流行歌

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戦前昭和流行歌史・・・
 

雑学の世界・補考

流行歌1

ある時期に庶民が愛好した歌曲。流行した時代や地域は、商品の流通機構、交通網の発達、映画、レコード、ラジオ、テレビジョンなどマスメディアの浸透状況によって異なる。なお、1910年代(大正中期)までは「流行唄」と表記されることが多く、「はやりうた」と読まれていた。「流行歌」の文字がレコードのレーベルに現れるのは23年(大正12)、そして30年代(昭和初期)には「りゅうこうか」という呼称が定着するが、33年(昭和8)から「歌謡曲」ともいわれた。
奈良時代の童謡(わざうた)をはじめ、古代や中世の流行唄(はやりうた)は数多く残っているが、色里町中(いろざとまちじゅう)はやり歌として著名なものは、1650年代(明暦・万治)から流行した京都・島原の「投(なげ)ぶし」、大坂・新町の「籬(まがき)ぶし」、江戸・吉原の「つぎぶし」である。しかし広範囲に及ぶのは、1770年代(明和)の「おかげまいりの歌」や「潮来(いたこ)節」からであろう。1840年代(弘化・嘉永)の「伊予(いよ)節」「よしこの」「大津絵節」、1850年代(安政)以降の端唄(はうた)などがこれに続くが、同時期から流行し始めた「都々逸」(どどいつ)は、昭和初期まで長い生命を保った。
明治における最初の大流行歌は、「オッペケペー」である。1889年(明治22)川上音二郎が京都・新京極の高座で歌いだし、数年を経ずして全国に広まった。この曲に刺激されて生まれたのが「ヤッツケロ節」や「欽慕(きんぼ)節」で、とりわけ日清(にっしん)戦争の最中には「日清談判破裂して」がもてはやされた。こうした歌を街頭で歌ったのが壮士や書生であったから、「壮士歌」とか「書生節」とよばれたが、やがて月琴(げっきん)を用いた 「法界節」や、花柳界からおこった「さのさ」「東雲(しののめ)節」が全国で愛唱される。「鉄道唱歌」「戦友」「ラッパ節」も大流行。1910年代(大正)になると、浪花節(なにわぶし)の影響を受けた「奈良丸(ならまる)くずし」「どんどん節」が、そして14年(大正3)から「カチューシャの唄」が日本列島を風靡(ふうび)する。この歌によって、松井須磨子(すまこ)の人気は急上昇した。「鴨緑江(おうりょくこう)節」や「磯(いそ)節」のあと、22年の「枯れすすき」と24年の「籠(かご)の鳥」によって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。
映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、「東京行進曲」や「女給の唄」が大きな話題となる。しかもこれらの歌は、電気吹き込みで音色が一段と改良されたレコードにより、家庭内に浸透した。その結果、三つの問題が派生してくる。第一は教育問題である。幼い子供たちが無意識に口ずさむため、人間形成に悪影響を与えるときめつけられ、その防止策が真剣に検討された。次に、1930年(昭和5)を境としてレコードの売上げは飛躍的に伸びだしたので、レコード・メーカーは流行歌の製作に重点を置き、音楽産業への傾斜を深めていく。そして、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売される。従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好(しこう)を左右する原動力となる。その次は、著作権意識の高揚とも絡むが、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、従来にない新しい職業が誕生したことである。さま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞、雑誌も参加してくる。
「島の娘」や「東京音頭(おんど)」などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、「忘れちゃいやヨ」が大ヒットした。軍歌やラジオ歌謡からも流行曲が現れてくる。また映画は、 「愛染かつら」や「誰(たれ)か故郷を想(おも)はざる」によって、主題歌の強さを誇示した。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
このころから外国楽曲の愛好者が増え、「ダイナ」や「雨のブルース」が歌われる。この流れは第二次世界大戦後になってますます顕著となり、ブギ、マンボ、サンバなど、さまざまなリズムの曲が生まれてくる。メロディーに終始していた日本人が、豊かな音楽性を身につけ始めた。美空ひばりから山口百恵(ももえ)や松田聖子(せいこ)に至る十代歌手の出現は、その実証となろう。さらに1951年(昭和26)から始まった民間放送や、53年に放送が開始されたテレビジョンは、流行歌の普及に拍車をかけた。65年のグループ・サウンズの登場、66年のフォーク・ブームなども幸いし、テープ・レコーダーの需要はうなぎ上りとなり、弱電産業は好業績を続ける。が、73年の石油ショック以後にニューミュージックが台頭してからというもの、それまで「歌謡曲」とよばれていた流行歌に、「演歌」という名称が与えられるようになった。しかしニューミュージックも10年とは続かなかった。ピンク・レディーの驚異的な流行を最後に、日本の流行歌は80年代には曲がり角にさしかかった。カラオケ・ブームとも相まって、レコードの生産枚数や放送の視聴率は頭打ちとなった。とくに演歌は不振で、当時のレコード売上げで100万枚を超えたのは 「矢切の渡し」と「命くれない」のわずか2曲にすぎなかった。また、年末恒例のNHK「紅白歌合戦」では、60-70年代に80%を上回る視聴率を確保していたものが、86年以降は50%前後と低迷している。
かつて流行歌は庶民の生活を反映し、「涙」とか「悲しい」という歌詞を多用してきたが、高度成長のころからテーマは「愛」や「恋」に変わった。そして大量生産、大量消費を繰り返しているうちに、1990年代を迎え、様相は一変する。CD(コンパクトディスク)ではミリオンセラーが続出しはじめ、流行歌は若い世代の生を謳歌(おうか)する力強い歌声になった。ニューミュージックはロックやジャズをも取り込む。若者の生活と強く結び付き、「音楽人間」とささやかれるほどである。もっとも、嗜好(しこう)の多様化や、イヤホンの普及によって流行の実態は把握しにくいが、カラオケの凋落(ちょうらく)と反比例するかのように、変質した流行歌は若い世代の支持を得ていくであろう。  
   
流行歌2

一時期広く世間に流布し、多くの人に好まれ歌われた歌。
1.最広義には有史以来流行した歌のこと。流行歌を「流行(はやり)の歌」として概念的に捉えた場合の考え方で、その系譜は文献上でもおよそ平安時代にまで遡ることができる。今様などがその代表例。その観点から考えると、本項目でも本来的には江戸時代以前のものについても歴史的に検証されるべきであるが、通常「流行歌」といった場合この意味で使われることはきわめて稀であるため、ここでは言及を避ける。
2.広義には日本の大衆歌謡一般のうちレコードが発売されるようになってからの、商業的に「流行」つまりヒットさせることを目的に作られた、独唱または重唱の演奏時間が数分以内の歌曲のこと。どの世代にも愛好される「国民的歌謡」を指すイメージが強い言葉である。日本国外の大衆歌謡についても、同様の傾向を持つものを「流行歌」と呼ぶことがある。
ただし大衆歌謡の分野が多様化して久しい現在では、そもそも総括して述べようとすると極めて広範多岐にわたってしまう上、世代間での断絶が著しくなって「国民的歌謡」という概念が崩壊、子供向けテレビ番組のテーマソングなど一部の例外を除いて成り立たなくなっていることから、実質死語と化してしまっている。
3.狭義には日本の商業制作による大衆歌謡のうち、欧米のフォークソングなど新しい音楽が流入して分野が多岐に分かれる以前、昭和初期-30年代初頭までのもののこと。
「流行歌」の名称は現在の音楽分野名と違い、2の総称的な意味からの派生によるもので、最初から「流行歌」という分野が存在したわけではない。当時のレコードなどに「流行歌」と書いてあるのもすべて2の意味である。3の意味で使われ始めた時期については詳らかでないが、戦後「流行歌」の時代が終焉を迎え分野が多岐に分かれた後、この時代の大衆歌謡にも分野名をつける必要性が出て来たことから便宜的に使われていたものが定着したと考えられる。
また流行歌と同義で使われることがある言葉に「懐メロ」(仮名で「ナツメロ」「なつめろ」とも)がある。しかし「懐かしい歌」という曖昧な定義があだとなって年々指す範囲が広くなっていること、レコード会社が異なる定義の「懐メロ」を安易に乱発したりしていることから、定義が人によってばらばらの状態になっている。このため現在では、流行歌同好会の名称などの限られた用途以外では、多くの場合敬遠される傾向がある。
特徴
流行歌は日本のポピュラー音楽の嚆矢をなす存在である。明治以降の西洋音楽の浸透とレコード技術の移入、そして大正時代から昭和初期にかけての大衆文化の発達に伴い、庶民の娯楽として登場した。
流行歌の「流行」たるゆえん、あるいはこの現象に先鞭もしくは弾みをつけた背景には、それまでの口伝えによる歌の伝播から飛躍して、録音再生技術の定着と共にラジオ放送の開始(大正14年・東京放送局本放送-15年・日本放送協会設立)という新しいメディアの作用が大きく影響していると考えられる。
「流行歌」の特徴を述べると以下のようになる。
音楽性
クラシック音楽を基礎とし、極めて器楽的である。使用楽器も室内楽のものに準じることが多い。ギターが使用されることもあるが、クラシックギターである。譜割りも現在のポピュラー音楽と違い一定の規則を守っており、その中で個性を出すことに作曲家の才能が試されていた。 後世からは「演歌」と混同されることが多いが、音楽性の面から見ても大きな誤りである。流行歌の音楽性は現在の演歌・歌謡曲に加え、クラシックの声楽曲などさまざまな分野の要素が渾然一体となった様相を呈しており、演歌以前の独立的な音楽性が認められるからである。
制作
現在のように固定した1人のプロデューサーや制作集団がいるわけではなく、レコード会社の「文芸部」と呼ばれる部署が制作指揮を執った。これに応えて作詞家・作曲家が曲を作り、歌手が歌うという体制であった。 なお当時は作詞家・作曲家・歌手の地位や権利を保護する仕組みがなかったこともあり、「専属契約」という形でレコード会社の「社員」として扱われていた。このため作詞家・作曲家・歌手が移籍する際には「入社」「退社」と表現することが多い。
発表
全てSPレコードによる。音声は当時まだステレオ録音がなかったためモノーラルである。SPレコードの録音可能時間が4分程度と短いため、アルバム形式での発表はなく、すべてシングルでの発表であった(アンソロジー形式のものもあるが途中で曲が切られる)。
また両面で歌手が異なる場合がほとんどである(映画の主題歌や企画盤ではこの限りではない)。ただし組み合わせについては全く不規則というわけではなく、この歌手の裏にはこの歌手、という規則性がある程度成り立っている。
なお、発表に当たっては変名を使うのが普通であった。後述するように流行歌の地位は低いものであり、歌うことに対し体裁が悪いという思いがあったためである。特に新人歌手は会社を掛け持ちすることが多かったため、掛け持ちが露見しないようさまざまな名前を使うことが多かった。楠木繁夫が本名の「黒田進」も含めて55個もの名前を使用していたのは有名である。いずれにせよ正体を隠すための習慣であり、「芸名」ではなく「変名」と称するゆえんである。
地位
発生以来、庶民の娯楽として圧倒的な支持を受け、「唄は世に連れ、世は唄に連れ」ということわざまででき、流行歌はその時代の世相を映す鑑として、多くの人々に愛され口ずさまれるようになった。
しかし一方で音楽愛好家の間にはクラシック音楽を至上として考え、大衆の中から生まれて来た流行歌を卑俗なものとして蔑む傾向が強くあり、時に過剰な排斥や誹謗中傷が行われることもあった。だが、電気吹込み時代の昭和流行歌はクラシック・洋楽系演奏家による歌唱が主流となり、当時の中間層の娯楽である歓楽街、家庭でも聴けるような流行歌も作られている。ただし、音楽学校出身者やオペラ歌手が流行歌をレコードに吹込む時代とはいえ、音楽学校卒業前に流行歌をレコードに吹込むことは禁止された。特に音楽学校は流行歌でのアルバイトを禁じ、事実東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に通っていた藤山一郎は一時活動休止を余儀なくされ、彼の後輩である松平晃は同様のアルバイト発覚により退学している。
それ以外にも安易に身を売る女性などをテーマにした唄もあることから、風紀上好ましくないと言う意見も多かった。このため学校などで児童・生徒が唄うことは禁止されていた。 戦後もその傾向は続き、昭和24(1949)年にまだ12歳にすぎない美空ひばりがデビューしたとき、あんなに幼い少女に流行歌を歌わせるとは何事かという批判も少なからずあったという。 流行歌がその価値を正当に認められるようになるのは、流行歌の時代が終わってから10年ほど経ち、テレビが家庭に普及して「懐メロ番組」が組まれ、ブームとなって以降のことである。
歴史
流行歌以前
近現代日本での大衆歌謡の発祥は、明治維新直後までさかのぼることが出来る。
江戸時代の節をつけた瓦版売り「読売」の伝統が、自由民権運動の政治批判・宣伝に用いられ、川上音二郎の「オッペケペー節」をきっかけに壮士演歌として発展、社会問題を扱った「ダイナマイト節」「東雲節」、条約改正問題の「ノルマントン号沈没」、社会風刺の「のんき節」、文芸物の「不如帰」などが添田唖蝉坊らによって作られた。日露戦争前後から、庶民の心情がテーマになり、演歌が艶歌とも言われるようになった。これらの歌はすべて自然発生的なもので、「商業性」を旨とする昭和流行歌の性質には程遠いものであったが、神長瞭月ら演歌師と呼ばれる人々がバイオリンの伴奏で歌って人気を集め、書生節の隆盛による大衆歌謡の基礎が作られていった。
大正期には中山晋平が西洋音楽の手法で劇中歌とはいえ、流行歌を作ったことは画期的であった。「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などの洋風の旋律は新鮮なイメージをあたえ、インテリ層に受けた。また「船頭小唄」はヨナ抜き短音階で作られ、昭和演歌の基本になっている。これらの歌は「流行り唄」として、演歌師たちが歌い広めた。ヨーロッパのオペラはすでに明治時代から紹介されており、帝劇歌劇部が誕生している。同歌劇部からは、原信子、清水金太郎らがイタリア人音楽家ヴィットリオ・ローシーの下でオペラ活動に従事した。それが、浅草オペラとして花が咲き、田谷力三・藤原義江ら声楽家が育った、東京の浅草を拠点にした浅草オペラが人気を集めた。人々は「カルメン」の「闘牛士の唄」、「リゴレット」の「女心の唄」などを歌い、演歌師もアメリカの軍歌から「パイノパイ節」、インド民謡から「ジンジロゲ」などを創作、陸海軍軍楽隊や「ジンタ」と呼ばれる宣伝用の音楽隊の活動、ピアノ、ハーモニカの普及などの動きで、日本に海外の音楽が根付き流行歌の母体が生まれていく。また1925(大正14)年のラジオ放送も、音楽普及のメディアとして大きな役割を果たした。
一方、1890年代に録音媒体としてレコード技術が移入され、音楽の録音とその発売という商業活動が始まることになったが、それをもってしてもまだ商業性に乗じた歌は生まれなかった。この頃のレコード吹き込みの内容が講談・落語・浪曲・邦楽などそもそも音楽以外のものが圧倒的であったこと、大正時代に入ると、「流行り唄」は書生節レコードとして、オリエント、帝国蓄音器(後のテイチクとは異なる)ニットーレコードなどから、演歌師たちのレコードが発売されている。また大衆歌謡のレコード制作の態度そのものも「あくまで流行している歌を吹き込んだだけ」、つまりは演歌師たちの歌を聞きつけてレコードにするというもので、レコード会社が能動的に歌を企画・製作するわけではなかった。大正初期、松井須磨子による「カチューシャの唄」や、鳥取春陽の「籠の鳥」「船頭小唄」などは映画主題歌として商業的に成功した例外的な存在であった。
なお、この時期の大衆歌謡を流行歌と区別して「流行り唄」「はやり唄」と呼ぶことが多い。
二村定一と佐藤千夜子
「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。外資系レコード産業の成立によって、電気吹込みによるレコード歌謡が誕生し、その中で浅草オペラの出身の二村定一が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、ナンセンスなコミックソングを歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在のイージーリスニングにあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「あお空」「アラビアの唄」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。
一方、声楽家であった佐藤千夜子は、ビクターで昭和3年発売の「波浮の港」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「東京行進曲」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。
この2人の画期的なところは佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語の明瞭度に定評があった。それまで歌手といえば、書生節の街頭演歌師であった。洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもある。その後、佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出した。通常、母音に響だけのビブラートを使って声を張り上げることが多く、事実多くの歌手がそのように歌っている。しかし、この唱法は日本語が不明瞭であり、感情表現を示す大衆歌謡では大げさに過ぎそぐわないことが多い。 二村は歌唱力に限界があったこと、佐藤は歌劇を歌うように無理をした歌唱になってしまったことから、結果的にこれらの試みは充分な結果をもたらすことは出来なかったが、のちに藤山一郎が藤原義江のオペラのベルカントとは違う、リートのベルカントを付し、レガートな共鳴の響きで歌う声楽技術の歌唱法を研究し、正統派美声系流行歌を生み出す基本となった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。
これにより2人のレコードを制作していたビクターは、作曲家に中山晋平・佐々紅華。作詞家には時雨音羽・堀内敬三を擁し、他社を押さえて大きく躍進することになった。
藤山一郎の登場と第一世代
佐藤のヒットから2年後の昭和6(1931)年、コロムビアでアルバイトとして流行歌の制作に携わっていた古賀政男は、同じくアルバイトであった東京音楽学校の学生・藤山一郎と組んで「酒は涙か溜息か」を発表した。ごく短い歌であったが、それまでの大衆歌謡と全く異なる音楽性、そして電気マイクの特質を利用した「クルーン唱法」による情感あふれる歌唱に人々は魅了され、同曲は大きなヒットを飛ばした。藤山は本名増永丈夫といって音楽学校が将来を期待するクラシック音楽生だった。声楽技術の正統な解釈による歌唱は日本語の質感を高め、古賀政男のギター曲の魅力を広めることになった。
これがきっかけとなり、同様の手法による歌が各レコード会社で制作されるようになり、歌手も次々とデビューした。当初「流行小唄」と言われたが一時的なもので、やがて「流行歌」の名称が定着、世間に瞬く間に広がることとなった。
初期の頃は新興分野ということもありレコード会社の勢力も歌手の人気もはっきりしなかったが、昭和11年頃になると大体の勢力範囲が決まり始め、以下の3社が大手の中でも特に大きな勢力として天下を三分することになる。
コロムビア / 松平晃、中野忠晴、伊藤久男、関種子、ミス・コロムビア、淡谷のり子
テイチク / 藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫
ポリドール / 東海林太郎
この他にも大手といえる規模の会社として、ビクターとキングがあった。しかしビクターはかつて主力としていた作曲家の中山晋平が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れたこと、昭和8(1933)年ビクターに入社した藤山一郎は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、徳山l、四家文子らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「涙の渡り鳥」「島の娘」「無情の夢」を作曲した佐々木俊一の台頭、日本調の小唄勝太郎らがビクターを支えていた。昭和15年以後は灰田勝彦の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。
キングは既に流行歌手として実績を持っていた東海林太郎と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。
またこれにともない、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では古賀政男・江口夜詩・古関裕而・服部良一らを筆頭に、竹岡信幸、阿部武雄などが、作詞家では西條八十・佐藤惣之助を筆頭に、サトウ・ハチロー、藤田まさとらが活躍するようになった。
このような状況の中で、流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。まず、当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「旅の夜風」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。
また「赤城の子守唄」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている名曲が多い。
さらに「天国に結ぶ恋」・「肉弾三勇士」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「波浮の港」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。
「祇園小唄」・「茶切節」・「東京音頭」といった「新民謡」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・市丸・美ち奴・新橋喜代三など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「ダイナ」・「酒が飲みたい」・「別れのブルース」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、笠置シヅ子、江利チエミ、雪村いづみらに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。
時代が満州事変から日中戦争へと軍国主義化に進むと、それに呼応して、当時「新天地」とされた満州や中国大陸への憧れを「上海の花売娘」・「満州娘」など「大陸歌謡」という一ジャンルに仕立て上げたりと、さまざまな側面からその世界を拡大し、各々の個性を競い合ったのである。
第二世代の出現・台頭
流行歌の繁栄に伴い、新人歌手の起用も次第に増加してきた。特に昭和10(1935)年以降、それまでのスターダムに続く歌手が相次いで起用され、「第二世代」とでも呼ぶべき一団を作り出した。この時期は藤山一郎・東海林太郎を頂点にし、ディック・ミネ、伊藤久男、灰田勝彦、霧島昇、淡谷のり子、渡辺はま子、二葉あき子らが外国ポピュラーソング、映画主題歌、軍国歌謡などを歌ってヒットを飛ばし戦前の流行歌を豊かにしている。デビューした歌手としてコロムビアの霧島昇、ポリドールの上原敏、田端義夫、キングの岡晴夫などがいる。この時代から登場する歌手は、音楽学校出身者が多かった時代、それとは無縁なところから出てきたことになる。これが演歌系歌謡曲歌手の基本となる。彼らはクラシック・洋楽系の先輩歌手たちと共存、もしくは先輩歌手にとって代わり、流行歌の戦前における最盛期を盛り立てることに貢献した。
この時期の3社の陣容を以下に示す。
コロムビア / 霧島昇、松平晃、中野忠晴、伊藤久男、ミス・コロムビア、二葉あき子、淡谷のり子、渡辺はま子、李香蘭(山口淑子)
テイチク / 藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫 (藤山一郎は昭和14年コロムビアへ移籍、楠木繁夫はビクターへ移籍)
ポリドール / 東海林太郎、上原敏、関種子、青葉笙子、田端義夫
この時は戦前で最も流行歌が栄えた時期であった。政治的には日中戦争の勃発、治安維持法制定や検閲基準の改訂を初めとする国民統制の強化など暗い話題が相次いでいるが、社会自体にはまだ余裕があり、庶民は華やかな生活を謳歌することが出来た。
戦時中の暗黒時代
しかし戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。。昭和12(1937)年の「露営の歌」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めたのである。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が発売禁止になり統制が厳しくなった。昭和15年の「皇紀二千六百年記念」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。
戦時歌謡の優勢が決定的となったのが、昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡だらけとなって、それまで何の問題もなかった抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった。昭和18(1943)年頃になると、戦況の厳しさに比例するかのように戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行き、完全に音楽性が崩壊することになる。そんな状態であったが、「新雪」・「高原の月」・「勘太郎月夜唄」など名曲がわずかながらも作られ、戦時歌謡よりも支持を得た。
レコード産業自体にも統制の手が及び、敵性語追放の名の下にレーベル名や社名を強制変更されたり(「コロムビア」→「ニッチク」、「キングレコード」→「富士音盤」など)、強制合併させられたり、挙句の果てには「不要不急産業」として工場を無理矢理軍需工場に転換されたりと、事実上まともな活動の出来る状態ではなくなってしまった。昭和19(1944)年には「月夜船」以外流行歌は発表されなくなり、この年の7月には人気歌手であった上原敏がニューギニアで戦没、戦前の流行歌はさまざまな形で戦争の被害を受けた。
そして昭和20(1945)年になり、東京大空襲によって東京が壊滅的な打撃を受けると、4月新譜をもってレコードの製造も停止し、完全に休眠状態になった。
戦後の躍進と第三世代
昭和20(1945)年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を決定した。これにより戦争という桎梏のなくなったレコード業界は、さっそく復活の狼煙を上げ、各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始めた。そして翌年から早くも活動を再開したのである。
この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、美空ひばりや並木路子など、「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と霧島昇がデュエットした「リンゴの唄」は戦後の自由な雰囲気を謳歌する曲として有名である。
だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは藤山一郎などごくわずかな歌手のみである。
一方、第二世代の歌手には逆に好機となった。昭和10年代中盤デビューの彼らは、まだ若い上に充分に活躍する前に戦争に突入しており、力が有り余っていた。これが正の方向に働き、新時代でも活躍が可能になったのである。
また、レコード会社の陣容も変化した。コロムビア・テイチクの強さは変わらなかったが、ポリドールが東海林太郎の移籍と上原敏の戦病死により大きな柱を失い沈下してしまう。代わりに岡晴夫など第二世代の歌手を多く擁していたキングが台頭し始めた。この時期の3社の陣容は以下の通りである。
コロムビア / 藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、近江俊郎、美空ひばり、二葉あき子、山口淑子(旧李香蘭) (渡辺はま子はビクターへ移籍)
テイチク / 田端義夫、ディック・ミネ、淡谷のり子、菅原都々子
キング / 岡晴夫、小畑実、津村謙、松島詩子
この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と奈良光枝のデュエットによる「青い山脈」など、戦後流行歌の名曲が数多く生まれた。
藤山一郎のレコード歌手引退
このように当初は比較的融和的であった戦前派と戦後派であったが、次第に若い戦後派の勢力が増し、音楽性も戦後の明るさを強調する目的から戦前とは違う発展を遂げ始めた。
これに戸惑ったのが戦前派の歌手である。彼らの多くは昭和28(1953)年を過ぎる頃からヒットが出にくくなってきた。
特に流行歌界に衝撃を与えたのが、藤山一郎のレコード専属歌手としての引退宣言である。初期デビューの歌手の中で唯一最前線に立っていた藤山も、昭和28年以降なかなか目立ったヒットが出づらくなっていた。さらに彼自身、今の流行歌界の現状に強い不信感をおぼえ「今の唄はパチンコ・ソングが多い」と批判していた。このようなことから昭和29(1954)年に引退を決意し、23年間のレコード専属歌手生活に終止符を打ったのである。そして、本来の藤山一郎の音楽に戻り、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した。
これにより戦前派の歌手は昭和30年代半ばまで紅白歌合戦に出場していたとはいえ、ヒットの表舞台からほぼ去り、流行歌界は演歌系歌手の戦後派の天下となった。
音楽性の変容
戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは鶴田浩二、三浦洸一、テイチクは三波春夫、コロムビアは島倉千代子、村田英雄がそれぞれデビュー。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎や三橋美智也をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また石原裕次郎やザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場した。
このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「演歌」や「歌謡曲」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。
演歌の分離と終焉
流行歌の変容は昭和35(1960)年頃に差しかかると完全に歯止めが利かなくなり、なし崩し的に解体が始まった。そして昭和38(1963)年、コロムビアの一レーベルであったクラウンが「日本クラウン」として分離独立し、「演歌」を専門とするようになる。流行歌が分裂した瞬間であった。
またその前年、昭和37(1962)年にはSPレコードの生産が打ち切られた。昭和30年代に入って急激に生産量が増えたLPレコードにSPレコードは圧倒されていたが、ここに至ってついに駆逐されるに至ったのである。現象としては新旧技術の交替であり偶然時期が一致したにすぎないが、SPレコードは長らく流行歌の担い手であっただけに、流行歌の命脈が尽きかけていることを暗示する出来事となった。
そして分裂と媒体消滅に追い打ちをかけるように、それと同時進行的に英米からザ・ビートルズに代表される新しい音楽が大量に流入し、音楽界は一気に多様化することになる。このようなことからもはや日本の大衆音楽は流行歌時代のようにひとくくりに出来るものではなくなり、事実上「流行歌」は終焉を迎えたのであった。
そして流行歌にたずさわった歌手や作詞家・作曲家たちも、演歌歌手に転向したり歌謡曲と違う分野に転身したりと散り散りになり、やがて多様化する音楽分野の波の中に埋没して行ったのであった。
戦時歌謡
流行歌に特徴的なこととして、上述した通り太平洋戦争の時代を通ったために、戦争と密接に関わり合ったということがある。その具体的な産物が戦争自体や軍の進撃を讃美したり、戦時体制などのプロパガンダを歌ったりして、士気高揚を狙う「戦時歌謡」である。昭和12(1937)年頃から姿を現し、16年の太平洋戦争開戦後一気に流行歌の世界を乗っ取った。
「士気高揚」ということで極めて勇ましいイメージがあるが、その一方で開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「ああ我が戦友」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また塩まさるの「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった。
しかし昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦後、このような叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止された。さらに当時流行歌の大半が戦時歌謡と化していたため、流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれることになる。末期になると残酷な歌詞も平気で使われるようになり、結果的に音楽としての価値を損なう結果となった。
戦時歌謡は戦争の産物であるため戦中の作がほとんどであるが、戦後もシベリア抑留に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「異国の丘」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「ああモンテンルパの世は更けて」、引き上げ船を歌った「かえり船」など少数ながら作例がある。また、ジャワの民謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が逆輸入されたことも見逃せない。
これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られている。ただし誰でもよいわけではなく、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、古関裕而や江口夜詩がその代表格となった。一方、服部良一のようにモダンな作風の作曲家は不遇な目に遭わされることになった。
しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した「比島決戦の唄」について、「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」と証言している(古関裕而 「鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝」主婦の友社 1980年)。
戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「国民歌謡」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「椰子の実」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「愛国の花」・「隣組の唄」・「めんこい仔馬」・「国民進軍歌」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。
「大陸歌謡」との関係
戦後一時期、「大陸歌謡」と呼ばれる歌謡群が戦時歌謡と同一視されていたことがある。大陸歌謡とは、日本が戦争中に直接もしくは間接的に占領した満州や上海など中国大陸を舞台にした歌で、地名や文物を交えながら、新天地を求めてさすらう旅人の哀愁や望郷の念、また男女の別れや慕情を歌った叙情歌である。舞台から「満州物」「上海物」、この分野を打ち立てた松平晃の「急げ幌馬車」の影響でよく幌馬車がアイテムとして使われたため「幌馬車物」とも呼ばれる。
この大陸歌謡は戦争で日本が大陸進出をしなければ、およそ作られることもなかった歌であることも確かであるが、戦時歌謡と違って戦争に関する明確な描写が存在せず、またそれが歌の目的でもないことに留意すべきであろう。ただ単に舞台が日本の占領地であるというだけで、本質的には純粋な叙情歌・恋愛歌なのである。
事実昭和9(1934)年の発生時から一定の数を保って来た大陸歌謡は、開戦で戦時歌謡が優勢となる16年前後から急激に数を減らし、敗戦を待たずに消滅している。このことは当時から大陸歌謡が戦時歌謡と別物と見なされていたことを物語っている。
また大陸歌謡の叙情は、戦後発生した演歌の大きな主題の一つである「北へのさすらい」の原形であるとも言われる。この点も戦後その痕跡を残さなかった(残せなかった)戦時歌謡と大きく異なる。
「軍歌」
戦時歌謡は一般的に「軍歌」とも呼ばれることが多い。しかし「軍歌」の定義は本来は「軍隊の中で作られて歌われた歌」のことなので、商業的に外部で作られた戦時歌謡は本来的にはあてはまらず、単に戦争関係だからと十把一からげにして呼ばれているだけに過ぎない。 この「軍歌」呼ばわりにより、流行歌の知識が不足している人よりあらぬ誤解を受けることも多いことから不快感を示すファンも多く、歌手でも東海林太郎は自分の「麦と兵隊」が「軍歌」呼ばわりされるのを嫌い「あれは戦時歌謡で軍歌ではない」とわざわざコメントしたほどである。
   
流行歌3 藤山一郎

日本の演歌は、明治時代の自由民権運動の産物でした。壮士演歌ともいって、藩閥政府に対する批判、政治宣伝のために歌われました。歌は一過性ですから、歌ってしまえば終わりです。弾圧、処罰を逃れられるということで政治主張を歌で表現したのです。添田唖蝉坊(あぜんぼう)(1872-1944)などが有名です。
やがて、壮士演歌から書生節に変わっていき、内容も政治批判だけではなくなってきます。特に日露戦争前後になってきますと、政治的なメッセージよりもニュース的なもの、恋愛事件や心情的なものを主題とした艶歌に変わってくるのです。
艶歌の「艶」というのは、心情、情緒的なものをあらわしています。このころの艶歌は、音楽的には確立しておらず、メロディーは日本の俗謡、教会の賛美歌や外国の行進曲などから借りた代用の時代です。
艶歌は、当時のいわゆる流行歌ですが、その流行歌を、大正時代に入って、中山晋平(1887-1952)が近代化します。この場合の近代化とは洋楽の手法で作曲することです。中山晋平は現在の東京芸術大学ピアノ科の卒業生で、島村抱月の書生をしながら苦学しました。芸術座公演の劇中歌・「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などを作曲し、人気を博します。西洋音楽の技法で日本人の心情を旋律にしたことは画期的でした。
その後、野口雨情とコンビで「あの町この町」「雨降りお月さん」など数々の童謡を作曲しますが、「船頭小唄」(大正10年)で歌謡曲の原型を作りました。さらに、「波浮の港」(大正13年)などを次々と発表し、「東京行進曲」(昭和4年)は佐藤千夜子((1897-1968 東京芸大声楽科中退)が歌って25万枚と大ヒットします。昭和流行歌は中山晋平の「新民謡」や流行歌で幕を開けたのです。
中山は、日本各地に残っていた民謡、俗謡などを調査し、日本人がもっている郷愁、その音律を洋風のメロディーにしました。ですから「新民謡」といわれたのです。中山晋平以後、日本人が西洋音楽を咀嚼して日本の大衆歌を作曲したことを皮相な和洋折衷と批判せずに積極的に評価すべきだと思います。
「船頭小唄」は、西洋音階の四度(ファ)と七度(シ)を抜いたヨナ抜き五音短音階でつくられています。日本人がファとシの音を出しにくいので、学校唱歌を作る時などにはヨナ抜き音階が多く使われました。中山晋平以後、その手法で流行歌を作るようになると、和音とハーモニーが薄くなるという批判もでました。
西洋音階は平均律ですから、例えば、ドとレの間は、半音が上がるか半音下がるかの音があるだけで、表現できる音は一つしかありません。鍵盤で示せば白と黒で決まっているわけです。ところが、邦楽などに使われる日本の音階は西洋音階と違って、たとえば、ドとレの間に無数の音があります。ですから、日本の音は、ピアノなどはっきりと平均律で決められた楽器では表現しにくいところがあるわけです。日本の民謡を正確に五線譜に書けない場合があるのはそのような理由があるからです。
中山晋平は、クラッシク音楽の教育を受け、日本人の根底にある心情を洋風のメロディーで表現しましたが、街頭演歌手の立場から洋風の艶歌を確立したのは、「籠の鳥」(大正11年)を作曲した鳥取春陽(1900-1932)です。鳥取は添田唖蝉坊に師事し、街頭演歌師として活動を始め、独学で作曲を修得しました。
鳥取は昭和に入るとジャズのリズムなどを取り入れて、斬新なメロディーを作り、たとえば、「籠の鳥」は古賀政男より早く、3拍子のリズムを使いました。この人が残した楽譜から大村能章、江口夜詩など、多くの作曲家が影響を受けました。
大正時代の流行歌は、街頭演歌手が歌っている歌をレコード会社の人が聴いてレコードに吹込ませるという形をとっていました。早速、レコード会社は、洋風の街頭演歌を作って歌う鳥取春陽に眼をつけたのです。その意味でも鳥取の「籠の鳥」は画期的でした。
中山晋平作曲の「船頭小唄」も、鳥取の歌で広まりました。鳥取がヒコーキ印の帝国蓄音器で吹込んだレコードでは新しい伴奏形式も試みています。大正11年から13年の頃に「船頭小唄」は各レコード会社でいろいろな演歌師によってレコードに吹込まれましたが、鳥取春陽のレコードは、それまでのバイオリン1本の録音ではなくて、昭和に入ってからの完全なオーケストラ伴奏ではありませんが、小編成のオーケストラ伴奏をつけたのです。

大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、その内、言葉としては演歌、艶歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
歌謡曲という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で歌謡曲という言葉が使われています。歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
NHKがラジオ放送を始めて間もなく昭和2年頃に、歌謡曲が流行歌を指す放送用語として、便宜上、使ったのが最初だといわれています。「ちゃっきり節」の作曲者で日本民謡研究家の町田佳声(嘉章)が命名しました。流行歌という概念で歌謡曲という言葉を使ったのは昭和に入ってからです。昭和10年代に入ると歌謡曲という名称は一般的になっていきました。
昭和に入って、流行歌の世界は大きく変わります。米国ビクターが日本ビクターを設立、日本蓄音器商会が英米コロムビアと資本提携し日本コロムビアを作ります。流行歌の作られ方も、レコード会社が企画・製作し、新聞メディアなどの宣伝によって、大衆に選択させるという仕組みになりました。
また、録音システムも従来のラッパ吹込み(アコースティック録音)からマイクロフォンを使った電気吹込みに変わります。流行歌をレコードで聴く時代になり、街頭の歌は、ほとんどすたれてきます。クラシックの赤盤、青盤、ジャズレコードなどがカフェー、ダンスホール、街頭などで蓄音器から流れ、アメリカニズムの影響を受けた昭和モダンの消費文化に酔う大衆が流行歌に魅了される時代になりました。
マイクロフォン使った電気吹込みでは、ヴォーカル革命といわれた藤山一郎の果たした役割は大きいと思います。藤山は昭和6年、古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」を、マイクロフォンに効果的な録音するために、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で古賀政男のギター曲の魅力を伝えました。ホールの隅にまで届く美しい弱声の響き(メッツァヴォーチェ)をマイクロフォンにのせたのでした。「影を慕いて」ではファルセット(透明感のある声)とポルタメント(高さの異なる音へ滑らかに移す唱・奏法)を巧みに使って聴く人に感銘をあたえています。
藤山は、本名増永丈夫、当時、まだ現在の東京芸術大学声楽科在校中で、声楽をドイツのヘルマン・ヴーハーペーニッヒ、音楽理論・指揮法をクラウス・プリングスハイムに師事し将来を嘱望されていました。しかし、昭和の恐慌で傾いた生家の借財返済のためにアルバイトで歌いコロムビアからデビューしています。
同じ年(昭和6年)に発売された「丘を越えて」は「酒は涙が溜息か」とうってかわって、マイクから離れてレジェーロ(軽やかな)テノールの音色をいかし声量豊かに古賀メロディーの青春を歌いました。
少し専門的になりますが、口蓋の上から直接鼻腔に抜き頭声に連動させたり、軟口蓋の後ろから突き抜けるように発声するなど、ここにも声楽技術がみられ、つまり、声量・響きの増幅が自由自在にコントロールされていたのです。
流行歌、歌謡曲の流れる場所は、遊郭、カフェーなどになりますが、歌謡曲の歌手には、藤原義江のようなオペラ歌手、芸大出身者の声楽家が数多くいました。しかし、オペラ歌手が、オペラの歌い方で歌うため日本語が不明瞭でした。そこに藤山一郎が声楽の基本である共鳴の美しい響きで歌うベルカントの本質を歌謡曲に付し、明瞭な日本語でその美しさを伝えました。その点においては音楽理論・規則・楽典に忠実に歌う、まさに正格歌手・藤山一郎の登場は革命的だったのです。ベルカントという表現には「美しく歌う」という意味があります。リート(歌曲)やオペラのアリアの歌唱法の基本になっています。
藤山一郎は昭和8年に芸大を卒業すると、ビクター専属となり、本格的なクラシックは本名の増永丈夫で独唱し、同時に、美しいテナーの音色を生かして、流行歌はもちろん、外国民謡、ジャズ・タンゴなどのポピュラーソング、内外の歌曲を歌っています。
後にテイチク、さらにコロムビアに転じ、「東京ラプソディー」(昭和11年)「青い背広で」(昭和12年)「青い山脈」(昭和24年)「長崎の鐘」(昭和24年)などのヒットを飛ばしますが、その後の活躍は御承知のとおりです。
昭和初期の歓楽街で一番人気のあったのは藤山と、独特の髪型、直立不動で知られる東海林太郎(1898-1972)であったといわれています。どこへ行っても、藤山と東海林のレコードがかかっていました。
東海林は早稲田大学から「満鉄(南満州鉄道株式会社)」に進みましたが、音楽の途を捨てがたくエリートサラリーマンを辞め歌手になりました。戦前の東海林の最大のヒットは「赤城の子守唄」、「国境の町」などがお馴染みです。また、ヤクザ小唄、股旅歌謡などの日本調歌謡が人気でした。都市文化の讃歌を歌う藤山一郎と日本調歌謡の東海林太郎は日本の歌謡界の「団菊時代」を形成し、流行歌など見向きもしなかったクラシック愛好家にその魅力を伝えた功績があります。

「酒は涙か溜息か」で作曲家として名を成した古賀政男(1904-1978)は流行歌以前、クラシックのマンドリン、ギターの演奏家で、マンドリンギターのオーケストラを率いていました。ですから佐藤千夜子が最初に歌った古賀作曲の「文のかおり」(昭和4年12月ビクター吹込み)は、マンドリンのオーケストラ伴奏で吹込んだものです。
同じく佐藤が歌った「影を慕いて」(昭和5年10月ビクター吹込み)も、ギター歌曲です。「影を慕いて」は昭和4年6月にギター合奏で初演されています。その後、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビアの演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かいました。
もう一つ、初期の歌謡曲にはジャズの影響があります。当時は、ジャズという言葉は舶来の音楽を表していて、シャンソン、タンゴなどを含めてポピュラーソングの総称としてジャズ・ソングといっていました。その初期は「アラビアの唄」(昭和3年)「青空」(昭和3年)「君恋し」(昭和4年)を歌った二村定一が人気を博します。
昭和6年前後の、藤山一郎、古賀政男の登場あたりから、ジャズバンドの演奏力も上がってきます。昭和10年代になると淡谷のり子(1907-1999 東京音大卒)、日本最高のジャズシンガー・ディックミネ、灰田勝彦らが活躍します。ジャズバンドの水準も高く、トランペッターの南里文雄などが出てきます。喜劇王のエノケンもジャズバンドを率いて舞台で歌っていました。この時代の歌謡曲は、日本の心情的なもの、情緒的なものをある程度残しつつ、形式は洋楽で、戦前の古賀政男もジャズを随分取り入れています。
昭和10年代になると、大阪ジャズで腕を磨いた服部良一(1907-1993)は、淡谷のり子とのコンビで、ジャズ、ブルース、ルンバ、タンゴなどいろいろな要素が入った歌謡曲をつくります。 また、ポピュラー音楽の外国レコードも大量に入ってきます。そうした外国のポピュラーソングを日本人の歌手がカバーしたレコードもかなり発売されています。
淡谷のり子は「十年に一人のソプラノ」と絶賛された人で、その素養を活かし、外国のポピュラーソングをかなり歌っています。また、中国の情景を主題にしたチャイナ・メロディーでは渡辺はま子が人気を博しました。
この頃、日本の大衆音楽は、多彩で豊かです。日本系流行歌は東西の混合曲(古賀・服部メロディー)、ヨナ抜き五音階歌謡・日本調歌謡(艶歌唱法・浪花節系歌謡)、外国系流行歌は外国ポピュラー曲(タンゴ・ジャズ・ブルース)、ホームソング系歌曲と、その脈系も複雑になってきます。レコードも相当発売されていますので、戦前、この時期の大衆音楽の水準は高かったといえます。
服部は、今、JPOPの元祖としてその斬新なリズムにばかり注目されていますが、「懐かしのボレロ」、「別れのブルース」、チャイナ・メロディーの「蘇州夜曲」、戦後の「青い山脈」などメロディーも豊かで、こちらにも目を向けてほしいものです。
太平洋戦争中は、大衆音楽にとっても受難の時代でした。藤山一郎は戦争慰問で南方の激戦地を回ります。昭和20年にジャワ島(スラバヤ)で捕虜になり、収容所での慰問演奏で自分の歌の力、大衆音楽の力を認識し、大衆音楽の演奏家として進むことを決意するのです。
藤山は「増永丈夫は、南方で死んだ」といっています。藤山は、それまで、クラシックと歌謡曲と二刀流で歌っていましたが、戦後は、大衆音楽の世界で、歌唱のみならず、指揮・作曲など、自分の音楽個性を築き国民栄誉賞を受賞することになります。
終戦直後は各レコード会社が戦災のために思うように新譜レコードを発売できず、戦前の歌謡曲が再発売されましたが、それでも昭和21年には並木路子の明るい歌声で「リンゴの唄」岡晴夫が歌う「東京の花売り娘」「憧れのハワイ航路」(昭和23年)が一世を風靡します。
また、服部良一作曲で、笠置シズ子が虚脱感を吹き飛ばすかのように歌った「東京ブギウギ」、古賀政男作曲の近江俊郎「湯の町エレジー」の大ヒット、藤山一郎が格調高く溌剌と復興の息吹を呼ぶかのように歌った「青い山脈」などもヒットします。
私は、戦後の昭和20年代までの歌謡曲の作曲も演奏も、日本のクラシック音楽の成果だと思います。とくにクラシックの品格をもって作曲した古関裕而の「長崎の鐘」などの歌謡曲はその代表でしょう。
ラジオ歌謡にもクラシック歌曲にしてもおかしくない格調のある歌があります。伊藤久男が抒情的なバリトンで歌う「あざみの歌」などはまさにそのような曲です。歌謡曲では高木東六作曲の「水色のワルツ」なども人々に潤いをあたえました。特需景気によって、お座敷ソングも流行しましたが、伊藤久男がダイナミックに歌う「イヨマンテの夜」、ラジオ歌謡の名曲「白い花の咲く頃」など清らかな抒情歌も人々に好まれました。

対日講和と独立が近づくと、歌詞に「アイラブユー」という言葉が入る「星影の小径」、帰らぬ人を想う哀愁も相まってアメリカナイズされた若者にも好評だった「上海帰りのリル」などが流行しました。
いろいろな歌謡史では、昭和26、7年頃は戦後のジャズブームによって流行歌は低調の時代と書かれていますが、名曲が多いですね。「アルプスの牧場」「ニコライの鐘」「高原の駅よさようなら」等々。
ラジオ歌謡から流れるクラッシク的な抒情歌や、フィリピンの戦犯釈放のきっかけを作った「あゝモンテンルパの夜は更けて」(昭和27年)、織井茂子が歌った「君の名は」(昭和28年)、そして、高度経済成長の前夜にふさわしい春日八郎が歌った「お富さん」(昭和29年)の大ヒットなどがありました。
歌謡曲は昭和30年代になって大きく変わってきます。経済白書で「もはや戦後ではない」といわれたように、高度経済成長の到来は、日本の社会を大きく変えました。大衆も生活文化が充実し、娯楽である歌謡曲においてもクラシック的な優等生の歌い方では、もう満足しないわけです。
藤山一郎のような声楽家、淡谷のり子、二葉あき子、渡辺はま子、伊藤久男のよう戦前の音楽学校出身の歌い手は、ヒットチャートの上位から姿を消します。また、小畑実、津村謙などの美声も飽きられます。戦後歌謡界のスター美空ひばり、春日八郎の望郷演歌、民謡調の演歌・故郷演歌の三橋美智也、泣き節の島倉千代子などなどが人気を得て、味のある個性的な声が求められました。
歌い方は旋律を美しく歌うレガート唱法はかげをひそめ、こぶしを巧みに回し、「ずり上げ」が主流になります。この頃、三浦洸一などはまだ戦前の正統派の歌い方のなごりがありますが、青木光一あたりになると演歌調になるわけです。もっとも、こぶしを巧みに回した歌い方は、戦前の上原敏、田端義夫あたりから始まっていますが、昭和30年代はもっと泥臭く歌うようになります。ですからこの時代になってきますと、あれほど昭和20年代、一世を風靡した岡晴夫のような声も飽きられてきます。
昭和30年代の歌謡界の作曲家の勢力地図も大きく変わります。演歌路線では、船村徹、遠藤実、都会派ムード歌謡・吉田正、ジャズの中村八大が勢力図の中心になります。とくに船村徹は、古賀メロディーよりもっと濃い情念を抉り、土俗的で大衆の心をとらえた現代演歌の基本路線をしきます。集団就職で都会に出てきた青年たちの望郷の念や心情に応えた名曲を創作しています。春日八郎が歌った「別れの一本杉」は船村演歌の代表曲です。
船村、遠藤実らの現代演歌の音楽的な特徴は、洋楽の要素をなるべく薄め、江戸三味線俗謡の肌合い、浪花節調の流行歌、民謡のメロディーなど日本の伝統的な音楽要素を取り入れたことです。当然、作風にも流れるようなメロディーラインなどクラシック的な楽想・格調がなくなります。いろいろな形でクラシックの影響があった日本の流行歌の音楽そのものが変わってきました。また、古賀政男も美空ひばりに接近して現代演歌の源流のスタンスをとります。古賀は初期の洋楽調の音楽個性や戦前の遺産を捨て、現代演歌路線に切り替えました。
昭和30年代の豊富なメロディーメイカーは古賀政男に代わってビクターの吉田正が活躍しました。フランク永井がジャズのフィーリングで歌った「有楽町で会いましょう」など高度経済成長期の都会のムード、洋酒を飲みながら聴ける都会派ムード歌謡というジャンルを作ります。また、その一方で、日本人のセンチメンタリズムを盛り込んだ歌謡曲や、橋幸夫・吉永小百合が歌った「いつでも夢」などの青春歌謡、エレキブームを反映したリズム歌謡など多彩な作品を世に送りました。
また、昭和30年代に入って、日本の大衆音楽に大きな影響を及ぼすアメリカの歌手が登場します。エルヴィス・プレスリー(1935-1977)です。それまで日本で人気があったアメリカの歌手といえば、ビング・クロスビー、フランク・シナトラなどの正統派の歌手でしたが、「ハートブレイクホテル」などで日本でも多くのファンを獲得するのです。そして、日劇ウエスタンカーニバルが昭和33年から始まります。日本のロカビリー、ロックンロールの始まりです。水原弘、坂本九などロカビリー出身歌手が歌謡曲に新生面を切り開きました。
そのロカビリーに対して、橋幸夫が10代の演歌歌手として登場します。それまでの演歌歌手は、三橋、春日のような大人の歌手と相場が決まっていました。ところが、橋幸夫の登場はその常識を破り、やがて、舟木一夫らの10代歌手が活躍する青春歌謡というジャンルもつくられていきます。

1966年、日本のポップス界に黒船が到来します。それは、ビートルズの来日でした。日本のポップスが大きく変わります。タイトに刻まれるエイトビートは衝撃的でした。これによって、日本のポップス歌謡はエイトビートにのって歌えるかどうかがポイントになりました。
1960年代の後半(昭和40年以降)から盛り場演歌、現代演歌が隆盛すると、歌謡曲は演歌が中心になってきました。そして、政治メッセージだったフォークソングは歌謡曲を媒体に商業フォークになり、歌謡曲からは独立していきます。
70年代に入ると、歌謡曲はポップス系のアイドル歌謡、現代演歌、なつかしの名曲、その一方では歌謡曲を媒体にしたフォークソングが台頭します。吉田拓郎、井上陽水らが商業ベースに乗って自作自演のスタイルでフォークギターを奏でヒットソングを歌いました。ポップス系アイドル歌謡は、ルックスが重視され、エイトビートに乗れなかった60年代後半のアイドル系歌手とはうって変わって、アクションも入り、アイドル全盛時代を迎えます。
当時の中高年者は、60年代後半から70年代にかけて、このような歌謡曲の時流に馴染めず、なつかしの歌声ブーム、名曲の復活を待望しました。これは非常に大きなブームを呼び、藤山一郎、東海林太郎、淡谷のり子らは、アイドル歌手なみにテレビで歌うようになります。
レコード大賞の特別賞を受賞したりしますから、アイドル歌手、人気演歌歌手らと一緒に大晦日にテレビに出演することもあったわけです。また、歌謡番組でなつかしの名曲のコーナーも設けられたりしたので、天地真理の「ひとりじゃないの」の後に藤山一郎が「青い山脈」を歌うというようなこともありました。歌謡曲の最後の豊かな時代でした。
しかし、東海林太郎の逝去(昭和47年)以後は、「なつかしの歌声」が「日本の名曲」という広い意味になり、戦前の歌が中心だったブームの内容も変化しました。70年代後半ぐらいから、歌謡曲はほとんど現代演歌に矮小化されていきます。80年代に入ってくると、歌謡曲はほとんど演歌のイメージになってきます。
そして、フォークソングがニューフォークからニューミュージックとなり、演歌中心の歌謡曲から完全に独立して、現在のJポップにつながっていきます。この変化に、音楽的に大きな影響を与えたのはやはり、ビートルズです。日本のポップスは、すでにのべましたが、ビートルズの影響からエイトビートが中心になりました。ビートは日本語と相容れるものではないので、リズムセクションが中心になり、ロックが歌謡曲に接近すると、日本の心情を歌う歌詞や情緒的なメロディーは大きく後退します。
やがて80年後半からコンピュータによる音楽テクノロジーの時代になりますと、それが楽曲の作曲や演奏の中心になります。そうなると、伝統的な広い意味での歌謡曲とはまったく別世界になります。また、80年代はロック系スタジオミュージシャンが演奏するアイドル歌謡も歌謡曲の範疇でなくなるわけです。
80年後半から90年代にかけては極端にいうと歌謡曲は消滅していきます。その原因の一つは、ビートルズ以後に日本ポップスが発展し、歌謡曲=演歌・艶歌になったことにあります。「Jポップ」は日本的な情緒を感じさせないジャパニーズ洋楽ですから歌謡曲でないことは当然なわけですが。演歌は、感傷(センチメンタリズム)だけが強調され、日本的情緒・抒情が希薄になってきたように思えてなりません。
従来は、中年になると日本人は演歌好きになるといわれていましたが、その演歌も、70年代にみられた演歌に登場する女性像(男に捨てられた女の未練・ため息・涙)と90年代の女性の時代(自立・強い女性)と、女性観のズレが生じ、中年を迎えた世代が弱い女や男の背中をテーマにした演歌を聴くことが少なくなりました。
それと並行して、正統派歌謡の往年の戦前の歌い手・作曲家の人たちがどんどん亡くなっていきました。79年に古賀政男、89年に古関裕而、93年に藤山一郎、服部良一など、戦前の歌謡曲の豊かな時代を創ってきた人たちが亡くなり、歌謡曲は完全に終わるのです。
もっとも戦後の歌謡界を象徴する美空ひばりの死(1989年)をもって歌謡曲の終焉という人もいますが、どちらにしても、歌謡曲の豊かさはなくなりました。
歌は世につれ世は歌につれということはわかりますが、外国ポピュラー音楽やクラッシック音楽から派生した歌謡曲を古典的鑑賞曲にすべきだったと思います。それは、音楽産業の構造上難しいと思いますが。
ヨーロッパのクラシック音楽は19世紀市民社会の成立によって聴衆が誕生して、市場が成立します。そして、20世紀になると、ポピュラー音楽の世紀が始まります。日本でも昭和に入り歌謡曲の成立によって大衆音楽が確立すると、クラシック音楽が高級で、大衆音楽が低級という、二項対立がはじまっていきます。人材が大衆音楽に流れる傾向がありましたから、クラシック側からの大衆音楽への誹謗・中傷はかなりあったようです。
しかし、東西を問わず、クラシックの演奏家・作曲家のトップレベルの人たちが大衆音楽を発展させた歴史があります。その後は、水は低きところに流れますから、商業ベースに乗って裾野が広がっていくのは当然でしょう。その二項対立のなかで、クラシックの演奏家でもあった藤山一郎は、歌謡曲でも大スターになり、「負の世界」と見られた歌謡曲に、実は人々の励ましとなるような「陽の世界」があるということを、知らしめたのです。感傷、悲しみに埋没しがちな歌謡曲の世界に、生きる希望と励ましを与えるクラシック音楽の持っている力を示したのが藤山一郎です。
歌謡曲は、クラシックのように古典を何百年も聴くというものではありませんから、流行歌の市場は、常に拡大していかなければなりなりません。歌は世につれて、どんどん新しい人を作っていかないと、業界そのものが発展していかないところが、大衆音楽、歌謡曲の難しさです。
もし藤山一郎が存在せず、増永丈夫のままで、クラシックの世界で歌っていたら、声楽がオペラ一辺倒ではなくて、もっと広く大衆に聴いてもらう愛唱歌、ポピュラーな歌曲が広まっていたでしょう。とはいえ、藤山一郎の登場がなければ、品格と気品のある大衆音楽の時代は存在しなかったかもしれません。その後の音楽学校出身者が生涯現役で歌謡曲を歌うということもなかったでしょう。
21世紀の今日、もはや、クラシック=高級、大衆音楽=低級という枠組みは存在しなくなったように思えます。親しみやすいクラシックの曲が聴かれ、また、クラシックの影響を受けた歌謡曲が古典的鑑賞曲としてメディアから流れる時代が来るのかもしれません。そうなれば、もっと豊かな流行歌の世界が広がって行くのではないかと思います。  
   
流行歌の源流

伊予節(いよぶし)
江戸末期の流行唄(はやりうた)。文化(ぶんか)(1804-18)のころ伊予国(愛媛県)松山地方の染物が江戸でもてはやされ、その影響で「伊予節」も大流行した。本歌(もとうた)は松山の名物や名所を歌ったものであるが、弘化(こうか)・嘉永(かえい)(1844-54)には各地で替え歌がつくられた。たとえば江戸では「花は上野」、大坂では「堺住吉(さかいすみよし)」といった歌い出しの歌詞がそのまま曲名となり、「伊予節」という名が忘れられた時期もある。なお最盛期には、 「はうたいよぶし」という書名の歌本が数多く出版されているから、「はうた」(端唄)の名称は伊予節によって広まったといえよう。今日、東京では端唄、地元松山では民謡として歌い継がれている。
大津絵節(おおつえぶし)
江戸末期の流行唄(はやりうた)。大津と京都を結ぶ逢坂関(おうさかのせき)には、大津絵を売る店が立ち並んでいた。これに題材を求めたのが、1700年代初頭の「大津おひわけゑ踊」(「松の落葉 」収載)である。しかし現代に伝わっているのは、嘉永(かえい)年間(1848-54)から明治にかけて流行した曲節で、梅川忠兵衛の物語を歌った「大阪を立ち退(の)いて」が一般に知られている。各地で数多くの替え歌がつくられたが、たとえばペリー来航時の民衆の反応、幕末文化人の作品づくし、文明開化による生活環境の変化など、世相や人情の一端をうかがうことができる。明治時代には寄席(よせ)でも盛んに歌われた。
潮来節(いたこぶし)
江戸中期の流行唄(はやりうた)。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島(かしま)、香取(かとり)両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和(めいわ)(1764-72)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化(ぶんか)(1804-18)にかけて大流行した。7775の26文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)「潮来出島 」、民謡「潮来音頭」「潮来甚句(じんく)」として残っているにすぎない。
オッペケペー
明治中期に壮士芝居の川上音二郎が演じた一種の流行歌。後ろ鉢巻に緋(ひ)の陣羽織、滝縞(たきじま)の木綿の袴(はかま)という衣装をつけ、日の丸の軍扇をかざして威勢よく歌ったという。1888年(明治21)末に神戸の楠公(なんこう)神社付近の寄席(よせ)で大切(おおぎり)に演じたのが最初といわれるが確かではない。川上が90年、91年に上京して興行した際には中幕に演じて人気を博し、以来、彼の名はオッペケペー節とともに劇界に定着した。歌詞のほとんどは若宮万次郎の作といわれる。「権利幸福嫌ひな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい」とか、「洋語を習ふて開化ぶり、パン喰(く)ふばかりが改良でない」というような文句のあとに、「オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポー」とつけてある。ほかに「米価騰貴(とうき)の今日に、……芸者幇間(たいこ)に金を蒔(ま)き、内には米を倉に積み、同胞兄弟見殺しか」などの時局を風刺するものが多かったが、「国会ひらけた暁に、役者がのろけちゃいられない。……目玉をむくのがお好きなら、狸と添ひ寝をするがよい」という旧劇批判もあった。
さのさ
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。一節の最後で「サノサ」と歌うのが曲名のいわれ。明治日本人の悲願であった条約改正が調印されたころ、すなわち1899年(明治32)から歌い出され、またたくまに日本全国を席巻(せっけん)して、10年近くも流行歌の王座を占めた。これ以前に愛唱されていた 「法界節」とは異なり、純日本的な哀調を帯びた旋律が庶民の心をとらえたものと思われる。替え歌は無数にあり、大半は市井の人情を折り込んでいるが、なかには国家への忠誠を歌うなど、流行した時代背景が如実にうかがえる。
東雲節(しののめぶし)
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。歌詞のなかで「東雲のストライキ」と歌うため、「ストライキ節」ともいう。1900年(明治33)に救世軍による廃娼(はいしょう)運動が盛り上がり、大審院の判決や内務省の取締規則によって、娼妓(しょうぎ)の自由廃業は支持された。そのころ、東雲と名のる名古屋の娼妓がアメリカ人宣教師モルフィの援助により、楼主に勝って自由解放の身となった。この一件が歌に託されたといわれている。「何をくよくよ川端柳」と歌い出す歌詞は、都々逸(どどいつ)でも周知のポピュラーなもので、 「鉄道唱歌」の後を受け、1900年から日本各地で流行した。
都々逸(どどいつ)
俗曲の一種。都々一、都度逸、独度逸、百度一などとも記す。歌詞から受ける印象によって「情歌」(じょうか)ともいう。江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の26文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。江戸で歌い出されたのは1790年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る1850年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる。
1870年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。すなわち、高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、 「よしや武士」と題する小冊子にした。立志社の活動に用いられたのは、いうまでもない。大阪でも「南海謡集」(なんかいようしゅう)が出版され、「君が無ければ私(わた)しの権も、鯰(なま)づ社会の餌(えさ)となる」と、板垣退助を称賛している。とにかく、都々逸は全日本人の間に行き渡っていたので、1904年(明治37)、黒岩涙香(くろいわるいこう)は歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する 「萬朝報」(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕(まくら)に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も30年代(昭和初期)に消滅した。なお、名古屋の熱田(あつた)で歌われた 「神戸節」(ごうどぶし)を都々逸の起源であるとみなす説もある。
粋な都々逸
都々逸とは、江戸末期、都々逸坊扇歌によって大成された定型詩で七・七・七・五の音数律に従ったもの。主として男女の仲の機微を題材としており、色っぽいものが多い。  ところが昨今の都々逸は野暮な内容が多くなったように感じられる。都々逸に関する書籍をみても、心を動かされるような文句が載っていない。そこで私がこれまでに集めた「とっておきの都々逸」を紹介する。本当は教えたくないのだけれども、歳のせいか伝承しなければ絶えてしまうとの想いが強くなったのである。
膝枕(ひざまくら)貸してうれしく しびれた足をじっとこらえてのぞく顔 
いいねぇ、粋だねぇ、ラジオから聞こえる柳や三亀松師匠の名調子にしびれていた小生は中学生であった。師匠の「いやぁーん、うっふーん、ばっかぁー」は絶品であった。
外は雨 酔いも回ってもうこれからは あなたの度胸を待つばかり 
謡曲「松風」の松風、村雨の姉妹、溝口健二の映画「雨月物語」の田舎に残してきた女房等々、古来日本女性の美は恋しき人の訪れを待つ風情の中にありました。「少しくらいの音は雨が消してくれるのに、えぇ、じれったいねぇ、このひと」と女がつぶやく。
お名は申さぬ一座のうちに 命あげたい方がいる 
都々逸の醍醐味は「あっ」と驚くどんでん返しが待っていることだ。この歌の場合、「命」までを『刺客が「お命頂戴」とでも言うのかいな』と思わせるようなドスの利いた声でうたい、「あげたい方がいる」を一転、ぐっとなまめかしく初々しく締めくくらねばならない。
親がすすめる私も惚れる 粋(いき)で律義(りちぎ)なひとはない 
作家阿川弘之氏令嬢阿川佐和子さんは三十数回お見合いをしたが、ついに理想の伴侶にめぐり合えなかった。その経緯を「お見合い放浪記」に記されている。拝読したが「そりゃあ無理だ」と思ったものだ。見合いで大恋愛できる相手を見つけようというのである。粋な男は見合いなんぞしなくても女には不自由しないし、親が安心して薦める堅実な男は恋愛の対象とはなりにくい野暮天ばかりである。「粋で律儀な男なんざぁ、いるわけないわさ」とこの歌をおしえてやりたいね、まったく。
おまはんの心一つでこの剃刀(かみそり)が 喉(のど)へいくやら眉(まゆ)へやら
諦(あきら)め切れない女の最後の手段はかみそり。「畜生、死んでやるう、」「おまえ待ちなよ 短気おこすんじゃあないよ、分かったよ 女房にすりゃあいいんだろ 女房に」てな具合に晴れて眉を落としたご新造(若奥様)さんの誕生とあいなる。
きれてみやがれただ置くものか 藁(わら)の人形に五寸釘 
冷たくなった男への捨てぜりふ。荒々しい息使いの裏から狂おしい胸のうちが切々と伝わってくる。 しかし私の知人の「恨み言はそれだけか」の名文句にあった日にゃあ、五寸釘も蟷螂の斧(かまきりのおの)と化してしまうのです。でもね、近頃の娘ときたひにゃあ、藁人形の意味さえ知りゃしねぇ。困ったもんでがす。しょうがねぇ、うちの娘にも正しい作法を教えてやりましたよ、『まずは白装束に身を包み、頭に五徳(ごとく:火鉢に据えてヤカンをのせる三本足のついた鉄の輪)を戴いて、馬手(めて・右手)には木槌、弓手(ゆんで・左手)に人形、櫛をしっかとくわえもち、草木も眠る丑三つ時(午前二時すぎ)、所は京都貴船神社、三本ろうそく頼りにて、にっくき敵(かたき)の心の臓へ「死ねや、死ねや」と声はげまして打つは鐵(くろがね)五寸釘、打たれし敵は七転八倒、苦悶のうちに息絶えようぞ、ゆめゆめ疑うことなかれ』とね。
間口三寸奥行きゃ四寸 家、蔵、地面を捨てる穴 
わかっちゃいるけどやめられない、道楽息子なりの心意気と解したい。小生が妻帯後、ものした句も御披露する。「これがまあ ついのすみかか ゆき五寸」
いっそ聞こうかいや聞くまいか たたむ羽織に紅のあと 
江戸時代には満員電車もなければ混み合ったエレベーターもない。口紅がそう簡単につく訳が無いのです。 どう申し開きをするのか、聞いてみたいもの。
何処で借りたと心も蛇の目 傘の出どこをきいてみる
柴田錬三郎氏の眠狂四郎シリーズの中で「草のよう 傘の出どこを 根堀り葉堀り 鎌をかけては 聞いてみる」というのがあった。男は蛇のように、ぬらりくらりと生返事をするしかない。(注)「蛇の目」とは「じゃのめ傘」のことでの和傘の丸い模様が蛇の目のように見えたことから。
一人でさしたる唐傘(からかさ)なれば 肩袖(かたそで)濡れようはずがない 
女房の観察眼は時として銭形平次や人形佐七の親分にも劣らないことを証明する唄。あなどっちゃあいけませんぜ。
酒も博打(ばくち)も女も知らず 百まで生きてる馬鹿なやつ 
百歳近くでなくなった森繁久弥氏は「酒、歌、女、我にあり」の極楽トンボ人生。せめて地獄へでも行ってくれなきゃあ、あまりにも不公平というもんじゃあ、ござんせんか、皆の衆。
ぼうふらは 人を刺すよな蚊になるまでは 泥水飲みのみ浮き沈み 
森繁久弥氏が勝新太郎に教え、勝が好んで歌ったという。浮き沈みの激しかった勝新の心に強く響いたのだろう。勝新太郎は「花の白虎隊」で市川雷蔵とともに華やかにデビューしたが二枚目としては中途半端で、鳴かず飛ばずの時代が長かった。それが「座頭市」という当たり役に出会い一躍人気者に浮き上がったが映画産業の不況、大映の倒産と、また不遇に沈んだ。死んだ時、奥さんの中村玉緒があの世でも不自由しないようにと棺桶に三百万円入れたそうな。豪気だねぇ、泣かせるねぇ。
主は二十一わしゃ十九 始終仲良く暮らしたい
始終と四十を掛けている。初々しい若夫婦、うらやましい。よく似た、人生の理想を歌った歌詞は以下のとおり「いつも三月春の頃 お前十八わしゃ二十 使って減らぬ金百両 息子三人皆孝行 死んでも命がありますように」
会うた夢みてわろうて覚めて あたり見回し涙ぐむ 
せつないねぇ 笑わなければ覚めなかったろうに、覚めなければ忘れてたかもしれないのにねぇ
白鷺は 小首(こくび)傾(かし)げて二の足踏んで やつれ姿を水鏡
高知のよさこい節では「白鷺は小首傾げて二の足踏んで一足、一足深くなるよ そーだ、そーだ、まったくだよ」となる。どちらも、恋の重荷を感じさせる名文句である。この歌を知って白鷺を見ると、「恋わずらいをしているのか」とふと思うことがある。
夢で見るよじゃ惚れよが足りぬ 真に惚れたら眠られぬ
謡曲「松風」のなかに、「あとより恋いの攻め来れば」と言う一節があって長い間意味がわからなかったが、「枕より 脚(あと)より恋の攻め来れば せんかたなみぞ床中におる」の一部とわかりようやく納得できた。「頭上からも足先からも恋の思いが攻め来るので。やむを得ず寝床の真ん中に座って眠らないでいる。苦しいことだ。」という意味。げに、恋は曲者。
丁とはりんせもし半ならば わしを売りんせ吉原へ
この歌の作者は男に決まっている。こんなにきっぷのいい女が居る訳ない。あまりにも勝手すぎるのでありえないとは思うが、もしいたら教えておくんなさい。
惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ
身につまされるねぇ。大事にしなきゃあと、あらためて思われるのでごぜえます。
亭主死んだら教えておくれ 今でも惚れてるこの俺に
ソウラン節に「わたし恥ずかしおじちゃんにほれた 早くおばちゃんが死ねばよいチョイ」というのがある。奥方連が聞いたら角か牙がでそうな歌である。
会いたく無いわさ ただあのひとの住んでるおうちを見たいだけ
小浜に出張した折り、聞いた話からつくったもの。男は京都の壬生に住んでいるそうな。若狭女の深くてつつましい心根を哀れと思え京男 コラ!
夕立恋しやあの南禅寺 山門隠れのあついキス
小生が学生の頃、ものした歌。事実に基づくものか、はたまた希望的創作か、ご想像にお任せする
人に言えない仏があって 秋の彼岸の回り道 
私の好きな歌で、森繁久弥氏もこの句が好きと見えて著作のあちらこちらに出てくる。「粋」「侘び」「無常感」など、日本文化の真髄をひとまとめにしている。都都逸の最高傑作に認定する。
端唄(はうた)
日本音楽の一種目。1分ないし3分程度の小歌曲。大半は作詞・作曲者未詳であるが、江戸末期の名ある文化人の手になったものが多いという。日本全国で愛唱され、幕末から明治期にかけて非常に流行した。だれもが知っていたという点では、義太夫(ぎだゆう)節とともに双璧(そうへき)をなす。ことに、他の種目のように劇場や花柳界が背景ではなく、家庭音楽としてもてはやされただけに、江戸庶民の健康的な精神構造や、格調の高い音楽性がうかがえる。「はうた」という 言葉は、17世紀末の 「吉原はやり小歌そうまくり」や「松の葉」にみられるが、どのような音楽か明らかでない。時代が下って1842年(天保13)天保(てんぽう)の改革における禁令の一つとして、「浄瑠璃(じょうるり)、はうた、稽古(けいこ)いたすまじきこと」という御触れが出た。通達の指摘する「はうた」とは、「桜見よとて」「夜ざくら」「紀伊の国」「わしが国さ」などである。その後は、京都の歌「京の四季」「御所のお庭」、大坂の歌「淀(よど)の川瀬」「ぐち」などが、江戸の歌「秋の夜」「わがもの」「春雨」「綱は上意」などとともに人気を博した。稽古屋も江戸や大坂では各町内に誕生し、たとえば二見勢連(ふたみせれん)や轟連(とどろきれん)といった名前を、それぞれが名のっている。その一つ歌沢連(うたざわれん)が端唄のなかで一大勢力を形成し、劇場や花柳界へ進出したため、端唄の体質が変えられてしまう。また1880年代(明治初期)新しくおこってきた明清楽(みんしんがく)や唱歌の影響で庶民の歌声は急速に変質し、端唄は明治中期に至って衰微した。尾崎紅葉(こうよう)や幸田露伴(ろはん)がその再興を願ったこともある。
大正以降はレコードや放送などの大資本が、端唄、俗曲、民謡などの概念規定をなおざりにし、さらに芸妓(げいぎ)や一部の芸能人が歌い崩したため、早くも昭和初期には端唄の実態が不分明になってしまった。ことに、現代とは違って庶民文化が軽視される風潮下、端唄には一顧すら与えられなかった。そして「端唄」という 言葉も、世間はほとんど忘れてしまった。ところが、明治百年といわれた1968年(昭和43)根岸登喜子(ときこ)(1927―2000)は「端唄の会」を開催して、江戸庶民の息吹を再現した。以来、毎年1回ずつ催されるこの会によって端唄の価値は再認識され、端唄に注目する層が着実に増え始めている。端唄は新しくよみがえり、現代の文化として定着した。
なお、地唄(じうた)や琵琶(びわ)にも「端唄」という呼び名はあるが、いずれも曲目の分類名にすぎないのでここでは割愛した。
鉄道唱歌(てつどうしょうか)
唱歌の曲名。大和田建樹(おおわだたけき)作詞。上真行(うえさねみち)と多梅稚(おおのうめわか)の作曲した2種類あり、多の曲が大流行した。大阪・三木佐助版の歌集は全五冊で、「汽笛一声新橋を」と歌い出す「地理教育鉄道唱歌」第一集(東海道)は1900年(明治33)5月刊。同年中に〔2〕山陽・九州、〔3〕東北・北関東、〔4〕信越・北陸、〔5〕関西の各編も出版されたが、地理教育や交通知識の普及に役だつところから非常に歓迎された。 同類の唱歌は各地に生まれ、1911年の 「山陰線鉄道唱歌」に至るまで、全国の鉄道が歌い上げられた。交通網の充実をみた1928年(昭和3)、鉄道省は東京日日新聞と大阪毎日新聞の共催で「新鉄道唱歌」を懸賞募集したことがある。また37-38年には日本放送協会が「新鉄道唱歌」を制作し、国民歌謡として放送した。
法界節(ほうかいぶし)
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。江戸末期に長崎へ伝わった明清楽(みんしんがく)は、1870年代の後半から日本各地へ広まった。月琴(げっきん)や明笛(みんてき)は若者の間にもてはやされ、これらを伴奏に新しい歌が生まれてくる。なかでも「ホウカイ」を囃子詞(はやしことば)とする曲は、1890年代の初めに 「法界節」と名づけられ、大流行した。2、3人ずつが一組となった若者は、月琴や胡弓(こきゅう)を奏でながら流して歩くので、いつのほどにか法界屋とよばれた。日清戦争を境に、明清楽は敵国の音楽だという理由で衰退に向かうが、剣舞をも取り入れた流しは増加する一方で、法界屋は婦女子のあこがれの的となり、流しのあとを追う者が長い列をなしたという。そのため1900年(明治33)のころには、風俗問題や交通妨害が起こってくる。さらに、芸能を愛好する若者が厳しく指弾されたため、法界屋はしだいに姿を消し、 「法界節」も運命をともにした。
よしこの
江戸末期から明治初年にかけての流行歌であるが、基本的な旋律は不明。「守貞漫稿」(もりさだまんこう)には「よしこの一変してどゞいつ節(ぶし)となる」とあり、両者のふしは似通っていたという。元歌は「ままよ三度笠(さんどがさ)よこちょにかむり、たびは道づれ世はなさけ」で、1820、21年(文政3、4)ごろから江戸、京都、大坂で歌われた。名古屋の歌を記録した 「小歌志彙集」(こうたしいしゅう)によると、22年流行の「三千世界」や30年(天保1)の歌「わが恋」も「よしこの」だという。しかし両曲の詞型は、元歌とは違って七七七五調ではない。ことに前者は端唄(はうた)の名曲としていまも歌われ、後者は花街のお座付(ざつき)唄として残っているが、旋律に類似性はない。阿波(あわ)踊の歌も「よしこの」というが、この曲節もまったく異なる。時代を経たとはいえ、このように詞型も曲節も相違する歌が「よしこの」と総称されたのは、民衆歌謡の種類が少なかったころだけに、はやり歌の代名詞として「よしこの」の名が用いられたのではないかという推測を可能にさせる。
ラッパ節
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。囃子詞(はやしことば)にちなんで「トコトット節」ともいう。日露戦争が終結した1905年(明治38)から歌い出され、数年にわたって大流行した。「倒れし兵士を抱き起し」や「今鳴る時計は8時半」といった歌詞に、時代相がうかがえる。替え歌は数多く、たとえば「紳士の妾(めかけ)の指先に、ピカピカするのは何じゃいな、ダイヤモンドか違います、可愛(かわい)い労働者の汗の玉、トコトットット」などは、官憲の目を盗んで街頭で歌われた。また足尾銅山の過酷な労働を歌い込むなど、社会の矛盾を指摘する歌詞も現れた。  
   
演歌1

日本の大衆音楽のジャンルの一つであり、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類であるとされている。歌手独自の歌唱法や歌詞の性向から、同じ音韻である「艶歌」や「怨歌」の字を当てることもある。
演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階を平均律に置き換えた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。この音階法は古賀正男、後の古賀政男による古賀メロディとして定着した、以降演歌独特の音階となる(ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である)。古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代に美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。
歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法が多用される。又、必ずと言ってよいほど、「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。 演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。
歌詞の内容は「海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ」がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない愛や悲恋などを歌ったものが多い(美空ひばり「悲しい酒」 都はるみ「大阪しぐれ」大川栄策「さざんかの宿」吉幾三「雪國」など)。
上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。 また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。
とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。たとえばジャズピアニストの山下洋輔は、音楽理論的に両者を分類することができないの意で「演歌もアイドル歌謡も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。
男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、
幸せ夫婦物 / 村田英雄「夫婦春秋」三笠優子「夫婦舟」川中美幸「二輪草」
母物 / 菊池章子・二葉百合子「岸壁の母」金田たつえ「花街の母」
その他家族物 / 鳥羽一郎「兄弟船」芦屋雁之助「娘よ」大泉逸郎「孫」
人生物、心意気物 / 村田英雄「人生劇場」「花と竜」北島三郎「山」「川」中村美律子「河内おとこ節」
股旅物 / ディック・ミネ「旅姿三人男」橋幸夫「潮来笠」氷川きよし「箱根八里の半次郎」
任侠物 / 北島三郎「兄弟仁義」高倉健「唐獅子牡丹」(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。
歌謡浪曲物 / 三波春夫「俵星玄蕃」「紀伊国屋文左衛門」
劇場型ドラマチック物 / 山口瑠美「山内一豊と妻千代」「至高の王将」「白虎隊」
望郷物 / 北島三郎「帰ろかな」千昌夫「北国の春」「望郷酒場」
その他 / 細川たかし「北酒場」。作詞家が見た北の酒場通の様子がポンと描かれただけで、演歌特有の情景が全く入っていないのが新鮮に受け取られレコード大賞を受賞した。
演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。
歴史/創生期
もともと「演歌」と称される歌は、演説歌の略語であり、自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称のはじまりといわれる。この頃流行ったのが「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。他にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。
大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。彼の作曲である「籠の鳥」は一世を風靡した。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。
流行歌の時代へ
昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され新しい時代を迎えた。しかし、昭和3年(1928)佐藤千夜子や二村定一、昭和6年の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。
なおこの時期の大衆音楽をも「演歌」扱いすることがあるが、本来的には演歌・歌謡曲・声楽曲全ての音楽性が渾然一体となった独特の音楽性を持っており、同一視出来ない。ただし上述した古賀政男の作品「吉良の仁吉」、あるいは「こぶし」を利かせた唱法を使った人気歌手上原敏などは、広沢虎造ら浪曲師の影響を受けている。これらの例からも、作者や歌手が一部重複しているのは事実であり、この「流行歌」時代に育まれた音楽性や技巧を基にして現在の「演歌」が生まれているので、演歌を語る上で無視は出来ない時代である。
1950年代(復興期)
戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と昭和28年(1953)藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、キングレコードから望郷歌謡の春日八郎、三橋美智也、ビクターレコードから任侠路線のスター鶴田浩二、テイチクレコードから浪曲出身の三波春夫、戦後の大スター石原裕次郎、コロムビアレコードからは三波と同じく浪曲界より村田英雄がデビュー。更に泣き節の島倉千代子、マイトガイ小林旭らが登場。民謡や浪曲などをベースにし、それまでの「流行歌」とはかなり質の異なる現在の演歌に近い作風となった。この時期のヒット曲に「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「船方さんよ」「からたち日記」「人生劇場」など。
1960年代
昭和38年(1963)演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。昭和戦前に途絶した「演歌」分野の再来であるが、演説歌を起源とする旧来の演歌は、フォークソングに引き継がれ、社会風刺的要素は全くなく、名称だけの復活となる。(演説歌が「フォーク」と呼称されるようになり、演歌と呼ばれなくなったことで、ヨナ抜き音階や小節を用いた歌謡曲が「演歌」と呼称されるようになったとの見方もある。)
この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎、橋幸夫、都はるみ、青江三奈、水前寺清子、千昌夫、森進一、藤圭子、小林幸子(わずか10歳でデビュー)コミックバンド派生の宮史郎とぴんからトリオ、殿さまキングスなどが登場した。
作曲家は流行歌から転身した古賀政男にくわえ、吉田正、猪俣公章、船村徹、市川昭介、流しから転身した遠藤実、ロカビリー歌手から転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼、星野哲郎、岩谷時子、山口洋子、川内康範らが登場、「王将」「皆の衆」「潮来笠」「三百六十五歩のマーチ」「北帰行」「港町ブルース」「池袋の夜」「柔」「悲しい酒」「函館の女」「兄弟仁義」「帰ろかな」「柳ヶ瀬ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「星影のワルツ」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。(ナベプロ所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。
ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。
1970年代
1970年代に入ると五木ひろし、八代亜紀、森昌子、石川さゆり、細川たかしなどが登場。「なみだの操」「夫婦鏡」「女のみち」「女のねがい」「おやじの海」「よこはま・たそがれ」「傷だらけの人生」「くちなしの花」「ふるさと」「喝采」「せんせい」「心のこり」「与作」「舟唄」「昔の名前で出ています」「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」「おもいで酒」「北国の春」「夢追い酒」など多くのヒット曲が生まれ、フォーク、ニューミュージック、アイドル歌謡などと競い合いながら安定した発展を見せていた。一方で1974年には森進一がフォーク歌手の吉田拓郎作の「襟裳岬」でレコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまり、以後演歌かその他の音楽ジャンルか分別の難しい曲も登場することとなる。
1980-1990年代
1970年代後半から80年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようにカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭した。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。若者のポップス志向がより強くなり演歌離れが進む。
1980年代半ば以降、若者と中高年の聞く歌がさらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法をもつ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。
1980年代から1990年代前半にかけて伍代夏子、坂本冬美、香西かおり、藤あや子など、この時期にデビューしヒットを出した中堅歌手も存在する。また島倉千代子の「人生いろいろ」、美空ひばり「川の流れのように」など大御所歌手も健在ぶりをアピールしている。
吉幾三や長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者や、ニューミュージックから演歌に転向した堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。
主なヒット曲には「雨の慕情」「おまえとふたり」「大阪しぐれ」「みちのくひとり旅」「奥飛騨慕情」「さざんかの宿」「兄弟船」「氷雨」「娘よ」「北酒場」「矢切の渡し」「長良川艶歌」「つぐない」「時の流れに身をまかせ」「すずめの涙」「夢おんな」「雪國」「酒よ」「雪椿」「命くれない」「恋歌綴り」「麦畑」「むらさき雨情」「こころ酒」「夜桜お七」「蜩」「珍島物語」など。
緩やかな衰退の中で分化し、演歌の中に新ジャンルが発展しつつあった。しかし1990年代も半ばを過ぎると演歌の衰退は激化し、1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。
2000年代
2000年に大泉逸郎の「孫」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」が大ヒットし、一時的ではあったが、久しぶりの大ブームが起こった。ただし「孫」は大泉と同年代かそれ以上の中高年層の間でのヒットであり、10代、20代にも人気を博した氷川きよしの場合は演歌歌手としては規格外のルックスにより若者受けした部分が大きく、歌そのものへの評価は以前とそれほど変わらなかった。
一方で前川清の「ひまわり」(2002年ヒット/福山雅治プロデュース)のように演歌歌手がポップスを意識した楽曲を発表するような動きも増えている。そのため、これまでのジャンルとしての演歌の枠に納まらない楽曲も多くなり、ジャンル名としての呼び名が演歌から演歌・歌謡曲と呼ぶようにもなりつつある。
一時期1人、または2-3人だった大型新人演歌歌手のデビューも毎年4-5人まで増えている。また、ランキング上位を占めていたJ-POP全体の売り上げが停滞するにつれ、相対的にランキングでも上位に顔を出すことが多くなっている。
また、2008年にデビュー曲「海雪」がヒットしたジェロは初の黒人演歌歌手として注目され、ヒップホップスタイルのファッションでの演歌歌唱も話題となりヒットとなっている。
更に、鼠先輩、美月優など半ば芸人のようなスタイルの歌手も出現。 ジェロの活躍ぶりに感化され、かつてインド人演歌歌手として活躍していたチャダも再来日し、音楽活動を再開した。
現在の浸透性
現在、50-60代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。個性と実力を兼ね備え、演歌という新ジャンルの土台を築いた、春日八郎・三橋美智也・三波春夫・村田英雄らの男性歌手や、演歌の女王と称された美空ひばり(「歌謡界の女王」とも呼ばれる)等がすでに亡くなっており、その後に続いた北島三郎や五木ひろし、森進一などの大御所歌手も実力を発揮し切れていない状況である。大泉逸郎 「孫」、氷川きよし「箱根八里の半次郎」以来大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。
カラオケブームの時期に少年、思春期から青年期を過ごした30代-50代前半の中、壮年層の中では親の影響も手伝い比較的認知度は高い。しかし、認知はしているが、聴く或いは唄う対象にはされず、敬遠される傾向が強い。
10代、20代の若者の中には代表的なヒット曲や、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくない。ただし、若者の中にも一部には熱烈な演歌ファンが存在することも事実である。(テレビ番組に出演し話題を呼び、北島三郎のもとに弟子入りし、プロデビューを果たした大江裕はこの典型といえる。)
2007年、ブラジルのサンパウロにて行われた、日本人の移民100周年を記念したイベントでは日本の音楽としてJポップ等ではなく演歌が流された。(大城バネサや南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。)海外では 「日本の歌といえば演歌」というイメージが強い一例とも言えよう。
そのほかの演歌の他国における受容を見てみると、アフリカのエチオピアにおける国歌やポップスがヨナ抜き音階や歌唱法などの点で日本の演歌に酷似しているという事実があげられる。これは朝鮮戦争時に日本にやってきたエチオピア兵が演歌に感動してその特徴を研究し、それを自らの音楽に取り入れたためである。エチオピアでは細川たかし、都はるみなどの日本の演歌歌手も広く受け入れられている。
これらの例は、演歌が日本独特の情念を歌っているという一般に流布しているイメージとは異なり、ヨナ抜き音階が世界各地にみられるということともあわせ、演歌が普遍的な通俗音楽であるという傍証になるだろう。
韓国の演歌(トロット)
韓国にも日本の演歌の影響を強く受けたトロットと呼ばれる(昭和に入って民衆歌謡に変節して以降の)大衆歌謡分野が存在する。戦後朴正煕政権時代までは、トロットを指す言葉として「演歌」の韓国語読みである「ヨンガ」が用いられることも少なくなかったが、後の倭色追放運動によって日本語由来である演歌(ヨンガ)という呼称は使えなくなり、もっぱらトロットと呼ばれるようになった。
   
演歌2

日本の流行歌の一種。歌によって意見を述べるという意味で、「演説」に対応する言葉として明治中期から使用された。思想を歌に託して表明することは古くから行われてきたが、植木枝盛(えもり)作「民権田舎歌(いなかうた)」や安岡道太郎作 「よしや武士(ぶし)」のように、「数え歌」や「どどいつ」の旋律に頼るものは演歌とよばない。したがって演歌の嚆矢(こうし)は川上音二郎作「オッペケペー」となる。明治22年(1889)の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席(よせ)で公開されるや、たちまち京都市民の心をとらえた。政府の施策を非難することなく、自由と民権の伸張を平易に説く 「オッペケペー」は、多年にわたる川上の反権力闘争の成果といえるが、翌年に壮士芝居を率いて東上した川上一座の公演によって、横浜や東京でも流行し始めた。絶頂に達するのは91年6月以降である。歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音楽的にはデクラメーションdeclamationという。端唄(はうた)や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かった当時の民衆にとって、だれもが容易に口ずさめる 「オッペケペー」は、民衆娯楽の新分野を形成することになった。
東京にたむろする壮士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を売って生活の糧(かて)を得る者が現れる。
「ヤッツケロ節」「欽慕節(きんぼぶし)」「ダイナマイトドン」など同類の歌もつくられたが、政府を弾劾する歌詞もあって、しばしば官憲の弾圧を受けた。こうした壮士の歌に「演歌」の名を冠する一団もあったが、世間では一般に「読売」とか「壮士歌(うた)」とよんだ。ところが壮士の大半は書生であり、 「法界節(ほうかいぶし)」や「日清(にっしん)談判破裂して」を月琴(げっきん)で流したので、壮士歌はむしろ「書生節」という名称で親しまれるようになった。そのころ、黒地の着物に編笠(あみがさ)をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歓心を買おうとする書生たちの行為は、社会問題として大きな波紋をよんだ。添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が、社会主義的な歌をつくったのもこの時代である。
1910年代になると、東京の神長瞭月(かみながりょうげつ)と大阪の中林武雄の歌がもてはやされ、「残月一声」「松の声」「不如帰(ほととぎす)」などが好まれた。やがてバイオリンが用いられると、目新しいこの楽器にひかれ、書生節の周辺を聴衆が取り巻くことになる。大正中期、 「一かけ節」や「七里ヶ浜の仇浪(あだなみ)」(真白き富士の嶺(ね))が全国に浸透するころ、書生節の歌手は「演歌師」といわれ始め、映画の力とも相まって「船頭小唄(こうた)」や「籠(かご)の鳥」が一世を風靡(ふうび)した。
1930年代になってレコード歌謡に人気が集まると、書生節は消滅して「歌謡曲」が台頭し、東海林太郎、音丸(おとまる)、上原敏(びん)らが「流行歌手」として誕生してくる。またレコード会社専属の作詞家として西条八十(やそ)、佐伯孝夫(さえきたかお)、藤田まさと、作曲者として古賀政男(まさお)、古関裕而(こせきゆうじ)、大村能章(のうしょう)ほか多士済々。
昭和35年(1960)前後に「艶歌(えんか)」という言葉とともに「演歌」が復活する。美空ひばりをはじめ、島倉千代子、春日(かすが)八郎、三波春夫ら、枚挙にいとまがないほど多数の歌手が出現し、その歌声は民衆の魂を揺さぶって黄金時代を形成した。外国のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謡曲を演歌とよんだわけであるが、第一次石油ショック(1973)を境に歌謡曲は演歌とニューミュージックに二分された。こうした用語の変遷や歌詞ないしは歌い方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壌に立脚した歌声だと定義づけることができよう。70年代以降も、北島三郎、森進一、五木ひろし、細川たかし、都はるみ、水前寺清子、八代亜紀、小林幸子、石川さゆりらの歌手が活躍し演歌を支えているが、歌謡曲のさらなる多様化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謡曲分野に占める演歌の位置付けは相対的に低下している。  
   
演歌3

日本の「演歌」の第一号作品は、いちおう大正10年に発表された中山晋平の「船頭小唄」(「枯れすすき」)である、と言っていいだろうと思います。「船頭小唄」の大ヒットが、昭和に入ってからの同じ中山晋平の「波浮の港」(昭和3年)や「東京行進曲」(同4年)、そして古賀政男の「酒は涙か溜息か」(同6年)や「影を慕いて」(同7年)の爆発的ヒットへとつながって行き、こうして戦前の演歌全盛時代が幕を開けたわけです。演歌全盛時代は同時に江口夜詞の「秋の銀座」(同8年)や服部良一の「別れのブルース」(同12年)のような、よりバタ臭いブルース=ジャズ的な流行歌の全盛時代でもありました。前者が「船頭小唄」に端を発しているとすると、後者はこれも中山晋平の「カチューシャの唄」(大正3年)や「ゴンドラの唄」(同4年)を源流にしていると言えるだろうと思います。
こんにち的な感覚からすれば、前者後者ともに「演歌」に分類される音楽と言えます(因みに後者はその後、青江三奈やクール・ファイブが得意としたジャンルです)。しかしこれらの歌を歌って大ヒットさせたのは、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、ミス・コロムビア(松原操)、淡谷のり子といったクラシック畑出身の歌手たちであったことは、ここで是非とも強調しておきたいと思います。そもそもこれら一連のヒット曲を産み出す音楽的新地平を拓いた第一弾作品となった中山晋平の「カチューシャの唄」は、島村抱月の芸術座での公演、トルストイ原作「復活」の挿入歌として書かれたものでした。そしてそれは「小学唱歌でも(なく)・・・西洋の賛美歌でもない、日本的な俗謡とリート(西洋歌曲)の中間的な旋律」という、抱月が晋平に出した注文に基づいて作られたものでした(藍川由美「中山晋平作品集」(カメラータ)曲目解説より)。つまり、より広い文脈では「船頭小唄」ではなく「カチューシャの唄」を「演歌」の第一号作品としてもまったく差しつかえないわけです。
「カチューシャの唄」がどれほど衝撃的で画期的な作品であったかは、それまでのヒット曲というものが、「義太夫」「浪花節」「書生節」「小学唱歌」「端唄」「小唄」といった、(「浪花節」と「唱歌」を除けば)こんにちわれわれが日常的にはまず耳にすることのない、「前時代の音楽」しか存在しなかった、ということから想像できるだろうと思います。「唱歌」(と「書生節」?)を除く当時(明治-大正期)のこれらのヒット曲こそ、「本来の邦楽」であったろうと考えられるわけです。そういった音楽風土の中に「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」を置いてみれば、その音楽がもたらした衝撃度というものが分かろうというものです。
一連の中山晋平の作品は、まずは非常に奇妙な音楽として、次いで強烈に新鮮な音楽として、最後に近代化の進んだ大正期日本人の現実にフィットした実に魅力的な音楽として、当時に人々に熱狂的に迎え入れられただろう、と考えられるわけです。同じようなことは、昭和に入ってからの古賀政男、江口夜詞、服部良一らの音楽にも言えるだろうと思います。実際、いま聴いてもこれらの作品は充分過ぎるくらい奇妙で新鮮で衝撃的です。この衝撃力に匹敵する音楽としては、1960年代のビートルズのそれくらいしか思い浮かばないほどです。
「演歌」は、歴史的文脈から言っても、それ自身の意識(意図)から言っても、日本人の音楽性によって捉えられ、更にそれを日本的にモディファイした「洋楽」(クラシック、ジャズ等)であったということです。当事者(島村抱月や中山晋平)の意図から言っても、そう言って構わないだろうと思います。もちろんそれは、こんにち音楽のジャンルとして「邦楽」から区別して言われるところの「洋楽」とは別次元のことで、要するにそれは「近代」と言いかえられるようなことです。「近代化」され「洋楽化」された「はやり歌」と言っても同じことです。
「演歌」の発生と生成は以上のようあったにしても、それがカッコのとれた演歌、つまりいまで言う演歌になったになったのは比較的最近のことです。春日八郎、村田英雄、コロムビア・ローズ(初代)、松山恵子、畠山みどりといった人たちは、いまで言う典型的な演歌を歌う歌手でしたが、当時(昭和20-30年代)そのような言い方はなかったと思います。「演歌」が演歌になったのは、森進一、青江三奈、クール・ファイブらの歌う「艶歌」、更には藤圭子の「怨歌」の登場をまって、それらの総称として「演歌」という言い方が定着した昭和45年(1970)頃だったように思います。
大正から戦前昭和にかけての都市化の進展が日本化された「洋楽」としての「演歌」を生み、更にそれが都市化の爛熟とともにいまで言う演歌になった、という風に言ってもいいのはないかと思うわけです。昭和45年という年は日本社会の大転換を画した年でもあったわけですが、実際 、藤圭子(あの宇多田ヒカルのお母さん)の登場は、新たな演歌黄金時代をもたらしました。彼女の登場に続いてこんにちに至るまで実に多くの名曲が生み出されましたが、時代の底に達するような不朽の名作だけでも、二葉百合子「岸壁の母」(昭和51年)、金田たつえ「花街の母」(同52年)、小林幸子「おもいで酒」(同54年)、美空ひばり「裏町酒場」(同57年)、坂本冬美「祝い酒」(同63年)、門倉有希「鴎」(平成6年)などが挙げられます。
話は飛びますが、日本社会の大転換はまた松任谷由実(ユーミン。もちろんデビュー当時は荒井由実)という特別の才能を世に送り出しました。彼女の音楽は将来おそらく中山晋平や古賀政男らの音楽と並び称されることになるだろうと思います。理由は中山晋平らと同様の「創造性」にあります。また彼女の歌は藤圭子らの歌とは逆のベクトルながら、「時代の新しさ」を見事に体現しております。ユーミンの登場によって、こんにち「J-POP」と呼ばれる音楽への流れが生まれたわけです 。
   
演歌から「演歌」へ

「演歌」の源流は、明治時代の自由民権運動にまで遡ることができるそうです。自由民権運動弾圧で演説が禁止されたために、自分たちの思想を歌で普及させようとした壮士達による「演説の歌(演歌)」(例えば明治22年頃に大流行した「オッペケペ」)が語源と言われています。
その後、演歌から政治性が失われていき、明治末期には伴奏楽器としてバイオリンが登場し、叙情性がでてくるようになります。さらに大正後期には、「艶歌」という言葉が登場し、演歌の内容が変わってきました。昭和の初めにはバイオリンがギターに替わり、「流しの演歌」の時代に入ります。ところが、戦後、「演歌」は死語ではないものの、日常語ではなくなってしまいました。それが復活したのは、1969年に藤圭子(宇多田ヒカルのお母さん)がギターをかかえてデビューしてからだそうです。彼女の演歌は「恨歌」とも呼ばれました。
このように時代によって「演歌」が指す音楽が変わってきたわけですが、演歌とは一体どういうものなのでしょうか。一般的に「歌謡曲」と言われるものがありますが、それは「演歌」とどのように違うのでしょうか。
まず、「歌謡曲」というのは、歌詞の意味内容が歌い方に反映することはなく、ひたすら耳に快感を与えることを目的とします。したがって、同じ曲中に、「暑い」と「寒い」という言葉があるような場合でも、「歌謡曲」では歌い方は変わりません。ところが、「暑い」という言葉は暑く歌い、「寒い」の時は寒く歌うのが「演歌」で、歌詞の意味内容によって歌い方が変わる、「演劇的世界を現出する、演じる歌」が演歌なのです。
この説明の後に、浜圭介が歌う「心凍らせて」や都はるみの「惚れちゃったんだヨ」を解説して頂きましたが、かれらの「息つぎによる感情表現」を知ると、同じ歌がまったく別物にきこえて感動しました。吉田先生による20世紀の三大歌手(全員が鳥系=マリア・カラス、エディット・ピアフ(すずめ)、美空ひばり)の一人である、美空ひばりが「うまい」のは、感情移入をしつつも、それにおぼれて歌が破綻することがないからというのも、 「悲しい酒」を聴いてみると非常に納得がいきます。  
   
歌謡曲1

音楽の分類用語。
大正12年2月(1923)大阪の東亜蓄音器が宮城道雄らの新箏曲(しんそうきょく)のレコードにつけた種目名。数年を経ずして同社は解散したため、この用語は定着しなかったが、昭和2年9月以降は日本放送協会の使用するところとなり、新箏曲ばかりでなく、新しい三弦歌曲の総称として、ラジオで使用された。
1930年代までは、西洋の芸術的歌曲の訳語としても用いられた。
昭和8年(1933)夏ごろから、日本放送協会は日本人の作曲した「流行歌」にもこの名称を転用し、以来、大衆音楽の種目名となった。この使用法が現代にまで受け継がれたが、 昭和48年ごろから「ニューミュージック」と「演歌」に二分され、歌謡曲という名称は廃れた。  
   
歌謡曲2

日本のポピュラー音楽の1つのジャンル。ケースにより、いくつかの意味で使われるが、おおむね以下の意味である。
1 ヨーロッパなどを含めた外国のポピュラー音楽のうち、ジャズやロックの影響の薄い古い時代の物を歌謡曲と呼ぶことがある。シャンソンは日本では主にこの意味で使われる事が多い。
2 広義では、日本のポピュラー音楽全般のうち、歌詞のあるものを指す。この意味では、日本の歌詞のあるポピュラー音楽のほとんど全て(演歌もJ-POPも)が含まれる。
3 狭義では、上の分類からさらにロック、フォーク、ジャズ、フュージョンなど欧米のポピュラー音楽の影響が薄い、「歌詞」に重点を置いた音楽を指す。具体的には演歌やムード歌謡、戦前から昭和20年代の歌謡曲が含まれる。これらの楽曲は、クラシック的な歌曲、欧米の舶来のポピュラー音楽のカヴァー曲など、広いカテゴリーを持っている。演歌とみられがちな古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲が多かった。
4 最狭義の歌謡曲としては、狭義の歌謡曲から更に演歌等を除外し、演歌とポップスとの中間的な曲調の大衆音楽の歌を歌謡曲と呼ぶこともある。
歌謡曲とは本来1の意味で用いられていたものである。それを昭和初期に2の意味でNHKが使いだし、欧米から新しい音楽が流入してきた後に3の意味で用いだした。さらに歌謡曲の時代が終わったと言われている平成に入り、歌謡曲は、J-POPと演歌の間のジャンル名として4の意味で用いられるようになった。
1990年代以降における歌謡曲の分類においては1960年代後半以降に隆盛した感傷的な側面の目立つ演歌に矮小化される傾向が強いが、本来はあくまで西欧のクラシックやポピュラー音楽の日本における派生形である。逆に演歌サイドから見た場合には「ひたすら耳に快感を与える」音楽といった説明がなされることもある。
戦後においては歌謡曲という言葉を生み出したとされるNHKの歌の系譜が不当に軽視される傾向が強いが、その理由について藍川由美は「NHKが戦後、戦時中の音楽をタブー視し、「國民歌謠」から「國民合唱」の歴史を回顧しようとしないことが大きいだろう」と述べている。 近年では商業的な理由により、歌謡曲と演歌を一括する「演歌・歌謡曲」というジャンルが考案された。その結果、演歌と歌謡曲が同一視され、歌謡曲が演歌と同義に捉えられてしまう弊害を生んでいる。

元々は「歌謡曲」はいわゆるクラシック音楽の歌曲を指す。藤山一郎、淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である国民歌謡は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があったが、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれ、現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。戦後になって当初の目的の再現のためラジオ歌謡として再開する。
戦後「歌謡曲」という用語は一般的に使われ続けるが、特にジャンルとして「歌謡曲」といった場合は昭和30年代の日本が高度経済成長にあった時の音楽を指すことが多い。これは即ち藤山一郎の引退(1954年)以降に流行歌から春日八郎の 「お富さん」(1954年)及び「別れの一本杉」(1955年)のヒットなどが発生し後に演歌と呼ばれる流れの源流が生まれた時期である。
この際、一方では曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような、フランク永井や石原裕次郎のムード歌謡が一世を風靡した。これらの音楽は現在「昭和歌謡」などと呼ばれたりする。
また、1960年代に入るとカラーテレビに媒体が変わりテレビにおけるプロモーションを重視した「テレビ歌謡」が発展していくことにもなるが、この頃には演歌の歌唱法と比較した場合に感情表現が少なめな音楽として歌謡曲という用語が用いられている。1972年頃からはニューミュージックがテレビ出演を拒みながら歌謡曲と一線を画しながら発展していく一方、アイドル歌謡曲の流行も始まる。
1970年代も後半になると、山口百恵など歌謡曲の中からも英語歌詞の影響を受けたような本来の歌謡曲にはなかった発音の音楽が生まれ出し、1980年代になると徐々に音楽的には歌謡曲からアイドル系の音楽は外れていく。また、1989年に歌謡番組であった「ザ・ベストテン」が終了し、その頃を境に媒体の消滅により歌謡曲という用語自体が使用されなくなっていく。
1990年代初めにビーイングブームが発生し歌番組における露出が控えめな歌手でも売上が伸びる現象が発生し「J-POP」などの言葉が流布された結果「歌謡曲」という言葉はあまり使われなくなった。それゆえ、昭和の終わりとともに歌謡曲というジャンルが無くなったという俗説も存在する。  
   
トロット(트로트)

韓国における大衆楽曲のジャンルのひとつである。日本の演歌と酷似した性格を持つため、しばしば韓国演歌と呼ばれることがある。
韓国の旧来型大衆楽曲のうち、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…」の3拍子ないし「ズンチャチャチャッチャ、ズンチャチャチャッチャ…」の4拍子を基本とするものを「トロット」、「ンチャ、ンチャ…」の早い2拍子を基本とするものを「ポンチャック(뽕짝)」と呼ぶ。 「トロット」は曲調のテンポを表す英語である「フォックストロット(Foxtrot )」の一部をとったものであり、「ポンチャック」は曲の伴奏のリズムを表す韓国語の擬音語を語源とするやや下世話な音楽とする蔑称である。
トロットの曲構成においては、朝鮮民謡を由来とする3拍子5音階を用いることが多く、その音階法は、西洋音楽が7音階を基本とするのに対して5音階を取っているために第4音と第7音は存在せず、4と7を抜いているとするいわゆるヨナ抜き音階(ペンタトニック・スケール)と呼ばれる。
トロットの歌詞テーマにおいては、別離や薄幸などに対する「ハン(한、恨)」「男女間や家族間の情愛」「大自然や日常風景の人生観への投影」などが好んで取り上げられる。「ハン」とは、漢字で表記すれば「恨」であるものの仏教用語でいう「煩悩」や日本語で言う「怨恨」・「恨み」とは異なる概念であり、自分の理想・なりたい境遇・やり遂げたい事・成就させたい恋愛などに関して、自分なりの努力にもかかわらずなかなか叶えられないことに対する不満・嘆き・嫉妬などと、それでもあきらめ切れない夢と羨望の念が入り混じった、韓国人特有とされる情念のことを指す。
その唱法においても、小節廻しを用いた独特の歌唱法が多用される。男性トロット歌手は洋装での出演が多いものの、女性トロット歌手は韓国のイメージを出すためにチマチョゴリで出演することが多く、日本の演歌シーンにおいて女性演歌歌手が日本のイメージを大切にする目的で歌唱時に和装を多用することに似ている。
また、歌詞の言いまわしひとつにしても、例えば男女間の情念をテーマとする曲で相手を二人称で呼称する場面において、「カヨ(가요、歌謡、日本で言ういわゆるK-POP)」ではクデ(日本語でいう「君」・「あなた」に相当)を多用するのに対し、トロットではタンシン(當身/日本語において、婚歴の長い夫婦や付き合いの長い恋人同士で、あるいは親友同士で、また喧嘩相手に対して用いられる「おまえ」「あんた」に相当する。韓国語でも全く同様の用法をとる)を好んで用いるところなど、日本のJ-POPと演歌の歌詞の言い回しの違いにそっくりである。
その他、前述の音階法を始めとするコード進行やメロディー構成やアレンジ、歌詞に好んで取り上げられるテーマ素材や歌詞表現の言い回し、プロ歌手の歌唱法やふるまい、ファン層が中高年層中心であること、近年はポップス楽曲に押されて相対的に売り上げが低迷しているが細く長くヒットする曲が多いこと、根強くテレビ放送に独自枠を持つことなど、完全に日本の演歌と酷似した性格をもつ。
歴史/草創期
朝鮮で初めて発表されたトロットのレコードは1908年の李東伯(イ・ドンベク)の「赤壁歌」である。1926年には尹心悳(ユン・シムドク)の「死의 贊美 」(死の賛美)がヒットした。尹心悳は大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家の金祐鎭(キム・ウジン)と共に関釜航路に就航していた徳寿丸から投身自殺をし、朝鮮全土に一大センセーションを巻き起こしたことでも知られており、皮肉なことにその話題先行によりレコード発売前から大ヒットは約束されていたようなものであった。
日本のレコード会社は大正時代より、日本蓄音器商会(現在のコロムビア)・大阪の日東蓄音器などが朝鮮市場向けに小規模に朝鮮盤(韓国語版レコード)を発売していたが、昭和になってから本格的に進出を開始し、1928年にビクター、1929年にコロムビア、1931年にポリドール・タイヘイレコードの順で進出した。また1931年には現地資本のシエロンレコードが設立され、1933年にはテイチクが現地資本との合弁でオーケーレコードを設立した。当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、キングレコード(講談社)のみが朝鮮盤の生産を行わなかった。
第二次世界大戦までの動向
1932年、10-14世紀の朝鮮半島の王朝国家で、コリアの語源にもなった高麗の首都・開城を舞台に歌い上げた李愛利秀(イ・エリス)の「荒城의跡 」(荒城の跡)が、韓国語版レコードによる初の全国的ヒットとなった。また、同年に蔡奎Y(チェ・ギュヨプ)が日本のヒット曲を韓国語に訳して歌った 「酒は涙か溜息か」などで人気を博した。また、日本の人気歌手であったディック・ミネが三又悦(サムヨル=サミュエル)名義で韓国語を用いてジャズナンバーを発表するなど、相互通行的な動きも見られた。さらに、本来は韓国の伝統芸術的な歌曲であった 「鳳仙花」をソプラノ歌手金天愛(キム・チョネ)が歌い大ヒットとなった。
1934年には「노들 江邊」(ノドル河辺)に代表されるいわゆる新民謡(創作民謡)がヒットする傾向を見せ、鮮于一扇(ソヌ・イルソン)などの妓生歌手が数多く誕生した。さらに、同年には高福壽(コ・ボクス)の「他ク살이」(他郷ぐらし)、1935年には李蘭影(イ・ナニョン)の「木浦의 눈몰」(木浦の涙)、1937年には張世貞(チャン・セジョン)の「連絡船은 떠난다」(連絡船の歌)が、日本による統治への反発を抱く大衆の思いを代弁する形となり大ヒットした。
1938年には歌謡皇帝こと南仁樹(ナム・インス)の「哀愁의 小夜曲」(哀愁のセレナーデ)がヒットし、南仁樹は作曲家の朴是春(パク・シチュン)と組んで後の韓国歌謡界に不動の地位を築くこととなった。この頃、民謡の女王として李花子(イ・ファジャ)も人気を博している。金貞九(キム・ジョング)の「눈물 젖은 豆滿江 」(涙の豆満江)が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろこの時よりも、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペン・ニョンソル)の「나그네 설움」(旅人の悲しみ)が、また秦芳男(チン・バンナム)の「不孝者은 읍니다」(不孝者は泣きます)が大ヒットとなった。
その後の第二次世界大戦の戦局悪化にともない、朝鮮においても内地と同じように軍部が士気高揚のために利用した戦時歌謡が量産されるようになった。朝鮮人志願兵第一号として軍当局の言ういわゆる名誉の戦死をした李仁錫(イ・インソク)一等兵の最期を美談に作り上げて大々的に喧伝し、「内鮮一体」のスローガンの気運を盛り上げようと謀る当局の介入に、朝鮮における歌謡界の自由性も次第に萎縮していった。
戦後の動向
1945年の日本の敗戦により朝鮮は開放され、1948年に大韓民国樹立によって米軍による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままであった。米国への留学経験を持つことから反日親米主義者である韓国初代大統領李承晩が1948-1960年まで韓国で軍事独裁政権を掌握し、トロット界においても 「酒は涙か溜息か」などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン)の「新羅의 달밤」(新羅の月夜)が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。
1950-53年にかけて勃発した北朝鮮の南侵による朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。 朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、停戦後に北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などは「越北作家」のレッテルを貼られ、彼らの作による 「断髪令」「有情千里」など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。
1954年李海燕(イ・へヨン)による「斷腸의 彌阿里고개」(断腸のミアリ峠)が大ヒットした。1957年エレジーの女王・李美子(イ・ミジャ)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。
1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。 1961年韓明淑(ハン・ミョンスク)の「노란 샤쓰의 사나이」(黄色いシャツの男)が大ヒットして、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部韓国語の歌詞を残したまま日本語訳詞が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって 「涙の豆満江」がリバイバルヒットしている。
1962年就任した朴正煕大統領は文化界に強い圧力を加えて来たし, 1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総 222曲が発行禁止処分が酔われたりした 。また李美子の歌が倭色と言って多数禁止曲に指定されたりした。 1967年南珍(ナム・ジン)による「가슴 아프게」(カスマプゲ)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児(ナ・フナ)もデビューを果たしている。1971年フォークデュオのラナエロスポによる 「사랑해」(サランヘ)が、1973年にはパティ・キムによる「離別」が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤(キロギュン)の名を高めた。特に「離別」は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。
1976年趙容弼(チョー・ヨンピル)による「돌아와요 釜山港에」(釜山港へ帰れ)が大ヒットする。1977年には李成愛(イ・ソンエ)が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による「連絡船の歌」のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、趙容弼や羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後に金蓮子(キム・ヨンジャ)や桂銀淑(ケー・ウンスク)などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。
「黄色いシャツ」「離別」「カスマプゲ」「釜山港へ帰れ」などの数々のトロット名曲を日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。
近年の動向
その後、一旦トロットの人気は下火となり、1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。
1990年代以降は、ソテジワアイドゥル(「ソテジと子供たち」の意)などに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。
また、日本において電気グルーヴによって李博士(イ・パクサ)が紹介されると一気にテクノファンに浸透し、ポンチャック・ブームを巻き起こした。
2004年には張允貞(チャン・ユンジョン)が「オモナ」をヒットさせ、純トロット曲の久々のヒットとなった。
   
NHKラジオから生まれた歌

学校教育においては、国語や音楽の教材を分析して一つの解釈を提示したり、唯一の正解を定めることが当たり前のように行なわれている。だが、作品のイメージを固定することに、どんな意味があるというのだろうか。いかなる作品であれ、受け取り方には個人差があるし、解釈は時代によって変化する。戦争中の音楽作品に取り組んだことで、私はそう考えるようになった。世間には、戦時下の作品はすべて好戦的だとする論調があるが、それはいささか感情的で根拠に乏しい。実際に作品を掘り下げてみれば、誰もが作風の多様性に気付くだろう。
最初は、NHKの「國民歌謠」で頭角を顕わした作曲家・大中寅二の「椰子の實」である。彼の作風は大海原を彷彿とさせるフレーズ感と、教会のオルガニストとして培った和声感に特徴があり、これはその後の「靖國神社の頌」でも変わっていない。それにしても、クリスチャンとしての大中は、どんな気持ちで靖國神社の歌を作曲したのだろうか。キリスト教の教会音楽風に仕上げられた音楽と、日本の神道のミスマッチからは、反戦主義のにおいすら嗅ぎ取れるのだが。
なお、靖國神社関係の歌は、「國民歌謠」では5曲発表されている。昭和12年4月26日初放送の「靖國神社の歌」(渋谷俊作詞・小松耕輔作曲)、翌27日の「靖國神社の歌」(田巻秋虹作詞・陸軍戸山学校軍楽隊作曲)、翌28日の「靖國神社招魂祭の歌」(岩本平太郎作詞・海軍軍楽隊作曲)、そして昭和15年10月14日の「靖國神社の頌」と、10月21日の「靖國神社の歌」(細渕國造作詞・海軍軍楽隊作曲)である。
次の「春の唄」は西宮駅近くの北口市場の様子を描いた作品で、「椰子の實」同様、戦後の「ラジオ歌謡」でも取り上げられた。
「母の歌」は、昭和9-12年欧米留学した橋本國彦がNHKの委嘱に応じて作曲した子守歌だが、戦後の出版譜では日の丸・君が代を歌った3番の歌詞が削除されるようになった。 天性のメロディストだった橋本は、日本にまだ管弦楽曲を書ける作曲家が数えるほどしかいなかった時代に、フランス印象派ばりの洗練された和声法を身につけていた。そのため、皇紀二千六百年の記念式典のための祝典曲(オーケストラ作品)を委嘱されたり、指揮を任されたりしたが、この活躍によって、戦後は苦境に追い込まれた。その死は、彼自身にとっても、日本の作曲界にとっても、早すぎた。 歌曲作曲家としての橋本はすでに昭和3,4年頃に名声を確立していたが、戦中・戦後にかけてのNHKでの仕事も、時代と音楽家の関わりを考える上で重要である。彼は「國民歌謠」において、「總選擧の歌」(土井晩翠/S.12.4.19初放送)、「母の歌」「黎明東亞曲」(佐藤春夫/S.13.1.6初放送)「國民協和の歌」(中央協和会・大政翼賛会/S.15.12.16初放送)を「橋本國彦」名で作曲した他、少なくとも「東京音楽学校作曲」として「大日本の歌」を書いており、それ以外の「東京音楽学校作曲」作品の中にも橋本の作品が含まれている可能性は高い。
彼は、専門家ではない大衆が歌うための作品は難しく書いてはならないと考え、最小の仕掛けで最大限の演奏効果をあげようとしたようだ。歌いやすい旋律線に対し、伴奏部にはスタッカートやレガートを細かく付けて演奏効果を狙っている。「大日本の歌」にせよ、「勝ちぬく僕等少國民」などの「國民合唱」にせよ、その特徴は、強弱や、テヌートとスタッカートの対比によるメリハリにあった。
敗戦後、NHKは昭和21年5月に歌番組の放送を再開した。橋本はその2回目の放送で「朝はどこから」を発表している。森まさるによる歌詞はまるで標語か何かのように味気ないが、作曲者はスタッカートを随所に用いることで、退屈さを避けた。橋本は結局8曲の「ラジオ歌謡」を書き、昭和24年5月6日に44歳で他界した。中でもタンゴとして書かれた「乙女雲」には、ビクターの専属でもあった橋本の流行作曲家としての一面が強く出ている。
古関裕而については改めて語る必要もないが、山田耕筰、信時潔、橋本國彦といった留学組と違って、独学でオーケストラ曲を書き、日本人作曲家として初めて国際的な作曲コンクールで入賞を果たしている。メロディーだけ書いて伴奏部を編曲者に任せることの多い流行歌の世界でも、彼は自らオーケストラ・スコアを書いていた。「國民歌謠」では「愛國の花」や「南進男兒の歌」(若杉雄三郎/S.15.9.2初放送)「われらのうた」では「海の進軍」(海老沼正男/S.16.5.9初放送)「國民合唱」では「突撃喇叭鳴り渡る」(勝承夫/S.19.5.1初放送)などの器楽パートが印象的だ。
「ラジオ歌謡」は昭和21年8月18日初放送の「三日月娘」から、昭和36年8月14日の「山の男は雲と友達」(薩摩忠)まで実に41曲を書いている。「並木の街の時計台」 は、鐘の音を彷彿とさせるピアノ・パートには、古関お得意の不協和音が効果的に生かされている。
橋本と同じく東京音楽学校教授をつとめた信時潔も、この時代を代表する重要な作曲家である。当時の前衛音楽であったシェーンベルクらの十二音音楽を研究しながらも、決して自作には取り入れず、終生、ドイツ・ロマン派的なスタイルを崩さなかったその作風は「海ゆかば」の重厚な和声に象徴されている。昭和12年10月13日のNHK「國民唱歌」の時間に放送後、11月22日に「國民歌謠」として再放送されたこの歌を、文部省と大政翼賛会は、昭和18年2月より儀式に用いることを決めた。ちなみに信時はそれ以前には「國民歌謠」を作曲していない。初めて「國民歌謠」として書いた作品は「國こぞる」(金子基子/S.13.10.3初放送)で、「海ゆかば」のスタイルを継承している。
「われらのうた」の時代、信時は「僕等の團結」と「伊勢神宮にて」(北白川宮永久王/S.16.10.27初放送)を書き、「國民合唱」では「此の一戰」(大政翼賛会標語/S.17.2.8初放送)ほか4曲を作曲。ところが「ラジオ歌謡」は「われらの日本」(土岐善麿/S.22.5.8初放送)と「吹雪の道」(白鳥省吾/S.26.1.2初放送)しかない。戦時中、準国歌的役割を果たした「海ゆかば」の作曲者をNHKが使いづらくなったということだろうか。
これに対し、高木東六は33曲もの「ラジオ歌謡」を作曲している。「空の神兵」(S.17発売)の作曲者として知られる高木だが、「國民歌謠」は「空軍の花」(相馬御風/S.12.9.12初放送)と「ヒュッテの夜」、「國民合唱」は「征くぞ空の決戰場」(井上康文/S.18.9.14初放送)、「怒濤を越えて」(佐伯孝夫/S.20.7.15初放送)と、2曲ずつしか書いていない。興味深いのは、「ヒュッテの夜」といういかにもブルジョア的な題材が、昭和14年1月にはまだ問題にされていなかった点だ。
ところで、戦後の「ラジオ歌謡」は、始まった当初こそ妙に健康的で明るい題材が目立ったものの、新作が追いつかなかったのか、昭和22年の後半には21曲もの「國民歌謠」を再放送している。初放送でも、同年10月の「山小舎の灯」は、米山正夫が戦前のポリドール専属時代に書いたものだった。
「ラジオ歌謡」で世に出た作曲家に、寺尾智沙との作品「白い花の咲く頃」「リラの花咲く頃」で知られる田村しげるが居る。彼は5曲の「ラジオ歌謡」を発表しており、その第1作目が「たそがれの夢」だった。
同じ日本人でも、戦禍をくぐり抜けた世代と、戦争を知らない世代との感性の違いは甚だしく、現代の若者は、抒情的な田村の作風や、感傷的とさえいえる八洲秀章の歌には共感しにくいかも知れない。だが、人々が敗戦で傷つき、疲れ果てていたあの時代、彼らの歌で癒された人は少なくなかった。「さくら貝の歌」(土屋花情/S.24.7.4初放送)で世に出た八洲は、「あざみの歌」(横井弘/S.24.8.8初放送)、「山の煙」「うるわしの虹」など、19曲の「ラジオ歌謡」を書いている。
NHKラジオから生まれた一連の作品は、愛唱歌としても、時代の証言者としても重要な意味を持っている。ただ残念ながら、これらの作品の楽譜は必ずしも出版されておらず、出版された楽譜も現在は絶版になるなど、入手はきわめて困難だ。そんな情況で全体像を語ることはできないが、少なくとも「月夜の笛」は日本の伝統的な陰旋(都節音階)で作曲されたという点で特殊な一曲といえるだろう。
歌を味わう上では、時代背景や個人的な思い出も大切な要素となる。しかし、いつまでも懐古趣味にとどめておいては、時代とともに忘れ去られかねない。近代日本の歌が我が国の音楽文化の一翼を担うためにも、この時代の作品をきちんと検証し、伝承してゆくことが必要なのではないだろうか。  
   
昭和歌謡

戦後の焼け野原に軽やかな「リンゴの唄」が流れた時、敗戦に打ちひしがれた人々の心がパッと明るくなりました。
歌は時として、生きる勇気を与えてくれます。あるいは、つらい時や悲しい時、うれしい時や楽しい時、人生の節目節目に、必ず心に刻み込まれる歌がありました。
思えば、私が最初に覚えた歌謡曲は鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」です。3歳の時でした。といっても私自身はほとんど記憶がなく、「あなたは小さい頃にいつも歌ってたのよ、サンドイッチマ-ン、サンドイッチマンて」と母が苦笑しながら話してくれたので自覚したのですが…。
やがて、これこ-れい-しの地蔵さ-ん、と歌いながら小学校に通い、中学校の校庭ではうす紫の藤棚で女学生に恋をし、そよ風が僕にくれた可愛い恋を、木枯しが奪っていったのは16の夏でした。真っ赤なエレキを小脇に抱え、アイドル気取りで女の子を追っかけ回したのもつかの間、あっという間にブームは去り、いつしか私も大人になっていました。
人はオトナになり歳を重ねるにつれて、いろんな情報や経験がくっついてきます。それに思い込みや先入観が混じり合ったデコボコ頭では物事を素直にとらえることは難しくなる。自分が辿ってきた時代は生きた証でもあり、人生の原型がそこにあるはずです。豊かな感受性を持って感銘を受け、感動した自分が……。しかし、過ぎた日々は帰らない。だからこそノスタルジーなのでしょう。
私の生きた「昭和」。遠い日の純粋だった自分と時間・空間・空気がそこにはある。ただ懐かしむだけではなく決して忘れたくはない。原点だから。
時は流れ、だんだんと遠ざかっていく「昭和」。その時代を共有した輝くばかりのスター達とその歌。そして彼等に送られた人々の拍手喝采が私の耳に鳴り続ける限り、エネルギーがいっぱい詰まったこの昭和という時代と、そしていつも庶民とともにあった「歌謡曲・流行歌」を語り継いでいきたいと思っています。
「歌は世につれ、世は歌につれ」けだし名言である。
もともと流行歌だけを指して言った言葉ではなく、短歌・俳句なども含めた、いわゆる「うた」全般に対することわざであった。広く一般に知られるようになったのは、演出家の長田幹彦氏が自分の台本に記してからであるが、どん欲に時代を吸収し、世相を映しとってきた昭和の歌謡曲・流行歌を表現するのにこれほどの名言はない。
御三家がいて、三人娘がいて、 もっと言えばスパーク三人娘に新三人娘。 花の三羽がらす、ロカビリー三人男と、 まあ、燦々と輝いていたし、 「歌う映画スター」なあ-んていって、 タフガイにマイトガイに若大将。 低音の魅力に高音も負けてはいない。 グループサウンズあり、フォークあり、 演歌あり、クロード・チアリ。 そりゃぁもう大騒ぎさ。
昭和における大衆歌謡・流行歌は、生活の中の泣き、笑い、喜びをそのメロディと詞に織りこみ、それゆえに世代を越えて愛されました。田舎の祭ばやし、高原の白樺林、赤い夕陽の校舎、霧の波止場にマドロス、路地裏の酒場。列車に郵便船。人々は理屈ではなく、感性でその歌の世界に思いをはせ、想像力をかきたてていったのです。それを歌や映画で演じ、夢や憧れを一身に集めてくれたのがスターでありました。まだテレビは普及途中、ビジュアルの中心は映画であり、平凡、明星などの雑誌、あるいはプロマイドでした。情報の乏しい中、人々は必死でスターを追ったのです。
おびただしい紙テープと花束に埋もれて、あなたは微笑んでいました。総天然色のスクリーンの中であなたは話してくれました。そんなあなたをファンは親しみと尊敬を込めて応援したのです。そして今でも・・・・
だから、昭和の歌謡スターはいつまでも大衆の中で生き、輝き続けるでしょう。
   
藤圭子

阿部純子の父親、阿部壮は、芸名を松平国二郎といい、地方回りの浪曲師であった。母親澄子もまた寿々木澄子という芸名で浪曲師をやっていたことがある。その日その日の生活費を求めて東北や北海道の村々を流して歩く。お祭り、工事現場の飯場、老人ホームの慰安会、お寺の境内などが主な舞台であった。純子が生れたのはそんなさなかの昭和27年7月5日(1952)岩手県一関においてだった。
姉の富美恵、兄の博を含めて一家5人は、永く続いた旅から旅への生活からようやく北海道旭川に居を構える。子供達が学校に上がる年齢になったからであるが、しかし両親は相変らず地方回りで生計を立てなければならない。旅先から仕送りをしながらの生活が続いた。
純子が小学校5年生の時に北海道の巡業について行った。そこで間をつなぐ為に急遽舞台に上がり、畠山みどりの「出世街道」や美空ひばりの「柔」などを歌って拍手喝采を浴びる。それ以来、純子は一家の看板娘、大事な稼ぎ頭となった。時は流れて中学三年生で岩見沢の娯楽センター「喜楽園」の専属歌手に迎えられる。そして、昭和41年(1966)中学校の卒業式を間近に控えた2月、岩見沢の「雪祭ショー」に予定していた歌手が辞退し、代役で出演した。この時に居合せた作曲家の八洲秀章に認められ、東京に出ることを奨められる。
上京、そして、石坂まさお(澤ノ井千江児)との出逢い。
一家は真剣に思慮した結果、旭川を引き払って上京することを決意する。大きな賭けであった。だが、東京で出てきたからと言ってすぐに生活が変るわけではなく、両親は相変らずの「流し」で日銭を稼いでいた。そのうち父親の壮が永年のムリがたたって体調を崩し、働けなくなってしまった。純子は昼間は八洲秀章のレッスンを受けながら、夜は母親と錦糸町や浅草方面を流して歩いた。島純子の芸名でファッションモデルもやった。しかし、生活はいっこうによくならない。合間を縫ってレコード会社も回ったがどこも相手にしてくれない。
純子は八洲秀章のもとを離れ、作曲家上条たけしの門を叩いた。そこで同じくレッスンを受けていた品川芳輝と出会う。東芝レコードへの売込みに失敗して意気消沈している純子に品川は声をかけた。折しも今、歌謡界はGSやガールズ・ポップの全盛時代。阿部純子の背負っている人生や生活から滲み出てくる雰囲気はあまりにも暗すぎた。「純ちゃんの個性を生かすなら澤ノ井先生の所へ行ったほうがいいよ」。
澤ノ井千江児もまた、愛人の子として生れ、本妻に育てられたというドラマチックな幼少期を過し、作詞家としても長い下積みを経験している。品川は阿部純子と澤ノ井千江児に共通する「痛み」「臭い」を感じていたのかも知れない。あるいは、澤ノ井が東芝の専属ということもあり、そっちの面でもアプローチしやすいと踏んだのだろう。とにかく、純子は澤ノ井の家に入りびたるようになった。
澤ノ井はまず、純子の歌声に驚いた。幼い頃から両親と一緒に厳しい気候風土の東北・北海道を巡業してまわり、鍛えられたノドからしぼり出される「情念」とその背景にある「境遇」や「宿命」。わずか17歳で、しかも日本人形のような美少女とは似つかわしくない、そのアンバランスさに「作られたモノではない」本物の「凄味」を感じた。
それと、純子の置かれた今の境遇だ。父親が倒れ、そして母親もまた、実は純子がまだ幼い頃から、過労と栄養失調のために視力をほとんど失っていた。聞けば、このまま放っておけばやがて失明するという。普通の家庭の主婦ならば、かすかな視力でも「慣れ」で普段の生活はなんとかなるだろう。しかし、純子の母親澄子の場合は、そんな状態で旅から旅の「流し」生活を続けていたのだ。
「一家を楽にしてあげたい その為に金の稼げる歌手になりたい」
純子の歌には、世間に裸でぶつかり、跳ね返され、生きのびてきたものだけが知る人間の命の哀しみが自然に備わっている。「レコード歌手ではない、どちらかというと芸人的」。澤ノ井は純子の生い立ちを聞きながら、漠然とではあるが、自分に相通じるものを感じ取っていた。育った環境は異なるが、社会の底辺で通じ合うような生活感。同じ体臭のようなものが染みついている。と、品川の予感通りであった。
「この子には何かがある、きっとうまくいく」澤ノ井は確信をもった。「この子は生き様そのものが歌なんだ。」一人でも多くの人間に純子の歌を聴かせたい。澤ノ井は自分で育て、売出すことを決意し、純子は澤ノ井の家に住込み、レッスンを受けることになった。

澤ノ井は思い立ったら行動は早い。さっそく、自分の所属する東芝レコードのディレクターに引合わせた。そこで歌った歌は津村謙の「上海帰りのリル」。ディレクターは興味は示したが、しかし、「一度、上条先生で断っているから義理が立たない」との理由で断られた。それならば、と澤ノ井は東芝と専属契約を打ちきり、フリーの立場で活動することにした。この世にゴマンといる、まだどうなるかわかりもしない歌手志望の少女。だが、澤ノ井は純子に感じた自分の直感と、持ち前の負けん気とチャレンジ精神が頭をもたげ、もう後戻りはできないところまで燃え上がっていた。
次に澤ノ井と純子が向った先は日本コロムビアだった。芸能プロダクション「芸映」の紹介だが、しかし、ここは老舗中の老舗。そうそうたるスター群と専属作家が名を連ね、きっちりとラインが組まれている。そこに入り込むのは容易ではない。そこで、澤ノ井は新しく発足した外資系の「コロムビアデノン」に目をつけた。ここは、既成のスターや作家にとらわれない新しい志向を目指していて、わりとオープンな雰囲気である。純子は担当ディレクターの前で竹越ひろ子の「東京流れ者」を歌った。ディレクターも純子に何かを感じ、快く迎えいれてくれた。
だが、「コロムビアデノン」はもともとポップス色の強いレーベルである。歌謡ポップス路線で勝負したいと考えていた「コロムビアデノン」と、純子のドラマ性を引出したい澤ノ井の思惑とはかなりの温度差があった。それに、プロデュースとマネージメントに徹するためと様々な兼合いから、デビュー曲の作詞をなかにし礼、作曲を猪俣公章でいくことになっていたのだが、こちらもなかなか思うようにははかどらない。「コロムビアデノン」そのものが立ち上げたばっかりで、一人の歌手にかまっていられないという事情もあったのだが、澤ノ井の苛立ちはつのるばかりであった。そして、ようやく出来上ってきた曲はタイトルが「鍵」(作詞:なかにし礼/作曲:猪俣公章)洗練された都会的な歌謡ポップスだ。「これは違う・・」。曲が悪いのではない。やり方が違うのだ。野良犬には野良犬のやり方がある。澤ノ井は「コロムビアデノン」を後にした。
先輩作詞家である星野哲郎の助言もあり、デビュー曲は自分で作ることにした。「やはり純子を一番よく知る君でなければ書けないよ」澤ノ井は原点に戻り、自分をみつめ直す。まずペンネームを変えた。「石坂まさお」これは実在した人物の名前で、先輩作詞家宮川哲夫とシナリオ作家の井出雅人と共に詩人の三羽がらすと呼ばれていたが、太平洋戦争で戦死していた。

澤ノ井は「石坂まさお」として再出発することを心に誓い旅に出た。さて、自分で作ろうと思ったものの、なかなか思うような詞が作れない。いわゆる生みの苦しみである。そんな折り、名古屋で旧友でもある作詞家みずの稔と会う。そこで見せられた一遍の詞が、まさに求めていた言葉だった。「バカだな バカだな だまされちゃって・・」みずのにこの詞を使用することを承諾してもらうと、後は一気呵成に出来上った。「新宿の女」の誕生である。(クレジットの作詞者にみずの稔氏の名前があるのはこういう事情から)
思えば「新宿は俺の故郷ではないか・・」新宿は人間の吹き溜りのような街。純子の持つドラマ性を引出すインスピレーションには事欠かない。まさに原点に返ったところからはっきりと進むべき道が見えてきた。
だが、デビュー曲だけではだめだ。2曲目、3曲目と続かなくては・・、石坂は新宿の雑踏の中を歩きながら案を練った。そして「女のブルース」「生命ぎりぎり」が出来上った。あとはレコード会社だ。
実は、石坂まさおは「コロムビアデノン」の話が消えかかった頃に「日本ビクター」の事業部のひとつである「RCA」に挨拶をすませていた。「RCA」はクラシックや洋楽ポップス中心のレーベルであるが、昭和43年頃からは邦楽にも進出していた。ここで応対に出たディレクターの榎本襄が、その後の純子のデビューの大きな推進力となっていく。
ついにデビューが決る。
石坂に純子を紹介された榎本もまた「何か」を感じた。出来上ったばかりの「新宿の女」はまさに純子の生き様そのものが歌になったようなものだ。端正な顔立ちの17歳の少女はギターを抱え、思いも寄らぬハスキーで凄味のある声で歌った。「これはスゴイ!」まさに新宿の街の呻きが迫ってくるような「情念」がある。それに「美少女の流し」というキャラクターも新鮮だ。「RCA」からのレコード・デビューが決まった。
となると次は芸名だ。石坂は純子を本格的にプロモートするために「日本音楽放送(有線)」などの資金協力を得て自ら「藤プロダクション」を設立した。(社長は日本音楽放送の工藤宏氏)そこで工藤氏の「藤」と、工藤氏の妹である桂子にちなんで「藤圭子」に決まった。
「これからはテレビを始めとするマスメディア的なイメージ戦略が必要だ。」石坂と榎本は協議を重ね、藤圭子の端正な顔立ちのわりに、痩せすぎの体型と大人の歌を歌うには色気が足りないことを補う為に、黒のベルベットのパンタロンスーツと対照的なコントラストの真っ白なギターを持たせて売り出すことにした。キャッチ・フレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」。こうして、藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の発売日は9月25日に決まった。昭和44年の夏のことである。 だが、「RCA」は新興のレーベル。思うような宣伝予算が確保できない。「それなら自分でやるだけさ」「野良犬には野良犬のやり方がある」。
新宿の女(昭和44年9月)作詞 みずの稔・石坂まさを 作曲 石坂まさを
  B面/「生命ぎりぎり」
女のブルース(昭和45年2月)作詞 石坂まさを 作曲 猪俣公章
  B面/「あなた任せのブルース」
圭子の夢は夜ひらく(昭和45年4月)作詞 石坂まさを 作曲 曽根幸明
  B面/「東京流れ者」  
圭子の夢は夜ひらく
作詞:石坂まさを、作曲:曽根幸明、唄:藤 圭子
    赤く咲くのは けしの花
    ・・・
   馬鹿にゃ未練は ないけれど
   忘れられない 奴ばかり
   夢は夜ひらく
昭和45年(1970)4月25日にリリース。 10週連続オリコン1位にランクされ、77万枚を売り上げました。
昭和41年(1966)に園まり、緑川アコなどにより競作された『夢は夜ひらく』のカヴァーですが、恋の歌だったこれらのヴァージョンとはまったく違う怨み節系のトーンになっています。
陶器の日本人形のような整った顔立ちで、アングラっぽいスロー・バラードをかすれ声で歌うというミスマッチな感じが、人びとを惹きつけました。
藤圭子が『新宿の女』でデビューしたのは昭和44年(1969)ですが、その前年あたりから数年間は"学生反乱の時代"と重なります。
1968年5月には、フランス・ナンテール大学の学生"赤毛のダニー"ことダニエル・コーン=ベンディットらが大学民主化やベトナム反戦を叫び、全国の労働者も巻き込んでゼネスト行い、ド=ゴール大統領の第五共和政を崩壊寸前まで追い詰めました(五月革命)。
この運動はイタリア、ドイツ、アメリカなど先進各国の大学に飛び火しました。
わが国では、昭和40年代初め頃から、早稲田、慶応、中央、明治、法政などで学費値上げ反対や大学民主化をテーマとした学園闘争が頻発、それらは昭和43年(1968)の日大全共闘(議長=秋田明大)と東大全共闘(議長=山本義隆)による大学建物のバリケード封鎖と大学当局との大衆団交(大学管理者側にとってはつるし上げ)によって頂点に達しました。
両方とも翌昭和44年(1969)春には、機動隊によるバリケード封鎖の強行解除によって収束しました。この年、東大入試が中止されたことは多くの人の記憶に残っていると思います。
学園紛争以外では、安保条約延長反対をめぐって、昭和43年以降、羽田闘争、新宿騒乱事件、国際反戦デー闘争、佐藤首相訪米阻止闘争など、相次いで紛争が起こりました。
この「70年安保闘争」は、ベトナム反戦運動や成田空港反対運動、沖縄返還運動と結びつきましたが、佐藤政権による徹底的な取り締まりと学生運動の内部分裂や内ゲバによって、次第に力を失っていきました。
こうした流れのなかで挫折感や敗北感に襲われた学生たちの胸に沁みたのが、「赤く咲くのはけしの花/白く咲くのは百合の花/どう咲きゃいいのさ/この私」と歌う『圭子の夢は夜ひらく』でした。
第一次安保闘争(60年安保)のとき、同じような状況に追い込まれた学生・青年たちが愛唱した『アカシアの雨がやむとき』と同じような役割を果たしたわけです。
この時期に学生生活ないし青春期を送った人たちには、忘れられない歌の1つでしょう。
藤圭子は、娘・宇多田ヒカルがまだ子どもの時代に心の病を発症したようで、奇矯な言動がいくつか伝えられています。平成25年(2013)8月22日、西新宿で自死。62歳。
多くの人たちの胸に響いた歌をいくつも遺したこと、天才的な歌唱力が娘に受け継がれたことをもって瞑すべし、でしょう。
   
唱歌系の歌と演歌系の歌

流行歌というのはいろんなジャンルがあり、さまざまな分類の仕方があると思うが、このページでは発声法やこぶしの有無、などを基準にして唱歌系と演歌系との二種類に分けて考えてみたいと思う。そしてそれらを歌う歌手もまたこの二種類に分けて考えてみたい。(唱歌系の歌は今日でいうJ-POPとほぼ同じといってよい。文部省唱歌のようなものとJ-POPとが同じ分類に入ることに異論のある方もおられかもしれないが、下記のように発声法その他で歌を分類すればJ-POPと唱歌とは同じ範疇に入るのである。) 
なぜこんなことを書こうかと思ったかというと、よくNHKなどで「なつかしの歌謡曲」だの何だのといった番組が企画され、そんな時に出場歌手が他の歌手の持ち歌を歌うことがあるが、そうしたものを見ているとどうみてもミスキャストではないか、と思うことが多々あるからである。
たとえばだいぶ前のことではあるが、藤山一郎の「長崎の鐘」を北島三郎が歌ったことがあった。 美声で鳴らした藤山一郎の声は、楽譜どおりの音程を正確に取っていく西洋的な発声方法であり、(そのために楷書的な歌と言われていた)したがって「長崎の鐘」はその藤山の声に合うように作られている。これに対し北島三郎の声は典型的な演歌歌手の声で(行書的な声とでも呼ぶべきか)、声自体は美声ではない。こぶしはあまり回さないが独特の節回しがあり、与えらた楽譜にとらわれずに独特の歌い方で聴衆を魅了するものである。
この北島三郎が「長崎の鐘」を歌ったもんだから(歌わされた?)たまったもんじゃない。「長崎の鐘」は演歌に変身してしまった。北島もまた歌いにくそうだった。「白樺-」とか歌わせれば天下一品なさぶちゃんもちょっと勝手が違うなあ、と思ったのではないか。
せっかくの名曲が演出の拙劣さによりあたらヘンテコリンなものになってしまったのである。あれじゃあ北島三郎も「長崎の鐘」もかわいそうだなあ、と思ったものである。いったいあの演出をした人は何を考えていたんだろうか。
二種類の歌(歌手)
日本の歌は唱歌系の歌と演歌系の歌に分けられる。歌手もまたその声質、歌い方、こぶしの有無などから唱歌系の歌に合う人と、演歌系の歌に合う人に分けられる。世界の事情までは詳しくわからないが、こうした状況はおそらく日本だけなのではないかと思う。
なぜこのような二種類の歌(歌手)に分けられるか。おそらくそれは明治初年に民謡や浪花節などの歌の素地があった日本に強引に西洋音楽が取り入れられたためではないかと思われる。(この政策を推し進めた伊沢修二などは明らかに西洋音楽の方が日本古来の音楽よりも優れている、という価値観を持っていた)
そもそも西洋の歌と日本民謡や浪花節とは発声法がまったく異なる。前者は主としてイタリアのベルカントの流れから、口を大きく開け、声門をよく開くように歌うが、後者は逆にむしろ喉をしめるような歌い方をする。戦後になってマイクロフォンを使用することを前提とした歌い方が新たに生まれると、両者ともに電子機器による増幅を前提として軽やかな歌い方に変化していくが、発声法自体はそれぞれ変化していない。西洋優先の掛け声のもとで明治になって洋楽のみが正式な音楽と認知されたが、喉をしめる日本的発声もまたしぶとく生き残り、現在のような二系列の歌を生んだものであろう。
それではここで両者をやや詳しくみていきたい。
まず唱歌系の歌。明治になってから情操教育の一環として小学唱歌というものが作られた。西洋の歌に範を取り、西洋的発声で歌う曲が多数作られた。20世紀に入りこのジャンルは「文部省唱歌」という風に言われるようになり、おそらく戦前までは歌といえばこの唱歌系のものしかなかったであろう。そして戦後になりこの流れに棹差したのが藤山一郎である。 彼の声はまさにドイツリートを歌うのに適しており、その美声、正確な音程でもって敗戦後の日本の一世を風靡した。その後この唱歌系の発声は舟木一夫、尾崎紀代彦、さだまさし、布施明といった人たちに受け継がれていく。一時はやったグループサウンズやフォークソングなども基本的にはこの流れである。グループサウンズなどは実は唱歌系の歌にプレスリーやビートルズ的な歌い方がミックスしたものである。またフォークソングの隆盛時にはそれまでの歌謡曲では看過されてきたハーモニーの概念が取りいれられた。文部省唱歌とグループサウンズなどが同類というのは意外に思われるかもしれないが、発声法や歌いまわしなどを基準に考えれば同じ範疇に入るのである。
次は演歌系。演歌というのはいかにも日本的で古くからあるような感じがするが、意外に歴史が浅い。演歌の起源ははっきりしていないらしいが、「演歌」なる言葉がはっきりと出てきたのは昭和30年代あたりからだそうである。「演歌」の範疇に入る歌の類は戦前からもあったことであろうが、しかしとにかく明治初年からあった唱歌よりははるかに新しい概念であることはまちがいない。(NHK番組の「お江戸でござる」のあとは必ず演歌歌手が着物姿で演歌を歌い、お江戸の雰囲気をうまく醸し出しているが、江戸時代にはあのような形の演歌など本当は陰も形もなかったのである。)
演歌系の歌が世間に広く認知されたのはやはり美空ひばりからではないかと思う。昭和24年に12歳でデビューした彼女はたちまちスターになった。昭和24年といえば前述の「長崎の鐘」が発表された年である。くしくも昭和24年という年は唱歌系歌手と演歌系歌手とのぶつかり合いとなったのである。
演歌の特徴はこぶしと独特の節回しである。ともに楽譜には記せないものであり、歌手の個性にゆだねられる。うまい演歌歌手かどうかというのは声がきれいであることは必須条件ではなく、こぶしがうまく回り、歌いまわしに個性があるかどうかである。たとえば森進一なんか声からすればおよそ西洋的発声には向いていない。しかし彼独特の歌いまわしはやはりうまい、と思う。そしてその歌にはどこか日本人の心を打つものがある。
私は演歌の起源は前述した日本民謡や浪花節なのではないかと思っている。民謡や浪花節の歌いまわしは発声法やこぶしの使い方など、演歌と似通っているからである。前述の如く、明治に入ってから政府はなんでも西洋優先で、音楽の世界も例外ではなく、西洋音楽ばかりがもてはやされるようになった。しかし古くからある民謡は廃れることなく脈々と地下水のようにその命をつないできた。その流れが昭和30年代になって演歌となって泉のごとく噴き出してきたのではないか。
戦後の唱歌系の歌(歌手)と演歌系の歌(歌手)のせめぎ合い
それではその後の日本歌謡の歴史はどうか。(この頁では日本の歌を唱歌系の歌(歌手)と演歌系の歌(歌手)とに分けて考えてきたが、ここではとりあえず前者の始祖を藤山一郎、後者の始祖を美空ひばりと考えておきたい。両者ともそれぞれの分野の巨人であり、年齢は若干違うが、戦後の混乱期の歌謡界を支えた存在であるので、この二人を始祖として考えると二系統の歌の歴史というのがわかりやすいからである。)
総体的にみれば唱歌系の歌は浮き沈みがはげしく、演歌系の歌はそれほど浮き沈みすることなく地道に歌われてきたといえる。昭和20-30年代はまだまだ演歌系の歌は揺籃期であったといえよう。しかし昭和30年代より村田英雄、北島三郎、都はるみ、水前寺清子と大物演歌歌手がデビュー、さらに昭和40年代に入ってから青江三奈、森進一とデビューしてくるにおよび演歌も次第に隆盛となっていく。
唱歌系もしかし負けてはいない。昭和30年代までは演歌系の歌よりやや優位な状態程度であったが、昭和40年代に入るとグループサウンズという名のもとにあらたなよそおいでもって発展をする。グループサウンズは昭和40年代前半には演歌系の歌を圧倒する勢いを誇ったが、その衰えは早く、昭和46年には下火になった。しかしこの頃から唱歌系は新たなる巻き返しを図る。吉田拓郎、泉谷しげる、ガロ、チューリップなどフォークソング歌手の台頭である。彼らの場合、グループサウンズほどはうるさくはないしっとり系でハーモニーの要素なども取り入れ、グループサウンズの末期に離れていった若者の関心をつかんだ。(最近はやりの”癒し系”のはしりだったのだろう)当時中学生だった私もフォークソングに熱中していた記憶がある。その間、演歌系の歌も着実にヒット曲は出てはいたが、やはり昭和40年代はグループサウンズやフォークソングを中心とする唱歌系の歌(歌手)が演歌系を圧倒していたといえよう。
しかし昭和51年の都はるみの「北の宿から」の大ヒット、翌年の石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の大ヒットあたりから歌謡界の流れは大きく変わる。主役の逆転がこの頃より始まるのである。(石川さゆりなどは当初はアイドル歌手として唱歌系の歌でデビューしていたが、同期の山口百恵、桜田淳子などに押され、いまいちパッとしなかった。彼女は本質的に演歌系の歌手であったのだが、最初のプロデューサーに眼がなかったのだろう。演歌を歌わせたら俄然磨かれざる玉が光りだしたのである)
さしものフォークソングブームも結局はグループサウンズと同じく、5年ほどで去った。そして演歌の時代が来たのである。これはまたこの頃より全国の飲み屋に普及し始めたカラオケの力が大きい。飲み屋さんでは日本人はフォークを歌わなかった。やはり酒には演歌が似合っていたのである。
では唱歌系の方はどうかというとこの時期はフォークソングはニューミュージックとその名を変え、新たなる巻き返しを図っていた。しかしかつての勢いの回復までには至らず、昭和50年代はやはり演歌系の歌の方が優勢だったといえるだろう。
ところが好事魔多し。演歌系の歌を全国に広めるのに一役買ったカラオケが演歌の首をしめるようになったのである。カラオケの普及とともに、歌というものはただ単に聴くものから素人でもなんでもみんなが歌うものとなった。音程もろくすっぽつかないようなおっさんでも歌えるようにするために、演歌のメロディーはどんどん簡略化されていった。
人は得意分野で足をすくわれるのページでも書いたが、カラオケの世界で圧倒的な人気を誇っていた演歌がまず大衆に迎合するようになったのである。演歌のメロディーが簡略化されることにより、演歌は確かに大衆にはカラオケなどで歌いやすくなった。しかしそのことによって演歌のレベルが低下してしまったのである。それゆえ、演歌はカラオケの隆盛とともに長期低落傾向を示すこととなる。カラオケで広まった演歌がそのカラオケのためにその人気が落ちていったのは皮肉なことであった。
昭和60年代から平成に入るとニューミュージックと名を変えた唱歌系の歌の方がやや優勢となる。こちらも以前のような圧倒的な人気はなかったが、演歌系の歌がカラオケに迎合してその人気を落としたために相対的に優位になったわけである。しかし数年前より氷川きよしが現れ、今年になり元ちとせが現れ(元ちとせは発声法やこぶし回しなど私の分類からすれば演歌系の歌手である)現在は演歌系の歌(歌手)の方が断然優勢である。それは歌番組などを見ているとよくわかる。
やっぱり日本人は演歌が好き
「選挙は演歌である」と言った人がいる。選挙というのは住民の多数派の支持を受けなければ勝てないから、どうしても日本人の最大公約数的な要素を打ち出していかなければならない。田中角栄が浪花節をうなったのはまさにその好例である。日本人の、特に年配者は浪花節が好きである。彼は浪花節をうなることによって地方で影響力のある年配者に「カクエイは自分達の仲間だ」と思わせることに成功したのである。逆に「ボクはサラサーテやパガニーニが好きでねえ」などと言っていたら選挙には勝てない。(したがってオペラが好きだという小泉さんが首相になれたことは不思議でならない)
以上のような唱歌系の歌と演歌系の歌の歴史を見てみると、やはり何と言っても演歌系の歌というのは安定した人気を保ってきたことがわかる。日本人というのは何と言ってもやっぱり演歌が好きなのである。グループサウンズやフォークソングなどは一時的にはブームになってもすぐにその熱がさめてしまった。特にフォークソングなどは一時、歌にハーモニーを入れようとずいぶん努力したようであるが、日本人というのは所詮ハーモニーは苦手なのである。男と女のデュエットといえば西洋では二人が同時に美しくハモるように歌うが、日本の場合は男女が交互に歌っていくという形態になってしまう。これもまた演歌にはぴったりの歌い方である。演歌では絶対にハモれないからである。(音程をわざとくずして歌う演歌ではハーモニーという概念はありえない。ただし「昭和枯れすすき」などは例外的に男女のハーモニーとなっている。この曲がはやったのは昭和50年で、あの頃はまだフォークの時代であったため、こうした折衷的な曲がはやる余地があったのであろう)
新しい演歌系の実力派歌手の登場で、当分歌謡界は演歌優勢の時代が続くであろう。NHKのプロデューサーも歌手に他人の歌を歌わせるときは演歌歌手に唱歌系の歌を歌わすような愚はさけてほしいものだ。
   
ズンドコ節

日本の歌謡曲の楽曲の一つである。ヅンドコ節と表記されることもある。
海軍小唄
元々、「ズンドコ節」は「海軍小唄」(かいぐんこうた)と呼ばれていた。軍歌の一つと言われる事もあるが、実際の所は、戦地に赴く男たちの本音を歌った流行歌のような物である。作詞者及び作曲者は不詳である。1945年頃に流行った曲である。作詞・作曲者が不詳であり権利上の問題が発生しないため、多くの歌手によってリメイク版が製作されている。なお、リメイク版の多くは七五調の歌詞となっている。
    汽車の窓から 手を握り
    ・・・
    涙のにじむ 筆の跡
    可愛いあの娘が 忘られぬ
    トコ ズンドコズンドコ
ズンドコ節(街の伊達男)
戦後まもなく田端義夫により「ズンドコ節(街の伊達男)」としてリリースした物がヒットする。この時初めて「ズンドコ節」の名前が付く。田端のエレキギターによるリードギターと伴奏のアコースティックギターの二本の演奏によって歌われている。演奏は当時流行していたブギのリズムに乗った軽快かつブルーステイストに溢れたもので、それ以前の流行歌におけるギター演奏にはないポップな感覚があり、日本ポップス史の観点から見て特筆すべきものである。田端は四国への巡業のため大阪の天保山から乗り込んだ連絡船の中で、闇屋が歌う歌に感銘を受け、それをブギにアレンジして昭和22年(1947年)に吹き込んだ。歌詞の内容は「海軍小唄」を当時の伊達男の恋に置き換えている。
    黒いソフトにマドロスくわえ
   ・・・
   やくざ渡世もあの娘のために
   さらばおさらば左様奈良(さようなら)
   トコ ズンドコズンドコ
東京ズンドコ節
1951年7月に安城美智子と鈴村一郎によってリリース。
ズンドコ桜
「ズンドコ桜」は、「ズンドコ節」の変形のひとつである。1952年4月に田端義夫と安城美智子によってリリース。
アキラのズンドコ節
1960年に小林旭がカバー。「海から来た流れ者」シリーズの第2弾「海を渡る波止場の風」のテーマ曲として誕生した。歌詞は大きく変わり、曲のテーマは「若い男女の恋物語」となった。元々は「アキラの鹿児島おはら節」のB面曲であったが、こちらのほうがヒットした。
    街のみんながふりかえる
    ・・・
    今夜もあの娘を 夢で見る
    逢いたい見たいと 夢で見る
    夢を見なけりゃ なんで見る
    見るまで一日 寝て暮らす
お座敷ズンドコ
朝丘雪路が「お座敷ズンドコ」としてカバー。
    青い背広が 良く似合う
    あの人乗せて 汽車は出る
    ・・・
    いい人だった 好きだった
    私は死ぬまで 忘れない
    トコ ズンドコ ズンドコ  
ドリフのズンドコ節
「ドリフのズンドコ節」は1969年11月にザ・ドリフターズがリリースしたシングルである。オリコンでは80万枚を超えるセールスを記録し、ザ・ドリフターズで最大のヒットとなった。
「海軍小唄」(かいぐんこうた)と呼ばれていた「ズンドコ節」をザ・ドリフターズがカバーしたものである。当時としては異例の公称150万枚を越える大ヒットになり、ドリフターズの代表曲になった。テーマは小林旭と同じく「若い男女の恋物語」だが、原曲の「海軍小唄」の歌詞も6番(ほぼ原曲の1番である)をはじめとして所々に使われている。 1番から6番まであり、1番を加藤茶,2番を仲本工事,3番を高木ブー,4番を荒井注,5番をいかりや長介,6番をメンバー全員で歌っている(6番に入る前に、いかりやが「元歌!」と叫んでいる)。
徐々にランクを上げてゆき、発売から1ヶ月半経ってオリコンの3位に初登場した。皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」(年間第1位)と内山田洋とクールファイブ「逢わずに愛して」(年間第5位)に阻まれて7週間2位に甘んじるが、1970年の年間第2位に輝いた。
志村けんがドリフターズに加入後「志村けんバージョン」も発売(シングル「ゴーウェスト」のB面に収録)されたが、CD「ドリフだヨ!全員集合(青盤)」のライナーノーツによると、この「志村けんバージョン」は、荒井注がソロを担当している4番だけを志村に差し替えて編集した以外は1969年版と全く同一の録音であるという。それを裏づけるかのように、志村がソロで歌う部分以外では明らかに荒井のものと思われる声が随所に入っている。
    学校帰りの森影で
    ・・・
    汽車の窓から手をにぎり
    送ってくれた人よりも
    ホームのかげで泣いていた
    可愛いあの子が忘らりよか
きよしのズンドコ節
2002年に氷川きよしがカバー。歌い出しは、小林旭のものに似ている。曲のテーマは当初「若い男女の恋物語」にする予定だったが、氷川と作詞者・松井の意向で急遽「故郷にいる母親への思い」が3番として追加された。オリコン週間チャートで最高5位の大ヒットとなり、この年以降全国の盆踊り大会で使われている。  
    風に吹かれて 花が散る
    ・・・
    守り袋を 抱きしめて
    お国訛りで 歌うのさ
    西の空見て 呼んでみる
    遠くやさしい お母さん
 
デカンショ節

私が、デカンショ節に深いかかわりをもつようになってから、50余年の年月がたった。今日にいたるまで、ひたすらその保存、振興につとめてきた。
その間民謡、民踊については、自分なりに研究してきたつもりであるが地方の民俗行事で、特に一般庶民が唄い、踊っていた盆踊および、労作唄等に関する文献等はそれぞれの土地においてもパンフレット程度で皆無に等しく、それがあっても、つじつまがあわないもの、年代的にありえないことなど、矛盾も多い。その学的考証は類推のほかはないのだが、実はそれが、色々な多くの問題を生んだ原因の一つでもある。
現実に、曲調の異なる二つのデカンショ節が存在する。
現在、今篠山で唄われているデカンショ節と、今一つはその元歌であるみつ節の流れのなかにあるデカンショ節(別名を篠山節と呼ばれている)である。後者については1990(平成2)年に民謡家北村法志津氏が元唄を編曲し、篠山町推薦、篠山デカンショ節保存会推薦とした正調デカンショ節の名で今のデカンショ節と組み合わせて唄われているもの(大阪の成世昌平氏吹き込みのテープ)がクラウンから発売され認定されている。その元唄は、本来の意味の元唄ではなく、今のデカンショ節なり踊りのプロローグ的なものであることを、知っていなければならない。
この国で唄われている二つのデカンショ節をよく理解して頂くには、今篠山で唄われているデカンショ節の生まれた背景をよく知っていなければならないため、多くの紙面を割くことを了承願いたい。  
伝統文化の変遷
半世紀以上を直接デカンショにかかわりつづけてきたものが、関係書籍、文献等を参考にしながら、デカンショ節、踊り、その背景、周辺を考証するのと、ほとんど直接のかかわりのない人が、それらの文書類を主に考証するのとは何か一味違うものがあると考えた結果である。その成果の一つが、篠山近辺で踊られていたデコンショ踊り(みつ節踊り)のほぼ完全な発掘複元と、元唄としての(デッコンショ節)の篠山での再現であることを最初に報告しておく。
まず述べておかなければならないことがある。特殊な例を除いて労作唄、祝い唄、盆踊唄、俗謡、三味線唄など民謡というものは、その歌詞や曲調もそれぞれの土地の社会的背景や生活様式など歳月の流れとともに、多少の差はあれ変化していくものであるということである。言いかえれば、それはそこで生活する人たちとともに生きているということである。そしてその土地の郷土色を完全に失えば、それは民謡といえないものになり、民謡という名の「はやり歌」にすぎなくなるということである。しかし、すぐれた「はやり歌」が、何処かの土地に定着しそこに住む人たちに愛され、その人々のものとして唄われつづけられるとき、その土地の立派な民謡になることもある。これは私の持論の一つでもある。
1898(明治31)年旧制一高生の水泳部の生徒たちにはじめてうたわれたデッコンショと篠山のデッコンショの問題を考証していく上で、避けて通れない人は亘理章三郎氏である。明治20年後半、篠山近辺の盆踊歌デコンショ節は、遊芸志向の強かった城下の庶民たちにより、その節回しはかなり技巧的になっていたと思われる。特に歌舞音曲等が盛であったこともあり、当然影響を受けていたことは十分考えられることである。私自身も母方の祖父(文久3年生まれで昭和23年没)が当時の唄を中学生一年のころ唄ってくれたのを覚えている。その唄は今東京で篠山節(デカンショ節)として唄われている歌同様にかなり技巧的なものであったのを記憶している。今にして思えば前川澄夫氏の採譜されたほかの二つのみつ節と比較すれば、随分あかぬけのした歌だったのを記憶している。そして篠山城下近辺のみつ節のはやし言葉は「ヨーオイヤレコノ(またはヤレコリャ、ヤレコラ)デッコンショ」だったことは間違いのないことである。
なぜその歌が、千葉県の館山市で、亘理氏たちにより伝えられ旧制一高の生徒たちにより、わずか一日か二日で覚え、後日ストームに唄われるような蛮カラな学生歌風デコンショ節にかわったのかが理解できず行きづまったこともあった。
そしてある日、亘理氏が多紀通信会雑誌九号(明治30年)に「郷歌の解」と題し雲渓野生の名で投稿されている文書をみる機会があり、それが答えを引き出してくれるきっかけとなった。ことわっておくがこの多紀通信会雑誌は非売品であり、会員のみに配布され読まれていた本である。明治30年度の会員は発表されていないので同29年の会員数を参考にするが223名で多紀郡在住の人は153名である。郡外は70名であった。篠山町(現在の小学校区)にかぎれば56名、そのほとんどが氏名は省くが町長助役、教育関係者、旧藩士を含む各町内の有力者で一般庶民は手にすることはできなかったものである。各村も同じような傾向であった。
亘理氏がそれを利用したのは当然のことといえる。特に附言としてその理由を述べている
「盆のお月さんまるこてまるいまるてまるこてまだまるい、盆の十六日ゃお寺の施餓鬼蝉がお経読む木の空で等の二三は悪しからずといえども旧来の歌の中には感興の益なきのみならず却って風教に害ある者あり故に昨夏試みに(デッコンショ)の曲に合して二十六字歌十数編を作りて今日はその觧を試みぬ唯非才なる野暮漢の作且郷里に関して歌うへき者の十の一たに盡くさずまた以って我郷特有の歌となすに足らずといえども敢えて之を本誌に投するは請ふ隗より始めよとの微意に外ならず歌も曲も賢材の制作を得て我郷里の歌曲を確定し独盆踊のみならず集会にても宴席にても郷里にても他国にても凡て我郷人の興楽するところには必ずこれをうたい且舞ふに至らむことを切望す」
とある。
この文書を読むと次のような解釈が成り立つのではなかろうか。氏はこの時点で自分が昨夏つくった歌詞のように、教育上よくないものはやめて歌をかえ、より良い識者の手で、篠山のデコンショをそれにあう曲に改作すべきだと故郷のデコンショを改変するよう要望しものとだと言える。そのように考えればその後のことは理解できる。氏の書かれた「隗より始めよとの微意・・・」の通り、賢材の制作を待たず、自分自身が曲調を氏の作詞した歌詞にあうような唄いやすい節回しに変えたのだろうと考えられる。
考えれば、一級の優れた指導者の多くを幕末から明治維新(明治革命とも言える)で失ってしまい、その筋の専門家ではよく話題にのぼるようだが、色々な分野で多くの相応しくない指導者に日本の行く先を任せなければならなかったのが、この国の色々な面での悲劇の発端ともいえる。たとえば文化の範疇でいえば、歌曲にかかわる明治政府の欧米偏重音楽教育のコンセプトを背景にした、氏をとりまく環境、および社会的身分がさせたのだろうが、氏の作詞された歌詞等を、拝見する限りでは、他のことは知らず氏の歌舞音曲等に関する理解度には疑問を感じる。氏のつくられた十七詩のうち唄われているのは、わずか三.四詩程度に過ぎず無い。そして盆踊は舞うものでなく踊るものであるし歌曲(里謡)については、盆踊唄、労作唄、俗謡、騒ぎ唄、三味線唄等々を混同されて居たようだ。
そこに翌1898(明治31)年8月館山市江戸屋での塩谷氏との出会いが重なった。そして改作された亘理風デコンショ節が一高生をはじめ学生、生徒間で、「はやり歌」として唄われだしたのである。しかし素朴な唄になっていたとしても音楽的知識がなければ一日程度で覚えられる歌ではない。いい加減にまねたのだといえる。それは予想されないことではあっただろうが、やがて氏が思いもしなかった、あのバンカラな一過性の「はやり歌」学生歌デカンショ節の誕生になったのである。
しかしその唄は一高の生徒だけで唄い広められたものではない。他多くの学校の生徒、学生たちも含めてである。そして篠山出身者に持ち帰らせた歌は亘理風デコンショ節であり、はやり歌の学生歌デカンショ節ではなかったことである。しかも私の調査した範囲では日本の各地の城下町に残る盆踊唄がこのような形で移入され入れかえられた事例は皆無である。こうして篠山地方の祖先が残してくれた文化遺産としてのデッコンショと、デコンショ踊りは90年以上追い出される結果になったのは事実である。  
デカンショ節の歩んだまわり道
昭和初期には篠山であまり唄われなっかたデカンショ節
はやり歌としての学生歌デカンショ節は大正の半ばには、殆どその姿を消しつつあった。それにしても寿命のながいはやり歌ではあった。
一方篠山の民謡としてのデカンショ節は、1929(昭和4)年頃から1940(昭和15)年前後生まれの篠山に住む人で小学校、中学校を通じて、不思議なことに学校でも家でも、それ以外のところでも「デカンショ節」を唄った覚えのない人が大半であるのは、どう解釈すればよいのだろうか。大正末期それも篠山で生まれ変わった今の曲調に近いデカンショ節が酒席等で唄われた形跡はたしかに残っているし、そのレコードもあり、ラジオ放送された事実もあるが、一般庶民に好んで盛んに唄われたことはなかった。しかしそれは戦争中であり、その生活環境が影響しているとはいえ、唄った事のない人が多いということの意味を、考えねばならない。もともと盆踊唄だったデコンショ節が、踊りを無視し改作され、ただの俗謡になった。この種の民謡は曲調の良し悪しが命である。唄うことの楽しみさえ無くしたような歌を、好んで唄う人が多くいるはずもない。唄われなくなるのは当然のことで、この件については以後の各項の記述を参考にされたい。
しかし、である、唄を忘れたカナリヤではないが、踊りを失ったデコンショ節がそれでも篠山の地で静かに生きつづけていたのを否定はできない。
デカンショ節と崎山健之助氏
氏は三曲万歳師であり、盆踊の音頭とりでもあった。しかし氏が音頭をとるころにはデコンショ節は踊りとともに、当地方から姿を消していた。かつて崎山氏に聞いたところによれば氏は1925(大正10)年以前から亘理風デカンショ節の改作を試みていたという。そしてレコードに吹き込んでいる。
この崎山氏のレコードはORIENT(京都、大正元年7月から昭和七年まで営業)であり、その間の録音には違いないが、氏が片面の祭文音頭にはじめて「篠山音頭」と名づけ、1925(大正14)年に吹き込んだと話していた。また、次に吹き込んだのはTAIHEIレコード(西宮)で、1924(大正13)年8月から昭和17年までなのでその間には間違いはないが、三味線ほか、地方連中が同じなので大正十五年から昭和の初期と考えて間違いない。またスタンダードレコード(奈良)にも吹き込んでいる。これは昭和七年から十七年までの営業なので、十年前後と考えられる。その節回しは今のデカンショに酷似しているが、三味線伴奏や太鼓の打ち方などは三者三様であり定式化していなかったようである。(昭和20年代TEICHIKU吹き込みの唄の囃子詞は、ヨイショコラからヨイヨイにかわっている)
このころには亘理風デカンショは、後述のラジオ放送と合わせ考えると、篠山地方から完全に姿を消していたのではないだろうか。残念なのは亘理風デカンショ節の譜面がないため曲調がわからないことである。多紀郡でその唄を知っている人が一人もいないという、不思議なことではある。
しかし、かつて亘理氏が館山市で唄ったデコンショ節は、決してバンカラな唄でなく篠山の歌を唄いやすくした素朴なものであったと、語られていたことを私は伝え聞いているし、前川澄夫氏も調べられている。これは私の推測だが、昔のデコンショの、小節をとり、ドレミ音階で抑揚をつけずに唄えば、亘理風デカンショ節になる。後述の前川悦太郎氏の唄に少しはにたものだったと思われる。1937(昭和12)年から1939(14)年にかけて、いまのNHKの大阪放送局に勤務されていた、八上上の故後藤庫太郎氏のお世話で三回デカンショ節を大阪の馬場町から放送した事実がある。私の父、木下楽器店社長の亡父、故小村佳一郎、故尾川婦美他四名であった。生存者は父だけであるがそのことを知っている人も数名おられる。その唄の曲調は今の唄に近かったという。そして崎山氏が1946(昭和21)年8月の盆踊に、自信をもって自分が改作した歌を唄ったのであろう。
篠山地方の盆踊について
空也上人に始まる踊念仏から一遍上人の念仏踊りを経て、宗教的な行事としての盆踊は江戸初期にはすでにその形式だけは残ったが宗教からはなれ、民衆の娯楽としての盆踊となった。そしてそれぞれの土地で唄われ、親しまれていた歌が、労作唄が、小唄(今でいう小唄ではない)、口説き節、はやり歌などが盆踊の唄になり、色々な変化を経て今日にいたっている。
この篠山盆地の村落で多少は異なっていただろうが、みつ節踊りが踊られていたといわれる元禄以前には、どのような踊りが踊られていたのかは、現時点ではまったく不明であるが、みつ節もふくめ異なった複数の唄による踊りがあったと、考えてよいのではないだろうか。盆踊は今もそうだが、昔もすぐれた音頭取の唄う歌が(または語りが)、他のそれらを駆逐淘汰し唄い踊られた例は、日本各地でみられる。今は二つほどしか見聞することはできないが、古くは村落ごとに歌も踊りも異なった盆踊があった大阪の中河内地区の例もある。そして、唄(音頭)それが同系統のものであっても、多少の曲調に違がありその囃子言葉や踊りは地区によって異なることが多くみられる。それは前述の複数説を裏付けるものの一つではないだろうか。
しかしこの篠山盆地は北、東は同じ丹波に接し、南は摂津、西は播州に接している。したがってそれら隣接した地方の盆踊歌の影響を受けるのはごく自然だったと考えられる。たとえば今田の四斗谷みつ節の囃子言葉の「ヨーイヤセーまたはヨーイヤナー」は吉川音頭(播州音頭)で語りの区切り区切りで踊子たちが、はやしていたはやし言葉と同じである(現在はほとんどドッコイセであるが)、日置、福住、村雲方面のみつ節で、はやされていたという「ヤットコセ」は一山越えた、京都丹波の船井郡一帯で唄われていた祭文系で浄瑠璃を取り入れた口説き節だがそのはやし言葉は「ヤットコセ」である。籠坊、原のみつ節のはやし言葉は、お隣の能勢地区の盆踊唄浄瑠璃音頭で一時期はやされていた「ヨイトマカセ」と同じである。
明治末期からの盆踊
それら隣接の土地の音頭が篠山盆地の各地域に影響を及ぼし始めたのは、幕末か、明治初期だろうと思われる。明治30年代の亘理風デコンショ節の里帰りがそれに拍車をかけ、デコンショ踊りを庶民から奪い取り、まず兵庫口説きである吉川音頭、続いてその祭文音頭が、それぞれ明治40年頃より篠山盆地の盆踊音頭の主役を次々と昭和26年までつとめてきたわけである。
昭和42年、明治35〜387年頃よりこの地方の盆踊から年毎にデコンショ踊りが姿を消していった事情等を調べてみたいと思い、色々な古老にその辺の事情を聞いてまわった。当地方で毎年、一番早く踊りが始まる北村薬師の祭の監物川原での盆踊について、北村の渋谷さん当時85歳過ぎの人で、なぜデコンショが踊られ無くなったのかを聞いたところ、「音頭が何時の間にやら今までの節と違うようになってしもうて、なんや音頭も(歌詞のこと)おもろう(面白く)ないし、踊りとはあわんし、踊りの始めにちょっと踊り、吉川(播州音頭の一つ)をながいこと踊って、音頭取りがとりくたぶれたら(疲れたら)、休んでの間誰かがちょっとの間デコンショを唄い踊たんですわ。連隊ができたころからそればっかり踊とった。」また「音頭取が調子にのってくると、ときたま(時々)みつ節の音頭のあいさに(途中、中に)おもろい文句を(面白い歌詞やはやし)あんこ(中に入れて)にして唄ってたこともあった」と教えてもらった。後の話しは当時なんのことかと気に止めていなかった。このころの囃子言葉はまだデコンショだった。野中の酒井さん、新庄の北村さん達の古老から聞いたことを記憶しているが、理由は同じであった。年代については明治35年ころより明治43年頃までの間であった。それは強引に里帰りさせられたデカンショ節が篠山の盆踊に影響を及ぼし始めた時期と重なる。大正14年と思われる16ミリの無声映画で(五月五日から五月十日の間と思われる)連隊の広場で兵隊が踊っている盆踊が吉川音頭の振りであったことなど、考え合わせるとそれらの話は理解できる。明治40年頃には、唄い祭文(江州音頭と曲調は異なるが同系統の唄い祭文)が唄われだしたが、吉川音頭の良さに押されてか、昭和の初期まで盆踊の音頭の主役にはなれなかった。その後、篠山近辺からなぜか吉川音頭は其の姿を消していった。
最近明治40年の多紀郡誌編纂材料に書かれた俚謡の盆踊の欄をみて、はっと前述の渋谷さんの話を思い出し、このことだったのではなかろうかと気付いたわけである。どの地区でとられていた音頭かは不明だが祭文音頭系の語りの一区切りのあとのはやし言葉のあとに、みつ節の歌詞十一詞がつづき(七七七五調)、みつ節の歌詞だが「ぼんにゃおどろかヤレコラセねはんにゃねよかのーみなさんうずき八日にゃどしたてこしたて花おろかササヨーイトナ」「きれたきれたはヤレコラセせけんのうわさヨーイトナみずにうきぐさ根はきれぬササヨーイトナ」とつづき(附線の部分が現時点では、断言できないが、多分丁度みつ節踊りが消え去ろうとしていた時期他の音頭との中継ぎに唄われ、音頭取や踊子が当時のはやり歌か何かのはやし言葉を即興的にはやしたのではないかとも考えられる)、再びみつ節の歌詞がつづき、祭文音頭らしい歌詞「一つのこんたんここにまたハードッコイひろいせかいはくにぐにのハードッコイちんだいかからぬとこはないヨイトヨヤマカドッコイショ二つのこんたんここにまた……」とつづく。この類の資料の記載順が正しければ、他の音頭の間に入れられ、消え去る寸前のみつ節(デコンショ節)なのかもしれない。しかし「デコンショデコンショで半年暮らす後の半年泣き暮らす」とあり、明治末期までは篠山では寝て暮らすではなかったようである。その後ハンヤ節等の寝て暮らすをだれかが取り入れたものという説が一般的なようである。
昭和十年頃より戦時中盆踊は禁止され、戦後は翌年から祭文音頭と黒井音頭が昭和26年まで、盆踊唄の主役をつとめたが黒井音頭はそれ以後一度も唄われることはなかった。
南氏が「郷友」100周年記念号に明治末期篠山町やその近辺では、江州音頭、河内音頭、福知山音頭のような派手な面白い音頭にとってかわられ、みつ節のような単調な…と書かれていたが、デコンショ(みつ節)の変わりに河内音頭、福知山音頭が篠山町近辺で踊られた事実は全くない。そして昭和28年のデカンショ祭とつながっていくのである。
デカンショ祭が育て上げたデカンショ節
当時デカンショ節にかかわりをもつ人たちの努力により、それぞれの立場で、篠山の民謡として育て上げたのが実をむすび今唄われているデカンショ節になったのは疑う余地はない。言い換えればデカンショ祭が育てたのが現在篠山で唄われているデカンショ節である。当然篠山の行政、商工会、観光協会等が、バックアップしてきたのはいうまでもないことである。旧制一高生をはじめ他の多くの学生たちが唄った学生歌デカンショ節は、他の土地で唄われていたのを聞かれたことはあるかもしれないが、この地方の庶民に唄われた痕跡は不思議に残っていない。今のデカンショ節の元唄は、それはこの地に生きつづけていたのである。本来民謡というものはそういうものなのだと思う。
民謡だけではないが、歌舞音曲は祖先帰りという現象を起こすことがよくある。それは人間がその様式のなかを生きつづけてきた証拠である。デカンショ節の明治中期への祖先がえりは、南氏の提案されたデカンショ100年が引き金になった。南氏は自分の故郷でもないのに篠山のため色々なことでご協力いただいている。デカンショ節の研究にも力を入れていただいている、なかなかできることではないが、亘理氏と塩谷氏の出会いがなければ今のデカンショ節はなかったとの言葉は、如何なものとしか、デカンショ節を愛する我々篠山人には思えない、また、440余年前の一氏属の係累とデカンショ節との関連付けは全くナンセンスとしか言い様のないものである。ただ篠山と関わりのない土地の学生たちや一般の人達の間で、流行歌としてただ唄われただけのものである。
一例が多紀郡東部の音頭取の名手として知られていた、村雲の脇田太助氏(大正2年生まれ)はいう、バンカラな学生歌デカンショなど子供の頃から耳にしたこともない、聞いたのは崎山さんのデカンショだったが唄った事は殆どなかったが、戦後デカンショ祭の一.二.年前から崎山さんのデカンショをうたったという。そして篠山の人達(ひとたち)により50余年の年月をかけ育て上げられ変化したのである。崎山氏が土地の民謡にするため改作を試みてから80余年である。  
みつ節(みつ節踊り)考証への一歩
前述の母方の祖父がデッコンショは、昔はドッコイショといっていたらしいと聞かされていたのを覚えているが、デッコンショはドッコイショの変化とみるのがまず正しいのではなかろうか。そのドッコイショ説を1958(昭和33)年私が言い出したのがはじめてでないかと思う。そして私が祖父から聞いた歌詞後半の繰り返しのついた、デコンショ節こそ、それはデコンショ節の曲調そのものだったと確信している。
明治政府が文部省音楽取調掛編の小学唱歌制定の翌1885(明治18)年、国の俚謠(まだ民謡という言葉は使われていなかった)調査による丹波篠山地方の歌で八上村から提出された歌詞のなかに「デコンショデコンショで半年暮らす後の半年泣いて暮らす」が記載されていた書籍を、故桐山宗吉氏(元県観光連盟専務理事)が所有されていた。
そこで私は、1958(昭和33)年から、北海道から沖縄までの各地の唄、踊り、その背景等を自分自身で見聞し勉強し研究することで、民謡、民踊とは何かに取り組んだ。たとえば民謡大会で一緒に出演したひとたちに、踊りを教えてもらいその由来など歌の背景を聞き研究したり、その踊りや歌の現地を訪れ、またはその土地の人を招いての講習等、何時かそれが篠山のデカンショをはじめ土地の唄や踊りの研究に役立つことを願ってであった。ながい年月と費用はかかったが、得たものはそれにかえられないものがあった。それは各地に多くの知人、友人をもつことができたこと、その知識、技術、背景などこの身体で覚えることができたことである。私が、社団法人日本FD連盟、全日本民踊指導者連盟、全日本民俗舞踊連盟等に所属している理由の一つは、その会の友人から、色々な情報を得ることである。日本列島の北から南までのその土地に残る民謡、民踊の研究をしていて色々気付いてきたことが多い。
平成10年は正確には旧制一校生が篠山のデコンショではない亘理風デコンショ節を、はじめてまねて唄った時より100年、そして全国の学生たちも加わり学生歌として,書生歌として唄われ流行しだしたのはその数年後である。デカンショ節について篠山の文化、伝統芸能を大切にし、愛するものの一人として、その立場から考証してみたい。
デカンショ節のルーツについて
今篠山で唄われているデカンショ節については多くのことが解明されてはいる。もう一つの盆踊唄としてのデカンショ節は実在し、しかも全国的に唄いつづけられているのは事実であるが、その波及の経路には諸説があり定かでない。当然のことながら、その元であるみつ節が、何時頃、この土地でうまれたものか、それとも何処かの歌が、その何処かの人達により伝えられ、変化したものか、異論もあるが牛深ハイヤ節が佐渡おけさになったような答えはでない。不明なのである。私はどちらかといえば後者の説をとりたい。
確証はないがこのみつ節が、江戸中期に存在していたことは、まず間違いのないことといえる。みつ節の歌詞のなかに「新庄久左衛門さん箒はいらぬ娘小袖のすそで掃く」というのがあるが(ほかにも三曲ほどある)、これはみつ節踊りが盛んであった城北新庄の庄屋さんの裕福な生活を唄った歌で、この庄屋が栄えたのは元禄年間であると、かって、その新庄在住の日本城郭研究の権威者として知られる朽木史郎氏に聞いたことがある。そして江戸後期に没落したその庄屋を唄った歌も幕末から明治にかけて唄われ残っていることから考えると、元禄年間にすでに唄われていた盆踊唄と考えて間違いはないであろう。その当時の節回しは、幕末から明治にかけてのものとは似ていただろうがもっと、本来の日本の旋律による素朴ながらもすぐれたよい盆踊唄であったと想像できる。でなければ明治30年代までのながい年月を、当地方で唄い継がれ、今もなお日本各地で唄われ、民謡集などのしかも最近のものにいたるまで、そのほとんどに篠山節(デカンショ節)が記載されることはないのではなかろうか。
実在する二つのデカンショ節
前述のとおり曲調の異なる、二つのデカンショ節が全国に広く伝えられ、流行しているのを、篠山の若い世代では知らない人が多い。一つは今篠山で唄われているデカンショ節、もう一つはデコンショ節として篠山から東京へ、東京から全国へ一般の民謡愛好者、民謡界を通じて流行している盆踊唄デカンショ節(篠山節)、この二つのデカンショ節が現実に存在する。後者はすでに、前述のとおりすでに、他の篠山の唄とともに、認知されテープが販売されている。この実在する二つのデカンショ節は、当然のことながら二つ以上の経路を辿ってきたことをまず知っておかなければならない。そしてこの問題についてなぜか今まで、論議もされずにきたのか不思議なことではある。前者は知名人による、デカンショ節にかかわる文書の類もあり、よく宣伝されているが、後者はどうして広まったかは口伝えのみでそのたぐいは皆無に等しいし、ために論議を控えた人もあったかもしれない。だが何時の世にもそれに疑問を抱き考証を試みるものはいる。
幸いなことに、1960(昭和35)年9月5日、町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」が岩波書店から発売されている。篠山で唄われていたデコンショが採譜されている。町田氏は「本に掲載した曲譜は昭和十二年頃から編者町田が日本全国を遍歴して採取した録音盤(町田式写音機で録音したもの)を基礎として楽譜化したもので、更にこれを単純化したものである。楽譜は一般に広く知られている通俗的な唄を主に選んで載せたが、中略歌詞、囃子詞等の表記法が本文と若干相違する場合のあることを諒とされたいと」、書かれている。それも本物の民謡の採集で知られた氏の採譜である。
1939(昭和14)年5月町田佳聲(嘉章改め)52歳丹波、丹後の両丹地方に採集旅行と、氏の略年譜に記されている。これは、もう一つのデカンショ節存在の証明でもある。その説明は、浅野氏の担当であり多分一般デカンショ節の解説を転載されたものと考えられ間違いが所々にみられる。また、昭和53年7月秋田県の藤尾隆造氏著の民謡おさらい教本にデコンショ節のうたいかたの譜面(五線譜ではない)、また1998(平成10)年発行の長田暁二・千藤幸蔵両氏の編著に、前述の町田氏の採譜とほぼ同じ曲調の篠山節(デカンショ節)の譜面が記載されており、明治中期より現在まで同じ節回しで唄われている証明の一つでもある。
デコンショ踊りとともにデコンショ節の復元それは篠山地方の民俗文化にとって特筆すべき出来事なのではないだろうか。それは偶然のかさなりのなかでの奇跡的な復元であるが、祖先の残した伝統文化の魂が呼び起こしてくれたものと信じたい。
みつ節に関しては、最近版として前川澄夫氏の著書デカンショ節考がある。色々と参考にさせていただいている。本当によく調査、研究されている。とかく私見が多く入りやすいため、反論のでやすい類の著書ではあるが、私の所見として述べたいところも多々あるが後日に譲る。しかしこれにも、前述のように後者のデカンショ節についての記述はなぜかまったくない。他のどの書物、文献にもその件に関するものはなにもない。当然のことながら南氏のそれにもまったくない。唯一昭和56年6月発刊の日本民謡全集の近畿・中国・四国編に、後者は(みつ節)東京中心に一般の人々に、民謡界に、また花柳界によってうたい拡げられていっており、この唄が篠山の歌であるところから篠山節と呼ばれたが、こちらはみつ節の曲調を保っている、と記載されている。そしてこの唄は、東京でうたわれようと、秋田でうたわれようと、九州地方でうたわれようと幾分の節回しの違いはあっても、それぞれの地方特有の味付けはなく関西のしかも篠山の歌らしい形で唄い保たれているのが嬉しいことである。篠山でほとんど無視されつづけ100年あまり、頬かぶりで100年あまり、どうもすっきりしない不思議な事象ではある。
もう一つのデカンショ節(篠山節)の波及経路
東京で篠山出身者の唄う歌が、唄上手な人達により、一般人、民謡愛好家、民謡界に広く唄われたもう一つのデカンショ節。篠山人は硬ぐるしく、やぼな人ばかりではなかった、篠山出身の人々や私学の学生たちが唄っていたという故郷のデコンショ節が多少の節回しの変化はあったと考えられるが、歌詞は殆どが篠山のものである民謡が、同じ東京ではやり、明治後期にはよく唄われていたのは事実である。このことを証明した人達がいる。
その一人は篠山町長をつとめた経歴のある斎藤幸之助氏である。氏が在京中の1898(明治31)年偶然篠山のデコンショを聞き驚きと懐かしさとで、なにもいえなかったと帰郷後家族や友人に話しをしている。そして唄の名前は篠山節であった。
篠山の歌だから、または学生歌デカンショ節と区別するために、篠山節と呼んだという。デカンショ節の別名である。東京から全国に、二つのデコンショ節の流行が同時進行したという日本で珍しい民謡の一つである。そしてはやし言葉は紛れもなく当初はデッコンショであったが大正の始めには、現在と同様デカンショとはやすようになったが、今でもこの歌は唄う人により、幾分の節回しの違いはみられるが、全国の民謡界、その愛好者に唄われている。現在現地録音以外の正調デカンショ節または篠山節というタイトルのCD、ミュージックテープの歌の殆どがこの歌である。伝え聞く二.三.の説を紹介する。東京の下町の料理店で篠山の人が唄っていたのを聞き、仲居さん達が唄いだしたのが元という説、篠山の私学の学生が下宿の近くの酒場で唄うのを聞いた歌好きの女将が唄い、それが流行するきっかけをつくったという説、三味線、尺八等にたんのうな歌の好きな人が大阪の飲み屋で、デコンショを聞き東京に持ち帰り、唄の上手な弟子に唄わしたのが元になり、はやりだし色々な民謡歌手によって唄われるようになったという説。なぜか酒がどの説にも関係しているのも不思議ではある、飲み屋、風呂屋、髪結床は色々な話題の発信所でもあった、その伝達の速さはかなりなものといわれ、如何にも庶民的な感じである。そして一般庶民による、それらの説のどれもがデコンショの波及のもとだったのかもしれない。
しかしそれを立証する文書もなにもない。だれが、何時、何処で、何故は解明されないと思う。そもそも民謡とはそういうものなのである。逆にいえば、だから民謡なのである。新しい作詞、作曲者がはっきりしている民謡は別にして、古来からある民謡にそれらの全てが正確に解明されたものは皆無で、ほとんどの書籍にはそうである可能性は高いが、今後のより詳細な調査が必要であるなどと記されている。そして後者のデコンショのほうが日本民謡界では知られよく唄われているのも事実である。当然篠山でも、近辺でも唄う人が急増している。
付け加えるがデコンショ時代には唄の後半を音頭取と踊子がくり返し唄っていたところも篠山には北村、新庄、奥畑地区、後川地区等にあった。音頭取と踊子が繰り返しを唄うのは、七七七五調の盆踊唄ではごく当たり前のことであるし、他所では繰り返しのないものは長囃を入れて唄ったものもある。丹波与作で有名な後藤節を当地で篠山節と呼ぶようになったのは昭和二十三年以後前川悦太郎氏の提言によるものであることを附記しておく。これが民謠界でいう篠山節(デカンショ節)と地元でいう篠山節(後藤節)を混同させる原因であった。後藤節に戻すべきである。  
学生歌デカンショ節(はやりうた流行歌としての)
1956(昭和31)年から全国民謡踊り大会、国体のマスゲーム等により一躍脚光を受けたこともあり、1958(昭和33)年3月突然千葉の館山市が、デカンショ節の本家はこちらであると抗議し、週間サンケイにその理由を載せた。当方もそれを否定し抗議した。それは数回に及んだが解決せず、館山市は証拠を得るため同年8月11日問題の塩谷氏を招き産経新聞等の記者も呼び色々と当時のことを話されたのが、テープにとられていて、内容はその年の九月の週刊サンケイに詳しく記載されていた。それらの週刊誌は当時の篠山町産業課の担当者を通じ保管を依頼しておいたが、その他の書類、参考品等見当たらないものが多い現在、現存するかどうかは不明である。
1898(明治31)年は館山ではデコンショであったことも明白になり、一応本家争いから身を引かれたのである。デカンショとコとカがいれ替わったのは学生間で唄われているうちにただデカンショのほうが語呂がよいために訛ったもので、三哲人、デカルト、カント、ショペンハウエルの頭文字ととって付けたと言うのは、後のこじつけである。館山でも明治30何年からデカンショに変化したという記録はない。
たしかに百余年前千葉の館山でうたわれたデッコンショ節を旧制一高生が借用し唄ったのがきっかけとなり、全国の学生たちに広がつたものである。丹波が頭についた篠山、田舎の代名詞としての篠山であったが知名度の高いものにしたことも事実である。
その碑が建っているのだから学生歌デカンショ節発詳の地館山でよいといえる。その唄は篠山で唄われたことのない学生歌だからである。それに亘理氏が直接かかわっていられたかどうかは不明である。前川氏のデカンショ節考に採譜されている明治末期から大正初期のデコンショ節にさえその何処に、バンカラな、豪快な節回しがあるというのか、この一例をみても明らかである。
明治30年代の押し付けに近い亘理風デカンショの里帰りを(当時の状況から考えると可能性は無かったと思われるが)拒否し、その元唄が篠山で、伝承されていたら、篠山の人達により、この篠山に今とは比較にもならない素晴らしい唄と踊りが、育っていたかもしれない。そして近い将来篠山のひとたちにより、祖先が残してくれた元歌としてのデカンショ節を表舞台に載せることができると信じたい。すでに篠山町でも推薦、認知されているのだから。篠山の伝統文化は自分たちで守り育てるべきである。
昨今の民謡ついて思うこと
民謡について記述し始めると、膨大な紙面が必要になる。したがって今回は主にデカンショ節についての問題の考証であるため、民謡に関してはその専門書を参考にしていただきたい。
しかし、まずこれだけは知っておかなければならないことがある。日本の民謡は今、大きく分けて二つの流れにのって動いている。一つはその歌がながい歳月をかけはぐくまれその土地の人たちや関係者により育って生きつづけている本物の民謡、それはその曲調に日本古来の旋律(素晴らしいことに日本には66音階あるといわれる)をもつものが多いのは当然のことである。近年できた民謡は別としてもう一つの流れは、民謡歌手と呼ばれるなかの一部の人たちにより、そのうまれ、あるいは育った歌の土地の香りなど考えず、しかも自分勝手に手を加え唄われている本物でない民謡、そしてそれは西洋のドレミの十二音階を基調にしたもの。これは民謡ブームが始まった昭和30年前後より、NHKを始めとする、マスメディアによる影響が大きい。いやそれによってつくられたといっても過言でない。日本の各地の歌を全国の人達が知る機会を提供した功績は認めるとして、一方では本物の歌の陰を薄くし本物でないものが本物のように振舞うようにしてしまった罪もある。この根源に明治政府の音楽教育に関する西洋崇拝の概念がある。日本古来の旋律の蔑視と軽視の性急な西洋のドレミ十二音階導入と指導教育がある。ドレミで楽しんでいるのは地球上で三分の一しかない、あとはそれぞれ自国の旋律を大切に残している。日本にもあまり手をつけられていない労作唄、祝い唄、盆踊唄等の民謡に日本の旋律が残っている。篠山節というデカンショにはまだそれが少しだが残っているのは、盆踊唄として大きい意味をもつ。郡上踊りのかわさきにはないが,古調かわさきには残っている。前述の亘理氏の改作したデコンショは学生歌デカンショ節との関連からみて、ドレミ音階であったことに間違いはないといえる。
60年ほど前には、デカンショ節は日本民謡界では、民謡としてではなく学生のはやり歌、運動会の応援歌程度の認識しかもたれなかったものである。これは事実である。民謡として認められていたのは篠山節という名のデカンショ節であった。わたしたちがお世話になった民謡界では知られた初代谷井法童師もそういわれていた。
沖縄を除くと意外なところに、デカンショにかぎらず古くから伝わる盆踊唄、作業唄、お座敷唄などにも、よく似た節回しの唄および踊りがあることに気付く、当然歌詞もそうである。とにかく狭いこの国、船、車馬、駕篭(かご)、徒歩その移動の手段を問わず仕事なり、遊山、社寺参り等の人々により持ち込まれ、またはもち帰られその風土にあったものは土地の歌や踊りにとり入れられたものと考えるのが自然だろう。一例だが伊勢音頭の節回し、同じ歌詞が兵庫県、大阪府、京都府、岡山県、山口県、静岡県、岐阜県、神奈川県等々多くの府県に存在する事実をみても、デカンショ節に類似した歌詞が数多くあるのは不思議なことではない。
デカンショ節について思うこと
デカンショ節と踊りが、デカンショ祭として復興する前から、崎山風デカンショ節に背を向けていた一人の歌い手があった。前述の前川悦太郎氏である。その曲調は、いまのデカンショ節とは一味違う唄であった。悦太郎氏が1947(昭和22)年、自分の唄が明治末期唄われていたデカンショ節だと私に話されたことがあった。そして崎山氏とのデカンショ節にかかわる確執が、10年以上つづいたわけである。私見だが悦太郎氏の唄が亘理改作デコンショに近い唄であったと思う。大正末期から戦後までいちずに研究を続けてきた専門の崎山氏に対し、前川氏が勤めをもつ人で、第一線での活躍が常時できなかった等の事情もあり、崎山氏が音頭とりの第一人者として、多数の支持を得ていたこともあって、今の曲調になってしまったわけである。もしも、当時その二人の立場が逆で、前川氏に音頭取としての実力がよりすぐれ、デカンショ祭りや盆踊りの音頭をとっていたとすれば、今とは一味違ったデカンショ節が唄われていただろう。時として土地の民謡は、その時期それを唄う人たちの立場や、それぞれ歌い手として、芸人としての実力の差が、その歌の運命を左右することがあるのは仕方のないことである。
しかし崎山氏にもその20数年の研究のなかで大きなミスがあった。それは盆踊唄として当然踊りがつくことをあまり考えない曲調の手直しであった。それが踊りの振り付けに多くの支障をもたらした原因の一つでもあった。盆踊唄は踊りと一体のもの、それを忘れ改作した盆踊唄は、越中おわら、郡上踊り、等々に見られるように、当地の人にも、各地から踊りに来られる人達にも、盆踊りだけで一人歩き出来ない宿命を当初からもっていたともいえる。
故人になられたが、たんば田園交響ホールに関係されていたある人物(篠山町民ではない)が篠山のデカンショ節をもっと蛮カラ、豪放にすればよいと篠山の関係者に進言され、かって西宮市民祭りで、出演した中の、心ない一部の会員グループに飛び上がる踊りを踊らせ観衆の嘲笑を受けた記憶はまだ新しく心に残る。篠山だけではなく県内外の各地で、同じ言動をされている。まさに各地の伝統芸能を汚しまわった人の代表者だと言って過言ではないと言える。デカンショ節はもともとバンカラ、豪放な歌でないといっておきたい。
盆踊唄、作業唄等は働く庶民の唄、何の娯楽もなかった人達が、生活環境と感情をそれらの唄に読み込み鬱憤を晴らしたり、楽しんだり、今でいう情報を伝え合ったり語り掛けていたのである。たしかに卑猥(ひわい)な唄が数多かった。それは日本の盆踊唄、作業唄に共通する。例え下品な歌といわれる歌詞でも、さらっと唄われると、嫌らしさもないしユーモアさえ感じ微笑ましい。それに生活の知恵さえ唄いこんでいる。後藤節にも唄われている「白いところにしょんぼり黒い雪に茶かすを捨てたよな」卑猥で嫌らしく思われますか?「盆のぼたもちゃ三日おきゃすえるおばん此れみよ毛が生えた」おいしいものはケチらず早く食べよという意味とおばん(おばばー姑、当地方ではおばばとはいわない)嫁にもおいしいうちに食べさせなさいという意味を掛け合わせた生活の知恵ともいう唄なのである。塩谷氏や亘理氏がこれはいけません、というような唄と思われるだろうか。
しかし亘理氏の作詞した二.三の歌詞は残って今でもうたわれている。これは氏の歌の里帰りがあった証でもある。旧幕時代のある西国の外様大名の士族の子孫である一人の旧制一高生がつくったという(亘理氏作というのは間違いである)「丹波篠山山家の猿が花のお江戸で芝居する」という歌詞は幕末から明治維新、そして明治末期頃までの、篠山自体と、その出身者の一部の人々を、現在篠山の人達が理解している意味とは全く違った意味の歌詞なのである。篠山でよく唄われているこの歌詞がデカンショ節の代表歌詞(パロディ?)とは、また皮肉な話ではある。90年余り唄われてきた歌詞だから、とやかくはいえないだろうが、真実は真実として認めておくべきである。考えようでは篠山人はおおらかなのかもしれない。この話は確かなことである。昭和43年春、滋賀県八幡の国民休暇村の宿でそれを語った方の氏名は事情があり、故人ではあるが今は残念ながら記載することが出来ないのを諒とされたい(その方はかっての篠山藩重職の子孫である)。いまさら死んだ子の年を数える愚はしたくないが、一高の水泳部の委員だった塩谷、篠山出身の亘理両氏の出会いが、文化遺産としての篠山本来のデコンショ節を篠山の里から追い出した大きな要因の一つであることに間違いはない。逆にいえば出会いがなかったら、もっとよい唄や踊りに育っていただろう。  
みつ節(みつ節踊り)考証への一歩
ようやくできたデコンショ踊り(みつ節踊り)の発掘 / 昭和のはじめ、篠山実業協会(篠山商工会の前身)が新民謠ブームにのり、篠山小唄の制作を検討していたころ、当時の古川町長は盆踊をデカンショに統一するため、みつ節の由来、踊りの振りを、城北村寺内の尾川誠一氏に其の探索を依頼されたことがあり、同じ村の古屋元吉氏がみつ節はこの辺りではデッコンショ節と呼ばれ、この土地特有の盆踊であった説明と、踊りを披露した事実がある。しかし町長の期待していた豪快な唄でも踊りでもなかったため、この件は打ち切りになった。何故当時の為政者はデカンショが豪快でなければならなかったのか。古川町長は旧陸軍少将であり、学生たちの唄った学生歌デカンショと混同されていたと思う。同席した尾川氏が弟の栄三郎に伝えた踊りの振りは、体を細かく揺りながら足を交互に踏出し手を交互に下からかつぐように肩の上方に上げること、それから両手でなにかしてから手を胸の前で三つ叩きながら歩いたという程度のものだったと1959(昭和34)年教えてくれた。そのときはそれが後で大変な意味をもつことに気付かず聞き流し20数年がたった。
1997(昭和62)年の3月、戦後の盆踊の凄いばかりの盛況について話がでたとき、1946(昭和21)年の8月呉服町の日の出すし前の通で盛大な盆踊があり、すでに黒井音頭が唄われていた。みようみまねで踊っていると、突然デカンショが唄いだされ、わずか数分だったが私はかなり年配の人の後からついて踊った。そして何と素朴な、土の匂いのする、簡単ながら良い踊りだなぁと思ったものだ。其の人が「こんな唄やったら踊れんわぃ」といったのを今でもはっきり覚えている。そして不思議にその踊りの振りが私の身体に焼き付いていたのだった。
そして、その踊りの振りを思い出したとき、伯父尾川栄三郎の20数年前のみつ節踊りの振りの話しを思い出し強い衝撃を受けた。1946(昭和21)年どこの人か知らない人と踊った踊り、それは紛れもないデコンショ踊りだったのだ。私が子供のころから伯母が舞踊の師匠だった関係で、自分の生活のなかに多少だが踊りがあったから、その踊りの振りを覚えていたと思う。しかし今のデカンショ節にはあわない踊りであることには間違いはない。これは篠山のデコンショが表舞台にでるときまで、そっとしておこうと心に決めていた。幸いにも、2001(平成12)年その姿を見せ息を吹き返した。これから上手に育てていく責任がある。歌い手、踊り子の個人的な好き嫌いの次元ではない。これは篠山の文化にかかわる問題なのである。そして祖先から残された文化遺産としてのデカンショ節(デコンショ)が唄い踊られた日こそ本当に記念すべき日ではないだろうか。  
デカンショ節と踊りの保存振興のために
デカンショ祭の振興のためにも / まず、デカンショ節をみつ節を元とする盆踊唄としての民謡と位置付けなければならない。半世紀近くつづいた、デカンショ祭がそれを証明し、全国的にすでに公認されている。単なる俗謡、三味線唄ではない。
したがって、好むと否にかかわらず今となっては実在する二つはどちらも、本物の盆踊唄デカンショ節というほかはない。本物同士、目くそ鼻くそを笑うようなことをしていたら、本当の意味でのデカンショの保存振興は望めない。うまく両者を生かせることは可能である。たとえば当地では、篠山さわぎのよしこのと後藤何某の唄った、本調子甚句がうまく合体して後藤節(篠山でいう篠山節)が誕生しているではないか。その方式は、郡上八幡の古調かわさきと、かわさきの様な組み合わせる方法も考えられる。それはデカンショ祭りの聡踊りのはじめに、(郡上踊りのように)三〜四分間その古来の歌と踊りで総踊りの始まりを告げ続く総踊りにより以上の盛り上がりを呼び、そして今の踊りと前の稲刈りの輪踊りを上手くジョイントさせることで、より踊りに楽しみを加えことが出来る。そして終わりを告げ、余韻を残すため、少しの間デッコンショを唄い踊るのである。まずは篠山の民謡家の決意と努力と質がとわれるが、私の知る限りではうまくできると思う。この際、篠山人は、篠山人自身で考えることである。篠山の民謡はそこからうまれ育つものなのである。
一日も早く取り掛かるべきことといえる。
たとえば木曽節はだれでも歌えるが、その本場にいけばその歌に日本の旋律が残っているためその曲調は驚くほど違う。そしてテンポもゆっくりし若者向きでもないのに、遅くまで楽しそうに踊っている。唄と踊りがいいからだと木曽福島の人は誇らしげにいう。私がいいたいのはまず盆踊も当然郷土色をもつものでなければならないが、唄がよくなければ駄目だということである。前出の木曽節、佐渡おけさ、などその適例で特に越中おわら節等は歌のよいのが身上である。このおわら節が今の曲調に改良(当然八尾の人だが)されたのは、1913(大正2)年のことで、その後土地の人たちにより改良され今日にいたっている。
明治のおわりから大正のはじめにかけ一時不振だった阿波踊りが、ハイヤ系の踊りは残し、唄だけ流行した、よしこの節を移入し定着し成功した例もある。
その土地の人が唄う歌でも人によって微妙に節回しが違うのに気付くことが多い。踊りも踊る人により微妙に異なる。それが民謡であり民踊なのである。その土地の人が唄う歌が、踊る踊りが本物だということを忘れないことである。しかしそれは、その土地で唄い踊られている基本的な約束事を守った上でのことであるのを忘れてはならない。
洋楽演奏によるデカンショ節のアレンジで一つの催しをよく知られた民謡で、色々なリズムで編曲、演奏されているCDやテープも売られているが、そのなかでまず見つからないベストテンの一つにデカンショがある。
本物の曲は本物の曲として、本物の踊りは本物の踊りとして認め、デカンショ踊りの終わった後、サンバ、ルンバ、マンボ等々、デカンショをうまくアレンジした曲にのって自分なりに、仲間と楽しむのもよいではないか。テープでもMDでもよいのである。ただしそれは、祭の一つの催しとして行うという決まりのなかでである。
不思議に、サンバ、ルンバ、マンボ等でも同時に両足で地を蹴り飛び上がることはない。今の踊りをうまくアレンジすればよい。若者ならそれに挑戦し、がんばれといいたい。今年のデカンショ祭にはその様な祭の姿をみたいと思うのは、私だけでもなさそうである。ただしルールは守ること。ある知り合いの民謡団体が記念大会で伝統民謡を洋楽にアレンジしアレンジした踊りを賛助出演で披露されていたの思い出す。たしか網のし唄だったと思う。しかしそれはデカンショには似合わないモダンバレーだったと記憶する。
伝統文化とそれの保存、振興を目指す新しい何かを模索するのも、無駄ではないように思える。伝統文化も消滅してしまえばその復活は難しいのだから。デカンショ節を色々なリズム、テンポに編曲し、町の商店街にその音を流したりすることが、ただちに伝統的なデカンショが衰退していることを意味するものではない。色々な生活、芸能文化がボーダーレス化しつつある様に見えるが、それは意識しているか否かは問わず夫々の国の夫々の文化を理解しそれらの共有を目指しているのだといえるのではないだろうか。新しいものと、伝統ある古いものとの相互理解を強めていこうとしているものと信じている。ただし、それぞれの土地の(例えばよさこいソーラン等の)伝統文化を傷つけるようなパフォマンスは全く範疇を事にするものである。バンドのグループによる色々なリズムによるデカンショ節のコンクール等考えてみれば面白い催しになる可能性がある。観光客だけでなく、そして老若男女をとわず篠山に住む人達がもっと楽しめる祭のあり方を真摯に模索しなければならない時期にきている。
そして、デカンショ節とその踊りが、デカンショ祭りの名の下での催しものの一つでは無く、堂々と一人歩きできる様に、為らなければ、と思うのは私だけでないはずである。  
おわりに
篠山近辺のみつ節踊り発掘復元は、偶然の重なりがもたらした奇跡に近い。もしかって古川篠山町長のみつ節とその踊りの探求調査がなければ、恐らく発掘復元はできなかったと思う。だれが、何時、何処で唄にあわせて踊りだしたかも判らない踊り、此れが本来の盆踊である。1997(昭和62)年の変更した踊りにみつ節の一手の一部のみ取り入れている。
デカンショ節の盆踊をはじめ、この土地に残る労作唄、お座敷歌等一般の農民や、商人たちの唄い踊るという生活様式一つの範疇の考証でさえ、大変なことである。いえば理解出来ない不思議なことが多すぎる。なぜ、なぜが多すぎる。
また亘理氏本人のデコンショ節についての記述えの批判さえまったくなされず当然のごとく受け取られていたのか、今日においてもそれをしたのは私一人かもしれない。無関心だったのか、ながいものには巻かれよの諺に従い無関心を装っていたのか、どちらかだろうと考えられる。
私が、好きなのは祖父が歌てくれたデコンショである。今のデカンショ節は篠山の情緒、人情風土も何一つ感じさせない曲調だと思うのは私一人ではないはずと思う。
そして過去の過ちをくり返さないよう、祖先の残してくれた盆踊や民謡やその踊りは文化遺産として、大切に育てていかなければいけないと身にしみて思うこのころである。
なお理解しておいていただきたいことの一つとして、よく対比される阿波踊りや三原ヤッサ、そのイメージで作り上げたよさこい鳴子踊り等騒ぎ歌やハイヤ節から移入された踊りとは、デカンショ踊り、福知山音頭、祭文音頭、播州音頭、郡上踊り、木曽節、越中おわら節等とはその踊りの属する範疇が異なることである。
私のデカンショ節に関する研究、考証は一歩を踏み出したばかり、したがって未完のものである。また事情により記載できなかったこともあるのを諒とされたい。
   
替歌こそ本質なのだ

こんどURCレコードから「関西フォークの歴史」ということで、その第一集は去年の暮れに出て、京都のほんやら洞などではあっという間に売りきれてしまって、第二集は、「現代詩手帖」1974年3月号が出るころには出ているはずだけど、これは去年いっぱい、いや、それ以上かかって、秦政明と中山容とぼくが、むかしのテープを発掘したり、まぼろしのテープをさがしてあるいたり、さげつけない頭をさげたりして編集できたもので、このなかには名前だけは音にきこえていたが、演奏は音できくことができなかった阪大ニグロとか西尾志真子、東野人志とか日立ブルースが 入っているのだ。それから今は有名になってすましているけれど、そういうシンガーたちの旧悪をばらすようなものとか、とにかくこのレコードを聞かずして70年安保前後の歴史はかたらないべきなのだ。
それで、これを機会にひとつの総括をしようとシンガーたち、小林隆二郎、西岡たかし、東野人志、古川豪などに集まってもらったんだが、フォークとはふつうのひと、つまり非専門家で歌では食わないべきだ。とくに今みたいに悪い世の中では、歌で食おうとしたら、レコード協会のレコード制作基準とか、民放連の要注意指定歌謡曲とかいろいろあるので、とにかく自分のうたいたいことを 歌っていたら食えるはずがないだろう、と小林隆二郎がいった。だから食うことはほかでやれ。
それに対して古川豪は、おれは歌というものを知ったおかげで、もしかしたらそれはほかのなにかでも良かったのかもしれないが、中学・高校と何もない空しいところで、これだけは確実にオレのもんやと言えるものを歌に見出した。そのおかげでもうネクタイしめることはぜったいできないようになってしもうた。歌以外では食いとうないが、おれの歌では食えへんが、板前などしてなんとか食うとる。だから、こんどのレコードから自分のわけまえはダンコとして取る。
それに対して隆二郎は、著作権法が若いひとたちがフォークソングやる場合にどんなに障害になっているか、コンサートやるたびにJASRACからひとが調べにきていて、他人の歌うたったら、どんどんその分を取っていくじゃないか。
さらにぼくが補えば、いまの著作権法では、ひとの歌を曲でも言葉でも何小節以上つかえば、印税をはらわなくてはならない。ということは替歌をうたったら、すごく金がかかるということだ。これは替歌を兵糧攻めにして公衆の面前では 歌えなくすることだ。ところが、あとでのべるように、替歌こそは民謡、いやフォークソングの本質は替歌にあると思うのだ。
古川豪のようなひとは、限界芸術としての歌から出発して、いまや芸術家としての歌というキビシイ道をあるきはじめてしまったのだ。シューベルトのように貧乏しながら、がんばるのだ。西欧音楽の歴史と、楽譜の印刷・出版の歴史とは切っても切りはなせないものだが、大ざっぱにいって、ベートーベンになって作曲家の著作権が確立した。ということは作曲家は演奏活動から金が 入らなくてもよくなった─分業の確立ということだ。金がからんでくるから、盗んだとか盗まれたとかいってややこしくなる。ところがフォークソングは、作詞/作曲/唄/伴奏/プロデュースが分業でないところが、フォークソングたる ゆえんのものであった。だから、その延長線上で、中川五郎が編集者のひとりであった季刊「フォークリポート」1970年冬の号では、五郎自身が小説とマンガをかき、そのほか雑誌全体にわたって著作権を無視した盗品で満ち満ちていて、あきらかに、しろうとの 仕事だとわかる。しかし、著作権に敏感な玄人がやったら、あれほどおもしろくはならなかっただろう。そして、それほども売れもせず、高校生のあいだで評判にもならず、警察も補導の先生方も知らずにおわり、五郎がわいせつ罪で起訴されることもなかっただろう。著作権の件でうったえられなかったことは不幸中の幸であった。この裁判はいま進行中であり、前回検察側は500以上の証拠を提出したが、それらはほとんどすべて販売の事実しか立証しえないようなものであり、 猥褻性を証明するには「フォークリポート」1970年冬の号一冊さえあればこれですべてたります、と検事はいったので、検事側証人はひとりもいりませんネ、ハイ、という妙なことになってきた。次回は3月5日大阪地裁できっとおもしろいことになる。  
ところで問題の中川五郎のフォーク小説「ふたりのラブジュース」に対する評価も、たいていのひとは「純粋または大衆芸術」としてしか見ない。鶴見俊輔をえらいと思うひとでも、なかなか限界芸術の立場からフォーク小説なりフォークソングを見ようとしない。たしかにベートーベンやシューベルトのようなキビシイ純粋芸術の道や、親が死んでも恋人にふられても涙ひとつみせず、自分をお笑いの対象にさせる喜劇役者の大衆芸能の道とか、そういうものにはコンジョーがあるみたいで、遠くに眺めて憧れる見本としてはよいものなのだろう。しかし、ふつうのひとに必要なのは、ちかくにマネできるモデルがあることだ。
関西フォークソングの歴史は1966年に高石友也の登場で始まるといえると思うが、彼ははじめのうちは、とてもたどたどしいみたいだが、とても一生懸命に歌った。あれならおれにもできる、と多くのひとが 思ってギターを手に歌いだした。岡林はFのコードがちゃんとおさえられないとか、五郎は音程がくるうとか。だけど、こういうひとたちが、マスコミによってスターとして雲の上にあがらされてしまうと、おくれてきたひとたちにとっては身近なところにモデルがいなかった。人間とアミーバだけ見ていては進化論は出てこなかったとおなじく、ジャリとスターだけではどうしようもない。そのあいだにサカナとかサルとか恐竜とか、とくにガラパゴス島にいたような個性的なトカゲとか、そういうものがいないと運動は 続かない。
そういう意味で世の中一般はスターとか個人崇拝とか─そして批評家たちも高根の花にしか気がつかなくて─まさにそれは、防空壕のなかでヒトラーのまわりにうれしそうな顔してあつまってくる(または体育館のなかでディランのまわりにうれしそうな顔をしてあつまってくる)すべてのファシストを犯罪者でサディストとみなしつづけたところで、革命はあらわれない。われわれがしなければならないことは、彼らの主観的な高揚と、どんな客観的な問題もとけないという彼らの無能とのあいだの、コントラストを 浮彫りにすることだ、とウィルヘルム・ライヒがいった状況だ。
岡林信康の
私たちの望むものは…をきいて高揚した二人の高校生は、その晩は家へかえらずに連れこみホテルにとまるということで、自分自身の無能から、高揚にむかって、客観的に一歩をふみだしたのだ。そしたら、たちまち、刑法175条でやられてしまった。そのご、この 「フォーク小説」を読むひとは、興奮しないといい、つまらないという。彼らはどうやら、自身の無能を棚上げしたまま、無責任に高揚だけをもとめているようだ。それがポルノというものだ。
普通のひとが、いかにして、表現手段を獲得し、無能から一歩ふみだせるキッカケになるか。
たとえば、このあいだの関西フォークの歴史の総括の座談会で隆二郎は、基本的な三つのコードだけのかんたんな作曲法で、おれのいいたいことはなんでもいえる、といった。これは芸術ぶった奴らからはバカにされながら、このいわゆるスリー・コードで歌がつくれるという常識の普及は、フォークソングのひとつの柱だと 思う。「いつまでもスリー・コードだけで音楽的に進歩せず、ドギツイ言葉ばかりでうたいつづけたから、関西フォークはすぐにあきられた」と、まことしやかにいいふらすひとがいても、それはウソなのだ。いつかCBCテレビの司会者はフォークソングを話題にして、 最近このての歌ははやりませんね、といったが、みずから民放連の要注意指定歌謡曲をまもって放送しないでおいて、よくもヌケヌケと、はやりませんね、だと。1969年7月12日新宿地下広場の標識を「地下通路」と変更。19日新宿西口のフォーク集会に機動隊が実力行使。フォークゲリラ小黒弘逮捕。8月27日付で「機動隊ブルース」「かっこよくはないけれど」「栄ちゃんのバラード」「くそくらえ節」「がいこつの歌」が民放連の要注意歌謡曲に指定され、放送できなくなる。この月かぎりでラジオ関西のフォーク番組「若さでアタック」消える。10月文部省通達「高校生の政治集会/デモへの参加禁止」1971年2月、「フォークリポート」1970年冬の号発禁。これでもプロテストソングの衰退の理由に芸術性をうんぬんするのですか、アンタは?  
歌というものを、詩と、音楽の、中間のジャンルと考える。両極をとって、詩は言葉100%の音響効果0%と考える。音楽は音響効果100%の、言葉0%と考える。すると、たとえば吉田拓郎の「人間なんてラララララララララ」というような歌は 言葉の量がすくなく、人間についての感情をララララであらわすには、音響的に非常にこらなくてはならない。しかし、これを、「人間なんて、どうせ死んだらガイコツになっちまうんだ」というふうに 言葉でいったとしたら、その分だけ、音響は手をぬいても、心を伝えることができる。逆に、曲とか伴奏がぜんぜんなしで、言葉だけで、ひとを感動させようとしたら、とても慎重に 選ばなくてはならず、たいへんに言語感覚がよくなくてはならない。ということは、歌という表現のジャンルは、そんなに言葉がうまくなくても、そんなに音楽がうまくなくても、 言葉と音響の相乗効果で、かなりの表現力をもつという意味で、とても非専門家むきだと思う。
それからもうひとつ、歌というとすぐにレコードを思ったりするが、本人をまえにしての直接コミュニケーションだと、とてもつたわりやすい。しかし聴衆が多くなり、遠くからステージを見るようになると、いくらマイクがあっても、かなりうまくないと 伝わりにくい。それがレコード、ラジオなど姿が見えなくなると、音だけしか手がかりがないから、とても音にこらなくてはならなくなる。そういうふうに場から独立することで、活字時代の芸術は、本、レコードなど、すすんできて、これらは本人がその場に存在するコミュニケーションの代用品であることが 忘れられ、本やレコードのほうが本物であるような錯覚がうまれ、本物をさておいて、コピーだけのできばえをきそうような傾向が生まれた。しかしマクルーハンは、テレビはかえって本物に接したい欲求を 強めるといった。フォークソングや詩の朗読会、アンダーグラウンドの芝居やデモや座りこみなどは、本人がそこに存在することによるコミュニケーションの復活である。 
さて、はなしを詩のほうへ戻すと、パロディというのはひとの作品の特徴をまねて笑いものにすることだ。ところが「替歌」というと、元歌の曲節に 言葉をつけかえたもので、べつに不まじめでなくてもいいはずだ。この広い意味でも替歌は、特に才能のない普通のひとが詩とか歌をつくるときに、とても大切な方法なのだ。いまの世の中では、ロマン派や個性主義がのこっていて、替歌ということは一段低く見られているが、一方では純粋芸術家たちは昔から海外のものをなんとかマネしようということばかりしてきた。
ひろい意味で替歌をかんがえると、替歌にはいろいろなレベルがある。たとえば
吉田通れば二階から招く  しかも鹿の子の振り袖が 
という歌が近世にはやったそうだが
吉田通れば雪隠から招く  しかも片手に藁さげて
駿河屋通れば饅頭屋が招く  饅頭食いたい金がない
(紀州子守唄)などは笑わせることをねらった、せまい意味のパロディだろうが
鞆の沖通りゃ二階から招く  しかも鹿の子の振り袖が
(鞆節)となると、べつに笑わない、替歌である。民謡のいちばん基本的な方法のひとつは、地名だけを入れかえて、自分の土地のものにしてしまうことだ。
伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ  尾張名古屋は城でもつ(伊勢音頭)
有馬湯でもつ湯は湯女でもつ  とかく山口紙でもつ
坂は照る照る鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る(鈴鹿馬子唄)
坂城照る照る追分曇る  花の松代雨が降る(信濃追分)
江差照る照る函館曇る  間の福山雨が降る(江差追分)
三島照る照る小田原曇る  間の関所は雨が降る(箱根駕籠昇唄)
これらと近いところに木更津甚句の
木更津照るともお江戸は曇れ…そうなると、田原坂の
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂は、鈴鹿馬子唄と箱根馬子唄の両方から来た?というよりは、日本民謡のもうちょっと深層のところが、こういうかたちであらわれた?
箱根八里は馬でも越すが
越すに越されぬ大井川民謡の「きまり文句」とか「くちぐせ」とかの問題になってくるので、いまは深入りをさけて、次にアメリカ民謡の「ジェッシー・ジェームズ」は列車強盗だったが、民衆の味方で
He took from the rich and he gave to the poor
持てる者から取り 貧しき者に与えたということになっているが、味方にうらぎられて不運な最後をとげた。ウディ・ガスリーはこれとおなじ曲にのせて「ジーザス・クライスト」のことをうたった。彼もまた民衆の味方で、金持ちや権力者をやっつけたが、さいごには身内のユダが裏切り、
...laid Jesus Christ in his grave.  (そして)墓にうめられてしまった
...laid poor Jesse in his grave.というくりかえしまで、ジェッシーとジーザスはおなじだ。
そして高田渡は1968年12月の三億円事件をジェッシー・ジェームズの曲をかりて歌にした。じつにユカイに銀行会社警察をだしぬいたので、貧しい者に金をくれなくても、この白バイのおまわりに化けたひとは民衆の英雄なのだ。こうなってくると逐語的には替歌ではないかもしれないが、発想がとても近いのだ。民衆の英雄というかフォーク・ヒーローの運命は、いくつかの型がきまってしまったようなものか。アーキタイプというべきか。太閤伝説でさえも、五大説教節のひとつ「愛護若」との共通点が林屋辰三郎たちにより指摘され、貴種流離譚という民族的発想形式のなかに、秀吉の流浪のすべてがかたりこまれているらしい。
つぎに、ガスリーが得意としたのは、むしろ、ジェッシーとジーザスのような似たような発想をおなじ曲でやるのではなくて、ワイルドウッド・フラワーの曲で、駆逐艦ルーベン・ジェームズ号の乗組員の名まえひとりひとりをあげてドイツの潜水艦はけしからんと 歌ったり、グッドナイト・アイリーンの曲でコロンビア河にダムができたことをよろこぶ歌をつくったり、とっぴょうしもない詞と曲をくみあわせることだ。高田渡がワバッシュ・キャノンボールの曲に、添田唖蝉坊のノミの歌をくっつけたりすると、あまりに遠いものの組み合わせなので、もとの曲をおもいだすのに頭をムリにうごかさなくてはならない。  
聞け万国の労働者というメーデーの歌が、もとは軍歌
バンダの桜 衿の色だったということなども、指摘されるまで気がつかなかった。
それからイギリス・アメリカ民謡などの研究者によって指摘されるfloating verse というものがある。これはたとえば有名なバラド「バーバラ・アレン」でいうと、 最後には恋人はふたりとも死んでしまって、
One was buried in the high churchyard、
The other in the choir:
On one there grew a red red rose
On the other there grew a brier.
They grew and grew up the old church wall
Till they could grow no higher;
And there they locked in a true-lover’s knot、
The red rose and the brier.
ひとりは教会の墓地に
もうひとりは教会の中に埋められた
ひとつの墓からは赤い赤いバラが
もうひとつからは緑の茨がはえてきた
それらはのびてのびて壁のてっぺんまで
とどいてそれ以上はいかれなくなった
そしてそこで恋結びにむすばれた
赤いバラと緑の茨だけどこれらの詩節は花粉や種のように空中をただよって、「アール・ブランド」「ロード・トマスとうるわしのアネット」「ロード・ラベル」のような悲恋のバラッドのおわりに根をおろす。
日本の民謡研究には floating verse にあたる言葉がないのではないかとおもっていたが、現象としては
めでためでたの若松さまよのように、すごくたくさんある。これは各地の祝宴の席で欠かさずうたわれるばかりでなく、 「長持唄」「地形唄(地搗唄、胴搗唄)」「餅搗唄」「田植唄」「苗取唄」「代かき唄」「木挽唄」「臼摺唄」「臼搗唄」「麦打唄」「たたら踏唄」「味噌搗唄」「豆腐すり唄」「船頭唄」「護岸工事唄」「馬子唄」等々の作業関係の唄の中でもさかんに 歌われ、その他、盆踊や田植踊、獅子舞などの踊唄としてもしきりに用いられている」と「日本民謡辞典」にはある。そうしてこの辞典には類型歌詞ということで一応次の37項目を見出しにあげてある。
朝の出がけに・朝水汲めば・あすはおたちか・碗はいらぬ・伊勢は津でもつ・伊勢へ七度・男後生楽・音ばかり・踊おどらば・おまえ百まで・及びもないが・おらが若い時や・笠を忘れた ・鎌倉の・今日の誇らしや・ここのおうちは・ことし豊年・こんど来る時や・坂は照る照る・十五七・正月様・大黒様という人は・高い山から・唐土の鳥は・涙で出たが・なりそか切りそか ・なるかならぬか・主の来る夜は・程のよさ・本町二丁目の・〜舞を見さいな・前は海後は山・向こう通るは・胸に煙が・めでためでたの・吉田通れば・淀の川瀬の水車  
こうなると、きまり文句とか、詩における口ぐせ、というようなことになる。きまり文句というのは、叙事詩などを口がたりするときに、頭のなかにある話の筋を、韻律にあわせて、その場で、いわば即興演奏するときに、きまり文句にあてはめていえば、韻律にのれる。このことはバルカン半島やギリシアで活躍中の吟遊詩人のうたいぶりを研究しているうちにミルマン・パリー教授たちによって 明らかにされたことで、ホメロスもきっとこうだったにちがいないということだ。コサックやトルコの詩人たちもそうらしい。日本でも平家物語などそうじゃないかと思ったが、現平家物語はちがうが、ゴゼの 歌とか、そういうところから山本吉左右が「説教節の語りと構造」ということで、東洋文庫「説経節」の解説にかいている。
とくに語りがはじまるところは、しきたり的に
ただいま語り申す御物語、国を申せばナントカの国…というようなぐあいにきまっているが、アメリカ民謡でも、
Come gather ’round friends
And I’ll tell you a tale
おいでみなさん
聞いとくれというような出だしは多い。ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」は、民謡調でこうはじまる。ボロこと真崎義博の訳によれば
おいでみなさん聞いとくれ
はり紙だらけの炭坑町
年寄りだけしか残らない
こんな話を聞いとくれそれをつかって中川五郎は「受験生のブルース」
おいでみなさん聞いとくれ
おいらは悲しい受験生
地獄のような毎日を
どうかみなさん聞いとくれしかしディランの曲はマイナーで暗すぎるからといって、高石友也にC調で別の曲をつけさせてレコード化したのがヒットした「受験生ブルース」(しかしこんどの「関西フォークの歴史」では五郎がもとのでうたっている)。そして、それには無数のナントカのブルースという替歌がうまれたが、いちばん有名なのは、なんといってもフォークゲリラのレパートリー「機動隊のブルース」
おいでみなさん聞いとくれ
ぼくはかなしい機動隊
砂をかむよな あじけない
ぼくのはなしをきいとくれこれはせまい意味でのパロディだ。それから五郎の「主婦のブルース」はアイルランド民謡"House-Wife's Lament"の曲をつかっていて、発想の暗示をうけているので、ジェッシー・ジーザス型だ。 じっさい関西フォークの最盛期はまた同時に替歌の最盛期でもあって、「かわら版」1969年2月号は特集をしている。  
最後に、柳田国男は、民謡が生きているか死んでいるかの見わけ方は
現実に今でも群によつて歌はれて居る民謡は、同時に又成長しつつある民謡とも言へる。去年の踊の夜にはあゝは言はなかつたといふ場合もあらうし、あすが日来て聴けばもう文句が少しちがふといふ場合もあり得る。
と「民謡覚書(一)」でいっている。そして、民謡は古くなれば、廃止せられる方がむしろ普通で、だから民謡が生きているということは
民謡はいつの世にも必ず現代語にうたひかへられ、少しでも意味が不明になれば改刪され又は廃棄せられる。たとへ誤解にもせよ歌ふ者はよくわかった積りで居り、子供か子供に似た者で無いと、わかりもせぬのに口真似だけはしない。
ということは、いつも替歌しているということだ。たとえば
おまえ百まで わしゃ九十九まで
ともに白髪のはえるまでという唄も、地域的分布の広さからいっても代表的なものだし、分類上のあらゆる種類の民謡にはいりこんでいる類型歌詞だが、むかしの「山家鳥虫歌」の採録では“おまえ”が“こなた”という時代方言であらわされている。
こなた百まで わしゃ九十九まで
髪に白髪の生ゆるまで大阪府の旧九個荘村では「あんた百まで…」というふうに、同じ言葉が地域方言になっているそうだ。また
高い山から谷底見れば
おまんかわいや布さらすでは、おまんは固有名詞と感じているようだが、元来は鹿児島あたりでつかう“おまはん(お前さん)”という二人称の代名詞である。鹿児島ではさらに“おはん”ともいう例があるが、そのうちにだんだんと実在の人物とかんがえられるようになってきた、と「日本民謡辞典」は説明している。ムカシムカシではじまり、きちんとおわりの 言葉で結ぶという形式をもち、一言一句変えたりしないようにおもわれていた昔話も、稲田浩二「昔話は生きている」によれば聞き手や時と場合によって、ふくらんだり、そっけなくなったり、それが伝承が生きているということで、はなしにしろ、うたにしろ、聞き手も、やる方も、たえず変えることで、生かしているのだ。替歌はもっとも本質なのだ。  
   
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史

第一部 レコード歌謡の歴史と明治・大正期の演歌 
第一章 近代日本大衆音楽史を三つに分ける
  第一期 レコード会社専属制度の時代
そもそも「歌謡曲」という呼称自体、レコード歌謡を放送するにあたって「流行歌」の卑属的な含意を嫌った日本放送協会が使い始めたものです。
  第二期 フリーランス職業作家の時代
  第三期 「J-POP」以降
「演歌」という言葉を安易に使ってしまうと、レコード歌謡史の全体的な動きが見えなくなってしまう。
GS以後のフリーランス作家の時代に入り、それ以前のスタイルが「時代遅れ」で「年寄り向け」のように思われはじめたときに、そのような「古いタイプの歌」と目されたものを新たにジャンル化したのが「演歌」なのです。
第二章 明治・大正期の「演歌」
「演歌」という言葉自体の出現[は]明治時代に遡る……。一方、現在の意味での大衆的なレコード歌謡ジャンルとしての「演歌」の用法は、1960年代後半に現れ、1970年前後に定着
第二部 「演歌」には、様々な要素が流れ込んでいる
第三章 「演歌」イコール「日本調」ではない
誤解とは「日本のレコード歌謡は、元々の日本的なものから、徐々に西洋風(アメリカ風)になっていった」というものです。……これは端的に申し上げて、誤りです。
股旅物を過去から連綿と受け継がれた「伝統」とすべきではない。
昭和30年代から40年代を通じて流行歌手に必要な素養が、旧来の西洋芸術音楽に基盤をおいたものから決定的に変質してきた。
現在の「演歌」を特徴づける「こぶし」や「唸り」の利いた歌い方は、少なくとも昭和20年代までは殆ど見当たらない。
三橋は、民謡に由来する歌唱技法を初めて直接的にレコード歌謡に取り入れた男性歌手であるという点で特筆に値します。
高野・船村がレコード歌謡に持ち込んだ土着志向・地方志向は、古賀政男の都市インテリ的な感傷性や花柳文化的な日本志向と区別しうるものです。
「田舎調」における「田舎」とは、「都会に出てきた人」によって「故郷」として理念化された「農村」でしたが、「都会調」が歌った「都会」も同様に、「田舎から都会に出てきた人」あるいは「田舎から都会に憧れる人」の視線に媒介された、ファンタジーとしての「都会」でした。
畠山みどりが、パロディないしコミックとしてレコード歌謡に取り込んだ浪曲的な意匠を、「唸り」という歌唱技法によってさらに極端に推し進めたのが都はるみです。
第四章 昭和30年代の「流し」と「艶歌」
昭和30年代において「流し」は一種の「やくざ」ないし「アウトロー」として一般に理解されていた……そこにあって、アイ・ジョージという歌手が「進歩派」で「洋風」の「流し」という1960年代初頭でしかおそらくあり得ないイメージの接合によって、大きな成功を収めた。
サブちゃんこそ、「流し」という意味での「艶歌」と、現在のレコード歌謡ジャンルとしての「演歌/艶歌」をつなぐ、最も重要な人物であるといえます。
エレキ/GSやフォークが台頭する昭和40年代、あるいは1960年代を境に、日本の大衆音楽に関する認識の枠組みが大きく変動している。
第五章 「作者不詳と競作」のヒット――1960年代前半の「艶歌」
夜の巷で歌われていた作者不詳の歌謡が、一種の新曲としてレコード会社の垣根を越えた競作の形でレコード化され、大きなヒットとなっていく。
「アウトロー系」の「流し歌」の代表格といえるのが《網走番外地》です。
第六章 ご当地ソング、盛り場歌謡、ナツメロ
地方都市の盛り場を「都会風歌謡」に準ずるやや洋風のスタイルで歌うヒット曲あ、昭和40年代以降爆発的に増加しています。
高度成長期以降の「日本化した洋風盛り場」のイメージを最も理想的に体現する歌手が、青江三奈と森進一です。
《恍惚のブルース》と《バラが咲いた》と《夕陽が泣いている》が同じ1966年に同じ作家によって作られていることは、「西洋風のポップス」と「日本風の演歌」という二文法を根本的に疑わせる決定的な事実です。
第七章 昭和40年前後の「艶歌」「演歌」の用法
「民謡調」や「浪曲調」、夜の巷の「流し歌」「やくざ歌」「ムード歌謡」「ナツメロ」といった要素を寄せ集めた総和が現在の「演歌」である、という理解は必ずしも誤りではありませんが、それだけでは不十分です。
むしろ重要なのは、別々の文脈に属していた個々の要素がいかにして寄せ集められ、しかもそれらの総称として「演歌」ないし「艶歌」という語が冠され、具体的な意味が付与されるに至ったかを解明することです。
第三部 「演歌」の誕生
第八章 対抗文化としてのレコード歌謡
60年代半ばのレコード歌謡論者はまずもって、昭和20〜30年代の知的な領域における大衆音楽理解と、そこにおけるレコード歌謡への非難及び蔑視に対抗していた……若い知識人が既存の知識人・文化人を打倒し否定しようとする動きの中で、彼らの「敵」が忌避したレコード歌謡の中でも、とりわけ軽蔑されていた側面を殊更に称揚する傾向が現れたのです。
寺山修司は「歌謡曲」を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定し、「みんなで歌う」ことによる「連帯」を価値とする「うたごえ」と明示的に対比させています。
森[秀人]にとって「大衆芸術」の真正な担い手は、「股旅やくざ」と「遊女」、そしてその現代版としての「チンピラ」と「バーの女」であり、それらのアウトロー的人物像は市民社会からの「疎外」と「性的逸脱」によって特徴付けられています。
第九章 五木寛之による「艶歌」の観念化
日本のレコード歌謡の肯定的な特徴とみなされた(すなわち旧来の知識人が最も軽蔑した)側面を強調して「艶歌」という新たな呼称を与え、一種の概念規定を行ったのは、1966年にデビューし70年代にかけて若者を中心に圧倒的な人気を誇った小説家の五木寛之です。
「こぶし」や「唸り」を「エンカ」の中心的な特徴と見る視点は、現在では全く常識的なものですが、しかしながら、これらは実際のところ、昭和30年代後半に至ってようやくレコード歌謡に取り入れられた音楽的要素です。
第十章 藤圭子と「エンカ」の受肉
第十一章 「エンカ」という新語
「演歌」は1960年代末から72年ごろにかけて、若者向きの流行現象として音楽産業によって仕掛けられていたように見受けられます。
「演歌」ないし「艶歌」が「日本的」なものとして正当性を付与されるにあたっては、股旅やくざと遊女、その現代版としてのチンピラとホステス、そうした人々の空間である「盛り場」といった、「健全なお茶の間」の公序良俗の空間から危険視されるアウトローと悪所にこそ「真の」民衆性が存するのだという発想があった。
やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった、ということです。
第四部 「演歌」から「昭和歌謡」へ
第十二章 1970年代以降の「演歌」
現在まで続く「演歌」と「酒」と「北」の強固な観念連合は、この時期[1980年代前半]にはっきり確立されたといえます。
第十三章 「演歌」から「昭和歌謡」へ
「演歌」という言葉である種のレコード歌謡を指示し、それに「日本的」「伝統的」という意味合いを込めるようになったのは1970年前後であり、また、明示的に「演歌」と呼ばれた楽曲がレコード売り上げにおいてまがりなりにも成功を収めていた時期は1980年代半ばごろまでのわずか十数年にすぎません。
終章 「昭和歌謡の死」と再生 
評1

演歌を聴いたことのない中国系アメリカ人に英語で演歌を説明できなかったという思い出がある。なんでそんな話題になったのか覚えていないが、相手はミュージシャンじゃないし、日本の大衆音楽も知らない。真っ青になった。音楽を言葉で説明するのは不可能だと言ってしまえばそれでお終いだ。しかし、音楽それ自体ではなく、どんな背景を持つ音楽かくらいは英語で説明はできる。宮廷の音楽なのか伝承された民謡なのか、何時代の音楽なのか・・。たぶん僕もそういうふうに演歌を説明しようとしたのだ。しかし、英語にならない。日本語でも出てこない。結局、情感を込めた、「こぶし」と言われるビブラート(ビブラートという説明も不正確だが)を多用した、独特の音階を多用する、しかし、民謡ではない歌入りのポピュラー音楽だとか、そんな苦しい説明をしたのだと思う。
さて、この新書は、演歌=日本(人)の心、という神話をビリビリと引っ剥がすために充分な情報量と巧みな引用、極めてトリビアなエピソード、そして、これらを結び付ける時代性と社会性を有する稀有な出来上がりになっている。僕は演歌は「創られたジャンル」であるとずっと思ってきたので、結論それ自体には驚かない。しかし、この結論に至る過程で著者が鍋に放り込んだ圧倒的な具材(音楽)の種類と、それを何日も煮込んで、理論の布で濾過したスープの濃厚さには驚いた。音楽人類学とも呼べる、理論的に鍛えられた研究であるところが新鮮だ。僕の印象では、民族音楽学者が大衆音楽について書くものは、音階(スケール)やらリズムやらの音楽理論に傾いてしまうことが多い。そうでない研究は、反対に、カルチュラル・スタディーズ的な、「記号と戯れる」ような、易しいことをわざわざ難解な言葉に置き換えるだけの論文になってしまうことになり、これもツマラナイ。
中身の紹介をする時間がないので、私的に楽しかった部分を記すと、例えば、都はるみが「うなる」のは、弘田三枝子の歌い方の模倣に由来しているという説明には、「なーるほど!」と膝を叩いた。演歌とは関係ないトリビアだと思われるかもしれないが、そうではない。日本の歌謡曲や演歌がいかに「なんでもあり」で、「雑多」で、「文化横断的」であったかという証拠のひとつなのだ、これは。弘田三枝子。サザンの桑田が「ミ〜コ〜」と叫ぶ曲を録音しているほど凄い歌手であった。今の若い人は知らんだろうが、僕が子供の頃には、アメリカン・ポップスやジャズを歌わせたら弘田三枝子に勝てる歌手はいなかったのだ。今の日本人ジャズ歌手なんて、弘田三枝子の足元にも及ばない。都はるみもまた、ユニークな歌唱法で世に出た歌手であった。
この雑多性こそが歌謡曲の歌謡曲らしさで、その「ごった煮」性がいかに幅広く、また、虚構性に満ちていたかは、この本を読めばわかる。これも若い人は知らないだろうが(こんな前置きを言うようになった僕は老人か?(苦笑))、著者がアイ・ジョージにページを割いているのにも感心した。子供の頃、僕が初めてラテンっぽい音楽を聴いたのは、中南米から来た「本場」の歌手ではなく、坂本スミ子であり、アイ・ジョージであった。ただ、アイ・ジョージについては、その風貌と雰囲気から「ただ者ではない」と感じていたが、いつの間にかメディアから消えてしまったので、忘れかけていた。たぶん、アイ・ジョージという歌い手個人の人気がなくなったというより、アイ・ジョージ的な「うさんくささ」や虚構性が時代に合わなくなってしまったのだろう。「ラテン歌手」という位置づけも今はまず聞かないし営業的にも意味がない。しかし、「「流し」の歌手」という枠組みは気がつかなかった。著者は1974年生まれなのによく調べ上げていると思う。そうそう。「流し」といえば田端義夫だが、田端義夫は絶対に「演歌歌手」じゃない。美空ひばりが「演歌歌手」ではないように。なお、ジェロは演歌について間違った知識を持っているが、それは彼の祖母がそう教えたせいなので、仕方がないし、それを責めるのは無理だ。
それで、僕が気になるのは、五木寛之たちにより、「レコード歌謡の一ジャンルとしての「エンカ」が「発明」され、それが「艶歌」とかいう当て字をされた後、「演歌」となり、「日本(人)の心」として理解され受容されていくプロセスのほうである。これもこの本に詳しいが、「演歌」は、近年は「仏教仏教」と唱えているだけのさほど重要でもないこの作家の妄想とレコード会社の戦略とが一方的に創作した虚構ではなく、「「日本(人)の心」を表現する歌」の不在(これ自体も虚構だが)を埋めるなにかを待っていた多くの大衆の心の隙間にはまったのだろうと思う。カラオケの普及も「演歌」の延命に大きな役割を果たしているのではないか。以上は僕の印象であり、著者の意見ではないけれど、当たらずとも遠からじと思っている。
それから、「演歌」の誕生には、当時のジャズ評論家(左翼的かつ観念的な)やら大衆文化絶対主義者やら新左翼(くずれ)の思想家たちによる解釈も深く関係しているという指摘はよくわかる。僕も、そういう人たちが書いたジャズ本を一応読んでいたので、その功罪は知っている。芸術運動が前衛と大衆とに分離するのが怖いから、情念だとか衝動だとか土着だとかいう方向に行かざるを得ないわけだ。社会主義的芸術運動などは勿論ダメなので、結局、特定の歌手をシンボルにして誉めちぎることにより、その他大勢の凡庸さを浮かびださせることになる。竹中労は美空ひばりを、平岡正明は山口百恵を崇拝した。著者はここに相倉久人を加えているが、僕にはその意図がわかる。これらの異端者たちが論じる大衆音楽論やジャズ論と、「艶歌は日本のブルースだ」という五木寛之の小説の中の一節は、違うようで実はどこかで共鳴しあい、あの時代を作っていったのだろう。
蛇足だが、ここに中村とうようを加えれば、更に面白い味付けができたのではないだろうか。中村とうようは元々はラテン音楽が専門で、ロックやフォークに来たが、「民族性」に強くこだわった評論家であった。NMM誌(今のミュージック・マガジン)を購読していたので、僕も中村とうよう的な見方をしていた時期がある。中村とうようはある種の原理主義というか純粋主義で、ウェザー・リポートを「プリミティミズムの偽物だ」と批判し、「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」にこだわっていた。
で、「演歌」の結語的存在として、この本での議論は藤圭子へとなだれ込むのだが、ここでは割愛する。
以上、かなり強引な読み方をしているので、誤読が幾つもあるとは思うが、お許しを。クレイジー・ケン・バンドや大西ユカリまで出して「昭和歌謡」に言及している事を含め、キャッチーでサービス精神にあふれた著作であることは間違いない。こんなことを書くとひんしゅくを買いそうだが、「大衆はバカだ」という意見には一理ある。歌謡曲という豊穣でユニークな歌の世界(こんなのは世界的にも稀有だ!)を「演歌」で代用するなんて、ほんとにつまらない。ま、好き嫌いだといえばそれで議論は終わりだが、歌は文化であり、大げさに言うと、生き方のスタイル(流儀)でもあるわけで、好き嫌いで済ますわけにはいかない。 
評2

はじめに
近年、日本の歴史、特に戦国時代がブームになってるようですが、歴史に詳しい人にとっては常識となってる事実があります。それは、「真田幸村」という名前の武将は実在しなかったということです。真田信繁という武将は存在したのですが、その「真田信繁」が江戸時代になってから「真田幸村」と呼ばれて今に至っているということです。真田信繁の「信繁」とは、武田信繁(武田信玄公の弟)にあやかったと伝えられてます。真田信繁の父、真田昌幸は武田信玄公の奥近習衆だったんですが、おそらく信玄公の弟の武田信繁には余程お世話になってたんじゃないかなと想像します。
輪島裕介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んみ改めて、70年代に「演歌」が“発明”され、50年代、60年代のある特徴を持った歌(唄)を「日本の心」を持ったものとしてカテゴライズ、包括していったんだなということを認識し、「真田幸村」の存在を連想したわけなんです。
知的・言説的産物としての「演歌」カテゴリー
「昭和30年代までの『進歩派』的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった『アウトロー』や『貧しさ』『不幸』にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修二や五木寛之のような文化人が、過去に作品として生産されたレコード歌謡に『流し』や『夜の蝶』といったアウトローとの連続性を見出し、そこに『下層』や『怨念』、あるいは『漂泊』や『疎外』といった意味を付与することで、現在『演歌』と呼ばれる音楽ジャンルが誕生し、『抑圧された日本の庶民の怨念』の反映という意味において『日本の心』となりえたのです」
「演歌」が「日本の心」と定義づけられた“仕掛け”は上述のようになります。引用を続けます。
「さらにそれは専属制度の解体というレコード産業の一大転換期と結びつくことで、専属制度時代の音楽スタイルを引き継ぐ『演歌』と、新しく主流となりつつあった米英風の若者音楽をモデルとした非専属作家達によるレコード歌謡との差異が強く意識され、昭和30年代までのレコード歌謡の特徴はおしなべて『古い』ものと感じられるようになり、それがあたかも過去から連綿と続くような『土着』の『伝統』であるかのように読み替えられることを可能にしました。」
「こぶし」や「唸り」といった“演歌”的な特徴要素のレコード歌謡への流入は昭和30年代から。
畠山みどりがパロディ、コミックとしてレコード歌謡に取り込んだ浪曲的意匠を、「唸り」という歌唱技法に極端に推し進めたのが都はるみ。
都はるみは、弘田三枝子の歌唱法を模倣したそうです。
その弘田三枝子の歌唱技法は、戦後のアメリカ音楽受容の一つの“到達点”。
「ためいき路線」の森進一も青江三奈も、ともにバックグラウンドは洋楽。
森進一のしわがれ声は、ルイ・アームストロングを意識したもの。
三橋美智也はビートルズより早くダビング録音を行っていたり。
ちなみに、昭和20年代まで“日本調の伝統”というと、「お座敷」などで歌われた「芸者歌手」の歌唱法。
それは、おちょぼ口でか細く歌うもので、歯を見せて笑うことさえ下品と見なすお座敷文化では、大口を開けて声を張り上げたり唸ったりなんて野暮の極みだったといいます。
北島三郎のコスチュームに代表される「和服」姿も、当初はいわば“コスプレ”的な衣装だったようです。
こじつけになるかもしれませんが、現在の“日本人のオタク的心性”に通ずるかもしれませんよね。
著者の問題意識
しかし、輪島氏が本書を書かれた目的は、演歌は知的・言説的に“捏造”されたものだ、と演歌を批判することではありません。
現在の「演歌」が、(輪島氏が愛する)大衆音楽における「日本的」「伝統的」なものを、もっぱら「暗く、貧しく、じめじめして、寒々しく、みじめ」なものとして描いていることへの強い違和感こそ、輪島氏が「演歌」への批判的な研究に向かわせた動機だったそうです。
本書の終盤(第13章 「演歌」から「昭和歌謡」へ)で輪島氏は、「演歌」と「ニューミュージック」がパラレルな存在であり、ともに「J−POP(若者向けの自作自演風の音楽)」に駆逐される経緯を以下のように述べてます。
「『演歌』という言葉である種のレコード歌謡を指示し、それに『日本的』『伝統的』という意味合いを込めるようになったのは1970年前後であり、また、明示的に『演歌』と呼ばれた楽曲がレコード売り上げにおいてまがりなりにも成功を収めていた時期は1980年代半ばごろまでのわずか十数年にすぎません。『演歌』という言葉が市場的に意味を持った時期は、『ニューミュージック』という、もはや死語となった言葉のそれとほぼ重なっています」
それに続けて、研究の目的について述べられてます。
「繰り返しますが、それゆえに『演歌』は『日本的・伝統的』ではない、と主張することは私の本意ではありません。本書で強調してきたのは、『演歌』とは、『過去のレコード歌謡』を一定の仕方で選択的に包摂するための言説装置、つまり、『日本的・伝統的な大衆音楽』というものを作り出すための『語り方』であり『仕掛け』であった、ということです。」
良質な戦後日本ポピュラー音楽史としての本書
ところで本書では、「演歌」というカテゴリに留まらず、戦後(一部戦前)のポピュラー音楽についての、産業、言説的な視点から、きめ細かな実証的な分析・考察が滔々として溢れており、とても読みごたえがあります。
戦後にフォーカスを絞られた日本のポピュラー音楽史を知る上で良質な書籍です。
個人的な感想を述べさせてもらうと、自分が実体験した時代についての言説について、僕よりも年少の方が書かれた書籍では、「ううん、ちょっと違うんだよな、ニュアンスが・・・」と感じることが多いんですけど、僕より約10歳年少の輪島氏の言説から、そういう感じ方は一切受けませんでした。
それどころか、自分が実体験していない過去の事例には心強い納得感を感じました。
輪島氏の研究がそれだけ実証的ということなのかなと思います。
余談ですが、昔から音楽産業において、実は緻密なマーケティング戦略(メディアミックスなど)があったことは周知の事実なんですが、割と驚いた事例を本書で知りました。競合他社の商品(カテゴリ)を貶めるため、わざと“変な”商品をリリースして、新カテゴリ自体を潰してしまうことを「陳腐化戦略」というのですが、この陳腐化戦略まで実行されてたんですね。音楽産業の世界でも。 
評3

昭和を歌う演歌は不思議である。登場人物の多くが、下積み中の流しの歌手であったり、不幸な身の上のホステスだったり、不倫で心中しようとしている女だったり、一般大衆というにはプロフィールが偏っている。その人生は経済成長の時代背景に反して「暗く、貧しく、じめじめして、寒々しく、みじめ」なイメージに満ちている。
著者はまず「日本の心」としての演歌は60年代にはじまり70年代に完成した比較的新しい文化なのだということを明らかにする。明治・大正には社会批判を歌う演歌の伝統があったが、昭和の演歌とは別物であり、それは昭和40年代のレコード業界の再編と専属歌手制度と密接な関係があったそうだ。流し、ドサ回り、長い下積みといった要素は歌手のおかれた背景に由来する。
「推測するに、設立当初のクラウンレコードは経営難であり、派手な広告も打てず、レコードを立て続けに発売することもできなかったため、結果として地道な実演や各地の盛り場の「流し」との連携を通じて一曲を長く売らざるをえなかったのではないでしょうか。それがいつの間にか「演歌の世界の常道」として定着してゆき、今日まで繰り返される苦行のような商店街のレコード店や有線放送局でのキャンペーンといった各種の「言葉」が、業界の「伝統」や「しきたり」としての意味を負わされるようになってゆくのです。」
そして著者は、明るく豊かになった人々が、近代化や経済成長から取り残され疎外されたアウトロー的人物像に対して、ある種のやましさと憧憬を持ちながら称揚したのが「日本の心」としての演歌であると結論している。
「「演歌」ないし「艶歌」が「日本的」なものとして真正性を付与されるにあたっては、股旅やくざと遊女、その現代版としてのチンピラとホステス、そうした人々の空間である「盛り場」といった、「健全なお茶の間」の公序良俗の空間から危険視されるアウトローと悪所にこそ「真の」民衆性が存するのだという発想があった、ということです。」
時代遅れになってしまった人たちを歌っているわけだから、演歌は最新の楽曲でも常に古臭いものなのだ。下層・アウトサイダーの逸脱がメディアを通して、民衆的・大衆的な「国民文化」として定着していく事例は他国の音楽文化にもある普遍的な現象として位置づける。アメリカのルーツミュージックしかり、ブラジルのサンバしかり、アルゼンチンのタンゴしかり。
逆に、エリートやお金持ちを歌う国民文化というのは、大衆社会の力学的にありえないのであろう。流行歌というものが、個の才能(歌手や作詞家、作曲家)によるものであると同時に、同時代の社会学的な構造に規定されて、生まれてくるものだということを明らかにした本でたいへん面白い。研究的にも相当価値のある内容だと思う。 
評4

【第一部】
近代日本大衆音楽史を三つに区分 / 第一期 レコード会社専属制度の時代(昭和初期[20年代後半]〜30年代[50年代後半]) / 第二期 フリーランス職業作家の時代(昭和40年代[60年代末]〜昭和末期[90年代]) / 第三期 J-POP以降の時代
演歌=自由民権運動の壮士の演説歌→ 第一期末の演歌士≒流しの芸人たる添田唖蝉坊・知道親子による「創建神話」。第一期あたりでの「演歌」の支配的な説明。「艶唄」は「演歌」の頽落形態ととらえられる。
【第二部】
第三部において解説される「新左翼知識人」が日本の土俗的原型をみた「艶歌・演歌」に実際には「民謡調」「浪曲調」「流し歌」「やくざ歌」「ムード歌謡」「ナツメロ」といった多様な(かならずしも日本土着とはいえない)スタイルの音楽が流れ込んでいることの解説。第一期までの歌手や「流し」は流行したスタイルならなんでもレパートリーにした。
【第三部】
本書の主張が述べられた部分。進歩派左翼知識人の俗歌・猥歌に対する非難に対抗する形で「新左翼」の左翼ナショナリスト知識人が「艶歌」を「日本のブルース」として再創造していく。その後、健全化・体制化を通じて現在のようなイメージが確立する。
五木寛之の小説「艶歌」(1966年)における「艶歌」観
1、「艶歌」はレコード歌謡黎明期の昭和初期から連続するもので、しかも現在(昭和40年前後)それは衰退しつつある。
2、「艶歌」は「タイハイ的」な歌であって勇壮な軍国歌謡の≪愛国行進曲≫や明朗快活な≪リンゴの唄≫などとは別のカテゴリーに属する。
3、「艶唄」は「やくざっぽい」人物によって、長年のカンに従って制作されており、それは西洋音楽の価値体系とは相容れない。
4、「艶唄」は姑息な販売戦略や派手な宣伝によらず売れるべきものである、また「演歌」が「艶唄」に頽落したことに「庶民の唄」として積極的に評価している。
新左翼論壇の「艶歌」論
相倉久人と平岡正明はフランツ・ファノンやリロイ・ジョーンズなどのポストコロニアル理論の先駆を参考にして「日本のブルース」として「艶歌」に目を向けた。
藤圭子
五木が小説などで提示した「不幸な生い立ち」「暗さ」「怨念」といった少女歌手像を体現する存在として藤圭子が売り出される。藤圭子は演じられたフィクショナルなキャラクターを売る(しかもオーディエンス側もそれを織り込み済み)という点で最初のアイドルでもある。
著者の主張がもっともよくまとまった文
“やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正なプロレタリアート」であり、それ故に見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人なのだ」、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった”
“昭和30年代までの「進歩的な思想」の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な新正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見いだし、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。”
“さらにそれは専属制度の解体というレコード産業の一大転換期と結びつくことで、専属制度時代の音楽スタイルを引き継ぐ「演歌」と、新しく主流となりつつあった米英風の若者音楽をモデルとした非専属作家によるレコード歌謡との差違が強く意識され、昭和三〇年代までのレコード歌謡の音楽的特徴はおしなべて「古い」ものと感じられるようになり、それがあたかも過去から連綿と続くような「土着」の「伝統」であるかのように読み替えられることを可能にしました”
演歌の健全化
アウトローの音楽というイメージから清純化・家庭化する→小柳ルミ子
小柳のデビュー曲≪私の城下町≫(1971年)、続く≪お祭りの夜≫≪雪明かりの町≫≪瀬戸の花嫁≫≪京のにわか雨≫と続く一連の楽曲はは当時の国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を連想させる。「古き良き日本」を表象する。後に家父長制イデオロギーにも親和的になっていく(≪与作≫)。
カラオケナショナリズムとそこで歌われるものとしての「演歌」
1977年カラオケブーム「国際化するジャパニーズ・ビジネスマン」がカラオケで歌うナショナルソングとしての演歌
ナツメロが歌われ、“「演歌」は専ら「過去」と結びつく「歴史的文化財」としての地位を完全に獲得したといえるかもしれません”
「演歌」と「みなさまのNHK」の結合
1981年、演歌を中心とする『歌謡ホール』(現・『歌謡コンサート』)開始。
この番組で“「演歌」は「古くから日本人に親しまれてきた」「スタンダード」として捉えなおされて”いる。この番組の“選曲基準は「視聴者の関心が新しいヒットソングだけにあるのではない」として、「日曜日の『のど自慢』で歌われる曲や、暮れの『紅白歌合戦』のアンケート結果」を重視するという番組スタッフの発言が引かれています。同じく「十一月、十二月は『紅白歌合戦』に向けた特集にしたい」との談話が紹介されています。(1981年3月4日付朝日新聞)”
“現在の「演歌」シーンにおける最高の晴れ舞台(あるいは業界の生命線)と言える地上波全国放送の『のど自慢』『歌謡ホール』(現在は『歌謡コンサート』)『紅白歌合戦』の密接な関係は、ここで確立されたといえます”
カラオケによる歌詞と曲調の均質化
1979年あたりからの「演歌」のヒット曲は旋律・伴奏・歌詞ともにどれも似通っていて、戦後初期くらいのものに逆戻りしたかのようである。「演歌」のイメージも、“男は羽織袴、女は振り袖姿で「古き良き日本の自然と風物と人情」を(カラオケ的な基準で)上手に歌う、というステレオタイプが突出”していく(:313)。その好例が石川さゆり。≪天城越え≫はカラオケで挑戦しがいのある難曲としてヒット。カラオケスナックで主婦を相手に開かれるようになった「お稽古ごと化したカラオケ」が背景にある。主婦層の支持なくして現在の「演歌」は存続し得ない。そのため川中美幸≪ふたり酒≫や三船和子≪だんな様≫といった曲は一夫一婦制と夫唱婦随のイデオロギーを称揚し、鳥羽一郎≪兄弟船≫は兄弟と両親の絆を描くものとなっており、当初のアウトローの音楽という「演歌」のイメージからは対照的になっている。
カラオケの脱演歌化
カラオケの中心がJ-POPに移ることで演歌は駆逐されていった。
「歌謡曲」「昭和歌謡」
「歌謡曲」「昭和歌謡」といった言葉も、かつての「演歌」と同じく、それまでの多様なレコード歌謡を現在の視点から再カテゴリー化したものといってよい。(レコード歌謡-演歌とJ-POP=歌謡曲、昭和歌謡)「昭和歌謡」はなんとなく昭和的なサウンドのオリジナル曲をだすJ-POPアーティストを呼ぶ言葉(初めは椎名林檎を指す言葉だった)である。他にエゴ・ラッピンやクレイジーケンバンドなど。「サブカル的」な卓越競争において普通のJ-POPや「洋楽」ロックを聴くものよりもセンスある選択として「歌謡曲」「昭和歌謡」が選ばれるという背景もある。
「国民音楽」
「国民音楽」を創出しようとする歴史的・イデオロギー的動態としてはキューバのソン、ブラジルのサンバ、アルゼンチンのタンゴなどと「演歌」とは構造的に似通っている。
“なるほど、「演歌」は「日本独自」の「国民的」な音楽ジャンルかもしれませんが、「下層」の逸脱的な表現を素材に、西洋近代由来の高級文化志向との対抗において、民衆的・大衆的な独自の「国民文化」を立ち上げる、というプロジェクト自体は、他国・他地域とりわけ西洋中心の「世界システム」の「周縁」に位置づけられた場所)における「国民文化」の創出過程とかなりの程度共通点を見いだせるものであり、そのような観点での比較・検討が今後の課題となるでしょう”
おまけ
“「農耕民族」は二拍子、「騎馬民族」は三拍子といういい方は、民俗音楽学者の小泉文夫や小島美子に由来すると思われますが、それ自体きわめて根拠はクジャクで、疑似科学的な「日本文化論」の一種というべきです” 
評5

「演歌は日本の心」とよく言われるが、現在の「演歌」イメージがいつ頃から生成されたかを検証する本。
執筆者はジメジメ演歌ではなくもっと明るい歌謡曲が好きなようだが、変なあてこすりや自分の趣味に合わないものを糾弾する姿勢は希薄で、好感が持てる。
60年代のサブカル史、すなわち品行方正な文化を志向する既成左翼から周縁文化を持ち上げる新左翼的言説までの流れを詳細に追っており(その後「J-POP」という言葉が出てきてから現在までも論考の対象になってはいる)、「同じサヨクでも言ってることが違うじゃん」と思う若い人は、2000年代までのサブカル評論における思想的背景の概略が把握できる良書である。
ただし、私自身は日本の戦後歌謡史にも疎いし、音楽の専門知識を有しているわけでもない。だから、本当に細かいところまでの、本書に書かれていることの厳密性は保証できない。
しかし、前述のように「同じサヨクでも言っていることが違う」という「流れ」の記述の正確さについては、かなり太鼓判を押すことができる。
そしてそれは、現在の広義のサブカル評論の地図を思い描くにあたっても重要な、基礎教養的な部分なのである。
以下には、その辺のことについて(本書の内容からはやや離れるが)書いてみたい。
その1
もともと、戦後に共産党を中心とする左翼は「品行方正な方向に人々を導く」ことを主眼としていたらしい。
だから、わりとお行儀のよい、上品な歌を推奨していたようだ。
その裏には(これは私見だが)「左翼思想」そのものが、外来の普遍的価値を持つモダンな思想であって、それにふさわしい、コスモポリタニズムを象徴する「歌」の存在が問われたのではないかと思う。
で、ここまでは若い世代でも「なんでそこまで?」と思ってしまうところ。
この動きに対して、反発が起こる。「日本の『土着的なるもの』を顧みることこそが大切なのではないか」という動きである。本書によれば歌謡史においては竹中労の美空ひばり礼賛がそれに当たる。
本としてもかなり売れたらしく、単なる一評論家が狭い世界でブチあげた珍論ではない。
この竹中の「ひばり礼賛」は、左翼的思想の深いところでは「外来の先進思想である社会主義、共産主義を無知な人々に教えてやる」という態度ではなく、人々の日々の生活の中に自然にあるものを見つめ直し、そこから社会主義なり共産主義なりを考え直さなければいけない、という反省があった。
時期的には60年代の後半からだと思う。
同時代的には、別ジャンルとして本書にもあるように任侠映画や劇画の評価、柳田民俗学の見つめ直しがある。
根本的な「なぜ左翼なのか」だが、その頃の時代の勢いもあっただろうし、当時のサブカルチャーをまともに論評の対象にしていた人々のほとんどが左翼的文化人だ、ということもあったのだろう。
本書の面白いところは、単なる概略にとどまらず、竹中労の「ひばり礼賛」や五木寛之が「艶歌」という小説に書いた「日本人の心の原像としての演歌そのもの」が、悪い言い方をすると歴史観の捏造を含んでいるのではないか、と疑義を提示しているところにある。またそれを立証しようとしている。
そしてそれは、同時代では三角寛の「サンカ研究」評価や山田風太郎の伝奇小説、デニケンの「宇宙考古学」人気ともつながっている。
ここはいくら強調してもし足りない。
(フィクションを書いた山田風太郎は別として)ある種の人々はある時期に、「日本人の歴史」をやんわりと捏造しようとしたのである(その是非は、ここでは置く)。
ちなみにオタク的には70年代に「原日本人」が存在するとする「アイアンキング」などに「日本人の原点」論がかいま見える。
「キカイダー01」で斜光器土偶型の巨大ロボが出てくるのも、この流れである(内容はあまり関係ないようだが)。
その2
話が大きくなり過ぎ、またやや否定的になってしまったので話を戻そう。
たとえば竹中労、五木寛之が「情念の吐露としての演歌(艶歌)」を称揚したとすれば、その後、それをさらに一方で「山口百恵」にポップ化させ、「ジャズ」でコスモポリタニズムに目を配り、一方で浪曲などのさらなる過去へ向かったのが平岡正明である。
また、70年代後半以降、「河内音頭」に注目したのが朝倉喬司。
ミュージシャンでは岡林信康が、メッセージ性の強いフォークから70年代半ばには「演歌に開眼した」とウィキペディアにはある。さらに80年代半ばには日本民謡を取り入れた、とある。
(余談だがyoutubeに、岡林が演歌の要素を取り入れた歌を歌っている姿があった。歌詞の中では「ディスコで踊ったって所詮イエローモンキーだ」というような言葉が出てくる。ここでもやはり「日本人の原点回帰」の思想が見て取れる。あまり評価されなかったようだが、この「エンヤトット路線」というのはなかなか面白い! ダンスミュージックなんだもの。)
で、本書にも指摘があることだが「大衆の原像を観るため」という理由で、さまざまなジャンルへの目配りや過去の掘り下げ(そしてそこにはやや恣意的なチョイスや捏造と言わざるを得ない歴史の改変があった)が行われた。
これは政治的な流れとしては、共産党やその青年団体である民青のやり方に不満を持った人々が「新左翼」を形成する中で起こった出来事である。
つまり、「共産党的なるもの」をよりパンキッシュになることによって克服しようとしたのが全共闘運動、新左翼運動で、それを把握していないと60年代後半から70年代終わりまで、「何が採用され、切り捨てられていったのか」が見えなくなってしまう。これらは基礎教養である。
その3
さて、ではこれらの考え方がオールマイティであったかというとそうではない。インテリ/民衆という壁を突き崩そうとしたのがそれらの考え方だが、それをどんなに実践してもインテリが民衆そのものにはなり得ないという事実があるし、実際にインテリが「おれは民衆の意見を完全に代弁できる」と言ったとしたらそれは欺瞞であろう。
その欺瞞性を指摘した人物の一人がマンガ評論家でもある呉智英だ、と自分は思っている。
以下はぜんぶ当時をよく知らない私の予測だけで書くのだが、彼の著作の中に入っている、彼が典型的な新左翼だと思っている人たちとの論争、これらはほとんど竹中労や平岡正明に対する間接的な攻撃なのではないかという気がする(論争の相手は、たいてい平岡の弟子筋の人物である)。
呉智英が80年代に注目していたのは、今考えれば「中流意識」があまねく蔓延した時代に、どのように「知性」を救い出すかという点にあった(と思う)。
大半が中流意識を持っている以上、あらゆる事象はリアリティをなくし浮遊してしまう。
彼が「(学生の)自己否定は自己肯定」と学生運動のアジ演説で言ったというのも、60年代からいわゆる「自己否定」に欺瞞性をかぎとっていたという意味で興味深い。
だから、呉智英の「読書家の新技術」などを読むと、その読書ラインナップには柳田国男などの、他の新左翼系の評論家が勧めるものと同時に、わりと固い古典的な本が並ぶ。
おそらく、彼が志向していたのは「日本的なるもの、土着的なるもの」を理解しつつそれに浸りつつ、そこからどのように、再びオピニオンリーダーとして「知性、知識を持った者」が立ち上がるべきか、ということの模索だった。
また別の「一億総中流意識によって、あらゆるものが(かつてとは違って)リアリティをなくしてしまう浮遊感」に抗しようとしたのが村上春樹である。
今考えるとそうたいした話しでもないのだが、やはり寓話としてはつい例に出してしまいたくなる「パン屋再襲撃」などは、60年代に若者だったものの「時代に対する空振り感」をよく表現していると言わざるを得ない。
なお、70年代終わりの「ディスカバー・ジャパン」やアンノン族の国内旅行などは、本書にも指摘されているが「原日本人像を探る」というムーヴメントのポップ化、悪く言えばなれの果てであった。
その4
だがいずれにしろ、「過去に沈潜することによって『本当の日本人像にせまろうとする』」という考え方は80年代いっぱいは(それが欺瞞であっても)エンターテインメントの世界では「おとしどころ」として生きることになる。
以上、また自分の考えのまとめとしてダラダラ長文を書いてしまったが、とにかく60年代から70年代終わりくらいまで、同時代的に各ジャンルで似たようなことが起こっていたことが、理解されればいい。
なお、70年代にはサブカルシーンにおいて「アメリカンニューシネマ」の影響が色濃く入ってくることになるが、それについて語るとややこしくなるので別の場に譲りたい。 
評6

本ブログの一回目で、音楽が持つ「始原」を喚起させる力みたいな話を書いた。「神話力」「始原力」とでも呼んだらいいのだろうか。
一方で音楽は、強固な本質として、身体感覚に訴えかけて来る「現前性」の魔力みたいなものも持っている。
音楽が持つこの2つの特質を、不用意に言語化したり、さもなくば自覚的に悪用すると、割と簡単に「歴史の偽造」「始原の捏造」に繋がる危険性がある。
常に始原と統合を必要とする宗教やファシズムと、音楽運動や音楽芸術の親和性は今さら言うまでもない。
(まあそれを言うなら近代国民国家の統合・教化装置としての音楽に触れるべきだろうか?)
・・・そこまで大上段で自覚的ではなくとも、実は商業音楽・大衆音楽こそ、虚実を交えた「始原」「歴史」「俗説」の言説の中にあり、自己言及的なナショナリズム形成のベースとなっているのではないだろうか。
この10月に発売されたばかりの輪島裕介「創られた「日本の心」神話〜「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史」(2010年・光文社新書)は「偽史としての演歌」「装置としての演歌」に迫る本である。
1974年生まれの若手の音楽・文化史研究者である輪島は「演歌= 日本人の心」として当り前の様に語られる言説と、実際の歴史の間にある隙間や亀裂を、主に実際の制作者・歌手・楽曲の実際の音楽的系譜や、その語られ方の変遷を詳細に語ることで掘り下げてゆく。
(輪島は、レコード歌謡の時代区分を「レコード会社専属作家の時代」「非専属職業作家の時代」「J-POPの時代」と区分し、その後の分析の基本視座としている。)
そして、昭和40年代に浮上した「演歌(艶歌)」は歌謡曲やレコード歌謡の下位概念にすぎなかったことや、「演歌」概念の成立と共に、それ以前の様々なルーツと個性を持った楽曲や歌手が、後付けで「日本人の心としての演歌」の概念の中に括られて行ったことを、それら多様な楽曲や歌手の実相と共に明らかにしてゆく。
例えば、美空ひばりの代表作とされる古賀政男作の「柔」「悲しい酒」は、実はピークを過ぎた古賀・ひばりの二人の大物が、当時の新興勢力である偽古的な田舎調に寄り添うことで成功した例であるという。
これらが後付けで「演歌の代表曲」と位置付けられたことにより、二人のモダンで明るい側面−古賀の戦前からの都市インテリ的側面や、ひばりの流行歌手としての万能選手的なレパートリーの広さ−が見えにくくなっているという。
そして「演歌」概念の本格的な成立には、1960年代の政治・文化状況、そして新左翼的・大衆主義的な文化人の影響力も大きかったという。
特に、元レコード会社専属作家で、自ら小説「艶歌」を書き、演歌を日本の反権力的・土俗的な伝統に連なるものとして位置付けた仕掛け人としての五木寛之の重要性の指摘と、その小説「艶歌」内に潜む虚実操作の分析は非常に鋭く興味深い。
・・・以前本ブログでも五木の作品に触れたことがある(「中野の夜の戦後精神」)。
彼の初期作品に潜む乾いたニヒリズムが、反権力的土俗の系譜と想像上で結合した時、偽史としての「艶歌」(のちに「演歌」。この2つの呼称の違いについても輪島は触れている)というジャンルが登場したのだろうか。
それが現実に、例えば藤圭子など実際の歌手にフィードバックされ、再話・反復され、強化されていく・・・。
勿論本書はホブズボウムの「創られた伝統」概念を押さえた上で書かれており、その意味では近代国民国家の文化伝統の創出という、個別的でありながら普遍的なテーマに繋がる大真面目な本であるのだが、一方でどうも、輪島はそもそも純粋に歌謡曲が好きで、しかも最新のサブカルチャーにも相当詳しいと思われる。
それぞれの楽曲や歌手・作家の特徴の紹介も、一つ一つは短いながらもそれこそオタク的に詳しく、本書はトリビアをも含めた「輪島版・読むヒットパレード」の様相も呈しており、純粋に面白い。
そして、学術的な語り口に混ざって、しばしばサブカルっぽい顔や語り口が(特に楽曲の制作体制からその受容や語られ方へと焦点が移行する後半部に)見られるのが面白い(例えば虚構性を演じるアイドルの先駆者としての藤圭子を語るうちに、アイドルの虚構性を戦略的に打ち出した小泉今日子や、おニャン子倶楽部の仕掛け人、秋元康の「フェイク演歌」にまで思わず言及してしまう辺りなど)。
そして、本書の最終第4部は、21世紀に入り、演歌をも包含して成立した「昭和歌謡」という概念−DJ文化から発生した点サブカルであり、より広い「昭和ブーム」に親和的である点でマスでもある−の言説分析に割かれている。ここで「昭和歌謡」の体現者とされる阿久悠や、その言説の継承者としての半田健人の語る歴史区分の不正確さを輪島は批判してゆく。
・・・それを読みながら、この本自体が、「演歌」というジャンル概念がある程度脱神話化され、代わって「昭和歌謡」という別の神話が生まれつつある21世紀の現在だからこそ、書かれるべくして書かれた一冊だったのだな、ということを改めて感じさせられた。
そのようなメタ的な視点すら誘発してくれる、刺激的でユニークな本である。 
評7

 

岩井直溥の語り下ろし自伝 / 上海時代のお兄さん、岩井貞雄のシロフォン奏者としての活躍の話(のちに上海交響楽団で朝比奈隆とも共演したのだとか)からはじまって、東京音楽学校では戦争中なのに橋本国彦からジャズ和声を教わって(岩井直溥は片山杜秀がしばしば言及する話題の生き証人の一人ということですね)、戦後は進駐軍将校クラブバンドからアーニー・パイル劇場、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、弘田三枝子……というように、戦後のジャズ・洋楽史の重要な名前が次々でてきて、吹奏楽をやった者なら誰もが知っているニュー・サウンズ・イン・ブラスの前にこういう歴史があったのかと、驚きました。
進駐軍の将校クラブから紙恭輔のシンフォニック・ジャズを経てコミック・バンドというのは、ポピュラー音楽としてのジャズの王道ですよね。
岩井直溥がメイン・アレンジャーだったヤマハのニュー・サウンズ・イン・ブラスという吹奏楽ポップスのシリーズは、ちょっと背伸びしたい中高生向けで、そのうち本物のジャズやロックやフュージョンにアクセスするようになって自然に卒業するもの、というイメージですが(ブラバンよりもジャコパスやチック・コリアのオリジナルに夢中になる、という形で)、その匙加減も意識的だったようで。
ディズニー・メドレーのティンパニではじまるオープニングはアーニー・パイル劇場のレビュー、「飾りのついた四輪馬車」のスライド・ホイッスルはシティ・スリッカーズと考えると(私の吹奏楽の知識は80年代半ばで止まっているので、古めの曲ですみません)、岩井直溥のアレンジは昭和のジャズ(ビバップが入ってくる前)の生き証人なのかもしれませんね。
そういえば、序論で小林信彦にも言及しながら「レコード歌謡としての演歌」に流れ込んでいる諸々を整理する新書が出ましたが、個々の情報はすごく面白いのに、書物を成立させる背骨が「カルスタ」なのは、ちょっと残念。
(「カルスタ」であることはタイトルから明らかなので、ストーリーの本筋以外のところで面白いところを見つければいい本なのだろうと、事前に心の準備ができて助かったとも言えますが、「レコード歌謡」の雑種性(岩井直溥も東芝専属時代にそこにどっぷり浸かっていた)が、「日本の心」は創出された伝統である、というこの書物の論旨を飲みこんで圧倒している印象をもちました。美空ひばりや都はるみ(本書で前者は笠置シヅ子の大人びて上手すぎる物真似からスタートし、後者は弘田三枝子の歌唱から唸りを学んだとされている)が「日本の心」に回収しきれなさそうだという主張はなるほどその見方のほうが有望だろうと直観的に思いますが、竹中労や五木寛之を考えるときに、「カルスタ」的言説批判は問題のとっかかりでしかないと思われ、この先の見通しがあるのかどうか、そこが気になります。
あと、「○○をただちに連想させる」とか「××を強く印象づける」といった語法で難所を乗り切ろうとしている箇所があるのが気になりました。「ただちに」であろうが「じんわり」であろうが、強かろうが弱かろうが、書き手の未だ十分に論証されていない印象を読者に押しつけられては、読むほうが迷惑する。そんなやり方で歯切れの良さを演出するのは邪道だと思います。この種の、書き手のワガママを読者に強要する論法は、増田聡や岡田暁生の得意技ですが、あんなものをマネしてはいけない、と少なくとも私は信じます。(「強く」も「弱く」もなく、単に、信じます。)
竹中労の美空ひばり論に事実の歪曲がある、という指摘が「神話創出」の現場を押さえる決定的な箇所のひとつになっていて、この箇所は著者の口調も高ぶっていますが、「(竹中が下敷きにした文書を)素直に読めばこうなる」というだけでは弱いのではないでしょうか。たとえば共産党訪問団が実際に何を訪問先で歌ったのか、第三の文書や記録の傍証を求る等の手順がなければ、おそらく「公判」を維持するのは難しい。そういう証拠固めがあれば、研究にも広がりが出て一挙両得のはず。学問には、衝撃の映像を使ったプレゼンでシロウト裁判員を説得すればオッケーな最近の人民裁判とは違うロジックがあるはずだと思うのですが……。
(こういうとき、増田聡だったら、「これからは学問もコモンセンスに訴えるべきだ」とか言うのでしょうが、文化研究は、ひとまずコモンセンスに訴えて支持を得たはずの主張を再検討した場合の混乱や不一致を問題にしているはずで、コモンセンスのレヴェルで判断不能だったら、歴史的な事実の検証など別次元のロジックを呼び出すしかない。輪島さんがマスダと同類だ、というわけではないですし、紙数の関係で簡略に書き、実際には事実関係を調べてあるのかもしれないですが……。[補足:傍証は調べてあり、うたごえ運動で「越後獅子」と言えば美空ひばりではなく、それ以前から知られているアレという風に認識されていたようです。
本の「あとがき」に増田聡の紹介でこの新書が実現した、などと書いてあるので、どうしても党派性を警戒しながら読んでしまったのです。ややこしい人間と関わり合いになっているのだなあ、せっかくの面白いテーマが、変なところでねじ曲げられなければいいのだけれど、と思いながら。)) 
評8

 

副題は「「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史」。「演歌」という「伝統的」と思われているジャンルが、1960年代に成立し、そして70年代から80年代にかけて「日本の心」となっていった過程を丁寧に論じた本。
新書の枠をはみ出すようなページ数(350ページ超)と情報量で、読みやすい本とは言えないのですが、たんに「演歌」だけにとどまらず、日本の大衆文化と政治性を深く出した本です。
「演歌」の語源は、自由民権運動の時に歌われた「演説の歌」であり、明治・大正と「演歌」は脈々とその歴史をつないできた、という演歌の「伝統性」はちょっと調べれば怪しいものだとわかります。
「演歌の女王・美空ひばり」のデビューは「ブギの女王・笠置シズ子」のモノマネでしたし、「演歌の王道」のように思われる古賀政男のメロディも戦前期は「ラテン風」、「南欧風」と言われていました。また、藤山一郎、淡谷のり子といった歌手たちは、いずれも音楽学校で西洋的な歌唱法を身につけた歌手であり、いわゆる「コブシ」や「唸り」といった演歌の歌唱法とは一線を画しています。
「演歌」は歴史の中で綿々と受け継がれてきたのではなく、ある時点でさまざまな歌が「演歌/艶歌」としてカテゴライズされ、そして「伝統的」、「日本的」とされたのです。
作曲家・船村徹と作詞家・高野公男のコンビがつくりあげた「都会調」に対する「田舎調」の楽曲群。畠山みどりがパロディ的に持ち込んだ「浪曲」の意匠。「下積み」や「流し」のイメージを売り物にした、こまどり姉妹や北島三郎。洋風ブルースで夜の盛り場を歌った青江三奈や森進一。戦後民主主義批判の中で見出された日本の土着的、あるいは夜の盛り場の歌。それを言説化してみせた五木寛之。その五木寛之のイメージする「艶歌」を体現してみせた藤圭子。「艶歌」の「艶」の字が常用漢字でなかった頃から入り交じる「演歌」と「艶歌」。
挙げていけばキリがないのですが、これらの様々な要素と状況が重なって、「演歌」というカテゴリーが誕生します。
正直、あまりにも多くの要素がありすぎて、もうちょっとすっきりとした見取り図は描けなかったのか?とも思いますが、このあまりにも雑多な要素から見えてくる政治性というのも面白い。
やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正の下層プロレタリアート」であり、それゆえに、見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能になった、ということです(290p)
これは藤圭子の登場によって「エンカ」という言葉が流行語になった現象を説明したあとに置かれた文章ですが、ここからは日本の「労働者階級」の弱さ、「反近代」という立ち位置を共有する右翼と左翼の同根性など、さまざまなことが連想できます。
さらに、「演歌=韓国起源説」を否定したあとで引用されている平岡正明の北島三郎についての「おねがいだから、在日朝鮮人であってほしい」との発言。知識人のある種のマイノリティーへの歪んだ入れ込みが戦後の大衆文化を駆動してきたこともうかがえます。
この他にも小柳ルミ子などによって「風俗」的なイメージが脱色された演歌とそれにのっかったNHK、「歌謡曲」というジャンルの消長など興味深い部分も多いです。
もう少し整理されていたほうがよかったのでしょうが、演歌に興味がなくても、戦後の大衆文化、そして文化と政治の問題に興味がある人はぜひ読むべき本だと思います。 
評9

 

昨年読んだ本のなかで一番面白かった本、といっても、ほんの数冊しか読まなかったなかでの話。心地よい読後感から、久しぶりによく考えてながら感想文を書くつもりでいたのになかなか書き出せず年をまたいでしまった。本書を教えてくれたのは、日経新聞水曜夕刊の短い書評。井上章一が「目から鱗」と勧めていた記事に目がとまった。大晦日の晩は、例によって、両親の家で紅白歌合戦を見た。朝の連続ドラマ『ゲゲゲの女房』や大河ドラマ『龍馬伝』などのおかげで、NHKは民放地上波に比べて話題豊富な一年だった。事前の宣伝も抜かりなかった。桑田圭佑の復活や松下奈緒のピアノ演奏、人気グループ、嵐の司会担当など、紅白じたいも話題に事欠かなかった。にもかかわらず、昨年の『紅白歌合戦』は、正直なところ、楽しめなかった。年越しを祝う海の公園の花火を高台からぼんやり眺めながら、読んだまま感想を書けずにいた新書と、今一つ盛り上がらなかった『紅白』のことについて考えていた。『紅白』がつまらなかった理由の一つは、新しい曲と聞きなれた、いわゆる懐メロとのバランスがうまくとれていなかったことにあったように思う。方や、好き嫌いはともかくよく耳にした今年のヒット曲を歌う若い歌手がいて、そのあとでいつもならなじみの曲を歌うはずのベテラン歌手が無理して聞いたことのない新曲を披露していた。年末の音楽番組では徹底して今年のヒット曲とその歌手の代表曲だけを歌わせた『ミュージックステーション』や懐メロを新しいコラボレーションで聴かせた『FNS歌謡祭』のほうが私は楽しめた。ローティーンの子どもたちも同じように感じていたようにみえる。
本書は、書名で謳っているいるほど大げさな内容ではない。内容はむしろ淡々とした史実の記録であり、その記述の積み重ねから書名で宣言された結論があぶりだされる構成になっている。著者の主張は大きく二つ。一つめは、「演歌」とは1960年代後半に始まり、70年代に確立され、80年代に終息した音楽の一ジャンルに過ぎないということ。二つめは、「演歌」は出自から見ても、また作品から見ても日本古来のものではなく、むしろ世界中の音楽を取り込んだ、雑多な大衆音楽であるということ。この二つの主張を明らかにすることで、書名の結論が導かれる。「日本文化」というものがそもそも雑種ないし雑居であるという主張自体は新しいものではない。本書を勧めてくれた井上章一もそうした主張に賛同する一人と言って差し支えないだろう。本書のユニークな点は、もともと諸外国の文化を取り込んで出来上がったある分野が「日本古来の文化」として定着され、さらには神話化されるという事態が非常に身近な大衆音楽という場でも行われてきたことを、その過程を克明に記し明らかにした点にある。
私は以前、演歌は地域の言葉や風景を原点にしながら次第に産業化して、無味乾燥な「日本」という風景に吸い込まれてしまったと書いたことがある。本書を読んでみると私の見立てが間違っていたことがわかる。「演歌」は最初から音楽業界で生まれた一ジャンルで、地域に根差していた民謡とは直接のつながりはない。あったとしても、それは、「ご当地ソング」という「中央から見た地方」の風景の恣意的な断片でしかない。つまり、演歌で好まれて、頻繁に使われている「故郷」「港」「雪」「駅」といった言葉は、地域から中央に向けて発信されたものではなく、中央から地方に向けて仕込まれた言葉だった。
本書は、新書とはいえかなり緻密な歴史研究で知らない人名や曲名に退屈することもないわけではない。その一方で、若い研究者がこのテーマに賭けた意気込みや専門家以外の読者に向けて書いた気負いがところどころの脱線で感じられて愉快でもある。たとえば、「千の風になって」が1970年代後半の音楽バラエティ番組『カックラキン大放送』の後主題曲に似ているという指摘。この2曲が似ているのは、現在放送中の音楽バラエティ番組『どれみふぁワンダー』で宮川涁が繰り返して指摘しているとおり、ヒット曲の定石である「ソドレミで始まる」曲だから。あえて原曲名の「哀しみのソレアード」ではなく、『カックラキン大放送』の後主題曲と明記したのはなぜか。1974年生まれという著者に『カックラキン大放送』を見た記憶があるのだろうか。そこに若い社会史研究者の「歌謡曲」と「演歌」の原体験があったのかもしれないと推測してみると、また楽しい。この番組は、コメディと音楽を組み合わせたバラエティ番組。主な出演者は、堺正章、井上順、研ナオコ、野口五郎、関根勉、車ダン吉(なぜか必ずShakatak, “Night Birds”にあわせて登場していた)。『どれみふぁワンダー』も同じ方向を目指しているように見えるけど、こちらは公営教育テレビの雰囲気を多分に残しているため、エンターテイメントとしては必ずしも成功していない。『カックラキン大放送』は70年代のお笑い番組の王者、『8時だよ全員集合』と同じように公開放送だった。調布グリーンホールでの収録後、夜9時に始まる『ザ・ベストテン』に生出演して歌う、という光景は何度も見た記憶がある。70年代後半、「歌謡曲」の時代の象徴的な風景。
『ザ・ベストテン』といえば、昨年の後半、番組担当ディレクター、後にプロデューサーをしていた山田修爾が「今だから明かす☆☆ザ・ベストテン秘話」と題して日刊ゲンダイで興味深い逸話を連載していた。ちょうど本書を読んでいた時期とも重なっていて「歌謡曲」の時代を回想するいい機会になった。昨年は、転居した先の新しい自治体の図書館で『ザ・ベストテン』を回想するCDもいくつか借りた。思い返せば、『ザ・ベストテン』は、アイドルからニューミュージックや演歌まで、具体的に名前を挙げれば、伊藤つかさから、松山千春や、大川栄作まで、誰でも生放送で歌わせるという大胆でいて不思議な番組だった。もっとも、当時15歳では夜の番組に生出演できなかったので、伊藤つかさは夜9時からの生放送には出演できなかった。著者の輪島は、90年代以降の日本語ポップス、いわゆるJ-POPと区別して、70年代(あるいは昭和50年代という呼び方のほうがふさわしいかもしれない)の雑種混合の大衆音楽に対して“昭和歌謡”というジャンルを提言している。
音楽のジャンルはどんどん広がっている。にもかかわらず、『紅白』はヒット曲や人気アイドルに媚びながら、「国民的番組」の地位にも拘りすぎている。その年のヒット曲だけ聴かせるのでもなければ、『思い出のメロディー』のように懐メロばかりを聴かせるというわけでもない。その微妙な配合が『紅白』の魅力であり、バランスを崩すと昨年のように物足りなさを残す大きな要因にもなる。
閑話休題。ひさしぶりに少し長い文章を書いてみた。上手くは書けてはないのであとでゆっくり手直しするつもり。明日からは一週間、半年ぶりのシリコンバレーに出張する。前回の出張よりはずっとリラックスしている。今はまだ土曜日になったばかり。この時間に仕事をしていないだけでも半年前とは気分はまるで違う。明日、S先生に甘えて少し励ましてもらえば、何とか行ってこられるだろう。
輪島は、「ニューミュージック」というジャンルも「演歌」と同様1970年代というひとときに隆盛した一ジャンルと指摘している。フォークでもなければ、ロックやポップスでもないジャンル。確かにそれは私が10代を過ごした時代にだけあった音楽かもしれない。自分の生きてきた時代をあまりに特別扱いすることはいいことではない。なぜなら、「時代」といっても、それは自分か、せいぜい自分の身近な世界の体験に過ぎないから。それは承知の上でなお、本書を読後には、1970年代は戦後日本において大衆文化の岐路だったのではないか、という、これまで積み重ねてきた思いを新たにした。
評10

 

そもそも「日本の心」などというお題目を唱えること自体が怪しい。多くの場合、明治政府が大衆統合の為に江戸末期の国学から創作した国家神道やその駆動装置である靖国神社を無闇に有り難がることが含意されている。その証左にこの本に出て来る大御所「演歌」作曲家の船村徹は極右団体日本会議のメンバーであり、主催する靖国神社チャイティーコンサートは「演歌巡礼ー日本の心を歌う」というタイトルなのだ。
そーいう意味で、アタシは彼等の称える反知性主義的な「日本の心」を共有しない。その「日本の心」には新古今集や俳諧の美意識が全く含まれていないからだ。三島由紀夫が生きていたらその「日本の心」を大嗤いして、軽蔑するだろう。おそらくがミシマが最も忌み嫌った「反知性主義的情念」なのだ。
音楽の聴き方というのはひじょうに個人差がある。また音楽を聴くには何らかの装置が必要だ。その装置の歴史にも音楽消費の形態は左右される。
印象派がチューブに入った絵の具によって誕生した様に、再生装置による音楽消費形態の変遷も重要なポイントだろう。夜の盛り場、有線放送という消費形態にアタシは無縁だが、これも大きな市場を作った時代があったのだ。
メディア自体の変化も大きな影響を与えた。かつてはアナログ・レコードで聴いていたものがCD化される際に(録音時間がLP48分に対しCDは74分)ボーナス・トラックが付加されていることや、デジタル・リミックスで多くの場合は音質が向上していることなどが理由でアタシはCDを買う。
とにかくアナログ・レコード再生には振動が大敵で、カセット・テープにダビングした音源をカーステレオやウォークマンで聴く時代がCDの登場する80年代半ばまで15年程続いたのだ。データがデジタルで保存される様になって(PCM変換)、音楽の消費形態が凄まじく変化した。
拙宅にはロックとジャズとクラッシックで3000枚以上のCDがあるが、それでも同世代で全く内容の異なる3000枚を集めることは全く容易だ。つまりウチには、ビートルズは青盤・赤盤しかなく、ポリスもU2もエルビス・コステロもキッスもない。ジャズはマイルスとその一派(コルトレーン以外はピアニスト)や女性ヴォーカルしかない。クラッシックはバッハとモーツァルトとハイドンとブルックナー、マーラー、新ウィーン派くらいしか聴かない。しかし、よしんばCDが10000枚あってもパッケージ化された音楽全体から見れば微々たるものだ。とは言え現在手持ちのCDを一通り全て聴くだけで一睡もせずに150日ほどかかる。何とも馬鹿馬鹿しい話だ。
そもそもアタシが中学生の1969年(昭和44年)、LPレコードは1枚2000円、今の貨幣価値にすれば30000円近くしたのだ。その後、円高にもなりレコードは相対的に安くなる。当初は高価だったCDも安くなって輸入盤は2000円程度だ。「大人買い」をした結果が3000枚という次第。ジャケットが気に入ったアナログ盤も100枚程度は残してある。亡くなった義父はクラッシックLPのコレクターだったので1000枚以上はあるだろう。義父から聞いた話では、その昔アナログLP は月給の半分くらいしていたというから、昨今の中古アナログ盤の安さに驚喜していたことも頷ける。
文化資本という言い方もあるが音楽は巨大な産業なのだ。黎明期のロック・ミュージックがビッグ・ビジネスとなってゆく途上で”産業ロック”という蔑称が使われた時代もあった。自己嘲弄的な”モンキーズ”というバンド名は正に”ビートルズ”を産業としてコピーしたものだった。
とにかく、聴いたことのない音楽がこの本にはたくさん出てくる。
”スナッキーで踊ろう”(海道はじめ/1968年/昭和43年)は掲載されているジャケットがシュール過ぎてドン引きした。思わずyoutubeで聴いてみて、更にぶっ飛んだ。正にグループサウンズ・ブームの真っ最中、それまでのレコード会社専属の歌手・作詞家・作曲家の時代から、フリーランスの歌手・作詞家・作曲家が洋楽レーベルからヒットを飛ばす時代に換わるタイミングで、旧来のレコード会社専属の大作家「船村徹(冒頭に書いた日本会議の先生、「別れの一本杉/1955」「王将/1961」の作曲家)」が民謡歌手(実は船村氏の内弟子で運転手を務めていた人物)を起用してエレキ・ギターをメインにしたサイケデリックなサウンドを狙って作ったものだ。何と作曲家本人がアレンジもやってる。しかも実はプリマハムの新商品”スナッキー”のステマ的なプロモーションとして企画されたという斬新さなのだ。
企画書の段階では凄かったと思うが、残念ながら出来上がったサウンドが剰りにも「垢抜けない」。歌手自身が民謡歌手だからその歌唱がエレキ・サウンドとは「手術台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」なのだ。マルドロール。
当時、洋楽はSteppenwolfの”born to be wild(映画”イージーライダー”で使われて大ヒット)”が流行っていた。ちなみにアタシが人生で最初に買ったレコード(シングル)は”born to be wild”だった。
あり得ない話だが、船村徹がこれらの音楽を真摯に聴いていたら”スナッキー”は全く違った作品になっていただろう。しかしボブ・ディランがメッセージを歌っていた時代に
オオ…‥…‥…‥スナッキー ウウ…‥…‥…‥スナッキー
燃えろ 若さだ 飛び上がれ
かわいいひざを のぞかせて
背中あわせて 踊ろうよ
オオ…‥…‥…‥スナッキー ウウ…‥…‥…‥スナッキー スナッキーゴーゴー
・・・この何ともイケてない歌詞。“スナッキー”が「ターゲット」にした10ー20代の”若者”からは間違いなく「聴くに堪えないカッコ悪さ」と受け取られただろう。
宣伝を企画した人たちを含めて戦前に教育を受けた世代のセンスの限界が露呈している。たぶん、育った時代が戦前か戦後ということに大きな懸隔が存在する。ここに感覚の深い断絶があり、この断絶こそが古いタイプの歌謡曲(後の演歌)を「流行」の表面から葬り去ったものなのだろう。
1968年当時は歌謡曲が全盛を迎えていた。しかし、著者によればこの頃に「時代に追従できず置いていかれる情緒」を総称して「演歌」というジャンルが「新たに」作られるのである。
この昭和43年は「明治維新100年」ということが様々な形で取り上げられ、その中で「ナツメロ=懐かしいメロディ」という新しいジャンルも作られた。登場した時代には軽佻浮薄なモダン文化だった最初期「流行歌」の歌手たち、東海林太郎、淡谷のり子がテレビに登場し、最新の音楽についてゆけなくなった戦前育ちの「古いセンス」を勇気づけ、ある種自己顕彰的な「真正な日本の文化」という価値を作り出した。戦後日本の繁栄を創出した世代の自己肯定=「ナツメロ・ブーム」の誕生だ。
この「ナツメロ・ブーム」と「演歌という新しく創られた価値」が合体して「本当の日本の心」という実体のない「曖昧な価値観」が醸成されていくのだ。
考えてみれば、小学生の頃までは大晦日はNHKの紅白歌合戦を家族で観ながら正月を待つというのが楽しみだった。当時はテレビが一家に一台の時代。しかしロック・ミュージックに目覚めた中坊は歌謡曲なんてダサくて聴いていられないから、自室にこもってロックのLPレコードをかけていた。それがちょうど「演歌」が「古臭い情緒」としてメイン・ラインから外れていき、それに比例する様に「日本の心」としてクローズ・アップされ始めた時代だったのだ。
いずれにしても70年代に新しいジャンル「演歌」が「日本の心」を歌うものである、という認識が一般化した。「現代用語の基礎知識」というぶ厚い年度毎に刊行される辞書の様な書物を憶えているが、その項目に「演歌」が加わったのも70年らしい。
この時期に民族主義者川内康範(月光仮面を創作し「骨まで愛して」「恍惚のブルース」「花と蝶」など多くのヒット曲の作詞家)が「演歌は日本人の歌だ」などと発言したことが後の「日本の心を歌う演歌」というジャンルを規定したのだろう。川内は宣言している。
「1971年は、この演歌が日本の正統歌謡として新しく出発する年である。政治、経済、文化のすべてが、本当に正統にかえる時代に入る。いってみれば日本の夜明がこれから始まるのである。日本の正統演歌は、その先頭にたたなければならない」本書 p.281-282
この頃、トラック野郎(長距離トラックのドライバー)向けに8トラックの演歌テープが大量に販売された。ラジオの深夜放送が盛り上がりをみせた1970年代、トラック・ドライバーをターゲットにしたと思しきラジオの深夜放送があった。文化放送の”セイ・ヤング”の後、午前3時から始まる”走れ歌謡曲”だ。今思えば多くの「演歌」が流れていた。
管見だが、この辺りから歌謡曲やアイドルを追いかける”ツッパリ・ヤンキー地方文化”とロック・ミュージックやニュー・ミュージックを愛好する”ノンポリ都市型文化”がハッキリと別れていった様な気がする。前者が何を参照していたか知らないのだが(漫画週刊誌とか改造車を特集するクルマ雑誌?)後者は明らかにこの頃登場したタイポス雑誌”popeye””brutus”を読む層だった。村上春樹の短編にはロック・ミュージックをガンガンかけて仕事をするタクシー・ドライバーが登場する。そもそも村上春樹の作品にロック・ミュージックやポップス、クラッシックは頻繁に現れるが演歌は一切登場しない。
1970年代初頭、中学校のクラスでジミ・ヘンドリックスやクリームといったハードなロック・ミュージックを聴く者はマイノリティーだった。まだビートルズを中心としたポップ・ミュージックが幅をきかせていたのである。当時はミュージック・ライフという月刊誌からこーした音楽情報を得ていたが、なんだか「平凡」や「明星」のテイストで子どもっぽい。そこで中村とうよう氏の"ニュー・ミュージック・マガジン"へと参考書を替えた。ちょうど"はっぴいえんど"の「日本語のロック」が話題になっていて、今なら笑い話だが「日本語でロックは可能か?」なんて特集で内田裕也やミッキー・カーチス(外道のプロデューサー)が対談していた。
ウッド・ストックのお祭り騒ぎがあって、ビートルズは解散し、ジミヘンやジャニスは死んでしまうし、グランド・ファンクという産業ロックの王者が来日するし、急速にロック・ミュージックはメジャーな存在になった。EL&Pも来日し、キング・クリムゾンの日本盤も発売された。イエスも来日、ディープ・パープルもハンブル・パイもフリーも来日。日本のロックバンドも日比谷野音でしょっちゅうコンサートやっていて頭脳警察のアルバムは発禁になるし、もうシッチャカメッチャカで楽しい日々だった。
70年代以降、歌謡界はアイドル路線で占領されるが、一方の「演歌」は自嘲的な「ド演歌」路線で突出する。ぴんからトリオや殿様キングスの反動的で戯画の様な演歌世界だ。更に五木寛之から芸名をつけた五木ひろしやバスガイドから転身した八代亜紀が新たな演歌のメインラインになっていく。1981年から今も続くNHK「歌謡ホール(現コンサート)」など演歌歌手によるカラオケ大会の様な番組が「日本の歌」として現在形のヒット曲とは無関係の音楽消費を促進する。
1970年代中頃にはロッキン・オンが創刊。最初は本当に薄っぺらなミニコミ誌だった。でも写真がほとんど無くて小難しい評論が並んでいて面白かった。渋谷のラブホ街にあった編集室にも遊びに行った。
しかしその頃から急速にロック・ミュージックを聴かなくなった。厭きたということもあった。"はっぴいえんど"のメンバーたちのソロアルバムは高校生の頃から聴いていたが、彼等がバックアップするミュージシャンたちの音楽が新鮮で面白くなってきたのだ。ユーミン、シュガー・ベイブ、南佳孝、矢野顕子、吉田美奈子、桑名晴子、小坂忠など、当時は"はっぴいえんどファミリー"と呼んでいた人たちだ。
80年代アタマにはガール・フレンドがアルファ・レコードという新興レコード会社に居て(ヤナセの社長が趣味でやっていた)、Y.M.O.や細野さん教授の試聴盤(LP)を大量にもらっていた。ゲルニカ、立花ハジメ、カシオペアなどもいっぱい貰った。しかし何故かアタシはテクノが好きになれず、ピテカン・トロプスにも遊びに行かなかった。だからY.M.O.はみんな人にあげちゃって残っていない。ちょっと惜しい気もする。ピテカンに付き合わないのでガール・フレンドとも疎遠になってアタシは関西の映像制作会社に就職しちゃうのだ。1983年、もうCD時代は眼の前だった。
70年代後半、大学院で音楽美学をやっている奴と友人になってクラッシック音楽をウンザリする程、彼の理論的解説付き凄いハイエンド・ステレオ装置で聴かされた。結果的にふつーにバッハとモーツァルト、ブルックナー、マーラーが好きになって、一時期はクラッシックしか聴かない時期もあった。メシアンや新ウィーン派も好きだけど。
1990年以降、平成になってからはJ-POPと演歌(歌謡曲、昭和歌謡)はオリコン・チャートでも別立てになった。その分け方は「中高年向けJ-POP以外の音楽」「J-POP以前のスタイルを引き継ぐ音楽」というものだ。
ちょうどその頃、奉職していた制作会社がCS衛星放送でロック・ミュージック専門チャンネルを立ち上げた。何人も同僚がその制作に異動した。その関係でプロモーションの手伝いをしていたこともあって、90年代初頭のJ-POPは少し詳しいかもしれない。しかし好きじゃないのでCDは持っていない。(笑)
"三宅裕司のイカすバンド天国"という深夜番組で一時的なバンド・ブームが起きたのもこの頃だった。"人間椅子"とタイアップしてCMを制作した。フライング・キッズの曲もCMに使った。
おそらく世代的な視点で言えば1960年代まではテレビという団欒の中心を核にある種の時代的情緒が共有されていたが、音楽を再生するメディアの変化、個々人が消費する娯楽スタイルの個人化が進行した結果、もはや電車で隣に坐る人間がheadphoneで何を聴いているのか知り得ず、テレビがもはや情緒と無関係のガジェットと成り果て、「流行」に無関心な膨大な趣味人が横行しているのだ。Face bookを見ても他人への関心など存在しないことがヨク解る。
いずれにしてもこの新書は情報量が豊富で特に前半の〈第一部レコード歌謡の歴史と明治・大正期の「演歌」〉〈第二部「演歌」には、様々な要素が流れ込んでいる〉は日本語という閉鎖的な環境で消費されてきた「流行歌」の歴史がとてもよく解る。
レコード歌謡ジャンルとしての「演歌」の消長自体は、「土着文化の喪失」であるとか、あまつさえ山折哲雄が嘆くような「万葉以来の情緒の衰退」といった問題では全くありません。 同 p.347
「演歌」に縁の無いアタシには面白い一冊だった。
評11

 

本論文は、第二次世界大戦後の日本における〈大衆〉音楽に関する言説編制の歴史的変遷について検討するものである。大衆の語に山括弧を付すのは、何らかの実体を備えた「大衆音楽」という所与の対象の存在を前提していないことを明示するためである。戦後日本の〈大衆〉音楽史を、しばしば行われるようにジャズ、ロック、ヒップホップといった欧米(とりわけ英語圏)由来の諸音楽ジャンルの受容史の総和と捉えるのでなく、大衆的・日常的な文化環境のなかで特定の音楽実践を意味付け、文化的な真正性を創出しようとする多様な言説実践がせめぎあう場と捉え、〈大衆〉と音楽が取り結ぶ関係がいかに言説的に構想・構築され、具体的な音楽的形象と関連付けられていったかを通時的に記述する。
第1部では、昭和初期から昭和30年代まで〈大衆〉音楽をめぐる語りの規範的なモードについて検討する。そこでは、レコード会社制作の大衆向けの歌謡(本論文で「レコード歌謡」と呼ぶもの)を「低俗」「商業主義的」として敵視し、それに取って代わる真正な〈大衆〉音楽を標榜する、という行き方が啓蒙的な知的エリートによって共有され、ある程度実効的な影響力を持った。第1章では、本論文の主題である戦後の検討に先立って、昭和初年におけるレコード歌謡(当時の呼称では「流行歌」)という新たな音楽形態の成立と、まさにその時点で勃発した《東京行進曲》論争について概観し、「流行歌」と「流行歌批判」が、いわばコインの表裏として成立したことを確認する。第2章では、敗戦直後の左派・進歩派による「流行歌批判」の特徴を主に評論家・園部三郎の言説を通じて検証し、そうした批判が占領終結前後の「植民地化」への抵抗を背景とした文化運動として結集し、レコード会社・放送の自主検閲を促すに至る過程を描く。第3章では、前章で論じた「流行歌」への激しい批判者たちが、真正な民衆的な表現として肯定的に位置づけた「民謡」について検討する。左派・進歩派の民謡観におけるソ連の社会主義リアリズムの影響を指摘したうえで、かかる民謡観を部分的に取り入れた三橋美智也の「民謡調流行歌」をはじめ、民謡に取材した大衆的な音楽実践の拡がりについて論じ、昭和30年代の大衆的な音楽環境における「民謡」の象徴的な重要性について指摘する。第4章では、〈大衆〉音楽の能動的な制作主体としての放送について検討する。家庭の「お茶の間」を主たるターゲットとしたメディアである放送と、巷の「盛り場」と深く結びついた既存のレコード歌謡との対立的な関係を指摘したうえで、戦後の放送音楽を基本的な方向性を定めた作曲家として三木鶏郎の事績を検討する。さらに、テレビが創りだした「ホーム・ソング」的な歌謡が、レコードや映画も含む大衆的な音楽環境の全域において決定的な影響力を行使するに至る特異点として1963年に発表された楽曲《こんにちは赤ちゃん》について検討する。
第二部では、1960年代以降、そうした批判の型を戦略的に転覆させ、旧来の批判者たちが「低俗」「頽廃」とみなしたレコード歌謡の諸特徴を「土着」や「被抑圧者の怨念」といった仕方で読み替え称揚する新たな言説の型が編制し、それが「演歌/艶歌」という具体的な音楽ジャンルを産み出してゆく過程について論じる。それは、第一部で論じた左派・進歩派的な立場から既存のレコード歌謡の低俗性を批判し、それとは別な〈大衆〉音楽を構想する、という行き方に対する意識的に反対の表明でもあった。第5章では、既成の左派・進歩派への対抗意識を明示的に表明し、その「流行歌批判」の型を象徴的に転覆させた先駆的な論者として寺山修司、森秀人、林光を取り上げ、そうした言説と既成の左翼的文化運動のロジックを接合し、歌手・美空ひばりを称揚した竹中労の言説について検討する。第6章、第7章では、反-既成左翼的な立場からのレコード歌謡論をうけて、そうした見方を具現化した音楽ジャンルとしての「演歌/艶歌」が言説的に構築される過程を記述する。第6章では、「演歌/艶歌」という用語の歴史的を概観し、これが明治・大正期の「演説歌」からそれが芸能化した「流し歌」を指し、レコード歌謡とはむしろ対立するものであったことを確認した上で、1965年前後に「古いタイプのレコード歌謡」という用法が徴候的に現れることを示す。第7章では、1966年の五木寛之の小説「艶歌」において、前章で検討した対抗文化的なレコード歌謡論と親和的な意味付与がなされたことを論じ、それが新左翼的なジャズ批評とも結びついてさらに先鋭的に観念化されるさまを描く。続いて、対抗文化的な観念としての「艶歌」イメージを、半ば戦略的に演じた歌手・藤圭子と、それに対する対抗的な文化人の熱狂について言及し、これをきっかけに、新たな音楽ジャンルとして「演歌」が定着する過程を検証する。
第三部では、第二部で検討した対抗文化的な〈大衆〉音楽観が、より広範な文化的環境のなかに拡散してゆく過程について検討する。第8章では、民族音楽学者・小泉文夫の業績について検討する。彼の発言が、常に同時代の日本の音楽状況に対する積極的な介入であったことを確認し、基本的な学問的方法や問題意識はほとんど変化していないにもかかわらず(というよりむしろそれゆえに)、音楽をめぐる言説の転回に呼応して新たな流通・受容の文脈に組み込まれてゆくことを示す。具体的には、1950年代の左派・進歩派的な民謡観に基づく『日本伝統音楽の研究』に始まり、1960年代後半の対抗文化的な言説空間の中で、日本のレコード歌謡の「伝統的」な側面の肯定と、反文明主義的な「未開」や「起源」としての非西洋音楽の探求へと向かい、さらにそれが1970年代後半以降、「日本人論」と呼ばれる文化ナショナリズム言説と親和的なものへと変容してゆく過程が示される。第9章では、1990年前後に西欧先進国で展開した「ワールドミュージック・ブーム」の日本における受容の過程を検討する。これは前章で扱った「民族音楽」の流行を部分的に引き継ぐ非西洋音楽の消費に関する流行現象であるが、「ワールド・ミュージック」ではより都市的かつ混淆的な側面が注目された。欧米においては古典的な「西洋とそれ以外the West and the Rest」という区別を再強化する側面が強かったこの現象が、日本においては、近代以降の日本の音楽状況を根本的に変えうる現象として、いわば過剰に意味付けられたことに特に注目する。第10章ではロック音楽について検討する。1970年前後のごく短い期間に活動したロック・バンド、はっぴいえんどが、1990年代以降「日本語ロックの起源」と目されるにいたる過程に注目し、ロック音楽の日本における受容とその自明化の過程について検討する。1970年代以降、ある面ではかつての西洋芸術音楽と同様の、教養主義的対象としての規範的な「洋楽」の地位を獲得したロック音楽が、1980年代末から1990年代以降、日本の日常的な音楽環境において自明化し、その過程で、それ以前にはほとんど構想されることのなかった「日本ロック史」という意識が生じ、そこではっぴいえんどが遡及的に「起源」の位置に据えられることを示す。第11章では、1980年代以降の西洋芸術音楽の受容の特徴について検討する。第1部においては普遍的な価値を有する規範であり絶対的な目標であり、第2部においては打倒すべき抑圧的な他者であった西洋芸術音楽が、1990年代以降、大衆的な消費に供される過程を描く。バブル経済を背景とした、(当時の流行歌でいう)「ハイソ」なクラシック音楽消費が、「ワールド・ミュージック」と共通するエキゾティシズムや「癒し」と結びついて受容される消費財へと変化し、さらに「Jクラシック」と呼ばれる国内演奏家によるイージーリスニング的な音楽ジャンルを生み出し、それと呼応して西洋音楽化された日本製の音楽をある種の「伝統」として称揚する傾向が現れる過程を描く。
補章では、英語圏における「ワールド・ミュージック」現象に関する学術論文を整理し、現代のポピュラー音楽研究と民族音楽学の動向を概観し、非西洋地域の近代化と〈大衆〉音楽を通じた文化的アイデンティティ形成をいかに記述し、研究するか、についての方法論的な議論を補う。
以上の議論から次のことが明らかになった。第二次世界大戦後の日本の大衆的な文化環境の中で音楽を意味付ける仕方について、1960年代に大きなパラダイム・シフトが存在した。そのパラダイム・シフトは、戦後初期の左派・進歩派による西洋近代(およびその「発展形態」としての社会主義諸国)をモデルとした文化的上昇志向から、60年安保以後の新左翼的な心性を有した若い知識人による主に「黒人ジャズ」をモデルとした土着的な民衆性への下降志向への移行として説明しうるものであった。60年安保以降現れた対抗文化的な知識人・文化人たちは、旧来の左派・進歩派がレコード歌謡に向けてきた美的・政治的・道徳的な非難を象徴的に転覆させ、それが現実の流行現象と接続することで「演歌/艶歌」という音楽ジャンルが言説的に構築された。70年代以降、対抗文化的な下降志向に基づく〈大衆〉音楽観は、文化ナショナリズム言説としての「日本人論」と接合し、一方では「非西洋」音楽を自らの文化的真正性を構築するための資源として流用しつつ、他方では西洋的な音楽語法を自明なものとしながらそこに日本的な真正性を読み込む、という新たな言説と実践のパターンを生んだ。
評12

 

伝統は捏造される
『創られた「日本の心」神話』という本書のタイトルですぐにエリック・ホブズボウムの『創られた伝統』の日本における音楽版であろうことがわかる。その『創られた伝統』は、「伝統」と言われるものの多くが、後世になって人工的に創られたものであると欧州とその他の世界における実例を様々にあげ、それがナショナリズムの構築のためのイデオロギーと強く関係があることを解き明かした書である。これは日本においても例外ではない。特に、明治期の天皇崇拝と神道に関する「伝統」のねつ造ぶりは、まさにここまで行けば天晴という他ない類のものだ。それを最初自分は坂口安吾から学び、そして様々な神道の現代的な史学研究から学んだ。捏造の告発は、外国からの視点が特に峻烈だ。例えば、明治6年から三十年以上日本に滞在し、俳句や古事記を世界に紹介した東京帝国大学の名誉教授のバジル・ホール・チェンバレンは、以下のように記している。すこし長いが引用しよう。
「天皇崇拝および日本崇拝(忠君愛国教)は、その日本の新しき宗教であって、もちろん自発的に発生した現象ではない。」「二十世紀の忠君愛国という日本の宗教は、まったく新たなものである。なぜならば、この宗教においては、古来の思想はふるいにかけられて選り分けられ、変更され、新たに調合されて、新しき効用に向けられ、重力の中心を新たにしたからである。これは新しいばかりか、まだ完成していない」「神道は原始的な自然崇拝であり、すでに世の信仰を失っていたが、食器棚から取り出されて、塵を払われることになった。なるほど一般の人民はなおも仏教に対して愛情を抱いていたし、一般の祭礼も仏式であり、死者を葬るところも仏寺であった。しかし支配階級はこのすべてを変えようとした。天皇は太陽女神の直系の子孫であり、彼自身は地上の生き神(現神 あきつかみ)であって、自分の臣民に対して絶対的な忠誠を当然に要求できるものである、という神道の教義を主張した」「神話と古代史と称するものが同一の書物に記載され、どちらにも同じようにありうるべからざる奇蹟が麗々しくでている。年代記は明白に虚偽である。古代の天皇の口から出たという勅語は、中国の古典から抜粋した寄せ集めである。」「日本国民は、その支配者の超自然的美徳にあやかるところがあって、『武士道』と称して、劣等の国々には知られていない高尚なる騎士道によって特に秀でていると主張している。官僚階級があらん限りの力を用いて組み立てようとしている思想の構造は、以上のごとくものである。官憲の行使の結果は、歴史的真理に固執しようとするものに対しては刑罰を加えるまでに至っている」 『日本事物誌』バジル・ホール・チェンバレン
そして、実際に日本が明治期に、まだ天皇の存在すら知らなかった民衆に、天皇崇拝と神道を広めようとしたかを明らかにしたの書には『天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から 』(T・フジタニ)がある。その時、無学であり、神仏習合して素朴で現世利益的な宗教心しか持ち合わせていなかった人々に、神聖な支配者を印象づけて、その人心を収攬するための様々な仕掛けがあった。例えば、天皇の行幸。明治の最初期、天皇は地方の各所に壮麗な場所を仕立てて、三種の神器を携えて行幸し続けた。外国製の絢爛たる馬車を何台も連ねて、金色に輝く鳳凰とその真ん中に燦然と輝く菊花の紋。その場所の御台の深紅のカーテンの向こうには天皇がいる。その模様は色鮮やかな錦絵に描かれて、またさらに人々に広まっていく。この時代の天皇崇拝のイデオロギーを広めていくための仕掛けは様々なものがあった。
そもそも西洋式の場所を仕立てて地方に行幸などというものすら、天皇や神道の歴史からは断絶している。だが、こうして日本の伝統が、ひとつねつ造され、そして、その天皇制が明治という国民国家のための重要な装置となっていくわけだ。
そうして、その天皇崇拝の根拠となるのが神道であるのだが、そもそも神道は日本列島の各所にあった漠然とした自然崇拝と祖先崇拝が元型で、だから教義もなければ、開祖もないし、宗祖も教義も救済すらない。神殿すらなかったから、今ある神道の祭司の痕跡は巨石や山といった自然物の中にしか残っていない。いわゆる神殿というようなものは、仏教が入ってきたから、その絢爛豪華な仏式の建築の影響を受けて創られたものである。教義のようなものは確かに平安朝にまとめられるが、これも仏教の影響が強く、そうして神と仏は仲良く同居して祀られることになったりする。日本で最多の神社は八幡神社だが、これも仏教の影響を受けた中国の神様である。それどころか、歴代天皇は仏教徒であり、明治になるまで天皇は仏寺に葬られていた。明治政府が維新後に最初に行ったことのひとつが廃仏毀釈である。こうして、これらのことはなかったこととされた。
明治になって、神道は江戸幕府に対する対抗原理として担ぎ出されることになったが、その教義にはあからさまに朱子学が顔を出している。後の明治政府や昭和の軍部によって創られた教育勅語のような一種の教義は、ほとんどそのまま朱子学である。教育勅語は天皇の名のもとに「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ」とあるが、日本書紀や古事記から日本史を少しでも知るものならば、歴代天皇家は親兄弟親族一同でいつも策謀を図り権力闘争し、時に裏切り、追放し、殺しあいをしてきたことはすぐにわかる。こういうのは枚挙にいとまがない。
伝統というのもが、いかにナショナリズムと関係があり、そして時にはねつ造してまで、それを作り出すかということは、江戸しぐさを例にして書いてみたことがある。国家そのものではなくとも、文化的にその影響下にあるものを統合する力学に押し流されて、文化すらもねつ造される時がある。特に時間軸を安易に持ち出し、あたかもそれが自明の「伝統」として語られるとき、それは注意が必要である。 
「日本の心」という「神話」(イデオロギー)を捏造したのは誰だったのか
前置きが長くなったが、本題の『創られた「日本の心」神話〜「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史〜 』について。先に同書で引用されている作家の小林信彦の疑問をあげておく。
「演歌は日本人の魂の叫びといった文章を読むたびに、ぼくは心の中で笑っていた。笑うと同時に、いったい、いつからこういった言葉が通用するようになったか、いや、いつ発生したのかと疑問に思っていた。」「昭和三十年前後に登場した三橋美智也は民謡調の歌謡曲、三波春夫は浪曲調歌謡曲であり、その時点では誰も演歌とは呼ばない。こう見てくると<演歌>そのものが見当たらない。1960年代のどこかで発生したとしか思えない」
そのとおり、本書でも「演歌(艶歌)」の「誕生」は1960年代後半と結論付けているのだが、その文化ナショナリズム的な「演歌」の成り立ちに至るさまが、こちらの想像を全く裏切る展開だったからこれがまた面白い。では、その「日本の心」という「神話」(イデオロギー)を捏造したのは誰だったのか。これが意外な結論となる。以下、箇条書きにて。
・「日本人のこころグッと染み入る名曲ばかりじゃないですか(略) 日本人は今原典に帰ろうとしているんじゃないですか」(みのもんたの『走れ歌謡曲 演歌スペシャルの推薦文』)
・「アメリカにはアメリカの歌、ジャズがあり、フランスにはフランスの国から生まれたシャンソンがあるように、日本にはニッポンの歌があるはずだ。それが艶歌だと思う」(北島三郎)
・・・・このように何の疑問もなく広く流通している「演歌」の概念
・「われわれ日本人」が失ってしまったがゆえに受け継ぐべき、また取り戻すべき対象としての日本人の心である「演歌」・・・このような言説のもとに、演歌は遥か昔から脈々と受け継がれる「日本の心」として称賛されている。
・だが本当にそうなのか
・例えば演歌の女王とされている美空ひばりは、そもそもは西洋音楽を模倣するキワモノ歌手として扱われていたし、ジャズやポップス風味の音楽をずっと歌ってきたのだが、途中から転換し現在に至っているのが本当のところ。これは多くの演歌歌手とされている大物に多かれ少なかれ共通する。
・だから、演歌の女王という括りで美空ひばりをまとめようとすると、ブギやジャズの歌い手だったり、コマーシャルな明るいポップスを歌っていた美空ひばりは押しやられてしまう。
・昭和前期に、はじめてレコードが流通するようになった。ここから出てきたヒット曲(・・・というか、そのヒットという概念すらもレコードともに出てきた)の多くは、当時のアメリカの「ジャズソング」の日本語版
・現在、演歌の巨匠とみなされている古賀政男のこの時代の一連の楽曲も「ラテン風」とか「南欧風」とみられていた。古賀はマンドリンクラブの出身で、クラッシックギターを弾いていたが、それも西洋芸術の流れであり、当然、その曲はモダンと評価されていた。
・その古賀とコンビを組んでヒットをいつくも飛ばしていた藤山一郎も慶応出身のモダンボーイで歌唱は西洋の声楽技術に基づいている。
・藤山一郎と並び称されることも多い東海林太郎も、藤山と同じく、日本調といわれる股旅ものの曲を西洋の声楽のスタイルで歌っていた。
・ただ、その中でも確かにこの時代のレコード歌謡は、後の「演歌」の特徴を備えている。つまり、七五調の詞形、股旅ものや恋愛ものといった主題、ヨナ抜き五音階(日本古来の旋律)、フルバンドによる演奏、作詞作曲がレコード会社の専属歌手制度をもとに決められていることなど
・またヨナ抜き音階が、日本古来の民族的な音階と言われることもある。確かに昭和30年代までにそれは主要なレコード歌謡の旋律となるが、そもそもはこの音階も近代意識のもとに和洋折衷方式で大正時代につくられた音階である。(これに過剰な文化ナショナリズムを見出す論調が最近多いのだが、これもかなり眉唾・・・)
・もともと戦前から戦後にかけてのレコード歌謡は、雑種雑多であり、様々な流行りものをすべて貪欲に呑みこんだものだったから、例えヨナ抜き音階のようなものがあったとしても、それが歴史の連続性がある音楽とは言いにくい。
・よくある説に「演歌」は、明治時代の自由民権運動の政治的な小唄である「演説歌」から来たというのがあるが、この時代の「演歌」と後のそれとは明らかに断絶している。これらの歌い手が堕落してギターの流しになった説もあるが・・・。
ちなみに、その演説歌とはこんなもの
・そのレコード歌謡が昭和30年代まで「日本調」としていたのは、芸者歌手がうたっていた三味線片手に歌ういわゆる「邦楽」のことで、あって、そこには暗い演歌のエッセンスはほとんどない。むしろ明るいものだった。歌唱法も全く違う。
・昭和30年代から、ムード歌謡とも言うべき『有楽町で逢いましょう』のような都会の生活を歌った流行歌があったが、これはアメリカのジャズボーカルの翻案であった。
・これに対して、今では演歌の大御所となっている船村徹は、芸者の日本調やジャズの翻案の都会調とも違う、いわば上京した青年を歌うような田舎調というような曲をつくりあげるが、これも当時は「演歌」とはされていなかった。
・都はるみの「こぶし」は、実は「ポップスの女王」として1960年代前半に君臨していた弘田三枝子の模倣から始まった。浪曲に由来するものではない。
では、「演歌」はどこからやってきたのか。
・60年代頃、街中の盛り場を渡り歩く流しの歌い手に対して艶歌師という言葉が使われていた。
・酔客のリクエストに応じて流しの艶歌師が唄う歌が「演歌」と呼ばれていた。これは歌のジャンルを指すのではない。
・一方で、その時代にグループサウンドやシンガーソングライターやフリーの作曲家や作詞家などが出てきた60年代、これまでのレコード歌謡は、その専属歌手制度なども含めて、古いものとしてみなされるようになった。
・そこで、それらのグループサウンドやシンガーソングライターやフリーの作曲家や作詞家などが出てきた時代に、昔からあったそれらのものをひっくるめて、ネガティブな意味でひとつの呼び名が与えられた。それが「演歌」といえる。
・ようするに呑み屋にやってくる流しが歌う時代遅れの「流行歌」を、艶歌師が歌うゆえにジャンルを問わずひっくるめて「演歌」と総称したわけである
・ところが、そこに積極的な意味を与えた人達がいる。それは、アウトローや場末を文化価値として積極的に称揚していた60年代以降の左派系の文化人である。
・彼らは、明るく健康的な生活を目指すとともに、革命路線を捨てた日本共産党と対立していたし、外来のポップミュージックは資本主義的なものであったので、両方を受け入れずに、場末文化にむしろ大衆の意識があると理念的に共鳴していった。
・左翼のエリート(日本共産党)が、克服することを目指した土着性や民族性や情念といったものを、むしろ民衆の文化として尊ぶイデオロギー的な傾向が強く、これが場末の歌に親近感を得た。
・1963年の寺山修司は、歌謡とは「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と定義した。さらに寺山の芸術のモチーフのひとつである、都会と田舎(北国)という対比もつかわれた。これが演歌の田舎志向や北方志向と近い。
・新左翼の論客のひとりである森秀人は、さらに歌謡に対する評論に、新左翼的マルクス主義の疎外論を重ね合わせたり、当時の流行だった性的な疎外論やフェミニズム的な性の解放論を持ち出している。
・そうすると、大衆芸術としての歌謡とは、アウトローであったり、水商売の女だったり、股旅ヤクザであったり、民衆の底辺の存在が担うものという理論が出てくる。そこに、場末の流しの姿と、そこで歌われた歌曲がポジティブに語られるようになる。
・1965年の竹中労の美空ひばり論 は、その意味で画期的であった。美空ひばりを「民族の伝統を守ってきた庶民大衆のこころを開かせる存在」と定義した。これは前述したとおり、もともとジャズやブギの歌い手であった美空ひばりの過去と断絶している。
・竹中にとって、上から見下ろしたような民衆観(日本共産党やソ連などの規制左翼への批判と重ねている)に対抗する存在が美空ひばりに代表される歌曲であったのである。
・「音楽は民族性を得ることによって、はじめて国際的になる」という竹中の理論は、民族性を得ることによって国際的になりうるという、新左翼的な価値観と同じものであった。この当時の新左翼は、ソ連や日本共産党と訣別して、愚直に「世界革命」を民衆と共に目指すという路線であった。
・革命と民族主義は、かつて相いれないものだったし、民族主義はむしろ共産主義の苦手とする分野だった。だが、新左翼は世界の民族主義運動との連帯を目指していた。パレスチナのアラブ民族主義との連帯が代表例。
・こうして、竹中による民族性と歌謡をつなげるトリックが完成する。
・抑圧された民族の芸術という定義は、そもそもこの時代にジャズに適用されていたものだ。だから、ジャズと演歌がここでつながる。「日本人の民族のこころである演歌を歌う美空ひばり」という伝説は、このような竹中の左翼的な問題意識によってはじめてつくりあげられたといえる。
・この理論を、世の中に大きく広めたのは、もともと音楽業界出身だった小説家の五木寛之。
・五木のデビュー作『さらばモスクワ愚連隊』に、『艶歌 』という作品がある。ここに、今の「演歌」のパブリックイメージがほとんどそろっている。そして、この理論的な枠組みは明らかに竹中労のもの。
・日本の流行歌など乞食節だと蔑んでいたインテリ青年が音楽業界に入り、その中で経験した挫折を通じて、その古い音楽業界とレコード歌謡の世界に、それこそ浪花節的な共鳴をしていく小説で、新しく流入してきた西洋的な価値観から疎外されたものが、古くからある貧乏くさいアウトロー、つまり演歌に共鳴していく。
・マーケティングによって新しい価値観を提示するものに対して、古くからある萎びれたシステムによって情念的につくられていく楽曲。それは昔からあったが、今では滅びようとしている。それがこの小説における「演歌」である。
・「知性」や「教養」ではなく、土着的で民衆的なもの・・・そういう演歌の定義がこの小説で行われる。もちろん、これは観念的なものであるのはこれまでまとめたとおり。
・社会から糾弾される流行歌=演歌について、次のように小説の登場人物が評する。
「押さえつけられ、差別され、踏みつけられている人間が、その重さを歯を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声みいたな感じです。大組織の組合にも属さない、宗教も持たない、仲間の連帯も見いだせない人間が、そんな、ばらばらで独りぼっちで生きている人間が、あの歌を必要としてるんだ。そりゃあ西洋音楽から見れば、妙なものでしょう。歌詞だって上品じゃない。だけど、あれには何かがあるんだ。ぼくはあの手の歌は嫌いです。嫌いだけど、あそこには何かがあるんだ」(歌における唸り声自体は昭和30年代にはじめて出てきたもので、別に日本的でもなんでもないことは、都はるみの証言を上述したとおり)
・暗さや感傷性に主眼をおいて、日本的な歌曲とした理解は、ここから出てきたのであって、これがいわば「演歌」の定義となった。
・挫折・阻害・地方。それにこれがこのままロマンチックかつ情念的に「演歌」に託された。そもそもは俗悪なものとみなされていた流行歌が日本的な「演歌」とされ、ここで積極的な意味を持つようになる。特に、重要なのは自分自身も音楽業界に足をおいていていた、大人気作家である五木寛之がこれをまとめあげたこと。
・演歌の中の主人公は、いわば下層プロレタリアートで、社会からも性からも疎外され孤独に陥ったものであり、楽曲はその悲しみである・・・これは、この「演歌」の観念をつくりあげた平岡や五木などがジャズに同じ理解をしていたことからもわかる。彼らにとって日本のジャズが「演歌」だったわけである。
・しかし、これが文化的なねつ造であることはこれまで演歌が西洋の音楽のごった煮からつくられたものだということからわかるとおり。 
藤圭子と「演歌」の誕生
この「疎外された孤独な人間の唸り」という言説は、暗くジメジメした情念を、性や地方性や場末の呑み屋に仮託して歌い上げる、典型的な演歌の観念連合をつくりあげた。そして、歴史を遡行して、いわば捏造された演歌像が出きあがった。
この竹中と政治的に親交を重ねていた作詞家の川内康範も演歌のイデオロギー形成に力を貸した。彼は政治的には右派の民族主義者でもあるが、南洋の日本兵遺骨収集で竹中と協力した後、民族性と歌謡を結びつける竹中の理念に共鳴し1967年に2人で『大日本演歌党』というイベントを行っている。以下、1971年の平凡パンチの川内のエッセイから。
「演歌は日本人の民族質にもっとも適応していると考える。でなければ、これだけ長い歳月、大衆に親しまれ、支持されるわけがないからである。」 「一般にポピュラーソングといわれる欧米流のリズムにのって調子よく唄うというわけにはいかない」 「演歌は日本のポピュラーである。ジャズ歌手あがりの者が艶歌をこなせないのは、すでにしてその市場を理解したり血肉に同化させえないからである」
この認識がいかにデタラメかということは、これまで述べたとおり。民権運動の演説歌から昭和のレコード歌謡、戦後に百花繚乱した様々な歌謡が、西洋音楽に強い影響を受けてきて、しかもそれはサラダボウルのように雑多なブリコラージュであること。演歌歌手でジャズ歌手あがりは多数いて、その中には川内自身が詞を提供した、松尾和子や青江三奈、森進一もいること。水原弘にいたってはロカビリー歌手であったことも、本書では指摘されている。
このイデオロギーは、演歌の曲そのものを規定するだけではなく、音楽業界の立ち位置までもを規定した。五木の『艶歌』を本書の筆者がここについて要約するところによると、すなわち、
1.演歌はレコード歌謡黎明期の昭和初期から連続するもので、それは衰退しつつある。
2.演歌は退廃的な歌であって、勇壮な軍国歌謡や明朗快活な『リンゴの唄』のようなものとは別の存在。
3.演歌は「やくざっぽい」人物によって、長年のカンによって制作され、西洋音楽の価値体系とは相いれない。
4.演歌はマーケティングや派手なプロモーションにたよらずに売れるべきもの
だが実際のところ、昭和初期から連続するのは演歌とは別の西洋音楽を雑多に取り入れてアマルガムとなった楽曲群であることはこれまで記したとおり。またそれらの歌曲が、純然たるレコード会社の貪欲なマーケティングで生み出てきたことも明らかであり、それらはレコード会社や芸能プロダクションの冷静な収支勘定によって作り出されたものである。
しかし、これらの演歌像は、その後の「演歌」の概念を観念的に規定し、その影響下で、その概念に沿ったマーケティングが行われるようになる。
例えば、1969年にデビューした藤圭子の例。
旅芸人の娘として生まれ、極貧の旅回りの中で育った中卒の女が、ネオンきらめく新宿の場末で、己の不幸と孤独な性をハスキーヴォイス歌う。女のアウトローの悲哀を歌う『新宿の女』を、藤は新宿のネオン街でマネージャーと2人で流しでプロモーションしてまわった。それは五木寛之の演歌の概念を規定した『艶歌』の登場人物そのものだった。藤圭子は「生きていることの悲しみを心の底にたたえた」「小柄で平凡な少女」であった。
五木は己の小説の登場人物のような、演歌の観念を体現するこの新人歌手を絶賛した。当時の人気作家で『艶歌』の作者である五木の絶賛は、話題を呼び藤圭子をスターダムに押し上げた。
ところが、後日、この藤とともに呑み屋の流しで宣伝していたというマネージャーは、藤圭子は五木寛之の『艶歌』をモデルにしてつくりあげたキャラクターと告白している。実際は、この演歌のイデオロギー的な理念に沿ってマーケティングされた存在が藤圭子だったわけである。
藤圭子のデビューの翌年の1970年、現代用語の基礎知識に『演歌』の項目が「新語」として記載された。このへんが小林信彦が「いつからこの言葉が発生したのか」という疑問には一応の回答となる。 
「演歌」というイデオロギーと「ルンペン・プロレタリアート」
ここから本書を敷衍して考えてみる。なぜこの時代「演歌」というイデオロギーが必要だったのか。
当時の左翼の動向は敗北に終わった60年安保闘争に続いて、70年安保闘争を巡る戦いとなっていた。街頭にはヘルメットとゲバ棒で武装した学生があふれ、藤圭子が歌った新宿は、火炎瓶と礫が飛び交った。しかし、それは大衆の支持を得られることなく、1969年の総選挙では自民党が勝ち、安保に反対した社会党が惨敗した。この頃から新左翼勢力は崩壊を始めた。
行き場を失った彼らの革命理論は、やがて世界の民族運動と結びつく。もともとの左翼運動はインターナショナリズムから、民族主義を強く否定する立場にあったが、ブルジョア民族主義と窮乏し、体制と戦う民族主義とは連帯するという立場だった。世界革命を目指すという名のもとに、新左翼が「国際根拠地論」を唱えてパレスチナのアラブ民族主義と結託したのはこの頃。
一方で新左翼の一派として、早くからマルクス主義の正統から距離を置いていたアナーキストも、この路線に近づく。
「ルンペン・プロレタリアート」という言葉がある。マルクスの造語である。浮浪者を意味する「ルンペン」という言葉はここから来たのだが、本来マルクスが使っていた意味あいとは少し違う。労働者階級の中でも自堕落で反社会的ともいえる職業につき、工場労働者のように組織されず、場末にたむろし、時にはいかがわしい商売についているような政治的意識が希薄な人々のことを指す。ルンペンとは「ポロ切れ」という意味のドイツ語。「ゴロツキ」というぐらいの意味らしい。マルクスは言う。「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げ込まれるが、その全生活状況から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである」
マルクスは彼らを通常の労働者と違う存在として考えた。というよりも、マルクスの階級闘争理論に彼らは当てはまらなかったのだ。そしてその人間たちが革命にとって如何に役に立たないとし、「クズ、ゴミ、残り物」と口を極めて罵っている。そして、1848年の二月革命のあと、ルイ=ナポレオンの帝政が始まったとき、時代の潮流に逆行するような反近代的な皇帝の誕生を、農民とルンペン・プロレタリアートに支えられたものと分析している。
ここで、このルンペン・プロレタリアートをマルクスがどのように素描していたか、見てみよう。
「いかがわしい生計手段をもつ、いかがしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険的なブルジョアジーの息子とと並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ(失業者)、すり、手品師、賭博師、ポン引き、売春宿経営者、荷物運搬人、日雇い労働者、手回しオルガン弾き、くず屋、刃物研ぎ師、鋳掛屋、乞食、要するにはっきりしない、混乱した、放り出された大衆、つまりフランス人がボエーム(ボヘミアン)と呼ぶ大衆がいた。」 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(カール・マルクス)
竹中労が、既成左翼を「上から見下ろしたような民衆観」と批判したのは、まさしくこのことであった。
かつて日本共産党の先鋭的な活動家だった竹中は、「階級なんて大雑把な共通項で人民をひっくくっちゃう論理」と、戦後民主主義の中の議会主義で健全路線に転じた党を見限り、新左翼運動に転じる。そこでは、マルクス主義を懸命に彼らなりに乗り越えようとしていた人々がいた。
マルクスのもうひとつの正統とされたトロッキーはかつて民族主義を批判した。ところがトロッキストから派生した新左翼はインターナショナリズムと民族主義をいともたやすく接続した。そして、これまでマルクス主義者からすれば退廃文化とされたものに、むしろ彼らは身を寄せた。
学生運動の活動家は、ボヘミアンの典型でルンペン・プロレタリアートそのものであるヤクザ映画に心を寄せ、高倉健の古き良き任侠道にロマンチックな古くて新しい反近代主義を見出した。
日本での民衆の離反と党派闘争の激化に行き場を失ったものたちは、敗北を認めることなく世界革命の名のもとに砂漠の国に「転進」していった。「武装蜂起」に行き詰ったものたちは「われわれは『あしたのジョー』である」と、コミックの主人公の名前を言い残して日本を離れた。
マルクスが役に立たないボエーム(ボヘミアン)としたルンペン・プロレタリアート。高倉健の『日本侠客伝』のヤクザも、山谷のドヤ街の孤児出身のボクサーの矢吹丈も、典型的なそれだ。
マルクスと最初は行動をともにし、その思想に強い影響を受けながらも、労働者階級による独裁を、人民の名を騙った共産主義による独裁に過ぎないと批判したパクーニンは、後の共産主義の限界を早くから示していたが、またルンペン・プロレタリアートとマルクスに侮蔑的にレッテルを貼られた人々の可能性を逆に評価し、むしろ革命の先導となるべき存在と考えた。彼にとって革命は、下から上にむけて行われるものであったから当然でもある。
バクーニンの影響を受けた竹中労の民衆観からすれば、社会主義革命は「水滸伝」のようなものであった。または、高倉健の映画の主人公のように、近代的なヤクザに対して、古くからの任侠を守る一匹狼が共闘して戦うものでもあった。そこでは党派や組織といった集団に属さない弱者の孤立無援の闘争が革命の本質であった。
竹中ならば、「ひとり酒場で呑む酒は、別れ涙の味がする」(『悲しい酒』 美空ひばり) と場末の呑み屋の客の女も孤立無援の闘争のひとつだったし、「お酒はぬるめの燗がいい 肴は炙った烏賊でいい」(『舟唄』 八代亜紀) と女を思い呑んだくれる港の漁師も、性的に疎外されたものとして連帯すべき同志に迎え入れるだろう。
新宿の「ネオン暮らしの蝶々」(『新宿の女』 藤圭子) はもちろん、演歌の定番である股旅ものの居場所を追われて放浪するヤクザたちや旅芸者、大阪のやぶれ長屋に住む字すら読むことができない無法者の将棋棋士(『王将』 村田英雄) たちをなんのためらいもなくルンペン・プロレタリアートの隊列に加えていくだろう。そのとき、マルクスが罵る酒場の手回しオルガン弾きを、地方都市の盛り場の流しのギター弾きに重ね合わせられている。
孤立無援の闘争をする弱者のための芸能というイデオロギーが「演歌」として創造されたのである。
「昭和30年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものだった「アウトロー」や「貧しさ」や「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年代以降の反体制的思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。」 『創られた「日本の心」神話 -演歌をめぐる戦後大衆音楽史』 
マルチチュードを先取りした「窮民革命論」
『窮民革命論』がその頃に竹中らによって唱えられ始めた。それは疎外された民衆や民族が、裕福になった労働者の代わりに革命を起こすというひとつの予言である。竹中と、その同士といえる平岡正明は『水滸伝―窮民革命のための序説』(1973)を上述し、疎外された者たちの連帯を訴え、トロッキストの太田竜は『辺境最深部に向かって退却せよ!』と、アイヌや沖縄の民族主義との連帯をアジテートした。
マルクスは本来は近代が頂点に達して、資本主義が世界を席巻し、その臨界点に極限に到達したときに、はじめて世界革命が可能になると考えた。ところが、その途中で共産主義は破たんした。そうして、近代的合理主義の向こうにあるべき革命を志向する左翼は、民族主義や反グローバリズム、環境運動や性的マイノリティ擁護といったものにむかった。
竹中らが唱えた『窮民革命論』は、後に「グローバル時代の新たな主権と資本主義の在り方」としてアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが提唱した「マルチチュード」の概念を先取りしているといえる。
労働者階級による革命というものはすでに時代遅れであるという認識のもとに、現在のグローバルな社会の中では、人種や民族であったり、性的であったり、個々人のライフスタイルなども含めて、疎外された人々の連帯こそが新しい民主主義を創りだすとネグリ=ハートは言う。その多種多様な人々の連帯を「マルチチュード」と呼ぶ。ここでは、マルクスがルンペン・プロレタリアートと呼んだ者たちは、むしろ革命の主役となる。
ここで演歌とは、コミュニケーションや家族制度、恋愛という対幻想から排除された人達や、うらぶれて酒場で一人酒を呑む人達の孤独、ヤクザや水商売の女といった最下層のルンペン・プロレタリアートのブルースであり、資本主義から逆行した時代遅れの価値の中で生きる、ネグル=ハートの定義を使うならばマルチチュードのための音楽ということになる。そこでは民族性はむしろ反近代的な価値として退けられるのでなく、多種多様な価値観としてむしろ必要不可欠なものだ。
マーケティングの世界ならば、これをグローバルとローカルを掛け合わせた「グローカル」という。本書では、竹中の『音楽は民族性を有することによって、はじめて国際性を持ち得る』という言葉と、その竹中が革命直後にキューバに訪問したとき、ひばりの歌を聴かせるといってレコードを持ち込み、それを、なかむらとうようがバカにされるからという理由でやめさせたというエピソードが残っている。これがまさに竹中のグローカリズムである。
このように既存左翼のエリート主義や近代主義に抗うためのひとつの旗印が演歌だったわけである。そのために「日本人の心」というような民族性がフューチャーされ、そして歴史が捏造された。そのフィクションに、むしろ音楽業界と聴き手は積極的に身をゆだねていく。これが60-80年代の演歌の隆盛とそれを支えた言説の正体ということである。
本書を通読して、真っ先に想起したのは、演歌と同じく被抑圧者の音楽とイデオロギー化されたジャズの巨人のひとり、マイルス・デイビスの次のようなエピソードだ。
ニューヨークのジュリアード音楽院に在籍していた若き日のマイルスは、白人教師が授業でブルースの歴史を解説して、「黒人がブルースを演奏する理由は、貧しくて綿花を積まなければならかったから。その悲しみがブルースの根源となった」といったのに、手をあげて次のように反論した。
「ボクは東セントルイスの出身で、父は歯科医なので金持ちですが、でもボクはブルースを演奏します。父は綿花なんか摘んだことがないし、ボクだって悲しみに目覚めてブルースをやっているわけじゃあありません。そんな簡単な問題じゃないはずです」 『マイルス・デイビス自叙伝』
そして、そんなジュリアードに嫌気がさしたマイルスは、酒とドラッグにまみれたニューヨークのジャズシーンに己の活路を見出していく。
さて、イデオロギーがつくりあげた「演歌」を、右派の日本会議のメンバーでもある船村徹は右派オピニオン誌の「正論」や産経新聞などが主催する「靖国チャリティーコンサート」で、「演歌巡礼」と称し、演歌こそが日本のこころという。
しかし、もう言うまでもないだろう。
1960年後半に新左翼のイデオロギーにより新しく発明されたもので、それ以前には美空ひばりはジャズを歌っていたし、ムード歌謡は米軍基地で日本人バンドがダンスのために演奏していた曲から始まっていたし、小林旭は無国籍ウエスタン風の「ギターを持った渡り鳥」だった。古賀正男は哀愁のスパニッシュギターの旋律でイントロを始めたし、松尾和子の『お座敷小唄』は当時「国産ラテンリズム」と呼ばれていた。
いわば架空の「日本のこころ」は、いわば演歌ナショナリズムといえるような奇妙な転倒をおこし、むしろ左派ではなく右派ナショナリズムに従属しているかのように視える。
演歌が日本ナショナリズムに親和性が高いかのようにみえるのは、その言説のなかにある「反近代主義」「反西洋主義」が、むしろ民族主義を媒介に共鳴するからだ。もちろん、これは民族主義者とも積極的に連帯を求めた竹中労にとっては、別段不思議なことではないだろう。反グローバリズムを唱えるところ、右派と左派の境界がほとんどなくなってしまうのは、世界的な現象だ。  
 
乃木将軍と音楽

 

前回述べたように、父は1937年(昭和2年)に、『新しき笑いと教訓』という本を出しています。「笑い話・教訓集」なんですが、これを読むと、コントのような話のほかに、父がどのような音楽環境にいたか、また、明治から大正にかけての日本における西洋音楽の受容ぶりがたいへんよく分かります。
さらには、「ああ、この岩井貞麿という人は、確かに僕の父なんだなあ」と思わされる部分もあります。今回は、この本から、いくつかご紹介しましょう。 
乃木将軍家に出入りしていた父
この本の中身は、いまでいうショート・ショートばかりですが、いくつかは、かなりの分量の項目もあります。
そのひとつが≪乃木将軍と音楽≫。
いま、これを読んでる若い方々は「乃木将軍」なんていっても、わかんないだろうねえ。
乃木希典[のぎ・まれすけ](1849/嘉永2〜1912/大正元)。明治時代を代表する軍人です。日清戦争(1894/明治27〜1895/明治28)、日露戦争(1904/明治37〜1905/明治38)で活躍した功労者。日露戦争では2人の息子が戦死し、「わが子を国に捧げた」といわれた。その後は学習院院長となり、特に昭和天皇の教育にあたられる。明治天皇が崩御すると、その大葬の夜、夫婦揃って自害し、あとを追った。
まあ、典型的な明治の男ですね。
で、父は、その乃木家と親交があったようなんです。
≪乃木将軍と音楽≫は、こう始まります。
旅順口の戦で名高き乃木将軍!
親しく接せざりし人は、その名を聞いただけでも怖い将軍と思い込み、気の弱い人は縮み上がってしまう。
だが、突貫と肉弾よりほか知らぬ人だと思いがちだが、これが大間違い。文武両道に秀でる武将の典型である。
私は音楽をやる。始めてから20有余年。我こそは世界一、日本一の大音楽家とは申さぬが、これでも音楽を知らざる人から見れば「先生様」だ。
旅順口で戦死した将軍の令息2人は私の親友。遊びに行っては、僕はヴァイオリンを弾いたり菓子を食べたりしゃべったり、ある時などは朝から行って晩飯までご馳走になり、風呂まで入って帰ってきたこともしばしばあった。
乃木将軍も始終、その部屋に顔を出されて私の拙劣なる音楽に耳を傾けてくださった。そして、「中国でも昔より<礼楽>と称し、音楽をもって修養の一科となしてある。おおいにまじめに研究せよ」と力づけてくださった。私もその言葉に感激して一生懸命「まじめの音楽」ということを標榜してこれをおさめた。私の今日あるのも、その賜物である。
そして、日露戦争で、乃木将軍率いる第3軍が旅順を陥落させ、奉天に司令部を置いたとき、連戦連勝ムードに兵士たちの士気がゆるみ始めた。すると、
将軍、おおいにこれを憂い、この惰気を一掃するのは音楽に限る、軍楽に限る、と思いつかれた。自ら志気を鼓舞せんがため、軍歌をつくられ、これを第3軍付属軍楽隊長に命じて作曲せしめて、朝に夕に集まりともに合唱せしめられ、その一方、軍楽隊に各宿営地を巡回せしめて奏楽させておおいに志気の涵養につとめられた。
こういった戦場における軍楽隊の効用が具体的に説明され、
将軍が凱旋後、よく私にこの話をされた。「軍隊に音楽の必要なことは戦地においてしみじみ、これを感じた。君もそのつもりで、一生懸命、頼む」といわれた。将軍がかく思われたくらいだから、よほど、その必要を認められたものと思われる。
とまあ、いかに乃木将軍が音楽に理解があったかが、綴られています。
そしてここからが父のいいたいことで、これからさらに戦争ともなれば、時代は「連合軍」となっているから、他国の軍人たちと接する機会が多くなるはずだ、というのです。そんなとき、
「日本の将校音楽(軍楽)を聴かせてください」「ダンスはいかがですか」と促されたとき、ガリガリ頭に青筋を立て、四角張ってサンマの干物のように堅くなって「私はダンスは知らんであります」「私は音楽なぞはわからんであります」とやるのが、これまで大部分であった。こんな風では、意思の疎通なぞ思いもよらぬ。これだから常に不利の位置に立たせられて馬鹿にされる、軽蔑される、日本の将校は野蛮だな、とあとで陰口を叩かれる。「日本の将校は戦が強いだけで、文学も音楽もわからない低級なものである、彼らはブルドッグに等しい」と。こんな調子では、甘い汁はいつも外国軍に吸われてしまいはいたさぬか。
なかなか先見の明があったんですね。たまたま音楽を例にしていますが、これ、先日の洞爺湖サミットにおけるどこかの国の首相みたいじゃないですか。
僕はぜひ、日本の将校連中に音楽を奨める。必ずしも自分自身でヴァイオリンを弾いたり、ピアノを奏したりすることは第二の問題として、聴くだけの力を養ってもらいたい。諸君が西洋料理を食べて、これはうまいとかまずいとかいう味覚を有しているがごとく、音楽を聴く力、すなわち「聴覚」をもおおいに修養することが必要だ。
音楽をやったり聴いたりしたとて、決して恥にはならぬ。柔弱にもならぬ。もってのほかだ。
音楽を聴いて、あの曲は○○行進曲であるとか、ダンスに用いる曲か、ワルツか、くらいはわからなくては、文明の今日、わが国の将校としてはその資格に乏しい。軍人の口癖にいう「攻撃精神」は、単に講話や訓示などではだめである、不足である。
僕をしていわしむれば、兵卒に「音楽」、すなわち「軍楽」を聴かしむるに限る。すなわち「行進曲」をおおいに聴かすのである。
ここから、「行進曲」の効用が綴られます。それがいちばん簡単な軍人教育である、と。
なのに、
簡単にしてかつ実行しやすきことを尊ぶ軍隊において、なぜ、音楽を利用しないのであるかと、僕は平素より不思議に、かつ遺憾に思っている。
軍隊には「軍楽隊」という立派な一団体があるではないか。
なのに、それを兵卒教育に利用する道を知らぬ。知らぬがゆえに不用視される。軍楽隊は、ただ奉迎奉送、あるいは年に一、二度の観兵式にのみ用いるものと思っている。邪魔者扱いにされるのも無理はない。
不用視したり邪魔者扱いにするのなら、軍縮のこの時期だ、きれいさっぱりと全廃したほうがよい。
僕は、時勢に順応し、全国の各師団に一隊くらいの軍楽隊が設けられているものと思ったら、なんと、ドシドシ減らして、いまでは東京にたった一つ、大日本帝国の軍楽隊は哀れにその痕跡をとどめているだけだという。
あるところで外国人に「あの軍楽隊は、どこの連隊の付属か」と聞かれて、僕は実に返答に窮した。まさか日本にたったあれだけだとは、大和民族たる僕の口からは言えなかった。実に哀れ無情を感じた。外国には連隊ごとにあるのだから話にならぬ。
日本の軍楽隊は、明治の初め、現陸軍の創設当時よりある。明治4年ころにおいて、すでに軍隊に軍楽隊の必要を認めて、それを編成内に加えた西郷隆盛ドンたちのほうが、大正の今日の時勢に逆行しドシドシ打ち潰しにかかっている人たちよりも、実にえらいもんじゃ。諸君もそう思わないか!? 
芸者軍楽隊?
どうもこのころ(大正時代)は、陸軍の中央に軍楽隊があるだけだったみたいですね。
時代が時代ですから、こういった「提案」は、すべて軍隊や戦争がらみの話になっていますが、要するに父がいいたかったことは、もっと音楽を生活の中に組み入れよ、ということだったのでしょう。息子の僕がいうのもナンですが、けっこう、いいことをいっています。
ところが、ここから先が、なんというか、まさに「岩井貞麿」ならではというか、「ああ、やっぱり僕の父親だなあ」といいたくなる部分なんです。
今日のごとく、わずかに痕跡をとどめる程度に軍楽隊の一小部隊を残しておくくらいなら、軍縮の今日、いっそ全廃したほうが国費の出費もいくぶん楽になる。もし観兵式などに音楽が入用とあらば、すべからく芸者の動員を行い、文金高島田、左褄をとって整列せしむる。
「分列、前へ!」
の号令とともに、三味線、太鼓に、笛、鼓で「コリャコリャ、ドンドン、チン、ツン、シャン」とやる。足は揃う、兵隊は喜ぶ、士官も喜ぶ。
「頭[かしら]、右!」
おっとどっこいと、頭を右に向けて芸者隊に敬意を表する将校も出てくるだろう。
今後、また戦争が始まれば、国民軍も出れば、女軍も出征の覚悟が必要だ。芸者の動員のみならず、女軍が出れば女医も出る。産婆隊も編成されて分娩器具を馬に積んで「前へ!」。
滑稽だ、空想だ、なぞと思ってはいかん。男も女も国をあげてつとめる覚悟が必要だぞ。
さっきまでまじめに、戦争における音楽の効用や軍楽隊の必要性を論じていたのに、急にこれでしょう。
でもね、僕が後年、特にポップス・アレンジで使う手法に、どこか似てるんですよ。ある時点までカッチリ進んでいたのが、途中からガラリと姿を変えるスタイル。やはり「血」なんでしょうか。 
女子学習院、音楽教育のルーツ
ただし、この≪乃木将軍と音楽≫の章は、この手のお笑いでは、終わっていません。
最後に、乃木将軍がいかに音楽に理解があったか、具体的なエピソードで締めています。
現役を引退し、学習院の院長になった乃木将軍のもとに、あるとき、女子部の生徒数名が「自習用のピアノを備えてほしい」と懇願にきたそうです。
で、タバコを吸いながら話を聞いていた乃木将軍、その日の昼食時、姿が見えなくなった。いったい、どこに行ったのかと思いきや、
将軍の乗馬姿が銀座の楽器屋の店頭に現れた。店員は将軍のご来店とあって、頭が地べたにつくほどお辞儀をした。
院長は馬上より三軍を叱咤する大声とはうって変わって優しい声で、
「ピアノを2台、すぐ学校に届けてくれよ」
と、生徒のためにピアノを注文せられ、再び馬首をめぐらして帰っていかれた。
翌日、荷車に積んだ新しきピアノ2台は、エッサカホイの掛け声勇ましく運ばれ、自習室に備え付けられた。
生徒は飛び上がって喜んだ。自習室からは妙なるピアノの音がもれてくる。院長もこれを喜んで聴いておられた。これが基礎となって、女子学習院で、今日、秩序的にピアノを教えるようになったのである。
つまり女子学習院でピアノ教育が行われるようになったのは、乃木将軍のおかげだというわけです。
そしてさらにラストで、こんな話が紹介されて、≪乃木将軍と音楽≫は、終わります。
××子爵に会ったとき、
「岩井くん、うちの娘もピアノを習いたいといっているが、いったい、音楽なんてものは嫁に行っても必要かね」
と聞く。
なんという愚問だろう。いまどきの紳士、○○大学卒業生、枢要な地位、光栄なる職にいる人が「音楽が嫁に行っても必要か否か」とは。
僕は「回答の限りにあらず」と答えてやりたかったが、
「音楽は女子学習院でも教えておりますよ。女子学習院は皇后陛下の思し召しによって建った学校です。その学校で教えているからには、皇后陛下が音楽を必要と思し召されたからでしょう。嫁に行っても必要であるや否やは、私にはわからない。皇后さまにうかがってごらんなさい」
××子爵、ギャフンとまいった。 
 
演歌と日本

 

私たちの生活の中で、演歌がどれだけの人に聴かれているのだろうか。テレビのゴールデンタイムといわれる時間帯での音楽番組や、ラジオでは最新曲が中心にかけられているが、その中に演歌が含まれることはほとんどないと言っていいだろう。
実際、演歌の人気はこの数年の間どんどん下がっているという。とくに私と同世代の人たちには馴染みがなく、実際のところよく知らないという人がほとんどであると考える。日本にとって演歌は、フランスでいう「シャンソン」であり、イタリアでは「カンツォーネ」、アメリカでは黒人が「ジャズ」で感性を表現しているのと同じ存在であると言ってもいいのではないのだろうか。
そのため、演歌の中には日本の伝統、文化、歴史が多くみられるはずである。多くの歌手が存在し、さらに多くの歌が溢れている現在、「日本の伝統的な歌謡」と言われる歌は確実に廃れてきているのだ。J―POPと呼ばれる曲は日々進化し、よりレベルの高いものとなっている中、演歌も日本の変化と共に少しずつ形を変えてきた。私は今回、演歌が語りかける何かを捕らえ、日本の文化を広く学ぶことができるのではないだろうか、このことを中心に考えながらレポートを進めていきたい。 
一、演歌の位置付け
演歌を聴くと、やはりその基礎となるものは民謡や浪曲が地方から発達し、人々の生活の中から生まれてくる喜びや怒り、悲しみなどの感情が多く含まれ、グッと抑え込んだ末に解放するようなものが多いようだ。
そもそも日本の音楽の特徴は、歌と踊り、さらに物語がくっつき「歌う」というより「語る」と言ったほうがピンとくるだろう。そのため音楽と舞踊、演劇を合わせた総合芸術で能や狂言、浄瑠璃などストーリーがあるものが挙げられ、これらを日本伝統音楽とし長い歴史の中で伝承されてきた。それでは演歌はどうなのであろうか。
先ほども挙げたように演歌も「日本の伝統」と言われる音楽で、さらには「日本の心」とも言われている。他のJ―POPにはなく、演歌にあるもの。それはやはり独特な特徴にあるだろう。演歌にも日本伝統音楽を感じさせる強い感情を感じる。言葉をメロディーにし、メロディーを言葉にする力があり、聴いているものに訴え、語りかけてくる。その訴えは例えば高い声で伸ばす部分であったり、逆に低い声で唸るような歌い方をすることで、単なる音ではなく表面には表れることのない感情が詰まっている。
また、歌詞はJ−POPのような直接語りかけるようなものではなく、その歌詞の裏側を探ることで見え、伝わるのだ。そういった意味で演歌は地方などでのキャンペーンが行なわれ、歌詞カードを配ることで聴き手に堪能してもらおうとしているのだが時代のニーズについて行けず、演歌は取り残されつつあるのだ。 
二、演歌と歌謡曲
演歌の位置付けとして「歌謡曲」という分類がある。現在ではこの「歌謡曲」という言葉は廃れ、CDショップなどでは演歌として分類されている。また他の曲は「歌謡曲」とは言わず、J−POPと分類される。
「歌謡曲」の意味を調べると、現代日本の日本語大衆歌曲=流行歌・はやり歌。昭和初期に現在のNHKがまだ、流行するかどうかわからない歌まで含めて流行歌と呼ぶのは適切でないとし、放送したことによる。とあるのだが、以前の私の感覚からすると演歌はこの中に含まれていなかった。
「歌謡曲」として売り出された時代、私は幼く音楽にはまだ関心がなかった。そのため、現在放送されるテレビ番組名自体に「歌謡曲」とついたもので、例えば歌手の服装や歌い方、映像が今と比べて古い感じに見えるもの、バックにフルバンドを付けて歌っているものなどテレビの画面から映し出された映像と音だけを頼りに「歌謡曲」を1つのジャンルとして理解していたのだ。
それでは「歌謡曲」の演歌と、そうでないもの(J−POP)とはどのように違うのだろうか。ここで重要となるのは日本語と英語のもつ特徴とその違いである。日本語は1つの言葉の意味がハッキリし、似たような意味合いのものでも異なる言葉を用いることで微妙な感情の違いを表現する。また、同じ言葉、つまり漢字1文字でもそのままの読み方ではなく別の読み方に変えることが演歌の中には表れ、言語的なイメージの大きさが変わるのだ。例えば英語の「YOU」は、日本語で簡単に訳せば「あなた」である。たとえ詞の全体を考えて「あなた」ではなく「お前」が合っていたとしても「YOU」の形は変わらないのだ。そういった点で演歌は日本語を最大限に利用し、表現されている。「歌謡曲」と呼ばれていた曲は外来語が歌詞に含まれ、それに合ったメロディー重視の曲が作られるようになってから徐々にそこから離れていき、「歌謡曲」の本来の意味から抜け出しJ−POPとなった。そのため過去の「歌謡曲」と言えるものと、演歌とに分けられ、主に演歌を指すようになったのだ。 
三、演(説)歌と演歌(艶歌)
演歌の日本大衆音楽の一種としての始まりは、1886年(明治16)頃、自由民主思想を普及させる目的で、上辺だけの西洋化を風刺し、弾圧された自由民権運動の演説の変わりに運動家たちが芝居や歌で広め、さらに路上でも演歌壮士(後に演歌士)が民衆の声を怒鳴り声に近い声で唄ったことによる。後に自由民権運動の後退と共に題材を広く日常生活に求めるようになっていったのだが当時の演歌の歌詞を見てみると大きく、次の3つに分けられる。
1 政治、権力に対する批判―『ダイナマイト節』(1883年 明治16)
2 外国崇拝に対する風刺―『オッペケペー』(1890年 明治23)
3 愛国心の高揚、覚醒
『ダイナマイト節』作詞/曲演歌壮士団
民権論者の涙の雨で みがき上げたる大和胆
コクリミンプク ゾウシンシテ ミンリョク
キュウヨウセ もしも成らなきゃ ダイナマイトドン (国利民福増進して民力休養せ)
『オッペケペー』作詞川上音二郎 曲不詳
かたい上下角とれて マンテルズボンに人力車 粋な束髪ボンネット 貴女に紳士のいでたちで 上辺の飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー
当時演歌は現在言われているものとは大きく異なり演説歌として認知され、この「演」という字は、広める・広く及ぼすという意味合いが強かった。それではいつから、現在認知されている曲が演歌となったのだろうか。
大正時代になると、愛だの恋だのと、男女を唄う曲が多くなり、このあたりから現在の演歌(艶歌)にかなり近いものが世に流行した。また外国の民謡が日本に多く取り入れられ、演歌士はこれを替歌で貧富の差を歌詞にし、囃子詞を入れることで、まじめな日本人がナンセンスな歌を歌うということが流行った。この頃からようやく、歌謡曲つまり流行歌の中に演歌とその他の曲が見え隠れし始めるが、やはりまだ演歌(艶歌)として認知されてはいない。
1931年(昭和6)満州事変からは軍国主義となり、軍歌や軍国歌謡一色で大人から子どもまで「お国のために死ね」という意味の歌を唄い戦争の準備をさせた。しかし戦後、とくに1950年代以降は歌謡曲が急成長し、黄金時代と呼ばれるものとなった。ロカビリーからGS、フォークなど洋楽が氾濫し、ひたすら耳に快感を与えることを目的とした今までとは別の音楽が若者に受け入れられた。
そんな中、歌詞の内容が歌い方に反映し、「演劇的世界が表現される曲」演じる歌が現れた。これらは、日本伝統音楽を思わせるもの、そして演説歌の訴えかけるパワーをもっていたため、他のものと区別し、伝統的なものだとするため「演歌」と名付けられたのである。 
四、演歌のルーツを探る
演歌を知るうえで理解しておきたいのが、そのルーツである。ここまで演歌は「日本の伝統的な歌謡曲」とし、進めてきたが比較的多くの人が「ルーツは日本ではないのではないか」と理解しているかもしれない。ここ最近テレビでもそのように説明され、驚いた人も多いだろう。ここでは本当のルーツとなるものを探してみたいと考える。
1 韓国からの刺激
韓国の音楽に演歌と良く似ているものがあり、これを聴いた日本人なら日本の演歌との共通性を感じただろう。お隣の国韓国にはパンソリと呼ばれる伝統的な語り物がある。簡単に説明すると、広大(クワンデ)と呼ばれる職業的芸能人の語り手が鼓手の太鼓に合わせて物語を語る。近年では洗練・発展していく中で、諧謔や風刺・エロティシズムといった庶民的要素と官僚特権階級の教訓的要素の二重的性格を持つようになった。
パンソリを唄えるようになるには人生の全てをかけ、喉がつぶれるほどの修行を必要とする。演歌との違いを指摘するとしたら、その感情表現にあり、感情を抑えて唄うのに対し、パンソリは侘びや寂び、人生の苦悩などを思い切りぶつける芸術なのである。パンソリと演歌との違いが国民の精神的特色の表現方法だけであるならば、演歌のルーツは韓国にあると言っていいだろう。
また韓国語に恨(はん)という言葉があり、民族を映す観念で、初めは「うらみ」という意味が強かったが、喜怒哀楽の底に潜む「憂愁」へと変わって行った。本来朝鮮民族のものである恨という観念が日本民族に抵抗なく、受け継がれているともいえるのだ。
2 宗教による刺激
演歌の特徴である歌唱法に「こぶし」がある。これは、ビブラートとは異なり、ただ音を響かせるのではなく心の襞を表現する微妙な節回しで演歌には欠かすことの出来ないものとなっている。この「こぶし」にもルーツがある。
仏教行事などで使われる声明は仏教音楽の中の声楽に属し、お経に旋律をつけた仏教音楽である。今から2400年ほど前インドには声明の原型があり、中国に伝わった声明は進んだ文化の中で充実してゆき、西暦552年仏教伝来とともに日本にも伝来した。この音楽や音楽理論は、日本の風土の中で謡曲や長唄・浄瑠璃などの日本音階の基礎となり演歌の音階やこぶしとして発展したのだ。
3 西洋からの刺激
日本の庶民が西洋音楽と接点をもったのは1881年(明治14)「小学唱歌」が刊行された頃で、主に外国の民謡などに日本語詞をつけたものであった。この頃から外国風な曲作りを始め、その後は賛美歌やダンスミュージックに関心がもたれるようになり、日本人は洋楽を近代感覚に合わせ、自然に日本人訛りで受け入れた。この時使われていた音階が四七(ヨナ)抜き音階であった。これはドレミソラドの5音音階で当時は階名を数字、つまり1ヒ2フ3ミで呼びファとシ、4ヨと7ナを抜いた音階という意味で生まれた言葉である。
当時日本はヨーロッパ音楽を全面的に取り入れ、スコットランドやアイルランドなどの民謡は特にこの四七抜きの要素が強く、日本人に理解されやすいものとし、教育音楽に取り入れられた。その後、短音階もヨとナを抜いた形となり、ヨーロッパの短音階の終止法が影響を与えて出来た音階となった。1921年(大正10)の『船頭小唄』から完全な四七抜き音階を用い、日本伝統音楽である都節に最も近いため日本人の昔ながらの好みに合い哀愁や三味線調を強く感じさせたのだ。
このように演歌は日本でのみ作られた音楽ではないということはハッキリと言える。しかし外国からの刺激を多く受け、日本文化と接触したことにより演歌は生まれのである。そこには日本人ならではの吸収と消化があったからこそ完成し、日本の文化と歴史が上手く絡みついたオリジナルの音楽といっていいのではないだろうか。 
五、日本語のリズム
日本の歌には7音節や5音節で1フレーズとして作詞作曲されたものが多い。これは童歌や学校唱歌などでよく見られるのだがこの7と5という数字で思い浮かぶのが5・7・5や5・7・5・7・7などで形作られる俳句や短歌である。この形式は七五調と言われ、7・5の組み合わせが繰り返されているのだが演歌もこの形式にこだわっている。その例として『船頭小唄』の歌詞を見てみる
『船頭小唄』作詞野口雨情 作曲中山晋平
俺は河原の 枯れすすき 同じ御前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき
このように、この歌に限らず童歌同様、演歌も短歌や俳句などと同じ七五調となっているのがわかるのだが、ここで理解しておきたい点は、平仮名で考えての数だということである。ローマ字は母音、子音が別々になっているのに対し、日本語の仮名は1音節を1字で表されていて演歌も音数という日本語独特の性質を基礎とし成り立ち、この音数により味わいや心地よさが生まれるのだ。また、七五調に触れると日本人はごく自然に4拍子を意識するようになる。そのため演歌では4拍子のリズムが基本とされている。
さらに、演歌には同じ長さの音符が連なることがよくある。これは日本語にあまり強弱リズムがないことに関係する。そのため演歌ではフレーズの出だしが等拍のリズムになることが多く、フレーズの最後では規則性を弱めるためにリズムをずらしたりする。演歌は日本語の特性により、独特のリズムを持ち日本人の耳には入り易い音楽と言えるだろう。
音楽は時代と共にその形を変化させ、人々に愛され続けて行く。これはどのジャンルにも言えることなのだが、その背景にはそれぞれが持つ伝統的な音楽、民族音楽があってこそ成り立っている。
現在、日本では歌詞を主体とした曲よりも、メロディーやリズムを第一に考えメディアとレコード会社によって動かされている。しかし、これらの音楽も多くはないにしろ日本人の耳に馴染んだ音や親しみのある歌詞のリズムなどは知らず知らずのうちに盛り込まれているのだ。実際、日本の音楽界では音楽家たちが各地の民族音楽と共に日本の伝統音楽や民謡に現代的な要素などを加えたアレンジが多く行なわれている。そして私たちも心地よくこれらの音楽を受け止めている。
演歌もそんな中の一つなのである。若い人たちにはただ、古臭いものに聞こえてしまうかもしれないが、演歌は日本そのものを映し出した音楽だと私は考えている。現在認知されている演歌としての成立は、それほど古いものではないのだが日本人の心の底にある全てが演歌には含まれ、そこには時代背景や歴史、宗教、感情、価値観などが見えてくるのだ。演歌は日本伝統音楽と形は異なるが、その根っことなる部分は同じで、これまでの日本を見てきているのだと感じる。 
 
流行歌曲について / 萩原朔太郎

 

現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答へるだらう。現代の日本は、実に「詩」を失つてゐる時代である。そして此所に詩といふのは、魂の渇きに水をあたへ、生活の枯燥を救つてくれる文学芸術を言ふのである。然るに今の日本には、さうした芸術といふものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレツタンチズムになつて居るし、政府の官営してゐる学校音楽といふものも、同じやうに民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現してゐる芸術は、蓄音機のレコード等によつて唄はれてる、町の流行唄以外にないのである。
僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る。そして酒に酔つた時は、いつも大衆と一所にそれを合唱したくなるのである。音楽といふものは、本来皆その精神に「合唱性」を持つてるものだ。なぜなら音楽は詩と同じく、普遍に通ずるカメラードへの呼びかけであるからである。町の音楽をきいて、僕がそれを大衆と一所に唄ひたくなるといふのは、つまりその音楽の中に、僕等の時代に生きてるところの、社会人一般の情操を代表してゐるものがあるからである。この点から言へば、僕等のインテリ階級者と一般社会大衆人との間に、何の生活的劃線があるわけではない。一般社会人の悲しみは、常にそれ自ら僕等の心に反映してゐる悲しみなのだ。しかも僕等のインテリ文学は、この現実の社会感情から遊離して居り、却つて無智の大衆芸術である町の小唄が、僕等の求めてる真のリリツクを正直によく歌つてくれるのである。僕等の時代の文学者が、文壇の詩に退屈して、町の小唄音楽に却つて心の渇きを充たして居るといふのは、現代日本文化の畸型的な発育を反証するところの、一つのイロニカルな現像にちがひない。
町の流行唄を聞いてゐると、時代の変遷する推移が実によく解るのである。人心が少しでも明るくなり、景気が活気づいて来た時には、音楽の調子がすぐ明朗になつてくるし、その反対の場合には、音楽がまたすぐ憂鬱になつてくる。町の流行歌曲ほど、感度の鋭敏な時代のテレビジヨンはないのである。
そこでこの十年来、僕はこのテレビジヨンの感度機を廻しながら、目に見えない社会人心の変動を触覚して来た。そして一つの結論を得た。それはこの十年以来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。然るにその後、勝太郎の「ハア小唄」になつてくると、もはや「酒は涙か」のロマネスクや青年性は失はれて、年増女の淫猥な情痴感や感傷性やが、大衆の卑俗趣味に迎合するやうになつて来た。「酒は涙か」から「ハア小唄」への流行的推移は、すくなくとも「恋愛的感傷」から「情痴的感傷」への文化的低落と、その卑俗的散文化を語つて居た。
この勝太郎節と同時に、並行して流行したものは所謂「股旅小唄」であつた。この股旅小唄の主旋律は、概して皆尺八的、浪花節的哀傷を帯びてるもので、日本人の民族的リリシズムとも言ふべき、旅への放浪情操をよく表現して居た。しかしこれもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。
所でまた最近の流行歌曲は、例の「あなたと呼べば」や「忘れちや厭よ」である。この二つの歌曲は、その作曲の新味と歌詞の取り扱ひ方とに於て、日本の流行小唄に一の新しいエポツクを劃したものと言はれて居る。だかこれを聴く毎に、僕は日本文化の悲しい末路といふことを痛感する。此所に歌はれてる歌曲は、卑猥で陰惨なエロチシズム以外に何物もない。勝太郎の「ハア小唄」には、年増女的淫猥の情痴があつたが、しかしそこにはまだ純情のリリシズムと感傷性とが流れて居た。然るに「あなたと呼べば何だいと答へる」や「忘れちや厭よ」の歌謡には、そのメロヂイにもその歌詞にも、全然リリシズムといふものが無いのである。しかもまたそれで居て、ナンセンス音楽に特有するユーモラスの明朗性もない。これは非常に憂鬱で陰惨な、何か梅雨時のやうにジメジメした感じの唄である。大体から言つて、流行歌曲の種属は二つに別れる。即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然るに此等の唄には、ナンセンスとしての明朗性もなく、センチメンタルとしての抒情性もない。そして単に、卑猥な擽り的エロチシズムがあるのみである。
「あなたと呼べば」の歌詞は、現代サラリイマンの無気力、無希望な人生願望を表象してゐる。彼等の人生に於ける唯一の理想は、重役の娘と結婚して、郊外の文化住宅に住み、何も他に為すことがなく、新婚の妻と朝から晩までイチヤついて居たいのである。若い妻の機嫌を取り、女房の尻に敷かれ、猥褻な性的遊戯をして日を暮す以外に、人生に向つて意欲する何の理想もなく野心もなく、無為劣等な動物的人生をすごすことが、現代大衆やサラリイマンの理想とすれば、これほど陰鬱な梅雨時の社会はない。そしてこの現実の社会的陰鬱性を、此等の流行唄がよく反映してゐるのである。特にまた「忘れちやいやよ」に至つては、最近それが発売禁止になつたほど、一層もつと極端に、この時代的陰鬱の梅毒的エロチシズムを表現して居る。
かうした最近の流行唄について、特に著るしい特色として感ずることは、歌詞の取扱ひ方に対する、作曲の方法が著るしい変つて来てゐることである。昔の流行歌曲は、歌詞を軽んじて音楽を重視して居た。中には旋律ばかりが耳に入つて、歌詞は何を歌つてゐるのか、まるで意味の解らないやうな者さへあつた。然るに最近の「忘れちや厭よ」や「あなたと呼べば」等は歌詞に強いアクセントをつけ、その言葉の方の面白味で、専ら聴者を興がらす様に工夫されてる。例へば「あなた」「何だい」という問答の対話。「忘れちやイヤーヨ」といふ、イヤーに於ける強いアクセント等、皆歌詞を主眼にして、音楽の旋律をこれに附加して居るのである。
かうした作曲は、流行小唄としてたしかに新しい創造であり、エポツクメーキングのものかも知れないのである。しかし僕の考へでは、逆にこれが音楽精神の衰退を示してゐると思ふ。なぜなら音楽が歌詞を本位とすればするほど、音楽としての散文化(リリシズムの喪失)を意味するからである。つまり言へば聴者は、それを旋律の美しさに於て聴かないで、歌詞の面白さに於て聴き、真の音楽的陶酔とはちがふところの、別の散文化の興味で聴くからである。現に「あなたと呼べば」の如き唄が流行するのは、大衆が既にその心のリリシズムを喪失して、音楽でさへも、散文的な興味で聴かうとするところの、現代社会の時代的傾向を実証してゐる。そして流行歌曲の作家が、機敏にこの大衆の向ふ所を捉へたのである。それは流行唄としての新しいエポツクメーキングであるか知れない。しかし本質的に観察して、音楽精神の時代的没落を語るものであり、併せて現代日本文化の、救ひがたき卑俗的低落化を実証するものである。かうした歌詞本位的流行歌曲の進む所は、結局遂に「アメリカ式掛合万才」の全盛時代になるであらう。即ちジヤツク・ウオーキイ等によつて映画で紹介されてゐるやうな、歌詞を本位として簡単な音楽を伴奏的につけ、専ら歌詞の滑稽味やエロチシズムやで、大衆を興がらすやうに出来てる「音楽入西洋万才」が、近い未来に於て日本に現れることを予感させる。「あなたと呼べば」を悦ぶ大衆は、音楽よりも歌詞を悦ぶ大衆であり、それの徹底する所は、アメリカ式万才音楽を要求するにちがひないのだ。そして流行歌曲も、此所に至れば音楽としての自滅である。
町の音楽を聴きながら、僕は絶えず自分自身に怒つて居る。なぜなら僕自身が、さうした音楽に魅力を感じ、大衆と共にそれを唄ふことによつて、日々に低落する現実社会の堕落の中へ、自ら環境的に引き込まれて行くことを感ずるからだ。僕は耳をふさいで町を通り、一切の流行唄を聴くまいとする。しかも僕の渇いた心は、渇者が水を求めるやうに、自然にそれの方へ引きつけられる。なぜならそれらの音楽以外に、僕等の現実の社会的生活感情を表現し、魂の渇きを充たしてくれる芸術がないからだ。僕は珈琲店の椅子で酒を飲み、大衆と共に「あなたと呼べば」を唄つた後で、自ら自分の髪の毛をむしりながら、自分に向つて「この大馬鹿野郎奴」と叫ぶのである。僕等は時代のトリコである。何物からも脱れられない。一切は絶望的に決定されてる。今日の社会に於ては、私が「私自身」を拒絶する外、詩人としての生きる道が無いのである。 
軍歌その他の音楽について

 

時局と詩歌人
今度の事変に際して、僕等の詩人が一見極めて冷静であり、時局に関する憂国詩や愛国詩の作品が無いのに反し、歌壇の連中が筆をそろへて時局を歌ひ、さかんに戦争や出征の歌を作つてるのは、まことに興味のある対照である。或る人々はこの現象を帰納して、歌人の至誠な愛国心に帰してるけれども、自分は必しもさう思はない。もつとも日本の和歌といふものは、昔から皇室を中心として栄えたもので、伝統的に国粋主義の精神を持つものだから、西洋輸入の自由詩や新体詩のエスプリとは、文学の本質上で多少異るものがあるだらうし、実際また歌人の仲間に国粋主義者が多いことも事実である。しかし今の歌人等が作る時局の歌が、真の憂国至誠の熱情から生れたものとは、いかにしても考へられない。端的に言ふと、彼等は歌を一つの手藝として、単なる職業的レトリックの手藝として、常に殆んど何の詩的情感なしに作つて居るのだ。彼等の生活は、その身辺のあらゆる周囲に、絶えず作歌の題材を探さうとして、いつも何か事あれかしと、蚤取り眼できよろきよろしてゐることだけである。そこで例へば、子供が病気したと言つては歌を作り、妻が里帰りしたと言つては歌を作り、障子を張り代へたと言つては、歌を作る。毎朝の新聞紙とラヂオのニュースは、彼等にとつて映くべからざる歌の資料である。何所そこに大火事があつたとか、地震があつたとか、電車が脱線したとか、人殺しがあつたとか、某工場でストライキが起つたとかいふ類の社会事変は、悉く皆彼等の歌の逸材となりミソヒトモジの散文に手際よく構成される。かつて二・二六事件があつた時、殆んど全歌壇の人々が総動員でニュースに飛びつき、この好餌を逃すまいとして何百千の歌を作つた。今度の支那事変に際して、歌人等が盛んに時局を取材し、何かの愛国歌のやうなもの、憂国歌のやうなものを乱作するのは当然である。此所で「やうなもの」と言ふのは、それが真の熱情からほとばしつたものでなく、彼等の使ひ慣れた手法によつて、儀礼的に表情を装つたものにすぎないからだ。正直に観察して、自分はこんな歌人等よりも、却つて沈黙してゐる詩人の方が、ずつと深く真剣に時局を考へ、真の憂国の情を抱いてるところの、純真の愛国者であると思ふ。彼等が容易に筆を取らないのは、時局の性質が深酷であり、容易に昂奮ができないほど、実質的に重大なものであることを知つてるからだ。皮相な感激に浮れ上つて、御座なりの詩歌を乱作するほど僕等の仲間は単純な子供等ではない。 
露営の歌と愛国行進曲
「露営の歌」と「愛国行進曲」とは今度の時局が生んだ二つの名軍歌であつた。特に前者の「露営の歌」が、日本の津々浦々に行き亙り、老幼男女を通じて歌はれてるのは、実に驚くべきものである。この歌謡が大衆に悦ばれるのは、歌詞と作曲とが共に哀調を帯びてぴつたり一致し、よく日本人の民族的趣味に通するからである。「物のあはれ」の伝統以来、日本人の音楽趣味は哀傷風なセンチメンタリズムで、一貫してゐる。日清戦争の時の「雪の進軍」日露戦争の時に流行つた「戦友」(此所は御国を何百里)、共に皆哀調を帯びた悲しい歌であつた。軍歌に限らず、大衆に受ける近頃の流行歌曲は、たいてい皆哀調の短音階だが、今度の「露営の歌」もまたハ調短音階で、流行歌曲風の旋律を巧みに取り入れて編曲されてる。つまり軍歌と流行歌謡の合の子見たいなものであり、大衆がまたそこを悦ぶのである。しかしこの歌謡のセンチメンタリズムは、日露戦争の時の「戦友」と何所か質がちがつて居る。「戦友」はその歌詞が琵琶歌風な叙事詩であるばかりでなく、曲譜がまた単純な琵琶歌的悲調のものであつたが、今度の「露営の歌」は、歌詞も曲譜も共に純抒情詩的で、デスぺラートの絶望感が深く、哀傷の質が甚だ深酷である。つまり今度の時局に伴ふ国民のニヒルの不安が、そのままリリックとなつてこの歌曲に反映されてるので、戦争の質が深酷であるだけ、日露戦争時代の単純な軍歌に此して、情緒の内容が複雑深酷になつてるのである。
それ故にかうした歌謡は、藝術としては正に本筋の物 ― 大衆の真実な心を正直に反映する作品は、常に藝術として本筋の物であるにちがひないが、所謂国民精神総動員の「士気を鼓舞する」目的からは、むしろ禁止令に触れるべきものかも知れない。昨冬僕は伊豆の伊東温泉に滞留し、南京陥落の日に行はれた市民の旗行列を見物したが、小学校の女生徒等が、この歌謡を唄つて行進するのを見、一種異様な感じがした。南京陥落、日本大勝利を祝する目出度い日に、かかるニヒリスチックな悲哀の歌を合唱するのは、いかにしても、場合に適はしくないからである。すくなくともかかる場合は、もつと勇壮で力に充ちた、明るい光明的な軍歌がほしい。それかあらぬか知らないが、政府は今度「愛国行進曲」を大仕掛で宣伝し始めた。老軍楽士瀬戸口氏の作曲になるこの歌は、たしかに国民精神総動員の主旨に適ひ極めて雄健明朗であり、その上に荘重の趣さへもある。
此所で僕は、行進曲作者としての瀬戸口氏の天才的独創性を今さらの如く考へずに居られない。前に述べた如く、由来日本人は悲調を帯びた哀傷風の音楽が好きであり、この国民的大衆性に投じない歌謡は、決して普遍的に流行することができないのである。現に日々新聞で一等に入選(露営の歌は二等であつた)した陸軍軍楽隊作曲の行進曲の如き、政府がレコード会社と共に盛んに宣伝したにかかはらず、大衆は一向に之れを唄はず、却つて二等の「露営の歌」ばかりが唄はれてる有様である。然るに不思議なことは、独り瀬戸口氏の作曲だけは、極めて明朗勇壮であるにかかはらず、よく日本人の趣味に適ひ、何等哀傷的の悲調なくして、しかも大衆に悦んで唄はれるのである。前に氏の作つた「軍艦マーチ」もさうであつたが、今度の「愛国行進曲」もまたさうである。つまり瀬戸口氏の作曲は、日本真の雅楽調や、日本俗謡の特色たるラグタイムやを、随所に巧みに取り入れることによつて、洋楽の行進曲を、日本人の伝統的血液中によく融化してゐるのである。そしてこれは、天才のオリヂナリチイに非ずば不可能な仕事である。音楽でも映画でも大衆小説でも同じであるが、感傷好きな日本人を口説くのには、いつも「お涙頂戴」の一手に限る。この一手さへ使つてゐれば、たいていの凡庸作家でも大衆に相当受けるのである。しかし「お涙頂戴」以外の手で、大衆を動かすことのできる人は稀れであり、それが出来る人は天才である。今や国家非常の時、日本の大衆の心を捉へ、よく人心を鼓舞する歌謡を作り得るもの、瀬戸口氏を置いて他になしとすれば、この人の存在が一層貴重に感じられる。しかも氏は老齢七十歳である。此所にもまた深酷の感なきを得ない。
普仏戦争の時、祖国敗亡の危難に際して、ナポレオン一世に仕へた老軍楽士等が、奮然立つて幾多愛国の行進曲を作曲したが、今や老齢七十歳、日露戦争時代の軍服を着た白髪の老楽手が、祖国の非常時に際して奮起し、この勇しくも美しい愛国行進曲を作つたことは、西洋の戦争小説にでもある如きドラマチックの悲壮美を感じさせ、深く僕等の心を打つものがある。僕はあの行進曲の第三節「ああ悠遠の神代より」といふところを聞く毎に、作曲者瀬戸口氏のことを思うて涙湧きくるものがある。
しかしこの作曲の名誉に比して、あの歌詞の拙いことはどうだ。僕はローマ字論者でもなく漢字廃排論者でもないが、この「愛国行進曲」の歌詞のむづかしさには、心から反感をもたざるを得ない。「見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば」などと、歌ひ出しから既にチンプンカンプンで、一昔前に流行つた一高の寮歌と同じく、漢字を見なければ語意がまるで解らない。宜なる哉。大衆の唄ふのを聞くに、殆んど歌詞を完全に覚えてる者は一人も居ない。皆うろ覚えでデタラメに唄つてるのだ。そこへ行くと「露営の歌」の方は質に歌詞がよく出来て居り、曲の旋律と合つて意味がぴつたり迫つてくる。折角の名行進曲も、歌詞が悪くては仕方がない。この歌詞は朝日新聞の懸賞募集で、選者の中には佐佐木信網氏や河井酔茗氏などの大先輩も居た筈なのに、一体何うしたといふことなのだらう。 
琵琶・詩吟・その他の事
琵琶唄といふもの、日露戦争の時には全盛的に流行したが、今度の時局ではあまり唄はれなくなつたやうだ。実際僕等が聞いてもあの音楽の旋律はあまり単調で繊弱にすぎ、悲壮美を感ずるよりは、むしろ卑俗な安センチメンタリズムを感ずるのみだ。つまり日露戦争の時の軍歌「此所は御国を何百里」が、今日の大衆にとつて興味がなく、単純にすぎて悲壮美を感じなくなつたやうに、琵琶唄が時代の情操から遅れたのである。之れに反して「詩吟」といふものは、今日でも命依然として流行し、僕等が聞いても一種特別の悲壮美を感じさせる。特に底力のある男声で、あまり節をつけぬ素朴な朗吟には、何とも言へない魅力があり、漢詩風の東洋的悲壮美を強く感じさせる。琵琶唄の旋律も詩吟と似たやうなものであるが、詩吟のエスプリを忘れてこれを音楽化した為に、却つて安感傷主義に堕したのである。
尚聞くところによれば、政府は今度所謂股旅物の映画流行唄を始め、あまり情痴的のものやセンチメンタルなものに制限を加へるさうである。その理由は色々あるだらうが、つまりこの非常時に際して国民精神総動員の士気を鼓舞し、民心を颯爽たるヒロイズムに導く為に、之れと反するやうなものを控へるのであらう。しかしさうなつて来ると、在来の伝統的な日本歌謡、特に三味線音楽的の物は、町のレコード小唄と共に概ね制限されねばならない。そして代りに、否でも西洋音楽が専制的に採用される。なぜなら在来の日本音楽は、情痴的に非ずば感傷的であり、一も士気を鼓舞する如き颯爽たるものがないからである。(その原因は、日本が島国に鎖国して、外敵の侵略を受けず、長く平和で居たからである。)
この一例を見ても解る如く、世界戦場に進出した今日、現代の日本主義は表面或る点で伝統に反逆し、或る程度まで旧国粋的なるものを揚棄することによつて、逆に国粋日本主義を止揚する立場にある。ヘーゲル流の弁証論的パラドックスは、今日現代の日本が避けがたいヂレンマである。それ故に政府当局者は、一方で女の洋装やパーマネントを毛嫌ひしながら、一方では活動に便利な洋服的ユニホームを銃後の日本女性に求め、一方で国粋伝統主義を称へながら、一方で股旅式の義理人情を排斥したり、洋楽の行進曲を宣伝してゐる。そしてしかもこのヂレンマは、日本の正しい世界的地位を自覚してゐる者にとつて、何の矛盾でもないのである。かつて日露戦争の時、「四方の海みな同胞と思ふ世になど浪風の立ち騒ぐらむ」と詠まれた明治大帝の御製に対し、畏れ多くもこれを不合理の自家撞着だと評した外国人の記者があつたが、今日、日本の世界的使命を知り、併せて自己の立場を自覚してゐる僕等にとつては、この明治大帝の御歌が、そのヂレンマの深遠の哲理を知る故に、却つていよいよ哀切深く、悲壮美の幽玄なリリシズムとして感じられるのである。
 
近代日本の大衆音楽

 

近代日本流行歌の成立
流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。レガートな旋律が作られたのである。クラシックという異文化との交流が見られた。流行歌というものが政治主張・宣伝、ニュース報道からより音楽的なものになったことはこの二人の功績である。中山は、クラシックの立場から、 鳥取は、街演歌師の世界から流行歌の近代化を果たしたのである。中山は西洋音楽の作曲技法で美しく日本人の心情をメロディーにし、流行り唄から流行歌への発展に大きな功績を残した。第二には電気吹込みによるヴォーカル革命が重要な意味をもっている。それは昭和モダンに相応しかった。これによって、古賀メロディーが一世を風靡し、政治色の濃い明治演歌の伝統をもつ大正艶歌を終焉させ、マイクロフォンを巧みに使った歌手の時代が今日に伝えられたからである。殊にマンドリン・ギターで民衆歌曲が創作されたことは、流行歌の可能性を広げるものであった。昭和流行歌は、マイクロフォンを前提にしてレコードを吹込む。それを前提に企画・製作・表現がある。声楽の正統な解釈(ホールのすみずみに響かせるメッツァ・ヴォーチェ)のもとにしたクルーン唱法でマイクロフォンに効果的な音声をのせた藤山一郎の登場は、まさに革命の一歩だった。マリア・トル、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手とに伍して堂々と独唱する豊かな声量を小さいな美しい声にしてマクロフォンにのせる。古賀政男の感傷のメロディーが感銘をあたえるはずである。
電気吹込みによるヴォーカル革命の波は、太平洋を隔てたアメリカからの波だった。電気吹込みは、大正十三年、アメリカのウェスタン・エレクトリック社が実用化に成功したものであり、翌年には電気吹込みのレコードが登場している。明治時代から日本を市場としていた欧米のレコード会社は当然、日本進出を狙う。国内に製造会社を造ってレコード市場の拡大を志向するのだ。米国ビクターと英米コロムビアの外国資本の参入である。これがアメリカニズムの影響を受けた消費文化・昭和モダンの需要を満たし、日本の流行歌の構造を根底から変えてしまった。つまり、レコード会社が企画・製作・誇大宣伝することにより、大衆に選択させるシステムが登場したのである。従来の街頭で流歩いていた演歌師姿は消えうせ、洋楽を身につけた音楽家が大衆音楽の主流となった。西洋音楽の手法に日本人の肌合い・情緒・民衆心理を融合させたこの近代流行歌は、戦前・戦後の昭和歌謡の源流となるのである。 
中山晋平
明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御、明治の御代が終焉し、大正という新しい時代を迎えた。元号の改元はひとつの時代の区切りとはいえ、新しい時代への動きは、すでに明治末期に胚胎していた。たとえば、明治四十四年九月、女性解放を叫び、人間としての自我の確立を唱えた平塚雷鳥らの『青鞜』の創刊は新しい時代の予兆をしめすものであった。大正は世相において明治とは異なる。その変化は顕著であった。明治時代には数えるほどしかなかったカフェー、バーもかなりの数になった。活動写真館も濫立する。そして、楽隊も登場しオペラも上演されるようになった。大正は、『流行歌・明治大正史』ののべられているいるように「すべてが複雑な音響と『軽便安直』に向かって盲信」する時代なのだ。とはいえ、ロマンティックな心情もまた大正の特徴でもあった。そのオープニングには晋平節が相応しいといえる。その洋風の旋律は新鮮であり心地よい感覚をあたえてくれた。明治末期から大正にかけて演歌に質的変化が見え出した頃、大正三年三月二十六日、芸術座は帝国劇場においてトルストイの『復活』を上演した。この『復活』の劇中歌《カチューシャの唄》は、大衆をすっかり魅了してしまった。松井須磨子がカチューシャ、横川唯治のネフリュードフ、宮部静子のフヨードシャという配役で、第一幕のカチューシャの純情時代と、第四幕の女囚の二つの場面でヒロインによって歌われたのである。洋風の旋律は、今までの流行歌にはない新鮮な響きであった。劇中歌の《カチューシャの唄》(島村抱月・相馬御風・作詞/ 中山・作曲)は、大流行した。大正四年四月二十四日から二十八日にかけての京都南座で巡業中に松井須磨子がオリエントレコードで吹き込んだ《カチューシャの唄》は、またたくまに売れ切れとなり、倒産しかけていたオリエントレコードが息を吹き返したそうだ。まさに「復活」だったのである。大正四年帝劇で上演されたツルゲーネフの『その前夜』の劇中歌《ゴンドラの唄》は、大正ロマンを最も象徴する流行歌である。
この歌は第四幕「ベネチアの夜」で歌われている。女主人公エレーネは、親と故郷を捨て病める恋人をいたわりながら、このヴェネツィアの町に着いた。その晩、月に照らされた薄明るい海の面からマンドリンの音に交じって《ゴンドラの唄》が聞こえてくる。遠くにゴンドラのような舟が見える。《ゴンドラの唄》には、前途はたとえ夜の闇よりも恐ろしい運命が待ち受けていようとも、それを乗り越えて行くところまで行って幸福をつかむというロマン的情緒が感じられる。《ゴンドラの唄》の旋律の感傷には母ぞうとの死別を抜きに語ることはできない。中山が歌詞を受け取ってから数日、満足するような旋律が浮かばないまま過ごしていた時だった。「母、危篤」の知らせは中山を茫然とさせた。上野から夜行列車にのって新野村の家に着いたときはもう母の顔には白い布がかけられていた。それをとると安らかに眠る母の顔があった。帰りの夜行列車に乗って母の死への悲しみに耐えかねて泣きながら《ゴンドラの唄》の歌詞を口ずさんだ。その押さえ難い感情が胸の奥から高まり旋律となったのである。また、大正六年の明治座で上演されたトルストイの『生ける屍』で北原白秋が初めて書いた流行歌《さすらいの唄》(北原白秋・作詞/ 中山・作曲)は、美しい詩情が感じられる。《さすらいの唄》は、女主人公マーシャンに扮した松井須磨子がジプシーの旅愁をこめて歌ったものである。この歌も大変流行した。レコードディレクターの最古参森垣二郎の「年間二十七万の空前のヒットを放った」という言葉を借りるまでもなく、驚異的な数字を記録した。中山の作品が大衆に新鮮な感覚をあたえた理由として、彼独特の作曲法があった。中山のヨナ抜き長音階にユリを加えたメロディーは当時の大正という新時代を生きる大衆を魅了した。《船頭小唄》においては、ヨナ抜き短音階にユリを加えた独自のメロディー体系をつくり、洋楽にもとづく流行歌の基本音階を確立したのである。ヨナ抜き音階とは、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド、という欧米の七音階の中の半音ファ(第四度音)とシ(第七度音)を除いた五音階のことである。日本の伝統音楽に多用されている都節音階にみられるのテトラ・コードと七音で構成される西洋音階の折衷ともいえる。これが、それ以後の日本流行歌の主流の曲調となり、日本人の感性として深く生活のなかに浸透した。《船頭小唄》は、最初は《枯れすすき》といったが、大正十年、関東大震災の二年前に作られた。作詞は、野口雨情、作曲は 中山。おそらく晋平節のなかでは最も生命が長かった歌であろう。その秘密は、やはり、日本人が好む都節(陰音階)に近い感じのするヨナ抜き五音の短音階にもとづいているからである。二番の歌詞の〈死ぬも生きるもねえお前〉は、現世の虚妄に身を任せた己の内奥にある無定形の怨恨ともいうべきはけ口のない不満、挫折感が表現されていた。〈枯れた真菰に照らしてる〉は、どこか現実の世に身を委ねることを諦め、死を選択しようとする観念に結びついている。こうしてみると、モダニズムが孕む影ともいうべきデカダンスがすでに準備されていたかのように感じられるのだが。《頭小唄》は、帝国蓄音、オリエント、日東など当時の蓄音機会社でレコードに吹き込まれた。大正末までには、十数枚の音盤が登場している。オリエントからは田辺正行、翌十二年には同じオリエントから大津豆千代、日東レコードでは、高橋銀声、など多士済々だった。鳥取春陽のレコード盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音からオーケストラ伴奏で吹き込まれている。副旋律がつけられ従来のヴァイオリンのみ伴奏よりもずっと音楽的なものであった。また、栗島すみ子、岩田祐吉という人気コンビで映画もヒットした。製作は松竹キネマ。この映画『船頭小唄』は、小唄映画と呼ばれる流行歌の映画化第一号といえる。 中山の登場は、心情を洋楽的旋律で表現し新しい感覚を大衆にあたえた。その影響は昭和流行歌にも及んでいる。ラジオ放送も開始されレコード会社の企画によって新しい流行歌も作られるようになった。昭和三年、世界的オペラ歌手「我等のテナー」藤原義江が歌った《出船の港》(時雨音羽・作詩/ 中山・作曲)、《鉾をおさめて》(時雨音羽・作詩/中山・作曲)七月新譜の《波浮の港》(野口雨情・作詞/中山・作曲)らが発売された。
波浮(はぶ)の港
   磯の鵜(う)の鳥ゃ 日暮れにゃかえる
   ・・・
   風は潮風 御神火おろし
   島の娘たちゃ 出船のときにゃ
   船のともづな
   ヤレホンニサ 泣いて解く
伊豆大島には小さな風持ちの漁港がある。左手に雄大な三原山が見える。その眺めに目を奪われるであろう。ふと、右手の崖の下を覗きこむと、港口の岩礁には外海の波が砕けていた。港内は波ひとつなく静かである。それが波浮の港である。この小さな港にすぎなかった無名の港は、歌のヒットのおかげでたたまち有名になったのである。そして、多数の観光客が押しかけ東京湾汽船はかなりの収益をあげた。この歌には問題となる箇所があった。作詞者の野口雨情が土地の事情を知らずに書いたためである。それは、波浮の港には夕焼けが見えないということだった。波浮は山を西に背負っている東に面した港なので現地の人から「波浮には夕焼けがない」という文句が地元住民から出ても当たり前のことなのである。 中山の流行歌を中心とする作曲活動のなかで重要なそれは新民謡運動における功績である。前述の歌曲もその所産である。その新民謡の作曲で中山の天才的な創作力をしめしたのが囃言葉の挿入であった。例えば、《波浮の港》の原作では、〈ヤレホンニサ〉は入っていない。これは中山が苦心の末挿入したものである。また、《東京音頭》の〈ヤットナーソレヨイヨイ〉や《上州小唄》の〈ホラギッチョンギッチョン、チョーチョン〉、《桜音頭》の〈シャンシャンシャンと来てシャンと踊れ〉などはいずれも中山が作曲の際に「歌全体の死命を制する場合も少なくない」という事態をかなり考慮し慎重に挿入したものである。したがって、相当頭を痛め苦労している。中山はつぎのようにのべている。
「スキー節の『ツツウノツ』、熱海節の『オーサヨイトサノセ』などあとで考へると『あれしきの物』と思ふようなものでもその時は痩せる程苦労している。皆相当苦労してつけたものである。今までの経験で最も苦労した囃言葉は越後の十日町のために作った、十日町小唄で、この歌は新潟県を中心として信州、上州、羽前あたりまでも相当歌はれてゐるやうであるが、この歌の囃言葉『テモサッテモ、ソヂヤナイカ、テモソヂヤナイカ』と云ふのを考へつくまでには十日町の宿屋の炬燵へはいつたまゝ実に三日間を費やしてゐる。併し苦んだゞけに、この言葉を思ひついた時の嬉しさは全く天へも上る様であつた。」
昭和モダンと流行歌
苦心惨憺の末囃言葉を創作した中山晋平ではあるが、やはり、そこには少年時代の新野神社の祭礼の催し物出ある式三番叟のほか六人囃子の響きがその源泉になっているといえる。晋平節の流行歌と言えば、二年に亙るフランス留学から帰朝した西條八十とコンビを忘れることはできない。フランス象徴詩の研究で近代日本詩壇で名声を博した 西條が歌謡作家トして登場したことは驚きであった。その後、歌謡作家は早稲田歌謡詩人の系譜が形成された。昭和三年四月号、プラトン社発行の大衆雑誌『苦楽』に掲載された《当世銀座節》は、西條・中山コンビの第一回作品である。といいたいが、実は、『苦楽』に昭和三年五月に掲載された《マノンレスコオの唄》の方がレコードは早かった。昭和三年六月新譜。『マノン・レスコオ』は、フランスの作家アベ・プレヴォの恋愛小説で、『椿姫』、ユーゴーの『マリオン・ドゥロルム』とならんで、「娼婦のもつ純情をテーマ」にした近代フランス文学を代表する作品である。歌は佐藤千夜子、伴奏は 中山のピアノ演奏のみ。《当世銀座節》の歌詞に登場する〈セーラーズボンに引眉毛〉は、銀ブラの主人公であるモボ・モガをさす。断髪、ショートスカート、ハイヒール姿で、映画、ダンス、スポーツ観戦を好み、「明るく、朗らかで、感覚的で、理知的で、技巧的で、野生的で、複雑で、単純で、率直」な女性=モダンガールとだぶだぶズボン(セーラズボン)とカンカン帽子、ステッキなどの特徴をもつモダンボーイが銀座のシンボル。この頃に流行った《洒落男》にも流行の先端をいくモボ・モガの具体的姿が描かれている。変貌する東京の空間装置。それは、モダニズムの磁場となった。ジャズ、シネマ、リキュル(リキュール洋酒の名称)などモダニズムを記号化した横文字を取り入れた《東京行進曲》に描かれた。それは、昭和モダンの見事な戯画だったのだ。 西條は、《東京行進曲》で〈ジャズで踊って、リキュルで更けて明けりゃダンサーの涙雨〉とモダニズムを巧みに操った。といいたいがこれは作曲者の中山からの注文で書き直したのだった。
西條の意図には、ジャズで踊ってリキュールを飲み交わした若い二人が歓楽街での一夜が明けて翌朝になると別離の涙となる、という設定があった。西條は、<彼女>が<ダンサー>に代わり、なぜ朝になると踊り子が泣くのか疑問におもった。しかし、大衆歌謡においては一日の長がある 中山に従ったのである。また、西條は、共産党弾圧史も歌詞になかにもりこんでいた。四番の歌詞の最初の二行に〈シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか〉とあるが、この歌詞には実は、〈長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える赤い恋〉であった。マルクス主義にかぶれた長髪で深刻そうな青白い顔をしたインテリがソ連の女流作家コロンタイの小説『赤い恋』を抱える姿がここでは流行現象に取り入れられ風俗化されていたのである。 西條は、共産党員を治安維持法をもって一斉検挙・弾圧した前年の昭和三年の三・一五事件、《東京行進曲》がヒットした昭和四年の四・一六事件(市川正一、鍋山貞親ら検挙)を意識して作詩したのかどうかわからないが、「左翼思想の宣伝になる恐れがある」と当時のビクター文芸部長岡庄五の要求があって、その部分を書き直したそうだ。《東京行進曲》の大ヒットの背景には、歌のモデルとなった小説『東京行進曲』が連載された大衆雑誌『キング』(昭和四年十月まで連載)のすさまじいほどの販売力を見逃すことができないであろう。昭和三年の十一月号はなんと百五十万部を越える驚異的な記録をしめしている。その勢いにのったことも否定できないであろう。また、《東京行進曲》は、レコード会社と映画会社の提携企画による映画主題歌の第一号でもある。映画は、溝口健二が監督、夏川静江、入江たか子、小杉勇、神田俊二、佐久間妙子らが出演。五月に封切られている。すでに、大正時代に松竹蒲田映画『船頭小唄』が封切られ、それ以来流行した歌と映画化は行われてきたが、映画とレコード企画が同時におこなわれ大ヒットしたのは、これが最初である。それ以後主要な映画作品には主題歌を挿入してレコードを発売することになるのである。
《東京行進曲》もヨナ抜きのメロディーである。しかも、哀調のあるマイナーコードで作られているので、「人間の心の奥底にひそむ情緒に強くふれるもの」がある。したがって、人々の口の端にのりやすい《東京行進曲》は流行歌の洪水をもたらした。クラシック愛好者の雑誌『フィルハーモニー』には、「小唄なんておぼえようとする気のちっともない僕でさえ、いつの間にか『君恋し』から『東京行進曲』、さては「草津湯もみ唄」までおぼえて仕舞ったから」という投書が掲載され、流行歌の威力を伺うことができる。関心のない者の耳に自然と入ってくるのだから、まさにこれこそ晋平節の力といわねばならぬ。昭和四年六月十四日、放送予定(六月一五日放送日)だった二村定一の《東京行進曲》が突然、放送禁止となった。「少しも知らぬ若い子女に、浅草であいびきして小田急で駆落ちするような文句は、どうも困る」というのが理由らしい。それから、《東京行進曲》をめぐって最小の流行歌論争が『読売新聞』紙上で火ぶたが切って落とされた。どうやら、伊庭孝が七月二十八日の「現代の民衆音楽−最良の流行歌はヨーロッパ趣味のもの」という放送で《東京行進曲》を攻撃をしたのがその口火らしい。まずは、伊庭孝が「軟弱・悪趣味の現代民謡」と題して八月四日の『読売新聞』で攻撃を加えた。伊庭の批判は、流行によって自然に口ずさむことによる民衆の「審美的判断力」の喪失と物質的利益にとりつかれた制作者たちによる「民衆の趣味の堕落」を主眼に展開された。また、永井荷風は《東京行進曲》に対しては辛辣な批評を浴びせている。しかし、伊庭が何と言おうと大衆は近代都市に変貌した東京のモダン風景の戯画である《東京行進曲》を口ずさんだ。大正ロマンから昭和モダンという時代に 中山メロディーは大衆に新しい感覚をあたえ洋楽的旋律の素晴らしさを認識させた。とはいえ、晋平節が「日本民族の固有の旋律と律動」を踏まえていることが日本人の原始的郷愁をくすぐるのである。つまり、「演歌的な音楽的原始性」を失わずにラインのしっかりとした洋楽的旋律によって大衆の心情に共感を呼んだといえる。 
大正艶歌
大正の流行り歌は、デモクラシーの開花の対極にある民衆の呻きを主題としている。とはいえ、政治世界からまったく無縁になったわけではない。〈近ごろはやりのデモクラシー〉の《デモクラシー節》は、第一護憲運動からスタートし、吉野作造が提唱する民本主義などによって理論武装した大正デモクラシーの思潮を反映しているし、《平和節》は第一次対戦後のヴェルサイユ体制がもたらす国際平和を風刺したりしているので、まだ、政治社会の風刺としての機能はあった。しかし、大正艶歌が民衆の心情にウエイトが置かれるようになり歌に艶が出てきたことは確かである。つまり、歌詞も政治宣伝一点張りではなく抒情性や心情を主題にしたものも作られるようになったのである。政治のメッセージである演歌から心情の発露という艶歌へとその本質が変わっていく。例えば、大正六年三月に「千葉心中」という心中事件が起きている。これは、芳川顕正伯爵家の若婦人鎌子(婿が曽弥荒助の弟寛治)とお抱え運転手の倉持陸助が階級を越えた恋となり、鉄道路線に自殺を図った事件である。大正の初めに女性の自覚が自由と平等を要求し始めたとはいえ、男と女の問題はまだまだ不自由な掟が支配的であった。このように世相ニュースの伝達とともにその心情も歌に託されるようになるのである。そうなると、社会の底辺で閉塞状態になり抑圧された心情を歌う傾向が強くなったといえよう。とはいえ、大正艶歌の成立を知るためににはその源流である演歌の歴史を知る必要があるであろう。演歌は、路傍から湧き起こった有司専制、藩閥への怨嗟の声である。国会開設という政治参加の欲求をメロディーに託しながら、その運動を鼓舞する役割を果たしたのである。演歌は、もともとは政治批判、政治宣伝の歌であり、自由民権運動の産物だったのだ。明治政府の反政府運動に対する弾圧は苛烈を極めた。讒謗律、新聞紙条例による言論抑圧、会条例で集会・結社の自由に規制を加え保安条例によって危険人物と見なされる民権派を皇居の三里の外へ追放するなど行った。大衆の運動への鼓舞は、演説である。演説会が開かれると、政府によって送られたものたちによって、野次、罵声の妨害が始まる。演説会には警察が派遣され臨場しているので、演説への「注意」から、「中止命令」となった。そうなると多数の警官によって聴衆はその場から追い出されるのである。抵抗すれば、当然、拘留ということになる。このように、国家権力による暴力によって演説は破壊される。そこで、街頭で歌という手段をとって民権思想を普及させる手段をこうじたのである。
「民権自由の思想は、民衆のなかにこそ、ひろめ、根づかせなければだめだという発想があり、それには生硬な演説よりも、大衆の耳に入りやすい、小唄や講談の形式をとるがよいという着想もあった。そこで演説に代る『演歌』という新語ができたのである。」
これが、演歌の発祥である。壮士といわれた人達は、街頭に出てげんこつをふりまわしながら歌った。
〈民権論者の涙の雨で みがき上げたる大和胆 コクリ ミンプク ゾウシンシテ ミンリョクキュウヨウセ  若しも成らなきゃ ダイナマイトどん〉
このような演歌は現代の演歌とは異なり、権力批判、時局風刺、悲憤慷慨の演説歌、宣伝・煽動歌といえるのである。明治演歌には、見田宗介が指摘しているように民権論と国権論が前者に重心が置かれているとはいえ内包されていた。しかし、福島事件、加波山事件、秩父事件などの国内の民権運動の激化や朝鮮問題を契機に国権論が優位となった。つまり、日本の武威をしめすナショナリズムが台頭し、国権伸長が朝野のスローガンとなったのである。〈ダイナマイトどん〉が外に向かって撃たれたのだ。そして、明治憲法体制の始動から、日清、日露戦争の勝利、朝鮮半島の植民地化も進むと、その過程の中で演歌も大きく変化していった。演歌が壮士節から、袴を穿いた苦学生が街頭に立って歌う書生節へと移行した。藩閥への怒りを込めた民権の主張という政治宣伝・批判は、影を潜め、時局風刺を歌ったものは残ったが、社会世相に敏感に反応する感情の発露、涙、あきらめ、未練、無常感など民衆の情念が主題となってきたのである。「男三郎事件」を題材にした《夜半の追憶》、《袖しぐれ》などは、演歌から艶歌へと転換させた作品といっても過言ではない。現代における演歌は、この政治、時局風刺の性格を喪失した艶歌を意味している。一般に演歌という言葉が使われているが、本来の意味を失っているのである。上野昂志は、艶歌について「決して土着的な歌ではない。それは資本制の深化とともに、土地との結びつきを断たれて都市に流れて行った人々の叙情を基盤として生まれた歌である」という分析をしたが、もう一つ付け加えるならば、感情表現を効果的にするために洋楽の影響を受けその手法を取り入れたということである。そうなると、演歌師のなから既成曲をもとにして替え歌にする方法から脱して洋楽の手法で作曲する者が登場してくるのである。それが、鳥取春陽だった。春陽の登場が演歌の近代化と言われる所以がここにあるといえよう。演歌が艶歌に変わると、歌にも大正のロマンティシズムが帯びるようになった。それは、大陸への夢への架け橋となったといえる。《馬賊の唄》は作詞が大陸浪人宮崎滔天と言われている。宮崎滔天は、数奇な大陸浪人、ロマン的な革命家、狂人などさまざまな評価があるが、孫文と知己となり中国革命に無私の精神で挺身した人物である。その滔天の作詞かどうかという真偽はともかくも大戦景気もつかの間、戦後恐慌によって暗雲が立ち込めた日本の息苦しさから脱出して、広大な大陸にロマンをかける心情が託されている。これも、演歌が国権論の主張に利用されたなごりなのだろうか。
   僕も行くから君も行こう狭い日本にゃ住みあいた
   海の彼方(浪隔つ彼方)にゃ支那がある
   支那にゃ四億の民が待つ
一九二〇年代の東アジアと太平洋の安定を名目に日本の膨張を封じ込めるワシントン体制が成立した。ヴェルサイユ体制のアジア版とでもいえる。日本は、ワシントン体制にもとづく協調外交を展開するが、やがて、それに抵触すれば、悲劇を迎えるのである。しかし、この《馬賊の唄》は、膨張に対する封じ込めという領土的感覚だけではなく、国内の状況、すなわち、戦後恐慌の始まり、労働運動、米騒動などから予想される革命の兆し、不安の予兆から逃れ、広大な大陸に自由を求めようとするヒロイズムが根底にあったといえる。昭和モダニズムの前夜、それは、大正デモクラシーの翳を見せ、大正ロマンも色褪せはじめた虚ろな風景だった。大正という時代は、個としての主体の確立もないまま政治の舞台に民衆を登場させた。桂内閣を打倒した大正政変しかり、寺内内閣を打倒した米騒動、小作争議、部落解放運動、労働運動の昂揚もそうだが、政治の世界に大きなパワーとなった民衆のエネルギーは、伝統的な政治技術では統治に不可能を実証したが、支配者や後の昭和維新者に思想的危機感をあたえたといえる。大正七年には、米騒動が全国的に広がりをみせた。大戦景気は資本主義の発達をもたらし、都市の人口増加にもとづく米の需要を増加させた。ところが、大正時代は資本主義と地主制の矛盾の増大による農業生産が停滞した。そして、シベリア出兵に当て込んだ米商の買い占め・売り惜しみ、地主の投機が米価高騰に拍車をかけたのである。これが米騒動の原因となった。米騒動は、富山県の魚津町におきた主婦たちの米の県外移出阻止請願運動がきっかけとなって、八月三日には、中新川郡の西水橋町の主婦数百名による米商襲撃(越中女一揆)が起こり、それらを発端に全国的に拡大した。暴動は一道三府三七県にわたり、参加数推定で七十万人以上とされた。このため寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれ、本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生したのである。大正九年、戦後恐慌を迎えると、労働争議も一層の激しさを呈した。一九二〇年、二月、労働時間短縮、三割賃上げを嘆願した八幡製鉄所争議、五月、日本最初のメーデー、上野公園で一万人参加、八月、「一切の社会主義者を包括」ことを掲げた社会主義の大同団結ともいうべきの日本社会主義同盟の結成、翌年には、戦前最大の労働争議と言われた川崎・三菱造船所、十月、大日本労働総同盟友愛会が日本労働総同盟と改称し戦闘的な階級闘争になっていった。諸運動は労働運動、社会主義ばかりではなかった。大正十一年三月、西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作らの奔走によって全国水平社が結成、七月、非合法ながらコミンテルンの日本支部としての日本共産党の誕生、各地に生まれていた小作人組合の統一と小作人の地位向上を目標にした杉山元治郎、賀川豊彦ら創立の日本農民組合など諸運動は燃え上がっていた。それらの諸運動の展開には街頭演歌師の活躍を無視することはできない。添田唖蝉坊の〈高い日本米はおいらにゃ食へぬ〉で知られる《豆粕の唄》が広まったのもこの頃である。演歌師たちは全国に散っていた。そうなるとふたたび演歌師の全盛がやってくる。そして、直にに世相にふれることによって、大正期の民衆のナショナルな感情も変化する。脱政治的な志向を持ちながら近代社会のなかで目標を失い、貴族的な市民社会から切り離されたならば、民衆の心情は感傷的なメロディーに慰めを求めるであろう。
一九二三年九月一日午前十一時五八分、関東地方を突如大地震が襲った。死者九万九三三一人、行方不明四万三四七六名を数え、直接損害額六十億円以上が示すようにその損害規模は天文学的数字に近いものであった。その被害は、特に東京がひどかった。神田、日本橋から浅草、本所、深川の下町一帯は壊滅状態になってしまった。
作詞が添田知道で鳥取が作曲した《大震災の歌》は、その様相をあまねく伝えている。そして、その惨状をニュースとして広めたのが演歌師たちであった。時それ大正十二年、九月一日正午時 突然起こる大地震 神の怒りか竜神の 何に恐るゝ戦きか大地ゆるぎて家毀ち 瓦の崩れ落つる音電柱さけて物凄く 潰れし家のその中に呻きの声や叫ぶ声 文化の都一瞬に修羅の巷と化しにけり東京の名所の一つである浅草の凌雲閣も、八階のところでポッキリと二つに折れて無残な残骸に変わってしまった。大正デモクラシーの風潮も浅草オペラもみんな吹っ飛んでしまったのだ。翌日に組閣した第二次山本権兵衛内閣は、治安確保と罹災者救済のため戒厳令を東京市と府下の五郡に施行した。それにもかかわらず、表面化されていなかった不安が一挙に顕在化し噴出した。この混乱のさなか「不逞鮮人来襲」の流言蜚語が伝えられると、自警団による朝鮮人殺害という痛ましい事件がおこった。そして、亀戸事件、甘粕事件と−−−−東京の亀戸署は、亀戸一帯の朝鮮人虐殺と同時に労働運動家川合義虎、平沢計七らを殺害し、その死体を遺棄する暴挙を行った(亀戸事件)。一方、無政府主義者大杉栄が伊藤野枝、甥の橘宗一と共に東京憲兵隊本部に検束され、麹町憲兵分隊の一室で憲兵大尉の甘粕正彦らに殺害された事件(甘粕事件)が起きた。甘粕らは、関東大震災後の混乱に乗じて引き起こす不逞行為へと及ぶ可能性があるという勝手な憶測で殺害した。このような一連の虐殺事件に廃墟の街は格好の舞台だった。
殺伐とした空間に流れる歌声、荒涼とした風景に演歌が響き、荒んだ人々の心を慰めた。春陽もヴァイオリンをもって人々に慰安を与えた。どれほどの人が慰められ勇気づけられたであろうか。春陽が作曲した《大震災の歌》を歌ったときの感銘について作詞者の添田知道は、つぎのように記している。
「どこもかしこも薄暗くて、どの家もどの家もひそみかえっていた。かつかつの食料を手に入れることがせい一ぱいの時期である。こんな陰気千万なときに歌などうたったら、どなられるか、またひっぱたかれでもするのではないかと、不安だった。おそるおそる、まったくおそるおそる、オリンを弾き出し、うたい出してみた。せまい横丁である。あちこちから忽ちの、人がとび出して囲まれた。けれど、怒られるのではなかった。、みなしいんと聴いているのだった。」
人々は「悲境の底」で喘ぎながらも歌を欲していたのだった。焼け跡の街にバラックが建ちはじめた。軽快な《復興節》も共感をもって迎えられた。薄暗い町の片隅に演歌師たちの歌声が流れ、〈家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ〉と東京中で歌われるようになったのである。歌詞はユーモラスな感じのする内容だが、メロディーは中国の《沙窓》という曲を代用している。しかし、復興の過程において震災後の荒涼とした虚ろ風景には、「凝縮と退化の感覚は、社会的主題をうしなったのちの心情の下降」が見られた。 鳥取作曲の《籠の鳥》は、まさにそれに対応したものであり、国家から心情が切り離され、しかも、対戦景気はつかの間で不況の到来、労働運動の激化などの社会不安によって追い詰められた民衆の感情を反映している。
《籠の鳥》
逢いたさ見たさに怖さを忘れ 暗い夜道を只ひとり 逢いに来たのに 何故出て逢わぬ 僕の呼ぶ声 忘れたかあなたの呼ぶ声 忘れはせぬが 出るに出られぬ 籠の鳥籠の鳥でも 知恵ある鳥は 人目忍んで 逢いにくる人目忍べば 世間の人は 怪しい女と 指ささん 怪しい女と 指さされても 実があるなら 来りょうもの指をさされりゃ 困るよわたし だから私は 籠の鳥
《籠の鳥》は、子供の間にまで流行った。そのために教育上好ましくないという批判が多くの教育者、学識者からおこり、ついに児童が歌うことを禁止されることになった。まだ、舌のよくまわらない子供にまでも、アイタチャミタチャニとやられた時分には、たまったものではなかったにちがいない。
磯田光一は『鹿鳴館の系譜』で「『出るに出られぬ籠の鳥』の求めていたのが、『ミラボオ橋』の橋の上の男女に通じる自由」とのべているが、籠の不自由さはもっと深刻なものではないかと思うのだが。では、《籠の鳥》の発想源は何か。それは男女間の嘆きに止まらず大正デモクラシーに底流する「民衆全体に通ずる欲求不満の訴え」が触発された連鎖反応である。したがって、大衆感情が国家という主題を喪失した状態では「国民精神作興に関する詔書」を発布し、国民精神を鼓舞しても無駄なのである。逃げ場のない場所に追い詰められ脱出できない精神状況のなかで、「教養」、「主体的個」などとは無縁な大衆はささやかな慰めを歌に求めていたのである。《籠の鳥》の「籠」が閉塞感をしめすとするならば、そこに描かれた女性は、自由を失った廓の女であろう。作曲者の 鳥取は、街頭演歌師時代、縁日での一仕事を終えると一酌の酒を飲み、それからが流しの本番が始めた。愛用のヴァイオリンをもちながら久留米絣に黒の袴というお決まりのスタイルで花街から廓に入って本領を発揮したのだ。むし暑い真夏の夜でも、北風の吹きすさぶ凍りつく真冬の夜でも、夜霧に濡れ、夜風にさらされながら歌ったのである。夜更けの廓は、演歌師たちのその日の最後の稼ぎ場だった。春陽がお得意の曲を歌って流していると、格子戸から外を覗くお女郎さんのどこにも逃げることのできない不自由な姿が目に止まる。また、切ない歌を聞いたお女郎さんが涙を流しながら窓を開け、五十銭玉を紙にくるんで投げたりした。そのような光景が曲のイメージにつながったのである。それにしてもこの歌には、大正デモクラシーに底流する民衆の哀感と行き場のないやるせなさ、自由を失い閉塞状態に喘ぐ民衆の嘆きを感じさせる。しかし、追い詰められた感情が出口を求めて権力へのルサンチマンとなるならば、それは、破壊にむかう情念となるのだ。《籠の鳥》の作曲者、鳥取春陽は、本名鳥取貫一。明治三十三年一二月一六日、岩手県下閉伊郡刈屋村(現新里村)の北山というところで父民五郎、母キクノの長男として生まれた。春陽は、やがて、高等小学校を卒業するとひとかどの人物になると言って上京を決意した。上京してからの春陽は、随分苦労をした。ひとかどの人物といってもすぐになれるものではない。新聞売り、政治家の書生、児童劇団の雑役をしたり、神田正則英語学校に通ったりしたが、やがて、江東区富川の木賃宿に常宿するようになり同宿の演歌師と知り合いその道に入るのである。春陽が最初演歌師の道に入るのも、それが、社会の矛盾を突き世直し的救済が音楽活動をつうじて実践できるということがあったからであろう。春陽は《籠の鳥》で声価を得るが、添田知道によると《籠の鳥》の発表前につぎのような一場面があったそうだ。
「例によって演奏して聴かせる。曲はたしかに軽い鳥取調だが、詞の方で〔なんだい、これは小原節にある文句じゃないか〕といったら、放浪詩人と自称した作者の千野馨が、石川県人だというのでわかったのは、民謡の土地っ子にしみこんでゐるということだった。〔いやぁ〕と頭をかいてみせた千野の若い顔に善人を感じたものだった。」
知道によると《籠の鳥》の歌詞の元は《越中おわら》にあるため、東京での発売を保留にしたそうだ。そのために《籠の鳥》は、春陽が大阪の「大阪演歌青年共鳴会」の傘下に入り活動しはじめてから西のほうから流行った。一つの歌が流行するとその土地に根ざした俗謡と歌詞が類似していれば親しみが湧いて受けいれられやすいのであろう。西沢爽は『日本近代歌謡史下』において、《籠の鳥》の淵源について曲亭馬琴の『著作堂一夕話』(『蓑笠雨談』享和四年刊)を引用しながら、詳細な記述を行っている。
「さて『籠の鳥』の冒頭の歌詞は『越中おわら』に限らず、昔から各地に流転し、それぞれの土地の唄に組入まれていたものである。
その淵源は古く、曲亭馬琴の『著作堂一夕話』(『蓑笠雨談』享和四年刊)に、
−こゝを通る熊野同者、手にもつたも梛の葉笠にさいたも梛の葉といふ歌を、今の目から見れば鼠のかぶるやうに琴かきならせば、さてもこのいくすぢもある糸を一時に、指は只三本にて引ならし玉ふは名誉なりと、声をそろへてほめたてける。これ近代なげぶしといふは、なぎぶしのかはりにて、籠の鳥かやうらめしやと、好色大鑑(『色道大鏡』)の作者が作りかへたる証歌の根元なり。〔割註、以上色競馬(『男女色競馬』西沢一風、宝永五年。)〕よし野(徳子、京、六条柳町廓、二代目、吉野太夫、灰屋紹益の妻となる。〈井原西鶴『好色一代男』には世之介の妻として描かれている。〉絶世の名妓といわれた。寛永二十年、三十八歳歿)が事書るものこれら尤くはし。この作者面のあたり見たるにはあらざめれど、このころまでは聞伝へたることも多かるべし。投節は堺のり隆達といふものその名高し。章歌箕山(藤本箕山『色道大鏡』の著者、宝永九年、七十九歳歿)が作はじめしといふことは余もしらざりしが、此冊子を得てはじめてしりぬ。−とあって、元禄期の色里の大通人、藤本箕山つくる一節が梛節にうたいつがれ、さまざまな唄へと拡がっていったようである。」
遊女の嘆きの歌が時代と共に受け継がれ流布しながらしだいに変化して《籠の鳥》が生まれていったのであろう。《越中おわら》は、浅草などで女芸人が興行を打って人気を集めたので、かなり巷間では流行していた。千野にはこの歌がどこか記憶の片隅に残っていたのではないか。ともあれ、春陽の哀調あるメロディーとマッチしたことは確かだ。私は、以前、上山敬三の『日本の流行歌』で《籠の鳥》の著作権をめぐる問題を読んだことがある。赤沢大助という人物がビクターに「《籠の鳥》を作ったのは自分である」という投書を送ったという話である。関東大震災の年、興行主赤沢は、映画興行のため樺太に渡った。大泊にロシア人娼婦がたくさんいて、日本語でいうなら「籠の鳥」という意味の歌を歌っていたそうだ。それがヒントになってあの《籠の鳥》ができあがったというのだ。その赤沢なる人物は、昭和四十八年に和歌山地裁に訴訟を起こした。これが、いわゆる「籠の鳥事件」と呼ばれるものである。この訴訟については、西沢爽の『日本近代歌謡史下』に詳細に記されている。裁判は大阪高裁でも棄却され、原告赤沢大助の敗訴ということになったが、この訴訟の過程で西沢が指摘するように「この唄はそれまでの流行歌にあった日本調ではなく、西洋風であって日本人向きの五音階で作られ、相当素養のある作曲者によってつくられた」ことが実証され、春陽の洋楽の素養が改めて評価されたのである。《籠の鳥》も、《船頭小唄》と同様にいくつかの録音盤がある。この頃には、国産レコード会社も増え、大正十三年、七月から僅か三カ月だけでも、大阪のツバメ印の日東レコードから寺井金春、貝印の内外レコード(西宮)、ハト印の東亜(尼崎)では横尾晩秋、ラクダ印のオリエント(京都)からは歌川八重子、ツル印のアサヒ(名古屋)、ヒコーキ印の帝国蓄音(東京)などから、十一種類の《籠の鳥》のレコードが発売された。『街角の詩』に収録された巽京子と共演した《籠の鳥》の録音盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音で吹き込んだものである。レコード番号は、一二〇四。倉田善弘の『日本レコード文化史』によると大正十三年九月発売となっている。歌にはピアノ伴奏が入っていた。春陽と巽京子は男女のラブソングにふさわしく掛け合いで歌っている。春陽の歌い方も書生節そのもので味がある。「かたいつまった声」ではあるが、歌詞の言葉が明瞭に伝わっていくる。一語一語がよくわかることによって歌のもつ切なさが人々の心情を捉えるのである。この伴奏形式は、演歌師の作る流行歌が洋楽と融合できることを示唆するものであった。《船頭小唄》や《籠の鳥》などに代表される大正艶演歌は関東大震災前後の既成国家の権威を抹消しようとする諸事件の噴出を暗示させていた。朴烈、金子文子の摂政宮暗殺計画、難波大助が帝国議会の開院式にむかう摂政宮裕仁親王をねらった狙撃事件(虎ノ門事件)など、底辺に沈殿した無定形な怨恨、鬱的情緒(アノミー)が具象化された。これらが、やがて昭和テロリズムという情念行動の系譜に結び付けられるのである。また、一方では、大正ロマンの影には頽廃的なエロ・グロ・ナンセンスの温床が内在していた。それがパンタライ社という怪しげな団体である。浅草オペラがさかんな時分に観音裏の馬道にあって「女優派出」の看板を掲げていた。それは、ヌードショウを兼ねたお座敷ダンスの元祖であり、裸踊りの女を抱えていたからまさに「性の探求の実験室」だったのだ。パンタライとは、ギリシャ語で「万物流転」という意味である。ダダイズムの辻潤が名付けた。ここには多くの文化人が出入りしていた。芥川龍之介、徳田秋声しかり、谷崎潤一郎などは、パンタライ社の看板女優若草民子を随分贔屓にしていた。
《籠の鳥》はワルツ調ではないが三拍子のリズムである。朝倉喬司は、『遊歌遊侠』でワルツという共通項を前提に「三拍子の祖型を、私なりに推測すると、それは『天然の美』だったのではないかと思う。」とのべているが、三拍子ということなら、その中間に《籠の鳥》が存在する。三拍子のリズムについては、朝鮮メロディーのトラジを思い浮かべることができるが、春陽が古賀より先に朝鮮メロディーのリズムに着目したかどうかはわからない。しかし、流行歌に三拍子のリズムを本格的に取り入れたことは確かなのだ。《籠の鳥》も、《船頭小唄》と同様にいくつかの録音盤がある。この頃には、国産レコード会社も増え、大正十三年、七月から僅か三カ月だけでも、大阪のツバメ印の日東レコードから寺井金春、貝印の内外レコード(西宮)、ハト印の東亜(尼崎)では横尾晩秋、ラクダ印のオリエント(京都)からは歌川八重子、ツル印のアサヒ(名古屋)、ヒコーキ印の帝国蓄音(東京)などから、十一種類の《籠の鳥》のレコードが発売された。レコードと蓄音器の国産化は、明治四十年十月三一日、十万円の資本金をもって神奈川県橘樹郡川崎町久根崎に設立された日米蓄音機製造株式会社の誕生によって始まる。そして、明治四十三年、ホーン商会の社員を重役陣として発足した日本蓄音器商会が新設され(日米蓄音器商会は廃止)、ニッポノホンのマークを使用して販売を拡大した。レコードには長唄、薩摩琵琶、浪花節、義太夫などが多く吹き込まれていた。やがて、大正年間に入ると、蓄音器会社の設立が相次いだ。大阪蓄音器商会、東京蓄音器株式会社、東洋蓄音器株式会社、ヒコーキ印の帝国蓄音器株式会社(商会)などが設立された。そして、大正九年以降は、関西地方にもレコード会社が続出するようになったのである。当然、春陽は、レコード会社から引くあまたであった。『街角の詩演歌のルーツ鳥取春陽ベストコレクション』に収録された巽京子と共演した《籠の鳥》の録音盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音器で吹き込んだものである。レコード番号は、一二〇四。倉田善弘の『日本レコード文化史』によると大正十三年九月発売となっている。歌にはピアノ伴奏が入っていた。春陽と巽京子は男女のラブソングにふさわしく掛け合いで歌っている。春陽の歌い方も書生節そのもので味がある。「かたいつまった声」ではあるが、歌詞の言葉が明瞭に伝わっていくる。一語一語がよくわかることによって歌のもつ切なさが人々の心情を捉えるのである。この伴奏形式は、演歌師の作る流行歌が洋楽と融合できることを示唆するものであった。/《籠の鳥》と共に春陽のメロディーの代表作には、映画の主題歌となった《恋慕小唄》(松崎ただし・作詞/ 鳥取・作曲)がある。親の反対する女性と結婚した男が駆け落ちして小豆島で暮らすストーリだが、抑圧された男女の心情が良く理解できる。
   親が許さぬ恋ぢやとて 諦らめら切れよか ネエお前
   いっそ二人は 知らぬ国 離れ小島で 暮そうよ
春陽のレコードは、ヒコーキ印の帝国蓄音器商会から発売されている。ヒコーキ・フジサンレコード総目録の番号一二三八Aからいって、おそらく大正十三、四年頃であろう。巽京子とのデュエットで伴奏は帝蓄管弦楽団となっている。春陽は、《籠の鳥》を最初に吹き込んだヒコーキ印の帝国蓄音器商会でかなりのレコードを吹き込んだ。その中の数曲であるが、《続金色夜叉》《春陽新小唄集》《満州節》《一寸法師》、《船頭小唄》《水藻の唄》《ヴェニスの船唄》《陽はおちる》《新関の五本松》などが民俗資料館に展示されている。これも貴重なレコードといえる。特に《春陽新小唄集》は、LPレコードのように両面に数曲ずつ、しかも、ワンコーラスのメドレーで入っている。A面が《鈴蘭》《籠の鳥》《スットントン》、B面は《恋慕小唄》、《カフェー小唄》《捨小舟》と街頭で民衆を堪能させた春陽メロディーの傑作集とでもいえるレコードである。レコード番号一二六二ABからして、大正十四、五年頃のレコードではないかと思われる。また、同じヒコーキ印の帝国蓄音器商会からは同じような志向で《続春陽小唄集》が発売されている。A面には《女の唄》《旅人の唄》《舟出の唄》B面は《すたれもの》、《月の出》《銀座雀》《花園の恋》。まさに、大正艶歌の傑作集である。それにしても、驚くべきことは、昭和以前の時代にメドレー集のレコードが存在していたことである。それは、鳥取春陽のユニークな音楽的個性の一面をしめしているといえる。春陽が演歌師としてその地位を確立している間、関西、中京地方では、大正九年以来、レコード会社が続々と誕生していた。大阪にはツバメ印の日東蓄音器株式会社、兵庫県では鳩印の東亜蓄音器株式会社、名古屋の大曾根のツルレコードといわれたアサヒ蓄音器商会など設立されていた。春陽は、この頃から、次第に小唄映画の主題歌をレコードに吹き込むために関西地方に行く機会がますます重なってきた。春陽が大阪に拠点を移すのもそのためである。大阪の映画会社は震災の打撃を被らなかった。演歌師たちが歌って広めた艶歌をテーマにして競って新作を東京に送りこむようになったのだ。大阪に本拠地を置く帝国キネマが『籠の鳥』の歌をテーマに製作したのもそのような事情を背景にしている。歌もレコードに吹き込まれたので、春陽はレコード会社の引っぱり凧となったのである。春陽の大阪行きの時期は、関東大震災後の大正十三年の秋以降だと思われる。おそらく、《籠の鳥》の帝キネの封切りが八月で、ヒコーキ印の帝国蓄音器での春陽の吹き込みレコードが発売されたのが九月だから、大阪へ居を移すことになるのは、やはり、それ以後ということになる。大阪行きは、音のさすらい人鳥取春陽につかのまの安住の地を提供した。彼は、この大阪で全盛期を迎えるのである。大阪は、古代から、難波津・淀川によって都へ通ずる水上交通の要地として栄え、江戸時代には、諸大名の蔵屋敷が集中し物資の集散地として天下の台所といわれるほどの繁栄をみせ、大商業都市へと発展した歴史をもっている。明治以後は、紡績を中心に近代工業の導入により、商工業地帯として発展した。その大阪は大正十四年四月から、第二次市域拡張をおこない「大大阪」を形成しつつあった。東成・西成郡すべて新市域となり、旧市域の八区に新市域五区と合わせて十三区となった。この年から昭和九年までのおよそ十年間、大阪の人口は急増するのである。春陽は、南海線の天下茶屋の付近に居を構えた。彼は、新世界のシンボルとして聳えたつ通天閣を見て震災で破壊された十二階の楼閣を思い出した。この付近のごみごみした街の空間や人の流れは浅草とよく似ていて春陽には馴染みやすかった。それに加え、寄席の太鼓や威勢よく飛び交う大阪弁もリズムがあって心地よかった。道頓堀は、芝居茶屋を中心に栄えた代表的な娯楽街である。、芝居、映画、喜劇などの劇場が並んだ。弁天座・角座・中座・浪速座などが有名である。やがて、大正、昭和を迎えると、道頓堀の風情も幾つかの色あざやかなネオンが川面にゆらぐカフェーがにぎわう歓楽の街になっていた。 鳥取は大阪レコード界で絶頂を極めた。大正十三年の作であるが《恋慕小唄》(松崎ただし・作詞/鳥取・作曲)《すたれもの》(野口雨情・作詞/鳥取・作曲)《赤いバラ》(野口雨情・作詞/ 鳥取・作曲)が大ヒットした。春陽の作品に野口雨情の作詞のものが散見する。野口雨情は、春陽と同郷の石川啄木とは小樽の新聞社で一緒に仕事をしたことがある。わずか二十七歳で夭折した啄木も早熟の天才だが、二十代前半で《籠の鳥》で全国的ヒットを飛ばした春陽からも同質のものを感じたにちがいない。大正十五年、春陽は、一連の艶歌の大ヒットによってコロムビアの子会社であるオリエントレコードの専属作曲家になった。駱駝印のオリエントレコードは、大正三年に成立した。そこで製作されたレコードは京阪神を中心に、中国、四国、九州地方などを地盤にしていた。しかし、大正八年に日蓄に合併されていた。 鳥取の専属料は百五十円。当時、帝大出身の初任給が四十五円ぐらいであるから、相当な額である。当時、人気絶頂にいた春陽にはそのくらいのお金を払っても会社は損をしないというのだから、その評価は高かった。また、このような専属制という形式でレコード会社と契約した音楽家は春陽が最初らしい。新里村民俗資料館には、春陽のオリエントレコードとの契約書(日本蓄音機商会、松村武重との間に交わしたもの)が所蔵されている。専属第一号の契約書とは一体どんな内容なのだろうか。
第一条 甲ハ自己ノ芸術タル『書生節』『歌劇』『喜歌劇』及ビ其他總テノ芸術ヲシテ、独奏及ビ伴奏或ハ合唱又ハ独唱等ヲ、大正拾五年拾月壱日ヨリ向フ貳ケ年間ハ、乙以外ノ蓄音器レコード製造業者及ビ其ノ他何人ニ対シテモ、レコード吹込ヲ為サザルモノトス、尚甲ノ作歌或ハ作曲ニ為リタルモノヲ他人ヲシテ吹込マシムルモ亦同シ
第二条 甲ハ乙ニ於テ要求スル芸術ヲシテ契約期間中毎月最少限度両面三枚以上ノ吹込ヲナスコトヲ承諾ス。〈省略〉
第三条 乙ハ甲ニ対シ契約期間月百五十円ヲ支給スルモノトス〈以下省略〉
この契約書を交わしたときの春陽の住所は、大阪此花区上福島南一丁目百十七番地となっている。これは大阪青年共鳴会の住所と同じである。おそらく、レコード会社と春陽との折衝は大阪の青年共鳴会を通して行われていたのだろう。専属になれば生活の安定保証はある。だが、束縛というマイナス面もある。音のさすらい人、 鳥取にはちょっと窮屈だったかもしれない。契約書にも記されているように毎月レコード三枚ということは、最低両面併せて六曲ということである。それは、洋楽的手法をとっているとはいえ地べたからうまれた春陽のメロデイーがレコード会社の企画・製造・宣伝という分業工程から作られた商品になることを意味していた。大正後期は、 鳥取の全盛期だった。まさに時代の尖端を行くレコード界の寵児である。しかし、時代は大正から昭和へと移行し、新たな流行歌黄金時代を迎えようとしていた。本格的な外国資本が参入しての大量生産・消費の時代である。粗製乱造の構造は変わらないが、音楽の質は向上する。それはレコードの吹き込みシステムが大きく変わるからなのだ。そして、街頭で演歌師が歌って流行らしていた歌をレコードにするのではなくて、レコード会社が企画・製作して歌を大衆消費者に選択させるという仕組みに移行しようとしていたのである。 
古賀メロディーの時代
誰か故郷を想わざる
古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく 古賀くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。古賀は、明治三十七年、十一月十八日、九州は、福岡県三瀦郡田口村(現在は大川市)に生まれた。父は古賀喜太郎、母はセツといい、古賀は男六人、女一人の七人兄弟の六番目の子供だった。九州は古賀という姓は多い。それは地名にもあるくらいである。古賀の故郷は北原白秋の生地、水郷豊かな柳川の近くである。よく人に出身地を聞かれると白秋の柳川の近くと思わず答えた。古賀は北原白秋を敬愛していた。それを知ってか、森繁久弥が“柳川や、白秋ありて、古賀ありて”と詠んで 古賀に送ったのは有名な話である。
「詩人との交遊の多かった私にとって、かえすがえすもなく残念なことは、とうとう白秋さんと一度もまみえることがなかったことである。白秋の故郷と私の故郷は、距離にしてほんのわずかなのである。それだけに白秋の切々とつづるノスタルジアは、じつに私の望郷の詩でもあった。」
柳川と大川とは、わずか、一里たらずの距離にすぎない。しかし、詩情豊かな柳川の水郷と、大川は随分風景が違っていた。田口村から見える風景らしきものといえば雲仙岳の雄姿が遠望できるだけで、果てしなく広がる水田と縦横に掘割、その周辺に点在する草深い農家、つまり純粋な農村地帯風景そのものだった。<花摘む野辺に日は落ちて>と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。
誰か故郷を想わざる
   花摘む野辺に日は落ちて
   ・・・
   遠く呼ぶのは誰の声
   幼馴染のあの夢この夢
   ああ誰か故郷を想わざる
《誰か故郷を想わざる》には、母親への思慕に劣らないない姉への古賀の強烈な追憶を感じさせる。嫁ぐ姉を見送る時駅のプラットホームで泣いた体験をもつ西條の詩は古賀に強烈なインスピレーションをあたえた。それは、古賀が自伝に「この姉にたいする私の敬慕の情が、八十さんの歌詞に、あまりにも的確に唱いこまれていたので、一瞬、私の日記を盗み見されたのではないかと疑ったほどであった。」と記したことからも十分に窺える。姉の古賀少年への眼差しはやさしかった。土間で畳表を織りながら、優しい瞳の姉は手伝う古賀少年に自分の創作童話を聞かせてくれた。女兄弟がいなかったせいか、姉は古賀を妹のように可愛がった。古賀に女性的なところがみられたのもそのせいかもしれない。その姉は、大正二年、草刈商店の番頭、永島米蔵と結婚した。縁談が決まって、いよいよ嫁入りの日が来た。古賀の郷里には花嫁が綿帽子をかぶるしきたりがあった。嫁入りのときと死んだときの二度しかかぶらないのだそうだ。嫁ぐという強い決意をしめしているのであろう。古賀は姉の嫁入りが無性に寂しかった。そして、その寂しい感情を殺すかのように「もう帰って来ないなら、嫁なんかにいくな」という言葉がつい出てしまった。後年、 西條が古賀に見せた〈ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙の なつかしさ〉は、偽らざる少年時代の古賀の姉への思慕なのである。 
サーカスの唄
古賀の家庭環境には西洋音楽は皆無であった。あるとするならば母親が口ずさむ清元、長唄のさわりぐらいのものであったであろう。だから、音感の良い古賀は、外部に向かって音源を求めていった。自分の耳に入ってくる音の識別能力が相当高かったといえる。古賀の少年時代の音楽体験には、村にやってくる門づけの旅芸人の月琴の音があった。古賀の感性は敏感に反応したのだ。
「桃割れ髪にゆうぜん姿の娘が、月琴と四つ竹の伴奏で踊るふぜい」は、少年時代の古賀にとっては、唯一の音楽文化・娯楽であった。やがて、少年は実際に自分の手で楽器を弾いてみたいという衝動にからた。そこで、姉から古い羽子板をもらって、古い三味線の糸をさがしてきてそれに張り付けてはかき鳴らし、得意になっては門づけのまねをした」
古賀の少年時代の音楽体験で忘れてはならないのは子供心をときめかせたのが旅まわりの劇団とサーカスだった。中山晋平も上田からやって来るクラリネット、太鼓などによる小編成のジンタの演奏を聞いて西洋音楽に目覚めたと言われているが、古賀と同じ共通な原体験をもっていることは非常に興味深い。なつかしいジンタの響きが古賀メロディーの甘さと美しさ、そして感傷と大衆性の原点であるといえる。
「秋になると、鎮守の森にサーカスがかかった。うらかなしい『天然の美』をかなでるクラリネット。それが私の見た最初の西洋楽器で、私は朝から晩まで、サーカス小屋のまえに立ちつくして不思議な音色に聞き惚れ、まるで夢心地であった。」
鎮守の森とは古賀の郷里にある蛭児神社のことであろう。毎年やってくる曲馬団のもの悲しい音色。ジンタとは少数の吹奏楽隊のことである。曲馬団の人寄せや広告宣伝のために用いられた。サーカス、ジンタといえばやはり《天然の美》の旋律が浮かんでくる。〈空にさえずる鳥の声 みねより落つる滝の音〉ではじまるこの歌はワルツのリズムにのせて人々の心の底に深い味わいを残したであろう。大川で心をときめかせて聴いたあの少年期の音楽体験が《サーカスの唄》の心情へとつながっている。《サーカスの唄》は日独親善をかねてのドイツのハーゲン・ペックサーカス団の来日宣伝に作ったものである。
サーカスの唄
   旅のつばくろ 淋しかないか
   ・・・
   流れながれる 浮藻(うきも)の花は
   明日も咲きましょ あの町で  
人生の並木路
古賀の少年時代は、貧しかった。当時の明治後期の農村では、よくみられる貧農階級だった。日本の立身出世伝には、貧しい家に生まれは欠かせない常套句である。古賀も下層階級の典型としては例外ではない。古賀の父、喜太郎は、農業が正業だったが、とても農業だけでは一家を養えないので、瀬戸物の商品を天びん棒にかついで近在の村を売り歩きながら行商をしていた。古賀の微かな淡い記憶に宿された父の喜太郎という人の面影は、暮らしが貧しくても、「屈託した表情」を見せたこともない明るい人であり終生強い人であったという。古賀は、父を六歳のとき失った。弟治郎が生まれた直後の明治四十二年に父の喜太郎は病に倒れた。肝臓が悪く、福岡医大の付属病院に入院しなければならなかったほどだから、重病だった。翌年、そのまま病院で息を引き取ったのである。母セツは、大黒柱を失った後、一家を支えるために死に物狂いで働いた。古賀は、「父の法事を済ませると、それまでも働き者であった母は、まるでなにかに憑かれたかのように、一層烈しく仕事に精を出した」といつ寝るのかを知らないくらい働く母親の姿を回想している。長男福太郎は、すでに奉公のために朝鮮に渡っていたから、夭逝した古賀の妹を除いて、家に残されたのは乳幼児の弟を含めて六人の子供と祖母を抱えての母親への重圧は、すさまじいものであった。
女一つ手は一家を支えるのはやはり厳しかった。生活はゆきずまり、路頭に迷う運命がこの家族に今にも襲うとしていた。セツは、家をたたみ一家で朝鮮にいる長兄福太郎をたよって朝鮮半島にわたる決心をした。当時、日本の植民地になったばかりの朝鮮半島には、福太郎をはじめ兄弟たいが、父の死後に仁川で金物屋を営む徳本氏のところに奉公していたのだ。古賀が故郷田口村と離別した年が明治四十五年。明治天皇の崩御、乃木希典夫妻の殉死など衝撃的なニュ−スが全国に流れていた。二人とも故郷喪失による近代人への飛翔がそうさせたといえる。古賀少年は、「だっこ、だっこ」と駄々をこねる幼い弟の手を引いて故郷を捨てた思い出を終生忘れなかった。真夏の太陽が、地平線の彼方に沈んでいく。その夕暮れの美しさを背に細い影を引きずりながら、歩く四人の家族には、いかにも哀れさが漂っていた。故郷喪失、流浪が近代人の宿命だとしても、幼い少年にとっては、苛酷な運命の十字架に等しかったに違いない。
人生の並木路
   泣くな妹よ 妹よ泣くな
   ・・・
   生きて行こうよ 希望に燃えて
   愛の口笛高らかに
   この人生の並木路
《人生の並木路》は、そんな古賀の体験がそのまま歌になったようなものだ。古賀少年の行く先は、仁川、そして、京城へと。古賀メロディーが朝鮮のメロディーの影響うけているということは一般に認識されている。 古賀が朝鮮半島の生活体験において彼の音楽のもつ叙情性の源になったといっても過言ではない。兄の店で働いている朝鮮人労働者がふとなにげなく口ずさむ哀調に満ちた民謡・俗謡など生きた人間の感情のこもったメロディーが自然に古賀の体内に宿っていたのである。それが古賀メロディーの表現において「叙情核」になっていった。さらに、朝鮮での生活において、大正琴、琴、筑前琵琶、の絃楽器にふれたことも大きい。 
石川啄木と古賀政男
萩原朔太郎は、古賀政男と石川啄についてつぎのようにのべている。
「石川啄木と古賀政男は、すべての点においてよく似ている。第一に、彼等は、情熱的なロマンチストであり、そして純情的なリリシトである。しかし、彼等のロマン情操は、現実の実生活と遊離した架空のロマンシズムではなく、現代の日本の社会が実相しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の芸術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラーの普遍性を有するのである」
朔太郎は啄木と古賀の芸術の類似性を指摘しながら、古賀メロディーの世界的な普遍性を獲得する時代を予見している。後に古賀メロディーは全米を席捲することになるが、やはり、初期において藤山一郎の歌唱芸術がその魅力を引き出したことよるところが大きいのである。 
影を慕いて
金融恐慌で幕をあけた昭和、モダニズの華やかさとは対照的に暗い世相もまた時代の象徴だった。取付け騒ぎから台湾銀行の営業停止による金融恐慌の全国的拡大は、中小企業と零細預金者を悲惨な状況に追いやった。通帳を持ちながら路上で泣き伏す老婆の姿は哀れだった。その場しのぎの日銀融資の救済処置が銀行破産という最悪の結果だったのだ。対戦景気で「成り金」が続出して活気を呈した日本経済の繁栄は、実は底の浅いものであった。第一次世界大戦の終結によってヨーロッパがアジア市場に再登場してくると、日本経済は、木の葉のように揺れ動き苦境に立たされることは明白なことだった。作家、芥川龍之介が、「或旧友へ送る手記」のなかに「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と記し、自殺したのも金融恐慌勃発の年である。夏目漱石の推賞によって文壇に登場したのが大正五年。それから十一年後の自殺は、何か象徴的な事件であり、この遺稿に残された言葉にはあらためて考えさせられる。ラジオ、自動車の氾濫を意味する機械主義、ビルディングやカフェー、ネオンに象徴される都会主義は、芥川にとっては封建的な土着の残骸をごまかしているにすぎない。芥川は、中身のない皮相なモダニズムに不安、危機感と影を感じて苦悩した結果が自殺という回答を示したのも頷ける。金融恐慌と山東出兵、芥川龍之介の死、翌昭和三年は、、共産党を一斉検挙した三・一五事件、第二次山東出兵の際の武力衝突(済南事件)、治安維持法の改正(死刑罪、目的遂行罪追加)、張作霖を爆殺した満州某重大事件、特別高等課設置と不吉な時代の前触れを暗示させた。二十世紀の日本に大きな音楽遺産を残した作曲家 古賀もこの頃、マルクス、エンゲルスの本や『赤旗』を読もうと本屋の前に徹夜して開店を待ったこともある。そして、青根という東北の鄙びた温泉の宿で人生に絶望し自殺未遂を図ったのもこの頃である。
「その頃私は貧しい苦学生であった。父に逝かれた幼い私は家を飛び出して上京し、苦学しながら明治大学に通っていた。空腹を水でまぎらわしながら講義に通ったのは、前途にバラ色の門を自分で作らねばとの気概からであった。これは前途に希望を託していたにほかならなかった。だが、卒業期が近ずくにつれて、私のロマンチシズムは急速に崩壊していった。前途には、ただ灰色の重く沈殿した社会が横たわっているだけであった。」
古賀はカミソリを手にして、正気を失いどんどん谷間に降りていった。この温泉は蔵王への途中にあるらしく宿も二軒ほどしかなく、人の気配はまったくなかった。古賀はカミソリを首筋にあてた。鋭い痛みが走る。その痛みが死ぬことへの恐怖心に変わるのだ。怖くて死ねない。古賀は咄嗟に首から噴き出す血をハンカチで押さえた。そして、うつ伏せになって谷底で慟哭した。ただ泣くばかりであった。その時の鬱屈と人生への苦悶谷底から上がるときの蔵王の山に消えようとしていた。その夜は、泥酔しとうと浴びるほど酒を飲んだ。酔えなかった。夕日の鮮やかさが入り混じり、浮かんだ詩と曲もイメージが《影を慕いて》だった。
影を慕いて
   まぼろしの 影を慕いて雨に日に
   ・・・
   永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
   ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
   儚(はかな)き影よ 我が恋よ
《影を慕いて》の初演は、昭和四年六月二十二日、明治大学マンドリン倶楽部第十四回定期演奏会赤坂溜池三會堂においてである。ギター合奏で演奏された。当日、ゲスト歌手の佐藤千夜子は、明大マンドリン倶楽部の五十年史によると、《青い芒》と《龍峡小唄》と記されている。その後、昭和四年十月二六日のアンドレスセゴビアのギター演奏は古賀に大きな衝撃をあたえた。まさに古賀の胸に差し込んだ一筋の光りの矢だった。あの有名な《影を慕いて》の前奏部分ができたのはこの興奮の後であろう。
「秋の夕暮れのことであった。キセルなおしの『ラオ屋』が屋台を引き、物悲しい笛の音を流して通っていった。その音をそのままギターの音におきかえて、あのメロディーができあがった。こうしてセコビアの放った〃矢〃は閃光を放って私の体につきささって以来、私の心の奥底にとどまっているのである。恐らく永遠に抜き去ることはできないであろう。」
《影を慕いて》は、エロ全盛の頃昭和六年一月新譜で発売されている。吹込みは、昭和五年十月二十日。佐藤千夜子が歌った。A面は《日本橋から》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)である。ビクターの月報の新譜紹介には、わずか《影を慕いて》については「B面は、ギター伴奏の歌謡曲」という記されている。 
酒は涙か溜息か
コロムビアは、昭和流行歌の序盤戦においてビクターの独走を許し窮地に陥っていた。コロムビアとしては劣勢をどうにか挽回しなければならない。しかし、ビクターでは全く芽がでなかった 古賀をコロムビアは迎えいれ晋平節に対抗できる力を獲得したのである。昭和六年、九月十八日、柳条湖事件が勃発。ついに満州を中国の主権から切り離し軍事的制圧による日本支配を目的に関東軍の軍事行動が始まった。ついに近代日本の崩壊への序曲が鳴りはじめたのである。満州事変が本格的になりだした頃だろうか、なんともいえないあの暗いやりきれない時代を暗示させる鈍いギターの旋律にのせてこの《酒は涙か溜息か》(高橋掬太郎・作詞/ 古賀・作曲)が爆発的に流行した。
酒は涙か溜息か
   酒は涙か溜息か
   ・・・
   忘れた筈のかの人に
   のこる心をなんとしょう
作詞は高橋掬太郎。古賀は高橋が送ってきた七五調の短歌に困惑し苦しんだ。歌詩が短すぎて、まるで都々逸に近いものであったからである。高橋掬太郎は、すでに《月の浜辺》《キャンプ小唄》のレコードで古賀の名前は知っていた。高橋は、この二曲が好きだった。どっちらにも青春の感情が麗しくこもっていて胸一杯にし魅了してくれたからである。この《酒は涙か溜息か》の詩にはつぎのようなエピソードがある。函館の花街に千成という芸者がいた。芸達者で美人で蓬莱町では随一の名妓の一人であった。ところが、ある事情によって芸者をやめなければならなかった。彼女がいよいよ花街を去る前夜、高橋ら知人たちによって送別会が開かれた。その席上で、高橋は、《酒は涙か溜息か》を白扇に即興で書いて、餞別として千成に送った。その詩がコロンビアのディレクターの市村幸一を通うして古賀のところに送られてきたのであった。毎日、ギターを持って三味線の曲や義太夫などを弾いてみた。なかなか詩がもつ詠嘆的余情にぴったりとあうメロディーが浮かんでこない。この頃の世相を古賀は肌で感じていた。ひどく暗い憂鬱な時代だ。昭和恐慌の嵐が吹き荒れ、「大学は出たけれど」という言葉に象徴されるように、ひどい就職難。重要産業統制法によって産業合理化は一層進み、街には失業者が溢れ、どこへ行っても絶望感と深い溜息が聞こえてくるような時代であった。民衆は、権力に翻弄されながらモダニズムの蔭で多くの涙を流し続けた。大都市では、相変わらず、不況を忘れるかのようにジャズが鳴り響いていた。盛り場は、夜が更けると、カフェーやダンスホールの官能的な艶かしいネオンが灯り、人々のやるせない鬱積した心情は、エロ・グロの中に吸い込まれていった。都会のジャズの馬鹿騒ぎのなかで借金の形で売られ心身を食い荒らされる娘の涙、雑巾のように絞られ捨てられていく大衆のどうしようもない絶望感に満ちた深い溜め息、向島、本所、深川あたりの貨物列車のような裏長屋から聞こえてくる呻き声、この落差を古賀はどうしても埋めたかった。
「ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」
ジャズ=疑似的明るい情念、溜め息=暗い情念、とするならば、その距離を埋めることは、狂騒を鎮静させ、悲しみの情念が鬱屈させずに浄化することを意味する。だから、クラシックの作曲法の常套手段であるピアノを使用せず、その合理的ハーモニーや調和と均整という精神では捉えきれなかった大衆の情念をギター、マンドリンをつかった独自の作曲法で表現したのである。古賀がもし音楽学校で正規の作曲法を身につけていたなら、このメロディーは生まれていなかったに違いない。この『酒は涙か溜息か』の十六小節には「赤い夕陽が墓地の彼方に沈むふるさとの想い出も、七つの年寂しく母に手をとられて、そのふるさとを出て行かねばならなかった童心の嘆き」が込められている。また、「愛する人を義理ゆえに諦めねばならなかった哀しみ」や、「夢枕の立つまで自分を慕ってくれた愛人」を、振りきらなければならなかった苦しみ、「身は病に傷ついて、ただ一人旅の空に月を仰ぎみる孤独の寂しさ」がこの曲に集約されているという。これは、古賀の大衆から遊離したひとりよがりのな感情ではない。また、青白い青年の告白でもない。貧困、身売り、嬰児殺し、故郷との別離、肉親との別れ、失恋、失業による生活不安、嘆きに悶え苦しみ、孤独な「我」に涙を流す者は数えきれないほどいたであろう。古賀の《酒は涙か溜息か》はこれらの人々の心情をメロディー化したのである。宮本旅人が《酒は涙か溜息か》の持つ本質を「この泣きたい様な前奏に始まる音律の美しさをみよ、長くひくAの音に始まる歌のメロディーが持つ、うづく様な悩ましさにひたれよ」絶賛したのも納得がいく。萩原朔太郎もまた同様に「真のヒューマニストの芸術家」と称賛を惜しまなかったのも、民衆の苦悩、情緒、生活を生きた吐息のままでリアルに体感しできる感性に驚嘆したからであろう。萩原朔太郎は、宮本旅人の『 古賀政男芸術大観』の序文に「古賀政男と石川啄木」と題して二人の芸術家としての同質性をのべた。
「石川啄木と古賀政男とは、すべての點に於てよく似てゐる。第一に彼等は、情熱的なロマンチストであり、そして純情的なリリシストである。」
朔太郎ののべるところによると、彼らのロマンチシズムは、生活実感から遊離したものではなく民衆の苦悩、をリアルにそれぞれの手法において体感したものであり、「ホピュラーの普遍性」を有するものなのである。
「藝術家の魂は、常に大衆の心の反映鏡であり、藝術家の獨り流す涙は、常にまた大衆の心の悲哀を表象する故に、かかる純眞の藝術は、孤獨の詩人の胞から生まれて、同時にそれが大衆の所有となり、大衆によって合唱それる結果になる」
なぜ、己の内面凝視が大衆ぶ共鳴し普遍化するかといえば、朔太郎によれば、古賀も啄木も「真のヒューマニスト」だからである。そして、社会と正面から対峙しながら苦悩しオリジナルな創作芸術を完成させたからである。そこには、それぞれの分野でありがちな一方的な模倣や軽薄な和洋折衷を排した真の主体的な文化の創造がみられたのだ。 
藤山一郎
《酒は涙か溜息か》を歌った藤山は、本名の増永丈夫といって東京音楽学校のみならず、日本の楽壇が期待するホープで声楽家としての将来が嘱望されていた。後に来日したプリングスハイムやヴハーペニッヒが彼のバリトンにかなり期待をしたそうだ。それは、昭和七年、東京音楽学校主催第六十五回定期演奏会での《ローエングリン》での朗々と日比谷公会堂に響きわたった高低の均質な響きのテノールのようなのびやかなバリトンが証明していた。まさに「上野最大の傑作」は近代日本音楽の所産を思わせたのだ。昭和八年六月、同じ日比谷公会堂におけるベートーヴェンの『第九』のバリトン独唱は、それを一層認識させたである。 藤山は、明治四十四年、日本橋生まれ。東京文化のほとんどは西洋文化の模倣だったが、下町に僅かに残されていた江戸文化の面影が藤山の幼き日の記憶の底にあった。しかし、文明開化の象徴である瓦斯灯のイメージが彼の「陽」の原点だった。瓦斯灯が点火されたのは、明治五年、横浜の居留地の点火が最初だそうだ。江戸の陰影を払拭する革命をもたらした。藤山と同じ日本橋蠣殻町生まれの文豪谷崎潤一郎の『陰翳礼讚』にも詳しいが、文明開化以前の日本では、夕映え、月の出、夜明け、靄、蛍、花火など、「美の目的に添うよう」に光りと蔭の使用が巧妙な「陰翳」というものが日本の美意識において表現上重要な意味をもっていた。 藤山は、慶応幼稚舎の四年生のとき早くも童謡をレコードを吹き込んでいる。それは、慶応の音楽教師である江沢清太郎の推薦があったからである。藤山は、この江沢の推薦で東京三光堂から発売された「スタークトン・レコード」」(後の日本蓄音器商会のニッポノフォン)に《半どん》《春の野・山の祭り》《何して遊ぼ》《はねばし》などの童謡を歌っている。当時は、マイクロフォン録音ではなくおおきなスタジオの壁から突き出たメガホォンのような集音ラッパに向かって声を発声している。レコーディングのことを「吹き込み」といったのもそこらへんからきている。 古賀と藤山が登場する昭和初期、十九世紀のヨーロッパは音楽において「高級」と「低俗」という枠組みが登場したが、日本においてはその二分立は、昭和初期に見え始めた。大衆の感覚を満足させる流行歌の大量生産。 藤山が登場する以前に多くの流行歌が氾濫している。歌手も多士済々。モダニズムの経済哲学がここにも現れ、ややもするとクラシックが主張する音楽美を喪失させる。享楽と頽廃、刹那的感覚の消費、モダニズムの世相を反映する流行歌にたいして当然、当時の知識人たちは、嫌悪感をしめした。永井荷風の『断腸亭日乗』には、インテリ階級、知識人らの流行歌にたいする嫌悪感が代弁されている。
「夜お歌を伴い銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり。散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く。沓掛時次郎とやらいふ流行唄の由なり。この頃都下到処のカッフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大に流行す。其他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず。広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり」
裕福な家に育ちながら、近代化の皮相への呪詛とコンプレックスから江戸情緒に耽溺した荷風には、モダニズムの消費スピードを増すために東西が皮相な形式で折衷された流行歌は耐え難いものであったにちがいない。モダニズムは、伝統的規範の破棄から出発する。現実を直視する思想を放棄し、格調高い精神性を溶かす感覚的消費のなかで快楽を享受する民衆の唄が流れれば、知識人たちの音楽教養は捨てられる。とくに、「文化の最先端を誇る近代都市のペーブメントに、さまざまな人工的光」とともに流れ、人々のモダニズムの感染している感覚を刺激するジャズは、まさに「騒音の暴君的支配」に聴こえてきたにちがいない。しかし、ワーグナーやベートーベンを独唱する 藤山が均整のとれた澄んだ響きで正統に刹那的に感覚消費を目的としたモダン相に流れる流行歌を唄ったことは、大衆から遊離した高踏芸術が世俗化する一歩であり、「高級」=精神、「低俗」=感覚を接合する画期的なことなのである。 藤山は、刹那的享楽消費文化といわれたモダニズム文化のなかで自己創造を主体的に実践した歌手なのだ。だが、不思議なのは、およそ、悲しみの情念とは程遠い「陽」の響きをもった理性歌手が、大衆の涙を凝縮した感傷のメロディーを唄いヒットさせたことでる。慶応−上野というクラシックのエリートは、農村の悲惨さと下層民の呻き声とは無縁なはずだ。しかも、《酒は涙か溜息か》の歌詞には、酒、涙、憂さ、溜息、など情念の記号がちりばめられている。未練、自棄、悲しみなどおよそ、美しいハイバリトンで華麗に歌うクラシックの優等生に歌えそうな気がしないのである。藤山は、《酒は涙か溜息か》以降、藤山は古賀のギター伴奏で古賀メロディーを唄うが、、昭和モダニズムの蔭で流す涙と古賀メロディーから醸し出される「民衆の吐息」を表現したのだ。そのような歌手が昭和モダニズムに底流する「涙」を表現するのだから、宮本旅人は、かつて 藤山を「あの美しく若々しき風貌そのままの、青春を讚へる歌を唄はせれば天下一品である。又、古賀メロディーの一番の特色であるセンチメンタリズムの表現も、この藤山の右に出づる歌手はない」と評したことも納得できる。古賀・藤山コンビを一躍流行歌の頂点に押し上げた《酒は涙か溜息か》は、昭和六年十一月十四日に公開された松竹映画『想い出多き女』の主題歌になった。それが歌の流行に拍車を幾分かけたといえる。監督は、池田義信、主演栗島すみ子。レコード売上に拍車をかけた。また、新興映画でも歌と同タイトルで製作され十二月一日常盤座で公開された。昭和六年十二月新譜で《丘を越えて》(島田芳文・作詞/ 古賀・作曲)が発売された。《丘を越えて》は古賀の青春の譜の象徴といえる。古賀は学生時代、春は倶楽部のメンバーと花見を兼ねたピクニックに行った。古賀は、卒業を迎えた春も同じようにマンドリン倶楽部の後輩たちと小田急沿線の稲田堤にハイキングにいった。ちょうど桜が満開になる頃だった。いつものように焼酎を一本さげてでかけた。古賀は焼酎に砂糖をかきまぜて飲むのが好きだった。この日の思い出は、古賀の自伝につぎのように記されている。
「ハラハラとこぼれる桜の花びらをさかなにしこたま飲んで酔っ払い、さんざん唄い騒いでその日も暮れた。下宿に帰って帽子を脱ぐと、ビジョウのところに桜の花びらが一枚はりついでいる。この花びらをじっと見つめているうちに、昼間楽しかったハイキングの情景がよみがえってきた。学生時代さいごの花見か−二度と返らぬ若さががぎりなくいとしくなってきた。そのとき、軽快なマンドリンの音(ね)が頭に響いてきた。頭の中のメロディーは次ぎからつぎへと、おもしろいように変化していった。私はマンドリンを取り上げて楽譜に写していった。」
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。「青春」は、近代日本が生み出した学歴社会、学校歴社会が舞台装置となって成立する。「青春」というテーマを流行歌の世界に持ち込まれることによってそれまで無縁であった一般大衆との「心理装置としての共有財産」が可能になったのである。そして、青春の躍動感を溌剌と歌う 藤山の登場によって古賀メロディーの「陽」の世界が完成するのだ。「陰」と「陽」の世界を併せもつ古賀メロディーは、いろいろな歌手に唄われることによって歌謡界の共有財産になっている。朝倉孝司は、古賀メロディーの凄さについてつぎのようにのべている。
「『影を慕いて』における森進一、『目ン無い千鳥』における大川栄策、『サーカスの唄』においては小林旭、どの歌と特定するまでもない古賀メロディー全般における美空ひばり、といったぐあいに、発表後何年も経ってから、それぞれの歌が最適の歌い手をみつけ出し、しっかり結びついてしまうことだ」
《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が 古賀の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。 藤山は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。そして、声を張るところではスピントをかける。軟口蓋の後ろから抜く場合と硬口蓋から直接鼻腔に抜くという二つの武器がある。 藤山によって古賀の音楽芸術は開花した。その後の古賀の日本音楽界にあたえた功績は、彼の才能と努力の結果であり、二十世紀日本が生んだ偉大な作曲家である。昭和七年、古賀メロディーは流行する。《酒は涙か溜息か》同様に《影を慕いて》が一世を風靡した。まるで、梶井基次郎のつぎのような言葉は不気味な情念を響かせるかのように流行したのだ。
「櫻の木の下には屍體が埋まつてゐる!これは信じていいことなんだよ。何故つて、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やっとわかるときが來た。櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる。これは信じていいことだ」
昭和モダニズムの精神風景の記号は涙から未来を透視できない影に変わるのである。この時も、藤山はバリトンで声を張らずにテノールの音色をいかしたクルーン唱法で唄っている。 藤山という歌手は、まったく不思議な存在だ。昭和七年の暮れには東京音楽学校の定期演奏会でワーグナーの《ローエングリーン》を独唱している。高踏芸術の世界に身を置きながらえたいの知れない不吉な昭和の影を歌うのだからその音楽個性もユニークなのであろう。《影を慕いて》の歌詞には、「まぼろし」、「影」、「焦がれ」、「痛み」、「胸の火」、「はかなき」、「忍び泣く」、「ギター」、「時雨」、−−−感傷や影の慕情ともいうべきシンボルが殺し文句的にちりばめられている。己のロマンチシズムが崩れ、人生に絶望し自殺という自己の抹消を図った経験のある 古賀の心情がわかる。また、<永遠に春見ぬ 我がさだめ 永ろうべきか 空蝉の はかなき影よ 我が恋よ>は、近代日本の未来の不確定性に映る影と滅びゆくものへの切ない思いを感じさせる。 昭和七年一月十五日は、 藤山の歌唱で《影を慕いて》の吹き込みがあった。春陽の死と藤山による古賀メロディーの登場、《籠の鳥》と《影を慕いて》、何か因縁を感じる。《影を慕いて》は、春陽の《籠の鳥》と同様に三拍子のリズムだ。どちらも、そのリズムに哀歓が込められている。《籠の鳥》は、抑圧され、押し込められた民衆が閉塞状態から抜け出ようとし、その呻き声を洋楽の手法で演歌師の立場から作曲された。大正デモクラーの底流する民衆の呻き声を悲しくも寂しくも奏でている。そのメロディーは二〇世紀における流行歌の近代化でもある。それは大変意義のあることであった。なぜなら、街頭演歌師の立場からそれをやってのけたからだ。そして、昭和モダンを迎え、 藤山がホールの隅々までに響かせるメッツァヴォーチェによるクルーン唱法で古賀メロディーを歌唱したことも、やはり革命なのである。晋平節の《ゴンドラの唄》に始まり、《籠の鳥》から近代日本の透視できない影を象徴する《影を慕いて》へ、流行歌における二〇世紀の意味がわかるような気がする。 
苦闘の時代 / 古関裕而
昭和に入ると、街頭演歌師たち庶民の心を慰めた「流行り唄」の時代でなくなっていた。電気吹込みを完備した外資系レコード産業の成立によって、その仕組みが大きく変わっていたのである。路傍で流行っていた唄をレコード会社がレコードにするのではなく、レコード会社が企画・製作し宣伝によって、大衆に選択させるというシステムが誕生したのである。
昭和二年五月一〇月、株式会社日本ポリドール蓄音器会社が設立、日本で最初の輸入原盤をプレスした。同月、日本蓄音器商会は、技術提携を条件に英国コロムビアに三五・七パーセントの株式を譲渡した。昭和二年九月一三日、米国ビクター(ビクター・トーキング・マシン社)の全額出資によって、日本ビクター蓄音器株式会社が発足した。翌年の日本蓄音器商会は、英国資本に米国資本(昭和二年一〇月、日蓄の総株式の一一・七パーセントを米国コロムビアに譲渡)が加わって、日本コロムビア(商号・「日本コロンビア蓄音器株式会社」)が設立された。日本蓄音器商会は英米コロムビアと提携して新たな製造会社を発足させたのである。
昭和流行歌のヒット競争が日本ビクターの独走で開幕した。ビクターは西條八十、中山晋平を専属に迎え、赤盤芸術家藤原義江、「晋平節」と言われた中山メロディーを世の中に広めた佐藤千夜子、ジャズ・ソングを歌い一世を風靡した二村定一を擁してつぎつぎとヒットの鉱脈を当てたのである。昭和三年・《波浮の港》、《青空》、《アラビアの唄》、昭和四年・《君恋し》、《東京行進曲》と昭和流行歌新時代の到来だった。コロムビアは関西の傍系会社で腕を奮う鳥取春陽の上京を促していたが、彼は関西から動こうとしなかった。
流行歌新時代を迎えた昭和だが、古関は流行歌には関心がなかった。彼にとっての音楽はクラシックだった。外資系レコード会社の成立によって、電気吹込みによるクラシックレコードが洪水のごとく輸入された。コロムビアの青盤、ビクターの青盤がふんだんに聴けたのである。また、ジャズなどの洋楽レコードも同様だった。
昭和に入ると楽壇の動きも俄かに活発になってきた。昭和三年二月一九日、日本青年館において、「国民交響管弦楽団」の第一回演奏会が開催された。ハイドン・《ト長調交響曲》シューベルト・《未完成交響曲》モーツァルト・《劇場支配人》が演奏されている。
昭和五年の秋、古関は日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京した。古関夫妻は早速、日本楽檀の状況を耳にした。九月二六日、エフレム・ジンバリストの演奏会が帝劇で五日間にわたる独奏会が開催された。第一夜のブラームスの《二短調ソナタ》とベートーヴェンの《ニ長調》は好評だった。一一月二二日、井口基成がスクリアピンの作品を仁寿館で演奏し渡欧の置き土産となった。《作品二三番ソナタ》《悪魔の詩》《第九ソナタ》等への意欲的な取り組みが見られ,演奏としては申し分のない評価を得たのである。
古関夫妻は、上京するとまもなく、慶応大学に在学していた従兄の関係で、ヴォーカル・フォア合唱団に入った。この合唱団は、当時の新進声楽家、松平里子、平井美奈子、内田栄一、下八川圭祐らが主宰しており、放送オペラや演奏に活躍していた。妻金子の練習に古関も同伴していたので、彼自身もバスパートに入ることになったのである。
古関のコロムビア専属は山田耕筰の推薦によるものだが、出社通知と辞令はまだ手にしていなかった。古関は阿佐ヶ谷にある義姉の家に部屋を借りて住んでいた。三百円という多額の契約金を貰ったので、当面の生活の心配はなかったがとはいえ、コロムビアからは一行に音沙汰がないことが古関に猜疑心を生むような不安をあたえていた。
昭和五年といえば、昭和恐慌によって不景気のどん底で,街には失業者が溢れていた。古関は不安を抱えながら昭和六年を迎えた。昭和六年に入ってもビクターの勢い衰えず、コロムビアの劣勢は変わらなかった。昭和六年一月新譜の《女給の唄》は華やかな昭和モダンの「翳」ともいうべき女給の哀しき姿をテーマにした歌である。同月新譜には佐藤千夜子が吹込んだ古賀メロディー・《影を慕いて》が発売された。A面は《日本橋から》でマンドリンオーケストラ伴奏、B面・《影を慕いて》はギター歌曲だった。だが、レコードは売れなかった。コロムビアは作曲者の「古賀正男」に白羽の矢を立てた。そして、 古賀を誕生させたのである。ということは、古関と古賀はほぼ同時期にコロムビアの専属作曲家になったことになる。 
紺碧の空
昭和六年二月二五日、日本青年館でヴァイオリンの名手モギレフスキーの演奏会が開かれた。演奏曲目はチャイコフスキー・《協奏曲二長調》、モーツァルト・《アダージョーホ長調》シューマン・《ファンタジー・作品七三ノ一》、ブラームス・《ハンガリア舞曲・ヘ短調》ドビュッシー・《小さな子羊飼》《ミンストレス》などがちりばめられ、好評を博したヴァイオリン独奏会だった。三月一日には、昨秋ベルリン郊外で不慮の死を遂げた故井上織子の音楽葬が日本青年館で行われた。新響の近衛文麿指揮でベートーヴェンの第三交響曲の《葬送行進曲》が演奏された。
昭和六年春、妻金子が帝国音楽学校に入学した。と同時に古関は音楽学校近くのに妻の通学の便を考えて世田谷代田に引っ越した。ちょうど、音楽学校には古関と同郷の伊藤久男がいて、下宿先も近かった。世田谷代田には福島県出身のテノール歌手平間文寿が声楽塾を主宰しており、伊藤はそこでも声楽を学んでいた。伊藤は下宿が近いこともあって古関の所にしょっちゅう来ていた。古関はコロムビアからいっこうに何もないので優鬱な日々を送っていたので、豪放磊落な伊藤の来訪は嬉しかった。
古関が悶々とした日々を送って頃、作曲家古関を最初に知らしめることになる仕事の依頼が来た。それが、早稲田大の応援歌「紺碧の空」である。昭和六年春のリーグ戦を前にして、早稲田は打倒慶応大を果たすために新応援歌を作ろうとしていた。しかも、前年度は一勝もできなかった。早稲田としては、慶応の応援歌「若き血」に対抗できる新応援歌が是が非でもほしい。それは早稲田校友の願いでもあった。
歌詞は応援団が全早大生から募集した。その中から、当時高等部に在籍していた住治男の作品が選ばれた。選者の一人である西條が絶賛するほどの詩だった。だが、「覇者、覇者、早稲田」の個所が作曲上難しいとされ、作曲者の選定を悩ますことになった。失敗の許されない大事な新応援歌である。そのため、中山晋平、山田耕筰ら大家でなければ作曲は難しいであろうという声が大勢を占めていた。
早稲田応援団の幹部の一人、伊藤茂は当時、帝国音楽学校に通っていた伊藤久男のいとこであり、伊藤久男を通じて古関に新応援歌の作曲を依頼した。当時の古関は日本コロムビアの専属作曲家といえ、まだ、作品を書いていなかった。無名であり早稲田関係者の間では反対する声も多かった。
伊藤茂は母校の命運を古関に託した。古関も引き受けたからには、「陸の王者」に負けない歌を作曲しなければならない。だが、早稲田の劣性を挽回(ばんかい)するような旋律がなかなか浮かばなかった。発表会の期日が迫ってくる。苦心の末、ようやく完成した。応援団関係者からは「少し難しすぎる」という声もあったが、古関は己のメロディーに自信を持っており、ほとんど手を加えず発表した。
六年春のリーグ戦は慶応が早慶戦を前に優勝の有無にかかわらず、宿敵慶応を打倒しなければならない。胸部疾患で戦列を離脱したエース小川正太郎に代わってマウンドに登った伊藤正男の三連投や、二回戦で三原脩の勝ち越しを決めた劇的なホームスチールなどで、早稲田は三シーズンぶりに慶応から勝ち越し点を奪った。
初夏の陽がさんさんと輝く神宮球場。早稲田側のスタンドから沸き起こる歓喜あふれだ「紺碧の空」の大合唱。学生は絶叫し勝利に酔いしれた。「紺碧の空」は早稲田の校友にとって青春を謳歌(おうか)する魂の躍動であり、忘れぬ青春の譜となったのである。 
福島行進曲
昭和六年五月、ようやくコロムビアから古関の所へ二曲早急に作曲してくれとの依頼があった。古関はようやくコロムビアから仕事の依頼がきたことに安堵した。ところが、その作曲とは、流行歌だった。古関は躊躇した。古関の希望はクラシックの作曲家であるが、コロムビアは電気吹込みによる新しい流行歌の作曲を古関に期待していた。ロンドンのチェスター音楽出版社募集の作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」ほか四曲を応募し入選し実績などまったく何の意味も成していなかったのである。つまり、会社としては、このぐらいの組曲を作れるなら、流行歌の作曲家として十分にやっていけるだろうとい考え方だった。
昭和の流行歌は明治・大正時代の「流行り唄」を脱し、近代詩人たちが歌謡作家として腕を奮い、西洋音楽に精通した作曲家がその手法で旋律を作り、洋楽演奏家たちが歌唱する時代になっていた。コロムビアは、古関の音楽を認めていたからこそ、流行歌の作曲を依頼したのである。古関も契約時に貰った三百円もそろそろ底をつき始めたので、流行歌とはいえ、背に腹を変えるえることができなかった。
さて、古関は流行歌といっても、作曲したことがなかった。そこで、とりあえず、日本歌曲のつもりで作曲していた自作品を吹込みことにした。それが《福島行進曲》と《福島セレナーデ》である。発売は昭和六年七月新譜。ちょうど、古賀政男と藤山一郎の第一作の《キャンプ小唄》も同月に発売されている。古賀はコロムビアから専属作家としての打診を受けたとき、流行歌の作曲には自信がないことをのべて、社員入社を希望していた。
古賀社員希望であったことは、古関の自伝にもつぎのように記されている。
「私がコロムビア専属になった頃、古賀政男さんは既に社員として入社していた。ストップウォッチ片手に吹き込みの記録などを担当していた。私のレコーディングにも幾度か立ち会ってくれたこともある。時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながらお互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてかたわら盛んに作曲もやっていた」
古賀の社員入社は古関の記憶違いであろう。古賀は社員希望だったが、コロムビアからは強引に専属作曲家の契約を結ばされている。だが、古賀は作曲家としての自分に全く自信がなく、会社に毎日出社し社員の真似ごとをやっていたことは事実である。
古関と古賀はほぼ同期ということもあり、お互いを励まし合いながら地下食堂で語り合うことが多かった。古賀はこのとき自分の音楽の夢はギター・マンドリン、プレクトラム音楽の演奏家として身を立てることを語った。現に古賀は母校の明治大学のマンドリンオーケストラを指揮・指導していた。古関が古賀と将来の夢と抱負を語り讃え、励まし合っていたということは、古賀自身がまだコロムビア入社の頃、クラシックを志向していたことになるのではなかろうか。
古賀は「月二曲」という条件をのみ作曲家として恐る恐る仕事をしていた。だが、藤山との出会いによって大きくその才能が開花して行くのである。
古関は故郷福島を愛してやまなかった。記念すべきデビュー曲は故郷に捧げるつもりで《福島行進曲》を選んだ。B面のやはり故郷福島をテーマにした《福島小夜曲》を選んだのだ。この曲は、昭和四年、福島で「竹下夢二展」が催された時作曲したものである。古関は絵画にも関心があったので、同会場を訪れた。竹下夢二が滞在中に書いたと思われる墨絵の福島の風景画とその下段に書かれた民謡調の歌謡に心を魅かれた。古関はこの詩画に深く感動し早速、全部ノートに写して帰宅した。そして、感興のおもむくまま楽想を練ったのである。
古関はレコードに吹込むうえで次の三編を選んだ。
   遠い山河たずねて来たに吾妻しぐれて見えもせず
   川をへだてた弁天山の松にことづてしてたもれ
   信夫お山におびときかけりゃ松葉ちらしの伊達模様
弁天山は福島市を流れる阿武隈川を隔てて見える丘陵地である。信夫山は桜の名所で知られている。古関は、哀調のある民謡調の童歌的な歌曲に仕上げていた。
《福島行進曲》は天野喜久代、《福島小夜曲》は阿部秀子が歌った。天野は帝劇出身のオペラ歌手だが、ジャズ・ソングを二村定一と一緒に歌っていたので、流行歌には馴染みがあったが、阿部秀子の方はクラシックの声楽家で、言葉が不明瞭で歌唱力に難があった。福島では竹下夢二愛好家が比較的多いので、《福島小夜曲》の方が地元では歌われた。だが、流行歌、いわゆるレコード歌謡としてのヒットというわけではなかった。クラシックの作曲を自負している古関はむしろ、流行歌で声価が決定しなかったことに内心ではホッとしていた。 
日米野球行進曲
昭和六年九月二二日、古関夫妻が所属するヴァーカル・フォアのソリストとしてオペラ、演奏に活躍した松平里子がイタリアのミラノにて急逝した。九月二九日、ドイツに留学していたテノールの奥田良三が帰朝して独唱会を開いた。奥田はすでに鈴野雪夫、植森たかをという名前でビクター、コロムビアで流行歌を吹込んでおり、ポピュラー音楽にも熱い眼差しを向けていた。
昭和六年十月一日、古関は正式に日本コロムビア専属作曲家になった。コロムビアから朗報の通知を受けてからおよそ一年が過ぎていた。八月新譜で古関のユニークな新民謡・《平右衛(ヱ)門》が発売された。北原白秋の飄逸な詩想は卑俗な世界をユモーラスに描いたものだった。古関は、奇抜な作曲法で楽想を深め、歌手・藤山一郎も格調を徹底的に捨て去り、白秋の卑俗な野調をくんだ俗謡的なユーモラスな歌唱だった。このレコードを聴いたかぎりでは、あのクラシックの殿堂・官立「上野」(東京音楽学校・現芸大)が期待する音楽学校生・増永丈夫が歌っているとは思わなかったであろう。古関は慶応普通部(現慶応高校)から東京音楽学校というクラシックのエリートがなぜレコードに流行歌を吹込むのか不思議だった。
幼少のころから、山田源一郎、弘田龍太郎、山田耕筰、梁田貞ら日本の近代音楽の巨匠らに師事し英才教育を受けたこの青年が何故に流行歌を歌うのか、古関は解せなかった。しかも、「上野」では、声楽を船橋栄吉、音楽理論・指揮法をクラウス・プリングスハイムに師事し、来年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督を務めたヴーハー・ペーニッヒがこの増永丈夫のために招聘されることなのだ。
聞くところによると、昭和の恐慌で傾いた生家の借財返済に少しでも役立てようということらしい。ところが、音楽学校は校則で学校以外での演奏を禁止していた。卒業後に流行歌を歌うことは、すでに、徳山l、四家文子、関種子ら「上野」出身らの声楽家が流行歌手として歌っているので問題にならないが、在校中はまずかった。発覚すれば厳しい処分がまっていた。そこで、素性を隠すために芸名藤山一郎が生まれたのである。
古関はとにかく藤山の歌で《山の唄》《輝く吾等の行く手》を吹込んだ。スポーツ映画の主題歌として作られた行進曲風の歌だった。古関も藤山も吹込み料さえ貰えれば文句ないので、歌がヒットすることなど全く考えていなかった。
古関は《紺碧の空》の作曲以来、野球との結びつきを深めてゆく。昭和六年十一月、読売新聞社は大リーグの選抜リーグを招いた。このときのメンバーはすごかった。アメリカリーグが誇るグローブ、首位打者・シモンズ、名捕手・カクレーンらフィラルフィアのアスレチックスを中心に、ヤンキーのルー・ゲーリッグ、ドジャーズのオドゥールらそうそうたるメンバーだった。日本はプロ野球が発足する前であるから東京大学のチームが中心となって対戦したのだ。
日本コロムビアは読売新聞社とタイアップし、大リーグチームを歓迎するという意味もあり大会歌を作ることになった。作詞は久米正雄、作曲に古関が起用された。当時、古関は「福島行進曲」「福島小夜曲」の作曲以来、大衆歌の作曲家として歩み始めていた。大リーグの一流選手の打球のすごさ、投げるボールのスピード感をメロディチームは込まなければならない。歌詞には「野末の走る稲妻」「まこと章葉」など、洗練された高度な大リーグ野球にそぐわない言葉もあり、古関は苦労した。古関は実際にアメリカのスタープレーヤーたちを見たことがない。想像力を駆使して作曲するほかなかったのである。
六年十一月二日、アメリカ選抜チームの歓迎会が日比谷公会堂で開催された。そして、古関が作曲した「日米野球行進曲」披露された。オーケストラの指揮は古関が担当することになった。古関は自伝に次のようなことを記している。「この歌を新交響楽団の伴奏で、大合唱団が合唱することに決まった。伴奏は私自身が三管編成のシンフォニーオーケストラに書きおろし、私が指揮をすることになった。」(鐘よ鳴り響け)。日比谷公会堂には四千人のファンが集まった。古関はそのような大観衆を前に音楽の殿堂・日比谷公会堂で指揮をしたのである。
さて、試合だが、日本チームは十七戦全敗に終わった。だが、早稲田が八回まで五−〇とリードする試合などもあり、日本の野球ファンを十分に熱狂させたのである。当時、古関が作曲した「紺碧の空」で意気上がる早稲田・伊達選手の好投が光った試合だった。日米野球はその後も全慶応が〇−二と惜敗するなど、興行は大成功に終わった。「日米野球行進曲」もその成功に大いに貢献したのである。
無事、日比谷公会堂での大役を終えて、ホッとしていた古関に衝撃が走った。古賀がヒットの鉱脈をあてたのである。《酒は涙か溜息か》が一世を風靡したのである。歌唱者は 藤山。正統な声楽技術を解釈して、メッツァヴォーチェの美しい響き効果的にマクロフォンに乗せたクルー唱法で古賀のギターの魅力を伝えたのである。つづいて、藤山が豊かな声量で高らかに歌いあげた《丘を越えて》が大ヒット。日本の流行歌は古賀メロディー一色に塗りつぶされたかのようであった。
古賀メロディーが一世を風靡すると、社内では古関への風当たりが強くなってきた。古関にしてみれば、その理由が分からなかった。コロムビアは古賀と古関を天秤にかけていたのだ。 藤山と二人(古賀・古関)を組ませ、どちらがビクターの勢いを止めコロムビアの巻き返しができる曲をつくるのか、実は競争させていたのである。コロムビアがこんな思惑で古関に仕事を依頼していたとは、古関は知るよしもなかった。歌手の 藤山は素性を隠した覆面の謎の歌手であり、そのような歌手が歌ってヒットするはずがない。それを考えれば、東京音楽学校のエリートを本気にさせた点において、古賀は古関よりも非常に幸運だったといえよう。だが、 古賀にもブレーキがかかった。《酒は涙か溜息か》のレコードがあまりにも売れすぎて、歌っている藤山が東京音楽学校声楽科に在籍する学生であることが発覚して問題になり、藤山はレコード界から去ることになったからである。これが有名な「藤山一郎音楽学校停学事件」である。これは古賀にとって痛かった。 
新鋭作曲家の登場
昭和七年、古賀政男・藤山一郎による《影を慕いて》が巷では流行っていた。、世相は満州事変の翌年であり、井上準之助、団琢磨が凶漢の手にかかり(血盟団事件)、神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」、この「坂田山心中」の騒動のさなか、「問答無用」の一言で時の総理大臣犬養毅が青年将校に暗殺される「五・一五事件」がおきるなど血なまぐさい不安な時代を象徴していた。このように不気味な「翳」が日本を覆い尽くしいていた頃、 古関は苦闘の時代を迎えていた。
昭和七年三月、満洲国が建国された。古関はそれに合わすかのように《満州征旅の歌》(西岡水朗・作詞/古関・作曲)《我等の満州》(高橋掬太郎・作詞/古関・作曲)を作曲した。古関はロシア民謡が好きだった。雄大な大陸から感じる異国情緒に魅了されていたのだ。満州を舞台にしたこの歌の歌唱はいずれもバリトン歌手の内田栄一。古関は内田とはヴォーカル・フォアで親交があった。この頃から菅原明朗との付き合いも始まった。
昭和七年四月二九日から四日間にわたって、フランス女流ヴァイオリニスト・ルネ・シューメが東京劇場で独奏会を開いた。さらに五月三一日、日比谷公会堂で告別演奏会を催し、彼女自ら編曲し宮城道雄・作曲《春の海》を演奏した。同ステージでは作曲者の宮城道雄との共演も見られ聴衆に感銘を与えた。それより、二日前であるが、妻金子が敬愛する三浦環が一二年ぶりに帰朝しており、東京劇場で独唱会を催した。六月一一日、フランスから留学を終えて帰国していた荻野綾子が朝日講堂で演奏会を開き、同じく渡仏していた佐藤美子が日比谷公会堂で独唱会を開いている。音楽学校で声楽を学び声楽歌を目指している金子にとって、日本声楽界の動向は大きな刺激になっていた。
流行歌では、昭和七年の初夏、《天国に結ぶ恋》(柳水巴・作詞/林純平・作曲)が流行した。神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」を題材にした時事歌謡である。慶応の学生・調所五郎と静岡の素封家の娘・湯山八重子は親の反対にあって結ばれず、二人は自殺した。それを悲しんでの心中だった。とはいえ、昭和モダンの「翳」が目立ち始めた頃、《天国に結ぶ恋》は徳山lと四家文子の歌唱で哀歌として世に広まったのである。 藤山無しの古賀メロディーは劣勢である。そこにビクターには新鋭佐々木俊一という作曲家が現われたのである。
佐々木俊一は古関と同じ福島県出身である。ビクターではバンドマンとして仕事をしていた。オーケストラの一員でありながら、仕事が終わった後、夜遅くまでピアノに向かい作曲をしていた。その努力が実り、《涙の渡り鳥》が誕生した。レコードは小林千代子の歌で、昭和七年一〇月に新譜発売された。 藤山の古賀メロディーで形成を逆転させたコロムビアを追う立場になっていたビクターにとって、願ってもないヒットだった。小林千代子は、佐々木俊一と同じ東洋音楽学校(現東京音楽大学)出身の歌手。金色仮面という覆面歌手として話題を呼んでいたが、このときは覆面をすでに脱いでいた。
昭和七年の晩秋、《忘られぬ花》というロマッチックな抒情歌謡がポリドールから発売された。江口夜詩という新しい作曲家が歌謡界で注目されたのである。《忘られぬ花》は江口自身、亡き妻を思いピアノの鍵盤を涙で濡らしながら作曲したと言われている。江口は 古賀の《酒は涙か溜息か》を意識して作曲した。当然伴奏にもギターが使用されていた。歌手は新人の池上利夫。西岡水朗の抒情詩に甘美なメロディーをつけた江口夜詩の新しいギター曲と新しい歌手の登場だった。
江口は《忘られぬ花》を最初コロムビアに持ち込んだ。だが、コロムビアの文芸部は売れないと判断し、問題にしなかった。それがポリドールに持ち込まれてヒットしたのだから、コロムビアは驚きの色を隠せなかったのである。社内での責任追及も相当厳しかったそうだ。
《忘られぬ花》のヒットによって、作曲者の江口夜詩が注目された。江口夜詩は、本名江口源吾。明治三六年生まれ。一六歳のとき海軍軍楽隊に入った。海軍省委託生として東京音楽学校に学んだ。昭和三年には、昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲《挙国の歓喜》を発表した。昭和六年五月、海軍を除隊してポリドールの専属で活動したが、その後、フリーの立場をとりながら、各レコード会社で流行歌の作曲をしていた。
佐々木俊一、江口夜詩が台頭し始めた頃、古関はコロムビアでの仕事が減ってきていた。だが、現状に満足していた。自分はクラシックの作曲家だとういう自負が強く、《紺碧の空》の作曲で名を轟かせ、《日米野球行進曲》では日比谷公会堂で指揮を振るなど、音楽家としての地歩を着実に築いていると思っていた。その頃、ハーモニカの大御所宮田東峰(コロムビア専属)から、「ミヤタ・バンド」の指揮を依頼された。このバンドはハーモニカのオーケストラとしては日本最高峰であり、古関はクラシック作品が演奏できると思い、喜んで引き受けた。
当時、ハーモニカ・バンドは、行進曲が中心だったが、古関はそのレパートリーや演奏形式を一変させた。ドビュッシー、ラベル、ストラビンスキーなどの楽曲をちりばめた。同オーケストラの上原秋雄の独奏をいかし、メンデルスゾーン、ベートーヴェンの《ヴァイオリン・コンチェルト》を演奏した。古関が指揮するようになってから、「ミヤタ・バンド」は斬新なハーモニカオーケストラとして注目を浴びるようになったのである。 古賀が明治大学のマンドリンクラブを指揮するなら、自分はハーモニカオーケストラを指揮しクラシックのスタンスをあくまでとろうとした。
ギター曲が流行歌の主役になり始めた頃、古関もギター曲に挑戦している。《山のあけくれ》のB面《時雨の頃》(松坂直美・作詞/古関・作曲)がそうである。歌唱は美貌のソプラノ歌手の関種子。東京音楽学校出身の才媛である。古関は声楽家が自分の作品を歌ってくれることに満足だった。
この曲の伴奏のギター演奏は古賀である。古関は古賀のギター演奏のテクニックに驚いた。古関が師事している菅原明朗は古賀のギターを認めようとしていなかったが、古賀はギター・マンドリン演奏家としても一流なのである。だが、《時雨の頃》のレコードは妻金子が憧れる関種子の歌唱と古賀のギター演奏にもかかわらずヒットしなかった。
一方、佐々木俊一は、昭和七「年の暮れ、さらに《島の娘》という大ホームランを放った。作詞は長田幹彦。小唄勝太郎が一躍大スターの座についた。絹糸のような細い美声で歌う日本調歌手の登場である。ライバルの市丸(ビクター専属)と共に日本情緒艶やかな歌声で多くの歌謡ファンを魅了したのである。
歌詞の中に登場する〈ハァー〉が女心をやるせなく燃え上がらせた。この頃、女子学生の私通事件が持ち上がり新聞紙上を騒がせていた。私通とは夫婦でない男女の恋愛を意味するが、現代なら問題になることはないが、当時は女子学生の恋愛にいろいろとうるさかった。歌詞について内務省からお叱りが出た。「恋心」を「紅だすき」に替えられた。だが、〈人目忍んで、主と一夜の仇なさけ〉はなぜかクレームがなかった。それでも、さすがに太平洋戦争が激しくなると、全く違う歌詞に替えられた。とにかく、佐々木俊一はビクターの新たなヒットメーカーになり、同時に小唄勝太郎神話が出来上がった。ビクターは 藤山が歌謡界から去っているあいだに巻き返しを図ったのである。
コロムビアは古賀に続くヒットメーカーとして、新たな作曲家を必要としていた。ライバルビクターは大御所中山晋平と新鋭の佐々木俊一の両輪で打倒古賀メロディーを図っていた。コロムビアは、江口夜詩を専属に招こうと動いた。コロムビアは 古賀と競わせようということなのだ。実をいうと、コロムビア内部では、ギター・マンドリンの古賀とハーモニカの古関とは勝負はついていたのだ。ところが、古関は将来の夢を語り励まし合っていた 古賀と天秤にかけられていたなどつゆも知らなかった。自分は流行歌の作曲家ではなくクラシックの作曲家として迎えられていたと思っていたからだ。
昭和七年一二月二七日、早速、《浮草の唄》という江口夜詩の曲がコロムビアで吹込まれた。昭和八年二月、江口夜詩はコロムビアに正式入社。江口夜詩は、コロムビア専属作曲家として同専属作曲家 古賀と激しい競争を展開するのである。古関の二月新譜は《国立公園日本アルプス行進曲》(本山卓・作詞/古関・作曲)だった。また、二月新譜の中には松竹映画・『限りなき舗道』の主題歌・《限りなき舗道》(佐藤惣之助・作詞/ 古関・作曲)《街の唄》(北村公松・作詞/古関・作曲)はヒットしなかった。
江口の入社以来、古関への風当たりもますます強くなっていた。古関の場合は、古賀のような作曲上のスランプからくるものではなかった。だが、古関はクラシックの作曲であるという自負を曲げることがなく、社内の風当たりなどいっこうに気にしない様子だった。菅原明朗の下でリムスキー・コルサコフの音楽理論の勉強も怠らなった。妻は声楽の勉強に励み、自分は音楽理論の本格的理論研究に没頭する日々を送っていたのだ。だが、古関は厳しい局面に直面した。それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや 古関は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、二年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。そのとき、古関はなぜ、 古賀が社員入社にあれほどまでに拘っていたのかが分かったのである。
苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである 古賀の主張を聞き入れた。
古賀は「芸術家はスランプがつきもの」という発言をしたが、このような言葉をのべることは古賀自身も流行歌・レコード歌謡のヒットメーカーという意識よりも、芸術家・音楽家というそれの意識が強かったと思われる。古賀も一世風靡したヒットを得たのもたまたまアルバイトの素性を隠した覆面歌手・ 藤山が歌ったからであることを十分に知っていた。
さて、話題の藤山(増永丈夫)が昭和八年年三月、東京音楽学校声楽科を首席で卒業した。昭和七年の暮れ、クラウス・プリングスハイム指揮の《ローエングリン》の独唱(日比谷公会堂)では、マリアトール、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手に伍して豊かな将来性を示した。卒業演奏ではパリアッチのアリアを独唱し「上野最大の傑作」の賛辞を得た。そして、改めて誰憚ることなくビクターと専属契約を結び、世に定着した「テナー藤山一郎」と「声楽家増永丈夫」をスタートさせたのである。
藤山一郎のビクター入社は古賀を中心としたコロムビアにとって大きな痛手だった。なぜなら、日独親善をかねてのドイツのハーゲン・べックサーカス団の来日宣伝のために作った《サーカスの唄》の歌手に藤山を予定していたからだ。また、当然、藤山チオ江口のコンビも予定していた。なぜなら、藤山はニットーレコードで「藤井竜男」の変名で江口夜詩の作品を吹込んでいた。藤山がコロムビアに来れば、当然、江口夜詩とコンビを組んだであろう。また、古関にとっても 藤山は、待ち望んでいた歌手である。古関は藤山のレジェッロなテノールの音色を生かした爽やかな歌唱で軽快なマーチ風の曲を考えていたからだ。しかも、藤山は音楽理論をあの高名なクラウス・プリングハイムに師事していたので、古関は藤山から学ぶべきところが多かった。
《サーカスの唄》に藤山が使えないとなると、それに代わる男性歌手が必要になった。中野忠晴のような外国系のポピュラー歌手では、古賀の哀愁に満ちたセチメンタルの表現が難しい。古関は中野の歌で地元歌、行進曲を吹込んでいた。一〇月新譜発売の《八戸行進曲》(谷草二・作詞/ 古関・作曲)は東奥日報懸賞当選歌だったので、地元では好評だった。だが、中野のバリトンは重く流行歌には不向きだった。コロムビアの文芸部は上野の音楽学校の学生を古賀と 西條の前に連れて来た。この青年は、藤山がニットーレコードに紹介した福田青年である。コロムビアに来た頃、福田は、まだ音楽学校をやめるかどうか煩悶中だった。ポリドールで吹込んだ《忘られぬ花》がヒットし、学校当局に目をつけられ始めていた。しかも、音楽学校の女生徒との恋愛問題の噂もあり、学校に入れる状況ではなかった。
福田青年は松平晃という芸名を名乗った。昭和八年の三月新譜の松竹映画『椿姫』の主題歌《かなしき夜》を吹込み、コロムビアからデビューした。コロムビアは、ビクター専属テナー 藤山の対抗馬として、コロムビアは、新鋭・松平晃を歌謡界に登場させたのである。新たな青春歌手の登場だった。
古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。五月新譜の古関メロディーは僅か《外務省警察歌》(岩崎栄蔵・作詞/ 古関・作曲)だけだった。六月新譜は《春のうたげ》(野村俊夫・作詞/古関・作曲)《青森市民歌》岩村芳麿・作詞/古関・作曲)の二曲、《青森市民歌》はAB両面なので、結局古関メロディーの六月新譜発売レコードはたった二枚だけだった。七月新譜発売は《五色旗の下に》(島田芳文・作詞/ 古関・作曲)と《萬里の長城》(島田芳文・作詞・古関・作曲)はAB面にカップリングだから、七月の新譜発売レコードはたた一枚しか発売されなかった。《萬里の長城》では初めて松平晃とコンビを組んだ。だが、ヒットには程遠かった。
コロムビア社内における江口メロディーと古賀メロディーの競争は熾烈な戦いだった。だが、古賀は藤山を失いスランプに陥ることになる。古賀メロディーで一世風靡した 古賀でさえ、ヒットがなければ、厳しい状況を迎えることは時間の問題であった。
昭和八年六月、日本クラシック界はクラウス・プリングスハイムと近衛秀麿のベートーヴェンの《第九》の競演が大きな話題だった。東京音楽学校のオーケストラを指揮するクラウス・プリングハイムと新響を率いる近衛との対決だったのである。六月一八日、日比谷公会堂でクラウス・プリングスハイムの指揮で颯爽と第四楽章のバリトンの逞しいソロを響かせたのが期待の新鋭増永丈夫だった。まるで、響きが体から離れるような眼の前に飛んでくる感じでホールの隅々まで響き、聴衆に感銘を与えたのである。当夜の聴衆は、テノールのような美しい音色を持つバリトン歌手がまさか古賀メロディーのギター曲の魅力を伝えた流行歌手テナー 藤山とは信じられなかった。古関も同様だった。だが、
昭和八年九月新譜の《東京祭》(門田ゆたか・作詞/古賀・作曲)は、《東京音頭》の前に敗れた。人気上昇中の松平晃が歌ったにもかかわらず、中山−西條コンビの《東京音頭》の前に消されてしまった。古賀としては自信作のはずだったが、《東京音頭》の歌唱者に小唄勝太郎が名前を連ねれば、申し分がなかった。
古賀は、このレコードが発売された頃、肺結核の初期症状にかかっていた。昭和八年八月二一日、神田杏雲堂病院に入院した。中村千代子との結婚生活の行き詰まり、また、《東京祭》の敗北、 藤山無しでの各社レコード会社とのヒット競争、同じコロムビアでの江口夜詩とのライバル関係等々。古賀は追い詰められていたのだ。ここに天才作曲家古賀の知られざる苦悩があったのである。完全なスランプだった。
その頃、藤山は、古賀メロディーとは無縁な世界にいた。そして、バリトン増永丈夫としてラジオ放送に登場する。1933(昭和8)年9月20日「世界民謡しらべ」というNHKラジオ番組で、ベートーヴェン編曲のアイルランド、ウエールズ、スコットランドの民謡が特集された。藤山は本名の増永丈夫でバリトン独唱した。
昭和八年一〇月九日、古賀は正式に離婚した。古賀の結婚はあきらかに失敗であった。古賀はそのような古関夫妻の姿を理想に東洋音楽学校出の中村千代子という女性と結婚したはずだったが、音楽を基本にした夫婦生活を営むことができなかった。
中村千代子という女性は、最初から古賀の地位と名声だけを求めていた。古賀自身も彼女に恋い焦がれて結婚したというわけではなかった。古賀は、この時期精神的に苦境に立たされていた。同月新譜の《はてなき旅》(西條・作詞/ 古賀・作曲)は当時の古賀の心境に一致する。スランプ状態を暗示しているのだ。
古賀が離婚した一〇月九日、日比谷公会堂で『藤山一郎と増永丈夫の会』が開かれた。一部ではドイツリート,オペラのアリアを独唱。ヴェルディーの《椿姫》では増永丈夫(藤山一郎)がヂ(ジ)ェルモン(父役=バリトン)をヴィオレッタは美貌のソプラノ歌手中村淑子が演じた。声量豊かな美しい響きのバリトンは聴衆に感銘をあたえた。第二部ではマクロフォンを効果的にいかしたクルーン唱法で流行歌を歌った。そして、第三部はミュージカルショーを演出したのである。藤山は 古賀とは全く無縁の世界にいた。
昭和八年の晩秋から九年の四月まで、古賀は病気回復と精神的傷を癒すために伊東の温泉で静養した。当然、その間の作曲活動は中断である。とにかく体を休めたかった。古賀は浴槽のなかで静かに傷を癒していた。古賀が雲隠れした後、古関は矢面に一人立たされていた。コロムビアにとってはヒットの鉱脈を当てることができない作曲家は必要ないのである。
昭和八年一一月新譜の《をどり踊れば》(久保田宵二・作詞/古関・作曲)で同郷の伊藤久男と初めてコンビを組んだ。伊藤久男はリガールから「宮本一夫」の名前でデビューしていたが、九月新譜の《ニセコスキー小唄》で「伊藤久男」としてコロムビアからメジャーレーベルのデビューを果たしていた。伊藤もこの頃はまだ、オペラ歌手を目指していた。バリトンだが、テノールの音域も出る。流行歌のテナー歌手にあるか、オペラのバリトン歌手を目指すのかまだはっきりとしていなかった。古関は伊藤のためにドラマティックな叙情歌を作曲したかったが、コロンビアの企画は二人の個性とは全く違うものであった。
昭和九年一月新譜で古関メロディーの流行歌、三曲が発売された。その中の一曲を歌った歌手に荘司史郎という歌手がいた。この歌手はキング・ポリドール専属の東海林太郎である。東海林太郎はコロムビアで変名を使って数曲吹込んでいる。
古関は東海林がクラシックの声楽家を熱望していたことを知っていた。その夢を実現するために、東海林は満鉄を辞したのである。音楽学校を出ていないということもあり、売り込み先のレコード会社からは門前払いを食らっていた。ところが、時事新報社主催の音楽コンクールの声楽部門で入賞すると、レコード会社の態度も急変したのだ。コロムビアもその一つだった。
東海林太郎はすでにキングとポリドールの両方の専属になっていたので、コロムビアでは変名を使って吹込んだ。東海林は声楽家ではなく流行歌手としてレコードを吹込まざる得ない状況に落胆していた。それは古関も同じ心境だった。詩人が歌謡作家になり、クラシックの技法・洋楽の手法で作曲され、洋楽演奏家が流行歌を歌う新時代とはいえ、それはトップレベルの話であり、まだまだ、演歌師が奏でる「流行り唄」の名残りは十分にあった。
東海林太郎が変名・「荘司史郎」で歌った古関作品が発売されてから、まもなく二月新譜の《赤城の子守唄》(佐藤惣之助・作詞/竹岡信幸・作曲)で東海林太郎は一躍スターダムに押し上げられた。これは発売元のポリドールも全く予想外だった。民謡風とはいえ、股旅という「ヤクザ」をテーマにしたレコード歌謡は哀調溢れる艶歌調を濃くした分、浪花節愛好家の心情にマッチした。
アルバイトで歌った藤山は別として、松平晃、東海林太郎が歌ってヒットしないとなれば、古関メロディーではヒットの鉱脈を当てることはできないという判断が生まれてもおかしくはなかった。古関はクラシックに固執するかぎり、ヒットは望めないことは分かっていたが、頭では認識できてもいざ曲を作るとなるとなかなか思うようにできなかったのである。ヒットを出せば「晋平節の亜流」という批判もクラシック側からの批判を被りかねない。そう思うと「流行り唄」と言われる俗謡のなかに宿る享楽頽廃性を帯びたセンチメンタリズムをうっかり旋律に込めることができなかった。
歌謡界は、《赤城の子守唄》を歌う東海林太郎ブーム一色となった。古関は解雇通告に怯えながら不安な日々を送っていた。そこへ、古関にとっては衝撃的なニュースが伝わった。それは、 古賀が正式にコロムビアを辞めるというニュースだった。古賀はテイチク移籍をめぐってコロムビアと係争中だった。だが、結局、コロムビアは折れた。古賀のテイチクへの移籍を認めたのだ。
昭和九年五月一五日、テイチクの東京文芸部が古賀を中心に発足した。そうなると、コロムビアはポリドールの東海林太郎旋風を含めて新興勢力に対抗するために一人でも作曲家が必要だった。 古関の残留は決定したのである。そして、コロムビアは古関に流行歌のヒット作品を作ることを要求したのである。古関は悩んだ。だが、ここでヒットを出さないと今度は本当に専属打ち切りということになりかねないことも確かなのだ。 
利根の舟唄
古関裕而は、コロムビア専属作曲家となって以来、初めて流行歌の作曲に本格的に苦しんだ。なぜなら、ヒットを意識したからである。もし、ヒット曲を書けなければ、もはやコロムビア専属にいることはできない。専属打ち切り解雇通告は決定的だ。苦闘の日々が続いていた。レコード歌謡においてヒット曲は至上命令である。だが、彼のクラシック的な作風は民衆歌謡特有のセンチメンタリズムをもとめられる流行歌にいまひとつ馴染(なじ)めなかったのである。西洋音楽の技法によって日本人の心情を表現するためには、ある程度は日本人の伝統的な肌合いは必要だ。邦楽的技巧表現ともいえる微妙な節回しは洋楽の記譜法では表現することはほぼ不可能である。西洋音楽は「十二平均律」による記譜法であるから、洋楽音符で示されるレガートなメロディーラインのなかに「微妙な音」の到底表現が不可能なのである。
古関はメロディーの源泉を民謡に求めた。短音階を用いた「晋平節の亜流」という批判にならないにように頽廃的哀調を避ける意味でも、都会化され以前の純粋な民謡にメロディーのそれを求めたのである。
古関は作詞家の高橋掬太郎と一緒にヒット作品の素材を求めて水郷で有名な茨城県の潮来へ赴いた。土浦から古びた一銭蒸気に乗った日帰りの小旅行である。潮来はひっそりとした寂しい町であった。二人は舟を雇って出島、十二橋と水郷の風景を隅々まで見回った。
高橋は純農村地帯の素朴な風景からインスピレーションが湧いたらしく、甘い「利根の朝露櫓柄(ろづか)がぬれる。恋の潮来は 恋の 恋の潮来は身もぬれる」という抒情詩を練り上げた。古関は、春の潮来から黄昏(たそがれ)に近い安芸の利根川の流れに浮かぶ小舟を想像した。「あのひっそりとした潮来や静かな木々の影を映す狭い水路を思い浮かべると、私にはすぐにメロディーが浮かんだ」(古関著「鐘よ鳴り響け」)。
日本の流行歌には「マドロスもの」というジャングルがあるが、源流は「潮来もの」と呼ばれる水郷での生活である。古関は、水郷生活の風景をテーマに「さすらい」という漂泊の感情を旋律に込めたのである。
編曲は奥山貞吉が担当することになった。古関は間奏に潮来の地方色を出すために尺八を使うことを指定し、コロムビアのオーケストラの演奏に川本晴朗を七孔尺八が入った。コロンビアの人気歌手松平晃が「利根の舟唄」を歌うことになり、九月八日新譜で発売された。コロムビアのドル箱江口夜詩のメロディーの大一人者・松平晃が歌ってヒットしなかたら、もはや古関はコロムビアでは不要となるのだ。《利根の舟唄》は松平晃の甘いバリトンが虚無的な頽廃を抑制したくれたおかげで好評だった。ようやく、古関の流行歌における最初のヒット曲が誕生した。
B面はミス・コロムビアが歌う《河原すすき》(高橋掬太郎・作詞/古関・作曲)。《利根の舟唄》とともに大正期の「船頭小唄」の系譜に位置づけられるものであり、古関メロディーの知られざる名曲である。 
都市対抗野球行進曲
《利根の舟唄》が新譜発売された翌月、古関裕而の野球をテーマにした歌が発売された。これも神宮に轟く《紺碧の空》の実績を買われてのことだった。だが、古関はここでも悩んだ。会社の意向は一般の人が歌える平易な楽想をという要求だったからである。あまりにもクラシック的なマーチだと、一般の人にはなじめないということなだ。古関はこのとき 藤山がいればと思った。藤山が歌えば、格調高いマーチでも一般にも十分に刷り込める自信があった。
戦前、夏の風物詩は甲子園の中等野球であったが、神宮球場ではもう一つ熱戦が繰り広げられていた。それが今日でも社会人野球の頂点として開催されている都市対抗野球大会である。
都市対抗野球大会は昭和二年にスタートした。橋戸信一の発案で、各都市の代表するクラブチームが競う大会として開催された。戦後、都市対抗野球は企業チームが中心となり、隆盛を極め日本経済の発展とともに歩んだのである。戦前のチームで最も人気があったのは、東京倶楽部だった。東京六大学出身のスタープレーヤーを集めた日本一のクラブチームである。ことに昭和五、六年、宮武三郎(慶応大卒。後に阪急)の投打にわたる活躍で二連覇を達成していた。七年には全神戸に不覚を取り一回戦で敗退したが、翌八年には再び優勝の栄光に輝いた。都市対抗野球大会の人気は甲子園の中等野球、東京六大学野球と並んで頂点に立ったのである。
昭和九年は全大阪が戦力を充実させ優勝候補に挙げられ、常勝東京倶楽部との東西対決が話題だった。そこで、大会を盛り上げるために、都市対抗野球大会の歌が企画された。歌詞は「東京日日新聞」の懸賞募集で小島茂蔵の作品が当選し、古関が作曲を受けた。そして、レコードは「都市対抗野球行進歌」として、日本コロムビアから発売されたのである。
ジャズ・ソングで売り出し中の中野忠晴が歌った。古関は旋律を明るい前奏で始まる雄大な楽想に仕上げている。編曲は奥山貞吉が担当し吹奏楽風にアレンジした。中野の歌にコロンビア合唱団の「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ通せ」と「フレーフレー」という合いの手が力強く挿入されている。
さて、全大阪と東京倶楽部の対決だが、両チームは二回戦で対決し8−7で全大阪が勝利した。全大阪は三原脩、伊達正男らの活躍で勝ち進み、念願の優勝を果たしたのである。三原と伊達は早稲田時代に古関の「紺碧の空」で荒ぶる魂を奮い立たせ、神宮でははつらつとプレーしたスターだった。古関は神宮のスターたちが再びプレーする都市対抗野球の大会歌を作曲し熱戦に花を添えたのである。
昭和九年の暮れ、古関に衝撃が走った。東海林太郎が万感の思いを込めて熱唱する《国境の町》(大木惇夫・作詞/阿部武雄・作曲)である。大陸風の異国情緒が溢れるメロディーは古関を動揺させた。メロディーの美しさはさることながら、雄大な大陸の地平の音楽空間が広がっていくようなスケールの大きさがあった。大陸をテーマに雄大な楽想を練っていた古関にとって、彗星の如く現れた阿部武雄は全く予想外であった。全国の映画館を流れ歩く流転のヴァイオリン楽士であることは知っていたが、まさか作曲家として浮上してくるとは。どこで、これだけの作品を創作する作曲技術を磨いたのだろうか。古関はただ唖然とするばかりであった。 
船頭可愛や
昭和一〇年一月新譜発売で、ポリドールは早速ヒット曲を出した。大村能章が日本調の道中・股旅歌謡で台頭してきたのである。歌唱は東海林太郎。ポリドールは藤田まさと−大村能章−東海林太郎のトリオを売り出した。同年五月新譜では、《国境の町》で注目された阿部武雄作曲・《むらさき小唄》(佐藤惣之助・作詞/阿部武雄・作曲)が東海林太郎の歌唱の歌唱によって発売された。テイチクの 古賀は、《夕べ仄かに》(島田芳文・作詞/古賀・作曲)がまずまずのヒットを記録した。だが、ポリドールから発売された《大江出世小唄》(湯浅みか・作詞/杵屋正一郎)の前には霞んでしまった。モダン調な古賀メロディーは哀愁溢れる旋律でもポリドールの日本調には今ひとつ退かなければならなかった。一方、ビクターは、《無情の夢》(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)がヒットした。佐伯孝夫−佐々木俊一コンビの作品である。イタリアから帰国した児玉義雄が邦楽的技巧表現を巧く取り入れて歌った。
古関は、前年の《利根の舟唄》のヒットでようやく流行歌で実績を出し始めていた。一月新譜発売の《ヒュッテの夜》もミス・コロムビアが歌って女学生の間に広まり好評だった。古関は「流行り唄」の頽廃性を悉く避けていた。
六月新譜ではやはりミス・コロムビアの歌唱で《月のキャンプ》(久保田宵二・作詞/古関・作曲)が発売され、古関の健全なメロディーの個性が出るようになった。この歌は、 古賀と江口夜詩の「ハイキング決戦」といわれた《ハイキングの歌》(江口夜詩・作曲)のB面だった。軍配は古賀メロディーの《ハイキングの唄》(島田芳文・作詞/古賀・作曲)に上がったが、B面レコードの古関メロディーもなかなか好評で若い女性に人気があった。
昭和一〇年、古関は「利根の舟唄」を上回るヒットを目論(もくろ)んでいた。高橋掬太郎の一片の民謡調の詩が古関最初の大ヒット曲「船頭可愛や」は日本民謡の旋律を生かした曲である。それは短調ではなく、瀬戸内海、遠洋漁業の男を想う乙女の歌にふさわしい長調の旋律だった。古関は民衆歌謡特有の退廃性の極力避け、間奏には「利根の舟唄」と同様に日本情緒を浮き彫りするため再び尺八(川本晴朗・七孔尺八)を使った。素朴な音色が、独創的な「瀬戸の民謡」抒情性を一層高めたのである。テイチク・ディック・ミネ、コロムビア・中野忠晴、淡谷のり子らが歌うジャズ・ソング、藤山一郎、奥田良三、関種子らが独唱する内外の歌曲、外国民謡が流行する一方で、この独特な民謡調の旋律は新鮮なイメージを与えたといえよう。
歌手には商家の主婦だった音丸が起用され彼女のデビュー盤となった。音丸は琵琶歌が得意で民謡のフィーリングを持ち合わせていた。装飾音をうます小節にした味わい深い歌唱だった。小唄勝太郎、市丸ら芸者出身の日本調歌手が「艶」を競っていたころで、音丸も先輩格の歌手を向こうに回して大いに活躍した。
古関の名前がそろそろ流行歌においても知られるようになった頃、江口メロディーは満州を舞台にした《夕日は落ちて》(久保田宵二・作詞/江口夜詩・作曲)を松平晃と豆千代の歌でヒットさせた。一方、テイチクの 古賀も夏頃から、ヒット量産にエンジンがかかりだした。映画『のぞかれた花嫁』の挿入歌・《二人は若い》(玉川映二・作詞/古賀・作曲)がモダンライフをテーマにヒットした。ディック・ミネと星玲子が歌った。そして、一一月新譜で発売され、楠木繁夫の熱唱で知られる《緑の地平線》(佐藤惣之助・作詞/ 古賀・作曲)がテイチクの春を呼ぶかのようにヒットした。それに対してポリドールは東海林太郎が歌う《野崎小唄》(今中楓渓・作詞/大村能章・作曲)で対抗した。
昭和十年の晩秋から暮れにかけて古関メロディー・《船頭可愛や》が売れ行きを見せ始めた。レコード発売当初(十年七月新譜)、音丸のデビュー盤ということでコロムビアは大々的に宣伝したが、最初あまり反響がなかった。だが、一〇年の暮れから猛烈な勢いで流行し始めた、全国を風靡(ふうび)することになったのである。これで、 古関もレコード歌謡においてヒット曲に恵まれ、コロムビア専属作曲家として胸を張れるようになった。 
船頭可愛や
   夢も濡れましょ 汐風夜風
   ・・・
   一人なりゃこそ 枕も濡れる
   せめて見せたや エエー
   せめて見せたや 我が夢を 
大阪タイガースの歌
昭和一一年は、陸軍の皇道派の青年将校らが国家改造を目的にクーデターを挙行した。これが「二・二六事件」である雪降る帝都東京を震撼させたのだ。首相官邸・警視庁・朝日新聞社などが襲撃され、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害された。戒厳令が敷かれ、戒厳司令部が設置され、当初は「蹶起部隊」とされたが、後に「反乱軍」となり、鎮圧された。その結果、統制派が実権をにぎることになり、粛軍が行われ軍部の政治的発言権が高まることになった。物騒なクーデタ―事件が起きた二月は、ロシアの声楽家、シャリアピンが来日し、圧倒的な声量が日比谷公会堂に響き渡った。表現力も豊かでその芸術に古関は感銘を受けた。
五月に入ると今度は荒川区尾久で「阿部定事件」という猟奇事件が起こった。流行歌・SPレコード歌謡では、渡辺はま子が甘ったるく歌う《忘れちゃいやヨ》(最上洋・作詞/細田義勝・作曲)が流行した。
二・二六事件に幕を開けた昭和一一年、古関はふたたび野球と関わりを持つ。昭和九年の日米野球を機に結成された大東京巨人軍は、翌年のアメリカ遠征で成果を挙げ、職業野球の展望を開いた。そのころ、大坂の阪神電鉄も職業野球のチーム結成の動きを見せていた。昭和一〇年一二月一〇日、「大阪タイガース」が設立され、現在の阪神タイガースが誕生したのである。大阪タイガースの創立に合わせて、早速、球団歌が作られた。作詞はすでに「赤城の手守唄」で名を成していた佐藤惣之助、作曲は六年の日米野球の応援歌「日米野球行進曲」や早稲田の応援歌「紺碧の空」、流行歌の「船頭可愛や」で知られ始めていた古関に白羽の矢が立った。
歌が出来上がると、早速、一一年三月二五日、「甲子園ホテル」で開かれた。チーム激励会で初披露された。日本コロンビアからジャズシンガーで売り出していた中野忠晴の歌によってレコードが吹き込まれた。だが、レコードは関係者に配布されただけで、一般に発売されたものではなく、当時はあまり普及しなかった。
古関は昭和一一年に入ると、前年に実績が影響し新譜発売が非常に多くなった。二月だけでも一〇曲を数えた。こうなると、古関もヒット数ではまだまだだが、江口夜詩と並ぶようになってきたのだ。そして、大衆歌の作曲家としても知名度が大分でてきたのである。昭和一一年春、ビクターから、藤山一郎をテイチクに迎えた 古賀は、都市文化の讃歌・昭和モダンを高らかに歌った《東京ラプソディー》を作曲した。声量豊かな響きと正確無比な歌唱を誇る藤山の歌でヒットし、古賀メロディーの第二期黄金時代が確定し、「古賀政男・流行歌王」としての地位が確立したのである。藤山はビクターでは、本名の増永丈夫で本格的クラシックを独唱することは別にして、流行歌はもちろんのこと、外国民謡、内外の歌曲、タンゴ、ジャズ・ソングなどを幅広く歌っていた。だが、経済事情からふたたび流行歌のヒットを狙う必要に迫られていた。
藤山のテイチク入社からすぐに古関にとって驚くべきことがあった。当時、海外で広く活躍していたオペラ歌手三浦環三が流行歌の寵児(ちょうじ)藤山と共に明大マンドリン倶楽部の第二十六回定期演奏会(十一年六月十六日)で古賀メロディーを独唱したのである。三浦は以前から流行歌にも関心が深かった。当然、古賀メロディーにも注目していた。そして、三浦環は、音丸でヒットした「船頭可愛や」をレコードにしたのである。古関、民謡とはいえ、作曲上クラシック風な楽想を考えていたので、世界のプリマドンナ三浦の申し出は願ってもないことであった。三浦のレコードは十四年四月新譜でコロビビアから発売された。レーベルは外国の著名な音楽家が録音する青盤レコードで発売されるのは作曲家古関にとって最高の名誉だったのである。
古賀・藤山コンビは、流行歌界の頂点に立った。ヒットは続く。各レコード会社は古賀メロディーに圧倒された。古関は、クラシックの正統派・藤山、ジャズシンガー・ディックミネ、洋風演歌・楠木繁夫を得てモダン都市文化をテーマにヒットを放つ古賀メロディーに対して、古関は民謡調のレコード歌謡で勝負を挑んだ。
昭和一一年七月新譜の古関メロディーは、西條が作詞し《船頭可愛や》ですっかり人気歌手になった音丸が歌った《大島くずし》(西條・作詞・古関・作曲)だった。B面は松平晃が歌う《夢の大島》(西條・作詞/ 古関・作曲)。佐々木俊一の《島の娘》が《相馬節》をベースにしていたこともあり、古関も民謡に日本人の生命的エネルギーを求めたのである。だが、モダン都市文化の讃歌・《東京ラプソディー》の前には沈黙した。
八月新譜の古関メロディーでは、伊藤久男が歌った《緑の大地》(久保田宵二・作詞/古関・作曲)、西條の詩にバンジョー、マンドリン、スチールギター、フルートなどの楽器を融合させ作曲した《キャンプは更けて》(西條・作詞/ 古関・作曲)を発売したが、ヒットにはつながらなかった。《キャムプは更けて》の歌唱者の二葉あき子は東京音楽学校師範科を卒業後、故郷の広島で女学校(三次高女)の先生をしていたが、コロムビアからデビューした。古関は、そのデビュー曲である《愛の揺籃》を作曲している。二葉は東京音楽学校在学中に同校の奏楽堂で独唱する声楽家増永丈夫がすでに 藤山として人気流行歌手と知り、流行歌への関心を持っていた。
古関は《船頭可愛や》のヒット以後、流行歌の作曲に再び行き詰まりを感じていた。古関は民謡に着目していたが、喜び悲しみをさらけ出す解放性や原始性をクラシックの技法で完全に表現することは無理がある。古関はその壁にぶつかった。日本的な心情となれば、やはり、哀調趣味を求めた浪花節的な艶歌調か退嬰的な俗謡風の流行り唄にするしかないのかと思えば、 古関の理想とは違ってくる。その矛盾を打開するために、古賀はギター・マンドリンのクラシックから得た外国調のリズムを巧く使った。また、コロムビアに最近ニットーレコードから移籍した服部良一はジャズを試みている。古関は純クラシック音楽で流行歌を作りたかった。
古賀メロディーのヒットは快調だった。日活映画『魂』の主題歌《男の純情》は、いわゆる現代の演歌調であるが、正統派の藤山が歌うと格調が高い。《男の純情》のB面の《愛の小窓》も好評だった。歌唱はディック・ミネ。邦楽的技巧表現に重点を置いた《愛の小窓》をジャズシンガー・ディック・ミネに歌わせるなど,奇抜な古賀のアイディアは成功した。昭和一一年一二月新譜で吉屋信子原作『女の階級』の映画主題歌・《女の階級》が楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B面は《回想譜》。 藤山が美しいメッツァヴォーチェの響きで浜辺の抒情をしんみりと歌った。
コロムビアから、一一月新譜で淡谷のり子が妖艶なソプラノで歌った《暗い日曜日》(久保田宵二・作詞/セレス・作曲)が発売された。淡谷は、昭和モダンの哀愁を歌いあげた。コロムビアは翌月新譜で松平晃が歌う《人妻椿》(高橋掬太郎・作詞/竹岡信幸・作曲)を発売した。同月新譜の古関メロディーは、同郷福島県いわき市出身の霧島昇に歌わせた《月の夜舟》(西岡水朗・作詞/ 古関・作曲)が発売された。霧島昇は流行歌手を目指し東洋音楽学校に学び、昭和一一年、エジソンレコードか坂本英明(夫)の名前で《僕の思ひ出》を吹込みレコード歌謡に登場した。その後、コロムビア松村武重文芸部長の目に止まり、《思い出の江の島》《月の夜舟》を吹込み、霧島昇として同社から、デビューした。
昭和一二年一月新譜で、古関メロディー・《米山三里》(高橋掬太郎・作詞/古関作曲)が発売された。古関は音丸の歌唱に期待し民謡に固執した。だが、同月のテイチクから新譜発売された《ああそれなのに》は、サラリーマン・ソングとして、ホワイトカラーの中間層のペイソス溢れる生活(モダンライフ)を歌い、美ち奴の歌唱でヒットした。
戦前のホワイトカラー全盛時代にも戦争の気配は感じられた。昭和一〇年の美濃部達吉の憲法が国体に反すると批判を浴びた(天皇機関説問題)、昭和一一年には、歌にも登場する「アドバルン」が人々を不安な表情にさせた「勅命下る軍旗に手向かうな」のそれを思わせた。しのびよる軍国の足音と昭和モダンの都市文化が共存していたのだ。
昭和一二年一月新譜で《人生の並木路》が発売された。これは、古賀の少年時代の故郷喪失の体験がそのまま歌になったようなものだ。その故郷との離別を主題とした《人生の並木路》をジャズシンガーのディック・ミネが根気よく歌ってヒットさせるのだから、古賀メロディーの奥深い魅力があるのである。
古関は前年八月新譜で発売された《ミス仙台》の詩を作り変え、《乙女の十九》(西條・作詞・古関・作曲)として再生した。歌唱は二葉あき子。また、同月新譜では、昭和一二年の御勅題にちなんで 西條−古関によって作詞・作曲された《田家の雪》(西條・作詞/古関・作曲)が発売された。前奏・間奏には尺八が使われ、日本の藁屋根や田圃に積もる雪の「シバレル風景」が楽想に込められ、まるで墨絵のような日本農村の墨絵のような伝統美を表現している。だが、都市文化を享受する中間層のレコード歌謡ファンはモンダニズムの哀歓を求めていた。テイチク三月新譜では青春の哀歓をテーマに青年心理を巧みに衝いた《青い背広で》(佐藤惣之助・作詞・ 古賀・作曲)と青春の感傷を美しく歌い上げた《青春日記》(佐藤惣之助・作詞/古賀・作曲)が藤山の歌唱で発売され、ヒットした。
一方、ポリドールは藤山を迎えた古賀メロディー・テイチクに対して、文芸歌謡・名作歌謡を企画していた。東海林太郎がこの傾向を歌いモダン都市を歌い藤山と歌謡界の「団菊時代」を形成していた。そして、ポリドールは、東海林太郎よりももっと泥臭い道中・股旅歌謡で浪花節ファン層を取り込むために上原敏を売り出した。《妻恋道中》(藤田まさと・作詞/阿部武雄・作曲)は上原敏をスターダムに押し上げたのだ。ポリドールは藤田まさと―阿部武雄―上原敏のトリオで道中・股旅歌謡で新たな展開を迎えるのである。
一方、古関が憧れを持つクラシックは、ワインガルトナーの来日が大きな話題であった。昭和一二年五月三一日、日比谷公会堂で「ワインガルトナー夫妻指揮交響楽演奏会」が開催された。曲目はベートヴェンの《交響曲第五番》《交響曲第六番》《レオノーレ序曲第三番》が中心だった。世界的な指揮者の音楽性に聴衆は感銘を受けた。古関も七四歳とも思われないワインガルトナーの楽曲に対する適切な解釈による指揮ぶりに感動したのである。
 
釜山港へ帰らないのは誰か?

 

演歌の源流は朝鮮半島にあるという話がある。とくに一世を風靡した古賀メロディについてそう言われる。たしかに古賀政男は朝鮮半島で育った人ではあるが、源流とまで言うのは、かなり疑問である。朝鮮民謡は、日本でも有名な「アリラン」や「トラジ」をはじめ、すべて3拍子だといってよい。これに対して日本民謡は2拍子か4拍子で、3拍子の曲はほとんどない。有名なところでは「五木の子守唄」が唯一の例外だが、これには熊本城主であった加藤清正が朝鮮から連れ帰った人々の影響が考えられている。なお、中国の民謡にも3拍子はほとんどないとのことである。
3拍子といっても、西洋音楽にあてはめればそう言えるということで、正調の民謡のリズムはかなり独特なもののようである。しかし、手拍子を打つときには「チャッ・チャッ・クン」と3拍子で打ち、日本民謡にはない躍動感が感じられる。こう見てくると、やはり演歌の源流は日本国内にあると考えられる。ただ、古賀政男が少年時代を過ごしたころの植民地朝鮮では日本の音楽が広まり、その哀調が亡国の悲しみと重なって、朝鮮流に消化されていたということはあったようである。古賀政男も、その情緒だけは日本に持ちかえったといえるのかも知れない。もっとも、日本のものが何でも受け入れられたわけではなく、東京音頭にはじまる音頭ブームは朝鮮ではさっぱりで、むしろ、朝鮮伝統の3拍子に基づく新民謡ブームが起こっていた。
ソウル・オリンピックで表彰のたびに流されたことがあり、スポーツで南北が統一チームを組んだときには国歌の代わりとされる「アリラン」も、実はそのころの新民謡の一つで、映画の主題歌として作られた。しかし、「アリラン」と題する民謡は、朝鮮全土で古くから歌われてきた。そのメロディは地域によってさまざまで、それぞれ「珍島(チンド)アリラン」とか「密陽(ミリャン)アリラン」という具合に地名を冠して呼ばれる。
日本でも「風の丘を越えて」の邦題で上映された林権沢(イム・グォンテク)監督の「西便制(ソピョンジェ)」という映画は、パンソリという語り物を演じる芸人一家を描いたものだが、一家が丘を越えるときに踊りながら歌う場面があった。この映画のクライマックスといってもよい場面(左の写真は映画のパンフより)だが、そのときの歌が「珍島アリラン」であり、有名な「アリラン」とはまるでメロディが違っている。この映画はレンタルビデオ店にもよくあるので、興味を感じた人は一度ごらんになられたい。「アリラン」という語の意味は「私を捨てて行く方は、十里(日本の一里)も行けずに足が痛む」という一般的な歌詞から「我離郎(朝鮮漢字音ではぴったり「アリラン」)」と当て字されることもあるが、意味はよく分からない。「アリラン峠」という地名もあるそうだが、これは逆に歌のヒットのあとで名づけられたものらしい。
演歌の起源が日本だとしても、今日の韓国演歌には日本の演歌にない味があり、韓国の歌手が日本でも売れていることは周知の通りである。チョー・ヨンピル(趙容弼)の歌った「釜山港へ帰れ」という歌は、日本では恋人同士の別れを歌う歌詞となっており、カラオケビデオではチマチョゴリ姿の女性が波止場にたたずむ映像が出てくる。しかし、原詩はつぎのような内容である。「花咲く冬柏島に春は来たけれど、兄弟が発った釜山港にはかもめだけが悲しく鳴いている。五六島へ帰って行く連絡船のたびに、身をよじって呼んでみても応えのないわが兄弟よ。帰れ、釜山港へ、懐かしい兄弟よ」というものである。
韓国第二の大都市である釜山は日本との交流の中で発展してきた町である。江戸時代にも「倭館」という日本人町があった。鎖国下でそこへ行くことが許されたのは対馬藩の人だけである。対馬藩を通じた日朝貿易は、長崎での貿易(大半は中国との貿易で、オランダ貿易の比率は一般に思われているより低い)をはるかにしのぐ規模で行われた。そして、日本が朝鮮を支配したことによって、大都市となる基盤が築かれたという皮肉な歴史を負った町である。
今日の在日朝鮮人の7割前後は、釜山港から日本に渡ってきた人とその子孫である。そのような歴史を知り、原詩を知ったならば、「釜山港へ帰れ」の歌い方も、それまでとはまるで違ってくるはずである。 
釜山港へ帰れ1
韓国の歌はいいですね。なぜか懐かしい。歌だけではない。寒村の風景を見ても懐かしい。一度も訪れたことがないのに、何だかデジャブな光景。刻み込まれ、眠ったままの遠い祖先のDNAが、歌や風景、においに刺激されて、かすかに目覚める感覚。こんなの、昔、東南アジアを旅行したときにも経験し、日本人が大陸や南方から渡来したのは本当だろうと体で実感しましたね。
「釜山港へ帰れ」は原詩とは違います。原詩は日本へ渡ったまま戻らぬ同胞を想い、「帰って来い 恋しい私の兄弟よ」と歌う哀切な内容です。在日同胞への歌です。ここでふっと横道にそれて思うのですが、この歌は在日北朝鮮の人たちにはどう扱われているのでしょうか。日本映画「パッチギ」では「イムジン河」という北の歌を軸に、日本の高校生と朝鮮高校生との対立や民族間の葛藤が描かれています。一方、南北朝鮮本国では双方が相手の歌を歌わないというのが彼らのアイデンティティの一つでもあったからです。
日本語への訳詞は「同胞」が「男女」に置き換えられていますが、原詩を損なうものではありません。それを「男女」ととるか「同胞」ととるか、いずれの解釈も可能なように仕立てられています。三佳令二の熟練の技とも言えます。歌の中に「トラワヨ プサンハンへ」(帰って来い 釜山港へ)と韓国語をそのまま生かしたことで、韓国語を知らない私たちにも歌のコンセプトがしっかり伝わり、カラオケではみなさん、この部分に情感を込めて歌ってました。
日本語訳詞の三佳令二は昭和3年生まれ。作詞家、音楽プロデューサー。韓国の歌の訳詞では「大田ブルース」「離別」などがあります。渥美二郎は昭和27年生まれ。東京・北千住で流しの歌手としてスタート、昭和53年に「夢追い酒」がヒットしました。他に「他人酒」「浪花夜景」など。
   椿咲く春なのに あなたは帰らない
   ・・・
   あついその胸に 顔うずめて
   もう一度しあわせ かみしめたいのよ
   トラワヨ プサンハンへ
   逢いたいあなた 
釜山港へ帰れ2
「釜山港へ帰れ」は韓国語の原詩と日本語の歌詞で意味が全然違う。韓国ではこの歌は、趙容弼(チョー・ヨンピル)が1970年代に歌って大ヒットしました。趙容弼が歌う原曲は私も大好きです。
一番の日本語の歌詞を載せます。
   椿咲く春なのに 貴方は帰らない
   たたずむ釜山港に 涙の雨が降る
   ・・・
次に原詩を私なりに翻訳してみました。情景をわかりやすくするためと、せっかくですから詩らしくしたかったので、多少意訳をしました。大筋での文意は変えてありません。
   トンベク島(注1)に花が咲き 春がやって来たけれど
   兄(注2)が発った釜山港 カモメの声だけ悲しく響く
   オリュク島(注3)の波の間を 連絡船が行き交う度に
   呼びさけんではみるものの 兄の答えは返らない
   釜山港に帰れ 恋しい私の兄よ 
注1 トンベクはツバキの意味。釜山市のヘウンデ海岸にある公園。昔は島であったが今は陸続きになっている。
注2 兄(ヒョンジェ)→直訳では兄弟。弟であればトンセンという言葉を入れるであろうし、また背景から考えて、私は兄であろうと解釈する。兄としたほうが兄弟より詩としての語呂がいいのでそう訳した。
注3 オリュクは五・六の意味。釜山港の沖合いにある岩のような群島のこと。潮の変化によって五つに見えたり六つに見えたりするのでこう呼ばれるといわれる。釜山港に入る船がこの近くを航行する。
実はこの歌は、釜山港から日本へ行ってしまって、会えない兄弟のことを題材にした歌なのです。日本人としてはいろいろ考えさせられる歌です。 
釜山港へ帰れ3
돌아와요 부산항에
作詞・作曲 黄善友・황선우 唄 趙容弼・조용필
꽃피는 동백섬에 봄이 왔건만
형제 떠난 부산항에 갈매기만 슬피우네
오륙도 돌아가는 연락선 마다
목메어 불러봐도 대답없는 내 형제여
돌아와요 부산항에 그리운 내 형제여
   가고파 목이 메어 부른던 이거리는
   그리워서 헤매이던 긴긴날에 꿈이였지
   언제나 말이없는 저 물결들도
   부딪쳐 슬퍼하며 가는 길은 막았었지
   돌아와다 부산항에 그리운 내 형제여
【翻訳】
花咲く冬栢島に春が来たけれど               
兄弟が出て行った釜山港は
鴎だけが悲しく鳴いている
五六島を出入りする連絡船全部に
咽び呼んで見ても答えの無い私の兄弟よ
帰って来てよ 釜山港へ 懐かしい
私の兄弟よ
   会いに行きたくて 喉が涸れる程 呼んで見た この街は
   懐かしくて 彷徨った 永い月日は 夢の様だった
   いつも言葉の無い あの波達も
   ぶつかって 悲しみながら行く 道は突き当たり
   帰って来てた 釜山港へ 懐かしい
   私の兄弟よ
日本語版「釜山港へ帰れ」 の訳詩は、三佳令二氏ですが、兄弟を慕う唄が、男を待つ女の唄に変わってしまい、当時社会問題化したキーセン(妓生)観光を連想させ、日本語版を歌う人に対して、「キーセンが懐かしいかい」と言う野次が流行した為、原語で歌った物でした。 
 
戦前の歌謡曲

 

ああそれなのに
作詞:星野貞志、作曲:古賀政男、唄:美ち奴
   空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は
   ・・・
   帰って来たかと立ち上がる ああ それなのに それなのに
   ねえ おこるのは おこるのは あたりまえでしょう
二・二六事件が起こった昭和11年(1936)にテイチクから発売されました。翌昭和12年公開の日活映画『うちの女房にゃ髭がある』の挿入歌。作詞の星野貞志はサトウハチローの別名。
発売後すぐに売れ始めましたが、映画のヒットで火がつき、足かけ2年足らずで50万枚という爆発的なヒットとなりました。「ああそれなのに、それなのに」「あッたりまえでしょう」は、当時の流行語となり、子どもたちまでもが口にしたといいます。
しかし、同年7月7日の藘溝橋(ろこうきょう)事件により日中戦争が勃発すると、『ああそれなのに』は戦時体制下に不謹慎だとして、同じ年にヒットした渡辺はま子の『忘れちゃいやよ』などともに販売禁止になりました。
不謹慎とした理由がよくわかりませんが、出征兵士たちの新妻や恋人を思う気持ちが刺激されて、闘争心がそがれることを恐れたものでしょう。
2曲とも戦後再発売され、かなり長く多くの人びとに愛唱されました。
『ああそれなのに』を歌った美ち奴は北海道浜頓別出身で、本名は久保染子。14歳のとき、浅草で芸者置屋を営んでいた親戚を頼って上京し、芸者になりました。松竹映画『東京音頭』に端役で出たのがきっかけとなって、レコード会社からスカウトされ、やがて人気歌手となります。
『ああそれなのに』は発禁になったものの、その後歌った戦時歌謡『軍国の母』が大ヒットし、人気歌手の座を維持します。
その人気は戦後も続きますが、テイチク歌手・真木不二夫との内縁関係を解消する前後から、自律神経失調症に苦しむようになります。
心身面でも生活面でも不遇の日々が続きましたが、女剣劇役者・中野弘子の温かい友情に支えられて、78歳まで生きました。
中野弘子は、美ち奴の四十九日を執り行ったのち、あとを追うかのように亡くなったといいます。 
雨に咲く花
作詞:高橋掬太郎、作曲:池田不二男、唄:関 種子/井上ひろし
   およばぬことと 諦めました
   ・・・
   はかない夢に すぎないけれど
   忘れられない あの人よ
   窓に涙の セレナーデ
   ひとり泣くのよ むせぶのよ
昭和10年(1935)10月に公開された新興キネマ作品『突破無電』の主題歌。レコードは同年12月に発売されました。
昭和35年(1960)、井上ひろしの歌でリバイバル発売され、新規発売時を上回る大ヒットとなりました。
池田不二男は、原野為二、金子史郎ほか、複数のペンネームを使っています。『片瀬波』などの佳作を発表し、将来を期待されましたが、38歳で亡くなりました。
2番のあとに長い間奏が入ります。 
雨のブルース
作詞:野川香文、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子
   雨よ降れ降れ 悩みを流すまで
   ・・・
   ああ帰り来ぬ 心の青空
   降りしきる 夜の雨よ
昭和13年(1938)に発表されました。
歌詞もメロディも暗く、歌った淡谷のり子の声質も重く深いのが特徴です。雨の夜などに聞いていると、この暗鬱なムードがなんとなく快く感じられてくるから不思議です。
ブルースという言葉はブルーノート(憂鬱な音符)から来たものですから、この曲は典型的なブルースということになるでしょう。ただし、憂鬱の感覚は文化的風土によっていくぶん異なるので、「典型的な日本のブルース」といったほうがいいかもしれません。
昭和13年は、前年に始まった日中戦争が泥沼化を深めており、物資不足から買いだめが始まり、東京オリンピックが中止された年でした。多くの国民が先行きに漠とした不安を感じており、その心情にこの歌のグルーミーさがマッチしたのでしょう。大ヒットとなりました。
平成元年(1989)6月初旬、取材でフランスに行った折、ル・マン市の駅に近いレストランに入ると、この曲が流れていてビックリしました。ブルースでなく、タンゴになっていましたが。
いっしょに入った取材チームのスタッフは、だれも『雨のブルース』自体を知らなかったので、私の驚きは理解されませんでした。
帰国後調べてみると、戦前のブルガリアでこの歌が『ナミコ』というタイトルでタンゴに編曲されてヒットしていたことがわかりました。
ル・マンで聞いたのがそれと同じかどうかわかりませんが、別ルートでフランスに入ったものがあるとも思えませんので、たぶん同じものでしょう。
『雨のブルース』がブルガリアに入った経緯も、編曲者もわかりません。しかし、『ナミコ』というタイトルの由来は推測できます。徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』のヒロイン・浪子です。
『不如帰』は、『金色夜叉』(尾崎紅葉)、『婦系図』(泉鏡花)とともに、明治の三大メロドラマ(小説ですが)というべきもので、当時の大ベストセラーでした。
これが、1906年にフランス語からの重訳でブルガリアで出版されました。そのヒロイン浪子が日本女性の代表的な名前として記憶された結果、曲の名前に採用されたのではないでしょうか。
戦前、日本とブルガリアとの文化交流のパイプは非常に細く、戦前に同国で翻訳出版された日本の小説はほぼこれだけだったはずですから、ほかの由来はあまり考えられません。 
丘を越えて
作詞:島田芳文、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎
   丘を越えて行こうよ
   ・・・
   湧くは胸の泉よ
   讃えよ わが青春(はる)を
   いざ聞け 遠く希望の鐘は鳴るよ
昭和6年(1931)公開の新興キネマ作品『姉』の主題歌。
悲哀や孤独を訴える曲調の多い古賀作品のなかでは、数少ない明るく調子のよい曲で、藤山一郎の朗唱により大ヒットしました。
古賀政男は、明治大学を卒業したばかりの昭和4年(1929)春、明大マンドリン倶楽部の後輩と東京郊外の稲田堤(現川崎市多摩区)にハイキングに出かけました。満開の桜の下で酒を酌み交わし、大いに語らった楽しい思い出がマンドリン合奏曲として結実したものとされています。この曲に古賀がつけたタイトルは『ピクニック』でした。
その2年後、新興キネマがこの曲に着目して、『姉』の主題歌として採用、島田芳文に依頼して歌詞をつけました。
もともとマンドリン合奏曲だったので、歌謡曲としては前奏が異例の長さになっていますが、それがこの曲の大きな特徴になっています。
なお、当初から指摘されていたことですが、2番の小春は変。小春は初冬のうららかな日和、または陰暦10月の異称ですから、この歌のような春の歌には使えないはずです。
作詞者の島田芳文は明治31年(1898)福岡県豊前市黒土に生まれ、長じて早稲田大学に入学しました。生家は大地主で、学生時代は毎月、一般世帯の平均的生活費の10倍もの仕送りを受けていたそうです。
早大時代は雄弁部に属し、後年大物政治家になる河野一郎や浅沼稲次郎らと活動していましたが、のちに文学に転向し、農民の生活をテーマとした民謡詩を書き続けました。
大金持ちに生まれたせいか、あくせく仕事をしようという気持ちが薄かったようで、昭和30年代半ばから軽井沢の山荘で隠遁生活を送りました。その近くの北軽井沢(群馬県長野原町)に『丘を越えて』の歌碑が建っています。 
影を慕いて
作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎
   まぼろしの 影を慕いて雨に日に
   ・・・
   永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
   ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
   儚(はかな)き影よ 我が恋よ
昭和初期の深刻な不況のなかで、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。
友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。
その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固め、帰京します。このときの懊悩を歌にしたのが『影を慕いて』で、これが作曲家古賀政男のデビュー作となりました。
昭和3年(1928)11月、24歳のとき、古賀政男は、創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会でこの曲を発表することにし、佐藤千夜子に歌を依頼します。
佐藤千夜子は当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれ、無償で出演することを承知します。
彼女が歌った『影を慕いて』は大好評でした。それがきっかけとなって、古賀政男はコロムビアの専属作曲家となり(のちにテイチクに移籍)、以後順調に花形作曲家の道を歩むことになります。
『影を慕いて』は佐藤千夜子の唄でレコード化されましたが、あまりパッとせず、昭和7年(1932)に藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。藤山一郎は、まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生でした。 
カチューシャの唄
作詞:島村抱月・相馬御風、作曲:中山晋平、唄:松井須磨子
   カチューシャかわいや わかれのつらさ
   ・・・
   広い野原をとぼとぼと
   独り出て行く(ララ)あすの旅
劇団「文芸協会」を主宰していた早稲田大学教授・島村抱月は、劇団のスター女優・松井須磨子と恋愛関係に入りました。抱月は結婚していたため、人倫にもとる行為として世の非難を浴び、早大教授の座から追われ、須磨子も文芸協会から追放されました。
抱月は須磨子を中心とする劇団「芸術座」を立ち上げ、その第3回公演で上演したのがトルストイ原作の『復活』でした。初演は大正3年(1914)3月26日。
この劇で抱月は、主演の松井須磨子に劇中で歌を歌わせるという本邦初の試みを実行しました。それがこの歌です。1番を自分が作詞し、2番以降を早大時代の教え子で詩人の相馬御風(早大校歌『都の西北』の作詞者)に託しました。
作曲は抱月のもとで書生をしていた中山晋平。中山晋平にとっては、これが作曲家としてのデビュー曲となりました。
この試みが大当たりで、不入りを重ねていた芸術座は大入り満員となり、『カチューシャの唄』は全国津々浦々で歌われるようになりました。この歌から我が国の歌謡曲の歴史が始まったといわれます。
この成功に続いて、抱月はツルゲーネフの『その前夜』、トルストイの『生ける屍』を劇化して上演しました。『その前夜』では『ゴンドラの唄』、『生ける屍』では『さすらいの唄』が歌われ、いずれも大人気を博しました。
『復活』はトルストイが友人の法律家A.F.コーニから聞いた実話が元になっているといわれます。粗筋は次のとおり。
貴族ネフリュードフは青年時代、伯母の小間使カチューシャ・マースロワを誘惑して捨てます。そのため、彼女は娼婦にまで身を落とし、やがて法廷の手続ミスのためにシベリアへ流刑となります。
皮肉にも、彼女の裁判に陪審員として立ち会うことになったネフリュードフは、深い罪の意識から彼女を救うために努力し、自らもシベリアに赴きます。
実話では、カチューシャは流刑地で病死してしまうのですが、トルストイはそれをネフリュードフと結婚するというハッピーエンディングに変えました。
ところが、貴族が娼婦と結婚するという結末がツァーリ(ロシア皇帝)の政府から危険思想とにらまれたため、やむをえず、カチューシャは他の流刑者と結婚するという筋書きに変えました。これが、今も読まれている『復活』のエンディングです。 
勘太カ月夜唄
作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑 実・藤原亮子
   影か柳か 勘太郎さんか
   伊那は七谷(ななたに) 糸ひく煙り
   ・・・
   霧に消え行く 一本刀
   泣いて見送る 紅つつじ
太平洋戦争まっただ中の昭和18年(1943)に公開された東宝映画『伊那の勘太カ』の主題歌。
映画は幕末の動乱期を舞台に、天狗党の乱に加担し、やがて故郷の伊那に帰ってくるヤクザの物語です。
国策映画や軍国歌謡一色の世相では異色の股旅もので、情緒的なものに飢えていた世人に迎えられ、映画・歌とも大ヒットしました。
小畑実は朝鮮半島出身で、本名は康永(カン・ヨンチョル)。秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったところから、小畑実と名乗るようになりました。
戦時中に『湯島の白梅』『勘太カ月夜唄』という2つのヒットを飛ばしましたが、最も活躍したのは敗戦後の昭和20年代で、『小判鮫の唄』『薔薇を召しませ』『アメリカ通いの白い船』『長崎のザボン売り』『ロンドンの街角で』『星影の小径』『高原の駅よさようなら』など、多くの人々の記憶に残るヒットを連発しました。 
祇園小唄
作詞:長田幹彦、作曲:佐々紅華、唄:藤本二三吉
   月はおぼろに東山   霞む夜毎のかがり火に
   ・・・
   灯影(ほかげ)つめたく 小夜(さよ)ふけて もやい枕に川千鳥
   祇園恋しや だらりの帯よ
東京生まれの作家・長田幹彦(1887〜1964)は、たびたび京都を訪れ、祇園を舞台とした情話小説を数多く執筆しました。
彼が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉(よし)うた」に滞在していたとき作ったのがこの歌詞です。「吉うた」には、その原稿が大切に保存されているそうです。
昭和5年(1930)、映画プロダクション「マキノ映画」が長田幹彦の小説『絵日傘』を映画化することになり、その主題歌として『祇園小唄』が使われることになりました。作曲は浅草オペラの作曲家として活躍していた佐々紅華(1886〜1961)。
主題歌といっても、当時はまだ無声映画の時代ですから、画面から歌が流れるわけではありません。舞妓姿の女優が、字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられました。これが大成功で、『祇園小唄』は、一躍全国で愛唱されるようになりました。
また、京舞井上流四世・井上八千代が振り付けた舞は、京の花街を代表する舞踊になっています。
昭和36年(1961)11月23日、「吉うた」の二代目女将が奔走して、東山区の円山公園・瓢箪池西北角に、この歌の歌碑が佐々紅華の譜面銅板とともに設置されました。
祇園は鴨川から八坂神社に至る四条通沿い一帯の呼び名で、そのうちのかなりの部分が京都を代表する花街を形成しています。八坂神社の旧称「祇園社」から出た呼び方で、平安時代末期〜鎌倉時代初期から門前町が形成され始めたといいます。
4番に出てくる「もやい」は、船をつなぐもやい(舫)ではなく、「ほかの人と共同して物事を行うこと(催合または最合)」です。したがって、「もやい枕」は、2人が1つの枕を使うことを意味し、閨ごとを暗示する比喩表現です。
これは私の想像ですが、作詞者はもしかしたら原稿に「もやい枕」でなく、「もやい柱」と書いたのかもしれません。「柱」という字は、書きぐせによっては「枕」に見えることがあり、植字工が読みまちがえた可能性があります。
作詞者が誤植を見て、「もやい枕」のほうが色っぽくていいか、とそのままにしておいたのかもしれない、などと考えています。
ただし、「吉うた」に遺されている原詞では、この部分が「傘に浮き名の川千鳥」となっています。これがどういういきさつで「もやい枕に川千鳥」になったかは不明です。 
聞け万国の労働者
作詞:大場 勇、作曲:栗林宇一
   聞け 万国の労働者
   ・・・
   われらが歩武の先頭に 掲げられたる赤旗を
   守れ メーデー労働者 守れ メーデー労働者
『聞け万国の労働者』と聞くと、労働運動・左翼運動が盛んになった戦後になって歌われ始めた歌だと思う人が多いかもしれませんが、実は、大正9年(1920)5月2日、日本初のメーデーが東京・上野公園で開かれたときに発表されたものです。
作詞者は、当時池貝鉄工の従業員で社会運動家だった大場勇。曲は、旧制一高の寮歌『アムール河の流血や』のメロディが使われました。
したがって、軍歌『歩兵の本領』と同じメロディです。同じメロディが右と左のデモンストレーションソングに使われたのですから、皮肉な話です。
メーデーの起源は、1886年5月1日、アメリカ・シカゴの労働者が8時間労働制を要求して行ったゼネラル・ストライキです。この闘争は敗北しましたが、1889年にパリで開かれた第二インターナショナル創立大会で、これを記念して、毎年5月1日を全世界労働者のデモンストレーションの日とする旨が決議されました。
昭和40年代以前に青春期を過ごした人たちは、ブルジョワジー、無産者またはプロレタリアート、搾取、階級闘争、デモ・ストライキ・サボタージュの3大闘争戦術といった労働・左翼用語は、活動家でなくても、ある程度は知っていたものでした。
しかし、現在の若い人たちにとっては、いずれもほとんど死語と化しています。だいいち、メーデー自体も、世界的に存続が危うくなっています。
まことに、今昔の感があります。 
君恋し
作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華、唄:二村定一
   宵闇せまれば 悩みは涯なし
   ・・・
   誰がためささえん つかれし心よ
   君恋し ともしびうすれて
   臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや
昭和4年(1929)3月公開の映画『君恋し』の主題歌。松竹キネマ、マキノ・プロダクション、河合映画製作社、日活の競作でした。同年に同じ題名(原題は`The Man I Love`)のアメリカ映画が公開されていますが、この歌とは関係ありません。
作詞者の時雨音羽(本名は池野音吉)は大蔵省に勤めていたとき、日本ビクターの社長に依頼され、この歌を作詞したそうです。
当時の日本ビクターはアメリカ資本で、洋楽しか扱っていませんでしたが、この歌の成功で自信がついて歌謡曲の制作に踏み切ったといいます。時雨音羽も大蔵省を辞めて、専業の作詞家に転身しました。
曲は、当時流行り始めたジャズ調を取り入れたのが特徴ですが、日本的な哀調を残したのが日本人の心情にアッピールしたようで、大ヒットとなりました。
ポストルードの前半に『埴生の宿』の一節が使われています。
歌ったのは浅草オペラの花形シンガー、二村定一(ふたむら・ていいち)でした。
戦後フランク永井の唄でリヴァイヴァル・ヒットしました。 
国境の町
作詞:大木惇夫、作曲:阿部武雄、唄:東海林太郎
   橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
   ・・・
   空も灰色 また吹雪
   想いばかりが ただただ燃えて
   君と逢うのは いつの日ぞ
昭和9年(1934)リリース。この年、室戸台風が阪神を直撃し、全国で死者・行方不明者3036人、全壊・半壊・流失家屋8万2000戸あまりという大被害を出しました。
また、東北地方が大凶作に見舞われ、窮乏による自殺・行き倒れ・娘の身売りが続出しました。
アメリカからベーブ・ルースを主将とするプロ野球団が来日したのも、この年でした。対戦した日本側チームがいずれもボロ負けするなかで、18歳の沢村栄治投手が、静岡県草薙球場で大快投を演じました。
1対0で負けはしたものの、1回から4連続三振、6回まで被安打2という、当時の彼我の実力差を考えると、奇跡的ともいうべき成績でした。
四方を海に囲まれているうえ、長い間鎖国してきた日本では、一般国民が「国境」を意識することはほとんどありませんでした。
日本人が国境を体感するようになったのは、明治政府が大陸に向かって侵略的進出を開始してからです。その波の先頭には軍人と、国策に乗じて利益を得ようとする民間人たちがおり、そのあとに国内における閉塞状況から脱したいと願う庶民が続きました。
庶民の閉塞状況は、ほとんどの場合、経済的困窮によるものでした。
この歌の背景には、そうした社会状況がありました。 
湖畔の宿
作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一、唄:高峰三枝子
   山の淋しい湖に ひとり来たのも悲しい心
   ・・・
   旅の心のつれづれに
   ひとり占うトランプの
   青い女王(クイーン)の淋しさよ
日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15年(1940)に発表され、大ヒットした歌。
感傷的で淋しい詩とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にしましたが、国民が歌うのを止めることはできませんでした。
歌手たちの戦地慰問で、兵士たちからのリクエストが圧倒的に多かったのがこの曲だったといいます。とりわけ、特攻隊の基地で、若い航空兵たちが直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っています。
「この静けさ、この寂しさを抱きしめて私は一人旅を行く。誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて……」の部分がとくに兵士たちの胸に響いたのでしょう。
後年、「ひとり来た湖」はどこかが話題になり、舞台探しが行われました。作詞者・佐藤惣之助の足跡から長野県の諏訪湖、静岡県の浜名湖、山梨県の山中湖などの諸説が生まれましたが、昭和63年(1988)2月、佐藤惣之助の手紙が見つかり、モデルは群馬県の榛名湖だとわかりました。
手紙は昭和17年(1942)、彼が亡くなる少し前、榛名湖畔の旅館「湖畔亭」の仲居に宛てたものもので、問題の箇所は次のようになっています。
「『湖畔の宿』は榛名湖のことではあるが、あの中のことは全く夢だよ。ああいう人もあるだろうとおもったので書いたもの。宿は湖畔亭にしておこう……」。 
金色夜叉
作詞・作曲:後藤紫雲・宮島郁芳
   熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ
   ・・・
   恋に破れし貫一は すがるお宮をつきはなし
   無念の涙はらはらと 残る渚に月淋し
キンイロヨルマタではありません、コンジキヤシャと読みます。キンイロヨルマタは、昭和30年代までは漫才のネタでしたが、近年は、書いておかないと、ほんとうにこう読む若い人たちがいますからね。
『金色夜叉』は、明治30(1897)年1月1日から5年半にわたって読売新聞に連載された尾崎紅葉の代表作で、単行本化されるや、たちまち大ベストセラーとなりました。泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに明治の三大メロドラマと呼ばれています。
第一高等中学校(旧制一高の前身)の生徒・間(はざま)貫一と鴫沢(しぎさわ)宮は相思相愛の仲で、婚約していました。
しかし、宮は正月のカルタ会で銀行家の息子・富山唯継(とみやまただつぐ)に見染められ、結婚を申し込まれます。富山家の莫大な財産に目がくらんだ宮の両親は求婚を受け入れるように宮を説得し、宮も貫一を外遊させることとひきかえに承知します。
貫一は本心を確かめようと宮を熱海の海岸に呼び出しますが、意外にも宮の心が富山に寄っているのを知ります。絶望した貫一は、取りすがる宮を足蹴にして立ち去ります。
すっかり金銭の鬼となった貫一は、高利貸しの手代になり、さらに独立して高利貸しを営む守銭奴の生活を送ります。
いっぽう宮は、唯継と結婚したものの、その冷酷な性格によって虐げられ、とうとう捨てられてしまいます。後悔した宮は、許しを乞う手紙を何度も貫一に送りますが、貫一は開封もしません。
しかし、ある日たまたま1通の封書を開くと、そこには死を願う哀れな宮の現状が記されていた……といったストーリーです。
ここまで書いて紅葉は病死したので、作品は未完のままで終わりました。続編、終焉編(上・下)では話はさらにドラマチックに展開しますが、書いたのは弟子の小栗風葉です。
熱海の海岸で場面で貫一が宮にいう言葉は、次のとおりです。この血を吐くようなセリフは、『金色夜叉』の演劇や映画では必ず使われて、大向こうをうならせました。
「一月十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此の月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いて居ると思ってくれ」
『金色夜叉』の歌は大正7年(1918)に、後藤紫雲・宮島郁芳という2人の演歌師によって作られました。
演歌は自由民権運動を歩調を合わせて生まれました。当初は政治風刺や権力批判をテーマとしていましたが、日清戦争が終わると、政治性は薄れ、次第に恋や世相を歌うようになってきました。硬派が軟派に変わってきたわけです。
演歌師たちは、街頭や芝居小屋でバイオリンをギーコギーコと弾きながら、小唄・端唄調の発声で歌い、歌本の代金や観客の投げ銭で暮らしを立てていました。
『金色夜叉』の歌は、演歌師の添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)が明治42年(1909)に作っていますが、こちらはあまり流行りませんでした。風景描写が長々と続き、ヒロインのお宮がなかなか出てこなかったからです。
これに対して、後藤紫雲・宮島郁芳版では、前置きなしに「熱海の海岸を散歩する貫一お宮」が登場するので、大衆受けやすく、大ヒットすることとなりました。 
ゴンドラの唄
作詞:吉井勇、作曲:中山晋平、唄:松井須磨子
   いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
   ・・・
   黒髪の色 褪せぬ間に
   心のほのお 消えぬ間に
   今日はふたたび 来ぬものを
松井須磨子は、明治19年(1886)3月8日、長野県松代に生まれ、上京して、早稲田大学教授・島村抱月が主宰する劇団「文芸協会」の俳優養成所に入りました。
初公演『ハムレット』のオフィーリアで認められ,続いて『人形の家』のノラなどで成功を収め、劇団のスターとなりました。
その間、妻子ある師・島村抱月と恋愛関係に入ったことで、世の非難を浴び、文芸協会から追放されます。
しかし、それに屈することなく、同じく早大を追われた抱月とともに、劇団「芸術座」を結成、以後、女座長として毎公演主役を演じました。
それらの公演では、須磨子が劇中歌を歌うのが特色で、とくに『復活』で歌われた『カチューシャ の唄』や、『その前夜』の『ゴンドラの唄』、『生ける屍』の『さすらいの唄』は、大評判になりました。
これらの歌を作曲したのが、長野県から上京して、抱月の書生になっていた中山晋平でした。中山晋平は、これらの作曲によって一躍有名作曲家となり、以後『船頭小唄』『出船の港』『東京行進曲』『東京音頭』などのヒット曲を次々と発表します。
歌謡曲や民謡のほか、『舌切雀』『証城寺の狸囃子』『砂山』『てるてる坊主』などの童謡も数多く作曲しました。
『ゴンドラの唄』の作詞者は、明星派の歌人として出発し、石川啄木などとともに、文芸誌『スバル』の創刊に当たった吉井勇です。
吉井勇は、伯爵家の次男に生まれましたが、長男が早世したため、嗣子となりました。しかし、放蕩と情痴に日々を過ごしたあげく、爵位を返上し、晩年を京都で過ごしました。
「人の世にふたたびあらわぬわかき日の宴のあとを秋の風ふく」(『酒ほがひ』)などの名歌を数多く残しています。
大正7年(1918)11月5日、抱月は折から蔓延していたスペイン風邪のため急逝。須磨子は『カルメン』の公演を続けましたが、翌大正8年(1919)1月5日、芸術座の道具部屋で自殺しました。
『ゴンドラの唄』は、戦後、黒沢明監督の傑作の1つ『生きる』によって再び有名になりました。
癌のため余命4か月くらいとの宣告を受けた市役所の市民課長(志村喬)が、非人間的な官僚主義の末端で無意味に生きた〈勤続30年〉を取り返すために、機械的に処理していた古い陳情書を取り出し、下町の低地を埋め立てて小さな児童公園を作ることに挺身して死ぬ……という映画です。
志村喬が、雪の降る児童公園で1人ブランコに乗りながら、『ゴンドラの唄』を口ずさむシーンが、深い感動を呼びました。
歌詞についての追記
吉井勇の歌詞は、ロレンツォ・デ・メディチが1490年に謝肉祭(カーニバル)を盛り上げるために作った「Trionfo di Bacco e Arianna(バッカスとアリアドネの勝利)」を下敷きにしたという説があります。
メディチ家はルネサンス期にフィレンツェを支配した豪族で、その最盛期の当主がロレンツォでした。統治や経済的能力に加えて、詩才にも恵まれていたようです。
「Trionfo di Bacco e Arianna」は8聯59行から成る長詩で、テーマは『若さは美しいだが、あっという間に消えてしまう。明日はどうなるかわからないのだから、今のうちに楽しんでおこう」というもの。
このテーマは『ゴンドラの唄』と共通していますが、歌詞はほとんど似ていません。ロレンツォの詩には、ゴンドラも、紅き唇の黒髪の乙女も出てきません。
ほかに『ゴンドラの唄』によく似た詩があります。森鴎外が独訳書から再訳したアンデルセンの『即興詩人』に出てくるヴェネツィア民謡です。ちょっと長いですが、あげておきましょう。
朱の唇に触れよ 誰か汝(そなた)の明日猶在るを知らん
恋せよ 汝の心(むね)の猶少(わか)く 汝の血の猶熱き間に
白髪は死の花にして その咲くや心の火は消え 血は氷とならんとす
   来たれ 彼(かの)軽舸(けいか)の中に
   二人はその覆(おほひ)の下に隠れて 窓を塞(ふさ)ぎ戸を閉じ
   人の来たりうかがふことを許さざらん
乙女よ 人は二人の恋の幸をうかがはざるべし
二人は波の上に漂ひ 波は相推し相就き
二人も亦(また)相推し相就くこと其波の如くならん
   恋せよ 汝の心の猶少く 汝の血の猶熱き間に
   汝の幸を知るものは 唯だ不言の夜あるのみ 唯だ起伏の波あるのみ
   老は至らんとす 氷と雪もて汝の心汝の血を殺さんが為に
森鴎外は『即興詩人』を明治25年から34年(1892〜1901)にかけ、断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表しました。単行本初版は、明治35年(1902)。
『ゴンドラの唄』が発表されたのは大正4年(1915)ですから、吉井勇は作詞する前に当然この詩を読んでいたでしょう。
吉井勇は文芸誌『スバル』の主宰者の一人で、鴎外はその主要な寄稿者でしたから、交流はあったでしょう。したがって、吉井勇がテーマやフレーズを無断で使ったとは思われず、事前に鴎外の了承を受けていたはずです。
詩としては、『即興詩人』のヴェネツィア民謡より『ゴンドラの唄』ほうが傑作だと思います。とくに冒頭の「命短し 恋せよ少女」は彫琢の1句といってよいでしょう。 
十九の春
沖縄俗謡、補作詞:本竹裕助
   私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした
   ・・・
   梅の小枝で昼寝して
   春が来るような夢をみて
   ホケキョホケキョと鳴いていた
沖縄の古い俗謡です。
歌詞が七五調のヤマトグチ(本土の言葉)で、ウチナーグチ(沖縄方言)ではないこと、メロディが沖縄音階とは違うことから、本土のはやり歌が持ち込まれたものと言われています。
沖縄音階は、レとラのないのが特徴です。上のMIDIでは、最初の間奏と後奏が沖縄音階ですが、これは、田端義夫が昭和50年(1975)に歌った際に入れられたもののようです。
沖縄に持ち込まれた年代はわかりませんが、メロディの感じから、本土で添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)などの壮士演歌がはやっていた大正年間だと推測されています。
大正時代、那覇の遊郭にヴァイオリンを弾きながら本土のはやり歌を歌うのが得意な遊女がいたそうです。本土から来た何者かが彼女に元歌を教え、そこから沖縄各地に広まったのでしょう。
『与論小唄』『吉原小唄』 『ジュリグヮー小唄』など、沖縄の地域ごとに数多くのヴァリアントがあります。
この件についての詳しい論考は、『琉歌(りゅうか)幻視行:島うたの世界』(竹中労著・田畑書店)にあります。
田端義夫が歌った歌詞では、4番の那覇市がコザ市となっています。
『与論小唄』の歌詞
作詞:秋山紅葉
   枯葉みたいな我がさだめ 何の楽しみ無いものを
   ・・・
   磯の浜辺の波静か 二人手に手を取りかわす
   死んだらあなたの妻ですと 女心の悲しさよ  
十三夜
作詞:石松秋二、作曲:長津義司、唄:小笠原美都子
   河岸(かし)の柳の行きずりに ふと見合わせる顔と顔
   ・・・
   さよならと こよない言葉かけました
   青い月夜の十三夜
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦の年にリリースされた下町情緒たっぷりの傑作です。
作詞者の石松秋二は、『満州娘』『九段の母』など、戦前・戦中派には懐かしい歌をいくつも作詞しています。終戦時、侵攻してきたソ連軍により殺害。
作曲の長津義司は法政大学出身。企業に就職したあと、作曲家に転身。昭和14年(1939)、田端義夫の『大利根月夜』で大ヒットを飛ばし、その後も、淡谷のり子『君忘れじのブルース』などのヒット曲を連発しました。
昭和31年(1956)には、三波春夫のデビュー曲『チャンチキおけさ』で大ヒットを飛ばしました。その後、三波春夫と組んで、歌謡曲のメロディに浪曲を乗せた新ジャンルも開拓しました。そのジャンルのヒット曲に、『元禄名槍譜 俵星玄蕃』があります。 
人生劇場
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:楠木繁夫
   やると思えば どこまでやるさ それが男の 魂じゃないか
   ・・・
   端(はした)役者の 俺ではあるが
   早稲田に学んで 波風受けて
   行くぞ男の この花道を
   人生劇場 いざ序幕
尾崎士郎の同名の小説を下敷きにして作られた歌で、昭和13年(1938)発表。
義に篤く、利にはうとく、信ずることのためには損得を考えずに突き進むという早稲田マンのイメージは、この小説と歌によって作られたといっても過言ではありません。
残念ながら、私はまだそういうタイプの早稲田出身者に会ったことがありませんが、きっとどこかにはいるのでしょう。
小説は、昭和8年(1933)から足かけ11年間、『都新聞』『東京新聞』に連載されました。『青春篇』『愛慾篇』『残侠篇』『風雲篇』『離愁篇』『夢幻篇』『望郷篇』『蕩子篇』の各編から成り、任侠の世界を描いた『残侠篇』を除いて、作者の自伝的小説とされています。
昭和10年(1935)に『青春篇』が刊行され、川端康成が絶賛してベストセラーになりました。
『青春篇』は、三州(さんしゅう)吉良(愛知県吉良町)に生まれた青成瓢吉(あおなり・ひょうきち)が、青雲の志を抱いて早稲田に学び、放埒(ほうらつ)な青春を送り、学校騒動で主役を演じ、料亭の娘お袖と恋仲になるが、やがて学校も女も捨てる、という物語です。
非常に日本的な成長小説(Bildungsroman)と見ることができます。
『青春篇』は、刊行の翌年、内田吐夢監督によって日活で映画化され、映画史上に残る名作となりました。戦後も何度か映画化されましたが、なかでも内田の『人生劇場――飛車角と吉良常(きらつね)』、加藤泰監督『人生劇場――青春・愛慾・残侠篇』がよく知られています。
歌に出てくる吉良の仁吉は、幕末期の実在の侠客。慶応2年(1866)4月8日、伊勢国鈴鹿郡(ごおり)の荒神山(こうじんやま)で起こった穴太(あのう)の徳次郎vs.神戸(かんべ)の長吉(ながきち)+吉良の仁吉+清水次郎長の子分たちの大喧嘩(おおでいり)で命を落としました。
この小説では、仁吉の血筋を引くという吉良常が重要な役割を演じています。
歌は、通常3番までですが、「幻の4番」といわれる歌詞を発見したので、掲載します。佐藤惣之助が作った歌詞か、あるいは別の人があとで付け加えたものかはわかりません。
最近、早大OBの方からから、間奏の部分に入るセリフをご教示いただきました。これも、元からあったものかどうかはわかりません。映画か芝居のなかで使われたものか、あるいは早大生・OBの間で自然発生的に作られたものではないかというような気がします。 
人生の並木路
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ
   泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して
   ・・・
   愛の口笛 高らかに
   この人生の 並木路
昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。
映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 
鈴懸の径
作詞:佐伯孝夫、作曲:灰田有紀彦、唄:灰田勝彦
   友と語らん 鈴懸(すずかけ)の径(みち)
   ・・・
   夢はかえるよ 鈴懸の径
太平洋戦争突入から約10か月後、日本の敗色が濃くなった昭和17年(1942)9月に、ビクターからレコードが発売されました。
作曲の灰田有紀彦は、明治42年(1909)ハワイ・ホノルルで生まれ、13歳のとき日本へ帰国。慶応大学予科を卒業後、演奏や作曲活動に従事しました。日本におけるハワイ音楽の草分けです。
灰田勝彦は2歳下の弟で、立教大学に入学し、在学中からバンド活動を行いました。卒業と同時に兄のいるビクターの専属となり、プロ歌手・灰田勝彦が誕生しました。
『燦めく星座』『森の小径』『新雪』『鈴懸の径』『東京の屋根の下』『野球小僧』など数多くのヒット曲があります。
鈴懸はプラタナスのことで、通常は篠懸または鈴掛と表記されます。
日本には明治の初めに渡来し、街路樹として各地で植えられました。立教大学前の通りにも植えられており、この歌は、それをイメージして作られたと伝えられています。ということになると、これはキャンパスフォークの走りですね。
戦後スイングジャズに編曲されて大ヒットしました。 
ズンドコ節(海軍小唄)
作詞・作曲者:不詳
   汽車の窓から手をにぎり 送ってくれた人よりも
   ・・・
   元気でいるかと言う便り
   送ってくれた人よりも
   涙のにじむ筆のあと
   いとしいあの娘が忘られぬ
   トコズンドコ ズンドコ
戦前、兵隊たちの間で歌われていた「兵隊節」の1つ。「海軍小唄」と呼ばれていましたが、陸軍兵士の愛唱歌にもなっていました。
兵隊節は、戦意高揚のための軍歌とは異なり、一般兵士たちが、つらい軍隊生活のなかで気を紛らすために歌った歌です。
軍務への不平不満が込められた歌が多かったため、あまり大っぴらに歌えるようなものではありませんでしたが、無礼講の慰安会や陰で歌うぶんには、大目に見られていました。
また、そのような特質から、作詞・作曲者の不明な歌が多いのが特徴です。
代表的な兵隊節としては、ほかに『ダンチョネ節』『蒙疆(もうきょう)ぶし』『可愛いスーチャン』『特攻隊節』『軍隊ストトン節』『同期の桜』『ラバウル小唄』などがあります。このうち、作詞・作曲者がはっきりしているのは、『同期の桜』と『ラバウル小唄』だけです。
兵隊節は、だれかが最初に作ったものに次々に新しい歌詞が付け加えられるという形で成立したものが多くなっています。
メロディは、新しく作られたものもありますが、民衆の間で歌い継がれてきた節を使ったものも少なくありません。たとえば、『ダンチョネ節』は、神奈川県三浦三崎の民謡が元歌とされています。
さて、『海軍小唄』は敗戦後すぐ、田端義夫が『ズンドコ節』とタイトルを変えて歌いました。歌謡曲として広く歌われるようになったのは、これがきっかけです。
ズンドコ節は、歌いやすいメロディのせいか、新しい歌詞を付け加えたり、替え歌になったりして、現在も歌い継がれています。
昭和35年(1960)に小林旭が歌った『アキラのズンドコ節』(作詞:西沢爽、補作曲:遠藤実)は、新しいメロディと歌詞を付け加えて歌われた最初の例です。この歌は、同年5月にリリースされた日活映画『海を渡る波止場の風』の挿入歌として作られました。
昭和30年代に数多く作られた日活の無国籍活劇映画は、私もファンでしたが、作品を見るたびに、小林旭や宍戸錠などが演じている人物は、どうやって生活費を稼いでいるのだろう、と不思議に思ったものです。
クルマも列車もあるのに、馬に乗ってさすらい、拳銃不法所持でも捕まらず、生活費を稼ぐ必要もなく、やたら美女に惚れられるという、まことに羨ましい存在でした。
もっとも、こうしたリアリティの欠如こそが、多くの若者たちを惹きつけた要因だったのでしょう。
これに続いて、新しい歌詞で『ズンドコ節』を歌ったのが、昭和44年(1969)にリリースされたザ・ドリフターズの『ドリフのズンドコ節』(作詞:なかにし礼、補作曲:川口真)です。
TBSのお化け番組といわれた『8時だヨ!全員集合』のなかで歌われました。多くの子どもたちが「学校帰りの森かげでぼくに駆けよりチューをした……」と歌ったものでした。
3つめが、まだ記憶に新しい『きよしのズンドコ節』(作詞:松井由利夫、補作曲:水森英夫)で、若様・氷川きよしが平成14年(2002)に歌いました。
これら新版のズンドコ節が元歌の『海軍小唄』と違うのは、甘酸っぱいの恋の歌になっている点です。
『海軍小唄』も、歌詞だけ見れば恋の歌のように見えますが、ほんとうのテーマは、「ホームの蔭で泣いていた娘」に象徴される「普通の生活」なのです。
どの兵士も、徴兵されなければ、会社に通い、商売をし、田畑を耕し、家族と団欒し、好きな女性とつきあっていたはずです。
しかし、「天皇の赤子(せきし)」として、徴兵がいやだったとは口が裂けても言えません。そういう社会体制だったのです。
そこで、ただの恋の歌に仮託して、引き離されてしまった「普通の生活」への思いを歌ったわけです。ですから、そのメロディは概してスローテンポで、多かれ少なかれ哀調を帯びることになります。
敗戦とともに、そうした軍国主義のくびきはなくなりました。もうつらい思いを込める必要はありません。そこで、田端義夫は、純粋な恋の歌として思いきり楽しく歌いました。
経済復興が軌道に乗り、将来に明るい展望が開けてくると、その傾向はさらに強まります。『アキラのズンドコ節』と『ドリフのズンドコ節』のハイテンポで底抜けの明るさは、こうした時代情勢を反映したものといってよいでしょう。 
船頭小唄
作詞:野口雨情、作曲:中山晋平
   おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき
   ・・・
   熱い涙の 出た時は
   汲んでおくれよ お月さん
歌詞は大正10年(1921年)3月に、民謡『枯れすすき』として発表されました。これに中山晋平が曲をつけ、『船頭小唄』としてレコード化されると、全国で歌われるようになりました。
敗残の思いを切々と歌い上げた歌詞は、不遇の時代を経験した雨情の心情の反映であるといわれています。
『船頭小唄」は栗島すみ子・岩田祐吉主演で映画化され、大正12年(1923)1月に公開されました。
その年の9月1日、関東大震災が起こり、関東一円に大惨害をもたらしました。多くの被災者が打ちひしがれ、被害を受けなかった人たちも、さらに悪いことの予兆ではないかと不安に駆られました。
哀調を帯びたこの歌は、そうした人びとの気持ちにマッチし、永く歌われることとなりました。同じ中山晋平作曲の『カチューシャの唄』などとともに歌謡曲草創期を彩る傑作の1つです。
真菰は水辺に群生するイネ科の多年草。三橋美智也の『おんな船頭唄』でも歌われています。
潮来出島は潮来の町の南に広がるデルタ地帯のことで、多くの水路が網の目のように走っています。 
旅の夜風
作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:霧島 昇、ミス・コロムビア
   花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる途(みち)
   ・・・
   待てば来る来る愛染かつら
   やがて芽をふく春が来る
昭和13年(1938)に公開された松竹映画『愛染かつら』の主題歌。
この映画は爆発的な人気を集め、主題歌の『旅の夜風』も、120万枚という驚異的なレコード売り上げを記録しました。当時日本にあったプレーヤー(蓄音機といいましたが)の台数を考えると、今日の2000万枚ほどのメガヒットにも相当するでしょう。
ミス・コロムビアはのちに松原操と芸名を変えました。霧島昇と何曲もデュエットしています。戦後、霧島昇と結婚して芸能界から引退しました。
『愛染かつら』は、川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載した小説を映画化したもので、美貌の看護婦・高石かつ枝と若い医師・津村浩三の恋を描いたメロドラマの傑作です。
かつ枝は17歳のとき結婚して1子をもうけましたが、夫と死別、津村病院で働くようになります。彼女はまもなく病院の令息・浩三と恋に落ち、2人は津村家の菩提寺に立つ愛染かつらの木の下で永遠の愛を誓います。
その後幾多の誤解とすれ違いの末、日蓄レコードの歌手としてデビューすることになったかつ枝は、浩三と再会し、結ばれることになります。
映画は野村浩将監督で、高石かつ枝を田中絹代、津村浩三を上原謙が演じました。前編・後編・続編・完結編と4作制作され、戦後リメイクされました。
映画と主題歌の大ヒットを解くカギの1つが、「愛染かつら」という名前でしょう。
長野県別所温泉の奥に北向観音という古刹があり、その境内に、愛染明王堂と並んでカツラの巨木が立っています。川口松太郎は、別所温泉に逗留していたとき、この木を見て「愛染かつら」という言葉を思いつき、恋物語の想を得たとされています。
それ以前にこういう呼び方があったかどうかはわかりません。このカツラは、古くから縁結びの霊木として知られていたようですが、映画と主題歌のヒットによって、そのイメージが定着したようです。
ウィキペディアによると(原資料は『歌でつづる20世紀 あの歌が流れていた頃』〈長田暁二著、ヤマハミュージックメディア刊〉)、3番2行目は、原詞では「肌に夜風が沁みるとも」だったそうです。ところが、吹き込み時に霧島昇がまちがえて「……沁みわたる」と歌ってしまい、それが大ヒットしたため、まちがった歌詞のまま定着してしまいました。
戦後、藤原良・高石かつ枝がカバーした際、原詞どおりに歌ったところ、「歌詞が違う」という抗議がコロムビアに殺到したため、同社はやむを得ず霧島版と同じ歌詞で再発売したそうです。
歌詞の意味を考えると、「……沁みるとも」とすべきですが、数十年にわたって「……沁みわたる」と歌われてきたので、当ページではそのままにしておきます。 
天国に結ぶ恋(悲恋大磯哀歌)
作詞:柳水巴、作曲:林純平、唄:徳山l・四家文子
   今宵名残りの三日月も 消えて淋しき相模灘(さがみなだ)
   ・・・
   五月(さつき)青葉の坂田山
   愛の二人にささやくは やさしき波の子守唄
昭和7年(1932)5月9日朝、神奈川県大磯町、東海道本線大磯駅北の裏山で松露(しょうろ)というキノコ を探していた地元の若者が、若い男女の心中遺体を発見しました。
男性は学生服に角帽、女性は藤色の和服姿で、裾が乱れぬよう両膝を紐で結んでいました。
男性は東京の調所(ずしょ)男爵家の一族(甥)で、慶応大学経済学部3年の調所五郎(24歳)、女性は静岡県の素封家の三女・湯山八重子(22歳)でした。残っていた空き瓶から、猛毒の昇汞水(しょうこうすい)による自殺とわかりました。
昇汞水は塩化第二水銀のことで、写真が趣味だった五郎が現像液を作るときに使っていたものでした。
調所家に残されていた五郎の遺書やその前のいきさつから、八重子の両親から交際を反対されたのを悲観しての自殺とわかりました。下記がその遺書ですが、句読点に乱れがあるので、それを整理して掲載します。
もし私が明六日になっても帰らなかったら、この世のものでないと思ってください。かずかずの御恩の万分の一もお返し出来なかった自分を残念に思ってゐます。御相談申し上げなかったのは八重子さんにわたくしを卑怯者と思はれたくなかったからです。そしてお父様にこの上御心配をかけたくなかったから。姉さんに約束した赤ちゃんの写真も撮らずに終ひました。
梶原さんに頼まれた複写の原画は暗室の棚の下の段の右側に封筒に入れてあります。写真器は押し入れの中に乾板が六枚入ってゐるから自分でやって下さるように。ハレーション止めしてある乾板ですから。
幸子を可愛がってやって下さい。本当の兄妹がもう宅に居らなくなってしまふから。
湯山さんのお宅の方が見えたら八重子さんから戴いた手紙は全部纏めてありますから、見せるなり差しあげるなりしていただきたいものです。八重子さんにいただいたものも全て纏めて集めてあります。
スエーターはお母さんが在り場所を知っていらっしゃるでせう。小さな押入れの三つの箱がさうです。写真はアルバムに貼ってあるのと、アグフアのクロモイゾールの箱に入れてあるので全部です。一緒のバンドで結へてあるのは皆さうです。先月の十七日以来心掛けて全部片付けて置きました。もう思残すことはありません。
生みの母、懐かしいお母さんのお墓にお詣りして来ました。直ぐ傍にゐることが出来ませう。では皆さんさようなら。明日は早く起きなくっちゃなりません。
七年五月五日夜更け 五郎
2人の遺体は、その日のうちに海岸近くにある法善院の無縁墓地に仮埋葬されました。
ところが翌朝、八重子の遺体だけが墓地から消えていることが判明、探索の結果、墓地から100メートルほど離れた船小屋の砂の中から全裸の遺体が発見されました。犯人は、近くの火葬場に勤める65歳の火葬人夫でした。
検死後、警察は「遺体は純粋無垢の処女であった」と発表しました。この異例の発表には、双方の親の意向が働いていたといわれますが、真相はわかりません。
2人が死んだ場所は、三菱財閥のオーナー家・岩崎家の所有地の一部で、小高い丘の上でした。地元では八郎山と呼ばれていましたが、取材した新聞記者が、そんな名前は悲恋にふさわしくないと考え、近くの地名をとって勝手に坂田山と名付けて記事にしました。
その記事により、事件は「坂田山心中」として全国に知られ、人々の涙を誘いました。
事件のわずか1ヶ月後、松竹映画『天国に結ぶ恋』が封切られ、大ヒットしました。その主題歌がこの歌です。
事件のあと、1年ほどの間に同じような心中が続発し、その数は20件に及びました。そのなかには、映画館で『天国に結ぶ恋』を見ながら服毒心中したり、主題歌のレコードを聴きながら心中したカップルもいたといいます。
柳水巴は西條八十の変名です。レコード会社から作詞の依頼があったとき、事件に便乗した際物ということで断ったそうですが、再三の要請を断り切れず、変名で作詞したと伝えられています。
気の進まない作詞だったにもかかわらず、その詞はみごとで、結ばれない恋を美しく歌い上げています。この事件が、おぞましい後日談に汚されることなく、世紀の悲恋として全国に喧伝されたのは、この歌に依るところが大だったといってよいでしょう。 
東京ブルース
作詞:西條八十、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子
   雨が降る降る アパートの 窓の娘よ なに想う
   ・・・
   ああ 青い灯 赤い灯 フィルムは歌うよ
   更けゆく新宿 小田急の窓で 君が別れに 投げる花
同名の東宝映画の主題歌として、昭和14年(1939)に作られたもの。
昭和12年(1937)の『別れのブルース』、同13年(1938)の『雨のブルース』と『思い出のブルース』に続いて発表された服部良一のブルースです。いずれも淡谷のり子が歌いました。
戦後派には、昭和39年(1964)にヒットした西田佐知子の『東京ブルース』のほうがなじみがありますが、ブルースの特徴は淡谷版のほうがよく出ていると思います。
銀座・浅草・新宿と、『東京行進曲』と同じ盛り場を、新感覚のメロディー、ブルースで歌ったもの。
歌詞にも、ネオン、エレベーター、プラネタリウム、喫茶店、紅茶、フランス人形といった、当時としては都会的なアイテムがちりばめられています。
1番の三味線堀は、寛永年間から大正初めまで、今日の台東区小島町にあった堀割。不忍池から流れ出た忍川が鳥越川につながるところに舟溜まりとして掘られたもので、形が三味線に似ていたところからこの名がついたといわれます。
三味線堀を出た流れは鳥越川を経て隅田川に注ぎました。
大正の半ばごろにはほとんど埋めたれられて、この歌のころには地名としてしか残っていなかったはずです。
2番のプラネタリウムについて天文家の小川誠治さんから、有楽町駅前にあった「東日天文館」かもしれない、という示唆をいただきました。
東日天文館は、日本で2番目のプラネタリウムとして、昭和13年(1938)11月に開館。同20年(1945)5月25日の空襲でプラネタリウムのあった階などが被弾しましたが、建物やドームは残って、戦後東京放送のスタジオとして使用されたそうです。
昭和42年(1967)、新有楽町ビル建設に伴い解体されました。
この歌がリリースされる1年前のオープンで、場所も有楽町というデート(当時はランデブーでしょうか)の名所でしたから、作詞に当たって西條八十が着目した可能性は高いといってよいでしょう。
3番の絽刺には「ししゅう」とルビが振ってありますが、通常は「ろざし」と呼ばれたようです。絽は透けて見えるような薄い絹織物で、夏の羽織や単衣(ひとえ)、袴などに使われました。この絽に色糸で模様を作ったのが絽刺で、要するに日本刺繍ですね。
4番「武蔵野の……映画街」といえば、新宿駅中央東口を出たところに武蔵野館という映画館があります。もうなくなったかもと思って調べてみたら、健在でした。学生時代(昭和30年代後半)に私が通った新宿の映画館で今もあるのは、この武蔵野館とミラノ座ぐらいかもしれません。
ミラノ座と向かい合わせに建っていたコマ劇場はなくなってしまいました。
『東京行進曲』の4番に「変わる新宿 あの武蔵野の」というフレーズがありますが、今は変貌がさらに加速されているように思われます。盛り場としての新宿はとうの昔に「私の新宿」ではなくなってしまいました。 
新妻鏡
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇・二葉あき子
   僕がこころの良人(おっと)なら 君はこころの花の妻
   ・・・
   清い二人の人生を
   熱い泪(なみだ)でうたおうよ
日米開戦の前年、昭和15年(1940)に東宝映画『新妻鏡』の主題歌として作られ、映画ともども大ヒットしました。
映画は小島政次郎の小説に基づいたもので、前編と後編に分かれています。渡辺邦男監督で、山田五十鈴、岡譲二、小高たかし、藤間房子などが出演しました。粗筋は次のとおり。
富豪の娘・七里文代は、両親亡きあとも、ばあやのお多喜と何一つ不自由なく、大邸宅で暮らしていた。隣家の醍醐博は、以前から密かに文代に思いを寄せており、その幼い弟・邦夫も、文代になついていた。
文代は、邦夫少年にクリスマスプレゼントして空気銃を与えるが、その誤射により失明してしまう。弟を連れて詫びに病室を訪れた博を、お多喜は冷たく追い返すが、彼は毎日花を贈り続けた。
文代は、花の送り主を見合いの相手・金田だと信じていた。しかし、実際は文代の失明を理由に、結婚話は破談になっていた。お多喜は、そのことを文代に告げることができず、金田の贈り物だと偽っていたのである。
ある日、七里家の元使用人・大木が訪れ、その嘘を暴いてしまう。文代はショックを受けるが、その後もなにくれとなく親切にする大木の求婚を受け入れ、彼と結婚する。しかし、大木の狙いは七里家の財産であった。
財産を使い果たしたあげく、実印をもって姿を消した大木は、七里家の邸宅を売り払ってしまう。すでに大木の子を身ごもっていた文代は、お多喜ともども路頭に迷う羽目に陥った。
責任を感じたお多喜はガス自殺を企てたが、駆けつけた博に助けられた。仔細を聞いた博は、文代たちを自分の家に引き取り、仕事で南洋に発った。
しかし、彼の会社は倒産し、博もなかなか帰国できない。生まれた子どもを抱えて生活が苦しくなった文代は、たまたま出会った昔の踊りの師匠の薦めで、歌手として寄席に立つ決心を固めた。
その歌を聴いたレコード会社の社員の薦めで、文代はレコードを吹き込むことになった。それが大ヒットし、思いもよらぬ大金を手にする。
尾羽うち枯らした大木がそれを聞きつけて姿を現し、自分の子どもを誘拐し、百万円の身代金を文代に要求。文代は、とりあえず用意した10万円をもって出かける。それを受け取って立去ろうとした大木は、ちょうど帰国した博に取り押えられた。
やがて再手術を受けた文代の眼には、子どもと博の顔がはっきり映っていた。
……といったふうで、要するに「薄倖な美女がたどる数奇な運命と美しい愛の物語」ですね。
この映画には、もう1つ主題歌があります。サトウハチロー作詞、古賀政男作曲の『目ン無い千鳥』で、これも『新妻鏡』に劣らない大ヒットとなりました。
ただ、今だったら「目ン無い千鳥」というタイトル・歌詞は使えないでしょうね。
なお、この小説は、昭和31年(1956)に、志村敏夫監督によって再映画化されています。出演は池内淳子・高島忠夫・沼田曜一などでした。 
波浮(はぶ)の港
作詞:野口雨情、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子
   磯の鵜(う)の鳥ゃ 日暮れにゃかえる
   ・・・
   島の娘たちゃ 出船のときにゃ
   船のともづな
   ヤレホンニサ 泣いて解く
昭和3年(1928)リリース。
波浮の港は、火口の跡に水がたまった火口湖でしたが、のちに大津波で海とつながり、湾となったものです。
野口雨情は、大島に行ったことがなく、故郷・北茨城の平潟港から想を得て詩を書いたものといわれます。そのため、実際とは異なる点がいくつかあります。
たとえば、大島に鵜はいないし、「なじょな」は大島弁ではなく、「どんな」の意の北茨城弁だそうです。
波浮の港は東を向いているので、「夕焼け小焼け」はおかしいと指摘する人もいます。これについては、夕日は見えなくても、空一面に夕焼けしたようなときには見えることもあるので、かならずしもまちがいとはいえません。
御神火は、火山を神聖なものとしてあがめ、その噴火を表現したもの。
佐藤千夜子は、山形の天童出身。東京音楽学校を中退後、『波浮の港』によって日本の国産レコード歌手第一号となりました。その後、『東京行進曲』『紅屋の娘』など、続けてヒットを飛ばしました。
しかし、当時の音楽界ではランクが低かった歌謡曲歌手を嫌って、オペラにこだわり続けたために、収入が細り、晩年は不遇でした。 
無情の夢
作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、唄:児玉好雄
   あきらめましょうと 別れてみたが
   ・・・
   何で生きよう 生きらりょうか
   身も世も捨てた 恋じゃもの
   花にそむいて 男泣き
戦前に大ヒットした演歌の1つで、昭和10年(1935)にビクターから発売されました。
演歌については、歌謡曲イコール演歌とする説や演歌は歌謡曲とは別のジャンルとする説など、いろいろな考え方がありますが、歌謡曲のなかの1ジャンルとするのが、一般的な受け取り方のようです。
歌謡曲は日本におけるポピュラー音楽の総称であり、洋楽的なものから日本調の歌まで幅広いジャンルが含まれます。そのうち、メロディや歌詞、テーマに日本的特徴がとくに強く感じられるものが演歌と呼ばれます。
日本的特徴とは、メロディがいわゆるヨナ抜き(ファとシがない5音階)で、歌詞は七五調を基本とした短詩型が主流という傾向を指します。
テーマは、人生もの、母もの、股旅・任侠もの、望郷ものなどさまざまですが、最も多いのが失恋ものです。ひと言でいうと、"陰の情念"が演歌の主要テーマであるといってよいでしょう。
ヨナ抜きでも、古賀政男の『丘を越えて』のような明るく楽しい歌も少なくありませんが、こうした歌はあまり演歌とは感じられないようです。
"陰の情念"を表現するために、酒、涙、女、雨、雪、北国、別れ、命、未練、泣く、むせぶ、港、諦め、運命(さだめ)などの言葉がよく使われます。
以上の観点から『無情の夢』を見ますと、メロディはヨナ抜き、歌詞は七五調で、諦め、別れ、命、涙、男泣きなどがちりばめられた失恋歌で、まさしく演歌そのものです。
演歌の歌唱法にも特徴があって、歌手によって多少異なるものの、いわゆる小節(こぶし)をころころ転がし、感情をオーバーに表現する傾向が顕著です。
こうした傾向は、昭和30年代以降にとくに強まってきました。このころから、音大出身者でなく、のど自慢大会の優勝者とか流しなど、歌がうまいと評判になった人がレコード会社にスカウトされて演歌歌手になるケースが増えてきたことが関係しているようです。
いっぽう、戦前から昭和20年代にかけては、藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、淡谷のり子、佐藤千夜子、松原操(ミス・コロムビア)など、音楽学校で正統的な声楽教育を受けた歌手が人気を博していました。
彼らは、演歌を歌うときにも、喉を締めず、頭や胸に音を反響させ、それを喉からすっと出す歌い方、いわゆるクルーン唱法で歌っていました。 
『無情の夢』を歌った児玉好雄は、アメリカのパシフィック大学音楽科やイタリアのミラノ音楽院でオペラなどクラッシック音楽を学んだ声楽家ですが、身につけた西欧音楽の歌唱法を和音階にうまくマッチさせた歌い方をして成功を収めました。
同じ演歌でも、小節や感情表現を誇張した歌い方より、クルーン唱法のように自然な歌い方ほうが私は好きですね。
コテコテのド演歌歌唱法にも、それなりの味わいはあるとは思いますが。 
名月赤城山
作詞:矢島寵児、作曲:菊池 博、唄:東海林太郎
   男ごころに男が惚れて 意気が解け合う赤城山
   ・・・
   明日はいずこのねぐらやら
   心しみじみ吹く横笛に
   またも騒ぐか夜半の風
昭和14年(1939)。国定忠治を主人公にした歌。
『国定忠治』は、『瞼の母』や『一本刀土俵入り』などと並んで、旅芝居一座の定番でした。その芝居でよく流されたのが、この歌か、やはり東海林太郎が歌った『赤城の子守唄』でした。
私が小学生のころ(昭和20年代の末ごろ)まで、毎年、秋の取り入れが済んだ時期を見計らって、旅役者の一行が村にやってきました。
やくざや侍、町娘などに扮した役者たちは、太鼓を打ちながら、興行の開催を触れ回った途中、今はもうなくなってしまった私の生家の南庭でお茶を飲み、招待券を置いて、また宣伝を続けるのが慣わしでした。
子どもたちは、彼らのあとをワイワイいいながらついて回ったものでした。 
湯島の白梅
作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑 実・藤原亮子
   湯島通れば 想い出す
   ・・・
   出れば本郷 切通(きりどお)し
   あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
   鐘は墨絵の 上野山
文豪・泉鏡花が明治40年(1907)元旦から4か月間、『やまと新聞』に連載した小説『婦系図(おんなけいず)』をテーマとした歌。
歌自体は、昭和17年(1942)7月公開の東宝映画『婦系図』(マキノ正博監督)の主題歌として作られました。
『婦系図』は、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに、明治の三大メロドラマともいうべき作品で、大ベストセラーになりました。3つとも、人口に膾炙(かいしゃ)した名ゼリフが含まれていることで有名です。
『金色夜叉』では、熱海の海岸での貫一のセリフ、『不如帰』では、逗子(ずし)の海岸で浪子が夫・武男にいう「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」というセリフ。
『婦系図』では、東京本郷の湯島天神社頭で、早瀬主税がお蔦と交わす次のセリフ。
早瀬 月は晴れても心は暗闇だ。
………お蔦 切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。
これらの名セリフは、かつてのラジオ時代には漫才のネタとして盛んに使われました。私も、子ども時代に3つともラジオで覚えました。
のちに(たぶん高校のころ)『婦系図』の原作を読んだとき、このセリフや場面がなかったので、不思議に思った記憶があります。そのときは、たぶん芝居か映画にした際に付け加えられものだろう、と思っていました。
今回調べてみたところ、まさにそのとおりで、明治41年(1908)9月、新富座で初演された際、脚色者の柳川春葉とお蔦を演じた喜多村緑郎が二人で付け加えたものだということがわかりました。
泉鏡花はこの脚色が大変気に入ったようで、大正3年(1914)に、この別れの場面だけを一幕物の脚本『湯島の境内』として書き下ろしています。
原作は早瀬主税が師によってお蔦と別れさせられる悲恋に、権威主義への反抗を絡ませて描いた小説ですが、これには鏡花の実人生が色濃く反映されているといわれます。
すなわち、鏡花は神楽坂の芸者桃太郎(本名:伊藤すず)と同棲したものの、それを文学の師・尾崎紅葉から反対されて、やむなく別れたことがあります。のちに正式に結婚しましたが、このときの経験が小説に投影されているというのです。
2番に出てくる筒井筒は、筒井(筒状に丸く掘り抜かれた井戸)の上部に取り付けられた木枠のことで、『伊勢物語』などでは幼馴染みの男女を象徴する言葉として使われています。 
別れのブルース
作詞:藤浦洸、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子
   窓をあければ 港が見える
   ・・・
   恋には弱い すすり泣き
   二度と逢えない 心と心
   踊るブルースの 切なさよ
昭和12年(1937)のヒット曲。ウ〜ム、昭和モダニズムの匂いがする……。
モダニズムは、一般的には「都会的・近代的な感覚を示す芸術上の諸傾向」ですが、日本では、大正〜昭和初期に、欧米の思想・芸術理論・様式などを積極的に取り入れて、現代人としての新しい感覚を表現しようとした運動や傾向を指しています。
このころ、ジャズ、ダンス、カフェなどのモダニズム文化がサラリーマンや知識人をとらえる一方で、庶民は、剣劇映画、落語などの大衆文化に惹きつけられました。蓄音機とレコードが登場し、流行歌全盛時代が訪れ、『君恋し』『東京行進曲』などの明るい曲がヒットしました。
しかし、不景気が深刻化し、大陸の戦火が拡がるにつれて、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』といった哀調を帯びたメロディが人々の心をとらえるようになりました。
この歌を聞いていると、ホテルのフランス窓越しに暗い波止場を見下ろしている女性のシルエットが浮かんできます。
1番のメリケンはアメリカンのなまり。メリケン波止場はアメリカ船の着く波止場で、転じて外国船の着く波止場。横浜港と神戸港のものが有名。
2番の「やくざ」は、ヤーサマ(ヤッチャン)ではなくて、荒事や腕力沙汰を指しています。腕力が強ければ、当然、ヤーサマにも強いでしょうが。
ブルースの歴史については、『思い出のブルース』の蛇足をご覧ください。 
 
ポピュラー音楽の魅力

 

1 メロディがシンプルでわかりやすい
ポピュラー音楽のメロディは非常にシンプルだ。例えば、短くわかりやすいモチーフがあり、例えばそれを「ドミーファ」と仮に決めてたとする。すると、そのドミーファをもとに、ドーミファであったり、ドドミファであったり、アレンジしていく。あるいはドミーファドミーファと単純に繰り返す。そうすることでモチーフを聞き手に印象づけ安くなる。難しいメロディや何回な音楽のほうが飽きがこないものであるが、そもそも聞いてもらえない曲に飽きるもくそもない。よって、短いモチーフを飽きないように細かく変更して最後まで聴かせるような手法がポピュラーミュージックでは取られている。巧妙にバックサウンドにも歌メロのモチーフ(あるいはイントロのモチーフ)が含まれていて、どれだけ音楽的素養が薄くても、ハマれるような仕組みになっているのだ。逆に短いモチーフで曲を作ればモチーフそのものが「これどっかできいたことあるぞ?」とわかるようになり、どうしても既視感が出てくる。そうすると、音楽を聞き慣れたユーザから「これはパクリだ」「これは二番煎じだ」とバカにされてくるのだ。しかし、短いモチーフを使うというポピュラーミュージックの特徴からしてこれは仕方ないことでもある。全てをパクリだと言ってしまえば世の中からほとんどの曲が消えてしまうことになるだろう。これと同じような理屈で「コード進行」と呼ばれる、バックサウンドの流れも、同じようなものが多くなる。「ドミソ」「レファラ」などと、ピアノで鍵盤を一個飛ばしに和音を弾いたことは誰でもあると思う。楽曲にはその「和音」を曲の展開にあわせて羅列している。ドミソー ソシレー ファラドー といった具合にだ。しかし、こんなもの、組み合わせは極論で言えばドからシまでの7つまでしかない(もちろん、詳しいことをいえば色々な和音があるのだが)。したがって、コード進行も、大衆に気に入られるようなものを選別していけば自然と同じようなものになってしまう。これも「コード進行がパクリだ」「コード進行が同じものばかり」と、ポピュラーミュージックが批判される理由となっている。
2 歌詞が誰にでも当てはまり想像しやすいものになっている
ポピュラー音楽で一番批判されているのは歌詞だといっても過言ではない。先ほどのメロディのモチーフやコードなんかはちょっと楽器を触ったことがないと理解できない部分なので一般的にはわからない人もいる。しかし歌詞は誰が聞いてもわかる。「君が好き」とか「愛してる」とか「君が教えてくれた」とか「そばにいたい」とか「季節が移りゆく」とか、そういうありきたりなフレーズに一般人でさえ眉をひそめてしまう。しかし、音楽とはそういうものだ。こういった批判傾向は音楽を聞けば聞くほど出てくるものだが、そもそも音楽は誰でも聞けるように作ってる。玄人受けのいい難しい言葉の歌詞なんて作っていたら、初めて音楽を聞く客層に曲を聞いてもらえない。ようは金が稼げないのだ。どの業界でも新規顧客は大切だ。よって、同じようだと思われても、初めてでも聞きやすいようなフレーズが歌詞でも多様されていく。また、学がなくても、バカでもサルでも歌詞が理解できないといけない。そうなると、あまり複雑な解釈や意味を込めてしまうとバカが理解できない。バカでもわかるようなシンプルで「君が好き」といった歌詞にしたら、誰でも理解できる。「ああ、君が好きだってことなんだな」と。そういった理由から、誰でも聞けるように歌詞がひねりなくわかりやすい言葉で書かれていることはデメリット以上に、商業上のメリットがある。それは決して悪いことではなく、そうしないと音楽を聞き続けられない人が実際にいるから仕方ないのだ。
3 タイアップや宣伝など色々な場面で使い勝手が良い
ポピュラー音楽はだいたい3分〜4分ぐらいで、長くても5分程度だ。例外もあるが、基本的にはそう。そしてサビの長さもテレビのCMに合わせて15秒か30秒にすることが多い。音楽業界は「CDを売ってライブして終わり」という商売ではない。それだともともと音楽に興味を持ってる層にしかアプローチできない。せっかくバカでも音楽知識ゼロでも聞けるように作ってあるのにそれではもったいない。そこで、テレビのCMに出たり、ドラマの主題歌になったり、お店のBGMにしたり、いろんな場面で活用して多くの人に聞いてもらう工夫をするのだ。Aメロからサビにかけてどんどん音を増やして盛り上がりを演出したりするのも、サビが15秒なのも、歌詞がどんなものにタイアップされても意味がおかしくなりすぎないぐらいには汎用的なのも、全てはそのためだといっていい。10分ぐらいの長い曲も サビがない曲も 「君が嫌いだから死んで欲しい」という歌詞も、実際には存在する。それでもやはりオリコンチャート的には振るわないし、すでに売れているアーティストがやっと自分たちの表現の規制が取れてハメを外しているだけにすぎない。ただ、自分が好きな音楽を振り返れば、ドラマやCMがキッカケだったことがあるのは、誰しも経験するところだろう。よって、他のメディアや宣伝のために最適化された音楽も一概に悪いとはいえなく、むしろ俳句のような様式美でさえあるといえる。実際、今更80秒ぐらいのサビなんて誰も聞きたくないし、5秒のサビなんて物足りなく感じるだろう。
4 アーティストがキャラクター化されていて魅力がある
こうもポピュラーミュージックが売れ続けるのはアーティストがキャラクター化されて客寄せパンダになっているからだ。実際にアーティストが演奏しているのか、口パクじゃないのか、歌詞は他人が書いたのか、作曲も他人なのか、そんなことはどうでもいい。ただ、キャラクターとして「自分が作曲したことにしている」シンガーソングライターなんてごまんといる。実際に歌を歌わないアイドルなんて当たり前で「あいつは歌をうたってない!」なんて批判する人は誰もいない。口パクはもはや当たり前のことなのだ。では何が大事かと言えば、「キャラクター性」だ。実際に歌のうまさや演奏のうまさなんてあんまり関係ない。特に楽器なんて素人が聞けば誰がひいてもよほど下手くそじゃない限りは同じに聞こえる。ライブ の公演に接待に挨拶周りに営業に、アーティストは忙しい。ノコノコとスタジオにこもってヒキコモリのようにレコーディングや作曲をしてる暇なんてそもそもあまりないのである。したがって、レコーディングスタジオには腕利きのレコーディング専門スタジオミュージシャンがいる。彼らはキモいおっさんだったり、頭皮がすでに見え隠れする年寄りであるケースもあるが、実力は神がかっている。1msも狂わず正確に演奏(あるいはあえて計算してずらす)ことに長けた達人たちなので、彼らがレコーディングを行えば、エンジニアも修正が楽だ。結果的にコストカットになる。結局編集してピッタリリズムを合わせるのであれば本人が何も演奏する必要なんて最初からないのである。そういうわけで、アーティストには職人性よりもキャラクター性が重視され、プライベートで不倫がどうだとか、好きな食べ物はワンタンメンでメーカーはどこそこがいいとか、実は家では裸族であるとかそういった情報の方が大切なのである。しかし、そのキャラクター性こそが人を引きつける最大の要員だ。人は基本的に人を好きになる。「その人が演奏する音楽だから、苦手だったジャンルの音楽が好きになった」みたいな経験を持つ人も多いはずだ。「その人が使ってる製品だから私も買う」みたいになれば宣伝効果すらある。生きた広告塔だ。これはアーティストに限らず、すべてにおいての好き嫌いにいえる。好きな人だから、その好きな人がやってるものには金を払いたいのが人間の性であり、とくに音楽では小説や漫画なんかよりも、その傾向を利用しやすい。やはりそれは直接顔を表に出して活動するからだろう。そこを利用しない手はない。
5 バックサウンドが豪華・派手で盛り上がりがある
とくにここ最近の音楽シーンではこれが顕著だ。バンドの曲でも「お前らのバンドにそんな音出すヤツいねーだろ」と思うような効果音やシンセサイザー、キーボードの音をビロビロ入れて音楽を派手に演出する。ギターのメンバーが2人しかいないはずなのに、音源をきけば4本か5本分ぐらいのギターが聞こえてくる。そして極め付けは音圧だ。スピーカーの性能を最大まで引き出すように音の波をペッタンコにして「ただ大きいだけで抑揚のない音」を意図的に作り上げる。一見ハデだからだ。派手であればテレビのCMでも目立つ。他の曲より目立てれば曲が売れる。まず、曲を知って覚えてもらわなければ売れないアーティストたちは目立つ必要がある。なによりもだ。だから、音楽は基本的に派手だ。最近はバラードでさえうるさい。そのため、未だに店舗で流れるBGMは昔のバラードがたくさん流れてたりする。今のバラードはうるさいからだ。(例外もあるが、そういうのはチャートにあがらない)しかし、派手なものは単純に楽しい。実際派手なものしかないのではなく、派手なものが売れているのが現実だ。つまり、批判するどうこう以前に我々がそういう音楽を選んで買ってるわけだ。パチスロでも画面がビカビカァツ!!!と光ってベロレロレローー!!とバカみたいに音がなって、ジャラジャラとやかましく玉が出てきて、人の判断力を鈍らせるほどの面白さを演出する。「ここを押せぇっ!!」なんて言ってボタンやレバーがついてて押したりしてそれを押したらまたビロリリロリロ!!!とやかましい音がなって派手に演出する。が、それでタマが出るわけではない。音楽も理屈でいえばそれとは変わらない、ドハデで気持ちよくて判断が鈍ってしまうぐらいの体験をしてみたいと誰しもが思ってることなのだ。そうでなければ、DVDで見れるようなムービーを、あえて映画館にいって鑑賞したりなど誰もしないのだから。ハデで良質な音や映像で見れる映画館だからこその良さが、あるのだ。音楽同様に。
まとめ
批判的な記事になってしまったが、実際ポピュラーミュージックは優秀だし、これからも売れ続けていくと思う。それを「嫌いだ」「くだらない」と切り捨てるよりも、「同じような曲のなかでの細かな違いや配慮」を楽しむべきではないだろうか?俳句も5、7、5の縛りの中での音楽で、小説や自由詩みたいな自由度は全くない。それでも縛られた形式のなかで、表現を模索し、未だに新作がでてくるようなものなのだ。音楽もそうだ。サビの秒数、当たり前のようなハデさのなかで、クリエイターのささやかな反抗のような細かい主張を嗅ぎとろうとする視聴の仕方こそが、クリエイターとファンのコミュニケーションではないだろうか?今は「シェア」の時代で、一方的に情報を配信される時代はおわり、だれでも音楽や言葉などの作品、意見を発表できる時代になった。そんな時代だからこそ、音楽ユーザーとしての自分が、発信側のアーティストやクリエイターに対してどのように 「メッセージをつかみとり、解釈するのか」 俳句の真意や背景をさぐるような気持ちで、これから大衆音楽に触れていくことも、この時代には求められるのかもしれない。 
 
大衆音楽の「戦後」はいつはじまったのか?

 

俗に「歌は世につれ、世は歌につれ」という。世が歌につれることはあまりないし、そもそもある歌謡が単純に世相一般を反映していると考えることにも疑問がある。とはいえ、戦後日本において、歌謡が人々の集合的な記憶と深く結びついてきたこともまた間違いない。本稿では、「歌」と「世」が人々の記憶の中で撚り合わされるさまざまな仕方にも留意しながら、戦後初期の大衆音楽史をひもといてみたい。
終戦後初のヒット曲「リンゴの唄」は戦時中につくられた
「戦後」の明るさや解放感を象徴する歌謡として真っ先に想起されるのは「リンゴの唄」や「東京ブギウギ」だろう。たしかにこれらが敗戦直後の数年間に非常な人気を博したことは間違いない。しかし、これらは一方では、戦前・戦中との連続性を示すものでもあり、他方、こうした歌の流行は、知的な文脈ではむしろ否定的に捉えられることのほうが多かった、ということもまた重要だ。
「リンゴの唄」は戦後初のヒット曲として知られる。これは敗戦直後の1945年10月に封切られた映画『そよかぜ』の挿入歌だった。ということはつまり、それがつくられたのは戦時中ということになる。戦争末期には、戦争と銃後の生活の苦難を感傷的に描く表現はむしろ後退し、明朗かつ娯楽的な表現を通じて人々を慰撫するような表現が志向された。『そよかぜ』と「リンゴの唄」もその一つとして企画されたと考えられる。
映画主題歌がレコード化されヒットする、という「タイアップ」が常套化するのは、1938年の『愛染かつら』以降だが、その主題歌「旅の夜風」の作曲者、万城目正(まんじょうめ・ただし)は「リンゴの唄」の作曲者でもある。
戦前ジャズの担い手が生んだ「東京ブギウギ」
一方、「東京ブギウギ」は、服部良一の作曲による「ブギ」という外来リズムが戦後の「アメリカ」への憧憬のあらわれとして解釈されることが多い。また、これを歌い踊った笠置(かさぎ)シヅ子の姿は、しばしば「パンパン」と呼ばれた女性たちの派手で大胆な立居振舞いとも結び付けられ、その意味でも「戦後」の象徴とされやすい。しかし、笠置も服部も、戦前日本のジャズ文化の主要な担い手だったことは強調しておきたい。
この二人が組んだ松竹楽劇団は、日米開戦直前に戦前日本ジャズの頂点をきわめた。服部が「ブギ」のリズムを初めて用いたのも、戦後ではなく、戦時中だった。彼は陸軍軍属として中国大陸で対敵宣伝としての音楽活動に従事していたが、1945年6月の上海でのリサイタルで初演されたシンフォニック・ジャズ曲「夜来香幻想曲」の一部でこの新リズムを用いている。
ちなみに服部は、日本でのヒット曲が少なくなる1960年代以降、香港にその活路を見いだし、香港エンターテインメントの発展に絶大な影響を及ぼしている。このことは、服部の音楽活動(ひいては日本の大衆音楽文化全体)を、戦前と戦後を貫いて存在する東アジアの大衆文化ネットワークのなかで捉える必要をわれわれに示している。
「俗悪な流行歌」と決めつけた進歩派知識人
考えてみれば当然ではあるが、戦後最初期に流行した楽曲は、制作方式においても、歌手や作家といったスタッフにおいても、曲調においても、その直前の時期と断絶していたわけではない。そうした連続性をとりあげて、「民主的」で「進歩的」な芸術文化の啓蒙普及を目指す当時の知識人たちは、それらの楽曲を、旧態依然、反動的、として激しく非難していた。当時の代表的な音楽評論家の一人、園部三郎は次のように「リンゴの唄」を評する。
“ 試みに最近の流行歌「りんごの歌」を考えてみるがよい。あの歌詞のどの一行に人民自身の生活心情の奥底にふれたものがあるか。或は人間的感情が表われているか。それは意味のない言葉がつづられているだけで、旋律もまた無感動でそれに なんとなく民心を異国的あこがれに導くレヴュー的雰囲気の伴奏が附いているのである。人民が無希望、無思索に陥っているこの荒廃の時代に、商業主義はさかしくもまた人民の弱点と無自覚とを利用して、旧自由主義末期の傾向を復元しつつ、人民を無気力状態に陥れつつあるのだ。”(園部三郎『民衆音楽論』)
こうした、流行歌(レコード会社が企画する大衆歌謡)への敵意は、1950年代から台頭する左翼系の音楽運動(合唱の「うたごえ運動」や鑑賞団体の労音【勤労者音楽協議会】など)に受け継がれてゆき、昭和30年代(1955年〜64年)を通じて、具体的な音楽実践も伴って強い影響力をもつことになる。
当時のインテリ層の流行歌への忌避感を示すエピソードをもう一つ挙げておこう。映画監督の今井正は、自身の監督作品『青い山脈』において、服部良一作曲の主題歌を用いることを嫌っていたという。
後には戦後民主主義の象徴となり、1980年代のテレビ調査(1981年TBS、1989年NHK)では「日本人の最も好きな歌」の第一位に選ばれたこの「若く明るい歌声」は、戦前の東京帝大中退の社会派監督にとっては、低俗で軟弱なものだったようだ。
GHQ主導で爆発的人気博したラジオ「のど自慢」
ところで、「リンゴの唄」の流行は、後年のヒット曲のようにレコード売上枚数で計られるものではなかった。プレス工場は空襲で被害を受け、材料も欠乏していた。もちろん庶民には購買力もなかった。その流行は、ある意味ではきわめて「戦後的」な経路で起こった。つまり「のど自慢」で繰り返し歌われることによって人口に膾炙していったのだ。
ラジオ放送開始後、1946年1月に始まり、たちまち爆発的に人気を博したこの番組は、GHQによる放送の民主化指令を受けて企画されたものだ。決して上手とはいえない素人の歌声が公共の電波に乗る、という事態は、それまで上意下達メディアであったラジオにはありえないもので、そこに「民主主義」を感じる人々も多かった。
しかしこの番組も、戦争の記憶と無縁ではない。この番組のヒントになったのは、軍隊内の演芸大会だったという。さらに、その人気の背景として、ラジオが空襲や配給や出征といった生活に不可欠な情報伝達手段として戦時中に急速に普及した、ということも忘れてはいけない。
ほどなく「のど自慢」は放送番組を越えて、素人が歌を競う実演として、それ自体一つの新しい娯楽形態として広まってゆく。やがて、レコード会社もこの形式を用いて公開オーディションを行うようになり、その中から島倉千代子、北島三郎、都はるみといった歌手が登場する。戦前のレコード歌手は音楽学校出身者か有力な作曲家や歌手の弟子がほとんどだったので、「素人あがり」を積極的にピックアップするこのシステムは、映画各社の「ニューフェイス」と同様、戦後に特徴的なものといえる。
「のど自慢」予選で失格した美空ひばり
この「のど自慢時代」を象徴する存在が、素人の子供歌手から一躍スターになった美空ひばりだ。横浜で魚屋を経営する父親の道楽ではじめた素人楽団で歌い始めた豆歌手は、たちまち活動の舞台を広げ、やがてはレコードと映画を股にかけて戦後最大の大スターとなる。
彼女の最初の映画出演は、その名も『のど自慢狂時代』であり、そこでは「東京ブギウギ」を歌っている。当時の彼女は大人顔負けに笠置シヅ子の曲を歌う「ブギウギこども」だった(この評言は、ひばりをこきおろしたサトウハチロー(「リンゴの唄」作詞者でもある)による新聞コラムのタイトルだ)。
しかし、「のど自慢時代」の申し子であるひばりは、その「本家」であるNHKの放送番組の価値観とは相容れなかった。彼女がNHK「のど自慢」の予選に出場した際、不合格を示す鐘ひとつさえ鳴らず、審査不能の失格となった、という有名なエピソードがある。彼女がスターになってからの雑誌記事でも、「かりに、いま美空ひばりが、のど自慢に出場したとしても、私は鐘を鳴らさぬだろう」というNHKの音楽番組担当ディレクター・丸山鉄雄(戦後民主主義のチャンピオンと称される政治学者・丸山真男の兄)の談話が紹介されている。
「流行歌」を嫌い「歌謡曲」と呼んだ放送界
つまり「のど自慢」は、素人の歌を大衆娯楽として流通させる新たな上演形式の基となる一方で、放送番組としては、あくまでも制作者が考える望ましい音楽性を啓蒙普及する場でもあったのだ。昭和20年代後半(1950年〜54年)には、「トンコ節」など盛り場の酒色と結びついた「お座敷調」の流行歌が猖獗(しょうけつ)を極めたが、それらの歌がNHKの「のど自慢」で披露されることはなかった。一方、合格するのは、より西洋芸術音楽に近い歌唱法で芸術歌曲に近い楽曲(その多くはNHKのラジオ放送のために作られた「ラジオ歌謡」)を歌う出場者だった。
さらに遡れば、放送は、レコードやトーキー映画といった、昭和初期のモダン文化のなかで最初の隆盛をみた産業的な娯楽に対して一貫して批判的であり、自ら主体的に健全で家庭的で芸術性の高い大衆音楽を作り出そうとしてきた。
そもそも「歌謡曲」という用語は、レコード会社が企画制作する大衆歌謡が「流行歌」という分類名を用いたのに対し、その語を用いないために放送局が考案した言い換え語だった。
戦後放送音楽の方向性を決定づけたエリート・三木鶏郎
レコード会社製の「流行歌」とは異なる大衆歌謡を自ら生み出そうとする志向は、1936年に放送開始され多くの「戦時歌謡」を生んだ「国民歌謡」や、戦後それが改称した「ラジオ歌謡」、1960年代前半に「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」などを生み出す『夢であいましょう』の「今月の歌」や、現在まで続く「みんなのうた」など、様々な形をとってきた。そのなかで、戦後の放送音楽の方向を設定したといえるのが作曲家・三木鶏郎(みき・とりろう)だ。
飯田橋に事務所兼住居を構える弁護士の息子で、東京帝大音楽部で活動し、同窓の諸井三郎に作曲を師事した、という、生粋の教養主義的音楽エリートである彼は、陸軍主計中尉として敗戦を迎え、召集前の職場である日産化学に復職せず、音楽家の道を選んだ。師の人脈を活かし、焼け跡の生活を歌った自作曲「南の風が消えちゃった」(タイトルは戦時中の南進政策を揶揄したもの)を放送局に売り込むや、ディレクター・丸山鉄雄に気に入られ、その日のうちに放送され大きな反響を呼ぶ。
初のレギュラー番組『歌の新聞』は占領軍検閲官との行き違いにより打ち切りとなるが、1947年に開始された『日曜娯楽版』で、時々のニュースや生活の話題を音楽コント仕立てで上演する「冗談音楽」の構成と音楽を一手に引き受ける。明朗な音楽と切れ味鋭い世相風刺(日本政府をも容赦なく批判したがGHQの批判だけはご法度だった)で一世を風靡する。現代版鉄道唱歌というべき「ぼくは特急の機関士で」や、「毒消しゃいらんかね」「田舎のバス」など、必ずしもレコードのヒットという形ではなく、ラジオを通じて広く親しまれる歌を多く作った。
民放転出後にCMソングを量産した三木
占領期に圧倒的な人気を博した『日曜娯楽版』は、占領終結後、政府の圧力で放送打ち切りとなり、三木鶏郎は民放に移り、今度はコマーシャルソング作家として膨大な仕事を残している。一般に日本初のコマーシャルソングといわれる「ぼくはアマチュアカメラマン」にはじまり、「ワ・ワ・ワ・輪が3つ」(ミツワ石鹸)「キリンレモン」「明るいナショナル」「くしゃみ三回ルル三錠」など枚挙にいとまがない。
政治風刺からCMソングへの転身は、一見すると商業主義的な堕落のようにもみえるが、本人の意識としては、政治風刺はあくまでも大衆の音楽趣味を引き上げるための方便にすぎず、明朗で質の高い(西洋芸術音楽の約束事に合致する、という意味での「質」だが)音楽を、放送を通じて広く家庭に普及させることで、旧来の俗悪な大衆文化に毒されている大衆の趣味を救済する、という志向においては一貫したものだった。
放送音楽が、レコードや映画を通じて普及する従来の大衆歌謡よりも「高尚」であり、なおかつ親しみやすい、という、三木鶏郎の仕事を通じて育まれた感覚は、CMやテレビ番組とのタイアップによってヒット曲が量産される、日本以外では必ずしも一般的ではない流行過程の背景ともなっているように思える。
進駐軍クラブが生んだ「芸能プロダクション」
三木鶏郎の音楽的アイデアの源泉は、戦前に受けた西洋芸術音楽の教育に加え、戦後の占領軍放送に由来している。分厚く複雑なビッグバンドの響きや洗練されたコーラスが、彼の考える高尚な大衆音楽のモデルだった。実質的に放送局専属になる前には、占領軍のキャンプでの演奏を行っていた。このことが示すように、占領期には、ここまで素描してきた日本の大衆音楽状況と隣接して(しかし一般の日本生活者からは隔絶されて)、占領軍の慰安施設でアメリカ流のエンターテインメントを提供する音楽家や芸人が多数存在した。
占領終結前後から、占領軍のクラブでキャリアを開始した歌手が日本の聴衆相手に活動を始めることになる。その筆頭、江利チエミと雪村いづみは、同年齢の美空ひばりとともに「三人娘」を形成した。
また、占領軍相手のバンド経営や演奏場所のブッキングといった仕事から発展して、所属芸能人のマネージメントのみならず育成や売り出しまでを行う芸能プロダクションという新しい形態が生み出される。それまでは、興行師は土地と結びついており、芸能人の付き人は「カバン持ち」あるいは「番頭」にすぎなかった。
1958年のロカビリーブーム以降、芸能プロダクションに所属する若者たちが、テレビという新しいメディアを主要な舞台に、アメリカ的な雰囲気の強いパフォーマンスを繰り広げるようになる。テレビと芸能プロダクションが中心となって、60年代後半以降、レコード会社と映画会社の垂直統合に基づく旧来の娯楽産業の構造を根本的に転換させてゆくことになるのだが、残念ながらそのことを述べる余裕はないため別の機会を待ちたい。
「戦後歌謡史」をめぐる個人と集団的記憶
本稿では、敗戦直後の大衆音楽状況を、戦前・戦中との連続、メディア環境、イデオロギーに即して素描した。いかにも「戦後的」にみえる事象が戦前に淵源していたり、現在「国民的」と考えられている楽曲や人物や事象が激しい批判の対象になっていたり、というように、現在漠然とイメージされる「戦後歌謡」とは異なる相貌を意識的に示そうとしてきた。もちろん、ここで描いたのはあくまでも筆者の取捨選択と解釈を通した姿であり、これこそが「真実」だった、などと強弁するつもりはない。
強調しておきたいのは、戦争を挟んで大衆音楽のすべてが新しく変わった、などということは決してない、ということ、また、人々がひとしなみに同じ歌を愛好したわけでもなく、多くの人々に愛好された歌が常に手放しで賞賛されたわけでもない、ということだ。たしかに歌は個々人の記憶と結びついている。そして、ある歌が、ある時代のある人々の集合的な記憶のインデックスとなることもあるだろう。
しかし、たとえば同時代的な言説の中では忌避されることも多かった「リンゴの唄」や「青い山脈」が、現在では、ある時代とそこに生きた人々の全体を肯定的に表象するものとしてその意味作用を変化させたように、個人的な歌の記憶が、集団的なそれに変化するに際しては、様々な歴史的地点における様々な文脈が複雑に絡み合っている。また、その集団的な記憶自体も常に揺れ動き、更新されている。「戦後70年」に際して、「戦後歌謡史」の更新と再編はどのように行われるのだろうか。
戦後大衆音楽関連年表(1945 〜1954)
1945年
・ポツダム宣言受諾(8/15)
・軽音楽・歌謡曲の放送復活(9/9)
・GHQが占領政策徹底のため日本国内の家庭の半数にラジオ受信機が普及するように生産・配給の立案を政府に指示(11/13)
・NHKラジオで「新雪」「赤城の子守唄」「野崎小唄」などが流れる(9/9)
・“敵性音楽”として規制されていたジャズやダンス音楽も復活。米軍部放送組織(AFRS)が開設(9/23)。「Smoke Gets in Your Eyes」「Sentimental Journey」などが流れる
・映画「そよ風」(封切り10/11)の主題歌「リンゴの唄」が全国的に広まる
・日蓄工業(現日本コロムビア)が戦後初の洋盤レコードを発売(11)。A面「ビギン・ザ・ビギン」、B面「眼に入った煙」で大ヒットする
・紅白歌合戦の前身「紅白音楽試合」放送(12/31)
1946年
・NHK「のど自慢素人音楽会」放送開始(1/19)
・ブギウギのリズムで「東京の花売娘」岡春夫が大ヒット
1947年
・対日理事会が民放不許可の方針を決定(1/8)。GHQが政策を転換し、NHKの公共事業体化,民間放送の開設等を指示(10/6)
・笠置シズ子が3月東京日劇、9月大阪梅田劇場で「東京ブギウギ」を歌い、大ヒット
・「日曜娯楽版」放送開始(10/5)
・労働運動の高まりとともにうたごえ運動が登場
1948年
・美空ひばりがデビュー。横浜国際劇場に前座歌手として登場(5/1)
・ブギブーム―「東京ブギウギ」に続き「ヘイヘイブギ」「ジャングルブギ」がヒット、服部良一・笠置シズ子のコンビでセンセーショナルを巻き起こす
・“古賀メロディー”の代表作「湯の町エレジー」が40万枚以上の売れ行き
1949年
・映画の主題歌のヒットが相次ぐ―「悲しき口笛」「青い山脈」「月よりの使者」「銀座カンカン娘」など
・スイング・ジャーナル主催による第1回スイングコンサートが読売ホールで開催される(7)
1950年
・進駐軍放送(WVTR)からヒット曲が生まれる―ドリス・デイ「アゲイン」、ナット・キング・コール「モナリザ」など
・“ブギの女王”笠置シヅ子の「買物ブギ」がヒット。ブギブームが終焉をむかえる
1951年
・第1回「紅白歌合戦」をスタジオから放送(1/3)
・コロンビア、LPレコードを発売(3/20)
・日本初の民放ラジオ局が開局(9/1)
・「上海帰りのリル」がヒット。「銀座のリル」「リルを探してくれないか」などのリル・ブームが起こる
・ご当地ソング登場―NHK「日曜娯楽版」の放送中に歌われた「僕は特急の機関士で」が人気を集める
1952年
・民放ラジオ局の開局ラッシュ
・ラジオ東京開局記念ラジオドラマ「リンゴ園の少女」のために作られた美空ひばりの「リンゴ追分」が大ヒット
・江利チエミ「テネシーワルツ」でデビュー。23万枚のヒットとなる
1953年
・NHKテレビ放送開始(2/1)
・第4回紅白歌合戦,テレビで中継開始(12/31)
・ジャズブーム―日劇で「ティーン・エイジャー・ジャズ大会」開催。6日間で7万人の入場記録(7)。浅草国際劇場で「ジャズ・ショー」開催。13日間で10万人が入場(9)。また,ルンバ王といわれるザビエル・クガートとその楽団(3)、ノーマン・グランツやオスカー・ピーターソンの「JATP」(11)、ルイ・アームストロング・オールスター(12)などが来日。全国の大学ではジャズバンドが続々誕生し、都内にジャズ喫茶の開店が相次ぐ
・東京・日比谷で「日本のうたごえ」第1回中央大会開催(11/29)。うたごえ運動が広がる
・雪村いずみ「想い出のワルツ」でデビュー
1954年
・新宿にうたごえ喫茶登場
・「お富さん」ブーム―春日八郎が一躍スターダムに
・国産EPレコード第1号―雪村いづみの「青いカナリヤ」
・ 映画「グレン・ミラー物語」の封切りとともに「茶色の小びん」などのグレン・ミラー・サウンドがブームとなる  
 
ポピュラー音楽史・序説

 

ポピュラー音楽史とはなにか
ポピュラー音楽のアカデミックな研究というものに興味を持ち始めたみなさんは、ポピュラー音楽の歴史を学ぶということに、どのようなイメージを持ち、あるいはどのような期待を抱くだろう? J-POPの展開の研究だろうか? アイドル歌手の時代的変遷だろうか? 宝塚歌劇団や劇団四季などのミュージカルやレヴューの系譜学だろうか? あるいは、英米を中心とするロックシーンの動向とか、ブルースからジャズを経てリズム&ブルースやヒップホップに至る黒人音楽の流れかもしれない。フォックストロットやジッターバグ、ツイストからブレイクダンスに至る音楽スタイルとダンスステップの変遷とか、ディスコやレイヴなどのダンス文化とLGBT(レスビアン・ゲイ・バイセクシュアル&トランスジェンダー)運動との結びつきに興味のある読者もいるだろう。楽器や録音スタジオの発達とか、演奏法や作編曲理論・技法の変化なども、ポピュラー音楽の歴史には欠かせないという意見もあるかもしれない。
ポピュラー音楽の歴史というのは、これら全てであるどころか、これだけでは済まない広がりを持った領域である。例えば上に挙げた項目は、日本に住んでいる一般的な若者が関心を持ちそうなポピュラー音楽の歴史的側面に関するものであり、同じ日本でも年齢層や性別、学歴や社会階層が違えば、ポピュラー音楽史観はまた違うだろう。さらに日本の外に目を向ければ、韓国や中国、インドやスリランカ、イラクやエジプト、エチオピアやジンバブエ、ブラジルやペルー、ウクライナやベルギーなどの人々(「ポピュラー(popular)」とは、本来「人々(people)」という名詞の形容詞形である)のポピュラー音楽史観は、簡単には想像し難いし、人並みはずれた語学力と外国経験のある人であっても、これらの国・地域全ての人々のポピュラー音楽観を一人で網羅することは物理的に不可能なはずだ。
当然、ポピュラー音楽の歴史すべてを一冊の本にまとめることは出来ない。私が「ポピュラー音楽史」というご大層なタイトルでこの本のなかで展開する議論は、それゆえ、世界中の様々な場所で、様々な人種や宗教や世代や性別や社会階層の人々により、様々に演奏され、聴かれ、踊られ、口ずさまれているポピュラー音楽なるもののなかから、私の関心に沿って選択・編集されたものに過ぎない。歴史を物語る作業――つまり本を書く作業――とは、いわばカラオケバーの司会のようなもので、他人の声を体裁よくつなぎあわせ、あたかも一つの大きな流れを(錬金術的に)呼び出そうとする作業にほかならない。この本が、元々は複数の声によって語られる歴史をどれだけ上手く一つの流れに演出出来るかどうかは、読者の判断に任せるとして、まずは私自身がどんな問題意識を持ってこの「ポピュラー音楽史」を紡いだのかを大まかに説明しておく。さしあたって「ポピュラー音楽史」を構成する三要素――「ポピュラー」、「音楽」、「歴史」――について考えてみたい。ただし私はあまのじゃくなので、「歴史」、「音楽」、「ポピュラー」の順番で話を進める。
1 歴史を作るために歴史を学ぶ
なぜ歴史を学ぶのか? これにはいろいろな答えがあるが、ここでは私たちが暮らしている「(後期)近代《モダニティ》」という時代の特性に関するアンソニー・ギデンズ(1990=1993)の議論を参照してみたい。ギデンズによれば、近代とはおしなべて未来志向であり、近代社会において、歴史を学ぶことは、未来に向けて現在を方向付けることである。つまり、歴史学は未来学なのである(pp.69-72)。ええっ、近代って終わったんじゃないの? ポストモダンは? という人もいるかもしれない。そういう議論の有効性も認めないわけではないが(例えば東(2001))、私はやはり、ギデンズが指摘するように、私たちの暮らすこの世界は、いまもまだ近代化の途上にあり、一部の産業国および新興国において「ポストモダン」といわれている現象は、むしろ近代という社会制度が高度に徹底化している状態を指すのだ、と考えている(脚注1)。
では、近代とはなになのか? ギデンズによれば、近代とは、「およそ一七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会生活や社会組織の様式のこと」(p.13)である。それは、「[近代の]グローバル化してゆく傾向」(p. 219)とあるように、ある日突然世界中で始まったのではなく、現在も地球規模で進行しているプロセスとして捉えるべきものだ(ギデンズの議論は、ポピュラー音楽のグローバリゼーションと絡めて第三章及び第四章でさらに詳しく説明する)。近代化する、とは具体的にどういうことなのかというと、これもまたいくつかの要素があるのだが、さしあたりここでは、近代(人)の歴史観を説明する上で重要だと思われる二つの点について簡単に説明する。
一つは、「時間と空間の分離」(p.33)である。つまり、近代化とは、特定の場所に左右されない時間概念の普及と、それによって引き起こされた、同じく特定の場所に左右されない空間概念の普及のプロセスのことである。こうした動きの具体的なきっかけとなったのは、前者は「機械で動く時計」(p.31)の、後者は「世界地図」(p. 33)の発明・完成であり、普及であった。近代以前の社会では、時間はそれが気にされる場所――その地特有の季節や天体の運行など――と切り離すことが出来なかった。ある場所の暦は、ほかの場所の暦と互換性がなかったのである。機械時計の発明と普及は、そうした地域差を均し、場所に関係なく時間を共有することを可能にした。世界地図についても、同じようなことが言える。世界地図なるものが世界の現実の姿であるということが当然視されるようになる前は、世界観というものは特定の場所—その地特有の宗教観や勢力布置など—と切り離すことは出来なかった。ギデンズの指摘する通り、「世界地図は、空間を、特定の場所からも地域からも『独立した』存在として確立していったのである」(p.33)。
このようにして、私たちが暮らしている具体的な場所に根ざしていた時間と空間は、近代化とともに、世界中どこに行っても通用する抽象的な概念となってゆく。地球の裏側にいる友人と約束の時間にインターネットでビデオ会議をするとか、bpm(beatspar minute:一分あたりの拍数)なんていう楽曲のテンポの単位を世界中で共有できるというのは、今となっては全く日常的な所為になっているのだが、こうした時間・空間の把握の仕方の端緒が、機械時計が発明され、また世界地図が誕生した一七、一八世紀にあったということだ。
もう一つの重要な近代の特徴は、ギデンズが「再帰性」(p. 53)と呼ぶものである。私たちは、自分がある行為をすることによって、自分や他人、あるいは社会全体にどのような影響が及ぶのかについて、過去の同じような出来事を学ぶことでつねに思案して、実際に次にどういう行為をするかを決めている。ここでは行為が思索を促し、そして思索が行為を促すというような反復運動がある。このような、行為とその結果のあいだの円環的な関係を「再帰性」というのである。ギデンズによれば、このような再帰性は近代以前にも存在したが、近代化に伴い過去・現在・未来という時間軸における過去、つまり「伝統」なるものの位置づけが変わった(pp.54-62)。別の言葉でいえば、「伝統的文化では、過去は尊敬の対象」(p. 54)であったのが、「近代という時代の到来とともに…【中略】…あるしきたりを、それが伝承されてきたものであるという理由だけで是認することはできな」(p.55)くなる。つまり、近代においては、時間軸における価値観の比重が、過去から未来へと、つまり、伝統に束縛され、過去から伝承されたものを無条件に未来に伝えるという価値観から、未来を志向し、未来にとって重要かどうかを基準に過去から伝えられた情報を取捨選択する価値観へとシフトするのだ。
では、近代化に伴うこれらの変化は、私たちの歴史観にどのような影響を及ぼしているのだろうか? これには二つの局面がある。一つは、歴史的な因果関係――つまり、ある特定の時点で起こった事柄が原因となって、別の事柄がその後に引き起こされるというような原因と結果の関係――がそれらの事柄が発生した場所だけと結びついているという前提の崩壊である。つまり、近代以前においては、「社会生活の空間的特性は『目の前にあるもの』によって…【中略】…支配されていたため、場所と空間とはおおむね一致していた」(pp.32-3)のだが、近代の出現は、「『目の前にいない』他者との、つまり、所与の対面的相互行為の状況から位置的に隔てられた他者との関係の発達を促進することで、空間を無理やり場所から切り離していったのである」(p.33)。
ギデンズは、こうした状況を、「ファンタスマゴリア(phantasmagoria)」に喩えている(p.33)。ファンタスマゴリアとは、一八世紀末にヨーロッパで流行した幻灯劇で、観客には見えないところから骸骨や亡霊のイメージを投影し、観客を驚かせるという趣旨のものであった。要するに、近代において、私たちの「目の前で」起こっている事柄は必ずしも私たちの「目の前で」起こったことが直接の原因であるとは限らない。私たちがポピュラー音楽を楽しむやり方も、目の前での演奏を楽しむ時間よりも、CDやデジタルデータを通して、自室で、あるいは通勤・通学など移動中に、実際には目の前にいないミュージシャンの演奏を楽しむ時間の方が多いだろう。その意味で、ポピュラー音楽という現象は、多分に「近代的」である。このことは、ポピュラー音楽の歴史を記述するにあたっては、ファンタスマゴリア的な因果関係をも掬い上げられるような視点が不可欠になることを示唆している。
もう一つの局面は、歴史なるものの捉え方に関する、より直接的な変化である。それは、冒頭でも述べたように、未来に向けて現在を方向付けるために歴史を参照するという態度だ。もう少し具体的に言えば、近代という時代に特徴的なのはむしろ、歴史を学ぶことが、過去を未来に伝えるということだけではなく、過去から訣別する可能性を含むようになったということだろう(ギデンズ(前掲書)pp.69-70)。つまり、近代において歴史を学ぶということは、伝統という過去の資産をやみくもに受け継ぐことを意味するのではなく、それから解き放たれた新しい歴史をつくることをこそ意味する。これはちょうど、DJがすでに発表された作品を選択し、混ぜ合わせ新しい作品をつくる所為とか、あるいはロックギタリストが、すでに発表されたほかのギタリストの音色やフレージングを参照して組み合わせ、新しいソロをつくる所為と、あるいは似ているかもしれない。既存の楽曲を聴き込み、分析し、あるいはその成立背景を知ることは、ミュージシャンにとってもリスナーにとっても、未来に広がる「より良い音楽」の可能性を思索することであり、歴史的な理解を深めることは、「より良い音楽」の可能性の自由度、つまり選択肢の数を拡げることを意味するのである(脚注2)。
2 「音楽」と「雑音」
現代社会において、「歴史」を考える意義については、これまでの話でおわかりいただけたと思う。「歴史」に関する議論はこれくらいにして、今度は「音楽」について考えてみよう。音楽とはなにか? 至極哲学的な問いである。ジョン・ブラッキング(1973=1978)というイギリスの音楽民族学者は、1973年に発表された画期的な論文のなかで、音楽とは「人間により組織づけられた音(サウンド)」(pp.11-2)であるとした。ブラッキングは、当時の音楽学で、西洋の芸術音楽以外を「音楽」と認めないような自民族中心主義がはびこっていたことへの異議申し立てをおこなったのである(「音楽学」の西洋中心主義については後述する)。「音楽」という捉え方そのものの不安定さについては、ブラッキングの功績を引き受けつつ、現在ではいくつか別の視点も提示されている(脚注3)。しかし、さしあたってここで重要なのは、「音楽」というものと「音」というものが対比されていることだろう。つまり、人間によって組織されていない「音」は、「音楽」ではない、ということになる。
では、「音楽」ではない「音」とはなんだろうか? 私たちはこれを、「雑音」とか「騒音」などと呼んでいる。尤も、なにを「雑音」として、なにを「音楽」とするかは、私たち一人ひとり境界線の引きかたが違うはずだ。例えば自宅で弾いているピアノが隣人には「騒音」として聞こえているかもしれない。同じようなことは、自然音についても言えるだろう。雨音や小川のせせらぎや動物の鳴き声などは、それそのものはただの音だが、最近では「癒し」などとしてそこに意味を与え、「音楽」として鑑賞することがある。自然音といっても様々だが、この場合は「癒し」という目的に添って自然音を選択し、つまり人間的に組織づけて聴いていることになる(例えば動物の威嚇音や発情期の喘ぎ声、落雷や雪崩の音は、「癒しの音楽」とは看做されない)。このように、私たちは意識、無意識のうちに、音を音楽と雑音に分類しているのである。
音と音楽と雑音の関係について、ジャック・アタリ(1977=1985)というフランスの経済学者が書いた文章がヒントになるかもしれない(脚注4)。アタリは、音が、空気があって始めて現象するものであることに注目し、そもそも音のないところには生命がない、ということを示唆する(「生というのは騒々しいものであり、ただ死だけが静寂である」(p.2))。自然音がそうであるように、音は生命の証であり、その生命が息絶えれば、静寂が訪れる、というのである。そして、その音を雑音に分類することは、それとまったく同時に音楽、つまりある秩序、ある規則に沿って組織された音の連なりを生み出すことなのだ、と続ける。
雑音《ブリュイ》とともに、無秩序とその逆、則ち、音楽が生まれる。音楽とともに、権力とその逆、則ち、壊乱が生まれる。生命のコード、そして人間の諸関係が、雑音の中に、読み取れる。〈喧騒〉、〈旋律《メロディー》〉、〈不協和音〉、〈調和《ハーモニー》〉。雑音が人間によって特殊な道具を使って加工されるとき、それが人間の時間を浸食するとき、そして、それが楽音であるとき、雑音は、投企《プロジェ》と力、そして夢の源泉、則ち〈音楽〉となる。(p.8)
要するに、音を組織して音楽とすることの背後には、バラバラな人々を一つのグループ、つまり社会としてまとめようとするなんらかの権力が介在する、ということだ。太古の昔、人間が狩猟採集生活を営んでいた頃は、人為的な音(話し声やかけ声、石や骨を道具に加工する音、火の爆ぜる音など)は、敵意に満ちた自然音(天敵の咆哮、雷鳴、風雨など)に対比され、秩序や社会というもの――みんなで協力して生活すること――が可能であることを示す大切な印だったはずだ。
人間社会がある程度発達してくると、秩序をまとめあげる人たち、つまり統治者たちは、周囲にある音を選択、編集し、あるいは周囲にあるものを楽器に加工して、新しい音を作り、その音と音の間、そして音と社会の間の関係に規則性を与えて「音楽」を組織し、祭や宴などの儀式を組織するようになる。それは、当時の最先端の知識(つまり宗教)を使って、その統治者(つまり神の代理)の勢力下にある人々を自然(つまり雑音)、そしてその彼岸にある死(つまり静寂)から守ることを約束するものであった。尤も静寂=死をもたらすものは自然音だけではない。他の人間集団が、別の秩序のもとに奏でる音楽も、自分たちにとっては雑音となりうるからだ。かくして統治者は雑音を規制し、抑圧することで自分が代表する秩序(宗教)を維持する。やがて部族間の闘争が起こり、敗者の静寂のうえに勝者の音楽が鳴り響くようになるのだ。
もちろん、音楽の歴史を、このような強者による弱者の「自然淘汰」として描き切ることは出来ない。アタリ(前掲書)は、宗教的・政治的権力と音楽とが渾然一体となった状態は、音楽が貨幣経済に取り込まれてゆく一八世紀頃までに終わりを告げたと指摘している(ここに近代の始まりと時期的な一致がみられることに留意して欲しい)。しかし、今でも、快い音を「音楽」とし、そうでない音を「雑音」や「騒音」として区別する時に、私たちが何らかの価値観や秩序、つまり文化と呼んでも良いようなものを根拠としていることは間違いなさそうだ。先述した、西洋の芸術音楽以外を「音楽」と認めない態度もこのような価値観の一つに過ぎない。あるいは、通常楽音と看做されないものを使って楽曲を構成するノイズというジャンルがあるが、これも好きな人には「音楽」として聴こえ、そうじゃない人には「雑音」として聞こえているはずである(一見逆説的に聞こえるかもしれないが)。「音楽」の中身は、その作り手や聴き手のいる場所や時代、帰属する文化や社会などによって動的に決まるものであり、なにを「音楽」とし、なにを「音楽」としないかという線引きには、政治・経済的、文化・社会的な諸状況が否応なく関係してくることになる。
3 ポピュラー音楽なるもの
ここまでの議論で、一見単純に見える音楽という現象の背後には、目に見えない政治・経済的、文化・社会的な権力の幾何学があることがわかったと思う。ここまでで、「歴史」と「音楽」については一通り議論したので、以下ではポピュラー音楽史の最後の(最初の?)要素である「ポピュラー」について少し考えてみたい。先にも触れたが、ポピュラー(popular)という言葉はそもそも人々(people)という名詞の形容詞形であり、日本語では「人民の」とか、「民衆の」、「大衆の」、「人々のあいだに普及している」、「人気の」、「流行の」、「通俗な」というような様々な、時に相反しかねない訳語が当てられている(脚注5)。この複雑きわまりない言葉について敢えてここで議論しようとする意図は、最近特に、それが特定の利益のために恣意的に使われているという印象があるからだ。たとえば『日本のポップパワー』という本のなかで中村伊知哉ら(2006)は、ポップとは:
大衆を意味する「ポピュラー(POPULAR)」の短縮形であり、20世紀初頭のアメリカに始まるポピュラーミュージックのしゃれた呼び名として「POPMUSIC」としたのが語源のようだ。とすれば、「ポップ」という言葉が形容する意味や価値も、20世紀初頭のアメリカの大衆文化にその源があると考えられる。(p.84)
と主張し、また「日本のポップカルチャーは、ジャズやハリウッド映画などアメリカにポップカルチャーが誕生して以来、約100年の世界的大衆文化の世代交代を経て最新最強の世界ポップカルチャーといえるものとなった」(p.84)と謳う。いつの間にか、日本のポピュラー文化の中身は、マンガやアニメやゲームなど、日本製コンテンツ輸出を奨励する日本政府にとって都合の良いものに収斂されてしまうのだ。なるほど、ヴェジュアル系やアイドルなど一部を除き、「日本製ポピュラー音楽」の世界的な市場性は低いかもしれない(例えば加藤(2009))。しかし、このことと、日本のポピュラー音楽が日本のポップカルチャーではないと言うこととはずいぶん話が違うはずだ。
「ポピュラー」なるものを定義する際に、一番気をつけなければならないのはこのような恣意性である。つまり、多くの場合、「ポップ」とか「ポピュラー」という言葉は使う人の思うままに使われており、その政治経済的、文化社会的な含意は、大抵の場合、使っている人も意識しないのだ。さらに、ポピュラーという言葉が英米語起源であることも、日本でこの言葉を使うにあたって別の弊害をもたらしている。それは、中村らの引用にあるように、その起源があたかも英米にあるかのような錯覚が生じることだ。「ポピュラー音楽」と言ったときに、俗謡や民謡や演歌などが忘れられ、あるいは故意に隠蔽されてしまう可能性がある。ポピュラー音楽の歴史をロックの歴史と同一視してしまうような言説もこうした思い込みの産物である(ニーガス(1996=2004)、Shuker(2001))。日本の流行歌史を扱う多くの研究者が、流行歌に「社会の動きと深く結びついた有機的な関連を探り、かつ大衆的な文化としてこれを国民共有の財産として認識する」(古茂田ほか(1994)p.1)とき、あるいは、「歌謡曲の誕生からJ・ポップの成立という歴史」(菊池(2008)p.1)を紐解こうとするとき、上のような定義の「ポピュラー」という言葉はいかにも据わりが悪いだろう。
ではアカデミックなポピュラー音楽研究において中立的なポピュラー音楽の定義が確立しているだろうか? ポピュラー音楽研究では、「『民俗』音楽、『芸術』音楽、『大衆』(ポピュラー)音楽から成る公理上の三角形を想定」(タグ(1982=1990)p.16)し、しばしば消去法によってポピュラー音楽を定義することが多い。そしてポピュラー音楽は、大抵の場合商品・市場経済と強い結びつきを持つものとして定義される。フィリップ・タグは、ポピュラー音楽は、1大量配給され、2記譜されず、3工業社会の貨幣経済を前提とし、4大量販売に肯定的な自由主義社会において可能な音楽であると論じ、楽譜を前提とした従来の音楽分析が応用出来ないことと主張する(pp.16-7)。ロイ・シューカー(Shuker(前掲書))は、「ポピュラー音楽」とは「マス・マーケットに向けて商業的に大量生産された音楽」(x)と定義している。山田(前掲書)も、「『ポピュラー音楽』とは、大量生産技術を前提とし、大量生産〜流通〜消費される商品として社会の中で機能する音楽であり、とりわけ、こうした大量複製技術の登場以降に確立された様式に則った音楽である」(p.9)というような操作的な定義がポピュラー音楽の研究にあたっては必要であると主張する。
一見妥当に見える定義だが、充分だとは言い難い。疑問は二つあって、その一つは、従来ポピュラー音楽とは看做されていなかった音楽が、CDやDVDやテレビのコマーシャルを通して流通し、享受される場合、これを単純にポピュラー音楽と呼んでしまって良いのだろうかという点だ。今日、芸術音楽といわれる音楽について、楽譜を見ることもなくCDやDVDを通して享受する人が増えている。また、民俗音楽といわれているものも、今日ではCDやテレビのコマーシャルで私たちの耳に入ってくることが多いと思う。私は、ポピュラー音楽研究において蓄積された方法論を、民俗音楽や芸術音楽に応用することは合理的だと考えるが、そのことと、これらの音楽をすべてポピュラー音楽と呼んでしまうこととは全く別の話である。
もう一つの違和感は、(少なくとも大量生産・大量販売的な)商品経済からは取り残されていながら、それでもポピュラー音楽と強い関連があると思われる数々の文化実践である。たとえば日本の地方都市で受け継がれるロックンロールの路上パフォーマンスなどがこれにあたる(大山(2005))。日本におけるロックンロールのブームは一九七〇年代後半から八〇年代にかけてであり、パフォーマンスで使う音源そのものはその当時商業的に大量生産されたものである。しかし、二〇一〇年の路上で利用されるものは、地元の先輩後輩を中心とする人脈を通して受け継がれてきたものであり、一般的な意味で商品経済に組み込まれているとは言い難い。
リチャード・ミドルトン(1990)は、「ポピュラー音楽」の定義をめぐる議論は、結局のところ、音楽という領域全体をどうやって切り分けるかに関する議論に過ぎない、と主張する(pp.3-7)。ポピュラー音楽は、「他の音楽も含めた音楽の場全体という文脈のなかに置いて始めて適切に見ることが出来るのであり、…【中略】…、そしてその音楽の場というものは、…【中略】…、つねに動き続けているのである」(p.7)とするミドルトンの議論は、ポピュラー音楽を単純に量的な基準(どれくらい「ポピュラー」か。つまりどれくらい売れたか、あるいはどれくらいエアプレイされたか)だけで評価したり、または単純に質的な基準(大衆層対支配層というありきたりの敵対関係のどちら側につくか)で評価したりする議論に見られがちな定義の硬直化—あるいは「ポピュラー」なるものの絶対化—に対する注意を喚起するものである。
サイモン・フリスも『PerformingRites』(1996)という著作のなかで、ポピュラー音楽をはっきりと区別出来る自律したカテゴリーとして定義するのではなく、「歴史的に進化を続ける、[ポピュラー音楽、芸術音楽、民俗音楽の]三つの言説の同じ場のなかでの相関」(p.42)として捉えるべきだと論じている(pp. 36-46)。ミドルトンやフリスがいう「音楽の場」とは、ピエール・ブルデュー(1979=1990,1992=1995)というフランスの社会学者が提案した分析概念を指したものだ。詳論は後に回すが、「音楽の場」というのは、音楽としての「良さ」を巡る競争が行われる競技場のようなものだと考えてほしい(もちろん甲子園球場とか代々木体育館とかの実際の競技場を思い描かれても困る。あくまでも理念上の競技場である)。その中で、音楽としての正しさとか楽しさとか、わかりやすさとか味わい深さとか、そういうものを巡って、ポピュラー音楽チームと民俗音楽チームと芸術音楽チームが競争をしている。それぞれのチームには、伝統との折り合いのつけかたや美意識・価値観が異なるかたちで蓄積されており、それゆえ競技中のフォーメーションや戦略は異なる。
「音楽の場」の内実を分かりやすく喩えると、このような感じになる。しかし、フリスの指摘は、私たちの暮らす後期近代という時代においては、各チームの戦略が似たようなものになりつつあるというものだ。例えば、ポピュラー音楽の世界では、オペレッタやミュージカルに見られるように、一九世紀後半からすでに、クラシック音楽の要素を流用していた。ジャズミュージシャンがクラシックを演奏したり、ハードロックギタリストがバロック音楽を借用したりということも珍しくない。ビートルズが現代音楽的な制作アプローチを行ったり、ボブ・ディランがフォーク音楽をロックに持ち込んだ(あるいはロックをフォークに持ち込んだ?)りしたこともよく知られている。同じように、世界の民俗音楽が、「ワールドミュージック」という呼び名で商品化されていることも周知の事実だ。また、芸術音楽の世界でも、ベラ・バルトークが東欧の民謡を、クロード・ドビュッシーが東洋音楽や黒人音楽を、ジョージ・ガーシュウィンがブルースを取り入れている。最近ではジェフ・ミルズとかカール・クレイグといったテクノDJがオーケストラと共演して話題になった。
ここで重要なのは、芸術音楽、民俗音楽、ポピュラー音楽の三つの音楽的指向は、直接・間接的な影響を与えあっているのだが、それでも一つのカテゴリーに収斂することを拒むということだ。ヘズモンダールとニーガス(2002)が指摘するように「これらのカテゴリーは依然として残っており、相変わらず音楽学的不和やイデオロギー的論争の源であり続けているのである」(p.3)。フリスは『Performing Rites』の一〇年以上前に発表された『サウンドの力』(1978=1991)のなかで、英米のロックを巡る言説の内部にも芸術音楽的な指向、民俗音楽的な指向、ポピュラー音楽的な指向の拮抗が見られることを指摘していた(pp.59-78)。また、同様の傾向は日本のロック(南田(2001)や日仏のヒップホップ(安田(2001、2003))においても確認されている(これについては、第三章で詳しく説明する)。とすれば、ポピュラー音楽の歴史を記述するという作業は、ポピュラー音楽とはなにか、という作業仮説に基づいてその輪郭を固めてゆくことではなく、「音楽の場」のなかで、ポピュラー音楽とその他の音楽のあいだの布陣がどのような軌跡を描いて変化して来たか、そして、そうした変化のきっかけとなった、ポピュラー音楽内部での音楽的指向の拮抗関係はどのようなものであったか、をこそ記述してゆくものでなければならないはずだ。
『PerformingRites』の巻末において、フリスは、従来のポピュラー音楽研究、あるいは文化研究全般の問題は、テクストとその意味という分析枠組に拘泥していることにある、と結論した。つまり、
ポピュラー音楽の美学を検証するのであれば、私たちはポピュラー音楽に関するこれまでの学術的な議論をひっくり返さなければならない—問題の所存は、ある楽曲、つまりテクストが、どのようにしてポピュラーな価値観を「反映」しているかではなく、それがどのようにして—パフォーマンスのなかで—そのような価値観を産み出しているのか、にある。(p.270)
よく考えてみると至極当たり前のことなのだが、私たちがポピュラー音楽を好きなのは、その曲がポピュラーだから(人気があるから)とか、自分の出自がポピュラー(庶民階級)だからということだけではなく、私たちがその音楽に寄り添い、その音楽と一つになり、その音楽を通して世の中を理解し、あるいは世の中での自分のあり方を演じるきっかけになるからに他ならない。私たちは、今日、そういう音楽をテレビやラジオやインターネットを介して、CDやMDやケータイやiPodを通して楽しんでいる。この本が扱うのは、そのような血の通ったポピュラー音楽の歴史である。
4 ポピュラー音楽史を研究するとき、私たちはなにを研究しているのか?
大学で音楽を学ぶことに少しでも興味を持ったことのある読者なら、芸術大学や音楽大学に「音楽史」という科目があることに、あるいは気がついているかもしれない。音楽大学や芸術大学で教えられている音楽—クラシック音楽や現代音楽などで構成される芸術音楽—では、その解釈に必要不可欠とされる「音楽学」の基礎科目として「音楽史」なるものが確立されてきた。であれば、ポピュラー音楽についても、これと同じように基礎科目としての「ポピュラー音楽史」を確立すればよいという声も当然あろうが、なかなかそうもいかない。確かに昨今では初等・中等教育にもポピュラー音楽が取り入れられ、大学においてもポピュラー音楽をカリキュラムに取り入れるところが増えている。しかし、特定の作品や作曲家を、特定の場所と時代に結びつけて歴史を紡いでゆくという「芸術音楽史」の方法論は、「歴史」、「音楽」、「ポピュラー」という三つの概念を巡るここまでの議論を考慮に入れるなら、「ポピュラー音楽史」にそのまま適用することは出来ないだろう。「芸術音楽史」に対する批判には、大きく分けて二つの論点がある。一つは、実際には西洋芸術音楽を中心としたものに過ぎない芸術音楽史を普遍的な教養と呼ぶことの欺瞞であり、もう一つは、作品及び作曲者を中心とした直接的な「反映論」として歴史を捉えることの杜撰である。
今さら言うまでもないのかもしれないが、芸術音楽における「音楽史」というのは、実際にはごく特定の場所に発達した美意識や価値観から「芸術的」であると判断された音楽の歴史に過ぎない。多少の変奏はあるだろうが、「芸術音楽史」とは、基本的にギリシャに端を発し(古代音楽)、グレゴリオ聖歌やノートルダム楽派などの中世音楽やルネサンス音楽に引き継がれ、やがてバロック音楽、古典派、ロマン派へと続き、新古典派を経て現代音楽に至るという、進化論的な系譜である(脚注6)。そこでは、世界地図で見ればずいぶん局地的な出来事の連なりがあたかも世界全体に普遍な音楽の歴史であるかのように語られている。逆にヨーロッパという地域に接近してもう少し詳細に検討するなら、東西南北ずいぶんバラバラな場所で起こった音楽的出来事をあたかも現在に向かって一直線に進化してきたかのように繋ぎあわせる、かなり手の込んだ芸当が行われているのがわかる。自民族中心的としか言いようのない歴史観だが、更に問題なのは、それが正統な音楽史であると現に私たちも思い込んでおり、また芸術大学や音楽大学でもカリキュラムの一部として教えられていることである。
とすれば、ポップという言葉はアメリカ起源だからとか、世界のポピュラー音楽をリードしているのは英米だからという理由で、ポピュラー音楽史は英米のポピュラー音楽の変遷だけ扱えば良いだろうという歴史観や、日本語で書いたらどうせ日本人にしかわからないのだから、日本のポピュラー音楽の動きだけ追えば良いだろうという主張がどれくらい自民族中心主義的なのか自ずとわかるはずだ。また、このような描き方では、私たちの暮らす後期近代という時代の音楽実践の背後にあるファンタスマゴリア的な関係を捉えることは出来ないだろう。ポピュラー音楽というものが、大量生産・大量複製を可能にするメディア技術により、国境を超えて影響を与え合うことで様々なスタイルを作り上げてきたことや、国や地域によってその影響力に格差があり、より世界的に影響力を持つ国・地域と、より影響を受けやすい(淘汰されやすい)国・地域があるという事実を見えづらくしてしまうのだ。例えば私たちが普段耳にするJ-POPという音楽は、ロックやパンク、ラップ、ジャズなどの英米の音楽に強い影響をうけて成立したジャンルだが、だからといって英米でも同じように聴かれているかというとそんなことはない。私たちが普段飽きるほど耳にしているにも拘わらず、英米人は愛好家でもない限り、J-POPを耳にすることはないのだ。
こうした世界規模での音楽の流通の不均衡に対して意識的になって欲しいという気持ちと、それから日本や英米以外のポピュラー音楽に対してももっと目を(耳を)向けて欲しいという思いから、この本では、日英米以外に特にフランスのポピュラー音楽に注目している。フランスのポピュラー音楽というとすぐに思い浮かぶのはシャンソンかもしれない。あるいは、フランス好きの読者であれば、第二次世界大戦後のジャズの世界的な発展にとってパリという場所がとても重要だったことや、ロックンロールがイェイェという独自のジャンルに展開したことをご存知かもしれない。ここで重要なことはいくつかあって、その一つは、日本の若者が演歌を聴かなくなったように、今のフランスの若者はエディット・ピアフやイヴ・モンタンのシャンソンなど聴いていないということだ。そして、それにも拘らず私たちはフランスのポピュラー音楽といえばシャンソンだと今でも思い込んでいる。つまり、フランスも日本も、ジャズやロックなど英米のポピュラー音楽の動向には敏感に反応しているのだが、お互いの国でどんな音楽が聴かれているかについてはほとんどなにも知らないのだ。日本とフランスの間では音楽的な情報共有や交流がほとんどない、といっても良いだろう。
もう一つ重要な点は、フランスも日本も、英米のポピュラー音楽の影響を強く受けてはいるものの、必ずしもそれをそのまま受入れているわけではない、ということだ。例えばロックは日本でもフランスでも独自のローカル・シーンを確立してきた。第三章で詳しく触れるつもりだが、アメリカで白人と黒人の人種統合の象徴とされたロックンロールは日本の場合、カントリー&ウェスタンの延長線上の流行として十代の若者たちを魅了し、フランスの場合はイェイェというジャンル名で独特の展開を見せる。ロックンロールといえば、男性中心のジャンルだったのが、フランスでは女性アーティストの人気も高く、当時のフランスの音楽雑誌のなかには、人種の平等だけでなく男女の平等も実現したフランスのイェイェこそが本物のロックンロールなのだ、という主張まで見られたのだ。
このように、ポピュラー音楽は、たとえ形式的には似たり寄ったりに聴こえたとしても、それが聴かれる場所や時代によって様々な意味や価値を持つ。同じ曲が別の場所や別の時代には正反対の意味を持つことさえありうる。まさに、「歌は世につれ,世は歌につれ」なのだが、しかし、このことからは同時に、「歌」が「世情」をただ単純に反映しているのではないこともわかるのではないかと思う。つまり、「世情」は「歌」の中身(例えばリズム、和声、楽器編成、歌詞……)にあるのではなく、「世情」(つまり特定の場所・時代の社会空間)のなかで「歌」が唄われる、あるいは聴かれることで、その「歌」に特定の意味や価値が付与されるのだ。だから、ポピュラー音楽の研究には、ポピュラー音楽がおかれている社会背景を理解することが不可欠なのである。
このことは、「芸術音楽史」に対する二つ目の批判、つまり、作品・作曲家とその時代背景のあいだの直接的な「反映論」に対する疑問につながる。これもまた大学における芸術音楽教育の影響で、ポピュラー音楽の研究というと、特定の楽曲を楽譜に書きおこしたり、西洋音楽理論やジャズ理論を応用してコード進行やリズム構造を分析したりという作業を想起する人が多いかもしれない。しかし、実はそれだけではポピュラー音楽について理解したことにはならない。その楽曲がどのような文脈で作られ、流通・配信され、そしてどのような文脈で聴かれ、踊られ、口ずさまれたのかを調べることなくして、ポピュラー音楽の研究は成立しない。この本を読み進めるうちに、ポピュラー音楽を取り巻く文脈、つまり特定の社会背景や政治的・経済的状況、新技術の普及具合などにより、逆に楽曲の構造そのものが影響を受けることがわかってくるはずだ。逆に言えばポピュラー音楽のミュージシャンは、こういうことに敏感に適応して楽曲を制作している、とも言えよう。
ポピュラー音楽の歴史が、作品と作曲家を中心に据えた従来の「音楽史」と一線を画すのはこのような点である。それは具体的には、作り手やその時代というよりも、作り手と受け手、つまりミュージシャンとリスナーのあいだを結ぶコミュニケーションのあり方(これを媒介《メディエーション》と呼ぶ。媒介という言葉については次章で更に詳しく説明する)の変遷に焦点を当てた歴史である。そこで中心的な位置を占めるのは、作品・作曲家だけではなく、それを記録し、複製し、頒布する技術であり、またその技術を利用した商活動、そしてそうしたものを通して音楽を享受する聴き手の社会史である。そもそもポピュラー音楽の担い手というのは、ミュージシャンもリスナーも含め、楽曲を楽譜に書きおこしたり、音楽理論を駆使して曲を作ったり解釈する能力を持っているとは限らない。マイクロフォンに向かってその場で思いついたメロディーを録音し、それをインターネットで配信するという作業に、楽譜は不要である。そして私たちの多くは、記譜法や和声について学ぶよりも前に(あるいはそうしたものはいっさい学ばずに)、録音・録画された楽曲を繰り返し視聴することでポピュラー音楽の演奏や解釈の仕方を身につけてゆく。
芸術音楽の音楽学における音楽史と同じように、ポピュラー音楽研究における「ポピュラー音楽史」が、ポピュラー音楽の解釈に不可欠な知識であろうとするのであれば、それは逆説的に従来の音楽史とは別のルートを辿らねばならないだろう。ポピュラー音楽の楽曲分析を行うのであれば、ポピュラー音楽のミュージシャンとリスナーが、芸術音楽での楽曲解釈の常識とは違うやり方で曲を作り、あるいは解釈しているということを前提とした、新しい分析方法を使わなければならない(先駆的な論考としてMoore(2001)やGreen(2002)など)。とすれば「ポピュラー音楽史」なるものも、そうした新しい分析方法を支援するような文脈情報を提供することをこそ目的とするべきだろう。
さしあたり、ジャック・アタリが提唱した「ネットワーク(脚注7)」という分析概念がヒントになるのではないかと考えている。先にも述べたように、アタリの議論は必ずしもポピュラー音楽に焦点をあてたものではないのだが、アタリの言うネットワークとは、「音楽の源泉とそれを聴く者とを結ぶチャンネル」(p.49)のことである。先に触れた、ミュージシャンとリスナーの間をつなぐ媒介のあり方のことだ。アタリの議論によれば、ネットワークは、「それを攻撃し、変形させようとする雑音を、そのコードで規格化し、抑圧することができなくなれば、この雑音自体によって破壊される」(p.52)。つまり、古いネットワークは、新しいネットワークとの競合に晒されており、場合によっては淘汰される可能性を持つ。つまり、音楽史を複数のネットワーク間の動的な競合関係として記述することで、ミュージシャンとリスナーのあいだの媒介の変遷を紐解くことが可能になるのである。
この本では、ミュージシャンとリスナーのあいだの関係の変化に強い影響を与えていると考えられる、政治、経済、文化、都市、技術の五つ要素に注目して、それらがどのようにしてミュージシャンとリスナーを結ぶネットワークを構成し、既存のネットワークと拮抗し、それを駆逐し、あるいはそれと共存するのかという動的な視点から、ポピュラー音楽の歴史を紐解いてゆこうと思う。なかでも技術は、ポピュラー音楽の歴史を語る上で非常に重要である。技術が社会や文化に及ぼす行為性は、ポピュラー音楽研究のみならず、社会・人文科学においてもこれまでほとんど論じられてこなかった。しかし楽器の発展一つを取っても、技術の行為性が音楽の歴史にとって無視出来ないものことがわかると思う(Latour(2005)やPrior(2008)参照)。
繰り返すようだが、「歴史《ヒストリー》」を書くという作業は、「物語《スト—リー》」を紡ぐという作業とほとんど同一であり、結局のところそれを書く人(つまり私)の視点や経験や価値観というものに依拠しているものである。であるから、この本に書かれた事柄は、様々なポピュラー音楽的な現象から、大学教員そして研究者としての私の関心や経験に則して選択され編集された出来事をつなぎあわせた、都合のいいおとぎ話に過ぎない。読者はこの「物語」を鵜呑みにせず、それぞれの興味や関心、価値観に沿って、過不足ある部分を補わなくてはならない。ポピュラー音楽の歴史は一つではないし、世界中で申し合わせたようにある日突然始まったものでもない。この本では便宜上、蓄音機の発明された一九世紀末から記述を始めるが、ポピュラー音楽なるものがそれ以前には存在しなかったというわけではない。
だから、すでに回り始めたレコードに針を落とすように、この頁をめくってほしい。
(1)同じような考え方は、ジグムント・バウマン(1989=2006,1991, 2000=2001など)やマーシャル・バーマン(1983)、ポール・ギルロイ(1993=2006)の論考にも見られる。また、そもそも近代そのものが虚構であり、人類が近代的であったことなど一度もない、というブルーノ・ラトゥール(1991=2008,2005)の一連の議論も示唆に富む。
(2)ポピュラー音楽が楽曲制作にあたって、既存の楽曲やその要素を可能態の集まりとしてどのように捉え、組み合わせ、編集しうるかについては、トインビー(2000=2004)参照。ミュージシャン側から見たポピュラー音楽のコミュニケーションに関するトインビーの議論については、次章で触れる。
(3)たとえば、世界にはそもそも「音楽」という言葉を持たず、舞踊や儀礼と切り離された活動として「音楽」を捉える習慣を持たない社会もある(Cook& Everist(1999))。
(4)アタリの当該書については、初版(1977)を底本にした和訳(1985)を参照しており、引用部分のページ番号は、和訳版のそれである。ただし、同書には1980年代以降の状況を加味して大幅に改訂された第二版(2001)がされており、関心のある方はそちらもあわせて参照されたい。
(5)『研究社新英和辞典』より。英単語の語源・用法についてはレイモンド・ウィリアムス(1983=2002)を参照。Popularとその訳語のニュアンスの違いについては、山田(2003)を参照。
(6)たとえば岡田暁生(2005)は、1000年以上の歴史を持つ西洋芸術音楽を「川の流れ」(p.i)に喩え、クラシック音楽を「堂々たる大河」に、現代の音楽状況を、「世界中のありとあらゆる音楽が、お互いに混ざりあって様々な海流をなす」(p.ii)、「混沌とした海」(p.ii)になぞらえている。
(7)原書ではréseau。日本では「系」という訳語、あるいはそのまま「レゾー」とカタカナ読みして使われることが多いようだが、この本ではわかりやすさを優先し、「ネットワーク」という訳語を用いる。なお、「レゾー(系)」の今日的意義については、増田&谷口(2005)を参照  
 
現代の音楽

 

リアルタイムで制作される音楽の全般を指す。
第二次世界大戦以降の現代における音楽には、次のような種類がある。
芸術音楽
芸術としての音楽言語の発展を目指した音楽。
現代音楽
現代におけるクラシック音楽の延長線上の音楽。
伝統音楽
西洋のクラシック音楽以外で、世界各地の伝統音楽の様式に則りそれらの伝統を守りつつも、現代において新たに発展しつつある音楽は現代の音楽と認識できる。伝統の様式をそのまま形を変えず伝承している伝統音楽、あるいは民謡などは現代の音楽とは認識されない。実際問題として、そのような伝統音楽のジャンルにおいて伝統の伝承だけでなく現代において大衆音楽の影響なくさらに発展させた音楽は、現代音楽を除きほとんど見られないし、見られたとしてもそれが録音物として国際的な流通に乗ることはめったに無い。ただし例えば日本の現代雅楽や現代邦楽などの例外があり、また他の非西欧圏でもこのような伝統音楽への芸術的発展の試みはごく一部で行われていることから、厳密には皆無とは言えない。
近代音楽以前の技法による新曲、編曲
近代音楽以前の管弦楽法に基づく新曲や編曲。ポピュラー音楽やゲーム音楽の管弦楽版や過去の芸術音楽の編曲など。
大衆音楽
一般大衆に浸透している音楽。現代においては商業流通に則った商業音楽を指す場合が多い。
ポピュラー音楽
日本語においての大衆音楽との違いは、現代の多くの場合において、歌を伴い、商業的に流通し、ある一定の専門的なジャンルに深く属さず、広く知られている音楽を指す。
ジャズ、ロックなど
大衆音楽の中でも特に専門的なジャンルを持ち、特定のファンがおり、様式の枠組みの中で発展した音楽。
民衆歌謡
日本の演歌、南米のラテン音楽など、世界各地の特定の地域で独自の様式を持つ大衆音楽。
アヴァン・ポップ
芸術音楽と大衆音楽のどちらかの語法を元としながらももう片方の語法にごく接近したもの。一般的には後者寄りが多い。
アヴァン・ポップなど芸術音楽と大衆音楽の合間にある音楽は、多くの場合大衆音楽の立場からは実験的、芸術音楽の立場からは大衆よりと(否定的に)評価され、安定した評価を得ることが難しい。
「現代音楽」と「現代の音楽」の違い
現代音楽というと、近代音楽より技法的に進んだ、西欧戦後前衛の実験的な試みを想起される。近代音楽以前の技法を使った新しい音楽をこれと区別する為に現代の音楽(げんだいのおんがく)という用語を便宜上用いなければならなくなった。20世紀以降の世界の放送音楽や教育音楽の需要から、「現代音楽」と「現代の音楽」を区別する必要が第二次世界大戦終了以降強くなった。現代音楽はContemporary Musicと訳せるが、現代の音楽はMusic of our centuryとしか訳しようがない。
21世紀現在では、ポピュラー音楽でも現代音楽でもない音楽を指す言葉として使われる率が多くなり、商業音楽や実用音楽を直截に指すかどうかも疑わしい。近年のゲームミュージックは機材の進化とともに、徐々にクラシック音楽やポピュラー音楽のかつての姿に近似しており、これらの領域の音楽を好んで作曲する者も「現代の音楽の作曲家」と呼ばれつつある。
ちなみにマチアス・シュパーリンガーは「現代音楽は、他の如何なる形態をとる音楽とも、全てに於いて切り離された存在である」と定義するが、これはドイツ語原文を直訳した為に紛らわしい表現になった。彼の主張は「現代音楽と、現代の音楽は、違う」という、今日の音楽家全員に突きつけられた定義そのものである。  
 
ポピュラー音楽

 

広く人々の好みに訴えかける音楽のことである。
ポピュラー音楽とは、何らかの「広く訴求力のある」音楽ジャンルに属す、人々の好みに訴求した、あらゆる時代の音楽を包括的に指す用語、等と定義づけられ、具体的にはロック、ポップ、ソウル、レゲエ、ラップ、ダンスミュージックなどが例としてあげられる。音楽産業(英語版)を通して多数の聴衆に配給されるものが典型的であり、芸術音楽とは区別される。また、伝統音楽(英語版)のように典型的には学術的な形態によって伝えられたり口承によって小規模の局地的に限定された聴衆に広められる音楽とも対照的な存在である。この用語はもともと、1880年代のアメリカ合衆国でティン・パン・アレーの音楽を指したものであった。また、日本ではポピュラー音楽を指して和製英語で「ポップス」とも呼称する。アメリカ合衆国では「pops」という語はボストン・ポップス・オーケストラのようにオーケストラがポピュラー音楽や映画音楽などを演奏することを示す。また俗語で「おやじさん」の意味を持つため、ジャズやポピュラー音楽界では特に勢力のあるリーダーや大人物に対する愛称としても使われる。
「ポピュラー音楽」という言葉には、広い意味・狭い意味・その他諸々異なった意味合いがあり、文脈によってこの広がりが変わったりずれたりということが起き、定義を難しくしている。ここではポピュラー音楽を「アメリカを中心に世界的な広がりを見せている近代的な商業音楽」とやや狭く定義し、以下にその歴史を記載する。
ポピュラー音楽の源泉
ポピュラー音楽のルーツとして、19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽、カリブ海及び南米の混血音楽、アメリカで誕生した音楽の3つが指摘できる。
19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽
19世紀後半、ヨーロッパでは資本主義の興隆によって豊かな中産階級の拡大と都市部への労働人口の流入が見られた。中産階級はワンランク上の生活に憧れオペラ劇場に定席を得たり子女にピアノを習わせたりすることがステータスとなり、労働者たちは生活の安定と余暇の充実に伴って娯楽として音楽を楽しむ習慣が広まり、クラシック・大衆音楽とも大幅に聴衆を増やし、現代に近い形で多くの人の生活に音楽がとりいれられるようになった。こうした中で、主に都市部で盛んになった大衆音楽が、のちのポピュラー音楽に大きな影響を与えている。
   社交ダンス
ヨーロッパではもともとダンスが盛んで、民俗音楽の中にも多くの踊りが見られるが、そこから変化したワルツ、ワンステップなどの社交ダンスの音楽が、ギターやアコーディオンを含むバンドで演奏されるようになった。ワルツは、オーストリアの山岳地方の舞曲レントラーが洗練・発展したものだが、ヨーロッパ中に熱狂的に広まり、19世紀を代表する舞曲となった。
   オペレッタ
18世紀にはすでにバラッド・オペラ(イギリス)、ジングシュピール(ドイツ)、オペラ・コミック(フランス)のような、民謡(または民謡風の単純な歌)を材料にした親しみやすいオペラが人気だったが、19世紀には喜劇的な内容の親しみやすいオペラがオペレッタ(軽歌劇)という名で人気を集めるようになった。オッフェンバックの「地獄のオルフェ」やスッペの「軽騎兵」やJ・シュトラウス2世の「こうもり」やレハールの「メリー・ウィドウ」などが挙げられる。
   パーラー・ミュージック(英: parlour music)
「パーラー」は「応接間」のこと。中産階級女性の間で盛んだったもので、家庭のパーラー(談話室)で家族や知り合い同士で、ピアノやギターなど家庭にあるような楽器で伴奏され歌われた。1曲1枚のシートミュージックと言う楽譜の形で販売された。
   ミュージック・ホール
ミュージック・ホールとは、客が飲食を摂りながら音楽を楽しむことを目的とした施設で、パブで歌で客をもてなしたのが起源。1852年、イギリス最初の専用のホールとしてロンドンに開かれたカンタベリー・ホールは、客が飲食をとるために椅子とテーブルを並べた部分と舞台とをもっており、以後、同種のホールが全国につくられた。当初は大工業都市の労働者のビア・ホールとして生まれたものだったが、19世紀後半には飲酒よりも娯楽の方が重要になり、ユーモラスで風刺的または感傷的な歌からなる演芸を提供した。音楽だけでなく踊りやコントや手品、動物の芸、アクロバットなども演じられ、人気を博していた。1868年にはイギリスには500を超えるミュージック・ホールがあった。パリのムーラン・ルージュもミュージック・ホールである 。
   シャンソン
現代大衆歌謡としてのシャンソンは19世紀後半から20世紀初頭にかけて確立され、演劇的表現スタイル、反権威的現実主義、ミュゼット(同時代に誕生したダンス音楽)のアコーディオンと3拍子を伝統とする。パリやベルリンのキャバレー・カフェ・レビュー小屋などで盛んに歌われた。こうした当時の大衆歌謡は、クラシック歌曲の通俗版としての性格をもち、歌い手も美しい声ではっきりと歌うのが普通だった。現在「スコットランド民謡」「アイルランド民謡」などとして知られている曲の多くは、この時代にパーラー・ミュージックや酒場やミュージック・ホールの歌として人気を得たものが多く、「蛍の光」「庭の千草」「ダニー・ボーイ」「ホーム・スイート・ホーム」「アニー・ローリー」などが該当するし、フランスのシャンソンも古いもの(「さくらんぼの実る頃」など)は該当する。ロシア民謡として日本で知られている歌も、この時代の言わば歌謡曲が多く、「一週間」「カリンカ」「トロイカ」「コロブチカ」などはこの時代のものである。これらの中には売ることを目的に作曲されたものと、本当に民謡を手直ししたものが混在している。民俗音楽とポピュラー音楽の境界線はまだ曖昧であった 。
植民地の混血音楽
当時たくさんあった植民地では、都市部の中産階級はヨーロッパの芸術音楽や大衆音楽をそのまま持ち込み、農村部ではヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。が、植民地での都市の発展の中で形成された周辺部のスラム地区で、黒人や先住民の音楽とヨーロッパ系の音楽が融合して新たな音楽が生まれる現象が様々な植民地で見られている。担い手は船乗りや日雇労働者、賭博師、売春婦などのいわゆるルンペン・プロレタリアート層であった。リズムの肉体性・わざと濁らせた音色や声色・楽譜通りではない何らかの即興性などの要素を特徴とする。こうした音楽はその地域のエリート層からは下級な音楽として蔑視されたが、後にヨーロッパの民衆によって価値が見いだされて世界的な流行音楽となっていった例が多い。この種の音楽の最初期のものはスリランカとインドネシアで見られるが、後のポピュラー音楽に大きな影響を与えたのはカリブ海および南米地域のものである。
   黒人音楽の要素
アメリカ大陸に連れて来られた黒人の多くは西アフリカ地域の人たちだったが、アフリカの音楽には広くポリリズムの要素が見られ、特に西アフリカの音楽はホットでテンポも速く、また数人の奏者による打楽器アンサンブルがよく見られる。中には太鼓だけではなく、金属製の打楽器も入ってリズムを明確にすることも見られる。もちろんアフリカを離れてから何世代も経ており、西アフリカの民族音楽そのままではありえないものの、根底にある「身体の奥からゆさぶってくれるようなビート」は明らかに「肉体の解放による喜びと高い精神的な喜びを合一させた」アフリカのダンス音楽のものであり、この要素はその後のポピュラー音楽まで確実に影響している 。
   カリブ海地域
西インド諸島では先住民がほとんど全滅しており、白人と奴隷の黒人が暮らしていた。黒人音楽とヨーロッパ音楽が融合して生み出された音楽の中で、最初に世界的に流行したのはジャズではなく、キューバのハバネラ、中でもスペイン人のイラディエールが作曲した「ラ・パロマ」だった。イラディエールは若いころに数年間キューバに住んだことがあり、そこで接したハバネラのリズムを自作に取り入れて発表し、世界的に大人気となるのみならず、様々な国の音楽に影響を与えた。ハバネラのリズムの影響はアメリカのジャズ、イタリアの「オ・ソレ・ミオ」、トルコからギリシャにかけて伝わるシルトースという踊りのリズム、アルゼンチンのタンゴなどに見られる。またジャズ発祥の地のニューオーリンズに移植された黒人奴隷の大部分は、スペイン領キューバ、フランス領ハイチなどから購入されたものであった 。
   南米地域
南米は全般に先住民・白人・黒人の三者が混交し、メスティソ(先住民+白人)・ムラート(白人+黒人)・サンボ(先住民+黒人)などの集団が存在する。音楽もメスティソ系とムラート系に分けられるが、それぞれの存在の比率により、メスティソ系(白人の要素が強い、メキシコ・アルゼンチンなど)・メスティソ系(先住民の要素が強い、ペルー・ボリビア)・ムラート系(ブラジル海岸部・カリブ海地域)などと分けられる。ブラジルでは18世紀にルンドゥーという踊りの音楽が成立し、最初は野卑なものとして上・中流階層の非難を浴びたが、やがて洗練されて都会的な歌謡形式へと変化した。このルンドゥーは19世紀半ばに同じブラジルで生まれたショーロと混交し、19世紀終わりごろにサンバへと発展する。またアルゼンチンではハバネラのリズムの影響のもと、19世紀末にタンゴが生まれている。タンゴもまた世界的に広まったので例えば日本の演歌などにも影響を与えており、民衆の音楽のグローバリゼーションの最初の例と言われている。もっとも有名なタンゴ「ラ・クンパルシータ」は、24時間365日常に世界のどこかで必ず演奏されているとの伝説もあるほどである。ルンドゥーもハバネラも付点8分音符と16分音符を組み合わせた軽く跳ねるリズム感をもち、ポルトガルもしくはスペインの音楽にアフリカ的リズム感を加味したものと考えられるが、これがその後のラテン・アメリカの音楽の基調となった。ショーロやタンゴやサンバ、後に現れるキューバのルンバなどもこのリズムの延長上にあると言える。このようなカリブ海地域・南米地域の音楽はラテンの音楽などと呼ばれるが、これがポピュラー音楽の歴史上の要所要所で大きな影響を与え続けることになる。後にはキューバからマンボやチャチャチャ、トリニダード・トバゴからカリプソ、マルティニーク島とセント・ルシアからビギン、ブラジルからボサ・ノヴァ、ジャマイカからレゲエなどが生まれ、世界的にも流行している。なお、先の分類でいえばムラート系の影響が勝っていることには留意すべきであろう。
19世紀後半までのアメリカの音楽の状況
アメリカはイギリス・アイルランドを中心とする白人移民の国だが、南部を中心にカリブ海地域から輸入された黒人奴隷を多く抱えており、それぞれの音楽を持ち込んでいる。このためアメリカは、ヨーロッパ型の芸術音楽と大衆音楽、植民地型の混血音楽の双方を国内に抱えることとなり、独自の発展を遂げていく 。
   植民当初から19世紀初期までの状況
植民地時代、白人入植者社会の音楽の大半はイギリスから輸入された世俗音楽や礼拝用音楽だった。18世紀半ばには東海岸ニューイングランドでオリジナルの讃美歌をつくる動きが出てきてアメリカ独自の音楽表現が生まれたが、芸術音楽はヨーロッパ出身者が依然として主導権を握っており、18世紀末にアメリカで一番人気があった曲はイギリスのイギリスの職業作曲家がロンドンの遊園地で行楽客に聴かせるために書いた歌や、英語のバラッド・オペラやコミック・オペラの中でうたわれた歌であったようである。19世紀初めにはイタリア・オペラも人気を博し、ロッシーニ、ベリーニ、ドニゼッティらイタリアのオペラ作曲家のアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売されている。こうした状況を象徴するのがアメリカ合衆国国歌である「星条旗」(1814年)、独立革命中の流行歌「ヤンキー・ドゥードル」(1780年ころ)、準アメリカ合衆国国歌「アメリカ」(1831年)が全てイギリス起源の曲だということである。ただ、アメリカ独自の表現を求める努力は続いており、ニューイングランドですたれた讃美歌づくりはアメリカ南部に伝えられ、「アメージング・グレース」などの今日でも歌われる讃美歌を生み出しており、またローウェル・メーソンは1838年にボストンの公立学校に音楽教育を導入したほか、讃美歌を1200曲以上作曲している。
   アメリカ民謡の誕生
農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でスコットランド民謡やアイルランド民謡などのケルト音楽がアメリカ民謡の下地となっていく。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターやダルシマーで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触からブルースの感覚やバンジョーというアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカの要素を取り入れたりし、ブルーグラスやヒルビリーやカントリーなどと呼ばれるジャンルのもとになっていく。
   ミンストレル・ショー
ミンストレル・ショーとフォスターとヴォードヴィル。都市部では、イギリスと同様にパーラー・ミュージックやダンスホールの音楽やオペレッタが流行しており、イギリスものが主流で専門家もロンドンで修業してくる流れが続いていたが、1820年ころにミンストレル・ショーという、白人が顔を黒く塗って黒人の真似をする差別的な喜劇が成立する。各自バンジョー・ヴァイオリン・タンバリン・ボーンズ(馬の骨などで作った一種の打楽器)で演奏しながら、コミカルな歌やセリフのやり取りをした。この頃は新移民として東欧(ロシア・ポーランド)や南欧(イタリア・ギリシャ)からの移民が急増しており、彼らは旧移民のように土地や農場を持つこともできず多くは都市の下層労働者となり、旧来のWASPと対立していた。このような新移民たちの間で、黒人を軽く見下して憂さ晴らしできるミンストレル・ショーは受け入れられていた。アメリカポピュラーソング史上最初の国際的なヒットはミンストレル・ショーから出たトマス・ダートマス・ライトの「ジャンプ・ジム・クロウ」(ミンストレル・ショーの代表的な黒人キャラクターの名)である。その音楽の多くは楽譜が出版されて商業的に成功し、アメリカの初期のポピュラー音楽をけん引し、19世紀半ばに最盛期を迎えたが、南北戦争や奴隷解放を経てミンストレル・ショーの人気は陰り、商業的には1910年ころに終焉を迎えた。こうしたミンストレル・ショーの中から、フォスターが現れる。彼はミンストレル・ソングを書くところから経歴をスタートさせており、「おおスザンナ」「草競馬」「故郷の人々(スワニー河)」「主人は冷たい土の下に」「ケンタッキーのわが家」などは全てミンストレル・ショーのための作品である。やがてミンストレル・ソングに作曲することを恥じ、中流階級向けのパーラー・ソングに脱皮すべく方向転換し、「金髪のジェニー」「夢路より」などを残した。当時作曲家の地位は低く、低収入にあえいでいたフォスターは37歳で非業の死を遂げたが、作品の多さと現在でも歌われている親しみやすさ・その後に与えた影響から、「アメリカ音楽の父」「ポピュラー音楽の先駆者」と呼ばれている。彼の歌の作り方を、次代のポピュラー音楽の作曲家たちはこぞって「フック」(聴き手をとらえる印象的なメロディ。いわゆる「サビ」)の手本にした。同じころ、いくつかの独立した出し物からなる舞台芸能や、軽わざ師、音楽家、コメディアン、手品師、魔術師などからなる芸人のショーがヴォードヴィルと呼ばれるようになった。イギリスのミュージック・ホールに当たるものであり、寄席演芸劇場と訳される。こうした家族で楽しめる娯楽場をアメリカに広めた最初の人物は、俳優で劇場支配人であったトニー・パスターで、1881年、ニューヨーク市の14丁目劇場でバラエティショーをおこなった。ヴォードヴィルは20世紀初頭にはアメリカで一番人気のある芸能となった。
   黒人霊歌
黒人たちには18世紀後半あたりからキリスト教が普及し、白人たちもこれを黙認あるいは推奨するようになったとゴスペルとブルース。黒人たちも讃美歌で礼拝を行うようになったが、彼ら固有の音楽的な伝続からか、活気あるリズム・交互唱・叫ぶような唱法など、相当荒々しい形で礼拝を行っていたようである。奴隷だった黒人たちにとっては、教会での礼拝は唯一白人の監視がなく過ごせる場所であり、社交とエンターテインメントの場所でもあった。日曜日の黒人の礼拝のようすを描写した当時の記録によれば、輪になって踊りながらすり足で時計と反対方向に回り、リーダーと会衆とが掛合いで歌い(交互唱)、興奮が高まって憑依状態に達することもあった(リング・シャウトという)。歌といっしょに指をパチパチ鳴らしたり、手拍子をうったり、床を踏みならしたりということも見られ、その中にはポリリズムが含まれる。こうした黒人たちの讃美歌は、白人の讃美歌の歌詞や旋律を黒人のリズム・交互唱・シャウトにはめ込んだものと言える。1863年の奴隷解放以後には、そこから黒人霊歌と呼ばれるジャンルが生まれる、これは白人がリーダーになってヨーロッパの讃美歌風の和音をつけ、楽譜として売り出したものであり、多くの曲が知られているが純粋に黒人のものとは言えず、黒人の礼拝から再度白人の要素を重点的に抽出したものと言える。それに対して黒人たち本来のものに近い讃美歌はゴスペルと呼ばれ、南部および北部・東部都市の黒人居住区に数多く生まれた黒人教会を拠点として独自の宗教音楽が発展を続けた。同じく奴隷解放後には、南部農業地帯の黒人たちが抑圧の中で味わった個人的感情を呟くように吐き出す歌としてブルースが発生し、ギターの伴奏を伴う中でヨーロッパの和声構造を身につけていく。標準的なブルースの定型は、A A B の3行から成る詩を12小節に収め、各行ごとに後半でギターが歌の間に即興的に割り込む形になっている。音づかいとしてはブルー・ノートと呼ばれる黒人音楽の特質を示す音階(ミとシ(さらにソも)がときに低めの音になる)に特徴がある。
   吹奏楽の流行
アメリカではイギリスやヨーロッパの影響で、18世紀末ころから鼓笛隊などが生まれ、南北戦争の頃にブラスバンドが盛んになり、19世紀後半には博覧会場や公園などで演奏する商業バンドが発達した。特にアメリカ海兵隊バンドの楽長だったジョン・フィリップ・スーザが退役してつくったスーザ吹奏楽団が1892年に活動を開始すると、その演奏水準の高さから大人気となった。19世紀末にアメリカで一番有名だった音楽家は、「行進曲王」の名で世界に知られたスーザだった。同じ頃、バス・ドラムの上にシンバルをセットしたり、バス・ドラムをペダルで演奏するドラムセットの基本アイデアが生まれ、リズムセクションの人数を減らすのに貢献した 。
   ヨーロッパからの移入文化
19世紀後半、東部の都市では、J・シュトラウス2世やレハールやオッフェンバック、それにロンドンのギルバートとサリバンによるオペレッタが移入され、人気を博した。同じ時期、物語性がなく、歌、ダンス、コメディの寸劇などが演じられるショーとして、レビューが劇場や上流階級用のサロンなどでもてはやされていた。レビューは語源的には〈再見〉を意味するフランス語がジャンルの名となったもので、1820年代のパリで年末にその年のできごとを風刺的に回顧するために演じられた出し物を起源とする。その後、上演時期に関係なく、おおむね風刺的な内容の短い場面をつないだ芸能を指すようになった。ワルツ王J. シュトラウスは、〈ウィンナ・ワルツ〉の名曲を数多く作ったが、熱狂的にヨーロッパに広がったこのワルツはアメリカに渡り、ゆるやかなボストン・ワルツが生まれた。18世紀末から19世紀末にかけて、アメリカの領土は約3倍に、人口は移民や新領土獲得に伴う増で約14倍になっている。こうした中で文化的な統一など望むべくもないが、このように様々な民俗音楽の伝承が相互接触して文化変容するところから、多様なジャンルが生まれてくることになる。
ポピュラー音楽の誕生−19世紀末から1920年代
最初に定義したポピュラー音楽の「近代的な商業音楽」という要素が明確になるのが、1880〜90年代の「音楽の商品化システム確立」である。この商品化システムは、自然発生的でローカルな他ジャンルを取り込みつつ発展していく。アメリカは第1次世界大戦の影響をほぼ受けておらず、史上最高の繁栄を見せた時期だったこともこれを後押しし、第1次世界大戦後から大恐慌までの戦後の繁栄と享楽は「ジャズ・エージ」とも呼ばれる 。
ティン・パン・アレー
フォスターの時期、つまり19世紀半ばにすでに幅広い活動を行っていた楽譜出版業界は、1880〜90年代にはニューヨーク、特にマンハッタンの下町の〈ティン・パン・アレー〉と呼ばれる通りに集中し、音楽を商品化するシステムを確立した。業者が作詞家に具体的な詞の内容にまで注文をつけて作詞させ、作曲家にも細かい指示のもとに作曲させて、その曲を楽譜に印刷して販売し、曲が話題になるように宣伝マンに店先などで歌わせ、その曲が人々に広く歌われれば楽譜が売れて商業的に成功する、という仕組みだった。この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントとなる。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラ〉と呼んだ。〈ティン・パン・アレー〉は直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社で試演を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前であるが、のちにポピュラー音楽業界を指すようにもなった。曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせ、彼らの確立した生産・販売システムは、その後レコード業界にも踏襲され、1950年代半ばまでアメリカ音楽業界を支えた。この「ポピュラー・ソング」は、最狭義のポピュラー音楽の定義でもある。こうしたシステムのもと、チャールズ・K・ハリス作の「舞踏会のあとで」(1892)の楽譜は史上はじめてミリオン・セラーを記録し、楽譜出版産業の急成長をうながした。同時期に大衆芸能の主流となったヴォードヴィルでは、人気歌手たちが全米を巡業して、ティン・パン・アレー産の歌を大衆に普及させた。ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのような「国民の大多数に共通の文化基盤」が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画して流行らせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。
ミュージカル
ミュージカルは「ミュージカル・コメディ」の略。19世紀半ばに現れ、20世紀前半にニューヨークのブロードウェーを中心にしてアメリカで発展した。オペレッタ、パントマイム、ミンストレル・ショー、ヴォードヴィルなど、19世紀のさまざまな演劇から影響をうけて成立した。元来はコメディの名の通り、他愛のない喜劇的な物語をもっぱら扱っていたが、内容が深刻さを増したり、本格的な演劇性を獲得したりするにつれ、単にミュージカルと呼ばれるようになった。分かりやすい物語と親しみやすい音楽、時にはスペクタクル溢れる装置やコーラス・ガールの肉体的魅力などの視覚的要素で観客にアピールする、ショー・ビジネスが盛んなアメリカにふさわしい、費用の掛かる贅沢な舞台芸術である。当初はその名の通り、形ばかりの物語で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇と、ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品が多かった。しかし1927年の「ショー・ボート」で、現実感のある舞台に人種差別などの社会問題を盛り込んだ物語でミュージカルに文学性が持ち込まれ、以後は都会的機知と文学性に富んだミュージカルが多く作られた。
ジャズの誕生
黒人たちの音楽では、1890年代にラグタイムが誕生した。これは、ピアノの右手にアフリカ音楽に起因するシンコペーションを多用したメロディ、左手にはマーチに起因する規則的な伴奏を組み合わせたもので、ミンストレル・ショーの歌を母体に発展してきた。1900年前後に活躍していたスコット・ジョプリンという黒人ピアニストが、1899年に「メイプル・リーフ・ラグ」を発表し、1902年には「ジ・エンターテイナー」を発表している。20世紀初めの10年ほどの間は、このラグタイムとブルースが商業的にヒットしていた。同じく1900年代には、ニューオーリンズの元奴隷の黒人たちが始めたブラスバンドが不思議とスウィングするリズムがあるとして評判になり、白人のバンドに真似されたり、そのままのスタイルでダンスホールに雇われたりするようになる。これがジャズの誕生である。ニューオーリンズの初期のジャズ(ディキシー・ランド・ジャズと言う)で一番目立つのはブラスバンドの行進曲の要素だが、これまでに出てきたブルース(特にブルー・ノートと言われる音階)、ラグタイム、黒人霊歌の要素を含んでいる。また、どのバンドにもクラシック音楽の素養を身につけたクレオール(白人と黒人の混血の人)がいて、楽譜も読めない元奴隷たちにできるだけの指導を行っていた。ディキシー・ランド・ジャズはトランペット・クラリネット・トロンボーン・ピアノ・ベース(もとはチューバ)・ドラム・ギター(もとはバンジョー)が標準的な編成で、決まったコード進行が繰り返される中、管楽器たちが即興演奏を行い、その時にはシンコペーションやスイングでリズムを豊かにするような工夫が行われる。ジャズも様々なスタイルがあるが、この即興とスイングの要素はどのジャズにも見られる。ラグタイムやジャズは、黒人の音楽ではあるがヨーロッパ音楽の要素も多く含んでおり、メイン・ストリーム側とすぐに接触が生じ、ティン・パン・アレーからラグタイムやジャズの曲が売り出されて人気を得たり、逆にティン・パン・アレーの曲をジャズ・ミュージシャンが演奏したりということが盛んに見られるようになった。ジャズは本質的には「演奏テクニック」であり、どんな曲でも演奏できる代わりに必ず何か「元ネタ」を必要とする。ティン・パン・アレーの曲は「元ネタ」としてよく使われた。この後1940年代まで、ジャズは時代の主役となっていく。ラグタイムやジャズは当時のアメリカ人たちの間では芸術的な価値は認められておらず、「黒人たちのやっているわけのわからない音楽」と思われていたようである。しかし、その価値はむしろヨーロッパのクラシック系の作曲家に認められた。ドビュッシーやミヨーは明らかにラグタイムやジャズの影響を受けた作品を残している。1910年〜20年にかけて産業構造が農業から工業に転換するにつれてアメリカでは南部から北部への人口の大移動が起こり、それに合わせるように多くのジャズメンがニューオーリンズからシカゴに移動する。シカゴでは天才トランペット奏者のルイ・アームストロングが全てのジャズ奏者と編曲者に甚大な影響を与え、ジャズの時代を築く。1920年頃にはドラムセットにハイハットが加わり、現在とほぼ同様のリズムパターンが出せるようになった。
ティン・パン・アレーの全盛期−1920〜30年代
新技術とポピュラー音楽1
   レコード
1887年に発明された円盤型レコードは徐々に浸透し、1925年の電気録音方式の導入による音質向上にも後押しされ、1920年代半ばにはアメリカ全土でレコードは年間1億枚以上を売り上げるようになった。
   PA
電気録音導入以前は歌手は声が大きくなければならなかったが、マイクロホンの導入により、声量がなくてもマイクを効果的につかって表情が出せるようになり、ビング・クロスビーなどによってソフトにささやくようにうたうクルーニング唱法(クルーンには感傷的にうたうという意味もある)が広まった。オペラのように、肉声で遠くまで響き渡らせようとすると不可能なささやくような歌い方は、現在のポピュラー曲でも多用されているが、音響・録音技術の進歩と不可分だった。やがてポピュラー音楽は実演のステージでさえも、拡声装置(PAシステム public address system)が切り離せなくなっていく。
   ラジオ
同じく1920年代にはラジオや映画が浸透し始め、これがポピュラー音楽を大衆に伝えるのに大きな役割を果たすことになる。ラジオは当初レコードと競合すると思われていた。しかしレコードはラジオの番組制作簡略化に貢献しただけでなく、音楽が放送されることによって、多くの新たな聞き手を獲得した。
   映画
映画産業は20世紀初めの小規模の映画館の林立に始まった。1915〜20年には多くの映画会社がカリフォルニア州ハリウッドに移り、映画の聖地となった。映画ははじめはサイレント(音声なし)だったが、1926年にトーキー映画が発明され、映画に音をつけることが出来るようになると、まずミュージカル映画が大流行する。また歌手や演奏者の出演がレコードの売れ行きを左右することから、主題歌や挿入歌のタイアップがすすんだ。ハリウッドの映画各社がシステム化されるにつれ、各社とも音楽担当の部署を整備し、50人近いオーケストラを抱えるようになり、映画のための音楽を担当するようになった。オーケストラによる後期ロマン派スタイルの映画音楽という形はこの頃に確立し、シンフォニック・スコアと呼ばれている。映画音楽と言うジャンルは、このような中から生まれてきた。
   新技術の影響
レコードの普及は、音楽のあり方を大きな変えた。世界各地の音楽は時間や場所をこえてより多くの聴衆に聞かれるようになり、ここまでに出てきた様々なジャンルの音楽が街にあふれ、家庭に入ってくるようになった。都市部で商業的に制作される音楽(メイン・ストリームの音楽)と地域に密着した民謡などとの分離がすすんだ。また、レコードやラジオや映画を通じて特定の演奏者や歌手とむすびついた曲がくりかえしながれることで、音楽家がスター化していく。新しいスターをつくりだそうとする音楽産業と聞き手の好みの移り変わりを反映して、流行のサイクルやスターの寿命がちぢまった。さらに、音楽が大量生産向けに均質化する傾向や、聞き手が受動的な消費者になる傾向も出てきた。ミリオン・セラーの現象は、流行曲を次々と出すことをレコード資本の目標にさせ、音楽産業の主導権は楽譜出版からレコードに移った。
ティン・パン・アレーの全盛期
   ティン・パン・アレー
こうした中、ティン・パン・アレーは1920〜30年代に全盛期を迎えた。当時のヒット曲はほとんどすべてニューヨークを本拠地とする一握りの作曲家と作詞家がつくりだしていた。ジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウイン、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン、同じくロジャースとロレンス・ハートなど、作曲家と作詞家は多くの場合コンビを組んで活動した。ヴォードヴィルは1928年に人気の絶頂を迎え、1000あまりあったアメリカのヴォードヴィル劇場に、およそ200万人の観客が毎日おしよせた。またチャーリー・チャップリン、バスター・キートン、マルクス兄弟といった、1910年代から20年代のスラップスティック・サイレント・コメディの有名なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演したのちに映画産業に入り、ヴォードヴィルの伝統を続けた。ヴォードヴィルは30年代に入ると映画に押されて落ち目になるが、かわって大衆芸能の王座についたブロードウェー・ミュージカルのほか、ダンス・オーケストラの専属歌手も、ティン・パン・アレーの歌の普及に貢献した。先に挙げたロジャースやガーシュウィンも多くのミュージカルをのこしている。
   スイング・ミュージック
シカゴでは「ジャズ」ではなく「スイング・ミュージック」と言う言葉を使ったベニー・グッドマンが1935年にブレイクし、スイングの時代をもたらし、これは1940年代初めまで続く。この頃の人気バンドは全て白人だった。黒人が演奏するのは下品で喧騒なジャズ、白人がやるのはスマートで健康的なスイング・ミュージックというのが、初めて陽のあたる場所へ出たジャズに対する世人の受け止め方だった。ジャズはビッグバンドというトランペット・トロンボーンの金管楽器6〜8名・サックス中心の木管楽器4〜6名・ピアノ・ギター・ベース・ドラムなどのリズムセクション3〜4名が標準的な編成となり、4ビート・スイング・リフの使用・各メンバーの長大なソロなどを特徴とする。ポピュラー界のミュージシャンも、ジャズメンほど自由な即興はおこなわなかったが、明らかにジャズに特徴的なリズムとメロディをとりいれ、1930年代初めには、ジャズの感覚を吸収した先のビング・クロスビーがメイン・ストリームでは最高の人気を占め、ポピュラー・シンガーがジャズ風の楽団を伴奏に歌うのはごくありふれたこととなった。社交ダンスの音楽にもジャズの要素が大幅に取り入れられた 。
   メイン・ストリームとローカル
この時代は、1930年代初頭の大不況による落込みはあったにせよ、アメリカの音楽業界が最も順調に進展した、メイン・ストリーム音楽の黄金時代だった。ここに挙げた新技術は全てポピュラー音楽を大衆に定着させるのに貢献した。しかし大衆の興味をつねに引きつけることには、ティン・パン・アレーのプロダクションとプロモーションの手腕をもってしても限界があり、例えば1930年にキューバの「南京豆売り」がヒットしてルンバ・ブームが突如巻き起こるなど、植民地型のポピュラー音楽が国外から入ってきて人気を奪い、音楽産業がそれを追いかけるといった現象もしばしばあった。このことは、メイン・ストリーム(ティン・パン・アレーのポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル、先進国型のポピュラー音楽)と、ローカルな民族的基盤に基づいた音楽(ブルース・ラグタイム・ジャズなど、植民地型のポピュラー音楽)のその後の関係を示している。ジャズがそうであったように、もともとはサブカルチャーだったものがメイン・ストリームに取りこまれ、音楽業界の生産様式に組み込まれてメイン・カルチャー化するという流れである。サブカルチャーは黒人のものとは限らない。1920年代、レコード会社が「ヒルビリー」と言うレーベルで、南部の白人大衆向けにアメリカ民謡に起源のある音楽を売りだした。アメリカ民謡に起源を持つメロディと、孤独、貧困、望郷など同時代のメイン・ストリームが取り上げないテーマを含んだ歌詞が共感を呼んだ。27年にミシシッピ生まれのロジャーズやカーター・ファミリーが評判となり、以後は急速に商業音楽として成長した。映画の誕生後は西部劇でカウボーイ姿で歌って人気を得る者が多く出て、西部開拓時代への懐古と田舎の生活への郷愁がこのジャンルの特徴となった。これはのちにカントリー&ウエスタンと呼ばれるジャンルとなるが、白人が担い手でありながら、ローカルな下層大衆の音楽であり、サブカルチャーとして始まり、後にメイン・ストリームに取りこまれることになる 。
第二次世界大戦前後−1940年代〜1950年代半ば
第二次世界大戦時のアメリカは、本土が直接攻撃されることがほとんどなく、生活必需品の生産や供給が滞ることもなかったため、戦争の国民生活への影響は比較的軽微であった。軍事増産はむしろ景気を回復させている。しかし国民の1割に当たる1200万人が兵士となり、多くの軍需工場では女性が工員として働くことになった。西海岸では防空壕設置や灯火規制が行われた。食料品や日用品の配給制は他国同様行われた。バーやダンスクラブの営業制限が行われ、後述のようにジャズの在り方に大きく影響している。軍需産業の発達は南部から北部などへの人口移動を生み、ヒルビリーやブルースやゴスペルなど南部に起源のある音楽の人気を高めた。1945年には大戦が終結し、経済状況も回復したものの、冷戦が固定化し、朝鮮戦争や東西の軍拡競争も行われ、政治的・文化的にはやや保守化した。音楽の関連でいえば、ニューヨーク・フィルやNBC交響楽団の演奏は変わらず行われており、ブロードウェー・ミュージカルは新作を提供し続けており、ビング・クロスビーやフランク・シナトラは人気を集めており、ジャズ以外には明白な負の影響はあまりなかったようである。1930年代から黄金期を迎えていたハリウッド映画は戦争プロパガンダ映画も制作し、隆盛は続いていた。しかし、戦争が大衆の音楽への嗜好に影響を与えた可能性は容易に指摘できる。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」(1942年)は現在に至るも世界歴代シングル売上1位を崩していないが、これは憂鬱さと家庭の癒しのイメージの混在が戦時中のリスナーの心をとらえたためであり、米軍放送にはこの歌のリクエストが殺到したという。愛国心の高揚はヒルビリーの国民的人気を後押しし、テネシー州メンフィスがそのメッカとなった。代表にハンク・ウィリアムズがいる。厭戦気分の高まりは「長い旅路の果て、我が家に帰る」という歌詞を持つドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」(1944年)を23週連続チャート1位に押し上げた 。
ジャズとブルース
   ジャズ
ジャズは基本的にはダンス・ミュージックとして演奏されていたが、1941年の日米開戦とともに戦時統制によりダンスホールは高率課税の対象となり、また成人男子の多くは徴兵され、ビッグバンド編成での大人数の演奏がほとんど不可能になってしまった。ジャズの編成は3〜8人と少人数化し、即興の腕を競い合うジャム・セッションを連日繰り返す形になり、そこからアドリブ・ソロとビート感を強調するバップというジャンルが生まれた。チャーリー・パーカーはバップの代表人物である。バップはまとまりに欠けるきらいがあり、その要素を受け継ぎつつもそれ以前のスウィングの要素もとりいれ、冷静な編曲に基づいたなめらかでソフトな演奏のスタイルのクール・ジャズがニューヨークで生まれた。1949年のマイルス・デービス九重奏団のアルバム「クールの誕生」がその始まりだが、やがて朝鮮戦争の好況でわくロサンゼルスに拠点を移しウェスト・コースト・ジャズと呼ばれるようになった。ロサンゼルスにはヨーロッパ音楽の巨匠ミヨーやシェーンベルクがナチス迫害を避けて移住してきており、しばしば近代音楽とジャズの融合が真面目に試みられた。ただしこれもどちらか言えば白人中心のジャズだった 。
   リズム・アンド・ブルース
1940年代にはエレキ・ギターが急速に普及し、黒人の音楽で細々と続いていたブルースが人口移動に伴って北部の都市に流入し、エレキ・ギターを取り入れてビートを強調しつつジャズとゴスペルの要素を取り入れ、リズム・アンド・ブルースというジャンルを生み出す。もともとこの言葉は、当時レイス・ミュージック(人種音楽)と呼ばれていた黒人音楽の新しい呼び名として考えられたものだった。ジャズは当初は黒人の音楽だったが、白人のジャズ・プレイヤーが大量に登場したり、メイン・ストリームの音楽となって商業主義路線に乗っかったり、ダンス・ミュージックとして洗練されたり、クラシックとの接点が発生したりと、もとの黒人音楽の活気とはかけ離れたものになっていた。このリズム・アンド・ブルースはそういった中で登場し、当の黒人だけでなく白人の若者も熱狂して聴きあるいは踊るという現象が起きた。ビッグ・ジョー・ターナーはリズム・アンド・ブルースの初期の代表的人物である。
戦後の動向
戦後のヨーロッパでは、フランスのシャンソンのエディト・ピアフ、イタリアのカンツォーネ歌手のドメーニコ・モドゥーニョが人気を集めた。スペインではフラメンコ歌手が人気を集め、アフリカ・西アジア・インド・東南アジアなどでもポピュラー音楽界に大物が登場している。日本では美空ひばりが登場し、それまでのややぎこちない日本歌謡に新風を吹き込んだ。またキューバのバンドリーダーのペレス・プラードがアメリカに持ち込んだマンボは若者を熱狂させた。この時代を中村とうようは「世界ポピュラー音楽の黄金期」と書いている。こうした中、マントヴァーニ(イギリス)、パーシー・フェイス(カナダ)、フランク・プゥルセル(フランス)らクラシックの教育を受けたミュージシャンが、自身のオーケストラを率いてムード音楽(のちにイージー・リスニングと呼ばれる)を拓く。器楽曲でありながら、全米ヒットチャート上位にたびたび食い込んだ。ハリウッドは戦後、独占禁止法の適用によるグループ解体と赤狩りの標的になったことによる優秀なスタッフの追放、郊外人口の増加とテレビの浸透による人々の生活様式の変化が重なり危機を迎えるが、作品そのものは名作がつくられ続け、西部劇やミュージカル映画の傑作(「雨に歌えば」など)と数々のスター(フレッド・アステアやジュディ・ガーランド、ジーン・ケリーなど)が生まれ続けた 。
新技術とポピュラー音楽2
   レコードの進化・テープレコーダーの登場
レコードの技術としては、1945年に高い周波数ほど大きく録音し再生時に電気的に調整して音質を高める技術のプリエンファシスが開発され、48年ごろからはそれまでのSPレコードに代わってLPレコードが用いられるようになり、50年代以降はステレオ録音が登場し、「原音に忠実」と言う意味の略語のHi-Fiがマーケティングに使われるようになった。同じく50年代以降は磁気テープによる録音が普及し、生演奏だけによらない音楽づくりに道を開いた。
   テレビ
アメリカでは41年にテレビ放送の規格が決められ、45年と50年には新技術が開発されて画質が向上し、普及に拍車がかかった。その結果、55年にはテレビ普及率はアメリカの家庭の67%に達した。48年からはエド・サリバン・ショーが始まり、多くのミュージシャンが登場した 。
ロックの誕生と沈滞−1950年代半ば
リズム・アンド・ブルースは白人の若者をも熱狂させたが、これを見た白人の一部がリズム・アンド・ブルースの感覚を取り入れる動きが見られ始める。白人のビル・ヘーリーは54年に「シェーク・ラトル・アンド・ロール」と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を録音したが、前者は先のビッグ・ジョー・ターナー、後者はソニー・デーのレコードの模倣で、どちらもオリジナルは黒人であった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は翌55年に映画「暴力教室」に用いられ、大ヒットとなった。同じ54年にはメンフィスの電機会社の運転手だったエルヴィス・プレスリーが地元の小さなレコード会社から「ザッツ・オール・ライト・ママ」を出したが、これも黒人のアーサー・クルーダップの作品であった。こうして生まれてきた新しい音楽は、ラジオのディスク・ジョッキーをしていたアラン・フリードによって「ロック・アンド・ロール」と呼ばれた。ロックの誕生である。ロックは、リズム・アンド・ブルースの要素が一番強く、そこにヒルビリーやポピュラー・ソングの要素が融合して生まれた。先のヘーリーやプレスリーはヒルビリーの要素が強く、またプレスリーは好きな歌手としてフランク・シナトラを挙げており、ポピュラー・ソングの伝統も受け継いでいる。このため、ヒルビリーの要素が強いと「ロカビリー」(ロック+ヒルビリー、プレスリーなど)、ポピュラー・ソングの要素が強いと「ロカバラード」(ロック+バラード、ポール・アンカなど)などの派生語が生まれたため、60年代になると,それらの全体を呼ぶ言葉がロック、1950年代中葉の初期のロックを指す言葉がロックンロール、と使い分けるのが一般的となった。ロックは、命名者であるアラン・フリードやプロモーターの尽力によって、独立系小レーベルでレコード化されたが、経済的に恵まれるようになっていた10代の若者に想像をはるかに超える支持を受けた。大手レコード会社もさっそくこのジャンルに目をつけ、プレスリーは早くも大手のRCAレコードに引き抜かれ、56年には「ハートブレイク・ホテル」の大ヒットを生んだ。プレスリーは「史上最も成功したソロ・アーティスト」(ギネス・ワールド・レコーズ)とされ、全米No1ヒット曲数歴代2位、週間数歴代1位など、記録には事欠かない。その後を追って誕生したのが先の「ロカバラード」で、これは旧来のメイン・ストリームの「プロの作詞家・作曲家がヒットをねらって書いた曲でレコードを作り、ラジオやテレビなどのメディアでうまく宣伝して広めていくという商業主義」そのもので作られた。ロックの誕生は「白人の若者の欲求不満を白人文化では吸収しきれなくて黒人文化に頼らざるをえず、黒人底辺文化の価値観を白人若年層が大幅に取り入れたという、前例をみないラディカルな社会現象だった」と世界大百科事典の「ロック」の項で中村とうようが評しているが、せっかく誕生したロックはこうしてすぐに商業主義に取り込まれてしまった。ロックの立役者だったフリードも、音楽業界から放送関係者に贈られていたペイオーラが賄賂とされ、59年と60年に連邦議会(下院)で開かれた聴聞会で疑惑の張本人として取りざたされ、大スキャンダルとなった。こうした事情から、ロックンロールの全盛期は54年から59年までの5年間しか続かなかった 。
初期ロックの影響と同時代現象
ちょうどこの頃は奴隷解放後も解消されない差別(人種隔離制度と制度的差別体系)に苦しんでいた黒人たちが公民権運動を開始した時期である。ニューヨークの黒人ジャズが復活し、ハードバップまたはモダン・ジャズと呼ばれた。公民権運動にあわせ、黒人側からのラディカルな抗議を表明する曲が書かれ、また原点回帰とばかりにブルースやゴスペルの要素を取り入れ、その演奏には黒人の体臭を意味する〈ファンキー funky〉という形容詞がつけられた。マイルス・デービスは初期の代表者だが、クール・ジャズの創始者でもある。初期のロックンロールはリズム・アンド・ブルースとほとんど変わらなかったが、白人のロックンロール歌手が増えてくるにつれ、リズム・アンド・ブルースは、よりゴスペルなどのアフリカン・アメリカンの要素を取り込み、ソウル(ソウル・ミュージック)と呼ばれるようになった。レイ・チャールズはソウルの発展に大きく貢献した。社会背景的には先に挙げた公民権運動があった。ロックンロールの登場に刺激されてヒルビリーも電気楽器をとりいれ、より洗練されたアレンジを用いるようになる。それにともない、レコード会社は従来の「ヒルビリー」にかえて「カントリー・アンド・ウェスタン」のレーベル名を導入した。メイン・ストリームでは、ポピュラー・ソングが最後の最盛期を迎えており、フランク・シナトラやペリー・コモがテレビにも進出しつつ活躍した。このころミュージカル映画はテレビに押され始め、制作費の高騰で本数も減り黄金時代は終わりを告げる。「ウェスト・サイド・ストーリー」(1961年)「マイ・フェア・レディ」(1964年)「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)などは最後のミュージカル映画のヒット作である 。
ポピュラー音楽史上最大の多様化−1960年代〜1970年代前半
戦後のベビーブームで生まれた世代がティーンから成人を迎えるこの頃、依然として冷戦やベトナム戦争が続き、一向に戦争を反省していないように見える社会や国家に対し、世界的に若者たちによる異議申し立ての行動が活発で、世界各国で大学紛争が盛んだった。若者はこのような共通体験から一つの「世代」として認知され、彼らの主張や考え方は「若者文化」と呼ばれた。若者の重視は音楽の世界が先んじており、戦前のポピュラー音楽が基本的に大人を対象にしたメインカルチャーだったのに対し、50年代後半のロックンロールでは明らかに始めから若者をターゲットにした曲が多く作られ、歌詞も恋愛や私生活、自己実現の悩みなど10代の若者の主要な関心事をテーマにしていた 。
フォーク・ソング
ピート・シーガーはウッディ・ガスリーらと組んで、1940年代から民謡風のメロディーに乗せてプロテスト・ソング(社会の中の不公平や不正を告発し抗議する歌)を歌っていたが、1950年の「おやすみアイリーン」が大ヒットし、この影響を受けたザ・キングストン・トリオによる古い民謡のリメーク「トム・ドゥーリー」(1958年)が大ヒットして、フォーク・ソングは完全にポピュラー音楽の一部門を占めるにいたった。次いでボブ・ディランが「風に吹かれて」を62年に発表し、公民権運動の中で広く歌われた。フォーク・ソングはロックとは対照的に、中流階級の大学生に支持され、清潔で知的なイメージでもてはやされた。
ロックの復活
60年代初めには、音楽産業がロックンロールと銘うって売りだす音楽の大半が、ロックンロールの物まねにすぎなくなっていた。プロの作曲家がつくった曲をアイドル型クルーナーが歌い、スタジオ・ミュージシャンの伴奏で録音した。これはティン・パン・アレーの旧来のやり方そのものであった。沈滞していたロックは、イギリスからの動きで息を吹き返した。62年、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジ・アニマルズなど多くのグループがロックの原点を取り戻し、アメリカの若者にも熱狂的に迎えられた。これはブリティッシュ・インベージョン(イギリスのグループの襲来)と言われる。それに呼応して、64年にビーチ・ボーイズがカリフォルニアから出た。カリフォルニアはフォーク・ソングも盛んであり、またサンフランシスコとその周辺のヒッピーが新しい若者文化をつくり出していたが、そうした土壌から新しいロックが盛り上がった。新しいロックに関して、『世界大百科事典』のロックの項で中村とうようは「無教養な若者の衝動に発したロックは、10年後に知的な性格を帯び、運動の側面を備えたものとして、より広範な社会的影響力を発揮する形で再生した。歌詞は10代の感傷を歌う単純なものから,社会批評性をもったり、哲学的に思索したりするものに成長した」と評している 。
ロックの多様化
60年代後半は、ロックがメイン・ストリームに食い込み、多様化していく時期となる。ブリティッシュ・インベージョン以前は弾圧の対象だったロックは、大規模化したレコード産業の後押しを受け、多種多様なスタイルとなった 。
   サイケデリック・ロック
ヒッピーにつきものだった麻薬やLSDからは、サイケデリック・ロックが生まれた。代表はグレイトフル・デッド。幻覚体験を音楽で表現しようとするもので、多くのミュージシャンがサイケデリック・ロックに傾倒したが、LSDの所持の禁止・それに伴うヒッピー文化の衰退・麻薬によるアーティストの死などにより衰退し、アーティストたちは実験的な音楽を特徴とするプログレッシブ・ロックに移行し、クラシック系の現代音楽と影響しあうような作品まで書かれている。ピンク・フロイドなどが有名である。
   フォーク・ロック
フォーク・ソングやカントリー・ミュージックのアーティストたちも、ロックヘの接近が見られた。フォークシンガーだったボブ・ディランがエレキ・ギターを用いてフォーク・ロックと言うジャンルを開き、賛否両論を巻き起こす。同様にカントリー音楽の要素を入れたロックもバーズなどによって開かれ、ジャンルの垣根を取り払った。
   ブルース・ロック
イギリスでは黒人ギタリストによるブルースを白人が模倣し、ブルース・ロックが生まれる。元がギターブルースであるため、エレキ・ギターの長大な即興を特徴としている。エリック・クラプトンを中心とするクリームなどが代表。このジャンルはやがて「最もロックらしいロック」や「ロックの主流」と呼ばれるハード・ロック(ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバスなど)、さらにはヘヴィ・メタルなどへと続いていく。
   グラム・ロック
多少遅れて70年代初頭のイギリスでは、デビッド・ボウイやT.レックスのマーク・ボランらが、妖艶な化粧と衣装で中性的なイメージをふりまき、退廃とクールさが入り混ざったロックの新感覚を示して流行となった。これは魅惑的(glamorous)からグラム・ロックと呼ばれる(ただし英米では通常グリッター・ロック=けばけばしいロックと言われる)。初期のエルトン・ジョンもステージで奇抜な衣装やメガネをつけるなどして、グラム・ロックを象徴した。派手な化粧をしたバンドはその後もたびたび現れており、後のロックに与えた影響は少なくない。
多様化したロックの影響
ロックの影響は世界に及んでおり、例えば日本では65年のベンチャーズ、66年のビートルズ来日以後にグループサウンズやカレッジ・フォークがブームとなりアマチュア音楽の裾野を広げ、72年以降のフォーク系シンガーソングライター(吉田拓郎・井上陽水など)および75年ごろからの女性シンガーソングライター(荒井由実・矢野顕子・中島みゆきなど)の活躍につながった。フランスではロックの影響のもと、ジョニー・アリディやシルヴィ・ヴァルタンなどの音楽がイェイェと呼ばれて人気を集めた。セルジュ・ゲンズブールのプロデュースしたフランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」はユーロビジョン・ソング・コンテストの優勝曲である。活躍した女性歌手たちはフレンチ・ロリータと呼ばれた。ヨーロッパでは、ロックやリズム・アンド・ブルースが広く聴かれるようになったのみならず、大量販売をめざす大手レコード会社は、ビートルズ・ブーム以降、ロック的な音楽を国際的な主力商品にすえた。このようなロックの影響を受けた新しい若者向け音楽のスタイルを説明するための言葉として、イギリスでポップ(ポップ・ミュージック)と言う言葉が使われ始めた。ヨーロッパ各地でも、それにならった英語の音楽がつくられはじめた。このためヨーロッパでヒットする音楽の5〜6割が英米の音楽で、ユーロビジョン・ソング・コンテストの優勝者も過半数が英語で歌っている(1974年優勝のスウェーデンのABBAなど)。このように英米のポピュラー音楽の影響下にあるヨーロッパ産のポピュラー音楽をユーロ・ポップと呼ぶ場合がある。東側諸国の多くはロックを資本主義の退廃を象徴する音楽として弾圧したため、ロックの影響は地下化した。1960年はアフリカの年と呼ばれ多くの国が独立したが、アフリカ独立とロックの世界的な流行は、アフリカにエレキ・ギターの急速な普及をもたらし、ナイジェリアではフェラ・クティが現れる。クティはジャズとファンクを参照しつつ強烈な政治的発言を盛り込んだ音楽を作り上げ、自らアフロ・ビートと呼んだ。目の前の不正を強烈に告発する歌詞は当局の弾圧を生んだが、クティはさらに強烈な表現で今度はその弾圧を歌にした。後続は現れなかったが、アフリカ起源のアフロ・ビートと言うジャンルは全世界に広がった。メイン・ストリームそのもののようなミュージカルでも、ロックを取り入れた作品がいくつもつくられたが、この時期のミュージカルは筋らしい筋がなく、文学性を喪失するなど迷走が見られる 。
映画音楽とイージー・リスニング
シンフォニック・スコア全盛だった映画音楽界は、テレビの台頭によって衝撃を受けた。ヘンリー・マンシーニやジョン・ウィリアムズはテレビで腕を磨き、映画音楽で活躍した人たちだが、彼らはそれまでの映画音楽の伝統にとらわれることなく、時代を反映した革新的な音楽を映画に取り入れた。1960年代はヨーロッパ勢が活躍しており、「007」のジョン・バリー、「シェルブールの雨傘」のミシェル・ルグラン、「男と女」のフランシス・レイ、「荒野の用心棒」のエンニオ・モリコーネ、「ゴッド・ファーザー」のニーノ・ロータらがいる。また誕生して間もないロックを映画音楽に取り入れる試みも行われ、「卒業」や「イージー・ライダー」は当時の有名なロックをテーマ曲としていた。ムード音楽は1970年代以降、アメリカの音楽業界紙の表記に習ってイージー・リスニングと呼ばれるようになる。駅やデパートなどでのBGM使用は一般化し、単純労働の作業場でのBGMの活用が研究されるなど、この時代は音楽を人間工学的に利用しようと言う社会的な動きが存在した。この頃ポール・モーリアが登場し、68年に恋はみずいろでビルボード・ホット100で5週連続1位を獲得し、年間チャートでも3位に入っているが、先述のヘンリー・マンシーニやミシェル・ルグランやフランシス・レイやニーノ・ロータの映画音楽もイージー・リスニングとしても聴かれている。
R&Bとジャズの動向
黒人たちの音楽では、リズム・アンド・ブルースから発展したソウル・ミュージックの中に、ゴスペルを基盤とする熱唱系の歌や、ハードバップに起源がある強烈な16ビートを特徴とするファンクなどが現れる。熱唱系の代表はアレサ・フランクリン、ファンクの代表にジェームス・ブラウンやアース・ウインド&ファイアーがいる。一方、ジャズはロック人気に押され、商業的な危機を迎えたため、ジャズ・ミュージシャンの中にはソウルミュージシャンの音楽を手本にする動きが出てきて、フュージョンが生まれる。これは当初はファンク・ジャズやソウル・ジャズと呼ばれていた。代表者はまたしてもマイルス・デービスである。エレキ・ギターなどの電子楽器を導入しての斬新なサウンドは、古くからのジャズファンは眉をひそめたが、ジャズと言うジャンルの延命をもたらした。その他、ジャズの分野ではコード進行を無視したような過激な即興を特徴とするフリージャズやモード・ジャズが行われているが、クラシック音楽の現代音楽同様、技法的には新しいもののあまり多くの人に受け入れられたとは言えず、ジャズは以後伝統回帰と多様化の時代となっていく。フリージャズの開拓者にオーネット・コールマンがおり、モード・ジャズはまたもやマイルス・デービスが切り開いた。アメリカのすぐ近く、カリブ海に浮かぶジャマイカは1962年にようやく独立を果たすが、伝統的なカリブ海の音楽がアメリカのソウル・ミュージックなどの影響を受け、レゲエが生まれる。レゲエはやがて60年代後半にアメリカに持ち込まれ、ソウル・ミュージックが失ってしまった精神的なメッセージの純粋さにより世界の若者をとりこにするまでになる。ボブ・マーリーが代表。同様に、プエルトリコで生まれたサルサは70年代初めにアメリカを席巻する 。
新技術とポピュラー音楽3
   FMラジオ
61年にはアメリカ連邦通信委員会(FCC)がFMのステレオ技術を規格化して数百のFM局が開局していたが、66年にはFMの放送内容をAMと分離することを決定し、FM放送の視聴者が増えるきっかけとなった。FM放送はAM放送に比べ音質が高く、より高い音質で音楽を楽しみたいという欲求を喚起し、オーディオ機器の普及をもたらした 。
   カセットテープ
テープレコーダーはオープンリール式のものが主に業務用で使われていたが、63年にオランダのフィリップスがカセットテープの規格を開発・公開し、世界各国で普及し、テープそのものやカセットの機械的構造が改良されて、オーディオ用としてもつかわれるようになった。
   エフェクター
エレキギターは当初はクリーンなサウンドで、アンプを通すことで単に音量を上げて弾かれていたが、ロックのギタリストたちはアンプの容量最大に音量を上げると発生する音の歪み(ひずみ)を発見し、音楽の素材として活用を始めた。60年代後半のエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリクスやジェフ・ベックはアンプの音量を最大にして歪ませることでロックなサウンドを生み出していた。やがて人工的に歪みをつくりだす装置のエフェクターが登場し、62年にはファズが発売され、70年代にジミ・ヘンドリクスが使用している。オーバードライブやディスト―ションはもう少し遅く、1977年と78年である。
   シンセサイザー
モーグ社のシンセサイザーが1964年に発売され、使われ始めた。電子音の合成を小さなシステムで可能にしたモーグ社のシンセサイザーは電子音楽の境界線を広げた。68年にウォルター・カーロスがこれを用いてバッハの音楽を合成した LP レコードが注目された。続いて日本の冨田勲がドビュッシーの曲による合成音楽を作り、シンセサイザーの音は急速に広まった。
カリスマの時代からワールド・ミュージックへ−1970年代後半〜1980年代
1960年代後半に盛り上がったものは、70年代に入ると一斉に失速した。75年のベトナム戦争終結は学生運動の世界的な連帯の理由をなくし、また学生運動の暴力化や初期学生運動の担い手たちの就職に伴う転向は後継の学生たちの離反を招き、学生運動は実質的な終焉を迎える。73〜74年と79〜81年の2度にわたるオイルショックは世界的に続いていた戦後の経済成長を止めてしまった。東西陣営は緊張緩和の時代となり、世界は騒然とした状態からそれなりに静かな状態に移った。ソ連のアフガニスタン侵攻はデタントを崩壊させたが、そのソ連は社会主義経済の不調から内部がボロボロになっており、立て直しを図った87年からのペレストロイカは東欧諸国への締め付けを緩める結果となり、89年の東欧民主化革命とベルリンの壁崩壊、91年のソ連崩壊へとつながっていく 。
商業主義への回帰−ディスコ
ポピュラー音楽の世界も、60年代後半の途方もない盛り上がりは見られなくなる。一つはオイルショックに始まる不況がレコード会社を慎重にさせ確実に売れるアーティストだけを売るようになった点、もう一つはアメリカの音楽産業が集中化した点である。60年代末までのローカルラジオの個性的な番組は全米共通の画一的な番組に変化し、特定のファン層を対象に製造された商品としての音楽がテープで全米に配給され、一斉に流された。結果的にポピュラー音楽界は、以前の商業主義路線に回帰した形になった。商業主義路線の代表は、ディスコ(ディスコ・ミュージック)である。バス・ドラムによる一定不変のビートをアメリカ黒人のダンス音楽にくわえてリズムを単純化したもので、初めはニューヨークのゲイ・カルチャーの音楽だったが、名前の通りディスコ(DJ、ディスクジョッキーがLPで音楽を流し、酒類が提供され、客にダンスをさせる店舗のこと)でのダンス・ミュージックだった。もともとダンスホールは生バンドの演奏が当然だったが、経費とスペースの節約のため若者向けの安直な店でレコードでの音楽提供が始められたのが最初のディスコの姿だった。ディスコはもともとレコードと言う意味のスペイン語やイタリア語である。しかしDJが客に呼びかけながらレコードをかける親しみやすい雰囲気が若者の人気を集め、レコード会社がDJが使いやすいように30cmのシングルでリズムを強調した踊りやすい音楽を提供し、それに合わせた新しい踊りが次々に出現し、77年には映画「サタデー・ナイト・フィーバー」というディスコダンスの名手を主人公にした映画が大ヒットするなどし、ディスコは大ブームとなった。70年代後半のメイン・ストリームはディスコだった。サタデー・ナイト・フィーバーに出演していたビージーズや、日本でもカバー曲が良く知られるヴィレッジ・ピープルが代表的である。しかし、ディスコは(踊るための音楽なのでやむを得ないが)リズムは一定で、エレキ・ギターが前面に出ることはなく、歌詞もメッセージ性や過激な要素はなく、歌も特にメロディを歌い上げたりはしておらず、ロックの刺激性に慣れた人やフォークのメッセージ性に感じ入った人には明らかに物足りない。こうしたディスコに対し、音楽ファンや音楽評論家は「商業主義だ」という批判を容赦なく浴びせた。またディスコ文化に対しても、激しい反発が寄せられた。その結果、80年代に入る頃にはアメリカではディスコの人気は著しく落ち込んでいた。ただし、踊らせるための音楽は80年代を通じて存在し続け、80年代後半くらいから後述のエレクトロ・ポップの要素を取り込んでハウスと呼ばれるジャンルがニューヨークやシカゴで生まれ、イギリスを通じて全ヨーロッパに広まった。またディスコはクラブと呼ばれるようになる。
パンクの誕生とロックの危機
75年のロック界ではハード・ロックとプログレッシブ・ロックが主流だったが、ハード・ロックのスターたちはすでに大物となり高度な演奏技術を駆使するようになっており、プログレッシブ・ロックでは高価なシンセサイザーを駆使したり現代音楽とコラボレーションしたりして芸術志向になっていた。ソフト・ロックという、美しいメロディーとコーラスを特徴とするジャンルも人気があったが、本来のロックではないと批判されてもいた。こうした状況に対し、初期ロックの率直なエネルギーの復活を目指して、パンク・ロックが起こる。パンクはもともと「粗悪品、不良、ちんぴら」を意味する俗語で、70年代ロンドンで始まった原色に染めて逆立てた髪などを特色とする奇抜な若者ファッションを指すようになった。パンク・ロックはロックに残っていたブルース色を削ぎ落し、粗野で荒削りで急テンポの演奏を特徴としている。コードはスリーコードにパワーコードを加えた程度のきわめて簡単なものだった。ニューヨークでアンダーグラウンド的な人気を得ていたいくつかのグループにロンドンのブティック経営者が刺激を受けて、素人の少年を4人集めて75年にセックス・ピストルズをデビューさせる。彼らは破壊的な言動で世間を騒がせつつ、慢性的な不況で不満を抱える若者たちに爆発的な人気を得た。ロック界の新たな中心になるかに見えたパンクだったが、もともと保守層からの反発が強く演奏会場では中止運動がたびたび起きていた上、セックス・ピストルズの解散や元メンバーの殺人事件や麻薬中毒死でブームは終焉を迎え、パンクのムーブメントは78年にわずか3年ほどで幕を閉じる。パンクの後には、ハード・ロックの延長線上にあるヘヴィ・メタル(アイアン・メイデンが初期の代表)や、パンクの様々な部分を引き継いだニュー・ウェーブが現れる。もっともニュー・ウェーブは多様な傾向をひとまとめにした言葉で、シンセサイザーを駆使して商業主義的な若者向けの大衆音楽を作り出したエレクトロ・ポップからパンクの切り拓いた道をさらに先鋭化させようとしたオルタナティブ・ロックまで含んでおり、あまり適切なジャンル名ではない。ロックは再び多様化したように見えたが、60年代のような大物の登場は見られず、個性が薄れていた。レコード会社の意図通りに売れる曲をつくるロックの路線は「産業ロック」と揶揄された。78年から82年までに、レコードの売り上げとコンサートの収益がそれぞれ10億ドルも減少し、アメリカのロック音楽産業は深刻な危機に陥る。
カリスマとへヴィ・メタル人気
音楽産業の不振は、カリスマ的スターの出現と技術の進歩によって救われた。マイケル・ジャクソン、ブルース・スプリングスティーン、プリンス、マドンナはこの時期にメガビットを飛ばしたカリスマたちであると、Microsoft『Encarta2005』のポピュラー音楽の項は評している。彼らは伝統的なアメリカの社会階層を超えて幅広い聴衆を獲得した。ミュージック・ビデオの出現と、これを24時間放映するミュージック・テレビジョン(MTV)の開局(81年)は、ミュージック・ビデオの販売促進効果を実証した。CDの登場(83年)はポピュラー音楽の需要を開拓した。これらによって、音楽産業は息を吹き返したが、ごく少数のカリスマが巨大な利益を上げる傾向が定着した。ハード・ロックの後継であるヘヴイ・メタルはMTVのバックアップを受け、白人の労備者階級のみならず中産階級にも聴衆が広がり、女性も取り込んでいった。ヴァン・ヘイレン、AC/DC、メタリカなどヘヴィ・メタル・バンドが全レコードの売り上げに占める割合は、80年代末のアメリカで40%もの高率に達した。
ヒップホップとラップ
ラップは、ニューヨークではブロック・パーティ(黒人・カリブ海からの移民・ヒスパニックの街区で行われていた地域の野外パーティ。音楽と踊り、バーベキューや野外ゲームなども行われた。DJの使用するサウンドシステムの電源は街灯から非合法に引かれた)から74年に発生したヒップホップと言う文化の一部で、MCとよばれるボーカリストがテキストをうたわずにリズミカルにかたる(ライムという)スタイルをとり、ふつう、シンセサイザーの演奏か既存のレコードから借用した音楽の断片(サンプル)を伴奏に使う。クール・ハーク、アフリカ・バムバーターといったラップのDJは、複数のレコードを同時にまわしてそれぞれの音楽の断片をくみあわせたり、レコードを手でまわして特定のフレーズを反復再生したり(バック・スピン)、針で盤面をひっかいてノイズによるリズミカルな効果をつくりだしたりする(スクラッチ)など、ターンテーブルの独創的な活用法を開発した。ラップがポピュラー音楽のメイン・ストリームに仲間入りしたのは86年のことだった。この年、ランDMCがハード・ロック・バンド、エアロスミスのヒット「ウォーク・ディス・ウェイ」(1977)をラップ・スタイルでカヴァーしてリバイバル・ヒットさせ、都市の郊外高級住宅地にすむ白人中産階級のロック・ファンをラップの聴衆にとりこんだ。1980年代末にはMTVがラップ専用の番組をもうけ、MCハマー(現ハマー)、ビースティ・ボーイズといった人気ラッパーは人種の別を問わず幅広いファン層をもち数百万枚単位のレコード・セールスをあげるようになった。
ワールド・ミュージック
70年代後半のレゲエ・ブームを先駆けとして、80年代初めにはワールド・ミュージック(ワールドビートとも言う)が人気を博した。きっかけは、ナイジェリアのキング・サニー・アデのアルバム「ジュジュ・ミュージック」(1982)のヒットだった。アフリカの伝統的な打楽器の音楽にエレキ・ギターとシンセサイザーを加えた同アルバムは、非西洋世界のポピュラー音楽に対する関心を高めた。このような中からセネガル・マリ・コンゴなど西アフリカ諸国、パキスタン・イスラエルなど西アジア〜南アジア、南アフリカやジプシー音楽など、様々な国からアーティストが現れ、人気を得た。これら第三世界のアーティストの紹介にはピーター・ガブリエル、デービッド・バーン、ポール・サイモンといったロック・ミュージシャンも尽力し、ロックの世界的な影響力をあらためて立証した。ピーター・ガブリエルが1982年から開催しているウォーマッドは、ヨーロッパ世界にワールドミュージックを広める牽引車として、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンなど多くの世界中のミュージシャンの人気を高めた。サイモンの1985年のアルバム「グレイスランド」には、アフリカやラテンアメリカのミュージシャンが共演している。彼らはこのような非西洋の音楽スタイルを取り入れて自作を発表したりもしている。アフリカヘの関心と言う意味では、マイケル・ジャクソン、スティービー・ワンダーをはじめとする45人のアーティストがチャリティとして「ウィ・アー・ザ・ワールド」を制作し、実際に印税を全てアフリカの飢餓と貧困を救うために寄付したのが85年だった。これはポピュラー音楽界にチャリティー・ブームを巻き起こした。80年代半ば以降は東欧諸国で民主化運動が始まり、中・東欧の音楽が西側世界にも聴かれ始めた。ブルガリアの女性コーラス・グループはワールド・ミュージック・ブームのアイドルとなった。旧ソ連からはキノーが出て、ソビエト連邦を代表するロック・バンドとして西側世界に知られた 。
映画音楽とミュージカルとイージー・リスニング
映画音楽界では、「スター・ウォーズ」でジョン・ウィリアムズが古典的なシンフォニック・スコアを復活させたのが注目される。ミュージカルではコーラスライン、アニー、キャッツ、オペラ座の怪人、レ・ミゼラブルなどのヒット作が生まれた。イージー・リスニングでは、リチャード・クレイダーマンが76年にデビューし、ディスコ全盛の時代にあって、敢えてシンプルで美しいメロディーの普遍性を訴えるスタイルで人気となった 。
メイン・ストリームとローカル
ポピュラー音楽は、異質な音楽が混交したり、ローカルで自発的な音楽が荒削りな状態で流行ったのちメイン・ストリームに組み込まれると言うような形で発展してきたが、アメリカ国内の黒人音楽はジャズ・ロック・ソウル・フュージョン・ディスコなど、大半が商業主義に組み込まれてしまった。マイケル・ジャクソンやプリンスも、黒人による新種の商業主義音楽と考えることができる。こうした中、ヒップホップやラップは新たなローカルと言えるが、アメリカの外に活力を求めたのがワールド・ミュージックだった、ということもできる。
新技術とポピュラー音楽4
   ヘッドホンステレオ
1979年にウォークマンがソニーから発売された。カセットテープをメディアとして使用する、ヘッドホン式の携帯ステレオの登場によって、いつでもどこでも音楽が楽しめるようになり、若者たちの圧倒的な支持をうけて大ヒット商品となった。
   CD
83年にCDが登場した。レーザーによる走査によって情報を読みとるため、ターンテーブルの回転むらによる音のひずみや針音などの雑音がさけられない従来のLPと比較し音質を飛躍的に向上できた上、摩耗による音質劣化や再生不能とは無縁となった。また、ランダムアクセス機能によって曲を任意の順序で再生できた。こうした利点からCDは徐々に販売枚数を増やし、86年には販売数がLPを抜き、90年代に入る頃にはLP自体がほとんどつくられなくなった。
   デジタルオーディオワークステーション
コンピュータを音楽で活用しようとする試みは以前からあったが、80年代初頭から音楽製作の場においてデジタル技術やコンピューター技術の導入が盛んに行われるようになった。単なる個別の機材のデジタル化を超え、シンセサイザー・シーケンサー・サンプラー・ミキサー・コンピュータなどを統合し、音楽制作のワークフローを1台で完結するデジタルオーディオワークステーションの先駆けとなるシステムが現れ、シンクラヴィアやフェアライトCMIなどの初期の名機が争うように導入されたが、当初は大変高価なものだった。
   デジタルシンセサイザー
シンセサイザーではそれまでのアナログ式のものに代わりデジタルシンセサイザーが現れ、特にFM音源を搭載した83年発売のYAMAHAのDX-7は画期的な高性能と低価格を実現し、デジタルシンセサイザーを一般化させた 。
現代−1990年代以降
91年のソ連崩壊と冷戦の終了は世界を一つにし、95年のウインドウズ95発売をきっかけとするインターネットの普及は社会のあり方を大きく変え、携帯電話、のちにはスマートホンの普及は若者たちの消費行動や音楽聴取のあり方を大きく変えた 。
CD全盛期
90年代に入ってCDの売り上げは伸びを見せ、99年には世界的にCDの売り上げが過去最高(日本は98年が過去最高)となった。メガヒットが連発したため、歴代シングル売上ベスト50のランキングは、うち19曲が90年代〜2000年代前半のものが占めている(これ以降は、ダウンロード販売が主流となるため、統計が別枠となる)。アーティスト単位で見ても「世界で最も売れたアーティスト・ランキング!」にある31名のうち、4名はこの19曲の中に名前があり、累計で1億枚以上売り上げたとされる者も指摘できる。ここでは歴代シングル売上ベスト50のうち90年代以降の19曲と、該当するアーティストおよび関連情報を表で示す。
CD不況と音楽業界の低迷
1999年に242億USドルだった世界の音楽売り上げは減少を続け、2013年には150億USドルまで落ち込み、最盛期の2/3を切っている。ダウンロード販売の割合は年々増えており、2014年にはCDとダウンロード販売のシェアが逆転した。2018年には、世界最大の家電量販店であるアメリカの「ベスト・バイ」が店舗での音楽CDの販売を終了する方針であることが明らかになった。「アルバムを作って売って活動する」というスタイルは終焉を迎えつつあり、音楽業界は「ネット販売やネット配信、YouTubeの露出で知名度を上げて、ライブに来てもらう客の数を増やす」という形式に大きく変化してきている。業界全体の売上の低迷は、ほぼそのまま音楽アーティストの活動に影響するため、今後の状況の変化は無視することができない 。
まとめ
メイン・ストリームと独立系小レーベルの対立、メインストリームによる非主流派の取り込み、しかしそうした中でも受け継がれているもの(1920年代のティン・パン・アリーの歌曲形式と滑らかでロマンティックなボーカル・スタイル、アフリカ系アメリカ音楽の強力なノリやバックビート(あと乗りのビート)、掛け合いの形式、濃密な情感、あるいはイギリス系アメリカ音楽の詩的なテーマやバラード形式など)は現在でも健在であり、アメリカ・ポピュラー音楽は表面上のスタイルが変わったりヒットソングが入れ替わったりしても、全体として強固な連続性を保っている。  
 
大衆音楽におけるキーワードの長期的推移と恋愛観の変容

 

1 .問題設定
「歌は世につれ、世は歌につれ」とよくいうが、日本の大衆音楽の世界は、特に平成に入る頃から大きく様変わりしたといえる。バンドブーム以降、じっくり歌詞に聞き入るというより、サウンド重視型の曲が増加 した。またドラマやCM とのタイアップによるミリオンセラーが連発される一方で、老若男女誰でも知っているヒット曲というものは逆に少なくなり、年末の紅白の視聴率は長期的低落へと向かう。こうした中で歌謡曲に代わり、J-POP という言葉が定着していった。
この大きな転換を後追いするように、ここ数年、歌話曲やJ-POP といった日本の大衆音楽を論じる出版物が増えており、静かなブームという感がある。その要因として、バブル崩壊後、個人消費が全般的に冷え込む中で、音楽産業は目立つ成長を続けていたため、マーケティング的な注目が高まったということがあるだろう(もっとも1999年以降は、CD売上も減少傾向にある)。
またこの音楽論ブームは、90年代以降のレ卜ロスベクティブ(回顧的)な眼差しの一部としづ性格もある。経済大国という国家目標が最終達成され、明確な未来像が失われた時代。こうした中で、人々は急ぎ足で通り過ぎた過去をじっくり振り返ることで、現在位置を再確認しようとする。「磯野家の謎」以来定着した「謎本」のように、サザエさんやウルトラマンといった人気者たちの物語を読み解くことは、いわば足元からの戦後史の検証といえる。
近年の様々な社会意識の変容を歴史的に読み解くという同様の問題意識から、前稿では、90年代におけるポジティブソングの隆盛の意味を考察した。今回は、より長期的な視野から日本の大衆音楽の歌詞を分析し、そこに現れる時代意識、特に恋愛のあり方がどう変化してきたかを考察したい。 
2. 分析の対象と時代区分
昭和初年に近代的なレコード会社が確立して以来、移しい数の歌が世に送り出されてきた。前説であげた最近の音楽論の多くは、そうした中から、著者の印象に残ったヒット曲をピックアップして詳しく論じるという方法をとっている。しかし、長期的な動向を客観的に把握するためには、予め何らかの基準によって分析対象を取捨選択し、それを網羅的に分析することが必要となる。
この基準として、まず1968年以降に関しては、オリコンによるレコード売上枚数調査を用いることができる。ここでは年間シングルチャートの50位以内という基準をおくこととしたい。
もちろん閉じ年間ベスト50といっても、社会的な浸透度において一様ではない。まずオリコンの年間チャートは、前年12月〜当年11月までの期間内で集計するため、10〜11月に発売された曲や演歌などのロングセラーは、総売上からみて順位が低目にでる傾向がある。また1980年代後半には音楽シーンが全般的に低迷しており、その底にあたる1987年度1位の「命くれな い」の売上枚数は42.3万枚。これは1977 年度なら24位当たりだし、1997年度では50 位にすら入らない数字である。
基準を順位でなく、売上枚数におく方法も考えられる。だが、例えば50万枚以上のヒットに限定すると、80年代以前の対象曲がかなり少なくなるし、20万枚以上では90 年代が膨大となり、年代による対象数の不均衡が大きくなる。またテレビの歌番組の視聴率なども考慮すると、レコードやCDのセールスと社会的な浸透度を単純に同一視することもできない。
以上のことから、日本の大衆音楽の長期的な動向を読みとるための一応の目安として、当該年度にもっとも売れた50曲のうち、日本語詞一一一部に英語を含む場合も多いが一一の歌に限定して取り上げることとしたい。洋楽など英詞のものとインストウルメンタル曲は除外する。また2年にわたりランクインしている曲は、順位が高い年度のほうでカウントする(同一順位の場合は前年)。競作の場合は1作扱いとする。だが、同じ歌が別の歌手によってリパイパルした場合は、2曲として扱う (1)。両A面として発売されたレコードでは、原則として1番目にクレジッ卜された曲のみを対象とする 。以上を合計すると1452 曲、1年に平均約45曲となる。
次に、1967年以前については、オリコン調査のような一定の客観的基準を設定できない。
この時期の流行歌に関する先行研究をみると、もっとも厳密な方法に基づく社会心理学的な分析として、見田宗介『近代日本の心情の歴史』(1978) がある。ここで資料として取り上げられているのは、戦前の作調家・時雨音羽の編による 「日本歌謡集」(1963) 所収の「日本歌謡年表」に掲載された497曲中、歌詞を入手できた451曲である。昭和期以降の平均をとると1年に約5曲となり、本稿でベスト50 と合わせて論じるには数的な不均衡が大きい。また1964〜67 年の問は欠落している。
もう1つの基本文献として、古茂田信男他の編集による『日本流行歌 史』上・中・下巻があり、「U歌詞編」には見田と比べ 2〜3 倍の曲数が掲載されている。だが、ここには、民謡・童謡・労働歌など「今までの流行歌の概念では捉えきれない 」が「その時代の世相を描くという点で特色のある歌」もあえて選ばれている。このため、レコードによるヒット曲に限定した本稿での1968年以降の資料とは、性格が一貫しがたいきらいがある。
以上のことから、見田が分析対象とした曲のうち、日本に近代的なレコード流行歌がほぼ確立した1928年以降のものに加えて、近年の代表的レコード会社によるアンソロジー収録曲を取り上げることとする。参照したのは日本コロムピア企画の「戦前・戦後歌謡大全集 」「歌謡曲黄金 時代」「懐かしの青春賛歌」、ピクターの「懐古・昭和歌謡」、および「青春歌年鑑」の1960〜67 年版である。いずれも複数のレコード会社がヒット曲を提供しており、重複を除くと計756 曲となる。各種文献と照らしても、この時期の代表曲をほぼカバーしていると思われる。
それでも平均すると 1年につき約19 曲で、1968年以降と比べると少な い。キーワードの出現率(該当する曲数÷当該年度の総曲数x100) などを出す場合、母数が少ないとぱらつきが大きくなりすぎる。そこで1967年以前については、1年ごとでなく、もっと長期間で区切りを設定したい。前掲の見回(1978) は、近代日本史上の重要な転換点を考慮、しつつ、7年ごとに区分している。しかし、1963年時点で分析が終わっていることもあり、本稿の対象期間とは適合しにくい。そこで1967年以前に関しては、独自の時代区分を行うこととする。
まずT、として1928〜1936年。1931年に満州事変が起こり、十五年戦争に突入したが、まだ国民には戦争の影が身近に自覚されていない時期である。次に日中事変を画期として、 II. 1937〜45年の本格的な戦時体 制期。戦争を主題とした流行歌が多く、異色の時代である。 V. に1946〜54年の戦後期。 W. が1955〜1959年で、高度成長期の初期。 V. は1960〜63年の4年間。 1960 年はちょうど、後に御三家と呼ばれる橋幸夫がヒット曲を出し、いわゆる青春歌謡や和製ポップスが登場して、音楽シーンが大きく転換し始めた年に当たる。そしてVI. が1964〜67年の4年間。1964年は、東京オリンピックという節目の年であるとともに、エレキブームが爆発した。 ここでは T• II • V が9年間、 Wが5年間、 V ・VI が4年間となっており、見田と違って等間隔でないという難点がある。ただ対象となる曲数をみると、T、90曲、II、88曲、V. 148曲、W、98曲、V、156曲、Y、176曲となり、母数が十分に確保される。 曲数をより揃えるという意味ではV ・VI をさらに2分するほうがよいかもしれないが、そうすると時代背景・と連動しづらいうえに、対象期間が不均衡となりすぎる。以上の諸点を総合的に考慮して、上記の時代区分を採用することとしたい。
まとめるならば、昭和初年〜1967年の期間に関しては、見回の資料に加えて代表的なレコード会社のアンソロジー収録曲を、重要な歴史的転換に基づく独自の時代区分によって集計する。そして1968年〜90年代については、オリコンの当該年度ベスト50に入った日本語詞の全曲を対象とする。このように2群の資料の問には大きな質的断絶がある。 
3. 時間と場所に関わるキーワードの長期的推移
次に、本稿での分析の方法について述べる。代表的な先行研究である前婦の見聞は、流行歌のテーマ(主題・題材)や用語の分析も試みているが、中心的な方法は「心情の方向性」を表す モチーフ分析である。あらかじめ「義侠 」「慕情」「未 練」「孤独」といったいくつかの因子を設定したうえで、見回自身を含む3人の判定者が各曲に含まれる因子群を判定し、2人以上が合致した場合に採用する。彼自身も認める通り、この方法も「根幹において主観的」ではあるが、質的データの解釈にかなりの程度まで客観性を持ち込んだ方法として評価される。
だが、本稿では、このモチーフ分析のように判定者の解釈を導入する前段階として、もう少し客観度の高いキーワード、分析を行っておきたい。これについては見田も若干ふれており、例えば流行歌の中で最も多く使われてきた名詞は「涙 」、次いで「夢」だと述べている。本稿の対象に重なる時期をみると、涙の出現率は、昭和前期(1927〜45年)に28.3%(99 曲中 28) →戦後期(1946〜63年)に36.7% (98 曲中 36) と上昇し、特に太平ムードといわれた1961〜63年には40% 以上 (27 曲中 11) にのぼるという。
これに対し、見田のリストにかなり追加した本稿の対象曲について集計すると、昭和前期 (1928〜45年)に36% (178曲中 65) →戦後期 (1946〜63年)に31 % (402曲中 125) と逆に減少し、 1961〜63年では25% (125曲中 32) となって、かなり差がある。最後の時期については、当時全盛だったいわゆる和製ポップスを見聞が1例しか入れていないことが、違いが出た大きな要因と恩われる。
本稿が対象とする2208 曲について、頻出する重要キーワードと思われるものいくつかの出現率の長期的推移を示した(グラフ1)。涙には泪および英語の tear などもカウントし、それに「泣く」「眼を濡らす」といった表現も加えたのが「泣く」。同じく夢には dream も加え、花というキーワードには具体的な花名が表れる場合を含む。
     グラフ1
ここから読みとれるのは、見田が取り上げた1960年代前半までに関して、涙とほぼ同じ程度に夢および花の出現率が高いことである。夢は長期的に増加傾向にあり、1980年代末以降は涙を上回る。これに対し、花は1960年代頃から総じて減っている。
だが、こうした抽象的なキーワードの推移の意味はかなり複雑である。そこで本稿では、大衆音楽の長期的な変化を読み解くためのもう少し具体的な手がかりとして、時間と場所に関わるいくつかのキーワードの出現率に注目してみたい。
ここで留意しておかなければならないのは、時代が下ると共に1曲の演奏時聞が伸び、それに伴って歌調も長くなる傾向があることだ。麻生香太郎の概算によれば、1曲に含まれる日本語の平均的語数(英語などは除く)は、演歌・歌謡曲で100〜200文字、フォーク系で300前後、ロック系で400〜800文字だという。すると、特にロック系が増 える1990年代の j-POP 期においては、単純計算ではどのキーワードも出現率が上がる可能性が強いことになる。
もちろん、実際にはそう単純な傾向は伺えない。歌詞の長文化による影響を適切に処理することは困難なので、こうした条件にも留意しつつ、以下の分析を進めていきたい。
(1)地名消失という動向 まず、タイトルに関わる長期的推移をみておこう(グラフ2)(4)。
     グラフ2
何らかのアルファベットを含むものを英語タイトルとすると (No.l のように数字的なものは除外)、1970年代後半に初登場し、1983年から一一1993 年の落ち込みを例外として一一長期的な急増に向かうことが分かる。その中で外国語の単語のみで構成される純粋英語タイトルも(日本語の 副題があるものも除外)、少し遅れて1985年から急上昇する。J-POP という名称が定着するかなり前から、新しい動きが芽生えつつあることが読みとれよう。
日本語タイトルについては様々なキーワードが考えられるが、ここでは何らかの固有地名を含む地名タイトルに注目する。戦前から1950年代まで、このタイプの曲が常に全体の2割以上を占めていたことが分かる。1960年代は明滅が激しいが、高度成長期の出口に当たる1972年以降は1割を超えることがほとんどなくなり、1990年代にはほぼ絶滅している(5)。また点線で示す通り、歌詞中の地名の出現率もだいたい連動して減少する。すなわち、日本の歌謡曲の歴史は、地名が消えていく流れだといえる。
I〜W 期の地名登場率の高さは、映画に結びつく流行歌(主題歌や挿入歌)が多かったことから一部説明できる。アンソロジーの解説本等で確認する限り、この種の曲が I期に6割→ U期に4割 →V・W期に約35%を占めていた。そしてその4割前後に、映画のストーリーと関連する地名が歌い込まれていたのだ。だが、地名の隆盛をこのことだけで解くことはできない。なぜなら日本映阿の観客動員数が低落期に入った1960年代以降、主題歌などの比率が急速に低下するだけでなく、その中の地名の登場率それ自体も減るからだ。他の説明要因も必要である。
そこで地名を東京・その他の国内・外国の3つに分け、内訳の推移をみてみよう(東京とそれ以外の地名が両方含まれる場合は、東京にカウントした)。さらに故郷およびその関連語(ふるさとなど)を含む曲も加えてみた(グラフ3)。
     グラフ3
地名の歌詞への出現率が35%前後の高率を保っていた戦前~1950年代に注目すると、まず外国の地名の出現率は、T期にも全体の1割弱と高いが、Uの戦時体制期に故郷というキーワードと連動しつつピークを迎える。この時期の 8割 は中国で、戦争の影が色濃い。V期の戦後10年にはT期とほぼ同水準を維持し、高度成長期に入ると急減していく。以後は消滅に近いが、例外として 1978〜79年に 1 度だけT期に匹敵する小さな高まりがある。
次に、東京と関連する地名(神田・銀座など)は、 U期に外国と反比例するように落ち込んだ以外は、1950年代まで 1割以上の高い出現率を保っている。特に高度成長期の入口に当たるW. 1950年代後半、やはり故郷と密接に連関しつつ最大のピークを迎え、全体の4分の1弱に登場する。固有地名に加え、「都」など明らかに東京を示す単語もカウントすれば、3割近くにもなる。この時期の音楽シーンについては、多くの先行研究が、都会と農村の対比を基盤とした「ふるさと歌謡 」と「都会調歌謡」の並立を指摘している。本稿の集計も、それを裏付けるといえよう。
1960年代は、本稿の資料にも断絶があるため動向が読みとりにくいが、東京に関わる地名の出現率が、減少に向かっていることは間違いない。1970〜80年代前半は年ごとの増減が激しいが、1980年代後半からはほぼ消失状態だ。
最後に、圏内の他の地名について。1960年代以降に東京と外国が総じて減少に向かうため、1970年代以降の地名の出現率が、主にこの残余カテゴリーと連動していることが読みとれる。 この中身は多様で、時代による変化も大きいため、稿を改めて論じたい。
(2) 海のイメージの転換
次に、場所の中で、海およびその関連語(波・磯・沖・潮・船など)の出現率を示した(グラフ4)。
     グラフ4
比輸的な用法も含めると、T〜W期を通じ、全体の20%に海のイメージが現れることがわかる。1年ごとの集計になる1968年以降は増減が激しいが、長期的には1970年代までほぼ閉じ位の頻度を保っている。そして1980年代前半、1983年の45% という高率を中心に数年間のピークを迎え、バブル絶頂期に下降に向かう。
この長期的推移を読み解くため、海というキーワードをさらに 3つの系統に分けてみよう。
第1 は港系で、港や船の関連語を含むもの。長崎などの著名な港町が舞台だったり、波止場・連絡船・汽笛・銅鑼といった単語が特徴となる。ここで海は主に長距離移動の中継地という意味合いで登場する。歌の登場人物には船乗りや水商売の女性も多く、出船の汽笛を聞いて涙にくれたり、別れた人を捜して日本中の港町を渡り歩いたりする。こうした海のイメージが登場する曲は、いわゆる演歌とかなり重なる。
第2 は渚系で、海が泳いだりデートのための場所、いわばリゾートとして登場する場合である。関連語としては渚のほか、水着・砂浜・ピーチ・珊瑚礁など。時代が下るに従い、舞台設定が豪華になる傾向がある。
この系統の初出は1956年の石原裕次郎 「狂った果実」で(6)、「潮の香も匂う/岩かげに交す くち吻け」が歌われる。この点で渚系に入れたが、情景としては渚や砂浜というより磯だろう。また翌年の「錆びたナイフ」は、砂からジャックナイフを掘り出すという新鮮なイメージを打ち出す反面、磯であり、男泣きするマドロスが登場するため、港系に分類した。このように初期の裕次郎の歌には、新旧の海のイメージが混在している。そして周知の通り、その後の彼と続く日活アクションスターたちは、総じて港系の新たな可能性を開拓する方向に進んでいった。
従って、渚系の海のイメージを初めて本格的に打ち出したといえるのは、田代みどり「パイナップル・プリンセス」「ビキニ・スタイルのお嬢さん」や弘田三枝子「ヴァケイション」など、1960年代初頭の一連の和製ポップスということになる(7)。純日本製の曲としては1963年のザ・ピーナッツ「恋のバカンス」が初出で、「熱い砂のうえで/裸で恋をしよう」と歌われる。次に1965年の舟木一夫「渚のお嬢さんj が、渚という単語を用いた最初の例だ。ところで当たり前のようだが、以上の諸例にも伺えるように、渚系の海のイメージは、夏という季節と密接に結びつく。これについては次節で後述しよう。
第3 は、海のイメージが比轍的に用いられる場合。「思い寄せても 届かぬ恋は/つらい浮世の 片瀬波」(松山時夫『片瀬波』、1932年)とか、「僕らは夢見るあまり彷徨って/大海原で漂って」(Mr. Children 「光の射す方へ」、1999 年)といった例である。
グラフ4に戻ると、戦前〜1950年代までは、海のイメージのほとんどが港系であることが分かる。この系統は1960年代に入ると次第に減少するが、1970年代前半まではかなり存在感をもっ。しかし、それ以降はほぼ消滅状態だ。これに対し、上述のように1960年代から本格的に登場した渚系は、1970年代前半まで港系と拮抗しつつ増減を繰り返す。そして1980年代には海のイメージの大部分を占めるようになり、1983年に全曲の3割以上に出現という高いピークを示した後、ほぽ一貫して減少している。1990年代に入る頃から増加傾向にあるのが比輪的な用法で、近年は渚系と拮抗するようになった。
言い換えれば、歌謡曲の中の海のイメージは1970年代を境lこ、長距離移動の中継地としての港から、リゾートとしての渚へと棋底的に転換したといえる。この動向は・で述べた地名の消失と密接に連動しているだろう。実際、港系の海のイメージが表れる歌の5割以上に、長崎・横浜といった港町や島を初めとする地名が登場する。
だが、こうした直接的な連関に尽きるものではない。近代化が急速に進展した明治以降、日本社会の底流をなしていた都会と農村の大きな乖離は、高度成長期を通じて解消に向かう。そして低成長期に入った1970年代半ば以降、社会移動が相対的に減少し、都市的な生活様式が全社会的に普及する。いわば日本全体が均質的な空間と化していった。こうした中で、いわば異質な空間の 間を結ぶ長距離移動の象徴である港系の海のイメージは、心理的なリアリティを失っていく。また歌調の中に固有の地名を出すことは、聞き手のいる場所とは違う素晴らしさのイメージを喚起することが困難になり、逆に共感の妨げになるのだろう。
(3 )春から夏へ、そして季節・時代・永遠…
場所と時間に関わるキーワード分析の最後に、歌詞の中に現れた季節の推移についてみておこう。春および夏という単語が直接(比愉的な用法も含め)使われている曲に加えて、明らかに暗示的な他の言葉一一桜・すみれ・リラといった花、卒業式、 8月などが登場する曲を集計する(重複する場合は 1っとして数える)。また時間ではないが、関連事項として花というキーワードの登場数も加えた(グラフ5)。
     グラフ5
まず戦前〜戦後の T〜V期まで、春が全体の2割程の曲に登場し、夏より圧倒的に多いことが分かる。実は戦前の対象曲で夏という単語が登場する例は、1930年の藤本二三吉「祇園小唄」1つしかない(8)。しかも、 これは「夢もいざよう 紅ざくら」「夏は河原の夕涼み」「枯れた柳に秋風が」「雪はしとしとまる窓に」と四季を歌いこんだもので、夏の歌とはいえない。もう 1つ夏としてカウン卜したのは、1940年の李香蘭「紅い睡蓮」で、芙蓉と睡蓮が咲いている描写から判定した。この歌でもやはり、この季節が特に重要な役割を果たしているわけではない。
高度成長期に入ると春の出現率は急低下する。反対に夏の歌が少しずつ噌え始め、1960〜70年代前半まで両者がほぼ並行した推移を示す。そして1970年代半ばを境に、春の歌を上回るようになり、小さな増減を繰り返しつつ、1980年代を通じて長いピークを形成する。1980年代末以降の動向は安定しないが、長期的にはゆるやかな下降傾向にもみえる。
以上をまとめると、歌話曲の中の季節は、ちょうど1975年を境に春から夏への交替が起こり、1980年代には差が拡大した。これは・で述べた海のイメージの港系から渚系への転換と時期的にほぼ重なる。実際、容易に想像がつくことだが、渚が登場する曲の約7割は夏の歌で、両者は不可分の関係にある。逆に、春と港系という 2のキーワードの結びつきは稀薄で、1950年代までに同居例は5曲しかない。むしろ花のイメージのほうが圧倒的で、同時期の春の歌の7割に登場する。いわば戦前の流行歌が 「港と花咲く春の時代」だとすると、アイドル歌謡曲の全盛期で、日本経済がパブ‘ル絶頂へと上昇しつつあった1980年代前半は、全面的に「夏の渚の恋 」を謳歌する時代だった。
本節の最後に、時間に関わる他の重要なキーワードの長期的推移をみておこう(グラブ6)。
     グラフ6
日本文化の伝統では季節感が重要だといわれるが、戦前の流行歌でこの単語を用いた事例は、意外なことに1つもない。初出は1952年の美空ひばり「リンゴ追分」で、「桃の花が咲きさくらが咲き、そいから早咲きとあリンゴの花ッコが咲くころは、おら達のいちばん楽しい季節」とあるように、春の歌だ。
次は10年以上間があき、1963年のザ・ピーナッツ「若い季節」でタイトルに登場する。これは「青い海に白い波に」「若い若い季節を歌おう」という、夏のイメージが色濃い歌だ(春と取れないこともなく、明示的な表現はないので、どちらにもカウン卜していない)。さらに1967年の美空ひばり「真赤な太陽 」や、1968年3位のピンキーとキラーズ「恋の季節」になると、完全に夏の歌である。こうした傾向は、戦後文化史の重要な事件となった小説「太陽の季節」の強烈な印象ぬきには考えられないだろう。1970年代以降も、季節という単語は、夏というキーワードと連動するか のように上昇し、1980年代にはポピュラーな用語として定着した。
季節という言葉のもう1つの特質は、時間的な移り変わりを表す役割である。もっとも初期の例では、1966年の荒木一郎「空に星があるように」で、「すべては/終わってしまったけれど/・・それは誰にもあるような/ただの季節の かわりめの頃」と歌われる。さらに典型的な用例は、1979年24位の松山千春 「季節の中で」一一これはロングセラーで、総売上では約85 万枚の大ヒットーーで、「めぐるめぐる季節の中で/貴方は何を見つけるだろう」と、まさに時間の象徴として用いられる。
次に、時代というキーワードについて。これは1964年の「学生時代」が初出だが、その後も「同棲時代」(1973年43位) ・「青春時代」(1977年2位)など、個人の人生の一時期を意味する用法だった。しかし、1979年の沢田研二 「カサプランカ・ダンディ」(26位)とピンク・レディー「ピンク・タイフーン」(44位)一一揃って自己言及的タイトルであることが興味深 い一一あたりから、「ボギー/あんたの時代はよかった」「宇宙船が飛ぶ時代さ」というように、マクロな社会的な意味で用いられる事例が出現する。
永遠(永久・とこしえなどの語も含む)というキーワードは、戦前以来あまり頻繁には登場していない。その少ない事例では 「永遠(とわ)に春見ぬ わが運命(さだめ)」 (勝山一郎「膨を掠いて」、1932年)のように、基本的に形容詞として用いられてきた。だが、1990年代に入って出現率が上がるとともに、「何処かにあるはずの永遠/探し続け」(SPEED)・「限りあるまたとない永遠を探して」(Mr. Children 「光の射す方へ」)という 1999年の2用例に典型的にみられるように、名調としての用法が増えていく。
この時代と永遠という2つのキーワードは、夏と季節に少し遅れて、1980年代後半から長期的な上昇傾向に入っていく。これは先行した「夏の渚の恋の時代」の移ろいやすさへの反動のようにもみえる。だが、これ以上の分析には、実際に歌詞を詳細に検討し、解釈を加えることが必要となる。本節で述べた数的な推移を念頭におきつつ、以下で実際にその作業に入ることとしよう。 
4. I〜V 期:「港と花咲く春の時代」
以上のような様々なキーワードの長期的推移を総合すると、高度成長期に入る以前の I〜V期に関しては、十五年戦争と敗戦という大事件にも関わらず、基本的に通底する時代性が読みとれる。タイトルや歌詞における地名の出現率が35%前後という高率を保ち、海のほぼ全てが港系である(全体からみても12〜15%) 。 比喩的なものも含め、全体の4割前後に花のイメージが現れ、季節は圧倒的に春だ。1960年代以降、こうした特徴は次第に崩れていく。
以下では、日本の大衆音楽の長期的変容を傑る第一歩として、その原点に当たる I〜V期の具体的な分析を試みる。
(1) 「都会/農村」の乖離を基盤とする 2大ジャンルの平行
この時期の大衆音楽については、先行研究の中でかなり共通する類型化がみられる。まず2大潮流として、外国調と日本調の並立を指摘する論者が多い。後者は後の「演歌 」の源流と考えられ、こうした 2大ジャンルの存在について総体的印象としては首肯できる。しかし、類別の基準が明確に示されていない。そこで本稿では、歌詞中に現れる舞台設定や登場人物の属性に関わる顕著な定型を手がかりに、より客観的なジャンル設定を行いたい。
まず外国調とされる系統の中核部分として、「モン巴里」(1929年)や「蘇州夜曲」(1940年)など、外国を舞台とする「異国もの」を 1ジャンルとして抽出できる。異国情緒にまで範囲を広げると、長崎や北海道を舞台 にした歌も入れられよう。もう1つは、「東京行進曲」「道頓堀行進曲」(1929年)や「東京ラプソディ」(1936年)といった一連の「都会もの」。戦後も「東京ブギウギ」(1948年)などのヒットがあり、W期の佐伯孝夫・吉田正コンビの「都会調歌謡曲 」へと受け継がれる。引用したタイトルからも伺えるように、両方とも地名によってかなり明確に類別できる。詳しくは後述するが、他にも根底的な共通性があり、都会一異国系という大ジャンルにまとめられる。
日本調の1典型としては、1929年の「沓掛小唄」を嚆矢とする「股旅もの」。また日本調とは限らないが、同じく後に演歌の定型となったジャンルとして、港系の海のイメージと不可分の「マドロスもの」がある。この2つも頻繁に地名が登場する。前者はほとんどが映画主題歌で、それ以外の場合も講談などでお馴染みの舞台設定を借用することが多いため。後者も有名な港町や島がしばしば登場するからである。主人公がー箇所に定住せずさすらいの境遇にあることも共通しており、漂泊系という大ジャンルに総括できる。
このヴァリエーションがサーカス団員や旅役者、後には流しのギター弾きなどが登場する系統で、「芸人もの」と名づけておく。女性の定型としては、カフェーの女給や芸者など、いわば「酒場女 」と総称できる職業が多い。やくざや船乗りの場合ほど明示的ではないが、やはり不安的な境遇にある。先行研究の中で1ジャンルとして設定している例は見当たらないが、これも漂泊系の中に含めてよいだろう。また登場人物の属性は明らかでないが、「急げ幌馬車 」「国境の町」(1934年)など、満州を彷彿とさせる荒野を舞台にさすらう「曠野もの」もここに入る。
都会一異国系と漂泊系という2大ジャンルの平行現象は、前節で触れた「都会/農村」の乖離にその基盤をもっといえる。戦前において、レコードによる流行歌は基本的に都市文化だった。見田によれば、その中核的な享受者は「故郷の村に準拠をおきながら、都の生活を『旅の空』と感じとる近代化日本の出郷者の群れ」だった。そして彼らの過去に対する「郷愁」と未来への「あこがれ」が、「望郷一一都会 憧憬の組み合わせ」として現出したとされる。
この「郷愁=望郷」と 「あこがれ=都会憧憬」の表裏一体性という指摘は、後者を「都会一異国憧憬」と書き換えれば、ほぽ妥当だと考える。見田は「郷愁の歌とあこがれの歌の比率は、ほぽ同じようなカーブを描いて増減して」おり、後者は1936年頃から「都会よりもむしろ大陸への憧憬をそそるものに変化」すると述べているが、このことは本稿のグラフ3でも追認される。既にみた通り、東京および外国に関わる地名は、故郷というキーワードと連動し、T戦前期には両者が拮抗→II. 戦時体制下には外国(主に中国)が優位→W.1950年代後半以降は東京が圧倒、という形で推移しているのだ。
この他にU期に多い「戦争もの」も一大ジャンルといえるが、これは時代状況に限定され特殊性が強いため、本稿では考察の対象としない。T〜V期の対象曲からこれを除外すると293曲。その中でやくざ・船乗り・芸人・酒場女が登場する曲(漂泊系)と、都会や異国を表す地名および準じる語句(都・荒野など)を含む曲(都会一異国系)とを合計すると、重複を除いて145曲となり全体のちょうど半数(約49%)を占める。この残余についてもいくつかの定型一一 「ネェ小唄」「ハァ小唄」などーーが指摘されているが、それについては後述することにして、この 2大ジャンルについて詳しくみてみよう。
(2) 漂泊系
実際に歌詞の分析に入るに当たり、もっとも充実した先行研究である見田のモチーフ分析を批判的に検討しておきたい。彼は(1)で引用した「郷愁とあこがれ」に加え、全部で10対のモチーフを設定している。順序通り列挙すると 、1怒り、2かなしみ(「涙」の歌が中心)、3よろこび、4慕情(自己と対等以上のものとして意識された対象にたいする、距離感をともなう愛情)、5義侠(自己のうちにあるはげしい愛着や欲求を、他者ないし集団への忠誠のために、自らすすんで断念すること)、6未練(もはやその保持・獲得が不可能となった対象にたいして、なおも残存している愛着)、7おどけ、8孤独、9郷愁とあこがれ(過去の生活、体験に向けられた愛着/未知の生活、体験に向けられた愛肴)、10無常感と漂泊感。
10については一言での明確な定義がないため、より詳しくみておくと、無常感は「時間的な変化の意識」であり、「1自己をふくめた現実世界の時間的変化にたいする鋭敏な感覚的認知、2その中でつねに(生成・発展しつつある事象にたいしてではなくて)、去りゆくもの、亡びゆくものにたいして注がれているカセクシス(関心投入)」の2要素からなる。これに対し、漂泊感は「空間的な変化の意識」を前提とする。両者に共通するのは 「未来に対する不確定性の意識」であり、「没意志的な変化にともなうたよりなさはかなさ、むなしさ」、すなわち「うつろい」の感覚である。
この10対のモチーフ中、1怒りは本稿の対象期間にほとんど見出されないし、7おどけの歌は特殊な少数事例なので、ひとまず除外する。残りの8対についてみると、実際の分析ではかなり複合して使用されている。例えば、漂泊系の典型である股旅ものに関しては、5義侠・6未練・3孤独・9郷愁とあこがれ・10無常感と襟泊感の 5つが充当される。もう少し相互の差異と関係を明確化し、整理する必要があると考える。
8対のうちもっとも中核的なのは、見見自身も認める通り、故郷を離れた都市住民たちの心に潜在していた10無常感と漂泊感だろう。この基盤から過去と未来に向けた9郷愁とあこがれ、具体的には望郷と都会一異国 憧憬が表裏一体のものとして生まれる。そして前者の典型たる漂泊系の流行歌では、「うつろい」の不安に伴う3孤独の意識がストレートに表出されると同時に、「涙」「泣く」というキーワードを含むことも多く、2かなしみのモチーフともかなり重なる。股旅・マドロス・芸人・曠野・酒場女ものから典型例を1つずつあげよう。
今宵出船か お名残り惜しや/・・別れの小唄に/沖じゃ千鳥も 泣 くぞいな
泣いた別れは 忘れも出来よ/なまじ 泣かぬが命とり
あの娘住む町 恋しい町を/遠くはなれて テントで暮しゃ/・・泣いちゃいけない クラリネット
行方知らない さすらい暮し/・・君と逢うのは いつの日ぞ
暗い浮世の この裏町を/・・霧の深さに かくれて泣いた/夢が一つの 思い出さ
これらの事例に伺えるように、漂泊系の歌に描かれる恋愛は、基本的に幸福なものではありえない。典型的にみられるのは6未練=くもはやその保持・獲得が不可能となった対象にたいして、なおも残存している愛着>である。
これとは別に見回は4慕情、すなわち<自己と対等以上のものとして意識された対象にたいする、距離感をともなう愛情>というモチーフを設定している。だが、対等以上という要素の明確な判定は困難と思われるし、未練との差異も明確でない。実際、該当期間に含まれる対象曲中、未練と慕情を併せ持つとされたのが27曲で、未練のみの12曲の倍以上にのぼる。このことからも両者を区別せず、「物理的・心理的な距離によって直接的な発露をはばまれている愛情」と総指しておくほうがよいと考える。
ところで、やくざや酒場女といった定型的人物を含まない残余6割の中にも、こうした漂泊系の特質に通底する小ジャンルが見出される。メロドラマ調の映画の主題歌や挿入歌として、そのストーリーを歌い込んだもので、地名を含む例も多い。いわば「メロドラマ系 」である。代表曲はなんといっても、大ヒッ卜した「愛染かつら」の主題歌 「旅の夜風」だろう。
花も嵐も 踏み越えて/行くが男の 生きる道/・・月の比叡を 独り行く
愛の山河 雲幾重./心ごころを 隔てても/・・やがて芽をふく 春が来る
メロドラマの特質とは、社会的な身分の違い・他者の妨害・戦争といった外的障害=「枷」によって成就が妨げられる恋愛物語ということにある。自分ではどうにもならぬ運命に翻弄される登場人物たちは、いわば比喩的な意味で人生の漂泊者である。このため引用例にも伺えるように、やはり典型的な「距離にはばまれた愛情」となる。
(3) 演歌系と「距離にはばまれた愛情」
もう1つの大ジャンルである都会-異国系の分析に入る前に、上述の漂泊系を中核とする 「演歌系」という上位ジャンルについて検討しておきたい(9)。
もっとも実際には、戦前にレコードによる大衆音楽は主に「流行歌」と総称され、こうした細かいジャンル名は存在しなかった。戦後になると、大量に流入したアメリカのジャズとの対比で、日本調の歌が「歌謡曲」 と呼ばれるようになる。さらに1960年代半ば以降、洋楽テイストを取り入れた若者向けの「日本製ポップス」が増加し、それとの差異化において現在の意味での「演歌」が初めて誕生する(10)。
このように名称の成立はかなり後だが、それでも後に結晶化するような要素、すなわち演歌的なるものは、既にみた漂泊系という大ジャンルの存在からも、昭和前期の流行歌の中に潜在していたと考えるのが妥当だろう。だが、日本調と同様、演歌というジャンルも明確な定義が難しい。それでも歴史的経緯からみると、それは欧米的でなく、かつ若者向けでない、という二重の否定性をもつことが分かる。
そこで本節の対象曲から、既述した広義の漂泊系や都会一異国系でなく、後述する「若さ」に関連するキーワードも含まない曲を抽出してみると、確かに「演歌系」という名称に相応しい曲が多く得られる。有名例をいくつかあげよう。
とおいえにしの かの人に/夜毎の夢の 切なさよ
情に死する 恋もある/義理ゆえ背く 恋もある/はかなき運命(さだめ) うつし世の/恋の命を 誰が知ろ
君故に 永き人世を/霜枯れて/永遠に春見ぬ わが運命
あきらめましようと 別れてみたが/なんで忘りょう 忘らりょう か/命をかけた 恋じゃもの
これらの歌では、やくざ・船乗りといった定型的人物が登場しないため、10のうち空間的な漂泊感は明確に表れていないが、時間的な無常感は色濃い。また「距離にはばまれた愛情」と、それに伴う8孤独や2かなしみのモチーフに関して、漂泊系と明らかに通底している。こうした共通する特質をもち、かつ既述の二重の否定性を満たす種類の曲を、漂泊系を包摂する演歌系として総括してよいだろう。
演歌系という大ジ‘ヤンルの中核に「距離にはばまれた愛情」というテーマがあるのはなぜだろうか。見田は、戦前から高度成長期前期における「距離の感覚」の重要な社会的基盤として、「大都会への人口の移動にともなう、故郷一一異郷の空間的な距離の実在」と「階級的・階層的なさまざまの差別にともなう、『身分』的な距隣の実在」の 2つをあげている。だが、これらは確かに要因の一部ではあっても、それだけで十分な説明にはならない。特に後者の階層的な距離に関しては、いつの時代にも存在する社会的な同類婚への志向のため、普遍的な実際問題とはなりにくいのではないか。
この「距離の感覚」の時代背景としては、見田のあげた2点より、自由な恋愛に対する国家的・文化的・社会的な抑圧のほうが重要だと考える。明治20年代に北村透谷らが欧米語の輸入語としての「恋愛」「愛」を大々的に称揚して以降、大正期には恋愛論ブームが起こり、それらが理念としては十分に定着した。しかし、戦前の天皇制国家は、自由な恋愛関係に対して抑圧的な姿勢をとり続けた。中等以上の教育では原則として男女隔離策がとられ、大衆文化に対しても厳しい検閲が行われた。例えば、日本映画のキスシーンは「猥褻」と見なされ全く許可されなかった。
こうした国家方針の下で、社会的にも自由な男女交際に対する視線は厳しかった。大正期以降、職業婦人が次第に増加したが、職場恋愛も一般的にはご法度。作家の石坂洋次郎が嘆くように、戦前を通じて「一般社会の風習は、男女が自由に交際することを、快く認めるという風にな って居らない」という状況だった。見田の指摘するような空間的・身分的な距離がない場合でも、やはり強固な壁が存在したのである。
戦前の流行歌に描かれる恋愛は、こうした時代背景のため、総じてリアリティが欠落している。例えば、前出の「無情の夢」と「夏の渚の恋」の初期の例である 「恋の季節」(ピンキーとキラーズ)を比較すると、激しい恋と別れを歌うと いう骨格は共通している。しかし、後者 には「青いシャツ着てさ 海を見てたわ」「夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと/あの人が言った」といった具体的な描写があるのに対し、前者はきわめて抽象的だ。実際に何らかの関係を経てから別れたというより、始まる前から既に断念されている恋愛、という印象を受ける。
この演歌系に通底する 「距離にはばまれた愛情」とは、現実のリアルな恋愛というより、象徴という色彩が強いのではないだろうか。実際、古賀政男は次のように語ったという。
「世の中は金がすべてではないはずと思って明大に人り、アルバイトをし、汗水流して卒業してみたら、どうです、社会から与えられたのは雀の涙ほどの給料。これが歯をくいしばって大学を出た代償かと思 ったら情けなくて自殺まで考えました。 • •『影を慕いて』は失恋に形を借りた私の絶望感の表現だったのです。気障ないい方ですが、あれは生活苦の歌なんですよ。」
見田も大衆音楽に関して、恋愛といった「比較的詩化されやすい生活の諸領域への選択的な形象化、そしてこのような形象化への心情の仮託と投影のメカニズム」があると指摘している。演歌系の「距離にはばまれた愛情」は、当時の都市住民が心の底に潜ませていた無常感・漂泊感と、それに伴う孤独・悲しみの具象的な象徴化として解釈でき よう。
(4) 都会一異国系
以上のように演歌系の歌には、2かなしみ・8孤独といったマイナス要素が色濃い。これに対し、都会一異国系というもう 1つの大ジャンルに対して、見聞は主に3よろこびと9あこがれという 2つのモチーフを充当しており、一見極めて異質にみえる。だが、自由な恋愛に対する様々な面での抑圧は、当然ながらここにも強い制約を及ぼしている。
そのため第1に、都会一異国系の歌でも、実は恋愛が既に失われた過去として描かれる事例が多い。別れの理由も述べられず、実際の交際に至る以前に「距離にはばまれた愛情」という印象が総じて強いのも同じである。典型例をあげよう。
君を思い日毎夜毎/悩みしあの日の頃/・・忘れな君 我らの恋
シナの夜よ/君待つ宵は 欄干の雨に/花も散る散る 紅も散る/ああ 別れても 忘らりよか
他方で、演歌系と異なるのは、この愛着の対象への強いられた距離が、「はかなき運命」といった人生に対する無常感と直接的には結びつかないこと。また上記例のような花咲く異国を典型に、美しい風景を背景として歌われる場合が多いことだ。
この舞台設定のヴァリエーションと考えられるのが、並木・喫茶店など、都会を暗示するいくつかの語句である。並木のイメージは、銀座の柳 (東京行進曲)とパリのマロニエ(巴里の屋根の下)に由来するものだろう(どちらも作詞は西条八十)。固有地名はなくとも、広義の都会-異国系に入れてよいと思われる。そしておそらく「モン巴里」の「行きこう人も いと楽しげに/恋のささやき 」を原型として、2人で肩を寄せてこうした道を歩くことが、日本の風景の中でも許容される最大限の恋愛表現として次第に定型化していく。年代順に例をあげよう。
並木の路は 遠い路/何時か別れた あの人の/帰りくる日は 何時であろ
それは去年のことだった/星の綺麗な宵だった/二人で歩いた思い出の小径だよ
或る日の午后の ことだった/君と僕とは 寄り添って/雨の舗道を 濡れながら/二人愉しく  歩いたね
おぼえているかい/森の小径/・・なんにもいわずに/いつか寄せた/ちいさな肩だった
ここにも基本的に「距離にはばまれた愛情」 というテーマが通底している。だが、登場する男女聞の過去の空間的・心理的な距離は、演歌系よりは近い印象がある。
他方で、第 2に、都会一異国系の中には、演歌系の4慕情や6未練とは対照的な「一体化と充足の局面にある直接的な愛情」、すなわち恋の幸福を謡う事例もある。その嚆矢は1929年の「東京行進曲」だが、これについては作詞の西条八十が「東京のいわゆるモダン風景の戯画(カリカチュア)」を意図した、というエピソードが有名である。華やかな都会をいわば上空から俯瞰し、複数の人物を点描する。「あなた地下鉄 私はパスよ」 という人称代名詞が出てくるが、意味的にはカギカッコ付きの会話描写であって、歌い手と一致する「私」が「あなた」に呼びかける対関係の歌ではない。
これ以降も、第3者(=作者)的視点からの描写という構造を示す事例は多い。例えば、時代を画した戦後の「東京ブギウギ」も、1番が「二人の夢のあのうた/・・甘い恋の歌声」という恋の歌なのに対し、2番は「君も僕も愉快な」と男同士を思わせ、人称が一定しない。「銀座カンカン娘」も「あの娘可愛や」と三人称だ。ジャンルの創始曲と同様、登場人物もほとんど若い女性が占める。いくつか例をあげよう。
ジャズの浅草行けば/恋の踊り子
東京娘の 初恋は/燃えてほのかな シャンデリヤ/・・いとしあなたに 抱かれて/紅のドレスで 踊る夜
花籠抱えて 誰を招く/アイルランドの 村娘
柳の窓に ランタンゆれて/赤い鳥かご シナ娘
ネムの並木を 子馬のせなに/・・隣の村へ お嫁入り
魅惑的に描写された風景の中を漂い、聞く者を招くような美しい女性たち。これらはリアルな生きた人間というより、当時の人々が憧れた、都市や異国で花開いているはずの恋の歓楽の象徴といえる。その結晶が「花売娘」のイメージだ。おそらくパリの花屋の娘が登場する「すみれの花咲く頃」を原型として造形され、岡崎夫「上海の花売娘」の大ヒットによりシリーズ化。「ジャワのマンゴ売り」 ・「長崎のザボン売り」といったヴァリエーションも生み、戦後の「ひばりの花売娘」で集大成された。
火焔木(フレームツリー)の 木陰に/更紗のサロンを 靡かせて/笑顔もやさしく 呼びかける乙女よ/ああジャパの マンゴ売り
どこか寂しい 愁いを含む/瞳いじらし あの笑くぽ/ああ東京の 花売娘
まとめるならば、都会一異国系の中に現れる恋愛の多くも、既に過去のものとして語られるか、あるいは第3者的視点という構造から、やはり何らかの意味で「距離にはばまれた愛情」だといえる。そうした中で極めて例外的なのが、1940年の「蘇州夜曲」だ。これだけ全曲を引用しよう。
君がみ胸に 抱かれてきくは/夢の船唄 烏の歌/水の蘇州の 花散る春を/惜しむかやなぎが すすり泣く  // 花を浮かべて 流れる水の/明日のゆくえは 知らねども/今宵うつした 二人の姿/消えてくれるな いつまでも // 髪に飾ろうか 口づけしょうか/君が手折りし 桃の花/涙ぐむような おぼろの月に/鐘がなります 寒山寺
恋人と舟に乗り、その「み胸に 抱かれて」いる女性。これは前出の「東京娘」と並び、戦前の流行歌中、男女聞の明示的な物理的距離がもっとも小さい例である。「私ーあなた」の対関係の歌としては唯一であり、前者と違ってダンスというアリバイもない。こうした直接的な接近は、異国ものという大枠により、予め一定の心理的距離が確保されているからこそ許容されたと思われる。
(5 )青春系とジェンダーの問題
最後に、演歌系や都会一異国系には包括しきれない固有性をもっ一一後者のほうにかなり類縁性もみられるが(12) 一一 1ジャンルとして、若さと関連する何らかのキーワードを含み 「青春系」と呼べる一群の曲がある。
この中で若い女性を主人公とする恋の歌は、「乙女ごころに よくにた花よ/・・咲いたらあげましょ あの人に」 と歌う「花言葉の唄」を例外として 失われた過去を追想する「かなしみの歌」 がほとんどである。これは演歌系に通底する、予め「距離にはばまれた愛情」といえよう。
逝きて返らぬ 若き日を/窓に凭れて 思い見る/夢多かりし かの頃の/雲のかからぬ 清らかさ
ながす涙も 輝きみちし/あわれ十九の 春よ春/・・我世さみしと 嘆くな小鳥/春はまたくる 花も咲く
他方で、青春系というジャンルに含まれる他の一群には、かなしみや孤独といったモチーフと例外的に全く無縁で、純粋に明るい「よろこびの歌」の系統も見出される。その1つは、恋愛の要素を含まない、主に男性を主人公とする友情の歌。「讃えよ わが青春(はる)を/いざゆけ遥か希望の丘を越えて」と藤山一郎が謳い上げる「丘を越えて」が初出例だ。このタイトルは、作調の島田芳文が、当時好評を博していた米映画「オーバー・ゼ・ヒルj を直訳してつけたものだという。確かに日本の土着的風景には、この歌のイメージにある ような「丘」はまれである。近年でも新しい住宅地が「〇が丘」などと名づけられることがあるが、この言葉に潜む異国情緒が失われていない証左と考えられる。
もっとも柳/マロニエの並木が単なる径に変わったように、流行歌の中の「遁かな希望」象徴としての丘のイメージも、次第に日本の風土に馴染むものに変容していく。
未来へ続く 屋根づたい/新雪光る あの峰こえて/ゆこよ元気で 若人よ
若くあかるい 歌声に/雪崩は消える 花も咲く/青い山脈
間に敗戦という大転換をはさんでいるにも関わらず、この2曲は「純粋な若者たちが連帯し未来の希望を目指して進む」という主題において完全に一致する。もっとも後者は、この類型的な骨格に加え、「雨にぬれてる 焼けあとの/名も無い花も ふり仰ぐ」「父も夢みた 母も見た/旅路のはての その涯の/青い山脈」のように、当時の社会状況と歴史的視野を暗示する点で異色である。主題歌となった映画のヒットもさることながら、こうしたユニークさも戦後期を代表する名曲となった要因だろう。
以上のような非ラブソングとは別に、純粋な青春系の「よろこびの歌」のもう1つの系統が、若い新婚夫婦ものだ。
あなたと呼べば/あなたと 答える/・・空は青空 二人は若い
もしも月給が上がったら/ポータプルなども買いましょう/二人でタンゴも踊れるね
姿やさしく 美しく/どこが こわいか わからない/・・うちの女房にや 髭がある
夜更けに聞こえる 足の音/・・帰って来たかと 立ち上がる/ああそれなのに それなのに/ねえ・・おこるのは/あたりまえでしょ う
男女の自由な愛情に対する国家的・社会的な抑圧も、当然ながら正式の夫婦には免除された。数的には少ないが、この解放区にだけは、どんな距離にも隔てられない幸福な愛情の発露が見出される。それでも当局により一定の制限が課されていたし(13)、総体的にコミカルな色彩が強いことも注目される。当時の社会的・文化的な制約からして、「私一あなた」の対関係における直接的な愛情表現は、コミック・ソングの枠という一種の安全弁があって初めて許容されたのではないだろうか。
ところで既述の通り、戦前の流行歌に関して、いくつかの先行研究が「ネェ小唄」や「ハァ小唄」と名づけられる小ジャンルを区分している。厳密には全て青春系に含まれるとはいいがたいが、類縁性は強いので、ここで取り上げておきたい。池田憲ーは「ネェ小唄」を 「ナンセンス歌謡の・・日本調的変容」として捉え、「小市民的喜びを、時にはサラリーマン生活を、時には新婚カップルを対象として歌いあげた」 ものと述べる。例としてあげるのは、上述例の他、次のような曲だ。
ひと目見たとき 好きになったのよ/・・今日もひとりで 泣いているのよ/ねえねえ 愛して頂戴ね
あなたのものよ こうなれば/・・夢に見る日を いつまでも/いいのね いいのね 誓ってね
寂し恋しの 切なさに/折って畳んだ 紙鶴の/一つ一つも 思い出に/晴れてあなたと 新ホーム/ほんとにそうなら うれしいね
あなたばかりに この胸の/熱い血潮が さわぐのよ/・・ねえ 忘れちゃいやヨ 忘れないでネ
以上の例からも明らかな通り、「ネェ小唄」の特質は、女性が男性に熱い想いを訴えるという構造にある(11)。より日本調の「ハァ小唄」 も基本的に同じだ。男性から女性へという逆パージョンは全く存在しない。
こうした傾向は日本の文化的伝統に根ざすものと思われる。小谷野敦によれば、近世、特に18世紀以降の文学における恋は、ほぽ女性が男性に一方的に捧げるものとして描かれ、「男は、女が誠を見せたときのみ反応すればよいというかたち」で恋愛倫理が完成する。こうした伝統は明治以降も受け継がれたという。戦前の日本映画では、ラブシーンをほとんど演じないタイプのスターと、ラブシーン専門の二枚目タイプとが明確に分かれていた。これは「立派な男性は恋愛しない」という儒教的思想の影響下にある、歌舞伎の「辛抱立役/二枚目」という区別を継承するものだという。
両者の指摘を言い換えれば、「男らしさ 」と女性に対する積極的態度とは一致しがたかった、ということになる。このことは流行歌においても確かに妥当する。青春系のうち、男性の 恋の歌の代表例をみてみよう。
青い背広で 心も軽く/街へあの娘と 往こうじゃないか/・・若い僕等の 生命(いのち)の春よ  // 今夜言おうか 打ち明けようか/いっそこのまま あきらめましよか/・・月も青春 泣きたいこころ // 駅で別れて 一人になって/あとは僕等の 自由な天地/涙ぐみつつ 朗らに唄う/愛と恋との 一夜の哀歌
この主人公は結局、デート相手の女性との関係にさらなる一歩を踏み込むことなく、男同士の「自由な天地」へと帰っていく。戦前の流行歌を総体的にみても、かりにここで告白する設定にしたら、その後の展開が極めて困難だっただろう。繰り返せば、自由な恋愛に対する国家的・社会的な抑圧が壁となり、ジャンルを横断して「距離にはばまれた恋愛」が通底することとなった。さらに付け加えれば、日本で伝統的に行われてきたジェンダー的要請もこの距離を必要としていたといえる。  
( 1) 1993年21位のZ団「江ノ島」はサザンオールスターズのヒット曲をそのままメドレーでつないだもので、別の歌手によるカバーではないため、対象曲に入れないこととする。
( 2) ただし例外として、1976年12位の田中星「オー・マ リヤーナ/ビューテ ィフル・サンデー」および1991年1位の小田和正「Oh! Yeah/ ラブストーリーは突然に」の2曲だけは、2番目にクレジットされた曲を分析対象とする。前者は同年2位の洋楽の大ヒットのカバー、後者は社会現象化した人気ドラ マ「東京ラプストーリー」の主題歌で、こちらの方がセールスの牽引役だったと考えられるからである。
( 3) 見田の表における年代がアンソロジーに掲載された発売年と異なる場合は、レコードによるヒットを優先するという意味で後者をとった。また1950年の「軍艦マーチ」はパチンコ屋のBGM、つまりインストウルメンタルとしての復活と考えられるため、集計に入れない。これ以外の19l曲のうち、藤本二三吉「神楽板」(1930年)・赤坂小梅「ゆるしてね」(193l 年)・関種子 「さら ば上海」(1932年)の3つのみ歌詞が入手できなかった。
( 4) タイトルの表記はオリコンの記載に従った。地名では「越後獅子の唄」(1951年)や「カサプランカ・ダンデイ」(I979年26位)など、明らかに歌の舞台とはなっていない場合も合め、機械的に集計した。
( 5) 地名タイトルの曲は、Mi-ke「想い出の九十九里浜」(1992年32位)とPuffy「アジアの純真」(1996年15位)の2例のみ。いずれもコミック・ソング的 で、特に後者は大ヒットしたものの、音楽シーンの主流的な歌とはいいがたい。
( 6) 1953 年の鶴田浩二「ハワイの夜j も、「月も宵から/波間に燃えて/・・君慕う ウクレレ」 というように、海が恋人たちの愛の場所として描かれている。だが、これは後述する戦前以来の異国調の系統に入るもので、かな り例外的かつ過渡的なため、渚系には入れなかった。もう1つ、1961年の大橋節夫「南国の夜」が同系統の曲である。
( 7) 他に、若者が海辺を自転車で走る小坂一也「青春サイクリング」(1957年)、 恋人と「仲良く二人およいだ海」を回想する松尾和子「再会」(1960年)がある。
( 8) 本稿では対象曲から外したが、前掲の「日本流行!歌史」の戦前分の歌詞編 に、もう 1曲だけ夏という単語を用いた例がある。1931年の「月の浜辺」で、「月影白き 波の上/ただひとり聞く 調べ/・・悩ましの 夏の夜/こころなの 別れ」というように、失われた恋を海辺で回想する歌である。高度成長期以降の「夏の渚の恋」にかなり通じるものがある。作曲は古賀政男だが、各種アンソロジーに収録されておらず、見聞を始めとする先行研究にもほとんど名前があげられていない。あまりヒットしなかったが、作詞が編者の1人である島田芳文のため、同却に掲載されたのだろうか。
( 9) 演歌という言葉の外延は大別して2種類ある。1つは、明治20年代に自由民権運動の壮士たちが始め、大正期の演歌師に 受け継がれた歌の潮流。もう1つは現在この名称で呼ばれている歌話曲の1ジャンルで、両者は全く別物である。本稿では後者に限定してこの用語を用いる。
(10) 初期の用例としては、1966年夏発売の「二人の銀座」 (和泉雅子・山内賢) に 「ポップ演歌」 というキャッチフレーズが使われていた。その後、1969年にデビューした藤圭子の歌を五木寛之が「怨歌」 と 呼んでからさらに広がり、1970年頃からレコード業界用語として定着した とい。
(11) 男性が主要な登場人物となるのは「肩で風切る 学生さん」を歌った「神田小唄」(二村定一、1929年)と、アルプスのミルク屋が主人公の「山の人気者」(中野忠晴とコロムピア・リズム・ボーイズ、1933年)の2例のみで、極めて例外的である。
(12) 本文で引用した曲中、「もしも月給〜」には故郷から両親を呼ぶという表現があり、「ああそれなのに」にはアドバルーンが登場するため、舞台が都市 であることが分かる。また「青い背広で」 には「街へ」という表現があり、 「僕の青春」には異国的ニュアンスのある「ポプラ」が読み込まれている。 北中正和も、本稿でいう青春系の歌を f叙情歌」と呼び、その舞台設定が「いわゆる日本的な山河では」 なく、ロシア民謡の風景にも通じる欧米風のものであったことを指摘している。
(13) 1934年の出版法改正により内務省がレコードの検闘を開始したが、その発禁第1号となったのが1935年の「のぞかれた花嫁」で、「だれも見ていない部屋ならアノ接吻しない」という摘写が煽情的という理由からだった。夫婦でもキスの表現は許容されなかったということだろう。
(14) 例外中の例外が、渡辺はま子「とんがらかっちゃ駄目よ」(1936年)である。戦前は一般的に御法度だった職場恋愛を堂々と主題.にし、他の男性とデートしでも「あなたはとんがらかっちゃ駄目よ」と女性が相手を手玉に取るという、他に類例のないユニークな曲だ。「蘇州夜曲」についても指摘したが、 渡辺はま子は戦前の流行歌の限界を最大限に広げた存在といえる。  
 
戦前昭和流行歌史

 

流行歌の源流(大正ロマンの時代)  大正時代の流行歌は「流行り唄」といって、レコード会社が街頭で演歌師が唄う「唄」をレコードにした。その「流行り唄」において、西洋音楽の技法(洋楽の手法)によって日本人の心情をメロディーにしたのが中山晋平だった。「カチューシャの唄」(1914)「ゴンドラの唄」(1915)は大正ロマンを象徴するものであり、関東大震災後の荒涼とした東京の風景を背景に「船頭小唄」は鳥取春陽ら街頭演歌師によって広められ、人々の心を癒した。鳥取春陽は街頭演歌師の立場から洋楽の手法で「籠の鳥」を作曲している。また、この時代は浅草オペラの隆盛のそれであり、「流行り唄」として田谷力三が歌う「恋はやさし野辺の花よ」などが広まった。
昭和初期流行歌(歌謡作家と洋楽演奏家)  
昭和に入ると、電気吹込みを完備したが外資系レコード会社が成立し、「流行り唄」から「昭和流行歌」・「歌謡曲」の時代に変わった。大正時代の街頭演歌師たちが庶民の心を唄った「流行り唄」をレコード会社がそれを聞きつけレコードにするのではなく、レコード会社が企画・製作し、宣伝によって大衆に選択させる仕組みに変わったのである。巷には輸入レコードも氾濫し、昭和モダンを踊らせるかのように耳新しいジャズも聴かれるようになった。大正時代のように演歌師が一人で作詞・作曲し街頭で唄い流すのではなく、作詞・作曲・歌唱という分業体制になり、近代詩壇で鍛え抜いた詩人たちが歌謡作家として作詞をするようになった。野口雨情、西條八十、時雨音羽、佐伯孝夫、佐藤惣之助、サトウ・ハチロー、高橋掬太郎、殊に詩壇の第一線にいた西條八十が流行歌の作詞に詩を提供したことは驚きであった。  作曲家も西洋音楽・ジャズなどの手法・メソッド・体系にもとづいた作曲法で旋律を作り、そのレガートな旋律とジャズ(舶来の流行歌)のリズムが融合させるなどをした。日本人の心を表現した中山晋平、ジャズと日本情緒を融合させた佐々木紅華、感傷のメロディーの古賀政男、海軍軍楽隊出身の江口夜詩、和製ブルースを確立した服部良一、クラシックの格調を流行歌に付した古関裕而らが活躍することになった。歌唱表現者・歌手も演歌師ではなく洋楽演奏者に変わった。世界的なオペラ歌手・藤原義江、晋平節の第一人者・佐藤千夜子、ジャズシンガーの元祖・二村定一らがまず登場し、その後、古賀メロディーを隆盛させた「上野最大の傑作」・藤山一郎(声楽家増永丈夫)、「10年に一人のソプラノ」・淡谷のり子ら声楽家・音楽学校出身者、花柳界から市丸、小唄勝太郎、直立不動の東海林太郎、ジャズシンガーのディック・ミネ、ハワイアンの灰田勝彦らが昭和二〇年代まで活躍しクラシック・洋楽系歌謡曲の全盛時を謳歌することになる。
レコード会社による企画製作の最初のヒット曲  
昭和流行歌・歌謡曲は、藤原義江・佐藤千夜子が歌う「波浮の港」「出船の港」などの「新民謡」や、二村定一が歌う「アラビアの唄」「青空」などのジャズ・ソングで幕を開けた。やがて、昭和4年に入ると、「波浮の港」のように既存の作品をレコード歌謡にするのではなく、最初からレコード歌謡ために企画・製作された流行歌がヒットした。昭和4年、日本ビクター1月新譜発売の「君恋し」(時雨音羽・作詞/佐々木紅華・作曲/二村定一/歌唱)である。大正時代にすでに存在した「君恋し」を新しく流行歌として、時雨音羽が作詞し井田一郎がジャズに編曲した。映画も制作され、映画とレコードが相乗効果をもたらした。さらに、同年日本ビクターは変貌する東京の都市空間を舞台にした大ヒットを生み出した。それが初代歌謡界の女王・佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」(西條八十・作詞/中山晋平・作曲/佐藤千代子・歌唱)である。 銀座、丸の内、浅草を舞台に「ダンサー」、「ジャズ」、「丸ビル」・「ラッシュアワー」「シネマ」「リキル」(洋酒)など、モダニズムが記号化され、「モダン風景の戯画(ぎが)」だった。新鮮な感覚でモダンボーイ・モダンガールの胸に迫るものであったが、4番の<シネマ見ましょか、お茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか>原詞は≪長い髪してマルクスボーイ、今日も抱える赤い恋〜≫であり、西條八十は、モダン現象のみならずマルクス主義の風潮も視野においていた。  「東京行進曲」はレコード会社と映画会社との提携企画による映画主題歌第一号である。大正時代の「船頭小唄」「籠の鳥」以来、「流行り唄」の映画化はあったが、映画とレコードが同時企画・製作され、しかも大ヒットした最初の歌謡曲である。レコード売り上げは25万枚。また、歌ヒットには、そのモデルとなった小説『東京行進曲』が連載された大衆雑誌『キング』の絶大な販売力(150万部)がはたした役割も大きい。それ以降主要な映画は主題歌を挿入してレコードを発売した。このマーケティングの完成により、レコード会社と歌謡曲の将来が見えた。
古賀メロディー  
昭和恐慌によって暗い世相が充満していた。都市では失業者が溢れ、「大学は出たけれど」の言葉どおりの就職難、疲弊する農村、昭和6年秋、柳条湖事件から満洲事変への拡大、そのような切迫した時代を背景に「酒は涙か溜息か」(高橋掬太郎・作詞/古賀政男・作曲/藤山一郎・歌唱)が一世を風靡した。レコード産業史でいえば、ビクターに差をつけられていた日本コロムビアは「酒は涙か溜息か」の28万枚のヒットによって形勢を逆転したのである。歌唱者の藤山一郎は、声楽技術を正統に解釈し豊かな声量をホールの隅々に響きわたるメッツァヴォーチェ(弱声の響き)にしマイクロフォンに効果的な録音をするクルーン唱法で古賀政男のギターの魅力を伝えた。古賀メロディーは感傷メロディーだけではなかった。  今度は昭和モダンの青春を謳った「丘を越えて」(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)がヒット。これはもともとマンドリンの合奏曲として作曲されたものである。藤山一郎はこの軽快な青春歌謡を声量豊かな張りのある美声で高らかに歌い上げている。昭和7年に入っても、古賀メロディーは流行した。藤山一郎が甘美なテナーで「影を慕いて」を再吹込した。これは、元来、昭和4年6月、ギター合奏曲として発表され、昭和5年10月、佐藤千夜子によって、ビクターで吹込まれた。藤山一郎によって新しい生命が吹込まれ、古賀メロディーが確立したのである。 20世紀は、日本の「流行り唄」が近代化され、流行歌・歌謡曲が成立し大きな変貌を遂げた。街頭で流行っていた歌をレコードにするのではなく、レコード会社の企画、製作、宣伝により大衆に選択させるシステムが完成し、モダニズムの消費を満足させた。これが洋楽の形式をもった晋平節から古賀メロディーへという昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生である。
SPレコード歌謡の隆盛―各社のヒット競争  
昭和7年、近代日本の不吉な影と昭和モダニズムの陰翳を露わにしていた。井上日召の「一人一殺」を唱える血盟団員によるテロ事件・「血盟団事件」、海軍青年将校らが首相官邸を襲い犬養毅を射殺し政党政治の終焉を伝えた「五・一五事件」、猟奇事件として話題になった「坂田山心中」など、不気味な「翳」が覆っていたのである。だが、その一方では昭和流行歌・歌謡曲の世界では第二の古賀政男、藤山一郎を求めていた。  若い二人の絵に書いた心中だったがこの純愛を主題に「天国に結ぶ恋」(柳水色・作詞/松純平・作曲/徳山主蓮、四家文子・歌唱)がビクターから発売されヒットし、松竹で映画化された。また、昭和の悲しみを歌った「涙の渡り鳥」(西條八十・作詞/佐々木俊一・作曲/小林千代子・歌唱)もヒットし、佐々木俊一が新鋭作曲家として注目された。ポリドールからは「忘られぬ恋」(西岡水朗・作詞/江口夜詩・作曲/池上利夫・歌唱)が大ヒット。作曲者の江口夜詩は海軍軍楽隊出身で、昭和8年2月、コロムビアの専属になった。歌唱の池上利夫はのちのコロムビアの看板歌手松平晃である。  昭和7年の暮れから、昭和8年にかけて日本調の美声の小唄勝太郎が歌った「島の娘」(長田幹彦・作詞/佐々木俊一・作曲)が空前のヒットとなり、「勝太郎ブーム」が到来した。彼女の女心がやるせなく燃えて思わず洩れるような“ハァ”は濡れた声のようだった。ここに藤山一郎のような芸術歌曲を歌う声楽技術とは異なる艶歌調の邦楽唱法がうまれ、演歌系歌謡の復活でもあった。また、ライバル市丸はこの年「濡れつばめ」や「天竜下れば」をヒットさせた。そして、昭和8年の夏、幕末の民衆乱舞「ええじゃないか」の昭和版といえる「東京音頭」(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)が小唄勝太郎と三島一声大流行した。この年は、日本は国際連盟脱退によって国際的な孤立の途を取り始めたとはいえ不況から脱出し。軍需景気もあり円相場の下落を利用し飛躍的に輸出を伸ばし、特に綿織物はイギリスを抜いて世界一に達し、まるでそれに酔うように「東京音頭」の馬鹿騒ぎは広がった。  昭和9年のレコード業界に話題は「さく音頭」合戦、古賀政男のテイチク入社、ポリドールの東海林太郎旋風である。ポリドールの新企画・股旅歌謡・「赤城の子守唄」(佐藤惣之助・作詞/竹岡信幸・作曲・東海林太郎・歌唱)が大ヒットした。続いて満州を舞台にした「国境の町」(大木惇夫・作詞/阿部武雄・作曲/東海林太郎・歌唱)がヒットし「東海林太郎時代」が到来した。 昭和10年の歌謡曲は名門・ビクター、コロムビアに対し新興のポリドール、テイチクが対抗する形で、ポリドール・ 藤田まさと−大村能章−東海林太郎のトリオは「旅笠道中」「野崎小唄」をヒットさせ、テイチクは古賀メロディーで対抗し、ディック・ミネと星玲子が歌った「二人は若い」(玉川映二・作詞/古賀政男・作曲)で青春溢れるモダンライフを歌い、「緑の地平線」(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)で楠木繁夫をスターダムに押し上げ、古賀メロディーはヒットの量産体制に入る。ビクターは新鋭佐々木俊一が「無情の夢」を作曲し児玉好雄が歌ってヒットした。コロムビアは江口夜詩−松平晃コンビが「急げ幌馬車」「夕日落ちて」をヒットさせている。競争を彩った。また一方ではディック・ミネ、淡谷のり子の外国ポピュラー曲、藤山一郎、奥田良三、関種子らのセミクラシックな愛唱歌も好まれた。若者たちは軍国主義に国家が傾斜する時代風潮を敏感に感じ、それに否定する心情から洋楽(外国ポピュラー、クラシック)を愛好した。
モダニズムの余韻と外国ポピュラーソング  
昭和8年から10年にかけて、モダ二ズムの余韻が見られた。この時代の若者の心を捉えたのは、フランス映画、ドイツ映画などの主題歌やシャンソン、タンゴ、ジャズ系のポピュラーソングであった。昭和6年フランス映画の鬼才ルネ・クレールの「パリの屋根の下」の主題歌を浅草オペラの大スター田谷力三がビクターで吹込み、昭和8年ドイツ映画「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」を楽壇の雄テノール歌手奥田良三が歌い、インテリ青年層に支持された。小林千代子はアメリカ映画「空中レビューの時代」の主題歌「キャリオカ」を吹込み映画は昭和9年 帝都座で封切られた。小林は「フロリダ」のアル・ユールスのジャズバンドがビクターの専属になるとジャズ・ソングも歌った。「ザ・コンチネンタル」「ラ・クカラチャ」「夜も昼も」など外国のポピュラーソングに日本語の歌詞をつけて歌った曲もヒットする。「谷間のともしび」(西原武三作詞/外国曲)は東海林太郎のバリトンが抒情旋律とマッチし若者の間で好評だった。また、中野忠晴とリズム・ボーイズコーラスの「山の人気者」やアメリカ民謡の名曲「蒼い月」「谷間の小屋」を藤山一郎が甘美なテナーで歌い人々の心に潤いを与えた。ジャズ、ポピュラーの分野で淡谷のり子の存在は大きい。明るいリズミカルな「私のリズム」、シャンソン歌手ラケル・メレのヒット曲「ドンニャ・マリキータ」、タンゴでは「ラ・クンパラシータ」、ヴギウギをポピュラーに取り入れた「ダーダネラ」など、モダンな香りとヨーロッパ風でありながら哀愁に溢れた曲を歌い上げている。また、昭和8年から9年にかけて、二世歌手も来日し、歌謡界を彩った。川畑文子、ベティ稲田、ヘレン隅田などが新鮮なジャズヴォーカルで人気を得た。 昭和10年、ジャズ・ソング「ダイナ」が軍国の暗い空気を吹き飛ばすかのような大ヒットとなる。歌ったのはディック・ミネ。日本ポピュラー史上最高のジャズシンガーとしてのゆるぎない歌唱をしめした。外国のフィーリングを取り入れながら、日本の歌に晅瞬していった彼の歌魂と声も甘く低音はまろやかだった。このレコードでソロを吹いた南里文雄のトランペットも名演奏として日本のジャズ史に残るであろう。
非常時態勢と流行歌  
外国の名曲が流れていても、軍国の影が漂い、この後、日本は戦争に突入していく。昭和9年「戦いは創造の父、文化は母である。」の一文で始まる「国防の本義と其強化の提唱」が配布され、同年レコード検閲制度も始まった。翌10年は貴族院で美濃部達吉の憲法理論・「天皇機関説」が国体に反するということとなり、大きな政治問題となった。昭和11年は雪の日のクーデター、(二、二六事件)で幕を明け、これによって統制派が軍内部の覇権を握る。戒厳令のもと広田弘毅内閣は「庶政一新」「広義国防」をスローガンに軍国主義体制の端緒を開いた。この年歌謡界の最大の事件は二、二六事件をよそにお色気たっぷりの官能歌謡・「忘れちゃいやョ」(最上洋作詞/細田義勝作曲)だった。これを歌ったのは渡辺はま子、彼女はどうしても最後のリフレーン<ねェ、忘れちゃいやよ 忘れないでネ>が作曲者の指示どうり歌えずついに泣き出し、とうとう<忘れェちゃァいや〜ンょ>と鼻にかけしなだれかかるように歌い、これが検閲官の「あたかも婦女の嬌態を目前に見るが如き官能的歌唱」という批判を招き発禁処分になった。ビクターは「月が鏡であったなら」と歌詞とタイトルを改め発売した。 この時代は、健全な歌詞で、健全なメロディーで健全な歌い方で新しい流行歌」を生み出す動きもみられた。昭和11年6月から放送開始した「国民歌謡」で詩情豊かな抒情歌が多い「椰子の実」(島崎藤村・作詞 大中寅二・作曲/東海林太郎・歌唱)。「夜明けの唄」(大木惇夫・作詞 内田元・作曲)などはレコードにも吹込まれた。
都市文化の讃歌と日本調歌謡  
昭和11年、古賀政男と藤山一郎コンビがテイチクで復活「東京ラプソディー」(門田ゆたか・作詞/古賀政男/作曲)は最後の平和の讃歌で、歌には銀座、ニコライの鐘、ジャズの浅草、新宿とモダン東京の風景が盛り込まれていた。「東京ラプソディー」は従来の歌謡曲になかった歌の最初の2小節が8分音符で構成されている。藤山はそれをレガートに歌唱している。都市文化においてはスピード感が増せば、その空間の抒情性がなくなるのが当然だが、「東京ラプソディー」はそれを失っていない。藤山一郎が正格歌手(音楽理論・規則や楽典に忠実な歌手)でありながら歌唱表現が豊かだからである。 古賀メロディーはモダンライフをテーマにペーソス溢れるコミックソングにおいてもヒットが多い。その代表曲が「うちの女房にゃ髭がある」と「ああそれなのに」である。「ああそれなのに」は都市文化におけるモダンライフの憂鬱さを哀調を帯びながら、美ち奴がユーモラスに歌って大ヒットした。古賀政男は都市文化を担う青年層の哀歓をヒットさせた。「青い背広で」は戦争を目の前のした青年層の不安な心理を巧みに衝くものであった。ポリドールは日本情緒を盛り込んだ名作歌謡・文芸歌謡を東海林太郎で企画した。名作歌謡は文学上の名作をベ−スにしたものであり、文芸歌謡は歌舞伎や江戸情緒豊かな明治期の小説・文芸作品を素材にしたものである。永井荷風の小説から「すみだ川」、森?;外から「高瀬舟」などがあり、東海林太郎の憂いのある響きと微妙なバイブレーションが俗っぽさを感じさせない格調があった。優秀な音楽技術でクラシックの格調を流行歌にした藤山一郎の<都市文化を讃美したモダンな青春歌謡>と、早稲田−満鉄というエリートの教養人・東海林太郎東海林太郎の<日本調歌謡>は、従来クラシックの名盤しか関心のない知的教養人を流行歌に耳を傾けさせた大スターの双璧であった。
軍国歌謡  
昭和12年6月に成立した近衛内閣は盧溝橋事件(7月)から日中戦争へ拡大させた。 国民の戦争協力を強化する目的で国民精神総動員運動を展開させ、 11月 内閣情報部による募集歌「愛国行進曲」が制定され、各レコード会社が競って発売した。昭和13年1月 「国民政府ヲ対手トセズ」と自ら和平の途を完全に閉ざし、戦争の長期化を選択した。そうなると経済面は統制経済の強化が強化され、4月国家総動員法が議会を通過した。戦争に際して国家のもっているすべての力を有効的に運用統制するために戦争に必要な物資や人間を国家が自由に動員できることを可能にした。  日中戦争も泥沼化するとしだいに流行歌・歌謡曲も軍国歌謡が目立ってきた。「露営の歌」「軍国の母」「上海だより」「九段の母」「麦と兵隊」が流行した。昭和14年、満州西北部の満蒙国境で関東軍とソ連軍が武力衝突(ノモンハン事件)した。火力に勝るソ連軍に死傷者2万人の壊滅的打撃を受ける。国内では国家総動員法に基づいて国民徴用令が公布され、国民が軍需産業に動員されるようになった。日本と防共協定を結んでいたドイツが突然ソ連と不可侵条約を締結し日本は外交上混迷をきたした。平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」という声明を残し総辞職。この時点でノモンハン事件は解決しておらず、日本は外交方針を見失った。9月にドイツがついにポーランドに侵攻。イギリス、フランスがただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。昭和14年には、軍国歌謡は盛んに作られ、「愛馬進軍歌」「兵隊さんよありがとう」「大陸行進曲」「太平洋行進曲」「出征兵士を送る歌」が歌われた。
服部メロディー  
日中戦争泥沼する中、淡谷のり子が歌う「別れのブルース」(藤浦洸・作詞/服部良一・作曲)は哀愁に満ちたメロディーで人々の心をとらえた。甘くロマンチックな曲は、暗く不安な時代の前触れにおののく若者の心を慰めたのである。服部は、少年音楽隊出身で、エマヌエル・メッテルに師事しながら大阪ジャズのサウンドで己の感性を育んだ。昭和8年東京へ上京し、ニットーレコードの音楽監督になった。昭和11年コロムビア専属となり、ジャズのフィーリングを生かした作曲を試みた。ブルースに関心をしめし、それが「別れのブルース」になった。  淡谷のり子は「別れのブルース」の低い音域を歌うために煙草を一晩中ふかして服部が要求する魂のこもった声にしたエピソードがある。淡谷は東洋音楽学校在学中、クラック界の大御所・山田耕作から「10年に一人のソプラノ」と絶賛された。青森から母と妹の三人で上京し、貧しい少女時代の体験、重くのしかかるクラシック世界の前近代的従弟制度への反発、自立した女性としての逞しさが優れた彼女の音楽的資質を支えていた。同時にこの曲はジャズ(洋楽・ポップス)を取り入れた服部良一を浮かび上がらせたのである。  新時代を迎えた昭和初期、日本の流行歌は日本系と外国系と大きく二つの流れがあったが、服部メロディーが台頭する頃には、その系脈も複雑なってきた。外国系流行歌は。芸術歌曲/ジャズ・ポピュラーソング(タンゴ・シャンソン)/ホームソング。日本系歌謡曲は東西の混合曲(ブルース調・タンゴ調)/五音音階・都節・艶歌唱法の日本調歌謡・浪花節系というように複雑な系脈になったのである。  
映画主題歌黄金時代  
SPレコード歌謡は軍国歌謡の台頭と並行して映画主題歌を中心に隆盛史、黄金時代を迎えた。翌昭和13年、コロムビアが新鋭・霧島昇でホームランを飛ばした。雑誌「婦人倶楽部」に連載された川口松太郎の小説を映画化した『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」(西條八十・作詞/万城目正・作曲)が爆発的ヒットのである。また、コロムビアからは渡辺はま子が歌う「支那の夜」(西條八十・作詞・竹岡信幸?作曲・渡辺はま子・歌唱)がヒットした。昭和14年に入ると二葉あき子が歌ったブルース調の「古き花園」(サトウ・ハチロー・作詞・早乙女光・作曲/二葉あき子・歌唱)がヒットした。これは『春雷』の主題歌である。  昭和13年から14年にかけては上海歌謡の隆盛を見ることができる。「上海」をテーマに異国情緒漂う哀愁やロマンチシズムを歌うものが多くなってきた。東海林太郎の歌声で「上海の街角で」(佐藤惣之助・作詞/山田栄一・作曲/東海林太郎・歌唱)、ディック・ミネが歌う「上海ブルース」、藤山一郎の甘く流麗な艶と張りのあるテナーでヒットしたタンゴ・「上海夜曲」などがある。 昭和14年に入っての映画主題歌では、コロムビアと松竹がタイアップした映画『純情二重奏』の主題歌「純情二重奏」が高峰三枝子・霧島昇の歌で発売されヒットした。昭和15年なると、コロムビアが立て続けに映画主題歌でヒットを放った。東宝映画『白蘭の歌』の主題歌「白蘭の歌」「いとしあの星」、さらにコロムビアは古賀メロディーが第三期黄金時代を迎え、「誰か故郷を想わざる」、東宝映画『新妻鏡』の主題歌「新妻鏡」「目ン無い千鳥」がヒットした。服部メロディーでは蘇州の美しい風景と抒情を盛り込んだ「蘇州夜曲」がヒットした。これも、映画『支那の夜』の主題歌で、主演の長谷川一夫と李香蘭の人気はすさまじいものであった。  李香蘭は妖艶な美貌であり、この映画ですでにレコード歌謡としてヒットしていた「支那の夜」を甘く情緒豊かにスクリーンで歌って絶大な人気を博した。コロムビアのヒット街道に対して、ビクターも映画主題歌でヒットを出した。南旺映画『秀子の応援団長』の主題歌・「燦めく星座」(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)は、灰田勝彦の人気を都会偏重から全国的なものにした。
異色歌手の登場  
昭和流行歌・歌謡曲は、声楽家や音楽学校出身者に占められていたが、様々な職種から歌手になる者が増えてきた。専修大学野球部出身でわかもと製薬入社後歌手になった上原敏は、昭和12年、芸道一筋に生きる流転の人生をテーマにした「流転」(藤田まさと・作詞/阿部武雄・作曲)男の心情溢れる「裏町人生」(島田磐也・作詞/阿部武雄・作曲)でスターダムにのしあがった。戦後「オカッパル」の愛称で親しまれた岡晴夫は、上野松坂屋の店員のかたわら、阿部徳治、坂田義一に師事し、やがてデパートをやめ演歌師の途に入った。やがて、上原げんと知り合い、昭和14年、「上海の花売娘」(川俣栄一・作詞・上原げんと・作曲)「港のシャンソン」(内田つとむ・作詞・上原げんと・作曲)がヒットし上原げんと・岡晴夫コンビが歌謡界において誕生した。田端義夫は少年時代から苦労して歌手になった。昭和14年「大利根月夜」でヒットを出し、昭和15年「別れ船」でマドロス歌謡の先駆となる。  これらの異色歌手の登場は、艶歌唱法による演歌系歌謡の地下水となり、戦後昭和30年代の演歌隆盛の時代へとその系脈は流れてゆくのである。
軍国歌謡の逆襲  
軍国歌謡の最大のヒットはコロムビアから昭和15年に発売された「暁に祈る」(野村俊夫・作詞/古関裕而・作曲)である。伊藤久男の歌唱は劇的で、古関裕而の悲壮感あふれるメロディーを際立たせ、かえって望郷の念をつのらせ、むしろ反戦的なイメージを与えたのである。この唄の持つ悲壮感と切なさが、銃後の大衆のみならず戦地にいる兵士の心を揺さぶったといえる。昭和15年9月、日独伊三国同盟成立。すでにナチスのような強力な指導政党を目指した新体制運動は、10月大政翼賛会として結実した。官製の「上意下達」機関となり戦争遂行のために国民を動員するうえで大きな役割を果たすことになった。  国民歌謡の「隣組」(岡本一平・作詞/飯田信夫・作曲)は徳山lが歌い広まったが、明るく微笑ましい光景の中に戦時体制の『翳』を象徴していた。昭和15年、紀元2600年祝賀行事は全国で盛大に挙行され「紀元二千六百年」(増田好生・作詞/森儀八郎・作曲)のレコードセールスは60万枚を記録した。昭和16年、日ソ中立条約を締結、日本はこれを背景に日米交渉に臨んだ。だが、交渉は最初から難航した。ヨーロッパ戦線で破竹の勢いで追撃するドイツは突如ソ連侵攻を開始。政府は御前会議を開き、情勢の推移に応じ対米英戦覚悟で南方進出。もしくは情勢有利の場合はソ連を攻撃するという方針を定めた。昭和16年に入ると国民の士気昂揚を高めるために次々と軍国歌謡が発売された。「出せ一億の底力」(堀内敬三・作詞/作曲)は藤山一郎、二葉あき子、柴田睦陸、大谷冽子、奥田良三らの共演により各社より発売された。テイチクに移籍した東海林太郎が歌った「ああ草枕幾度ぞ」(徳土良介・作詞/陸奥明・作曲)が発売され、銃後の人々の胸を打つものであった。 政府は日米交渉の継続を図るが、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行に移され  それに対しアメリカは対日石油禁油で経済制裁を強め、軍部はその「ABCD包囲陣」を打破するためには、戦争に訴える以外に道はないと主張。アメリカは日本に対して満州を除く中国からの撤兵、日独伊三国同盟の死文化を要求し、お互い妥協を見いだせないまま開戦を主張する東条英機陸相が近衛内閣に代わり内閣を組閣、12月1日の御前会議で対英米蘭開戦が決定された。そして12月8日突然ラジオから臨時ニュースが流れ、それは真珠湾攻撃に成功し南太平洋で米英と戦争状態に入るという運命のニュースであった。江口夜詩・作曲の「月月火水木金金」(高橋俊策・作詞/江口夜詩・作曲)が発売当初はまったくレコードが売れなかったが、開戦によって脚光を浴びるようになった。
太平洋戦争勃発  
日本は破竹の勢いで南方を次々と占領。昭和17年1月マニラ占領、2月シンガポール陥落させた。シンガポール陥落に従事した兵士が亡き戦友を思って作った歌がレコードになった。それが「戦友の遺骨を抱いて」(逵原実・作詞/松井孝造・作曲)である。また、陸海軍落下傘部隊の活躍を讃えた「空の神兵」(梅木三郎・作詞/高木東六・作曲)が反響を呼んだ。歌謡曲は南方メロディーが中心になった。灰田勝彦が歌う「ジャワのマンゴ売り」(門田ゆたか・作詞/佐野鋤・作曲)、比較的リズミカルな「南から南から」などがヒットした。召されて征く夫や子の無事を祈る女性の心情を歌ったのが「明日はお立ちか」(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲/小唄勝太郎・歌唱)が大衆の心に染み入りながらヒットした。  太平洋戦争が始まると軍国歌謡が主流になった。国民の戦争への決意を強固にあるために「大東亜決戦の歌」が各社から発売された。このレコード発売後、昭和17年4月、米軍機によって本土空襲を受けた。そして、太平洋戦争の戦況はミッドウェー海戦の敗北を境に一気に日本に不利な状況となる。 太平洋戦争の花形は航空戦である。昭和17年5月、愛機「隼」とともに散った加藤建夫中佐の武勲を讃え、空の軍神の死を悼んで映画『加藤隼戦闘隊』が制作され、ビクターから灰田勝彦の歌で「加藤部隊歌/加藤隼戦闘隊」(田中林平、朝日六郎 作詞/原田喜一、岡野正幸 作曲)が発売された。
戦争の激化と歌謡曲  
戦争の色が濃くなったレコード歌謡に抒情歌も生まれていた。霧島昇と二葉あき子の「高原の月」(西條八十・作詞/仁木他喜雄・作曲)や「鈴懸の径」(佐伯孝夫・作詞/灰田晴彦・作曲)は抒情歌謡として好評だった。「鈴懸の径」はカレッジ・ソングとして若者の哀感を歌い、死と共存する若者達の愛唱歌となった。佐伯孝夫が早稲田、作曲の灰田晴彦は慶応、歌唱の灰田晴彦は立教と、それぞれのキャンパスライフの想いがあった。また、タンゴ調の「新雪」(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)は戦争によって荒んだ人々の心を癒した。  昭和18年に入ると、国民は耐乏生活を強いられるようになった。学従出陣、勤労動員が始まり、未婚の女子は女子挺身隊として軍需工場などに動員された。また、朝鮮人や占領下の中国人を軍需工場で働かせた。国内では決戦体制に突入し国家管理統制の下で映画も国策遂行のための武器になったが、大衆には戦争色の薄いものが好まれた。昭和18年の映画主題歌としては、泉鏡花・原作『婦系図』の映画主題「婦系図の歌」(佐伯孝夫・作詞/清水保雄・作曲)、伊那の勘太郎』の主題歌「勘太郎月夜唄」(佐伯孝夫・作詞/清水保雄・作曲)がヒットした。映画も長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子、古川ロッパらが共演し好評だった。戦後「婦系図の歌」は「湯島の白梅」のタイトルに変えられている。
敗戦への途  
昭和18年、太平洋上の制空権をかけての戦いは人的物的に激しい消耗戦を呈し、海軍の予科練習生は貴重な兵力となった。通称「ヨカレン」と呼ばれ,厳しい訓練を受ける予科連をテーマに歌も生まれた。「決戦の大空へ」の主題歌として「若鷲の歌」(西條八十・作詞/古関裕而・作曲//霧島昇・波平暁男・歌唱)が発売され23万枚の驚異的なヒットとなる。昭和19年に入ると、6月マリアナ沖海戦の敗北、7月インパール作戦の中止命令、同月サイパン島陥落、10月レイテ沖海戦の敗北、神風特別攻撃隊の実施、11月、東京がB−29の空襲を受け、以後アメリカ軍の本土空襲が激化する。日本経済と国民生活はしだいに崩壊していった。  太平洋戦争の最前線で激闘を繰り返していたラバウル海軍航空隊の活躍を描いた「ラバウル海軍航空隊」(佐伯孝夫・作詞・古関裕而・作曲)、アメリカ軍の猛攻によって、撤退を余儀なくされ、その無念と別離の心情を歌った「ラバウル小唄」(元歌・「南洋航路」)が流行した。学徒動員の歌として「あゝ紅の血は燃ゆる」(野村俊夫・作詞/明本京静・作曲)作られ、悲壮感あふれるレコードが発売された。また、古賀メロディーの「勝利の日まで」(サトウ・ハチロー・作詞/古賀政男・作曲)は明るい旋律のなかに敗戦を予感される哀感が込められていた。  昭和20年2月硫黄島上陸(3月守備隊玉砕)、3月東京大空襲、4月アメリカ軍沖縄上陸、日本の敗北は必至となった。迫りくるアメリカ機動艦隊に肉弾攻撃を加えた特別攻撃隊をテーマにした〈無念の歯がみこらえつつ・・・〉・「嗚呼神風特別攻撃隊」(野村俊夫・作詞・古関裕而・作曲)、「神風特別攻撃隊の歌」(西條八十・作詞/古関裕而・作曲)が日蓄(コロムビアの社名変更)から発売され、悲愴感溢れる歌が戦争の悲惨さを伝えていた。た。その特攻隊員に歌われたのが同期の桜」(西條八十・作詞/大村能章・作曲)である。飛び立って行く搭乗員たちは、その出撃前夜、酒を特攻隊員に歌われ、戦後生きた軍歌として戦中派の傷心を癒し広く歌われた。  
流行歌史概説 
昭和三年
大正時代の流行歌は、街頭で演歌師が歌い流行らして歌をレコード会社がレコードにした。ところが、電気吹込みシステムを完備した外資系レコード会社が日本に製造会社を作ようになると事情が変わった。昭和二年五月、日本ポリドール蓄音器商会、昭和二年九月、日本ビクター蓄音器株式会社、翌三年一月には日本コロンビア蓄音器株式会社が設立し、レコード会社が企画・製作して宣伝をして大衆に選択させるという時代になった。作詞も詩壇で鍛えた詩人たちが歌謡作家として登場した。殊にフランス象徴派詩人の西條八十が流行歌の作詞をすることは驚きであった。昭和モダンの風景を流行歌で現象化したのである。昭和SPレコード歌謡は、民衆歌曲の大御所中山晋平を擁するビクター独走で幕を開けた。晋平節の第一人者佐藤千夜子が歌う《波浮の港》は10万枚のヒットとなった。また、我らのテナー藤原義江の赤盤レコードも好評だった。欧米の舞台で活躍した藤原義江のテノールは愁いがあり日本情緒にも溢れ、洋楽愛好家に喜ばれた。藤原は、独特のフレージングと歌唱表現で《出船》《出船の港》などをヒットさせた。昭和モダンはジャズブームを迎えるが、二村定一のジャズ・ソングは、時代の尖端だった。昭和モダンの空間にジャズは心地よく響いた。二村は、浅草オペラ出身の歌手で大正十四,五年ころからジャズソングをニッポノホンに吹込んでいた。昭和三年、二村が歌った《青空》《アラビアの唄》はヒットし一躍人気歌手に押し上げた。二村定一は、藤原義江のようにオペラの発声法ではなく日本語を明瞭に発音した。これに影響受けた東京音楽学校の秀才増永丈夫が正統な声楽技術を解釈したクルーン唱法で後にヴォーカル革命をもたらす。
2月20日―第16回総選挙(最初の男子普通選挙)
3月15日―三・一五事件(共産党への全国的大弾圧・検挙)
4月19日―第二次山東出兵決定
5月3日―済南事件(日本軍、国民革命軍と武力衝突)
6月4日―張作霖爆殺事件(満州某重大事件)
6月29日―緊急勅令で治安維持法改正公布・施行(死刑罪・目的遂行罪追加)
7月3日―特別高等警察課設置
8月27日―パリ不戦条約調印
11月10日―昭和天皇即位礼挙行
昭和四年
昭和四年一月新譜でビクターから発売された《君恋し》が二村定一の歌唱でヒットした。これは、レコード会社が企画して歌謡作家、作曲家に依頼して製作し初めてヒットしたレコードだった。作曲者の佐々紅華は、ジャズのリズムと日本情緒を融合させた流行歌を作り、二村定一とのコンビでヒットを放った。つづいて、ビクターから六月新譜で発売された《東京行進曲》が大ヒット。歌唱者の佐藤千夜子は、女王の座に上りつめた。ジャズ、リキュール、シネマ、などのモダニズムの記号がちりばめられ、まさにモダン都市東京のカリカチャーだった。昭和モダンを背景にした都市文化を象徴していたのだ。当時は、マルクス主義の全盛の頃で、〈シネマみましょうか、お茶のみましょか、いっそ、、小田急で逃げましょか〉は最初、〈長い髪してマルクスボーイ、今日も抱える赤い恋〉だった。西條八十は、当時、ビクターの文芸部長だった岡庄五の「官憲がうるさい」という言葉に折れて瞬時に言葉を組み替えた。《東京行進曲》は、レコード会社と映画会社の提携企画による映画主題歌第一号である。レコードと映画が同時に企画制作されヒットしたのはこれが最初である。佐藤千夜子は、山形の天童出身、女子音楽学校で声楽を学び東京音楽学校に進んだが中山晋平の新民謡運動に共鳴し退学して演奏活動に入った。この年の暮れ、プレクトラム音楽に新風を巻き起こした古賀正男(後の古賀政男)の作品が佐藤千夜子によってビクターのスタジオで吹込まれた。
3月5日―山本宣治刺殺
4月16日―四・一六事件(共産党員全国的大検挙)
7月9日―浜口雄幸内閣・対華外交刷新・軍縮促進・財政整理・金解禁など十大政綱発表
10月10日―アメリカ株式市場暴落
11月3日―光州事件(朝鮮光州の学生の抗議デモ)
昭和五年
昭和五年は、エログロナンセンスの世相がSPレコード歌謡にも表れた。昭和五年一月に断行された金解禁は前年のウォール街の株の暴落のあおりを受け失敗。昭和恐慌によって、日本経済は破綻した。都市には失業者が溢れ、農村は悲惨な状況を迎えた。モダ二ズムの担い手である中間層は、戦争と恐慌の不安に脅え逃避の場を頽廃する娯楽に求めた。「カジノ・フォーリー」に代表されるエロ・グロ・ナンセンスの頽廃文化の状況が現れた。この年は、「十年に一人のソプラノ」といわれた淡谷のり子がポリドールでレコードを吹込みSPレコード歌謡レコード界に登場した。東洋音楽学校を首席で卒業し、新人演奏会で山田耕筰から絶賛された資質は、経済的事情から流行歌の世界で開花することになる。ポリドールは、流行歌においてコロムビア、ビクターに遅れをとったが、昭和五年一月新譜から流行歌も発売した。淡谷のり子のデビュー盤もそれに含まれていた。また、昭和五年、十月二十日、佐藤千夜子の歌唱で《影を慕いて》がビクターのスタジオで吹込まれた。ギター創作歌曲がついに民衆歌謡としてレコードになったのである。だが、レコードは売れず、藤山一郎の登場を待たなければならなかった.。
1月11日―金輸出解禁実施
4月22日―ロンドン海軍軍縮条約調印
5月6日―日華関税協定調印
10月1日―枢密院、ロンドン海軍軍縮条約調印
11月14日―浜口雄幸首相、東京駅で狙撃
昭和六年
昭和六年四月重要産業統制法が公布された。政府は、一般大衆を切り捨てる政策をとりカルテルを促進させ財閥の擁護を図った。この年は、昭和モダンの翳で泣く女給の涙を歌った《女給の唄》、東京音楽学校(現芸大)出身のバリトン歌手徳山lが堂々と歌った《侍ニッポン》などが流行した。いずれも作詞は西條八十。昭和六年、九月十八日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の行為とみせかけて関東軍は軍事行動を開始した。これが満州事変に発展した。このような暗い世相を背景に古賀メロディーが一世を風靡した。これまで劣勢だった日本コロムビアは,いっきに巻き返すことになる。歌唱者の藤山一郎は、当時、東京音楽学校(現芸大)の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。クルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現した功績がある。また、その一方で、スピントの効いた張りのある美声で《丘越えて》に代表されるように古賀メロディーの青春を高らかに歌った。だが、あまりにもレコードが売れたため、学校当局が知ることになり、藤山一郎(増永丈夫)は、一ヶ月の停学処分となった。
3月―三月事件・軍部クーデタによる宇垣一成内閣樹立企図
4月1日―重要産業統制法
6月27日―中村大尉事件
9月18日―柳条湖事件(関東軍参謀ら、満鉄線路爆破しこれを口実に軍事行動)
10月―十月事件・軍部内閣樹立のクーデター計画
11月17日―若槻内閣政府不拡大方針崩壊
12月13日―犬養内閣・金輸出再禁止
昭和七年
昭和七年の世相は、血盟団事件、五・一五事件、坂田山心中、など暗い陰影を露にしていた。そのような時代相を反映した藤山一郎歌唱による《影を慕いて》が一世を風靡した。続いて徳山l・四家文子歌唱の《天国に結ぶ恋》が流行した。徳山lは、すでに前年の《侍ニッポン》もヒットさせ流行歌手の地位を得ていた。共演者の四家文子も東京音楽学校の出身の声楽家(アルト)で《銀座の柳》をヒットさせた。また、ビクターでは、《涙の渡り鳥》で新鋭佐々木俊一が登場。彼は、東洋音楽学校を中退しビクターのオーケストラの一員でドラムを叩いていた。これを歌った小林千代子は東洋音楽学校出身で、当初は金色仮面という覆面歌手で話題をまいた。《涙の渡り鳥》のときは覆面は脱いでいた。ポリドールからは、海軍軍楽隊出身の江口夜詩が《忘られぬ花》をヒットさせ古賀政男に対抗した。江口メロディーのスタートである。これを歌った池上利夫は、福田恒治といって東京音楽学校師範科の生徒だった。すでに、ニットから、大川静夫の名前で《夏は朗らか》を歌いデビューしていた。
1月28日―第一次上海事件
2月9日―血盟団員、前蔵相井上準之助射殺
3月1日―満州国建国
3月5日―血盟団員、三井合名会社理事長団琢磨射殺
5月15日―五・一五事件、海軍青年将校、首相官邸などを襲撃し、犬養首相暗殺
9月15日―日満議定書調印
昭和八年
昭和八年三月、日本は満州国をめぐり英米と対立し国際連盟を正式に脱退した。これによって、日本は国際社会から孤立することになる。国内では、自由主義的刑法学説を提唱していた滝川幸l辰(京都帝国大学教授)が免職となるという滝川事件、日本共産党の最高指導者たちの獄中からの転向表明など、思想、学問への圧力が目立ちはじめた。昭和八年のSPレコード歌謡は、小唄勝太郎のハー小唄が一世を風靡。勝太郎神話が生まれる。昭和八年春、藤山一郎が東京音楽学校を卒業しビクターと専属契約を結ぶ。声楽家増永丈夫とテナー藤山一郎の二刀流。《僕の青春》は、晴れて卒業を祝福されるかのような青春讃歌だった。世の人々にも歓迎されて見事にヒットした。また、増永丈夫では、《第九》のバリトン独唱をこなし、「上野最大の傑作」を認識させた。クラシックの声楽家が流行歌手になる。それもモダニズムである。コロムビアは、すでにポリドールから《忘れられぬ花》で売り出していた池上利夫を松平晃として入社させ対抗馬として期待した。古賀メロディーの《サーカスの唄》を吹込む。当時、松平は、東京音楽学校の師範科に在学中だったが、このヒットで秋には学校を退学した。また、コロムビアには江口夜詩が入社し《十九の春》をヒット。歌唱者は、東京音楽学校出身のミス・コロムビア(松原操)。松原は、同校の研究科に在籍中で修了するまでは本名を隠して吹込むという約束をコロムビアとかわしている。夏に入ると「ええじゃないか」の昭和版といわれた《東京音頭》が大流行した。この狂乱ともいうべき熱狂はファシズムの前夜を思わせた。
1月9日―実践女学校専門部生徒、三原山で自殺
2月20日―小林多喜二、築地署に検挙され虐殺(29日)
2月24日―国際連盟・撤退勧告案可決に対して松岡洋右代表が退場
3月27日―国際連盟脱退正式通告
4月22日―滝川事件(滝川幸辰の著書が問題となり京都大学休職)
6月7日―共産党幹部佐野学・鍋山貞親ら転向表明
昭和九年
昭和九年のSPレコード歌謡は、《さくら音頭》合戦、古賀政男を迎え東京進出をはたした新興勢力テイチク、ポリドールの東海林太郎旋風が話題であった。《赤城の子守唄》が空前の大ヒットとなった。当時の流行歌手は、徳山l、四家文子、関種子、藤山一郎、淡谷のり子などの音楽学校出身者が主流を占めていたが、東海林太郎は、音楽コンクールに入賞したとはいえ、その出身ではなかった。早稲田を終え満鉄に就職したがそこを辞して下八川圭祐に師事し歌手になったのである。放送オペラにも出演していたが、直立不動の姿勢を保ち澄んだバリトンでSPレコード歌謡において東海林太郎時代を築いた。昭和九年のSPレコード歌謡は、東海林太郎のポリドール、古賀政男を迎えたテイチクの新興勢力に名門もロムビアの江口ー松平コンビが対抗するという図式で展開する。江口夜詩は、古賀メロディーに無かった分野を開拓した。「曠野もの」といわれたジャンルである。松平晃が歌う《急げ幌馬車》がヒットした。古賀は、《国境を越えて》を作曲するが、ポリドールの東海林太郎が万感の思いを込めて歌った《国境の町》に完敗した。コロムビアを追いやられる形になった古賀政男の江口夜詩に対する対抗意識は凄まじいものであった。だが、藤山一郎無しでの古賀メロディーは苦戦をすることになる。この昭和九年のSPレコード歌謡には、外国のポピュラー曲に傑作が多い。楽壇の雄テノール歌手の奥田良三が歌唱するドイツ映画『会議は踊る』の主題歌《命かけて只一度》、中野忠晴がヒットさせた《山の人気者》 唄川幸子の歌でニットから発売された《上海リル》、東海林太郎の澄んだ響きで《谷間の灯》、藤山一郎の美しいテナーの音色をいかしたハイバリトンで歌唱する《蒼い月》、淡谷のり子の妖艶なソプラノによるジャズ・タンゴ・シャンソンなどの洋楽文化をポピュラーなものにしていた。
昭和十年
昭和十年のSPレコード歌謡は、藤田まさと-大村能章-東海林太郎のポリドールが道中物で圧倒する。《旅笠道中》、《むらさき小唄》がヒットした。殊に昨年暮れからの《国境の町》のヒットによって東海林太郎の人気は凄まじいものであった。名門ビクターは、《無情の夢》で意地を見せる。イタリア帰りの児玉好雄が歌った。彼は、オペラを勉強中にも小唄、端唄、民謡の研究にも余念ガなく、その成果がヒットにつながった。同じ名門コロムビアは、江口-松平コンビが「曠野物」でヒットを放つ。松平晃・豆千代が歌う《夕日は落ちて》は17万枚の売れ行きだった。古賀政男のテイチクも巻き返しをはかり、ヒット量産にエンジンがかかった。《ダイナ》をヒットさせていたディック・ミネと星玲子が歌った《二人は若い》、テイチクの春を呼ぶかのように楠木繁夫が熱唱した《緑の地平線》がヒット。楠木繁夫は、本名黒田進。昭和三年、東京音楽学校を中退して、関西のオリエント、タイヘイ、ニットー、名古屋のツルレコードなどで吹込みの仕事をした。五五の変名を使ったことは有名である。テイチクでは、藤村一郎という名前で吹込んでいたが、楠木繁夫として再生し《緑の地平線》でようやくスターダムに登った。、ポリドールも負けてはおらず、日本調歌謡の《野崎小唄》が人気絶頂の東海林太郎の歌唱でヒットした。
昭和十一年
昭和十一年の世相は、皇道派の青年将校が軍部内閣樹立を目指して昭和維新を断行し内外の危機打開する目的でクーデターを敢行した二・二・六事件に象徴された。晩秋に発売された妖艶なソプラノで歌う淡谷のり子の《暗い日曜日》は、暗い時代を予兆させるものであった。だが、SPレコード歌謡は、豊かな発展を見ることになる。昭和十一年、春、古賀政男と藤山一郎のコンビが復活した。二人の合作芸術による《東京ラプソディー》はモダン都市東京を高らかに歌い平和の讃歌でもあった。昭和モダンの最後の余韻であり、都市文化の讃歌といえる。藤山一郎の声量も豊かで正確無比な歌唱は、古賀メロディーを決定的なものにし、テイチクは、古賀メロディー全盛によって黄金時代を迎える。この年は、健全な歌を目指し、国民歌謡もスタートした。この年は、《忘れちゃいやよ》に対する「婦女の媚態を眼前に見る如き官能的歌唱」という批判もあり、流行歌の浄化を目的にしていた。奥田良三、関種子、徳山l、四家文子、藤山一郎(増永丈夫)松平晃、永田絃次郎らが放送した。国民歌謡は、日本歌曲のような格調が高いものが多く、流行歌ほどの広がりは見られなかった。
昭和十二年
昭和十二年,七月七日、盧溝橋事件が勃発した。現地では、停戦の動きもあったが、第一次近衛文麿内閣は、閣議で派兵を決定し泥沼の全面戦争に発展した。日中戦争開始後、軍国歌謡の先頭を切って盛んに歌われたのが《露営の歌》だった。軍国の高まりのなかで、昭和十二年のSPレコード歌謡は、まず、古賀メロディーの黄金時代で幕を開けた。ディック・ミネが切実と歌う《人生の並木路》、藤山一郎の美しい澄んだ響きで《青い背広で》《青春日記》がヒットした。ディック・ミネは、ジャズシンガーであり、外国のポピュラーソングのレコードを数多く吹込んでいた。古賀メロディーのヒットは異色であった。キングレコードもようやくヒットに恵まれた。松島詩子の歌唱でロマンチックな《マロニエの木蔭》が流行した。ポリドールからは、日本調歌謡で新たなスターが登場した。上原敏である。東海林太郎とは、また一味違った泥臭さのある歌唱で《妻恋道中》《流転》《裏町人生》などをヒットさせた。上原は、専修大学時代野球部で活躍、わかもと製薬の野球部でも活躍した。ポリドールの文芸部長秩父重剛の知遇をえてポリドールに入社した異色歌手である。また、ポリドールの先輩歌手東海林太郎は、文芸歌謡として《すみだ川》、社会派歌謡の《湖底の故郷》をヒットさせた。このように軍国歌謡の高まりのなか、SPレコード歌謡は黄金時代を満喫するが、淡谷のり子のブルースは新しい風をもたらした。淡谷のり子の《別れのブルース》は、哀愁に満ち人々の心を捉えた。淡谷は、昭和モダンの哀愁を感じさせる妖艶なソプラノでジャズ、タンゴ、シャンソンを歌っていたが、これに加えてブルースの女王という新たな魅力を大衆にアピールした。作曲者の服部良一は、流行歌に「ジャズのフィーリングをいかした作曲をしていたが、この《別れのブルース》で一流の作曲者の仲間入りをはたした。
昭和十三年
昭和十三年二月、各社レコード会社は、国民の自発的な戦争協力を高め、日本精神の高揚を目的に制定された《愛国行進曲》を競って発売した。レコードは、四月に新譜発売されたビクター盤、バリトン歌手徳山lが朗々と第一声を響かせたレコードが最もヒットした。これは、荘重な曲想を持ち、稜威の昂揚が謳われており、国民合唱に適していた。また、国民歌謡で発表された《愛国の花》は、メロディーが清潔な印象を与え、女性の間で歌われ一般にもかなり流行した。尚、歌唱は渡辺はま子。クラシックの歌曲のように歌った。中国戦線が長期化すると、国内は戦時体制に見合った経済統制が計られ、人的・物的資源を統制運用する国家総動員法が制定された。国内の戦時体制が強調されるなか、SPレコード歌謡は、ますます充実する。昭和十三年、映画『愛染かつら』の主題歌《旅の夜風》が大流行した。これによって、霧島昇がスターダムにのし上がった。霧島昇は、すでに坂本英明の名前で《僕の思ひ出》を歌いエジソンレコードからデビューしていたが、コロムビアの目に止まり同社の専属となった。また、中国を舞台に甘い哀愁を漂わせた《支那の夜》が渡辺はま子の歌声で大流行した。美貌とソプラノの音色もつ渡辺はま子は、これによってチャイナメロディーで活躍する。中国戦線は果てしなく続き、戦地に赴く兵士たちは、故郷を偲ぶ歌を好んだ。火野葦平の『麦と兵隊』をもとに作った《麦と兵隊》が戦地と銃後を結びつけ東海林太郎の歌唱でヒットした。
昭和十四年
昭和十四年、国民徴用令によって、一般国民が軍需産業に動員されるようになり、財閥系企業も国策への協力を強めた。同年九月、ドイツがポーランドに侵入しついに第二次世界大戦が勃発した。昭和十四年は、SPレコード歌謡において異色歌手が登場する。松坂屋のデパートの店員だった岡晴夫、旋盤工をしながら歌手を目指し、新人歌手コンクールで入選した田端義夫などがSPレコード歌謡にデビューした。岡は、戦後明るい歌声で「オカッパル時代」を築くが、キングから発売された《上海の花売り娘》《港シャンソン》などですでに戦前おいてヒットを飛ばしていた。田端は、「バタやん」の愛称で親しまれ独得の歌いまわしで人気を得た。また、同じポリドールからは、北廉太郎が既に同社の期待を担って登場していた。昭和十四年、四月、藤山一郎がテイチクから、コロムビアで移籍した。コロムビア(アルバイト)→ビクター→テイチク→コロムビアと古巣に戻ってきた。そして、再び、声楽家増永丈夫とテナー藤山一郎の二刀流が始まる。ビクターでは、アルト歌手の由利あけみが《熱海ブルース》《長崎物語》をヒットさせた。由利は、東京音楽学校の出身で《お蝶夫人》の鈴木役や《カルメン》で好評を博した。コロムビアの女性歌手では、二葉あき子が《古き花園》を歌いスター歌手の仲間入りをはたした。二葉は、東京音楽学校の師範科出身で、広島で女学校の先生をした後に昭和十一年コロムビアから、《愛の揺り籃》で流行歌に登場した。また、古賀政男が去った後のテイチクでは、ディック・ミネが《或る雨の午後》《上海ブルース》などを外国曲のフィーリングをいかしながらヒットさせた。
昭和十五年
昭和十五年六月、近衛文麿が枢密院議長を辞して新体制運動の先頭に立つことを表明した。同年九月には、日独伊三国同盟が成立し、十月には新体制運動は大政翼賛会に結実した。戦時体制が完成されて行くなか、昭和十年前後から始まったSPレコード歌謡の第二期黄金時代は、コロムビアが制することになった。古賀政男は外務省音楽親善使節として多大な功績を残して帰国。コロムビアから《誰か故郷を想わざる》《新妻鏡》《なつかしの歌声》などヒットさせた。コロムビアは、正格歌手藤山一郎、軍国歌謡においてドラマテックなバリトンで歌う伊藤久男、霧島昇、ブルースの女王淡谷のり子、渡辺はま子、二葉あき子らを擁して他社を圧倒した。伊藤久男が熱唱する《暁に祈る》に代表される軍国歌謡の隆盛のなか、《湖畔の宿》の美しい抒情的なメロディーは高峰三枝子の歌声とともに人々の心をうった。また、昭和十五年のSPレコード歌謡は灰田勝彦が人気を博した。灰田は、立教大学出身のハワイアン歌手だった。ニットーから、昭和八年に《モアナ麗わし》でデビューし、昭和十一年ビクターの専属になり、ジャズなど幅広く軽音楽を歌っていた。映画『秀子の応援団長』の主題歌である《燦めく星座》は、都会偏重だった灰田の人気を全国的なものにした。渋いバリトンに加えヨーデルや裏声を交えた甘い歌唱は、多くのファンを魅了した。
昭和十六年
昭和十六年十二月八日、日本は、マレー半島上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃することによって、太平洋戦争に突入した。だが、太平洋戦争突入前のSPレコード歌謡は、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》など戦争を感じさせないレコードも発売された。レコード界の話題としては、東海林太郎がポリドールからテイチクに移籍したことである。ポリドールをコロムビア、ビクターに比肩させるまでにした東海林太郎の力でテイチクを盛り上げようという意図なのである。藤田まさと、長津義司、田村しげるなどポリドールの主力が移籍した。ビクターから発売された《歩くうた》は、曲調は単調でリズムが重く太平洋戦争の悲劇を予兆するような印象をあたえた。これを歌唱した徳山lは、翌年、一月逝去した。
昭和十七年
昭和十七年一月マニラ占領、二月、シンガポール陥落させ、破竹の勢いで南太平洋の広大な地域を占領した。だが、昭和十七年六月、ミッドウエー海戦の敗北を転機にして戦局は、しだいに不利となり、アメリカ軍の本格的攻勢を受けることになった。昭和十七年八月、敵国の文字である「コロムビア」の称号を使用することは憚れ、「日蓄(ニッチク)」と改称することになった。同じようにビクターは「勝鬨」、ポリドールは、「大東亜」、キングは「冨士」、テイチクは、「帝蓄」と改称していった。軍国歌謡が盛んに作られる中、抒情的な歌謡も生まれた。霧島昇と二葉あき子の歌唱による《高原の月》、タンゴのリズムにのせ人気絶頂の灰田勝彦が歌う《新雪》、青春の感傷と抒情的な美しさが好まれた《鈴懸の径》、文芸歌謡の傑作《湯島の白梅》などが愛唱された。《湯島の白梅》を歌った小畑実は、すでにポリドールからデビューしていたが、この歌で世に知られるようになった。
昭和十八年
昭和十八年には、大学・高等専門学校に在学中の徴兵適齢期文科系学生を軍に召集、学徒出陣が始まった。また、学校にのこる学生・生徒を勤労動員し、未婚の女子を女子挺身隊に編成して軍需工場などに動員した。また、朝鮮人の強制連行も増加し、占領下の中国人を日本に連行し鉱山などで働かせた。この年は、戦中歌謡の最後の大ヒットが生まれた。長谷川一夫主演の映画『伊那の勘太郎』の主題歌《勘太郎月夜唄》である。小畑実と藤原亮子が歌った。軍国歌謡では、《若鷲の歌》が大ヒットした。作曲者の古関裕而は、土浦の海軍航空隊へ赴く車中で別のメロディーが浮かびそれを譜面に書き止めた。二つの曲を隊員に聴かせところ、ふと浮かんだマイナーのメロディーの支持が多く、この歌が出来上がった。また、《南から南から》《お使いは自転車に乗って》のような明るい歌も流行した。
昭和十九年
昭和十九年から、アメリカ軍機による本土爆撃が激化し、敗戦の色が濃厚になった。インパール作戦の失敗、サイパン島の陥落、レイテ沖海戦の敗北と日本の運命は、もう見え始めていた。老人、婦女子の地方疎開や国民学校高学年生の集団疎開が行われるなど、国民生活は戦争によって崩壊し始めた。それを象徴するかのように《勝利の日》までは悲壮感と哀愁が漂っていた。また、古賀政男作曲の《月夜船》は、明るい曲調で戦時色がなかったが、戦後、ヒットすることになる。 
流行歌史 
出船の港
《出船の港》の作詞は当時大蔵省の役人だった時雨音羽氏。大正十四年の秋、雑誌『キング』の創刊九月号に楽譜といっしょに掲載された。時雨氏の故郷は北海道の北端日本海に浮かぶ利尻島である。その荒波に思いをはせた書いた。原題は《朝日を浴びて》。昭和初期、藤原義江がアメリカのキャムデンで吹込んだビクターの赤盤レコードは、飛ぶように売れた。彼の力強いテノールが日本国中に響いたのである。沢田正二郎の新国劇にいた頃、田谷力三を見てオペラ俳優を志したことは有名な話である。芸名は戸山英二郎。伊庭孝の勧め渡欧、欧州各地で人気を博した。さて、この《出船の港》だが、藤原は<波のり越して>の詩を<波り越えて>と歌って流行させてしまった。これが現在に至っている。昭和三十六年、《出船の港》の歌碑が建立された。この歌の舞台となった利尻島の沓形岬である。揮毫は時雨音羽氏。氏は、原作通りにすべきか悩んだが、そのまま<波り越えて>と故郷の碑に刻んだ。
波浮の港
この歌が発表されたのは、大正十三年『婦女界』の六月号においてであった。野口雨情の新民謡の代表作でもある。昭和三年、ビクターが国内録音の新譜発売に踏みきると、佐藤千夜子の歌唱でレコードが発売された。すでに中山晋平の新民謡の第一人者の地位にいた彼女が吹込んだレコードは十万枚も売れた。その後、藤原義江がビクターの赤盤に吹込んだレコードも発売されると、この歌はますます流行した。藤原の歌唱は、お得意のピアニッシモで島の乙女の慕情を悲しく表現している。鋼のようなテナーだが愁いのある音色が多く人々を魅了した。昭和の初めまでは、太平洋上の単なる孤島にすぎなかった伊豆の大島がすっかり有名になってしまったのである。だが、歌の流行とともにクレームが起きた。「波浮」には夕焼けが見えないということである。しかも、「鵜」も「波浮」にはいないそうだ。野口雨情は、土地の事情や風土を知らずに書いたのである。
君恋し
国民的名歌手藤山一郎(声楽家増永丈夫・バリトン)が街頭の蓄音器から流れてくる二村定一の《君恋し》を聴いてレコード歌手に興味を抱いたことは有名なことである。ビクター社長のB・ガードナーから、新しい流行歌をという要求に作詞者の時雨音羽は思案しながら、詩想を完成させた。そして、佐々紅華はジャズ調をイメージし井田一郎が編曲した。宵闇迫る頃、神田のカフェーで植木鉢の片隅で慣れない新人女給の結びつけない帯がずれて体をくねらせるのを見て歌のヒントを得た。さらに、新橋の橋の手すりにもたれながら、芸者の鮮やかな帯の臙脂の色が憂愁の詩のイメージとなったのだ。《君恋し》はレコード会社の企画・製作のヒット第一号。だが、大正十五年にニッポノホンから歌詞が異なる《君恋し》がニッポノホンから発売されていた。メロディーの楽想は感傷だが、いわゆる、和製ジャズ・ソングではなかったのだ。歌唱者の高井ルビ―は歌劇調に歌っていた。日本情緒とジャズをたくみに融合させた佐々紅華の曲想もよかった。レコードは昭和四年一月新譜。歌唱者二村定一は、浅草オペラの出身のテナー歌手である。大正後期からニッポノホンでジャズソングを吹込んだ。昭和に入り放送オペラに出演していたが、ニッポノホンから昭和三年五月新譜の《あお空》《アラビアの唄》を吹込み昭和三年ビクター十一月新譜で《青空》《アラビアの唄》がヒットすると、ジャズソングを本格的に歌うようになった。翌年の《君恋し》で二村の人気は絶頂となった。《君恋し》は、昭和四年に流行するが昭和の悲劇を暗示させる歌だった。ジャズの響きは昭和モダンの「翳」を象徴していたといえる。
東京行進曲
《東京行進曲》は、昭和四年ビクター六月新譜で発売され、二十五万枚という驚異的な流行現象だった。昭和モダンの空間に流れ日本の流行歌の歴史を変えた。作詞、西條八十、作曲、中山晋平、歌唱、佐藤千夜子のトリオ。雑誌『キング』に連載された菊池寛の長編小説が原題。西條八十は、ジャズ、シネマ、リキュール、ダンサー、丸ビル、モダン語をちりばめモダン都市東京の戯画を見事に描いた。当時、マルクス主義の全盛で、〈シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか〉は〈長い髪してマスクスボーイ今日も抱える『赤い恋』〉だった。岡庄五文芸部長の深慮と熱心さに西條は折れて、甘い禁断の恋に変わった。《東京行進曲》は、レコード会社と映画会社の提携企画による映画主題歌第一号である。この歌は、銀座、浅草が歌われているが、新宿が流行歌に初めて登場した。歌唱者の佐藤千夜子はこのヒットで一躍スターダムになったが、翌年、声楽の研鑽のため、アメリカ経由でイタリアへ。昭和五年十月二十日、《影を慕いて》を吹込むとおよそ一週間後の二十八日に日本を離れたのである。その後の人生は寂しかったが、《東京行進曲》の従来の流行歌にはなかったモダン感覚を広めた功績は大きい。そして、古賀政男(当時正男)のマンドリン・ギターを見出した慧眼は評価されるべきであろう。
浪花小唄
この歌は、《君恋し》と同じ時雨音羽、佐々紅華両氏のコンビによる作品である。東の《東京行進曲》に対して、道頓堀、心斎橋を中心にしたモダン大阪の風景が感じられ西の大阪のテーマ曲としてヒットした。ビクターの岡庄正文芸部長は、銀座のバーで海軍仕官の「テナモンヤ」の連発を聞いて、早速、時雨音羽に「テナモンヤ」をいかした大阪の歌を依頼した。時雨音羽は、大阪長堀のすき焼き屋で女中に「テナモンヤ、ダンさん」と肩を叩かれて詩想が湧いた。また、正午の時報のサイレンの鳴る音、心斎橋の商店の日よけも歌詞に盛り込まれた。佐々紅華の旋律はジャズ調でありながら日本情緒が感じられた。また、ネオンが輝くきらびやかな表通りとは対照的な裏通りのうらぶれた寂しさが込められていた。歌手は人気絶頂のジャズシンガー二村定一。二村は「テナモンヤないかないか」と歌詞を間違えて吹込んだ。レコードはそのままで発売された。とはいえ、長い間、大阪のテーマソングとして歌われた。
女給の唄
昭和モダンの涙はカフェーの女給の瞳のなかにある。華やかなネオンの下で多くの女給の涙の物語があったのだ。昭和五年『婦人公論』に連載された広津和郎の長編小説『女給』の題材がモデルとなった。北海道育ちの千代子は男にだまされて出産。乳飲児を抱えて上京。カフェータイガーを皮切りに女給生活に入った。小説『女給』は帝キネで映画化され、昭和六年一月十日に公開され話題を呼んだ。主題歌はビクターから昭和六年一月新譜で発売された。作詞は西條八十、作曲は塩尻精八、歌唱はA面羽衣歌子、B面は藤本二三吉だった。羽衣歌子は、東洋音楽学校出身で浅草オペラの後半にステージに登った。ビクター専属になりこの歌をヒットさせたのである。一番の「さめてさびしい」のテンポダウンの効果をうまく歌っている。作曲者の塩尻精八は、大阪松竹座のピアニスト。《道頓堀行進曲》を作曲して一世を風靡した。
侍ニッポン
群司次郎正の小説『ニッポン』四部作の中で、最も好評得たのが『侍ニッポン』だった。早速、日活が映画化した。主演は大河内伝次郎。井伊大老落胤である新納鶴千代は生来のニヒリスト。性格は些か複雑である。彼にとっては、勤皇左幕の闘争など無意味なものだった。、江戸の恋人菊姫は父の命により井伊直弼の側室に。新納鶴千代は、盟友と菊姫を斬ってあてのない旅へ立つ。当時の左翼もインテリも鶴千代のニヒリズムに共感した。レコードはビクターから、昭和六年四月新譜で発売された。作詞は西條八十、作曲は松平信博。この人は、東京音楽学校出身のピアニスト。日活音楽部の楽長を務めた。歌は希代のユーモリストバリトン歌手徳山lが歌ってヒットした。「ニイロ」を「シンノウ」と間違って歌ったことは有名なこと。徳山は東京音楽学校(現芸代)出身の声楽家。ベートヴェンの《第九》やオペラ《カルメン》のエスカミリオ役等で活躍し流行歌手としてもスターダムとなった。また、レコード吹込みも幅広く歌曲、外国民謡、ジャズソングと多岐に渡っている。
酒は涙か溜息か
満州事変が本格的になりだした頃、古賀政男のギターの旋律に乗せて《酒は涙か溜息か》が一世を風靡した。当時、函館の新聞記者で高橋掬太郎が作詞して古賀政男が作曲した。古賀は七・五・七調の短い歌詞に悩んだ。都市では失業者が溢れ農村は娘の身売りが社会問題となり溜息が充満していた。古賀政男は当時の社会世相に敏感に反応し見事に「ジャズと都々逸」の距離を縮めた。これによって晋平節一色に塗られていたSPレコード歌謡の地図を塗り変えてしまった。いわゆる、古賀メロディーを確立した。この歌は猛烈な勢いで流行した。歌があまりにも流行ったので藤山一郎という歌手が話題になった。当時、彼は本名増永丈夫といって東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)の在校する学生で将来を嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家のモスリン問屋の借財返済のためのアルバイトだった。当時、電気吹込みという時代が始まっていてマイクロフォンに効果的な歌唱で録音した。ホールの隅々に響かせるメッツァヴォーチェを応用したクルーン唱法で古賀メロディーの感傷と詠嘆を表現したのである。ところが、レコード会社でのアルバイトが学校当局に知れ一ヶ月の停学処分となった。藤山一郎の歌唱によって古賀メロディーの芸術を開花させる一曲だった。
丘を越えて
古賀メロディーの魅力は、感傷のメロディーのみならず青春の躍動がある。表現者藤山一郎が登場することによって学園を装置にした青春のメロディーが確立することになる。卒業を迎えた古賀政男は稲田堤に明大の学生らとお花見に行った。春爛漫の季節に桜を背に酒を飲み交わし青春を謳歌した。古賀は、下宿に帰り学帽についていた桜の花びらを見て二度と帰らぬ青春へいとおしさを感じるとマンドリンを手にしながらつぎからつぎへと浮かぶ旋律を書きとめた。やがて、昭和五年十月三十一日、マンドリンの演奏会でマンドリン合奏曲《ピクニック》として発表されたが、昭和六年十二月新譜でコロムビアから《丘を越えて》として発売された。作詞は島田芳文。歌唱者の藤山一郎は今度はマイクロフォンからかなり離れて吹込んだ。レジェローなテナーに加えスピントを効かせ青春を高らかに歌った。《丘を越えて》は流行歌の世界に青春という陽に響きをもたらし、輝かしい青春讃歌として広く大衆に歌われた。
影を慕いて
この歌は、作曲者古賀政男の人生の苦悩から生まれた昭和流行歌の名曲である。古賀政男の青年期の心象風景のすべてが織り込まれていた。恋愛の哀しい別れ、現実の厳しい状況、未来への絶望、古賀政男が託した心情は当時の世相に敏感に反応していた。したがって、楽曲の完成までには随分と時間がかかった。昭和三年夏のひなびた東北の温泉宿での自殺未遂、昭和四年六月、マンドリンコンサートでの初演(ギター合奏)、ギターの巨匠セゴビアの古賀を震撼させたインスピレーション、昭和五年十月二十日、創唱者の佐藤千夜子のビクターにおける吹込み、昭和六年一月新譜発売と、そのプロセスは謎に満ちている。《影を慕いて》のビクター盤は、売れず、藤山一郎の登場を待たなければならなかった。正統な声楽技術の解釈と咀嚼による藤山一郎の歌唱は古賀政男の感傷のメロディーの魅力を十分に伝えた。昭和の陰影を象徴するこの歌をヒットさせた功績は大きい。藤山一郎は、当時東京音楽学校(現芸大)に在籍する学生だった。昭和七年の暮れ日比谷公会堂で《ローエングリーン》を独唱し将来を嘱望された。また、《影を慕いて》は日本人のギター創作歌曲の名曲でもある。いかに古賀政男がその世界にいかに通僥していたかがわかる。
天国に結ぶ恋
昭和七年の初夏、大変な勢いで流行した歌に《天国に結ぶ恋》がある。神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」を題材にした時事歌謡でもある。慶大生調所五郎と静岡の素封家の娘湯山八重子の許されぬ結婚を悲しんでの心中だった。ところが、六十五歳の隠亡が大磯の法善寺仮埋葬された女の死体をあばき、その裸の死体が大磯の海岸の砂のなから発見されるという事件に発展した。心中が一転してグロテスクな猟奇事件になってしまったのだ。ビクターは西條八十に作詞を依頼した。ところが、頑なに拒んだ。青砥道雄の説得でなんとか引き受けた。西條はあくまでも純愛を主題に柳水巴の名前で作詞。作曲も松平信博が林純平の変名で楽想をまとめた。原題は《相模灘悲歌》だったが、『東京日日新聞』の見出しをとって《天国に結ぶ恋》になった。歌手にはバリトン歌手徳山lとアルト歌手の四家文子が起用され、人々の共感をもって迎えられた。世相は、暗く坂田山心中の騒ぎのさなか、「問答無用」の一言のもとに時の総理大臣犬養毅が暗殺される「五・一五事件」が起きるなど血なまぐさい不安な時代を象徴していた。
涙の渡り鳥
ビクターの新進作曲家佐々木俊一は、カフェーで女給に囲まれ酒を飲んでいた(玉の井の侘しい二階という説もある)。外は雨が降っている。窓から雨を見ているとふと或る旋律が浮かんだ。その楽想をメニューに書きなぐったのだ。そして、その晩は女の所には泊らずに帰り曲想を完成させた。翌日、会社で西條八十に楽譜を渡し作詞を依頼した。しかも、大御所に対して〈泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ〉だけは、そのままにと懇願した。西條は日本語の不自然さに困惑しながらも佐々木の熱意に根負けして作詞した。佐々木俊一は、ビクターのオーケストラの一員で、夜遅くまで一人ピアノに向かい作曲をしていた。文芸部長の岡庄五はその姿をよくみかけ感心していた。レコードは昭和七年ビクター十月新譜で発売された。藤山一郎が歌う古賀メロディーで劣勢を挽回したコロムビアに対してビクターの巻き返しのスタートだった。歌は東洋音楽学校出身の小林千代子が歌った。金色仮面という覆面歌手トして話題を呼んでいたが、このときはもう覆面を脱いでいた。この歌は小林千代子の初ヒットでもあった。
忘られぬ花
昭和七年の晩秋、ポリドール十一月新譜の《忘られぬ花》というロマンティックな抒情歌謡がヒットした。作曲者の江口夜詩は亡き妻を思いながらピアノの鍵盤を濡らし作曲したと言われている。作詞の西岡水朗の抒情詩は感傷に溢れていた。演奏には、ギター、マンドリン、ヴァイオリンが使われていて哀愁がある。歌手の池上利夫は福田恒治と言って東京音楽学校の師範科の生徒だった。ポリドールの本社が池上にあったので、利益が上がるようにとこの名前をつけた。だが、彼はすでに、ニットーレコードから大川静夫で《夏は朗らか》を歌いデビューしていた。これが後のコロムビアで《サーカスの唄》をヒットさせた松平晃である。《忘られぬ花》は最初、コロムビアに持ち込まれたそうだ。ところが、問題にされなかった。それがポリドールでレコードになりヒットしたのだから、コロムビアとしては驚きの色を隠せなかった。古賀政男はこの歌を聴いて脅威を感じたと伝えられている。コロムビアは後に江口を入社させ、古賀政男と競わせる。江口夜詩は、海軍軍楽隊の出身、委託生として東京音楽学校に学んだ。この歌のヒットによって流行歌の作曲家の途を歩み数々の江口メロディーを生み出した。
島の娘
佐々木俊一は、昭和七年の暮れ《島の娘》という大ホームランを放った。それは場外ホームランに等しい。作詞は、長田幹彦。小唄勝太郎が大スターの座に着いたのである。レコードデビューはビクターではなく、オデオンから昭和五年七月新譜で《佐渡小唄》(大村主計・作詞・豊田義一・作曲)でデビューした。葭町時代の吹込みである。小唄勝太郎は、絹糸のような細い美声で歌う不世出の日本調歌手である。歌詞の中に登場する〈ハァー〉が女心をやるせなく燃え上がらせた。濡れた女のやわらかい静かな感情が表現されていたのである。この歌の流行に影響されたのかどうか分からないがその頃、女子学生の私通事件が新聞紙上を賑わした。内務省のお叱りが当然でた。「恋ごころ」を「紅だすき」に替えられた。だが、際どい〈人目忍んで、主と一夜の仇なさけ〉はお目こぼしに預かった(戦争が激しくなると原詩とは全く違う内容に変更)。このヒットによって、佐々木俊一はビクターのヒットメイカーとなる。歌手の持ち味をいかした作風は、ビクターの重鎮を担ったのである。
東京音頭
この歌は幕末に流行した「ええじゃないか」の昭和版である。《東京音頭》は、歌詞が替わる前は《丸の内音頭》として歌われていた。《丸の内音頭》は丸の内界隈の旦那衆の銭湯での朝風呂会談から生まれた歌だそうだ。翌年、西條八十によって歌詞を書き直してもらい丸の内のみならず東京全体の音頭として生まれ変わったのである。すでに東京市はジャズで踊りながら近郊の五郡八十二町村を編入、三十五区の大東京に変貌していた。歌手は人気絶頂の小唄勝太郎、《丸の内音頭》でレコード吹込みした三島一声だった。新たに上野、銀座、隅田、東京湾、二重橋が登場した《東京音頭》は花の大東京に成長し、まるで熱病のように広がった。日比谷公園はもちろんのこと、上野、芝、深川の恩賜公園その他の公園という公園は《東京音頭》一色に塗りつぶされた。大東京といえども、地方出身者が人口の高い割合を占めていてその郷土への想いを癒す結果にもなったといえる。この歌の前奏には鹿児島の小原節が使用された。作曲者中山晋平は、鹿児島の小原節を気に入っていたそうだ。だが、中山晋平という大衆歌謡の先駆者もこの《東京音頭》が最後の花でもあった。
燃える御神火
昭和八年の夏頃、藤山一郎の澄んだ美しい歌唱で《燃える御神火》が流れた。西條八十と中山晋平のコンビによる作品だった。藤山はその年の春、東京音楽学校を首席で卒業し、晴れて誰憚ることなくビクターの専属アーティストに迎えられた。クラシックは本名の増永丈夫(バリトン)で独唱し、大衆レコードはテナー藤山一郎の二刀流だった。この御神火は自殺のメッカになりつつあった三原山のそれをさしている。昭和八年正月早々、実践女子専門部の学生二人が噴火口に飛び込んだ。それ以後、燃え滾る噴火口に飛び込む者が後を絶たず、この年の自殺者数は異常だった。確かに、この年は国際連盟脱退、国内では滝川事件など日本が間違った方向に向かおうとしていた。三原山ブームで世間の話題がもちあがっていたある日、中山晋平は、西條の大島を舞台に新しい歌を創作することをもちかけた。新人佐々木俊一の《島の娘》が中山氏を刺激していたらしい。そこで、小唄勝太郎に《大島おけさ》、藤山一郎には《燃える御神火》というわけだった。西條の詩想と中山の楽想は、悲惨な自殺のイメージを払拭してロマンティックなうら哀しい作品を作りあげた。藤山一郎も折り目正しくしかも哀調を印象づける歌唱だった。若い命を自らを絶つ者へのレクエイムであり挽歌でもあった。
赤城の子守唄
直立不動の歌魂を貫いた東海林太郎の出世作である。作詞は佐藤惣之助、作曲は明大マンドリン倶楽部出身の竹岡信幸だった。東海林太郎は早稲田の商学部を出て満鉄に入社。音楽の志を捨てきれず上京し音楽コンクールで上位に入賞して歌手の途に入った。下八川圭祐の門下で放送オペラにも出演していた。四行の歌詞に「泣く」「啼く」が四つも出てきて、まさに泣き節のアリアだった。東海林は澄んだバリトンで大いに泣いている。身体全体で泣かなければ男泣きの感じはでないと思ったそうだ。ちょうど、阪妻のチャンバラ映画はなやかりし頃で、うまくマッチしていた。国定忠治の子分、板割浅太郎をテーマにした歌で義理人情を男のロマンで綴るヤクザ小唄は庶民感情を反映していた。モダニズムの軽薄さに対抗するかのように男の生きざまが国粋的な硬派男性に受けたといえる。昭和九年の秋、日比谷公会堂で《赤城の子守唄》の実演が行われた。東海林太郎も出演した。このとき背中に負ぶっていた勘太郎の役が後の高峰秀子だった。この《赤城の子守唄》のヒットは、《沓掛小唄》以来絶えていた股旅歌謡の土台を築く一曲だった。
国境の町
満州を青春体験にもつ東海林太郎の歌唱から、万感の思いが伝わってくる。大正十二年、満鉄の庶務部調査課に勤務し「満州に於ける産業組合」を執筆し、それが問題となり鉄嶺の図書館館長という閑職に追いやられた。やがて、東海林は、満州の地で音楽の情熱を滾らせ音楽への途を志向するが、この経験が歌に独特な感情を与えている。作詞の大木惇夫は本格派詩人。作曲は阿部武雄。大木は夏の暑い盛りに新宿の路地裏で、毎夜星空を眺めながら、まだ見ぬ満州の冬の曠野に思いをはせた。「他国の星」が原詩では「ロシアの星」だった。この歌の企画者河野文芸部長の心づかいで「他国の星」という遠まわしの表現になりかえって歌のスケールが増した。男の寂寥感がより鮮明な表現になったのである。伴奏に使われている鈴の音は、雄大な満州をさすらう男のロマンを感じさせた。レコードは、昭和九年十二月新譜でポリドールから発売された。《赤城の子守唄》につづいての大ヒットだった。これによって、東海林太郎時代が到来した。愁いのあるバリトンは歌の抒情にマッチし聴く人々に感銘をあたえた。
小さな喫茶店
コンチネンタルタンゴの曲調にのって昭和モダンの余韻をたっぷりと聴かせたのが《小さな喫茶店》である。甘いムードの回想に始まる若い二人のあまりにも淡い澄んだ純愛ソングである。喫茶店が新しい語りの空間として心地よい感覚を提供し始めた頃だった。コーヒーを飲みながら名盤を聴き音楽の鑑賞にはもってこいの場であり、二人の語らいの場には好都合であった。歌はレイモンド作曲のドイツ製のコンチネンタルタンゴのスタンダード曲である。男女の日常語が美しくメロディーにのって流れてくるので和製曲と遜色がなかった。最初歌ったのは河原喜久恵でドイツ語で放送した。オペラの訳詩で知られる青木爽が瀬沼喜久雄の名前で訳詞した。レコードはテノール山田道夫が最初に吹込んだがヒットしなかった。昭和十年五月新譜でコロムビアからジャズで売り出していた中野忠晴が歌いヒットした。中野は武蔵野音楽学校出身で、コロムビアがビクターの徳山lの対抗馬として山田耕筰の推薦もありスカウトした歌手。ジャズコーラスを率いてジャズソングをヒットさせていた。
さくら音頭
《さくら音頭》は、浅草の軽演劇作家の島村竜三と作詞家の佐伯孝夫との友情から生まれた。東宝劇場で予定されているバラエティーショー「さくら音頭」の主題歌を島村は銀座裏のおでん屋で佐伯に話した。作曲は中山晋平が《東京音頭》の余勢をかって曲をつけた。ところが、マイナーのゆっくりした、暗い感じのものであった。ところが、昭和八年十二月二十三日、皇太子誕生のニュースが報道されると、世の中はお祝い気分となった。中山も気分を一新し華やかに力量感が溢れ躍動的なメロディーに書き直した。レコードは昭和九年二月新譜でビクターから発売された。歌手陣には小唄勝太郎、三島一声にバリトン歌手徳山lが加わった。他社からも《さくら音頭》が発売されたが、ビクター盤が圧倒的な売れ行きをみせた。コロムビアは松竹と組み、作詞、伊庭孝、作曲、佐々紅華で臨んだか完敗。このときのコロムビア文芸部長は責任をとって辞職した。キングは東海林太郎,美ち奴で勝負にでたが、ビクター盤には歯が立たなかった。ニットーも《さくら音頭》合戦参加。当時専属だった服部良一は《さくらおけさ》で気を吐いた。
急げ幌馬車
この歌は、松平晃の歌唱五大傑作の一つに数えられる。また、広大な満州を舞台にした「曠野もの」の名曲として残る名曲である。昭和八年頃から、国内では農地を持てない農民、あるいは新天地で人肌あげようとする者がぞくぞくと海を渡って満州に移住した。こうして満州を美化した流行歌が生まれたのである。この「曠野もの」というジャンルは江口夜詩によって確立した。これは古賀メロディーにはなかった分野でもある。松平晃が哀愁を込めて歌う江口メロディーの「曠野もの」は人々の共感をもって迎えられた。江口は島田芳文の詩想を前にして前奏から歌へ流れるように旋律を浮かびあがらせたと言われている。ピアノで入る前奏の鈴の音が効果音に使われ哀愁を感じさせた。それが遠くの山の麓から一台の幌馬車が鈴と鞭の音を響かせながら近づき、やがて遠くに消え去ってゆく情景を連想させている。この弱音からフォルテになり、また、弱音になって終曲する「パトロール形式」による効果音と松平の甘い美声がマッチし漂泊感が滲み出ていた。
野崎小唄
この歌の主題は、義太夫の「新版歌祭文」(野崎村の段)が主題になっている。お染、久松の恋に義理と人情がからんだ物語である。春爛漫の河内平野の情景を舞台に二人の悲恋の物語が盛り込まれた《野崎小唄》は東海林太郎の歌声でヒットした。野崎村の観音まいりに真室川を屋方船で行くなど春風を浴びた夢のような風景である。作詞は今中楓渓、作曲は大村能章だった。レコードは非買品にもかかわらず大村は間奏に三味線のツレビキを入れるなど味な手法を試みた。お染は船で久松は籠で、二人が川と土手の二手に分かれて大阪へ向かう最後のくだりでである。詩想・楽想・歌唱が一体となり情緒溢れる日本調歌謡だった。ところが、会社のお偉方からカットするように言われた。活動写真のような伴奏で非売品にしては凝りすぎているという理由だった。それに激怒したのが、大村能章だった。彼は「新版歌祭文」(野崎村の段)をよく理解していた。大村の心意気に東海林太郎も気合も入り、歌唱も三味線の音も一段と冴えた。レコードは非売品ではなく改めて全国に売り出された。
無情の夢
この歌を最初にヒットさせた児玉好雄はイタリア帰りの声楽家だった。彼はイタリアのミラノ学院でオペラ歌手の修行中に端唄・小唄・民謡の研究にも余念がなかった。この外国における邦楽の勉強が非常に役立った。低音を柔らかく高音を甘くコブシも巧く回し詩想と楽想を生かした歌唱はこの歌のもつやる瀬ない無情を表現していた。作詞は佐伯孝夫、作曲は佐々木俊一である。ビクターにとっては久々の本格的流行歌のヒットであった。だが、《無情の夢》は内務省から厳しいお叱りを受けた。男一匹、恋に命をかけるなどもってのほかということなのだ。〈花にそむいて 男泣き〉が問題になったのだ。世相は、「天皇機関説」や、「二・二六事件」が起こり、軍部の政治的発言が高まってきた頃である。昭和十二年には盧溝橋事件が勃発し日中戦争へと突入する。男の凛々しさが求められた時代でもある。戦後になり、この《無情の夢》はロカビリー歌手佐川ミツオによってリバイバルされ再ヒットした。
明治一代女
エキゾチックな顔立ちの新橋喜代三は《鹿児島小原節》が有名だが、この《明治一代女》もよく歌った。この歌の主題は凄惨な恋の忍傷沙汰であることはもうお馴染みである。作詞、藤田まさと、作曲、大村能章。この《明治一代女》は、柳屋三亀松が浅草花月劇場で得意の三味線を弾きながら歌った。都々逸のアタマ出しで始まり、〈浮わ気家業の女に迷い〉の「イ」を長くひいて〈浮いた浮いた〉と歌に入る。活弁と新内を交え、お梅と箱屋の巳之吉の悲劇を語るのである。特に活弁調の声はふりしぼるような声で、別れる別れないのやりとりは絶妙だった。三亀松の三味線を弾きながらの「映画と小唄模写」は彼独特の芸であり、かなりウケた。芝居や映画の筋を知らなくても、「夜は次第にふけ渡る浜町河岸」の名調子から、明治期の江戸情緒が浮かんでくる。流行歌の方の喜代三は実に華やかな存在感があった。彼女は後に大御所中山晋平と結婚し、最盛期中に引退している。
緑の地平線
この歌は日活映画『緑の地平線』の主題歌である。朝日新聞が募集した小説の当選作品が映画化されたのだった。原作は横山美智子。映画には、岡譲二、、星玲子が主演した。主題歌の作詞は佐藤惣之助、作曲は古賀政男、テイチクから昭和十年十一月新譜で発売され楠木繁夫の歌によってヒットした。楠木繁夫は、この歌でスターダムとなった。初代ミスターテイチクに相応しい歌唱だった。まるで、新興テイチクの全盛期を呼ぶかのようになめらかな楠木繁夫の美声がこの曲に乗った。楠木繁夫の生涯最大のヒット曲でもある。楠木は大変な酒豪である。ウイスキーの角ビンをあけるのは朝飯前で関西レコード時代から底なしでもあった。彼は酔うとあたりかまわず、リクエストがあると歌った。カフェーはもちろんのこと新橋、神楽坂の待合でも歌ったのだ。或るときは、自分の歌に酔って涙を流し続けながら歌うこともあった。作曲者の古賀政男はコロムビアからテイチクから移籍しようやくヒット量産にエンジンがかかった。テイチク黄金時代に弾みをつけさせる一曲といえる。
忘れちゃいやヨ
この歌は流行歌の歌唱の技法からすれば一大進歩だが大きな問題を提供した。《月が鏡であったなら》と改題して発売したがあまりにもその波紋は大きかった。問題はこの歌のリフレーンである。〈ねえ、忘れちゃいやよ、忘れないでネ〉をしなだれかかたように歌ってしまった。歌手の渡辺はま子は、武蔵野音楽学校出身。オール日本新人演奏会でドボルザークを独唱した。吹込みのとき泣きながら「いやーンよ」とやってしまったのである。横浜で女学校の先生をしていた渡辺にはお色気残酷物語になってしまったといえる。「あたかも婦女の媚態を眼前に見る如き官能的歌唱」とは内務省の役人の言葉。当然、レコードは発禁処分となった。それでも、発禁になるまでの三ヶ月間で十万枚のレコードが売れた。レコードを聴く人々はある種の感覚を刺激されながら、口の端に載せたのだろう。渡辺はま子自身はこの歌をあまり好まない。むしろこの話題を避けたがっていた。だが、好むと好まざるにかかわらず、渡辺はま子を世に知らしめた歌である。
二人は若い
この歌は日活映画、『のぞかれた花嫁』の主題歌である。レコードは昭和十年七月新譜でテイチクから発売された。テイチクに迎えてられた古賀政男がそろそろヒット量産にエンジンがかかり始めた頃でもある。作詞の玉川映二は、サトウ・ハチローの変名。ポリドール専属でありながら、日活撮影所文芸部にも属していたのでポリドールの了解をえて詩を書いた。この歌は蜂蜜のような甘さがあった。古賀政男の楽想は明るく軽快でモダンライフを巧みに表現している。各節に「あなた」「なーンだい」「ちょいと」「なーによ」「アノネ」「なーにさ」という言葉をならべ、新婚夫婦の嬉しさを歌う男女にお互いに呼びかけさせながら、実に歌のもつ雰囲気を効果的にしている。天皇機関説問題、相沢事件、翌年の二・二六事件など世の中は暗く物騒となってきたが、ジャズシンガーのディック・ミネと星玲子のかけあいソングは甘いモダンライフそのものだった。
ああそれなのに
ペーソス溢れるモダンライフをテーマにした流行歌の傑作である。この頃は、都会を中心に結婚ブームが起こった。当時のは、ホワイトカラーのサラリーマン全盛時代を迎えていた。新婚家庭は、形ばかりの門に格子戸に二階のひと間ついた一戸建てカラ、マンション風のアパートメントへ。新宿区の江戸川アパートは当時の憧れのマトであった。夫は丸の内の会社に出勤。奥さんは針仕事をしながら寂しく夫の帰りを待つ。なのにご亭主は毎晩、酒を飲んで深夜に帰宅。ついに奥さんの怒りが爆発という当時のモダンライフを盛り込んだ。作詞の星野貞志はサトウ・ハチローのペンネーム。この歌が流行った年は二・二六事件が起こり、「勅命下る 軍旗に手向かうな」のアドバルンを大衆は不安な表情で眺めた。作曲者の古賀政男はその辺の大衆心理をうまく表現した。歌手の美ち奴は艶のある声で歌った。美ち奴は旧樺太出身の浅草芸者である。レコードデビューは,昭和九年三月新譜の《桜ばやし》だった。
東京ラプソディー
ビクター専属テナー藤山一郎がテイチクへ移籍するニュースは、新聞紙上でも大きく取り上げられ話題だった。そのような理由で古賀政男は、藤山一郎入社第一作に相応しい曲を作った。それが《東京ラプソディー》である。当時のモダン都市東京の風景がふんだんに登場してくる。銀座、ティールーム、エキゾチックなニコライ堂、ジャズの浅草、新宿、ダンサー等々。作詞者の門田ゆたかは、そのようなモダン風景を見事に盛り込んだ。古賀政男は、神宮外苑をドライヴしながら楽想を練ったそうだが、原曲はマンドリンの合奏曲《スペインの花》である。このことからも、古賀政男がマンドリン音楽にいかに精通していたことがわかる。旋律の類似性が多いが、《東京ラプソディー》はあくまでも古賀政男の流行歌としてのオリジナル作品として発表されたことにはかわりはない。歌唱者の藤山一郎は流行歌とクラシックを歌う声楽家増永丈夫の二刀流だったが、この《東京ラプソディー》のヒットによって、流行歌手としての頂点を極めた。豊かな声量と確実な歌唱は正格歌手藤山一郎の声価を高めた一曲ともいえた。
男の純情
日活映画『魂』の主題歌で、佐藤惣之助・作詞、古賀政男・作曲。藤山一郎の歌唱でテイチクから発売されヒットした。藤山一郎が格調高くメロディーの美しさを歌い上げている。昭和十四年八月三十一日、NBC放送から全世界に向けて古賀メロディーが放送されたが、この《男の純情》は高い評価を受けた。全体のメロディーはメジャーだが、二小節マイナーの旋律にしている。そこをアメリカでかなり絶賛された。歌詞は通俗的な部類に入るが、藤山一郎の歌唱は品を落さずメロディーの美しさを保っている。この頃、藤山は、或る音楽記者に流行歌をやめてクラシック一本にしろと食い下がられた。その記者は、藤山一郎が本名の増永丈夫で独唱したベートーヴェンの《第九》のバリトンが忘れられなかったのである。テノールの美しい響きのあるバリトンは流行歌でも十分に生かされている。クラシックと流行歌を両立させている藤山にしてみれば複雑な心境だった。《男の純情》は夜空の星を眺めながら男の生きる途を誓うという男の真実があった。
人生の並木路
日活映画『検事とその妹』の主題歌。昭和十二年テイチク二月新譜で発売。ジャズシンガーのデイック・ミネが歌った。このメロディーには作曲者・古賀政男の故郷喪失の体験が込められている。思い出深き故郷田口村を離れ、母と姉の後について幼い弟の手を引いて朝鮮半島へ渡った悲しみを生涯忘れることはなかった。故郷の風景と喪失が古賀メロディーの叙情核の一つを形成している。古賀が佐藤惣之助の詩を見て大粒の涙で五線紙を濡らしながら作曲したのもそのような体験があったからである。ディック・ミネは楽譜を渡されたとき、ジャズシンガーの自分にはフィーリングが合わないとして一度断ったが、古賀政男はどうしてもディックミネに歌わせたいと懇願した。ディック・ミネは吹込みのとき音域の広さに苦労したが、よくこなしている。古賀政男の眼力は見事であった。この歌は発売当時から爆発的なヒットではなかったが古賀メロディーの代表曲となり、ディック・ミネの歌謡曲歌手としての声価を決定した。
マロニエの木蔭
学生・インテリ層から成る都市文化を満喫する洋楽愛好者からに支持を得た。この歌は美しいピアノのカデンツァで始まる。哀愁のあるタンゴのリズムに乗せ甘くロマンティックなムードがある。この曲は、モダニズムの明るさと暗い不安な時代に生きる若者の心を慰めた。キング専属・松島詩子の最大のヒット曲になった。作詞・坂口淳、作曲・細川潤一。新譜発売は昭和十二年三月新譜。キングレコードの本格的なヒットである。
青い背広で
藤山一郎が軽快に哀歓を込めて歌った青春讃歌。昭和十二年三月新譜でテイチクから発売されヒットした。ある日、藤山は新調したばかりの背広を着てテイチクの吹込み所に現れた。作詞者の佐藤惣之助はグリーンの背広でスタジオに入って来た藤山一郎を見てインスピレーションが湧いた。佐藤惣之助はその緑色の背広を見て青い背広というタイトルが浮かんだのだ。昭和十二年といえば、やがて盧溝橋事件勃発により日中戦争が始まった。これによって夢も理想も失ってゆく青年像が昭和モダンの余韻とともに盛り込まれた。日劇の地下にはニュース映画と短編映画を上映する小映画館があった。この頃、銀座では二人がコーヒーを飲みニュース映画を見ても五十銭あれば十分に足りた。B面には《青春日記》がカップリングされた。この美しく感傷的なワルツは好評だった。ここでもテナー藤山一郎の歌唱は美しい。古賀メロディーの優雅な旋律とワルツを十分に堪能できる。
妻恋道中
昭和に入ると、浪花節のレコード歌謡化の時代を迎えた。新しい艶歌唱法の歌手が必要となり、上原敏が登場した。この歌は、荒神山の血煙でお馴染みの侠骨・吉良の仁吉とその女房・お菊を主役にした映画の主題歌である。藤田まさとの詩想を得て作曲した阿部武雄の傑作である。映画は、吉良の仁吉が兄貴分の神戸の長吉の頼みで「荒神の徳」を討ちに行く実話をもとに、「徳」と義理のあるお菊を離縁するというフィクションを加味している。《妻恋道中》は、男女の情愛を深く浪花節的義理人情に盛り込んだ演歌系歌謡の傑作であった。《妻恋道中》は東海林太郎が吹込むことになっていたが、東海林と作詞の藤田まさととの感情のもつれから、秩父重剛の頼みもあり、上原敏が歌うことになった。ポリドールは東海林太郎の登場によって、ヤクザ小唄、股旅歌謡の分野を確立したが、東海林太郎では表現しきれなかった、さらに泥臭い浪花節調の歌を艶歌唱法で歌う歌手で売り出すことに成功した。
別れのブルース
淡谷のり子が歌う《別れのブルース》は異国情緒が豊かで黒人霊歌にも似た深い哀愁があった。この歌は、最初《本牧ブルース》というタイトルだった。本牧は外国人相手の私娼窟が密集しエキゾチックな雰囲気がありながらどこか頽廃的でなところがあった。作曲者の服部良一は本牧の歓楽街ででジャズを聴きながらブルースの心情をそこに求めていた。それは作詞者の藤浦洸も同じ心境であった。藤浦洸の作詞には和製英語が必ず登場する。「メリケン波止場」もそうだ。ところがそれは神戸にもある。となると歌のタイトルが「本牧」ではまずい。どこか哀しい異国情緒をより普遍的にするために「本牧」を「別れ」という言葉にしたのである。淡谷のり子は妖艶なソプラノ歌手である。山田耕筰に「十年に一人のソプラノ」と絶賛された声をすてこの低い音域を歌うために煙草を一晩中ふかして服部が要求する魂のこもった声にした。淡谷のり子はこれ以後《雨のブルース》を歌うなどブルースの心情を歌うようになる。
裏町人生
《裏町人生》の原曲は《さすらいの唄》。木村肇の歌である。阿部武雄は本牧の歓楽街以外に神田、新宿、浅草などの繁華街の裏町・酒場もイメージしながら作曲した。そして、この《さすらいの唄》が島田磬也の哀傷が滲み出た人生詩を得ることによって、《裏町人生》となったのである。作曲者の阿部武雄は、暗い運命が重くのしかかるどん底人生に花咲く希望と明るさというモチーフは、モダンライフを歌いあげる古賀政男にない世界であり、昭和演歌の古典的名歌として人々に広く膾炙されたのである。歌唱は上原敏と結城道子。
人生劇場
映画『人生劇場』の主題歌《人生劇場》はテイチクから楠木繁夫の歌で昭和十三年七月新譜で発売された。作詞・佐藤惣之助、作曲・古賀政男。古賀政男は賦邪魔一郎を迎えるなどをしてテイチクをコロムビア、ビクターに比肩するまでするという驚異的な活躍をしたが、社長の南口重太郎と亀裂が生じ、テイチクを去ることになった。楠木繁夫の歌唱は技巧的だが線が細く背広を着た感じがした。戦後、昭和三十四年、浪曲界から転じた村田英雄がコロムビアで吹込みヒットさせた。村田の浪曲で鍛え上げた声がこの歌のイメージにあっていた。古賀政男は《人生劇場》が誕生したその年の秋、外務省音楽親善使節としてハワイを経由してアメリカに向かって旅立った。テイチク取り締まりは当然辞任した。古賀の退社を惜しむ社員が集まり酒宴を催したが、その席で《人生劇場》が合唱された。
流転
ポリドールでは東海林太郎と並んで日本調の股旅歌謡で上原敏が売り出されていた。《妻恋道中》《裏町人生》の一連のヒットにつづいて《流転》もヒットした。上原敏は専修大学出身の歌手だった。大学時代は野球部で活躍。わかもと製薬でもノンプロチームの選手であり、ポリドールの野球チームに関わりをもっていた。そこで、大学の先輩で野球好きの秩父重剛と知遇を得、歌手の途に入るのである。《流転》は作詞・藤田まさと、作曲は阿部武雄。松竹の同名映画の主題歌である。頭髪をきれいに四分六分にわけて、ロイド眼がねをかけて細い上原が歌う《流転》から哀しみが十分に伝わってきた。日中戦争が拡大し不安が募りだした時代である。この歌は戦後日活の青春スター赤木圭一郎がリバイバルで歌った。赤木は撮影所でゴーカートを運転していて不慮の事故死を遂げた。一方、創唱者の上原敏は、応召され、太平洋戦争中、南方ニューギニアの地で戦死した。
旅の夜風
この歌は松竹映画『愛染かつら』の主題歌である。原作は川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載した小説である。作詞・西條八十、作曲・万城目正、霧島昇とミス・コロムビア(松原操)が歌い嵐のような勢いでヒットした。霧島昇は《旅の夜風》のヒットでスターとなり松原操とゴールインしたことは有名である。二人は昭和十四年十二月十七日、丸の内の東京会館で山田耕筰夫妻の媒酌によって華燭の祭典をあげた。この世紀のロマンスは世間の注目するところとなった。主人公の津村浩三(上原謙)は愛人の看護婦高石かつ枝(田中絹代)と別れ京都へ行く。その心境を花も嵐も踏み越えて雄々しく生きる男の人生にたとえたが、寂しい心情は隠し切れない。哀しい声を鳥の声にしようと「ほろほろ鳥」を配した。ところが京都には「ほろほろ鳥」がいないという物議をかもしだした。映画も歌もヒットし日本映画主題歌のある一つの型が決まった。
麦と兵隊
この歌は昭和十三年五月,中支派遣軍報道部員として除州作戦に従事した火野葦平(玉井勝利伍長)の小説『麦と兵隊』を歌曲にしたものである。陸軍報道部は藤田まさとに作詞依頼した。作曲は大村能章、東海林太郎が歌った。このトリオは股旅歌謡でポリドールの黄金時代を形成した。藤田は原作に描かれたヒューマニスティックな場面を想定した。ところが、軍当局からこれに関してひどく怒られた。「軍人は生きるのが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ」ということであった。雄大な大陸を背景に《麦と兵隊》は広く歌われた。歌のなかでも果てしなく海のような麦畑が広がっていた。聖戦完遂のために国家権力によって利用された文学を素材にしたとはいえ、人気絶頂の東海林太郎の哀愁ある声は多くの人々に感銘をあたえた。この年は戦争の長期化に備えた経済統制とも言うべき国家総動員法が制定され、日中戦争は泥沼化していった。
支那の夜
これは美貌の渡辺はま子のコロムビアにおける初めての大ヒットである。昭和十三年十二月新譜。作詞・西條八十、作曲・竹岡信幸である。竹岡は横浜のニュー・グランド・ホテルに行き、港のあかりを眺めながら曲想を練った。西條の最初の詩には「阿片の煙」という言葉があり、これは健全ではないと内務省の検察官の注意があり、「むらさきの夜」に「夢のジャンク」と「胡弓」を配した。西條は推敲につぐ推敲を重ね、竹岡もそれに合わせて旋律を何度も練り直した。渡辺はま子はこの歌のヒットでチャイナメロディーの第一人者となる。その後も《広東ブルース》《何日君再来》《いとしあの星》《蘇州夜曲》をヒットさせるなどこの分野では他の追随を許さなかった。ビクター時代、《忘れちゃいやよ》で不本意な人気がでたこともあり、このヒットは渡辺はま子の声価を決定したといえる。太平洋戦争中は海外放送にも使われ米兵も《チャイナナイト》と呼び愛唱した。戦後、アメリカ映画『零号作戦』に《ゴールデンタイム》のタイトルで使われたkとおは有名である。
別れ船
昭和十四年、《島の船唄》でポリドールからデビューした田端義夫は、《大利根月夜》などをヒットさせ、翌昭和十五年の《別れ船》のヒットにより「船もの」において流行歌の新境地を切り開いた。作詞・清水みのる、作曲・倉若晴生で《島の船唄》と同じコンビである。この歌は軍部が期待するような内容ではなかった。離別の情がにじみ出る流行歌だった。田端義夫のバタヤン唱法は小舟が大波に揺れるような独特のバイブレーションで名残尽きない故郷や友人、母親、愛する人への離別の心情をいっそうかきたてた。田端は戦時歌謡の向くようなもともと歯切れのよい歌手ではない。田端義夫は、名古屋で旋盤工をしていたとき『新愛知新聞』が名古屋中央放送局と共催した新人歌手コンクールで三位に入賞。これをきっかけにポリドールからデビューしたのである。デビュー当時は丸坊主で歌い、そのうらぶれた歌声は哀愁を帯農漁村や下町で人気があった。
長崎物語
この歌は《熱海ブルース》に続く由利あけみのヒットである。作詞・梅木三郎、作曲・佐々木俊一、由利あけみは日本女子大から東京音楽学校(現東京芸術大学)の師範科を卒業した歌手である。加藤梅子の本名で三浦環とオペラ《お蝶夫人》に出演し、女中の「スズキ」役で好評を博した。藤原義江と共演した《カルメン》もよかった。由利あけみは官能的な音色でジャガタラお春をからませた長崎を舞台に異国情緒を妖艶に歌いあげた。淡谷のり子が妖艶はソプラノならば、こちらは妖艶なアルトといったところである。レコードデビューは《恋のセレナーデ》、昭和十二年五月新譜でコロムビアからである。その後テイチクでも吹込み、ビクターでヒットに恵まれたのである。桜井潔が率いるタンゴバンドがこの《長物語》をよく演奏した。この楽団の重要なレパートリーだった。桜井はコルネット・ヴァイオリンをもって真紅のスカーフに粋なアルゼンチンスタイルのボレロにリズムにのってこの歌を演奏したのである。軽音楽が先行して歌がヒットするという面白い流行のしかたをした。
湖畔の宿
この歌はもの哀しい失恋の孤独を歌ったブルースである。作詞・佐藤惣之助、作曲・服部良一。松竹のスター女優高峰三枝子が歌って大ヒットした。松竹とコロムビアが提携した歌謡メロドラマの主題歌《純情二重奏》につぐヒットだった。高峰は東洋英和女学校を卒業し三田小町といわれるほどの美貌だった。父は筑前琵琶の総帥高峰筑風。レコード界に入り彼女ほどヒットを出した女優はいない。それど銀幕とレコードに活躍した。この歌はあまりにも感傷的であると軍部から睨まれた。失恋したからといって、一人で山の湖に行ってラブレターを焼いたり、ランプの灯りの下で手紙を書いたり消したりするような軟弱な精神では銃後が護れるかということであった。歌に挿入されたセリフには乙女の孤独感が滲み出ている。ビルマからバーモーが来日し高峰三枝子は東条首相と長官の前で歌い陸軍から賞状をもらっている。
燦めく星座
《燦めく星座》は野球映画『秀子の応援団長』の主題歌である。作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一、灰田勝彦が歌い大ヒットした。彼は映画にもプロ野球の新人投手の役で出演した。誰もいない後楽園球場にユニフォーム姿の灰田勝彦が一人立ちバットを片手にヘイのもたれながらじっくりと暮れ行く夕空を眺めながら《燦めく星座》を歌った。このワンカットのシーンによってA面の《青春グランド》をB面の《燦めく星座》がしのぐことになりレコードは驚異的な売れ行きを見せた。この歌によって比較的都会偏重だった灰田勝彦の人気が全国的な広がりを見せた。それ以後、太平洋戦争にかけて個々の歌手の人気では灰田勝彦が最もあったと言われている。太平洋戦争の旗色が悪くなった頃、やはり、この歌が軍部の睨むところになった。陸軍の象徴である「星」に女を思いこんでの命がけとはけしからんということであった。灰田勝彦はハワイアンを中心にジャズなどのポピュラー歌手だったので余計風あたりが厳しかったといえる。
高原の旅愁
作曲者の八州秀章は十九歳で亡くなった恋人を思いつつ傷心の心をこの旋律に託した。関沢潤一の詩想に八州秀章の楽想が合致して見事な抒情歌を生み出した。舞台は北海道。エゾ冨士といわれた羊蹄山が聳え、悲しい夢は清らかな乙女ともに白樺林をかけめぐる。澄んだ湖水にもその悲痛な歌声が響いた。亡き恋人に捧げたこの歌は伊藤久男の叙情溢れる豊かな歌唱によってコロムビアから発売された。昭和十五年六月新譜。伊藤久男は《露営の歌》《暁に祈る》などの戦時歌謡で台頭してきたが、《白蘭の歌》以来、抒情歌でも豊かな歌唱力をしめした。その歌声は戦後ラジオ歌謡でも幾多の名唱を生み出している。八州秀章とのコンビでは《あざみの歌》《山のけむり》などの抒情歌の模範的名唱がある。また、八州秀章も他に《チャペルの鐘》《さくら貝の歌》などの名作を生み出している。
森の小径
わずか一オクターブの間を上下する短い旋律だが、ほのかな青春の夢が浮かぶような作品である。青春の甘さとモダニズムの余韻がたっぷりと感じられた。ハワイ生まれの灰田晴彦と勝彦の兄弟愛は非常に有名である。兄晴彦は慶応出身でモアナ・グリークラブを主宰していた。この楽団はハワイアンバンドのハシリである。弟勝彦は立教大学でサッカーの選手だったが、ゲストで歌っているうちにこの楽団のメンバーになっていた。兄の作曲した曲を弟灰田勝彦が歌い、兄がスチールギターで追いかけ、バンドの連中がハーモニーをつける。コーラスも入るのでさしずめマヒナ・スターズの先駆でもあった。この《森の小径》は灰田勝彦の重要なレパートリーだった。レコードは昭和十五年十一月新譜でビクターから発売された。人気絶頂の灰田の甘い歌声と美しい裏声が人々に青春の夢と喜びをあたえている。
鈴懸の径
太平洋戦争のさなか、青春の感傷と若き日の夢やロマンを思い出させるような歌が流れた。《鈴懸の径》である。鈴懸とはプラタナスの葉のことである。昔山伏が着た篠懸衣についていた飾りの玉の実がなるところからこの名称がついた。この歌の作詞は佐伯孝夫、作曲・灰田晴彦、灰田勝彦が豊かな歌唱でヒットさせた。灰田兄弟は慶応と立教、佐伯は早稲田、それぞれの青春がカレッジライフにある。レコードは昭和十七年十月新譜でビクターから発売された。翌年には学徒出陣が行われ学生はペンを銃に代えて尊い命を国家に捧げることになった。青春の想い出と若い日の夢を胸に秘め戦場へ向ったのである。戦後、《鈴懸の径》は「楽団リズムエース」の主宰者・鈴木章治のクラリネットでジャズファンを魅了した。また、日本でこの演奏を聴いたクラリネットの名手・ピーナッツ・ハッコーがアメリカに持ち帰り好評を博した。レコードはRCAから《プラタナス・ロード》という題名で発売された。
湯島の白梅
《湯島の白梅》のレコードは『婦系図』は泉鏡花の小説を東宝で映画化した『婦系図』と並行して製作された。で昭和十七年十月新譜でビクターから発売された。新派の名狂言「婦系図』のなかの「湯島境内」が主題になっている。明治という時代を遠方から眺めるようなスローテンポな歌で「お蔦」と「主税」の悲恋を墨絵のように描いている。最初、歌のタイトルは《婦系図の歌》だったが、戦後《湯島の白梅》と改められた。作詞・佐伯孝夫、作曲・清水保雄、歌は小畑実と藤原亮子が共演した。小畑実はポリドールから昭和十六年二月新譜の《成吉思汗》でデビューした。彼はテノールの永田絃次郎に憧れて朝鮮半島から渡ってきたて、日本音楽学校で声楽を学び歌手になったのである。ビクターでヒットを飛ばし、戦後、テイチク-キング-コロムビア-ビクターと渡り歩き《長崎のザボン売り》《高原の駅よさようなら》等のヒットを放ち昭和二十年代は人気歌手の名声を得た。
新雪
流行歌として格調高いタンゴのリズムに乗って灰田勝彦が歌った。人気絶頂歌手の渋いバリトンは好評を博した。作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一のコンビはビクターのドル箱。数々のヒットを放ってきた。《新雪》は同名映画の主題歌である。原作は藤沢桓夫が朝日新聞に連載した小説である。映画には宝塚から映画入りした月丘夢路が初主演し、水島道太郎が共演した。佐々木俊一はコンチネンタル・タンゴの《オー・ドンナ・クララ》のような楽想を念頭に作曲した。そのメロディーは山の峰々に処女雪が輝くようなきらめきがあった。曲の視聴のとき、あまりにも《オー・ドンナ・クララ》に似ていて周囲を唖然とさせたが、灰田の歌が入るとその想念はうちけされたてしまった。それほどこの歌は灰田勝彦の歌唱に合っていたのである。また、佐々木俊一の不思議な魔力の賜物でもあった。レコードは昭和十七年十月新譜でビクターから発売された。B面は《千代の唄》。これは映画主演の月丘夢路が歌った。
勘太郎月夜唄
この歌は戦中最後の大ヒットである。作詞・佐伯孝夫、作曲・清水保雄、歌唱・藤原亮子と小畑実。レコードは昭和十八年二月新譜でビクターから発売された。このヒットによって小畑実はスター歌手の第一歩を歩みだした。長谷川一夫が主演する東宝映画『伊那の勘太郎』の主題歌である。長谷川が演じる勘太郎が人目を忍んで生まれた土地の伊那に帰郷する。三度笠を下に向けた寂しい姿だった。勘太郎が峠の道で笠をあげて遠くに目をやり故郷の山並みを眺め、さらにその歩く姿をロングで追うシーンは多くの映画ファンを喜ばした。小畑実とこの歌と《湯島の白梅》でも共演した藤原亮子は、東洋音楽学校出身の歌手である。昭和十二年七月新譜でスターレコードから《泣いて居る》を歌いデビューした。戦後、そのままビクターで活躍した。《誰か夢なき》《月よりの使者》を竹山逸郎と共演しヒットさせた。 
 
 

 

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