「心中」考

近松門左衛門 / 邦楽と心中近松「心中物」曽根崎心中近松の浄瑠璃死の道行道行き曽根崎心中1曽根崎2曽根崎3曽根崎4文楽曽根崎心中心中天網島1天網島2天網島3天網島4心中天網島と「卍」近松諸話時代物と世話物
死生観他界観 / 死生観1死生観2死生観3死生観4死生観5生と死と麻生副総理の死生観
有島武郎 / 情死事件有島武郎1小さき者へ有島武郎2
太宰治 / 情死事件鎌倉情死事件玉川上水情死事件心中考やんぬる哉太宰治情死考波乱の人生人間失格津軽お伽草紙
諸話 / 今戸心中鳥辺山心中南地心中心中島原心中心中浪華の春雨湯の町エレジー坂田山心中天城山心中・・・
 

雑学の世界・補考   

近松門左衛門 

邦楽と心中  
現在では様々な情報か否応無く、様々なメティアを適して我々に入って来る。特に、事件性の高いもの、スキャンタラスなものなど、人々の興味・好奇心をそそるものは、テレビのワイトショーで良きに付け、悪しきに付け即時的に入って来る。
現在のようにテレビ・ラジオ・新聞・週刊誌等の多様化された情報手段が無く、且つ文旨率の高かった江戸時代に於いて、事件性の高い情報がどのような手段にて庶民に伝達さわていたのか、疑問を抱いている方も居られると思う。
江戸時代には、市中に起きた諸々の事件を諸人に知らす手段として瓦版があり、現在の新聞の役剖を担っていた。瓦版売りか辻々にて面白おかしく、聞き手の興昧を引く様に、節付けして読み上ける「瓦版のダイジェスト」は、買い手の購買意欲をそそった。しかし、文旨率の高かった庶民層が事件の全貌を知るためには、文字を知る者に瓦版を読んで貰うか、他人に聞くしか知る手段がなかった。
しかし、別の手段として娯楽の少ない当時では、芝居・人形浄瑠璃かその役割を担っていた。両者は庶民に取って最たる娯楽であったし、その影響力は今では考えられないくらい深かった。
此れらの興行主では、集客手段として、ニュース性の高い話題の事件や事柄を、より早く舞台の乗せることが必要であった。それは視壊率を競うテレビのワイトンョーか祝聴者により刺激性の強いものを即時に報遭することに躍起になっているのと同じで、舞台か即ちテレビの画面に匹敵する機能を果たしていたと云っても過言ではないと思う。事件や他人の不幸に興昧を抱くのは、今と変わらず人間の常であり、特に心中事件は格好な材料となっていた。ただ、実名入りで取扱うことは禁しられていたが筋立てなどからそれと分かる仕立てになっていた。  
心中とは
心中と云う言葉は、現在では様々な死様に使われていますが、本来「心中」と云うのは相愛の男女かその愛情の度合いを示す具体的な方法を示す言葉であった。特に江戸時代の遊里や岡場所で遊女と馴染み客との間で、お互いの愛情か真実であることを示す手段として様々なことが行われていた。その行為を称して「心中させる」「心中立」と云っていた。
延享6年(1678)刊行の畠山箕山書「色道大鑑」に「爪を剥ぐ・誓詞を取り交わす・断髪・入れ墨・断指・肉を突く」など具体的な心中立の方法が挙げられて入る。又、井原西鶴著「諸艶大鑑・好色二代男」巻二「津浪は一度の濡」の項には、女郎の心中立の指切りについて次の様に書かれている。
「各々様に何かくすべし。いかにも我ままにはきられず。より男口説してのかかる時、誓詞は品を替へ、爪も前かどにはなすれば、此度無念ながら指なり、前の段々親方に断り申せば、姉女郎まじりに、切っての後見捨る男の吟味をして、初対面此の方の勤帳を引合、もしも手管の男かと、前の一座会義つよく、此跡の盆、高嶋屋の参会の女郎はと、外の家迄とひにつかはし、偽りなければ此男にのかれては俄に淋しくなるべしと、漸々を定め切事」
この文章からは、馴染みの客に対する女郎の心中立ても、馴染みを重ねるに従い、より強い心中立になり、肉体の苦痛を伴うものとなる。特に指切りは、伊達や酔狂では出来ず、不具で情夫のいる女郎に深く馴染む客も付かず、後の商売にも支障を来たす故に、抱主の承諾無しには出来す、姉女郎を交えてその男の此れまでの通い具合や、その男の人間性、他の遊女屋への出入りと馴染み女郎の有無までも調べた上で、将来性を見て決めていたことが分かる。
しかし、時間の経過と共に、心中立ての様々な手段も形骸化し、遊女が客を繋さ止める営利的手段即ち手練手管として乱用され、複数の相手と取り交わすことが当たり前のようになり、遊女の手元には心中箱と云う誓詞・爪・指などを入れる器があった程である。
このようなことから、これらの手段を使っては真実の愛の確認は出来ず、究極の確認手段として、お互いの生命を掛ける行動へと走らせた。この行為か多発するに従い、何時しか男女の情死を称して「心中」と呼ぶようになった。現在では本来の意味合いから外れ、情死以外の複数の自殺や同性同士の自殺、親子の自殺などにも「心中」を付けて呼んで居る。  
上方の心中事件の劇化
貞享2年(1685)に井原西鶴によって書かれた「好色二代男」の巻八「流れは何の因果経」の項に、その頃大阪新町遊郭(公娼)にて心中沙汰を引き起こした遊女の名前を次のように列拳している。
「我がふる里のみしりし女郎計、詠めける久代屋の紅井、紙屋の雲井、京屋の初之丞、天王寺屋の高松、和泉屋の喜内、伏見屋の久米之介、住吉屋の初世、小倉屋の右京、拍屋の左保野、大和屋の市之丞、新屋の靫負、丹波屋の瀬川、野間屋の春弥、新町ばかりも是なれば、外は貌も見知らず、名も覚えず。扠もおそろしき事かな。半時は程は血煙立て、千種を染めしか、夜明けて見るに、影も形もなかりき。されば此おもひ死を、よくよく分別するに、義理にあらず、情にあらず。皆不自由より無常にもとづき、是非のさしずめにて、かくはなれり。其のためしには、残らずはし女郎の仕業なり。男も名代の者はたとへ恋はすがるとても、雲井は大夫職にしてかかるあさましき最後、今に不思議なり、兎角やすものは銭うしないと申せし」
新町だけても僅かの間にこれだけの心中が起きていることから見て、大阪の各所に散在する遊所(私娼窟)でも同様な事が多発していたと推測出来る。又、西鶴も心中の大半は安女郎と名も無い庶民とのもので、義理や人情からではなく、借金にて身を縛られた不自由からの脱却と現世への無常が原因によると書いている。だから、最高の大夫という地位に居て、身を縛られているとは云え栄華な生活を約され、身請けのチャンスのある雲井が心中したことが解せぬと云っているのである。
この内に名前の出て居る大和屋市之丞の心中事件は、こぜの長右衝門と生玉にて天和3年(1683)5月17日に発生したもので事件後直ちに芝居に取り上げられ、大阪の3芝居にて「生玉心中」と云う外題にて競演された。伊原青々園著「歌舞伎年表・第一巻」には、この「生玉心中」が心中物芝居の本邦初と記している。この生玉というのは生玉神社の事で、この境内では後に多くの心中事件が起きている。
天和年間の頃から上方では何故か心中事件が多発するようになり、中でも興味をそそる心中は速報性を旨とする人形浄瑠璃や歌舞伎狂言に格好な材料を提供する結果となった。
「生玉心中」に続いて歌舞伎狂言に取り上げられた心中事件は、元禄8年12月7日(1695)に起きた世に言う「三勝半七の心中」である。この事件は「元禄宝永珍話」に「三勝半七相対死一件」として事件を処理した「摂州西成郡下難波村御代官之扣帳」が収められたおり、事件は摂津国西成郡下難波村の法善寺の墓地南側の畑の石垣の側にて、大和国宇治郡五條新町豆腐屋赤根半七と大阪島の内の笠屋抱え芸子三勝が喉を切って心中したもので、半七が事業の資金繰りが付かなくなり、心中を持ちかけ三勝が同意した故の心中であった。
この事件は直ちに歌舞伎狂言化され、翌9年正月2日に大阪岩井半四郎座にて「あかねの色揚」と云う外題にて上演され150日間のロングランをしたと云う。この芝居を見て大阪下博労町にて心中が起きたと「新色五巻書」に書かれているそうだ。この事件を題材にした歌舞伎狂言が江戸にて上演されたのは遅く、事件後21年を経た享保元年(1716)江戸中村座にて「半七三かつ心中」として上演されたのが始めである。この事件は以後様々な形で浄瑠璃や歌舞伎狂言に取り上げられて広く流布されてれいる。
元禄12年(1699)正月には大阪嵐三右衛門座にて歌舞伎狂言「石掛町心中・おつや佐吉」が上演された。同年12月8日に大阪千日寺にて起きた大阪淡路町伊賀屋三郎兵衛と北新地茶屋菱屋抱え酌婦おせきとの心中事件は、直ちに京都山下半左衛門座にて翌年正月に切狂言「心中茶屋咄」として上演され大当たりを取り、次いで大阪岩井四郎座「千日寺心中」、大阪荒木座「千日寺心中」と各座が取り上げ上演した。
元禄15年(1702)には世に「お俊伝兵衛」と喧伝される心中事件が起きた。これは京都堀川通さはらぎ町八百屋与助娘おしゅんと小川通米屋庄兵衛が京都三本木河原にて心中した事件で、同年京万太夫座にて「米屋心中」翌年夏に早雲座にて「三本木河原の心中」の外題にて上演された。この事件は元禄末期に京阪にて起きた相対死を実録風に書いた書方軒著「心中大艦・五巻」(宝永元年(1704)刊行)の巻2京の部に「東河原夜明の紅」と題して心中までの過程を書いている。簡単に述べると、おしゅんは17歳から3年間の妾奉公を終え家に戻っていた。近くに住む庄兵衛は最近妻を亡ない寡夫であった。おしゅんを見染めた庄兵衛はおしゅんを妻にと申し入れたが、おしゅんの親は娘に寄生して生きているので、年契約の妾奉公、年30両、季節毎の仕着を提供を条件として出した。借財を持つ庄兵衛はおしゅんを忘れられず、諸所より借財しておしゅんを囲った。契約切れ近くになり、おしゅんは親が次ぎの妾奉公先を探していると告げるが、おしゅんに深く愛情を抱きながらも多額の借財を抱える庄兵衛は継続して契約をすることが出来ないと真情を話す。おしゅんも庄兵衛に愛情を抱いており、親の食い物になっている現状から逃れたいと、二人は駆け落ちをすることに決めた。
しかし、おしゅんの真情に触れた庄兵衛は一人で自殺すると心に決めて家を出るが、態度に不審を抱いたおしゅんは後を追い、東河原にて庄兵衛を見つけ、二人の愛を完遂するには友に死するしかないと、ここに心中を成した。
元禄16年(1703)4月7日に大阪内本町醤油問屋手代徳兵衛と大阪蜆川(北新地)天満屋抱え芸子お初が曽根崎天神の森にて心中した。直後の4月25日には大阪竹鳩幸右衛門座にて「曽根崎心中」の外題にて上演され、次いで京阪の各座にて競演された。やや遅れて近松門左衛門が浄瑠璃を書き、「人形浄瑠璃・曽根崎心中」外題にて上演。近松作のこの浄瑠璃は、心中を美化し、扇動するかの様な聞く人を同化させる美しい文章にて彩られている。その一例として、「逢ふに逢われぬ其の時は、此の世ばかりの約束か、さうした例のないでなし」や、「誰が告ぐるとは曽根崎の、森の下風音に聞こへ取伝へ、貴賎群衆の回向の程、未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」や、大詰も死への道行に語らえる「この世も名残夜も名残、死に行く身に譬ふれば、仇しか原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂減為楽と響くなり」は見物客に紅涙を絞らせ、大当りとなった。中にはこの芝居を見て心中をするものまで現れたと言う。この浄瑠璃は数多くの心中物を書いた門左衛門の第一作である。
近松門左衝門作浄瑠璃「曾根崎心中」は「お初徳兵衛」の名にて今でも親しまれ、心中現場の曽根崎の森跡には[お初天神](大阪の繁華街北の新地の中にある)か祭られている。歌舞伎化されたのは享保4年(1719)4月江戸中村座である。また、この心中は様々な外題にて上演されており、宝歴5年7月江戸森田座狂言「女夫星浮名天神・お初徳兵衛」の道行の場では、富本節「道行時雨の柳」[初代富本豊前作曲]が用いられている。
元禄16年(1703)7月には、堺の帯屋手代久兵衛が、組絲屋菱屋娘お初と井戸へ投身心中した事件が起きた。当地に興行中の豊竹若太夫か直ちに「心中泪の玉の井」と題する人形浄瑠璃を作り上演、帰阪後豊竹座にて再演し好評を得た。
伺年秋、大津柴屋町の芸子小稲と屏風屋稲野屋半兵衛が、近江八景の一つである唐崎の松の根方にて情死[心中大鑑三に辛崎心中として記載あり]したのを、近松門左衛円が歌舞伎狂言「唐崎八景の屏風」として書き下ろし、京都早雲座にて上演した。
これ以後も続発する心中事件は芝居・浄瑠璃に多く取り上げられ、特に近松門左衛門と竹本義太夫のコンビによる人形浄瑠璃はそれぞれが好評を得た。
宝水3年(1706)正月には、元禄16年(1703)に大阪新町にて薩摩藩士が湯女を多く殺傷した事件[西鶴著・好色五人女にある「おまん源五兵衛」の話〕と、寛永3年(1627)9月27日に京都東山麓の鳥辺山にての心中事件をない交ぜにした歌舞伎狂言が、京都万太夫座にて「鳥辺山心中・おまん瀕五兵衛」として上演され、京阪の各座が競演した。この内、大阪岩井半四郎座では、「鳥辺山心中・お染半九郎」と実名にて上演し、道行の場では地歌「鳥辺山」を用いた。
鳥辺山心中と云うのは、二条城勤番旗本菊池半九郎が勤番明けにて江戸へ戻る直前に、酒の上の口論にて同僚の弟坂田源四郎を斬殺し、逃れられず馴染みの祇園の茶屋若松抱えお染と鳥辺山葬祭地にて情死した事件である。この心中は明和3年(1766)の人形浄瑠璃「太平記忠臣講釈」五番目にも扱われており、宮薗節「鳥辺山・道行人目の重縫」[近松半二作詞・二世宮薗薗舌八作曲]が使用さ丸ている。
また、「おまん源五兵衛」を題材とした狂言が以後様々に作られており、「おまん源五兵衛物」と呼はれている.
宝水3年(1708)2月には、大阪千日寺にて萬屋助六と京島原遊郭の遊女揚巻が情死した。この心中を題材にして11月に京都早雲座では芝居「助六心中紙子姿」、大阪片岡仁左衛門座切狂言では「京助六心中」が上演され、京助六心中の道行の場で蛙一中節「助六心中」が使用された。
後に多く作られ「助六物」と呼ばれるものの始であるが、心中を主眼に置いた上方風助六である。江戸風の助六は、この事件を題材にながらも、助六を男伊達に仕立てた任侠物で、正徳3年(1713)4月に江戸山村座にて二代目団十郎が演じた、津打治兵衛作「花館愛護桜」が初めてである。
享保18年(1733)正月中村座狂言「英分身曽我」二番目狂言「助六」では浄瑞璃に河東節「助六・所縁江戸桜」が用いられ、以後の江戸風助六物上演には河東節が勤めることが約され、この決まりは現在でも続いている。
現在「助六」と云うと江戸風助六を指す。
翌4年(1707)には、宝永元年(1704〉に大阪万年町紺屋徳兵衛と六軒町重井筒屋抱え遊女おふさが、高津の大勧進所にて情死した事件を基に、近松門左門が人形浄瑠璃「心中重井筒・おふさ徳兵」を書き竹本座にて上演した。この歌舞伎化は享保5年(1722)正月で、江戸中村座二番目狂言として演じられた。
同6年(1709)には、同年6月1日に大阪で起きた鍛冶屋弟子平兵衛と蜆川(北新地)の遊女小かんが、北野の藍畑にて心中したのを近松が浄瑠璃に仕組み「心中刃は氷の朔日」が竹本座にて上演された。
同7年(1710)春には、正月に大阪の質屋油屋お染と店の丁稚久松が不義理を成し、添えぬことを嘆いて店の油組工所にて情死した事件を紀海音が浄瑠璃にし「おそめ久松袂の自絞り」を書き豊竹座にて上演した。この浄瑠璃は以後様々に作られる「お染久松物」の始である。
このお染久松の事件にはいろいろの説があり、原田光風座著の随筆「及瓜漫筆」には、「油屋の娘お染は4歳、丁稚久枚13歳、同年正月元旦の事、年始客が多いので久松が子守を任された。お染が井戸に興味を持ち覗いているうちに誤って落ち溺死した。主人の娘を死なせた責任の重大さに気付いた久松は、やむなく土蔵に入り首を括って自殺した。これを面白く心中物として芝居にした」と、過失失を悔いての久松自殺説を書いている。
明和5年(1768)2月大阪角の芝居(中山座)の並木正三・並木宗輔作の狂言「お染久松増補袂自絞」の道行の場では、宮薗節「道行夢路の春雨」が用いられ、安承9年(1780)大阪竹本座め近松半二作人形浄瑠璃「新版歌祭文・お染久松」は数あるお染久松の集大成とも云われ、義太夫「野崎村の段」はよく知られており、また、暮切れの花道への引っ込みに用いられる連れ弾きの伴奏も良く知られている。文化10年(1813)3月の江戸森田座切狂言「心中里の噂の」(鶴屋南北作)では、「お染の七役」があり、お光の役では、常磐津「お光狂乱」(三世瀬川如皐作詞・四世岸澤古式部作曲)が用いられた。文政8年(1825)11月江戸中村座顔見世狂言「鬼若根元台」の二幕目大切所作事として清元「お染・道行浮塒鴎」(四世鶴屋南北作詞・初世清元斎兵衛作曲)が初演された。
宝永7年(1710)から享保7年く1722)に掛けては、近松門左衛門の手により今に残る心中物浄瑠璃が作られた時期に当たっている。
宝永7年(1710)2月7日、高野山女人堂にて寺小姓成田久米之介と高野山山麗の紙谷宿の娘お梅が情死した事件に、八百屋お七を絡ませた近松門左衛門作人形浄瑠璃「心中万年草」が竹本座にて4月に上演。
正徳2年(1712)秋には、同年京都にて起きたお花と半七の情死事件に、同じく大坂長町にて起きた女の腹切事件とを岩び付けて、「お花半七・長町女腹切」が竹本座にて上演。
正徳5年(1715)5月には、前年5月5日に大阪松屋町茶碗屋一津屋五兵衛伜嘉平次と伏見坂町柏屋抱え遊女おさがが生玉神社の境内にて心中した事件を題材にした「生玉心中・おさが嘉平次」が竹本座にて上演。
享保5年(1720)12月には、現在でもしばしは取り上げられる近松門左衛門の代表作である「心中天の綱島・小春冶兵衛」が竹本座にて上演。この作品は同年10月14日に、大坂綱島の大長寺の墓地にて天満お前町紙屋治兵衛と曾根崎新地紀の国屋抱え遊女小春が情死した事件を題材にして作られており、上の巷「河庄」か有名である。
この浄瑠璃は後に様々な改作物か上演されたが、其のうち近松半二が改作したものを土台にして安永7年(1778)に大坂北の芝居にて上演されたのが歌舞伎上演の最初である。
外題の「天の綱島」は心中壌所の綱島と諺の「天綱恢恢疎にして漏らさず」より取って作られており、この諺は「天の法綱は目か粗いようだが、神は全てを見通しておるので、悪人は漏れ無く捕らえられる」を意味しています。
享保7年(1722)4月5日に起きた事件は、近松門左衛門のライバルである紀海音との競作となった。この事件は大阪生玉の馬場先にある大仏勧進所にて、山城国上田村百姓平右衛門妹で大坂油掛町八百屋川崎屋源兵衛養女千代が夫半兵衛と心中した夫婦心中事件である。原因は養父が夫のある千代を日夜口説き、養母に話しても直らず、夫も養子故に義理に縛られ離縁される事になったが、二人は離れられず、心中する事にて添え遂げようとした事件であったと云われている。
紀海音は直ちに事件を脚色して人形浄瑠璃「心中二腹帯・お千代半兵衛」を翌日豊竹座にて上演され、同22日には竹本座にて近松松門左衛門作「心中宵庚申・お千代半兵衛」が上演された。
この作品を最後として心中物浄瑠璃は暫時作られなくなった。その理由は心中多発か社会現象となったことに対処するために、翌年2月29日に出された幕府の「心中法度」により、以後心中物芝居・浄瑠璃の新作・上演が禁じられたことによる。  
幕府の心中対策
上方の心中多発も享保5年(1720)を境に何故か急速に収束に向かって行ったが、反面江戸に飛び火し江戸での心中事件が多発し始めるようになった。江戸の芝居・人形浄瑠璃座にて心中物が上演されたのは、正徳3年(1713)に森田座にての「心中村千鳥」が始と云われている。
享保元年(1716)には中村座にて「三勝半七心中」か、同4年(1720)4月中村座にて「曾根崎心中」、同年9月には中村座にて「お染久松心中」が歌舞伎化されて上演された。翌5年(1721)になると、正月から2月に掛けて江戸三座にて「心中重井筒・おふさ徳兵衛」が歌舞伎化され、17年忌を謳い競演された。
これらの狂言は大阪にて評判を得た浄瑠璃の歌舞伎化のため、江戸の観客にも十分受け入れられる要素を持っていた.岡6年(1722)8月に中村座にて上演された「花毛氈二つ腹帯」は、同年4月に豊竹座にて上演された紀海音の「心中二つ腹帯」の歌舞伎化されたものです。
この頃には江戸大阪の情報伝達が活発化し、即時的に江戸に上方情報が流入していたことの表れであり、江戸の大衆にも上方の実録的世話狂言が抵坑なく受け入れられていたことを証明しています。これは江戸の荒事、上方の和事と云われた芸風も東西の歌舞伎役者の交流が盛んになるにつれ、江戸歌舞伎にも世話物狂言が定着してさたことが判ります。
このように心中物の便れた狂言の登場は、江戸での心中事件の発生と期を共にしており、以後の心中増加に拍車を掛ける一因とされ、熱に浮かされるように約10数年間続いた。
幕府ではお膝下の江戸にての心中多発を恐れ、その防止策として享保7年(1722)12月16日に下記のようなお触れを出した。
「当前世上ニ有之無筋噂事、並び男女申せ相果候類を心中と申触、板行いたし読売侯儀、前々より御停止之処、此間猥こ売り歩き侯段相聞侯、不届ニ侯、自今捕方之者相廻シ召捕、急度曲事可申付侯、ケ様之者見当り次第其町々ニ而も捕置、月番之番所江可申来候、若見逃しにいたし、捕方之もの召捕侯ハハ、其町々名主月行事まで越度ニ可申付侯間、此旨相守者也」
この触書は心中事件の読売への掲載及び販売の禁止を示したものであったが、翌年2月29日には「心中法度」と呼ばれる条例を出した。その内容は次ぎのようなものである。
「男女申合にて相果侯者之儀、双方共自今は死骸取に可申付侯、一方存命に侯ハバ下手人に申付、且又此類、絵草紙又はかぶき狂言杯にも致させず、尤も死骸弔い侯事停止可申付侯。双方共に存命侯ハハ、三日晒し、非人之手下ニ而可申付侯」
この法度の趣旨は、心中者は埋葬をさせず畜生の死骸同然として投げ捨てにて処理させる事。生き残り者は殺人犯として処刑する事未遂者犯人晒し者(江戸にては日本橋の袂にて晒す)にし、且つ人別より除外して非人にする事などを示し、心中遂行を躊躇させることを目的としていた。又、心中多発の原因の一端は、心中物を扱った絵草紙や心中物歌舞伎狂言であるとしていることである。
当然心中物歌舞伎の創作及び上演の禁止は、舞台音楽である浄瑠璃などをも含んだものであった。しかし、翌年2月になると、主人と召使女との心中の場合の処理の仕方が一部変更になった。それは主人が生き残った場合には殺人犯とはせず、晒し者とする。又、召使女が生き残り、主人が死んだ場合には、召使女は主人殺しの犯人として処刑すると改めた事である。ここには江戸時代の身分制度が強く反映しており、雇い主の絶対権が守られていたことである。
上記のような厳しい禁止令が出されたが、依然心中沙汰は滅少せず、元文年間(1736-40)まで多発し続けている。
この法度も施街後10年を経過すると些か緩んだのか、享保19年(1734)正月に名古屋にて、宮古路豊後掾により、新作心中物浄瑠璃「睦月連理椿・名古屋心中金村屋おさん」か上演された。
この浄瑠璃は、前年夏に名古屋闇の森にて日置町の畳屋喜八と飴屋町花村屋抱え遊女小さんが心中を仕損じた事件を題材にして作られものであった。では何故、幕府禁止の心中物浄瑚璃が名古屋にて公然と上演されたたのかと云いますと、将軍吉宗による一連の享保改革路線は消費力を低下させ、生産量の減退は物価を高騰させ、ひいては庶民生活を疲弊させるとの意味合いから、真っ向から幕府の政策に反対の立場を示し、倹約とは反対の放漫開放政策を行った尾張藩主宗春の城下町であったことと、幕府の禁止の目が緩んできた事も一因として挙げられる。それは伺年に豊後掾が名古屋にて大当たりを取った「睦月連理椿・おさん伊八」を引っ提げて江戸に下向して上演し、大評判を得たことからも推測出来ます。  
豊後節浄瑚璃の江戸流行と心中
この宮古路豊後掾の江戸進出は、長らく心中物浄瑠璃や歌舞伎から遠ざかっていた江戸人士に諸手を拳げて迎えられ、以後様々な社会現象を引き起こす端緒となった。
この豊後節浄瑠璃と云いますのは、上方浄瑠璃の一つである・一中節初代都一中の弟子半中が、享保3年に独立して宮古路国太夫と改め竹本座に出勤し、岡本文弥の「泣き節」の系譜を引く一中節を、更に哀愁と艶を持たせた節調に替えたのが大評判を得、国太夫節と呼ばれた。
江戸進出に際して、上方風な国太夫節では江戸人士には受け人れられないとの、鳥羽屋三右衛門(当時有数な三味線弾き)の助言を得て、江戸人向けに節調を改めたのが好評を得、江戸三座や操り座に出勤し、短日にして従来の江戸浄瑠璃を駆逐して確固たる基盤を確保し、やかて豊後掾の国号を受領したので豊後節浄瑠璃と呼ばれるようになった。
豊後節の盛況について、様々な有識者かその随筆の中で書き残しているが、共通しているのは痛烈な批判である。その幾つかを拳げどのような目を持って豊後節を見ていたかを見て行くことにする。
当時有数な儒学者であった太宰春台は「独寝」の中で痛烈な下記のような批判を述べており、反面江戸の人士が豊後節をどの横に受入れていたかを知る格好な資料とも言える。
「都路と意へる浄瑠璃、浪速より来りて悲しき声にて卑しい諺の浅ましく取乱れたる事どもを語り出す程に、江戸の人是にうつりて興じもてはやすこと限りなし。下ざまの人は言うに及ばず諸侯、貴人、掌の上なるやんごとなき人にも、ひたすらに是を好みて、年の初めにもいかなる目出度き吉事の座敷にても、其の悲しき声にてうれはしき事共を語りいずるを、おかしと聞きていまはしとも思はず日を暮らし夜を明かして飽かず聞きけり」
太宰春台著「独語」の別の項では、
「その詞の鄙俚猥雑なる事いふ計りなし。士大夫のきくべきことにあらず。親兄弟並居たる所にては面をそむけ、耳をおほふべき事なり。されば此の浄瑠璃さかりに行はれてより以来、江戸の男女淫奔する事数知らず。元文の年に及びては、士大夫の族はいふに及はず、貴き官人の中に下人下女と通じ、或いは妻を盗まれ親類の中にて姦通する類いくらといふ数知らず.是れ正しく淫楽の禍なり」
又、元禄から元文年間(1688-1740)までの世相を記した幕府儒臣松崎尭臣著「窓のすさび」巻2には、
「大阪より義太夫といふもの出でて、近松といふもの文句を作り、世上にてもてはやし、漸く江戸へも渡りしが、享保の末より豊後節と云うもの始まり、淫にして悲しく、俗話にてつらぬき、桑間(亡国、淫らの音楽の意)の気せまりたり。大阪に始まり、京に移り、江戸に流行来て、江戸中諷(うたう)はぬものなし。巷に溢るる音なれば常に往来の人のうめくを聞くに、秋戎滌濫(様々な中国北方異民族が溢れうこめいて居る様)の音とは是れに極まれると思はる。とうけてかなしびたはれて恥を知らず。衰へはてたる声、かくもあるものにこそ。元文の始めにや、暫時禁制(豊後節停止)事ありしが、頓て益々盛んにして、上下貴賎泣声出さぬはなし。淫声の人を動ずる。誠に奇なるかな。男女心中と云ふて、ともに死すること京大坂の風なりしが、今はいつしか江戸に移り、年々に絶えず。其の上貴人の息女姉妹など出奔の事、昔より聞きも及はぬ事たりしに、今は常のこととことなりて耳を聳てて聞く者なき如くたり」とある。
上記の資料を基に当時の豊後節浄瑠璃の状況を見ていくと、江戸下向後、江戸浄瑠璃(一中・河東・半太夫等)には無い豊後節特有な語り口は、急速に江戸人の好む処となり、芝居音楽だけではなく、市中の音曲としても流行し、愛好者は江戸城内を筆頭にして庶民に至る幅広い階層に受容されていった。心中者浄瑞璃の禁止令は、いつしか有耶無耶となり、豊後節にて語られる上方心中物芝居は、様々な理由により切羽詰まった江戸の男女をして、心中に駆り立てた一因になったことは否定できない事実と思われる。しかし、淫靡な風に汚染されている江戸の世相の全責任を豊後節に負わせるのは行き過ぎ感を免れない。
豊後節江戸流入以前の江戸の風儀がどの様なものであったかを知る格好な資料を紹介します。延宝年間から享保年間(1673-1735)に掛けての世相を随筆に書き残した新見正辰著「昔々物語」の一節にその乱れ具合をあからさまに、下記のように記している。
「近年土佐節はやり、此の方女中奥方御息女針女腰元は申すに及ばず、下女半下まで、上るり五段拾段つつも家ことに語る。近き頃は半太夫ぶし河東一中ふし義太夫節迄やるもの多し。女の役縫物針細工の芸は曾てなし。皆近年の文句を専らに作りたる浄瑠璃ゆへか、よく覚ゆる也。堺町の野良役者の名紋所年迄、上下の女中覚えぬはなし。これも好色はおもひ深き故也。」
と、五代将軍綱吉治世のに流れた世相の一端を書いていますが、丁度この頃から貸幣経済が一段と進み、流通経済を一手に握る札差などの上層町人層が台頭し、実質的な権力を手中に収め始めていた。其れ故に士農工商と云う江戸幕府による身分制度の最下位に置かれながらも、彼ら無くしては生活も成り立たたない武家階級に対する意識も急速に変化し、人間には本来差別は無いとの意識が横溢するようになった。この意識の変化に基ずき自由な発想を持って行動する風潮が醸し出されていた。反面、米穀経済に依存する武家階級は、経済的に破綻を来たし、自家の経済を札差に握られ、身分制度による優位性も空洞化していた。このような社会構造の変化は、武家階級をして経済を一手に握る町人階層への接近をもたらし、必然的に町人階層の趣味嗜好や思考か式家階級へ流入、またその逆の事柄も生じていた。
上記の記述は、曾て町人の趣味嗜好を下世話と称して蔑んでいた式家屋敷の奥にまで様々な庶民遊芸が入り込み、奥方以下端女までが女性本来の仕事を投け打って、これを習い、歌舞伎役者に浮かれて、まるで町人階層の家庭と変わらない様を描いておる。
この事は武家や上層町人家庭の女性が開放的になり、市中を自由に出歩く事が出来る社会環境が、元禄年間には形作られていたことを意味してをり、江戸幕府の社会規範である儒教が崩壊し、「男女七歳にして席を同じうせず」は有名無実化し、若い男女が相逢う事が抵抗無い世相になっていた。
また、世相が乱れていた事実として正徳8年(1713)4月に大奥年寄江嶋が代参の帰途、山村座に立ち寄り生島新五郎と密通、以後再三訪れ情を交わしたことを司直の知るところとなり、翌年正月に山村座にての行動を咎められ、3月に江嶋・生島新五郎始め、多数の大奥女中や関係者が処罰された、世に云う「江嶋生島事件」が起きています。また、享保元年(1716)には、ご存じ八木節にて唄われている青山百人組御徒士鈴木主水と新宿の橋本屋抱え飯盛女(私娼)白糸との心中が起きている。
享保から元文年間(1716-40)の24年間のの世相を記した「享保世説」や「元文世説」に記されている心中事件を調べると37件あり、この中に享保9年8月に旗本二千石の当主が、義母の腰元と心中。同18年9月には旗本用人と奥付女中の心中の武家の心中が2件書かれておる。
唯、豊後節か江戸で流行した享保19年から元文4年の豊後節停止までの6年間では7件を数えます。また、元文元年の記事には旗本の娘や妻女の駆け落ち出奔が三十八九人あったと書かれている。元文年間の4年間には武家の心中や駆け落ちが多くなったのか、同2年春に旗本娘と同家若党の駆け落ち心中、同3年7月には旗本大番頭養子と実家の下女の心中、同年9月には芝神明社神主娘と同家若党の出奔、同年10月に大名家召使と近くの町人との心中、同年12月旗本家来娘と浄瑠璃語りの駆け落ち出奔など5件が記されている。これは隠すことが出来ず公けになったものの一部であり、実際には数知れずあったと推察出来ますし、武家屋敷の内部が如何に乱れていたかが判ります。先述した「窓のすさび」では当時の旗本の家庭崩壊の模様をを次のように記している。
「或る旗本の息女、家中の若士と密通し、彼息女を連れて出奔しける。主人御城に宿直の夜なれけれぱ、そのむね書中にて達しける、帰りて後申付べし、随分穏便にして居よと返答有りけり。翌朝退出後、立退たるものは知れければ、倫に居所を聞付べしと穏便に云付、さて気分勝れず侯程に、保養のため今日噺子申付べしとて、客を招き終て夜まで遊び、三日続て其の如くせられしかば、世上にてよも異変はあるまじとて、沙汰するものなくて止みけり、かくてつれ退きたるもの行衛知れければ、金五十両遣し、まずともかくも凌ぎ居よ、追ってまた安く暮らしぬる様にして遺すべしとて云やられける。かかりしゆへ世の風説なくしてやみぬ、近頃あしく取りなして恥をひろげぬるも有りし、これによって近年貴人の娘、又は妻女など不義の出奔時々有りて珍しからぬ様になりぬ。」
不義はお家の法度として処断される掟である武家屋敷にてかかる様は、直参旗本と称し、武家の手本であるべき旗本の気風が如何に地に落ちていたかの証になり、嘆かわしい限りである。
豊後節浄瑠璃が江戸に進出した数年の間に、これまで酷く変貌したとは言えず、儒者などの識者が、江戸の淫券な風潮を全て豊後浄瑠璃に負わせ糾弾するのには不可思議な点が窺える。豊後節を糾弾する識者の考えを巧に取り込んだのが、武家屋敷をも巻き込んでの風儀の乱れを是正すべき立場に居た幕府施政者たちで、豊後節を槍玉に上げる事にて問題のすり替えを成したと想定される。
元文4年(1739)10月7日に下記の様な「豊後節浄瑠璃停止」が出された。
一、近年、上方節夥敷流行、稽古致者浄瑠璃語の風俗を学び、世上一流風俗悪敷罷成、其故召仕等までも不埒の致方所々数多有之候、畢竟右浄瑠璃文句等不宜故候間、若者共、子供並手代まで、浄瑠璃稽古の儀は無論、右の浄瑠璃語り申す間敷候事。
一、上方浄瑠璃語り太夫名無用之事.勿論門口に太夫名札張申間敷く候、並浄瑠璃稽古所と申す札張間敷候事。
一、上方節、浄瑠璃之俵、宮地広小路等にて渡世に語り候分者格別に候。
この禁止令では芝居など家業として演奏することは許すが、稽古所、出稽古の禁止及び一般人の豊後節習得及び演じる事の禁止であった。しかし、豊後節を禁止したからと云って一度乱れた風儀が一朝一タに改まるものでは無く、心中、出奔が無くなった訳ではなく、又、庶民も一片の禁止令にて直ちに豊後節を捨て去る訳では無く、隠れては語っていたと云われている。  
豊後節停止以後の心中と邦楽
この禁令も何時しかなし崩しに緩み、豊後掾帰京後、江戸に残った宮古路文字太夫が江戸豊後節浄瑠璃の家元となり、廷享3年(1746)に豊後節の曲節などに手を如え名称を常磐津と変え再興し、勿論芝居に出勤し、稽古屋も開かれ町中に林立することになった。その萌えの延享元年(1763)には小丈字太夫が文字太夫と意見が合わず袂を分かち、6年後の寛廷2年(1749)に富本節浄瑠璃を創設した。
豊後節停止以後も心中事件は絶えず、氷山の一角ですが、歌舞伎狂言や浄瑠璃に仕組まれ現在でも良く知られる心中事件が起きている。
この当時の江戸庶民が心中に対してどの様な気持ちを抱いていたかを、明和年間(1764-71)に作られた庶民文芸である川柳「柳多留」から幾つか見てみます。
「心中はほめてやるのか手向けなり」
添えぬ二人が命を賭けて添え遷げたのだから、何も言わず、あの世での幸せを祈ってやるのが供養である。
「心中があるんでつよくしかられず」
この頃の若い男女が親の意に添わぬ者と惚れ合っても、叱ると直ぐに心中に走ってしまう風潮が有り、親も仕方なく相手を認めざる負えない位い心中か有った査証である。
「心中の帯びをして居るむごい事」
これは心中法度にて心中者は死骸取捨てにされたので、非人が着て居た着物などを自由に処分した。古着屋に持ち込んだり、自分たちが着たりした。それを着た者を縁者がみかけた時の様を読んで居る。
「心中は化ケると禿おとされる」
新吉原遊郭での遊女の心中を読んだもので、遊女になる前の女童が、心中した遜女が化けて出ると、姉遊女や仲間に脅されている様を読んでおり、川柳に成るくらい新吉原でほ心中が頻繁にあった証拠です。
延享3年(1746)12月13日には、津軽藩士原田伊太夫が新吉原2丁目太左衛門店太四郎抱え遊女尾上と心中未遂を起こした。この事件を直ちに初代鶴賀若狭掾が新内節「帰咲名残命毛・尾上伊太八」として作曲し上演した。この曲は新内を代表する名曲として現在もしばしば演じられている。
寛享2年(1749)3月18日に大阪商新地福島屋抱え遊女お園と大宝寺町大工徒弟六三郎が西横堀にて心中。又、同日大阪北新地芸子「かしく」が兄を殺害した故に処刑された。叉、同日神崎川添いの伊丹街道にて馬子が紀州藩士と口論の末、殺害された。この3つの事件を結び付け、浅田一鳥が人形浄瑠璃「八重霞浪花浜萩」を作り、直ちに豊竹産で上演。
この浄瑠璃を基に奇抜な趣向を凝らして江戸前の歌舞伎世話物狂言が三世桜田治助により作られ、安政4年(1857)7月江戸中村座二番目狂言にて上演されたのが、「三世相錦織文章・お園六三」である。この狂言の序幕「洲崎堤の段」に用いられたのが、常磐津「おそめ六三 道行螺吹雪」三世桜田冶助作詞四世岸沢古式部作曲である。  
明鳥・浦里時次郎
明和6年(1769)7月3日に幕府御賄方伊藤伊左衛門伜伊之助が新吉原2丁目桂屋抱え遊女三芳野と三河島慈眼寺にて心中した事件を題材にした邦楽で、最初の作品は3年後の安永元年(1772)に初代鶴賀若狭掾よって新内「明鳥夢泡雪(浦里時次郎)」として世に出、新内が世情にて大変評判を得たので、為永春水と瀧亭鯉太が合作にて読本「明鳥後日正夢」が作られた。嘉永4年(1851)2月市村座狂言「仮名手本忠臣蔵」八段目「道行旅路の婿入」の裏狂言として三代目桜田治助により新内節「明鳥夢泡雪」を題材にした狂言「明鳥・明鳥夢泡雪」[上の巻「浦里の部屋」下の巻「雪責の段」]が作られた。これは赤穂義士のメンバーの内で、討ち入りに先立ち北新地の遜女と心中を起こした実話があり、これに当て嵌めて作られている。この実話と云うのは元禄15年(1702)7月15日に大阪北新地蜆川にて橋本平左衛門が淡路屋抱え遊女おはつと心中した事件である。この下の巻「雪責の段」にて用いられたのが、新内節「明鳥夢泡雪」を短くして改調して作られた清元節「明鳥花濡衣・明鳥」(清元千蔵作曲)である。
また、嘉永6年(1853)2月大阪竹本綱太夫座にて「山名屋の場」を人形浄瑠璃化した義太夫浄瑠璃「明鳥雪の曙・浦里時次郎」が上演され、翌年4月に竹田の芝居にて再演の時から外題は「明鳥六花曙」と改められた。
安政4年(1857)5月中村座狂言「若樹梅里見八総」二番目大切「明鳥雪浦里」の道行の場では新内節「明鳥後正夢・浦里時次郎」が用いられた。常磐津節にも新内節と同じ本名題の「明鳥夢泡雪・浦里時次郎」(作詞作曲者不明)上中下三巻があり、内容は新内節とほぼ同じであるが詞章が異なっている。この常磐津を上下二巻に短縮したのが常磐津節「夢泡雪浮名一節・新明鳥」で万廷元年(1860)頃三世岸澤仲助が作曲した。  
お半長右衛門
お半長右衛門の話は端唄俗曲「お伊勢参り」の「お伊勢参りに石部の茶屋あったたとさ、かわいい長右衛門さんが、岩田帯締めたとさ」で皆様ご存じと思う。
享保19年(1734)に京都柳の馬場通り押小路虎石町の信濃屋娘お半と隣家の帯屋長右衛門が桂川にて心中体にて発見され、心中事件として処理された。津村淙庵著「譚海」[日本庶民生活史料集成第8巻所載]によれば、実録は乳母と丁稚を連れて伊勢参りに行ったお半が、帰路土山宿にて夜半丁稚に夜這をされ、逃れて隣室に逃れる。この隣室にはたまたま隣家の長右衛門が泊まっており、同衾している内に情を交わしてしまう。帰京後も二人の関係は続き、やがてお半は身籠ってしまう。長右衛門は思案の末、丹波の親戚にお半を預け堕胎させることにし、お半を連れて丹波へと急ぎ桂川の渡しへ乗る。長右衛門が大金を持参していることを知った船頭二人に二人は殺害され、心中のように見せかけて川に流された。この事実が判明したのは事件後8年目の安永元年(1772)のことで、大金を手にした船頭二人は京にて商売を始め成功するが、一人が臨終の際に息子に真実を話し、困った時には他の一人が面倒を見る約束になっていると告げる。この息子は遜蕩にて家産を傾け、約束を果たせと再三無心をするが次第に断られる様になった。腹癒せに息子が奉行所に訴人した結果、真実が明るみに出たと云う。
この事件を最初に取り上げたのは、宮薗節で、明和年間(1764-72)に初代宮薗鸞鳳軒により「桂川恋の柵・お半」が作られている。
真相判明後の安永元年(1772)5月大阪中の芝居(市山座)の切狂言として「立朧桂川」が上演された。安永5年(1776)10月大阪北堀江市之芝居(豊竹此太夫座)にて歌舞伎狂言「立朧桂川」を菅専助が浄瑠璃化した義太夫節浄瑠璃「桂川連理柵・お半長右衛門・帯屋」が上演された。寛政9年(1797)5月にこの浄瑠璃が大阪道頓堀東の芝居にて再演された際に、「帯屋の段」に宮薗節「道行恋の柵」が移され、義太夫節「お半・道行朧の桂川」が作られている。又、文政2年(1819)中村座正月狂言「曽我模様妹背門松」にて義太夫節「桂川連理柵」を基にして作られた清元節「道行思案余・お半」(二世桜田治助作詞・清沢万助作曲)が上演された。しかし、原拠の義太夫節「桂川連理柵」には道行が無いので、新に道行の場が作られた。
天保元年(1830)8月市村座二番目狂言「新帯屋注文」には清元節「月友桂川浪」(松井宰三作詞・初代清元斎兵衛)が使用された。  
権八小紫
安永8年(1779)5月江戸森田座にて森羅万象作歌舞伎狂言「驪山比翼塚(めぐろひよくづか)」が上演された。この狂言は延宝7年(1679)11月3日に江戸鈴ヶ森刑場にて処刑された元鳥取藩士平井権八を題材にした作品で、権八物狂言の始である。
権八と云うと芝居好きの方は「ご存知鈴ヶ森」での男伊達幡隨院長兵衛との「お若けえのおまちなせえ」「待てとお止めなされしは、手前のことでござるよな」の名台詞で思い起こすと思う。しかし、実際には両人が会うはずはなく、長兵衛は慶安3年(1650)水野十郎左衛円の屋敷にて殺害されており、権八が江戸に存在した時期とは20年の開きがある。これは権八と小紫の話と男伊達として江戸人に人気の有る長兵衛とを結び付けて客受けを狙った鶴屋南北が、文政6年(1823)3月市村座狂言として書き上げた「浮世柄比翼稲妻」の一場を、後に独立させて狂言に仕立たものである。
平井権八(芝居では白井権八)は実際に居た人物で、稀に見る凶悪な殺人犯であったとのことである。寛文12年(l672)秋、鳥取にて父の同僚俊を殺害した権八は江戸に逃れ、素性を隠し忍藩阿部家に臨時の徒士として雇われる。
延宝3年(1675)のある休日に、吉原に遊びに行った権八は、お忍びで遊興に来ていた藩主が旗本に因縁を付けられているのを見て、旗本を懲らしめ藩主を救い出した。その功により同座を許され、正規の徒士に取り立てられる。この席に三浦屋抱えの小紫大夫がいて、権八を見染め、身残を切って登楼させ肌身を許した。権八も小紫を忘れられないが、大夫を揚げるには大金が必要であるが、その金も無く、遊び金を得るために吉原へ通う遊客を日本堤にて待ち伏せし辻斬を行うようになった。同年春に武蔵国大宮原にて商人を斬殺して大金を強奪した際に、仲間が捕らえられ、全国氏名手配になった。逃れて故郷鳥取に行ったが、脱藩殺人犯であるので安全ではなく、病に罹り大阪に戻り大阪町奉行所に自首した。
自首の本音は小紫に逢いたい故で、身柄が江戸に護送される途中、江戸近郊にて脱走すれば、労せずして小紫に逢へるとのことで、実際に護送途中藤沢宿にてまんまと脱走に成功する。危険性の高い吉原に忍び入り小紫に逢うが、捕らえられ処刑される。権八の処刑後、自分の為に大罪を犯し身を滅ばしたと悔悟した小紫は、三浦屋の若者の手引きで席を抜け出し、目黒東昌寺の権八の墓前にて後追い自殺を成した。寺では二人の哀れみ亡骸を此翼塚にしたと云われている。この権八と小紫の話を題材にして百年後に作られたのが上記の狂言で、名題「驪山此翼塚」の驪山と云うのは、唐の玄宗が楊貴妃と共に歓を尽くした愛の住家である離宮驪山宮を指し、相思相愛に二人の永遠の住家(墓所)である目黒東昌寺を意味して「めぐろ」と読ませている。
文化13年(1816)正月中村座狂言「此翼蝶曽我菊」の二番目序幕二幕目の舞踊劇として清元「其小唄夢廓(そのこうたゆめのよしはら)・権八」が上演された。現在では上の巻のみが演じられ別称「権上・権八小紫」と呼ばれている。
名題にある「其小唄」は権八が処刑される時に、当時江戸にて流行していた小唄「八重梅」[梅が咲けしが、いよ八重梅が枝を、枝を手折る振りして必ずござせと様を招く。必ずござせと様を招く。夢になりとも逢いたや見たや。夢になりともこう驪山比翼塚じゃな・・・]を口ずさんで処刑されたと云う事から付けられている。  
綾衣外記
天明5年(1785)8月13日に前代未聞の心中事件が起こり世上で大評判になった。それは大身旗本藤枝外記と新吉原大菱屋抱え遊女綾衣の心中であり、後に「君と寝やろか、五千石とろか、何の五千石、君と寝よ」と云う俗謡までが生まれた事件である。この事件は新歌舞伎狂言「箕輪心中」として劇化されている。
この主人公である藤技家は、下世話で云う「女の尻にて家を立てた」典型的な蛍旗本であるが、数多くある蛍旗本の内でも「女の尻にて家を潰した」珍しい家である。この家の初代は弥市郎と云う京都の町人であった。娘お夏が五摂家の鷹司家に仕えていたが、鷹司政信の姫が家光御台所として下向した際に侍女として従い、大奥に入った。やがて家光のお手付きとなり男子(家重)を生んだ。これにより親弥市郎は旗本として召し出され、藤技の家名と三百石の知行を与えられた。家重が長じ甲府家を立てるや、家老として付けられ、三千石を賜った。この家重の嫡子綱豊が、綱吉の後を襲い六代家宣となると将軍家縁戚の家として一千石加増され四千石の大身旗本となった。
六代目までは何事もなく世襲されてきたが、六代目に子供無く、旗本徳山貞明の四男を養子に迎え、旗本山田肥前守利意の娘お光と婚姻させた。この養子外記は生来の放蕩者であったが、生家では厄介介者の部屋住であったので遊び金にも苦慮していた。ところが一躍大身旗本の当主となり、金残に不自由ない身となるや、吉原に入り浸り放蕩の限りを尽くしていた。この放蕩が幕府に知られ厳罰に処されるのを避けるため、親戚一同により座敷牢に監禁された。しかし、甘言にて妻を騙して座敷牢を抜け出した外記は、吉原に赴き馴染の綾衣と心中をしてしまう。
家名大事な藤枝家の姑は、病死と偽り幕府に届けたが、人の口には扉を立てられず外記の遜女との心中は何時しか世上に流れ、幕府の知るところとなった。幕府の手により墓所が暴かれ死体検案の末、病死でないことが判明し、虚偽の申請不届きとされお家断絶の処分を受けた。世の人は四千石の大身であり、‥綾衣に心中する位い惚れていたなら、身請けをして妾として処遇すれば、家を潰さなくてもよかったのにと云い、上記の俗謡が唄われるようになったと云う。
藤枝外記に関係する邦楽は新内節「藤かづら」本名題[藤蔓恋の柵]別称「早衣喜之助」で、初代鶴賀新内が事件直後に作った曲である。  
新内節「淡島」本名題[傾城音羽瀧]/通称「音羽丹七」。初代鶴賀若狭掾作曲。享保16年(1731)6月江戸神田松田町丹波屋養子九郎兵衛と新吉原兵庫屋抱え遊女音羽が心中未遂の上、三日間晒され非人手下(戸籍を外され被差別身分にされること)にされた実話を宮古路豊後掾が豊後節浄瑠璃にした「音羽瀧の噂」の上の巻を新内に転用した曲である。
新内節「三勝縁切」本名題[千日寺名残鐘・三勝縁切の段」/通称「三勝半七」。初代鶴賀若狭掾作曲。原典は延享3年(1746)作の義太夫節「女舞剣紅楓」の五段目で、それを脚色した曲である。
長唄「三勝道行」本名題[三傘暁小袖]/宝暦6年(1756)3月中村座狂言「寿三舛曾我」二番目大詰にて三勝半七が千日寺へ心中うるための道行の場に用いられた。上中下三巻の内の上巻「三勝半七浮名の雨」が本曲である。初代杵屋作十郎作曲。
宮薗節「道行縁の花房」通称[掛行灯]/明和元年(1764)5月大阪竹本座上演の義太夫「お花半七・今日羽二重娘気質」の道行「恋の小夜風」に拠り、明和元年から同6年の間に作られた曲である。
義太夫浄瑠璃「艶姿女舞衣」世話物三巻/安永元年(1772)12月大阪豊竹座にて初演。竹本三郎兵衛・豊竹応律・八民平七合作。元禄8年(1695)大阪千日寺墓所にて女舞太夫と豆腐屋赤根屋半七が心中した事件を題材して、過去数多の作品があるがこれらの先行三勝物の影響を受けて作られた作品で、下の巻「上塩町」別名「酒屋の段」は有名でしばしば単独にて上演される。
新内節「蘭蝶」本名題[若木仇名草]/初代鶴賀若狭掾作曲。安永末(1772-81)頃。声色身振師市川屋蘭蝶は、吉原榊屋抱え遊女此糸に馴染み、女房が身売りした金をも入れ揚げ、挙句の果てに心中をしてしまう。この曲は「明烏」「尾上伊太八と共に新内を代表する曲と言われている。
富本節「お菊幸助」本名題[名酒盛色の中汲]/寛政5年(1793)2月市村座狂言「貢曾我富士着綿」第二番目大切所作浄瑠璃として初演。作詞二世瀬川如皐、作曲名見崎徳治。加賀の酒屋の娘お菊と丁稚幸助は離れられない仲であるが、お菊が許婚との婚姻を強いられるので、行く末を儚み心中を成す筋立。
富本節「小稲半兵衛」本名題[侠客形近江八景]/寛政6年(1794)7月江戸都座初演。松井由輔作詞、初代名見崎徳治作曲。先述した「心中大鑑」に所載の元禄16年(1703)に起きた「唐崎心中」を題材にした曲であり、後に清元に移曲された。
常磐津「三勝半七」本名題[其常磐津仇言]/文化9年(1812)正月中村座二番目狂言「台頭霞彩幕」の浄瑠璃として初演。作詞二世桜田治助、作曲四世岸澤式佐。この曲は「縁切りの段」「書置きの段」からなる曲である。
清元「嫁菜摘・お早」本名題[道行誰夕月]/文政6年(1823)正月森田座狂言「初夢曾我宝入船」二番目三幕目にて初演。二世桜田治助作詞、初代清元斎兵衛作曲。お早と義弟与兵衛は蜜通の清算に死のうと隅田川に来るが、二人に不審を抱いた嫁菜摘と飴売りに意見をされ思い止まると云う筋。
常磐津「小稲」本名題[千種野恋の両道]/弘化元年(1844)7月河原崎座狂言「宵庚申後段献立」の大切に初演。作詞三世桜田治助、作曲岸澤式佐。義太夫「小いね半兵衛廓色上」を原典として作られた曲である。
清元「お菊幸助」/富本節「お菊幸助」を初代延寿太夫が独立して清元を創設した時に移した曲。
清元「白糸」本名題[重褄閨小夜衣]/別称「鈴木主水」。嘉永5年3月(1852)市村座狂言「隅田川対高賀紋」三幕目道行に用いられた。作詞三世桜田治助、作曲清元千歳。嘉永年間(1848-54)に享保元年(1716)に起きた新宿百人町御徒士鈴木主水と新宿橋本屋抱え飯盛女白糸の心中が読み物として世上に流布されていた、それを題材にして作られた曲である。
清元「十六夜」本名題[梅柳中宵月]/安政6年(1859)2月狂言「小袖曾我薊色縫・十六夜清心」の第一番目四立目の所作事浄瑠璃として初演。二世河竹新七(黙阿弥)作詞、作曲清元徳兵衛(清元お葉又は、二世延寿太夫妻いそと云う説あり)。鎌倉極楽寺の所化清心と大磯の遊女十六夜の心中道行を扱った曲。
一中節「二重帯」本名題[二重帯名護屋結]/通称「金村屋」。享保18年夏に名古屋闇の森にて日置の畳屋伊八と飴屋町花村屋抱え遊女おさんが心中を成し、未遂に終った事件を当時名古屋にて興行をしていた宮古路豊後掾が作り、翌年正月に名古屋にて上演した「名古屋心中・睦月連理柵」を五世都一中と初代菅野序遊が整理して作った曲である。  
道ならぬ恋の精算
何故天和年間から元文年間(1681-1740)の約六十年年間に京阪・江戸にて心中が多発したのか、様々な要因があげられますが、この時期は二百八十年の徳川幕府治世の中でも大きな変動のあった時代です。四代綱吉から八代吉宗の時代に当たり、経済面では米穀経済から貨幣経済へ移行した時ですし、流通経済を支配する町人階層の台頭、米穀経済依存の武家階層の凋落、士農工商の身分制度も崩壊の兆しを見せ、生産者である農業・工業は流通を握る商業者に支配され経済的に圧迫され疲弊し、消費者側である武士も又、商業者(掛屋・札差)にその経済を握られ逼塞しており、このような変化に伴い社会環境も変貌を遂げていた。
特に貨幣経済への移行は町人層に経済力を背景にした町人文化を形成させ、厳しい身分制度の制約からの精神的開放は、自由奔放な気を醸し出していた。世に元禄時代と云われる豪奢奢侈に溺れた開放政策は、当然の結末として、幕府の金蔵も底を尽き、財源確保のために良質な流通貨幣を回収して、金含有量を減らした悪貨に再三に亙り改鋳し、大量に市場に流通させ、市場経済を混乱におとしめていた。
貨幣改鋳により一時的には幕府財政は改善されたかのように見られたが、悪貨の大量流出は物価上昇を産み、また奢侈に流された生活を切り詰めることは出来ず、次第に幕府財政も危機に瀕していった。
幕府財政を建て直すために、八代吉宗によって執られた「享保の改革」は、奢侈に流れる世相を一挙に引き締めるため、あらゆるものに諸経費節減を求め、奢侈商品の販売禁止をするなど規制を強化した。この政策は一挙に消費経済を引き締めることには成功したが、反面市場経済は火の消えた状態になった。この状況はバブルによる放漫経済に踊らされ、浮かれて我が世の春を謳歌していたが、バブル崩壊後の消費低迷による倒産・リストラが打ち続き、一向に景気浮上が見られない現状によく似ている。
このような時期に起こったのが、京阪・江戸での未曾有の心中多発であった。経済の中心地であり町人主体の京阪の心中と、消費の中心地であり武家主体の社会である江戸とは本質的には事情が異なると思われるが、飽くまでも人形浄瑠璃、芝居に取り上げられた事件より推察するに、上方の心中の大半が庶民層の心中であり、その多くは男性が小商いの店主か奉公人であり、女性は遊女と云っても余り高級でない風呂屋の湯女・垢掻女(江戸で云う岡場所の酌婦と同じで、江戸では湯女風呂は禁止されていたが、京阪では許され、現在のファッションマッサージと同じである)が大半であった。
明和5年(1768)初夏に書かれた「麓の色」では、心中をする者の実態について下記の様に述べています。
「(前略)されば多は男ひたすら酒色博戯におぼれ、主親の目を掠めて金銀を抵負し、身をおくに処なく、一人死せんも口惜と、日頃はかなき兼言を偽なくば、諸共にと斜曳ならぬ義理に絡められ、其に浮名を流すと見へたり。最も憎むべきは男なり。しかも多くは男死を善せず、これ本より実情なく、独死せんよりはと不仁不義の心から、死に臨んで迷乱し、恥をかさぬるなるべし。(中略)然るに日頃互いに浮気にして、前後の思慮なく、女郎は男ゆへの借銭の渕に沈み、男は女郎ゆへに身の措処なき時宜となり、はたと行当て、魂昏み、活て恥を見んよりはと、未来の縁を恃む愚かなる心から、天下の富にも易まじき命を塵芥となし、屍を野徑に曝し、犬鳥の餌食となすは、心中にあらず禽獣の所行なり、愧べし警べし」
何故彼らが心中に走ったのか、その理由は様々あると思われるが、その背景にあるのは奉公人は年季奉公にて雇われ、年季が明けても番頭に昇格し、主人の許しが出るまで結婚は出来ず、大方は40歳過ぎての結婚であった。年季奉公中は多少の小遣い程度しか支給されず、年季が明けても数年間の御礼奉公中は給金もなく、遊びたい盛りに遊び金もないのが実情であった。
女性の方も身売りされた身で、年季が明けるまでは籠の鳥同様自由が効かず、稼ぎが悪ければ楼主への借財の返済が出来ず、年季が伸びる仕組みになっており、また様々な折檻もしばしば行われていた。
馴染みの客と末は夫婦と約束しても、売限り、一緒に所帯を持つことは不可能であった。夫婦約束した金のない客に逢いたい為に自らの負担にて客を上げ、益々借銭を増やし深みに嵌まっていく女性が多く居たと云われている。挙句の果ては、先に紹介した記事のような次第となって行ったのである。
武家社会での不義密通は主人に見つかれば成敗される決まりになっていたので、道ならぬ恋の精算に心中を選択した場合も多々あった。  
 
近松門左衛門の「心中物」

初めての心中物「曽根崎心中」は、近松にとってまったくの新しい挑戦でした。
世話物
近松は、浄瑠璃から歌舞伎に変わり、また浄瑠璃に復帰するその第一作に当たったから、大幅な意識の革新を迫られたのは当然だと思われます。これまでの浄瑠璃の観客は、とかく荒唐無稽で波乱万丈の浄瑠璃しか知らない。この観客を相手に、これまでの浄瑠璃とは違う、また歌舞伎とも違う、内容・表現ともに新しい作品を作り上げねばならない。このような気負いがあったに違いありません。しかし、どのようにドラマを仕上げるか。近松の頭にすぐ具体的な方法論が浮かんだとは考えられません。ゆっくり構えてはおられない心中事件の際物だけに、近松は悩んだでしょう。そこでピーンときたのが歌舞伎の「世話狂言」の手法です。世話狂言は、基本的には筋中心・素材中心主義、つまり早い話が事件の筋だけを追うものだった。現実に起こった事件を速報的に描写するのには、ぴったりの方法です。近松研究者の諏訪春雄氏も「曽根崎心中の成立には、その上演形式、場面構成、趣向、素材などの諸方面において、当時の世話狂言に負う所が大であった」と指摘しています。
世話狂言との類似
信多純一氏は「近松の世界」の中で、「曽根崎心中」は「これまで、この実説がよく判らないまま、事実に近い創作のように考えられ勝ちでしたが、最近の研究で、近松が先行の歌舞伎や時代物の一部などを駆使して、自由に作劇したものであることが判りかけてきました」と書いています。当時の心中物には一つの形ができていたというのです。信多氏の研究では、「曽根崎心中」より三年前の世話狂言に、借金で恥をかかされた男が遊女と死の道行をする構成がよく似たものがあり、前年には三十三ヶ所の観音めぐりから始まる世話狂言がすでに上演されていたのです。一方、浄瑠璃でも、切浄瑠璃の形式や心中物の構成がほぼ出来上がっていたようです。近松は、これらのパターンを自由に使って作品を書き上げたもので、何から何まですべて彼の独創で、新しい書き下ろしとは言えないのです。ただ、近松が違っていたのは、歌舞伎の世話狂言などの作り方を下地にしても、心中物の際物的な興味はできるだけ薄めて、男女二人の愛の貫徹をバックボーンにしたことです。その結果、すごく単純明快な「曽根崎心中」の筋書きができ上がり、彼独特の発想と文才で最後まで二人の愛を暖かく歌い上げたのです。
作劇法
実際の人形浄瑠璃では、新しい演出方法を取り入れました。冒頭のお初の三十三ヶ所観音めぐりと竹本義太夫の出語り、さらに辰松八郎兵衛の人形の出遣いです。また、歌舞伎から着想を得た手法を使いました。中の巻の天満屋の場で、縁の下に隠れた徳兵衛が、お初の足に心中合意の意思を伝える有名な場面。そして同じ天満屋の場の最後の場面で、音を立てぬようにして車戸から脱出するところなど、人形浄瑠璃では初めての新しい演出です。ストーリーには、実説にない場面もかなり入れました。徳兵衛と親方の叔父との対立、弱気ながらふてぶてしい敵役の九平次の出現など、近松が創り出して、主人公との葛藤の元を作ったのです。また世話狂言によく出てくる異見事(主人公なりの周囲の人が、意見を言って戒める)を採用せず、もっぱら心中の二人に焦点を合わす方法を採るなど、新しい工夫を盛り込んだのです。
道行文の表現
近松は道行文の発想も一大転換したと考えておかしくはないでしょう。道行文の重要性は、誰よりも知っています。とくに今回は「死」というものを眼前にした男女の道行で、いままでに書いた経験がありません。文章化には頭を痛めたでしょう。近松は、現実にあった事件の道行を描くのに、リアルな客観描写を採用しました。これは、時代浄瑠璃の道行文にはなかった描写法ですが、筋中心・素材中心を重視するなら、打ってつけの方法です。現実世界の素材を冷静に見据えて選び、そして有効に使いました。それは「鐘の音」であったり「草木の霜」であったりしましたが、当時の観客が持っていた日常体験だけで、十分に追体験できるように、難解だった道行の文句を分かり易くしたのです。詞章的にも、わずらわしい文飾を抑え、飾り気のない文体で通しました。掛詞(かかりことば)や縁語(えんご)による回りくどい表現や名詞で終る体言止めなどを極力避け、従来の虚構的・舞踊的な修飾要素も締め出し、簡潔にしたのです。評論家の唐木順三氏は「日本人の心の歴史」の中で、近松の道行文について次のように書いています。「私は、近松の道行は成功した稀有な例と思う。作者と語り手と操りとの呼吸がぴたりと合うことによって、稀有な成功がもたらされたと思う」「一歩誤れば滑稽になってしまうような誇張され、装飾された文句が、義太夫のしぶくて太い語り口によって、反って生命を得、巧みな操りによって 「哀傷の抒情」が聴衆の胸を打ったのであると、私はそう思う」聴衆は、語りと三味線と人形が一体となった甘美な幻想の中で、その快い調べに酔ったのです。陶酔の境地を呼んだのです。近松は「曽根崎心中」の死の道行で、哀愁と甘美な幻想を掻き立てる、せつせつたる名文を世に送りました。  
 
「曽根崎心中」

お初・徳兵衛の心中
元禄16年4月7日(1703)大阪の曽根崎・露(つゆ)天神の森で心中事件が起こります。添い遂げられぬと知った堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が死んだのです。この心中事件は、すぐさま歌舞伎の世話狂言に仕立てられて、京都で舞台にかけられました。心中や殺人事件を、現代のニュースのように歌舞伎が取り上げるのは、当時の一つの流行でした。人形浄瑠璃には、このような慣習がありません。しかし、歌舞伎が心中を上演し、多くの客足を集めるものですから、経営不振で悩んでいた大阪の人形浄瑠璃の竹本座が「この心中事件を人形芝居にしても、当たるのでは」と考えついたのは当然でしょう。ちょうど京から大阪に来合わせていた近松に「この心中を浄瑠璃にしてくれ」と頼んだのです。こんな話もあります。心中があった時、近松は京にいたが、大阪からの知らせで心中現場に向かうため、鳥羽から舟に乗った。近松は舟の中で事件のあらましを聞くや、早々と原稿を出して書き出したというのですが、これは出来すぎの作り話でしょう。近松にとって心中物は経験のないことでしたが、才能があったのですね、わずか20-25日で台本を書き上げ、心中からちょうど1ヶ月後の5月7日、竹本座で初めての心中物「曽根崎心中」を上演しました。
ひたむきな恋
人形浄瑠璃「曽根崎心中」の話のあらまし。遊女のお初と手代の徳兵衛は、深く愛し合う仲でしたが、徳兵衛の主人は妻の姪と結婚させようと、徳兵衛の継母に持参金を渡しました。徳兵衛は、この話を断ったのですが、そうなると持参金を返さねばなりません。その持参金を返すつもりでいたところ、友人の九平次にうまく言いくるめられて、騙し取られてしまうのです。 返す持参金はない。九平次からは罵倒される。男の一分が立たなくなった徳兵衛とお初は、曽根崎の森に死に場所を求めてさまよい心中する。
お初・徳兵衛の純粋で、ひたむきな心情や抜き差しならぬ葛藤が評判を呼び、興行が始まると、たちまち物すごい人気を呼んで大当たり。「今昔操年代記」という本は「そねざき心中と外題を出しければ、町中よろこび、入るほどにけるほどに、木戸も芝居もえいとうとう、こしらへに物は入らず 」という状況を描いて、興行の大当たりを伝えています。経営不振に陥り借財に困っていた竹本座は、これで一挙に借財を返して立ち直ったほどでした。「曽根崎心中」を、世間は「世話浄瑠璃の始まり」といいました。「世話」とは、世間の話ーつまり庶民の生活を扱ったものです。それまでの浄瑠璃は、お家騒動とか曽我兄弟物とか武士を主題にした時代浄瑠璃ばかりで、世間の庶民的な出来事は扱っていなかったのです。このあと庶民を主人公にした心中物・不義物・処刑物などを「世話浄瑠璃」と呼ぶようになります。
道行文の誕生
「曽根崎心中」が大当たりした理由は、いくつかあります。その一つが、明快単純なストーリーでしょう。若いお初と徳兵衛の思い込んだら死ぬまでよという純粋な恋心を、近松は脇道せずにただひたすら書き込んだのが、観客の心に新鮮な感じを与え、強く訴えたのでしょう。それまでの浄瑠璃は、あれもこれもと趣向をこらし、横道も多かったのです。それに、近松の文章力が加わります。近松の巧みな文句が浄瑠璃太夫の語りに乗って、鮮やかなイメージを浮かび上がらせ、語りが生む現実世界がありありと眼前に広がったのです。その優れた名文の最たるものが、「お初・徳兵衛」道行の文章です。
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり 」
二人が手に手をとって死出の旅に向かう冒頭の部分。七五調の名調子が続きます。ぞっとするような、すごい劇的表現です。情緒的な感覚がみなぎっています。江戸時代の太田南畝(蜀山人)が書いた随筆「俗耳鼓吹(ぞくじこすい)」に、当時の有名な儒者・荻生徂徠がこの文章を読んで「七つの時が六つ鳴りて〜」のくだりまで来た時、「妙処此中にあり、外(ほか)は是にて推(おし)はかるべし(なんともいえぬ名文だ。ほかのことは問うには及ぶまい)」と絶賛したと書いています。以後、名文の代表といえば「曽根崎心中」の道行文といわれるくらい、有名な文章になります。
豪華な上演
「曽根崎心中」上演の陣容をみますと、作者が近松門左衛門、語りが竹本義太夫、三味線が竹沢権右衛門、人形遣いが辰松八郎兵衛。いずれ劣らぬ当時の最高水準で、名手といわれる人たちばかりです。この公演初日、人形遣いの辰松八郎兵衛が出演者を代表して言った口上が残っています 。
「この度、仕ります曽根崎心中の義は、京近松門左衛門あと月ふっと御当地へ下り合わせまして、かやうのことございましたを承り、何とぞ、おなぐさみにもなりまする様にと存(じ)まして、則、浄るりに取くみおめにかけまするようにございます。方々の歌舞伎にも仕りまして、さのみ変わりました義もござりませね共、浄るりに仕りますは、初めにてございまする。序(冒頭のこと)に三十三所の観音めぐりの道行がございます。(後略)」
口上を見ても、心中事件を最初に取り上げた浄瑠璃であることがはっきり分かります。 
新趣向
この豪華な演技陣に加えて、近松はこれまでになかった新趣向を盛り込んでいます。冒頭のお初の大阪三十三ヶ所観音めぐりです。辰松は先の口上で「道行」といっています。これまでは、道行で始まる浄瑠璃はなかったのです。この観音めぐりを最初に持ってきたのは、登場人物の鎮魂であるとか、招魂であるとかの説がありますが、当時の観客にはなじみ深い宗教体験であり、身近に感じたことでしょう。しかも、観音めぐりの演じ方にまったく新しい演出方法をとりました。出演者全員が舞台の前面に姿を現わして、浄瑠璃を語り、人形を操るという珍しい試みをしたのです。竹本義太夫の出語り、辰松八郎兵衛の人形の出遣い(でづかい)です。「付け舞台」というのは、手摺りの本舞台の前に張り出した臨時の平舞台で、みんな裃姿で勢ぞろいしています。これは、客を惹き付ける興行効果を考えたデモンストレーションですが、近松の妙手でした。事実、これも評判なりました。申し遅れましたが、「曽根崎心中」は、本公演の中心である建て浄瑠璃「日本王代記」の一番最後に上演された「切り浄瑠璃」でした。いわば添え物的な存在だったのですが、興行側の発想と工夫で、ついに本家を食って大当たりしたというわけです。
 
近松の浄瑠璃作り

穂積以貫と「難波土産」
江戸期随一の劇作家・近松門左衛門は、浄瑠璃作品を書く上で、なにか秘訣みたいなものを持っていたのでしょうか。その謎を解くカギが一冊の本にあります。穂積以貫(ほづみいかん)の「難波土産」(なにわみやげ)です。以貫は、近松より39歳年下の儒学者で、近松に私淑して竹本座に入り、近松の脚本作成に参画したといいます。晩年の近松のごく近くにいて、いろいろの話を聞ける立場にあった人です。以貫は、約10年間にわたる近松からの聞き書きをうまく整理して、近松が死んで14年後の元文3年(1738)「難波土産」の序文部分に当たる「発端」に掲載したのです。
芸論
内容は、人形浄瑠璃を書く際の文章の心得や作劇法などですが、この中に有名な「虚実皮膜論」なども含まれ、近松の芸論を伝える唯一の貴重な資料となっているのです。近松について「元禄年間に近松氏出て始て新作の浄るりを作り出し、竹本氏が妙音にうつさせたりければ、聞く人感情を催し、ひそかにその本をもとめて其の作文をみるに文躰拙(つたな)からず」と書いています。そして「往年某近松の許にとむらひける比、近松云けるは」として、 六つの項目を挙げています。
浄瑠璃作りの要素
「文句は情をもととすと心得べし」
生身の人の芸ー歌舞伎と軒を並べて興行してはいるが、魂のない人形なので、さまざまな感情をもたせて、見物の感銘をとらねばならない。だから地の文章・せりふ事はいうに及ばず、道行などの風景をのべる文章も、感情を込めることが肝要である。
「文句に、てには多ければ、何となく賎しきもの也」
無理に七五調を守ろうとすると、無用な言葉を使い、文の品位を下げてしまう。浄瑠璃は語りで調整できるので、自分は音数にこだわらない。
「文句のうつりを専一とす」
人物の身分によって動作・装いから言葉遣いまで区別し、それぞれ本物らしく書かねばならない。登場人物の心情が、読む人の心情にそのままそっくり反映することが肝要である。
「芸になりて実事になき事あり」
文章は実事をありのままに写すとはいえ、芸になって実際と違うことがある。虚が混じることで、返って観客の共感・感動が得られるものである。
「憂(うれい)はみな義理を専らとす」
憂い(悲哀・哀愁の情)が肝要だが、やたらに「あはれなり」と書くのは賛成できない。憂いは、義理(この場合は道理、筋道の意)につまって出てくる。悲しむべき破目に至る道理、筋道を大切にしなければならない。
「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」
有名な「虚実皮膜論」(普通は「きょじつひまくろん」と読むが、原本には「きょじつひにくろん」と振り仮名があるという)の文句です。芸は、実際に似せて演じるが、同時に美化する。ある御所方の女房が、恋人と寸分違わぬ姿をした木像を作り、彩色させたところ、あまりに似すぎて、かえって興ざめ、恋もさめてしまったそうだ。実際すぎても、いけない。「虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が有るもの也」虚と実との微妙な境目にこそ、芸の面白さがあり、観客は魅了されるものである。浄瑠璃の文章も、その心得を忘れてはならない。
近松の考え方
近松は、以貫に対してこのように劇作の秘訣を語ったようです。確かに近松は、浄瑠璃の文章に、新しい文体や視点を持ち込みました。人々は、浮世草子(小説)を読むように近松の浄瑠璃本を読んだといいます。近松の文章力が、読むことに耐えうるものだったことの証明です。河竹繁俊著「近松門左衛門」の「近松の芸術観」が、近松の考え方をうまくまとめていますので、少し長くなりますが、引用させていただきます。
「なによりも「情」である。「情」を心がけなければすべてのものが死んでしまう。その「情」を表わすためには、個々の人物にふさわしい「うつり」をもたねばならぬ。そして、七五調の美辞麗句に飾られることなく、生きたことばで書かねばならない。このような描写の方法を踏まえて、描かれるものは 「憂い」である。しかし、それは劇的な表現によって、自然とかもしだされることが大切である。その劇的な葛藤の契機となるものは「義理」にほかならない。そうしてこそ、はじめて社会の真実を描く浄るりが生まれる。しかし真実といっても、それは 「芸」という衣でおおわれていなければならない。それはあくまでも虚構の真実「まことらしきうそ」でなければならない。そこにいたってこそ、浄るりはその享受者に真の「慰め 」をあたえうるのだ」
 
死の道行

浄瑠璃のサワリともいうべき「道行(みちゆき)」の原文について鑑賞する。
「世継曽我」
まず最初に、時代浄瑠璃の道行文を一つだけ見てみましょう。確実な近松の最初の作品「世継曽我」の「道行」のほんの一部です。
「さりとても 恋はくせもの みな人の まよひの渕や気の毒の 山よりおちる ながれの身 うきねの琴や 調べかや 引手あまたに繁げれど 思い出すはかの一人」この道行は、男女ではありません。遊女の虎と少将の2人が十郎・五郎の形見を持って、兄弟の母の許に旅するところです。
「さりとても 恋はくせもの」(恋はくせものというが、そうだとしても)という書き出しは、気がきいて面白い。「くせもの」とは、恋ほど手に負えないものはないという意でしょう。近松の才気が感じられ、面目躍如というところです。上演当時、「さりとても 恋はくせもの みな人の」という言葉が、人々にはしゃれて聞こえたのでしょう。「口まねせぬ者なし」というくらい、流行語になったそうです。このような文章を語る浄瑠璃太夫に合わせて、三味線が伴奏し、操り人形が演技をしたのが、人形浄瑠璃なのです。
「道行」とは
古く万葉集をひも解いても用例があります。文字通りの「道を行く」意味で使われていますが、時代が下がるにつれ、その意味合いがかなり変っていきます。仏教の練り供養や神の巡幸を「道行」という時代もあり、中世の能になりますと、一つの地点(出発点)から他の地点(目的地)への移動、つまり旅を表現する場合が多くなります。そうして江戸中期、歌舞伎が盛んになりますと、旅の場面である「道行」は次第に鳴り物と舞踊が入った音楽的な所作事となっていくのです。一日の狂言の中に必ずこのにぎにぎしい「道行」を嵌め込んで、観衆を喜ばしたのです。人形浄瑠璃も同じ歩みをとりました。時代浄瑠璃で五段構成の形が整うと、三段目(悲劇的局面)に続く四段目に華やかな舞踊的所作の「道行」を入れて、最大の見せ場としました。言葉を変えて言えば、歌舞伎、浄瑠璃の観衆にとって、ショー的な音楽・舞踊を楽しみ、気分転換を図る楽しい舞台 、それが「道行」だったのです。
はかない「死の道行」
元禄演劇の研究者・松崎仁氏は「浄瑠璃の道行」という一文で「語り物の道行の本質は、地名や風物に託した流離の哀傷の抒情にあったが、節事としての音曲性が重視され、さらに華やかなスペクタクル的発達を遂げると、流離の哀傷はともすれば従になってしまった」と指摘しています。「流離の哀傷の抒情」という面からいえば、人形浄瑠璃にとって「道行」は、もう一つ大きなねらいがありました。それは、場面にふさわしいうっとりとするような美しい浄瑠璃の曲節を聞かせ、観衆に共感させることでした。そのために、道行文は調子のいい七五調で書き綴られ、当時の文章技巧、例えば縁語(えんご)・掛詞(かけことば)・頭韻(とういん)・ものづくしなどで、文飾に工夫を凝らしました。現代人からみれば、凝った文飾がわずらわしいほどです。 近松も、道行文の文章を練りに練り上げ、名文といっていいものを沢山残していますが、わずらわしさは当然つきまといます。
「曽根崎心中」
舞踊による旅の場面が続いた「道行」の意味を、がらりと変えた作品が現われました。それが「曽根崎心中」です。お初・徳兵衛の道行から、相愛の男女が死に場所を求めてさまよう、はかない「死の道行」となったのです。「曽根崎心中」の道行文は、江戸時代の有名な儒者・荻生徂徠が「名文」と絶賛したことで有名です。
「この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、 あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生(こんじょう)の 鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と響くなり」
七五調の実にリズミカルな文章です。ぞっとするような、すごい劇的表現で、情緒的な感覚がみなぎっています。目で読むよりも、声を出して読んだ方がその旋律のよさが、よく分かります。冒頭から「この世のなごり、夜もなごり」(この世とお別れだ。夜も今夜限りになった)と、さっと切り出す切迫感。死出の旅立ちがぐっと浮び上がるようです。あだしが原(墓地)に通じる道の霜に例えて「一足づつに消えて行く」はかない命。一歩、一歩死が近づく。近松は「夢の夢こそ あはれなれ」(夢の中でまた夢を見ているような心地で、哀れである)と言い切りますが、ちょっと思いつかない出だしです。「あれ数ふれば」と続く「あれ」という転換の文句がいい。夢から醒めてはっと我に返り、現実に戻る。そうすると「暁の七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の鐘の響きの聞き納め」暁の七つの時とは寅の刻、今の午前三時ごろ。当時は鐘で時刻を知らせました。その鐘が六つ鳴って、あと一つ。その時は二人が死ぬ時です。 しかも、その鐘は「寂滅為楽」(死ぬことによって、安楽が得られますよ)」と響いている。近松の筆先は、二人の魂の救済を約束するかのようです。
叙景と抒情
「鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る 星の妹背(いもせ)の天の川 梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りて いつまでも 我とそなたは婦夫星(めおとぼし) かならず添うと縋(すが)り寄り 二人がなかに降る涙 川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし」
鐘ばかりか草も木も、空も最後の見納めかと思って見上げると、「雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る」(雲は無心に浮かび、水の音は静か。北斗星も冴えて、光を水に映している)。実に映像的な描写です。この辺りは技巧的でもありますが、冷え冷えとした鋭利な感触に読者の心を誘い込むような味わいがあります。北斗星の連想から牽牛と織女の星を引き出し、梅田橋をカササギ(2つの星を逢わせる鳥)の橋に仕立てて契り合い、「いつまでも我とそなたは婦夫星」と歌い上げる。そして必ず添い遂げるとすがりつき、涙を流すという哀切の場面です。劇的な場面の現出に、詞章の果たす役割がよく出ています。ともかく、この道行文を読んで思うのは、過剰な文飾や回りまわった表現が少ないことです。そのせいで、すっきりしています。一足づつに消えて行く霜にせよ、鐘の音の数にせよ、冴える北斗星にせよ、それは目や耳で確かめられた現実的な表現で、それも必要以上の形容詞を使わず、実に率直に表現しています。確かに「霜」「鐘」「星」という言葉は、「はかなさ」「あわれさ」「さみしさ」など哀切を代弁する、常套的な言葉であるかも知れませんが、近松はこれらをうまく使って、叙景と抒情をぴったり一体化させ、文章効果を上げているのです。
「冥途の飛脚」
「曽根崎心中」から4年後の正徳元年(1711)近松は「冥途の飛脚(めいどのひきゃく)」を書き上演します。飛脚問屋の養子忠兵衛が遊女梅川となじみ、身請け金をめぐって、のっぴきならぬ状況に追い込まれて、ついに公金の封印切り。親里の新口村(にのくちむら)まで逃げるが、捕まるという話。その梅川・忠兵衛「相合(あいあい)駕籠」の道行は、心中に向かう「死の道行」ではありませんが、封印切りという大罪を犯し、 二人は生きられるだけ生きて、それまでは連れ添おうという、刹那主義的な逃避行です。「曽根崎心中」の道行文とは全く違った、色っぽい表現で始まります。
「翠帳紅閨(すいちょう こうけい)に 枕並べし閨(ねや)の内 馴れし衾(ふすま)の夜すがらも 四つ門の跡夢もなし さるにても我が夫(つま)の 秋より先に必ずと あだし情の世を頼み 人を頼みの綱切れて 夜半の中戸も引き替へて 人目の関にせかれ行く」
「翠帳紅閨」というのは、緑のとばりをかけた紅色の寝室のことで、遊女の寝室をいいいます。漢語が並ぶ冒頭は、突飛ななようで硬い感じもしますが、言葉の響きは快い。そして「枕並べし閨の内、馴れし衾の夜すがらも〜」と続くと、その情景が頭の中を駆けめぐります。この出だしの文句そのものは、謡曲「班女(はんじょ)」からの引用だそうですが、近松は少し変えています。謡曲に十分に親しんだ近松の古典的修辞の一つといえましょう。文章を読んで行きますと、意外に表現は平易で、分かりやすく、梅川と忠兵衛2人のいじらしい情感が沸き上がってくるのです。このくだりは、梅川のセリフです。「私の寝床で、貴方と枕を並べて夜もすがら馴染んだことが、夢のように果ててしまった。我が夫(忠兵衛)が秋までに必ず請け出すと約束してくれたことを頼みにしていたが、その頼みの綱が切れて、人目をはばかって落ち延びて行く身となった」という大意です。
「昨日のままの鬢(びん)つきや 髪の髷目(わげめ)のほつれたを わげて進じよと櫛を取り 手さへ涙に凍(こご)ゑつき 冷えたる足を太股(ふともも)に 相合炬燵(あいあいごたつ) 相輿(あいごし)の 駕籠の息杖(いきづえ)生きてまだ 続く命が不思議ぞと 二人が涙 河堀(こぼれ)口」
「髪のほつれを直してあげようと櫛をとっても、手さえ涙で凍りつく。相乗りする駕籠の中で、冷えた足をお互い組み合わせてコタツ代わりにしていると、駕籠かきの息継ぎが伝わり、まだ生きているのだと思うと、また涙がこぼれ出る」。これまで見た文章でも、現代の言語感覚からすると、分かりにくい文章がかなりあります。例えば「さるにても我が夫の」(それにしても、わが夫が)「夜半の中戸も引き替えて」(よく逢引した夜半の中戸とは違い)「人目の関にせかれ行く」(二人を逢わせないように人目が邪魔をして。または急ぎに急いでの二つの意味)「冷えたる足を太股に 相合炬燵」(冷えた足を互いに太股で暖めあって)などは、注釈を必要とします。しかし、梅川が忠兵衛の髪のほつれを直そうと櫛をとるシグサなど、相乗り駕籠の中での 二人の思いやりが、手にとるように分かりますし、いじらしい心情を十分に汲み取ることができる文章です。内容的には情愛描写が濃厚ですが、その割に文章はさらりとしています。近松研究者の藤野義雄氏は「近松作中でも屈指の名文で、その流暢至妙な詞章が語られるにつれて、形作られる美しい幾つかのポーズとその変化は、操人形浄瑠璃における美の極致を示すといってよい」と評価しています。
「心中天の網島」
さらに下がって9年後の享保5年(1720)近松の最高傑作といわれます「心中天の網島」が出ます。妻子のある分別盛りの紙屋治兵衛が、遊女小春と馴染んで心中の約束をするが、夫の身を心配した妻おさんは小春の手紙を送って縁切りを頼む。小春は承知するが、おさんは小春が一人で死ぬ覚悟と知って、女の義理から今度は治兵衛に身請けさせ助けようとする。しかし結局は治兵衛と小春は心中を決意し、死に場所を求めて網島の大長寺まで道行する。 この道行文が、有名な「名残の橋尽し(なごりのはしづくし)」です。
「頃は十月 十五夜の 月にも見へぬ 身の上は 心の闇のしるしかや 今置く霜は明日消ゆる はかなく譬(たとえ)のそれよりも 先に消え行く 閨(ねや)の内  いとしかはひと締めて寝し 移り香も なんとながれの蜆(しじみ)川」
「十五夜の月の光によっても、自分たちの身の上を見通すことができないのは、心の闇のせいだろうか。二人の命は、はかない霜よりも先に消えていく。閨の中でいとし、かわいいと抱きしめて寝た移り香も、今はなんとなろう」。明るく輝く「十五夜の月」と、自分たちの身の上の「心の闇」とのドラマ的な対比と、「閨の内 いとしかはひと締めて寝し 移り香も」という濃厚な情愛場面が複雑に交錯して、悲しみを誘います。
「西に見て朝夕渡る この橋の天神橋はその昔 菅丞相(かんしょうじょう)と申せし時 筑紫(つくし)へ流され給ひしに 君を慕ひて大宰府へ たった一飛び梅田橋 あと追ひ松の緑橋 別れを嘆き 悲しみて 後にこがるる桜橋 今に話を聞渡る 一首の歌の御威徳(おんいとく) かかる尊きあら神の 氏子と生れし身をもちて そなたを殺し 我も死ぬ」
そして菅原道真の飛び梅伝説から、治兵衛が朝夕渡った天神橋を引き出し、次いで梅田橋、緑橋、桜橋と「橋尽し」が続きます。
近松の道行文学
「橋尽し」に事寄せた治兵衛の本音ともいうべき、ちょっと注目したい個所が出てきます。
「北へあゆめば 我が宿を一目に見るも見返らず 子供の行方 女房の あはれも胸に押し包み 南へ渡る橋柱〜」 (北へ行けば、我が家が一目見られるのに、まったく振り返ることもせず、子どもの行く末、女房の哀れさも胸に押し包んで、ただひたすらに渡る〜)
「越ゆれば到る彼の岸の 玉の台(うてな)に乗りをへて 仏の姿に身の成橋(なりはし) 衆生済度(しゅじょうさいど)がままならば 流れの人の此の後は 絶えて心中せぬやうに 守り度いぞと 及び無き 願いも世上のよまい言」(彼岸の浄土で蓮の台に乗り、仏の姿になって、衆生済度=生き物を苦しみから救い、悟りをえさせること=が思うようにできるならば、この後は流れの人=遊女=が決して心中しないように守りたいものだ。及びもつかぬ願いをするのは、俗世のぐちだろうか)
心の底から吐き出すような真実味があり、思わず唸ってしまいます。そして二人は、南無阿弥陀を唱えながら最後に網島の大長寺に着き、ここで治兵衛は小春を刺し殺し、自分は水門の框(かまち)で首を吊って死にます。「橋尽し」の橋は、此岸(しがん=この世)から彼岸(ひがん=浄土)へ渡る橋を意味しています。近松はこの「橋尽し」でもって、 二人を未来浄土に渡らせたかったのでしょう。この「名残の橋尽し」は、死に向かう男女の心理が、情景描写に託されて切々と訴えられ、近松の道行文学の頂点を示していると評価されています。道行は、死せる魂を呼び寄せる鎮魂の行法であったとの説があり、物の精霊を呼ぶ呪術的な「物尽し」と結びつけて、近松は道行文学の形を完成したといえるでしょう。  
 
「道行き」 と日本文化

道行きは、紀行文や歌物語などの文学ジャンルをみちびき出しましたが、本質的には口頭的なものです。ですから説経、ゴゼ歌など純粋な語り物においては非常に重要です。また語り物と深い関係にある能、人形浄瑠璃、歌舞伎舞踊などでも大きな意味を持っています。
道行きは、道を行くこと、旅することです。英語にもwayfarerという美しい言葉があります。そして、「道行き」は、ことばになった旅といえましょう。そこでは、風景がダイナミックに描写されています。ピジョー(Pigeot)は詩的な地理学という定義を道行きに与えています。 今日は、日本の文化、とくに芸能にあらわれた道行きを中心にお話ししましょう。
言語で詩的に表現された旅としての「道行き」には、二つのタイプがあります。一つの場所から別の場所へ移動する実際の旅と、異界へといたる精神的な、形而上的な旅です。
また、その方向性も二つあります。一方向的な旅と巡る旅です。一方向的な旅には、熊野、高野山、天王寺などへのお参りがあります。また、東下りのような流謫の旅がありますし、死へと向かう心中や、それに近い姥捨てもあります。巡る旅の典型は、四国八十八所霊場のような巡礼でしょう。曲舞(くせまい)には山廻(めぐ)りがあります。
起源
「道行き」はおそらく古代にさかのぼることができるでしょう。そのころの旅は危険に満ちていました。そのような危険から旅人の身を守るために、まず、旅立ちに先だって、道中の安全を祈って旅人自身や見送りの人が歌を詠みます。道中でも、曲がり角にくると歌を詠み、待ち受けているおそれのある危険を除くというようなことをしました。歌は旅の安全を守る、言葉のおまじないとして機能し、宗教儀礼的な様相を持っていました。こうした歌は古事記、日本書記、万葉集におさめられています。万葉集から例を一つ挙げましょう。
吾妹子を夢に見え来と大和路の渡瀬ごとに手向けそわがする
道行きは、重要な道を口頭で語る、言語化された地図だったのではないでしょうか。
道すじをどのように語るのか。ここで、書かれたテクストを持たない、口頭で語られる物語の特徴についてお話ししましょう。まず、もちろんのことですが、聴覚的であり、視覚的ではありません。それはどういうことかといいますと、目の前には語り手がおり、語り手と聞き手が、同じ場所で時間を共有するということです。聞き手が物語を聞くために、自分の時間を語り手の時間にゆだね、物語は語りの時間の中で進展します。そうした物語は、散文と違い、韻律をもっています。日本語の場合、かんたんにいいますと、七・五調で語られるということです。インド・ヨーロッパ語あるいは中国語などでは脚韻がありますが、日本語の語りでは脚韻はめだちません。むしろ、頭韻はよくあり、後でお話しするもの尽くしの中などでみられます。
さて、語るといっても、書かれたテクストがありませんから、その場において口頭で構成を行います。したがって、繰り返しもありますし、いい換えもあります。決まり文句も多い。しかし、そのほうが、語り手からすれば語りやすく、聞く方もよく分かります。そうした語りの技法がいろいろありますが、きょうのテーマ道行きに強く結びついたものとして、もの尽くしについてお話ししましょう。これは関連のあるもののリスト、あるいはカタログといってもよいものですが、文字テクストでは注や付録で処理されるところのものでしょう。道行きはもの尽くしのひとつで、地名をならべて、道すじや旅の経過を表現します。
さて、道行きが文字に書かれて定着したり、あるいはその結果、文学形式として成立しますと、文学として評価されることになります。
文学研究家は、文字に書かれて定着した道行きを中世的な、文学としては洗練されていないものとして、低い評価を下しがちです。ピジョー(Pigeot1991)は、もの尽くしは物語に割込み、中断するものとしてとらえ、その点でも否定的です。ただし、歌に詠まれた名所、歌枕が使われますから、道行きが文学的な伝統に連なるということは認められています。また、もの尽くしはいつも一人称の語り手が語りますので、もの尽くしのある御伽草子は、口頭的な性格があるということになり、ピジョーは御伽草子と能、幸若、説教節などの口頭芸能の間につながりがあることを示唆しています。
シェーンバインは、文学形式として定着した近松の道行き文を取り上げ、それが七・五音節でできており、枕詞や掛詞や縁語を使った詩的な表現を特徴とするとしています。地名もならべられていますが、実際のルートに沿っているのがふつうで、この方向性は地名の順序だけでなく、「行く」「着く」「うち過ぎて」など出発や到着を示す動詞の使用や、「はるばると」などとの距離を示す副詞や、「はやばやと」など速度を表す副詞などによっても強調されます。このように、文字テクストとしての道行きの性格を明らかにしています。では次に、芸能における道行きを見てみましょう。
芸能における道行き
芸能では、道行きは詩的に言語化された地図を口頭で語る機能と、もう一つの世界、異界へ言葉で入っていくという宗教的な機能を維持しています。
まず、第一の機能ですが、じっさいに行ったことはなくとも、道行きを聞くことで旅を体験でき、言葉になった風景のなかに身を置き、その場所の聖性を体験します。
先ほど、道行きの一方向性についてお話ししたときに、お参りの例をあげましたが、芸能では宗教性がたいへん重い意味をもっています。中世では、熊野比丘尼が、寺社参詣曼陀羅をもって各地を歩き、熊野のような聖地から遠く離れた人々に境内を絵解きをしています。
旅はこの世とあの世、すでに知っている世界と未知の世界の間の、境界という時間と空間の中で行われます。中世では、道そのものそしてそこを生活の場をする人々が、芸能の場合、説経者や熊野比丘尼などの芸能者が、境界を体現し、彼らの活動が境界を形成していました。その芸能は異界を表現することでもありました。あとでお話しする、「小栗判官」がよい例ですが、それを聞いた人々は、異界をも経験したということにもなるのです。
日本の芸能における道行きの発展
つまり、能、説経、浄瑠璃、歌舞伎舞踊では道行きは一つの世界から別の世界、ある一つの状態から別の状態への通路として機能するということもできます。それを舞台の施設として具体化したのが、能の橋懸りであり、歌舞伎の花道ということになるでしょう。それぞれの芸能の中で道行きは、次のように展開しました。能、幸若舞、浄瑠璃では、物語の一部ととして、 取り入れられました。そのうちの能、浄瑠璃、あるいは歌舞伎舞踊では、さらに劇的構成には欠かすことのできない一部、つまり手段となりました。つまり、道行きは人物が登場する場面を構成するようになります。説経では、ジャンル全体が道行きといっていいほどになりました。
言語テクストと音楽における道行きの特徴
では能、平曲、説経、浄瑠璃、歌舞伎舞踊といったジャンルを取り上げ、言語テクストと音楽における道行きの特徴をみてみましょう。
もっともよく見られる道行きのルートは、東海道です。それも京都から東への方向です。いわゆる「東下り」で、否定的な含み、都落ちの感じがあります。それは、首都すなわち文明や洗練された文化から離れて、未知の危険で粗野な領域への旅です。そのような例が「伊勢物語」の「東下り」、「平家物語」の「海道下り」、「太平記」の「俊基朝臣再関東下行事」、能「盛久」などに見い出すことができます。
「平家物語」の「海道下り」は、全体が旅です。最初の関所は逢坂の関ですが、次のように長く語られるのは、おもしろいところです。
こゝはむかし延喜第四の王子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶をひき給ひしに、伯雅の三位と云ッし人、風の吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、三とせが間あゆみをはこび立ち聞きて、彼 三曲を伝えけむ、わら屋の床のいにしえも、思ひやられて哀也。
これは、盲目の「平家」語りが、蝉丸を琵琶法師の創始者としているためでしょう。しかし、書かれたテクストを持たなかった説経節の道行きに比べて、おおむねテクストは文学的に磨かれているといえるでしょう。平曲の「海道下り」の音楽構造を見ると、クドキ―下げ―中音―中ユリ―中音―初重―三重―下りなど叙情的で軟らかな感じのする音楽素材が連ねられています。

ほとんどの能では、道行きは劇の構造の一部となっています。夢幻能では道行きはとりわけ重要です。ワキは旅の僧で、都から出発して重要な神聖な場所に巡礼し、また都に帰りますが、この旅により、僧も聴衆も夢幻という、別の世界に行くということになります。ワキは、霊を呼び出すための媒体で、霊にとり憑いた悪霊を祓う役割も果たします。霊が出てくるのは、夕方から夜にかけてで、夜明けにまた消えていきます。
通常、一曲の能における道行きの場所は上ゲ哥で、その形式に従い、わずか七行ほどからなっています。一行は五音節プラス七音節です。「敦盛」では次のようになっています。
[上ゲ哥] ワキ九重の、雲居を出でて 行く月の、雲居を出でて 行く月の、 南に巡る 小車の、淀山崎を うち過ぎて。昆陽の池水 生田川、波ここもとや 須磨の浦、一の谷にも 着きにけり、一の谷にも 着きにけり。
説経節
説経節は、各地を説教して歩く僧から生まれましたが、神仏習合のため物語には神道的な要素も色濃く入っています。中世の後期には音楽的な芸能となり、江戸初期になりますと操り人形と合体した浄瑠璃と平行して発展し、三味線が伴奏するものとなりました。1750年代になりますと、独立した芸能としては消滅しますが、説経節があったことは、奈良絵本として17世紀から今に伝わる手書きや印刷・板行されたテキストによって証明されています。各地を歩く、晴眼の説経節語りが、大道で大きな傘を立て、その下で、語っている絵も残っています。また、浄瑠璃の諸ジャンルに「説経」という音楽素材(旋律型)が残っています。
説経節は親と子、夫と妻の別れと再会の世界です。大変広い空間・地理的拡がりを持ち、その物語はすべて漂白の旅、別れと再会、その喜びと悲しみが表されています。つまり、旅は説経の本質的な部分をしめていますが、それは説経語りの人生の本質的な部分でもありました。
説経の道行きは、能や平家物語ほど文学的な修辞をほどこされておらず、その多くは通り過ぎた場所を羅列したリストにすぎないといえるでしょうが、実際の旅をかなり正確に語ったものという印象を与えます。一行が七音節プラス五音節という韻律を持つ簡単な修辞法が基本ですが、「〜を早すぎて」「〜はあれかとや」「〜先をいずくとおといある」など決まり文句を頻繁に使います。後の浄瑠璃とは違って、登場人物の感情はまだ道行きの重要な部分になっていません。
「小栗判官」は説経の旅として最も強力な例ですので、ややくわしく見て行きましょう。旅は物語に完全に組み込まれています。この物語の中心になる旅は、病気から治療のための巡礼です。長い物語の中で場面と場面が変わる際に、旅は大事な趣向として使用されるのです。
まず、あらすじを紹介しましょう。常陸の国の小栗は、相模の国の横山殿のひとり姫、照手(てるて)の姫に恋をして、押し入って婿入りした。横山殿に毒の酒にて責め殺されたが、地獄から帰って来、餓鬼阿彌とよばれて、這い回る姿となった。いっぽうの照手は、父に命じられた兄弟に殺されかけたが、兄弟の情けで助かり、あちらこちらに売られて、美濃の国の青墓で下女となる。小栗は、車に乗って曳かれ、熊野本宮湯の峯に入り、病い本復して、照手に再会し、横山殿の仇を討ち、あとは幸せに暮らす。
「小栗判官」では、すべての旅は対等にあつかわれるわけではありません。たとえば、後藤左右衛門という小栗の使いが照手からの手紙を持って小栗のもとに帰るとき、大変ありふれた決まり文句で物語られるのです。「天や走る、地やくぐると急がれ蹴れば、ほどもなく常陸小栗殿にとかけつくる」 。
常陸という目的地以外は地名がまったく挙げられていません。
それに対して照手が一人の商人から次の商人へ売られるくだりは全然違います。道行きよりも物づくしに近く、売られる度に照手のおかれる状態が悲惨になります。それは、相模から加賀、越前、敦賀、大津を経て、青墓(現在の大垣)で終わり、そこで宿場の下女になるわけです。おそらくこういう日本海側の地名は、人買いなどなにか暗いイメージを担わされていたと考えられます。
物語の中心となるのは、地獄から帰る小栗の長い旅です。この旅は、この世とあの世の境目の時間と空間を通って行われます。地獄からの旅の終わりは熊野本宮湯の峯温泉に入浴する時ですが、この旅は地理的、水平的な旅でもあれば、死から生への復活の旅、つまり地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上の六道を上る垂直の旅でもあります。
聖をはじめ何人もの人々がリレー方式で、土車にのった小栗を、相模から熊野本宮湯の峯まで引っぱってくれます。その一人は照手でしたが、互いに相手が何者であるか気づかないまま、また別れていきます 。
説経の道行きは能のように文学的に洗練されていませんが、単なる地名の羅列だけでもありません。テキストのリズムは軽快かつエネルギッシュで、生き生きと進行します。はっきりと韻律をふみ、いくつかの詩的な技巧を使いますが、しばしば、「坂はなけれど歌う坂」、「新しけれど古渡り」など駄洒落になってしまうことがあります。リズミカルに句読点を付けるように、道行きの段階はさまざまな宿場町で区切られます。また餓鬼阿彌(小栗)が土車を引く人々のリズミカルなかけ声の「エイサラエイ」も同じように句読点として機能し、マンガの擬態語を連想させます。こういう言葉遣いははっきりと口頭的な語りの技法を示しているといえるでしょう。次のようなぐあいです。
檀那が付いて引くほどに、吹上六本松はこれとかよ。清見が関に上がりては、南をはるかにながむれば 三保の松原・田子の入り海、してしが浦の一つ松、あれも名所か面白や。音にも聞いた清見寺。江尻の細道引き過ぎて、駿河の府内に入りぬれば、昔はないが今浅間、君のお出はに冥加なや、蹴上げて通る丸子の宿。雉がほろろを宇津の谷峠を引き過ぎて、岡部畷をまん上がり、松にからまる藤枝の、四方に海はなけれども、「島田」の宿を「えいさらえい」と引き過ぎて、七瀬流れて八瀬落ちて、夜の間に変わる大井川、鐘をふもとに菊川の、月さし上す佐夜の中山。
人形浄瑠璃の道行き(義太夫節)
人形浄瑠璃の前身である中世の古浄瑠璃のテキストでは、物づくしは目立った修辞法・技法としてみられます。古浄瑠璃の道行きはだいたい快活で、晴れの旅で、名所づくしや都廻りなど名所を廻る旅となっています。
その後、浄瑠璃は人形劇と結びつき、近松門左衛門が浄瑠璃大夫の竹本義太夫と一緒に仕事をした一六八〇年代、 道行きはドラマの最も暗い重い場面の後で、内容的にも音楽的にも一転して華やかな、明るい場面を提供し、テクスト面でも、音楽面でも複雑になりました。それにつれて、語る太夫の数が一人から数人に増え、三味線方も 同じように増えました。
近松は一七〇三年に世話物というジャンルを生みだし、道行きはその三幕目を占めるようになりましたが、そのほとんどは死への道行きでした。そのテキストは「心中天の網島」の「名残の橋づくし」のように、物づくしをすることがよく行われました。次は「名残の橋づくし」の一部です。
…今置く霜は明日消ゆるはかなき譬のそれよりも先へ消え行く閨の内。いとしかはいと締めて寝し。移香も何と。流れの。蜆川。西に見て。朝夕渡る。此の橋の天神橋は其の昔。菅丞相と申せし時筑紫へ流され給ひしに。君を慕ひて太宰府へたった一飛梅田橋。跡追松の緑橋。別れを嘆き。悲しみて跡に焦が るゝ。櫻橋。…
大阪の数多くの橋を渡るわけですが、その橋の名前を語っていくことは、数珠を手にかけて拝むようです。「曾根崎心中」の初めの方では、それとは対照的な「観音巡り」という町の婦人の気晴らしのための道行きが出 てきます。同じ大阪の町とはいいながら、その道行きという旅の意味はまったく違います。
世話物の道行きでは、男女の主人公が会話を交わすなど、これまでにない演劇的な展開を見せます。もっとも 重要なことは登場人物の思いと感情が風景に投影され、風景も登場人物の思いと感情に投影されていることです。
音楽面でも、流行り歌の断片が道行きの途中で、切れ切れに聞こえてくるように挟み込まれるなど、多様化しています。
近松の道行きは、もちろんある場所から心中する場所への移動で、時間的にはいつも真夜中から夜が明けるまでの間に起こります。けれども、場所の移動は感情の旅ほど重要ではありません。先ほど述べましたが、「心中天の網島」の道行きは「名残の橋づくし」という形を取ります。
一七三五年からは合作により時代物がおおく作られました。そこでは、道行きは、長い旅の旅程の一つとなっており、旅全体をそれで代表させています。旅の途中に立ち止まり、そのときの感慨や、それまでの追憶、これからの期待などが表現されており、そこだけ美しい一幅の絵のような別世界として描かれています。目を楽しませる見所、風流(ふりゅう)の性格をもつといってもいいでしょう。
有名な例は「義経千本桜」「初音の旅」で、満開の桜の中、義経の家来忠信(実は狐)は、白拍子の静御前を案内しますが、忠信は親の革が張ってある静の鼓を慕うという場面です。旅の途中で一服をしているうちに、静はクドキという哀れな、しかも常套的性格が強い小段で義経への想いを語るし、忠信は(モノガタリという常套的な小段で)兄継信が勇敢に死んだ合戦の物語を語ります。
歌舞伎舞踊の道行き、清元
今の「義経千本桜」が人形浄瑠璃から歌舞伎に入った際、その道行き「初音の旅」は竹本(歌舞伎における義太夫節)ではなく、江戸の浄瑠璃である清元に当てられました。義太夫節に比べると、常磐津、富本、清元などは語り物として音楽面が発展したジャンルで、道行きの風流な華やかな性格を音楽でも舞踊でもうまく表現できたからです。まず音楽ですが、義太夫節と清元が掛け合いの形式で交互に語りを受け持ち、忠信の男性的なところと静御前の女性的なところを見事に語り分けています。それから、身体的にも、役者の肉体は人形より踊り、ふり、しぐさをなめらかに見せます。テクストの世界は同じですが、このように登場人物の旅姿と旅のつらさの中の美しさを理想的に描いています。
清元では道行きが大事な部分を占め、「隅田川」「かさね」「落人」「幻椀久」など曲がそのまま道行きというものも多くなっています。「落人」の主人公は、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」のおかる寛平です。「仮名手本忠臣蔵」では二人が道行きに出るところしか描かれていませんが、「落人」では二人の道行きが一曲に仕立てられており、人形浄瑠璃からあらたに道行きを作り出した例となっています。
これまで、劇の内容としての道行きについてお話をしてきましたが、今度は形式に目を向けてみましょう。歌舞伎舞踊形式でも、能と同じように、道行きは形式の一部になります。歌舞伎舞踊形式はいくつかの小段(セクション)からなっていますが、道行きは一曲に欠かせない小段で、主人公が花道から登場し、舞踊・音楽はそれにふさわしい形式となります。それは登場音楽の機能を持っていますが、主人公がそれまで旅をしてきたことを 語り、能のツキゼリフと同様にかならず、到着を表す動詞で終わります。清元のばあいは、「着きにけり」「来たりける」「たどりくる」などになるというわけです。次は、「玉屋」の一節です。
さあさあ寄ったり見たり、吹いたり、評判の、玉や玉や、商う品は、八百八町、毎日ひにちお手遊び、 子供衆寄せて辻々で、お目に懸値んあい代物を、お求めなされと、たどりくる
芸能研究にとっての道行きの重要性
日本の語り物の歴史は、口頭性が支配的な物から書記性が支配的になるまで変化のプロセスといいかえてもいいでしょう。書記文化と密接に交流して、文字テキストや楽譜が成立したばあいでも、口頭的な常套性は決してなくなることはありませんでした。このような常套的な表現の、重要な例の一つが道行きです。なくなるどころか、道行きは口頭的な常套的表現として、語り物が発展するにつれ、むしろ洗練されていきました。
道行きの重要性にはいろいろな理由が考えられますが、ひとつには日本の文化では、旅や巡礼を美的なものにする傾向があるためではないでしょうか。あるいは、一つの世界または状態から別のそれへの移動、あるいは変身することに強い関心があるからでもあるでしょう。それに、プロセスや変化への尽きない興味、変化せずに存在しつづけることよりも、うつりかわることに強い関心があるためでもあるでしょう。言葉を変えると、無常を強く感じること、あるいは無常への憧れ。
形式上の理由も見逃すことはできません。日本には芸術的な伝統への保守主義的な偏愛があります。それは語り物の場合には、言語面でも、音楽面でも常套的な素材や表現に対する愛着・こだわり、という形を取ります。その愛着によって、過去のジャンルと具体的なつながりを持つことができます。常套的な素材や表現を利用して、語りの声の権威と厳粛さを作り出してきました。それと同時に、くだけた新しい表現へと進んできました。比較的新しい江戸後期の語り物でさえ、曲はいつも語り物的な常套表現で始まり、終わりました。
 
曽根崎心中1

世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。
『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社はお初天神とも呼ばれる事が多くなった。
人形浄瑠璃『曽根崎心中』の初演は同年5月7日(6月20日)の道頓堀にある竹本座での公演であったが、そのときの口上によるとそれより早く歌舞伎の演目として公演されており、人々の話題に上った事件であったことがうかがわれる。宝永元年(1704年)に刊行された『心中大鑑』巻三「大坂の部」にも「曾根崎の曙」として同じ事件のことが小説の形で記されている。 この演目を皮切りとして、「心中もの」ブームが起こった。近松の代表作の1つである『心中天網島』も享保5年(1720年)に発表されている。
またこうした心中ものの流行の結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したため、江戸幕府は享保8年(1723年)より上演や脚本の執筆や発行を禁止すると共に、心中者の一方が生存した場合は極刑を申し渡し、双方生存の場合は晒し者にしたのち市民権を奪い、心中死した遺体は親族に下げ渡さず一切の葬儀を禁ずるなど、心中事件に対して苛烈な処置を行ったが、その後も江戸四大飢饉や天明の打ちこわしといった事件により民衆での心中は流行していた。
あらすじ
西国三十三所巡礼を終えたお初は(この観音めぐりのシーンは現在は割愛される場合が多い)、醤油屋の手代・徳兵衛と最後の観音巡礼の地「生玉の社」で偶然の再会をする。二人は巡礼以前から恋し合う仲であった。巡礼中に便りのなかったことを責めるお初に、会えない間に自分は大変な目にあったのだと徳兵衛は語る。
徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきたが、誠実に働くことから信頼を得て娘(徳兵衛には従妹)と結婚させて店を持たせようとの話が出てきた。徳兵衛はお初がいるからと断ったが、徳兵衛が知らないうちに叔父が勝手に話を進め、徳兵衛の継母相手に結納金を入れるところまで済ませてしまう。なおも結婚を固辞する徳兵衛にとうとう叔父は怒りだし、勘当を言い渡した。その中身は商売などさせない、大阪から出て行け、付け払いで買った服の代金を7日以内に返せというものであった。徳兵衛はやっとのことで継母から結納金を取り返すが、それを叔父に返済する段になって、どうしても金が要るという友人・九平次から3日限りの約束でその金を貸してしまった。
と、徳兵衛が語り終えたところに九平次が登場。同時に、お初は喧嘩に巻き込まれるのを恐れた客によって表に連れ出される。
徳兵衛は、九平次に返済を迫る。が、九平次は証文まであるものを「借金などは知らぬ」と逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ散々に殴りつけ、面目を失わせる。兄弟と呼べるほどに信じていた男の手酷い裏切りであったが、結納金の横領がないことを、死んで身の潔白を証明する以外の手段を徳兵衛は最早思いつかなかった。そこで、徳兵衛は覚悟を決め、日も暮れてのち密かにお初のもとを訪れる。
お初は、他の人に見つかっては大変と徳兵衛を縁の下に隠す。そこへ九平次が客としてお初のもとを訪れるが、お初に素気無くされ徳兵衛の悪口をいいつつ帰る。徳兵衛は縁の下で九平次がお初にしたり顔で語る騙し取った金の話に怒りに身を震わせつつ、縁の下から出てきた時にお初に死ぬ覚悟を伝える。やがて真夜中。お初と徳兵衛は手を取り合い、曽根崎の露天神の森、冥途への旅の始まりとなるところへ、あたりに気取られないよう道を行く(道行文)。互いを連理の松の木に縛り覚悟を確かめ合うが、最期に及んで徳兵衛は愛するお初の命をわが手で奪うことに躊躇する。それをお初は「はやく、はやく」と励まして、遂に短刀でお初の命を奪い、終に返す刃で自らも命を絶った。
かくして現世で悲恋に満ちた最期をとげた二人の死を、「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と来世でのかたい契りとして結末と成る。
なお、歌舞伎では徳兵衛の叔父が帰らない徳兵衛を探して天満屋を尋ねてくる場面と、お初と徳兵衛が天満屋を抜け出した後に油屋の手代が天満屋を訪れ、それによって九平次が徳兵衛の金をだまし取ったことが露見する場面が追加されている。
人形浄瑠璃史から見た『曽根崎心中』
人形浄瑠璃の演目はそれまでヤマトタケル伝説や義経物語など人々によく知られた伝説や伝承を描くものであったが、近松はここに同時代の心中事件という俗世の物語を持ち込みこれまでの歴史物にたいして世話物といわれる新しいジャンルを創り上げたといわれている。俗世の事件を脚色するというやり方は当時既に先例があったが、この作品を「最初の世話物」と位置づける本は『今昔操年代記』(1727年)、『外題年鑑』(1757年)などいくつかあり、この作品が広く浄瑠璃界に広まっていたことが分かる。なお初演年(1703年の竹本座)では、時代浄瑠璃の「日本王代記」の上演後、当日2部目の演目とされている。
短い物語ではあるが、俗世間の事件を浄瑠璃で描くという試みや作品としての面白さが受け『曽根崎心中』は当時の人々に絶賛された。『今昔操年代記』にはその結果、竹本座が抱えた借金を返済してしまったとのエピソードが伝えられている。
お初天神と久成寺
曽根崎心中の題材となった事件の現場。大阪市北区曽根崎2丁目の露天神社(つゆのてんじんじゃ)のこと。事件の概要は元禄16年(1703年)4月7日に「天神の森(現在の社の裏手)」で、内本町平野屋の手代「徳兵衛」が堂島新地天満屋の遊女「お初」をその同意のもとに殺害し、同人もその場で自殺した相対死事件である。ところが、一月後近松門左衛門は暫く筆を休めていた後の作品として、この二人の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表した。この作品は近松の期待どおり、当時の世相人情の機微をつかみ大反響を得て大きな話題となった。また、事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至るまで「お初天神」と通称されている。
平成16年(2004年)4月7日には301年祭として、露天神社境内にブロンズの慰霊像が建立され、平成17年(2005年)4月7日には「大阪伝統文化を育む会」の主催により写真展・資料展が開催された。近松は、曽根崎心中の中でお初を「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」とお妙の名と観音信仰(明治以前は神仏習合が常態であったので神社と分けて考えない)をかけ、「未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」と結んでいる。
なお「お初」は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された久成寺(大阪市中央区中寺)での戒名は妙力信女であることから「お妙」などが推測される。「お初」の墓石は天満屋が事件後に久成寺にたてたが、明治の廃仏毀釈などのため所在が不明となり 、その後2002年(平成14年)「お初」の300回忌を機縁に、当寺の住職と檀家らの手により再建されている。
現代に復活した『曽根崎心中』
江戸時代に初演を含め数回で禁止されたが、筋が単純であることもあって長く再演されないままだった。詞章は美しいため、荻生徂徠が暗誦していたとも言われる(大田南畝「一話一言」)。戦後の昭和28年(1953年)に歌舞伎狂言作者の宇野信夫が脚色を加え、復活した。人形浄瑠璃では昭和30年(1955年)1月に復活公演が行われた。
歌舞伎:昭和28年(1953年)、東京の新橋演舞場での上演で再開。中村鴈治郎 ・中村扇雀(現・坂田藤十郎)による。原作にない九平次の悪が露見する場面を入れ扇雀のお初の美しさによりヒット、以後何度も宇野版で上演されるようになった。
人形浄瑠璃:昭和30年(1955年)1月、四ツ橋の文楽座での上演で復活(脚本脚色・作曲:野沢松之助)。お初:吉田栄三、徳兵衛:吉田玉男。原作をテンポなどにより原文からアレンジした。また江戸時代の初演時代には人形は2人で操作していたが、後に3人操作になっていたため足をつけるという演出がほどこされた。 
 
曽根崎心中2

観音廻り
げにや極楽世界より、今この娑婆に示現して、我らがための観世音、仰ぐも高し、高き家(や)に、登りて民のにぎわいを、すめらみことが契りたまいし、難波の津。三つづつ十と三つの札所(ふだしょ)札所の、霊地霊仏、廻りて行けばこの世の罪も、消えてなくなる夏の雲。日差しの中を今しも駕籠を降りるのは、十八・九なる、目にもあやかな、かきつばた。今咲き出した初花のお初こそ、笠はつけずとも、男神(おとこがみ)なる夏の陽は、照りつけるのを避けてゆく。願い懸け行くこの大阪の巡礼道(みち)は、西国三十三所(しょ)にも劣らないありがたい霊験有りと聞くにつけてももったいない。
高き家に・・・:昔仁徳天皇は難波津にあった宮殿の高殿に上り、人々の家から炊事をする煙が立ち昇っていないことに気付き、租税を免除し、その間は宮殿の屋根の葺き替えをしなかったという。
(このあとお初は駕籠から降りて、町並みの中を大阪三十三所の観音廻りに歩き出します。第一番天満の大融寺から第三十三番新御霊社まで続きます。その札所の紹介の場面は省略)
観音様は三十三に御身(おんみ)を変えて、さしも草、草の葉そよぐこの世の中に現れて、恋で導き、なさけで教え、恋を浄土の橋として、渡して救う観世音。その誓いこそまことにもって有難い。
生玉神社境内
立ちかけた浮名をよそに漏らさじと、積もる思いを内に秘め、内本町(うちほんまち)、平野屋で年季を重ねたやさ男、飲める口の桃の酒、柳の髪(長く美しい髪)も「とくとくとく」と呼ばれて粋な名を取り、今は手代の身となりて、恋の虜(とりこ)となりにけり。生醤油の袖もしたたる樽を、丁稚に担わせて、得意を回り、生玉(いくだま)の社にこそは着きにけれ。
桃の酒:桃の花を浸した酒。桃の節句に飲むと万病に効くと言われた。
手代:番頭と丁稚の間の身分の使用人。奉公後十年くらいでなるのが普通
生玉の社:生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)。当時この境内は大阪随一の盛り場で茶店が軒を連ね、諸種の芸能も演じられ賑わった。
水茶屋の店(たな)より、初の声
「ありゃ、徳様ではないかいの。これ、徳様、徳様」と、手をたたけば、徳兵衛は、承知して、うなずいて、
「これ、長蔵(ちょうぞう)、俺は後から帰るゆえ、お前は一人、寺町の久本寺(くほんじ)様、長久寺(ちょうきゅうじ)様、上町(うえまち)から屋敷方(がた)を廻り、それから店へ帰ってくれ。徳兵衛もじき戻ると言いな。それ、忘れずに安土町(あづちまち)の紺屋(こうや)へ寄って、銭(ぜに)を取ってくれ。道頓堀へは寄らずにな」と、後ろ姿の見えるまで、見送り見送り、簾を揚げて
「これ、お初じゃないか。これはどうした」と編み笠を、脱ごうとすると
「あぁ、まず、やはり、被っていなさい。今日は田舎の客に連れられ、三十三番の観音様を巡っている。ここで晩まで一日中、酒にするぞと、見栄を張り、声色聞きに、出かけたばかり、戻ってくれば面倒なことになる。駕籠かきもみな顔見知った者、やはりそのまま笠を被っていておくれ。
それはそうだが、このごろは、梨のつぶての音沙汰無し。気には懸かるが、店の様子もわからないので、便りもできず。お前の馴染みの丹波家までは、お百度踏むまで尋ねたが、あそこへも来ていないという。はぁ、たれやらが、それよ、座頭の大市(おおいち)が、お前の友達に聞くと、田舎へ帰ったと言うけれども、うそか真か、とんとわからず、本当にあんまりな。わたしはどうなろうとも、聞きたくはないのかい。あんさんはそれで済もうが、私は病になるわいの。うそと思うなら、これこの胸のつかえをみておくれ」と手を取って懐の内、恨みを言ってくどき泣く。
本当の夫婦(みょうと)に変わらぬその姿。
男も泣いて、
「おぉ、もっとも、もっとも。そう言いながら、さりながら、言って心配かけてもせんないこと。ずっと俺は、苦労が続き、盆と正月その上に、十夜念仏、お祓い、煤払いを一度にしてもこうはなるまい。胸の内はむしゃくしゃと、銀(かね)勘定やら何やらで、京にも上って来た。よくもよくも徳兵衛の命は続いたものだ」とほっとため息つくばかり。
「はて、軽口かいの。それほど大事でもないことを、隠されたには、訳があるに違いなかろう。なぜ打ち明けてくださらないの」と膝にもたれ、さめざめと泣く。
その涙、延紙(のべがみ・鼻紙)をぐっしょり濡らした。
「はぁて、泣かないでくれ、恨まないでくれ。大方は、まぁ、済んだ。隠すわけではないが、言ってもらちのあかないこと。とは言うものの、一部始終を聞いておくれ。
おれが旦那は主人でありながら、叔父、甥の間柄。眼を懸けてもくださる。おれも奉公に、これほども油断せず、商い物も一銭たりとも間違えたことはない。このあいだあわせを作ろうと、堺の方で、加賀絹一反、旦那の名前で買ったのが、一生にたった一度の隠し事。この銀(かね)も、いざとなれば着替えを売って、損はさせない。
この正直を見て取って、おかみさんの姪に、二貫目付けて夫婦にし、商いをさせようという話し合い、昨年からのことではあるが、お前という人がいて、どうして心が移ろうか。取り合うことなく、そのうちに、田舎の母は、継母なれど、おれに隠して、旦那と約束交わし、二貫目の銀(かね)を手に入れ帰られたのを、このうっかりものは夢にも知らず。先月ごろからごたごたしだし、無理にでも祝言あげると言う話。そこでおれもむっとして、
『それはあんまりだ、旦那様、わたしが承知しないものを、老母をだまし、無理に押し付けなさるとは、無茶ななされよう。おかみさんもご無体な。これまでは下にもおかず奉った娘ごを、持参金つけて頂戴し、一生女房の機嫌を取り、この徳兵衛の顔、立つものか。いやというからには、死んだ親父が生き返り、もらえと言っても、いやでござる』、と言葉が過ぎた返答に、旦那も立腹せられ、
『おれはその訳、知っているぞ。蜆川(しじみがわ)の天満屋の初のやつめと、つるみ合って、女房の姪を嫌ったのだな。もうよいわ、この上はもう娘はやらぬ。やらぬからには、持参金のかね返せ。四月七日までに、きっと返せ。商いの勘定のけじめをつけろ。たたき出して、大阪の地は二度と踏ません』と怒られる。
それがしも、男の意地、かしこまったと田舎へ走る。またこの母という人が、この世とあの世がひっくり返っても、一度握った銀は二度と放さない。京の五条の醤油問屋、常々銀のやりとりをする間柄、これを頼みに上ってみても、折悪しくも銀がない。引き返し、田舎へ行って、村中の口利きで、母よりかねを受け取って、すぐに引き返し、銀を返して片がついた。
されども大阪にはいられまい。その時はどうやって会えば良かろう。たとえ、骨を砕かれ、身は蜆川のしゃれ貝(みずにさらされた貝)のように水底(みなそこ)に沈むのはいとわないが、そなたと離れてどうしよう」とむせび泣く。
お初もともに涙する。嘆く男を押しとどめ、
「さてさて、大変なご苦労は、みなわたし故と思えば、うれし、悲しく、かたじけない。心確かにお持ちなされ。大阪を追い出されても、盗みやかたり(詐欺)の身ではなし、なんとしてもお前をかくまう分別は、わたしの胸に、しっかりある。会うに会われぬその時は、この世ばかりの約束か(夫婦は二世)。そうした話がないわけでない。たかだか死出の山を越えるだけのこと。三途の川では、二人の仲を裂く人も、裂かれる人もいないのだろう」
気強く徳を励ます言葉、涙にむせて、言いよどむ。お初は、重ねて
「七日と言っても、明日のこと。どうせ渡すかねのこと、早く返して、旦那様のご機嫌を、お取りなさい」と言えば
「おぉ、そう思って気は急くのだが。お前もよく知っている、あの油屋の九平次(くへいじ)が、前の月、『月の終わりに、たった一日要ることがあり、三日の朝には必ず返す』と命を懸けて頼むので、七日までは要らぬかね。兄弟同士の友達のためと思って、いっとき貸したが、三日、四日は連絡がなく、昨日は留守で会うことならず、今朝尋ねようと思ったのだが、明日を限りに商いの勘定を閉めようと、得意廻りで一日が過ぎてしまった。晩には行ってけりをつけよう。あいつも男。俺の難儀も知っている。そこに手抜かりはあるまい。気遣いするな。
やぁ、あれを見ろ、お初」
九平次の一行
「初瀬も遠し難波寺(なにわでら)、名所(などころ)多き鐘の声。尽きぬや法(のり)の声ならん」
先を行く九平次が
「山寺の春の夕暮れ来てみれば」
「これ、九平次。あぁ、なんという下手なうたいだ。俺の方には挨拶もせず、物見遊山どころではないだろう。さぁ、今日、けりをつけよう」と手を取って、引き止めれば、九平次不機嫌になり
「何のことだ。徳兵衛。この連れの人は町の顔役。上潮町(うえしおまち)へ伊勢講で行き、今帰るところだが、酒も少し飲んでいる。利き腕取って何をする。粗相をそうるな」と笠を取ると、徳兵衛
「いや、この徳兵衛は粗相はしないぞ。前の月の二十八日、銀子二貫目を貸したばかり。この三日にに返す約束。それを返せと言うのだ」と言い終わらないうちに、九平次、からからと笑って
「気が狂ったのか、徳兵衛。お前とは長年の付き合いなれど、一銭たりとも借りた覚えは全くない。無礼な言いがかりをつけて、後悔するな」と振り放すと、九平次の連れも笠をはらりと取る。徳兵衛、はっと、顔色を変え、
「言うな、言うな。九平次。この度ひどい難儀に合い、勝手には使えないかねではあるが、『晦日のたった一日で、身代立たぬ』と嘆いたゆえ、日ごろの付き合いもこの日のためと、男気出して、貸したじゃないか。『手形は要らぬ』と言うのに、『念のためだ。版を押す』俺に証文を書かせて、お前が押した判がある。あれこれ言うな九平次」と血眼になって言い募る。
「むむぅ、何だ。判とは。どれ、見せろ」
「おぉ、見せないでどうする」と懐から、財布を取り出し
「顔役ならば、見覚えがあるだろう。こりゃ、これでも言い逃れるか」と開いて見せると、九平次、手を打って
「なるほどな、判は俺の判。えぇ、徳兵衛、土に食いつき死んでも、こんなまねはしないものだぞ。この九平次は、前の月の二十五日、財布を落とし、印判も一緒に亡くした。方々に張り紙を出し、尋ねたがでてこない。この月からは、これ、この顔役に届けて、印判を代えたばかりだ。二十五日に落とした判を押し、俺をゆすって、かね取ろうとは、偽印よりも重罪人。こんなことをするよりも盗みをしろ。徳兵衛。えぇ、首を切られるはずの奴だが、日頃の付き合いもあり許してやろう。かねになるなら、銀にしてみろ」と証文を顔へ叩きつけ、はったと睨む顔つきは、思いがけないと言う様子で、真にもってしらじらしい。
徳兵衛、かっと怒りが胸にこみ上げ、大声上げ、
「さて、たくらんだな。たくらんだな。一杯食わせたな。残念無念。はて、何とする。このかねをおめおめと、只で貴様に取られはせんぞ。こううまくたくらまれては、お上に訴えて出ても、俺の負け。腕ずくで取って見せるぞ。こりゃ。平野屋の徳兵衛は男だ。わかったか。貴様のように、友達をだまして、かねを踏み倒す男ではない。さぁ、来い」と噛み付く。
「やぁ、しゃらくさい。丁稚上がりめ。投げ飛ばしてやる」と胸倉を取って、ぶち合い、ねじり合い、叩き合う。
お初は裸足で飛んで下りて
「あれ、皆様、頼みます。私の知り合いだ。駕籠の人はおられぬか。あれは徳様」と身をよじってただ泣くばかり。哀れなり。客は不慣れな田舎者。
「怪我などがあってはならんぞ」無理やり駕籠に、お初を押し入れて、
「急げや急げ」と一目さんに駕籠を急がせて帰って行く。
「いや、まず、待って下さいな。なんと悲しい」と、お初はただただ、泣くばかり。
徳兵衛はただ一人、九平次は五人連れ。あたりの茶屋から棒を持って出て、取り囲み、蓮池まで追い出し、誰が踏むやら叩くやら。髪もほどけて、帯もとけ、あちらこちらへ転げまわって
「やれ、九平次め、畜生め、おのれ、生かしておかれるか」
よろめき尋ね廻っても、逃げて行方もわからない。そのままそこに、どっと座り、大声上げて涙を流し
「皆様の目の前で、面目なく恥ずかしい。全くこの徳兵衛が言いがかりをつけたのでは決してない。常日頃、兄弟のように付き合ってきた奴のことゆえ、『一生の恩』と泣きついたため貸しただけのこと。明日七日、この銀がなければ俺も死ぬことになる。命代わりの銀ではあるが、苦しいのはお互いのことと役立てて、証文を俺に書かせ、印判を押してその判をその日の前に落としたと、町中に触れ回って、その上逆にゆすってきた。悔しい。無念だ。このように踏まれ叩かれ、男も立たず身も立たず。えぇ、先ほどつかみかかり、食いついてでも死ねばよかった」と大地を叩き、歯噛みをし、こぶしを握って嘆き悲しむのは、もっともだとも気の毒だとも思いやられて哀れであった。
「はぁ、こう言っても無駄なこと。この徳兵衛は正直者で潔白なことを三日中には大阪中へ申し開いてみせる」と後でわかるその言葉(後の心中を暗示する)。
「いづれ様にもご苦労かけました。ごめんください」と一礼し、破れた編み笠を拾ってかぶり、顔をうつむけ、暮れてゆく日も涙に曇って、また曇る。すごすごと帰るのは、眼も当てられない有様であった。
堂島新地天満屋
恋風が身にしみじみと染み渡る蜆川、流れにさらされ、身もうつろ、その貝殻の姿のように、心もうつろ、通う男の、恋の闇路を照らして夜毎にともる灯火は、冬の蛍か、雨夜の星か。夏も梅咲く、梅田橋。田舎からやってきた者、この土地なじみのお客。それぞれの恋の道。その道を知る人も迷いに迷い、知らない人も通って賑わう堂島新地。
不憫なことに、天満屋のお初、店(たな)へ帰っても今日のことだけ気に懸かり、酒も飲まれず、気も晴れず、しくしく泣いているところへ、隣の店や同じ店の遊女たちが、ちょっと来ては
「のぅ、初様。何も聞いてはいないのか。徳様は、何やら具合の悪いことあって、思う存分ぶたれなさったとうわさを聞いた。本当か」
騙りを言って縛られたの、偽判をして括られたのと、ろくなことは一つも言わず、慰めが辛くなる見舞いであった。
「あぁ、嫌、もう言ってくださるな。聞けば聞くほど胸痛み、わたしが先に死にそうだ。いっそ死んでしまいたい」とただ、泣くばかり。
涙ながらに表(おもて)を見ると、夜の編み笠、徳兵衛、思い沈んだ忍びの姿。ちらっと見るより、飛び立つ思い。走り出そうとするものの、居間には亭主夫婦、上がり口には料理人、庭では下女が鯛を焼く。人目が多くそうはできない。
「あぁ、ひどく、気が滅入る。外でも見てこよう」とそっと出て
「のぅ、これはどうしたことかいの。お前のうわさ、いろいろ聞いたので、心配で、心配で、気が狂ったようになっていた」と笠の内に顔を差し入れ、声も立てずに咽びなく。哀れにも切ない涙であった。
男も涙にくれながら、
「聞いた通りの企みなので、言えば言うほど俺が不利になる。そのうちに、四方八方の首尾もがらりと変わってくる。もはや今宵はこのままでは過ごせない。すっかり覚悟を決めた」とささやく。
店の内から
「世間に悪いうわさが立つ。初様、中へお入りなさい」と声ごえに呼び入れる。
「おぅおぅ、あれだ。何一つ話されない。私のするようにしなさい」と打ちかけの裾に徳兵衛を隠し入れ、這うようにして、中戸の靴脱ぎから忍び込ませて、縁の下へそっと入れ、上がり口に腰を掛け、煙草を引き寄せ、吸い付けて、素知らぬ顔をするお初。
かかるところへ、九平次は悪友仲間、二・三人、座頭を交え、どっと来て
「おぃ、みんな、寂しそうだな。俺たちが客になってやろうかい。どうだ、亭主久しぶりだな」
横柄に上がりこむと
「それ、煙草盆。お杯」とかたち通りに立ち騒ぐ。
「いや、酒は止めてくれ。もう飲んできた。さて、話しておきたいことがある。ここにいる初の大事ななじみ客、平野屋の徳兵衛めが、俺の落とした印判拾い、偽証文作り、二貫目をゆすろうとした。理屈につまり挙句の果ては、死ぬ目にあって面目をつぶしてしまった。今後、ここらへ、やってきても油断するな。皆にこう語るのも、徳兵衛めが来て、全く逆のことをいっても、決して本当にするんじゃないぞ。近づけるな。どうせ、獄門へ行く奴」
まことしやかに言い散らす。縁の下では徳兵衛が、腹を立て、身を震わせて、歯を食いしばる。お初はこれを知られないように、足先で押し鎮め、押し鎮めするけなげなさ。亭主にとっても、徳兵衛はなじみの客ゆえ、善し悪しは答えずに
「では何かお吸い物でも」
とごまかして奥へ行く。
初は涙にくれながら
「そのようなうまい口は利かないもの。徳様と、いく年もなじみ合い、心のそこまで明かしあってきた間柄、それは、それは、お気の毒。今度のことは、徳様に、微塵も悪いところはない。男気を出したのが災難で、だまされたのに、証拠もないし、道理も立たず、この上は、徳様は死なねばならぬ身の上だが、死ぬる覚悟があるのかどうか聞きたいものだ」と独り言になぞらえて、足で聞けば、うなずいて、足首とって、首にあて、のど笛なぞり自害するぞと知らせける。
「おぉ、そのはず、そのはず。いつまで生きても同じこと。死んで恥をそそがなくては」と言えば、九平次、ぎょっとして
「お初、お前、何を言う。何で徳兵衛死ぬものか。もし、死んだその時は、おれが代わってかわいがってやろう。お前は俺にほれているそうじゃないか」
「こりゃ、もったいない。私とねんごろな間になると、お前を殺してしまうがそれでもいいか。徳様と離れては、片時も生きて行けない。そこにいる、九平次のいかさまやろう。阿呆口をたたくな。誰が聞いても不審に思う。どの道、徳様は死ぬ。私も一緒に死ぬ」
足でつつけば、縁の下では、徳兵衛が涙を流し、初の足を取って、押し頂いて、そのひざを抱いて悶えて、焦がれ泣く。初も素振りに表れるの隠し切れずに、互いに物は言わねども、心と心通わせて、ただしめやかに泣くばかり。哀れにも誰一人、二人の心、知る人もなく、九平次も気味悪く
「旗色がよくない、もう出るぞ。ここの女はおかしな奴らだ。俺たちのように、かねばら撒く客は嫌いだそうだ。あさ家(や)へ寄って、一杯飲んで、がらがらと一歩金をばら撒いて帰って寝ればさっぱりする。あぁ、懐が重たくて歩きにくい」
悪口ばかりを言い散らし、わめきたてて帰り行く。
「今宵はもう、門行灯(かどあんどう)を取り込め、泊まりの客はお休み願え。初も二階へ上がって早く寝な」
と亭主が言えば、初も
「それならば、旦那様、おかみさん、もうお目にはかかりますまい。おやすみなさい。皆さんもさようなら」とよそながら、いとま乞いをして、寝間に入る。これが一生の別れとは誰もわからず、後で知る、人の心の不憫さよ。
「それ、かまどの火、念入りに消せ。肴をねずみに捕られるな」
店を閉め、戸を閉めて、寝るより早く高いびき。夢を見る暇も無い夏の夜の八つになるのはほどもなし。
初は白無垢、死に装束、恋の闇路の黒小袖、上に羽織って、ぬきあしさしあし。二階の戸口より下をさし覗く。徳兵衛は縁の下より顔を出し、招き、うなずき、指差して、心に物を言わせるけれど、梯子の下に下女が寝て、釣行灯(つりあんどう)の灯は明るくて、どうしたらよかろうと思案を重ね、箒の先にうちわをつけて、梯子の二段目から扇いで消すもなかなか消えず、身も手も伸ばし、はたと消す。初は梯子を踏み外しどんと落ち、行灯の灯は消えてあたりは暗くなる。下女はうんと寝返りし、二人は体を震わせて、お互いを尋ね手探る危うさよ。
亭主は奥で目を覚まし
「今のは何だ。おなごども、行灯の灯が消えた。起きてつけろ」
下女は眠そうに目をこすり、裸のままで起き出して
「火打ち箱がみえない」
探り歩くのにぶつからぬように、二人とも、あちらこちらへ這い回る、その胸はつぶれるばかり。やっとの思いで、二人、手を取り合い、門口までへそっと出て、掛け金はうまく外れたものの、戸車(とぐるま)の音、気に懸かり、開けかねているところ、下女は火打ちをかちかちと、打つ音に紛らかし、かっちと打てば、そっと明け、かちかち打てば、そろそろ明け、音を合わせて身を縮め、虎の尾を踏む心地する戸を開けて、二人続いてそっと出て、顔を見合わせ、あぁ、うれしと、死に行く身を喜ぶ、あわれさ、つらさ、あさましさ。その後に、灯りが家にともされて、出て行く二人。残る命の短さよ。
道行
この世の名残り、夜も名残り。死に行く二人の身こそ、あだしが原の道の霜、一足ずつに消えて行く。夢の夢こそあわれなれ。あれ、数えてみれば暁の七つの時が六つ鳴り、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。鐘のみならず草も木も、空も名残りと見上げれば、流れ行く雲、水の音、北斗の星はさえ渡り、妹背を隔つ天の川。その川にかささぎの架けたる橋こそ梅田橋。
我とそなたはいつまでも牽牛織女の夫婦(みょうと)星、必ず沿うとすがり依り、二人の間に降る涙、川の水かさ増やしけり。向かいの二階は、何家ともおぼつかなくて、まだ寝ぬ灯影声高く、今年の心中のあれこれを話す言の葉茂り行き、聞けば心もふさぎゆく。昨日、今日まで,ひとごとに話してきたが、明日からは我もうわさの仲間入り、人に歌われ、歌えば歌え。げに、思えども、嘆けども、身も世も思うにまかせず、今日の来るまで一日も、心の晴れた夜は無く、思いもかけない恋に苦しみ、どこからか聞こえるはやりうた。
「どうせ女房にゃ持ちなさるまい。捨てられるものとは思っていても、
どういう深い縁なのか。忘るるひまもないわいな。
それを振り捨て行こうとは。行かせはしない。
手にかけて殺しておいて、行っておくれ。放すものかと泣き付けば」
あまたの歌がある中でこの歌を、今宵という時も時、歌うのはだれ、聞くのはわたし。恋に命を落とした人も、我ら二人も、思いは一つ、すがりつき声を限りにただ泣くばかり。いつもであればともかくのこと、この夜だけは、せめて少しは長くあれと思う間もなく夏の夜(よ)は、命をせかす鳥の声。ここで夜が明けたなら一大事。天神の森で死のうと手を引いて、梅田堤(づつみ)へさしかかる。泣いているのは小夜烏。明日はわが身をついばむか。
「まことに今年は、お前様は二十五の厄の年、わたしも十九の厄の年、重ね重ねの厄祟りこそ、縁の深さのしるしなれ。神や仏にかけて来たこの世の願いあの世へ回し、後の世は一つはちすに生まれよう」
つまぐる数珠の百八に,涙の玉も百八つ。尽きせぬ哀れ尽きる道。心も空も影暗く、風しんしんたる曽根崎の森にぞたどり着きにける。
曽根崎の森
あそこにするか、ここにしようか。草を払えば散る露の我より先にまず消えて、定め無き世は稲妻か。それか、あらぬか、
「あぁ、怖い。今のは何」
「おぉ、あれこそは人魂よ。今宵死ぬのは、我らだけかと思っていたが、先立つ人のあることよ。誰か知らぬがだれにせよ、あの世へのよい道ずれぞ。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
その声の終わらぬうちに、
「哀れ、悲しい、人魂がまた一つ、あの世に消える。南無阿弥陀仏」
女はたわいなく涙ぐみ「今宵は人の死ぬ夜(よる)なのか。なさけなや」と涙ぐむ。
男は涙をはらはら流し、
「二つ連れ飛ぶ人魂は、よその人だと思うかや。間違いなくも、お前と俺の魂ぞ」
「何、のぅ、我ら二人の魂とやら。はや、二人は死んだ身か」
「おぉ、いつものことなら、衣の裾を結び止め、魂をつなぎとめようとしてまじないをする。今は最後を急ぐ身のあの世のすみか一つにしよう。道に迷うな。間違うな」と抱き寄せて、肌を寄せ、身を伏せて涙する、二人の心は不憫なり。
涙の糸を結ぶ松と棕櫚。一本の木に生まれしを、連理の契りになぞらえて、露と消え行く身の置き場
「さぁ、ここに決めよう」
上着の帯を解く徳兵衛、初も涙の染小袖。脱いで架けたる棕櫚の葉の箒で今や、浮世の塵を掃き払う。初は袖より剃刀を取り出して
「もしも、途中で追っ手にかかり、別れ別れになるとても、浮名は捨てぬ心がけ。剃刀を用意してきた。望みの通り一つところで、死ぬことのできるうれしさよ」
「おぉ、神妙,神妙。頼もしい。それほどまでの心がけなら、最後も案ずることはない。さりながら、今際(いまわ)のきわの苦しみで死に姿見苦しいと言われるのも口惜しい。この二本の連理の木に、体をしっかり結びつけ、いさぎよく死ぬことにしよう。世にも稀なる死に様の手本となろう」
「本当に、その通り」
浅黄染なる抱えの帯。両方へ引っ張って、剃刀を取って、さらさらと切り裂いて
「帯は裂けても、徳様とわたしの間、裂けることはない」
二人その場に座り込み、二重、三重、緩まぬようにきつく締め
「よく締まったか」
「はい」
女は男の姿を見、男は女の様を見て
「なんと情けない身の果てぞ」
わっと泣き入るばかりなり。
「あぁ、嘆くまい」と徳兵衛、顔を振り上げて手を合わせ
「小さい頃に、実の父母(ちちはは)と別れ、叔父である親方の世話になって大きくなり、恩も返さず、このままに亡き後まで、いろいろと迷惑かけるもったいなさ。罪を許してくだされよ。冥土にまします父母に、もうすぐお目にかかります。迎えてください」と泣けば、お初も同じく手を合わせ
「あなた様はうらやましい。冥土の親に会うことができる。私のととさま、かかさまは、まめでこの世の人なれば、いつ会うことができるやら。便りはこの春あったのだが、会ったのは去年のはつ秋。この初の心中事件田舎へ聞こえれば、どれほどか嘆かれよう。親たちへも兄弟へも、これがこの世の暇乞い。せめて心が通じれば、夢にでも見てほしい。おなつかしいお母様、お名残り惜しいお父様」
しゃくりあげ、しゃくりあげ、声を張り上げ泣くお初。徳もわっと泣き叫び、涙を流して、ふた親を恋しく慕う心の内は、道理も至極、あわれなれ。
「いつまで言っても甲斐のないこと。早く殺して」
と最期を急げば
「心得たり」と脇差、するりと抜き放し
「さぁ、ただ今ぞ。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」といえども、さすがこの年月、いとし、可愛と抱いて寝た肌にやいばが当てられようか。
まなこも眩み、手も震え、弱る心を取り直し、取り直しても、なお震え、突こうとすれど、切っ先は、あっちに外れ、こっちへそれ、二、三度きらめく、剣(つるぎ)のやいば。あっとばかりに喉笛にぐっと通って
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と突き通し、突き通す手が弱るを見れば、両手を伸ばし、これが最後の四苦八苦。哀れというも余りあり。
「俺とても遅れようか。息は一度に引き取ろう」と剃刀取って、喉に突き立て、つかも折れよ、刃も砕けよと突き立てる。苦しむ息も暁の知死期(ちしご)につれて絶え果てた。
誰が言うともなく、誰が話すとも無く、曽根崎の森の下風はうわさを運び、語り伝えて、あらゆる人が、回向をし、未来成仏疑い無しと恋の手本となりにけり。

道頓堀 / 芝居や見世物、飲食店が軒を並べ、竹本座もここにあった。道頓堀はこの曽根崎心中上演中の竹本座もその中にあった芝居町であり、道頓堀に寄るな、道草するな、ということは、今まさにその通りのことをしている芝居の観客たちに向けられているからかい交じりの軽妙な挨拶でもあった。
編み笠 / 歌舞伎、人形浄瑠璃を通じて、網笠姿こそ二枚目主人公が舞台に登場してくる際の典型的ないでたちとされていた。
声色 / 物真似ともいった。役者の声色の声色。この頃盛んに行われ、人気があった。
天満屋、丹波家、あさ家 / 実在の色茶屋
座頭 / 太鼓持ちの役を務めた盲目の芸人
煤払い / 年末の大掃除。普通陰暦の十二月十三日に行われた。
十夜念仏 / 陰暦十月六日より十日間浄土宗の寺で念仏を修する。
お祓い / 陰暦六月十五日、大阪天満天神の御祓祭
二貫目の銀 / 銀貨二千匁、この頃では金約三十五両に相当し、米三千キログラムほど買えた。
蜆川 / 堂島と曽根崎の間を流れる川。梅田橋はこの川に架かる橋
四月七日 / 当時の町人の決算日
伊勢講 / 伊勢参宮を目的として結ばれた講。時折親睦の目的で会合を開いた。
身代立たぬ / 堅気の町人にとっては大変な恥辱。身代は財産。
印判を代えた / 印判変更の正式な手続きを済ませた。これにより二十五日に紛失したことが公的に認められる。
偽印 / 謀判(ぼうばん)ともいう。他人の印判を盗用または、偽造すること。重罪人として引き回しの上獄門に処せられた。
堂島新地 / 元禄元年に許可された色町
一歩金 / 一歩ともいう。一両の四分の一。祝儀として与える。当時米二十キログラムが買えた。
門行灯 / 家名・商号などを書いて門口にかけ、目印とした行灯。
八つ / 大体午前一時半頃
釣行灯 / 商家の店や台所などの天井に吊るした大型の行灯。夜通し灯をともしていた。
寂滅為楽 / 煩悩の境地を脱し真の安楽を得ること
二階 / 蜆川新地の茶屋は二階が売り物の一つだった。
衣の裾を結び止め / 人魂を見たときに自分の魂が連れ去られることのないように「魂(たま)は見つ 主は誰とも知らねども結び留(とど)めつ下がえの褄(つま)」と唱え、着物の褄を結んだというまじない。
松と棕櫚 / 当時松の木と棕櫚の木が一本の木のように並んで生えていたという。
浅黄 / 水色。この頃浅黄色の抱え帯が流行した。
抱え帯 / 帯の下に締めて着物をからげるしごき。
知死期 / 人が死ぬと決まった時刻。陰陽道によればその人の干支により死ぬ時期を知ることができると  
 
曾根崎心中3

[語り] / 實にや安樂世界より、今此娑婆に示現して、我等が爲の觀世音、仰ぐも高し高き屋に、登りて民の賑ひを、契りおきてし難波津や、三ツづつ十ウと三ツの里、札所々々の靈地靈佛、廻れば罪も夏の雲、熱くろしとて駕籠をはや、をりはの乞目三六の、十八九なる顏世花、今咲出しの初花に、傘は被ずとも召さずとも、照日の神も男神、除けて日負はよもあらじ。頼みありける巡禮道、西國三十三所にも向ふと聞ぞ有難き。一番に天滿の大融寺。此御寺の名も古りし、昔の人も氣のとほるの、大臣の君が鹽竃の、浦を都に堀江漕ぐ、汐汲舟の跡絶えず、今も弘誓の櫓拍子に、法の玉鉾ゑい/\。大阪巡禮胸に木札の普陀落や、大江の岸に打つ波に、白む夜明の、鳥も二番に長福寺。空に眩き久方の、光に映る我影の、あれ/\走れば走る。これ/\又留れば留る。振のよしあし見る如く、心も嘸や神佛、照す鏡の神明宮。拜み廻りて法住寺。人の願ひも我如く、誰をか戀の祈りぞと、仇の悋氣や法界寺。東は如何に大鏡寺。草の若芽も春過て、遲れ咲なる菜種や罌粟の、露に憔るる夏の蟲。おのが妻戀ひ優しやすしや。彼地へ飛つれ、此地へ飛連れ、彼地やこち風ひた/\/\、羽と羽とを袷の袖、染た模樣を花かとて、肩にとまればおのづから、紋に揚羽の超泉寺。さて善道寺栗東寺。天滿の札所殘りなく、其方にめぐる夕立の、雲の羽衣蝉の羽の、薄き手拭暑き日に、貫く汗の玉造。稻荷の宮にまよふとの、闇はことはり御佛も、衆生の爲の親なれば、是ぞ小長谷の興徳寺。四方に眺めの果しなく、西に船路の海深く、波の淡路に消えずも通ふ、沖の潮風身に染む鴎、汝も無常の烟に咽ぶ。色に焦れて死ふなら、しんぞ此身は成次第。さて實に好いけいでん寺。縁に引れて又何時か、此處に高津の遍妙院。菩提の種や上寺町の、長安寺より誓安寺。上りやすな/\、下りやちよこ/\、上りつ下りつ谷町筋を、歩みならはず行きならはねば、所體くづをれア、恥しの、森で裳裾がはら/\/\、はつと翻るを打掻合せ、ゆるみし帯を引締め/\、しめて絆はれ藤の棚。十七番に重願寺。これからいくつ生玉の、本誓寺ぞと伏拜む。珠數に繋がん菩提寺や。はや天王寺に六時堂、七千餘巻の經堂に、經讀む鳥のときぞとて、餘所の待宵きぬ%\も、思はで辛き鐘の聲、こん金堂に講堂や、萬燈院に灯す火は、影も耀く蝋燭の、しん清水にしばしとて、軈て休らふ逢坂の、關の清水を汲上つ、手に掬び上げ口嗽ぎ、無明の酒の醉さます、木々の下風ひや/\と、右の袖口左の袖へ、通る烟管に燻る火も、道の慰み熱からず。吹て亂るる薄烟、空に消えては是も亦、行衞も知らぬ相思草、人忍ぶ草道草に、日も傾きぬ急がんと、又立出る雲の脚。時雨の松の下寺町に、信心深き眞光寺。覺らぬ身さへ大覺寺。さて金臺寺大蓮寺。廻り/\て是ぞはや、三十番にみつ寺の、大慈大悲の頼みにて、かくる佛の御手の糸。白髪町とよ黒髪は、戀に亂るる妄執の、夢を覺さんばくらうの、此處も稻荷の神社。佛神水波のしるしとて、甍竝べし新御靈に、拜みおさまるさしもぐさ。草のはす花世にまじり、三十三に御身をかえ、色で導き情で教へ、戀を菩提の橋となし、渡して救ふ觀世音。誓ひは妙に三重有難し。立迷ふ浮名を餘所に漏さじと、包む心の内本町。焦るる胸の平野屋に、春を重ねし雛男。一ツなる口桃の酒、柳の髪もとく/\と、呼れて粹の名取川。今は手代と埋木の、生醤油の袖したたるき、戀の奴に荷はせて、得意を廻り生玉の、社にこそは著にけれ。出茶屋の床より女の聲、
[初] / 「ありや徳さまではないかいの。コレ徳樣々々」
[語り] / と手をたたけば、徳兵衞合點して打頷き、
[徳] / 「コレ長藏、おれは後から往のほどに、其方は寺町の久本寺樣、長久寺樣、上町から屋敷方廻つて而して内へ往や。徳兵衞も早戻ると言や。それ忘れずとも、安土町の紺屋へ寄て錢取やや。道頓堀へ寄やんなや」
[語り] / と、影見ゆるまで見送り/\、簾を上て、
[徳] / 「コレお初じやないか。是は如何じや」
[語り] / と編笠を脱んとすれば、
[初] / 「アヽ先づ矢張被て居さんせ。今日は田舎の客で、三十三番の觀音樣を廻りまし、此處で晩まで日暮しに、酒にするじやと贅言て、物眞似聞にそれ其處へ。戻つて見ればむづかしい。駕籠も皆知んした衆。矢張笠を被て居さんせ。それは左樣じやが此頃は、梨も礫もうたんせぬ。氣遣ひなれど内方の、首尾を知らねば便宜もならず。丹波屋まではお百度ほど訪ぬれど、彼處へも音信もないとある。ハア誰やらがヲヽそれよ。座頭の太市が友達衆に聞けば、在所へ往んしたといへども、つんと誠にならず。ほんに又餘りな。妾は如何ならふとも聞たうもないかいの。此方樣それでも濟もぞいの。妾は病ひになるはいの。嘘なら是れ此痞を見さんせ」
[語り] / と、手を取て懷の、うち怨みたる口説泣。ほんの夫婦にかはらじな。男も泣て、
[徳] / 「ヲヽ道理々々。去ながら言ふて苦にさせ、何せうぞいの。此中おれが憂苦勞、盆と正月其上に、十夜お祓ひ煤掃を、一度にするとも斯うはあるまい。心の内はむしやくしやと、やみらみつちやの皮袋。銀事やら何じややら、譯は京へも上つて來る。能ふも/\徳兵衞が命は續きの狂言に、したらば哀にあらふぞ」
[語り] / と、溜息ほつとつくばかり。
[初] / 「ハテ輕口の段かいの。それ程に無い事をさへ妾にはなぜ言んせぬ。隱さんしたは仔細があろ。何故打明て下んせぬ」
[語り] / と、膝に凭れてさめ%\と、涙は延紙を浸しけり。
[徳] / 「ハアテ泣やんな、恨みやるな。隱すではなけれども、言ふても埓の明ぬ事。さりながら大概先づ濟よつたが、一伍一什を聞てたも。おれが旦那は主ながら現在の叔父甥なれば、懇切にも預る、又身共も、奉公にこれほども油斷せず。商ひ物ももじひらがな違へた事のあらばこそ。此頃袷を仕樣と思ひ、堺筋で加賀一疋、旦那の名代でかひがかる。是が一期に只た一度。此金もすはと言へば、著替賣ても損かけぬ、此正直を見て取て、内儀の姪に二貫目附て夫婦にし、商賣させうといふ談合。去年からの事なれど、和女といふ人持て、何の心が移らうぞ。取りあへもせぬ其内に、在所の母は繼母なるが、我に隱して親方と談合極め、二貫目の金を握て歸られしを、此うつそりが夢にも知らず。後の月からもやくり出し、押て祝言させうとある。其處で俺も勃として、やあら聞えぬ旦那殿、私合點がいたさぬを、老婆を賺したたきつけ、餘りな成されやう。お内儀樣も聞えませぬ。今迄、樣に樣を付け崇まへた娘御に、金を付て申受け、一生女房の機嫌取り、此徳兵衞が立ものか。嫌といふからは、死だ親父が蘇生り申すとあつても否で御座ると、詞を過す返答に、親方も立腹せられ、おれが夫れも知て居る。蜆川の天滿屋の初めとやらと腐り合ひ、嚊が姪を嫌ふよな。好い此上は最う娘は遣ぬ。遣ぬからは金を立。四月七日までに屹度立て。商ひの勘定せよ。まくり出して大阪の地はふませぬと怒らるる。それがしも男の我。ヲヽソレ畏つたと在所へ走る。又此母といふ人が、此世が彼の世へ歸つても、握た銀を放さばこそ。京の五條の醤油問屋、常々金の取遣すれば、これを頼みに上つて見ても、折りしも惡う銀もなし。引返して在所へ行き、一在所の詫言にて、母より金を請取たり。追付返し勘定仕舞ひ、さらりと埓が明くは明く。されども大阪に置れまい時には如何して逢れふぞ。假へば骨を碎かれて、身はしやれ貝の蜆川、底の水屑とならば成れ。汝が身に放れ如何せう」
[語り] / と、咽び入てぞ泣居たる。お初も共に喘く涙、力をつけて押留め、
[初] / 「さて/\いかい御苦勞。皆妾故と思ふから、嬉し悲しう忝し。さりながら、心慥に思召せ。大阪を堰れさんしても、盗み家燒の身ではなし。如何してなりとも置く分は、妾が心にあることなり。逢ふに逢れぬ其時は、此世ばかりの約束か。左樣した例しの無ではなし。死ぬるをたかの死出の山。三途の川は堰く人も、せかるる人もあるまい」
[語り] / と、氣強う勇む詞の中、涙に咽て言させり。お初重ねて、
[初] / 「七日といふても明日の事。とても渡す金なれば、早う戻して親方樣の、機嫌をも取らんせ」
[語り] / といへば、
[徳] / 「ヲヽ左樣思ふて氣が急くが、和女も知た彼の油屋の九平次が、後の月の晦日、只た一日要る事あり。三日の朝は返さうと、一命かけて頼むにより、七日までは要らぬ金。兄弟同士の友達の爲を思ひて、時貸に貸たるが、三日四日に便宜せず。昨日は留守で逢もせず。今朝尋ねふと思ひしが、明日限に商ひの勘定も仕舞はんと、得意廻りで打過たり。晩には行て埓明ふ。彼奴も男磨く奴。おれが難儀も知て居る。如才はあるまい。氣遣しやるな。ヤアお初」
[語り] / 謡初瀬も遠し難波寺。名所多き鐘の音、つきぬや法の聲ならん。山寺の春の夕暮來て見れば、先なは
[徳] / 「これ九平次、アヽ不敵千萬な。身共方へ不届して遊山どころではあるまいぞ。サア今日埓明ふ」
[語り] / と、手を取て引留れば、九平次興覺顏になつて、
[九] / 「何んの事ぞ徳兵衞、此連衆は町の衆。上鹽町へ伊勢講にて只今歸るが、酒も少し飲で居る。利腕把て如何する事ぞ。麁相をするな」
[語り] / と笠を取れば、
[徳] / 「イヤ此徳兵衞は麁相はせぬ。後の月の二十八日、銀子二貫目時貸に此三日切に貸たる銀、それを返せといふ事」
[語り] / と、言せも果てず九平次、つらか/\と笑ひ、
[九] / 「氣が違ふたか徳兵衞。われと數年語れども、一錢借た覺えもなし。聊爾な事を言懸け、後悔するな」
[語り] / と振放せば、連も笠をはらりと脱ぐ。徳兵衞はつと色を變へ、
[徳] / 「言ふな/\九平次。身が此度の大難儀、如何もならぬ銀なれども、晦日只た一日で、身代立ぬと歎いたゆゑ、日來語るは此處らと思ひ、男づくで貸たぞよ。手形も要らぬといふたれば、念の爲じや判しやうとおれに證文書かせ、お主が捺た判がある。左樣いふな九平次」
[語り] / と、血眼になつて責蒐る。
[九] / 「ムヽウ何じや。判とは何れ見たい」
[徳] / 「ヲヽ見せいで置ふか」
[語り] / と、懷中の鼻紙入より取出し、
[徳] / 「お町衆なら見知もあらふ。コリヤ是でも爭ふか」
[語り] / と、披いて見すれば、九平次横手を打ち、
[九] / 「成程判はおれが判。エヽ徳兵衞、土に食付死ぬるとても、斯樣な事は爲ぬものじや。此九平次は後の月の二十五日に、鼻紙袋を落して、印判共に失なふた。方々に張紙して尋ぬれども知れぬゆゑ、此月からコレ此お町衆へもことはり、印判を替たはやい。二十五日に落した判を八日に捺れうか。さては其方が拾ふて、手形を書て判を捺ゑ、おれを強請て銀取ふとは、謀判よりも大罪人。こんな事をせうよりも盗みをせい徳兵衞。エヽ首を斬せる奴なれど懇意甲斐に許して置く。銀になるなら仕て見よ」
[語り] / と、手形を顏へ打付け、はつたと白眼む顏付は、けんによもなげにしら/\し。徳兵衞くわつと胸急て大聲上げ、
[徳] / 「扨巧んだり/\。一杯食ふたか無念やな。ハテ何んとせう。此銀をのめ/\と、只己に取られうか。斯う巧んだ事なれば、でんどへ出ても俺が負け。腕前で取て見せう。コリヤ平野屋の徳兵衞じや。男ぢやが合點か。おのれが樣に友達を騙つて倒す男じやない。サア來い」
[語り] / と掴付く。
[九] / 「ヤア洒落な丁稚上りめ、投てくれん」
[語り] / と胸倉取り、撲合ひ捻合ひ敲き合ふ。お初は跣で飛で下り、
[初] / 「あれ皆樣頼みます。妾が知たお人じやが、駕籠の衆は居やらぬか。あれ徳樣じや」
[語り] / と身をもがく。詮方なくも哀れなり。客は素より田舎者、
[客] / 「怪我があつてはならぬぞ」
[語り] / と無體に駕籠に押入るる。
[初] / 「いや先づ待て下さんせ。なふ悲しや」
[語り] / と泣聲ばかり、急げ/\と一散に駕籠を早めて歸りけり。徳兵衞は只一人、九平次は五人連れ、四邊の茶屋より棒ずくめ、蓮池まで追出し、誰が蹈やら叩くやら、更に分ちは無りけり。髪も解かれ帯も解け、彼方此方へ伏轉び、
[徳] / 「やれ九平次め畜生め。おのれ生て置ふか」
[語り] / と、よろぼび尋ね廻れども、逃て行衞も見えばこそ。其儘其處にどうと居り、大聲上て涙を流し、
[徳] / 「孰れもの手前も面目なし恥しし。全く此徳兵衞が言かけしたるで更になし。日頃兄弟同前に語りし奴が事といひ、一生の恩と歎きしゆゑ、明日七日此銀がなければ、我等も死ねばならぬ命がはりの銀なれども、互の事と役に立ち、手形を我等が手で書せ、印判捺て其判を、前方に落せしと町内へ披露して、却て今の逆ねだれ。口惜や無念やな。此如く踏叩かれ、男も立たず身もたたず。エヽ最前に掴付き、喰付てなりとも死なんものを」
[語り] / と、大地を叩き切齒をなし、拳を握り歎きしは、道理とも笑止とも、思ひやられて哀れなり。
[徳] / 「ハテ斯ういふても無益の事。此徳兵衞が正直の心の底の涼しさは、三日を過さず、大阪中へ申譯はして見せう」
[語り] / と、後に知らるる詞の端、
[徳] / 「何れも御苦勞かけました。御免あれ」
[語り] / と一禮述べ、破れし編笠拾ひ着て、顏も傾く日影さへ、曇る涙に掻暮れ/\、悄然歸る有樣は、目もあてられぬ三重戀風の、身に蜆川流れては、其空背貝現なき、色の闇路を照せとて、夜毎に燈す燈火は、四季の螢よ雨夜の星か。夏も花見る梅田橋。旅の鄙人、地の思ひ人、心々の譯の道、知るも迷へば知らぬも通ひ、新色里と賑はしし。無慙やな、天滿屋のお初は、内へ歸りても今日の事のみ氣にかかり、酒も飲れず氣も濟ず、しく/\泣て居る處へ、隣りの娼や朋輩の鳥渡來ては、
[甲] / 「なふ初樣、何も聞んせぬか。徳樣は何やら仔細の惡い事ありて、たんと撲れさんしたと、聞たが眞か」
[語り] / といふもあり。
[乙] / 「ヤイ儕が客樣の咄ぢやが、踏れて死んしたげな」
[語り] / といふもあり。騙瞞をいふて縛られての、僞判して括られてのと、碌な事は一ツも言はず、問ふに辛さの見舞なり。
[初] / 「アヽいや最う言ふて下んすな。聞けば聞くほど胸痛み、妾から先へ死さうな。寧そ死でのけたい」
[語り] / と、泣より外の事ぞなき。かかる處へ此里馴れぬ人體に、家來に提灯燈させて、此處か其處かと立覗く。下女の玉立寄て、
[玉] / 「これ親父樣。どんなお顏が物好きぞ。若い衆と同じ樣にうろ/\せずと、先ア此方へ入らしやんせ」
[語り] / と、引留れば、
[客] / 「ムヽ天滿屋といふ茶屋は、此處ではないか」
[語り] / と尋ぬれば、
[玉] / 「アヽ成程々々お尋ねの天滿屋。十四五から三十までの、圓顏面長望み次第。戀知りの初樣とて、町一番のぼつとり者。お目にかけん」
[語り] / と縋付く。
[客] / 「されば其初といふ女に用の事ある間、鳥渡呼出して」
[語り] / といふや否、
[玉] / 「ムヽさては最うお馴染か。幸ひ只今お暇あり。いざお入り」
[語り] / といひければ、
[客] / 「イヤ/\左樣の者でなし。逢ふて一言いふ事あり。頼む」
[語り] / といへば、
[玉] / 「さてはお客のお連樣か。そんなら疾から言ふたが好い。コレお初樣、客樣のお連樣が」
[語り] / と傳へれば、初は彼處に立出て、
[初] / 「誰さんじや」
[語り] / と差覗けば、
[客] / 「ムヽお初とはお身の事な。和女が内に居るからは、徳兵衞めも來て居る筈。此處へ早う呼で下されい」
[初] / 「イヽヱ徳樣は未だ見えませぬが、先づ此方樣は誰樣じや」
[客] / 「ヲヽ身共は徳兵衞めが叔父親方平野屋久右衞門といふもの、和女を見るも恨めしい。彼の正直な徳兵衞めをば、ぬつぺりとした顏をして、何の樣に瞞したやら。今日此頃は平生の魂が入替り、錢金を湯水の樣に、夜々通ふのみならず、今日は晝から得意衆へ、商ひに廻るといふて内を出て、今になりても歸らぬゆゑ、久右衞門が引ずりに參つた。好い加減にして戻されよ。左なくばお爲が惡からふ」
[語り] / と、苦々しく言ければ、お初はじつと聲を沈め、
[初] / 「さてはお前は旦那樣か。内方の入譯も咄で聞て居ますれば、妾が憎いはお道理。それ程の事辨へぬ妾でもなけれども、思ひ切るにもきられぬは、二人が因果と思召し、堪忍して下さんせ。左樣した中の事なれば、再々見えはしますれど、よしない金は遣はせませぬ。必ず恨みて下んすな。それに就ては、お前へ立る二貫目の銀も、御手にありしをば友達の義理合にて、油屋の九平次めに用に達てやらんしたを、今日生玉で逢んして、戻してくれとあつたれば、借らぬと諍ふのみならず、言懸するの、騙瞞のと、徳樣一人を四五人して、撲たり踏だり仕居たを、妾もお客と行合せ、喰付たうは思へども、お客の手前を憚りて、樣子を見さして戻りしが、若や怪我は無つたかと、是のみ案じ居まする」
[語り] / と、泣く泣く語れば、久右衞門大きに急て、
[久] / 「ナニ九平次めが徳兵衞を踏たるとや。徳兵衞事は久右衞門が家來ながらも甥じやとは、誰知らぬ者ない處に、假し理にもせよ非にもせよ、彼の生玉のでんどにて、九平次めに踏せては、此久右衞門が立ものか。最う徳兵衞にも逢ますまい。是から直に九平次が宿へ踏込み、おのれ先づ掴付ても喰付ても、存分言で置うか」
[語り] / と、走り行くを引留め、
[初] / 「お腹の立のは御尤。併し先には巧んだ事。此上麁相のある時は御損の上の恥になる。何の道にも、徳樣が追付け是へ見える筈。逢ふて共々談合して、往て下さんせ」
[語り] / と言ひければ、
[久] / 「ムヽすれば是非とも徳兵衞が、是へ來るに極つたか。然らば逢ての上の事。少時此處を貸給へ」
[語り] / と、見世の先に腰懸れば、
[初] / 「イヤノウ此處は商ひ見世、内へ入つて待しやんせ。お妻さま、お吉さま、此御客をば小座敷へ通しまして」
[語り] / と聞よりも、
[妓] / 「あい」
[語り] / と答へて二人の妓、
[妓] / 「さア御座んせ」
[語り] / と取付けば、
[久] / 「サア參れなら參らふが、これお初殿、構へて身共は金は拂はぬぞや。必ず念をつかふた」
[語り] / と、言捨て奥にぞ入りにける。お初は見世につく% \と、物打案じ居る處へ、表を見れば夜の編笠徳兵衞、思ひ詫たる忍び姿、ちらと見るより飛立ばかり。走り出んと思へども、おうへには亭主夫婦、上り口に料理人、庭では下女がやくたいの、目が繁ければ左もならず。
[初] / 「アヽいかう氣が盡た。門見て來ふ」
[語り] / と密と出、
[初] / 「なふこれは如何ぞいの。此方樣の評判いろ/\に聞たゆゑ、其氣遣ひさ/\、狂氣の樣になつて居たはいのう」
[語り] / と、笠の内に顏さし入れ、聲を立ずの隱し泣き、あはれせつなき涙なり。男も涙にくれながら、
[徳] / 「聞きやる通のたくみなれば、言ふ程おれが非に落る。其内四方八方の、首尾はぐわらりと違ふて來る。最早今宵は過されず。とんと覺悟を極めた」
[語り] / と囁けば、内よりも、
[聲々] / 「世間に惡い取沙汰ある。初樣内へ入らんせ」
[語り] / と、聲々に呼入る。
[初] / 「ヲヽ/\あれじや。何も咄されぬ。妾が爲るやうに成んせ」
[語り] / と、裲襠の裾に隱し入れ、はふ/\仲戸の沓脱より忍ばせて、縁の下屋に密と入れ、上り口に腰打懸け、烟草引寄せ吸付て、素知らぬ顏して居たりけり。斯る處へ九平次は、惡口仲間二三人、座頭まじくらどつと來り、
[九] / 「ヤア妓樣達、淋しさうに御座る。何と客になつてやらうかい。何と亭主久しいの」
[語り] / と、のさばり上れば、
[主人] / 「それ煙草盆、お盃」
[語り] / と、ありべかかりに立騒ぐ。
[九] / 「イヤ酒は置や、飲で來た。扨咄す事がある。これの初が一客平野屋の徳兵衞めが、身が落した印判拾ひ、二貫目の僞手形で騙ふとしたれども、理屈に詰つて上句には、死なず甲斐な目に遭ふて一分は廢つた。向後此處らへ來るとも油斷しやるな。皆に斯う語るのも徳兵衞めがうせ、まつかい樣にいふとても、必ず誠にしやるな。寄る事も要らぬもの。何うで野江か飛田もの」
[語り] / と、誠しやかにいひちらす。縁の下には齒を喰しばり、身を慄はして腹の立るを、初は是を知らせじと、足の先にて押沈め、押へ沈めし神妙さ。亭主は久しい客の事、是非の返答なく、
[亭主] / 「さらば何ぞお吸物」
[語り] / と、紛かしてぞ立にける。初は涙にくれながら、
[初] / 「左のみ利根にいはぬもの。徳樣の御事、幾年馴染心根を、明し明せし中なるが、それは/\いとしぼげに、微塵譯は惡うなし。頼もし達が身のひしで、瞞されさんしたものなれども、證據なければ理も立たず。此上は徳樣も、死なねばならぬしななるが、死ぬる覺悟が聞たい」
[語り] / と、獨語に擬へて、足で問へば打頷き、足首取て咽笛撫で、自害をするとぞ知らせける。
[初] / 「ヲヽ其筈々々。何時まで生ても同じ事、死で恥を雪がいでは」
[語り] / と、いへば九平次恟として、
[九] / 「お初は何を言るるぞ。何の徳兵衞が死ぬるものぞ。若亦死んだら其後は、おれが懇してやらふ。和女も俺に惚てじやげな」
[語り] / といへば、
[初] / 「こりや忝かろはいの。妾と懇さあんすと、此方も殺すが合點か。徳樣に離れて片時も生て居やうか。其處な九平次のどうずりめ。阿呆口を叩いて人が聞ても不審が立つ。どうで徳樣一所に死ぬる。妾も一所に死ぬるぞやいの」
[語り] / と、足にて突けば、縁の下には涙を流し、足を取て押戴き、膝に抱付き焦れ泣き、女も色に包みかね、互ひに物は言ねども、膽と膽とに應へつつ、しめり泣にぞ泣居たる。人知らぬこそ哀れなれ。九平次も氣味惡く、
[九] / 「相場が惡いおぢやいなふ。此處な妓衆は異な事で、俺捫が樣に金遣ふ大盡は嫌ひさうな。阿佐屋へ寄て一杯して、ぐわら/\一分を撤散し、そしていんだら寢よからふ。アヽ懷が重たうて歩きにくい」
[語り] / と、惡口だらけ言散し、喚いて外へ出けるを、お初は如何も堪られず、
[初] / 「死にに行く身の道連れに、おのれ瞞して殺さう」
[語り] / と、心一つに思案して、ずつと立て引留め、
[初] / 「只今言ふた惡口は、勤めする身の義理なれば、左のみ心にかけなさんすな。有樣いへば憎うない。こな男め」
[語り] / と縺るれば、九平次は振返り、
[九] / 「こりや又味な挨拶じやが、そんなら俺捫に逢ふ心か」
[初] / 「ハテさて愚鈍な男や」
[語り] / と、手を取り行けば連共は、
[連] / 「九平次此處は引れまい。今宵も明日も明後日も、揚詰の大々盡、お船がすはつた。我々は氣を通すぞ」
[語り] / と聲々に惡口いふて歸りける。亭主夫婦は悦びて、
[夫婦] / 「サア九平次樣一時もはや/\二階へお越あれ。初もお側へはいつて寢や。早ふ寢やや」
[語り] / といひければ、
[初] / 「そんなら旦那樣、内儀樣、最ふお目にはかかりますまい。さらばで御座んす。内衆もさらば/\」
[語り] / と餘所ながら、暇乞して閨へ入る。これ一生の別れとは、後にこそ知れ氣も注かぬ、愚の心不便さよ。
[亭主] / 「それ竈の下に念を入れ、肴を鼠に引するな」
[語り] / と、見世をあげつ門鎖つ、寢より早く高鼾。如何なる夢も短夜の、八つになるのは程もなし。初は白無垢死扮裝、戀路の闇の黒小袖、上に打かけさし足し、二階の口より差覗けば、男は下屋に顏出し、招き頷き指さして、心に物をいはすれば、梯子の下に下女寢たり。吊行燈の火は明し、如何はせんと案ぜしが、椶櫚箒に扇子を付け、箱梯子の二つ目より、煽ぎ消せども消えかぬる、身も手も伸しはたと消せば、梯子よりどうと落ち、行燈消えて暗がりに、下女はうんと寢返りし、二人は胴を慄はして、尋ね廻る危さよ。亭主奥にて目を覺し、
[亭主] / 「今のは何じや。女子ども、有明の火も消えた。起て燈せ」
[語り] / と起されて、下女は睡そに目を擦/\、素裸體にて起出、
[下女] / 「燧火箱が見えぬ」
[語り] / と、探り歩くを障らじと、彼方此方へ這絆はるる玉葛、苦しき闇のうつつなや。やう/\二人手を取合せ、門口まで密と出、懸鎰外せしが車戸の音訝しく開兼し折から、下女は燧火をはた/\と、打つ音に紛らかし、丁と打ば密と開け、かち/\打てばそろ/\開け、合せ/\て身を縮め、袖と袖とを槇の戸や、虎の尾を踏む心地して、二人續いて突と出、顏を見合せ、「アヽ嬉し」と、互ひに息をほつとつき、
[初] / 「さるにても九平次めを殺して退きよと思ふたに、此方らに心の急くままに、生て置たが悔しさよ」
[語り] / と、お初は涙に振返れば、
[徳] / 「アヽなふそれも迷ひなり。斯う死ぬる身の約束ぞ。人にも世にも恨みなし。急ぎ給へ」
[語り] / と手を引て、彼處を走り出て行く。斯とは知らずやうやうと、下女は火燈し、
[下女] / 「これはさて、門の戸が開てある。皆氣の注かぬ」
[語り] / と懸鎰を、しめて寢間へぞ入にける。少時くあつて男一人、驚忙しく走り來り、天滿屋の戸を打敲き、
[茂] / 「油屋九平次樣、急用ありて手代茂兵衞が參つた。言次で給はれ」
[語り] / と、呼はる聲、九平次が寐耳へ入て打驚き、梯子忙しく下けるを、後に續いて久右衞門、聞くとも知らず戸を押開け、
[九] / 「ムヽ茂兵衞か。何の用にて周章だしい。何うぞ/\」
[語り] / といひければ、
[茂] / 「サレバ今日、町次の判形觸れて參りしゆゑ、お前のお歸り知れぬと思ひ、懸硯の二重目な印判持て參りしに、お宿老殿が仰せられしは、此印判は、先月の二十五日に落したとて、町々に貼紙せし其印判が、懸硯にあつたとは呑込まぬ。何分にも九平次に、逢ふて容子を聞かんまま、急いで呼に遣はせと、内へ人橋かかるゆゑ、方々尋ね參りし」
[語り] / と、いへば九平次聲顫はし、
[九] / 「ヤレ行過た出洒張者。おのれにかかり九平次が、最う一分が廢つたり。其印判を失ふたと、いふばつかりで徳兵衞めに預つた二貫目を、とう/\砂に仕おほせたに、内にあつたと知られては、銀を取らるるのみならず、如何も言譯立たぬ事。こりやマア何としたもの」
[語り] / と頭掻ても濟ぬ事。
[九] / 「道々思案して見よ」
[語り] / と、出んとするを久右衞門、腕を取て引戻し、
[久] / 「九平次待れい用がある。遣らぬ/\」
[語り] / とせりかける。九平次恟としたりしが、騒がぬ振にて、
[九] / 「これや久右殿飲つけぬ茶屋酒過ての醉狂か。さもあれ男の利腕を取るは、如何ぞ」
[語り] / と突除くれば、久右衞門聲を上げ、
[久] / 「アヽいふまい/\。樣子は篤と聞拔た。甥を踏だる返報に、此の合口を振舞ん」
[語り] / と、ずばと拔けば二人の者、「やれ狼籍者、人殺し」と聲々に呼はれば、亭主、女房、男共、駈寄て取捲けば、久右衞門聲を沈め、
[久] / 「卒爾召されな各々、全く狼籍者ならず」
[語り] / と、彼處にどうと押直り、
[久] / 「コリヤ兩人の奴輩、久右衞門が暇やるまで、一寸でもにじつたら胴腹ゑぐるぞ」
[語り] / と、睨つけられて二人の者、もじ/\として居たりけり。久右衞門亭主に對ひ、
[久] / 「身共は平野屋久右衞門とて、徳兵衞が親方、誠は叔父と甥との中、商賣方にも精を出し、心ざまもたまかなゆゑ、身共は子とて持ませず、女房が姪と嫁せ後繼せんと相談極め、敷金として二貫目を、はや親里へ遣はせしに、徳兵衞めは此内の初と、兎や角契約の義理が立たぬといふ事か、さし極りし談合を打破りて得心せず。其處も身共が料簡して、若氣は誰しもあるならひ、それ程思ふ中ならば、行々は我思案にて夫婦にせんと心底に、思ふも甥の不便さゆゑ。女房は姪を嫌はれしと、やけ腹立に打當て、二貫目の銀取て來い。戻せ/\とせつかれて、此程在所へ參りしが、二貫目の銀在所から、成程取て歸りしを、陰から聞けば女房へは一錢も戻さぬゆゑ、遣ひ捨たの、げじいたのと、わすらるるのを苦にしてか、今朝町へ出て暮るまで、待てども/\歸らぬゆゑ、面目なさに家出をも、したかと思ふ不便さに、一分立て取らせん爲、女房に隱し、二貫目の銀をば密と懷中し、此處へ來りてお初に逢ひ、咄を聞けば九平次めが、今日生玉にて徳兵衞を、散々に打擲したるよし。はら腸が煮返り、二三度も駈出しを、お初がたつて袖に縋り、兎角に一應徳兵衞に逢せんといはれしゆゑ、うつら/\と小座敷に、ねぶりをとぎに居たりしに、非道は天命、只今彼奴が駈來り、九平次に咄した事、後の證據に各/\も、篤くと聞て居て下され。月次の判形に、懸硯の二重目の印判持て參りしに、お宿老殿が仰せられしは、此印判は、先月二十五日に紛失したといふ判が、内にあるのは訝しいと、人橋かけて呼に來ると、サアおのれ斯うは言はなんだか」
[茂] / 「イヤ/\左樣は言ひませぬ」
[久] / 「ナント實正言はぬか」
[語り] / と、合口を差付れば、
[茂] / 「アヽ成程左樣に言ひました」
[久] / 「それをば聞くと此和郎が、顏色が違ふて、其印判を落したといふたばかりに徳兵衞めに、二貫目といふ銀をまんまと砂にしてのけたと、先づ此樣に吐さぬか」
[語り] / と、合口喉に閃せば、
[茂] / 「はて左樣言ふたにして欲しか、左樣いふにしてやろ」
[語り] / と、そろ/\立て退く處を、久右衞門大聲上げ、
[久] / 「やれ盗人め生掏め。假し二貫目の銀子にて、おのれが身代立たぬなら、成程銀はおのれに遣る。彼のひがいすな小男を、おのれが大きなくはびらで、能ふも/\踏居たな。殊に所も所柄、彼の生玉のでんどにて、額に毛拔も當る身が、頬恥掻て何んとして、人中へは出られぬ筈。戻らぬこそ道理なれ。自害をしたか、淵川へ身を投たには極つた。命の敵金の仇。憎いとも無念ともおのれが頭のぎり/\から、爪先まで斬刻んでも、是が腹が癒るものか」
[語り] / と、掴付き掻しやなぐり、撲ど叩けど世の中の、理に勝つ力あらざれば、兎角うも言はず九平次は、うぢ/\してこそ居たりけれ。亭主は見兼ね立寄て、
[亭主] / 「成程お前の御尤。併ながら、徳樣のお聲を最前聞ました。お初も此處へ出ぬからは、未だ御座るに極た。御機嫌直しに呼ませ」
[語り] / と、小座敷、奥の間、彼處、此處、尋ねても居ず。二階から下女の玉は走下り、
[玉] / 「お二人とも見えませぬ。お初樣の寢所に書た物が御座した。これを見たまへ」
[語り] / と差出せば、亭主取上げ
[亭主] / 「南無三寶、二人の者が書置じや、もはや心中に出たものぞ。やれ男ども、女ども、手別をして追蒐よ。未だ其處らには居ぬ事か。ふところ探せ棚探せ。探せ/\」
[語り] / と聲々に、騒ぎ惑へば久右衞門、九平次を引捕へ、
[久] / 「徳兵衞が敵、おのれをば代官殿へ連て行き、只今思ひ知らすべし。それともに先づ各々は、片時も早く駈付て、最後を留て給はれ」
[語り] / と、頼む身よりも頼まるる、此方は大事の奉公人、殺すといふは正眞の、生た金をば盗人に、甥御恨めしつれなしと、互ひに泣いつ泣惑ひ、其方彼方へ走行く、哀れさ辛さ淺ましさ。後に燵火の石の火の、命の末こそ三重短かけれ。
道行血死期の霜
[語り] / 此世の名殘夜も名殘、死に行く身を譬ふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消て行く、夢の夢こそ哀れなれ。
[徳] / あれ數ふれば曉の、七ツの時が六ツ鳴りて、殘る一ツが今生の、鐘の響きの聞納め、
[初] / 寂滅爲樂と響くなり。
[語り] / 鐘ばかりかは草も木も、空も名殘と瞰上れば、雲心なき水の面、北斗は冴て影映る、星の妹脊の天の川、
[徳] / 梅田の橋を鵲の橋と契りて何時までも、我と和女は夫婦星、
[初] / 必ず添ふ
[語り] / と縋寄り、二人が中に降る涙、河の水嵩も増るべし。向ふの二階は何屋とも、覺束情最中にて、未だ寢ぬ火影聲高く、今茲の心中善惡の言の葉草や繁るらん。聞くに心も呉織、
[徳] / 綾なや昨日今日までも、餘所に言ひしが明日よりは、我も噂の數に入り、世に謡はれん謠はれん。謠はば謠へ、
[語り] / 謠ふを聞けば、「どうで女房にや持やさんすまい。いらぬものじやと思へども、實に思へども歎けども、身も世も思ふ儘ならず。何時を今日とて今日が日まで、心の舒し夜半もなく、思はぬ色に苦しみに、如何した事の縁じややら。忘るる暇はないわいな。それに振捨て行ふとは、遣やしませぬぞ手にかけて、殺して置て行んせな。放ちはやらじと泣ければ」
[初] / 「唄も多きに彼の唄を、時こそあれ今宵しも、
[徳] / 謠ふは誰そや聞くは我。
[二人] / 過にし人も我々も、一ツ思ひ」
[語り] / と縋付き、聲も惜まず泣居たり。平常は左もあれ此夜半は、せめて暫は長からで、心も夏の夜のならひ、命追ゆる鶏の聲。
[徳] / 明なばうしや天神の、森で死ん
[語り] / と手を引て、梅田堤の小夜鴉、
[徳] / 明日は我身を餌食ぞや。
[初] / 「誠に今歳は此方樣も、二十五歳の厄の年、妾も十九の厄年とて、思ひ合ふたる厄祟り、縁の深さの驗しかや。神や佛にかけ置きし、現世の願を今此處で、未來へ囘向し後の世も、猶しも一ツ蓮ぞや」
[語り] / と、爪繰る珠數の百八に、涙の玉の數添て、盡せぬ哀れ盡る道、心も空も影暗く、風しん/\たる曽根崎の、森にぞ辿り着にける。彼處にか此處にかと、拂へば草に散る露の、我より先にまづ消て、定めなき世は稻妻か、それかあらぬか。
[初] / 「アヽ怖、今のは何といふものやらん」
[徳] / 「ヲヽあれこそは人魂よ、今宵死するは、我のみとこそ思ひしに、先立つ人もありしよな。誰にもせよ、死出の山の伴ひぞや。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」の聲の中、「あはれ悲しや、又こそ魂の世を去りしは。南無阿彌陀佛」
[語り] / と稱ふれば、女は愚に涙ぐみ、
[初] / 「今宵は人の死ぬる夜かや。淺ましさよ」
[語り] / と涙ぐむ。男涙を潸然と流し、
[徳] / 「二ツ連飛ぶ人魂を、餘所の上と思ふかや。正しう御身と我魂よ」
[初] / 「なに喃ふ二人の魂とや。はや我々は死したる身か」
[徳] / 「ヲヽ常ならば、結びとめん繋ぎとめんと歎かまし。今は最期を急ぐ身の、魂の所在を一所に栖まん。道を迷ふな違ふな」
[語り] / と、抱き寄せ肌を寄せ、かつぱと伏て泣居たる、二人の心不便なる。涙の糸の結び松、椶櫚の一樹の相生を、連理の契に擬へ、露の憂身の置處、
[徳] / 「サア此處に極めん」
[語り] / と、上着の帯を徳兵衞も、初も涙の染小袖、脱で懸たる椶櫚の葉の、其玉箒今ぞ實に、浮世の塵を掃ふらん。初は袖より剃刀出し、
[初] / 「若も道にて追手のかかり、割れ/\になるとても、浮名は棄じと心懸け、剃刀用意いたせしが、望みの通り一所で死ぬる此嬉しさ」
[語り] / といひければ、
[徳] / 「ヲヽ神妙頼母し。左程に心落付くからは、最期も案ずる事はなし。さりながら今際の時の苦患にて、死姿見苦しといはれんも口惜し。此二本の連理の木に身體をきつと結ひつけ、潔う死ぬまいか。世に類なき死樣の手本とならん」
[初] / 「如何にも」
[語り] / と、淺ましや淺黄染、かかれとてやは抱え帯、兩方へ引張て、剃刀取てサラ/\と、
[初] / 帯は裂けても主樣と、妾が間はよもさけじ
[語り] / と、どうど座を組み二重三重、動がぬ樣に慥と締め、
[徳] / 「能ふ締つたか」
[初] / 「ヲヲ締ました」
[語り] / と、女は夫の姿を見、男は女の體を見て、
[二人] / 「這は情なき身の果ぞや」
[語り] / と、わつと泣入るばかりなり。
[徳] / 「アヽ歎じ」
[語り] / と、徳兵衞顏振上て手を合せ、
[徳] / 「我幼少にて誠の父母に離れ、叔父といひ親方の苦勞となりて人となり、恩を送らず此儘に、亡き跡までも兎や角と、御難儀かけん勿體なや。罪を許して下されかし、冥土に在す父母には、追付御目にかかるべし。迎へ玉へ」
[語り] / と泣ければ、お初も同じく手を合せ、
[初] / 「此方樣は羨しや、冥土の親御に逢んとある。妾が父樣母樣は、健で此世の人なれば、何時逢ふ事のあるべきぞ。便は此春聞たれども、逢たは去年の初秋の、初が心中取沙汰の、明日は在所へ聞えなば、幾許かは歎きをかけん。親達へも兄弟へも、是から此世の暇乞。せめて心が通じなば、夢にも見えてくれよかし。懷しの母さまや。名殘惜の父樣や」
[語り] / と、しやくり上げ/\、聲も惜まず泣きければ、夫もわつと叫び入り、流涕憧るる心意氣、ことわりせめて哀れなれ。
[初] / 「何時まで言ふて詮もなし。はや/\殺して/\」
[語り] / と、最後を急げば
[徳] / 「心得たり」
[語り] / と、脇差するりと拔放し、
[徳] / 「サア只今ぞ。南無阿彌陀々々々々々」
[語り] / と、いへども有繋此年月、愛し可愛と締て寢し、肌に刃あてられふかと、眼も暗み手も顫ひ、弱る心を引直し、取直しても猶顫ひ、突くとはすれど切先は、彼方へ外れ此方へ反れ、二三度閃く劍の刃、「あつ」とばかりに喉笛に、ぐつと通るか、
[徳] / 南無阿彌陀、南無阿彌陀、南無阿彌陀佛
[語り] / とくり通し、繰通す腕先も、弱るを見れば兩手を伸べ、斷末魔の四苦八苦、哀れといふも餘りあり。
[徳] / 「我とても後れうか。息は一度に引取らん」
[語り] / と、剃刀取つて喉咽に突立、柄も折れよ刃も碎けと、えぐりくり/\目も眩めき、苦しむ息も曉の、知死期につれて絶果たり。誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え、取傳へ、貴賤群集の回向の種、未來成佛疑ひなき戀の、手本となりにけり。 
 
曽根崎心中4

近松のリアリズム
吉之助は近松の心中ものを「ロマンチックなもの」として見ることができません。こう思うようになったきっかけは、「心中天網島」の心中場面で治兵衛が首をくくる箇所で「生瓢(なりひさご)、風に揺らるるごとくにて」という文句を読んだ時でした。この表現には思わず背筋が寒くなってしまいました。木にぶら下がった治兵衛の身体がゆらゆらと揺れている情景を近松はこう表現したのです。残酷なほどに対象を突き放したリアリズムです。
心中の場面の近松の表現はじつにリアルで凄惨を極めます。たとえば、「曽根崎心中」のお初・徳兵衛の心中場面では、『眼(まなこ)もくらみ、手を震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震い、突くとはすれど、切っ先はあなたへはずれ、こなたへそれ、二・三度きらめく剣の刃、あっとばかりに喉笛に、ぐっと通るが、南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀と、刳り越し、刳り越す腕先も、弱るを見れば、両手を伸べ、断末魔の四苦八苦、あはれと言うもあまりあり』
また「心中天網島」の小春・治兵衛の心中場面では、『七転八倒、こはいかに、切っ先喉の笛をはずれ、死にもやらざる最後の業苦。ともに乱れて、くるしみの、気を取り直して引き寄せて、鍔元まで刺し通したる一刀(ひとかたな)えぐる苦しき暁の、見果てぬ夢と消え果てたり。』と書いています。こうしたリアルな凄惨な描写の果てに「心中」があるということを知ると、 吉之助は近松の心中ものが「ロマンチックなもの」とは決して思えないのです。
こうした地獄の苦しみを経ないと、「未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」(「曽根崎心中」末尾)・「成仏徳脱の誓いの網島心中と、目ごとに涙をかけにける」(「心中天網島」末尾)という至福の結末が二人に来ることはないのでしょう。「その覚悟がないならば、心中などするでない」と近松は言っているように思 います。現代での歌舞伎の舞台のように、目を閉じて手を合わせたお初に徳兵衛が脇差を構えたところで幕が下りるのでは、ホントは近松の本意は伝わらないのかも知れません。
お初観音廻りの意味
「曽根崎心中」は近松の世話浄瑠璃の第1作目でありました。江戸時代の世話物というのは時代物のあとの第二部として上演されるのが通例でした。この「曽根崎心中」も初演(元禄16年:1703:竹本座)では、本作に先立って時代浄瑠璃の「日本王代記」が上演されています。「曽根崎心中」では冒頭にお初観音廻りが設定されていますが、これはひとつには、時代物から世話物への移行に際して、気分を変えるための間狂言の意味があったと言われています。近松はここで当時の大坂の町人に流行していた観音廻りの習俗を取り入れて、観客の関心を引いています。
ひとりの美しい女が駕籠から出てきて、大坂三十三箇所の観音廻りをします。女の名は明らかではありませんが、歌詞には「十八・九なるかおよ花」で、つまり年頃18・9歳の美人(かおよ)だと言っており、「今咲き出しのはつ花に」で、「お初」の名前を掛けています。三十三番の観音札所を巡礼すると、その罪は消えてしまうといわれています。女はまず天満の大融寺を皮切りにして、三十三の札所を巡っていきます。「観音さまは衆生を救おうと、三十三のお姿に身を変えて、人々を色で導き、情けで教え、恋を悟りの橋にしてあの世へ掛けて渡してくだされる、その誓いは言いようもなく有り難い。」
観音廻りは、現在の舞台では歌舞伎でも文楽でも上演されることがありません。それにはいろいろ理由がありますが、ひとつには作品として見た場合にこの部分がちょっと異質に感じられるからで す。これは芝居ではなく、かといって景事という感じでもなく、ほとんど独立した神事といった感じです。後の場への関連性を感じさせませんし、舞台に掛けるにはやりにくいのでしょう。
しかし、世話浄瑠璃のジャンルを切り拓いたと言われる「曽根崎心中」にとって導入部の観音廻りは非常に重要な意味があったと思います。これはベートーヴェンが交響曲(第9番)に声楽を取り入れる最初の試みに当たって、第4楽章でバリトン歌手が「ああ、友よ、そんな調べでは駄目なのだ、声を合わせてもっと楽しく歌おうではないか」という第一声を発するまでに、それが聴衆に必然と感じさせるための論理的手続きを念入りに構築したのと同じような意味を感じます。ほんらいは純器楽であるはずの交響曲のジャンルに人声を取り入れるという「革命」を行なうには、それなりの必然が必要なのです。
観音廻りにおいて、近松はお初の魂を呼び出し、三十三の観音札所を巡らせるなかで、世俗の垢・煩悩を洗い落とし、その魂を浄化して神々しいお姿に変化させていきます。そして観音廻りの最後で近松はお初に役割を与えるのです。近松は、お初のことを「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」だと言っています。これは「曽根崎心中」の結句「未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」と照応しています。
この観音廻りは、何よりもまず、当時の観客である大坂の人々のために必要な手続きであったと思います。お初・徳兵衛の心中は元禄16年4月7日曽根崎天神の森でのことで、近松の浄瑠璃は同じ年の5月7日が初演でしたから1ヶ月しか立っていません。まだまだ事件は生々しい記憶で人々の心のなかに残ってい ました。いろんな噂が飛び交っていたかも知れません。二人の心中に対するイメージも固定していたとは思えません。そうした大坂の観客のほてった心を冷まして、「澄んだ心でお初・徳兵衛の生き様を見て欲しい」と近松が願ったとしたら、やはりこうした手続きが舞台で必要ではなかったかと思うのです。
事件の後に、それを即席で劇化することは浄瑠璃でも歌舞伎でもよく行なわれました。それらは「際物(きわもの)」と呼ばれました。しかし、そこは天下の近松門左衛門です。三文新聞的な下世話な興味と趣向だけで安易に事件を扱うことなど近松は考えません。そのドラマに人間の真実を抉り出すような「生き様」が見出されないのなら、近松はその事件を浄瑠璃の題材に選ぶことは決してしなかったでしょう。
ところがこういう際物を見る時には、観客の方もある種の期待と先入観を以って芝居を見ようとしがちなものです。その対策のために近松が考えた仕掛けこそ観音廻りで あったと思います。ここで近松は神事を借りて、あの世にあるお初の魂を呼び出し舞台上に現し、お初の役割を「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」と明確に規定しています。これによ りこの後のドラマの展開をスムーズにしようと試みているのです。「曽根崎心中」のドラマとは、お初が自らを「恋の手本」に昇華せしめた、その生き様を舞台に再現しようとするものです。
このような試みは、近松がこの作品を一気に書き上げたのにもかかわらず(舞台稽古の必要性も考えれば、構想から執筆までほとんど1週間位で書き上げたとしか思えません)、実に用意周到・準備万端といった感じがします。これは驚くべきことで す。「曽根崎心中」は、歌舞伎作家として名をなしていた近松が浄瑠璃に復帰第1作でした。逆に言えば、失敗が許されない状況で近松が仕掛けたのが観音廻りの趣向であったということ す。(近松の浄瑠璃との係りについては別稿「近松門左衛門:浄瑠璃への移籍」をお読みください。)
ここにおいて、後世の人々において観音廻りの存在の意味がなかなか理解されず、上演もされない理由も明らかだと思います。観音廻りというのは同時代の人々(元禄の大坂町民)のためだけに書かれたものだからです。観音廻りによって浄化されるのはお初の魂だけではありません。当時の大坂の観客たちの心もまた浄化されたのだと思います。
こうして近松の心中場面のリアリズム・観音廻りの意味を考えてみると、近松が「曽根崎心中」で描き出こうとしたものが見えてきます。そこで近松が描こうとしたものは、死への賛美などではなく、ひたすらに・懸命に生きようとするお初の生への意欲なのです。
敵役の存在
「曽根崎心中」で理解しがたいのは、お初・徳兵衛を心中の原因を作った敵役九平次の存在です。九平次は徳兵衛の友人ですが、いくら徳兵衛がお人よしでも銀二貫目という大金を貸したほどの友人ですから、それなりに気の合った付き合いをした仲だったのだろうと思います。ところが九平次は何ゆえに徳兵衛に対してこれほどの悪意をもって恩を仇で返すのか ・徳兵衛に何の遺恨があるのかがどうしても理解できません。
現代の観客は主人公を破滅に導く悪役にもやはりそれなりの必然(動機・理由)を求めたくなるものです。もし九平次に徳兵衛を嫌う正当な理由が見出せないなら、九平次はやはり相当な悪意ある人物・性根の悪い人物としか思われません。そこのところが近松の「曽根崎心中」では理解しにくて、作品の欠陥のようにも見えます。それなら ば逆に九平次の敵役の性格をもっと強調して、お初・徳兵衛をいたぶり・追い込んでいけば、ふたりが心中にひた走る哀れさが一層増すというものです。そういう訳で「曽根崎心中」は原作通りに上演されずに、もっぱら改訂版で上演されていくことになります。
正徳5年(1715)、お初・徳兵衛十三回忌に豊竹座で上演された「曽根崎心中十三回忌」(紀海音の改訂による)では、「天満屋」の最後(お初・徳兵衛が逃げ出した後)で、徳兵衛の伯父平野屋久右衛門が登場し、九平次が徳兵衛を陥れた偽せ判を暴き、徳兵衛の無実を明らかにするという改訂がされました。この改訂では、九平次はある意図をもって徳兵衛を陥れた悪い奴であったということになります。現在上演される宇野信夫脚本の「曽根崎心中」でもこの改訂は取り入れられています。
こうなるとお初・徳兵衛は無実の罪に陥れられたわけで、「ホントは死ななくてもいいのに・心中に追い込まれてしまった」ということになります。こうすれば確かに可哀相な話にはな りますが、なんだかお初・徳兵衛の心中が被害者的・逃避的に見えてきて、吉之助はこの改訂はどこか釈然としないのです。筋は分かりやすくなったかも知れないが、着想が平凡 なのです。本「歌舞伎素人講釈」では、お初・徳兵衛の心中は、「彼らが生きようとして、最後まで生きようとして、彼らの生の意味(アイデンティティー)を追求したところで起きたもの」だと考えたいと思います。彼らの心中は「追い込まれた」のではなく ・自ら「突き進んだ」ものなのです。
だとすればここで改めて、お初・徳兵衛の心中の原因を作った九平次のことを考えなくてはなりません。九平次がお初・徳兵衛を嫌ってあのような行為をしたとすれば、その理由にこそ「曽根崎心中」を解く鍵があると考えなければなりません。
九平次の気持ち
徳兵衛は醤油屋の手代ですが、店の主人とは叔父・甥の関係です。その主人は徳兵衛に目をかけて妻の姪と結婚させて商売をさせようと言って来ますが、徳兵衛はすでに天満屋のお初という遊女と馴れ合っており、この話を断ってしまいます。主人は怒って、結婚を前堤にして徳兵衛の義母に用立てた銀二貫目を期限までに返すように要求し、「それが出来なければ大坂の地は踏ませぬ」とまで言います。
当時の大坂の商家で奉公する番頭・手代にとって、主人の娘(この場合は姪ですが)と結婚してその店を引き継ぐというのは願ってもない最高の夢でした。商家にとっても生まれる子供は女の子の方が喜ばれました。出来のいい息子を育てるよりも、奉公人の中から出来のいいのを選んで娘と結婚させて後継ぎにする方が家を存続させる確実性は高くなるからです。徳兵衛は醤油屋の後継ぎとして見込まれていたわけで、この大坂で商売をする人間の最高の夢を、たかが遊女風情のために捨てた「馬鹿な男・愚かな男」というのが一般の大坂人の目から見た徳兵衛のイメージだということです。九平次はこの大坂人の目を代表していると考えるべきでしょう。
九平次の素性は作品では明らかではありません。徳兵衛の遊び友達なことは確かですが、九平次はつかみ合いの喧嘩になった時に徳兵衛に「ヤアしやらな丁稚あがりめ、投げてくれん」と言ってますから、おそらくはどこかの 大店のボンボンでしょう。将来の商売仲間だと思って付き合っていた徳兵衛が、遊女との純愛を貫くなどという「馬鹿なこと」を始めた時から九平次の友情は軽蔑に変わったということで す。「お前らの仲間にはならないよ」と言われたのと同然であるからです。いくら徳兵衛がお初を真剣に愛していたとしても、九平次から見れば所詮は「売り物・買い物」の遊女であり、お初は徳兵衛に金でなびいている女だとしか九平次は思っていません。九平次には、こんな女に道を誤った徳兵衛が自分たち「大坂商人」を否定して・踏みにじった存在にさえ見えたかも知れません。
徳兵衛はちょうど「義理と人情の世界から足を洗おうとして仲間から誅される」のと同じような罰を九平次から受けたということです。「大坂商人の世界」はそんなに甘いものじゃなかったのです。徳兵衛は期限までに銀二貫目を主人に返さなければ店を追い出されることになり、さらに九平次に偽印を使ったと言われて、商道徳を踏みにじってはもはや大坂に居ることはできません。
「生玉社の場」の冒頭で、近松は徳兵衛に自身の置かれた状況をかなり詳細に説明させています。これだけ説明すれば、当時の観客には徳兵衛が破滅寸前であることは明白であった と思います。九平次の徳兵衛いじめの動機をわざわざ説明しなくても、大坂商人の感覚からすれば徳兵衛が「軽蔑すべき人間」であったことは明らかなのです。
お初の気持ち
もちろん、徳兵衛をそういう社会の義理にあえて背を向けて「人間としての真実・お初への愛」を貫いた人間と見ることも可能ですが、そういう見方はやはり後世の見方かも知れません。徳兵衛はかなり情けない男に描かれています。しかしお初は違います。「曽根崎心中」でのお初は、金で身を売る遊女であるにもかかわらず、まことの心で徳兵衛をとことん愛し抜く女に描かれています。その情熱は熱く、観客の心を揺さぶります。
楼主にしてみると遊女は「商品」ですから、遊女が客に入れ込むのは厳重に警戒したものでした。遊女は商売ですから誰にでも惚れたふりはするものですが、客に本気で惚れてはならなかったのです。ところがお初は本気で徳兵衛に惚れています。さらに自分が遊女である境遇に反発していると思いますが、お初は自分もまたひとりの人間であり、ひとりの女性であることを本気で主張しようとしています。当時にしてみれば、これは「とんでもないこと」なのですが、この熱い気持ちが観客の気持ちを揺さぶるのです。なぜかいうと、これは当時の時代的気質というべき「かぶき的心情」に訴えるところがあるからです。
「天満屋」で九平次は徳兵衛の悪口を言いまくりますが、お初は涙にくれながら、縁の下にいる徳兵衛に独り言になぞらえながら、「さのみ利根(りこん)に言はぬもの。徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」と徳兵衛に決心を即します。
そして徳兵衛の覚悟を知ると、「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫びます。これには九平次も思わずギョッとしますが、この前後の近松のお初の描写は鬼気迫るというか、実に迫力があって、九平次でなくても鳥肌が立つような感じがします。
お初の主張は「こうなった以上、徳兵衛は自分の身の潔白を示すために死んで見せねばならぬ」ということにあります。こうしなければ大阪商人徳兵衛が徳兵衛であることの証はたてられない、その証を立てるために死ぬのだということです。これは「自己のアイデンティティー」の主張であり、まさに「かぶき的心情」から発せられた科白なのです。かなり直情的ではありますが、それがまさに「かぶき的心情」の現れ方なのです。そして感情的ではあるがそれなりの理性もあって、そこでは社会と個人の関係がしっかりと見据えられていて、自分の確かな位置(評価)を主張します。そのために「死ぬ」というのです。しかも、その科白が「遊女風情」から発せられているのですから、当時の観客が受けたその衝撃はかなりのものであったと推測されるのです。だからこそ「曽根崎心中」はあれほどのヒットになったのに違いありません。
お初のこうした心情の背後には、自分が遊女であり「売り物・買い物」と見られることへの不満がかなりあると思われます。そこに現れたのが徳兵衛という男で、徳兵衛はお初を遊女としてではなくひとりの女性として対等に見てくれる男であった 。この意識がお初を徳兵衛と一心同体にさせています。「天満屋」でのお初は本気で怒り、徳兵衛に対して「あなたは怒るべきだ、受けた恥をすすぐには死ぬしかない」と主張します。しかし、徳兵衛と自分を同一視しながら、お初は「この男を愛した私」という自己のアイデンティティーの主張をしているのです。だからこそお初の主張は熱く、観客を感動させるのです。
お初の主張が無くとも徳兵衛は死ぬことになったと思います。しかしそれは情けない死に方になったことでしょう。お初が「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫んだ時に、お初・徳兵衛の心中は「自己のアイデンティティー」の主張であるにもかかわらず、ただの個人的行為ではなくはっきりと「メッセージ」を持った行為として大阪の観客の目に写ったのです。だからこそお初は「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」なのです。この感動こそ社会を巻き込んだ「心中ブーム」の根源であり、また江戸幕府に心中を危険視させた理由なのです。
花道での引っ込み
宇野信夫脚色の「曽根崎心中」は昭和28年8月新橋演舞場で、二代目鴈治郎の徳兵衛、二代目扇雀(現三代目鴈治郎)のお初で初演されました。現在上演される「曽根崎心中」はこの宇野版の脚本に拠ります。その初日のこと、「天満屋」でお初が「死ぬる覚悟が聞きたい」で、お初は他人に分からぬように縁の下へ右足を差し出します。 竹本の「独り言になぞらえて、足で問えば、(徳兵衛は)うちうなづき足首取って喉笛なで、自害するとぞ知らせける」で、徳兵衛がお初の右足を自分の喉笛に当てる場面では客席は興奮の渦であった そうです。
「天満屋」をふたりで抜け出す緊迫した場面では、客席の前の方から「早く、早く・・」と声が掛かり、「命の末こそ短かけれ」でようやくふたりは舞台に飛び出しますが、客席はハンカチを目に当てている人ばかりで、初日の熱気に演じる方が当てられてしまって、思わずお初が徳兵衛の手を引っ張って花道を引っ込んでしまったと二代目鴈治郎が回想しています。心中ものでは男が女の手を取って花道を引っ込むのが普通ですが、思わぬハプニングが新鮮な感動を呼んで、以後の本作ではお初が徳兵衛の手を引いて花道を引っ込むのが型になってしまったそうです。(二代目鴈治郎:「役者馬鹿」より)
お初が徳兵衛の手を引っ張って逃げる型は初日のハプニングから出たものだったと鴈治郎は言っていますが、この型は役になりきった鴈治郎と扇雀が感覚で探り当てた真実だと思います。他の心中ものはいざ知らず、この「曽根崎心中」の場合にはやはりお初が徳兵衛を引っ張って花道を入る方が作品解釈として「正しい」と思わざるを得ません。この心中は確かにお初の「かぶき的心情」が原動力になっているからです。
しかしこれは徳兵衛が、お初にあおられて・お初にひっぱられるままに心中に向ったということではありません。お初が「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫んだ時、徳兵衛はお初に心意気に触発されて、心のどこかに火が付いた・何かに目覚めたということ だと思います。徳兵衛はお初に「男」にしてもらったということだと思います。もちろん徳兵衛が「男」でなければ「心中」にはなりません。そのことが次の「道行」で明らかになります。
神事としての道行
『西洋では、こんな芝居は絶対にありません。(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)
通常の道行というのは、長い芝居のなかの「つなぎ」であったり気分転換だったりします。お初・徳兵衛の心象風景を、近松は独特の文章で見事に描写しています。しかし、「曽根崎心中」の道行はちょっと独特で、冒頭の「観音廻り」と照応しているようなところがあります。つまり、一種の神事なのです。「観音廻り」であの世からこの世に再び呼び出されたお初は、ここで少しづつ姿を質的に変化させていって、またあの世に戻る準備をこの「道行」でしているように思われます。
キーン氏はこのことを『道行でお初・徳兵衛は歩きながら背が高くなる』とズバリと指摘しています。ここでのふたりは、世間に対する見栄・憤り・義理・あるいは未練というものから解き放たれて、ふたりだけの自我の世界へ没入していきます。これから死に向う二人には、それまでの見慣れた風景さえもはやあの世から眺めているように異なった風景に見えています。近松の名文が観客の気持ちをふたりだけの世界にクローズアップさせていきます。そして、相対的に観客の心のなかでふたりの大きさが大きくなっていくのです。ここでの徳兵衛はもはや醤油屋のみじめったらしい手代ではありません。徳兵衛はお初にとってだけでなく、観客にとっても、この世界の唯一の男性になるのです。
「かぶき的心情」とは「自己のアイデンティテイーの主張」・「自我の主張」であることを、本サイト「歌舞伎素人講釈」で考えてきました。「曽根崎心中」の道行でのお初・徳兵衛の場合は、「自己のアイデンティテイー」がそれなりに実感され、そこにある種の充足感が見られます。死への恐怖は確かにあるけれども、その先にある至福がふたりにはっきりと見えています。この段階においては、世間・社会はふたりのなかにもはや意識はされていません。ここに当時の時代的気質であった「かぶき的心情」のもっとも美しい形での実現が見られます。だから当時の観客は「曽根崎心中」に熱狂したのだと思います。
心中場での徳兵衛
「曽根崎天神の森」に着いたふたりに、どこからか二つの人魂が飛んでいくのが見えます。お初は「今宵は人の死ぬ夜なのか、嘆かわしいこと」と泣くと、徳兵衛ははらはらと涙を流し、「あの二つの人魂を他人の身の上と思うのか、あれはお前と私の魂なのだよ」と言います。「それではもはや我々は死んだ身なのか」とお初は驚きますが、ここでの徳兵衛は死の覚悟を決めて男らしく冷静です。
「オオ常ならば結びとめ、繋ぎとめんと嘆かまし。今は最後を急ぐ身の、魂のありかを一つに住まん。道を迷うな・違うなと・抱き寄せ、肌を寄せ、かっぱと伏して泣きいたる」
「天神の森」での徳兵衛はそれまでのみじめで、他人に振り回されて決断力のない徳兵衛の姿ではありません。お初も「天満屋」とは違っていて、この場ではこの世への未練をもって泣くばかりで受動的です。心中場ではお初と徳兵衛との関係は逆転しているのです。ここでの徳兵衛は包容力がある男で、死の恐怖におびえるお初をやさしく抱きしめます。しかし、徳兵衛をこのように大きくしたのはお初であるということは意識しておかねばなりません。
近松の心中場での「残酷なほどのリアリズム」については、すでに別稿「曽根崎心中:観音廻りの意味」において触れました。近松はふたりの心中をけっして美化はしていません。もちろん、否定もしていません。しかし、近松は「その瞬間においてお初・徳兵衛は最高に生きた」ということは認めていると思います。このことは「かぶき的心情」においてこの芝居を読むことで明らかになると思います。だからこそ当時の観客はこの芝居に熱狂したのです。
今回、「曽根崎心中」を読み直して、近松が実に入念にこの作品の構成を仕掛けていることに改めて思い至りました。実在のお初・徳兵衛が曽根崎の森に心中してから、近松がこの作品を世に問うのに1ヶ月しか掛かっていません。近松はここに観音廻りと道行という「仕掛け」を入れて、まだ心中のイメージの固まっていない観客を自然な形で誘導していきます。突貫工事で書いたこの作品がごく自然に・当たり前のようにこのような緊密な構成を持っていることに、近松の天才を感じずにはいられません。
ふたつの事件
大坂北の曽根崎天神の森で醤油屋・平野屋の手代徳兵衛・25歳、堂島新地天満屋の遊女お初・21歳(19歳との説もあり)が心中したのは、今から300年前の元禄16年(1703)4月7日のことでした。この心中を題材にして近松門左衛門が即浄瑠璃に仕立てたのが「曽根崎心中」です。この浄瑠璃は翌月に竹本座で上演されて大評判となりました。
ところで、この直前に江戸において世間を騒がす大事件が起きたことはご承知の通りです。それは元禄15年12月14日に起きた赤穂浪士・大石内蔵助以下46名の吉良邸討ち入り事件です。この事件を世間は「義挙」と見なして熱狂し、幕府が赤穂浪士たちにどういう処分を下すかは注目の的だったのですが、さんざんの議論の末に幕府はついに「切腹」の処分を下しました。大石内蔵助らの切腹が行なわれたのは、翌年・元禄16年2月4日のことでした。
「曽根崎心中」(元禄16年・1703)と「仮名手本忠臣蔵」(寛延元年・1748)との間には45年の歳月の隔たりがあるので、そのふたつの事件がほとんど同時期のものであったことなどうっかり忘れてしまいそうです。しかし 、フッとこういうことを考えました。江戸と上方ではタイムラグもあったであろうが、実在のお初・徳兵衛のふたりが、あれほどに世間を騒がせた赤穂浪士の討ち入り事件を耳にしなかったはずはないであろう、もちろん2月4日に赤穂浪士の切腹が行なわれたことも大坂の町人たちの間で大変な話題になっていたであろうということです。お初・徳兵衛は赤穂浪士のことを知っていたであろう。だとすれば、お初・徳兵衛が4月7日に心中を決行する過程において、赤穂浪士の事件・特に切腹の報道が、彼ら(と 言うより本当は作者・近松門左衛門と言うべきかも知れませんが)の決意に重大な影響を与えたのではないのかという想像です。
これは吉之助の想像に過ぎません。赤穂浪士の切腹がお初・徳兵衛の心中の引き金であったということは、文献的にまったく根拠がありません。ただし、世間が赤穂義士の切腹の話題で沸き返っている最中の心中事件、そしてその翌月に上演された「際物」(つまり近松の「曽根崎心中」のことですが)の大ヒットということを考えると、ふたつの事件は案外と近い精神構造から発したものではないのかという気がしてくるわけです。この 想像は実説と脚色を混同しているという批判を受けそうですが、その通り、「混同している」ところでこの想像は成立していますので、そこのところをご承知のうえでお付き合いいただきたい。
別稿「かぶき的心情とは何か」において、仇討ち・殉死・心中が江戸時代前期の特徴的な気質「かぶき的心情」から発するものであることを考えました。また、その視点から近松門左衛門から竹田出雲・近松半二の作品群を読んでみることもしてきました。そこに見えるのは主人公たちの「個の主張・アイデンティテーの主張」です。その主張は個人の社会との関りのなかで・社会をはっきりと意識して発せられているということです。 そして大事なことはその主張は「社会批判」なのではなくて、社会のなかでの「自分の確かな位置を主張する」ものとしてあるということです。その主張が「死す」というような極端な形で突発的に現れるのが、かぶき的心情なのです。
こういう感情は時代を共有していない者にはなかなか理解・共感がしにくいものです。だから、彼らの「死す」という行為を、社会への反発・あるいは社会からの逃避としか捉えられない。だから、その芝居の感動の源泉を時代を超えた共通の感情である(と信ずるところの)・男女の愛・親子の情に求めないとどうにも安心できないということになるのです。そうした見方が間違いだというのでもありませんが、それは近代自我的・あるいは唯物史観的な切り口であって一面的であるように思います。そうした見方はある意味で時代に縛られていて、作品の本質を突くものとは言いがたいという気がしています。
そのために不肖「歌舞伎素人講釈」では、「状況において個人は自分が自分であることをどう貫くか・自分であり続けるためにどう行動すべきなのか」という視点で作品を読むということを提唱しております。こうすることで古典は時代・社会の制約を超えてその意義を主張できると考えています。このことは「歌舞伎素人講釈」をお読みの方にはご理解いただけているものと思います。
「曽根崎心中」をかぶき的心情で読むことは、別稿「色で導き情けで教え」で考察しましたので、そちらをご参照ください。ここでは、お初・徳兵衛の「死す」というイメージに絞って考えてみたいと思います。
赤穂浪士の切腹
大石内蔵助以下46名の赤穂浪士は、宿願の吉良上野介の首をあげた後、芝・泉岳寺の亡君・浅野内匠頭の墓前にその首を供えました。そこで亡君の墓前で全員が腹を切るという手もあったわけですが、内蔵助は吉田忠左衛門・富森助右衛門の両名を大目付・仙石伯耆守の屋敷へ派遣し、事の次第を幕府に報告させたのです。ここのところが内蔵助の真に凄いところだと思います。「俺たちをどう処分するか見せてみよ」と内蔵助は幕府に挑戦状を叩き付けたのです。
はたして赤穂浪士の処分をめぐって幕府は紛糾することになります。「徒党を組んで江戸城下を騒がせしこと・不届き千万」であり断固として斬罪にすべしとの議論もあり、「亡君の無念を晴らした・あっぱれ忠義の者たちよ」という賞賛の声もあり。大事なことは赤穂浪士の討ち入りが「御政道に対して異議を申し立てる行為」であったことが 誰の目にも明らかであるのに、これを断じれば武士の 徳目である「忠義」が否定されることになってしまう、その一方でこれを許せば「赤穂浪士の忠義」は立つが幕府の面目が立たなくなるというジレンマがあったからなのです。ここでは処分の議論の詳細には触れませんが、結局、幕府は赤穂浪士に「名誉ある武士の切腹」を申し付けることによってこの窮地を逃れ るのです。
先に書いた通り、赤穂浪士たちが討ち入り直後に亡君の墓前で切腹したとしても世間に対する・その衝撃度は計り知れないものがあったと思います。しかし、幕府が「切腹」の処分を下したことで赤穂義士の行為は極度に純粋化せられて・最高に美しいものになったと思います。この「切腹」の処分がなければ、赤穂浪士の討ち入り(「忠臣蔵」)は、これほどまでに日本人の心を捉えるものにはならなかったと断言していいと思います。しかも、その「切腹して死す」という運命を知って赤穂浪士たちの行動を改めて振り返ってみると、その行動は「悲しいほどに無私であって・ひたすらに純粋で美しい」ように感じられます。赤穂浪士の行為は「切腹」という裁断によって「高められた」のです。
細川家に預けられた17名の赤穂浪士たちの言動は「堀内伝右衛門筆記」に記録されています。それによれば富森助右衛門は伝右衛門に次のように語ったということです。
「拙者は、今後のことで斬罪を仰せ付けられるでしょう。どうか所柄(斬罪に処される場所)は良い所でと願っていましたが、いろいろな人の話や世上の評判を聞くと、もしや切腹というような結構なご沙汰が下るのではないか、その時は(細川家の)お屋敷で仰せ付けられるのではないかと期待するようになりました。万一そのようなことがございましたら、17名はそれぞれ宗旨も違うので、寺の坊主や親類などが死骸を拝領したいというような願いもあるかもしれませんが、絶対にお渡しにならないで下さい。泉岳寺のなかの空き地に、17名とともに一穴にお埋め下さるよう、いずれも願っております。この段、お聞き置きください。」
これを見ますと「自分たちは斬罪に処されても仕方ない(討ち入りはそれに値する罪である)」と助右衛門は感じていたということでしょう。もし赤穂浪士たちに「切腹」ではなくて・「斬罪」の処分が下されていたとすれば、「忠臣蔵」はまったく違う様相を呈していたかも知れません。赤穂浪士は世間の同情を受けて、怨霊のシンボルに祭り上げられて、それこそ明確な形で赤穂浪士は「御霊神」にされていたかも知れません。その点で彼らに「切腹」のご沙汰を下した江戸幕府の判断は正しかったのです。赤穂浪士の「忠義」を讃え・しかも幕府の権威は傷つかなかった・損をしたのは吉良方だけ、まったく幕府はうまくやったのです。
町人にとっての「忠」
「心中」という言葉は、その字形から分かる通り、武士が武士たる最高徳目である「忠」の字を分解して上下転倒させたものだと言われています。これは単なるこじつけのように見えますが、そうではありません。享保7年(1722) ・続いて翌年にも幕府は心中禁止令を出しましたが、その条文のなかで「心中」という言葉自体を不当なものとして代わりに「相対死」という言葉を用いています。
享保年間には、それまで大坂周辺で続発していた心中は江戸へも飛び火して流行のようになっていました。八代将軍・徳川吉宗は「忠」を連想させる心中を「もってのほか不届きの言葉なり」と激怒して、心中した者は「人にあらざる所行」・「畜生同断の者なれば」・「死切候者は野外に捨べし、しかも下帯を解かせ丸裸にて捨てる。これ畜生の仕置なりと御定被遊ける」(『名君享保録』)と言ったとも伝えられています。
それほどまでに幕府は「心中」という字面自体を憎んだのです。そして、心中に対して「相対死」という言葉を当てて、そのロマンチックな甘美な響きを消し去ろうとしたのです。これは、武士にとっての「忠」に対して・町人にとっての「忠」が「心中」であると解されていたからであろうと思います。これが幕府にとっては我慢ならなかったのです。
武士にとっての「忠」とは、封建武士の主君に対するものでありました。それでは町人の「忠」とは何に対する「忠」なのでしょうか。「心中天網島」では、「不心中か心中か」とか「あの不心中者なんの死のう」 ・「小春殿に不心中芥子程なけれど」などという詞が出て来ます。このような用語法は誠実あるいは不誠実というに近いものです。つまり、大坂町人にとっての「忠・心中」とは人と人(あるいは社会)に対するものであったと考えられます。これだけで割り切れれば簡単なのですが、ややこしいのは武士にとっての「忠」にも・町人に対する「忠・心中」のいずれの場合にも、その精神の底流に時代気質たる「かぶき的心情」があるからなのです。
お初・徳兵衛の心中を、彼らは愛に対して忠実であった・あるいは自分の心に対して忠実であったと解することもできるかも知れません。ほとんどの「近松世話物・心中論」がそういう視点でなされています。心中は、義理と人情の葛藤のなかで起きるというのです。義理つまり社会の掟は人情つまり男女の恋愛感情と相反し対立するものだからです。だから、自分の心の思うままに・男女の愛を貫こうと思えば彼らは死ぬしかないというわけです。こうなると、お初・徳兵衛は社会のしがらみに耐え切れずに ・いわば逃避的に死ぬわけです。これでは哀れな・悲しいお話かも知れませんが、しかし、「甘美」ではない。
お初・徳兵衛は死ぬことで、「ひたすらに美しく・ひたすらに純粋に」高められ、その死は甘美なものでなければなりません。そのためには、おのれの生き様を社会に誇示し「死んでみしょう」というメッセージがなければならないのです。それが「かぶき的心情」なのです。この時代の「忠」の底には、彼らの強い自己主張が潜んでいるのです。そのためには「死んでもかまわない」、その意味ではその行動に利害関係はなく・ただひたすらに無私なのです。天満屋の場において、縁の下に忍ぶ徳兵衛に向かって叫ぶようなお初の台詞を思い出してください。
『それはそれはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし・頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども・証拠なければ、理も立たず、この上は、徳様も死なねばならぬしななるが、死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず・いつまでも生きていても同じこと・死んで恥をすすがいでは。』
大坂の商売の世界の意地にかける徳兵衛と・この男を愛した私(お初)がここに死んでみしょうというのが「曽根崎心中」のメッセージなのです。これこそが「かぶき的心情」の奥底から発せられた叫びであり、だからこそ大坂町人たちの心を揺り動かしたのです。これは「亡君の無念を晴らし ・忠義の心を貫いた真の武士がここに腹を切るぞ」という赤穂義士の切腹のメッセージとまったく同じなのです。(幕府はそのかぶき的心情の奥底に社会構造を突き崩すものが潜んでいると看破した、だから幕府は心中を 危険視して禁止したのです。別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)
心中の方法にもいろいろあって、たとえば紙屋冶兵衛は首をくくって死にますけれども、近松門左衛門の最初の世話物浄瑠璃である「曽根崎心中」でのお初・徳兵衛は刃物で死にます。このことも重要なことに思えます。曽根崎の森での心中の場面での描写を見てみましょう。
『いとし、かはいと締めて寝し・肌に刃が当てられうかと・眼もくらみ、手も震ひ、突くとはすれど、切先は・あなたへはずれ・こなたへそれ・二、三度ひらめく剣の刃・・』
この場面について映画監督・篠田正浩氏は「刀の使いようを知らぬ町人を凝視する武士だった男(近松門左衛門)の非情さを見逃すわけにはいかない」と書いています。なるほど映画監督らしい鋭い観察ですね。実際にその場に及んで、彼らはその「死」というものにたじろがざるを得ないのです。刀とは彼らにとって「死」そのものなのです。
しかし、これはこのようにも解釈できましょう。たとえ刀の使い方を知らなくても・お初・徳兵衛は「武士のように」死にたかったのではないのか、つい先日・2月4日に切腹した・あの赤穂義士のように「美しく・純粋に高められて」死にたかったのではないか、それが町人にとっての「忠」であるからには。 吉之助にはそのように思われるのです。
近松心中論とワーグナー「トリスタンとイゾルデ」との対比
『私は音楽の精神を「愛」においてしか捉えることができない。その音楽の精神の崇高な力に満たされ、成人の目で人生の一瞬を見ると、私は私の目の前にある・非常に悪く言われている形式主義に気付かず、むしろその形式主義を通して、現象の背後にある愛の必要性を私は知った。それは、共感する感受性を必要とし、愛情のない形式主義の下にあるからこそ分かるのである。(中略)芸術の分野で外面的形式主義に触れるのは愉快なことではないが、そうすることによって、私は私自身の愛の力を損なうし、またそれによってまさに私自身の愛の必要性が生き生きと感じられるのである。だから私は愛するがゆえに反抗したので、嫉妬や怒りから反抗したのではない。そういうわけで私は「芸術家」になったので、批判的な作家にはならなかった。』(リヒャルト・ワーグナー:「我が友への告知」(1851年))
惨たらしい人生
近松門左衛門の「心中天網島」を考察した時(別稿「惨たらしい人生」)に、日本文学研究の権威サイデンステッカー氏の三島由紀夫の思い出話を引用しました。この点について少し注釈を付けておきたいと思います。
『私たち異国の学者が見る日本は綺麗過ぎる、歌舞伎の汚さ、日本文化の惨(むご)たらしさを凝視すべきだと三島はよく言っていた。最も日本的なのは心中だと言うので、私は反論した。西洋には「トリスタンとイゾルデ」があるではないかと。すると「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と彼に正された。その通りであった。』(E・G・サイデンステッカー:「鮮明な人物像」・決定版・三島由紀夫全集・月報35)
中世の北欧伝説にもとづく騎士と王女の道ならぬ恋物語と、実説に基づく等身大の男女の恋物語では観客の感じるリアリティー・主人公に対する思い入れが異なるかも知れません。なぜ三島が「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と言ったのか。まずそのことを考えてみます。
ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」では、トリスタンは半ば自殺に近い形でメロートの剣に身をさらし・傷ついて・やがて死ぬのですが、その後・幕切れ近くで、マルケ王がその場に到着して彼を許し・イゾルデがトリスタンの後を追って果てる(「愛の死:Liebestod」)という筋書きです。トリスタンとイゾルデの死は心中と言ってもいいものですが・苦悩の果ての至福の死という感じで ・ふたりが許されて死ぬことで決着というか・筋書きとしてオチが着いているという点が観客が涙するに至らない要因であるように思われます。ワーグナーの最後の場面の音楽はそれはもう狂おしいほどに美しいものですが。(この結末の意味については後ほど改めて考えます。)
近松の心中物(ここでは特に「曽根崎心中」と「心中天網島」をイメージしています)においては、死は決して美化されていません。死は直視しなければならないものとして意識されています。もちろんその向こう(彼岸・死)にある甘美なものは強い憧れとしてあるのですが、そこに到るための行為(つまり死ぬこと・生から死への移行)への怖れ・慄きが非常に強い障壁として意識されています。これをくぐり抜けなければ甘美なものは決して得られないということを近松は知っているのです。それがドラマで は「「惨たらしさ」という形で現われます。近松の視点は現世的で・かつ冷徹なほどのリアリズムなのです。近松の心中物の主人公は、大坂の町人にとって身近で等身大で( つまり主人公への思い入れがしやすく)題材が生々しいことが観客を涙させる要因になっています。
しかし、この「トリスタンでは泣かない観客がお初徳兵衛では泣く」ということはワーグナーの楽劇の欠陥で・ふたりの死のドラマが近松の心中物とは全然異なるということでしょうか。そうではありません。その違いは男女ふたりの愛の死のドラマの本質的なところではないのです。三島もこのことは当然分かっているのです。むしろ心情レベルにおいてこのふたつは非常に近いところにあります。だから、サイデンステッカー氏が日本の近松の心中物に対して・西洋には「トリスタンとイゾルデ」があると主張したことはある意味において正しいのです。そこで本稿では「トリスタンとイゾルデ」と近松の心中物を重ねながら、両者の共通項であるところの心情とドラマツルギーについて考えてみたいと思います。
世間の消失
ちなみに三島由紀夫について言えば楽劇「トリスタンとイゾルデ」は三島美学に非常に近い存在であると言えます。三島が監督・主演を務めた映画「憂国」(これは夫婦心中物であると言えます)では、背景音楽にこの曲( ストコフスキー指揮の録音)が使用されています。「憂国」は 2・26事件にまつわる若き陸軍中尉夫妻の心中事件がテーマです。まず夫の中尉が切腹し・その後に夫人が夫の後を追って自害します。(この順番が重要であるのでご注意いただきたいと思いますが、このことは後で考えます。)映画ではこの場面で「トリスタン」の最終場面「イゾルデの愛の死」の音楽が流れるのです。まず「トリスタン」について・作曲者ワーグナー自身が書いた文章を少し長いですが引用しておきます。
『死に絶えることなく、つねに新たに生まれ変わり、中世ヨーロッパのあらゆる国の言葉で詩作された、あの太古の愛の詩が、私たちにトリスタンとイゾルデのことを語っています。忠実な臣下は、自分が仕える王の代理で、ある女に求愛の意を告げますが、自分自身その女を慕っているなどという大それたことを認めようとはしません。この女イゾルデは、彼の主君の花嫁として彼について来ますが、それはこの求愛の使者の言うがままについて行くほかなかったからなのです。自分の権限が侵害されたことに嫉妬した愛の女神は、報復行為に出ます。つまり、当時の風習にならって、花嫁の心配症な母親が政略結婚の相手に飲ませるために持たせてよこした媚薬を、この女神は、ある過失、それはじつに機略に富む過失なのですが、それを通してこの若いカップルに飲ませてしまいます。それを飲んで燃え上がる情熱にとらわれたふたりは、たちまち自分たちこそ互いを愛しているのだと打ち明けざるを得ません。もはや愛の憧れ、愛の欲望、愛の倫悦と不幸はおしとどめがたく、世界、権力、名声、栄誉、騎士道精神、忠誠、友情、これらすべてが実体のない夢のように雲散霧消してしまい、後に残るのは憧れ、憧れ、次から次へと膨れあがる抑えがたい欲望、渇望、そして満たされぬ苦しい思いだけなのです。救いとなるのは、死、絶命、滅亡、そして永久の眠りだけなのです!』(1859年12月19日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
ワーグナーはここで「世界、権力、名声、栄誉、騎士道精神、忠誠、友情、これらすべてが実体のない夢のように雲散霧消してしまい、後に残るのは憧れ、憧れ、次から次へと膨れあがる抑えがたい欲望、渇望、そして満たされぬ苦しい思い」だけであると述べています。これこそ「歌舞伎素人講釈」において提唱している「かぶき的心情」と同質のものです。
「曽根崎心中・天満屋」で九平次は徳兵衛の悪口を言いまくりますが、お初は涙にくれながら、独り言になぞらえて・縁の下にいる徳兵衛に「さのみ利根(りこん)に言はぬもの。徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」と徳兵衛に決心を即します。そして徳兵衛の覚悟を知ると、「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫びます。
お初が「死んで恥をすすがいでは」と叫んでいるから世間が意識されていると考えては、かぶき的心情は決して理解できません。ふたりのなかで世間は「雲散霧消している」のです。お初は自分のなかにある潔白を主張しています。そこにこの男・徳兵衛を愛した私の真実(アイデンティティー)があるからです。そして、そうした視点から見れば社会的な義理とか名誉・世間的な見栄などというようなものは彼らを決して縛るものではなく・それらは彼らを束縛する力さえも持たないのです。彼らにとって世間なんてものはもはや意味はないのです。はっきり言えば彼らは自分のことしか考えてないわけです。(むしろ世間は彼らにとっての劇場であると言えます。)そしてこの点が重要なところですが・そのようなかぶき的心情のピークにおいては「救いとなるのは死・絶命・滅亡・そして永久の眠りだけ」なのです。このことがお初・徳兵衛を心中に追いやるわけです。
永遠に生きるということ
ワーグナーの楽劇作曲前に書かれた散文叙事詩「トリスタンとイゾルデ」のなかでトリスタンは次のように自らに問います。(この部分は若干改訂されて第2幕第2場に出てきます。)
『どうして私たちに死ぬことが出来よう?私たちの何が、愛以外の何が殺されうると言うのか?私たちはすべからく愛から成ってはいまいか?私たちの愛に終わりなどあるだろうか?私が死にたいと思うなら、そのとき愛は、私たちがすべからく愛から成っているその愛は死ぬとでも言うのだろうか?』
愛について語っているのにワーグナーの文章は全然情緒的でないのです。正直申して・文学的修辞としては上等とは言い難く・文章に酔うわけにはいかないと思います。非常にドイツ人らしいと言うべきですが・ワーグナーは論理的に自分の感情を掘り下げ・論理を積み上げながら自分の感情の必然を次第に高めていくのです。ここでトリスタンが主張することは「私たちの愛は不滅である・その愛が死なない以上私たちが死ぬことはない」ということです。
これは徳兵衛の台詞でも・治兵衛の台詞であってもおかしくないものです。「歌舞伎素人講釈」では心中を決行する彼らの心情を「かぶき的心情」という概念で考えてきました。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)個人の心情の発露・アイデンディティーの主張というものがその鍵となります。それが周囲の状況により実現されない場合に、当然本人は満たされない思いになり・憤り・その解消と・願望実現に動こうとする のですが、もちろん周囲の状況はそれを容易に許さないのです。心中物の場合には、その葛藤が「それならば死んでみしょう」という形で現われるのです。
「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」・「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」というお初の台詞は、世間からの逃避を意味するのでは ありません。ましてや自虐的な自己破壊行為でもありません。まさに彼らは死ぬことによって最高に・永遠に生きようとしているのです。そのことが心中物の本当の意味です。
心中のメッセージ
「トリスタンとイゾルデ」第3幕の「愛の死」における・トリスタンの死を前にしたイゾルデの語りかけは印象的です。
「おだやかに静かに、彼が微笑んで目をやさしく開けているのが、みなさんには見えないの?次第に明るく輝きを増して星の光に包まれてながら空高く昇っていくのが、みなさんには見えないの?彼の心は雄雄しく盛り上がって豊かに気高く胸のうちに湧き出ているのに、そして唇からは楽しく穏やかに快い息が静かに通っているのに、みなさん、そうでしょう?それが感じられないの?見えないの?」
これは歌詞をその通り読めばイゾルデが愛する人の死を前にして気がおかしくなり・幻覚に襲われ・他人には見えない光景を見て・その幻覚に酔っているようにも読めますが、そうではないのです。否定疑問はしばしば婉曲な勧誘であることを考慮せねばなりません。これを書き換えれば次のようになります。
「おだやかに静かに、彼が微笑んで目をやさしく開けている姿を見て。次第に明るく輝きを増して星の光に包まれてながら空高く昇っていく姿を見て。彼の心は雄雄しく盛り上がり・豊かに気高く胸のうちに湧き出て、唇から楽しく穏やかに快い息が静かに通っているのを感じて。」
つまり、イゾルデは訴えているのです。明確なメッセージを周囲に放射しているのです。この作品の強烈な毒気はそこから来ると考えなければなりません。近松の心中物の場合は主人公は声高な自己主張はしません(そこが日本人の奥ゆかしさだなあ)が、もちろんその行為のなかに強烈なメッセージが込められているのです。お初が言いたいことは「彼(徳兵衛)は大坂商人であることの意地に殉じるのです。そして私(お初)は彼への愛に殉じるのです。それが見えないの?(そのことを見てください。)」ということです。お初は言葉には出しては言わないけれど、そ う訴えているのです。
「死にきつて嬉しさふなる顔二ッ」
この川柳は「俳風柳多留」初編にあるもので・明和2年(1765)の刊行ですので、「曽根崎心中」(元禄16年=1703)からは60年以上経っていますが、これをイゾルデのメッセージと合わせてみれば、心中に赴くふたりの気持ちは理解されましょう。
心中の反社会的要素
ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」作曲中に次のような手紙を書いています。
『この「トリスタン」は途方もないものになりそうです!この終幕!このオペラが上演禁止になるのではないかと心配です。下手な上演で全体がパロディになってしまわない限り・・・まずい上演だけが私には救いです。完璧に上演すると聴衆は気が変になってしまうに違いありません・・・そうとしか思えません。ここまでやらなければならなかったとは!」(1859年 4月15日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
心中をするふたりの意識から「世間・社会は消え去って」います。彼らは純粋に自分のことだけしか考えていません。世間や社会は彼らの意識の範疇にはなくて全然関係がないはずなのに ・どうしてワーグナーは「トリスタン」が上演禁止になるのではないかと心配したのでしょうか。
それは死を志向する本人たちがどう思っていようがいまいが・無視された社会(世間)の側から見れば・心中した彼らは社会を言外に否定したと見えるからなのです。このような自分のこと だけしか考えない連中が続出したら、社会の枠組みが内側から壊されてしまいます。「社会は関係ない・俺たちは俺たちでいい」という意識を持つということは・社会から見れば非常に気に障ることです。だから社会は心中を反社会的行為であると決め付けます。心中はそのような反社会的な要素を持っているのです。
享保期には心中する者が続出したため、享保8年(1724)幕府はたまらず心中物の上演や・読み本の出版を禁止してしまいました。「完璧に上演すると観客は気が変になってしまうに違いない」というような伝染性の魔力を近松門左衛門の心中物 も持っていたのです。
近松の心中物に関して言えば、その行為は半ば意図的に読み替えられてきたと言えます。なぜならば心中をストレートに賛美することはお上に対して常にはばかられることでしたから、近松の心中物は設定を若干変えて・本来の意図を隠蔽しながら上演されてきました。例えば「曽根崎」での九平次、「天網島」での太兵衛の存在です。主人公を悪意を以って陥れ・破滅に導く悪役に彼らを仕立て上げること で・彼らが主人公を死ななければならない状況に追い込むように改作がなられました。そうすれば心中が本来持っている先鋭的な要素(反社会的意味)は隠され、主人公は哀れな相対死 (あいたいじに)に向かう同情すべき被害者ということになるのです。
そのような読み方は最初は意図的に行われ・ついにはその本来の意図さえ忘れられたものでしょう。お初徳兵衛・小春治兵衛は世間の義理の狭間で死すというのが現代での近松の心中物での一般的な解釈かも知れません。しかし、それでは近松の本来の意図は見えてこないのです。
昼と夜
楽劇「トリスタンとイゾルデ」第2幕には「たくらみ深い昼」・「ねたみ深い昼」というような表現が頻出します。
「日が沈んだ時、昼は去ったが、嫉妬の意味をなおも絶やさず、威嚇のしるしを松明(たいまつ)にして、私が近づけないように、恋人の戸口にかざすとは。昼!たくらみ深い昼!不倶戴天のこの敵を私は憎んで嘆きます!」(第2幕第2場:トリスタン)
「おお、むなしい昼のいやしさ!あなたをだましたその昼に私もだまされて、愛しつつも私はあなたのためどんなに苦しんだことでしょう。昼の色のいつわりの美しさや人をあざむく輝かしさに迷わされた私は、熱い愛の思いがあなたをめぐっている間にも、心の奥底からあらわにあなたを憎みました。しかし胸の奥ではその傷は何と深く痛んだことでしょう!」(第2幕第2場:イゾルデ)
ここでの昼は「現実」と考えられます。彼らを縛り・彼らの自我の実現を阻むものです。社会的な柵(しがらみ)・義理・名誉とも考えられます。これらの台詞はそのままお初徳兵衛・小春冶兵衛の台詞であると考えてもよいものです。その一方でトリスタンとイゾルデのふたりは夜への憧れを歌うのですが、その響きは死への衝動に次第に傾いていきます。
「おお、永遠の夜!気高く尊い愛の夜!おまえに抱かれ微笑まれては、誰が目覚める時、不安を覚えずにいられよう?さあ、その不安を追い払っておくれ。やさしい死よ、あこがれ求める愛の死よ。おまえに抱かれおまえに捧げられ、太古からの清い熱に包まれて、おお、目覚める苦しさから、解き放たれたい」(第2幕第2場:二重唱)
上記の歌詞はもちろん昼を対立的に捉えてはいます。また、「たくらみ深い昼」・「ねたみ深い昼」というように昼に対する敵対心をあわらにもしています。しかし、ここでの「夜」 を愛の陶酔とだけ考えると一面的になります。この「トリスタンとイゾルデ」のドラマの場合にはたまたまそれが強いだけなのです。「夜」とは自我が何の束縛もなく・あるがままに振舞える自由な状態を指します。
大事なことは彼らの意識からは「世間・社会は消え去って」いるということです。彼らは純粋に自分のことだけしか考えていません。だから、夜の陶酔が醒める時、「どうして不安を覚えずにいられよう?さあ、その不安を追い払っておくれ」ということになるのです。昼への意識を追い払ってくれるものは死しかないということにな るのです。彼らはその状態にとどまっていたいと感じます。だから、その感情があまりに強過ぎると・夜への憧れがそのまま死への衝動に重なっていくのです。
これらの台詞はそのままお初徳兵衛・小春冶兵衛の台詞であると考えてもよいと思います。ここに「かぶき的心情」のメカニズムを読み解くヒントがあります。別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照いただきたいですが、江戸初期に熱病のように流行した「殉死・仇討ち・心中」はすべて同じ心情から発 していました。それは「それなら死んでみしょう」というかぶき的心情です。何か激すると自分の心情を立てるためにすぐ直情的に「それなら死んでみしょう」となるのです。かぶき的心情と死とが隣り合わせにあるのです。
かぶき的心情と死とが隣り合わせになるのは何故でしょうか。一般的には「それなら死んでみしょう」という行動に彼らを駆り立てるのは「恥の概念」であると理解されています。世間の眼が彼をそういう事態に追い込むとするのです。しかし、その論理では江戸中期までの歌舞伎浄瑠璃のドラマは決して正しく理解できません。「歌舞伎素人講釈」はかぶき的心情を自我の主張であると位置づけています。(かぶき的心情の時代的変遷については別稿「特別講座・かぶき的心情」をご参照ください。)
そう考えれば、お初の「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」・「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」の台詞の根底に潜む生への熱望と死への衝動の本体が理解できると思います。
まったく楽劇「トリスタンとイゾルデ」の歌詞を読んでいると「ドイツ人は論理にエクスタシーを感じるのかね」と言いたくなりますね。実際、音楽を聴いていてもワーグナーの音楽は寄せては返る波の如くで・その心情を近くで描き ・しつこく反復していきます。そのねちっこさは淡白な日本人にはちょっと辟易するところがあるのは事実です。近松の「曽根崎心中」であると・お初徳兵衛は一気に心中に突っ走っていきますから・その辺の心理過程は十分に描かれているとは言えません。というより・近松には筆の勢いが必要であったのです。しかし、ワーグナーが心中にひた走る男女の心情をかくも論理的に・段階的に描写してくれたことで、かぶき的心情の詳細な分析が可能になるのです。
「・・と(und)」という言葉
楽劇「トリスタンとイゾルデ」には興味深い点があります。イゾルデが「暗いところにはあなた!明るいところにはわたし!」(第2幕第2場)と歌うことです。つまり、トリスタンとイゾルデは一体のようですが、ふたりの立場には微妙な相違があって・歌うことが若干ずれているのです。歌詞を読んでいるとトリスタンの方が自分だけの心情にのめりこみ・死への衝動に遮二無二突っ込んで行こうとする感じがします。それをイゾルデはやさしく微笑みながらトリスタンをいなして・客観的な方向へ導びこうとする感じがあります。
例えばトリスタンが「いま死んでいっても・どうして愛までが私と一緒に死ぬでしょう。永遠に生きる愛がどうして私と一緒に死ぬでしょう。」と歌うと、イゾルデは「ですけれど、その愛はトリスタンとイゾルデって言うのじゃなくって?」と言うのです。トリスタンはさらに「トリスタンがつねにイゾルデを愛し、永遠にイゾルデのためばかりに生きることを妨げようとするものだけが死ぬのです」と歌います。この後のイゾルデの歌詞は 重要です。
「だけどあの「・・と(und)」という結びの言葉、それがもし断ち切られたら、イゾルデがひとり生きていて・トリスタンは死んだということに他ならないのじゃありません?」(第2幕第2場:イゾルデ)
トリスタンは私が・・私が・・とばかり言って・自分のことばかりで・ひたすら死の方向へ向かおうとするのですが、イゾルデは「その愛はトリスタンとイゾルデと言うのではないの」と冷静に指摘します。イゾルデにとっては愛は「私」でも「私たち」でもなく・ ふたりは「・・と(und)」で結び付けられねば意味がないのです。トリスタンの死に対して・明確な意味を与えるのがイゾルデの役割です。「曽根崎心中」においても・お初の役割は徳兵衛に対して・その死に明確な意味を授けることでした。
『徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。』
お初がこう叫ぶことで徳兵衛の行動は明確なメッセージを与えられるのです。たとえお初徳兵衛がふたりして死んでもこのメッセージがなければ・その死が大坂の観客の心情に火をつけることはなかったに違いありません。ここには 『大坂商人の男徳兵衛 ・と・この男を愛した私お初』という明確な「・・と(und)」があるのです。だから、お初は「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」となるのです。
「心中天網島」の場合にはもうちょっと構造が複雑です。小春はお初のような明確なメッセージを吐くことはありませんし、どちらかというと受身です。一見すると小春治兵衛のふたりは女房おさんへの申し訳で死ぬように見えるかも知れません。しかし、よく文章を読んでみ るとそうではないことが分かります。実は小春治兵衛のふたりに「・・と(und)」のメッセージを授けているのはおさんなのです。演劇的に見れば中の巻「紙治内」で五左衛門に連れ去られた時点で・おさんは死んでいます。おさんが小春治兵衛に先立って 演劇的に死んで・ふたりに「・・と(und)」を与えて・ふたりを導いていると考えれば良いと思います。
このことは網島の心中場において小春が冶兵衛と違う場所で死ぬことを主張する場面に明確に現われます。(別稿「惨たらしい人生」をご参照ください。)ここで小春冶兵衛はおさんへの義理を想起し・おさんに感謝しながら・改めておさんに授けられた「・・と(und)」の意味を確認しているのです。違う場所で死ぬからこそ・ふたりのなかで「・・と(und)」がより強く意識されるのです。
「・・と(und)」の問いかけ
近松門左衛門の心中物(「曽根崎心中」・「心中天網島」)と・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」(及びそれにインスピレーションを受けたと思われる三島由紀夫の短編「憂国」)には、注目すべき違いがあります。それは近松のふたつの心中物では女(お初・小春)が男(徳兵衛・冶兵衛)に刀で刺されて先に死ぬことで・男がその後を追って自害することです。一方、ワーグナーの楽劇ではトリスタン(男)が先に死に・イゾルデ(女)がその後を追って死ぬことになります。「憂国」も同じパターンです。
「トリスタンとイゾルデ」最終場面(愛の死)については1983年バイロイト音楽祭でのジャン・ピエール・ポネルの伝説的とも言える名演出があって・これは非常に 教えられるところが大きいものです。(この舞台はビデオで見られます。 バレンボイム指揮・ユニテル製作)普通の演出では原作通りにトリスタンが先に死に・イゾルデがその後で法悦状態で死ぬのですが、ポネル演出ではトリスタンは幕切れまで死なず・イゾルデの死は死に行くトリスタンの幻想であったということになっています。トリスタンが絶命する幕切れではイゾルデは死なずに・マルケ王の傍に黙って立っています。 トリスタンはイゾルデが自分のことを思いながら死んでいくことを想像しながら・喜びのなかで絶命するのです。
このポネルの演出の根拠ですが、第2幕第2場でのイゾルデの歌詞 『だけどあの「・・と(und)」という結びの言葉、それがもし断ち切られたら、イゾルデがひとり生きていて・トリスタンは死んだということに他ならないのじゃありません?』から来ています。トリスタンの心情のなかにある自己撞着をポネルはアイロニカルに見せているのです。それは・ひたすらに死を希求するトリスタンのなかでは・自分のために死んでくれるイゾルデの姿が潜在的に求められているからです。トリスタンのかぶき的心情はイゾルデが自分のために死んでくれて初めて完成するのです。ここに私が・・私が・・と・ ただひたすらに自分だけの心情に没入し・死の衝動へ向かおうとするトリスタンの心情的な亀裂があるのです。トリスタンの心情にはイゾルデの指摘するところの「・・と(und)」の意識が少し欠けているところがあるのです。そこにポネルの強烈な問いかけがあります。三島の「憂国」の場合でも、後から愛する妻が自分のために死んでくれるという確信が・先に切腹する中尉の強い自己陶酔につながっています。もしそれが崩れてしまえば (夫人が死んでくれなければ)三島の美学は成立しません。
近松の心中物にも「・・と(und)」の問いかけが強烈なものがあります。それは宝永4年(1707)に竹本座で初演された「卯月の潤色(うづきのいろあげ)」です。これは夫婦心中ですが・冒頭にお亀と与兵衛が心中を図り・お亀は死に・与兵衛だけが生き残ります。結局は与兵衛は後追い心中するということになるのですが、これは決して心中のパロディーではなく・かぶき的心情での心情的な亀裂・「・・と(und)」が意識されているわけです。
「曽根崎心中」・「心中天網島」では先に男(徳兵衛・冶兵衛)が女(お初・小春)を殺し・その後を追って自害するわけですから・女の側からみて愛する男が自分のために後から死んでくれるという陶酔があるということになるかも知れません。これはこう考えることもできます。先に死んだ女が男を導いてくれるということです。そうなれば男が女の後を追って死ぬ行為はまさに女に対する彼の誠・すなわち「・・と(und)」を証明しようとする行為に他ならないのです。
移行の芸術
ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」の副題に「3幕のハンドリングHandling」と記しています。ハンドリングとは劇の進行・展開のことを意味する言葉です。ワーグナーはさらに私的な意味を付け加えており・直接的な和訳が難しい概念ですが、まあ、あえて言えば「劇における内的な移行手法」のことを 指していると思います。ワーグナー自身は「トリスタン」第2幕をその移行の実例として挙げています。
『「トリスタンとイゾルデ」第2幕冒頭部は激越な熱情に溢れ返らんばかりの生を示し、終局部はこの上なく厳粛で切実な死への欲求を示しています。両者は2本の柱なのです。ご覧下さい、あなた。どのようにして私がこれらの柱を結びつけたのか、いかにしてそれらが一方から他方へと導かれているのかを!それは実際、私の音楽形式の秘密でもあるのです。大胆な言い方をすると、この音楽形式がこれほど首尾一貫した・個々の細部を包括するまで完全に広げられた形で適用されるとは、いまだかつて予感すらし得なかったのです。(中略)どれほど特殊な芸術部門においても、それがこのように偉大な中心的モティーフから成されない限り、真なるものは何ひとつ発明されないということを。それが芸術なのです!しかし、この芸術は、私の場合、生と密接に関係しています。極端な気分どうしが互いに激しく葛藤するということは、いつまでも私の性格に固有なものであり続けるに違いありません。とは言えこれらの気分が他人に与える効果を測定しなくてはならないのは、私にとって心の重いことではあります。理解されるということは、それほどまでにしても欠かすことのできない重要なことなのです。さて、本来の一般的な生においては知られることのないような極端な大いなる気分を、芸術のなかで人に理解させたいと考える場合、この理解は、移行は、移行を最も明瞭かつ説得力のある形でモティーフ化することによってのみ達成できるのです。そして私の芸術作品はおしなべて、まさに必要とされている自発的気分をこのモティーフ化を通じて引き起こすということによって成立しているのです。』(1859年1 0月19日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
台本の段階において・ワーグナーが論理論理の執拗な積み重ねにより心情を段階的に高めていく手法はお察しいただけると思いますが、音楽においても・ワーグナーはモティーフ(動機)を繰り返す・あるいは重ね合わせることで・音楽の内的必然を論理的・かつ段階的に高めていくのです。その効果はワーグナーの音楽を聴けばもちろん実感できますが・なかなか聞き通すのは難儀なオペラですから・別の有名曲を挙げれば・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」の第4楽章での前半部が移行の技法の好例です。ちなみにワーグナーはベートーヴェンのこの曲を聴いて作曲家を志したそうですから、何かのインスピレーションがあったのかも知れません。
ベートーヴェンの第9交響曲は・もともと純器楽形式である交響曲に人声を挿入するという「革命」を行おうとするものでした。しかし、その革命がトンデモないことだと聴衆に感じられれば実験は無駄になってしまいます。 最初の実験においては・それが斬新かつ「これこそが我々の待っていたものだ」と聴衆が感じるような内的必然が曲に必要になるのです。そのためにベートーヴェンは第1楽章冒頭から人声を登場させるようなことをせず・慎重すぎるほど慎重に事を進めるのです。第9番は第3楽章までは普通の交響曲です。舞台ではオーケストラの後ろに合唱団が控えているのですから・初演の時の聴衆だって・いつか曲に人声が入るんだろうとは感じていたと思いますが、ベートーヴェンはその「期待」を裏切ります。第4楽章でもいきなり人声を出すことをしません。第4楽章冒頭でまず第1楽章主題を回想・その否定「いやそれは求める主題ではない」、第2楽章主題の回想・その否定「いやまだまだその主題ではない」、第3楽章主題の回想・その否定「いや悪くはないがまだ何かが足りない」、そのような 器楽による執拗な論理的なやり取りの後に・第4楽章の歓喜の主題の断片が奏でられて・「それだそれだそれこそが我々の求めているものだ」となります。そして静かに歓喜の主題が管弦楽によって歌われます。しかし、それだけでもまだ完全ではありません。「おお、友よ、このような調べではない」、ここで突然バリトンの独唱が入ります。まさに聴衆をじらしにじらしたあげくに人声が入ります。ベートーヴェンは第9番において人声が入るまでに・このような面倒な論理的・段階的な手続きを踏んでいるのです。これこそがまさにワーグナーが言うところの「移行の技法」です。
「移行の技法Handling」は音楽的な定義が難しいもので、ここがそうだと明確に言えません。それは作曲家のなかにある必然のイメージだからです。しかし、ワーグナーの作品を聴けば・彼が何を考えていたのかはおぼろげに理解できます。ひとつの現象としては、外的展開としての歌唱(舞台上の歌手による言葉によるドラマ展開)は抑えられ、内的展開としてのオーケストラ言語が雄弁になるということです。つまり、オーケストラによる心象風景の描写によりドラマを内的に展開させるということです。この時にアインシュタインが一般相対性理論で説くところの時空のひずみ(光速に近い速度で移動する物体の時間進行は遅くなる)に似た現象がおきます。つまり、オーケストラによる内的展開が高まるとドラマの時間がゆっくりとなる現象が起きるのです。 (別稿「吉之助の音楽ノート・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」をご参照ください。)
これと同じ現象が近松門左衛門の心中物の道行にも見られます。義太夫においては太夫が地語り(登場人物の台詞部分)も務めますから、太夫は歌手とオーケストラを兼ねているわけですし、その内的展開(主として色の部分がそれに当たります)も言葉によるわけですから・その境目が分かりにくいかも知れません。しかし、「道行」における詞章はすべて登場人物の内心における声ですから・すべてオーケストラ言語であると考えて良いと思います。このことは歌舞伎の義太夫狂言ならばより明確に舞台上に見えています。「道行」においては役者は黙して語らず・振り(動作)のみで演技 し、すべての心象風景(人物の言葉)は竹本(オーケストラ)によって語られるのです。
「曽根崎心中」における移行の技法
『「トリスタン」第2幕冒頭部は激越な熱情に溢れ返らんばかりの生を示し、終局部はこの上なく厳粛で切実な死への欲求を示しています。両者は2本の柱なのです。ご覧下さい、あなた。どのようにして私がこれらの柱を結びつけたのか、いかにしてそれらが一方から他方へと導かれているのかを!』(1859年1 0月19日、ワーグナーの手紙)
「曽根崎心中・天満屋」においてお初の「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」・「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」という台詞はかぶき的心情の頂点で、死ぬことによって・最高に永遠に生きようと するふたりの意志を示します。この生と死の相反した・ふたつの柱を結びつけるのが「道行」です。
『(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)
キーン氏は「二人は歩きながら背が高くなる」と指摘しています。彼らは歩きながら・(まだ死んではいないけれど)次第に常の世の人ではない存在に変化していくのです。これが「移行の技法」の効果です。それがどういう要素から生み出されるのかを考えて見ます。
「曽根崎心中・道行」に見られるのは、まず現世に対する未練・後ろ髪惹かれる思いです。これが第1のモティーフ(動機)です。それは死に行くふたりの激烈な生への欲求の名残りなのです。彼らは既に死ぬことを決意しており・そのことを後悔しているのではないのですが、生への欲求の熱さが ・死に向かおうとする彼らの歩みを後ろから引っぱろうとするのです。
「この世のなごり。世もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えていく。夢の夢こそあはれなり。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残るひとつが今生の。鐘のひびきの聞きをさめ。寂滅為楽と響くなり。」
第2のモティーフ(動機)が彼岸(死)の安らぎです。これが彼らを前へひっぱる力となるものです。このことは「その5」で述べたように・生への激烈な興奮が醒めた時「どうして不安を覚えずにいられよう?さあ、その不安を追い払っておくれ」という心理過程から来るものです。そうやって生への希求がそのまま死への衝動に切れ目なく移行していきます。
「雲心なき水のおと北斗はさえて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋をかささぎの橋と契りていつまでも。我とそなたは女夫星(めおとぼし)必ず添うとすがり寄り」
「道行」ではこの相反するふたつのモティーフ(動機)が交錯しながら・心中場への橋渡しをしています。ワーグナーと違うのは ・淡白な日本人の近松の場合は移行にかける時間が短いということだけです。「曽根崎心中」は近松にとっては初の世話物浄瑠璃の試みでした。ふたりが一気に心中に突っ走ってしまいそうなところに近松はぐっとブレーキをかけて・ふたりのために(そして観客のために)彼岸への過程をじっくりと用意 するのです。(注:「曽根崎心中」の場合は冒頭の「観音廻り」も移行の技法だと言えます。)
「心中天網島」における移行の技法
「心中天網島・道行名残の橋尽くし」の場合の重要なモティーフ(動機)は因果・あるいは報いです。 本作には「紙=髪=神」のイメージが随所に散りばめられていることは別稿「たがふみも見ぬ恋の道」でも触れました。この「道行」でも同じです。冶兵衛は小春に入れあげて・本業の紙屋商売をないがしろにした・その大坂商人としてあるまじき行為の報いを受けるということです。
「悪所狂いの。身の果ては。かくなり行くと。定まりし。釈迦の教へもあることか、見たし憂き身の因果経。明日は世上の言種(ことぐさ)に。紙屋治兵衛が心中と。徒名(あだな)散り行く桜木に。根堀り葉堀りを絵草紙の。版摺る紙のその中に有りとも知らぬ死に神に。疎き報いと観念も。とすれば心引かされて歩み。悩むぞ道理なる。』
注意しなければならないのは因果はあくまで自我(アイデンティティー)の主張の結果としてあるもので・決して原因ではないということです。だから小春冶兵衛が因果のことを口にする時・それは今までやってきたことの悔恨を意味するのではありません。恋人を愛し・精一杯生きたことの結果としての死(心中)をそうなる運命(成り行き)であるとして「然り」と受け入れようという気持ちが「因果」の意味するところです。だとすれば、冶兵衛の心中は「因果」という論理において大坂商人・冶兵衛のアイデンティティーを逆 の方向から証明しようとするものに他なりません。
もうひとつのモティーフ(動機)が彼岸(死)への思いです。ここでも生への思いが淡いのと比例するように・死への思いも淡い印象があります。その思いは「橋」・すなわち此岸と彼岸をつなぐものによって象徴されています。
「そなたも殺し我も死ぬ。元はと。問えば分別のあのいたいけな貝殻に。一杯もなき蜆橋(しじみばし)。」・「此の世を捨てて。行く身には。聞くも恐ろし。天満橋。」
小春冶兵衛の心中に「・・と(und)」の意味を与えたのはおさんであることは「その7」でも触れました。注意せねばならないのは、それは彼らが おさんのメッセージを自らの意志で引き受けたもので・彼らが否応なしにその状況に追い込まれたのではないということです。あくまでその行為はかれらのかぶき的心情の結果としてあるのです。しかし、その身にのしかかって来るものの重さが因果として強く意識されています。それが「諦観の情」に似た色合いを呈するのです。
「曽根崎心中」(元禄16年・1703・世話物第1曲)と「心中天網島」(享保5年・1729・世話物22曲目)とはその心情の表出に違いがあるのも事実です。小春治兵衛はそのかぶき的心情を内に熱く秘めて・ その心情の熱さを表面に出してはいないからです。一気に書きあげられて筆致に熱さがあった「曽根崎心中」と違って・「心中天網島」の場合は既に練り上げられた古典的な序破急のフォルムがあって・そのなかにドラマがぴったりと納まっていますから、「道行」も必然的に魂の救済への段取りの位置付けを占めるということが言えます。逆に言えば・そこに近松の執筆時期の違いが感じられます。次第にのしかかってくる時代状況の重さが感じられるのです。江戸幕府が心中者の刑罰を定め、心中物の出版・上演を禁止したのは享保8年2月のこと・それは「心中天網島」初演(享保5年12月)から2年ちょっと後のことでした。
『このオペラが上演禁止になるのではないかと心配です。完璧に上演すると聴衆は気が変になってしまうに違いありません・・・そうとしか思えません。」(1859年 4月15日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
ワーグナーの楽劇は幸い彼が心配したような上演中止の事態には至りませんでした。その代わり彼の楽劇が後世に及ぼした影響は計り知れないほどで、西欧芸術におけるワーグナーの影響を論じていたらキリがありません。一方、近松の心中物は江戸幕府により上演中止に追い込まれてしまいました。この後は近松作品の多くが改作によって上演されることになりました。そこに近松の心中物の観客を狂わせる危険な熱さがあったのです。
決して実現されないものへの・・
別稿「現代的な歌舞伎の見方」において、比較文化においては類似点を論じるのが肝要なのであって、相違点は論じてはならないということを申し上げました。相違点とはその事象の個性・あるいは独自性というべきなのです。別稿「近松心中論」は近松門左衛門の心中物とワーグナーの楽劇との比較論ですが、そこに注目すべき相違点が見られました。しかし全体の流れからはずれるので・本文では除外しましたので、ここに捕捉として掲載します 。それは楽劇「トリスタンとイゾルデ」(そしてその影響下にあると思われる三島由紀夫の短編「憂国」)において・男が先に死に・女がその後を追って男の死に殉じる形になっている ということです。
ワーグナーの「トリスタン」創作動機についてはいろいろ考えられますが、その背景として重要なのは作曲者とマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫関係であったことは疑いありません。オットー・ヴェーゼンドンクはスイスの豪商で・ワーグナーの有力な支援者でありましたが、ワーグナーはその妻マティルデと恋愛関係に陥ってしまうのです。この関係は堪忍袋 の緒を切ったオットーの強い拒絶によって破綻しますが、「トリスタン」の人物関係を見る時にこの不倫が強く影響しているのは明らかです。トリスタンの死に際し・マルケ王が許しを与える・イゾルデがトリスタンの後を追って愛の悦びのうちに死ぬという結末は、そう考えればワーグナーの人並みはずれた自己撞着・独善的で自己中心的な性格の現われと見ることもできます。
作品分析の場合に作者の実生活・性格の分析が得ることが多いのは事実です。芸術生成の過程というのは摩訶不思議なもので・生活から芸術が生まれるのか・芸術から生活が生まれるのかは判然としないところがあります。 しかし、場合によっては作者の人格と作品をはっきり切り離した方が良いこともあって、ワーグナーの場合は特にそうです。作曲家アルバン・ベルクは・彼の友人がワーグナーはいかに独善的で不道徳であるか ・その人間的欠陥をずらずらと並べたてるのをずっと黙って聞いていましたが・友人がしゃべり終えるとボソッとひと言こう言ったそうです。「・・あなたはいいですよ。音楽家じゃないんだから。」
1983年バイロイト音楽祭の「トリスタン」演出でジャン・ピエール・ポネルがイゾルデの死を死に際のトリスタンの幻影であると解釈したことは別稿「近松心中論」でも触れました。ポネルは最終場面をトリスタンが微笑みながら死んでいく舞台端の方でイゾルデがマルケ王の傍に黙って立っているという形にしてしまいました。この幕切れはイゾルデがトリスタンを裏切ったということなのでしょうか。夫の強い拒絶によってマティルデがワーグナーの許を去ったという事実をポネルはアイロニカルに暗示しているのでしょうか。しかし、 ポネルの演出ではイゾルデのことを忘れて・トリスタンの心情だけを考えた方が良いのです。
重要なことはトリスタンの心情のなかで「私が・・私が・・」という思いが一方的に強く、そこにイゾルデが問いかけているところの「・・と(und)」の要素が若干欠けている ということです。そのくせトリスタンは「彼女 (イゾルデ)が自分のために死んでくれる」という願望だけはこれまた一方的に強いのです。逆に解すれば、これもトリスタンに「私が・・私が・・」が非常に強いことの裏返しなのです。このことをポネルは看破しているのです。
本当は男の側からすればその願望を完璧に遂行しようとするなら、トリスタンはまずイゾルデを殺し・その後に自害するという過程を取らなければなりません。近松門左衛門の心中物はまさにその過程を踏んでいるのですが、「トリスタン」はそうではないのです。そこにワーグナーの ある種の強い女性コンプレックスを見ることができると思います。「彼女が自分のために死んでくれる・それによって自分は救われる」という願望が非常に強いのです。思えば「オランダ人」のゼンタ、「タンホイザー」のエリザベート、「ローエングリン」のエルザ、「リング」のブリュンヒルデなどワーグナーの女性主人公たちはみな同じなのです。
三島由紀夫の短編「憂国」のパターンも「トリスタン」と同様な観点から分析できると思いますが、若干ワーグナーとニュアンスが異なるかも知れません。三島の場合には「もしかしたら実現しないかも知れないところの理想」という趣きが強 いのです。「 決して実現しない理想が実現する瞬間のために俺は先に死ぬ」という感じが三島にはあります。このことは三島美学に深く関わることだと思っています。 
 
文楽曽根崎心中

生玉社前の段
まず、見た瞬間に「太夫さんと三味線さんが白い!」とビックリしました。白い着物をお召しだったのです。これはいったい……。黒もお似合いですが、白もやっぱりお似合い。うっとり。
……そして、すごくミーハーなことで申し訳ないのですが、清治さんてかっこいいですね。以前からどこかでお見かけしたことがあるなあ、と思っているのですが、いまだにわかりません(若い頃のお顔を拝見したことがあるような気がするので……)。そして十九大夫さんも、すごくかっこいいですね。まだちっとも三味線の善し悪し好き嫌いはわからないのですが、十九大夫さんの声は、すごく好きです。良い声だなと思います。ただ、最初は徳兵衛が徳兵衛っぽくないかな?という気がしたのですが、話が進むにつれ、ぜんぜん気にならなくなりました。
お初の文雀さんと、徳兵衛の玉男さん、黒衣で登場でした。黒衣では、言われてみるとわかるのですが、やっぱりわからない……。でも、玉男さんは黒衣でもちょっと猫背な感じがわかりますね。
今まで「徳兵衛」のイメージは、歌舞伎のイメージか、それとも別の物のイメージなのかわかりませんが、やっぱりマヌケだなあと思っていたのですが、十九大夫さんの語りで人形が玉男さんだと、なんだか凛々しいです。かっこいい。お初さんが惚れるのもわかります。若くして、お勤め先の親方に気に入られ、姪と見合いをさせられそうになるのですから、仕事もできてかっこよかったんでしょう。そんな感じが、すごくよくわかりました。
一方、天満屋のお初さんも、これがまた色っぽい。こんなに、客席に見えるかどうかわからないような細やかな所作をしていたのか、と思うほど、ていねいな女性らしい仕草。左遣いさんが、すごーーーく細かい仕草をしているのには、すっかり感心してしまいました。テレビでは、こういう細かなところがじっくり観られるのでいいですね。
そして九平次の登場です。徳兵衛の、凛々しい声とうってかわって悪そーーーーうな九平次の声。玉幸さんのイメージ(先月の、小桜さんイジメの印象が強い)で、こんなコワイ声を出されたら、それだけで逃げ出したくなってしまいます。やはり黒衣でしたので、さほど怖くはない(ごめんなさい)のですが、動きだけでは「あ、玉幸さんだ」とは、ちょっとわからない……かな?開き直っているふてぶてしさ、というか、がはははは、と笑うところがまたコワイ。(でも私の中では玉幸さん、好きなんですが。とても。なんとなく)ぱたぱたぱた、と寄ってくる、お初がなにげに可愛いです。
やっぱり、文楽でほーーっ!と思うのは、人形に対してけっこう乱暴に(役者では決してやらないだろう、というレベルの乱暴さ)紙を投げつけたり、徳兵衛をバシバシバシッ!と上着でたたいたり、お初と徳兵衛を引き離したり、わ、乱暴!と思うところです。なんともすごいです。徳兵衛は、かなり可哀相なんですが、あんまり「情けないな」という感じがしません。なぜでしょう、不思議な物です。哀れ、ではありますが「情けない」ではない、という。歌舞伎を観ていると、必ず九平次(と、その郎党)にやられる場面では、もっとどうにかしたらいいのに、負けるのならやらなきゃいいのに、と思うんですが……。
天満屋の段
舞台は変わって、天満屋の段です。太夫さんは綱大夫さん、三味線は清二郎さんです。あの、三味線で琵琶の音を出した(先月鑑賞記録参照)、神業の人です。バッチリ顔を覚えました。お二人とも、白のお着物です。……夏服、でしょうか……(制服なんですか、これは?)。
綱大夫さんが声を出した瞬間に、あ、ぜんぜん違う、と思いました。綱大夫さんと、十九大夫さんが違うことは、わかりました。よかった、人の声は判別できそうです。……三味線は、まだ無理です、私には……。
人形のほうは、最初は、奥からお初が出てきます。文雀さんです。今度は出遣いです。黒いお着物です。不思議な紋の入った着物ですね。雀に「文」という字でしょうか。そして、ビックリしたのは次に出てきた人形遣いの方。白い着物なんです。わ、人形遣いまで白い!と、びっくり。出ていらしたのは、遊女役の勘弥さんです。あ!小桜さん(先月鑑賞記録参照)だ!と思いました。この間は、あまりに小桜が可哀相で気付きませんでしたが、すごいかっこいい人ですね。話の筋とは全然関係ありませんが、賢そうな人だなあと思いました。続いてお出になったのが遊女役の清三郎さん。この方は、文雀さんの会で、人形のレクチャーをしてくださったときの左遣いさんでした。たしか。だんだん、お顔の見分けがついてきたり、知っている人が出てきたりすると、嬉しいものです。
やっぱり、文雀さんは姿勢がいいですね。すらりっとして、綺麗です。そこへ玉男さん登場。あ!玉男さんも白い着物だ!と思いました。ということは、やはりこれが夏の制服(?)なのでしょうか。だとすると、なぜ文雀さんは黒なのでしょう。不思議です。
それはともかく、徳兵衛が来たときにお初が、周りを気にしながら外へ出て行くところが、すごく可愛かったです。そして徳兵衛にすがりつくところ。うわ、色っぽい、と思ってどきどきしてしまいました。妙に色っぽいのはなぜでしょう、不思議です。 
そして出てくる九平次さん。玉幸さんだ!と、なぜか嬉しくなりました。どうやら本当に好きみたいです、玉幸さん(私に好かれても楽しくないでしょうけれど)。白いお着物。悪そうなんですが、ご機嫌な感じの九平次です。勘弥さん(……違いました、遊女です)の方へ近づくと、なんだか先月の小桜さんイジメが思い出されます(しつこくてすいません、あまりに強烈な印象が……)。そこで、徳兵衛の悪口を言い出すわけですが、悔しそうな徳兵衛の様子が、すごくリアルでした。でも、足首取って喉笛……のところは、本当に官能的で、観ていながら、ゾクゾクッとするほどでした。綱大夫さんのお声も、すごく悲しいかんじがして、よかったです。
九平次がお初を口説こうとするところですが、あんまり口説き方がいやらしい感じがしませんでした。語りの方は、ちょっといやらしいかな?という気がしたのですが、実際の九平次さんは、どちらかというと意地悪な印象だけ、というか。ですが、次でビックリ。お初の笑い方が、「おほほほほほほほ」……これは、雀右衛門さんの笑い方に匹敵するような……。九平次さんも、引いてましたよ、お初さん。このあとの、お初の言葉に、なんとなくびびっている様子の九平次さんが、なんとなく可愛らしかったです。
お初と、また心中することを決意する徳兵衛さんですが、このとき足を押し頂き……というところが、また色っぽくて色っぽくて。そのとき、目を閉じちゃうお初さんにしてみても、うわーー、と目を覆いたくなるほど色っぽい(悪い意味ではありません)ので、本当にどぎまぎしてしまいました。膝とかなでている感じも、やっぱり色っぽいです。
九平次が出ていって、夜になり、亭主(この亭主役の亀松さんも、それらしくて、よかったです)に言われてお初は二階へ上がります。そして、女中が一階で寝ているので、釣り行燈を消そうと努力するお初ですが、こういうところって、なんだか好きです。人形遣いさんが手助けしているようにも見えます。なかなか消えずに、最後には転んでしまうのですが、ちょうど、転んだところがテレビに映っていなくて、残念でした。明かりは消え、亭主が「なんだ?」といって女中が起きる、辺りは暗くて見えない、手探りで火打ち箱を探している、そのすきにお初は徳兵衛のところへ行きます。抱き合うところが、なんとも大胆で、やっぱりすごいです。火打ち石の鳴る音に紛れて戸を開け、出ていくお初徳兵衛ですが、このとき徳兵衛にピッタリとくっついているお初さんが印象的でした。
天神森の段
太夫さんがずらりとならぶと、なんとなく楽しいイメージがあるのは、やっぱり先月の「面売り」のせいでしょうか。こんなに並んでいらしても、なぜか英大夫さんの声と、咲甫大夫さんの声は、よーくわかりました。わかってくると、楽しいです。まだまだ、わからない方のほうが多いのですが……。三味線の方も、ずらり、です。……なのですが、やはり、わからないのは三味線の音……。私には難題のようです。
道行きなので、二人しか出てこず、寝てしまいそうかなぁと思っていたのですが、そんなことはありませんでした。綺麗な黒の背景に、星。文雀さんと玉男さんは、白と黒の衣装で、人形遣いのお二人も対照的な感じがしてすてきでした。
お初と徳兵衛ですが、これがまた色っぽい。舞踊はもともと苦手(観ていて、あまり楽しいと思ったことがないので)なので、道行きもどうかなぁ、と思っていたのですが、二人ながらしっとりと、うっとりするような道行きでした。ピッタリより添ったり、少し離れたり、人魂が怖い、と抱き合ったり、それが形式的ではなく、本当に「抱き合っている」のがすごいと思いました。ただ、あまり悲しい様子が見えないかな、死にに行くとは思えないな、と思っていたのですが、やはり最後の方は違いました。
特に、徳兵衛が、極楽で親に会わせようというのに、お初の親はまだ生存中で、どうしたらいいのやら、というお初の悲しい様子が、本当に悲しそうでした。そして、帯を細く切っていく場面!ぷつ、ぷつ、つつつつつ、と切れていくのが、本当に切れているようで、すごい!と思いました。
そして二人の最期。脇差しでもって、のどを突き、その上に、自分ものどを突き覆い被さる徳兵衛。そして幕。このお芝居をはじめてみたとき、「わ、本当に最期までやるんだ!」とビックリした覚えがあります。なんて綺麗な最期だろう、とため息が漏れました。これだけ脚色してくださったら、それはそれはお初徳兵衛は幸せでしょう。お見事、の一言です。

ただ、昨日の日記にも書いたのですが、不思議なのは詞章が違っていることでした。ずいぶん改変されているみたいで、これでは「原作・近松門左衛門」という感じがします。実際に上演された浄瑠璃の詞章がいいか悪いかなどは、わかるわけではないのですが、あれ?と思いましたので。というのも、一番最初に来るはずの、観音巡りというのでしょうか、あの掛詞の多いお寺さんの名前をいっぱい並べたような詞章が聞けると思っていたのですが、なかったので……。
歌舞伎も、文楽とおなじようなところから始まりますが、これと関係があるのでしょうか。ちょっと気になりました。
以前からの進歩といいますと、最後の段は浄瑠璃がちょっとずつ聞こえるようになってきたことです(何度も申しますように、三味線はダメです、聞こえてません、ごめんなさい)。言葉がすんなり耳に入ってくると言いますか。最後の段は道行きでしたので、聞き易かった(たくさん登場人物があるわけではないので、人形や人形遣いさんにそれほど気を取られなかった)ということがあると思いますが。 ……ところで、英大夫さんの声は、なんとなく、「林家こん平」に似ているような……。  
 

 
 

 
心中天網島1 (しんじゅう てんの あみじま)

近松門左衛門作の人形浄瑠璃。享保5年(1720年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。
同年に起きた、紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、道行「名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。
「天網島」とは、「天網恢恢」という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。
あらすじ
紙屋の治兵衛は二人の子供と女房がありながら、曽根崎新地の遊女・紀伊国屋小春のおよそ三年に亘る馴染み客になっていた。小春と治兵衛の仲はもう誰にも止められぬほど深いものになっており、見かねた店の者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策する。離れ離れになるのを悲しむ小春と治兵衛は二度と会えなくなるようならその時は共に死のうと心中の誓いを交わした。ある日小春は侍の客と新地の河庄にいた。話をしようにも物騒な事ばかりを口にする小春を怪しみ、侍は小春に訳を尋ねる。小春は「馴染み客の治兵衛と心中する約束をしているのだが、本当は死にたくない。だから自分の元に通い続けて治兵衛を諦めさせて欲しい」と頼む。開け放しておいた窓を閉めようと小春が立った時、突如格子の隙間から脇差が差し込まれた。それは小春と心中する為に脇差を携え、店の人々の監視を掻い潜りながらこっそり河庄に来た治兵衛だった。窓明かりから小春を認めた治兵衛は窓の側で話の一部始終を立ち聞きしていたのだ。侍は治兵衛の無礼を戒める為に治兵衛の手首を格子に括り付けてしまう。すると間が悪いことに治兵衛の恋敵である伊丹の太兵衛が河庄に来てしまう。治兵衛と小春を争う太兵衛は治兵衛の不様な姿を嘲笑する。すると治兵衛を格子に括った侍が今度は間に入って治兵衛を庇い、太兵衛を追い払った。実は武士の客だと思ったのは侍に扮した兄の粉屋孫右衛門だった。商売にまで支障を来たすほど小春に入れ揚げている治兵衛に堪忍袋の緒が切れ、曽根崎通いをやめさせようと小春に会いに来たのだった。話を知った治兵衛は怒り、きっぱり小春と別れる事を決めて小春から起請を取り戻した。しかしその中には治兵衛の妻・おさんの手紙も入っており、真相を悟った孫右衛門は密かに小春の義理堅さを有難く思うのだった。
それから10日後、きびきびと働くおさんを他所に治兵衛はどうにも仕事に精が出ず、炬燵に寝転がってばかりいた。その時治兵衛の叔母と孫右衛門が小春の身請けの噂を聞いて治兵衛に尋問しに紙屋へやって来た。ここ10日治兵衛は何処にも行っていない、身請けしたのは恋敵の太兵衛だという治兵衛とおさんの言葉を信じ、叔母は治兵衛に念の為、と熊野権現の烏が刷り込まれた起請文を書かせると安心して帰っていった。しかし叔母と孫右衛門が帰った後、治兵衛は炬燵に潜って泣き伏してしまう。心の奥ではまだ小春を思い切れずにいたのだ。そんな夫の不甲斐無さを悲しむおさんだが、「もし他の客に落籍されるような事があればきっぱり己の命を絶つ」という小春の言葉を治兵衛から聞いたおさんは彼女との義理を考えて太兵衛に先んじた身請けを治兵衛に勧める。商売用の銀四百匁と子供や自分のありったけの着物を質に入れ、小春の支度金を準備しようとするおさん。しかし運悪くおさんの父・五左衛門が店に来てしまう。日頃から治兵衛の責任感の無さを知っていた五左衛門は直筆の起請があっても尚治兵衛を疑い、おさんを心配して紙屋に来たのだ。当然父として憤った五左衛門は無理やり嫌がるおさんを引っ張って連れ帰り、親の権利で治兵衛と離縁させた。おさんの折角の犠牲も全て御陀仏になってしまったのだった。
望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ赴く。小春に会いに来たのだ。別れた筈なのにと訝しがる小春に訳を話し、もう何にも縛られぬ世界へ二人で行こうと治兵衛は再び小春と心中する事を約束した。
小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かう。そして10月14日の夜明け頃、二人は俗世との縁を絶つ為に髪を切った後、治兵衛は小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、首を吊って心中した。
解説
初演以降は上演が途絶えてたようで、安永7年(1778年)に近松半二が改作した浄瑠璃『心中紙屋治兵衛』と、さらにその改作である「天網島時雨炬燵」により、よく上演されるようになった。
現行歌舞伎の『河庄』(紙治)と『時雨の炬燵』(治兵衛内)は半二の改作をもとに歌舞伎化したものである。特に『時雨の炬燵』のおさんの恨み節は名台詞として有名である。(なお、当代の坂田藤十郎は原作通りの上演も行っている。)
河庄
『河庄』は初代中村鴈治郎の当り役であった。初代實川延若と中村宗十郎の演じた治兵衛を自分なりに工夫して作り上げたものである。頬かむりをしての花道の出は絶品とされ、岸本水府は「頬かむりの中に日本一の顔」という有名な句に残している。和事のエッセンスが凝縮しており、二代目鴈治郎、当代藤十郎へと伝えられ、大阪の成駒屋のお家芸(玩辞楼十二曲)の一つとなっている。
『河庄』における初代鴈治郎の素晴らしさは、大阪はもちろん東京の好劇家をも魅了した。明治38年(1905年)歌舞伎座の上演ではあまりの評判に2日日延べをしたほどであった。
新派の花柳章太郎は治兵衛を演じようと独自の工夫を考えたが、「あの花道の出だけはどうしても鴈治郎から離れられない。」と脱帽し、六代目尾上菊五郎は、荒事風に足を割って足をにじらせる演技を見て「あのギバの足の運びは真似できねえ。」と歎息した。 
『河庄』には孫右衛門とお庄という脇役が大きな役割を占めている。孫右衛門は町人であるが侍に変装している。その不自然さと滋味に富む演技が求められ、戸板康二は「じっと脇役としての自分をおさえつつ、主役の治兵衛を思うままに働かせるのである。これは、実力のよほど要ることなのである。」(「続歌舞伎への招待」暮らしの手帖社 1951年)とその難しさを評している。 初代鴈治郎には二代目中村梅玉や七代目市川中車が、二代目鴈治郎には十三代目片岡仁左衛門、現藤十郎には十七代目市村羽左衛門など腕達者な役者がつきあった。お庄は「封印切」のおえんとともに歌舞伎の代表的な花街の女将(花車方という役柄)である。情けがあり色気の漂う雰囲気が求められる。近年では十三代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門)が得意としていた。
時雨の炬燵
『時雨の炬燵』は実川延若家のお家芸とされ、鴈治郎系の『河庄』よりも和事の色が濃い。二代目実川延若が得意とし「河内屋(延若のこと)はここで、ふっと瞳を宙に遊ばせ、過ぎた日を懐かしむような表情をみせておられました。ちょっとしたことなのですが、妻子がありながら茶屋遊びにうつつをぬかしている中年男の色気がこぼれるようで、実に風情がありました。・・・・(治兵衛のセリフ回しについて)技巧のいるところで、河内屋はうまかった。どこが良かったというと台詞の緩急です。」と自身も得意とした十三代目仁左衛門が述べている。
現行の歌舞伎の演出では、五左衛門とおさんが去った後、小春が治兵衛宅を訪れ、丁稚三五郎が祝言の用意をする。尼となった娘の服から五左衛門の手紙が見つかり、小春の身請けの金子を用意し、おさんと娘を尼寺にやり小春と添い遂げさせようとする真意が分かる。その後、小春を強奪に来た太兵衛善六が相討ちとなる件ののち、二人は水盃をあげて心中に向かう。初代鴈治郎は「おさんが尼になったいのう」と言って大声で泣き落すやりかたをとっていた。
後半部、離縁を決意した五左衛門がおさんを無理やり実家に連れ帰る騒ぎで、炬燵で寝ていた幼子の勘太郎が「母様いのう」と起きる場面があるが、勘太郎は最初とこの場面とこの場面しか出番はなく、ずっと炬燵で寝ている設定になっているため、子役が寝てしまって起きてこないことがあり関係者をよく困らせる。 
 
心中天網島2

『私たち異国の学者が見る日本は綺麗過ぎる、歌舞伎の汚さ、日本文化の惨(むご)たらしさを凝視すべきだと三島はよく言っていた。最も日本的なのは心中だと言うので、私は反論した。西洋には「トリスタンとイゾルデ」があるではないかと。すると「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と彼に正された。その通りであった。』(E・G・サイデンステッカー)
近松の因果論
「心中天網島」の有名な「名残の橋づくし」に『悪所狂いの。身の果ては。かくなり行くと。定まりし。釈迦の教へもあることか、見たし憂き身の因果経。』という文章が出てきます。悪所通いをした結果 ・このように心中しなければならない破目になってしまった・これも何かの因果であろうか・因果経でお釈迦様の教えを確かめてみたいものだというような意味であります。
「因果経」というのは「仏説善悪因果経」のことで、これは一種の偽経です。経典自体はそれほど長いものではないようですが、当時は分厚い注釈書が出版されていて、これがひろく世間で読まれて強い影響力を持っていたそうです。前世でこういうことをしたら後世で何になるとか、こういう病気になったのは前世がこうだったからとかが具体的に書いてあるのです。だから冶兵衛は 自分が悪所通いで心中するという破目になったのは前世で自分は何か悪いことでもしたのであろう・この本で調べてみたいと言っているわけです。
「善悪因果経」注釈書の「善悪因果」の注には「天網恢恢疎にして漏らさず」という諺が載っています。 「心中天網島」という題名はこの「天網恢恢疎にして漏らさず」から来ているということは昔から言われていますが、これも「因果」という観点から見ると、なるほどと納得させるものがあります。
「心中天網島」は享保5年(1720)12月竹本座での初演です。近松門左衛門は冶兵衛と小春が心中しなければならない「必然」を劇中で綿密に段取りしています。冶兵衛と小春は死ななければならない定めがあるかのように追い込まれて行って・そして心中をするのです。そのように因果の網が張り巡らされているのです。本稿では「心中天網島」を因果の観点からドラマを読んでいきたいと思います。
「紙=神」のイメージ
まず紀伊国屋小春について見ると、上の巻(曽根崎新地「河庄」)での小春の登場は次のように描写されています。
『橋の名さへも梅桜、花を揃へしその中に。南の風呂の浴衣より今この新地に恋衣。紀の伊国屋の小春とは。この十月にあだし名を。世に残せとのしるしかや。』
「小春」というのは陰暦10月の異称です。小春という名前は10月に心中して死ぬという運命を暗示している名前なのであろうかというのです。ご存知の通り、近松の「心中天網島」は際物でして、実説の紙屋冶兵衛と遊女きいの国小春が網島大長寺で情死(享保5年10月14日と伝えられる)してまだ二ヶ月も経っていないのでした。したがって、観客の事件の記憶は生々しいわけです。事件のヒロインが舞台上で蘇って・心中への経緯をなぞっていくのです。
心中の結末を観客が承知していることを、近松は最大限に利用しています。浄瑠璃の文句・人物の言動のすべてが心中の結末に向かっていく・すべてが心中という結果に繋がるように、ドラマを仕組むことができるのです。結果として観客の心には「因果の糸」が印象付けられることになります。
『天満に年経る。千早(ちはや)降る。神にはあらぬ紙様と、世の鰐口(わにぐち)にのるばかり。小春に深く大幣(あふぬさ)の、くさり合ふたる御注連縄(みしめなは)。今は結ぶの神無月。堰かれて逢はれぬ身となり果て。あはれ逢瀬の首尾あらば。それを二人が。最後日と。名残の文の言ひかわし。毎夜毎夜の死覚悟。玉しゐ(魂)抜けてとぼとぼうかうか身を焦す。』
これは 冶兵衛登場の直前の詩章です。「天満に年経る・千早降る神」というのはもちろん天神さんのことですが、遊里においては客の名前・商売などを一字取って「○さま・・」などと呼んだりするものです。冶兵衛は紙屋ですから「紙さま」と呼ばれているわけです。しかし、心中の結末 を知っていれば、この「紙さま」も不吉な呼び名ということになるかも知れません。冶兵衛の生業(なりわい)は紙商売です。商売道具の紙は、商人にとっては何よりも大事な・神様と同じくらいに大事なものです。冶兵衛にとって「神=紙」であるはずなのです。ところが、冶兵衛は商売をないがしろにして・悪所狂いをしています。遊里で「紙様」と呼ばれる冶兵衛は神(=紙)をないがしろにする・いずれは罰せられる運命にある男なのではありますまいか。
そういえば「心中天網島」には紙に関連する言葉・同音語が頻出します。もちろん近松が意図的に使用しているのです。「小春に深く大幣(あふぬさ)の」は、「逢う」と御幣の大幣を掛けていて、紙(=神)のイメージが背後にあります。「今は結ぶの神無月」もそうです。神無月は10月のことですが、小春との結びの神(=紙)もないというのです。つまり、冶兵衛は神(=紙)に見放された男なのです。
「名残の文の言ひかわし」もそうです。文(=手紙)というのは紙に書くものだからです。(この芝居のなかで手紙は実に重要な役割を果たすのですが、このことは 別の機会に検討することにします。 )「紙」と言えば、起請文も紙です。起請文は熊野の牛王紙に書いた誓いの文です。冶兵衛は小春と交わした起請の紙29枚を小春に突きつけます。
『「小春といふ家尻切にたらされ後悔千万。ふつつり心残らねばもつとも足も踏みこむまじ。ヤイ狸め。狐め。家尻切め。思ひ切つた証拠これ見よ」と。肌に懸けたる守袋。「月がしらに一枚づつ取りかはしたる起請。合わせて二十九枚戻せば恋も情けもない。こりや請け取れ」とはたと打ち付け。』
死ぬ約束をしていた二人は起請文を「打ち付け・投げ捨て」て縁を切ります。大事の起請文を打ち付け・投げ捨て扱いすることにも引っ掛かるところがあります。一度破られた誓いは結局は実行されるわけですが、下の巻「大長寺での心中」の場で冶兵衛は起請文のことを次のように振り返っています。
『なふ、あれを聞きや、二人を冥途へ迎ひの鳥。牛王の裏に誓紙一枚書くたびに。熊野の鳥がお山にて三羽づつ死ぬると。昔より言ひ伝へしが。我とそなたが新玉の年のはじめに起請の書初(かきぞめ)。月のはじめ月頭(つきがしら)書きし誓紙の数々。そのたびごとに三羽づつ殺せし鳥はいくばくぞや。常にかはいかはいと聞く。今宵の耳へは。その殺生の恨みの罪。報ひ報ひと聞ゆるぞや。報ひとは誰ゆえぞ、我ゆへつらき死を遂ぐる。許してくれ。』(下の巻)
日頃は「かはいかはい」と聞く鳥の声が「報ひ報ひ」と聞こえると冶兵衛は、迫り来る最後の時への慄きを語っています。これも「紙=起請文=神」をないがしろにしたことの付けなのではないかと観客には思われてくるのです。さらに「心中天網島・上の巻」には「踏む」という言葉が何度も出ていることも注目されます。
(冶兵衛)『さてはみな嘘か。エエ腹の立つ。二年といふもの化かされた。根腐りの狐め。踏ん込んで一打か。面恥かかせて腹癒よか。』 / (冶兵衛)『エエ食らわせたい踏みたい』 / (孫右衛門)『小春を踏む足で、うろたえたおのれが根性をなぜ踏まぬ』
このように「踏みたい」・「踏みこむ」などという言葉が頻出します。これは「文=ふみ=踏み」から来る一種の掛詞です。上の巻「曽根崎新地・河庄」の場での結びの詩章を見てみます。
『嘆く小春もむごらしき。不心中か心中か。誠の心は女房のその一筆の奥深くたがふみも見ぬ恋の道別れて。こそは帰りけれ。』
「たがふみも見ぬ恋の道」は百人一首の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」を下敷きにしています。「ふみ」は「文」と「踏み」を掛けているのです。誰の文かは分からぬが・まだ誰も足を踏み入れたことのない恋の道、ということでありましょうか。観客には内容が分からない女房おさんの手紙(その内容は小春だけが知っている)と、誰もが経験した(踏んだ)ことのない恋の道に苦しむ小春の姿を重ね合わせているわけです。
このように近松は「紙=神」のイメージを、さまざまな手法を駆使して何度も何度も観客の脳裏に刻み付けて生きます。これによって、商売をおそろかにして・大坂商人の道徳を踏みにじった冶兵衛の状況を描き出しているのです。こうなると 誰の目から見ても冶兵衛は死ぬしかないのです。観客は冶兵衛が心中することは承知しているわけですから、その通りに(ある意味では観客の期待通りに)冶兵衛は心中へ追い込まれていきます。
芸能とは慰みである
それでは、近松は「生業(紙屋商売)をおろそかにして悪所狂いをした因果の果てはこんなものだ・天網恢恢疎にして漏らさず・商人道に反したことをすればこうなるのだ」と・大坂商人の論理に従って冶兵衛を断罪しようとしたのでしょうか。確かに大長寺での心中場面などは死にゆく者たちを美化するようなところがまったくありません。ふたりの心中が冷徹なリアリズムで描かれています。しかし、その突き放したような・冷徹な表現のなかに近松の「慟哭」を見るべきではないでしょうか。
さきほど「心中天網島」の題名が「天網恢恢疎にして漏らさず」から来ているとの説を紹介しましたが、もうひとつの説があります。「心中天網島」という題名の由来には結末の文句『すぐに成仏徳脱の誓ひの網島心中と日毎に。涙をかけにける』から、仏の誓願で網ですくって下さるであろうという意味 から来るとの説です。私はこっちの方を取りたいと思っています。十夜の期間に死ぬ者は必ず仏になると言います。十夜というのは陰暦の10月6日から15日までの間に念仏を修行する浄土宗の法要ですが、「心中天網島」はその10月6日の曽根崎新地「河庄」の場面に始まり、16日未明の網島大長寺での心中に至るように設定されています。だから、現世の因果の苦しみの果てに冶兵衛と小春は仏の網で救われると考えるべきだろうと思います。
因果とか業などという考えは人間を足元から縛り付ける縄のようなものです。自由を求める人間からすれば忌まわしい・呪うべきものなのかも知れません。近松も因果の律のなかで人は生きていかねばならないことを承知していながらも、これを決して是としていたわけではないでしょう。それでも人は生きなければならないのです。因果に縛られて・もがき苦しむ人の姿を見詰めながら、近松は涙は流していないけれども・その心は泣いているに違いありません。どうして近松が因果にふりまわされた心中のドラマを書いたのか、そのことが最後の2行によって明らかになります。
結末の『すぐに成仏徳脱の誓ひの網島心中と目ごとに。涙をかけにける。』という文句を、最後に取って付けたおざなりのものとは私は決して思いません。近松は冶兵衛と小春 を因果の糸にからめ取り、心中に追い込みます。心中の場面を見て・観客は因果の果ての人生の惨たらしさを散々に見せつけられて・もしかしたら息を飲んだかも知れません。しかし、最後の二行 ・たった二行の文句によって・もつれからんだ因果の糸から「救われる」のです。冶兵衛・小春だけではなくて、観客も救われなければなりません。近松が日頃言っているように 、芸能とは「慰み」であるのですから。 
 
心中天網島3

男の一分
『福徳に。天満(あまみつ)神の名をすぐに天神橋と行き通 ふ。所も神のお前町営む業も神見世に。紙屋冶兵衛と名を付けて、ちはやふる程買いにくる。かみは正直商売は、所がらなり老舗なり。』
「中の巻・紙屋冶兵衛内の場」は このような文章で始まります。『かみは正直商売は』というのは、紙と神とを掛けておりまして、紙商売を正直に営んでいるという意味に「正直の頭に神やどる」の諺を重ねています。上の巻に引き続き、ここでも紙と神が重ねられてドラマが展開します。(別稿「たがふみも見ぬ恋の道」をご参照ください。)紙屋店に兄と叔母がやって来て、小春が請け出されるという噂があるがそれはお前なのかと文句を言いに来ます。これを聞いて冶兵衛は、これはまったく迷惑である ・自分はあれ以来ぜんぜん外に出ていないと言います。これは事実その通りで、冶兵衛は内心はともあれ・小春と縁を切るという約束は守っているわけです。それで兄も叔母も安心して「誓紙書かすが合点か」と言います。
『「何がさて千枚でも仕らふ。」「いよいよ満足すなはち道にて求めし」と孫右衛門懐中より。熊野の群鳥比翼の誓紙引き替へ。今は天罰起請文小春に縁切る思ひ切る。偽り申すにおいては上は梵天帝釈下は四大の文言に。仏ぞろ神そろへ紙屋冶兵衛名をしっかり。血判を据えて指出す。』
これは神に対して大変なことを冶兵衛はしているわけです。もちろん冶兵衛はそれも覚悟の上のことでしょう。自暴自棄になっていたのかも知れません。上の巻において、冶兵衛は小春と二十九枚の起請文を交わしていることが述べられています。もちろん小春との愛を確認し、それを破るなら神罰を受けても構わぬという誓文です。それとはまったく逆のことを冶兵衛は誓紙に書いて血判まで押すわけです。近松は、これから 何か不吉なことが起きるに違いないという不安を観客のなかに起こさせます。事実、この後からドラマは急転換していきます。
兄・叔母が帰っていった後、冶兵衛は炬燵に入って布団のなかですすり泣きます。これを見ておさんが冶兵衛の未練をなじります。「女房の心には鬼が住むか蛇が住むか・・」というおさんの口説きはあまりにも有名です。これに対して冶兵衛は「女には未練がないが、太兵衛に悪口を言われて生き恥をかく、それが口惜しい無念だ」というのです。
『「太兵衛めがいんげんこき(高慢ぶる奴)。冶兵衛身代行きついての、かねに詰まってなんどと、大坂中をふれ廻り、問屋中の付合(つきあい)にも。面をまぶられ生恥かく胸が裂ける身が燃へる。 ええ口惜しい無念な熱い涙血の涙。ねばい涙を打越え、熱鉄の涙がこぼるる」とどうと伏して泣きければ』
ここで冶兵衛が訴えているのは「男の一分(いちぶん)」ということです。太兵衛は冶兵衛と小春を張り合っていたわけですから、小春を身請けすれば ・太兵衛は「冶兵衛は金に詰まった」などと大坂中を触れ回るだろう・そうなれば大坂の問屋仲間で冶兵衛は笑い者になってしまう、それは自分にとって生き恥だという わけです。それほどに当時に大坂町人にとって「男の一分」・「男が立つ」ということは大事なことでありました。
もちろん冶兵衛の心のなかに小春への未練が全然ないとは言えません。冶兵衛の『「たとえこなさんと縁切れ。添はれぬ身になつたりとも。太兵衛には請出されぬ、もし金堰(かなぜき)で親方からやるならば。物の見事に死んで見しよ」と。たびたび詞(ことば)を放ちしが、これ見や退(の)いて十日もたたぬうち・・・』の言葉には、小春に裏切られた口惜しさが滲み出ています。しかし、他の男ならともかく も・よりによって太兵衛に請け出されるのが冶兵衛にとっては問題です。
ところがおさんは冶兵衛の言葉を聞いて、意外な反応を示します。『はっとおさんが興さめ顔、ヤアハウそれならばいとしや小春は死にやるぞや。』 もちろん冶兵衛にも何のことか分かりません。『ハテサテなんぼ利発でも、さすが町の女房なの。あの不心中者、なんの死のう。』 冶兵衛はそう言って一笑に伏すのですが、そこでおさんは一生言うまいと思った秘密を夫に打ち明けるのです。このままでは冶兵衛が死ぬと見たおさんは小春に手紙を書いて、「女は相身互いごとだから・思い切れないところを思い切って・夫の命を助けてくれ』と訴えたのです。その手紙を読んだ小春が「身にも命でも代えられない大事の人だか・引くに引かれぬ義理から思い切る」と返事をよこしたのです。その小春が金づくで太兵衛に請け出されようとされているなら・きっと小春は死ぬに違いないとおさんは直感した のです。
おさんの心情
ここでおさんが『悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て・どうぞ殺してくださるな』と言い始める心理が「どうもよく分らん」と言われるところです。妻の座にいるおさんが憎んでも飽き足らない遊女のことなど気に掛けることはないじゃないか、というのが現代人の思うところかも知れません。しかし、これはこのように考えればいいと思います。冶兵衛が「男の一分」を大事にしているように・おさんにも「女の一分」があるのです。「女同士の義理」とは何でありましょうか。「女は相身互いごとだから・思い切れないところを思い切ってくれ」と必死で頼んだ・ 自分の訴えを聞いてくれた人であるから・その人がまさに死のうとしている危機を自分は見過ごすことはできない、ということです。この理屈からは妻と遊女という立場の違いはすっ飛んでいます。おさんは、小春と女対女の対等の関係に立っているのです。
このような場面でおさんが「女同士の義理」ということを急に言い出すのは登場人物の心理に義理の論理を無理矢理こじつけているようで不自然に見えるかも知れませんが、そうでは ありません。このことは義理というものを「かぶき的心情」において考えないと理解ができません。義理が社会から(つまり外部から)強制されるものではなくて、自分自身の内部から自発的 に湧き出てくるものであることを理解せねばなりません。つまり、それは理屈からくるものではなく・心情から生じるもので、そのために直情的であって・損得勘定ではない・ひたすらに無私な心情なのです。(別稿「かぶき的心情とは何か」・「かぶき的心情と社会・世間」をご参照ください。)
「義理が立つ・立たぬ」という心情を当時の男も女も同じように持っていたと言うことです。 太兵衛に小春が請け出されると聞いて「ええ口惜しい無念な熱い涙血の涙。」と言って冶兵衛が口惜し泣きするのは、大坂商人としての冶兵衛の面目が立たないということでした。金がなくてライバルに身請けされるということは個人の 面子であるというより・大坂商人としての冶兵衛の面子なのでした。
ご注意いただきたいですが、これは「恥の問題」ではないかと思われる方もいらっしゃるでしょうが、むしろアイデンティテイーの問題であると考えるべきです。冶兵は「面をまぶられ生恥かく胸が裂ける身が燃へる」と言っていますが、元禄の大坂商人道は今から見れば「任侠道」に近いところがあって・突っ張るところは突っ張る・張り合うところは張り合う、というところがあるのです。それが大坂商人の意気地というものです。「商人としての一分」が立たなければ大坂で商売をやっていけないのです。そこに商人のアイデンティティーが掛かっていて、それが行動の原動力になっているのです。 このことが分らないと、「冥途の飛脚」でどうして忠兵衛が熱くなって金子の封印を切ってしまうのか・「曽根崎心中」で どうしてお初が「この上は徳さまも死なねばならぬ」と叫ぶのかも理解ができません。おさんの心情も同様です。
おさんが小春に書いた手紙の文面については詳しいことは分かりませんが、おさんは『こなさんがうかうかと(ふらふらと心迷い)死ぬる気配も見えしゆえ「女は相身互ごと。切られぬ所を思ひ切り、夫の命を頼む頼む』と書いたと言っています。恐らく冶兵衛はほとんど商売は手付かず だったでしょうから老舗の紙屋の経営も危うくなっていたに違いありません。おさんは小春に対して「私の夫を返してくれ」と訴えたのではなく、「このままでは大坂商人・紙屋冶兵衛が立たぬ」と書いたであろうと思います。だから小春は『身にも命にもかへぬ大事の殿なれど。引かれぬ義理合。思い切る』と書いたのです。そう考え れば、おさんがなぜ小春と対等な関係に立つのかが分るはずです。 おさんは商人の女房ですから当然、商人の価値観を持っています。そのおさんの訴えを聞き入れた小春は、遊女と言えども・おさんにとって同じ価値観を持つ・対等な人間と見なされるのです。ふたりは 「大坂商人・紙屋冶兵衛」を介して立っているわけです。
小春がおさんの訴えを聞き入れて身を引いたからには、小春が死ぬかも知れぬという窮地に立っている今・これを見過ごすことはおさんにはできません。だから、『悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て・どうぞ殺してくださるな』ということになるのです。小春を救うのは、言うまでもなく・太兵衛より先に冶兵衛が小春を身請けすること 以外に方法がありません。普通ならば妻と遊女は対等ではあり得ないでしょう。しかし、「女同士の義理」ということになれば、おさんはその矛盾を乗り越えなければな らないのです。
「そうは言っても小春を身請けする金がどこにあろうか」と思案する冶兵衛の前で、おさんは「ノウ仰山な、それで済まばいとやすし」と言ってその場に新銀四百目を投げ出して夫を驚かせます。さらに「箪笥をひらり」と開けて鳶八丈などの着物を取り出します。ここでのおさんは、夫の恥をすすぐのと・女同士の義理を果たすということで一種の躁状態になっています。それが「箪笥をひらり」という描写に表れています。恐らくおさんはその時に冶兵衛との夫婦の絆を確認したような気分になっているのかも知れません。しかし、箪笥を開けて家族の着物を取り出しながら・じつは「家の崩壊」がどんどん始まっているのです。
『(小春を)請け出してその後・囲うておくか、内へ入るにしてから、そなたは何とすることぞと、言われてハッと行き当たり、アツアさうじゃ・ハテなんとせう、子供の乳母か・飯炊か、隠居なりともいたしませう、わっと叫び、打ち沈む』
冶兵衛に問われて、おさんはハッと我に返ります。しかし、ここまで運命の独楽が回り出せば夫婦はもう後戻りはできません。おさんの覚悟は決まっています。思わず冶兵衛が女房に手を合わせると、おさんはこう答えます。
『あまりに冥加恐ろしい。この冶兵衛には親の罰・天の罰・仏神の罰は当らずとも、女房の罰一つでも将来はようないはず・許してたもれと、手を合わせ、口説き嘆けば、勿体ない・それを拝むことかいの。手足の爪を放しても・みな夫への奉公。紙問屋の仕切銀・いつからか、着類を質に間を渡し・私が箪笥はみな空殻。それ惜しいとも思ふにこそ・何言うても跡偏(あとへん)では返らぬ・サアサア早う小袖も着替えて・にっこり笑うて行かしやんせと・下の郡内、黒羽二重、縞の羽織に、紗綾(さや)の帯・金拵(ごしら)への中脇差、今宵小春が血に染むとは、仏や知ろしめさるやん。』
ここでおさんは「勿体ない・それを拝むことかいの。みな夫への奉公。」と言っております。これを義理の論理にこじつけた「貞女の鑑」・「出来過ぎた女房」というイメージに読んでしまうと、おさんの行為は 不自然なものにしか見えませんし・近松のドラマにも共感できないでしょう。しかし、かぶき的心情で読めば、おさんは世間的に夫の下に従属してただ奉仕して・耐え忍ぶ女房なのではなく、精神的に自立して・夫と対等に立つ女房であることが分か るはずです。その自立した女房が、自分のことは何にも言わず・ただニッコリと笑って「男を立てて来い」と言って夫を送り出しているのです。
別稿「たがふみも見ぬ恋の道」において、「紙屋商売をないがしろにした冶兵衛が因果の果てに心中する」というイメージを近松は文中に何度も繰り返し書き込んでいることを考えました。 もしそれだけで終るならば、おさんも冶兵衛も小春も・因果の律にただ操られている木偶の如きものなのでありましょう。 しかし、近松は木偶のドラマを書いたのではなく・人間のドラマを書いたのです。因果の律に縛られる構造を描き出しながら、その枠組みのなかで懸命に「自分を立てようと(つまり自分のアイデンティティーを守ろうと)」する人間の必死のあがき・能動的なドラマ を近松は描いているのです。
しかし、そこへ舅五左衛門が現れて夫婦の必死の工作も水泡に帰してしまいます。思えば冶兵衛が小春を身請けし・おさんが乳母で同じ家に住むなどということで世間が通るわけがないのです。結局、おさんは五左衛門に連れ戻されて、冶兵衛は自分自身でこの結末を付けねばならないことになります。 
 
心中天網島4

「天網島」改作について
歌舞伎でも文楽でも 近松物は人気ですが、じつは近松が頻繁に上演されるようになったのは近年になってからのことです。「かぶき的心情」から発する強烈な自己主張は個人的心情に根ざしているものだけに、他人にはなかなか共有されにくいものだろうと思います。まして時代を経た後世の人間には理解しにくいところがあります。こうした時代的心情は時代を同じくした者だけに共感できる何ものかがあるのかも知れません。
近松の世話物にしても、心中に向けてひた走る者の心理の綾が、現代人に共感をもって感じ取りにくくなっています。だから敵役の性格をより強調し て主人公を苛めてみたり・金に縛られて主人公が身動きできない状況を設定して・次第に追い込まれていくように仕掛けていかないと、主人公が心中に至る心情をなかなか観客に理解させることが難しくなっています。江戸時代においてさえ近松の作品は原作通りに上演されず・ほとんどが改作によって上演されてきたことが、近松作品の理解の難しさを示しています。
歌舞伎では「心中天網島・中の巻」は菅専助らの改作した「天網島時雨の炬燵」による上演がもっぱらでした。 冶兵衛と別れたはずの小春が、もう一度会いたいと紙屋に忍んで来ます。そこでちょうど父五左衛門に無理矢理連れ戻されるおさんとすれ違います。五左衛門は頑固な男かと思いきや・実はかつて冶兵衛に借金の肩代わりをしてもらったことがあり・その恩義を返すために・ここはおさんを別れさせて・冶兵衛を小春と添わせる腹であったという。おさんは小春への義理を立てて尼になってしまいます。こうなると冶兵衛と小春はどうしようもなく ・結局おさんへの義理立てに死のうと話合っていると、そこに太兵衛がやって来ます。そこで言争いになって・冶兵衛は誤って太兵衛を殺してしまいます。そして心中の道行きになる・・とこんな筋書きです。ほとんど原型をとどめないまでに改訂がされています。
こんな筋書きであると、冶兵衛は自らの一分(いちぶ)を立てるために心中に向かうのではなく、太兵衛を誤って殺してしまって・そのために死ぬということです。 確かに気の毒で同情すべき心中ですが、罪に追われて死ぬわけであって、逃避的であって・意志的 とは言えません。やることなすこと・すべてがうまくいがず、ズルズルと破滅に引きこまれていく・どうしようもない人生・・・とそんな感じです。因果に振り回された人生と言えなくもないでしょう。「時雨の炬燵」は「愚作」と言われてはいますが、しかし、もっぱら上演されて きたのは近松の原作ではなくて・この「時雨の炬燵」の方 です。つまり、改作が役者にも観客にも支持されてきたということです。このことも厳然たる事実です。
改作「時雨の炬燵」が作られた理由は、恐らく・近松の原作ではおさんが女同士の義理を言い出し・冶兵衛と小春が心中へ至る(追い込まれる)根拠が薄弱であると 感じられたからなのでしょう。つまりは、近松の世話物に登場する「男の一分」・「男の体面」、そしてその底流に流れるかぶき的心情が後の時代の人々にすんなり理解できないということから来ているのです。
義理の変質
それでは再び原作に帰り、「心中天網島」のドラマを見て行きます。網島大長寺における心中の場でも、冶兵衛・小春はすぐ死ぬわけではなくて、ここでも義理の問題が絡んできます。冶兵衛と小春が同じ場所で死顔並べて死んでは・おさんに対して「冶兵衛を死なせないために思い切る」と返事した手紙に対し嘘をつくことになる・だから別の場所で死んでくれ、と小春は言うのです。思えば、「上の巻・河庄」からのおさんの手紙に始まり、「心中天網島」全編を支配しているのはおさんの存在なのです。
『さればこそ死に場所はいづくも同じことと言ひながら、わたしが道々思ふにもふたりが死顔ならべて。小春と紙屋冶兵衛と心中と沙汰あらば。おさん様より頼みにて殺してくれるな殺すまい。挨拶切ると取り交わせしその文を反古にし。大事の男をそそのかしての心中は。さすが一座流れの勤めの者。義理知らず偽り者と世の人千人万人より。おさん様ひとりのさげしみ。恨み妬みもさぞと思ひやり。未来の迷いはこれひとつ。わたしをここで殺して、こなさんどうぞ所をかへ。ついと脇で・・』
これは小春が冶兵衛と一緒に死ぬのを拒否しているのではないのです。小春はもともと冶兵衛とは起請文を29枚も交わして・互いに死ぬ約束をしているのですし、この場に及んでは大坂商人・紙屋冶兵衛の 「男」を見せるのは心中してみせるしかないわけですから、小春はもちろん喜んで冶兵衛と心中するつもりです。しかし、それでもおさんとの約束が引っ掛かるのです。おさんに「思い切る」と返事したのを裏切ることになる ・だから一緒に死ぬけれども・別の場所で死にたい、ということです。つまり、ここで小春も・おさんと同様に「女同士の義理」を主張しているわけです。これについては冶兵衛が「何を愚痴なことを言うか・おさんは舅に取り返されたからには既に他人である・他人に何の義理立て・誰がそしろう・誰が妬もう」というのですが、小春はなかなか承知しません。
ご注意いただきたいですが、この心中直前においての「義理立て」は世間に対してするものではありません。冶兵衛と小春が一緒に死ぬのを世間が許さないということではありません。 世間に対して小春が怯えているわけでもない。小春は「世の人千人万人より。おさん様ひとりのさげしみ。』とはっきり言っています。これは小春のなかのおさんに対する信頼(あるいは連帯感)が言わせるもので、中の巻において・おさんが「子供の乳母か・飯炊か、隠居なりともいたしませう」と言ったその心情とまったく同じものです。(別稿「女同士の義理立たぬ」をご参照ください。)それはかぶき的心情から出てくるものなのです。す なわち純粋に個人的な・ 無私な心情として出てくるアイデンティティーの主張です。
一方、後世の改作「時雨の炬燵」においては、「義理」という観念を個人的な心情の発露としてではなく・世間が無言のうちに個人を縛る規制(あるいは圧力)のようなものとして捉え られています。ここで重要になるのは「恥」への意識です。世間の強制のもとにおさんは心ならずも「貞女の鑑」を演じなければならなくなり、小春は世間を気にして・愛する男と一緒に死ぬことさえ許されないのです。冶兵衛もまた自分の意志では死ぬことさえ許されない・彼は世間によって 破滅に追い込まれていきます。それが改作「時雨の炬燵」のドラマです。
近松の「心中天網島」は享保5年・1720年・竹本座での初演。その改作「時雨の炬燵」は安永6年(1777)北堀江市の側芝居上演での菅専助作「置土産今織上布」がこの系統の改作の先駆と言われます。この間に約50年の歳月があります。この歳月 の間に「義理」という観念を個人的な心情の問題から・世間から個人への縛り(規制)の問題へと微妙に変化させていったのです。この歳月が紙屋冶兵衛と小春の心中事件(それは実際にあった出来事でした)の解釈をも変えてしまったのです。かぶき的心情である「男の意地・一分」から発した義理の観念に、やがて恥の意識が入り込み・それが個人の行動を束縛し始める、そのような過程が見えます。
これは近松のオリジナル通りに上演すべきであるとか・改作の作意が低いとか「駄作」であるとか、そういうことを言っているのではありません。結局、芝居というものはそれが上演された時代の精神・心情というものと切り離すことはできないのですからこれは仕方ないところでしょう。
しかし、オリジナルの近松の登場人物はその改作と同じような行動を取っているかに見えますが、その心情はまったく異なるということを知っておかねばなりません。近松の作意を改作ものをベースにして論じることはできません。(そういうことをごっちゃにして舞台を見ただけの印象で近松が論じられていることが少なくありません。)近松を論じる時はその原作に必ず立ち返る必要があります。
冷徹なリアリズム
近松は心中の場面を美化することなく、驚くほど冷徹な・リアリズムで描いています。冶兵衛はまず小春を脇差で刺し殺します。その脇差は、 皮肉なことに中の巻に『にっこり笑うて行かしやんせと・下の郡内、黒羽二重、縞の羽織に、紗綾(さや)の帯・金拵(ごしら)への中脇差、今宵小春が血に染むとは、仏や知ろしめさるやん。』の文があるように、おさんが冶兵衛に渡した脇差でありました。
『ぐつと指され引き据へてものり反り。七転八倒、こはいかに切先咽のふえはづれ。死にもやらざる最後の業苦とともに乱れて。苦しみの。気を取り直し引き寄せて。鍔元まで指し通したる一刀。えぐる苦しき暁の、見果てぬ夢と消へ果てたり』
結局、冶兵衛は小春から少し離れた場所で首を吊って死ぬのですが、これは最後までふたりが義理に縛られて一緒に死ぬことが出来なかったということではありません。ふたりは死ぬ前に髪を切り・尼法師(尼と法師)の姿になってこれで世俗からは開放されたわけですが、そこで改めておさんのことを思いやり・おさんを立てるということにな ります。髪を切るということは世俗とのしがらみを断つということを意味するだけでなく、「髪(かみ)=紙=神」の因果の律を断つということでもあります。そうした状況で も改めておさんのことを思いやるということは、やはり人間として意味のあることではないでしょうか。
『寺の念仏も切回向。「有縁無縁乃至法界。平等」の声を限りに樋の上より。「一蓮托生南無阿弥陀仏」と踏みはづし、しばし苦しむ。生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとくにて。次第に絶ゆる呼吸の道息堰きとむる樋の口に。この世の縁は切れ果てたり。朝出の漁師が網の目に見付けて「死んだヤレ死んだ。出会へ出会へ」と声々にいひ広めたる物語。すぐに成仏得脱の誓ひの網島心中と日毎に。涙をかけにける。』
近松が首を吊った冶兵衛の身体を『生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとくにて』と描くのは、その突き放したような表現に思わず背筋が寒くなってきます。しかし、臨終の苦しみを経ないと心中の至福(そういうものがあるならばですが)は得られないのでしょう。そのためにも死の 惨たらしい瞬間を凝視することが必要なのです。「すぐに成仏得脱の誓ひの網島心中と日毎に。涙をかけにける」を心中物の定型的な結びの文句であると言う説もあるようですが、そうではないでしょう。こ こでふたりが救われないのならば、観客も救われることはないのです。
魂の儀式
享保8年(1723・・「心中天網島」初演から3年後のこと)に幕府は心中事件物の出版・上演を禁止し、心中者の処置を厳しくすることとしました。心中物の禁止の背景には幕府のかぶき者対策が背景にありました。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)田中圭一著・「村から見た日本史」(ちくま新書328)は、村に残された古文書から・江戸の農村の生活の興味深いエピソードを掘り起こして、為政者の側から視点でのみ書かれがちな歴史の見方に一石を投じています。この本に次のようなエピソードが載っています。
同じ享保8年の4月、佐渡島・相川町で町人・伜伊右衛門と人妻はつが心中するという事件が起きました。村人たちは、この事件を「伊右衛門・おはつ心中紫鹿の子」という口説き節にさっそくにわか仕立てして、盆踊りの時に島中で踊ったそうです。 芝居や読本では心中ものが禁止されても・盆踊りならばいいだろうということのようです。厳密に言えば盆踊りも駄目だったようですが、お上も押さえられなかったのでしょう。次いで翌年には「与助・おさき」、元文4年(1739)には「馬之助・おさき」、寛保2年(1742)には「せんじろう・おさん」の心中が口説き節に仕立てられたと言います。この口説きの節が今の「相川音頭」として島に今も残っているそうです。口説き節というのは「段物」仕立てになっていて、ふたりの出会い・なれそめから最後までを切々と語ると一時間以上は掛かるという長大なものであったそうです。これに合わせて村人たちが踊る盆踊りはまさに「魂の儀式」であったのです。
このように・村で起きた心中事件を盆踊りの音頭に仕立てて村人が踊るというのは、際物的な興味からではないのはもちろんですが、たんに鎮魂のためだけでもなさそうです。ふたりの出会い・なれそめから最後までの物語を聞きながら、村人たちは心中したふたりの人生を疑似体験しているわけです。ふたりの本音に生きた人生がうらやましい・あんな風に生きたいものだと 村人たちが思ったわけではないでしょう。無残に死ななければならなくなる・あんな人生は送りたくないものだと思ったわけでもないでしょう。それは讃美でもなければ・否定でもない。しかし、村人たちは一生懸命に・ひたむきに生きた・そんな人生もあるのだということは思ったでしょう。それならみんなで送って(弔って)やろうかというのが佐渡の口説き節の盆踊りであったと思います。
面白いのは、天保の改革の時に・大変に規則に厳しいお旗本が奉行になって村にやって来たというので、今年は心中口説きはできそうにもないということになって、村人は散々考えたあげくに心中口説きをなんと「源平軍談」に変えてしまったという 話です。これは非常に興味深い話です。どうして「源平ばなし」が心中口説きの代用になるのか・・詰まらんな、と思うかも知れませんが、そうじゃないのです。心中話が源平ばなしに代わってしまうのは、じつはそれなりの内的必然があるのです。
相川町の盆踊りの「源平軍談」五段目では、自分の弓が波に流されたのを義経が危険を顧みずに取りに向かうのですが、後でお傍の者から「危ないことをして御大将が敵に討たれたらどうするのか・もったいない」と諌められた時に、義経は 「それは違う」と言って、次のように言います。
『弓を惜しむと思ふはおろか、もしや敵に弓取られなば、末の世までも義経は、不覚者ぞと名を汚さんは、無念至極ぞよしそれ故に、討たれ死なんは運命なり』
つまり、名誉を尊び・我が名を守るためなら命も惜しまないという武士の道理と、心中するふたりの男女が自分の信じるもの(アイデンティテーと言ってもいいし、自分の愛・誠ということもできます)のために命を捨てるという心中の論理とが重ねられているのです。これは両者に共通の心情・「かぶき的心情」が流れていることを意味します。だからこそ「源平ばなし」が心中口説きの代用になるのです。結局、島の人たちが盆踊りしながら感じているカタルシスというものは「 まったく変わらない」ということになるわけです。
心中することが・死ぬことが、村人たちにとって大事だったのではありません。その発端も遊女狂いであったり・不倫であったりするわけですが、それも大事なことではないのです。心中したふたりには何か大切なものがあって・それを大事にして・一生懸命に・ひたむきに生きたらしいということが重要なのです。村人たちは、かれらの惨たらしい人生に救いようのない絶対の孤独・生きることの厳しさを見ているのです。そして、彼らの人生に涙して・それを弔うことで自らも癒されるのです。近松の心中物の論理もこれとまったく同じです。
『私たち異国の学者が見る日本は綺麗過ぎる、歌舞伎の汚さ、日本文化の惨(むご)たらしさを凝視すべきだと三島はよく言っていた。最も日本的なのは心中だと言うので、私は反論した。西洋には「トリスタンと イゾルデ」があるではないかと。すると「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と彼に正された。その通りであった。』(E・G・サイデンステッカー)
トリスタンに泣くことがなくても・冶兵衛に対しては人は泣くのでありましょう。それは近松がそこに人生の厳しさ・惨たらしさを描いているからではないでしょうか。 
 
心中天網島5 / 「卍」 谷崎潤一郎

(谷崎潤一郎「卍」と谷崎から見た近松門左衛門「心中天網島」)
1
『あんまりぢや治兵衛殿。それほど名残惜しくば誓紙書かぬがよいわいの。一昨年の十月中の亥の子に炬燵明けた祝儀とて、まあこれここで枕並べてこの方、女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか。二年といふもの巣守にしてやうやう母様叔父様のおかげで、睦じい女夫らしい寝物語もせうものと楽しむ間もなくほんに酷いつれないさほど心残らば泣かしやんせ。その涙が蜆川へ流れて小春の汲んで飲みやらうぞ。エエ曲もない恨めしや』
近松門左衛門の「心中天網島」(享保5年・1720・竹本座初演)の中之巻・天満紙屋内の場での・有名な女房おさんのクドキの詞章です。「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」が特に有名で、 この箇所はいろんな場面で引き合いに出されます。上之巻(河庄の場)で遊女小春と別れることを誓った紙屋治兵衛は、それ以来・小春とは会っていませんが、恋敵である太兵衛に小春が身請けされるとの噂を聞かされて 炬燵に寝転がったまま涙を流します。その夫の姿を見ておさんが夫をなじって言うのが、このクドキです。「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」の詞章には、夫が他の女性に走って・愛してもらえないという女房の、怒りと嘆きと嫉妬など諸々の感情が渦巻いているのが生々しく表現されています。
この場面のおさんの心情はもちろん真実そのものです。しかし、「心中天網島」中之巻のドラマは女房おさんの怒りと嫉妬で身を焼いて・それが小春治兵衛の心中の引き金になるという風にはなっておらぬのです。女房に「恨めしや」と言われた治兵衛は、こう言います。小春のことは何ともないが、ライバルの太兵衛に小春が請出され、治兵衛が身上の終わりだの・金に窮したなどと大坂中に触れ回られて・生き恥をかくのが、胸が裂ける・身が燃えるほど悔しいと言うのです。これを聞いておさんはハッとして、「それなれば、いとしや小春は死にやるぞ」と言うのです。ここからドラマは急旋回して 行きます。おさんは夫に隠していた小春への手紙のことを打ち明けて、「ああ悲しや、この人(小春)を殺しては、女同士の義理立たぬ、まづこなさん早う行て、どうぞ殺してくださるな」と泣き出します。
実はおさんは小春に手紙を書いて・治兵衛と別れてくれと頼んでいたのです。それで「河庄」の場で治兵衛は小春と別れることになったのです。この事実をおさんがひた隠しにしていれば、その後・小春は独りで死んだかも知れませんが、冷えた関係であってもおさんと治兵衛の夫婦はずっと続いたかも知れぬということが想像されます。黙っていれば妻の座は守られるはずです。しかし、おさんはここで女同士の義理ということを突然言い出します。これが小春治兵衛が心中に至る引き金となるのです。( 急に夫の愛人への義理を言い出すおさんの変化が分からぬとよく言われるところですが、これについては別稿「女同士の義理立たぬ」で論じていますので・そちらをご覧ください。)つまり、「心中天網島」中之巻を見ると、有名なクドキでの女房おさんの心情というのはドラマの中核にあるものではなく、まあ何と言いますかね、そこに至る序(段取り)の部分ということです。それはクドキの心情がドラマとして取るに足らぬということではありません。むしろその心情が真実なるがゆえに、そこから導きだされたことが、本人が意図も予期もしない事態を引き起こしてしまうということなのです。
もうちょっと角度を変えて「心中天網島」中之巻を検証していきます。 太宰治の短編「おさん」(昭和22年・1947)を見ると、まさに中之巻の女房おさんのクドキの詞章が引かれています。
『あの昔の紙治のおさんではないけれども、「女房のふところには/鬼が棲むか/あああ/蛇が棲むか」とかいうような悲歌には、革命思想も破壊思想も、なんの縁もゆかりもないような顔で素通りして、そうして女房ひとりは取り残され、いつまでも同じ場所で同じ場所で同じ姿でわびしい溜息ばかりついていて、いったい、これはどうなる事なのでしょうか。運を天にゆだね、ただ夫の恋の風の向きの変るのを祈って、忍従していなければならぬ事なのでしょうか。』 (太宰治:「おさん」)
太宰治の短編「おさん」の上記の文章は近松の「心中天網島」関連の論文でもおさんの気持ちを表す表現としてよく引用されます。まあそれは解からぬことはないですが、太宰治の作意としてはそれより後の次の文章の方がより主人公の心情を表していると思いますねえ。治兵衛に小春を助けてやってくれと頼んで・「しかし金はどこに・・・」と夫に言われれば箪笥から蓄えたお金をサッと出してみせる女房おさんの気風(きっぷ)をよく表しています。自立した女房が自分のことは何にも言わず・ただニッコリと笑って「男を立てて来い」と言って夫を送り出すのです。つまり太宰治はとても太宰的な読み方で 、近松の「心中天網島」の核心を正確に言い当てているのです。
『他のひとを愛し始めると、妻の前で憂鬱な溜息などをついて見せて、道徳の煩悶とかをはじめ、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻をまったく忘れて、あっさり無心に愛してやってください。』 (太宰治:「おさん」)
紙屋治兵衛という男は、女房おさんにこのようなことを言われそうな、みっともない男なのです。浮気するなら、明るく楽しくパアッと後腐れなく楽しんでくださいよ。それを女房に申し訳ないとか・俺は悪いことしてるんだとかウジウジ罪悪感を感じながら浮気して も楽しまず、女房の前では御免なさいみたいな顔をして何だか卑屈な態度を取ってみせて・ちっとも晴れ晴れとしない。そんなに済まないと思うなら浮気をしなきゃいいのに、そのくせまたこそこそと浮気する。俺はしたくて浮気してるんじゃないんだ などと自分に言い訳してみたりする。バッカじゃなかろか。男なら明るく、正々堂々と浮気しなさいよ。これはまったく女房の言う通り、治兵衛は明るく浮気すればあんなこと(心中する破目)にならなかったのです。
ところが、あいにく治兵衛はそんなことが出来るような男ではなかったのです。明るく浮気できるような男ではなかったのです。常に女房に対する後ろめたさがつきまといます。 おさんが出来た女房だから、なおさら浮気して申し訳ないと感じるのです。身勝手のように見えるかも知れないが、そこに治兵衛という男の弱さと・優しさと、 まあ言うのも何だが、真っ正直さがあったということです。近松の世話物に出てくる男たちと・太宰の「おさん」に出てくる亭主 ・あるいは「人間失格」(1948年)に出てくる葉蔵などはその心情 ・感性が実によく似ているというわけです。思えば近松の世話物に出てくる男たち・徳兵衛も忠兵衛もは生粋の大坂生まれではなく・地方出身者です。つまりアイデンティティーがそこ(大坂)にない・精神的な根無し草なのです。「心中天網島」の治兵衛は大坂生まれ のようですが(作品でははっきりしませんが多分そうでしょう)、根本に大坂の商人気質になじめないものがあったのでしょう。そこが終戦直後の太宰治の精神状況のどこかに似るのかも知れません。そういうわけで近松世話物研究のために太宰治を読むことはとてもヒントがあること なのです 。
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『他のひとを愛し始めると、妻の前で憂鬱な溜息などをついて見せて、道徳の煩悶とかをはじめ、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻をまったく忘れて、あっさり無心に愛してやってください。』 (太宰治:「おさん」)
ここで指摘しておきたいことは、主人公の亭主に何となく罪悪感がつきまとっているということです。女房に隠れて浮気しているという罪悪感だけを言っているのではありません。この亭主は何となく自分の存在自体が罪だと感じているようなところがあります。「生まれてきてスミマセン・私は世の中の役に立たない人間です・こ こにいて申し訳ありません」という感じがつきまといます。これは太宰治の主人公によくあるパターンなのはご存知の通りです。太宰の罪悪感がどこから来ているかは本稿の論じるところではありませんけれど、「心中天網島」の治兵衛を見ていると確かに同じ様な罪悪感が感じられるようです。太宰はそこのところを実に正確に突いているのです。だからこの短編のタイトルが「おさん」なのです。
もちろん時代が全然違う治兵衛の事情は太宰とまったく異なります。近松の心中物にはそれ特有の事情があるのです。元禄の大坂商人の世界というのは、暗黙のうちに大坂商人にふさわしい振舞い方・作法・規律みたいなものがあって、その範囲のなかでやっている時は自由なのですが、いったんそれからはずれたことをすると厳しい制裁が待っているという世界です。元禄の商人世界はちょっと仁侠の世界みたいなところがありました。治兵衛も(徳兵衛も忠兵衛もですが)、そのような大坂商人の世界に何となく付いて行けないと感じているのです。治兵衛は大坂商人であり・その世界で生きているのですから、そこに本来彼のアイデンティティーはそこにあるはず(あるべき)です。しかし、彼は自分はそれを裏切っていると感じているのです。ということは治兵衛の本当のアイデンティティーは別のところにあるのかも知れませんが、治兵衛はそう は考えないのです。大坂商人のコミュ二ティーから離脱するなどということは治兵衛に到底考えがつかないことです。治兵衛は自分が大坂商人のあるべき姿(イメージ)を裏切っていると感じています。治兵衛は自分が本来あるはず(あるべき)のところにこだわっています。それが治兵衛の罪悪感を駆り立てています。
本稿は『谷崎潤一郎:「卍」論』であるはずですが、冒頭が近松門左衛門であり・太宰治になっているのが変に思うかも知れませんが、実は谷崎作品の主人公においても自分が本来あるはず(あるべき)のアイデンティティーを裏切っているという罪悪感があるということをまず確認してから「卍」論を進めたいわけです。(注:もちろん谷崎作品の主人公の罪悪感の源は、近松とも太宰とも異なるものです。しかし、罪悪感ということなら同じです。そのことは本論の以後で論じていきます。)
例えば小説「蓼喰ふ虫」(昭和3年・1928)の主人公斯波要はバートン版の「アラビアン・ナイト」の英訳初版本を入手し・その注釈を読みながら、「アラビアン・ナイト」を最初に紹介したレーンが世間から擯斥(ひんせき)された」という記述を見つけて「とうとう見付けたな」と思います。このことは別稿「生きている人形〜谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」論」に詳しく触れましたからそれをお読みいただきたいですが、要は妻美佐子に対して、試験的かつ段階的に彼女を恋人阿曾に譲渡する為の五つの条件を切り出し、2年間付き合ってみて阿曾と巧く行きそうになければ戻っても良いとか・何だか彼女の意志と判断を尊重しているのように見せながら、世間に知られれば間違いなく不道徳・不謹慎だと糾弾されるようなことをしています。世間の常識感覚・ここで吉之助は「小市民感覚」と言う言葉を使いたいところですが、それに反したことを自分がしていることを要は自覚しているのです。つまり、要は小市民の本来あるはず(あるべき)姿を裏切っているのです。そして、そのことで自分は擯斥されねばならない・罰を受けなければならないと感じているのです。そうした感覚が谷崎の「蓼喰う虫」の通奏低音として流れているのです。それが分かれば「蓼喰う虫」のなかの揺れる感覚の源泉も分かってきます。
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前項で「小市民」という言葉を使いました。今はほとんど使わない言葉で定義はちょっと曖昧なところがありますが、ここでは中産階級ということに規定しておきます。小市民感覚というのは、金持ちというわけではないけれど、一応生活に不足はないだけの収入はあって、真面目に道徳・法律を守って慎ましく生きている一般市民のノーマルな生活感覚ということです。
「痴人の愛」(大正13年)は、主人公河合譲治がナオミというカフェの女給を自分好みの人形に仕立てようとしますが、逆に人形遣いが人形に操られてしまうが如くに、ナオミの肉体の奴隷として生きていく羽目に陥るという倒錯的なストーリーです。世間 からは変態小説とも呼ばれており、どうしても興味は主人公のマゾヒズムの方に行 き勝ちです。まあそういう読み方ももちろんあるのですが、ちょっと視点を変えて見れば、主人公河合譲治は小市民としての本来あるべき姿を裏切っており、主人公はそのために罰を受けるという見方もできるわけです。 主人公が罰せられる結末に落ち着くことで、この小説は世間に受け入れられるものになっているのです。大事なことは、主人公は「ノーマルな」小市民としての生活にどこか適応できないものを感じており、その閉塞感から逃避する為に 若い娘を自分好みの人形を仕立てるという隠微な楽しみに自己開放を見出そうとするのですが、その一方で本人はそれが小市民としてのルールからはみ出た不道徳で糾弾されるべき 行為であることを本人は重々承知しているということです。だから、こんな不適応で・小市民失格の自分はいずれ何か罰を受けなければならない身であると何となく感じているのです。隠微な個人的なお楽しみには罪の意識がつきまとっています。罪の意識があるから、なおさらお楽しみの味わいが増すということもあります。自分は罰せられるために隠微なお楽しみに走るのか、隠微なお楽しみをするからこんな罰を受けねばならぬのか、いつしかその辺のところが自分でも分からない倒錯状態になっていきます。(ところで小説に社会不適合の主人公の悩みなり苦しみが書かれてないじゃないかと言う方がいそうなので言っておきますが、それは時代の空気としてあるものですから、同時代の読者にそんな自明のことをわざわざ書く必要などないから書いてないだけですね。)
ですからナオミに奴隷として扱われるのが主人公の喜びであるというのは本当はちょっと違っていて、ナオミに奴隷として扱われるのは主人公にとっても苦痛には違いないのです。苦痛ではあるけれども、その苦痛はいずれ自分が受けねばならないと内心望んでいた罰であることも本人は承知しているのです。主人公はノーマルな小市民としての生活にどこか居心地の悪いものを感じており、自分は社会で慎ましく真面目に生きていくべきだと信じているにも係わらず、それがどうも巧くいかない・心地が良くない 。だからそのことで自分は小市民として失格の人間だと思って自分を責めているのです。河合譲治の場合、その鬱屈はたまたまナオミというカフェの女給を自分好みの人形に仕立てようという不道徳になって現れます。それは人によっては酒や博打・あるいは粗暴な振る舞いになって現れることもあるし、それは状況によっても異なります。いずれにせよ、それは世間に罰せられねばならないことだということを河合譲治は承知しているのです。
ところで「ここは自分の居場所ではない・これは自分の生きるべき時代ではない」という思いは、元禄のかぶき者の「生き過ぎたりや」と同じような感覚なのです。「歌舞伎素人講釈」ではこれが歌舞伎という演劇の根本にある思いであるということをずっと考えてきました。かぶき者というのは、江戸初期のならず者・粗暴な振る舞いをする者たちのことを言いました。かぶき者の生態は直接的には助六など江戸荒事のなかに取り入れられています。しかし、同時代であっても興味深いことに、上方においてはそれは和事という現れ方をします。表面的な感触は異なりますが、江戸荒事と上方和事は実は同じ時代の空気から生まれたものであり、その根源は一緒です。(この点については「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」でリズム面からの検証をしていますから、そちらをご覧ください。)
近松の心中物の主人公たちが助六のような粗暴な振る舞いをしない(できない)のは、ひとつには江戸と上方という地域的な感性の違いもありますが、それよりも当時の大坂の商人社会が江戸よりも社会組織としてはるかにしっかり固まっている為に、その分だけ個人は社会に強く組み込まれていて容易に身動きがし難いということがあるのです。「心中天網島」の治兵衛も、大坂の商人社会になじまず、自分は大坂商人として失格だと思っています。それが治兵衛が小春にのめりこんでいくことの発端となります。そして、いつか自分は世間に罰せられねばならぬことを治兵衛は分かっているのです。やがてそれは小春との心中ということになります。
翻って谷崎潤一郎の「痴人の愛」・「蓼喰う虫」のことを考えますと、主人公(河合譲治・斯波要)がそれが不道徳な行為であることを自覚しつつ隠微なお楽しみに走るのは彼らが小市民生活に居心地の悪さを感じているということは先に考察した通りですが、大正・昭和初期においては国家社会の個人への締め付けというものは元禄の昔よりもはるかに複合的・かつ圧倒的に強くなっているのです。国家社会が求める ・あるべき市民像というものが厳然としてあるのです。そのような状況では、個人は蔭に隠れてシコシコと隠微なお楽しみに耽ることくらいしか出来ない。せいぜいそのくらいが 小市民が出来る不道徳の関の山ということになります。ですから吉之助は谷崎文学の変態マゾヒズムというのは、自分が苛められたいという作者の積極的な喜びであるという風に読めないのです。もう少し屈折した感覚に読みたいと思うのですね。
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谷崎潤一郎の小説「卍(まんじ)」は昭和3年3月から昭和5年4月にかけて雑誌「改造」に断続的に掲載されたものです。同じ時期の谷崎の重要な小説として「蓼喰う虫」がありますが、こちらは大坂毎日新聞に昭和3年12月から昭和4年6月にかけて連載されました。従って、「卍」は「蓼喰う虫」より先に構想着手されて、やや遅れて完成した 小説だということです。「卍」の執筆時期に重なるものとしては、「蓼喰う虫」の前後にそれぞれ「黒百」と「乱菊物語」が位置しますが、とりあえず本稿では「卍」と「蓼喰う虫」との関連を考えます。
ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第6番「田園」が同時期に書かれ・互いに対をなす存在であるように、時期を同じくして書かれた作品というのは何らかの形で関連・あるいは補完関係を成すことが あるものです。もちろんいつでもそうだと言うわけではないですが、それが作品解釈のヒントになる場合が結構あります。吉之助も現在谷崎潤一郎と折口信夫の作品論を並行して書いていますが、実は吉之助のなかではふたつのテーマが相互関連し補完し合っています。お読みになる方は多分お感じにならないと思いますが、吉之助自身はこのことを明確に意識して書いています。まあそのうちに関連がはっきり見えてくるかなと思います。
「卍」と「蓼喰う虫」の同時代的な関連を指摘した評論はいくつかありますが、そのなかでは千葉俊二氏の評論が示唆があるものでした。その評論は谷崎潤一郎『蓼喰ふ虫』作品論集 (近代文学作品論集成 (13))(クレス出版)に収められている「女房のふところ」(初出は昭和51年)です。ここで千葉氏は、『「蓼喰う虫」で「心中天網島」について書く作者の念頭に、それと並行して書いていた「卍」の存在がまったくなかったとはとても考えられない』として、「蓼喰う虫」で主人公斯波要が「心中天網島」を描写する場面で、ここにある小春を光子(「卍」の副主人公)に置き換えてみれば、それはそのまま「卍」の説明文になると書いています。引用されているのは「蓼喰う虫」の次の文章です。
『此れだけの人間が、罵(ののし)り、喚(わめ)き、啀(いが)み、嘲(あざけ)るのが――、太兵衛の如きは大声を上げてわいわいと泣いたりするのが――みんな一人の小春を中心としているところに、その女 の美しさが異様に高められていた。なるほど義太夫の騒々しさも使い方に依って下品ではない。騒々しいのが却って悲劇を高揚させる効果を挙げている。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その3)
もうひとつ千葉氏が指摘していることで興味深い事実は、「卍」構想が始まる少し前と思われる昭和2年3月1日に大阪・道頓堀の弁天座で「心中天網島」・「本朝廿四孝」など の演目を、谷崎が芥川龍之介・佐藤春夫・里見ク・久米正雄らと一緒に見たということです。この面々が集まったのは前日の大阪で改造社主催の文学講演会があったからだそうです。芥川龍之介はこの時のことを次のように書いています。
『僕は谷崎潤一郎、佐藤春夫の両氏と一しよに久しぶりに人形芝居を見物した。人形は役者よりも美しい。殊に動かずにゐる時は綺麗である。が、人形を使つてゐる黒ん坊と云ふものは薄気味悪い。現にゴヤは人物の後に度たびああ云ふものをつけ加へた。僕等も或はああ云ふものに、――無気味な運命に駆られてゐるのであらう。……』(芥川龍之介:「文芸的なあまりに文芸的な」〜近松門左衛門・昭和2年)
ちなみに芥川龍之介の自殺は同じ年の昭和2年7月24日のことで、上記の文章にも当時の芥川の神経衰弱的な状況が伺えます。しかし、別稿「生きている人形〜谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」論」でも触れましたが、20世紀初頭の 芸術思潮というのは人間という存在を自分の意識しないところの何かによって縛られ・動かされる人形に過ぎないと見たのです。谷崎潤一郎がそうであったし、芥川龍之介もまたそうであ ったわけです。 文楽の人形がふたりの作家に同じような印象を与えていたことが分かります。
昭和2年3月1日に弁天座での「心中天網島」観劇での印象が、「蓼喰う虫」のなかの・老人に誘われて要・美佐子の夫婦が弁天座で「心中天網島」を見る場面に 直接的に取り入れられたことは明らかです。それでは同時期の「卍」に「心中天網島」がどのように関連しているでしょうか。後段ではそのことを考えていきたいと思います。
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『此れだけの人間が、罵(ののし)り、喚(わめ)き、啀(いが)み、嘲(あざけ)るのが――、太兵衛の如きは大声を上げてわいわいと泣いたりするのが――みんな一人の小春を中心としているところに、その女 の美しさが異様に高められていた。なるほど義太夫の騒々しさも使い方に依って下品ではない。騒々しいのが却って悲劇を高揚させる効果を挙げている。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その3)
道頓堀の弁天座で「心中天網島・北新地河庄の段」の舞台を見ながら、主人公斯波要はこんなことを考えています。この箇所には考える必要のあるポイントがいくつかあります。まずそのひとつは、大阪弁の持つ騒がしさと・それに対する主人公の嫌悪感のことです。上記引用箇所のすぐ後になりますが、要はこんなことを考えています。
『要が義太夫を好まないのは、何を措いてもその語り口の下品なのが厭なのであった。義太夫を通じて現れる大阪人の、へんにずうずうしい、臆面のない、目的のためには思う存分な事をする流儀が、妻と同じく東京の生まれである彼には鼻持ちがならない気がしていた。(中略)兎に角義太夫の語り口には、この東京人の最も厭う無躾なところが露骨に発揮されている。いかに感情の激越を表現するのでも、ああまでぶざまに顔を歪めたり、唇を曲げたり、仰け反ったり、もがいたりしないでもいい。ああ迄にしないと表わすことのできないような感情なら、東京人はむしろそんなものは表わさないで洒落にしてしまう。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その3)
ここに東京生まれの谷崎の大阪弁に対する感じ方がそのまま現れています。随筆「私の見た大阪及び大阪人」(昭和7年・1937)を読んでも、まったく同様のことがそこに出ています。大阪弁の持つ騒がしさと下品さ、その会話に現れる大仰で無遠慮な感覚、そのようなものに谷崎は何となく嫌悪感を抱いているのです。これは多くの東京人が大阪弁に対して持つ印象なのだろうと思います。吉之助は関西生まれなので・関西弁のニュアンスは聞き分けられますが、東京での生活の方がずっと長いので・もは や自分が関西人であるとは申せません。だから谷崎が言いたいことも十分理解できます。まあ東京人がそう感じるのも無理はないとは思います。
後に谷崎は「細雪」を書いて登場人物に関西弁をしゃべらせています。だから長い関西での生活のなかで谷崎はいつしか関西弁のニュアンスの美しさ・あるいは日本の伝統美に目覚めたのである・・などとよく言われます。しかし、吉之助に言わせればそれは作品を表面的に見ればそう見えるだけのことです。人間というものは誰でも段々慣れてきますから・いつもそうだったとは言えないと思いますが、最初に感じた関西弁に対する嫌悪感は谷崎のなかに生涯残ったに違いありません。そして何かの拍子に「・・これだから俺は関西が厭なんだ」とその感覚が蘇るということが時折りあったかもしれません。
谷崎潤一郎は明治19年東京・日本橋の生まれです。谷崎が関西へ定住するきっかけは大正12年の関東大震災でした。谷崎は一時逃れのつもりで関西に避難したのですが、そのまま関西に居つくことになりま した。昭和3年から昭和5年にかけて執筆された小説「卍」では主人公園子が事件の顛末を大阪弁で語るという形で綴られています。正確にはいきなり谷崎が原稿を関西弁で書いたのではなく て、谷崎が粗稿を書いて・次に知り合いの関西女性に文章を関西弁に直してもらって・これを谷崎が推敲して最終原稿に仕上げるという制作過程を経たようです。この時期の谷崎が関西弁に対する嫌悪感覚から離れていたということは有り得ないことです。それは同時期の「蓼喰う虫」を読んでも明らかです。だから谷崎が「卍」の全編を関西弁に彩ったのは完全に意識的にやった ことです。
谷崎は自分の根本に持っている大阪弁に対する嫌悪感覚を逆利用しようとしたのです。関西人の持つ騒がしさと下品さ・その大仰さ・無遠慮さ、そのような材料を全部まるごと作品のなかにぶち込もうとしたわけです。すなわち、ぶざまに顔を歪めたり、唇を曲げたり、仰け反ったり、もがいたりしないと表わすことのできないような人間の実相を、洒落にしていまうことなく・ありのままに表現するということです。そのために東京人の作家谷崎が関西弁が必要であると感じたということです。「卍」の内容は東京弁で書くならば、主人公の赤裸々な告白が洒落に落ちてしまって真面目に受け取られないか、逆に過度にシリアスに受け取られればとんでもなく不道徳だと社会から糾弾されかねない内容です。関西弁で書くならばそこをちょうど良い塩梅に収めることができるということです。それが小説「卍」での谷崎の実験でした。
関西での生活が続き・「卍」での実験なども効を奏して、谷崎は関西弁のニュアンスを次第に聞き分けられるようになっていきます。そうやって出来た作品が「細雪」(昭和19年〜昭和23年)なのです。「細雪」での関西弁はしっとりと落ち着いて美しいと巷間評されますが、実はそこにも関西に対する嫌悪感覚が底流にあるのです。それは ひとつには「細雪」のなかで綴られるエピソードのある種の軽妙さ・ユーモア感覚として現れますが、その底にあるものは実は関西人の持つ騒がしさと下品さ・その大仰さ・無遠慮さということなのです。関西人の生態を冷静に観察している東京人・谷崎がそこにいます。まあ「細雪」については機会を改めて触れることにします。「心中天網島・北新地河庄の段」に話を戻しますが、ここに出てくる登場人物たちはみなワイワイと騒がしい。言うことは下品で、その動作の大仰なこと・無遠慮なこと。ところがそのような周囲の騒がしさが、真ん中でじっとうつむいたまま動かない小春の美しさを異様に高めているのです。周囲の騒がしさは、実は小春の静寂さを高めるためにあったのです。そして小春をじっと見詰めていると、その騒がしさは消えていくのです。そして静寂さだけが要の印象のなかに残っていきます。義太夫の・大阪弁の騒がしさ・下品さが要のなかで気にならなくなっているということです。
ここで大事なことは、「大阪弁の騒がしさ・下品さが要のなかで気にならなくなっている」ということは、要にとって大阪弁が騒がしく下品なものでなくなったということを意味しないということです。要にとって大阪弁は間違いなく騒がし く下品なものです。これは動かしようがない感覚です。しかし、ここではそれが気にならないということは、「北新地河庄」のなかで大阪弁の騒がしさ・下品さが、ドラマを描き出す・すなわち小春の寂しさを描き出すための材料として必要不可欠なものとなっているということです。だから要としてはこの場面の大阪弁の騒がしさ・下品さを受け入れざるを得ないということです。
「北新地河庄」のなかで小春の座っている場所だけが虚なのです。小春は確かにこの芝居の中心なのですが、そこに質量はなく・中空のように感じられます。小春の周囲で・登場人物たちがまるで雲のように、いろんなものが騒がしい音やら熱やら発しながら・目まぐるしく回転をしています。そのなかで小春はひたすら静寂を保ってい ます。小春の美しさだけが要のなかの印象として残ります。この時点の要はそのような文楽の芸の不思議さにちょっと興味を覚え始めた段階に過ぎません。どうして自分がそのようなもの、それまで嫌悪感を抱いていたものに 何故気が引かれるのか、要は自分でもその理由が分からないでいます。
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「北新地河庄」の場では治兵衛や孫右衛門・太兵衛といった人物が入れ替わり立ち騒いで・ドラマが展開しますが、そのなかで小春はじっと思い沈んだままです。小春の座っている場所だけが虚なのです。斯波要は文五郎の遣う小春の人形を見ながら、そのような小春に異様な美しさを感じています。
『此れだけの人間が、罵(ののし)り、喚(わめ)き、啀(いが)み、嘲(あざけ)るのが――、太兵衛の如きは大声を上げてわいわいと泣いたりするのが――みんな一人の小春を中心としているところに、その女の美しさが異様に高められていた。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その3)
小春の美しさが際立つのは、騒々しい大阪弁の渦のなかで・小春だけが異様な静寂を保っているからです。騒音の渦のまっただなかに小春はいますが、小春は騒音の埒外です。しかし、小春は何を思いつめてじっと動かないのでしょうか。観客には最初はその理由がよく分かりません。治兵衛の方は小春が心変わりをしたと誤解して、小春の不実を責めて、罵ったりします。小春は苦しそうにしますが、申し開きをする気配を見せません。しかし、やがてそれは小春に届いた手紙の主に義理立てた行為であ るらしいことが観客には明らかになってきます。(治兵衛は最後までその真相が分からぬままです。)つまり、舞台上で視覚的に小春はドラマの中心に位置するのですが、実は「河庄」の場では中心が もうひとつあることになります。ひとつはもちろん小春ですが、もうひとつは手紙の主・治兵衛女房おさんのことです。おさんは「河庄」に登場しませんが、実はそのドラマ空間のなかにしっかりとした位置を占めています。それが登場人物たちの心理行動に非常に強い影響を与えているのです。つまり、治兵衛が小春と別れる・切れると大騒ぎしているのも、結局、おさんの仕掛けたものだということです。
物理学の法則に拠れば、中心がひとつである時・その周囲を旋回する物体は円弧を描きます。(正確に言うと離れようとする力と・近づこうとする力が等しい場合です。)一方、中心がふたつある場合にはその軌跡は楕円を描きます。つまり、旋回する物体はひとつの中心を離れたり・近づいたりを繰り返すように見えます。このような楕円のイメージで治兵衛の行動を見れば、「河庄」の場のドラマ構造がはっきりと見えてきます。治兵衛は小春に悪態をついて「思い切る」と宣言したかと思えば、未練がましく「ちょっと言う事がある」と近づいてみたりします。優柔不断で思い切りが悪いのが和事の演技であるように現代では思われていますが・実はそうではなく、別れるという気持ちも・一緒にいたいという気持ちも、その時その時の局面の治兵衛の真実としてある感情なのです。治兵衛の心情は引き裂かれているのです。このことは「河庄」に中心がふたつあることで理解することができます。治兵衛が小春から離れたり・近づいたりするのは、実は舞台で見えないところにあるもうひとつの中心からの引力のせいです。宇宙のなかには二重星という存在があります。二重星にもいろんなタイプがありますが、互いの星が引き合って軌道を描いている星(恒星)を連星と呼びます。このような連星に、もし惑星があるとするならば、その惑星は傍からみれば予測もつかないフラフラした不思議な軌道を描くことになります。治兵衛の言動行動はそうしたものです。
一方、次の場にある「天満紙屋内」の場(ただし「蓼喰う虫」で斯波要が見たのはその改作である「時雨の炬燵」ですが)においては、逆に小春はこの場に登場しませんが、小春の存在が登場人物たちの行動に強い影響を与えていることが分かります。おさんが「それなればいとしや小春は死にやるぞや」が言った途端に様相が 急に変化して、ドラマは小春との心中の方向へ転げ落ちるように展開していきます。この場においてもドラマの中心はもうひとつあったのです。つまり、舞台にいない小春のことです。ドラマは舞台で見えないところにあるもうひとつからの強い引力によって起きます。(これについては別稿「女同士の義理立たぬ」をご参照ください。)網島大長寺における心中の場でも冶兵衛・小春は一緒にすぐ死ぬわけではなく、ここではおさんの存在がドラマに影響を与えます。冶兵衛と小春が同じ場所で死顔並べて死んでは・おさんに対して「冶兵衛を死なせないために思い切る」と返事した手紙に対し嘘をつくことになる・だから別の場所で死んでくれと小春は言うのです。(これについては別稿「惨たらしい人生」をご参照ください。)
つまり、近松の「心中天網島」ではおさんと小春のふたりがその三場には常にどちらか片方がいませんが、片方がその場にいなくとも・決定的な強い場の捻じれをそのドラマに与えていているのです。それほどにおさんと小春の絆(きずな)が強いということです。このことが「心中天網島」のドラマ構造の特徴です。だとすれば「心中天網島」というのはふたりの女たちが互いに引き合うドラマなのです。その周囲を旋回する男たちの行動は、ふたりの女たちの作り出す引力の影響によって、観客から見ればそれは混乱し・迷走した奇妙かつ滑稽な動きに見えるのです。
小説「蓼喰う虫」とは見方を変えれば谷崎潤一郎の書いた文楽人形論であるということを、別稿「生きている人形〜谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」論」で論じ ました。「蓼喰う虫」での要の観察は文楽人形の機能についてのものです。人間というものは時代と社会という大きな流れのなかで外側から動かされ、一方で情念や衝動といった内面からも動かされる人形のようなものではないかというのが、二十世紀初頭の芸術思潮のなかで創作活動を続ける谷崎潤一郎が書いた「蓼喰う虫」 の主題です。したがって、小説「蓼喰う虫」は昭和2年3月1日に谷崎潤一郎が弁天座で見た「心中天網島」の舞台の印象を文楽人形の機能面において生か したものだということです。一方、「心中天網島」のドラマ面においての谷崎の考察は小説「卍」の方に生かされることになります。
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『此れだけの人間が、罵(ののし)り、喚(わめ)き、啀(いが)み、嘲(あざけ)るのが――、太兵衛の如きは大声を上げてわいわいと泣いたりするのが――みんな一人の小春を中心としているところに、その女の美しさが異様に高められていた。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その3)
「北新地河庄」の場ではすべての登場人物が小春を中心に動いていると斯波要は感じています。しかし、それは谷崎潤一郎の作中人物の話であって、これは谷崎潤一郎が同じように 舞台を見て感じたということにはなりません。それは作者の設計であるかも知れないということを考えねばなりません。事実「蓼喰う虫」においては斯波要がどうして文楽に惹かれるのか・その理由が自分でよく飲み込めていないまま・老人に誘われて淡路人形を見に行ったりしながら、最後の場面でそのことを思い知ることになります。「蓼喰う虫」は谷崎潤一郎が弁天座で見た「心中天網島」の舞台の印象を文楽人形の機能面から考察したものだと言えます。それは人間とは内なる衝動に突き動かされるだけの生きている人形にすぎないのだという二十世紀初頭の人間理解と重なってい ます。 斯波要は最後にそのことに気が付きます。「蓼喰う虫」はそのような設計の下で書かれているのです。(別稿「生きている人形〜谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」論」をご参照ください。)
「心中天網島」では、「河庄」でも・「時雨の炬燵」でも、おさんと小春のふたりがその場には常にどちらか片方がいませんが、片方がその場にいなくとも・決定的な強い場の捻じれをそのドラマに与えていているのです。「河庄」はすべての登場人物が小春を中心に動いているのではなく、実はその場に見えないおさんという・もうひとつの中心があって、ふたつの中心が引き合うことによって・周囲の人物は予想もできない不思議な軌跡を示すのです。その不思議な軌跡はふたつの中心(小春とおさん)がある意図を以って・そのように仕掛けたものではありません。ドラマは当のふたつの中心が思いも寄らない方向へ動いていきます。彼ら (小春治兵衛)は初めから心中したかったわけではないのです。しかし、あれよあれよという間に心中の方向にドラマが傾いていきます。そうなってしまうと心中へのドラマの流れを登場人物の誰もが止めようがないのです。パワー・バランスが何かの拍子に一気に崩れたとしか言いようがありません。そのような崩壊は「心中天網島」に中心がふたつあ ったから起こるのです。それほどにおさんと小春の絆(きずな)が強く・互いを強く引き合っているということです。このことを谷崎潤一郎ほどの目利きが看破しなかったはずがありません。
小説「卍」は主人公・若い人妻園子が技芸学校で出あった光子と同性愛関係に陥る・レズビアン小説とも言われています。谷崎は世に変態作家と言われているくらいです。吉之助はその見方を別に否定するつもりはありません。名作はどんな読み方もできる・お楽しみはそれぞれのことですから、そう思う方はそのようにお読みになれば良ろしいことです。しかし、表向きはそのような刺激的な体裁を取りながら、実は谷崎はとても冷静に登場人物たちが自分勝手に動き出すのを見詰めているように感じられます。それは人形を背後から操る人形遣いの目の如きです。これは筆任せに書いているよう に見えても作者なりの制御は当然しているもので、筋がどのように展開するかは予想がつかないけれども、筋というものは作中の園子と光子というふたつの中心が互いに引き合う力関係から生まれてくるのです。谷崎はふたりの主人公が生み出すパワー・バランスの微妙な変化を感じ取りながら書いているのです。
谷崎自身の回想でも「蓼喰う虫」は割合スンナリと筆が進んだようですが、同時期に並行して書かれた「卍」の方は難渋したようです。雑誌に連載された時もたびたび休載をしていますし、単行本へ移行する際にも筋の変更が大幅に加えられたようです。しかし、「卍」のその1には、作者註として「柿内未亡人はその異常なる経験の後にも・・・」という箇所があって、明らかに園子の夫はその時点で死んでおり・小説は柿内未亡人の異常なる経験を回想する 形で展開し・彼女の夫の死はその異常なる経験と深い係わりがあることが、そこに示唆されています。つまり、光子観音を中心として柿内夫婦が三人心中を行ない・園子だけがひとり生き残るという「卍」の結末は、最初から動かせない結末と決めたうえで谷崎が創作を開始したことは明らかです。「卍」は三人心中の結末に向かって動いており、その途中の筋がどのように変わろうが作者には些細なことだったのです。この時、谷崎が「心中天網島」を念頭に置いていたことは疑いのないことです。
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「天満紙屋内」の場で太兵衛に小春が請出されるという噂を聞いて・炬燵のなかで治兵衛がすすり泣きます。これを女房おさんがなじると、これに対して冶兵衛は「女には未練がないが、太兵衛に商売仲間に悪口を言われて生き恥をかく、それが口惜しい無念だ」と言います。ここで冶兵衛が訴えてるのは「男の一分(いちぶん)」ということです。この冶兵衛の言葉を聞いて、おさんは意外な反応を示します。『はっとおさんが興さめ顔、ヤアハウそれならばいとしや小春は死にやるぞや。』 もちろん冶兵衛には何のことか分かりません。『ハテサテなんぼ利発でも、さすが町の女房なの。あの不心中者、なんの死のう。』 冶兵衛はそう言って一笑に伏すのですが、そこでおさんは一生言うまいと思った秘密を夫に打ち明けます。このままでは冶兵衛が死ぬと見たおさんは小春に手紙を書いて、「女は相身互いごとだから・思い切れないところを思い切って・夫の命を助けてくれ』と訴えます。その手紙を読んだ小春が「身にも命でも代えられない大事の人だか・引くに引かれぬ義理から思い切る」と返事をよこしたのです。その小春が金づくで太兵衛に請け出されようとされているなら・きっと小春は死ぬに違いないとおさんは直感したのです。
ここでおさんが『悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て・どうぞ殺してくださるな』と突然言い始める心理が、「どうも理解できない」とよく言われるところです。妻の座にいるおさんが憎んでも飽き足らない遊女のことなど気に掛けることはないはずだというのが、現代人の思うところです。しかし、これはこのように考えれば良いと思います。大坂商人である冶兵衛が「男の一分」を大事にしているように・おさんにも「女の一分」があるのです。「女同士の義理」とは何でありましょうか。「女は相身互いごとだから・思い切れないところを思い切ってくれ」と必死で頼んだ・自分の訴えを聞いてくれた人であるから・その人がまさに死のうとしている危機を自分は見過ごすことはできないということです。大事なことは、おさんと小春の間にある義理は大坂商人である冶兵衛という存在を介して社会的な意味を有するということです。冶兵衛という男性個人ではなく、大坂商人である冶兵衛です。
おさんが小春への手紙にどんなことを書いたのかは本文では分かりません。しかし、おさんは妻の立場から夫と別れてくれ・夫を返してくれという願いを書いたのではないだろうと吉之助は考えます。「冶兵衛が仕事を放り出してしまってこのままでは紙屋の商売が続かないこと・それでは大坂商人である冶兵衛の面目が立たない」ということをおさんは書いたのだろうと推測します。だから小春は「身にも命でも代えられない大事の人だ が・引くに引かれぬ義理から思い切る」と返事をよこしたのです。それは何故かと言えば、小春が愛するのは冶兵衛という男性個人という以上に大坂商人である冶兵衛だからです。つまり、小春とおさんというふたりの女性は「大坂商人である冶兵衛を愛する私たち」という連帯感で結ばれていることになります。それがおさんの言う女同士の義理ということです。
「そうは言っても小春を身請けする金がどこにあろうか」と思案する冶兵衛の前で、おさんは「ノウ仰山な、それで済まばいとやすし」と言ってその場に新銀四百目を投げ出して夫を驚かせます。さらに「箪笥をひらり」と開けて鳶八丈などの着物を取り出します。ここでのおさんは、夫の恥をすすぐのと・女同士の義理を果たすということで一種の興奮状態になっています。それが「箪笥をひらり」という描写に表れています。
一方、「網島大長寺・心中の場」では冶兵衛・小春はすぐ死ぬわけではなく、ここでも義理の問題が絡んできます。冶兵衛と小春が同じ場所で死顔並べて死んでは・おさんに対して「冶兵衛を死なせないために思い切る」と返事した手紙に対し嘘をつくことになる・だから別の場所で死んでくれと小春は言うのです。ここで小春が主張することも「どうも理解できない」とよく言われ る所です。これは小春が冶兵衛と一緒に死ぬのを拒否しているのではないのです。この場に及んでは大坂商人・紙屋冶兵衛の 「男」を見せるには心中してみせるしかないわけですから、小春はもちろん喜んで冶兵衛と心中するつもりです。しかし、それでもおさんとの約束が引っ掛かります。おさんに「思い切る」と返事したのを裏切ることになる ・だから一緒に死ぬけれども・別の場所で死にたいということです。ここで小春も・おさんと同様に女同士の義理を主張しているのです。誤解してはならないのは、この心中直前においての「義理立て」は世間に対してするものではないということです。冶兵衛と小春が一緒に死ぬのを世間が許さないということではありません。 世間に対して小春が怯えているわけでもない。小春は「世の人千人万人より。おさん様ひとりのさげしみ。』とはっきり言っています。
「心中天網島」に見られる小春とおさんの女同士の義理は女の友情と言えるかも知れませんが、それ以上にもっと強く、もっと心情的に熱い要素があるようです。そこに大坂商人である冶兵衛という存在が介在しますが、これは女の恋愛に近いものに感じられます。小春とおさんを擬似的なレズビアンと断定することは出来ませんが、まあ似たような感情がふたりに通っていることは明らかです。繰り返しますが、そこには大坂商人である冶兵衛という存在(アイデンティー)が介在しており、それゆえその感情は社会的な裏付けを持ちます。だから女同士の義理ということになるのです。「心中天網島」で近松門左衛門が訴えたいことはそこにあるのですが、逆に言えば社会的な裏付けを取り去ればレズビアンととてもよく似た感情であるということも言えます。
昭和2年3月1日に谷崎が弁天座で見た「心中天網島」の舞台の印象は、そのような形で谷崎のなかに取り入れられていくのです。もちろん、谷崎は「心中天網島」のなかのシチュエーションを自らの小説「卍」のなかにそっくりそのまま移し変えたわけではありません。凡庸な作家ならばともかく・そのようなことは大谷崎にあり得ないことです。谷崎が取り入れたのは、まずふたりの主人公・小春とおさんに間にある強い絆(きずな)ということです。そして、作品にふたつの中心が存在し・それが互いに引き合うことで、周囲の登場人物が奇妙な行動を示し・筋が思いも寄らない展開を見せるということです。これが谷崎が「心中天網島」から小説技法的にインスピレーションを受けた点であろうと吉之助は考えます。「卍」のふたりの女主人公・園子と光子をレズビアンという関係にしたのは、これはまあ二次的な要素でしょう。それは「心中天網島」から来たものであるとも・そうでないとも言えます。それは「卍」の核心的な要素ではないのです。しかし、谷崎が「心中天網島」から小説技法的な影響を受けたことは明白であると吉之助は考えます。そのキーワードこそ「鬼が棲むか蛇が棲むか」なのです。
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大事なことは、作品にふたつの中心(強烈なキャラクター)が存在することで、互いの引力が影響し合うことで作品空間が歪められ、周囲の登場人物が奇妙な行動を示し・筋が当の主人公さえ思いも寄らない展開を見せるということなのです。まずそのことを近松の「心中天網島」から見たいと思います。「心中天網島」は24編ある近松の世話物浄瑠璃のうちの最後の方に位置する22番目の世話物で、享保5年(1720)の初演です。ちなみに近松の最初の世話物は「曽根崎心中」で、 こちらは元禄16年(1703)初演です。つまり「曽根崎心中」から「心中天網島」までの間に約17年の歳月があるのです。同じ近松の心中物ですが、この歳月はふたつの作品に 大きな色合いの違いをもたらしています。「曽根崎心中」は筋自体がシンプルで最初からふたりは心中に一気に突っ走っていく感じがあり、心中に向かうお初徳兵衛のその 心情に熱さが感じられます。心中するという行為は明らかに彼らが自ら選び取った行為なのです。「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」とお初は叫びます。そのかぶき的心情の熱さが当時の観客を熱狂の渦に巻き込んだのです。一方、「心中天網島」の小春治兵衛は因果の律とかどうにもならぬ柵(しがらみ)のなかで心中に追いやられていくというような印象があると思います。ふたりは死にたくないけれど・死なないと格好がつかない・世間が認めないという感じで心中するようにも見えます。そして観客がそう思った通りにふたりは死ぬので、それで何となく落ち着いた古典的な印象になっているのです。本当はそういう風な読み方をすべきではないのですが(これについては別稿「たがふみも見ぬ恋の道」など本作に関連する記事をご参照ください)、しかし、そのような読み方がしばしばされるのは因果とか世間とか・抗し切れない圧倒的な外的要因があって、それがふたりに心中行為を強制しているように見えるからに違いありません。
そうなる大きな要因は享保5年当時の世相にありました。当時心中は社会問題化するほどのブームで、江戸にまで飛び火する勢いでした。江戸幕府はこれを危険視して、ついに 2年後の享保7年(1722)に禁止令を出して心中物の出版・芝居の上演を禁止してしまいました。さらに心中を「相対死(あいたいしに)」と読ませて、そのロマンチックな響きを消し去ろうとしました。「心中天網島」はその 寸前の危うい時期に書かれた作品なのです。大坂の商人社会は整備されて、世間は個人をますます束縛するようになってきます。そういうなかで個人は私(わたくし)や一分(いちぶん)を世間と折り合いを付けていくのかということが、大坂町人の切実な問題になっていました。この悩みに一気にケリをつけて、個人が社会に対抗してやろうじゃないかというのが心中でありました。だから近松としては、この問題をもっともっと突っ込んで描きたかったのです。しかし、江戸幕府の厳しい監視の目が光っているから、さすがの近松 も心中を煽るようなラジカルなことはなかなか書ける状況ではなかったのです。間違えば近松の身まで危うくなります。だから「心中天網島」では因果の律ということが表面上強調されてきます。ふたりは運命に押し流されるように・死ななければならない状況になって死ぬかのように、そのようにも読めるように書かれているわけです。近松の心中物は後年原作で上演されることはなく・ ほとんど改作で上演されることになりますが、改作ではこの要素がもっと意図的に強調されていきます。主人公に対して悪意を抱く友人が登場し、姦計に陥れて主人公を窮地に追い込む、そのため世間から逃げるように主人公は死ぬことになるのです。もはや心中は社会的メッセージを持つ行為ではなくなって、主人公は社会の掟を破った為に世間から放逐されて愛人と一緒にのたれ死ぬだけの行為とな っていくのです。そしてこれが世間の近松の心中物のイメージになってしまいました。このような近松の誤ったイメージは現代でも尾を引いています。
近松が「心中天網島」で描きたかった小春治兵衛の心中の本当の意味というのは、世間・社会の締め付けのなかにあっても、彼らが自分の意志で強く生きようとして・私(わたくし)や一分(いちぶん)という問題を強く主張しようとして、結果として心中という行為の自らの意志で選び取ったということにあるのです。しかし、その一方で近松はそのようなラジカルな要素を、「紙=髪=神」の連想とか・因果の律であるというような通奏低音で 意識的に隠蔽してしまいました。その結果として奇妙な現象が作品のなかで起こりました。それは、小春治兵衛とおさんを含む登場人物三人が自分の意志で強く生きようとして・私(わたくし)や一分(いちぶん)という問題を強く主張しようとして・彼らは心中ということを露ほども思い描いていなかったのだけれども、最後の最後に「心中」ということが瓢箪から駒みたいな感じで出てきて、結局、小春治兵衛は心中で死んでしまう・おさんはひとり残されるという結末になってしまうということです。彼らはそういう形を自らの意志で選んだことは 疑いありません。しかし、何だか急旋回のような形でそういう結論に落ちていく感じがあります。これはまずひとつには、「心中天網島」の劇空間が世間・社会の締め付けの下にあってもともと強い圧力を受けているということがあります。もうひとつは、おさんと小春の関係・つまりふたりの間にある強い絆(きずな)のことです。おさんと小春が互いに影響しあって「心中天網島」の劇空間は歪(ひず)んでいるからなのです。
このことが明確に出るのはおさんが「悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て・どうぞ殺してくださるな」が叫ぶ場面です。小春を救いたいおさんの気持ちに嘘偽りがあるはずはありません。しかし、おさんはその次に起こること が全然頭の中にありません。「(小春を身請けしたとして)そなたはなんとなることぞ」と夫に言はれておはつはハッと我に返りますが、「アツアさうぢや、ハテなんとせう子供の乳母か、飯炊きか、隠居なりともしませう」とおさんは言ってしまいます。小春を身請けしたら小春が家にやってくる・そうすると自分がいる場所が なくなるということはよく考えれば分かるはずですが、おさんは女同士の義理を果たすことしか考えていないのです。しかし、「小春を見受けしてくれ」と言い切った以上は、その結果としてこの事態をも受け入れなければならぬのは当然のことであって、「子供の乳母か・飯炊きか・隠居なりともしませう」という道をもおさんは自分の意志で選択したということになるわけです。自分の意志で強く生きること・私(わたくし)や一分(いちぶん)を主張するということ、彼らがそうしようとしていることは間違いないですが、その選択がこのような形で跳ね返ってきます。
「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」
おさんのこの台詞は孤閨をかこつ女房の恨みの言葉という風にふつうは理解されていると思います。家庭が修羅場と化すか・あるいは「道成寺」の清姫が恋人を焼き殺した如くに嫉妬と肉欲の炎のなかで家庭崩壊となるか。もちろんそういうこともあるでしょうが、吉之助が考えるのはこういうことです。この場のおさんには夫に対する言い様がない感情が渦巻いていることはもちろんです。それは怒りとか・嫉妬とか・悔しさとか・恥であるとか・いろんな形を取り得るもので、そのすべての感情を含むものだと言えますが、いずれにせよまだ明確な形を取っているわけではないのです。 そのなかからひとつの形がなって現れたならば(それは「選択」したということになりますが)、一体どういうことが起きるのか、おさんには予想が付かないのです。 そのことは彼女自身も分からない。だから彼女は選択することを内心怖れているのです。「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」というおさんの台詞は、そのような不安とも恐怖ともつかないなかで言われていると吉之助は考えます。 選択への衝動はもちろんおさんのなかにある私(わたくし)や一分(いちぶん)への強い意識から来るものですが、この時点ではおさんは選択することをまだ躊躇しています。しかし、「太兵衛に小春が請出される」という話を聞いた時に、おさんは「悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ」という反応をしてしまうのです。この瞬間に、おさんは怖れていた「選択」をしてしまったのです。この瞬間にドラマは心中の方へ一気に傾くことになります。
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「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」 というクドキの時点では、おさんは選択することをまだ怖れているのです。そのおさんが「太兵衛に小春が請出されるらしい」という話を聞いた瞬間、「悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。まずこなさん早う行て、どうぞ殺してくださるな」という選択をしてしまうのです。おさんが黙ってさえいれば、冷えた関係ではあっても夫婦は続いたであろうに、どうしておさんは突然ここで女の義理を言い出すのでしょうか。巷間で「このおさんの心境変化がどうもよく分からん」と言われるところです。しかし、吉之助はこれはこのように考えれば良かろうと思っています。
「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」 というクドキの気持ちには、怒りとか・嫉妬とか・悔しさとか・恥であるとか・いろんな感情が渦巻いているのは確かです。それらは、おさんの私(わたくし)としての感情とか、女性としての一分(いちぶん)から発するのです。「ホントに自分はどうにかなってしまいそうだ」という寸前でおさんは踏みとどまっています。そこでおさんが選択してしまえば、その感情はひとつの方向に流れて、ホントにおさんはどうにかなってしまうでしょう。そうなればおさんは泣き喚くか・修羅場が繰り広げられるか、そんな場面になるでしょう。しかし、おさんはここでは選択しません。おさんは選択することをまだ怖れています。これが「太兵衛に小春が請出されるらしい」という話を聞く以前のおさんの心理です。何がおさんに選択を躊躇させるのかと言えば、 治兵衛が家に戻ってまた夫婦で紙屋の店を続けるということは小春との約束なのですから、それを反故にしてしまうことはおさんに出来ないことだからです。 ここで選択してしまうと、ただ自分の欲得と浅い女の恨みで泣き叫ぶのと同じ次元に自分の行為が落ちてしまうからです。
ところが「太兵衛に小春が請出されるらしい」という話を聞いた瞬間に、おさんはハッと反応して「ヤアハウそれならばいとしや小春は死にやるぞや」と言います。そして「悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。」という選択をおさんは一気にしてしまうのです。これはどうしてかと言えば、これは明らかに自分の為ではなく・他人のための選択である、この選択には女同士の義理という大義があるということです。女同士の義理と言ったって、所詮はおさんと小春の間にあった誰も知らなかった個人的な義理なのですが、義理には違いありませんから、これは社会性・客観性を持つ選択です。義理を破ることは大坂商人にとっては、大坂においてもう商売を続けられない・社会から抹殺されるのと同じことでした。大坂商人の女房であり・夫に代わって商売を切り回すこともできる自立心のあるおさんが、そのような倫理感覚を持っていたとしても、ちっとも不思議なことではありません。
しかし、実はその選択にも、おさんの私(わたくし)としての感情・女性としての一分(いちぶん)とかいろんなものが心底に絡んでいます。「歌舞伎素人講釈」の重要な概念である「かぶき的心情」ということになりますが、おさんは私(わたくし)・あるいは一分(いちぶん)の実現ということを、「このままでは死んでしまうだろう小春を救い出す」という行為に託しているということです。なぜならば、小春は夫・治兵衛のことを愛しているのであるし(その点において夫を愛している自分と小春は重なってくるし)、それなのにおさんの頼みを聞き入れて・身を引いてくれた女性であるからです(つまりおさんは小春に対して義理があ り、おさんと小春は治兵衛を介して結ばれていることになる)。つまり、これはおさんの夫に対する感情の代償行為であるとも言えますが・大義の裏付けがあり、これでおさん は自己実現の満足が同じように得られると信じているということです。しかし、おさんは請出された小春が家に来る・そうなったら自分はどうなる?ということまでは考えが至っていません。あくまで目先の狭いスパンにおいてこれが私の選ぶ道だという反応をおさんは瞬間的に取っているのですが、その選択をするまでの過程に悶々とした時間が実に長くあったからこそ、衝動的な選択をおさんはしてしまうということなのです。
これで分かる通り、おさんは選択という行為をもちろん自分の意志において行なったのには違いないのですが、おさんの選択には、その場にはいない小春の存在が強い影響を与えてるのです。おさんの思考のなかに、自分(おさん)と小春というふたつの中心があって、そのふたつの中心で以って思考が巡っているのです。互いの星が引き合って軌道を描いている星(恒星)を連星と呼びます。このような連星が、もし惑星を持つとするならば、その惑星は傍からみれば予測もつかないフラフラした不思議な軌道を描くことになります。おさんの思考はそんな単純なものではありません。おさんの思考のなかにふたつの中心があることが、おさんの選択が他人から見てスンナリと理解が行く論理的展開を取らないことの理由です。これこそが谷崎潤一郎が「心中天網島」から受けたインスピレーションなのです。結局、「女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか」 という混沌たる感情が生み出した選択からは鬼は出ず、蛇も出ず、「心中天網島」のドラマはおさんさえ予期しなかった・望んでもいなかった結末へ向かって動き出すことになります。それが網島大長寺での小春治兵衛の心中ということなのです。
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フランスのフロイト派心理学者ジャック・ラカンは、1956年のセミネールにおいて、ジークムント・フロイトが神経症の患者のなかに見出された基本的な傾向 について紹介しています。「私は彼を愛している」、この命題を患者が否定する方法が三つあるということをフロイトは言っているそうです。つまり、妄想には三つの型があるというのです。
『「私は彼を愛している」、これを否定する第一の方法、それは次の通りです。「彼を愛しているのは私ではない、それは彼女だ」、つまり配偶者、分身です。第二の方法は次の通りです。「私が愛しているのは、彼ではなくて、彼女だ」です。しかし、この第二の水準では、防衛はパラノイア患者にとっては十分ではありません。つまり、変装はうまく行っておらず、「私」が隠されていません。ですから、投影が導入されねばなりません。第三の可能性は「私は彼を愛していない、私は彼を憎んでいる」です。ここでもまた、主語を「私」でなくするひっくり返しが十分ではありません。少なくともここまではフロイトが言っていることです。そしてここでもまた投影というメカニズムが介入しなくてはならないことになります。すなわち「彼は私を憎む」。こうして迫害妄想となるのです。』(ジャック・ラカン:「精神病」)
ラカンの指摘するところを借りながら、「心中天網島・紙治内」をちょっと読んでみます。おさんの心理のなかで「私(おさん)は夫(治兵衛)を愛している」という命題は、彼女の置かれた状況のなかで否定され・それにも係わらず彼女はその状況を耐え忍ばねばならぬ為、おさんは自分のなかでその命題を否定しに掛からねばならなくなります。まず第一段階での否定、すなわち「夫(治兵衛)を愛しているのは私ではない、それは彼女(小春)だ」です。これは逆転された疎外です。同一化された相手の女性(小春)を 分身として、おさんは彼女自身のメッセージを語 っているということです。次に第二段階での否定、すなわち、「私(おさん)が愛しているのは夫ではなくて、彼女(小春)だ」です。これは逸脱された疎外です。妄想者が係わる他者は極めて特殊な相手です。「心中天網島」の場合を見れば、おさんと小春の関係は手紙をやりあっただけの関係(恐らく最初におさんが小春に手紙を書き、これに対して小春が返事を寄越しただけの関係)であり、互いに見知ってはい ません。この時、小春という存在は脱人称化して います(つまり具体的な人間ではない)。この状況下では、おさんのメッセージを受け取る相手が入れ替わることが容易に起こり得るのです。この状態はおさんから見れば、プラトニックな恋愛関係 と自然に似通ってきます。(第三の段階はおさんの場合には当てはまりませんから、ここでは割愛します。)
太兵衛に小春が請出されるらしい」という話を聞いて、おさんは瞬間的に反応して「ヤアハウそれならばいとしや小春は死にやるぞや」と言います。そして「悲しやこの人を殺しては。女同士の義理立たぬ。」という衝動的な選択をおさんは一気にしてしまいます。このような選択をどうしておさんはしてしまうのかということは、上記のメカニズムを考えれば理解できると思います。もちろんおさんは神経症患者ではありませんが、 そこに妄想的な要素があるのです。 もちろん近松門左衛門はフロイト心理学を知るはずがありませんが、しかし、近松という作家は実に人間心理のメカニズムを知り尽くしていると思いませんか。近松は実に恐ろしい人ですね。
このような精神状態におさんが陥るのは何故かということが、ここで問題になってくると思います。夫が浮気して愛人の元に走った(三角関係 )ということは、それは表面的なことです。もっと根本的な問題として「心中天網島」の登場人物を取り巻く状況を考えた方が良いのです。
『天満に年経る。千早(ちはや)降る。神にはあらぬ紙様と、世の鰐口(わにぐち)にのるばかり。小春に深く大幣(あふぬさ)の、くさり合ふたる御注連縄(みしめなは)。今は結ぶの神無月。堰かれて逢はれぬ身となり果て。あはれ逢瀬の首尾あらば。それを二人が。最後日と。名残の文の言ひかわし。毎夜毎夜の死覚悟。玉しゐ(魂)抜けてとぼとぼうかうか身を焦す。』
これは「心中天網島・河庄」での治兵衛登場の場面の詞章です。「天満に年経る・千早降る神」というのはもちろん天神さんのことです。遊里においては客の名前・商売などを一字取って「○さま・・」などと呼んだりするもので、冶兵衛は紙屋ですから「紙さま」と呼ばれているのです。「心中天網島」には紙に関連する言葉・同音語が頻出します。紙(=神)のイメージが作品全体にあ ります。(これについては別稿「たがふみも見ぬ恋の道」をご参照ください。)
治兵衛・おさんの夫婦に非常に重く圧し掛かっているものは、紙屋の店の経営の維持・大坂商人としての 信用・プライドの維持ということです。つまり、社会的・あるいは経済的なプレッシャーということです。なぜなら、自分たちは大坂の商人階級に帰属しているということが、彼らのアイデンティティーですからです 。それを否定してしまったら、彼らの存在は「ない」ということなのです。治兵衛の浮気ということがなかったとしても、紙屋商売を維持することは大変な状況であったのだろうということを、まず想像したいと思います。その重圧から抜け出したいから治兵衛は小春の元に走 った、その重圧のなかでおさんは夫の浮気をひとり耐え忍んで・店を切り回さねばならなかったということです。そのようななかで、おさんの妄想が起こるのです。一瞬のことなのですが、小春が治兵衛・おさんの夫婦を繋ぐ共通の存在となります。それが「紙治内」で突如として起こったことです。しかし、それは一瞬のことで、長くは続きません。妄想が起こした選択からは 、結局、鬼は出ず、蛇も出なかったのです。「心中天網島」のドラマは網島大長寺での小春治兵衛の心中へと大きく動き出すということです。
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前項において被害妄想の第三の段階・「私は彼を愛していない、私は彼を憎んでいる」はおさんの場合には当てはまらないと書きましたが、一応、これについて触れておきます。吉之助はおさんは当てはまらないと考えますが、そうでないと考える方がいらっしゃるかも知れません。例えば世間について数々の論文を出された歴史学の某大先生(名前はあえて伏す)の本を読むと、近松の登場人物はみなポトラッチ的なのだと言います。ポトラッチとは贈与に対するお返しみたいな関係のことを言います。「心中天網島・大長寺」で小春はおさんとの義理立てから治兵衛と同じ場所で死ぬことを拒みますが、起請文を交わしているので治兵衛から心中を言い出されると拒否ができなかったというのです。この場合、実在のおさんがどう考えているかは別として、小春のなかでのおさんが「私(おさん)は彼ら(治兵衛・そして傍にいる小春)を憎んでいる」というメッセージを発し 、それによって二人を脅迫していると読むということになります。
このような読み方は、個人と社会(世間)を対立的関係に見て、世間が主人公を強制するとする見方です。こうした見方は現代ならば、もちろんあり得ることです。現代においては、自我は状況と鋭く対立しており、常に状況からの強いストレスにさられています。おさんをそのよう な症候の対象として見ることは、現代からの視点であって・ もちろんそれが間違いと言うわけでもないですが、少なくとも登場人物に対して共感と思い入れを持とうと思って芝居を見ようとするならば、こういう見方は絶対に変だと感じるはずです。小春・治兵衛はおさんに感謝しながら死ぬというのが正しくあるべき演劇的解釈であると吉之助は考えます。 常に音楽が協和音を以って終わらねばならないのと同じことです。「心中天網島」の古典的な印象は、このようなところから発するということを知らなければなりません。お芝居の登場人物は生きた人間なのですから、演劇視点から社会学・歴史学 への批判がもうちょっとされても良いと思いますね。
別稿「特別講座・かぶき的心情」で、江戸期には個人と社会(状況)を対立的に見る見方はなかったということを申し上げています。だからと言って作品を現代的視点で読んではいけないということではなく・まあ古典のお楽しみは人それぞれのことでありますが、元禄期の「心中天網島」においては、個人と状況を対立的に見る構図はないのです。もちろんその萌芽がないわけでもないのですが、しかし、江戸期には個人と状況の境目はまだ明確に仕分けられておらず、抑圧された個人の鬱屈した心情の解決の方に重点が置かれています。だとすれば、妄想が「私」ということから離れることはないのです。妄想は第2段階に留まるということです。
しかし、逆に「心中天網島」にインスピレーションを受けた谷崎潤一郎の小説「卍」の場合は、それが昭和初期の作品であることから分かる通り、個人と状況を対立的に見る視点から離れることは絶対に出来な くなります。「卍」は人妻・園子と光子との同性愛関係のなかに、いつの間にやら夫である柿内が入り込んで、さらに光子観音をはさんで三人心中になり・園子だけが生き残るという結末になります 。この場合、「卍」の生き残った園子が「心中天網島」のおさんに擬せられていることが明らかです。おさんは父親・五左衛門によって実家へ戻されてしまっており・大長寺の場に は登場しませんが、小説末尾の園子の述懐を読めば、「卍」は古典的終結を取らず・乱調で終わっていることが明らかです。
『明くる日眼エ覚ました時にも、直きに二人の跡追おう思いましてんけど、ひょっとしたら、生き残ったん偶然やないかも分かれへん、死ぬまで二人に騙されてたんやないやろか云う気イしましたら、あの手紙の束預けなさったことにしたかて疑わしいになって来て、折角死んでも彼の世で邪魔にしられるんのんやないかと、ああ、・・先生、(柿内未亡人は突然はらはらと涙を流した)・・その疑いさいなかったら・・・』(谷崎潤一郎:「卍」・その33)
「卍」では三人心中から園子が生き残ることで、「生き残ったん偶然やないかも分かれへん、死ぬまで二人に騙されてたんやないやろか」という疑い で園子が苦しむという形で、被害妄想の第三の段階が出ています。 そこに昭和初期(1920年代)の小市民が置かれた精神状況が察せられます。大正・昭和初期においては国家社会の個人への締め付けというものは元禄の昔よりもはるかに複合的・かつ圧倒的に強くなっています。国家社会が求める ・あるべき市民像というものが厳然としてあるのです。そのような状況では、個人は蔭に隠れてシコシコと隠微なお楽しみに耽ることくらいしか出来ない。せいぜいそのくらいが小市民が出来る不道徳の関の山ということです。同性愛も三人心中もそのような不道徳なのです。もちろんこれは近松の「心中天網島」から引き出されるものではなく、それこそ が谷崎的世界であるということですね。
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『わたしかって、ほんま云うたら夫の知らん間にたんと苦労しましたのんで、だんだん擦れて、ずるうなってたんのんですが、夫にはそれ分からんと、いまだに子供や子供や思てます。わたし最初それが口惜しいてなりませんでしたが、口惜しがるとなお馬鹿にしられるので、ようし、向(むこ)が子供や思てるのんなら、何処までもそう思わして、油断さしてやれ、と、次第にそんな気イになりました。うわべはいかにもやんちゃ装うて、都合の悪い時はだだこねたり甘えたりして、お腹の中では、ふん、人を子供や思てええ気イになってる、あんたこそお人好しのぼんぼんやないか。あんたみたいな人欺(だま)すぐらいじッきやわ、と、嘲弄するようになって、しまいにはそれが面白うて何ぞ云うとすぐないたり怒鳴ったりして、自分ながら末恐ろしいなるほど芝居するのんが上手になってしもて・・・』(谷崎潤一郎:「卍」・その8)
「心中天網島」の人物関係を谷崎の「卍」に見るならば、当然ながら園子がおさんで・光子が小春、夫柿内が治兵衛であり、そして三人の関係の間に割って入って掻き回す綿貫が太兵衛ということになります。それはその通りなのですが、「卍」は別に「心中天網島」の置き換え・リメークではないのです。独自の谷崎的世界を持っているのですから、それ以上の比較 対照は無駄なことです。上記の柿内未亡人(園子)の述懐を読めば、そのことははっきりしています。園子が言っているのは「わたしは夫の人形やあらしまへん。夫はわたしのことを何も知らへん・何もできんと思てるか知れまへんが、わたしかて意思を持ってますねん。わたしかて人間ですねん。向こうがそう思てるのんやったら、うわべはそう思わせといて、わたしはやりたいことしますさかい。」(注:この台詞は吉之助の作です)ということなのです。園子の夫への不満の根本がそこにあります。これはまさに大正から昭和初期の・女性は自由で意思的であるべきという教育の成果でもあります。それは当時の女性の自立の風潮・意識の目覚めを敏感に反映しています。(注:「私は夫の人形ではない。私も意思を持つ人間なのです。」という主張が明確に出ているのが、「痴人の愛」のナオミであることに注目してください。「痴人の愛」は変態マゾ小説みたいに見えるかも知れませんが、ナオミの言いたいことは「夫がそう思っているのだったら、うわべはそう思わせておいて、私は自分のやりたいことをします」ということではないでしょうか。)
このことは「蓼喰ふ虫」では別の形の不道徳で現れます。主人公・斯波要は妻美佐子に対して、試験的かつ段階的に彼女を恋人阿曾に譲渡する為の五つの条件を切り出し、2年間付き合ってみて阿曾と巧く行きそうになければ戻っても良いとか・何だか彼女の意志と判断を尊重しているのように見せながら、世間に知られれば間違いなく不道徳・不謹慎だと糾弾されるようなことをしています。美佐子の父親である・老人は、要の行為に内心は怒りつつも・それを面に出すことはせず・次のようなことを言い始めます。
『・・しかし、女と云うものは、試験的にもせよ、一度脇へ外れてしまうと、途中で「こいつはしまった」と気が付いても、意地にも後ろへ引っ返すことが出来ないようなハメになるんで、自由の選択ということが、実は自由の選択にならない。ま、これからの女はどうか知れないが、美佐子なんかは中途半端な時勢の教育を受けたんだから、新しがりは附け焼き刃なんでね』(「蓼喰ふ虫」第14章)
本人の自由意志を尊重した、これは夫婦の契約だとか言っても、「美佐子をそういう風に仕向けたのは、要さん、あなただろう」というのが、老人の言いたいことです。だから「要さん、あなたが悪い」と老人は言うのです。(これについては別稿「生きている人形・その16」をご覧下さい。)これが父親である老人の見るところですが、しかし、美佐子本人は、夫婦が分かれるという結論は誰に強制されたのでもなく・私自身で決めたのだと言い張っている(思い込んでいる)わけです。 ここが大事なポイントです。しかし、老人は、「自分で決めたというけれど、本当は自分の意志で何も決めちゃいない」と看破しているのです。途中で「こいつはしまった」と気が付いても、意地にも後ろへ引っ返すことが出来ないような感じで、そう決めてしまったということです。これは「成り行きでそういうことになってしまった」と読めるかも知れませんが・そうではなくて、人間というものは内面のどうにもならぬものに突き動かされて生きているのだということです。それが谷崎潤一郎の人間理解なのです。もうひとつ付け加えるならば、美佐子が「自分で決めた」と思い込んでいるのは、夫がそうさせたということだけではなくて(小説の筋としてはそういうことですが)、現代人は自由意志で生きるのだという考え方を世間・社会から仕付けられている、 だから自分で決めたと思っていないと自分が生きていると感じられないということでもあるのです。
これとまったく同じことが園子の口から出ています。「蓼喰ふ虫」は夫である要の視点で書かれており・美佐子の感じていることが表面に出てきませんから、要が人形遣いで・美佐子が人形みたいに見えるかも知れませんが、実は人形のように見える美佐子にも意思があるわけです。当然なことですが、谷崎潤一郎はそんなことは十分分かったうえで、斯波夫婦にそれぞれ の役割を与えています。「蓼喰ふ虫」では見えなかった美佐子の意思が、裏返しにする形で「卍」では園子の口を借りて出て来ます。
『前でしたら時に依ってはっと思て、ああ、こんな事するのんやなかったと、後悔する気イになりましたのんに、今では反抗的に、なんじゃ意気地のない、これぐらいのこと怖がってどないすると、自分で自分の臆病あざわらうようになるなんて・・・それに、夫に内証で外の男愛したら悪いやろけれど、女が女恋いするねんよってかめへん。同性の間でなんぼ親しくなったかて夫がそれとやかく云う権利あれへんと、いつもそんな理屈つけて自分の心欺いてました。その実わたしの光子さんを思う程度は、前の人思うたよりも十倍も二十倍も、・・・・百倍も二百倍も熱烈や ったのんですけど、・・・』(谷崎潤一郎:「卍」・その8)
園子も「私は自分の意志で行動してるんです」と思っていますが、「しまったと思っても途中で引き返すことができない」という自分も感じているのです。それは成り行きと勢いでそうなってしまったと自分に言い聞かせているのですが、実はもっと深い内面からの衝動で自分が動かされているということも、園子は分かっているのです。
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「卍」での園子と光子の関係について考えます。園子に対して光子が取る行動は不可解で、ある時は園子に媚びて悦ぶことをしますが、かと思えば園子を怒らせる突拍子もない事をしたりします。しかし、後から思えば、それも自分をじらして・気を惹く為にわざと怒らせる振りをしたのか知らんと思うところもあり、それで園子は気を許して・ますます深みにはまって、光子に振り回されます。光子の心理はよく理解できないところがありますが・これは当然なことで、小説は園子の 告白形式で書かれており・園子の視点で書かれているのですから、つまり園子の把握している情報しか入って来ないわけで、読者はその情報からしか光子を判断できないわけです。よくよく小説を読んでみれば園子が光子についてあれやこれや考え ・憶測して、時に怒ったり・時にヤキモキしたり・不安になったり・喜んだりしているのは、それは園子が勝手にそうしていること・あるいは勝手にそう感じていることであって 、もちろんそれは園子なりの理由があってのことですが、それは光子が本当は何を考えているかという事とは・それは全然別の問題であるということなのです。 このことは園子にとっての夫柿内や綿貫の考え・行動についても同じことが言えます。
逆から見るならば、小説「卍」は主人公園子の心象風景を綴っているのであって、園子の周囲で起こっている様々な出来事はすべて埒外(心の外)のことであると言うこともでき るわけです。そのように考えれば、文楽の「心中天網島」の舞台を見ながら斯波要が感じたことをそのまま当てはめることができると思います。
『此れだけの人間が、罵(ののし)り、喚(わめ)き、啀(いが)み、嘲(あざけ)るのが――、太兵衛の如きは大声を上げてわいわいと泣いたりするのが――みんな一人の小春を中心としているところに、その女の美しさが異様に高められていた。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その3)
周囲の人物が騒ぎまわるなかで、小春だけが目をつぶって・じっと顔を伏せたまま動かない。小春だけが騒ぎの埒外にいて静寂を保っているように見える。視覚的に見れば、そのような場面なのです。小春の動かない・静かな佇まいが、斯波要を惹きつけているように見える。「蓼喰う虫」のこの場面は、一般的にそのように読まれており、谷崎潤一郎の日本回帰の例証としてしばしば取り上げられます。しかし、そうではないことは別稿「生きている人形〜「蓼喰う虫」論」で論じた通りです。視覚的には静寂を保っている小春の心のなかで、大きな渦が轟音をあげて回転しているのです。心理的観点からみれば、この場面の小春こそ最も動的であると言えます。このことは人形遣いを観察するならば容易に分かること です。このような静止した人形の姿勢を長く維持する為に、三人の人形遣いは長時間息をためて筋肉を硬くしていなければならないのです。人形がじっとしている場面こそ、人形遣いが最も辛い箇所なのです。谷崎はそういうことをちゃんと 観察したうえで文章を書いているわけです。
「卍」でのすべての出来事は主人公の埒外(心の外)で起こったことであるとしても、実は園子の心のなかは激しく渦巻いているのです。 「蓼喰う虫」の上記の場面に日本趣味を読もうとする方は「卍」」にはドタバタした喧騒な気分ばかり感じて、同じ時期に並行して書かれた「蓼喰う虫」と「卍」との共通項を見い出すことはないだろうと思います。しかし、よく読むならば、両作品は表と裏の関係のように、ひとつのテーマを追っているのです。登場人物の心理のなかに分け入れば、主人公がじっとひとつ事を考えている時こそ、心のなかが激しく渦巻いている・それが最も動的な場面であることが明らかなのです。むしろ、主人公が泣いたり・喚いたり するならば、それは心のストレスが行動のエネルギーに変換されて発散されているということですから、心のストレス値はいくぶん低くなるということが言えます。
もちろん埒外であると言っても、園子のなかの光子と、夫垣内あるいは綿貫の比重は比べ物になりません。園子の心のなかに占める光子の比重はそれほど大きいものです。「その6」において二重星のことを例に挙げました。二重星とは 近距離にあるほぼ質量が同じふたつの恒星が互いに引き合って不思議な回転 をする特殊な天体のことを言います。 園子と光子はちょうどそのような関係にあると考えて良いでしょう。(ふたつの恒星の質量が大きく異なりますと、大きい方の恒星が中心に居座って・片方がその周りを旋回することになり、二重星にはなりません。) このような二重星が惑星を持つとするならば、その惑星はふたつの恒星から影響を受けて傍からみればまったく予測が付かない不思議な フラフラした軌道を示します。夫垣内あるいは綿貫の行動はそのように考えればよろしいものです。 そして、小説は最後には三人心中というような予想も付かない展開を示す(結果的には園子だけが取り残される)ということになります。 これは旋回していた惑星が突然軌道を失って、恒星のなかに飛び込むようなものです。それはふたつの恒星が作り出す重力場のバランスが崩れることによって生じるのです。谷崎は、園子と光子というふたりの主人公の「小説」という重力場のバランスの微妙な変化を感じ取りながら、筋を展開させているわけです。
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谷崎の小説「蓼喰う虫」や「卍」についての評論は数多くありますが、吉之助が気になるのは、そのほとんどが主人公の夫婦間の不一致という問題に関心を置いているということです。まあ、そうなるのも理由がないわけではありません。つまり執筆当時(昭和3年〜5年頃)の谷崎と妻千代との関係のことです。昭和5年に谷崎は千代と離婚し・千代が佐藤春夫に再嫁する旨の挨拶状を関係者に送って、これは細君譲渡事件として世間を スキャンダラスに騒がせたものでした。千代と佐藤とのことはそれ以前の十年間ほどの 紆余曲折の経過があるもので・本稿では触れる気はないですが、その印象があまりに強烈な為か、文学研究者はその辺の経過を投影して谷崎の作品を読もうとし勝ちです。「蓼喰う虫」の結末を斯波夫妻が離婚すると決め込んだ評論が多いのもそうです。確かに実説の方は離婚に至ることは誰でも知っていますが、小説の斯波夫妻の方は美佐子の父親である老人が離婚を思いとどまるように説得中であって・最終場面でその結論はまだ出ていないのです。「蓼喰う虫」において夫婦が離婚するかしないかなどということは、実はどうでも良いことなのです。例えば巷間の評論でよく引用される部分を挙げてみます。主人公斯波要が老人とお久との淡路の旅を終えて神戸にいる愛人ルイズを訪ねた後の記述です。
『「たった一人の女を守っていきたい」と云う夢が、放蕩と云えば云えなくもない目下の生活をしていながら、いまだに覚め切れないのである。妻をうとみつつ妻ならぬ者に慰めを求めて行ける人間はいい、もしも要にその真似が出来たら美佐子との間にも今のような破綻を起こさず、どうにか弥縫(びほう)して行けたであろう。彼は自分のそう云う性質に誇りも引け目も感じてはいないが、正直なところそれは義理堅いと云うよりも寧ろ極端な我がままと潔癖なのだと自分では自分では解釈していた。国を異にし、種族を異にし、長い人生の行路の途中でたまたま行き偶ったに過ぎないルイズのような女にさえも肌を許すのに、その惑溺の半分をすら、感ずることの出来ない人を生涯の伴侶にしていると云うのは、どう思っても堪えられない矛盾ではないか。』(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・その12)
芸術家は自分の生活や体験のなかから作品の材料を見つけ出すものです。人間がそうならざるを得ないのは当然のことですが、芸術作品というのは自分の生活や体験の置き換えではないのです。それは芸術家の心のなかで昇華 して・まったく別のものに転化して出てくるものです。上記の引用を当時の谷崎の千代に対する気持ちであると読もうとすれば、確かにそのように読めると思います。特に矛盾 もないようです。そのような読み方をなさる方は、斯波要に谷崎を当てて・美佐子に千代を嵌めて小説を読むわけです。そして精神分析よろしく作品の細部から作者の本心 ・創作の秘密を探り出そうと試みる、まあそんなところでありましょうか。それが科学的あるいは学究的な読み方だと信じていらっしゃるのでしょう。しかし、小説が作者の生活の置き換えに過ぎないものであるならば、そんな小説を 他人がわざわざ読む必要などないのです。谷崎の書いたものは自らのゴシップ実話の置き換えなどでは決してなく、谷崎はもうちょっと次元の違うものを書こうとしたと吉之助は思いたいのですがねえ。
要の言い分と似たような気持ちを当時の谷崎は持ったことがあったのかも知れません。しかし、作家としての谷崎はその気持ちを第三者的に醒めて顧て、これを材料に使用しているのです。文章をよく読めば分かりますが、これは実に身勝手な男の言い分なのです。要は「俺はこんな放蕩をしたくてしているんじゃないんだ・・・」と言い訳しているのです。要は、自分がこれが遊びだと割り切れるような男ならばいいんだが・・生憎そうじゃないんだ・・と言い訳しているのです。そして、それは「たった一人の女を守っていきたい」と云う夢を妻がかなえてくれないから仕方ないんだと言い訳しているのです。要の言い分の身勝手さをよく分かっていて谷崎がこの文章を書いているということは、当たり前のことなのです。美佐子は小説では一方的に魅力ない妻にされていますが、それは小説に記述がないからであって、要に言い分があるならば・美佐子の方にも言い分があっても良いのではないでしょうか。しかし、「蓼喰う虫」にはその場面がないから分からないだけの話です。吉之助は、それは裏返しの形で「卍」の方に出て来ると思います。
『わたしと夫とはどうも性質が合いませんし、それに何処か生理的にも違うてると見えまして、結婚してからほんとに楽しい夫婦生活を味おうたことはありませなんだ。夫に云わすとそれはお前が気儘なからだ。何も性質が合わんことはない、合わさんようにするよってだ。巳の方は合わすように努めてるのんに、お前がそう云う心がけにならんのがいかん。(中略)と、いつもそうない云うのんですけど、私は夫の世の中悟りすましたような、諦めたような物の云い方が気に入りませんよって、(中略)あんた大学では秀才やったそうやさいかい、あてみたいなもん定めし幼稚に見えるやろうけど、あてから見たら化石みたいな人やわと、云うてやったこともあります。いったいこの人の胸にはパッション云うものがあるのかしらん?この人でも泣いたり怒ったりびっくりすることあるのかしらん。』(谷崎潤一郎:「卍」・その7)
このすぐ後に「それが光子さんのことや、いろいろの事件惹き起こす元となったのんです。」という文章が続きます。だから夫婦の生理的不和が「卍」の異常な性愛事件の発端になっており ・これは「蓼喰う虫」と同じく谷崎文学のなかの共通したテーマであるというようなことがよく言われます。しかし、吉之助に言わせれば、それは全然関係ないことなのです。それは小説のプロットに過ぎません。夫婦の生理的不和など小説の筋を回すための動力に過ぎないのです。別稿「生きている人形」をお読みになればお分かりかと思いますが、この「卍」での園子の言い分を重ねてみれば、 「蓼喰う虫」での美佐子の言い分は「あなた(要)はおんなは馬鹿で幼稚な生き物で、おんなは人形で良いと思っているのでしょうけれど、わたし(美佐子)だって人間なのです・わたしにだって感情があるのです」ということなのです。谷崎はちゃんと自分の 身勝手さが分かっているのです。谷崎はそのことを第三者的に冷静に分析して、完璧にコントロールして登場人物を動かしているのです。そのことは 短編「おさん」で太宰治が書いた女房の台詞(本稿・その1で引用)と、実はそれほど遠いわけではないのです。要の身勝手な言い分と 比べて見れば分かります。
『他のひとを愛し始めると、妻の前で憂鬱な溜息などをついて見せて、道徳の煩悶とかをはじめ、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻をまったく忘れて、あっさり無心に愛してやってください。』 (太宰治:「おさん」)
夫の言い分は、俺はこんな放蕩をしたくてしてるんじゃないんだ・・・自分がこれが遊びだと割り切れるような男ならばいいんだが・・ということです。 女房はそれを笑っているという構図です。谷崎の小説の主人公の振る舞いは、太宰のそれ(自己卑下的な道化の振る舞い)とは全然違うように見えるかも知れませんが、その違いというのは実は表面的な違いなのであって、根にあるものはまったく同じであることが明らかです。(谷崎と太宰の違いは時代の違いに発するものでしょう。機会があれば、そのことにも触れたいと思いますが、本稿においては指摘するに留めます。)それにしても、同じ近松の「心中天網島」 を見ながら(読みながら)谷崎と太宰が同じようなことを考えていた(らしい)というのが、吉之助にはとても興味深く思われるのです。
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ですから「卍」と云う小説は女同士の同性愛と光子をまぐる男たちの動きを絡み合わせ谷崎お得意の変態性欲を扱った作品であると巷間よく言われますし、世間の興味はどうしてもそういうところに行く と思いますが、吉之助はむしろ小説中の夫・柿内の行動の変化の方に興味がそそられます。
柿内は最初は妻・園子と光子との関係を不愉快に感じて、ふたりの交際を禁じたりもします。しかし、いつしか柿内は園子と光子の関係に興味を持ち始め、いろんな場面に関与し始めます。それも最初は成り行き上仕方なく係わる・・という感じですが、次第に積極性が増してきます。明らかにその後の柿内は主体的に園子と光子の間に割り込んでいくようになっていきます。妻に「いったいこの人の胸にはパッション云うものがあるのかしらん?この人でも泣いたり怒ったりびっくりすることあるのかしらん。」と馬鹿にされていた偏屈男が、最後には妻との一体感を見出したかのような異常なはしゃぎぶりを見せています。
『それで枕もとの壁にあの観音様の画像飾って、三人よってお線香上げて、「この観音様の手引やったら、あて死んだかて幸福や」と、わたしがそない云いましたら、「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』云う名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」と夫も云うて、彼の世い行つたらもう焼餅喧嘩せんと仲好う脇仏のような本尊の両側にひッついてまひょと、光子さん真ん中に入れて枕並べながら薬飲みましてん。』(谷崎潤一郎:「卍」・その33)
「心中天網島・紙治内」では、おさんに小春を助けてくれと訴えられた治兵衛が「そうは言っても小春を身請けする金がどこにあろうか」とつぶやくと、おさんは「ノウ仰山な、それで済まばいとやすし」と言ってその場に新銀四百目を投げ出して夫を驚かせます。さらに「箪笥をひらり」と開けて鳶八丈などの着物を取り出します。ここでのおさんは、夫の恥をすすぐのと・女同士の義理を果たすということで一種の躁状態になっています。それが「箪笥をひらり」という描写に表れています。恐らくおさんはその時に冶兵衛との夫婦の絆を確認したような気分になっているの です。柿内の場合も、光子を介在させたなかで、夫婦の絆を確認したようなところがあるのかも知れません。
『あんたこそお人好しのぼんぼんやないか。あんたみたいな人欺(だま)すぐらいじッきやわ』と夫を嘲弄していたはずの園子が、いつの間にやら本気になって割り込んできた夫にお株を取られていきます。 小説を読むと、このような展開は多少の無理もあって、確かにストーリー的になだらかとは言い難い感じがします。事実谷崎は執筆に難渋したようです。「卍」は同時期の「蓼喰う虫」よりも先に着手されたにも係わらず・完成したのはそれよりも遅く、しかも谷崎は何回か 原稿に大幅に手を入れたようです。しかし、この急転直下のようなストーリー展開こそが 谷崎の「卍」の核心であると吉之助は考えます。谷崎は「蓼喰う虫」の夫婦関係を今度は妻の方から見る形で裏返して見せたのです。
柿内は妻との縒りを戻したかったのでしょうか。それとも光子の方に興味があったのでしょうか。変態趣味に興味があったのか。それとも自分の意志ではないところで・間にはさまって・成り行き上どうにもならなくなってしまったのか。俺はこんなことをしたくてしてる訳じゃないんだ・・・自分がこれが遊びだと割り切れるような男ならばいいんだがね・・・柿内がそんなことをぶつくさ言いながら、妻と光子の間に次第に割り込んでいくのが見えるようです。そして最後に三人心中に至るわけです。小説はあくまでも妻である園子の視点で書かれていますから、小説からだと柿内の本心は見えてきません。柿内は外部から操られている人形のようにも見えます。それは二重星の周りを旋回していた惑星が突然軌道を失って、恒星のなかに飛び込むようなものです。それは園子と光子というふたりの主人公の間にある「小説」という重力場のバランスが突如として崩れるから起こるわけです。これは近松の「心中天網島」からインスピレーションを得た谷崎の実験であったということです。 
 
近松門左衛門諸話

「虚実皮膜論」
近松門左衛門の「虚実皮膜論」(きょじつひまくろん・「ひにくろん」とも読む)は、近松の芸能についての考えを知る上での重要な資料ですが、そのなかに次のような文が出てきます。
『芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。あるほど今の世実事によくうつすを好む故、家老は真(まこと)の家老の身ぶり口上をうつすとはいへども、さらばとて真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂白粉(べにおしろい)をぬる事ありや。また真の家老は顔をかざらぬとて、立役がむしゃむしゃと髭は生(はえ)なり、あたまは剥(はげ)なりに舞台に出て芸をせば、慰(なぐさみ)にあるべきや。皮膜の間といふが此 (ここ)也』
この文を読んで、そういえば歌舞伎の舞台に出てくる侍は、みな月代(さかやき)を剃り際鮮やかに剃りあげていて、ちょっと左右が不対称であるとか・髪が薄くなってもうちょっとで髷が危ないなんて侍は出てこないなあ、と思ったのでした。もちろんこれが芝居というものです。近松の言う通り、「それらしく」するのが芝居の慰みというものでしょう。
実際には、当時も髪の毛にお悩みの方は大勢いたでしょうし、チョンマゲというのは頭皮・頭髪には結構負担のかかる髪型なのではないでしょうか。当時は、侍にとって月代を剃るのは最低限の礼儀でしたし、町人も月代を剃りました。武士で月代を剃らないのは浪人か病人に限られていました。月代を剃ると頭が冷えて体に良くないので、病人は月代を剃らなくても良かったのです。
しかし髪の毛が薄くなってチョンマゲが結えなくなってしまうと、武士は隠居するしかなかったのだそうです。カツラという便利なものは当時はありませんでした。今でもお相撲さんは髷が結えなくなると引退だそうですが、頭髪の管理は武士にとって出世にもかかわる深刻な問題であったのですね。
「関八州繋馬」
「関八州繋馬」(享保9年・1724・1月竹本座・人形浄瑠璃初演)は近松門左衛門の最後の作品で、「将門の世界」が舞台になっています。偶然でしょうが、鶴屋南北の最後の作品「金幣猿島都」(文政11年中村座初演)も「将門の世界」が舞台です。 平将門といえば天下を揺るがした謀反人であり、有名な御霊でもあります。その将門を「世界」にとるのは、スケールが大きい芝居が出来る可能性がありますが、同時に「反体制」のシンボルを 題材に取るのは、作者にそれなりの作意があるとも考えられます。また、それを題材にするリスクも覚悟しなければなりません。
木谷蓬吟は、その著書「近松の天皇劇」(昭和22年・淡清堂)において、『後水尾上皇の幕府に対するご憤懣が、自然と近松に波及浸潤していったと推察するのも、決して架空の盲断ではあるまい』と書いており、近松は晩年に至って幕府批判の筆致を次第に強めているとも分析しています。(別稿「時代物としての俊寛」を参照ください。)
近松の生涯を見てみますと、その前後から近松の体力は急激に落ちて作品の数が減ってきますが、享保8年に幕府により心中物の出版や上演が禁止されたことが近松の創作欲を削いだとも考えられます。あるいは幕政への憤懣があったのかも知れません。
謀反人の娘として抹殺された小蝶の霊が、大文字焼の火のなかから現れるという幻想的な場面は評判を呼びましたが、大坂の「大」という字が燃えるのは不吉だという風評が流されました。その直後に、大坂が火事に見舞われて本作は葬り去られることになってしまいます。それがある筋の意図的なものであったどうかかはともかくとして、晩年の近松は失意のうちに死んだわけです。近松が亡くなったのは、本作初演の同じ年(享保9年)11月22日のことでした。享年72歳。
近松の文章
作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏が、七五調の日本語について次のように語っておられるのを目にしました。
『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号)
「たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフ」というのは興味深い表現です。 歌舞伎の世話物でも、そういう場面では客席から思わず掛け声が掛かります。心地良いかも知れませんが、その演技からリアリティは失われてしまっているということも少なくありません。「表現」というのは表面を綺麗に整えようとするベクトルを常に持つものでして、その方向自体は表現の完成を目指すもので・必ずしも悪いものではないのですが、うっかりすると・そうした落とし穴にはまり込んでしまう場合があるわけです。
近松の文章は、今の文楽の太夫さんには「字余り・字足らずで語りにくい」ということで評判がよろしくないそうです。近松の文章には「・・・じゃわいな」とか調子を整える詞があまりないのです。読むといいのだけれど・節を付けて語ると、ちょっと・・・ということになるのです。これにはいろいろ理由が考えられると思いますが、ひとつには・近松の文章は表現を必要最小限に削ぎ落とし・写実を追求しようとするために、意識的に語調を整えることを拒否しているようなところがあるようです。
近松の改作物
『語る大夫かて迷うてます。迷うてますけど、そう理屈どおりにいきまへん。「女殺油地獄・河内屋内」なんかは原作とはずいぶんかけ離れていて、「駄作や」と指摘されます。「原作でやれ、原作でやれ」と言われても、近松ものは原作どおりでは芝居にならないのです。だれぞが脚色しているわけです。それを学者さんや評論家の方は「原作どおりにやれ」と言われるのです。』(竹本住大夫:文楽のこころを語る・文芸春秋刊)
文楽の大夫や歌舞伎役者から見ると、「近松の原作通り」というのはホントに演りにくくて仕方ないようです。近松の文体が「字余り・字足らず」であるということではなくて、芝居を演るうえでの根本的なドラマ性において・近松の段取りが演りにくいと感じられるようです。例えば登場人物の心理の推移がサッササッサと進むので・演じる側からすると描写が十分でないように感じて・突っ込んで演じさせてくれないという不満を感じさせるとか、筋の運びに無駄がなさ過ぎて・筋の遊びが欲しくなるとかいうことだろうと思います。こういうことは文章を読んでいるだけでは分らない・芝居を実際に演じてみて初めて分ることなのでしょう。
他にも理由がありそうです。近松の生きていた時代の観客にとっては同時代人として共有されていた(それゆえに回りくどい説明など不要であった)「時代的心情」が後世の人々になかなか共感しにくいものであったということなどです。名作であればこそ・近松作品は改作によって時代の好みに添ったアレンジをされつつ・後世の人々に親しまれてきたということなのです。改作されるにはされるだけの・それなりの理由があったということも理解せねばなりません。一概に 改作を「駄作」だと決め付けるわけにもいかない気がします。
そういうわけで、原作で近松を論じると「歌舞伎の近松」を論じていることにならないのではないかという不安があったわけです。しかし、いろいろ考えた末に、原作一辺倒ということではなく・とにかく原作を読み込んだ上で・そこから歌舞伎の舞台を考えるのが正しい筋道であろうという心境にようやく至りました。幸い近松の世話物浄瑠璃に関しては注釈付きの本が数多く出版されています。これを機会に近松の浄瑠璃にも接していただければと思います。
「近松物語」
渡辺保先生の最新刊「近松物語〜埋もれた時代物を読む」(新潮社)が出ました。子供のためのシェークスピア入門として有名なラム姉妹の「シェークスピア物語」に倣って 、(これは子供のための本ではないですが)近松門左衛門の忘れられた時代物作品を読み下してみようとの試みです。近松は世話物作家のように思われていますが、その百二十編とも言われる作品のなかで世話物は二十四編にすぎません。当時の劇作家にとって本領は時代物ですから、時代物で声名をとってこそ本物なのです。
時代物というのは・すなわち歴史物語ですが、そこに江戸の世に人々の世界観や人生観、歴史観が色濃く反映されています。さらに江戸時代は同時代の出来事を自由に劇化することが出来ませんでしたから、作品のなかに時代の思いも託されているわけです。そのために時代物は非常に技巧的かつ構造的なフィクション(虚構)になっています。つまり、現代人のリアリズム・実証主義の視点から見れば非常に「嘘っぽい」わけです。しかし、逆に言えばそこが時代物の面白さです。これを解析していけば、当時の江戸時代の人々の精神状況をパズルを解きほぐすように探っていく面白さがあ るのです。
正徳4年4月(1714)竹本座初演の近松62歳の作品「相模入道千疋犬(さがみにゅうどうせんびきのいぬ)」は、鎌倉幕府の最後の執権北条高時が主人公です。史実の高時はことのほか闘犬を好みました。この作品は高時の最後を描いたものですが、高時の用人で御犬預かりの惣奉行五大院宗重の喉首を名犬「白石(しろいし)」が食いちぎるという場面が出てきます。もちろん高時は「犬公方」と言われた五代将軍徳川綱吉、宗重は 綱吉をそそのかして「生類憐れみの令」を出させた護持院隆光、そして白石は六代将軍徳川家宣を補佐し・「生類憐れみの令」を廃止した新井白石を擬しているわけです。既に綱吉が宝永4年(1709)に亡くなって5年ほど経っているとは言え・これほど露骨な政治批判は当時の役人でも気が付かぬはずがなかろうに一体近松は大丈夫だったんだろうかと読んでいる方が心配になりますねえ。
なかなか馴染みの薄い近松の時代物ですが、この「近松物語」をきっかけにして岩波書店の「近松門左衛門全集」のオリジナルの方にチャレンジしてみようかという方が出てくれば、渡辺先生の労も報われるというものでしょう。 
 
近松の時代物と世話物

「人々は自分自身の歴史を作る。しかし、それを自由な素材から作るのではない。つまり自分で選び取った材料からではなく、手近にある既存の因習的なそれから作るのである。あらゆる死滅した種族の伝統が、悪夢のように生きている人々の脳髄に覆いかぶさる。」(カール・マルクス:「ルイ・ボナパルトのブリュメール 18日」)
「歌舞伎素人講釈」ではこれから三大丸本歌舞伎を考えていくということですが、今・なぜ三大丸本なのでしょうか。
三大丸本と言うのは、ご承知の通り延享3年(1784)の「菅原伝授手習鑑」、延享4年(1785)の「義経千本桜」、寛延元年(1786)の「仮名手本忠臣蔵」の三作品のことですが、三年続きで大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃が原作で・それがすぐに歌舞伎に移されて人気演目としてずっと上演されてきたわけです。もちろんこれらの作品にまつわる芸談も豊富に残されていますから・研究対象として非常に重要なものです。
実は最初は・古い順にまず近松門左衛門の世話物から取り上げてみようということを考えていたのです。しかし、むしろ三大丸本の竹田出雲ら浄瑠璃作者の古典様式を十分検証したうえで・そこから近松を振り返ってみた方が・近松の創作のベクトルが理解しやすいであろうという風に考えて方針を変えたのです。
三大丸本の竹田出雲らから近松門左衛門を振り返って見るというのは、どういう意味があるのでしょうか。
近松は現代ではもっぱら世話物の作家として評価されています。しかし、近松の120編とも150編とも言われる作品のなかで世話物は24編にすぎないのです。当時の劇作家にとっての本領は時代物で、時代物で声名をとってこそ劇作家なのです。だ から近松は時代物作家として評価すべきで・世話物は近松の余技であると考えるべきだという意見もあるのです。しかし、いろいろ考えてみると近松はその創作意欲を注ぎ込む容器 (いれもの)として時代物という形式に満足していたわけではなかったということをこの頃つくづく思うわけです。
近松は時代物という形式に満足していなかったという推論の根拠は何でしょうか。
現在上演される近松の時代物は「平家女護島(俊寛)」とか「傾城反魂香(吃又)」とかそう多くありませんが、しかし、いくつかの作品を見てみると・近松の時代物は同時代のことを過去の物語に仮託しようとする要素が強い。つまり、同時代性が強過ぎて・時代物としてはいささか生(なま)な感じがするように思われます。
近松の時代物における生な感じは、例えばどんなところに出てるのですか。
例えば「平家女護島・俊寛」において・俊寛が使者瀬尾に斬りつけ・これを討ち果たす場面ですが・歌舞伎ですと・単にとどめを刺すだけですが、実は原作(浄瑠璃)では俊寛は瀬尾の首を切り落とすのです。本文には『始終をわが一心に思ひ定めしとどめの刀、「瀬尾受け取れ、恨みの刀」三刀四刀じじぎる引つきる、首押し切つて立ち上がれば、船中わつと感涙に、少将も康頼も手を合わせるたるばかりにて、物をも言はず泣きゐたり』とあります。首を切り落とすということは、これが俊寛と瀬尾との個人的な喧嘩ではなく・正式な果し合いというか・「これは政治的な戦争だ」ということを明確に示すもの なのです。つまり、俊寛は瀬尾の首を斬りながら・実は清盛の首を斬っている心なわけです。俊寛が丹左衛門に「『小松殿、能登殿の情にて、昔のとがは赦され、帰洛に及ぶ俊寛が、上使を切つたるとがによつて、改めて今鬼界ヶ島の流人となれば、上御慈悲の筋も立ち、お使の落ち度いささかなし』と言うのはそこのところです。
これが同時代性とどうつながるのですか。
実はここで近松は「平家女護島」(享保4年)での平家の横暴の描写に徳川将軍家を重ねていると考えられるのです。近松研究の木谷蓬吟はこのような描写が近松が晩年になるほど多くなっていると指摘しています。蓬吟はこれは享保に入って将軍吉宗の朝廷圧迫が激しくなっていたことに関係があると述べて・「清盛は徳川幕府の仮面である」と指摘しています。近松は若い頃に一条禅閤恵観(えかん)など公家に仕えたことがあって・天皇家に親近感がもともと強かったと思われます。近松は日ごろの幕府の朝廷に対する振る舞いに憤懣やるかたなく・これを「平家対朝廷」の対立構図のなかに託したと考えられるのです。
すると俊寛は瀬尾の首を斬りながら・徳川吉宗の首を斬るという心ということになりますか。
もしかしたらそうかも知れませんよ。木谷蓬吟には「近松の天皇劇」という著書があって、ここで蓬吟は近松の時代浄瑠璃から天皇が登場する33編を挙げて・近松の「勤皇」的史観が近松の天皇劇の動機であるとしています。
「俊寛」の他にはどんなものがあるでしょうか。
「相模入道千匹犬(さがみにゅうどうせんびきのいぬ」(正徳4年・1714)という作品があります。相模入道というのは鎌倉幕府最後の執権・北条高時のことです。北条高時は幕府が衰退している時に田楽や闘犬にうつつを抜かしていたというのは有名な話です。犬というと・連想されるのは「犬公方」と言われた五代将軍徳川綱吉ですね。本作が書かれた正徳4年というのは綱吉が死んで四年後のことなのです。「生類憐れみの令」は天下の悪法とも言われていますが・これを綱吉にそそのかしたのは護寺院隆光でした。「相模入道千匹犬」には高時の信任を得ながら・自分が助かるために最後の最後に主人を裏切り・新田義貞に高時の首を渡す五大院の右衛門という人物が登場 するのです。この最後の方で吃驚するような場面があります。五大院の右衛門に白石(しろいし)という犬が飛びかかって・その首を食いちぎるのですよ。五大院の右衛門は護寺院隆光を・忠犬白石は六代目将軍家宣の補佐役で・「生類憐れみの令」を廃止した新井白石を擬しているのです。
これはまたびっくりの描写ですねえ。これで近松には何かお咎めはなかったのかと心配になりますねえ。
『時に白石一文字に吠えかかり、五大院の右衛門が首の骨ひっ咬へ、くるりくるり、くるくるくると振り回し、ふつと喰い切り捨ててけり。』と言うのですよ。これは凄い表現ですねえ。これほど露骨な政治批判は・どんなに頭の鈍いお役人でもその意図は分かるでしょうね。
享保8年(1723)2月・近松71歳の時に幕府から心中物の出版・上演禁止令が出るわけですね。
心中物の上演禁止令が近松に与えた精神的打撃は計り知れないものがあったに違いありません。翌年・享保9年1月に竹本座で 上演された「関八州繋馬」(かんはっしゅうつなぎうま)が近松の最後の作品となります。謀反人の娘として抹殺された小蝶の霊が、大文字焼の火のなかから現れるという幻想的な場面は評判を呼びましたが、その直後・3月21日に大坂 の街が大火事に見舞われて・竹本座も焼けてしまいます。これは大坂の「大」という字が燃えるという不吉な芝居を書いた近松のせいだという風評が流されたのです。それがある筋の意図的なものであったどうかかはともかくとして、晩年の近松は失意のうちに死んだわけです。近松が亡くなったのは、同じ年(享保9年)11月22日のことでした。享年72歳。
「関八州繋馬」はその題材を「将門の世界」に採っていますね。
平将門といえば天下を揺るがした謀反人であり・最も有力な御霊です。その将門を「世界」にとるのは、スケールが大きい芝居が出来る可能性がありますが、同時にこのような「反体制」のシンボルを題材に取ることは作者にそれなりの作意があると考えられます。また、これを題材にするリスクも覚悟しなければなりません。ちなみに三世鶴屋南北の絶筆「金幣猿島郡」も「将門の世界」に拠っているのです。これにも南北の意図が潜んでいるかも知れませんね。
近松の時代物には同時代に対する怒りとか憤懣とか・様々な思いが仮託されていると考えられるのです。
近松作品全体を調べているわけではないので・あくまで印象ですが、近松の時代物は同時代的要素が非常に色濃いように感じられます。つまり時代劇としてはいささか生(なま)な感じがします。後年の竹田出雲 らの三大丸本にももちろん同時代性はあります。「仮名手本忠臣蔵」などはまさにそうですが、しかし、こういう生(なま)な感じはあまりしないのじゃないですか。時代物として練れていて・フォルムのなかにちゃんと納まっている感じがする。これは単に我々が三大丸本を見慣れちゃってるせいなのか。むしろ近松の方が感触が新しい感じがするのは何故なのか。そこのところを考える必要があると思うのです。その為にはやはり三大丸本の方から時代物のフォルムの完成形態をまず先に検証しなければならないという結論に達したわけです。
近松の世話物を考えているうちに・三大丸本に思考展開しちゃったわけですか。
時代物浄瑠璃の形式は五段形式が基本です。一方、近松の世話物というのは・ご存知の通り、上・中・下の巻で構成される三部形式になっています。世話物の最初である三部形式は「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)で近松が創始したものです。もちろんそれぞれの世話物作品で場割りは微妙に変わりますがね。「曽根崎」は構想から執筆まで一月もなく一気に書き上げられた のです。しかし、この三部形式を近松がどのようにして発想されたかについては確固たる定説がないようです。有力な説は時代物浄瑠璃の三段目(三段目は世話場であることが多い)が独立したものだという説でしょうか。しかし、もうちょっと違うものを考えてみたい気がするのです。
もうちょっと違うものとは何でしょうか。
近松は時代物という形式に飽き足らなかったのではないか・純粋な現代劇が書きたくて仕方なかったのではないかと思えるのです。だから世話物は時代物浄瑠璃の三段目が独立したものだというのが形式的に考えて正しいこととしても、その裏に近松の時代物五段形式の破壊衝動を見る必要があるという気がします。近松は本当は現代劇が書きたかった・その衝動が世話物の創造になったということです。
そうなると近松の作家としての評価はどういうことになりますか。
現代では近松は「世話物作家」であるということになっています。吉之助の言っているのとその意味合いは異なるのですが、結論としては近松は純現代劇としての世話物を志向した劇作家であったということは間違いないと思います。やはり近松は世話物作家であったという結論になります。
そこで近松を見直すために・まずは三大丸本を考えてみるということになるわけですね。
「歌舞伎素人講釈」では歌舞伎を「バロック」という概念で解析することをずっとしてきました。引き裂かれて分裂していく表現ベクトルであるバロックに対して、集約し・まとまっていく表現ベクトルが古典です。このふたつの対立概念の狭間で揺れ動くなかに芸術のざまざまな表現様式があるというのが「歌舞伎素人講釈」のフォルム感覚です。そう言う視点から見ると、三大丸本と呼ばれる作品群は・現状において も頻繁に上演されていてその古典的な作品構造が一番検証しやすい作品群です。また、事実、浄瑠璃の歴史から見てもこれらの作品は最も完成された古典的形態を備えているということが言えます。
三大丸本の時代物のフォルムを研究すれば・近松がこれを破壊しようとして世話物へ動かした衝動が見えてくるかも知れないというわけですね。
その通りです。そのためには時代物浄瑠璃の持つ古典的フォルムの持つ効果を研究しておかなければなりません。ひとつ考えるべきは古典的形態のもつ安定性が持つ効果です。これは普通に考えると表現の普遍性・あるいは表現の理念化に通じると見ることができます。まあ 、平たく言うと高尚化・芸術化ですが、逆に作用する場合も考えられます。表現を型にはめる・硬直化させる・ひどい場合だと自由な表現を阻害する方向に働くこと もあります。時代浄瑠璃のフォルムはこの両面から考える必要があります。まあ、三大丸本はその両面のバランスが取れた理想的ケースということです。
時代物というのは 江戸時代の庶民から見た遠い過去の世界を題材にして作られていて・歴史上の事件や人物の名前が使用されていますが、あくまでも題材として使っているだけで史実からは遠いわけですね。
江戸時代は当時の事件や人名を使用して現代劇を作ることが許されていませんでしたから、いわば便宜上過去の事件のなかに現代の庶民の思いを託したのです。良い方に考えると、この制約を逆手にとって荒唐無稽であっても・さまざまなアイデアを盛り込んだバラエティに富んだ芝居が作られたわけです。そこに庶民の雑草のように・したたかな生命力を見ることが出来るということです。逆に言いますと、幕府の統制により 同時代演劇を創ろうとする庶民の健康な創造意欲が不自然な形で歪められたということができます。この両面を見る必要がある。どちらか片方でも時代物の本質を見誤ることになります。
近松の場合は同時代での思いが時代物に色濃く反映されているということでしたが、出雲らの三大丸本の場合はそうではないのですか。
バロック感覚というのはひとつの物差しで測って・ある作品はバロック度3・別の作品はバロック度2だとか判定するものではないのですよ。それは相対的なもので見ようによって・捉え方によって同じ事象がバロック的に見えたり・古典的に見えたりするのです。そういうことは、ふたつの作品を並べてみるとか・同じ作品のある部分とある部分を比べるとか、そういう作業をして相対的に理解するべきことなのです。そうすると、これと比べると・こちらの方がバロック性が強いとか・こちらは古典的だなと感覚的に分かるようになってきます。特に重要なのは作品の流れのなかでの前後の表現との関係ですが、それさえも見方によって感覚が変ってくるのです。そうしたところから判断していくしかないのですが、 吉之助の感覚では・全般的に言えば出雲らの方が近松より古典的に思えます。
出雲らが古典的だというのはどういうところからそう感じるのですか。
三大丸本はフォルム感覚がしっかりしていて・枠の制約をあまり感じさせませんね。表現が練れて落ち着いた感じがするのです。時代浄瑠璃の完成されたフォルムを感じさせます。だからと言って出雲 らにバロック性がないわけではありません。むしろそうしたバロック性が内部に秘められていて・登場人物の行動や台詞の些細なところでチロチロと噴出すのです。とにかく全体のフォルムを眺めれば出雲 らは古典的であると思えます。しかし、細部の分析に入っていけば・ここはバロック的だと言うところはいっぱい出てきますよ。
ひとつの作品のなかに古典性とバロック性は混在するのですか。
完全に古典的な表現・完全にバロック的な表現というのはありません。すべての表現はどちらの要素をも持ち、その両極の間で揺らぐのです。ひとつの作品のなかでもバロック的な要素と古典的な要素は呼吸のように揺らぎ・波のように動くのです。この辺りをこれから三大丸本のフォルムを考えていくことで検証していきたいと思います。 
 
死生観・他界観 

日本人の死生観・他界観と仏教 1  
古代日本人の他界観と仏教流入以後
古来日本人は多様な他界観をもっていた。これは日本人のルーツが多様であったことと関係しているのだろう。「古事記」「日本書紀」においても幾つかの他界が語られている。「高天原」「常世」「黄泉の国」「根の国」「底の国」「妣の国(母の国)」などである。これと対応するように神々も天津神の系統と国津神の系統とがあり、それぞれ伊勢神宮と出雲大社を中心に一つの世界を形成している。国譲り神話により、顕界を司るのは伊勢神宮を中心とする高天原の神、幽界を司るのは出雲大社の神であるオオクニヌシである。
これに加えて仏教が日本に入り、六道輪廻の世界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)とそれを越えた聖者の世界(声聞、縁覚、菩薩、仏)とが加えられた。特にその中の地獄はそれまでの他界にはっきりとこれに対応するものがなかったために大きな衝撃を日本人に与えたと思われる。記紀神話の世界では死は「かんあがる」と言われ、死ねば皆神になるというのが基本的な考えだった。かなり楽天的は他界観だったと言ってよいだろう。例えばスサノオは高天原を追放されているが、出雲に下り、国津神となっている。正邪や善悪の面ではかなり寛容で、罪を犯しても禊ぎ、祓いをすればそれは消せるものだった。
仏教は真理としての因果の道理を基本とするので、善因善果、悪因悪果であり、これは人間が勝手に変えられるものではなく、因果、業報の理法に基づくものだった。これがそのまま他界に反映するので他界も善因善果、悪因悪果に基づいて分かれることになる。理法なので、恣意的な裁きもない代わり、救いもない。この他界は古代日本人の並列的他界の多様さとは異なり、善悪による階層分化である。最下層に地獄があり、六道輪廻の中では天が最上層となる。
しかしここまではまだ迷いの世界で、人間自我にとらわれた「我執」の世界であり、「有」の中にある。それでここの最上部が「有頂天」と呼ばれる。人間的幸福を追求する欲の世界であり、人間的幸福への執着を越えた「無我」の「空」の世界ではない。それでこれを越えようとする人間に対してはそれを邪魔し、引き留めようとするものがそこにあり、これが「六欲天の魔王」などと呼ばれる。悪魔的存在が地獄だけにあるのではなく、実は人間的幸福のさなかにあるというのは、この天も捨てさせてそれを越えたものを求めさせようとするからである。これを越えたのが仏教を学び悟る声聞から先の世界である。その基本は出家して世俗を捨てた上で真理を求めるものだった。ここからが輪廻を越えた聖者の世界だった。これがいわゆる「彼岸」であり、その前の迷いの世界が、この世界と他界の天から下を含めた「此岸」である。浄土はこの「彼岸」の側の他界である。六道輪廻の世界は今述べたように他界であってもこの世とともに「此岸」の側になる。
そこまで認識が進まないとしてもとりあえずは地獄に落ちるのは何としても避けたいので様々な功徳を積み、少しでも上の世界を求め、またこの世界に生まれ変わったときには少しでもいい暮らしをしたいという人々が仏教を知った貴族階級を中心に増えてくる。浄土教的な考え方の始まりである。やがてさらに平安末の混乱とともに末法思想の影響で浄土教熱が高まることになる。その中から後述する法然、親鸞の浄土教が生まれる。
明治時代以降の他界観
時代を飛ばして明治以降に進めて考えると、明治時代から正式にキリスト教が入り、ここに「天国」という他界が入ってくる。これを仏教的他界観と比べると、キリスト教の天国は本来そこに生まれれば、そこで永遠の生命を得て、この世に還ってくる必要のない世界であり、仏教の六道輪廻の世界を越えた浄土と同等のものだったと思われる。しかし、仏教の六道輪廻の中の「天」と混同され、地獄ではない、あの世の中の比較的いい世界くらいの感覚で受け止められ、「天国」は急速に日本に定着していったようだ。マスコミ等での表現を見ても「天国と地獄」という形での対になった他界観が現代の一般的な他界観の代表だろうと思う。
明治以降のその他の表現では仏教者でありながら、科学者、教育者、文学者でもあった宮沢賢治はアインシュタインの理論にいち早く接し、これを取り入れた「四次元」を他界に転用している。「銀河鉄道の夜」は亡くなった友人とともにする一種の霊界旅行と言うべきものだが、そこでも「四次元」の考え方を応用している。仏教の他界がもっていた階層構造を次元として捉えたものである。
他に鈴木大拙が紹介し、今でも読者を持つスウェーデンボルグの霊界は階層構造があるだけではなく、地球外の宇宙までも視野に入れた壮大なもので、宮沢賢治の他界観もこれと通じるものがある。
このように時代に応じて他界観も変遷しているが、私はただ階層構造をもつだけではなく、「迷い」と「悟り」「有」と「空」「我執」と「無我」と言った区分を入れた仏教の他界観は真実を生きる上で優れたものだと思う。単純な言葉ではすでに述べた「彼岸」と「此岸」である。これはキリスト教の場合も元来は同様だったと思われる。
法然、親鸞の浄土教
浄土教は仏教の一部として生まれたので当然仏教の他界観をそのまま受けている。問題は「彼岸」である浄土にどのようにして往くかであった。仏教の他界観の基本は善因善果、悪因悪果の因果、業報の理法によって決まると述べたが、これは浄土教の側から「浄土門」に対して「聖道門」呼ばれる、天台や禅宗の仏教ではその通りである。
平安末に浄土教熱が高まったことを述べたが、貴族にとっての浄土教は、本来の彼岸としての浄土に行くものと言うよりは、実質的には「天」への再生を望むものだったと言えよう。これは本当の意味での永遠の生命を得ることではなく、ただ個生命の継続に過ぎず、本来は迷いの側の生に入れられるのだが、その道理がわからない人にとっては「天」で充分だったのだろう。
しかし、天台の僧だった法然や親鸞にとってはそうではなかった。彼らは聖道門仏教を学んでいるので仏教の基本は充分に承知している。しかし聖道門での修行と因果、業報の理法だけは自分がとうていその彼岸としての浄土に行けないことを自覚した。ここに彼らの苦しみがあり、また革命的仏教が生まれる素地がある。
これを法然は一切経を五度読み返し、ついに中国の善導の「観無量寿経疏」の「一心専念弥陀名号」で始まる一節と出会って「本願念仏」に開眼し、彼にとってのこの問題を解決した。聖道門の修行をなしえない凡夫、さらには地獄必定の悪人も、阿弥陀仏の本願を信じて称名念仏すれば浄土往生できるという革命的な仏教だった。善悪の因果の理法を越えた本願の救いの仏教を提示したのである。
これを受け継ぎ、さらに法然の口伝だったと言われる「悪人正機」を強調するとともに、自らの行や善を積んで浄土往生するのが基本だったものを、それに代えて本願を信じるという「信」によって往生することを強調したのが親鸞だった。それまでの仏教の「善悪」を対とする因果に代えて、「信疑」を対とする因果を打ち出した。「信心正因」と言われる、「本願」と相応する「信心」という「本願と信」の因果、「救い」の理法を見出したのである。本願という如来の根本因と衆生の信心という因の相応するところに、衆生の往生と成仏という「果」が得られるとした。だから親鸞にとって信心は仏性だった。「悟り」の仏教に対して「救い」の仏教がここに生まれた。
もともと大乗仏教では、釈迦仏だけでなく複数の仏がいて、それぞれの仏が自分の浄土を持っていた。大乗仏教はこの部分では、古代日本の他界観と似た並列的で多様な他界観をもっていた。それぞれの仏が自分の浄土に往生できる条件を満たす者をそこに往生させるという考え方である。法然、親鸞は阿弥陀仏の浄土はその本願を信じて念仏する者が往生できるとしたのである。他の仏の浄土のことまで言ったわけではない。
しかし阿弥陀仏の浄土は古来非常に人気があり、そこへの往生を願う人々が多く、経典の解釈も積み上げられたものがあった。天台でも阿弥陀仏の浄土を願う人々は多く、天台浄土教が生まれていた。いくら独自の浄土と独自の条件と言っても、通仏教の理法である、善悪の因果、業報の理法を無視したものは聖道門の人々には仏教には見えず、邪教にしか見えなかった。
結局法然教団は弾圧を被り、法然、親鸞は流罪となった。法然は赦免後まもなくなく亡くなるが、親鸞は越後に流罪となり、赦免後は関東で布教を続けた。しかしやがて彼らの唱えた「本願念仏」の救いの浄土教は、浄土教の大きな潮流となり現代に至っている。
親鸞の「還相」
親鸞の浄土教の特色の一つで、死生観に大きく関係するものとして、浄土往生する「往相」だけではなく、そこからこの世界に再び還ってくる「還相」を重視したことがあげられる。これは浄土が本来輪廻の世界を離れたものであり、この世界に生まれる必要がない世界であることを考えると大胆な説である。即ち親鸞の言う浄土は輪廻の中の天と同じでないのか、本当の浄土ではないのではないかと受け取られるおそれがあるということである。凡夫が往生できるというのもそのせいではないかと思われるかもしれない。
しかし決してそうではなく、親鸞にとって最も大事なのは「本願」であり、本願の働きのままに生きるのが彼の生き方だった。自分の説くことがいかに誤解を生みやすいかは、比叡山で学んだ彼にとって分かり切ったことである。しかし本願によって救われた自分はただそれが自分に説けと命じるものを説くだけだった。その働きはこの世を去った後も続き、その中に人々に救いを伝えるためにこの世界に戻ることも含まれていた。それは我執による輪廻の生ではない。自己保存の欲望によって生まれ変わり死に変わることとは決定的に違っている。自分のためにするのではない。本願のまま、生きてよし、死んでよしの浄土教だった。
親鸞の「自然法爾」と妙好人
この本願の働きのままに生きるのが彼にとっての「自然」だった。彼にとっての「自然」はそれ自体が偉大な理法であり仏法だった。彼が説いたのは確かに新しい仏教だったが、彼はただ「自然の理」に従っただけだった。それが「自然法爾」である。
この言葉は彼の浄土教理解を語ったものだが、そこにある「自然」は言葉自体は「じねん」という仏教語として使われているが、古来日本人の心をとらえてきたものだったろう。宗教の枠を越えて共感を呼ぶものがある。芭蕉や良寛の生き方を見ても彼らがみな自分なりの道で「自然法爾」を生きていたように見える。良寛は禅家だが、実際念仏者でもあった。もともと自力を否定し他力を説く浄土教は、人為を否定し無為を説く老子の「無為自然」と通じるものがある。浄土経典は中国で翻訳されるときに、老荘思想の「道家思想」を取り込んでいるし、浄土教も中国で発展したので、「自然法爾」も「無為自然」と通じる東洋人の発想だろうと思う。
親鸞の開いた真宗は後に妙好人という篤信者を多く輩出するが、彼らの生き方もみなこの「自然法爾」の中にあるように見える。
その妙好人の一人に江戸時代末期から昭和時代まで生きた「因幡の源左」がいる。彼は一生農業に生き、田畑を耕しながら、農閑期には請われるままに法話をして歩いた人である。この源左には墓がない。彼の檀那寺、鳥取市山根の願正寺には名号の刻まれた石碑があり、昔からこの村の人はその石の下の空洞に自分の骨を入れる。個人の墓はない。これがこの村の風習だった。自然に還るような源左の生き方にふさわしいあり方だと思う。
同じく妙好人として知られた「讃岐の庄松」は、死んだら墓を建ててあげようと言う同行に対して「おれは石の下には居らぬぞ」と言っている。彼らにならえば、本当の納骨とは自分を本来の居場所である浄土に還すことだろう。
 
日本人の死生観と他界観 2

死者をどのように埋葬するかは、民族の死生観や他界観にかかわることであり、その民族の文化の根本をなすものである。肉の復活の思想を根底に置くキリスト教文化においては、遺体は丁寧に飾られて、来るべき復活に備える。遺体を損傷するなど許されざるタブーである。一方、輪廻転生のなかで魂の実体を信ずるインド文化においては、遺体そのものは重大な関心事にならない。
遺体の扱いという点では、土葬と火葬は両極端に位置する。したがって、この両者が同一の文化の中で共存することは、通常は考えがたいことである。しかし、日本においては何故か矛盾、対立を伴わずに共存してきた。先稿で述べたように、日本の長い歴史の中では、土葬が主流であったといえるのだが、それでも、火葬が忌むべきものとして、排除されたことはなかったのである。
これには、日本人が古来抱いてきた死生観や、その背後にある霊魂と肉体との関係についての見方が、背景にあったものと思われる。
日本人本来の宗教意識の中では、魂というものは、肉体とは別の、それ自体が実体をともなったものであった。魂は、肉体を仮の宿りとして、この、あるいは、あの、具体の人として現れるが、肉体が朽ち果てた後でも、なお実体として生き続け、時にはこの世にある人々に対して、守り神にもなり、また、厄病神にもなった。しかして究極においては、ご先祖様として、神々の座に列することともなるのであった。
古来、日本人にとっては、人の死とは、霊魂が仮の宿りたる肉体を離れて、二度と戻らない状態を意味した。霊魂はまた、一時的に肉体を離れることもある。であるから、人が失神したときには、必死になって霊魂を呼び戻そうとした。近年まで各地で広範囲に行われていた、魂よばいといわれる一連の儀式は、日本の葬式文化の特徴をなすものであったが、それはこのような霊魂観に裏付けられていたのである。皇室において、「もがりの宮」という儀式が伝統的に催されてきたが、これも、魂よばいの洗練された形態と考えられるのである。
霊魂がなかなか戻らず、遺体が形を崩し始めると、人々はいよいよ死というものを受け入れざるをえなくなった。こうなると、残された亡骸は、生きていたときのその人の、今の姿なのであるとは感じられず、たんなる魂の抜け殻に過ぎなくなる。抜け殻になってしまった遺体は、一刻も早く埋葬する必要がある。そうでないと、悪霊が乗り移って、災厄をもたらさないとも限らないのである。
日本人は、どうも死者の遺体に無頓着なところがあるといわれ、それがまた火葬が普及したひとつの背景ともなっているのだが、その理由の大半は、以上のような霊魂観にある。
ところで、霊魂のほうは、肉体を離れた後、すぐに遠くへといなくなってしまうわけではなく、死者の墓や遺族の周辺に漂っているものと考えられた。遺族が供養したのは、死者の亡骸そのものというより、この漂う霊魂を対象としていたのである。
この漂う霊魂が、いかに実体を伴ったものとして考えられていたかは、菅原道真の例によく現れている。平安時代の人々は、道真の怨霊が仇敵らにたたって、その命を奪ったのだと、真剣に受け取ったのである。
しかし、霊魂もいづれは、この世を去ってあの世に行くものと考えられた。あの世とは、古代人の意識の中では、おそらく天空であったと考えられる。そして、あの世とこの世の接点になるのは、だいたい山であった。霊魂は、折節につけ、あの世から山を伝わってこの世に戻って現れ、人々の生き様を見守るのである。
日本各地に古くから行われている、祭りや年中行事の殆どは、神となった霊魂を山中あるいはその代替としての依代に迎えいれ、ねぎらうという体裁をとっている。神道の諸行事は、それを体系化したものにほかならない。
死者の霊魂があの世に移るのは、死後33年たった頃か、長くとも50年後のことなのだろうと考えられた。遺族による祭祀も、このあたりが節目となるし、またこの頃にもなれば、霊魂も安らぎをえて、あの世に上り、ご先祖様として、神になることができただろうと考えられたのである。 
 
現代日本人の死生観の形成―仏教の役割と提言― 3

本論文は、現代の日本人の心のあり様(よう)と社会の諸現象との関係を把握したいという目的を持っている。そのために、まずは生き方の根本に関わる、生と死についての考え方を歴史的に振り返り、今日のその姿を捉えてみることにする。一方で、われわれの周りに起っている現象からその起ってくる根源にまで考察を深めてみる。この両方向の接点に注目していきたい。さらに、今ここで生きるという観点から日本の社会や精神の歴史で大きな役割を果たしてきた仏教の役割と提言に絞り、上記の接点においてなにか有効な役割を果たしているのかを客観的にまとめてみたい。(1)
以下、論旨を明確にするために、箇条書きのスタイルを取っていくことにする。 
表題の説明
a 「現代とは」
1945 年以後から2008 年までを考えるのが順当かとも思われる。しかしわれわれは、バブル崩壊(1990)以降からに限定して考察する。それは価値の転換と新しい状況がこの時期に生まれていると思えるからである。より正確には、少なくともそうした新しい価値の生まれるチャンスはあったと思える。「現代」をこのように20年たらずに狭くしぼって見ることで、かえって正確に問題を把握することができよう。
b 「死生観とは」
本居宣長(1730-1801)の研究者、子安氏の次の定義がわれわれには最適と思われるので、これを本論では採用することにする。
「だれにも訪れる死とそして死後という究極的な暗部を予想しながら、あるいはそれに対応しながらたてる、なんらか現世におけるそれぞれの生を律するような観念体系。」(『日本における生と死の思想』(有斐閣)
このような観念体系が宣長にはなかったと氏は述べている。たしかに、『鈴屋答問録』で「死は悲しむしかないものであり、儒や仏の説は面白おかしい作り事だ」という姿勢を宣長はとっている。彼は、『古事記』に登場する神々の行動に照らして自分のそれを定めるという一貫した姿勢を取っていた。死に対しては、悲しむことしか出来ない、安心(あんじん)はない。仕方ないとなる。あきらめることを良しとする態度がこの辺りから定着していくのである。(2)と同時に、近頃は異常なまでに健康ブームが浮いて流れる如くある。
一体われわれ現代の日本人には子安氏のいうような観念体系が存在するのかという鋭い問いがすぐに出てくる。また、これを現在の西洋、特にフランス人の死生観のあり方と比較するというのも有益かつ興味深いことである。しかし、この問題は、筆者は別に論じているのでここでは余り深入りしない。(3)
c 「形成とは」
形成されているのか、またその途中なのか、それとも形成されるのか、形成されるべき問題なのか、を含めて考察する。今の段階ですぐにも答えられるのは、確固とした死生観は形成されてはいないこと、そして困難ではあるがどのような形を取るにしても、時代によってそれほどに激しくは「ぶれない」だけの、しっかりとした生と死についての信念が個人的にも、社会的にも確立することは望ましいのではないだろうか。
もとより戦前のような軍国主義で固まることは躊躇されるが、あまりにも、ばらばらなのもどうであろうか。ふらふらとしていることと、何ものにも執着しないでしかも身を律していくことの違いは大きい。
d 「仏教の役割と提言」
仏教の伝来以来の、仏教と日本人との関わりについてはこの後で簡略ながらも順次述べる。特に、(3)の項目「日本人の精神史」を参考にしてほしい。そこでは、仏教が歴史的に日本の社会でどんな役割を果してきたかを、簡単に箇条書き風に振り返る予定である。
その後、どんな役割を期待できるか、またすでに役割を果たしているのか、どんな提言を咋今しているのかを客観的に見ていこう。「生を明らめ死を明らむるは仏家一代の因縁なり、・・・」(4)と唱えられるように、仏教がわれわれのテーマ ―死生観の形成― に大いに関わることだけは、ここで既に言い得るだろう。現代の無関心な信仰の状況 ―いわゆる無信仰― 故に仏教側からの提言がどの程度、人びとの心に浸透しているのかが、究めるべき問題であろう。 
バブル崩壊後(1990 年以降)の主な出来事
タイトルの説明が、一応済んで、この第2)項目「主な出来事」では、できる限り精神に関わる出来事に限ってとりあげたい。阪神・淡路大地震は6000 人もの死者を出した大災害であったが、その間に、「人びとが共同で助け合う姿を評価する」見方もたしかに存在するが(高瀬広居氏『日本仏教の再生求めて』)、個人を救うことに救済をためらう政府の姿勢や孤独な被災者の孤独死(自殺)も後になって多々報じられているので、独断ではあるがこの事件の大きさは認めつつもここでは精神的な面からは扱わないことにする。
さて、以下、様々な事件を簡単に整理するために、まずは問題を国外と国内に分けて列挙していこう。
国外では、ソ連の崩壊とアメリカの一極支配、経済のグローバル化が顕著になってきたことがこの時期の特徴である。資源と金融の力によって人びとの生活はいままで以上に圧倒されることになった。資源の少ない我が国は、さらに一層、知的財産を活用して生きていかねばならなくなっている。戦後から一貫して、国民、特に優れた技術者達の懸命の努力によって生活は豊かになり、物質的には救われてきたが、今後も国際的な日本の地位を維持する事態に厳しさは消えることなく存在する。
国内では、バブル崩壊を機に、われわれは、経済的に自信を喪失し不良債権の処理に官民とも追われ通した。「失われた10年」という言葉を経済学者が使い出してそれが流行した。2008年にはこの経済問題は一応解決し改善されたかに見えたが、また米国からのさらにひどい金融危機を受け、新たに経済的な危機が打ち寄せていると言えよう。すなわち、内も外も、経済によって、生活の基本の部分で不安にさらされ、精神は圧倒され続けている。将来に向かっては時代の閉塞感が満ちている。生活を担うべき人びとの苦悩は、先ずはいかに生活していくかであり、その他のことに気を使う余裕もない状態である。「生活の質」を語っていた時代は既に過去となってしまった。
オウム真理教の事件(地下鉄サリン事件)が1995年に起こった。いくつかのカルト集団の林立も確認出来る。真の宗教と偽の宗教の差は何か、差はどこにあるのかを人びとに鋭く突きつけた。宗教一般に対する警戒感を人びとの心に生じさせたと思われる。精神的空白のなかに、悪がはびこっていったという印象を筆者はもっている。
「自殺者10年連続、3万人以上 自殺率20以上」という事実が次ぎにこよう。多くは、失業や倒産による生活苦が原因と言われている。しかし、専門家によれば、自殺率が20を超すと言うことは、その社会が病んでいる証拠である。自殺を思い詰めて実行してしまう人びとに救済の手が差しのベられないのは何故であろうか。政治と社会のシステムに関わる問題であろうが、今回のテーマ―である、「宗教心」にも大いに関わると思う。(5)
「老老介護」ということも取り上げられるべきであろう。老いて介護し合う双方の極度の疲労は大きな社会問題である。老夫が老婦を殺す、またその逆のケースが報じられる。これは政治の貧困が引き起こしている悲劇であり、今後減ることはなかろう。その背景として、男女とも、過去最高の長寿(男79歳、女85歳)を記録していること、他方では超少子高齢化社会が到来している事実も見逃せない。ちなみに、2005 年の要介護の人は432万人に達している。
次に注目すべき出来事は「犯罪」である。犯罪件数の多さではなく、このところ無差別殺人が多いこと、また尊属殺人の多いことが痛ましいのである。具体例では、秋葉原で派遣社員で不満を溜めていた若者が何人もの無関係な人を刺し殺した事件が記憶に新しい。(2008年6)
雇用の形態が、バブル崩壊以降に、正規社員を減らして、出来る限り安く使える派遣社員制を採用するという変化が上記の事件の背後にはあるらしい。2004年からは、製造業にも派遣社員が大量に導入されていたことを、人びとは今さらのように気づきはじめた。右肩上がりで行くという見通しが狂ったのである。
子供(14歳から職無しの30歳まで)の親殺しも多発している。命の大切さへの教育が欠けていると指摘されると同時に、この年頃の若者のこころがわれわれのテーマに関わっている。
偽装事件の頻発も挙げられる。(ブランド名を偽って使う、賞味期限を変える、内容物や産地を偽る、等)儲けるためには、さらに自分が食って行くためには、人をだましてでも不正をする傾向が定着してしまった。言葉を変えると、モラルハザード(道徳観の破綻)とコミュニケーションが苦手な人(若者はインターネットに夢中になり友人と対話しない)が増加、と同時に何かに頼りたい気持はあるが誰も頼りにならないことが同居している時代ではないかと思われる。(犯罪者は人の気を引きたかったとよく述べている)。かってのような経済発展が日本にもう望めないなかでの生活不安が、こうした個人にのしかかっていることになる。 
日本の精神史(生と死の観点から見る)
1990年から過去へと遡る精神文化史の方法を敢えて取ってみる。その直前の時代の価値観が激しく転換される歴史をより鮮明にするために敢えてこの異例な方法を取るのである。(歴史的に、古代から現代へと見るには、最後の列から逆に見返すと良いだけである)。この作業をして、あらためて受けた印象はこうである。つまり、日本史には価値観上での断続の多いこと、日本の精神史は価値の継承の少ない歴史であることである。(a-hとh-aの両方から見て、変化に連続性が少ない。)
西洋の歴史と比較すると、この差がよりはっきりとするだろう。例えば、西洋(フランス)では、ルネッサンスは、キリスト教の背後に隠れていた、古代ギリシャ・ローマの文化を甦えらせた。モンテーニュはキケロやプラトンと対話して自己を形成し、新しくフランス文化を創出した。さらに彼の一生での死生観の変遷は、年齢や経験に加え、過去の文化遺産(ストイシズムとエピキュリズム)との対話で出来上がっていると言えよう。もちろん、キリスト教の精神は一貫して底流している。
それでは、日本の生死に深く関係する歴史を以下で概観してみる。
a.今日から1945 年まで遡る― 家父長制廃止、核家族が出現。人を束縛するイデオロギー(国家主義)より、経済のみに支えを求めて来た戦後50年の価値観が成立したが、それに対しての戸惑いと否定が1990年ごろから生まれはじめる。
b.それ以前(明治維新から戦前)の価値観― 国家神道、廃仏毀釈、富国強兵によって江戸時代の価値をすっかり捨てさり、近代化路線を取ってきた。敗戦でそれらがまたしてもすべて崩壊する。国家神道のせいで、古来からの神道の精神も、本居宣長ともども雲散霧消する。
c.それ以前、(江戸時代の精神)― 菩提寺と檀家制で寺院を利用して、キリスト教を禁教として弾圧をする。仏教は葬式と行政官の仕事に専念させられる。僧侶の妻帯を奨励する。僧侶はこうして信仰よりも家族の問題により関心を持つようになった。儒教を政治原理に利用する。(初代尾張藩主、徳川義直は儒教に心酔、葬儀、墓(廟)を儒教式とした。家来の殉死。)江戸時代には神仏合体から神仏分離へ進んだ。仏教に対して自殺行為を政府が設定したようなものである。
d.信長と秀吉の時代(安土・桃山時代)― 比叡山焼き討ち、一向一揆弾圧(1570)に見られるように、宗教と政治を分離、宗教を政治に介入させないことが激しい形で実行された。キリスト教の布教にも余地(世界の知識吸収)が少しの間生まれる。その間を利用してザビエル(1549)らがキリスト教を広める。当初は成功。デウスと天の誤解で暗礁。島原の乱のあと、幕府の弾圧が過酷になり、信者は隠れキリシタンの道をたどる。
e.それ以前(中世末期から武士の時代)― 浄土教の浸透、1052年。宇治― 8 ― の平等院鳳凰堂の建立(藤原頼通)は、上からの浄土信仰の象徴である。優秀な若い7 名の僧が比叡山を下りて民衆の中へと仏教を浸透させた。天台のむずかいしい教義をはなれ、仏教が民衆の心をとらえた稀な時代であった(鎌倉仏教)。
親鸞の浄土真宗の教え等が民衆のなかへ入り、民衆の生き方に多大な影響を与えた。2009 年は「愚禿親鸞」の750 回忌である。「極楽浄土」へいく信仰が定着する。蓮如による浄土真宗中興、(1415-1499)。彼は「御文」(1471)を書き、越前から布教を開始し一大勢力となる。その結果、政治の攻撃目標となったが、今日まで日本人の「あの世観」を形成する中核となった。お盆とお彼岸等が習俗になる。最大の宗派としての浄土真宗の基礎ができる。道元、栄西の禅宗も武士を中心に信者を獲得した。
f.それ以前(奈良・平安時代)― 仏教と神道との習合。当初の神だのみから仏だのみへ移行、仏の優位。仏教が本地であり、神道は垂迹とされた。(6)
g.それ以前(聖徳太子前後、574-622)、神道に外来の宗教として仏教(538)が伝来する。道教なども他の文物とともに中国から入る(天皇や道タオの名称等の語源)。崇仏論争起こる(552、蘇我氏と物部氏の対立)。太子は仏教に帰依し護国のために仏教を利用した。儒教も加わり、3 派の優劣論争が出る。「三教指帰(さんごうしいき)」の空海(798)が論陣を張った。
最澄は、比叡山で子弟の教育、指導をする。仏教の知恵による政治の時代(律令国家)が確立した。
h.それ以前(日本国の成立)
素朴な神々、自然に神々を見る。(大木や滝)、死は「けがれ」と見なし、そして「みそぎ」をする。自然が崇められる自然宗教の時代である。地方の豪族たちの権力争いから大和に政権が成立するに到る。今日でも日本人の心の根底に生きる自然観や、死を忌み嫌い、お祓いをする精神は存続しているが、今日この頃では人びとは、生活に追われて、これが疎んぜられる。しかし、上記のgとhの時代に、日本人のいわば原型をつくる遺伝子が決定されたのではなかろうか。衣食足りれば、この原型は失われたようでいて、にわかに甦るのではなかろうか。 
現代日本人の精神状況
以上の歴史を念頭に置いて、ここで1990年以降の精神状況を、あらためて捉えてみたい。これが、先きの 2)で触れた諸々の事件の背景になっていると、筆者は確信している。
童謡「夕焼け小焼け」のなかの歌詞「山のお寺の鐘がなる」や別の童謡の「村の鎮守の森の神様」への郷愁が普通の成人の日本人の心底にはある。
その証左に、お盆の季節には必ず、テレビの番組に懐かしのメロディーとしてこれらの曲が流れるのが慣例である。一方で、宇宙時代、科学時代、情報化時代に生きる都会人(1 億2706 万人のうち東京、名古屋、関西の3大都市圏に50 %集中)の群がある。そこで、前記のような郷愁にいつまでも浸っていては生きていけない生活があり、当然、都会での荒涼とした心象風景になりがちである。
次に、彷徨う心とストレスを受け続ける大衆の姿が目に浮かんでくる。
個性化のための自由は保証されてきたが、実際には、個性はなかなか発揮出来ないし、自由に行動もできない時代にあって、生きる辛さが余計に身にしみる。その上に、生活苦が追い打ちをかける。
「乾いた心」と精神の支柱を失っていることが、上記 2)の諸々の事件の根底をなすのではなかろうかと言う意見は正しい。(藤本義一氏の言葉)
また一方では、「支えのないこと」は人間の常態だと述べる仏教の経典があることもヒントになる。(『維摩経』の「無住」をめぐる一節と、紀野一義氏の解説参照)(7) 否、むしろ人間を「無住」の存在とすることにこそ、仏教とのたしかな接点があるのではなかろうか。しかし、この接点から熱心な信仰心となって仏教の教えに向かって上昇していかないことが問題であると筆者は考える。以下に紹介する調査でその理由の一部が示されるだろう。
このような現象は他の宗教(欧米におけるキリスト教)についてもみとめられる傾向ではある。いわゆる、信仰ばなれ、教会ばなれである。しかし、おそらく、よく言われる日本人の「無宗教」がこの点により深く関わっていて、日本独特の問題をもっていると思える。そこで次に、この無宗教という現象にスポットを当ててみる。 
無宗教の態度
a.「無宗教」について
阿満利麿(あま・としまろ)著『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996)がこの問題の解明に取り組んだ真面目な研究である。その要旨を次に書いておこう。同氏によると、先ず、日本人には一神教を避けることが根底にあるようだ。
風俗習慣として、初詣、お盆やお彼岸は執り行う。地鎮祭は、キリスト教関係の施設でさえ実施するといわれる。日本人の信仰は「自然宗教」と考えられ、キリスト教やイスラムなどの「創唱宗教」、いわゆる一神教はイヤ!という態度をとる。先祖崇拝と固有の霊魂観をもっているので、この自然宗教を仏教的に仕立て上げたものが諸々の習俗となっていると同氏は分析している。
ここで、先きに触れた国民の宗教心に関する調査結果を紹介しておこう。読売新聞の「宗教に関する国民意識」(1994年7月3日)を参考にしてみる。なお、同紙は長く同様の調査を今日まで続けてきている。94年の調査報告は次のように始まる。
「世代問わず薄らぐ信仰心」というサブタイトルをまず掲げる。何らかの宗教を信じているは26パーセント、信じていない72パーセント、答えない2パーセントと続く。なお比較と参考のために、同じ時期のフランスでの調査結果も書いておく。:(1994 年、フランスの世論調査.カトリック67 %、プロテスタント2 %、無宗教23 % etc.)(8)
b.「無宗教」についての私見
戦後の教育基本法― 教育の世俗化(学校で宗教は扱わない)が深く関係していると思う。信仰の自由とともにアメリカから入った民主主義が、本来は政治の方法であるにもかかわらずモラルとして偽装された働きをしてきていることも原因の一つであろう。道徳観の継承とそれの教育機会とがかくして失われることになった。初等教育で「道徳の時間」が開始されて久しいが、上記の諸事件が示すものは、何よりもそのような道徳の教育そのものが上手く機能していないことを示している。
家庭の崩壊とまでいわれる現象が家庭でのモラルの教育を難しくしている。まして、宗教の教育については、親も知らないことであり、教育などできもしない。社会全体が、人間の基本的なルールを取り戻すことに失敗しているのである。
キリスト教の禁教と弾圧、また近くは、戦争中、国家総動員法で仏教から民衆の宗教も監視の対象となったことの思い出がトラウマとして日本人の心に残り、一方ではかたぐるしい一神教は(キリスト教徒は1 %)避けるし、宗教へのアレルギーもある。
信仰心はあるのに、体系的な教義が嫌いである日本人が存在する。そこで、誕生の際はお宮参り、教会で結婚式、最後は家の宗派の仏式葬儀となる。何となく、雑多な宗教行事で過ごすことに慣れてしまっている。国民の意識調査がはっきりとそれを示していることは、すでに注(8)で示した。
c.「無宗教」への批判
前記の精神状況への批判も当然出ている。そのいくつかを以下にアトランダムに列挙しておきたい。積極的に人生の苦難に対応する力が生まれにくい! 物事をあいまいなままやりすごす態度になってしまう、とは精神科医の平山正美氏の指摘である。(『死生学とは何か』の中の日本人の死生観とターミナル・ケアの展望、参照)。
熱しやすく、あきらめるのが早い国民性である、というのは、もう決まり文句になっている批判である。
「美しい国の私」(川端康成)と「あいまいな国の私」(大江健三郎)(2 人のノーベル文学者の受賞講演)の対比も興味ある出来事である。この両者の立場を、古い言葉であるが「止揚」してなにか新しい、現世での生活を律する規範が出来上ってほしい、と筆者は考える。
西洋からみて、宗教がないとか、なんとなく無宗教である日本人は「気持ちが悪い」、とか「日本人は理解出来ない人種だ!」とかのマイナスの評価につながりやすい。 
仏教側からの提言―今日の「心の状態」(無宗教を宣言する集団心性)への対応
a.中村元先生の仕事は大きな影響を与えている。中国伝来の仏教解釈をやめて、原典に当たっての仏教の本格的理解からはじまり、仏教の僧や学者の育成、さらに市井の人びとへの教育サーヴィスなどの功績は世界的に認められているといっていい。台北の崋梵大学でも、同大学の東方学研究所のテキストとして、同氏の本が翻訳されて使われていた。「老いに怯え死に慄く日本社会へ仏教からの提言」を書いた保坂氏も、もちろん中村先生の愛弟子のひとりである。(9)保坂氏の提言をまとめてみよう。
「世を挙げて高齢化社会」への対応に追われる。近代化という、唯物主義から脱却することが大切である。そして、「肉体は衰えても、知恵は衰えることはない」という老いの倫理を確立、すなわち、「持てる力を出し尽くし、完全燃焼して最期のときを迎える」ことを提唱する。最後には、中村元先生の生き方そのものを見習うように同氏は訴える。
中村先生は、原始の仏教を原型のままサンスクリット(梵語、完成された語の意味)やパーリ語に直接あたり紹介する活動を生涯されたことはすでにわれわれも述べた。
ニルバーナ(解脱)とその道について、保坂氏はさらに解説を続ける。そこにこそ、先生の最後の希望と信念があったろうからである。
「自我を抑制し、生死を超えるような生き方は難しい。釈尊の臨終に例を見て見習うこと」を中村先生は最期において推奨される。(『大涅槃経』―別名、ブッダ最後の旅―大パリニッパーナ経)
最期において、「汝ら修道僧たちは怠るたることなく、よく気をつけて、よく戒めを保て」
・・・・・・この教説と戒律とに勤め励むひとは生まれをくり返す輪廻を捨てて、苦しみを終滅するであろう」と。同書の第3 章を紹介して、このような死に方を推奨して逝かれた先生を回想されている。
ここには、敢えて困難な問題があることをどうしても筆者は述べねばならない。つまり、日本人には、六道をぐるぐるとまわり続けて、永遠にそこから脱出出来ない故の苦しみという概念は取り入れられなかった、ということである。おそらくは、それは原点はインド的思念であろうがそのままでは日本人の心に入らなかった。またどうして、優れた教えとしての原始仏教がインドにおいてヒンズー教に吸収されて、定着しなかったかも同時に考えねばならない重い問題である。
目下のところ筆者には良い回答が出せない。ただ、歴史的に見て、輪廻を嫌う傾向は、中国で否定され、それが日本に入ったのではなかろうか。(中国の曇鸞から親鸞へつながるともいわれる)親鸞の「二種回向」は彼の独創ではなく、すでに中国にあったものではなかろうか、と推察する。この大問題については注のなかでもう少し詳しく扱ってみたい(10)。
b.田代俊孝氏とビハーラ運動(11)
ビハーラはサンスクリットで「安らぎの場」や「僧院」を、さらに「安らぎ」そのものを意味する。高度化した医療を宗教の側面から支えようとする運動である。キリスト教系の「ホスピス」と比べると、まだ馴染みの少ない言葉である、といえる。
インターネット上では、龍谷大学の活動者養成の試みが、伝えられている。また、21世紀の僧侶の姿勢を示すともいわれる。そのなかの若い僧侶の言葉が率直でわれわれの注意をかえって引く。「胸を張って僧侶と言いたい」。(12)
この運動の盛り上がりを、アメリカでつぶさに見てきた田代氏は、デス・エデュケーシヨンのテキストとして、『観無量寿教』を扱うことを提唱している。そして、親鸞のあの世ばかりか、「今を生きる姿勢」を評価し推奨する。ここには、従来の臨終に重きを置き、臨終の來迎と死後の往生より現世での即往生を求める同氏の熱い親鸞への傾倒ぶりがうかがえる。葬式仏教と揶揄されつつも(筆者は、葬式の儀式ももちろん大切と考える)そこから一歩踏み出そうとする、若い僧や若い学者の姿勢や意欲が伝わる。
c.[神仏霊場会]の活動
これは最も新しい仏教界の動きである。2008年の9月8日に、150の神社とお寺とで会を組織して、巡礼者として神社仏閣を一緒にまわる。同代表の、イスラム学者で東大寺の僧でもあられる森本公誠氏によれば、神社とお寺が同じテーブルにつくのは画期的なことである。(13)あらたな神仏習合なのかどうか今はわからない。
d.作家、文化人の活動
瀬戸内寂聴、五木寛之、梅原猛、玄侑宗久氏らの著作や啓蒙活動を軽く触れるだけはしておこう。この人達の本はよく読まれている。国民に仏教に何かを求め、できれば救いや助言を求める気持ちが大いにあることの証左であろう。文芸評論家の柘植光彦氏の批評を私流にアレンジして紹介しておこう。文化人(僧も含まれる)の活動を教団仏教を超えた新しい仏教の姿を垣間見させるとした後、氏は具体的にこう記している。
「密教の流れを汲む天台宗の僧侶(瀬戸内)と臨済宗妙心寺派の僧侶(玄侑)の対談集『あの世 この世』を読むと、仏教の一宗派にこだわらない。
あらゆる経典、儀式修法をあえて否定しない。キリスト教さえも容認してしまう。、、、、、『水の舳先』は、禅宗の僧侶の生活を描き、主人公は、日本にある無数の死生観を調整していくのが僧侶の仕事であると考える」(14)
e.一般の人びとの考え方
最後に庶民の考え、心情を拾っておこう。仏教は「衆生」(しゅじょう)こそを仏の救済の対象になるものとして大切とするはずであるから当然一瞥は欠かせない。鎌倉仏教も原点はそこにあったはずである。
僧侶の使う用語が既に一般向けでないと批判される。その急先鋒のひとりの永六輔氏の『大往生』(岩波新書、1994)は、ベストセラーとなった。
同新書のイメージを変えるほどの出来事と筆者には映ったものである。
様々な人の「ひと言」を集めるだけのものであるが死がテーマになると関心が集まることを示している。いくつかの例を同書から取り上げることとする。
「死ぬってことは、あの世というか、親のところへ行くっていう感じだと思います」(p.92)
「別れる寂しさ、生きてきた虚しさ。それに耐えれば、おだやかに死ねます。」(p.67)
「死ぬということは、宇宙とひとつになるということ」(p.67)
『死ぬための生き方』(新潮文庫、1991)もわれわれの関心を持ったバブル崩壊後の時期に出た本である。その解説にいわく。「筆者のほとんどは無宗教であるが・・・真面目な性格が文脈のなかに、あるいは行間ににじんでおり人は生きたように死ぬという重い言葉が浮かんでくる」と。
投稿者のなかで、作家で評論家の中野孝次氏(作家)のみが、大変厳しい。
「死は日本文化の中心にいつもあった、」さらに「死が見えない社会とは、すなわち生が見えない社会である。今の日本くらい生の本当の姿の見えなくなった社会は、日本史上はじめてであろう」(p.231)という。
ガン闘病記なども多い。ベストセラーになり、生死についての示唆に富むものが多いが、残念ながら紙幅の関係からここでは省略する。 
結び
バブル崩壊後の18 年間で、死を語ることを人びとは厭わなくなる。死生学の講義(デーケン神父はその嚆矢)や出版もはじまり、大学の授業にも、また初等の教育にもごく普通なこととなって登場してきている。しかしその道の人材はなお不足していると言わねばならない。さらに介護の仕事を、インドネシアやフィリッピンに頼る日本の現実は悲しい。
断片的観想というレベルの死生観は出ているが、一貫性と体系性がなかなか形成されないのは日本人の特質なのかも知れない。
本論のなかで述べた、神道と仏教の過去の歴史上での「自殺行為」の後遺症はあまりにも深く重いと筆者は感じている。卑近な例だが、僧侶が制服で病院に行く例を想像してみよう。
信仰の自由は保証されているが、教育での宗教教育のないことは国際的にみても、例外的ではないだろうか。ここにはむずかしい問題が横たわっていて簡単に結論は出せないにせよ、宗教と合理的精神(科学)の問題は避けてはならない。(15)
「人を殺すなかれ」の教育も必要である。西洋を含め、世界のさまざまな見方を尊重することはもちろん大切である。和を尊び、他を排斥しない仏教は今こそ十分世界の求めに応じる資格を持っている。よりどころを失っている人間に支えを提供して、この世での生活を律するものの創出に寄与してもらいたい。念仏の道によるにせよ、禅の道によるにせよ、宗派など超えて、また仏教と仏教界の革新によって、人びとの内面を律するものを創り出してもらいたいものだ。
1970 年には、京都で宗教者の会議があり、そのときに世界宗教者会議(WCRP)が創設された。その活動は続けられ、イスラエル、パレスチナ問題にも取り組んでおられることを知らないのではない。ただ、信仰の自由と寛容の精神をもちつつ、宗教での狂信は避け、世界の宗教者の対話の場をもっと増やすべき時であろう。仏教の精神はこの活動に適しており、日本仏教の専門家の活躍が望まれる。  

(1) 本稿は、2008年10 月4 日と6 日に、台北の華梵大学で筆者のおこなった講義と講演の原稿をもとにしている。創設者が、暁雲法師という禅仏教の方であり、先方の希望も入れて、仏教を中心に据えて話した。6ヶ月が経って、加筆訂正して、より論旨を明確にして日本の専門家のご批判を頂くのも自分のためになろうと思いここに発表する。当日の通訳は、私のかっての名大時代の教え子、庄兵氏がやってくれた。出藍の誉れである。
(2) 台北での発表の際に、仏教に、神道を混ぜた死生観定義ではないかという指摘をいただいた。神道の死生観の定義を引いたのでなく、子安氏の定義には一般性があると思い同感して引用したまでである。そして死後と言う究極の暗部を想定して、現世の生を律する、なにか確固としたものを、筆者は強く探し求めている。
(3) 西洋の例と比較については、熊沢一衛著、「現代のars moriendi −モーロワとモーラン」(名大論集、1999)等を参照。
(4) 『修証義』(曹洞宗)(しゅしょうぎ)の、冒頭の名言である。曹洞宗教化のための標準書と考えられる。宗門の教義を示したテキストともいわれる。1890年(明治23 年)に制定された。
(5) 自殺の件は、2008 年も、ほぼ3 万人を超すとの、暫定発表があったばかりである。(2009 年3 月)「自殺総合対策大綱」(2007 年決定)によれば、今後、10年間で自殺率を20 パーセント以上、減少させる目標を立てた。(中日新聞、3 月6日)財政再建を掲げながら、国債を発行し続ける政府の方針にどこか似ている。筆者は、まず苦しむ人びとに支援を続けるNPOのひとたちを助けるのが国民の為の政治につながり、しかも有効な方法だと信じている。
(6) 神仏習合のこと。帝釈天などのもろもろの仏様は何を意味するのかについては、義江彰夫著『神仏習合』(岩波新書1996)参照。以下で、同書を参考にして私流にこの重要な項目を要約する。
出発点としては、伊勢の多度大神の告白: 仏教へ帰依したい(経済的負担)。
(763)― 神宮寺確立。律令国家の危機(王権と地方豪族の対立)。本地垂迹説は、「仏自体が積極的に神の世界に侵入して仏の化身と自らを位置づけるものである。」(P.169)天照大神の本地が大日如来となる。
日本史は神と仏の間柄がどうであったかの観点で見ることと書くことが出来る。
黒塚信一郎著『日本人の宗教―「神と仏」を読む』(かんき出版、2005)はこのような観点から書かれている。その要点はこうである。
神々の誕生―神と仏の出会い―神々の願いを入れた仏―神は仏の生まれ変わり―神仏合体から分離へ―儒教を社会道徳に据える、仏は行政の役所へ―天皇を神として、神も仏も死んでしまった。
なお帝釈天は映画「フーテンの寅さん」で有名。バラモン教の最大の神、インドラが仏教に入り、梵天とともに仏教を守護する護法神となった。
地蔵さんも身近な存在。もとはバラモンの神、釈迦のあと弥勒菩薩の出現までのあいだの無仏の状態を補う。中国をへて日本へ入り、平安から鎌倉時代に地蔵信仰がひろがる。その他、恵比寿さん、大黒さん等もほぼ同様の経緯を辿り民衆に親しまれるようになった。
(7) 維摩経のことと「無住」について。
紀野一義著『いのちの風光』の第7 章「病むもまたよし」(ちくま文庫、1997、P. 252) には、維摩居士と文殊菩薩の興味深い対話が紹介されている。維摩の病気の見舞いに行けという釈迦の勧めを皆のものが、かって痛い目にあった経験から辞退して、とうとう文殊菩薩が赴いて行くことになった時の対話である。他の人もぞろぞろ後をついて行くのが面白い。在家の目覚めたひとが、文殊を諭すのも、大胆な発想である。
「生けるものたちを救うには何を除いてやったらいいのか」
「煩悩をとり除いてやったらよい」
さらに文殊から次々と質問が放たれていく。(途中省略)
「顚倒想(判断がひっくりかえっていること)は何が本になっているのか」
「無住(どこにもよりどころがないこと)が本である。」
「無住は何が本になっているのか」
「文殊よ、無住に本などあろうか。無住に基づいてあらゆる存在が成り立っているのだ」
この「無住」の概念が、紀野氏は大乗仏教の根本といわれるのであるが、この「無住」には少なくとも2 つの解釈があってややこしい。
長尾雅人氏の訳(世界の名著 2、p.147)は、「無住」をまず羅汁と玄奘の漢訳と紹介している。その上で、長尾氏本人はこの漢訳を排し、原語のaparatistha を「無基底」と訳している。どこにもとどまり住することがない。そのよるべき基底のないことは、根本のないことである。紀野氏とほぼ同様の解釈ではないだろうか。
もう一つ「一定のあり方にとどまったり執着しないこと」という解釈もある。
(『大辞林』)この箇所の「無住」について、中村元、鎌田茂雄両氏はこの解釈をとっている。『佛教語大辞典』も、当然ながらいくつかの解釈を載せている。
よりどころがない、と 支えがなくとも自分を律して、ぶれないこととでは、素人考えではあるが格段の差がある。又、両者は裏と表の関係にあるのかも知れない。このような「無住」の意味の進展、結びつき方については、筆者には不明なことが多い。教えを乞いたい。
ただ、先きの『大辞典』は維摩経第七観衆生品(かんじゆじょうほん)のこの箇所は、よりどころ無し、と解釈している。
なお、大森そう玄著『維摩経入門』は禅の道からの解釈に徹している。すなわち、無住は、一定の見方にこだわり続けない、ことの意味に解釈している。
尾張の地に無住法師がきて山田重忠の建てた天台宗の長母寺(現在の名古屋市東区矢田)を臨済宗の寺としたのは、1262 年である。この国師はこの地に44 年留まり、『沙石集』などを書いた。この仏教説話集には、『序文』に次のように書いてある。「それ道に入る方便、一つにあらず」(そもそも、仏道に入る方法はひとつではない。)以下、現代語の訳で引用することにする。
「悟りを開く因縁も様々である。仏の大いなる心を知れば、もろもろの教義は同じである、、、、、」(集英社刊、P.20)。一定の見方にこだわるな、この僧の名前もそこで、無住となったのかも知れない。その4 巻のTの話「無言上人の事」は、落語にも使えそうだ。他の宗派を謗っているひとが、我が宗派だけはそういうことはしない、それでどの宗派よりも優れているという落ちがついている。
(8) 資料が古いのではないかとの指摘を、当日、聴講者のひとりから受けた。
2008年5 月29日の読売新聞の調査報告によると、何も(信じない)が依然として72パーセントを記録している。さらに、「多くの日本人は特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えたものに対する敬虔さを大切にする傾向が強い」と注釈をつけている。つまり、余り変化していないことになる。一方、フランスでは、Ifop の調査で、2004 年では、神への信仰は55 パーセント、一方信じないが44 パーセントとなっている。こちらはどんどん減少している。ほぼ、当日推定した通りであった。
(9) 中村元著『老いと死を語る』の解説、(pp.96―109)(麗澤大学出版2000 年)参照。博士の最晩年の講演を、テープから起こして、愛弟子の保坂氏が解説を加えているもの。
(10) 輪廻と親鸞の『教行信証』のこと。及び梅原猛『日本人の「あの世」観』をめぐって。
インドの哲学である、ウパニシヤッドの思想では、輪廻(人間は、死後にあの世に赴いた後、この世に生まれ変わってくる)の考えがある。無限にこの運動を繰り返す。人生は苦であるから無限にそれが続くのは耐えられないこととなる。(渡辺照宏著『仏教』、岩波新書p.66)
これを受けて、釈迦は輪廻からの解脱の道を苦難の末に見つけて教えた。これははげしい修行を経て会得したものである。普通の人にはとても真似が出来ない。
この教えは中国に伝わり、日本に入ってきたが、六道の考えにはこだわりつつも、地獄の恐ろしさにより重点が置かれた。一方、そこに浄土教の考えが加わり、法然の念仏の教えをへて、親鸞が完成したのが、2 種の回向である。(『教行信証』の教巻の冒頭)
浄土真宗のお経『正信念仏偈』にはこうある。「往還回向由他力」(おうげんえこう、ゆうたりき)つまり、われわれが浄土に往生するのも、この世に戻って衆生を救う働きをするのもすべて、阿弥陀如来の本願力―他力による。いわゆる他力本願の教えとなって日本では定着している。これに反して、自力本願の道は、禅の道で考えられることになり今日につながっている。
いずれにしても、輪廻の輪から脱出することは、それほどには日本では問題になっていない。問題は、前世と来生に深い関心が行き、かってな因縁の概念が拡大され民衆の間に横行して行った点である。(『大法輪』2009年4 月号)
「迎え火」や「送り火」の習俗から見える『あの世』も、祖先崇拝と一体化した日本では、天文学的数字でいうほどの遠いところにあるのではない。あの世は、はっきりとはしないが、一般の人の意識では、せいぜい山の向こうぐらいにあるではなかろうか。山折、梅原両氏もほぼ同じ考えである。
(11) 田代俊孝『仏教とビハーラ運動』(法蔵館、1999)参照。
本書は、「田代氏の著作「親鸞の生と死― デス・エデュケーションの立場から」の続編である。『感無量寿経』を死を超えるテキストとして読むのが主旨である。韋提希夫人が絶望的な悩みから世尊の助けをえて、「無生忍」を得るところを踏まえ、曇鸞にならい「長生不死の法」を学ぶことが大切とする。(第3 章 仏教と「死の受容」参照。)
無生忍は、無生法忍(むしょうぼうにん)と同じだが、苦悩と憂いのない世界へ至る道は険しく、われわれ凡人にはすでに会得は相当にむずかしいものである。
そこで、ただ一心に念仏を勧めることが最終的には日本の民衆に入っていったのであろう。
「生を明らめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり・・・・・・・・」 この曹洞宗の『修証義』で述べられる、生と死も観照して超えるという考えも、同じくその会得はきわめて困難で、修行の厳しさが背後に想定されていよう。
なお、田代氏は最近、改訂版を出された。参考に出来なかったのが残念。
一般の日本人は、念仏「南無阿弥陀仏」を実践、お題目「南無妙法蓮華経」を唱えることを自然に行っている。戦争中は、仏教の活動を抑えるため、国はこの念仏とお題目とを同じだと教える指導をした、といわれる。
(12) 龍谷大学の活動サイト。
(13) イスラム学者で、東大寺長老の森本公誠さんのインタビューを参照。同氏がこの新しい運動の中心である。(朝日新聞、2008 年9 月8 日)さらに、『神と仏の道を歩く』(神仏霊場会・編、2008 年9 月刊)には、150 の古社名刹が紹介され、「善知識」を求める旅が推奨されている。
(14)『 国文学― 解釈と鑑賞』、(2009年2月号、至文堂)の「現代作家と仏教」参照
(15) 青木新間著『納棺夫日記』(文春文庫、初刊1996)P.124―P.133参照
アインシュタインの意味の深いことばがここには引用されている。「科学的でない宗教は盲目である。宗教のない科学は危険である。」

日本人の死生観と仏教 4

一 人称的な死の視点
死というものを考えるとき、自分の死と他人の死とでは死の内容が大いに異なるであろう。その点をより明確にするために、死を人称ごとに分けて考えるのが適当である。今、そのような論考として村上陽一郎氏の要領を得た論考(1)があるので、それによってまとめてみようと思う。氏は、三人称の死、一人称の死、そして二人称の死という順に論じているから、ここでもその順に従ってまとめることとする。
三人称の死について。基本的には存在と機能の消失である。その消失は何らかの形で代替可能である点に特徴がある。三人称の死について、村上氏は個と全という立場からも考察している。例えば、人間の身体の細胞は、脳・神経系の細胞を除いて大体七年くらいを期限として入れ替わっているという事実から、人間は、部分としての細胞が死ぬことによって、全体である個体として生きているということができる。また、ヒトという種を考えた場合でも、個体が死ぬことによって種の活性化がはかられていると考えられるから、部分の死が全体の生を支えていると考えられるわけである。これは三人称の死という視点から見ることのできる重要な点と思われる。
一人称の死について。不可知性という特性が指摘されている。自分の死は経験的には絶対に知りえないということである。一人称の死について最も注意される点は、死の恐怖が一人称の死にかかわるという点であろう。死がなぜ恐ろしいかということについて、村上氏は、それが未来に想定された未知なるものであり、恐るべき孤独性をもったものであるという二点をあげている。
二人称の死について。村上氏は死の根源的な把握が可能なのはこの二人称の死においてであるとしている。三人称の死は他者の死であり、一人称の死は不可知なものだからである。そして二人称の死を「われわれの死」と表現している。氏のいう「われわれ」とは、個我的な「われ」と「われ」が集まってできた「われわれ」ではなく、「われわれ」が割れて「われ」となったような先取性の認められる「われわれ」である。例えば、人間は一人では生まれてこない。親との関係の中で生まれてくる。そのような共同体存在が「われわれ」の構造であるという。そして「われわれの死」とは、例えば家族という共同体の中で、お互いに「私」と「あなた」という関係で結ばれている一人が欠けることであり、単に存在と機能の消失ではない何ものかを私どもに掴ませる死であるという。 
二 日本人の死の受け止め方
現代の日本人の代表として十年間の長きにわたり癌と戦い、その記録を残している岸本英夫氏(一九六四年没)を取り上げてみよう(2)。氏は外国において癌を宣告され、あと半年の命であると告げられた直後に生命飢餓状態に突き落とされ強烈な死の恐怖に襲われたと告白している。氏はその死の恐怖を「まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私はたっていた」と表現し、「何より恐ろしいのは、死によって、今持っている「この自分」の意識が、なくなってしまうということ」だと述べている。そして、そのような死に立ち向かう最も有力な武器は、死後の生命の存続(肉体を離れた霊魂の存在)を信じることであろうが、「私の近代的な知性」はそのようなものを信じさせなかったと述べている。そのような氏が、ふとした機会に、「死は、生命に対する「別れのとき」と考えるようになっ」てからは、死を、「恐怖」ではなく、「悲しいこと」と表現するように変わっている。岸本氏が、死は別れであると気づいてからは、死の恐怖は悲しみに変わり、その悲しみは心の準備によって耐えていくことのできるものとなったのであるが、そのような気づき以前においては、氏が「死後の世界や、自分の肉体を離れた霊魂の存在を信じない」以上、「死というものは無に近くなる。この自分が、なくなってしまうこと以外にない」ということとなり、そのことは「考えただけでも、身の毛のよだつ思いがする」と述べている。従って、氏にとって、死の恐怖とは自己が無となる恐怖であったのである。
ところで、死とは自己が無くなることであるとする場合の自己と、死とは別れであるとする場合の自己とでは、当然違いがあるであろう。この点について相良亨氏の次のようなコメントがある。
死は別れであるという理解は、自己を絶対的な個人として意識するところからはうま れえない。(中略)自他の根源的な一体性を認めるところにのみ、死、つまり私がなく なることが、つながりの絶対的な断絶としてとらえられてくるのである。自己を絶対的 な個として意識する者にとって、その自己がなくなることは、すべてがなくなることで ある(3)。
即ち、「自己を絶対的な個として意識する」か、「自他の根源的な一体性を認める」かという違いがあるというのである。死は別れであるという理解を生み出すところの「自他の根源的な一体性を認める」立場は、村上陽一郎氏の、先取性が認められる「われわれ」という考えとも通じるものがあるであろう。
ところで、死を恐怖ではなく、「悲しいこと」とする理解は国学者本居宣長(一七三〇〜一八〇一)にも見られる。宣長は『玉くしげ』の中で「世の人は、貴きも賤きも善も悪も、みな悉く、死すれば、必かの予美国にゆかざることを得ず。いと悲しき事にぞ侍る」と述べ、その死が悲しいことである理由について、「死すれば、妻子・眷属・朋友・家財・万事をもふりすて、馴たる此世を永く別れ去て、ふたたび還来ることあたはず、かならずかの穢き予美国に往ことなれば、世の中に、死ぬるほどかなしき事はなきものなる」と述べているから、ここでも「別れ」がその理由となっている。更に「これぞ神代のまことの伝説にして、妙理の然らしむるところ」と述べて、これは自分の意見ではなく、神代のまことの伝説、すなわち、『古事記』・『日本書紀』の伝えるところとことわっている(4)。そうすると、岸本氏が到達した「死は別れである」という理解は、古代の日本人の考え方に近いものと言えるのではなかろうか(5)。 
三 古代日本人の死生観 
1 霊肉二元論
現代人においても、生体は精神と肉体の二元論的に考えられていると言えよう。そして死とは、一般に肉体における生理的機能の停止であると認められるが、精神については、生理的機能の停止とともに、@精神は消滅する、A生理的機能の停止した肉体から精神は分離する、という二つの考え方に別れるようである。岸本氏は、癌の告知以降、初めは@の考え方であったが、「死は別れである」という気づきを契機にAの考え方に移行したと考えられる。Aの考え方と「別れ」とが結びつく理由は、「別れ」というからには「別れ」以後も別れた何ものかが存続しなければならないからであろう。そしてAの場合の分離し存続する精神は、一般に「霊魂」と呼ばれるものに相当する。
わが国最古の仏教説話集『日本霊異記』(弘仁年間(八一〇〜二三)成立)の下巻第三十八の三に、編者である景戒自身が延暦七年(七八八)の春三月十七日の夜に見たという夢の話がある。その夢では、自分が死んで、その死んだ体が焼かれ、そのそばに景戒自身の「魂神」が立っている、という情景で話が展開されており、ここに霊肉二元論を明確な形で見ることができる。わが国最古の仏教説話集に霊肉二元論が明確な形で存在するということは、山折哲雄氏が指摘しているように、当時においては依然として、仏教僧といえども仏教以前の土着の身心論的観念から抜け出ることはできなかったということであろう(6)。
また、民俗学の見知から、堀一郎氏は、火葬慣行と両墓制との関連を考察しているが、まず両墓制について、その第一次の墓(イケ墓・ウメ墓)は単に埋葬するのみで以後は放置して崩れるに任せ、ステ墓とも呼ばれるように実質は屍体遺棄葬場であるのに対し、第二次の墓(マイリ墓・キヨ墓)は石碑・卵塔を建て死霊の祭場として清掃してある等の区別を指摘し、「この風習はあきらかに死者と死霊とをはっきりと区別して考えている一つの証拠であ」るとしている(7)。また文武天皇四年(七〇〇)の僧道昭の火葬以来、民間にも浸透して行ったらしい火葬慣行について、「屍体焼却を進んで是認し支持する民間心意が存したと見なければならぬ」とし、そのような民間の心意として「全般的に死体に対する尊重、保存の念の薄いこと、むしろこれを穢れとし畏れる観念が潜在すること、しかも死者儀礼は濃厚に存在しているところからして、死者の肉体と霊魂は容易に分離し得るとの思想が前提すること」などを挙げ、更に「これを両墓制における死体埋葬地と死霊祭場とを別にする慣行と対比して考えて見ると、その背後には上代風葬の遺風の上に一方は土葬が、他方は火葬が習合したと解し得る余地がある」とも述べている(8)。そして上代にその存在が想定される風葬(遺棄葬)について、同氏は、万葉集挽歌の中に、放置された屍体を見て悲慟して詠じたいくつかの歌(巻二、二二〇〜二二二、二二八〜二二九、巻三、四一五、四二六、巻九、一八〇〇、巻一三、三三三六〜三三四三)を列挙し、これらの歌は「現実に海辺の洞窟や、山中の一地点に、屍体が地上に遺棄、もしくは放置せられていたことを物語っている」と述べ、更に「死屍を路傍、原野、河原などに遺棄するの風も民間には久しく続いていた」とし、大同三年(八〇八)の記事を始め、多くの記事を列挙するとともに、「日本人が比較的肉体を軽視して、生命への執着が淡い反面、いちじるしく霊魂を重視し、尊重畏怖する二元的な観念を有する」と述べ、日本人の霊肉二元的な観念とともに、肉体を軽視し霊魂を重視する傾向のあったことを指摘している(9)。 
2 植物的死生観
古代の日本人は、人間存在を植物(特に稲)に比して考えていたようである。その例証として、まず、日本語の身体の各部を表す名称「目、鼻、唇、歯、歯茎、頬、身」が、植物のそれ「芽、花、唇(花弁)、葉、茎、穂、実」によく対応していることを挙げることができよう(10)。また、「死ぬ」という言葉も、植物がぐったりしてしおれるさまを表す「萎える」という言葉にかかわるとされている(11)。或いはまた、伊藤益氏は、南朝宋の歴史家裴松之が、魏志の、倭人の風俗に言及する箇所に注して、「魏略に曰く、其の俗正歳四時を知らず、但々春耕秋収を記して年紀となすのみ」(『新訂魏志倭人伝』岩波文庫、四八頁、注(1))と述べているのを取り上げ、「三世紀頃の日本人は、穀物を植えるために田を耕す時期と穀物の稔りを収める時期との二期を以て一年を画していたものと推定される。この、裴松之所引の魏略の記事に信を置くならば、古来日本人は植物(穀物)の生長過程に即して時間を把握し、その生長過程の反復回数を数えることによって年の経過を把握していたものと考えられる」と述べている(12)。すなわち、人間の生活時間の区切りが植物(稲)の生長過程に基づいていてなされていたということである。
以上、古代日本人が、人間存在を植物的に考えていたと思われる例証をいくつか挙げてきたのであるが、そもそも、日本人の死生観そのものが、稲の生産過程とそれに伴う儀礼に基づいているという研究が坪井洋文氏によってなされている(13)。坪井氏は、まず、柳田国男を中心とする日本民俗学者たちによって描き出された「日本人の典型的生死観」を仮設するという作業を、社会的・儀礼的・霊魂的という三つの側面から行っている。その中で坪井氏は、人間を顕界(生の世界)と幽界(死の世界)とに分け、更に顕界を成人化過程と成人期に、また幽界を祖霊化過程と祖霊期とに分け、これらが一元的連続性のものとして位置づけられている。これらについての民俗学的な詳細は省略するが、このような民俗学的な観点から描かれた日本人の死生観が成立する背景的基盤を、坪井氏は稲の生産過程とそれに伴う儀礼に求めているので、その点に注目したいと思う。
坪井氏は稲の一生のサイクルを、まず人間の顕界と幽界とに対応する形で生育過程と穀霊休息過程とに二分し、更に生育過程を成育過程(夏)と成熟過程(秋)とに分け、穀霊休息過程を増殖過程(冬)と予祝過程(春)とに分けている。そして各過程の開始点を穀霊誕生、水落し、収穫、歳棚と名付けている(14)。これを稲の一般的な生長過程の名称を適用すれば、「発芽→生長→枯死→籾(タネ)」となるであろう。ここで注意すべき点は、稲の一生のサイクルは、発芽(生)から枯死(死)までではないという点である。それは丁度、人間でいう顕界(生の世界)の部分に当たり、稲の場合は坪井氏によって「生育過程」と名付けられているもので、サイクル全体の半分にすぎない。後の半分は「穀霊休息過程」と名付けられ、人間では幽界(死の世界)に相当する。この期間の稲は貯蔵された籾(タネ)として存在し、翌年の春に種まきされ、そこでサイクルが一巡する。この稲のサイクル(生育過程・穀霊休息過程)を先の人間のサイクル(顕界・幽界)と比較するとき、それらの各過程(界)がそれぞれほぼ同じとされる必然性は、稲のサイクルにあっては、循環する季節という観点からその必然性が認められようが、人間のサイクルにおいては必ずしも認めがたい。すなわち、人間にあっては、死後の霊魂としての幽界の存在そのもの必然性、及びその期間が顕界とほぼ同じであるという必然性が必ずしもあるとは言えないように思われる。ということは、この人間のサイクルは稲のサイクルをモデルに考えられていることを示しているのではなかろうか。
人間の生死のサイクルである「誕生→結婚→死亡→祖霊」が、植物である稲の生死のサイクル「発芽→生長→枯死→籾(タネ)」をモデルに考えられているとすると、このような死生観は植物的死生観と呼ぶことができるであろう(15)。稲のような一年草の植物は、「発芽→生長→枯死→タネ」というサイクルを一年かけて一巡し、「個」としての命は発芽から約半年で枯死し、生存の痕跡はタネにのみ残して消え去る。しかし、「種」としては、枯死の後に残されたタネから再び芽が出て生長へと向かい、「発芽→生長→枯死→タネ」というサイクルをほとんど無限に繰り返し、「種」としての命は円環的に永続性をもって考えられている。古代の日本人の死生観が、稲の生死のサイクルをモデルとして考えられているとすれば、それは同じく円環的永続性をもって考えられていることになるであろう(16)。古代日本人が死を「悲しいこと」ではあっても「恐怖」とは捉えなかった秘密がここに隠されているのではなかろうか。しかし、その場合の「永続性」とは、「個」においてではなく、「種」において考えられていることに注意する必要がある。 
3 三人称的死生観
個に対する種とは、全体性を意味しているであろう。個人にとって最も身近な全体性は家族である。個々の家族成員の死をこえて存続する抽象的実体としての「家系」という観念を思い浮かべた場合、そこには、個人を「家」という全体のあり方へ帰属することを強制するような家父長制的な「家」が考えられているであろうが、そのような意味の「家」の制度が確立するのは意外と遅く、平安時代の末ごろからとされており、しかもそれは貴族社会においてのことで、古代の庶民においては、いわゆる「家」の制度や観念はほとんど存在しなかったと考えられている(17)。
古代において「家」の観念が存在しなかったとすると、次に考えられる全体性は地域的共同体ということになるであろうか。古代における「ナリハヒ」(産業)は稲作農耕であるから、地域的共同体とは稲作農耕のための地域的共同体ということになる。稲作農耕について、湯浅泰雄氏は同じ稲作農耕であっても地勢の違いによって必ずしも共同体の必要性があるとは限らないことを指摘している(18)。すなわち、タイの稲作農耕は大平野の中の大河(メナム河)水系のゆるやかな氾濫による自然灌漑に依存しているため共同体的規制は不要であるが、日本のように、急傾斜の小河川を水源とする場合は、人工灌漑が必要であり、そのために地域的共同体が古代から発達していたと考えられるわけである。このような日本特有の地勢が集団耕作を必要とし、集団(共同体)という全体的権威に個人が奉仕するという道徳観念を発達せしめたということは十分考えられることであろう。湯浅氏は、このような道徳観念として和辻哲郎氏が『古事記』にみえる天照大神と須佐之男命との対決の神話を出典として用いた「清明心」(全体性つまり集団組織にたいして私心を滅して服従する意)を取り上げている(19)。古代の日本人がこのような生き方をしていたとすると、それは個人としてではなく、共同体の一員としてのみ生きたということであろう。堀一郎氏は、古代神話における「カクリミ」を取り上げ、「神々は自己の意志によって、現世より身を隠し、而して隠身として集団建設の事業に参画される。(中略)人類に火は欠くべからざる重要なものなるが故に、伊弉那美神は敢て自らを焼き亡してもこれを生ませられるのである。」と述べ、その他にも自己犠牲による集団への奉仕の精神をうかがい知ることのできるいくつかの伝承を列挙するとともに、「その死は殆んど恐怖の対象にまでは齎らされていない」とも述べている(20)。これら堀氏が取り上げている「カクリミ」としての死は一人称の死についてのものであるにもかかわらず、先にみた村上陽一郎氏の言う「三人称の死」の特徴たる「個体の死が全体の生を支えている」という内容に通じる点があるだけでなく、その死が恐怖の対象になっていないとすれば、一般に死が恐怖となるのは一人称の死においてであるから、確かにそれは三人称的死といえるであろう。古代日本人が一人称の死を三人称的な死として捉えていたということは、彼らが個人という意識をほとんどもたず、全く共同体の一員としてのみ生きていたということを示しているように思われる。 
4 死の恐怖
古代日本人が自己の死に対する恐怖を持たなかったとしても、死の恐怖がなかったわけではない。『古事記』や『日本書紀』に現れる伊弉冉尊の死を語る神話には死の恐怖はリアルに描かれている。しかしその恐怖は伊弉冉尊の死と同時に始まるのではなく、伊弉諾尊が伊弉冉尊の腐乱した死体を見たときから始まるのであり、死霊と思われる醜女の追跡の恐怖が多く語られている。そのような死の恐怖は他者の死(三人称的死)によってもたらされる死の恐怖であり、自己の死の恐怖ではない。また、重要なパートナーである伊弉冉尊の死は、古代社会における共同体の成員の一人が死によって欠落することの波紋の大きさを物語っているようでもある。
古代人にあって死の恐怖とは、自己の死に臨んでの恐怖ではなく、共同体の成員としての他者の死という出来事によって、その死後にもたらされる霊的、及び社会的な波紋に対する恐怖のことであると言えよう。そのような恐怖を、古代から中世にかけての日本人は「穢」として捉え(21)、それを避けるために異常と思えるほどに神経を使い、煩わされていた様子が窺える(22)。 
5 仏教との関係
周知のように、奈良・平安時代の仏教は、「国家仏教」と呼ばれ、国家を対象とする仏教であった。そして中世になると、この国家仏教に対して批判的な勢力が出現してくるが、松尾剛次氏は国家仏教、即ち旧仏教の勢力を「官僧僧団」と呼び、それに批判的な勢力を「遁世僧僧団」(同氏によると、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、明恵、叡尊、恵鎮などを中核とする僧団で、この僧団の仏教が鎌倉新仏教であるとする)と呼んで区別している。そして両僧団の特徴について次のように述べている。
官僧たちは、天皇から得度(出家)を許可され、東大寺・観世音寺・延暦寺の三戒壇 のいずれかで受戒して一人前の僧侶となった。また、中心的存在の天皇に仕えることを 象徴する白衣(白袈裟)を典型的な袈裟として着た。また、鎮護国家の祈Eを第一義の 努めとし、種々の穢れを避けるため、葬式や、女人・非人救済などに従事するのを避け ていた。要するに、官僧僧団の宗教は共同体に埋没した人々の救済をめざす共同体宗教 である。他方、遁世僧僧団は、官僧身分から離脱した(そのことを当時、遁世と称した) 僧を核として成立した僧団である。遁世僧僧団は、天皇とは無関係に得度し、官僧僧団 のそれをモデルとしながら独自の私的な授戒を行った。そして、異界の存在を象徴する 黒衣を典型的な袈裟としていた。また、非人救済、女人救済、葬式にも組織として従事 するなど、「個人」救済を第一義の努めとした個人宗教である(23)。
松尾氏によると、官僧たちは鎮護国家の祈Eを行う者として常に清浄であることを求められ、もし穢れに触れるようなことがあった場合、一定期間(最も重い死穢で三十日間)は、国家的法会の参加や公的な場に行くことすらできないという制約があったため、彼らは極力穢れを避けようとし、そのために葬式などに従事しなかったのである。従って、遁世僧僧団(鎌倉新仏教)が出現するまでは、三昧聖など一部の民間僧を除いて組織的に葬式に従事する僧が存在せず、合わせて穢れを忌避する習慣が民衆層にまで広がっており、死体遺棄の風習が横行していた(24)。このような状況の中で、個人救済を第一義の努めとした遁世僧たちは、官僧の制約を受けない立場に身を置いて、積極的に庶民の葬送に従事した。遁世僧僧団のこうした動きについて、松尾氏は「葬式仏教は仏教の堕落した姿と考えられている」が、「葬式は死者の救済に関わる重要な儀礼で」あり、「僧侶が葬送に従事するようになったのは、遁世僧教団による画期的なことで、思想的にも意義深いことであった」と述べている(25)。また、圭室諦成氏の研究によれば、鎌倉新仏教(遁世僧教団)の各宗派は教団として急激に葬送儀礼中心の教団に変質しながら教線を拡大して行った様子、並びに近世に至って日本の仏教の全体に行きわたった様子が窺える(26)。尾藤正英氏はこの変質した仏教を「国民的宗教」と呼び(27)、山折哲雄氏はそれを受けて、「日本の近世に一般化した「国民的宗教」の内実は、死後における個人の魂の救済と、あとにのこされた者の心の慰藉から成り立っていた」(28)と述べ、その意義を評価している。ここに近世以降の日本における救済としての死生観の在り方を見るのであるが、しかしながら、その一般化は、鎌倉新仏教の祖師たちの教義や思想によるのではなく、その後に整備された死者儀礼、即ち葬儀に始まり三十三回忌(五十回忌)の「弔い上げ」で終わる追善供養によって死者を成仏させるという儀礼によるのであり、それは坪井洋文氏が民俗学者により描き出されたとする「日本人の生死観」のうちの、死霊が浄化され安定した祖霊となる「祖霊化過程」に相当しており(29)、それは古代の共同体の観念につながっている。このことは、鎌倉時代以降の日本の仏教は確かに個人の救済をめざしたと考えられるけれども、山折氏が国民的宗教の内実として言う「死後における個人の魂の救済と、あとにのこされた者の心の慰藉」の更なる内実は、仏教的な装いが施された、死霊の祖霊化過程という古代の共同体的な観念だったのであり、個人の救済が共同体的な観念でなされるというねじれ現象を起こしたまま現代に至っていると言えるのではなかろうか。 

(1)村上陽一郎「死を論ずることの意味について―序論」木村尚三郎編『生と死T』東京大学出版会、一九八三。
(2)岸本英夫『死を見つめる心』講談社文庫、一九七三。
(3)相良亨『日本人の死生観』ぺりかん社、一九八四、一七七頁。
(4)『日本古典文学大系97近世思想家文集』岩波書店、一九六六、三三三〜四頁。
(5)「別れ」の気付き以後の岸本氏は「すでに別れをつげた自分が、宇宙の霊にかえって」(同氏前掲書、三三頁)と述べて、霊的存在を意識している。
(6)山折哲雄『日本人の霊魂観』河出書房新社、一九七六、五六頁。
(7)堀一郎『宗教・習俗の生活規制』未来社、一九六三、八三頁。
(8)堀一郎『民間信仰』岩波全書、一九五一、二二八〜九頁。
(9)堀一郎氏、注(7)前掲書、七一〜八〇頁。
(10)本田義憲『日本人の無常観』日本放送出版協会、一九六八、一二頁、伊藤益『日本人の死』北樹出版、一九九九、四五頁。
(11)折口信夫「原始信仰」『折口信夫全集』第二十巻、中央公論社、一九五六、二〇〇頁。
(12)伊藤益氏前掲書、四八頁。
(13)坪井洋文「日本人の生死観」論文集刊行委員会編『岡正雄教授古希記念論文集・民族学からみた日本』河出書房新社、一九七〇。
(14)坪井氏前掲論文、二八頁、第8図参照。
(15)植物的死生観については伊藤益氏の「植物的死生観」(注(10)同氏前掲書、四一〜四八頁)に大いに啓発された。しかし、伊藤氏の捉えている植物のサイクルは「発芽→生長→結実→枯死」という形で理解されており、「タネ」という重要な要素が欠落している。これは同氏が、「発芽→生長→結実→枯死」というサイクルの反復において見られる「…→枯死→発芽→…」において、死と生の隣接する形から、植物における生死の連続性を問題にしようとしたためと思われる。
(16)このような、個として死滅しても種としては不滅であるという考え方は「象徴的不死性」と呼ばれて議論されている。加藤周一他『日本人の死生観』上、岩波新書、一九七七、十二頁。
(17)湯浅泰雄「日本古代の精神世界」『湯浅泰雄全集』第八巻、二二四頁。
(18)同、二二七〜二三〇頁。
(19)同、二三二〜四頁。
(20)堀一郎「古代文化と仏教」『堀一郎著作集』第一巻、未来社、一九七七、三〇一〜二頁。
(21)山本幸司氏は穢を定義して、「人間の社会生活の安定した在り方と、そこに形成されている人間の安定した社会関係とに対し、攪乱的あるいはそれを脅かすような事象だと考えてよいだろう。ここにいう人間の安定した社会生活・社会関係は、人間社会を取り巻く周囲の自然と共に一つの「秩序」を形成している。したがって穢とは、人間の属する秩序を攪乱するような事象に対して、社会成員の抱く不安・恐怖の念が、そうした事象を忌避した結果、社会的な観念として定着していったものだということができる」と述べている。山本幸司『穢と大祓』平凡社、一九九二、七七頁。
(22)山本氏前掲書。
(23)松尾剛次「官僧・遁世僧体制モデル」『日本の仏教@』法蔵館、一九九四、一一頁。
(24)勝田至「中世民衆の葬制と死穢―特に死体遺棄について―」『史林』第七〇巻 第三号、一九八七。
(25)松尾剛次『鎌倉新仏教の誕生』講談社現代新書、一九九五、一〇五〜六頁。
(26)圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、一九六三、一二八〜一三〇頁、及び二二三〜二四二頁。ただし圭室氏は葬式仏教に批判的である。
(27)尾藤正英「日本における国民的宗教の成立」『東方学』第七十五輯、一九八八。
(28)山折哲雄『仏教とは何か』中公新書、一九九三、一六八頁。
(29)坪井氏前掲論文、一九頁、第2図参照。
(曹洞宗海潮寺住職・山口大学非常勤講師)(木村清孝博士還暦記念論集『東アジア仏教─その成立と展開』木村清孝博士還暦記念会、春秋社、平成14年11月刊、所収)
 
日本人の宗教観 / 死生観 5

はじめに
日本人の宗教観について死生観を中心に考察する。また多神教的な日本の宗教の特徴を示す。次に戦後、無信仰や宗教不信が言われるようになった背景を明らかにする。
梅原猛、中村元両氏の死生観を参照しつつ日本人の魂の原像、日本人の精神性の根源を追究する。一方、ポルトガル人・モラエスの目に映った「日本人の宗教観」を外なる目として日本人の宗教観を内省する。 
八百万の神々と日本人
宗教観について考える場合、社会現象としてその時々に現れる表層と、底流としての深層とを共にとらえなければならない。現象面ばかり追っていたのでは、日本人の宗教観のよって来る精神史的背景を見失う。宗教など関係ないという人々にとっても生死は十分に切実な問題であり、死生観こそ宗教の根本問題といえる。
日本人は宗教を持たない国民だと、欧米人から言われる。日本人は、結婚式は神式、または教会で行ない、子供が生まれると神社に参り、死ねば寺院で葬式を行なう。八百万の神々と言われるように、元来、日本人は多神教であった。これは日本に限ることではなく、歴史を遡れば世界の多くの地域で認められる。日本人の多神教的宗教観は、むしろ人類共通の根源的なものと言わなければならない。日本人の宗教意識は無自覚であり、自然信仰、民間伝承を土台とする民俗信仰というべきものである。
NHK放送世論調査所編『日本人の宗教意識』(日本放送出版協会1984年)によれば、日本人で信仰をもっている人33%、信仰をもっていない人65%に対し、アメリカ人ではそれぞれ93%、7%となっている。欧米やイスラム世界の人々にとってみれば日本人は無宗教的民族としか言いようがなく、何を考えているのか分からない、と不信を買うことになる。 
宗教不信は宗教政策から
その日本人にして戦後、宗教を軽蔑し、まともに宗教とは何であるか考えようともしない。このような日本人の無宗教、無信仰、宗教不信は何に起因するのであろうか。
一つの理由として戦前の国家神道に対する反動から宗教について、何かいかがわしいもの、疑わしいものとの否定的イメージが国民の間に広まったことがある。これは国の宗教政策がもたらした結果である。時代を遡れば、江戸幕府による寺請(寺檀)制度に遠因がある。キリシタン取り締まりの名のもとに、宗門人別帳が宗教統制の基盤となり、戸籍の役割をも果たした。その上に形成されたさまざまな宗教儀礼、行事が寺院の生計を助けるものになった。ここに宗教の職業化、民衆救済を忘れた宗教の形式化が進む。
明治政府は廃仏毀釈運動を進め、仏教を徹底的に弾圧した。一方、神道を「国家神道」として国民の精神的統合を図った。文明開化を国を挙げて推し進めた結果、科学的合理主義が浸透し、マルクスの”宗教はアヘン説”が宗教不信を一層深くしたと思われる。 
宗教は精神性の根源
宗教は精神性の根源になるものである。内容の吟味は厳格にしなくてはならない。ただし、人間に対しては寛容であるべきである。宗教は人間が作り、人間を救うものである。ニーチェのいう如く人間を服従させる「神は死んだ」のである。「宗教が宗教心をつくり出すのではなく、むしろ宗教心が宗教をつくり出すのである」と、ジンメルはいう。
梅原、中村両氏の死に対する深い思索を挙げて、死生観考察の一助としたい。
「あの世について語らなくなった現代人は、死についても語らなくなったのである。人類の思想において、死についての深い思弁はあの世についての教説と深く結びついている。あの世への信仰を失うことによって、死についての思弁も失ってしまうのである。それで現代人は死について深く考えることをやめ、つとめて死を忘れて生きようとしていると思われる。」(日本人の魂・梅原猛P11)
死を忘れた現代人、いや死から目をそむけている現代人に、存在の深い意義を問いかけているのである。死について真摯に考えることはこの生を考えることであり、よりよく生きることに通ずるものである。
「死というものはじつに不思議なもので、人間が経験するほかのこととは根本的に違います。人間は死以外のことについては、経験したことを客観化することができる。ところが、死についてはそれができません。生きているあいだに自分の死を経験することはできないからです。経験したときには、もうすでにその人はこの世にいないわけですから、死を経験することはできない。したがって、他人の死についてはいろいろ論議できますが、その人自身の体験としては決して語れないわけです。」(人生を考える・中村元P183〜184)
死は不思議なもので、経験することはできない。論議はできるが、体験として語ることはできないものである。だからといって死について考えることは無意味かというに、決してそんなことはない。無意味どころか、死を考えることは死すべき者としての自己の存在を探求することであり、人生の意味を究明することなのである。人間が人間として自己を形成していく絶えざる営為といえる。
「死んで、すべてが消えるということも考えられますが、消えると断定する確実な根拠はなにもない、というのは、私どもがめいめい生きているということが、そもそもひとつの不思議だからです。」(同、P186)
人間という存在は、その存在の確実性の根拠を求めると、たちまちに曖昧なものとなってしまう。逆に言うなら不確実な自己の存在を確実なものとするために生きているのである。生きていることが不思議といわれるのは、まさに自己の存在を証明しようとする意志にある。
日本人の死生観は、自然の中で生を受け、桜の花のように自然の中に散って行く、と生と死を捉える。それは無為自然の生き方に代表される。自然のままに生きたいように生きるのである。自然との一体感を喪失した今、実利本位、欲望の充足のみを目的とする物質主義に堕している。だが、その信頼の根拠さえもバブル崩壊によって多くの人々は失ってしまった。幻想から覚めた時、もう一度、本来の己に立ち返り、生死に思い到るのである。 
習俗に見られる宗教観
習俗に見い出される日本人の宗教観について検討しておこう。
近代的ビルの屋上に祭られている鳥居、ここには近代合理主義としての科学信仰と、半ばアクセサリー化した非合理的なものの同居が見られる。また「死ねば仏」という、死者儀礼には祖霊信仰が影を宿している。
「穢れ」と「言霊」という神道的思想について、井沢元彦氏は「穢れと茶碗」において面白い考えを述べている。
氏によれば、日本人は他人が使った箸や茶碗をきたないと思うのは、「穢れ」の感覚によると言う。熱湯や洗剤でどんなに消毒してあっても、きたないと思うのである。受験生のいる家庭で「すべる」という言葉を使わないのも、言霊信仰によって、口に出したことは実現すると考えられていると指摘する。
そう言えば、テルテル坊主を軒先につるして、明日天気になあれ、と言葉をかけるのも無意識化された言霊信仰ともいえる。 
閉鎖的で権力に弱い国民性
日本人の宗教観を考える場合、日本人の国民性についても考察しておく必要がある。
小さな島国で稲作を中心とした生活風土、それによってもたらされた閉鎖的な「ムラ社会」が、世間を気にする「恥の文化」(ルース・ベネディクト)を形成したのは道理であろう。
 そこに「ことあげ」を嫌い、和を尊ぶ国民性が育まれ、外面的秩序が重んじられる。こうして権力に従順な日本人の国民性が形づくられたと考えられる。
 理屈を嫌い、義理人情の浪花節に涙し、演歌の世界に感情移入する、親分子分の国である。強者に諂い、弱者には威張り散らす国民性がうかがわれる。是は是とし、非は非とする論理を欠いているからである。島国に閉じこもり、身近な人間関係だけがすべてという視野の狭さは日本人最大の欠点である。 
ポルトガル人の見た日本人の宗教
1889年、ポルトガル海軍士官として初めて日本を訪れ、日本に魅せられたモラエスの目に映った日本人の宗教はどのようなものだったのだろう。
彼が“日本の土”になることを心に密かに決め、徳島に移住した。一異邦人として日本と日本人をみつめ最晩年に著した「日本精神」には、次のように記されている。
「一国の国民の宗教を研究すること、知ることは、その国民の精神的特性に関する広大でゆたかな研究分野に入ってゆくことである。」
国民の精神的特性を知ろうとするなら、その国民の宗教を研究せよ、と言っているのである。
「神道は、英雄の宗教であり、その英雄たちの霊が地上を、つまり日本人の上を漂って日本人を守護しているとすら言うことができる。(中略)確かに、日本人の比類なき勇気、この上ない豪胆、輝かしい愛国心は神道のせいである。そして、大和の精神、「やまとだましい」という今日よく知られる言葉を生んだのは主として神道であった。」(P44〜45)
神道の有する日本民族を守護する英雄性を指摘している。日本人の勇気、豪胆、愛国心、やまとだましいの淵源を語っている。
「日本人は仏教のうちに彼らの精神が必要としていたもの、すなわち、次々と行われる霊魂の転生〔輪廻〕後の永遠の生命の肯定を、美徳の褒賞を、悪の処罰を、天国と地獄を、人間と動物に対して垂れるべき慈悲を、平和への愛とその他無数の善徳の教義を見い出した。」(P47)
いささか、キリスト教的な捉え方ではあるが、彼なりの仏教理解であろう。
ちなみに仏教では実体としての霊魂は想定しない、と言われる。『最初にブッダが死後に霊魂はあるかないか、身体と霊魂とは同一か別か』と聞かれた時に答えなかったからです。」(人生を考える・中村元P192)
これは毒矢の譬えとして知られている。形而上学的な質問に答えることより、実際に苦悩している人間を救うことが先決である。毒矢の種類、形を云々するより、毒矢を抜かなければ死んでしまうことを教示した時のブッダの言葉とされている。 
日本の思想の源流
日本人の宗教観のバックボーンをなす、神道的なものと、仏教的なものの源流を探ってみる。梅原猛氏の「地獄の思想」を拠り所に思索を進める。
「日本の思想を流れるのは、三つの原理ではないか。生命の思想と、心の思想と、地獄の思想。」(P28)
実に大胆にして、鋭い分析である。
「神道が、自然の生への崇拝であり、多神教的であったにちがいない」とし、「密教が自然崇拝という点で、神道と思想を共通にしたことが、密教が日本の土地に根づいたもっとも大きい理由であろう」と、神仏混淆の接点を明かしている。これは、先に日本人の死生観の箇所で論じた、自然をそのまま受け入れる、といういわば自然宗教ともいうべきものである。
続けて平安時代まで時代を区切って「神道と密教は生命の思想に、唯織は心の思想に、天台は地獄の思想に属するかもしれない。」と分析しているが、ここにとどめておく。
鎌倉時代以後の仏教についても、日蓮宗を生命の思想に、禅を心の思想に、浄土教を地獄の思想に分類しているのは興味深い。
梅原氏は、あくまで哲学者として文献学に基づいて宗教思想を論じている。しかし、宗教は元々、民衆が自らの苦悩から解放されることを願い、これに対して解決の方途を示す教祖の出現を待って生ずるものである。学問的研究とは異なる生活次元の実践を根本とすることも忘れてはならない。
「地獄の思想は、日本仏教のひとつの流れなのである。生の力を肯定する哲学とともに、生の暗さを凝視する哲学を日本人は愛した。」と梅原氏は日本人の心性に触れている。
さらに「智の説の主なる創造性は、この十界に、またそれぞれ十界があるという十界互具の思想にあるという。つまり、地獄から仏までの十の世界にそれぞれに十の世界がある。地獄の世界のなかに地獄から仏までの世界があり、仏の世界に地獄から仏までの世界があるということである。私は、これはすばらし思想であると思う。」(地獄の思想・P70)と。
ここには「生命の思想」と「心の思想」と「地獄の思想」が見事に融合されていると思う。 
日本人の宗教の古層
梅原氏は「日本人の魂」において縄文時代にまで探究の目を遡らせ、沖縄やアイヌの研究を糸口に「そこに一つの世界、我々の現代世界とも違い、また日本人が伝統的にもっていた世界とも違う、一つの世界を認めざるを得なかった。そしてその世界はおそらく縄文時代からの世界を引き継いだものであろう。」(日本人の魂P35)と推論している。
氏によれば「古代人にとって、死は魂が肉体から離れることを意味し、人が死に、魂がその体から去るのを見届けると、魂を呼び返そうとした。それが魂呼びである。」という。
また、残された体が「亡骸」で、「なき」というのは魂がない、魂が抜けたカラという意味であろう、と述べている。
勝坂式・中期縄文土器のマムシを図形化した紋様をとり上げ、マムシが神として崇拝された理由として、人間を殺す猛毒と、脱皮して生まれ変わる、復活する生命の象徴を挙げている。
「あの世観」について、天の一角、太陽の沈む西の方、適当な高さの所にあるとし「あの世は極楽でも地獄でもなく、あまりこの世と変わりはない。ただ、一つだけ違っているところがある。それは、この世とあの世は何でもあべこべだということである。」という。
昼と夜が逆であり、この世が夏ならあの世は冬だという。「この世では人は着物を右前に着るが、あの世では人は着物を左前に着るという。」アイヌの社会では今でも夜の初めに葬式は行われるし、また明治天皇の葬式も夕方とともに始められた」とし、その理由を「それは、あの世はこの世とあべこべであるので、この世の夕方はあの世の朝に当たるからである。この世の夜の初めすなわち夕方に死者の魂をあの世へ送れば、魂はこの世からあの世へ着く。それはあの世の朝に当たり、朝着けば、その日のうちにご祖先さんの待っているところへ着くというのである。」(P37〜53)
これだけを聞けば、お伽噺か、夢物語のように思われるが、それは何でも合理的に考えなければ済まない、現代人の思考方法を前提にしているからであり、物証はないが、あるいは縄文人の生命観、宗教観は、梅原氏の推測するようなものであったのかも知れない。
さらに高松塚の壁画に「ペケ」の字がつけられている例を挙げて、その字は決していたずらではなく、わざと一つの意思をもってつけられたのであろう、という。それは、この世のものとして不完全にし、あの世で完全にしようとしたのである、と。その他、土偶が決して完全な形では出土しないこと、体が割られ、頭と胴が切断し、手や体が折られているものもあること等を例示している。
門松が、あの世の祖先が、この世に帰ってくる目印だとし、古代日本人の世界観を説き明かし、「この天国と地獄の区別のないあの世の考え方は、日本ばかりの考え方ではない。それは旧石器時代、世界に普遍的な考え方であったと思う。」(日本人の魂)と述べている。 
神道と仏教の二重信仰
日本人の宗教の古層を明らかにしたので、日本人のシンクレティズム(重層信仰)について論究する。日本人の信仰は仏像を拝み、神棚に手を合わせる。八百万の神に心を寄せる重層信仰である。
古代人によればこの世とあの世は循環する。もともと、この生死のすべての儀式を神道がつかさどっていた、という。
日本に仏教が伝来したのは、大和朝廷538年とされ、それまでは呪術的な神祇信仰であった。ここに神道の源流がある。神道という名称は、後でつけられたもので、実体は古代人の生活に根ざしていたものと思われる。
「蘇我・物部の戦い」で、崇仏派蘇我氏の勝利に終わり、仏教は律令国家建設の精神的支柱となった。鎮護国家のための仏教として各地に国分寺が建立された。
平安期には末世思想が起こり、極楽往生を願う浄土思想が貴族界や庶民の間にまで広まった。鎌倉仏教の興隆、1549年、フランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教開始、織田信長による長島、石山の一向一揆弾圧、叡山焼き打ち、秀吉によるキリシタン禁令(天正禁令)、島原の乱(1637年)など権力による宗教弾圧が見られる。江戸時代、平田篤胤は本居宣長の国学に学び、神ながらのみちを見いだしていく。”天皇が、神代から伝わるままに人知を加えられずに天下を治められる”現人神として天皇が日本を統治するということである。
このようにして自然神道が国家神道へと変貌を遂げた。後に明治維新のイデオロギーになり、皇国史観に取り込まれた神道は「宗教にあらざる」国教として思想・信教の弾圧に猛威をふるう。不敬罪、治安維持法が天皇を頂点とする国家神道を法的に支え、日本を太平洋戦争へと駆り立てたのである。
このような経過を辿ったゆえに、日本人は二重の意味で宗教に対して精神的重層構造をもつに到ったのではなかろうか。古層と表層との二重性と、国家神道によってもたらされた宗教不信、この二つである。
宗教的次元における二重性について、梅原氏は「仏教が入ってきて、とくに浄土教が盛んになると、仏教が人間の魂をあの世へ送るという儀式を奪うのである。そしてあの世からこの世へ帰るという儀式のみを神道に残しておいたのである。(中略)さほど重要でない死から生への儀式を神道に残しておいたわけである。おそらく、それまで奪ってしまっては、神道側の恨みを買うと思ったのであろう。仏教は神道との平和共存を図るために、そのような儀式を神道に残しておいたわけである。」と明快に論じている。
さらに面白いのは「仏教はもともと葬式ということを行わなかった。南都六宗の坊さんは今日でも葬式をしない。南都六宗の坊さんが死んだときは、浄土宗の坊さんが来て葬式をするという。」(P143〜144) 
思想性、生命感を欠いた日本人の宗教
現代における日本人の宗教観を検討すると、既成宗教の儀礼化、形式化の影響もあり、魂を覚醒する意味が失われているのを見出す。古代日本人のもっていた生きいきとした生命感、宗教のその創始において備えていた豊かな思想性が時間の経過の中で次第に欠落してしまったということである。
ただ、移ろう自然の変化に順応して生きる日本人の生き方が、自然観、宗教観ともなり、日本人の精神に受け継がれていると思われる。
表層の変化はあっても、深層においてはさほどの変化もなく、科学信仰の比重が増した分、精神の内実が希薄化した、と見るべきではないだろうか。その背景については、歴史的過程、国民性の観点からすでに論じたので、これからの宗教の姿を展望する。
これまで見たように日本人の宗教とは、思想性を備えない宗教、思想的基盤を欠いた宗教といえる。今日要請されているのは、梅原氏の言うところの”生命の思想”、”心の思想”、”地獄の思想”を合わせ持つ宗教であろう。深い精神性を秘め、人間の魂を呼び覚ます哲学性を備えたものである。
人間は一人一人、自らの生命のうちに無限の宝(十界互具の思想)を備えている。このことを忘れ、他人のお金を幾ら数えても一銭の得分もない。自らの手によって無尽蔵の宝を取り出すことが肝要である。そこに人生の最高の喜びがあり、生きることの意味もある。
人間を真に覚醒させる宗教が21世紀文明を切り拓き、日本人としての精神基盤を確固たるものにするであろう。人間のあり方がすべてにわたって問われている今日、改めて宗教を考えてみる必要がある。 
 
生と死と

生老病死は、自分の努力では何ともしようのない事実である。自然、宇宙に生成発展の法則があるように、生老病死の法則に則って自己をいかに活かしていくかである。
宗教を信じるとは、宗教行為そのものである。宗教は勉強して分かるという面もあるが、行為の中で人間としてあるべき姿を体現していくことが宗教本来の目的であろう。
もし、その行為が社会に受け入れられないものであれば、その宗教は間違っている。その教えが正しいとすれば、行為者の方に問題があるのかもしれない。キリスト教、イスラム教、仏教の実践者の中にも犯罪者はいる。犯罪行為を犯した人に問題があるといえる。
人間の行為規範として宗教は必要であろう。人間が人間であるための自立の原点である。「汝自身を知れ」という。自省のため、自らを制するために哲学、宗教が要請される。
仏教の生死観は、誰人も避けることのできない生老病死の四苦を問題にする。 四苦八苦と言われる、その四の苦しみである。このほかに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦あわせて八苦になる。
愛別離苦は愛するものと別れなければならない苦しみ、怨憎会苦は恨み憎んでいる人と会わなければならない苦しみである。
求不得苦は求めても得ることができないことによる苦しみ、五陰盛苦は、肉体と精神作用によってもたらされる苦しみをいう。
葬式などの儀式はほとんど意味をもたない。結局、自分として死に臨んだ時、どう対処するかを決めることであるから。ソクラテスのいう「死の学び」である。生きながら死を学びつづけることである。そこから他者への関わりも出てくる。
そのようなものの実践として宗教があると考える。仏教ならブッダにかえって、その根本のところを知る必要がある。ブッダが、説きたかったことは一体なんであるのかということである。
宗教は人間が生み出し、人間の幸福を実現するためのものである。自然、宇宙に生成発展の法則があるように、生老病死の法則に則って自己を活かしていくことであろう。自分を見つめることを放棄すれば、どのような思想、哲学、宗教であろうとそれに人間が隷従することになる。
宗教はアヘンなりといったマルクス主義もイデオロギー信仰の一種といえる。民主主義も衆愚政治の道具として利用されてしまう。
自力と他力とでは、自力が自分の努力とすれば、他力とは自分を超えた法則とでもいえる。したがって、自力と他力との合致に人間の生きる道が開けるのではなかろうか。 
生老病死
これまで、多くの日本人は死を「忌み嫌うべきもの」として遠ざけてきました。しかし、以前なら子育てが終わる頃には人生も終末に近づいていましたが、現在は高齢化が急速に進行し、否応なしに自らの老いや死を考えざるを得なくなりました。生まれなければ死ぬことはありませんし、生まれた生命はいつかは必ず死にます。人は必ず死ぬという現実から目をそらしている限り、生を大切にすることはできないのではないでしょうか。仏教の教えを説いたお釈迦さまが出家を決意した理由は、自分の力ではどうにもできない「生老病死(しょうろうびょうし)」という生の根源的な問題の解決をめざしたからだといわれています。お釈迦さまは、生まれた生命は必ず死ぬという現実を直視し、死を鏡として私たちの生き方を示しています。ですから、肉親や知人の死を通じて自分の生き方を考えるために、葬儀や法事などの行事が仏教の教えと結びついて行われているのです。
四苦八苦と八正道
人生では生老病死(しょうろうびょうし)の四苦の他に、まだ四つの苦があります。愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といわれます。この四つと前の四苦を合わせて、四苦八苦と呼んでいます。愛別離苦とは、愛する人と別れる苦しみ。怨憎会苦は、怨み憎む者とこの世で会わなければならぬ苦しみ。求不得苦は、欲しいものが手に入らない苦しみ。五蘊盛苦は、人間の体や心の欲望が適えられない苦しみです。この八苦は、生きているかぎりついて廻り、この苦から逃れるには、仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)に帰依(きえ)して、八正道(はっしょうどう)を実践するしかないと仏教は教えています。八正道とは、お釈迦さまの最初の説法において説かれたとされる、修行の基本となる八種の実践徳目です。それは、正見(正しい見方)、正思(正しい考え方)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい意識)、正定(正しい精神の安定)の八つです。
愛憎
仏教の八苦の中に「怨憎会苦(おんぞうえく)」というのがあります。怨(うら)み憎む者に会う苦しみです。自分を憎み、嫌いだという相手への思いは、必ず相手にも反映して、自分のことを憎み、嫌います。相手がなぜ自分にとって嫌いなことをするのかということを考え、相手の立場に立って想像力を働かせれば、その人が、生まれつき愛されない環境に育ったとか、あるいは、ずっといじめられてきたとか、欲求不満の固まりであるとか、そういうことがわかります。そうすれば、ただ憎むよりも哀れみを感じることができます。憎しみを哀れみに変えることが出来れば、自分も救われます。
三世
仏教は、過去世(かこぜ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)という三つの世を、人間は生き続けると考えたのです。これを三世(さんぜ)の思想といいます。仏教ではこの世を現世と呼びます。私たちは現世に今、生きているわけですが、この現世に生まれる前に、すでに魂があって生きていたと考えます。生まれる前の時間を過去世と呼び、過去世は長い長い無限の時だったと考えます。過去世から、私たちは選ばれて現世に生まれて、八十年位生きたら必ず死にます。死んでも、魂は生き続け、死んだ後の世界を来世と呼びます。来世は過去世と同じく、やはり無限のはるかな時間を持っています。私たちの今生きている現世は、悠久の過去世と悠久の来世にはさまれたほんの短い時間です。私たちはこの世での快楽だけに満足しようとしたり、この世での苦労に不平不満を吐いたりしますが、悠久の三世の時間の中では、現世なんて、ほんの一つの点に過ぎないものだと思えば、心にゆとりが生まれます。
南無
南無(なむ)阿弥陀(あみだ)仏(ぶつ)などと、私たちは日常、南無ということばを耳にします。南無とはサンスクリットの「ナーム」で、それを漢字で音写したものです。ナームは「帰依する」という意味で、すべてを任すということです。例えば南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまに帰依しますということで、このことばを祈りのことばとして、それを称えることによって、阿弥陀さまの誓願ですべての罪も許され、浄土に迎えられると信じます。人間は生きている上で、考えられないような様々な災難や苦労に遭います。そんな時、自分の信じる仏に「南無」といって命も運命もお任せしてしまえば、そしてそれが出来ればどんなに気が楽になることでしょう。そこから必ず道が開けて来るのです。
無常
無常ということばはサンスクリット語の漢訳で、常なることの否定の意味です。この世では同じ状態は決して続かないということが無常です。人間一人の生涯にしても、同じ状態は続かないで常に変化し続けます。この世では、ものも、人の関係も、心も、すべて移り変わり、その不確かさが苦しみを人に与えます。愛の永遠も、平和も、衣食住の快楽も、手に入れたと思った時、それを失う怖さを人は知らなければなりません。
無明
無(む)明(みょう)とは、人間の心の中にある一切の煩悩の根源をいいます。無明の闇をなくし、心の中を明るくすることが仏教の悟りにつながります。仏教では、人間はすべて凡(ぼん)夫(ぶ)だという考えがあり、自分の愚かなことを自覚して、悟りに遠い自分を認め、生涯を通して、いくらかでも無明に光が届くように努力することが必要と教えています。幸福になるには、とらわれない心を、自分の心にしっかりと確立する以外に得られないのです。自分の無明を認めた者、自分の痴愚(ちぐ)に気づいた者だけに幸福への道が開かれます。
三毒
私たちが人間として生きている以上、自分の心に抱く煩悩によって苦しまねばなりません。煩悩つまり人間の欲望が苦の原因なのです。煩悩を失くせば苦から逃れることが出来るとわかっていても、人間は死ぬまでそれを失くすことはできないでしょう。煩悩の中身を分析すれば、貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)の三つとなります。つまり貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚癡(ぐち)の三つで、これは人間の善心を損なう煩悩なので、三毒(さんどく)といわれています。貪(とん)は、自分の好む対象に向かって貪(むさぼ)り求める心のことで、物に限らず、地位、名誉、富、性愛すべてに貪が作用します。人間の貪欲には際限がありません。何ごとも小欲で足るを知るという心がけが大切です。瞋(じん)とは、自分の心にさからうものに対して怒り怨むことです。怒り怨みを持てば、その対象に敵意を抱くことになります。癡(ち)とはおろかさですが、仏教でいうおろかさとは、教養がないということではありません。差別する心、自己中心的な考え方の人を癡愚(ちぐ)な人と見るのです。 
 
麻生副総理の死生観 2013/1

麻生副総理「さっさと死ねるように」 高齢者高額医療で発言 2013/1/21
麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。 
麻生副総理「さっさと死ねるように」発言を撤回 2013/1/21
麻生太郎副総理兼財務相は21日、政府の社会保障制度改革国民会議で終末期高額医療費をめぐり「さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と発言したことについて「私個人の人生観を述べたものだが、国民会議という公の場で発言したことは適当でない面もあった」と釈明した。発言は、自分自身の私見であって一般論ではないというのが麻生氏の真意のようだ。麻生氏は発言の該当部分を撤回し、国民会議の議事録から削除するよう申し入れる。 
麻生副総理、やっぱり口が滑った!?終末期医療めぐる発言を午後に撤回
21日午前に官邸で行われた社会保障制度改革国民会議で、麻生太郎10+ 件副総理兼財務相(72)は、高齢者などの終末期医療について「さっさと死ねるようにしてもらわないと」などと発言。午後に撤回するドタバタ劇を演じた。首相時代にも数々の失言で批判の的となった麻生氏だが、今回の安倍内閣でも期待通り?の失言第1号。安倍晋三首相(58)が最も頼りにする“お友達”の問題発言だけに、今後波紋が広がりそうだ。
同会議で麻生氏は「いいかげん死にたいと思っても『生きられますから』で生かされたんじゃかなわない」とした上で「しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と発言。「私は少なくとも遺書を書いて『そういうことをしてもらう必要はない、さっさと死ぬから』と書いて渡しているが、そういうことができないと死ねません」と述べた。また、患者のことを「チューブの人間」とも表現した。
この一連の発言について、麻生氏は午後に「公の場で発言したことは適当でない面もあったと考える。当該部分については撤回する」とのコメントを発表。記者団に対しては「一般論ではなく、個人的なことを言った。終末医療のあるべき姿について意見したのではない」と釈明した。
失言の裏には、医療費増大への懸念があり、麻生氏は同会議で「高額医療を下げて、そのあと残存生命期間が何か月か、それにかける金が月に1千何百万円だという現実を、厚生労働省も一番よく知っている」とも述べた。高齢者医療が重い財政負担になっている現状を訴えたかったようだが、資産家としても有名な麻生氏は、少々口が滑りすぎたようだ。 
麻生副総理が終末期医療めぐる発言撤回、一般論ではなく私見
麻生太郎副総理兼財務相は21日午後、この日の社会保障制度改革国民会議での自身の発言に関してコメントを発表し「私個人の人生観を述べたものだが、公の場で発言したことは適当でない面もあった」として発言を撤回し、議事録から削除するよう申し入れる考えを明らかにした。
報道によると、副総理は午前に開かれた国民会議で、医療費問題に関連して、患者を「チューブの人間」と表現したうえ「私は遺書を書いて『そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから』と渡してあるが、そういうことができないと、なかなか死ねない」などと発言した。続けて副総理は「(私は)死にたい時に死なせてもらわないと困る」とも述べ、「しかも(医療費負担を)政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと、総合的なことを考えないと、この種の話は解決がないと思う」などと話した。
コメント発表前に財務省内で記者会見した副総理は「終末医療のあるべき姿について意見を言ったものではない。発言の内容からはっきりしている」と釈明。自身の発言が「一般論としてではないのは、文章を読み返してもはっきりしている。私見を求められたので、私見を申し上げた」と説明した。 
さっさと死ねるよう…麻生氏、終末医療巡り発言
麻生副総理は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現し、「私はそういう必要はない、さっさと死ぬんだからと(遺書を)書いて渡してある」と語った。その上で、「死にたいなと思って、生かされるのはかなわない。政府の金で(延命治療を)やってもらうなんてますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと解決しない」と述べた。
麻生氏はその後、財務省内で記者団に対し、「私の個人的なことを申し上げた。終末医療のあるべき姿について意見を申し上げたものではない」と釈明した。
また、「公の場で発言したのは適当でない面もあった。当該部分について撤回し、議事録から削除するよう申し入れる」とするコメントを発表した。 
今こそ終末期医療を考える 死の教育の必要性 2013/1/23
社会保障制度の在り方を議論する場で21日、財務相を務める麻生太郎副総理が終末期医療をめぐり「さっさと死ねるようにしてもらわないと」と発言した。間もなく撤回したものの、医療費削減の思惑がにじむ。専門家からは「乱暴だ」と批判の声が上がった。
「『お金がもったいないから、早く死にたい人は死んでもらいなさいよ』という非常に乱暴な言い方。終末期医療を全く理解していない」。東大死生学・応用倫理センターの会田薫子(あいた・かおるこ)特任准教授(医療倫理学)はこう指摘する。
その上で「医療費のことを先に持ち出すと、議論の中で何が大切か分からなくなる。望ましい社会保障をどうつくっていくか議論するのが先のはずだ」と話した。
終末期医療に詳しい別の専門家は、厚生労働省が2005年に公表した推計で、死亡前1カ月にかかる「終末期医療費」が年間約9千億円とされたことを踏まえ「年間10兆円規模の高齢者医療費の10%前後で、一般の人が思っているほどウエートは高くない」と指摘した。
今回の麻生さんの発言、いつものべらんめいで、言っている事は自分の希望、かつ終末期医療というみんなが今後絶対考えなければそして解決しなければならない問題を見事に提案しています。(これが計算ならすばらしい。でも撤回したから違うでしょうね)
そこにマスコミの削除改竄。「自分の希望を言うと...」が見事に削除されています。ネットでもすぐに流れていたため、いまのところこれ以上のマスコミバッシングはないようです。
ちなみに新聞はよくこの削除法(いいとこだけとる)を使います。イラクの時、自衛隊医官が『恐怖を感じた。(しかし訓練していたので冷静に対応した)』と答えたら見事に後半削られました。帰って来て上司に怒られたそうです。
今回この記事に出てきた2人の専門家。一人は実名ですので調べてみました。
会田薫子(あいた かおるこ)さん。例の東大特認準教授の肩書きです。(今回論文は全て査読ありと森口さんとは違うとしています。)
看護師さんで、「高齢者ケアに関する意思決定プロセス研究班」(胃ろうを決定するのにどのような思考過程を患者と家族はとるのがいいかがテーマのようです)の班員と記されています。あと2人は哲学者と診療所の医師です。
記事の文章が短すぎるですので不明ですが、現実性をどこまで考えていらっしゃるのかと思ってしまいます。コメントは学者としての理想を話されています。専門家であれば理想論ではなく対案も欲しいです。
もう一人の専門家、「9000億円という額はウエートは高くない」と述べています。こんな人に終末期医療の研究予算を付けているのなら 即刻返還させてもらいたい。あなたには10万円だって高い。
終末期医療が現場でどのようになっているのか。どれだけの無駄があるのか。このことを知らないで机上の空論を宗教的、倫理的に正しいと言っても無意味です。ましてや今の無駄の部分も大した事がないという専門家を私は認めません。
この明らかな無駄と思われる部分を排除して、それでもなお無駄な終末期医療をおこないたいという方には健康保健からはずれても構わないというような施策が必要です。
宗教的、倫理的な概念は、死を教育しなければなりません。日本人はこの死の教育が全くされていません。それを全くやっていないのに今すぐに議論もせず、タブーだと言論を封じ込める事はなんの進歩も生みません。
ただ私は政治家麻生さんのファンですが、できれば挙げ足をとられないようにもう少しお気をつけていただければと思います。
 

 
 

 
有島武郎 

有島武郎情死事件  
これは『文學界』2003年4月号に載せた「昭和恋愛思想史」の第一回の一部なのだが、『恋愛の昭和史』にする際、割愛したものだ。その後、波多野春房の正体が波多野烏峰だと分かったので、参考のため載せておく。
作家・有島武郎の心中事件が起きたのは、その二年後、大正十二年である。妻を亡くした有島は、『婦人公論』記者の波多野秋子と恋仲になり、その六月九日、軽井沢の別荘で縊死心中を遂げ、一月たった七月七日早朝、発見されたのである。実はこの事件については、概略を記したのみで先へ進もうと思っていたのだが、調べてみると細部に曖昧な点、人によって解釈の違う点があるので、特に新資料があるわけではないが、少し詳しく述べてみたい。新聞の第一報は七月八日、相手の女性が波多野秋子であることが報じられたのは翌日である。秋子は三十歳(当時の記録なので数え年)、丸之内日本連合火災保険協会書記長、当時五十三歳くらいの波多野春房の妻で、新聞報道によれば、京阪電鉄取締役・林謙吉郎という実業家が、新橋の藝妓新吉、本名青山たまに生ませた庶子だが、その母は男と別れ、娘を藝者にしないため教育を授け、秋子は大正元年、十九歳の時実践女学校を卒業したが、英語の個人教授をしていた春房と恋愛関係に陥り、春房は前妻を離縁して秋子と結婚、秋子はさらに女子学院英文科に入学、大正三年に卒業し、青山学院の英文科に入学、七年に卒業して、高島米峰の推薦で『婦人公論』の編集者となった。
ところで問題は春房の前妻であるが、最近出た菅野聡美の『消費される恋愛論−−大正知識人と性』(青弓社)には、情死発見の月に刊行されたらしい、文化研究会編『厳正批判有島武郎の死』(文化パンフレット二十三号、文化研究会出版局)が、一次資料として盛んに用いられているが、この本は昭和女子大学の『近代文学研究叢書』の有島関係文書の目録にも載っていないから、忘れられていたものかもしれない。国会図書館にはある。本文は七十四頁、著者は「法学士・弁護士・遠矢良己」という人のようで、道徳的観点から不倫の結果の情死を批判するのが趣旨である。ここに、その波多野の前妻である男爵令嬢日置(ひき)安子なる者の談話が載っている。それによると春房の父は元吉野宮宮司・春麿で、春房は米国から帰って英語教師をしており、女子大の家政科に通っていた安子がそこへ稽古に通ったのは二十三歳の時、明治三十九年十一月、「横浜の観艦式へ二人で出かけた帰りに四谷のある旅館へ連れ込まれて関係をつけられました・・・あとで波多野が有名な色魔だといふ事がわかりました。私より外にもなほ三四人も稽古に来てゐる女に関係があつたやうです」と言っている。安子は二人の噂が流れたので一時岡山の父のところへ帰らされたのだが、波多野がつきまとうので遂に同棲することになり新町に世帯を持ったとある。『平成新修旧華族家系大成』によると日置家は岡山藩の家老の家柄で、安子の父健太郎が明治三十九年、男爵を受けている。安子は次女で、明治十三年生まれだから、四十年には数えで二十八歳。さて結婚はしたがひどい窮乏生活で、三、四年後に離婚したという。しかし、二人で横浜の観艦式へ行ったり、親のもとにいる娘がいかに男がしつこいからといって結婚に至るというのは当人の意思としか思えない。遠矢は最後に「もつとも安子といふ女も、稀代の妖婦だから、どつちがどうかわかるものでもない」と書いている。ということは日置安子というのも当時醜聞で知られていたのだろうか。『家系大成』では、大正五年、分家となっている。いずれにせよ別の女に見変えられた形の前妻が春房をよく言うはずもない。
その他、七月九日から十一日まで「読売新聞」は、春房の素行の悪さを仄めかしており、「波多野氏は女蕩しとの評判」とか、二人の女優と愛人関係にあったとか書き立てている。菅野はこれらをすべて受け入れてしまっているのだが、有名作家が人妻と心中したとなれば、世間は同情から夫を悪く言いたがりあれこれ尾鰭をつけるものだ。前妻との結婚の事情にしても、與謝野鉄幹が晶子と結婚する前後の行状と大同小異である。奇妙なことに、春房は秋子の四十九日を迎えて再婚しているのだが、その相手は新橋の藝者大隅れい子なる者で、春房とは面識がなかったが、新聞を読んで、独り取り残された春房に同情し、人を介して結婚を申し込んだという。女優の愛人がいたというのなら、これもおかしな話だ。春房は写真を見てもそれなりに整った顔だちで、艶福家ではあったのだろう。
実のところ、春房と秋子の夫婦仲はどうだったのか。十二日の「東京朝日新聞」は、その三月十五日に有島が秋子宛に書いた手紙を掲載した。有島と秋子が知り合ったのは前年の夏ではないかと推定されているが、有島はこう書いている。「愛人としてあなたとおつき合ひする事を私は断念する決心をしたからです。あなたにお会ひするとその決心がぐらつくのを恐れますから今日は行かなかつたのです。私は手紙でなりお目にかゝつてなり波多野さんに今までの事をお話してお詫びがしたいのです。(中略)純な心であなたを愛し、十一年の長きに亘つて少しも渝らないばかりでなく、あなたにも益々その人をいとしく思はせる程の愛情をそゝいで居られる波多野さんをあざむいて、愛人としてあなたを取りあつかふ事は如何に無恥に近い私にでも迚も出来る事ではありません。(中略)あなたも波多野さんの前に凡ての事を告白なさるべきだと思ひます。而してあなたと私とは別れませう」以下略すが、その前日、秋子から遺書を受け取った親友の石本恵吉男爵夫人静枝が記者会見を開いてこれを公開、十二日の「読売新聞」には、それが全文掲載された。
「私の波多野に対する心持、武郎に対する心持はあなたははつきり解つて下さることと存じます(中略)私にはどうしても波多野を忘れられません それでゐて私は武郎を捨てることは決して出来ないので御座います(中略)私といふ赤ん坊は年頃になつて恋を知りました。真剣な恋を致しました其の相手が武郎だつたのです。お互は結婚生活はあまり考へませんで愛すれば愛するほど死の誘惑が強くなつて行きました」。そして、有島は春房に告白すべきだと言ったが秋子は「波多野の苦悶を思ふとどうしてもそれが出来ないので卑怯でも一日一日とのばして」しまったと言っている。静枝は会見で、二人が関係をもったのは一月ころで、二月に秋子からそれを打ち明けられ、「有島さんと波多野さんの二人に対するあなたの愛がはたしてどちらが重いか」考えるよう注意したという。この石本静枝は、秋子より五歳ほど年下の親友だったが、昭和十九年、石本男爵と離婚して加藤勘十と結婚、戦後初の女性議員となった加藤シヅエで、二○○一年、一○四歳で長逝したが、一九九七年十月号の『婦人公論』で、改めて秋子について語っている。
当時、秋子さんは結婚して、中野にお住まいで、お宅にも何度も遊びに行きました。ご主人の春房さんとは、ずいぶんお年が離れており、私から見ると「おじさん」といった感じでした。もちろんインテリでスマートな紳士ですが、お釣り合いのご夫婦というより、秋子さんが年配のおじさんに可愛がられ、保護されているといった印象を受けたことを覚えております。(中略)
(当時秋子は有島を誘惑した悪女のように言われ)悪女の親友だったということで私まで悪女としてさんざん悪口を言われ、攻撃されました。(中略)どんな新聞も雑誌も、ひとことの弁解も聞き入れてくれませんでした。
秋子は、春房宛の遺書には「十二年間愛しぬいて下さつたことをうれしくももつたいなくも存じます。わがまゝのありたけをしたあげくにあなたを殺すやうなことになりました。それを思ふとたまりません。あなたをたつたひとりぼつちにしてゆくのが可哀想で〜〜なりません」とある。けれど秋子自身のこうした文言も、静枝宛遺書もひっくるめて、菅野は「虚飾に満ちている」「そらぞらしい」とするのだが、それは先の新聞ゴシップを受け入れているからだ。渡邊凱一(よしかず)の『晩年の有島武郎』(関西書院、一九七八)も、秋子が『婦人公論』記者になったころから、夫婦仲は冷却していた、としている。そう記述する根拠はよく分からないのだが、さきの有島の「波多野さんに済まない」旨の手紙についても、秋子が「女性特有の虚栄感のないまざった感情で春房がいかに自分を愛してくれたかを」語ったのだろうが「実際には、彼女の心は夫から千里も隔たっていたはずである」としている。これも憶測だ。
おそらく春房がこれほど悪く言われるのは、有島の親友で、本の出版を引き受けていた叢文閣の足助素一が有島の個人雑誌『泉』の終巻号(同年八月)に書いた「淋しい事実」に依拠しているのだろう。足助は六月七日に、入院中の足助を訪ねて事情を告白したのだが、それは秋子との関係を春房に知られて、賠償金を出せ云々と罵倒されたからだと言うのだ。足助はその様子を会話体で書いており、有島は、「たうとう・・・それほど僕を思ふのなら・・・姦夫になつてやれ、つて決心したんだ。/「四日、たうとう僕等は行く所まで行つたんだ・・・」とある。ここから、二人は六月四日に初めて性関係を持ち、八日に情死行に出たことになるが、渡邊は、三月の手紙に「愛人」とあるからにはそれは信じがたい、としている。石本静枝の話の内容から言っても、二月にはそういう関係にあったはずだ。「東京朝日新聞」七月九日の記事では、五月中に春房の大阪出張中、二人は鎌倉に泊まり、帰京後それを知った春房が秋子を責めると、「離婚して下さい」と涙を流したので、春房は有島を訪ね、「離婚するから秋子を妻にしてくれ」と言ったことになっている。しかしその返答がどうだったのか分からない。そしてこれが本当なら、六月四日に船橋で二人が泊まった後で春房が勤務先へ有島を呼んで罵倒したというのはどういうことか。以下は、推理になる。有島は、学校へ通わせ、当時としては寛大にも婦人記者となることを許し、十年間秋子を慈しみ育ててきた波多野から秋子を奪う形になることはその良心が許さず、秋子と別れることを約束したのではないか。にも関わらず、秋子の側からか有島の側からか、関係を切ることができず、船橋行きとなり、それを知った春房は、二度目だからこそ激昂して、賠償金云々という話になったのだろう。この時の有島と春房のやりとりを足助が有島から聞き、それを武郎の弟の生馬から末弟の里見弓享に伝えられたこととして、里見が後に小説『安城家の兄弟』に詳しく書いている。ただし細部は後に聞かされたことだと断ってある。佐渡谷重信の『評伝 有島武郎』(研究社出版、一九七八)は、著者自ら言うように、評伝というより小説だが、この部分は『安城家の兄弟』をひき写している。
しかして、心中死体発見後、足助は『国民新聞』で秋子への愛を語る春房に激怒し、「淋しい事実」の中で、「『死人に口なし』をいゝ幸にして余り白々しいことをいふのはよせ」云々と罵倒し、やはり有島の親友の橘浦泰雄は、春房が「氷のやうに冷めたく軽薄な感じに嘔吐を催した。・・・同氏の本事件に関する行為と態度は、抑々の始めから、不純と不正そのものであつた」と書いている。とはいえ、足助らは「そもそもの始め」など知らないはずである。この点について、『安城家の兄弟』は鋭い記述をおこなっている。カッコ内は小谷野による。
隼夫(弟・隆三)と田代(原久米三郎)と三人で、初めて萩原(春房)といふ男に会つてみた時にも、昌造(里見)の同感は、むしろ先方の言草に余計感じられたくらゐだつた。(中略)田代の権謀術数の多いのには、身方ながらいゝ感じがもてなかつた。(中略。萩原は)成程、一筋縄でいかないしたゝか者でもあるし、文吉などとはまたがらりと性(たち)の違ふ一種の見栄坊には違ひなかつたけれど、昌造の眼には、決してさう不愉快な人物とは映らなかつた。(中略)現に誰より一番馬鹿をみたのが彼だといふ事実に間違はないのだし、(中略)とても昌造には、敵意など感じられるものではなかつた。もしも、素直にその心持を訴へられでもしたら、兄に代つて詫を言はずにはゐられなかつたかも知れない。それを、たゞ頭から人非人のやうに言ひ募る加茂や田代の激昂だけをもつて観ても、今度の事件で曝露された文吉(武郎)の甘さ、錬(きたへ)の足りなさは、ひとり彼のみのものではなく、日比(ひごろ)親しくしてゐた友達仲間にもまた共通のものと知られ、昌造は腹の底からうんざりさせられて了つた。(中略)たよりに思ふ年長者たちが、一人残らず上吊つて了ひ、身勝手な考へ方ばかりしてゐるのが、不愉快で不愉快でたまらなかつた。(「屍」)
清教徒的な兄と違って、藝者遊びなどもずいぶんしたらしく、藝者を妻にした里見の洞察こそ、最も正確なものだろう。里見がこう書いているのを知っている最近の研究者でも、偉大な作家・有島を崇めるあまり、普通の人間である波多野春房が、こんな境遇に置かれればこうなるのも無理はないということに気づかず、「不誠実」だの「ちゃっかり藝者と結婚している」だのと書かずにいられないのだ。
なぜ、波多野春房は悪く言われるのか。それは夏目漱石が大正元年に『行人』の長野一郎に言わせたように、姦通を犯した二人(ここではパオロとフランチェスカ)の名前は記憶しても、その夫の名前を忘れるのが世間というものだからである。事実、有島はもちろん、波多野秋子の名は知られていても、春房の名は、調べようとしないかぎり誰も知らない。永畑道子が、心中直前に有島と與謝野晶子の間に恋愛感情があったという推定のもとに書いた小説『夢のかけ橋』を映画化した『華の乱』で、春房は、悪役俳優成田三樹夫によって演じられ、人形集めに凝っているエキセントリックで残虐な男として描かれた。厨川白村は、当然のごとくこの事件にコメントを求められ、情死に理解を示したが、この事件が一段落した九月一日に襲った関東大地震の際、鎌倉で津波に襲われて死んだ。四十二歳だった。遺児文夫は、慶応大学で西脇順三郎に英文学を学び、中世を専攻して『ベーオウルフ』や『アーサー王の死』の翻訳・研究を残した。父とは対照的な、地道な学者人生だった。「自由恋愛」を標榜して妻、神近市子、伊藤野枝の三人と派手な恋愛劇を演じたアナーキスト大杉栄は、辻潤との間に子をなしながら大杉のもとに走った野枝とともに、この震災の時に憲兵隊に虐殺された。
それはそうと、白蓮事件の際に白村が示した「因襲的結婚だからうまくいかなかった」という論法は、秋子に関しては当てはまらない。そして白村もうすうす、恋愛結婚であっても、後に他の異性と恋におちるということはありうるということに気づいていたはずだ。波多野春房が「悪役」にされてしまうのは、永続的一夫一婦制と恋愛至上主義との間のこの矛盾を人びとが無意識的に回避したかったからであると断言してもいいだろう。何の落ち度もない、恋愛結婚した夫がありながら、妻が別の男と恋愛してしまうとしたら、恋愛至上主義の前に永続的一夫一婦制自体が解体されなければならないからだ。ひとというものは、結婚がうまくいかなかった時に、その原因は最初からあった、と考えたがるものだ。「因襲的結婚だったから」が通用しなくなれば「よく考えずに結婚したから」になる。手っ取り早いのは、結婚相手に落ち度を見出すことで、この操作によって人びとは、誠実に生きていても裏切られることはあるという事実から目を逸らすことができる。ただしそういった問題が本格的に議論の俎上に上るには、大正期のこの当時は世間にまだ「因襲的結婚」が多すぎた。
張競の『近代中国と「恋愛」の発見』(岩波書店)の第4章は、與謝野晶子の「貞操は道徳以上に尊貴である」が一九一八年、周作人によって「貞操論」として漢語に翻訳され、『新青年』に掲載された際に起きた論争を扱って興味深い。これは恋愛結婚絶対論とも言うべきものだが、儒教道徳が根強く残るシナで反対論が盛り上がったのは当然のことながら、論争の口火を切ったジャ−ナリスト藍志先は、翻訳を受けて書かれた胡適の「貞操問題」に対し、手紙の形で反論を寄せたのである。これも『新青年』に掲載された。張競訳によれば、「いわゆる自由恋愛は、一緒になるのも、別れるのも簡単である。感情というものはつねに変化しているから、恋愛の相手もそれにしたがっていつも変わる。一生の間に何回恋人を変えるかわからない」と藍は言っている。胡も周もこれに反論したのだが、張氏によれば、藍は西洋文化も熟知していたため、論理の筋が通っているが、結論が乱暴で馬脚を表している、としているが、この、恋愛の上に結婚はなされなければならないなら、生涯離婚をくりかえすことになるだろう、という議論は、今日においても強力であって、張競著を見るかぎり胡も周もこれにうまく答えていない。もっとも私は『新青年』所載論文を読んでいないので確たることは言えないが、少なくとも與謝野晶子に関して言えば、生涯鉄幹(寛)に恋し続けた晶子は、自分が特殊な例だと気づいていないか、自分にできることは他人にもできると思っていたか、である。シナ出身の評論家、林語堂は、『蘇東坡』(講談社学術文庫)で、親が取り決めた蘇東坡の結婚を叙述しながら、恋愛結婚などより親が決めたほうが間違いがなくていいのだ、という意味のことを書いていた。林はこの「貞操論争」の四年ほど後、一九二三年に二十八歳で北京大学教授になり、その四年後には外務大臣に就任、一九三六年には米国に移り住んだ、むしろ西洋派の人文学者で、『蘇東坡』は一九四七年に英語で書かれたものだが、その林が、自由恋愛、恋愛結婚反対派だったのも、興味深いことである。 
 
生と死 有島武郎 1

はじめに
有島武郎に関心を持つようになったのは、小島信夫の「私の作家評伝」を読んで以来だから、もう随分長いことになる。小島信夫の有島武郎論は、小論と呼んだ方がいいような短いものだが、これには武郎に関する妙に気になる二つの挿話が載っているのである。
その一つは、武郎の少年時代に関する挿話で、これを原文に当たるとこうなっている。
まだ幼年時代、横浜でアメリカ人の夫人のところへ預けられたとき、ある日勉強が出来なくて、愛子は罰として菓子をもらえなかった。武郎は愛子の分を口に含み、愛子にくれてやった、というのである。
小島信夫は、この記事を全集月報に記載された藤森成吉の回想記をネタにして書いている。そこで次にその典拠となっている藤森成吉の文章を紹介すれば、
「これは、有島さんの親友の足助君から直接聞いたことですが、有島さんの幼時に、実に面白いエピソオドがあります、何でもまだ有島さんが小学校へ行く前、西洋人に就いてゐた時分のことだそうですが、何かの御馳走日に、有島さんの妹さんが先生に叱られてみんなの貰ふお菓子を貰へずに、一人どこか部屋の中へとぢ込められてゐたそうです、ところが有島さんは、その妹さんが可哀そうでならなく、どうかして自分の菓子を妹さんにもやりたいと思ふけれども、やったりすれば先生に叱られる、で考へて、自分のお菓子の一部分を口の中へ隠して、先生に知れないやうに、そっと妹さんのとぢ込められてゐる部屋へ忍んで行って、口の中から出してわけてやったと云ふ話です、もう大人になつた今も、妹さんは折りにふれてその事を話して、あの事だけは忘れられないと云ってゐられるそうです、」
口の中に菓子を隠して妹の所に運ぶというようなことが、果たして可能かどうか疑問も残る。だが、これが武郎の行動だとすると、いかににもありそうな話なのだ。この話のポイントは、罰を受ける危険を冒してまで彼が菓子を妹に届けたというところにあるのではなく、口の中に菓子を隠して届けたというところにある。このへんが、何とも武郎らしいのである。
小島の伝えた挿話のうちで、もう一つ印象に残ったのは、有島武郎が波多野秋子と軽井沢の別荘で心中したとき、首を吊るのに秋子の伊達巻きを使用したというくだりだった。妹に菓子を与えた話がいかにも武郎らしいとすれば、こちらの方は逆にあまり武郎らしくないのだ。
小島信夫は、こう書いている。
汽車の中で手紙を書き、雨の中を目的地へ着くと宿で一泊したあと、山荘の食堂で、秋子は腰紐で、武郎は伊達巻を梁に通して抱き合ったまま首を吊った。
私の知るかぎり、この文章には二カ所の誤りがある。武郎と秋子は宿屋で一泊などしないで、深夜直ちに別荘に入り、交合の後にそのまま心中したのだし、死ぬとき二人は別に抱き合って死んだわけではなく、一メートルの距離を取って首を吊っているのだ。だが、彼が首を吊る時に秋子の伊達巻きを使用したというのは、間違いないらしいのである。
この点をとらえて小島信夫は、さも厭わしげに次のように記している。
伊達巻を首にかけて、女と抱き合って死んだ有島武郎の女々しさはどこからくるのだろうか。この何かイヤラシイものは、何だろうか。
確かに、まだ女の体温が残っているような伊達巻きを首に巻いて死ぬのは、誠実で謹厳だったという有島武郎に似合わしくない。しかし、だからこそ、このエピソードは刺激的で、妙に私どもの印象に残るのである。
菓子運搬の話と伊達巻きの話は、事に臨んで思い切った行動に出るのを常とした武郎にとって、格別、驚くべきことではないかもしれない。何しろ彼は、宗教上の疑問にとりつかれた友人を救うために自殺しようとしたり、父が遺してくれた135万坪の大農場をある日突然、無償で小作人に贈与したりする男なのである。
とにかく、私は有島武郎に深甚な興味を感じたのだった。それで、ぽつぽつ彼に関する本を読むようになり、そこで有島武郎に関する研究が戦後急速に進み、有島武郎論が山ほどあることを知ったのである。
武郎研究が盛んになった理由は、武郎が47才で死ぬまでに膨大な量の日記を遺しているからでもあった。これを彼の人生と作品に重ね合わせながら読んで行くと、各人各様の有島武郎像を描くことが出来るのである。
彼の本格的な作家活動は40才から始まり、僅か数年の後に早くもスランプに陥っているから、その作品はたいして多くない。そのため研究者の注意は、武郎が作家になるまでの準備期に向けられる。つまり40才になるまでの彼の人生行路に向けられるのである。日記と照合しながら作家になるまでの武郎の人生をたどっていくと興味が尽きず、誰もが彼の人間像を自分なりに再構築してみたくなるのだ。
私は有島武郎の人間像を再構成するほどの知識を持っていないし、その能力もない。けれども、武郎は以下に見るような蕪雑な文を書いて見たくなるほど、不思議な魅力を持った作家なのである。 
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有島武郎は、何はともあれ資産家の長男であった。
麹町の一等地に建てられた有島家の敷地面積は、1200坪もあった。家族の誰かが外出するときには、人力車を呼ぶのが常だった。
薩摩出身の父は、大蔵省に入省してから藩閥政府の手で厚遇され、関税局長に昇進している。官を辞してからは、松方正義の推挙で第15銀行、日本郵船、日本鉄道の重役になり、そのそれぞれから高額の収入を得ていた。
しかし、この父は病的な性格の持ち主だった。麹町に邸宅を構えるまでは常軌を逸した引っ越魔で、数え切れないほどの転居を繰り返しているし、結婚にも二度失敗している。何かに熱中すると、頭はその事でいっぱいになり、対座している相手の言葉が全く耳に入らなくなった。武郎はアメリカに留学するまでに、父が完全な狂気に陥った場面を二回見ている。
母も二度の離婚歴があり、感情に激したりすると意識を失い、その場に卒倒するという持病を持っていた。
有島武郎の身に襲いかかった最初の重圧は、この両親からのものだった。彼には6人の弟妹がいたが、両親は長男の武郎だけに手厳しい特訓を課したのだ。彼は父母を回顧した文章にこんなことを書いている。
小さい時から父の前で膝を崩すことは許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらされたり、馬に乗せられたりした。
母も厳しいことでは父親に負けていなかった。
母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読まされた。
そして父母から課せられた特訓を消化できないと、お灸をすえる罰や禁錮刑が待っていた。武郎は、こうした罰への恐怖から自分の性格がすっかりいじけてしまったと述懐している。武郎があまり父を恐れて戦々恐々としているので、父は、「是児為スナシ」と嘆くようになった。この子は、将来、無能力者になるのではないかというのだ。
父は武郎に、「峻酷な教育」を施す一方で、明治の実務派官僚らしく、彼に洋風の生活・言語を学ばせようと考えた。そこで横浜の税関長に就任したのを機に、5才の武郎と3才の妹愛子を米国人牧師の家庭に預けた。米人宅を私設託児所にして、兄妹の躾を任せたのだ。その翌年には武郎の語学を更にのばすために、ミッションスクール横浜英和学校に入学させた。彼はここで、現在の学制で小学校3年次まで過ごしている。
洋風教育はこれで十分と考えた父は、長男を学習院に転校させることにして、まず、「自牧学校」という私塾に入れた。自国語の学習に遅れをとっていた彼に、国語を学ばせるためだった。こうした遠回りの末に、彼は10才になってようやく学習院予備科3級に入学するのである。生まれつき内向的だった武郎は、新しい環境に投げ入れられるたびに、「場」の要求に従うため必死になった。
他人に強く言われると、自分を捨ててまで、相手の意に従ってしまう武郎の性癖は、この頃に養われたものと思われる。
学習院に入学してからも、父は「峻酷な方針」をいささかも弛めず、武郎を寄宿舎に入れてしまった。集団生活の中で長男のひ弱な性格を叩き直そうとしたのである。だが、寄宿舎には男色の風習がはびこっていたから、眉目秀麗な武郎はたちまち上級生の餌食になる。彼は学習院を出てからも、男色の被害者になっている。
自分を捨ててまで、環境の規範に従うことに慣らされた武郎は、学習院でも模範的な生徒になった。彼が学習院に転入した翌年に、早くも皇太子時代の大正天皇の学友に選ばれたのもこのためだった。武郎は毎週土曜日に皇太子の住む吹上御苑に伺候し、1才年下の皇太子の相手(主として遊び相手)をしている。
絵に描いてような模範生だった武郎も、中等部の2,3年生頃に反逆の気配をちらりと示すようになった。周囲の期待に応えることだけを願っていた彼が、隠されていた堕落願望をかいま見せたのである。これには、彼が中年の未亡人に激しく挑まれたという事件も関係しているかも知れない。
中等部に進んだある日、武郎は横浜に住む旧友を訪ねていってこの「女難」にあうのだが、相手の女性は友人の母親だったと思われる。彼は危うく危機を逃れたけれども、有島武郎の死後間もなく有島の評伝を書いた井東憲は、「この性的な一事件は、青春期に向かう彼に、非常に悪い色々な影響を与えた」と書いている。
武郎は、この時期の自身について、こう分析する。
余が十四五歳の頃、少しは級中に頭角を顕し居りしを以て、何のかんのとおだてられしより、乃公の念勃々として起こり、高慢自ら許して漫りに他人を蔑視せるより、遂に高慢はひくつとなり、卑屈は無頼となりて、悪少年に拉せられて其の伍に入り、冗費を用いて衣服をかざり、煙草を喫し、得々として力足らざるものを圧制して得たりとなせし・・・・
この頃から健康面でも異常を生じ、チブス、肺炎、脚気、心臓病を次々に病んでいるから、武郎は心身共にピンチに立っていたのである。彼は当時の自分が、「文学書を耽読し、汚い空想に耽り、良友に青山原に連れ去られて激しい忠告を与えられた」りしていたと語り、「善良の少年と不良少年との間に自分の位置を定めかねていた。若し羞恥の念さえなかったら、自分は恐らく後者に属しているだろう」とも書いている。
一度は堕落の方向に傾きかけた有島武郎は、体調が戻ると再び模範生に戻り、級友の多くが高等部を経て東京帝大や京都帝大への進学を目指しているときに、札幌農学校に入ることを決断するのだ。
その頃の札幌は市街地建設が始まって20数年たったばかりで、戸数5000、人口3万余の新開地だったことを銘記しなければならない。東京から見れば、札幌は寒々とした過疎地のようなところだったのである。
武郎は父からの圧力と、息が詰まるような特権階級の生活から逃避する場として、北海道の新開地を選んだのだった。父母の要求、皇太子の学友としての生活が求める行動規範に出来るだけ誠実に応えようとして来た武郎は、その必要もない責任を自分から背負い込んで苦しんだり、他者の不幸を黙ってみていることが出来ず、それに引きずられて自分も悲嘆の底に沈むような傷つきやすい性格になっていた。彼はそんな自分にやりきれなくなって、誰も知る者のいない新天地を求めたのである。
彼にとって、生きるということは苦しむことだった。こういう人間にとって現実から脱出するための最終手段は、自死しかあり得ない。有島武郎は、霊肉の二元対立に苦しんだ作家ということになっている。もし彼が二元的世界に苦しんでいたとしたら、それは霊と肉、精神と情熱の対立に苦しんだのではなく、生と死の狭間で苦しんだのである。
武郎の父が、大事な長男の北海道行きを許したのは、札幌農学校教授として新渡戸稲造がいたからだった。新渡戸は武郎の母と同郷で、共に盛岡藩士の家に生まれていた。加えて、武郎の両親は新渡戸の養父を媒酌人にして結婚している。武郎の父は、親戚同様の新渡戸の家に長男を預ければ、安心できると思ったのだ。
19才になった有島武郎は、明治29年の9月に札幌に到着し、新渡戸稲造の官舎に落ち着いた。そして新渡戸の尽力で札幌農学校の予科5年に編入を許され、新渡戸宅から学校に通うことになった。新渡戸の妻はアメリカ人だったが、武郎を大変に愛してくれた。武郎について書かれた大抵の本は、彼が新渡戸夫人から「殊寵」を受けたと記している。
武郎にとって札幌での最大の事件は、森本厚吉と親しくなったことだった。
札幌農学校の学生たちの目には、学習院から転入してきた武郎はひどく垢抜けた存在に映り、あえ彼に近づいてくる者はなかった。それで、最初の一年間はこれといって親しい友人もなく、彼は一年上級の伊藤清蔵をあこがれの目で見ていただけだった。伊藤は学年で首席の成績を収めている秀才だったが、いささかも驕るところがなかった。武郎は伊藤を見かけるたびに、「何トハナキ恭謙ノ貴容ニ打タレ唯慕ワシキ心地」になっている。
そんなところに、森本厚吉が積極的に近づいてきたのだ。森本厚吉も武郎が入学する一年前に予科4年へ編入された転校生であり、境遇に似たところがあったから武郎に親しみを感じていたのだが、彼が武郎にひかれた本当の理由は別の所にあった。クリスチャンだった森本は、武郎が求道の志に燃えて禅寺に通っていることに惹かれ、そして又武郎が貴公子のような端麗な容姿をしている点に惹かれたのだった。
森本厚吉は、武郎の尊敬している伊藤清蔵とは反対の学生だった。森本は、成績が学年で最下位だった癖に、傲然と周囲を睥睨していた。武郎から見れば、彼は、「偏癖なる一驕児」と呼ぶしかない男だった。しかし、森本厚吉が、「以前から君に目をつけていた」と武郎に告白し、強く交際を迫ると、武郎は結局相手を受け入れてしまうのである。
札幌農学校に転入して一年がたち、二人が本科に進んだある日のこと、武郎は森本厚吉に誘われて農場の糧秣小屋に忍び込んだ。二人が牧草の上に寝て話し合っているうちに、突然、森本厚吉は姿勢を正して切り出した。有島日記によれば、森本はまず、「我、今君に襟を正しうして乞わんと欲するものあり」と断ってから、次のように訴えたのだ。
自分はキリスト教に入信し、かねて神のあかしを得ようと努力してきたが、いまだに神に一歩も近づけないでいる。今や、身も心も疲れ切ってしまった。だが、同情を表してくれる友だちもいない。
自分は以前から君に眼をつけ期待していた。君にもし一片の真心があるならば、どうか自分と手を携えて真理探求に向かって進むと約束をしてくれないか。
森本があまりにも思い詰めた表情をして懇願するので、それに気押されるような形で武郎は彼と共に宗教的真理の探究に邁進することを約束する。そして、二人は「真理探究盟約」なる物々しい契約を結び、一致して行動することを誓い合った。
森本は自らの信仰に動揺を感じながら、武郎にキリスト教への入信を強要し、武郎は訳が分からないままに盟約を結んで真理探究に乗り出す。当人たちが真面目になればなるほど、事はいよいよ喜劇的様相を呈し、彼等の交友は児戯に類するものになって行くのである。
例えば、明治31年3月の有島日記に、次のような記述がある。
此日ハ余ニトリテ実に記念スベキ日ナリ
なぜ記念すべき日であるかといえば、森本厚吉に「一大秘密」を告白されたからだった。では、その秘密とは何か。
森本の説明によれば、彼は神の存在を確信して、「日々夜々煩苦心労」してきたけれども、いまだに「神の音容」に接することが出来ない。そのために、銃を取って自殺したくなるほど苦しんでいる。今となっては、方法は一つしかない。学校を退学して、神の音容に接することだけを目的にした生活をはじめることが、それだ。それでも神を見ることが出来ないなら、いさぎよく死ぬしかない・・・・。
聖書には、「いまだかつて、神を見た者はいない」という言葉がある。森本厚吉は、その神と生身の人間に接するように対面したいというのだ。こんなロマンティックな夢を実現できないといって悩む森本も森本なら、それを聞いて衝撃を受け、「今日は実に記念すべき日なり」と日記に書き付ける武郎も武郎である。
しかし、こんな稚気に充ちた交友を続けながら、森本と武郎の閉鎖的な友情は日に日に深くなって行った。森本と武郎は、たえず行動を共にするようになった。二人は最早クラスの親睦会に顔を出すことをしないで、豊平川、丸山というような人のいない場所を選んで歩き回り、札幌近郊の軽川に出かけ、そこの宿屋に二人だけで6日間泊まりこむこともあった。 
 2
森本厚吉は、東京にいた頃、ミッションスクール東洋英和学校に学んでキリスト教の洗礼を受けていた。彼は、すべての欲望を捨てない限り神に近づくことは出来ないという内村鑑三に心酔して精進を続けたが、どうしても性的欲求を押さえることが出来なかった。内村鑑三はまた、キリスト教徒は罪の意識を通じて神につながることが出来るとも説いていた。この点でも、森本は、原罪意識の希薄な自分に絶望していた。
森本と武郎の間の閉鎖的な関係が一年近く続くうちに、二人の交友は次第に危機的な様相を呈し始める。罪の意識を喚起しようと努めていた森本が、実際に「罪人(つみびと)」意識にとらわれ、食欲不振と睡眠不足のため、やせ衰えるようになったのだ。
武郎が心配して親友を力づけようとすると、森本は武郎を自分と同じ罪人意識に追い込もうとして、武郎の生き方の生ぬるさを責めたてる。
その年の暮れに、冬休みを利用して、二人は札幌近郊の定山渓という温泉場に泊まりこんだ。徹底的に罪の問題を突き詰めるためだった。明治31年12月29日、夜を徹した討論の末に、それまで躊躇していた武郎は、遂にキリスト教への入信を決意し、森本の祈祷に唱和して祈りの言葉を発するようになる。その夜、武郎を、「落とした」ことに興奮した森本は、武郎を強要して身体の関係にまで突き進んでしまうのである。
12月30日の武郎の日記。
・・・・・余は其時の出来事を日記に載するを厭うなり。嗚呼若し余にして平生毅然たる丈夫の心あらしめば、森本君をしてかかる挙動に出でしむる事は夢之なかりしなり。・・・・悲しきものは、悪に誘われ易き人の心かな。
男色関係に陥った翌日、武郎はショックのためか、一日中涙ぐんでいた。関係は年を越えて翌年にも続けられた。明治32年1月5日の有島日記。
余は昨夜又大いなる過失に陥りぬ。余の兄弟が毎夜の如く或る好ましからざる情にからるるを見て、余は屡々之に忠告して大いに制限するところありたり。
二人の関係は札幌に戻ってからも続き、武郎は森本との関係に苦しんで自殺を考えるようになる。
森本の方も苦悩していた。彼の苦悩は、相変わらずどうしても「神の音容」に接し得ない自分の無力に向けられ、絶望のあまり彼は強度なノイローゼの徴候を示し始めた。そして、彼は「思想的総崩れ」の状態になり、「神の存在を否定しない代わりに、その実在を肯定も出来ず、心は地獄をさまよう」までになってしまった。
悶々としている森本を見て、武郎は自分が自殺することで彼を救うことが出来るのではないかと考えるようになる。その辺のいきさつを安川定男は次のように説明している。
(武郎は)森本を救う道は自分が真に神を知ることができ、神からわき出る愛を分かってやる以外にないと考えた。しかしそうすべき自分は、薄志弱行に加うるに、むらがり起こる悪念を断つこともできない愚物に過ぎない。こんな絶望的な自分などは死んだ方がましである。
しかし「人の将に死なんとするや、その声やよし」という諺がある。だから自分が死を決心し、同時に死を前に真剣に考えたならば、神の存在を心の中に感得することができるかもしれない。そうなればこれを遺品として森本に捧げよう。それによって有為多望な森本を絶望から救い、真理の道に進ませることができれば、自分は無駄死にどころか大義のために犠牲になったことになる。
またそれでも神の存在が否定されたとするなら、この世は暗黒で生きながらえる価値はない。いずれにしても死を決意する以外にない。
自殺を決意した武郎は、遺書代わりに自らの心境を日記に書き記している。栗田広美はこの日記を俎上に、武郎の自殺企図は次の六つの内容から成り立っていると分析する。
1,自分が神を知れば森本を救えるかもしれない。
2,だが、自分は神を知らぬので、何も出来ない。
3,もともと自分の存在価値は疑問だ。
4,ならば、死を前提に考えてみよう。
5,死ぬ際に神を知れば、森本への遺品としよう。
6,それでも神を知ることが出来なければ、死ぬのはさらに当然だ。
親友の身をいかに案じたからとはいえ、これほど途方もない考え方があるだろうか。「愚物」を自称する武郎が、死を決意したところで、簡単に神を感得できるはずはない。仮に神を把握したとしても、どうしてその内容を正しく森本に伝えることが出来るというのか。
武郎は俗説を念頭に、息絶える直前に彷彿として真理が見えてくるのではないかという幻想にとりつかれ、すべてを一発勝負に賭けたのだ。誰もが考え及ばないこうした計画を武郎が実行しようとしたのは、彼の意識の底に自死願望が潜んでいたからだった。
そのことは、栗田広美が要約した日記の、「4」と「6」を見れば、明らかだろう。武郎の意識は、何かと言えば死に吸い寄せられ、困難な問題に逢着するたびに死によって決着しようとする志向が強いのである。
武郎は2月17日の日記に自殺する決意を書き記した。その翌日に友人から鉄砲(猟銃と思われる)を借り受けて森本を訪ねた。森本は話を聞いて、「君を犠牲にして自分だけ生き残ることはできない」と反対し、「それより自分がまず死ぬから、君は残って僕の分までやってくれ」という。「自分が死ぬ」「いや、僕が死ぬ」と言い争っているうちに、何時しか二人は一緒に死のうと言うことで合意していた。心中する場所を思い出深い定山渓にすることも自然に決った。
次の日、朝に出発することになっていたが、森本が札幌病院へ診察を受けに出かけたために遅刻し、出発は午後になった。これから自殺しようとする人間が、受診のため病院に出かけたのである。すでに、この時点で森本は死ぬ気持ちを翻していたのである。
二人は大雪を踏み越えて定山渓に夜に到着した。温泉宿の薄汚れた部屋に落ち着くと、森本は銃が一挺しかないことを問題にし始めた。そして、「事情を書き留めて後世にに残そうではないか」と提案したため、その夜は自炊の食事を済ませ、さっさと寝てしまっている。狩猟が好きだった森本は、学生の身でレミントン12号の猟銃を持っていたにもかかわらず、当日これを持参しなかったのだ。
土壇場になって森本が躊躇しているのを見て、武郎の心にも迷いが生じた。翌日、彼は、「もう一度やり直してみようではないか」と説いて、森本の同意を得た。ところが、その次の日になると、森本が「やはり自殺しよう」と言いだし、武郎も「おめおめと生きている訳にはいかない」と同調する。しかし結局、再度、自殺を取りやめてしまう。
こうして最終的に二人は自殺を中止したが、自分を単なる臆病者としないためには、わが身に過大な任務と義務を負わせる必要があった。武郎は森本の同意を得た上で、次のようなことを誓い合い、その内容を日記に記した。
・・・・・我等は先ず世と相去り専心神を求め又我が良心を赤裸々と為すに必要なる知識を得るに努め、後初めて世と相接して何処までも世と相闘わざるべからず。・・・・・然らば我等が今為すべき事は世と絶つにあり。
自殺を中止して、すっかり気楽になった二人は、定山渓からの帰途、持参した猟銃で小鳥を撃っている。有島日記には、その年の末に二人して登別に出かけ、小鳥打ちをして三、四羽の獲物を得たという記事もある。
森本厚吉は、武郎と肉体関係を持ち、心中の一歩手前まで行ったことで、いよいよ武郎への要求を強めていった。抵抗する力を失った武郎は、森本のいいなりになるしかなかった。森本は、武郎がキリスト教信仰から退転することを防ぐために、実家の両親に宛ててキリスト教徒になったことを宣言する手紙を書かせ、自分の添書と共にポストに投函させている。
さらに彼は武郎を旧友たちから切り離し完全に独占するために、昔の友人たちへの絶交状を書かせた。それで武郎は、学習院時代の無二の親友増田英一にも絶交の手紙を書かねばならなかった。
武郎の手紙は両親を激怒させ、武郎を愛していた祖母を深く悲しませることになった。武郎の父は、添書を書いた森本にも怒りを爆発させ、「一面識もない他家の父親にむかって、あれこれ忠告するなど、思い上がりも甚だしいと伝えよ」と武郎に命じている。
祖母は間もなく重い病に臥すことになる。武郎のキリスト教入信を聞かされて、二日間、部屋にとじこもり、飲まず食わずで悲しんだ祖母は、見舞いに駆けつけた武郎に告げた。「生きているうちはお前を改めさせることも出来まいが、死んだらきっと改めさせてみせるよ」と。彼女は篤信の仏教徒で、札幌に移った武郎が禅寺に通ったのも祖母に勧められたからだった。
森本は、武郎に対して横暴な恋人のように振る舞い始める。
森本は病気になっても見舞いに来なかった武郎を激しく責めた。その時の森本厚吉の言葉を武郎は日記に、「病中嘗て見舞だに来たらざりしを責めて声涙共に下る」と記している。武郎は平謝りに謝るしかなかった。
だが、森本厚吉との関係は、武郎の入信によって次第に変わって行くのである。 
 3
これまで森本厚吉と二人だけで行動し、彼からキリスト教への入信を強要されていた有島武郎は、入信によって、森本と二人だけの息の詰まるような世界から抜け出て、より広い世界に浮上することが出来た。武郎は、まず、内村鑑三を指導者とする札幌独立教会に加入して、森本以外の多くの信者たちと交わることになったのである。そして、従来から関係していた遠友夜学校での活動に一層熱力を入れるようになった。遠友夜学校は、新渡戸稲造の米国人妻が私財を投じて創立した未就学者のための私塾的学校であった。
教会の日曜学校や遠友夜学校の教壇に立った武郎は、直ぐに生徒や父母たちの尊敬を集めた。教会の仲間たちからも一目置かれ、彼はいつの間にか学生グループのまとめ役になっていた。たびたび札幌を訪れていた内村鑑三も、武郎の人柄を見込んで彼を将来の自分の後継者と目するようになった。武郎は、自分が周囲から敬重される存在になったのは、何か優れたところがあるからではなく、平均的な人間である自分に取り立てて欠点がなかったからだろうと解説している。
僕の人物は感心によく平均されて出来てゐる。智能も感能も誠によく揃って出来てゐる。容貌も体格も実によく釣り合って出来てゐる。而してその総てが十人並みに。
そこで僕は幼年時代にはさるやむごとなきお方のお学友と云ふものに選ばれた。中学校を卒業して或る田舎の学校に行く時、僕等の畏敬した友人は僕に「送〇〇君序」を書いて 「君資性穏厚篤実」とやった。大学では友人が僕に話しかける時は大抵改まつた敬語をつかった、──君はあまり円満だから同輩のやうな気がしないと云って。
教会に出入する頃は日曜学校の教師にされた。教員をすると校長附主事と云ふ三太夫の役を仰附かった。(「平凡人の手紙」)
有島武郎が周囲の尊敬を集めるようになると、森本厚吉との関係も変化しはじめる。それまでの武郎は、森本の従順な弟子という関係にあり、入信後の有島日記には、森本に対する愛慕の情といってもいいような書き込みすらしていたのだった。
忠愛ナル森本兄ハ我ヲ抱イテ我ガ身既ニ潔マレリト云イクレヌ。我ハ之レヲ力(ちから)ニ進ミ行カン。嗚呼野モ来タレ山モ来タレ、我ハ悪魔ト戦フテ、戦イ休メル時ハ森本兄ノ懐ニ入リテ共ニ神ノ膝下ニ息ハンノミ。
・・・・・森本兄ト神トアリ。余又他ニ何ノ要スル処ゾ。
二人だけの関係では、森本の下位にあった武郎が、教会の集まりに顔を出すと、我の強い森本は敬遠され、武郎が皆に選ばれてリーダーの地位につくのである。こうしたことが続けば、武郎の内部で森本の存在が次第に軽くなって行くのはやむを得ないことだった。
明治33年11月には、武郎はカーライルの「衣装哲学」研究会を立ち上げるが、この会には森本のほかに木村徳蔵・足助素一・末光績・河内完治が参加している。武郎はこのメンバーと共に思い出深い定山渓に出かけ、集団で新年を迎えている。森本厚吉との閉鎖的な交友関係がほぼ終わったことを象徴するような出来事だった。
実際、森本と武郎の立場は、逆転していた。二人の周辺に集まってくる同輩・後輩が指導を仰ぐのは、森本ではなくて武郎の方だった。武郎は、足助素一たちから信仰上の悩みを打ち明けられるだけでなく、個人的な人生問題についても助言を求められるようになった。
有島武郎は、彼を敬愛する多くの人々に囲まれながら札幌農学校を卒業した。そして、東京に戻って麻生歩兵第三連隊に入隊する。五年間の札幌生活で心身共に健康になっていた武郎は、徴兵義務を逃れることが出来ないのなら、一年志願兵になって兵役を短期間で終えようと思ったのである。入隊後の彼は、大学卒業者に与えられた特典によって見習士官になった。
彼が属した部隊の中隊長は老功な大尉だったが、熱心な法華宗信者で、武郎がキリスト教信者であるのを知ると、機会あるどとに彼を側に呼んで宗教上の議論をしかけた。武郎も負けてはいなかった。
行軍などの時、隊の先頭に二人並んで小むずかしい議論を大声でやりながら歩くのを、他の兵隊たちが怪訝な顔をして見る時もあった。彼はこの中隊長の議論から特別の影響は受けなかったが、軍人の間にもこれだけ虚心に、はるかに年下の者と意見を戦わそうとする人もあるのかと、好感を抱いた(「有島武郎」安川定男)
武郎の体験した軍隊生活は、他の入隊者のそれよりはるかに恵まれたものだったが、日露戦争を一年半後に控えた兵営の日常は、彼の国家観を変えてしまうほどの不快な印象を残した。キリスト教に入信してから、彼は世の中を悪魔に支配されている汚濁の世界と見るようになっていた。しかし、こうした見方は実体験に基づくものではなく、無信仰の社会と縁を切るために人為的に頭の中で形成されたものだった。
軍隊生活を体験した武郎は、無信仰の社会を漠然と否定するといった従来の立場から一歩も二歩も踏み出して、日本社会の内実そのものを否定するようになったのである。
除隊後の武郎は、反軍・反国家の思想を鮮明にする日記を書いている。
我国家を何に譬へんや。糞桶の蓋の如し。・・・・・又我国家を何に譬へんや。白く塗りたる墓の如し。我等その外を見て荘厳と威厳とに打たれ、これを発(あば)きて唯白骨と死灰と不浄とを見る。
国家を糞桶を覆い隠す蓋にたとえるという猛烈な日記を書いた武郎は、「国家とは何ぞや」という文章を書いている。虚栄心と利己心によって成立した国家なるものは、いまもなお恐怖すべき鞭を具えている。国家が一度その気になれば、家族や友人に愛され、心に神を有する人類は、まるで刈り取られた稲のように死の淵に投げ込まれる、と述べた後で、国家を「悪魔」と呼ぶのだ。
人ト人ト相争フ、世ハ之ヲ責ム。・・・・・国家ト国家ト相争フ、世ハ謹ンデ沈黙ヲ守ル。何ノ権威国家ニアレバヨク此ノ如クナルヲ得ルヤ。退キ去レ悪魔!
武郎は考える──殺人を何よりも美徳とする軍隊が存立するのは、その背後に黒幕として国家があるからだ。国家は「無」として意識され、その真実の姿は国民の目に映ってこない。けれども、人々の忌み嫌う軍隊を軍隊たらしめているのは国家なのである。
実家に戻った武郎のところには、皇太子の補導役にならないかとか、有力政治家の秘書にならないかという勧誘があったけれども、彼はそれらを謝絶して渡米の準備にとりかかった。だが、渡米を実現するまでに10ヶ月近い時間がかかっている。武郎はこの間に多くの世事を体験しなければならなかった。
彼は父に命じられて、自家の邸宅を増築する仕事、月末ごとの家計費決済、、島津公爵家との社交、園遊会への出席、狩太農場の収支計算など処理した。武郎の父は、彼に長男として果たさなければならない義務と仕事を教え込んだのである。
有島武郎は渡米の二ヶ月前に、父に指示されて北海道の狩太農場を視察している。この農場は父が薩摩閥出身者であることを利用して国から払い下げを受けたもので、135万坪の広さを持っていた。もともと、これは武郎が札幌農学校に在学中に、父が息子の将来を思って取得したものだったから、武郎としても軽く見ることは出来なかったのだ。
だが、彼は自分の前に平身低頭する管理人や小作人を見て、暗然とする。彼は日記に、「余は彼等の丁寧に余に礼するを見て殆ど逃げんとするに至りぬ」と書いている。農場に関する事務は帰京してからも続き、彼は、「余は殆ど嘔吐を以てこれに対す」と記している。
こうした雑務のほかに、渡米前の武郎は初めての恋愛も体験した。相手の河野信子は、新渡戸稲造の姉の娘だから、新渡戸にとっては姪になる。武郎は、旧知の仲だった信子の母が四谷の病院に入院したと聞いて、見舞いに通い看病につとめた。無論、信子も母親を看病していたから、二人は介護の仕事を通して親しくなったのである。
武郎は自分が信子を愛していること、そして信子の方でも自分を愛していることを知りながら、それ以上に関係を深めようとはしなかった。
願わくは余の心に彼女を忘れしめ給え。彼女の心に余を忘れしめ給え。彼女に祝福あれ。彼女によき夫あれ。・・・・・余は彼女を愛せず。彼女は依然として余の愛らしき妹なり。愚者よ何の涙ぞ
武郎は宗教的生活に専念するために、信子に対する愛を断念しながらも、人知れず熱い涙を流している。だが、信子との関係はこれで終わったのではなかった。
約4年に及ぶ留学を終えて日本に帰ってきた武郎は、河野信子がまだ独身でいることを知って驚いた。美貌の彼女には降るほどの縁談があったが、信子はそれらを皆断って独身を守って来たのである。信子は二人だけになったある日、武郎に対して愛を打ち明ける。このときも、武郎は彼女の申し出を断ってしまうのだ。武郎はこの間の事情について、ヨーロッパの女友達に手紙を書いている。
私が米国へ行く前の知己に一人の少女がありました。其の人は随分気の毒な身分だったので、私は心から同情を捧げていました。年も若く、また無邪気な人でした。
私はその少女を自分の愛する妹のように思っていたのでした。今度帰国して見るとその人はもう一人前の若い婦人となって、人柄も確かりとし、文学の知識も相当に心得ていました。
(彼女には)方々から縁談の申込もあったのですが、不思議な事には、もっと勉強したいという口実の下に、皆断って終いました。或日のこと、偶々私と二人で腹蔵のない話の折柄、もしやと危んでいたことながら、私にその意中を打ち明けてくれました。然し私はそれを断ったのです。
武郎に拒否された信子は、見も知らぬ男性と婚約する。すると、それを知ってか知らずか、武郎は両親に向かって信子と結婚したいと言い出すのである。だが、父は、許さなかった。信子の実家が、有島家の家格に相応しくないという理由からだった。
武郎が自分との結婚を望んでいることを伝え聞いた信子は激しく動揺し、男性との婚約を破棄しようとした。武郎がこの時点で自分の意志を押し通せば、確実に信子と結ばれたのである。だが、結局彼は父に屈服し、信子との結婚を諦めてしまう。武郎のハッキリしない態度によって問題はこじれ、信子は深く傷つくことになった。
信子を傷つけたことに自責を感じた武郎は、逃げるように東北帝国大学農科大学に昇格した母校札幌農学校の教師になって赴任する。その3ヶ月後に信子が結婚したというニュースが届くのだ。すると、彼は授業も何も手につかなくなり、あたふたと小樽付近の赤岩温泉にこもって、苦悶の数日間を過ごすのである。そして、痛恨の思いを込めて、「我は未だ此の如く愛したることなく、此の如く愛されたることなし」と日記にしたためるのだ。
本多秋五は、こういう有島武郎について、「本心がどこにあるのかはっきりしない」人間だと評している。
彼は、心のなかのあちらの極とこちらの極との間をたえず揺れ動く、動揺常なき人物であった。男性的な決断というものがなく、「超自然に愚図」といわれても仕方のない人物であった。
センチメンタルな空想に涙ぐむ男でもあった。そういう自分を、自分には確乎たる自我がないと切歯し、自我を確立せねば、と焦慮しながら、つねに自分に裏切られていた。彼のなかには、どうすることもできない深い不調和があった。
武郎の優柔不断は、彼の動揺する信仰から来ていた。彼は滞米中にキリスト教に疑問を感じ、半ば棄教していたにもかかわらず、こと性の問題に関する限り確たる態度を打ち出せないでいたのだ。彼は、ホイットマンの影響を受けて本能的欲求を肯定しながら、依然としてピュリタン風の禁欲主義に縛られていたのである。 
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米国留学の話が持ち上がったのは、武郎の除隊後一ヶ月ほどして森本厚吉と顔を合わせたときだった。札幌農学校卒業というだけでは、大学の教師になるには実績が不十分だったし、教会の牧師になって人々を導こうと思っても、肝心の信仰そのものがまだ未熟だった。二人とも研究の面でも信仰の面でも、もう一段の研鑽を必要としていたから留学することで意見が一致したのである。特に武郎は、両親の圧力から逃れるためにも、父の支配の及ばない外国に逃避する必要に迫られていた。
武郎と森本は、まず、内村鑑三に会って意見を求めた。しかし内村は二人の留学には反対だった。次に新渡戸稲造に相談すると、彼は留学に賛成し、武郎にはハバフォード大学、森本にはコーネル大学を推薦してくれた。これで留学の件は確定し、武郎は父の指示に従って家事を処理しながら、英会話を学ぶために新渡戸夫人のもとに通うことになったのである。
明治36年9月、武郎は森本厚吉とともにアメリカに向けて旅立った。
アメリカに到着し、森本と別れた武郎はハバフォード大学の寄宿舎に入り、大学院の学生としての生活を開始する。彼は与えられた個室にこもって猛烈に勉強し、一年後には卒業論文を提出して、マスター・オブ・アーツの学位を得ている。日本人が在学僅か一年でこの学位を獲得する例は、ほとんどなかった。
同じ大学にアーサー・クロオウエルという学生がいた。彼は、遠いアジアからやって来て、脇目もふらずに勉強する日本人学生に関心を抱き、感謝祭の休暇を自分の家で過ごさないかと武郎を誘ってくれた。アーサーはフィラデルフィア近郊にある農場の息子で、兄弟姉妹が7人もいた。
アーサー一家は武郎を歓待してくれた。農場で一番楽しかったのは、ファニーと呼ばれる13才の少女と、ベビーと呼ばれる6才の少女の手を引いて晩秋の田舎道を散歩することだった。武郎はファニーに魅入られ、「ああファニー、余が生の清き導者」「ファニーの思出は余に生命を与う・・・・彼女は実に余を不純より遠からしむる天使なり」と日記に記した。ハヴァフォード大学の大学院を出た後も、武郎はファニーを忘れることが出来ず、アーサーの農場を訪ねて三週間を過ごしている。
武郎は、もう一勉強しようと考えて、ハーヴァート大学の選科に入学する計画を立てた。そのために少しでも留学費を自力で稼せごうと、彼は精神病院の看護人になった。野卑で粗暴な看護人たちは、病院を「虫の巣」と名付け、患者を「虫けら」と呼び、患者の顔を平手で殴ったりしていた。そんな中で武郎は、仲間から「ジャップ」と蔑まれながら、彼等が押しつけてくる仕事を黙って引き受け、誠実に義務を果たしていった。
看護人をしている間に、武郎は15才の少女リリーに対する愛を育てている。
病院の事務長の娘リリーを見たときの印象を彼は、「余の眼は直ちに彼女の面となよなかなる身に注がれぬ。美しき乙女なり。齢十五なる可し。余の心は躍りぬ」と記し、「余はさながら恋にある若人の如し」と書いている。有島武郎の少女病が始まったのである。「迷路」には、「病的と云いたいほど童女に対して執着の強い僕」と告白した一節がある。武郎が毎朝のようにリリーのために百合の花をその戸口に置いていたことは、日記にも、そしてまた滞米中の彼自身を素材にした小説「迷路」にも描かれている。
武郎の少女偏愛病には、理解しがたい面がある。彼は31才で結婚するまで童貞を守っている。成人の女性に対して信仰から来る禁忌が働くため、彼は少女を愛することで代償的な満足を得ようとしていたという推測もなりたつ。アメリカの少女には、少女であると同時に女を感じさせる二重性があるからだ。
しかし、彼は日本に帰ってからも、現代ならスキャンダルになりかねないようなことをしているのである。帰国後、狩太農場に視察に出かけた時の日記に、こんな記事があるのだ。
・・・・・狩太行きの汽車に乗り遅れ、停車場の傍の宿屋で十二時まで待たなくてはならなかった。その宿屋には十五歳位の少女がいた。余はその少女を大変に可愛いいと思い、遂に彼女を捕らえて、接吻した。
彼女は余に抗う所か、明かに余にすがって来た。自由な自然児となって、彼女にしたいだけのことが出来たらどんなにいいだろう。ああ!余は何と云う変な訳のわからぬ者であろう。
精神病院で過ごした二ヶ月間に、有島武郎はキリスト教に疑問を感じるようになった。
軍隊生活を通して反軍思想を身につけた彼は、日露戦争が始まったときトルストイの発表した反戦論を、強い感激をもって読んだ。ところが、欧米のキリスト教徒はトルストイに嘲笑を浴びせるだけで、その主張に同感するものは僅かしかいなかった。それにアメリカ人は日露戦争を闘犬か何かを見物するように、おもしろがって見ていた。彼等には戦場の悲惨を傷む気持ちが一片もないように見えた。
精神病院で武郎が担当した患者の運命も、キリスト教への疑念をかき立てた。その患者はスコットという博士号を持った開業医で、彼には農場経営に失敗して苦しんでいる弟がいた。博士が弟のことを気にかけながら放置しているうちに、弟が自殺してしまったのである。自責の念に駆られている彼をさらに打ちのめしたのは、カルバン派の牧師の説く、「神に救済されるか否かは、生まれながらに決まっている」という救済予定説だった。(自分は神によって選ばれていない)という絶望に打ちのめされた彼は、やがて、「お前はカインと同じように永遠に呪われた霊魂だぞ」という悪魔の声をありありと聞くようになった。彼は発狂してしまったのである。
武郎は病院を辞めてから、新聞でスコット博士が自殺したという記事を読んだ。人を狂気に追い込み、自殺させる信仰とは何だろうか。この瞬間から、彼は離教に向かうコースを人知れず歩み始めたのである。
ハーヴアード大学に学ぶためにフィラデルフィアからボストンに移った武郎は、学資稼ぎの為にピーボディという弁護士の家に住み込んで家事を手伝うことになった。ピーボディ弁護士は、武郎がこれまでに見たことのないような不可思議な人物だった。彼には妻と二人の女の子がいたが、家族とは別居して一人暮らしをしており、時折、得体の知れない女を連れてきて一夜を明かしていた。
武郎がピーボディについて書いた文章がある。
彼れは四十恰好の弁護士で、妙に善い事と悪い事とをちやんぽんにやる男だった。家賃
だとか出入商人の月末払いとかは平気で踏み倒して置きながら、貧乏な人が訴訟沙汰で も起しに田舎から出て来ると、幾日でも家に逗留させておいて、費用も取らずに世話してやつたりした。
私はよく其の人と勝手な議論をした。彼れは亦私にホヰットマンを具体的に紹介してくれた一人だった。私は其の前からこの詩人に就いて多少聞かされてはゐたが、其の頃から始めてこの稀有な詩人に本当に親しむやうになった。
私は今でも彼れに二つの事で感謝しなければならぬ。一つはホヰットマンの紹介者として。一つは善行悪行の通俗的な見方から私を解放してくれた事に於て。彼れに接してから、人は善人とか悪人とかに片付けて見ないで、人として見るやうになつたから。(「リビングストン伝」序)
ピーボディは女を連れて帰宅しない夜は、夕食後、武郎とランプを隔てて向かい合って座り、書架から取り出したホイットマンの詩集を朗読した。それを聞いていると、武郎は決まって涙ぐんだ。
私は何時でも涙を溜めてでなくては聞くことが出来なかった。彼も涙を頬に伝わらせながら恥ずかしげもなく読み続けた。・・・・・何時でも彼がこの魔法のような本を閉じるときには、彼と私とは同じ人になっていた。ホヰットマンになっていた。(「リビングストン伝」序)
ホイットマンは、「ローファー」(放浪者)として生涯を過ごした詩人だった。小学校すら途中退学した彼は、教育らしい教育をほとんど受けず、新聞社の見習い植字工をしながら本を読む習慣を身につけた。やがて彼は宇宙万物は同根であるという思想を抱くようになる。これもその教養同様に自学自習で獲得した思想だった。
武郎はホイットマンの生き方や詩に接すると、砂漠の中でオアシスに出会ったような気がした。ホイットマンは、模範生として生きてきた彼の過去を裏返したような生き方をしていた。武郎は、「ローファーとは怠けもののことだ。約束の出来ない人間、誓うことをしない人間だ。主義と節度を所有しない人間だ」と注釈している。それにホイットマンの詩には、ピュリタン信仰に押しつぶされて窒息しそうになっていた武郎の心を解き放つ野放図な楽天性があった。
ホイットマンは、「私は万物であり、万物は私だ」と歌っている。
そして、彼はいう、「私は魂が肉体以上のものでないといった/そして私は云う、肉体も亦魂以上のものではないと」
彼は現在を肯定して、未来を夢見るようなことをしなかった。「今にまさった発端はどこにもありはしない/今に優って完全なものは将来にも来ないだろう/今のほかには天国も地獄もありはしない」
彼はキリスト教社会を風刺するこんな詩も作っている。
私は動物たらの仲間になっていっしょに暮すことができたらと思う。
動物たちはあんなに静かで満ち足りているのだ
私はたたずんで長い長い間、彼らを見まもる
彼らは自分の境遇にうめいたりこぼしたりしない
不満を持つものもなく、所有欲につかれて狂いまわるものもいない
他の者の前にひざまずくものも、数千年前に生きた同類に向って
ひざまずくものもいない
全地上のどこにも、身分のよいものも、不幸なものもいはしない
有島武郎は、これまで家庭にあっては穏和な長男、学校に行けば優等生・模範生として誰からも褒められ愛されてきた。彼は周囲の期待の応えるために、自分を殺し、外部規範に忠実に従って生きて来たのだ。
外圧を逃れて札幌農学校に移り、キリスト教に入信してからは、外部規範・社会規範を相対化することが出来た。だが、外部規範代わって彼の内部にキリスト教の禁欲的な倫理が入ってきて、やはり本来の自分を殺すことになった。武郎は文学に惹かれていたが、小説は霊と肉のうち肉と結びついたものだからという理由で、文学書を読むのを止めてしまった。
愛と謙遜を説くピュリタン倫理は、以前にも増して彼に自分を無にした生き方を強いるのだ。森本厚吉が見舞いに来てくれなかったといって武郎を、「声涙共に下る」勢いで難詰したとき、武郎はおのれの「無情」に罪悪感を抱き、「只一死以て君に謝するの外なし」と「泣いて君が居を辞し」、厳寒の神社に出かけ堂下に座り尽くして一夜を明かしている。彼は凍死してもいいと覚悟をきめ神社に赴いたのである。
こうした愚かしいまでに一生懸命な気持ちが、ホイットマンの詩に触れることで溶け失せて行ったのだ。彼は考えた──自分の本体はローファーであるのに、これまでの自分は本体にメッキをかぶせて義人・善人として振る舞っていた。札幌の定山渓で、森本と、「我等が今なすべき事は世と絶つにあり」と誓い合ったが、この世にあるものは人間も動物も植物もすべて一列平等の兄弟なのだ。これからは、全存在を受け入れ、肯定しなければならない。
これからは、自己の内的欲求のみに従って行動するローファーになるのだ。そして、万物と交歓し、焦らず、あわてず、ゆっくり生きていこう。神は急がないのに、人だけは何を苦しんであせり急ぐのだ。
総てを肯定した武郎は、死をも肯定した。
私は、はじめて生の喜びの如何なるものであるかを知った。生とは押しなべての人の言ひ草のやうに死の対照ではない。生の大きな海原から遁れ出得る如何なる泡沫があり得よう。
死──死も亦生に貢(みつ)ぎする一つの流れに過ぎないのだ。劫初から劫末に、人の耳には余りに高い音楽を奏でつゝ、滔々と流れ漂ふ生の海原は、今の私の眼の前にほのぼのと開け渡る。
総ての魂はこの海原にそびえ立つ五百重の波である。その美しさと勇ましさとを見ないか。この晴れやかな光に照らされると、死も亦美しい。ー人の保護女神だ。死を讃美しょう。
ホイットマンと接触する前後に、武郎は無政府主義とも接触している。彼はハーヴァート大学に聴講に来ていた社会主義者の金子喜一と知り合い、金子から社会主義や無政府主義に関する知識を与えられた。武郎は金子に誘われて社会主義の集会に顔を出し、金子が壇上で熱弁をふるうのを聞いた。社会主義の文献を読んでいるうちに、彼の関心はエンゲルスやカウッキーから、クロポトキンに移り、アナーキズムを支持するようになった。
ローファーとして、アナーキストとして生きることを考え始めた有島武郎は、アカデミックな学問に興味を失い、ハーヴァード大学に通うことも希になり、遂に在学9ヶ月で大学を止めてしまう。 
 5
アメリカ滞在の最後の一年間を、有島武郎はワシントンの国会図書館に通って読書に没頭している。これまで文学書を読むことをタブーにしてきた彼が、心機一転、欧米の小説を手当たり次第に借り出して読みはじめたのだ。この時の気分を、彼は「一種絶望的な気分」と表現したり、「破戒僧のような捨て鉢な心持ち」と表現したりしている。
文学に触れていると、信仰によって分散しバラバラになっていた自我が収斂され統一されるような気がした。
私は忽ちにして自分といふものが──是れまで外界の因縁の為めに四分五裂してゐた自分といふものが寄せ集められて自分に帰って来るものを感じ出した。芸術に対する私の観念が見る見る変って来た。
神の信仰の中に見出し得なかった本当の自分の姿を人間らしく文豪の作物の中に見出すのを知った。殊にトルストイは私に真実な人間性とその生活を啓示してくれた。(「リビングストン伝」序)
武郎は自分の未来が見えて来たように思った。彼は、「一人の文学愛好家として、教員でもして一生を過ごそう」と考えはじめた。
約3年の留学期間を終えた武郎は、絵画修練のためにイタリアに留学している弟の生馬と合流してヨーロッパ旅行に出発している。ほぼ一年間に及ぶ旅を済ませて日本に戻ってきたときには、武郎は29才になっていた。彼の修業時代は終わったのである。思えば長い青春だった。
大人になるには、何か職業を持ち、結婚しなければならない。
武郎が両親から結婚の話を次々に持ち出されたのは、帰国後、予備士官として麻生3連隊に3ヶ月間入隊していた頃だった。彼は前に述べたように、見も知らぬ娘と結婚するくらいならと、河野信子と結婚したいと両親に申し出た。彼は、暫く前に信子の求愛を断ったばかりだったにもかかわらず、その信子と結婚したいと言い出したのである。
だが、武郎は両親の反対にあうと、簡単に信子のことを諦め、逃げるように札幌に赴任した。折よく、母校の東北大農科部から教員として招聘されていたのである。札幌には、一足早く帰朝した森本厚吉が同じ母校の教授になっていた。森本は昔のことは全部忘れたような顔で妻帯し、現状にすっかり満足している風だった。
武郎は札幌に着任直後、しばらく森本の家に厄介になっている。武郎には森本が、「心の奥底では、全勢力を世俗的幸福に向けたいと願っている」かのように見えた。彼が森本に信仰の問題、人生の問題を話題として持ち出しても、相手は取り合おうとしないばかりか、「あまり考えすぎてはいけない」などと訓戒がましいことを言うのである。河野信子のことで苦しんだ武郎が、ピストルを買ったと打ち明け、それとなく自殺を匂わせても、森本は知らん顔をして聞き流すだけだった。すっかり俗物になった森本は、いまだに求道的な姿勢を崩さない武郎を心の中で哀れんでいるのである。
武郎は森本の妻にも失望した。彼は夫人の日常を眺めながら、英文で女性というものは、獣的で、虚栄と依頼心の結晶のようで、忌まわしい存在だと書いている。
武郎の父は、息子と同期の森本厚吉が大学本科の教授になっているのに、武郎が予科の講師に過ぎないことに不満を持っていた。だが、父は知らなかったが、予科講師としての武郎は、至る所で人々の尊敬を集めていたのである。
学長主事になった彼は徳育面で学長を補佐することになり、講堂に学生たちを集めて定期的に講話をしていた。講堂は学生で何時も満員になり、その講話はすこぶる好評だった。彼はまた、学生・教員の有志からなる「社会主義研究会」を結成して、そのリーダーになった。と思うと、新渡戸夫人が創設した遠友夜学校の校長にもなっている。武郎の行くところ、何処でも、彼は周囲から推されて集団の中心人物になるのだ。
しかし、何処に行っても周囲から敬重されるという、そのことが武郎に苦い思いをさせた。彼はアメリカで棄教しているのに、依然として札幌独立教会の有力会員として留まっていた。一歩大学を出れば篤信のクリスチャンとして信者たちにかこまれ、彼等の人生相談に応じているのである。内面的欲求のみに基づいて行動するローファーたろうとしていた武郎が、学生たちの道徳上の指導者になり、日々モラルについて説いているのだ。
そんな時に、彼は河野信子が結婚したという知らせを受ける。何も手に着かなくなった彼は赤岩温泉にこもって、来し方行く末を想い、自分が coward(臆病者)でしかなかったことを肝に銘じて確認する。そして、絶望のあまり自殺を考えるようになるのだ。彼は、赤岩温泉に滞在中に、次のような日記を書いている。
余ハ生レテヨリ今二至ルマデ、嘗テ中心ノ要求ノ為メニ動キタル事ナカリキ。余ハ世間体ノ為メニ働キタリ。若シクハ人ニヨク思ハレンガ為メニ動キタリ。余ハ或ル点二於テ人二嘗(な)メラレ、人二尊敬セラレタリ。
サレドモ彼等ハ余ヲ嘗メ余ヲ尊敬スル間ニ、余ヲ軽蔑セリ。此ノ如キ尊敬卜栄誉トヲカチエタル人ハ呪ハル可キニアラズヤ。
札幌に帰った武郎はピストルを購入して、危うく自殺を実行しようとしている。彼が実行を思い止まったのは、父親が河野信子問題での自分の行動を反省し、絶望した武郎が何かするのではないかと心配のあまり病気になったと聞かされたからだった。
その有島武郎が夏休みに東京に戻って、陸軍中将(後に大将)神尾光臣の二女神尾安子と見合いをするのである。武郎は安子の清純そうな感じが気に入り、婚約を取り決めて任地の札幌に帰った。
筆まめな武郎は札幌から毎日のように手紙を書き、安子も同じように毎日返事をよこした。婚約期間中、武郎は、安子に性的な欲望を抱いたことはなかった。ひたすら彼女に純粋透明な愛を注いでいたのである。彼は今までに、これほど霊的な気持ちで人に対したことはなかった。それでも、彼は日記に英文で次のようなことを書いている。
白状スルガ、私ハ批判力ヲ失ツテヰル。安子ハ今ヤアラユル徳卜美トヲ具へタ少女ニ思ワレダシタ。彼女ノタメナラ、イツデモ生命ヲ投ゲダシテカマハヌホドニイトシイ。
シカシ同時ニ、白状スルガ、私ハ彼女ガ私二求メル以上ノ愛ヲ、彼女ニモトメル。愛トハコンナニ利己的ナ性質ヲモツテヰルノダラウカ、ソレトモ私ダケガコンナニ利己的ナ男ダラウカ。変ナ奴!私ハコレホド昂奮シテヰル時デモ、コレホド冷静デアル。
モシ私ガ天才ダトシタラ、冷ヤヤカナ公平ナ眼デ、自分自身ノ感情ヲ見マモリ、リッパナ作品ヲ創リダセヨウ。
安子に対して完全に近い愛情を抱きながら、彼はその気持ちの底にひそむ利己的な感情も見落としていない。
こうして結婚したにもかかわらず、彼は安子に失望し、自分は結婚すべきではなかったと考え始める。「結婚は凡てを見事に破壊してしまった」と彼は苦々しげにノートに書きこむのである。
責任は安子の側にあったのではない。
これまで童貞を守ってきた武郎が、憑かれたように安子の体を貪ったたことが原因だった。彼は安子との暮らしの中で、「夫婦とは天下晴れて肉の楽しみを漁るものだ」という結論に達し、そうした状態に自分を追い込んだ妻に密かな恨みを抱くようになったのだ。
これが有島武郎特有の思考パターンなのである。
彼は心惹かれる思想や人間にめぐりあうと、自分をそのものへの愛一色で塗りつぶしてしまう。対象になったものは彼によって聖化され、絶対化される。だが、それは長続きしない。本多秋五が指摘したように、彼の感情は一方の極から反対の極へと移り動くのである。そして、その原因は当の思想や個人にあるのではなく、彼自身の側にあり、当該対象との交渉によって内面の均衡が崩れたときに感情は反対の極に移ってしまうのだ。
婚約時代にあれほど純粋な愛で結ばれていた武郎と安子は、互いに離婚を口にするようになった。安子が夫に抱いた不満は、武郎のそれとは違っていた。彼女は立て続けに三人の子供を産まされながら、そのことで夫を恨んではいない。
安子との関係を戯曲化した「死と其前後」には、安子が、「あの方さえあなたの奥様になっていらっしゃれば、あなたもこんなにお淋しくはないでしょうのにね」という場面がある。彼女は夫と河野信子の関係を知っていたのである。外にも、彼女は夫が人妻に想いを寄せていることも、家庭生活を負担に感じていることも、すべて知っていた。なぜなら、彼女は夫の日記を読んでいたからだ。
英文で書かれた次の日記も、安子に読まれていた。
吹田(順助)ガ「妻卜云フモノヲ書イテ見タイ、妻ガ天才ヲ引ズリオロサウトスル所ヲ書イテ見タイト云ウテ居タ。十時頃ニ吹田ノ所ヲ辞シテ豊平ノ左岸ヲ通ツテ家二帰ツタ。
考へガ付タカト聞クト、僕ヲ愛シテ僕ノ心ハ疑ハナイガ、自分ガ居テハ皆サンニ御迷惑ヲカケル計リダカラ、何処カニ行ツテ仕舞ツタ方ガイイト云フ。
「未ダ考ガ足リナイ、モウ一度考ヘルガイイ」ト言ツタケレドモ、安子ガ二十二ダト思ウテ夫レツキリニシタ。
何時デモ弱イ器ヲヒドク取アツカッタ様ナ気ガシテ、delicacyヲ害ヒハシマイカト可哀想デタマラナクナル。
これを読んだ安子は、冒頭の、「妻ガ天才ヲ引ズリオロサウトスル」という部分に鉛筆で傍線を引き、欄外に、「お気のどく様」と書き入れている。外にも、「タマニ日記ヲオツケニナルト人ノ悪イコトバカリオカキニナッテ。ドーセワルイトコロバカリノ人ナノデスカラ」という書き入れがある。
武郎は自分たちの夫婦関係をどうすべきか考えておくように課題を出して外出し、帰宅してから「結論が出たか」とでも訊ねたのだろう。そして、そのあとで彼は、壊れやすいうつわを手荒に扱ったような後悔を感じ、妻が可哀想でたまらなくなるのだ。
武郎自筆の年表によると、明治44年は危機の年だった。
44年に長男が生まれた。結婚生活の危機が来た。夫婦共に屡々離婚を真面目に考えた。独立教会を去り従来の信仰を捨てた(注:独立教会を退会したのは、明治43年)。危険人物として北海道庁から監視を受けた。
この年、学習院時代に遊び相手を仰せつかった皇太子が大学にやって来たが、武郎は官憲によって皇太子に拝謁することを拒絶されている。社会主義者の武郎が、皇太子に危害を加えるのではないかと警戒されたのである。 
 6
皇太子への拝謁を拒絶された事件の3年後に、有島武郎は農科大学を退職してフリーの身になった。大学を退職した直接の原因は、結核になった妻の安子を転地療養させるためだったが、教職を去りたいという希望を彼は以前から持っていたのである。友人に語ったという彼の言葉が残っている。
「教師なんか、とうに止めたいのだが、弟たちが皆官職についていないので、昔気質の父は長男の僕が官職についているということが大きな慰めだったのだが、今度は萬やむを得ない事情から父も仕方なく退職を許したのだ」
安子の病気は、寒冷の地で男の子を三人毎年続けて産んだことが原因になっていると思われる。
鎌倉に転地することになったとき、安子は病気の感染を恐れて、全快しない限り子供たちとは会わないと言い切っている。彼女は武郎には泣き顔ひとつ見せなかったが、実母と義母の前に出ると泣き崩れ、容易に泣きやまなかった。彼女は杏雲堂病院に入院して療養に努めたものの、病状は一向に好転しない。そのため退職後の武郎は、東京の自宅から鉄道を乗り継いで湘南に出かけ、妻を見舞ったのちに帰宅して幼い三人の子供の面倒を見るという生活を続けた。
死を控えた安子は、武郎に長い遺書を書いている。
……こんな何一つとりゑのないふつっか者をよくも愛して下さいました。導いて下さいました。ほんとに心の底の底から私は難有いともうれしいとももったいないとも思って居ります。あなたのやうな美しい尊い方を夫に持ったと言ふ事が短い生涯の中の唯一つのほこりで御座います。この誇りの為めに私は淋しい中にもよろこんで死ぬ事が出来るので御座います。……
此十日ばかり私の心は死といふ事ばかり思ひつヾけました。そうして今では死を思ふ事は楽しみの様になりました。恋人の上でも思ふ様に死ばかりを思ってゐます。
それから私はあなたの御成功を見ないで死ぬのが残念で御座いますけれども、必ず御成功遊ばす事と信じて居ります。凡ての事に打勝って御成功遊ばして下さい。あなたに対しての唯一の御願で御座います。
武郎は既に農科大学にいた頃から、「白樺」に加入し作品を発表していたけれども、それらは短い感想か小説の習作に過ぎず、本格的な創作活動を開始するには至っていない。しかし妻の安子は、夫の願いが作家として大成することにあると知っていたから、遺書の最後にこの点を書き入れたのである。
武郎が妻の心情に触れたのは、安子の死後、彼女が病中に記した数多くの遺稿を整理しているときだった。彼は新婚当時、床についてから妻に毎晩一つずつ話をしてやったことを思い出した。年若い妻を慰めるために、彼はそんなこともしていたのである。
武郎は今はない妻に向かって語りかけた。
安子! 私はお前の中に、その愛を全く私にのみ注いだ一つの魂を発見した。私は何の保留もなく信頼しうる人を、少なくとも一人は持っていることを悟った。私は全く価値なしに生きてはいない。彼女を追想することは力を獲得することである。その死によって彼女は愛から力に変わったのだ。
安子は、ただ夫だけに看取られて死にたいと願っていたが、希望していたとおり彼女は武郎一人に見守られながら臨終を迎えたのである。妻に続いて、同じ年に父も胃ガンで死去した。
武郎は、父が死んだときに後顧の憂いなく創作に没頭できる環境が整ったと思った。彼は友人たちに、父の生存中は作家活動を本格化できないと語っていた。妻の安子は、夫が父に遠慮して踏み出せないでいることを一番よく知っていたから、遺稿のなかにこう書き残していたのだ。
あなたは御自身の真実の生活に飛び入らずに遠慮してゐらっしゃるのです。あまり人の為めばかりを思ひ過ぎなさる。親孝行の美しいあなたの御性質がそれを躊躇させてゐるのです。私はあなたのその御心を思ふ毎に泣きます。
だが、武郎が父の目を恐れたのは、単なる遠慮からだけではなかった。父をニーチェ主義者だと考えていた彼は、そんな父に自分の作品を「人生における敗残者の産物」と見られることを好まなかったのだ。父は普段、こう言っていたのである。
「万物は生存競争によってその存在を維持し、自然力の制裁によって健全、卓越、強壮なものだけが残るのであり、大慈悲心というごときは人間最高の徳などではなく、逆に人間進歩の真諦をあやまらせるものだ」
父は、バイタリティーに欠ける武郎を、「自然の制裁」を受けて敗北して行くのではないかと常に懸念の眼で眺めていた。そんな父からすれば、息子が情痴小説の作家になり、「カインの末裔」「或る女」というような作品を発表すれば、きっと、これまでの懸念を裏書きされたように思うに違いないと、武郎は想像していたのであった。 
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妻と父を葬った有島武郎が、本格的な作家活動を始めようとしていたときには、「白樺」の仲間たちは、すでに新進作家として文壇で華々しい活躍をしていた。武者小路実篤・志賀直哉・長与善郎ばかりでなく、弟の有島生馬も里見クもすでに作家としての地位を確立していたのだった。
武郎は最初から「白樺」にあっては、別格の存在だった。武者小路らは、生活に不自由のない華族・資産家の息子たちだったから、学習院を出ても定職につかず文学青年として、「のらくらしていた」のに対し、武郎は彼等より一回り年長であり、その上、帝国大学教授という赫々たる地位にあった(「白樺」加入時には彼は講師から教授になっている)。その彼が、父と妻の死後、堰を切ったように作品を発表し始めたのである。「白樺」派の異色分子、遅咲きの大型新人として、有島武郎は世の注目の的になった。
武郎自身、急に脚光を浴びることになった自分に戸惑っている。
私は過去八年間白樺誌上で感想や創作を発表してきました。発表した数と量とは情けない程貧弱なものではありましたが、公衆の評壇からは全く無視され度外視されてゐました。それが、どういふ風の吹きまはしか、今年になって、急に兎や角云はれ出しました。多分公衆の眼に触れやすい色々な文芸雑誌が私の作物を買ふやうになったからでせう。
大正六年に、彼は以下のような作品を発表している。
「死と其前後」「惜しみなく愛は奪う」(第一稿)「平凡人の手紙」「カインの末裔」「クララの出家」「実験室」「凱旋」「奇蹟の詛」
このうち「カインの末裔」は、多くの作家を瞠目させた近代日本文学の本道を行く秀作だったが、その他の有島作品は他作家の作品に比べて少しずつ毛色が違っていた。「死と其前後」「奇蹟の詛」は戯曲形式で書かれ、「クララの出家」「奇蹟の詛」は題材を外国から取っている。「平凡人の手紙」は私小説に違いないけれども、反省や分析をまじえた一種の観念小説だった。
読者はこれらの何処か西洋臭い作品を通して、土着の日本人作家にはない博大な学識と知性の輝きを感じ取ったのである。武郎は漱石・鴎外の後継者と見なされ、実際、彼は漱石が得ていたと同様な人気を知識層の読者の間に獲得したのである。
だが、武郎には漱石・鴎外と決定的に違うところがあった。
彼は、あらゆる行動のうちで本能的行動を最高位に置いていた。漱石も鴎外も、自分が行き着いた信条・思想から退転することはなかった。武郎は、作品の中で彼にとって理想的人格であるところの本能的生活を推進する人物を描きながら、最後に彼等を冷厳な現実のまえに突き落として、敗者にしてしまう。それが武郎の到達点だったとしたら、彼はこの視点を簡単に放棄すべきではなかったのだ。武郎が漱石・鴎外と違っているところは、初志を貫徹し得なかった弱さであった。
「カインの末裔」の主人公広岡仁右衛門は、旧約聖書に出てくるカインのような無法者で、本能の命じるままに行動する。武郎は周囲に混乱と摩擦を引き起こしながら生きるこの乱暴者を、その直情的行動の故に肯定する。武郎が生きようと欲して生き得なかった人生を、広岡仁右衛門が代りに生きてくれているからだった。ところが、その広岡仁右衛門は地主の前に出るとへなへなと意気地無く屈服し、悄然と農場を去っていくのだ。
「実験室」の医師も、妻が結核のため喀血死したとき、親族等の反対を押し切って死体の解剖を強行する。死因について、病院長を始め同僚の医師たちと見解を異にした彼は、自説の正しさを立証するために妻の遺骸を切り刻んだのである。解剖の結果、彼の見立てが正しかったことが証明される。彼は一旦は勝利の喜びにひたるが、その後に荒涼としたむなしさに襲われるのである。
広岡仁右衛門も、妻を解剖した医師も、自らの生命的要求を貫きながら、最後に冷え冷えとした現実に直面する。私小説「An Incident」に描かれた武郎も、激情に駆られて子供を折檻した後で空虚感に襲われているし、「或る女」の葉子も、作者によって最後に破滅させられている。向日的な気分を感じさせる作品は、僅かに「生まれ出ずる悩み」程度であって、その他の生命的行動を主題にした作品は、ほとんど暗い結末をもって終わっているのだ。
こうした作品に見られる「悲観的な姿勢」は、現実に対処するときの武郎の内面構造を現しているように思われる。彼は武者小路実篤が「新しき村」を始めたときに、計画は失敗するだろうが、あえてチャレンジした勇気には敬意を表すると書いて、武者小路を怒らせている。武郎は理想を阻む現実の壁を、常に過大に意識していた。狩太農場を小作人に無償で譲渡したときにも、彼は自作農になって喜んでいる農民等が、そのうちに奸悪な地主等の餌食になっていずれは農地を奪われ、再び小作人に転落してしまうだろうと予想しているのである。
現実の日本社会を、「白く塗りたる墓」「糞桶」と見ていた武郎は、革命でも起こらない限りどんな改善策も実現不可能だと思っていた。だが、彼はテロリズムに賛同できなかった。すると、彼はクロポトキンが描いて見せたような理想的な「相互扶助」社会を夢見ながら、同時に矯正不能の日本社会を眺め、この二つの世界に挟まれて座して耐えているしかないのだった。
サンドイッチのように二つの世界に挟まれ、身動きがとれなくなっている状況は、武郎の内面にも存在した。内心で、本能のままに行動しようと欲しながら、現実の彼は肉親や世俗への配慮から、当たり障りのない偽善的な行動を選ぶしかなかった。武郎の内部には本能的自己と世俗的自己という二項対立があり、彼の自我はこの二つの中間にあって右顧左眄しているのである。
彼は、中川一政に次のような手紙を書いている。
・・・・私は虚偽でいっぱいになった人間です。・・・・私は如何に私自身を粉飾すべきか心得ています。心得ているばかりでなく、悲しいことには不知不識の間に実行しています。而してそれが私の唯一の仕事なる芸術の中にも隠見するようなことを思い出すと、この上なく自分が卑しめられます。
友人への手紙だけではなかった。彼の日記や手記のいたるところに、この種の自分を責めさいなむ激しい言葉が溢れている。こんな調子で自分を責めてばかりいたら、その先はどうなるだろうか。河野信子の結婚を知った武郎は、小樽近郊の赤岩温泉にこもって懊悩し、自己を責めさいなんだ末に自殺するしかないと考えてピストルを購入している。彼が常に死を意識し、ホイットマンとは別の意味で死を賛美していたのは、病的に厳しい自己否定の結果だったと思われるのだ。
しかし、何人かの評家が指摘しているように有島武郎は激しい口調で自己否定しているときが、実は、一番安定していた時だったのである。危険は彼が生命的行動と信じるものに向かってエネルギーを集中するときに起きている。このへんのカラクリは、三島由紀夫の場合と同じなのだ。
三島由紀夫は戦後民主主義と対峙し、その俗物性を痛烈に批判しているときに安定していた。彼は、自身の俗物性を戦後民主主義に投射し、自分を否定する代わりに戦後日本を攻撃したのだった。卑俗な社会、実のところは卑俗な自己を絢爛たる言葉を駆使して攻撃しながら、彼は内面に高貴な貴族的自我を擁立するために苦闘していた。「葉隠」に心酔し、天皇主義者になり、「陽明学」・バタイユを持ち出し、ファッションショウのように思想的衣装を次々に取り変えたのも、何とかして「高貴な自己」を自他に認めさせるためだった。
卑俗な自分に代えて、卑俗ならざる自分を演出してみせる、そんなことを繰り返しているうちに、三島は深刻なニヒリズムから抜け出せなくなった。残された方法は、乾坤一擲の行動に出て生命を異常燃焼させることしかなかった。三島は成算のないクーデターに打って出て、それをスプリングボードにすることで、はじめて自殺に成功する。
有島武郎も、あれほど激しく自己を否定し、見ているものに、このままでは死ぬしかないのではないかと思わせながら、一向に死なずに生きていた。そして、念願の本能的生活なるものを実践する渦中で、彼はあっけなく死んでいる。つまり、三島も武郎も、足下の嫌悪すべき現実に顔を向けているときに安定し、情熱に燃えて飛躍を試みた時に自殺しているのである。自殺願望とともに生きていながら、彼等が実際に自殺するには、情熱を過度燃焼させる異常状況を設定する必要があったというわけだ。
死を選ぶ頃の武郎は、ひどく虚無的になっており、ここにも三島との相似が見られる。三島は思想的な衣装を次々に取り替えているうちにナイーブなものをすり減らしてしまった。武郎も「惜しみなく愛は奪う」という信条を実践し、生きる基軸としての愛の対象をあれこれ切り替えているうちに、真の自分を見失ってしまったのである。
三島が次々に知的衣装を取り替えたのは、彼を満足させる本当の思想を取得できなかったからだし、武郎が頻々と愛の対象を変えたのも、真に愛すべきものを発見できなかったからだった。三島も武郎も、求めていたものは、自我の下層にあったのだが、彼らは自我の表層面で生きていたのである。
有島武郎は、「私の小さな愛の経験」に基づいて「惜しみなく愛は奪う」というエッセーを書いている。彼はこの中で、「愛とは与えるものではなく奪うものだ」という事実を強調し、この主張をふくらませて、「(人間は)絶えず外界を愛で同化することによってのみ成長」してきたと言い、「(個人の内容とは)私と私の祖先とが、愛によって外界から自己の中に連れ込んできた捕虜の大きな群れ」に他ならないと力説する。
彼は、愛する対象を奪い取って来て自分を拡張し増補することができるというのだが、果たしてそんなことが可能だろうか。愛によって、外界が自我内に摂取されるなどということがあり得るだろうか。
例へば私が一羽の小鳥を愛するとする。私はそれに美しい籠と新鮮な草葉とやむ時なき愛撫とを与えるだらう。人はその現象を見て、私の愛の本質は与える事によってのみ成立つと推定しはしないだらうか。
然しその推定は根抵的に謬ってゐる。私が小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く私その者である。私にとって小鳥はもう小鳥ではない。小鳥は私だ。私が小鳥を生きるのだ。私は美しい籠と新鮮な草葉とやむ時ない愛撫とを外物に恵み与えた覚えはない。私はそれらを私自身に与えているのだ。私は小鳥とその所有物の凡てを外界から奪い取ったのだ(惜しみなく愛は奪う」第一稿)。
事実は、この反対ではなかろうか。愛が深ければ深いほど、愛する対象が自分とは異なる実質を持ち、絶対他者として自己に対立していることを実感するのではないか。人間は漠然と自分が世界と同化しているように感じる。だが、愛によって個々の事物、個々の人間が自分とは異なる絶対他者性を持つことを痛感すればするほど、同化意識などはどこかに吹き飛び、他者の集合体としてのこの複雑多岐な世界に恐れと尊敬の念を覚えるようになる筈だ。
東洋人は、外界を対象化して見るのを西欧式の分析的思考のせいだとする。ホイットマンも東洋思想の影響を受けて、個人の生命は宇宙的生命の一部であり、自己は全存在と一体になっていると強調する。しかし自他の一体性を感知するのが愛なのではない。理性も参加した個人の全能力によって、世界の他者性を確認し、壮大で尊厳な世界を無条件で受け入れることが愛なのである。
愛によって相手を奪い取るのではなく、愛によって絶対他者である相手を外に措定するのである。そもそも相手の人間性を奪い取るなどということが出来るはずはないのだ。高潔な人格を持つ他者を愛したからといって、その高潔な人格を自らの内部に取り込むことが出来るだろうか。可能なのは、精々、相手の生き方を見て感化されることくらいなのだ。
愛が為しうるのは、他者である相手の全存在を虚心に受け入れ、そのことによって自他一体の甘い幻想の中に沈んでいた古い自分を新しく編成し直すことだ。愛はわれわれの幻想を壊し、自己を日々新しくする。そして世界を見る目を、幼子のように素直なものに立ち還らせてくれるのである。
有島武郎は、愛の人だった。彼があまり長くはなかった生涯に、2683通もの手紙を残していることを見ても、周辺の人々に注いだ彼の温かな心情を知ることが出来る。だが、彼が「愛」だと思ったものは、本当は、一時的な感情移入に過ぎなかったのではないかという疑いが残る。感情移入によって一時的に相手と一体化したことをもって、彼は相手の総てを奪い取ったと錯覚したのではなかろうか。
籠の中の小鳥は、止まり木で休み、愛らしい仕草で首をかしげてみせる。小鳥を深く愛し、注意深く観察している者は、それが飼い主に対する愛情表現でもないし、餌を要求するシグナルでもないことを知っている。だが、多感な武郎は小鳥に自己の感情を移入し、その仕草を人間的に解釈するという誤ちを犯してしまうのだ。武郎は感情移入によって相手と一体化し、その瞬間の相手に理想的な人格を読み取るという過ちを繰り返していたように見える。
親の遺産を受け継いだ彼のところには、さまざまな目論見を持って人が集まってきた。武郎はこうした人々から騙され裏切られ、若年の頃から抱いていた人間不信の念を加速させていったと想像される。
彼は死ぬ前に足助素一に、「人間性と言ったって自分だけのもので、惜しみなく愛は奪うといってみたところで、実際には少しも奪いはしない」と悲痛な告白をしている。 
 8
大正時代は前期と後期に区分され、前期の特徴は人道主義を基盤にする思想・芸術が盛行したことだった。こうした背景のもとに民本主義の吉野作造や白樺派の若き作家たちが時代の寵児になったのである。有島武郎が漱石に匹敵するほどの人気を得たのも、人道主義に加えて、作品の根底に西欧風の清新なロマン主義を盛り込んだからだった。「宣言」は、武者小路実篤の「友情」よりも一歩早くインテリ青年の三角関係を取り上げている。武郎はこれらの作品によって、自然主義作品には見られなかった知的な男女の恋愛と運命を描いて見せたのである。
有島武郎の周囲には、学生や若い知識人が集まるようになり、彼等の懇請に応じてあちこちの大学で講演する機会も増えた。武郎のもとに集まる学生たちは、自分たちの集まりをホイットマンの詩集にちなんで「草の葉会」と名付けた。このメンバーのなかから、蝋山政道・大佛次郎・谷川徹三・芹沢光治良などの知名人が生まれている。
学生たちよりも人目をひいたのは、武郎ファンの女たちだった。武郎のロマン的な作風や、中年になっても衰えない貴公子風の風貌が女性の心をとらえたのだ。
武郎に接近してきた女性のなかには、大杉栄を刺した神近市子や、後に石川三四郎と同棲する望月百合子も含まれている。神近市子とは散歩の途中に接吻するところまで行ったが、自分の軽率な行動を恥じた武郎が、直ぐに別れの手紙を書き送ったので、神近の方も同意の返書を出し、二人の関係は短期間で終わっている。武郎は自ら別れを切り出しておきながら、神近の最後の手紙を読んで深い孤独感に襲われた。
望月百合子は、石川三四郎宅をしばしば訪れながら、同時に武郎の邸宅を頻繁に訪問していた。百合子はやがて石川三四郎に同行してフランスに渡り、石川の帰国後もパリに残って勉強を続けることになる。武郎は、パリの百合子に宛てて心境を吐露した便りを再々書き送っている。彼は自分と同じアナーキズムを奉じる百合子に、同志に対するような感情を抱いていた。
有島武郎を当代一の人気作家にした時代の空気は、大正後期になるとがらっと変わってしまう。武郎の作品が時代にマッチしたのは大正9年頃までだった。それ以後になるとロシア革命の影響が日本に及んできて、ジャーナリズムの関心は人道主義から階級闘争、アナボル論争などに移り、武郎は新しい時代をいかに生きるべきか苦慮するようになる。
もともと、彼はアナーキストであり、弟の生馬とヨーロッパ巡遊の旅に出たときには、ロンドンに亡命していたクロポトキンを訪ねて、彼から幸徳秋水への手紙を託されたほどだった。帰国してからは、アナーキストのパトロンになり、大杉栄の渡航費用として2000円という大金を用立てている。
だが、父亡き後、有島家を統括する家長になった武郎は、札幌時代のように軽々に動くことは出来なかった。今や、彼は一族に対する彼自身の不満をかくして、有島家の屋台骨を支えて行くしかなかった。
家長になる以前の彼は、日記に有島家や家族に対する不満を縷々書き残している。
──夕食後余の胸中は我が家人の処世の法方につき堪え得られざる不平を感じぬ。
──今夜不快の事あり。余と余の家風とは遂に一致すること能わず。
──(妹シマの婚礼は)是亦生が嘗て見ざりし華奢の宴なりき。・・・・余は予言者の如く余の家の近き将来に必ず大破綻あらんことを想像するに難からず。
──余はこの間殆ど農場の事のために悩殺せられぬ。余は殆嘔吐を以て之に対す。
アメリカ留学を控え、父から家事の処理を命じられていた武郎は、渡米の日が来てその仕事から解放された時には、心からホッとしたのだった。彼は出発前に友人の末光績に宛てて次のような手紙を書いている。
生は今生の信仰の許す限り彼等老いたるものの意志に従わんことを勉む。されどもし生此家の主権を握るべき運命に立たば生は大胆に生の所信の如く行かんことを切に切に祈りつつあり。
両親が生きているうちは、自分を押さえているが、家督を相続するようになったら思い切って所信を実行するつもりだと宣言しているのだ。この段階ではまだ社会主義の洗礼を受けていなかったから、彼は聖フランシスのように私財を貧者に分かち与えるつもりでいたのである。
父なき後、武郎が財産放棄を含む家政改革に乗り出そうとしたとき、最大の障害になったのは母だった。激しく感情を揺すぶられると、卒倒して意識を失う癖のあった母は、武郎の祖母に当たる女性が自宅に同居するようになると、真宗信者だった祖母の感化を受けて、表情も穏やかになっていた。しかし、武郎がキリスト教に入信したことを知ったときなどは、自分の家から乱臣賊子を出したように悲憤慷慨して、息子を激しく責めたものだった。
武郎は家長として母に気を遣うだけでなく、弟妹のひきおこしたトラブルの処理にも当たらねばならなかった。今回、志賀直哉の「蝕まれた友情」と里見クの「安城家の兄弟」を読んでみた。それによると、有島生馬も里見クもさまざまなトラブルを引き起こす問題児だったのである。
志賀直哉は有島生馬より一歳年少に過ぎなかったが、文学の面でも美術の面でも自分よりずっと先を行っている生馬に兄事していた。生馬に兄事するだけでなく、同性愛に近い感情で生馬を愛し、彼の名前を書いた紙片を胴着の中にしまい込んでいたほどだった。
志賀は、学生時代のこんな話も書いている。生馬が落第するのではないかと心配した志賀直哉は、生馬のために懸命に祈ったというのだ。その頃の志賀は芝公園の弁財天を信仰していたから、弁財天に願掛けした。
彼は池の中にある祠に向かって祈るよりも、便所の壁にある小さな傷を弁財天と見立てて、これに祈ることの方が多かった。1センチに満たない小さな壁の傷は、人の形をしているように見え、祠に祈るよりも便所の中で祈った方が精神統一が出来たと志賀は書いている。そのお陰か生馬は落第せずに済んだ。
やがて有島生馬は絵の修行のためヨーロッパに旅立つことになる。その直前に彼は志賀と黒木という友人に自分には結婚を約束した女がいると打ち明け、自分の留守中、その女の面倒を見てくれないかと依頼したのだった。
相手の女というのは、今は生馬の屋敷で女中をしているけれども、もともとは電話交換手をしていたのを生馬が見そめ、まず絵のモデルになって貰ったじょせいだった。生馬は、その後に彼女を女中として自宅に迎え入れていたのである。
「友達の外遊中その恋人を託されるということは当時の僕達にとって決して悪い気のすることではなかった」(「蝕まれた友情」)から、志賀と黒木は生馬の頼みを承知した。二人は、女に教養をつけさせるために女中を止めさせて麹町の成女学校に入学させた。二人は、それぞれ小遣い銭を削って、女学校の授業料を出してやった。
滞欧7年で、生馬は帰国してくる。生馬を迎えに駅に出かけた志賀は、生馬の妙に「悠然たる態度」を眼にして百年の恋も冷めるような思いをするのだ。一等車から降り立った生馬は、プラットフォームで待っている出迎えの人々に眼で会釈しただけで、先に下車した樺山海軍大将を追って別れの挨拶し、それから悠然と引き返してきたのである。その後も生馬は、「安っぽい容体ぶった様子」を続け、志賀をガッカリさせる。
生馬が時に思い上がった態度を示すことは、兄の武郎も苦々しく思っていた。札幌農学校に在学していた頃、帰省して実家に戻った武郎は、自分が以前に学んでいた学習院の生徒たちの所作を眺め、嫌悪のあまり吐き気を感じた。彼等は揃って、優柔不断の臆病者の癖に、いやに傲慢なのである。
学習院学生ヲ見ルニ多クハ優柔不断ニシテ軽薄極レルモノ多ク……人ヲシテ嘔吐ヲ催サシムル事アリ。
況ンヤ壬生馬(生馬)ノ如ク倨傲他人ヲ無二スルモノニ於テヲヤ。……浮々泛々人ノ甘言ニ乗リテ事物ノ分別ヲ知ラズ殆ド流行書生ノ風ニ倣フ。
武郎が家族に対してこんなに激しい嫌悪を示した記述は、外にはない。
だが、生馬には特有の魅力があり、滞米中の武郎は弟が絵画修行のために渡欧すると聞いて、実家が彼への送金を増やせるようにと、アルバイトをして自分の生活費を切りつめている。
生馬の弟の里見クは、兄が渡欧するとき中学生だったが、横浜まで見送りに行き、船が埠頭を離れるやいなや声を上げて泣き出し、回りのものがいくら慰めても、どうしても泣きやまなかった。
志賀直哉を更に怒らせたのは、帰国した生馬が7年間待ち続けた婚約者を放置して別の良家の娘を追い回し始めたからだった。生馬は心変わりしたことについて、志賀と黒木に何の説明もしなかった。ほどなく生馬は女との婚約を解消する。だが、生馬はもちろん女の方からも、この件について何の報告もなかった。
志賀も女中と結婚したいと言い出して父親と衝突したことがある。この時には、武郎が乗り出して仲介にあたってくれたが、生馬の婚約者に対しても武郎は陰ながら援助していたのではないかと、志賀は推測している。
生馬は昔のことは口をぬぐって別の女性と結婚した。が、その女性が結婚後に家を飛び出して実家に帰ってしまうという事件が起き、この時にも武郎が乗り出して解決にあたっている。
里見クも女性問題では、親族一同の手を焼かせていた。
彼は養子になって別姓を名乗っていたが、有島家の一員同様の生活を続けていた。若い頃から色町に出入りしていた里見は、一族の反対を押し切って芸者を妻に迎え、その妻との間に何人もの子供をもうけながら、放蕩を止めようとしなかった。その費用を調達するために彼は養家先の財産をすっかり費消し、有島家からも金を引き出していた。
こうした親族をまとめながら、武郎は階級闘争で騒然としはじめた大正後期を迎えたのである。これまで有島武郎の面会日にやってくるのは、夏目漱石の場合がそうだったように東京帝大の学生が中心だった。ところが、大正後期になると、正体不明のアナーキストや女性読者が加わり、面会日の有島邸は門前市を為すありさまになった。面会日だということを知らずに有島邸を訪れた里見クは、玄関が男女の履き物で一杯になっているのを見て、舌打ちをして引き上げている。
里見クは、心中行のために兄が行方不明になったとき、兄弟たちと武郎の貯金通帳を調べた。そして10円、20円、50円というような金額が頻繁に引き出されているのを見て、面会日にやってきた連中にせびられたからだと直感し、再び舌打ちををした。放蕩者の里見クからすると、広大な農場をただで小作人にくれてやったり、アナーキストや社会主義者に寄付と称して金をばらまくほど馬鹿馬鹿しい金の使い方はないのであった。
しかし武郎は真剣だった。
大正11年3月、彼は母に反対されることを予想して、まず、弟妹を集めて北海道の農地を解放する決意を告げた。弟妹達が賛成してくれたので、それをバックに母親の説得に取りかかったが、母は泣き出すばかりでどうしても承知してくれない。母は、武郎にもう一度、弟妹を集めて相談し直すように命じた。彼女は、再度集まった子供たちが農場の開放に賛成していることを知ると、ようやく我を折って渋々同意した。
北海道の農場を手放した彼が、次に実行したのは自邸を引き払ってささやかな借家に移ることだった。面会日に素性も知れない「主義者」や失業者たちが集まってくるのも、麹町の一等地に広大な屋敷を構えているからではないか。彼は麹町の屋敷を売って、その代金で老母の新居と生活費に充て、残りは6人の弟妹に分与するという計画をたてた。
だが、計画は難航し、母のために赤坂に新居を建て、そこに母が引っ越すところまでこぎ着けたが、屋敷の売却には母があくまで反対する。結局、麹町の邸宅は無人のまま放置されることになった。そして、この状態のまま武郎は、波多野秋子と心中してしまうのである。
この頃、有島武郎は作家として深刻なスランプに陥っていた。
彼は、親譲りの膨大な遺産をバックに安穏な生活を送ることをやめれば、創作活動にも新生面を開くことが出来るかも知れないと期待をかけていた。
このスランプの期間中に発表されたのが、論壇に旋風を巻き起こした「宣言一つ」だった。彼はそれまでホイットマンの影響下に、全人類は一体であり、男も女も、貧乏人も金持ちも、有徳の人間も犯罪者も、生きとし生けるものはすべて、向日性の生命を持つ点で同種同等だと考えていた。
ところが、「宣言一つ」で武郎は、人類がいくつもの階級に分裂し、未来のあるグループと未来なきグループに分かれていると言いだしたのだ。第4階級の労働者は、未来を創造する立場にあるが、第3階級に属するインテリは何ら未来に貢献し得ない。今や労働者階級は内部からすぐれたリーダーを続々と生み出すようになっている。だから、従来、労働運動を指導する立場にあるとされてきた知識階級は、完全に不要な存在になったと武郎は断定する。
こうした現状認識を背景に、有島武郎は今後自分がなすべきことは、労働階級のために何かをすることではなく、自壊する運命にある第3階級の、その崩壊を促進することにあると結論づける。階級闘争には不要の人間だと自認する武郎の告白は、実質的に革命運動への縁切り宣言にほかならなかった。武郎の財産放棄が一種の経済的自殺を意味したとすれば、「宣言一つ」は彼の思想的自殺を意味していたのである。 
 9
妻の安子と死別してから、武郎は女性と無縁でいたわけではなかった。
彼は「或る女」執筆のため円覚寺の別院にこもっていた頃、休み茶屋の女と体の関係を持っていたし、円覚寺近傍の寿司屋の娘とも愛人関係にあり、この関係はその後もずっと続いたといわれる。他に彼は帝劇の女優唐沢秀子と恋愛中であり、石川県選出の代議士夫人桜井鈴子からも、しつっこく追い回されていた。
そんな彼の前に現れた波多野秋子は、「婦人公論」誌の記者だった。
彼女は某実業家が新橋の芸者に生ませた私生児で、青山学院に学びながら波多野春房の英語塾にも通っていた。やがて彼女は波多野と愛し合って結婚し、高島米峰の紹介で中央公論社に勤務することになった。同じ頃、波多野も知人の斡旋で火災保険協会の書記長になっている。
不思議なことに、波多野秋子の写真は一枚しか残っていないようで、どの本を開いても同じ写真しか掲載されていない。その写真を見るかぎり、彼女はそれほど美しかったとは思えない。武郎の友人達は、彼にふさわしい女はほかにもっといたと証言する。が、室生犀星は秋子には、「眼のひかりが虹のように走る」感じがあって魅力的だったと言っている。生前の秋子に会っている里見クや足助素一は、彼女にあまりいい印象を持っていない。彼女からコケティッシュな印象を受けていたからだ。
大正11年の冬頃から武郎に対する秋子の攻勢が始まった。が、武郎は彼女に何となく恐ろしい感じを抱き、深入りすることを避けている。翌年の春になると、秋子はますます執拗に武郎に迫るようになり、そうされると何時でも抵抗力を失ってしまう武郎は、遂に秋子と行くところまで行ってしまう。だが、直ぐに武郎は反省し、逢い引きの約束を取り消す手紙を書いている。
(逢い引きの約束を破る理由は)愛人としてあなたとおつき合ひする事を私は断念する決心をしたからです。あなたにお会ひするとその決心がぐらつくのを恐れますから、今日は行かなかったのです。私は手紙でなりお目にかかってなり、(秋子の夫の)波多野さんに今までの事をお話してお詫びがしたいのです。
・・・・あなたも波多野さんの前に凡ての事実を告白なさるべきだと思ひます。而してあなたと私とは別れませう。短い間ではあったけれども驚く程豊に与へて下さったあなたの真情は死ぬまで私の宝です。涙なしには私はそれを考へることが出来ません。
・・・・あなたが自分ではとても死ねないと仰有る言葉なぞも私にはよく解ります。而してあなたのそのやさしい心をなつかしく思ひます。死んではいけません。
この手紙から、二つの事実が明らかになる。
一つは、秋子が自分の夫を高潔な人格者であり、妻である自分を純粋な気持ちで愛してくれていると誇らしげに武郎に説明していたことであり、もう一つは秋子が武郎を道連れにして一緒に死ぬ気になっていたことだ。武郎には、女と死ぬ気はなかったし、秋子の夫がそれほど立派な人物なら、彼を悲しませるようなことをすべきでないと考え、秋子に別れることを提案したのである。馬鹿正直な武郎は、二人揃って秋子の夫の前に出て謝罪すべきだと考えていた。
秋子も一旦は武郎と別れることを承知した。が、関係はすぐに再燃し、二ヶ月後の6月4日に二人は船橋の旅館で泊まってしまう。この時にも秋子は死ぬことを迫り、武郎は逃げ切れなくなって、10月になったら実行すると約束している。
秋子は何はともあれ心中することを武郎に承知させ、満足して翌日帰宅した。秋子が武郎に打ち明けたところによると、彼女の帰宅を待ち構えていた夫は夜通し彼女を責め立て、しまいには催眠術まで使ってすべてを白状させたという。だが、「催眠術まで使って」というところに釈然としないものが残る。彼女は武郎の気持ちを揺るがぬものにするためには、むしろ二人の関係を夫にばらした方がいいと考えた節がある。
翌6日、武郎は秋子と共に波多野の事務所に呼び出された。
実際に会ってみると、波多野春房というのは、とんでもない男だった。この日、波多野と武郎が取り交わしたやりとりは、足助素一の「淋しい事実」のなかに克明に描かれている。武郎は死ぬ前に、秋子との関係、秋子の夫との関係を総て足助に打ち明けていたのである。足助の「淋しい事実」の内容は、里見クの「安城家の兄弟」にほぼそのまま引用されている。以下は、「安城家の兄弟」からの抄録である。
(波多野春房は事務所に現れた武郎に)「お前は有名な吝嗇ン坊(しわんぼう)ださうだから芸者なんぞに係わり合ふことはし得ないで、金の要らない人妻ばかり狙うんだらう。敏子(秋子)は、自活の出来る職業婦人だから、その点、益々好都合だと思って誘惑したんだらう」
と、頭から罵言を加へて置いて、「それほどお前の気に入った敏子なら、慰斗をつけて進上しないものでもないが、併し俺は商人だ。商売人といふ者は、品物を無償で提供しやアしない、敏子は、既に十一年も妻として扶養して来たのだし.それ以前の三四年も俺の手元に引き取って教育してゐたのだから.それ相当の代金を要求するつもりだ。俺ぁこんな恥曝しをしては、もう会社にも勤めてゐられない。これ、この通り辞表も書いで来てゐるんだ」
と、言って、和洋二通の辞表を出して見せた。そこには、「家庭内に言うに忍びざる事件起り」といふやうな文言もあった。 
なほ続けて言ふには.
「敏子は、今すぐにでも離籍してやるが、併し、それでい〜気ンなって、おいそれとお前たちが夫婦になるやうなまねは断然許さん。少くも一年か一年半たってからでなくっちア、第一世間がうるさくって困る。それから、金は、一度だけ支払えばそれですんだと思うな。俺は、吝嗇ン坊のお前を、一生金で苦しめてやるつもりなんだから。それは今から覚悟しておけ!」
この調子だった。文吉(武郎)は、かねて敏子から、どれほど良人に愛されてゐるか!といふやうな話ばかり聞かされてゐたので、この会見にも、「お前たちはとんでもないことをしでかしてくれたもんだ。敏子は、俺には一日もなくてならないもんだったのに!」といった調子を予期し、それには一言の返す言葉もないと、恐縮しきってゐたのだが、案に相違した罵詈讒謗に、却ってすっかり気持を楽にして了った。で、まづ自分には、命がけで愛してゐる女を、金に換算し、取引するやうな、そんな侮辱は自他のために所詮忍び得るところでない、と拒絶すると、
「よし! ぢア、ニれからすぐ警視庁へ同行しろ!」
と、息巻いたが、文吉は、もとより望むところと、即座に、
「よろしい、行かう!」
と座を立った。──これは、明かに萩原(波多野)の予算違いで、もしさう言ったなら、ひとたまりもなく文吉が震え上がり、床に額を摺りつけて、哀訴嘆願するものとばかり思いこんでゐたらしい。で、ややたじろぎながらも、
「お前は、警視庁へ行ったら、敏子を裏切って、美人局だなんて言び張るつむりなんだらう!」
と、一喝しておいて、更に、「お前は、今のうちこそ、そん空威張りをしてゐるが、実際監獄にはいってみろ!お前には三人の子供や、また老(としと)った親もあるって話だが、さういふ人たちのことは、何とも思わないのか!あとなんぞ、どうなって構わないっていふのか!……俺にしたって、十一年も一緒に暮して来た、無邪気な、まるで鳩みたいな敏子を監獄へなんぞやりたかアない。いくらお前が吝嗇ン坊だって、まだしもそれア、金で始末をつけた方が楽だらうぜ!」
そこで文吉は、
「・・・・・いづれにせよ、僕は愛する女を金に換算する要求には、断じて應じられないんだから、一時も早く警視庁に突き出して貰はう!」
これには、萩原も手こずった様子で、おどしたりすかしたりして、文吉の決心を翻さすことに努め、最後に、
「どうしてもお前が支払いを拒むんなら、一人一人お前の兄弟たちを呼びつけて、お前の業晒しをしても、きっと金は取ってみせるからさう思え!」
と罵り・・・・・食堂へおりて行ってしまった。(「安城家の兄弟」里見ク)
波多野と別れた武郎は、その足で当時入院中だった足助を訪ね、波多野との会見の一部始終を打ち明けている。武郎が帰ってから足助は、あれこれ考えた末に、さしあたり波多野に金を払って相手の気持ちを落ち着かせた方がいいのではないかと思い、夜になってから武郎の竹馬の友で、彼とも親しかった原久米太郎に直ぐ上京してくるように電報を打った。
足助は波多野が弱腰になったと聞いて、原を間に立てて波多野と掛け合えば、先方の要求する金額を値切ることもできるし、今後、金の要求はしないという念書を書かせることも可能だと思ったのだ。世慣れた原に一任すれば、事を穏便に納めることができると判断したのである。
翌日、足助は病院を抜け出して武郎の住まいに出かけた。武郎のところには、波多野秋子も来ていた。足助が原久米太郎に交渉を任せるように献策すると、武郎は首を振って、相変わらず、愛する女を金に換算することは出来ないと言い張るのだ。
そればかりか、武郎はまるで夢見るような口調で、こんなことを言い出した。
「…情死者の心理に、かういふ世界があることを解って呉れ。外界の圧迫に余儀なくされて、死を急ぐのは普通の場合だが、はじめから、ちやんと計画され、愛が飽満された時に死ぬといふ境地を。……死を享楽するといふ境地を。僕等二人は今、次第に、この心境に進みつつあるのだ。」
「‥………」
「君が僕を惜しんで呉れるのは能く分ってゐるが。・・・・・ああ、何といふほほゑましさだ。ねえ、秋子さん、こんな寂光土がこの地上にあるとは今まで思ひもそめなかったね」(「淋しい事実」足助素一)
波多野は、前日、武郎が帰って秋子と二人だけになったなったときに、「作家というのは姦通罪で入獄でもすれば却って人気が出るそうだから、もう、お前たちを訴えることを止めることにした。有島が金さえ出せば今度の件は、内聞にしておいてやる」と告げた。
足助の計画通りに事を運ぶには、弱気になっている波多野に強硬姿勢の武郎をぶっつけて活路を見いだす必要があった。足助が武郎と別れた時には、この線で突っ張ってくれそうな気配があったのである。武郎は姦通罪で入獄することを、むしろ望んでいるように見えたのだ。
武郎は私財を投げ出すことで経済的自殺を試み、「宣言一つ」を発表することで思想的自殺を試みるという風に、自分を徐々に破滅に向かって追いつめていた。その彼が姦通罪で二年間入獄すれば、今度は社会的な自殺を強いられることになる。彼は本当に自殺することを回避するために、擬似的な死を次々に重ねることを選んでいたのである。そして、今度もし監獄に入ることになれば、情死を迫る秋子の矛先をかわすことも出来るのだ。
武郎は森本厚吉と心中を企てるほど、深い親交を結んでいたけれども、当初は森本を好んでいなかった。秋子についても同じで、武郎は昨夜、病院で足助に、「秋子と長く同棲していたら、きっと倦怠を感じるようになると思う。彼女がそういう女だということは、今からもう分かっている」と語っていた。
だが、武郎はこの日、波多野の伝言を携えて訪ねてきた秋子と膝をつき合わせて話しているうちに、彼女に押し切られて死ぬことを約束してしまったのである。そもそも、姦通したといって自首して出ることなど、ありえない話なのである。被害者である夫が訴えて出て、はじめて姦通罪は成立する。武郎が、本気で自首を実行しようとしたら物笑いの種になるだけなのだ。
秋子に押し切られ、死を決意すると、武郎の胸に予想もしなかったようなよろこびがわいてきた。これで本来収まるべきところに収まったという気がしてきて、死を享楽するというような気持ちになったのだ。足助はこういう武郎を見て絶望した。そこで彼を説得することをあきらめ、秋子の説得に取りかかった。
「秋子さん、有島には三人の子供もいるし、老母もいるんです。武郎を殺さないで下さい」
すると、秋子は初めて気がついたというように武郎の方を向いて、「そうね、あなたには係累があるんでしたっけねえ」と空とぼけて話しかけ、「二人で解っていればいいのね」と足助には理解不能な言葉で武郎に念押しをする。秋子は、足助に取り合う気配を微塵も見せなかった。
足助は、かっとなって、「この女の冷たい目を見ろ。残忍そのものじゃないか。君はこんな女と情死するのか」と武郎をなじったが、武郎は口ごもって、「──どうもそれは、仕方のないことだ」とつぶやくばかりだった。足助は何の成果も得られず、引き上げるしかなかった。
武郎は、その翌日から行方不明になる。新橋駅のレストランでしたためた「二、三日旅に出る」という葉書が自宅に届いたきりで、消息が全く知れなくなるのだ。そして約一ヶ月後に軽井沢の別荘で縊死している遺体が発見される。その場に武郎自筆の遺書がなければ、誰のものか分からないほど二人の遺体は腐乱していた。
死を目前にして、したためた武郎の遺書には、次の文字が見える。
(足助素一宛)「山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている」
(森本厚吉宛)「私達ハ愛の絶頂に於ける死を迎える。六月九日午前2時」 
 10
波多野秋子は、なぜあれほど有島武郎との心中に執心したのだろうか。太宰治と死んだ女性も、また、不思議なほど心中することに執着していた。
彼女等は天下に名だたる一流作家を独占して、自分一人のもにしたことを世に誇示したかったのではなかろうか。秋子にとって情死は、女としての勝利宣言を意味するものだったから、武郎に3人の子と老母がいることはむしろ彼女の勝利を輝かす勲章になるのである。この世に未練を残し、後ろ髪を引かれる思いでいる武郎を、彼女が強引にあの世にさらっていったとすれば、彼女の女としての魅力を一層強く証明することになるからだ。
それにしても、有島武郎は何故秋子と心中したのか。ここに至るまでに、彼は再三死を迫る秋子の訴えを退けてきたではないか。「小さき者へ」を読んで感動していた読者は、武郎が三人の愛児を残して死んだことに驚かないではいられない。武郎は、この作品で幼くして母を失った子供達のために石にかじりついても生き延びると誓っていたと思われるからだ。
もともと秋子を高く買っていなかった武郎は、波多野の要求する金を払い、それを機に女と別れることも出来たはずなのだ。そうすればすべてが円満に収まったのである。にもかかわらず、武郎はこの情事が表沙汰になったことを利用するかのように、死に向かって飛び込んで行った。
有島武郎の不可解な行動を理解するには、ナルシシズムとの関連を検討する必要があるかも知れない。この観点に立って、有島武郎の生と死を眺めたら、どうなるだろうか。
彼の私小説風の作品──「小さき者へ」「平凡人の手紙」「An Incident」「死と其前後」を読んでいると、奇妙な尻こそばゆさを感じる。読んでいて、こちらが何となく恥ずかしくなってくるのである。
これらの作品からは、死んだ妻や三人の子供達に対する武郎の愛情がストレートに伝わってくる。だが、最初から最後まで純度100パーセントの愛情で満たされた作品を読まされると、読者は何かしら困惑を感じる。「An Incident」には、父親の嗜虐性のようなものや、夫婦間の感情的な齟齬などが描かれているが、読み終わって感じるのは、やはり純度の高い家族愛なのだ。
これらの作品を書くときに、武郎は家族に対する自らの愛情を疑っていない。彼は別に自分の愛情を誇ろうとしているのではない。けれども、彼は、おのれの感情の純粋無雑なことをいささかも疑っていないのである。これが読者をして面はゆい思いをさせるのだ。
これは足助素一の「悲しい事実」を読んだときに感じる面はゆさに似ている。武郎は自宅に駆けつけてきた足助に、
「君、どうか秋子を許してやってくれ。君から僕を奪った秋子を・・・・」
といって、自分の「裏切り」を詫びるのだが、足助の前でぬけぬけとこんなことを口にする武郎の神経は、やはり尋常とはいえない。
武郎が家族に対する自らの感情を疑わないこと、そして周辺の者の自分に対する愛を疑わないことは、表裏の関係で一体になっている。上流の家庭に生まれ、大事に育てられてきた人間は、自身の善意と自分に対する周辺の人間の愛情を信じて疑わない。その結果、彼等は成長してから「鼻下長族」と揶揄されるようになる。有島武郎が「鼻下長族」の一人だったことに疑いを入れないのである。
武郎は、幼時に父母から厳しくしつけられ、横浜の米人家庭でもキリスト教道徳を仕込まれた。外見上彼は周囲の大人達から過酷な扱いを受けていたように見えるけれども、彼を取り囲む大人達に悪意はなく、皆、武郎を一人前の人間にしようと願っていたのである。だから、スパルタ式の訓育を受けながら、武郎は彼等を恨むことがなかった。
自分の善意と周囲からの愛を信じていた彼を、直ちにナルシストと呼ぶことは出来ないだろう。「わが肉体は美の殿堂」と豪語した三島由紀夫は、金箔付きのナルシストだった。けれども、武郎のように自分の善意を信じていたというだけでは、自己愛主義者とは言えない。自分以外の他者を蔑視して、自分だけに排他的な愛を向けるときにナルシストになる。有島武郎は、他者を排除し自分だけを取り出して、これに一途に執着するような人間ではなかった。
彼は自分を肯定すると同じ気持ちで、他者を肯定しようとし、自分を愛するように他者を愛そうとした。そうした努力の末に、自他の融合を感じることが出来たから、「愛は惜しみなく奪う」というテーゼも生まれてきたのだ。武郎は森本厚吉と抱き合って誓いを交わし、「悲しい事実」の足助素一とも、秋子の見ている前で抱き合って、号泣している。こういうときに、彼は相手の人間性が自己の内面に流れ込んだように感じ、相手の内面を奪い取ったと感じたのである。
しかし彼は、かなり早い時期から周辺の人々の他者性にも気づいていた。父母や弟妹の中にも、恋人の中にも、友人の中にも、自分とは融合できない別人格のあることを感じ取っていたのだ。彼の精神は、自他の善意と愛を信じているときには安定し、人々の他者性を意識したときに不安定になった。もっとハッキリ言えば、彼はナルシシズムに包まれていたときに、安定し、それが醒めたときに不安定になったのである。
彼が自分を否定しているときに安定していたという奇妙な現象も、これで分かるだろう。彼は自分の善意に絶対的な信頼感を抱いているときにのみ、果敢に自己の欠点に切り込み、自らを厳しく断罪できたのである。自信のある人間は、平気で自分の欠点を認めるものだ。うちに揺るがぬ自信を持っていたから、彼は自己をあんなにも厳しく否定できたのである。
しかし周囲の人間が信じられなくなり、ナルシシズムが薄れてくると彼は動揺しはじめる。河野信子や妻への愛情は反転し、面会日にやってくる思想上の同志達とは縁を切りたくなる。
死ぬ前の有島武郎は、「惜しみなく愛は奪うといってみたところで、実際には少しも奪いはしない」と語り、実質的にこれまでの楽観的な人生観を放棄している。自己を囲繞する人間たちの絶対他者性に突き当たり、自他融合の自信が揺らぎ出すと、彼は深刻なスランプに陥り、作品が書けなくなった。彼の創作意欲は、自分を全肯定しているときにのみ、活発に活動するのである。
だが、波多野秋子に強いられて情死を決意した瞬間に、自他融合の感覚がよみがえり、つまりナルシシズムの感覚がよみがえり、彼は寂光土にあるような安心を感じたのだった。彼の胸からは「小さき者へ」に記したような子供達への哀憐の情はすっぽり抜け失せ、「死を享楽する」気持ちが優位を占めた。
こうして夏目漱石の再来と言われた作家は、女の伊達巻きを首に巻いてナルシストとして死についた。
 
小さき者へ / 有島武郎

こういう悲痛な文章はもっと読まれるべきだ。
なぜなら、この悲痛はわれわれの「存在の印画紙」ともいうべきにうっすらと感光しているものと似ているからだ。われわれは「生まれ生まれ生まれて、その生の始めに暗い」はずの生をうけてこの世に誕生した者ではあるけれど、その印画紙は無地ではなかったのである。そこには当初の地模様というものが感光されていた。有島武郎は、生涯を賭けてその当初の感光が何であったかを問いつづけた優しい知識人だった。
『小さき者へ』。いったい何を意味しての「小さき者」なのか。これは、母を失ったわが子に贈った有島の壮絶な覚悟の証文であって、誰も彼もを存在の深淵に招きかねない恐ろしい招待状であり、また、冷徹な現実をつねに未来に向かって突き刺さるものだということを公開した果たし状のようなものだった。
有島が19歳の陸軍中将の娘・神尾安子と結婚したのは31歳のときである。まだ本格的に作家になるまでには至っていないころで、創刊まもない「白樺」に短編や戯曲を書いていた程度だった。
ところが安子は5年ほどで肺結核になり、平塚の杏雲堂病院に入院したまま、7年目に死んでしまった。まだ幼い3人の男の子がのこされた。長男がのちの名優・森雅之である。安子は自分が死んだことを子供たちには伏せるように、葬儀にも子供たちを参列させないように言い遺していた。その4カ月後に有能な明治の官僚だった父親も死ぬ。
有島はこの直後に猛然と執筆の嵐の中に突入していった。
大正6年(1917)、39歳である。まさに猛然と、『惜しみなく愛は奪ふ』『カインの末裔』『クララの出家』『実験室』『迷路』などの問題作を、たった1年でたてつづけに発表する。ぼくは有島を『カインの末裔』から読んだ。そして高校時代に打ちのめされていた。のちにのべるように、有島はわが子を僅かでも救うために、この物語を思いついていた。
こうしてその翌年、「新潮」に発表したのが、痛ましい『小さき者へ』なのである。
有島がわが子に伝えたかったことは、母を失ったお前たちは根本的に不幸だということである。とても大切な何かが奪われたのだということだった。
母を失っても元気でやりなさい、大丈夫なのだから、とは書かなかった。冒頭から次のように書いたのだ。
「お前たちは去年、一人の、たつた一人のママを永久に失つてしまつた。お前たちは生まれると間もなく、生命に一番大事な養分を奪はれてしまつたのだ。お前たちの人生は既に暗いのだ」。
幼な子に向かって、いったい「お前たちの人生はすでにして暗いのだ」と書く父親がどこにいるだろうか。父がのこした文章を子供たちが読むのが10歳であれ、15歳であれ、こんなものを読んだら必ずやその時点で、子供たちは自分が存在すること自身の暗部を自覚しなければならないのである。こんな言葉を贈ることが子供への救済になるとは、ふつうは考えられない。
いまでは精神医学や心理学があまりにも安易に発達しすぎたために、子供時代のトラウマを残さないように、子供を育てる親や教師たちは、できるだけ子供の心に傷をつけないようにする。また、時すでに傷を負った者には、できるだけそのトラウマを取り除いてしまおうとしたり、それを忘れさせようとする。まるで君にはどんな負い目もないんだよと、忌まわしい過去を指一本でデリートするかのように。
しかし、有島はそんなことを忖度せず、逆に、さらに激越な言葉を続けたのである。
「お前たちは不幸だ。恢復の途(みち)なく不幸だ。不幸なものたちよ」。
異様な手記『小さき者へ』にどんな意図があったかは、その直後に知人に送った手紙に、これをもとに作品を書く予定があることが告げられている。
実際にも、有島はその3カ月後から「大阪毎日新聞」に初めての新聞連載小説『生まれ出づる悩み』を書きはじめた。生まれ出づる悩み。このあまりに象徴的な標題にはまさしく『小さき者へ』が抱えたはずの宿命が問われていよう。誰もが、そう、思う。
しかしながら、この作品を読めばわかるように、有島は「出生の苦悩」を人間の出生に求めたわけではなかったのだ。有島は「生まれ出づる悩み」は、地球そのものが背負っているのだという結論を導くために書いたのだった。
こんなふうに、ある。「ほんたうに地球は生きてゐる。生きて呼吸してゐる。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生れ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみ君によつて感ずる事が出来る」。
ここで「君」と呼ばれているのは、この作品の主人公である木本という青年のことである。
木本は実在のモデルのある青年で、かつて札幌にいた有島のところにヘタな絵をもってきて、自分は画家を志望しているが、漁師の家に育ち、しかも周囲の誰よりも頑健な体で育ったので、誰もが自分の芸術への憧れを理解してくれない。どうしたらいいかと相談にきた。
有島はこの青年を応援しようとするのだが、青年はなぜか消息を断ってしまう。それから8年ほどたって、有島のところへ油臭い2冊のスケッチ帳と手紙が届く。青年はまだ画家の夢を捨ててはいずに、東京に出て勉強したいと書いていた。有島は青年が北海道の自然の中にいてこそ大きな画家の資質が磨けると見て、上京を止まらせ、北海道で修行をするのなら自分が学資を援助すると言う。青年は有島の援助を断った。
この体験を小説にしたのが『生まれ出づる悩み』となった。
けれども、どうもここには『小さき者へ』との連続性がない。幼な子の将来に宿命づけられた暗部の問題は、『生まれ出づる悩み』では青年画家の自然との融合にすりかわる。主題は北海道の大自然に引き取られ、急にエコロジカルに開放されていってしまう。
これはまさに、すでに有島作品として最初の評判をとった『カインの末裔』が提示した二極対応への解消だった。
すなわち、有島はわが子に突き付けた果たし状を、ここでは『カインの末裔』の仁右衛門同様に、自然との格闘からの昇華に導いてしまったのである。対決から融合へ、文明から自然へ、技術から芸術へ、というふうに。
しかし、作品としてはそういう道があったにせよ、また、わが子に対しては、そのように導く道があったとしても、これは有島がわが子や青年画家に託して自分に課した宿命との闘いを回避させるには、あまりに有島自身の行方を苛酷にするやりかただったのである。そのぶん、文学としての『生まれ出づる悩み』を曖昧にすることにもなった。
有島武郎を読むばあい、いつもこのあたりの、有島自身の問題と作品を使って乗り切ろうとする方法的主題の問題とが、あたかも生死の境界をどうやって跨げばいいのかという様相を呈して、互いに矛盾しあいながら立ちはだかってくる。
これはもともと有島が裕福な大蔵官吏の家に生まれ育ったこと、そこから離れるためにあえて札幌農学校に入り、キリスト教を浴びたこと、にもかかわらずアメリカで体験したことは師の内村鑑三の実感に似て「ひどい文明主義」と「人種差別」だったこと(有島はハーバード大学大学院にも入ってそうとうに優秀な成績を収めているのだが、自主参加した精神病院で患者たちから“ジャップ”呼ばわりされて、悩んでいた)、時代が急速に社会主義の理想や白樺派の理想に包まれていたことなど、有島を独自にとりかこむ数々の事態そのものが、現実と理想の劇的ともいえる二極化を痛切に通過しつつあったことにも、それぞれ関係がある。
そうしたなか、有島はたえず自身の立場というものに疑問を抱き続けたわけである。
けれども、その立場をとことん倫理的に追求していけば、自分がおめおめと生きているという存在者の根拠に対する容赦ない否定ともなりかねない。それでも有島はその「否定」を選んだようだ。
有島武郎は二度、心中を試みた。
一度目は21歳のときで、札幌農学校の級友森本厚吉と定山渓で死にそこねた。あまり議論されてこなかったことだが、男どうしの心中計画である。どうも森本が「君との友情を大事にするために、他の連中を切っている」などと言われたことを、有島がまっすぐに受け止めたのではないかとも推測されているが、ぼくは有島に“孤独な汎神的白虎隊”のような気分がなかったとはいえないと思っている。
死にそこねた有島は、その直後、キリスト者になる決意をして内村鑑三を読み耽った。神への愛に切り替えようとしたわけである。しかしそれでも離れない森本と一緒にアメリカにわたったのち、有島はアメリカのキリスト教徒たちの堕落を見て、キリスト者になることを断念してしまう。すでにこれら事態の推移に、有島が今後抱えることになるいっさいの矛盾は噴き出ている。
二度目の心中は45歳のときで、いまさら言うまでもなく、「婦人公論」のとびきりの美人記者だった波多野秋子と、かねての計画通りに軽井沢の自分の別荘「浄月庵」で心中をはかって、思いを遂げた。大正12年6月9日のこと、新聞はこの大ニュースをスキャンダラスに書きたてた。
関東大震災がおこる3カ月前のことである。
二つの心中に挟まれた有島の生涯に接してみると、死ぬことは有島にとっては何でもなかったことのように見えてくる。
事実、有島はつねに生と死の境界に挑みつづけた思索と表現を試みてきた。けれども、その試みは創作意欲をけっして満たすものではなく、まさに有島自身の生まれ出づる苦悩を感光するためのものとなっていた。
もっとはっきりいえば、有島がその後に書いた『或る女』『宣言一つ』などにあらわれているように、有島は理想を創作作品に託しつつも、自身はそれらのコンセプトワークによって毫も救われていなかったのである。それは有島の心中以外の現実的な行動、たとえば北海道の狩太農場を小作人に開放して、それを「共生農場」と唱えるというような社会的行動によっても、なんらの充実や実感を引き出すことができなかったという一事にもあらわれている。
そこで、こんな有島武郎論も横行することになる。もし有島に溢れるようなフィクショナルな才能が迸(ほとばし)っていたら、有島は婦人記者と心中する羽目などにはならなかったのではないか。結局、有島には作家の才能が皆無だったのではないか。こういう感想だ。
しかし、このような見方では、有島の存在の感光紙がもたらすものの「すさまじさ」にはとうてい迫れない。
まさに有島は、かつての王朝人が感覚した「すさまじきもの」の淵の上を、最初から明治の王朝人としてすれすれに歩んでいたというべきなのである。それは、学習院予備科に入った10歳の有島が、早々に皇太子明宮(のちの大正天皇)の学友に選ばれていたことにも如実に投影されている。有島はそのように「上の人間」になることにほとほと嫌気をおぼえて育ったのである。むしろ「上の人間」になればなるほど、差別の亀裂が深まっていくことを実感しつづけていたのだった。
こうして有島は『小さき者へ』を書いているときに、自身につきまとうこのような宿命を、はたしてわが子にどのように伝えるべきかと呻吟し、あえて「存在は最初からなにものかに奪われている」というテーゼを突き付けることを決断したのである。
ぼくは、ずいぶん早くに有島武郎に惹かれていた。けれども「敗北の哲学」に惹かれたという気分は、おそらくなかったようにおもう。そうではなくて、なんといえばいいか、有島のような、何をしてもアクチュアルな実感から遠くなるように自分を仕向けている生き方に惹かれたのだとおもう。
もっとありていにいうと、卑怯者であることをどこかで隠せばいいものを、そのように「隠せそうだという思い」がおこること自体が許せなくなって、また卑怯者であることをうまく告白もできそうにもなくて、そうしたことを感じてしまう自分の実感の全貌からどんどん薄くなっていくような考え方や生き方をしている有島武郎の「宿世」の感覚に、なんだかホッとしていたのだろうとおもう。
少なくとも、ぼくの『小さき者へ』の読み方はそういうものだった。ただ、有島自身にとってはそんなことをしたところで何の救いにもならなかったわけである。
ところで、有島には実は『卑怯者』という小篇がある。
牛乳配達の荷車で遊んでいた子供が、何かの拍子でその掛け金をはずし、いまにも牛乳瓶がガラガラと飛び出しそうな瞬間、子供がそれを必死で押さえている現場に出くわしたときの話である。
それを見ていた「私」は、その光景をなんだか面白い見世物を見るように眺め、やがて子供がこの辛い危機をもう食い止められないと知ったとたん、その場を立ち去ってしまったという顛末になっている。
「私」は、このような誰かが困っている場に望んで傍観する者たちを、つねづね「卑怯者」とみなしてきたのである。ところが、いざその瞬間になると、そこを立ち去っただけではなく、いっときではあったとしても、その光景が面白くも見えた。そんな卑怯な一日があったという話。
この短い話は、まるで有島武郎の生涯の圧縮のようでもある。おそらく有島自身がそう思って、この作品を書いたにちがいない。しかもここには、自分の幼い子に「真実」を伝えようとして、その書き方にさえ戸惑っている有島の、去りもせず進みもしない根本衝動のようなものがあらわれている。
きっと有島武郎はキリスト者になればよかったのである。
それを拒否しながら「普遍の愛」を表現しようとしたときから、有島自身がすべての苦悩の解放を自分自身への懴悔を作品にしながら表明せざるをえない「たった一人の旧約聖書の書き手」になってしまったのだ。
こんなことは、なかなかできるものではない。神を除いて「普遍の愛」を自身の周囲に近づけたいとすれば、これ人間を相手にするしかないのだが、今度は誰かが神の変わりを演じるか、そのように演じてもらうための犠牲が必要になる。
有島は「神なき愛」などさっさとごまかせばよかったのに、ここで自身をこそ犠牲とし、自身をこそ卑怯者にすることを選んだのである。
すでに有島が書きはじめた旧約の物語は、もう何十ページも進んでいた。書きつづけるか、中断するか。波多野秋子は「中断の美」を煽ったようだ。有島自身も自分が書きはじめてしまった旧約の文章の、一行ずつの矛盾を引き受けたかったのだろう。そう、おもうしか、ない。
こんな文章が『生まれ出づる悩み』にある。「だれも気もつかず注意も払はない地球のすみつこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでゐる」。
この一文の前半も有島武郎、後半も有島武郎なのである。
前半と後半をつなげると、「尊いものが、苦しんでいる」というふうになる。この前後はさかさまに対同しあっている。前は美しくも、後は受苦からの脱出が待っているという、この脈絡。その脈絡が有島にとってはあっというまの根本対同なのである。
これでは、一週間とて生きられない蝉のようなもの。あんなに美しく翅を輝かせ、あんなに真夏を謳歌しながらも、その存在自体が宿命の刻印であるような蝉である。
そしてまさに『小さき者へ』には、その蝉の翅の光のような深い矛盾が宿ったのだった。蝉的なるものへの否定しがたい憧れが、いまなお残響することになったのである。 
 
有島武郎 2

1923年(大正十二年)、作家の有島武郎は軽井沢で自殺をとげた。波多野秋子という人妻との心中であった。この事件について、世人はさまざまに取沙汰し、かつて有島のキリスト教信仰の師であった内村鑑三(うちむらかんぞう)は、彼を「背教者」と呼び、厳しい倫理的譴責をあびせた。しかし、彼の死後、手帳の中から見つかった歌を見ると、彼の死は単なる情死ではなく、深いわけがあったことがうかがえる。
道はなし 世に道は無し 心して 荒野の土に 汝(な)が足を置け
生まれくる 人は持たすな わがうけし 悲しき性(さが)と うれはしき道
世の常の 我が恋ならば かくばかり おぞましき火に 身はや焼くべき
有島武郎は明治維新からの「文明開化」という一大国際化の風潮の中で、西洋文化を単なる知識として受け入れるのでなく、西洋精神のみなもとであるキリスト教に、魂の窓まで開け放ってしまった数少ない近代日本人の一人であった。
彼はアメリカにり留学し、ヨーロッパを旅行してきた西洋通であった。西洋の土を踏んだ日本人は、異国文化の中で「和魂」を再発見し、熱烈な愛国者となって「日本回帰」することがよくある。しかし有島はそれはしなかった。代りに彼がなしとげようとしたのは、「自分自身に帰る」という「自己回帰」であった。
「自分自身に帰る」とは、どのような「自分」なのか。彼はキリスト教の中にそれを求め、楽園を追放される前のアダムのような、本来のみずみずしい自分であると考えた。そしてそれを信仰の道ではなく、文学の道においてなしとげようとした。なぜなら信仰の道では、罪の重荷をキリスト一人に背負わせ、何の努力もせずにただなまぬるく生きているだけの偽善者になってしまうと思ったからであった。そこで所属していた教会から脱退し、「破戒僧」になったつもりで、「失われた楽園」、「失われたアダム」を求めて、文学の道を歩み出した。有島文学は、そうした「求道者」の彷徨と苦悩が生んだ文学であり、人妻との心中はその悲しい帰結であった。本エッセイはこの三首の歌を手がかりに、「背教者」有島武郎の苦悩の足跡をたどるものである。 
 
1 道はなし

道はなし 世に道は無し 心して 荒野の土に 汝(な)が足を置け 
二つの道
有島武郎は二十一歳から三十二歳まで、札幌独立教会に属していた。彼がなぜ長年の信仰生活をやめ、教会を脱退する宣言をしたかについては、後の「『リビングストン伝』の序」で告白している。それによると、入信のそもそもからさまざまな教義上の懐疑に悩まされていたが、アメリカ留学のあいだにそれがさらに強くなり、加えて元来憧がれていた芸術に没頭したいという欲求に我慢できなくなったからだという。
彼は「純芸術とキリスト教との間には、横切ることのできない鴻溝(こうこう)がある」と考えていた。芸術は生活の余裕が生み出すものであり、信仰の道を歩む者にそんなのんきな余裕があってはならないと思っていた。しかし芸術への欲求が抑制できないところまできたときに、「破戒僧のようなやや捨て鉢な心持で」この溝を飛び越え、文学の道に身を投じる決心をした。そして文学雑誌『白樺』が創刊され、その同人になることになったとき、教会からの脱退を宣言したのであった。このとき、内村鑑三は二時間にわたって説得したが、彼に決心をひるがえさせることができなかった。そこで「それではまあ君の思うとおりにやってみるがいいだろう」と言って、淋しい顔をしたという。
『白樺』に発表した「二つの道」というエッセイで、有島は言っている。
「二つの道がある。一つは赤く、一つは青い。・・・揺籃(ゆりかご)の前で道は二つに分かれ、それが松葉つなぎのように入れ違って、しまいに墓場で絶えている。人の世のすべての迷いはこの二つの道がさせる業である。」
宗教と文学も二つの道であり、時に交叉しないでもないが、決して融合して一つの道になることはないというのが彼の考えであった。
実は、有島は信仰上においても、二つの道のあいだで迷い悩んでいた。その一は内村鑑三の道、もう一つは新渡戸稲造(にとべいなぞう)の道であった。
内村と新渡戸は、札幌農学校の同期生であった。札幌農学校は明治政府の北海道開拓事業の一環として開設され、ウイリアム・クラーク博士をアメリカのニューイングランドから招聘して協力を依頼した。クラーク博士は『聖書』によるキリスト教的倫理教育を行なうことを条件に招聘に応じた。こうして農学校にはニューイングランド的キリスト教精神が根づくこととなり、学生たちの中から多くの信者を出すに到った。中でも傑出したのが内村と新渡戸であった。
内村と新渡戸は無二の親友であったが、信仰上の道は対照的に違っていた。内村は先輩から強制的に入信させられたのであるが、一度入信するや、きわめて熱心な信徒となり、同志とともに、1881年(明治十四年)、札幌独立教会を創設した。「独立」と名打ったのは、外国ミッションの援助金に一切依存しせず、従って教義上のいかなる強制にも応じないという自由独立の教会にするつもりだったからである。
札幌農学校を卒業すると、内村はアメリカに留学して、三年あまりをニューイングランドで過ごした。そして徹底的な回心を経験し、熱烈な正統派ピューリタンとなって帰国した。それから教師となって働き、やがて『万朝報』の記者となり、また『東京独立雑誌』や月刊誌『聖書之研究』を刊行し、数多くの論文、講演筆記、談話などを発表して、世俗の不義に立ち向かう孤軍奮闘のクリスチャン戦士となった。
かたや新渡戸は、強制されずに入信したのであったが、長い間教義上の懐疑に苦しめられていた。彼も渡米して、ボルチモアのジョン・ホプキンス大学に留学したが、そのときクウェイカー宗を知り、ようやく懐疑からぬけだすことができた。そしてフレンド派の会員となって帰国した。後に同派のメアリー・エルキントン・パターソンと結婚し、母校の札幌農学校で教鞭をとるようになった。
有島は学習院の中等科を終えたところで、札幌農学校に転校した。新渡戸は南部藩の出身で、有島の母も南部藩出身だった縁故から、彼は入学当初、新渡戸の家に寄宿させてもらい、新渡戸が自宅で開いている聖書クラスに出たりして、身近に新渡戸の影響を受けるにいたった。 
クウェイカーの道
新渡戸が信じていたクウェイカー宗は、イギリスのジョージ・フォックス(1624〜1691年)から始まった。フォックスは靴作りの一庶民であったが、ある日、作業している時に、突然、心に聖霊がひらめき、神の声が響いた。彼は靴作りをやめ、自分が聞いた神の声を伝えるために旅に出た。そしていたるところで声高く説教した。
「人はいかなる仲介者もなしに、現存のキリストの声を聞くことができる。なぜなら人は心の内奥に、人の霊と神の霊が出会う神秘の場所を持っているからである。」
靴作りといった庶民がこのような説教をして歩いたのだから、教会の権威者は激怒し、さまざまな迫害を加えた。しかしどんな迫害も、度重なる投獄も彼を黙らせることができず、共鳴者はどんどん増えて行った。彼らは心の内奥の神秘の場所で、直接神の霊、キリストの光に出会うと、感動のあまり全身を激しく震わせたので、「クウェイカー」(震える者)と呼ばれるようになった。
神に出会うには教会に行く必要はない。司祭の仲介を求める必要もない。神は常に直接人とともにおられる。そして神はすべての人々を無差別平等に愛しておられる。こうした信条を中心とするクウェイカー宗は、プロテスタントのなかでもとりわけデモクラティックであった。宗徒はおたがいを「フレンド」(仲間)とみなし、あらゆる差別を排して友愛で結びつこうとした。権威の象徴となる教会は持たず、ただ集会を持つ。集会では誰も説教しない。ただ聖霊に動かされた者が、思いを自然に口から出すだけであった。
こうして「フレンド派」とも呼ばれるようになったクウェイカー宗は、フォックスの精神にのっとり、社会の底辺にいる人々と友だちになった。ただ単にまわりにいる人々と友だちになるだけではない。遠くまで出かけて行って友だちを作ろうとした。それが彼らの布教のやりかただった。
新渡戸もこの精神にのっとって、母校の教授になってからは、貧しい家の子弟に教育の機会を与えようと、夜学校を作った。有島もこの夜学校で教え、貧しい女工と友だちになったりした。
新渡戸が有島に与えたもう一つの影響は、イギリスのトーマス・カーライル(1795〜1881年)の思想であった。カーライルはピューリタン宗のカルヴァン派に属していたが、一つの宗派、一つの教義にこりかたまることなく、クウェイカーのジョージ・フォックスを賞賛していた。こうしたリベラルな宗教精神は新渡戸の心をつかみ、著書の『サーター・レザータス』(衣裳哲学)は、彼にとって第二の『聖書』となった。札幌農学校で、新渡戸はこの書を講義し、有島もその授業に出席していた。
『サーター・リザータス』中には、トイフェルスドレッグという風変わりな教授が出てくる。この教授はある女性に全身全霊で恋してしまい、拒絶されたためにすべての感覚を失って、何日か死んだようになってしまった。しかしふと気がつくと、まったく違った世界に出ていた。まわりのものはすべて前と同じであるが、ただ信じられないほど美しく輝いているのである。いったいどうしたことなのか。
それはつまり、彼は彼女の拒絶によって「永遠の否定」(Everlasting No)に打ちのめされ、心の死という「虚無の地点」(Center of Indifference)に落ち込んだのだが、ふと気がつくとそれを通り越し、向こう側の「永遠の肯定」(Everlasting Yea)の世界に出ていたというわけなのである。
有島はこの話に魅了された。彼の祖母は浄土真宗の信者で、彼に信仰心を持つように勧めていた。それで札幌に来てから、新渡戸の紹介で曹洞宗の禅寺で座禅するようになっていた。彼がトイフェルスドレッグの話に魅了されたのは、それが禅の「解脱」、「悟り」の道に似ていたからなのであろう。
有島がもう少し長いあいだ新渡戸のそばにいたならば、クウェイカー宗に入っていたかもしれない。しかし新渡戸は一年後に辞職して東京に行ってしまった。そのあと親友となった森本厚吉(もりもとこうきち)の引導で、有島は内村鑑三に傾倒して行くのであるが、そうなってからも新渡戸から受けた影響、カーライルへの心酔は残っていた。 
ピューリタンの道
有島の親友となった森本厚吉は、すでに洗礼を受けたクリスチャンであった。彼は有島に「宗教的探求の道伴」になってほしいと熱心にたのんだ。有島はまだ禅の奥義さえきわめていないのに、他の宗教に踏み入ることはできないと断ったのだが、森本はあきらめなかった。その熱意に負けて、彼は内村の著書などを読むようになり、1899年(明治三十二年)、ついに入信して、札幌独立教会に所属した。そして夏休みに帰省した時に東京の内村を訪問し、長年にわたる師弟関係を結んだのであった。
内村が属する正統ピューリタン派は、使徒パウロから始まり、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンへと流れる神学を教義の骨子としていた。内村は使徒パウロの書簡を信仰上の教科書とし、中でもルターが重んじていた「ガラテヤ人への書簡」こそ、プロテスタント教義の基礎であると信じていた。またアウグスティヌスの『告白録』、ルターの伝記を、第二の『聖書』として熱読していた。
内村の著書の中で、有島に大きな影響を与えたのは、『求安録』であった。その中で内村はルターの神学にもとづいて、「神の恩寵」を説いている。
ルターは、人間の存在を「肉」と「霊」の二元から説く。「肉」とは地上の肉体的存在、「霊」とは天上の霊的存在である。人間の存在はこの二つの次元にまたがるのだが、多くの人間は天上の霊的存在に目覚めず、地上の肉的存在だけにあくせくしている。しかしわれわれの「肉」に完全無欠なものはなく、不品行、好色などの罪によって汚れ、「肉」を支配する「律法」によって厳しく裁かれ、一人残らず死に定められている。
しかしながら神は死に定められた人間をあわれんで、恩赦をくだされた。この恩赦は「神の子イエス・キリスト」の来臨によってなされる。
キリストが来られる前、人々は罪の許しを乞い願うために神殿にまいり、さまざまな犠牲の動物を神に捧げていた。イエス・キリストはそうした動物に代わる「神の小羊」である。この小羊の犠牲によって、すべての人々は罪を許され、死を待つ牢獄から解放されて、自由の野原に遊ぶことができるのである。
しかしながら許されて放免された後も、人はいまだ地上に生き続けるわけだから、いつまた罪を犯すか知れない。それゆえ人は常に自分の「肉」を厳しく取り締まらなければならない。そのためには第一に、イエス・キリストに自分を重ねあわせ、自分の「肉」を十字架につけてしまうことである。それはたやすいことではない。人の心には常に「肉」に従おうとする反逆の意志が宿っているからである。そこで人は怠けることなく、断食、徹夜の勤行、労働、そのほかあらゆる修業によって肉体を訓練し、「霊」に背こうとする不従順な意志を砕いてしまわなければならない。地上の生活はこのような修業の連続でなければならない。
このような神学を信奉する内村は、『求安録』の中だけでなく、門下の青年たちに直接力説していた。「肉」の人間たることをやめ、「霊」の人間たれ! 古い人間をぬぎすて、新しい人間たれ! しかしながら、これは性欲に悩む青年たちにとっては、痛い笞であったことだろう。有島もその笞をしたたかに受けた一人であった。
このように「肉」の罪を厳しく糾弾する内村に対して、新渡戸はもっと穏やかであった。それは二人のあいだで「罪」に関する見方が違っていたからである。内村にとって、「罪」とは総じて「義」(完全な正しさ)に反することであったが、新渡戸にとっては「愛」に反することであった。新渡戸はそのため『聖書』の中ではキリストの愛の弟子であった「ヨハネの福音書」を大事にしていた。
有島は二人の師のあいだで揺れていた。「ヨハネの福音書」に心が引かれ、ヨハネの愛の普遍的なのに感じいった。しかし同時にまた、内村の「罪の鋭い自覚なくして天国の門は開かれない」という説教をも忘れることができなかった。 
ホイットマンの道
1901年(明治三十四年)、札幌農学校を卒業した有島は、どんな仕事に献身すべきかの模索に突入した。しばらく志願兵として軍隊に入ったが、やがて除隊し、それからアメリカ留学を考えた。内村を訪問してこのことを相談すると、確固たる目的なしに留学するのはよくないと言われた。しかし新渡戸は賛成で、積極的に助けの手をさしのべてくれた。すなわちフィラデルフィアにあるクウェイカー宗のハバフォード大学に留学できるように世話してくれたのである。またメアリー夫人も自宅で英会話を教えてくれた。
こうして有島は横浜港から出航し、アメリカに渡った。しかし、ハバフォード大学での約一年は、決して満足の行くものではなかった。期待していたクウェイカー宗に失望を味わったのである。毎週木曜日の集会に参加したり、学生の団体に近づいてみたりしたが、その結果、信徒たちが「習慣的に親切で善良である」ことのほか何も無く、「いわば祖先の遺産によって徒食する人々」のようで、すべてがなまぬるく思われた。
しかしその批判の刃を自分自身に向けた時、衝撃的な自覚が起こった。
「そういう自分だってなまぬるく、本当の信仰上の変身を経験していないではないか。宇宙本体の神と直接触れ合ったことがないではないか。」
彼は修士号を獲得してハバフォード大学を卒業した。それからニューイングランドのボストンに移り、ハーバード大学に在籍して、さまざまな本を読んだ。その中にはラルフ・ワルドー・エマソン(1803〜1882年)が主導したトランセンデンタリズム(超絶主義)の本もあった。
トランセンデンタリズムは、プロテスタントの「邪教」とされるユニタリアニズムから発展した「邪教の中の邪教」であった。ユニタリアニズムは「三位」(父なる神・子たるキリスト・聖霊)のうち、「父なる神」の一位しか認めない。トランセンデンタリズムは、最後の「父なる神」さえもそのままでは認めようとしなかった。有島はそうした破天荒な宗教思想にも興味を持ったのであった。
しかし彼はエマソンに心酔するところまでは行かなかった。それよりも、彼はエマソンが最初に価値を認め、世に出るはずみを与えた詩人、ワルト・ホイットマン(1819〜1892年)に強く心を引かれた。
ホイットマンはニューヨークのブルックリン出身で、ピューリタン社会の外にいた。それでピューリタンの戒律にしばられることなく、「霊」も「肉」も、いやその区別さえなしに、人間のすべてを肯定し、自己愛、きょうだい愛、人類愛を歌うことができた。性欲さえも肯定して堂々と歌った。その詩集『草の葉』が有島の魂を奪った。
有島がホイットマンを知ったのは、ボストン郊外に住む弁護士の家にアルバイトに行っていたときであった。弁護士は話好きで、夕食後に有島を相手に長々と話すことがよくあった。彼はホイットマン詩の心酔者で、『草の葉』の中から好きなものを選び出して朗読した。後に有島はこのときのことを回顧して、次のように言っている。
「私は何時でも涙を溜めてでなくては聞くことができなかった。彼も涙を頬に伝わらせながら恥かしげもなく読み続けた。洟(はな)をかむ時のみ、歌が途切れる。何時でも彼がこの魔杖のような本を閉じる時には、彼と私は同じ人になっていた。ホイットマンになっていた。」(「『リビングストン伝』の序」)
内村からも新渡戸からも離れて、自分の道をさがそうとしていた彼に、ホイットマンの詩は天啓のように響いたのであろう。たとえば「大道の歌」という詩の中で、この詩人は高らかに歌っている。
「いまのこの時から、自由! いまのこの時から私は制約や、空想的な境界線から自らを解放することを自分に命ずる、どこに行こうと、私はすべて絶対的に私自身の主、他人にも耳傾け、その言うところをよく考え、立ち停り、探り求め、受け入れ、熟慮しはするが、柔軟な、然しこれ以上ない強力な意志を以て、私は私を捕えんとする桎梏から私自身を奪いかえすのだ。」
また、「アダムの子ら」の中でホイットマンは歌う。
 楽園に向かって、世界は新たに登り行く
 力強い仲間、娘たち、息子たちが先頭だ
 彼らの愛と命こそが、存在の意味をなす
 彼らは眠りからさめた僕の復活を、好奇心をもって見つめる
 滔々と円をなして巡る流れが、僕を再びここに到らしめたのだ
 ここは愛にあふれ、成熟していて、すべて美しく、すばらしい
 僕の四肢に震え踊る火は、なんというすばらしさだ
 僕はここに存在し、見つめ、さらに洞察し
 現在に満足し、過去にも満足する
 僕のそば、僕のうしろ、あるいは僕の前にイヴが行き
 僕はまた同じように彼女とともに登って行く
有島はこれまでの自分は、あらゆる努力と忍耐にもかかわらず、どこにも生きる喜びを見いだしていなかった、自分が自分としてまったく存在していなかったと悟った。父母、恩師、友人、世間の目の中で、「善」なる者とみなされようと四苦八苦して来た。まったくの「偽善者」だったのだ。この詩人こそ、ホイットマンこそ、新しい時代を告げる新しい預言者だと彼は確信した。そして入信以来長い年月、悩まされてきた「肉の否定」が、今や強烈な「肉の肯定」になり、自分も「四肢に震え踊る火」を燃え立たせ、愛の大道を「楽園」にむかって歩んで行きたいと思うにいたった。 
イプセンの道
しかし有島の模索は、これで終わりにならなかった。やがてボストンを離れ、ワシントン府におもむいて、毎日のように国会図書館にかよって本を読み漁っているうちに、もう一人の預言者に出会ってしまった。それはノルウェーの劇作家ハインリック・イプセン(1828〜1906年)であった。
イプセンは「人形の家」をはじめとする社会劇で有名であるが、有島が熱中したのはそれではなく、詩劇「ブランド」であった。イプセンはノルウェー国民の救われがたい愚昧と偽善に絶望し、故国を捨ててローマに流寓し、そこでこの宗教悲劇を書いたと言われている。
詩劇「ブランド」は、ホイットマンの道とは正反対に、「肉の徹底的否定」を叫ぶドラマである。主人公ブランドは修道者で、次のように説教する。
人は、一切の妥協を排し、ただひたすら神の国を求めなければならない。世間の人々は自分たちに都合よく神の国を教会堂に縮小し、神(エホバ)の姿を白髭の老人、あるいは母の胸に抱かれた嬰児(イエス)という型におしこめてしまっている。神を求め、神をあがめていると口先でいいながら、彼らは神から遠く離れている。
神の国への道は不退転の意志によってのみたどることができる。しかし人々は常に安易な道を求めている。世間まかせ、他人まかせの安易についている。誰も自分の意志で自分の道を歩もうとしない。その道が明らかに神の国に到る道でないとわかっていても、家族にパンをもたらす道だと思われるかぎり、週の六日はその道を歩み、たった一日教会に行って、義務をはたしたとしている。
ブランドは人々が自分の自由意志で、神の国への道を選ぶことを望み、それを助けることが自分の使命であると信じている。したがって母にも妻にもそれを厳しく求め、決して妥協を許さない。彼の母は金貸しで、財を守ることに命をかけている。彼は母が財をすべて捨てないかぎり、祈ってやらないと言って、臨終のときにも会うことを拒む。妻は彼とのあいだに生まれた子を溺愛し、その子が亡くなったあとは悲嘆に溺れている。ブランドは彼女に悲嘆を捨てよ、子供の面影を捨てよと要求する。今は悲嘆だけがただ一つの生きるよすがであった彼女は、それを捨てさせられて、死ぬ。
人々はブランドが愛を知らない苛酷な義人であると非難する。しかし彼は逆に人々を非難して言う。
「「愛」を持ち出して自分の怠慢を誤魔化すのをやめよ。まず大切なのは意志である。律法が求める「義」を満たそうとする意志である。厭々ながらの意志ではない。喜んで固く決心する意志である。十字架の上で苦悶して死んでも殉教者にはならない。殉教者はまず自分自身の磔刑を意志する者、すなわち自分で自分を徹底的に否定する者である。「肉」が慈悲を哀願し、「魂」が反逆を企てる時も、固く意志して死に直面する。そうしてこそ救いは至るのだ。この戦いで意志が勝利を得た時にこそ、初めて「愛」の機会は訪れるのである。」
ブランドは母が残した莫大な遺産で教会堂を建てる。すると人々がこぞってやって来て、彼を長老に立てようとする。ブランドは言う。
「神はいかなる教会堂にも住まうおかたではない。真に神の国を求める者はこのような教会堂にまどわされず、あの山頂の氷の教会堂、いな、それよりもさらに高い所の教会堂に至るべきである。」
ブランドは教会堂を封鎖して山に登り始める。人々も感動してついて行く。だが意志の弱い彼らは、疲れと飢えに迫られるとすぐに熱意を失い、町の生活をなつかしみはじめる。そしてついにはそろって山を下りてしまう。ただ一人、少女ゲルドをのぞいて。
ブランドは山頂をめざして上って行く。ゲルドも彼に従う。やがてさまざまな幻影が現われて誘惑しはじめる。ゲルドがそれにむかってライフルを撃った。幻影はそれで消えたが、銃砲の音が山々にこだまし、大雪崩を引き起こした。そしてブランドはあっという間にそれに飲み込まれて、深い谷底に落ちて行った。
有島はなぜこのような悲劇に感動したのであろうか。おそらくそれはカーライルの影響からなのであろう。ブランドは意志の力で自分に「永遠の否定」を行った。そして「虚無の地点」という深い谷底に落ちて行ったのだ。
もしもドラマがここで終わってしまったら、こんな無意味な「自己否定」はない。しかしドラマはまだ続く。ブランドを追って、ゲルドも谷底に下り、瀕死のブランドを抱き上げて言う。
「ああ、あなたが誰であるかやっと分かったわ。あなたをただの修道者だと思っていた。そのすじの人たちと同じ運の悪い人と思っていた。でも、あなたは人の子の中で最も偉い人だったのよ。ほら、あなたの手を見せて。釘の痕よ! そしてあなたの髪からは、茨の冠で無惨に傷つけられたように、血がしたたって、あなたの眉を凄惨に害なっているわ。そうなのよ! あなたこそは「十字架上の人」・・・そうなのよ! あなたこそは「救世主」!」
ブランドは遥かの山頂を見上げて、熱い涙を流す。ゲルドになぜ泣くのかと聞かれて、彼は答える。
「これまでの私の使命は、神が律法を刻む石の碑になることだった。しかし今から私の命は、暖かく心地よい川になって流れるのだ。氷の殻は砕け、私は泣くことができる。そして跪き、初めて祈ることができるのだ!」
つまり、ブランドは、すべてを失い、すべてに惨敗し、死に直面した「虚無の地点」で、「義」の人から「愛」の人に変容して、むこうに広がった「永遠の肯定」の世界に出たのである。
ホイットマンは「滔々と円をなして巡る流れが、僕を再びここに到らしめた」と言う。しかしイプセンは「ブランド」によって、「義」から「死」、「死」から「愛」へという直線の道を示す。どちらの道も「楽園」にもどる道なのであるが、イプセンの道はキリストの道と重なり、「虚無の地点」、すなわちゴルゴダの丘の十字架の上で、人はキリストに同化するのである。有島が強く引かれたのは、まさにこの点であったのだろう。
イプセンの道か、ホイットマンの道か。二人の師から離れたところで、彼は二人の預言者につかまってしまった。そしてこの新しい二つの道も、交差することはあっても、融和してはくれなかったのである。 
作家の道
迷いを抱いたまま、有島はヨーロッパを七ヶ月旅行し、1911年(明治四十四年)四月、帰国した。しばらく兵役に服務し、その後母校の札幌農学校の講師の職につき、やがて父のすすめによって陸軍中将の娘、神尾安子(かみおやすこ)と見合い結婚した。翌年、『白樺』が創刊され、彼もその同人となった。
『白樺』に発表した「二つの道」で、彼はこうも言っている。
「人は相対界に彷徨する動物である。絶対の境界は失われた楽園である。人が一事を思うその瞬間にアンチセシスが起こる。それでどうして二つの道を一条に歩んで行くことができようぞ。」
とは言え、彼は「失われた楽園」を求めないではいられなかった。イプセンもホイットマンも、「失われた楽園」を求めて自分自身の道を切り開いて行った。それが彼らの作家の道であった。自分もまた! こうして彼は勇気を奮って宗教と文学のあいだの鴻溝を飛び越えて、作家の道を行くことになったのである。
『白樺』の同人たちはロシアの作家トルストイを尊敬し、その「人道主義」に心酔していた。有島もその道に分け入ってみた。
「人道主義」とはなにか。彼はそれを次のように定義した。 (一)人道主義とは、「自己」に特色を置く生き方である。自己を無視する自然主義者とは違って、人道主義者は自己を見つめようとする。ソクラテスは「自分自身を知れ」と言ったが、人道主義者は「自分自身であれ」と言う。 (二)人道主義とは、「二元より一元への道」である。世の人々は「是か非か」の二元的立場に立って、打算的で不純な犠牲や努力をして生活している。人道主義はそうした苦しい二元的生活を超えて、一元的生活に到ろうとする運動である。言い換えれば、人間が本来そうあるべく輝いて生きられるように、「生命改造」をしようという運動なのである。
近代人の不徹底は、すべからく二元的な物の考えから起こっている。われわれは二元の「不純」を超えて、一元の「純」に生きるべきである。すなわち「純一の力」によって生活すべきなのである。「純一の力」とは何か。それは芸術の力であり、文学の力である。こうした力をもってこそ、「失われた楽園」、「絶対の境地」は再獲得されるのだと彼は主張した。
しかしながらこうした主張は、どれだけ彼の文学作品に実現され、どれだけ読者に受け入れられたのであろうか。かつての師の内村は「カインの末裔」、「反逆者」、「死」といった「凄味を帯びた題目」に驚かされて、読もうとしなかったと言っている。では、実際に読んだ人たちはどうだったのだろうか。実は、彼がもっとも力を入れて書いた長編小説『ある女』も、決して思ったように理解されなかったのである。
思想や信念が理解されない不幸は、新しい時代の預言者に共通のものである。イプセンもホイットマンもその不幸にみまわれた。トルストイもそうであった。しかし有島の不幸はもっとたちが悪かった。世界の巨匠たちのように目に見えた迫害にさらされる代わり、世間から無視されるという迫害にさいなまれたのである。特に『或る女』のあと、自分のすべてを注ぎ込み、精魂を尽くして書き上げた「惜しみなく愛は奪う」が何の反響も引き起こさなかったので、彼は次第に弱気になり、底知れぬ淋しさに落ち込んだ。
鴻溝を飛び越えて作家の道に踏み込んで十三年、この道も「失われた楽園」、「絶対の境地」に到る道には見えなかった。
そして彼は荒野の前に立っていた。この荒野のむこうに、はたして「約束の地」があるのだろうか。それは行ってみなければ分からないことであった。かくて彼は波多野秋子という人妻とともに、荒野に足を踏み入れて、最後の道、すなわち「死の道」をたどって行ったのであった。 
 
2 悲しき性

生まれ来る 人は持たすな わがうけし 悲しき性(さが)と うれはしき道 
弱きわれ
有島はなぜそれほどまで「二元」にこだわり、「一元」を追い求めたのであろうか。それはおそらく、彼の生まれつきの性質と育ち方に関係があった。
有島は1878年(明治十年)3月4日、東京に生まれた。父の有島武(たけし)は鹿児島出身で、家は島津家の分家筋にあたる平佐藩主に仕えた士族であった。
明治維新は大多数の武士にとって艱難の時代であった。有島家も明治二年の版籍奉還によって禄高が削られ、生活ができなくなったため、故郷を捨てて東京に出てきた。しかし薩摩藩出身の有島武は幸運な武士の一人で、藩閥の力によって大蔵省の役人になることができた。長男の武郎が生まれたときは関税局少書記官で、三年後には関税局権大書記官に昇任、さらに翌年には横浜税関長となった。
父は武士気質を捨てず、武郎に厳しい家庭教育をほどこした。彼は小さいときから父の前でひざを崩すことを許されず、冬でも日が昇る前に庭で立ち木打ちをやらされ、また弓道、馬術も習わされた。母は南部藩の氏族の娘で、彼の家庭教育に一役買った。学校から帰ると、彼は母の前で『論語』や『孝経』を読まされた。意味も分からず素読するのであるが、少しでも読み違えると鋭く叱られた。
しかしながら時代は激変し、「文明開化」という西洋化の高波の中で、武士的な生き方は死滅しつつあった。父はこれからの成功に必要とされるのは洋学だと考え、彼を横浜英和学校に入学させた。この学校はミッションスクールで、キリスト教精神による欧米式の教育を行なっていた。彼はここに六歳から九歳まで在学して英語を勉強した。
父はさらに彼に新時代の上流階級の子として恥じない教育を受けさせようとして、学習院に転校させた。学習院は公卿の子弟のための学問所であったが、明治維新からは皇族、華族のための私立学校に変わり、士族の子弟も次第に入学を許されるようになっていた。彼が入学したときは、すでに半数ほどが士族の子弟であった。彼はおとなしく真面目な少年で、成績もよく、模範的な態度が高く評価されて、翌年には皇太子殿下(後の大正天皇)のご学友の一人に選ばれた。
1896年(明治二十九年)、有島は学習院中等科を卒業した。ここで彼の人生は大きくカーブする。学習院高等科に進まないで、北海道の札幌農学校に行くことになったのである。その理由は、小さいころからあらゆる病気をしてきて、この二年、また病気がひっきりなしに起こって、医者から転地を勧められたからであった。当時北海道は政府の開拓事業が起こされたばかりで、それに憧れる気持ちもあり、転地先として農学校を選んだのである。
この決定は父がなしたものでなく、有島自身がしたものであった。父母の掌中におさまっておとなしく真面目に生きてきた彼が、十八歳の夏、初めて一人で外に歩みだすことになったわけである。
札幌農学校に到ってから、彼は日記(「観想録」)をつけ始めた。これを見ると、青年有島の自己探求のさまがよくうかがえる。
日記の冒頭に、彼は二首の和歌をしるしている。
人はみな 心矯(た)めぬぞ よかりける 柳は緑 花は紅
ひが(僻)心 ありなば正せ 谷の戸に 雛鶯(ひなうぐいす)の 初音やはよき
第一首は札幌に来る前年の作で、そのころの彼は、人はみな柳が緑、花が紅であるように、ただ天然の自分であるのがよく、これに外部的矯正を加えないほうがいいと考えていた。ところが札幌に来てから、考えが変わった。それで第二首を作った。人は曲がった心があったなら、正して行かなければならない。せっかくの鶯の初音も谷の戸(ひが心)には美しく聞こえないという意味である。すなわち彼は自分の欠点を矯正して行く決心をしたのである。
彼の欠点とはなにか。その第一は、「弱さ」であった。からだの弱さだけでない。心の弱さなのである。それは、何事にも一心になれず、何物にも熱中できないという弱さであった。
秋、学校で学芸大会が行われたとき、一人の名士が演説して言った。
「農学校はあえて農学校にとどまっていてはならない。卒業生はただ北海道的人物、ひいては日本的人物をもって甘んじることなく、内村鑑三、新渡戸稲造などがすでにそうであるように、進んで世界的人物にならなければならない。今の学生は月給の額を考えて、東に西に奔走する。なぜ決然と志を立て、献身的な事業にむかって邁進しないのか。」
彼は奮い立った。内村や新渡戸のような大先輩に並び立つことは不可能であろうが、どこか前人未到の地で、自分なりの事業を起こすことができるかもしれない。しかし、具体的にはいったいどのような事業なのか。前々から自分の本領を発揮して世の中に貢献できるのは文学の道ではないかと思っていた。だが今、これが最後の目的だとは思えなくなった。これよりさらに高貴なものがあるにちがいない。それをこそ求めるべきだと考えた。
しかしそのさらに高貴なものを見つけ出す前に、悩みが起こった。教授の一人が、困難に出会ったことのない人間は、他人に寄せる同情が大きくなり得ないと言ったのが心に刺さったのである。彼は自分が今まで困難らしい困難を経験したことがないのをうしろめたく思った。努めて人の困難や辛苦の話に耳を傾け、新渡戸の夜学校にも出かけて、十分な同情のわざを行ってきたつもりでいた。しかしそのような同情は、困難を経験してきた人の同情と比べたら、まったく取るに足りないものにちがいない。
級友の一人が彼に言った。
「誰にでも愛されているあいだは、決して心の奮闘を得ることはできない。心の奮闘がなければ、君のように肉体的に何不自由ない人は、他人に対して真の同情心を起こすことは難しい。」
彼はいたく恥じ入った。そしてこの笞を素直に受けとめて、自省の具としようとした。しかしすぐに弱気になった。
「ぼくには実に的中した忠告だ。しかしぼくのこの遅鈍は天性のいたすところだ。十分矯正の努力はするが、恐らく効果はないだろう。」
ともあれ、彼は自分を矯正する「道」を求めた。そして新渡戸に紹介された曹洞宗の禅寺にかよって、座禅するようになった。そうしたところに、級友の森本厚吉がキリスト教への入信をさそってきた。彼はこれをことわった。しかし森本はあきらめなかった。そしてある事件をきっかけに、彼はついにキリスト教に入って行くことになったのである。
その事件とは、次のようにして起こった。ある日、森本が彼に告白した。
「ぼくは大罪人だ。常に神の存在を確信し、神の掟に従おうと精神を尽くしているのだが、少しの進歩もない。日夜刻苦精励しても神の音容に接することができない。この上は農学校をやめ、ひたすら神を求める道を行き、求め得られなかったときは死によって決着をつけようと思う。」
有島は驚いた。同時に自分を信頼してこのような告白をしてくれたことに感激し、なんとかこの友を救いたいと思った。
彼は考えた。人は死を前にしたときにこそ、初めて真実になれる。そしてその真実の人間にこそ、神はその音容をあらわすにちがいない。だから自分がまず死を透して神を知り、それを遺言として森本に贈れば、彼を救うことになるのではないだろうか。
「死を透して神を知る」。何とも奇妙な考えであるが、これは明らかにカーライルの影響であろう。彼は本気で「永遠の否定」を行い、「虚無の地点」に立つ決心をしたのである。
この決心がかたまるや、彼の身体と心に熱い血が激しくめぐった。彼はこのとき初めて熱心なる自分を見いだして感激した。
彼はこの決心を森本に打ち明けた。森本はびっくりした。そしてきみを死なせるくらいなら自分が死ぬと言い出した。押し問答のあげく、それでは二人でいっしょに死のうということになった。
二人は一丁の猟銃をもって定山渓(じょうざんけい)におもむいた。そして決行は明日ということにして、宿に泊まった。
その夜、何があったのか、二人は考えなおして、けっきょく死なないことにした。そして翌日と次の日を山中で過ごし、三日目の夕暮れ、下山の途についた。日記にはそのときの情景が詳しく書かれている。
林の中を行くと、空は青く晴れ渡り、地は雪におおわれて一面の白であった。うっそうと茂る樹木の上に、十三夜の月が静かに昇った。耳を傾けると、遥かの谷底に水が流れる音が聞こえ、鳥のさえずり声もする。かなたには木材を積んだ馬橇が走っていて、馬鈴の音がリンリンと響いてくる。この大自然の景観に彼は酔ったようになり、カーライルの言葉を思い出した。
「おお、自然よ! 自然とはなにか? 然り! そなたを神と名づけよう。そなたこそは神の生ける衣裳ではないか!」
自殺を思いとどまって、神の音容に触れることに失敗したと思っていた。しかし真剣に死を決心したことで十分だったのかもしれない。なぜならこの眼前の自然の中に神がいる。いな、この自然そのものが神なのだ。「死を透して神を知る」ことの代わりに、彼は「自然を透して神を知る」ことを得たのだった。
札幌にもどってから、彼は入信を決意した。そして洗礼を受けて札幌独立教会に所属するようになったのである。 
月夜の世界
こうして信仰生活の第一歩を踏み出した彼は、『聖書』を熱心に読み、同時に内村鑑三の『求安録』も熱心に読んだ。
『求安録』は、火の人内村の精神の記録である。それは「罪」の問題から始まる。内村は人が罪によって生まれ、罪のなかに成長し、汚穢の泥に沈んでいる現実を、キリスト教に接するやいなや悟った。この泥中から這い出して、清浄で完全な人間になるにはどうすればいいか。彼はさまざまな道を試してみた。だがどの道も救いにはならなかった。こうして彷徨すること十数年、最後にようやく「神の子羊」を見いだした。そして「神の子イエスの贖罪」以外に、人が救われる道はないと悟った。
有島は内村に敬服していた。しかし第一歩を踏み出したばかりの彼が、十数年の彷徨のはてにようやく得た内村の悟りを、そのまま自分のものとすることはできなかった。神の子羊、十字架上のキリストはそこに見えていた。しかし見えているだけで、彼との距離は永遠に縮まらないかのように遠かった。彼は日記に書いている。
「僕がキリストに到るのは、ラクダが針の眼を通りぬけるよりも難しい。」
祈りも、彼は教会堂や部屋の中で祈るより、戸外の自然の中で行うことを好んだ。とりわけ月夜の水辺が彼の祈りにもっともふさわしい場所であった。
ある夜、激しい雨があがった後、彼は川の岸辺に「神の黙示」を得ようとしてでかけた。洗い清められた天の一方に、満月に近い月が美しくかかっている。橋の上に立てば、水面は銀を流したようで、黒衣をまとった山が魔のように横たわっている。堤にすわって彼は月と水を眺め続けた。
彼は少年のころから異常なほど月を愛していた。病気ばかりして、鎌倉の別荘で療養することがよくあった彼にとって、夜の世界を白々と照らす月はいかにも「あわれ」深いものであったのだろう。ある時は東京から見舞いに来た母と妹とともに、月を題に和歌を詠んで遊んだ。母にはそうした風流心があり、彼もそれを受け継いでいた。文学の道に進みたいと思ったのも、それと関係があった。そして今、信仰の道に入ってからも、それを洗い落とすことはなかったのである。
内村は「大いなる光」(太陽)が照らす昼の世界を愛した。しかし有島は「小さき光」(月・星)の夜の世界を愛した。太陽の昼の世界は荒々しく、騒々しい世界であるが、月と星の夜の世界はかぎりなく静かで清浄である。
たとえば、アメリカのヘンリー・ロングフェロー(1807〜1882年)の詩に、「エンディミオン」というのがある。内村が日本語に訳していたが、有島はこれが好きであった。
エンディミオンはギリシャ神話に出てくる羊飼いの少年で、永遠に紅顔を保ちたいと思い、終生眠りの中に過ごしたいとジュピター神に願い出た。そして許されて、ラトモス山の頂上で永遠の眠りについた。月の女神のダイアナが夜毎に降りて来てやさしく接吻したが、彼はまったく知らないで眠り続けていたという。 ロングフェローは、エンディミオンがダイアナの愛の接吻を知らないで眠っていたように、人も神に愛されていることを知らないでいるという寓意をこめており、内村もその寓意を愛していたのだが、有島はそれには関心をむけず、ただ清浄な月の光の中で永遠に眠り続ける紅顔の美少年に魅せられているのである。
彼はできることなら、自分も月の下で死にたいと望んでいた。
「月よ、実に慕わしい月よ、如何なる場にか、何時の時にか、死神が僕の胸を封じ、僕の眼を閉じさせることがあるだろう。この時僕は病床を南面の窓の下に移し、満身そなたの淡く清い光に浴し、そなたを我が胸に抱き、眼に刻み、接吻してから永く逝きたいと願う。」
月下の死。彼はそれにイエス・キリストを重ねあわせた。ゴルゴダの丘に引いて行かれる前、イエスはゲッセマネの園で祈っていた。その上にも月は照っていたに違いないと彼は想像した。
「月、この月、僕は忽然として胸中にゲッセマネの光景を思い浮べた。二千年にもなるその昔、荒れた果樹園の中で血の涙を流し、血の汗を流して祈った人が仰ぎ見たのもこの月ではなかったか。彼は人間という罪悪の奴隷をも捨てることなく、立ってから斃れる迄、ただただわれわれのために道を開こうと、血の涙と血の汗とを注いだのだ。ああ尊いその愛、高いその義。われらが見るべ きは、ただこれである。」
ゴルゴダの丘の十字架は遠かった。しかし少なくとも彼はゲッセマネの園にはいたった。そして苦悶する孤独なキリスト、迫り来る死にわななくキリストを見つめた。
「主もまた『哀しみの人』だった。これはわれわれにとって何という慰めであろう。哀しみの人哀しみの人。このかたの中には無限の慈涙があって、われわれの罪を洗ってくれるのを覚える。」
彼は十字架上のキリストの肉体から流れ出た「血」よりも、キリストの「涙」を好んだ。「血の贖罪」よりは「涙の贖罪」。月下にふさわしいものは、生々しい流血ではなく、この上なく悲しい落涙なのであった。 
不浄の罪
昼の世界にあっては、彼は荒々しさ、騒々しさを避けて、片隅にひっそりと隠れて存在するものを愛した。たとえば、こくわ(猿梨)、すみれ、菊などの花である。これらの花はみな星の光、すなわち永遠の光を宿しているように思えた。彼はそれらの花をたたえる詩や和歌を作って日記に記している。
こくわ
かよわき幹の末細く うなだるる葉の色浅き
身はつる草のあはれにも 黒木の枝をたよりにて
日の目も見えぬ葉の影に 御空に残る明星の
淡き光を宿しつつ 暮(くれ)遠白き夕霧の
凝りにし露を伴(とも)にして 人もましらも道知らぬ
深山(みやま)に生ふるこくわ木の 春の心やくみぬらん 
ひそかに咲ける花見れば 清き色あり香(かおり)あり 
すみれは、こくわよりもっと星に似ている。と言うよりも、星が地上に流されて来て花になったのである。
空に生れて やさしき何の 科(とが)か得し 面(おも)はゆげなるそのこむらさき
罪負(お)ふ子 我れにやさしき 神の御手 エデンの栄(さかえ)を この花に賜ひし
エデンの光をたたえたすみれの花。「高く潔い香りが人を襲ってこの上なく心を熱くする。実に花はわれわれが交わる自然の中の恋人だ。」と言うほどに、彼はすみれを愛した。また「ミルは無神論者であったそうだが、外出する時は必ずポケットにすみれの種子をいれておいて、路傍に散布した」とも言っている。無神論者さえ思わず愛してしまうすみれの花の種子は、「からし種」より有効に「神の国」の存在を確証するわけである。したがってすみれ咲く小川のほとりは、彼にとっての「聖地」であった。
ソロモンが 立てし シオンの宮居(みやい)の地も
この地の聖(きよ)きに 若(し)くべしや。
十戒をば モーゼが受けし シナイの山も
この地の聖きに 若くべしや。
来たらんものは 履(くつ)を脱げよ。
この地 聖ければなり。
去らんものは 面を伏せよ
この地 聖ければなり。
日この上を回(めぐ)らん時 暫(しば)したゆたひ
月傾かんとして なおこの地を去りがてなる。
聖地 聖地 聖地とは何処(どこ)ぞ
心の眼なき者は見得じ。
思ひのかたくななるものは侮(あなど)らん
されども我に 聖き地とは
清き小川のほとりにて
御神が守りて 咲かしめ給ふ
壷菫(つぼすみれ)咲く五歩の草原。
シオンはエルサレムにある丘で、ダビデ王がここに町を作り、十戒を刻んだ石碑を入れた箱を移し、祭壇を築いてから、エホバ神の聖なる山と呼ばれるようになった。またシナイは、モーゼが神からイスラエル人をエジプトから連れ出すように命じられた山、十戒を授けられた山である。このようにシオンもシナイも、神の十戒ゆえに「聖」とされる地なのであるが、有島はそうした「聖性」には関心がない。彼にとってはすみれ咲く清き小川のほとりこそ、シナイやシオンにもまして「聖」なる地なのであった。
菊もまた天上の光、不滅の栄えの光を宿す花である。友人宛ての手紙の中で、彼はこう言っている。
「僕の机の上に菊の一枝が生けてある。この可愛いい慕わしい花が一輪でもこの世の中に残っている間、僕は失望しまいと思ふ。これにはドーしても何物かが何物かを愛する深遠な意味があるとしか思えないからである。」
人はみな楽園を追われたアダムとイヴの末裔であり、生まれながら「罪負う子」である。しかし神がいまだ完全に地上を見捨てないでいる限り、自分のような罪の子も生き続けていいのであろう。花に宿る光は「空の虹」のように、神の約束をあらわしているようである。彼は決心をあらたにした。
「先ず改良すべきは自己である。自己を改良して自然に接し、自然を透して神を知ることができれば、僕のできることは終わる。」
たゆまず心を浄化して行くならば、いつか流罪を赦されて、天上に帰ることができるだろうと希望したのである。
しかしながら彼の希望は、あまりにもしばしば打ち砕かれた。花の天上的清らかさに対して、自分は何と汚れた人間なのだろう。この「不浄」の罪は生れながら自分の血の中を流れている。自分の力、自分の意思で取りのけようとしても、できるものでなかった。
「幾度か悔いて、幾度か犯し、幾度か犯して、幾度か悔いる。このようにして自分はいつ神の子と称せられることができるのか。思えば天にも属することができず、地にも下ることができず、苦しいのはわが生である。」
これはいかなる罪の告白なのか。おそらく青年を悩ます「性欲」を、彼は「不浄の罪」と考えたのであろう。たとえば彼をかわいがってくれた祖母が危篤に陥った時、厳粛な場合であったにもかかわらず、夜中に用事でやってきた寝巻姿の看護婦を、「心の中で十分に辱かしめていた」。このような自分を神が愛してくれるはずがないと思った。
使徒パウロも「ロマ書」の中で次のように言っている。
「あなたは神が豊かに慈愛深く、寛容で、常に忍耐して下さるので軽く見ているのか。あなたは神の慈愛があなたを悔改に導くためのものであるのを知らない。剛愎にして悔なき心にしたがって、自分から神の怒を積み、神の義が最後に現われる震怒の日に及ぶのである。」
彼は自分が神の愛に値する純潔の「義人」であるとは思えなかった。かつてのノアの時代のように神が地上の不義に震怒する日が来たならば、自分はどうなるのだろうか。
『旧約聖書』の「イザヤ書」が言っている。
「彼らがやっと植えられ、やっと蒔かれやっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。」
嵐の日、彼は恐れた。そして日記に次のように書いた。
「嵐が吹き落ちて戸や障子が皆鳴る。恐ろしい天地の激怒である。この夕べ僕は独り机に向って黙座していたが、どうしようもなく憂神の虜となった。祈り、思い、聖書を読み、風に耳を傾け、又祈っていると、ばらばらと涙が落ちて止まらなかった。一言で言えば、僕はまだ神に全く僕のすべてを捧げることができないのである。・・・神はこのように不遜な者の祈りに耳を傾けてくれることはないだろう。・・・僕には勇気がない。敬虔の情がない。従順の念がない。・・・災なるかな我が魂。嵐はなおますます暴れにとしていた。激風は 怒号して雪は屋窓に逼る。天は僕のために怒っているのではないだろうか。真に恐懼に堪えなかった。神は僕のためにこの大暴風を起こし、僕の不従順を責めておられるのか。はたしてそうならば、そのあまりに余りに徹底した眷顧のために、身の置き所がないまで恐ろしく思う。」
自分の力ではどうにもならない「不浄の罪」を背負う彼は、清浄な「神の国」から絶望的にへだてられ、流刑の地上からただ悲しい憧れをもって望み見るだけであった。そして自分を「弱くもなりきれず、強くもなりきれない本当の弱者」だと思った。 
外闇の子
この「弱者」は、西洋の宗教詩人を敬愛していたが、彼らの仲間になれる者ではなかった。農学校を卒業し、アメリカ留学の準備をしていたとき、彼はイギリスのアルフレッド・テニソン(1809〜1892年)の「罪の光景」(Vision of Sin)に挑戦した。しかし「自分の読書力が足りないからか、詩想が欠けているからか、遂に了解する事ができなかった」と匙を投げた。
「罪の光景」は、確かに不可思議な光景を描く。夜の城に一人の若者が天馬に乗ってやって来る。すると城の中から「罪の子」が出て来て、若者を中に誘い入れる。城の中では、多くの人々が酒樽やワイン袋のそばに横たわり、噴水が噴き出るのを待っている。やがて地の底から音楽が響き、噴水が吹き出す。すると彼らは色を変えて立ち上がり、髪を振りたててかけまわり、恍惚の苦悩の中に、地に倒れ死ぬまで狂乱する。
城の外では、ヒースの荒野に、死に神のように痩せ細った灰色の男が現れて説教した。
「人生は短い。誰も彼も必ず骨になり、塵に化す。その時が来るまではただひたすら楽しみを追うべきだ。」
この男の説教が終る頃、城の中では人と馬がウジ虫に食い破られ、形を失い、ドロドロになって行った。すると「声」が響いた。
「見よ!これは時とともに衰える感覚が感覚によって復讐されているのだ。」
「感覚の犯罪は悪意の犯罪になり、同じように責められるのだ。」
「あいつはまだ万全の力をふるうことはできない。一片の良心があいつに苦い思いをさせるのだ。」
最後に山の斜面から山頂に向かって一つの声が上がった。
「希望は残されているのか?」
すると山頂から雷鳴のような声が轟いたが、人が理解できるような声ではなかった。ただ山の中腹はおそろしいほどの夜明けのバラ色にそまっていた。
テニソンは「預言者的ヴィジョンの詩人」と言われているが、確かにこの詩はヨハネの「黙示録」のように難解である。
テニソンの研究者は、テニソンの詩には常に懐疑の声が響いているが、必ずオプディミズムで終ると言っている。この詩でも、最後に「声」が聞いている。
「希望は残されているのか。」
それに対して、山頂から雷鳴のごとき声が響く。それは「是」と言っているのか「否」と言っているのかはっきり分からない。しかし「山の中腹はおそろしいほどの夜明けのバラ色にそまっていた」のであり、それは大洪水のあとの虹のように、神が人類を滅ぼさないという「しるし」であるにちがいない。そこにテニソンのオプティミズムがあらわされているわけである。
有島が匙を投げたのは、このオプティミズムを読み取ることができなかったからであろう。もし読み取れたとしても、彼がそれに共鳴したかどうかは疑わしい。なぜならばこのオプティミズムは、立ちはだかる懐疑の岩を何らかの方法で打ち砕くのではなく、神の叡智を信頼し、それを翼にして、その岩を翔び越えるのである。有島も「菊の花が一輪でもこの世の中に残っている間、僕は失望しまい」と言っているが、それは「おそろしいほどの夜明けのバラ色」と比べてあまりにも弱々しく、とうてい懐疑の岩を飛び越える力になりそうもない。
彼はそれよりも、日本的ペシミズムに傾いていた。たとえば、永野武三郎(ながのたけさぶろう・1870〜1898年)の詩に表わされたペシミズムである。
永野武三郎はクリスチャン詩人で、用無(ヨナ)というペンネームを使っていた。立教中学に在学し、友人たちと学内の伝道に励んでいたが、八王子に大火があった時、救援活動に参加し、これが原因で病を得て亡くなった。友人たちは彼の早すぎる死を悼み、彼の詩を集めて『用無遺稿』として刊行した。たまたま用無の詩を知って感動した有島は、さっそく立教中学に手紙を書き、『用無遺稿』を一冊手に入れた。
永野の詩の中で、有島をもっとも強く感動させたのは、「絶望憤」であった。その要旨は次のようである。
「鳥や獣は憂いも悲しみもなく、始めから塵をむさぼり、終わりに塵に帰って行く。しかし人と生まれた者は悟りを得ることを求められているので、そのためにこそ悲しまなければならない。自分の目はすでに神の力を見た。耳はすでに神のめぐみを聞いた。それゆえ苦しみは大きい。甲斐もない望みが早く絶えて、忘却の国に憩いたいのだが、いたずらに救いを望み、むなしく助けを待っている。悟りのない獣は無心に滅びることができるが、人としての自分は悟りのために、「望みなき望み」に苦しみの命をつないでいる。自分の魂は汚れており、ヒソプを使っても、灰汁を使っても洗い落とせない。神の救いの約束を信じないわけではない。しかしすべての人にとって喜びのおとずれである「福音」は、逆に「かなしみのつげ」と響く。なぜならかくも汚れた自分にとって、救いの約束(望み)は虹の足のようなものだからである。虹の足は麓に行けば頂にあり、頂に到れば海の中にあり、海に出れば彼方の岸に去るというように、追う者を惑わし、虚しく疲れさせ、つかんだと思った時は風のように、泡のように、消えてしまうのである。むなしい望みは早く絶えたほうがいい。」
東京の近代日本文学館に、有島が所有していた『用無遺稿』が所蔵されているが、「絶望憤」の各所には書込みや傍点があり、彼がいかにこの詩に強く共鳴していたかがうかがえる。彼が描いた彩色画も貼られている。それは裸の男が帆を立てた筏にのって黒い海に浮かんでいる絵である。
永野は懐疑において、絶望において、有島の心をつかんだ。しかし、有島と永野には決定的な違いがあった。永野は絶望のどん底で、神のあわれみを忘れることがなかった。それは浄土真宗の教え、「地獄は一定住みか」に徹した時にはじめて仏の慈悲の光がさしこむというのに似ている。すなわち、「絶望憤」は「望みなき望み」のはてに現われる神のあわれみを「夢みる」ことによって終わっているのである。それに対して有島は次のような書き込みをしている。
「彼は遂に全能者の赦しを得てとこしえに逝った。ああ、僕はいつになったら彼の跡に従って往くことができるのだろうか。」
有島は永野を羨望した。永野は徹底的に絶望することができた。だからこそ絶望の底に「夢」を得た。しかし自分の信仰はと言えば、「夢」よりもはるかに不確かな「まぼろし」なのであった。
有島のまわりでは信仰の友達が「希望」に、そして「夢」に支えられて生きている。しかし彼は「僕独りが尚アウター・ダークネス(外の闇)にいる」と思わないではいられなかった。
「外の闇」というのは、聖書の「マタイ傳」に出てくるたとえ話である。ある王が王子のために婚礼の宴を設けた。しかし招待客は他のことに忙しくて、誰も来なかった。王は怒って兵隊を出し、その人々を殺し、彼らの町を焼き払った。そして召使たちに道路に出ていって、誰でもいいから宴会に招くように言いつけた。こうして宴会場は人でいっぱいになったが、一人だけ礼服を着ていない者がいた。王がどうして礼服を着ていないのかと聞くと、彼は黙っていた。王は怒って召使たちに「あいつの手足を縛って外の暗やみに放り出せ。やつはそこで泣いて歯ぎしりするのだ。」と言った。
有島は自分をその放り出された男だとした。いや、その男よりもっと悪かったかもしれない。彼は一度も神の家に入れられたことがなく、ずっと外の闇の中にたたずんでいるのであったから。 
うれはしき道
有島が徹底的に希望することも、徹底的に絶望することもできなかったのは、彼の日本的「風流心」のためだったかもしれない。「風流」とは、「みやび」と「あそび」の精神であり、脱俗、超現実の境地から静かに世界を観照する態度である。極端に歓喜することも、身も世もなく嘆くことも、「風流」の精神からはずれる。
キリスト教の道に入ってからも、彼は風流心をすてることがなかった。月や星や花を愛したのがそれであった。そして、さらに見逃せないのは、死に対する彼の態度である。死は憎むべきもの、うち滅ぼすべきものではなく、「あわれ」なものとして受け入れているのである。
日記によると、彼は森本と「未来における人間の死活」について論議したことがあった。森本はみずから意図して罪を犯した者は地獄の苦を脱することができないと主張したが、彼はいかなる罪人も未来永劫の後に必ず救われる時機があると主張した。両者譲らず拮抗したあげく、彼は涙を流してしまった。
彼はテニソンよりも、ウイリアム・ワーズワース(1770〜1850年)が好きであった。そして「ルーシー・グレー」という詩を訳して日記に書いている。
ルーシー・グレーは従順な少女であった。嵐が来そうな日、彼女は父の言いつけでランタンを持ち、町に行っている母を迎えに行った。ところが町にたどりつく前に嵐がやってきて、彼女は行方が知れなくなり、母は一人で帰ってきた。翌日、父と母は夢中で彼女をさがして歩き、最後に雪の上に残った彼女の足跡を見つけた。それは川にかかった木の橋にむかっており、橋の途中で消えていた。
川の底に沈んで死んでしまった少女。しかし人々は彼女が生きているのを見たと言う。永遠に美しい少女のままで、歌を歌いながら野原を歩きまわっているのを見たと言う。
ワーズワースにとって、「永滅の死」は、同時に「無限の生」であった。極端な悲惨を嫌う風流精神からして、有島はこうした「生死一如観」を好んだのであろう。
極端な悲惨の中で、もっとも極端な悲惨は、ゴルゴダの丘のイエス・キリストの死である。その悲惨な死のむこうには、「復活」という永遠の命の喜びがあるのだが、有島の足はゲッセマネの園でとまってしまった。ゴルゴダの丘が「虚無の地点」であるとしても、そのような「虚無の地点」を通らないでも「永遠の肯定」にいたる道はないのだろうか。ワーズワースはそれを見つけたようである。そしてイギリスの詩人画家、ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ(1828〜1882年)も見つけていたようである。
ロゼッティには「祝福されたおとめ」という詩と絵がある。現在ハーバード大学美術館に所蔵されている絵には、天上の美少女の横顔が描かれている。美少女は白百合の花を手にし、黄金のかんぬきから身をのりだし、地上から天上に上って来る道を見下ろしている。恋人がその道を上って来るのをひたすら待っているのである。そしておとめは考える。
「彼は来るのだろうか。いや、必ず来るだろう。もし彼が来たら、光の泉に向かって手をとって歩もう。そして流れの中に入って、神のまなざしの中で身を洗う。それから人影がなく、灯りだけがたえまなく燃え、祈りが捧げられている神殿におもむく。そこで二人のこれまでの祈りは聞き入れられ、融けて雲のようになるだろう。それから二人は神秘の命の木の蔭に横たわる。ひそかな茂りの中には鳩がやどり、その羽毛が触れた葉の一枚一枚が主の名を高らかに叫ぶ。そしてわたしは彼に教える。天界で歌う歌を。」
天上での再会に別れはない。天上での愛に終わりはない。永遠の至福の時をおとめは待ちこがれる。しかし彼はやって来ない。見つめるおとめの眼前で、地上からの道は次第におぼろげに消えて行く。おとめは両腕を黄金のかんぬきの上の置き、両手の中に顔を埋めて、すすり泣いた。
この道は、ゴルゴダの丘から来る道ではない。地上から直接来る道である。しかしながらおとめの恋人は姿をあらわさない。何が恋人に起こったのか。そのうちその道も消えて行きそうになる。
有島はこの恋人に自分を重ねあわせていたかもしれない。弱い自分は罪の重荷に耐えかねて、とうてい一人でこの道を登って行くことはできない。なぜならこの道は平坦で安易な道ではなく、「剣難の一路」という「うれはしき道」なのだった。
一人で登って行くことはできない。しかし、もしもだれかが伴侶になってくれたならば、できるかもしれない。
では、だれが自分の伴侶になってくれるのか。自分は地上に流されたアダムの子である。それならば最もふさわしい伴侶はイヴの子しかいない。彼はそうしたイヴの子として、聖書に出てくる罪の女たちに心が惹かれた。
後に文学の道に入ってから、彼は「サムソンとデリラ」、「聖餐」という聖書劇を書くのであるが、そこには罪の女が出てくる。彼の代表作となる『ある女』も罪の女である。そして、最後に、彼とともに「うれはしき道」を歩むことになった波多野秋子は、不倫の人妻という現実の罪の女であった。 
 
3 おぞましき火

世の常の 我が恋ならばかくばかり おぞましき火に 身はや焼くべき 
魍魎の家
三年におよぶアメリカ留学中、有島は強い「憂情」に悩むことがよくあった。
ハバフォード大学を卒業した後、ペンシルバニアからボストンに移り、さらにボルチモアに行き、ワシントンに行った。そして国会図書館であらゆる分野の本を読んだ。社会主義関係の本も読み、ロシア文学にも関心を寄せ、マクシム・ゴーリキー(1868〜1936年)の影響を受け、最初の創作「かんかん蟲」を書いた。
社会主義への関心は、「同情心の欠如」として批判された自分の弱さを克服するためであった。そのためペンシルバニアでは二か月ほど、精神病院で看護人として働いてみた。またボストンに移ってからは、ニューハンプシャーの農家に働きに行ったりした。しかしこうした努力は、失意の結果にしかならなかった。
「私は弱かった。自分の家には、財産があるというこの心持ちを、実行的に去勢する勇気がなかった。それゆえ私は自分の労働でいかに油のような汗を流してみても、結局それは飯事に終わってしまった。」
「憂情」の原因は、この失意であったのだろう。そしてそれは「帰国して何をなすべきか」の問題と結びつき、彼を苦しめた。
七か月のヨーロッパ旅行のあと、彼は帰国した。それから三か月のあいだ兵役に服務し、母校の札幌農学校(東北帝国大学農科大学)の英語講師になった。自分から望んで得た仕事ではなかった。さしあたってそれしかできることがなかったからで、非常に淋しい気持ちで彼は赴任した。
「ああ、自分はあまりに憂うつである。誰も、何物も、自分を慰め得ない。もしもさらに真実に、人間生活に溌剌と触れることができさえしたならば!否、人間生活でなく、『生命』それ自身に。自分は生命のある生涯を送っているのではなく、死んだ生涯を送っているのだ。厭わしい、生半可な生存に呪いあれ!」
生きているのに生きている実感がない。彼はピストルを手に入れた。それを使っていつでも死ぬことができる。そう思うことが慰めになった。
また、ホイットマンから力を得ようと思った。ホイットマンは神の似姿のアダムにもどることをすでに成し遂げたかのように、自分を賛美している。
早朝のアダムのように
眠りによって元気を回復し
寝所から外に歩き出る
通りすぎる僕を見たまえ
声を聞きたまえ
近づいて触れて見たまえ
通りすぎる僕の身体に
きみの手で触れて見たまえ
恐れないで・・・ (「アダムの子ら」) 
有島はホイットマンのこの「野の声」を、他の人々にも聞かせたいと思った。そこで英語の授業でホイットマン詩を教え、「草の葉会」という研究会を開いたり、ホイットマンについての講演をしたり、エッセイを書いたり、また『草の葉』から主なものを選び出して日本語に翻訳したりした。
やがて父から結婚話がもち出された。彼はだれも自分の結婚問題などに関心を持たないでくれたらどんなにありがたいことだろうかと思った。そうしたら一生孤独で暮らすだろう。しかし彼は父に「否」を言える強さを持っていなかった。かくて神尾安子と結婚した。
「肉」をかたく縛ってきた彼は、それまで女性に触れたことがなかった。結婚は晴れてその束縛からの解放のはずであったが、「憂情」は去らなかった。彼は不幸であった。そして不幸な夫を持った妻は、なおのこと不幸であった。二人の間に絶え間ない葛藤が起こった。そして彼は次のような詩を書いた。
魍魎(すだま)ぞ駆ける家の中を
北向の障子に春雨空の光映りて
裏小路に豆腐売る声
此の詩かく机の上に
銀と金との時計二つカチカチと鳴り
若き妻の畳はく音
襖(ふすま)一重のかなたに聞ゆる
尚(なお)書き続けんと
暫く案ずる暇とめて
おそろしむごし
魍魎ぞ駆ける家の中を
ともかくも結婚生活は続いて、三人の男の子が生まれた。ところが1914年(大正三年)、妻が結核に犯されて倒れてしまった。暖かい地方への転地が必要となったので、彼は職を辞して東京にもどった。そして妻は平塚の杏雲堂病院に入り、彼は東京と平塚のあいだを往復する別居生活となった。
魍魎の家はこうしてなくなった。しかし「憂情」ははたして消えたのであろうか。自由になった彼は、作家の道を歩み出し、『白樺』に創作を発表して行ったが、どれにも暗い影がつきまとっている。
その暗い影の一つは、死である。むかしから彼は死に魅せられたところがあったが、今、死は現実として、妻に近づきつつある。妻はその手につかまえられて消滅するのだろう。それを誰もとめることができない。彼はそれを「運命」として嘆いた。
「運命は現象を支配する。現象によって暗示される運命の目論見は、『死』だ。何となればあらゆる現象の窮極する所は死滅だからである。」(「運命の訴へ」)
人は運命の目論見に烈しく反抗し、それに打ち克とうとする一念に熱中する。しかしそれは「水に溺れて一片の藁にすがろうとする空しいはかない努力」にすぎない。従ってついに死がその道をやって来る時、われわれは運命と固く握手すべきだ。そして運命の片腕となって、運命の仕事を助けるのだ。このように主張したあと、彼はホイットマンの詩「来い、可憐ななつかしい死よ」をあげている。
ホイットマンは「死と戦い、死を滅ぼして、永遠のいのちを獲得せよ」などとは言わない。死者のよみがえりである「復活」を説かない。有島はそれに安心して、死を賛美して言っている。
「私ははじめて生の喜びの如何なるものであるかを知った。生とは押しなべて人の言い草のように死の対照ではない。生の大海原から遁れ出得る如何なる泡沫があり得よう。死ーー死も亦生に貢(みつぎ)する一つの流れに過ぎないのだ。劫初から劫末に、人の耳には余りに高い音楽を奏でつつ、滔々と流れ漂う生の海原は、今の私の眼の前にほのぼのと開け渡る。凡ての魂はこの海原に聳(そび)え立つ五百重(いおえ)の波である。その美しさと勇ましさとを見ないか。この晴れやかな光に照らされると、死もまた一人の保護女神だ。死を讃美しよう。」(「草の葉(ホイットマンに関する考察)」) 
運命の伴侶
妻の看病のあいまに、彼は「サムソンとデリラ」という聖書劇を書いて『白樺』に発表した。教会を脱退してから五年がたっていた。なぜこのときになって聖書劇を書く気になったのか。教会を捨てても、信仰心を捨てたわけではなかったと推測することもできるが、よく見ると、彼は聖書の事件をそのままドラマ化したのではなく、サムソンとデリラもそのままの人物ではないのである。つまり彼はこの聖書の事件を借りて、ほかのことを言い表そうとしているのである。
サムソンとデリラの事件は、『旧約聖書』の「士師記」に出てくる。当時、イスラエル人はペリシテ人に支配されており、サムソンはイスラエル人を解放するために「神のナジル人」(神に選ばれた者)として生まれた。その約束に、彼は髪の毛を切ってはいけないことになっていた。
サムソンは超人的な力の持ち主であった。その力は「神の霊が彼に下る」ときに発揮され、襲ってくる獅子を一撃のもとに倒すのは朝めし前、驢馬のあごの骨でペリシテ人を千人も打ち殺すこともあった。
ペリシテ人はサムソンを恐れ、彼の力の秘密を知ろうとした。それでサムソンがなじみになっている遊女のデリラにそれをさぐりだすように命じた。成功すれば多額の銀を与えるという約束だった。デリラは毎日サムソンに迫った。サムソンはウソの答えを与えていたが、あまり執拗に責め立てられ、死ぬほどつらくなって、とうとう秘密を明かしてしまった。デリラはサムソンが眠っている間に髪の毛をそり落とし、ペリシテ人を呼んだ。サムソンは眠りからさめて、いつものように敵をなぎ倒そうとしたが、まったく力が出なかった。
ペリシテ人はサムソンの目をえぐり出し、青銅の足枷をかけ、牢の中で石臼をひかせた。それからダゴン神の祭りを行い、サムソンを見せ物にしようとした。神殿の柱の間に立たせられたサムソンは、天にむかって叫んだ。
「神よ。主よ。どうぞ私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞこの一時、私を強めてください。えぐられた二つの目のために、彼らに復讐したいのです。」
そして神殿を支えている二本の柱を両手にかかえ、力をこめて引くと、神殿の屋根が崩れ落ち、そこにいた人々はみな潰されて死んだ。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
この事件は西洋でも多くの文学者の関心を引き、イギリスのジョン・ミルトン(1608〜1674年)は「苦悩のサムソン」というドラマを、フランスのシャルル・カミーユ・サンサーンス(1835〜1921年)は「サムソンとデリラ」というオペラを作っていた。ミルトンもサンサーンスも人物の性格に手を加えることはしていない。しかし有島は人物だけでなく、事件にまでも手を加えている。
聖書のサムソンは、士師であった。士師というのは部族の指導者のことで、並はずれのカリスマ性に恵まれ、それによって民族や部族に救いをもたらす者であった。サムソンはそのために「神から選ばれた者」で、彼の超人的力は「神の霊が激しく彼の上に下った」ときに発揮された。つまり彼は神の「霊」、すなわち「力」の媒介、道具であり、異教徒に対する神の復讐の武器なのであった。したがって見るからに筋骨たくましい大男などである必要はなかった。ところが有島のサムソンは、大男の野人なのである。デリラを追ってペリシテ人の首都ガザンにやって来た時など、わけもなく狂暴である。彼はデリラに言う。
サムソン 「道で遇った第一の男の喉輪を締めて、お前のありかを尋ねたら、ここにいると言った。私はその男を土に打ちつけて殺した。第二の男も第三の男もお前がここにいると言った。第二の男は海の中に、第三の男は家の屋根に投げつけた。その男達は醜くも小さなこの世の命から救われたに違いない。」
彼の狂暴はこれにとどまらない。デリラを引立てて帰ろうとするサムソンをペリシテ人の祭司がとめだてすると、猛然と殴り殺してしまう。そしてデリラを軽々と左肩の上に乗せて、悠々と立ち去るのである。
聖書のサムソンは決してこのようにわけもなく狂暴ではない。彼がペリシテ人を打ち殺すのは、イスラエル人を虐げているペリシテ人に対する神の復讐なのであり、従って狂暴な行為には正当性があった。しかし有島のサムソンにはこのような正当性がない。彼の怪力は「神の霊が激しく下る」時だけに発揮されるのではなく、常に彼の肉体に宿っており、意のままに使える所有物になっている。
有島のサムソンが理不尽に狂暴なのは、生れつきではなく、彼が全身全霊で愛した処女に裏切られたからだとされている。それ以前のサムソンは、エデンの園から追放される前の「原初のアダム」のように、純粋で健やかであった。ところが処女の裏切りによって、彼の魂は寸断され、野獣のように凶暴な男に堕落してしまった。そして男の堕落の原因を作るすべての女を呪う者となってしまった。デリラに対しても、彼はひどく罵って言う。
サムソン 「おおデリラ。・・永久にエホバの呪いを受けたイヴの末裔、悪魔の種。泣きながら笑い得るお前の面皮の裏に書かれた呪いの字を読め。お前の虚偽を残らず捨ててしまえ。私は虚偽を知らないのだ。私の知らないものをお前が知っているのは僭越だ。・・・美しいものを醜くし、大きなものを小さくし、強いものを弱くするのは女の持って生れた罪業だ。イヴのようにすべての女は男の力を食んで生きようとする。女の智恵と美しさは、男の知らぬ虚偽と陰謀とを隠した幕屋だ。・・・女よ!男の笞はお前の額に痛いか。私は女の虚偽と陰謀とを心の奥まで受けたのだから、それを憎悪し、卑しむ事を忘れてはいないぞ。・・・泣け、勝手に。おまえ達が男の力を引き下げたその罪障が消え去るまで泣き続けるがいい。」
デリラはこの罵詈に少しもめげない。なんでも言われたとおりにし、足に接吻しろと言われれば、その通りにする。それはサムソンから秘密を聞き出してペリシテ人から約束の銀をもらうためだけではない。サムソンを虜にし、支配してやりたいからなのである。それによって楽園追放の責め、ひいては人類の「原罪」の責めを女に負わせて怒る男に仕返ししてやりたいのである。
しかしデリラは、サムソンを裏切った後、ひどい目に遭う。ペリシテ人は約束を守らなかったばかりでなく、公衆の前でデリラが敵の男を家にかくまった売春婦であると侮辱し、市民権を剥脱し、追放したのである。裏切った者が裏切られる。その苦しみの中で、デリラは牢獄につながれたサムソンに会いに行く。
デリラ「憎んで下さい。呪って下さい。打ちすえて下さい。踏み躙って下さい。私はあなたを裏切りました。盲(めしい)にしました。それを思い出して下さい。私のここにいるのを見て下さい・・・こんな哀れな姿になって。おおあなたの眼は・・・」 (デリラ狂気の如くサムソンににじりよる。サムソンはたとデリラを地に打ちたおす。)
サムソン 「(暫くの間、憐憫に満ちた面持ちにて佇(たたず)みたる後)女よ!」
これが最後のセリフで、このあとサムソンはもどった怪力で神殿を崩し、デリラは狂気のように彼にかけよって足元に倒れ伏し、死を共にするのである。
このような幕切れをミルトンやサンサーンスが見たら、どのように反応するであろうか。もしかしたら笑ってしまったかもしれない。なぜならミルトンの「苦悩のサムソン」では、サムソンは許しを請いにきたデリラを口汚く罵り、侮辱のかぎりを浴びせかけ、デリラも憤然として、罵りかえしながら去って行くのである。またサンサーンスのオペラでは、デリラは許しを乞いに行ったりしない。自分のしたことが立派に正しい行いであったと誇りながら、ペリシテ人たちと勝利の歌を歌うのである。
有島の意図は何だったのか。それは、神の呪いを受けて楽園を追われ、地をさまようようになったアダムを、「魂が寸断される」前の原初のアダムにもどしてやること、すなわち、サムソンをもとのサムソンにもどしてやることであった。そのためにサムソンは狂暴の罪を悔い、死んで神に許しを求める。そしてデリラはサムソンに殉じて死ぬ。二人の死はいわばアダムとイヴの「贖罪」の死なのであり、二人は楽園にもどるための「運命の伴侶」なのであった。
有島は自分と妻を「運命の伴侶」とは思っていなかったかもしれない。しかし「魍魎の家」の葛藤を反省し、「贖罪」のためにこのドラマを書いたのかもしれない。 
罪の女
サムソンはサムソンにもどって死んだ。それは有島自身の願望であったのだろう。妻の発病に先だって、彼は「内部生命の現象」という題の講演をしている。これは後に「惜しみなく愛は奪う」に組み込まれるのであるが、自分が自分にもどることを強力に主張するものである。
自分が自分にもどることが必要なのは、サムソンだけでない。デリラもそうである。彼女は単なる遊女ではない。「罪の女」なのである。
「サムソンとデリラ」よりも前に、彼は「ある女のグリンプス」という小説を『白樺』に連載しているが、その主人公の早月田鶴子はまさにそうしたデリラであった。
「ある女のグリンプス」の早月田鶴子は、離婚歴がある女である。親類縁者は彼女の奔放に手を焼き、アメリカ在住の木村という男と再婚させるという形で、日本から追い出してしまう。ところが彼女は太平洋を渡る船上で倉地という船の事務長と不倫の関係におちいり、アメリカに上陸せず、日本にもどってきてしまう。
彼女はれっきとした「罪の女」である。しかし生まれながらそうだったわけではない。彼女はクリスチャンの良家に生まれ育ち、人を疑うことをまるで知らなかった。そしてキリスト教の学校に入り、寄宿舎に住み、祈祷と節欲の信仰生活の中で、きわめて素直に神を信じていた。ところが十四歳の春、彼女を徹底的に打ちのめす事件が起こった。神への愛が燃えあがるままに、彼女は絹糸で角帯を編んでいた。藍の地に白で十字架と日月をあしらい、完成したら神に捧げるつもりであった。しかしそれを見つけた舎監は男に贈る物だときめつけ、彼女を監禁同様にし、相手の男の名を吐かせようとした。
この事件以来、彼女はがらりと変わった。翌年には十歳も年上の男を誘惑し、もてあそんで自殺に追いやった。それから別の男を狂わせ、結婚はしたものの、すぐに離婚を強要して捨ててしまった。その後も何人の男を狂わせたか知れなかった。親戚一同が再婚を強制したアメリカ在住の木村も、彼女に狂わされた一人であった。
男を狂わせる彼女の意図は、自分を淫蕩とみなす世間への反逆であり、復讐であった。彼女はあらゆる男にがまんがならなかった。特に木村は彼女を「堕落」の淵から救うことが自分の使命であると信じているのだから、なおさらのことであった。そうした男との再婚に同意したのは、自分を邪魔者にする親類縁者に耐えきれず、捨て鉢になったからで、唯一の慰めは木村といっしょになれば日本の外に住めることであった。
そうした彼女が、太平洋を渡る船の上で、倉地という男に狂ってしまった。最初に倉地を見たとき、彼女は驚いた。
「何という事なしにぎょっと本当に驚いて立ちすくんだ。初めてアダムを見たイヴのようにまじまじと珍しくもない筈の一人の男を見やった」。
ある晩、彼女は船のデッキに立って、大海原を見つめていた。すると幻想が起こり、彼女は暗い洞穴の中をよろめきながら奥深くたどって行った。洞穴の底の底に迷路があって、その行き止まりに赤い着物を裾長く着て、まばゆいほど輝きわたった男の姿があった。その顔は最初木村のようであったが、よく見ると倉地のようでもあった。驚いてもっとよく見ようとした時に幻想は破れ、目の前に現実の倉地が立って彼女を見つめていた。
彼女は無意識のうちに、倉地こそ赤い着物の男であり、自分の存在のすべてをつぐなってくれる者、自分とともに世と戦ってくれる者だと思い込んだ。倉地は妻帯者であった。しかし彼女はそれをものともせず、体当たりで彼のすべてを獲得しようとした。必死に抱きつかれた倉地はよろめいて、ついに彼女の手に落ちた。
もはや木村と再婚することのなくなった彼女は、シアトルまで迎えに来た彼を残酷にいたぶって去らせ、乗ってきた船で日本にもどってしまう。そこには厳しい世間の「掟」が待っている。しかし、彼女は反抗心と復讐心をさらに強めた。
「ある女のグリンプス」は、後に改作されて、有島の代表作となる『或る女』の前編となった。旧作と改作には、内容的に大きな違いはない。ただ主人公の名が早月田鶴子から早月葉子に変わっている。それはホイットマンの『草の葉』が強力に意識されたからであろう。と言うのも、旧作と改作の間には、二つの大きな事件があった。一つは妻の死、もう一つは父の死である。彼はどれほど打ちのめされたことであろう。「憂情」はどれほど深いものになったことか。彼はホイットマンからさらなる力を得ようとしたにちがいない。それで主人公の名前を「葉子」に変え、冒頭にホイットマンの詩を置いた。
太陽がきみを除外しないかぎり、ぼくもきみを除外しない。水がきみのために輝くのをやめないかぎり、草の葉がきみのために鳴るのをやめないかぎり、ぼくの言葉がきみのために輝き、鳴るのをやめることはない。
ホイットマンは、人をあらゆる「掟」から解き放つ。日本にもどってきた葉子が、世間の「掟」に反抗し、戦い、それを打ち壊して解放されることを有島は望んだのであろう。そしてホイットマンがその力になると期待したのであろう。こうして後篇の物語が展開する。
日本にもどった葉子は、横浜の宿屋でたちまち「掟」の一撃を食らった。船上にいた一人の上流婦人が、葉子と倉地を「畜生道に堕ちた」と非難する記事を書き、大新聞に送りつけていたのである。葉子はもはや親類縁者にどんな顔向けもできなくなり、倉地の方は船会社を免職になってしまった。
二人は一軒の家を借りた。豪商の妾が住んでいた家で、杉林に囲まれたため日当たりはよくないが、当分の隠れ家として最適であった。この隠れ家で、二人は何の気兼ねもなく、思う存分に性の歓楽にふけった。それはまさにホイットマンが賛美する性の至福の境地であった。
「二人は初めて恋を知った少年少女が世間も義理も忘れ果てて、生命さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ情熱を捧げ合ってお互いを楽しんだ。楽しんだというより苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。」
しかしながら有島はここで葉子を原初のイヴに、倉地を原初のアダムにして、至福の中に小説を終わらせようとはしなかった。葉子と倉地はまもなくこの隠れ家を失い、転落の道をたどり始めるのである。
倉地は職を失い、葉子にはまったく収入の道がないのであるから、隠れ家の生活が立ち行かなくなるのは時間の問題であった。しかしそうした経済的な問題だけでなく、世間と隔絶した二人だけの世界というのは、いつまでも楽しく続いてはくれない。歓楽の頂天で、葉子の心は淋しくなり始めた。倉地がすでに妻に離縁状を出したと告げた時でさえも、勝利感のかたわらで心が淋しさに爛れているのを感じた。それはこのままこの至福が永遠に続くはずがないと感じとっていたからで、ついに二人の心が完全に融け合ったと思った瞬間、彼女が望んだのは、生きようということではなく、このまま眠りのような死の淵に沈みたいということであった。
倉地のほうも隠れ家の孤独に音を上げ出した。いつまでも失業中ではいられないし、新しい事業を始めるにあたって、一人きりになる必要もあると言って、近くの下宿屋に移った。これで一つに融け合ったはずの二人の仲に、最初の裂け目が生じた。
裂け目の数は、時とともに増えて行った。葉子はおびえ、再び彼と一つに融け合おうとする情念を燃え立たせた。彼も前にもまして葉子の肉を求め、執拗に虐げさえするようになった。そして葉子はその虐げを、眼もくらむ火酒ででもあるかのように喜んで飲みほした。
「その後は色も音もない焔の天地だった。すさまじく焼け爛(ただ)れた肉の欲念が、葉子の心を全く暗ましてしまった。天国か地獄かそれは知らない。然かも何も かも微塵につき摧いて、びりびりと震動する炎々たる焔を燃やし上げたこの有頂天の歓楽のほかに世に何物があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。」
しかしながらその狂おしい歓楽からさめて、葉子は自分が落ち込んだ深淵の深みを感じ取り、苦い涙を流した。心の眼には、行く手に暗い道がただ一筋のびているのが見える。それは、固く閉ざされた「懺悔の門」に到る道であった。
なぜ突然「懺悔の門」なのか。ともかくも、このときから葉子の真の悲劇が始まった。
時とともに深くなる裂け目を埋めようとして、葉子はますます燃え上がろうとするのであったが、彼女の肉体はもはやそれについて行けなかった。久しい前から腹部に痛みを感じ始めていたが、やがてそれは病気として意識されるようになった。肉体の病は心の病となり、強烈なヒステリー症状を起こし、倉地をうんざりさせた。絶望の中で、葉子は考えた。心の迷路の行き止まりに輝いていた赤い着物の男は、結局彼ではなかったのだ。
亀裂はついに救いがたいものになり、葉子は完全に倉地を失ってしまった。同時に手術の失敗により、彼女の肉体は死に瀕した。再度の手術の前の晩、這い寄る暗い死の影に怯えながら寝床の上に打ち伏せていると、自分の過去や現在が手に取るようにはっきり考えられ出し、冷ややかな悔恨が泉のように湧きだした。
「間違っていた・・こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。然しそれは誰の罪だ。分からない。然しとに角自分には後悔がある。出来るだけ、生きている中にそれを償(つぐな)って置かなければならない」
葉子はかつての信仰の師、内田を思い出した。内田は葉子の所業を憎み、アメリカに行く前に挨拶に行っても、会ってくれなかった。彼女は今、不思議ななつかしさで内田を思いやった。彼の心の奥に潜んでいる澄み透った魂が見えるような気がした。死ぬ前にもう一度内田に会ってみたい。葉子は人に頼んで内田を迎えに行ってもらった。しかし小石川に住んでいる内田はなかなかやって来なかった。そして葉子はただ独り、断末魔の苦痛に呻き続けて、この小説の幕は閉じるのである。 
哀しみの女
『或る女』の葉子には、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、バルザックの『ボバリー夫人』、イプセンの「ヘダ・ガーブラー」などが投影しているとよく指摘される。アンナ、ボバリー夫人、ヘダは、そろって世間の掟に背き、自分の道を突進したあげくに自殺する女である。しかし彼女らは葉子のように「自分には後悔がある。出来るだけ、生きている中にそれを 償(つぐな)って置かなければならない」などとは考えない。世間の掟につぶされることを恨み、憤りながら死ぬのである。
そうした西洋の女主人公たちに比べて、葉子はなんとも弱々しい。彼女はどんな男でも虜にすることができたのだから、倉地に失望したのなら、さっさと捨てて、次のアダムをさがしたらよかったのである。しかしそうはしないで、これまでの自分の生き方を後悔してしまった。懺悔がしたくなってしまった。これは「葉子」の敗北、つまりホイットマンの道の敗北ではないだろうか。
ホイットマンは「憂情」のカンフル剤になったかもしれない。しかし病んだ心を完治させる力はなかった。去らない「憂情」の中で、彼はもう一つの道、すなわちイプセンの道を思った。そして『或る女』から二年後、彼は「聖餐」というドラマを書いた。イプセンの「ブランド」の影響が感じられるドラマである。
「ブランド」には、雪崩で谷底に落ちたブランドの死をじっと見つめる少女ゲルドがいる。有島も「聖餐」の中に、似たような人物を登場させた。ゴルゴダの丘で磔刑にされるイエス・キリストの運命を見つめる、マグダラのマリアという女である。
聖書に出てくるマグダラのマリアは、七つの悪霊をイエスに追い出してもらった女、イエスの磔刑を遠くから見守り、埋葬を見とどけた女、復活したイエスに最初に会い、弟子たちに復活を告げに行かされた女である。加えて、ベタニアのマリアがマグダラのマリアと同一視されることが多い。ベタニアのマリアはイエスが死からよみがえらせたラザロの妹で、イエスが説教するときは足もとに座って熱心にその言葉に聞き入り、イエスがベタニアで人々と食卓を囲んでいた時、非常に高価な純粋なナルドの香油の壷を持って入ってきて、イエスの足に塗り、髪の毛でぬぐったと言われている。 
このほか、姦淫の現場をおさえられ、石投げの刑にあう寸前だった女をイエスが救ったという話が「ヨハネ伝」にあり、この「罪の女」がマグダラのマリアと同一視されることもある。有島のマグダラのマリアは、これら同一視されている女たちに近い。
「聖餐」は東京の有楽座で上演されたのであるが、観客は怒り、有島は「思う存分失敗した」と、打ちのめされた。その失敗の原因は、彼のマグダラのマリアが、観客の気に入られなかったからかもしれない。なぜなら彼はマリアについて聖書にない新説を立て、それでクライマックスを作っているからである。その新説について、彼は言っている。
「『聖餐』に於いて、私は聖書の解釈に、或る新しい考え方を試みようとした。それは誰にも意外であったキリストの突然の捕縛と死刑とが、一人の女子に予めキリスト自身によって告げ知らされていたに違いないという事実である。キリストは周囲のすべての人から受けていた誤解の中にあって、ただ一人の理解者を求め出し得たように思われる。これはその前半生に石で打ち殺さるべき悪い売色の行いをしていたマグダラのマリアという特別な教養もなければ品位もない一人の女である。が、彼女は強い愛の持主であった。イエスが『彼女は救 われる。彼女は凡てに優って愛したが故である』と言ったその女である。このマリアのみがキリストの心をおぼろげながら感じていて、キリストの死後、弟子達が絶望の余り一人残らずキリストを離れ去った時にも、一人もとの信仰に踏み止まってキリストの信仰をこの地上に繋ぎ止めたと思われるのだ。」
こうして彼のドラマでは、最後の晩餐のあと、まわりに誰もいなくなった時にイエスとマリアは次のように会話する。
マリア 「私には主のいらっしゃる所が、おぼろに分ったような気がいたします。不思議に痛み悲しむ私の心が、それを私に知らせるように思います。」
イエス 「何処に行くと思うのだ。」
マリア 「私はそれを申すのを憚ります。主の口から承りとうございます。」
イエス 「私はゲヘナ(地獄)の谷間を通って死の国に行くのだ。」 (マリアは自分のひそかに危ぶめる所が的中せるを驚きもし恨みもするが如く、答えもなく思わずイエスにすり寄る。)
イエス (静かな威厳を以て)「然し天なる父のふところに帰るのだ。・・・驚く事はない。又悲しむ事もない。私が行った後にはあなたを慰めるものが天から送られるだろう。・・・この事をあなたの兄のラザロにも姉のマルタにも漏らしてはならない。殊に私の弟子達に告げてはならない。弟子達は私が死の杯を飲み尽くすまで、私の心持を素直に理解する事が出来ないのだから」
マリア 「ラザロを甦らせて下さった主が・・何故御自身をお救いになる事が出来ないので御座います。主のおいでにならないこの世の中を考へますと私は生きる空がございません。」
イエス 「私の行くのはあなた方の益になるのだ。生きる事の尊い時がある。死ぬ事の尊い時がある。私は慎んでこの世の生を楽しんだつもりだ。私は又慎んで死への旅を喜ばねばならない。・・・人は私の死ぬのを見て凡ての望みを失い、牧人を失った羊の群れのようになるだろう。然しあなただけは望みを失ってはならない。永生を持ったイエスは、あなたに遣わされて、いつまでもあなたの伴侶となるだろう。・・あなたの心には愛が満ちている。だから私の言う事がおぼろげながら分るのだ。けれども私の弟子達の心はこの世の事の為に煩わされて昏らんでいる。若し私が今夜祭司の手に渡されて、十字架にかけられるのを知ったなら、弟子達は徒らに騒ぎ立って、私が受くべき大事な運命を微塵にくだいてしまうだろう。弟子達は私の行く所を知ってはならぬのだ。」
マリア 「主は本当に孤独な淋しい方でいらっしゃいます。」
イエス 「孤独ではない。天の父は常に私と共にいますのだ。そうしてあなたが私には与えられている。」
マリア 「おおイエス様! それは余りに勿体(もったい)なさ過ぎます。」
イエス 「凡ての人々が失望する間にあなただけは失望してはいけない。私が留守の間にあなたはそのかよわい、やさしい手で天と人とを結びつけていてくれなければならない。・・・それは苦しい仕事だ。私はそれを知っている。けれども天の父はそれをなし遂げる愛の力をあなたに送って下さるだろう。」
この場のイエスとマリアは、まるで恋人どうしのようである。観客、とりわけ信者はこれに怒ったことであろう。それだけでない。マグダラのマリアがイエスの唯一の理解者で、イエスの死の運命をイエス自身から知らされていたというのは、聖書の事実に反することであった。実際にイエスは弟子たちに何度もそれを繰り返し告げ知らせているのである。
「さあ、これからわたしたちはエルサレムに向かって行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡されるのだ。彼らは人の子を死刑に定めるだろう。そして嘲り、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡す。しかし、人の子は三日目によみがえるのだ。」(「マタイ傳」)
イエスがこのように自分の死を告げ知らせたのは、同時に「人の子は三日目によみがえる」ことを告げ知らせるためであった。イエスの受難は復活なしにはあり得なかった。事実イエスが復活し、やがて昇天してからの弟子たちの驚くべき宣教活動は、彼らが復活の目撃者であることによってなされたのである。
聖書のマグダラのマリアは、イエスの磔刑を遠くから見守り、埋葬を見とどけた女、復活したイエスに最初に会い、弟子たちに復活を告げに行かされた女である。それゆえに彼女は初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」 と呼ばれて敬われていた。ところが有島のマリアは、イエスから「復活」の予言を得ていない。「私が留守の間にあなたはそのかよわい、やさしい手で天と人とを結びつけていてくれなければならない。」という、よく分からない使命を与えられているのである。
そもそも「私が留守の間」とはどんな意味なのだろうか。復活までの三日のことなのだろうか。それともワーズワース詩のルーシー・グレーが、やがて野原で歌を歌うのが見られるようになったと同じように、「ゲヘナの谷」を下って死の国におもむいたイエスが、「永生を持ったイエス」になってもどってくるまでの間なのだろうか。
聖書に従うかぎり、有島は彼のマリアに次のように言わせるべきであった。
「マリアよ。私は復活であり生命である。誰がこの神の命を滅ぼすことができようか。その証拠に私は十字架にかけられて死ぬが、三日目にはよみがえるのだ。私は死にうちかって世に命をもたらす者だ。あなたはその証人となって、弟子たちと、すべての人々に告げ知らせなさい。」
しかし有島は彼のマリアに「主の勝利」を告げ知らせる使命を与えなかった。代わりに違った使命を与えた。それは、純潔無垢の義人が十字架にかけられて死ぬという「運命」を従順に受け入れたことを見ぬき、その証人となるという使命であった。
有島がこのようなマリアを作ったのは、ダンテ・ガブリエル・ロゼッティの影響によるものであったかもしれない。ロゼッティには「マグダラのマリア」という詩があるが、有島は札幌時代、この詩を和訳している。詩の内容は、マグダラのマリアを追いかけてきた恋人と彼女が、イエスが晩餐の席についているシモンの家の階段の前で行う言い争う場面である。
恋人「どうした。なぜバラの花を髪から抜き捨てるのだ。きみこそはバラだ。バラの花輪だ。唇も、頬も。ぼくたちが行くべきなのはここではない。あちらの饗宴の蓆だ。見よ。みな接吻しあっている。行こう、あちらに。恋の火は赤々と燃え、二人寄りそって夜の甘いささやきに陶酔しよう。いとしいきみよ、どうして愚かしい幻に憧れるのだ。さあ、接吻するから、この階段から引き返してくれ。」
マリア 「おお、はなしてください。あの方の足はわたしの口づけ、わたしの髪、わたしの涙を、今日こそ求めておられます。誰も知らないでしょうが、今日が過ぎると、ゴルゴダの丘の辺で、血にまみれたあの方の遺体を抱くのがわたしの運命。今こそ、あの方はわたしを待ち、呼んでおられ、いつくしんでおられる。さあ、はなして行かせてください。」
このマリアは、「ブランド」の少女ゲルドに似ている。二人とも血にまみれた遺体を抱く、いわば「ピエタ」の女なのである。しかし有島のドラマで、マリアはゴルゴダの丘には到っていない。イエスが「ゲヘナの谷」に下って行くのを見送るかたちで幕になっているのである。
「ピエタ」の女でないならば、どんな女なのか。有島にとって、イエス・キリストは「哀しみの人」だった。「無限の慈涙」によって人間の罪を洗ってくれる人であった。彼にふさわしいマリアは、したがって「哀しみの女」、彼の涙を知る女でなければならなかった。
有島はひそかに自分の「憂情」を理解し、自分のために涙を流してくれる女を求めていたのかもしれない。そうした女との愛に燃えたいと思っていたのかもしれない。そしてそれが「聖餐」を書く隠れた動機になっていたのかもしれない。 
愛は奪う
「魍魎の家」に住んでいたころから、彼は愛を渇望していたのかもしれない。『或る女』を出した翌年、「新潮」に「惜しみなく愛は奪う」というエッセイを発表した。過去五年にさかのぼるエッセイや講演を集大成したもので、「今までに達し得た思想の絶頂」だと彼は自負した。
この中で、彼はまず「個性に働く創造の力」を説明し、その力は「愛」であると言う。
「愛は人間に現われた純粋な本能の働きである。しかし概念的に物事を考える習慣に縛られている私たちは、愛という重大な問題を考察する時にも、きわめて習慣的な外面的な概念に捕らえられて、その真相とは往々にして対角線的にかけへだたった結論に達している。」 
こう前置きしたあとで、彼は使徒パウロの愛の観念に挑戦し、次のように言っている。
「パウロはキリスト教における愛の定義の創始者で、愛とは「惜しみなく与える」ことであると言っている。このパウロの定義はキリスト教道徳の大黒柱とされ、愛他主義の倫理観として構成されるに至った。その結果、自己犠牲とか献身とかいう徳行が、人間生活における最も崇高な行為として高調され、さらに利己主義の急所を衝くべき最も鋭利な武器として使われるに至った。しかし自分の見るところ、パウロの観念は愛の「外面的表現」でしかない。それは智的 生活においては最高の名言であろう。だが、より高次の本能的生活においては違う。自分は宣言する。本能的生活における愛は、「惜しみなく奪う」力である。」
この新定義を証明するために、彼は例をあげる。
「自分が一羽のカナリヤを愛したとする。その小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く自分の中に「摂取」されて、自分の生活と不可避的に同化してしまう。分離して見えるのはその外面的な形態の関係だけである。小鳥のしば鳴きに、自分は小鳥とともに喜びあるいは悲しむ。その時、喜びも悲しみも小鳥のものであると同時に自分自身のものとなる。小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く自分そのものである。自分にとって小鳥はもう自分以外の存在ではない。小鳥は自分だ。自分が小鳥を生きるのだ。」
すなわち、「愛」とは、外界の対象物を自己の内奥に奪い取ってきて、自己と「同一化」させる力なのだと言う。奪い取る対象が小鳥や花などでなく人間である場合、たとえば男と女はお互いを奪い合い、同化し合い、その頂点において、二人は「一」になる。
「愛」は男と女の間に働くだけでない。すべての人間に向かって働きかける。そしてその力を最高に発揮させたのが、キリストであった。世の人は「キリストは自分のすべてを犠牲にし、救世主たる義務から、すべての窮乏や迫害を堪え忍び、おまえたちの罪をあがなった、だからおまえたちも犠牲と献身の生活を送れ」と言う。しかし事実は、キリストの生涯にはどこにも犠牲も義務もなかった。キリストの愛は、世のすべての高きもの、清きもの、美しきものを摂取し尽くした。彼が与え、かつ施したと見えるすべてのものは、実はすべて彼自身に与え施していたのだ。
この驚くべき新解釈のあとで、彼は力をこめて主張する。
「罪とは「性欲」でも「怠惰」でもない。罪とは「偽善」なのだ。愛していないのに愛している「ふり」をする「偽善」なのだ。この「偽善」は、愛の根本である自己愛を認めずに、「惜しみなく与えよ」と愛他のみを説く神学者や道徳家によってまどわされた人々が犯している罪なのである。・・・われわれは「愛」の力によって、ますます多くを自己の内に摂取すべきである。そしてそのように摂取されたものがあるべき配列をなして同化されつくすと、そこに新たな世界が輝かしく生まれ出るのを見るであろう。すなわちそれは、人生のすべてが徹底的に愛され肯定される、至福の世界の出現なのである。これこそがエデンである。そこにはもはや「二つの道」はない。善悪の選択もない。したがって道徳といった「律法」もない。かぎりなく自由な自己創造の世界である。人はみな、この失われた楽園を求めてこそ生きるべきである。「愛」の力を信じ、そのわざに励むべきである。」
「失われた楽園の再獲得をめざして、さあ!」――このように呼びかける有島は、まさにホイットマンのような預言者である。しかしこの預言者の叫びに、当時の日本人はどれほど耳を傾けたのだろうか。確かになにがしかの反響はあっただろう。しかしそれが大反響になることはなかった。
それはおそらく彼の声が、預言者の声としてはあまりに弱々しかったからであろう。特に結びの言葉は、砕けたように力がない。
「これは哲学の素養もなく、社会学の造詣もなく、科学に暗く、宗教を知らない一人の平凡な偽善者の、わずかばかりな誠実が叫び出した訴えにすぎない。この訴えからいささかでもよいものを聞き分けるよい耳の持ち主があったならば、そしてその人が彼のためによき環境を準備してくれたならば、彼もまた偽善者たるの苦しみから救われることができるであろう。」
パウロの愛の観念を否定したのは、ひとえに「偽善者」でいることに堪えられなくなったからのはずである。それがなぜここに至って再び自分自身を「偽善者」と呼ばなければならないのだろうか。単なるへり下りだったとしても、文壇に対してはいざ、一般の読者に対してそれは逆効果に働いたのではないだろうか。解放を待つ大衆は、力強い指導者の声を待っている。しかるにこの預言者は、いまもって「偽善者たるの苦しみ」から救われておらず、逆に大衆に救ってもらおうとしているかのように聞こえるのである。
それだけでない。この預言者が誘い出す荒野のはてには、本当に至福の楽園があるのだろうか。モーゼに導かれて荒野に出たイスラエル人は、四十年にわたるさすらいの間にみんな死んでしまい、約束の地に入れたのは彼らの子孫だった。それと同じように、「本能生活」といった荒野に待っているのも、行き倒れの「死」なのではないだろうか。事実、有島は「愛」の絶頂は「死」だと言っているのである。
「本能生活において「愛」がその飽くことのない掠奪の手を広げる時の烈しさは、「愛」をありきたりのなまやさしいものと考えなれている人が想像しえる所でない。「個性」が強烈であればあるほど、「愛」の活動もめざましくなり、そしてついにある世界が自己の中にしっかりと創造されると、さらに拡充しようとするその世界が弱い肉体をぶち壊す。しかしそれは単なる「自滅」ではない。・・・自滅するものの個性は死の瞬間に最上の成長に達しているのだ。すなわち人間として奪いうるすべてのものを奪い取っているのだ。」
そしてこの境地にまで達したのがキリストだったと彼は言う。キリストは比類なく深く善く「愛」した者であり、やがて「愛」の活動の頂点で、彼は肉体的に滅びなければならなくなった。彼は苦しんだ。しかし最後の安心が来て、彼は神々しくその肉体を脚の下にふみにじったというのである。
このような新説は、『聖餐』以上に人々を怒らせたことであろう。いや、怒りが返ってくるのはまだいい。耐えられないのは、沈黙、無視、無関心であったろう。これが本に出版されると、彼は一本を批評家の河上肇(かわかみはじめ)や石坂養平(いしざかようへい)に送って意見を求めた。石坂養平は二度にわたって意見を送って来たが、それは有島をがっかりさせるものだった。河上肇はまったく無返答であった。彼は嘆いた。
「いよいよ文壇では僕を黙殺という事に方針をきめたらしい。 」
彼は今までにない深刻な「憂情」に陥った。そして自分の新説が試論や仮説でないことを、どうあっても人々に示さなければならないと思ったのではなかったろうか。すでに「惜しみなく愛は奪う」の終わりの部分に、ドキリとさせられる一行がある。
「思想は一つの実行である。私はそれを忘れてはいない。」
彼と波多野秋子との心中は、それから二年後のことであった。 
瞳のない眼
今までになく強い「憂情」に陥った有島は、ホイットマンの詩を少しずつ訳したりして、「本当の力」が返ってくるのを願っていた。しかし訳詩を本にして出したとき、巻末の解説で次のように言っている。
「然しもう私は彼を離れて行こう。彼の時代には、彼がなければならなかった。而して今の時代には、それにふさわしい詩人が要求されている。人は常に生きつつ常に死につつ、あらねばならぬ。而して常に死につつ、生きつつあらねばならぬ。彼をして彼の道を行かしめよ。それを妨げるな。私達は私達の道を行こう。彼をしてそれを妨げしめるな。」
ホイットマン離れはこの時始まったのではない。すでに『或る女』の執筆中に始まっていた。そして今、強すぎる「憂情」に対して、ホイットマンの楽観は無力であった。
1923年、自殺を決行する三ヵ月前に、彼は「瞳なき眼」という詩を書いている。
あからさまに云おう、大千世界は瞳のない眼だ。見開いたまま瞬(まばた)きをしない眼だ。劫初から劫末へ、ギャマンの皿にすかして見る烏賊(いか)の皮膚の色のような白眼だけが。凝然として、動かずに、流れずに。・・・ 可憐な小さい一つの瞳が、燃えかすれゆく隕石のように、瞳のない灰色の面に吸いこまれる。見る見る 今在る、あるかなきかに・・・もう無い。可憐な小さい瞳が、瞳の妄執に黒く燃え立つ小さい瞳が、可憐な小さい瞳が・・・淋しさ・・・せめては叫べ、ひと声。瞳よ。
世界全体、宇宙全体を呑み込んで、未来永劫じっと動かない、なんとも無気味な灰白色の眼。たまたま一つの可憐な瞳が現われたが、隕石のように流れて、灰白色に飲み込まれてもう存在しなくなった。
その隕石は、彼が「黒い妄執」に燃えて書いた「惜しみなく愛は奪う」だったのかもしれない。世間はそれに目をむけない。むけてもその目は瞳を持たないのだ。無視される淋しさ。
彼の淋しさは、ほかの作品にも及んだ。それらはよくて「次の時代には古典としてのみ残れば残る種類のもの」にすぎないのではないか。また次の時代にも読者は現れてくれるのだろうか。
「この先どんな運命が来るかわからない。この頃は何だか命がけの恋人でも得て熱いよろこびの中に死んでしまうのが一番いい事のようにも思われたりする」(足助素一あて書簡)
「憂情」はこのように、救いがたく深かった。そうしたところに、読者の中から波多野秋子という人妻が現われて、有島の「憂情」の中にまっすぐ飛び込んできた。
波多野秋子は『婦人公論』の記者であったが、仕事の上で有島と接触しているうちに、二人は急速に親密になった。最初のうち、有島は躊躇して「愛人としてあなたとおつき合いする事を断念する決心をした」という手紙を送ったりした。それがついに「姦夫」になる決心をかため、しかも心中を決行するに至ったのである。
なぜこのような決心にいたったのか、有島自身は語っていない。わずかの手がかりは、友人の足助素一(あすけそいち)が書いた「淋しい事実」などである。
「淋しい事実」によると、波多野秋子は相当な家庭に生まれたが、小さい時に両親を亡くし、十六七歳から商人の波多野の手もとで教育され、彼の仕事を手伝っていた。周囲の人々は当然波多野の妻になるものだと信じ、気の進まない彼女に無理に勧めて、とうとう結婚させた。彼女は波多野が自分を愛してくれることは知っていたが、自分のほうからは夫としては愛せず、父か兄に対する心持ちから一歩も進まないで十一年も暮らして来ていた。
足助は初めて秋子に会った時、好い印象を受けなかった。有島が惚れた女なのだから、「どんなにすがすがしい、感じの好い婦人だろうか」と思っていたのだが、秋子の眼は残忍で冷たい眼に見えた。また有島が大の蛇嫌いだったのに、秋子が大の蛇好きというのも気に入らなかった。しかし有島は言った。
「秋子は僕がはじめて会い得た女性なんだ。」
しかし二人の仲が波多野に知れてから泥仕合が展開した。波多野は最後に秋子を譲り渡してもいいから、その代りに金を払えと要求してきた。しかし有島は愛する女を金に換算することはできないと言ってつっぱねた。すると波多野は姦通罪で訴える、警視庁へ同行しろと脅かした。足助はこうなっては波多野の言うとおり金を払ったほうがいいと勧めたが、有島は承知しなかった。そして言った。
「実は僕等は死ぬ目的を以て、この恋愛に入ったのだ。死にたい二人だったのだ。」
足助はびっくりして、必死に説得したが、有島は耳に入れなかった。金を出しさえすれば事は解決し、秋子を獲得して幸福になれるというのに、なぜそうしないで死のうなどと考えているのか、足助には理解できなかった。有島は言った。
「情死者の心理に、こういう世界が一つあることを解ってくれ。外界の圧迫に余儀なくされて、死を急ぐのは普通の場合だが、はじめから、ちゃんと計画され、愛が飽満された時に死ぬという境地を。・・死を享楽するという境地を。僕等二人は今次第にこの心境に進みつつあるのだ。・・・ねえ、秋子さん、こんな寂光土がこの地上にあるとは今まで思いもそめなかったね。」
足助は戦略を変えて、秋子に哀願した。
「僕はあなたに頼む。有島を殺さないで下さい。有島が死ねば、三人の子は孤児になるんだ・・」
しかし秋子は有島を上目で見つめながら言った。
「二人で解ってさえいればいいのね。」
足助は言った。
「あなたは愛する者の死を欲するのか。」
秋子は足助に答えず、又も上目づかいに有島を見て言った。
「二人で解ってさえいればいいのね。」
最後に有島は波多野に金を払うと言って、足助を安心させた。しかし周囲の心配の目をかいくぐって二人は東京をぬけだし、軽井沢行きの夜行列車に乗った。そして軽井沢の別荘に着いてから、有島は足助あてに遺書を書いた。
「兄の熱烈なる諌止にもかかわらず私達は行く。僕はこの挙を少しも悔いず唯満足の中にある。秋子も亦同様だ。私達を悲しまないで呉れ給え。・・・山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い道を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとかいえばいえる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった。」
彼と彼女は、サムソンとデリラになったのかもしれない。イエスと哀しみの女になったのかもしれない。「運命の伴侶」たることを信じて「死の道行」をはたしたのかもしれない。
二人の遺骸が発見されたのは、それから一ヵ月たってのことであった。弟妹と友人たちは野天の火葬場に二つの柩を運び、舟形に土を掘り下げて焼いた。
告別式で友人の一人が「惜しみなく愛は奪う」の一節を朗読した。
「愛が全うされた時に死ぬ。即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破るそれを定命といわないで何処に正しい定命の死があろう。愛したものの死ほど心安い潔い死はない。その他の死はすべて苦痛だ。」
「思想は一つの実行である。私はそれを忘れてはいない。」
まさにその宣言を実行したかのような死であった。友人たちはそれを悲しみ、隕石のように消え行く小さな瞳に、「せめてひと声」上げさせてやったのであろう。 
ゴルゴダへの道
有島武郎と波多野秋子の心中の報道が伝わると、世間は大きな衝撃を受け、さまざまな非難と譴責が沸き起こった。中でも内村鑑三が『万朝報』にのせた譴責は厳しかった。
「有島君は、常倫破壊の罪を犯して死ぬべく余儀なくせられた。有島君の旧い友人の一人として、彼の最後の行為を怒らざるを得ない。人の子の知恵も才能もなにかせん 神を棄つれば死ぬばかりなり。」
内村は有島が教会脱退を告げたとき、淋しい顔をしたという。それは放蕩息子が家を出て行くのを見送る父の顔だったのだろう。父は息子が帰ってくるのを待っていた。ひたすら待っていた。しかし息子は帰ってこなかった。のみならず、姦淫、自殺という大罪を犯してこの世を去ったのだから、いくら怒っても怒り足りなかったであろう。
だが、内村の譴責の言葉は、必ずしも的を得ていない。特に和歌の下の句である。有島は教会を捨てた。しかし神を捨てはしなかったのである。内村は有島の作品を読まなかったというが、もし『或る女』の最後のところで、葉子が「内田」に会いたがったところを読んでいたら、見方が違っていただろう。放蕩息子は帰ってきたかったのである。ただ、帰れない何かが「父の家」にあった。
「サムソンとデリラ」と「聖餐」のあいだに、有島はノアの方舟の話にもとづいて「洪水の前」という聖書劇を書いている。このドラマで「方舟」が教会を暗示していることは明らかで、ノアと長男、次男は偽善者にされている。彼らは神から選ばれて洪水を生きのびることになっており、その「予定」に安住して、そうでない者に対してきわめて無慈悲である。反抗的な三男が恋人のあとを追って行こうとすると、ノアは「失われた小羊は捨てて置くがいい。」と長男に言っている。最後に洪水が来て、三男が二人の幼子をかかえて方舟に泳いでくると、長男と次男も同じ言葉を言って、幼子を水に放り込んでしまうのである。
有島が知る「父の家」、すなわち教会では、義人、偽善者、罪人の区別がなされ、義人が偽善者と罪人を厳しく裁いている。しかしその義人こそ、自分を偽善者だとは思っていない偽善者なのである。放蕩息子はもどってそうした偽善者たちに裁かれたくないのである。それでもしも内村が「鴻溝」を飛び越えて迎えに来てくれたとしても、悲しい目を向けて帰ることを拒んだかもしれない。
有島がホイットマンに惹かれたのも、イプセンに惹かれたのも、彼らが偽善を打ち壊す人間だからであった。しかし、有島自身はどうだったのだろうか。自分の偽善を打ち壊し、「ほんとうの自分」にもどることができたのだろうか。「惜しみなく愛は奪う」の中で彼は言っている。
「私は八方模索の結果、すがりつくべき一茎の藁(わら)をも見出し得ないで、・・・最後の隠れ家(個性)を求めた。・・・それは必至な或る力が私をそこまで連れて来たという外はない。誰でもが、この同じ必至の力に促されていつか一度はその人自身に帰って行くのだ。少なくとも死が近づく時には必ずその力が来るに違いない。」
「個性」(魂)という自分の「中心点」に戻って行って、そこで「内」と「外」に分裂していた自分が「一」となるとき、自分は「凡て」となって、原初のアダムとなることができる。この自己回帰をなさしめる「必至の力」は、死が近づいた時にこそ完全に働いてくれるに違いないというわけである。
かつて彼は森本厚吉と心中しようとして定山渓におもむいた。「死を透して神を見る」目的であった。しかしそれをはたさず、もどってきてしまった。それから二十六年、彼は波多野秋子との心中をはたした。彼はほんとうに「死を透して神を見た」のであろうか。ほんとうに「虚無の地点」を越えて、「永遠の肯定」に出ることができたのだろうか。彼が家族や友人にあてた遺書は、このことには触れていない。
彼が軽井沢という「荒れ野」にむかい、「ゴルゴダの丘」にむかわなかったことは、きわめて残念である。死を諦観し、これを静かに迎え入れることを美とする風流の伝統の中に生まれ育った彼が、悲惨のきわみの死が待つゴルゴダの丘を避けてしまったことは、しかたのないことであったかもしれない。しかし、もしも思い切ってゴルゴダに登っていたならば、彼の火ははなばなしく赤く燃え上がり、けっして「おぞましい火」などにならなかったのではないだろうか。
もしかしたら、彼はゴルゴダの丘にいたる道を知らなかったのかもしれない。イエスは言われた。「私は道であり、真実であり、命である。」(「ヨハネ伝」14章)
道を求め、あらゆる道をためしながら、彼は「イエスという道」に入ることができなかった。
「イエスという道」に入ることは、なまやさしいことではない。なぜならイエスは言われる。
「わたしに従ってきたいものは、自分自身を否定して、日々自分の十字架をかついてついてこなければならない。」(「ルカ伝」9章)
「自分自身を否定する」というのは、単に「肉」だけのことではない。自分の考え、記憶、判断、思想、意思などのすべてを捨てて、心を一糸まとわぬ裸にすることなのである。しかし有島は「肉」の否定にこだわり過ぎ、自分の心を否定することを忘れていた。その意味で、内村の和歌の上の句、「人の子の知恵も才能もなにかせん」というのは当を得ている。
しかしながら、下の句「神を棄つれば死ぬばかりなり」は、あまりにも無情ではないだろうか。彼は古い時代が崩れ、文明開化という国際化の高波の中で、新しい自分を真剣に求めた日本人であった。「近代的自我確立」をめざした文学者であった。教会の権威に頼らず、キリストの犠牲に頼らず、自分の力で「失われた楽園」、すなわち、「みずみずしい自分」を獲得しようとした。その苦しみと悲しみを思いやって、内村の歌を次のように変えるのはどうであろうか。
人の子の知恵も才能もなにかせん おぼろに消えるゴルゴダへの道 
 
太宰治 

太宰治情死事件  
梅雨時のつめたい雨が身体にしみわたるようなある日、ふと、自分の生命を雨のなかに溶けこませてしまいたい衝動にかられ、実行した作家がいた。その名を太宰治という。病魔がいずれ自分自身をむしばみつくすだろうという暗い予感を先取りするかのように。
太宰治情死事件は、いずれ起こるであろうできごととして世間は受けとめていた。というのは、この作家の描く作品と人生には常に女にからむ自殺とか心中とかがちらついていたからである。
太宰の作品には私小説的小説(そこに描かれているものがすべて私生活の表出であるというわけではないが)が多い。それらに共通しているのは、自虐的ともいえる自己の告白である。
太宰治という作家には、自らの生い立ちの枷から逃げられないという意識がつねにつきまとっていた。その証拠に彼の作品のなかには幾度も幼少期の思い出が登場する。
遺書がわりに著したという処女作『思い出』という二十三歳の時に書かれた自伝小説のなかに次のような下りがある。
「叔母についての追憶はいろいろあるが、そのころの父母の思い出は生憎と一つも持ち合わせない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だったはずであるが、叔母を除いて他の人たちのことは私も五六歳になるまでほとんど知らずにいたと言ってよい」 
母親がわりの叔母の手によって育てられた太宰にとって、いわば自分は余計者であるという思いがぬぐいがたくまとわりついていた。小学校の頃、綴り方の時間に「父母が私を愛してくれない」と不平を書き綴る少年であったのである。
そうした子供であった太宰にとって、家族のなかで、とくに母は冷たく、遠い存在に感じられた。大家族という制度は子も母をもたがいに親しく温かい人間関係をもてない状態においたといえる。
母の愛情を欠いた生い立ちは、逆に母に甘えたいという思いと、甘えさせてもらえない「かつえの感覚」(鶴見俊輔)を増幅させて、その後の太宰の生き方に暗い影を投げかけることになる。
ここにある母親像は、まさにユングの説くグレートマザーを彷彿させる。生につながる温かさ、優しさを与えてくれる善母としての母親像と死につながる恐母としての母親像。この相矛盾するふたつながらの母親像に、作家太宰治は終生こだわらざるを得なかったのである。
母の愛の欠如と大家族の形式ばった欺瞞にみちた人間関係のなかで、この作家は傷つきやすい鋭利な感受性の持ち主となってゆく。 みずからを招かざる人間と意識し、その結果として、人間関係においても多面的ならざるを得ない、「十重二十重の仮面がへばりついている」人間であると認識する少年は、ある時、自分が作家になることを願望する。
すべてについて満足しきれない自分、いつも空虚なあがきのなかにいる自分の本質を創作という行為をつうじて見極めようと決意したのである。
作家になることによって企図しようとしたものが、どれほど実現されたかは定かではないが、最晩年の『人間失格』は、太宰が「幼少時から自分の身体中にためてきた毒素をやっとのことで吐き出した」(ドナルド・キーン)作品ともいえた。
その小説は、ひとりの男が遺した手記という形式をとっている。そこにフィクションが介在しているとはいえ、この作品を読む者にとって、その内容は、まさに太宰治その人の人生であることを知るのである。
その男は「人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間をどうしても思いきれない人間」として描かれる。このような対人観をもつゆえに、「おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィス」に心を尽くす態度で世間を泳ぎまわることになる。
それは、何でもいいから笑わせておけばいい。とにかく「彼ら人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空だ」という生き方に徹することを意味する。
男は、すでに「子供のころから、自分の家族の者たちに対してさえ、彼らがどんなに苦しく、またどんなことを考えて生きているか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪えることができず、すでに道化の上手になって」いるような人間であった。
ここには余計者的な存在者として、あらゆる執着から解き放たれ、流れゆく、みずからを生まれながらの異邦人と位置づける姿勢がみえる。
が、成功したかにみえたそうした道化の態度を見透かす人間がいるのを発見する。 
それは女であった。女は自分の孤独の匂いを本質的にかぎつけては近づき、自分につけこむ存在だ、ということを知る。
「自分には、人間の女性のほうが、男性よりさらに数倍難解でした。自分の家族は女性のほうが男性より数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、また、れいの犯罪の女中(少年期、女中に犯されたと告白する)などもいまして、自分は幼い時から、女中とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思いますが、また、しかし、実に薄氷を踏む思いで、その女たちと附き合って来たのです」
女性に取り囲まれる環境で育ったゆえに、その人間関係の難しさを語る。「女は引き寄せ、つき放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる」と、矛盾に満ちた女心について鋭い観察をする。
そして、女は「同じ人類のようなでありながら、男とはまた、まったく異なった生きもののような感じ」だとみなす。
この女性観は、太宰自身の、幼少期における母親との関係を暗示する。さらに、女たちに取り囲まれた大家族のなかでのナーバスな人間関係を反映していて興味をひく。
とはいえ、その一方で、「人間を恐れていながら、人間をどうしても思いきれない」その男(じつは太宰)は、大人になったのちも、幾人もの女性たちの間をわたり歩くことになる。
妻子のある身でありながら、愛人をもち、さらに別の女性と親しくなってゆく、という女性遍歴を重ねてゆく。ここには理想の女性を追い求めて遍歴をかさねる男の姿がみえる。 さらに、絶筆となった作品『グッドバイ』では、「多情なくせに、また女にへんに律義な一面を持っていて」、それがまた「女に好かれる所以でもある」男を登場させ、その男がかかわる女との別離百態を描く。
この作品もまた太宰の自画像に近いものであった。だが、そうした性向が、やがてこの作家自身を追いつめてゆくことになるのである。
最後の女性山崎富栄(30歳)と知り合ったのは、昭和二十二年二月。中央線三鷹駅前の屋台でのことであったという。
やがてふたりの仲は急速に深まり、女は太宰の執筆の仕事を手伝うようになる。
この頃から死の直前までに書き上げた作品に『斜陽』『ヴィヨンの妻』『人間失格』
『桜桃』『グッド・バイ』(未完)などがある。いずれも太宰の代表的な作品ばかりだ。 だが、結核を病む身体を鞭うっての執筆の連続は、太宰の命を、さらに切り刻んでゆく。この頃には、不眠症もひどくなり、しばしば喀血する事態になっている。 
そうした状態のなか、ついにふたりは心中を決意する。六月十三日の夜、降りしきる雨のなかでの心中行であった。
ふたりが最後を過ごした富栄の部屋には、ふたりで撮った写真と質素な祭壇がつくられていた。そこには、入水を暗示する「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という太宰の筆になる伊藤左千夫の歌がそえられていた。
だが、この心中は、男と女が思い思っての果てのものではなかった。それは「ただひとりの男に対する恋情の完成だけを祈って、半狂乱で生きている女の姿にほだされた」(臼井吉見)男が、せっぱつまって女をともなった心中行であったといえる。
いかにもこの作家らしい死に方であった。それは「いつわり、おもいやり以外のなにをよりどころとして、この無意味な人生を生きのびようか」と考える作家太宰が最後になした人生の実践でもあった。
ふたりが入水したのは、玉川上水のむらさき橋と萬助橋との間である。現在、武蔵野市と三鷹市の市境にあるこの辺りは、玉川上水緑道として、きれいな遊歩道が整備されていて、格好の散歩道になっている。
遊歩道の連なる玉川上水のほとりは、コナラ、ミズキ、エゴノキなどの雑木がうっそうと繁り、季節になればアジサイやシャガの薄紫色の花が咲くといった場所である。
鉄柵の外からのぞき見る上水の流れは暗く深い。上水の役目を終えた流れには、今や鯉が泳ぎ、鴨が遊んでいる。  
水死体は、『朝日新聞』の報じるところによると「十三日夜から七日目、太宰氏の誕生日に当たる十九日、午前六時五十分ごろ三鷹町牟礼五四六先玉川上水の新橋下(投身現場から一キロ半下流)の川底の棒クイに抱き合ったままでかかっているのを通行人が発見」した。  
死体が発見された新橋は、むらさき橋の下流四つ目に架けられた橋である。互いの脇の下から女の腰ひもで離れないように堅く結び合い、家出の日の姿そのままの、太宰はワイシャツにズボン、山崎は黒のワンピース姿であった。
ふたりが失踪したその日の夜半から、それまで空梅雨模様であった天候が急変し、わびしい雨が降りつづいたという。失踪の翌日、現地を訪れた作家の石川淳は、当時の模様をつぎのように描写している。
「さみだれの空くもって日の影はどこにも無い。足もとを見れば、ただ白濁の水の、雨に水かさを増して、いきほひはげしく、小さい滝となり、深い渦となり、堤の草を噛んで流れつづけていた」(『太宰昇天』)
玉川上水は、むらさき橋の下流に架かる萬助橋から牟礼橋にかけて、幾つものカーブを描いて流れるようになる。格好の遊歩道になっている堤を歩いて行くと、「松本訓導殉難碑」の大きな碑が目に入る。
この碑は、大正八年、遠足のおり、この流れに落ちた児童を救おうとして遭難した小学校教師の慰霊碑である。こうした事故があったくらいだから危険な場所だったことが分かる。地元では「人食い川」と呼ばれた上水道であった。
上水の流れは新橋で大きく曲流し、水深も増す。右岸は小高い丘となり、左岸には谷が迫る。この一帯は、今でこそ住宅が建てこんでしまっているが、谷と丘が入り組んでいて、それだけに流れが複雑になっているところである。
ついでながら、この玉川上水は、江戸市民に飲料水を供給する目的で、承応三年(1654)に開削されたものだ。江戸のはるか西、羽村から多摩川の水を江戸市中に引き入れたものである。玉川兄弟が工事を指揮して、一年四カ月をかけて完工させている。
太宰はかつて、この玉川上水のほとりを親しく散策したことがあった。牧歌的な堤にたたずむマント姿の記念写真が残されている。五メートルにも満たない川幅の上水の流れを眺めて、太宰は何を思ったことだろうか。
太宰の一生を思う時、彼の人生観は「ただ人生は過ぎて行きます」(『人間失格』のなかで主人公の手記の末尾に記されている言葉)ということであったように思える。
絶筆となった『グッド・バイ』の連載にあたって、作者は「漢詩選の五言絶句の中に、人生是別離の一句があり、私の或る先輩は、これをサヨナラだけが人生ダ、と記した。まことに相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれど別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」と語っている。
この拭いがたい流離感は、太宰の心に深く刻まれた過去の深い体験から派生したもののようである。それが太宰の生涯をつうじての生の基調であった。
そして、流離の果ての安住の地として心に描いたものが母胎への回帰であった。そこにこそ安らぎの場所がある、と思い描いたのである。
水の流れには、永遠と生のはかなさを暗示するものがある。つねに流れ、姿をかえ、そして呑みこむ水の流れ−それは、そのまま母のメタファにつうじる。
この作家は、水と一体になり、死ぬことでそこに還り、再生する、永遠に母なるものに身をゆだねた、と解釈できないか。
日本浪漫派の旗手、保田輿重郎は、かつて、あやしくも心もとなく流れてゆくこの作家について、「佳人水上を行くがごとし」と評した。その評価のように、太宰治という作家は、玉川上水の流れに、女とともに身を投じたのである。
ふたりの遺体が発見されたその日は、奇しくも太宰治、満三九歳の誕生日であったという。その後、六月一九日の命日は、「桜桃忌」と呼ばれるようになる。そして、墓は遺言にしたがって、三鷹の禅林寺にある森鴎外の墓と向かい合う場所に建てられたのである。 
 
太宰治 / 鎌倉情死事件

鎌倉情死の事件
私が津島文治さんに頼まれて修ちゃん、−つまり、太宰治のお目付け役みたいになったのは相州鎌倉での心中事件からのことで、昭和5年、1930年の暮れだったと思います。太宰とともにカルモチンを飲んで心中を図ったのは、無名の貧乏画家を夫に持つ田部あつみ、−本名を田部シメ子という銀座のカフェーの女給でした。
(昭和48年、1973年執筆)考えてみれば、もう茫々43年も前の出来事ですから私の記憶している一切合財を書いてはみても、今さら人様に怨まれる筋合いでもないでしょうから。
私は今年で78歳ですが、鎌倉情死事件の時は35,6歳の働き盛りでした。当時の私は店舗は持たず注文をとって廻るという、いわゆる背負(しょい)呉服をやっていました。五所川原にある飛島さんという人が経営する呉服屋に奉公に上がったのが13歳の時、津島家に出入りを始めたのが17,8歳の頃でしょうか。
昭和5年、1930年の11月でしたか、私は長兄の津島文治さんに呼ばれました。
「修治の奴が、鎌倉で情死事件を起こしてしまった。中畑君、すまないが直ぐ行って、君の好きなように処理してくれないか」
私は文治さんから三千円預かると夜行列車に飛び乗って鎌倉に急ぎました。当時、私は仕入れのため月に一度は東京に出かけており、いつも夜行の寝台を利用していましたから、どの便を選べば早く着くかも熟知していました。
鎌倉に着いてからすぐに、私は死んだシメ子の内縁の夫、田部某に会いました。この人は大分在住の男で、やせて小柄でした。おまけに今で云うところのノイローゼ、当時の言葉で神経衰弱だったようです。年齢は30歳前のようでした。
この内縁の夫という人と鎌倉警察の人と私の三人で、仮埋葬していたシメ子の遺体を確認しました。警察は最初は田部某が本当にシメ子の内縁の夫か、疑問を持っていたようですが,遺体が鼻血を出し始めたので信用したようです。昔から遺体は近親者に会うと鼻血を流すといいうますから、−。でもそれは、まさにおびただしい鼻血の量でした。また大変な美人で、私はこういう人のことを美人というのか、と感歎しました。太宰がのぼせたのも分かる気がしました。当時、アリタドラッグという店の商標に使われていた蝋人形の美女にそっくりでした。
シメ子は丸裸の上に麻の葉の模様の襦袢が掛けてありました。芝居で八百屋お七が着るやつです。
鎌倉では日没になってからでないと火葬には出来ないという決まりがあって私は夕方になって火葬場に行きました。
火葬後、・・・・・私はひとまず宿の床の間に骨を安置しました。田部君が正式にものごとの段取りをしてから、お骨を渡してやろうと考えていました。
しかし田部君は翌日に早速やって来て、とにかく遺骨を渡してくれ、と言ってききません、−警察は今、遺骨を渡すと自殺の恐れがあるといっていたのですが、−私は遺族のたっての希望というので渡してやりました。
そうしたら今度は警察が懸念したとおり、田部が行方不明となてつぃまったのです。すぐに消防団や青年団を動員して山狩りをしてもらいましたが、・・・
発見したのは夕方の頃で、田部君は、自分の女が心中した海辺の現場に行き、遺骨を抱いて写真に納まろうとしていた寸前で、私は、内心、あきれ果ててしまったことを,思い出します。
次の日の朝でしたか、私は警察の宿直室で。偶然にも金木生まれの刑事さんに立会人になってもらい、田部君に「今後、一切無関係で何も申し立てない」との念書を入れてもらいました。その代償として預かっていたお金から百円を与えました。
その日のうちに、恵風園病院に入院している太宰を見舞いに行ったのですが、自殺幇助罪に問われそうな人間にしては異様に明るい態度を見て少し驚きました。
さて、その翌朝9時でしたが田部某の友人と称する三名の男が宿を訪ねて来ました。用件は、・・・・・
「この『講談倶楽部』に出ているとおり、俺たちの友人の女房を殺した津島という男の実家は大金持ちだそうだな。三万円よこせ」
三人の風態といえば、リボンのつぶれた中折帽をかぶったチンピラでした。私ははっきり申しました。
「私はただ頼まれて来ただけの人間だ。そういう交渉なら国許の実家のお父さんとやってください」
だが連中は随分とああだ、こうだと粘りに粘り、午後三時頃までいました。結局、「大分まで行く汽車賃をくれ」、「ようがす」ということになりました。汽車代はそれほどしないが、百円渡してやってケリをつけました。昔の雑誌にはよく、「全国長者番付一覧」が載っていて、連中はその中の津島文治さんの名前を見つけてユスリに来たのでしょう。
私が田部君に渡した念書の立会人となっていただいた刑事さんが金木の出身と書きましたが、村田さんといいました。もし生きておられたら随分と御歳でしょう。また鎌倉の裁判所で事件を担当した検事さんも、これまた偶然に、津島家の遠縁でした。婿にこられた源右衛門さんの実家の松木さんの縁戚の方で宇野さんとおっしゃいました。
鎌倉情死の事件で太宰が罪に問われなかったのは、やはりこの二人の存在が大きかったと言わざるを得ないと思います。
この鎌倉事件は、太宰が分家することを承諾してから約一ヵ月後、分家の時の約束に従って長兄の文治さんが(後に太宰と情死した青森の芸者の)初代さんを送ってよこす一ヶ月前のことでした。
鎌倉事件以後、学資は東京でのお目付け役的な存在だった北芳四郎さんや井伏鱒二先生のところに送られるようになりました。
私が太宰の後始末をつけるために、東京に向かい車中にあった時、この北さんから電報がきました。当時、共産党の活動を太宰がやっていて、その秘密書類が下宿、−戸塚の常盤館だったはず、−に置いてあって、見つかるとまずいので処分してくれ、という内容でした。
私は上野から円タクを飛ばして下宿に立ち寄り、小さな柳行李一杯くらいあった書類を焼いて処分してくれるように女中頭にチップを渡して頼み、鎌倉に向かいました。太宰の年譜のほとんどが私自身が秘密書類を処分したと記してありますが、実際は女中頭に依頼したのです。次の日、警察が太宰の下宿に踏み込んだそうです。
長兄の津島文治さんの裏返しの愛情
太宰さんが初代さんと一緒になり、あちこちの下宿を転々としていた時代も、私は月に一度は必ず太宰の所に立ち寄っていました。私が商品の仕入れのために上京していたのは、毎月十日前後でした。三等寝台で行き、食堂車で食事をして上野から宿まで円タクを奮発しても乗車券ともども11円だった時代でした。太宰は時折、両国にあった私の常宿までやってきて、「近くまで来たから立ち寄った。中畑さん、十円貸してくれや。じきにお返ししますから」などと申しておりました。私はいつでも「よろしゅうございます。ご用だてましょう」と答えることにしていました。
この頃下宿に立ち寄ると、見事なくらい部屋には何もありませんでした。私には随分と初代さんから、「あれも欲しい、これも欲しい」とたかられたものです。でも考えてみると女性のことですから、いろいろ衣類を欲しがるのも無理はありません。おまけに太宰が何も買ってはくれないのですから。・・・・・私は初代さんに生地を買ってあげることにしました。それは仕立てを覚えさせて裁縫上手になってもらうのが本当の目的でした。
私が下宿を訪ねて太宰の様子を観察していると、金のない時は何となく分かります。太宰は自分から「小遣いをくれ」とは言わないものです。その代わりに、そわそわ、もじもじしています。ですから、そんな時は私は初代さんに「初代さん、これでサオダー買って来てください。一本でいいで4すよ」と十円札を渡して釣りをあげていました。
北さんもそうだったんですが、私にもどこか江戸っ子的要素がありまして、太宰にこれこれ立て替えておきましたから、下さい、とはいえませんでした。私は津島家、太宰のご両親には大きなご恩があるのです。その恩義のごく一部でもお返しできたら、と思い、あれこれ相談にものって、忠告を行っていたのです。
前述の様に、私が上京するのはだいたい十日前後と決まっていましたからそのあたりになると、太宰は取り巻きや友人を遠ざけていたのではと勘ぐっています。壇一雄さんにも山岸外史さんにも私は顔を合わせたことはありません。
この当時、長兄の文治さんは、太宰に対して非常に厳格でした。これも要は太宰を激励のためだったのです。往々にして世間は文治さんは太宰に冷酷だった、と思い違いをしていると思いますが、実はそうではなかった、とはっきり申し上げておきます。
少し話が飛んで恐縮ですが、太宰が亡くなってからしばらくの間、−五所川原の私の拙宅に年二百人以上、最近になっても三十人以上は「太宰の話を聞きたい」と言っておいでにあんるのです。最近は学生さんが多くて、ときには団体さんもあります。その中の多くの方が、「文治さんの太宰治への仕打ちはひどいのではないか、なぜだったんでしょうか」という愚問を呈されるのですが、文治さんの太宰への言動が秘めたる愛情から出ていたわけですから、このような疑問はまことに遺憾に存じます。
文治さんは全てのことを呑みこんでおられました。太宰について、ああもしてやりたい、こうもしてやりたい、と思っていたのではないでしょうか。
でも田舎というもの、特に山源という家は表だってそれが出来なかったのです。そのような立場の家ではなかったんですから。愛情をもっていながらも、その愛情を表立って表現できなかった、だからこそ、私に対して「中畑君、何でも気の済むように太宰にしてやってくれ」と常々言われていたんです。
私は当時、一月のうち、のべ一週間は金木の津島家の本宅まで日帰りで行っておりました。呉服の用足しはもちろん、いろいろ相談に乗ったり、遠慮なく意見を述べたり、−だから一部で「山源の彦佐」とまで称されるのでしょう。
渡しは普段、東京で見てきた太宰の話をすることはほとんどありませんでした。
内気で見栄坊で気取り屋の太宰
太宰の出版記念会が、上野の精養軒で行われたのは太宰の船橋時代でした。例によって仕入れのため上京をしていた機会を利用して立ち寄った私は、太宰があまりに、よれよれに粗末な着物を着ているのに驚きました。元来,修治さん(太宰治)というという人はとてもおしゃれで、専門化の私が見ても驚嘆するほどの贅沢な衣服を身に着けているのが常でしたが、・・・・。
私が太宰に「どうした」と訊ねましたら、「いまはこれ一枚きりだ」と応えました。さいわい記念会まであと三日あったので、羽織、袴、足袋、下駄から褌にいたるまで、男の衣服としては最高のものを揃えてあげました。羽織、袴で六百円くらいだったと思います。多分、結城でした。
さて、どうにか着物も間に合って、私は太宰から「中畑さんも出席されたらどうですか」と誘われたのですが、私自身、文学の素養も皆無ですし、鯨尺でも金尺でもメートル尺でも計れないような太宰の知人、友人たちと顔を合わせるのはいかがなものか、その時間は好きな歌舞伎見物に出かけました。全くの余談になりますが、私の趣味は芝居見物くらいなもので他に何もないと言ってよいくらいです。酒も煙草もやりません。従って上京のたびに、三つの小屋、−歌舞伎座、東京劇場、明治座に見物に行っておりました。さらに余裕があるときは、新橋演舞場、有楽座、宝塚劇場ものぞいておりました。
太宰と観劇、芝居見物で何度も一緒にしました。太宰は十五世羽座衛門の大ファンで、随分と芝居の世界にも精通しているようでした。
だいたいが、津島家の皆さん、ご兄弟たちは芸術好きで、文治さんも早稲田の学生時代、素人芝居をやったり、創作もやったり、その後は長唄にも凝られたほどで文学、芸術青年でした。これは源右衛門様の出られた木造の松木さんの家の、まあ、家風というか、遺伝みたいなものなんです。この松木家の影響というものを太宰研究家の先生方は案外、見落とされているのではないでしょうか?
出版記念会のことを述べているうちに大きく脱線してしまいました。
さて、その翌朝。私は船橋の太宰の借家を訪ねました。とこrが、またぞろ、よれよれの、寝巻きを着ています。どうした?と聞くと60円の質札を見せました。昨晩のうちに六百円の着物類は一枚の紙切れに変わっていたのです。
私は、「ハハァ、これは取り巻きに貸してやったか一晩で豪遊したな」と思いました。
太宰という人は、私にいわせると、内気で見栄坊で気取り屋で、人との付き合いは少し位の無理をしてでも、明るく手ざわりよくやてつぃまう人間なんです。この点がいつも井伏先生様に注意されていた欠点でもあるのですが、とにかく自分に近づいてくる人間を一切、選り好みしないのです。私はこの入質には壇一雄さんが一枚かんでいると今でも想像もし、確信しています。人への恵みも徹底していて自分のい留意、家財道具を入質しても平気の様子でした。
その頃、この船橋の縁の下を何気なく覗いてみたら、国許から送ってきたリンゴ箱に、たっぷり三倍半のパピナールの殻アンプが入っているのを見て仰天しました。
だんだん中毒がひどくなって、井伏先生と北さんと私で、いやがる太宰を自動車に押し込め、病院へ向かう途中、ちょうど言問橋あたりで薬が切れて、暴れ出しましたので兵児帯で縛っておとなしくさせました。もう、この頃になるといくら注射をしても数十分ももたないようになっていたようです。
しばらくして舟橋の借家もたたむことになりましたが、薬代に窮した太宰は、十五軒から借金をしていました。その精算のため、それぞれのお店の方に来ていただき、家具の競売をしましたがその時は北さんにも同席していただきました。 
 
太宰治 / 玉川上水情死事件

太宰治情死の尻拭いは亡父への恩返しでした
結婚式前後のことを申しますと、美知子さんの話は、最初、甲府でバス会社の経営に関与している斎藤さんという方から井伏先生に持ち込まれたもので、これを太宰が承諾したわけです。結納金を誰が持って行ったのか、ということは記憶が薄れてしまいました。多分、北さんと私であったはずです。結納金の額は五百円でした。井伏先生のお宅で行われた結婚式の席上で、私は実は太宰の過去のすべてを打ち明けました。
「太宰という男は、過去において情死事件を起こしたし、初代という女のとも同棲しておりました。そのほか、数多くの不行跡も枚挙に暇がありません。また津軽の実家とは分家をしております。いくら百万分限の家でも、こうした不行跡をしでかしたような者には、今後、財産分与はいたしません」、ーまあ、こういった内容のことをかれこれ四十分ほそ話しました。太宰は終始、うつむいて、顔を横にそむけておりました。
美知子さんのお姉様の連れ合いで山田様とおっしゃる方が続いて、
「結婚式では婿殿を褒めるのが世間の通り相場なのに、よくぞ話してくださいました。いや、でも本当にびっくりいたしました」と挨拶されました。
式が済み、宴もお開きになって、やがて新婚旅行を兼ねた甲州旅行ということになりました。
北さんと私は太宰を物陰に呼んで、一応念の為に「新婚旅行の費用は心配ないのだな」と申しまたら、「いや、お恥ずかしいことに二円少々しか持ち合わせがございません。結納金の半返しがなかったので、きっと今日はいただけるのでは、と期待していたのですが、・・・・」との返答。
北さんと私は二の句がつげず、しばし呆然としておりました。でも二円では話にならないので、その場で二人して太宰に三百円渡しました。
結納金の半返しについては、実際には貰っていたのに嘘をついたのか、その後、受け取ったのか、貰わずじまいだったのか、はっきりしません。
ただ私達の郷里の風習は、結納を持って行くと受目録と一緒にその半額が婿殿の袴料として返されるのです。いわば半分が帯代、半分が袴代となるわけです。結婚式当日に半額が返されるなんて聞いたことはありません。
太宰が死んで何年かして上京した際に、私は久しぶりに太宰が世話になったというある作家のお宅へご挨拶に伺いました。その時、すでに美知子さんは駒込の六義園近くに立派な家を建てていました。
私はその先生に、「ひとつ美知子さんを励ましがてらに、新しいお住まいを訪ねてみようと思います。先生、ご一緒願えませんでしょうか」と申しましたところ,先生は言下に、「オレは行きたくないね。ああいうところは、・・・。もっとも中畑さん、一つ条件があるんだ。あんたがその条件をかなえてくれるなら、行っても いいんだ。中畑さん、あんたは太宰の生前、立て替えるというのか、貸し倒れとというか、とにかく用立てたお金が二万、三万とあるでしょう。今は金が価値がだいぶん下がっているから、その五百倍とみても相当な金額だ。だから、あんたが、『今は貧乏して,食うにも困っているので、むかし立て替えてあげたお金の、いくらかでも何とかしてほしい』という、そういう請求をするのなら一緒に行くよ」と冗談めかしておっしゃいました。
私はあわてて「そういう気持ちは毛頭ございません。私ひとりで行ってまいります」と言ってその先生の家を辞して、美知子さんの所に挨拶に参りました。正直いって、まあ、貸家に毛がはえたていどでは、と想像していたのですが、とんでもない、よもやあれほど立派な家とは思いませんでした。私はそれを見て安心いたしました。
私は太宰が生前、愛した女性ということで,太田治子さんについても美知子さんのところの園子さんや里子さんなどと同様に気にかけておりました。六,七年ほど前、檀一雄さんから私に「太田治子さんが大学に入る年頃になって生活が苦しいらしいので、学資援助ということで毎月一万円ずつ出してくれるように美知子さんに言ってくれないか」というお話がありました。壇さんは友人代表ということで、私にいってこられたのです。
私は美知子さんに手紙を書きましたが、あとになって考えてみると。どうもその必要はなかったようです。風の便りでは、治子さんは立派に大学を卒業されて、文壇でもおおいに嘱望されているそうではありませんか。
でも両家のお嬢さんともすばらしくなられて、さぞ太宰も喜んでいることでしょう。
対談の冒頭の美知子さんの言葉
「キーンさんには、いつかお例の言葉だけでも申し上げたいと思っていたのですが、思いがけなくも本日、お目にかかれまして,うれしく存じます。このたびはまた会越もご執筆していただけるそうで光栄に存じます。」
「太宰は弘前の高等学校を時代、義太夫の稽古をしましたそうです。学校から変えると和服に着替えて角帯を締めて通ったそうです。結婚してまもなくの頃はお酒に酔いますと、いい機嫌で語って聞かせたものでございます。あのお俊伝兵衛の猿回しの段ですとか、朝顔日記のデンデン、デンデンというところです。娘は二人お入りますが、ふたりとも浄瑠璃から名前をとったのです。姉娘の方は園子で三勝半七のおそのから、妹は里子と申します、それも鮨屋の段からです。」
「太宰は大変、誇張して書いておりますが、食べるものに困るほど、それほど貧乏はしたこともないのです。戦前によく、自分の家の裕福なことを大げさに書いていますが、それと同じ程度の誇張がございます」
美知子さんという方はしっかりしすぎているくらいで、ーしかし、あれほどのしっかりした人でないと、あの戦後の動乱を三人の子供をかかえて生き抜くなど出来なかったでしょう。
話を戻しますと、私は生前、太宰に用立てたお金を返してもらおうなどというケチな了見など一切持ちません。なぜなら私が太宰のお父上から受けた恩義のほんの一部でもお返し出来たら、と考え、さらに身内の方が太宰の世話を表だって焼いてやれない苦しい立場を慮っての行動にすぎないのです。
北さんだってそうです。北さんという方は、文治さんが早稲田におられた時に鶴巻町で洋服屋をやっていた方で、大変に面倒見のいい方です。やはり源右衛門さんがその人柄の良さを見込んで、この人なら東京に遊学中の子弟たちの相談にのってもらえそうだと、ということから津島家のために奔走してくれるようになったのです。
江戸っ子というのでしょうか、頑固でへそ曲がりで、しみったれたことが大嫌いな、それは気持ちのいい方です。そうでなければ私とウマは合わなかったでしょう。
こういう頑固者二人が、井伏先生のところに行き、「太宰のことを宜しく御指導お願い致します。うんと云われるまで帰りません」と頼み込んだのですから、同じく頑固者も井伏先生としても,頷かれるしかなかったようです。
現実となった玉川上水での会話
太宰が美知子さんと結婚して三鷹に所帯を持ってからというものは、太宰にとって誰よりもうるさい存在であった私もさすがに遠慮して、あまり頻繁に訪れることもなくなりました。それでも月の10日前後には井伏先生の所には挨拶に行っておりました。
昭和15,6年のことだったでしょうか、下連雀の太宰の家を訪ねた私は、吉祥寺に太宰と連れ立った向かう途中、玉川上水の際に(きわ)に、溺れた生徒を救おうとして、自らも水死した松本訓導の碑がありました。
私は彼にこう言いました。
「松本訓導の例を見るまでもなく、この玉川上水というのは自殺者にとって、誠に都合の良い形をしていると聞いている。あなたは以前、鎌倉で心中を図った。水によって死ぬ運命にあるとして、飛び込むならこの辺りはいい場所ですよ」
私は彼がてっきり笑い出すと思っていたら、彼は真面目な顔つきで「私もそう思っているんです。ここは良さそうな場所と考えていました」
と何やら神妙に答えたのには驚きました。実際に、そこで二度目の心中を図ったのです。
太宰のその不穏な言葉を聞いてからというもの、私は三鷹に行く度に、ー二ヶ月に一度くらいでしょうか、ー酒二本とか牛肉をぶらさげて、
「三鷹の下連雀に太宰という文士が住んでいます。彼がj自殺する憂いなきにしもあらずですので、いつ何時、あなた方のお世話になるかもしれません。よろしく御警戒、お願い下さいますよう」ーこのように挨拶をして、話はいきなり飛びまして、・・・・・・
昭和23年(1948年)の6月の、・・・・14日でしたか、文治さんから五所川原の拙宅に電話がかかってきました、・・・・・
「修治が飛び込んだらしい。どうも今度は本当に心中を完遂したようだ。ご苦労だがまた東京に行ってくれないか」
ということでした。
私は「イヤです」と応えました。なぜならいい年をして、またぞろ狂言自殺か何か分からない事件に馬鹿らしくて関わりたくなかったからです。
ところが文治さんは
「いや、今回だけはなんとしても頼む。感じるものがあるんだ。ぜひ行ってくれ」と懇願でした。
そうまでおっしゃるなら、「ようがす、ただ死体が上がってからにしましょう」と答えました。
18日頃になって私はそろそろ死体が上がりそうだ、という気がして、朝早く床屋に行って男前を上げて、いつでも飛び出せるように準備を整えました。
すると案の定、19日の朝に北さんから電報があって、死体があがった、ということでした。同時に津島家の執務さんが当時の金で二万円か三万円の大金と「中畑さんの気の済むように処置して下さい」という文治さんの伝言をもって私の家においでになりました。とるものもとりあえず、出立したのです。
朝、東京に着き、井伏先生のお宅に土産のりんごを届け、奥様といっしょに三鷹にまりました。
三鷹警察署に寄って署長さんにまず挨拶をし、このたびの事件のお詫びを申しあげたところ、
「あなたが心配していた通りの結果になってしまいました。後始末のために多分、おいでになると思っておりました」
「いやいや、どうも、とんでもないことになりまして本当にお世話になります」
「あなたに是非ともお目にかかりたいと思っていました。さっそく、現場に案内いたしましょう」
というわけで、私は三鷹署の刑事さんに連れられて縄を張ってある入水に場所に行きました。
そこには別段、コンクリートがあるわけでもなく、ていねいに保存されていました。見ると、・・・下駄を思い切り突っ張った跡が残っています。しかも手をついて滑り落ちるのを逃れようとそた跡もくっりき残っていました。
一週間も経って、雨も降っているというのにあまりに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く「いやいや」をしたのではないでしょうか。
私が思うに、・・・太宰は「死にましょう」と言われて、簡単に「よかろう」と承諾したものの、その直前になって、突如として生への執着が湧き出てきたのではないでしょうか、ーこのように推測します。
ですから署長さんから、
「中畑さんはどう思われますか」
と訊ねられた時、いま考えると、感情が一歩的に走った言い方ですが、
「私はどう見ても純然たる自殺とは思えないのです」
と確信を込めて申しました。
すると署長さんは、「自殺、つまり心中ともう既に発表した現在となっては、今さらとやかく言っても仕方がないのですが、実は警察としても自殺と断定するには腑に落ちないものがあるんです」とおっしゃいました。
ある作家の先生もそう申しておりました。このことも、太宰の死後、25年を経た現在となった初めて明かすことで、これまで他人様に一度も話したことはないのです。
いよいよ葬式となりました。私は美知子さんが女手一つで、葬儀を取り仕切ることができるのかどうか、心配しておりましたが、按ずるより生むは易しでした。
豊島与志雄先生を始め、諸先生方が葬儀委員となられて、文壇葬という形で行われました。次の苦労はお墓でした。
本来ならば、金木にある津島家代々のお墓へと考えるのですが、死んだ原因が原因なので体面上のこともあって、この際、お墓は独立させたほうがいいのでは、と私は美知子さんに申しました。
といって、美知子さんの実家から「死んで津島家から除外された者」と見られるのもしゃくだし、「美知子さんはどうお考えですか。率直に私に言って下さい、あなたの希望に添うようにいたしますから」と申しました。
すると美知子さんは
「やはり子供は東京で育てたいので、お墓は近くがいい、と思います。禅林寺はどうでしょうか」
「あなたはよいところに目をつけられました。禅寺ならいいでしょう。森鴎外のお墓もある禅林寺なら文句ないでしょう。さすがに美知子さんです」
と私は、おだてたわけです。
内輪話ですが、こんな事情があって太宰の墓は決まりました。
青森に帰り、美知子さんの意向を伝えて、私に県もまじえて、「あなたの地位も考えますと(当時、文治氏は青森県知事)その他、山源の家を考えますと墓を分けるのは自然と思いましたので、かくかくしかじかの話を美知子さんとして、禅林寺にお墓ということで決まりました」と報告したところ、文治さんは
「誠に至れりつくせりの御処置をしていただきました。かげながら、とても喜んでおります。ありがとうございます。遺族としてあなたに申し訳ないと思います」
と丁重極まるご挨拶をいただきました。
大正11年1922年)、三千円の結納金
さきに、太宰がなぜ井伏先生の所に出入りするようになったかという下りを少し話しましたが、井伏先生には本当に心配のかけどおしでした。今でこそ、ダザイといえば大作家だの天才のといわれていますが、それもこれも全部、井伏先生のおかげだと思っております。太宰があちらこちらと下宿を移り住んで郷里からの仕送りを雲散霧消させていた頃、井伏先生はしきりと「取り巻きが悪いので気をつけないと」と申されて入りました。私も北さんもことあるたびに太宰に注意をしていたのですが、「ハイ、ハイ、よく分かりました」と答えるだけで、一向に改めようとはしませんでした。
井伏先生という方は、一言で言えば、頑固で他人の意見で説を曲げるなどということなど決してない強情っぱりな人でした。だからある意味で近寄りがたいといえる方でした。
太宰は、昭和5年、1930年の10月に東京で文治さんと話し合いをして、分家することに同意しました。「分家することにした」との長兄の文治さんの言葉に対して一言の弁解もするでなく、素直に頷いていたということです。
井伏先生は太宰と文治さんの関係について、
「太宰は、長兄の文治さんの弟である自分自身への思いやりや、愛するがゆえの厳格さ、さらに自分がやってきたことの社会的意味、文治さんの立場を十分に理解したはずだ」
と申されておりました。
また「人間失格」を書いた太宰の晩年の頃の精神状態は大きく揺らいでいて、作品中の記述をそのまま真に受けることはできない、とも語っておられました。
太宰が戦災で、家族を引き連れて金木に疎開してきた時、太宰の心中は、さぞ複雑であったと思います。彼としてはいかに生家でも、過去の行いを考えると、気兼ねがあったはずですから。
しかし津島家の人達は太宰や、太宰の家族に対して愛情を込めた態度で接していたと思います。
例えば文治さんの奥さんは物資不足の折でも、太宰が酒や煙草を切らさないようにと気を配っておられました。
文治さんご夫妻は、本来、文芸への理解がある方たちです。そうでなければ息子の康一さんが役者になるというのを許すはずはないでしょう。また康一さんの青森公演でもお二人で人目を忍んでこっそり舞台を見やるということもないはずです。太宰文学のファンや、この点、くれぐれも誤解なきようにお願い申し上げます。
最後に太宰が誇ってやまなかたt津島家の豪家ぶりを、呉服商としての私が話しておくのも,後世の太宰研究にとっていくらかお役に立てると思います。
私は高級呉服を中心に扱っておりまして、月の商いが3万円近くになります。ですから五所川原近在では比較的、めぐまれた生活が出来たとは思います。それでも私が太宰にやれる小遣いは多くて二十円くらいでした。一日、十円の予算では歌舞伎見物をして結構、満ち足りた気分になっていたようです。
そんな時代、津島家が呉服費として毎月支払うお金は五百円を下回るということはありませんでした。津島家の家風と申すべきでしょうか。あの家では出入りの者に盆暮れの祝儀をやる時は、あとあとまで残る品物を選ぶ傾向があったのです。
当時の五所川原近在の村では娘の嫁入り衣装をととのえるとき、たいていの家では三十円ほどの予算、五十円の支度ができる家は村に何軒もなかったこことを考えれば、津島家の豪勢さがお分かりになると思います。また文治さんと奥様のご婚約がととのったとき、津島家では三千円の結納をして、これは長くこの地方の語り草となりました。
私は昭和18年、奢侈禁止令が施行されてすぐに呉服商をやめまして、地元のデパートの役員を勤めながら今日まで暮らしてまいりました。最近、他人に優しかった修ちゃん、ー太宰治のいい面だけを、たまらぬ愛惜の情で思い出すのです。
ともあれ、太宰が死んで、はや二十五年となりました。・・・・・・私の眼瞼には疎開してきて、せっせと「冬の花火」の創作に励んでいた彼の面影がちらつい てならないのです。
太宰治の入水
昭和23年6月13日深夜、太宰治は愛人の山崎富栄と失跡した。玉川上水での自殺を以前から匂わせていた太宰だが。遺書を残していたが行方は杳としてつかめなかった。自殺場所として匂わせていた玉川上水の堤防上に太宰愛用の洋酒の空き瓶トガラス製の小皿、薬瓶が見つかりここでの入水がほぼ判明した。だが玉川上水は川幅は狭いが流れは急で川底が左右に掘り下げられていて、ここに死体が嵌り込むと永久に発見はできないとまで言われていた。更に梅雨で増水しており、捜索は困難を極めた。16日早朝に上流の浄水の水門を閉めて行われたが篠突く雨の中、捜索ははかどらなかった。
入水して6日目の6月19日午前4時半頃、抱き合ったままの二人の遺体が、井の頭公園裏手近くの玉川上水で発見された。発見当時、二人は赤い腰紐で結ばれていた。  
 
心中考・太宰治

君、あたらしい時代は、たしかに来てゐる。それは羽衣のやうに軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のやうに清冽なものだ。太宰治『パンドラの匣』
戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。山崎富栄の『日記』
太宰治と山崎富栄が玉川上水に入水したのは昭和23年6月13日深夜のことだった。太宰38歳、富栄28歳。二人はしっかりと抱き合ったまま川に飛び込んだと思われる。水嵩の増した梅雨のさなかである。遺体は懸命の探索にもかかわらず、6日後の19日朝まで見つからなかった。発見されたのは飛び込んだ現場から約2km下流だった。二人の身体は腰のあたりを赤い紐でしっかりと結び付けられていたという。
この川は人喰川というんだ。入ったらさいご、もう死体は絶対に揚がらないんだ、太宰さんは散歩の途中、上水の流れを見ながら言っていた。川のなかが、両側に大きくえぐられていてね、死体はそのなかに引き込まれてしまう、おまけに水底には大木の切り株なんかがごろごろしていてそれに引っかかる。この川の水底は白骨でいっぱいさ。太宰さんの言葉が思い出された。太宰さんは、水底で静かに眠りながら白骨になることを望んでいたのではないか。野原一夫『回想太宰治』
随分と前の話になる。
太宰治の入水心中について「あなた」から聞かされた「事実」は驚愕の内容だった。ぼくにとっては寝耳に水という話だった。その日以来、太宰およびその心中相手・愛人の認識が180度変わってしまったのだから。
太宰については、正直に書けばまぁ少し見直した程度かも知れない。けれど愛人については全く違った。ぼくは彼女が言葉は悪いが酒場女程度の女性としか思っていなかったから。ゴシップ談めいたそんないくつかの記事をサラッと読み流して、それが太宰の心中事件の真相だと理解していた。くっだらねぇと・・・。しかし真相は全くちがっていたのだった。
「あなた」の話が本当だとすると・・・ぼくは怒りにも似た憤りを感じた。いかにマスコミ報道が面白おかしく捏造されたものであるか!、作家や評論家の大先生たちがいかに平気で「嘘」を書く人種であるか!
ぼくは一生を棒に振るところだったと、大袈裟にも^^、飲み屋のテーブルを拳で叩いた。
それまで“最低!”の二人と信じて疑わなかったからね。太宰も、そのカフェの女給だか芸者だか知らない蓮っ葉な女も。
ネット情報など皆目なかった時代である。wikipediaその他で検索してすぐに調べられないアナログの時代だった。いま風に書けば、さらに、Twitter情報なんて使えない時代だ。あったらもっととんでもないことになる。140字の無責任な匿名情報だ。なりすましも可能なのだよ、なんて悪質なんだろう。
ぼくらはあの情報貧困な時代に生きていた。情報源、頼りのすべてが本だったではないか。
まずは街なかの本屋を廻り、神田・早稲田の古本屋を足を棒にして関連書籍を探して歩き回った。金もないのに飲まず喰わずの日々を覚悟で本を買い漁り、同時に図書館を転々として調べまくっていた。大学図書館、区立図書館から国会図書館まで。(人を訪ねることは現実的には甚だ難しいから)事件に関連した施設や「現地」「現場」を訪ねて(記念館、文学館など)、そのあたりの総合的な資料を参考にして、あとは「想像力」で自分なりのタペストリーを織り上げる。情報処理・加工は、みんなそうして咀嚼していたはずだ。
だからあの事件について、ぼくらはこんな「証言」や「解釈」を読んでいた。これが「真実」なのだと思わされ=情報操作され、疑うことを知らなかった。馬鹿だったねぇ。でも仕方ないじゃないか。
“用意周到な計画性を持つ女の虚栄心ほど恐るべきものはない。人は愛する女とともに死んだと言います。しかし憎むべき女とともに死ぬ場合だってあるのです。己れの意に反して死なざるをえぬようなこともあると思います。自殺という形をとった微妙な他殺もあります。”亀井勝一郎『罪と死』
“直接の死因は、女性が彼の首にひもをまきつけ、無理に玉川上水にひきずりこんだのである”亀井勝一郎『罪と道化と』
国語の教科書でも沢山読まされた、天下のエッセイスト・亀井勝一郎がそう書いているのだ。高校生のガキの誰がそれを疑えようか。
同じく大作家先生も口を揃えてこう証言していた。
“ある一人の刑事が、かう云つたさうである。・・・検視の結果によると、太宰氏の咽喉(のど)くびにに紐か縄で締められた跡がついてゐた。無理心中であると認められた。・・・そんなやうな意味のことを、その刑事がしたさうである。・・・遺骸が見つかつたとき、太宰が口のなかに荒縄を含まされてゐたという噂も・・・”井伏鱒二『をんなごころ』
“太宰の死体には、首を絞めて殺した荒ナワが巻き付けたままになっていて、ナワのあまりを口の中に押し込んであった。”村松梢風『日本悲恋物語』
村松梢風(村松友視の爺さんだ)の文章とはにわかに信じ難い。リアルで凄惨すぎる。だがしかし、はっきりとこう書いているのだ。ひどいもんだなぁ。
さらにはダメ押し的にこんなのもあった。
“三鷹署はあえて発表はさし控えたが、太宰の首筋を細紐でしめた絞殺のあとから、彼の死は富栄による他殺であると認定したのである。”三枝康高『太宰とその生涯』
“仲間の女とふたりで共同生活をしていたのだが、太宰は明らかに別の女のほうが好きだった。・・・太宰なりの生活の秩序が破壊されたのは、その仕事場へ、サッチャン(※富栄)がはいりこんできてからのことであった。・・・サッチャンは、知能も低く、これという魅力もない女だった。” 臼井吉見『太宰の情死』
ことのほか、ぼくがG院で学んでいたのが、傷口を深くえぐっていたのだろう。
小5のときの課題図書で『潮騒』を選んで以来、高校時代まで最も影響を受けていた作家は三島由紀夫だった。ぼくの読書遍歴の中で、三島さんから“俺は太宰が大っ嫌いなんだよ”と耳打ちされたわけであり、この文学の師の一言はご神託そのものであり、「太宰嫌い」は絶対服従の大原則であり、ぼくが太宰の“良い読者”であるはずはなかった。敵は太宰だったのだ。
北の果て津軽の、思い上がった女ったらしの無頼派気取りのド田舎作家・・・と三島さんよりももっと激しく太宰を憎悪し、鼻でフンフンとせせら笑い、小馬鹿にしていたのである。
太宰文学は、三島さん以上に、(同じくG系の大先輩の)“小説の神様”志賀直哉からも手厳しく批判されていた。かの川端康成は決して「芥川賞」を彼にあげようとはしなかったし、比較的太宰に好意的だったはずの佐藤春夫でさえも、彼の過度な傲慢さにはうんざりしていた。
個人的に、もっとぼくを不愉快にさせたのが「腰越心中」(未遂)事件だった。
太宰は21歳の東大仏文科の学生時代に、銀座のホステスで当時17歳だった田辺あつみ(本名; 田部トメ子)と、鎌倉腰越の小動(こゆるぎ)岬で睡眠薬を飲んで心中未遂事件をおこしている。太宰は一命をとり止めたが、あつみは死亡した。
だから、「あなた」に言われるまで、太宰とその愛人の心中事件は、二流作家のタチの悪い冗談のような悪戯と思っていた。そう信じて疑わなかった。
有島武郎の心中、芥川の自殺、そして太宰の悪びれた印象ばかりが目立つ入水事件。それは実のところは頭の弱い(?)女が仕組んだ衝動的な無理心中だったと。。。
けれど「あなた」はこんな風に説明してくれた。
私が学生時代に暮らしていた長谷に、終戦直後、太宰と出会う前の富栄さんの美容院があったの。すぐ近所だった、ておばあちゃんは言ってた。太宰の話をすると必ずこの思い出話になったわ。「マ・ソアール美容院」。変な仏語だけど間違っていると知りつつ看板が出来ちゃったのでそのまま店名にしちゃったんですって。おばあちゃん曰く、彼女はとっても美人で頭がよくて。スラリと大柄で知的な印象だったって。ターナー師の第二の母校「アテネ・フランセ」で仏語を学んでいた人なのよ。YWCAで英会話、日大附属の第一外国語学院でロシア語の教室にも通っていたらしいし。美容院の店内から由比ガ浜通りに英語の歌がいつも流れていた。それに聖書の勉強も熱心で、小林秀雄の妹さんに師事してやっていたみたい。
おばあちゃんはそこで、富栄さんのほっそりきれいな白い指で、パーマをかけてもらっていたの。彼女とハリウッド映画の話をしていたのかも知れないわ。富栄さんは映画が大好きで、ハリウッド女優をお手本としてパーマの研究に余念がなかったっていうから。
だって・・・
サッチャンは、知能も低く、これという魅力もない女だった・・・のではなかったのか? 愛称サッチャンこと山崎富栄は愛情たっぷりでも頭の足りないカフェの女給ではなかったのか???  太宰を縄で引きずって勢い余って一緒に玉川上水に落ちてしまった阿呆な女ではなかったのか?
ぼくの頭の中は一瞬でぐちゃぐちゃになった。そんなはずじゃない。話はさらに現代・現実的に。ますます頭の中は混乱を極めてくる。つーか、一本の映画が観えてくるのだ。
あの『マサコ 麗しき夫人』の作者キク・ヤマタもまた、あの敗戦から戦後の時期に鎌倉・長谷に居を構えていた。フランス人との混血・近所の奥様連中の誰よりもハイカラな「お菊さん」が、評判の美容室『マ・ソアール』を覗いてみていないわけがない。
「あなた」のおばあちゃま、「お菊さん」が並んで座って、フランス語を交えながらパーマをかけている光景・・・これが映画のワンシーンのように眼に浮かんでしまうのである。
彼女たちの話題は、たとえば、フランス映画の傑作『うたかたの恋』。「お菊さん」、フランス映画で一番お好きな作品はなんですか? と富栄が訊ねる。そうねぇ、やっぱり、ダニエル・ダリュウのあの映画よね。ダリュウって発音するんですか、ダリューといえば『うたかたの恋』? 
太宰治と山崎富栄の「玉川上水入水心中」
昭和23年6月13日。この日の深夜、作家・太宰治とその愛人・山崎富栄は雨の玉川上水に身を投げました。二人の遺体が発見されたのは、6日後の奇しくも太宰39歳の誕生日のことでした。
ぼくにはどうもこの情死というか心中事件の真相を解明すべく、やたら調べまくる性癖がありまして、ほかにも昭和7年の「坂田山心中事件」(「天国に結ぶ恋」として映画や歌にもなったあの事件)や、昭和32年「天城山心中事件」についても詳しくノートをとりながら追いかけてみたという前歴があります^^;。
天城山のほうは、当時学習院の文学部学生だった“ラストエンペラーの姪”愛新覚羅慧生と同級の男子学生との心中事件で、何度かテレビの特番で取り上げられています。ああ知ってる、という方が随分といらっしゃるのでは。
もうひとつ、洋物としては1889年に「ハプスブルグ皇太子心中事件」というのがありまして、これが世にいう「マイヤーリング事件」というやつですが、ことの次第を説明するのは甚だ困難、複雑怪奇です。諸説紛々で何が本当なのかいまだにさっぱり分りません。
小説にも映画にもなっています。タカラヅカでも演じられています。『うたかたの恋』ってタイトル。東宝ミュージカルでは『ルドルフ』でしたかね。
想えば、ぼくが「心中事件」に興味を持ったのはこのあたりに起因しているのでしょう。
小説、映画、宝塚歌劇。
アナトール・リトヴァク監督作品『うたかたの恋』(35年)には、シャルル・ボワイエとダニエル・ダリューが出てまして、フランス映画史上最高の美女と謳われたこのダニエル・ダリューのなんともまぁホントに綺麗だったこと!(と淀川長治さん口調で) このとき彼女はまだ19歳でした。
ちなみに彼女の本名は、ダニエル・イヴォンヌ・マリー・アントワネット・ダリューといいます^^。今年93歳、まだお亡くなりになったという話は耳にしていません。お元気なことを祈りましょう。ぼくらにはジャック・ドゥミの『ロシュフォールの恋人たち』(67年)が一番思い出深い映画ですね。歌も踊りも上手な人でした。
彼女はフランソワ・オゾン『8人の女たち』(02年)でも唄って踊って大活躍。ミュージカル仕立てで“雪に閉ざされたお屋敷での密室殺人事件”という不思議にも楽しい演出のこの作品、季節がクリマス頃に観るなら、絶対のオススメです。
またタカラヅカ公演では、「ルドルフとマリー」の役は、83年雪組の麻実れい-遥くらら、99年月組の真琴つばさ-檀れい、00年宙組の和央ようか-花總まり、が名コンビだったといえましょうか。
想えば、月組トップ娘役時代の檀ちゃんは、もしかするとこの「うたかたの恋」が最大の当たり公演だったのではないか。この公演を機に、檀ちゃんの中国植民地化政策が推し進められて、檀ちゃんは彼の地で北京語で歌ったりしているほどなのだ。
あまり知られてはいないが、日本以上にあの中国において、檀ちゃんのファンが圧倒的に多いのでありんす。
ちなみにウチのヘルパーさんの中にも少女時代からの筋金入りのヅカファンがいらっしゃいまして(Hさんを指差す^^)、この前、鳩山前首相の幸夫人が出ていた公演プログラムを自慢げに見せつけられました(笑)。信じがたく若いお写真でしたね。
ちょっと口惜しい。同じヅカファンでも、ぼくにはそうした「お宝」がありませんので。
話を戻しますと、ぼくは太宰・山崎の玉川上水入水事件を非常に不愉快なものとして伝え聞いていました。太宰の小説自体も、「良い読者」ではありません。もちろん主要作品は教養程度に読んではいますが、だからどうの・・・とまで語る気はありません。全集で読んだ経験も当然ありません。つまりは語る資格のない男です。
とはいえ、あることがきっかけとなり、愛人・山崎富栄についてはいろいろ勉強させていただいてます。ぼくは「カフェの女給」か「芸者」くらいにしか彼女のことを知らなかったのです。まったくの誤解です。誤認識です。この間違った情報は「人殺し」にまでつながっています。彼女の親・親族、友人たちを考えると胸が痛みます。つい・・・近年まで、彼女が太宰を文学的にダメにして挙句の果てに殺しちゃった!とヒソヒソ語られていたのですから。皆さんもほとんどそう思っていたか、あるいは無関心だったかと、思います。そんな女がなんだよと。圧倒的に誤解されたままなのです。この事実が怖い!とぼくは感じますね。
彼女は美容師の第一線で活躍していた人であり、父親は日本で初めての美容・洋裁学校の創設者でした。東京婦人美髪美容学校。通称「御茶ノ水美容学校」。文部省認可第一号の専門学校です。1913(大正2)年に創立した学校で、はじめは木造校舎でしたが、関東大震災で瓦解後、お茶の水・本郷一丁目に鉄筋コンクリート造り地上三階地下二階の立派な校舎を再建しています。生徒数は常時数百人という賑わいぶりでした。
風評というのは本当に怖い。
その出所が有名人だとするとコレラ菌=赤死病のように一気に蔓延してしまう。当時のマスコミはどんどん嘘の情報を囃し立てた。スキャンダラス性ってのが情報の「命」でしたから。ぼくもすっかり毒されてしまい、芥川や三島の自殺・自決とは違って太宰のは許しがたいと思っていましたから。人となりさえ疑った。愛人・山崎富栄には「大罪者」の烙印を押していたのです。
あるときそうじゃないという話を聞かされました。立派な人かどうかはしかとは知らないものの、馬鹿な女じゃないと直観しました。世間からほとんど無視された、悪いことにこれが誤解に輪をかける結果となってしまった富栄の日記があります。後年、別編纂で本にまとめられた『愛は死と共に』(虎見書房)、『太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実』(学陽書房)の二冊です。共に編者が長篠康一郎でした。この彼が60年代末に出したのが『山崎富栄の生涯』(大光社)でした。ぼくはこれらの一冊も読んでいませんでした。
生きた富栄を知っている鎌倉在住の梶原悌子さんて方がいらして(今年82歳のおばあちゃん)、彼女は『玉川上水情死行』(作品社02年)という本を書いています。ぼくがこの心中事件の真相をきかされたのは、時期的にこの本の刊行にからんでいる気がします。梶原さんは「あとがき」でこう書いています。これがぼくの講義の結論部分になりますので、相当に長いんですが、引用させていただきます。
“富栄の義姉山崎つたさんがまだ元気だったころ、私は彼女の経営する鎌倉長谷のクローバー美容院に行き、二人でよく“富栄さん”の思い出話をした。つたさんは富栄が井伏鱒二や亀井勝一郎など有名な文学者たちから太宰を殺した女と誹謗されたうえ実像と異なる人物に描かれ、今も誤解が絶えないと怒り悲しんでいた。私も同じように文壇の人々が根拠のない噂や憶測で富栄を中傷し、卑しめた文を発表しているのが腹立たしく、太宰につき添って死んだ富栄が憐れで、一人でも多くの人に本当のことを知らせたかった。
書きすすめるうちに、富栄が晩年の太宰を支えたかけがいのない人であったことを知った。世話好きで明るく、前向きに生きる富栄が、つねに体調を気遣い、要望を叶えようと努力し、鬱憤晴らしにまで耐えたのは、病身の太宰にとってどれほど救いだったろうか。
共に身を沈めたのは、愛されるよりも愛する喜びを選んだ富栄の願いであったと得心し、いま回向としてこの本を捧げたいと思う。”
最後に、ぼくとしてはこの『玉川上水情死行』と共に、昨年秋に上梓された松本侑子の『恋の蛍・山崎富栄と太宰治』(光文社)を推薦本としたい。労作である。この一冊ですっかり松本を見直してしまった^^。素晴らしい才能だ。 
 
やんぬる哉 / 太宰治

こちら(津軽)へ来てから、昔の、小学校時代の友人が、ちょいちょい訪ねて来てくれる。私は小学校時代には、同級生たちの間でいささか勢威を逞(たくま)しゅうしていたところがあったようで、「何せ昔の親分だから」なんて、笑いながら言う町会議員などもある。同級生たちはもうみんな分別くさい顔の親父になって、町会議員やらお百姓さんやら校長先生やらになりすまし、どうやら一財産こしらえた者みたいに落ちつき払っている。しかし、だんだん話合ってみると、私の同級生は、たいてい大酒飲みで、おまけに女好きという事がわかり、互に呆(あき)れ、大笑いであった。
小学校時代の友人とは、共に酒を飲んでも楽しいが、中学校時代の友人とは逢(あ)って話しても妙に窮屈だ。相手が、いやに気取っている。私を警戒しているようにさえ見える。そんなら何も私なんかと逢ってくれなくてもよさそうなものだが、この町の知識人としての一応の仁義と心得ているのか、わざわざ私に会見を申込む。
ついせんだっても、この町の病院に勤めている一医師から電話が掛って来て、今晩粗飯を呈したいから遊びに来いとの事であった。この医師は、私と中学校の同級生であったと、かねがね私の親戚の者たちに言っているそうであるが、私にはその人と中学時代に遊んだ記憶はあまり無い。名前を聞いて、ぼんやりその人の顔を思い出す程度である。或(ある)いは、彼は、私より一級上であったのが、三学年か四学年の時にいちど落第をして、それで私と同級生になったのではなかったかしら、とも私は思っている。どうも、そうだったような気もする。とにかく、その人と私とは、馴染(なじみ)が薄かった。
私はその人から晩ごはんのごちそうになるのはどうにも苦痛だったので、お昼ちょっと過ぎ、町はずれの彼の私宅にあやまりに行った。その日は日曜であったのだろう、彼は、ドテラ姿で家にいた。
「晩餐会(ばんさんかい)は中止にして下さい。どうも、考えてみると、この物資不足の時に、僕なんかにごちそうするなんて、むだですよ。つまらないじゃありませんか。」
「残念です。あいにく只今、細君も外出して、なに、すぐに帰る筈(はず)ですがね、困りました。お電話を差し上げて、かえって失礼したようなものですね。」
私は往来に面した二階のヴェランダに通された。その日は、お天気がよかった。この地方に於いて、それがもう最後の秋晴れであった。あとはもう、陰鬱な曇天(どんてん)つづきで木枯(こがら)しの風ばかり吹きすさぶ。
「実はね、」と医師はへんな微笑を浮べ、「配給のリンゴ酒が二本ありましてね、僕は飲まないのですが、君に一つ召上っていただいて、ゆっくり東京の空襲の話でも聞きたいと考えていたのです。」
おおかた、そんなところだろうと思っていた。だから、こうして断りに来たのだ。リンゴ酒二本でそんなに「ゆっくり」つまらぬ社交のお世辞を話したり聞いたりして、窮屈きわまる思いをさせられてはかなわない。
「せっかくのリンゴ酒を、もったいない。」と私は言った。
「いいえ、そんな事はありません。どうせ僕は飲まないんですから。どうです、いま召し上りませんか。一本、栓(せん)を抜きましょう。」
まるで、シャンパンでも抜くような騒ぎで、私の制止も聞かず階下に降りて行き、すぐその一本、栓を抜いたやつをお盆(ぼん)に載せて持って来た。
「細君がいないので、せっかくおいで下さっても、何のおもてなしも出来ず、ほんの有り合せのものですが、でも、これはちょっと珍らしいものでしてね、おわかりですか、ナマズの蒲焼(かばやき)です。細君の創意工夫の独特の味が付いています。ナマズだって、こうなると馬鹿に出来ませんよ。まあ、一口めし上ってごらんなさい。鰻(うなぎ)と少しも変りませんから。」
お盆には、その蒲焼と、それから小さいお猪口(ちょこ)が載っていた。私はリンゴ酒はたいてい大きいコップで飲む事にしていて、こんな小さいお猪口で飲むのは、はじめての経験であったが、ビール瓶のリンゴ酒をいちいち小さいお猪口にお酌(しゃく)されて飲むのは、甚(はなは)だ具合いの悪い感じのものである。のみならず、いささかも酔わないものである。私はすすめられて、ここの奥さんの創意工夫に依(よ)るものだというナマズの蒲焼にも箸(はし)をつけた。
「いかがです。細君の発明ですよ。物資不足を補って余りあり、と僕はいつもほめてやっているのだが、じっさい、鰻とちっとも変りが無いのですからね。」
私はそれを嚥下(えんか)して首肯(しゅこう)し、この医師は以前どんな鰻を食べたのだろうといぶかった。
「台所の科学ですよ。料理も一種の科学ですからね。こんな物資不足の折には、細君の発明力は、国家の運命を左右すると、いや冗談でなく、僕は信じているのです。そうそう、君の小説にもそんなのがあったね。僕はいまの人の小説はあまり読まない事にしているので、君の小説もたった一つしか拝見した事はないのだが、何でも、新型の飛行機を発明してそれに載って田圃に落ちたとかいう発明の苦心談、あれは面白かった。」
私はやはり黙って首肯した。しかし、そんな小説を書いた覚えは、私にはさらに無かった。
「とにかく、日本もこれから、新しい発明をしなければ駄目ですよ。男も女も、力を合せて、新しい発明を心掛けるべき時だと思っています。じっさい、うちの細君などは、まあ僕の口から言うのはおかしいですけれど、その点は、感心なものです。何かと新しい創意工夫をするのです。おかげで僕なんかは、こんな時代でも衣食住に於いて何の不自由も感じないで暮して来ましたからね。物が足りない物が足りないと言って、闇の買いあさりに狂奔(きょうほん)している人たちは、要するに、工夫が足りないのです。研究心が無いのです。このお隣りの畳屋にも東京から疎開(そかい)して来ている家族がおりますけれども、そこの細君がこないだうちへやって来て、うちの細君と論戦しているのを私は陰で聞いて、いや、面白かったですよ。疎開人にはまた疎開人としての言いぶんがあるらしいんですね。その細君の言うには、田舎(いなか)のお百姓さんが純朴だとか何とか、とんでもない話だ、お百姓さんほど恐ろしいものは無い。純朴な田舎の人たちに都会の成金どもがやたらに札びらを切って見せて堕落させたなんて言うけれども、それは、あべこべでしょう。都会から疎開して来た人はたいてい焼け出されの組で、それはもう焼かれてみなければわからないもので、ずいぶんの損害を受けているのです。それがまあ多少のゆかりをたよって田舎へ逃げて来て、何も悪い事をして逃げて来たわけでもないのに肩身を狭くして、何事も忍び、少しずつでも再出発の準備をしようと思っているのに、田舎の人たちは薄情なものです。私たちだって、ただでものを食べさせていただこうとは思っていません、畑のお仕事でも何でも、うんと手伝わせてもらおうと思っているのに、そのお手伝いも迷惑、ただもう、ごくつぶし扱いにして相談にも何も乗ってくれないし、仕事がないからよけいも無い貯金をおろして、お手伝いも出来ぬひけめから、少し奮発してお礼に差出すと、それがまた気にいらないらしく、都会の成金どもが闇値段を吊(つ)り上げて田舎の平和を乱すなんておっしゃる。それでいてお金を絶対に取らないのかというと、どうしてどうして、どんなに差上げても多すぎるとは言わない。お金をずいぶん欲しがっているくせに、わざとぞんざいに扱ってみせて、こんなものは紙屑(かみくず)同然だとおっしゃる、罰(ばち)が当りますよ、どんなお札にだって菊の御紋が付いているんですよ、でもまあ、そうしてお金だけで事をすましてくれるお百姓さんはまだいいほうで、たいていは、お金とそれから品物を望みます。焼け出されのほとんど着のみ着のままの私たちに向って、お前さまのそのモンペでも、などと平気で言うお百姓さんもあるのですからね、ぞっとしますよ、そんなにまでして私たちからいろいろなものを取り上げながら、あいつらも今はお金のあるにまかせて、いい気になって札びらを切って寝食いをしているけれども、もうすぐお金も無くなるだろうし、そうなった時には一体どうする気だろう、あさはかなものだ、なんて私たちをいい笑い物にしているのです。私たちは以前あの人たちに何か悪い事でもして来たのでしょうか、どうして私たちにこんなに意地悪をするのです。田舎の人が純朴だの何だの、冗談じゃありません、とこうまあいったような事をお隣りに疎開して来ている細君が、うちの細君に向ってまくし立てたのです。これに対して、うちの細君はこういう答弁を与えました。それは結局、あなた自身に創意と工夫が無いからだ、いまさら誰をうらむわけにはいかない、東京が空襲で焼かれるだろうという事は、ずいぶん前からわかっていたのだから、焼かれる前に何かしらうまい工夫があって然(しか)るべきであった。たとえば今から五年前に都会の生活に見切りをつけて、田舎に根をおろした生活をはじめていたら、あまりお困りの事は無かった筈(はず)だ。愚図(ぐず)々々と都会生活の安逸にひたっていたのが失敗の基である、その点やはりあなたがたにも罪はある、それにまた、罹災(りさい)した人たちはよく、焼け出されの丸はだかだの、着のみ着のままだのと言うけれども、あれはまことに聞きぐるしい。同情の押売りのようにさえ聞える。政府はただちに罹災者に対してお見舞いを差上げている筈だし、公債や保険やらをも簡単にお金にかえてあげているようだ。それに、全く文字どおりの着のみ着のままという罹災者は一人も無く、まずたいていは荷物の四個や五個はどこかに疎開させていて、当分の衣料その他に不自由は無いものの如(ごと)くに見受けられる。それだけのお金や品物が残っていたら、なに、あとはその人の創意工夫で、なんとかやって行けるものだ、田舎のお百姓さんたちにたよらず、立派に自力で更生の道を切りひらいて行くべきだと思う。とこうまあ謂(い)わば正論を以(もっ)て一矢(いっし)報いてやったのですね、そうすると、そのお隣りの細君が泣き出しましてね、私たちは何もいままで東京で遊んでいたわけじゃない、ひどい苦労をして来たんだ、とか何とか、まあ愚痴(ぐち)ですね、涙まじりにくどくど言って、うちの細君の創意工夫のアメリカソバをごちそうになって帰りましたが、どうも、あの疎開者というものは自分で自分をみじめにしていますね、おや、お帰りですか、まだよろしいじゃありませんか、リンゴ酒をさあどうぞ、まだだいぶ残っています、これ一本だけでもどうか召し上ってしまって下さい。僕はどうせ飲まないのですから、そうですか、どうしてもお帰りになりますか、ざんねんですね。うちの細君も、もう帰って来る頃ですから、ゆっくり、東京の空襲の話でも。」
私にはその時突然、東京の荻窪(おぎくぼ)あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦(こ)げるほど懐しく思い出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウィスケというものを前にして思うさま、世の俗物どもを大声で罵倒(ばとう)したいと渇望(かつぼう)した。しかし、それは出来ない。私は微笑して立ち上り、お礼とそれからお世辞を言った。
「いい奥さんを持って仕合せです。」往来を、大きなカボチャを三つ荒縄でくくって背負い、汗だくで歩いているおかみさんがある。私はそれを指さして、「たいていは、あんなひどいものなんですからね。創意も工夫もありやしない。」医師は、妙な顔をして、ええ、と言った。はっと思うまもなく、その女は、医師の家の勝手口にはいった。やんぬる哉(かな)。それが、すなわち、細君御帰宅。 
 

 
太宰治情死考 / 坂口安吾

新聞によると、太宰の月収二十万円、毎日カストリ二千円飲み、五十円の借家にすんで、雨漏りを直さず。
カストリ二千円は生理的に飲めない。太宰はカストリは飲まないようであった。一年ほど前、カストリを飲んだことがないというから、新橋のカストリ屋へつれて行った。もう酔っていたから、一杯ぐらいしか飲まなかったが、その後も太宰はカストリは飲まないようであった。
武田麟太郎がメチルで死んだ。あのときから、私も悪酒をつゝしむ気風になったが、おかげでウイスキー屋の借金がかさんで苦しんだものである。街で酒をのむと、同勢がふえる。そうなると、二千円や三千円でおさまるものではない。ゼイタクな食べ物など、何ひとつとらなくとも、当節の酒代は痛快千万なものである。
先日、三根山と新川が遊びにきて、一度チャンコのフグを食いにきてくれ、と云うから、イヤイヤ、拙者はフグで自殺はしたくないから、角力すもうのつくったフグだけは食べない、と答えたら、三根山は世にも不思議な言葉をきくものだという解せない顔をして、
「料理屋のフグは危いです。角力のフグは安心です。ワシラ、そう言うてます。なア」
と、顔をあからめて新川によびかけて、
「角力はまだ二人しか死んどりません。福柳と沖ツ海、カイビャク以来、たった二人です。ワシラ、マコの血管を一つ一つピンセットでぬいて、料理屋の三倍も時間をかけて、テイネイなもんです。あたった時はクソを食べると治るです。ワシもしびれて、クソをつかんで、食べたら吐いて治りました」
角力というものは、落ちついたものだ。時間空間を超越したところがある。先日もチャンコを食いに行ったら、ちゃんとマコを用意してあり、冷蔵庫からとりだして、
「先生、マコ、あります」
「イヤ、タクサンです。ゴカンベン」
「不思議だなア、先生は」
と云って、チョンマゲのクビをかしげていた。
然し、角力トリは面白い。角力トリでしかないのである。角力のことしか知らないし、角力トリの考え方でしか考えない。食糧事情のせいか、角力はみんな、痩せた。三根山はたった二十八貫になった。それでも今度関脇になる。三十三貫の昔ぐらいあると、大関になれる。ふとるにはタバコをやめるに限る、と云うと、ハア、では、ただ今からやめます、と云った。嘘のようにアッサリと、然し、彼は本当にタバコをやめたのである。
芸道というものは、その道に殉ずるバカにならないと、大成しないものである。
三根山は政治も知らず、世間なみのことは殆ど何一つ知っていない。然し、彼の角力についての技術上のカケヒキについての深い知識をきいていると、その道のテクニックにこれだけ深く正しく理解をもつ頭がある以上、ほかの仕事にたずさわっても、必ず然るべき上位の実務家になれる筈だということが分る。然し、全然、その他のことに関心を持っていないだけのことなのである。
双葉山や呉清源ごせいげんがジコーサマに入門したという。呉八段は入門して益々強く、日本の碁打はナデ切りのウキメを見せられている。呉八段が最近しきりに読売の新聞碁をうち、バクダイな料金を要求するのも、ジコーサマの兵タン資金を一手に引きうけているせいらしい。僕も読売のキカクで呉清源と一局対局した。そのとき読売の曰く、呉清源の対局料がバカ高くて、それだけで文化部の金が大半食われる始末だから、安吾氏は対局料もベン当代も電車チンも全部タダにして下され、というわけで、つまり私も遠廻しにジコーサマへ献金した形になっているのである。南無テンニ照妙々々。
双葉や呉氏の心境は決して一般には通用しない。然し、そこには、勝負の世界の悲痛な性格が、にじみでゝもいるのだ。
文化の高まるにしたがって、人間は迷信的になるものだ、ということを皆さんは理解されるであろうか。角力トリのある人々は目に一丁字もないかも知れぬが、彼らは、否、すぐれた力士は高度の文化人である。なぜなら、角力の技術に通達し、技術によって時代に通じているからだ。角力の攻撃の速度も、仕掛けの速度や呼吸も、防禦の法も、時代の文化に相応しているものであるから、角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである。目に一丁字もないことは問題ではない。
高度の文化人、複雑な心理家は、きわめて迷信に通じ易い崖を歩いているものだ。自力のあらゆる検討のあげく、限度と絶望を知っているから。
すぐれた魂ほど、大きく悩む。大きく、もだえる。大力士双葉山、大碁家呉八段、この独創的な二人の天才がジコーサマに入門したことには、むしろ悲痛な天才の苦悶があったと私は思う。ジコーサマの滑稽な性格によって、二人の天才の魂の苦悩を笑殺することは、大いなるマチガイである。
文士も、やっぱり、芸人だ。職人である。専門家である。職業の性質上、目に一丁字もない文士はいないが、一丁字もないと同様、非常識であっても、芸道は、元来非常識なものなのである。
一般の方々にとって、戦争は非常時である。ところが、芸道に於ては、常時に於てその魂は闘い、戦争と共にするものである。
他人や批評家の評価の如きは問題ではない。争いは、もっと深い作家その人の一人の胸の中にある。その魂は嵐自体にほかならない。疑り、絶望し、再起し、決意し、衰微し、奔流する嵐自体が魂である。
然し、問題とするに当らぬという他人の批評の如きものも、決して一般世間の常態ではないのである。
力士は棋士はイノチをかけて勝負をする。それは世間の人々には遊びの対象であり、勝つ者はカッサイされ、負けた者は蔑まれる。
ある魂にとってその必死の場になされたる事柄が、一般世間では遊びの俗な魂によって評価され、蔑まれている。
文士の仕事は、批評家の身すぎ世すぎの俗な魂によって、バナナ売りのバナナの如くに、セリ声面白く、五十銭、三十銭、上級、中級と評価される。
然し、そんなことに一々腹を立てていられない。芸道は、自らのもっと絶対の声によって、裁かれ、苦悩しているものだ。
常時に戦争である芸道の人々が、一般世間の規矩と自ら別な世界にあることは、理解していたゞかねばならぬ。いわば、常時に於て、特攻隊の如くに生きつつあるものである。常時に於て、仕事には、魂とイノチが賭けられている。然し、好きこのんでの芸道であるから、指名された特攻隊の如く悲痛な面相ではなく、我々は平チャラに事もない顔をしているだけである。
太宰が一夜に二千円のカストリをのみ、そのくせ、家の雨漏りも直さなかったという。バカモノ、変質者、諸君がそう思われるなら、その通り、元々、バカモノでなければ、芸道で大成はできない。芸道で大成するとは、バカモノになることでもある。
太宰の死は情死であるか。腰をヒモで結びあい、サッちゃんの手が太宰のクビに死後もかたく巻きついていたというから、半七も銭形平次も、これは情死と判定するにきまっている。
然し、こんな筋の通らない情死はない。太宰はスタコラサッちゃんに惚れているようには見えなかったし、惚れているよりも、軽蔑しているようにすら、見えた。サッちゃん、というのは元々の女の人のよび名であるが、スタコラサッちゃんとは、太宰が命名したものであった。利巧な人ではない。編輯者が、みんな呆れかえっていたような頭の悪い女であった。もっとも、頭だけで仕事をしている文士には、頭の悪い女の方が、時には息ぬきになるものである。
太宰の遺書は体をなしておらぬ。メチャメチャに泥酔していたのである。サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。
太宰は口ぐせに、死ぬ死ぬ、と云い、作品の中で自殺し、自殺を暗示していても、それだからホントに死なゝければならぬ、という絶体絶命のものは、どこにも在りはせぬ。どうしても死なゝければならぬ、などゝいう絶体絶命の思想はないのである。作品の中で自殺していても、現実に自殺の必要はありはせぬ。
泥酔して、何か怪けしからぬことをやり、翌日目がさめて、ヤヤ、失敗、と赤面、冷汗を流すのは我々いつものことであるが、自殺という奴は、こればかりは、翌日目がさめないから始末がわるい。
昔、フランスでも、ネルヴァルという詩人の先生が、深夜に泥酔してオデン屋(フランスのネ)の戸をたゝいた。かねてネルヴァル先生の長尻を敬遠しているオデンヤのオヤジはねたふりをして起きなかったら、エエ、ママヨと云って、ネルヴァル先生きびすを返す声がしたが、翌日オデンヤの前の街路樹にクビをくゝって死んでいたそうだ。一杯の酒の代りに、クビをくゝられた次第である。
太宰のような男であったら、本当に女に惚れゝば、死なずに、生きるであろう。元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。
太宰は小説が書けなくなったと遺書を残しているが、小説が書けない、というのは一時的なもので、絶対のものではない。こういう一時的なメランコリを絶対のメランコリにおきかえてはいけない。それぐらいのことを知らない太宰ではないから、一時的なメランコリで、ふと死んだにすぎなかろう。
第一、小説が書けなくなったと云いながら、当面のスタコラサッちゃんについて、一度も作品を書いていない。作家に作品を書かせないような女は、つまらない女にきまっている。とるにも足らぬ女であったのだろう。とるに足る女なら、太宰は、その女を書くために、尚、生きる筈であり、小説が書けなくなったとは云わなかった筈である。どうしても書く気にならない人間のタイプがあるものだ。そのくせ、そんな女にまで、惚れたり、惚れた気持になったりするから、バカバカしい。特に太宰はそういう点ではバカバカしく、惚れ方、女の選び方、てんで体をなしておらないのである。
それでいゝではないか。惚れ方が体をなしていなかろうと、ジコーサマに入門しようと、玉川上水へとびこもうと、スタコラサッちゃんが、自分と太宰の写真を飾って死に先立って敬々うやうやしく礼拝しようと、どんなにバカバカしくても、いゝではないか。
どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。吹きすさぶ胸の嵐に、花は狂い、死に方は偽られ、死に方に仮面をかぶり、珍妙、体をなさなくとも、その生前の作品だけは偽ることはできなかった筈である。
むしろ、体をなさないだけ、彼の苦悩も狂おしく、胸の嵐もひどかったと見てやる方が正しいだろう。この女に惚れました。惚れるだけの立派な唯一の女性です。天国で添いとげます、そんな風に首尾一貫、恋愛によって死ぬ方が、私には、珍だ。惚れているなら、現世で、生きぬくがよい。
太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をなさゞるアガキであったと思えばマチガイなかろう。こういう悪アガキはそッとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいゝ。
芸道は常時に於て戦争だから、平チャラな顔をしていても、ヘソの奥では常にキャッと悲鳴をあげ、穴ボコへにげこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、世の終りに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてゞある。 
 
波乱の人生 太宰治

太宰治、その波乱の人生 (1909-1948 享年38歳)
本名、津島修治。青森県津軽の大地主の家に生まれる。父親は貴族院議員も務め、邸宅には30人の使用人がいた。小学校を首席で卒業。14歳の時に父親が病没し、長兄が家督を継ぐ(太宰は六男)。16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めた。高校では芥川、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は200篇にも及ぶという。18歳の時に敬愛する芥川が自殺。猛烈に衝撃を受けた太宰は学業を放棄、義太夫を習い花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓(げいぎ)・小山初代と知り合い深い仲になる。1929年(20歳)、秋頃から急激に左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に最初の自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級に悩み、下宿で睡眠薬(カルモチン)による自殺を図り昏睡状態に陥ったのだ。
翌年、東大仏文科に入学。かねてから『山椒魚』等で井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後すぐ井伏のもとを訪れ弟子入り。治安維持法によって非合法化されていた左翼活動にも、具体的に係わっていく。秋頃、愛人関係にあった小山初代に、地元有力者からの身請け話が持ち上がり、動揺した太宰は彼女を上京させる。名家の息子が芸妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり「全ての肉親を仰天させ、母に地獄の苦しみをなめさせた」(東京八景)という。2人が同棲し始めると、生家から長兄が上京し、“(初代が芸妓でも)結婚は認めるが本家からは除籍する”と言い渡される。これを受けて兄と初代は落籍の為にいったん帰郷、11月19日に分家を届出、除籍された。11月24日、長兄が太宰の名で小山家と結納を交す。
一方の太宰は、この結納の翌25日に銀座のカフェの女給・田部あつみ(19歳、理知的で明るい美貌の人妻。夫は無名の画家)と出会い、そのまま浅草見物など3日間を共に過ごした後、11月28日夜、神奈川県小動崎(こゆるがさき)の畳岩の上でカルモチン心中を図る。翌朝地元の漁師に発見され、田部は間もなく絶命、太宰は現場近くの恵風園療養所に収容される。驚いたのは長兄。すぐさま津島家の番頭を鎌倉へ送った。番頭は田部の夫に示談金を渡したり、太宰の下宿にあった左翼運動に関する大量の秘密書類を、警察の調査前に焼却したりと走り回った(実際、翌日に警察が踏み込んでいる)。亡くなった田部を見た番頭曰く“大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました”。事件後、太宰は自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となる。
翌12月、一命を取り留めた太宰は青森碇ヶ関温泉で小山初代と仮祝言をあげた。
22歳、長兄は初代を芸妓の境遇から解放して上京させ、太宰との新所帯を応援。太宰は屈折した罪悪感から左翼運動に没頭し、反帝国主義学生同盟に加わった。大学にはほとんど行かず、転々と居を移しながらアジトを提供し、ビラ撒き、運動へのカンパなどを行なった。太宰が用意したアジトで機関紙の印刷や中央委員会が開かれた。ビルの上からビラを撒くことを太宰は「星を振らせる」といい、後年「チラチラチラチラ、いいもんだ」と回想している。23歳、青森の実家に警察が訪れ、太宰の行動について問いただしたことから左翼活動のことがバレ、激怒した長兄(県議をしていた)から「青森警察署に出頭し左翼運動からの離脱を誓約しない限り、(仕送りを停止し)一切の縁を絶つ」という手紙が届く。こうして足掛け3年間の太宰の左翼運動は終わった…組織の友人たちを裏切ったという深い後ろめたさと共に。
以後、井伏の指導で文学に精進し、檀一雄や中原中也らと同人雑誌を創刊、『思い出』を始めとして、堰を切ったように執筆活動を開始する。
1935年(26歳)、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて縊死を企てたが失敗(3回目の自殺未遂)。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発、入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけに薬物中毒になる。同年、芥川賞が創設され、太宰は『逆行』により第一回芥川賞の5人の候補者に入った。結果は、石川達三が受賞し太宰は次席。選考委員の一人、川端康成は太宰について「目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる恨みあった」と評した。これを読んで逆上した太宰は『川端康成へ』との一文を記し、文中で「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い(川端の小説“禽獣”への皮肉)、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と怒りをぶちまけた。この頃から佐藤春夫に師事する。
※川端の返事は「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。(中略)“生活に厭な雲云々”も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」と大人の対応。
翌年(27歳)、太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ本を郵送する。次の手紙をつけて--『何卒(芥川賞を)私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。(中略)私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。(中略)「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます』。
ド真ん中直球ストレートの、泣きつくような懇願文だ。上京以後、心中事件で相手を死なせてしまったり、芸伎と結婚したり、非合法活動に係わったり、大学も卒業出来ず就職に失敗するなど、故郷の生家に数々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名誉挽回を果たそうとしたのだ。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にも賞金が必要だった。だが、選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され深く打ちのめされる。
同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に“結核を療養しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく(この体験は8年後『人間失格』に結実する)。太宰が退院すると、妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。
1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する(4回目の未遂)。一年ほど杉並のアパートで下宿生活し、10ヶ月近く筆を絶つ。井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していく。翌年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い、婚約。1939年(30歳)、井伏家で結婚式をあげ、東京・三鷹に転居、以後死ぬまでここに住む。 太宰の作品は明るく健康的な作風となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞される。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執筆。1941年(32歳)、太平洋戦争開戦。翌年発表した『花火』(後に「日の出前」と改題)が、当局の検閲によって“時局に添わない”と全文削除を命ぜられる。1944年(35歳)、故郷への郷愁を綴った『津軽』を脱稿。
1945年(36歳)、空襲下で執筆し始めたパロディ『お伽草紙』を疎開先の甲府で完成。敗戦を津軽の生家で迎える。翌年、坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。1947年(38歳)、2月に神奈川まで太田静子(太宰に文章の指導を受けていた愛人)を訪ね5日間滞在。太田をモデルに没落貴族の虚無を描いた『斜陽』を書き始め6月に脱稿する。11月には太田との間に娘が誕生し、「太田治子(はるこ、“治の子”)、この子は私の可愛い子で父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている」との認知証を書く。同年、三鷹駅前のうどん屋台で山崎富栄(当時28歳、戦争未亡人)と出会う。『ヴィヨンの妻』『おさん』を発表。『斜陽』は大反響となり太宰は名声と栄光に包まれた。
1948年、過労と乱酒で結核が悪化し、1月上旬喀血。富栄の懇親的な看病のもと、栄養剤を注射しつつ5月にかけて、人生の破綻を描いた『人間失格』を執筆。また『如是我聞』で志賀直哉ら文壇批判を展開する。太宰は文壇の頂点にいた老大家・志賀を「成功者がつくる世界の象徴」と敵視し、「も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。(中略)君は代議士にでもなればよかつた。その厚顔、自己肯定」「芥川の苦悩がまるで解つていない。日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。」「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」と噛み付いたのだ。
6月13日深夜、太宰は机に連載中の『グッド・バイ』の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを残し、山崎富栄と身体を帯で結んで自宅近くの玉川上水に入水する。現場には男女の下駄が揃えて置かれていた。6日後の19日早朝(奇しくも太宰の誕生日)に遺体が発見される。帯はすぐに切られ、太宰は人気作家として立派な棺に移され運ばれたが、富栄はムシロを被せられたまま半日間放置され、父親が変わり果てた娘の側で一人茫然と立ち尽くしていたという。
死後、『桜桃』『家庭の幸福』『人間失格』『グッド・バイ』などが次々と刊行される。娘の津島佑子、太田治子は共に小説家となった。
『禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。』--1944年に発表された『花吹雪』にこの一節があり、意が汲まれて太宰の墓は鴎外の斜め向かいに建立された。
妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)
「美知様 誰よりもお前を愛していました」「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
心中当日の山崎富栄の日記
「六月十三日 遺書をお書きになり 御一緒に連れて行っていただく みなさん さようなら 父上様 母上様 御苦労ばかりおかけしました ごめんなさい お体大切に、仲睦まじくおすごし下さいましあとのこと、おねがいいたします。 −中略− 静かに、小さく、とむらって下さい 奥様すみません 修治さんは肺結核で左の胸に二度めの水が溜まり、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。みんなしていじめ殺すのです。いつも泣いていました。豊島先生(※作家、豊島与志雄)を一番尊敬して愛しておられました。野平さん、石井さん、亀島さん(※3名とも編集者)、太宰さんのおうちのこと見てあげてください。園子ちゃん(※太宰の長女、7歳)ごめんなさいね。 −中略− 兄さん(富栄の兄)すみません あと、おねがいいたします。すみません」
富栄が死の当日、同じ愛人の太田静子に宛てた手紙
「太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。太田様のこと(※治子出産のこと)は、太宰さんも、お書きになりましたけど、後の事は、お友達のかたが、下曽我(※太田の家)へおいでになることと存じます。」
富栄の公式遺書
「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。奥名以上の愛情を感じてしまいました。御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」
※“女として生き女として死にたい”“妻は夫と共にどこま迄も歩みたい”など、富栄の太宰への想いは心底からのものだった。 
 
『人間失格』

1 世間
主人公葉蔵の手記は、「人間の生活」が「見当つかない」として、次のように書き出されている。
《恥の多い生涯を送つて来ました。自分には、人間の生活といふものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなつてからでした。自分は停車場のブリツヂを、上つて、降りて、さうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだといふ事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思つてゐました。しかも、かなり永い間さう思つてゐたのです。ブリツヂの上つたり降りたりは、自分にはむしろ、ずゐぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴイスの中でも、最も気のきいたサーヴイスの一つだと思つてゐたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にはかに興が覚めました。また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道といふものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗つたはうが風がはりで面白い遊びだから、とばかり思つてゐました。自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴア、掛蒲団のカヴアを、つくづく、つまらない装飾だと思ひ、それが案外に実用品だつた事を、二十歳ちかくになつてわかつて、人間のつましさに暗然とし、悲しい思ひをしました。》(「第一の手記」)
手記の冒頭のこの箇所には、葉蔵の心的な傾向があざやかに示されている。葉蔵は、実利的な階段に過ぎない停車場のブリッジを、「ずゐぶん垢抜けのした遊戯」と思い込み、地下鉄道という実利的なものを「面白い遊び」と思い込んでいた。また、敷布や枕カバーといった実用品を、「装飾」と考えていた。実用・実利に密着して生活をしている人を、葉蔵にならって「人間」と呼ぶなら、「人間失格」とはそうした生活から逸脱してしまう人のことでもあった。それは世間の規範(実用・実利)を、情緒的(遊び)にしか感取することができない人のことだった。
大人になるということは、遊びの場面を時間的・空間的に限定していくことである。ところが、葉蔵にはそれができない。葉蔵は手記の冒頭で、情緒的な関係を過度に求める人物として性格づけられている。人は共同的な規範性を媒介としない限り、他者と関係を結ぶことができない。他者との共通性が、他者を理解する基盤になっている。しかし、世間の規範を情緒的にしか感取できない葉蔵にとって、他者の内面は、うかがい知ることのできないものとしか感じられていない。
《つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食へたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍ひなど、吹つ飛んでしまふ程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかひを続けて行ける、苦しくないんぢやないか? エゴイストになりきつて、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑つた事が無いんぢやないか? それなら、楽だ、しかし、人間といふものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐつすり眠り、朝は爽快なのかしら、どんな夢を見てゐるのだらう、道を歩きながら何を考へてゐるのだらう、金? まさか、それだけでも無いだらう、人間は、めしを食ふために生きてゐるのだ、といふ説は聞いた事があるやうな気がするけれども、金のために生きてゐる、といふ言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考へれば考へるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変つてゐるやうな、不安と恐怖に襲はれるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言つたらいいのか、わからないのです。》(「第一の手記」)
葉蔵は、自己の内面から類推して、他者の内面にたどり着くという方法で、他者を理解することに自信が持てない。そのため、他者の内面が「わからない」と、くり返し述べることしかできない。その結果、「自分ひとり全く変つてゐる」と他者との違いだけが過剰に意識され、他者に、「何を、どう言つたらいいのか、わからない」という状態に追い込まれていく。
他者との会話は、家族との関係(根源的には、唯一の濃密な関係である母性との関係)で獲得される関係性に支えられて成り立っている。母性との非言語的な関係性が、言語を媒介とした、「わかる」という人と人との関係を支えている。葉蔵は、母性との非言語的コミュニケーションが希薄だったため、言語的コミュニケーションの困難さにぶつからざるを得なかった。
2 道化
葉蔵は手記の中で、人間のことが分からない不安と恐怖を語っている。その不安と恐怖は、葉蔵を、自己の内面を他者に開示しようとしない、受動的な存在にした。葉蔵の道化は、受動的なまま他者とかかわろうとしたとき採用されたものだった。
《人間に対して、いつも恐怖に震ひをののき、また、人間としての自分の言動に、みぢんも自信を持てず、さうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴアスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装ひ、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。何でもいいから、笑はせてをればいいのだ、さうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にゐても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになつてはいけない、自分は無だ、風だ、空(そら)だ、といふやうな思ひばかりが募り、自分はお道化に依つて家族を笑はせ、また、家族よりも、もつと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴイスをしたのです。》(「第一の手記」)
葉蔵は自分が、「所謂『生活』の外」にはみ出してしまっていることを自覚していた。そして、道化によって笑わせていれば、人間たちの目障りになることもないかもしれないと考える。しかし、笑わせることは、「無だ、風だ、空だ」というふうに存在することではなかった。道化とは、他者に依存してしか成立しない受動的なものだった。
また、葉蔵には、「尊敬されるといふ観念」が次のように捉えられていた。
《ほとんど完全に近く人をだまして、さうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木つ葉みぢんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」といふ状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知つてゐる、さうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教へられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いつたい、まあ、どんなでせうか。想像してさへ、身の毛がよだつ心地がするのです。》(「第一の手記」)
これはそっくりそのまま、道化の「定義」と考えても差し支えないように思える。道化も「尊敬される」ということも、他者に依存してしか成り立たないという理由で、いつでも反対のものに転化する可能性を孕んでいた。
葉蔵の「第一の手記」が、葉蔵という人物を総論的にとりあげたものとするなら、「第二の手記」「第三の手記」は、葉蔵が実際に世の中に出たときの、実践編とでもいえるものである。そこには、学校や世間とぶつかりながら、「恥の多い生涯」を送っていく葉蔵の姿が描かれている。
「第二の手記」は、葉蔵が東北の中学校に入学したところから始まる。やがてそこで、葉蔵の道化が、「或るひとりの全知全能の者」に見破られるという事件が起きる。「定義」が現実のものとなったのだ。葉蔵は鉄棒の練習のとき、幅飛びのように前方へ飛んでしまい、砂地にドスンと尻餅をつく。すべてが計画的な失敗だった。皆の大笑いになるが、竹一という「白痴に似た生徒」だけはその道化を見破り、葉蔵の背中をつついて、「ワザ。ワザ。」と低い声で囁く。「誰かひとりが知つてゐる」のだった。
道化の場合も、道化であることが見破られのではないかという恐怖が、「尊敬される」ということと同じように、次のように語られる。
《表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑はせてゐましたが、ふつと思はず重苦しい溜息が出て、何をしたつてすべて竹一に木つ葉みぢんに見破られてゐて、さうしてあれは、そのうちにきつと誰かれとなく、それを言ひふらして歩くに違ひないのだ、と考へると、額にじつとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキヨロキヨロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍から離れず彼が秘密を口走らないやうに監視してゐたい気持でした。さうして、自分が、彼にまつはりついてゐる間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであつたといふやう思ひ込ませるやうにあらゆる努力を払ひ、あはよくば、彼と無二の親友になつてしまひたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさへ思ひつめました。》(「第二の手記」)
道化を演じるということは、「お道化」(人気者)という位置から転落してしまうのではないかという不安を、いつも感じ続けていなければならないことだった。
「尊敬される」ということが、「定義」どおりに実現したときの反応も、道化の場合と同じである。それは、前期の自伝的な作品「思ひ出」(昭和8年)に、次のように書かれている。
《学校(小学校・引用者)で作る私の綴方も、ことごとく出鱈目であつたと言つてよい。私は私自身を神妙ないい子にして綴るやう努力した。さうすれば、いつも皆にかつさいされるのである。剽竊さへした。当時傑作として先生たちに言ひはやされた「弟の影絵」といふのは、なにか少年雑誌の一等当選作だつたのを私がそつくり盗んだものである。先生は私にそれを毛筆で清書させ、展覧会に出させた。あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され、私はその生徒の死ぬことを祈つた。》
「思ひ出」の主人公の「私」が、小学校で「神妙ないい子」を演じるのも、『人間失格』の主人公の「自分」が、中学校でクラスの人気者を演じるのも、恐れていた「人間」(世間)と関係を結んでいくための手立てに過ぎなかった。そして、演技を見破った者の死を祈るほど恐れなけらばならなかったのは、「神妙ないい子」や「クラスの人気者」という位置から転落して、「人間」から孤立してしまうのではないかということだった。
道化は他者に依存してしか成り立たない。しかし、他者はいつ注目するのをやめるか知れない。東京の高等学校に入学した葉蔵が目にしたのは、他人のことなど歯牙にもかけようとしない周囲の存在だった。青年の頭の中は自分のことで占められていて、他人の道化に興じている余裕などなかった。「教室も寮も、ゆがめられた性欲の、はきだめみたいな気さへして、自分の完璧に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした」と述べる葉蔵には、他者と交わる方法が何もなくなっていた。
3 堀木
葉蔵は、高等学校の寮から上野桜木町の父の別荘に移り、世の中とかかわりを失くした生活に閉じこもるようになる。
《父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在してゐませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちよいちよい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(略)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしてゐました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デツサンの練習をしてゐる事もあつたのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にゐるような、それは自分のひがみかも知れなかつたのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いつそう学校へ行くのが、おつくうになつたのでした。》(「第二の手記」)
これが、父の別荘に移ってから堀木と出逢うまでの、葉蔵の東京での生活である。葉蔵は社会から孤立した生活を送っていた。そんな時、葉蔵の孤独の匂いを嗅ぎつけて、堀木が接近してくる。葉蔵が堀木と画塾ではじめて逢った時の、堀木のスタイルは、堀木の存在を象徴していた。
《堀木は、色が浅黒く端正な顔をしてゐて、画学生には珍らしく、ちやんとした背広を着て、ネクタイの好みも地味で、さうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺつたりとわけてゐました。》(「第二の手記」傍線・引用者)
堀木は「画学生」という非社会的な存在として、また、「ちやんとした背広を着て、ネクタイの好みも地味」という社会的な存在として、二重に存在していた。それで堀木は、社会から孤立していた葉蔵と結びつき、葉蔵を社会に橋渡しすることができたのである。
葉蔵の「人間恐怖」は、東京に出てきてからも改まらなかった。電車の車掌が恐ろしく、歌舞伎座の案内嬢が恐ろしく、レストランのボーイが恐ろしく、それで一日中、家の中で「ごろごろ」していたのだった。葉蔵は堀木を介して、はじめて世間と関係を持つことができるようになる。また、堀木に教えられた「酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想」によって、はじめて他者と関係を持つことができるようになる。
《堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切つて、しかも遊び上手といふのか、わづかなお金で最大の効果のあるやうな支払ひ振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くといふ手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々といふ料亭に立ち寄つて朝風呂へはひり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔ひの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。》(「第二の手記」)
《酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとひ一時でも、まぎらす事の出来るずゐぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかつて来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さへ、抱くやうになりました。》(「第二の手記」)
堀木の役割は、孤立していた葉蔵を世間に橋渡しすることだった。葉蔵が恐れていた「人間」とかかわりを持つ「手段」は、堀木によって与えられる。葉蔵は誘いを待っていたかのように、堀木と結びついていく。
葉蔵はやがて、堀木の手引きによって世間に出ていき、世間から指弾されるような様々な事件を引き起こすことになる。葉蔵が事件を起こす直前には、必ず堀木が現れる。堀木とは、〈事前に現れる人〉である。堀木は葉蔵を世間に連れ出し、葉蔵に事件を起こさせ、最終的には葉蔵を世間の外に追放する。
4 淫売婦と左翼思想
葉蔵は堀木から、「人間」(世間)とのつながりを保持する「手段」として、「淫売婦」と「左翼思想」を授けられる。そのことによって、葉蔵は束の間の慰安を感じてもいた。
《自分には、淫売婦といふものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のやうに見え、そのふところの中で、自分はかへつて全く安心して、ぐつすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらゐ、実にみぢんも欲といふものが無いのでした。さうして、自分に、同類の親和感とでもいつたやうなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあつたのです。》(「第二の手記」)
葉蔵は女性を、「男性よりもさらに数倍難解」(第二の手記)と考えていたから、「人間でも、女性でもない」、「白痴か狂人」のようにしか見えない「淫売婦」のふところの中でしか、安心してぐっすり眠ることができなかった。世間に流通している規範を介して、「人間」と関係を結ぶことができない以上、こうした、心と心がじかに感じあえるような情緒的関係が求められていくことは必然だった。「淫売婦」とのそうした関係は、言語的コミュニケーションを欠いているという理由によって、彼女たちを「白痴か狂人」のように見せざるを得なかった。いうまでもなく、母性(「マリヤの円光」)の再現である。
「淫売婦」が葉蔵に示す、「何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意」は、「同類の親和感」によるのだろうか。ここでは、葉蔵の夢が語られているだけだ。「打算も無い好意」は打算に、「押し売りでは無い好意」は押し売りに、いつでも転化する可能性を秘めていた。だから堀木に、「女達者」という匂いがつきまとってきたと指摘されるだけで、葉蔵は、「淫売婦」と遊ぶことにも覚めてしまう。
「左翼思想」の場合も、事情は変わらない。
《非合法。自分には、それが幽かに楽しかつたのです。むしろ、居心地がよかつたのです。世の中の合法といふもののはうが、かへつておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐つてをられず、外は非合法の海であつても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るはうが、自分には、いつそ気楽のやうでした。》(「第二の手記」)
「地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合つた感じなのでした」と述懐する葉蔵には、どんなところからも親和的な「雰囲気」を感じとりたいという強い願望があった。そのことは、暖かく抱擁してくれる家族性というものに対して、深刻な飢渇感を抱えていたことを物語っていた。
また、「世の中の合法」が、「窓の無い、底冷えのする部屋」として、独房(非合法)を想起させるものとしかイメージされていない。この作品ではこのように、家族性を象徴する家や部屋が、寒さを感じさせるところとしかイメージされていない。葉蔵が子供のころ、家族と食事をともにした部屋は、薄暗くて肌寒いところでしかなかった(第一の手記)。後に葉蔵が、若い妻(ヨシ子)と住むことになるアパートの部屋では、葉蔵を絶望の底に突き落とすことになる惨劇がひき起こされる(第三の手記)。手記の最後には、六〇に近い老女中と茅屋に住む、幸福も不幸もない葉蔵の暮らしが描かれている。
このように、家や部屋は、暖かく抱擁してくれる家族性というイメージからますます遠のいていく。そのことは作者が、暖かく迎え入れてくれるような家族性を、最終的に断念したことを意味するのだろうか。
政治の世界は、親和的な「雰囲気」を楽しむような世界とは次元を異にしていた。しかし、葉蔵が地下運動に参加した動機は、そこが「居心地」よかったためで、葉蔵が手記で記しているように、「必ずしも、マルクスに依つて結ばれた親愛感では無かつた」のである。だから、中央地区のマルクス学生の行動隊々長となり、P(党)から息をつく暇もないくらい用事の依頼がくると、地下運動も「世の中の合法」と同じように、桎梏以外のものとは感じられなくなる。
《もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝ひをしてゐたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たやうに、いやにいそがしくなつて来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはお門ちがひでせう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、といふやうないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。》(「第二の手記」)
逃げることは、「人間」(世間)と直面することを回避しようとする、葉蔵の習性のようなものだ。「死」は、逃げることの延長と考えられていた。葉蔵はツネ子という女のところに逃げ込む。そして、「高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人(ツネ子・引用者)と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。」と書いているように、境遇を「一変」させる。
5 ツネ子
葉蔵は地下運動から逃げることによって、「絶えず追はれてゐるやうな心」を抱え込むようになる。そのため、大カフェでたくさんの酔客や女給やボーイたちにまぎれ込むことができたら、「自分のこの追はれてゐるやうな心」も落ちつくのではないかと考える。そして、葉蔵は銀座の大カフェにひとりで入っていき、女給のツネ子と出逢う。ツネ子の印象を、葉蔵はつぎのように述べている。
《そのひとも、身のまはりに冷たい木枯しが吹いて、落葉だけが舞ひ狂ひ、完全に孤立してゐる感じの女でした。》(「第二の手記」)
葉蔵はツネ子の傍にいるだけで、「震へをののいてゐる心」がしづめられるのを感じる。また、ツネ子に「安心」しているので、「お道化」などを演じる気持も起こらず、「自分の地金の無口で陰惨なところ」を隠さずに見せても平気だった。ツネ子が語る身の上話を聞いて、葉蔵はつぎのような感想を持つ。葉蔵が希求していた、人との関係の特徴をよく示している箇所だ。
《自分は、どういふものか、女の身の上噺といふものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせゐか、つまり、話の重点の置き方を間違つてゐるせゐなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました。
侘びしい。
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟きのはうに、共感をそそられるに違ひないと期待してゐても、この世の中の女から、つひにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じてをります。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言ひませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらゐの幅の気流みたいに持つてゐて、そのひとに寄り添ふと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持つてゐる多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合ひ、「水底の岩に落ち附く枯葉」のやうに、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。》(「第二の手記」)
葉蔵は、「女の身の上噺」よりも、「侘びしい」という一言の呟きのほうに共感をそそられると述べている。ツネ子は葉蔵に、自分は葉蔵より二つ年上であること、広島で床屋をしていたが、昨年夫と東京へ出てきたこと、夫が詐欺罪に問われ刑務所に入っていることなどを物語る。
「身の上噺」とはこのように、自分の境遇を他者に、理性の言葉で伝えようとすることである。それは聞き手に、語り手との違いを確認させ、距離感を覚えさせる。しかし、葉蔵はそうした距離のある関係を、望んでいたわけではなかった。いつでも親密な関係が、一気に訪れることを望んでいた。そのことは、言葉による伝達を拒否しているのにひとしかった。だから、葉蔵は他者(ツネ子)の話に、「馬耳東風」の態度で接するよりほかなかったのである。
言葉による時間的関係 (「身の上噺」を理解しようとすること)を経ずに、言葉によらない空間的関係(情動的に結びつこうとすること)を一気に実現させようとすること。それが、「身の上噺」には無関心であっても、「侘びしい」という一言で他者と結びつこうとする、葉蔵の心的な特性である。
「侘びしい」という一言を呟きたかったのは、ほんとうは葉蔵自身だったに違いない。そう考えなければ、ツネ子に寄り添うとその気流に包まれ、恐怖からも不安からも離れることができたという、葉蔵の気持ちも理解できない。なぜなら、侘しさを身にまとっているツネ子のほうが、寄り添い包まれたいと願うのが自然だからである。人間(世間)恐怖から解放され、無限に癒されたいという葉蔵(作者)の願望が、こうした表現をとらせている。
葉蔵がツネ子の部屋に、二度目に泊まった翌日の夜明けがたのこと。ツネ子の口から「死」という言葉が出て、葉蔵もその提案に気軽に同意する。だがその時、葉蔵にはまだ、実感として「死なう」という覚悟はできていなかった。どこかに「遊び」の気持ちがひそんでいた。
その日の午前、葉蔵はツネ子と喫茶店に入って、牛乳を飲んでいた。支払いのとき、葉蔵は自分のがま口の中に、銅銭が三枚しか入っていないことに気づき、「これが自分の現実なのだ、生きて行けない」とはっきり思い知らされる。ツネ子はそのがま口をのぞき込んで、「あら、たつたそれだけ?」と無心の声を発する。葉蔵は、「とても生きてをられない屈辱」を感じ、「みづからすすんでも死なうと、実感として(原文は傍点・引用者)決意」する。
葉蔵には、ツネ子の「あら、たつたそれだけ?」という無心の声が、自分を非難する世間の声のように聞こえたに違いない。「はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かつた」と、葉蔵は記している。そのことは、「侘びしい」という一言に共感している心の中に、「身の上噺」が割り込んでくることに似ていた。この共感からの墜落が、葉蔵を孤立感の中に佇立させ、葉蔵に死を決意させる。  
 

 

6 ヒラメ
葉蔵はツネ子と一緒に、鎌倉の海に飛び込むが、自分だけが生き残ってしまう。作者は、『人間失格』の中でいちばん母性的なツネ子を、はやばやと退場させてしまう。この「情死事件」に対して、葉蔵は逃げることも、道化でごまかすこともできない。葉蔵が受けた、社会的な制裁を列記してみる。
(1) 新聞に大きな問題として取り上げられる
(2) 生家から義絶される
(3) 自殺幇助罪に問われる(起訴猶予)
(4) 高等学校から追放される
葉蔵は、「人間の生活」「人間の営み」から逸脱してしまう行為(情死事件)によって、社会的な制裁を受け、「人間失格」の烙印を押される。自殺幇助罪に問われて、警察から検事局に行く時の様子を、葉蔵は次のように書いている。
《お昼すぎ、自分は、細い麻縄で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻縄の端を若いお巡りが、しつかり握つてゐて、二人一緒に電車で横浜に向ひました。けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼、自分はどうしてかうなのでせう、罪人として縛られると、かへつてほつとして、さうしてゆつたり落ちついて、その時の追憶を、いま書くに当つても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。》(「第二の手記」)
罪人として縛られると、かえってほっとすると、葉蔵は語っている。「情死事件」が招来する、世間の指弾や煩わしい事後処理などの一切から、徹底的に逃亡しようとしているからである。「罪人として縛られる」ということは、世間との関係を絶たれることだった。だが葉蔵には、恐れていた世間と向き合うことを免除されることでもあった。
しかし、不運(?)にも、葉蔵の自殺幇助罪は成立せず、起訴猶予となる。葉蔵は、現実が突きつける厄介な問題に直面せざるを得なかったはずだが、故郷から親戚の者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれる。さらにもうひとり、後始末をしてくれる人物がいた。ここで登場するのがヒラメである。
《署長は書類を書き終へて、「起訴になるかどうか、それは検事殿がきめることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、けふ横浜の検事局に来てもらふやうに、たのんだはうがいいな。誰か、あるだらう、お前の保護者とか保証人とかいふものが。」 父の東京の別荘に出入りしてゐた書画骨董商の渋田といふ、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めてゐたずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になつてゐるのを、自分は思ひ出しました。その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似てゐるといふので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、さう呼びなれてゐました。》(「第二の手記」)
ヒラメは、葉蔵の「学校の保証人」になっていたため、葉蔵の「身元引受人」となる。また、葉蔵の父の「たいこ持ち」のような役も勤めていたことで、父の意思を伝達する役目を負ってもいた。事実ヒラメは、葉蔵がしでかした不始末を処理するために、葉蔵の父の意思を体現して現れる。ヒラメとは、〈事後処理をする人〉である。堀木が〈事前に現れる人〉であるのと、対照的な存在である。
堀木が「情死事件」の前に現れ、事件を誘発するような言葉(ツネ子に対して「こんな貧乏くさい女」)を口に出したりするのに対して、ヒラメは、その事件の後始末をするような存在だった。そのことは後日、自殺を図った葉蔵を見舞った時の、ヒラメの様子からも明らかである。
《次第に霧がはれて、見ると、枕元にヒラメが、ひどく不機嫌な顔をして坐つてゐました。「このまへも、年の暮の事でしてね、お互ひもう、目が廻るくらゐいそがしいのに、いつも、年の暮をねらつて、こんな事をやられたひには、こつちの命がたまらない。」 ヒラメの話の聞き手になつてゐるのは、京橋のバアのマダムでした。》(「第三の手記」)
「このまへも、年の暮の事」とは、明らかに、ツネ子との「情死事件」(「十一月の末」の出来事)を指している。ヒラメの不機嫌な顔や、「こつちの命がたまらない」という発言からは、葉蔵の不始末の処理をし続けてきたヒラメの姿を思い浮かべることができる。
葉蔵は、堀木の手引きがなければ、世間に出ていけなかった。そして、ヒラメの手助けがなければ、自分が引き起こした不始末の処理をすることができなかった。後にヒラメは、堀木と面識を得ることになり、決定的な場面では、葉蔵の父の意思を体現して二人一緒に登場する。
7 男めかけ
葉蔵は生家から義絶されて、ヒラメの家の居候になっていた。しかし、「ヒラメと小僧の蔑視」に耐え切れなくなって、ヒラメの家から逃げ出し、堀木を訪ねる。そして、堀木の家で、雑誌社の女記者シヅ子(二八歳)と出逢う。シヅ子は夫と死別して、五つになる女児と、高円寺のアパートに住んでいた。
葉蔵はやがて、シヅ子のアパートで、一年以上「男めかけみたいな生活」を続けることになる。またその後も、京橋のスタンド・バアのマダムのところで、一年ちかく「男めかけの形で、寝そべる事」になる。葉蔵は、東京にいた五年半(十九歳の春から二四歳の秋まで)のうち、二年間(二一歳・二二歳)を「男めかけの形」で過ごしたことになる。それは決して短い期間とはいえなかった。
それにもかかわらず、葉蔵の「男めかけ」のような生活には、必然性が感じられない。作者はなぜ、伝記的な事実にもない「男めかけ」のような生活を、葉蔵にさせたのだろうか。太宰治の文学的生涯は、錯乱の前期(昭和8年〜12年)、安定の中期(昭和13年〜20年)、錯乱の後期(昭和20年〜23年)の三つの時期に区分されている。安定の中期(石原美知子との見合い・婚約(昭和13年)前後〜敗戦)を真ん中に挟んで、前後に錯乱の時期が置かれている。
『人間失格』(昭和23年)も、相対的安定期といえる、葉蔵の「男めかけ」のような生活を真ん中に挟んで、前期と後期に別けることができる。葉蔵の前期は作者の前期を、葉蔵の中期は作者の中期を、葉蔵の後期は作者の後期をいくぶんかの割合で反映している。『人間失格』という自画像を描くに当たって、作者は、ツネ子との心中未遂事件で自身の前期を象徴させている。そして、シヅ子・マダムとの「男めかけ」のような生活で、自身の中期を象徴させ、ヨシ子との生活で自身の戦後の後期を象徴させている。
葉蔵が、シヅ子との「男めかけみたいな生活」に、顔を赤くする場面が二箇所ある。
《一週間ほど、ぼんやり、自分はそこ(シヅ子のアパート・引用者)にゐました。アパートの窓のすぐ近くの電線に、奴凧が一つひつからまつてゐて、春のほこり風に吹かれ、破られ、それでもなかなか、しつつこく電線にからみついて離れず、何やら首肯いたりなんかしてゐるので、自分はそれを見る度毎に苦笑し、赤面し、夢にさへ見て、うなされました。》(「第三の手記」)
《してその翌日(あくるひ)も同じ事を繰返して、昨日(きのふ)に異(かは)らぬ慣例(しきたり)に従へばよい。即ち荒つぽい大きな歓楽(よろこび)を避(よ)けてさへゐれば、自然また大きな悲哀(かなしみ)もやつて来(こ)ないのだ。ゆくてを塞ぐ邪魔な石を蟾蜍(ひきがへる)は廻つて通る。上田敏訳のギイ・シヤルル・クロオとかいふひとの、こんな詩句を見つけた時、自分はひとりで顔を燃えるくらゐに赤くしました。蟾蜍(ひきがへる)。(それが、自分だ。世間がゆるすも、ゆるさぬもない。葬むるも、葬むらぬもない。自分は、犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ。蟾蜍。のそのそ動いてゐるだけだ。)》(「第三の手記」)
葉蔵は、シヅ子との「男めかけみたいな生活」を、生活無能力者の生活として、電線にからみついている奴凧や、のそのそ動いているだけの蟾蜍と同一視している。また、スタンド・バアのマダムとの生活に対しても、自分の現在の喜びは、お客とむだごとを言いあい、お客の酒を飲むことだけの「くだらない生活」でしかないと、心中を吐露している。こうした充足感のなさが、後に、「大きな歓楽」を求める行動に葉蔵を駆り立てることになる。しかし、この時期の葉蔵の生活が、世間から指弾されるような事件を起こすこともなく、相対的な安定を得ていたことも確かだ。
こうした葉蔵の態度は、作者の新婚時代(昭和十四年一月六日から、東京三鷹に移転する昭和十四年九月一日まで、作者は甲府市御崎町で、美知子夫人と新婚生活を送っていた。)の作品、「春の盗賊」ですでに用意されていた。
《どろぼうに見舞はれたときにも、やはり一般市民を真似て、どろぼう、どろぼうと絶叫して、ふんどしひとつで外へ飛び出し、かなだらひたたいて近所近辺を駈けまはり、町内の大騒ぎにしたはうが、いいのか。それが、いいのか。私は、いやになつた。それならば、現実といふものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。あの悪徳の、どろぼうにしても、この世のものは、なんと、白々しく、興覚めのものか。ぬつとはひつて来て、お金さらつて、ぬつとかへつた。それだけのものでは、ないか。この世に、ロマンチツクは、無い。私ひとりが、変質者だ。さうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめてゐる。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。この大動揺は、昨夜の盗賊来襲を契機として、けさも、否、これを書きとばしながら、いまのいままで、なお止まず烈しく継続してゐるのである。》
葉蔵の中期と明らかに共鳴している。「春の盗賊」の「私」は、「いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめてゐる」と考えている。一方で「私」は、「現実といふものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。」、「もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい!」という思いに捉えられ、内心の「大動揺」を体験している。しかし「私」が、「同じ失敗を二度繰りかへすやつは、ばかである。」と考えるように、作者も中期の安定を持続していく。
これに対して葉蔵は、「昨日に異らぬ慣例」(「小市民生活」)を、のそのそ動いているだけの蟾蜍(「けちな世渡り」)と否定し、「荒つぽい大きな歓楽」を求めていくことになる。『人間失格』の作者は中期の葉蔵を、みずからの中期の作品「春の盗賊」で描いたような、「大動揺」する人物としては描かない。むしろ、「ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい!」人物として、方向づけたのである。
8 「世間とは個人」 (1)
葉蔵は、居候になっていたヒラメの家から逃げ出し、シヅ子のアパートで「男めかけ」のような生活を始めていた。そして、再び訪ねてくるようになった堀木の発言をキッカケに、「世間とは個人」という、「思想めいたもの」を持つようになる。その「思想」には、世間が堀木やヒラメという、具体的な個人の姿をとって現れてきたことと、葉蔵が社会的な存在として帰属する場所を持たない、「男めかけ」のような生活を送っていたことが刻印されている。
《「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」世間とは、いつたい、何の事でせう。人間の複数でせうか。どこに、その世間といふものの実体があるのでせう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こはいもの、とばかり思つてこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にさう言はれて、ふと、「世間といふのは、君ぢやないか。」といふ言葉が、舌の先まで出かかつて、堀木を怒らせるのがイヤで、ひつこめました。(それは世間が、ゆるさない。) (世間ぢやない。あなたが、ゆるさないのでせう?) (そんな事をすると、世間からひどいめに逢ふぞ。) (世間ぢやない。あなたでせう?) (いまに世間から葬られる。) (世間ぢやない。葬むるのは、あなたでせう?) 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、「冷汗、冷汗。」と言つて笑つただけでした。けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人ぢやないか)といふ、思想めいたものを持つやうになつたのです。さうして、世間といふものは、個人ではなからうかと思ひはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るやうになりました。シヅ子の言葉を借りて言へば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言へば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言へば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。》(「第三の手記」)
「世間とは個人」という「思想」を持つようになる前の葉蔵は、世間を、「強く、きびしく、こはいもの」と思っていた。そして、世間とは「人間の複数」か、世間というものの「実体」はどこにあるのか、と問うている。
世間は、「個人」として出現しようと、「人間の複数」として出現しようと、社会的な共同規範性をその本質としているから、「実体」としては存在しえない。それで、恐れることも、無視することも可能だったのである。葉蔵も後に、「黙殺」すれば自分と関係なくなると考える。葉蔵は、「人間の生活といふものが、見当つかない」(第一の手記)という不安から、世間を過大に評価して恐れたり、過小に評価して黙殺したりしているのである。
葉蔵が、「世間とは個人」という思想を持つようになったのは、ひとつには心中未遂事件後、堀木やヒラメという個人が、世間の意思を体現しているかのように登場してきたことによる。しかし、そのことは、堀木やヒラメが世間であることを意味するものではなかった。それは、堀木やヒラメの消滅が、世間の消滅を意味しないことからも明らかである。堀木やヒラメが、個人の意思を世間の意思であるかのように示して振る舞う限りにおいて、世間であるように見えるだけである。共同規範としての世間は、個人の背後に控えていて姿を現さない。「世間とは個人」という倒錯が発生する根拠がここにある。
ふたつには、シヅ子との生活を、「男めかけみたいな生活」と葉蔵みずからが呼んでいるように、葉蔵の存在が社会的なつながりを欠くものだったことによる。葉蔵は社会的な存在として、世間の意思を体現し、シヅ子親子を世間に橋渡しすることができない。世間と交渉するのはシヅ子のほうである。葉蔵は、家出の後仕末などのほとんど全部を、この「男まさりの甲州女(シヅ子・引用者)」の世話を受ける。また、シヅ子の取計らいで同棲も実現し、シヅ子の奔走のおかげで、葉蔵の漫画も金になるのだった。こうした葉蔵の非社会性が、葉蔵に、世間を社会的な広がりとして把握させることを妨げている。「世間とは個人」という「思想」は、葉蔵の「男めかけみたいな」存在から発想されたものだといえる。
「世間とは個人」と思い始めてから、「自分の意志」で動くことができるようになったと、葉蔵は言う。「強く、きびしく、こはいもの」と思っていた世間の正体が、実は「個人」だったと納得したとき、恐れていた世間にかわって、身近な「個人」が、恐れずに対処できる具体的な対象として据えられた。
しかし、「世間とは個人ぢやないか」と考えることは、世間の本質である共同規範性を無視することにしかならなかった。だから、葉蔵が「自分の意志」で動くことができるのは、シヅ子や堀木やシゲ子(シヅ子の娘)のような「個人」に対してであって、世間に対してではなかった。そのことは、「個人」との情緒的な関係を、関係のすべてとみなそうとすることに通じていた。葉蔵に対して、シヅ子が「少しわがまま」になったと言い、堀木が「へんにケチ」になったと言い、シゲ子が「あまりシゲ子を可愛がらなく」なったと言うのも、そうした葉蔵の態度を指したものにほかならなかった。
葉蔵は世間に疎隔感を覚えていたため、世間との理性的な関係を遠ざけたぶん、個人との情緒的な関係を引き寄せている。それは、停車場のブリッヂや地下鉄のような実利的なものを、遊びと思い込むことと同様なことだった。葉蔵は、世間の問題を回避したところで、「自分の意志」を発動させたため、社会的な関係を個人との情緒的関係に収斂せざるを得なかったのである。
9 「世間とは個人」 (2)
葉蔵はやがて、シヅ子親子の幸福を壊してしまうのではないかと恐れて、高円寺のアパートから逃げ出していく。そして、京橋のスタンド・バアのマダムのところで、ふたたび「男めかけ」のような生活を送ることになる。「世間とは個人」という「思想」が孕んでいた矛盾は、「男めかけ」のような生活がくり返されることでいっそう拡大していく。
《世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たやうな気がしてゐました。個人と個人の争ひで、しかも、その場の争ひで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない(原文は傍点・引用者)、奴隷でさへ奴隷らしい卑屈なシツペがへしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称へてゐながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋(オーシヤン)は世間でなくて、個人なのだ、と世の中といふ大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣ひする事なく、謂はば差し当つての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞ふ事を覚えて来たのです。高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、「わかれて来た。」それだけ言つて、それで充分、つまり一本勝負はきまつて、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊り込む事になつたのですが、しかし、おそろしい筈の「世間」は、自分に何の危害も加へませんでしたし、また自分も「世間」に対して何の弁明もしませんでした。マダムが、その気だつたら、それですべてがいいのでした。》(「第三の手記」)
これが、「世間とは個人」という「思想」の行き着いたところである。「世間」は、「個人と個人の争ひ」にまで縮小される。葉蔵は、「世の中といふ大海の幻影」におびえることから解放され、「いくぶん図々しく振舞ふ事を覚えて来た」と言う。葉蔵のこうした考えこそ、「幻影」と言わなければならない。「世間」は、「個人と個人」との、「その場の一本勝負」に解消できるものではなかった。「世間の難解は、個人の難解」でないし、「大洋は世間でなくて、個人」なのでもない。「マダムが、その気だつたら、それですべてがいい」と言えるのは、葉蔵のように、非社会的な「男めかけ」の生活を前提とした場合だけである。
こうして、「世間」の問題は、葉蔵の関心の埒外に置かれていく。「自分は、その店のお客のやうでもあり、亭主のやうでもあり、走り使ひのやうでもあり、親戚の者のやうでもあり、はたから見て甚だ得態の知れない存在だつた」と語る葉蔵は、社会的に帰属する場所を持たない。そのことは、葉蔵の内的世界が社会とつながりを失うことで内閉化し、社会に対して無防備になることでもあった。
葉蔵中期の、「世間とは個人」という思想の原型はすでに、作者中期の作品「春の盗賊」で次のように述べられていた。
《以前は、私にとつて、世評は生活の全部であり、それゆゑに、おつかなくて、ことさらにそれに無関心を装ひ、それへの反発で、かへつて私は猛りたち、人が右と言へば、意味なく左に踏み迷ひ、そこにおのれの高さを誇示しようと努めたものだ。けれども今は、どんな人にでも、一対一だ。これは私の自信でもあり、謙遜でもある。どんな人にでも、負けてはならぬ。勝をゆづる、など、なんといふ思ひあがつた、さうして卑劣な精神であらう。ゆづるも、ゆづらぬもない。勝利などといふものは、これはよほどの努力である。人は、もし、ほんたうに自身を虚しくして、近親の誰かつまらぬひとりでもよい、そこに暮しの上での責任を負はされ生きなければならぬ宿業に置かれて在るとしたならば、ひとは、みぢんも余裕など持てる筈がないではないか。》
作者と等身大の「春の盗賊」の「私」は、錯乱の前期を回想して、「世評は生活の全部であり、それゆゑに、おつかな」かったと語っている。だが、現在では、「どんな人にでも、一対一だ。」と言う。世間を恐れていた葉蔵が、世間とは「個人と個人の争ひ」だと考えることと照応している。
葉蔵が、「春の盗賊」の「私」と決定的に違うところは、「私」が「近親の誰かつまらぬひとり」に、「暮しの上での責任を負はされ生きなければならぬ宿業」を感じているのに対して、「男めかけの形で、寝そべる」生活を続けていることである。「春の盗賊」の「私」の「一対一」は、「暮しの上での責任」という社会性に開いている。しかし、葉蔵の「個人と個人の争ひ」は、「マダムが、その気だつたら、それですべてがいい」というふうに、閉じていくものでしかなかった。
「一対一」の関係は、中期の「駈込み訴へ」(昭和14年)「走れメロス」(昭和15年)などで立体的なイメージを与えられているが、『人間失格』では否定的で平板なイメージしか与えられていない。
こうして葉蔵は、シヅ子・マダムと暮らすうちに、「自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中といふところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思ふやうになりました。」という感想を持つまでになる。葉蔵は、春の風や銭湯に潜んでいる何十万の黴菌と同じように、世間も、「その存在を完全に黙殺さへすれば、それは自分とみぢんのつながりも無くなつてたちまち消え失せる」と考える。そして、「自分は、世の中といふものの実体を少しづつ知つて来たといふわけなのでした。」と述べている。しかし、世間は、「黙殺」すれば無関係となるというものではなかった。ここに葉蔵の錯誤があった。  
10 ヨシ子
葉蔵は、シヅ子との「男めかけ」のような生活に、「心細さ、うつたうしさ」を感じ、「『沈み』に『沈み』切つて」いた。そのため、新宿、銀座のほうにまで酒を飲みに出かけて外泊したり、酒の金に窮してシヅ子の衣類を持ち出したりするようになっていた。また、 その後の、スタンド・バアのマダムとの「男めかけ」のような生活でも、子供相手の雑誌に漫画を画くだけでなく、卑猥な雑誌に「汚いはだかの絵」などを画くようになっていた。
葉蔵の生活が、明るいものとなる兆しはどこにもなかった。こうしたとき現れたヨシ子は、ほかの女たちと異なり、作品中ただひとり明るく輝いている。ヨシ子が作品に登場する場面は、次のように描かれている。
《けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がゐました。「いけないわ、毎日、お昼から、酔つていらつしやる。」 バアの向ひの、小さい煙草屋の十七、八の娘でした。ヨシちやんと言ひ、色の白い、八重歯のある子でした。自分が、煙草を買ひに行くたびに、笑つて忠告するのでした。》(「第三の手記」)
葉蔵と女たちとの年齢を比較してみると、次のようになる。
(1) 葉蔵二〇歳―ツネ子二二歳
(2) 葉蔵二一歳―シヅ子二八歳
(3) 葉蔵二二歳―マダム?歳
(4) 葉蔵二三歳―ヨシ子十七、八歳
マダムの年齢は明らかではないが、葉蔵よりも年上であることは確かだ。すると、ヨシ子だけが葉蔵より年下であることになる。さらに、シヅ子は、痩せて背の高い男まさりの甲州女とされ、マダムは、美人というよりは美青年といっつたほうがいいくらいの固い感じの人(「あとがき」における小説家「私」の印象)とされている。いうまでもなく、「色の白い、八重歯のある」ヨシ子は、シヅ子やマダムと異なるイメージを与えられている。
葉蔵は女性について、「惚れられる」という言葉も、「好かれる」という言葉も、自分の場合にはふさわしくなく、「かまはれる」とでも言ったほうが実情の説明に適している(第二の手記)と述べている。事実、ヨシ子以外の女には「かまはれる」ような存在だったし、葉蔵自身、「かまわれたい」と望んでいたように見える。そのため、ツネ子には「寄り添ふ」ことを欲していたし、シヅ子・マダムとは「男めかけ」のような生活を送っていた。生活を支えていたのは、葉蔵ではなくてシヅ子やマダムだった。
ある厳寒の夜、葉蔵は酔って煙草屋の前のマンホールに落ち、ヨシ子に助けられる。葉蔵はヨシ子に、飲みすぎると言われると、あしたからは一滴も飲まないと約束し、やめたら僕のお嫁になってくれるかいと冗談でつけ加える。ヨシ子は、「モチよ。」と答える。
《さうして翌る日、自分は、やはり昼から飲みました。夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちやんの店の前に立ち、「ヨシちやん、ごめんね。飲んぢやつた。」 「あら、いやだ。酔つた振りなんかして。」 ハツとしました。酔ひもさめた気持でした。「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔つた振りなんかしてるんぢやない。」 「からかはないでよ。ひとがわるい。」 てんで疑はうとしないのです。「見ればわかりさうなものだ。けふも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね。」 「お芝居が、うまいのねえ。」 「芝居ぢやあないよ、馬鹿野郎。キスしてやるぞ。」 「してよ。」 「いや、僕には資格が無い。お嫁にもらふのもあきらめなくちやならん。顔を見なさい、赤いだらう? 飲んだのだよ。」 「それあ、夕陽が当つてゐるからよ。かつがうたつて、だめよ。きのふ約束したんですもの。飲む筈が無いぢやないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ。」》(「第三の手記」)
ヨシ子はカマトトぶっているわけではない。葉蔵(作者)にとって、ヨシ子は「信頼の天才」でなければならないのだ。葉蔵は、「世の中の全部の人の話方」には、「小うるさい駈引」「不必要な用心」「不可解な見栄」といったものがあって、そのことにいつも自分は「当惑」し、「陰鬱な思ひ」をしたと語っている。そうしたものといっさい無縁なヨシ子のことを、葉蔵は、「信頼の天才」と呼んでいる。しかし、そのことはヨシ子が、「世の中」に対して無防備な存在でしかないことを示唆してもいた。
「大きな悲哀(かなしみ)」が後からやってきてもよい、「荒つぽいほどの大きな歓楽(よろこび)」がほしいと、葉蔵はヨシ子との結婚を決意する。そのことは、「近親の誰かつまらぬひとりでもよい、そこに暮しの上での責任を負はされ生きなければならぬ宿業に置かれて在る」(「春の盗賊」)者として生きていくことでもあった。ヨシ子との関係では、「かまはれる」という受動性が成り立つ余地はなかった。葉蔵はヨシ子を、「近親の誰かつまらぬひとり」として、積極的に守り抜かなければならない立場に立たされることになったのである。 
 

 

11 結婚
葉蔵がヨシ子との結婚を決意した理由は二つあった。一つは、「男めかけ」のような生活から充足感を得られず、「荒つぽい大きな歓楽が欲しい」と、内心あせっていたこと。二つには、世間をそんなに恐ろしいところではないと思うようになっていたこと、である。
ところが、結婚によって、自分も「人間らしいもの」になることができるのではないかという、葉蔵の「甘い思ひ」は、堀木の出現で中断される。不幸な事件を予告するかのように、〈事前に現れる人〉堀木が登場する。
《煙草屋のヨシ子を内縁の妻にする事が出来て、さうして築地、隅田川の近く、木造の二階建ての小さいアパートの階下の一室を借り、ふたりで住み、酒は止めて、そろそろ自分の定つた職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはひり、また、花の鉢を買つたりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれてゐるこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見てゐるのが楽しく、これは自分もひよつとしたら、いまにだんだん人間らしいものになる事が出来て、悲惨な死に方などせずにすむのではなからうかといふ甘い思ひを幽かに胸にあたためはじめてゐた矢先に、堀木がまた自分の眼前に現はれました。「よう! 色魔。おや? これでも、いくらか分別くさい顔になりやがつた。けふは、高円寺女史からのお使者なんだがね、」》(「第三の手記」)
作者は葉蔵を、不幸に捉えられるのが宿命であるかのように描写するのをやめない。その年のむし暑い夏の夜、葉蔵が「決定的な事件」と呼ぶ出来事が起きて、ヨシ子との蜜月はあっというまに終わってしまう。それは作者の短かった新婚生活(甲府市御崎町時代)を反映しているだけではない。戦争が終わった直後に、「幽かな『希望』の風が、頬を撫でる。」(『パンドラの匣』昭和20年11月)と書いていた作者の「希望」が、あっというまに失望に変わってしまったことをも反映していた。「信頼の天才」ヨシ子が汚されるのは、戦後の希望が失望に変わるのと同じことだった。そのことはまた、作者に『人間失格』を書かせる契機になったといっていいかもしれない。
ヨシ子との生活は、はじめて葉蔵が、自分ひとりのちからで作り上げたものだった。葉蔵は世間とつながりながら、ヨシ子を守り抜かなければならない社会的責務を課されていたといえる。「酒は止めて、そろそろ自分の定つた職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し」と語る葉蔵の姿には、世間とつながりながら家庭を守っていこうとする、葉蔵の意志が感じられる。
ところで、堀木はこれより以前に、シヅ子と暮らしている葉蔵のところへ訪ねてくるようになっていた。それは次のように描かれている。
《「色魔! ゐるかい?」 堀木が、また自分のところへたづねて来るやうになつてゐたのです。あの家出の日に、あれほど自分を淋しくさせた男なのに、それでも自分は拒否できず、幽かに笑つて迎へるのでした。》(「第三の手記」)
葉蔵は堀木を拒否できない。そのことは、家庭の親和性を突き崩すかもしれない世間の規範性を、家庭の内に「迎へる」ことを意味していた。
葉蔵は今度も堀木を拒否できない。ヨシ子との暮らしの中に堀木を迎え入れ、止めていた酒も自分から誘って飲むようになってしまう。葉蔵は、ヨシ子との生活を守っていこうとする意志を、みずから放棄してしまうのである。
《「なに、たいした事ぢやないがね、たまには、高円寺のはうへも遊びに来てくれつていふ御伝言さ。」 忘れかけると、怪鳥が羽ばたいてやつて来て、記憶の傷口をその嘴で突き破ります。たちまち過去の恥と罪の記憶が、ありありと眼前に展開せられ、わあつと叫びたいほどの恐怖で、坐つてをられなくなるのです。「飲まうか。」 と自分。「よし。」 と堀木。自分と堀木。形は、ふたり似てゐました。そつくりの人間のやうな気がする事もありました。もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み歩いてゐる時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを駈けめぐるといふ具合ひになるのでした。その日以来、自分たちは再び旧交をあたためたといふ形になり、京橋のあの小さいバアにも一緒に行き、さうして、たうとう、高円寺のシヅ子のアパートにもその泥酔の二匹の犬が訪問し、宿泊して帰るなどといふ事にさへなつてしまつたのです。》(「第三の手記」)
堀木の出現は、葉蔵に、忘れかけていた「過去の恥と罪の記憶」を思い出させ、「わあつと叫びたいほどの恐怖」を与える。葉蔵の「過去の恥と罪の記憶」とは、地下運動から逃げ出したこと、心中未遂で相手を死なせたこと、「男めかけ」のような生活を送っていたことなど、堀木と出逢ってから生じた出来事を指していた。それは、堀木が葉蔵に教えた、「酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想」がもとになって生じたもので、〈事前に現れる人〉としての堀木の役割が遺憾なく発揮された結果だった。
堀木は「高円寺女史からのお使者」として、葉蔵の「過去」を背負って、「現在」にやってきていた。葉蔵の「過去」が浮かび上がり、葉蔵とヨシ子との「現在」は沈み込む。その結果、葉蔵は、マダムのいる京橋のバアや、高円寺のシヅ子のアパートという、「過去の恥と罪」のほうへ堀木と出掛けて行き、泊まってきたりするようになる。
しかし、葉蔵と堀木が似ていたのは、安い酒を飲み歩いているときだけのことだった。堀木は家庭と世間の違いを区別し、どちらにも自在に行き来することができるような人物だった。だが葉蔵は、家庭と世間との違いを区別することなく、どこまでも浮遊していくような人物であるほかなかった。
12 罪と罰
葉蔵は手記の中で、「神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じてゐるのでした。(略)地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかつたのです。」(第三の手記)と訴えている。葉蔵とヨシ子との生活は、この「罰」と「地獄」が次々と実現していく過程でもあった。
葉蔵に漫画を画かせてはわずかなお金を置いていく、三十歳前後の「小男の商人」に、ヨシ子が犯されるという出来事が起きる。それはむし暑い夏の夜のことだった。葉蔵は堀木とアパートの屋上で、「まことに薄汚い納涼の宴」を張り、対義語(アントニム)の当てっこといった「遊戯」をしていた。「白のアントは、赤。赤のアントは、黒。」というふうなやりとりをする遊びで、葉蔵が問い、堀木が答えていた。葉蔵はこの遊びを通じて、自分がまるで、「人間らしいもの」として扱われていなかったことを思い知らされる。
《「恥。オントのアント。」 「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太(葉蔵のこと・引用者)。」 「堀木正雄は?」 この辺から二人だんだん笑へなくなつて、焼酎の酔ひ特有の、あのガラスの破片が頭に充満してゐるやうな、陰鬱な気分になつて来たのでした。「生意気言ふな。おれはまだお前のやうに、縄目の恥辱など受けた事が無えんだ。」 ぎよつとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかひにしてゐなかつたのだ、自分をただ、死にぞこなひの、恥知らずの、阿呆のばけものの、謂はば「生ける屍」としか解してくれず、さうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それつきりの「交友」だつたのだ、と思つたら、さすがにいい気持はしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのやうに見てゐるのも、もつともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だつたのだ、やつぱり堀木にさへ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考え直し、「罪。罪のアントニムは、何だらう。これは、むづかしいぞ。」 と何気無ささうな表情を装つて、言ふのでした。「法律さ。」 堀木が平然とさう答へましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。自分は、つくづく呆れかへり、「罪つてのは、君、そんなものぢやないだらう。」 罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらゐに簡単に考へて、澄まして暮してゐるのかも知れません。刑事のゐないところにこそ罪がうごめいてゐる、と。》(「第三の手記」)
「罪のアントニム」をめぐって、会話はこの後も続いていく。葉蔵は自分が、堀木から「真人間」として扱われていなかったことを知り、「自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だつたのだ」と考える。この直後に、「罪のアントニムは、何だらう。」という、葉蔵の問いが飛び出すことになる。葉蔵は「何気無ささうな表情」を装って、実は必死に「罪のアントニム」を、つまり「最も『罪』らしくないもの」を探さなければならなかった。なぜなら、「真人間あつかひ」されていない自分自身を、「罪のアントニム」と位置づけることによってしか、自分を救出することができなかったからである。すでに、対義語の当てっこといった「遊戯」ではなくなっていた。
葉蔵が、「自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だつた」のだから、「真人間あつかひ」されなくても仕方がないと考えるとき、葉蔵は無意識のうちに、「罪のアントニム」の答えを発見していた。むしろ、「人間の資格の無いみたいな子供だつた」という自己規定そのものが、罪のアントニムは何かという問いを引き出す言葉だったといえるかもしれない。葉蔵は「罪のアントニム」(最も「罪」らしくないもの)を、「人間の資格の無いみたいな子供」という、無垢性の中に求めようとしている。そこでは、「子供」が「人間」と対立させられており、そのことは作品最後の、「神様みたいないい子」というマダムの発言にまでつながっていく。
「罪のアントニム」を「法律」と考える堀木にとって、心中未遂事件(自殺幇助罪)のような「法律」に触れる行為は、「縄目の恥辱」(犯罪)=「罪」以外のものではなかった。堀木は葉蔵を、次のように「罪人」扱いする。
《「君には、罪といふものが、まるで興味ないらしいね。」 「そりやさうさ、お前のやうに、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ。」 死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の何処かで幽かな、けれども必死の抗議の声が起つても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思ひかへしてしまふこの習癖。》(「第三の手記」)
世間は「道楽」を許容しても、「罪人」を許容したりはしない。法律的には「罪人」であっても、人間として「罪」があるわけでないという、葉蔵の「必死の抗議の声」は、葉蔵の内部にせき止められたままである。
堀木は「ツミの対語は、ミツさ。」とふざけて、ヨシ子が煮ているというそら豆を階下に取りに行く。その間、葉蔵はひとりで、「罪のアントニム」に思いをめぐらしていた。その答えが「わかりかけた」とき、堀木が戻ってくる。
《罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はつと思ひました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニム(同義語・引用者)と考へず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考へたドストの青みどろ、腐つた池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬灯がくるくる廻つてゐた時に、「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」 堀木の声も顔色も変つてゐます。堀木は、たつたいまふらふら起きてしたへ行つた、かと思ふとまた引返して来たのです。》(「第三の手記」)
「罪と罰」を「アントニム」と考えることは、「罪のアントニム」(最も「罪」らしくないもの)を「罰」と考えることを意味していた。「罪のアントニム」を、「人間の資格の無いみたいな子供」(無垢性)とするなら、その無垢性が「罰」とつながってしまうことに気づきつつある葉蔵がここにいる。
そして、「罪と罰」を「アントニム」とするなら、「罪があるから罰がある」ではなく、「罪がないのに罰がある」という考えに帰結せざるを得なかった。このことに葉蔵が「わかりかけた」とき、堀木はヨシ子が犯されていることを知らせにくる。「無垢の信頼心」が「罰」を受けている「地獄」が、葉蔵の「わかりかけた」答えに接続されている。
13 「無垢の信頼心は、罪なりや。」 (1)
堀木は階下に、ヨシ子が煮ているそら豆を取りに行くが、すぐ、顔色を変えて屋上に引き返してくるのだった。
《「なんだ。」 異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、「見ろ!」 と小声で言つて指差します。自分の部屋の上の小窓があいてゐて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がゐました。自分は、ぐらぐら目まひしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしてゐました。》(「第三の手記」)
「小男の商人」とヨシ子の性行為を、葉蔵と堀木が目撃している場面には違いない。しかし、「犯された」「汚された」と言われているその内実は、必ずしも明らかではない。ヨシ子が「小男の商人」に、一方的に「犯され」「汚され」たとするならば、「これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い」などと、葉蔵が胸の中で呟くこともないはずだ。ヨシ子の自発的な行為であるとするなら、「ヨシ子を助ける事も忘れ」という葉蔵の言葉も奇妙な感じを与える。
ヨシ子は必ずしも、一方的に「犯され」「汚され」たようには描かれていない。次のような箇所にそれは窺える。
《「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思ひ知つたらう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちやんは、ゆるしてやれ。お前だつて、どうせ、ろくな奴ぢやないんだから。失敬するぜ。」》(前の場面の直後の堀木の言葉)
《自分は、人妻の犯された物語の本を、いろいろ捜して読んでみました。けれども、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をしてゐる女は、ひとりも無いと思ひました。どだい、これは、てんで物語にも何もなりません。あの小男の商人と、ヨシ子とのあひだに、少しでも恋に似た感情でもあつたなら、自分の気持もかへつてたすかるかも知れませんが、ただ、夏の一夜、ヨシ子が信頼して、さうして、それつきり、(略)》(葉蔵の感想)
《考へると何もかも自分がわるいやうな気がして来て、怒るどころか、おこごと一つも言へず、(略)》(葉蔵の感想)
《(事件後・引用者)いつも自分から視線をはづしておろおろしてゐるヨシ子を見ると、こいつは全く警戒を知らぬ女だつたから、あの商人といちどだけでは無かつたのではなからうか、また、堀木は? いや、或ひは自分の知らない人とも?(略)》(葉蔵の感想)(「第三の手記」)
葉蔵(作者)はヨシ子の貞節を信じていない。それは、「ヨシちやんは、ゆるしてやれ。」という堀木の言葉や、「人妻の犯された物語の本」という不倫を意味する葉蔵の言葉をみても明らかである。さらに、葉蔵はヨシ子に対して、「あの商人といちどだけでは無かつたのではなからうか」といった、疑念をさえ表白しているのである。しかし、作者はヨシ子を、どこまでも「信頼の天才」として描こうとしており、そのため、ヨシ子の不貞を隠蔽したかったに違いない。記述の矛盾とわかりにくさはここからきている。
作者はなぜ、ヨシ子を「信頼の天才」として描きたかったのか。そして、それにもかかわらずなぜ、そのことを否定するような記述がなされてしまったのか。罪がないのに罰を受けてしまうという背理を、葉蔵のように神に訴えるためには、ヨシ子はどこまでも「信頼の天才」でなければならなかった。そうでなければ、葉蔵がくり返し訴える、「神に問ふ。信頼は罪なりや。」「無垢の信頼心は、罪なりや。」という言葉も切実さを欠いたものになる。事実それは、空虚に聞こえざるを得ない。なぜならヨシ子は、作者の意思に反して、その無垢性をどこまでも貫くようには描かれていないからである。作者にとって、ヨシ子という「戦後」はもはや、「無垢」を保証するものではなくなっていた。
無垢の信頼心は罪かという訴えを、葉蔵は、ヨシ子が「犯され」「汚され」たことに対する抗議の言葉として書きつけている。しかし、ヨシ子の無垢性が保持できなくなると、この言葉は次のように、自分自身に向けて用いられるようになる。
《ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑ふ事を知らなかつたのです。しかし、それゆゑの悲惨。神に問ふ。信頼は罪なりや。ヨシ子が汚されたといふ事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたといふ事が、自分にとつてそののち永く、生きてをられないほどの苦悩の種になりました。自分のやうな、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺ひ、人を信じる能力が、ひび割れてしまつてゐるものにとつて、ヨシ子の無垢の信頼心は、それこそ青葉の瀧のやうにすがすがしく思はれてゐたのです。それが一夜で、黄色い汚水に変つてしまひました。》(「第三の手記」)
「ヨシ子が汚されたといふ事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたといふ事」が、「苦悩の種」になったと、葉蔵は語っている。葉蔵はこう語ることで、ヨシ子に裏切られた自身の「苦悩」を無意識のうちに語っていることになる。ヨシ子の「無垢の信頼心」を、「青葉の瀧のやうにすがすがしく」感じるのも葉蔵なら、それが「黄色い汚水に変つてしま」ったと感じるのも葉蔵にほかならなかった。葉蔵の気持ちの変化をこそ、見逃すべきではないだろう。そこにはまた、「戦後」に裏切られたと感じている、作者の「現在」が刻印されている。
14 「無垢の信頼心は、罪なりや。」 (2)
「書かれたヨシ子」とは別に、「書かれなかったヨシ子」を問うべきだろう。作者が描きたかった本来のヨシ子とは、その無垢性のために罰を受けてしまうような人物にほかならなかった。「神に問ふ。信頼は罪なりや。」、このことを本気で訴えるためには、そのようなヨシ子の存在がどうしても必要だった。
ヨシ子は、無垢であるにもかかわらず、「悲惨」な結果を招き寄せてしまったのか。あるいは、無垢であるがために、「悲惨」な結果を招き寄せてしまったのか。作品から聞こえてくるこうした問いは、「書かれたヨシ子」とは別のところに、ヨシ子本来の姿を想定せざるを得ないように誘惑する。それは、葉蔵の夢が紡ぎ出した「原型としてのヨシ子」を、事件の現場に登場させることで、作者の意図を明らかにすることである。「原型としてのヨシ子」は、結婚する前と新婚時代に次のように描き出されている。
《ヨシちやんの表情には、あきらかに誰にも汚されてゐない処女のにほひがしてゐました。》(結婚前)
《薄暗い店の中に坐つて微笑してゐるヨシちやんの白い顔、ああ、よごれを知らぬヴアジニテイは尊いものだ(略)》(結婚前)
《夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはひり、また、花の鉢を買つたりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれてゐるこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見てゐるのが楽しく(略)》(新婚時代)(「第三の手記」)
ヨシ子は葉蔵にとって、「汚されてゐない処女」「よごれを知らぬヴアジニテイ」という、無垢な存在だった。また葉蔵が、「自分をしんから信頼してくれてゐる」と思うような存在だった。葉蔵やヨシ子の悲劇は、許容される範囲を超えてまで、こうした無垢性を追い求めたことにあった。
《その妻は、その所有してゐる稀な美質に依つて犯されたのです。しかも、その美質は、夫のかねてあこがれの、無垢の信頼心といふたまらなく可憐なものなのでした。無垢の信頼心は、罪なりや。》(「第三の手記」)
このような、「無垢の信頼心」という「美質」は、「夫」と「妻」というような、限定された関係の中だけで成り立つものだった。「妻」が、「その所有してゐる稀な美質に依つて犯され」るのは、その「美質」を、通用する範囲を超えた関係にまで持ち込んだためではないのか。葉蔵の抗議は、ヨシ子の、「ひとを疑ふ事を知らなかつたのです。しかし、それゆゑの悲惨。」という事態に対してなされていたはずだ。しかし、「ひとを疑ふ事を知らなかつた」という「無垢の信頼心」は、それを成り立たせている関係の外では、たんなる無知に転化してしまう。だが葉蔵(作者)は、こうした相対的な人間関係を受け入れたくなかったに違いない。
葉蔵はヨシ子と始めたばかりの暮らしに、堀木を迎え入れることによって、ヨシ子との生活を守り抜こうとする意志をみずから放棄してしまう。シヅ子やマダムは、自分たちが世間と結びつくことで、葉蔵との生活を支えていた。しかしヨシ子は、葉蔵を通じて世間と結びつくことによってしか、葉蔵との生活を支えていくことができない。ヨシ子の非社会性は無垢性のあかしだった。そのことは、葉蔵の社会性が絶たれてしまえば、葉蔵とヨシ子の家庭は足場を喪失し、世間に対して無防備になるしかなかったということでもあった。
こうして、「小男の商人」という世間を象徴する人物が、葉蔵とヨシ子の家庭に易々と侵入する。そして、ヨシ子は「小男の商人」(世間)に、「無垢の信頼心」で接したためにつけこまれ、悲劇を演じてしまう。その結果、「こいつは全く警戒を知らぬ女だつたから、あの商人といちどだけでは無かつたのではなからうか、また、堀木は?」などと葉蔵に疑われるようになり、「無垢の信頼心といふたまらなく可憐なもの」は「無警戒」にまで貶められてしまう。
「原型としてのヨシ子」を、あたうかぎり無垢なまま事件の現場に連れ出してみれば、無垢であるがために「悲惨」な結果を招き寄せざるを得ない、人間社会の現実を認めないわけにはいかなかった。反対に、「人が人を押しのけても、罪ならずや。」(第三の手記)と叫ばなければならないような現実も、厳然と存在していた。しかし、「無垢の信頼心は、罪なりや。」と訴える葉蔵は、こうした現実の姿を認めたくなかったに違いない。作品の中に身を乗り出すようにして、この言葉を書きつけた作者もまた。
15 決定的な事件
「書かれたヨシ子」は、「無垢の信頼心」を貫こうとするヨシ子と、そうでないヨシ子の二つに分裂している。葉蔵は手記で、ヨシ子をどこまでも、「無垢の信頼心」を堅持しようとする者として描こうとする。しかし、ヨシ子の行為に対する葉蔵自身の反応は、それを裏切るように描かれてしまう。
無垢の信頼心は罪かという葉蔵の訴えは、二重の意味合いを持っていた。一つは、ヨシ子の「無垢の信頼心」が汚されたことへの抗議であり、もう一つは、ヨシ子に裏切られた葉蔵自身の抗議である。
葉蔵は、ヨシ子と「小男の商人」の行為のことを、「二匹の動物」と呼んでおり、それを目撃したときの恐怖を次のように書いている。
《堀木は、大きい咳ばらひをしました。自分は、ひとり逃げるやうにまた屋上に駈け上り、寝ころび、雨を含んだ夏の夜空を仰ぎ、そのとき自分を襲つた感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの凄まじい恐怖でした。それも、墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢つた時に感ずるかも知れないやうな、四の五の言はさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失ひ、いよいよ、ひとを底知れず疑ひ、この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれるやうになりました。実に、それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした。自分は、まつかうから眉間を割られ、さうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも接近する毎に痛むのでした。》(「第三の手記」)
葉蔵は「人間」を、不可解なものとして恐れていた。シヅ子の五つになる女児にさえ、 「不可解な他人、秘密だらけの他人」を意識して、「おどおど」しなければならないほどだった。そして、信頼しきっていたヨシ子の中に、「不可解な他人、秘密だらけの他人」を発見して打ちのめされてしまう。
葉蔵は、ヨシ子と「小男の商人」の行為を目撃して、逃げるように屋上に駈け上がっていく。このときの行動の意味は、すでに、ツネ子のいるカフェに堀木と飲みに行ったときのことを記した、葉蔵の手記の中で説明されていた。
《銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフヱに、ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではひり、あいてゐるボツクスに堀木と向ひ合つて腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄つて来て、そのもう一人の女給が自分の傍に、さうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハツとしました。ツネ子は、いまにキスされる。惜しいといふ気持ではありませんでした。自分には、もともと所有欲といふものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあつても、その所有権を敢然と主張し、人と争ふほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙つて見てゐた事さへあつたほどなのです。自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思ひ上つた欲は、自分に持てる筈はありません。けれども、自分は、ハツとしました。》(「第二の手記」)
「内縁の妻が犯されるのを、黙つて見てゐた」のは、「所有権」を主張して争うほどの気力がないためであり、また、「人間のいざこざに出来るだけ触りたくない」ためだと、葉蔵は記している。「触りたくない」「巻き込まれるのが、おそろしい」という受動性が、葉蔵に、「内縁の妻が犯される」という現実に正面から立ち向かうことを回避させている。
葉蔵は手助けがないと、「人間のいざこざ」に直面することができない。そのことが、堀木や「小男の商人」の侵入を許し、ヨシ子を守り抜くことを不可能にしてしまう。葉蔵は後に、「無抵抗は罪なりや?」と訴えている。「無抵抗」という形の受動性は、この場合「罪」であると言わなければならない。
こうして、葉蔵が、「自分の生涯に於いて、決定的な事件」と呼ぶ出来事が起き、葉蔵は、「この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴」などから、「永遠にはなれる」ようになる。そのことは取りも直さず、人と人が関係する「人間の生活」から、「永遠にはなれる」ことを意味していた。老いが、人と人との関係空間の縮小をもたらすものとすれば、人と人との関係空間の縮小は、老いの意識をもたらさずにはおかない。この事件の夜からはじまった、葉蔵の「若白髪」は、老いの意識を象徴していた。
この事件から四年後、葉蔵の「若白髪」は、本格的な「白髪」に変貌する。葉蔵は「人間の資格の無いみたいな子供」から、大人を跳び越えて、一気に老年にまで行き着いてしまうのである。 
 

 

16 「どんどん不幸になるばかり」
葉蔵は、ヨシ子と「小男の商人」との行為を目撃して以来、「どんな人間にでも接近する毎に痛む」心の傷を抱え込むようになり、「人間の生活」からますます孤立していく。そして、翌年初夏の精神病院入院までの、一年近くの間に、「どこまでも自(おのづか)らどんどん不幸になるばかり」という事態に見舞われることになる。そのことを葉蔵の手記から列挙してみる。
(1) おもむくところは、ただアルコールだけになる。朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠ける。顔の表情は極度にいやしくなる。漫画もほとんど猥画に近いものを画くようになる。焼酎を買う金のために、春画のコピーをして密売する。
(2) ヨシ子が隠し持っていた、催眠剤(ジアール)を飲んで自殺を図るが、未遂に終わる。
(3) ひとりで南伊豆の温泉に行ってみる。しかし、山を眺めるなどの落ち着いた心境にはなれず、焼酎を浴びるほど飲んで、からだ具合をいっそう悪くして帰京する。
(4) 喀血をキッカケにはじめたモルヒネが中毒になる。モルヒネを得る金のために、春画のコピーをする。薬屋の奥さんと「醜関係」を結ぶ。
葉蔵の内的な崩壊は、一年の間に、アルコールからモルヒネへと深化している。葉蔵とヨシ子との生活は、葉蔵がヨシ子を守り抜くことができなかったことで、悲劇を招いてしまう。その後の、葉蔵の不幸の連続は、葉蔵の資質が必然的に生み出したものだった。そのことは葉蔵に、次のように把握されている。
《不幸。この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言つても過言ではないでせうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言ひかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆れかへるに違ひないし、自分はいつたい俗にいふ「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自(おのづか)らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。》(「第三の手記」)
葉蔵は自分の不幸を、宿命であるかのように受けとめている。それは、「世間」との関係 (軋轢)を、個人との情緒的な関係に収斂させようとする資質が、必然的に呼び込んだものにほかならなかった。そのような資質は、自身には「気が弱すぎる」と感じられても、「世間」からは「わがままもの」とみなされ、ひとたび社会的な事件を起こせば、「罪悪のかたまり」とみなされざるを得なかった。こうした資質を否定的な側面でだけ捉えたとき、「どこまでも自らどんどん不幸になるばかり」な、葉蔵のような人物が造形された。
作者自身、意図したことと反対のことが実現してしまう現実を、「宿命」のように受けとめていた。そうした現実のあり方には、「この世」に異和感を抱いていた作者の無意識が加担していたに違いない。『津軽』の主人公の「私」は、「育ての親」越野たけに逢うために、東京から津軽にやってくる。ところが、国民学校で運動会を見ているはずの、たけと逢うことができない。「私」はそのときの感想を、次のように述べている。
《しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。》
「有頂天で立てた計画」が「ちぐはぐな結果」になるのは、「私」(作者)が無意識のうちに、ちぐはぐな計画を立ててしまうためだ。その計画が「この世」と軋轢を起こし、「ちぐはぐな結果」を惹起してしまう。「そんな具合のわるい宿命」だけをとりだして、作者の自画像としたのが、「どこまでも自らどんどん不幸になるばかり」な葉蔵の姿だった。同じことは、戦後の作品「父」(昭和22年)にこう書かれている。
《私のこれまでの四十年ちかい生涯に於いて、幸福の予感は、たいていはづれるのが仕来りになつてゐるけれども、不吉の予感はことごとく当つた。》
作品「父」の「私」(作者)は、「幸福の予感」がはずれ、「不吉の予感」が当ることを、「具合のわるい宿命」のように感じている。『人間失格』では主人公の葉蔵が、こうした「具合のわるい宿命」に翻弄されることになる。「結婚(ヨシ子と・引用者)して春になつたら二人で自転車で青葉の滝を見に行かう」と、葉蔵が「有頂天で立てた計画」(「幸福の予感」)は、「ちぐはぐな結果」に終わってしまう。「不吉の予感」であるかのように、「僕は、女のゐないところに行くんだ。」と、葉蔵が自殺未遂後に言ったうわごとは、「のちに到つて、非常に陰惨に実現」(精神病院入院)される、というように。
17 「恋情の氾濫」
葉蔵は、モルヒネ中毒のキッカケとなった喀血の場面を、次のように記している。
《東京に大雪の降つた夜でした。自分は酔つて銀座裏を、ここはお国を何百里、ここはお国を何百里、と小声で繰り返し繰り返し呟くやうに歌ひながら、なほも降りつもる雪を靴先で蹴散らして歩いて、突然、吐きました。それは自分の最初の喀血でした。雪の上に、大きい日の丸の旗が出来ました。自分は、しばらくしやがんで、それから、よごれてゐない個所の雪を両手で掬ひ取つて、顔を洗ひながら泣きました。こうこは、どうこの細道ぢや?こうこは、どうこの細道ぢや?哀れな童女の歌声が、幻聴のやうに、かすかに遠くから聞えます。》(「第三の手記」)
「ここはお国を何百里、ここはお国を何百里」と、くり返し呟くように歌う〈くり返し〉の動作は、出口をなくした精神の姿を象徴する行為である。戦後の作品「桜桃」(昭和22年)の最後で、主人公の「私」が「やりきれねえ」気分を紛らすために、「大皿に盛られた桜桃を、極めてまづさうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き」と〈くり返す〉動作と共通している。ここには太宰治の前期作品に見られる、〈くり返し〉という主題が甦っている。それは次のように、ものごとの解決策が見出せず、行き詰まりを感じたときに見せる行為にほかならなかった。
《恥しい思ひ出に襲はれるときにはそれを振りはらふために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあつた。簡単なのだ、簡単なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしてゐた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬つてはこぼし掬つてはこぼししながら、さて、さて、と何回も言つた。》(「思ひ出」昭和8年)
前期の代表作の一つ「道化の華」(昭和8年)は、自己の表現に自己注釈を加え、さらにその自己注釈に自己注釈を加え、さらにその自己注釈に自己注釈を加え……といった〈くり返し〉で作品が構成されており、それが停滞し進展しない作者の内面を象徴していた。
『人間失格』でも、〈くり返し〉の意味するところは変わらない。葉蔵は、「ここはお国を何百里」とくり返し歌いながら、最初の喀血を体験する。そして、それに呼応するかのように、「こうこは、どうこの細道ぢや?」とくり返し歌う、童女の歌声(それは葉蔵の「幻聴」でしかなかったが)を聞く。〈くり返し〉は、葉蔵の危機的な状況を現していた。こうしたとき、葉蔵は薬屋の奥さんと遭遇することになる。そのことは、喀血の場面に引き続いてこう書かれている。
《自分は立つて、取り敢へず何か適当な薬をと思ひ、近くの薬屋にはひつて、そこの奥さんと顔を見合せ、瞬間、奥さんは、フラツシユを浴びたみたいに首をあげ眼を見はり、棒立ちになりました。しかし、その見はつた眼には、驚愕の色も嫌悪の色も無く、ほとんど救ひを求めるやうな、慕ふやうな色があらはれてゐるのでした。ああ、このひとも、きつと不幸な人なのだ、不幸な人は、ひとの不幸にも敏感なものなのだから、と思つた時、ふと、その奥さんが松葉杖をついて危かしく立つてゐるのに気がつきました。駈け寄りたい思ひを抑へて、なほもその奥さんと顔を見合せてゐるうちに涙が出て来ました。すると、奥さんの大きい眼からも、涙がぽろぽろとあふれ出ました。》(「第三の手記」)
葉蔵は、「救ひを求め」ているような薬屋の奥さんに対して、感情が溢れ出すのを抑え切れない。「救ひを求め」ていたのは、もちろん葉蔵のほうだ。この場面が、いかに唐突で不自然に見えようとも、葉蔵の疲れ果てた心の内側からみれば、真情の自然な流露であったといえるかもしれない。葉蔵が薬屋の奥さんに、「実に素直に今迄のからだ具合ひを告白」できたのも、「自分たちは、肉身のやうでした。」という安心感が葉蔵にあったからである。
葉蔵の、心と心を無限に通い合わせたいという願望は、作者の資質として内在していたものである。そのことは、前期と中期の狭間に書かれたエッセー「思案の敗北」(昭和12年)に、次のように記述されている。
《路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。いつたい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」をかしくもない。》
感情が溢れ出すのを抑え切れない葉蔵は、「だらしない恋情の氾濫」を抑え切れない作者の資質を、明らかに受け継いでいる。また、「自分たちは、肉身のやうでした。」と言う葉蔵は、「私の辞書には、『他人』の文字がない」と言う作者の資質を受け継いでいる。
ところが、「この不幸な奥さんの愛情もまた、自分にとつて深すぎました。」と、葉蔵が述べているような事態が、その後、葉蔵を見舞うことになる。奥さんは葉蔵に、酒はよしなさいと言い、どうしても酒が飲みたくてたまらなくなったときの薬と言って、モルヒネの注射液を手渡す。葉蔵はモルヒネによって、不安も焦燥もはにかみも除去され、からだの衰弱も忘れることができるようになる。葉蔵にとってモルヒネは、一時的ではあるが、救いだったことは確かかもしれない。しかしその救いは、人を現実から退却させ、精神活動を停止させる、「地獄」への道であることも確かだった。「肉身のやうで」あることは、必ずしも幸福につながるものではなかった。
ところで、葉蔵が希求していた「肉身のやう」な関係は、現実の世間からは撥ね返されてしまうのが常だった。葉蔵はそのため、「人間が、葉蔵といふ自分に対して信用の殻を固く閉ぢてゐた」(第一の手記)と、「人間」を認識せざるを得なかった。そのことについては、この作品の前身に当たる『新ハムレツト』(昭和16年)に、次のように書かれている。
《僕(ハムレツト・引用者)たちのはうでは、あの人たち(クローヂヤスやポローニヤス・引用者)を、たのみにもしてゐるし、親しさも感じてゐるし、尊敬さへもしてゐるのだから、いつでも気をゆるして微笑みかけてゐるのに、あの人たちは、決して僕たちに打ち解けてくれず、絶えず警戒して何かと策略ばかりしてゐるのだから、悲しくなる。》
ハムレットのこの言葉は、葉蔵がいちばん主張したかったことであるように思える。しかし、「いつでも気をゆるして微笑みかけてゐる」ような、過度に親和を求める心性は、現実から撥ね返され(「打ち解けてくれず」)ないわけにはいかなかった。ハムレットは、人間は不可解だという思い(「絶えず警戒して何かと策略ばかりしてゐる」)に捉えられ、人間との接触を避けようとする受動的な心情(「悲しくなる」)を形成するようになる。葉蔵を、「どこまでも自らどんどん不幸になるばかり」な存在としたのもそのことだった。
18 父
葉蔵はモルヒネの完全な中毒患者になって、アパートと薬屋の間を、半狂乱の姿で往復しているだけという状態になる。やがて葉蔵は、「最後の手段」として、父に手紙を書く。
《いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがつてふえてゐるので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さん(薬屋の・引用者)は、自分の顔を見ると涙を浮べ、自分も涙を流しました。地獄。この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、といふ神の存在を賭けるほどの決意を以て、自分は、故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の実情一さいを(女の事は、さすがに書けませんでしたが)告白する事にしました。しかし、結果は一そう悪く、待てど暮せど何の返事も無く、自分はその焦燥と不安のために、かへつて薬の量をふやしてしまひました。》(「第三の手記」)
葉蔵は、自分を支配し続けてきた父に対して、はじめて、告白の手紙という形で、自分からかかわりを持とうとする。葉蔵と父との関係を、葉蔵が中学校に入るために他郷へ出てからの時期について、手記からひろい出してみる。
《その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあつて、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。》
《自分は、美術学校にはひりたかつたのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言ひ渡してあつたので、口応へ一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従つたのでした。》
《父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にゐても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむつたく、おそろしく(略)》(高等学校時代)
《それまで、父から月々、きまつた額の小遣ひを手渡され、それはもう、二、三日で無くなつても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあつたし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町内の店だつたら、自分は黙つてその店を出てもかまはなかつたのでした。》(高等学校時代)
《出席日数の不足など、学校のはうから内密に故郷の父へ報告が行つてゐるらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすやうになつてゐたのでした。》(高等学校時代)
《(心中未遂事件のとき故郷の親戚の者が・引用者)くにの父をはじめ一家中が激怒してゐるから、これつきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。》(「第二の手記」)
《シヅ子の取計らひで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子、三人の会談が成立して、自分は、故郷から全く絶縁せられ、さうしてシヅ子と「天下晴れて」同棲といふ事になり(略)》(「第三の手記」)
葉蔵にとって、父は、疎隔感を覚えていた世間を象徴するようにしか存在していなかった。そのため、素直に「告白」できる薬屋の奥さんとは違って、「神の存在を賭けるほどの決意」をもって、「告白」せざるを得ないような存在だった。葉蔵がどんな救いを求めて、父に手紙を書いたのかは不明だとしても、それは、服従と同時に依存してきた父(世間)に対して見せる、はじめての積極的な行為だった。父に、「肉身のやうで」あることを求める、最後の訴えだったかもしれない。しかし、父の返事は、葉蔵の期待を裏切るものでしかなかった。
ヒラメが、「悪魔の勘で嗅ぎつけた」ように、堀木を連れて現われ、葉蔵を「脳病院」に入院させてしまう。これが父の返事だった。最終的な場面で、〈事前に現れる人〉堀木と、〈事後処理をする人〉ヒラメは連れ立って現れ、葉蔵を「この世」から追放する。
ヒラメはいつどこで、堀木と知りあったのだろうか。葉蔵は、心中未遂事件後に住んでいたヒラメの家から逃げ出し、堀木の家を訪れたとき、「親爺さんから、お許しが出たかね。まだかい。」と堀木から尋ねられる。堀木は、葉蔵の父が「激怒」していることを、ヒラメを通じて知ったに違いない。ヒラメはこの時点で、堀木と面識を得ていたと思われる。
葉蔵が、堀木の家で出逢ったシヅ子と同棲するときにも、父の意思は、ヒラメ→堀木→シヅ子へと伝わり、その結果、葉蔵は故郷から絶縁される。同じように、葉蔵を「脳病院」に入院させようとする父の意思も、ヒラメ→堀木→ヨシ子という経路で伝達し、この三人が実行に移すことになる。
「この世」の規範を象徴する父の意思は、ヒラメや堀木を手足として動かし、葉蔵を「この世」の外にある「脳病院」に追放する。葉蔵は入院から三カ月後に、自分を引き取りにきた長兄から、父の死を聞かされ、生きていく意欲をなくしてしまう。
《父が死んだ事を知つてから、自分はいよいよ腑抜けたやうになりました。父が、もうゐない、自分の胸中から一刻も離れなかつたあの懐しくおそろしい存在が、もうゐない、自分の苦悩の壷がからつぽになつたやうな気がしました。自分の苦悩の壷がやけに重かつたのも、あの父のせゐだつたのではなからうかとさへ思はれました。まるで、張合ひが抜けました。苦悩する能力をさへ失ひました。》(「第三の手記」)
父の死は、「この世」の死を意味していた。だからそれは、葉蔵の「この世」での死(人間失格)を駄目押しするものでしかなかった。「人間を極度に恐れてゐながら、それでゐて、人間を、どうしても思ひ切れなかつた」(第一の手記)と語る葉蔵にとって、道化は、「人間」として生きていくために必要なことだった。しかしここには、「懐しくおそろしい存在」(「極度に恐れてゐながら」も、「思ひ切れなかつた」対象)である父(世間・人間)を「思ひ切」ってしまったために、道化とも無縁になった葉蔵がいるだけである。
19 脳病院
葉蔵は、故郷の父から手紙の返事がこないことに、「焦燥と不安」を覚え、かえってモルヒネの量を増やしてしまっていた。その間、父はヒラメと、葉蔵の「脳病院」入院を画策していたことになる。それが実行された日のことを、葉蔵は次のように書いている。
《今夜、十本、一気に注射し、さうして大川に飛び込まうと、ひそかに覚悟を極めたその日の午後、ヒラメが、悪魔の勘で嗅ぎつけたみたいに、堀木を連れてあらはれました。「お前は、喀血したんだつてな。」 堀木は、自分の前にあぐらをかいてさう言ひ、いままで見た事も無いくらゐに優しく微笑みました。その優しい微笑が、ありがたくて、うれしくて、自分はつい顔をそむけて涙を流しました。さうして彼のその優しい微笑一つで、自分は完全に打ち破られ、葬り去られてしまつたのです。自分は自動車に乗せられました。とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調でした)自分にすすめ、自分は意志も判断も何も無い者の如く、ただメソメソ泣きながら唯々諾々と二人の言ひつけに従ふのでした。ヨシ子もいれて四人、自分たちは、ずゐぶん永いこと自動車にゆられ、あたりが薄暗くなつた頃、森の中の大きい病院の、玄関に到着しました。サナトリアムとばかり思つてゐました。》(「第三の手記」)
葉蔵には、心中未遂事件後、自分をまともな人間として扱ってこなかったヒラメや堀木が、この日は自分をまともな人間として扱っていると映じていた。しかし、堀木の「優しい微笑」も、ヒラメの「慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調」も、実は葉蔵をすでに「狂人」扱いしていることから出た態度にほかならなかった。父に宛てた葉蔵の手紙の内容が、父→ヒラメ→堀木へと伝わり、葉蔵を「狂人」とみなすようになっていたことは確かだ。葉蔵はそのことに気づかず、「ありがたくて、うれしくて」、涙さえ流す。葉蔵は、「男めかけ」に象徴されるような、他人に面倒を見てもらう関係の中でしか生きていくことができない。そのことが、堀木やヒラメの見掛けの好意にも、唯々諾々と従わざるを得ないようにさせている。
堀木は葉蔵の喀血をいたわるように「優しく微笑み」、ヒラメも入院しなければならないと「しんみりした口調」で言う。しかし、ふたりとも、葉蔵が父に宛てた手紙のことやモルヒネのことは、一言も話題にしない。葉蔵は「胸の病気」の治療のために、サナトリウムに行くと思い込んでいた。ところが、「森の中の大きい病院」に着いてみると、「或る病棟にいれられて、ガチヤンと鍵をおろされました。脳病院でした。」と記されているような、思いがけない事態がやってくる。葉蔵は、「人間」(世間)との通路を遮断されてしまうのである。
葉蔵には、堀木やヒラメにだまされた、という思いだけが残ったに違いない。そして、父、堀木、ヒラメ、ヨシ子に対する、どす黒い不信感を募らせたはずだ。この世で生きていけないという、葉蔵の「人間失格」意識は決定的なものとなる。作者は葉蔵を「脳病院」にぶち込むことで、最後の仕上げをする。
《いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂つてなどゐなかつたのです。一瞬間といへども、狂つた事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をさう言ふものださうです。つまり、この病院にいれられた者は気違ひ、いれられなかつた者は、ノーマルといふ事になるやうです。神に問ふ。無抵抗は罪なりや?堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、さうしてここに連れて来られて、狂人といふ事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやつぱり狂人、いや、廃人といふ刻印を額に打たれる事でせう。人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。》(「第三の手記」)
「この病院にいれられた者は気違ひ、いれられなかつた者は、ノーマルといふ事になる」ということが、必ずしも問題なわけではない。なによりも、不本意な仕方で「脳病院」に入院させられたことが、「人間」を「失格」したという意識を、葉蔵に植えつけることになったのである。「人間、失格。/もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」と言うときの「人間」とは、「人間の生活」「人間の営み」「世間」のような、人間と人間の関係を意味していた。葉蔵は、人間と人間の関係(世間)の中で、生きていくことに「失格」したため、「完全に、人間で無くなりました。」という失墜感(孤立感)を味わうほかなかったのである。
葉蔵が、堀木やヒラメの言いつけに、素直に従ったことが「罪」なわけではない。しかし、葉蔵の「無抵抗」は、必ずしも「無垢」から出たものではなかった。葉蔵の衰弱した心が、堀木の「優しい微笑」や、ヒラメの「慈悲深い口調」に「抵抗」できなかっただけだ。
作者自身の精神病院入院体験(昭和十一年十月十三日〜十一月十二日)を、退院直後に描いた作品「HUMAN LOST」(昭和11年)からは怒りを感じとることができる。しかし、この作品からは、それを感じとることができない。「神に問ふ。無抵抗は罪なりや?」という言葉は、人間を失格したという思いが、ちからなく吐かせた呟きでしかなかった。
20 母
葉蔵の精神病院入院から三カ月後、長兄はヒラメを連れて、葉蔵を引き取りにやってくる。そして、父の死、退院後の療養生活のことなどを葉蔵に告げる。葉蔵はすでに、「人間」(世間)から遠く隔たっていたから、葉蔵を世間に橋渡しする堀木はもはや不要だった。また、ヨシ子との生活をやり直すことも、不可能なことだった。だから、堀木もヨシ子も、退院する葉蔵を迎えにこない。二人ともすでに、作品から退場している。父を引き継いだ長兄と、葉蔵が東京でしでかしたことの後仕末をやってくれたと言われている、〈事後処理をする人〉ヒラメが葉蔵を迎えにきていた。
葉蔵は生まれ育った町から、汽車で四、五時間南下したところにある、温泉地の古い茅屋で療養生活を送ることになる。そこでの、「六十に近いひどい赤毛の醜い女中」との現在の暮らしぶりを、手記の最後で次のように報告している。「それから(退院から・引用者)三年と少し経ち、自分はその間にそのテツといふ老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦喧嘩みたいな事をはじめ、胸の病気のはうは一進一退、痩せたりふとつたり……」、と。葉蔵の手記は最後に、手記を記述している現在に到達する。手記の最後に登場する「テツ」は、作品『津軽』の最後に登場する「たけ」とは対照的な存在である。
『津軽』の「私」は、三〇年近く逢っていない育ての親「たけ」と再会して、「生れてはじめて心の平安」を体験する。葉蔵は「テツ」と暮らしていて、どんな「心の平安」を体験することもなかった。『津軽』の「私」にとって、「たけ」は、「甘い放心の憩ひ」を与えてくれる、母を感じさせる存在だった。葉蔵にとって、母はどこまでも不在でしかなかった。
母を問うことは、母の不在を問うことを意味していた。葉蔵の母は、「脳病院」にも茅屋にも尋ねてこない。前期の作品「思ひ出」の「私」は叔母に母を発見し、中期の作品『津軽』の「私」は「たけ」に母を発見する。しかし、葉蔵はどこにも母を見つけ出せない。葉蔵を暖かく迎え入れてくれる家族性は、最後まで失われたままだった。母の不在はまた、この作品をふくらみのない平板なものにしている。
幼児期における母性の存在は、母(他者)に対する信頼感と、自己に対する信頼感(自信)を生み出す。葉蔵が人間を不可解なものとして恐れるのは、このような母性の存在が欠如していたためである。母性の欠如によって、記憶の核に喪失感を刻印された者は、そこに触れるような出来事を忌避し続ける。ヨシ子は、「脳病院」に葉蔵ひとりを残して帰ろうとしたとき、強精剤だとばかり思っていたモルヒネを葉蔵に渡そうとする。葉蔵はそれを断ったときの心境を、次のように書いている。
《実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といつても過言でないくらゐなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るやうな恐怖におびやかされてゐるのでした。》(「第三の手記」)
「拒否される」ことを恐れる心性が、「拒否する」ことを恐れているのだ。葉蔵が、「拒否する」ことを忌避し続けてきたのは、母性に拒否されたときの喪失感が呼び起こされるのを、意識の奥底で恐れていたためである。
葉蔵の、「人間」が分からないという思いは、「自分ひとり全く変つてゐるやうな」(第一の手記)意識を、葉蔵に抱かせることになっている。それは、自己を肯定してくれる他者のまなざしが充分でなかったために、自己を肯定的に視ることができない、葉蔵の出自の体験からきている。また、葉蔵が自分を「生れた時からの日陰者」(原文は傍点、第二の手記)と感じるのも、自己の生い立ちを振り返ったときに甦る喪失感によって、自己のイメージを否定的に捉えているためである。
太宰治も幼児期に、実母との希薄な関係や、後に「思ひ出」や『津軽』で発見することになる母性(叔母、たけ)との、つらい別れの体験があった。太宰は、充たされなかった非言語的な親和の関係を、言語の構築(作品)で埋め合わせようとする。たとえば、『津軽』の「私」は、「たけ」に母性の本質を感じ、「親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。」と語っている。
だが、『人間失格』の葉蔵は、「父や母をも全部は理解する事が出来なかつた」(第一の手記)と書くことしかできない。『津軽』の「私」にとって、「たけ」は「倫理」(言語)ではなく、「自然」(非言語)を感じさせる存在だった。しかし、葉蔵にとって、母は言語的に「理解」する対象でしかなかった。葉蔵は「自然の情」のような関係を望んでいながら、最後までそれを手にすることができなかった。作者の「現在」がそうさせているに違いない。  
 

 

21 茅屋
葉蔵の長兄は、「脳病院」に葉蔵を引き取りに来たとき、葉蔵に次のように言い渡していた。お前の過去は問はない、生活の心配もかけない、何もしなくていいから、すぐに東京から離れて田舎で療養生活をはじめてくれ、と。葉蔵が療養生活を送ることになる茅屋は、「人間」(この世)から追放された葉蔵の行き着いたところだった。葉蔵はそれから三年後の、現在の心境を次のように記述して手記を結んでいる。
《いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たつた一つ、真理(原文は傍点・引用者)らしく思はれたのは、それだけでした。ただ、一さいは過ぎて行きます。自分はことし、二十七になります。白髪がめつきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。》(「第三の手記」)
「『人間』の世界」ははるかかなたに、微細な点として退いてしまっている。「ただ、一さいは過ぎて行きます。」と言われている「真理」とは、「年月は、人間の救ひである。/忘却は、人間の救ひである。」(『お伽草紙−浦島さん−』昭和20年)というような、「人間の救ひ」を意味していたのか。それとも、「一時もとどまらず、毎日々々移り流れて、世間・人事の一切の常なく、すみやかに過ぎ去りゆくこと、これが目の前のはっきりした道理である。」(道元『正法眼蔵随聞記』山崎正一現代語訳)といった、宗教的な境地を意味していたのか。茅屋における葉蔵の生活が、ある平安と救いを感じさせるのも確かなことだ。
しかし、茅屋には、過去にも未来にも接続していない、「現在」という空虚な時間があるだけである。それは、未来が閉ざされていることで、現在にじかに死が接続している空虚な時間である。葉蔵は老女中テツが、睡眠薬と間違えて買ってきたヘノモチンという下剤を飲んで、猛烈な下痢を起こし、「うふふふ」と空虚に笑ってしまう。この空虚な「現在」が、葉蔵を孤立意識の中に閉じ込め、過去を悔恨の中でしか回想せざるを得なくさせている。葉蔵の手記はこうして書かれたものだった。浦島老人の「現在」は、過去を忘却させることによって幸福を与えていた。だが、葉蔵の「現在」は、過去の不幸を反芻させるだけである。孤立感を救うはずの制度(共同的な規範)は、葉蔵の前に開かれていなかった。
ヨシ子の事件の日からはじまった、葉蔵の「若白髪」は、それから四年後の現在、二七であるのに四〇以上に見られるような、本格的な「白髪」に変貌していた。死の意識が、葉蔵を老いのほうにひっぱってきているといっていい。作者に照準をあわせれば、精神病院入院体験(28歳)を現在の作者(40歳)のほうに、つまり、「書かれている作者(自画像)」を、「書いている作者」のほうに引きつけていることになる。葉蔵が、成熟した成人という期間が空白であるのに、老年に行き着いてしまったのは、「現在」が未来に接続していない、空白な時間として孤立しているためである。
太宰治は戦後、新約「マタイ伝」の言葉をしばしば引用して、次のようなことを言っている。「汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。/これが私の最初のモツトーであり、最後のモツトーです。」(「返事」昭和21年)、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスといふ人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』といふ難題一つにかかつてゐると言つてもいいのである。」(「如是我聞」昭和23年)、と。この「マタイ伝」の言葉に、作者はどんな思いを込めていたのだろうか。そこには、過度に親和を求める葉蔵の心性と通じるものがあるかもしれない。
「マタイ伝」の言葉や、葉蔵の夢を実現するためには、世界はどのように構想されなければならなかったか。戦後の作品「冬の花火」(昭和21年)の主人公数枝の語る「桃源境」に、そのことを垣間見ることができる。
《ねえ、アナーキーつてどんな事なの? あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作つてみる事ぢやないかと思ふの。気の合つた友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植ゑて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、さうして疲れたら眠つて、そんな部落を作れないものかしら。あたしはいまこそ、そんな部落が作れるやうな気がするわ。まづまあ、あたしがお百姓になつて、自身でためしてみますからね。》(第三幕)
しかし、このような「ラジオ」も「新聞」も「手紙」も「選挙」も「演説」もない、外部との交通が遮断された「部落」は、人間の持っている悪を発現させかねないものだった。外の現実に開かれていなければ、「気の合つた」とか、「過去の罪を自覚して気が弱く」とかいった情緒的な関係は、反対のものに転化せざるを得なかった。
人は共同的な規範が許容する範囲でしか、社会的な関係を持続していくことができない。「おのれを愛するが如く隣人を愛して、さうして疲れたら眠つて」と述べられているようなことを、可能にするために構想された「桃源境」は、隣人との関係を憎しみに変えてしまう可能性を持つものだった。
「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」。作者はこのことの実現が、「この世」でも「桃源境」でも、「難題」であることを認めないわけにはいかなかった。「冬の花火」の数枝も最後には、「あたしのあこがれの桃源境も、いぢらしいやうな決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ。」と叫ばざるを得なかった。葉蔵が最後に到達したところも、この「桃源境」の成れの果てであるような茅屋での暮らしでしかなかった。
22 「神様みたいないい子」
『人間失格』は、小説家の「私」の「はしがき」と、主人公葉蔵の三つの「手記」と、小説家の「私」の「あとがき」で構成されており、その成り立ちの由来は「あとがき」で明らかにされる。
それによると、小説家の「私」は、戦後、疎開している友人に逢うために訪れた船橋で、葉蔵の手記に出でくる京橋のスタンド・バアのマダムと、十年ぶりに再会する。マダムは、そこで喫茶店を開いていて、「私」に、小説の材料になるかもしれないと言って、三冊のノートと三枚の写真を手渡す。「私」は押しつけられた材料でものを書けないので、すぐに返そうと思うが、その写真に心をひかれ、ノートをあずかることにする。そして、ノートに書かれた手記を読んで、「下手に私の筆を加へるよりは、これはこのまま、どこかの雑誌社にたのんで発表してもらつたはうが」有意義だと考える。その三冊のノートが葉蔵の手記で、三枚の写真については、「私」が「はしがき」で印象を述べている。
小説家の「私」が、直接逢ったこともない葉蔵に関心を持つようになったのは、その写真に心をひかれたためである。「私」はまた手記の読者にも、三枚の写真の「奇怪さ」(あとがき)を印象づけようとする。三枚の写真から受けとった「私」の印象を、「はしがき」から抽出してみる。
(1) 一枚目の写真 「幼年時代」「十歳前後」「醜く笑つてゐる」「薄気味悪い」「猿の笑顔」「ひとをムカムカさせる表情」「私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かつた」
(2) 二枚目の写真 「学生の姿」「ただ白紙一枚、さうして、笑つてゐる」「一から十まで造り物の感じ」「私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かつた」
(3) 三枚目の写真 「としの頃がわからない」「どんな表情も無い」「自然に死んでゐるやうな、まことにいまはしい、不吉なにほひ」「見る者をして、ぞつとさせ、いやな気持ちにさせる」「私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かつた」
「奇怪」なのは、葉蔵の写真ではない。小説家の「私」の反応が「奇怪」なのだ。ここに記述されている写真の印象から、葉蔵の具体的なイメージを思い描くことは不可能である。なぜなら、小説家の「私」の記述からは、「私」自身の幻像を凝視しているような印象しか、受けとることができないためである。
それはまた、作者の心の中の作者の幻像をも象徴していた。葉蔵は中学のころ自画像を描いて、「自分でも、ぎよつとしたほど、陰惨な絵」ができあがってしまう。しかし、葉蔵は、「これこそ胸底にひた隠しに隠してゐる自分の正体なのだ、おもては陽気に笑ひ、また人を笑せてゐるけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持つてゐるのだ、仕方が無い」(第二の手記)と考える。小説家の「私」(作者)は葉蔵の写真から、みずからの「陰鬱な心」を感じとっているのである。
小説家の「私」は、船橋の友人の家に泊めてもらうことになり、マダムからあずかったノートを、朝まで一睡もせずに読みふける。そして、写真に心をひかれたときとは違った意味で、この手記にも心をひかれる。翌日、喫茶店に立ち寄った「私」は、マダムにノートを貸してくれるように頼み、こないだはじめて全部読んでみたと言うマダムと、次のような会話を交わす。
《「泣きましたか?」 「いいえ、泣くといふより、……だめね、人間も、ああなつては、もう駄目ね。」 「それから十年、とすると、もう亡くなつてゐるかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送つてよこしたのでせう。多少、誇張して書いてゐるやうなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をかうむつたやうですね。もし、これが全部事実だつたら、さうして僕がこのひとの友人だつたら、やつぱり脳病院に連れて行きたくなつたかも知れない。」 「あのひとのお父さんが悪いのですよ。」 何気なささうに、さう言つた。「私たちの知つてゐる葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」》(「あとがき」)
この作品の最後の場面である。小説家の「私」は、葉蔵の写真に悪感情を抱いていたが、葉蔵の手記を読み、マダムの発言を聞いて、葉蔵のイメージの修正を強いられている。マダムの発言を印象深く聞いて、書きつけているのはそのためである。おなじように、この作品の読者もまた、「はしがき」で与えられた葉蔵のイメージの修正を強いられる。
マダムは葉蔵の手記から、小説家の「私」の住む現在に飛び出してきた、生身の葉蔵を知っているただ一人の人物である。だからこそ、「私たちの知つてゐる葉ちやん」を語ることができるのである。
「私たちの知つてゐる葉ちやん」は、「神様みたいないい子」だったと、マダムは言う。マダムはこの発言のすぐ前で、「お父さんが悪い」と言っており、「いい子」と「悪い父」を対立させている。マダムは、「神様みたいな」にではなく、「いい子」に力点をおいて発言していることになる。悪いのは父(世間)だ。葉蔵はいつも「いい子」だった。マダム(作者)が最後に言いたかったのは、このことだったような気がする。
作者は、葉蔵自身による自画像(手記)とも、小説家の「私」による葉蔵像(はしがき、あとがき)とも違う、無垢な心の持ち主としての葉蔵のイメージを、最終的にはすくい上げたかったに違いない。心と心を無限に通い合わせたいとする、「神様みたいな」幼児的な魂を。そのことはまた、この世からあの世に飛び立とうとしていた、作者の魂のあり方を暗示してもいた。(了) 
 
『津軽』

 

信じるところに現実はある
『津軽』はつぎの言葉で終っている。
《まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。》
作品は直前の、主人公の「私」と育ての親「たけ」との、感動的な再会の場面で終っていてもよかったはずだ。しかし、作者の太宰治は、作品の中に身を乗り出すようにして、「私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。」と、書きつけないではいられなかった。そのことは、結果的には作者が、虚飾を行っているのではないか、読者をだましているのではないか、と意識していたことを示していた。そして、そうした意識の背後には、作者の「絶望」が横たわっていたのである。
『津軽』は、作者が故郷の津軽を旅した(昭和十九年五月十二日〜六月五日)直後の、昭和十九年六月十五日に書き出され、七月末に書き上げられている(1990年筑摩書房版『太宰治全集第6巻』山内祥史氏解題による)。だが作品には、津軽の旅が、直前の出来事であるようには書かれていない。「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周した」(傍線・引用者)と記されているだけである。なぜか。こう書くことで、作者は、現在も作者を支配している感情(それは津軽に対する失望感にほかならなかった)を、意識の奥底に仕舞い込んでしまいたかったに違いない。
作品『津軽』は、作者の、津軽に対する失望によって仮構された世界だったといえる。作者がこの作品に対して、「虚飾」の意識を抱かざるを得なかったのはそのためである。「元気で行かう。絶望するな。」とは、作者がみずからに呼びかけている言葉にほかならなかった。
作者はいったい、津軽の何に失望していたのだろうか。主人公の「私」は、旅に出た動機とその結果について、次のように語っている。
《都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。》
この文章が書かれたのが、作者と育ての親越野たけが、三〇年ぶりに再会を果たした旅の後であることに注意すべきだろう。「私」(作者)はここで、「津軽人としての私」をつかもうとする念願で旅に出ながら、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を発見できなかった失望を語っている。「誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。」と「私」は語っているが、津軽の「現実」に、なによりも一方的に母と子の関係を仮構していた、越野たけに失望していたに違いない。そのことはもちろん、「私」(作者)の側の問題でしかなかったのだが。その結果、「とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。」と、「私」は 、津軽の「現実」を無視するような言葉をさえ吐くようになるのである。
「私」が旅の手帳に二度も繰り返して書いたという、「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という言葉は、この作品の成り立ちを説明している。津軽の「現実」から、「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」という言葉が生み出されたとすれば、「信じるところに現実はある」という言葉からは、作品『津軽』が生み出されたことになる。『津軽』は、「信じるところにある現実」として仮構された世界にほかならなかった。
それでは、「私」が「純粋の津軽人」として発見したという、「理由も形も何も無い、ひどく主観的なもの」とはなにか。「私」はそれを、「津軽人としての私」の「宿命とでもいふべきもの」だと言う。「私」(作者)は自己の資質を、自己の責任の及ばない、「宿命とでもいふべきもの」として捉えようとしているのである。
愛情の過度の露出
主人公の「私」は、青森の病院の蟹田分院事務長をしている、初対面の「Sさん」の家に招かれる。そして、そこで「疾風怒涛の如き接待」を受け、「私」(作者)は、「私自身の宿命」を知らされたような気がするとして、次のように述べている。
《読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋(きつすゐ)の津軽人のそれである。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、さうして電灯に頭をぶつけて電灯の笠を割つたりなどした経験さへ私にはある。食事中に珍客があらはれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かへつてお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどといふ芸当は私には出来ないのである。さうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかひをして、さうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になつて、かへつて後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどといふ事になるのである。ちぎつては投げ、むしつては投げ、取つて投げ、果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、つひには敬遠といふ事になるのではあるまいか、と私はSさんに依つて私自身の宿命を知らされたやうな気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかつた。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸(ひらたけ)ではないけれど、私も木曽殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給へ、かい給へや」とぞ責めたりける、である。》
「私」(作者)は、 自分こそ「生粋の津軽人」だと主張したいに違いない。そして、「愛情の過度の露出」というものを、「生粋の津軽人」の特徴であるとして、そこに「東京の人」との違いを認めようとしている。それは後の、『人間失格』の主人公葉蔵の特徴でもあった資質、心と心を無限に通い合わせたいという強い願望によって、あふれ出す感情を抑え切れないような資質を指していた。もちろん、葉蔵の周囲には、「東京の人」しか存在していなかったのだが。
「私」(作者)は、「愛情の過度の露出」という自己の資質を、「津軽人としての私」の「宿命」と考えようとしている。しかし、作者はそうした「津軽人としての私」を支えてくれるはずの、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を、現実の津軽では捜し出せなかったのではないか。「私」(作者)は、育ての親「たけ」と逢うことができなかったときの感想を、次のように述べている。
《しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。》
「有頂天で立てた計画」は、「愛情の過度の露出」によって計画されたものであるため、現実と衝突し、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない。それは、作品に即していえば、津軽旅行における育ての親「越野たけ」との再会の計画だったはずだ。しかし、その再会は「私」(作者)に、失望(「ちぐはぐな結果」)しか与えなかったに違いない。「津軽人としての私」の「宿命」は、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない、「具合のわるい宿命」でもあった。ところが、そうした「具合のわるい宿命」は、「津軽人としての私」の「宿命」ではなく、「私」の個人的な「宿命」にほかならないと、「私」(作者)に気づかれている。
「私」(作者)は自己の性格の出所を、もっと個人的な「育ち」の中に見つけ出そうとしているのである。それで「私」は、久しぶりに逢った「たけ」が、「子供は?」「男? 女?」「いくつ?」と、矢継早に質問を発するのを見て、次のように考えるのである。
《私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。》
「私」は「たけ」の、「強くて不遠慮な愛情のあらはし方」と、自己の「愛情の過度の露出」が似ていること、また、自己の性格が「津軽人としての私」にではなく、「金持ちの子供らしくないところ」に根差していることを発見している。「友」と共通なのも、そのことだった。そして、そのことが、「この悲しい育ての親の影響」だったと気づいて、「私」は、「育ちの本質をはつきり知らされた。」と述べている。
しかし、そのことに「私」(作者)は、納得や喜びを感じているようには見えない。「絶望するな。」という最後の言葉は、このすぐ後に置かれている。「たけ」と逢って、「ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。」と言ってみたり、叔母の写真を見て、「私は、似てゐると思つた。」(「思ひ出」昭和8年)と言ってみたりするのも、自己の存在根拠を求めて彷徨わざるを得なかった作者が、自己の拠りどころとして仮構したものと一体化しようとしていることの表れにほかならなかった。
お伽噺の主人公
『津軽』の背後に隠されていた作者の「絶望」は、後に『人間失格』の中で顕在化する。『津軽』が、「信じるところにある現実」として肯定的に明るく描かれた作品とすれば、『人間失格』は、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として否定的に暗く描かれた作品である。別の言い方もできる。『津軽』は、「津軽人としての私」の「宿命」とされた、「愛情の過度の露出」によって、「信じるところにある現実」として描かれた作品である。そして、その同じ「宿命」が、「ちぐはぐな結果」しかもたらさない「具合のわるい宿命」に変じたとき、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として『人間失格』が描かれた、というふうに。
それでは、『津軽』が「信じるところにある現実」として仮構されるためには、どんな操作が必要だったのだろうか。東京から津軽へ空間的に移動することが、同時に、現在(大人)から過去(青年)へ時間的に移動することをも意味していることが必要だった。
《大人(おとな)といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。》
「大人」から「青年」に時間的に遡行することによってしか、「信じるところにある現実」の仮構性は確保できなかった。「青年」とは、用心深くもなければ他人行儀でもない、親和的な心性の象徴だった。それは作品で、「愛情の過度の露出」とか「有頂天」とか言われているような、心的な傾向を指していた。そして、そうした心性は、見事に裏切られて、赤恥をかくことにしかならないとされる。しかし、作者はこの作品で、「人は、あてにならない、といふ発見」をする以前の、「青年」のような心性を理想的な姿として描きたかったに違いない。作中の「私」をはじめ登場人物は、「青年」に戻っているのである。
さらに「私」(作者)は、津軽地方の地勢、沿革、教育などについて知りたい人は専門の研究家に聞くがよいと述べた上で、「私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。」と語っている。作者は、「愛」=「人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目」を、作品『津軽』という、「信じるところにある現実」として仮構された世界で追及してみせたのである。その頂点にはいうまでもなく、育ての親「たけ」との再会の場面が置かれている。「私」は「たけ」に逢うために、運動会を行っている学校にやってくる。
《教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵(むしろ)で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑ひと濶達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。》
主人公の「私」が、「たけ」と逢う場面を仮構するための舞台が、整えられつつあるといっていい。「信じるところにある現実」として仮構された作品の「現実」の上に、「たけ」との再会という、さらに仮構された「現実」を積み重ねるための舞台が、である。田圃の畦道→砂丘→砂丘の上の国民学校→学校の裏の運動場と辿っていくにしたがって、「私」は架空の舞台に近づいていく。そして、運動会の様子を見て呆然とし、「夢見るやうな気持」になってしまう。そこでは、「昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼」が行われていたのである。
作品は「私」(作者)の、「夢」の中の出来事となっていく。「行き着いた国の果の砂丘の上」という架空の舞台で、「お伽噺の主人公」になった「私」(作者)は、存分に「夢」を語るのである。
《たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。》
「私」(作者)は、「生みの母」は「たけ」のように、「不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。」と述べている。その上で、「世の中の母といふもの」はその子に、「たけ」のような「甘い放心の憩ひ」を与えてやっているものなのだろうかと問う。「たけ」という「信じるところにある現実」に、「私」(作者)の「夢」をそそぎこむために、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」として、「生みの母」が持ち出されてきているといっていい。
「たけ」は「私」(作者)の「夢」を、かなえてくれる人物でなければならないのだ。どうしてそんなことが可能だったのだろうか。「私」(作者)は「たけ」と、時間的(三〇年)にも空間的(津軽と東京)にも遠く離れていたために、精神的にはもっとも近い母と子の関係を仮構することができたのである。「夢」を仮構させたのが、「私」(作者)の「絶望」だったとしても、である。 
 
『お伽草紙』

 

「瘤取り」
『津軽』の主人公の「私」は、育ての母と再会して、「私の育ちの本質」というべきものを発見する。それから一年後の『お伽草紙』(昭和20年6月)には、個人の「育ちの本質」が「性格の悲喜劇」となって、「人間生活」の表面に現れてくる様子が描かれている。しかしそこでは、『津軽』のように、作者自身が「お伽噺の主人公」になることはなかった。作者はあくまでも、「お伽噺の主人公」を書く位置にとどまっていて、その主人公の振る舞いを冷静に観察しているのである。
作者は『お伽草紙』の中で、絵本のお伽噺とは「全く別個の新しい物語」を子供に語る「父」として、また、その物語を注釈する「私」として、二重に存在している。『お伽草紙』は、お伽噺(絵本)→「父」の語る物語→「私」による注釈という経路で、現実世界に戻ってくる物語である。それに対して『津軽』は、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」→「信じるところにある現実」→お伽噺(「たけ」との再会)という経路で、現実世界から遠ざかっていく物語だったのである。さらに『お伽草紙』では、「父」の語る物語の中で、主人公たちは、現実→夢→現実という道筋を辿ることになる。
『お伽草紙』という作品は、現実の方に二重に引っ張られていることになる。「父」の語る物語の内部では、主人公たちが現実の方に引っ張られており、さらに「父」の語る物語自体が、「私」によって現実の方に引っ張られている。『お伽草紙』は、『津軽』のその後を描いた作品であるといえる。作者は作者自身の姿でもあった、『津軽』の「お伽噺の主人公」を、現実の関係世界に引き戻して観察しているのである。
お伽噺(絵本)に出てくる人物は、個人として生きてはいない。だから無性格な存在である。「父」の語る物語に出てくる人物は、具体的な個人として生きている。そのため、「アルトコロニ」ではなく、ちゃんと地名のある土地に住んでいる。ということは、性格として現れる「育ちの本質」を内に抱え込んだ存在であるということになる。このことによって、「悪い事をした人が悪い報いを受ける」(「瘤取り」)というお伽噺の世界は、「性格の悲喜劇」(同)という世界に変容する。その結果、「父」の語る物語の主人公たちの行為は、お伽噺とはまったく違った意味を与えられることになる。
最初の作品「瘤取り」の主人公の、右の頬に瘤を持っているお爺さんは、家庭にあってもつねに「浮かぬ顔」をしている。お爺さんが、「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とはしゃいでも、お婆さんや息子は興のないような返事をするだけである。お爺さんは、『津軽』の主人公が持っていた「愛情の過度の露出」という性格を、間違いなく受け継いでいる。しかし、「厳粛なるお婆さん」(妻)と「品行方正の聖人」(息子)のいる、「実に立派な家庭」の中では、いつも「浮かぬ気持」でいるしかなかった。
お爺さんは、お婆さんや息子の住む現実から遊離していて、「孤独」なのだ。そのことがお爺さんを、現実から逃避する行為に走らせる。山へ柴刈りに行くというお爺さんの行為は、次のように描出されている。
《このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、「よい眺めぢやなう。」 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。》
お爺さんが山に登る目的は、たきぎ拾いのためというよりも、「楽しみ」のためである。お爺さんはそこで、家にいて「浮かぬ顔」をしているときとは別人のような、「楽しそうな顔」をしている。山に登るということは、お婆さんや息子のいる現実から逃れること、『津軽』の言葉で言えば、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」から、「信じるところにある現実」に上昇していくことを意味していた。お爺さんの性格と生活が、そうさせているのは言うまでもない。右の頬の大きな瘤についても、お爺さんの孤独を慰める唯一の相手であるというように、お爺さんの生活の現実から説明されている。
その日もお爺さんは、岩の上で酒を飲みながら、日頃の「浮かぬ気持」を晴らしていた。そこへ春の夕立ち。お爺さんは林の中に逃げ込んで、雨宿りをしていたが、いつの間にか眠ってしまう。気がつくと夜。お爺さんは驚いて、木の虚(うろ)から這い出て行く。そしてそこで、鬼の酒宴という、「この世のものとも思へぬ不可思議の光景」に出くわすことになるのである。しかし、お爺さんが眼をさましたところは、お爺さんの夢の中でしかなかった。鬼はお爺さんの夢の中にしか存在していない。
お爺さんは、鬼が気持ち良さそうに酔っているのを見て、胸の奥底から妙な喜ばしさが湧いて出てくるのを感じ、鬼に「親和の情」を抱くようになる。それで自分から、鬼の円陣のまんなかに飛び込んで、阿波踊りを軽妙に踊り抜くということになるのである。お爺さんは、「浮かぬ気持」をかかえて家庭にいるときとは違って、晴れ晴れとしている。お爺さんの鬱屈した思いが、こうした夢を見させているのである。しかし、お伽噺とは違って、鬼に瘤を取られても、お爺さんはあまり嬉しそうな様子を見せない。
お爺さんの場合、山に登ることが現実からの逃避を意味していたとするなら、山を降りることは現実への復帰を意味していた。翌日の朝、お爺さんは山を降りる途中で息子と出逢うが、息子の聖人に荘重に朝の挨拶をされ ても、ただまごついているだけである。また、家に帰ってきても、お婆さんの厳然たる態度に圧倒されて、お爺さんは何も言えない。お爺さんは、息子やお婆さんという、「決して人を信じさせる事が出来ない現実」に「圧倒」されているのである。そして、二〇年ほど前に、お爺さんの頬に瘤ができたときと同じように、その瘤がなくなったことに対しても、お婆さんや息子はあまり関心を示さない。
「父」が語るこの一家の物語は、次のような言葉で終わっている。「結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。」、と。お爺さんが帰ってきた現実は、山に登る前と少しも変わっていなかったのである。では、お爺さん自身は変わったのだろうか。確かに変わったのだ。以前と少しも変わらない現実に、帰ってくるという行為にこそ、お爺さんの変化を認めるべきではないだろうか。お爺さんは夢の中ではなく、この現実で生きていくしかないのである。
いっぽう、左の頬に瘤を持っているお爺さんは、瘤を本当にジャマッケなものとして憎み、死んだっていいから小刀で切って落とそうかとまで思い詰めたりしている。前のお爺さんとは対照的に積極的なのだ。この左の頬に瘤を持っているお爺さんの家庭は、お爺さんが瘤のために、苦虫を噛みつぶしたような表情をしているにもかかわらず、いつも陽気に笑ってはしゃいでいる妻と、性質はいくらか生意気な娘が、いつも何かと笑い騒ぎ、明るい印象を人に与えている。
やがて、この左の頬に瘤を持っているお爺さんは、右の頬に瘤を持っていたお爺さんから、瘤がなくなったわけを聞かされ、自分も瘤を取ってもらおうと剣山の奥深くに入っていく。右の頬に瘤を持っていたお爺さんにとって、山に登るという行為は、家にいるときの寂しさをまぎらすという消極的な意味しか持っていなかった。だが、左の頬に瘤を持っているお爺さんにとって、そのことは、瘤を小刀で切り落とそうとするのと同じような積極的な意味を持つものだった。そして、その積極性が、右の頬にもうひとつ瘤をつけられるという「不幸」な結果を招いてしまう。
こうした結末から、「私」は次のような「教訓」を引き出している。
《実に、気の毒な結果になつたものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さん(左の頬に瘤を持っているお爺さん・引用者)は別に悪事を働いたといふわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になつたといふだけの事ではないか。それかと言つて、このお爺さんの家庭にも、これといふ悪人はゐなかつた。また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家庭も、または、剣山に住む鬼どもだつて、少しも悪い事はしてゐない。つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつたのである。それゆゑ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になつて来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに対してかうでも答へて置くより他はなからう。性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。 》
「私」の言説は総じて、「笑ひながら厳粛のことを語る。」(「狂言の神」昭和11年)といったふうに語られており、この場合もそのように読まれるべきだろう。何が「厳粛のこと」だろうか。「人間生活」という目に見えるもの(「悲喜劇」)の底には、個人の「育ちの本質」という目に見えないもの(「性格」)が、いつも宿命のように流れているということ、このことが「厳粛のこと」だと作者は言いたいようにみえる。ふたりのお爺さんの違い(「悲喜劇」)は、「育ちの本質」(「性格」)の違いにほかならなかったのである。『津軽』で「育ちの本質」を発見したことが、この「瘤取り」には刻印されている。
「浦島さん」
二つ目の作品「浦島さん」も、現実を離脱した主人公が、再び現実に戻ってくる話である。しかし、「瘤取り」のお爺さんように、以前と変わらない現実に戻ってくるわけではなかった。現実は、主人公の浦島太郎が竜宮にいるあいだに、おおきな変貌を遂げてしまう。「瘤取り」のお爺さんが山に登ることは、現実からの空間的な離脱だった。だが、浦島が竜宮に行くことは、現実からの時間的な離脱である。竜宮とは死後の世界を意味していた。
浦島は、人はなぜ、お互い「批評」し合わなければ生きて行けないのだろう、という疑問に捉えられている。萩の花も小蟹も雁も、私を「批評」しないのに、人間だけが何のかのと言う、うるさいものだと溜息をついている。そんなとき、助けてやった亀の、竜宮には「批評」はないという一言に心をひかれ、浦島は竜宮に行く決心をする。そして、竜宮ではじめて、「無限に許されてゐるといふ思想」を体験する。そこは「批評」というものが、まったく存在しない世界だった。
人は人と関係するかぎり、相対化にさらされないわけにはいかない。「批評」とはそうした、相対化のことにほかならなかった。しかし、竜宮のように「無限に許されてゐる」世界では、人は相対化のかわりに、徹底的な孤独が与えられるだけである。相対化を受け入れることが、生きることだとすれば、竜宮は人と人との関係が消失した死後の世界でしかなかった。浦島は乙姫が、幽かに笑っただけで無言のまま立ち去るのを見て、「真に孤独なお方」と感じる。だが亀は、「批評」が気にならない者には、「孤独」など問題にならないと反論する。乙姫は既に、死後の世界に住んでいたのである。
見渡す限り廃墟のような、荒涼たる大広場を歩いていく乙姫の様子は、次のように描かれている。
《乙姫は、ひとりで黙つて歩いてゐる。薄みどり色の光線を浴び、すきとほるやうなかぐはしい海草のやうにも見え、ゆらゆら揺蕩しながらたつたひとりで歩いてゐる。》
「批評」のない世界とは、人と人との関係が消失した(「たつたひとり」)死後の世界以外ではなかった。浦島は竜宮で、「無限に許されてゐる」幾日かを過ごすが、そうした暮らしにも飽きるときがくる。
《さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなつた。お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。》
浦島は死後の世界から、人々が生活している現実の世界に戻ろうとしている。孤独を捨て、陸上の人たちの中に飛び込もうとしている。「無限に許されてゐる」世界から、「他人の批評」を気にしないではいられないような、陸上の貧しい生活に戻ろうとしているのである。
しかし、浦島が、帰ってきた陸上で目にしたのは、竜宮以上に荒涼たる光景でしかなかった。作者が絵本から引用しているところによれば、「見渡す限り荒れ野原、人の影なく道もなく、松吹く風の音ばかり」(原文はカタカナでゴシック)というような光景だった。陸上は、廃墟のような荒涼たる大広場である竜宮と、そっくりだったのである。浦島は帰ってきた陸上で、竜宮にいたとき以上の孤独を感じたに違いない。
「父」の語る物語は、ここでいったん中断する。「私」が割り込んできて、長広舌をふるうことになるからである。浦島は竜宮でもらった玉手箱を開けたために、三〇〇歳のお爺さんになってしまうが、そのことを否定的に見ることに深い疑念を抱いていると、「私」は言う。それで、パンドラの箱と比較しながら、様々な解釈を試みることになるのである。その結果、「浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて来た」ことに気がついたとして、「三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつた(原文は傍点)のだ。」という結論を引き出し、作品の最後でつぎのように述べている。
《貝殻の底に、「希望」の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救はれてゐるのである。貝殻の底には、何も残つてゐなくたつていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、年月は、人間の救ひである。忘却は、人間の救ひである。竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した観がある。思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招来をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよさう。日本のお伽噺には、このやうな深い慈悲がある。浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。》
「無限に許されてゐる」ためには、徹底的な「孤独」(死)が必要なことを、浦島は竜宮で知らされる。しかし、人と人との関係(生)を求めて帰ってきた陸上も、「孤独」を強いるところでしかなかった。浦島はいっさいの関係(生)を、喪失してしまったのである。だが、「私」は「先入感」を訂正しなければならない。浦島が「不幸」でなかったことを、証明しなければならなかった。「忘却は、人間の救ひである。」という論理によって、「私」はそれを証明しようとしている。過去のすべてを「忘却」することで、浦島は「救ひ」を得ていると、「私」は言いたいのだ。
「私」の言説によって、絵本の内容は改変される。「浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。」、というように。中断していた「父」の語る物語は、この最後の一行につながって完結する。作者ははじめて、浦島を「生」を指向する人物として描いている。そして、竜宮にいたときに「幸福」を与えないで、この陸上でそれを与えている。作者はなによりも、浦島が「幸福な老人として生きた」ことを、「救ひ」であるとして肯定しているのである。
作品『津軽』の主人公の「私」は、育ての親「たけ」と再会して、「無限に許されてゐる」体験をする。ここには、そうした夢を「忘却」することによって、この現実で生きていくことに意味を見出そうとしている作者がいる。
「カチカチ山」
三つ目の作品「カチカチ山」は、「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ厳然たる事実のやうに私には思はれる。」という、「私」の注釈の言葉で始まっている。それは、狸に対する兎の仕打ちが執拗すぎることに着目して得た、「私」の結論だった。そして、「父」はこの「私」の注釈に従って、お伽噺(絵本)とは「全く別個の新しい物語」を語ることになる。
その結果、「悪い事をした人が悪い報いを受ける」(「瘤取り」)というお伽噺の世界は、男と女の「性格の悲喜劇」(同)という問題に変換される。狸(男)は作者で兎(女)は世間、あるいは狸は夢で兎は現実、と言い換えることもできる。
それではいったい、狸はどんな「性格」の持主だったのだろうか。そしてなぜ、狸は「惨めな敗北」を喫せざるを得なかったのだろうか。狸は『津軽』の主人公と同じように、「愛情の過度の露出」といった「性格」を所有していた。しかし、この作品ではそのことが、ずうずうしさ、独りよがり、自惚れ、思い込みというようなものとして、狸の存在を現実から遊離させるようにしか作用していない。そのため、狸は兎(現実)に翻弄され、「敗北」するしかなかったのである。
「父」の語る物語の中で、この狸は兎から、背中の大火傷に唐辛子をべたべた塗られ、生死の境をさまよっていた。しかし、十日も経たないうちに全快し、兎の庵にのこのこ出かけていく。だが、兎は狸を見て、ひどく露骨にいやな顔をする。極度の嫌悪が、その時の兎の顔にありありと見えているのに、狸は一向に気がつかない。むしろ、兎の眉をひそめた表情を、自分の先日の大火傷に心を痛めている からに違いないと解して、お礼を述べたりしている。こうした狸の振る舞いに対して、「私」(ここでは「作者」)はこう注釈している。
《しかし、とかく招かれざる客といふものは、その訪問先の主人の、こんな憎悪感に気附く事はなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ。読者諸君も気をつけるがよい。あそこの家へ行くのは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思ひながら渋々出かけて行く時には、案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでゐるものである。それに反して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だらう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩の唯一の憩(いこ)ひの巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家に於いては、諸君は、まづたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ、襖の陰に帚など立てられてゐるものである。他人の家に、憩ひの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかも知れないが、とかくこの訪問といふ事に於いては、吾人は驚くべき思ひ違ひをしてゐるものである。格別の用事でも無い限り、どんな親しい身内の家にでも、矢鱈に訪問などすべきものでは無いかも知れない。作者のこの忠告を疑ふ者は、狸を見よ。狸はいま明らかに、このおそるべき錯誤を犯してゐるのだ。》
「私」(ここでは「作者」)はここでも、「笑ひながら厳粛のことを語る。」(「狂言の神」)という姿勢を崩していない。人と人との関係は限定されていて、「無限に許されてゐる」(「浦島さん」)ものではないということが、ここで語られている「厳粛のこと」である。
作者はすでに、狸と兎のことを、男と女の問題にとどめておくことができなくなっている。狸の「おそるべき錯誤」とは、限定された関係を「無限に許されてゐる」と思い込んでいることにあった。狸は、迷惑がられていることに気づかない、「馬鹿者」でしかなかった。「愛情の過度の露出」は空転するだけである。そして、狸は最後まで、兎(現実)を手に入れることができないが、作者はこうした狸の振る舞いを、現実の方にいて冷静に観察しているのである。
しかし、狸は、好きな人の傍にいるという「幸福感」にぬくぬくと温まっている様子で、「ああ、まるで夢のやうだ。」などと、勝手な独り言をつぶやいたりしている。狸の「幸福感」など、狸の夢の中にしか存在していないのである。やがて、狸は兎の「憎悪感」によって、河口湖の底に沈められる。現実(「憎悪感」)によって、夢(「幸福感」)が「敗北」させられるのである。「私」(ここでは「作者」)は作品の最後で、狸が死ぬいまわの際に言った、「惚れたが悪いか」という一言をとりあげて、こう結論している。
《女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。》
「無慈悲な兎」と「善良な狸」には、女と男、現実と夢、世間と個人というような、普遍的な意味が与えられている。作者は、そうした兎(現実)に「惚れたが悪いか」と問い、悪いのだと答えているように見える。「愛情の過度の露出」は悪いのだ、と言っても同じことである。そして、そのことがわからない者は、他人の家に憩いの巣を期待するような「馬鹿者」でしかないとみなされている。作者はこの作品で、現実に対して「敗北」するしかない自己の資質(狸)を、とことんまで追いつめてみせたのである。
「舌切雀」
最後の作品「舌切雀」では、主人公のお爺さんが、「世間的価値がゼロに近い」人物として設定されている。お爺さんは定職にもつかず、読書はしても著述などしようとする気配も見せず、ただぼんやりしているだけである。ところが、可愛がっていた雀が、お婆さんに舌を抜かれていなくなってしまうと、「その消極性は言語に絶するものがある」と思われていたお爺さんが、「生れてはじめての執拗な積極性」を見せて、雀を探しはじめる。そして、そのことが契機となって、お爺さんは「世間的価値」の方に踏み出して行くことになる。この作品では、突然変化する人間心理の不思議さが描かれている。
お爺さんの「消極性」は、「無口」ということに現れている。お爺さんはお婆さんに対して、いつも「ひどく低い声」でしか話をしない。しかも、言葉の後半は口の中で澱んでいて、連れ添って十何年にもなるお婆さんにさえ言うことがよく聞き取れない。お爺さんは、現実(お婆さん)との関係を拒否したいのである。お爺さんはなぜ「無口」になったのか。そのことについて、お爺さんは舌を抜かれる前の雀と、次のような会話を交わしている。
《「おれか、おれは、さうさな、本当の事を言ふために生れて来た。」 「でも、あなたは何も言ひやしないぢやないの。」 「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交すのがいやになつたのさ。みんな、嘘ばつかりついてゐる。さうしてさらに恐ろしい事は、その自分の嘘にご自身お気附きになつてゐない。」 「それは怠け者の言ひのがれよ。ちよつと学問なんかすると、誰でもそんな工合ひに横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。あなたは、なんにもしてやしないぢやないの。寝てゐて人を起こすなかれ、といふ諺があつたわよ。人の事など言へるがらぢや無いわ。」 「それもさうだが、」とお爺さんはあわてず、「しかし、おれのやうな男もあつていいのだ。おれは何もしてゐないやうに見えるだらうが、まんざら、さうでもない。おれでなくちや出来ない事もある。おれの生きてゐる間、おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬが、しかし、その時が来たら、おれだつて大いに働く。その時までは、まあ、沈黙して、読書だ。」》
お爺さんの言い分はこうだ。自分は本当の事を言うために生まれて来た。だが、世の中の人は皆嘘つきだから、自分の真価が発揮できる時機がくるまで「沈黙」しているのだ、と。お婆さんにもこう言っている。お前の言うことは気分本位のごまかしで、人の悪口だけだ。おれを、こんな無口な男にさせたのはお前です、と。お爺さんはみずからの「消極性」を、「世の中の人」や「お婆さん」のせいにしている。もちろん、こうした発想こそ消極的と言わなければならない。
しかし、お爺さんの「積極性」は、「世の中の人」や「お婆さん」のような外部からではなく、お爺さん自身の内部から生まれてくる。それは最初に、お爺さんの声の調子に現れる。お婆さんと話すときはいつも、聞き取れないような「低い声」しか出さなかったお爺さんが、若い女の声で話しかけてくる雀(お爺さんの夢の中の雀)とは、人が変わったみたいに「若やいだ声」でお喋りをはじめる。
さらに、お婆さんに舌を抜かれていなくなった雀を、お爺さんは何かに憑かれたみたいに、夢中で探しはじめる。それは、「生れてはじめての執拗な積極性」だった。お爺さんのこの雀探索について、「私」(ここでは「筆者(太宰)」)はこう説明している。
《お爺さんにとつて、こんな、がむしやらな情熱を以て行動するのは、その生涯に於いて、いちども無かつたやうに見受けられた。お爺さんの胸中に眠らされてゐた何物かが、この時はじめて頭をもたげたやうにも見えるが、しかし、それは何であるか、筆者(太宰)にもわからない。自分の家にゐながら、他人の家にゐるやうな浮かない気分になつてゐるひとが、ふつと自分の一ばん気楽な性格に遭ひ、之を追ひ求める、恋、と言つてしまへば、それつきりであるが、しかし、一般にあつさり言はれてゐる心、恋、といふ言葉に依つてあらはされる心理よりは、このお爺さんの気持は、はるかに侘しいものであるかも知れない。》
「私」(ここでは「筆者(太宰)」)はお爺さんの行動を、お爺さんの孤独感から説明しようとしている。お爺さんは、「自分の家」にいながら「他人の家」にいるような、「浮かない気分になつてゐるひと」として、癒されない孤独感を内に抱え込んでいた。ところが、雀と出逢い、またそれを失ってみて、胸中に眠らされていた何物かが触発されるのを感じる。その時のお爺さんの気持ちは、「恋」という心理よりも「侘びしいもの」かもしれないと、「私」(ここでは「筆者(太宰)」)は考える。
やがてお爺さんは、探していた舌切雀と「すずめのお宿」で再会する。雀は「お照さん」と言い、お人形さんみたいな可愛い女の子の姿をしていた。その場面は、『津軽』の「私」が、育ての親「たけ」と再会する場面とそっくりだ。
《お照さんは小さい赤い絹蒲団を掛けて寝てゐた。お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かつた。大きい眼でお爺さんの顔をじつと見つめて、さうして、ぽろぽろと涙を流した。お爺さんはその枕元にあぐらをかいて坐つて、何も言はず、庭を走り流れる清水を見てゐる。お鈴さんは、そつと席をはづした。何も言はなくてもよかつた。お爺さんは、幽かに溜息をついた。憂鬱の溜息ではなかつた。お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。そのよろこびが、幽かな溜息となつてあらはれたのである。》
『津軽』の「私」は、「たけ」を性の対象とすることができない。それで、「たけ」との間に、精神的にはもっとも親密な、母と子の関係を仮構することができたのである。同じようにお爺さんも、人形の「お照さん」を性の対象とすることができない。お爺さんが「お照さん」との間に、精神的に親密な関係を仮構することができたのもそのためである。雀によって触発されたお爺さんの気持ちは、性の関係が禁じられているという理由によって、「恋」より「侘びしいもの」であらざるを得なかったのである。
この作品が『津軽』と異なるのは、「すずめのお宿」が、普通の人には見えない架空の場所(夢)として設定されていることである。お爺さんはその架空の場所から、お婆さんのいるこの現実世界に帰ってこざるを得ないのである。しかし、お爺さんにとって「自分の家」は、相変わらず「他人の家にゐるやうな浮かない気分」にさせるところでしかなかった。「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」(『津軽』)のだった。それはなによりも、作者自身の気持ちだったに違いない。『津軽』を書いたときの失望感が、甦ってきていたのかもしれない。
「父」の語る物語の結末は、お伽噺(絵本)とは全く違ったものになっている。お婆さんは「すずめのお宿」に出掛けていくが、金貨のいっぱいつまった大きな葛籠を背負ったまま凍死してしまう。お爺さんはこの金貨のおかげで、間もなく仕官することができ、一国の宰相の地位まで昇りつめる。
お爺さんは「恋」(夢)を禁じられ、さらにお婆さん(現実)をも奪い取られてしまう。作者に、帰るべき現実は信じられていないのだ。その結果、「仕官」のような「世間的価値」だけが、お爺さんには残されることになる。『津軽』の背後に作者の「絶望」が隠されていたように、「宰相」の背後にはお爺さんの「絶望」が隠されていたのである。 
 
諸話

 

今戸心中 / 広津柳浪

太空(そら)は一|片(ぺん)の雲も宿(とど)めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽(しま)るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月(みつき)の淋(さび)しさは免(のが)れず、大門(おおもん)から水道尻(すいどうじり)まで、茶屋の二階に甲走(かんばし)ッた声のさざめきも聞えぬ。
明後日(あさッて)が初酉(はつとり)の十一月八日、今年はやや温暖(あたた)かく小袖(こそで)を三枚(みッつ)重襲(かさね)るほどにもないが、夜が深(ふ)けてはさすがに初冬の寒気(さむさ)が身に浸みる。
少時前(いまのさき)報(う)ッたのは、角海老(かどえび)の大時計の十二時である。京町には素見客(ひやかし)の影も跡を絶ち、角町(すみちょう)には夜を警(いまし)めの鉄棒(かなぼう)の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店(はりみせ)にもやや雑談(はなし)の途断(とぎ)れる時分となッた。
廊下には上草履(うわぞうり)の音がさびれ、台の物の遺骸(いがい)を今|室(へや)の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。
「うるさいよ。あんまりしつこいじゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩(いそい)で行くのは、当楼(ここ)の二枚目を張ッている吉里(よしざと)という娼妓(おいらん)である。
「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁(おいらん)、困りますよ」と、吉里の後から追い縋(すが)ッたのはお熊(くま)という新造(しんぞう)。
吉里は二十二三にもなろうか、今が稼(かせ)ぎ盛りの年輩(としごろ)である。美人質(びじんだち)ではないが男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見える。睨(にら)まれると凄(すご)いような、にッこりされると戦(ふる)いつきたいような、清(すず)しい可愛らしい重縁眼(ふたかわめ)が少し催涙(うるん)で、一の字|眉(まゆ)を癪(しゃく)だというあんばいに釣(つ)り上げている。纈(くく)り腮(あご)をわざと突き出したほど上を仰(む)き、左の牙歯(いときりば)が上唇(うわくちびる)を噛(か)んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手(ふところで)をして肩を揺すッて、昨日(きのう)あたりの島田|髷(まげ)をがくりがくりとうなずかせ、今月(この)一|日(にち)に更衣(うつりかえ)をしたばかりの裲襠(しかけ)の裾(すそ)に廊下を拭(ぬぐ)わせ、大跨(おおまた)にしかも急いで上草履を引き摺(ず)ッている。
お熊は四十|格向(がッこう)で、薄痘痕(うすいも)があッて、小鬢(こびん)に禿(はげ)があッて、右の眼が曲(ゆが)んで、口が尖(とんが)らかッて、どう見ても新造面(しんぞうづら)――意地悪別製の新造面である。
二女(ふたり)は今まで争ッていたので、うるさがッて室(へや)を飛び出した吉里を、お熊が追いかけて来たのである。
「裾が引き摺ッてるじゃアありませんか。しようがないことね」
「いいじゃアないか。引き摺ッてりゃ、どうしたと言うんだよ。お前さんに調(こさ)えてもらやアしまいし、かまッておくれでない」
「さようさね。花魁をお世話申したことはありませんからね」
吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏(まと)ッて離れぬ。
「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所(ごないしょ)で叱(しか)られますよ」
「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴(いッつ)けておくれ」
白字(はくじ)で小万(こまん)と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩(あし)を止めた。
「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴(あつらえ)が来てるんじゃありませんか」
「善さんもお客だッて。誰(だれ)がお客でないと言ッたんだよ。当然(あたりまえ)なことをお言いでない」と、吉里は障子を開けて室内(うち)に入ッて、後をぴッしゃり手荒く閉めた。
「どうしたの。また疳癪(かんしゃく)を発(おこ)しておいでだね」
次の間の長火鉢(ながひばち)で燗(かん)をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼(ここ)のお職女郎。娼妓(おいらん)じみないでどこにか品格(ひん)もあり、吉里には二三歳(ふたつみッつ)の年増(としま)である。
「だッて、あんまりうるさいんだもの」
「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で言ッて眉を皺(よ)せた。
「察しておくれよ」と、吉里は戦慄(みぶるい)しながら火鉢の前に蹲踞(しゃが)んだ。
張り替えたばかりではあるが、朦朧(もうろう)たる行燈(あんどう)の火光(ひかげ)で、二女(ふたり)はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉(うれ)しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。
「平田さんが今おいでなさッたから、お梅どんをじきに知らせて上げたんだよ」
「そう。ありがとう。気休めだともッたら、西宮さんは実があるよ」
「早く奥へおいでな」と、小万は懐紙で鉄瓶(てつびん)の下を煽(あお)いでいる。
吉里は燭台(しょくだい)煌々(こうこう)たる上(かみ)の間(ま)を眩(まぶ)しそうに覗(のぞ)いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟(えり)に入れる。
「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声をかけた。
「静かにしておくれ。お客さまがいらッしゃるんだよ」
「御免なさいまし」と、お熊は障子を開けて、「小万さんの花魁、どうも済みませんね」と、にッこり会釈し、今奥へ行こうとする吉里の背後(うしろ)から、「花魁、困るじゃアありませんか」
「今行くッたらいいじゃアないか。ああうるさいよ」と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。
客は二人である。西宮は床の間を背(うしろ)に胡座(あぐら)を組み、平田は窓を背(うしろ)にして膝(ひざ)も崩(くず)さずにいた。
西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌(あいきょう)のある丸顔。結城紬(ゆうきつむぎ)の小袖に同じ羽織という打扮(いでたち)で、どことなく商人らしくも見える。
平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員(こかんいん)とも見れば見らるる風俗で、黒七子(くろななこ)の三つ紋の羽織に、藍縞(あいじま)の節糸織(ふしいとおり)と白ッぽい上田縞の二枚小袖、帯は白縮緬(しろちりめん)をぐいと緊(しま)り加減に巻いている。歳(とし)は二十六七にもなろうか。髪はさまで櫛(くし)の歯も見えぬが、房々と大波を打ッて艶(つや)があって真黒であるから、雪にも紛う顔の色が一層引ッ立ッて見える。細面ながら力身(りきみ)をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌(あいきょう)は靨(えくぼ)かとも見紛われる。とかく柔弱(にやけ)たがる金縁の眼鏡も厭味(いやみ)に見えず、男の眼にも男らしい男振りであるから、遊女なぞにはわけて好かれそうである。
吉里が入ッて来た時、二客(ふたり)ともその顔を見上げた。平田はすぐその眼を外(そ)らし、思い出したように猪口(ちょく)を取ッて仰ぐがごとく口へつけた、酒がありしや否やは知らぬが。
吉里の眼もまず平田に注いだが、すぐ西宮を見て懐愛(なつか)しそうににッこり笑ッて、「兄さん」と、裲襠(しかけ)を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけて男の肩を抱(いだ)いた。
「ははははは。門迷(とまど)いをしちゃア困るぜ。何だ、さッきから二階の櫺子(れんじ)から覗いたり、店の格子に蟋蟀(きりぎりす)をきめたりしていたくせに」と、西宮は吉里の顔を見て笑ッている。
吉里はわざとつんとして、「あんまり馬鹿におしなさんなよ。そりゃ昔のことですのさ」
「そう諦(あきら)めててくれりゃア、私も大助かりだ。あいたたた。太股(ふともも)ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上|臂突(ひじつ)きにされて、ぐりぐりでも極(き)められりゃア、世話アねえ。復讐(しかえし)がこわいから、覚えてるがいい」
「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今晩来たのね。まだお国へ行かないの」
平田はちょいと吉里を見返ッてすぐ脇(わき)を向いた。
「さアそろそろ始まッたぞ。今夜は紋日(もんび)でなくッて、紛紜日(もめび)とでも言うんだろう。あッちでも始まればこッちでも始まる。酉(とり)の市(まち)は明後日(あさッて)でござい。さア負けたア負けたア、大負けにまけたアまけたア」と、西宮は理(わけ)も分らぬことを言い、わざとらしく高く笑うと、「本統に馬鹿にしていますね」と、吉里も笑いかけた。
「戯言(じょうだん)は戯言だが、さッきから大分|紛雑(もめ)てるじゃアないか。あんまり疳癪を発(おこ)さないがいいよ」
「だッて。ね、そら……」と、吉里は眼に物を言わせ、「だもの、ちッたあ疳癪も発りまさアね」
「そうかい。来てるのかい、富沢町(とみざわちょう)が」と、西宮は小声に言ッて、「それもいいさ。久しぶりで――あんまり久しぶりでもなかッた、一昨日(おととい)の今夜だッけね。それでもまア久しぶりのつもりで、おい平田、盃(さかずき)を廻したらいいだろう。おッと、お代(かわ)り目(め)だッた。おい、まだかい。酒だ、酒だ」と、次の間へかけて呼ぶ。
「もうすこし。お前さんも性急(せッかち)だことね。ついぞない。お梅どんが気が利(き)かないんだもの、加炭(つい)どいてくれりゃあいいのに」と、小万が煽(あお)ぐ懐紙の音がして、低声(こごえ)の話声(はなし)も聞えるのは、まだお熊が次の間にいると見える。
吉里は紙巻煙草(シガー)に火を点(つ)けて西宮へ与え、「まだ何か言ッてるよ。ああ、いやだいやだ」
「またいやだいやだを始めたぜ。あの人も相変らずよく来てるじゃアないか。あんまりわれわれに負けない方だ。迷わせておいて、今さら厭だとも言えまい。うまい言の一語(ひとこと)も言ッて、ちッたあ可愛がッてやるのも功徳(くどく)になるぜ」
「止(よ)しておくんなさいよ。一人者になッたと思ッて、あんまり酷待(いじめ)ないで下さいよ」
「一人者だと」と、西宮はわざとらしく言う。
「だッて、一人者じゃアありませんか」と、吉里は西宮を見て淋(さみ)しく笑い、きッと平田を見つめた。見つめているうちに眼は一杯の涙となッた。 

平田は先刻(さきほど)から一言(ひとこと)も言わないでいる。酒のない猪口(ちょく)が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物(さかな)を※[てへん+劣](むし)ッたり、煮えつく楽鍋(たのしみなべ)に杯泉(はいせん)の水を加(さ)したり、三つ葉を挾(はさ)んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙(すき)を覘(ねら)ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損(みそこ)なッて、覚えず今吉里へ顔を見合わせると、涙一杯の眼で怨(うら)めしそうに自分を見つめていたので、はッと思いながら外(はず)し損ない、同じくじッと見つめた。吉里の眼にはらはらと涙が零(こぼ)れると、平田はたまらなくなッてうつむいて、深く息を吐(つ)いて涙ぐんだ。
西宮は二人の様子に口の出し端(は)を失い、酒はなし所在はなし、またもや次の間へ声をかけた。
「おい、まだかい」
「ああやッと出来ましたよ」と、小万は燗瓶(かんびん)を鉄瓶から出しながら、「そんなわけなんだからね。いいかね、お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」
「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙(からかみ)越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よござんすか」
「うるさいよッ」と、吉里も唐紙越しに睨んで、「人のことばッかし言わないで、自分も気をつけるがいいじゃアないか。ちッたアそこで燗番でもするがいいんさ。小万さんの働いておいでなのが見えないのか。自分がいやなら、誰かよこしとくがいいじゃアないか」
「はい、はい。どうもお気の毒さま」と、お熊は室外(そと)へ出た。
「本統に誰かよこしておくんなさいよ。お梅どんがどッかいるだろうから、来るように言ッておくんなさいよ」と、小万も上の間へ来ながら声をかけたが、お熊はもういないのか返辞がなかッた。
「あんないやな奴(やつ)ッちゃアないよ。新造(しんぞ)を何だと思ッてるんだろう。花魁に使われてる奉公人じゃアないか。あんまりぐずぐず言おうもんなら、御内所へ断わッてやるぞ。何だろう、奉公人のくせに」
「もういいじゃアないかね。新造衆(しんぞしゅう)なんか相手にしたッて、どうなるもんかね」
小万は上の間に来て平田の前に座ッた。
平田は待ちかねたという風情で、「小万さん、一杯|献(あ)げようじゃアないかね」
「まアお熱燗(あつ)いところを」と、小万は押えて平田へ酌(しゃく)をして、「平田さん、今晩は久しぶりで酔ッて見ようじゃありませんか」と、そッと吉里を見ながら言ッた。
「そうさ」と、平田はしばらく考え、ぐッと一息に飲み乾(ほ)した猪口を小万にさし、「どうだい、酔ッてもいいかい」
「そうさなア。君まで僕を困らせるんじゃアないか」と、西宮は小万を見て笑いながら、「何だ、飲めもしないくせに。管(くだ)を巻かれちゃア、旦那様(だんなさま)がまたお困り遊ばさア」
「いつ私が管を巻いたことがあります」と、小万は仰山(ぎょうさん)らしく西宮へ膝を向け、「さアお言いなさい。外聞の悪いことをお言いなさんなよ」
「小万さん、お前も酔ッておやりよ。私ゃ管でも巻かないじゃアやるせがないよ。ねえ兄さん」と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、このくらいなことは勘忍して下さるでしょう」
「さア事だ。一人でさえ持て余しそうだのに、二人まで大敵を引き受けてたまるもんか。平田、君が一方を防ぐんだ。吉里さんの方は僕が引き受けた。吉里さん、さア思うさま管を巻いておくれ」
「ほほほ。あんなことを言ッて、また私をいじめようともッて。小万さん、お前加勢しておくれよ」
「いやなことだ。私ゃ平田さんと仲よくして、おとなしく飲むんだよ。ねえ平田さん」
「ふん。不実同士|揃(そろ)ッてやがるよ。平田さん、私がそんなに怖(こわ)いの。執(と)ッ着(つ)きゃしませんからね、安心しておいでなさいよ。小万さん、注(つ)いでおくれ」と、吉里は猪口を出したが、「小杯(ちいさく)ッて面倒くさいね」と傍(そば)にあッた湯呑(ゆの)みと取り替え、「満々(なみなみ)注いでおくれよ」
「そろそろお株をお始めだね。大きい物じゃア毒だよ」
「毒になッたッてかまやアしない。お酒が毒になッて死んじまッたら、いッそ苦労がなくッて……」と、吉里はうつむき、握ッていた西宮の手へはらはらと涙を零(こぼ)した。
平田は額に手を当てて横を向いた。西宮と小万は顔を見合わせて覚えず溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
「ああ、つまらないつまらない」と、吉里は手酌で湯呑みへだくだくと注ぐ。
「お止しと言うのに」と、小万が銚子(ちょうし)を奪(と)ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……」と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。
「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」
「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と、吉里は西宮を見て、「堪忍して下さいよ。もう愚痴は溢(こぼ)さない約束でしたッけね。ほほほほほほ」と、淋しく笑ッた。
「花魁(おいらん)、花魁」と、お熊がまたしても室外(そと)から声をかける。
「今じきに行くよ」と、吉里も今度は優しく言う。お熊は何も言わないであちらへ行ッた。
「ちょいと行ッて来ちゃアどうだね、も一杯威勢を附けて」
西宮が与(さ)した猪口に満々(なみなみ)と受けて、吉里は考えている。
「本統にそうおしよ。あんまり放擲(うッちゃ)ッといちゃアよくないよ。善さんも気の毒な人さ。こんなに冷遇(され)ても厭な顔もしないで、毎晩のように来ておいでなんだから、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触(さわ)らないほどにと言葉を添えた。
「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾(ほ)して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切(しんせつ)な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだもの。誰かのように、実情(じつ)がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」
平田はぷいと坐を起(た)ッた。
「お便所(ちょうず)」と、小万も起とうとする。「なアに」と、平田は急いで次の間へ行ッた。
「放擲(うッちゃ)ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこへ行くがいいやね」
次の間には平田が障子を開けて、「おやッ、草履がない」
「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。
「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬(ほお)を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分|愛想尽(あいそづか)しをおっしゃるね」
「言いますとも。ねえ、小万さん」
「へん、また後で泣こうと思ッて」
「誰が」
「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。
「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐(いじ)めるのはたくさん」
店梯子(みせばしご)を駈(か)け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙(せわ)しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。
「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰(ひそ)めた。
ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室(へや)の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。
「何だよ」
「ちょいとお顔を」
「あい。初会(しょかい)なら謝罪(ことわ)ッておくれ」
「お馴染(なじ)みですから」
「誰だ。誰が来たんだ」と、西宮は小万の顔を真面目(まじめ)に見つめた。
「おほほ――、妬(や)けるんだよ」と、吉里は笑い出した。
「ははははは。どうだい、僕の薬鑵(やかん)から蒸気(ゆげ)が発(た)ッてやアしないか」
「ああ、発ッてますよ。口惜(くや)しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻(つね)る。
「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦(さす)る。
小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発(おこ)ると困るからね」
「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。
「ほほほほ。可愛い虫さ」
「油虫じゃアないか」
「苦労の虫さ」と、小万は西宮をちょいと睨んで出て行ッた。
折から撃ッて来た拍子木は二時(おおびけ)である。本見世(ほんみせ)と補見世(すけみせ)の籠(かご)の鳥がおのおの棲(とや)に帰るので、一時に上草履の音が轟(とどろ)き始めた。 

吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管(パイプ)を拭いながら、戦(ふる)える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。
燭台の蝋燭(ろうそく)は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈(ともしび)は暗し数行虞氏(すうこうぐし)の涙(なんだ)という風情だ。
吉里の涙に咽(むせ)ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴたを拭っていた手を止(とど)めて口を開いた。
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷(くに)へ帰れる。私も心配した甲斐(かい)があるというものだ。実にありがたかッた」
吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。
「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷(かえら)ないわけに行かないんでね、私も実に困っているんだ」
「家君(おとッ)さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。
「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚(ちいさ)い弟(おとと)はあるし、妹(いもと)はあるし、お前さんも知ッてる通り母君(おッかさん)が死去(ない)のだから、どうしても平田が帰郷(かえ)ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」
「平田さんがお帰郷(かえり)なさると、皆さんが楽におなりなさるんですか」
「そうは行くまい。大概なことじゃ、なかなか楽になるというわけには行かなかろう。それで、急にまた出京(でてく)るという目的(あて)もないから、お前さんにも無理な相談をしたようなわけなんだ。先日来(こないだから)のようにお前さんが泣いてばかりいちゃア、談話(はなし)は出来ないし、実に困りきッていたんだ。これで私もやっと安心した。実にありがたい」
吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。
西宮は注(つ)ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」
「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里は淋しく笑ッて銚子を取り上げた。
眼千両と言われた眼は眼蓋(まぶた)が腫(は)れて赤くなり、紅粉(おしろい)はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。
「どうだね、一杯(ひとつ)」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉(ねむ)ッて一息に飲み乾し、猪口を下へ置いてうつむいてまた泣いていた。
「本統でしょうね」と、吉里は涙の眼で外見(きまり)悪るそうに西宮を見た。
「何が」と、西宮は眼を丸くした。
「私ゃ何だか……、欺(だま)されるような気がして」と、吉里は西宮を見ていた眼を畳へ移した。
「困るなア、どうも。まだ疑ぐッてるんだね。平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌(あわ)てて遮(さえぎ)ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」
「なに平気なものか。平生あんなに快濶(かいかつ)な男が、ろくに口も利(き)き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得(いえ)ないくらいだ」
「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接(じか)に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」
「いや、話したろう。幾たびも話したはずだ。お前さんが相手にしないんじゃないか。話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」
「だッて、私ゃ否(いや)ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。
「それ御覧。それだもの。平田が談話(はな)すことが出来るものか。お前さんの性質(きしょう)も、私はよく知ッている。それだから、お前さんが得心した上で、平田を故郷(くに)へ出発(たた)せたいと、こうして平田を引ッ張ッて来るくらいだ。不実に考えりゃア、無断(だんまり)で不意と出発(たっ)て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。もう承知しておくれだッたのだから、くどく言うこともないのだが……。お前さんの性質(きしょう)だと……もうわかッてるんだから安心だが……。吉里さん、本統に頼むよ」
吉里はまた泣き出した。その声は室外(そと)へ漏れるほどだ。西宮も慰めかねていた。
「へい、お誂(あつら)え」と、仲どんが次の間へ何か置いて行ッたようである。
また障子を開けた者がある。次の間から上の間を覗いて、「おや、座敷の花魁はまだあちらでございますか」と、声をかけたのは、十六七の眼の大きい可愛らしい女で、これは小万の新造(しんぞ)のお梅である。
「平田さんもまだおいでなさらないんですね」と、お梅は仲どんが置いて行ッた台の物を上の間へ運び、「お飯(まんま)になすッちゃアいかがでございます。皆さんをお呼び申しましょうか」
「まアいいや。平田は吉里さんの座敷にいるかい」
「はい。お一人でお臥(よ)ッていらッしゃいましたよ。お淋(さみ)しいだろうと思ッて私が参りますとね、あちらへ行ッてろとおッしゃッて、何だか考えていらッしゃるようですよ」
「うまく言ッてるぜ。淋しかろうと思ッてじゃアなかろう、平田を口説(くど)いて鉢を喰(く)ッたんだろう。ははははは。いい気味だ。おれの言う言(こと)を、聞かなかッた罰(ばち)だぜ」
「あら、あんなことを。覚えていらッしゃいよ」
「本統だから、顔を真赤にしたな。ははははは」
「あら、いつ顔なんか真赤にしました。そんなことをお言いなさると、こうですよ」
「いや、御免だ。擽(くす)ぐるのは御免だ。降参、降参」
「もう言いませんか」
「もう言わない、言わない。仲直りにお茶を一杯(ひとつ)。湯が沸いてるなら、濃くして頼むよ」
「いやなことだ」と、お梅は次の間で茶を入れ、湯呑みを盆に載せて持って来て、「憎らしいけれども、はい」
「いや、ありがたいな。これで平田を口説いたのと差引きにしてやろう」
「まだあんなことを」
「おッと危(あぶ)ない。溢(こぼ)れる、溢れる」
「こんな時でなくッちゃア、敵(かたき)が取れないわ。ねえ、花魁」
吉里は淋しそうに笑ッて、何とも言わないでいる。
「今擽られてたまるものか。降参、降参、本統に降参だ」
「きっとですか」
「きっとだ、きっとだ」
「いい気味だ。謝罪(あやまら)せてやッた」
「ははははは。お梅どんに擽られてたまるもんか。男を擽ぐる急所を心得てるんだからね」
「何とでもおっしゃい。どうせあなたには勝(かな)いませんよ」と、お梅は立ち上りながら、「御膳(ごぜん)はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。
誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉(た)てた者がある。
「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、ぱたぱたぱたぱたと廊下を走る草履の音が聞えた。
「まア」と、お梅の声は呆(あき)れていた。 

「どうしたんだ」と、西宮は事ありそうに入ッて来たお梅を見上げた。
「善さんですよ。善さんが覗いていなすッたんですよ」と、お梅は眼を丸くして、今顔を上げた吉里を見た。
「おえない妬漢(じんすけ)だよ」と、吉里は腹立たしげに見えた。
「さっきからね、花魁のお座敷を幾たびも覗いていなさるんですよ。平田さんが怒んなさりゃしまいかと思ッて、本統に心配しましたよ」
「あんまりそんな真似をすると、謝絶(ことわ)ッてやるからいい。ああ、自由(まま)にならないもんだことねえ」と、吉里は西宮をつくづく視(み)て、うつむいて溜息を吐(つ)く。
「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加(さ)す音をさせて出て行ッた。
「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょうね。本統に辛いの。私の身にもなッて察して下さいよ」
「実に察しる」と、西宮はしばらく考え、「実に察しているのだ。お前さんに無理に頼んだ私の心の中も察してもらいたい。なかなか私に言えそうもなかッたから、最初(はじめ)は小万に頼んで話してもらうつもりだッたのさ。小万もそんなことは話せないて言うから、しかたなしに私が話したようなわけだからね、お前さんが承知してくれただけ、私ゃなお察しているんだよ。三十面を下げて、馬鹿を尽してるくらいだから、他(ひと)には笑われるだけ人情はまア知ッてるつもりだ。どうか、平田のためだと思ッて、我慢して、ねえ吉里さん、どうか頼むよ」
「しかたがありませんよ、ねえ兄さん」と、吉里はついに諦めたかのごとく言い放しながらなお考えている。
「私もこんな苦しい思いをしたことはない」
「こういうはかない縁なんでしょうよ、ねえ。考えると、小万さんは羨(うらや)ましい」と、吉里はしみじみ言ッた。
「いや、私も来ないつもりだ」と、西宮ははッきり言い放ッた。
「えッ」と、吉里はびッくりして、「え。なぜ。どうなすッたの」と、西宮の顔を見つめて呆れている。
「いや、なぜということもない。辛いのは誰しも同一(おんなじ)だ。お前さんと平田の苦衷(こころ)を察しると、私一人どうして来られるものか」
「なぜそんなことをお言(い)なさるの。私ゃそんなつもりで」
「そりゃわかッてる。それで来る来ないと言うわけじゃない。実に忍びないからだ」
「いや、いや、私ゃ否(いや)ですよ。私が小万さんに済みません。平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪(あやま)るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来て下さいよ。え、よござんすか。え、え」と、吉里は詫(わ)びるように頼むように幾たびとなく繰り返す。
西宮はうつむいて眼を閉(ねむ)ッて、じッと考えている。
吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」
西宮は閉目(ねむっ)てうつむいている。
「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐(つ)いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃア、私ゃ生きちゃアいませんよ」
「よろしい、よろしい」と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念(おもいき)ッてくれるね。私もお前さんのことについちゃア、後来(こののち)何とでもしようから」
「しかたがありません、断念(おもいき)らないわけには行かないのだから。もう、音信(たより)も出来ないんですね」
「さア。そう思ッていてもらわなければ……」と、西宮も判然(はき)とは答えかねた。
吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日(あした)にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧(あか)くしながら西宮を見る。
「もう一遍」
「ええ。故郷(おくに)へ発程(たつ)までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」
「もう一遍」と、西宮は繰り返し、「もう、そんな間(ひま)はないんだよ」
「えッ。いつ故郷(おくに)へ立発(たつ)んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。
「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。
「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛(か)んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反(そ)ッて西宮へ倒れかかッた。
折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」
「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」
「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」
「平田はどうした。平田は、平田は」
「平田さんですか」
いつかお梅も此室(ここ)に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッていた。
「お梅どんそこにいたのかい。何をぼんやりしてるんだよ。平田さんを早く呼んでおいで。気が利かないじゃアないか。早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」
お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝(つ)き当り障子を倒し、素足で廊下を駈(か)け出した。 

平田は臥床(とこ)の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰(む)き眼を合(ねむ)り、後眥(めじり)からは涙が頬へ線(すじ)を画(ひ)き、下唇(したくちびる)は噛まれ、上唇は戦(ふる)えて、帯を引くだけの勇気もないのである。
二人の定紋を比翼につけた枕(まくら)は意気地なく倒れている。燈心が焚(も)え込んで、あるかなしかの行燈(あんどう)の火光(ひかり)は、「春如海(はるうみのごとし)」と書いた額に映ッて、字形を夢のようにしている。
帰期(かえり)を報(し)らせに来た新造(しんぞ)のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳(かざ)し頬を焙(あぶ)り、上の間へ耳を聳(そばだ)てている。
「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。
「もすこし前五時を報(う)ちましたよ」
「え、五時過ぎ。遅くなッた、遅くなッた」と、平田は思いきッて帯を締めようとしたが、吉里が動かないのでその効(かい)がなかッた。
「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」
「はい。西宮さんはちッともお臥(よ)らないで、こなたの……」と、言い過ぎようとして気がついたらしく、お梅は言葉を切ッた。
「そうか。気の毒だッたなア。さア行こう」
吉里はなお帯を放さぬ。
「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。
「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。
「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風(びょうぶ)の中を覗くと、平田は帯を締め了(おわ)ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。
「失敬した、失敬した。さア出かけよう」
「まアいいさ」
「そうでない、そうでない」と、平田は忙がしそうに体を揺すぶりながら室(へや)を出かけた。
「ああ、ちょいと、あの……」と、吉里の声は戦(ふる)えた。
「おい、平田。何か忘れた物があるんじゃアないか」
「なにない。何にもない」
「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」
「何をッて」
西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干(てすり)にもたれて、中庭を見下している。
研(と)ぎ出したような月は中庭の赤松の梢(こずえ)を屋根から廊下へ投げている。築山(つきやま)の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社(やしろ)の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気(さむさ)が足の爪先(つまさき)から全身を凍らするようで、覚えず胴戦(どうぶる)いが出るほどだ。
中庭を隔てた対向(むこう)の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女(なんにょ)二個(ふたつ)の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。
「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背(せなか)を欄干(てすり)にもたせ変えた時、二上(にあが)り新内を唄(うた)うのが対面(むこう)の座敷から聞えた。
「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」
「あれは東雲(しののめ)さんの座敷だろう。さびのある美音(いいこえ)だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問(たず)ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。
お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語(ささや)いた。
「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」
三ツばかり先の名代(みょうだい)部屋で唾壺(はいふき)の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸(あくび)をした。
途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外|沈着(おちつ)いていた。
平田は驚くほど蒼白(あおざめ)た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語(ひとりごと)のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。
「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻(もど)ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。
「兄さん」と、吉里は背後(うしろ)から西宮の肩を抱(いだ)いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」
西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。
「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」
お梅が幾たび声をかけても、平田はなお見返らないで、廊下の突当りの角を表梯子(おもてばしご)の方へ曲ろうとした時、「どこへおいでなさるの。こッちですよ」と、声をかけたのは小万だ。
「え、何だ。や、小万さんか。失敬」と、平田は小万の顔を珍らしそうにみつめた。
「どうなすッたの。ほほほほほ」
「お草履をおはきなさいよ」と、お梅は上草履を平田の前に置いた。
「あ、そうか」と、平田が上草履をはくところへ西宮も吉里も追いついた。
「あんまり何だから、どうなすッたかと思ッて……。平田さん、私の座敷へいらッしゃいよ。ゆッくりお茶でも召し上ッて。ねえ、吉里さん」
「ありがとう。いや、もう行こう。ねえ、西宮」
「そんなことをおッしゃらないで。何ですよ、まアいいじゃアありませんか」
西宮はじッと小万の顔を見た。吉里は西宮の後にうつむいている。平田は廊下の洋燈(ランプ)を意味もなく見上げている。
「もうこのまま出かけよう。夜が明けても困る」と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套(がいとう)を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車(くるま)は来てるだろうな」
「もうさッきから待ッてますよ」
お梅は二客(ふたり)の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。
「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り、「本統にお名残り惜しゅうござんすことね。いつまたお目にかかれるでしょうねえ。御道中をお気をおつけなさいよ。貴郷(おくに)にお着きなすッたら、ちょいと知らせて下さいよ。ね、よござんすか。こんなことになろうとはね」
「何だ。何を言ッてるんだ。一言言やア済むじゃアないか」
西宮に叱られて、小万は顔を背向(そむ)けながら口をつぐんだ。
「小万さん、いろいろお世話になッたッけねえ」と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった。
小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢(こぼ)さずにはいられなかッた。
お梅が帽子と外套を持ッて来た時、階下(した)から上ッて来た不寝番(ねずばん)の仲どんが、催促がましく人車(くるま)の久しく待ッていることを告げた。
平田を先に一同梯子を下りた。吉里は一番後れて、階段(ふみだん)を踏むのも危険(あぶな)いほど力なさそうに見えた。
「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮(すく)んだようで、上(あが)り框(がまち)までは行かれなかッた。
「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、西宮も声をかけた。
吉里は一語(ひとこと)も吐(だ)さないで、真蒼(まッさお)な顔をしてじッと平田を見つめている。平田もじッと吉里を見ていたが、堪えられなくなッて横を向いた時、仲どんが耳門(くぐり)を開ける音がけたたましく聞えた。平田は足早に家外(おもて)へ出た。
「平田さん、御機嫌(ごきげん)よろしゅう」と、小万とお梅とは口を揃(そろ)えて声をかけた。
西宮はまた今夜にも来て様子を知らせるからと、吉里へ言葉を残して耳門(くぐり)を出た。
「おい、気をつけてもらおうよ。御祝儀を戴いてるんだぜ。さようなら、御機嫌よろしゅう。どうかまたお近い内に」
車声(くるま)は走り初めた。耳門はがらがらと閉められた。
この時まで枯木(こぼく)のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零(おと)し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気(あたたかみ)のある布団(ふとん)の上に泣き倒れた。 

万客(ばんきゃく)の垢(あか)を宿(とど)めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深(ふ)けては氷の上に臥(ね)るより耐えられぬかも知れぬ。新造(しんぞ)の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物(さかな)の尽きた小皿とを載せた盆がある。裾の方は屏風(びょうぶ)で囲われ、頭(かみ)の方の障子の破隙(やぶれ)から吹き込む夜風は、油の尽きかかッた行燈の火を煽(あお)ッている。
「おお、寒い寒い」と、声も戦(ふる)いながら入ッて来て、夜具の中へ潜(もぐ)り込み、抱巻(かいまき)の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳(かざ)したのは、富沢町の古着屋|美濃屋(みのや)善吉と呼ぶ吉里の客である。
年は四十ばかりで、軽(かろ)からぬ痘痕(いも)があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋(まぶた)に眼張(めっぱ)のような疵(きず)があり、見たところの下品(やすい)小柄の男である。
善吉が吉里のもとに通い初めたのは一年ばかり前、ちょうど平田が来初めたころのことである。吉里はとかく善吉を冷遇し、終宵(いちや)まったく顔を見せない時が多かッたくらいだッた。それにも構わず善吉は毎晩のように通い詰め通い透(とお)して、この十月ごろから別して足が繁くなり、今月になッてからは毎晩来ていたのである。死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。
「寒いッたッて、箆棒(べらぼう)に寒い晩だ。酒は醒(さ)めてしまッたし、これじゃアしようがない。もうなかッたかしら」と、徳利を振ッて見て、「だめだ、だめだ」と、煙管(きせる)を取り上げて二三|吹(ぷく)続けさまに煙草を喫(の)んだ。
「今あすこに立ッていたなア、小万の情夫(いいひと)になッてる西宮だ。一しょにいたのはお梅のようだッた。お熊が言ッた通り、平田も今夜はもう去(かえ)るんだと見えるな。座敷が明いたら入れてくれるか知らん。いい、そんなことはどうでもいい。座敷なんかどうでもいいんだ。ちょいとでも一しょに寝て、今夜ッきり来ないことを一言断りゃいいんだ。もう今夜ッきりきッと来ない。来ようと思ッたッて来られないのだ。まだ去(かえ)らないのかなア。もう帰りそうなものだ。大分手間が取れるようだ。本統に帰るのか知らん。去(かえ)らなきゃ去らないでもいい。情夫(いいひと)だとか何だとか言ッて騒いでやアがるんだから、どうせ去(かえ)りゃしまいよ。去らなきゃそれでいいから、顔だけでもいいから、ちょいとでもいいから……。今夜ッきりだ。もう来られないのだ。明日はどうなるんだか、まア分ッてるようでも……。自分ながら分らないんだ。ああ……」
方角も吉里の室、距離(とおさ)もそのくらいのところに上草履の音が発(おこ)ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。
「や、去(かえ)るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥(は)ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見(きまり)が悪いな」と、障子の破隙(やぶれ)からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込んだ。
上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。
「やッぱり去(かえ)らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。
しばらくして頭を上げて右の手で煙管を探ッたが、あえて煙草を喫(の)もうでもなく、顔の色は沈み、眉は皺(ひそ)み、深く物を思う体(てい)である。
「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦(ふる)えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失(な)くした、お千代も生家(さと)へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返してしまッたんだ。おれはひどい奴だ――ひどい奴なんだ。ああ、おれは意気地がない」
上草履はまたはるかに聞え出した。梯子(はしご)を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門(くぐり)を開ける音がして、続いて人車(くるま)の走るのも聞えた。
「はははは、去(かえ)ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出したな。あの走ッてるのは吉里の草履の音だ。裏梯子を上ッて来る。さ、いよいよここへ来るんだ。きッとそうだ。きッとそうだ。そらこッちに駈けて来た」
善吉は今にも吉里が障子を開けて、そこに顔を出すような気がして、火鉢に手を翳していることも出来ず、横にころりと倒(ころ)んで、屏風の端から一尺ばかり見える障子を眼を細くしながら見つめていた。
上草履は善吉が名代部屋の前を通り過ぎた。善吉はびッくりして起き上ッて急いで障子を開けて見ると、上草履の主ははたして吉里であッた。善吉は茫然(ぼうぜん)として見送ッていると、吉里は見返りもせずに自分の室へ入ッて、手荒く障子を閉めた。
善吉は何か言おうとしたが、唇を顫(ふる)わして息を呑んで、障子を閉めるのも忘れて、布団の上に倒れた。
「畜生、畜生、畜生めッ」と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度|蹴(け)りに蹴った。
「おや、何をしていらッしゃるの」
いつの間に人が来たのか。人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその人を見た。
「おほほほほほ。善さん、どうなすッたんですよ、まアそんな顔をなすッてさ。さアあちらへ参りましょう」
「お熊どんなのか。私しゃ今何か言ッてやアしなかッたかね」
「いいえ、何にも言ッてらッしゃりはしませんかッたよ。何だか変ですことね。どうかなすッたんですか」
「どうもしやアしない。なに、どうするものか」
「じゃア、あちらへ参りましょうよ」
「あちらへ」
「去(かえ)り跡になりましたから、花魁のお座敷へいらッしゃいよ」
「あ、そうかい。はははははは。そいつア剛気だ」
善吉はつと立ッて威勢よく廊下へ出た。
「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」
善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。
「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッたよ。あんなに言うのに紙入れを忘れて行ッたよ。煙草入れもだ。しようがないじゃアないか」
お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れとを取り上げ、盆を片手に持ッて廊下へ出た。善吉はすでに廊下に見えず、かなたの吉里の室の障子が明け放してあった。
「早くお臥(やす)みなさいまし。お寒うございますよ」と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の間に立ッたまま上の間へ進みにくそうに見えた善吉へ言った。
上の間の唐紙は明放しにして、半ば押し除(の)けられた屏風の中には、吉里があちらを向いて寝ているのが見える、風を引きはせぬかと気遣(きづか)われるほど意気地のない布団の被(か)けざまをして。
行燈はすでに消えて、窓の障子はほのぼのと明るくなッている。千住(せんじゅ)の製絨所(せいじゅうしょ)か鐘(かね)が淵(ふち)紡績会社かの汽笛がはるかに聞えて、上野の明け六時(むつ)の鐘も撞(う)ち始めた。
「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣(ねまき)の懐裡(ふところ)へ押し込んだ。
「ちッとお臥(よ)るがよござんすよ」
「もう夜が……明るくなッてるんだね」
「なにあなた、まだ六時ですよ。八時ごろまでお臥ッて、一口召し上ッて、それからお帰んなさるがよござんすよ」
「そう」と、善吉はなお突ッ立ッている。
「花魁、花魁」と、お熊は吉里へ声をかけたが、返辞もしなければ身動きもせぬ。
「しようがないね。善さん、早くお臥(やす)みなさいまし。八時になッたらお起し申しますよ」
善吉がもすこしいてもらいたかッたお熊は室を出て行ッた。
室の障子を開けるのが方々に聞え、梯子を上り下りする草履の音も多くなッた。馴染みの客を送り出して、その噂(うわさ)をしているのもあれば、初会の客に別れを惜しがッて、またの逢夜(おうや)を約(ちぎ)ッているのもある。夜はいよいよ明け放れた。
善吉は一層気が忙(せわ)しくなッて、寝たくはあり、妙な心持はする、機会を失なッて、まじまじと吉里の寝姿を眺(なが)めていた。
朝の寒さはひとしおである。西向きの吉里が室の寒さは耐えられぬほどである。吉里は二ツ三ツ続けて嚏(くさめ)をした。
「風を引くよ」と、善吉はわれを覚えず吉里の枕もとに近づき、「こんなことをしてるんだもの、寒いはずだ。私が着せてあげよう。おい、吉里さん。吉里さん、風を引くよ」
吉里は袖を顔に当てて俯伏(つッぷ)し、眠(ね)てるのか眠てないのか、声をかけても返辞をせぬところを見ると、眠てるのであろうと思ッて、善吉はじッと見下した。
雪よりも白い領(えり)の美くしさ。ぽうッとしかも白粉(しろこ)を吹いたような耳朶(みみたぶ)の愛らしさ。匂うがごとき揉上(もみあ)げは充血(あか)くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡(ぬ)れて、白茶地に牛房縞(ごぼうじま)の裏柳葉色(うらやなぎはいろ)を曇らせている。島田|髷(まげ)はまったく根が抜け、藤紫(ふじむらさき)のなまこの半掛けは脱(はず)れて、枕は不用(いらぬ)もののように突き出されていた。
善吉はややしばらく瞬(またた)きもせず吉里を見つめた。
長鳴(ちょうめい)するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。
「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。
「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯(さッ)と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。 

忍(しのぶ)が岡(おか)と太郎|稲荷(いなり)の森の梢には朝陽(あさひ)が際立ッて映(あた)ッている。入谷(いりや)はなお半分|靄(もや)に包まれ、吉原|田甫(たんぼ)は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏(からす)が噪(さわ)ぎ始めた。大鷲(おおとり)神社の傍の田甫の白鷺(しらさぎ)が、一羽|起(た)ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉(とり)の市(まち)の売場に新らしく掛けた小屋から二三|個(にん)の人が現われた。鉄漿溝(おはぐろどぶ)は泡(あわ)立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙(けむ)は風に狂いながら流れている。
一声(いっせい)の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞(めぐ)ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現(ゆめうつつ)の界(さかい)に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。
「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟(つぶ)やくように言ッた吉里の声は顫えた。
まだ温気(あたたかみ)を含まぬ朝風は頬に※[石+乏](はり)するばかりである。窓に顔を晒(さら)している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦(ふる)え上ッて、今は耐えられなくなッた。
「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃアどうだね」と、善吉は歯の根も合わないで言ッた。
見返ッた吉里は始めて善吉を認めて、「おや、善さんでしたか」
「閉めたらいいだろう。吉里さん、風を引くよ。顔の色が真青だよ」
「あの汽車はどこへ行くんでしょうね」
「今の汽車かね。青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」
「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」
「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」
「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」
吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥(たんす)にもたれて考え始めた。善吉は窓の障子を閉めて、吉里と火鉢を挾んで坐り、寒そうに懐手をしている。
洗い物をして来たお熊は、室の内に入りながら、「おや、もうお起きなすッたんですか。もすこしお臥(よ)ッてらッしゃればいいのに」と、持ッて来た茶碗(ちゃわん)小皿などを茶棚(ちゃだな)へしまいかけた。
「なにもう寝なくッても――こんなに明るくなッちゃア寝てもいられまい。何しろ寒くッて、これじゃアたまらないや。お熊どん、私の着物を出してもらおうじゃないか」
「まアいいじゃアありませんか。今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」
「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」
「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんかね。何か上げましょうね。ちょいとこれでも被(はお)ッていらッしゃい」と、お熊は衣桁(いこう)に掛けてあッた吉里のお召|縮緬(ちりめん)の座敷着を取ッて、善吉の後から掛けてやッた。
善吉はにっこりして左右の肩を見返り、「こいつぁア強気(ごうぎ)だ。これを借りてもいいのかい」
「善さんのことですもの。ねえ。花魁」
「へへへへへ。うまく言ッてるぜ」
「よくお似合いなさいますよ。ほほほほほ」
「はははは。袖を通したら、おかしなものだろう」
「なに、あなた。袖をお通しなすッて立ッてごらんなさい、きッとよくお似合いなさいますよ。ねえ、花魁」
「まさか。ははははは」
「ほほほほほ」
吉里は一語(ひとこと)も発(い)わぬ。見向きもせぬ。やはり箪笥にもたれたまま考えている。
「そうしていらッしゃるうちに、お顔を洗ッていらッしゃいまし。その間(うち)にお掃除をして、じきにお酒にするようにしておきますよ。花魁、お連れ申して下さい。はい」と、お熊は善吉の前に楊枝箱(ようじばこ)を出した。
善吉は吉原楊枝の房を※[てへん+劣](むし)ッては火鉢の火にくべている。
「お誂(あつら)えは何を通しましょうね。早朝(はやい)んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐(おけどうふ)にでもしましょうかね。それに油卵(あぶたま)でも」
「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」
「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」
吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被(はお)ッたまま吉里の後(あと)から室を出た。
「花魁、お手拭は」と、お熊は吉里へ声をかけた。
吉里は返辞をしない。はや二三間あちらへ行ッていた。
「私におくれ」と、善吉は戻ッて手拭を受け取ッて吉里を見ると、もう裏梯子を下りようとしていたところである。善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場(しもゆば)の方へ屈(まが)ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人|悄然(しょうぜん)として顔を洗いに行ッた。
そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼(あいかた)はいずれもその傍に附き添い、水を杓(く)んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。
客の羽織の襟が折れぬのを理(なお)しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会(つれじょかい)で二三度一座したことのある初緑(はつみどり)という花魁である。
「おや、善さん。昨夜(ゆうべ)もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」
「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」
「虚言(うそ)ばッかし。ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」
「困るなアどうも」
「なに、よござんすよ。覚えておいでなさいよ。今日は昼間遊んでおいでなさるんでしょう」
「なに、そういうわけでもない」
「去(かえ)らないでおいでなさいよ、後で遊びに行きますから」
「東雲(しののめ)さんの吉(きッ)さんは今日も流連(なが)すんだッてね」と、今一人の名山(めいざん)という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去(かえ)らないで、夕方までおいでなさいよ」
「僕か。僕はいかん。なア君」
「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」
「よござんすよ、お前さんなんざアどうせ不実だから」
「何じゃ。不実じゃ」
「名山さん、金盥(かなだらい)が明いたら貸しておくれよ」と、今客を案内して来た小式部という花魁が言ッた。
「小式部さん、これを上げよう」と、初緑は金盥の一個(ひとつ)を小式部が方(かた)へ押しやり、一個(ひとつ)に水を満々(なみなみ)と湛(たた)えて、「さア善さん、お用(つか)いなさい。もうお湯がちっともないから、水ですよ」
「いや、結構。ありがとう」
「今度おいでなさる時、きっとですよ」
善吉は漱(うがい)をしながらうなずく。初緑らの一群は声高に戯(たわぶ)れながら去(い)ッてしまッた。
「吉里さん、吉里さん」と、呼んだ声が聞えた。善吉は顔を水にしながら声のした方を見ると、裏梯子の下のところに、吉里が小万と話をしていた。善吉はしばらく見つめていた。善吉が顔を洗い了(おわ)ッた時、小万と吉里が二階の廊下を話しながら行くのが見えた。 

桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発(た)ッている。能代(のしろ)の膳には、徳利(とッくり)が袴(はかま)をはいて、児戯(ままごと)みたいな香味(やくみ)の皿と、木皿に散蓮華(ちりれんげ)が添えて置いてあッて、猪口(ちょく)の黄金水(おうごんすい)には、桜花(さくら)の弁(はなびら)が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。
膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に対(むか)い、うまくもない酒と太刀打ちをしているのは善吉である。吉里は時々伏目に善吉を見るばかりで、酌一つしてやらない。お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参りに行ッてしまッた。善吉のてれ加減、わずかに溜息(ためいき)をつき得るのみである。
「吉里さん、いかがです。一杯(ひとつ)受けてもらいたいものですな。こうして飲んでいたッて――一人で飲むという奴は、どうも淋(さみ)しくッて、何だか飲んでるような気がしなくッていけないものだ。一杯(ひとつ)受けてもらいたいものですな。ははははは。私なんざア流連(いつづけ)をする玉でないんだから、もうじきにお暇(いとま)とするんだが、花魁今朝だけは器用に快よく受けて下さいな。これがお別れなんだ。今日ッきりもうお前さんと酒を飲むこともないんだから、器用に受けて、お前さんに酌をしてもらやアいい。もう、それでいいんだ。他に何にも望みはないんだ。改めて献(あ)げるから、ねえ吉里さん、器用に受けて下さい」
善吉は注置(つぎお)きの猪口を飲み乾し、手酌でまた一杯飲み乾し、杯泉でよく洗ッて、「さア献(あ)げるよ。今日ッきりなんだ。いいかね、器用に受けて下さい」
吉里は猪口を受けて一口飲んで、火鉢の端に置いて、じっと善吉を見つめた。
吉里は平田に再び会いがたいのを知りつつ別離(わかれ)たのは、死ぬよりも辛い――死んでも別離(わかれ)る気はなかッたのである。けれども、西宮が実情(まこと)ある言葉、平田が四苦八苦の胸の中、その情に迫られてしかたなしに承知はした。承知はしたけれども、心は平田とともに平田の故郷(くに)に行くつもりなのである――行ッたつもりなのである。けれども、別離(わかれ)て見れば、一しょに行ッたはずの心にすぐその人が恋しく懐愛(なつか)しくなる。も一度逢うことは出来まいか。あの人車(くるま)を引っ返させたい。逢ッて、も一度|別離(わかれ)を告げたい。まだ言い残したこともあッた。聞き残したこともあッた。もうどうしても逢われないのか。今夜の出発が延ばされないものか。延びるような気がする。も一度逢いに来てくれるような気がする。きッと逢いに来る。いえ、逢いには来まい。今夜ぜひ夜汽車で出発(たッてゆ)く人が来そうなことがない。きッと来まい。汽車が出なければいい。出ないかも知れぬ。出ないような気がする。きッと出ない。私の念(おも)いばかりでもきッと出さない。それでも意地悪く出たらどうしよう。どうしても逢えないのか。逢えなけりゃどうしたらいいだろう。平田さんに別れるくらいなら――死んでも別れないんだ。平田さんと別れちゃ生きてる甲斐がない。死んでも平田さんと夫婦(いっしょ)にならないじゃおかない。自由にならない身の上だし、自由に行かれない身の上だし、心ばかりは平田さんの傍を放れない。一しょにいるつもりだ。一しょに行くつもりだ。一しょに行ッてるんだ。どんなことがあッても平田さんの傍は放れない。平田さんと別れて、どうしてこうしていられるものか。体は吉原にいても、心は岡山の平田さんの傍にいるんだ。と、同じような考えが胸に往来して、いつまでも果てしがない。その考えは平田の傍に行ッているはずの心がしているので、今朝送り出した真際(まぎわ)は一時に迫って、妄想(もうぞう)の転変が至極|迅速(すみやか)であッたが、落ちつくにつれて、一事についての妄想が長くかつ深くなッて来た。
思案に沈んでいると、いろいろなことが現在になッて見える。自分の様子、自分の姿、自分の妄想がことごとく現在となッて、自分の心に見える。今朝の別離(わかれ)の辛さに、平田の帯を押えて伏し沈んでいたのも見える。わる止めせずともと東雲(しののめ)の室(へや)で二上り新内を唄(うた)ッたのも、今耳に聞いているようである。店に送り出した時はまるで夢のようで、その時自分は何と思ッていたのか。あのこともあのことも、あれもこれも言いたかッたのに、何で自分は言うことが出来なかッたのか。いえ、言うことの出来なかッたのが当然(あたりまえ)であッた。ああ、もうあの車を止めることは出来ぬか。悲しくてたまらなくなッて、駈け出して裏梯子を上ッて、座敷へ来て泣き倒れた自分の姿が意気地なさそうにも、道理(もっとも)らしくも見える。万一を希望していた通り、その日の夜になッたら平田が来て、故郷(くに)へ帰らなくともよいようになッたと、嬉しいことばかりを言う。それを聞く嬉しさ、身も浮くばかりに思う傍から、何奴(なにやつ)かがそれを打ち消す、平田はいよいよ出発したがと、信切な西宮がいつか自分と差向いになッて慰めてくれる。音信(たより)も出来ないはずの音信が来て、初めから終(しま)いまで自分を思ッてくれることが書いてあッて、必ずお前を迎えるようにするからと、いつもの平田の書振りそのままの文字が一字一字読み下されるように見えて来る。かと思うと、自分はいつか岡山へ行ッていて、思ッたよりも市中が繁華で、平田の家も門構えの立派な家で、自分のかねて思ッていたような間取りで、庭もあれば二階もあり蔵もある。家君(おとッ)さんは平田に似て、それで柔和で、どこか気抜けがしているようにも見え、自分を見てどこから来たかと言いたそうな顔をしていて、平田から仔細(しさい)を聞いて、急に喜び出して大層自分を可愛がッてくれる。弟(おとと)も妹(いもと)も平田から聞いていた年ごろで、顔つき格向(かっこう)もかねて想像していた通りで、二人ともいかにも可愛らしい。妹の方が少し意地悪ではないかと思ッていたことまでそのままで、これが少し気に喰わないけれども、姉さん姉さんと慕ッてくれて、東京風に髪を結ッてくれろなどと言うところは、またなかなか愛くるしくも思われる。かねて平田に写真を見せてもらッて、その顔を知ッている死去(なくな)ッたお母(ッか)さんも時々顔を出す。これがまた優しくしてくれて、お母さんがいたなら、お前を故郷(くに)へ連れて行くと、どんなに可愛がって下さるだろうと、平田の寝物語に聞いていた通り可愛がッてくれるかと思うと、平田の許嫁(いいなずけ)の娘というのが働いていて、その顔はかねて仲の悪い楼内(うち)の花子という花魁そのままで、可愛らしいような憎らしいような、どうしても憎らしい女で、平田が故郷(くに)へ帰ッたのはこの娘と婚礼するためであッたことも知れて来た。やッぱりそうだッた、私しゃ欺(だま)されたのだと思うと、悲しい中にまた悲しくなッて涙が止らなくなッて来る。西宮さんがそんな虚言(うそ)を言う人ではないと思い返すと、小万と二人で自分をいろいろ慰めてくれて、小万と姉妹(きょうだい)の約束をして、小万が西宮の妻君になると自分もそこに同居して、平田が故郷(くに)の方の仕法(ほう)がついて出京したら、二夫婦揃ッて隣同士家を持ッて、いつまでも親類になッて、互いに力になり合おうと相談もしている。それも夢のように消えて、自分一人になると、自由(まま)にならぬ方の考えばかり起ッて来て、自分はどうしても此楼(ここ)に来年の四月まではいなければならぬか。平田さんに別れて、他に楽しみもなくッて、何で四月までこんな真似がしていられるものか。他の花魁のように、すぐ後に頼りになる人が出来そうなことはなし、頼みにするのは西宮さんと小万さんばかりだ。その小万さんは実に羨ましい。これからいつも見せられてばかりいるのか。なぜ平田さんがあんなことになッたんだろう。も一度平田さんが来てくれるようには出来ないのか。これから毎日毎日いやな思いばかりするのかと思いながら、善吉が自分の前に酒を飲んでいる、その一挙一動がことごとく眼に見えていて、これがその人であッたならと、覚えず溜息も吐(つ)かれるのである。
吉里は悲しくもあり、情なくもあり、口惜(くや)しくもあり、はかなくも思うのである。詰まるところは、頼りないのが第一で、どうしても平田を忘れることが出来ないのだ。
今日限りである、今朝が別れであると言ッた善吉の言葉は、吉里の心に妙にはかなく情なく感じて、何だか胸を圧(おさ)えられるようだ。
冷遇(ふッ)て冷遇て冷遇(ふり)抜いている客がすぐ前の楼(うち)へ登(あが)ッても、他の花魁に見立て替えをされても、冷遇(ふッ)ていれば結局(けッく)喜ぶべきであるのに、外聞の意地ばかりでなく、真心(しんしん)修羅(しゅら)を焚(もや)すのは遊女の常情(つね)である。吉里も善吉を冷遇(ふッ)てはいた。しかし、憎むべきところのない男である。善吉が吉里を慕う情の深かッただけ、平田という男のあッたためにうるさかッたのである。金に動く新造(しんぞ)のお熊が、善吉のために多少吉里の意に逆らッたのは、吉里をして心よりもなお強く善吉を冷遇(ふら)しめたのである。何だか知らぬけれども、いやでならなかッたのである。別離(わかれ)ということについて、吉里が深く人生の無常を感じた今、善吉の口からその言葉の繰り返されたのは、妙に胸を刺されるような心持がした。
吉里は善吉の盃を受け、しばらく考えていたが、やがて快く飲み乾し、「善さん、御返杯ですよ」と、善吉へ猪口を与え、「お酌をさせていただきましょうね」と、箪笥を放れて酌をした。
善吉は眼を丸くし、吉里を見つめたまま言葉も出でず、猪口を持つ手が戦(ふる)え出した。 

「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。
善吉はしばらく言うところを知らなかッた。
「吉里さん、献(あ)げるよ、献げるよ、私しゃこれでもうたくさんだ。もう思い残すこともないんだ」と、善吉は猪口を出す手が戦(ふる)えて、眼を含涙(うるま)している。
「どうなすッたんですよ。今日ッきりだとか、今日が別れだとか、そんないやなことをお言いなさらないで、末長く来て下さいよ。ね、善さん」
「え、何を言ッてるんだね。吉里さん、お前さん本気で……。ははははは。串戯(じょうだん)を言ッて、私をからかッたッて……」
「ほほほほ」と、吉里も淋(さみ)しく笑い、「今日ッきりだなんぞッて、そんなことをお言いなさらないで、これまで通り来ておくんなさいよ」
善吉は深く息を吐(つ)いて、涙をはらはらと零(こぼ)した。吉里はじッと善吉を見つめた。
「私しゃ今日ッきり来られないんだ。吉里さん、実に今日がお別れなんです」と、善吉は猪口を一息に飲み乾し、じッとうつむいて下唇を噛んだ。
「そんなことをお言いなさッて、本統なんですか。どッか遠方(とおく)へでもおいでなさるんですか」
「なアに、遠方(とおく)へ行くんだか、どこへ行くんだか、私にも分らないんですがね……」と、またじッと考えている。
「何ですよ。なぜそんな心細いことをお言いなさるんですよ」と、吉里の声もやや沈んで来た。
「心細いと言やア吉里さん」と、善吉は鼻を啜(すす)ッて、「私しゃもう東京にもいられなければ、どこにもいられなくなッたんです。私も美濃屋善吉――富沢町で美濃善と言ッちゃア、ちッたア人にも知られた店ももッていたんだが……。お熊どんは二三度来てくれたこともあッたから知ッていよう、三四人の奉公人も使ッていたんだが、わずか一年|過(た)つか過たない内に――花魁のところに来初めてからちょうど一年ぐらいになるだろうね――店は失(な)くなすし、家は他人(ひと)の物になッてしまうし、はははは、私しゃ宿なしになッちまッたんだ」
「えッ」と、吉里はびッくりしたが、「ほほほほ、戯言(じょうだん)お言いなさんな。そんなことがあるもんですか」
「戯言だ。私も戯言にしたいんだ」
善吉の様子に戯言らしいところはなく、眼には涙を一杯もッて、膝をつかんだ拳(こぶし)は顫えている。
「善さん、本統なんですか」
「私が意気地なしだから……」と、善吉はその上を言い得ないで、頬が顫えて、上唇もなお顫えていた。
冷遇(ふり)ながら産を破らせ家をも失わしめたかと思うと、吉里は空恐ろしくなッて、全身(みうち)の血が冷え渡ッたようで、しかも動悸(どうき)のみ高くしている。
「お神さんはどうなすッたんです」と、ややあって問(たず)ねた吉里の声も顫えた。
「嚊(かかア)かね」と、善吉はしばらく黙して、「宿なしになッちあア、夫婦揃ッて乞食(こじき)にもなれないから、生家(さと)へ返してしまッたんだがね……。ははははは」と、善吉は笑いながら涙を拭いた。
「まアお可哀そうに」と、吉里もうつむいて歎息(たんそく)する。
「だがね、吉里さん、私しゃもうこれでいいんだ。お前さんとこうして――今朝こうして酌をしてもらッて、快(い)い心持に酔ッて去(かえ)りゃ、もう未練は残らない。昨夜(ゆうべ)の様子じゃ、顔も見せちゃアもらえまいと思ッて、お前さんに目ッかッたら怒られたかも知れないが、よそながらでも、せめては顔だけでもと思ッて、小万さんの座敷も覗(のぞ)きに行ッた。平田さんとかいう人を送り出しにおいでの時も、私しゃ覗いていたんだ。もう今日ッきり来られないのだから、お前さんの優しい言葉の一語(ひとつ)も……。今朝こうしてお前さんと酒を飲むことが出来ようとは思わなかッたんだから……。吉里さん、私しゃ今朝のように嬉しいことはない。私しゃ花魁買いということを知ッたのは、お前さんとこが始めてなんだ。私しは他の楼(うち)の味は知らない。遊び納めもまたお前さんのとこなんだ。その間(うち)にはいろいろなことを考えたこともあッた、馬鹿なことを考えたこともあッた、いろいろなことを思ッたこともあッたが、もう今――明日はどうなるんだか自分の身の置場にも迷ッてる今になッて、今朝になッて……。吉里さん、私しゃ何とも言えない心持になッて来た」と、善吉は話すうちにたえず涙を拭いて、打ち出した心には何の見得もないらしかッた。
吉里は平田と善吉のことが、別々に考えられたり、混和(いりまじ)ッて考えられたりする。もう平田に会えないと考えると心細さはひとしおである。平田がよんどころない事情とは言いながら、何とか自分をしてくれる気があッたら、何とかしてくれることが出来たりそうなものとも考える傍から、善吉の今の境界(きょうがい)が、いかにも哀れに気の毒に考えられる。それも自分ゆえであると、善吉の真情(まごころ)が恐ろしいほど身に染(し)む傍から、平田が恋しくて恋しくてたまらなくなッて来る。善吉も今日ッきり来ないものであると聞いては、これほど実情(じつ)のある人を、何であんなに冷遇(わる)くしたろう、実に悪いことをしたと、大罪を犯したような気がする。善吉の女房の可哀そうなのが身につまされて、平田に捨てられた自分のはかなさもまたひとしおになッて来る。それで、たまらなく平田が恋しくなッて、善吉が気の毒になッて、心細くなッて、自分がはかなまれて沈んで行くように頭がしんとなって、耳には善吉の言葉が一々よく聞え、善吉の泣いているのもよく見え、たまらなく悲しくなッて来て、ついに泣き出さずにはいられなかッた。
顔に袖を当てて泣く吉里を見ている善吉は夢現(ゆめうつつ)の界(さかい)もわからなくなり、茫然として涙はかえッて出なくなッた。
「善さん、勘忍して下さいよ。実に済みませんでした」と、吉里はようやく顔を上げて、涙の目に善吉を見つめた。
善吉は吉里からこの語(ことば)を聞こうとは思いがけぬので、返辞もし得ないで、ただ見つめているのみである。
「それでね、善さん、お前さんどうなさるんですよ」と、吉里は気遣わしげに問(たず)ねた。
「どうッて。私しゃどうともまだ決心(きめ)ていないんです。横浜の親類へ行ッて世話になッて、どんなに身を落しても、も一度美濃善の暖簾(のれん)を揚げたいと思ッてるんだが、親類と言ッたッて、世話してくれるものか、くれないものか、それもわからないのだから、横浜(はま)へ進んで行く気もしないんで……」と、善吉はしばらく考え、「どうなるんだか、自分ながらわからないんだから……」と、青い顔をして、ぶるッと戦慄(ふるえ)て、吉里に酒を注いでもらい、続けて三杯まで飲んだ。
吉里はじッと考えている。
「吉里さん、頼みがあるんですが」と、善吉は懐裡(ふところ)の紙入れを火鉢の縁に置き、「お前さんに笑われるかも知れないが、私しゃね、何だか去(かえ)るのが否(いや)になッたから、今日は夕刻(ゆうかた)まで遊ばせておいて下さいな。紙入れに五円ばかり入ッている。それが私しの今の身性(しんしょう)残らずなんだ。昨夜(ゆうべ)の勘定を済まして、今日一日遊ばれるかしら。遊ばれるだけにして、どうか置いて下さい。一文も残らないでもいい。今晩どッかへ泊るのに、三十銭か四十銭も残れば結構だが……。何、残らないでもいい。ねえ、吉里さん、そうしといて下さいな」と、善吉は顔を少し赧(あか)めながらしかも思い入ッた体(てい)である。
「よござんすよ」と、吉里は軽(かろ)く受けて、「遊んでいて下さいよ。勘定なんか心配しないで、今晩も遊んでいて下さいよ。これはよござんすよ」と、善吉の紙入れを押し戻した。
「それはいけない。それはいけない。どうか預かッておいて下さい」
吉里はじッと善吉を見ている。その眼は物を言うかのごとく見えた。善吉は紙入れに手を掛けながら、自分でもわからないような気がしている。
「善さん、私しに委(まか)せておおきなさい、悪いようにゃしませんよ。よござんすからね、そのお金はお前さんの小遣いにしておおきなさい。多寡が私しなんぞのことですから、お前さんの相談相手にはなれますまいが、出来るだけのことはきッとしますよ。よござんすか。気を落さないようにして下さいよ。またお前さんの小遣いぐらいは、どうにでもなりますからね、気を落さないように、よござんすか」
善吉は何で吉里がこんなことを言ッてくれるのかわからぬ。わからぬながら嬉しくてたまらぬ。嬉しい中に危ぶまれるような気がして、虚情(うそ)か実情(まこと)か虚実の界(さかい)に迷いながら吉里の顔を見ると、どう見ても以前の吉里に見えぬ。眼の中に実情(まごころ)が見えるようで、どうしても虚情(うそ)とは思われぬ。小遣いにせよと言われたその紙入れを握ッている自分の手は、虚情(うそ)でない証拠をつかんでいるのだ。どうしてこんなことになッたのか。と、わからないながらに嬉しくてたまらず、いつか明日(あした)のわが身も忘れてしまッていた。
「善さん、私もね、本統に頼りがないんですから」と、吉里ははらはらと涙を零(こぼ)して、「これから頼りになッておくんなさいよ」と、善吉を見つめた時、平田のことがいろいろな方から電光のごとく心に閃(ひら)めいた。吉里は全身(みうち)がぶるッと顫えて、自分にもわからないような気がした。
善吉はただ夢の中をたどッている。ただ吉里の顔を見つめているのみであッたが、やがて涙は頬を流れて、それを拭く心もつかないでいた。
「吉里さん」と、廊下から声をかけたのは小万である。
「小万さん、まアお入りな」
「どなたかおいでなさるんじゃアないかね」と、小万は障子を開けて、「おや、善さん。お楽しみですね」
小万の言葉は吉里にも善吉にも意味あるらしく聞えた。それは迎えて意味あるものとして聞いたので、吉里は何も言いたくないような心持がした。善吉は言う術(すべ)を失ッて黙ッていた。
二人とも返辞をしないのを、小万も妙に感じたので、これも無言。三人とも何となくきまりが悪く、白(しら)け渡ッた。
「小万さん、小万さん」と、遠くから呼んだ者がある。
見ると向う廊下の東雲(しののめ)の室の障子が開いていて、中から手招ぎする者がある。それは東雲の客の吉(きッ)さんというので、小万も一座があッて、戯言(じょうだん)をも言い合うほどの知合いである。
「吉里さん、後刻(のち)に遊びにおいでよ」と、小万は言い捨てて障子をしめて、東雲の座敷へ急いで行ッてしまった。
その日の夜になッても善吉は帰らなかッた。
夜の十一時ごろに西宮が来た。吉里は小万の室へ行き、平田が今夜の八時三十分の汽車で出発(しゅッたつ)したことを聞いて、また西宮が持て余すほど泣いた。西宮が自分一人面白そうに遊んでもいられないと、止めるのを振り切ッて、一時ごろ帰ッた時まで傍にいて、愚痴の限りを尽した。
善吉は次の日も流連(いつづけ)をした。その次の日も去(かえ)らず、四日目の朝ようやく去(かえ)ッた。それは吉里が止めておいたので、平田が別離(わかれ)に残しておいた十円の金は、善吉のために残りなく費(つか)い尽し、その上一二枚の衣服(きもの)までお熊の目を忍んで典(あず)けたのであッた。
それから後、多くは吉里が呼んで、三日にあげず善吉は来ていた。十二月の十日ごろまでは来たが、その後は登楼(あがる)ことがなくなり、時々|耄碌頭巾(もうろくずきん)を冠(かぶ)ッて忍んで店まで逢いに来るようになッた。田甫(たんぼ)に向いている吉里の室の窓の下に、鉄漿溝(おはぐろどぶ)を隔てて善吉が立ッているのを見かけた者もあッた。 

午時(ひる)過ぎて二三時、昨夜(ゆうべ)の垢(あか)を流浄(おとし)て、今夜の玉と磨(みが)くべき湯の時刻にもなッた。
おのおの思い思いのめかし道具を持参して、早や流しには三五人の裸美人(らびじん)が陣取ッていた。
浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別世界相応の話柄(はなし)の種も尽きぬものか、朋輩(ほうばい)の悪評(わるくち)が手始めで、内所の後評(かげぐち)、廓内(くるわ)の評判、検査場で見た他楼(よそ)の花魁の美醜(よしあし)、検査医の男振りまで評し尽して、後連(あとれん)とさし代われば、さし代ッたなりに同じ話柄(はなし)の種類の異(かわ)ッたのが、後からも後からも出て来て、未来|永劫(えいごう)尽きる期がないらしく見えた。
「いよいよ明日が煤払(すすは)きだッてね。お正月と言ッたッて、もう十日ッきゃアないのに、どうしたらいいんだか、本統に困ッちまうよ」
「どうせ、もうしようがありゃアしないよ。頼まれるような客は来てくれないしさ、どうなるものかね。その時ゃその時で、どうかこうか追ッつけとくのさ」
「追ッつけられりゃ、誰だッて追ッつけたいのさ。私なんざそれが出来ないんだから、実に苦労でしようがないよ。お正月なんざ、本統に来なくッてもいいもんだね」
「千鳥さんはそんなことを言ッたッて、蠣殻町(こめやまち)のあの人がどうでもしておくれだから、何も心配しなくッてもいいじゃアないかね」
「どうしてどうして、そんなわけに行くものかね。大風呂敷ばッかし広げていて、まさかの時になると、いつでも逃げ出して二月ぐらい寄りつきもしないよ。あんなやつアありゃしないよ」
「私しなんか、三カ日のうちにお客の的(あて)がまだ一人もないんだもの、本統にくさくさしッちまうよ」
「二日の日だけでもいいんだけれど、三日でなくッちゃア来られないと言うしさ。それもまだ本統に極まらないんだよ」
「小万さんは三日とも西宮さんで、七草も西宮さんで、十五日もそうだっさ。あんなお客が一人ありゃア暮の心配もいりゃアしないし、小万さんは実に羨ましいよ」
「西宮さんと言やア、あの人とよく一しょに来た平田さんは、好男子(いいおとこ)だッたッけね」
「名山さん、お前|岡惚(おかぼ)れしておいでだッたね」
「虚言(うそ)ばッかし。ありゃ初緑さんだよ」
「吉里さんは死ぬほど惚れていたんだね」
「そうだろうさ。あの善さんたア比較物(くらべもの)にもなりゃしないもの」
「どうして善さんを吉里さんは情夫(いいひと)にしたんだろうね。最初は、気の毒になるほど冷遇(いやが)ッてたじゃアないかね」
「それがよくなったんだろうさ」
「吉里さんは浮気だもの」
「だッて、浮気で惚れられるような善さんでもないよ」
「そんなことはどうでもよいけれども、吉里さんのような人はないよ。今晩返すからとお言いだから、先月の、そうさ、二十七日の日にお金を二円貸したんだよ。いまだに返金(かえさ)ないんだもの。あんな義理を知らない人ッちゃアありゃアしないよ」
「千鳥さん、お前もお貸しかい。私もね、白縮緬の帯とね、お金を五十銭借りられて、やッぱしそれッきりさ。帯がないから、店を張るのに、どんなに外見(きまり)が悪いだろう。返す返すッて、もう十五日からになるよ」
「名山さん、私しのなんかもひどいじゃアないかね。お客から預かッていた指環を借りられたんだよ。明日の朝までとお言いだから貸してやッたら、それッきり返さないのさ。お客からは責められるし、吉里さんは返してくれないし、私しゃこんなに困ッたことはないよ。今朝催促したら、明日まで待ッてくれろッてお言いだから、待ッてやることは待ッてやったけれども、吉里さんのことだから怪しいもんさ」
「二階の花魁で、借りられない者はあるまいよ。三階で五人、階下(した)にも三人あるよ。先日(こないだ)出勤した八千代さんからまで借りてるんだもの。あんな小供のような者まで欺(だま)すとは、あんまりじゃアないかね」
「だから、だんだん交際人(つきあいて)がなくなるんさ。平田さんが来る時分には、あんなに仲よくしていた小万さんでさえ、もうとうから交際(つきあわ)ないんだよ」
「あんな義理を知らない人と、誰が交際(つきあ)うものかね。私なんか今怒ッちゃア損だから、我慢して口を利いてるんさ。もうじきお正月だのに、いつ返してくれるんだろう」
「本統だね。明日指環を返さなきゃ、承知しやアしない」
「煤払(すすはら)いの時、衆人(みんな)の前で面(つら)の皮を引(ひ)ん剥(む)いておやりよ」
「それくらいなことをしたッて平気だろうよ。あんな義理知らずはありゃアしないよ」
名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。

吉里は用事をつけてここ十日ばかり店を退(ひ)いているのである。病気ではないが、頬に痩(や)せが見えるのに、化粧(みじまい)をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白(あおざめ)ている。髪も櫛巻(くしま)きにして巾(きれ)も掛けずにいる。年も二歳(ふたつ)ばかり急に老(ふ)けたように見える。
火鉢の縁に臂(ひじ)をもたせて、両手で頭を押えてうつむいている吉里の前に、新造(しんぞ)のお熊が煙管(きせる)を杖(つえ)にしてじろじろと見ている。
行燈は前の障子が開けてあり、丁字(ちょうじ)を結んで油煙が黒く発(た)ッている。蓋(ふた)を開けた硯箱(すずりばこ)の傍には、端を引き裂いた半切(はんきれ)が転がり、手箪笥の抽匣(ひきだし)を二段斜めに重ねて、唐紙の隅(すみ)のところへ押しつけてある。
お熊が何か言おうとした矢先、階下(した)でお熊を呼ぶ声が聞えた。お熊は返辞をして立とうとして、またちょいと蹲踞(しゃが)んだ。
「ねえ、よござんすか。今晩からでも店にお出なさいよ。店にさえおいなさりゃ、御内所(ごないしょ)のお神さんもお前さんを贔屓(ひいき)にしておいでなさるんだから、また何とでも談話(はなし)がつくじゃアありませんか。ね、よござんすか。あれ、また呼んでるよ。よござんすか、花魁。もう今じゃ来なさらないけれども、善さんなんぞも当分呼ばないことにして、ねえ花魁、よござんすか。ちょいと行ッて来ますからね、よく考えておいて下さいよ。今行くてえのにね、うるさく呼ぶじゃないか。よござんすか、花魁」
お熊は廊下へ出るとそのまま階下(した)へ駈け出して行った。
吉里はじッと考えて、幾たびとなく溜息を吐(つ)いた。
「もういやなこッた。この上苦労したッて――この上苦労するがものアありゃしない。私しゃ本統に済まないねえ。西宮さんにも済まない。小万さんにも済まない。ああ」
吉里は歎息しながら、袂(たもと)から皺(しわ)になッた手紙を出した。手紙とは言いながら五六行の走り書きで、末にかしくの止めも見えぬ。幾たびか読み返すうちに、眼が一杯の涙になッた。ついに思いきった様子で、宛名(あてな)は書かず、自分の本名のお里のさ印(じるし)とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。
廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣(ひきだし)を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包みを取り出した。中には平田の写真が入ッていた。重ね合わせてあッたのは吉里の写真である。
じッと見つめているうちに、平田の写真の上にはらはらと涙が落ちた。忙(あわ)てて紙で押えて涙を拭き取り、自分の写真と列(なら)べて見て、また泣いた上で元のように紙に包んで傍に置いた。
今|一個(ひとつ)の抽匣から取り出したのは、一束(ひとつか)ねずつ捻紙(こより)で絡(から)げた二束(ふたつ)の文(ふみ)である。これはことごとく平田から来たのばかりである、捻紙を解いて調べ初めて、その中から四五本|選(え)り出して、涙ながら読んで涙ながら巻き納めた。中には二度も三度も読み返した文もあッた。涙が赤い色のものであッたら、無数の朱点が打たれたらしく見えた。
この間も吉里はたえず耳を澄ましていたのである。今何を聞きつけたか、つと立ち上った。廊下の障子を開けて左右を見廻し、障子を閉めて上の間の窓の傍に立ち止ッて、また耳を澄ました。
上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手はいつか袂から結び文を出していた。 
十一
午前(あさ)の三時から始めた煤払いは、夜の明けないうちに内所をしまい、客の帰るころから娼妓(じょろう)の部屋部屋を払(はた)き始めて、午前(ひるまえ)の十一時には名代部屋を合わせて百|幾個(いくつ)の室(へや)に蜘蛛の網(す)一線(ひとすじ)剰(のこ)さず、廊下に雑巾まで掛けてしまった。
出入りの鳶(とび)の頭(かしら)を始め諸商人、女髪結い、使い屋の老物(じじい)まで、目録のほかに内所から酒肴(しゅこう)を与えて、この日一日は無礼講、見世から三階まで割れるような賑(にぎ)わいである。
娼妓(しょうぎ)もまた気の隔(お)けない馴染みのほかは客を断り、思い思いに酒宴を開く。お職女郎の室は無論であるが、顔の古い幅の利く女郎の室には、四五人ずつ仲のよい同士が集(よ)ッて、下戸上戸飲んだり食ッたりしている。
小万はお職ではあり、顔も古ければ幅も利く。内所の遣(つか)い物に持寄りの台の数々、十畳の上の間から六畳の次の間までほとんど一杯になッていた。
鳶の頭と店の者とが八九人、今|祝(し)めて出て行ッたばかりのところで、小万を始め此糸(このいと)初紫(はつむらさき)初緑名山千鳥などいずれも七八分の酔(え)いを催し、新造(しんぞ)のお梅まで人と汁粉(しるこ)とに酔ッて、頬から耳朶(みみたぶ)を真赤にしていた。
次の間にいたお梅が、「あれ危ない。吉里さんの花魁、危のうござんすよ」と、頓興(とんきょ)な声を上げたので、一同その方を見返ると、吉里が足元も定まらないまで酔ッて入ッて来た。
吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被(はお)ッて、赤味走ッたがす糸織に繻子(しゅす)の半襟を掛けた綿入れに、緋(ひ)の唐縮緬(とうちりめん)の新らしからぬ長襦袢(ながじゅばん)を重ね、山の入ッた紺博多(こんはかた)の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳(いつつむッつ)も老(ふ)けていたら、花魁の古手の新造落(しんぞお)ちという風俗である。
呆(あき)れ顔をしてじッと見ていた小万の前に、吉里は倒れるように坐ッた。
吉里は蒼い顔をして、そのくせ目を坐(す)えて、にッこりと小万へ笑いかけた。
「小万さん。私しゃね、大変|御無沙汰(ごぶさた)しッちまッて、済まない、済まない、ほんーとうに済まないんだねえ。済まないんだよ、済まないんだよ、知ッてて済まないんだからね。小万さん、先日(いつか)ッからそう思ッてたんだがね、もういい、もういい、そんなことを言ッたッて、ねえ小万さん、お前さんに笑われるばかしなんだよ。笑う奴ア笑うがいい。いくらでもお笑い。さアお笑い。笑ッておくれ。誰が笑ッたッて、笑ッたッていい。笑ッたッていいよ。察しておくれのは、小万さんばかりだわね。察しておいでだろう。察しておいでだとも。本統に察しがいいんだもの。ほほほほほ。おや、名山さん。千鳥さんもおいでだね。初緑さん。初紫さん。此糸さんや、おくれなその盃を。私しゃお酒がうまくッて、うまくッて、うまくッて、本統にうまいの。早くおくれよ。早く、早く、早くさ」
吉里はにやにや笑ッていて、それで笑いきれないようで、目を坐(す)えて、体をふらふらさせて、口から涎(よだれ)を垂(た)らしそうにして、手の甲でたびたび口を拭いている。
「此糸さん、早くおくれッたらよ、盃の一つや半分、私しにくれたッて、何でもありゃアしなかろうよ」
「吉里さん」と、小万は呼びかけ、「お前さんは大層お酒が上ッたようだね」
「上ッたか、下ッたか、何だか、ちッとも、知らないけれども、平右衛門(へいえもん)の台辞(せりふ)じゃアないが、酒でもちッと進(めえ)らずば……。ほほ、ほほ、ほほほほほほほ」
「飲めるのなら、いくらだッて飲んでおくれよ。久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んでおくれ、身体(からだ)にさえ触(さわ)らなきゃ。さア私しがお酌をするよ」
吉里はうつむいて、しばらくは何とも言わなかッた。
「小万さん、私しゃ忘れやアしないよ」と、吉里はしみじみと言ッた。「平田さん……。ね、あの平田さんさ。平田さんが明日|故郷(くに)へ行くッて、その前の晩に兄(にい)、に、に、西宮さんが平田さんを連れて来て下さッたことが……。小万さん、よく私に覚えていられるじゃアないかね。忘れられないだけが不思議なもんさね。ちょうどこの座敷だッたよ、お前さんのこの座敷だッたよ。この座敷さ、あの時ゃ。私が疳癪(かんしゃく)を起して、湯呑みで酒を飲もうとしたら、毒になるから、毒になるからと言ッて、お前さんが止めておくれだッたッけねえ。私しゃ忘れやアしないよ」と、声は沈んで、頭(つむり)はだんだん下ッて来た。
「あの時のお酒が、なぜ毒にならなかッたのかねえ」と、吉里の声はいよいよ沈んで来たが、にわかにおかしそうに笑い出した。「ほほ、ほほほほほ。お酒が毒になッて、お溜(たま)り小法師(こぼし)があるもんか。ねえ此糸さん。じゃア小万さん、久しぶりでお前さんのお酌で……」
吉里は小万に酌をさせて、一息に呑むことは飲んだが、酒が口一杯になッたのを、耐忍(がまん)してやッと飲み込んだ。
「ねえ、小万さん。あの時のお酒が毒になるなら、このお酒だッて毒になるかも知れないよ。なアに、毒になるなら毒になるがいいんさ。死んじまやアそれッきりじゃアないか。名山さんと千鳥さんがあんないやな顔をしておいでだよ。大丈夫だよ、安心してえておくんなさいましだ。死んで花実が咲こかいな、苦しむも恋だって。本統にうまいことを言ッたもんさね。だもの、誰がすき好んで、死ぬ馬鹿があるもんかね。名山さん、千鳥さん、お前さんなんぞに借りてる物なんか、ふんで死ぬような吉里じゃアないからね、安心してえておくんなさいよ。死ねば頓死(とんし)さ。そうなりゃ香奠(こうでん)になるんだね。ほほほほほ。香奠なら生きてるうちのことさ。此糸さん、初紫さん、香奠なら今のうちにおくんなさいよ。ほほ、ほほほほ」
「あ、忘れていたよ。東雲(しののめ)さんとこへちょいと行くんだッけ」と、初緑が坐を立ちながら、「吉里さん、お先きに。花魁、また後で来ますよ」と、早くも小万の室を出た。此糸も立ち、初紫も立ち、千鳥も名山も出て行ッて、ついに小万と吉里と二人になッた。次の間にはお梅が火鉢に炭を加(つ)いている。
「小万さん、西宮さんは今日はおいでなさらないの」と、吉里の調子はにわかに変ッて、仔細があるらしく問い掛けた。
「ああ、来ないんだよ。二三日|脱(はず)されない用があるんだとか言ッていたんだからね。明後日(あさッて)あたりでなくッちゃア、来ないんだろうと思うよ。先日(こないだ)お前さんのことをね、久しく逢わないが、吉里さんはどうしておいでだッて。あの人も苦労性だから、やッぱし気になると見えるよ」
「そう。西宮さんには私しゃ実に顔が合わされないよ。だがね、今日は急に西宮さんに逢いたくなッてね……。二三日おいでなさらないんじゃア……。今度おいでなさッたらね、私がこう言ッてたッて、後生だから話しておいておくんなさいよ」
「ああ、今度来なすッたら、知らせて上げるから、遊びにおいでよ」
吉里はしばらく考えていた。そして、手酌で二三杯飲んで、またしばらく考えていた。
「小万さん、平田さんの音信(たより)は、西宮さんへもないんだろうかね」と、吉里の声は存外平気らしく聞えた。
「ああ、あれッきり手紙一本来ないそうだよ。西宮さんが出した手紙の返事も来ないそうだよ。だがね、人の行末というものは、実に予知(わか)らないものだねえ」と、小万がじッと吉里を見つめた眼には、少しは冷笑を含んでいるようであッた。
「まアそんなもんさねえ」と、吉里は軽(かろ)く受け、「小万さん、私しゃお前さんに頼みたいことがあるんだよ」
「頼みたいことッて」
吉里は懐中(ふところ)から手紙を十四五本包んだ紙包みを取り出し、それを小万の前に置いた。
「この手紙なんだがね。平田さんから私んとこへ来た手紙の中で、反故(ほご)にしちゃ、あんまり義理が悪いと思うのだけ、昨夜(ゆうべ)調べて別にしておいたんだよ。もうしまっておいたって仕様がないし、残しときゃ手拭紙(てふきがみ)にでもするんだが、それもあんまり義理が悪いようだし、お前さんに預けておくから、西宮さんに頼んで、ついでの時平田さんへ届けてもらっておくんなさいよ。ねえ小万さん、お頼み申しますよ」
小万は顔色を変え、「吉里さん、お前さん本気でお言いなのかえ」
「西宮さんへ話して、平田さんへ届けるようにしておくんなさいよ」と、吉里は同じことを繰り返した。
「吉里さん、どうしてそんな気になッたんだよ。そんなに薄情な人とは、私しゃ今まで知らなかッたよ。まさかに手拭紙にもされないからとは、あんまり薄情過ぎるじゃないかね。平田さんをそんなに忘れておしまいでは、あんまり義理が悪るかろうよ」
「だッて、もう逢えないと定(き)まッてる人のことを思ッたッて……」と、吉里はうつむいた。
「私しゃ実に呆れたよ。こんな稼業(かぎょう)をしてるんだから、いつまでも――一生その人に情(じょう)を立ッて、一人でいることは出来ないけれども、平田さんを善さんと一しょにおしでは、お前さん済むまいよ。善さんがどんなに可愛いか知らないが、平田さんを忘れちゃ、あんまり薄情だね」
「私しゃ善さんが可愛いんさ。平田さんよりいくら可愛いか知れないんだよ。平田さんのことを……、まアさほどにも思わないのは、私しゃよッぽど薄情なんだろうさ」と、吉里はうつむいてじッと襟(えり)を噛んだ。
「本統に呆(あき)れた人だよ。いいとも、お前さんの勝手におし。お前さんが善さんと今のようにおなりのも、決して悪いとは思ッていなかッたんだが、今日という今日、薄情なことを知ッたから、もうお前さんとは口も利かないよ。さア、早く帰ッておくれ。本統に呆れた人だよ」
吉里は悄然(しょうぜん)として立ち上ッた。
「きッと平田さんへ届けておくんなさいよ」
小万は返辞をしなかッた。
次の間へ出た吉里はまた立ち戻ッて、「小万さん、頼みますよ。西宮さんへもよろしくねえ」
小万はまた返辞をしなかった。
吉里はお梅を見て、「お梅どん、平田さんの時分にはいろいろお世話になッたッけね。西宮さんがおいでなさッたら、吉里がよろしく申しましたと言ッておくれよ。お梅どん、頼みますよ」
お梅はうつむいて、これも返辞をしなかッた。
吉里は上の間の小万をじッと見て、やがて室を出て行ッたかと思うと、隣の尾車(おぐるま)という花魁の座敷の前で、大きな声で大口を利くのが、いかにも大酔しているらしく聞えた。
その日も暮れて見世を張る時刻になッた。小万はすでに裲襠(しかけ)を着、鏡台へ対(むか)って身繕いしているところへ、お梅があわただしく駈けて来て、
「花魁、大変ですよ。吉里さんがおいでなさらないんですッて」
「えッ、吉里さんが」
「御内所じゃ大騒ぎですよ。裏の撥橋(はねばし)が下りてて、裏口が開けてあッたんですッて」
「え、そうかねえ。まア」
小万は驚きながらふッと気がつき、先刻(さきほど)吉里が置いて行ッた手紙の紙包みを、まだしまわず床の間に上げておいたのを、包みを開け捻紙(こより)を解いて見ると、手紙と手紙との間から紙に包んだ写真が出た。その包み紙に字が書いてあった。もしやと披(ひろ)げて読み下して、小万は驚いて蒼白(まッさお)になッた。
一筆書き残しまいらせ候(そろ)。よんどころなく覚悟を極(きわ)め申し候。不便(ふびん)と御推(ごすい)もじ願い上げまいらせ候。平田さんに済み申さず候。西宮さんにも済み申さず候。お前さまにも済みませぬ。されど私こと誠の心は写真にて御推もじ下されたくくれぐれもねんじ上げまいらせ候。平田さんにも西宮さんにも今一度御目にかかりたく、これのみ心残りにおわし候。いずかたさまへも、お前さまよりよろしくお伝え下されたく候。取り急ぎ何も何も申し残しまいらせ候。
さとより   おまん様   人々
写真を見ると、平田と吉里のを表と表と合わせて、裏には心という字を大きく書き、捻紙(こより)にて十文字に絡(から)げてあッた。
小万は涙ながら写真と遺書(かきおき)とを持ったまま、同じ二階の吉里の室へ走ッて行ッて見たが、もとより吉里のおろうはずがなく、お熊を始め書記の男と他に二人ばかりで騒いでいた。
小万は上の間へ行ッて窓から覗(のぞ)いたが、太郎稲荷、入谷|金杉(かなすぎ)あたりの人家の燈火(ともしび)が散見(ちらつ)き、遠く上野の電気燈が鬼火(ひとだま)のように見えているばかりだ。
次の日の午時(ひる)ごろ、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りのある露路(ろじ)の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱ぎ捨ててあり、同じ露路の隅田河の岸には、娼妓(じょろう)の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱ぎ捨ててあッたことが知れた。
けれども、死骸(しがい)はたやすく見当らなかッた。翌年の一月末、永代橋(えいたいばし)の上流(かみ)に女の死骸が流れ着いたとある新聞紙の記事に、お熊が念のために見定めに行くと、顔は腐爛(くさ)ってそれぞとは決められないが、着物はまさしく吉里が着て出た物に相違なかッた。お熊は泣く泣く箕輪(みのわ)の無縁寺に葬むり、小万はお梅をやっては、七日七日の香華(こうげ)を手向(たむ)けさせた。 
 
広津柳浪

 

(ひろつりゅうろう、1861-1928) 日本の小説家。肥前国生まれ、本名直人、別号に蒼々園。硯友社同人となり、「残菊」で認められる。「変目伝」「今戸心中」「黒蜥蜴」などの低階級社会の暗部を描いた作品で、悲惨小説、深刻小説と称された。小説家の広津和郎は子。肥前国長崎材木町に、「富津南嶺」と名乗って開業していた久留米藩士・医師広津俊蔵(のち弘信に改名、外交官となる)、りう(柳子)の次男として生れた。幼名は金次郎。少年時より漢籍を学び、軍記物、読本などに熱中した。
9歳の時に、狼藉を犯して父から切腹を命じられたが、伯母サワが嫁いでいた肥前国田代在酒井村(現・佐賀県鳥栖市)の磯野に取りなされて磯野家に預けられ、姫方村の塾で漢学などを学んだ。2年後久留米を経て長崎に帰り、1873年(明治6年)に長崎市向明学校に入学。翌年一家が東京麹町に移ったため、番町小学校に入り、好成績で卒業。外国語学校でドイツ語を学び、東大医学部予備門に入った。だが1878年(明治11年)、肺尖カタルを病み、そのまま退学する。この年の春、父の友人五代友厚にさそわれて大阪へ行き、見習いとして五代家に居候することになった。結果、農商務省の官吏となったが、それよりも『南総里見八犬伝』『水滸伝』などを読み、文学へ興味を示し、役人になる気が無く免職になる。1883年に父母が亡くなり、没落、放浪する。
1887年(明治20年)、友人の画家・山内愚仙の勧めで処女作「女子参政蜃中楼」を、柳浪子と号して『東京絵入新聞』に連載する。1888年、蒲池鎮厚の娘寿美子と結婚、博文館に入り尾崎紅葉を知ると、硯友社同人となり「残菊」で認められた。東京中新聞、都新聞、改進新聞などを転々とし、「おのが罪」などを発表。1891年(明治24年)には和郎が生れている。1895年頃から客観描写に力を入れ、「変目伝」を読売新聞に連載、「黒蜥蜴」(1895年)などで下層社会の悲惨な実態を描く独自の作風を築き、川上眉山や泉鏡花などの観念小説に対して、深刻小説、悲惨小説と呼ばれる[1]。さらに写実的な心理描写を強め、「今戸心中」(1896年)、「河内屋」(同)、「畜生腹」(1897年)などで評価を高め、樋口一葉と並ぶ評判を得る。
1898年に寿美子死去、同年永井荷風入門。1902年、高木武雄の娘潔子と再婚。1904年頃に若手を集めた同人誌「にひしお」を始め、自身も日露戦争で兵士を送る民衆を描いた「昇降場」を執筆。1908年長編「心の火」を『二六新報』に連載した後、創作活動は低調になり、1911年に創作活動は停止した。
1913年に家賃を滞納して霞町の借家から追い立てられ、麻布に移るが、この頃和郎の訳した『女の一生』が売れて、生活苦からは救われる。翌年結核で名古屋の兄のところで療養することになり、和郎に生活のために毎夕新聞への就職を世話する。1915年に和郎の紹介で、実業之日本社から作品集「柳浪傑作集」を出して生活費に充て、知多半島の師崎の病院に移る。翌年和郎が片瀬に移ると、夫妻でそこに同居。1928年、数年来の肺病の上に心臓麻痺のため死去した。 
広津柳浪「今戸心中」論 / 森本穫

広津柳浪の作家としての頂点が明治二十年代末から三十年(初頭の数年間にあったことは、誰しも異論のないところであろう。吉田精一氏の「その文学的経歴は長いが、最も意義のある活動はやはり明治二十八年から三十一、二年の間に見られる。ことに三十年は彼が人気の絶頂にあつた年で、原稿料の収入も文壇随一(二千五百円)だつたといはれてゐる」(『自然主義の研究』第一章「広津柳浪の深刻小説」)という総括は、今日なお動かし難い。
同時代評をひもといてみても、森鴎外、島村抱月、高山樗牛、田岡嶺雲、八面楼主人(宮崎湖処子)といった当代の代表的な評家が、それぞれの有力な雑誌で柳浪作品に言及し、相競って論評を加えている。その一作々々が世人の注目を集め、文壇を聳動したのであり、この期はまさに柳浪の時代であったといっても過言ではない。
明治二十九年七月『文芸倶楽部』に発表された「今戸心中」は、このような柳浪評価を決定的にした作であり、たとえば同年十二月の『早稲田文学』は、『今戸心中』に声価俄にあがり、続いて『信濃屋』『河内屋』などの佳作を出だし、批評家の視線を一身に集めたるが如きものは、昨今の柳浪子なり、として、諸新聞雑誌にあらわれた柳浪評を褒貶あわせて十一編再録しているほどである。
これらの評のなかでも特に注目すべきなのは、鴎外が柳浪作品に対して異常なほどの関心を寄せている点である。『めさまし草』(明二九・七)における幸田露伴、斎藤緑雨との「三人冗語」には次のような讃辞さえ見られる。
ひいき。兎にも角にも筋よく通りて、渋滞せざる書振なるはありがたし。近ごろの似よりたる作より言へば、泥水清水と此篇との差は、殆ど品川と芳原との差ありともいふべきか。
第二のひいき。さまざまの評も出でたれど、兎に角此篇を此一部の文芸倶楽部の圧巻として貰ひたし。善吉と吉里とを面白き機会にて鉢合せしめて、それより珍しき情死に至らしめしは、通がり殿の説の如く、まことに妙と申すべし。
硯友社の産んだ代表作のひとつ、江見水蔭「泥水清水」も、「今戸心中」の前には品川と芳原の差があると極言されているのである。もちろん「三人冗語」の常として、苦言を呈している部分もあるのだが、「今戸心中」に費している紙幅は樋口一葉の「たけくらべ」をもわずかながら上廻り、断然他の作品を引き離している。
近代文学の流れを注視し方向づける役割を自覚していた鴎外によるこのような関心の深さは、この作品の完成度にのみ与えられたとは思えない。この作のもつ近代性、より大きな文学へと成長する可能性を、鴎外らが嗅ぎとっていたと考えられるのである。しかしながら、現在、「今戸心中」を正面から本格的に考察した論考は皆無に近い状態である。柳浪自体、永井荷風を初め後代の多くの作家に強い影響を及ぼしていながら、特異な一作家として筆をとどめられるばかりで、研究史の上で取り残された現状である。はたして柳浪は文学史の波間に一瞬浮び上っただけの、忘れらるべき作家であるのだろうか。
「今戸心中」は自然主義以前の、真の近代性を欠いたあだ花に過ぎないのであろうか。
本稿は、「今戸心中」の実質に可能な限り接近し、併せて柳浪というひとりの作家の抱懐した文学世界のなかから、現代の文学につながる問題性、可能性を発掘しようとの意図をもつものである。そのための具体的な手だてとして、同時代評と、その後の若干の論考を踏まえつつ、作品に拠って私見を加えてゆく以外に方法はない。
さて、これまでの数少ない論考から、柳浪研究に二つの方向性が示唆されているように思われる。
そのひとつは、吉田精一氏の前掲の論文に代表される、近代文学確立までの一階梯としての柳浪の位置づけである。氏は、「彼の小説のレアリスム発展史上に於ける意義は、過渡期の近代社会に於ける半封建的な習俗、ことに家長権や家族制度の人間にあたへる拘束や、人情に背反する矛盾をとりあげ、それを、『悲惨』『深刻』なる小説として組みあげたことにある」とし、現実の悲惨な一面をむき出したことにおいて「写実の一進歩」と評価しつつも、「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」「彼は現実観察に鋭い眼をもちながら、それを批判的につかむ深さを欠き、結局平面的写実に終始した」として、作中人物の個性の欠如、作者の自覚の欠如を指摘し、要するに柳浪を、近代性をもつことのできなかった作家として位置づけている。
さらにこれに類するアプローチとして、『新著月刊』に連載した「作家苦心談」(のち、伊原青々園・後藤宙外編『唾玉集』〈明三九・九 春陽堂〉所収)などを手がかりとした、柳浪の写実論、言文一致体の考究も、有効な方法であろう。柳浪のそれは小杉天外ら、西欧作家の影響による文学論ではなく、創作家としての自身の体験から産みだされたものであることによって、近代文学史上より大きな意義を有するはずである。伊狩章氏の、硯友社文学発掘の一連の研究における柳浪評価も、もちろん忘れてはならない。
これらの、いわば文学史的な観点から柳浪の位置を測定する方法に対して、今ひとつ、作品それ自体を究明することによって柳浪その人の内面を掘り起し、そこに新しい意味を発見しようとする方法もある。藤森順三氏の「広津柳浪研究」(『明治作家研究』上 昭七・一一 木星社)がその先鞭をつけたもので、柳浪の悲惨小説を「柳浪の本質の所産」として、柳浪の孤独や潔癖といった性癖に因をもとめようとする行き方である。笠原伸夫氏の、「情念」(『美と悪の伝統』昭四四・九 桜楓社)として柳浪作品を捉えようとする方法や、久保田芳太郎氏の「作家の肖像 広津柳浪」(『解釈と鑑賞』昭四七・八)に見られる、柳浪作品の共通項として「愛欲と血と死」を挙げ、そこに「かれ自身の、暗さあるいは暗い愛欲への嗜好と指向」を見る論点である。もちろん、研究にはここに述べた両方の視点が必要なのであるが、わたしは主として後者の方法に拠りながら、「今戸心中」、さらには柳浪の実質に迫りたいと思う。

「今戸心中」の梗概を、今ここで詳しく紹介する必要はないだろう。吉原の娼妓吉里が馴染客平田の突然の帰郷で別れを余儀なくされ、悲嘆にくれる。そのとき初めて、自分に通いつめたために破産し、妻子とも別れた善吉という四十男の存在に気づき、情をかけ、ついには善吉と今戸橋から隅田河に身を投げるという物語である。
この作の評価が発表当時から現在まで一貫して高いことはすでに述べたが、それは特にどの点においてなのだろうか。
前記「三人冗語」では、「扨此小説の葛藤の中心ともいふべきは、平田に別れたる吉里の苦痛と、吉里に別れむとする善吉の苦痛と、端なくも相触れて、吉里の同感を惹き起す処に存ず。これはまことに面白き落想なり」(通がり)と記し、あるいは「六章より九章までは此篇の中にて最も主たるべきところならんが、特に八章は其中にも大切のところなるべし。されば作者も力瘤を入れられたるにや、冗漫の嫌は無きにあらずとおもはるゝながら、流石に読み行く中に少しく作者のため魅せらるゝ傾きさへ生ず」(老人)と述べている。すなわち、平田を想いつづげる吉里の心が善吉に傾く部分、換言すると吉里の心理描写に特色を認めているのである。
この見方は今日も変らず、たとえば花田チハヤ氏は「広津柳浪」(『学苑』一七七号 昭二九・一二、のち『近代文学研究叢書』第二九巻)において、この作の特色・長所として「吉里の心理描写に生彩のある点」を第一に挙げ、これに加えて「会話の描写のたくみさ」と「吉原の空気を如実に描き上げている点」を評価しているし、伊狩章氏もその『硯友社と自然主義研究』(昭五〇・一 桜楓社)所収の「広津柳浪の深刻小説と『今戸心中』」において、「題材・趣向ともにさしたるところのないこの小説が、今なお鑑賞に堪え、読者の心を動かすものがあるのは、女主人公吉里の心理描写の点にある」として吉里の心が平田と善吉との間を行き来するくだりを称揚し、「よくこなされた言文一致と、会話の的確な運び」の効果、さらには「年末の吉原の情景、枝楼のふんい気」の巧みさ、わき役の人物にも破綻のない点を指摘し、「当時の短篇小説としては、ほぼ完璧に近いものがある」と結んでいる。これらの評価、とりわけ吉里の心理の微妙な変化に「今戸心中」の真骨頂があるとする見方は、作者の意図が予期どおりの効果を作中で発揮していることを物語っている。柳浪は前掲の「作家苦心談」において次のように語っているのである。
『今戸心中』は殆ど事実を其の儘採ツたと云ツても宜しいので、女主人公吉里は名もその通りの色魁が吉原の中米楼に今より十二三年前にゐたのです。男の方は現に私の友人二ノ宮氏と昵懇の間柄で、某法律学校の生徒で随分の好男子であツた、是れに吉里は大変に愡れてゐたのです。然るに此の男の国元で、何か事情あツて、是非帰らねばならぬことになツた。二人の情交を知ツてゐる友人共は、今男が去れば、必ず女の方が無分別などするに違ひないと恐れたので、納得させて穏便に別かれさするやうにと、現に私の友人二ノ宮氏が其の間に斡旋の労を執ツて、帰国間際までも遭はせにやツたりして、其所を程よく別かれさせたのです。然るに吉里は以前ひどくふツてゐた古着屋某なるものと、彼の好男子と離別の後、二ケ月位の中に情死を遂げたのです。此の心の変動が誰れにも分からなかツたさうです。私は此の疑問に対して聊か解釈を試みたいと思ツたので、『今戸心中』をかいて見たのです。それで私の解釈では、自分が恋の絶望を経験して、古着屋が今まで恋の絶望の境界にゐた其苦しみを覚り、始めて激烈に同情を表した結果だらうと思ひました。約めて云へば、絶望と絶望との間に成立てる同情の果てが、心中となツたのか知らんと解釈をして見たのです。
柳浪は実際にあった事件に材を取り、当事者である女の「心の変動」の謎を解こうとして、ひとつの解釈を提出した。すなわち「絶望と絶望との間に成立てる同情の果て」が心中という結果を生んだとし、この解釈のもとに、女主人公吉里の心理変化を描出しようと苦心したのである。作者の想定した心理劇がそのとおりに読みとられたことにおいて、柳浪の会心の作といってもよいだろう。
しかしながら、「今戸心中」の成功は、はたしてその心理劇の成功にあるのだろうか。その心理劇の必ずしも完璧でないことは、すでに「三人冗語」において「風呂場にて衆口やかましく我が上を噂するをきゝたる吉里の心中は成程察するに余りはあれど、平田に別れ善吉にあひしより死に至るまでの間に、吉里の身を死の手に運ぶ車が、これ一つなるは物足らず」(わる口)と指摘されているように、吉里の死に至る心理の説明には、いささか納得しがたい部分も残されているのである。
にもかかわらず、この作の読後の印象は強烈であり、感銘も深く重い。それは何故なのだろうか。この作の実質は、作者の意図した吉里の「心の変動」にあるのではなく、もっと別のところに存するのではないだろうか。

この作品の主人公は吉里である。全十一章すべてに登場するし、第六章の前半を除けば作者はすべて吉里の挙措心理を中心に据えて描写を行っている。物語も、第一章から第五章までが吉里と平田の別離の次第を述べ、第六章で初めて、名代部屋で寒さにふるえていた善吉の内面が語られるが、それはこの章の終りでようやく吉里の座敷へ新造のお熊によって招じ入れられるまでの経緯としてであり、第七章は、同じ部屋にいながら善吉は全く無視されて吉里は依然平田のことばかり考えている。第八章で初めて善吉は吉里と対等に登場するが、以後ふたたび吉里を中心に物語は進み、善吉は単に、吉里のあやつり人形のようにその後をついてゆくに過ぎない。
善吉に関する記述も最少限にとどめられ、善吉は吉里の内面に何ら関与することなく、その死出の旅のお供をするに過ぎない。吉里が最後に小万に残した遺書でも、善吉は全くふれられることなく、今更ながら吉里の心を占めつづける平田の大きさばかりが読者に印象づけられるのである。吉里の「心の変動」が作品の中心テーマであることに疑いはない。
しかしながら、この作品が読者に感動を与えるのは、恋人に去られてどうでもよい男と死ななければならぬ吉里の哀れさなのだろうか。それならば「今戸心中」は、変った趣向をもつだけの、当時としてさほど珍しくなかった遊女の心中譚として、もはや文学史の波間に沈んだとしても不思議はなかった。発表当時よく比較された、「泥水清水」と同じ運命をたどったに相違ない。
実は「今戸心中」の価値を保証するのは、吉里にあるのではなく、徹頭徹尾作中で無視され、脇役でありつづける善吉の存在ではないだろうか。なるほど吉里の心理はよく描かれている。その哀れさも無惨な運命もよく読者に伝わる。後半の、吉里の思いがけない心理変化も、前半の丹念な描写によって、それなりの説得性をもっている。しかし「三人冗語」で「始より終まで泣くとかふさぐとか頻りに作者が涙寧ろ涙といふ字を振こぼすにも拘らず、何等の感じをもとどめざるは、もとより(注・近松門左衛門と)比ぶるが無理ながら、作者たるものゝ、一案じあるべき所なりと信ず」(小説通)と批判されても仕方がないような、常套の哀れさにとどまっているのである。
吉里の哀れさが初めて意味をもつのは、善吉の哀れさと重ね合されることによってなのであり、しかも吉里の哀れさは善吉のそれに遠く及ばないのである。「今戸心中」の名作たることを決定づけているのは、吉里の影に隠れて、脇役に終始する善吉の、あまりにも報われることのない残酷な運命なのである。
作者柳浪の自覚した意図はともあれ、作中で善吉は実に巧みに描かれている。第一章では、平田との別れが迫って荒れている吉里に対して、新造のお熊が『善さんだツてお客様ですよ』と、顔だけでも見せてくれと再三頼む。癇癪を起す吉里を朋輩の小万が慰める場面――。
『今晩もかい。能く来るぢやアないか。』と、小万は小声で云ッて眉を皺(よ)せた。『察してお呉れよ。』と、吉里は戦慄(みぶるひ)しながら火鉢の前に蹲踞んだ。
娼妓(おいらん)に嫌われながらも、せっせと、しつこく通いつめる厭なお客としでの善吉がまず軽く登場する。第二章では、この淡い印象が具体的なものとなってくる。小万と吉里の、それぞれの言葉――。
『余(あん)まり放擲(うつちや)ッといちやア不可いよ。善さんも気の毒な人さ。此様(こんな)に冷遇(され)ても厭な顔も為ないで、毎晩の様に来てお出でなんだから、怒らせない位にや為てお遺よ。』『本統に善さんにや気の毒だとは思ふけれど、顔を見るのも可厭(いや)なんだもの。信切な人ではあるし……。信切にされる程厭になるんだもの。』
ここで善吉は、厭な客といっても、その強引さによって嫌われるタイプの男ではなく、娼妓たちにさえ見くびられている、みじめな男として印象づけられる。
第三章と第四章は、平田の友人西宮に吉里が平田への思いと未練を訴える場面であるが、その座敷を覗き見ては名代部屋に逃げ帰る、どぶ鼠のような善吉が描かれる。みじめなうえに、弱者特有の不快さ、気味悪さに似た厭な側面が強調される。第五章も、ほぼ同様である。
第六章に至って、舞台は一転して名代部屋に移され、これまで影のように寸描されてきた善吉が、初めて正面から描かれる。「万客の垢を宿(とど)めて、夏でさへ冷(ひや)つく名代(みやうだい)部屋」の冬の夜の寒さに加えて破れ障子から吹き込む夜風にふるえる、富沢町の古着屋美濃屋善吉の輪郭――。
年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕(いも)があツて、囗つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋(まぶた)に眼張(めつぱ)の様な疵があり、見た所の下品(やすい)小柄の男である。
醜い容貌に加え「見た所の下品小柄の男」であることによって、善吉は吉原ばかりでなく多分どの世界においても人々から軽んぜられ見下される種類の男であることがわかる。その善吉の、この場面に至る経緯を、作者は次のように説明する。
善吉が吉里の許に通初めたのは一年ばかり前、丁度平田が来初めた頃の事である。吉里は兎角善吉を冷遇し、終宵(いちや)全たく顔を見せない時が多かツた位だツた。其にも構はず善吉は毎晩の様に通透して、此十月頃から別して足が繁くなり、今月になツてからは毎晩来て居たのである。
この常軌を逸した執着ぶり。ほとんど狂気に近い善吉の熱意は、実は吉里の冷淡さによっていっそう助長されてきたものであろう。なぜなら、情熱とは困難が加わるにつれてますます燃え上り、人を駆り立てる不思議な力であるからだ。善吉の情熱は吉里の冷遇によって度を加え、遂には理性を失わせて毎晩ここへ通わせることとなった。その結果、『今夜限りだ。もう来られないのだ。明日は如何なるんだか、まア分ツてる様でも……。自分ながら分らないんだ。あゝ……。』という極限状況を招来しているのである。
このような状況にある善吉の心根で興味深いのは、自分をここまで追いこんだ吉里に対する恨みがましい気持が微塵もない点てある。平田に対する嫉妬も敵意も感じてさえいない。
ひとりの男として、対等に眼前の現実に向いあおうとする覇気、自分を貫こうとする意志を、初めから持ち合せてはいないのである。『(平田が帰って)座敷が明いたら入れて呉れるか知らん。(中略)鳥渡でも一処に寝て、今夜限り来ない事を一言(ひとこと)断りや好いんだ。』と、徹頭徹尾、弱者の心理に支配されているのである。このみじめな、みずから状況を打開する力も意志もない弱い男の裡で、このとき絶望的な悔恨が頭をもたげる。
『あゝツ、お干代に済まないなア。何と思ツてるだらう。横浜に行ツてる事と思ツてるだらうなア。すき好んで名代部屋に戦へてるたア知らなからう。嘸(さ)ぞ恨んでるだらうなア。店も失した、お干代も生家(さと)へ返して了ツた――可哀想にお千代は生家へ返して了ッたんだ。乃公(おれ)は酷い奴だ――酷い奴なんだ。アゝ乃公は意気地がない。』
みずからの愚かな執着のために、「些たア人にも知られた店」を失い、何の罪もない女房まで離別してしまった。しかもその執着は何ら報われるところがないのである。作者柳浪の筆は、善吉の人物像を描くにあたって生き生きと生彩を放っている。どこまでも意気地のない善吉の絶望的な姿が、完璧といってよいほど見事に描き出されているのである。
この善吉の絶望が十分に描かれたうえで、初めて吉里の絶望が意味をもってくる。第七章で、上野発の一番汽車の汽笛を茫然と聞いて平田の去ったことを実感した吉里は、うわのそらで座敷に帰る。そして第八、九章で、劇的な「心の変動」を遂げるのである。
確かに、ふたりそれぞれの絶望があってこの作の核心が形成されているのであり、その限りで「絶望と絶望との間」にこの作が成立していることに違いはない。しかしそれは、吉里の絶望があって善吉のそれが重ねられているのではなく、善吉の絶望に吉里のそれが重ねられているのである。柳浪の意図はどうであれ、作品を亭受する読者の側からいえば、善吉という弱者のどうしようもない絶望が強く刻まれたところに吉里の絶望が重ねられて初めて、遊女のありふれた失恋が個性的な相貌を呈してくるのである。ところで、この作の読後が強い印象で残るのは、終章の残酷な切れ味によるところも大きい。
けれども、死骸は容易く見当らなかツた。翌年の一月末、永代橋の上流に女の死骸が流着いたとある新聞紙の記事に、お熊が念の為めに見定めに行くと、顔は腐爛(くさ)つて其ぞとは決められないが、着物は正しく吉里が着て出た物に相違なかツた。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遺っては、七曰七日の香華を手向けさせた。
消息を断って二ヶ月後、腐爛死体となって上った吉里の最期は、楼で二枚目を張っていた女であるだけに、いっそう残酷である。惚れぬいた男とではなく、誰からも侮蔑されるような男と死ななければならなかったうえに、無惨な死骸をさらさなければならぬ心中の結末。しかしここでもさらに哀れなのは善吉である。一行もふれられてはいないが、読者は誰しも、善吉の運命を想像せずにはいられない。吉里以上にむごたらしく毀われた善吉の死骸が水中で魚の餌食となっているさまを、読者は容易に脳裡に描き出し、そこから残酷な衝撃を受けるのである。
吉里の死には目的があった。小万にあてや遺書に、その心はしっかりと書き残されている。平田への心中立て以外の何物でもない。吉里にとって、善吉は単なる道づれでしかなかった。善吉は吉里の内面に何ら関わることなく死ななければならなかったのである。
ともに死んだ女にさえ一顧の存在も認められていない善吉。吉里には、その死を悲しみ、香華を手向けてくれる人々がいる。善吉はそのような人々ももたぬ。善吉の離縁した妻は、彼の死すら知らないであろう。
このように周囲のすべてから完全に無視され黙殺された善吉の、徹頭徹尾敗北しつづけるありようこそ、「今戸心中」を読者に強烈に印象づけ、異様なほどの重圧感を与える真の原因である。この作品の価値を保証するのは、主人公の吉里ではなく、脇役に終始する善吉の存在なのである。
柳浪のそれまでの作品が、人々に強い印象を与えながらも、その評価に今ひとつためらいがあったのは、その主人公のあまりに暗くて残酷な運命が正面から描かれることによって、読者を尻ごみさせる部分があったためである。「今戸心中」の成功は、真の主人公たる善吉を脇役に後退させ、哀れな娼妓吉里を前面に立てることによって読者の共感を呼びつつ、真の主人公を裏面から描ききったことにあった。主題の残酷さが吉里への同情によってほどよく中和され、残酷性と抒情性との渾然たる融和が、より広い読者に受け入れられることを可能にしたのである。

「今戸心中」における善吉の役割を右のように見てくると、作者柳浪にとって善吉なる人物は描くべき内的必然性があったのではないかと思われてくる。同時代評のなかでも特に詳細で適切な八面楼主人「柳浪子の『今戸心中』」(『国民の友』明二九・八)が善吉にふれて「髣髴として同作者の変目伝を想像す」と書いているように、善吉は「変目伝」「亀さん」などの主人公の血脈をひく、柳浪作品中の一典型なのである。とりわけ「変目伝」の主人公は善吉に近い。
洋酒の卸小売店、埼玉屋の主人伝吉は、老母に孝養をつくす商売熱心な男であるが、「身材(せい)いと低くして、且つ肢体(すべて)を小さく生れ付た」小男であり、しかも「左の後眥(めじり)より頬へ掛け、湯傷(やけど)の痕ひつゝりに」なっているため、変目伝と呼ばれ、人々から嘲笑されている。この伝吉が、薬種店仁寿堂の定二郎の甘言に欺かれて店主の妹娘、お浜に想いをかける。その結果、家産を破り殺人の罪を犯して絞罪になるという運命をたどるのだが、死にざまの違いはあれ、伝吉と善吉の設定は酷似している。
いったい何か彼らをしてそのような破局へと向わせるのであろうか。――それは彼ら自身の内部に湧き起った、衝動的な或る強い力である。笠原伸夫氏はこの力を前掲の『美と悪の伝統』のなかで「情念」としてとらえ、中世以降の賎民芸能の流れを汲む「下層民の屈折した情念の行方」を柳浪作品に見出している。
久留米藩士を父にもち、みずからも大学予備門に学んだ柳浪が何故下層階級の人々を好んで作品にとりあげ、悲惨な物語を描いたかという問題はしばらく措くとして、この暗いエネルギーが、周辺の人々に虐げられ、弱者として生きつづけるうちに彼らの内部に欝積したものの噴出したものであることは明らかであろう。伝吉も善吉も一人前の男性として遇されることがなかった。けれども彼らもまたひとりの人間であり、他の人々と同じような夢や願望を抱く。そのねがいは、かなえられそうにないだけにいっそう切実であり、実現を妨げられることによってさらに異様にふくれあがる。彼がその重みに耐えきれなくなって行動を開始したとき、それは常軌を逸した性急なものとなり、破局はすぐさま訪れる。――
およそ情念とは、現実の悲惨さに傷つけられた者がおのれの内部で燃えたぎらせる暗い願望を意味する言葉だろう。その情念が外に向けて噴出したとき必ず招来する悲劇を、柳浪は社会の実相としてとらえ、それを表現したのである。
柳浪作品のもう一つの系譜――個人の生まれつきもっている悪の気質が周囲の者を破局に導くという主題をもつ「黒蜥蜒」「信濃屋」「雨」などの諸作も、同様の認識から来ていると思われる。ひとりの邪悪な人物によって支配され、不当な苦しみを味わなければならぬ人々の情念と破滅を、柳浪は冷徹に描ききっている。
このような柳浪作品の根底にあるのは、人間と社会についての、どうしようもなく暗い認識である。人間の生まれながらにもっている邪悪さ、弱さ、欲望といった諸要素を、柳浪は人間の本質ととらえる。そしてそれが或る一定の外的状況と重なると、屈折した情念となってその人を衝き動かし、それは必ずや破滅的な結末を招くという絶望的な認識を、柳浪はさまざまなヴァリエーションで作品に表現したのである。
人間は遺伝と環境によって支配されるとするゾラの自然主義理論がわが国で或る程度消化され、自覚された理論としてあらわれるのは、明治三十年代の中期である。しかし小杉天外も永井荷風も、それを理論として学んだのであって、みずからの人生体験で発見したのではなかった。柳浪は少なくとも七、八年は早く、ほぼ同様の結論をみずからの眼で確認し、しかも血肉化した思想として作品に描き出しているのである。吉田精一氏は前記の書で「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」と述べている。四十年代以降の自然主義の諸作品と比較するとき、この評言はまことに正しい。わが国における自然主義作品が、一平凡人の内面と社会との闘いを追求し、竹中時雄や瀬川丑松といった、それなりの典型を産みだしたことを思えば、柳浪の主人公たちがいささか類型的であることは否めない。特異な状況設定のもとで初めて彼らは生きはじめるからである。
けれども、この考えはあまりに近代的な見方に偏してはいないだろうか。個人や自我といった角度からのみ文学作品を眺めてはいけないだろう。個性や性格以前の、人間の本性といったものに目を向けるとき、柳浪作品はあらたな意味をもって浮び上ってくる。わが国の文学には、近代以前にも滔々たる流れがあり、そこでは人間のもつさまざまな要素がゆたかに追求され、新しい発見と美の造型が繰返されてきた。近世を例にとっても、浄璃瑠や歌舞伎など様式化された総合芸術のなかで、人間のもつ本能的な情念は十分に発掘され、高度な達成を示している。そしてこれらの遺産が近代文学に吸収され再生されたとき、近代文学の流れに豊饒な厚みを加えたことは、永井荷風、谷崎潤一郎らの例を見るまでもなく明らかである。
柳浪の作品もまた、近代的な個性のきわだった以前の、人間の本質と社会構造の悪とを本能的に嗅ぎ出しての世界であった。ここに描きだされた人間の動かしがたい本性は、今日ふたたび光を当てられるべき可能性を多分に有している。「雲中語」が「河内屋」に寄せた評のように、「他人の書かむとも思はざるところ、他人の書かむと思ひても敢て書かざるところ」を凝視した柳浪の作品世界は、現代の文学が切り拓くべきあらたな領域をも示唆していると思われる。  
 
鳥辺山心中 / 岡本綺堂

 


裏の溝川(どぶがわ)で秋の蛙(かわず)が枯れがれに鳴いているのを、お染(そめ)は寂しい心持ちで聴いていた。ことし十七の彼女(かれ)は今夜が勤めの第一夜であった。店出しの宵――それは誰でも悲しい経験に相違なかったが、自体が内気な生まれつきで、世間というものをちっとも知らないお染は、取り分けて今夜が悲しかった。悲しいというよりも怖ろしかった。彼女はもう座敷にいたたまれなくなって、華やかな灯(ひ)の影から廊下へ逃(のが)れて、裏手の低い欄干に身を投げかけながら、鳴き弱った蛙の声を半分は夢のように聴いていたのであった。
もう一つ、彼女の弱い魂をおびやかしたのは、今夜の客が江戸の侍(さむらい)ということであった。どなたも江戸のお侍さまじゃ、疎※[勹+夕](そそう)があってはならぬぞと、彼女は主人から注意されていた。それも彼女に取っては大きい不安のかたまりであった。
この時代には引きつづいて江戸の将軍の上洛(じょうらく)があった。元和(げんな)九年には二代将軍秀忠が上洛した。つづいてその世子(せいし)家光も上洛した。その時に秀忠は将軍の職を辞して、家光が嗣(つ)ぐことになったのである。それから三年目の寛永(かんえい)三年六月に秀忠はかさねて上洛した。つづいて八月に家光も上洛した。
先度の元和の上洛も将軍家の行粧(ぎょうそう)はすこぶる目ざましいものであったが、今度の寛永の上洛は江戸の威勢がその後一年ごとに著(いちじ)るしく加わってゆくのを証拠立てるように花々しいものであった。前将軍の秀忠がおびただしい人数(にんず)を連れて滞在しているところへ、新将軍の家光が更におびただしい同勢を具して乗り込んで来たのであるから、京の都は江戸の侍で埋(うず)められた。将軍のお供とはいうものの、参内(さんだい)その他の式日を除いては、さして面倒な勤務をもっていない彼らは、思い思いに誘いあわせて、ある者は山や水に親しんで京の名所を探った。ある者は紅(べに)や白粉(おしろい)を慕って京の女をあさった。したがって京の町は江戸の侍で繁昌した。取り分けて色をあきなう巷(ちまた)は夜も昼も押し合うように賑わっていた。
この恋物語を書く必要上、ここでその当時に於ける京の色町(いろまち)に就(つ)いて、少しばかり説明を加えておきたい。その当時、京の土地で公認の色町と認められているのは六条|柳町(やなぎちょう)の遊女屋ばかりで、その他の祇園(ぎおん)、西石垣、縄手、五条坂、北野のたぐいは、すべて無免許の隠し売女(ばいじょ)であった。それらが次第に繁昌して、柳町の柳の影も薄れてゆく憂いがあるので、柳町の者どもは京都|所司代(しょしだい)にしばしば願書をささげて、隠し売女の取締りを訴えたが、名奉行の板倉伊賀守もこの問題に対しては余り多くの注意を払わなかったらしく、祇園その他の売女はますますその数を増して、それぞれに立派な色町を作ってしまった。その中でも祇園町が最も栄えて、柳町はいたずらに格式を誇るばかりの寂しい姿になった。
お染はその祇園の若松屋という遊女屋に売られて来たのである。
この場合、祇園はあくまでも柳町を圧倒しようとする競争心から、いずこの主人も遊女の勤め振りをやかましくいう。ことに相手の客が大切な江戸の侍とあっては、なおさらその勤め振りに就いて主人がいろいろの注意をあたえるのも無理はなかった。しかし、どんなにやかましい注意をうけても、今度が初めての店出(みせだ)しというおぼこ娘のお染には、どうしていいかちっとも見当がつかなかった。江戸の侍の機嫌を損じると店の商売にかかわるばかりか、どんな咎(とが)めを受けるかも知れぬぞと、彼女は主人から嚇(おど)されて来たのである。悲しいと怖ろしいとが一緒になって、お染はふるえながら揚屋(あげや)の門(かど)をくぐった。
あげ屋は花菱(はなびし)という家で、客は若い侍の七人連れであった。その中で坂田という二十二、三の侍はお花という女の馴染みであるらしい。酒の間に面白そうな話などをして、頻(しき)りにみんなを笑わせていたが、お染はなかなか笑う気にはなれなかった。彼女の唇は悲しそうに結ばれたままでほぐれなかった。彼女は明るい灯のかげを恐れるように、絶えず伏目になっていたが、その眼にはいつの間にか涙がいっぱいに溜まっていた。胸も切(せつ)なくなってきた。こめかみも痛んで来た。悪寒(さむけ)もして来た。彼女はもう堪(たま)らなくなって、消えるように座敷からその姿を隠してしまった。
八月ももう末の夜で、宵々(よいよい)ごとに薄れてゆく天(あま)の河の影が高く空に淡(あわ)く流れていた。すすり泣きをするような溝川の音にまじって、蛙(かわず)は寂しく鳴きつづけていた。
「これ、何を泣く」
不意に声をかけられて、お染ははっとした。泣き顔を拭きながら見返ると、自分のうしろに笑いながら突っ立っている男があった。
「泣くほど悲しいことがあれば、おれが力になってやる。話せ」
お染は身をすくめて黙っていると、男はかさねて言った。
「いや、怖がるな。叱るのでない。何が悲しい、訳をいえ」
その訳をあからさまに言いにくいので、お染はやはり黙っていた。廊下に洩れて来る灯の影がここまでは届かないので、男の容形(なりかたち)はよく判らなかったが、それが江戸の侍であることは、強いはっきりした関東弁で知られた。お染は彼を今夜の客の一人と知って、いよいよ怖ろしいように思われた。
「座敷を勤めるのが悲しいか」と、強い声はやがて優し味を含んできこえた。「お前の名は何という」
「染と申します」
「お染か。して、今夜の客の誰かに馴染みか」
「いいえ」と、お染は怖(こわ)ごわ答えた。「わたしは今夜が店出しでござります」
「突き出しか」と、男はいよいよ憫(あわ)れむように言った。「うむ、それで泣くか。無理もない。今夜の花はおれが払ってやる。すぐに家(うち)へ帰れ」
涙がこぼれるほどに有難いとは思ったが、お染はその親切な指図にしたがう訳にはいかなかった。識(し)らない客に花代(はなだい)を払わして、そのまま自分の家へ帰ってゆけば、主人に叱られるのは判り切っているので、彼女はその返答に躊躇(ちゅうちょ)していると、相手はそうした事情をよく知らないらしかった。
「お前は勤めの身でないか。花代さえ滞(とどこお)りなく貰って行ったら、誰も不足をいう者はあるまい。まだほかにむずかしい掟(おきて)でもあるか」
「主人に叱られます」
「判らぬな。主人がなぜ叱る」
「江戸のお客さまを粗末にしたとて……」
男は悼(いた)ましそうに溜め息をついた。
「それで叱るか。よい、そんならお前が叱られぬように、おれが仲居(なかい)を呼んでよく話してやる。心配するな」
いかに今夜が店出しでも、お染はもう勤めの女である以上、相手の男よりも色町の事情を承知していた。男の親切はよく判っているが、更に考えてみると、一体この人は自分の客であろうか。自分の客ならばともかくも、ほかの客が横合いから花代を払って勝手に帰れと命令しても、自分の客が承知するかどうか判(わか)らない。仲居もきっと承知しない。そんな掛け合いをするのは無駄なことであると思ったので、彼女はまずこの人が自分の客であるかないかを確かめようとした。
「お前さまのお相方(あいかた)はどなたでござります」
「おれは知らぬ。おれは今夜初めて誘われて来たのだ」と、男は無頓着そうに答えた。「そうして、お前は誰の相手だ」
「わたしも知りませぬ」
お染は今夜の座敷へ出たはじめから碌々に顔をあげたこともないので、自分の客の年頃も容形(なりかたち)もなんにも知らないのであった。男は自分の相方を知らなかった。女は自分の客を知らなかった。
「おれの相方でなければ自由に帰してやることは出来ぬか」と、男もさすがに気がついたらしく言い出した。
「そうでござります」
「よい。そんならおれがお前を相方にする。そうして、勝手に帰してやる。仲居(なかい)を呼べ」
それならば幾らか筋道が立っているので、お染は言われたままに仲居をここへ呼んで来た。
「仲居の雪(ゆき)でござります。なんぞ御用と仰しゃりますか」
「ほかでもない。この女をおれにぜひ買わせてくれ」
仲居はふき出した。
「あの、お前さまの戯言(てんごう)ばっかり。このお染さまはお前のお相方ではござりませぬか」
「ほう、いつの間にかおれの相方と決まっていたか」と、男も笑い出した。「それならば面倒はない。花代はおれが払うから直ぐに帰してやれ。勤め振りが悪いので帰すのでない、気に入らぬので帰すのでない。その訳を主人によく話して聞かせて、この女の叱られぬようにしてやってくれ。よいか」
「ありがとうござります」と、仲居のお雪は取りあえず礼を言った。
しかし座敷の引けないうちにすぐお染を帰す訳にはいかないから、ともかくも二人ながら座敷へ一旦戻って、酒の果てるまで機嫌よく遊んでいてくれと言った。
お染は無論に承知した。男も承知した。二人はお雪に導かれて、再びもとの座敷へ戻ると、薄暗いところからはいって来たお染の眼には、急に世界が変ったように明るく華やかに感じられた。酒と白粉との匂いが紅い灯の前にとけて漲(みなぎ)っていた。お染の涙を誘い出した秋の蛙の声は、ここまで聞えなかった。彼女はやはり俯向(うつむ)きがちで、生きた飾り物のようにおとなしく坐っていたが、それでも時どきにそっと眼をあげて、自分の客という人を見定めようとした。
客は二十歳(はたち)をようよう一つか二つぐらい越えたらしい若侍であった。色の浅黒い、一文字の眉の秀(ひ)いでているのがお染の眼についた。彼は多くしゃべらないで、黙って酒を飲んでいた。酒量はかなりに強い人らしいとお染は思った。
酒の強い人――それは年の若い彼女に余りいい感じを与えなかったが、それを十分に打ち消すだけの強い信仰がお染の胸に満ちていた。それは彼の親切であった。同情であった。花代を払ってすぐに帰してやる――ある女はそれを喜ぶであろうが、ある女はかえって不快を感じるかも知れない。しかし今夜のお染にはそれが譬(たと)えようもないほどに嬉しかった。花代はむしろ第二の問題で、悲しい頼りない身をそれほどに優しくいたわってくれたという、その親切が胸の奥まで沁み透るほどに嬉しかったのである。彼女は男の顔をぬすむように折りおりに窺(うかが)いながら、今までとは違った意味で涙ぐまれた。
四つ(午後十時)ごろに酒の座敷はあけた。六人の客は銘々の相方に誘われて、鳰(にお)の浮巣をたずねに行ったが、お染の客だけは真っ直ぐに帰った。お染とお雪は暖簾口(のれんぐち)まで送って出た。
「またのお越しをお待ち申します」と、お雪はうしろから声をかけた。
「おお、また来る。その女を主人に叱らせてくれるな」
夜露に濡(ぬ)れてゆく男のうしろ姿を、お染は言い知れない悲しい心持ちで見送っていると、冷たい秋風は水色の暖簾をなびかせて、彼女の陰った眉(まゆ)を吹いた。 

その次の夜にも、かの坂田という馴染み客が先立ちで、五人の侍が花菱に来た。先度の連れが二人減っているからは、無論お染の客も欠けているであろうと想像していたお雪は、座敷の明るいところで一座の顔を見渡して案外に思った。お染の客は今夜も五人の中にまじっていた。
坂田の女のお花は無論に来た。ほかの女たちも来た。お染も来た。坂田はいつものように陽気に飲んで騒ぎ立てた。その笑いさざめく座敷の中で、お染はやはり俯向いていろいろのことを考えつめていた。
ゆうべの客に今夜も逢えたというのが彼女は第一に嬉しかった。それと同時に、かの客がどうして今夜もここへ来たか、お染はその人の心を深く考えて見たかったのである。勿論、それには友達の附き合いという意味も含まれているであろうと想像した。酒さえ快(こころよ)く飲んでいれば、女なぞはどうでもいいと思っているのかも知れないと想像した。しかし昨夜の様子から推量(おしはか)ると、友達の附き合いとして酒を飲むことのほかに、何かの意味があるらしくも思われた。頼りない自分を憐れんで、今夜も呼んでくれたのではあるまいか――自分勝手ではあるが、お染はどうもそうであるらしいように解釈した。そうして、どうかそうであって呉(く)れればいいと胸のうちでひそかに祈っていた。
今夜は宵から薄く陰(くも)って、弱い稲妻が時どきに暗い空から走って来た。それが秋の夜らしい気分を誘って、酒を飲まないお染はなんだか肌寒いようにも思われた。
お花は酔って唄った。
※立つる錦木(にしきぎ)甲斐なく朽ちて、逢わで年経(としふ)る身ぞ辛き
彼女は一座の耳を惹(ひ)きつけるほどの美しい清らかな声であった。それをじっと聴いているうちに、お染は一種の寂しさがひしひしと狭い胸に迫って来た。その陰った眼が自分の男の眼に出逢うと、男も少し沈んだような顔をして、杯を下においていた。
その晩も四人は泊まって、一人は帰ることになった。帰るというのはやはりお染の客であった。お染はお雪を廊下へ呼び出して、恥かしそうに頼んだ。
「わたしのお客は今夜も帰ると仰しゃるそうな。なんとか引き止める法はないものか」
お雪も同意であった。お染の客はゆうべも花代を払っただけで綺麗に帰った。今夜もまたすぐに帰ろうとする。なんぼ相手が承知の上でも、それではあんまり傾城冥利(けいせいみょうり)に尽きるであろうと彼女も思った。もうひとつには、店出しをしたばかりでまだ一人の馴染みもないお染のために、ああいう頼もしそうな客を見付けてやりたいとも思ったので、お雪は快く承知した。
客は振り切って帰ろうとするのを、お雪は引き止めた。客扱いに馴れている手だれの彼女は、強情な男を、無理無体に引き戻して、お染が閨(ねや)の客にしてしまった。
その晩は夜半から冷たい雨がしとしとと降り出して来た。お染は自分の客が菊地半九郎(きくちはんくろう)という侍で、新しい三代将軍の供をしてこのごろ上洛したものであることを初めて知った。お花の客が坂田市之助という男であることも、半九郎の口から正直に言い聞かされた。
お染も自分の身の上を男に打明けた。自分は六条に住んでいる与兵衛(よへえ)という米屋の娘で、商売の手違いから父母はことし十五の妹娘を連れて、裏家(うらや)へ逼塞(ひっそく)するようになり下がった。それが因果で自分は二百両という金(かね)の代(しろ)にここへ売られて来たのである。ゆうべは初めての店出しでお前さまに逢った。今夜も逢った。そうして、ほんとうの客になって貰った。しかし勤めの身は悲しいもので、あすはどういう客に逢おうも知れないと、彼女は枕紙(まくらがみ)を濡らして話した。
半九郎は暗い顔をして聴いていたが、やがて思い切って言った。
「よい。判った。心配するには及ばぬ。あしたからは夜も昼もおれが揚げ詰(づ)めにして、ほかの客の座敷へは出すまい」
「ありがとうござります」と、お染は手をあわせて拝(おが)んだ。
江戸の侍に嘘はなかった。半九郎はあくる日からお染を揚げ詰めにして、自分ひとりのものにしてしまった。店出しの初めから仕合せな客を取り当てたと、若松屋の主人も喜んだ。お雪も喜んだ。朋輩たちも羨(うらや)んだ。
坂田市之助も花菱へたびたび遊びに来た。しかし彼はお花のほかにも幾人かの馴染みの女をもっているらしく、方々の揚屋を浮かれ歩いていた。
「わたしの人にくらべると、半さまは情愛のふかい、正直一方のお人、お前と二人が睦まじい様子を見せられると、妬(ねた)ましいほどに羨まれる」と、お花は折りおりにお染をなぶった。なぶられて、お染はいつもあどけない顔を真紅(まっか)に染めていた。
半月あまりは夢のようにたった。十三夜は月が冴えていた。半九郎は五条に近い宿を出て、いつものように祇園へ足を向けてゆくと、昼のように明るい路端(みちばた)で一人の若侍に逢った。
「半九郎どのか」
「源三郎(げんざぶろう)、どこへゆく」と、半九郎は打ち解けてきいた。
「兄をたずねて……」
「何ぞ用か」
「毎日毎晩あそび暮らしていては勤め向きもおろそかになる。兄の放埒(ほうらつ)にも困り果てた」と、源三郎は苦々(にがにが)しそうに言った。「今夜もきっと柳町か祇園であろうよ」
「柳町や祇園をあさり歩いて、兄を見付けたら何とする」と、半九郎は笑いながら又きいた。
「見付け次第に引っ立てて帰る」
ことし十九の坂田源三郎は、兄の市之助とはまるで人間の違ったような律義(りちぎ)一方の若者であった。彼は兄のように小唄を歌うことを知らなかったが、武芸は兄よりも優れていた。彼は兄と一緒に上洛のお供に加わって来て、同じ宿に滞在しているのであった。
こうして同じ京の土を踏みながらも、兄は旅先という暢気(のんき)な気分で遊び暮らしていた。弟は主君のお供という料簡(りょうけん)でちっとも油断しなかった。こうして反(そ)りの合わない兄弟ふたりは、どっちも不思議に半九郎と親しい友達であった。自分よりも二つの年下であるので、半九郎は源三郎を弟のようにも思っていた。
「兄の放埒も悪かろうが、遊興の場所へ踏ん込んで無理に引っ立てて帰るはちっと穏当でない」と、半九郎はなだめるように言った。「まあ堪忍してやれ。兄も今夜は後(のち)の月見という風流であろう。あすになればきっと帰る」
「帰るであろうか」と、源三郎はまだ不得心(ふとくしん)らしい顔をしていた。
「おお、帰るようにおれが言ってやる」
うっかりと口をすべらせたのを、源三郎はすぐ聞きとがめた。
「おれが言ってやる。……では、兄の居どころをお身は知っているか。お身もこれからそこへ行くのか」
半九郎も少し行き詰まった。その慌(あわ)てた眼色を覚(さと)られまいと、彼はわざと大きく笑った。
「まあ、むずかしく詮議するな。行くと行かぬは別として、おれは兄の居どころを知っている。たずね出してやるから、おとなしく待っておれ」
「ふうむ。お身もか」
卑しむような眼をして、源三郎は半九郎の顔をじっと見た。半九郎がこのごろ祇園に入りびたっていることを彼も薄々知っていた。ことに今の口振りで、兄も半九郎もどうやら一つ穴の貉(むじな)であるらしいことを発見した彼は、日ごろ親しい半九郎に対して、俄(にわ)かに憎悪と軽蔑との念が湧いて来た。それでも自分自身が汚(けが)れた色町へ踏み込むよりは、いっそ半九郎に頼んだ方が優(ま)しであろうと思い返して、彼は努めて丁寧に言った。
「では、頼む。兄によく意見して下され」
「承知した」
二人は月の下で別れた。
「はは、源三郎め、覚ったな」と、半九郎は歩きながらほほえんだ。
彼の眼から見たらば、兄もおれも同じ放埒者(ほうらつもの)と見えるかも知れない。誰が眼にも、うわべから覗(のぞ)けばそう見えるであろう。しかし市之助とおれとは性根が違うぞと、半九郎は肚(はら)の中で笑っていた。市之助は行く先ざきで面白いことをすればいい、彼はそれで満足しているのである。おれはそうでない。おれは市之助のような放蕩者でない。おれはお染のほかに世間の女をあさろうとはしていない。同じ色町の酒を甞(な)めていながらも、市之助とおれとを一緒に見たら大きな間違いであるぞと、半九郎は浅黄に晴れた空の上に、大きく澄んで輝く月のひかりを仰ぎながら、お染のいる祇園町の方へ大股に歩いて行った。 

半九郎とお染とが引き分けられなければならない時節が来た。
今年の秋もあわただしく暮れかかって、九月の暦(こよみ)も終りに近づいた。鴨川の水にも痩せが見えて、河原の柳は朝寒(あささむ)に身ぶるいしながら白く衰えた葉を毎日振るい落した。そのわびしい秋の姿をお染は朝に夕に悲しく眺めた。九月の末か、十月の初めには将軍が京を立って江戸へ帰る――それは前から知れ切ったことであったが、その期日が次第に迫って来るに連れて、彼女は自分の命が一日ごとに削(けず)られてゆくようにも思われた。
その沈んだ愁(うれ)い顔を見るにつけて、半九郎もいよいよ物の哀れを誘い出された。彼はある夜しみじみとお染に話した。
「将軍家が江戸表へ御下向(ごげこう)のことは、今朝(こんちょう)支配|頭(がしら)から改めて触れ渡された。この上はしょせん長逗留は相成るまい。遅くも来月の十日頃までには、一同京地を引き払うことになるであろう。お前に逢うのも今しばらくの間だ。昼夜揚げ詰めとはいいながら、馴染んでから丸ひと月に成るや成らずでさほどの深い仲でもないが、恋や情けはさておいて、まだ廓(さと)なれないお前が不憫(ふびん)さに、暇さえあればここへ来て、及ばぬながら力にもなってやったが、侍は御奉公が大切、お供にはずれていつまでもここに逗留は思いも寄らぬことだ。察してくれ」
勿論それに対して、お染は何とも言いようはなかった。無理に引き止めることは出来なかった。たとい引き止めても、男が止まる筈がないのは、彼女もよく承知していた。半九郎が今まで自分を優しく庇(かば)ってくれたのは、世にありふれた色恋とは違って、弱い者を憐れむという涙もろい江戸かたぎから生み出されていることは、彼女もかねて知っていた。まして将軍家の供をして、江戸の侍が江戸へ帰るのは当然のことである。彼女は自分を振り捨ててゆく男を微塵(みじん)も怨む気はなかった。
怨むのではない。ただ、悲しいのである。心細いのである。店出し以来、たった一人の半九郎に取りすがって、今日まで何の苦も知らずに生きていたお染は、さてこの後(のち)どうするか。彼女は眼の前に拡がっている大きい闇の奥をすかして見る怖ろしさに堪えられなかった。
「また泣くか。初めて逢った夜にもお前はそんな泣き顔をしていたが、その時から見ると又やつれたぞ。煩(わずら)わぬようにしろ」
「いっそ煩うて死にとうござります」
言ううちにも、止めどもなしに突っかけて溢れ出る涙は、白粉の濃い彼女の頬に幾筋の糸を引いて流れた。半九郎は痛ましそうに眉を皺(しわ)めて言った。
「今の若い身で死んでどうする。両親の悲しみ、妹の嘆き、それを思いやったら仮りにもそのようなことは言われまい。一日も早く勤めを引いて、親許へ帰って孝行せい」
「一日も早くというて、それが今年か来年のことか。ここの年季(ねんき)は丸六年、わたしのような孱弱(かよわ)い者は、いつ煩ろうていつ死ぬやら」
「はて、不吉な。気の弱いにも程がある。ほかの女どものように浮きうきして、晴れやかな心持ちで面白そうに世を送れ。これから五年六年といえば長いようだが、過ぎてしまうのは夢のうちだ」と、半九郎は諭(さと)すように言い聞かせた。
ひとには面白そうに見えるかも知れないが、およそここらに勤めている人に涙の種のない者はない。現にあの市さまの相方のお花女郎も、親の上、わが身の上にいろいろの苦労がある。まして自分のように胸の狭いものは、こののち一日でも面白そうに暮らされよう筈がない。店出しから今日までの短い月日が極楽、この先の長い月日は地獄の暗闇と、自分ももうあきらめているとお染はまた泣きつづけた。
困ったものだと半九郎も思いわずらった。彼はこのいじらしい女をどう処分しようかといろいろに迷った末に、あくる朝、坂田市之助の宿所をたずねると、市之助はめずらしく宿にいた。源三郎もいた。
過日(このあいだ)の晩、半九郎は途中で源三郎に約束して、あしたはきっと兄を帰してやると言ったが、市之助は花菱に酔い潰れて帰らなかった。その以来、源三郎はいよいよ半九郎を信用しなくなった。日ごろの親しみは頓(とみ)に薄らいで、彼は半九郎を兄の悪友と認めるようになった。
その半九郎が早朝から訪ねて来たので、源三郎はこれから外出しようとするのを暫く見合せて注意ぶかい耳を引き立てていた。こういう見張り人がそばに控えているので、半九郎も少し言いそそくれたが、生一本(きいっぽん)な彼の性質として、自分の思っていることは直ぐに打ち出してしまいたかったので、彼は思い切って言った。
「さて市之助。遠慮なく頼みたいことがある」
「改まって何だ」
「半九郎は金が要(い)る。二百両の金を貸してくれぬか。といっても、お身も旅先でそれだけの貯えもあるまい。お身は京の刀屋に知るべがあると聞いている。おれの刀は相州(そうしゅう)物だ。その刀屋に相談して、二百両に換えてはくれまいか」
市之助も少し眉を寄せた。
「お身が大事の刀を売りたい……。思いも寄らぬ頼みだが、その二百両の要(い)りみちは……」
半九郎は源三郎を横目に見ながら言った。
「京の鶯(うぐいす)を買いたいのだ」
「京の鶯……。はて、お身にも似合わぬ風流なことだな」と、言いかけて彼もすぐに覚ったらしくうなずいた。「うむ。して、その鶯を江戸へ連れて行くのか」
「いや、籠(かご)から放してやればいい。鶯はおおかた古巣へ舞い戻るであろう」
その謎は市之助にもよく判った。しかしそれは余り正直過ぎるように思われたので、彼は半九郎に注意するように言った。
「おれも鶯は大好きで、ゆく先ざきで鶯を聴いて歩く。鶯は美しい愛らしい小鳥だ。ことに京は鶯の名所であるから、おれも金に明かし、暇(ひま)に明かして、思うさまに鳴かして見たが、所詮(しょせん)は一時の興(きょう)に過ぎぬ。一羽の鳥になずんでは悪い。江戸へ帰ればまた江戸の鶯がある」
「勿論、おれもその鶯を江戸まで持って帰ろうとは思わぬが、鳴く音(ね)が余りに哀れに聞えるので、せめて籠から放してやりたいのだ。半九郎は人にも知られた意地張りだが、生まれつきから涙もろい男だ。ありあまる金を持った身でもなし、かつは旅先で工面(くめん)するあてもない。察してくれ」
半九郎の性質は市之助もふだんから知り抜いていた。そうして、それが彼の美しいところでもあり、また彼の弱いところでもあることを知っていた。遊里(ゆうり)の歓楽を一時の興と心得ている市之助の眼から見れば、立派な侍が一人の売女に涙をかけて、多寡(たか)が半月やひと月の馴染みのために、家重代(いえじゅうだい)の刀を手放そうなどというのは余りに馬鹿ばかしくも思われた。彼は繰り返して涙もろい友達に忠告を試みた。
「して、半九郎。お身は全くその鶯に未練はないな」
「未練はない。くどくも言うようだが、あまりに哀れだから放してやりたい。ただそれだけのことだ」
「それならば猶更のこと。お身がその鶯にあくまでも未練が残って、買い取って我が物にしたいと言っても、おれは友達ずくで意見したい。ましてその鶯には未練も愛着(あいぢゃく)もなく、ただ買い取って放してやるだけに、武士(ぶし)が大切の刀を売るとは、あまりに分別が至らぬように思わるるぞ。なさけも善根(ぜんこん)も銘々の力に能(あた)うかぎりで済ませればよし、程を過ぎたら却(かえ)って身の禍(わざわ)いになる。この中(じゅう)のおれの行状から見たら、ひとに意見がましいことなど言われた義理ではないが、おれにはまたおれの料簡(りょうけん)がある。鶯はただ鳴くだけのことで、藪(やぶ)にあろうが籠(かご)にあろうが頓着(とんぢゃく)せぬ。花を眺め、鳥を聴くも、所詮は我れに一時の興があればよいので、その上のことまでを深く考えようとはせぬ。その上に考え詰めたら、心を痛むる、身を誤る。人間は息のあるうちに、ゆく先ざきで面白いことを仕尽くしたらそれでよい。どうだ、半九郎。もう一度よく思い直して見ろ」
「では、どうでも肯(き)いてくれぬか」
「肯かれぬ。また、肯かぬのがお身のためだ」
相手がどうしても取り合わないので、半九郎は失望して帰った。帰る途中で、彼は市之助の意見をもう一度考えてみた。市之助の議論を彼はいちいち尤(もっと)もとは思わなかったが、籠から鶯を放してやるだけに、武士が家重代の刀を売る。たとい自分には何の疚(やま)しい心がないとしても、思いやりのない世間の人間はいろいろの評判を立てるに相違ない。菊地半九郎は売女(ばいじょ)にうつつをぬかして大小を手放したとただ一口(ひとくち)にいわれては、武士の面目にもかかわる。支配頭への聞えもある。なるほど市之助が承知してくれないのも無理はないかとも思われたので、彼は刀を売ることを躊躇した。
こうなると、お染の顔を見るのが辛(つら)い。お染も自分の顔を見ると、よけいに悲しい思いをするかも知れない。いっそ出発するまでは彼女にもう逢うまいかと半九郎は思った。そうして、ひと晩は花菱に足をぬいてみたが、やはり一種の不安と憐れみとが彼を誘って、あくる日は花菱の座敷でお染の暗い顔と向かい合わせた。半九郎はその後もつづけてお染と逢っていた。
十月にはいると、半九郎のからだも忙がしくなった。将軍はいよいよこの十日には出発と決まったので、供の者どもはその準備に毎日奔走しなければならなかった。
その忙がしいひまを偸(ぬす)んで、ある者は京の土産を買い調えるのもあった。ある者は知るべのところへ暇乞(いとまご)いに廻るのもあった。神社や仏閣に参拝して守り符(ふだ)などを貰って来るのもあった。いろいろの買いがかりの勘定などをして歩くのもあった。それらの出這入(ではい)りで京の町は又ひとしきり混雑した。
江戸に沢山(たくさん)の親類や縁者をもっていない半九郎は守り符や土産などを寄せ集めて歩く必要はなかったが、さすがに勤め向きの用事に追い廻されて祇園の酒に酔っている暇がなかった。市之助兄弟も忙がしい筈であった。しかも忙がしいことは弟に任せて、市之助は相変らず浮かれ歩いていた。
「もう二、三日で京も名残(なご)りだ。面白く騒げ、騒げ」
それは七日の宵で、きょうは朝から時雨(しぐ)れかかっている初冬の一日を、市之助は花菱の座敷で飲み明かしているのであった。日が暮れてから半九郎も来た。約束したのではない、偶然に落ち合ったのであった。
「おお、半九郎来たか」
「お身はいつから来ている」
「ゆうべから居つづけだ」と、市之助はもう他愛なく酔いくずれていた。
「弟にまた叱らるるぞ」と、半九郎はにが笑いした。
「あいつ、腹を立って、きっと兄の悪口をさんざんに言っているであろう。困った奴だ」
市之助も笑っていた。 

半九郎を初めてここへ誘って来たのは市之助であったが、塒(ねぐら)を一つ場所に決めていない彼はいつも半九郎の連れではなかった。ことに過日(このあいだ)の鶯の話を聴かされてから、彼は半九郎のあまり正直過ぎるのを懸念するようになったので、ゆうべも彼を誘わずに自分一人で来ていると、あとから半九郎が丁度来合せたのである。
もう二、三日というけれども、今夜が京の遊び納めであると市之助は思っていた。八日(ようか)九日(ここのか)の二日(ふつか)は出発前でいろいろの勤めがあるのは判り切っているので、今夜は思う存分に騒ぎ散らして帰ろうと、彼は羽目(はめ)をはずして浮かれていた。半九郎もお染に逢うのは今夜限りだと思っていた。
もう泣いても笑っても仕方がないと、お染もきのう今日は諦めてしまった。いつも沈んだ顔ばかりを見せて男の心を暗い方へ引き摺って行くのは、これまでの恩となさけに対しても済まないことであると思ったので、彼女も今夜は努(つと)めて晴れやかな笑顔を作っていた。お花は無論に浮きうきしていた。今夜がいよいよのお別れであるというので、馴染みの女や仲居なども大勢寄って来て、座敷はいつもより華やかに浮き立った。
内心はともかくも、お染の顔が今夜は晴れやかに見えたので、半九郎も少し安心した。安心すると共に、彼はふだんよりも多く飲んだ。ことに今夜は市之助という飲み相手があるので、彼はうかうかと量をすごして、お染の柔かい膝(ひざ)を枕に寝ころんでしまった。
「半さま。御家来の衆が見えました」と、仲居のお雪が取次いで来た。
「八介(はちすけ)か。何の用か知らぬが、これへ来いと言え」と、半九郎は寝ころんだままで言った。
若党の八介はお雪に案内されて来たが、満座の前では言い出しにくいと見えて、彼は主人を廊下へ呼び出そうとした。
「旦那さま。ちょっとここまで……」
「馬鹿め」と、半九郎はやはり頭をあげなかった。「用があるならここへ来い」
「は」と、八介はまだ躊躇していたが、やがて思い切って座敷へいざり込んで来た。
「用は大抵判っている。迎いに来たのか」と、半九郎は不興らしく言った。
「左様でござります」
御用の道中であるから銘々の荷物は宿々(しゅくじゅく)の人足どもに担がせる。その混乱と間違いとを防ぐために、組ごとに荷物をひと纏めにして、その荷物にはまた銘々の荷札をつける。それを今夜じゅうにみな済ませて置けという支配頭からの達しが俄かに来た。八介一人では判らないこともあるから、ひとまず帰ってくれというのであった。
「うるさいな。あしたでもよかろうに……」
「でも、一度になっては混雑するから、今夜のうちに取りまとめて置けとのことでござります」
「市之助。お身は帰るか」と、半九郎は酔っている連れにきいた。
「弟が何とかするであろうよ」と、市之助は相変らず横着を極(き)めていた。
「よい弟を持って仕合せだ。おれはちょっと戻らなければなるまいか」
半九郎はしぶしぶ起き上がって、八介と一緒に出ると、お染は角(かど)まで送って来た。
「お前さま。もうこれぎりでお戻りになりませぬかえ」
「いや、戻る。すぐまた戻って来る。待っておれ」
酔っていても半九郎はしっかりした足取りで歩いた。宿所へ帰って、彼は八介に指図して忙がしそうに荷作りをした。さしたる荷物もないのであるが、それでも一※[日+向](いっとき)ほどの暇を潰して、主人も家来もがっかりした。表では雨の音がはらはら聞えた。
「旦那さま。降ってまいりました」
「降って来たか」
「昼から催しておりました。今のうちに降りましたら、お発ちの頃には小春|日和(びより)がつづくかも知れませぬ」
道中はともかくも、今夜の雨を半九郎は邪魔だと思った。彼は落ち着かない心持ちで、すぐにまた表へ出ようとした。
「またお出掛けでござりますか」と、八介は暗い空を仰ぎながら言った。
酔いは出る、からだは疲れる。半九郎はもうそこに寝ころんでしまいたかったが、彼の心はやはりお染の方へ引かれていった。これがふだんの時であったら、彼も自分の宿に眠って安らかに今夜一夜を過(すご)すことが出来たかも知れないが、祇園の酒も今夜かぎりだと思うと、半九郎はとても落ち着いていられなかった。
彼は雨を冒(おか)して祇園へ引っ返して行った。そうして、運命の導くままに自分の生命(せいめい)を投げ出してしまったのであった。
花菱の座敷には市之助がまだ浮かれ騒いでいた。よくも遊び疲れないものだと感心しながら、半九郎も再びそのまどいに入った。
「半九郎、また来たか。おれはさすがにもう堪まらぬ。お身が代って女子(おなご)どもの相手をしてくれ。頼む、頼む」
今度は市之助がお花の膝を借りて横になってしまった。半九郎は入れかわってまた飲んだ。寡言(むくち)の彼も今夜は無器用な冗談などを時どきに言って、女どもに笑われた。
「あの、お客様が……」
お雪が取次ぐひまもなしに、一人の若侍が足音あらくこの席へ踏み込んで来た。
「兄上、兄上」
それが弟の源三郎であると知って、市之助は薄く眼をあいた。
「おお、源三郎か。何しにまいった」
「言わずとも知れたこと。お迎いにまいりました」
「出発の荷作りならよいように頼むぞ」
「わたくしには出来ませぬ」
同じ迎いでも、これはさっきの若党とは一つにならなかった。血気の彼は居丈高(いたけだか)になって兄に迫った。
「荷作りのこと御承知なら、なぜ早くにお戻り下されぬ。兄弟二人が沢山の荷物、わたくし一人(いちにん)にその取りまとめがなりましょうか。積もって見ても知れているものを……。さあ、直ぐにお起(た)ち下され」
彼は寝ころんでいる兄の腕を掴んで、力任せに引摺り起そうとするので、膝をかしているお花は見兼ねて支(ささ)えた。
「まあ、そのように手暴(てあら)くせずと……。市さまはこの通りに酔うている。連れて帰ってもお役に立つまい。お前ひとりでよいように……」
「それがなるほどなら、かようなところへわざわざ押しかけてはまいらぬ。じゃらけた女どもがいらぬ差し出口。控えておれ」
武者苦者腹(むしゃくしゃばら)の八つ当りに、源三郎は叱りつけた。叱られてもお花は驚かなかった。彼女は白い歯を見せながら、なめらかな京弁でこの若い侍をなぶった。
「お前は市さまの弟御(おととご)そうな。いつもいつも親の仇でも尋ねるような顔付きは、若いお人にはめずらしい。ちっと兄(あに)さまを見習うて、お前も粋(すい)にならしゃんせ。もう近いうちにお下りなら、江戸への土産によい女郎衆をお世話しよ。京の女郎と大仏餅とは、眺めたばかりでは旨味(うまみ)の知れぬものじゃ。噛みしめて味わう気があるなら、お前も若いお侍、一夜の附合いで登り詰める心中者(しんじゅうもの)がないとも限らぬ。兄嫁のわたしが意見じゃ。一座になって面白う遊ばんせ」
「ええ、つべこべとさえずる女め、おのれら売女の分際で、武士に向って仮りにも兄嫁呼ばわり、戯(たわむ)れとて容赦せぬぞ」
彼は扇をとり直して、女の白い頬をひと打ちという権幕に、そばにいる女どもも、おどろいてさえぎった。自分の頭の上でこんな捫着(もんちゃく)を始められては、市之助ももう打棄(うっちゃ)って置かれなくなった。彼はよんどころなく起き直った。
「源三郎、静まらぬか。ここを何処(どこ)だと思っている」
満座の手前、兄もこう叱るよりほかはなかったが、それがいよいよ弟の不平を募らせて、源三郎は更に兄の方へ膝を捻(ね)じ向けた。
「それは手前よりおたずね申すこと。兄上こそここを何処だと思召(おぼしめ)す。我われ一同が遠からず京地を引払うに就いては、上(かみ)の御用は申すに及ばず、銘々の支度やら何やかやで、きのう今日は誰もが眼がまわるほどに忙がしい最中に、短い冬の日を悠長らしく色里の居続け遊び、わたくしの用向きは手前|一人(いちにん)が手足を擦り切らしても事は済めど、上の御用は一人が一人役、それでお前さまのお役が勤まりまするか、支配頭の首尾がよいと思召すか。京|三界(さんがい)まで一緒に連れ立って来て、弟に苦労さするが兄の手柄か、少しは御分別なされませ」
これが過日(このあいだ)から源三郎の胸に畳まっていた不平であった。現に兄は昨夜も戻らない。きょうも戻らない、出発まぎわにあってもまだ止(と)めどもなしに遊び歩いている兄の放埒には源三郎も呆れ果てた。年の若い彼はじりじりするほどに腹が立った。
今夜も荷作りの達しが来たが、自分と家来ばかりでは纏(まと)め方が判らない。さりとておとなしく待っていてはいつ帰るか知れないので、源三郎は焦(じ)れにじれて、自分で兄の在りかを探しに出た。折りからの時雨に湿(ぬ)れながらまず六条の柳町をたずねると、そこには兄の姿が見付からなかった。それからまた方角を変えて祇園へ来て、ようようその居どころを突きとめると、兄は女の膝枕で他愛なく眠っている。源三郎はもう我慢も勘弁も出来なくなって、不平と疳癪(かんしゃく)が一時に爆発したのであった。
それは市之助もさすがに察していた。弟が焦れて怒るのも無理はないと思った。彼は自分の遊興を妨げた弟を憎もうとはしなかった。しかし弟の言い条(じょう)を立てて、これから直ぐに帰る気にもなれなかった。
「もういい、もういい。何もかも判った、判った。おれもやがて帰るから、お前はひと足先へ帰れ」
見え透いた一寸(いっすん)逃れと、弟はなかなか得心しなかった。
「いや、どうでお帰りなさるるなら、手前も一緒にお供いたす。さあ、すぐにお支度なされ」
容赦のない居催促(いざいそく)には、兄も持て余した。
「それは無理というものだ。帰るには相当の支度もある。まあ、何でもよいから先へ行け」
相手になっていては面倒だと、市之助はその場をはずす積もりらしい、酔いにまぎらせてよろけながら席を起(た)つと、お花は彼を囲うようにして、一緒に起った。ほかの女たちもそれを機(しお)に、この面倒な座敷をはずしてしまった。
あとには半九郎とお染とが残った。半九郎は黙って酒を飲んでいた。 

兄のうしろ姿を見送って、源三郎は少し思案していたが、これも刀をとって続いて起とうとした。あくまでも兄のあとを追って行って、無理に引き戻す積もりであろうと見た半九郎は、さすがに見兼ねて声をかけた。
「源三郎。待て、待て」
源三郎は無言で見返った。さっきから半九郎がそこにいるのを知りながら、彼は何の会釈(えしゃく)もしなかったのである。
「かような場所で立ち騒いでは見苦しい。今夜はおとなしく帰ったがよかろう。兄はきっとこの半九郎が連れて戻る。安心して帰れ、帰れ」と、半九郎は杯を手にしながら言った。
余人(よじん)ならばともかくも、日頃から兄の悪友と睨んでいる半九郎の仲裁を、源三郎は素直に承知する筈はなかった。現に先月の十三夜にも、半九郎はきっと帰すと安受け合いをして置きながら、兄はその晩に帰らなかった。そうした嘘つきの、不信用の半九郎が、今更何を言っても相手にはならぬというように、源三郎は眼に角(かど)を立てて罵(ののし)るように答えた。
「いや、安心してはいられまい。一つ穴のむじなどもが安受け合いを、真(ま)にうけて帰らりょうか。源三郎はもうお身たちに化かされてはおらぬぞ。兄がかようなたわけの有りたけを尽くすも、お身たちのような不仕埒(ふしだら)な朋輩があればこそ。よい朋輩を持って兄も仕合せ者、手前もきっとお礼を申すぞ」
喧嘩腰の挨拶を、半九郎は笑いながら受け流した。
「はは、そのように怒るなよ。お身はまだ年が若いので、一途(いちず)に人ばかり悪い者のように言うが、兄は兄、おれはおれだ。兄が遊ぶと、おれが遊ぶとは、同じ遊びでも心の入れ方が違うかも知れぬ。いや、それはそれとして、兄も今夜が京の遊び納めであろうから、それを無理に連れて帰ろうとするのは余りにむごい、気の毒だ。おれも今引っ返して荷作りをして来たが、兄の指図を受けずともお身と家来どもの手でどうにかなろう。まあ、今晩ひと晩だけは兄を助けてやれ」
「どうにかなる程なら、わざわざ呼びにはまいらぬ」
「理屈っぽい男だ。何にも言わずに帰れ、帰れ」
「帰ろうと帰るまいと手前の勝手だ」と、源三郎は衝(つ)と起った。
強情に兄のあとを追って行こうとするらしいので、お染ももう見ていられなくなった。彼女は思わず起ち上がって源三郎の袂(たもと)をとらえた。
「半さまもあのように言うてござれば、まあ、まあ、お待ちなされませ」
「ええ、うるさい。退(の)いておれ」
源三郎は相手をよくも見定めないで、腹立ちまぎれに突き退けると、かよわいお染は跳ね飛ばされたようによろめいて、そこにある膳の上に倒れかかると、酒も肴も一度に飛び散った。半九郎もむっとした。
「やい、源三郎。年下の者と思ってよいほどにあしらっていれば、言いたい三昧(ざんまい)の悪口、仕たい三昧の狼藉、もう堪忍がならぬぞよ。素直に手をさげて詫びて帰ればよし、さもなくば、おのれの襟髪を引っつかんで、狗(いぬ)ころのように門端(かどばた)へ投げ出すぞ」
彼も生まれつきは短気な男であった。しかも酒には酔っていた。それでも普段から自分の弟のように思っている源三郎に対して、今まで出来るだけの堪忍をしていたのであるが、眼の前で自分の女を手あらく投げられた、自分の膳を引っくり返された。彼はもう料簡が出来なくなって、大きい声で相手を叱りつけたのである。源三郎も行きがかりで彼に無礼を詫びようとはしなかった。
「はは、そのような嚇(おど)しを怖がる源三郎でない。夜昼となしに兄を誘い出して、あたら侍を腐らせた悪い友達に、何の科(とが)で詫びようか。江戸の侍の面汚(つらよご)しめ。そっちから詫びをせねば堪忍ならぬわ」
「なに、おのれはこの半九郎を江戸の侍の面汚しと言うたな。その子細(しさい)を申せ」
「それを改めて問うことか。御用を怠って遊里に入りびたる奴、それが武士の手本になるか。武士の面汚しと申したに不思議があるか」
「武士の面汚し、相違ないな」
「おお、幾たびでも言って聞かせる。菊地半九郎は武士の面汚し、恥さらし、武士の風上には置かれぬ奴だ」
半九郎の眼の色は変った。
「おお、よく申した。おのれも武士に向ってそれほどのことを言うからは、相当の覚悟があろうな」
「念には及ばぬ。武士にはいつでも覚悟がある」
半九郎は刀をとって突っ立った。
「問答|無益(むやく)だ。源三郎、河原へ来い」
「むむ」
源三郎も負けずに睨み返した。武士と武士とが押っ取り刀で河原へゆく――それが真剣の果し合いであることは、この時代の習いで誰も知っているので、お染は顔の色を変えた。彼女は転げるように二人の侍の間へ割って入った。
「なんぼお侍衆じゃというて、些細(ささい)なことから言い募(つの)って真剣の勝負とは、あまりに御短慮でござります。これ、おがみます、頼みます。どうぞもう一度分別して、仲直りをして下さりませ」
拝(おが)みまわる女を源三郎はまた蹴倒した。
「女がとめるを幸いに、言い出した勝負をやめるか。卑怯者め」
「何の……」と、半九郎は哮(たけ)った。「そう言うおのれこそ逃ぐるなよ」
彼は縁先から庭へ飛び降りると、源三郎もつづいて駈け降りた。
武士と武士との果し合いを、ここらの女どもがどう取り鎮めるすべもないので、お染は息を呑み込んで二人のうしろ影を見送っているばかりであったが、どう考えても落ち着いていられないので、彼女は白い脛(はぎ)にからみつく長い裳(すそ)を引き揚げながら、同じ庭口から二人のあとを追って行った。
小夜時雨(さよしぐれ)、それはいつの間にか通り過ぎて、薄い月が夢のように鴨川の水を照らしていた。 

素足で河原を踏んでゆく女の足は遅かった。お染は息を切って駈けた。薄月と水明りとに照らされた河原には、二つの刀の影が水に跳(はね)る魚の背のように光っていた。それを遠目に見ていながら、お染はなかなか近寄ることが出来なかった。
二人の刀は入り乱れて、二つの人影は解けてもつれた。お染がだんだん近づくに連れて、鍔(つば)の音までが手に取るように聞えた。と思ううちに、一つの影はたちまち倒れた。一つの影は乗りかかってまた撃ち込んだ。勝負はもう決まったらしいので、お染ははっと胸が跳(おど)った。彼女は幾たびかつまずきながらようように駈け寄ると、その勝利者はたしかに半九郎と判った。
「半さま」と、彼女は思わず声をかけた。
「お染か」と、半九郎は振り向いた。
「して、相手のお侍は……」
「この通りだ」
半九郎は血刀で指さした。女のおびえた眼にはよく判らなかったが、源三郎は肩と腰のあたりを斬られているらしく、河原の小石を枕にして俯向きに倒れていた。そのむごたらしい血みどろの姿を見て、お染はぞっと身の毛が立った。彼女は膝のゆるんだ人のように顫(ふる)えながらそこにべったりと坐ってしまった。
元和(げんな)の大坂落城から僅か十年あまりで、血の匂いに馴れている侍は、自分の前に横たわっている敵の死骸に眼もくれないで、しずかに川の水を掬(く)んで飲んでいた。お染も息が切れて水が欲しかった。
「もし、わたしにも……」
彼女は手真似で水をくれといった。足が竦(すく)んでもう歩かれないのであった。半九郎はうなずいて両手に水を掬(すく)いあげたが、今の闘いでさすがに腕がふるえているらしく、女のそばまで運んで来るうちに、水は大きい手のひらから半分以上もこぼれ出してしまった。彼は焦(じ)れて自分の襦袢(じゅばん)の袖を引き裂いた。冷たい鴨川の水は、江戸の男の袖にひたされて、京の女の紅い唇へ注ぎ込まれた。
「かよわい女子(おなご)が血を見たら、定めて怖ろしくも思うであろう。どうだ。もう落ち着いたか」
「は、はい。これで少しは落ち着きました」
それにつけても、第一に案じられるのは、男の身の上であった。お染は京の町育ちで、もとより武家の掟(おきて)などはなんにも知らなかったが、こうして人間一人を斬り殺して、それで無事に済むか済まないかを、まず確かめて置きたかった。
「得心(とくしん)づくの果し合いとはいいながら、お前になんにもお咎めはござりませぬかえ」
武士と武士とが得心づくの果し合いである以上、この時代の習いとして相手を斬れば斬りどくで、それがむしろ侍の手柄でもあった。しかし今夜のような出来事は、これには当て嵌(はま)らなかった。上洛の間は身持ちをつつしみ、都の人に笑わるるなと、江戸を発つ時に支配頭から厳しく申渡されてある。その戒めを破って色里へしげしげと足を踏み込む――それだけでも半九郎らに相当の科(とが)はあった。勿論、それも無事に済んでいれば、誰も大目に見逃していてくれるのであるが、こういう事件が出来(しゅったい)した暁には、その詮議が面倒になるのは判り切っていた。場所は色町(いろまち)、酒の上の口論、しかも朋輩(ほうばい)を討ち果したというのでは、どんな贔屓眼(ひいきめ)に見ても弁護の途(みち)がない。切腹の上に家(いえ)断絶、菊地半九郎は当然その罪に落ちなければならなかった。
半九郎もいまさら後悔した。彼は一時の短気から朋輩を殺してしまった。それも憎い仇ならまだしもであるが、普段から弟のように親しんでいる源三郎をどうして討ち果たす気になったか、今更思えば夢のようであった。彼は酒の酔いがだんだんに醒めるに連れて、自分の罪がそぞろに怖ろしくなった。
「侍でも、こうして人を殺せば罪は逃れぬ。尋常に切腹するか、兄の市之助に子細を打明けて、弟の仇と名乗って討たるるか。二つに一つのほかはあるまい」
彼も大きな溜め息をついて、頽(くず)れるように河原に坐ってしまった。
お染は途方にくれた。それでも一生懸命の知恵を絞り出して、男にここを逃げろと言った。この場の有様を見知っている者は自分ひとりであるから、ほかの者の来ないうちに早くここを立ち退いてしまえと勧めた。
「何を馬鹿な」と、半九郎は嘲(あざけ)るように答えた。「菊地半九郎はそれほど卑怯な男でない。さしたる意趣(いしゅ)も遺恨(いこん)もないに、朋輩ひとりを殺したからは、いさぎよく罪を引受けるが武士の道だ。ともかくも市之助に逢って分別を決める」
彼は河原づたいに花菱へ引っ返した。お染も痛む足を引摺りながらその後についてゆくと、市之助はもう寝床へはいっていた。
「市之助、起きてくれ」
屏風の外からそっと声をかけると、市之助は眠そうな声で答えた。
「誰だ。はいれ」
「女はいぬか」
こう言いながら屏風をあけた半九郎の顔は、水のように蒼かった。鬢(びん)も衣紋(えもん)も乱れていた。うす暗い灯の影でそれをじっと見た市之助は、相方のお花を遠ざけて差向かいになった。
「半九郎。どうした。人でも斬ったか」と、市之助は小声できいた。
半九郎の着物の膝は、血しぶきにおびただしく染められているのを、彼は早くも見付けたのであった。
「推量の通りだ。半九郎は人を斬って来た」
「誰を斬った。お染を斬ったか」
「いや、女でない。源三郎を斬った」
市之助もぎょっとした。彼は寝衣(ねまき)の膝を立て直して又きいた。
「なぜ斬った。口論か」
「おれも短気、源三郎も短気、ゆるしてくれ」
果し合いの始末を聞かされて、市之助はいよいよ驚いた。
「お身と源三郎とが河原へ駈け出したら、お染はなぜ早くおれに教えてくれなんだか。しかしそれを今更いっても返らぬ。そこで半九郎、お身はこれからどうする積りだ」
「仇と名乗って討たれに来た。殺してくれ」
「弟の仇……見逃す法はない。ここで討つのは当然だが、おれが頼む、逃げてくれ」と、市之助は言った。「お身とおれは竹馬(ちくば)の友だ。源三郎とても同様で、互いに意趣も遺恨もあっての果し合いでない。いわば当座の行きがかりで、討つ者も討たるる者も詰まりは不時の災難だ。さっき弟が迎いに来た時に、おれが素直に戻れば何事もなかったものを……。思えばおれにも罪はある。今更お身を討ち果したとて、死んだ弟が返るでもない。おれは知らぬ振りをしているから、お身はどこへでも早く逃げろ。ここらにうろうろしていては詮議がむずかしい。京を離れたところへ身を隠してしまえ。おれはこれから河原へ行って、弟の死骸を始末して来る。そのあいだに支度しろ」
こう言い聞かせて市之助はすぐに寝衣をぬいだ。着物を着換えて袴を穿いて、大小を腰に差して、急いで表へ出て行った。
取り残された半九郎は、両手を膝において暫く考えていた。
自分を免(ゆる)してくれた市之助の料簡は、彼にもよく判っていた。しかしそれは市之助だけの料簡で、仲のいい朋輩を殺して置いてただそのままに逃げてしまうというのは、自分としては忍ばれないことであった。しょせん自分は逃れることの出来ない罪を背負っている以上、なまじいに逃げ隠れをして捕われるのは恥の上塗(うわぬ)りである。兄が弟の仇を討たぬというならば、自分はいさぎよく自滅するほかはない。半九郎は切腹と決心した。
初冬の夜もしだいに更(ふ)けて、清水寺(きよみずでら)の九つ(午後十二時)の鐘の音が水にひびいた。半九郎は仄暗(ほのぐら)い灯の前に坐って、自分の朋輩の血を染めた刃(やいば)に、更に自分の血を塗ろうとした。それが自分の罪を償(つぐの)う正当の手段であると考えた。
彼がその刀を把(と)り直した時に、屏風のかげから幽霊のような女の顔があらわれた。お染はいつの間にか忍んで来ていたのであった。
「お染。聞いていたのか」
お染はそこに泣き伏してしまった。
「市之助はおれに隠れろと言う。しかし半九郎にそんなうしろ暗いことは出来ぬ。正直に今ここで切腹する。若松屋のお染の客は人殺しとあすは世上(せじょう)に謳(うた)われて、お身も肩身が狭かろうが、これも因果(いんが)だ。堪忍してくれ」
「あの、わたしも一緒に死なして下さりませ」と、彼女は涙をすすりながら言った。
「いや、それは無分別。由(よし)ない義理を立てすごして、この半九郎に命までもくれようとは、親姉妹(おやきょうだい)の嘆きも思わぬか。おれには死ぬだけの罪がある。お前には何の係り合いもないことだ。知らぬていにして早く彼方(あっち)へゆけ」と、半九郎は小声で叱った。
叱られても彼女は動かなかった。不仕合せな女に生まれながら、自分はお前というものに取りすがって、今日までこうして生きていたのである。そのお前にいよいよ別れる日が近づいて、自分の心はとうから死んだも同様であった。日本じゅうに二人とない、頼もしい人に引き分かれて、これから先の長い勤め奉公をとても辛抱の出来るものではない。店出しの宵からお前の揚げ詰めで、ほかの客を迎えたことのないわたしは、どこまでもお前ひとりを夫(おっと)として、清い女の一生を送りたいと思っている。それを察して一緒に殺してくれと、彼女は男の膝の前に身を投げ出して泣いた。
半九郎も女の心を哀れに思った。彼も惨(いじ)らしいお染のからだを濁り江の暗い底に長く沈めて置きたくないので、重代の刀を手放しても、彼女を救いあげて親許へ送り帰してやりたいと思っていた。その志は空(くう)になって、しかもその刀で人を殺すような破滅に陥(おちい)った。こうなるからはいっそのこと、女を殺すのは却(かえ)って女を救うので、いわゆる慈悲の殺生(せっしょう)であるかも知れないと考えた。
そう思って、彼は自分の前に俯伏(うつぶ)している若い女の細く白いうなじを今更のようにじっと眺めた。ふさふさと黒く光った美しい髪の毛を見つめた。今まで彼女を愛していたとはまた一種違った温かい感情が彼の胸にだんだん漲(みなぎ)って来て、総身の若い血潮が燃えあがるようにも感じられた。
半九郎がお染に対して、こうした不思議な感じを覚えたのは実に今夜が初めてであった。今夜の半九郎の眼に映ったお染は、遊女のお染ではなかった。清いおとめのお染であった。武士の妻としても恥かしからぬ一人の清いおとめであった。半九郎は言い知れない幸福を感じた。
「お前の心はよく判った。もう泣くな」と、半九郎は女の肩に手をかけて引き起した。
「あい」
お染はおとなしく顔をあげた。彼女の眼には涙の玉が美しく光っていた。

二人はその屍(かばね)を揚屋の座敷に横たえようとはしなかった。源三郎のあとを追って、屍を河原に晒(さら)そうともしなかった。いかなる人も遂にゆく鳥辺の山をかれらの墓と定めて、二人はそっと花菱をぬけ出した。
後の作者は二人が死(しに)にゆく姿をえがくが如くに形容して、お染に対しては「女(おんな)肌には白|無垢(むく)や上にむらさき藤の紋、中着(なかぎ)緋紗綾(ひざや)に黒繻子(くろじゅす)の帯、年は十七|初花(はつはな)の、雨にしおるる立姿(たちすがた)」と唄った。半九郎に対しては、「男も肌は白小袖にて、黒き綸子(りんず)に色浅黄うら」と説明した。
一種哀艶の調(しらべ)である。但しこれは少なくも六十余年の後、この唄の作者が住んでいた時代の姿で、この物語にあらわれている男と女との真実の姿ではない。
それでも私たちは「女肌には白無垢や」の唄に因(よ)って、二百余年来かもしなされて来た哀艶の気分をいつまでも打ち毀(こわ)したくない。この物語に二人の服装を一度も説明しなかったのはこれが為である。  
 
岡本綺堂の戯曲

 

一幕二場。1915年(大正4)9月東京・本郷座で、2世市川左団次の菊地半九郎、2世市川松蔦(しょうちょう)のお染により初演。将軍に供して上洛(じょうらく)した菊地半九郎は、祇園(ぎおん)の遊女で純情無垢(むく)なお染となじみを重ねたが、江戸へ帰るに際し、家重代の刀を売ってお染を請け出し親元へ帰してやろうとする。しかし友人坂田市之助との酒宴の席上、その弟源三郎が半九郎を不行跡となじったことから口論となり、四条河原で果たし合いのすえ、これを討つ。半九郎は死を決意し、お染も従って鳥辺山へ心中の道を急ぐ。江戸期の巷説(こうせつ)に材をとり、歌舞伎(かぶき)の手法を継承しているが、人間味ある新鮮な解釈で観客の共感をよんだ。初演以来大好評を博し、いまもって上演頻度は高い。2世左団次の「杏花(きょうか)戯曲十種」の一つ。 
戯曲。1幕2場。岡本綺堂作。1915年9月東京本郷座初演。配役は菊地半九郎を2世市川左団次、遊女お染を3世市川松蔦、坂田源三郎を市川寿美蔵(のちの3世寿海)。地唄《鳥辺山》からの着想による。綺堂劇中でも一、二を争う人気狂言。杏花戯曲十種の一。将軍上洛に従った旗本菊地半九郎は、祇園の遊女お染の汚れをしらぬ初心な風情にひかれ、家宝の刀に替えても彼女を身請けして親もとへ帰してやろうとする。たまたま同輩の坂田市之助と茶屋で遊んでいる折、半九郎は市之助の弟源三郎と口論をし河原で果し合いの末、ついに討ち果たしてしまう。
地唄
永禄五年(1562)にわが国に伝わったといわれる三味線は、その音色が良いためいろいろの唄い物に用いられたが、上方では盲人によって三味線伴奏の歌謡曲がうたわれ、江戸初期の柳川検校加賀都(かがのいち)がその形式をととのえたといわれる。これを江戸唄に対して上方唄とも土地の唄の意味で地唄ともいう。のちに八重崎検校が箏で合奏することを始め、更に胡弓や尺八が伴奏に加えられた。富崎春昇(とみざきしゅんしょう)が元老といわれる。聞いて面白いものではないが琉球組などの組唄、山づくし・遊女の名寄せなどの長唄、雪・黒髪などの端唄、さらし・玉川・茶音頭などの手事物、石橋・鳥辺山などの芝居唄、三吉・紙治などの浄瑠璃物、あれ鼠・たぬきなどの作物(さくもの)に分れる。
宮薗節 (みやぞのぶし)
「薗八節(そのはちぶし)」ともいい、江戸時代中期の宮古路薗八(みやこぢ そのはち。初代。生没年不詳)を祖とする浄瑠璃音楽の古曲のひとつ。永井荷風は小説『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』の中で、薗八節は浄瑠璃の中でもっともしめやかであると評している。
現在、浄瑠璃音楽として残っているものは、義太夫節、常磐津節、清元節、河東節、一中節、宮薗節、新内節、富本節である。このほか半太夫節と外記節が河東節に、大薩摩節が長唄に、豊後節から分かれた繁太夫節が地歌に、それぞれ吸収されて特殊な一部分として残存している。
宮薗節は、宮古路豊後掾の流れを汲む浄瑠璃音楽であり、豊後掾門弟の宮古路薗八(初代)が京都で創始したものである。二世宮古路薗八が「宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぽうけん)」と改名して以来「宮薗節」と呼称されるようになったとされる。代表曲は「鳥辺山」「桂川恋の柵」「夕霧由縁の月見」など。 
六道の辻
松原通(旧五条通)が轆轤町(ろくろちょう)にかかるところの辻。普段は庶民の町で小さな商店街が連なる静かな町。愛宕(おたぎ)念仏寺跡、地蔵堂跡、閻魔堂跡、姥堂跡、そして今も残る六波羅蜜寺、西福寺、六道珍皇寺などが点在する。その昔、この辺り一帯から山麓にかけては、鳥辺(部)、「とりべ」と云われ、葬送の地であったと云われる。亡くなった人を送る地、僧侶が亡者の霊魂に引導を渡す、いわゆる野辺送りの地で、冥界への入り口にあたる辻が六道の辻。地名の由来は、その昔におびただしい人骨が出土したため髑髏原と云われていた時期もあって、この髑髏、「どくろ」が転訛して「六道」になったのではないかと云われている。江戸時代初期までは「髑髏町」と云われていたが、轆轤挽職人が多く住む町だったので、京都所司代の命により轆轤町に変更されたと伝る。六道とは、生前の善悪の行いによって導かれる冥界で、天上、人間、修羅、鬼畜、餓鬼、地獄のこと。
幽霊子育て飴
むかしむかし、六道の辻にある飴屋さんに、夜な夜な飴を買いにくる、顔色の悪い女がいた。不審に思った飴屋さんは、ある夜、跡をつけてみた。すると女は、鳥辺野の墓地のあたりでスッと消えてしまった。翌日、掘り起こしてみると、そこは出産直前に亡くなった女性の墓で、なんと、産まれたばかりの赤ちゃんと飴がでてきたという。どうやら墓の中で産んだ赤ちゃんを育てるために、幽霊となって飴を買いにきていたらしい。石標の建つこの所は六道の分岐点、この世とあの世を結ぶ交差点にあたる。このような伝説が生れたのは、小野篁の地獄行きの伝説との関係か。
鳥辺山1 / 近松門左衛門 
〔前弾〕
~\一人来て、二人連れ立つ極楽の、〔合〕清水寺の鐘の声、早や初夜(しょや)も過ぎ四つも告げ、九つ心の闇路(やみぢ)をば、照らすや否や稲妻(いなづま)の、光りし後の暗きこそ、~\我ら二人が身の上よ、〔合〕今はなまなか存(ながら)へだてを、したら憂(う)き身に愛想もこそも、尽きた浮き世やいざ烏辺野の、露と消えんと最期(さいご)の用意。〔合〕
~\女肌には白無垢(しろむく)や、上に紫藤(むらさきふじ)の紋、〔合〕中着緋紗綾(なかぎひざや)に黒繻子(くろじゅす)の帯、歳は十七初花(はつはな)の、〔合〕雨に萎(しお)るる立ち姿。
~\男も肌は白小袖にて、黒き綸子(りんず)に色浅黄裏(あさぎうら)、二十一期(にじゅういちご)の色盛りをば、〔合〕恋といふ字に身を捨て小舟(おぶね)、どこへ取り着くしまとてもなし。〔合〕
~\鳥辺の山は其方(そなた)ぞと、死にに行く身の後ろ髪、弾く三味線は祇園町、茶屋の山衆(やましゅ)の色酒に、、乱れて遊ぶ騒ぎあり。〔合〕
~\あの面白さを見る時は、染殿、其方とそれがしが、〔合〕~\去年(こぞ)の初秋(はつあき)七夕の、〔合〕座敷踊りをかこつけて、~\忍び逢うたこと思ひ出す。〔合〕~\羽織かづいて茶屋ぞめき、二瀬(ふたせ)の玉に見つけられ、~\迷惑するを見る時は、其方に私(わし)が無理言うて、口舌(くぜつ)したこと思ひ出す。〔合〕
~\祇園林の群烏(むらがらす)、かはい、〔合〕かはいの声聞けば、父母(ちちはは)のこと思ひ出す、〔合〕~\涙に道のはかさへ行かぬ、思ふまいぞと思ひはすれど、〔合〕ここぞ浮き世の別れの辻よ、早うござれと手に手を取りて、〔合〕~\行けど歩めど、目に見ることも、~\今を始めの終はりよと、〔合〕追手の者や来たらんに、さあさあ最期(さいご)急がんと、〔合〕~\烏辺野の露(と)消えて行く。
~\見るに二人が目にもつ涙、~\じっと押さへて、これ、お染殿、思ひ切らしゃれ、もう泣かしゃんすな、~\私は泣かねど、それこなさんの、~\いいや、其方の、~\いや、此方のと、
~\顔と、~\顔とを、~\見合はせて、一度にわっと嘆くにぞ、~\一足づつに消えて行く。
~\遂にこの世の春降る雪と、折りふし早や寺々の鐘も撞(つ)き止(や)み、夜はほのぼのと、烏辺山にぞ着きにけり。
歌舞伎囃子下座音楽 鳥辺山
~\弾く三味線は祇園町、茶屋の山衆(やましゅ)の色酒に、乱れて遊ぶ騒ぎあり。
~\あの面白さを見る時は、染殿、其方とそれがしが、~\去年(こぞ)の初秋(はつあき)七夕の、座敷踊りをかこつけて、~\忍び逢うたこと思ひ出す。
宮薗節 鳥辺山
〔本調子〕~\一人来て、二人連れ立つ極楽の、清水寺の鐘の声。早や初夜(しょや)も過ぎ四つも告げ、九つ心も恋路の闇にくれは鳥(どり)、あやなき空や、浮橋に、つながる縁(えん)や縫之助、つい仇惚れも誠となりて、ほんの女夫(めようと)になりたいと、思う思いはままならぬ、今はこの身にあいそもこそも、
〔二上がり〕 ~\尽きた浮き世や、いざ烏辺野の、女肌には白無垢(しろむく)や、上に紫藤(むらさきふじ)の紋、中着緋紗綾(なかぎひざや)に黒繻子(くろじゅす)の帯、歳は十七初花(はつはな)の、雨にこがるる立ち姿。男も肌は白小袖にて、黒き綸子(りんず)に色浅黄裏(あさぎうら)、二十一期(にじゅういちご)の色盛りをば、恋といふ字に身を捨て小舟(おぶね)、どこへ取り着く、しまとてヲなし。
〔本調子〕 ~\聞く度々につらかりし、父母の事、思いだし、あとの嘆きを思いやり、ここから去んで呉竹(くれたけ)の、伏し沈みたる袖の露。
浮橋なみだもろ共に、父(とと)さんや母(かか)さんの、あるはお前も同じ事、その親々に苦をかける、不孝者には誰がした。相惚(あいぼれ)といふ仲人(なこうど)や、枕(まくら)の咎(とが)ぢゃないかいな。恋は心の外(ほか)とやら、夕べも内の花車(かしゃ)さんが、わしに意見をしんじつの、色という字があればこそ、すかぬ勤めの辛抱も、すいた殿御へ心意気、いとし可愛が定(じょう)ならば、五度逢うものを三度逢い、二度を一度の逢瀬(おうせ)には、親おやかたの機嫌もよく、色で身をうつこともなく、世間に多い心中も、金と不孝で名を流す、色で死ぬるは無いぞとよ。恋に思いのはじめにて、盛りが憎い、迎(むか)い駕籠(かご)、そのきぬぎぬや朝顔の、夕顔にまでわけへだて、辛気(しんき)な苦界(くがい)ままならぬ、悲しいことや、辛いこと生きぬ死ぬるの手詰(てづ)めにも、必ず、かならず若気を出し、短気な心もちやなんやと、重ね井筒の上越した、粋(すい)な意見も上(うわ)の空。お前に迷う心から、面白い気で聴いて居た。親御様への世の義理も、わしから起こるこのしだら、堪忍してとばかりにて、すがり付いて泣き居たり。
〔二上がり〕~\思ひ切らしゃれ、もう泣かしゃんな、わしは泣かねど、ソレこなさんの、いいや、そなたの、いや、此方のと、顔と顔とを見合はせて、一度にわっと嘆くにぞ、一足ずつに消えて行く。遂にこの野の春降る雪や、折りからに早や寺々の鐘も撞(つ)き止(や)み、夜は白々と、烏辺山にぞ、着きにける。

地歌
二上り芝居歌。歌詞は宝永三年(1706)、大阪岩井座ならびに京都の都万太夫座所演の「鳥辺山心中」の道行からとっている。この狂言は、武士菊池半九郎と祇園茶屋のお染とが烏辺山で心中したという巷説によるという。
光崎検校校閲の『絃曲大榛抄』(文政11年)に、その譜が、正徳・享保(1711〜36)期の成立とされる『古今端歌大全』に「鳥辺山心中」として詞章が収録されている。
義太夫の「近頃河原の達引」の「堀川の段」では、やがて心中をするお俊伝兵衛の伏線として幕明きに、盲目の老女が子供たちにこの「鳥辺山」を教える場面がある。そこで演奏されるのは~女肌には白無垢や〜忍び逢うたこと思ひ出す」までであるが、その時、この曲は心中物だから男と女の掛け合いでやりとりすればよい、と言って教えている。現在の歌舞伎では、岡本綺堂作の「烏辺山心中」が、二世左団次・二世松蔦によって大正4年上演されて以来、いわゆる新歌舞伎の代表作の一つとなり、近年では寿海の名演が知られた。浄瑠璃は竹本で行われるが、最後の幕切れの出語りに、この曲の前半の抜粋が利用されている。なお、落語「出歯吉」でも「二人連れ立つ極楽の」の言葉を受けて、この曲の一部が下座として用いられる。
「鳥辺山と時雨の松は心中道行きの文のみにて情死せしにあらず、依って祝儀の席にも弾けり」(『皇都午睡』)
○鳥辺山 / 鳥辺野ともいい、京都の東山の西腹で、清水寺から西大谷に至る一帯をさす。平安時代の昔から墳墓の地として有名である。
宮薗節 
すでに、おまん源五兵衛の鳥辺山心中を唄った俗謡があり、ついで近松門左衛門が、お染半九郎の名で地歌の鳥辺山を書く。その後、明和3年、大阪竹本座で上演された「太平記忠臣講釈」で、その道行に用いられる。「忠臣講釈」というのは忠臣蔵を扱った浄瑠璃で、仮名手本忠臣蔵に次ぐ名作といわれている。この中で、塩谷判官の弟石堂縫之助が、傾城浮橋に溺れているので、取り巻き連中がおだてて、祇園の茶屋で二人に鳥辺山心中の道行をやらせて遊ぶ場面がある。この余興の場面が「道行人目の重縫」。この「忠臣講釈」が評判を呼び、宮薗鸞凰軒が詞章を書き改め、明和4,5年頃に作曲し直したのである。地歌は全部二上がりであるが、宮薗節の方は、本調子→二上がり→本調子→二上がりと変化の妙に富む。
歌舞伎囃子下座唄
「恋飛脚大和往来」新町井筒屋の場における主人公忠兵衛の最初の出に唄われる。この歌が井筒屋の奥から聞こえる趣向で、これを耳にした忠兵衛が「あの唄は鳥辺山、ありゃじたい心中事」というセリフと関連させることで、忠兵衛と梅川の暗い行く末をほのめかす効果を意図している。 
鳥辺山2 
一人来て、二人連れ立つ極楽の、清水寺の鐘の声、早や初夜も過ぎ四つも告げ、九つ心の闇路(やみぢ)をば、照らすや否や稲妻(いなづま)の、光りし後の暗きこそ、我ら二人が身の上よ、今はなまなか存(ながら)へだてを、したら憂き身に愛想もこそも、尽きた浮き世やいざ烏辺野の、露と消えんと最期(さいご)の用意。
女肌には白無垢(しろむく)や、上に紫藤(むらさきふじ)の紋、中着緋紗綾(なかぎひざや)に黒繻子(くろじゅす)の帯、歳は十七初花(はつはな)の、雨に萎(しお)るる立ち姿。
男も肌は白小袖にて、黒き綸子(りんず)に色浅黄裏(あさぎうら)、二十一期(にじゅういちご)の色盛りをば、恋といふ字に身を捨て小舟(おぶね)、どこへ取り着くしまとてもなし。
鳥辺の山は其方(そなた)ぞと、死にに行く身の後ろ髪、弾く三味線は祇園町、茶屋の山衆(やましゅ)の色酒に、、乱れて遊ぶ騒ぎあり。
あの面白さを見る時は、染殿、其方とそれがしが、去年(こぞ)の初秋(はつあき)七夕の、座敷踊りをかこつけて、忍び逢うたこと思ひ出す。
羽織かづいて茶屋ぞめき、二瀬(ふたせ)の玉に見つけられ、迷惑するを見る時は、其方に私(わし)が無理言うて、口舌(くぜつ)したこと思ひ出す。
祇園林の群烏(むらがらす)、かはい、かはいの声聞けば、父母(ちちはは)のこと思ひ出す、涙に道のはかさへ行かぬ、思ふまいぞと思ひはすれど、ここぞ浮き世の別れの辻よ、早うござれと手に手を取りて、行けど歩めど、目に見ることも、今を始めの終はりよと、追手の者や来たらんに、さあさあ最期急がんと、烏辺野の露(と)消えて行く。
見るに二人が目にもつ涙、じっと押さへて、これ、お染殿、思ひ切らしゃれ、もう泣かしゃんすな、私は泣かねど、それこなさんの、いいや、其方の、いや、此方のと、顔と、顔とを、見合はせて、一度にわっと嘆くにぞ、一足づつに消えて行く。
遂にこの世の春降る雪と、折りふし早や寺々の鐘も撞(つ)き止(や)み、夜はほのぼのと、烏辺山にぞ着きにけり。

[作曲者] 湖出金四郎(湖出市十郎) 岡崎検校改調
[曲種・調弦] 二上り芝居歌物
[作詞] 近松門左衛門
[初出] 1711〜1716以前の刊と思われる『古今端歌大全』
歌詞は宝永三年(1706)、大阪岩井座ならびに京都の都万太夫座所演の「鳥辺山心中」の道行からとっている。この狂言は、武士菊池半九郎と祇園茶屋のお染とが烏辺山で心中したという巷説によるという。
光崎検校校閲の『絃曲大榛抄』(文政11年)に、その譜が、正徳・享保(1711〜36)期の成立とされる『古今端歌大全』に「鳥辺山心中」として詞章が収録されている。
義太夫の「近頃河原の達引」の「堀川の段」では、やがて心中をするお俊伝兵衛の伏線として幕明きに、盲目の老女が子供たちにこの「鳥辺山」を教える場面がある。そこで演奏されるのは~女肌には白無垢や〜忍び逢うたこと思ひ出す」までであるが、その時、この曲は心中物だから男と女の掛け合いでやりとりすればよい、と言って教えている。
現在の歌舞伎では、岡本綺堂作の「烏辺山心中」が、二世左団次・二世松蔦によって大正4年上演されて以来、いわゆる新歌舞伎の代表作の一つとなり、 近年では寿海の名演が知られた。浄瑠璃は竹本で行われるが、最後の幕切れの出語りに、この曲の前半の抜粋が利用されている。
なお、落語「出歯吉」でも「二人連れ立つ極楽の」の言葉を受けて、この曲の一部が下座として用いられる。
「鳥辺山と時雨の松は心中道行きの文のみにて情死せしにあらず、依って祝儀の席にも弾けり」(『皇都午睡』)
○鳥辺山 / 鳥辺野ともいい、京都の東山の西腹で、清水寺から西大谷に至る一帯をさす。平安時代の昔から墳墓の地として有名である。 
鳥辺山3 
湖出金四郎 作曲 / 近松門左衛門 作詞
鳥辺山という場所
鳥辺山(鳥辺野)は、京都の東山の西腹にあり、清水寺から西大谷に至る一帯のことを指し、<平安京遷都>のとき、桓武天皇が使者を弔う場所とした。以後、墳墓の地として有名で、死を連想させる場所であったため、心中物の舞台としてはうってつけであった。
『鳥辺山心中』
この狂言は、1705年、京都で、武士菊池半九郎と祇園茶屋のお染とが烏辺山で心中したという巷説によるという。おまん・源五兵衛の鳥辺山心中事件を唄った俗謡がもともとあったともいうが、宝永三年(1706)正月、京都の都万太夫座初演の『鳥辺山心中』も、おまん・源五兵衛の心中を歌うもので、これが「鳥辺山物」の初出とされる。しかし、この曲の冒頭「二人連れ立つ死出の道」を「二人連れ立つ極楽の」とするなど、詞章を少しだけ変えた作品が、宝永三年(1706)夏、近松門左衛門作『鳥辺山心中』(大坂岩井座初演)として発表され、こちらの方が有名である。
影響
18世紀初頭頃は心中事件が続発しており、1723年(享保8)には心中狂言禁止となっている。
地歌『鳥辺山』(岡崎検校)は、近松門左衛門作『鳥辺山心中』道行からとっている。
『太平記忠臣講釈』(明和3年 大阪竹本座)の道行で、塩谷判官の弟石堂縫之助が傾城浮橋に溺れているので、取り巻き連中がおだてて、祇園の茶屋で、二人に『鳥辺山心中』の道行をやらせて遊ぶ場面があり、余興の場面が「道行人目の重縫」であるが、この『太平記忠臣講釈』が評判を呼び、宮薗鸞凰軒が詞章を書き改め、明和4〜5年頃に作曲し直したのが宮薗節『鳥辺山』である。
新内にも移曲されているとのこと。
現在の歌舞伎では、岡本綺堂作の『烏辺山心中』が、二世左団次・二世松蔦によって上演されて(大正4年)以来、いわゆる「新歌舞伎」の代表作の一つとなり、寿海の名演が知られた。
浄瑠璃は竹本で行われるが、最後の幕切れの出語りに、この曲の前半の抜粋が利用されている。 
鳥辺山4 
どれ程きれいにつこうと嘘は嘘 あなたがついたか 私がつかせたか
まさしさんの歌の特徴のひとつに、以前に歌ったテーマ、気に入った特定の場所を再び取り上げて歌を創るということがありますね。まさしさんは、京都の東山にある鳥辺山(鳥辺野)をよほど気に入っておられるのでしょう。この曲は1981年にリリースされた「うつろひ」の中に収められている「鳥辺野」の続編ということができると思います。「鳥辺野」を心にとめながら歌詞を読み直してみます。
まさしさんは、「うつろひ」のライナーノーツで「今熊野(いまぐまの)の剣神社から、御寺泉涌寺(みてらせんにゅうじ)迄の 山道を歩いてごらん」と勧められたのが、鳥辺野に魅せられるきっかけとなったいうことを書いておられます。 泉涌寺は古くから皇室の菩提所として崇敬されてきたところで、四条天皇崩御のときこの寺の後に陵(天皇・皇后の墓)を 築き、以後歴代の天皇以下皇子皇女が葬られました。もともとは、空海が宝輪寺を建てたところでしたが、度重なる火災に遭い 承元年間(1207〜1210)月輪大師によって再建され、落成のときに清泉が湧き出したことから泉湧寺と改められたと伝えられて います。
心中ものといえば近松門左衛門というほどに、その戯曲作品はつとに有名ですが、この詩の一部分は、近松の 「曽根崎心中」を模したものですね。まさしさん自身もライナーノーツに 「一足ずつに消えてゆく夢の夢こそ あはれなれ」は、ご存知、近松の「曽根崎心中」である」と 書いておられます。この「夢の夢こそあはれなれ」と言う部分は、「曽根崎心中」のなかの九段「お初・徳兵衛 道行」にあります。
「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、 夢の夢こそ あはれなれ。」(この世の別れ、夜も別れと、死にに行く身をたとえると、あだしが原の道の霜が一足踏むごとに 消えていく、ちょうどそのような夢の中の夢のように、はかなく哀れなものである。)
嘘をつくのは悪いこと、誰でもそう知りながらも嘘をつく。恋愛の最中において相手に対して嘘をつくのは、思いやりか身勝手か。 「恋を断ち切る一瞬は、思い出同士の心中に他ならない」(「うつろひ」ライナーノーツ)・・・その通りだと思う。 ともに命を絶つことでしか恋を成就する方法がなかった「心中」の二人のように・・・。 耳を塞いでも聞こえる風の音は、寂しい心のなかに吹いてる。ちっぽけな石ころになってしまったようにさえ感じる自分の存在、 いっそ消えてしまいたい。「私」の姿を嘲うような「誰か」は、心の中のもう一人の自分かも。
「鳥辺野」と比較してみると、円熟した大人の恋の味わいを感じるのが二番の歌詞。特に「あなたのくれた傷の痛みさえ愛おしい  私の髪をすべるあなたの指先の名残こそ 哀れなれ」の部分です。やはりここでも「曽根崎心中」をはずずことはできません。 「鳥辺野」から14年、まさしさん43歳の「鳥辺山心中」には色気すら感じられます。
あなたのいくつかの 嘘を道連れに 私の心だけ 今 死んでゆく 
 
南地心中 / 泉鏡花

 


「今のは、」
初阪(はつざか)ものの赤毛布(あかげっと)、という処(ところ)を、十月の半ば過ぎ、小春凪(こはるなぎ)で、ちと逆上(のぼ)せるほどな暖かさに、下着さえ襲(かさ)ねて重し、野暮な縞(しま)も隠されず、頬被(ほおかぶ)りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波(つくば)、はじめて、出立(いでた)つを初山と称(とな)うるに傚(なら)って、大阪の地へ初見参(ういけんざん)という意味である。
その男が、天満橋(てんまばし)を北へ渡越した処で、同伴(つれ)のものに聞いた。
「今のは?」
「大阪城でございますさ。」
と片頬(かたほ)笑みでわざと云う。結城(ゆうき)の藍微塵(あいみじん)の一枚着、唐桟柄(とうざんがら)の袷羽織(あわせばおり)、茶|献上博多(けんじょうはかた)の帯をぐいと緊(し)め、白柔皮(しろなめし)の緒の雪駄穿(せったばき)で、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……俳優(やくしゃ)部屋の男衆(おとこしゅ)で、初阪ものには不似合な伝法。
「まさか、天満の橋の上から、淀川(よどがわ)を控えて、城を見て――当人寝が足りない処へ、こう照(てり)つけられて、道頓堀(どうとんぼり)から千日前、この辺の沸(にえ)くり返る町の中を見物だから、茫(ぼう)となって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は確(たしか)に承知の上です――言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」
「御道理(ごもっとも)で、ふふふ、」
男衆はまた笑いながら、
「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、貴方(あなた)、恍惚(うっとり)とおなんなさいましたぜ。熟(じっ)と考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私も黙(だんま)りでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に吩咐(いいつ)かって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。
それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。
初阪は鳥打の庇(ひさし)に手を当て、
「分りましたよ。真田幸村(さなだゆきむら)に対しても、決して粗略には存じません。萌黄色(もえぎいろ)の海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二(まっぷた)つに分けたように悠揚(ゆっくり)流れる。
電車の塵(ちり)も冬空です……澄透(すみとお)った空に晃々(きらきら)と太陽(ひ)が照って、五月頃の潮(うしお)が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視(なが)めるように、あの、城が見えたっけ。
川蒸汽の、ばらばらと川浪を蹴(け)るのなんぞは、高櫓(たかやぐら)の瓦(かわら)一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、些細(ささい)な塵です。
その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、歴然(ありあり)と、ああ、あれが、嬰児(あかんぼ)の時から桃太郎と一所にお馴染(なじみ)の城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、鵺(ぬえ)が乗って来そうな雲が、真黒(まっくろ)な壁で上から圧附(おしつ)けるばかり、鉛を熔(と)かして、むらむらと湧懸(わきかか)って来たろうではないか。」
初阪は意気を込めて、杖(ステッキ)をわきに挟んで云った。 

七筋ばかり、工場の呼吸(いき)であろう、黒煙(くろけむり)が、こう、風がないから、真直(まっすぐ)に立騰(たちのぼ)って、城の櫓(やぐら)の棟を巻いて、その蔽被(おおいかぶさ)った暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと崩立(くずれた)って、倒(さかさま)に高く淀川の空へ靡(なび)く。……
なびくに脈を打って、七筋ながら、処々(ところどころ)、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立てて渦(うずま)いた、その凄(すご)かった事と云ったら。
天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の大砲(おおづつ)が炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、夥多(あまた)の美人の、練衣(ねりぎぬ)、紅(くれない)の袴(はかま)が寸断々々(ずたずた)に、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、縺(もつ)れて乱れるよう、そして、倒(さかさま)に立ったのは、長(とこしえ)に消えぬ人々の怨恨(うらみ)と見えた。
大河(おおかわ)の両岸(りょうぎし)は、細い樹の枝に、薄紫の靄(もや)が、すらすら。蒼空(あおぞら)の下を、矢輻(やぼね)の晃々(きらきら)と光る車が、駈(か)けてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり暗澹(あんたん)として曇ったろう。
「ああ、あの雲だ。」
と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ商人家(あきんどや)の、軒の看板に隠れた城の櫓(やぐら)の、今は雲ばかりを、フト仰いだ。
が、俯向(うつむ)いて、足許(あしもと)に、二人連立つ影を見た。
「大丈夫だろうかね。」
「雷様ですか。」
男衆は逸早(いちはや)く心得て、
「串戯(じょうだん)じゃありませんぜ。何の今時……」
「そんなら可(い)いが、」
歩行(あるき)出す、と暗くなり掛けた影法師も、烈(はげ)しい人脚の塵に消えて、天満(てんま)筋の真昼間(まっぴるま)。
初阪は晴(はれ)やかな顔をした。
「凄(すご)かったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、陽炎(かげろう)のようなものが、ひらひらと、それが櫓の面(おもて)へかかると、何となく、※[火+發](ぱっ)と美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪が潜(ひそ)んで、滝のように動いていた。」
城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地|馴(な)れぬ足許は、ふらつくばかり危(あやぶ)まれたが、対手(あいて)が、しゃんと来いの男衆だけ、確(たしか)に引受けられた酔漢(よっぱらい)に似て、擦合い、行違う人の中を、傍目(わきめ)も触(ふ)らず饒舌(しゃべ)るのであった。
「時に、それについて、」
「あの、別嬪(べっぴん)の事でしょう。私たちが立停(たちど)まって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を視(なが)めていた、あれでしょう。……貴方(あなた)が(今のは!)ッて一件は。それ、奴(やっこ)を一人、お供に連れて、」
「奴を……十五六の小間使だぜ。」
「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田|髷(まげ)に白丈長(しろたけなが)をピンと刎(は)ねた、小凜々(こりり)しい。お約束でね、御寮人には附きものの小女(こおんな)ですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)えがく、というんですね。
何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪が怨(うら)みます。」
「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと癪(しゃく)だろうじゃないか。」
「はははは。」
「しかし縁のない事はない。そうして、熟(じっ)とあの、煙の中の凄(すご)い櫓を視(なが)めていると、どうだろう。
四五間|前(さき)に、上品な絵の具の薄彩色(うすさいしき)で、彳(たたず)んでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、矢狭間(やざま)とも思う窓から、顔を出して、こっちを覗(のぞ)いた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……
黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」 

「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……口惜(くや)しいが聞くんです。
実はね、昨夜(ゆうべ)、中座を見物した時、すぐ隣りの桟敷(さじき)に居たんだよ、今の婦人(おんな)は……」と頷(うなず)くようにして初阪は云う。
男衆はまた笑った。
「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今(ただいま)一見(いちげん)という顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」
「だって、住吉(すみよし)、天王寺も見ない前(さき)から、大阪へ着いて早々、あの婦(おんな)は?でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に躓(けつまず)いて転ぶようだから、痩我慢(やせがまん)で黙然(だんまり)でいたんだ。」
「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうど可(い)いからッて、わざと昨夜(ゆうべ)も、貴方(あなた)を隣桟敷へ御案内申したんです。
附込(つけこ)みでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人|芸妓(げいこ)が附いて。」
男衆の顔を見て、
「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」
また男衆は、こう聞かれるのを合点(がってん)したらしく頷(うなず)くのであった。
「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり昨夜(ゆうべ)御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の片辺(かたほとり)というのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだもの好(ずき)から、洒落(しゃれ)にまた鑑札を請けて、以前のままの、お珊(さん)という名で、新しく披露(ひろめ)をしました。」と質実(じみ)に話す。
「阪地(かみがた)は風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活(ていけ)にした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お庇(かげ)で土産にありついたという訳だ。」
「いいえ、隣桟敷の緋(ひ)の毛氈(もうせん)に頬杖(ほおづえ)や、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日(あさって)の晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の練(ねり)に出て、下げ髪、緋の袴(はかま)という扮装(なり)で、八年ぶりで練りますから。」
一言(ひとこと)、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を穿(うが)って響いた。
「何、下げ髪で、緋の袴?……」
「勿論一人じゃありません――確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を入髪(いれげ)なしに解(とき)ほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あの婦(おんな)ばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなに経(た)ちますけれども、私(わっし)あ今日も、つい近間で見て驚きました。
苦労も道楽もしたろうのに、雁金額(かりがねびたい)の生際(はえぎわ)が、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。
やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象を繋(つな)いで曳(ひ)きましょうよ。
旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたりしたいばかりに、素晴らしく派手を遣(や)って、披露(ひろめ)をしたんだって評判です。
その市女(いちめ)は、芸妓(げいこ)に限るんです。それも芸なり、容色(きりょう)なり、選抜(えりぬ)きでないと、世話人の方で出しませんから……まず選ばれた婦(おんな)は、一年中の外聞といったわけです。
その中のお職だ、貴方。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には、活(い)きた竜宮が顕(あらわ)れる、この住吉の宝市には、天人の素足が見えるって言います。一年中の紋日(もんび)ですから、まあ、是非お目に掛けましょう。
貴方、一目見て立(たち)すくんで、」
「立すくみは大袈裟(おおげさ)だね、人聞きが悪いじゃないか。」
「だって、今でさえ、悚然(ぞっと)なすったじゃありませんかね。」 

男衆の浮かせ調子を、初阪はなぜか沈んで聞く。……
「まったくそりゃ悚然(ぞっ)としたよ。ひとりでに、あの姿が、城の中へふいと入って、向直って、こっちを見るらしい気がした時は。
黒い煙も、お珊さんか、……その人のために空に被(かぶ)さったように思って。
天満の鉄橋は、瀬多の長橋ではないけれども、美濃(みの)へ帰る旅人に、怪しい手箱を託(ことづ)けたり、俵藤太(たわらとうだ)に加勢を頼んだりする人に似たように思ったのだね。
由来、橋の上で出会う綺麗な婦(おんな)は、すべて凄(すご)いとしてある。――
が、場所によるね……昨夜(ゆうべ)、隣桟敷で見た時は、同じその人だけれど、今思うと、まるで、違った婦(おんな)さ。……君も関東ものだから遠慮なく云うが、阪地(かみがた)の婦(おんな)はなぜだろう、生きてるのか、死んでるのか、血というものがあるのか知らん、と近所に居るのも可厭(いや)なくらい、酷(ひど)く、さました事があったんだから……」
「へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。」
「何、詰(つま)らんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、その連(つれ)の男に、好三昧(すきざんまい)にされてたからさ。」
「そこは妾(てかけ)ものの悲しさですかね。どうして……当人そんなぐうたらじゃない筈(はず)です。意地張(いじッぱ)りもちっと可恐(こわ)いような婦(おんな)でね。以前、芸妓(げいしゃ)で居ました時、北新地(きたのしんち)、新町(しんまち)、堀江が、一つ舞台で、芸較べを遣(や)った事があります。その時、南から舞で出ました。もっとも評判な踊手なんですが、それでも他(ほか)場所の姉さんに、ひけを取るまい。……その頃北に一人、向うへ廻わして、ちと目に余る、家元随一と云う名取りがあったもんですから、生命(いのち)がけに気を入れて、舞ったのは道成寺(どうじょうじ)。貴方、そりゃ近頃の見ものだったと評判しました。
能がかりか、何か、白の鱗(うろこ)の膚脱(はだぬ)ぎで、あの髪を颯(さっ)と乱して、ト撞木(しゅもく)を被(かぶ)って、供養の鐘を出た時は、何となく舞台が暗くなって、それで振袖の襦袢(じゅばん)を透いて、お珊さんの真白(まっしろ)な胸が、銀色に蒼味(あおみ)がかって光ったって騒ぎです。
そのかわり、火のように舞い澄まして楽屋へ入ると、気を取詰めて、ばったり倒れた。後見が、回生剤(きつけ)を呑まそうと首を抱く。一人が、装束の襟を寛(くつろ)げようと、あの人の胸を開けたかと思うと、キャッと云って尻持をついたはどうです。
鳩尾(みずおち)を緊(し)めた白羽二重(しろはぶたえ)の腹巻の中へ、生々(なまなま)とした、長いのが一|尾(ぴき)、蛇ですよ。畝々(うねうね)と巻込めてあった、そいつが、のッそり、」と慌(あわただ)しい懐手、黒八丈を襲(かさ)ねた襟から、拇指(おやゆび)を出して、ぎっくり、と蝮(まむし)を拵(こさ)えて、肩をぶるぶると遣って引込(ひっこ)ませて、
「鎌首を出したはどうです、いや聞いても恐れる。」とばたばたと袖を払(はた)く。
初阪もそれはしかねない婦(おんな)と見た。
「執念の深いもんだから、あやかる気で、生命(いのち)がけの膚(はだ)に絡(まと)ったというわけだ。」
「それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願が叶(かな)うと云います……咒詛(のろい)も、恋も、情(なさけ)も、慾(よく)も、意地張も同じ事。……その時|鳩尾(みずおち)に巻いていたのは、高津(こうづ)辺の蛇屋で売ります……大瓶(おおがめ)の中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。」
初阪は出所を聞くと悚然(ぞっ)とした。我知らず声を潜(ひそ)めて、
「知ッてる……生紙(きがみ)の紙袋(かんぶくろ)の口を結えて、中に筋張った動脈のようにのたくる奴(やつ)を買って帰って、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放すんだってね。」 

「ええ、そうですよ。その時、願事(ねがいごと)を、思込んで言聞かせます。そして袋の口を解(ほど)くと、にょろにょろと這出(はいだ)すのが、きっと一度、目の前でとぐろを巻いて、首を擡(もた)げて、その人間の顔を熟(じっ)と視(み)て、それから横穴へ入って隠れるって言います。
そのくらい念の入(い)った長虫ですから、買手が来て、蛇屋が貯えたその大瓶(おおがめ)の圧蓋(おしぶた)を外すと、何ですとさ。黒焼の註文の時だと、うじゃうじゃ我一(われいち)に下へ潜って、瓶の口がぐっと透く。……放される客の時だと、ぬらぬら争って頭を上げて、瓶から煙が立つようですって、……もし、不気味ですねえ。」
初阪は背後(うしろ)ざまに仰向(あおむ)いて空を見た。時に、城の雲は、賑(にぎや)かな町に立つ埃(ほこり)よりも薄かった。
思懸(おもいが)けず、何の広告か、屋根一杯に大きな布袋(ほてい)の絵があって、下から見上げたものの、さながら唐子(からこ)めくのに、思わず苦笑したが、
「昨日(きのう)もその話を聞きながら、兵庫の港、淡路島、煙突の煙でない処は残らず屋根ばかりの、大阪を一目に見渡す、高津の宮の高台から……湯島の女坂に似た石の段壇を下りて、それから黒焼屋の前を通った時は、軒から真黒(まっくろ)な氷柱(つらら)が下ってるように見えて冷(ひや)りとしたよ。一時(いっとき)に寒くなって――たださえ沸上(にえあが)り湧立(わきた)ってる大阪が、あのまた境内に、おでん屋、てんぷら屋、煎豆屋(いりまめや)、とかっかっぐらぐらと、煮立て、蒸立て、焼立てて、それが天火に曝(さら)されているんだからね――びっしょり汗になったのが、お庇(かげ)ですっかり冷くなった。但し余り結構なお庇ではないのさ。
大阪へ来てから、お天気続きだし、夜は万燈の中に居る気持だし、何しろ暗いと思ったのは、町を歩行(ある)く時でも、寝る時でも、黒焼屋の前を通った時と、今しがた城の雲を見たばかりさ。」
男衆は偶(ふ)と言(ことば)を挟んで、
「何を御覧なさる。」
「いいえね、今擦違った、それ、」
とちょっと振向きながら、
「それ、あの、忠兵衛の養母(おふくろ)といった隠居さんが、紙袋(かんぶくろ)を提げているから、」
「串戯(じょうだん)じゃありません。」
「私は例のかと思った、……」
「ありゃ天満の亀(かめ)の子煎餅(こせんべい)、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭(まじない)の蛇なんぞを、」
「ははあ、少(わか)いものでなくっちゃ、利かないかね。」
「そりゃ……色恋の方ですけれど……慾(よく)の方となると、無差別ですから、老年(としより)はなお烈しいかも知れません。
分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……誓文払(せいもんばらい)で、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別して賑(にぎわ)いまさ。
心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを発奮(はず)んで出しますんで、一番引当てよう了簡(りょうけん)で、禁厭(まじない)に蛇の袋をぶら下げて、杖を支(つ)いて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、白髪(しらが)で橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」 

男衆もちょっと町中(まちなか)を※[目+句](みまわ)した。
「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千|条(すじ)ですかね、黒焼屋の瓶(かめ)が空虚(から)になった事があるって言いますから。慾は可恐(おそろ)しい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞(ぶつか)らないとも限りませんよ。」
「それ!だから云わない事じゃない。」
内端(うちわ)ながら二ツ三ツ杖(ステッキ)を掉(ふ)って、
「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、通(とおり)も路地も、どの家も、かッと陽気に明(あかる)い中に、どこか一個所、陰気な暗い処が潜(ひそ)んで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の位牌(いはい)も、色も恋も罪も報(むくい)も、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、主(ぬし)になって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を昨日(きのう)聞いて、まざまざと爪立足(つまだちあし)で、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、新造(しんぞ)も年増も、何か下掻(したがい)の褄(つま)あたりに、一条(ひとすじ)心得ていそうでならない。
昨夜(ゆうべ)も、芝居で……」
男衆は思出したように、如才なく一ツ手を拍(う)った。
「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」
「まあ、お聞き――隣合った私の桟敷に、髪を桃割(ももわれ)に結って、緋の半襟で、黒繻子(くろじゅす)の襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、紬(つむぎ)か何か、絣(かすり)の羽織をふっくりと着た。ふさふさの簪(かんざし)を前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許(くちもと)の柔順(すなお)な、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい家(うち)の娘じゃないらしいのが、」
「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と仰有(おっしゃ)るし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと退(ど)けようッて空場(あな)も見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。
後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、逢阪下(おうざかしも)の辻――ええ、天王寺に行(ゆ)く道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いい娘(こ)ですね。」
それは初阪がはじめて聞く。
「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の厠(べんじょ)に番をしている、爺(じい)さんね、大どんつくを着た逞(たくま)しい親仁(おやじ)だが、影法師のように見える、太(ひど)く、よぼけた、」
「ええ、駕籠伝(かごでん)、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀(とし)の上に、身体(からだ)を投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」
「娘の、爺さんか父親(おやじ)なんだ。」
これは男衆が知らなかった。
「へい、」
「知らないのかい。」
「そうかも知れません、私(わっし)あ御存じの土地児(とちっこ)じゃないんですから、見たり、聞いたり、透切(すきぎれ)だらけで。へい、どうして、貴方?」
「ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜(ゆうべ)、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間(ひとま)、」
「そうですよ。」
「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手の通(とおり)の、竹格子だね、中座のは。……扉(ひらき)をツイと押して、出て来て、小さくなって、背後(うしろ)の廊下、お極(きま)りだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出して踞(しゃが)んだもんです。(旦那、この娘(こ)を一人願われませんでござりましょうか。内々(うちうち)のもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、貴下様(あなたさま)思召(おぼしめし)で、)と至って慇懃(いんぎん)です。
資本(もとで)は懸(かか)らず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」 

「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、溢(こぼ)れる八ツ口の、綺麗な友染(ゆうぜん)を、袂(たもと)へ、手と一所に推込(おしこ)んで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤い紐(ひも)を緊(し)めて、雪輪に紅梅模様の前垂(まえだれ)がけです。
それでも、幕が開いて芝居に身が入(い)って来ると、身体(からだ)をもじもじ、膝を立てて伸上って――背後(うしろ)に引込(ひっこ)んでいるんだから見辛いさね――そうしちゃ、舞台を覗込(のぞきこ)むようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりと瞼(まぶた)を染めて、ほっとなったのが、景気提灯(けいきぢょうちん)の下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心の中(うち)に惟(おも)えらく、光栄なるかな。
まあ、お聞きったら。
そりゃ可(よ)かったが、一件だ。」
「一件と……おっしゃると?」
「長いの、長いの。」
「その娘(こ)が、蛇を……嘘でしょう。」
「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。幕間(まくあい)にちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘の袂(たもと)の傍(わき)に、紙袋(かんぶくろ)が一つ出ています。
並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、大(おおい)に怯(ひる)んだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。
で、私は後へ引退(ひききが)った。ト娘の挿した簪(かんざし)のひらひらする、美しい総(ふさ)越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それも可(よし)さ。
所へ、さらさらどかどかです。荒いのと柔(やわらか)なのと、急ぐのと、入乱れた跫音(あしあと)を立てて、七八人。小袖幕で囲ったような婦(おんな)の中から、赫(かっ)と真赤(まっか)な顔をして、痩(や)せた酒顛童子(しゅてんどうじ)という、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長く露(あらわ)した服筒(ずぼん)を膝頭(ひざがしら)にたくし上げた、という妙な扮装(なり)で、その婦(おんな)たち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと発奮(はず)んで出て、どしんと、音を立てて躍込(おどりこ)んだのが、隣の桟敷で……
唐突(いきなり)、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんと支(つ)いた肱(ひじ)へ、頭を乗せて、自分で頸(くび)を掴(つか)んでも、そのまま仰向(あおむ)けにぐたりとなる、可(い)いかね。
顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分に睨(にら)み着けて、(何じゃい!)と一つ怒鳴(どな)る、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)と喚(わめ)いたんだ。
背後(うしろ)に、島田やら、銀杏返(いちょうがえ)しやら、累(かさな)って立った徒(てあい)は、右の旦那よりか、その騒ぎだから、皆(みんな)が見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。
この一喝を啖(くら)うと、べたべたと、蹴出(けだ)しも袖も崩れて坐った。
大切な客と見えて、若衆(わかいしゅ)が一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。人数(にんず)は六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分|肥(ふと)ったのも、一人ならずさ。
茶屋のがしきりに、小声で詫(わび)を云って叩頭(おじぎ)をしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)
まずい口真似だ、」
初阪は男衆の顔を見て微笑(ほほえ)んだが、
「そう云って、茶屋の男が、私に言(ことば)も掛けないで、その中でも、なかんずく臀(しり)の大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたその婦(おんな)が、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと裾埃(すそごみ)で前へ出て、正面|充満(いっぱい)に陣取ったろう。」 

「娘はこの肥満女(ふとっちょ)に、のしのし隅っこへ推着(おッつ)けられて、可恐(おそろ)しく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その身体(からだ)が、舞台と私との中垣になったもんだからね。可憐(いじら)しいじゃないか……
密(そっ)と横顔で振向いて、俯目(ふしめ)になって、(貴下(あんた)はん、見憎うおますやろ、)と云って、極(きま)りの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の詫言(わびごと)を一人でされた気がしたぜ。」
男衆は頭(つむり)を下げた。
「御道理(ごもっとも)で。」
「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりした眉(まみえ)を、嬉しそうに莞爾(にっこり)して、向うを向いたが、ちょっと白い指で圧(おさ)えながら、その花簪(はなかんざし)を抜いたはどうだい。染分(そめわけ)の総(ふさ)だけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。
(酒だ、酒だ。疾(はや)くせい、のろま!)とぎっくり、と胸を張反(はりそ)らして、目を剥(む)く。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げ皺(しわ)が揉上(もみあが)って筋だらけ。その癖、すぺりと髯(ひげ)のない、まだ三十くらい、若いんです。
(はいはい、たった今、直(じ)きに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は叩頭(おじぎ)をしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。
その御寮人と云われた、……旦那の背後(うしろ)に、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」
「へい、成程、背後(うしろ)に居ました。」
「お珊の方(かた)かね、天満橋で見た先刻(さっき)のだ。もっとも東の雛壇(ひなだん)をずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、容色(きりょう)は容色と見たけれども、歯痒(はがゆ)いほど意気地(いくじ)のない、何て腑(ふ)の抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……
いずれ妾(めかけ)だろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。
取巻きの芸妓(げいしゃ)たち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、突張(つッぱり)返った洋服の亡者|一個(ひとり)、掌(てのひら)に引丸(ひんまろ)げて、捌(さばき)を附けなけりゃ立ちますまい。
ところが不可(いけな)い。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)と喚(わめ)く――君の親方が立女形(たておやま)で満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一|人(にん)の形になって、啜泣(すすりな)きの声ばかり、誰が持った手巾(ハンケチ)も、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょり萎(しぼ)んで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ――(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、怪体(けたい)な!
舞台でも何を泣(ほ)えくさるんじゃい。かッと喧嘩(けんか)を遣れ、面白うないぞ!打殺(たたきころ)して見せてくれ。やい、腸(はらわた)を掴出(つかみだ)せ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと北叟笑(ほくそえ)みをする凄(すご)さと云ったら。……待てよ、この御寮人が内証(ないしょ)で情人(いろ)をこしらえる。嫉妬(しっと)でその妾の腸(はらわた)を引摺(ひきず)り出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。
可哀(あわれ)を留(とど)めたのは取巻連さ。
夢中になって、芝居を見ながら、旦那が喚(わめ)くたびに、はっとするそうで、皆(みんな)が申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前を塞(ふさ)いだ肥満女(ふとっちょ)も同じく遣った。
その癖、黙然(だんまり)でね、チトもしお静(しずか)に、とも言い得ない。
すると、旦那です……(馬鹿め、止(や)めちまえ、)と言いながら、片手づきの反身(そりみ)の肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へ突(つき)つけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を引掴(ひッつか)んで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう※[足へん+宛](もが)いて、引開(ひっぱだ)けようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かと開(はだ)けた、細い黄金鎖(きんぐさり)が晃然(きらり)と光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、婦(おんな)の膝を、洋服の尻へ掻込(かいこ)んだりと思うと、もろに凭懸(もたれかか)った奴が、ずるずると辷(すべ)って、それなり真仰向(まあおむ)けさ。傍若無人だ。」 

「膝枕をしたもんです。その野分(のわき)に、衣紋(えもん)が崩れて、褄(つま)が乱れた。旦那の頭は下掻(したがい)の褄を裂いた体(てい)に、紅入友染(べにいりゆうぜん)の、膝の長襦袢(ながじゅばん)にのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。
大蛇のような鼾(いびき)を掻(か)く。……妾(めかけ)はいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。
江戸児(えどっこ)だと、見たが可い!野郎がそんな不状(ぶざま)をすると、それが情人(いろ)なら簪(かんざし)でも刺殺す……金子(かね)で売った身体(からだ)だったら、思切って、衝(つっ)と立って、袖を払って帰るんだ。
処を、どうです。それなりに身を任せて、静(じっ)として、しかも入身(いれみ)に娜々(なよなよ)としているじゃないか。
掴寄(つかみよ)せられた帯も弛(ゆる)んで、結び目のずるりと下った、扱帯(しごき)の浅葱(あさぎ)は冷たそうに、提灯の明(あかり)を引いて、寂しく婦(おんな)の姿を庇(かば)う。それがせめてもの思遣(おもいや)りに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光(あおびかり)のする腸(はらわた)のように見えて、あわれに無慚(むざん)な光景(ようす)だっけ。」
「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか腑(ふ)に落ちぬらしく聞えたのである。
「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊(し)めた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯(しごき)が鎌首を擡(もた)げりゃ可(よ)かったのにさ。」
「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵(あおい)の上などという執着(しゅうぢゃく)の深いものは、立方(たちかた)禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦(おんな)ですが……金子(かね)の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」
「気の毒だね。」
「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧(ざんまい)、我儘(わがまま)を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」
「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体(からだ)を売って栄耀(えよう)栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」
「ですがね、」
と男衆は、雪駄(せった)ちゃらちゃら、で、日南(ひなた)の横顔、小首を捻(ひね)って、
「我儘も品(しな)によりまさ。金剛石(ダイヤモンド)や黄金鎖(きんぐさり)なら妾(めかけ)の身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。
自動車のプウプウも血の道に触(さわ)るか何かで、ある時なんざ、奴(やっこ)の日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、日中(ひなか)に時鳥(ほととぎす)を聞くんだ、という触込(ふれこ)みで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。
幇間(たいこもち)が先へ廻って、あの五重の塔の天辺(てっぺん)へ上って、わなわな震えながら雲雀笛(ひばりぶえ)をピイ、はどうです。
そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。
御堂(みどう)横から蓮(はす)の池へ廻る広場(ひろっぱ)、大銀杏(おおいちょう)の根方に筵(むしろ)を敷いて、すととん、すととん、と太鼓を敲(たた)いて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を半開(はんびらき)か何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、俳優(やくしゃ)の誰とかに肖(に)てるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとは優(まし)や。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。
その場から連れて戻って、否応(いやおう)なしに、旦(だん)を説付(ときつ)けて、たちまち大店(おおだな)の手代分。大道稼ぎの猿廻しを、縞(しま)もの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝を突(つッ)つく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」
初阪はこれを聞くと、様子が違って、
「さあ、事だよ!すると、昨夜(ゆうべ)のはその猿廻しだ。」 

「いや、黒服の狂犬(やまいぬ)は、まだ妾(めかけ)の膝枕で、ふんぞり返って高鼾(たかいびき)。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、前垂(まえだれ)がけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの狼藉(ろうぜき)が、まったく目に余ったんだ。
悪口(あっこう)吐(つ)くのに、(猿曳(さるひき)め、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、摺古木(すりこぎ)とか、獣(けだもの)めとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、銀杏(いちょう)の下の芸人に疑いない。
となると!……あの、婦(おんな)はなお済まないぜ。
自分の世話をした若手代が、目の前で、額を煙管(きせる)で打(ぶ)たれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」
「煙管で、へい?……」
「ああ、垂々(たらたら)と血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。
まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの芸妓(げいこ)一統、互(たがい)にほっとしたらしい。が、私に言わせりゃその徒(てあい)だって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も露出(あらわ)になるまで、石頭の拷問(ごうもん)に掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。
可(よ)しさ、それも。
と、そこへ、酒|肴(さかな)、水菓子を添えて運んで来た。するとね、円髷(まげ)に結(い)った仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。
さすがに、御寮人は、頭(かぶり)をちょっと振って受けなかった。
それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、美濃(みの)から近江(おうみ)、こちらの桟敷に溢(あふ)れてる大きなお臀(しり)を、隣から手を伸(のば)して猪口(ちょく)の縁(ふち)でコトコトと音信(おとづ)れると、片手で簪(かんざし)を撮(つま)んで、ごしごしと鬢(びん)の毛を突掻(つッか)き突掻き、ぐしゃりと挫(ひしゃ)げたように仕切に凭(もた)れて、乗出して舞台を見い見い、片手を背後(うしろ)へ伸ばして、猪口を引傾(ひっかたむ)けたまま受ける、注(つ)ぐ、それ、溢(こぼ)す。(わややな、)と云う。
そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけに始(はじま)ったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。
しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、皆(みんな)が夢中で遣る事なんだ。
憎いのは一人|狂犬(やまいぬ)さ。
やっと静まったと思う間もない。
(酒か、)と喚(わめ)くと、むくむくと起(おき)かかって、引担(ひっかつ)ぐような肱(ひじ)の上へ、妾の膝で頭を載せた。
(注げ!馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと掻喫(かっくら)う処へ、……色の白い、ちと纎弱(ひよわ)い、と云った柄さ。中脊の若いのが、縞(しま)の羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんと支(つ)いた。
(何や、)と一ツ突慳貪(つッけんどん)に云って睨(にら)みつけたが、低声(こごえ)で、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で呼吸(いき)をしながら、目を瞑(ねむ)って、真仰向けに聞いたもんです。
(旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(判然(はっきり)ぬかしおれ。何や?番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)と嘲(あざ)けるような、あの、凄(すご)い笑顔(わらいがお)。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉を顰(しか)めて、唇を引結(ひんむす)ぶと、グウグウとまた鼾(いびき)を掻出す。
いや、しばらく起きない。
若手代は、膝へ手を支(つ)いたなり、中腰でね、こう困ったらしく俯向(うつむ)いたッきり。女連は、芝居に身が入(い)って言(ことば)も掛けず。
その中(うち)に幕が閉(しま)った。
満場わッと鳴って、ぎっしり詰(つま)ったのが、真黒(まっくろ)に両方の廊下へ溢れる。
しばらくして、大分|鎮(しず)まった時だった。幕あきに間もなさそうで、急足(いそぎあし)になる往来(ゆきき)の中を、また竹の扉(ひらき)からひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。
(はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」 
十一
「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女(ふとっちょ)の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女(あんた)、極(きまり)が悪いやろ。そしたら私(わし)が方へ来て食(あが)りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々(にこにこ)笑う、気の可(い)い男さ。(太(えら)いお邪魔にござります。)と、屈(かが)んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退(ひきさが)った。
娘がね、仕切に手を支(つ)くと、向直って、抜いた花簪(はなかんざし)を載せている、涙に濡れた、細(ほっそ)り畳んだ手拭(てぬぐい)を置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ煽(あお)ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……
私は煙草(たばこ)がなくなったから、背後(うしろ)の運動場(うんどうば)へ買いに出た。
余り見かねたから、背後(うしろ)向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬(やまいぬ)はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。
西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直(すわりなお)している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の入(い)った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。
風は冷(つめた)し、呼吸(いき)ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、喫(ふ)かしながら、堅い薄縁(うすべり)の板の上を、足袋の裏|冷々(ひやひや)と、快(い)い心持で辷(すべ)らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違(はすかい)に薄暗い便所が見えます。
そのね、手水鉢(ちょうずばち)の前に、大(おおき)な影法師見るように、脚榻(きゃたつ)に腰を掛けて、綿の厚い寝(ね)ン寝子(ねこ)で踞(うずくま)ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」
「ぼけましたよ、ええ、裟婆気(しゃばっけ)な駕籠屋でした。」
「まったくだね、股引(ももひき)の裾をぐい、と端折(はしょ)った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの圧(おし)に打たれて、猫背にへたへたと滅入込(めいりこ)んで、臍(へそ)から頤(おとがい)が生えたようです。
十四五枚も、堆(うずたか)く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭(てふ)きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、潰(つぶ)れた古無尽(ふるむじん)の帳面の亡者にそっくり。
一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。
小さな銀貨を一個(ひとつ)握(にぎ)らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有(ありがと)、難有、難有、)と懐中(ふところ)へ頤(あご)を突込(つッこ)んで礼をするのが、何となく、ものの可哀(あわれ)が身に染みた。
その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡(いねむ)りか、と思うと悶(もが)いたんだ。仰向(あおむ)けに反(そ)って、両手の握拳(にぎりこぶし)で、肩を敲(たた)こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。
うん、と云う。
や、老人(としより)の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座(げざ)の三味線(さみせん)が、ト手首を口へ取って、湿(しめり)をくれたのが、ちらりと見える。
どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。
突然(いきなり)、爺様(じいさん)の背中へ掴(つか)まると、手水鉢の傍(わき)に、南天の実の撓々(たわたわ)と、霜に伏さった冷い緋鹿子(ひがのこ)、真白(まっしろ)な小腕(こがいな)で、どんつくの肩をたたくじゃないか。
青苔(あおごけ)の緑青(ろくしょう)がぶくぶく禿(は)げた、湿った貼(のり)の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸(よっかか)って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐(なつかし)く熟(じっ)と視(み)た。
そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の猿廻(さるまわし)。」 
十二
「急いで手拭を懐中(ふところ)へ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後(あとさき)を※[目+句](みまわ)した、……私は書割の山の陰に潜(ひそ)んでいたろう。
誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣(おしや)って、手代が自分で、爺様(じいさん)の肩を敲(たた)き出した。
二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」
「ほう、」
と唐突(だしぬけ)に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。
「私は旅行(たび)をした効(かい)があると思った。
声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が肯(き)かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと頷(うなず)く風でね、老年(としより)を勦(いたわ)る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の扉(ひらき)を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。
私も帰った。
間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖(けんぺき)は解(ほぐ)れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝(つきひざ)、以前(もと)のごとし。……
真中(まんなか)へ挟(はさま)った私を御覧。美しい絹糸で、身体(からだ)中かがられる、何だか擽(くすぐった)い気持に胸が緊(しま)って、妙に窮屈な事といったらない。
狂犬(やまいぬ)がむっくり、鼻息を吹直した。
(柿があるか、剥(む)けやい、)と涎(よだれ)で滑々(ぬらぬら)した口を切って、絹も膚(はだ)にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤(まっか)な目を※[目+爭](みひら)くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(何(なん)しとる?汝(わり)ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。
(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定|欲(ほし)い、と取りに来た金子(かね)なら、払うてやるは知れた事や。何|吐(ぬか)す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで敲(たた)きつけろ、と番頭にそう吐(ぬ)かせ。)
(はい、)と、手を支(つ)く。
(さっさと去(い)ね、こない場所へのこのこと面出しおって、何(なん)さらす、去ねやい。)
(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を揉(も)みながら、手代が立って、五足ばかり行(ゆ)きかかると、
(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。
(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を支(つ)くと、婦(おんな)の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子(かね)くれい、と使が来て店で待つじゃな。人|寄越(よこ)いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」
「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」
「そうかね、(丸官は催促されて金子(かね)出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒(げいこてあい)の顔をずらりと見渡すと、例の凄(すご)いので嘲笑(あざわら)って、軍鶏(しゃも)が蹴(け)つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人|剥(む)いていた柿を引手繰(ひったく)る、と仕切に肱(ひじ)を立てて、頤(あご)を、新高(しんたか)に居るどこかの島田|髷(まげ)の上に突出して、丸噛(まるかじ)りに、ぼりぼりと喰(くい)かきながら、(留(や)めちまえ、)と舞台へ喚(わめ)く。
御寮人は、ぞろりと褄(つま)を引合せる。多一は、その袖の蔭に、踞(うずくま)っていたんだね。
するとね、くいほじった柿の核(たね)を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。
(鉄砲|打(ぶ)て、戦争|押始(おっぱじ)めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、尖(とが)った顔をして、じろりと多一を睨(にら)みつけた。
(何しとる、うむ、)と押潰(おしつぶ)すように云います。
(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行(ある)き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。
(丁稚々々(でっちでっち)、)と今度は云うのさ。」
聞く男衆は歎息した。
「難物ですなあ。」 
十三
「それからの狂犬(やまいぬ)が、条理(すじ)違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。
(汝(わり)ゃ、はいはいで、用を済まいた顔色(がんしょく)で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や!払うな、と俺が吩咐(いいつ)けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子(かね)を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と大(おおき)な声して、(端金子(はしたがね)、)で、底力を入れて塗(なす)りつけるように声を密(ひそ)めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ!大白痴(おおたわけ)、その位な事が分らんか。)
で、また追立(おった)てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。
(分ったか、何、分った、偉い!出来(でか)す、)と云ってね、ふふん、と例の厭(いや)な笑方(わらいかた)をして、それ、直ぐに芸妓連(げいこれん)の顔をぎょろり。
(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌(しゃべ)れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向(あおむ)けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管(きんぎせる)を握って、立続けに、ふかふか吹かす。
(判然(はっきり)言え、判然、ちゃんと口上をもって吐(ぬ)かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子(かね)を払え?……黙れ!沙汰過ぎた青二才、)と可恐(おそろし)い顔になった。(誰が?)と吠(ほ)えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!
丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに揺(ゆす)り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い奴(やち)や。主人のものだとたかを括(くく)って、大金を何の糟(かす)とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)
と言う。
目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退(すさ)って廊下へ手を支(つ)くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、汝(わり)ゃ動くな。)とまた柿を引手繰(ひったく)って、かツかツと喰いかきながら、(止(や)めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。
(旦那様、旦那様、)多一が震声(ふるえごえ)で呼んだと思え。
(早いな、汝(われ)がような下根(げこん)な奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処(たちどころ)は偉い。俺(おれ)を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美(ほうび)を遣る。そりゃ頂け、)と柿の蔕(へた)を、色白な多一の頬へたたきつけた。
(もし、御寮人様、)と熟(じっ)と顔を見て、(どうしましたら宜(よろ)しいのでございましょう、)と縋(すが)るようにして言ったか言わぬに、(猿曳(さるひき)め、汝(われ)ゃ、婦(おんな)に、……畜生、)と喚(わめ)くが疾(はや)いか、伸掛(のしかか)って、ピシリと雁首(がんくび)で額を打(ぶ)ったよ。羅宇(らう)が真中(まんなか)から折れた。
こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。
芸妓達も一時(いっとき)に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が圧(おさ)えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子(ようす)には弱ったね。おまけに知らない振(ふり)をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。
私は、ふいと立って、部屋へ帰った。
傍(そば)に居ちゃ、もうこっちが撮出(つまみだ)されるまでも、横面(よこつら)一ツ打挫(うちひしゃ)がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合(とっくみあ)った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。
頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。
その婦(おんな)だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」
「もし、もし、」
と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。 
十四
歩行(ある)くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直(まっすぐ)に見渡す。――狭いが、群集(ぐんじゅ)の夥(おびただ)しい町筋を、斜めに奴(やっこ)を連れて帰る――二個(ふたつ)、前後(あとさき)にすっと並んだ薄色の洋傘(こうもり)は、大輪の芙蓉(ふよう)の太陽(ひ)を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。
水打った地(つち)に、裳(もすそ)の綾(あや)の影も射(さ)す、色は四辺(あたり)を払ったのである。
「やあ、居る……」
と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、累(かさな)り合って露店もあり。軒にも、路にも、透間(すきま)のない人立(ひとだち)したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見|赤毛布(あかげっと)のその風采(ふう)で、慌(あわただ)しく(居る、)と云えば、件(くだん)の婦(おんな)に吃驚(びっくり)した事は、往来(ゆきき)の人の、近間なのには残らず分った。
意気な案内者|大(おおい)に弱って、
「驚いては不可(いけ)ません。天満の青物市です。……それ、真正面(まっしょうめん)に、御鳥居を御覧なさい。」
はじめて心付くと、先刻(さっき)視(なが)めた城に対して、稜威(みいず)は高し、宮居(みやい)の屋根。雲に連なる甍(いらか)の棟は、玉を刻んだ峰である。
向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽(ひおおい)の葭簀(よしず)を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も婦(おんな)も、折から市人(いちびと)の服装(なり)は皆黒いのに、一ツ鮮麗(あざやか)に行(ゆ)く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。
「音に聞いた天満の市へ、突然(いきなり)入ったから驚いたんです。」
「そうでしょう。」
擦違(すれちが)った人は、初阪(もの)の顔を見て皆|笑(わらい)を含む。
両人(ふたり)は苦笑した。
「ほっこり、暖(あったか)い、暖い。」
蒸芋(ふかしいも)の湯気の中に、紺の鯉口(こいぐち)した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。
「おでんや、おでん!」
「饂飩(うどん)あがんなはらんか、饂飩。」
「煎餅(せんべい)買いなはれ、買いなはれ。」
鮨(すし)の香気(かおり)が芬(ぷん)として、あるが中に、硝子戸越(ガラスどごし)の紅(くれない)は、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦(えび)であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪(かぶら)と見た。……頬被(ほおかむり)したお百姓、空籠(からかご)荷(にの)うて行違(ゆきちが)う。
軒より高い競売(せり)もある。
傘(からかさ)さした飴屋(あめや)の前で、奥深い白木の階(きざはし)に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途(ゆくて)へ、今大鳥居を潜(くぐ)るよと見た、見る目も彩(あや)な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病(きやみ)の床を小春日和(こはるびより)に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯(しごき)で褄(つま)取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々(しずしず)と拾ったのが、たちまち電(いなずま)のごとく、颯(さっ)と、照々(てらてら)とある円柱(まるばしら)に影を残して、鳥居際から衝(つ)と左へ切れた。
が、目にも留まらぬばかり、掻消(かきけ)すがごとくに見えなくなった。
高く競売屋(せりうりや)が居る、古いが、黒くがっしりした屋根|越(ごし)の其方(そなた)の空、一点の雲もなく、冴(さ)えた水色の隈(くま)なき中に、浅葱(あさぎ)や、樺(かば)や、朱や、青や、色づき初(そ)めた銀杏の梢(こずえ)に、風の戦(そよ)ぐ、と視(なが)めたのは、皆見世ものの立幟(たてのぼり)。
太鼓に、鉦(かね)に、ひしひしと、打寄する跫音(あしおと)の、遠巻きめいて、遥(はるか)に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数(にんず)。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜(よ)をかけた、大阪中の賑(にぎわ)いである。 
十五
「御覧なさい、これが亀の池です。」
と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために架(か)けたと云うより、築山(つきやま)の景色に刻んだような、天満宮(てんまんぐう)の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は視(み)ないで、向う岸へ外(そ)れた。
階(きざはし)を昇って跪(ひざまず)いた時、言い知らぬ神霊に、引緊(ひきしま)った身の、拍手(かしわで)も堅く附着(くッつい)たのが、このところまで退出(まかんで)て、やっと掌(たなそこ)の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳(たたず)んだのを見たのであった。
麩(ふ)でも投げたか、奴(やっこ)と二人で、同じ状(さま)に洋傘(こうもり)を傾けて、熟(じっ)と池の面(おも)を見入っている。
初阪は、不思議な物語に伝える類(たぐい)の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕(たちあらわ)れた、世にも凄(すご)いまで美しい婦(おんな)の手から、一通|玉章(たまずさ)を秘めた文箱(ふばこ)を託(ことずか)って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人(たおやめ)が受取りに出たような気がしてならぬ。
しかもそれは、途中|互(たがい)にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑(いんしん)、心斎橋(しんさいばし)、高麗橋(こうらいばし)と相並ぶ、天満の町筋を徹(とお)してであるにもかかわらず、説き難き一種|寂寞(せきばく)の感が身に迫った。参詣群集(さんけいぐんじゅ)、隙間のない、宮、社(やしろ)の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中(ひなか)は分けて見る事がおりおりある。
ちょうど池の辺(ほとり)には、この時、他に人影も見えなかった。……
橋の上に小児(こども)を連れた乳母が居たが、此方(こなた)から連立って、二人が行掛(ゆきかか)った機会(しお)に、
「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方(かた)へ徐々(そろそろ)帰った。その状(さま)が、人間界へ立帰るごとくに見えた。
池は小さくて、武蔵野の埴生(はにゅう)の小屋が今あらば、その潦(にわたずみ)ばかりだけれども、深翠(ふかみどり)に萌黄(もえぎ)を累(かさ)ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔(こけ)滑(なめらか)。牡丹(ぼたん)を彫らぬ欄干も、巌(いわお)を削った趣(おもむき)がある。あまつさえ、水底(みなぞこ)に主(ぬし)が棲(す)む……その逸するのを封ずるために、雲に結(ゆわ)えて鉄(くろがね)の網を張り詰めたように、百千の細(こまか)な影が、漣(ささなみ)立(た)って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満(みちみち)た亀なのであった。
枯蓮(かれはす)もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄(いおう)ヶ島の赤蜻蛉(あかとんぼ)。
鯡鯉(ひごい)の背は飜々(ひらひら)と、お珊の裳(もすそ)の影に靡(なび)く。
居たのは、つい、橋の其方(そなた)であった。
半襟は、黒に、蘆(あし)の穂が幽(かすか)に白い、紺地(こんのじ)によりがらみの細い格子、お召縮緬(めしちりめん)の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
髪の艶(つや)も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽(いちらく)らしいくすんだ中に、晃々(きらきら)と冴(さ)えがある、きっぱりした地の藍鼠(あいねずみ)に、小豆色(あずきいろ)と茶と紺と、すらすらと色の通った縞(しま)の乱立(らんたつ)。
蒼空(あおぞら)の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅(くれない)に、茶は萌黄(もえぎ)に、紺は紫の隈(くま)を染めて、明(あかる)い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年|古(ふ)る池に、ただその、すらりと雪を束(つか)ねたのに、霧ながら木(こ)の葉に綾(あや)なす、虹(にじ)を取って、細く滑(なめら)かに美しく、肩に掛けて背に捌(さば)き、腰に流したようである。汀(みぎわ)は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
光線は白かった。 
十六
その艶(えん)なのが、女(め)の童(わらわ)を従えた風で、奴(やっこ)と彳(たたず)む。……汀に寄って……流木(ながれぎ)めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗(こけまみ)れに生簀(いけす)の蓋(ふた)のように見えるのがあった。日は水を劃(くぎ)って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
それへ、ほかほかと甲(こうら)を干した、木(こ)の葉に交って青銭の散った状(さま)して、大小の亀は十(と)ウ二十、磧(かわら)の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――
いずれ一度は擒(とりこ)となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔|売買(うりかい)をされたという黒奴(くろんぼ)の男女(なんにょ)を思出させる。島、海、沢、藪(やぶ)をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜(やみ)には潜(ひそ)んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
故郷(ふるさと)なる、何を見るやら、向(むき)は違っても一つ一つ、首を据えて目を※[目+爭](みは)る。が、人も、もの言わず、活(いき)ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽(かすか)に、えへん、と咳払(せきばらい)をしそうで寂(さみ)しい。
一頭(ひとつ)、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反(そ)って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉(ひと)しく、絹糸の虹を視(なが)めたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭(もた)れて低声(こごえ)で云う。あえて忍音(しのびね)には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直(じか)に話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、魚(うお)じゃ鯔(ぼら)の面色(かおつき)が瓜二つだよ。」
その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から潜出(もぐりだ)して、一つ水の中から顕(あらわ)れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
成程、たらたらと漆(うるし)のような腹を正的(まとも)に、甲(こうら)に濡色の薄紅(うすべに)をさしたのが、仰向(あおむ)けに鰓(あぎと)を此方(こなた)へ、むっくりとして、そして頭の尖(さき)に黄色く輪取った、その目が凸(なかだか)にくるりと見えて、鱗(うろこ)のざらめく蒼味(あおみ)がかった手を、ト板の縁(ふち)へ突張(つッぱ)って、水から半分ぬい、と出た。
「大将、甲羅(こうら)干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張(ふんば)った。が、力足らず、乗出した勢(いきおい)が余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、不可(いけな)い。」
たちまち猛然としてまた浮いた。
で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上(のしあ)げる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷(すべ)った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
汀のお珊は、褄(つま)をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田(やっこしまだ)は、洋傘(こうもり)を畳んで支(つ)いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇(てびさし)して覗込(のぞきこ)む。
この度は、場処を替えようとするらしい。
斜(ななめ)に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹(さお)で操るがごとくになって、夥多(あまた)の可(いい)心持に乾いた亀の子を、カラカラと載(の)せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟(じっ)として嚔(くしゃみ)したもの一つない。
板の一方は細いのである。
そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込(かかえこ)めそうに見えた。
いや、困った事は、重量(おもみ)に圧(お)されて、板が引傾(ひっかたむ)いたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、串戯(じょうだん)じゃない。しっかり頼むぜ。」
と、男衆は欄干をトントン叩く。
あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛(かか)った。と思うと、ずぼりと出る。
「蛙(かわず)だと青柳硯(あおやぎすずり)と云うんです。」
「まったくさ。」 
十七
けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、惜(おし)い。」
男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
と言う間もなかった。
この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺(ゆら)ぐばかり力が入って、その手を扁平(ひらた)く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って伸上(のしあが)るんです、や、や、どッこい。やれ情(なさけ)ない。」
ざぶりと他愛(たわい)なく、またもや沈む。
男衆が時計を視(み)た。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々(そろそろ)帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛(かか)るかも知れませんから。」
「妙に残惜(のこりおし)いようだよ。」
男衆は、汀(みぎわ)の婦(おんな)にちょいと目を遣って、密(そっ)と片頬笑(かたほおえみ)して声を潜(ひそ)めた。
「串戯(じょうだん)じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄(うっす)りと美しい五色の霧が、冷々(ひやひや)と掛(かか)るようです。……変に凄(すご)いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会(はずみ)に、黒雲を捲起(まきおこ)して、震動雷電……」
「さあ、出掛けよう。」
二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央(なかば)から取って返す。
やがて、渡果(わたりは)てようとした時である。
「ちょっと、ちょっと。」
と背後(うしろ)から、優(やさし)いが張(はり)のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細(しさい)なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。
袖を合せて、前後(あとさき)に、ト斉(ひと)しく振返ると、洋傘(こうもり)は畳んで、それは奴(やっこ)に持たした。縺毛(もつれげ)一条(ひとすじ)もない黒髪は、取って捌(さば)いたかと思うばかり、痩(やせ)ぎすな、透通るような頬を包んで、正面(まとも)に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉(のど)が細かった。
「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。
奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。
「そうどす。」と判然(はっきり)云って莞爾(にっこり)する、瞼(まぶた)に薄く色が染まって、類(たぐい)なき紅葉(もみじ)の中の俤(おもかげ)である。
「一遍お待ちやす……思(おもい)を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私(あて)が手伝うさかいな。」
猶予(ためら)いあえず、バチンと蓮(はす)の果(み)の飛ぶ音が響いた。お珊は帯留(おびどめ)の黄金(きん)金具、緑の照々(きらきら)と輝く玉を、烏羽玉(うばたま)の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染(ゆうぜん)を柔(やわらか)な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に突張(つッぱ)ってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、縋(すが)れよ、引かむ、とすらりと投げた。
帯留は、銀(しろがね)の曇ったような打紐(うちひも)と見えた。
その尖(さき)は水に潜(くぐ)って、亀の子は、ばくりと紐を噛(か)む、ト袖口を軽く袂(たもと)を絞った、小腕(こかいな)白く雪を伸べた。が、重量(おもみ)がかかるか、引く手に幽(かすか)に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸(うなじ)、膚(はだ)に白い処は云うまでもない、袖、褄(つま)の、艶(えん)に色めく姿、爪尖(つまさき)まで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。 
十八
池の面(おも)は、蒼(あお)く、お珊の唇のあたりに影を籠(こ)めた。
風少し吹添って、城ある乾(いぬい)の天(そら)暗く、天満宮の屋の棟が淀(どんよ)り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟(のぼり)の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠(かす)めて。……この水のある空ばかり、雲に硝子(がらす)を嵌(は)めたるごとく、美女(たおやめ)の虹(にじ)の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木(こ)の葉は淡く、松の影が颯(さっ)と濃い。
打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕(かいな)の色ながら、しろじろと鱗(うろこ)が光って、その友染に搦(から)んだなりに懐中(ふところ)から一条(ひとすじ)の蛇(くちなわ)の蜿(うね)り出た、思いかけず、ものの凄(すさま)じい形になった。
「あ、」
と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜(くわ)えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。
奴(やっこ)はじりじりと後に退(すさ)った。
お珊は汀(みぎわ)にすっくと立った。が、血が留って、俤(おもかげ)は瑪瑙(めのう)の白さを削ったのであった。
この婦(おんな)が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。
日も待たず、その翌(あけ)の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が昨夜(ゆうべ)芝居で振舞った、酒の上の暴虐(ぼうぎゃく)の負債(おいめ)を果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。金屏風(きんびょうぶ)を引繞(ひきめぐ)らした、四海(しかい)波(なみ)静(しずか)に青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶(めちょうおちょう)の長柄(ながえ)を取って、橘(たちばな)活(い)けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。
晴の装束は、お珊が金子(かね)に飽(あ)かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。
まず上席のお美津を謂(い)おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰(つぶ)し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬(ひぢりめん)のかけおろし。橘に実を抱かせた笄(こうがい)を両方に、雲井の薫(かおり)をたきしめた、烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)。朱総(しゅぶさ)の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞(うすがすみ)、朱鷺色絹(ときいろぎぬ)に白い裏、膚(はだえ)の雪の紅(くれない)の襲(かさね)に透くよう媚(なまめ)かしく、白の紗(しゃ)の、その狩衣を装い澄まして、黒繻子(くろじゅす)の帯、箱文庫。
含羞(はなじろ)む瞼(まぶた)を染めて、玉の項(うなじ)を差俯向(さしうつむ)く、ト見ると、雛鶴(ひなづる)一羽、松の羽衣|掻取(かいと)って、曙(あけぼの)の雲の上なる、宴(うたげ)に召さるる風情がある。
同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏(おもぶせ)そうな、多一は浅葱紗(あさぎしゃ)の素袍(すおう)着て、白衣(びゃくえ)の袖を粛(つつ)ましやかに、膝に両手を差置いた。
前なるお美津は、小鼓に八雲琴(やくもごと)、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵(きんまきえ)に銀鋲(ぎんびょう)打った欄干づき、輻(やぼね)も漆の車屋台に、前囃子(まえばやし)とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。
後囃子(あとばやし)が、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児(ちご)ばかり、すり鉦(がね)に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。
二人を前に、銚子(ちょうし)を控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の装(よそおい)は、また立勝(たちまさ)って目覚しや。 
十九
宝の市の屋台に付いて、市女(いちめ)また姫とも称(とな)うる十二人の美女が練る。……
練衣(ねりぎぬ)小袿(こうちぎ)の紅(くれない)の袴(はかま)、とばかりでは言足らぬ。ただその上下(うえした)を装束(そうぞ)くにも、支度の夜は丑満(うしみつ)頃より、女紅場(じょこうば)に顔を揃えて一人々々|沐浴(ゆあみ)をするが、雪の膚(はだえ)も、白脛(しろはぎ)も、その湯は一人ずつ紅(べに)を流し、白粉(おしろい)を汲替(くみか)える。髪を洗い、櫛(くし)を入れ、丈より長く解捌(ときさば)いて、緑の雫(しずく)すらすらと、香枕(こうまくら)の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結(もとゆい)に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣(からごろも)を着け、袴を穿(は)くと、しらしらと早や旭(あさひ)の影が、霧を破って色を映す。
さて住吉の朝ぼらけ、白妙(しろたえ)の松の樹(こ)の間を、静々と詣(もう)で進む、路の裳(もすそ)を、皐月御殿(さつきごてん)、市(いち)の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……
その市の姫十二人、御殿の正面に揖(ゆう)して出(い)づれば、神官、威儀正しく彼処(かしこ)にあり。土器(かわらけ)の神酒(みき)、結び昆布。やがて檜扇(ひおうぎ)を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄(もえぎ)や、金銀の縫箔(ぬいはく)光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢(こずえ)を繞(めぐ)る松林(しょうりん)に日の射(さ)す中に、一列に並居(なみい)る時、巫子(みこ)するすると立出(たちい)でて、美女の面(おもて)一(いち)人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛(まゆずみ)を描く、と聞く。
素顔の雪に化粧して、皓歯(しらは)に紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴(もくよく)に、美しき膚(はだ)を衆に抽(ぬ)き、解き揃えた黒髪は、夥間(なかま)の丈を圧(おさ)えたけれども、一人|渠(かれ)は、住吉の式に連(つらな)る事をしなかった。
間際に人が欠けては事が済まぬ。
世話人一同、袴腰を捻返(ねじかえ)して狼狽(うろた)えたが、お珊が思うままな金子(かね)の力で、身代りの婦(おんな)が急に立った。
で、これのみ巫女(みこ)の手を借りぬ、容色(きりょう)も南地(なんち)第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅(ささべに)の口許(くちもと)に美しく微笑(ほほえ)んだ。
「多一さん、美津(みい)さん、ちょっと、どないな気がおしやす。」
唐織衣(からおりごろも)に思いもよらぬ、生地(きじ)の芸妓(げいこ)で、心易げに、島台を前に、声を掛ける。
素袍の紗(しゃ)に透通る、燈(ともし)の影に浅葱(あさぎ)とて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色(おももち)だった。
「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を襲(かさ)ねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。
「御寮人様。」
と手を下げて、
「何も、何も、私(わたくし)は申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、笞(しもと)の疵(きず)に、無慚(むざん)な繃帯(ほうたい)。
お珊は黒目がちに、熟(じっ)と※[目+爭](みは)って、
「ほんに、そう云うたら夢やな。」
と清らかな襖(ふすま)のあたり、座敷を衝(つ)と※[目+句](みまわ)した。
ト柱、襖(ふすま)、その金屏風に、人の影が残らず映った。
映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色(ときいろ)に、二人の烏帽子、素袍、狩衣、彩(あや)あるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条(ひとすじ)長く、横雲掛けて見えたのである。 
二十
時に、間(ま)を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と斉(ひと)しく、毛氈(もうせん)を聯(つら)ねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児(ちご)が通り、前囃子(まえばやし)の屋台を挟(さしはさ)んで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇(ひおうぎ)取って練る約束の、我(おの)がお珊の、市随一の曠(はれ)の姿を見ようため、芸妓(げいこ)、幇間(たいこもち)をずらりと並べて、宵からここに座を構えた。
が、その座敷もまだ寂寞(ひっそり)して、時々、階子段(はしごだん)、廊下などに、遠い跫音(あしおと)、近く床しき衣摺(きぬずれ)の音のみ聞ゆる。
お珊は袖を開き、居直って、
「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」
と、※[「藹」の「言」に代えて「月」]丈(ろうた)けた黛(まゆずみ)、恍惚(うっとり)と、多一の顔を瞻(みまも)りながら、
「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度(さかずき)やさかい、ああした我(わが)ままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合(うけお)うて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。
美津(みい)さん、」
と娘の前髪に、瞳を返して、
「不思議な御縁やな。ほほ、」
手を口許に翳(かざ)したが、
「こう云うたかて、多一さんと貴女(あんた)とは、前世から約束したほど、深い交情(なか)でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
思うてみれば、一昨日(おととい)の夜(よ)さり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会(じょうらくえ)にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
一見(いちげん)でこうなった。
貴女(あんた)な、ようこそ、芝居の裏で、お爺(じい)はんの肩|摺(さす)って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条(ひとくさり)なと、可愛い可愛い女房(おかみ)はんに、沢山(たんと)芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取(くみと)って、鶉(うずら)へ嬉々(いそいそ)お帰りやした、貴女の優しい、仇気(あどけ)ない、可愛らしさも身に染みて。……
私はな、丸官はんに、軋々(ぎしぎし)と……四角な天窓(あたま)乗せられて、鶉の仕切も拷問(ごうもん)の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節(みふし)も弛(ゆる)んで、恍惚(うっとり)するまで視(なが)めていた。あの………扉(ひらき)の、お仕置場らしい青竹の矢来(やらい)の向うに……貴女等(あんたたち)の光景(ようす)をば。――
悪事は虎の千里走る、好(い)い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女(あんた)二人は孝行の徳、恋の功(てがら)、恩愛の報(むくい)だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘(こ)さん、御両親(おふたおや)は、どちらも行方(ゆきがた)知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
天満の天神様へ行た、その帰途(かえり)に、つい虚気々々(うかうか)と、もう黄昏(たそがれ)やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使の間(ま)をちょっと逢いに寄って、町並|灯(あかり)の点(とも)された中に、その店だけは灯(ひ)もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」 
二十一
小指を外(そ)らして指の輪を、我目の前(さき)へ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭(まじない)であるようにした。
「密々(ひそひそ)、話していやはったな。……そこへ、私が行合(ゆきあ)わせたも、この杯の瑞祥(ずいしょう)だすぜ。
ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯(しょたい)持ってそこから本店(ほんだな)へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行(ゆ)かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否(いや)は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津(みい)さんが、あの、嬉しそうなえ。
どうや、九太夫(くだゆう)はん。」
と云った、お珊は、密(そっ)と声を立てて、打解けた笑顔になった。
多一は素袍の浅葱(あさぎ)を濃く、袖を緊(し)めて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、貴下(あんた)、そうむつかしゅうせずと、胡坐(じょうら)組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍(そば)に居るのやない、この一月は籍のある、富田屋(とんだや)の以前の芸妓(げいこ)、そのつもりで酌をするのえ。
仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後(のち)にまたあらためて、歴然(れっき)とした媒妁人(なこうど)立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯(わやく)は言えやへん。
そない極(きま)らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情(なさけ)のうござります。」
と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑(えみ)を含んだ。
「そうやかて、貴方(あんた)、一昨日(おととい)の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛|框(かまち)の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
言う――それは事実であった。――
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框(かまち)へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫(かおり)が、魔薬とやらを嗅(か)ぎますようで、気が遠くなりました。
その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ可厭(いや)な、この人は。……最初はな、内証で情婦(いろ)に逢やはるより何の余所(よそ)の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡(うち)が、水臭いようにあって、口惜(くやし)いと思うたけれど、な、……手を支(つ)いて詫(わび)言(い)やはる……その時に、門(かど)のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大(おおき)な猿が、土間へ跳下(とびお)りて、貴下(あんた)と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方(さき)を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切(だいじ)な許(とこ)に居るやもの。
おお、それなりで、貴方(あんた)たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景(ようす)、踊のさらいに台辞(せりふ)を云うよう、細く透(とお)る、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」 
二十二
「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」
多一は片手に胸を圧(おさ)えて、
「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」
「何や……怪我(けが)に貴方(あんた)は何やかて、美津(みい)さんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、雛(ひな)を並べたようやないか。
けどな、多一さん、貴下(あんた)な、九太夫やったり、そのな、額の疵(きず)で、床下から出やはった処は仁木(にっき)どすせ。沢山(たんと)忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」
と軽口に、奥もなく云うて退(の)けたが、ほんのりと潤(うる)みのある、瞼(まぶた)に淡く影が映(さ)した。
「ああ、わやく云う事やない。……貴方(あんた)、その疵、ほんとにもう疼痛(いたみ)はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍(そば)に居たものを。美津(みい)さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
そやけど、美津さん、怨(うら)みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲(ちょうちゃく)されて、熟(じっ)と堪(こら)えていやはったも、辛抱しとげて、貴女(あんた)と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中(しんじゅう)の極印(ごくいん)打ったも同じ事、喜んだかて可(い)いのどす。」
お美津は堪(こら)えず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色(ときいろ)衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦(から)む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨(えくぼ)に、前髪の艶しとしとと。
お珊は眦(まなじり)を多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿の核(たね)吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇(らう)のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身(しにみ)になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、新枕(にいまくら)の初言葉(ういことば)と、私もここでちゃんと聞く。……女子(おなご)は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向(うつむ)いて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の手券(てがた)に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫(さしぬき)に、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支(つ)いていた、簪(かんざし)の橘(たちばな)薫りもする。
「おお……嬉し……」
と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾(あや)に、我を忘れて、道成寺の一条(ひとくだり)の真紅の糸が、鮮麗(あざやか)に織込まれた。
それは禁制の錦(にしき)であった。
ふと心付いた状(さま)して、動悸(どうき)を鎮めるげに、襟なる檜扇(ひおうぎ)の端をしっかと圧(おさ)えて、ト後(うしろ)を見て、襖(ふすま)にすらり靡(なび)いた、その下げ髪の丈を視(なが)めた。
お珊の姿は陰々とした。 
二十三
夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき面色(おももち)した。
「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。
通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、貴方(あんた)が、美津(みい)さんのために堪(こら)えなはった、心中立(しんじゅうだて)一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。
額の疵(きず)は、その烏帽子に、金剛石(ダイヤモンド)を飾ったような光が映(さ)す……おお、天晴(あっぱれ)なお婿はん。
さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」
と軽く云ったが、艶麗(あでやか)に、しかも威儀ある座を正して、
「お盞(さかずき)。」
で、長柄の銚子(ちょうし)に手を添えた。
朱塗の蒔絵(まきえ)の三組(みつぐみ)は、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱(ほうらい)の島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。
「さ、お受けや。」
と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立(さわぎた)つらしい胸の響きに、烏帽子の総(ふさ)の揺るるのみ。美津は遣瀬(やるせ)なげに手を控える。
ト熟(じっ)と視(み)て、
「おお、まだ年の行(ゆ)かぬ、嬰児(ねね)はんや。多一はんと、酒事(ささごと)しやはった覚えがないな。貴女(あんた)盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。
そやったら多一さん、貴方(あんた)先へお受けやす。」
「はい、」と斉(ひと)しく逡巡(しりごみ)する。
「どうしやはったえ。」
「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」
とちょっと目を合せた。
「女から、お盞を頂かして下さりまし。」
「そやかて、含羞(はにかん)でいて取んなはらん。……何や、貴方(あんた)がた、おかしなえ。」
ふと気色ばんだお珊の状(さま)に、座が寂(しん)として白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、音(ね)じめの音が響いたのである。
二人は黙って差俯向(さしうつむ)く。……
お珊は、するりと膝を寄せた。屹(きっ)として、
「早うおしや!邪魔が入るとならんよって、私も直(じ)きに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」
二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。
「もし、」
と多一が急(せ)いた声で、
「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありまして可(い)いものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のお袂(たもと)の中が動きます。……美津は、あの、それが可恐(こわ)いのでござります。」と判然(はっきり)云った。
と、頤(おとがい)を檜扇(ひおうぎ)に、白小袖の底を透(すか)して、
「これか、」
と投げたように言いながら、衝(つ)と、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、品(ひん)を崩して、お手玉持つよ、と若々しい、仇気(あどけ)ない風があった。
「何や、この二条(ふたすじ)の蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、貴方(あんた)二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。
餅屋の店で逢うた時、多一さん、貴方(あんた)はこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、一夜(ひとよさ)祈(いのり)はあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しに行(ゆ)く隙(ひま)がない、頼まれて欲(ほし)い――云うて、美津さんに託(ことづ)きょう、とそれが用で顔見に行(ゆ)かはった云うたやないか。」 
二十四
「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の留木(とまりぎ)の下に揃えてあって、――その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい一昨日(おととい)の晩方や。
それもこれも、貴方(あんた)がた、芝居の事があってから、あんな奉公早う罷(や)めて、すぐにも夫婦になれるようにと、身体(からだ)は両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同じ時に、同じ祈(いのり)を掛けやはる。……
蛇も二筋落合うた。
案の定、その場から、思いが叶(かの)うた、お二人さん。
あすこのな、蛇屋に蛇は多けれど、貴方がたのこの二条(ふたすじ)ほど、験(げん)のあったは外にはないやろ。私かて、親はなし、稚(ちいさ)い時から勤(つとめ)をした、辛い事、悲しい事、口惜(くや)しい事、恋しい事、」
と懐手のまま、目を※[目+爭](みは)って、
「死にたいほどの事もある。……何々の思(おもい)が遂げたいよって、貴方(あんた)二人に類似(あやか)りたさに、同じ蛇を預った。今少し、身に附けていたいよって、こうしておいておくれやす。
貴方、結ぶの神やないか。
けどな、思い詰めては、自分の手でも持ったもの。一度、願(ねがい)が叶うた上では、人の袂にあるのさえ、美津さん、婦(おんな)は、蛇は、可厭(いや)らしな!
よう貴女(あんた)、これを持つまで、多一さんを思やはった、婦(おんな)同士や、察せいでか。――袂にあったら、粗相して落すとならん。憂慮(きづかい)なやろさかい、私がこうするよって、大事ないえ。」
と袖の中にて手を引けば、内懐(うちぶところ)の乳(ち)のあたり、浪打つように膨らみたり。
「婦(おんな)の急所で圧(おさ)えておく。……乳|銜(くわ)えられて、私が死のうと、盞の影も覗(のぞ)かせぬ。さ、美津さん、まず、お前に。」
お珊は長柄をちょうと取る。
美津は盞を震えて受けた。
手の震えで滴々(たらたら)と露散(たまち)るごとき酒の雫(しずく)、蛇(くちなわ)の色ならずや、酌参るお珊の手を掛けて燈(ともしび)の影ながら、青白き艶(つや)が映ったのである。
はたはたとお珊が手を拍(たた)くと、かねて心得さしてあったろう。廊下の障子の開く音して、すらすらと足袋摺(たびずれ)に、一間を過ぎて、また静(しずか)にこの襖(ふすま)を開けて、
「お召し、」
とそこへ手を支(つ)いた、裾(すそ)模様の振袖は、島田の丈長(たけなが)、舞妓(まいこ)にあらず、家(うち)から斉眉(かしず)いて来ている奴(やっこ)であった。
「可(よ)いかい。」
「はい。」と言いさま、はらはらと小走りに、もとの廊下へ一度出て、その中庭を角にした、向うの襖をすらりと開けると、閨(ねや)紅(くれない)に、翠(みどり)の夜具。枕頭(まくらもと)にまた一人、同じ姿の奴が居る。
お珊が黙って、此方(こなた)から差覗(さしのぞ)いて立ったのは、竜田姫(たつたひめ)の彳(たたず)んで、霜葉(もみじ)の錦の谿(たに)深く、夕映えたるを望める光景(ありさま)。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺|対扮装(ついでたち)。紫の袖、白襟が、紫の袖、白襟が。
袖口燃ゆる緋縮緬(ひぢりめん)、ひらりと折目に手を掛けて、きりきりと左右へ廻して、枕を蔽(おお)う六枚|屏風(びょうぶ)、表に描(か)いたも、錦葉(にしきば)なるべし、裏に白銀(しろがね)の水が走る。
「あちらへ。」
お珊が二人を導いた時、とかくして座を立った、美津が狩衣の袴の裾は、膝を露顕(あらわ)な素足なるに、恐ろしい深山路(みやまじ)の霜を踏んで、あやしき神の犠牲(にえ)に行(ゆ)く……なぜか畳は辿々(たどたど)しく、ものあわれに見えたのである。奴二人は姿を隠した。 
二十五
屏風を隔てて、この紅(くれない)の袴した媒人(なこうど)は、花やかに笑ったのである。
一人を褥(しとね)の上に据えて、お珊がやがて、一人を、そのあとから閨(ねや)へ送ると、前のが、屏風の片端から、烏帽子のなりで、するりと抜ける。
下髪(さげがみ)であとを追って、手を取って、枕頭(まくらもと)から送込むと、そこに据えたのが、すっと立って、裾から屏風を抜けて出る。トすぐに続いて、縋(すが)って抱くばかりにして、送込むと、おさえておいたのが、はらはら出る。
素袍(すおう)、狩衣、唐衣、綾(あや)と錦の影を交えて、風ある状(さま)に、裾袂、追いつ追われつ、ひらひらと立舞う風情に閨を繞(めぐ)った。巫山(ふざん)の雲に桟(かけはし)懸(かか)れば、名もなき恋の淵(ふち)あらむ。左、橘(たちばな)、右、桜、衣(きぬ)の模様の色香を浮かして、水は巴(ともえ)に渦を巻く。
「おほほほほ、」
呼吸(いき)も絶ゆげな、なえたような美津の背(せな)を、屏風の外で抱えた時、お珊は、その花やかな笑(わらい)を聞かしたのである。
好(よ)き機会(しお)とや思いけん。
廊下に跫音(あしおと)、ばたばたと早く刻んで、羽織袴の、宝の市の世話人一人、真先(まっさき)に、すっすっすっと来る、当浪屋の女房(かみ)さん、仲居まじりに、奴が続いて、迎いの人数(にんず)。
口々に、
「御寮人様。」
「お珊様。」
「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」
「貴女ばかりを待兼ねてござります。」
襖の中から、
「車は?」
と静(しずか)に云う。
「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。
「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」
と声が凜(りん)とした。
黙って、すたすた、一同は廊下を引く。
とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。
多一が屏風の外に居て、床の柱の、釣籠(つりかご)の、白玉椿(しらたまつばき)の葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。
襖がくれの半身で、廊下の後前(あとさき)を熟(じっ)と視(み)て、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊の腕(かいな)が頸(うなじ)にかかると、倒れるように、ハタと膝を支(つ)いた、多一の唇に、俯向(うつむ)きざまに、衝(つ)と。――
丸官の座敷を、表に視(なが)めて、左右に開いたに立寄りもせず、階子段(はしごだん)を颯(さっ)と下りる、とたちまち門(かど)へ姿が出た。
軒を離れて、俥(くるま)に乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を上下(うえした)に合すや否や、矢を射るような二人曳(ににんびき)。あれよ、あれよと云うばかり、廓(くるわ)の灯(ともし)に影を散らした、群集(ぐんじゅ)はぱっと道を分けた。
宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。
その年十月十九日、宝の市の最後の夜(よ)は、稚児(ちご)、市女(いちめ)、順々に、後圧(あとおさ)えの消防夫(しごとし)が、篝火(かがりび)赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、傍目(わきめ)も触(ふ)らぬ婦(おんな)たちは、さもないが、真先(まっさき)に神輿(みこし)を荷(にの)うた白丁(はくちょう)はじめ、立傘(たてがさ)、市女笠(いちめがさ)持ちの人足など、頻(しき)りに気にしては空を視(なが)めた。
通り筋の、屋根に、廂(ひさし)に、しばしば鴉(からす)が鳴いたのである。
次第に数が増すと、まざまざと、薄月(うすづき)の曇った空に、嘴(くちばし)も翼も見えて、やがては、練(ねり)ものの上を飛交わす。
列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに鴉鳴(からすなき)を聞いた、と後で云う。…… 
二十六
「宗八(そっぱ)、宗八(そっぱ)。」
浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる詰襟(つめえり)の紺の洋服、高胡坐(たかあぐら)、座にある幇間(ほうかん)を大音に呼ぶ。
「はッ、」
「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押(あとおし)で駈着(かけつ)けて、今帰った処じゃな。」
「御意にござります、へい。」
「何か、直ぐに連れてここへ来る手筈(てはず)じゃった、猿は、留木(とまりぎ)から落ちて縁の下へ半分|身体(からだ)を突込(つッこ)んで、斃死(くたばっ)ていたげに云う……嘘でないな。」
「実説正銘にござりまして、へい。餅屋|店(みせ)では、爺(じじい)の伝五めに、今夜、貴方様(あなたさま)、お珊の方様、」
と額を敲(たた)いて、
「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、お好(このみ)とあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに――ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた明巣(あきす)にござります。
処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも悪食(あくじき)がないたいた様子、お望みの猿は血を吐いて斃(お)ち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」
「うむ。」
と苦切(にがりき)って頷(うなず)きながら、
「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。
一座の末に、うら若い新夫婦は、平伏(ひれふ)していたのである。
これより先、余り御無体、お待ちや、などと、慌(あわただ)しい婦(おんな)まじりの声の中に、丸官の形、猛然と躍上(おどりあが)って、廊下を鳴らして魔のごとく、二人の閏(ねや)へ押寄せた。
襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾の帳(とばり)にも蔽(おお)われず、指貫(さしぬき)やなど、烏帽子の紐(ひも)も解かないで、屏風(びょうぶ)の外に、美津は多一の膝に俯(ふ)し、多一は美津の背(せな)に額を附けて、五人囃子の雛(ひな)二個(ふたつ)、袖を合せたようであった。
揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。
「酒|啖(くら)え、意気地なし!」
で、有無を言わせず、表二階へ引出された。
欄干の緋(ひ)の毛氈(もうせん)は似たりしが、今夜は額を破るのでない。
「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への馳走(ちそう)に猿を舞わいて見せてくれ。恥辱(はじ)ではない。汝(わり)ゃ、丁稚(でっち)から飛上って、今夜から、大阪の旦那の一|人(にん)。旧(むかし)を忘れぬためという……取立てた主人の訓戒(いましめ)と思え。
呼べ、と言えば、婦(おんな)どもが愚図(ぐず)々々|吐(ぬか)す。新枕(にいまくら)は長鳴鶏(ながなきどり)の夜(よ)があけるまでは待かねる。
主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。汝(わり)ゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿|負背(おんぶ)で、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、汝(われ)も食いおった、行帰りから、その娘は馴染(なじみ)じゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居る婦(おんな)どもが知った中。
田畝(たんぼ)の鼠が、蝙蝠(こうもり)になった、その素袍(すおう)ひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。
かえって卑怯(ひきょう)じゃ。
遣(や)ってくれい。
が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。
残念な、猿太夫は斃(お)ちたとあるわい。
唄なと歌え、形なと見せおれ。
何|吐(ぬか)す、」
と、とりなしを云った二三人の年増の芸妓(げいこ)を睨廻(ねめまわ)いて、
「やい、多一!」 
二十七
「致します、致します。」
と呼吸(いき)を切って、
「皆さん御免なさりまし。」
多一はすっと衣紋(えもん)を扱(しご)いた。
浅葱(あさぎ)の素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。
その時、膝に手を支(つ)いて、
「……ま猿めでとうのう仕(つかまつ)る、踊るが手許(てもと)立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」
声を張った、扇拍子、畳を軽く拍(う)ちながら、「筑紫下りの西国船、艫(とも)に八|挺(ちょう)、舳(へ)に八挺、十六挺の櫓櫂(ろかい)を立てて……」
「やんややんや。ああ惜(おし)い、太夫が居(お)らぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、此奴(こいつ)。ええ!婆(ばば)どもでまけてやろう、古猿(こけざる)になれ、此奴等(こいつら)……立たぬな、おのれ。」
と立身上(たちみあが)りに、盞(さかずき)を取って投げると、杯洗(はいせん)の縁(ふち)にカチリと砕けて、颯(さっ)と欠(かけ)らが四辺(あたり)に散った。
色めき白ける燈(ともしび)に、一重瞼(ひとえまぶち)の目を清(すず)しく、美津は伏せたる面(おもて)を上げた。
「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏(いちょう)の下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下(あんた)、多一さんを虐(いじ)めんとおくれやす。
ちゃと隙(ひま)もろうて去(い)ぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」
と、襟の扇子を衝(つ)と抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は紅(べに)、雪の狩衣|被(か)けながら、下萌(したも)ゆる血の、うら若草、萌黄(もえぎ)は難波(なにわ)の色である。
丸官は掌(こぶし)を握った。
多一の声は凜々(りんりん)として、
「しもにんにんの宝の中に――火取る玉、水取る玉……イヤア、」
と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに掠(かす)れた時よ。
(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉(もみじ)の音かと、虚空に響いた鼓の掛声。
(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦(すりがね)入れた後囃子(あとばやし)が、遥(はるか)に交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢(けはい)。
が、座を乱すものは一人もなかった。
「船の中には何とお寝(よ)るぞ、苫(とま)を敷寝に、苫を敷寝に楫枕(かじまくら)、楫枕。」
玉を伸べたる脛(はぎ)もめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕(たまくら)した。
その時は、別に変った様子もなかった。
多一が次第に、歯も軋(きし)むか、と声を絞って、
「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた冴(さ)ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」
ト袖を捲いて、扇子(おうぎ)を翳(かざ)し、胸を反らして熟(じっ)と仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、瞬(またたさ)もせず※[目+爭](みは)ると斉(ひと)しく、笑靨(えくぼ)に颯(さっ)と影がさして、爪立(つまだ)つ足が震えたと思うと、唇をゆがめた皓歯(しらは)に、莟(つぼみ)のような血を噛(か)んだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に千条(ちすじ)の鮮血(からくれない)。
「あ、」
と一声して、ばったり倒れる。人目も振(ふり)も、しどろになって背(せな)に縋(すが)った。多一の片手の掌(てのひら)も、我が唇を圧(おさえ)余って、血汐(ちしお)は指を溢(あふ)れ落ちた。
一座わっと立騒ぐ。階子(はしご)へ遁(に)げて落ちたのさえある。
引仰向(ひきあおむ)けてしっかと抱き、
「美津(みい)さん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、婦(おんな)!」 
二十八
「床几(しょうぎ)、」
と、前後(まえうしろ)の屋台の間に、市女(いちめ)の姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。背後(うしろ)に二人、朱の台傘を廂(ひさし)より高々と地摺(じずれ)の黒髪にさしかけたのは、白丁扮装(はくちょうでたち)の駕寵(かご)人足。並んで、萌黄紗(もえぎしゃ)に朱の総(ふさ)結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津の爺(じい)の伝五郎。
印半纏(しるしばんてん)、股引(ももひき)、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は真先(まっさき)に腰を掛けた。が、これは我儘(わがまま)ではない。練(ねり)ものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのが習(ならい)であった。
屋台の前なる稚児(ちご)をはじめ、間をものの二|間(けん)ばかりずつ、真直(まっすぐ)に取って、十二人が十二の衣(きぬ)、色を勝(すぐ)った南地の芸妓(げいこ)が、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。
台傘の朱は、総二階一面軒ごとの緋(ひ)の毛氈(もうせん)に、色|映交(さしか)わして、千本(ちもと)植えたる桜の梢(こずえ)、廊(くるわ)の空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、灯(ともしび)の影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に揺据(ゆりすわ)って、小鼓、八雲琴(やくもごと)の調(しらべ)を休むと、後囃子(あとばやし)なる素袍の稚児が、浅葱桜(あさぎざくら)を織交ぜて、すり鉦(がね)、太鼓の音(ね)も憩う。動揺(どよめき)渡る見物は、大河の水を堰(せ)いたよう、見渡す限り列のある間、――一尺ごとに百目蝋燭(ひゃくめろうそく)、裸火を煽(あお)らし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つ凄(すご)い。
ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、袴(はかま)の裾を忙(せわ)しそう。二人三人、世話人が、列の柵|摺(ず)れに往(ゆ)きつ還(かえ)りつ、時々顔を合わせて、二人|囁(ささや)く、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと出遇(であ)う。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの足許(あしもと)を覗(のぞ)いて歩行(ある)くものもあって、大(おおき)な蟻の働振(はたらきぶり)、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉を顰(ひそ)め口を開けて空を見た。
その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を一条(ひとすじ)、列を切って、どこからともなく白気(はっき)が渡って、細々と長く、遥(はるか)に城ある方(かた)に靡(なび)く。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い煙筒(えんとつ)の煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。
宵には風があった。それは冷たかったけれども、小春凪(こはるなぎ)の日の余残(なごり)に、薄月さえ朧々(おぼろおぼろ)と底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、真暗(まっくら)になったのである。
鴉は次第に数を増した。のみならず、白気の怪(あやし)みもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。
世話人|徒(てあい)が、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。
念のために、他所見(よそみ)ながら顔を覗(のぞ)いて、名を銘々に心に留めると、決して姫が殖(ふ)えたのではない。定(おきて)の通り十二人。で、また見渡すと十三人。
……式の最初、住吉|詣(もうで)の東雲(しののめ)に、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、社(やしろ)へ参らぬ、と言ったために一人|俄拵(にわかごしら)えに数を殖(ふ)やした。が、それは伊丹幸(いたこう)の政巳(まさみ)と云って、お珊が稚(わか)い時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……
それさえ尋常(ただ)ならず、とひしめく処に、搗(か)てて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた――屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと一雫(ひとしずく)ずつ、血が落ちていると云うのである。 
二十九
一人多い、その姫の影は朧(おぼろ)でも、血のしたたりは現に見て、誰が目にも正(まさ)しく留った。
灯の影に地を探って、穏(おだやか)ならず、うそうそ捜(さがし)ものをして歩行(ある)くのは、その血のあとを辿(たど)るのであろう。
消防夫(しごとし)にも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。婦(おんな)たちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、些細(ささい)な疵(きず)なら、弱い舞妓も我慢して秘(かく)して退(の)けよう。
が、市に取っては、上もなき可忌(いまわ)しさで。
世話人は皆激しく顰(ひそ)んだ。
知らずや人々。お珊は既に、襟に秘(かく)し持った縫針で、裏を透(とお)して、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。
ただ、初(はじめ)から不思議な血のあとを拾って、列を縫って検(しら)べて行(ゆ)くと、静々(しずしず)と揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。
ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を差覗(さしのぞ)くものもあった。けれども端然としていた。黛(まゆずみ)の他に玲瓏(れいろう)として顔に一点の雲もなかった。が、右手(めて)に捧げた橘(たちばな)に見入るのであろう、寂(さみ)しく目を閉じていたと云う。
時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、点滴(したた)る血の事、就中(なかんずく)、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、烈(はげ)しく女どもの気を打った。
自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、斉(ひと)しくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。
血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ――と叫ぶ――柵の外の群集(ぐんじゅ)の波を、鯱(しゃち)に追われて泳ぐがごとく、多一の顔が真蒼(まっさお)に顕(あらわ)れた。
「お呼びや、私をお知らせや。」
とお珊が云った。
伝五|爺(じじい)は、懐を大きく、仰天した皺嗄声(しわがれごえ)を振絞って、
「多一か、多一はん――御寮人様はここじゃ。」と喚(わめ)く。
早や柵の上を蹌踉(よろ)めき越えて、虚空を掴(つか)んで探したのが、立直って、衝(つ)と寄った。
が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。
「ああ、待遠(まちどお)な、多一さん、」
と黒髪|揺(ゆら)ぐ、吐息(といき)と共に、男の肩に手を掛けた。
「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば瞑(ねむ)ったやろ。やっとここまで堪(こら)えたえ。も一度顔を、と思うよって……」
丸官の握拳(にぎりこぶし)が、時に、瓦(かわら)の欠片(かけら)のごとく、群集を打ちのめして掻分(かきわ)ける。
「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。
台傘が颯(さっ)と斜めになった。が、丸官の忿怒(ふんぬ)は遮り果てない。
靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中(ふところ)へ衝(つ)と手を入れて、両方へ振って、扱(しご)いて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋|電(いなずま)のごとく光って飛んだ。
わ、と立騒ぐ群集(ぐんじゅ)の中へ、丸官の影は揉込(もみこ)まれた。一人|渠(かれ)のみならず、もの見高く、推掛(おしかか)った両側の千人は、一斉に動揺(どよみ)を立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋|揚屋(あげや)の軒に余って、土足の泥波を店へ哄(どっ)と……津波の余残(なごり)は太左衛門橋、戒橋(えびすばし)、相生橋(あいおいばし)に溢(あふ)れかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。
見よ、見よ、鴉が蔽(おお)いかかって、人の目、頭(かしら)に、嘴(はし)を鳴らすを。
お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑(にげまど)うた。その数はただ二条(ふたすじ)ではない。
屋台から舞妓が一人|倒(さかさま)に落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
それ、怪我人よ、人死(ひとじに)よ、とそこもここも湧揚る。
お珊は、心|静(しずか)に多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
「口惜(くちおし)い。御寮人、」と、血を吐きながら頭(かぶり)を振る。
「貴方(あんた)ばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸(か)れて、蒼白(あおじろ)んで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血(からくれない)に染まったのが、重く多一の膝に落ちた。
男はしばらく凝視(みつ)めていた。
「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、愛(いと)しい事だけには、立派に我ままして見しょう。
宝市のこの服装(なり)で、大阪中の人の見る前で、貴方(あんた)の手を引いて……なあ、見事丸官を蹴(け)て見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻(さっき)盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。
一昨日(おととい)の芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、堪(こら)えやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下(あんた)は二十(はたち)。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」
とて、はじめて、はらはらと落涙した。
絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度(ひとたび)は頷(うなず)いたが、
「私は、私は、御寮人、生命(いのち)が惜(おし)いと申しません。可哀気(かわいげ)に、何で、何で、お美津を……」
と聞きも果さず……
「わあ、」と魂切(たまぎ)る。
伝五|爺(じじい)の胸を圧(おさ)えて、
「人が立騒いで邪魔したら、撒散(まきちら)かいて払い退(の)きょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中(ふところ)に沢山(たんと)ある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。
お聞きやす、多一さん、美津(みい)さんは、一所に連れずと、一人|活(い)かいておきたかった。貴方(あんた)と二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。
違うたかえ、分ったかえ、冥土(めいど)へ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬(やるせ)ない、私の身にもなってお見や。」
幽(かすか)ながらに声は透(とお)る。
「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……――左のこの手の動く方は、義理やあの娘(こ)の手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」
と床几を離れて、すっくと立つ。身動(みじろ)ぎに乱るる黒髪。髻(もとどり)ふつ、と真中(まんなか)から二岐(ふたすじ)に颯(さっ)となる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って捌(さば)いたのを、翳(かざ)すばかりに、浪屋の二階を指麾(さしまね)いた。
「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」
練ものの列は疾(と)く、ばらばらに糸が断(き)れた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目(てんで)に名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々(とびとび)に、背(せな)を潜(ひそ)め、顔(おもて)を蔽(おお)い、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島|籠(こ)めた群集(ぐんじゅ)が叫喚(きょうかん)の凄(すさま)じき中に、紅(くれない)の袴一人々々、点々として皆|留(とど)まった。
と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火(しらぬい)の消え行く光景(ありさま)。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途(ゆくて)を示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。
お珊は、幽(かすか)に、目も遥々(はるばる)と、一人ずつ、その十一の燈(ともしび)を視(み)た。    明治四十五(一九一二)年一月 
 
心中 / 森 鴎外

 

お金(きん)がどの客にも一度はきっとする話であった。どうかして間違って二度話し掛けて、その客に「ひゅうひゅうと云うのだろう」なんぞと、先(せん)を越して云われようものなら、お金の悔やしがりようは一通りではない。なぜと云うに、あの女は一度来た客を忘れると云うことはないと云って、ひどく自分の記憶を恃(たの)んでいたからである。
それを客の方から頼んで二度話して貰ったものは、恐らくは僕一人であろう。それは好く聞いて覚えて置いて、いつか書こうと思ったからである。
お金はあの頃いくつ位だったかしら。「おばさん、今晩は」なんと云うと、「まあ、あんまり可哀そうじゃありませんか」と真面目に云って、救を求めるように一座を見渡したものだ。「おい、万年|新造(しんぞ)」と云うと、「でも新造だけは難有(ありがた)いわねえ」と云って、心(しん)から嬉しいのを隠し切れなかったようである。とにかく三十は慥(たし)かに越していた。
僕は思い出しても可笑(おか)しくなる。お金は妙な癖のある奴だった。妙な癖だとは思いながら、あいつのいないところで、その癖をはっきり思い浮かべて見ようとしても、どうも分からなかった。しかし度々見るうちに、僕はとうとう覚えてしまった。お金を知っている人は沢山あるが、こんな事をはっきり覚えているのは、これも矢っ張僕一人かも知れない。癖と云うのはこうである。
お金は客の前へ出ると、なんだか一寸(ちょっと)坐わっても直ぐに又立たなくてはならないと云うような、落ち着かない坐わりようをする。それが随分長く坐わっている時でもそうである。そしてその客の親疎によって、「あなた大層お見限りで」とか、「どうなすったの、鼬(いたち)の道はひどいわ」とか云いながら、左の手で右の袂(たもと)を撮(つま)んで前に投げ出す。その手を吭(のど)の下に持って行って襟(えり)を直す。直すかと思うと、その手を下へ引くのだが、その引きようが面白い。手が下まで下りて来る途中で、左の乳房を押えるような運動をする。さて下りたかと思うと、その手が直ぐに又上がって、手の甲が上になって、鼻の下を右から左へ横に通り掛かって、途中で留まって、口を掩(おお)うような恰好になる。手をこう云う位置に置いて、いつでも何かしゃべり続けるのである。尤(もっと)も乳房を押えるような運動は、折々右の手ですることもある。その時は押えられるのが右の乳房である。
僕はお金が話したままをそっくりここに書こうと思う。頃日(このごろ)僕の書く物の総ては、神聖なる評論壇が、「上手な落語のようだ」と云う紋切形の一言で褒(ほ)めてくれることになっているが、若(も)し今度も同じマンション・オノレエルを頂戴したら、それをそっくりお金にお祝儀に遣れば好(い)いことになる。 
話は川桝(かわます)と云う料理店での出来事である。但しこの料理店の名は遠慮して、わざと嘘の名を書いたのだから、そのお積りに願いたい。
そこで川桝には、この話のあった頃、女中が十四五人いた。それが二十畳敷の二階に、目刺(めざし)を並べたように寝ることになっていた。まだ七十近い先代の主人が生きていて、隠居|為事(しごと)にと云うわけでもあるまいが、毎朝五時が打つと二階へ上がって来て、寝ている女中の布団を片端(かたっぱし)からまくって歩いた。朝起は勤勉の第一要件である。お爺いさんのする事は至って殊勝なようであるが、女中達は一向敬服していなかった。そればかりではない。女中達はお爺いさんを、蔭で助兵衛爺(すけべえじい)さんと呼んでいた。これはお爺いさんが為めにする所あって布団をまくるのだと思って附けた渾名(あだな)である。そしてそれが全くの寃罪(えんざい)でもなかったらしい。
暮に押し詰まって、毎晩のように忘年会の大一座があって、女中達は目の廻るように忙(せわ)しい頃の事であった。或る晩例の目刺の一|疋(ぴき)になって寝ているお金が、夜なかにふいと目を醒(さ)ました。外の女ならこんな時|手水(ちょうず)にでも起きるのだが、お金は小用の遠い性(たち)で、寒い晩でも十二時過ぎに手水に行って寝ると、夜の明けるまで行かずに済ますのである。お金はぼんやりして、広間の真中に吊るしてある電灯を見ていた。女中達は皆好く寐(ね)ている様子で、所々で歯ぎしりの音がする。
その晩は雪の夜であった。寝る前に手水に行った時には綿をちぎったような、大きい雪が盛んに降って、手水鉢(ちょうずばち)の向うの南天と竹柏(なぎ)の木とにだいぶ積って、竹柏の木の方は飲み過ぎたお客のように、よろけて倒れそうになっていた。お金はまだ降っているかしらと思って、耳を澄まして聞いているが、折々風がごうと鳴って、庭木の枝に積もった雪のなだれ落ちる音らしい音がする外には、只方々の戸がことこと震うように鳴るばかりで、まだ降っているのだか、もう歇(や)んでいるのだか分からない。
暫くすると、お金の右隣に寝ている女中が、むっくり銀杏返(いちょうがえ)しの頭を擡(もた)げて、お金と目を見合わせた。お松と云って、痩(や)せた、色の浅黒い、気丈な女で、年は十九だと云っているが、その頃二十五になっていたお金が、自分より精々二つ位しか若くはないと思っていたと云うのである。
「あら。お金さん。目が醒めているの。わたしだいぶ寐たようだわ。もう何時。」
「そうさね。わたしも目が醒めてから、まだ時計は聞かないが、二時頃だろうと思うわ。」
「そうでしょうねえ。わたし一時間は慥かに寐たようだから。寝る前程寒かないことね。」
「宵のうち寒かったのは、雪が降り出す前だったからだよ。降っている間は寒かないのさ。」
「そうかしら。どれ憚(はばか)りに行って来よう。お金さん附き合わなくって。」
「寒くないと云ったって、矢っ張寝ている方が勝手だわ。」
「友達|甲斐(がい)のない人ね。そんなら為方(しかた)がないから一人で行くわ。」
お松は夜着の中から滑り出て、鬆(ゆる)んだ細帯を締め直しながら、梯子段(はしごだん)の方へ歩き出した。二階の上がり口は長方形の間の、お松やお金の寝ている方角と反対の方角に附いているので、二列に頭を衝き合せて寝ている大勢の間を、お松は通って行かなくてはならない。
お松が電灯の下がっている下の処まで歩いて行ったとき、風がごうと鳴って、だだだあと云う音がした。雪のなだれ落ちた音である。多分庭の真ん中の立石(たていし)の傍(そば)にある大きい松の木の雪が落ちたのだろう。お松は覚えず一寸(ちょっと)立ち留まった。
この時突然お松の立っている処と、上がり口との中途あたりで、「お松さん、待って頂戴、一しょに行くから」と叫ぶように云った女中がある。
そう云う声と共に、むっくり島田髷(しまだまげ)を擡げたのは、新参のお花と云う、色の白い、髪の※[糸+求](ちぢ)れた、おかめのような顔の、十六七の娘である。
「来るなら、早くおし。」お松は寝巻の前を掻き合せながら一足進んで、お花の方へ向いた。
「わたしこわいから我慢しようかと思っていたんだけれど、お松さんと一しょなら、矢っ張行った方が好(い)いわ。」こう云いながら、お花は半身起き上がって、ぐずぐずしている。
「早くおしよ。何をしているの。」
「わたし脱いで寝た足袋を穿(は)いているの。」
「じれったいねえ。」お松は足踏をした。
「もう穿けてよ。勘辨して頂戴、ね。」お花はしどけない風をして、お松に附いて梯子を降りて行った。
便所は女中達の寝る二階からは、生憎(あいにく)遠い処にある。梯子を降りてから、長い、狭い廊下を通って行く。その行き留まりにあるのである。廊下の横手には、お客を通す八畳の間が両側に二つずつ並んでいてそのはずれの処と便所との間が、右の方は女竹(めだけ)が二三十本立っている下に、小さい石燈籠(いしどうろう)の据えてある小庭になっていて、左の方に茶室|賽(まが)いの四畳半があるのである。
いつも夜なかに小用に行く女中は、竹のさらさらと摩(す)れ合う音をこわがったり、花崗石(みかげいし)の石燈籠を、白い着物を着た人がしゃがんでいるように見えると云ってこわがったりする。或る時又用を足している間じゅう、四畳半の中で、女の泣いている声がしたので、帰りに障子を開けて見たが、人はいなかったと云ったものがある。これは友達をこわがらせる為めに、造り事を言ったのであるが、その話を聞いてからは、便所の往(ゆ)き返りに、とかく四畳半が気になってならないのである。殊に可笑しいのは、その造り事を言った当人が、それを言ってからは四畳半がこわくなって、とうとう一度は四畳半の中で、本当に泣声がしたように思って、便所の帰りに大声を出して人を呼んだことがあったのである。 
お金は二人が小用に立った跡で、今まで気の附かなかった事に気が附いた。それはお花の空床(あきどこ)の隣が矢張空床になっていることであった。二つ並んで明いているので、目立ったのである。
そして、「ああお蝶さんがまだ寝ていないが、どうしたのだろう」と思った。お花の隣の空床の主はお蝶と云って、今年の夏田舎から初奉公に出た、十七になる娘である。お蝶は下野(しもつけ)の結城(ゆうき)で機屋をして、困らずに暮しているものの一人娘であるが、婿を嫌って逃げ出して来たと云うことであった。間もなく親元から連れ戻しに親類が出たが、強情を張って帰らない。親類も川桝の店が、料理店ではあっても、堅い店だと云うことを呑み込んで、とうとう娘の身の上をこの内のお上さんに頼んで置いて帰ってしまった。それが帰ると、又間もなく親類だと云って、お蝶を尋ねて来た男がある。十八九ばかりの書生風の男で、浴帷子(ゆかた)に小倉袴(こくらばかま)を穿いて、麦藁(むぎわら)帽子を被(かぶ)って来たのを、女中達が覗(のぞ)いて見て、高麗蔵(こまぞう)のした「魔風(まかぜ)恋風」の東吾(とうご)に似た書生さんだと云って騒いだ。それから寄ってたかってお蝶を揶揄ったところが、おとなしいことはおとなしくても、意気地のある、張りの強いお蝶は、佐野と云うその書生さんの身の上を、さっぱりと友達に打ち明けた。佐野さんは親が坊さんにすると云って、例の殺生石(せっしょうせき)の伝説で名高い、源翁(げんおう)禅師を開基としている安穏寺(あんおんじ)に預けて置くと、お蝶が見初(みそ)めて、いろいろにして近附いて、最初は容易に聴かなかったのを納得させた。婿を嫌ったのは、佐野さんがあるからの事であった。安穏寺の住職は東京で新しい教育を受けた、物分りの好い人なので、佐野さんの人柄を見て、うるさく品行を非難するような事をせずに、「君は僧侶(そうりょ)になる柄の人ではないから、今のうちに廃(よ)し給え」と云って、寺を何がなしに逐(お)い出してしまった。そこで佐野さんは、内情を知らない親達が、住職の難癖を附けずに出家を止めるのを聞いて、げにもと思うらしいのに勢を得て、お蝶より先きに東京に出て、或る私立学校に這入(はい)った。お蝶が東京に出たのは、佐野さんの跡を慕って来たのであった。
佐野さんはその後も、度々川桝へお蝶に逢いに来て、一寸話しては帰って行く。お客になって来たことはない。お蝶の親元からも度々人が出て来る。婿取の話が矢張続いているらしい。婿は機屋と取引上の関係のある男で、それをことわっては、機屋で困るような事情があるらしい。佐野さんは、初めはお蝶をなだめ賺(すか)すようにしてあしらっている様子であったが、段々深くお蝶に同情して来て、後にはお蝶と一しょになって、機屋一家に対してどうしようか、こうしようかと相談をする立場になったらしい。
こう云う入り組んだ事情のある女を、そのまま使っていると云うことは、川桝ではこれまでついぞなかった。それを目をねむって使っているには、わけがある。一つはお蝶がひどくお上さんの気に入っている為めである。田舎から出た娘のようではなく、何事にも好く気が附いて、好く立ち働くので、お蝶はお客の褒めものになっている。国から来た親類には、随分やかましい事を言われる様子で、お蝶はいつも神妙に俯向(うつむ)いて話を聞いていても、その人を帰した跡では、直ぐ何事もなかったように弾力を回復して、元気よく立ち働く。そしてその口の周囲には微笑の影さえ漂っている。一体お蝶は主人に間違ったことで小言を言われても、友達に意地悪くいじめられても、その時は困ったような様子で、謹んで聞いているが、直ぐ跡で機嫌を直して働く。そして例の微笑(ほほえ)んでいる。それが決して人を馬鹿にしたような微笑ではない。怜悧(れいり)で何もかも分かって、それで堪忍して、おこるの怨むのと云うことはしないと云う微笑である。「あの、笑靨(えくぼ)よりは、口の端(はた)の処に、竪(たて)にちょいとした皺(しわ)が寄って、それが本当に可哀うございましたの」と、お金が云った。僕はその時リオナルドオ・ダア・ヰンチのかいたモンナ・リザの画を思い出した。お客に褒められ、友達の折合も好い、愛敬(あいきょう)のあるお蝶が、この内のお上さんに気に入っているのは無理もない。
今一つ川桝でお蝶に非難を言うことの出来ないわけがある。それは外の女中がいろいろの口実を拵(こしら)えて暇を貰うのに、お蝶は一晩も外泊をしないばかりでなく、昼間も休んだことがない。佐野さんが来るのを傍輩がかれこれ云っても、これも生帳面(きちょうめん)に素話(すばなし)をして帰るに極まっている。どんな約束をしているか、どう云う中か分からないが、みだらな振舞をしないから、不行跡だと云うことは出来ない。これもお蝶の信用を固うする本になっているのである。
お金は宵に大分遅くなってから、佐野さんが来たのを知っている。外の女中も知っている。こんな事はこれまでもあったが、女中達が先きに寝て、暫く立ってから目が醒めて見れば、いつもお蝶はちゃんと来て寝ていたのである。それが今夜は二時を過ぎたかと思うのに、まだ床に戻っていない。何と云う理由(わけ)もなく、お金はそれが直ぐに気になった。どうも色になっている二人が逢って話をしているのだと云う感じではなくて、何か変った事でもありはしないかと気遣われるような感じがしたのである。 
お花はお松の跡に附いて、「お松さん、そんなに急がないで下さいよ」と云いながら、一しょに梯子段を降りて、例の狭い、長い廊下に掛かった。
二階から差している明りは廊下へ曲る角までしか届かない。それから先きは便所の前に、一|燭(しょく)ばかりの電灯が一つ附いているだけである。それが遠い、遠い向うにちょんぼり見えていて、却(かえっ)てそれが見える為めに、途中の暗黒が暗黒として感ぜられるようである。心理学者が「闇その物が見える」と云う場合に似た感じである。
「こわいわねえ」と、お花は自分の足の指が、先きに立って歩いているお松の踵(かかと)に障るように、食っ附いて歩きながら云った。
「笑談(じょうだん)お言いでない。」お松も実は余り心丈夫でもなかったが、半分は意地で強そうな返事をした。
二階では稀(まれ)に一しきり強い風が吹き渡る時、その音が聞えるばかりであったが、下に降りて見ると、その間にも絶えず庭の木立の戦(そよ)ぐ音や、どこかの開き戸の蝶番(ちょうつがい)の弛(ゆる)んだのが、風にあおられて鳴る音がする。その間に一種特別な、ひゅうひゅうと、微(かす)かに長く引くような音がする。どこかの戸の隙間から風が吹き込む音ででもあるだろうか。その断えては続く工合が、譬(たと)えば人がゆっくり息をするようである。
「お松さん。ちょいとお待ちよ。」お花はお松の袖を控えて、自分は足を止めた。
「なんだねえ。出し抜けに袖にぶら下がるのだもの。わたしびっくりしたわ。」お松もこうは云ったが、足を止めた。
「あの、ひゅうひゅうと云うのはなんでしょう。」
「そうさねえ。梯子を降りた時から聞えてるわねえ。どこかここいらの隙間から風が吹き込むのだわ。」
二人は暫く耳を欹(そばだ)てて聞いていた。そしてお松がこう云った。「なんでもあんまり遠いとこじゃなくってよ。それに板の隙間では、あんな音はしまいと思うわ。なんでも障子の紙かなんかの破れた処から吹き込むようだねえ。あの手水場(ちょうずば)の高い処にある小窓の障子かも知れないわ。表の手水場のは硝子(ガラス)戸だけれども、裏のは紙障子だわね。」
「そうでしょうか。いやあねえ。わたしもう手水なんか我慢して、二階へ帰って寝ようかしら。」
「馬鹿な事をお言いでない。わたしそんなお附合いなんか御免だわ。帰りたけりゃあ、花ちゃんひとりでお帰り。」
「ひとりではこわいから、そんなら一しょに行ってよ。」
二人は又歩き出した。一足歩くごとに、ひゅうひゅうと云う音が心持近くなるようである。障子の穴に当たる風の音だろうとは、二人共思っているが、なんとなく変な音だと云う感じが底にあって、それがいつまでも消えない。
お花は息を屏(つ)めてお松の跡に附いて歩いているが、頭に血が昇って、自分の耳の中でいろいろな音がする。それでいて、ひゅうひゅうと云う音だけは矢張際立って聞えるのである。お松も余り好い気持はしない。お花が陽にお松を力にしているように、お松も陰にはお花を力にしているのである。
便所が段々近くなって、電灯の小さい明りの照し出す範囲が段々広くなって来るのがせめてもの頼みである。
二人はとうとう四畳半の処まで来た。右手の壁は腰の辺から硝子戸になっているので、始(はじめ)て外が見えた。石灯籠の笠には雪が五六寸もあろうかと思う程積もっていて、竹は何本か雪に撓(たわ)んで地に着きそうになっている。今立っている竹は雪が堕(お)ちた跡で、はね上がったのであろう。雪はもう降っていなかった。
二人は覚えず足を止めて、硝子戸の外を見て、それから顔を見合わせた。二人共相手の顔がひどく青いと思った。電灯が小さいので、雪明りに負けているからである。
ひゅうひゅうと云う音は、この時これまでになく近く聞えている。
「それ御覧なさい。あの音は手水場でしているのだわ。」お松はこう云ったが、自分の声が不断と変っているのに気が附いて、それと同時にぞっと寒けがした。
お花はこわくて物が言えないのか、黙って合点(がってん)々々をした。
二人は急いで用を足してしまった。そして前に便所に這入る前に立ち留まった処へ出て来ると、お松が又立ち留まって、こう云った。
「手水場の障子は破れていなかったのねえ。」
「そう。わたし見なかったわ。それどこじゃないのですもの。さあ、こんなとこにいないで、早く行きましょう。」お花の声は震えている。
「まあ、ちょいとお待ちよ。どうも変だわ。あの音をお聞き。手水場の中よりか、矢っ張ここの方が近く聞えるわ。わたしきっとこの四畳半の障子だと思うの。ちょっと開けて見ようじゃないか。」お松はこん度常の声が出たので、自分ながら気強く思った。
「あら。およしなさいよ。」お花は慌(あわ)てて、又お松の袖にしがみ附いた。
お松は袖を攫(つか)まえられながら、じっと耳を澄まして聞いている。直き傍(そば)のように聞えるかと思うと、又そうでないようにもある。慥(たし)かに四畳半の中だと思われる時もあるが、又どうかすると便所の方角のようにも聞える。どうも聞き定めることが出来ない。
僕にお金が話す時、「どうしても方角がしっかり分からなかったと云うのが不思議じゃありませんか」と云ったが、僕は格別不思議にも思わない。聴くと云うことは空間的感覚ではないからである。それを強(し)いて空間的感覚にしようと思うと、ミュンステルベルヒのように内耳の迷路で方角を聞き定めるなどと云う無理な議論も出るのである。
お松は少し依怙地(えこじ)になったのと、内々はお花のいるのを力にしているのとで、表面だけは強そうに見せている。
「わたし開けてよ」と云いさま、攫まえられた袖を払って、障子をさっと開けた。
廊下の硝子障子から差し込む雪明りで、微かではあるが、薄暗い廊下に慣れた目には、何もかも輪郭だけはっきり知れる。一目室内を見込むや否や、お松もお花も一しょに声を立てた。
お花はそのまま気絶したのを、お松は棄てて置いて、廊下をばたばたと母屋(おもや)の方へ駈け出した。 
川桝の内では一人も残らず起きて、廊下の隅々の電灯まで附けて、主人と隠居とが大勢のものの騒ぐのを制しながら、四畳半に来て見た。直ぐに使を出したので、医師が来る。巡査が来る。続いて刑事係が来る。警察署長が来る。気絶しているお花を隣の明間(あきま)へ抱えて行く。狭い、長い廊下に人が押し合って、がやがやと罵(ののし)る。非常な混雑であった。
四畳半には鋭利な刃物で、気管を横に切られたお蝶が、まだ息が絶えずに倒れていた。ひゅうひゅうと云うのは、切られた気管の疵口(きずぐち)から呼吸をする音であった。お蝶の傍(そば)には、佐野さんが自分の頸(くび)を深く※[宛+りっとう](えぐ)った、白鞘(しらさや)の短刀の柄(つか)を握って死んでいた。頸動脉(けいどうみゃく)が断たれて、血が夥(おびただ)しく出ている。火鉢の火には灰が掛けて埋(うず)めてある。電灯には血の痕(あと)が附いている。佐野さんがお蝶の吭(のど)を切ってから、明りを消して置いて、自分が死んだのだろうと、刑事係が云った。佐野さんの手で書いて連署した遺書が床の間に置いてあって、その上に佐野さんの銀時計が文鎮にしてあった。お蝶の名だけはお蝶が自筆で書いている。文面の概略はこうである。「今年の暮に機屋一家は破産しそうである。それはお蝶が親の詞(ことば)に背(そむ)いた為めである。お蝶が死んだら、債権者も過酷な手段は取るまい。佐野も東京には出て見たが、神経衰弱の為めに、学業の成績は面白くなく、それに親戚から長く学費を給してくれる見込みもないから、お蝶が切に願うに任せて、自分は甘んじて犠牲になる。」書いてある事は、ざっとこんな筋であったそうだ。
川桝へ行く客には、お金が一人も残さず話すのだから、この話を知っている人は世間に沢山あるだろう。事によると、もう何かに書いて出した人があるかも知れない。 
 
島原心中 / 菊池寛  

 

自分は、その頃、新聞小説の筋を考えていた。それは、一人の貧乏華族が、ある成金の怨みを買って、いろいろな手段で、物質的に圧迫される。華族は、その圧迫を切り抜けようとして※[足へん+宛](あが)く。が、※[足へん+宛](あが)いたため、かえって成金の作っておいた罠(わな)に陥って、法律上の罪人になるという筋だった。
自分は、その華族が、切羽詰って法律上の罪を犯すというところを、なるべく本当らしく、実際ありそうな場合にしたかった。通俗小説などに、ありふれたような場合を避けたかった。自分は、そのために法律の専門家に、相談してみようと考えた。
自分は、頭の中で、旧友の中で法学士になっている連中を数えてみた。高等学校時代の知合いで、法学士になっている連中は、幾人もいることはいたが、郵船会社にはいって洋行したり、政治科を出て農商務省へ奉職したり、三菱へはいっている連中などばかりが思い浮んで、自分の相談に乗ってくれそうな、法律専門の法学士はなかなか思い当らなかった。その中に、ふと綾部という自分の中学時代の友人が、去年京都の地方裁判所をよして、東京へ来て、有楽町の××法律事務所に勤務していることを思い出した。上京当時、通知のハガキをくれたのだが、その××という有名な弁護士の名前が、不思議にはっきりと、自分の頭に残っていたのである。
自分は、綾部が、三高にいたときに会って以来、六、七年ぶりに、彼を訪ねた。彼は、学生時代と見違えるほど、色が白くなっていた。そして、三、四年の間検事をやっていた名残りが、澄んだ、そのくせ活気のない、冷たい目のうちに残っていた。彼は、快く自分を迎えて、自分の小説の筋に適合するような犯罪を考えてくれた。刑法の条文などをあちらこちら参考にしながら、かなり工夫を凝(こ)らしてくれたのである。その上に、彼はこんなことをいった。
「いや、貴君が、小説家として、法律の点に注意をしているのは感心です。どうも、今の小説家の小説を読むと、我々専門家がみると、かなりおかしいところがたくさんあるのです。懲役の刑しかないところが禁錮になっていたり、三年以上の懲役の罪が二年の懲役になっていたり、ずいぶん変なところがあるのです。それに、小説家のかく材料が、小説家の生活範囲を一歩も出ていないということは、かなり不満です。我々の注文をいえば、もっと、法律を背景とした事件、すなわち民事、刑事に関する面白い事件を、材料として大いに取り扱ってもらいたいですな。一体、完全な法治国になるためには、各人の法律に関する観念が、もっと発達しなければだめです。それには、もっと君たちが、法律に関係のある事件をかいてくれて、法律というものが、人間生活にどんなに重要な意義を持っているかということを、一般に知らしてもらいたいと思うのですがね。もし、君がかくつもりなら、僕が検事時代の経験をいろいろ話して上げてもいいと思いますよ」
そんな、冒頭をしながら、彼は次のような話を、自分にしてくれた。 
「俥(くるま)が、大門を潜ったとき、『ああ島原とはここだな』と、思うと同時に、かなり激しい幻滅とそれに伴う寂しさとを、感ぜずにはいられなかったのです。お恥かしい話ですが、僕が島原へ行ったのは、その時が初めてです。僕は高等学校時代から大学へかけて、六年も京都にいたのですが、その時まで、昔からあれほど名高い島原を、まだ一度も見たことがなかったのです。一、二度、友人から『花魁(おいらん)の道中を見にいかないか』と、誘われたことがあったのですが、謹厳――というよりも、臆病であった僕は、そんなところへ足踏みすることさえ何だか進まなかったのです。
だから、大学を出て間もないその頃まで、僕の頭に描いた島原は、やっぱり小説や芝居や小唄や伝説の島原だったのです。壮麗な建物の打ち続いた、美しい花魁の行き交うている、錦絵にあるような色街だったのです。
従って、その日――たしか十一月の初めでした――上席の検事から、島原へ出張を命ぜられたとき、僕は自分の心に、妙な興味が動くのを抑えることができなかったのです。島原へ行く、しかもその朝行われた心中の臨検に行くというのですから、僕は場所に対する興味と、事件に対する興味とで、二重に興奮していたわけです。
『島原心中』という言葉が、小説か芝居かの題目のように、僕の心に美しく浮んでいたのでした。
が、俥がそれらしい大門を通りすぎて、廓の中へ駆け込んだとき、下ろした幌(ほろ)のセルロイドの窓から十一月の鈍い午後の日光のうちに、澱(よど)んだように立ち並んでいる、屋根の低い朽ちかけているような建物を見たときに、それが名高い色街であるというだけに、いっそう悲惨なあさましいような気がしたのです。衰弱し切った病人が、医者の手から、突き放されて、死期を待っているように、どの家もどの家も、廃頽するままにまかせられているような気がしたのです。定紋の付いた暖簾の間から見える家の内部までが、どれもこれも暗澹(あんたん)として陰鬱に滅亡して行くものの姿を、そのまま示しているように僕には思われたのです。
俥が、横町へ折れたとき、僕の目の前に現れた建物は、もっと悲惨でした、悲惨というよりも、醜悪といった方が、適当でしょう。どれも、これも粗末な木口を使った安普請で、毒々しく塗り立てた格子や、櫺子(れんじ)窓の紅殻色が、むっとするような不快な感じを与えるのです。煤けた角行灯に、第二清開楼とか、相川楼などと書いた文字までが、田舎の遊廓にでも見るような下等な感じを与えました。
心中があった楼(うち)の前には、所轄署の巡査が立っていたので、すぐそれと分かりました。
僕が俥から降りたときには、裁判所を出るときに、持っていたような興奮も興味も残っていませんでした。
その楼(うち)は、この通りに立ち並んでいる粗末な二階家の一つでした。入口を入ると、土間が京都風に奥の方へ通っていて、左の方には家人や娼妓たちの住んでいる部屋があり、右はすぐ箱梯子になっていて、客がそのまま二階へ上れるようになっているのです。
心中の行われたのは、無論二階でした。僕が、警部の出迎えを受けて、この箱梯子を上ろうとしたとき、ふとその土間を中途で遮(さえぎ)っている浅黄色の暖簾の間から、じろじろ僕の顔を見ているこの家のお主婦(かみ)らしい女に、気が付いたのです。広い額際が抜け上って、目が無気味な光をもっている、一目見ると忘れられないような女でした。
僕は、その梯子段を、かなり元気よく上ったのです。すると、先に上った警部は、上り詰めると、急に身体を右に避けるようにするのです。僕は、そんなことを気にしないで、かまわず上りきったのです。すると、梯子段を上りきった僕の足もとに、異様な品物が――その刹那は、本当にそう思ったのです――転(ころ)がっているのです。が、はっと気が付いてみると、僕の靴下をはいた足は、そこの廊下に仰向けに倒れている女の、振り乱した髪の毛を、危く踏むところであったのです。その時の、僕の受けた激動(ショック)は今でも幾分かは思い出すことができるのです。僕は、心中という以上、どこかの部屋の中にでも、尋常に倒れているものだと思っていたのです。よく見ると、心中はその梯子段を上ったとっつきの四畳半で行われたとみえ、女が倒れかかるはずみに、はずれたらしい障子の中の畳には、どろどろと凝り固まっている血が、一面にこびり付いているのです。その血の中に、更紗か何からしい古びた蒲団が、敷き放されていて、女の両足は、蒲団の上に、わずかばかりかかっているのでした。天井が、頭につかえるほど低い部屋の中は、小さい明り取りの窓があるだけで、昼でも薄暗いのですが、その薄暗い片隅には、心中前に男女が飲食したらしい丼とか、徳利などが、ごたごた片寄せられているのです。壁は京都の遊郭によくある黄色っぽい砂壁ですが、よく見ると、突き当りの壁には、口に含んで霧にでも吹いたように、血が一面に吹きかかっているのでした。
まだ、そうした場所に馴れなかった僕は、一目見ると、その悽惨な情景から、ぞっと水を浴びるような感じを受けましたが、立会いの警部や書記などの手前、努めて冷静を装(よそお)いながら、まず女の傷口を見ました。見事に頸動脈を切ったとみえ、身体中の血潮がことごとくその傷口から迸(ほとばし)ったように、胸から膝へかけて、汚れ切ったネルの寝衣をべとべとに浸した上、畳の上から廊下にかけ、一面に流れかかっているのでした。が、傷口を見ているときに、もっと僕の心を打つものは、その荒み果てた顔でした。もう確かに三十近い細面の顔ですが、その土のようにかさかさした青い皮膚や、目尻の赤く爛れた目などを見ていると、顔という気はどうしても起らないのです。人間だという気さえ起らないのです。ただ、名状しがたい浅ましさだけを、感じたのです。 
死にそこなった男の方は、別室に移されていて、医者の手当を受けていたのです。僕が臨検した主な目的は、相手の男を尋問して、無理心中ではなかったか、また、たとえ合意の心中であったにしろ、男の方に自殺|幇助(ほうじょ)の事実がなかったかを確かめるためだったのです。
二人が遺書を認(したた)めていることで、無理心中の疑いは少しもありませんでしたが、自殺幇助の疑いは、十分にあるのでした。
僕は、その男を臨床尋問するために、寝かされているという別室へ行ったのです。見ると相手の男は、頭を角刈にした、二十歳前後の、顔の四角な職人らしい男でしたが、喉(のど)の傷をくるくる巻いた繃帯が、顎を埋めてしまうほど、ふくらんでいました。顔には血の気がなく、どろんと気の抜けたような目付をしていましたが、傷が致命傷でないことは、医師でない素人目にも、すぐ分かりました。
僕は、尋問にかかる前に、警察の方で調べた二人の身元とか、心中に至るまでの事情を、一通(ひととお)りきいたのです。男の方は、福島県の者とかで、西陣の職工だが、徴兵にとられていて、十二月には入営することになっていたということと、女は鳥取県のものであるが、今年二十九の年になるまで、十年近く島原で、勤めているのだが、借金に追われて、まだ年季が明けないでいること、平生から陰気な沈んだ女であること、この頃郷里の方から、母が病気だという知らせが来たので、見舞いに行きたい行きたいと、口癖にいっていながら、勤めの身として、それが果し得ないのを、口惜しがっていたこと。男は、十月の初めから通い始めて、その日が六、七回目であったこと、心中は午前の七時頃に行われ、家人たちはまだ寝入っていたので、三十分ぐらい経って、お主婦がやっと、男の呻き声を聞きつけたこと、お主婦が駆け上ったときは、女の方はもうまったく息が絶えてしまっていたこと、男が持っていた短刀をお主婦がもぎ取ったこと、短刀を使う前に二人は揮発油を飲んだが、死に切れなかったこと。
僕は、そうした前後の事実をきいた後、尋問にかかったのでした。 
僕が、尋問を始めようとすると、警部と巡査とは、その男を床の上に、座らせようとするのです。男は首を挙げようとして、喉の傷を痛めたとみえ、歯を食いしばるようにして、じっと、その苦痛を忍びながら起きようとするのです。
『苦しければ、そのままでいいよ』と、僕が注意をしますると、警部はそれを遮るように、
『なに、大丈夫ですとも。気管を切っているだけですから、命には別条ありません』といいながら、今度はその若者を叱るように、
『さあ!しゃんとして、気を確かにするんだぞ!こんな傷で、死ぬことはないのだからな』
といいながら、肩のところを一つポンと叩くのです。
若者に対する、いたいたしいという同情は、すぐ僕の職業的良心に抑えられていました。僕が、尋問を始めたときには、もう、普通の検事の口調になっていました。僕は、その頃、だんだん被告に対する尋問のこつを覚えて来ていたのです。
『さあ、これから、お前に少しききたいことがあるのだが、お前もな、できたことは仕方がないことだから、何もくよくよ考えずに、男らしくありのままに話してもらいたいのだがなあ。お前も、これほど思い切ったことをやった男だから、思い切って男らしく潔(いさぎよ)く、俺のいうことに答えてくれないかん。いいかい。どうしたといったら、どう取られる、こういったらこう取られるなどということを、腹の中で考えていたらあかん。考えていうと、ウソになる。ウソになると、物のつじつまが合わなくなる。つじつまが合わなくなると、本当のことまでがウソになる。いいかい。だから、お前が俺の合点のいくように、本当にそうかということになると、できたことは仕方がないということになって、結局お前の利益になるんじゃ。だから素直にいった方が、一番かしこいことになるのだからな』
検事でも、予審判事でも、尋問を始める前には、きっとこんな風なことをいうのです。そして、相手の心をのんびりさせておかないと、嘘ばかりいって困るのです。
『どうだい、男らしくいうつもりかい』
こう、念を押しますと、繃帯で首の動かせないその若者は、傷ついた喉から、呻(うめ)くような声を出して、
『男らしく申します。申します』と答えました。が、たいていの被告は、こう答えておきながら、嘘をつくものです。
『女の名前は何というのだい?』
『錦木といいます』
『いつ頃から、通っているのじゃ』
『十月の初めからです』
『じゃ一月にならないのだな。今までに何遍通った』
『今度で六回目です』
『一度いくらずつ金がかかるのじゃ』
『へえ!』若者は、ちょっといい澱(よど)んだが、痛そうに唾を呑み込んでから『六円から十円ぐらいまでかかります』
『お前は工場でいくら貰っているのじゃ』
『日に一円五十銭ぐらい、貰うとります』
『うむ、それでその中から食費だとか風呂代だとか引くと月に何程ぐらい残るんじゃ』
『へえ、十円ぐらい残ります』
『そうか、十円ぐらいしか残らんで、それで月に六遍も遊んで、一度に六、七円ずつも使うと金が足らなくなるわけだな』
『へえい』
『じゃ、何か別な所で金の工面をしたわけだな』
『へえい』
『誰かから、金の工面をしてもろうたわけだな』
『へえい!友達から二十円ばかり借りました』
『そのほかにないか』
『親から十円借りました』
『うむ。合して三十円だな。そのくらいの借金なら、払えないという借金じゃないな』
『へえい』
『一体、どうしてこんなことをやった』
若者は、しばらく考え込んでいたようでしたが、急に咳き込んで来たかと思うと、泡のような血を口から吐き出しました。気管の傷のために、血が口の中に洩れるのです。
僕は、自分の尋問が、この青年の容体を険悪にしはしないかと思ったので、警察医にききますと、彼は平気な顔をして、
『何!大丈夫です。どんなことをしたって、命に別条はありません。御心配なくお続け下さい』といいました。
僕は、それに安心して改めて若者にいいました。
『そら、そんな風に考えたら駄目だよ。あっさりいうのだよ、あっさり』
若者は、唇の周囲についた血を鼻紙で拭きながら、
『私は、今年は兵にかかっとりますので、入営するまでには金でも溜めて、両親も欣ばせようと思っていましたのに、こんなことで金は溜りませんし、借金はできるし、それにあの女も可哀そうな女で、国へ一度母親の見舞いに帰りたい帰りたいいうておりましたけれど、帰れんような始末で、いっそ死んでしもうたらという、相談になりましたんで』
『うむ。それで一緒に死ぬ相談をしたのか。しかし借金だといって、わずかばかりの金じゃないか。それに、女がそれほど、国に帰りたいのなら、お前が連れて帰ってやればいいじゃないか。何も遠い所ではなし、鳥取じゃないか』
『へえい!それがそうはいきませんので。まったく』
『そうかね、お前のいうことも、一応もっともに思えるが、ただそれだけで死んだというのは、どうも俺の腑(ふ)に落ちないんだが。考えないで、さっぱりいうてみんか。考えていうと嘘になっていかん』
そういいますと、若者はその蒼白の顔に、ちょっと血の気を湛えながらいいました。
『命を投げ出してやりましたけに、嘘なんか決して申しません』
相手は少し激したが、僕は冷然たる態度をもっていいました。
『そうかね。そんなら、それでいいが、俺にはどうも腑に落ちないんだがね。俺の腑に落ちんということは、つまり話している方のお前の心に、何か蟠(わだかま)りがあるんじゃないかね。こんな時に、本当のことがいえんようじゃ、男として恥じゃないか。何か別にわけがあるんだろう。何か悪いことでもしたんじゃないか』
『いいや、決して悪いことなんか』と、若者は急(せ)き込んで答えると同時に、傷口からまた血が洩れたのでしょう、苦しそうに咳き込みました。僕の心持は、その時もう職業的意識でいっぱいになっていて、青年が苦しがっても、最初ほどの同情は湧きませんでした。そればかりでなく、僕は、相手がかなり執拗なので、尋問の方向を急に変えてみました。
『じゃ、それはそれとしておいて、一体どちらが先にやったのか、お前の方か、それとも女の方か』
『あたしが先へ死ぬといいまして、女が先に短刀を喉へ突き刺してから、今度は畳へ突きさして私にくれました』
『うむ、なるほど、それで一体女はどんな風に突いたんだ』
『それは、あの女が、刃の方を上に向けて、喉へ突き刺すと、血がだらりと流れました』
『その短刀を握った手は、右かい左かい』
『右です』
『そうかい。それからどうした』
『それから、私が短刀を受け取って、一突き刺したのですが、苦しくて苦しくて、私は思わず立ち上ったのです』
『それから』
『私は唸(うな)ったように思います。それから夢中になってしまいました』
『そうか、夢中になったのか、それであの壁に血がかかっているのは、どうしたのだ』
『私が、苦しまぎれに寄りかかったのです』
『それからどうしたのだ』
『気が付きますと、お主婦(かみ)が私の持っている短刀をもぎとっていたのです』
『なるほどね。そういうわけか。あの錦木という女は、えらい女だな。しかし、そりゃお前、嘘じゃないか。その女が、喉を突いたところを、もう一度いってみんか』
同じことを、二度いわせるのが、僕らが尋問の常套手段なのです。被告が嘘をいっていれば、きっとそこにつじつまの合わないところができるのです。が、それにしても、喉に傷を持っている被告に二度同じことを繰り返させることが、かなり残酷のように思われないでもなかったのです。が、その当時、僕の熾烈(しれつ)な職務心は、そんな心をすぐ打ち消したのでした。
それでも、若者は前の陳述と矛盾しないように、同じことを繰り返しました。
『そうかね。その女が、一人でやった!が、お前手伝ってやりはしなかったかね。女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね。いいか悪いかは別問題として、そうあるべきところじゃないかね』
先刻、女の死体を一目見たときに、僕は女が、どちらかといえば、呼吸器でもが悪いように瘠せた女で、男が陳述するような、勇気がある女とは、どうしても思えなかったのです。僕は、自殺幇助の事実があることを最初から信じていたのです。それに、先刻ちょっと見たときにも、傷口が一刀のもとに見事に突かれていることに気が付いていたのです。
『どうだい。俺には、あの女に、お前がいうほど勇気があるとは、どうしても思えないのだがね。そこが、不思議で堪らないのだがね。どうだい。本当のことをあっさりといってくれんかな。実はお前が、突いてやったのだろう』
若者は明らかに狼狽しながら、
『いえいえ、滅相な滅相な』と打ち消しました。
『じゃ、きくがね。あの女の喉のところに掻き傷があるが、あれはどうしたんだ』
若者は顔が赤くなったかと思うと、黙っていました。
『お前が、一緒に突いてやったのじゃないか』
若者は、首を横に、微かに動かしました。
『じゃ、そんな覚えはないというんだね。女が喉を突くとき、お前の手は女の身体に触れていなかったというのかい』
『いいえ。二人抱き合って』
僕は心のうちで、『しめた!』と叫びました。
『二人抱き合って、うむ。先刻は、そんなことはいわなかったようだね。なるほど、二人抱き合って』
『二人一緒に抱き合って、女が喉を突くと、一緒に転(ころ)げたのです。それで、血が出たから押さえてやろうとしたのです』
『なるほど、お前のいうことは、だんだん本当に近くなってきたじゃないか。が、もう少し本当でなければいかん。もう少しのところだ。もう少し本当にいえばいいのだ』
『それで、女がもがいて、手で喉を掻きむしったのです』
『なるほどな。それで、掻き傷ができたというのだな。そんなこともあることだから、それも本当にとれる。だけど、お前よう考えてみるがいいぞ。普通の女というものは気の弱い人間だぜ。鬼神のお松というような毒婦だとか、乃木大将の夫人などという女丈夫なら、そら一突きで見事に死ぬかも知れん、が、あの女のような身体の弱い女に、そんなことができるかできんか、誰が考えても分かることじゃないか』
こういって来ると、相手の若者は、返事に窮したように、黙ってしまったのでした。僕は、もう一息だと思いました。
『何も、こんなことは、別にお前にきかなくても、初めからちゃんと分かっていることなんだ。掛りの医者を連れて来ているのだから、大抵のことは、お前にきかなくても分かってるのだ。が、お前が本当のことをいう男であるか、お前に何か取りえがあるかどうかと思って、きいているのだぞ』
こういい詰めると、若者は苦しそうに、身を悶えていましたが、
『ああお役人さま。私は死にたいのです。どうぞ、私を殺して下さい!』
彼は悲鳴のように叫ぶと、切なそうに、啜(すす)り泣きを始めていました。
僕は若者を叱りつけるようにいいました。
『そんな気の弱いことでどうする。今が、お前の一生の中で、いちばん大事なときじゃないか。今までの間違っていたことを改めて、生れ変った人間として立派にやっていく、大事な潮時じゃないか、お前が、やったことが悪いとしたならば、死んだ人に対しても、社会に対しても、申しわけとして、相当な勤めを、立派に果して、生れ変って来るときじゃないか。こんな大切なときにウソを吐くようじゃ、お前はもう何の取りえもない、男子のなかの屑じゃないか。さあ、死にたいなどと、そんな気の弱いことをいわないで、潔く本当のことをいったらどうだ。短刀の柄の端を、少し持ち添えてやったとか、一緒に転ぶときに、少し押してやったとか。本当のことをいってみい!』
『夢中で、はっきりとは覚えていませんが、一緒に倒れるときに、私の手が喉のところへ行ったかも知れません』
若者は、とうとう本当のことを、喋(しゃべ)り始めたのです。僕の面に、得意な微笑が浮ぶのをどうすることもできませんでした。
『なるほどな、が、お前も自分でやったことが分からんはずはないだろう、いや、お前はよう分かったつもりでいっているのだろうが、普通に考えると、どうもよく分からん。お前の肚(はら)になってみれば、よく分かるが、普通に分かるようにいってみんか。が、嘘をいえというのじゃないぞ』
若者は、しばらく無言でしたが、ようやく決心したように、
『よう考えてみると、あれが自分で突き刺して、非常に苦しがっていたものですから、あれの上から、のっかかって、短刀の柄の残っているところを、持ってやりました。一緒にきゅっと押してやりました』
『それはどっちの手で』
『右の手でやりました』
『そのとき、左の手はどうしていたのだ。まさか、左の手を上へぼんやり上げてはいはすまいね。その時の姿勢は、どうだった』
『じつは左の手で女の首を抱えてやりました』
『なるほど。それで、よう物が分かった。それで、いうことに無理がない。だから、早くからいえばよかったのだ。それで、そのことには、少しも無理がない。よう分かった。が、もう一つ分からんことがある。それも一つ考えずに、あっさりいうたら、どうだ。そりゃ、こうこういうわけだったと、あっさりいうたらどうだ。無理のないよう分かるようにいったらどうだ。そら、お前がどうしてこういうことをやったかをついでにいってくれ』
『それは、さっき申した通りです』
『うむ、さっきどんなことをいったかな。もう一遍いってみてくれんか。さっきからたくさんきいたから、勘違いをしておるかも知れん。もう一度、くわしくいってみてくれ』
こういうのは、犯人には事実を自白する機会を作ってやるためです。
『それは、兵に行く前に金でも溜めて、両親を欣ばせようと思っていましたのが、借金はできますし、それにあの女が――』
『そうそう、さっききいたのは、そこだった。そこを一つ考えずにいってくれ、よく世の中には、別れの辛いということがあるが、国へ帰って兵に行くということになると、自然あの女とも別れることになるのだったな』
『実は、かれこれ申し上げていましたが、今まで申し上げたことも、一つですが、もう一つ他のことは、兵にはいるのが嫌だったのです。それで、私が思い詰めて、女に申しますと、女もそれではと申しまして、こういうことになったのです』
『それに相違ないか。この先、お前が違うことをいうと、お前に嫌疑がかかる上に、憎しみもかかり、結局はお前の損になるのだから』
『その通り、決して違いありません』
そう、いい終ると、若者はその顔に絶望の表情を浮べたかと思うと、そのまま崩れるように、仰向けに倒れてしまいました。
彼が、自殺幇助の罪を犯していることが、明らかにされたのです。自殺幇助の罪は、六ヵ月以上七年以下の懲役または禁錮です。若者の尋問が終ると、うまく問い落したというような、職務意識から来る得意さと満足とが私の心のうちに湧いて来るのを、禁ずることができませんでした。ほとんど、一時間に近い、長い尋問のために、疲れ果てて、蒲団に寝かされた後も、苦しそうに肩で息をしている若者を、僕は、猟人がちょうど自分の射落した獲物でも見るような目付で、しばらくはじっと見つめていたのでした。僕の尋問の綾(あや)に、うまく引っかかって、案外容易に、自白してしまった若者に、憫(あわれ)みを感じながら、しかも相手の浅はかさを、蔑(さげす)むような心持さえ動いていたのです。 
そのときに、警部が僕に近づいて来て、若者にはきこえないような低声で、
『ちょっとおいで下さい、解剖をやっています』と囁(ささや)きました。
僕は、それをきくと、女の死体のある元の四畳半に帰って行ったのです。さすがに、女の死体は、蒲団の上に、真っすぐに寝かされていました。よれよれに垢じみた綿ネルらしい寝衣を、剥ぎ取られた姿は、前よりももっとみじめな浅ましいものでした。胸のあたりの蒼い瘠せた皮膚には、人間の皮膚らしい弾力が少しも残っていないのです。露わに見えている肋骨や、とげとげしい腕の関節などが、この女の十年の悲惨な生活をまざまざと示しているのでした。また、その身体の下半部に纏(まと)っている腰巻が、一目見た者が思わず顔を背けねばならないほど、ひどいものでした。それは、ネルでしたが、地の桃色が褪せてしまって、ところどころに白い斑(まだら)ができて、それが灰色に汚れているのです。よく、注意して見ると、それは普通の婦人がするように、ネルの上に白木綿を継ぎ足してあるのですが、その白木綿が、鼠色に黒くなっているところへ、迸(ほとばし)った血がかかったため、白木綿のところまでが、ネルの部分と同じように、汚れた桃色に見えていたのです。
女は、見る見るうちに、喉の傷口を剖(あば)かれ、胸から腹部へと、次々に剖(あば)かれて行くのでした。警察医は、鶏の料理をでもするように、馴れ切った冷静な手付きで、肺や心臓や胃腸など一通(ひととお)り見た上で、女に肺尖(はいせん)カタルの痕跡があるといいました。
僕は、死体の解剖を見ているうちに、自分の気持が鉛のように重苦しくなって来るのを感じたのです。女の栄養不良の瘠せ果てた身体は、彼女の過去の苦惨な生活を、何よりも力強く、僕の胸に投げつけるのです。十年もの間、もがいた末に、なおこうした地獄の境目を脱すべき曙光を見出し得ない彼女が、自殺を計るということは、当然過ぎるほど、当然なことのように思われて来たのです。前借といえば、きっと三百円か五百円かの端金(はしたがね)に違いない。そうした金のために、十年の間、心も身体も、めちゃくちゃに嘖(さいな)まれた彼女が、他の手段では、脱し切れない境地を、死をもって脱しようとすることは、もっとも至極のことのように思われたのです。現代の売淫制度の罪悪は、売淫そのものにあるというよりも、こうした世界にまでも、資本主義の毒が漲(みなぎ)っていて、売淫者自身の血や膏(あぶら)が、楼主といったものを、肥しているということです。貧乏な人たちの子女が、わずかな金のために、身を縛られて、楼主といったような連中の餌食になって骨まで舐(しゃぶ)られていることです。そう考えて来ると、そうした犠牲者が、そのどうにもならない境地を、死をもって脱するのは、彼らが、最後の反抗であり唯一の逃路であるように思われて来たのです。
こうした浅ましい身体で、こうしたみじめな服装をして、浅ましい勤めをしているよりも、一思いに自殺する方が、この女に、どれだけ幸福であるかわからないと思ったのです。
そのときに、僕はこの女の自殺を手伝ってやったあの若者のことを考えたのです。この女は、明らかに死を望んでいる、そして死ぬ方が、何よりの解脱である。この女が、自殺しようとしてもがいているときに、ちょっと短刀を持ち添えてやったことが、なぜ犯罪を構成するのだろう。現代の社会のいちばん不当な間隙に、身を挟まれて苦しんでいる彼女が死を考えることに何の無理があるのだろう。また彼女が死んだからといって、何人が損をするというのだろう。楼主が損をするというのか。否、彼は彼女の血と膏とで、もう十分舌鼓を打った後ではないか。我々が、彼女の死を遮(さえぎ)るべき何の口実ももっていないのではないか。またたとえ、彼女の死を遮り止めたところで、彼女を救ってやるいかなる方法があるだろう。それだのに、彼女が死を企てたときに、ちょっとその手伝いをしたあの若者が、何故に罰せられなければならないのだろう。
そのときに、僕はふと、さっき尋問の手段として、若者にいいきかせた自分の言葉を思い出したのです。
『……女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね』
自分が、手段のためにいったこうした言葉が、力強く僕の胸に跳ね返ってきたのです。あの若者のような場合に、あの若者のような態度に出ることは、何人からも肯定さるべき、自然な人情ではないか。それが、人間として美しいことではないか。それだのに、自分自身死にそこなって苦しがっている彼を、法律は追及して、罰しなければならないのだろうか。
そんなことを、考えていると、僕はさっき、傷に悩んでいる青年を脅(おど)したり賺(すか)したりして問い落して得意になっていた自分の態度が、さもしいように考えられて来たのです、僕の職務的良心が、ともすればぐらぐらに崩れそうになっていたのです。 
出張したのは二時頃でしたが、すべての手続きが片づいた頃には、日がとっぷりと暮れていました。僕らは、引き上げようとして、俥が来るのを待っていたときです。臨検中は、私人が二階へ上るのを、一切禁じてあったのですが、もうすべてが終ったので、家人の上るのを許したのです。すると、待ち構えていたようにいちばんに上って来たのは、さっき見かけたこの家のお主婦(かみ)なのです。
僕の顔を見ると、平蜘蛛のように、お辞儀をしながら、そのくせ、額ごしに、冷たい目でじろじろ見ていたかと思うと、いいにくそうに、
『旦那はん。あの指輪(ゆびはめ)、取っても大事おまへんか』と、こういうのです。
『指輪!指輪が、どうしたのだ』
お主婦は、ちょっと追従笑いをしていましたが、
『へえ。あの子供がはめておりますんで』
僕はそうきいたときに、妙な悪感を感ぜずにはいられなかったのです。
『じゃ、あの死体の指にはいっている指輪を欲しいというのだな』
『へえ!さよで』
僕は、頭から怒鳴りつけてやりたいと思ったのです。が、しかし、検事としての理性が僕の感情を抑えたのです。死体から、指輪を剥ぎ取るということ、それは普通な人情からいえば、どんな債権債務の関係があるにしたところで人間業ではないような恐ろしいことです。けれども、法律的にいえば、それは単に物の位置を移すということに過ぎないのです。
『よろしい』
僕は、そう苦(にが)り切って答えるほかはなかったのです。お主婦は、一人では怖いからといって、刑事に付いてもらって、死体の置いてある部屋の方へ行きました。
お主婦の姿を見送った僕の心は、憤懣とも悲しみとも、憂愁ともつかない、妙な重くるしい、そのくせ張り裂けるような感情で、いっぱいになっていたのです。
普通の人間が死んだ場合は、たとえ息は絶えていても、あたかも生あるもののごとくに、生前以上に尊敬され、待遇されるのに、彼女は――生前もがきにもがいた彼女は、嘖(さいな)まれた上にも嘖まれた彼女は――息が絶えると同時に、物自体のように取り扱われ、身に付けていた最後の粉飾物を、生前彼女を苦しめ抜いた楼主に奪われなければならぬかと思うと、彼女の薄命に対する同情の涙が、僕の目の中に汪然と湧いて来るのを、どうすることもできなかったのです。
お主婦(かみ)は、やがて指輪を抜いてきました。見ると、それは高々八、九円するかしないかの、十四金ぐらいの蒲鉾(かまぼこ)形の指輪なのです。僕はそのときむらむらとして、こんなことをいったのです。
『お前、その指輪を、どうするのだ』
お主婦は、おどおどしながら、
『あの子供に、借金が仰山(ぎょうさん)ありますけに、これでも売って、足しにしようと思うているのです』
『そうか。じゃ、誰かに売るんだな。売るのなら俺に売ってくれんか。何程ぐらいするんだ。十円なら安くないだろう』
『へえへえ。結構どす。けど、何やってこんなものをお買いになるのどす』
『まあ!いい』
そういって、僕はその指輪を買ったのです。
そのとき、ちょうど俥がやって来たのです。僕は、立ち上ると、お主婦が、不思議そうに見ているのもかまわず、錦木の部屋へ入って行ったのです。そしてお主婦から買い取った指輪を、元の瘠せ細った指に入れてやったのです。もう、十一月の半ばであるのに、死体の上に、あせためりんす友禅の単衣(ひとえ)しか掛けてないのが、何だか薄ら寒そうに見えたのです。が、顔だけはまことに、眠るがごとく目を閉じていたのが、そのときの僕には、何よりの心やりでした。
僕は、僕の後から、僕が何をするのだろうと、おずおず見に来たお主婦に叱りつけるようにいったのです。
『いいかい。この指輪は、錦木のものじゃない。俺のものだぞ。もし今度この指輪を取ると、ひどい目にあうのだぞ』
僕は、お主婦(かみ)が何か畏(かしこま)っていっているのを聞き流して、梯子段を降りたのです。
僕は、俥に乗ってから、立会いの警部や刑事の手前、自分の最後の行動が、突飛であったことを後悔したのです。が、後で悔いはしたものの、あの場合の僕は、ああした行動をするような、不思議な興奮に囚(とら)われていたことは事実です」 
 
心中浪華の春雨 / 岡本綺堂  

 


寛延(かんえん)二|己巳年(つちのとみどし)の二月から三月にかけて、大坂は千日前(せんにちまえ)に二つの首が獄門に梟(か)けられた。ひとつは九郎右衛門という図太い男の首、他のひとつはお八重という美しい女の首で、先に処刑(しおき)を受けた男は赤格子(あかごうし)という異名(いみょう)を取った海賊であった。女は北の新地のかしくといった全盛の遊女で、ある蔵(くら)屋敷の客に引かされて天満の老松辺に住んでいたが、酒乱の癖が身に禍いして、兄の吉兵衛に手傷を負わせた為に、大坂じゅう引廻(ひきまわ)しの上に獄門の処刑を受けたのであった。
これが大坂じゅうの噂に立って、豊竹座の人形芝居では直ぐに浄瑠璃に仕組もうとした。作者の並木宗輔(なみきそうすけ)や浅田一鳥(あさだいっちょう)がひたいをあつめてその趣向を練っていると、ここに又ひとつの新しい材料がふえた。大宝寺町の大工庄蔵の弟子で六三郎(ろくさぶろう)という今年十九の若者が、南の新屋敷(しんやしき)福島屋の遊女お園(その)と、三月十九日の夜に西横堀で心中を遂げたのである。しかもその六三郎は千日寺に梟(さら)されている首のひとつにゆかりのある者であった。
芝居の方ではよい材料が続々湧いて出るのを喜んだに相違ないが、その材料に掻き集められた人びとの中で、最も若い六三郎が最も哀れであった。 
六三郎は九郎右衛門の子であった。
九郎右衛門の素姓(すじょう)はよく判っていない。なんでも長町(ながまち)辺で小さい商いをしていたらしいが、太い胆(きも)をもって生まれた彼は小さい商人(あきんど)に不適当であった。彼は細かい十露盤(そろばん)の珠(たま)をせせっているのをもどかしく思って、堂島(どうじま)の米あきないに濡れ手で粟の大博奕(おおばくち)を試みると、その目算はがらりと狂って、小さい身代の有りたけを投げ出してもまだ足りないような破滅に陥った。もう夜逃げよりほかはない。彼は女房と一人の伜とを置き去りにして、どこへか姿を隠してしまった。
ほかには頼む親類や友達もなかったので、取り残された女房は伜の六三郎を連れて裏家(うらや)住みの果敢(はか)ない身となった。九郎右衛門のゆくえは遂に知れなかった。さなきだにふだんからかよわいからだの女房は苦労の重荷に圧(お)しつぶされて、その明くる年の春に気病(きや)みのようなふうで脆(もろ)く死んでしまった。
六三郎はまだ十歳(とお)の子供でどうする方角も立たなかった。近所の人たちの情けで母の葬いだけはともかくも済ましたが、これから先どうしていいのか、途方に暮れて唯おろおろと泣いているのを、大工の庄蔵(しょうぞう)が不憫(ふびん)に思って、大宝寺町の自分の家(うち)へ引き取ってくれた。孤児(みなしご)六三郎はこうして大工の丁稚(でっち)になった。
父に捨てられ、母をうしなった六三郎は、親方のほかには大坂じゅうにたよる人もなかった。庄蔵はおとこ気のある男で、よく六三郎の面倒を見てくれた。ちっとぐらい虐待されても他に行きどころのない孤児が、こうしたいい親方を取り当てたのは、彼に取ってこの上もない仕合せであったことはいうまでもない。六三郎もありがたいことに思って親方大事に奉公していた。
六三郎はどの点に於いても父の血を引いていなかった。彼は母によく似た優しい眉や眼をもって生まれた。母によく似たすなおな弱々しい心をもって生まれた。気のあらい大工の渡世(とせい)には少しおとなし過ぎるとも思われたが、その弱々しいのがいよいよ親方夫婦の不憫を増して、兄弟子(あにでし)にも朋輩(ほうばい)にも憎まれずに、肩揚げの取れるまで無事に勤めていた。腕はにぶくもなかった。普通の丁稚とは違うものの、十年の年季をとどこおりなく済ましたら、裏家住みにしろ世帯を持たしてやると親方も親切にいってくれた。六三郎は小作りの子供らしい男なので、十八の春に初めて前髪を剃った。
いくらおとなしい男でももう十八である。前髪を落したからは大人の仲間入りをしろと、兄弟子や友達にすすめられて、六三郎はその年の夏に初めて新屋敷の福島屋へ足を踏み込んだ。相方(あいかた)の遊女はお園(その)といって、六三郎よりも三つの年かさであった。十六の歳から色里(いろざと)の人となって今が勤め盛りのお園の眼には、初心(うぶ)で素直で年下の六三郎が可愛く見えた。親方夫婦のほかには懐かしい人はないように思い込んでいた六三郎も、この夜からさらに懐かしい人を新たに発見した。正直な男も恋には大胆になって、その後も親方や兄弟子たちの眼を忍んで新屋敷へ折りおりに姿を見せた。
二人がどっちも若い同士であったら、すぐに無我夢中にのぼり詰めて我れから破滅を急ぐのであろうが、幸いに女は男よりも年上であった。色里の面白いことも苦しいことも知りつくしていた。まだ丁稚あがりの男の身分から考えても、五度逢うところは三度逢い、二度を一度にするのが二人の為であるということも知っていた。彼女(かれ)は小春治兵衛(こはるじへえ)や梅川忠兵衛(うめがわちゅうべえ)の悲しい末路をも知っていた。
「お前とわたしの名を浄瑠璃に唄われとうはない。わたしが二十五の年明(ねんあ)けまでは、おたがいに辛抱が大事でござんすぞ」
お園はいつも弟のような六三郎に意見していた。二人の間にもう行く末の約束が固く取り結ばれていたのであった。しかし艶(はで)な浮名を好まない質(たち)であるのと、もうひとつには自分よりも年下の、しかも大工の丁稚あがりを情夫(おとこ)にしているということが勤めする身の見得(みえ)にもならないので、お園は自分がいよいよ自由の身になるまでは、なるべく六三郎との仲をひとには洩らしたくないと思っていた。そんな噂を立てられては男の為にもならないと案じた。若い男があせって通って来るのを、女はかえって堰(せ)き止めるようにしていた。年下の男をもった為に、お園はいろいろの気苦労が多かった。遊びの諸払いも自分がいつも半分ずつ立て替えていた。
こういうじみな、隠れた恋を楽しんでいただけに、二人の仲はなんの破綻(はたん)を現わさずに続いていった。親方も薄うすは悟っていたものの、二人の恋がそれほどまでに根強くかたまっていようとはさすがに思いも付かなかったので、若い者の廓(くるわ)通い、ちっと位は大目に見て置いてやれと、別に小言らしいことも言わなかった。
寛延二年には六三郎が十九になった。お園は二十二の春を迎えた。
親方の家の裏には広い空地(あきち)があった。ここを仕事場としているので、空地の隅には材木を積んで置く木納屋(きなや)があった。納屋の角には六三郎が来ない昔から一本の桜が植えてあって、今はかなりの大木になっていた。六三郎はこの桜の下で鉋(かんな)や鋸(のこ)をつかって、春が来るごとに花の白い梢を仰ぐのであった。今年もその梢がやがて白くなろうとする二月のなかば、陰(くも)って暖かい日の夕暮れであった。六三郎は或る出入り場の仕事から帰って来て、それから近所の風呂屋へ行った。濡(ぬ)れた手拭をさげて風呂屋の門(かど)を出るころには、細かい雨がひたいにはらはらと落ちて来た。
「もし、もし」
うす暗い路ばたから声をかけられて、六三郎は立ち止まった。呼びかけた人は旅ごしらえをして、深い笠に顔をつつんでいた。
「お前は大工の六三郎さんではござりませぬか」
「はい。わたしは六三郎でござります」
旅びとはあたりをちょっと見返ったが、やがてずっと寄って六三郎の手をとった。驚いて振り放そうとしたが、彼は掴(つか)んだその手をゆるめなかった。
「六三(ろくさ)。よく達者でいてくれた。おれは親父(おやじ)の九郎右衛門だ」
足掛け十年振りで父に突然めぐり合った六三郎は、嬉しさと懐かしさに暫くは口も利けなかった。彼は父の手にすがってただ泣いていた。
父はどこで聞いたか、我が子が大宝寺町の庄蔵親方の世話になっていることをもう知っていた。そうして、おれは当時|西国(さいこく)の博多に店を持って、唐人(とうじん)あきないを手広くしている。一年には何千両という儲(もう)けがある。それでお前を迎いに来た。大工の丁稚奉公などしていても多寡が知れている。おれと一緒に西国へ来て大商人(おおあきんど)の跡取りになれと囁(ささや)いて聞かせた。
六三郎は夢のようであった。行くえの知れなかった父が突然に帰って来て、大商人の跡取りにするから一緒に来いという。なんだか嘘らしいような話でもあったが、正直な六三郎は父を疑わなかった。しかし親方に無断でこれから直ぐに行くのは困ると言った。親方に逢ってこれまでの礼を述べて、穏やかに暇を貰ってくれと父に頼んだ。
九郎右衛門はなぜか渋っていたが、結局わが子の言い条を通して、親方のところへ暇を貰う掛合いに行くことになった。いよいよ博多へ行くと決まったら、お園のことも父に打ち明けようと思っていたが、六三郎はまだそれを言い出す暇がなかった。雨はしとしと降って来たので、父子(おやこ)は濡れながらに路を急いだ。父子のうしろに黒い影が付きまとっていることを、二人ともに知らなかった。
黒い影は町方(まちかた)の捕手(とりて)であった。父子が大宝寺町まで行き着かないうちに、捕手は二人を取り巻いた。九郎右衛門は素早くくぐりぬけて逃げ去ったが、あっけに取られてうろうろしていた六三郎はすぐに両腕を掴まれた。
四つの木戸は閉められた。非常を報(しら)せる太鼓はとうとうと鳴った。出口、出口を塞がれて九郎右衛門は逃げ場に迷った。ひとつ所を行きつ戻りつして暫くは捕手の眼を逃れていたが、その夜の戌(いぬ)の刻(こく)(午後八時)頃にとうとう縄にかかった。
唐人あきないというけれども、彼は長崎辺の商人のように陸上で公然と取引きをするのではなかった。彼は抜荷(ぬけに)買いというもので、夜陰(やいん)に船を沖へ乗り出して外国船と密貿易をするのであった。密貿易は厳禁で、この時代には海賊と呼ばれていた。彼は故郷の大坂を立ち退(の)いて、中国西国をさまよううちに、大胆な彼は自分に適当な新しい職業を見いだして、かの抜荷買いの群れにはいった。それが運よく成功して、表向きは博多の町に唐物(とうぶつ)あきないの店を開いているが、その実は長崎奉行の眼をくぐって、いわゆる海賊を本業としていたのである。
こうして十年を送るうちに、彼もさすがに故郷が恋しくなった。彼ももう四十を越して、鏡にむかって小鬢(こびん)の白い糸を見いだした時に、故郷に捨てて来た女房や伜がそぞろに懐かしくなった。余り懐かしさに堪えかねて、彼はそっと大坂へのぼって来た。その留守の間に、ふとした事から秘密が破れて、彼の仲間の一人が召捕られた。長崎の奉行所からは早飛脚(はやびきゃく)に絵姿を持たして、彼の召捕り方を大坂の奉行所へ依頼して来た。
そんなことを夢にも知らない彼は、自分から網の中にはいって来た。自分が昔住んでいた長町辺を尋ね歩いて、それとなく女房や子供の身の上を聞き合わせると、女房はとうに死んでいた。伜は大工の丁稚(でっち)になって大宝寺町にいることが知れた。彼も今更のように昔を悔(くや)んだがもう取り返しの付くことではない、せめては伜だけを連れ帰って父子いっしょに暮らそうと、大宝寺町の近所をさまよっているうちに、彼は遂に待ち網にかかってしまった。
「十年振りで我が子の顔を見ましたれば、思い置くこともござりませぬ。しかし又なまじいにめぐりあった為に、なんにも知らぬ我が子に連坐(まきぞえ)の咎めが掛かろうかと思うと、それが悲しゅうござります」と、九郎右衛門は白洲(しらす)で涙を流した。
奉行にも涙があった。六三郎はふだんから正直の聞えのある者、殊に父子とはいいながら十年も音信不通で、父の罪咎(つみとが)に就いてなんの係り合いもないことは判り切っている。また一方には親方の庄蔵から町名主(まちなぬし)にその事情を訴えて、六三郎の赦免をしきりに嘆願したので、結局六三郎はお構いなしということで免(ゆる)された。
「飛んだ災難であったが、まあ仕方がない。悪い親を持ったが因果と諦めろ」と、親方は慰めるように言った。
この噂を聞いて、お園も定めて案じているだろうとは思ったが、この場合どうしても謹慎していなければならない六三郎は、親方の手前、世間の手前、迂闊(うかつ)に外出することもできないので、じっと堪(こら)えておとなしく日を送っていた。
九郎右衛門は胆(きも)の据わった男だけに、今更なんの未練もなしに自分の罪科(ざいか)をいさぎよく白状したので、吟味にちっとも手数が掛からなかった。彼は大坂じゅうを引廻しの上で、千日寺の前に首を梟(さら)された。
なまじいに親にめぐり合ったのが六三郎の不幸であった。大方はこうなることと覚悟はしていたものの、父の罪がいよいよ獄門と決まったのを知った時は、彼は怖ろしいのと悲しいのとで、実に生きている空はなかった。今日が死罪という日には、彼は飯もくわずに泣いていた。親方もただ「諦めろ、あきらめろ」というよりほかに慰めることばもなかった。
兄弟子たちも六三郎には同情していた。近所の人たちも彼を気の毒に思っていた。しかし世間はむごいもので、気の毒とか可哀そうとかいう口の下から、大工の六三郎は引廻しの子だとか、海賊の子だとかいって、暗(あん)に彼を卑しむような蔭口をきく者も多かった。実際、海賊の子ということが彼の名誉ではなかった。気の弱い六三郎は父の悲惨な死を悲しむと同時に、自分の身に圧(お)しかかって来る世間のむごい迫害を恐れた。自分ばかりではない、大恩のある親方の顔にまでも泥を塗ったのを、彼はひどく申し訳のないことに思って嘆いた。
「そんなことをいつまでもくよくよするな、人の噂も七十五日で、そのうちには自然と消えてしまうに決まっている。ちっとの間の辛抱じゃ。ひとが何を言おうとも気にかけるな」
親方はこう言って、いつも六三郎を励ましていた。六三郎は涙を流してありがたく聴(き)いていた。その弱々しい泣き顔を見ると、親方もいじらしくってならなかった。いくら屈託しても今更仕方がない、ちっと酒でも飲んで見ろなどともいった。
父の首が梟(さら)されてから十三日目の晩に、六三郎は手拭に顔を包んでそっと福島屋へ訪ねて行った。今の身の上で晴れがましい遊興はできない。彼はお園を格子口まで呼び出して、そのやつれた蒼白い顔を見せた。このあいだから男の身を案じ暮らしていたお園は、薄暗い軒行燈(のきあんどう)の下にしょんぼりと立っている六三郎の寂しい影を見た時に、涙がまず突っ掛けるようにこぼれて来た。
「大坂じゅうに隠れのない噂、わたしは残らず聞きました。それでもお前の身に何の祟(たた)りもなかったのが、せめてもの仕合せというもの。そうして、親方の首尾はどうでござんすえ」
「いつもいう通り、親方は親切な人。いよいよ私(わし)をいとしがってくれる。それにちっとも苦労はない」
そう言いながらも、しおれ切っている男の顔が、半月前とは別の人のように痩せ衰えているのを見るにつけても、その悼(いた)ましい苦労が思いやられて、お園の涙は止めどなしに流れた。 

親方は親切な人で、自分にもいろいろと力をつけてくれる。親のことはもう諦めるよりほかはない。
こう思えば差し当って六三郎の身の上に何のわずらいもないのであるが、彼の最も恐れているのは広い世間の口と眼とであった。むごい口で海賊の子と罵られ、冷たい眼で引廻しの子と睨まれる。それでは世間に顔出しができない。出入り場へも仕事に行かれない。
「それを思うと、俺はもう生きている気はない」と、六三郎は意気地がないように泣き出した。
男の気の弱いのはお園もかねて知っているので、こうして意気地なく泣いているのが、彼女にはいよいよいじらしく憐れに思われた。お園は子供をすかすように男をなだめて、たとい世間で何と言おうとも、誰がうしろ指を差そうとも、お前には頼もしい親方もついている、わたしというものもある。決して心細く思うには及ばない。ことし十九の男が泣いてばかりいるものではない。もっと心を強くもって男らしくしなければならないと、噛んでふくめるように言って聞かせた。六三郎はすなおに、ただあいあいと聴いていた。
二人はそれなりで別れた、呼び上げたいのは山々であったが、お園は家の首尾を気づかって、当分はおとなしく辛抱している方がいいと、くれぐれも言い含めて帰した。
それからまた半月も経った。親方の家の桜は春を忘れずに白く咲き出した。六三郎もこのごろは空地の仕事場へ出て、この桜の下で板割れなどを削っていた。親方も当分は六三郎を外の仕事へは出すまいと思っていた。しかし日が経つにしたがって、悪い噂はかえって拡がるらしく、直接に自分の耳にはいることや、ほかの弟子たちが世間から聞いて来るいろいろの噂や、どれもこれもみんな六三郎には不利益なことばかりであった。ある出入り場では今後六三郎を仕事によこしてくれるなと言った。ある職人は六三郎とは一緒に仕事をしないと言った。海賊の子に対する世間の憎悪と迫害とが案外に力強いのに親方も驚かされた。
「可哀そうに、六三郎に罪はない」
親方がいかに六三郎を庇(かば)っても、彼の手ひとつで世間という大きい敵を支えることはできなかった。親方もしまいには考えた。こんなことでは六三郎はいつまでも日蔭者で、晴れて世間を渡ることもできまい。いっそ世間から忘れられるように当分は他国へやった方がいいかとも思った。
「お前も科人(とがにん)の子と指さされてはこの大坂にも住みづらかろう。おれが添え手紙をして江戸の親方衆に頼んでやるから、ほとぼりの冷(さ)めるまで二年か三年か、江戸へ行って修業して来い」
と、親方は言った。
六三郎は素直に承知した。兄弟子たちもそれがよかろうと勧めた。
今の六三郎としては、当分この土地を立ち退くというのが最も利口な方法であったに相違ない。六三郎もそう思った。しかしそれを断行するには、彼に取って辛い悲しいことが二つあった。第一はお園に別れることで、その理由はいうまでもない。第二はこの土地を去ることである。大坂に生まれて大坂以外に一度も足を踏み出したことのない六三郎は、自分を呪う大坂の土がやっぱり懐かしかった。見も知らない他国へひとり身で飛び込んで行くのが何だか恐ろしかった。海賊の子と指さされて大坂に住むのも辛いが、他国者と侮られて江戸に住むのも苦しかろうと、それが彼の小さい胆(きも)をおびえさせた。
六三郎は三月十五日の晩に福島屋へ行った。彼はお園に逢って、江戸へ行かなければならなくなった訳を沈んだ声で物語った。お園も一度は驚いたが、親方の意見も無理はないと思った。なるほど当分は気を抜くためにこの土地を立ち退くのが六三郎の身の為でもあろうと考えた。
他国の奉公は辛くもあろうが、そこが辛抱である。石に喰い付いても我慢しなければ男一匹とはいわれまい。お前が帰って来る頃には、わたしの年季も丁度明ける。そうしたら、どんな狭い裏家(うらや)住みでも二人が世帯を持って、かねての約束通りに末長く一緒に添い遂げられる。それを楽しみに二人は当分分かれ分かれになって、西と東で暮らすことにしよう。二年三年はおろか、たとい五年が十年でもわたしはきっと待っている。わたしの心に変りはない。お前も江戸の若い女子(おなご)に馴染などを拵(こさ)えて、わたしという者のあることを忘れてくれるな。親方の所へたよりをする伝手(つで)があったら、わたしの方へもたよりを聞かしてくれ。いよいよ発つという時には、もう一度逢いに来てくれと、お園は細々(こまごま)と言い聞かせて、その晩も格子の先で男と別れた。
六三郎ももう決心した。一旦は懐かしい大坂の土にも離れ、恋しいお園にも別れて、西も東も知らない他国へ行って、当分は苦しい辛抱をするよりほかはないと心細くも覚悟した。
「では、親方さん。いよいよ江戸へ行くことにいたします」
「それがいい。なに、多寡が二年か三年の辛抱じゃ。いい時分には俺の方から呼び戻してやる。せいぜい腕を磨いて、大坂者を驚かすような立派な職人になって帰って来い。人間は腕次第じゃ。お前がいい腕をもっていれば、今までお前を悪う言った者も、向うから頭をさげて頼んで来るようにもなる」
親方は江戸の或る棟梁に宛てた手紙を書いてくれて、これを持って行けばきっと面倒を見てくれると言った。初旅であるから気をつけろと、道中の心得などもいろいろ言い聞かしてくれた。旅の支度もしてくれた、路用もくれた。兄弟子たちも思い思いに餞別(せんべつ)をくれた。みんなの親切が身にしみて嬉しいに付けても、六三郎はこの親切な人びとに別れて、他国の他人の中へ踏み出すのがいよいよ辛かった。彼は人の見ない所で時どき涙をふいた。
二十日(はつか)は日がいいというので、いよいよその朝に草鞋(わらじ)を穿くことになった。その前の日に六三郎は母の寺詣りに行きたいと言った。
「よく気がついた。当分お詣りもできまいから、おふくろの墓へ行って、よくその訳をいって拝んで来るがいい」と、親方は幾らかの布施(ふせ)を包んでくれた。
六三郎はありがたくその布施をいただいて、午(ひる)すぎから親方の家を出た。今日もどんよりと陰った日で、裏の空地の桜は風もないのにもう散りそめていた。
寺は六三郎が昔住んだ長町(ながまち)裏にあった。親方の家へ引き取られてからも六三郎は参詣を欠かしたことがないので、住職にも奇特(きどく)に思われていた。住職も今度の一条を知っているので、六三郎の不運を気の毒がって親切に慰めてくれた。江戸へ行くというのを聞いて、成る程それもよかろう、たとい幾年留守にしても阿母(おっか)さんの墓を無縁にするようなことは決してしない、安心して行くがよいと、これも江戸の知りびとに添え手紙などを書いてくれた。
暇(いとま)乞いをして寺を出るころには雨が降って来た。六三郎は雨の中を千日寺へも行った。父の死首(しにくび)はもう梟(さら)されていないでも、せめて墓詣りだけでもして行きたいと思ったのである。死罪になった者の死体は投げ込み同様で、もとより墓標なども見えなかったが、それでも寺僧の情けで新しい卒塔婆(そとば)が一本立っていた。
十年振りでめぐり合った父が直ぐにここの土になろうとは、まるで一※[日+向](いっとき)の夢としか思われなかった。しかもその夢はおそろしい夢であった。卵塔場(らんとうば)には春の草が青かった。細かい雨が音もなしに卒塔婆をぬらしていた。父に逢った夕暮れにもこんな雨にぬれたことを思い出して、顔のしずくを払う六三郎の指先には涙のしずくも流れた。
死んだ父母に暇乞いは済んだ。今度は生きた人に暇乞いをしなければならない。日が暮れて六三郎はさらに新屋敷へ行った。
「よう来て下さんした」
お園は六三郎を揚屋(あげや)へ連れて行った。今夜は当分の別れである。格子の立ち話では済まされなかった。二人が薄暗い燭台の前に坐った時に、雨の音はまだやまなかった。お園はどう工面(くめん)したか二両の金を餞別にくれた。それから自分が縫ったといって肌着をくれた。
もう決心はしたものの、六三郎はやっぱりお園に別れるのが辛かった。呪われた土地がやっぱり懐かしかった。お園と行く末の話をしている間も、何に付けても涙ぐまれた。
「このあいだも言った通り、お前も男、必ず弱々しい気をもって下さるな。女でも生まれ故郷を離れて、遠い長崎や奥州の果てへ行く者も沢山(たくさん)ある。この廓(くるわ)にいる人でも大坂生まれは数えるほどで、近くても京(きょう)丹波(たんば)、遠くは四国西国から売られて来て、知らぬ他国で辛い勤め奉公しているのもある。それを思えば男の身で、多寡(たか)が二年か三年の辛抱がならぬということがあるものか」
お園は同じことを繰り返して力を付けた。
「それはわしも知っている。親方にもいわれ、兄弟子たちにもいわれ、お前にも意見され、どうでも江戸へ行くことに覚悟は決めている。どんな辛い辛抱もして、立派な職人になって戻って来るほどに、どうぞそれまで待っていてくれ」
口だけは男らしく言っても、それを裏切る涙は六三郎の眼に浮いていた。
歯がゆいように弱々しい男がお園にはやっぱり可愛かった。可愛いというよりも、いじらしく憐れでならなかった。うるさい世間の口を避けるために、江戸へ修業に行くのも確かにいい。そうして、他人の中で揉(も)まれて来れば、人間も少しは強くなるに相違ない、腕もあがるに相違ない。一時(いっとき)は辛くとも当人の末の為になる。そう思って自分もしきりに勧めているのではあるが、また考えて見ると、人にもよれ六三郎はこうした稼業(かぎょう)に不似合いな、ふだんから身体もかよわい方である。気の弱いのも幾らかその弱いからだに伴っている。それが西も東も知らない他国に出て、右も左も他人の中へ投げ込まれたらどうであろう。
「鳥でさえも旅鴉(たびがらす)はいじめられる」
お園はそんなことも悲しく思いやられた。自分も初めてこの廓(さと)へ身を沈めた当座は、意地の悪い朋輩にいじめられて、蔭で泣いたこともたびたびあった。いっそ死んでしまいたいように思ったこともあった。からだの弱い、気の弱い六三郎は、きっと自分と同じような悲しい口惜しい経験を繰り返すに相違ない。江戸の職人は気があらいと聞いている。その中に立ちまじって毎日叱られたり小突かれたり、散々(さんざん)ひどい目に会わされた上に、万一病み煩(わずら)いになった暁にも、まわりが他人ばかりでは碌に看病してくれる者もあるまい。
こう思うと、自分の前にしょんぼりと坐っている男の痩せた顔や、そそけた髪や、それもこれもお園の胸を陰らせる種であった。男の末のためを思えばこそ、涙を呑み込んで無理に出してやろうとはするものの、自分とても別れたくないのは山々である。口でこそ二年三年というものの、その間には自分の身にもどんなことが起らないとも限らない。今夜が顔の見納めで、もう二度と逢われないようになるかも知れない。そんなことを考えると、お園も男に釣り込まれたように心が少し弱って来た。
そうかといって今更どうなるものではない。こうなったら、どうしても男を励まして、無理にも江戸へやるより他(ほか)はない。弱いながらも男はもうその覚悟をしている。ここで自分がもろい涙を見せて、男の覚悟をにぶらせるような事があってはならない。所詮(しょせん)こういう苦しい破目(はめ)に落ちたのが男も自分も不運である。この不運を切り抜けるには強い覚悟がなければならない。やれるところまで存分にやって見て、それで切(せつ)ない思いが透らなければ、よくよく二人に縁がないものと諦めるよりほかはないと、世間の苦労をよけい積んでいるお園は、懐(ふとこ)ろ子(ご)のような六三郎よりもさすがに強い覚悟をもって、無理に笑い顔をつくっていた。そうして江戸の客から聴いたことのある浅草の観音さまや、上野の桜や、不忍(しのばず)の弁天さまや、そんな江戸名所のうわさなどを面白そうに男に話して聞かせた。
六三郎はやっぱり浮かない顔をして聴いていた。どんな名所も故郷ほどには面白そうに思えなかった。たとい毎日逢われないでも、お園の生きている土地に同じく生きていたかった。
「あしたはいつごろ発(た)つのでござんす」と、お園は雨の音を気づかいながら訊(き)いた。
「朝の六つ半に八軒屋(はちけんや)から淀の川舟に乗って行く。あしたは旅立ちよしという日と聞いているから、大抵の雨ならば思い切って発つつもりで、親方も兄弟子たちも八軒屋まで送ってやると言うていた」
「ほんに長い旅でござんすから、暦(こよみ)のよい日をえらむのが肝腎(かんじん)。わたしもその刻限(こくげん)には北を向いて、蔭ながら見送ります。この頃の天気癖で、あしたもどうやら晴れそうもないが、さして強いこともござんすまい」
「どうで長い道中じゃ。雨を恐れてもいられまい」と、六三郎は寂しく笑った。
「お前は下戸(げこ)じゃが、今夜はお別れに一杯飲みなさんせ。酔うて面白う遊びましょう」
二人は愁(うれ)いを打ち消そうとして杯を重ねた。三月も半ばを過ぎて、浪華の花を散らす春雨は夜の更けるまでしめやかに聞えた。
「家でも案じていると悪い。殊にあしたは早発ちじゃ。名残は惜しいが、もうそろそろと帰りなさんせ」と、しばらくしてお園は男の顔を見ながら優しく言った。
「ほんにそうじゃ。六三めは昼から家を出て、今頃までどこに何をしていることかと、親方も定めて案じているであろう。折角の発ちぎわに叱られてはならぬ」
「ほほ、親方も粋(すい)じゃ。大抵はこうと察していさんしょう」と、お園は笑った。
六三郎も黙って笑った。お園はその耳に口を寄せて言った。
「お前、江戸の女子(おなご)と心安うしなさんすな、よいかえ」
「なんの、阿房(あほう)らしい」
ようよう起ち上がった六三郎のうしろ姿を見ると、お園は急に胸がいっぱいになった。ふた足三足送ってゆくうちに、胸はいよいよ詰まってきて、不思議な暗い影がお園の周(まわ)りにまつわって来るように思われた。お園は男といっしょに闇の中を迷っているようにも感じられて、一種の恐怖に足がすくんだ。力のない男の歩みも遅かった。
どう考えてもこの弱々しい男を、見も知らぬ遠い他国へ追いやって、たんと苦労させるのがいじらしかった。苦労をする男も辛(つら)いには相違ないが、これから先、朝に夕にその苦労を思いやる自分の辛さもしみじみ思いやられた。そんな苦しい思いをした上で、確かに末の楽しみがあるやらないやら、それもお園は俄かに不安になって来た。眼の前はいよいよ暗くなって来た。
「六三(ろくさ)さん。お前、どうしても江戸へ行く気かえ」と、お園は男の肩に手をかけて今更のように念を押した。
男は不思議そうな顔をして立ちどまった。蒼白い顔と顔とが向き合った。お園は暗い影につつまれてしまったように感じた。
夜の春雨はやはりしとしとと降っていた。 
雨は明くる朝まで降りやまないで、西横堀の川端に死屍(しかばね)をさらした男と女との生(なま)なましい血を洗い流した。男は鑿(のみ)で咽喉(のど)を突き破っていた。女は剃刀(かみそり)で同じく咽喉を掻き切っていた。検視の末に、それが大工の六三郎と遊女のお園とであることは直ぐに判ったが、二人がいつ新屋敷をぬけ出したのか誰も知らなかった。なぜこの西横堀を死場所にえらんだのか、それも誰にも判断がつかなかった。
六三郎は懐ろに書置きを持っていた。それは親方に宛てたもので、単に御恩を仇(あだ)に心得違いをして相済まないという意味が認(したた)めてあった。お園は自分と仲のいい朋輩に宛てて一通の書置きを残してあった。それには六三さんを江戸へやるのがいかにも可哀そうだから一緒に死ぬということが書いてあった。お園が六三郎とそれほどの深い仲であったというのが今になって初めて判った。仲のいい朋輩すらもこの書置きを受け取るまでは、勤め盛り売れ盛りのお園が大工の丁稚と命賭けの恋に落ちていようとは思いもつかなかった。
「よくよく運が悪う生まれたのじゃ」と、親方は泣いて六三郎の死骸を引き取ろうとしたが、時の法律によって直ぐに引き取ることを許されなかった。心中したお園と六三郎との死骸は、千日寺のうしろにある俗に灰山という所に三日のあいださらされた。罪ある父の首を梟(さら)された場所を去らずに、その子は恋の亡骸(むくろ)を晒(さら)したのであった。
三日の後に六三郎の死骸は親方に引き渡された。お園は身寄りもないので主人に引き渡された。
お園と六三郎とが心中した日に、神崎では御駕籠の十右衛門という者が大勢の馬士(まご)を斬った。新しい材料はそれからそれへと殖えて来るので、浄瑠璃の作者もその取捨(しゅしゃ)に苦しんだが、豊竹座ではお園六三郎と、かしくと、十右衛門と、その三つの事件を一つに組み合わせて、八重霞浪華浜荻(やえがすみなにわのはまおぎ)という新浄瑠璃をその月の二十六日から興行することになった。
お園と六三郎との名はとうとう浄瑠璃に唄われてしまった。しかし近松の時代と違って、事実を有りのままに仕組むということは遠慮しなければならないような習わしになっていたので、大工の六三郎は武士に作り替えられて、大和の浪人小柴六三郎という名を番附にしるされた。 
 
安吾巷談 湯の町エレジー / 坂口安吾  

 

新聞の静岡版というところを見ると、熱海を中心にした伊豆一帯に、心中や厭世自殺が目立って多くなったようである。春先のせいか、特に心中が多い。
亭主が情婦をつれて熱海へ駈落ちした。その細君が三人だか四人だかの子供をつれて熱海まで追ってきて、さる旅館に投宿したが、思いつめて、子供たちを殺して自殺してしまった。一方、亭主と情婦も、同じ晩に別の旅館で心中していた。細君の方は、亭主が心中したことを知らず、亭主の方は、女房が子供をつれて熱海まで追ってきて別の旅館で一家心中していることを知らなかった。亭主と細君は各々の一方に宛てゝ、一人は陳謝の遺書を、一人は諌言の遺書をのこして、同じ晩に、別々に死んだのである。
偶然の妙とも云えるが、必然の象徴とも云える。夫婦の一方が誰かと心中する時期は、残る一方が一家心中したくなる時期でもあろうからである。近松はこれを必然の象徴とみて一篇の劇をものすかも知れないが、近代の批判精神は、これをあくまで偶然と見、茶番と見る傾向に進みつつあると云えよう。古典主義者はこれを指して、近代の批判精神はかくの如くに芸術の退化を意味すると云うかも知れぬ。
温泉心中もこれぐらい意想外のものになると別格に扱われるが、新聞の静岡版というものは、普通、官報の辞令告示のように、毎日二ツ三ツの温泉自殺を最下段に小さく並べている。静岡版の最下段は温泉自殺告示欄というようなものだ。その大多数は熱海で行われる。
そこで、今年になって、熱海の市会では、自殺者の後始末用として、百万円の予算をくんだそうだ。
所持金使い果してから死ぬのが自殺者の心理らしい。稀には、洋服を売って宿賃にかえてくれ、などゝ行届いた配慮を遺書にのこして死ぬ者もあるが、屍体ひきあげ料、棺桶料金まで配慮してくれる自殺者はいないので、伊豆の温泉のお歴々が嘆くのである。コモ一枚だってタダではない。実に、物価は高いです。それが毎日のことではないですか。ああ。熱海市会は百万円のタメ息をもらす。
大島の三原山自殺が盛大のころは、こうではなかった。光栄ある先鞭をつけた何人だかの女学生は、三原山自殺の始祖として、ほとんど神様に祭りあげられていた。後につゞく自殺者の群によってではなく、地元の島民によってである。何合目かの茶店の前には、始祖御休憩の地というような大きな記念碑が立っていたのである。
大島は地下水のないところだから、畑もなく、島民はもっぱら化け物のような芋を食い、栄養補給にはアシタッパ(又は、アスッパ)という雑草を食い、牛乳をのんでいた。アシタッパという雑草は、今日芽がでると明日は葉ッパが生じるという意味の名で、それぐらい精分が強いという。大島の牛はそれを食っているから牛乳が濃くてうまいという島民の自慢だ。
三原山が自殺者のメッカになるまで、物産のない島民は米を食うこともできなかった。自殺者と、それをめぐる観光客の殺到によって、島民はうるおい、米も食えるし、内地なみに暮せるようになったという。
だから彼らが始祖の女学生を神様に祭りあげるのは、ムリがない。醇乎(じゅんこ)たる感謝の一念である。おまけに、火口自殺というものは、棺桶代も、火葬の面倒もいらない。火口ではオペラグラスの賃貸料がもうかる始末で、後始末の方は全然手間賃もいらないのである。
雲煙の彼方に三原山が見える。星うつり年かわって自殺者の新メッカとなった熱海は、コモもいるし、棺桶もいる。観音教の教祖は熱海の別荘をあらかた買占めて、はるか桃山の山上に大本殿を新築中であるが、自殺者の屍体収容無料大奉仕というようなことは、やってくれないのである。
熱海にくらべれば、私のすむ伊東温泉などは物の数ではない。それでも時折は、こんな奥まで死ににくる人が絶えない。もっと奥へ行く人もある。風船バクダンの博士は、はるか伊豆南端まで南下し、再び北上して、天城山麓の海を見おろす松林の絶勝の地で心中していた。風船バクダン博士という肩書にもよるかも知れぬが、この心中屍体に対しては、土地の人々の取扱は鄭重(ていちょう)をきわめたそうである。一つには、地域的な関係もある。
心中も、伊東までは全然ダメだ。誰も大切にしてくれない。伊東を越して南下して、富戸から南の海へかけて飛びこむと、実に鄭重な扱いをしてくれるそうだ。
水屍体をあげると大漁があるという迷信のせいである。現に大漁の真ッ最中でも、屍体があがると、漁をほッたらかして、オカへ戻り鄭重に回向(えこう)して葬るそうだ。さらにより大いなる大漁を信じているからだという。富戸という漁村は水屍体を鄭重に葬ることには歴史があって、頼朝が蛭(ひる)ヶ小島に流されていたとき伊東|祐親(すけちか)の娘八重子と通じて千鶴丸をもうけたが、祐親は平氏に親しんでいたから、幼児を松川の淵へ棄てさせてしまった。稚児の屍体は海へ流れて、辿りついたのが富戸の断崖の海岸だ。これを甚衛門という者が手厚く葬ったところ、後日将軍となった頼朝の恩賞を蒙り、その子孫は生川の姓を名乗って現存しているという。
千鶴丸を殺させた祐親は後に挙兵の頼朝と戦って敗死したが、彼は河津三郎の父であり、曾我兄弟には祖父に当る。曾我の仇討というものは、単なるチャンバラではなくて、そもそもの原因は祐親が兄の所領を奪ったのが起りである。つまり亡兄の遺言によって亡兄の一子工藤|祐経(すけつね)の後見となった伊東祐親は、祐経が成人して後も所領を横領して返さなかった。祐経は祐親の子の河津三郎を殺させ、源氏にたよって父の領地をとりかえしたから、今度は河津三郎の子の五郎十郎が祐経を殺したというわけだ。祖父から孫の三代にわたる遺産相続のゴタゴタで、元はと云えば伊東祐親の慾心から起っている。講談では祐親は大豪傑だが、曾我物語の原本では、悪党だと云っている。もっとも、伊豆の平氏を代表して頼朝と戦った武者ぶりは見事で、豪傑にはちがいない。
伊東は祐親の城下であるが、そのせいではなかろうけれども、水屍体は全然虐待される。富戸と伊東は小さな岬を一つ距てただけで、水屍体に対する気分がガラリと一変しているのである。伊東の漁師には、水屍体と大漁を結びつける迷信が全く存在していないのである。
しかし、同じ伊豆の温泉都市でも、熱海にくらべると、伊東は別天地だ。自殺にくる人も少いが、犯罪も少い。兇悪犯罪、強盗殺人というようなものは、私がここへ来てからの七ヶ月、まだ一度もない。
その代り、パンパンのタックルは熱海の比ではない。明るい大通りへ進出しているのである。さらば閑静の道をと音無川の清流に沿うて歩くと、暗闇にうごめき、又はヌッとでてくるアベックに心胆を寒からしめられる。頼朝以来の密会地だから是非もない。頼朝が密会したのもこの川沿いの森で、ために森も川も音を沈めて彼らの囁きをいたわったという。それが音無川の名の元だという。伊東のアベックは今も同じところにうごめいているのである。
二週間ほど前の深夜二時だが、私の借家の湯殿の窓が一大音響と共に内側へブッ倒れた。私は連夜徹夜しているから番犬のようなものだ。音響と同時に野球のバットと懐中電燈を握りしめて、とびだした。伊東で強盗なぞとはついぞ聞いたことがないのに、わが家を選んで現れるとは。しかし、心当りがないでもない。税務署が法外な税金をフッかけ、新聞がそれを書き立てたのが二三日前のことだからだ。知らない人は大金持だと思う。
外は皎々(こうこう)たる満月。懐中電燈がなんにもならない。こんな明るい晩の泥棒というのも奇妙だが、イロハ加留多にも月夜の泥棒があるぐらいだから、伊豆も伊東まで南下すると一世紀のヒラキがあって、泥棒もトンマだろうと心得なければならない。
とにかくサンタンたる現場だ。鍵をかけた筈の二枚のガラス戸が折り重って倒れている。内側の戸が外側に折り重っているのである。
戸外には十五|米(メートル)ぐらいの突風が吹きつけているが、キティ颱風(たいふう)を無事通過した窓が、満月の突風ぐらいでヒックリ返る筈がない。人為的なものだとテンから思いこんでいるから、来れ、税務署の怨霊。バットを小脇に、夜明けまで見張っていた。
隣家には伊東署の刑事部長が住んでいる。つまり伊東きってのホンモノの名探偵が住んでいるのだ。
私は推理小説を二ツ書いて、この犯人を当てたら賞金を上げるよなどと大きなことを言ってきたが、実際の事件に処しては無能のニセモノ探偵だということは再々経験ずみであった。しかし、この時は推理に及ぶ必要がない。泥棒にきまっていると思いこんでいた。
翌朝、隣家のホンモノの名探偵は現場に現れて、静かに手袋をはめ、つぶさに調べていたが、
「風のイタズラですな」
アッサリ推理した。
浴室の窓だから、長年の湯気に敷居が腐って、ゆるんでいたのだ。外側から一本の指で軽く押しても二十度も傾く。突風に吹きつけられて土台が傾いたから、窓が外れ、風の力で猛烈に下へ叩きつけられた。そのとき内側の窓粋が水道の蛇口にぶつかったから、はねかえって、内側の戸が外側に折り重ったという次第であった。
この結論までに、ホンモノの名探偵は五六分しか、かからなかった。推理小説の名探偵はダラシがないものだ。
二人の探偵の相違がどこにあるかというと、ホンモノの探偵は倒れた窓をジッと見ていたが、おもむろに手袋をはめると、先ず第一に(しかり。先ず、第一に!)敷居に手をかけて押してみたのである。ほかに何もしないで、先ず敷居に手をかけて押してみた。驚くべし。敷居は自在にグラグラうごき、その都度二十度も傾いたのである。
私ときては、敷居は動かないものときめて、手で押して調べてみることなどは念頭になかった。そのイワレは、キティ颱風を無事通過した窓が満月の突風ぐらいでヒックリ返る筈がないということだ。私はテンから泥棒ときめこんで、先ず足跡をしらべ、どこにも足跡がないので、ハテ、風かな、と一抹の疑念をいだいたような、まことに空想的な推理を弄んでいたのである。
要するに、これも税務署の寒波によるせいかも知れない。推理小説の名探偵も、心眼が曇ったのである。伊東という平和な市には、深夜にうろつくのはアベックばかりだ。その勢力は冬でも衰えが見えない。こうアベックがうろついては、泥棒もうろつけないに相違ない。そして私の住居こそはほぼ頼朝密通の地点そのものに外ならぬのである。 
伊東を中心に、熱海、湯河原、箱根などの一級旅館を荒していた泥棒がつかまった。俗に、枕さがし、とか、カンタン師とか云って、温泉旅館では最も有りふれた犯罪だ。しかし、一人の仕事としては被害が大きい。伊東だけでも、去年の暮から四十件、各地を合せると三百万円ぐらい稼いでいた。前科七犯の小男で、ナデ肩の優男(やさおとこ)だという。
この犯人は極めて巧妙に刑事の盲点をついていた。
彼は芸者とつれこみで旅館に泊る。あるいは、芸者をよんで、泊める。ちょッと散歩してくると、芸者を部屋にのこして、ドテラのままフラリとでる。そして、たてこんでいる一級旅館へお客のフリをしてあがりこんで、仕事をするのである。自分の泊っている旅館では決してやらない。ここが、この男の頭のよいところだ。
旅客のフリをして廊下かなんか歩いていて、浴客の留守の部屋へあがりこんで、金品を盗みとって、素知らぬフリをして戻ってくるのである。
自分の部屋には芸者が待たしてあるから、いわばアリバイがあるようなもので、さすがの探偵たちも、この男が犯人だということは、他のキッカケがなければ、なお相当期間発見されなかったろう。
伊東の暖香園へ泊った浜本浩氏もカバンをやられた。その同じとき、伊東在住の文士のところへ税額を報らせに来た文芸家協会の計理士某氏が伊東市中を自動車でグルグル乗りまわしていて、第一級の容疑者として睨まれたそうだ。してみると、私も陰ながらツナガリがあったのである。私はそのとき、前回の巷談のために、小田原競輪へ泊りがけで調査にでむいていて、留守であった。
この男がつかまったのは、いつもの奥の手をちょッと出し惜んだせいだったそうだ。ドテラの温泉客のフリを忘れて、洋服のまま、伊東温泉の地下鉄寮というところへ忍びこんだ。見破られて逃走したが、襟クビをつかまれ、上衣を脱ぎすててのがれたが、洋服のポケットに自分の写真を入れていたのが運の尽き、指名手配となったのである。
伊東署の刑事は情報を追うて長岡、修善寺と飛んだが、逃げるとき連れて行った伊東の芸者のことから、湯河原の天野屋旅館にいることが分った。時に三月三日、桃の節句の真夜中で、五名の刑事は一夜腕を撫し、四日の一番列車で伊東を出発して、湯河原の目ざす旅館へついたのが六時半、寝こみを襲って、つかまえたという。
そのとき、この男は革のカバンに、十一万三千円の現金と、外国製時計七個(うち四個金側)、ダイヤ指輪二ツ、写真機、万年筆四本、等をもっていた。私の全財産よりも、だいぶ多い。万年筆まで、文筆業の私よりもタクサン持っていたのである。ほかに雨戸や錠前をこじあけるためのペンチその他七ツ道具一式持っていたが、七ツ道具を使って夜陰に忍びこむのは女をつれていない時で、機にのぞみ、変に応じて、手口を使い分けていたが、結局七ツ道具の有りふれた方法などを弄んだために失敗するに至ったのである。
思うに、この先生は、ほかの泥棒のように、セッパつまった稼ぎ方はしていなかったのである。主として芸者をつれて豪遊し、そうすることによって容疑をまぬがれ、当分の遊興費には事欠かないが、ちょッとまア、食後の運動に、趣味を行う、という程度の余裕綽々たるものであった。天職を行うには、常にこれぐらいの余裕が必要なものである。セッパつまって徹夜の原稿を書いている私などとは雲泥の差があるようだ。
説教強盗などのように、強盗強姦などゝ刃物三昧や猫ナデ声のミミッチイ悪どさもないし、世帯やつれしたところもない。芸者をつれて豪遊し、それがアリバイを構成し、食後の運動、又、時にはコソ泥式の忍び込みもするところなども通算して一つの風流をなしている。惚れ惚れする武者ぶりだ。どこかバルザックの武者ぶりに似ている。大芸術というものは、これぐらいの武者ブリと綽々たる余裕がないと完成できない性質のものだ。
しかし、ここまでは序の段で、話の本筋はこの後にあるのである。
彼が捕えられて伊東署へ留置されると、芸者、料理屋、置屋などからゴッソリ差入れがあった。ところがこの先生、山とつまれた凄い御馳走には目もくれず、ハンストをやりだしたのである。警察も仕方なく栄養剤の注射をうって、持久戦に入った。
私はわが身の拙さを考えたのである。まず第一に、私が警察につかまっても、芸者や、料理屋や、待合や、置屋などからゴッソリ差入れがあるという見込みがない。第二に、ゴッソリ差入れがあったとしても、それには目もくれずハンストをやるなどというフルマイができるとは信ぜられないからであった。
ハンストなどというものは、甚しく毅然たる精神を必要とするものに相違ない。集団ハンストとか、銀座街頭のハンストなどは、下の下である。
孤独なるハンストに至っては、奥深くして光芒を放ち、神秘にして毅然、とうてい凡夫の手のとどく境地ではない。一つの高く孤独なる魂の運動を直線とする。俗物どもの低俗な社会契約が、この直線を切るのである。その切点は一瞬に火をふく。高い孤独な魂の苦悶が一瞬に鋭い慟哭と化したからである。それは流星が空気にふれて火をふきその形を失うのに似ている。――こう考えて、私はことごとく敬服した。
折から文藝春秋新社の鈴木貢が遊びにきたので、私は温泉荒しの敬服すべき武者ブリについて、説明した。
「バルザックの武者ブリは、当代の文士の生活にはその片鱗も見られないね。たまたま温泉荒しの先生の余裕綽々たる仕事ぶりに、豪華な制作意欲がうかがわれるだけだ。芸道地に墜ちたり矣」
鈴木貢は社へ戻って、温泉荒しの武者ブリを一同に吹聴した。
膝をたたいたのが、池島信平である。
「巷談の五は、それでいこうよ。グッと趣きを変えてね」
ただちに私のところへ使者がきた。池島信平という居士の房々と漆黒な頭髪の奥には、ここにも閃光を放つ切点があるらしいので、私はニヤニヤせざるを得ない。
「なるほどね。温泉風俗を通して世相の縮図をさぐり、湯泉荒しの武者ブリを通して戦後風俗の一断面をあばく、とね。これも閃光を放つ切点か」
私は使者に言った。
「どうも、巷談の原料になるかどうか、新聞だけじゃ分らないよ。いったい、なんのためにハンストやってるのだろう?いろいろ、きいてみないとね」
「それは、もう、手筈がととのっています」
伊東に住んでいる車谷弘が総指揮に当って、カナリヤ書店と「新丁」という鰻屋の主人を参謀に、警察や芸者や料理屋の主人や旅館の番頭女中などにワタリをつけて、一席でも二席でも設けて話をききだす手筈がととのっているというのだ。
私は、たしかに、興味があった。なぜ、ハンストをやっているのだろう?どうして、そんなに差入れがあるのだろう?と。 
最も卑俗なところを忘れてはいけないな、と私は自戒した。とかくそれを忘れがちだからである。窓の土台を押してみるのを忘れて推理しているたぐいだ。
そこで私は考えた。ハンストというのはマユツバモノだ。先生、豪遊がすぎて、腹をこわしているのじゃないか、と。
警察の人にきいてみると、私の考えた通りで、
「あれには騙されましたよ。ナニ、連日の飲みすぎで、下痢してたんですな。相当に胃がただれているようですよ」
しかし、これも真相ではなかった。その数日後も、彼はまだハンストをやっていた。しかし、流動物はとる。そして、日に日に痩せている。すでに十七日目であった。
「ええ、まだハンストをやっていますよ」
と、別の警察の人が言った。
「そして、犯行についても、全然喋りませんな。上衣の襟クビを捉えられた地下鉄寮と、もう一軒物的証拠を残してきた旅館の犯行のほかは否認して、口をつぐんでいます」
なるほど、否認するためのハンストかと私は思ったが、これも真相ではなかった。真相というものは、まことに卑俗なものである。
「あれはですな。ハンストをやって流動物だけ摂っていると、衰弱して、保釈ということになります。前科何犯という連中、特に裕福な連中、二号三号をかこっているという連中がこれをやります。常習の手ですよ。あの先生も、二号というほどのものはないでしょうが、金は持っていますからな。保釈になって、それをモトデに、見残した夢を見ようというわけです」
狸御殿の殿様などは、この手の名人だということである。保釈で出ては新しい仕事をしている。
温泉荒しの泥棒といっても、たしかに、彼の場合は、完全な智能犯だ。狸御殿の殿様よりも、チミツなところがあるかも知れない。彼の編みだした温泉荒しの方法は、勝負が詐欺よりも手ッとり早いし、ある意味では、安全率が高い。なぜなら、誰にも姿を見られていないからである。見た人はあっても、疑われてはいない。
かくの如くに頭脳優秀な彼が、もてる金を有効適切に活用するために、ハンスト、保釈を計画したのは当然で、保釈ということを知らなかった私がトンマということになる。
ところが、智能犯は彼一人ではない。犯と云っては悪いけれども、まことに、どうも、生き馬の目をぬくこと、神速、頭脳優秀なのは彼一人ではなかったのである。
芸者、料理屋、待合などから、なぜゴッソリ差入れがあるかというと、これが又、彼の持てる金故であるという。つまり、彼に貸金のある連中が、それを払って貰うために、せッせと差入れしているのである。
私はこれをきいてアッと驚き、しばしは二の句のつげない状態であった。まことに、どうも、真相は卑俗なものだ。
彼が湯河原で寝込みを襲われて捕えられたとき一しょにいた芸者は、弁当や菓子など差入れていたが、ハンストと知って、チリ紙などの日用品を差入れることにした。一念通じて、彼女が先ず一万五千円の玉代をもらいうけ、かくて、彼の所持金は九万八千円になったが、それ以下には減っていないということだから、ほかの差入れは未だにケンが見えないのである。
泥棒とは云っても彼ぐらいの智能犯になると、兇器などというものは所持してもいないし、使ったこともない。温泉旅館というものの宴会、酔っ払い、混雑という性格を見ぬき、万人の盲点をついて、悠々風の如くに去来していたにすぎない。どの芸者とくらべても、彼の方が小さかったというほどの五尺に足らない小男で、女形のようなナデ肩の優男であるというから、兇器をふりまわしても威勢が見えないという宿命によるのかも知れないが、同じ泥棒をやるなら、彼ぐらい頭をはたらかして、一流を編みだしてもらいたいものだ。
私は探偵小説を愛読することによって思い至ったのであるが、人間には、騙されたい、という本能があるようだ。騙される快感があるのである。我々が手品を愛すのもその本能であり、ヘタな手品に反撥するのもその本能だ。つまり、巧妙に、完璧に、だまされたいのである。
この快感は、男女関係に於ても見られる。妖婦の魅力は、男に騙される快感があることによって、成立つ部分が多いのだろうと思う。嘘とは知っても、完璧に騙されることの快感だ。この快感はまったく個人的な秘密であり、万人に明々白々な嘘であっても、当人だけが騙される妙味、快感を知ることによって、益々孤絶して深間におちこむ性質のものだ。水戸の怪僧のインチキ性がいかに世人に一目瞭然であっても、騙される快感はむしろ個人の特権として、益々身にしみることになるのかも知れない。
温泉荒しのハンスト先生の手口も、どうにも憎みきれないところがある。その独創的な工夫に対して若干の敬意を払わずにはいられないし、風の如くに去来する妙味に至ってはいさゝか爽快を覚えるのである。
敗戦後はまことにどうも無意味な兇悪事件がむらがり起っている。意味もなく人を殺す。静岡県の小さな町では、十八の少年が麻雀の金が欲しさに、四人殺して、たった千円盗んだ。無芸無能で、こういう愚劣な例は全国にマンエンしている。戦国乱世の風潮である。
同じ乱世の泥棒でも、石川五右衛門が愛されるのは、彼の大義名分によることではなくて、忍術のせいだ。猿飛佐助も霧隠才蔵も人を殺す必要がないのである。彼らは人をねむらせて頭の毛を剃るようなイタズラをやるが、いつでも睡らせることができるから、殺す必要はない。殺さなければならないのは、敵方の大将だけだが、因果なことに、殺すべき相手に限って身に威厳がそなわり、術が破れて、近づくことが出来ないのである。
人間の空想にも限界があるから面白い。天を駈ける忍術も、万能ではあり得ないのである。自ら善なるもののみしか、万能ではあり得ない。サタンが万能では、悪きわまるところなく、物語に必要な救いというものがないからである。
しかし、忍術物語というものが万人に愛されてきた理由の大いなるものは、人間の胸底にひそむ「無邪気なる悪」に対する憧憬だ。それは又、だまされる快感と一脈通じるものであり、あるいは表裏をなすものでもある。
人間がみんな聖人になり、この世に悪というものがなくなったら幸福だろうと思うのは、茶飲み話しの空想としては結構であるが、大マジメな論議としては、正当なものではないだろう。人間のよろこびは俗なもので、苦楽相半ばするところに、あるものだ。悪というものがなくなれば、おのずから善もない。人生は水の如くに無色透明なものがあるだけで、まことにハリアイもなく、生きガイもない。眠るに如かずである。
人間は本来善悪の混血児であり、悪に対するブレーキと同時に、憧憬をも持っているのだ。そして、憧憬のあらわれとして忍術を空想しても、おのずから限界を与えずにはいられないのである。これが人間の良識であり、這般(しゃはん)の限界に遊ぶことを風流と称するのである。
忍術にも限界があるということ、この大きな風流を人々は忘れているようだ。
大マジメな人々は、真理の追求に急であるが、真理にも限界があるということ、この大切な「風流」を忘れているから、殺気立ってしまう。すぐさまプラカードを立てて押し歩き、共産主義社会になると人間に絶対の幸福がくるようなことを口走る。
人間社会というものは、一方的には片付かない仕組みのものだ。善悪は共存し、幸不幸は共存する。もっと悪いことには、生死が共存し、人は必ず死ぬのである。人が死ななくなった時、人生も地球も終りである。
いくら大マジメでも、一方的な追求に急なことは賀すべきことではない。大マジメな社会改良家も、大マジメな殺人犯も、同じようなものだ。いずれも良識の敵であり、ひらたく云えば、風流に反しているのである。
敗戦後の日本は、乱世の群盗時代でもあるが、反面大マジメな社会改良家の時代でもあり、ともに風流を失した時代でもあるのである。
私がハンスト先生に一陣の涼風を覚えたのは、泰平の風流心をマザマザと味得させられたからで、私は大マジメな社会改良家には一向に親愛を覚えないが、この先生には親愛の念を禁じ得ないのである。
泥棒をやるぐらいなら、これぐらい手際よくやってもらいたい。何事にも手際というものが大切だ。仕事には手際が身上だ。それが人間の値打でもある。
手際の良さということには、救いがあるのである。騙される快感というものを、万人が持っているからだ。帝銀事件の犯人がほかに居ればよいという考えは、平沢氏に対する同情からのことではなくて、手際よき忍術使いへの憧憬だ。警察にはお気の毒だが、人間にはそういう感情があり、風流は、そういうところに根ざしているものなのである。
私がハンスト先生に憎悪の念がもてない理由の一つには、温泉町の特性から来ているものがある。ドテラの着流しで夜の街をゾロゾロ歩いている温泉客というものは、銀座の酔ッ払いとは違っている。
二人は同じ人かも知れないが、銀座で酔ッ払っている時と、ドテラの着流しで温泉街を歩いている時は、人種が違うのである。温泉客というものには個性がない。銀座の酔っ払いは女を見るに恋人という考えを忘れていないが、温泉客は十把一とからげにパンパンがあるばかりで、恋人を探すような誠意はない。完全に生活圏を出外れて、一種の痴呆状態であり、無誠意の状態でもある。生活圏内の人間から盗みをするのは気の毒であるが、生活圏外の人間から盗みをするのは気の毒ではないような感情が、温泉地に住んでいると、生れてくるようである。
これは温泉客の性格であると同時に、日本人が団体的になった場合の悲しむべき性格でもあるようだ。どうにも、人間という感じがしない。生活圏にいる人の同族の哀れさというものが感じられないのだ。
温泉地と温泉客との関係は、日本占領地と日本軍のような血のツナガリのない関係だ。温泉の団体客というものは、マニラ占領の日本兵隊を感じさせるのである。
温泉街を土足で蹴っているのである。私が温泉商店街のオヤジだったら、ずいぶんボリたくなるような気持だが、オヤジ連はその割にボラないのである。ジッと我慢しているのかも知れない。
だからハンストの先生は、温泉地の悪童からは、あんまり憎まれていないようである。 
 
坂田山心中   

 

昭和七年五月 大磯
JR東海道線、平塚から下り方面に向かう。右手遠くに丹沢・大山の山並みが見える。そして花水川を越えると、高麗山をはじめ大磯丘陵が続き、まもなく大磯駅に着く。駅前は、時代とともにきれいな建物に変化はしているが、駅舎は近隣の市町ほど変化はしていない。明治開通時の初代駅舎は、のどかな雰囲気の大磯停車場、二代目駅舎はセピア色の大正浪漫の趣きそのものの大磯ステンション。しかし、新築まもない二代目駅舎は、大正十二年九月の関東大震災で倒壊してしまい、三代目駅舎はほぼその原形を残して現在に至っている。駅舎前は三菱財閥岩崎家別邸で、岩崎久弥の長女澤田美喜さんが、戦後その細腕でエリザベスサンダースホームを開園している。
昭和七年五月、二十四歳の男が東京から下り、もう一人二十二歳の女性は静岡県から上りに乗り、その三代目駅舎の改札口から出てきている。男は慶応義塾の学生、**五郎、女は静岡県の豪農の令嬢、**八重子という。二人は当時岩崎家所有の駅舎の裏山で服毒心中をし、無縁塚に仮埋葬した夜、八重子の遺体が掘り起こされ、墓地から消えた。そして大捜査の結果、海岸の船小屋から一糸まとわぬ八重子の悲しい姿が発見された。心中理由は八重子の親が、二人の結婚を反対した事による。また、仮埋葬の八重子の遺体盗掘犯人は六十代の男性とされている。この事件は、新聞社が「天国に結ぶ恋」の見出しで連日報道し、映画・歌になり、戦前の若者をはじめとした多くの国民の紅涙をしぼった。そして事件後、心中現場の雑木林の山の名は坂田山と呼ばれるようになり、地元大磯では『坂田山心中』として語り継がれている。
この事件の数年前、世界恐慌がはじまり、日本は昭和初期からの恐慌の渦中にあった。倒産・失業・労働争議はもちろんのこと、欠食児童が増加し、冷害不作の農村は無残な状況で、特に東北・北海道地方は壊滅的な時代だった。昭和五年、ライオン宰相とよばれた浜口雄幸首相へのテロ事件、翌六年陸軍急進派のクーデター未遂事件、そして九月、関東軍の陰謀による南満州鉄道線路爆破の柳条湖事件をスタートに満州事変が始まった。そしてこの年、昭和七年もテロは続き、元日銀総裁の井上蔵相、実業家・団琢磨が血盟団に射殺されている。また、男装の麗人川島芳子がとりざたされる上海事変が勃発し、中国東北部では、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を担ぎ上げ、五族協和・王道楽土のむなしい美名のもと、実権は日本軍にある満州国を建国している。欧州では四月にドイツ大統領選でヒンデンブルクに敗れはしたが、ヒットラーも大量に票を獲得し力をつけてきた。そして国内では前年、満州に出征する夫のためと「何卒後の事を何一つ御心配ございますな」と新妻が自らの命を絶ったことを、新聞各社も国民の多くも軍人の妻の鑑と称え、その陰では息子の満州出征を阻止するため、父親が命を絶つ事件が起きている。
そのような時代であっても「エロ・グロ・ナンセンス」の言葉は生きており、大衆演劇、特に二十代のエノケンの人気は高く、浅草も関東大震災で大きな被害をうけたが、再建後の六区は娯楽のメッカにふさわしい賑わいの日々だった。田中絹代の甘い声のトーキーも人気を博し、竹久夢二は十年ぶりに都内で個展を開いた後洋行している、そんな不安定な時代に大磯で坂田山心中があった。
天気の良い日は房総を望み、伊豆と三浦の両半島に囲まれた相模灘を見下ろす山畑と雑木林の坂田山、そこで松露狩りに来た近くの若者が、若い男女の変わり果てた姿を発見した。傍にはヘリオトロープの鉢植えが置かれ、服毒後の空き瓶、所持品には五郎が家族宛てにしたためた「五月五日夜更け」と文末に記した遺書や三越の風呂敷に夏目漱石門下の鈴木三重吉編集の「赤い鳥」、羽仁もと子の「みどり児の心」、北原白秋の詩集などが残されていた。
二人が知り合ってからのこの数年の交際中は、時の経つのも忘れた楽しい日々もきっと多くあっただろう。恋心というものはいつの時代も同じではないだろうか。五郎も八重子も現在の若者と同じように、二人にとってそれなりに幸せな充実した時間を共有していた はずだ。二人の発見は五月九日午前十時頃で、検視結果服毒後二十四時間は経過していたとの記事もあるが、そうすると前日は日曜日だが、その午前中に黄泉に旅立ったことになる。だがこれは間違えだと思う。二人はその日八日の朝お互い自宅を出ている。別の資料では死亡推定時刻は発見前夜、八日の午後十一時三十分頃とあり、私はこの時刻が警察の公式記録となっているものと思っている。
また二人は今回だけでなく、今までも大磯を訪れていたとの話もある。そして某旅館を利用して会っていたとの話もあるが、その旅館の名は大磯にない。国府津にその名の旅館があるが、二人が利用するような旅館ではなかったはずだ。もし私が推測する大磯の旅館を利用し、またそれまでにも大磯を訪れていたとするならば、最期の地に選んだ陽光の坂田山は、二人にとって初めての場所ではなく、幸せな二人だけの心やすらぐ大切な想い出の空間だったのではないだろうか。
この二人だけでなく、戦後の高度成長期昭和四十年代くらいまでの坂田山は、さほど高くないのに地元の私にとっても素晴らしい眺望の場であった。事件当時、大磯にただ一人駐在していた毎日新聞の前身である東京日日新聞の記者は、後年「大磯に住む私でさえ、こんないい所があったのかとびっくりするほどの場所だった」と語っている。そして「二人とも非常に行儀よく慎ましやかに眠るがごとく死んでいた。実に美しい心中死体だと思った。」との印象も語っている。
だが、実際はこの服毒心中は「行儀よく慎ましやかに……美しい…」そんな情景だったのだろうか。この記者の語りは、事件から三十五年後の昭和四十二年のテレビ出演した時だ。けしてケチをつけるわけではないが、想い出は時間の経過とともに美しくなってしまう。まして年老いてから若い時に取材した事件の思い出は、過ぎ去った自分の青春と重ねあわせ、無意識のうちに美しい情景に変化してしまったかもしれない。
実際、発見時の藤色の錦紗和服の八重子は、大和撫子最期の身だしなみ、裾が乱れぬように赤い紐で両膝を縛っている。だが、写真が趣味の五郎が用意したと思われる昇汞水(しょうこうすい)という猛毒の塩化第二水銀の水溶液を飲んだ二人の辺りは、苦しさに耐えかねるように若草がむしりとられて、八重子の左手はその草を握りしめたままになっていた。そして口元には赤茶色の液の流れた跡があった。それはけして「行儀よく慎ましやかに眠るがごとく……実に美しい心中……」の現場ではなかったはずだ。
二人はその日、水面輝く相模灘を眺め、何を語らっていたのだろうか。
五郎はこの朝、当時の東京市芝区白金の自宅をいつものように『教会へ行ってくる』と言い残し出かけている。彼は元男爵の甥で父は**銀行に勤務していた。八重子は当時静岡県**郡の県下でも名高い素封家の上・中・下の三軒に分かれる上の出になる。
昭和二年、静岡から上京した八重子は、巣鴨町の姉の嫁ぎ先に同居し、頌栄高等女学校二年の編入試験に合格。だが、女学校までの通学に時間がかかるので、白金の香蘭女学校内の光風寮に寄宿した。その校内に三光キリスト教会があり、ここにやはり日曜ごとに来ていた五郎と知りあい、二人の心に愛が芽生えていった。そして昭和五年、八重子に女学校卒業の季節が来て、静岡に帰らなければならなくなった。
現在での遠距離恋愛は、もっと遠い距離も珍しいことではないが、この時代この二人にとっては、東京と静岡という距離がどれほどのものに思ったことだろう。
その後、文通は途絶えることなく続いたが、八重子からの封書にはいつも姓名のみが書かれていたため、五郎の父は彼女の身元については知らなかった。
事件直後『倅を信じていましたので何も知らなかった。女の方とは以前から交際していたが、私は父としてこれに干渉しませんでした。しかし心中するにいたるなどとは少しも思いませんでした』と、親としての悲しく辛い胸中を語っている。
三光キリスト教会に通っていた八重子は、洗礼を受けるほどのクリスチャンではなかったようだが、そこの牧師が八重子を見初め、結婚の申込みをしている。八重子の両親はこの牧師を気に入り、それが五郎との交際を反対した理由の大きな要因になっている。
また、二人が心中という悲しい結末に至る別の要因もあった。この時代、前述したように満州事変・上海事変と呼ぶきな臭いファシズムの波が大きくうねっていた。そのファシズムの大いなる信奉者であるM教授に、五郎は慶応学内で呼ばれている。それは四月のことだった。この教授、三光教会の牧師が八重子側に結婚の申込みをしたのを承知の上での五郎への叱責だったようだ。軍事訓練を怠ったことを厳しく非難し、そして暗に八重子へのある青年の結婚話が良い方向に向かないことを、軟派学生五郎の責任である…そんな内容だったようだ。
五郎はこの年三月の学年末試験を受けていない。三月時点では八重子の親の反対、別の縁談話などで二人の今後について深刻に悩んでいた時期であろう。そして五郎が気の弱い性格だとするならば、軍国主義の風が強くなっていくなか、四月の狂信的思想のM教授からの厳しい叱責が、人生の未来の扉を開ける気力をなくしてしまった。…そのような構図ではなかったか。
人生に、また過ぎ去った時間に『もし』という二文字は意味のないことかもしれないが、もし五郎が人生の重い扉を開ける精神力の持ち主であったならば、あるいはもっと生き方に器用な人間であったならば…との思いは残ってしまう。あまりにも五郎の育ちの良さが裏目に出てしまった。そして八重子は素封家の重圧に耐えられなかった。
坂田山心中事件 2
1932年(昭和7年)5月に神奈川県中郡大磯町の坂田山で起きた心中事件及び心中女性死体盗難事件。
1932年5月9日午前10時、地元の青年が岩崎家所有の松林の中で若い男女の心中死体を発見した。男性は慶應義塾大学の制服姿で、女性は錦紗の和服姿の美人であった。前日の5月8日夜に現場に到着、昇汞水を飲んで服毒自殺を図ったものと思われた。
高貴な身なりであったため、神奈川県警察部は直ちに捜査を開始し、まもなく身元が判明した。男性は東京府出身の慶應義塾大学理財科の学生(24歳)で、華族調所広丈の孫であった。女性は静岡県の素封家の娘(22歳)で、2年前まで頌栄高等女学校(現在の頌栄女子学院中学校・高等学校)に通学していた。
二人はキリスト教の祈祷会で知り合い、交際を始めた。男性の両親は交際に賛成していたが、女性の両親は反対し、別の縁談を進めようとしていた。そのため二人は家から出て、「永遠の愛」を誓って心中を決行したものと思われた。
二人の死体は、遺族が引き取りに来るまで、町内の寺に仮埋葬されることになった。
心中女性の死体消失
翌日5月10日朝、寺の職員が線香をあげようとしたところ、女性を葬った土饅頭が低くなっているのを発見、掘り起こしたところ、女性の死体が消えていることが判明した。辺りには女性が身に付けていた衣服が散乱していた。これにより、単なる心中事件から一転して「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展した。警察は変質者による犯行と断定し、大磯町の消防組も協力して一斉捜索が行われた。翌日5月11日朝、墓地から300m離れた海岸の船小屋の砂地から発見された。後に町の火葬場職員が犯人として逮捕された。警察は女性の死体の検死を行い、「死体はなんら傷つけられていなかった」と発表した。
反響
亡くなった女性の遺体はきれいだったという警察の発表により、新聞各紙は二人がプラトニック・ラブを貫いて心中したことを盛んに報じた。特に東京日日新聞は「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」の見出しを掲載した。
この「天国に結ぶ恋」は坂田山心中を象徴する名文句となり、事件からまもなくロマンチックに美化された同名の映画や歌が製作公開され人気を博した。より事実に近い映画も作られたが、そちらは人気が出なかった。以後坂田山で心中する男女が後を絶たず、同じ年だけで20組が心中、1935年(昭和10年)までの自殺者(未遂も含む)は約200人にものぼった。中には、映画を見ながら昇汞水を飲んで心中するカップルまで現れたため、映画の上映を禁止する県もあった。
そのほか、事件の翌々月には勝海舟の養嗣子で徳川慶喜の十男である子爵勝精が愛妾と心中するなど、この時期は名士の心中事件も続出した。この坂田山心中事件と映画のヒットをきっかけとして、マスメディアに「心中」「情死」「天国」などの言葉が溢れ、翌年の三原山女学生心中事件など、多くの自殺騒ぎを誘引した。
「坂田山」の由来
元々現場となった山の名前は「八郎山」であったが、心中事件の第一報を報じた東京日日新聞の記者が「詩情に欠ける山名」ということで、大磯駅近辺の小字名「坂田」を冠して、勝手に「坂田山」と命名した。この心中が後にセンセーションを巻き起こしたことで、「坂田山」の名が定着することになった。
『天国に結ぶ恋』
坂田山心中事件を基にした、1932年(昭和7年)公開の五所平之助監督の松竹映画。また同名の徳山l・四家文子の歌った主題歌。 
坂田山心中 (相州神輿甚句)
せぇ〜大磯〜名代〜は
春は花咲く 坂田山
秋は紅葉の その中で
聞いてくだされ 皆様よ
吾郎さんと八重子さんの 物語
東京静岡 その中は
如何にも遠い 仲なれど
汽車の線路じゃ あるまいし
恋と言う字は 墨で書く
例え両親が 許さぬも
二人の心が 清ければ
神や仏が 許すもの
死んで〜花実がェ〜咲くものか
 
天城山心中  

 

1957年12月10日に、伊豆半島の天城山において、学習院大学の男子学生である大久保武道(八戸市出身、当時20歳)と、同級生女子の愛新覚羅慧生(当時19歳)の2名が、大久保の所持していた拳銃で頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見され、当時のマスコミ等で「天国に結ぶ恋」として報道された事件。
慧生は清朝最後の皇帝にして、旧満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀の姪にあたり、溥儀の実弟愛新覚羅溥傑の長女。
事件の真相は諸説あり、その概要や動機には判然としない部分、また当事者の出自等が特殊であることから脚色されて伝わっているものもある。
警察の調査においては、慧生の遺書に「彼は自身のことで大変悩んでおり、自分は最初それは間違っていると言ったが、最終的に彼の考えに同調した。」とあったことから(#慧生の最後の手紙参照)、両者の同意による心中(情死)と断定された。この事件は多くの人の同情をさそい、身分の違いを超えた悲恋としてマスコミにも取り上げられ、大久保と慧生の同級生らによって纏められた『われ御身を愛す』はベストセラーとなった。
一方、慧生の母嵯峨浩をはじめとする嵯峨家関係者は、大久保の一方的な感情と付きまとい(ストーカー行為)に慧生が辟易していたとして、この事件は大久保による一方的な無理心中(ストーカー殺人)であると主張している。以下でそれぞれの説について取り上げる。
無理心中(大久保によるストーカー殺人)とする説
慧生の母である嵯峨浩はその自著『流転の王妃の昭和史』で、以下のように記している。
(十二月一日)自由が丘に着いた慧生は、いきなり大久保さんから胸にピストルをつきつけられ、一緒に死んでくれと言われましたが、どうにかうまくなだめすかし、喫茶店に入りました。そして隙を見て、大久保さんの寄宿先である新星学寮の寮長に急を知らせるべく電話したものの、挙動を怪しんだ大久保さんが背後から近づき、その電話を切ってしまったということです。
慧生と大久保さんを乗せたタクシー運転手の証言から、二人が天城山に向かったのは間違いないことがわかりました。なんでも、慧生はしきりに帰りのバスの時間を訊いていたということです。そして、「ここまで来れば気がすんだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と、何度も連れの男性に繰り返していたということです。
そもそも慧生が姿を消す十二月四日以前、死期を予期している様子は微塵も見られなかったのです。慧生は十二月のカレンダーに計画を綿密に書き込んでいましたし、机上には来年の抱負を書き綴った年賀状まで何枚か積まれていました。注文したオーバーコートが出来上がるのを、指を折って楽しみにしていました。失踪の当日さえ、いつもとまったく変わらず、授業に必要なものしか持って出ませんでした。……これが、心中を覚悟した娘のすることでしょうか。
大久保さんは非常に独占欲の激しい性格で、慧生がほかの男子学生と口をきくだけでも、「おまえはあの男となぜ親しくするんだ! そんな気ならおまえもあいつも殺してしまうぞ」と、責め立てたこともあったとか。(中略)慧生はよほど我慢できなかったのでしょう、何度も大久保さんに交際したくないと申し入れていました。
この六月頃には慧生が新星学寮の寮長を訪ね、「大久保さんと交際したくないので、よろしく取りはからっていただけませんか」と申し入れた話も耳にしました。また、慧生だけにでなく、忠告しようとしたM君を大学の階段から突き落とそうとしたり、慧生と親しく口をきいたO君を呼び出して決闘を申し入れようとしたりする大久保さんの行動に、皆も困惑していたようです。
また、浩の弟・嵯峨公元らは新星学寮に届いた慧生の遺書(#慧生の最後の手紙)を借りたが、返却せずに焼却し、彼らも無理心中であるとの考えを貫いた。

さらに、事件当時、捜索を手伝い、実際に遺体を見たという日吉(慧生の住んでいた嵯峨家の所在地)の古老によると、「ふたりの遺体は離れていて、心中のようには思えなかった」そうである。
このように、嵯峨家などの関係者は現在もこの事件は大久保による無理心中(ストーカー殺人)であると主張し続けている。
学習院のある同級生は嵯峨浩が無理心中と認識していることについて、「(事件の直前に慧生が)死ぬと思えなかったことが幾つもある」ことを理由に「無理もない」と一定の理解を示している。
最近では、『日本史サスペンス劇場』(2008年11月12日放送)で、遺体の第一発見者が、慧生は百日紅の木の根元に凭れかかるようにして死んでいたと証言している。この証言は、ふたり並んで死んでいたとする従来の定説を覆す。
情死(大久保と慧生の同意による心中)とする説
慧生の父親である溥傑(溥儀の実弟)は慧生の死を交際を反対されたための情死(心中)と考えていた。『溥傑自伝』(中国文史出版社、1994年。日本語翻訳版は河出書房新社、1995年、202・203頁)によると、当時中国の撫順戦犯管理所に収容されていた溥傑は、慧生からの手紙で好きな人がいることを明かされ、大久保との交際の同意を求められた。溥傑は慧生に、長い間娘と一緒にいなくて答える資格がないと思い、母の意見を聞くようにと返事をしたが、後に慧生の死を知り、あの時自分が交際に同意していれば慧生は死ぬことはなかったと深く後悔している。
溥傑によると、浩は慧生を中国人、それも満州人と結婚させようと考え、慧生と大久保の交際に反対していた。交際を反対された慧生は溥傑の同意を得ようと手紙を送ったが、当時そこまで思い至らなかった溥傑は、母の意見に従うように慧生に返事を出したために慧生をひどく失望させたという。
また、溥儀の自伝『わが半生』で慧生の死に言及する部分でも、恋愛問題のために恋人と一緒に自殺したとあり、大久保による一方的な無理心中(ストーカー殺人)とする嵯峨家に対し、愛新覚羅家では2人の同意の上での情死(心中)と認識されている。
また、大久保と慧生の学習院大学の同級生達は、慧生の直筆遺書を無断で焼却したのみならず、大久保による一方的な無理心中(ストーカー殺人)であると主張する嵯峨家に反発し、大久保と慧生の往復書簡を纏めて『われ御身を愛す』として出版し、2人の同意の上での情死(心中)であったと主張している。この書籍に掲載されている書簡の中で慧生は大久保のことを「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書いている。
慧生の最後の手紙
慧生は四日の午前中に最後の手紙を書いて投函し、その手紙は翌日新星学寮に届いている。
なにも残さないつもりでしたが、先生(新星学寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。 
天城山心中 2
概要
1957年12月10日、天城山中の森林で、4日から行方がわからなくなっていた学習院大学2年の愛新覚羅慧生さん(19歳)と、同級生の大久保武道さん(19歳)が死んでいるのが発見された。この心中は「天城山心中」と名づけられた。
天国に結ぶ恋
1957年12月4日、学習院大学文学部2年生・愛新覚羅慧生さん(あいしんかくらえいせい 19歳)と同級生・大久保武道さん(19歳)の行方がわからなくなった。行方がわからなくなっていた2人は、目撃者の証言から伊豆の天城山方面に向かったことが明らかとなり、警察、地元の消防団、学校関係者による大捜索が始った。10日、天城山中八丁池南の雑木林で 2人の死体が見つかる。慧生さんは大久保さんに腕枕をしてもらうようにしており、顔には白いハンカチがかけられていた。大久保さんは手に旧陸軍14式短銃を握っており、慧生さんの右コメカミを撃った後、自分も自殺したと見られる。2人のそばのサルスベリの木の根本には、2人の爪と頭髪が白い紙に包んで埋められていた。
ラストエンペラーの姪
慧生さんは旧満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の弟・溥傑(ふけつ)を父に持ち、母親は元公爵・嵯峨実勝の長女。父と母の婚姻は、日満の架け橋として「親善結婚」だった。東京での結婚式のあと、2人は満州国の首都・新京で暮らし、1938年(昭和13年)2月26日に長女・慧生さんが誕生した。「智慧(ちえ)深き人間に育つように」とこの名前がつけられたという。慧生さんは5歳の時に両親のもとを離れ、横浜市港北区の祖父・実勝氏に引き取られている。幼稚園から大学まで学習院に通学した。
45年8月17日、ソ連軍が新京に侵入。溥傑、浩、慧生さんの妹・嬬生(じゅせい 当時7歳)の3人は新京を発ったが、母娘はその途中で夫と離散した。母娘はその後、上海から佐世保に引き揚げてきて、慧生さんと10年ぶりの再会をした。その後は母妹と嵯峨家で一緒に暮らすが、溥傑は北京の戦犯管理所に収容されていた。
慧生さんは学習院女子部から学習院大学の国文科に進学。その美貌は学内でも知られていた。
「学校をおえたら、私は日本に残り、日中文化の交流につくしたいと思うわ」
親しい友人にはいつもこんな夢を語っていた。
一方、大久保さんは眼鏡をかけて生真面目そうな青年である。青森県八戸市の南部鉄道常務取締役の長男で、父親は参議院に立候補したこともある名士だった。八戸高校から学習院大学進学、文京区森川町の新星学寮に下宿をした。戦前の学習院は皇族、華族の子弟、縁故者しか入学できない”貴族学校”として有名だったが、戦後になると一般の子弟も入学できるようになった。と言っても、実際は資産家の子どもが多く、大久保さんも月に1万3千円の仕送りを受けており、アルバイトなどしなくても充分だった。
入学した年(56年)の6月、大久保さんは慧生さんのことを意識し始め、交際を始めた。だが6月26日に嵯峨家を訪ねた大久保さんは良い印象を持たれなかったようで(「あの人一体なに?ガス会社の集金人かと思った」と言われる)、11月には1度慧生さんの方から別れを切り出している。だが翌月には縁りを戻し、57年2月には2人だけで結婚を約束した。だが2人は育った環境の違い、将来のことなどから度々小さな衝突を起こしており、6月に慧生さんの方から婚約解消。だがこれもうやむやになり、関係を続いていたと見られる。
10月、帰郷した大久保さんは、父親が浮気をしているのを知った。父の女性関係を知った大久保さんは「自殺したい」と言っていたという。
11月、慧生さんさんは、2人の交際の仕方を改めるように提案した。それまで話すのも2人きりで、クラスでは孤立しがちになっていたが、将来のためにも友は多くつくっておいた方が良いと、2人で会うのは週に1度ほどにしようというのである。
12月1日、大学の「東洋文化研究会」というサークルに入っていた慧生さんは、この日来日した印・ネルー首相が各大学の学生を招待したティー・パーティーに出席すると言って家を出た。だが「風邪をひいたらしいわ」と早めに帰宅し、38度近くの熱があって横になった。夕方、男の学生から電話があったが、慧生さんは「私、風邪をひいて休んでおりますのよ。そんなこと無理ですわ。……いらして頂いても困ります」と怒気を含んだ声で話していたが、押し問答のようなことが続いたあと、電話を切った慧生さんは「ちょっと、お友達に会いに自由が丘まで行って来ます。1時間くらいで戻りますから」と家族に言って家を出た。電話の主は大久保さんであった。自由が丘で2人は会ったものとされるが、何を話したのかは定かではない。慧生さんは大久保さんの寮の寮監に電話をかけている。「大久保さんの友達」と名乗り、「大久保さんが近頃…」と言いかけて切ってしまった。
4日、2人は「登校する」と言って家を出た後、目白駅から大学で落ち合ったとされる。その前日には身の回りの品々の整理をしていた。慧生さんは大久保さんからの手紙を「婚約前」「婚約後」の二束にわけて小包にし、大久保さんの母親宛てにして目白局から投函した。大久保さんの方も、慧生さんからの手紙をまとめたものを落合長崎局から母親に送っている。2人は銀座あたりでエンゲージリング、靴、懐中電灯などを購入してから伊豆に向かった。熱海で降りた2人は、タクシーで天城トンネルに向かった。
まもなく大久保の下宿先の寮長のもとに慧生さんからの手紙が届く。
「大久保さんはお父さんのことで大変悩んでいます。私はそんなことで悩むのはオカシイといいました。しかし大久保さんの話を聞いているうちに私の考えが間違っているのに気づきました。私は死ぬことは思い止まるようにと何度もいったのですが大久保さんの決意はとてもかたいのです。彼を一人だけ死なせるわけにはまいりません。」
我、御身を愛す
この心中事件は日満時代の事情を知る人の同情を買った。「天上の純粋を求めた」「旧華族の娘と庶民の子弟の情熱の死」などとマスコミにも頻繁に取り上げられ、「我、御身を愛す」はベストセラーとなった。
慧生さんの棺が霊柩車に運びこまれようとした時、大久保さんの父は「武道も一緒に乗せてやって下さい」と訴え、嵯峨家側もこれに応じた。
事件当時、中国・撫順の収容所にいた父・博傑は、浩への手紙のなかでこう記している。「こんなことがあってもいいのか?苦しみに耐え、今日まで生きてこられたのも、2人の娘と浩さんといつかは一緒に暮らせるという夢あればこそだった」
遺言により、慧生さんの遺骨の半分は浩さん(87年逝去)と一緒に清朝の祖先が眠る北京近郊の墓地上空からまかれ、もう半分は妻娘が眠る山口県下関市中山神社の愛新覚羅社に祀られた。
この心中事件は映画化される動きがあったが、20日、学習院大学国文科学生らは抗議声明を発表した。
「武道様がいらっしゃらなかったら、とうてい私はイージーゴーイング的な生き方からぬけきれなかったかもしれません。私の身体がよわいにもかかわらず、身をもって私を生涯導いてくださろうとしてくださる武道様があったからこそ、私はいままでの生き方を抜けることができたのだと思います。(大久保さん宛て書簡)」
真相はどこに
2人の死は結婚を反対されたことによる心中(無理心中でなく)だったのだろうか。
学友たちの証言によると、大久保さんは独占欲が強く、慧生さんが他の男子生徒と口を聞いただけで責めたてたり、その生徒に決闘を申し込もうとしたことがあったらしい。
ある時、大久保からの求愛に辟易した慧生さんに、上級生は助言した。「今逃げるとますます執拗に追ってくると思う。母のような立場に立って、彼の悩みを徐々に癒してやってもらえないか」だが慧生さんは何度も「交際したくない」とはっきり申し入れ、6月には下宿先の寮長に、「大久保さんと交際したくないので、よろしくはからっていただけませんか」という手紙を出している。
また伊豆で2人を乗せたタクシー運転手は、慧生さんはしきりに帰りのバスの時間を尋ね、「ここまで来れば気が済んだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と何度も言っていたのを聞いた。
こうした事柄から浮かんでくるのは、慧生さんは大久保を説得しようとついて行き、心中に巻きこまれたものという可能性である。こうした災難説は、嵯峨家に関係する人たちによって主張された。慧生さんが自由が丘で大久保さんと会ったとされる12月1日のことについて、母・浩さんは次のように著書で書いている。「自由が丘についた慧生は、いきなり大久保さんから胸にピストルをつきつけられ、一緒に死んでくれと言われましたが、どうにかうまくなだめすかし、喫茶店に入りました。そして隙を見て、大久保さんの宿先である新星学寮の寮長に急を知らせるべく電話したものの、挙動を怪しんだ大久保さんが背後から近づき、その電話を切ってしまったということです」慧生さんの友人の証言にも「2、3日前、武道君にピストルで脅かされ、やっとなだめてホッとしたと話していた」というものがある。
他にも心中を報じたマスコミなどが主としてとった同情説、女性誌などがとった純愛説がある。だが死んでしまった2人の心中(しんちゅう)は誰にもわからない。 
天城山心中 3
1957(昭和32)年12月10日、静岡県天城(あまぎ)山トンネルと八丁池南側の百日紅(さるすべり)の樹の下で2人の若い男女の自殺体が発見された。2人は寄り添って、ピストルでこめかみを打ち抜いており、女性の手には、エンゲージリング(engagement ring=婚約のしるしとして男性から女性に贈る指輪で贈られる人の誕生石をつけたものが多い。婚約指輪)がはめられていた。
男性は、青森県八戸出身の学習院大学の2年生(当時20歳)の大久保武道、女性は、同じ大学の同級生の当時19歳の愛親覚羅慧生であった。
女性の慧生は、清朝最後の皇帝宣統帝(日本の傀儡政権であった満州国皇帝=ラストエンペラー)愛親覚羅溥儀(ふぎ)の実弟溥傑(ふけつ)と嵯峨公勝侯爵の子の嵯峨実勝(さがさねとう)の長女で「流転(るてん)の王妃」いわれた浩(ひろ。1914〜1987)との間の長女であった。
女性の身分の特異性から、事件は社会的に注目を集めることになり、マスコミは天城山心中(『名門の哀話』)としてセンセーショナルに報道、3年後の1961(昭和36)年に出版された2人の書簡集『われ御身を愛す』は一大ベストセラーとなり、1932(昭和7)年に起きた坂田山心中(慶応義塾大学の学生と静岡県の豪農の令嬢が当時三菱・岩崎家所有の駅舎の裏山で服毒心中した事件で、『天国に結ぶ恋』とのタイトルで映画化された)の戦後版ともいわれた。
1937(昭和12)年4月3日、靖国神社に位置する九段軍人会館(現・九段会館)にて、1945(昭和20)年11月20日に戦争犯罪人に指定され自決した陸軍大将本庄繁(侍従武官長時代に「本庄日記」を残した)の媒酌で結ばれた溥儀と浩は、「日満親善」の国策としての政略結婚(政治的に利用するために、結婚当事者の意思を度外視して、子女を結婚させること)であり、翌1938(昭和13)年2月26日に満州(中国東北部)新京(現・長春)で生れた慧生は、政治的に「日満親善のシンボル」に祭り上げられ、盛んに宣伝された。
当然、慧生は1943(昭和18)年に来日させられ、幼稚園から学習院に通い、学習院大学文学部国文科時代に大久保と知り合うことになる。
自殺した当時、日本において家族感や結婚感が変わりつつあった(世代交差の)時代であり、学生の心中事件が多発していたが、武道と慧生も、結婚まで考える仲であった。だが、それぞれの家柄や家庭事情が違うということで双方の家から反対された結果の自殺であった。
自殺に理由はそればかりではなかった。自殺1ヶ月ほど前、大久保は父の不貞を知ったのである。極端な純潔意識をもっていた大久保は、自分にも次々に女を追い求めて情事にふける(漁色の)血が流れていると悩んだ。その結果大久保は、人生をごまかして生きるよりも清らかに死ぬほうが立派だと考えるようになった。大久保のこうした思考を「考え過ぎ」と諭した慧生も次第に大久保の考えに同調するようになり、2人は1957(昭和32)年12月4日に家出するのであった。
家出でした2人はエンゲージリングを買いその日の夜、伊東温泉の湯治宿(福住旅館)に宿泊、翌5日に2人が投函した「大久保さんを見捨てることはできません、一緒に静かな所でピストルで死ぬつもりです」としたためられた遺書が関係者に届き、2人の捜索が始まり、7日になって福住旅館に宿泊したことが判明したことから、2人が向かった天城山中にメディアが同行する大規模な山狩りが行われ、報道が過熱した。
遺書
「私は大久保さんと一緒に静かなところでピストルで死ぬ予定です。大久保さんはお父さんのことで大変悩んでいます。私はそんなことで悩むのはオカシイといいました。しかし大久保さんの話を聞いているうちに私の考えが間違っているのに気付きました。こんどのことは大久保さんと私が相談したことなので、大久保さんをうらまないでください。」
付記
天皇家とゆかりのある「中山神社」
(山口県下関市綾羅木本町。御祭神の中山忠光卿は明治天皇の叔父)
中山忠光朝臣命は、弘化二年四月十三日従一位大勲位中山忠能の五男に生まれ、明治天皇の御生母中山一位局は姉君であり、従って忠光朝臣命は明治天皇の叔父にあたる。忠光朝臣命は忠誠の気節に富み、皇室の式徴を歎き式門の専横を憤ること一層鮮烈であった。文久三年八月天忠組の主将として大和義挙により明治維新の鴻業の端緒をつくられたが、幕府軍の為に敗走して下関に足を止め、勤皇の志士と交わり大いに活躍中、元治元年十一月八日夜豊北町田耕字長瀬に於て 俗論党の凶手に倒れ悲惨な最期を遂げられた。凶徒は尊骸をその夜の内に約四十キロ離れた、当神社松林まで運び密かに埋葬した、後に此を奇兵隊が探知して当初木の墓標を建てた。慶応元年十一月豊浦藩は社殿を造営し英霊を祀ったのが当神社の創立である。その後忠光朝臣命の精神は多くの勤王の志士を奮い立たせ明治維新の大業は遂行されたのである。墳墓は社殿右側の丘に有り、旧満州国皇弟一族を祀る、愛新覚羅社と宝物殿は左側にある。
溥傑と浩と慧生を祭る愛新覚羅社由来記
愛新覚羅家は中国大陸清朝の直系にて溥傑命は清朝最後の皇帝宣統帝(後に満州国皇帝)となられた溥儀皇帝の弟君であります。
溥傑命は日本の陸軍士官学校を恩賜の軍刀を授けられ又、陸軍大学をも卒業された、文武両道に優れたお方でありました。戦後は中華人民共和国全国人民代表大会常任委員及び、全国政治協商会議常任委員として中日国交回復及び両国友好に尽力されました。
浩命は公家の中でも名門の嵯峨侯爵家の長女として誕生され日本国と満州国とを結ぶ親善結婚として溥傑命に嫁がれたのであります。しかし戦後は満州国の崩壊、逃避行、文革の嵐と様々な経過を辿られまさに昭和史いや世界史を一気に走り抜けたお方でありました。
慧生命は溥傑命と浩命の長女として誕生され名前は溥傑命がお付けになられました。学生時代中日両国の架け橋として自ら中国語を学び周恩来首相に直接父親と一緒に暮らしたいと訴えた手紙を出されそのことが溥傑命の特赦へつながったのであります。しかし運命の成せる業か天城山にて不慮の事故に遭遇されたのでありました。以上当社は愛新覚羅家三柱を青松不断の地に奉祀し大陸に向い中日両国の友好を永遠に念じつつ御霊は安く穏いに鎮り給える。

ところで、母の浩は、敗戦後の1945(昭和20)年に夫の溥傑がソ連に抑留され、のち戦犯として中国の撫順収容所にはったため、1947(昭和22)年、次女説明: 説明: 説明: 説明: 1生(こせい)と日本にもどる。
その浩は、慧生が当時の中国首相周恩来に書いた手紙がきっかけになり、慧生死後の1960(昭和35)年11月20日、特赦で溥傑が釈放されことから中国にもどり、北京で溥傑と余生を送った(溥儀は1959年9月17日特赦により出所。出所後、北京植物園に勤務し、再婚した)。その浩は、1887(昭和62)年6月20日73歳のとき北京で死去、その後溥儀は、1983(昭和57)年全国人民代表大会常務委員となり、1994(平成6)年2月28日に88歳で他界した。
心中事件の翌1958(昭和33)年には、早くも三ツ矢歌子主演で「天城心中 天国に結ぶ恋」とのタイトルで映画化(東宝)された。
なお、慧生の妹嫮生(こせい)は、日本人男性と結婚した(現・福永嫮生)。 
天城山心中事件 4
1957年(昭和32年)12月4日、元満州国皇帝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/映画『ラストエンペラー』[監督・ベルナルド・ベルトルッチ]として有名)の姪で、学習院大学国文科2年生の慧生(えいせい/19歳)が同級の大久保武道(20歳)と伊豆の天城山で心中した。
天城山中の八丁池に近い熊笹の茂った雑木林の中、ひときわ目立った百日紅(さるすべり)の老木の根元を死に場所に選び、西を枕に横たわっていた。
大久保が慧生を上から抱きかかえるようにして、先に慧生の左(「右」と書かれた参考文献もある)コメカミに銃口をつけて射った後、自分で右コメカミを射って心中したものと見られており、大久保の右手にはピストルがそのまま握られ、左手は慧生の首を抱きかかえていた。ピストルは旧陸軍14年式。大久保の父親が戦前、満州で憲兵をしていたときの持ち物だった。
大久保は黒のオーバーに紺のズボン、胸のポケットには慧生の写真があり、傍らには黒のコードバンの短靴がきちんと揃えてあった。寄り添うように抱かれた慧生は黒のオーバーに水色のセーター、白地に黒と茶格子のスカート、茶の靴、足を軽く組み、口紅に赤いルージュがひかれていた。
12月10日、2人の遺体が発見されたが、前夜から降り続いていた雨で流血は洗われていた。
大久保は青森県八戸市の素朴な家に育ったが、もともと家庭的に恵まれず、一本気で、日頃から「死にたい」と口走ったり、思いつめる暗い性格の持ち主だった。
慧生もはじめは「青森氏(大久保のこと)につきまとわれて困っちゃう」と友人にもらしていた。
大久保と慧生は課外活動の東洋文化研究会で一緒だったが、大久保が慧生の美しさと人柄に惚れてのめり込んでいき、慧生のことで他の友人と決闘さわぎを起こしたりしたことがあった。そのあまりの一途さに慧生の心も次第に揺らぎ出す。
だが、元満洲の皇族で、元侯爵の孫でもある慧生の家族では大久保を認めず、「あまり上品な人でないから交際しないように・・・・・・」と注意されている。
大久保は認められていないことにかまわず、強引に幾度も慧生の横浜市日吉の家に押しかけていくことがあり、犬に吠えられながらいつまでも門のところに立っていた。
慧生は家族の前では「あんな人とは付き合っていません」と言っていたが、大久保の純粋さに魅かれていった。
1957年(昭和32年)2月5日、大久保と慧生は大学の帰りに目白の蕎麦屋で、いろいろと語り合った末に「婚約」する。
3月5日、大久保と慧生は目白駅で落ち合って大久保の背広を見立てるために一緒にテイラーに出かけた。慧生がアカ抜けない大久保のために背広をつくることを勧めたらしく、布地は慧生が選んで紺の背広を新調した。このとき、慧生はネクタイをプレゼントした。この背広とネクタイがのちの大久保の死装束となる。
大久保は慧生の誕生日に銀製のブローチをプレゼントしている。このブローチは普段身につけなかったが、天城山で発見されたとき、慧生の胸で雨に濡れて光っていた。また、慧生の指にはエンゲージ・リングがはめてあったが、心中した12月4日当日に大久保が買い与えたものだった。
大久保は慧生に宛ててラブレターを出し続けており、大久保と慧生が交わした愛の書簡は『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生・大久保武道遺簡集』(鏡浦書房/1961)と題されて出版されたが、最初のうちは大久保から慧生への一方的なラブレターばかりで、1957年(昭和32年)11月6日になって初めて慧生から大久保に宛てた書簡が出てくるらしい。
11月13日付けの慧生が大久保へ送った手紙では、当時流行りの(石原)慎太郎刈りのヘアスタイルにしていた大久保に対し、あなたの場合は、慎太郎刈りというよりも西郷隆盛刈りでボウズ刈り的に丸っこく刈るのではなく、後ろのあたりに、もう少し毛を残しておいたほうがいいなどと批評している。
慎太郎刈り・・・1956年(昭和31年)ころ、小説『太陽の季節』(1955年発表。同年、第1回文学界新人賞&翌年、第34回芥川賞を受賞)の作者の石原慎太郎がしていたヘアスタイル。スポーツ刈りの変形で普通のスポーツ刈りやGIカットのように前髪を短く刈りそろえないで額に垂らしておくのが特徴で一部の若者達に流行していた。
慧生は表面は明るく、闊達であったが、内心はつねに孤独感にさいなまされていた。慧生の母親の浩(ひろ)が妹とともに満州にいた長い間、慧生は母親の里方の嵯峨侯爵家に預けられ、祖母のもとで育てられた。敗戦後、日本に戻ってきた母親の浩と一緒に暮らすようになったが、疎遠になっていたし、慧生は中国に帰りたくないという考えをもっていた。慧生の父親の溥傑(ふけつ)がいつか釈放されたときには、中国に帰らなければならなかったし、そのときのために普段から中国語を習わされていた。
そんなときに大久保武道という武骨だが、一途に慕ってくれる男を知って徐々に心が揺さぶられていった。
やがて、元満州国皇帝の溥儀とその弟である慧生の父親の溥傑が釈放になり、母親の浩と一緒に北京に帰ることが決まる。慧生は一応帰国に同意し、従うフリをしていたが、大久保と心中してしまう。
『朝日新聞』1957年(昭和32年)12月10日付には次のような記述がある。
<二人が心中にいたった原因については、二人の交際が慧生の家の嵯峨家で認められず、かくれてつき合っていたことも悩みのひとつであったらしく、その上、慧生は母親の嵯峨浩と溥傑との結婚は政略結婚であり、「お母さんのように他人の意志に動かされて結婚したくはない」「私は母と同じ運命はたどりたくない」などともらしていたという。しかし、家出した後に大久保の下宿先に宛てた手紙には「私は二人の問題≠ナこういう行動に出るのではなく、武道さんに引きずられたわけでもない。人生は生きる価値がないという武道さんの考えを翻えさせようとしたが、結局その考えに一致した」と書かれてあった>
この衝撃的な事件は「天国に結ぶ恋」などというキャッチフレーズで雑誌でも取り上げられ、映画『天城心中 天国に結ぶ恋』(監督・石井輝夫/主演・三ツ矢歌子&高橋伸/1958)にもなった。
翌1958年(昭和33年)11月、民間から皇室に迎え入れられることが決定した。皇太子の婚約者として一般家庭出身(とはいえ社長の娘)の正田美智子という女性が選ばれる。そして初の民間出身のプリンセスとして「ミッチーブーム」が巻き起こる。 
愛新覚羅慧生
天城山心中で有名な、愛新覚羅慧生さんも死後霧の中に眠っているような状態だった。30年位前だったが、ある女史が慧生さんを呼び出した。その時私が慧生さんに聞いたところによると、天城山心中は大久保武道くんのピストルの「暴発」だと言った。「学習院では多くの人々から中国と日本の混血であるということでの差別意識と差別を受けて悩んでいた私を一番理解してくれたのが武道くんだった」、と慧生さんは私に告げた。死後22、3年たっていたがもう記憶がはっきりしなかったので色々な質問に答えられなかった。咽喉が渇くというので其つど清めた。3回位咽喉が渇くと言うので清めた。その次の日慧生さんから現実の電話が女史の処に入った。電話を取るといきなり慧生ですが昨日は、と始まり、清めを受けて記憶がはっきりしたので昨日質問されたことをお答えします。ということで私の質問に総て答えてきた。其後調べた結果その解答はすべて正しかった。私は皇室用語だろう「おひいさま、おたあさま」と言う話を印象ぶかく覚えている。その後父溥傑氏と浩夫人が初めて来日し心中の現場天城山に行ったが、今は中山神社の愛新覚羅社に祭られている。浩夫人が中山忠光卿の曾孫である関係で此処に祭られたが何時かテレビで此処におまいりすると若い女の声でおかえりなさい、という声がする。というので録音したのが流された。ビートたけしの番組だった気がするが、私には分った。慧生さんがそのような能力のあることが、電話を掛けてきたことで明瞭だったから。
中山忠光卿の姉の子供が明治陛下であるから忠光卿の曾孫である浩夫人と慧生さんは明治陛下の一番近い親戚である。国の歴史の悲劇が此処にある。慧生さんは日本の差別意識に悩み犠牲になった。しかも明治陛下の親戚でもあるのに、アジアは一つといったのは誰なのか。差別ばかりしてなにが一つなのか。そのことを愛新覚羅慧生さんは問いかけているのだ。
「流転の王妃の昭和史」愛新覚羅浩夫人は母親であるが慧生さんを全く理解していない。周恩来氏は慧生さんの写真を部屋に飾っていたという。差別意識の犠牲になったことが分っていたのだろう。周恩来総理は言った。
「慧生さんのことは心よりお悔やみ申し上げます。本当に惜しい方を亡くされました。まことに残念です。かって、彼女は私に直接、手紙をくれたことがありました。私はあのように勇敢な子を好きなのですよ」(流転の王妃の昭和史p271愛新覚羅浩著)
日本との連携の道が一番必要なことを知っていたのが周総理、ケ小平の路線であり、確信であったが、その信念を加速した発端が清王朝の子孫慧生さんの周恩来総理への手紙と、慧生さんの死であったのではないかと私には思へるのである。日中の架け橋として働いた彗星として。
愛新覚羅慧生さんを呼び出した数日後大久保武道君が女史に現れ、「世の中は狂っている、大人は汚い、親父が九州くんだりまでいったのも大川周明を慕っていった」と告げ世の中を憤慨している状態で喚いていたという。何しろ怒りと呪いの状態で迷っているようすだと言った。
大川周明が九州大学法学部教授をやっていた時に九大法学部に入ったのであろう。此武道君の話も正しかった。
この心中事件は恋愛とかいうものではなく、武道君の父親に対する絶望と憎しみにあった。自殺願望を止めようとする慧生さんの持つ孤独感と悲しみとが共感しつつ起きてしまった事故という以外ないような気がする。、 大川周明の心酔者である父が戦争中アジア主義民族運動を展開したことが子供である武道君に与えた影響、亦女性問題に対する武道君の怒り等、不思議な綾なす世界にぶつかった二人の子供が受けなければならなかった不幸であった。 
愛新覚羅浩 (あいしんかくらひろ) 
関東軍の意向で、満州国皇帝の弟に嫁いだ嵯峨浩は、政略結婚とは思えないほど、深い愛情と信頼の絆を夫溥傑との間に築いていた。満州国の崩壊、流転の日々、16年間の夫婦の別離、長女の死など数多くの悲劇に襲われながらも、耐え抜いてこれたのは、夫婦愛のゆえであった。
国境を越えた夫婦愛
1932年、日本の後押しで満州国が建国した。皇帝となったのは、清国の最後の皇帝(ラストエンペラー)であった愛新覚羅溥儀。その弟溥傑に嫁いだ日本女性がいた。愛新覚羅(旧姓嵯峨)浩である。
愛新覚羅家は中国東北地方(旧満州)に居住していた女真族で、15世紀に英雄ヌルハチが現れ、中国に清国を築いたのである。約3百年続いた清国が辛亥革命(1911年)で滅亡。関東軍(満州に駐屯した日本軍)は満州国の建国に、皇帝の地位を追われた溥儀を利用した。溥儀にとっても悪い話ではなかった。満州国に清朝再興の夢を託したのである。溥傑と浩の結婚を仲介したのはこの関東軍で、いわゆる政略結婚であった。
二人の運命は、戦争によって翻弄された過酷なものであった。しかし、次々に襲う悲劇は、夫婦の絆を強めこそすれ、決して弱めることはなかった。
溥傑の人柄に惹かれる
嵯峨浩は、1914年3月16日、実勝・尚子夫妻の長女として誕生。嵯峨家は、祖母の叔母が明治天皇の生母という名門の公家華族(元の公家で明治以降華族に列せられた者)で、宮中との繋がりが深い家柄であった。浩は愛新覚羅溥傑に嫁ぐまで、お姫様のような生活を満喫していた。
その浩に縁談の話が舞い込んだのは、22歳の時。日満親善を促進するため、満州国皇帝の弟が日本女性と結婚することが望ましいという。関東軍の意向であった。浩にとっても、家族にとっても青天の霹靂である。当時の時代状況では「お国のため」と言われれば、逆らえるものではない。浩は、最も親しい友人のもとでさめざめと泣いたという。
見合いの場で、溥傑に会った浩は不安が吹き飛んでしまった。「軍服姿の気高い、ちょっと普通じゃお見かけできない立派な方だと思いました」と第一印象を述べている。溥傑の人柄に浩はすっかり惹かれてしまった。
溥傑は1928年から日本に留学していた。将来満州国の将校候補生として陸軍士官学校への入学を許され、その後日本の陸軍に入隊して訓練を受けていたのである。彼を知る者は一様に、彼を頭の切れる秀才、部下思いの優しい男性、スケールの大きい立派な人間という。申し分のない男性であった。二人の結婚式は、1937年4月3日、東京九段にある軍人会館(現在の九段会館)で行われた。日中戦争が始まる3ヶ月前のことである。
二人が満州に渡ったのは、結婚の半年後の1937年10月のこと。新京(現在の長春)での生活が始まった。そこでの生活は、浩にとって想像絶するものだった。住居は荒れ野に急ごしらえで建てた平屋の官舎、家の周りには野生動物が徘徊するありさまだった。関東軍の待遇の悪さに何度も泣かされたという。関東軍にとって、傀儡国の皇帝の弟に嫁いできた妃など所詮、虫けらに等しい存在だったのかもしれない。
何よりも浩を苦しめたのは、関東軍の満州人に対する横暴な振る舞いであった。彼らの武力を背景にした威圧は、時として宮廷にも向けられ、関東軍と宮廷との深刻な対立を生み出した。「日満親善」「五族協和」の理想は、絵に描いた餅にすぎなかったのである。
しかし、浩は不幸だったわけではない。38年2月に長女が誕生、慧生と名付けた。溥傑は生まれたわが子のそばを離れたがらず、皇帝から苦情の言葉を頂戴する始末であった。生活は何かと不自由ではあったが、子煩悩の夫と娘に囲まれたこの時期を浩は「幸福の絶頂期であった」と言っている。
満州国の崩壊
日本の敗戦が原爆投下で決定的になった1945年8月9日、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻。それは悲劇の始まりであった。その頃、溥傑は軍籍を離れ、皇帝直々の命令で侍従職となり、兄を助け国家建設のため尽力していた。その夢がもろくも崩れ去ったのである。
一刻の猶予もない。皇帝一行は特別列車に乗って、新京を脱出。長白山中にある大栗子まで逃げ延びた。国を失った彼らに残された選択は、ただ一つ。日本への亡命である。一行は奉天(現在の瀋陽)飛行場から2陣に分けて、脱出することにした。第一陣は、溥儀と溥傑、それとわずかな側近。第二陣が皇后の婉容、浩など女性、子供らが大半。第二陣は、第一陣の到着の報を受けて出発することになっていた。しかし、事態は最悪の結末を迎えてしまった。溥儀ら一行は、奉天飛行場でソ連軍に捕縛されてしまったのである。溥儀も溥傑も、ソ連に連行され、ハバロフスク収容所で抑留生活を余儀なくされた。
残されたのは、女子供ばかり。彼らの逃避行が始まった。満州に安全なところはどこにもない。略奪、集団暴行が出始め、日本人への襲撃も報告されていた。満州は危ない。女性はみな髪を切り、顔に泥を塗りつけ、男装しての逃避行が始まった。彼らが落ち着いた地が、朝鮮との国境に近い通化(吉林省)。逃走を開始してすでに5ヶ月、年が明け46年1月になっていた。彼らがここまで辿り着くことができたのは、中共軍の監視下にあったからである。
通化で彼らにあてがわれた住居は、4階建ての公安局のビルの2階の1室。しかし、そこは決して安心できる場所ではなかった。中共軍と国民軍の内戦があり、日本軍の残存部隊もいる。いつ戦闘が起こっても不思議ではなかった。世に言う「通化事件」に巻き込まれたのは、2月初旬。日本軍の残存部隊が、国民軍と手を組み、中共軍に占領されていた通化を奪回するという暴挙に出た。それに対して、中共軍は日本人虐殺によって応えた。
残存兵が浩ら一行の救出を図り、公安局に乗り込んできたため、公安局が中共軍の猛攻撃に会ってしまう。機関銃の一斉射撃で窓ガラスは吹っ飛び、落下する砲弾、耳をつんざく轟音、浩は5歳の次女嫮生を抱きしめ、息を殺して祈るばかりであった。浩の目の前で、皇帝の老乳母が砲弾の破片で手首が吹き飛ばされ、痛い痛いと泣きながら絶命。皇后は恐怖のあまり、気がふれてしまった。通化事件の後、一行は中共軍に連れられて、長春に着いたのは4月のことである。
浩ら一行が、最終的に到達した地が上海。帰国を果たしたのは47年1月、日本軍の上海連絡班の助けがあったからである。この時浩は33歳。
慧生の死
引き揚げ後、浩がやっかいになったのは、実家の嵯峨家であった。日本の小学校に入るため、日本に残っていた慧生が元気に育っていたことが、浩を何よりも喜ばせた。その2年後、嬉しい知らせが届いた。夫の溥傑からのもので、ハバロフスクの収容所で兄と共に無事であるという。浩は夫の釈放を待ちながら、二人の子育てに専念した。
1957年12月、とんでもない事件が起こった。学習院大学の学生であった慧生が、心中自殺を遂げてしまったのである。一緒に死んだ相手は、青森出身の同級生。生きる望みを失っていた青年に、心優しい慧生が同情し、行動を共にしたものである。
浩はすっかり打ちのめされ、自宅の床に伏し、起きあがれなくなった。最も衝撃を受けたのは、当時中国の撫順の収容所にいた父溥傑であった。「何という悲しみであろう!清朝の子として、薄幸であることは宿命なのか?将来の全てを慧生と嫮生に託して、楽しい夢を描きながら、苦しみに耐えてきたのに、何と言うことだろう。誰にも罪はない。もしあるとすれば全ては父である私の罪だ」。溥傑は清朝の血を背負う自らを責め、浩は娘を守ってあげられなかった自らの非力を責めた。
16年ぶりの再会
1960年12月、ついに溥傑は特赦になり釈放され、北京に帰った。浩は夫のいる中国に渡る準備を始めた。16年に渡る別離の日々が終わろうとしていた。しかし、兄の溥儀は、「日本人の義妹の顔など見たくない」と言って、浩の帰国に猛反対したという。溥傑はきっぱりと言い切った。「私も妻もお互い信じ愛し合っています。娘もいます。たとえ民族や国が違っても、夫婦親子一緒に暮らすのが目的で、今まで私は耐えてきました。一家団欒の楽しみを取り戻すためです」。
翌年5月、溥傑は広州駅のプラットホームで、香港経由で中国入りする浩と嫮生を待っていた。人混みの中に夫の姿を見つけた浩は、用意していた言葉も出ず、ただ黙って頭を下げるばかりであった。溥傑も黙ってうなずくばかりで、言葉にならない。二人は人目を憚ることなく、肩を寄せ合って泣いた。16年の長かった別離が終わりを告げた。
浩は大切に抱いてきた慧生の遺骨を差し出し、「申し訳ございません……」と言って泣いた。溥傑は、その両腕に慧生の遺骨をしっかり抱きしめたまま、ホテルに着くまで離そうとはしなかった。部屋に着くと花を飾った机の上に遺骨を置き、「申し訳なかった」と一言漏らした後、その場に泣き崩れてしまった。
長く苦しい別離を体験したからであろうか、溥傑と浩の二人は、再会以来27年間を二人で支え合い、実に円満な家庭を築いたのである。浩が健康を害し始めたのは、1978年日中平和友好条約が結ばれる時期のこと。病名は慢性腎不全、人工透析が必要であった。病状は徐々に悪化し、病床に伏す日が多くなっていた。妻を看病しながら、「もし浩が死ねば、私も生きてはおれない」と溥傑の呟きを周りは聞いている。
ついに別離の時が来た。1987年6月20日、夫に見守られながら、浩は静かに息を引き取った。享年73歳。溥傑は浩の遺体の枕辺に立って、ぽろぽろと頬を流れる涙をぬぐおうともせず、葬儀の参列者に丁寧に挨拶をしていた。その落胆ぶりは、妻の後を追うのではないかと心配されたほどである。
娘の嫮生は、浩の亡骸に取りすがって、「浩さん、浩さん」と慟哭する父の姿を見た。「母は、こんなにも父に愛され惜しまれながら亡くなったのだから、幸せだったとつくづく思います」。清王朝の末裔に嫁ぎ、数々の苦難を乗り越えた浩の生涯は、日中友好の礎となったばかりではなく、夫婦愛のシンボルとして、我々に記憶されている。 
 

 

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