石童丸

石童丸石童丸口説き1口説き2口説き3口説き4口説き5口説き6げんげんばらばら苅萱の関石童丸和讃1石童丸和讃2苅萱後傳玉櫛笥・・・
 

雑学の世界・補考   

石童丸1

九州の西海岸、長崎県西彼杵半島。日本で一番西方極楽浄土に近い長崎教区第2組。お寺のもん(者)は、盆踊りやらお祭りにはほとんど顔ば出さん。しかしこん(この)盆踊りの口説きに、目連口説きやら、石童丸口説きなる歌詞のあると。隠れキリシタンが今なお残るこの地方は、一村一カ寺で、お寺がある。間違いなく、キリシタン弾圧のためやろうたい(だろう)。教会の勢力が勝った地域には、この口説きは無かとばい。目連と聞けば、盂蘭盆会に関係が深いことはすぐ解るばってん、石童丸口説きに、こげんなエピソードがあったとは、たまがったばい(びっくりした)。
九州博多(刈萱の関)城主、加藤繁氏は、正妻桂子と妾千里の争いに世の無常を感じて比叡山を経て、京都黒谷の法然上人のもとへ出家する。しかし、妻子が尋ね来ることを嫌い高野山に向かう。やがてその子、石堂丸は母子で父を求め旅に出るが、高野山の麓で母は病に倒れ亡くなってしまう。ひとりになった石堂丸は父の刈萱道心と出会うが、父は父と名乗らず「探す方はすでに世にいない」と教えられる。世をはかなんだ石堂丸は弟子入りを迫り許されるが、修行の邪魔になると、刈萱道心は再び一人旅立ち、信州善光寺にこもる(諸物語あり)。この物語は、浄瑠璃としても演じられてるげなばってん(そうですが)、念仏踊りとも言われる盆踊りの口説きになっとるとばい(なっている)。どこから伝わってきたとやろうか?ちなみに、刈萱道心縁の寺は、高野山に刈萱堂というのもあるらしかし、最後を迎えた寺は、善光寺近くの浄土宗のお寺、安楽山菩提心院往生寺げなばい(そうです)。  
石童丸2
中世高野山で活躍した高野聖の活動は多様であるが、萱堂聖(かやどうひじり)と呼ばれる一派が布教や勧進のために伝えた苅萱道心と石童丸の物語は、謡曲「苅萱」、説教節「かるかや」、浄瑠璃「苅萱桑門筑紫車榮(かるかやどうしんちくしのいえずと)」をはじめ、琵琶語り、浪花節、盆踊りの口説き唄としても語られ、全国的に流布した。
高野山参詣道に位置する橋本市学文路は、石童丸の母親である千里ノ前(ちさとのまえ)ゆかりの地として、女人禁制のため高野山への参拝が許されなかった女人を対象とした唱導の場として賑わった。
現在、学文路苅萱堂には、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の木像をはじめ、苅萱物語の唱導に使用された用具が多数伝存する。これらの用具の中には、千里ノ前ゆかりの人魚や、石童丸御杖(みつえ)の銘竹、夜光の玉、蛇柳(じゃやなぎ)、飛鉦鼓(とびしょうこ)など謎めいた説教用具もあるが、いずれも異様な存在感を持つものだけに、奇怪なものへの興味と高野聖の巧みな唱導によって、参詣者が苅萱物語の世界に誘われつつ高野山への信仰を高めていった様子を彷彿とさせる。また、同寺には参詣人に頒布された苅萱物語を素材とした縁起や御札の版木も伝わり、当時の盛況ぶりを伝える。
なお、苅萱物語の旧跡は高野山や善光寺にもあるが、物語の唱導に関する遺品はすでに失われている。その意味からも、学文路苅萱堂に残されたこれらの資料は、近世高野山の庶民信仰をうかがい知る上で貴重な存在である。  
石童丸3
石童丸の父、加藤左衛門繁氏(しげうじ)は、筑紫の国の領主でしたが、ある時世をはかなんで家を捨てて出家します。京都で法然上人の弟子となり、ついで高野山に登り、苅萱道心と称して修業の生活に入りました。父の出家直後に石童丸が生まれました。十四歳のとき、石童丸は父が高野山で出家していることを知り、父に会いたい一心で、母と共に高野に向かいました。しかし高野は女人禁制。やむなく一人で山に登った石童丸は、やがて御廟の橋で一人の僧と出会います。実はこの僧こそ、石童丸の父、苅萱道心でした。しかし苅萱はいま修行の身。あえて「そなたの父は死んだ」と石童丸に偽って告げます。石童丸が山を降りその旨を母に告げると、母は嘆き亡くなります。母を弔った後、石童丸は再び高野山に上って苅萱道心(実は父)の弟子になりましたが、生涯父子の名乗りをすることはありませんでした。
石童丸4 苅萱道心と石童丸
大宰府周辺を散策していて、「苅萱の関」跡なる石碑を見つけた。聞き覚えのある名詞だと考え込んでいたら、遥か60年以上も前の祖母の柔和な顔が現れた。 明治7年生まれの祖母は、水城土塁のすぐ近くが実家だと言っていた。苅萱の関跡のすぐ近くだ。その祖母は、大宰府あたりの言い伝えをよく話してくれた。「石童丸」も、彼女の持ちネタの一つであった。
父を慕って高野山に登った幼い石童丸が、あるお坊さんに「父は死んだ」と聞かされた。泣く泣く麓で待つ母の元に下りていくと、もうこの世の人ではなかった。
この悲話は、能や仏教説話、浄瑠璃、琵琶などで有名な“苅萱道心(かるかやどうしん)”である。だが、記憶を辿っても、その後先がはっきりしない。子守唄代わりに話してくれ、何とはなしに聞いていた。そんなむかしの思い出の中の「カルカヤ」が、突然目の前に現われたのだから放っておくわけにはいかない。
祖母の年齢に近づいてみて、初めて蘇る祖先ルーツの口承文化を探す旅になった。
何故捨てた、妻と子を
時は平安時代の終わり頃、崇徳天皇の時代(1123〜1141年)。ところは、高野山の麓の学文路(かむろ)の宿で、母の千里と息子の石童丸が、深刻な表情で語り合っている。
「石童丸よ、お父上の名前は、『苅萱』と言うそうな。必ず見つけてこの宿まで連れてきてたもれ」
母は、幼な子一人で入山させることに不憫(ふびん)を感じながらも、厳しく言いつけた。
「母さま、私はもう10歳です。このくらいの山なら平気です。私とて、母さま以上に父さまに会いたいのですから。それより、母さまのお体は大丈夫ですか?」
「そなたの父に会うまでは、どんなことがあっても死ねぬわ」
この母子、ひと月前に筑紫国の坂本村(現福岡県大宰府市)を出立した。もともと心の臓に持病を持つ母の千里は、旅の途中何度もしゃがみこんだ。その都度息子が心配して、「坂本に戻りましょう」とすすめるが、母は、頑として聞き入れなかった。
「何としてもそなたの父さまに訊きたいのです。どうして、妻と子を捨てて出家されたのか、その理由(わけ)を…」
風の噂では、京で法然上人の教えを受けた後、高野山に登られたとか。千里の夫とは、加藤左衛門繁氏(かとうさえもんしげうじ)のことで、苅萱の関守であった。苅萱の関は、大宰府を護る大切な関所である。
側室の身でありながら、正妻と何の分け隔てなく愛してくれる夫に感謝し、心から尽くしてきたつもりである。そして、間もなく臨月を迎えようとする矢先、繁氏(しげうじ)は姿を消した。
幼児、単身高野山へ
あれから10年、繁氏失踪直後に誕生した石童丸も、立派な少年に成長した。千里は、この時を待っていたように、息子の手を引いて坂本村を旅立ったのだった。山坂を越えての長旅も、「もう一度繁氏(しげうじ)殿に会いたい」との、千里の強い意志があったればこそであった。
しかし、高野山は女人禁制である。千里は息子に、父を学文路(かむろ)の宿まで連れて来るようよくよく言いつけた。少年といっても未だ10歳の子供である。見上げるほどの急坂を、石童丸は、杖を頼りに登っていった。
半日かかって登ってきた石童丸は、まず金剛峰寺(こんごうぶじ)の主殿に額づいた。高野山は、弘法大師(空海)が開いた真言密教の聖地である。石童丸は、まだ見ぬ父上に会わせて下さるよう、ご本尊の阿?如来(あしゅくにょらい)に向かって何度も頭を下げた。
全山に100以上の寺を有する高野山である。疲れた体に鞭打ちながら、筑紫国(ちくしのくに)縁の「苅萱」の名を持つお坊さんを尋ね歩いた。
父の懺悔を聞かされて
「そのお方なら…」
奥之院の無明(むみょう)の橋の上で、石童丸の問いに立ち止まった30歳半ばの背の高いお坊さんが応えた。
「親しくしていたお坊さんだったが…。昨年の秋、風邪をこじらせて亡くなられました。わざわざ訪ねて来たのに、可哀想に」
石童丸の全身から力が抜けた。その時、お坊さんの表情が険しくなったことに、少年は気がついていなかった。
「父のことをもう少しお聞かせください。父さまは、生まれ来る私の顔も見ないまま、何故に坂本の家を出てしまわれたのでしょうか?そしてまた…」
俯いたままで聞き入るお坊さん。
「心からお慕いしている母上をも、捨てられた理由(わけ)を知りたいのです」
すがる石童丸に、お坊さんは下を向いたままで答えた。
「あのお方・道心さまは、自分が犯した罪に耐えられなかったのだと…」
「道心と言われるのですか、父上の名前は。その父が犯した罪とは…?」
「そう、苅萱道心殿が出家後の名前じゃ。大野城の城主の子に生まれ、ご養子先の加藤家でも将来の出世が約束されていて、しかも賢い妻と美しい側室までおいでになった。何の不自由もない毎日であったのだが…」
「……」
繁氏が政庁での花見の宴を済ませて帰宅すると、妻と側室との笑い声が玄関先まで聞こえた。ところが、障子に映る2人の影を見て動転した。
逆立った黒髪の1本1本が、真っ赤な口をあけた蛇になり、絡み合いながらお互いの喉笛に喰らいつこうとしている。
呆然と立ち尽くす繁氏が我れに返ったとき、屋敷から離れた水城の土塁のそばに立ち尽くしていた。
「苅萱道心さんは、それまで奥方と側室が憎みあい妬(ねた)みあっていることなぞまったく気がつかなかった。それだけに、己の罪の深さを悟っておったのじゃな。何の罪もないお子にまで、苦労をかけていることを悔いながら、昨年秋に亡くなられた」
戻ってみれば、母は冷たく
お坊さんの話を聞き終わって寺を出る時、「石童丸とやら、…して、そなたの母御は達者か?」と、訊かれた。
「はい、ただいま、麓の学文路(かむろ)の旅籠(はたご)で父と私の帰りを待っております」
思わず崩れ落ちそうになる体を、そばの槙の木に掴まって支えるお坊さん。
「くれぐれも体に気をつけて、坂本村に帰りなされよ。それから、母上にはいつまでも孝行を惜しむでないぞ」
石童丸は、意識して振り向かず、高野山の長い急坂を下っていった。既におわかりのことだろうが、石童丸に父の死を告げたお坊さんこそ、実は加藤左衛門繁氏、つまり、石童丸の父だったのだ。
父との再会を果たせないまま戻ってきた旅籠で待っていたのは、冷たくなった母の亡骸(なきがら)であった。「母さま、母さま」、どんなに叫んでも、目を覚ますことのない母の寝顔。長旅がよほど辛かったのであろう。しかし、血のひいた唇は、悩み苦しんでいた生前と違い、微笑んでいるようにも見えた。女人禁制の山の上で、息子と対面した時の夫の告白がが伝わったのだろうか。
未だ10歳の石童丸には、そんな大人の心の揺れが理解できるわけはなかった。
子もまた仏門に
最愛の母をなくした石童丸は、再び高野山を目指した。あの親切なお坊さんに、弟子入りを願うためである。お坊さんも、「せっかくだから、愚僧はそなたの父の名をいただいて、苅萱道心を名乗ろう」と言い、快く弟子入りを許した。(完)

石童丸と苅萱道心の話は、大宰府のほかにもたくさん伝わっている。その一つ、筑後川のほとりの建立寺(朝倉市杷木町)には、母千里が詠んだという和歌一首と片身の念持仏が石童丸の遺品として残されているという。石童丸が高野山から下りてきて、母の亡骸と対面したとき、宿の主人に託したものだそうな。
(念持仏:日常念持し礼拝する仏像)
苅萱道心は、石童丸を弟子に迎えた後、父子の名乗りをしないままに2人で全国を行脚し、信濃の善光寺に落ち着いた。その寺が今日に残る西光寺だとか。その西光寺には2体の地蔵尊が安置されている。道心と石童丸の合作だとも伝えられる。
さて、またまた遠いむかしに亡くなった祖母の息づかいに後戻りする。
「父ちゃんは、我が子とわかりながら、どうして本当のことを言わなかったんじゃろない。おまえならわかるじゃろう、もう立派な大人じゃから」と、祖母が私の両肩を掴んで問うているような気がする。 
石童丸5
石堂丸は、成長して加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)と名乗り、父の跡を継いで苅萱の関の関守となりました。
ある日のこと、花見にでかけた繁氏は、にぎやかな酒宴の最中に花びらが盃に散り浮くのをみて、何となく心がざわめき家に帰りました。部屋の中をのぞくと、奥方と妾が仲良く談笑し、穏やかな風情です。ところが二人の長い黒髪の先端は蛇になってはげしく闘っているのです。これをみた繁氏は世の中を憂きものに思い、そのまま家を出て高野山に登り出家してしまいました。
繁氏が家を出てまもなく男の子が生まれ、父の幼名をとって石堂丸(石童丸)と名づけられました。やがては母この子を連れて、はるばる高野山に夫を訪ねましたが、当時高野山は女人禁制。やむなく母は麓の宿に留まり、幼い石堂丸がだけが父を訪ねて高野山に登りました。たずね歩くうちに一人の出家に合い、事の次第を話し父の行方をたずねますと、僧は、「その方ならもう亡くなられた」と答え、下山を勧めます。
父の顔を全く知らない石堂丸が、がっかりして母の待つ麓の宿に帰りますと、母は長旅の疲れと夫に逢えない悲しみのため、病を得て死んでしまいました。石堂丸は再び高野山に登り先日出逢った僧の弟子になりました。この僧「苅萱道心」こそたずねる父繁氏。しかし石堂丸はそれに気づかず、苅萱道心もそうとは名乗らず、ともに仏道修行に励んだのです。
高野山に世を逃れた苅萱を筑紫からはるばる子供が訪ねるという話は、能や説教節・浄瑠璃・琵琶などにも取り入れられています。語り物故、話の細部は少しずつ違います。たとえば能「苅萱」では子供の名前が「松若」。石堂丸の名は、博多町割りの七堂が誕生してから後のものと考えられ、一七三五年に作られた浄瑠璃「かるかやどうしんつくしのいえづと」では「石童丸」となっています。  
石童丸6 石童丸の悲話が伝わる高野山刈萱堂
奥の院の入り口、一の橋から約300m西に行くと刈萱堂(かりかやどう)がある。ここは哀しい「石童丸物語」で知られる刈萱道心(かりかやどうしん)と石童丸(いしどうまる)ゆかりのお堂だ。
石童丸の父、加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)は、筑紫の国の領主だった(太宰府の苅萱の関の関守だったともいわれる)が、世をはかなんで出家し高野山で苅萱道心と称して修業の生活を送っていた。
父の出家直後に生まれた石童丸は十四歳のとき、父に会いたい一心で母千里(ちさと)とともに高野山への旅に出た。だが高野山は女人禁制、やむなく学文路(かむろ・和歌山県橋本市)の宿に母を残し一人で山に登った石童丸は、御廟の橋で一人の僧と出会った。
この僧は石童丸の父、苅萱道心だったが苅萱は世を捨てた身であり「そなたの父は死んだ」と墓まで見せて石童丸に偽った。傷心の石童丸が山を降りると、長旅で病んだ母は亡くなっているというさらなる不幸が待っていた。みなしごになってしまった石童丸は母の遺骨を背に再び高野山に苅萱道心を頼って登り弟子入りを懇願した。刈萱道心はやむなく親子の名のりをしないまま弟子とし、道念と名ずけた。
やがて、成人した石堂丸・道念をみとどけた刈萱道心は、断ち切れない親子の情愛を捨てて修行するために石堂丸に告げず信州善光寺に赴き、善光寺如来に導かれて地蔵菩薩を刻んだ。生涯修行を続けた刈萱道心は1214年に「刈萱堂往生寺」で刈萱上人と称され83歳で入滅した。
刈萱上人の入滅後に、石堂丸・道念は善光寺の方角に紫雲がなびいたのを見て善光寺に赴き、父と同じ地蔵菩薩を刻んだといわれている。
親子で刻んだ地蔵菩薩は「刈萱親子地蔵尊」と称され、刈萱上人入寂の地・往生寺に安置されているそうだ。
刈萱道心が長野に開山した善光寺に近い刈萱山寂照院西光寺を1993年に参拝したときには、刈萱道心と石堂丸親子が高野山で対面したときの像が境内に立っていた。父子は強い縁で結ばれていたのだが道心は生涯父であることを息子に明かさなかったという。なんとも哀れな「石童丸物語」は浄瑠璃「苅萱道心」や高野山苅萱堂縁起の仏教説話にも取り上げられ、現在も人々の涙を誘っている。 
石童丸7
歌舞伎、浄瑠璃、謡曲、説経節・・・ いろいろな場面で取りいれられているお話です。
どんな内容か簡単に記しておきましょう。
石童丸の父、加藤左衛門繁氏(しげうじ)は、筑紫の国の領主でしたが、ある時世をはかなんで家を捨てて出家します。
京都で法然上人の弟子となり、ついで高野山に登り、苅萱道心と称して修業の生活に入りました。
父の出家直後に石童丸が生まれました。
十四歳のとき、石童丸は父が高野山で出家していることを知り、父に会いたい一心で、母と共に高野に向かいました。しかし高野は女人禁制。やむなく一人で山に登った石童丸は、やがて御廟の橋で一人の僧と出会います。
実はこの僧こそ、石童丸の父、苅萱道心でした。
しかし苅萱はいま修行の身。あえて「そなたの父は死んだ」と石童丸に偽って告げます。
石童丸が山を降りその旨を母に告げると、母は嘆き亡くなります。
母を弔った後、石童丸は再び高野山に上って苅萱道心(実は父)の弟子になりましたが、生涯父子の名乗りをすることはありませんでした。
瞽女唄でも最も人気があった唄のひとつといわれています。 
石童丸8
筑紫の加藤左衛門氏繁は、ある年の花見の宴で、ふと無常を感じ、歌を残して都へのぼり仏の道に入った。
ましらなく深山の奥に住みはててなれゆく声や友と聞かまし
筑紫ではまもなく子の石堂丸が生まれた。父氏繁は十三年間の修行の後ち、高野山に入った。そのころ、石堂丸は母と連れ立って、父に会ふために高野山への旅に出た。高野山は女人禁制のため、母はふもとの村に残り、石堂丸一人で山にのぼった。高野山には三千の寺と二万人の僧がゐるといふ。道行く僧のすべてに父の名を告げて聞いても、知るものはなかった。ある日、ふと声をかけた僧に、父は既に死んだと告げられた。苅萱(かるかや)道心と名告るこの僧こそ、実は父氏繁だったのである。修行の身の父は、父と名告ることもできず、他人の墓を自分の墓と教へることしかできなかった。石堂丸は教へられた通り墓詣りをすませ、山をおりると、母は病のため世を去ってゐた。すべてを失った石堂丸は、ふたたび高野山にのぼり、苅萱道心に弟子入りを乞ひ、実の父とも知らず、苅萱のもとで修行を続け、高野山で一生を終へたといふ。
 父母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉
 忘れても汲みやしつらむ。旅人の高野の奥の玉川の水 弘法大師
石童丸9 3カ所にある石童丸の母、千里御前の墓
「苅萱上人と石童丸」の遺跡をご紹介しましょう。
九州博多のお城のお殿様だった加藤重氏(しげうじ)。
ある時出家をして苅萱道心と名乗り、高野山で修行をしていました。
息子の石童丸と母親の千里御前は、父を捜して高野山へ向かいました。
当時、高野山は女人禁制。
母親の千里御前は麓の学文路(かむろ)の宿で待っていました。
しかし石童丸が帰る前に、宿で亡くなってしまいました。
石童丸は、その後苅萱道心の弟子となって修行しました。
でも最後まで父と子と名乗らずに仏様にお仕えしました。
やがて苅萱道心は、信州に来て地蔵菩薩を刻んで亡くなりました。
それを知った石童丸も信州に着て、地蔵菩薩を刻んで亡くなりました。
これが現在、かるかや山西光寺の御本尊の親子地蔵尊。
またこのお話は、善光寺裏手の往生寺にも伝わっています。
往生寺は父親の苅萱上人が亡くなった場所、かるかや山西光寺は息子、石童丸が亡くなった場所と言われています。
ところで「かるかや山西光寺」の境内には「千里御前の墓」があります。 
石童丸10 かるかや伝説
北石堂町の中央通り沿いに、長野市民から「かるかやさん」とか「かるかや堂」と呼ばれて親しまれているが西光寺があります。正式には苅萱山西光寺、浄土宗の寺です。寺の縁起によれば、苅萱道心と子の石童丸が晩年に高野山より移り住んだ場所であるといいます。西光寺の本尊は親子地蔵です。西光寺の境内には、苅萱と石堂丸の出会いの姿を刻んだ銅像や、苅萱、石堂丸、母千里御前の墓などがあります。
苅萱上人と石童丸の悲話は、十七世紀のはじめころ善光寺の境内で説経師によって語られた説経節です。昔の善光寺には、仏の功徳を参拝者に語り聞かせる説経師と呼ばれる人々がいました。彼らは境内にむしろを敷き、大きな唐傘を立てて、ささらを擦りながら節をつけて説経節を語ったといいます。
「かるかや」の物語はそんな説経師たちによって語り継がれたものです。しかし、説経節も江戸時代になり、浄瑠璃が起こってくると徐々にすたれていきました。それでも「苅萱」「山椒太夫」「小栗判官」といったいくつかの物語は、つい最近まで多くの人が知っていました。しかし、現代では「苅萱」といい「小栗」といってもほとんどの人がそのあらすじさえ知らなくなっています。説経節の源流をたずねれば、高野聖や山伏といった廻国の宗教者たちにたどりつくのです。彼らが民衆を前に語った仏教説話のおもしろいところが強調され、伴奏や節がつけられて語られるようになったものといわれています。
「苅萱」の物語もおそらくは高野聖たちによって善光寺に伝わり、苅萱親子が善光寺で晩年を過ごした物語が付け加えられて語られてきたものでしょう。西光寺や善光寺の裏山にある往生寺はそんな聖たちが開いた寺ではないかといわれています。
筑前の国の武士団の党首加藤左衛門重氏は、世の無常をはかなみ、身重の奥方を残して突然出家します。やがて奥方は男の子を出産し、石童丸と名付けられました。十三歳になった石童丸は、まだ見ぬ父恋しさに母と共に高野山をたずねます。そこで石童丸は父苅萱道心と出会うのですが、父とは気づきません。苅萱は我が子であることを直感するのですが、信心が鈍ることを恐れ、父であることを名乗らず、そなたの父は死んだと石童丸に告げます。高野山から下り麓の村に帰ってみると、長旅の疲れか母は亡くなっていました。母を失った石童丸は、再び高野山に行き、苅萱の弟子となり三十四年間を共に過ごします。
やがて苅萱は、善光寺如来のお告げで信州の善光寺へと行きます。残された石童丸は、ある日善光寺の方角に雲がたなびくのを見て、父苅萱の死を知るのです。石童丸は父の菩提を弔うために信州に下り、今の西光寺で親子地蔵を刻みながらその生涯を終えたということです。
というのが、「苅萱」のあらすじなのですが、苅萱が善光寺に行くというくだりはいかにも後からとってつけたような感は否めません。高野山の麓にも苅萱堂があって、そこは萱堂聖と呼ばれる高野聖の一団の本拠地でした。ここにも苅萱の伝説があります。高野山と善光寺、離れた二つの聖地を結ぶ聖のネットワークの存在が想像できます。
善光寺聖については、また善光寺に詣った時に考えることがあるでしょう。  
石童丸11 石童丸哀話/高野町高野山
底冷えのする薄暗い堂内。三十人ばかりのグループが、年とった堂守の絵説きに耳を傾けていた。天井に近い高い壁には、極彩色の絵が三十枚。
「やがて石童丸は、ここ御廟の橋で一人の僧と出会いました。その人こそ、まぶたに描き続けた父ではありましたが、父とは名乗れぬ苅萱童心。お前の父は、すでにこの世を去った〜と、涙ながらに説き聞かせたのです」…。
聖と俗。高野山はいま、その二つが混然とした、一種独特の風情をみせる。しかし、山内に残る史跡や、多くの説話は、その聖と俗の“からみ合い”がもたらしたものではないのだろうか。世俗を逃れながらも、なお煩悩(ぼんのう)を断ち切ることのできない修業僧。ともすれば、肉親の情に、修業の身であることを忘れることもある一介の男。そうした、多くの生身の人間が描いた「相剋の図」が、ときには教訓として語られ、あるいは昇華して残る。
高野の悲話の象徴的なものとして語られる苅萱道心と石童丸の哀話は、その典型なのでは。その親子対面の場とされる、奥の院参道御廟の橋のあたりを歩くとき、ふと、そんな思いにとらわれる。
いまから八百年余り前というから、平安末期のころ。筑紫の国(現・福岡県)苅萱の庄。この地の頭領として、何不自由なく暮らしていた加藤佐衛門繁氏は、ある春の一日、ふと、人の世のはかなさに思いをはせ、武士を捨てる。
咲き誇る桜の下で、美酒をくみ交していた繁氏。花びらにまじって、盃に落ちこぼれたつぼみを、じっとみつめた。
「人の世も、これと同じか。若いといっても、いつ死ぬかわからぬのが人の身」
繁氏の姿は、その夜、館から消えていた。
やがて京都へ出た繁氏は、浄土宗の開祖、法然に弟子入りする。名も苅萱と改めて。古くから謡曲にうたわれ、その後、説経節、浄瑠璃、さらには琵琶にも作られた「苅萱」はいずれも、このあとから佳境に入る。
苅萱の出家直後に生まれた石童丸も、はや十三歳。母・千里から父の話を聞くと、矢もタテもたまらず、姉の千代鶴を里に残し、千里とともに京へ向う。しかしそこには、すでに父の姿はなかった。
苅宣が高野へ登ったことを聞いた二人は、ようやく学文路(橋本市)までくるのだが、ここではじめて、高野が女人禁制の地であることを知る。やむなく一人で高野へ登った石童丸は、やがて御廟の橋で一人の僧と出合う。
その僧こそ、探し求めた父だった。だが、苅萱は、いま修業の身。心を鬼にして、偽りの「父の死」を告げる。泣き崩れる石童丸。なすすべもなく、立ちつくす苅萱道心…。
人の世のはかなさ、仏の道の厳しさを説くこの説話は、終始一貫して涙とともに語られる。
その二人が修業に励んだ場というのが、いま「苅萱堂」の名で山内に残る。
「本尊さんは、お大師さんがつくられた、お地蔵さんで…。あゝ、いまは学生さんが多いですなあ。」
そういえば、堂を入ったすぐ左手の壁に、びっしりと掛けられた絵馬の多くは「希望校入学祈願」「合格析願」「交通事故にあいませんように」。ぎこちない字が並んでいた。
「御廟の橋対面の場」を刷り込んだこの絵馬は、古くから「請願成就の絵馬」という。
回廊ふうにつくられた堂内を、ぐるっとひと回りしたところに「親子地蔵」があった。その前に「祈願ずみ 志納ずみ」の札がついた「安産御腹帯」が、積み上げられていた。
「苅萱堂は、学文路のが本物ですわ。千里さんをまつってあるとか…」
高野山を訪ねる途中、そんなことを間いた。そういえば、やはり隣りの九度山町椎出長坂にも「苅萱堂」があるという。こちらは大正十五年、不動坂を整備して県道としたあとに建てたものとか。
だが、もうひとつ本物の苅萱堂が、長野市にあるという。善光寺に近いこの苅萱堂こそ、苅萱道心遷化の地という。  
 
石童丸口説き1

月に群雲花には嵐 加藤左衛門繁氏様に 
蛇がからんで二匹となりて  障子に映りし女の嫉妬 
驚き給いし繁氏様は 妻も側女も振り捨て給い
高野のお山へ登らせ給い 時の御台の千里の姫が 
身重なりしが十月となりて  玉のようなる男の子供 
これぞ議題の石童丸ぞ 流れ流れし月日は早い
やがて石童が十四の春に 親に焦がれて高野の父ぞ 
逢いたい見たいのその一念で  母を伴い手を取りあえば 
慣れぬ旅路の石童丸も ついに高野の麓に来れば
明日はお山に登らんものか 日頃夢見し高野の父に 
お顔見んとて心が弾む  ここに哀なれその物語 
聞いて驚き二人の前に 宿の亭主は両手をつかえ
申しあげます旅人様よ 高野のお山のその掟には 
弘法大師の戒めありて  女人禁制の定めが御座る 
聞いて二人が涙に沈む これは何事我子の袖に
情けないぞや石童丸よ 母はお山へ叶わん時に 
そなた一人でお山へ登れ  聞いて石童が涙をこらえ 
母に暇を告げさせ給い 登り疲れし石童丸は
石を枕でその夜は明かし 父のありかを尋ねて見れど 
父かと思う人にも会わん  やがて向うの無明の橋に 
苅萱道心繁氏こそは 我子知らずに寄り添い来る
見上げ見下ろす親子の顔が 袖と袖とが交わりたれど 
親子名乗りは修業の邪魔と  心誓いし左衛門なれば 
探すそなたの父親こそは 今はこの世の人ではないと
涙こらえて我子を帰す 聞いて石童只泣くばかり 
哀れなるかや高野を下る  やがて玉屋のお茶屋に来れば 
母は空しくあの世の人に 前後忘れてあの母様よ
神も仏も見離されしか 形見残りし黒髪抱いて 
天を仰いて心に想う  母もなければ父親とても 
最早尋ねる人さえない身 情け下さる高野の人を
尋ね行くより詮ないものと またも石童は高野の山へ 
どうぞお弟子にして下さいと  一部始終を涙で語る 
それを聞いたる繁氏様よ 哀れ我妻仏となれば
今は我子と名乗らんまでも 口に言わねど心の内に 
師匠と弟子との誓いを立てて  諸国修業の親子となりて 
命あるまで我等がために 御化導下さる念仏門が
今も残りし高野の山に 親子地蔵さんその物語
 
石童丸口説き2

あわれなるかや石童丸は 父を尋ねて 高野に登る
女人禁制 おきてを守る 母を麓の 玉屋の茶屋に
預けそのまま 山へと登る 九百九十の 寺々めぐり
尋ね回れど 行方は知れぬ 迷い来たのが 無明の橋で
親子二人が 出で会いなさる 親も知らねば 子は尚知らぬ
そこで石童 申することにゃ 申し上げます 御僧様よ
わしが父なる 今道心を どうぞお慈悲で 教えてたもれ
言えば御僧の 申することにゃ 九百九十も ある寺々に
昨日剃ったも 今道心じゃ 去年剃ったも 今道心じゃ
同じ道心 その数知れぬ 人に尋ねる その道筋は
国と所と 我が名を書いて 丁目丁目に 高札立てて
凡て七日か 十日の内に 尋ね会えれば よい方でござる
聞いて石童 うち喜んで 申し上げます 御僧様よ
書いて下され その高札を 言えば御僧の 申することにゃ
ここは高野の 山坂道で 紙もなければ 書く筆持たぬ
女人堂まで 下っていって 書いてあげましょ その高札を
言うて二人は 女人堂に下り 玄関口にぞ 腰うちかけて
硯引き寄せ 墨すり流し 筆と紙とを 両手に持ちて
国は何処か 名は何某か 言えば石堂が 申することにゃ
国を語るは 恥しけれど それを言わねば 高札できぬ
筑後 筑前 大隅 薩摩 肥後と肥前の 六っの国の
守護と仰がる 御大将の 加藤左衛門 重氏様の
忘れ形見の 石堂丸と 聞いて御僧 うち驚いて
筆と紙とを からりと落とす
ちょと音頭さん ここらで休もう  
 
石童丸・苅萓(かるかや)口説き3

過ぎし昔の その物語 国は紀州に その名も高い
峰に紫雲の たなびきまして 高野山とて 貴き山よ
哀れなるかや 石童丸は 斯る難所を たどたど歩み
顔も知らざる 父上様が 此処のお山に おざすと聞いて
たずねさまよい 行く谷道の 後や先なる 右手の岩間
左はけわしき やまおろし 不動の坂おば 見上げて通る
文も通わぬ 丸木の渡し 心細道 頼りの杖で
身をば託して 行く先とえど 岩根の松の 木の影に
打ちかけまして やすらい給う 加藤左衛門 繁氏様は
髪をおろして 名を苅萱と 変えて仏法 修業のために
昼夜に限らず 此の山坂を たどり行くのも 後世のために
親子奇縁か 石童丸は そばに思わず 立ち寄り給い
申し上げます ご出家様よ ここのお山に 今道心よ
男たずねる 其の人さんの 俗の名を云い たずねてよかろう
たずねますのは 父上様で 私二つの その年わかれ
元は筑紫の 松浦等党の 加藤左衛門 繁氏様と
聞いて驚き 我が子であるか 既に取りつき 給わんものと
思う心を ようよう静め ご仏前にと 誓いを立てし
事は此処ぞと ヨソヨソしくも 年も行かぬに 遥々此処へ
慕い来たりし その志 誠父上 聞き給われば
さぞや嬉しく 飛び立つように 思い給わん さりとては
此々のお山の 習いというは 例え廻り 合うたればとて
名乗り合う事 勝手ならず 早く故郷へ 立ち帰られて
母御大事に かしずき給え それが一つの 孝行なりと
教え諭せば 石童丸は 国は大内に 攻め悩まされ
母も諸共 此のふもとまで 父を尋ねて 参りしなれど
旅の疲れに 煩いまして 命ある内 父上様に
一目逢いたい 見たいと歎き 哀れふびんと 思われ給い
父の在所を ご存知ならば 教え給えと 目に持つ涙
さえ兼ねたる その有様を 見るに苅萱 心の内で
我が父ぞと 名乗らんものと もったいなくも 師の戒めと
云うて遙々 尋ねて来たに 知らぬ顔なり 見ぬなれば
ふびん増さりて どうなるものと 胸にせき来る 血の涙をば
堪え兼ねてぞ 思わずワッと 声を立ててぞ 歎かせ給う
情けないかな 世の境涯は 思い出ずれば 様々変わる
我が発足も 昔を捨てて 出家堅固で 此の年月を
送る中にも 我が妻や子は 最早今年で 幾つになると
念珠繰りては そのことばかり 思う所を 今日此の道で
めぐりめぐりて 我が子にあうは よもや仏も ご存知なかろ
親子一世と 伝ゆれば たった一言 物云いたいが
立てし誓いは 破りもされず ここで合われぬ 事ならなおも
未来永劫 合う事ならぬ 何としようか どうしょうものと
胸にむせびて 心の内は 既に行くえも 知れざるよし
我はともあれ 母上様が 焦がれ死んでも なさりょうならば
何としようか そればかりが 私ゃ悲しや ご出家様よ
人を助ける 役目と聞けば 哀れふびんと 思われまして
父にたよりの 人でもあれば さがし下さり ましょうものと
口説き悲しむ 心の内を 思いやられて 繁氏様は
胸をさく様な 思いをかくし ふくさ包みの 薬を出して
これは師匠が 二万度の護摩を たきにたかれて 調合ありし
まこと尊とき 妙薬なれば 母に用いて 看病あれよ
そこな道筋 難所であれば つかれ足では なかなか行けず
廻れば 花坂云うて 平地同然 馬かごあれば
急ぎお山を 下りるがよいと 心強くも やりければ
涙ながらに 石童丸は 薬片手に おしいただいて
是非もなくなく 別れて帰る 道に必らず まよわぬ様に
彼方此方の ことこまやかに 教えながらも 苅萱殿は
心もとなく 気づかいなさる ふと気が付き ふりかえり見て
迷いましたよ あやまりました 今世・境 必然・後生
いずれ我が子と 思いましょうが 誠師匠に 面目なしと
着たる法衣の そで打ち払い 己がたずねる 繁氏様は
此処のお山に おわせしなれど 諸国修業に 出でさせ給う
今は行方も 知らざる程に 急ぎ下山し 母親様の
病気介抱 召さるがよかろう 聞いて石童丸 涙を流し
情け無いぞや のう浅ましや 父はお山に 御在せしも
泣かぬ顔程 なお又つらさ それと悟りて 石童丸は
さよう御難儀 なされし上は もしや貴僧が 父上様か
早う聞かせて 下されませと そでにすがれば 繁氏様は
共に引かるる 恩愛ゆえか 既に親ぞと 心も乱れ
今名乗って 聞かせんものと 思う心に 後の山
岩の影より 声高らかに 義恩に無意の 誓いを忘れ
給うまいぞと 師の教訓に 前後忘れし 苅萱ひじり
夢の心に 聞こえし故に 縁に引かるる もづな故に
見えつかくれつ 別れ行く  
 
石童丸4

昔語りを聞くさへいとど 哀れなるかや石童丸は
父の行方を尋ねむ為に 母を麓の玉屋が茶屋に
預けそれより高野に登る 幼な心のいと優しくも
九万九千の御寺々を 尋ね巡れど行方が知れず
是非も泣く泣く若君様は フシ・奥へ参らせ給ひけり
ハア・折節父の刈萱こそは 花の御番に当らせ給ひ
花の御籠手に持ちて 下へ下らせ給ひし時に
隠れ御座らぬ無明の橋で げにや親子の奇縁が不思議
両方互いに行き逢い給ひ そこで若君かの御僧の
袖を控えてのう御僧様 剃りて間も無き今道心が
もしも御山に坐すなれば 教えや給へと涙と共に
問はで給えばかの御僧は さては御言葉愚かな稚児よ
そんな尋ねをしたなら仮へ 何時が何時まで尋ねたとても
知れることではなきぞや エイ これ此れな子
人を尋ねて遂知れよいは そんじょ某何右衛門とて
書いて立札建て置くなれば 逢うと思へば添書をする
否と思へばその札を引く 凡そ二日か三日で知れる
されば左様の事にてあれば どうぞ情けに其の札を
書いて給はれのう御僧様 ハア嘆かせ給ふ
易き事なり書き得させんと されば館に御座れや御稚児
茅堂までナア 行かうずものよサァ
いたら寄るもの語るもの
さてそれよりもかの御僧は 石童丸を我が子と知らず
茅堂まで連れ行き給ひ 国は何処ぞ名は何といふ
名告り給へとありければ されば国こそ筑紫に於て
松浦左衛門重氏殿よ 頃は三月上旬の頃
御一門中が寄り集まりて 花の御会をなされし時に
父の持ちたる御杯に 蕾一房吹き入れければ
是を菩提の御種として 都方なる新黒谷で
髪を下して高野に登る 父の御年二十歳や三歳
母の御年十九歳にて 姉の千代鶴三の歳に
吾は胎内七月半で 見捨て置かれし嬰児なるが
生まれ成人名を石童丸と 聞くに御僧筆をば捨てて
ハア・包むに余る涙の体を 見るに若君さて不思議やな
御僧様こそ筑紫の訛 殊に話に御落涙は
さては尋ぬる父上様か 名告り給へと泣き給ふ
ハアかの御僧は 不審尤もさはさり乍ら
御事尋ぬる今道心と 吾は即ち相弟子なるが
是非も無きかや尋ぬる父は 遂に空しく過ぎ行き給ひ
日こそ多けれ今日命日と 騙し給へば石童丸は
たわい涙にくれ給ひしが せめて悲しき父上様の
御墓所を教えてたべと 嘆き給へばおお道理なり
いざや教へん此れぞと言ふて 何の故なき無縁の墓を
教え給へば石童丸は やがて卒塔婆に抱きつき縋り
声も惜しまず泣き給ひしが 
袖に涙のナア 溜り水よさァ 
澄まず濁らず出ず入らず
 
石童丸5

月に村雲花に風 散りてはかなき世の習
咲き出でにける山櫻 眺め楽しむ春の空
酌む杯にちらちらと 散り込む花の 一ひらに
加藤左エ門氏繁は 娑婆の無常をさとりつつ
國に妻子を振り捨てて 諸国修行に出で給
時に御臺の千里姫 身重なりしが 程となく
玉の様なる 子をあげて 石童丸と申しけり
まだ見ぬ親に恋こがれ 石童丸十四の春の頃
父は高野におはすると 風の便りにききしより
母の御臺と手を取りて なれぬ旅路にたどりつつ
紀の国さして出でにけり 日々にものうき草枕
遂に高野のふもとなる かむろの宿に たどりつき
玉屋が茶屋に宿をとり 明日は御山に登らんと
旅の疲れもうち忘れ 母は我が子にうちむかい
日頃年頃雨風に こがれしたいし父上の
御顔見んも遠からず 必ずこころを落すなと
ここに不びんの物語 宿の亭主はもれ聞いて
二人の前に出て来り 申し上げます旅の人
高野の山のおきてには 弘法大師もいましめに
女人は御山に登られず 聞いて御臺はおどろいて
我子の袖にぞ取りすがり なう情けなや石童丸よ
母は御山に登られず 汝一人で登るなら
父の人相を教ゆべし 父は人よりせい高く
左のまゆげにほくろあり 筑前なまりの人なるぞ
それを称呼に尋ぬべし 言われて石童悲しみの
涙ながらに立ち上り 母に暇を告げながら
父を目的に高野山 杖にすがりて不動坂
登り疲れて石童は 日も入合の暮れがたに
外の不動に参りては 南無大せうの不動尊
石童是迄参しは ただ父上にあわんため
何卒逢して下されと いと殊勝にふし拝み
此の夜は御堂にこもりてぞ ひじを枕に笠屏風
泣き泣き眠りし哀れさよ 三更四更と夜もふけて
五更の空も白み行き はや寺々の 暁のかね
それより御堂を出でで 漸く御山へ登りける
九萬九千の寺々や 峰々谷々そこかしこ
七堂がらんの 隅々に 父の在りかを尋ねれど
父かと思う人もなく 泣き泣き参る奥の院
十八丁が其のあいだ 右も左も五輪塔
前も後ろもそとばにて いともの凄き道すがら
音に名高き玉川の 無明の橋にさしかかり
はるか向を見渡せば 苅菅道心氏繁は
圓空坊とぞ改名し 左手に花籠携えて
右手に珠數をばつまぐりて 光明真言唱えつつ
奥の院より歸るとき はからず遇いし石童と
互に親とも我が子とも 知らねば側に寄り添て
見上げ見下す顔とかお 石童丸の 振袖と
苅菅僧御衣の 袖と袖がもつれしは
親子の因縁深かりし 其の時石童苅菅の
衣の袖に取り縋り 物尋ねまする御僧よ
此れなる御山の其の内に 今道心はおわさずや
どうぞ教えて賜われと 言われて苅菅聞くよりも
見れば幼き一人旅 腰に差したる小脇差
某加藤を名のる時 拜領致せし刀なり
扨ては不思議と思え共 ぼんのう我身に起りしと
我と心を取り直し 石童丸に 打ち向い
如何若年なりとても 疎々な物の尋ねよう
千萬人の御僧たち 容易に尋ね出されまじ
若も遇わんと思うなら 八方八口に張をせよ
遥かに見ゆる彼の森が あれが御山の張札場
聞いて石童涙ぐみ 哀れ御慈悲に其の札を
御書きなされて下されと 強いて願えば苅菅は
我は途中のことゆえに 矢立も持たず筆もなし
我が庵室に来るなれば 其の札買いて進ず可し
聞いて石童喜んで 御連れなされて下されと
願は苅菅憐れみて 石童丸の手を引いて
草のいほり連れ来り 草鞋を脱がし上にあげ
硯引寄せ筆を取り 国は何国名は何と
国は筑前苅菅の 文武二道に秀でたる
加藤差エ門氏繁は 身が父上であるなりと
名乗れば苅菅驚いて 持ちたる筆を取り落し
暫し涙に暮れければ 石童それと見るよりも
泣かせ給うは不思議なり 是は御僧何故ぞ
我が父なれば片時も 早々名乗りて給えかし
言われて苅菅思うやう 扨ても我が子かなつかしと
言わんとせしが持てしばし 二度親子の名乗りをば
せじとのちかは破られず せき来る涙を押し止め
我は父にはあらねども 其の苅菅と申ししは
吾が友達でありしかど 去年の秋の末の頃
重き病をわづらいて 冥土の旅に出で立ちぬ
かかる事をば露知らず 海山越えて遥々と
尋ね来りし汝をば 空しく歸す不びんさよ
思はず涙こぼせしよ 聞くに石童地に伏して
はっと斗りに泣き沈む 漸く涙を押し拭ひ
是は誠か御僧よ はかなくなりし上からは
定めて印は有るならん 哀れせめては其の墓を
教えて下され給えかし 今道心の御僧は
涙ながらに立ち上り 其の頃立し新しき
石碑の前に連れ行きて 是が汝の父上の
はかなくなりしその跡ぞ 言われて石童涙ぐみ
かねて用意の麻衣 それを石碑に打ち掛けて
父上菩提と拝み上げ かくなられしとは夢知らず
母上様と諸共に 遥々尋ねて来りしが
母は麓に残し置き 私一人で是迄でも
尋ね来りし折柄も 御果てなされし其の様子
草葉の陰に聞き給へ それに掛けたる御衣は
我が姉上の御土産と 持って来りしかいもなし
父の石碑を撫でながら せめてお声が聞きたしと
袖にしぐるる涙あめ 現在実父の苅菅は
このくり言を聞くにつけ 胸張り裂けんばかりにて
思わず知らず泣き沈む ようよう涙の顔をあげ
如何にも道理はるばると 野山を越えて尋ね来て
世になき人と聞く柄は 名残り惜しきは無理もなし
とは言い乍ら是非もなし 歎くは佛の為ならず
一度麓へ下りられて 母上様に此の訳を
話して回向なし給え 是は御山の御開山
弘法大師の御供の物 母への土産につかわさん
言われて石童嬉しげに 涙ながらに立ち上り
押し頃いて下りける 哀れなるかや母上は
我子の帰りの遅き故 行衛いづくと案じられ
持病のしやくになやまされ 空しくなられし悲しさよ
石童それとは露知らず 玉屋が茶屋に下り来て
草鞋を脱いで足すすぎ 奥の一間に駆り行き
襖を開き手をつかえ 母上様よ石童が
只今帰りて参りしよ 言えども言えども答えなし
是は不思議と立ち寄りて 様子を見ればこはいかに
惣身既に冷え渡り 石童見より驚いて
思わず知らず声を上げ 前後を忘れ泣き沈む
助け給えや南無)大師 漸く涙を押し止め
野辺の送り営みて 形見に残る白骨を
涙ながらに拾い上げ 天にも地にも分ちなき
父上様に生き別れ 母上様には死に別れ
心細くも只独り 最早尋ねるものはなし
如何に吾身を致さんと 天にも仰ぎ地に伏して
なげく心の哀れさよ 石童丸のおもうには
高野へ登りし其の時に 憐れみ受けし御僧よ
尋ね行くより詮もなし 彼の僧尋ねて参りなば
救けくれんと思い立ち 亦も高野へ尋ね行き
萱のいほり戸打ちたたき 何卒御弟子になし給へ
言われて苅菅是非もなく 終に御弟子となし給う
其の後互に親と子が 師匠よ弟子よと名乗りつつ
打連れ立ちて国々を 修行なしつつ信濃なる
国を住居に定めさせ 師弟と名乗るばかりにて
誓いは親子諸共に 命おわるに至るまで
親子と名乗り給わねど 親御も地蔵の化身なり
子もまた地蔵の化身なり 今なほ昔の物語り
高野の山の蓮花谷 音に名高き苅菅堂
親子地蔵とのこりけり 
 

石童丸6 / 松口月城
花に雨 有り月に雲有り。 悲風 亦 吹く刈萱の関。
繁氏 翻然 仏道に入る。 出家 遁世 高野の山。
故郷の遺児石童丸。 憐れむ可し当年十四歳。
母を伴うて雲山 父を尋ねて来る。 人間 誰か耐えん此の恩愛。
ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思う母かとぞ思う(和歌・行基作)
霊峰 巍峨として雲間に聳ゆ。 之を仰ぎて一夜 喜 び眠らず。
悲しい哉 女人 禁制の 処。 母を残して独り登る伽藍の辺。
西を訪い東を 尋ねて父を得ず。 夕陽 山に沈んで已に蒼然。
無明 橋畔  僧侶に逢う。 右手に花 桶 左 に珠数。
母を背に父を訪ねて山深く入りにし童子の心悲しむ(和歌・作者不詳)
慇懃 肩を撫でて情 殊に深し。 此の僧 或いは是吾が父なる莫らんや。
袖に縋りて語らんと欲す無限の思い。 道心 之を聴いて肺腑を抉らる。
嗟 仏道 是か恩愛 非か。 熱涙 滂沱として法衣に落つ。
忽 ち聞く暮鐘 無常の響き。 杜鵑 一声 血に啼いて飛ぶ。
尋ねる父とは知らねども互いに通う親と子の絆ひかるる後髪麓をさして下りゆく
(今様作者不詳) 
(室町時代初期の頃の話といわれる。九州筑前御笠郡の刈萱荘博多の守護職にあった加藤繁氏は或る日、その妻と妾の髪の毛が蛇となって絡み合うのを見て、《妻(桂子)と妾(千里)が囲碁をしてのが蛇の絡み合っているように見えた》世を捨て、高野山に入って刈萱道心となる後千里に子供が生まれ14年後その子石童丸は父に会いたさに母を連れてはるばる高野山を尋ねた)。
花に雨有り、月に雲有り、悲風また吹く刈萱の関。加藤繁氏は妻二人の争いは自分の責任と心を改めて仏道にはいり、世を逃れて高野山へ籠った。遺児石童丸は、まだ14歳。父を忽然と失ってこの哀れな少年は、父との再会の念抑えがたく、母を伴って故郷の筑紫の町を出発、高野山へやってきた。人間として父への慕情の念を誰が抑えることが出来ようか。
高野口の宿に着き、雲の間に高野山の霊峰が聳え立つのを仰ぎ見て夜に入っても喜々として眠ろうとせず、明日はいよいよ高野へと勇んだが此処は悲しい哉女人禁制という厳しい掟のある処、やむなく母を麓に残し、石童丸一人で登り、山中西に東に父を求めた。だが、父の姿はなかなか見つからない。夕陽はすでに沈み、辺りは薄暗くなろうとしていた。そのころ、無明橋のほとりで、何人目かの僧侶に逢った。右手に花桶、左手に数珠を持ってい入る。
僧侶は石童丸の肩を優しく撫でた。新愛の情が深く伝わってくる。石童丸は、もはや、このお坊さんが自分の父ではないかと、袖にすがり、父への限りない慕情にかられて、自分の素性、自分が父の姿を求めて、筑前博多から遙々この高野山にやってきたことを語りかけた。これを聞いていた僧は、ギクッと驚き、肺腑をえぐられるような心痛を覚えた。それもその筈、この僧自身、石童丸の父、かっての加藤繁氏だったのである。
しかし、今は修業の身、その名も刈萱道心である。名乗るべきか、恩愛に傾けば名乗るべきだが、仏道に生きようとすれば名乗るべきでない。涙がとめども無く流れ、法衣を濡らしていく。心は千々に乱れていくが、そこに暮鐘が山中に響くのを聞き、ホトトギスの強烈な声を残して飛んでいくのを見て、仏道にある身を感じて、ついに親子の情を断ち、名乗らずに終わったのである。

漢詩は此処で終わっていますが、この僧(父)は修業の身で名乗ることを諦め、 汝の父は既に没したと他の墓を見せて帰ることをさとし、石童丸は泣く泣く麓に下るが、待ちわびた母も長旅がたたったのか発病して他界していた。天涯孤独になった石童丸は父である刈萱道心を頼って仏門に入り弟子となって道念と名乗った。その後、刈萱道心は信州の善光寺に赴き地動菩薩を彫って建保2年(1214)没した。石童丸も後を追って信州に移り、父と同じく菩薩を彫り、現在も「親子地蔵」として信仰されているという。刈萱道心は亡くなるまで父であることを名乗らなかったといいます。 
   
郡上盆踊り唄 / げんげんばらばら

げんげんばらばら何事じゃ 親もないが子もないが
一人貰うた男の児 鷹に取られて今日七日
七日と思えば四十九日 四十九日の墓参り 
叔母所(おばんところ)へ一寸寄りて
羽織と袴を貸しとくれ あるものないとて貸せなんだ
おっぱら立ちや腹立ちや 腹立ち川へ水汲みに
上ではとんびがつつくやら 下ではからすがつつくやら 助けておくれよ長兵衛さん
助けてあげるが何くれる 千でも万でもあげまする
    私ゃ紀の国みかんの性(たち)よ 青いうちから見初められ
    赤くなるのを待ちかねて かきおとされて拾われて
    小さな箱へと入れられて 千石船に乗せられて 
    遠い他国に送られて 肴や店にて晒されて 
    近所あたりの子ども衆に 一文二文と買い取られ 
    爪たてられて皮むかれ 甘いかすいかと味みられ わしほど因果なものはない
立つ立つづくしで申すなら 一月門には松が立つ
二月初午稲荷で幟立つ 三月節句に雛が立つ 
四月八日に釈迦が立つ 五月節句に幟立つ
六月祇園で祭り立つ 七月郡上で踊り立つ
八月九月のことなれば 秋風吹いてほこり立つ
十月出雲で神が立つ 十一月のことなれば
こたつが立ってまらが立つ 十二月のことなれば
借金とりが門に立つ 余り催促厳ししゅうて 内のかかあ腹が立つ
    駕篭で行くのはお軽じゃないか 私ゃ売られていくわいな
    主のためならいとやせぬ しのび泣く音は加茂川か
    花の祇園は涙雨 金が仇(かたき)の世の中か
    縞の財布に五十両 先へとぼとぼ与市兵衛
    後からつけ行く定九郎 提灯バッサリ闇の中
    山崎街道の夜の嵐 勘平鉄砲は二つ玉 
器量がよいとてけん高ぶるな 男がようて金持ちで
それで女が惚れるなら 奥州仙台陸奥の守
陸奥の守の若殿に なぜに高尾が惚れなんだ
    田舎育ちの鶯が初めて東へ下るとき 一夜の宿をとりそこね 
    西を向いても宿はなし 東を向いても宿はなし 梅のこずえを宿として
    花の蕾を枕として落つる木の葉を夜具として 月星眺めて法華経読む
おぼこ育ちのいとしさは しめた帯からたすきから
ほんのりこぼれる紅の色 燃える想いの恋心
かわいがられた片えくぼ 恥ずかしいやらうれしいやら
うっとり貴男の眼の中で 私ゃ夢見るすねてみる
    びんのほつれをかきあげながら 涙でうるむふるい声
    私ゃお前があるがゆえ ほうばい衆や親方に
    いらぬ気兼ねや憂き苦労 それもいとわず忍び逢い
    無理に工面もしようもの 横に車を押さずとも
    いやならいやじゃと言やしゃんせ 相談づくのことなれば 切れても愛想はつかしゃせぬ
    酒じゃあるまいその無理は 外に言わせる人がある
髪は文金高島田 私ゃ花嫁器量よし 赤いてがらはよいけれど 物が言えない差し向かい
貴男と呼ぶも口の内 皆さん覗いちゃ嫌ですよ
    十四の春から通わせおいて 今更嫌とは何事じゃ
    東が切りょか夜が明けようが お寺の坊さん鐘撞こうが
    向かいのでっちが庭掃こが 隣のばあさん火を焚こうが 枕屏風に陽はさそが
    家から親たちゃ連れにこが そのわけ聞かねばいのきゃせぬ
娘十八嫁入り盛り 箪笥長持はさみ箱 
これほど持たせてやるからは 必ず帰ると思うなよ 申しかかさんそりゃ無理よ
西が曇れば雨となり 東が曇れば風となる 
千石積んだ船でさえ 追い手が変われば出て戻る
    筑紫の国からはるばると 父を訪ねて紀伊の国 
    石童丸はただ一人 母の仰せを被りて かむろの宿で名も高き
    玉屋与平を宿として 九百九十の寺々を 
    訪ねさがせど分からない それほど恋しい父上を
    墨染め衣にしてくれた ぜんたい高野が分からない
郡上八幡かいしょう社 十七、八の小娘が
晒しの手拭い肩にかけ こぬか袋を手に持ちて
風呂屋はどこよとたずねたら 風呂屋の番頭の言うことにゃ 風呂はただ今抜きました
抜かれたあなたは良いけれど 抜かれたわたしの身が立たぬ 
 
苅萱の関(かるかやのせき)

苅萱の関1
昔、太宰府の入口には関所がありました。その一つに、苅萱の関があります。現在の関屋の交差点付近で、浄瑠璃「苅萱道心」や高野山苅萱堂縁起の仏教説話でその名を知られたところです。
主人公・苅萱道心(どうしん)は、苅萱の関の関守をしていた加藤左衛門尉繁氏(さえもんのじょうしげうじ)が出家した後に名乗った名前です。繁氏の父は、名を加藤左衛門尉繁昌(しげまさ)といい、弓の達人でした。立派な人物でしたが子宝に恵まれず、どうしても世継ぎのほしい繁昌は、香椎宮へ願をかけに行きました。すると、満願の日の早朝夢枕に香椎宮の使いが立ち、「箱崎の松原の西の橋ぎわの石堂口の川のほとりに行きなさい。そこに玉のような石がある。これを持ちかえり妻に与えるのです。必ずや男の子が生まれるであろう」と告げて消えました。急いで、繁昌が石堂口へ行ってみると、そこに立つお地蔵様が左手の上に丸い石をのせています。その石は温かく、光明を放っているのです。繁昌は、大事に大事に石を太宰府の家に持ち帰り、妻に与えました。ほどなく妻は妊娠し、翌年正月二四日、男の子が生まれました。この時、家の中には、何とも知れぬよい香りが薫ったといいます。男の子は、霊石を賜った地名をとって石堂丸と名づけられました。
そしてこの石堂丸が繁氏、後の苅萱道心なのです。
高野山の仏教説話や浄瑠璃(じょうるり)で有名な苅萱道心は、ここ太宰府の苅萱の関の関守だった加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)のことです。
繁氏が出家して僧となったのは、大宰府の苅萱で関守をしていた時、ふと目にした恐ろしい光景から、己の罪や業の深さを知ったからでした。繁氏には妻と娘ともう一人妾(そばめ)がいて、皆仲良く暮らしていました。しかし、幸せだと思っていたのは繁氏だけで、本当は、妻と妾はすさまじく憎みあっていました。偶然、襖の陰から見た二人の姿は、髪が蛇となって逆立ち、お互いに絡み合って争う二人の本心を写したものだったのです。繁氏は故郷と家族を捨て、ひとり高野山で仏道修行にはいり、苅萱道心と名乗りました。それから十数年がたったある日、繁氏は父を探して高野山をさまよう一人の男の子に会いました。話を聞いてみると、何と、その子はまぎれもなく我が子だったのです。妻は、繁氏が旅立ってまもなく男の子を産み、父と同じ石堂丸と名付けて育て、繁氏を探して一緒に高野山の麓まで来ているというのです。世を捨て仏門に入った繁氏は、いまさら父と名乗ることもできず、「知らない」と返事をして石堂丸を帰したのでした。ところがしばらくして、再び高野山の繁氏のもとに石堂丸が訪ねてきました。「前にお会いしてから麓に帰ってみると、待っているはずの母は長旅の疲れがたったて亡くなり、ひとり郷里太宰府へ帰ってみれば、待っているはずの姉も亡くなっていました。私は悲しみのあまり途方にくれ、思いあぐねた末、家族の菩提を弔おうと高野山のあなた様のもとを訪ねてまいりました」といいます。繁氏はこの邂逅に仏縁を感じずにはいられませんでした。哀れな我が子を弟子として迎え、父とは告げず、また石堂丸も父とは知らず、一生仏道修行をしたと伝えられています。
今、苅萱の関あたりには看板がたっていますが、そこは、石堂丸の姉・千代鶴姫の墓だといわれています。  
苅萱の関2 苅萱道心・石堂丸の説話
この関には「苅萱道心・石堂丸(石童丸)」の説話が伝えられています。
平安時代、崇徳天皇の御代、博多の守護職加藤左衛門繁昌は、苅萱の関守も兼ねていました。四十歳というのに世継ぎがいないので、香椎宮に祈願したところ、満願成就の日にお告げがあり、それに従って博多の石堂口に行ってみると、地蔵尊の左手に光り輝く石がありました。それを妻に与えたところ、まもなく身籠もり、翌長承元年(1132年)正月に男の子が誕生しました。繁昌は石堂口に因んで、その子を「石堂丸」と名付けました。
石堂丸はやがて成人して繁氏と名乗り、父の跡を継いで苅萱の関守となりました。ある日、繁氏は妻と妾との一見親しげなやりとりをするところを見ると、その親しげな様子とは裏腹に、2人の髪は逆立って蛇となってにらみ合っているのを目の当たりにし、人間の業の深さと自分の罪を悟り、出家を決意し、高野山に登り、「苅萱道心」と名乗りました。残された妻はやがて一人の男児を産み、夫の幼名と同じ「石堂丸」と名付けました。
十数年後、大きくなった石堂丸は母とともにまだ見ぬ父を慕い、高野山までやってきました。高野山は女人禁制であるので石堂丸は一人で登り、尋ね歩きましたが、父は見つかりません。最後に出会った一人の僧に、父は死んだと聞かされ、落胆して下山します。その僧こそが石堂丸の父だったのでした。
その後、石堂丸の母は急死し、太宰府に置いてきた姉、千代鶴姫も亡くなってしまい、一人になった石堂丸は再び高野山に登り、父である僧を尋ね、師弟の契りを結びます。そして、仏道修行に励み、母と姉の冥福を祈って、一生を終えました。
苅萱の関3 苅萱(かるかや)の関跡
太宰府市坂本の関屋は、昔その辺りにあったといわれる「苅萱の関」に由来するといわれており、現在は関屋の旧日田街道沿いに苅萱の関跡の碑が建っています。
苅萱の関は、菅原道真の次の和歌により有名ですが、実際には、中世の関所の跡と考えられています。
かるかやの関守にのみ見えつるは 人も許さぬ道辺なりけり(『新古今和歌集』)
このように、悲しい説話の残る「苅萱の関」ですが、実際のところ、この地に関所が置かれたのは、中世の頃であったようです。
文明12年(1480年)、筑紫を訪れた連歌師宗祇は、『筑紫道記』に、「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて我が行くすえをあやしげに見るもおかし」と記しています。当時、北部九州を支配していました大内氏が関所を築いていたことがわかります。
また、古代には苅萱の関の場所から西へ約1キロの場所の水城の東門には、水城の関が置かれており、もし苅萱の関があったとすれば、非常に近接した場所に2つもの関所があり、非常に不自然です。
では、菅原道真がよんだ「かるかやの関守・・」の歌はどのように解釈すればよいのでしょうか。最近の研究では、「かるかやの」の「の」を所有格の「の」と解釈するのではなく、主格の「が」と読み替えて、「苅萱(植物の萱)が関守にだけ見えるのは・・・」と解釈すべきではないかという説も出されており、実際、戦国時代に大内氏によって置かれた関所が、道真の和歌と混同された結果、想像上の苅萱の関が作り出されたとも考えられています。
苅萱の関4 苅萱の関跡
昨日の朝に訪れた博多区千代の子を授かる伝説のある石堂(苅萱)地蔵に縁のある、父親と本人が関守を勤めたという場所の跡を目指して、今朝は5時半に出発して交通が激しくなる前に太宰府へ・・・西都大宰府の防衛のために築かれた水城の近くの大宰府の坂本の関屋にある苅萱(かるかや)の関は、付近に幽閉された菅原道真の次の歌で有名である。
かるかやの 関守にのみ 見えつるは 人も許さぬ 道辺なりけり
石堂地蔵のご利益で丸い石のお陰で誕生した石堂丸は、成長して加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)と名乗り、父の跡を継いで、大宰府の苅萱の関の関守となった・・・ある日のこと、花見に出掛けた繁氏は、にぎやかな酒宴の最中に花びらが盃に散り浮くのを見て、何となく心がざわめき(この辺は仏教の無常思想の影響がありそう)、家に帰って部屋の中を覘くと、奥方と妾(日本の家庭での昔から変わらない永遠の喧嘩ネタだ)が仲良く談笑し穏やかな風情だったという。
ところが二人の長い黒髪の先端は蛇になって激しく闘っており((>_<)!!)、これをみた繁氏は世の中を憂きものに思い、そのまま家を出て、真言宗の始祖の弘法大師が開き入定したという高野山に登り出家してしまう・・・繁氏が家を出て間もなく男の子が生まれ、父の幼名をとって石堂丸(石童丸)と名づけられ、やがては母この子を連れて、はるばる高野山に夫を訪ねたが、当時は高野山は女人禁制で、やむなく母は麓の宿に留まり、幼い石堂丸がだけが父を訪ねて高野山に登ったという。
訪ね歩くうちに一人の出家の僧に出会い、事の次第を話し父の行方を尋ねると、僧は「その方ならもう亡くなられた」と答え、石堂丸に下山を勧める・・・父の顔を全く知らない石堂丸が、がっかりして母の待つ麓の宿に帰ると、母は長旅の疲れと夫に逢えない悲しみのため、とうとう病を得て死んでしまったという。
母を弔った石堂丸は再び高野山に登り、先日出逢った僧の弟子になったが、この僧「苅萱道心(かるかやどうしん)」こそ尋ねる父の繁氏(子と同名)だったのだが、石堂丸はそれに気づかず、苅萱道心もそうとは名乗らず、ともに仏道修行に励んだという・・・高野山に世を逃れた苅萱を筑紫からはるばる子供が訪ねるという話(悲話の中に仏教修行の大切さが説かれている)は、高野聖(こうやひじり)が全国に行脚して伝えて行ったらしいが、能や説教節・浄瑠璃・琵琶などにも取り入れられてきて有名な話となったらしい。
 
石童丸和讃1

初之讃 繁氏出家 石童丸母子尋登
月に村雲花に風  散て儚き世の習ひ
さき出でにける山櫻  眺めて楽しむ春の空
酌む杯にちらちらと  散りこむ花の一ひらに
加藤左衛門繁氏は  娑婆の無常を悟りけり
    國に妻子を振り捨て  諸國修行に出で玉ふ
    時に御臺の千里姫  身重なりしが程もなく
    玉の様なる子をあげて 石童丸と申しけり
    まだ見ぬ親に恋ひこがれ 石童十四の春の頃
    父は高野におはすると 風の便りに聞きしより
母の御臺と手をとりて なれぬ旅路に辿りつつ
紀の國さして出にけり 日々にもの憂き草枕
遂に高野の麓なる  学文路の宿にたどりつき
玉屋が茶屋に宿とりぬ 明日は御山に登らんと
旅の疲れも忘れはて  母は我子にうち向かひ
    日頃年頃雨風に    こがれ慕ひし父上の
    御顔を見んも遠からず 必ずこゝろ落すなと
    ここに不憫の物語り  宿の亭主はもれ聞きて
    二人の前に出で来たり 申上げます旅の人
    高野の山の掟には  弘法大師の誡めに
女人は御山に登られず 聞くに御臺は驚いて
我子の袖に取り縋り  なう情なや石童よ
母は御山へ登られず  汝が御山に登るなら
父の人相を教ゆべし  父は人より背高く
左の眉毛に黒子あり  筑前なまりの人なるぞ
    其を証拠に尋ねべし  言はれて石童悲しみの
    涙ながらに立上がり  母に暇を告げながら
    父を目的に高野山  杖に縋りて不動坂
    登り疲れし石童は  日も入合の暮方に
    外の不動に参りては  南無大聖の不動尊
石童是迄参りしは  たゞ父上に逢んため
何卒逢して下されと  いとも殊勝にふし拝み
其夜は御堂へ籠りてぞ 肘を枕に笠屏風
泣々眠りし哀れさや  三更四更と夜も深けて
五更の空も白み行き  はや寺々の暁の鐘
    夫より御堂を立ち出でて 漸く御山へ登りける
    九万九千の寺々や  峰々谷々そこかしこ
    七堂伽藍の隅々に  父の在りかを尋ぬれど
    父かと思ふ人もなし
中之讃 苅萱父子対面
泣々参る奥の院  十八丁が其あいだ
右も左も五輪塔  前も後も卒賭婆にて
いともの凄き道すがら 音も名高き玉川の
無明の橋にさしかかり 遙か向を見渡せば
苅萱道心繁氏は  圓空坊とぞ改名し
    左手に花駕籠携にて  右手に数珠をばつまぐりて
    光明真言唱えつゝ  奥の院より帰るとき
    はからず遇ひし石童と 互いに親とも吾子とも
    知らねば側に寄り添て 見上げ見下す顔と顔
    石童丸の振袖と  苅萱僧の御衣の
袖と袖がもつれしは  親子の因縁深かりし
其時石童苅萱の  衣の袖に取り縋り
物尋ねます御僧よ  此なる御山の其内に
今道心はおはさずや  どうぞ教えて賜はれと
云はれて苅萱聞よりも 見れば幼なき一人旅
    腰に差したる小脇差  其し加藤を名乗るとき
    拝領致せし刀なり  扨は不思議と思へども
    煩悩我身に起りしと  我れと心を取り直し
    石童丸に打ち向ひ  いかに若年なりとても
    疎疎な物の尋ねよう  千萬人の御僧達
容易に尋ね出されまじ 若も逢はんと思ふなら
八方八口に張りをせよ 遥かに見ゆる彼の森が
あれが御山の張札塲  聞て石童涙だぐみ
哀れ御慈悲に其札を  御書なされて下されと
強いて願へば刈萱は  我は途中の事ゆゑに
    矢立も持たず筆もなし 我庵室に来るならば
    其札書いて進ずべし  聞いて石童歓んで
    御連れなされて下されと 願にば苅萱憐れみて
    石童丸の手を引いて  草の菴に連れ来り
    草鞋を脱がし上にあげ 硯引寄せ筆を取り
國は何國で名は何と  國は筑前苅萱の
文武一道秀でたる  加藤左衛門繁氏は
身が父上であるなりと 名乗れば苅萱驚いて
持たる筆を取り落し  暫し涙に暮れければ
石童其と見るよりも  泣かせ給ふは不思議なり
    是は御僧何故ぞ  我父ならば片時も
    早く名乗りて玉へかし 云はれ刈萱思ふやう
    扨も我子か懐かしと  云んとせしが待てしばし
    二度親子の名乗をば  せじとの誓は破られず
    せき来る涙を押し止め 我は父にはあらねども
其の苅萱と申しゝは  我が朋友でありしかと
去年の秋の末の頃  重き病を煩ひて
冥土の旅に出で立ちぬ かかる事をば露知らず
海山越えて遥々と  尋ね来りし汝をば
空しく帰す不憫さに  思はず涙こぼせしよ
    聞くに石童地に伏して はつと斗りに泣き沈む
    漸く涙を押し拭ひ  是は誠か御僧よ
    はかなく成りし上からは 定めて印は有るならん
    哀れをせめては其墓を 教え下されたび給へ
    今道心の御僧は  涙ながらに立ち上がり
其頃立てし新しき  石碑の前に連れ行きて
是が汝の父上の  儚くなりしその跡ぞ
云はれて石童涙ぐみ  豫て用意の麻衣
其を石碑に打掛て  父上菩提と拝み上げ
斯くなられしとは夢知ず 母上様と諸共に
    遥々尋ねて来りしが  母は麓に残し置き
    私一人で是迄でも  尋ね来りし折柄に
    御果てなされし其様子 草葉の蔭に聞き玉へ
    其に掛けたる御衣は  我姉上の御土産と
    持て来りしかいもなし 父の石碑を撫でさすり
せめて御聲が聞きたしと 袖にしぐるる泪雨
現在實父の苅萱は  このくり言を聞くにつけ
胸張り裂んばかりにて 思はず知らず泣き沈む
やうやう涙の顔を揚げ 如何にも道理遥々と
野山を越えて尋ね来て 世になき人と聞く柄は
    名残り惜きは無理もなし とは云ひ乍是もなし
    嘆くは佛の為めならず 一度麓へ下られて
    母上様に此訳を  話して回向なし玉へ
    是は御山の御開山  弘法大師の御供物
    母への土産にちかはさん 云はれて石童嬉しげの
    涙ながらに立ち上り  押し頂ひて下りける
後之讃 父子師弟結約 墓大師之徳
哀れなるかや母上は  我子の帰りの遅きゆに
行衛いづくも案じられ 持病の癪に悩まされ
空しく成られし悲しさよ 石童それも露知ず
    玉屋が茶屋に下り来て 草鞋を脱で足すゝぎ
    奥の一室に馳り行き  襖を開き手をつかへ
    母上様よ石童が  只今帰りて参りしよ
    云へども云へども答なし 是は不思議も立寄りて
石童見るより驚いて  思はず知らす聲を上げ
前後を忘れ泣き沈む  助け玉ゑや南無大師
漸く涙を押し止め  野邊の送りを営みて
形見に残る白骨を  涙ながらに拾ひ上げ
天にも地にも分ちなき 父上さまに生き別れ
    母上さまには死に別れ 心細くも只だ獨り
    最早尋ぬるものはなし 如何に吾身を致さんと
    天にも仰ぎ地に伏して なげく心の哀れさよ
    石童丸のおもふには 高野へ登りし其時に
    憐み受けし御僧を  尋ね行くより詮もなし
彼の僧尋ねて参りなば 救けくれんと思ひ立ち
亦も高野へ尋ね行き  萱の菴戸打ちたたき
何卒御弟子になし玉へ 云れて苅萱是非もなく
終に御弟子となし玉ふ 其後互に親と子が
師匠よ弟子よと名乗りつゝ 打連れ立ちて國々を
    修業なしつゝ信濃なる 國を住居に定めさせ
    師弟と名乗るばかりにて 誓ひは親子諸共に
    命おわるに至るまで  親子と名乗り給はねど
    親御も地蔵の化身にて 子もまた地蔵の化身なり
    今なほ昔の物語り  高野の山の蓮華谷
音に名高き苅萱堂  親子地蔵とのこりけり
南無苅萱地蔵尊 南無苅萱地蔵尊 畢 
 
石童丸和讃2

初之讃
月に村雲花に風  散りてはかなき世の習い
さきいでにける山ざくら  ながめ楽しむ春の堂
くむ杯にちらちらと  散りこむ花の一ひらに
加藤左衛門繁氏は  娑婆の無情をさとりけり
国に妻子をふりすてて  諸国修行にいでたまふ
ときに御台の千里姫  身重なりしがほどもなく
玉のようなる子をあげて  石童丸と申しけり
まだ見ぬ親に恋こがれ  石童十四の春のころ
父は高野におわすると  風のたよりに聞きしより
母の御堂と手をとりて  なれぬ旅路をたどりつつ
紀の国さしていでにけり  日々にもの憂き草枕
ついに高野のふもとなる  学文路の宿にたどりつき
玉屋が茶屋にやどとりぬ  あすはみ山にのぼらんと
旅のつかれも忘れはて  母はわが子にうちむかひ
ひごろとしごろ雨風に  これがしたいし父上の
お顔を見んもとおからず  かならず心おとすなと
ここにふびんのものがたり  宿の亭主はこれ聞きて
ふたりの前にいできたり  申しあげます旅の人
高野の山のおきてには  弘法大師のいましめに
女人はみ山にのぼられず  聞くに御台はおどろいて
わが子の袖にとりすがり  のうなさけなや石童よ
母はみ山へのぼられず  そなたがみ山へのぼるなら
父の人相おしゆべし  父は人よりせいたかく
左のまゆげにほくろあり  筑前なまりの人なるぞ
それを証拠にたずぬべし  いわれて石童かなしみの
涙ながらに立ちあがり  母にいとまをつげながら
父をめあてに高野山  杖にすがりて不動坂
のぼり疲れし石童は  日も入会いの暮れがたに
そとの不動にまいりては  南無大聖の不動尊
石童これまでまいりしは  ただ父上にあわんため
なにとぞあわして下されと  いとも殊勝にふし拝み
その夜はみ堂にこもりてぞ  ひじを枕に笠びょうぶ
泣く泣く眠りしあわれさや  三更四更と夜もふけて
五更の空もしらみゆき  はや寺々の暁の鐘
それよりみ堂立ちいでて  ようやくみ山へのぼりける
九万九千の寺々や  峰々谷々そこかしこ
七堂伽藍のすみずみに  父のありかをたずぬれど
父かと思う人もなし 
中之讃
泣く泣くまいる奥の院  十八丁がそのあいだ
右も左も五輪塔  前も後も卒塔婆にて
いとものすごき道すがら  音に名高き玉川の
無明の橋にさしかかり  はるかむこうを見わたせば
苅萱道心繁氏は  円空坊とぞ改名し
左手に花籠たずさえて  右手に数珠をばつまぐりて
光明真言となえつつ  奥の院よりかえるとき
はからずあいし石童を  互いに親ともわが子とも
知らねばそばによりそうて  見あげ見おろす顔と顔
石童丸の振袖と  苅萱僧のみ衣の
袖と袖とがもつれしは  親子の因縁ふかかりし
そのとき石童苅萱の  衣の袖にどりすがり
ものたずねます御僧よ  これなるみ山のそのうちに
今道心はおわさずや  どうぞおしえてたまわれと
いわれて苅萱聞くよりも  見れば幼きひとり旅
腰にさしたる小脇差  それがし加藤をなのるとき
拝領いたせし刀なり  さては不思議と思へども
煩悩わが身におこりしと  われと心をとりなおし
石童丸にうちむかい  いかに若年なりとても
そそうなもののたずねよう  千万人の御僧達
容易にたずねだされまじ  もしもあわんと思うなら
八方八口に張りをせよ  はるかに身ゆるあの森が
あれがみ山の張札場  聞いて石童涙ぐみ
あわれお慈悲にその札を  お書きなされて下されと
しいて願えば苅萱は  われは途中のことゆえに
矢立も持たず筆もなし  わが庵室にくるならば
その札書いて進ずべし  聞いて石童よろこんで
おつれなされてくだされと  願えば苅萱あわれみて
石童丸の手をひいて  萱の庵につれきたり
わらじをぬがし上にあげ  硯ひきよせ筆をとり
国はいずくで名はなんと  国は筑前苅萱の
文武二道にひいでたる  加藤左衛門繁氏は
身が父上であるなりと  なのれば苅萱おどろいて
もちたる筆をとりおとし  しばし涙にくれければ
石童それと見るよりも  泣かせたもうは不思議なり
これは御僧なにゆえぞ  わが父なれば片時も
早くなのりてたまえかし  いわれて苅萱おもうよう
さてもわが子かなつかしと  いわんとせしが待てしばし
ふたたび親子名乗りをば  せじとの誓いはやぶられず
せきくる涙をおしとどめ  われは父にはあらねども
その苅萱と申ししは  わか朋友でありしかど
去年の秋のすえのころ  重き病をわずらいて
冥土の旅にいでたちぬ  かかることをば露知らず
海山こえてはるばると  たずねきたりしそなたをば
むなしくかえすふびんさに  おもわず涙こぼせしよ
聞くに石童地にふして  はっとばかりに泣きしずむ
ようやく涙をおしぬぐい  これはまことか御僧よ
はかなくなりしうえからは  さだめて印はあるならん
あわれせめてはその墓を  おしえたまえとすがりなば
今道心の御僧は  涙ながらに立ちあがり
そのころたてし新しき  石碑の前につれゆきて
これがそなたの父上の  はかなくなりしその跡ぞ
いわれて石童涙ぐみ  かねて用意の麻衣
それを石碑にうちかけて  父上菩提と拝みあげ
かくなられしとは夢知らず  母上さまともろともに
はるばるたずねて来りしが  母はふもとにのこしおき
私ひとりでこれまでも  たずねきたりしおりからに
お果てしなされしそのようす  草葉のかげに聞きたまえ
それにかけたるみ衣は  わが母上のおみやげと
もってきたりしかいもなし  父の石碑をなでさすり
せめてお声が聞きたしと  袖にしぐるる涙雨
現在実父の苅萱は  このくり言を聞くにつけ
胸はりさけんばかりにて  おもわずしらず泣きしずむ
ようよう涙の顔を上げ  いかにも道理はるばると
野山をこえてたずねきて  世になき人と聞くからは
名残りおしきは無理もなし  とは言いながら是非もなし
なげくは佛のためならず  ひとだびふもとに下られて
母上さまにこのわけを  はなして回向なしたまえ
これはみ山の御開山  弘法大師のおん供物
母へのみやげにつかわさん  いわれて石童うれしげの
涙ながらに立ち上り  押しいただいて下りける
後之讃
あわれなるかや母上は  わが子のかえり遅きゆえ
ゆくえいずくと案じられ  持病のしゃくになやまされ
むなしくなられし悲しさよ  石童それとも露しらず
玉屋が茶屋に下りきて  わらじをぬいで足すすぎ
奥の一間にはしりゆき  ふすまをひらき手をつかえ
母上さまよ石童が  ただ今かえりてまいりしよ
いえどもいえども答なし  これは不思議と立ちよりて
ようすを見ればこはいかに  総身すでに冷えわたり
石童見るよりおどろいて  おもわずしらず声をあげ
前後をわすれ泣きしずむ  たすけたまえや南無大師
ようやく涙をおしとどめ  野辺のおくりをいとなみて
形見にのこる白骨を  涙ながらに拾いあげ
天にも地にもわかちなき  父上さまに生きわかれ
母上さまに死にわかれ  心細くもただひとり
もはやたずぬるものはなし  いかにわが身をいたさんと
天にもあおぎ地にふして  なげく心のあわれさよ
石童丸のおもうには  高野へのぼりしその時に
あわれみうけし御僧を  たずねゆくより詮もなし
その僧たずねてまいりなば  たすけくれんとおもいたち
またも高野へたずねゆき  萱の庵戸うちたたき
どうぞみ弟子になしたまえ  いわれて苅萱是非もなく
ついにみ弟子となしたまう  そののち互いに親と子が
師匠よ弟子よとなのりつつ  うちつれだちて国々を
修行なしつつ信濃なる  国をすまいにさだめさせ
師弟となのるばかりにて  誓いは親子もろともに
命おわるにいたるまで  親子となのりたまわねど
親子も地蔵の化身にて  子もまた地蔵の化身なり
今なお昔のものがたり  音に名高き苅萱堂
親子地蔵とのこりけり 
   
「苅萱後傳玉櫛笥」

本作は、葛飾北齋画で三巻三冊、文化四年に木蘭堂から刊行された。中本型読本としては丁数が多目であるが、六丁にも亙る「附言」が付されている。叙文には、文化三年春から夏にかけて北齋が馬琴宅に居たかと思わせる記述が見られ、その北齋に本作の執筆を勧められたとある。なお、文化六年頃、春亭画の合巻風絵題簽を付けた改題本「石堂丸苅萱物語」が出されている。
内容は説経節で有名な苅萱説話の後日譚として構想されたもの。中村幸彦氏は、これら枠組の典拠として仏教長編説話「苅萱道心行状記」(寛延二年)を指摘された(「読本発生に関する諸問題」、「中村幸彦著述集」第五巻所収)。地名や人名を始めとする苅萱説話からの要素は、多くが此本から取られているのである。一方、妾腹の子が成人後に父と対面するという展開は、中国白話小説「石点頭」の第一話「郭挺之榜前認子」か、もしくは抄訳本「唐土新話」(安永三年)を踏まえたものである(前述中村論文)。
信州善光寺の親子地蔵の本地譚である苅萱説話には、妻妾の嫉妬、落花に無常を観じての発心、父子再会の折に名告れない等という有名な悲劇構成モチーフが散りばめられている。ところが、馬琴はその一切を捨ててしまい、恩愛別離という発心譚の持つ基本的なモチーフを払拭した上で、家族再会家門栄達という結末に向けた現世的な因果譚として再構成している。「縦佛家の忠臣といふとも、祖先の爲には不孝」(叙)という発想から、「縦作り設るものなればとて、義理に違へる談は、人も見るに堪ざるべく、われも實に作るに忍ず。」(附言)というのである。此処から直ちに馬琴の仏教批判を読むのは当らないと思われるが、斯様に合理化されているのである。
本作の前にも苅萱説話を趣向化した作品は幾つかあったが、とりわけ享保二十年豊竹座初演「苅萱桑門筑紫〓」の影響力が強かった。これは馬琴も何度か使っており、繁氏館の段「一遍上人絵伝」に拠るという妻妾の頭髪が蛇になって縺れ争う場面が、「盆石皿山記」前編(文化三年)では丑の時参りの姿絵から蛇が出る箇所で挿絵として視覚化されている。また、慈尊院の段女之介の淫夢は「松浦佐用媛石魂録」後編(文政十一年)でも利用され、更に「椿説弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」でも趣向化されているのである(後藤丹治「椿説弓張月」上、岩波古典大系)。「筑紫〓」の改作で興味深いのが「苅萱二面鏡」(寛保二)年)という八文字屋本で、結末は石堂丸が十五歳に成ったら家督を譲って繁氏遁世、目出度し/\という具合で、浮世草子の定法通り祝言で締め括っている。
ところで、不可解なのが口絵の「忠常富士人穴に入」と「鍾馗靈をあらはして虚耗の鬼を捕ふ」の二図である。共に発端部に出てくるだけで本筋には関係しない。忠常の富士人穴探検の話は「附言」に引用されている通りに、胤長の伊東が崎の洞探検の話と共に「吾妻鏡」の建仁三年夏六月に見られる。一方、本文には出拠が示されていない「源性算術に自誇して神僧に懲さる」という挿話も、実は「吾妻鏡」正治二年十二月三日の条に見えているのである。本作の趣向上での「吾妻鏡」の位置は小さくない。
一方、「逸史」に見えるという虚耗を退治した鍾馗の挿話には、特別の興味があったらしく、「附言」で井沢蟠龍「広益俗説弁」を引きつつ考証しているが、早くも、享和元年の上方旅行の記録である「羇旅漫録」巻一「戸守の鍾馗」に、「遠州より三州のあひだ。人家の戸守はこと/\く鍾馗なり。かたはらに山伏某と名をしるしたるもあり[鍾馗のこと愚按ありこゝに贅せず]」と記していた。また、文化七年刊「燕石雑志」巻一「早馗大臣」でも触れ、「兎園小説」第九集(文政八年)にも輪池の考証を載せ、「耽奇漫録」には「清費漢源畫鍾馗」を出している。
「著述はわが生活の一助なり。この故にわが欲するところを捨て、人の欲するところを述ぶ。」(附言)と言いつつも、此等の考証を延々と続けざるを得なかったところに、馬琴流読本の行き方が暗示されていると思われる。  
有叙〔心思〕
丙寅年(へいゑんのとし)畫工(ぐわこう)北齋子(ほくさいし)。わが著作堂(ちよさだう)に遊(あそ)ぶこと。春(はる)より夏(なつ)のはじめに至(いたつ)て三四箇月(さんしかつき)。一日(いちにち)余(よ)に謂(いつ)て曰(いはく)。甞(かつて)聞(きく)苅萱記(かるかやき)は。五説経(ごせつきやう)の一(いつ)にして。今(いま)なほ人口(じんこう)に膾炙(くわいしや)す。顧(おもふ)に作者(さくしや)寂滅(じやくめつ)を本意(ほゐ)とせり。是故(このゆゑ)に繁氏(しげうぢ)一城(いちじよう)の主(あるじ)として。妬婦(とふ)の妄想(もうさう)に慚愧(ざんぎ)し。卒尓(そつじ)として頭(かうべ)を圓(まろ)め。潛(ひそか)に高野山(かうやさん)に隱(かく)れて。煩悩(ぼんなう)を」脱離(だつり)すと稱(せう)す。且(かつ)その徒(と)の老幼(ろうよう)。これを追慕(ついぼ)して僧(そう)となるが如(ごと)きは。縦(たとひ)佛家(ぶつか)の忠臣(ちうしん)といふとも。祖先(そせん)の爲(ため)には不孝(ふこう)なるべし。宜(うべ)なるかな婦幼(ふよう)もこれを見る毎(ごと)に。なほ遺憾(いかん☆○ノコリオホシ)少(すくな)からずとす。主翁(しゆおう)設(もし)彼(かの)後傳(ごでん)を作(つく)らば。かならず閲者(みるもの)の快事(くわいじ)ならんといふ。余(よ)が曰(いはく)。凡(およそ)野史(やし)の説(せつ)。因果(いんぐわ)の両字(りやうじ)に根(もとづか)ざるはなし。しかれども作者(さくしや)の用心(ようじん)精細(せいさい)ならざるときは。動(やゝもす)れば勸懲(くわんちやう)その義(ぎ)に違(たが)ふこと」あり。吾(われ)親(した)しくその書(しよ)を閲(けみ)せずといへども。試(こゝろみ)にこれを續(つが)ん。遂(つひ)に遺漏(いろう)を纂輯(さんしう)して。稿(こう☆○シタガキ)を爲(つくる)こと五七日。橋梓(きやうしん☆○オヤコ)の再會(さいくわい)家門(かもん)の栄達(ゑいたつ)をもて結尾(けつび)とす。亦(また)是(これ)風(かぜ)を追(お)ひ影(かげ)を捕(とる)の談(だん)にして。群犬(ぐんけん)声(こゑ)を吠(ほゆ)るの〓(そしり)をいかにせん。深(ふか)く架上(かしよう)に秘(ひめ)んとするに許(ゆる)さず。北子(ほくし)傍(かたはら)に在(あつ)てこれを圖(づ)し。書肆(しよし)豪奪(ごうたつ☆○ムリニトル)して繍梓(しうしん)已(すで)に成(な)る。因(よつ)て顔(がん)して苅萱(かるかや)後傳(ごでん)玉櫛笥(たまくしげ)といふ。夫(それ)玉櫛笥(たまくしげ)とは何(なん)ぞや。父子(ふし)」夫婦(ふうふ)ふたゝびあふの日(ひ)。頭髪(づはつ)を剃除(ていぢよ)せずして〓梳(へんしよ☆クシ)を用(もちふ)るの謂(いひ)なり。被閲(ひえつ)の君子(くんし)且(まづ)題目(だいもく)を認得(みしりえ)て。彼此(ひし)の説(せつ)を爲(なす)ところ。宜(よろし)くその異(こと)なるをしりたまふべし。
丙寅(へいゑん)立秋(りつしう)後(のちの)一日。飯台(はんたい)の馬琴(ばきん)みづから叙(じよす)。 
總目録(そうもくろく)
〈一上〉源性(げんしよう)が算術(さんじゆつ)繁光(しげみつ)が射法(しやほふ)功拙(こうせつ)によつて賞罰(しようばつ)を蒙(かうふ)る事(こと)
〈一下〉水城堤(みづきのつゝみ)に繁光(しげみつ)千引(ちびき)親子(おやこ)をすくふの後(のち)暴雨(ばうう)こゝろなくしてよく媒(なかだち)をいたす事(こと)
〈二上〉千引(ちひき)石堂丸(いしだうまる)を産(うめ)るころ漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)丹助(たんすけ)を撃(うつ)て立退(たちのく)事(こと)」
〈二下〉千引(ちびき)が苦節(くせつ)によつて石堂丸(いしだうまる)地藏菩薩(ぢざうぼさつ)の冥助(みやうぢよ)を禀(うけ)鎌倉(かまくら)へ旅(たび)たつ事(こと)
〈三〉石堂丸(いしだうまる)千鈞(せんきん☆○カサネ/\)の仇(あた)を撃(うつ)て父(ちゝ)と雙(ならん)で名(な)を揚(あげ)家(いへ)を興(おこす)によつて千引(ちびき)ふたゝび繁光(しげみつ)にあふ事(こと)
全本(ぜんほん)三冊(さんさつ)總目録(そうもくろく)終(をはり)」 
苅萱(かるかや)後傳(ごでん)玉櫛笥(たまくしげ)上之巻
源性(げんせう)が算術(さんじゆつ)繁光(しげみつ)が射法(しやほふ)巧拙(こうせつ)によつておの/\賞罰(せうばつ)を蒙(かうむ)る事(こと)
今(いま)はむかし。従二位(じゆにゐ)源(みなもとの)朝臣(あそん)頼家(よりいへ)卿(きやう)。鎌倉(かまくら)將軍(せうぐん)たりしとき。天下(てんか)且(しばら)く無異(ぶゐ)に属(しよく)して。君臣(くんしん)安寧(あんねい)なりき。しかれども將軍(せうぐん)家(け)御年(おんとし)わかくおはしませしかば。よろづ我意(がゐ)にまかして。理世(りせ)安民(あんみん)の政(まつりごと)は。露(つゆ)ばかりも心にかけ給はず。或(あるひ)は放鷹(ほうよう☆タカヽリ)漁猟(ぎよりやう☆○スナトリ)に日を送(おく)り。或(あるひ)は伎術(ぎじゆつ)薄藝(はくげい)に夜(よ)をあかし。且(かつ)竒(き)を」好(この)み物(もの)に泥(なづ)み給ひし程(ほど)に。建仁(けんにん)三年夏(なつ)六月。和田平太(わだのへいだ)胤長(たねなが)を。伊豆(いづ)の伊東(とう)が崎(さき)の洞(ほら)に入(い)れ。仁田四郎(につたのしらう)忠常(たゞつね)を。冨士(ふじ)の人穴(ひとあな)に入れて。その奥源(おうげん)を究(きはめ)さし給ふ。胤長(たねなが)忠常(たゞつね)幸(さいはひ)にして性命(せいめい)恙(つゝか)なく帰(かへ)り來(く)ることを得(え)たりといへども。忠常(たゞつね)が従者(ともひと)五六人。洞(ほら)の中(うち)に横死(わうし)せり。これ世もつてしるところ也。かく假初(かりそめ)の遊興(ゆうきやう)に家人(かにん)の艱苦(かんく)を顧(かへりみ)給はざれは。恨(うらみ)を含(ふくむ)ものも多(おほ)くて。氏神(うぢかみ)にも見はなされ給ひけん。鎌倉(かまくら)の営中(ゑいちう)に於(おい)て。しば/\あやしき事(こと)なんありける。しかるに頼家卿(よりいへきやう)常(つね)に愛玩(あいくわん)し給ふ黄金(こがね)の鈴(すゞ)二ッあり。むかし唐(たう)の玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)。春(はる)の鳥(とり)」 の心(こゝろ)なくて。花(はな)を散(ちら)すを憎(にく)み。黄金(こかね)の鈴(すゞ)を夥(あまた)木の枝(えだ)に著(つけ)さし給ふに。その鈴(すゞ)風(かぜ)の随(まに/\)音(ね)を發(はつ)せり。鳥(とり)はこれに驚(おどろ)きて花(はな)に近(ちか)づくことなし。これを護花鈴(ごくわれい)と名(な)つくるよし。天寳遺事(てんほういじ)に見ゆ。今(いま)の二ッの鈴(すゞ)もその類(たぐひ)なりけん。則(すなはち)天宝(てんほう)[玄宗帝の年号]の年号(ねんごう)を彫刻(ちやうこく)して。異朝(いちやう)傳来(でんらい)の奇物(きぶつ)なれは。近従(きんじう)の士(さふらひ)にも打(うち)まかし給はず。御座(ござ)ちかく秘(ひめ)おかせ給ひつるに。ある朝(あした)頼家卿(よりいへきやう)。みづから鈴(すゞ)をいれたる箱(はこ)を開(ひらき)て見給ふに。いつの程(ほど)にか失(うせ)たりけん。裡(うち)にはたえて物(もの)もなし。こはゆゝしき椿事(ちんじ)なりとて。有司(ゆうし)に仰(おふせ)て。
嚴(あまね)く穿鑿(せんさく)せさせ給ふに。終(つい)にその往方(ゆくへ)を」しらず。時(とき)に太輔坊(だいぶぼう)源性(げんせう)といふもの。卜筮(ぼくせい)算術(さんじゆつ)の聞(きこ)え世(よ)に高(たか)し。元(もと)は洛(みやこ)にありて仙洞(せんとう)に伺候(しこう)し。進士(しんし)左衛門尉(さゑもんのぜう)源(みなもとの)整子(まさたね)と号(ごう)し。儒学(じゆがく)に耽(ふけ)り。翰墨(かんぼく)に長(ちやう)じ。後(のち)に入道(にうどう)して近曽(ちかごろ)鎌倉(かまくら)に下向(けこう)し。將軍家(せうぐんけ)に召出(めしいだ)されて。近従(きんじう)出頭時(しゆつとうへとき)めきけり。さるによつて頼家卿(よりいへきやう)。この源性(げんせう)に仰(おふせ)て。鈴(すゝ)の在所(ありか)をうらなはし給ふ。抑(そも/\)太輔坊(たいふほう)源性(げんせう)が。卜筮(ぼくぜい)算術(さんじゆつ)の名(な)。世(よ)に高(たか)くなりし縁故(ことのもと)を尋(たづぬ)るにひとゝせ奥州(おうしう)伊達郡(だてごふり)に境論(さかいろん)ありけり。そのとき實檢(じつけん)の爲(ため)に源性(げんせう)をつかはされたるに。元來(もとより)暦算(れきさん)その妙(みやう)を究(きはめ)しかば。錯(たがへ)るを談(たん)じ。疑(うたかは)はしきを決(けつ)し。是非(ぜひ)明白(めいはく)に批判(ひはん)せし程(ほど)に。」 論議(ろんぎ)忽地(たちまち)に止(やみ)て。双方(そうほう)感伏(かんふく)す。源性(げんせう)はわれながらよくもしつるものかなと自誇(じふ)して。それより道(みち)の叙(ついで)よければ。松嶋(まつしま)を一見(いつけん)せばやとおもひて。彼処(かしこ)に赴(おもむけ)ば。松(まつ)の林(はやし)の中(うち)にいとあやしき庵(いほり)あり。折(をり)ふし日(ひ)も暮(くれ)にければ。こゝに宿(やどり)を求(もとむ)るに。主(あるじ)の老僧(ろうそう)信々(まめ/\)しく歡待(もてな)して。通宵(よすがら)種々(しゆ/\)法問(ほうもん)を論辨(ろうべん)するに博学(はくがく)宏才(くわうさい)みな源性(げんせう)が聞(きか)ざる所(ところ)にあり。こゝをもて源性(げんせう)竊(ひそか)に憤(いきどほり)おもひ。声(こゑ)をふり立(たて)ていふやう。凡(およそ)学者(がくしや)。口才(こうざい)に闌(たけ)たるあり。又(また)筆談(ひつだん)に長(たけ)たるあり。これ人の巧拙(こうせつ)によるにもあらず。おの/\その得(え)たるところあればなり。もしわが得(え)たる所(ところ)を談(だん)ぜば。算術(さんじゆつ)に」 
しくことなしといふ。老僧(ろうそう)冷咲(あざわらひ)て。樹頭(きのかしら)の棗(なつめ)を数(かぞ)へ。洞中(ほらのなか)の水(みづ)を計(はか)るなんどは。黄口(くわうこう)の童子(どうじ)もよくこれをなす。わが算術(さんじゆつ)は龍猛(りうもう)大士(だいし)の行(おこな)ひ給ひし。隱形(いんぎやう)の術(じゆつ)といふともなほ難(かた)しとせず。貴僧(きそう)いかでかよく窺(うかゞ)ひしるべきやはとて。いとほこりかに罵(のゝし)るにぞ。源性(げんせう)いよ/\安(やす)からずおぼえて。汝(なんぢ)荒唐(くわうたう)の言(こと)をもて人を威(おど)すは。所謂(いはゆる)井(ゐ)の底(うち)の蛙(かひる)。鳥(とり)なき嶋(しま)の蝙蝠(かはほり)にひとし。今(いま)の世(よ)にして源性(げんせう)が右(みぎ)に出(いづ)る算者(さんじや)あるべうもおぼえすといふを。老僧(ろうそう)いよ/\冷咲(あざわらひ)て。かくまで疑(うたが)はゞ。驗(しるし)見(み)せ候べしといひもあへず。算木(さんぎ)をとり出(いだ)して。源性(げんせう)が座(ざ)のめぐりに」 置(おき)わたせは。源性(げんせう)忽地(たちまち)心(こゝろ)まどひ。神(たましひ)くらみて朦霧(もうむ)の中(うち)にあるがごとく。須臾(しゆゆ)にして菴(いほり)の中(うち)。みる/\変(へん)じて大海(だいかい)となり。圓座(ゑんざ)は峙(そばたち)て盤石(ばんじやく)となり。蓆(むしろ)は翻(ひるがへ)りて逆波(げきは)と見え。身(み)は只(たゞ)踉々(らう/\)蹌々(そう/\)として。浮沈(ふちん)更(さら)に生死(せうし)の際(さかひ)をわきまへず。ゆるし給へゆるし給へと叫(さけび)けり。しばしありて主人僧(あるじのそう)。いかに慢心(まんしん)今(いま)は後悔(こうくわい)ありやと問(とふ)に。源性(げんせう)頻(しきり)に怕(おそ)れまとひて。後悔(こうくわい)せり/\はやく術(じゆつ)をもどし給へとて勸解(わび)たりけるに。漸(やうやく)にして風波(ふうは)おさまり遂(つひ)に舊(もと)の庵(いほり)となりて。明月(めいげつ)窗(まど)に皎々(けう/\)たり。あまりの奇特(きどく)に感激(かんげき)し。只顧(ひたすら)傳受(でんじゆ)を望(のぞみ)しかど。老僧(ろうそう)一切(つや/\)うけ引(ひか)す。わか」術(じゆつ)は末世(まつせ)下根(げこん)の人の爲(ため)に授(さづけ)がたし。貴僧(きそう)その才(さい)に誇(ほこ)ることなくは。今(いま)より学術(がくじゆつ)大にすゝむべし。とく/\帰(かへ)りたまへといそがしたつるに推辞(いなみ)がたく。拝(はい)しわかれて鎌倉(かまくら)に帰着(きちやく)し。頼家卿(よりいへきやう)にありし事どもを聞(きこ)え奉(たてまつ)れば。頼家卿(よりいへきやう)聞食(きこしめし)て。汝(なんぢ)その僧(そう)を伴來(ともなひこ)ざるこそ越度(をちど)なれ。こは狐(きつね)などに妖(ばか)されつらんと宣(のたま)ひて。
敢(あへて)竒特(きどく)ともし給はざる氣色(けしき)なりしが。源性(げんせう)が算術(さんじゆつ)は。このゝち大にすゝみけるとぞ。かゝる名誉(めいよ)の人なれば。この源性(げんせう)に仰(おふ)せて。今度(こんど)紛失(ふんしつ)せし二ッの鈴(すゞ)をうらなはし給ふに。しばし考(かんがへ)て申すやう。件(くだん)の鈴(すゞ)は鬼(おに)の爲(ため)に盗去(ぬすみさ)らる。但(たゞ)し」 大樹(だいじゆ)の武威(ぶゐ)灼然(いやちこ)なれば。盗(ぬすむ)といへども遠(とほ)くかくすことを得(え)ず。今(いま)現(げん)に鶴岡(つるがおか)社頭(しやとう)なる大銀杏(おほいてう)の杪(こすゑ)。第三(だいさん)第(だい)四の枝(えだ)に掛(かけ)おきぬ。むかし唐朝(もろこし)玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)の時(とき)にもかゝる例(ためし)あり。逸史(いつし)に云(いはく)明皇(めいくわう)[すなはち玄宗帝]の開元(かいげん)年中(ねんぢう)。武(ぶ)を驪山(りさん)の翠華(すいくわ)に講(こう)ず。帝(みかど)[玄宗]よろこばずして還(かへ)る。因(よつ)て心地(こゝち)異例(ゐれい)して昼(ひる)一(ひとつ)の小(ちひさ)なる鬼(おに)を夢(ゆめ)み給ふ。その爲体(ていたらく)あかき犢鼻(ふんどし)を著(つけ)。一足(かたあし)は跣(すあし)に。一足(かたあし)は履(くつは)き。腰(こし)に一履(いつそくのくつ)を懸(かけ)手に破(やれ)たる〓扇(たけのかはのうちわ)を把(もち)。揚貴妃(ようきひ)か繍香嚢(にほひふくろ)と帝(みかど)の玉笛(ふえ)とを盗(ぬす)んで。殿中(でんちう)を繞(めぐり)て奔戲(ほんけ)せり。帝(みかど)これを叱(しかつ)て故(ゆゑ)を問(とひ)給ふに。彼(かの)鬼(おに)奏(そう)して。われは虚耗(きよがう)也と」申す。帝(みかど)いよ/\怪(あやし)みて。朕(ちん)いまだ虚耗(きよがう)の名(な)を聞(きけ)ることなしと宣(のたま)へば。鬼(おに)又(また)奏(そう)すらく。虚(きよ)は空虚(くうきよ)の中(うち)に望(のぞん)て。人(ひと)の物(もの)を盗(ぬす)む事(こと)戲(たはふ)るゝがごとし。耗(がう)はすなはち人(ひと)の家(いへ)を耗(やぶつ)て。喜事(よきこと)を憂(うれひ)となすもの是(これ)なり。と申せば。帝(みかど)大に怒(いかつ)て。武士(ぶし)を召(め)さんとし給ふ折(をり)しも。俄(にはか)にして一(ひとつ)の大鬼(おほおに☆○ユウレイ)見(あらは)れ出(いづ)。その形(かたち)破(やれ)たる帽子(ほうし)を頂(いたゞ)き。藍袍(あをきほう)を衣(き)。角(つの)の帯(おび)を繋(しめ)。朝靴(でんちうぐつ)を〓(はき)。件(くだん)の小鬼(こおに)を捉(とらへ)。劔(けん)を抜(ぬい)てまづその目子(めのたま)をくり抜(ぬき)。
遂(つひ)に擘(つんざき)てこれを啖(くら)ふ。帝(みかど)その大(おほい)なる者(もの)を召(めし)て。汝(なんぢ)は何人(なんひと)ぞと問(とひ)給へば。跪(ひさまづい)て奏(そう)すらく。臣(しん)は終南山(しうなんざん)の進士(しんし)鍾馗(せうき)なり武徳(ぶとく)年中(ねんぢう)。」 應擧(おうきよ)捷(すみやか)ならざるを羞(はぢ)て故郷(こきやう)に帰(かへ)り。殿(でん)の階(おばしま)に觸(ふれ)て死(し)す。そのとき帝(みかど)緑袍(みどりのほう)を賜(たまは)りて厚(あつ)く葬(ほうふら)したまひぬ因(よつ)て恩(おん)を感(かん)じ誓(ちかひ)を發(はつ)し。王(わう)の爲(ため)に天下(てんか)の虚耗(きよがう)。妖〓(ようせい)の事を除(のぞ)くものなりといひ訖(をは)るに。忽然(こつぜん)として帝(みかど)の夢(ゆめ)覚(さめ)給ひ。異例(ゐれい)も又隨(したがつ)て平愈(へいゆ)ありしかば。畫工(ぐわこう)呉道士(ごどうし)に詔(みことのり)して鍾馗(せうき)の形(かたち)を圖(づ)せしめ給ふ。後世(こうせい)本朝(ほんちやう)に傳(つた)へて。畫家(ぐわか)往々(わう/\)これを圖(づ)し。門戸(もんこ)に貼(はり)て邪鬼(じやき)を退(しりぞ)くるといふもの是(これ)なり。顧(おもふ)に今(いま)。営中(ゑいちう)の鈴(すゞ)を盗去(ぬすみさる)ところのものも。虚耗(きよがう)の邪鬼(じやき)なり。もしかる/\しく鈴(すゞ)をとらし給ふときは。大なる祟(たゝり)」あり。その家(いへ)三代(さんだい)弓馬(きうば)の妙奥(みやうおう)を究(きはめ)たる武士(ぶし)に仰(おふせ)て。射(い)とらし給はゝ。万(まん)に一ッも祟(たゝり)あるまじと申す。頼家卿(よりいへきやう)縁由(ことのよし)を聞食(きこしめし)て。彼(かの)銀杏(いてう)の高(たか)さ。凡(およそ)地(ち)を離(はな)るゝこと。いかばかりあるへきと問(とひ)給ふに。源性(げんせう)ふたゝび考(かんがへ)て。木(き)の高(たか)さは十五丈(ぢやう)四尺七寸八分(ぶ)あり。第四(だいし)の枝(えだ)は東(ひかし)へさして。十一丈(ぢやう)二尺八寸。第(だい)三の枝(えだ)は南(みなみ)へさして十二丈五尺一寸九分(ぶ)三厘(りん)ありと申す。これによつて次(つぎ)の日(ひ)に。頼家卿(よりいへきやう)。鶴岡(つるがおか)へ社參(しやさん)ありて。銀杏(いてう)の杪(こずゑ)を御覧(ごらん)ずるに。この樹(き)幾百年(いくもゝとせ)を經(へ)たりけん。亭々(てい/\)として雲(くも)に交(まじは)り枝葉(えだは)参差(しんし☆○イレチカヒ)として鈴(すゞ)は何処(いづこ)にありとも見究(みきは)めがたけれど。遠目鏡(とほめがね)」 をもて見そなはするに。是(これ)かとばかりおぼふもの。第三(だいさん)第四(だいし)の枝(えだ)にあり。さて何人(なにびと)に仰(おふせ)て射(い)とらすべきとおぼして。左右(さゆう)を見(み)かへり給ふに。
頼朝卿(よりともきやう)より相傳(さうでん)の弓(ゆみ)とりは。おほく死亡(しにうせ)。たま/\生残(いきのこ)れるも。老〓(おひさらばひ)てかゝるとき物(もの)の用(よう)にたつべうもあらず。こゝに近従(きんじう)の士(さむらひ)に。加藤(かとう)新左衛門(しんざゑもん)繁光(しげみつ)といふ壯佼(わかもの)ありけり。これは人皇(にんわう)七十五代(だい)。崇徳院(しゆとくいん)の御宇(ぎよう)に。筑前國(ちくぜんのくに)那河郡(なかごふり)。博多(はかた)の領主(れうしゆ)たりし。加藤(かとう)左衛門尉(さゑもんのぜう)繁氏(しげうぢ)入道(にうとう)の孫(まご)なり。祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)は。嫡室(ほんさい)傍妻(そばめ)の嫉妬(しつと)によつて浮世(うきよ)を觀(くわん)じ。髻(もとゞり)剪捨(きりすて)て高野山(こうやさん)に隱(かく)れしかば。その子(こ)石堂丸(いしだうまる)父(ちゝ)の跟(あと)を慕(した)ふて彼(かの)」 
山(やま)に攀登(よぢのぼ)り。一家(いつけ)の男女(なんによ)夥(あまた)出家(しゆつけ)せし程(ほど)に。その家(いへ)遂(つひ)に断絶(たんぜつ)す。しかるに繁氏(しげうぢ)の遺腹子(わすれがたみ)氏助(うぢすけ)といひし人。そのとき妾(てかけ)の親里(おやざと)にて出生(しゆつせう)し。成長(せいちやう)のゝち。いかにもして絶(たえ)たる家(いへ)を興(おこ)さんとするの志(こゝろざし)はありながら。時(とき)を得(え)ざればいよ/\窶(やつ/\)しくて筑紫(つくし)に居住(きよぢう)し。年來(としごろ)石堂口(いしだうぐち)の地藏(ぢざう)〓(ぼさつ)を祷(いの)りける折(をり)しも源平(げんへい)の合戦(かつせん)起(おこ)りて。西海(さいかい)穩(おだやか)ならざれば。氏助(うぢすけ)やがて源氏(げんじ)の陣(ぢん)に馳加(はせくはゝ)り。軍功(ぐんこう)抜群(ばつくん)なるをもて。天平(てんか)一統(いつとう)のゝち頼朝卿(よりともきやう)氏助(うぢすけ)を近臣(きんしん)に召(め)され。一処懸命(いつしよけんめい)の地(ち)を宛行(あておこなは)れたり。さる程(ほど)に氏助(うぢすけ)夫婦(ふうふ)は近曽(ちかごろ)世(よ)を去(さ)りて。一子(いつし)繁光(しげみつ)。二世(にせ)将軍(せうぐん)頼家卿(よりいへきやう)」 に仕(つかへ)。心ざま父(ちゝ)に劣らねば。奉公(ほうこう)ます/\等閑(なほざり)ならず。今茲(ことし)廿六才(さい)なり。射藝(しやげい)は祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)の箕裘(ききう)を承(うけ)て。三世(さんぜ)その妙奥(みやうおう)を究(きはめ)。百發(ひやくはつ)かならず百中(ひやくちう)の手段(しゆだん)あり。この人供奉(ぐぶ)して君邉(くんへん)に侍(はべ)りければ。頼家卿(よりいへきやう)彼(かの)鈴(すゞ)を射(い)てとらんものは。繁光(しげみつ)ならて別(べち)にあるべうもあらずとおぼして。その事(こと)を命(めい)じ給へば。繁光(しげみつ)答(こたへ)申すやう。射藝(しやげい)は三代(だい)家(いへ)に傳(つた)へて。小的(こまと)大的(おほまと)。射鳥(かけとり)。犬追物(いぬおふもの)。或(あるひ)は歩射(かちゆみ)。遠射(とをがけ)。照射(ともし)。戲射(さいだて)に至(いた)るまで。人なみには覚悟(かくご)つかまつれりといへども。これは尋常(よのつね)に品(しな)かはりて。離婁(りろう)が眼(め)をもて見るとも。定(さだ)かならざる杪(こずゑ)の鈴(すゞ)を。いかにして」射(い)ておとし候べき。ねがはくは別人(べちじん)に仰(おふせ)つけらるべうもやと申もあへぬに。頼家卿(よりいへきやう)氣色(けしき)変(かは)りて。やをれ繁光(しげみつ)。后〓(こうげい)は日を射(い)ておとし。李克用(りこくよう)は針(はり)の孔(あな)を穿(うがつ)。彼(かれ)も汝(なれ)も共(とも)に一箇(いつこ)の丈夫(ますらを)なり。すべてとほし矢(や)は十六丈(じやう)をもて限(かぎ)りとす。
今(いま)この木(き)の枝(えだ)究(きはめ)て高(たか)しといへども十二丈(ぢやう)に過(すぎ)ず。本朝(ほんちやう)の武士(ぶし)。弓勢(ゆんぜい)十六町(てう)に及(およ)ふもの。往々(わう/\)國史(こくし)に見(み)えたり。夫君(それきみ)の禄(ろく)を受(うけ)て。妻子(さいし)を養(やしな)ふは何(なん)の為(ため)ぞ。かゝるときの用(よう)にもたつべき爲(ため)ならずや。射(い)て及(およ)ばずは已(やみ)なんのみ。汝(なんぢ)射(い)ずして辞退(ぢたい)するは不忠(ふちう)なり未練(みじゆく)なり。只今(たゞいま)身(み)の暇(いとま)を取(とら)するなれば。鍛錬(たんれん)工夫(くふう)年(とし)を積(つ)み。物(もの)の用(よう)にも立(たつ)べくは。その時(とき)に」 帰參(きさん)せよ。とく/\退出(まうで)候へとていたくいひ懲(こら)し給へば。繁光(しげみつ)深(ふか)く面目(めんもく)をうしなひて。忽地(たちまち)宅(いへ)に追(おひ)かへさる。かゝりしかば頼家卿(よりいへきやう)は。誰(たれ)にもあれ件(くだん)の鈴(すゞ)を射(い)てとらんものは。過分(くわぶん)の恩賞(おんせう)有(ある)べしと觸(ふれ)さし給ひしかど。もし射(い)損(そん)じたらんには。憖(なまじい)に身(み)の大事(だいじ)に及(およ)ぶべしと猶豫(ゆうよ)して。われかけとらんといふものもなし。さればとて杣(そま)を入(い)れ。木(き)を伐(きり)て鈴(すゞ)をとるときは。祟(たゝり)ありと源性(げんせう)が申とゞむる所(ところ)も黙止(もだし)がたく。事(こと)既(すで)に難義(なんぎ)に及(およ)びて。且(しばら)く鈴(すゞ)をとるべき沙汰(さた)はやみぬ。抑(そも/\)今度(こんど)頼家卿(よりいへきやう)。愛玩(あいくわん)し給ふ護花鈴(はなのすゞ)を。虚耗(きよがう)の鬼(おに)に盗去(ぬすみさ)られ。しかも鶴岡(つるかおか)八幡宮(はちまんぐう)の神木(しんぼく)に掛(かけ)おける事。」いと不思議(しぎ)なりとて。在(ざい)鎌倉(かまくら)の良賎(りやうせん)士庶(ししよ)。おの/\怪(あやし)み思(おも)はざるはなし。こゝをもてなほその細(くは)しきをしらん爲(ため)に。潛(ひそか)に源性(げんせう)に吉凶(きつきやう)を問(とふ)人(ひと)あれども。源性(げんせう)あらはにこれを告(つげ)ず。但(たゞ)し三年(さんねん)にして主(しゆう)を革(あらため)。十八年(ねん)にして彼(かの)鈴(すゞ)はじめて営中(ゑいちう)にかへる事(こと)あらんといへりしが。果(はた)して三年(ねん)を經(へ)て。頼家卿(よりいへきやう)伊豆(いづ)の修善寺(しゆぜんじ)に於(おい)て事(こと)あり。[時に廿八才]
舎弟(しやてい)實朝(さねとも)相續(さうぞく)して。鎌倉(かまくら)三世(さんぜ)の將軍(せうぐん)に任(にん)ぜられ給ふなど。思ひあはする事(こと)いと多(おほ)かりしとぞ。
水城堤(みづきのつゝみ)に繁光(しげみつ)千引(ちびき)父子(ふし)を救(すく)ふの後(のち)暴雨(ばうう)こゝろなくしてよく媒(なかだち)をいたす事(こと)」
加藤(かとう)新左衞門(しんさゑもん)繁光(しげみつ)は。思ひもかけず主君(しゆくん)の勘當(かんだう)を禀(うけ)。所領(しよれう)も没収(もつしゆ)せられしかば。慙愧(ざんぎ)憤激(ふんげき)して妻(つま)の桂江(かつらえ)に縁由(ことのよし)を説(とき)しらせ。さていふやう。われ不肖(ふせう)なれども祖父(おほぢ)の箕裘(ききう)を嗣(つ)ぎ。射藝(しやげい)をもて君(きみ)に仕(つかへ)ながら。はからずも不慮(ふりよ)の難義(なんぎ)に係(かゝ)りて家声(かせい)をおとす事。是非(ぜひ)に及(およば)ざるところなり。さるによつて。ふたゝび藝術(げいじゆつ)を〓〓(たんれん)し。遂(つひ)に鈴(すゞ)を射(い)おとして。後栄(こうゑい)をはかるべし。御身(おんみ)もしれるごとく。わが本國(ほんこく)筑前(ちくぜん)筥崎(はこざき)なる石堂口(いしだうぐち)に立(たゝ)せ給ふ地藏(ぢざう)〓(ぼさつ)は。靈驗(れいげん)尤(もつとも)世(よ)に掲焉(いちじる)し祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)入道(にうどう)は。この菩薩(ぼさつ)の祈子(まうしこ)にして。父(ちゝ)の氏助(うぢすけ)も亦(また)」彼(かの)地藏尊(ちざうそん)に祈願(きぐわん)して。平家(へいけ)追討(ついとう)のとき軍功(ぐんこう)あり。こゝを以(もて)世(よ)挙(こぞつ)て。苅萱(かるかや)地藏(ちざう)とも。又(また)勝軍(せうぐん)地藏(ちざう)とも稱(となへ)て。渇仰(がつこう)既(すで)に久(ひさ)し。われ今(いま)より彼地(かしこ)に赴(おもむ)きて。勝軍(せうぐん)地藏(ちざう)大〓(だいぼさつ)の冥助(みやうぢよ)を祈請(きしよう)し。後(のち)かならず鈴(すゞ)を射(い)おろして恥辱(ちぢよく)を雪(きよ)め。忠孝(ちうこう)両(ふたつ)ながら全(まつた)うせんと思ふのみ。御身(おんみ)はこゝに残(のこ)り留(とゞ)まりて。孩児(せがれ)繁太郎(しげたらう)を養育(はぐゝみ)給へ。はやくて二年(ねん)。遅(おそ)くて三年(ねん)が程(ほど)にはかへり來(き)て。再會(さいくわい)をいたすべし。それまでは御身(み)が兄(あに)。天野(あまのゝ)六郎政景(まさかげ)にたのみおきたれは。何ごとも彼人(かのひと)と相語(かたらひ)て。我(わが)帰(かへ)る日(ひ)をまち給へといふ。桂江(かつらえ)元來(もとより)賢妻(けんさい)なれば。是(これ)を聞(きゝ)て」 聊(いさゝか)も推辞(いなま)ず。こは家(いへ)の爲(ため)御身(おんみ)が爲(ため)。且(かつ)繁太郎(しげたらう)が為(ため)なりかし。われ/\が事などは露(つゆ)ばかりも心(こゝろ)となし給ひそ。よしや五年(ねん)七年(ねん)別(わか)れまゐらするとも。わが兄(あに)は義(ぎ)に勇(いさ)む人(ひと)なれば。よも強面(つれなく)はもてなすまじ。さはいへ別(わかれ)のをしからさるにはあらず。彼地(かのち)よりをり/\の音耗(おとづれ)は聞(きか)せ給へ。
この外(ほか)に求(もと)むべき事なしといふに。繁光(しげみつ)大に歡(よろこ)びて。その日のうちに奴婢(ぬひ)には悉(こと/\)く身(み)の暇(いとま)をとらせ。妻(つま)の桂江(かつらえ)と。今茲(ことし)五才(いつゝ)なりける児子(せがれ)繁太郎(しげたらう)が事は。天野(あまのゝ)政景(まさかげ)が方(かた)へたのみ遣(つかは)すに。こゝろよくうけ引(ひき)。桂江(かつらえ)はわが妹(いもと)なれども。繁光(しげみつ)が妻(つま)なれば。家(いへ)に養(やしな)ふに於(おい)ては。主君(しゆくん)」 
に對(たい)して。その憚(はゞかり)なきにあらず。われよきにはからはんとて。名越(なこや)の切通(きりどほし)にさゝやかなる家(いへ)をもとめて。桂江(かつらえ)母子(おやこ)を住(すま)し。衣食(いしよく)なにくれの事乏(とぼ)しからぬやうに心つけんとて。叮嚀(ねんごろ)に諾(うけひ)し程(ほど)に。繁光(しげみつ)はふかく安堵(あんど)して。政景(まさかげ)によろこび聞(きこ)え。妻子(さいし)に別(わか)れて遠(とほ)く筑紫(つくし)へ旅(たび)たちける。されば加藤(かとう)新左衞門(しんさゑもん)繁光(しげみつ)は。夜(よ)に宿(やど)り日に歩(あゆ)み。ゆき/\て。筑前國(ちくぜんのくに)宝満山(ほうまんざん)の麓(ふもと)に到(いた)りぬ。この山(やま)一名(いちみやう)を竈門(かまど)山といふ。山(やま)の頂(いたゞき)に宝満院(ほうまんいん)あり。是(これ)則(すなはち)加藤(かとう)繁氏(しけうぢ)。石堂(いしだう)丸と呼(よば)れしころ。八箇年(はつかねん)勤斈(きんがく)の精舎(しようしや)にて。数代(すだい)の擅越(だんゑつ)なりしかば。軈(やが)て彼(かの)山に登(のぼ)りて。住持(ぢうぢ)に對面(たいめん)し。審(つまびらか)にわがうへ」 を物(もの)がたりて。寄宿(きしゆく)をたのみ聞(きこ)ゆれば。住持(ぢうぢ)一議(いちぎ)にも及(およ)ばず承引(うけひき)て。客殿(きやくでん)の側(かたはら)に空房(あきや)ありしをかきはらはして。繁光(しげみつ)の住所(すみところ)と定(さだ)め。心(こゝろ)くまなく扶助(ふぢよ)せられけり。しかれども繁光(しげみつ)は。道場(どうじやう)に於(おい)て武藝(ぶげい)の稽古(けいこ)せん事を憚(はゞか)りて。日毎(ひごと)に弓矢(ゆみや)を携(たづさへ)て寺門(じもん)をたち出(いで)。まづ石堂口(いしだうぐち)なる苅萱(かるかや)勝軍(せうぐん)地藏〓(ぢざうぼさつ)に詣(まふで)て。丹誠(たんせい)を凝(こら)して祈(いのり)けるやう。竒妙(きみやう)頂禮(ちやうらい)地藏尊(ぢざうそん)。大悲(だいひ)深極(しんきよく)の誓願(せいぐわん)をもつて。六道(ろくどう)能化(のうけ)の導師(どうし)たり。迹(あと)を加持羅伽(かぢらきや)山中(さんちう)に留(とゞめ)て。益(ゑき)を十方(じつほう)法界(ほうかい)に施(ほどこ)し。釋尊(しやくそん)の遺嘱(ゆいぞく)を〓利天宮(とうりてんきう)に受(うけ)て。無佛(むぶつ)世界(せかい)の教主(きやうしゆ)なり。毎日(まいにち)晨朝(しんちやう)に。恒河(ごうか)」沙(しや)に入(いつ)て。可度(かど)の群類(ぐんるい)を觀察(くわんさつ)し。六環(ろくくわん)の金錫(きんしやく)は。功徳(くどく)を振(ふつ)て重垢(ちやうく)を抜(ぬき)。一顆(いつくわ)の摩尼(まに)は。萬物(ばんもつ)を雨(ふら)して。匱乏(きぼく)を救(すく)ひ。無量却(むりやうごう)を經(へ)ても。済度(さいど)利生(りせう)。
應驗(おうげん)化導(けどう)究(きはまり)なしとかや。繁光(しげみつ)幸(さいはひ)に佛縁(ぶつえん)ありて。祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)は。菩薩(ぼさつ)の祈子(まうしご)にして。二世(にせ)の心願(しんぐわん)を遂(とげ)。亡父(ぼうふ)氏助(うぢすけ)は。不思議(ふしぎ)の冥助(みやうぢよ)を蒙(かうふ)りて。東営(とうゑい)近従(きんじう)の士(し)となりしより。今(いま)繁光(しげみつ)に至(いたつ)て。忠義(ちうぎ)を存(ぞん)するのところ。この身(み)薄命(はくめい)に係(かゝ)りて。蝸(でゝむし)の廬(いほり)をうしなひ。忽地(たちまち)燕(つばくら)の古巣(ふるす)に赴(おもむ)く。正(まさ)に是(これ)祖先(そせん)の墳墓(ふんほ)。父母(ふぼ)の郷黨(きやうたう)に對(たい)するに面(おも)なし。仰(あほぎ)願(ねがは)くは。靈驗(れいげん)三世(さんぜ)におよぼし。由基(ゆうき)もなほ難(かた)し」 とする彼(かの)鈴(すゞ)を射(い)とらして。ふたゝび家(いへ)を興(おこ)さし給へとて。肝膽(かんたん)を摧(くだい)て祈念(きねん)し。さて野(の)に遊(あそ)び山(やま)に遊(あそ)びて。もつはら射藝(しやげい)をこゝろみつゝ。既(すて)に三年(みとせ)の月日を經(へ)たり。時(とき)に元久(げんきう)元年(ぐわんねん)五月の半(なかば)に。繁光(しげみつ)は苅萱(かるかや)の関(せき)のこなた。水城(みづき)のほとりに狩(かり)せんとて。稚菰(わかごも)の中(なか)にわけ入(い)る折(をり)しも。よゝと泣(ない)て堤(つゝみ)を過(よぎ)るものありけり。こは何事(なにこと)かと瞻望(みあぐ)れは。年紀(としのころ)五十ばかりなる男(をとこ)と。十七八なる女子(をなご)と。二人打(うち)つれだちて堤(つゝみ)に停立(たゝずみ)。彼(かの)男(をとこ)潸然(さめ/\)としていへりけるは。朽惜(くちをし)や。われもいにしへは由緒(よし)あるものなるに。身上(しんしよう)衰(おとろへ)て人の爲(ため)に腰(こし)を折(を)るのみならず。はづかなる金(かね)に事(こと)迫(せま)りて。只(たゞ)一人(ひとり)の」愛子(まなご)を賣(うる)も。過世(すくせ)の悪業(あくごう)なるべけれど。子(こ)は憖(なまじい)に孝心(こうしん)ふかく。父(ちゝ)は却(かへつ)て養育(はぐゝむ)べき。便(たつき)もなさに捨(すて)にゆく。淺(あさ)ましさよとかき口説(くどけ)ば。女子(をなご)は涙(なみだ)を押拭(おしぬぐ)ひ。〓(てゝ)君(ぎみ)いたくな悔(くひ)給ひそ。風流(みやび)の薮澤(やぶ)は何(なに)ものかは。われのみならで親(おや)の爲(ため)。同胞(はらから)の爲(ため)にとて。同(おな)じ瀬(せ)に沈(しづ)む河竹(かはたけ)の。
よのためしこそおほかめれ。よしなき歎(なげ)きを人に聞(きか)れて。羞(はぢ)見せ給ふなと諫(いさむ)れば。父(ちゝ)もやうやく涙(なみだ)をとゞめ。さいはるゝ程(ほど)かひなきはわが身(み)ぞかし。くひの八(や)千(ち)たび口説(くどく)とも。かへらぬ事をかへり來(く)る。わが子(こ)を待(まち)て形(あぢき)なき。浮世(うきよ)にいかで存命(ながらふ)べき。金(かね)こそ人の仇(あた)なりけり。誘(いざ)ゆくべしとてもろともに。堤(つゝみ)を北(きた)へ過(よぎ)るさへ。屠所(としよ)」 の羊(ひつじ)に異(こと)ならず。繁光(しげみつ)は真菰(まこも)の蔭(かげ)にありてその言(こと)を聞(き)くに。こは全(まつた)く父子(ふし)にて。さりがたき金(かね)ゆゑに。女児(むすめ)を賣(うる)よと思ふにぞ。元來(もとより)親(したしき)疎(うと)きをえらまず。人(ひと)を憐(あはれ)むの心(こゝろ)ふかければ。これを見捨(みすつ)るに忍(しのび)ず。こや/\と呼(よび)かけつゝ。弓(ゆみ)をもて真菰(まこも)をかきわけ。いそがはしく走(はし)り出(いづ)れば。件(くだん)の二人(ふたり)ははじめて人ある事をしつて大に驚(おどろ)き。呼(よば)せ給ふはこなたの事にやと問(とふ)間(はし)に。繁光(しげみつ)堤(つゝみ)にのぼり來(き)て二人(ふたり)に對(むか)ひ。縁故(ことのもと)をしらせねば。怪(あやし)み思ふはことわり也。われはむかしこの地(ち)の領主(れうしゆ)たりし。加藤(かとう)左衛門尉(さゑもんのぜう)繁氏(しげうぢ)の嫡孫(ちやくそん)にて。新左衞門(しんざゑもん)繁光(しげみつ)といふもの也。父(ちゝ)氏助(うぢすけ)八嶋(やしま)の軍(いくさ)に功(こう)ありしによつて」 
鎌倉殿(かまくらどの)に仕(つかへ)。われ又(また)頼家卿(よりいへきやう)の近臣(きんしん)たりき。しかるに不慮(ふりよ)の事によつて。主君(しゆくん)の勘當(かんどう)を蒙(かうむ)り。射藝(しやげい)修行(しゆぎやう)の爲(ため)に妻子(さいし)に別(わか)れて本國(ほんこく)に赴(おもむ)き。宝満山(ほうまきざん)に寄宿(きしゆく)して。もつはら苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)を祈念(きねん)し。先途(せんと☆○ナンギ)の不覚(ふかく)を雪(すゝが)んと思ふのみ。こゝにある事(こと)三年(みとせ)に及(およ)びぬ。是(これ)はさておきて。われ今(いま)汝等(なんぢら)がいふところを聞(きけ)ば。事(こと)に迫(せま)りて河竹(かはたけ)の瀬(せ)に立(たゝ)んとする。女児(むすめ)が孝行(こう/\)父(ちゝ)の慈愛(ちあい)。聞(き)くに痛(いたま)しく見(み)るにしのびず。おもふ子細(しさい)あれば卒尓(そつじ)に呼(よび)とめたり。まづ情由(ことのよし)を物(もの)かたれ。もし救(すく)ふべき事ならば。一臂(いつひ)の労(ろう)を厭(いとは)ずして救(すくひ)得(え)さすべしといふに二人は聞(きい)てふかく歡(よろこ)び。忽地(たちまち)拝伏(はいふく)し」 つゝ彼(かの)男(をとこ)いへりけるは。さては繁氏(しげうぢ)入道(にうどう)の孫君(まこぎみ)にておはしつるか。僕(やつがれ)はこの堤(つゝみ)の西(にし)在家(ざいか)。古賀村(こがむら)に住(すめ)る千脇(ちわき)丹助(たんすけ)といふもの也。父(ちゝ)のときまでは。田圃(たはた)も夥(あまた)ありて。人もしりたる郷士(ごうし)なりしに。父(ちゝ)はやく世(よ)を去(さ)りて。僕(やつがれ)なほ幼少(いとけな)かりしかば。叔父(をぢ)漆川(うるしがは)權七(ごんしち)といふものに押領(おうれう)せられ。かく窶(やつ/\し)く世(よ)をわたるに。妻(つま)は四年(よとせ)餘(あま)り血虚(けつきよ)の大病(だいびやう)にうち臥(ふ)して。この春(はる)なん身(み)まかりける。こゝをもて小々(しよう/\)の田圃(たはた)も質(しち)とし。年貢(ねんぐ)の未進(みしん)も多(おほ)く滞(とゞこふ)りて。いかにともせんすべなく。もしこれを貲(つくのは)ざれば。忽地(たちまち)木馬(もくば)水篭(すいろう)の責(せめ)にあはんかと。女児(むすめ)千引(ちびき)がいと悲(かなし)みて。その身(み)を博多(はかた)の津(つ)に賣(うり)て。父(ちゝ)を」救(すく)ふべしといたすにこそ。彼(かの)權七(ごんしち)は前年(せんねん)。老死(おひしに)て。その子(こ)權藤六(ごんとうろく)といふもの。千引(ちびき)を戀々(れん/\)して頻(しきり)に娶(めと)らんとはかれども。僕(やつがれ)親子(おやこ)寃(かたき)の家(いへ)に縁(えに)し締(むすば)ん事(こと)を肯(がてん)せず。彼(かれ)亦(また)このころ媒(なかだち)をもて。千引(ちびき)を妻(つま)になすならば。
金(かね)は数(かす)の如(ごと)く貸与(かしあたへ)て。火急(くわきう)の難義(なんぎ)を救(すくは)んといはせたれど。權藤六(ごんとうろく)が心ざまのよからぬ事は。父(ちゝ)の權七(ごんしち)にも勝(まさ)りて。笑(えみ)の中(うち)に刃(やいば)をかくすもの也。よしや非命(ひめい)の死(し)をなすとも。勝母(せうぼ)の里(さと)に入りて盗泉(とうせん)を飲(のま)じと思ひ究(きはめ)たれど。別(べち)に金(かね)のとゝなふへきよすがもなさに。千引(ちびき)を伴(ともなひ)て博多(はかた)の娼家(せうか)に行(ゆく)にて候。と語(かた)るも面目(めんもく)なげ也けり。繁光(しげみつ)つく/\聞(きゝ)て深(ふか)」 く嗟嘆(さたん)し。われ連續(れんぞく)してこの地(ち)の領主(れうしゆ)ならんには。さる癖者(くせもの)を糺明(きうめい)して。汝(なんぢ)が寃(うらみ)を雪(きよ)め得(え)さすべけれど。今(いま)は新恩(しんおん)の所領(しよれう)にさへはなれ。かく流浪(るらう)の身(み)にしあれば。かゝらんことこそ力(ちから)およばね。目前(まのあたり)の難義(なんぎ)を救(すく)ふ事はともかくもすべし。いかばかりの金(かね)あらば。女児(むすめ)を賣(う)らで事のとゝなふべきと問(とへ)ば。丹助(たんすけ)答(こたへ)て。欲(ほつ)するところの金(かね)は十五両(りやう)なりといふ。繁光(しげみつ)點頭(うなづき)て。われ幸(さいはひ)にいまだ路銀(ろぎん)に乏(とほ)しからず。今(いま)その金(かね)をとらすべきに。もろともに來(こ)よといひかけて先(さき)にすゝみ。宝満山(ほうまんさん)にかへりゆけば。丹助(たんすけ)親子(おやこ)は大に歡(よろこ)び思ひながら。なほ半信(なかばしん)じ半疑(なかばうたがつ)て。その跟(あと)にづきてその人の旅宿(りよしゆく)」に到(いた)りければ。繁光(しげみつ)やがて十五金(きん)をとり出て丹助(たんすけ)に与(あた)へ。われ実(じつ)に千引(ちびき)とやらんが孝心(こうしん)を感(かん)ずるのあまり。この庇(めぐみ)をなすのみ。女子(をなご)は氏(うぢ)なきも貴(たつとき)に至(いた)ることあり。もし一(ひと)たびその身(み)を千萬(せんまん)人(にん)にまかしなば。何をもつてか後(のち)の栄(さかへ)をはかるべき。とく/\その金(かね)をもて。村長(むらおさ)が呵責(かしやく)を脱(まぬか)れよと説諭(ときさと)せば。親子(おやこ)は夢(ゆめ)かとばかりうれしみて。数回(あまたゝび)件(くだん)の金(かね)を押戴(おしいたゞ)き。不覚(すゞろ)に落涙(らくるい)したりける。しばしありて丹助(たんすけ)がいふやう。
良(まこと)に君(きみ)はわが親子(おやこ)の爲(ため)に再生(さいせい)の恩人(おんじん)なり。見(み)たてまつるにひとり住(すま)ひ給ふとおぼし。ねがはくは女児(むすめ)千引(ちびき)をまゐらせて。枕(まくら)の塵(ちり)をはらはし。聊(いさゝか)高恩(こうおん)に報(むく)ひ奉(たてまつ)らめ。この事聴(ゆるし)」 給へかしといふを。繁光(しげみつ)聞(きゝ)もあへず頭(かうへ)をうち掉(ふり)て。いなこの地(ち)こそ旅(たび)なれ。鎌倉(かまくら)には妻(つま)あり子(こ)あり。且(かつ)精舎(しようしや)に寄宿(きしゆく)する身(み)の。女子(をなご)を召使(めしつか)はるべきかは。かゝらん條(すぢ)はふたゝびいひ出(いづ)ることなかれといひて。更(さら)にうけ引(ひく)氣色(けしき)なし。丹助(たんすけ)かさねて。宣(のたま)ふところことわりなれど。世(よ)にある人は。傍妻(そばめ)婢妾(をんなめ)とて。夥(あまた)の女子(をなご)をめさるゝもすくなからず。況(いはんや)今(いま)旅(たび)にありて。一(いち)女子(ぢよし)をめし使(つか)ひ。衣(きぬ)の垢(あか)つきたるを濯(すゝが)し給ふとも。誰(たれ)か譏(そし)り誰(たれ)か妬(ねたま)ん。もし寺内(じない)に置(お)く事を厭(いと)ひ給はゞ。今(いま)より僕(やつがれ)が家(いへ)を旅宿(りよしゆく)とし給へかし。もしこの十五金(きん)なかりせば。千引(ちびき)は立地(たちどころ)に宿傀儡(よねくゞつ)となるべきに。はからずも」由緒(よし)ある君(きみ)の妾(てかけ☆○ヲンナメ)とならんこそ。大なる幸(さいはひ)なれ。この事を聴(ゆる)し給はねば。金(かね)も又受(うけ)がたしといふ。しかれども繁光(しげみつ)かたく辞(ぢ)して従(したが)はず。人の欲(ほつ)せざるところを強(しい)るは好意(こゝろざし)にあらず。かならずしも多言(たげん)してわれを苦(くるしむ)ることなかれといふに。丹助(たんすけ)もせんすべなく。厚(あつ)くよろこび謝(まうし)て。親子(おやこ)古賀村(こがむら)に立(たち)かへり。年貢(ねんぐ)の未進(みしん)を残(のこ)りなく償(つくの)ひ。是(これ)よりをり/\繁光(しげみつ)を訪(とひ)て。當國(たうこく)の名産(めいさん)。練酒(ねりざけ)。松露(せうろ)などを贈(おく)りけり。かくて水無月(みなつき)のはじめに至(いた)り。ある日繁光(しげみつ)は。水城(みづき)の西(にし)に遊山(ゆさん)するに。夏(なつ)の日(ひ)のならひなれば。連山(れんざん)雲(くも)を吐(はい)て更(さら)に竒峯(きほう)を操(あやつ)り。夕立(ゆふだち)さとふりて。霹靂(いかづち)」 いたく鳴(なり)わたるに。雨衣(あまきぬ)さへもたざれば。遽(あはたゝ)しく山(やま)を走(はし)り下(くだ)りて麓(ふもと)なる伏屋(ふせや)の簷下(のきば)に立在(たゝずみ)。携(たづさへ)たる弓矢(ゆみや)を壁(かべ)によせかけて。
しばし晴間(はれま)をまちたるに。主人(あるじ)窗(まど)よりさし覗(のぞき)て。こは恩人(おんじん)。よくも來(き)給ふものかな。わが子(は)はやく。出(いで)て恩人(おんじん)を迎(むかへ)よかしと叫(さけ)びて。走(はし)り出(いづ)るものを見るに。これ丹助(たんすけ)也。千引(ちびき)も連忙(あはてふためき)て出迎(いでむかへ)。こはよくも訪(とは)せ給ひしとて。わりなく裡(うち)に誘引(いざなへ)ば。繁光(しげみつ)は思ひかけねば。こは漫(すゞろ)なり。さては汝等(なんぢら)が家(いへ)にてありけるかとばかりにふかく推辞(いなむ)ことを得(え)ず。伴(ともなは)れて窗(まど)の下(もと)に到(いた)れば。親子(おやこ)は過(すぎ)つる庇(めぐみ)をいひ出(いで)て。塵(ちり)さへすえずこれを款待(もてな)し。玉嶋(たましま)」の年魚(あゆ)のしら焼(やき)に。博多(はかた)の練酒(ねりざけ)を汲(くみ)もて出(いで)てこれをすゝめ四表八表(よもやも)の物(もの)がたりに。ながき夏(なつ)の日(ひ)も暮(くれ)なんとすれば。繁光(しげみつ)は別(わかれ)を告(つげ)て立(たち)かへらんとするを。親子(おやこ)は叮嚀(ねんごろ)にとゞめて。携(すがり)たる袖(そで)をはなさず。せめて今宵(こよひ)一夜(ひとよ)はかたり明(あか)したまへといふ。その志(こゝろざし)も黙止(もだし)がたければ。繁光(しげみつ)已(やむ)ことを得(え)ず止宿(ししゆく)し。夜(よ)もいたく深(ふけ)て臥房(ふしど)に入(い)るに。千引(ちびき)は枕方(まくらべ)にまいり。團扇(うちわ)をもて蚊(か)を追(お)ひけり。繁光(しげみつ)この形容(ありさま)を見(み)て首(かうべ)を擡(もたげ)。こはなどてとくゆきて睡(ねふ)らざるといふに。千引(ちびき)はいとはづかしげに。團扇(うちわ)を面(かほ)におしあてつゝ。いぬる日(ひ)父(ちゝ)の申つる事を。うけ引(ひき)給はねど。わが身(み)の賎(いやし)き」 に羞(はぢ)てうらみ奉(たてまつ)るやうはあらねど。女子(をなご)は一(ひと)たび身(み)を人にゆるして。更(さら)に他人(たにん)に見(まみ)えずとか。わらは既(すで)に身(み)を君(きみ)にゆるして容(いれ)られずといへども。別(べち)に縁(え)にしを求(もと)むべき心(こゝろ)なし。加之(しかのみならず)漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)が。しば/\媒(なかだち)をもていはするもうるさきに。又いかなる事(こと)を計較(もくろみ)て迫(せま)るべうもはかりがたし。よしや一夜(ひとよ)のそひふしは侍(はべ)らずとも。今宵(こよひ)もろともにこゝにあかしてその志(こゝろざし)を致(いた)し。
今(いま)より君(きみ)が傍妻(そばめ)と稱(せう)するときは。わらははぬしある身(み)也。縦(たとひ)權藤六(ごんとうろく)わりなくすとも。ぬしある女子(をなご)をいかにかせん。父(ちゝ)もこの事を思ふがゆゑに。參(まい)らせ侍(はべ)りぬ。わが家(いへ)貧(まづし)くて。〓(かや)を垂(た)るゝに及(およ)ばねば。せめて通宵(よもすがら)蚊(か)を」 
追(お)ひまゐらするにこそといふ。物(もの)のいひざまも田舎人(ゐなかうど)には似(に)げなくて。貌(かたち)こそ賎(しづ)の女子(をなご)なれ。顔色(がんしよく)いと艶麗(あてやか)に。その性(さが)も又怜悧(さかし)く見(み)ゆれば繁光(しげみつ)頻(しきり)に感激(かんげき)して。かくまでいふを推辞(いなま)ば志(こゝろざし)を破(やぶ)るに似(に)たり。われは只(たゞ)汝(なんぢ)が生涯(せうがい)をあやまたせじとて。強面(つれな)かりつるものをといへば。千引(ちびき)はいとうれしき氣色(けしき)にて。君(きみ)が一夜(ひとよ)の情(なさけ)には。百年(もゝとせ)の命(いのち)もいかで惜(をし)かるべき。といふも憎(にく)からずおぼえて。やがておなじ枕(まくら)に臥(ふ)させけり。さて天(よ)も明(あけ)にければ。丹助(たんすけ)は千引(ちびき)を呼(よ)び起(おこ)して。もろともに飯(いひ)を炊(かしき)て早膳(あさいひ)をすゝめ。ふたゝび九献(くこん)を酌(くみ)て婚縁(こんえん)の心(こゝろ)まねびをなす。そのとき繁光(しげみつ)は丹助(たんすけ)千引(ちびき)にいふやう。」 われこの暁(あかつき)の夢(ゆめ)に。年來(としごろ)信(しん)じ奉(たてまつ)る石堂口(いしどうぐち)の地藏〓(ぢざうぼさつ)告(つげ)て宣(のたまは)く。汝(なんぢ)が射藝(しやげい)既(すで)に熟(じゆく)せり。はやく鎌倉(かまくら)に立帰(たちかへ)りて。時(とき)の到(いた)るをまて。もしこゝにあらば大なる禍(わざはひ)あるべしと告(つげ)たまふと見(み)て覚(さめ)たり。われ元(もと)こゝに來(きた)れる故(ゆゑ)は。箇様/\(かやう/\)の事(こと)なりとて。鶴岡社頭(つるがおかのしやとう)なる。銀杏(いてう)の杪(こずゑ)に懸(かゝ)りつる。黄金(こがね)の鈴(すゞ)を得(え)射(い)ざりし越度(をちど)によつて。頼家卿(よりいへきやう)の氣色(けしき)を蒙(かうむ)り。所領(しよれう)を没収(もつしゆ)せられしかば。その志(こゝろざし)を果(はた)さん爲(ため)に。本國(ほんこく)に赴(おもむ)き。父祖(ふそ)の吉例(きちれい)にまかして。苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)を祈念(きねん)し。この三年(みとせ)がほど。射藝(しやげい)を稽古(けいこ)したる首尾(はじめをはり)を審(つまびらか)に物(もの)がたれば。千引(ちびき)はこれを聞(きゝ)て。或(あるひ)は」歡(よろこ)び或(あるひ)はうち泣(なき)て。君(きみ)一(ひと)たびこの地(ち)を去(さり)給はゞ。いつの年(とし)にか見(まみ)え侍(はべ)らん。願(ねがは)くは何にまれ。再會(さいくわい)の信(かたみ)に遺(のこ)し給へかし。縦(たとひ)いく年(とし)あはずとも。操節(みさほ)を破(やぶ)り侍(はべ)らじといへば。丹助(たんすけ)ももろともに。その事を乞(こふ)て已(やま)ざりける程(ほど)に。繁光(しげみつ)黙止(もだし)がたく覚(おぼえ)て。
箙(ゑびら)より二條(ふたすぢ)の征矢(そや)を抜出(ぬきいだ)し。こればわが祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)入道(にうどう)総角(あげまき)のころ射(い)なれ給ひつるものにて。袖摺(そですり)の下(した)に朱(しゆ)をもて。加藤(かとう)石堂丸(いしだうまる)と彫著(ゑりつけ)たり。この矢(や)只(たゞ)四條(よすじ)。宝満山(ほうまんざん)にありしかば。住持(ぢうち)に乞(こひ)得(え)て秘藏(ひさう)すといへども。今(いま)親子(おやこ)が志(こゝろざし)の切(せつ)なるに愛(めで)で。二條(ふたすぢ)をわかち預(あづく)るなり。われもし志(こゝろざし)を得(え)ば。縁由(ことのよし)を妻(つま)桂江(かつらえ)にも告(つげ)て。」 汝(なんぢ)親子(おやこ)を呼(よび)むかふべし。又(また)志(こゝろざし)を遂(とぐ)ることなくは。再會(さいくわい)更(さら)に量(はかり)がたし。かならずしも恨(うらむ)ることなく。久(ひさ)しき後(のち)になほ音耗(おとづれ)なくは。人に嫁(よめ)りて身(み)の落着(らくぢやく)をなし候へと聞(きこ)えおきて。ふところ紙(かみ)に。 かるかやの関守(せきもり)にのみ見(み)えつるは。人もゆるさぬ道(みち)べ也けりと一首(いつしゆ)の古哥(こか)を書(かき)しるし。件(くだん)の矢(や)に結(むす)び着(つけ)て。これを千引(ちびき)に逓与(わた)しつゝ。別(わかれ)を決(けつ)して立出(たちいづ)れば。千引(ちひき)はさらなり。丹助(たんすけ)もいと名残(なごり)をしげにて。けふ一日(いちにち)は逗留(とうりう)あれかしとて叮嚀(ねんごろ)に留(とゞむ)れども。地藏〓(ぢざうぼさつ)の應驗(おうげん)あれば。しばしも躊躇(ちうちよ)すべからずと回(いら)」答(へ)て。いそがはしく宝満山(ほうまんざん)にかへり。住持(ぢうぢ)にも如此/\(しか/\)の由(よし)を告(つげ)。一包(ひとつゝみ)の金子(きんす)をとゞめて。年來(としころ)の謝物(しやもつ)とし。亦(また)苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)に參詣(さんけい)して。なほゆくすゑの冥助(みやうぢよ)を祈念(きねん)し。俄頃(にはか)に行装(たびのよそほひ)を整(とゝのへ)て。東路(あづまぢ)投(さ)して發足(ほつそく)するに。丹助(たんすけ)は路(みち)四五里(り)が程(ほど)送(おく)りゆき。涙(なみだ)を沃(そゝ)ぎて別(わか)れけり。
苅萱後傳玉櫛笥上之巻畢」 
苅萱(かるかや)後傳(ごでん)玉櫛笥(たまくしげ)中之巻
千引(ちびき)石堂丸(いしだうまる)を産(うめ)るころ漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)丹助(たんすけ)を撃(うつ)て筑紫(つくし)を立退(たちのく)事(こと)
加藤(かとう)新左衞門(しんざゑもん)繁光(しげみつ)は。地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)の示現(じげん)によつて。猛(にはか)に筑前國(ちくぜんのくに)竈山(かまどやま)を發足(ほつそく)し。鎌倉(かまくら)へとて赴(おもむ)くに。三年(みとせ)遠(とほ)ざかりし妻(つま)と子(こ)の見まほしければ。何となく道(みち)ゆきぶりもいそがるれど。さすがに見すてがたき名所(などころ)。是(これ)彼(かれ)歴覧(れきらん)しつゝかへりゆくに。思ひの外(ほか)日数(ひかず)程(ほど)ふりて。七月(ふづき)廿日あまり五日(いつか)のゆふべ。名越(なごや)切通(きりどほし)の家(いへ)」に着(つき)にければ。妻(つま)の桂江(かつらえ)。児子(せがれ)繁太郎(しげたらう)。忙(いそがは)しく出迎(いでむかへ)。こはよくも恙(つゝが)なく帰(かへ)り給ひたる。待(まつ)に久(ひさ)しき年月(としつき)の。いつかは帰來(かへりき)まさんとて。その事いひ出(いで)ざる日もなかりつれど。きのふけふとは思はざりき。まづこなたへとて湯(ゆ)を汲(くみ)て足(あし)を洗(あら)はし。桂江(かつらえ)と繁太郎(しげたらう)と左右(さゆう)に居(ゐ)ならびて。彼(かれ)よりや聞(きか)ん。是(これ)よりやいはんとて。近(ちか)まさりせる心地(こゝち)ぞする。繁光(しげみつ)は。妻(つま)もふかくは思ひほそらず。繁太郎(しげたらう)が三年(みとせ)が程(ほど)に身長(せたけ)も伸(のび)て。おとなしやかになりたるを見て。歡(よろこ)びにたへず。彼地(かのち)にありし事の限(かぎ)りを物語(ものがた)り。又地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)の示現(じげん)によつて。俄頃(にわか)に帰(かへ)りし事ども。審(つまびらか)に説(とき)しらせしが。千引(ちびき)が」 事(こと)は影護(うしろめたく)やありけん。いひも出(いだ)さで止(やみ)にけり。桂江(かつらえ)も年來(としごろ)の患難(くわんなん)苦労(くろう)。おちもなく物(もの)がたり。さていふやう。定(さだ)めて彼地(かのち)にも聞(きこ)えて侍(はべ)るべし。頼家卿(よりいへきやう)には去年(こぞ)の秋(あき)。異例(ゐれい)によつて。関西(せきのにし)三十八箇國(かこく)の地頭職(ぢとうしよく)を。御(おん)弟(おとゝ)實朝(さねとも)君(ぎみ)に讓(ゆづ)り。関東(せきのひがし)二十八箇國(かこく)の地頭(ぢとう)總守護職(そうしゆごしよく)を。嫡子(ちやくし)一幡(いちまん)君(ぎみ)に与(あたへ)給ひぬ。こは尼(あま)御臺所(みだいどころ)[政子]の仰(おふせ)によれば。已(やむ)ことを得(え)ずさはさせ給ひしが。九月に至(いた)りて頼家卿(よりいへきやう)潜(ひそか)に比企(ひきの)能員等(よしかずら)と仰(おふせ)あはさるゝ事(こと)侍(はべ)りしに。はやくも發覚(あらはれ)て能員(よしかず)等(ら)は討(うた)れ。一幡(いちまん)君(ぎみ)も殺(ころ)され給へり。
さる程(ほど)に實朝(さねとも)世(よ)をとつて。日本國(につほんこく)の總(そう)追補使(ついふし)となり給ひしかば。頼家卿(よりいへきやう)は」剃髪(ていはつ)あつて。伊豆(いづ)の修善寺(しゆせんじ)に蟄居(ちつきよ)し給ひ。この月十八日になくなり給ひにき。御年(おんとし)廿三才(さい)にならせ給ふとぞ。さしも鎌倉(かまくら)の武將(ぶせう)と仰(あほ)がれ給ひし御身(おんみ)の。いと惜(をし)き御最期(ごさいご)なり。かゝれば鎌倉(かまくら)中(ちう)いと物〓(ぶつそう)にて。日來(ひごろ)親(したし)きも。互(たがひ)に心(こゝろ)をおきあへば。わらはが兄(あに)。六郎(ろくろう)政景(まさかげ)も。久(ひさ)しく訪(と)はで過(すぎ)ゆくに。心(こゝろ)ぼそさもいやまして。とさまかうさま思ひくしたるに。はからずもかへり來(き)給ひしかば。楫(かぢ)なき舩(ふね)の磯(いそ)により。浮木(うきゝ)の亀(かめ)の瀬(せ)にあへるこゝちぞせらる。みな是(これ)神仏(しんぶつ)の導(みちび)きて。家(いへ)にやかへし給ふとて。信(まめ)やかに物(もの)がたれば。繁光(しげみつ)しば/\嘆息(たんそく)し。頼家卿(よりいへきやう)薨去(こうきよ)のよしは。」 路(みち)にて聞(きゝ)ぬ。彼(かの)君(きみ)世にいまそかりせば。わが復(ふたゝび)めしつかはるべき日もあらんに。縦(たとひ)往(さき)の鈴(すゞ)を射(ゐ)てとるとも。誰(たれ)かこれを賞(せう)すべき。こはわが命運(めいうん)の薄(うす)きによれは。人を恨(うらむ)るによしなし。しかはあれど。地藏〓(ぢざうぼさつ)。いそぎ鎌倉(かまくら)に立(たち)かへりて。時(とき)をまてと示(しめ)し給へるを思へば。更(さら)にたのもしげなきにもあらず。さらば運(うん)を天(てん)にまかして。世(よ)の形勢(ありさま)をも見ばやとて。是(これ)より武藝(ぶげい)の指南(しなん)して生活(なりはひ)とするに。家(いへ)は三代(さんだい)弓馬(きうば)に達(たつ)し。昔(むかし)賎(いやし)からぬ壯夫(ますらを)なれば。在(ざい)鎌倉(かまくら)の若殿原(わかとのばら)。これが門人(もんじん)となるもの夥(あまた)出來(いでき)。両(りやう)三年(さんねん)が程(ほど)には。世(よ)もなか/\に渡(わた)りやすうなりぬ。さるあひだ政景(まさかげ)」 
家(いへ)へもをり/\消息(せうそこ)して。年來(としごろ)の庇(めぐみ)淺(あさ)からざるをよろこび聞(きこ)え。絶(たへ)ず苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)を祈念(きねん)して。わが身(み)は斯(かく)て朽果(くちはつ)るとも。せめて繁太郎(しげたらう)をば世(よ)に出(いだ)させ給へとぞかき口説(くどき)ける。是(これ)はさておきて。筑前國(ちくぜんのくに)古賀村(こがむら)には丹助(たんすけ)が女児(むすめ)千引(ちびき)。いぬるころ繁光(しげみつ)と。只一夜(ひとよ)のかたらひに。短(みぢか)き夢(ゆめ)のわかれして。そなたの空(そら)のみ慕(したは)しく。きのふと暮(くら)しけふとあかすに。千引(ちびき)が腹(はら)のあたりふくよかになりもてゆき。心持(こゝち)さへ常(つね)にかはりて。あるひは酸(すき)ものをこのみ。あるひは物(もの)吐(はく)べうおぼえて。全(また)く妊病(つはりやみ)と見えしかば。さては一夜(ひとよ)の添臥(そひふし)に情(なさけ)の胤(たね)さへやどしたるかと思ふに。父(ちゝ)もそれ」 と曉(さと)りて。初孫(うひまご)の事にはあり。家(いへ)にしも女壻(むこ)をあらせば。したりがほにもあるべきを。氏(うぢ)も由緒(よし)ある人の子(こ)ながら。父(ちゝ)を定(さだ)かにいひがたければ。つゝまるべきに程(ほど)はとて人にも絶(たえ)てしらすることなし(。)これも又(また)千引(ちびき)親子(おやこ)が。ひとかたならぬもの思ひなり。こゝに亦(また)漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)は。向(さき)に媒人(なかだち)をもて。千引(ちびき)を娶(めと)らんといはする事しば/\なりしかど。千引(ちびき)はさら也。丹助(たんすけ)つや/\うけ引(ひか)ねば。いと朽(くち)をしとてこりずまの。又(また)もや口(くち)よくきく男(をとこ)を丹助(たんすけ)が家(いへ)につかはして。頻(しきり)に婚縁(こんえん)の事を相語(かたらは)するに。丹助(たんすけ)親子(おやこ)は。いまだ繁光(しげみつ)に見(まみ)えざる已前(いぜん)さへ。これを諾(うべな)はざりけるに。今(いま)既(すで)に繁光(しげみつ)と縁(え)にしを」締(むす)び。腹(はら)に子(こ)のあることなれば。よしや彼人(かのひと)に生涯(しようがい)環會(めぐりあは)ずとも。他(あだ)し家(いへ)には嫁(よめ)らじと思ひ定(さだ)めたりける程(ほど)に。いかでか權藤六(ごんとうろく)が需(もとめ)に應(おう)ずべき。只(たゞ)心(こゝろ)づよき回答(いらへ)のみして。更(さら)にとりあはざりしかば。權藤六(ごんとうろく)ます/\安(やす)からず思ひて。弟(おとゝ)權平(ごんへい)といふもの。年(とし)いとわかけれど。心(こゝろ)さまは兄(あに)にひとしく。邪智(じやち)ふかきものなれば。竊(ひそか)にこれと談合(だんこう)し。さま/\に言(こと)をたくみて。まづ宰府(さいふ)の下司(げす)に夥(あまた)賄賂(まいない)し。
さて丹助(たんすけ)が非義(ひぎ)の赴(おもむき)を聞(きこ)えあげし程(ほど)に。府(ふ)より丹助(たんすけ)を召出(めしいだ)して事をたゞさるゝに。丹助(たんすけ)は先(さき)だつて。女児(むすめ)千引(ちびき)を加藤(かとう)繁光(しげみつ)が傍妻(そばめ)に遣(つかは)すべき契約(けいやく)したれば。別人(べつじん)に与(あた)へがたきよし」 を申て。再會(さいくわい)の信(しるし)にとて。繁光(しげみつ)が遺(のこ)し。とゞめたる。二條(ふたすじ)の矢(や)と。一枚(ひとひら)の短冊(たんざく)を披露(ひろう)し。權藤六(ごんとうろく)が父(ちゝ)のときに。所帯(しよたい)を押領(おうれう)せられたる縁由(ことのよし)に至(いた)るまで。憚(はゞか)る氣色(けしき)なく演説(ゑんぜつ)す。しかれども府(ふ)の下司(げす)等(ら)は權藤六(ごんとうろく)が賄賂(まいない)を得(え)たれば。丹助(たんすけ)が申すところ道理(どうり)に稱(かなへ)ども却(かへつ)てこれを非義(ひぎ)とせられ。動(やゝも)すれば權藤六(ごんとうろく)勝利(せうり)を得(え)て既(すで)に事(こと)一決(いつけつ)せんとする折(をり)しも。太宰(だざい)の帥(そつ)俄頃(にはか)に召(めし)かへさるゝ事ありて。帰洛(きらく)に赴(おもむ)き。新(しん)權帥(ごんのそつ)着任(ちやくにん)し給ひけり。この帥(そつ)どのは。理非(りひ)明断(めいだん)の賢(けん)國司(こくし)なりければ。權藤六(ごんとうろく)が非義(ひぎ)忽地(たちまち)に發覚(あらは)れ。所帯(しよたい)没収(もつしゆ)せられて弟(おとゝ)權平(ごんへい)とゝもに。國(くに)の境(さかひ)」を追放(おひはな)たる。千引(ちびき)は。府(ふ)の制度(さた)いかゞなるらんとて。心安(こゝろやす)からずあかしくらしたるに。丹助(たんすけ)思ふまゝに勝得(かちえ)て帰(かへ)りしかば。はじめて愁(うれひ)の眉(まゆ)をひらき。目(め)のうへの瘤(こぶ)をとり除(のぞ)きたるこゝちせり。しかるに千引(ちびき)は有身(みごもり)てより既(すで)に臨月(りんげつ)なりければ。豫(かね)てその用意(ようい)してまつに。廿日(はつか)あまり四日(よか)の白昼(まひる)。男子(なんし)出生(しゆつしよう)す。この子(こ)地藏〓(ぢざうぼさつ)の會日(ゑにち)に生(うま)れあひぬる事(こと)。あしからぬ祥(さが)なるへし。繁光(しげみつ)今(いま)ころまでこの地(ち)に座(おは)しなば。さこそうれしみ給ふらめ。さるをその人は子(こ)を産(うま)せし事だにしらで。遠(とほ)き東路(あづまぢ)に立(たち)かへりあひ見んよしはしらぬ火(ひ)の。
つく/\と物(もの)がなしく。さて児(ちご)の名は何(なに)と呼(よぶ)べき」 と問(とふ)に。丹助(たんすけ)しばし思案(しあん)して。繁光(しげみつ)再會(さいくわい)の信(しるし)にとてとらせ給ひたる矢(や)に。石堂丸(いしだうまる)としるしてあれば。しらぬ名(な)を呼(よば)んより。この孫(まご)をも又(また)石堂丸(いしだうまる)と名(な)づくべし。抑(そも/\)繁光(しげみつ)の祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)入道(にうとう)。小名(をさなゝ)を石堂(いしだう)といひ。その嫡子(ちやくし)も又(また)石堂丸(いしだうまる)と呼(よば)れ給ひしと聞(き)く。殊(こと)さら御身(おんみ)が安産(あんざん)のこと。明(あけ)くれに石堂口(いしだうぐち)なる苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)大〓(だいぼさつ)に祈(いの)り申せしかひありて。月(つき)の廿四日に生(うま)れたるも。彼(かの)菩薩(ぼさつ)の應驗(おうげん)なるべし。いにしへは男子(なんし)生(うま)るゝとき。桑(くは)の弧(ゆみ)蓬(よもぎ)の矢(や)をもて。天地(てんち)四方(しほう)を射(い)る。これ四方(しほう)の志(こゝろざし)あるを示(しめ)す也。その父母(ふぼ)これを教(をしへ)。これを望(のぞ)むを第一義(だいいちぎ)とすと。禮記(らいき)とやらん」いふものに見えたりと。昔(むかし)ある博士(はかせ)に聞(きけ)り。かゝれば彼(かの)矢(や)はわが孫(まご)の爲(ため)に。一生(いつしよう)の守護神(まもりがみ)なり。かた/\ふかき故(ゆゑ)あれば。今(いま)石堂(いしだう)と名(な)つくるとも。何(なに)かくるしかるべきといふに。千引(ちびき)もげにとうけひきて。やがて石堂(いしだう)とぞ名(な)づけける。時(とき)しもあれ近曽(ちかごろ)病(やまひ)つきたる狼(おほかみ)の。夜(よ)な/\里(さと)に出(いで)あれて。人(ひと)を傷(やぶ)ることありとて。一村(ひとむら)の農夫(ひやくせう)。戸毎(いへごと)に柝(ひやうしぎ)を壁(かべ)にかけおき。いづれの家(いへ)にもあれ。さるものゝ來(き)たらん時(とき)には。これを打(うち)ならして人を呼(よぶ)べし。忽地(たちまち)彼此(をちこち)より走(はし)りつどひて。件(くだん)の狼(おほかみ)を打殺(うちころ)してんとて。よくその合圖(あひづ)を定(さだ)めけり。丹助(たんすけ)は千引(ちびき)がいまだ産屋(うぶや)を出(いで)ねば。もし児(ちご)の泣声(なくこゑ)を聞(きゝ)」 て。狼(おほかみ)の出(いで)も來(き)たらんかとて。夜(よ)も安(やす)くは睡(ねふ)らず。かゝりける処(ところ)に。漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)は。奸悪(かんあく)露顕(ろけん)して國(くに)の境(さかい)を追放(ついほう)せられし事。おのれが罪(つみ)おのれを責(せむ)るとは思ひはからず。却(かへつ)て丹助(たんすけ)親子(おやこ)を怨(うらむ)ること骨髓(こつずい)に徹(てつ)し。
潜(ひそか)にとつてかへして。古賀村(こがむら)にちかき山中(さんちう)に立(たち)かくれ。ある夜(よ)風雨(ふうう)烈(はげ)しかりけるに紛(まぎ)れ。弟(おとゝ)権平(ごんへい)とゝもに。丹助(たんすけ)が家(いへ)に竊入(しのびい)るとき。丹助(たんすけ)はやく目(め)を覚(さま)し。さてはこのころ風声(ふうぶん)ある。狼(おほかみ)の來(きた)れるならん。千引(ちびき)さめよ覚(さめ)よと呼(よ)び起(おこ)し。手(て)ごろの棒(ぼう)を取(とつ)て起出(おきいづ)れば。権平(ごんへい)既(すで)に壁(かべ)の崩(くずれ)より潜(くゞ)り入(い)り。刀(かたな)を閃(ひら)めかして打(うつ)てかゝる。丹助(たんすけ)佶(きつ)と」 
見て。さわぎたる氣色(けしき)もなく。狼(おほかみ)かとおもひつるに。畜生(ちくしよう)にも劣(おと)りたる權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)なるよ。われ年(とし)老(おひ)たれども郷士(ごうし)の子(こ)也。汝等(なんぢら)蔑(あなど)りて後悔(こうくわい)せそと罵(のゝし)りつゝ。面(おもて)もふらず逆(むかへ)すゝみ。持(もつ)たる棒(ぼう)を揚(あぐ)ると見えしが。権平(ごんへい)は諸臑(もろずね)薙(なが)れ忽地(たちまち)〓(だう)と轉輾(ふしまろぶ)を。ふたゝび打(うた)んとするところに。權藤六(ごんとうろく)は弟(おとゝ)を打(うた)せじとて。小くらき方(かた)より〓(ねらひ)より。声(こゑ)をもかけず丹助(たんすけ)が。〓(かたさき)ふかく切(きり)つくれば。権平(ごんへい)得(え)たりと身(み)を起(おこ)し。兄弟(きやうだい)右(みぎ)より左(ひたり)より。段々(ずた/\)に切(き)るほどに。憐(あはれ)むべし丹助(たんすけ)は。手足(てあし)はなれ/\になつて死(しゝ)たりけり。千引(ちびき)は父(ちゝ)の撃(うた)るゝを見(み)て。且(かつ)怒(いか)り且(かつ)かなしみ。その身(み)女(をんな)なりとも」 目前(めのまへ)の仇(あた)。やはのがさじとて。心(こゝろ)弥勇(やたけ)にはやれども。子(こ)を産(うみ)ていまだ日数(ひかず)を經(へ)ねば。立居(たちゐ)も自在(じざい)ならず。ぜひなく手(て)ちかなる柝(ひやうしぎ)をとつて。只顧(ひたすら)に打(うち)ならせば。彼此(をちこち)の農夫等(ひやくせうら)。すは丹助(たんすけ)が家(いへ)のかたに當(あた)つて。合圖(あひづ)の柝(ひやうしぎ)聞(きこ)ゆるぞ。出(いで)よ/\と罵(のゝし)りあひて。手(て)に/\農具(のうぐ)を引提(ひきさげ)/\(/\)。われ後(おく)れじと走(はし)り來(きた)れば。權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)心〓(こゝろあはて)。彼等(かれら)にとりまかれてはかなはじとや思ひけん。遂(つひ)に千引(ちびき)を殺(ころ)すに及(およば)ず。兄(あに)は。打(うた)れてはやくも走(はし)り得(え)ざる權平(ごんへい)を扶引(たすけひき)いづ地(ち)ともなく迯去(にげさり)ぬ。さる程(ほど)に農夫等(ひやくせうら)は。丹助(たんすけ)が門(かど)の戸(と)を蹴(け)はなちて込入(こみい)るに。狼(おほかみ)は見えずして。あるじは身體(みのうち)つゞきたる」ところもなく。すべて醢(しゝびしほ)になつてありしかば。こはいかにと驚(おどろ)きさわぎ。みな/\その故(ゆゑ)を問(とふ)に。千引(ちびき)は石堂丸(いしだうまる)を掻遣(かいや)りつゝ跂出(はひいで)て。權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)に父(ちゝ)丹助(たんすけ)を撃(うた)れたる事ども。泣(なき)みかなしみ物(もの)がたれば。みな/\聞(きゝ)もあへず。者奴(しやつ)憎(にく)し追留(おひとめ)よとて。
半(なかば)は外(と)のかたへ走(はし)り去(さ)り。半(なかば)はこゝに留(とゞま)りて。千引(ちびき)を勦(いたは)り慰(なぐ)さめ。丹助(たんすけ)が屍(しがい)を守(まも)りて明(あく)るをまつに。權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)を追(おひ)ゆきしものども。くらさは闇(くら)し。雨(あめ)も小歇(をやみ)なければ。むなしく立(たち)かへりて。みなもろともに。詰朝(あけのあさ)縁由(ことのよし)を府(ふ)へ訴(うつた)へ。千引(ちびき)を扶(たすけ)て丹助(たんすけ)が屍(しがい)を葬(ほうむ)りぬ。府(ふ)にては權藤六(ごんとうろく)が重悪(ぢうあく)の訴(うつたへ)によつて。その」 日より処々(しよ/\)に嘱託(しよくたく)し。追捕(ついふ)嚴重(げんぢう)なりといへども。彼等(かれら)遠(とほ)く迯(のが)れ去(さり)けん。終(つひ)に搦得(からめえ)ずして止(やみ)にけり。 
千引(ちびき)が苦節(くせつ)によつて石堂丸(いしだうまる)地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)の冥助(みやうぢよ)を禀(うけ)鎌倉(かまくら)へ旅(たび)たつ事(こと)
千引(ちびき)は産後(さんご)いまだ肥立(ひたゝ)ざりけるに。父(ちゝ)丹助(たんすけ)あへなくも。權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)に討(うた)れしかば。愁傷(しうせう)やるかたなくて。更(さら)に餘病(よびやう)發(おこ)り。半年(はんねん)あまりわづらひける。元來(もとより)家(いへ)には。しかるべき親族(しんぞく)もなく究(きはめ)てまづしかりければ。旦開(あさげ)の煙(けふり)さへ立(たて)かねたり。嚮(さき)には加藤(かとう)繁光(しげみつ)と縁(えに)し結(むす)びたれど。今(いま)は万里(ばんり)の山河(さんか)を隔(へだて)。天(あま)とぶ」雁(かり)の翅(つばさ)ならでは。いひしらすべきよすがもなし。ともすれば。戀(こひ)しきときは野干玉(ぬばたま)の。夜(よる)の衣(ころも)のうすきにも。只(たゞ)石堂(いしだう)に風引(かぜひ)かせじとて。患難(くわんなん)の中(うち)に養育(よういく)す。心づくしぞいたましき。さてその年(とし)も暮(くれ)て。あら玉(たま)の春(はる)立(たち)かへり。千引(ちびき)が病(やまひ)やゝおこたりにたれど。父(ちゝ)丹助(たんすけ)が世(よ)にありし時(とき)だに。衣食(いしよく)に事(こと)缺(かき)たる家(いへ)の。今(いま)は女子(をなご)の手(て)一(ひと)ッして。幼(いとけな)さを養育(はぐゝめ)ば。家(いへ)は物(もの)おそろしきまでに荒(あれ)まさり。訪來(とひく)る人も稀(まれ)なりけり。千引(ちびき)はいかにもして。石堂(いしだう)を人となし。祖父(おほぢ)の仇(あた)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)を撃(うた)し。父(ちゝ)繁光(しげみつ)にもたづねあはせでやはとおもひし」 ほどに。媒(なかだち)するものありといへども。誓(ちかつ)て嫁娶(よめりむこどり)の事(こと)をうけ引(ひか)ず。身(み)には破(や)れ垢(あか)つきたる衣(ころも)をまとひ。頭(かしら)には蓬髪(おどろ)をいたゞき。玉(たま)を藏(かく)し光(ひかり)をつゝみて。永(なが)く寡(やもめ)くらしをしつ。糸(いと)を取(とり)賃機(ちんはた)を織(おる)を生活(なりはひ)として。絶(たえ)ず苅萱(かるかや)勝軍(せうぐん)地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)へ參詣(さんけい)し。わが子(こ)健(すくよか)に成長(せいちやう)して。仇人(かたき)權藤六(ごんとうろく)を撃(うち)とり父(ちゝ)繁光(しげみつ)にも名告(なのり)あふべく守(まも)り給へとて。肝膽(かんたん)を摧(くだい)て祈念(きねん)せり。かくて光陰(くわういん)代謝(うつりかは)り。石堂丸(いしだうまる)やゝ七才(なゝつ)になりけるが。禀性(うまれつき)怜悧(さかしく)て。そのらうたけたる事十才(さい)以上(いじよう)の童(はらは)にも勝(まさ)り。殊(こと)さら孝心(こうしん)ふかくして。一(ひと)たびも母(はゝ)の心(こゝろ)に悖(もと)らず。
只(たゞ)旦夕(あさゆふ)の手(て)」遊(すさ)びに。矢(や)を發(はなち)太刀(たち)をあはするまねびして。身(み)のたのしみとしたりければ。母(はゝ)は潜(ひそか)に歡(よろこ)びて。げに栴檀(せんだん)はふた葉(ば)より香(かうば)しとぞいふなる。さすが繁光(しげみつ)ぬしの子(こ)にて。片田舎(かたゐなか)には生育(おひたて)ど。山田(やまだ)の晩稲(おしね)苅乾(かりほし)。〓(くろ)の群鳥(むらとり)追(お)ふことなどには心(こゝろ)をとめず。武士(ものゝふ)のまねびするこそ末(すゑ)たのもしけれ。是併(これしかしながら)日來(ひごろ)信(しん)じ奉(たてまつ)る。地藏〓(ぢざうぼさつ)の靈驗(れいげん)にて。祖父(おほぢ)の仇(あた)を撃(うた)せん爲(ため)に。かゝる児(ちご)さへ生(うま)せ給ふなるべし。彼物(かれもの)ごゝろをしれるころには。父(ちゝ)の名(な)をも。又(また)祖父(おほぢ)の仇(あた)ある事をも。しらすべきものをとて。いよ/\地藏〓(ぢざうぼさつ)を念(ねん)じつゝ。わが子(こ)の久後(ゆくすゑ)を祷(いの)りぬ。しかるに石堂丸(いしだうまる)十一二才(さい)」 になりては。秣(まぐさ)を苅(かり)馬(うま)を牽(ひい)て。日毎(ひごと)に些(ちと)の米銭(べいせん)を得(え)。反哺(はんほ)の孝(こう)を竭(つく)して。母(はゝ)を養(やしな)ふほどに。いつしか生活(なりはひ)に身(み)を委(ゆだ)ねて武藝(ぶげい)の事はつゆばかりもいひ出(いださ)す。千引(ちびき)はわが子(こ)が信(まめ)やかに世(よ)わたりするをうれしとは思はず。却(かへつ)てその志(こゝろざし)稚(おさな)き時(とき)には劣(おと)りて見(み)ゆるを。心(こゝろ)にふかくうち歎(なげ)けど。言語(ことば)には出(いだ)さず。かくて石堂丸(いしだうまる)やゝ十五才(さい)になりければ。母(はゝ)はしかるべき武家(ぶけ)へ給事(みやつかへ)さして。太刀(たち)抜(ぬく)すべをも見(み)ならはせばやと思ひ。をり/\この事をすゝむれども。石堂(いしだう)はさもなくて。仕官(しくわん)すれば心のまゝに母(はゝ)を養(やしな)ひがたし。かゝる事はなほ遅(おそ)からじとのみ回答(いらへ)けり」時(とき)しも七月廿四日。千引(ちびき)はこゝろばかりの地藏會(ぢざうゑ)をして。石堂(いしだう)が秣苅(まぐさかり)てかへるをまちうけ。飯(いひ)盛(もり)ならべて食(くは)すれば。石堂丸(いしだうまる)は膳(ぜん)を押戴(おしいたゞ)きてこゝろよく食(たうべ)をはり。母(はゝ)に對(むかつ)ていへりけるはわが身(み)母(はゝ)の手(て)一ッして養育(はぐゝま)れ。
かく人となりし事。その恩(おん)世(よ)の中(なか)の親(おや)には百倍(ひやくばい)せり。祖父(おほぢ)は人に殺(ころ)され給ひけるよし。村(むら)の老者(おきな)の物(もの)がたりには聞(きゝ)侍(はべ)りしかど。いかなる御(み)こゝろにや母(はゝ)はこれらの事をもしらせ給はず。夫(それ)生(いき)としいけるもの。母(はゝ)ありて父(ちゝ)なきことを聞(き)かず。しかるをわが身(み)のみ父(ちゝ)をしらず。縦(たとひ)わが父(ちゝ)は。いかなる人にもあれ。この世(よ)にだに在(ゐま)するならば。たづねめくりて」 親子(おやこ)一ッに聚(あつま)るべし。しからばわれのみかは。母(はゝ)もいかでかうれしとおぼし給はざらん。。石堂(いしだう)は世(よ)にもいひがひなきものと思ひたまふにや。をり/\尋(たづね)まゐらせても。父(ちゝ)の名(な)をもしらしたまはず又祖父(おほぢ)の仇人(かたき)をうてとも宣(のたま)はず。こは親(おや)ながら御こゝろの底(そこ)。推量(おしはかり)がたしとて。恨(うらみ)をふくみてかき口説(くどけ)ば。千引(ちびき)つく/\と聞(きゝ)てしばし落涙(らくるい)し。うれしき事を聞(きこ)え給ふものかな。この事とくにも知(し)らすべかりしかど。思ふ旨(むね)あればけふまでもいはざりし。その故(ゆゑ)は御身幼(いとけな)きころは。教(をしへ)ざるに手遊(てすさ)びにも。武士(ものゝふ)の所作(しよさ)をしたまひしかば。末(すゑ)たのもしく思ひしに。近曽(ちかごろ)は賎(しづ)の手業(わざ)にのみこゝろを」 
委(ゆだ)ねて。武家(ぶけ)に給事(みやづかへ)せよといへども。それさへ嫌(きら)ひてうけ引給はず。朽(くち)をしやかゝる田舎(ゐなか)に人となれば。生(うま)れてその器(き)はありながら。染(そま)るにやすきしら糸(いと)の。末(すゑ)をぼつかなきを教(をし)ゆべき。便(たつき)あらぬ身を歎(なげ)きしより。さてぞ何事(なにごと)も告(つげ)ざりける。今(いま)こゝろみに問侍(とひはべ)るべし。御身(おんみ)はいかばかりなる艱難(かんなん)を經(へ)ても。武士(ぶし)となるべく思ひ給ふか。又(また)農夫(ひやくせう)して世を安(やす)く渡(わた)らんとおもひ給ふか。心を定(さだ)めて回答(いらへ)給へといひければ。石堂丸(いしだうまる)莞尓(につこ)として。事あたらしき仰(おふせ)かな。わが身不肖(ふせう)なれども名家(めいか)の子孫(しそん)。加藤(かとう)新左衞門(しんざゑもん)繁光(しげみつ)の子なり。いかで農夫(ひやくせう)して一生(いつしよう)を朽果(くちはて)。父祖(ふそ)の美名(びめい)を汚(けが)し」 候べきといへは。千引(ちびき)大に驚(おどろ)き怪(あやし)み。こは心(こゝろ)も得(え)ぬ。御身いかにして父(ちゝ)を繁光(しげみつ)どのとしり給ひたると問(とふ)に。石堂丸(いしどうまる)又申すやう。この事は露(つゆ)ばかりもしらざりしが。近曽(ちかごろ)神人(あやしきひと)あつてこれを告(つげ)。父(ちゝ)は十五箇年(かねん)前(ぜん)。鎌倉(かまくら)に立(たち)かへり。わが出生(しゆつしよう)をしりたまはねど。なほ恙(つゝが)なく彼地(かのち)に在(おは)するとぞ且(かつ)祖父(おほぢ)丹助(たんすけ)を撃(うつ)て逐電(ちくてん)したる。漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)。その弟(おとゝ)権平(ごんへい)の兄弟(きやうだい)はいま鎌倉(かまくら)にあり權藤六(ごんとうろく)は大内(おほうち)旦六(たんろく)。権平(ごんへい)は大内(おほうち)旦七(たんしち)と名(な)をあらため。縉紳(しん/\)權門(けんもん)に出入(いでいり)して。武藝(ぶげい)の師(し)となりぬ。彼等(かれら)兄弟(きやうだい)が相貌(かほかたち)は箇様(かやう)箇様(かやう)なるべしといふ。そのいふところ久(ひさ)しく熟(なれ)たるごとくなれば。」千引(ちびき)ます/\驚嘆(きやうたん)し。こは何人(なにひと)が教(をしへ)て。かく審(つまびらか)にはしり給ひし。いとも怪(あや)しきこと也とて。ふかく疑(うたが)ひまどふにぞ。石堂丸(いしだうまる)膝(ひざ)をすゝめ。母(はゝ)の怪(あや)しみ給ふもことわり也。わが身(み)幼稚(いとけなき)より。何(なに)となく武藝(ぶげい)を嗜(たしな)み。よき師(し)につきてならはまほしく思ひしに。今茲(ことし)よりは三年(みとせ)以前(いぜん)。ころは七月廿四日。
例(れい)のごとく秣(まぐさ)を苅(かり)て。石堂口(いしだうぐち)なる地藏堂(ぢざうだう)のほとりを過(よぎ)るに。日もやゝ向暮(くれなん/\)とす。時(とき)にさもいかめしき荒法師(あらほふし)。御堂(みだう)のあなたより立出(たちいで)て呼(よ)びとゞめ。石堂丸(いしだうまる)。われを怪(あや)しむことなかれ。われは汝(なんぢ)に因(ちなみ)ある勝軍坊(せうぐんぼう)と呼(よ)ばるゝものなり。汝(なんぢ)は久後(ゆくすゑ)武士(ものゝふ)となるべき器量(きりやう)あり。明日(あす)よりつと」 めてこゝに來(き)たれ。われ武藝(ぶげい)の指南(しなん)して得(え)させんといふにいとうれしくて。卒尓(あからさま)に師弟(してい)の契約(けいやく)をなし。それより秣(まぐさ)を苅(か)ると稱(せう)じて星(ほし)を戴(いたゞ)きて暁(あかつき)毎(ごと)に家(いへ)を立出(たちいで)。彼(かの)勝軍坊(せうぐんぼう)に武藝(ぶげい)をならふ事三年(みとせ)に及(およ)び。弓馬(きうば)撃劍(けんじゆつ)豢法(やはら)水戲(すいれん)に至(いた)るまで。その奥義(おうぎ)を極(きは)め。剰(あまさへ)学問(がくもん)筆學(ひつがく)も人なみには習(なら)ひ得(え)し事。みなこれ師(し)の高恩(こうおん)なり。しかるに勝軍坊(せうぐんぼう)はしめより堅(かた)く誡(いましめ)て。この事を母(はゝ)にも告(つぐ)る事なかれ。又(また)假初(かりそめ)の手遊(すさ)ひに。武藝(ぶげい)執心(しうしん)の氣色(けしき)をあらはすべからず。汝(なんぢ)農家(のうか)の孤(みなしご)として武藝(ぶげい)執心(しうしん)なりとしらば。人かならず疑(うたが)ひ猜(そね)み。却(かへつ)て」 
禍(わざはひ)のはしとなるべしと示(しめ)されし程(ほど)に。かくて後(のち)は只顧(ひたすら)賎(しづ)の手業(てわざ)にのみ心(こゝろ)を委(ゆだね)るごとくもてなし。母(はゝ)にも肚裏(とり☆○ハラノウチ)の大望(たいぼう)を告(つげ)奉(たてまつ)らず。さてこの暁(あかつき)。師(し)の宣(のたま)ふやう。汝(なんぢ)が武藝(ぶげい)やうやく熟(じゆく)せり。就中(なかんづく)射藝(しやげい)は天下(てんか)に敵(てき)なかるべしいそぎ鎌倉(かまくら)に立越(たちこえ)祖父(おほぢ)丹助(たんすけ)が仇人(かたき)。漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)。權平(ごんへい)を撃(うつ)て。父(ちゝ)繁光(しげみつ)に名告(なのり)あふべし。彼(かの)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)は。しか/\の処(ところ)に住(すま)ひて。兄(あに)は大内(おほうち)旦六(たんろく)と呼(よば)れ。弟(おとゝ)は大内(おほうち)旦七(たんしち)と呼(よば)れ。射藝(しやげい)の指南(しなん)して活業(なりわひ)とす。旦六(たんろく)が相貌(かほかたち)は箇様/\(かやう/\)旦七(たんしち)は箇様/\(かやう/\)と審(つまびらか)に説示(ときしめ)し。又(また)宣(のたま)ふやう。汝(なんぢ)が父(ちゝ)は加藤(かとう)繁氏(しげうぢ)苅萱(かるかや)道心(どうしん)の孫(まご)。新左衞門(しんざゑもん)繁光(しげみつ)」 といふものなり。如此/\(しか/\)の故(ゆゑ)によつて。前(ぜん)將軍(せうぐん)頼家卿(よりいへきやう)の勘氣(かんき)を蒙(かうむ)り。弓術(きうじゆつ)修行(しゆぎやう)の爲(ため)。この國(くに)に來(き)たりしころ。千引(ちびき)と一夜(ひとよ)の契(ちぎり)ありて。汝(なんぢ)を生(うま)せたれども。父(ちゝ)はその氣色(けしき)を見ずして鎌倉(かまくら)に立(たち)かへりしかば。子(こ)のありとは思ひしらず。再會(さいくわい)の信(しるし)にとて。遺(のこ)しおきたる征矢(そや)と。自筆(じひつ)の短冊(たんざく)もあれば。これをもて親子(おやこ)の名告(なのり)せば。繁光(しげみつ)も疑(うたが)ふべからず。彼(かれ)が年來(としごろ)音耗(おとづれ)もせざるは。今(いま)なほ浪人(らうにん)にて。宿願(しくぐわん)を果(はた)さゞるによれば。千引(ちびき)もこれを恨(うらむ)るに由(よし)なからん。われ汝(なんぢ)に見(まみ)ゆること。けふを限(かぎ)りなり(。)しかれどもなほ影身(かげみ)に添(そふ)て。ゆくすゑを護(まも)るべしと宣(のたま)ひしが。」忽然(こつぜん)として見えずなりぬ。わが身(み)この事を聞(きゝ)て歡(よろこ)びに堪(たへ)ず。速(すみやか)に鎌倉(かまくら)に立越(たちこえ)て。祖父(おほぢ)の仇(あた)を撃(うち)。しかして父(ちゝ)に名告(なのり)あひ。
母(はゝ)の苦節(くせつ)を全(まつたう)しまゐらすべう。既(すで)に心(こゝろ)を決(けつ)したれば。序(ついで)なくとも聞(きこ)えたてまつらんと思ひたるに。親子(おやこ)自然(しぜん)とその志(こゝろざし)合(がつ)し。詰(なじり)問(とは)せ給ふにつきて。事(こと)の本末(もとすゑ)を申なり。しばし身(み)の暇(いとま)を給はり候へ。やがて本望(ほんもう)を遂(とげ)て。御(おん)迎(むかひ)に参(まい)り候べしとて。一五一十(いちぶしゞう)を申しければ。千引(ちびき)は世(よ)にもうれしげにて。数回(あまたゝび)賞嘆(せうたん☆○ホメル)し。今(いま)のものがたりにつきてつら/\思ふに。彼(かの)勝軍坊(せうぐんぼう)と名告(なの)りて。御身(おんみ)に武藝(ぶげい)を教(をしへ)給ひしは。年來(としごろ)信(しん)じ奉(たてまつ)る。苅萱(かるかや)將軍(せうぐん)地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)にて」 ましますなれ。殊更(ことさら)仇人(かたき)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)が今(いま)の名字(みやうじ)その相貌(かほかたち)まで説示(ときしめ)したまふこと。世(よ)に有(あり)がたき應驗(おうげん)ぞかし。縁故(ことのもと)を審(つまびらか)にしり給ふうへは。今(いま)あらためて告(つぐ)るに及(およ)ばず。御身(おんみ)が父(ちゝ)繁光(しげみつ)どのには。桂江(かつらえ)といふ嫡室(ほんさい)。繁太郎(しげたらう)とかいふ一子(いつし)もありとか聞(き)けり。もし名告(なのり)あひ給はゞ。桂江(かつらえ)どのをば實(まこと)の母(はゝ)のごとく孝行(こう/\)を盡(つく)し。兄(あに)繁太郎(しげたらう)どのをもよく敬(うやま)ひて。母(はゝ)が誠心(まごゝろ)をな化(あだ)になしたまひそ。鎌倉(かまくら)までは路(みち)もはるけし。道中(どうちう)もつはらこゝろを用(もち)ひ。只(たゞ)地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)の冥助(みやうぢよ)を仰(あほ)ぎて。祖父(おほぢ)の仇人(かたき)を撃果(うちはた)し。遠(とほ)からず好音(よきたより)を聞(きか)せ給へ。かゝるべしとはしらずして。御身(おんみ)が」挙止(ふるまひ)の。幼(いとけな)き時(とき)には劣(おと)りて見(み)ゆるが朽(くち)をしくて。何(なに)ごとも告(つげ)ざりし。わが身(み)の愚痴(ぐち)こそ面目(めんもく)なけれ。これこそむかし繁光(しげみつ)どの。再會(さいくわい)の信(しるし)にとて。遺(のこ)し留(とゞ)め給ひたる。重代(ぢうだい)の征矢(そや)。自筆(じひつ)の短冊(たんざく)なれとて。古(ふる)き葛籠(つゞら)をうち開(あけ)つゝ。
涙(なみだ)とともにとり出(いだ)せば石堂丸(いしだうまる)数回(あまたゝび)押戴(おしいたゞ)き。これを携(たづさへ)て俄頃(にわか)に旅(たび)の装(よそほひ)をなし。その暁(あかつき)に家(いへ)を離(はな)れて。東(ひがし)のそらへ赴(おもむ)きけり。さても漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)兄弟(きやうだい)は。丹助(たんすけ)を切害(せつがい)したる夜(よ)。はやく迹(あと)をくらまして。華洛(みやこ)へ脱登(にげのほ)り。權藤六(ごんとうろく)は大内(おほうち)旦六(たんろく)と姓名(せいめい)をかえて武家(ぶけ)に奉公(ほうこう)し。五六年(ねん)の間(あはひ)に射藝(しやげい)をならひ得(え)て。微妙(いみじ)き射人(いて)にぞなれりける。」 又(また)弟(おとゝ)權平(ごんへい)は。兄(あに)に引(ひき)わかれて鎌倉(かまくら)に赴(おもむ)き。大内(おほうち)旦七(たんしち)と名告(なの)りて。三浦(みうら)兵衛尉(ひやうゑのぜう)義村(よしむら)が弟(おとゝ)九郎(くらう)胤義(たねよし)に奉公(ほうこう)し。出頭(しゆつとう)してありしかば。をり/\兄(あに)に書(しよ)をよせてとかく鎌倉(かまくら)へ下(くだ)り給へ。この地(ち)はわきて武藝(ぶげい)隆(さかん)に行(おこな)はるれは。立身(りつしん)の便(たつき)おほかるべしといひおくりける程(ほど)に。旦六(たんろく)歡(よろこ)びて主(しゆう)に暇(いとま)を乞(こ)ひ。鎌倉(かまくら)に赴(おもむ)きて。大町(おほまち)に宅地(やしき)をもとめ。射藝(しやげい)の指南(しなん)して世(よ)をわたるに。弟(おとゝ)旦七(たんしち)。主(しゆう)の胤義(たねよし)に吹挙(すいきよ)したりければ。忽地(たちまち)人の思ひよせおほくなりて。今(いま)は鎌倉(かまくら)に射藝(しやげい)の師(し)たるもの。加藤(かとう)新左衞門(しんざゑもん)繁光(しげみつ)と。大内(おほうち)旦六(たんろく)が外(ほか)に肩(かた)を比(ならぶ)るものもなく。その名(な)高(たか)く聞(きこ)えたり。」かくて又(また)五七年を經(へ)て。繁光(しげみつ)が妻(つま)の桂江(かつらえ)。仮初(かりそめ)ならぬ病(やまひ)に染(そみ)て。醫療(ゐりやう)手(て)をつくせどもその驗(しるし)なく四十(よそぢ)餘歳(あまり)を一期(いちご)として。終(つひ)に身(み)まかりけり。児子(せがれ)繁太郎(しげたらう)が愁傷(しうしよう)はいふもさら也繁光(しげみつ)は階老(かいろう)なほ央(なかば)にして妻(つま)を先(さき)だゝせ。尾越(をごえ)の〓(かも)の對(つひ)をうしなへる心持(こゝち)しつ。埋玉(まいぎよく)の哀(かなし)みやるかたなし。かくてあるべきにあらねば。例(れい)のごとく葬(ほうむり)果(はて)。
つら/\思へは十(とを)あまり五(いつ)とせのむかし。筑前國(ちくぜんのくに)古賀村(こがむら)にて。只(たゞ)一夜(ひとよ)の契(ちぎ)りを締(むすび)つる。丹助(たんすけ)が女児(むすめ)千引(ちびき)がもとへ。一(ひと)たびも信(たより)せざるは却(かへつて)彼(かれ)に終身(しうしん)を誤(あやまた)せじとて。つれなくも過(すぎ)つるが。わが身(み)小動(こゆるぎ)の五十(いそぢ)に近(ちか)き齢(よはひ)にて。後(のち)の妻(つま)を娶(めど)るべきにもあら」 ず。児子(せがれ)繁太郎(しげたらう)もよき男(をとこ)になりぬ。彼(かれ)に婦(よめ)を娶(めど)らして。老後(ろうご)のたのしみにせばやとて。こゝろにおもひ居(お)れりけるとぞ。
苅萱後傳玉櫛笥中之巻畢」22オ 
苅萱(かるかや)後傳(ごでん)玉櫛笥(たまくしげ)下之巻
石堂丸(いしだうまる)千鈞(せんきん☆○カサネ/\)の仇(あた)を撃(うつ)て。父(ちゝ)とともに名(な)を揚(あげ)家(いへ)を興(おこす)によつて。千引(ちびき)ふたゝび繁光(しげみつ)にあふ事。
加藤(かとう)繁太郎(しげたらう)は。久(ひさ)しく母(はゝ)の喪(も)にこもりて。心持(こゝち)例(れい)ならずおぼえしかば。忌(いみ)ども果(はて)て。父(ちゝ)の繁光(しげみつ)に申請(まうしこ)ひ。従者(ともびと)只(たゞ)一人(ひとり)を將(い)て。箱根(はこね)の温泉(いでゆ)に赴(おもむ)きけり。この折(をり)しも大内(おほうち)旦六(たんろく)が弟(おとゝ)旦七(たんしち)も。彼(かの)山(やま)に湯治(とうぢ)して。一ッ家(いへ)に座敷(ざしき)を隔(へだて)てありしかば。出居(いでゐ)につきて繁太郎(しげたらう)とものいひかはし。夏(なつ)の日くらしかねて。双六(すころく)などして」遊(あそ)びたるに。互(たがい)に雙陸(すごろく)の目(め)をあらそひしより口論(こうろん)をしいだし。抜(ぬき)あふて戦(たゝか)ふたり。繁太郎(しげたらう)が従者(ともびと)は。箱根(はこね)權現(ごんげん)へ參(まい)りて居(ゐ)あはせず。旦七(たんしち)が従者(ともびと)二人(ふたり)。この胖響(ものおと)を聞(きい)て。次(つぎ)の間(ま)より走(はし)り來(き)て。主(しゆう)を打(うた)せじとて。太刀(たち)を閃(ひらめか)して打(うつ)てかゝるを。繁太郎(しげたらう)はものともせず。先(さき)にすゝみし旦七(たんしち)が従者(ともびと)を。一人(いちにん)矢庭(やには)に切(きり)ふせしが。その身(み)も夥(あまた)深手(ふかで)を負(お)ひ。打太刀(うつたち)しどろなりしかば。旦七(たんしち)これに力(ちから)を得(え)。たゝみかけて切(き)るほどに。繁太郎(しげたらう)大に叫(さけ)び。やをれ大内(おほうち)旦(たん)七。汝(なんぢ)非道(ひどう)の刃(やいば)をもてわれを撃(うつ)とも。わが父(ちゝ)繁光(しげみつ)。など安穩(あんおん)におき給はん。やがてぞ思ひしるべきとのゝしれば。這奴(しやつ)に」  ものないはせそとて。旦七(たんしち)飛(とび)かゝつて繁(しげ)太郎が。胸(むね)のあたりを刺(つき)とほし。主従(しゆうじう)顔(かほ)を見あはして。走(はし)り去(さ)らんとする折(をり)しも。石堂丸(いしどうまる)は関東(くわんとう)に下向(げこう)して。旦七(たんしち)が湯本(ゆもと)に逗留(とうりう)せるよしを聞(きゝ)。まづその容子(やうす)を窺(うかゞは)ん爲(ため)に。その身(み)も湯治(とうぢ)するおもゝちして。この処(ところ)に來(き)かゝりしが。目今(たゞいま)繁(しげ)太郎が仇(あた)とその名(な)を名告(なの)るを聞(き)けば。わが異母(はらがはり)の兄(あに)なれば。驀直(まつしくら)に走(はし)り入るに。繁(しげ)太郎は既(すで)に撃(うた)れ。仇人(かたき)旦七(たんしち)は走路(にげみち)をもとめて出(いで)んとするを。石堂(いしだう)その前(まへ)に立(たち)ふたがり。
筑前(ちくぜん)古賀村(こがむら)にて。祖父(おほぢ)丹助(たんすけ)を撃(うつ)て逐電(ちくてん)したる漆川(うるしがは)權平(ごんへい)。今(いま)亦(また)わが兄(あに)繁(しげ)太郎を切害(せつがい)す。千鈞(かさね/\)の仇(あた)。やは迯(のが)」 
さじと告(のり)もあへず。水(みづ)もたまらず旦七(たんしち)が細首(ほそくび)丁(ちやう)と打(うち)おとし。かへす刀(かたな)に旦七(たんしち)が従者(ともびと)を切(きつ)て二段(ふたきだ)となし。袖(そで)引断離(ひきちきり)て旦七(たんしち)が首(くび)を手(て)はやく押裹(おしつゝ)み。いづ地(ち)ともなく出去(いでさり)けり。折(をり)しもほとりちかう居(お)る人もなかりければ。たえてこの事をしるものなし。繁太郎(しげたらう)が従者(ともびと)は。事(こと)果(はて)て後(のち)。箱根(はこね)權現(ごんげん)より立(たち)かへり。主(しゆう)の撃(うた)れたる事。亦(また)仇人(かたき)旦七(たんしち)主従(しゆうじう)は。何ものともしらず撃(うつ)て立退(たちのき)たるにや。相打(あひうち)には旦七(たんしち)が首(くび)の見えざるがあやしなど。人みな罵(のゝしり)あふを聞(きゝ)て大に驚(おどろ)き。何(なに)の故(ゆゑ)とは思ひかけねど。旦七(たんしち)も既(すで)に撃(うた)れて。縁故(ことのもと)問諦(とひあきら)むべうもあらねば。ぜひなく繁(しげ)太郎が亡骸(なきがら)を鎌倉(かまくら)に扛(かき)もてかへりて。縁(ことの)」 由(よし)を繁光(しげみつ)に物(もの)がたるに。繁光(しげみつ)は妻(つま)に後(おく)れていまだ一年(ひとゝせ)も經(へ)ざるに。只(たゞ)一人(ひとり)の愛子(まなご)をうしなひて。哀悼(あいたう)の涙(なみだ)禁(きん)ずる事(こと)を得(へ)ず。さるにても當座(たうざ)にわが子(こ)の仇(あた)を撃(うち)たるは何人(なにびと)にや。思ふに旦七(たんしち)は昔(むかし)人(ひと)を殺(ころ)せしものにて。それが寃(あた)を報(むくひ)たるか。不審(いぶかし)きことなりとて。只顧(ひたすら)疑(うたが)ひ惑(まど)ひつゝ。泣々(なく/\)繁(しげ)太郎が野邊(のべ)送(おく)りして。追善(ついぜん)形(かた)の如(ごと)く営(いとな)みけり。旦七(たんしち)が兄(あに)大内(おほうち)旦(たん)六も。箱根(はこね)にての椿事(ちんじ)を聞(きい)て大に驚(おどろ)き。弟(おとゝ)が屍(しがい)を引(ひき)とりて葬(ほうふ)り果(はて)しが。旦(たん)七を撃(うつ)てその首(くび)を携(たづさへ)。はやく立退(たちのき)たるものこそ。繁光(しげみつ)が由縁(ゆかり)のもの也と思ひしかば。事の次(ついで)を窺(うかゞふ)て。この怨(うらみ)をかへさんと。こゝろに」ふくみて居(ゐ)たりける。時(とき)に健保(けんほ)六年八月十五日。將軍(せうぐん)實朝(さねとも)公(こう)。鶴岡(つるがおか)社參(しやさん)の下向(げこう)に。社頭(しやとう)なる銀杏(いてう)の下(もと)にしはし〓(せうぎ)を建(たて)られ。近従(きんじう)の武士(ぶし)に宣(のたま)ひけるは。
今(いま)この銀杏(いてう)の梢(こずゑ)に當(あたつ)て。鈴(すゞ)の音(おと)頻(しきり)に聞(きこ)えたり。その音(おと)玲瓏(れいろう)として尋常(よのつね)のものとも覚(おぼ)へず。此(この)鈴(すゞ)の彼処(かしこ)にかゝりし事。定(さだ)めて故(ゆゑ)ありぬべし。しれるものあらば審(つまびらか)に申すべしと宣(のたま)ひければ。天野(あまのゝ)六郎政景(まさかげ)すゝみ出て。この事は。むかし頼家卿(よりいへきやう)秘藏(ひさう)ありし護花鈴(はなのすゝ)を。鬼(おに)の爲(ため)に盗(ぬすま)れ給へり。これを取(とる)に射藝(しやげい)無双(ぶそう)の武士(ものゝふ)に仰(おふ)せ。射(い)てとらしめ給はざれば。祟(たゝり)ありとて。大輔坊(だいぶぼう)源性(げんせう)が勘文(かんもん)をもて申せし事あり。この事につきて臣(やつがれ)が」 妹夫(いもとむこ)加藤(かとう)繁光(しげみつ)は氣色(けしき)を蒙(かうむ)り。長(なが)く所帯(しよたい)を没収(もつしゆ)せられ候。縁由(ことのよし)箇様/\(かやう/\)とて。繁光(しげみつ)三年(みとせ)が間(うち)。筑前(ちくぜん)に立越(たちこえ)て射藝(しやげい)を修行(しゆぎやう)し。その後(のち)鎌倉(かまくら)に立(たち)かへるといへども。頼家卿(よりいへきやう)薨去(こうきよ)ましけれは。ふかく望(のぞみ)をうしなひて。今(いま)なほ名越切通(なごやのきりとほし)に僑居(きやうきよ)するよしを述(のべ)て。彼是(かれこれ)審(つまびらか)に聞(きこ)えあぐれば。實朝(さねとも)公(こう)聞食(きこしめし)て。然(しか)らは源性(げんせう)を召(め)せと仰(おふ)するに。走衆(はしりしゆ)うけ給はりて。時(とき)を移(うつ)さず源性(げんせう)を將(い)て參(まい)りぬ。實朝(さねとみ)公(こう)やがて鈴(すゞ)の事を尋(たづね)給ふに。源性(げんせう)が申ところも。政景(まさかげ)が申す趣(おもむき)と。つゆ違(たがは)ざりしかば。實朝(さねとも)公(こう)しば/\嗟嘆(さたん)し給ひて。かばかりの鈴(すゞ)を射(い)て落(おと)す武士(ものゝふ)なく。十八箇年(かねん)徒(いたづら)」に。梢(こずゑ)にかゝらしおきたるこそ越度(をちど)なれ。われ今繁光(しげみつ)を召出(めしいだ)して鈴(すゞ)を射(い)とらせんと思へども。鈴(すゞ)は二ッなるを。一人(ひとり)にこれを射(い)させ。縦(たとひ)一(いち)の矢(や)空(むなし)からずとも。二の矢(や)を射損(いそん)ぜば。その功(こう)徒(いたづら)ごとゝならん。繁光(しげみつ)とともに。
誰(たれ)か彼(かの)鈴(すゞ)を射(い)おとすべきと宣(のたま)へば。三浦(みうらの)九郎(くらう)胤義(たねよし)班(れつ)を出(いで)て申すやう。大町(おほまち)なる武士(ぶし)の浪人(らうにん)。大内(おほうち)旦六郎(たんろくらう)と申す者(もの)は。繁光(しげみつ)にも勝(まさ)れるもの也。もし彼(かれ)に命(めい)ぜられば。万(まん)に一ッも過(あやまち)候はしと申すにぞ。實朝(さねとも)公(こう)點頭(うなづか)せ給ひて。しからはそのものにも仰(おふ)すべし。繁光(しげみつ)には政景(まさかげ)申談(まうしだん)じ。旦六郎(たんろくらう)には胤義(たねよし)申談(だん)じて。明日(みやうにち)巳(み)の刻(こく)に射(い)さしむべし。われ又こゝに來(きた)つてそれを」 見(み)べき也と仰含(おふせふく)められ。やがて営中(ゑいちう)にかへり給ふ。さる程(ほど)に天野(あまのゝ)六郎政景(まさかげ)は。鶴岡(つるがおか)より直(たゞ)に繁光(しげみつ)が家(いへ)にゆきて。台命(たいめい)の赴(おもむ)きを傳(つた)へ。御邉(ごへん)當(まさ)に家(いへ)を興(おこ)すべきはこの時(とき)也。速(すみやか)に用意(ようゐ)し給ふべしと促(うなが)せば。繁光(しげみつ)〓然(げんぜん)として落涙(らくるい)し。弓矢(ゆみや)の冥加(みやうか)に稱(かな)ひ。武運(ぶうん)いまだ竭(つき)ずして。今(いま)この仰(おふせ)を蒙(かうむ)り。忽地(たちまち)宿望(しくほう)を遂(とげ)ん事。こよなき僥倖(さいはひ)なり。只(たゞ)うらむらくは。妻(つま)に後(おく)れ子(こ)を先(さき)だて。只(たゞ)身(み)ひとつなる繁光(しげみつ)が。よしや所領(しよれう)をかへし給はるとも。誰(たれ)に後栄(こうゑい)を遺(のこ)すべき。思へば歎(なげき)きの中(うち)の歡(よろこ)び。歡(よろこび)の中(うち)の歎(なげき)ぞかし。わが子(こ)の忌(いみ)も既(すで)に果(はて)たれば。固辞(いなみ)奉(たてまつ)るによしなし。」さらは參(まい)るべしと應(いらへ)て。猛(にはか)に弓(ゆみ)に弦(つる)を張(は)り。たしなみもてる大紋(だいもん)烏帽子(えぼし)などとり出(いで)て。次(つぎ)の朝(あさ)をぞ待(まち)たりける。大内(おほうち)旦六(たんろく)がかたにも。三浦(みうら)胤義(たねよし)が通達(つうだつ)によつて。忙(いそがは)しく出仕(しゆつし)の用意(ようゐ)をなし。繁光(しげみつ)に鼻(はな)をつかせて。日來(ひごろ)の鬱憤(うつふん)をはらすべしとて。天(てん)に歡(よろこ)び地(ち)に歡(よろこ)び。次(つぎ)の日(ひ)つとめて花々(はな/\)しく打扮(いでたち)。矢(や)を負(お)ひ弓(ゆみ)を携(たづさへ)。その身(み)は馬上(ばしよう)にて。
従者(ともびと)七八人を。前後(ぜんご)に立(たゝ)せ。まつ胤義(たねよし)が屋敷(やしき)へとて赴(おもむ)く折(をり)しも。年紀(としのころ)十五六なる旅人(たびゝと)。物(もの)の蔭(かげ)より走(はし)り出(いで)。いかに漆川(うるしがは)權藤六(ごんとうろく)。われは十五ヶ年(かねん)以前(いせん)。汝(なんぢ)が爲(ため)に撃(うた)れたる丹助(たんすけ)が孫(まご)。石堂丸(いしだうまる)なり。向(さき)に箱根(はこね)の湯本(ゆもと)に於(おい)て。権平(ごんへい)をは撃(うち)とりぬ。祖父(おほぢ)」 の仇人(かたき)のがすまじと名告(なのり)かけて。刀(かたな)を打(うち)ふり呻(おめい)てかゝれは。旦六(たんろく)驚(ぎよつ)とせしが〓然(から/\)と打わらひ。もの/\しき孤児(こせがれ)が挙動(ふるまひ)かな。われそのむかし丹助(たんすけ)を撃(うつ)たればとて。今(いま)將軍家(せうぐんけ)の召(めし)によつて出仕(しゆつし)の途中(とちう)。妨(さまたげ)せば反逆(はんぎやく)にひとしからん。そこ退(のけ)やつと呼(よば)はりつゝ。弓(ゆみ)に矢(や)つがひて兵(ひやう)と發(はな)すを。石堂(いしとう)戞(からり)と切折(きりをつ)て。片臑(かたすね)ずばと切(きり)つくれば。旦六(たんろく)は二の矢(や)を〓(つがひ)なから。馬(うま)より〓(だう)と落(おつ)るところを。起(おこ)しも立(たて)ず首打(くびうち)おとし。髻(もとゝり)引提(ひきさげ)て走(はし)り去(さ)るを。旦六(たんろく)が従者(ともひと)等(ら)。透間(すきま)もなく追蒐(おつかけ)たり。浩処(かゝるところ)に執權(しつけん)北條(ほうでふ)義時(よしとき)朝臣(あそん)。この日(ひ)供奉(ぐぶ)の爲(ため)只今(たゞいま)出仕(しゆつし)の路(みち)すがら。折(をり)よくこゝへ來(き)あはするを見(み)て。石堂丸(いしだうまる)は義時(よしとき)」 
の馬前(ばぜん)に跪(ひざまづ)き。是(これ)は筑前國(ちくぜんのくに)古賀村(こがむら)のものなるが。祖父(おほぢ)の仇(あた)。權藤六(ごんとうろく)といふものを撃(うち)とり。その徒(ともがら)に追(おは)れて頗(すこぶる)難義(なんぎ)に及(およ)べり。あはれ救(すく)はせ給へかしと申しつゝ。目今(たゞいま)撃(うち)とつたる旦六(たんろく)が首(くび)と。亦(また)腰(こし)に著(つけ)たる旦七(たんしち)が首(くび)をとり出(いだ)して見(み)せまゐらせ。なほ細(くは)しく縁故(ことのもと)を申さんとするに。旦六(たんろく)が従者(ともびと)等(ら)は。喘々(あへぎ/\)追(お)ひ來(きた)り。異口同音(みなくち/\)に申すやう。大内(おほうち)旦六(たんろく)。將軍家(せうぐんけ)の召(めし)に應(おう)じて出仕(しゆつし)いたす処(ところ)に。その若人(わかうど)祖父(おほぢ)の仇人(かたき)也と呼(よ)びかけ。理不尽(りふじん)に撃(うち)果(はた)し候ひぬ。とく/\出(いだ)させ給へとぞ申ける。義時(よしとき)うち聞(きゝ)て。まづ石堂丸(いしだうまる)に旦六(たんろく)を仇(あた)とし撃(うつ)たる縁由(ことのよし)を問(とは)るゝに。石堂丸(いしだうまる)は一五一十(いちぶしゞう)を申せしが。父(ちゝ)繁光(しげみつ)の」 事をは告(つげ)ず。そのとき義時(よしとき)朝臣(あそん)のいはく。縦(たとひ)汝(なんぢ)が爲(ため)に祖父(おほぢ)の仇(あた)なりとも。旦六(たんろく)は台命(たいめい)によつて。鶴岡(つるがおか)の社頭(しやとう)。銀杏(いてう)の梢(こずゑ)にかゝりたる鈴(すゞ)を射(い)とるものなるを。汝(なんぢ)私(わたくし)の意趣(ゐしゆ)をもて。理不尽(りふじん)に撃(うち)とる事。その罪(つみ)輕(かろ)からずと仰(おふ)すれば。石堂丸(いしだうまる)莞尓(につこ)として。彼(かの)旦六(たんろく)が射藝(しやげい)は。さのみ賞美(せうび)し給ふべきものにあらず。彼(かの)もの某(それがし)を射(い)んといたせしに。その矢(や)終(つひ)にわが身(み)にたゝず。これにてその未熟(みじゆく)をしろし召さるべし。旦六(たんろく)縦(たとひ)存命(ながらへ)て候とも。さる晴(はれ)なる射人(いて)に參(まい)らん事覚(おぼ)つかなし。もし某(それがし)に命(めい)ぜられなば。その鈴(すゞ)を輙(たやす)く射(い)てとり候ひなんといふ。義時(よしとき)朝臣(あそん)。こは傍若無人(ぼうじやくぶじん)なるわかものが」廣言(くわうげん)かなと思ひながら。まづ旦六(たんろく)が従者(ともびと)をは退(しりぞか)して。主(しゆう)の屍(しがい)を扛(かき)もてかへらせ。旦六(たんろく)旦七(たんしち)が首(くび)と。
石堂(いしだう)が行李(たびにもつ)を従卒(じうそつ)にもたし。やがて石堂丸(いしだうまる)を將(い)て。鶴岡(つるがおか)へ參(まい)りければ。加藤(かとう)繁光(しげみつ)は。天野(あまのゝ)政景(まさかげ)に引(ひか)れて。先(さき)だつて伺候(しこう)せり。程(ほど)なく實朝(さねとも)公(こう)も出(いで)させ給ひしかば。義時(よしとき)御前(おんまへ)に參(まい)りて。旦六(たんろく)が横死(わうし)。石堂(いしだう)が仇撃(あたうち)の事。その申ところを審(つまびらか)に聞(きこ)えあけ。彼(かの)若人(わかうど)おぼえなくて。かゝる廣言(くわうげん)は吐(はく)べからず。今(いま)彼(かれ)をもつて。旦六(たんろく)にかはらせ。彼(かの)鈴(すゞ)を射(い)さし給ひ。いよ/\射(い)おとし候はゞ。その罪(つみ)を赦(ゆる)し。もし射(い)得(え)ざりせば。法(ほふ)のごとく行(おこな)ひ給はんかと申すを。三浦(みうら)胤義(たねよし)つと參(まい)りて。いなその義(ぎ)はかなふまじ。」 もしさる癖者(くせもの)に。この大事(だいじ)を命(めい)ぜられなば。天(てん)下の胡慮(ものわらひ)。東営(とうゑい)の武威(ぶい)を落(おと)すに似(に)たり。只々(たゞ/\)這奴(しやつ)を誅(ちう)せられんことこそねがはしけれとて。強(しい)て申すゝむれども。執權(しつけん)義時(よしとき)かく申すうへは。彼(かの)若者(わかもの)が射藝(しやげい)を試(こゝろ)み。その後(のち)ともかくもはからはるべしとて。猛(にはか)に石堂丸(いしだうまる)に。烏帽子(えぼし)衣服(いふく)太刀(たち)なんどを給はり。繁光(しげみつ)と立(たち)ならべて。件(くだん)の鈴(すゞ)を射(い)さし給ふ。これを見るもの。あな無慙(むざん)や。彼(かの)若(わか)もの。よしなき所爲(わざ)を申乞(まうしこひ)て。身(み)の咎(とが)を増(ます)べきにとて。哢(あざけ)りおもはざるはなし。繁光(しげみつ)も若(わか)ものが為体(ていたらく)。心にくしと思ひしかば。汝(なんぢ)上(うへ)の枝(えだ)なる鈴(すゞ)を射(い)ん歟(か)。又(また)下(した)なるを射(い)るやと問(とふ)に。石堂(いしだう)答(こたへ)て。某(それがし)は」いづれにもあれ。仰(おふせ)の隨(まゝ)に射(い)候べしといふ。繁光(しげみつ)聞(きゝ)て。憎(にく)さもにくしとおもひて。しからばわれは下(した)なるを射(い)とるべし。汝(なんぢ)は上(うへ)なるを射(い)られよといふに。こゝろ得(え)候とて。賜(たまはつ)たる弓(ゆみ)を携(たづさへ)。矢(や)は己(おのれ)が行李(たびにもつ)の裏(うち)なるをとりよして。
繁光(しげみつ)と左右(さゆう)にわかれ。樹(こ)の下(もと)に立(たち)むかひたる形勢(ありさま)。意氣揚々(ゐきよう/\)として。つゆばかりも臆(おくし)たる氣色(けしき)なければ。はじめ嘲哢(あざけり)たる人も。みな息(いき)もせずこれを見る。時(とき)に繁光(しげみつ)弓(ゆみ)に矢(や)〓(つがひ)て。心の中(うち)に苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)を祈念(きねん)しつゝ。満月(まんげつ)のごとく引(ひき)しぼり。しばし堅(かた)めて丁(ちやう)と發(はな)せば。銀杏(いてう)の小枝(さえだ)をふつと射(い)切(き)り。鈴(すゞ)はから/\と音(おと)して落(おつ)るとひとしく。石堂(いしだう)も亦(また)。心(しん)」 中(ちう)に地藏(ぢざう)菩薩(ぼさつ)を祈念(きねん)して。きり/\と引固(ひきかた)め。矢声(やこゑ)をかけて切(きつ)てはなせは。その矢(や)あやまたず。上(うへ)なる枝(えだ)の銀杏(いてう)の葉(は)。三枚(さんまい)を射(い)つらぬき。鈴(すゞ)は葉(は)の間(あはひ)に挾(はさま)れ。矢(や)とゝも落(おつ)るところを。石堂(いしだう)走(はし)りよつて馬手(めて)にうけとめたり。その爲体(ていたらく)人間(にんげん)所爲(わざ)とも思はれず。是(これ)なん百歩(ひやくほ)の外(ほか)に柳(やなぎ)の葉(は)を穿(うがつ)といふ。養由基(ようゆうき)にも勝(まさ)るべし。彼(かれ)も竒(き)也。これも妙(みやう)なりとて。この両人(りやうにん)を誉(ほむ)る声(こゑ)洋々(よう/\)乎(こ)としてしばしは鳴(なり)も止(やま)ざりけり。かくて繁光(しげみつ)石堂丸(いしだうまる)は。おの/\射(い)とり得(え)たる鈴(すゞ)を献(たてまつ)れば。實朝(さねとも)公(こう)ふかく賞美(せうび)あつて。繁光(しげみつ)が往(さき)の誤(あやまち)を免(ゆる)され。所領(しよれう)舊(ふるき)によつてかへし下(くだ)され。永(なが)く近従(きんじう)に召仕(めしつか)はる」 
べきよしを仰(おふせ)られ。亦(また)石堂丸(いしだうまる)には。義時(よしとき)をもつて。汝(なんぢ)が父(ちゝ)は何(なに)ものぞ。由緒(よし)あるものゝ児子(せがれ)ならば召仕(めしつか)はるべし。審(つまびらか)に申せと宣(のたま)はすれば。石堂丸(いしだうまる)謹(つゝしん)で。父(ちゝ)は未生(みせい)の時(とき)に。鎌倉(かまくら)にかへりしかば。その面(おもて)をしらざれども。これなる繁光(しげみつ)が子(こ)に。石堂丸(いしだうまる)と呼(よば)るゝもの也。頃日(このごろ)関東(くわんとう)へ下向(げこう)つかまつては候へど祖父(おほぢ)の仇人(かたき)を撃(うつ)て尋(たづね)あふべく思ひしゆゑに。いまだ對面(たいめん)を遂(とげ)ず。今日(こんにち)はからずも。父(ちゝ)とともに鈴(すゞ)を射(い)とる事を命(めい)ぜられしに。大樹(たいじゆ)の御前(おんまえ)を憚(はゞかり)て。いまだ名告(なのり)あはず候と申にぞ。繁光(しげみつ)大に驚(おどろ)きて。こは心(こゝろ)も得(え)ぬ。わが子(こ)は繁(しげ)太郎只(たゞ)ひとりなるが。近曽(ちかごろ)大内(おほうち)旦七(たんしち)が爲(ため)に。箱根(はこね)の」 湯本(ゆもと)にて命(めい)を隕(おと)せり。この外(ほか)に子(こ)といふものもてる覚(おぼへ)たえてなし。彼(かれ)が申ところ偽(いつは)りなり。よく/\糾明(きうめい)あらまほしと呟(つぶや)けば。石堂(いしだう)かさねて。さおぼすもことわり也。わが母(はゝ)千引(ちびき)。一夜(ひとよ)の契(ちきり)ありながら。詰朝(あけのあさ)父(ちゝ)は地藏〓(ぢざうぼさつ)の示現(じげん)ありとて。俄頃(にはか)に鎌倉(かまくら)へ立(たち)かへり給ひしに。過世(すくせ)の縁(えに)しふかゝりけん。その夜(よ)結胎(みごもり)て。生(うま)れたるはわが身(み)ぞかし。その折(をり)しも祖父(おほぢ)丹助(たんすけ)は。漆川(うるしがは)權藤(ごんとう)六兄弟(きやうだい)に切害(せつがい)せられ。母(はゝ)は患難(くわんなん)の中(なか)に婦(をんな)の道(みち)を守(まも)り。わが身(み)を養育(はぐゝみ)給ひし程(ほど)に。わが身(み)又(また)地藏〓(ぢざうぼさつ)の冥助(みやうぢよ)によつて。武藝(ぶげい)残(のこ)る所(ところ)なく習得(ならひえ)。剰(あまさへ)仇人(かたき)の行方(ゆくへ)。今(いま)の姓名(せいめい)相貌(かほかたち)まで。審(つまびらか)に〓(ぼさつ)の説示(ときしめ)し」給ふによつて。縁由(ことのよし)を母(はゝ)に告(つげ)。祖父(おほぢ)の仇(あた)。旦(たん)六旦(たん)七を撃(うち)とり。これをみやげとして父(ちゝ)に尋(たづね)あはんとおもひ。まづ旦(たん)六兄弟(きやうだい)が。
事(こと)の容子(やうす)を窺(うかゞ)ひ。旦七(たんしち)は箱根(はこね)に湯治(とうぢ)してありと聞(きゝ)て。潜(ひそか)に〓(ねら)ひよる折(をり)しも。わが兄(あに)繁(しげ)太郎。旦(たん)七に撃(うた)れ給ひしが。最期(さいご)に自他(じた)の姓名(せいめい)を名告(なのり)り給ひし程(ほど)に。はやくその人々なる事(こと)をしつて。その座(ざ)を去(さ)らせず旦七(たんしち)主従(しゆうじう)を撃(うち)とり。それより旦六(たんろく)を〓(ねら)ひしに。今朝(こんちやう)出仕(しゆつし)の事(こと)を聞(きゝ)て途中(とちう)に待(まち)うけ。既(すで)に仇(あた)をば殺(ころ)し尽(つく)し。おほけなく將軍(せうぐん)實朝(さねとも)公(こう)の仰(おふせ)を蒙(かうむ)り。はからずも父(ちゝ)とゝもに。晴(はれ)なる射人(いて)に召加(めしくはへ)らるゝ事。古今(こゝん)未曽有(みぞうう)の幸福(さいはひ)なり。なほ疑(うたがひ)給はゞ。これを御覧(ごらん)」 あつて。みづから暁得(さとり)給へかしと申しつゝ。携(たづさへ)たりし二條(ふたすぢ)の矢(や)と。短冊(たんざく)を逓与(わた)しける。繁光(しげみつ)忙(いそがは)しくとつてこれを見るに。げにもむかし再會(さいくわい)の信(しるし)にとて。千引(ちびき)に与(あたへ)たる。重代(じうだい)の征矢(そや)。自筆(じひつ)の短冊(たんざく)なりければ。或(あるひ)は驚(おどろ)き。或(あるひ)は歡(よろこ)び。石堂丸(いしだうまる)が顔(かほ)をつく/\とうち見て。しばし感涙(かんるい)をとゞめかね。寔(まこと)に汝(なんぢ)がいふところ。われ悉(こと/\)く覚(おほえ)あり。さてはわが子(こ)にてありけるか。こは卒忽(あからさま)なる事申つるこそ越度(をちど)なれ。親(おや)はなくとも子(こ)は育(そたつ)と。世(よ)の常言(ことわざ)にもれずして。鄙(ひな)には生(おひ)たちながら心(こゝろ)さまいみじく。祖父(おほぢ)と兄(あに)が仇(あた)を撃(うち)。剰(あまさへ)鎌倉(かまくら)ひろしといへども。われうけ給はらんといふものなき。梢(こずゑ)の鈴(すゞ)を射(い)とる事。父(ちゝ)には生(うま)れ勝(まさ)りしよ。」かゝる證据(せうこ)あるからは。石堂丸(いしだうまる)は紛(まぎ)れもなき。繁光(しげみつ)が昔(むかし)筑紫(つくし)にありしとき。儲(まうけ)たる。妾腹(せうふく)の児子(せがれ)にて候と申ければ。實朝(さねとも)公(こう)をはじめ奉(たてまつ)り。義時(よしとき)政景(まさかげ)以下(いか)の人々(ひと/\)も。竒(あや)しき親子(おやこ)が物(もの)がたりに。
賞嘆(せうたん)大かたならざりける。さて實朝(さねとも)公(こう)は石堂(いしだう)をちかく召(めさ)れ。今日(こんにち)の勸賞(けんせう)として。先祖(せんぞ)の舊領(きうれう)筑前(ちくぜん)半國(はんこく)を給はる。父(ちゝ)とゝもに勤仕(きんし)いたすべきよしを命(めい)ぜられ。彼(かの)矢(や)と短冊(たんざく)をめしよせて見給ふに。矢(や)は繁光(しげみつ)が持(も)たるものと一般(おなじく)。袖搨(そですり)の下(もと)に朱(しゆ)をもて加藤(かとう)石堂丸(いしだうまる)としるし。又たんざくには。 
苅萱(かるかや)の関守(せきもり)とのみ見(み)えつるは。人もかよはぬ道(みち)べなりけり。」 としるしたれば。ます/\嗟嘆(さたん)まし/\て。義時(よしとき)の携(たづさへ)させたる。旦六(たんろく)旦七(たんしち)が首(くび)を給はりて。祖父(おほぢ)と兄(あに)が霊魂(れいこん)を祭(まつ)ることを許(ゆる)させ給ひ。又宣(のたま)ひけるは。むかし繁光(しげみつ)が祖父(おほぢ)繁氏(しげうぢ)は。嫡室(ほんさい)傍室(そばめ)の嫉妬(しつと)によつて。世(よ)を觀(くわん)じ剃髪(ていはつ)して。苅萱(かるかや)道心(どうしん)と稱(せう)し。高野山(こうやさん)へ隱(かく)れしを。その子(こ)石堂丸(いしだうまる)彼(かの)山(やま)にたづね登(のぼ)れども名告(なのり)あはず。一家(いつけ)の男女(なんによ)追慕(ついぼ)して。みな出家(しゆつけ)を遂(とげ)しより。その家(いへ)終(つひ)に衰(おとろへ)たり。亦(また)今(いま)の石堂丸(いしだうまる)は。仇(あた)を撃(うち)父(ちゝ)にあひ。親子(おやこ)雙(ならん)で名(な)を揚(あげ)家(いへ)を興(おこ)す事。その功徳(くどく)先祖(せんぞ)にも勝(まさ)るべし。彼(かの)旦六(たんろく)兄弟(きやうだい)は既(すで)に人を殺(ころ)すの奸賊(かんぞく)なるを。もし彼(かれ)をけふの射人(いて)に召加(めしくはへ)なば。末代(まつだい)までの瑕瑾(かきん)なる」べきに。石堂(いしだう)これを撃(うち)とる事。尤(もつとも)賞(せう)すべしと宣(のたま)ふに。供奉(ぐぶ)の人々(ひと/\)も。仰(おふせ)寔(まこと)に道理(どうり)に稱(かな)へりと申て。繁光(しげみつ)親子(おやこ)を祝(しく)しける。そが中(なか)に三浦(みうら)九郎(くらう)胤義(たねよし)のみ。憖(なまじい)に旦六(たんろく)を吹挙(すいきよ)して。面目(めんぼく)をうしなひぬ。天野(あまのゝ)政景(まさかげ)は。向(さき)より石堂(いしだう)が物(もの)がたりを聞(きゝ)てふかく歡(よろこ)び。通家(えんじや)の名告(なのり)りして。此(この)父子(ふし)ともろともに。實朝(さねとも)公(こう)の寵遇(ちやうぐう)を謝(しやし)奉(たてまつ)る。實朝(さねとも)既(すで)に営中(ゑいちう)に帰(かへ)り給へは。繁光(しげみつ)は政景(まさかげ)とともに。石堂丸(いしだうまる)を將(い)て帰宅(きたく)し。又(また)あらためて父子(ふし)合体(がつたい)の歡(よろこ)びをつくすに。石堂丸(いしだうまる)は父(ちゝ)を数回(あまたゝび)拝(はい)して申すやう。近属(ちかごろ)まで。父(ちゝ)を誰(たれ)ともしらざりしかば。尋(たづね)まゐらするに由(よし)なく。化(あだ)に打過(うちすぎ)たる不孝(ふこう)。許(ゆる)させ」 給へとて。母(はゝ)が年來(としごろ)の患難(くわんなん)。地藏〓(ぢざうぼさつ)の冥助(みやうぢよ)。
なほ前(さき)にいひもらしたる事(こと)を物(もの)がたれは。繁光(しげみつ)も政景(まさかげ)も。聞(きく)こと毎(ごと)に嗟嘆(さたん)して。千引(ちびき)は稀(まれ)なる烈女(れつぢよ)也。われは一(ひと)たびも得(え)訪(とは)ざりしに。彼等(かれら)は却(かへつ)てかくまでに。信(まめ)やかにありけりとて。数行(すこう)の落涙(らくるい)に及(およ)びける。かゝりしかば石堂丸(いしだうまる)は。母(はゝ)を迎(むかへ)ん爲(ため)に。筑前國(ちくぜんのくに)那河郡(なかごふり)博多(はかた)の城(じやう)に入府(にうふ)せり。その行装(きやうそう)前驅(ぜんく)後從(ごじう)。善尽(ぜんつく)し美(び)をつくす。故郷(こきやう)へ錦(にしき)を飾(かざ)るとは。かゝる人をやいふならん。彼地(かのち)に到着(とうちやく)したりければ。みづから母(はゝ)を城中(じやうちう)に冊(かしづ)き入(い)れて。鎌倉(かまくら)にての一五一十(いちぶしゞう)。審(つまびらか)にもの語(かた)り。親子(おやこ)つれだちて苅萱(かるかや)地藏(ぢざう)へ參詣(さんけい)し。本堂(ほんだう)の修造(しゆぞう)。年々(とし/\)」 
の佛餉(ぶつきやう)などをも制度(さた)し。國(くに)の法度(はつと)を定(さだ)めおきて。ふたゝび母(はゝ)を扶引(たすけひい)て。鎌倉(かまくら)へ立帰(たちかへ)れば。繁光(しげみつ)大によろこびて。端(はし)ちかう出迎(いでむかへ)。たえて久(ひさ)しき對面(たいめん)を歡(よろこ)び聞(きこ)ゆるに。千引(ちびき)拝伏(はいふく)して近(ちか)くもすゝまず。わらはは君(きみ)の傍妻(そばめ)なるに。いかで一ッ席(むしろ)につらなり侍(はべ)るべきとて。謙退辞讓(けんたいぢじやう)したりしかば。繁光(しげみつ)ます/\感嘆(かんたん)し。われ御身(おんみ)に音耗(おとづれ)せざりしは。われ故(ゆゑ)に一生(いつしよう)寡婦(やもめ)にてあらせじとおもひしを以(もつて)也。しかるに嫡室(ほんさい)桂江(かつらえ)も。児子(せがれ)繁(しげ)太郎も世(よ)を去(さり)て。いと心ぼそくも思ふ折(をり)しも。はからずして御身(おんみ)母子(ぼし)に環會(めぐりあふ)こと。天(てん)幸(さいわひ)にわが家(いへ)を亡(ほろぼ)さす。更(さら)に妻子(さいし)を与(あたへ)給へり。しかれば今日(こんにち)より。御身(おんみ)はわが後(のちの)」 妻(つま)。石堂(いしだう)は家(いへ)の嫡子(ちやくし)たり。何の謙退(けんたい)かあるべきとて。わりなくわがかたはら。石堂丸(いしたうまる)が上座(かみくら)に居(お)らせ。頻(しきり)にその貞操(みさほ)を賞美(せうび)し。折(をり)をもつて千引(ちびき)を後妻(こうさい)といたすよしを。鎌倉殿(かまくらどの)へ聞(きこ)えあげ。父子(ふし)夫婦(ふうふ)むつましくて。その家(いへ)ながく栄(さかへ)。天野(あまのゝ)政景(まさかげ)が家(いへ)にも。いよ/\親(したし)く交參(まじらひ)て。舊好(ふるきよしみ)を忘(わす)るゝ事なし。されば昔(むかし)鈴(すゞ)のうせたるとき。大輔(だいぶ)源性(げんせう)が。彼(かの)鈴(すゞ)今(いま)より十余(よ)年を經(へ)て。営中(ゑいちう)へかへるべしと卜(うらな)ひし事。つゆたがはずとて。ます/\その術(じゆつ)の長(たけ)たるを稱賛(せうさん)せり。繁光(しげみつ)は。事(こと)みな地藏〓(ぢざうぼさつ)の利益(りやく)によればとて。月毎(つきごと)に筑前國(ちくぜんのくに)へ代參(だいさん)の使者(ししや)をつかはし。現世(げんぜ)には一家(いつけ)の繁昌(はんじやう)。後世(ごせ)には妻(つま)の」桂江(かつらえ)。児子(せがれ)繁(しげ)太郎。舅(しうと)丹助(たんすけ)等(ら)が抜苦(ばつく)与樂(よらく)を念願(ねんぐわん)し。宝満山(ほうまんざん)へも夥(あまた)の布施(ふせ)して。むかしの寄宿(きしゆく)の恩(おん)を謝(しや)し。
よろづめでたく歡(よろこ)ぶべき事のみ打(うち)つゞきて。人(ひと)も羨(うらや)みおもひけるとぞ。苅萱後傳玉櫛笥下之巻畢」 
附言(ふげん)
友人(ともびと)某(なにかし)余(よ)にいふ。この書(しよ)のはじめに。和田胤長(わだのたねなが)伊東(いとう)か崎(さき)の洞(ほら)に入り仁田忠常(につたのたゞつね)富士(ふじ)の人穴(ひとあな)に入(い)る事(こと)を記(しる)す。且(かつ)忠常(たゞつね)か人穴(ひとあな)に入て神女(しんぢよ)にあふの圖(づ)。載(のせ)て巻端(くわんたん)にあり。しかれどもその説(せつ)は却(かへつ)て省略(せうりやく)す縦(たとひ)頼家卿(よりいへきやう)。〓奢(きやうしや)の事(こと)をいはんまでに引用(いんよう)すとも。この両事(りやうじ)は粗(ほゞ)世俗(せぞく)のしるところなり。童蒙(どうもう)その審(つまびらか)ならざるを見て遺憾(いかん☆○ノコリヲシイ)おほしとせんかといへり。こは例(れい)の無稽(ぶけい)の事(こと)にあらぬは。黙止(もだ)しがたく。こゝに抄書(せうしよ)して。更(さら)に剞〓(きけつ)を労(ろう)するものなり。
東鑑建仁三年六月一日條云將軍家[頼家]著御伊豆奥狩倉而号伊東崎之山中有大洞不知其源遠將軍恠之己尅遺和田平太胤長被見之胤長擧火入彼穴酉尅歸參申云此穴行程數十里[觧按関東往昔六町爲一里今猶鎌倉有七里濱其實四十餘町也是古言餘波足以徴矣]暗兮不見日光有一大蛇擬呑胤長之間抜劔斬殺訖同書同年六月三日條云將軍家[頼朝]渡御于駿河國富士狩倉彼山麓有大谷号之人穴爲令究見其所被入仁田四郎忠常主從六人忠常賜御劔[重宝]入人穴今日不歸出幕下○同四日」 條云已尅仁田四郎忠常出人穴歸參往還經一日一夜也此洞挾兮不能廻踵不意進行又暗兮令痛心神主從各取松明路次始終水流浸足蝙蝠遮飛于顔不知幾千万其先途大河也逆浪漲流失據于欲渡只迷惑之外無他爰當火光河向見竒特之間郎從四人忽死亡而忠常依彼靈之訓投入恩賜御劔於件河全命歸參古老云是淺間大菩薩御在所往昔以降敢不得見其所令次第尤可恐乎」
友人(ともびと)いふ。胤長(たねなが)洞(ほら)に入(いつ)て大蛇(だいじや)を斬(きる)はさもあるべし。忠常(たゞつね)人穴(ひとあな)に入(いつ)て浅間神(あさまのかみ)にあふといふ事は。信(しん)じがたしといふ。余(よ)がいふ。桃源(とうげん)に漢晋(かんしん)を語(かた)り。井(ゐ)を穿(うがつ)て地仙(ちせん)にあふの類(たぐひ)。唐土(もろこし)にもかゝる例(ためし)多(おほ)し。天地(てんち)の廣大(くわうたい)なる。何(なに)ものかなしとせん。亦(また)怪(あやしむ)に足(た)らず。
友(とも)のいふ。上巻(くわん)に逸志(いつし)を引(ひい)て。鍾馗(せうき)の事を説(と)き。圖(づ)も又(また)巻端(くわんたん)に見(み)ゆ。和俗(わぞく)彼(かれ)を鍾馗(せうき)大臣(だいじん)と稱(せう)す。鍾馗(せうき)は進士(しんし)なり。その大臣(だいじん)と稱(せう)すること。更(さらに)據(よりどころ)なし。且(かつ)近世(きんせい)我(わが) 朝(ちやう)の士庶(ししよ)。端午(たんご)の幟(のぼり)にもつはら鍾馗(せうき)を圖(づ)するものは。玄宗(げんそう)の爲(ため)に虚耗(きよがう)の鬼(おに)を除(のぞ)くといへるに因(よる)歟(か)。しかれども鍾馗(せうき)死(し)する」 の日(ひ)。明皇(めいくわう☆○ゲンカウ)緑袍(みどりのほう)を賜(たまは)りて葬(ほうふら)し給ふ。恩(おん)を感(かん)じてたま/\靈(れい)を顕(あらは)し。虚耗(きよがう)の鬼(おに)を驅(かり)たるはことわりながら。露(つゆ)ほども好(よしみ)なきわが俗(ぞく)の爲(ため)に悪鬼(あくき)を除(のぞか)せんとするは。心もとなき事也。且(かつ)鍾馗(せうき)は落第(らくたい)の進士(しんし)なり。志(こゝろざし)を果(はた)さずして。自殺(じさつ)したるものならば。羨(うらやむ)べき人にあらず。是(これ)を五月の幟(のぼり)に圖(づ)して。子孫(しそん)の幸福(こうふく)延命(ゑんめい)を祝(しく)するは。いよ/\おぼつかなき所爲(わざ)ならずやといふ。余(よ)がいふ。鍾馗(せうき)の説(せつ)區々(まち/\)也。これを圖(づ)しこれを祭(まつ)ること。端午(たんご)の幟(のぼり)のみにあらず。いにしへは民間(みんかん)戸毎(いへごと)に。門(かど)に鍾馗(せうき)の画像(ぐわそう)を粘(はり)しとぞ今その遺風(ゐふう)遠三(ゑんさん)両國(りやうこく)に残(のこ)り。修驗者(しゆげんしや)より毎歳(まいさい)おくると見(み)えて」画像(ぐわそう)の側(かたはら)に山伏(やまふし)の名(な)。何(なに)がし院(いん)と写(しる)し。半紙(はんし)一枚(いちまい)に鍾馗(せうき)の圖(づ)を押(おし)たり。これを戸守(とまもり)と稱(せう)するとぞ。余(よ)往(わう)年花洛(くわらく)に遊歴(ゆうれき)せし日。遠州(ゑんしう)の友人(ともびと)に就(つい)て。戸守(とまもり)の鍾馗(せうき)一枚(いちまい)を藏(おさめ)得(え)たり。今(いま)按(あん)ずるに。是(これ)鍾馗(しようき)の像(ぞう)にあらず素盞烏尊(そさのをのみこと)を祭(まつ)る也。その誤來(あやまりき)たること久(ひさ)し。井沢氏(ゐさはうぢ)の俗説辨(ぞくせつべん)に。埀加艸(すいかさう)を引(ひい)て云(いはく)。
熱田(あつたの)民舎(みんしや)粘(はり)素尊像(すさのをのみことぞうを)而誤(あやまつて)謂(いふ)之(これを)鍾馗(せうきと)矣蟠龍子云(はんりうしいはく)。これは〓〓(ほき)に天竺(てんちく)吉祥(きちじよう)天王(てんわう)舎城(しやしよう)の王(わう)を。商貴帝(せうきてい)と号(ごう)す。娑婆界(しやばかい)にくだつて牛頭天王(ごづてんわう)といふとあり。牛頭天王(ごづてんわう)は素盞烏尊(そさのをのみこと)なり。神代巻(じんだいのまき)に。素盞烏尊(そさのをのみこと)八束(やつか)の鬚(ひげ)生(おひ)たりとあり商貴(せうき)と鍾馗(せうき)と同音(どうおう)」 なる故(ゆゑ)に。旁(かた/\)混(こん)じて畫(ゑがく)と見えたりといへり。もし果(はた)して素尊(そさのを)の像(ぞう)ならば。端午(たんご)の幟(のぼり)に画(ゑが)くこと笑(わら)ふべからず。この尊(みこと)は武勇(ぶゆう)逞(たけ)くまし/\て。山田の大蛇(おろち)を殺(ころ)し給ふことなど思ひあはすべし。これを端午(たんご)の幟(のぼり)に圖(づ)して。軍神(ぐんじん)と崇(あがめ)まつらんは。その故(ゆゑ)なきにあらず。今俗(こんぞく)素尊(そさのを)を訛(あやまつ)て鍾馗(しようき)とするをもて。足下(そこ)の議論(ぎろん)も出來(いでき)にたり。亦(また)玄宗(げんそう)の夢(ゆめ)に鍾馗(しようき)を見るといふものは。例(れい)のそら言(こと)にて。ふかく信(しん)ずるに足(た)らずこの事(こと)は。蟠龍子(はんりうし)叮嚀(ねんごろ)に諸書(もろ/\のしよ)を引(ひい)て。審(つまびらか)に辨(べん)じたり。因(ちなみ)にこゝに抄(せう)すべし。

宋沈括存中補筆談云宋征西將軍宗懿有妹名鍾馗。後魏有李鍾馗。隨將喬鍾馗。楊鍾馗然則鍾馗從來亦遠矣非起開元之時始有畫耳。鍾馗字一作鍾葵 ○續博物志云俗傳鍾馗起於唐明王之夢非也北史云尭暄本名鍾葵字辟邪。于勁字鍾葵。宋〓妹名鍾葵。非特明王時但葵馗二字異耳。又曰終葵菜名本草綱目云謹按爾雅云鍾馗菌名也。考工記註云終葵椎名也菌似椎形故得同稱俗畫神執一椎撃鬼故亦名鍾馗好事者因作鍾馗傳言是未第進」 士能啖鬼遂成故事不知其訛也。

かゝれば鍾馗(しようき)は菌(くさびら)の名(な)。終葵(しようき)は椎(つち)の名(な)也。その菌(くさびら)椎(つち)の形(かたち)に似(に)たる故(ゆゑ)に同稱(おなじとなへ)を得(え)たるを。俗(ぞく)鬼(おに)を撃(うつ)の神(かみ)。手(て)に椎(つち)をもつ圖(づ)を画(ゑか)き。椎(つち)に因(ちなみ)て是(これ)をも鍾馗(しようき)と稱(となへ)しを。好事(こうず)のもの鍾馗(せうき)の傳(でん)を作(つく)りて。いまだ第(たい)せざるの進士(しんし)。鬼(おに)を啖(くらふ)といふ。後世(こうせい)暁得(さと)らずして鍾馗(しようき)といふ進士(しんし)。實(じつ)に鬼(おに)を啖(くら)へりとおもふとぞ。且(かつ)鍾馗(しようき)と稱(せう)する人。唐(たう)以前(いぜん)も夥(あまた)あり。ひとり終南山(しうなんざん)の進士(しんし)のみにあらず。友(とも)のいふ。これらの説(せつ)をおもふに。わが俗(ぞく)玄翁(げんおう)毒石(どくせき)を打砕(うちくだく)故事(こじ)を取(とつ)て。今(いま)も石(いし)を碎(くだ)く鎚(つち)を玄翁(げんおう)と称(となふ)るに似にたり。」といふ。余(よ)がいふ。否(いな)玄翁(げんおう)は有世(うせい)の和尚(おせう)。鍾馗(しようき)は未世(みせい)の進士(しんし)。和漢(わかん)同日(どうじつ)の論(ろん)にあらず。
友人(ともびと)いふ。足下(そつか)好古(こうこ)の癖(へき)あつて。考索(こうさく)頗(すこぶる)くはし。惜(をしい)かなその著(あらはす)ところ無稽(ぶけい)の小説(しようせつ)のみ。などてこゝに意志(ゐし)を費(ついや)す事(こと)の久(ひさ)しきといふ。余(よ)がいふ。著述(ちよじゆつ)はわが生活(せいくわつ)の一助(いちぢよ)なり。この故(ゆゑ)にわが欲(ほつ)するところを捨(すて)て。人の欲(ほつ)するところを述(のぶ)。閲者(みるもの)一日(いちにち)の戲場(ぎじやう)にかえて。ふかく心をとゞむるとしもあらず。作(つく)るものみづから虚譚(きよだん)をことわれば。後俗(のちのぞく)を誣(しい)る患(うれひ)もなし。もし童蒙(どうもう)たま/\これに因(よつ)て。善(ぜん)を奨(はげま)し悪(あく)を懲(こら)す事あらば。自他(じた)の幸(さいはひ)といふべし。但(たゞ)作(つく)るものに」 習(ならひ)あり。古(いにしへ)に粗(ほゞ)その名(な)の聞(きこ)えたるものを撮合(さつかう☆○トリアハ)して。新(あらた)に一部(いちぶ)の小説(しようせつ)を作(つく)るに。善人(ぜんにん)を誣(しい)て悪人(あくにん)に作(つくり)かへず。悪人(あくにん)をたすけて善(ぜん)人に作(つく)りかへず。勸懲(くわんちやう)を正(たゞしく)して。婦幼(ふよう)に害(がい)なからんことをえらむ作者(さくしや)の心を用(もちふ)べきは。こゝにありとおぼし。水滸傳(すいこでん)に忠義(ちうぎ)の二字(にじ)を冠(かうふら)するがごとき。終(つひ)に後人(こうじん)の議論(ぎろん)を脱(まぬか)れず。こゝろ見らるゝ所為(わざ)にして。いと耻(はづ)べき事也かし。縦(たとひ)作(つく)り設(まうけ)たるものなればとて。義理(ぎり)に違(たが)へる談(たん)は。人も見るに堪(たへ)ざるべく。われも實(じつ)に作(つく)るに忍(しのば)ず。しかれども余(よ)駑才(どさい)なれば。おもふが万分(まんぶん)の一(いつ)もようせず。古人(こじん)の名(な)たゝる草紙(さうし)はさら也。近曽(ちかごろ)他人(たにん)新編(しんへん)の佳作(かさく)を閲(みる)」毎(ごと)に蹴然(しくぜん)としてその及(およば)ざるをしる。假初(かりそめ)の作物語(つくりものがたり)すらかくの如(ごと)し。まいて先哲(せんてつ)未發(みはつ)の説(せつ)をもて。後人(こうじん)の惑(まど)ひを觧(とか)ん事は。わがよくする所(ところ)にあらず。こゝに録(ろく)する鍾馗(しようき)の説(せつ)は。井沢氏(ゐさはうぢ)の辨(べん)に見えて。
よく人のしるところなれど。足下(そこ)にいはれて答(こたへ)ざらんも腹(はら)ふくるゝわざなれば。ものなが/\しう書(かい)つけぬ。閲者(みるもの)はいとうるさくて。こはなくもがなとやいふべからん。 
 

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