土保全及主權を尊重しフランス側では日本兵の駐在に關し軍事上の特殊の便宜を供與することを約し、又此の便宜供與は軍事占領の性質を有せざることを保證して居ります。
一五
右八月三十日の松岡「アンリー」協定に於ては右の原則を定め現地に於ては日本國の要望に滿足を與ふることを目的とする交渉が遲滯なく開始せられ、速かに所期の目的を達成するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を發せらるべきものとしたのであります。そこで前に監視機關の委員長として現地に出張して居つた西原少將は大本營の指導の下に右日佛兩國政府の協定に基き直ちに佛印政廳との間に交渉を開始し、九月四日には既に基礎的事項の妥結を見るに至りました。(法廷證六二〇號の附屬書第十一號)引續いて九月六日には便宜供與の細目協定に調印する筈でありましたが、不幸にも其前日たる九月五日に佛印と支那との國境に居つた日本の或る大隊が國境不明のために越境したといふ事件が起りました。(其後軍法會議での調査の結果、越境に非ざることが判明しましたが)無論これは國境偵察の爲でありましたから一彈も發射した譯ではありませんが、佛印側は之を口實として細目協定に調印を拒んだのであります。當時佛印當局の態度は表面は「ヴイシー」政府に忠誠を誓つて居つたようでありましたが、内實はその眞僞疑はしきものと觀察せられました。一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、それでも最後まで平和的方法で進行したしとの念を棄てず、これがため參謀本部より態々第一部長を佛印に派遣し、此の交渉を援助せしめました。その派遣に際しても參謀總長よりも、陸軍大臣たる私よりも、平和進駐に依るべきことを懇切に訓諭したのでありました。それでも細目協定が成立しませぬから、同月十八、九日頃に大本營より西原機關に對し同月二十二日正午(東京時間)を期して先方の囘答を求めよといふことを申してやりました。これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐を承諾せるに拘らず、現地の作爲で遲延するのであるから、自由進駐も止むを得ずと考へたのであります。從つて居留民等の引上げもその前に行ひました。
佛印側との交渉は二十二日正午迄には妥結に至りませんでしたが、我方も最後に若干の讓歩を爲し、それより二時間程過ぎた午後二時過に細目協定の成立を見るに至つたのであります。(それは證六二〇號の附屬書十二號であります)然るに翌二十三日零時三十分頃に佛印と支那との國境で日佛間に戰鬪が起りました。それは當時佛印國境近くに在つた第一線兵團は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居つたがため、連絡が困難で二十二日午後二時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であつたのと、「フランス」側に於ても、その通知の不徹底であつたからでありますが、此の小衝突はその日のうちに解決しました。海防方面の西村兵團は「フランス」海軍の案内に依つて海防港に入ることになつて居つたのでありますが、北方陸正面で爭の起つたのに鑑み海防港には入らず、南方の海濱に何等のことなく上陸しました。なほその後同月二十六日日本の偵察飛行隊が隊長と部下との信號の誤りから海防郊外に爆彈を落した事件が起りました。これは全くの過失に基くもので且一些事であります。
一六
要するに我國が一九四〇年(昭和十五年)九月末に佛印に派兵したことは中國との問題を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとしたのであります。又實際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遙か以内なる四千位であつたと記憶します。一九四一年(昭和十六年)十二月八日、米國「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書(法廷證一二四五號J)中に
陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、これに依て五千又は六千の日本軍隊を北部佛印に入れ、それより以北に於て中國に對し作戰中の日本軍を保護する許可を得た
と述べて居ることに依ても當時の事情を米國政府が正當に解釋して居つたことを知り得ます。
以上説明しましたやうな次第で不幸にして不慮の出來事が起りましたが、之に對しては私は陸軍大臣として軍紀の振肅を目的として嚴重なる手段を取りました。即ち聯隊長以下を軍法會議にかけ、現地指揮官、大本營幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。之はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、又陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居つたのに基くもので、軍内部の規律に關することでありまして、之は固より日本が佛印側に對し國際法上の責任があることを意味したものではありません。 
日華基本條約と日滿華共同宣言
一七
第二次近衞内閣に於て一九四〇年(昭和十五年)十一月卅日、日華基本條約を締結し日滿華共同宣言を發するに至りました事實を述べ、これが檢察側の主張するような對支侵略行爲でなかつた事を證明致します。これは一九四〇年(昭和十五年)十一月十三日の御前會議で決定せられた「支那事變處理要綱」に基くのであります。(辯護側證第二八一三號)何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたのかと申しますに、これより先、從前の政府も統帥部も支那事變の解決に全力を盡して居りました。一九四〇年(昭和十五年)三月には南京に新國民政府の還都を見ました。これを承認しこれとの間に基本條約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出發し、南京に滯在して居りましたが、南京との基本條約を締結する前に今一度重慶を含んだ全面和平の手を打つて見るを適當と認めました。また當時既に支那事變も三年に亘り國防力の消耗が甚だしからんとし、また米英の經濟壓迫が益々強くなつて來て居るから我國は國力の彈撥性を囘復する必要が痛感せられました。この支那事變處理要綱の骨子は
•(一)一九四〇年(昭和十五年)十一月末を目途として重慶政府に對する和平工作を促進する
•(二)右不成立の場合に於ては長期持久の態勢に轉移し帝國國防の彈撥性を恢復す
といふのでありました。
一八
右要綱(一)の對重慶和平工作は從來各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つたのでありますが、此時これを松岡外相の手、一本に纒めて遂行したのでありましたが、この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのであります(證四六四、英文記録五三一八頁)。この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出來たものであつて彼の一九三八年(昭和十三年)十二月二十二日の近衞聲明(證九七二、英文記録九五二七頁)の主旨を我方より進んで約束したものであります。又同日日滿華共同宣言(證四六四號英文記録五三二二頁)に依つて日滿華の關係を明かにしました。なほ基本條約及右宣言の外に附屬の秘密協約、秘密協定並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換せられて居ります。(證四六五號英文記録五三二七以下)
一九
右の一九四〇年(昭和十五年)十一月三十日の日華基本條約並に日華共同宣言、秘密協約、秘密協定、交換公文を通じて陸軍大臣として私の關心を持つた點が三つあります。一は條約等の實行と支那に於ける事實上の戰爭状態の確認、二は日本の撤兵、三は駐兵問題であります。
第一の條約の完全なる實行は政府も統帥部も亦出先の軍も總て同感で一日も早く條約の實行を爲すべきことを希望して居つたのであります。然るに我方の眞摯なる努力にも拘らず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戰鬪を續行し事實上の戰爭行爲が進行しつゝありました。占據地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の保護のためにも、亦新政府自體の發展のためにも、條約の實行と共にこの事實上の戰爭状態を確認し、交戰の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。これが基本條約附屬議定書中第一に現在戰鬪行爲が繼續する時代に於ては作戰に伴ふ特殊の状態の成立すること又、之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認せられた所以であります。(法廷證四六四號英文寫四頁)第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事變が解決すれば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなかつたのであります。我國の國防力の囘復のためにも其の必要がありました。然し撤兵には二つの要件があります。その中の一つといふのは日支の間の平和解決に依り戰爭が終了するといふことであります。その二つは故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。撤兵を實行するのには技術上約二年はかゝるのでありまして、後方の治安が惡くては撤兵實行が不能になります。これが附屬議定書第三條に中國政府は此期間治安の確立を保證すべき旨の規定を必要とした所以であります。(法廷證四六四、英文寫四頁)
第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。「防共駐兵」とは日支事變の重要なる原因の一つであるところの共産主義の破壞行爲に對し日支兩國が協同して、之を防衞せんとするものでありまして、事變中共産黨の勢力が擴大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是非必要と考へられました。之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。(法廷證四六四、四六五)そして所要の期間駐兵するといふことであつて必要がなくなれば撤兵するのであります。
以上は私が陸軍大臣として此條約に關係を持つた重なる事柄でありまして此の條約は從前の國際間の戰爭終結の場合に見るような領土の併合とか戰費の賠償とかいふことはありません。これは特に御留意を乞ひたき點であります。たゞ附屬議定書第四條には支那側の義務と日本側の義務とを相互的の關係に置き支那側の作戰に依つて日本在留民が蒙つた損害は中國側で賠償し中國側の難民は日本側で救助するといふ條項がある許りであります。(法廷證四六四、英文四頁)中國の主權及領土保全を尊重し、從前我國の持つて居つた治外法權を抛棄し租界は之を返還するといふ約束をしました。(基本條約一條、七條、法廷證四六四)
而して治外法權の抛棄及租界の返還等中國の國權の完備の爲に我國が約束した事柄は一九四三年(昭和十八年)春迄の間に逐次實行せられました。なほ一九四三年(昭和十八年)の日華同盟條約法廷證四六六に於て右基本條約に於て日本が權利として留保した駐兵其他の權利は全部抛棄してしまひました。 
日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐
二〇
次に日「ソ」中立條約に關し陸軍大臣として私の關係したことを申上ます。一九四一年(昭和十六年)春、松岡外相渡歐といふ問題が起りました。一九四一年(昭和十六年)二月三日の連絡會議で『對獨伊「ソ」交渉案要綱』(辯護側證第二八一一號)なるものを決定しました。此の決定は松岡外相が渡歐直前に提案したものでありまして、言はば外相渡歐の腹案であつて正式の訓令ではありません。
此の「ソ」聯との交渉は「ソ」聯をして三國同盟側に同調せしめこれによって對「ソ」靜謐を保持し又、我國の國際的地位を高めることが重點であります。かくすることによつて(イ)對米國交調整にも資し(ロ)ソ聯の援蒋行爲を停止せしめ、支那事變を解決するといふ二つの目的を達せんとしたのであります。
二一
右要綱の審議に當つて問題となつた主たる點は四つあつたと記憶致します。その一つは「ソ」聯をして三國側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此點については既に獨「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り豫て内容の提示してあつた「リツペントロツプ」腹案(此本文は法廷證第二七三五號中に在り)なるものにも獨逸も「ソ」聯を三國條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があつた次第もあり、「ソ」聯をして三國に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。
その二は我國の「ソ」聯との同調に對し獨逸はどんな肚をもつて居るであらうかといふことでありました。此點については獨逸自身既に「對」ソ不可侵條約を結んで居る。
加之、現に獨逸は對英作戰をやつて居る。それ故當時の我國の判斷としては獨逸は我國が「ソ」聯と友好關係を結ぶことを希望して居るであろうと思いました。かくて「ソ」聯をして日獨に同調せしめ、進んで對英作戰に參加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。
その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我國はある程度の犧牲を拂つても此の目的を達して行きたい。然らば日本として拂ふことあるべき犧牲の種類と限度如何といふ問題でありました。そこで犧牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の權利並に北樺太の油田に關する權利を還付するといふ肚を決めたのであります。尤も對獨伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を爲すといふ事項がありますが之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍にも大なる關係がありますから無論その意見を取り入れたのであります。
その四は外相の性格上もし統帥に關する事項で我國の責任又は負擔となるようなことを言はれては非常な手違となりますから、參謀總長、軍令部總長はこの點を非常に心配されました。そして特にそのことのないやうに注意を拂ひ、要綱中の五の註にも特に「我國の歐洲戰參加に關する企圖行動並に武力行使につき帝國の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れたのであります。
二二
此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を爲したり、或は制覇を爲すといふ意味ではありません。唯、國際的に隣保互助の精神で自給自足を爲すの範圍を豫定するといふの意味に外なりません。
二三
當時日本側で外相渡歐の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、當法廷で檢察側より獨逸から押收した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電報(法廷證五六七乃至五六九)並に「ヒトラー」總統及「リツペントロツプ」外相松岡外相との會談録(證五七七乃五八三)に記載してあることは右腹案に甚しく相違して居ります。
松岡外相歸朝後の連絡會議並に内閣への報告内容も之とは絶對に背馳して居ります。
二四
松岡外相が渡歐したときは當時日本として考へて居つたこととは異なり獨逸と「ソ」聯との間は非常に緊張して居り「ソ」聯を三國同盟に同調せしめるといふことは不可能となりました。又、獨逸は日本と「ソ」聯とが中立條約を結ぶことを歡迎せぬ状態となつたのであります。從つてその斡旋はありません。即ち此點については我國の考へと獨逸のそれとは背馳するに至りました。結局四月十三日松岡外相の歸途「ソ」聯との間に中立條約は締結いたしましたが(證第四五號)その外に此の松岡外相渡歐より生じた實質的の外交上の利益はなにもなかつたのであります。詳しく言へば(1)松岡外相の渡歐は獨伊に對しては全く儀禮的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の單獨不媾和といふことは話にも出て居りません。(2)統帥に關することは初めより松岡に禁じたことでもあり、また「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。(3)又、檢察官のいふ如き一九四一年(昭和十六年)二月上旬日獨の間に軍事的協議をしたといふことも事實ではありません。
二五
日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我國の國策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の關係もありません。此の中立條約があるがため我國の「ソ」聯に備へた北方の兵備を輕くする効果もありませんでした。乍然、我國は終始此の中立條約の條項は嚴重に遵守し、その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の現地を與へ獨逸側の要求がありましても「ソ」聯に對し事を構へることは一度も致しませんでした。たゞ「ソ」聯側に於ては中立條約有効期間中我國の領土を獲得する條件を以て對日戰に參加する約束をなし、現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。 
第二次近衞内閣に於ける日米交渉
二六
所謂日米諒解案(證第一〇五九號と同文)なるものを日本政府が受取つたのは一九四一年四月十八日であります。
此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に關與しました。但し私は職務上軍に關係ある事項につき特に關心を有して居りまして、其他のことは首相及外相が取扱はれたのであります。
斯る案が成立しましたまでのことについて私の了解するところでは、これは近衞首相が三國同盟の締結に伴ひその日米國交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に一九四〇年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米國に於て、話合が續けられて來て居つた如くでありました。米國に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米國側では大統領國務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官からの報道を受けて居りました。
右諒解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も國務長官も之を承知し特に國務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に對する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉が開始されたものと認めたのであります。
二七
此案を受取つた政府は直ちに連絡會議を開きました。連絡會議の空氣は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め或る氣輕さを感じました。何故かと言へば我國は當時支那事變の長期化に惱まされて居りました。他方米英よりの引續く經濟壓迫に苦んで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開いたと思つたからであります。米國側も我國との國交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出來ますからこれには相當熱意をもつものと見て居りました。米國側に於て當初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶豫を稼ぐために交渉に當るなどといふことは日本では夢想だもして居らなかつたのであります。連絡會議は爾來數囘開會して最後に四月二十一日に態度の決定を見ました。當時は松岡外相は歐洲よりの歸途大連迄着いて居つてその翌日には着京する豫定でありました。一九四一年(昭和十六年)四月二十一日の態度決定の要旨は
•一、此の案の成立は三國同盟關係には幾分冷却の感を與へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥結を圖ること
•二、我國の立場としては次の基準で進むこと即ち◦(イ)支那事變の迅速解決を圖ること
◦(ロ)日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
◦(ハ)三國同盟關係には多少の冷却感を與ふる事は可なるも明かに信義に反することは之を避けること
といふのであります。我方では原則論に重きを置かず具體的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事變解決と自存自給體制の確立といふ問題があるからでありました。
三國同盟條約との關係の解釋に依つて此の諒解案の趣旨と調和を圖り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を獨逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました以上の趣旨で連絡會議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大體異存なき旨を直ちに野村大使に電報しようといふことになりましたが、此點については外務大臣も異存はない、たゞ松岡外務大臣が明日着京するから華盛頓への打電は其時迄留保するといふ申出を爲し會議は之を承認して閉會したのでありました。
二八
しかし翌四月二十二日(一九四一年昭和十六年)松岡外相が歸つてから此の問題の進行が澁滯するに至つたのであります。松岡外相の歸京の日である四月二十二日の午後直ちに連絡會議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡歐の報告のみをして右案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。之が進行の澁滯を來した第一原因であります。外相は又、此の諒解案の内容を過早に獨逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の澁滯と混亂の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は(A)囘訓に先だち歐洲戰爭に對する「ステーメント」を出すことを主張し(B)又日米中立條約案を提案せんとしました。此等のことのため此の問題に更に混亂を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思はれます。松岡氏は初めは此の諒解案は豫て同外相がやつて居つた下工作が發展して此のようになつて來たものであらうと判斷して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より發生したものではなく、又一般の外交機關により生れて來たものでもないといふことを覺知するに至りました。それが爲松岡氏は此の交渉に不滿を懷くようになつて來ました。又松岡外相は獨伊に行き、その主腦者に接し三國同盟の義務履行については緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より觀取することが出來ました。なほ松岡外相の持論である、米國に對し嚴然たる態度によつてのみ戰爭の危險が避けられるといふ信念がその後の米國の態度に依り益々固くなつたものであると私は觀察しました。
二九
斯くて我國よりは漸く一九四一年(昭和十六年)五月十二日に我修正案を提出することが出來ました。(法廷證一〇七〇號)「アメリカ」側は之を我國よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では四月十八日のものを最初の案とし之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨についてその主なる點を説明すれば
•(一)その一つは三國同盟條約の適用と自衞權の解釋問題であります。四月十八日案では米國が自衞上歐洲戰爭に參加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米國の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに五月十二日の該修正案では三國同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。――三國同盟の目的の一つは「アメリカ」の歐洲戰爭參加の防止と及歐洲戰爭が東亞に波及することを防止するためでありました。米國は此の條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出來ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釋により處理しようといふ考へでありました。即ち我方は實質に於て讓歩し協調的態度をとつたのであります。
•(二)二は支那事變關係のことであります。四月十八日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政權に對し日支交渉を爲す勸告をしよう、而して蒋政權が、之に應ぜざれば米國の之に對する援助を中止するといふ事になつて居ります。我方五月十二日案では米國は近衞聲明、日華基本條約及日滿華の三國共同宣言(法廷證九七二ノH四六四)の趣旨を米國政府が了承して之に基き重慶に和平勸告を爲し、もし之に應ぜざれば米國より蒋政權に對する援助を中止することになつております。尤も此の制約は別約でもよし、又米國高官の保證でもよいとなつております。乃ち米國は元來支那問題の解決は日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。
元來支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重點があります。その一つには支那事變自體の解決であります。その二は新秩序の承認であります、我方の五月十二日案では近衞聲明、日華基本條約及日滿華共同宣言を基本とするのでありますから、當然東亞に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。撤兵の問題は四月十八日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基づくといふことになつて居ります。五月十二日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸開放のことも四月十八日案と五月十二日案とは相違しないのであります。四月十八日案には支那領土内への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、五月十二日案は之には觸れて居りません。
三〇
五月十二日以後の日米交渉の經過につき私の知る所を陳述いたします。五月十二日以後右の日本案を中心として交渉を繼續しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三點に於て米側と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中國に於ける日本の駐兵問題、その二は中國に於ける通商無差別問題、その三は米國の自衞權行使に依る參戰と三國條約との關聯問題であります。五月三十日に米國からの中間提案(法廷證一〇七八)が提出されなど致しましたが、此の間の經緯は今、省略いたします。結局六月二十一日の米國對案の提出といふことに歸着いたしました。
三一
六月二十一日と言へば獨「ソ」開戰の前日であります。此頃には獨「ソ」戰の開始は蓋然性より進んで可能性のある事實として世界に認められて居りました。我々は此の事實に因り米國の態度が一變したものと認定したのであります。この六月二十一日の案は證第一〇九二號の通りでありますが、我方は之につき次の四點に注意致しました。
その一つは米國の六月二十一日案は獨り我方の五月十二日修正案に對し相當かけ離れて居るのみならず、四月十八日案に比するも米國側の互讓の態度は認められません。米國は米國の立場を固守し非友誼的であるといふことが觀取せられます。その二つは三國條約の解釋については米國が對獨戰爭に參加した場合の三國同盟條約上の我方の對獨援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して來ました。(證一〇七八號中に在り)その三は從前の案で南西太平洋地域に關して規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋地域の全體に適用することを求めて來たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。四月十八日案にも五月十二日案にも米國並に南西太平洋地域に對する日本移民は他國民と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が與へられるであらうとの條項がありました。六月二十一日の米案はこの重要なる條項を削除して來ました。六月二十一日の米提案には口頭の覺書(オーラル・ステートメント)といふものが附いて居ります。(證一〇九一號)その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ獨逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信認を表現する辭句がありました。之は日本の關係者には内政干渉にあらざるやとの印象を與へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乘り上げたのであります。
三二
しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。
•一、六月二十二日獨ソ戰爭が開始したこと
•二、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部佛印への進駐を原因として米國の態度が變化したこと
•三、七月二十五日及二十六日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る經濟封鎖
•四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衞内閣の總辭職
以上の内一及二の原因により米國の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は佛印問題を中心として行はるゝようになりました。四の内閣變更の措置は我方は如何にしても日米交渉を繼續したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では國の死活に關する問題として此の交渉の成立に對する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を續けたのであります。 
對佛印泰施策要綱
三三
以上述べました日米交渉よりは日時に於ては少し遡りますが、ここに佛印及泰との關係を説明いたします。
一九四一年(昭和十六年)一月三十日の大本營及政府連絡會議に於て「對佛印泰施策要綱」といふものを決定しました。(辯護側證第二八一二號本文書記入の日附は上奏の月日を記入せるものであります。法廷證一一〇三、及一三〇三參照)これは後日我國が爲した對佛印間の居中調停、佛印との保障及政治的了解及經濟協定の基礎を爲すものであります。右要綱の内には軍事的緊張關係の事も書いてありますが、此部分は情勢の緩和のため實行するに至らなかつたのであります。
一九四一年(昭和十六年)七月下旬の南部佛印進駐は同年六月廿五日の決定に因るものでありまして、今ここに陳述する一月卅日の施策要綱に依るのではありませぬ。從て南部佛印進駐の事は今ここには陳べませぬ。
三四
右對佛印泰施策要綱は統帥部の提案であります。
自分は無論陸軍大臣として之に參與しました。其の内容は本文に在る通りであります。而して其の目的とする所は、帝國の自存自衞のため佛印及泰に對し軍事政治、經濟の緊密不離の關係を設定するにありました。本件に關する外交交渉は專ら外相に依り取り運ばれましたので詳細は承知して居りませんが此の當時の事情は概ね次の如くであつたと承知して居ります。
•(一)日本は一九四〇年(昭和十五年)六月十二日、日泰間の友好和親條約を締結し(證五一三)日泰間の緊密化に努力して來ましたが、泰國内には英國の勢力の強きものが存在しております。
•(二)日本と佛印の間には松岡「アンリー」協定の結果表面は親善の關係に在り、なほ日佛印の交渉も逐次具體化したのであります。しかし、佛印の内部には種々錯綜した事情がありました。第一佛印内には「ヴイシー」政權の勢力と「ドゴール」派の勢力とが入亂れて居り「フランス」本國の降伏後「フランス」の勢力が弱くなるにつれ米、英の示唆により動くような事情も生じましたため、佛印政廳は我國に對し不即不離の態度をとるのみでなく、時には反日の傾向をさへ示したのであります。
•(三)一九四〇年(昭和十五年)十一月以來泰國が佛印に對し失地囘復の要求を爲したるに端を發し、泰、佛印間の國境紛爭は一九四一年(昭和十六年)に至り逐次擴大し第三國の調停を要する状態となりました。「イギリス」は此の調停を爲すべく暗躍を始めましたが當時は「イギリス」と「フランス」本國とは國交斷絶の状態でありましたから是亦適當の資格者ではありません。
•(四)東亞安定のため支那事變遂行中の日本はその自存自衞のためにも一刻も早く泰、佛印の平和を希望せざるを得ません。以上の如き各種の事情が此の要綱を必要とした所以であります。
三五
此の要綱の狙いは二つあります。その一つは泰、佛印間の居中調停を爲すといふことであります。その二は此の兩國に對し第三國との間に我國に對する一切の非友誼的協定を爲さしめないといふことであります。
居中調停は一九四一年(昭和十六年)一月中旬にその申出を爲し、兩國は之を受諾し、同年二月七日より東京に於て調停の會合を開き三月十一日に圓滿に調停の成立を見、之に基いて五月九日には泰佛印間の平和條約成立し(法廷證四七)、引續き現地に於て新なる國境確定が行はれました。泰は當初は「カンボヂヤ」を含む廣大な地區の要求を致しましたが我國は之を調停し彼條約通りの協定に落着かせたのであります。
第二の我國に對する非友誼的な協約を爲さずとの目的に關しては右と同時に松岡外相の手で行はれ五月九日の日佛印間及日泰間の保障及諒解の議定書となつたのであります。(證六四七中に在り)此の間の外交交渉については自分は關與致して居りません。 
南部佛印進駐問題
三六
一九四〇年(昭和十五年)九月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保ちましたが、一九四一年(昭和十六年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、我國は佛國との間に共同防衞の議を進め、一九四一年(昭和十六年)七月二十一日にはその合意が成立しました。之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月二十三日には成立し、之に基いて一部の軍隊は二十八日に、主力は二十九日に進駐を開始したのであります。尤も議定書は同月二十九日に批准せられました。以上はその經過の大略であります。
三七
右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。之は一九四一年(昭和十六年)六月二十五日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くものであります。此の決定は源を同年一月三十日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施策要綱」に發して居るのであります。その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが情勢が緩和致しましたから、之を差控へることにしました。然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉は六月十日頃には決裂状態にあることが判明しました。そこで同年六月十三日の連絡會議の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが松岡外相の要望で一時之を延期し之を同月二十五日に持越したのであります。(證一三〇六號)斯樣な次第でありますから南部佛印進駐のことは六月二十二日の獨「ソ」開戰よりも十日以前に決心せられたもので決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。此の「南方施策促進に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しました。此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り又七月十八日第三次近衞内閣となつてからは、豐田外相がその局に當つたものであります。
本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て佛國印度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります(辯護側文書二八一四号)。此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。(法廷證六七四−A英文記録七〇六三頁)
三八
南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。その要點は凡そ三つあります。(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設定(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること(三)佛印側が之に應ぜざる時は武力をもつてその貫徹を圖る。從つて之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふことであります。然しその實行に當つては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は行使せずにすみました。
三九
右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。(法廷證六五一號)此議定書の要點は四つあります。(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合には日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、(二)佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、(三)「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、(四)日佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。但し此の軍事上の協力の約束は之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。
四〇
然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由があります。その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分斷すること、その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、對日包圍圏の結成、米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫的の言動、三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入手妨害、四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認めらるること、五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。
以上の理由、特に對日包圍陣構成上、佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行はれないとは言へないのであつて日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる必要を感じたのであります。
四一
右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へますから、右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。
本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。(辯護側證第二九二三)
先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居つた数種の報道を擧げますれば(1)一九四〇年(昭和十五年)七月にはハル國務長官は英國の「ビルマルート」經由援蒋物資禁止方につき反対の意見を表明して居ります。(2)一九四〇年(昭和十五年)十月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て國防のため英國及重慶政權を援助する旨の演説を致しました。(3)一九四〇年(昭和十五年)十一月には米國は重慶政權に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。(4)一九四〇年(昭和十五年)十二月二十九日には「ルーズヴエルト」大統領は三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。(5)一九四〇年(昭和十五年)十二月三十日には「モーゲンソー」財務長官は重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して居ります。一九四一年(昭和十六年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となつて來ました。(6)一九四一年(昭和十六年)五月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため重慶に到着しました。(7)一九四一年(昭和十六年)二月には「ノツクス」海軍長官は重慶政府は米國飛行機二百臺購入の手續を了したる旨を発表しました。(8)同海軍長官は一九四一年(昭和十六年)五月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。(9)その翌日には「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。斯る情勢に於ては支那事變の迅速解決を望んで居つた我國としては蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず佛印及泰よりする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。
四二
第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りました。
(1)米國は一九四〇年(昭和十五年)七月より一九四一年(昭和十六年)五月迄の間には三百三十億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。(2)此當時米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至りました。即ち一九四〇年(昭和十五年)八月には「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第十三海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。(3)同年九月には太平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費八百萬弗の内譯が公表せられました。(4)同年十二月には米國は五十一ケ所の新飛行場建設及改善費四千萬弗の支出を「スチムソン」「ノツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。此等は米國側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。
一九四〇年(昭和十五年)九月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し同方面の現状維持を主張する旨の聲明が發せられました。同年七月八日には「ヤーネル」提督はUP通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。同年十月には「ノツクス」海軍長官は「ワシントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。又同年九月には米海軍省は一九四〇年(昭和十五年)度の米海軍の根本政策は兩洋艦隊建設と航空強化の二點にありと強調致しました。一九四〇年(昭和十五年)十一月「ラモント」氏は對日壓迫強化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。同年同月十一日休戰紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報を得て居ります。同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致しました。更に一九四一年(昭和十六年)に入り五月二十七日に「ルーズヴエルト」大統領は無制限非常時状態を宣言いたしました。
これより先一九四〇年(昭和十五年)十月八日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上げを勸告して居ります。上海在住の米國婦女子百四十名は同月中上海を發し本國に向かひました。米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。同じ一九四〇年(昭和十五年)十月十九日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。
以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。
四三
第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したことを陳べます。一九三九年(昭和十四年)七月二十六日「アメリカ」の我國との通商航海條約廢棄通告以來米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。その事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月には「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。米國政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を行ふ旨發表いたして居ります。同年十月初旬には「ルーズヴエルト」臺帳料は屑鐵の輸出制限令を發しました。以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は當時の鐵材不足の状態と我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。
四四
第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由の二、三を申上げますれば、泰、佛印の要人は一九四〇年(昭和十五年)以來「シンガポール」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。その結果日本の生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのであります。日本の食糧事情としては當時(一九四一年即昭和十六年頃にあつては)毎年約百五十萬噸(日本の量目にて九百萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。此等の事情のため日佛印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に經濟協定を結んで七十萬噸の米の入手を契約したのでありましたが佛印は契約成立後一ケ月を經過せざる六月に協定に基く同月分契約量十萬噸を五萬噸に半減方申出て來ました。日本としては止むなく之を承諾しましたところ七、八月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。泰に於ては英國は一九四〇年(昭和十五年)末に泰「ライス」會社に對して「シンガポール」向け泰米六十萬噸といふ大量の發註を爲し日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しました。「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約六萬噸であります。その中日本は僅かに一萬五千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米國は佛印の「ハノイ」領事に對し佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取得を妨碍し又、英國はその屬領に對し一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本及圓ブロツク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。
四五
第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。一九四〇年(昭和十五年)九月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。當時石油が米英より輸入を制限せられたため我國としては之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望んだのであります。然るに蘭印の方も敵性を帶び來り六月十日頃には事實上決裂の状態に陷り六月十七日にはその聲明を爲すに至つたのであります。「オランダ」外相は五月上旬「バタビヤ」に於て蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄して居ります。
以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。日本の自存は脅威せられ且以上のような情勢の下で統帥部の切なる要望に基き六月廿五日に右南方施策促進に關する件(證第一三〇六號)が決定せられ之に基く措置をとるに至つたのであります。
四六
日本政府と「フランス」政府との間には七月廿一日正午(「フランス」時間)共同防衞の諒解が成立し、七月二十二日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌二十三日細目の協定が成立し、海南島三亞に集結して居つた部隊にはその日進駐の命令が發せられ、二十五日三亞を出發しました。廿六日には之を公表しました。三亞を出發した部隊の一部は二十八日に「ナトラン」に、二十九日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。日本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は二十九日調印を見て居ります。
四七
「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實でありますが、「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。從つて起訴状にある如く「ドイツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。又起訴状は「ヴイシー」政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、しかし、日本軍が進駐の準備として三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。又、前に述べます如く、此の措置は「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もないのであります。日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であつて断じて米、英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。
一九四一年(昭和十六年)十二月七日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J)に依れば
「更に本年春及夏「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入れることを許可した。但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計畫もなかつたことは確實であると信ずる」
と述べられて居ります。乃ち佛印に對しては攻撃を行つた事もなく攻撃を計畫した事もなかつたと断言し得ると信じます。
當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでした。即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思つたのであります。何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるからであります。又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷定致して居ります。之は誣告であります。南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居ることはその通りでありますが、南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味するものではありません。之は南方に向かつての防禦のための航空基地であります。そのことは大本營が四月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明かであります。
これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。 
獨ソ開戰に伴ふ日本の態度決定  
第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其一、九月六日 御前会議前)
五五
第二次近衛内閣の日米交渉は停頓し遂に該内閣の倒壊となったのであります。・・・私の観察に依ればこの政変は、日米交渉を急速に且つ良好に解決するために松岡外相の退場を求めたということに在ります。同氏に辞表を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を撰んだのであります。・・・この経過によっても、次に出来た第三次近衛内閣の性格と使命が明らかとなります。
五六
然るに「アメリカ」側では南部仏印進駐を以て、日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解しました。之に依って太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打ち切りを口にし、又資産凍結を実行するに至りました。・・・日本は進出の限度及び撤兵時期も明示して居ります。此の場合出来得るだけの譲歩はしたのであります。然るに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れて来ない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇したのであります。
五七
近衛首相は此の危機を打破するの途は唯一つ。此際日米の首脳者が直接会見し、互いに誠意を披露して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るの外はないと考えました。・・・米国は主旨に於いては依存はないけれども、主なる事項、殊に三国同盟条約上の義務の解釈並びにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、先ず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば、首脳会見に応ずることを得ずという態度でありました。そこで此の会談は更に暗礁に乗り上げたのであります。 
九月六日の御前会議
五八
米英蘭の一九四一年(昭和十六年)七月二十六日(この後は一九四一年等の西暦を省略して単に昭和十六年の如く昭和の年号で記することとします)の対日資産凍結を繞(めぐ)り日本は国防上死活の重大事態に当面しました。此の新情勢に鑑み我国の今後採るべき方途を定める必要に迫られました。ここに於て昭和十六年九月六日の御前会議に於て「帝国国策遂行要領」と題する方策(法定証第五八八号の中段)が決定されたのであります。・・・私は陸軍大臣として之に関与致しました。
五九
その要旨は
一、 十月上旬頃迄を目指して日米交渉の最後の妥結に努める。之がため我国の最小限の要求事項並に我国の約諾し得る限度を定め極力外交に依ってその貫徹を図ること。
二、 他面十月下旬を目途として自存自衛を全ふするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。
三、 外交交渉に依り予定期日に至るも、要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。
四、 その他の施設は従前の決定に依る。
というのであります。
六○
此の要領を決定するに当たって存在したりと認めた急迫せる情勢及之を必要とした事情は概ね次の七項目であります。(弁護側証第二九二三号)
a、 米英蘭の合従連衡に依る対日経済圧迫の実施――米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来ました。・・・
右の如く同じ日「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した事実より見て、此等の政府の間に緊密なる連絡がとられて居ったことは明白なりと観察せられました。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰(タイ)以外の地域との貿易は全く途絶し、日本の経済生活は破壊せられんとしたのであります。(中略)
b、 (中略)
c、 日本の国防上に与えられたる致命的打撃――米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力及び満州、支那、仏印、泰(タイ)に依存する物資による外なく、其の他は閉鎖せられ或種の特に重要な物資は貯蔵したものの、消耗によるの外はなく、殊に石油は総て貯蔵によらなければならぬ有様でありました。この現状で推移すれば、我国力の弾発性は日一日と弱化し、その結果日本の海軍は二年後にその機能を失ふ。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は、極度の戦時規制を施すも一年を出でずして、麻痺状態となることが明らかにされました。ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態となったのであります。
(中略)
g、 外交と戦略との関係――外交に依り局面が何しても打開出来ぬとなれば日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならないのであります。(中略)
六一
万一太平洋戦争となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから、容易に勝算の有り得ないことは当然でありました。そこで日本としては、太平洋及び印度洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張り抜く以外に方法はないと考えたのであります。 
太平洋作戰準備  
第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其二、九月六日の午前会議以後)
六九
九月六日の御前会議の決定以後の対米外交は専ら豊田外相の手に依りて行はれたのであります。・・・而して対米外交の経路は従前と異なり二つの筋によって行なはれました。その一つは豊田外相より米国駐日大使を通じて進行する方法でありました。此の交渉と近衛首脳者会談とは我方では、大きな期待をかけて居たのであります。之に対する回答は十月二日米国の「口上書」(証一二四五号G)として現われました。
之を野村大使に交付するときの「ハル」長官の言によれば、米国政府は予め了解が成立せざれば両首脳の直接会見は危険であるというのであります。(中略)要するに以上によって首脳者会談の成立せざることは明白となりました。・・・日本は生存上の急を要する問題を解決しようとするに対し、米国は当初より原則論を固執するのみであります。
当時の米国の考えは野村大使よりの十月三日の米国の一般状況具申の電報(註二九〇六号)に依り明らかであると認めました。之によれば米国はいよいよ大西洋戦に深入りすることになり、これがため対日態度に小康を保ちつつあるが、さりとて対日経済圧迫の手を緩めず、その既定の政策に向かって進みつつあることは、最も注意すべきことであるといって居ります。なお、此の電報には此のまゝ対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるに於ては米国は戦はずして対日戦の目的を達するものであると云って居ります。
七三
昭和十六年十月十二日、午後二時より首相の招致により荻外荘(近衛首相の荻窪の邸宅)にて、五相会議が行われました。出席者は近衛首相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁、及び陸相の私でありました。・・・この会合の目的は日米交渉の成否の見通し並に、和戦の決定についての懇談でありました。長時間に亘って議論されましたが、詳細は今記憶して居りませぬが、各自の主張の要点は次の如くでありました。
近衛首相並に豊田外相の主張――日本の今日までの主張を一歩も譲らぬというのであったならば日米交渉成立の見込みはない。しかし交渉の難点は撤兵問題である。それであるから、撤兵問題に於て日本が譲歩するならば交渉の見込みはある。日本としては撤兵問題に際し、名を捨て実をとるということが出来る。即ち一応は「アメリカ」の要求に従って全面撤兵をすることにし、そして中国との交渉により新たなる問題として駐兵することも可能であるというのであります。之は実際に於ては明かに九月六日の御前会議の決定の変更でありますが、両大臣は特に決定変更とまでは言われなかったのでした。
私の主張――今日までの日米交渉の経過より見て、殊に九月六日の御前会議の決定に基づく対米交渉に対し米国の十月二日の回答並びに、首脳会談の拒否の態度を見ても、日米交渉の成功の目途はないのではないか。これ以上の継続は徒に米側の遷延策に乗ぜられるのみである。・・・米国の狙いは・・・交渉の進むに従いその目的が無条件撤兵であるという事が明らかとなって来た。換言すれば名実共に即時且つ完全撤兵を要求してきて居るのである。
従って両大臣の言わるる如き名を捨てて実を採ると云う案によって、妥協が出来るとは考えられぬ。然らば仮に米国の要求を鵜呑みにし、駐兵を放棄し、完全撤兵すれば如何なることになるか。日本は四年有余に亘りて為したる支那事変を通しての努力と犠牲とは空となるのみならず、日本が米国の強圧に依り中国より無条件退却するとすれば、中国人の侮日思想は益々増長するであろう。共産党の徹底抗日と相待ちて、日華関係は益々悪化するであろう。その結果、第二、第三の支那事変を繰り返すや必至である。
日本の此の威信の失墜は、満州にも、朝鮮にも及ぼう。尚、日米交渉の難点は駐兵、撤兵に限らず、彼の米国四原則の承認、三国条約の解釈、通商無差別問題等幾多そこに難関がある。此等の点より言うも、日米妥協はもはや困難なりと思ふ。しかし、外相に於て成功の見込みありとの確信あらば更に一考しよう。又、和戦の決定は統帥に重大関係がある。従って総理だけの決定に一任する訳には行かぬ。(後略)
七五
十月十四日は閣議の日であります。・・・午前十時閣議が開かれました。豊田外相は外交妥結の見込みについては、荻窪荘会談と同様の意見を述べました。此の閣議では近衛首相も、及川海相も他の全閣僚も何等発言しませんでした。ここに於て外相と陸相との衝突となり、之にて万事は休したのであります。 
第三次近衞内閣の總辭職  
東条内閣の組閣
七八
昭和十六年十月十七日には前日来、辞職願を出したため此の日私は官邸にてその引払いの準備を致して居りました。午後三時三十分頃侍従長より、天皇陛下の思召に依り直ちに参内すべしとの通知を受けました。突然の御召のことではありますから、私は何か総辞職に関し、私の所信を質されるものであろうと直感し、奉答の準備のために書類を懐(ふところ)にして参内しました。
七九
参内したのは午後四時過と思いますが、参内すると直ぐに拝謁を仰付かり組閣の大命を拝したのであります。その際賜はりました御言葉は、昭和十六年十月十七日の木戸日記にある通りであります。(法定証第一一五四号英文記録一〇二九一頁)・・・即ち「只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察しますが、なほ国策の大本を決定せらるゝについては、九月六日の御前会議決定に捉わるゝことなく、内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要するとの思召であります。命(めい)に依り其の旨申し上げて置きます」というのであります。之が後にいう白紙還言の御諚であります。
八〇
私としては組閣の大命を拝すると云う如きことは思いも及ばぬことでありました。(中略)私が皇族内閣を適当なりと考えたには次の理由に拠るのであります。・・・新内閣が前内閣の決定を覆えすことは出来ますが、御前会議は問題と異なり、内閣でなく政府と統帥部との協定を最高の形式に於て為したものであります。従って統帥部が九月六日の御前会議決定の変更に同意しない場合には、非常に厄介な問題を惹起する惧れがあったのであります。皇族内閣ならば、皇族の特殊の御立場により斯る厄介な問題をも克服して円滑に九月六日の御前会議の決定を変更し得ると考えたからであります。従って私自身私が後続内閣の総理大臣たるの大命を受けること乃至は、陸軍大臣として留任することは、不適当なりと考えたのであります。又、斯の如き事の起ろうとは無想もしませんでした。殊に私は近衛内閣総辞職の主唱者であるのみならず、九月六日の御前会議決定に参与したる責任の分担者であるからであります。特に九月六日の御前会議決定の変更のためには、私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが却って、大いなる困難を伴ない易いのであります。以上は当時私および私を繞(めぐ)る陸軍内部の空気でありました。故に若し「白紙還元」の御諚を拝さなければ、私は組閣の大命を受け容れなかったかも知れないのであります。此の「白紙還元」と云うことは、私もその必要ありと想って居たことであり、必ず左様せねばならぬと決心しました。なお此の際、和か戦か測られず、いづれにも応ぜられる内閣体制が必要であると考えました。之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣と兼摂する必要ありと考へ、その旨を陛下に予め上奏することを内務大臣にお願いしました。当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずるおそれがありますから、自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで現役に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、このことは、後日閑院宮殿下の御内奏に依ることであります。
八一
組閣についてはなかなか考えが纏まりません。此の場合神慮に依るの他なしと考へ、先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽(さい)し、靖国神社の神霊に謁しました。その間に自ら組閣の構想も浮びました。(後略)
八二
(前略)十八日朝は靖国神社例祭で午前中は天皇陛下は御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式を終り、茲に東條内閣は成立致しました。
■十一月五日の御前会議の前後
八三
前に述べた通り私が組閣の大命を拝受したとき、天皇陛下より平和御愛好の大御心より前に申した通りの「白紙還元」の御諚を拝しました。依て組閣後、政府も大本営も協力して、直ちに白紙にて重要国策に対する検討に入りました。十月二十三日より十一月二日に亘り縷々連絡会議を開催し、内外の新情報に基き純粋に作戦に関する事項を除き、外交、国力及び軍事に亘り各般の方面より慎重審議を重ねました。その検討の結果米側の十二月二日の要求を参酌して、先ず対米交渉に関する要領案を決定したのであります。之は後に十一月五日の御前会議決定となったもので、その内容は法廷証第七七九号末段と略ぼ同様と記憶します。
八四
次で此の対米交渉要領に依り、日本の今後に於ける国策を如何に指導するかに付、更に審議を尽し最後に三つの案に到達したのであります。
第一案は、新たに検討を加えて得たる対米交渉要領に基き、更に日米交渉を続行する。而して其の決裂に終りたる場合に於ても、政府は隠忍自重するというのであります。
第二案は、交渉をここで打ち切り、直ちに開戦を決しようというのであります。
第三案は、対米交渉要領に基きて交渉を続行す。他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し、作戦の準備をなす。
そして外交による打開を十二月初頭に求めよう。交渉成立を見たるときは作戦準備を中止する。交渉が決裂したるときは直ちに開戦を決意す。開戦の決意は更めて之を決定するものであります。
八五
(前略)然し、たとい決裂に陥りたる場合に於ても直ちに米英蘭と戦争状態に入ることは慎重なる考慮を要する。それは我国としては支那事変は既に開始以来四年有余となるが、而も未だ解決を見ぬ。支那事変を控えて対米英戦に入ることは、日本の国力より言うも、国民の払う犠牲より言うも、之を極力避けなければならぬ、今は国力の全部を支那事変の解決に向けて行きたい。故に日本は外交交渉の場合に於ても、直ぐに戦争に入らず、臥薪嘗胆再起を他日に期すべきである。次の理由は、国民生活の上よりするも、亦支那事変遂行の途上にある今日、軍需生産維持の点よりいうも、今日は至大なる困難にある。而して最も重要なる問題は液体燃料の取得である。これさへ何とか片付けばどうにか耐えて行けるものではあるまいか。それ故、人造石油を取り上げ、必要の最小限の製造に努力しようではないかといふにあります。この案に対する反対意見は、国家の生存に要する物質は、米英蘭の封鎖以来致命的打撃を受けて居る、殊に液体燃料に於て然りである。もし此のまま推移すれば、就中(なかんずく)、海軍と空軍は二年を出でずして活動は停止せられる。之は国防上重大なる危機である。支那事変の遂行もそのために挫折する。人造石油の問題をその設備の急速なる増設により解決し得るならば之は最も幸である。依て此の点に対し真剣なる研究を為したその結論は、日本はその1ヶ年の最小限の所要量を四百万屯とし、之を得るためには、陸海軍の軍需生産の重要なる部分を停止するも、四年乃至(ないし)七年の歳月を要するとの結論に到達した。此の期間の間は貯蔵量を以て継がなければならぬのであるが、斯の如き長期の間、貯蔵量を以ってつないで行くことは出来ぬ。そうすれば国防上重大なる危険時期を生ずる。且つ軍需生産の重要部分の停止ということは、支那事変遂行中の陸海軍としては、之を忍ぶことは出来ぬ。故に此の際、隠忍自重、臥薪嘗胆するということは帝国の死滅を意味する。ここに坐して死滅を待つよりも死を決して包囲網を突破し、生きる道を発見する必要がある。支那事変四年有余、更に米英戦に入ることは、国民の負担の上に於ても、政府としては耐え難き苦悩である。然し悠久なるべき帝国の生命と権威のためには国民は之を甘受してくれるであろうというのでありました。
八七
第三案、即ち交渉を継続し、他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し作戦の準備を為すという案の理由は、前記第一号第二案を不可とする理由として記述したものと同一であります。
八九
この案に付いては、更に連絡会議に於いては、第三案の主旨に基き、今後の国策遂行の要領を決意し必要なる手続きを経て後に、昭和十六年十一月五日の御前会議で更に之を決定しました。これには私は総理大臣及び陸軍大臣として関与したことは勿論であります。これが十一月五日の「帝国国策遂行要領」というのであります。此の本文は存在せず提出は不能でありますが、この要旨は私の記憶によれば次の通りであります。(弁護士側証二九四五号)
第一に、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うするための対米英戦を決意し、別紙要領甲乙両案に基き日米外交交渉により打開を図ると共にその不成立の場合の武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を為す。――尤も開戦の決意は更にあらためてする。及ち十二月初頭に自動的に開戦となるわけではない。
第二、独、伊との提携強化を図り、且つ武力発動の直前に泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立する。
第三、対米交渉が十二月初頭迄に成功せば作戦準備を停止する。
というものであります。
右の中第一項に別紙として記載してあるものが前記証七七九号末段である甲案、乙案であります。之を要するに、我が国の自衛と権威とを確保する限度に於て甲乙の二つの案をつくり、之を以て日米交渉を進めようとしたのであります。
その中の甲案というのは九月二十五日の日本の提案を基礎とし、既往の交渉経過より判断したる米国側の希望を出来るだけ取入れたる最後的譲歩案であって慎重なる三点につき譲歩して居ります。その要旨は法廷証第二九二五条(記録二五九六六)にある通りであります。
乙案というのは、甲案が不成立の場合に於ては、従来の行きがかりから離れて、日本は南部仏印進駐以前の状態にかえり、米国も亦、凍結令の廃止その他、日本の生存上最も枢要とし、緊急を要する物資取得の最小限度の要求を認め、一応緊迫した日米関係を平静にして、更めて全般的日米交渉を続けんとするものであります。其の要旨は法廷証一二四五号にある通りであります。
九〇
右の深刻なる結論を、昭和十六年十一月二日午後五時頃より参謀総長軍令部総長と共に、内奏しました。其の際天皇陛下には吾々の上奏を聞し召されて居られましたが、その間陛下の平和御愛好の御信念より来る御心痛が切々たるものある如く、其の御顔色の上に拝察しました。陛下は総てを聴き終られ、暫く沈痛な面持ちでお考えでありましたが、最後に陛下は「日米交渉に依る局面打開の途を極力盡(つく)すも而も達し得ずとなれば、日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」と深き御憂慮の御言葉を漏らされまして、更に「事態謂(い)ふ如くであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なかろうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰いたい」との御言葉でありました。(我々は右の御言葉を拝し恐懼した事実を今日も鮮やかに記憶して居ります)。斯して十一月五日の御前会議開催の上更に審議を盡すべき御許しを得たのでありましたが、私は陛下の御憂慮を拝し、更に熟考の結果、連絡会議、閣議、御前会議の審議の外に、更に審議検討に手落ちなからしめ、陛下の此の御深慮に答うる意味に於いて、十一月五日の御前会議に先立ち、更に陸海軍合同の軍事参議官会議の開催を決意し、急遽其の御許しを得て十一月四日に開催せらるる如く取り運んだのでありました。此の陸海軍合同の軍事参議官会議なるものは、明治三十六年軍事参議官制度の創設せられてより初めての事であります。
十一月五日の御前会議
九二
以上は昭和十六年十一月五日の御前会議に至る迄の間に於て開かれた政府と統帥部との連絡会議及び軍事参議官会議で為された協議の経過並びに結果であります。十一月五日には右の案を議題として午前会議が開かれました。(後略)
九三
元来此の種の御前会議は政府と統帥部との調整を図ることを目的として居るのであります。日本の制度に於ては、政府と統帥部は全然分立して居りますから、斯の如き調整方法が必要となって来るのであります。此の会議には予め議長というものもありません。その都度陛下の御許しを得て、首相が議事を主宰するのを例と致します。この会議で決定したことは、その国務に関する限りは更に之を閣議にかけて最後の決定をします。又統帥に関することは統帥部に持ち帰り、必要なる手続きをとるのであります。この如くして後、政府並びに統帥部は別々に天皇陛下の御允裁(ごいんさい)を乞うのであります。従って憲法上の責任の所在は国務に関することは内閣、統帥に関することは統帥部が、各々別々に責任を負い其の実行に当るのであります。又幹事として局長なり書記官長が出席しますが、之は責任者ではありません。御前会議、連絡会議の性質及び内容は右の如くでありまして政府及び統帥部の任務遂行上必要なる当然の会議であり検事側の観察しあるが如き共同謀議の機関と見るは誣言(ふげん)であります。 
東條内閣に於ける日米交渉
九八
政府は日米交渉が益々困難に陥らんことを予見し且つ、その解決の急を要する情勢にあるに鑑み、同年八月中の野村大使よりの要請に基き、各交渉援助のため来栖大使を派遣することに致したのであります。来栖氏は十一月五日東京を発ち、同月十五日に「ワシントン」に到着したのであります。之は真面目に日米交渉の妥結を企図したもので、日本の開戦意思の隠蔽手段では断じてありません。(後略)
一〇〇
日米交渉は甲案より始められたものでありますが、同時に乙案をも在米大使に送付して居ります。交渉は意の如く進行せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那駐兵、にあることも明らかとなり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため、最善の努力を払うため従来の難点は暫く措き、重要且つ緊急なるもののみに限定して、交渉を進めるために予め送ってありました乙案によって、妥結を図らしめたのであります。(後略)
一〇一
昭和十六年十一月十七日、私は総理大臣として当時開会の、第七十七議会に於て施政方針を説明する演説をいたしました。(弁護側証二二六号)之により日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにしたのであります。(中略)
(一)第三国が支那事変の遂行を妨害せざること。
(二)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去及び平常関係に復帰
(三)欧州戦争の拡大とその東亜への波及の防止、とであります。
右に引き続き東郷外相は日米交渉に於ける我方の態度につき、二つのことを明らかにせられました。(法廷証第二七四三号)その一つは、今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。その二つは、我方は交渉の成立を望むけれども、大国として権威を毀うことは之を排除するというのであります。首相及び外相の演説は即世界に放送せられ中外に明らかにせられました。(中略)
右政府の態度に対し十一月十八日貴衆両院は孰(いず)れも政府鞭撻の決議案を提出し満場一致之を可決したのであります。(弁護側証二○九、二七一二)
一○二
前に述べました我国の最後案である乙案については、日米交渉に於いても、米国政府は依然として難色を示し、野村、来栖大使の努力に拘らず、米国政府は依然六月二十一日案を固執して居って、交渉の成立は至難でありました。他方十一月二十四日より二十六日に亘って、米国は英、蘭、支各国代表と蜜に連絡し各国政府間に緊密の連絡を遂げて居ることは当時の情報に依って判って来ております。
一○三
これより先、米英濠蘭の政情及び軍備増強は益々緊張し又、首脳者の言動は著しく挑発的となって来ました。(弁護側証二九二三号) 之が我国朝野を刺激し、又前に述べた議会両院の決議にも影響を与えたものと認められます。例へば昭和十六年十一月十日には、「チャーチル」英首相は「ロンドン」市長就任午餐会に於て「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は一時間内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられました。(法廷証二九五六、英文記録二六一○五、証一一七三、英文記録一○三五二)・・・・「ルーズベルト」大統領はその前日である休戦記念日に於て、米国は自由維持のためには永久に戦はんと述べ・・・「ノックス」海軍長官の如きは、右休戦記念日の演説に対日決意の時到ると演説したのであります。(中略)なお、十一月二十四日には米国政府は蘭領「ギアナ」へ陸軍派兵に決した旨を発表しました。米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずには居られませんでした。(後略)
ハルノート
一○四
斯の緊張裏に米国政府は昭和十六年十一月二十六日に、駐米野村、来栖両大使に対し、十一月二十日の日本の提案に付ては、慎重に考究を加え関係国とも協議をしたが、之には同意し難しと申し来り、今後の交渉の基礎としての覚書を提出いたしました。之が彼の十一月二十六日の「ハルノート」であります。その内容は証第一二四五号1(英文記録一八一五)の通りであります。此の覚書は従来の米国側の主張を依然固持する許りではなく、更に之に付加する当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかとなって居った次如きの難問を含めたものであります。即ち
(一) 日本陸海軍はいふに及ばず警察隊も支那全土(満州を含む)及び仏印より無条件に撤兵すること。
(ニ) 満州政府の否認
(三) 南京国民政府の否認
(四) 三国同盟条約の死文化
であります。
一○六
十一月二十七日には午前十時より政府と統帥部は宮中に於て連絡会議を開催して居りました。・・・そのうちに「ワシントン」駐在の陸軍武官より米国案の骨子だけが報道されて来ました。之によれば前に概略言及したような苛酷なものでありました。同様な電報は海軍武官よりも言って来ました。同日即ち十一月二十七日午後二時より更に連絡会議を開き、各情報を持ち寄り審議に入ったのでありますが、一同は米国案の苛酷なる内容には唖然たるものがありました。その審議の結果到達したる結論の要旨は次の如くなりと記憶します。
(一) 十一月二十六日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。
(ニ) 此の覚書は我国としては受諾することは出来ない。且つ米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りて之を通知して来て居る。しかも、それは関係国と緊密なる了解の上に為されて居る。
(三) 以上のことより推断し、又最近の情勢、殊に日本に対する措置言動、並びに之により生ずる推論よりして、米国側に於ては既に、対日戦争の決意を為して居るものの如くである。それ故に何時米国よりの攻撃を受けるやも測られぬ。日本に於ては十分警戒心を要するとのこと。即ち此の連絡会議に於ては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。従って十一月五日の御前会議の決定に基き行動するを要する。しかし、之に依る決定はこの連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経て之を決定しよう。そしてその午前会議の日取は十二月一日と予定し、此の御前会議には政府からは、閣僚全部が出席しようということでありました。(後略)
一○九
次の事柄は、私が戦後知り得たことがらであって、当時は之を知りませんでした。
(一) 米国政府は早く我国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知して居ったこと、
(二) 我国の昭和十六年十一月二十日の提案は日本としては最終提案なることを、米国国務長官では承知して居ったこと。
(三) 米国側では十一月二十六日の「ハルノート」に先立ち、なお交渉の余地ある仮取極(かりとりきめ)案を「ルーズヴェルト」大統領の考案に基きて作成し、之により対日外交を進めんと意図したことがある。この仮取極案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、孰(いず)れにするも仮取極は「イギリス」及び重慶政府の強き反対に会い、之を取りやめ遂に証第一二四五号(1)の通りのものとして提案したものであること、並びに日本が之を受諾せざるべきことを了知して居たる事。
(四) 十一月二十六日の「ハルノート」を日本政府は最後通牒と見て居ることが米国側にわかっていたこと。
(五) 米国は一九四一年(昭和十六年)十一月末、既に英国と共に対日戦争を決意して居った許りでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることであります。十一月末のこの重大なる日数の間に於て、斯の如き事が存在して居ろうとは無想だも致して居りませんでした。
十二月一日 御前会議
一一五
(前略)十一月二十六日に至り米国の最後通牒に接し、我国としては日米関係はもはや外交折衝によっては、打開の道なしと考へました。此のことは前にも述べた通りであります。以上の経過を辿ってここに開戦の決意を為すことを必要としたのであります。之がために開かれたのが十二月一日の御前会議であります。…….此の会議では従前の例に依り御許しを得て私が議事進行の責に当りました。当日の議題は「十一月五日決定の帝国国策遂行要領に基く対米交渉遂に成立するに至らず、帝国は米英国に対し開戦す」(法廷証第五八八号の末尾)というのでありました。(中略)最後に原枢密院議長より総括的に次の如き意見の開陳がありました。
(一) 米国の態度は帝国としては忍ぶべからざるものである。此上、手をつくすも無駄なるべし、従って開戦は致方なかるべし。
(二) 当初の勝利は疑いなしと思う。(後略)
(三) 戦争長期となれば、国の内部崩壊の危険なしとせず、政府としては十分に注意せられ度し。
之に対し私は次のように答えました。
(中略)皇国隆昌の関頭に立ち、我々の責任これより大なるはない。一度開戦御決意になる以上、今後一層奉公の誠を尽くし、政府統帥部一致し、施策を周密にし、挙国一体必勝の革新を持し、あくまでも全力を傾倒し、速やかに戦争目的を完遂し、以て聖慮に答え奉り度き決心であると。斯くしてこの提案は承認せられたのであります。此の会議に於て陛下は、何も御発言あらせられませんでした。
一一六
此の会議に先立ち、内閣に於ては同日午前九時より臨時閣議を開き、事前に此の案を審議し、政府として本案に大体依存なしとして、御前会議に出席したのでありますから、此の会議をもって、閣議決定と観たのであります。統帥部に於ては各々その責任に於て更に必要な手続きを取ったのであります。
一一七
以上の手続きに由り決定したる国策については、内閣及び統帥部の輔弼(ほひつ)及び輔翼(ほよく)の責任者に於て、其の全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下の御立場に関しては、寸毫の誤解を生ずるの余地なからしむるため、ここに更に詳説いたします。これは私に取りて真に重要な事柄であります。
(一) 天皇が内閣の組織を命ぜらるるに当っては、必ず往時は元老の推挙により、後年殊に本訴訟に関係ある時期に於ては、重臣の推薦及び常時輔弼の責任者たる内大臣の進言に由られたのでありまして、天皇陛下が此等の者に推薦及び進言を却け、他の自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたというが如き前例は未だ嘗てありませぬ。又統帥部の輔翼者(複数)の任命に於ても、既に長期間の慣例となった方法に依拠せられたものであります。即ち例えば、陸軍に在りては三長官(即ち陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の意見の合致に由り、陸軍大臣の輔弼の責任に於て御裁可を仰ぎ決定を見るのであります。海軍のそれに於ても同様であります。此の場合に於ても天皇陛下が右の手続きに由る上奏を排して他を任命せられた実例は記憶いたしませぬ。以上は明治、大正、昭和を通しての永い間に確立した慣行であります。
(二) 国政に関する事項は必ず右手続きで成立した内閣及び統帥部の輔弼輔翼に因って行なわれるのであります。此等の助言に由らずして陛下が独自の考えで国政又は統帥に関する行動を遊ばされる事はありませぬ。この点は旧憲法にもその明文があります。その上に更に慣行として、内閣及び統帥部の責任を以て為したる最後決定に対しては天皇陛下は拒否権は御行使遊ばされぬという事になって来ました。
(三) 時に天皇陛下が御希望又は御注意を表明せらるる事もありますが、而も此等御注意や御希望は総て、常時輔弼の責任者たる内大臣の進言に由って行なわれたことは、某被告の当法廷に於ける証言に因り立証せられた通りであります。而もその御希望や御注意等も、之を拝した政治上の輔弼者(複数)、統帥上の輔翼者(複数)が更に自己の責任に於て之を検討し、その当否を定め、再び進言するものでありまして、此の場合常に前申す通りの慣例により御裁可を得て定め、之を拒否せられた事例を御承知いたしませぬ。之を要するに天皇は自己の自由の意志を以て内閣及統帥部の組織を命じられませぬ。内閣及統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下の御希望は、内大臣の助言に由ります。而も此の御希望が表明せられました時に於ても、之を内閣及び統帥部に於て其の責任に於て審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが戦争史上空前の重大危機に於ける天皇陛下の御立場であられたのであります。現実の慣行が以上の如くでありますから、政治的、外交的及軍事上の事項決定の責任は、全然内閣及統帥部に在るのであります。夫れ故に昭和十六年十二月一日開戦の決定の責任も亦内閣閣員及統帥部の者の責任でありまして、絶対的に陛下の御責任ではありません。 
十二月一日の御前会議終了より開戦に至る迄の重要事項
一一九
十二月一日以後開戦までは屡々連絡会議を開きました。そして此間に作戦実施準備と国務につき重要なる関係を有する諸事項を決定しましたが、そのうち重なるものは次の通りであったと記憶します。これ等は本節冒頭に陳べました純統帥以外のことであり、国務と統帥との両者に関連を有する事柄であって、両者の間に協定を遂げたものであります。
(一) 対米通告とその米国への手交の時期の決定
(二) 今後の戦争指導の要領の決定
(三) 占領地行政実施要領の決定
(四) 戦争開始に伴なう対外措置の実行
(五) 宣戦詔勅の決定
対米通告と米国政府への手交時期の決定――
一二○
日本政府は昭和十六年十二月八日(日本時間)米国に対し、駐米野村大使をして、帝国が外交交渉を断絶し、戦争を決意せる主旨の通告を交付せしめました。その文言は法廷証第一二四五号のKの通りであります。そうして此の通告に対する外交上の取扱は外務省の責任に於てせられたのであります。
これより先、昭和十六年十一月二十七日の連絡会議に於て同月二十六日のアメリカの最後通牒と認められる「ハルノート」に対する態度を定めたことは既に前に述べました。之に基き東郷外相より私の記憶に依れば、十二月四日の連絡会議に於て、我国より発すべき通告文の提示があったのであります。之に対し全員異議なく承認し、且つその取扱に付ては、概ね次のような合意に達したと記憶します。
A、右外交上の手続きは外務大臣に一任すること
B、右通告は国際法に依る戦争の通告として、その米国政府に手交後に於ては、日本は行動の自由をとり得ること
C、米国政府への手交は必ず攻撃実施前に為すべきこと、この手交は、野村大使より米国政府責任者へ手交すること、駐日米大使に対しては、攻撃実施後に於て之を通知する。通告の交付は攻撃の開始前に之をなすことは、予て天皇陛下より私及び両総長に屡々御指示があり、思召は之を連絡会議関係者に伝え連絡会議出席者は皆之を了承して居りました。
D、通告の米国政府に対する手交の時間は、外相と両総長との間に相談の上之を決定すること、蓋(けだ)し外交上、作戦上機微なる関係がありましたからであります。
真珠湾其の他の攻撃作戦計画及び作戦行動わけても攻撃開始の時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。従って連絡会議出席者でも陸海軍大臣以外の閣僚等は全然之を知りません。私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、他の閣僚は知らないのであります。私の検事に対する供述中法廷第一二○二号のAとして提出してある部分に、真珠湾攻撃の日時を東郷外務大臣及び鈴木企画院総裁が知って居たと述べているのは全く錯誤であります。之はここに訂正いたします。わたしの記憶によれば、昭和十六年十二月五日の閣議に於て対米最終的通告につき、東郷外務大臣よりその骨子の説明がありました。会員は之を了承しました。
日本政府に於ては十二月六日に野村大使に対し慎重廟議を尽くしたる結果、対米覚書を決定したこと、又此の覚書を米国に提示する時期は追て電報すべきこと、並びに覚書接到の上は何時にても、米国に交付し得るような文書整備其の他、予め万般の手配を了し置くよう外相より訓電せられて居ります。詳細は山本熊一氏の証言せる如くであります。(英文記録第一○九七頁参照)その上右覚書本文を打電したのであります。翌十二月七日にはその覚書は正確に「ワシントン」時間七日午後一時を期し米側に(加成(なるべく)、国務長官に)野村大使より直接に交付すべき旨訓電して居ります。
要するに、対米通告の交付については、日本政府に於ては真珠湾攻撃前に之をなす意思を有し、且つ此の意思に基き行動したのであります。而して私は当時其の交付は野村大使に依り外相の指示に基き指定の時間に正しく手交せられたものと確信して居りました。蓋し斯の如き極めて重大なる責任事項の実行については、出先の使臣は完全なる正確さをもって事に当るということは、何人も曾て之を疑わず、全然之に信頼して居るのは当然であります。然るに事実はその手交が遅延したることを後日に至り承知し、日本政府としては極めて之を遺憾に感じました。対米最終報告の内容取扱については、外務省当局に於て国際法、及び国際条約に照し慎重審議を尽して取扱ったものであって、連絡会議、閣議とも全く之に信頼して居りました。
宣戦の詔書
一二四
宣戦詔書の決定と其の布告、帝国は昭和十六年十二月八日、開戦の第一日宣戦の詔書を発布しました。右詔書は法廷証第一二四○号がそれであります。而して此の詔書はその第一項に明示せらるる如く、専ら国内を対象として発布せられたものであって、国際法上の開戦の通告ではありません。
一二五
之より囊(さき)、昭和十六年十一月二十六日米国の「ハルノート」なる最後通牒を受取り開戦はもはや避くべからざるものとなることを知るに及び、同年十一月二十九日頃の連絡会議に於て宣戦詔書の起草に着手すべきことを決定しましたと記憶します。十二月五日頃の閣議並びに十二月六日頃の連絡会議に於て詔書草案を最終的に確定し上奏したのであります。尤も事の重大性に鑑み中間的に再三内奏いたしました。その際に右文案には二つの点につき、聖旨を体して内閣の責任に於て修正を致したことがあります。その一つは第三項に「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端ヲ開クニ至ル洵ニ己ムヲ得サルモノアリ豈朕か志ナラムヤ」との句がありますが、これは私が陛下の御希望に依り修正したものであります。その二は十二月一日、木戸内大臣を経て稲田書記官を通じ、詔書の末尾を修正致しました。それまでの原案末尾には、「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」とありましたが、御希望に依り「帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」と改めたのであります。右二点は孰れも陛下の深慮のあらせらるるところを察するに足るものであります。(法廷証三三四○号中二四○節、二四一節)(中略)…..而してその間と雖も米国の反省による外交打開に一縷の望みをかけて居った。その妥結を見たならば作戦中止を考えて居ったが遂に開戦になったこと、並に「オランダ」に対しては開戦の当初、その攻撃を予期して居らず従って日本より好んで宣戦する必要はない。それであるから「オランダ」のことは此の詔書より除外したと述べたのであります。
真珠湾攻撃の実施
一二六
帝国は昭和十六年十二月一日より開戦準備に入り、大本営陸海軍統帥部の企画に基づき、敵の大包囲網を「ハワイ」、比島、香港、及び「マレー」の四ヶ所に於て突破するの作戦に移りました。十二月八日(日本時間)早暁其の攻撃を実施しました。而して此の攻撃は何れも軍事目標に指向せられたのであります。此の攻撃作戦は統帥部に於て極秘裡に進められたものであります。私と海軍大臣を除く他の閣僚は事前に之を承知して居りません。(中略)即ち敵の方より先制することがあり得ると思われましたからです。先ず日本をして一撃を加へしめるよう仕向けるというが如き戦争指導手段が「アメリカ」側に考えられて居ったということは、その当時は予期して居りませんでした。
一二七
私が真珠湾攻撃の成功の報を受け取ったのは、昭和十六年十二月八日午前四時三十分頃(日本時間)海軍側から伝えられた報告に依ったものと記憶致します。而してその奇蹟的成功を欣び天に感謝しました。大本営陸海軍報道部は同日午前六時米英と戦争状態に入りたる旨を発表し、同日八時三十分臨時閣議を招集し、此の席上初めて陸海軍大臣より作戦の全貌を説明したのであります。此の間に「マレー」方面の作戦成功の状況についても報告を受けました。
一二八
我国の最終的通告を米国へ交付遅延の事情は証人亀山の証言(英文記録二六一八六頁)及び結城の証言(英文記録二六○九頁)により明白となりました。日本は真珠湾攻撃のために右覚書交付の時間決定については此の交付を故意に遅らせたという如き姑息なる手段に出たものではないことは、前に述べた通りであります。なお此のことは、実際上よりいうも証拠の示す如く、米国は攻撃の前に之を予知し、之に対する措置を構じて居ったのでありますから、もし覚書交付遅延の如きことをするも、格別の効果はなかったのであります。
大東亜解放と東條内閣
日本の企画せる大東亜政策殊に之を継承して東條内閣に於てその実現を図りたる諸事情
一四一
日本の企図して居りました大東亜政策というものはその時代に依って各種の名称を以て表現せられて居ります。即ち例えば「東亜新秩序」「大東亜の建設」又は「大東亜共栄圏の建設」等というのがその例であります。此の大東亜政策は、支那事変以来具体的には歴代内閣によりその実現を企図せられ来ったものであります。そしてその究極の目的は、東亜の安定の確立ということに帰するのであります。而して昭和十五年七月の第二次近衛内閣以後の各内閣に関する限り、私はこの政策に関係したものとして其の真の意義目的を証言する資格がある者であります。
一四二
抑々日本の大東亜政策は、第一次世界大戦後世界経済の「ブロック」化に伴い近隣世界相互間の経済提携の必要から、此の政策が唱えられるに至ったのであります。其の後東亜の赤化と中国の排日政策とにより支那事変は勃発しました。そこで日本は防共と経済提携とに依て、日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。
然るに、日本の各般の努力にも拘らず、米、英、蘇の直接間接の援蒋行為に依り事態は益々悪化し、日華両国の関係のみに於て支那事変を解決することは不可能であって、之が為には広く国際改善に待たねばならぬようになって来ました。日本は之に努力しましたが、米、英は却て対日圧迫の挙に出たのであります。茲に於て日本は止むを得ず、一方仏印、泰、更に蘭印との友好的経済的提携に努むると共に、東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。以上は元より平和的手段に拠るものであり、亦列国の理解と協力とに訴えたものであります。
然るに日本に対する米英蘭の圧迫は益々加重せられ、日米交渉に於て局面打開不可能となり、日本は己むを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。右武力行使の動機は申す迄もなく、日本の自存自衛にありました。一旦戦争が開始せられた以後に於ては、日本は従来採り来った大東亜政策の実現、即ち東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。大東亜政策の実現の方策としては、先ず東亜の解放であり次で、各自由且つ独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。
一四三
大東亜政策の前提である「東亜解放」とは、東亜の植民地、乃至、半植民地の状態に在る各民族は他の民族国家と同様の世界に於て対等の自由を獲んとする永年に亘る熱烈なる希望を充足し、以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。斯くして世界のこの部分に於ける不安は排除せられるのであります。恰も約一世紀前の昔「ラテンアメリカ」人が「ラテンアメリカ」解放のために戦ったのと同様であります。
当時、東亜民族が列強の植民地として又は半植民地として、他よりの不当なる圧迫の下に苦悩し、之よりの解放を如何に熱望して居たかはこの戦争中、昭和十八年十一月五日、六日、東京に開催せられたる「大東亜会議」に於る泰(タイ)国代表「ワンワイタヤーコン」殿下の演説に陳(の)べられた所により、之を表示することが出来ます。
曰く『特に一世紀前より英国と米国とは、大東亜地域に進出し来たり、或いは植民地として、或は原料獲得の独占的地域とし、或いは自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。従って大東亜民族は、或いは独立と主権とを失い、或は治外法権と不平等条約に依て、其の独立及び主権に種々の制限を受け、而も国際法上の互恵的取扱を得るところがなかったのであります。斯くして「アジア」は政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります。斯かる事情により生れたる苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留って居るのであります』と。(法廷証第二三五一)。
又同会議に於て南京政府を代表して汪兆銘(汪精衛)氏は其の演説中に於て為された演説を引用して居ります。之に依れば『日支両国は兄弟と同様であり日本は曾て不平等条約の束縛を受けるため発憤興起し、初めてその束縛を打破し、東方の先進国並に世界の強国となった。中国は現在同様に不平等条約廃棄を獲得せんとしつつあるものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放は即ち東亜の解放である』と述べております。(弁護側証第二七六○―B)
以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。之が東亜各地に鬱積せる不平不満であります。なお東條内閣が大東亜政策を以て開戦後、之を戦争目的となした理由につき簡単に説明いたします。従前の日本政府は、東亜に於けるこの動向に鑑み、又過去に於ける経験に照らして、早期に於て東亜に関係を有する列国の理解により之を調整するのでなければ、永久に東亜に禍根を為すものであることを憂慮致しました。
そこで大正八年(一九一九年)一月より開催せられた第一次世界大戦後の講和会議に於ては、我国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することの提案を為したのであります。(弁護側証第二八八六号)、しかしこの提案は、あえなくも列強により葬り去られまして、その目的を達しませんでした。依って東亜民族は大いなる失望を感じました。大正十一年の「ワシントン」会議に於ては何等此の根本問題に触れることなく、寧ろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九ヶ国条約により、再認識を与えられた結果となり東亜の解放を希う東亜民族の希望とは益々背馳するに至ったのであります。
次で大正十三年(一九二四年)五月米国に於て排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年七月一日から有効となりました。これより先、既に明治三十四年(一九○一年)には、豪州政府は黄色人種の移住禁止の政策をとったのであります。斯くの如く東亜民族の熱望には一顧も与えられずに、益々之と反対の世界政策が着々として実施せられました。そこで時代に覚醒しつつある東亜民族は、焦慮の気分をもって、その成行を憂慮いたしました。その立場上、東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としては、此の傾向を憂慮しました。歴代内閣が大東亜政策を提唱致しましたことは、此の憂慮より発したのであって、東條内閣はこれを承継して、戦争の発生と共に之を以て戦争目的の一つとしたのであります。 
一四四
大東亜政策の眼目は大東亜の建設であります。大東亜建設に関しては当時日本政府は次のような根本的見解を持して居りました。抑々世界の各国がその所を得、相寄り相扶けて万邦共栄の楽を偕(とも)にすることが世界の平和確立の根本要義である。而して特に関係深き諸国が互に相扶け各自の国礎を培ひ、共存共栄の紐帯を結成すると共に、他の地域の諸国家との間に「協和偕楽」の関係を設立することが世界平和の最も有効にして且つ実際的の方途である。是れが大東亜政策の根底をなす思想であります。右は先に述べた昭和十八年十一月五日大東亜会議の劈頭(へきとう)に於て私の為した演説(法廷証一三四七号A)中にも之を述べて居るのであります。此の思想を根底として大東亜建設には次の様な五つの性格があります。
(一)は大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、共存共栄の秩序を建設することであります。(後略)
(二)は大東亜各国は相互に自主独立を重んじ、大東亜の親和を確立することであります。(後略)
(三)は大東亜各国相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性に伸張し、大東亜の文化を昂揚することであります。
(四)は大東亜各国は互恵の下、緊密に連携し其の経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進する事であります。(後略)
(五)は大東亜各国は万邦との交誼を厚くし、人種的差別を撤廃し、普く文化を興隆し、進んで資源を解放し、以て世界の進運に貢献することであります。(中略)口に自由平等を唱えつつ他国家、他民族に対し、抑圧と差別とをもって臨み、自ら膨大なる土地と資源とを壟断し、他の生存を脅威して顧みざる如き世界全般の進運を阻害する如き旧秩序であってはならぬと信じたのであります。以上は大東亜政策を樹立する当初より、政府は(複数)此の政策の基本的性格たるべしとの見解でありました。斯くの如き政策が世界制覇とか、他国への侵略を企図し、又は意味するものと解釈せらるゝということは夢だにもせざりし所であります。
一四五
以上の大東亜建設の理念は、日本政府(複数)が従来より抱懐して居ったところでありまして、日本と満州国との国交の上に於ても、亦、日華基本条約乃至(ないし)は、日満華共同宣言の締結に於ても、日支事変解決の前提としても、なお又、仏印及び泰国との国交の展開の上に於ても、総ては平和的方法により、其の達成を期せんとして居ることは、前にも述べた通りであります。この主旨は昭和十八年(一九四三年)十一月五日開催の大東亜会議に参集しました各国の代表の賛同を得て、同月六日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。(証第一三四六号英文記録第一二○九八頁)
一四九
外に対する施策として実施しました事として昭和十七年(一九四二年)十二月二十一日対支新政策を立て大東亜政策の本旨に合する如く、日支間の不平等条約撤廃を目的として逐次左の如く施策を進め、昭和十八年十月三十日を以て之を完了しました。即ち
(一) 昭和十八年一月九日とりあえず、中国に於ける帝国の特殊権利として有したる一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関する日華協定を締結し、直ちに之を実行しました。(証第二六一○号)
(ニ) 昭和十八年二月八日、中国に於て帝国の有せる敵国財産を南京政府に移管しました。
(三) 次で昭和十八年十月三十日、日華同盟条約(法廷証第四六六号)を締結し、その第五条及び付属議定書により、之より蘘(さき)昭和十五年十一月三十日に締結した日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権を放棄し、日支事変終了後日本軍隊の駐兵権を含め、全面撤兵を約束し、ここに日支間の平等条約の最後の残滓(ざんし)を一掃したのであります。
(四) 而して対等の関係に於て新たに、前述の同盟条約を締結し、相互に主権及び領土の尊重、大東亜建設及び東亜安定確保のための相互協力援助並びに両国の経済提携を約したのであります。
右に関し昭和十八年十一月十五日の大東亜会議に於て、中国代表汪兆銘氏は次の如く述べて居ります。(弁護側証二七六○―B)『本年一月以来日本は、中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、殊に最近に至り日華同盟条約をもって日華基本条約に代え、同時に各種付属文書を一切廃棄されたのであります。国父孫文先生が提唱せられました大東亜会議は、既に光明を発見したのであります。国父孫文先生が日本に対し切望しましたところの中国を扶け、不平等条約を廃棄するということも既に実現せられたのであります』と
一五○
外に対する施策の其の二について一言しますれば、
(A)先ず「ビルマ」国の独立であります。昭和十八年八月一日、日本は「ビルマ」民族の永年の熱望に答え、その「ビルマ」国としての独立を認め且つ、同日之と対等の地位に於て日緬同盟条約(弁護側証第二七五七号)を締結しました。而してその第一条に於て其の独立を尊重すべきことを確約して居ります。
又、昭和十八年九月二十五日帝国政府は帝国の占領地域中「ビルマ」と民族的に深き関係を有する「マレー」地方の一部を「ビルマ」国に編入する日緬条約(弁護側証第二七五八号)を締結し之を実行しました。之によっても明瞭なる如く、日本政府は「ビルマ」に対し何等領土的野心なく唯、その民族の熱望に応え、大東亜政策の実現を望んだことが判るのであります。元来「ビルマ」の独立に関しては日本政府は、太平洋戦争開始間もなく昭和十七年一月二十二日、第七十九議会に於て私の為した施政方針の演説中に於て、その意思を表明し(法廷証第一三三八号、英文記録一二○三四頁)又、昭和十八年一月二十二日第八十一議会に於て私の為した施策方針演説に於ても、「ビルマ」国の建国を認める旨を確約しました。(弁護側文書二七一一号)そして同年三月当時「ビルマ」行政府の長官「バー、モー」博士の来朝の際、之に我が政府の意思を伝え、爾後(じご)建国の準備に入り昭和十八年八月一日前述の如く独立を見たのであります。
「ビルマ」民族がその独立を如何に熱望して居たかは、同年十一月六日の大東亜会議に於ける「ビルマ」国代表「バー、モー」氏の演説中に明かにされて居ります。その中の簡単な一節を引用しますれば次の如く言って居ります。(法廷証第二三五三号)『僅かに一千六百万の「ビルマ」人が独力で国家として生まれ出づるために戦争したときは常に失敗に終りました。何代にも亘って我々の愛国者は民衆を率い、打倒英国に邁進したのでありますが、我々が東亜の一部に過ぎないこと、一千六百万人の人間が、為し得ないことも十億の「アジア」人が団結するならば、容易に成就し得ること、此等の基礎的事実を認識するに至らなかったために、我々の敵に対するあらゆる反抗は、仮借することなく蹂躙(じゅうりん)されたのであります。
斯くて今より二十年前に起った全国的反乱の際には「ビルマ」の村々は焼払われ、婦女子は虐殺され志士は投獄され、或は絞殺され、又は追放されたのであります。然し乍らこの反乱は失敗に終ったとは言え、この火焔(かえん)、アジアの火焔は「ビルマ」人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へと繰り返され、此のようにして闘争は続けられたのであります。而して今日漸くにして遂に我々の力は一千六百万人の「ビルマ」人の力のみではなく、十億の東亜人の力である日が到来したのであります。即ち東亜が強力である限り「ビルマ」は強力であり、不敗である日が到来したのであります』と。
(B)次は「フィリッピン」国の独立であります。昭和十八年十月十四日、日本は「フィリッピン」に対し全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。(弁護側小証二八一○号)又同日これと対等の地位において同盟条約を締結しました。その第一条に於いて相互に主権及び領土の尊重を約しました。右の事実及び内容は弁護側証第二七五六号の通りであります。
元来「フィリッピン」の独立に関しては、太平洋戦争開始前、米国は比島人の元来の熱望に応へ一九四六年七月を期し、比島を独立せしむべき意思表示を行って居ります。我国は開戦間もなく一九四二年(昭和十七年)一月二十二日の第七十九議会に於て、比島国民の意思の存するところを察し、その独立を承認すべき意思表示をしました。(法廷証一三三八号)而して昭和十八年一月二十二日第八十一帝国議会に於てこれを再確認しました。(弁護側証第二七一一号)次で更に同年五月には、私は親しく比島に赴きその民意のある処を察し、その独立の促進を図り、同年六月比島人より成る独立準備会により、憲法の制定及び独立準備が進められました。
かくして昭和十八年十月十四日比島共和国は独立国家としての誕生を見るに至ったのであります。而して比島民族の総意による憲法が制定せられ、その憲法の条草に基き「ラウレル」氏が大統領に就任したのであります。又、日本政府は「ラウレル」氏の申出に基きその参戦せざること及び軍隊を常設せざることに同意しました。以上を以て明瞭なる如く日本は比島に対し何等領土的野心を有して居らなかったことが明らかとなるのであります。
(C)帝国と泰(タイ)国との関係に於ては、太平洋戦争が開始せらるる以前、大東亜政策の趣旨の下に平和的交渉が進められ、その結果
(1)昭和十五年六月十二日、日泰友好和親条約を締結し(法廷証五一三号)
(2)昭和十六年五月九日、保障及び政治的諒解に関する日泰間議定書を締結し(法廷証六三七号)相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約しました。
以上は太平洋戦争発生以前、日泰両国間は平和的友好裡に行はれたのであります。而して太平洋戦争後に於ては更に、
(3)昭和十六年十二月二十一日、日泰同盟条約を締結し(弁護側証第二九三二号)東亜新秩序建設の趣旨に合意し、相互に独立及び主権の尊重を確認し、且つ和平的軍事的相互援助を約しました。
(4)更に又、昭和十七年十月二十八日には日泰文化協会を締結して(弁護側証第二九三三号)両民族の精神的紐帯をも強化することを約しました。
(5)昭和十八年八月二十日、帝国は「マレー」に於ける日本の占領地中の旧泰国領土中、「マレー」四洲即ち「ベルリス」「ケダー」「ケランタン」及び「トレンガン」並びに「シャン」の二洲「ケントン」「モンパン」を泰国領土に編入する条約を締結したのであります。(弁護側証第二七五九号)
此の旧泰領土編入の件は、内閣総理大臣兼陸軍大臣たる私の発意によるものであります。(この決定の原本は今日入手不能、弁護側証二九二二号)同年七月五日私の南方視察の途、泰国の首都訪問に際し「ピプン」首相と会見し、日本側の意向を表明し、両国政府の名に於て之を声明したのであります。
元来泰国に譲渡するのに此の地を選びましたのは、泰国が英国により奪取せられた地域が最も新しい領土喪失の歴史を有する地域であるがためであって、其の他の地域の解決はこれを他日に譲ったのであります。本来この処置については当初は、統帥部に於て反対の意向がありましたが、私は大東亜政策の観点より之を強く主張し、遂に合意に達したのであります。帝国のこの好意に対し泰国朝野が年来の宿望を達し、その歓喜に満てる光景に接して私は深き印象を受けて帰国しました。帰国間もなく本問題の解決を促進することに致しました。
昭和十八年十一月六日の大東亜会議に於いて泰国代表「ワンワイ、タラヤコーン」殿下は之につき次の如く述べて居ります。(法廷証第二三五一号中)『日本政府は宏量、克く泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります。斯くて日本政府は、「マライ」四洲及び「シャン」二洲の泰国領編入を承認する条約を締結されたのであります。これ実に日本国は、泰国の独立及び主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民に対して深甚なる感謝の意を表する次第であります。』と。
もっとも泰国民のこれに対する熱意を知るとともに、帝国に於ては、占領地域に対し領土的野心なきことの明白な証拠であります。(中略)而も本措置は此の占領地を自国の領土に編入するものではなく、泰国の福祉のためその曾て英国に依り奪取されたる旧領土を泰国に回復せんとする全く善意的のものであり、且つ之が東亜の平和に資するものであります。
当時この措置を為すに当り、持って居った私の信念を率直に申せば、一九四○年(昭和十五年)十二月独「ソ」間に「ポーランド」領を分割し国境の確定を為せる取り決めが行われたること、又、昭和十五年六月「ソ」連が「ルーマニア」領土の一部を併合したことを承知して居りました。此等の約定が秘密であると、公表されたるものであるとに拘らず、条約は即ち条約であり、共に国際法の制約の下に二大国家間に行なはれたる措置なりと承知しておりました。
尚、本、日泰条約は戦争中のものであります。而して日本としては、戦争の政治的目的の一つは東亜の解放でありました。故に私は、この目的達成に忠ならんと欲し何等躊躇(ちゅうちょ)するところなく、東亜の解放をドシドシ実行すべきであると考えたのであります。即ち独立を許すべきものには独立を許し、自治を与うべきものには自治を与え、失地を回復すべき者には失地を回復せしむべきであるとの信念でありました。此等のことは戦後を待つ必要もなく、又之を待つを欲しなかったのであります。尚、終戦後左記の事実を知って、此の間の措置が国際法に豪末も抵触せざることを私は更に確信を得ました。即ち
(1)昭和十八年(一九四三年)十一月米、英、及び重慶政府間の「カイロ」会議に於て、未だその占領下にもあらざる日本の明瞭なる領土中、台湾、澎湖島を重慶政府に割譲するの約束が為されました。
(2)昭和二十年(一九四五年)二月ヤルタ協定に於て、これ亦未だ占領しあらざる日本領土である千島列島、樺太南部を「ソ」連に割譲することを、米、英、「ソ」間に約定せられ、而も他の条件と共に、之をもってソ連を太平洋戦争に参加を誘う道具となしたのであります。斯の如き措置は国際法の下に、大国の間に行なはれたのであります。私は此等により日本の先に為した措置が違法にあらざる旨を確信を得て居ります。
(D)蘭領印度に対しては、現地情勢は尚、その独立を許さざるものがありましたので、とりあえず、私は前記昭和十八年五月三十日の決定「大東亜政策指導要領」に基き内閣総理大臣として昭和十八年六月十六日、第八十二回帝国議会に於て、その施政演説中に於て(弁護側証第二七九二号)「インドネシア」人の政治参与の措置を採る方針を明らかにし、これに基き、現地当局は、これに応ずる処置をなし、政治参与機会を与えました。而して東條内閣総辞職後、日本は蘭印の独立を認める方針を決定したと聞いて居ります。
去る昭和二十二年(一九四七年)三月七日山本熊一氏に対する「コミンス、カー」検事の反対尋問中に証拠として提示せられたる日本外務省文書課作製と称せらるる『第二次大戦中ニ於ケル東印度ノ統治及ビ帰属決定ニ関スル経緯』(法廷証第一三四四号検察番号第二九五四号)に昭和十八年五月三十日御前会議に於て、東印度は帝国領土へ編入すべきことを決定したと述べて居ります。昭和十八年五月三十日の御前会議に於て蘭領東印度は一応帝国領土とする決定が為されたことは事実であります。
此等地方の地位に関しては、私を含む政府は大東亜政策の観点より、速かに独立せしむべき意見でありましたが、統帥部及び現地総軍司令部並びに出先海軍方面に於て、戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならずとの強き反対があり、議が進行せず、他面「ビルマ」「フィリッピン」の独立の促進及び泰国に対する占領地域の一部割譲問題など、政治的の急速処置を必要とするものあり、止むを得ず、一応帝国領土として、占領地行政を継続し置き、更に十分考慮を加え、且つ爾後の情勢を見て変更する考えでありました。これで本件は特に厳秘に附し、現地の軍司令官、軍政官等にも全く知らしめず、先ず行政参与を許し其の成行を注視すると共に本件御前会議決定変更の機を覗って居たのであります。
即ち、昭和十八年五月三十日御前会議決定当時に於ても此等の土地を永遠に帝国領土とする考えはありませんせした。この独立のための変更方を採用する前に、私どもの内閣は総辞職を為したのでありました。小磯内閣に於て「インドネシア」の独立を声明しましたが、私も此の事には全然賛成であります。(注・文中に「戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならず」とあるのは蘭印の石油資源を日本の国有にして作戦に支障なく使う必要があった為と思はれます)
(E)帝国政府は昭和十八年十月二十日、自由印度仮政府の誕生を見るに及び十月二十三日にこれを承認しました。右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心として「シニバス、チャンドラボース」氏の統率の下に、印度の自由独立及び繁栄を目的として、之を推進する運動より生れたのであります。帝国は此の運動に対しては大東亜政策の趣旨よりして、印度民族の年来の宿望に同情し全幅の支援を与えました。
なお、昭和十八年十一月六日の大東亜会議の機会に於て、我国の当時の占領地域中唯一の印度領たる「アンダマン、ニコバル」両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意ある旨を声明しました。(弁護側文書第二七六○号−E)これ亦我が大東亜政策の趣旨に基き之を実行したのであります。 
一五一
大東亜政策として外に対する施策の第三である大東亜会議は、日本政府の提唱に依り、昭和十八年十一月五、六日の両日東京に於て開催せられました。参会した者は中華民国代表、同国民政府行政院長汪兆銘氏、「フィリッピン」代表同国大統領「ラウレル」氏、泰国代表、同国内閣総理大臣「ピプン」氏の代理「ワンワイタラヤコーン」殿下、同国務総理張景恵氏、「ビルマ」代表、同国首相「バーモー」氏及び日本国の代表、内閣総理大臣である私でありました。この外自由印度仮政府首班「ボース」氏が陪席しました。
而して本会議の目的は、大東亜秩序の建設の方針及び大東亜戦争完遂に関し、各国間の意見を交換し、隔意なき協議を遂ぐるにありました。この会議の性質及び目的に関しては、予め各国に通報し、その検討を経(へ)、且つ其の十分なる承諾の下に行なはれたものであります。私は各国代表の推薦により議長として議事進行の衝に当りました。
会議の第一日即ち十一月五日には、各国代表がその国の抱懐する方策及び所信を披歴しました。第二日即ち十一月六日には、大東亜共同宣言を議題として審議し、その結果満場一致を以て之を採択しました。之は証第一三四六号の通りであります。ここに関係各国は大東亜戦争完遂の決意、並びに大東亜の建設に関しては、その理想と熱意につきその根本に於て意見の一致を見、大東亜各国の戦争の完遂、及び大東亜建設の理念を明らかにしたのであります。
次に満州国代表張景恵氏より此の種の会合を将来に於ても、随時開催すべき旨提議がありました。「ビルマ」代表「バーモー」氏より自由印度仮政府支持に関する発言があり、之に引続きて自由印度仮政府首班「ボース」氏の印度独立運動に関する発言がありました。私は「アンダマン、ニコバル」両諸島の帰属に関する日本政府の意向を表明しました。(弁護側証二七六○−E号)斯くして本会議は終了しました。
本会議は強制的のものでなかったことは、その参加者は次のような所感を懐いて居ることより証明できます。「フィリッピン」代表の「ラウレル」氏はその演説の中に於て次の如く述べて居ります。曰く『私の第一の語は先ず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。即ち、此の会合に於て大東亜諸民族共同の安寧と福祉との諸問題が討議せられ、又大東亜諸国家の指導者閣下に於かれましては親しく相交ることに依りて、互に相知り依て以て亜細亜(アジア)民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設及びこれが恒久化に拍車をかけられる次第であります。(法廷証二三五二号)と申して居ります。
又陪席せる自由印度仮政府代表「ボース」首班の発言の中には『本会議は戦勝者間の戦利品』分割の会議ではありません。それは弱、小国家を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありまして、此の会議こそは解放せられたる諸国民の会議であり、且つ正義、主権、国際関係に於ける互恵主義及び相互援助等の尊厳なる原則に基づいて、世界の此の地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります。』(法廷証二七六○号−D号)と言って居ります。
更に「ビルマ」代表バーモー氏は本会議を従来の国際会議と比較し次の如く述べて居ります。曰く『今日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生まれ出る感情は、如何様に言い表はしても誇張し過ぎる事はないのであります。多年「ビルマ」において私は亜細亜の夢を夢に見つづけて参りました。私の「アジア」人としての血は常に他の「アジア」人に呼びかけて来たのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中で「アジア」はその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが、今日此の席に於て私は初めて夢であらざる「アジア」の呼声を聞いた次第であります。我々「アジア」人はこの呼声、我々の母の声に答えてここに相集うて来たのであります』(法廷証二三五三号)
ソ連竝にコミンターンとの関係 
一五五
日本は未だ嘗て検察側の主張するが如き蘇(ソ)連邦に対し、侵略を為せることは勿論、これを意図したこともありません。我国は寧(むし)ろ蘇連邦の東亜侵略に対し、戦々恐々其の防衛に腐心し続けて来たのでありました。殊に昭和七年(一九三二年)満州国の成立後に於ては、日本はその防衛の必要と、日満共同防衛の盟約とに基き同国と協力し、隣邦蘇連に対し、満州国の治安確保と其の防衛に専念し来たのであります。而して日本陸軍としては、此の目的を達するための軍事整備の目標を、主として蘇連極東軍に置いて居たのであります。
従って、日本陸軍の対「ソ」作戦計画の本質は対「ソ」防衛であります。その計画手段を含んで居りますが、之は国家が万一開戦を強いられた場合において採るべき戦闘手段を準備計画せるものであり、我方より進んで戦争することを意味するものではありません。又、決して侵略を目的としたものではないことは勿論であります。尚、大東亜共栄圏に西比利亜(シベリア)地域を国家の意思として考えたこともありません。
本法廷に於て検察側よりいわゆる『関特演』計画に関することが証拠として提示せられて居りますが、これとても此の範囲を出づるものでなく、且つこれは一に資材、人員の補充を計ったものであります。他面日本の対蘇外交は常に蘇連邦との間に「静謐保持」を以て一貫した政策として居ったのであります。支那事変、次で太平洋戦争発生後に於ては、日本は北辺に事無からんことを常に最新の注意を払い、殊に昭和十五年(一九四○年)四月、蘇連邦との間に日蘇中立条約の締結を見たる以後に於ては、これが堅持を基本として対「ソ」平和政策を律してきたのでありまして、昭和二十年(一九四五年)八月同条約の有効期限に之を破って侵略を行ったのは日本ではありませんでした。
他面帝国は第三「インターナショナル」の勢力が東亜に進出し来ることに関しては、深き関心を払って来ました。蓋し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱し、延いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。之がため、国内政策としては、大正十四年(一九二五年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)昭和十六年更に之を改訂し、以て國體変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備え、又、対外政策としては、支那事変に於て、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるに鑑み、共同防共を事変解決の一条件とせることも、又東亜各独立国家間に於て「防共」を以て共通の重要政策の一としたることも、之はいづれも各国協同して東亜を赤化の危険より救い、且つ、自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。
これら障壁が世界平和のため如何に重要であったかは、第二次世界大戦終了後、此の障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁に之を物語って居ります。
摘要
一五六
本供述書は、事柄の性質が複雑且つ重大なるよりして期せずして相当長文となりました。ただ私は世界史上も最も重大なる時期に於て、日本国家が如何なる立場に在ったか、又同国の行政司掌の地位に選ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、其の権限内に於て、如何なる政策を樹て、且つ之を実施するに努めたかを、此の国際的規律に於ける大法廷の判官各位に御諒解を請はんがため、各種の困難を克服しつゝ之を述べたのであります。
斯の如くすることに因り、私は太平洋戦争勃発に至るの理由及び原因を描写せんとしました。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、我国に取りましては無効且つ惨害を齎した一九四一年(昭和十六年)十二月八日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、我国に関する限りに於ては、自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。
尚、東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身を含めて)が、何故戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します。これは私の供述の中に含まれて居ります。但(ただ)我国の開戦は最後的手段として、且つ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げます。
満州事変、支那事変及び太平洋戦争の各場面を通して、其の根底に潜む不断の侵略計画ありたりと為す主張に対しては、私はその荒唐無稽なる事を証する為、最も簡潔なる方法を以て之を反証せんと試みました。我国の基本的且つ、不変の行政組織に於て多数の吏僚中の内、少数者が長期に亘り、数多の内閣を通じて、一定不変の目的を有する共同謀議(此の観念は日本には存在しないが)を為したなどという事は、理性ある者の到底思考し得ざる事なることが、直ちに御了解下さるでありませう。
私は何故に検察側がかゝる空想に近き訴追を為さるかを識るに苦しむ者であります。日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、尚この政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため、本法廷に多数の証拠が提出せられました。
之に対し私の証言は、この合理にして且つ自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じます。私は又国際法と太平洋戦争の開始に関する問題とにつき触れました。又日本に於ける政府と統帥との関係殊に国事に関する天皇の地位に言及しました。私の説明が私及び私の同僚の有罪であるか無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸せであります。
終りに臨み――恐らくこれが当法廷の規則の上に於て、許さるる最後の機会でありましょうが――私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。
一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。
戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。
私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。 以上

右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス
同日同所
立会人 清瀬一郎
宣誓書
良心ニ従ヒ真実ヲ述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ
署名捺印 東條英機
昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於東京、市ヶ谷
供述書 東條英機 
詔書 昭和十六年十二月八日
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆(なんじゆうしゅう)ニ示ス 朕茲に米国及ビ英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海軍将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコト期セヨ
抑々(そもそも)東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕(ひけん)ナル皇祖考丕承(ひしょう)ナル皇考ノ作述セル遠猷(えんゆう)ニシテ朕カ挙々(けんけん)措(お)カサル所而(しこう)シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ之亦(これまた)帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル洵(まこと)ニ已(や)ムヲ得サルモノアリ豈(あに)朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩(さき)ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫(みだり)ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱(こうらん)シ遂ニ帝国ヲシテ干戈(かんか)ヲ執ルニ至ラシメ茲(ここ)ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼(よしみ)ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭(ひいん)ヲ恃(たの)ミテ兄弟尚未タ檣(かき)ニ相鬩(せめ)クヲ悛(あらた)メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿(かく)レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞(たくまし)ウセントス剰(あまつさ)ヘ與国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與へ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ニ裡(うち)ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌(わた)リタルモ彼ハ豪モ交譲ノ精神ナク徒(いたずら)ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯クノ如クにシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕(ひん)セリ事既ニ此(ここ)ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然(けつぜん)起ッテ一切ノ障礙(しょうがい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚(しんい)シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘(かいこう)シ速ニ禍根ヲ芟除(きんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御名御璽
昭和十六年十二月八日
各大臣副署
詔書 昭和二十年八月十四日 
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ對(たい)シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ挙々措(けんけんお)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦実に帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶畿(しょき)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スか如キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦己(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆民ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸連邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たふ)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以て万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相傳ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣
各国務大臣副書
東條英機の慟哭
今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。
東條英機程の人が普通だったら手元が狂う筈はないからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。
さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。
“神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。
さて、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。
清瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考えを述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。
祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったからこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると
「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。
当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。
戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。
第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。
大東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破して韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したのである。
日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。
これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。即ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。
これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。
日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。日本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。
インドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカにたいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。
再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。 
歴史を研究する目的
歴史というものは一体何であるかといいますと、現象界に實相が如何に投影し表現されて来るかということの、その現われ方、即ち實相が現われる場合の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて行くことによって、その民族に如何様に實相が現われ、實相が現われんとするに当って如何に反作用を起し、自壊作用を起したかを知り、
それをずっと時間的に貫いて観てそこに實相が如何なる相を以って現われるかという事を知ることによって、大宇宙に於ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生きていくべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。
ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたという風なものではないのであって、生命の生々流動の流れの相、實相が現象界に貫いて響き出る時のその儘の相が書いてあるのであります。
その相を見ることは自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見ることであり、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、今後如何に発展すべきであるかということを知ることであります。・・・
動かない過去の記述を読むようなつもりで読んで頂いては間違いで、實相が迷いを通して輝き出るときの波動紋理というものを把みださねばならない。
換言すれば、吾々日本人が如何に實相を生き、如何に自壊作用と闘うて来たか、という事の記録が現われているのであります。 
 
大東亜戦争の真実 / 東条英機宣誓供述書3

 

戦後、東條英機にたいする日本国民の評判は決して良いものではなかった。つねに「悪人」のイメージが付きまとっていた。極東国際軍事裁判(東京裁判)においては、最後まで東條の弁護人が選定できず、結局、清瀬一郎立会人自身が担当することになったほどである。
いまでも覚えているが、私の通っていた中学校に勤続四十年の名物教師がいた。東條の自殺未遂の報に接して、その教師は「ピストル自殺をするならば、なぜ東條はこめかみに銃口を当てなかったのか。情けない人間だ」と憤概していた。私自身もそれを聞いたときにはその通りだと思ったものである。
後日、清瀬弁護人によれば、こめかみを撃てば頭部に多大な損傷がでてしまう。それを写真に撮られでもしたら、後世に恥ずかしいと東條自身が考えたそうである。だから心臓にマーキングして、そこを撃ったのだ、ということだった。
この「東條英機宣誓供述書」は、東條が昭川和十五(1940)年七月第二次近衛内閣に陸相として入閣してから、昭和十九(1944)年七月内閣総辞職するまでの四年間の日本の政治の推移と戦争の動向について、日本国を代表する責任者である東條英機が、東京裁判の証言台に立つにあたり、腹蔵なく語ったものである。
一読すれば、東條が覚悟を決めて本当のことを述べようと、最善の努力を傾注していることが行間から見て取れる。そこには、虚飾や人を貶(おとし)めんとする気持はいささかも見当たらない。
この供述書が占領下の日本で発禁文書であったことも重視すべきである。パル判決書もそうであった。これらの文書を占領軍が公開できなかったのは、そこには真実が述べられており、運合国側こそ大戦の原因になっていること、また東京裁判の訴因は虚構、あるいは夢想であることが白日の下にさらされることを、占領国側が怖れたからであるに違いない。
今回この「供述書」を改めて読み通して、私が少年のときに感じたことと同じことを言っているなあと感慨を覚えた。それは一言で言うなら、日本が真綿でじわじわと首を絞められていっているという閉塞感のようなものである。蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)オランダ政庁との交渉が決裂したとき、子供心に目の前が真っ暗になった。ああ、いよいよ戦争かと思ったものだ。
なぜそう思ったか。それは「日本に石油が来ないこと」を意味したからである。「供述書」を読んでいくと、石油資源をいかに確保するかが、当時の日本と東條のいちばんの間題であり関心事だったことが解る。
ここに書かれていることは、当時の日本の立場を、当時の日本国の最高責任者であり、誰より情報を把握している人間が包み隠さず述べたものである。しかも反対尋問付きであるから、ウソは言えない証言なのである。そしてこの供述にウソがあると反証されるべきものは、何ひとつない。
したがって、東條の供述や見解に賛成反対にかかわらず、今後あの時代の昭和史を書くならば、必ずこの供述を参考にしなければならない。あの当時日本の立場について、日本の首相が考察し、それを議会が承認し枢密院も承認し、天皇陛下も承認せざるを得ない事情があったことを理解しなければ、日本が一方的に悪い国だったと見えてきてしまう。それは歴史にたいして公平な態度ではない。
陸軍きっての努カ家で頭脳明晰な人だった
東條英機は、五十六歳のとき第二次近衛内閣で陸相としてはじめて入閣するが、それまで陽のあたる出世街道を歩んだわけではなかった。歳の近いフランクりン・デラノ・ルーズベルト米大統領と比べると、ルーズベルトが大統領に就任したとき(1933年・51歳)には、陸軍少将、陸軍省軍事調査部長だった。その後は、関東軍憲兵隊司令宮として、満洲に派遺され中央の政治とは物理的にも遠い場所にいたのである。
ではなぜ、そんな東條にスポットライトが当たったのか。そこには、二・二六事件が関係している。事件が勃発したとき、東條は満洲にいたが、叛乱に与(くみ)した者たちを徹底的に取り締まったことが、昭和天皇をはじめ陸軍首脳の目に止まったのである。その有能さと厳格さの故に、重臣たちや陸軍首脳たちに東條を信頼感服せしめたのだった。
時局は風雲急を告げていた。シナ事変は、第一次近衛内閣の「蒋介石政府を相手にせず」という愚かな声明のために、収拾の目処(めど)がつかなくなっていた。やるべきでない戦争をやっているのは誰の眼にも明らかだった(東條は引き込まれた戦争だったと述べている)。ヨーロッパも抜き差しならぬ情勢であり、関東軍は強大なソ違軍と国境を接して相対峙していた。そんな折に、徒(いたずら)に時間を浪費しては、再び二・二六事件のようなことが起きる可能性が充分にあった。ではその陸軍を完全に押さえられるのは誰かということで、東條しかいないと白羽の矢が立った。
東條は、陸軍きっての努力家であり頭脳明晰な人だった。石原莞爾からは想像力が足りないなどと批判されたが、正確に物事を把握し、記憶力は抜群であり(メモ魔でもあった)、彼の事務能力は「超」がつくくらいに優秀だったと言われている。そういう人物の記録である。いくつか記憶違いはあっても、直ちに訂正している。
彼は自分の責任について、その範囲は国際法や刑事法に照らしてではなく、自分の職権範囲内のことにたいして責任を取ると言明している。そして東條は衷心からの天皇崇拝者だった。天皇の信頼も厚く、東條にたいする天皇の信頼は最後まで揺るがなかったと言われている。
「持てる国」と「持たざる国」
繰り返すが、この「東條英機宣誓供述書」は、近現代史の超一級の資料のひとつとして見直されるべきである。もしヒットラーがこのような資料を残したら、誰もがそう扱うに違いない。それに匹敵するくらいの価値があると言っていい。
しかしながら、残念なことに、ここに書かれている東條証言が引用された文献等をあまり見たことがない。東條英機「悪人」説があまりにも蔓延(はびこ)って、参照するに足らずという空気があるのではないか。だとしたら、それはとんでもない間違いである。
近現代史を著述する人たちが陥りやすいのは、日本がやってきたことを単に時系列的に並べて済ませてしまうことである。その作業だけでは、日本は侵略国だったという単純な図柄しか見えてこない。
この「供述書」を読んでも解るように、東條や日本政府がその都度選択した政策は、米英蘭等の相手国の出方(でかた)があっての反応であり、そこには因果関係がある。日本は闇雲に戦争に走ったのではない。その流れを把握しなければ偏頗(へんぱ)に陥ってしまう。幸いにして、この「供述書」は、「いかにして日本が自衛の戦争をしなければならなくなったか」の経緯が詳(つまび)らかにされている。
前述したように、日本は石油や鉄鉱石などの原材料が自前で産出できない。1930年にアメリカが課した高関税をきっかけとして、世界経済はブロック化し、貿易量は1930年から31年の一年間に半分近くに滅少したとまで言われる。
「供述書」には出てこないが、当時の言葉で「アウタルキー(autarky)」という言葉がある。これは「自已完結経済単位」と訳されるが、要するに輸出入しないでも近代国家として生きることのできる領土を持っているということである。「供述書」にも出てくるが、「持てる国」(=haves)とは、アウタルキー国家であり、当時で言えばアメリカ、世界の四分の一を植民地にしていたイギリス、インドネシアを領土としていたオランダ、そのほかフランス、ソ連である。
東條は、日本が非アウタルキー国家であることを終始一貫主張している。それでも外部から必要な資源などが輸入できれば問題ないのだが、当時のブロック経済のもとでは、それがなかなかできないという意識が絶えず東條の頭のなかにあった。だから、原材料を押さえているアメリカやイギリス、オランダを相手に戦う発想は、東條にはなかった。
そして、「持たざる国」(=have-nots)というのは、奇しくも松岡洋右が画策した日独伊三国同盟の三国であるドイツ、イタリア、日本のことだった。ドイツも石油のためにはルーマニアに進出しなくてはならないと考えていたくらいである。
第三次近衛内閣が発足して間もなく、日本は南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)のサイゴン近辺に進駐する。進駐の理由は、何よりもインドネシアなど石油資源・鉱物資源の宝庫である南方地域との断絶を恐れたからだ。
その結果、アメリカによる在米日本資産凍結、石油全面禁輸という強烈なしっべ返しを食らうが、日本からすればルーズベルトやヨーロッパ要人の発言から、日本が進駐しなければ仏印を彼らに押さえられそうだと判断せざるを得ない状況にあった。石油問題でアメリカが緩和してくれれば撤兵する用意があった。
ちなみに、石油不足が当時の日本人をどれだけ悩ましていたかというと、こんな逸話がある。
日本海軍を代表する知性の一人、山本五十六が海軍次官のときのこと。葉か石油を生み出す方法を発明したというインチキ話に、彼が引っかかってしまったというのである。ことほど左様に石油の問題は、戦前の人間の平衡感覚を麻簿させてしまうものだった。いくら立派な軍艦や戦闘機をつくろうが、石油がなげればタダの鉄の塊でしかない。
三国同盟の解消とシナ撤兵問題
日本はアメリカの強固な対日制裁を受けながらも、アメリカとの対話をつづける努力をしていた。ルーズベルトは日本を撃つべしという腹はあったものの、アメリカ国民は、自分の国が第一次大戦で参戦し多大な犠牲を払いながら、得るところが少なかったことをまだ覚えていた。そのために、日本と戦争することにたいして反対の意識が開戦直前まで強かった。
その交渉のなか、コーデル・ハル米国務長官が対日覚書に添えた「オーラル・ステートメント(口上書)には、「不幸にして日本政府の指導者のなかには、ナチス・ドイツの侵略政策に深く関与する者がいる」と書かれていた。
これは明白な内政干渉だが、その人物が松岡外相だということもまた明らかで、彼を日米交渉から外すよう要求してきたのである。そしてハル同様、第二次近衛内閣も松岡をもてあましていた。結果、近衛は彼の首を切るべく、内閣総辞職をして、第二次近衛内閣を組閣する(1941年7月18日)。当時の制度では首相が閣僚を自由にクビにできなかったからである。近衛は本気で戦争回避を考えていたのだった。アメリカはハル四原則を繰り返し、日本のシナからの撤兵と三国同盟にたいする態度について、明確な譲歩を求めていた。
私自身は、もし三国同盟を解消するなら、このときしかなかったと思う。というのも、このときだけは口実があったからだ。ドイツがソ運と戦争を始めたからである。日本はソ連と中立条約を結んでいる。だが、ドイツとは同盟関係にある。その捩(ねじ)れを解消すべく、このときに三国同盟を破棄すればよかったのにと思う。そうしていたなら、日本は戦争を回避できたかも知れない。これ以降は誰が首相であっても、戦争は回避できなかったのではないか。
アメリカは、この後交渉しても一歩も譲ったことはない。駐日英大使がイーデン英外相に電報を打っているが、そこでは「松岡の辞任や目本の石油備蓄状況などを鑑(かんが)みると、いまがアメリカとしても日本との交渉の好機ではないか」といった趣旨のことを報告している。しかし、アメリかにはまるで歩み寄りの姿勢は見られなかった。この段になっても、日本の政府も軍部もともに対米戦争の計画は持っていなかった。後日、東京裁判で争われた「共同謀議」が意味を成さないことを示すひとつの証左と言える。
そして昭和16(1941)年9月6日の御前会議を迎える。ここでは、「弾発性」という言葉を使って、徒に対米交渉をずるずると延ばせば、米英蘭による対日制裁のために、日本は戦う力を喪失してしまうということを克明に述べている。石油なし、屑鉄なしで、日本の防衛を司る統帥部としては一歩も譲れなかった。
またシナ撤兵間題についても、譲歩しない理由を「もしここで撤退したらシナの侮日(ぶにち)思想はますます増長し、第二第三のシナ事変が勃発するに違いない」と言い切っている。撤兵したくとも軽々にそうすれば、さらなる混乱が大陸に、そして日本とシナとのあいだに巻き起こることを東條は危惧(きぐ)していたのである。現在のイラク問題で、容易にアメリカが撤兵できないことと同じだろう。
「彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛のためだった」
第一二次近衛内閣総辞職(1941年10月16日)は、東條と豊田外相の意見が合わないことが原因とされた。近衛は、私邸である荻外(てきがい)荘で陸海外の三相と企画院総裁との会議を開いた。
近衛と豊田は外交的妥結があると主張したが、東條はシナ駐兵間題では譲歩はできない、戦争の展望については九月六日の御前会議で論じたことで、いまさらその還元はできないとした。及川海相は首相一任という意見であった。その会談の前日、海軍はアメリカとの交渉継続を希望するが、そのことは言えないので首相一任とする旨を、近衛に伝えていたのである。
それを事前に自分も知っていたら、陸軍としては納得する余地もあっただろうと東條は述懐しているが、海軍としては「戦争ができない」とは公然と言えなかったのだった。しかし自信がないなら、そう主張すべきだったのだが、海相は会議では口を開かなかったのである。
「供述書」を読んでいくと、東條としては、九月六日の御前会議の決定を白紙還元しなくてはいけないという意見をすでに持っていたことが解る。そして、天皇御臨席の御前会議の結論をやり直しをするのは、普通の内閣には容易なことではないからと、近衛の後任には、皇族である東久邇宮稔彦を適任と考え、それを近衛に伝えていた。その提案に反対して、逆に東條を後継首班に推したのは内大臣木戸幸一であった。
大命降下において、木戸は、天皇陛下は最後まで戦争反対である、したがって九月六日の御前会議決定にとらわれないことを、陛下の思召(おぼしめし)として東條に伝えた。それで、東篠は九月六日の御前会議を自紙還元して、有名な甲案乙案をもって対米交渉に入る。
しかし十一月二十六日、ハル・ノートがアメリカより提出される。東傑内閣は、ハル・ノートをアメリカ側の最終通告だったと認識していた。ここで私が残念だったと思うのは、なぜハル・ノートを世界に向けて公開しなかったのか。ここでは日本の言い分はすべて蹴られていた。もし公表していたら、世界中が同情したに違いなかったと思う。そうしなかったのは、東條内閣の最大の失敗の一つだろう。ただ詮方なきは、ハル・ノートは乙案を飛び越して、ハルがその内容に関わっていなかったことであろう。
ハル・ノートというのは、ハリー・ホワイト米財務次官補が作成した。彼は戦後、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。ソ連指導部は日本の軍事的脅威を除くため、アメリカを早急に対日参戦に偲す「スノウ作戦」をすすめていたという(1999年8月22日付産経新聞朝刊)。
ハル・ノートを見て、日本はついに戦争がはじまるといった重苦しい雰囲気に包まれた。ここまでの「供述書」を読めば、相手の出方によって、東條が思慮に思慮を重ねながら一歩一歩国策を選択し決定していった経緯が解るだろう。そして、彼は開戦の決定の責任が「絶対的に」天皇にないことを明言している。そして天皇が東京裁判にかからないことが東條の一番の願いでもあった。
天皇に戦争の意思がなかったことは、開戦の詔勅(しょうちょく)に「豈(あに)朕ガ志ナラムヤ」と入れたことでも明らかだった。この修正文言には周囲の反対があったとされる。天皇は戦争をやる気がないのか、それでは士気が下がってしまうと。しかし、これは天皇の「聖旨」の体現だった。と一緒に「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」という文言を「帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」と修正した。これは日本国の面子を棄ててはいけない、膝を屈して無条件降伏はできないという意思のあらわれでもあった。
この「供述書」の最後で、東條はあの戦争が国家自衛戦だったことを縷々(るる)述べている。これが奇しくもマッカーサー元帥が、米上院軍事外交合同委員会(1951年5月3日〜5日)で発言した証言とまったく論旨が同じなのである。
マッカーサーは、「日本には固有の原材料がない。石油も産出しないし、錫(すず)・ゴムといった多くの原料がない。もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万人以上の失業者が発生する。だから、彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛のためだった」と言っているのである。この証言内容は、もっと日本人の知識として広まるべきであるということを、ここに言っておきたい。
そして「供述書」の締めくくりとして、東條は、日本帝国の戦争は侵略でも搾取でもないと言い、自分は日本があの戦争に負けた責任こそ負うべきであっても、東京裁判で問われている「共同謀議」「平和に対する罪」といった「戦争犯罪」を犯してはいないと喝破(かっぱ)している。
その毅然として論理的な東條の姿にたいして、イギリス外交官の良き伝統の資質━それは一流の学者にして著述家であることだが━を、日本人として持っておられる岡崎久彦氏は、戦争の勝ち負けは別として、対外的には日露戦争勝利時の首相だった桂太郎よりは、東條英機のほうが立派だったのではないか、と指摘されている。蓋(けだ)し名言であろう。 
 
八紘一宇 (はっこういちう)

 

天下・全世界を一つの家にすること。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『大辞泉』、『大辞林』は、「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと記す。一方でこの語については侵略思想を示すものではなく人道の普遍的思想を示すものにすぎないとの論、「『平和のためにつくった』ことにすることで、日本が350年もの間東南アジアやアフリカをら白人の植民地から解放を目的とした。事実大東亜戦争終了後、東南アジア諸国が次々と独立国家となった。二度と白人からの植民地化を防ぐ為にバンドン会議が発足した。、反知性主義的な言葉だという論もある。『日本書紀』には、大和橿原に都を定めた時の神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」(六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き、八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす)との記述があり、これをもとに田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年(明治36年)に造語したとされる。
このように、日本書紀の記述は「八紘為宇(掩八紘而為宇)」であるが、1940年(昭和15年)8月に、第二次近衛内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく。建国)の大精神に基」づくと述べ、これが「八紘一宇」の文字が公式に使われた最初となった。近衛政権が「八紘一宇」という語を述べた西暦1940年は皇紀(神武紀元)2600年に当たり、「八紘一宇」は1940年の流行語になり、政治スローガンにもなった。1940年の近衛政権以来、教学刷新評議会の「国体観念をあきらかにする教育」を論ずる中などで頻繁に使用され、大東亜共栄圏の建設、延いては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想を表明するものとして引用使用された。
日本書紀における出典
この言葉が日本でよく知られるようになったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)である。
「 「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」 (上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。) — 日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」 」
この意味について、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀っている橿原神宮は以下のように説明をしている。
「 神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。 」
用語の整理
「八紘為宇」及び「八紘一宇」の混同
日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのはその後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語である。ただし現代では、「為宇」の文字が難解であるため、「八紘一宇」の表記が一般的となっており、神武天皇の神勅について言及する際にも「一宇」が用いられる例がしばしば存在する。 また「八紘」という表現は古代中国でしばしば用いられた慣用句を元としている。
古代中国で用いられた慣用句の影響
この言葉が日本でよく知られるようになったのは上記に参照した『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)からの引用である。ここで「八紘」とは、
「 九州外有八澤、方千里。八澤之外、有八紘、亦方千里、蓋八索也。一六合而光宅者、並有天下而一家也。 — 『淮南子』墬形訓 」
「 「……湯又問:『物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?』革曰:『渤海之東不知幾億萬裡、有大壑焉、實惟無底之穀、其下無底、名曰歸墟。八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無摶ウ減焉。』……」 — 『列子』湯問 」
に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。このような表現は中国の正史後漢書・晋書にもあり、例えば晋書では晋の武帝、司馬炎が三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」といっている。
津田左右吉の説によれば、日本書紀は「文選に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少し言い変えたもの」といい、元来は「(大和地方は服属したが、さしあたって橿原に皇居を設けることにするが、大和以外の地方はまだ平定してないゆえ)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」という意味だという。
それ以後「八紘」の語は世界と同義語として若干使われた形跡がある。たとえば箕作阮甫が1851年(嘉永4年)に著した『八紘通誌』は、世界地理の解説書である。しかし大正期までこの言葉は文人が時々用いる雅語どまりで、それほど用例が豊富ではなかった。
田中智學による国体研究
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」と述べている。
八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えており、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が継承されているわけではない。田中は1923年(大正12年)11月3日、社会運動組織として立憲養正會を創設。「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。立憲養正會は1929年(昭和4年)智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、衆議院ほか各種選挙に候補を擁立(田中澤二本人も選挙に立候補しているが、落選)。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。その後同会は一定の政治勢力となり、田中耕が衆議院議員を2期(1期目は繰り上げ当選)務めたほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。しかし新体制運動や大政翼賛会を批判していたためかえって弾圧の対象となり、1942年(昭和17年)3月17日には結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、軍部などが言う国体を無視する思想であると見なされたためである。同年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では現職の田中耕ほか元会員37名が無所属で立候補したものの全員が落選している。第二次大戦後同会より衆議院議員に当選した齋藤晃は当時「護国の政治運動を展開していたが、大政翼賛会や憲兵から弾圧を受けた」という。戦後、田中澤二は公職追放となったものの同会組織は復活し、再び衆議院に議席を獲得。日本国憲法施行後も同会公認の浦口鉄男が衆議院議員に当選。浦口は他の小政党所属議員とともに院内会派を結成し、政権野党として活動した。
第一次大戦後〜第二次大戦中の用例の概要と評価
二・二六事件における言及
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。
「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる。1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。
第二次大戦中のスローガン
現在、日本の代表的な国語辞典では、八紘一宇は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、と説明している。
第二次世界大戦での日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における八紘一宇の語の使用が禁止された。
清水芳太郎による研究
昭和初期に活躍したジャーナリストである清水芳太郎は、世界大恐慌の中、主要国がこぞってブロック経済の構築を進めていた国際情勢に対抗するために、八紘一宇の理念を提唱すべきであると主張した。清水はブロック経済の中で大国が行っていることは弱者に対する搾取であると批判した。そして日本は八紘一宇の精神を想起し、弱肉強食を前提とした搾取の構造に加わることなく、むしろ敵を拝んで仲間とし、平和を達成すべきであるとした。
「 更に八紘一宇といふ事は、世界が一家族の如く睦み合ふことである。これは國際秩序の根本原則を御示しになつたものであらうか。現在までの國際秩序は弱肉強食である。強い國が弱い國を搾取するのである。所が、一宇即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一案強い者が弱い者のために働いてやる制度が家だ。世界中で一番強い國が弱い國、弱い民族達のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなつて、そして天地の萬物を生じた心に合一し、弱い民族達のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであらう。何といふ雄渾なことであらう。日本の國民は振ひ起たねばならぬではないか。強國はびこつて弱い民族をしいたげている。 — 『建國』(1938年) 」
戦中における対ユダヤ人政策との関連
一方で、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。
当時の日本はナチス・ドイツをはじめとする同盟国の政策を取り入れず、独自のユダヤ人保護政策をとった。当時制定された「現下に於ける対猶太民族施策要領」及び「猶太人対策要綱」では、ユダヤ人についてあくまで受動的な立場をとること、そしてドイツをはじめとする欧州諸国には八紘一宇の精神等に立脚する理由を理解させる旨が記載されている。
「 猶太民族に対しては現下時局の推移に伴い、台頭しつつある在極東猶太民族の日満依存傾向を利導して之を世界に散在する彼ら同族に及ぼし以て彼らにして功利的術数を抛ち、真に正義公道を基として日満両国に依存するにおいては之を八紘一宇の我大精神に抱擁統合するを理想とす。然れどもこれが実施に方りては、世界情勢の推移、満州国内の状況、猶太民族の特性に鑑み、序を追って特に慎重を期するを要す。之が為、現下の情勢に応じ取敢えず施策上着意すべき要綱を述ぶれば左記の如し。
一、対猶太人(ユダヤ人)対策の実施は、一般に尚暫く受動的態度をとると共に、日満両国政府の公的機関の表面進出を避け、専ら内面工作に依り裏面隠微の間に序を追うて進む。
二、諸工作の実施に方りては、急激なる成果の獲得に焦慮するを戒むると共に、苟も敏感なる彼らをして我態度を迎合乃至便宜的利用主義と誤認せしめ、あるいは彼らをして恩に狎れて増長に至らしめざるを要す。特に現下、満州国の開発に際し外資導入に専念するの余り、猶太資本を迎合的に投下せしめるがごとき態度は厳に之を抑止す。
三、全満に於ける猶太人耕作は関東軍司令部において統制各実施期間は相互連携を密にし支離の態度に陥るなからしむ。
四、ドイツその他列国に対しては、我民族協和、八紘一宇の精神並びに防共の大義に遵由するを諒解せしめ誤解なからしむ。
— 『現下に於ける対猶太民族施策要領 昭和十三年一月二十一日関東軍司令部』 」
新しい歴史教科書をつくる会元理事の上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。
第二次大戦後の用例の概要と評価
GHQによる使用禁止
戦後、1945年(昭和20年)12月22日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からいわゆる「神道指令」が発令された。同指令は、日本国民を解放するため、戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及び現在の悲惨な状態を招いた「イデオロギー」を即刻廃止するべきとし、「八紘一宇」の用語は国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離すことができない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた。
「 (ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル — 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書) 」
また「八紘一宇」をはじめとする「国家主義的イデオロギー」と結びついた用語を教育内容から除外することがGHQにより命令された。
「 一 日本新内閣ニ対シ教育ニ関スル占領ノ目的及政策ヲ充分ニ理解セシムル連合国軍最高司令部ハ茲ニ左ノ指令ヲ発スル
A 教育内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト
(1)軍国主義的及び極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト
(2)議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践の確立ヲ奨励スルコト」
— 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書) 」
極東国際軍事裁判における評価
1946年(昭和21年)より開廷された極東国際軍事裁判において、検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが、東条英機の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。
「 日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によるといわれる詔勅が、その時に発布されたといっている。この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。 — 東京裁判判決書 」
戦後の用例・評価
1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります。」と発言した。1983年(昭和58年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」と説明した。
政治評論家の佐高信は、政治家の加藤紘一について「加藤紘一の紘一は八紘一宇から取ったんですよ」と発言したことがある。
八紘一宇の塔
宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、宮崎県立平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にある塔。かつての正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。設計は、彫刻家の日名子実三。現在は「平和の塔」と称されている。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、紀元二千六百年記念行事の一つとして建造された。
この塔の建立に当たっては日本全国からの国民の募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。また、日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国であったナチス・ドイツの企業DEST、イタリア王国からの寄付もあった。さらに日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用された。
高さ37 m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した絵画があるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)は一旦削られたが、後に再興された。この復元運動の中心となったのは、県の観光協会会長を務めていた岩切章太郎(宮崎交通社長)だった。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。1979年(昭和54年)の昭和天皇宮崎訪問では、この塔の前での歓迎祝典が予定されていたが、天皇は固辞している。
「八紘一宇」の用例
戦前
田中智學「日本国体の研究」(1922年(大正11年)初版)における『宣言 =日本国体の研究を発表するに就いて=』(初出:国柱会日刊紙『天業民報』、1920年(大正9年)11月3日)
天祖は之を授けて「天壌無窮」と訣し、国祖は之を伝へて「八紘一宇」と宣す、偉なる哉神謨、斯の文一たび地上に印してより、悠々二千六百載、廼(スナハチ)君臣の形を以て、道の流行を彰施す、篤く情理を経緯し、具に道義を体現して、的々として人文の高標となれるものは、日本君民の儀表是也、乃神乃聖の天業、万世一系億兆一心の顕蹟、其の功宏遠、其の徳深厚、流れて文華の沢となり、凝りて忠孝の性となる、体に従へば君民一体にして平等、用に従へば秩序截然として厳整、這の秩序の妙を以て、這の平等の真に契投す、其の文化は静にして輝あり、是の故に日本には階級あれども闘争なし、人或は階級を以て闘争の因と為す、然れども闘争は食に在て階級に関らず、日本が夙く世界に誨へたる階級は、平等の真価を保障し、人類を粛清せんが為に、武装せる真理の表式なり、吁、真の平等は正しき階級に存す、人生資治の妙、蓋斯に究る。
陸軍教育総監部「精神教育の参考(続其一)」(1928年(昭和3年))
積、重、養と云ふは総合的広大持続を意味する生成発展の思想である、静的状態より動的状態への展開である。今や天業恢弘の気運に向へり、養正を主とし積慶、重暉を加へ以て八紘を掩ふて一宇と爲さむとし給へるもの即建国精神の第三なり。
陸軍省出版班「躍進日本と列強の重圧」(1934年(昭和9年)7月28日)
五、結言──危機突破対策 / 二、日本精神の宣布
列強の対日反感は、一面皇国の驚異的飛躍に基くと共に、皇国の真意に対する認識の欠如による事も大である。皇国は肇国の始めより、厳として存する大理想たる、八紘一宇の精神により、排他的利己主義を排し、四海同胞、一家族的和親の実現によって、世界人類の発展と、恒久平和とを招来せんことを庶幾しつつあるものである。彼のチモシイ・オコンロイの「皇道なる名称は、世界支配の大野心をカムフラージュせんが為め与えたるものである」と謂う如きは、全く我が真意を認識せざるもので、斯る蒙を啓く為め、日本精神を世界に向って宣布することが喫緊である。
関東軍参謀部第二課「関東軍軍歌」(1936年3月10日)
5番 / 旭日の下見よ瑞気 八紘一宇共栄の 大道ここに拓かれて 燦々たりや大陵威 皇軍の華関東軍
国際反共連盟「国際反共連盟設立趣意書」
帝国現前の諸政は、一切の活動力を共産主義絶滅の一事に集中せざるべからず。若し夫れ此の大斾を掲げて滅共産の下に内外を振粛し来たらんか、義を愛し、正を好むの日本国民にして、誰が砂上に偶語する者あらんや。如是にして内に既に基礎を置くこと堅固ならんか、大小の国家又我大義のあるところを涼となし、喜んで防共の目的を一にせんとするに至るや疑ふべからず。是れ真にまつろはぬものを伐ち平げて八紘一宇の大理想を顕揚するものと謂ふべき也。
内閣情報部「愛国行進曲」(1937年12月)
2番 / 起て一系の大君を 光と永久に頂きて 臣民我等皆共に 御稜威に副はむ大使命 往け八紘を宇となし 四海の人を導きて 正しき平和打ち立てむ 理想は花と咲き薫る
基本国策要綱(1940年(昭和15年)7月26日)第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針
「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
日独伊三国軍事同盟締結における詔書(1940年(昭和15年)9月27日)
「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ・・・惟フニ万邦ヲシテ各〻其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益〻国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」
東条英機「大詔を拝し奉りて」(1941年12月8日のラジオ演説)
「八紘を宇と為す皇謨の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります」
『我言霊』(控訴審公判調書第7回 1941年(昭和16年)1月23日)
我国ニ於テハ第一豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂ノ国ハコレ吾子孫の王タルベキ地ナリ云々ト云フ天祖ノ御神勅、第二、神武天皇ノ八紘一宇ノ御勅語、第三、和気清麿ノ奏上シタ我国ハ開闢以来君臣ノ分定マレリ、云々ノ御神示、之ヲ我国ノ三大言霊ト云フノデアリマス
石原莞爾(軍事思想家)『最終戦争論・戦争史大観』
「昭和十三年十二月二六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。」「日本主義が勃興し、日本の国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。」
鈴木安蔵(マルクス主義憲法学者)『政治・文化の新理念』
今日占領しつつある諸地方に限らず、今後、全東亜は言うまでもなく、八紘為宇の大理想が今や単なる目標ではなくして、その実現の前夜にある…東亜共栄圏と言い、八紘為宇と言うのは、わが指導権の範囲が一億同胞にとどまらず、全東亜、いな全世界におよぼすべき目標と使命と有する…
中村哲「民族戦争と強力政治」『改造』
八紘為宇の精神が世界史の現段階において、いかに四隣に光被さるべきかの軌道を示し、東洋諸民族をして各々その所を得しむる偉大な国家的悲願の具体的発顕である
平野義太郎(マルクス主義法学者)『民族政治学理論』
八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない
中村、平野は「世界共産化」という意味で「八紘一宇(為宇)」を用いていると中川八洋は述べている。
蓑田胸喜(反共思想家)「学術維新」
肇国の始めより『いつくしみ』『八紘為宇』の人道的精神を含蓄する日本精神は其世界文化史的使命に於いて、単に欧州的地方文化に制約された『民族主義だけの民族主義』を原理としてチェコ合併やポーランド分割の如きによって、直ちにその『一民族・一国家・一指導者』の国家原理に思想的破綻を来す如きナチス精神とは比倫を絶するものである。個人が人倫道徳に於いて超個人性を具現すべきが如く、民族国家も亦その思想精神に超民族性超国家性を含蓄啓示せねばならぬ。
四王天延孝(反ユ思想家)「ユダヤ思想及運動」
次は八紘一宇の大理想を以て進むべき大日本帝国は宜しく清濁合せ呑むの慨を以てユダヤ人をも包容し、之を愛撫して皇化に浴せしむべきだ、基督教徒や回教徒と、ユダヤ人との在来の対立の如きは日本の徳により解消させ得べきである。日本自らがユダヤ人に対抗するが如きは自らを小さくするものであると云ふ風な議論であって、堂々たるものである。議論としては宜しいが、実際に於て日本の経済も、政治も、道徳も、思想も、教育も既に大部ユダヤ思想にむしばまれ穴があいてゐる。之を今修繕して何でも来いと云へる迄は暫くこの大風呂敷へ余り多くの物、殊にトゲのあるものや発火の虞ある品物など詰め込まない方が宜しい。前章に述べたベロックの対策にある異物除去を吸収や同化で行ふと云ふのであるが胃腸が不健全の場合には六ヶ敷い、ことによると胃潰瘍の素地がもう出来てゐるかも知れない。尚八紘一宇の大理想と云ふても、善も悪も皆共に抱擁すると云ふのではなく、荒振るものがあれば之を掃ってしまふことも八紘一宇の大理想に近く方法である。この頃八紘一宇と云ふ言葉が少し使ひ過ぎられる傾きがある。
松本誠「第四回全鮮金融組合理事協議会開会の辭」 ─ 朝鮮金融組合連合会『第八回金融組合年鑑』
諸君以上は我が金融組合が現下並に今後邁進すべき使命と目標に付てその大要に触れたのでありますが之を要するに今や世界史的一大転換期に当りまして我が肇国の大精神たる八紘一宇の大理想を顯現いたしますが為には国民生活の領域に立って之が指導を担当するわが金融組合の如きは最も真剣に其の指導理念の把握をなすの要ありとするのがその第一であります。就中半島刻下の要求たる皇国精神の徹底に協力して内鮮一体の理想達成を期すると云ふ事はその第二であります。
宮城長五郎(裁判官、検察官、政治家)「法律善と法律悪」
我が日本は八紘一宇の肇国精神を具現実行すべく、敢然として立ち上って居るのでありますが、各国は皆夫々目指す処を異にして居るのであります。即ちドイツ、イタリア両国が人的全体主義国家であり、ロシアが共産的全体主義国家の建設を目賭してゐるのであるが、我が皇国は外国の国家建設を模倣する事なく、日本は日本独自の立場に立って、「八紘一宇」の精神を如何に具現すべきかを考へねばならぬのであります。
宮本武之輔(技術者、企画院次長)「大陸建設の課題」内「興亜日本の技術者に望む」
東亜の共同防衛、帝国主義的支配機構の廃絶、アジア的共同体制の樹立と新東方文化の昂揚を以て、その根本性格とする東亜新秩序建設は、東亜両民族の醇化統一による福利増進と共栄確保とを目的とする。従って東亜新秩序と東亜国防国家とは一にして二ならず、征服精神、侵略精神を含まず、八紘一宇の世界観に立脚して『しらす』ことを以て本質とする、わが国体の大義を恢弘することを指導原理とする。東亜国防国家は実に日満支善隣連環の東亜新秩序の上に構成せられなければならない。この故に東亜新秩序を目標とする経済ブロック建設と文化建設とは、アジア的共同体制における自給自足経済の確立と、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化とを融合した東亜の新文化の創造を目標としなければならない。それが東亜国防国家の緊急の要請だからである。
市丸利之助(軍人)「ルーズベルトニ与フル書」
畏クモ日本天皇ハ、皇祖皇宗建国ノ大詔ニ明ナル如ク、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)ヲ三綱トスル、八紘一宇ノ文字ニヨリ表現セラルル皇謨ニ基キ、地球上ノアラユル人類ハ其ノ分ニ従ヒ、其ノ郷土ニ於テ、ソノ生ヲ享有セシメ、以テ恒久的世界平和ノ確立ヲ唯一念願トセラルルニ外ナラズ。之、曾テハ「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」ナル明治天皇ノ御製(日露戦争中御製)ハ、貴下ノ叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下ノ感嘆ヲ惹キタル所ニシテ、貴下モ亦、熟知ノ事実ナルベシ。
戦後
坂口安吾『安吾巷談-野坂中尉と中西伍長-』(昭和25年)
「私は日本映画社というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、敗戦と同時に、サッと共産党的に塗り変ったハシリの一つがこの会社だから、笑わせるのである。今日出海を殴った新聞記者も、案外、今ごろは共産党かも知れないが、それはそれでいいだろうと私は思う。我々庶民が時流に動くのは自然で、いつまでも八紘一宇の方がどうかしている。八紘一宇というバカげた神話にくらべれば、マルクス・レーニン主義がズッと理にかなっているのは当然で、こういう素朴な転向の素地も軍部がつくっておいたようなものだ。シベリヤで、八紘一宇のバカ話から、マルクス・レーニン主義へすり替った彼らは、むしろ素直だと云っていゝだろう。」
宮本百合子『平和への荷役』(昭和23年)
「一億一心」「滅私奉公」「八紘一宇」のスローガンを、かりにも批判し分析する者は非国民とされ国賊とされ、赤とされた。そして、治安維持法と戦時特別取締法により取締りの対象となった。
橿原神宮(神武天皇を祭神とする神社)『御神徳 - 世界平和』
「神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。」  
 

 

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