和讃

弘法大師和讃浄土高僧正像末別願百利口語野辺児童地蔵御十念賽の河原地蔵1賽の河原地蔵2黒谷施餓鬼供養血盆経血の池和讃十九夜念仏小豆島本覚讃薬師如来真言安心光明真言坐禅高僧伝和讃「賽の河原地蔵和讃」考安楽寺松虫姫鈴虫姫現世利益聖人賽の河原西院河原地蔵和讃念仏和讃
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雑学の世界・補考   

和讃 (わさん) 

仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対する。七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。原型である「讃歎」(さんだん)を和讃の一種とみなす事もある。 
和讃の原型である「讃歎」(「仏教讃歎」「讃談」とも)は、古く奈良時代にさかのぼる。和文の声明(しょうみょう)で、曲調は「梵讃」・「漢讃」に準ずる。歌体は、一致しない。法会の奉讃供養に用いる歌謡として作られたと考えられている。 
和讃は、讃歎の流行の後を受け平安時代中期頃には成立・定着する。和讃は、広く民衆の間に流布し、仏教の布教だけでなく、日本の音楽にも大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡がある。 
鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ、鎌倉仏教各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗・天台宗などにも影響が及び、「高僧讃」「神祇讃」などの和讃が作られた。
和讃2 
仏・菩薩や祖師・先徳、経典・教義などを日本語で讃歎した讃歌である。インド語または中国語でとなえる「梵讃」「漢讃」に対し、七五調で作られたものが多く、これに創作当時流行していた節を付けて朗唱する。 
起源は古く、平安時代には「法華讃歎」「百石(ももさか)讃歎」などが流行し、古い和讃には、良源作と伝えられる「本覚讃」、千観作になる「極楽浄土弥陀和讃」、源信作「極楽六時讃」「来迎讃」などがあり、ほとんど平安中期の天台浄土教によって流布したものである。鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ鎌倉仏教各宗で流行をした。浄土真宗の親鸞作の「三帖和讃」(浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃)や、時宗の一遍作「別願讃」や他阿作「往生讃」などを含む「浄業(じょうごう)和讃」などが代表となっている。こうした和讃は、広く民衆の間に流布し、日本の音楽に大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡が残っている。和讃は一般には諸仏、菩薩、高僧の徳や行跡を和文の詩形式で讃えた歌謡を指し、多くは七・五の十二音節を一句として、それを重ねる形式で作られる。のちの今様の成立や現代に伝わる童歌などに大きな影響を与えた。鎌倉時代に入ると和讃は仏教儀式のなかでことのほか重要視されるようになった。  
和讃3
仏・菩薩(ぼさつ)・祖師の教法、行実を、和語で讃嘆した仏教の讃歌。梵(ぼん)(語)讃、漢(語)讃に対することば。七五調で、四句ないしそれ以上を一首とする。法会(ほうえ)や教化(きょうげ)にあたって、曲調をつけて詠じ、一般的には平安時代から流行した。日本における仏教の普及、大衆の教法理解に、和讃は大きな役割を果たした。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』抜粋に、行基(ぎょうき)の仏法讃嘆を記しているが、それによって和讃の機能が理解できる。
古い和讃として、行基作と伝える『法華讃歎(ほっけさんたん)』、光明(こうみょう)皇后作と伝える『百石讃歎』、円仁(えんにん)作と伝える『舎利(しゃり)讃歎』があるが、真偽のほどはわからない。その後、千観(せんかん)の『弥陀(みだ)和讃』、良源(りょうげん)の『本覚讃』、源信(げんしん)の『極楽(ごくらく)六時讃』がつくられ、鎌倉時代以降、撰者(せんじゃ)名を仮託した和讃をも含めると、実に多くの和讃がつくられ流布した。そのうち、親鸞(しんらん)作の浄土・高僧・正像末(しょうぞうまつ)の『三帖(さんじょう)和讃』と『太子和讃』、一遍(いっぺん)作の『別願和讃』は有名。和讃は宗教的な意味だけでなく、今様(いまよう)との関係も深く、文学史上重要な内容をもつ。  
和讃4
和讚とは釈迦や仏、仏教の教義などを日本語で賛美する歌のことです。仏教はインドから中国を経て日本に入って来たことから、仏教の経典や讃歌はインドや中国の言葉で作られたものをそのまま使うことが多いのですが、それを日本人にも意味が分かりやすいように日本語に翻訳したものを和讚といいます。和讚は元々は親鸞聖人が作ったと言われていますが、その他の人たちが作った和讚も数多くあり、それらも全て含めて「和讚」と呼ばれています。平安中期に主に天台宗・浄土宗によって広められたともされています。七五調で覚えやすく、当時のはやりの曲に合わせて歌われたため、広く民衆の間に広がりました。  
 
 
弘法大師和讃

帰命頂礼遍照尊 
宝亀五年の水無月に 玉も寄るちょう讃岐方 屏風ヶ浦に誕生し 
御歳七つのその年に 衆生のために身を捨てて 五つの岳に立つ雲の 
立つる近いぞ頼もしや ついにすなわち延暦の 末の年なる五月より 
藤原氏のかのうらと 唐船に乗り終えて 印を残す一本の 
松の光を世に広く 広め給える宗旨をば 真言宗とぞ名付けたる 
真言宗のあんじんは 上根下根の隔てなく 梵生不二と定まれど 
下根に示す遺業には 偏に光明真言を 行往座臥に唱うれば 
しゅくしょういつしか消え果てて 往生浄土定まりぬ 不転肉親成仏の 
身は有明の苔の下 誓いは竜華の開くまで にん土を照らす遍照尊 
仰げばいよいよ高野山 雲の上人しずのおも 結ぶ縁の蔦蔓 
縋りて上がる嬉しさよ 昔国中大日照り 野山の草木みな枯れぬ 
その時大師勅を受け 神仙園に雨乞いし 甘露の雨を降らしては 
五穀の種を結ばしめ 国の憂いを救いたる 功は今に隠れなし 
わが日の本のひとぐさに 文化の花を咲かせんと 困苦のしんせつ四句のげを 
国字に綴る短歌 色は匂えど散りぬるを わがよ誰ぞ常ならん 
有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔いもせず いかなる無知の幼な児も 
習うに易き筆の跡 されどもそうじの文字なれば 知れば知るほど意味深し 
僅かに四十七字にて 百字に通ずる便利をも 思えば万国天が下 
御恩を受けざる人もなし なおも誓いのその中に 五国豊じゅ富たつとき 
家運長久智慧愛嬌 息災延命かついさん 殊に見る目も浅ましき 
業病難病受けし身は 八十八のゆいせきに 寄せて利益を為し給う 
悪業深きわれわれは 繋がぬ沖の捨て小舟 生死の苦界果てもなく 
誰を頼りの綱手縄 ここにさんじの菩薩あり ぐせいの舟に櫓櫂とり 
助け給える御慈悲の 不思議は世々に新たなり 
南無大師遍照尊  南無大師遍照尊  南無大師遍照尊  
   
浄土和讃・親鸞

冠頭讃 
弥陀(みだ)の名号(みょうごう)となへつつ 信心まことにうるひとは 
 憶念(おくねん)の心つねにして 仏恩(ぶっとん)報ずるおもひあり 
誓願(せいがん)不思議をうたがひて 御名(みな)を称する往生は 
 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ 
讃弥陀偈讃 
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 
 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり 
智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相ことごとく 
 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ 
解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 
 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ 
光雲無碍如虚空(こううんむげにょこくう) 一切の有碍(うげ)にさはりなし 
 光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ 
清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば 
 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ 
仏光照曜(ぶっこうしょうよう)最第一 光炎王仏となづけたり 
 三塗(さんず)の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ 
道光明朗超絶せり 清浄光仏とまうすなり 
 ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごうく)をのぞき解脱をう 
慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 
 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ 
無明の闇を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり 
 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまへり 
光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 
 聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す 
仏光測量なきゆゑに 難思光仏となづけたり 
 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ 
神光の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり 
 因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり 
光明月日に勝過して 超日月光となづけたり 
 釈迦嘆じてなほつきず 無等等を帰命せよ 
弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき 
 浄土をねがはんひとはみな 広大会を帰命せよ 
安楽無量の大菩薩 一生補処にいたるなり 
 普賢の徳に帰してこそ 穢国にかならず化するなれ 
十方衆生のためにとて 如来の法蔵あつめてぞ 
 本願弘誓に帰せしむる 大心海を帰命せよ 
観音・勢至もろともに 慈光世界を照曜し 
 有縁を度してしばらくも 休息あることなかりけり 
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 
 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし 
神力自在なることは 測量すべきことぞなき 
 不思議の徳をあつめたり 無上尊を帰命せよ 
安楽声聞・菩薩衆 人・天智慧ほがらかに 
 身相荘厳みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ 
顔容端正たぐひなし 精微妙躯非人天 
 虚無之身無極体 平等力を帰命せよ 
安楽国をねがふひと 正定聚(しょうじょうじゅ)にこそ住すなれ 
 邪定・不定聚くにになし 諸仏讃嘆したまへり 
十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき 
 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん 
若不生者のちかひゆゑ 信楽まことにときいたり 
 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ 
安楽仏土の依正は 法蔵願力のなせるなり 
 天上天下にたぐひなし 大心力を帰命せよ 
安楽国土の荘厳は 釈迦無碍のみことにて 
 とくともつきじとのべたまふ 無称仏を帰命せよ 
已・今・当の往生は この土の衆生のみならず 
 十方仏土よりきたる 無量無数不可計なり 
阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば 
 功徳の宝を具足して 一念大利無上なり 
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 
 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり 
神力無極の阿弥陀は 無量の諸仏ほめたまふ 
 東方恒沙の仏国より 無数の菩薩ゆきたまふ 
自余の九方の仏国も 菩薩の往覲みなおなじ 
 釈迦牟尼如来偈をときて 無量の功徳をほめたまふ 
十方の無量菩薩衆 徳本うゑんためにとて 
 恭敬をいたし歌嘆す みなひと婆伽婆を帰命せよ 
七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり 
 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし 
妙土広大超数限 本願荘厳よりおこる 
 清浄大摂受に 稽首帰命せしむべし 
自利利他円満して 帰命方便巧荘厳 
 こころもことばもたえたれば 不可思議尊を帰命せよ 
神力本願及満足 明了堅固究竟願 
 慈悲方便不思議なり 真無量を帰命せよ 
宝林・宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて 
 哀婉雅亮すぐれたり 清浄楽を帰命せよ 
七宝樹林くににみつ 光耀たがひにかがやけり 
 華菓枝葉またおなじ 本願功徳聚を帰命せよ 
清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ 
 宮商和して自然なり 清浄勲を礼すべし 
一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 
 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし 
一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 
 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり 
相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ 
 つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる 
七宝の宝池いさぎよく 八功徳水みちみてり 
 無漏の依果不思議なり 功徳蔵を帰命せよ 
三塗苦難ながくとぢ 但有自然快楽音 
 このゆゑ安楽となづけたり 無極尊を帰命せよ 
十方三世の無量慧 おなじく一如に乗じてぞ 
 二智円満道平等 摂化随縁不思議なり 
弥陀の浄土に帰しぬれば すなはち諸仏に帰するなり 
 一心をもちて一仏を ほむるは無碍人をほむるなり 
信心歓喜慶所聞 乃曁一念至心者 
 南無不可思議光仏 頭面に礼したてまつれ 
仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん 
 信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし 
大経讃 
尊者阿難座よりたち 世尊の威光を瞻仰(せんごう)し 
 生希有心とおどろかし 未曾見とぞあやしみし 
如来の光瑞希有にして 阿難はなはだこころよく 
 如是之義ととへりしに 出世の本意あらはせり 
大寂定にいりたまひ 如来の光顔たへにして 
 阿難の慧見をみそなはし 問斯慧義(もんしえぎ)とほめたまふ 
如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 
 難値難見とときたまひ 猶霊瑞華としめしける 
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 
 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ 
南無不可思議光仏 饒王仏のみもとにて 
 十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する 
無碍光仏のひかりには 清浄・歓喜・智慧光 
 その徳不可思議にして 十方諸有を利益せり 
至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ 
 不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする 
真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 
 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ 
弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして 
 変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり 
至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し 
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける 
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 
 「観経」一部にあらはして 定散諸機をすすめけり 
諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに 
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり 
至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し 
 名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける 
果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を 
 「弥陀経」にあらはして 一乗の機をすすめける 
定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ 
 をしへざれども自然に 真如の門に転入する 
安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 
 仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり 
如来の興世にあひがたく 諸仏の経道ききがたし 
 菩薩の勝法きくことも 無量劫にもまれらなり 
善知識にあふことも をしふることもまたかたし 
 よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし 
一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし 
 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ 
念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ 
聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ 
観経讃 
恩徳広大釈迦如来 韋提夫人に勅してぞ 
 光台現国のそのなかに 安楽世界をえらばしむ 
頻婆娑羅王勅せしめ 宿因その期をまたずして 
 仙人殺害のむくひには 七重のむろにとぢられき 
阿闍世王は瞋怒して 我母是賊としめしてぞ 
 無道に母を害せんと つるぎをぬきてむかひける 
耆婆・月光ねんごろに 是旃陀羅とはぢしめて 
 不宜住此と奏してぞ 闍王の逆心いさめける 
耆婆大臣おさへてぞ 却行而退せしめつつ 
 闍王つるぎをすてしめて 韋提をみやに禁じける 
弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富楼那・韋提 
 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・行雨等 
大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを 
 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり 
釈迦韋提方便して 浄土の機縁熟すれば 
 雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ 
定散諸機格別の 自力の三心ひるがへし 
 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし 
弥陀経讃 
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる 
恒沙塵数の如来は 万行の少善きらひつつ 
 名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ 
十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき 
 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり 
諸仏の護念証誠は 悲願成就のゆゑなれば 
 金剛心をえんひとは 弥陀の大恩報ずべし 
五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 
 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる 
諸経讃  
無明の大夜をあはれみて 法身の光輪きはもなく 
 無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現する 
久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 
 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する 
百千倶胝の劫をへて 百千倶胝のしたをいだし 
 したごと無量のこゑをして 弥陀をほめんになほつきじ 
大聖易往とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば 
 無眼人とぞなづけたる 無耳人とぞのべたまふ 
無上上は真解脱 真解脱は如来なり 
 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらはるる 
平等心をうるときを 一子地となづけたり 
 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし 
如来すなはち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり 
 凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし 
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 
 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり 
衆生有碍のさとりにて 無碍の仏智をうたがへば 
 曾婆羅頻陀羅地獄にて 多劫衆苦にしづむなり 
現世利益讃 
阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 
 「金光明」の「寿量品」 ときおきたまへるみのりなり 
山家の伝教大師は 国土人民をあはれみて 
 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなふべし 
一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 
 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり 
南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 
 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ 
南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す 
 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり 
南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに 
 よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず 
南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す 
 かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり 
南無阿弥陀仏をとなふれば 難陀・跋難大竜等 
 無量の竜神尊敬し よるひるつねにまもるなり 
南無阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す 
 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり 
南無阿弥陀仏をとなふれば 他化天の大魔王 
 釈迦牟尼仏のみまへにて まもらんとこそちかひしか 
天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり 
 これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり 
願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 
 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり 
南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに 
 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり 
無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして 
 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり 
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 
 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり 
勢至讃 
勢至念仏円通して 五十二菩薩もろともに 
 すなはち座よりたたしめて 仏足頂礼せしめつつ 
教主世尊にまうさしむ 往昔恒河沙劫に 
 仏世にいでたまへりき 無量光とまうしけり 
十二の如来あひつぎて 十二劫をへたまへり 
 最後の如来をなづけてぞ 超日月光とまうしける 
超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 
 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す 
子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 
 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず 
染香人のその身には 香気あるがごとくなり 
 これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる 
われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ 
 無生忍にはいりしかば いまこの娑婆界にして 
念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり 
 大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし 
 
高僧和讃・親鸞

本師龍樹菩薩は 「智度」「十住毘婆沙」等 
 つくりておほく西をほめ すすめて念仏せしめたり 
南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩となづくべし 
 有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまふ 
本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき 
 歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける 
龍樹大士世にいでて 難行易行のみちをしへ 
 流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまふ 
本師龍樹菩薩の をしへをつたへきかんひと 
 本願こころにかけしめて つねに弥陀を称すべし 
不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな 
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし 
生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 
 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける 
「智度論」にのたまはく 如来は無上法皇なり 
 菩薩は法臣としたまひて 尊重すべきは世尊なり 
一切菩薩ののたまはく われら因地にありしとき 
 無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど 
恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 
 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし 
釈迦の教法おほけれど 天親菩薩はねんごろに 
 煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ 
安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり 
 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし 
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし 
如来浄華の聖衆は 正覚のはなより化生して 
 衆生の願楽ことごとく すみやかにとく満足す 
天人不動の聖衆は 弘誓の智海より生ず 
 心業の功徳清浄にて 虚空のごとく差別なし 
天親論主は一心に 無碍光に帰命す 
 本願力に乗ずれば 報土にいたるとのべたまふ 
尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ 
 天親論主のみことには 願作仏心とのべたまへ 
願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 
 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり 
信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 
 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり 
願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ 
 すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり 
本師曇鸞和尚は 菩提流支のをしへにて 
 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき 
四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 
 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし 
世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 
 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある 
鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして 
 いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず 
一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらになき 
 安楽勧帰のこころざし 鸞師ひとりさだめたり 
魏の主勅して并州の 大巌寺にぞおはしける 
 やうやくをはりにのぞみては 汾州にうつりたまひにき 
魏の天子はたふとみて 神鸞とこそ号せしか 
 おはせしところのその名をば 鸞公巌とぞなづけたる 
浄業さかりにすすめつつ 玄中寺にぞおはしける 
 魏の興和四年に 遥山寺にこそうつりしか 
六十有七ときいたり 浄土の往生とげたまふ 
 そのとき霊瑞不思議にて 一切道俗帰敬しき 
君子ひとへにおもくして 勅宣くだしてたちまちに 
 汾州汾西秦陵の 勝地に霊廟たてたまふ 
天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 
 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし 
本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 
 煩悩・菩提体無二と すみやかにとくさとらしむ 
いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 
 仏法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり 
弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり 
 これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ 
往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 
 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり 
還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ 
 すなはち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり 
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 
 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまふ 
尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 
 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ 
無碍光の利益より 威徳広大の信をえて 
 かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる 
罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて 
 こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし 
名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 
 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり 
尽十方無碍光の 大悲大願の海水に 
 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり 
安楽仏国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて 
 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり 
諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 
 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ 
安楽仏国にいたるには 無上宝珠の名号と 
 真実信心ひとつにて 無別道故とときたまふ 
如来清浄本願の 無生の生なりければ 
 本則三三の品なれど 一二もかはることぞなき 
無碍光如来の名号と かの光明智相とは 
 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ 
不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく 
 一者信心あつからず 若存若亡するゆゑに 
二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば 
 三者信心相続せず 余念間故とのべたまふ 
三信展転相成す 行者こころをとどむべし 
 信心あつからざるゆゑに 決定の信なかりけり 
決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり 
 念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり 
決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ 
 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり 
万行諸善の小路より 本願一実の大道に 
 帰入しぬれば涅槃の さとりはすなはちひらくなり 
本師曇鸞大師をば 梁の天子蕭王は 
 おはせしかたにつねにむき 鸞菩薩とぞ礼しける 
本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて 
 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく 
本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて 
 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ 
末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも 
 ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ 
鸞師のをしへをうけつたへ 綽和尚はもろともに 
 在此起心立行は 此是自力とさだめたり 
濁世の起悪造罪は 暴風駛雨にことならず 
 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり 
一形悪をつくれども 専精にこころをかけしめて 
 つねに念仏せしむれば 諸障自然にのぞこりぬ 
縦令一生造悪の 衆生引接のためにとて 
 称我名字と願じつつ 若不生者とちかひたり 
大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ 
 末代濁世のためにとて 十方諸仏に証をこふ 
世世に善導いでたまひ 法照・少康としめしつつ 
 功徳蔵をひらきてぞ 諸仏の本意とげたまふ 
弥陀の名願によらざれば 百千万劫すぐれども 
 いつつのさはりはなれねば 女身をいかでか転ずべき 
釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて 
 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ 
助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり 
 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし 
仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば 
 これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる 
こころはひとつにあらねども 雑行・雑修これにたり 
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり 
善導大師証をこひ 定散二心をひるがへし 
 貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ 
経道滅尽ときいたり 如来出世の本意なる 
 弘願真宗にあひぬれば 凡夫念じてさとるなり 
仏法力の不思議には 諸邪業繋さはらねば 
 弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり 
願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 
 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり 
煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば 
 すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ 
釈迦・弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し 
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり 
真心徹到するひとは 金剛心なりければ 
 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまへり 
五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて 
 ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ 
金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 
 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける 
真実信心えざるをば 一心かけぬとをしへたり 
 一心かけたるひとはみな 三信具せずとおもふべし 
利他の信楽うるひとは 願に相応するゆゑに 
 教と仏語にしたがへば 外の雑縁さらになし 
真宗念仏ききえつつ 一念無疑なるをこそ 
 希有最勝人とほめ 正念をうとはさだめたれ 
本願相応せざるゆゑ 雑縁きたりみだるなり 
 信心乱失するをこそ 正念うすとはのべたまへ 
信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり 
 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず 
五濁増のときいたり 疑謗のともがらおほくして 
 道俗ともにあひきらひ 修するをみてはあだをなす 
本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 
 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり 
西路を指授せしかども 自障障他せしほどに 
 曠劫以来もいたづらに むなしくこそはすぎにけれ 
弘誓のちからをかぶらずは いづれのときにか娑婆をいでん 
 仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし 
娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること 
 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし 
源信和尚ののたまはく われこれ故仏とあらはれて 
 化縁すでにつきぬれば 本土にかへるとしめしけり 
本師源信ねんごろに 一代仏教のそのなかに 
 念仏一門ひらきてぞ 濁世末代をしへける 
霊山聴衆とおはしける 源信僧都のをしへには 
 報化二土ををしへてぞ 専雑の得失さだめたる 
本師源信和尚は 懐感禅師の釈により 
 「処胎経」をひらきてぞ 懈慢界をばあらはせる 
専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり 
 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ 
報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 
 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり 
男女貴賎ことごとく 弥陀の名号称するに 
 行住座臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし 
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 
 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり 
弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 
 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ 
極悪深重の衆生は 他の方便さらになし 
 ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ 
本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ 
 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ 
智慧光のちからより 本師源空あらはれて 
 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ 
善導・源信すすむとも 本師源空ひろめずは 
 片州濁世のともがらは いかでか真宗をさとらまし 
曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき 
 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし 
源空三五のよはひにて 無常のことわりさとりつつ 
 厭離の素懐をあらはして 菩提のみちにぞいらしめし 
源空智行の至徳には 聖道諸宗の師主も 
 みなもろともに帰せしめて 一心金剛の戒師とす 
源空存在せしときに 金色の光明はなたしむ 
 禅定博陸まのあたり 拝見せしめたまひけり 
本師源空の本地をば 世俗のひとびとあひつたへ 
 綽和尚と称せしめ あるいは善導としめしけり 
源空勢至と示現し あるいは弥陀の顕現す 
 上皇・群臣尊敬し 京夷庶民欽仰す 
承久の太上法皇は 本師源空を帰敬しき 
 釈門儒林みなともに ひとしく真宗に悟入せり 
諸仏方便ときいたり 源空ひじりとしめしつつ 
 無上の信心をしへてぞ 涅槃のかどをばひらきける 
真の知識にあふことは かたきがなかになほかたし 
 流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき 
源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき 
 賢哲・愚夫もえらばれず 豪貴・鄙賎もへだてなし 
命終その期ちかづきて 本師源空のたまはく 
 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし 
源空みづからのたまはく 霊山会上にありしとき 
 声聞僧にまじはりて 頭陀を行じて化度せしむ 
粟散片州に誕生して 念仏宗をひろめしむ 
 衆生化度のためにとて この土にたびたびきたらしむ 
阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ 
 化縁すでにつきぬれば 浄土にかへりたまひにき 
本師源空のをはりには 光明紫雲のごとくなり 
 音楽哀婉雅亮にて 異香みぎりに映芳す 
道俗男女預参し 卿上雲客群集す 
 頭北面西右脇にて 如来涅槃の儀をまもる 
本師源空命終時 建暦第二壬申歳 
 初春下旬第五日 浄土に還帰せしめけり 
五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 
 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり 
南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり 
 かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん
 
正像末和讃・親鸞

弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 
 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり 
釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ 
 正像の二時はをはりにき 如来の遺弟悲泣せよ 
末法五濁の有情の 行・証かなはぬときなれば 
 釈迦の遺法ことごとく 竜宮にいりたまひにき 
正像末の三時には 弥陀の本願ひろまれり 
 像季末法のこの世には 諸善竜宮にいりたまふ 
「大集経」にときたまふ この世は第五の五百年 
 闘諍堅固なるゆゑに 白法隠滞したまへり 
数万歳の有情も 果報やうやくおとろへて 
 二万歳にいたりては 五濁悪世の名をえたり 
劫濁のときうつるには 有情やうやく身小なり 
 五濁悪邪まさるゆゑ 毒蛇・悪竜のごとくなり 
無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 
 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず 
有情の邪見熾盛にて 叢林棘刺のごとくなり 
 念仏の信者を疑謗して 破壊瞋毒さかりなり 
命濁中夭刹那にて 依正二報滅亡し 
 背正帰邪まさるゆゑ 横にあだをぞおこしける 
末法第五の五百年 この世の一切有情の 
 如来の悲願を信ぜずは 出離その期はなかるべし 
九十五種世をけがす 唯仏一道きよくます 
 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる 
五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそひて 
 念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり 
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす 
 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし 
正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 
 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん 
自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず 
 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき 
三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 
 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり 
像末五濁の世となりて 釈迦の遺教かくれしむ 
 弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり 
超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 
 光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり 
浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ 
 すなはち願作仏心を 度衆生心となづけたり 
度衆生心といふことは 弥陀智願の回向なり 
 回向の信楽うるひとは 大般涅槃をさとるなり 
如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 
 自力の回向をすてはてて 利益有情はきはもなし 
弥陀の智願海水に 他力の信水いりぬれば 
 真実報土のならひにて 煩悩菩提一味なり 
如来二種の回向を ふかく信ずるひとはみな 
 等正覚にいたるゆゑ 憶念の心はたえぬなり 
弥陀智願の回向の 信楽まことにうるひとは 
 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり 
五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん 
 まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし 
念仏往生の願により 等正覚にいたるひと 
 すなはち弥勒におなじくて 大般涅槃をさとるべし 
真実信心うるゆゑに すなはち定聚にいりぬれば 
 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり 
像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて 
 時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまふ 
弥陀の尊号となへつつ 信楽まことにうるひとは 
 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり 
五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 
 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり 
無碍光仏のみことには 未来の有情利せんとて 
 大勢至菩薩に 智慧の念仏さづけしむ 
濁世の有情をあはれみて 勢至念仏すすめしむ 
 信心のひとを摂取して 浄土に帰入せしめけり 
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 
 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ 
智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 
 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし 
無明長夜の灯炬なり (阿弥陀仏は、明かりもない長い夜の灯火(ともしび)である) 
 智眼くらしとかなしむな (智慧の眼(まなこ)がくらいと悲しむな) 
 生死大海の船筏なり (また 阿弥陀仏は、人生の大海原の船や筏(いかだ)である) 
 罪障おもしとなげかざれ (心の平安を障げる罪深い行いの重さを嘆かなくていい) 
願力無窮にましませば (阿弥陀仏が我々を救おうという願いの力には限界がないので) 
 罪業深重もおもからず (どれほど罪を重ねてきた者でも罪が重いということはない) 
 仏智無辺にましませば (仏の智慧は、無辺であるから) 
 散乱放逸もすてられず (心が散り乱れ、勝手気ままな者も捨てられることはない) 
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 
 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり 
真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 
 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる 
弥陀智願の広海に 凡夫善悪の心水も 
 帰入しぬればすなはちに 大悲心とぞ転ずなる 
造悪このむわが弟子の 邪見放逸さかりにて 
 末世にわが法破すべしと 「蓮華面経」にときたまふ 
念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 
 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときたまふ 
真実報土の正因を 二尊のみことにたまはりて 
 正定聚に住すれば かならず滅度をさとるなり 
十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて 
 自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし 
真実信心うることは 末法濁世にまれなりと 
 恒沙の諸仏の証誠に えがたきほどをあらはせり 
往相・還相の回向に まうあはぬ身となりにせば 
 流転輪廻もきはもなし 苦海の沈淪いかがせん 
仏智不思議を信ずれば 正定聚にこそ住しけれ 
 化生のひとは智慧すぐれ 無上覚をぞさとりける 
不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 
 信心の正因うることは かたきがなかになほかたし 
無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期すること 
 如来二種の回向の 恩徳まことに謝しがたし 
報土の信者はおほからず 化土の行者はかずおほし 
 自力の菩提かなはねば 久遠劫より流転せり 
南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 
 往相回向の利益には 還相回向に回入せり 
往相回向の大慈より 還相回向の大悲をう 
 如来の回向なかりせば 浄土の菩提はいかがせん 
弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ 
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ 
弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな 
 ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし 
聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 
 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり 
釈迦の教法ましませど 修すべき有情のなきゆゑに 
 さとりうるもの末法に 一人もあらじとときたまふ 
三朝浄土の大師等 哀愍摂受したまひて 
 真実信心すすめしめ 定聚のくらゐにいれしめよ 
他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば 
 すなはちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ 
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 
 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし 
不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり 
仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ 
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし 
罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる 
仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり 
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく 
転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに 
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり 
自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば 
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる 
信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし 
自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける 
仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと 
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり 
本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり 
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる 
如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた 
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり 
仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし 
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり 
七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて 
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし 
辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして 
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり 
罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは 
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり 
弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ 
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり 
ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり 
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる 
如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら 
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり 
仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に 
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ 
仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は 
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ 
自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば 
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり 
仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を 
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ 
仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば 
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし 
仏智不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて 
 正定聚に帰入して 補処の弥勒のごとくなり 
救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 
 多多のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ 
無始よりこのかたこの世まで 聖徳皇のあはれみに 
 多多のごとくにそひたまひ 阿摩のごとくにおはします 
聖徳皇のあはれみて 仏智不思議の誓願に 
 すすめいれしめたまひてぞ 住正定聚の身となれる 
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 
 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし 
大慈救世聖徳皇 父のごとくにおはします 
 大悲救世観世音 母のごとくにおはします 
久遠劫よりこの世まで あはれみましますしるしには 
 仏智不思議につけしめて 善悪・浄穢もなかりけり 
和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし 
 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ 
上宮皇子方便し 和国の有情をあはれみて 
 如来の悲願を弘宣せり 慶喜奉讃せしむべし 
多生曠劫この世まで あはれみかぶれるこの身なり 
 一心帰命たえずして 奉讃ひまなくこのむべし 
聖徳皇のおあはれみに 護持養育たえずして 
 如来二種の回向に すすめいれしめおはします 
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし 
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 
 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり 
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 
 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる 
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 
 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ 
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 
 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき 
蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ 
 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん 
五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 
 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり 
かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 
 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす 
僧ぞ法師のその御名は たふときこととききしかど 
 提婆五邪の法ににて いやしきものになづけたり 
外道・梵士・尼乾志に こころはかはらぬものとして 
 如来の法衣をつねにきて 一切鬼神をあがむめり 
かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 
 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す 
五濁邪悪のしるしには 僧ぞ法師といふ御名を 
 奴婢僕使になづけてぞ いやしきものとさだめたる 
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 
 舎利弗・目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ 
罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 
 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき 
末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の 
 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり 
仏法あなづるしるしには 比丘・比丘尼を奴婢として 
 法師・僧徒のたふとさも 僕従ものの名としたり 
善光寺の如来の われらをあはれみましまして 
 なにはのうらにきたります 御名をもしらぬ守屋にて 
そのときほとほりけとまうしける 疫癘あるいはこのゆゑと 
 守屋がたぐひはみなともに ほとほりけとぞまうしける 
やすくすすめんためにとて ほとけと守屋がまうすゆゑ 
 ときの外道みなともに 如来をほとけとさだめたり 
この世の仏法のひとはみな 守屋がことばをもととして 
 ほとけとまうすをたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり 
弓削の守屋の大連 邪見きはまりなきゆゑに 
 よろづのものをすすめんと やすくほとけとまうしけり 
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 
 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり 
是非しらず邪正もわかぬ このみなり 
 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
 
別願和讃・一遍上人

身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし  
命をおもへば月の影 出入(いでいる)息にぞとどまらぬ  
人天(にんでん)善所(ぜんしよ)の質(かたち)をば おしめどもみなたもたれず  
地獄鬼畜のくるしみは いとへども又受やすし  
眼(まなこ)のまへのかたちは 盲(めしい)て見ゆる色もなし  
耳のほとりの言の葉は 聾(みみしい)てきく声ぞなき  
香(か)をかぎ味(あじわい)なむること 只しばらくのほどぞかし  
息のあやつり絶(たえ)ぬれば この身に残る功能(くのう)なし  
過去遠々(おんおん)のむかしより 今日今時(いまどき)にいたるまで  
おもひと思ふ事はみな 叶はねばこそかなしけれ  
聖道(しようどう)浄土の法門を 悟とさとる人はみな  
生死(しようじ)の妄念つきずして 輪回(りんね)の業(ごう)とぞなりにける  
善悪不二(ふに)の道理には そむきはてたる心にて  
邪正(じやしよう)一如(いちによ)とおもひなす 冥(やみ)の知見ぞはづかしき  
煩悩すなはち菩提ぞと 聞て罪をばつくれども  
生死すなはち涅槃とは いへども命をおしむかな    
自性清浄法身は 如々常住の仏なり  
迷ひも悟りもなきゆゑに しるもしらぬも益ぞなき  
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり  
境智ふたつもなき故に 心念口称に益ぞなき  
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり  
十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき  
名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり  
十方衆生の願なれば 独りももるる過(とが)ぞなき  
別願超世の名号は 他力不思議の力にて  
口にまかせてとなふれば 声に生死の罪きえぬ  
始の一念よりほかに 最後の十念なけれども  
念をかさねて始とし 念のつくるを終とす  
おもひ尽きなんその後に はじめおはりはなけれども  
仏も衆生もひとつにて 南無阿弥陀仏とぞ申すべき  
はやく万事をなげ捨てて 一心に弥陀を憑(たの)みつつ  
南無阿弥陀仏と息たゆる これぞおもひの限りなる  
この時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至  
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し  
一時に御手を授けつつ 来迎引接(いんじょう)たれ給ふ  
即ち金蓮台にのり 仏の後にしたがひて  
須臾の間に経る程に 安養(あんにょう)浄土に往生す  
行者蓮台よりおりて 五体を地になげ頂礼(ちょうらい)し  
すなわち菩薩に従ひて 漸く仏所到らしむ  
大宝宮殿に詣でては 仏の説法聴聞し  
玉樹楼にのぼりては 遥かに他方界をみる  
安養界(あんにょうかい)に到りては 穢国に還りて済度せん  
慈悲誓願かぎりなく 長時に慈恩を報ずべし 
 
百利口語(ひゃくりくご)・一遍上人 

六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり  
独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ  
或は有頂の雲の上 或は無間の獄の下  
善悪ふたつの業により いたらぬ栖(すみか)はなかりけり  
然るに人天善所には 生をうることありがたし  
常に三途の悪道を栖(すみか)としてのみ出でやらず  
黒縄・衆合に骨をやき 刀山・剣樹に肝をさく  
餓鬼となりては食にうゑ 畜生愚痴の報もうし  
かかる苦悩を受けし身の しばらく三途をまぬかれて  
たまたま人身得たる時 などか生死をいとはざる  
人の形になりたれど 世間の希望たえずして  
身心苦悩することは 地獄を出でたるかひぞなき  
物をほしがる心根は 餓鬼の果報にたがはざる  
迭(たがい)に害心おこすこと ただ畜生にことならず  
此等の妄念おこしつつ 明け暮れぬといそぐ身の  
五欲の絆につながれて 火宅を出でずは憂かるべし  
千秋万歳おくれども ただ雷(いなずま)のあひだなり  
つながぬ月日過ぎ行けば 死の期きたるは程もなし  
生老病死のくるしみは 人をきらはぬ事なれば  
貴賤高下の隔てなく 貧富共にのがれなし  
露の命のあるほどぞ 瑶(たま)の台(うてな)もみがくべき  
一度無常の風ふけば 花のすがたも散りはてぬ  
父母と妻子を始とし 財宝所住にいたるまで  
百千万億皆ながら 我身のためとおもいつつ  
惜しみ育みかなしみし この身をだに打ちすてて  
たましひ独りさらん時 たれか冥途へおくるべき  
親類眷属あつまりて 屍を抱きてさけべども  
業にひかれて迷ひゆく 生死の夢はよもさめじ  
かかることはり聞きしより 身命財もをしからず  
妄境既にふりすてて 独りある身となり果てぬ  
曠劫多生の間には 父母にあらざる者もなし  
万の衆生を伴なひて はやく浄土にいたるべし  
無為の境にいらんため すつるぞ実(まこと)の報恩よ  
口にとなふる念仏を 普(あまね)く衆生に施して  
これこそ恒の栖(すみか)とて いづくに宿を定めねど  
さすがに家の多ければ 雨にうたるる事もなし  
この身をやどすその程は あるじも我も同じこと  
終にうち捨てゆかんには 主がほしてなにかせん  
もとより家宅と知りぬれば 焼けうすれども騒がれず  
荒みたる処みゆれども つくらふ心さらになし  
畳一畳しきぬれば 狭しとおもふ事もなし  
念仏まうす起きふしは 妄念おこらぬ住居かな  
道場すべて無用なり 行住坐臥にたもちたる  
南無阿弥陀仏の名号は 過ぎたるこの身の本尊なり  
利欲の心すすまねば 勧進聖もしたからず  
五種の不浄を離れねば 説法せじとちかひてき  
法主軌則をこのまねば 弟子の法師もほしからず  
誰を旦那と頼まねば 人にへつらふ事もなし  
暫くこの身のある程ぞ さすがに衣食(えじき)は離れねど  
それも前世の果報ぞと いとなむ事も更になし  
詞(ことば)をつくし乞ひあるき へつらひもとめ願はねど  
僅かに命をつぐほどは さすがに人こそ供養すれ  
それもあたらずなり果てば 飢死こそはせんずらめ  
死して浄土に生まれなば 殊勝の事こそ有るべけれ  
世間の出世もこのまねば 衣も常に定めなし  
人の着するにまかせつつ わづらひなきを本とする  
小袖・帷子・紙のきぬ ふりたる筵・蓑のきれ  
寒さふせがん為なれば 有るに任せて身にまとふ  
命をささふる食物は あたりつきたるそのままに  
死するを歎く身ならねば 病のためともきらはれず  
よわるを痛む身ならねば 力のためとも願はれず  
色の為ともおもはねば 味わいたしむ事もなし  
善悪ともに皆ながら 輪廻生死の業なれば  
すべて三界・六道に 羨ましき事さらになし  
阿弥陀仏に帰命して 南無阿弥陀仏と唱ふれば  
摂取の光に照らされて 真の奉事(ほうじ)となるときは  
観音・勢至の勝友あり 同朋もとめて何かせん  
諸仏護念したまへば 一切横難おそれなし  
かかることわりしる事も 偏に仏の恩徳と  
思へば歓喜せられつつ いよいよ念仏まうさるる  
一切衆生のためならで 世をめぐりての詮もなし  
一年(ひととせ)熊野にもうでつつ 証誠殿にまうぜしに  
あらたに夢想の告げ有りて それに任せて過ぐる身の  
後生の為に依怙もなし 平等利益の為ぞかし  
但し不浄をまろくして 終には土とすつる身を  
信ぜん人も益あらじ 謗せん人も罪あらじ  
口にとなふる名号は 不可思議功徳なる故に  
見聞覚知の人もみな 生死の夢をさますべし  
信謗共に利益せむ 他力不思議の名号は  
無始本有の行体ぞ 始めて修するとおもふなよ  
本来仏性一如にて 迷悟の差別なきものを  
そぞろに妄念おこしつつ 迷ひとおもふぞ不思議なる  
然るに弥陀の本誓は まよひの衆生に施して  
鈍根無智の為なれば 智慧弁才もねがはれず  
布施持戒をも願はれず 比丘の破戒もなげかれず  
定散共に摂すれば 行住坐臥に障りなし  
善悪ともに隔てねば 悪業人もすてられず  
雑善すべて生ぜねば 善根ほしともはげまれず  
身の振舞にいろはねば 人目をかざる事もなし  
心はからひたのまねば さとるこころも絶え果てぬ  
諸仏の光明およばざる 無量寿仏の名号は  
迷悟の法にあらざれば 難思光仏とほめ給ふ  
此法信楽する時に 仏も衆生も隔てなく  
彼此の三業捨離せねば 無礙光仏と申すなり  
すべて思量をとどめつつ 仰いで仏に身をまかせ  
出で入る息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申すべし。 
 
野辺和讃

一つや二つや三つや四つ 十にも足らぬ幼児が 一度娑婆に生まれ来て 
綾や錦を身にまとい 死んで冥土に行く時は 綾や錦を脱ぎ捨てて 
京帷子に一重帯 頭に晒で頬被り 手ぬき脛あて足袋 裸足 
紙緒の草履を足に履き さんや袋を首に掛け 糸針串や数珠を入れ 
路銀と致す六文を 野辺まで路銀は多けれど 野辺から先は只一人 
死出の山路を行く時は 後見るとても連れもなし 先見るとても伽もなし 
声聞くとても時鳥 声聞くとても谷の水 三途の川や死出の山 
麻の杖にと縋りつつ あの世の関となりぬれば 閻魔の前で帳調べ 
これこれ幼児 七つ子よ われには三つの咎がある 一つの罪と申するは 
親の対内 九の月 これが一つの罪咎よ 二つの罪と申するは 
親も昼寝の疲れにて 眠気がさしても小言云い 乳首咥えて胸叩き 
これが二つの罪なるぞ 三つの罪と申するは 親より先立つ不孝者 
これが三つの罪咎よ 地獄じゃとても遣りゃならぬ 極楽とてもそりゃならぬ 
賽の河原の地蔵尊 この子をそちに頼むぞよ 賽の河原の務めには 
小石を拾い塔を積む 一重積んでは父のため 二重積んでは母のため 
三重積んでは故郷の 兄弟わが身と回向する 昼はそうして遊べども 
日の暮れ合いのその頃に 地獄の鬼が現れて 鉄棒携え牙を剥き 
鬼ほど邪険なものはない 積んだ塔をば突き崩し 又積め積めと急きたてる 
わっと泣き出すその声は この世の声とはこと変わり 悲しく骨身を砕くなり 
われら罪無く思うかや われらの父母娑婆にあり 追善供養はそこそこに 
只明け暮れる嘆きには 惨や可愛や愛しやと 母の嘆きが汝らの 
苦言を受くるものとなる 鉄の棒挿し追い回す 泣く泣く寝ぬるそのために 
木の根や石に躓きて 手足は血潮に染まりつつ その時峠の地蔵尊 
これこれ幼な児 七つ子よ 汝が父母娑婆にあり 娑婆と冥土は程遠し 
われを冥土の父母と 思うて頼め七つ子よ にくにくじいの御肌へ 
縋らせ給う有難や 未だ歩まぬ幼な児を 抱き抱えて撫でさすり 
たびの千草を与えつつ 
南無や延命地蔵尊 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  
 
児童和讃

南無阿弥陀 南無阿弥陀 
賽の河原と申せしは 娑婆と冥土の境なり 一つや二つや三つや四つ 
十よりうちの幼子が 賽の河原に集まりて 紅葉のようなる手をもちて 
真砂を拾うて塔を積む 一条積んでは父のため 二条積んでは母のため 
三条積んでは 教師兄弟わがためぞ もはや日暮れとなりぬれば 
地獄の鬼が現れて 積んだる塔を突き崩す 西に向いては母恋し 
東に向いては父恋し 恋し恋しと呼ぶ声が 谷の木霊に響かれて 
父が呼ぶかと心得て 谷の木霊に来てみれば 父という字はさらになし 
母という字があらばこそ あら不思議やここにまた 地蔵菩薩が現れて 
子供ら何を悲しむか そなたの父母娑婆に在り 冥土の父母われぞかし 
一つ所に呼び集め 衣の袖を振り着せて 遍照あれよと回向する 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏 
 
地蔵和讃

帰命頂礼 天竺の 頻婆裟羅王と申せしが 弘誓の御船を浮かせ給う 
船は白金 櫓は黄金 六字の御名号の帆をあげて 地蔵菩薩が船頭する 
船は西へと急がれる 西は西方の弥陀如来 弥陀のお浄土へ着きにけり 
南無弥大慈悲の観世音 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
 
御十念和讃

一ツ ひとへにだいじはごしやうなり、つねづねねんぶつわするなへ 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
二ツ ふたたびあはれぬけうのひを、むなしくくらすはあわれなり 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
三ツ みらいがだいじとおもふなら、ぜんごんくどくのくようせよ 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
四ツ よきもあしきもうちすてて、ほとけのおしへにとりすがり 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
五ツ いつまでこのよにいるものぞ、いのちはもろきくさのつゆ 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
六ツ むげんぢごくへおちるみを、そのまますくうはみだによらい 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
七ツ ならくへおつるによにんまで、もらすまいとのごせいぐわん 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
八ツ やまほどざいほうつむひとも、しでのたびぢはただひとり 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
九ツ こころすなおにほんぐわんを、たのめばこれぞほとけなり 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏 
十ヲ とうときおしへのねんぶつを、すすめよとなへよしんずべし 
 南無阿弥陀仏阿弥陀仏  
  
賽の河原地蔵和讚1

帰命頂礼(きみょうちょうらい)世の中の  定め難きは無常なり 
親に先立つ有様に  諸事の哀を止めたり 
一つや二つや三つや四つ  十よりうちの幼子が 
母の乳房を放れては  賽の河原に集まりて 
昼の三時の間には  大石運びて塚をつく 
夜の三時の間には  小石を拾ひて塔を積む 
一重積んでは父の為  二重積んでは母の為 
三重積んでは西を向き  樒程(しきみほど)なる掌を合せ 
郷里の兄弟我ためと  あら痛はしや幼子は 
泣々石を運ぶなり  手足は石に擦れだだれ 
指より出づる血の滴  体を朱に染めなして 
父上こひし母恋しと  ただ父母の事ばかり 
云うては其儘打伏して  さも苦しげに歎くなり 
あら怖しや獄卒が  鏡照日(かがみてるひ)のまなこにて 
幼き者を睨みつけ  汝らがつむ塔は 
歪みがちにて見苦しし  斯ては功徳になり難し 
疾々是を積直し  成仏願へと呵りつつ 
鉄の榜苔(ぼうごけ)を振揚げて  塔を残らず打散らす 
あら痛しや幼な子は  又打伏して泣叫び 
呵責に隙ぞ無かりける  罪は我人あるなれど 
ことに子供の罪科(つみとが)は  母の胎内十月のうち 
苦痛さまざま生まれ出で  三年五年七年を 
纔(わず)か一期に先立つて  父母に歎きをかくる事 
第一重き罪ぞかし  母の乳房に取りついて 
乳の出でざる其の時は  せまりて胸を打叩く 
母はこれを忍べども  などて報の無かるべき 
胸を叩くその音は  奈落の底に鳴響く 
修羅の鼓と聞ゆるなり  父の涙は火の雨と 
なりて其身に降懸り  母の涙は氷となりて 
其身を閉づる歎きこそ  子故の闇の呵責なり 
斯る罪科のある故に  賽の河原に迷来て 
長き苦患を受くるとよ  河原の中に流れあり 
娑婆にて嘆く父母の  一念とどきて影写れば 
なう懐しの父母や  飢を救ひてたび給へと 
乳房を慕ふて這寄れば  影は忽ち消え失せて 
水は炎と燃えあがり  其身を焦して倒れつつ 
絶入る事は数知らず  中にも賢き子供は 
色能き花を手折きて  地蔵菩薩に奉り 
暫時呵責を免れんと  咲き乱れたる大木に 
登るとすれど情なや  幼き者のことなれば 
踏み流しては彼此の  荊棘(おどろ)の棘に身を刺され 
凡て鮮血に染まりつつ  漸く花を手折り来て 
仏の前に奉る  中に這出る子供等は 
胞衣(えな)を頭に被りつつ  花折ることも叶はねば 
河原に捨てたる枯花を  口にくはへて痛はしや 
仏の前に這行きて  地蔵菩薩に奉り 
錫杖法衣(しゃくじょうほうえ)に取付いて  助け給へと願ふなり 
生死流転(しょうじるてん)を離れなば  六趣輪回(ろくしゅりんね)の苦みは 
唯是のみに限らねど  長夜の眠り深ければ 
夢の驚くこともなし  唯ねがはくば地蔵尊 
迷ひを導き給へかし  
  
西の川原(賽の河原)地蔵和讃2

帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり 
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる 
さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 
この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つありさまは 
諸事の哀れをとどめたり 
二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが 
さいの河原に集まりて 苦患(くげん)を受くるぞ悲しけれ 
娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さえ 
無ければ涙の絶え間無し 河原に明け暮れ野宿して 
西に向いて父恋し 東に向いて母恋し 
恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 
悲しさ骨身を通すなり 
げに頼みなきみどりごが 昔は親のなさけにて 
母の添い寝に幾度の 乳を飲まするのみならず 
荒らき風にも当てじとて 綾や錦に身をまとい 
その慈しみ浅からず 
然るに今の有様は 身に一重さえ着物無く 
雨の降る日は雨に濡れ 雪降るその日は雪中に 
凍えて皆みな悲しめど 
娑婆と違いて誰一人 哀れむ人があらずなの 
ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び 
これにて回向の塔を積む 
手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく 
からだを朱に染めなして 一重つんでは幼子が 
紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む 
二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する 
三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと 
礼拝回向ぞしおらしや 
昼は各々遊べども 日も入相のその頃に 
地獄の鬼が現れて 幼き者の側に寄り 
やれ汝らは何をする 娑婆と思うて甘えるな 
ここは冥土の旅なるぞ娑婆に残りし父母は 
今日は初七日、二七日 四十九日や百箇日 
追善供養のその暇に 
ただ明け暮れに汝らの 形見に残せし手遊びの 
太鼓人形風車 着物を見ては泣き嘆き 
達者な子供を見るにつけ なぜに我が子は死んだかと 
酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの 
責め苦を受くる種となる 
必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて 
積んだる塔を押し崩し 
汝らが積むこの塔は ゆがみがちにて見苦しく 
かくては功徳になりがたし とくとくこれを積み直し 
成仏願えと責めかける 
やれ恐ろしと幼子は 南や北や西東 
こけつまろびつ逃げ回る 
なおも獄卒金棒を 振りかざしつつ無惨にも 
あまたの幼子睨み付け 既に打たんとするときに 
幼子怖さやる瀬無く その場に座りて手を合わせ 
熱き涙を流しつつ 許したまえと伏し拝む 
拝めど無慈悲の鬼なれば 取り付く幼子はねのけて 
汝ら罪なく思うかよ 母の胎内十月の内 
苦痛さまざま生まれ出て 三年五年七歳と 
わずか一期に先だって 父母に嘆きを掛くること 
だいいち重き罪ぞかし 
娑婆にありしその時に 母の乳房に取りついて 
乳の出でざるその時は 責まりて胸を打ち叩く 
母はこれを忍べども などて報いの無かるべき 
胸を叩くその音は 奈落の底に鳴り響く 
父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 
八万地獄に響くなり 
父の涙は火の雨と なりてその身に振りかかり 
母の涙は氷となりて その身をとずる嘆きこそ 
子故の闇の呵責なれ 
かかる罪とがある故に さいの河原に迷い来て 
長き苦患を受くるとぞ 言いつつまたもや打たんとす 
やれ恐ろしと幼子が 両手合わせて伏し拝み 
許したまえと泣き叫ぶ 鬼はそのまま消え失せる 
河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の 
一念届きて影映れば のう懐かしの父母や 
飢えを救いてたび給えと 乳房を慕いて這い寄れば 
影はたちまち消え失せて 水は炎と燃え上がり 
その身を焦がして倒れつつ 絶え入ることは数知れず 
峰の嵐が聞こえれば 父かと思うて馳せ上がり 
辺りを見れども父は来ず 谷の流れの音すれば 
母が呼ぶかと喜びて こけつまろびつ馳せ下り 
辺りを見れども母は無く 
走り回りし甲斐もなく 西や東に駆け回り 
石や木の根につまづきて 手足を血潮に染めながら 
幼子哀れな声をあげ もう父上はおわさぬか 
のう懐かしや母上と この世の親を冥土より 
慕い焦がれる不憫さよ 
泣く泣くその場に打ち倒れ 砂をひとねの石まくら 
泣く泣く寝入る不憫さよ 
されども河原のことなれば さよ吹く風が身にしみて 
まちもや一度目をさまし 父上なつかし母ゆかし 
ここやかしこと泣き歩く 
折しも西の谷間より 能化の地蔵大菩薩 
右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい 
ゆるぎ出てさせたまいつつ 
幼き者のそばにより 何を嘆くかみどりごよ 
汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 
娑婆と冥土はほど遠し いつまで親を慕うとぞ 
娑婆の親には会えぬとぞ 今日より後は我をこそ 
冥土の親と思うべし 幼き者を御衣(みごろも)の 
袖やたもとに抱き入れて 哀れみたまうぞ有難や 
いまだ歩まぬみどりごも 錫杖の柄に取り付かせ 
忍辱(にんにく)慈悲の御肌(おんはだ)に 泣く幼子も抱(いだ)き上げ 
なでさすりては地蔵尊 
熱き恵みの御涙(おんなみだ) 袈裟や衣にしたりつつ 
助けたまうぞ有難や 
大慈大悲の深きとて 地蔵菩薩にしくはなく 
これを思えば皆人よ 子を先立てし人々は 
悲しく思えば西へ行き 
残る我が身も今しばし 命の終るその時は 
同じはちすのうてなにて 導き給え地蔵尊 
両手を合して願うなり 
南無大悲の地蔵尊 南無阿弥陀仏阿弥陀仏
釈迦がこの世を去ってから、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間を無仏の時代といいます。無仏の期間は、56億7000万年間続きます。この無仏の時代を守り、衆生(人々)を救って悟りの境地にみちびいてくれるのが、地蔵菩薩です。 
地蔵は、六道で苦しむ衆生を教化・救済する菩薩でもあります。日本では平安時代から広く信仰されるようになりました。一般的には左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。また、その姿は頭を丸めた僧の形をしています。六道の救済に当たることから、六地蔵の信仰が生まれました。 
また、子どもを守るということで、幼くして死んで賽の河原で苦しむ子どもを救済、賽の河原で地蔵fが子供を庇護する話は「地蔵和讃」によって民衆に広がり、「地蔵和讃」にもとづいて多くの地蔵石仏がつくられました。 
「地蔵和讃」にはいろいろありまして、作者によっては勿論のこと、それが唄われた地方によっても、たとえ同じ表題でも歌詞が違っています。 
江戸時代になって地蔵信仰は民間信仰と結ばれて広まり、子育・火防・盗難除・病気平癒など庶民のあらゆる願いをかなえてくれる仏として各地につくられました。また、各地に地蔵講が結成され、月の24日を地蔵の縁日として祈るようになり、秋の地蔵盆は子供たちを楽しませてきました。  
冥府において亡者を救う思想は、子を失った親たちの信仰を集める。地蔵と子供は強く結びつき、子育地蔵・子安地蔵の名で信仰されている地蔵も各地にあります。  
  
黒谷和讃

帰命頂礼釈黒谷の 円光大師の教えには 人間僅か五十年 
花に譬えば朝顔の 露より脆き身を持ちて 何故に後生を願わぬぞ 
たとえ浮世に長らえて 楽しむ心に暮らすとも 老いも若きも妻も子も 
後れ先立つ世の習い 花も紅葉も一盛り 思えばわれらも一盛り 
十や十五の蕾花 十九二十の花盛り 所帯盛りの人々も 
今宵枕を傾けて すぐに頓死をするもあり 朝なに笑いし幼な児も 
暮れには煙となるもあり 憐れ儚きわれらかな 娑婆は日に日に遠ざかり 
死するは年々近づきて 今日は他人を葬礼し 明日は我が身も図られず 
これを思えば皆人よ 親兄弟も夫婦とも 先立つ人の追善に 
念仏唱えて信ずべし あら有難や阿弥陀仏 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  
  
花和讃

そもそも都の傍らに るりしと申せし女人あり 世継ぎに男子を儲けしが 
時をも嫌わで娑婆を立つ 死すれば野原に送り捨て 夜半の煙となりぬれば 
七日七日が七七日 三十五日も打ち過ぎて 四十九日にあたる日は 
あまりにわが子の可愛さに 明日は花園寺参り 寺の小縁に腰をかけ 
つくづく花を眺むれば 開けし花は散りもせず 蕾の花の散るを見て 
もしや我が子もあのごとし 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
  
施餓鬼供養和讃

帰命頂礼釈迦如来 阿難尊者のおん慈悲に 
こたえて説かる施餓鬼法 この世はみたまかずかずの 
いまだに迷う業の世や 
救いの道はただひとつ 心施物施の布施の行 
南無や大悲の観世音 十方諸佛十方法 
十方僧に供養せん 
神咒お加持の功徳力 この土を清くやすらかに 
慳む心を捨てさりて 発菩提心この世界 
全てのねがい叶うなり 
南無や五如来その利益 むさぼるこころ除かれて 
福徳智慧を円満し 身心共に晴れやかに 
受ける施食も恐れなし 
有縁無縁のへだてなく その悦びのしあわせは 
行う人の身にやどり わざわいの雲打ち拂い 
世々長寿受くるらん 
天下法界 同利益  
  
血盆経和讃

帰命頂礼血ぼん経 女人の悪業深きゆへ 
御説玉ひし慈悲の海 渡る苦界の有様は 
月に七日の月水と 産する時の大あく血 
神や仏を汚すゆへ 自づと罸を受くるなり 
又其悪血が地に触れて 積もりつもりて池となり 
深さが四万余旬なり 広さも四万余旬なり 
八万余旬の血の池は みづから作る地獄ゆへ 
一度女人と生れては 貴賤上下の隔てなく 
皆この地獄に堕るなり 扨この地獄の有様は 
糸網張りて鬼どもが わたれ渡れと責めかける 
渡るはならずその池に 髪は浮草身は沈み 
下へ沈めば黒がねの 觜大きい虫どもが 
身にはせきなく喰ひ付きて 皮を破りて肉をくひ 
隅や岸へと近よれば 獄卒どもが追いいだす 
向ふの岸を見わたせば 鬼ども揃うて待ちいたる 
哀れ女人のかなしさは 呵嘖せられて暇もなし 
寄せくる波の音きけば 山も崩るゝばかりなり 
岸に立ちたる顔見れば 娑婆にて化粧し黒髪も 
色も変りて血に染まり 痩せおとろへて哀れなり 
食を好めば日に三度 血の丸かせを与へけり 
水を好めば血をのませ 娑婆にて作し悪業ぞ 
呑めやのめやと責めかける 其時女人の泣く声は 
百せん万の雷の 音よりも又恐ろしく 
娑婆にて作し悪業が 思ひやられて悲しけり 
是はなにゆへ子を持ちて かゝる苦患を受るなり 
母の恩徳しる人は 菩提供養をするならば 
抜苦与楽は疑はじ 南無や女人の成仏経 
女に生るゝその人は 血盆経を読誦して 
人にも勧め我もまた ともに後生を願ひなば 
先だつ母親姉いもと あまたの女人も諸共に 
血の池地獄の苦をのがれ 地蔵菩薩の手引にて 
極楽浄土に往生し 常に無上の法をきく 
諸仏菩薩を供養せん  南無や女人の成仏経  
  
血の池和讃
 
帰命頂礼観世音、十九夜十九夜多けれど、  
酉の二月の十九日、十九夜念仏始まりて、  
十九夜みだりに納め置き、血の池のがるる御念仏、  
南無や大悲の観世音、ひらいて迷土へ参るをり、  
八万由旬の血の池を、わづかな池と見て通る、  
南無や大悲の観世音 七観音のその中に   
如意輪観音御慈悲にて 数多の女人の身代りに   
血の池地獄にお立ちあり 南無や大悲の観世音   
水火を清めて精進し あげかくこん行とりきりに   
南無大悲の観世音 我等下の其水は   
物にきこうほす其科は 天も地神も水神も   
十方世界の仏神も ゆるさせ給へやわれわれを  
南無や大悲の観世音 あいみんのうじゆましまして  
御願でしめしたび給へ 光明遍照十方世界  
南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏 
  
十九夜念仏和讃

帰命頂来十九夜の 御堂の前を眺むれば 
老若男女が集りて おおさめ申す念仏は 
家内安全身の祈祷 嫁も娘も安産に 
守らせ給え観世音 一には大日如来様 
二には日月薬師様 三には三世の諸仏様 
四には信濃の善光寺 五には五智の如来様 
六には六道の地蔵様 七には七尊観世音 
八には八幡大菩薩 九にはくりから不動様 
十には当所の神仏 それを念ずる友がらは 
十悪大難逃がるべし 死して冥土に行く時は 
八万余仭の血の池を かすまな池と見て通る 
女人救はんその為に 血の池地獄へお立ち会い 
血の池のがるお念仏は 十九夜様の御本尊 
火水あらためこうむりて さてまたごんぎをとり清め 
さて浅ましや月の厄 十三、十四の頃よりも 
四十二、三が身とめなり 月には七日の厄なれば 
年には八十四日ある 今朝まで澄みしが早にごり 
濁りし我が身を濯ぐには ぼんちの下の井の水で 
井の水くんですすぐべし 掬くいてこぼすも恐ろしや 
こぼせば大地が八つに割れ ほのぼの煙も立ち上り 
山へこぼせば山の神 地の神荒神けがすなり 
川ですすげば川下の 水神様も汚すなり 
池ですすげば池奈落 両え浄土を汚すなり 
天日で干すも恐ろしや 日輪様をけがすなり 
夜干にほせば星明神 月輪様を汚すなり 
まだその外に恐ろしや ちりに交りて火にくばり 
普賢ぼさつや釜の神 三世の諸仏を汚すなり 
南無阿弥陀仏のお念仏を 三べん申して桑の木の 
桑の根本えこぼすなり その血のとがも恐ろしや 
夜昼血の波わきかえる 広さが八万余仭なり 
深さが八万余仭なり 中へ落ちる罪人が 
池の底へと押し込まる 上へ浮かびて空見れば 
上にはれん上の綱をはり あらあら恐し鬼達が 
黒がねちょうしを手に持ちて  我らの娑婆のやく水が 
飲みほせ掻いほせ呵責する  如意輪様が現われて 
さほどの罪もあるまいに 我らが娑婆にありし時 
遊びに申ししお念仏  蓬莱山の山となり 
蓬莱山のやま現れて  ひらきし蓮華が五本立ち 
つぼみし蓮華が四本立ち 九品浄土へ参るには 
開きしれんげを笠にして つぼみし蓮華を杖につき 
法華経陀羅経みのに着て  行かぬかなわぬ道なれば 
雨の降る日も風の夜も 昼夜に差別さらになし 
ついたち九日十九日 二十九日のお念仏で 
八万余仭の血の池を 申し埋めたい南無あみだ 
念仏からくる唐糸は 極楽浄土のこの門を 
銭でも金でも開かばこそ 念仏六字でさらと開け 
極楽浄土のまん中へ 黄金の御堂が三つたち 
上なる御堂を見たまえば 釈迦と達磨のお立ちあい 
下なる御堂を拝むれば 父と母との住む浄土 
極楽浄土へこぎ給へ 申し浮びし南無阿弥陀  
  
小豆島和讃

帰命頂来遍照尊 ここは名高き小豆島 
八十八ヶ所霊験地 お大師さまの山開き 
聞くにつけてもありがたや 廻る遍路の物語 
盲が目が見え足が立ち 記念に残す松葉杖 
大師の姿型どりて 頭に菅笠杖を突き 
同行二人の札ばさみ 足中草履に身を乗せて 
老いも若きも差別なく 参るこの身ぞ仏なり 
 前島回る遍路道 五十八番西光寺 
 小波さざ波岸打ちて 音も静かな浜伝い 
 六十番の札所では 波より低き洞の穴 いざり車や松葉杖 
 七十番の札所では 大石秘蔵の茶釜あり 
 七十二番の奥の院 笠ヶ嶽(たき)にて不動尊 
 道も険阻な岩と岩 嬉し涙で祈願する 
八十番の観音寺 本堂火災で丸焼けに 不思議に残る観世音 
幾多の子ども授かりて 日夜灯明絶え間なし 五色の滝も奥の院 
八十一番恵門滝 海より出現あそばした 音に名高き不動尊 
座禅に組んだ御神体 日本に三体あるばかし 頭の下がらぬ人はなし 
思わず知らず手を合わし 声を張り上げ祈願する 年々霊感新たなり 
吉田越しではいざり坂 不思議を残す盲坂 今は自動車船の便 
 第二番の不動尊 足を滑らし行場より 落ちたその身に怪我もなし 
 第一番の洞雲山 毘沙門天王勧請す 鐘の福徳授かりぬ 
 鼻ヶ岩にて見渡せば 八栗屋島に五剣山 
 鳴門海峡に淡路島 眺めて休むひとときは これがこの世の極楽か 
 第三番の奥の院 海より現る観世音 竜洞松も空高く 
 大師みずから腰掛けて 修行せられし岩もある 
 夫婦仲良く暮らせよと 示して残す和合の木 
 罪ある人が行場より 落とされその場で即死する 
十四番の清滝山 大師遺徳のお加持水 
いかに日照りの年とても 水の切れたるときもなし 
陛下の行幸あそばした 天下の景勝寒霞渓は 表と裏で二十景 
四望頂にて一休み 全山一目に見たときは またひとしおの眺めなり 
不思議の石門通り抜け 大師ご修行あそばした 
仏ヶ谷の二十番 お加持石にて利益あり 
 三十一番誓願寺 東洋一の蘇鉄あり 最後の難所西の嶽(たき) 
 四十二番の本尊は 大師のご自作国宝で 十一面の観世音 
 大蛇を封ぜし奥の院 開けずの瓶の説明を 聞いて神秘のありがたさ 
 四十番の鐘の鬼 巻き付く黒髪切り取りて 世の戒めに残しけり 
 五十三番ほうしょ院 文部大臣認定の 
 世界一なるハクの木は 空にそびえて天高く 
 行者堂にて札納め 作りし罪も許されて 
 山坂難所も打ち越して 心も軽し身も軽し 
 今のわが身が仏なり 精神修養身のために 一度は参拝する所 
南無大師遍照尊 南無大師編照尊
  
本覚讃

帰命本覚心法身(きみょうほんがくしんぽっしん) 
常住妙法心蓮台(じょうじゅうみょうほうしんれんだい) 
本来具足三身徳(ほんらいぐそくさんじんとく) 
三十七尊住心城(さんじゅうしちそんじゅうしんじょう) 
普門塵数諸三味(ふもんじんじゅしょさんまい) 
遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ) 
無辺徳海本円満(むへんとくかいほんえんまん) 
還我頂礼心諸仏(げんがちょうらいしんしょぶつ) 
由来 / 妙法蓮華三昧秘密三昧耶経の冒頭の偈から抜粋し作られた。本覚思想を要約したものなので、天台宗の勤行で唱えられる。また、修験道でも般若心経や真言、不動経など並んで修行時によく唱えられる。高野山真言宗でも金剛峰寺奥の院の御廟橋を渡る際に唱える。 
  
薬師如来和讃

帰命頂礼薬師尊 
三界衆生の父ははよ 
一度名(みょう)号きくひとは 
万病除いて楽を得(う)る 
我等がために普(あまねく)くも 
十二の大願たてたまう 
日光菩薩は付き添いて 
無明の暗(あん)を照さるる 
月光菩薩は涼しくも 
苦熱の煩悩掃(はら)はるる 
子丑寅卯の十二神(じん) 
歳月日時(としつきひとき)に守らるる 
七千(ひちせん)夜叉の面々も 
刹那も休息在(まし)まさず 
あら有難や瑠璃の壺 
甘露を湧かして淋(そそが)るる 
此(この)信念のかたければ 
我身も瑠璃光如来也 
七(ひち)ぶつやくし無上尊 
現當(げんとう)二世(にせ)を助けたまへ 
  
真言安心和讃

帰命頂礼大日尊 八葉四重(はちようしじゅう)の円壇は 
一切如来の秘要(ひよう)にて 衆生心地(しんじ)の曼荼(まんだ)なり 
十方(じっぽう)浄土の諸聖衆(しょしょうじゅ)は 大日普門の万徳(まんどく)を 
開きて示しし尊なれば 蜜厳(みつごん)国土の外(ほか)ならず 
青龍(しょうりゅう)阿闍梨の教戒に 菩提を得(う)るは易(やす)けれど 
真言秘密に逢うことの 得がたきなりと演(のべ)給う 
二仏出世の中間(ちゅうげん)に 果報つたなく生まるれど 
いかなる宿世(しゅくせ)の種因(しゅいん)にて 解脱の時を得たりけん 
五濁(ごじょく)に満てるこの世にも 真言(まこと)の教え求めつつ 
如説(にょせつ)に修行するときは 正像(しょうぞう)末(まつ)のへだてなく 
一念一時一生に 三蜜加持の不思議にて 
無尽の功徳円満し 即身成仏せらるなり 
善根(ぜんもん)功徳をかさねきて 決定(けつじょう)諦信(たいしん)ゆるぎなく 
至心(ししん)に神呪(じんしゅ)を唱えなば 無明を除くと説きたまう 
一蜜おこたることなくば 増上(ぞうじょう)縁の力にて 
三蜜具足の時いたり 終(つい)には仏果を証すべし 
わけても光明真言は 諸仏菩薩の総呪にて 
一字に千埋(せんり)を含むゆえ 無辺の功徳備われり 
信じて唱うるわれわれは 口称(くしょう)の功力(くりき)を因として 
蜜厳(みつごん)浄土とひとすじに 安心決定(けつじょう)致すべし 
南無大師遍照尊  南無大師遍照尊  南無大師遍照尊
  
光明真言和讃

帰命頂礼大潅頂(だいかんじょう) 光明真言功徳力(くどくりき) 
諸仏菩薩の光明を 二十三字に蔵(おさ)めたり 
「おん」の一字を唱うれば 三世(みよ)の仏にことごとく 
香華(こうげ)燈明飯食(おんじき)の 供養の功徳具(そな)われり 
「あぼきゃ」と唱うる功力(くりき)には 諸仏諸菩薩もろともに 
二世(にせ)の求願(くがん)をかなえしめ 衆生を救(たす)け給うなり 
「べいろしゃのう」と唱うれば 唱うる我等が其のままに 
大日如来の御身(おんみ)にて 説法し給う姿なり 
「まかぼだら」の大印(だいいん)は 生仏(しょうぶつ)不二(ふに)と印可(いんか)して 
一切衆生をことごとく 菩提の道にぞ入れ給う 
「まに」の宝珠(ほうしゅ)の利益(りやく)には 此世をかけて未来まで 
福寿意(こころ)の如くにて 大安楽の身とぞなる 
「はんどま」唱うるその人は いかなる罪も消滅し 
華(はな)の台(うてな)に招かれて 心の蓮(はちす)を開くなり 
「じんばら」唱うる光明に 無明変じて明(みょう)となり 
数多(あまた)の我等を摂取して 有縁(うえん)の浄土に安(お)き給う 
「はらばりたや」を唱うれば 万(よろず)の願望成就して 
仏も我等も隔てなき 神通(じんつう)自在の身を得(う)べし 
「うん」字を唱うる功力(くりき)には 罪障(ざいしょう)深きわれわれが 
造(つく)りし地獄も破(やぶ)られて 忽(たちま)ち浄土と成りぬべし 
亡者(もうじゃ)のために呪(しゅ)を誦(じゅ)じて 土砂をば加持し回向(えこう)せば 
悪趣に迷う精霊(しょうりょう)も 速得(そくとく)解脱と説きたまう 
真言醍醐(だいご)の妙教(みょうきょう)は 余教(よきょう)超過の御法(みのり)にて 
無辺の功徳具(そな)われり 説くともいかで尽くすべき 
南無大師遍照尊  南無大師遍照尊  南無大師遍照尊
  
坐禅和讃 (白隠禅師)

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき 
  夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 
  布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 
  そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり 
  一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ 
  悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず 
  かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時 
  讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし 
況や自ら回向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 
無念の念を念として うたうも舞うも法の声 
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 
(しゅじょう ほんらい ほとけなり  みずと こおりの ごとくにて) 
私たちは、皆生まれながらに、仏さまと同じ心を持ち合わせています。それはあたかも、「水」と「氷」の関係のようです。  
水をはなれて氷なく 衆生の外に仏なし 
(みずを はなれて こおりなく  しゅじょうの ほかに ほとけなし) 
氷は、水が固まってできたものであり、もとは同一のものです。水蒸気や雲も、水が変化したものです。水、氷、蒸気は、それぞれ形が違いますが、全て同じものであります。一般に「さとり」と呼ばれ、何か超人的な能力と思われがちな心も、また、凡人と思っている私たちの心も、本当は同一の「仏心」なのです。その「仏心」は、遠く離れた天国にあるわけではなく、水と氷のように、私たち自身の肉体と、その心を離れて存在するものではありません。  
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 
(しゅじょう ちかきを しらずして  とおく もとむる はかなさよ) 
ところが私たちは、誰でも「仏心」を持っている、ということを信じないために、選ばれた聖人のみに「仏心」が宿っていて、凡人には、さとる資格がないものだ、と思っているのです。または、厳しい修行を行った末に、ようやく外部から「仏心」が降臨してくるものだ、と思っているのです。  
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 
(たとえば みずの なかにいて  かつを さけぶが ごとくなり) 
それは例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいる(周りは全て仏心であるのに、仏心を信じず、得ようともしない)ようであり、  
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 
(ちょうじゃの いえの ことなりて  ひんりに まように ことならず) 
また、金銀財宝がつまった蔵のある家に、その子供として生まれていながら、その蔵があることを知らずに乞食をしている(仏心という宝を、生まれながらに持っていることを、知らずにいる)ようなものです。  
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 
(ろくしゅりんねの いんねんは  おのれが ぐちの やみじなり) 
人間は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、という6つの世界(六趣または六道)を生まれ変わる、とされ、それは「輪廻転生」と言われています。悪行の結果として、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣に生まれ、善行の結果として、修羅・人間・天上の3つの善趣に生まれる、とされています。そして、苦しみからの解脱は、3つの善趣に転生すること、と考えています。しかし、そのような考えは、私たちが愚かで、仏心を信じないがために、そう考えるのです。もともと釈尊の教えでは、私たちの苦しみには、必ず原因があり、その原因を無くせば苦しみは消滅する、という考え方です。その教えを知らないから、私たちは輪廻転生に、救いを求めているのです。  
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき 
(やみじに やみじを ふみそえて  いつか しょうじを はなるべき) 
それは、暗い夜道を、灯りも点けずに歩いていくようなものです。暗い夜道を歩いていっても、目的地に辿り着くのは難しく、これでは、苦しみから抜け出すどころか、さらに苦しみの迷路に入り込んでしまいます。  
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 
(それ まかえんの ぜんじょうは  しょうたんするに あまりあり) 
大乗仏教と呼ばれる、現在の日本仏教の教えの中に、「六波羅蜜」という6つの実践徳行があります。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、という、仏教徒としての大切な行いのことです。その中でも「禅定波羅蜜」は、最も重要であります。  
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 
(ふせや じかいの しょはらみつ  ねんぶつ さんげ しゅぎょう とう) 
なぜ「禅定波羅蜜」が重要なのでしょうか? その理由は、布施・持戒・忍辱・精進・智慧の各実践行の他にも、仏教徒のつとめる行いとして、「念仏を唱える」「日々反省をする(自分の過失を認め、叱責を甘受し、悔い改めること)」「毎日の生活の中でするべき勤めをする」といった、  
其の品多き諸善行 皆この中に帰するなり 
(そのしな おおき しょぜんぎょう  みな このうちに きするなり) 
功徳を積むためのいろいろな行いがありますが、これらの実践には、すべて「禅定」が必要不可欠だからです。  
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ 
(いちざの こうを なすひとも  つみし むりょうの つみほろぶ) 
例えば、たった一度の坐禅経験でも、その坐禅が真剣な坐禅であったならば、その功徳はいくつもの悪行を消し去るに値します。なぜかと言えば、正しい坐禅は、強大な禅定力を養うことができるからです。  
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず 
(あくしゅ いずくに ありぬべき  じょうど すなわち とおからず) 
果たして、3つの悪趣など、どこに存在するのでしょうか? 西方十万億仏国土の彼方に、阿弥陀如来の住む極楽浄土がある、と言われていますが、そんな気の遠くなるような世界に行けるとでもいうのでしょうか? ひとたび坐禅をするならば、それは私たちの妄想に過ぎないことが解るはずです。なぜなら、坐禅をしている間は、心は静寂であります。静寂な心の中が、極楽浄土そのものだからです。禅定力があれば、どんなに汚れた世の中にいても、この場所がそのまま清浄なる世界であることに気付き、阿弥陀如来と自分とが一体であることに気付くからです。  
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時 
(かたじけなくも こののりを  ひとたび みみに ふるるとき) 
幸いにも私たちは、釈尊の世から伝えられている、さまざまな説法を、「お経」という形で読むことができます。お経を読んだり聞いたりした時に、  
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし 
(さんたん ずいき するひとは  ふくを うること かぎりなし) 
もしもあなたが「有り難いなあ」「うれしいなあ」と思ったとすれば、それは釈尊の感じた幸福感と、全く同じものなのです。  
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば 
(いわんや みずから えこうして  じきに じしょうを しょうすれば) 
ましてや、自ら率先して読経をして、その功徳を、世の中一切全てのものに与えたい、と願うなら、その慈悲心こそが仏心に他ならないのです。私たちには、真実の清浄な心が備わっていたのだ、と確信するはずです。その真実の心に、聖人・凡人の区別があるのでしょうか? このような区別や、善悪などの差別を超越した、ただ1つの仏心があるのみです。  
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
(じしょう すなわち むしょうにて  すでに けろんを はなれたり) 
その仏心は、形なく、得ることも、失うこともない、老若男女の別もない、生まれたままの純粋な心、捉えようにも捉えようのない、無心の心であります。そう自覚して得られた仏心は、他人には説明のしようがない、説明など不要な仏心であります。  
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 
(いんが いちにょの もんひらけ  むにむさんの みちなおし) 
善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。苦しみに直面した時、その苦しみには必ず原因があります。釈尊の言われた原因と結果の関係は、それぞれを縁によって結びつけています。種をまき、実を収穫するまでには、そこに、土壌・水・日光などの善い縁がなくてはなりません。私たちは、ともすれば結果ばかりを追ってしまいますが、因 → 縁 → 果 という一連のプロセスが大切なことは、もうお解りかと思います。では、原因と結果の道理からは逃れられないのでしょうか? そうではありません。因果の道理そのものは、大切な教えですが、これにとらわれている間は「迷い」であり「苦しみ」であります。それは、因と果とを、区別して考えているからです。区別するということは、つまり迷っているということです。禅定を養うことによって、このような区別から離れるのです。因/果、苦しみ/幸せ、と区別して考えている心は、私たちの心に他ならず、それは仏心にも違いないのです。禅定により区別を離れるならば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体です。区別や差別を離れて、平等の入口を開けるならば、その先には、一本の真実の道が、まっすぐ延びているのみです。2つ、3つと分かれる迷い道など存在しないのです。  
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 
(むそうの そうを そうとして  ゆくも かえるも ことならず) 
では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。この世に永遠のものはなく、形あるものは全て、常に変化しています。永遠不変のものはない、と考えることにより、煩悩・執着から離れることができるのです。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるのです。そうすれば、私たちの心は、どんな場合でも乱れることがないのです。とらわれを離れた心は、平安な心であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような安心感があるのです。  
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声 
(むねんの ねんを ねんとして  うたうも まうも のりのこえ) 
2つめは、「心で感じたこと、一念一念を悪く考えないようにする」ということです。私たちの脳は、絶えず思考をしています。一瞬ごとの思考、すなわち一念の積み重ねによって、記憶・学習をしています。しかし、もしも悪い念が積み重なったとしたら、そうして造られた記憶・学習は、悪い結果を招くことは明らかです。そう考えると、たとえ僅か一念でも、苦しみの原因になり、積もった念、すなわち、出来上がった記憶は、苦しみの結果となるわけです。一念に振り回されないことです。少なくとも、自分の記憶と、他人の記憶は、全く異なるものであり、他人が自分と同じ事を考え、行動するなどとは考えないことです。そのように毎日努めるならば、他人の言動に一喜一憂することなく、仮に苦言を聞いたとしても、大切なアドバイスだったと、肯定できるはずです。見るもの、聞くもの、全てが新鮮な法話であり、立ち居振る舞い、どれをとっても、仏祖の行いと変わらないのです。  
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 
(ざんまいむげの そらひろく  しちえんみょうの つきさえん) 
このようにして養った禅定力を用いて、精神を統一してみましょう。身体中の感覚(眼で見る・耳で聴く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・皮膚で感じる・心で認識する)はそのままに、心を集注して、意識を乱れないようにするのです。それは一切のとらわれを離れた、自由自在の境地です。雲一つ無い青空が広がっているかのように、煩悩の無い、晴れやかな心になっているでしょう。さらに、仏心から出てくる4つの智慧を信じることです。それは、【1】真実を見つめて、清い心を持つ(大円鏡智)、【2】我見・差別を捨てて、慈悲の心を持つ(平等性智)、【3】道徳行を無心でする(成所作智)、【4】物事を正しく判断して、不安を取り除く努力をする(妙観察智)、これら4つの行いを、自分・他者の区別無く、行おうとすることです。この4つの智慧は、迷いの暗闇を明るくする光です。4つの智慧が相結ぶ時、あたかも中秋の名月のように、智慧の光は冴えわたり、たとえどんな困難に遭っても、真実の道を明るく照らし現してくれることでしょう。  
此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 
(このとき なにをか もとむべき  じゃくめつげんぜん するゆえに) 
ここまでくれば、もう迷うことはありません。真実を、遠く離れたところに求める必要はありません。求めるどころか、おのずから目の前に広がっているのです。苦しみは消滅し、無念無相の世界が、静かなる大海のように広がっているのです。  
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり 
(とうしょ すなわち れんげこく  このみ すなわち ほとけなり) 
私たちの日常そのものが浄土であり、日々が好日にして、幸せな毎日です。眼で見ること、耳で聞き取ること、身体で感じること、その全てが、仏祖と何ら変わらない生活であり、この自分自身こそが「仏心」そのものなのです。  
 
  
聖人伝・高僧伝と社会事業

「聖人」と「菩薩」の称号 
聖人伝や高僧伝は中世に入って組織的に集められて以来、農民や商人から貴族階級の人々にまで親しまれてきた。ヨーロッパの「聖人」と同様に、日本でも奈良時代から「菩薩」や「菩薩僧」とよばれた人物がしばしば六国史や伝記の中に登場する。しかし、菩薩と称された人物は、必ずしも社会事業に貢献しているとは言いきれない。この論文で取りあげる高僧伝は、江戸初期の「本朝高僧伝」のような書籍だけではなく、もっと広い意味で、民衆から高僧として崇拝されていた人物をとりあつかった伝記である。このように、社会事業の観点から聖人伝と高僧伝を比較すると、まったく異なった文化の間にも、偶然とは思えないような共通点があるように思われる。 
ヨーロッパの聖人伝の殆どは脚色された大げさな伝記から成り立っているため、多くの歴史学者は研究対象にならないと言っている。ここで考えたいのは歴史的事実ではなく、聖人伝の誇張やレトリクが当時の価値観や世界観をどのように反映しているかである。今日において、伝記というものは主人公の短所をも叙述することが要求されるが、大部分の聖人伝は信者の奇跡に焦点をしぼり、聖人同士の違いが殆ど見られないことが多くなっている。12-13世紀になると聖人伝は修道院のミサの中で朗読されるようになり、命日や誕生日になると特別な儀式が行われた。また、日本の往生伝や高僧伝と同じように、ヨーロッパの聖人伝も、読んだり聞いたりすることによって、功徳が得られると信じられていた。 
古代、中世ヨーロッパの聖人伝について言える事は、描写されている聖人が必ずと言っていい程、なんらかのかたちで社会福祉に携わっていることである。秀でたキリスト教徒が聖人の称号を与えられるには、ローマ法王の正式な認知が必要であったが、一般的には地元の信仰者が長旅をして、司祭か他の高官にその聖人が行った善行について報告することが必要であった。13世紀になるとヨーロッパ中の小さな町や村落などで、福祉活動に力を注いだり、奇跡を起こしたりする者を「聖人」と讃え始めた。しかし、イノセントr世(1160-1216)はこういった動きが、曖昧な聖人をたくさん作りだすと考え、法王だけが中央主権的に聖人を選択することができるよう新たな法律を定めた。 
日本の場合、菩薩の称号を制限するメカニズムが存在しなかったせいか、文献の中には幅広い人々が菩薩と讃えられている。鑑真とともに唐から来朝してきた中国僧、思託は聖徳太子の生涯を上宮皇太子菩薩伝に記し、現存する日本最古の僧伝集である「延暦僧録」には24名の伝記が記述されている。残念ながら、その伝記は散逸してしまったが、現存する目次には、上宮皇太子菩薩、近江天皇菩薩、行基菩薩、勝宝感神聖武皇帝菩薩、天平仁正皇后菩薩、沙門釈浄三菩薩、長岡天皇菩薩、感瑞広祥皇后菩薩、広智菩薩などといった多くの人々が菩薩の称号を与えられている。この目録が興味深いのは、聖徳太子、天智、聖武、桓武天皇、光明皇后、乙牟漏皇后といった俗人である皇族が菩薩と呼ばれていることである。確かに、聖武天皇や光明皇后は布施屋や施薬院などの福祉施設の建設にかかわっているので、敬虔な仏教徒として菩薩と称されてもおかしくはない。又、行基菩薩のように朝廷から正式に与えられた尊称を記述している書籍も存在する。 
日本で菩薩が社会事業と関連づけられるのは、行基の長年における布施屋などの建設であるが、その化身としてまつられてきた文殊菩薩への信仰は、平安初期に日本全土に浸透していたようである。大安寺の勤操が創始した文殊会では経典を読むばかりではなく、地元の農民や官吏も文殊菩薩の教えをまっとうするために穀物を寄付したと元亨釈書に記されている。天長5年2月25日(828)官符によれば、勤操が死欠した後も、泰善という僧が文殊会の存続を望み、僧網も全国でこの会が行えるように申し出たと「類聚三代格」に記述されている。 
日本の菩薩号の特色は、神仏習合思想を受けて、781年に八幡神宮に八幡大菩薩の称号を奉進していることである。そもそも菩薩号というものは、歴史上の人物だけではなく、文殊、普賢、観音菩薩のように智慧や慈悲をつかさどる守護神として扱われている。初期キリスト教で、このような役目を果たしたのは、新約聖書に登場するガブリエルなどの天使たちであろう。民衆に親しまれてきた聖人も、天地の仲裁者の立場を担っていると、神学者の間で考えられていたようだが、守護神というよりは、民衆と同じ立場におかれた人物として描かれている。 
そして、平安末期から鎌倉時代にかけて、律宗を再建した高僧には、朝廷から菩薩号がおくられることが度々あった。後醍醐天皇は覚盛(1194-1249)に大悲菩薩の称号を授与し、忍性(1217-1303)を忍性菩薩と呼んでいる。そして、後伏見天皇は叡尊(1201-1290)を興正菩薩と称している。この点では、中世のローマ法王が、候補者を聖徒の列に加えることと似ているが、日本では高僧を選出したり、評価したりする複雑なプロセスは存在しなかった。 
日本最初の仏教通史である「元亨釈書」(1322年「元亨二」)は、仏教伝来から鎌倉時代末までの、約七百年間にわたる高僧の伝記や史実を記録した極めて重要な資料である。虎関師錬は序章に梁や唐の高僧伝に倣って「元亨釈書」を編纂したと記しているが、400人あまりの僧伝の中で、わずか4人だけが菩薩号の称号で呼ばれている。しかも、その4人は、叡尊を除くと、全て奈良時代の僧や皇族であることが伺われる。虎関師錬は高僧に対して、個人的な評価を加えたというよりも、前例に倣って菩薩と記してい たようである。更に戦国や江戸時代になると、禅師号、国師号、大師号といった称号が頻繁に高僧に授けられたようであるが、菩薩号は高僧伝の中で殆ど使われなくなった。 
「貧困者」とキリスト教 
こうして考えてみると、ヨーロッパの聖人伝は最初から社会事業と密接なつながりがあったようである。そもそもキリスト教では「貧困者」が大事な役割をはたしており、聖人にとって彼等はなくてはならない存在であった。最近「貧困を一掃する」とか「貧困にうちひしがれた人々を助ける」といったスローガンが、世界の政治家の間で頻繁に用いられるようになったが、「貧困」という概念は曖昧なもので、容易に定義できない。「富」は数えることができても、「貧困」を量ることはできない。特にいわゆる「先進国」と「発展途上国」の間には、21世紀に入っても生活水準に大きな差異があるため、「貧困者」というのは、なおさら分かりにくくなってきた。 
一般的に現代人にとって「貧困者」という言葉は、住居、仕事、財産を失った人々のことを指すが、古代の日本やヨーロッパの社会にはかなり違った基準が存在していた。金銭がまだ広く使われていない時代には、「貧困」というのは「富」や「財産」ばかりではなく、社会的地位の最も低い人々を指していたのかもしれない。 
古代、中世ヨーロッパのキリスト教信者にとって「貧困者」は侮辱や虐待の対象ばかりではなく、崇拝の対象でもあった。町人文化が栄え始めると、「貧困者」はもっと身近な存在になり、文学作品のなかにも度々登場するようになった。読み書きできる人口が増えていく中で、聖書はもっとも重要な位置をしめていた。特に新約聖書は、民衆の生活の中で絶対的な役割を果たしている。その福音書が「富者」と「貧困者」を両極として扱っていることから、「貧困者」というカテゴリーが、現代の西洋人によって作り上げられたものではないことが分かる。 
例えば、ルカの福音書6.25の中で、イエスは本格的な説法を始める前に12人の弟子を山上に集め八福について説いた。その第一福にイエスは、「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのもの」と語っている。この「貧しい者」が、具体的に誰を指しているかは、明確ではない。けれども同じ福音書の中でイエスは、「金持ち」と「貧困者」のたとえ話を語っている。ルカの福音書17.19-31を概要すれば、あるお金持ちの屋敷の門の前で、ラザロという貧困者が毎日横たわっていた。お金持ちはラザロをかまってやらなかったため、地獄に落ちてしまった。お金持ちはラザロが天国でアブラハムの側にいるのを見て、地獄から助けを求めた。しかしアブラハムは、そのお金持ちの前世の生きかたを咎め、地獄で罰を受けるしかないと言った。興味深いことに、「貧困者」に対しては、ラザロという名前がつかわれているものの、「お金持ち」には特定の名前が与えられていない。しかも、ルカのたとえ話の中でラザロだけが名前のある登場人物となっている。このラザロは、中世のヨーロッパの絵画の中で頻繁に取り扱われ、聖人として崇拝されている。 
イエス自身の活動も、様々な「貧困者」の為に奉げられていることは言うまでもない。ルカの福音書は、イエスがユダヤ地区の様々な町を訪れながら、ハンセン病患者、手足の不自由な者、悪霊にとりつかれた者の苦しみをも癒したと伝えている。その社会事業の範囲は、あまりにも広く民衆の注目をあびたため、最終的には権力者の反感を買うことになった。恐らくユダヤ人の司祭にとってイエスは、従来の価値観をひっくりかえす危険な人物だったのだろう。 
ラテン語で「貧困者」の意味を持ちえる言葉は豊富に存在する。Insufficiens,mendicus(乞食)famelicus(空腹の)nudus(裸の)miserabilis(悲惨な)pannosus(粗末な装いの)などは物質的欠乏を指すが、omnesという語は弱者や身分の低い人を指していた。更に15世紀になるとイタリアでは、「貧困者」を「尊敬すべき者」と「価値のない者」に区別する神学者も現れた。Francisco de Vitoria(1480-1546)は Summa Theologiaの注釈書の中で「貧困とは苦しみの生活をおくることではなく、必要な最低限のものをそなえ律儀に生きることを指す」と説明している。大規模な不況の真っ最中だったイタリアでは恐らく「貧困者」をいくつものカテゴリーに分ける必要があったのかもしれない。キリスト教が普及して以来、未亡人、孤児、病人は「いたわるべき貧困者」としてとらえられてきた。これらの人々は新約聖書の福音書の中で慈しまれ、賞讃されてきており、古代、中世ヨーロッパの信者にとっても特別扱いされている例も少なくはない。中世に入ると貧困者は様々な修道士の援助を受け、団結して労働組合のようなものを構えるようになった。15世紀にはストラウスブルグ、バゼル、フランクフルトなどで、かなり大規模な施設が足の不自由な者とハンセン病患者などの間で設けられ、大多数は城下町の外で労働者を集めていた。 
しかし、他の「貧困者」は、蔑まれることさえあった。典型的なイタリアの15世紀の寓話を取り上げてみれば、「貧困者」の中には働けるのに貧しく偽るものがいて、町の広場で倒れては人から金銭を騙し取って生活していると考えられていたようである。オーグスバーグに住んでいた有名な浮浪者は、ある時死んだふりをして、葬儀のお金を町の者に寄付してもらった。しかし事実が役人にもれると、彼は即座に首吊りの刑にされたと伝説は語っている。この他にも「貧困者」であることを利用して怠惰な生活をおくった逸話は極めて多い。ジャック・デヴィトリー(1160-1240)というイタリアの神父は、興味深い説法の中で仕事ぎらいの貧困者についての寓話を残している。その話を要約すると、ある日町中で足の不自由な貧しい男と盲目の男が気軽に話をしていた。すると、急に聖マーティンの葬列が現れ、二人はその中に巻き込まれてしまった。聖マーティンの霊的能力の噂を聞いていた二人は焦って、「大変だ。もし彼の聖体にふれてしまえば、病はたちまち治ってしまい、一生働かなければならない」と叫んだ。葬列が過ぎ去った後、彼らの病は治ってしまったという結末である。このように、聖人の遺体や遺骨に関する信仰は中世になると幾つもの聖人伝にまとめられた。 
そもそも 「貧困者」という言葉は農民や労働者を指す場合も多かったと、カータ・リンドバーグは説明している。封建社会の中で農民は無力で、騎士や王の保護が必要だと考えられていた。そのせいか、agricolaやlaboratorは軽蔑されることが多かった。中世イタリアの社会において、農民はもっとも低い身分にあったものの、自ら貧しい生活をおくる者は崇拝されていたようである。俗生活を捨てて修道士になるには、いくつもの誓いを立てなければならなかった。その中でもっとも重要な誓約は、貧困、純潔(性的禁欲)、忠順だった。ここで詳しい説明をはぶくが、貧困の理想をつらぬいた修道士は、pauper Christi(キリストの貧困者)と称された。しかし、イタリアの各地では内乱が起こっていたため、ベネディクト会の修道士は自給自足の修道院を建て、外部の混乱から逃れようとしていた。修道院はキリスト教の教えをまっとうするための祈りと修行の場と考えられていたようであるが、13-14世紀になると修道院の中には裕福な院も現れ、元来の意味も失われつつあった。無論このような傾向は、日本の禅宗の中でも見られるのではないだろうか。祈りと瞑想は、キリスト教と仏教の思想の中でもっとも重要な要素ではあるが、社会との接触を切って専念すると危険な執着になりうることは様々な伝説や説話の中でみられる。アッシジの聖フランシスコもこの傾向を実感していたのかもしれない。彼が13世紀に呼び起こした改革運動は、修道士と民衆の共存を求めるもので、町を中心に活動した。金銭の流通と長距離貿易の繁栄を伴い、裕福な商人は増えていた。しかし、イタリアの教会は依然として商人に対して批判的な姿勢を崩さず、レスター・リトルは商人の中には、自分の富に対して罪悪感を抱いていた者も多くいたと考えている。しかしフランシスコは商人を責めず、何らかの形で貧困者に食料や衣服を恵むことで、功徳を得ることができると説いた。その為アッシジのフランシスコは後の世に商人を守る聖人とされている。 
商人はキリストが述べたように、全ての財産を捨てて神の教えを守ることはできなくても、食料を「貧困者」に施すことによって罪をあがなうことができた。12-13世紀イタリアの説教の中には、「貧困者」への施し物は、死後天国で神から授けられるという話がよくみられる。特に裕福な商人の葬儀では、財産の何割かを「貧困者」に施すという遺書さえ残っている。現代人にとって、「貧困者」への施し物によって、天国でも裕福な暮らしができるという考えは、福音書の教えといささか矛盾が感じられるが、中世の神学的立場から見れば納得できたのかもしれない。このようにして中世イタリアの修道士、司祭、司教は「富者」と「貧困者」を結びつけ、お互い不可欠な存在に作りあげた。 
社会福祉の聖人 
さて、社会福祉の聖人として崇拝された人々は、地元の信仰者たちの中にとけこみ、村落や町を活動範囲とした。ベンカサの12世紀の聖人伝に登場する聖ライネリウス(?-1160)は、裕福な商人の子として生まれ、優秀な成績で大学を卒業した。その後彼は、父の商売を継ぐことになっていたが、気が進まずエルサレムに巡礼することを決意した。13年の年月が過ぎた後、彼はようやくピサの町へもどり、様々な福祉施設を建てることに携わった。数十年後ピサの民衆は彼の死をいたわり、社会福祉の聖人としてまつりあげた。ある注釈書によれば、彼はアレキサンダーr世によって聖人の列に加えられた。ピサには他にもこういった福祉の聖人たちが活動していた。聖ウバルデスカは女性の聖人として当時の民衆に親しまれていた。田舎からピサへ流れてきた彼女は、聖ヨハネ・エルサレム病院のシスターとして任命され、物乞いをしながら病人の介護に生涯をささげたと語り継がれている。ウバルデスカの死後、彼女はエルサレムの病人を見守る聖人として崇拝された。 
社会福祉の聖人はたまに政治的運動を呼び起こし、教会の不正を指摘する者さえいた。特に、ピアツェンザの聖レイモンド・パルメリオはエルサレムへの巡礼から戻った後、様々な都会の社会問題に積極的に取り組んだ。彼は年々増加していた売春、貧困、法廷の汚職問題の深刻さを訴え、東ロンバルディの司教をも批判した。地方の豪族の支持をえて、教会の権威者を攻撃しながらも、民衆に崇拝され続けたことは、聖パルメリオのカリスマ性を物語っている。聖パルメリオは社会福祉の聖人として讃えられているものの、13世紀の聖人伝の中で、闘争的な聖人というカテゴリーに属している。即ち正統的な聖人伝の中にも、教会の堕落や不正を訴える余地はあったようである。 
聖人伝が教会から正式に承認された礼拝文学になってから、社会福祉の聖人は、一般的に職人といった卑しい身分の者として描写されている。聖パルメリオは若い頃、靴職人として働き、聖デオグナは酒職人として労働し、聖ファシオ・デ・クレモナは金細工師として知られていた。しかし、職人は教会からもっとも卑しい社会層として軽蔑されており、殆どの聖人伝の中で主人公は日常生活に戸惑いを感じ、職人をやめる類型が見られる。聖パルメリオやホモノブスも職人をやめて長期の巡礼に出かけた。一方聖ファシオ・デ・クレモナは金細工師をやめることはなかったが、彼がつくった十字架や盃は貧しい地元の教会に配られたと伝えられている。聖人伝の多くは地元の司祭によって記述されてきたが、13世紀以降は中央主権の厳しい審査が加えられたため、カルト的な要素をはぶかなければならなかった。そのせいか、もっとも顕著な聖人伝は、その聖人とまったく関係のない人物によって書かれている。やはり、古代の聖人伝はラテン語でまとめられていたが、中世に入ると口語的で一般の信者を対象に記されることが多くなった。ローマ教会は、聖人伝を統一しようとする一方、庶民に分かる言葉で紹介しようとしていたようである。 
最後に、日本もイタリアも中世に入ると、福祉活動に携わった聖人の社会的地位を実際よりも高く見せる傾向が見られる。14-15世紀のイタリアの聖人伝も若い頃、職人として活躍した紹介の部分を軽視したり、はぶいたりすることによって、後世に上流階級の聖人として見せつけることができた。日本でも行基の例を取り上げてみると、8世紀の「大僧正舎利瓶記」などでは行基の祖先を百済系の帰化人と記しているが、14世紀になると「行基縁起図絵詞」のように行基の先祖を、中国の漢高祖(BC.247-195)や応神天皇の時に来日し「論語」十巻「千字文」一巻を献上した王仁と結びつける僧伝も増えていた。リチャード・キーキヘファは聖人というものは、時代が過ぎていくとともに民衆と社会的距離を増していくものであると断言している。確かに後世の信者にとって聖人は手の届かない存在であったかもしれないが、聖人伝の中で彼等は身近な人としても描写されている。天地の仲裁者として信仰されてきた福祉の聖人は今日においても複雑な存在である。
 
 
和讃 

和讃  
利己主義をこえて 信心のある暮らしの“歌”  
前回は正信偈についてお話し致しましたが、その正信偈に次いで、おつとめの中には念仏にそえて和讃というものが組みこまれております。正信偈の偈ということは漢文によるうたであり、それに対して和讃は日本調のうたであります。宗祖には沢山のうたがあり、漢文のうたは三つありますが、日本調のうたは三帖和讃(後に一帖づつ詳しくお話ししますが)を中心に一連の和讃が非常に多くつくられております。  
私たちが本願という根本のいのちに遇うて、そのいのちが私たちを大きく揺り動かしてくるときに、そこに生れてくるものは大きな感動であります。人間は本願に遇うた時に、はじめて理屈や算盤を越えさせられるのです。理屈にとじこめられ、算盤に縛られていた自分がはじめてそれを越えることが出来た、この感動がうたを生み、生活の全体がリズムを持って来るのであります。信仰のない生活は散文的で、ばらばらの生活、そしてやがて世帯じみ、うすよごれることでしょう。宗祖が本願に遇われた深い感動、それが偈となり和讃となったのであります。  
三帖の和讃を通じての全体の趣旨は、冠頭和讃というのが二首、一番最初にかかげられていますが、それによってうかがうことが出来るようであります。「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」本願に遇うた信心は、私を捨てさせるところに大きな意義があります。個人生活に救いはありません。個人を超えさせられるのが本当の救いであります。私は私のためにあったのではない。私以上のもののためにあったことに気づき、本願に救われて本願を生きる、これが仏恩報謝であります。人間は自分の力で私を捨てることは出来ません。マルクス主義の実践も、やはり徒党のために苦しんでいるのは、私というものが捨てられない証拠でありましょう。本願に遇うた信心だけが、どんな利己主義者であろうと、喜んで私を捨てることの出来るものであります。  
「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」私が私以上のものに生きる大きな喜びは、同時に深い懺悔によって裏づけられています。誓願不思議をうたがうのは私に閉じこもることであります。自分が捨てられないという深い懺悔、懺悔を通じて如来の御恩をあらわす、これが三帖和讃全体のお心であろうと思います。 
浄土和讃  
如来の国とその道 歌われた浄土へのガイド  
三帖和讃の第一、浄土和讃には、大きく分けて二つの内容があります。一つは如来の世界、二つにはその世界に到達する道について、その真実にゆり動かされた感動をもって歌いあげられているのですが、先ず巻頭二首の和讃につづいて、讃阿弥陀仏偈和讃四十八種、大経和讃二十二種、観経和讃九首、弥陀経和讃五首、諸経意和讃九種、現世利益和讃十五首、大勢至和讃八首が収められています。  
そこでこれらの一群の和讃のそれぞれの内容でありますが、まず最初の讃阿弥陀仏偈和讃というのは曇鸞大師のつくられた讃阿弥陀仏偈にもとづいてその意をやわらげ、はじめには仏を光としてあらわされています。光というものは暗がりにはたらくもの、暗がりは私たちの煩悩からおこる業や苦しみでありますが、それが開かれるということを光でたとえられています。これはとりもなおさず仏の智慧でありますが、それが私たちには信心として与えられるのであります。従って仏の徳ではありますが、私たちにとっては信心の利益でありましょう。  
次いで菩薩方のことが出ていますが、これは仏の心に触れた人間は如来の心に生きる。そういう人を菩薩と申しますが、その人々のありさまが示されているのであります。終りに浄土のすがたが述べられてありますが、私たちから言えば信心によって開かれる世界の光景であります。  
さて、次いで改めて浄土和讃という見出しをつけられて浄土三部経のお心が、大経、観経、弥陀経の順序に従って歌われています。これは浄土というものがどのようにして成立ったかといえば、言うまでもなく法蔵菩薩の四十八願であり、これが浄土の根でありますから改めて浄土和讃と見出しをつけられたのでしょう。この本願に自ら逢うて仏となられた釈尊は、自ら見出した本願と、私たちがそれに逢うことによって浄土を実現することの出来る道、言いかえれば本願の浄土と、それに至る道を説かれたのが無量寿経でありますが、それだけでは中々心の開かれない私たちのために本願への手がかりを示されたのが観経、阿弥陀経であります。それにつづいて釈尊一代の間の大切なお経、涅槃経や華厳経などを引いて歌われるのは、これらのお経も結局は本願によってはじめて成立つのであるということを示されたものでありましょう。  
宗教は全人類の問題を自己一人の上に、永遠の問題を今、解決することであり、その解決を見出したことを現生不退といいます。それに対して、現世というのは、いわゆる娑婆五十年の日暮しということ、根本問題に解決が見出されたことを通して、暮しの問題に自ずから光がさしてくることを歌われたのが、現世利益和讃であります。  
最後に大勢至菩薩を讃えられますが、勢至菩薩はこの世にあらわれて、私たちを浄土へすすめられる方、これを具体的に言えばよき人あり、宗祖にとっては法然上人でありますが、浄土への道は浄土から法然上人として賜ったと喜ばれるのでありましょう。 
高僧和讃  
民衆と肩組む高僧方 言行一致、独自性(オリジナリティー)の人  
印度には数多い菩薩がた、中国にはあまたの高僧たちが出られました。にも拘らず親鸞聖人が、印度では竜樹・天親の二菩薩、中国では曇鸞・道綽・善導の三高僧、わが日本では源信と源空(法然上人)のお二人、合わせてわずかに七人の方を、わが真宗の祖師(七高僧)として選ばれたのは何故でしょうか。その理由として昔から次の三つがあげられています。  
先ず第一に、自ら筆をとってお書きになったものがあるということです。こういうことを申しますと真宗は賢い人でなければ入れないのか、という疑問がおこりますが、そういう意味ではありません。たしかに七高僧は今で言うインテリ、学問のすぐれた方ばかりであります。  
どの方を見ても、仏教界の代表者ですが、しかし他の高僧がたと違うところは、私たち愚かなものに対して、君たちは間違っている、こうしなければならないのだと、高いところから教訓を垂れ手本を示すような知識人でなしに、私たちと同じところに身を置き、私たちと同じように迷い、そして念仏によって目覚められた方、そこからどんな愚かな者でも肯くことができ、どんな賢い人間も肯かざるをえないのが本願であることを、身をもって示し、そのことを著作をもってあらわしていられる方々であります。  
次に第二番目には、発揮説があるかどうかということで宗祖がきめられたであろうと言います。発揮というのは、その時代その社会、それぞれの場所で本願のまことを証明されたということでありましょう。本願は永遠のいのちであります。無限のものでありますから、従ってこれだけのものということはありません。これだけのものというのは死んだものでしょう。しかし無限のものを無限といっても無限にはなりません。その時その時に或る人を通して輝いている、その輝きが発揮ということで、これがなければ人真似になってしまいます。各祖師はその時その場所で夫々自分一杯を生きられ、そこから本願に遇われたその救いを、自分自分の独自の形で示していられますが、その全体が本願の光なのであります。  
第三番目には解行相応ということが言われます。解は了解、わかるということ、行は行うということで、それが一致するのを相応と申します。私たちはえてして頭で分ってもそうなれないということがあり、或は内の心と外のあらわれが違っていることがあります。  
七高僧がたは、念仏の道は間違いなく救われる道であることを了解され私たちにもすすめていられますが、自らも念仏申していられるのであります。このことは、これらの方々のどの著書を見ても、そこに深い信仰告白と懺悔が貫いていることが証明しています。七高僧についてのこの和讃は宝治二年(一二四八)、宗祖七十六才の時に御草稿ができ、建長七年(一二五五)御齢八十三才の時に手を加えて清書されたものであると、言われております。 
正像末和讃  
人間の絶望の時こそ 念仏申さんとの時  
すでに浄土三部経を中心にして、世界(浄土)という形にまで開かれた本願成就の阿弥陀仏の功徳を、浄土和讃として讃えられ、更に七高僧の教えを通して、本願の宗教が何時でも、何処でも、どんな人でも、それにあうことによって救われて来た事実を、高僧和讃に歴史として示されました。これによって和讃の御製作は一応完成したように見うけられるのでありますが、その上にこの正像末和讃ができましたことについての理由が、聖人御自身によって示されているのであります。  
それは康元二年(八十五才)二月五日夜あけがた近く「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」という夢のお告げを受けられたということであります。従って聖人はこの和讃を正像末和讃の巻頭に掲げ、そのあとに「この和讃をゆめにおほせをこふりてうれしさにかけつけまいらせたるなり」(御草稿本)と書きそえていられます。  
夢というと現代人には何か当てにならぬもの、怪しいものという考えがつきまとうでしょう。しかしそれは理性というものを最高のものだとする立場から夢を考えるのではないでしょうか。理性は小ざかしいことを考えたり柄にもないことを思いますが、それよりももっと深いところにある本心、夢はそういうものをあらわしているのです。従って夢告というのは、聖人の心の一番深いところに憶念せられてあったものが、夢の形であらわれたと考えるべきでありましょう。  
念仏の信心によって私たちが救われるということは、世界と歴史が与えられることであると浄土和讃や高僧和讃で教えられています。私たちの住んでいるところを世と申しますが、世は我執によって閉されているところそれを破って開かれた世界が浄土であり、だから光であらわされています。歴史というものは、そういう浄土を開く道(実践)が、その道を歩まれた人々によっていよいよ確かなものとなったのでありますから、私たちがこの道を与えられたということは歴史を賜ったことであり、このように世界と歴史が与えられることが摂取不捨の利益でありましょう。  
ただ問題はその利益を頂く時であります。観経には念仏すれが摂取不捨と示されていますが、何時救われるかが分りません。聖人はそれを歎異抄に「念仏もうさんとおもひたつこころの発る時」と時を示されています。人間が念仏申さんと思い立つのはどんな時でしょうか。それは人間の世界に見込みをつけることの出来なくなった絶望の時でありましょう。だからこの和讃は「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ 正像の二時はをはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」で始まるのであります。しかしこの悲泣は縁となり、そこに深い懺悔を通して、仏法衰滅の悲劇を縁としてあらわれた本願の仏法に遇うことによって、世界と歴史を賜ることが出来た、その感激を恩徳讃で結ばれるのであります。 
 
 
「賽の河原地蔵和讃」考 

はじめに  
「おばあちゃん、そんなの迷信だよ」と叫びたかったが、飲み込んだ。恐怖を声に出せなかった。  
外孫だが初孫であった為か、孫のなかでも一番可愛がってくれる祖母に反論はできなかった。また、恐怖を表したくなかった。  
私が10歳のころ、母方の祖母がゆったりとした節で低い声で、「一つや二つや三つや四つ 十よりうちの幼子が 一重積んでは父の為 二重積んでは母の為 三重積んでは西を向き…  」と詠っていたことを思い出す。ほかの部分は、まだ幼くて理解できなかったが、この部分は鮮烈に覚えている。  
「おばあちゃん何の歌?」  
「やっさん、これはなあ」と、話してくれたのが、「賽の河原地蔵」の物語である。  
話の概略は、あの世にいたる途中にある河原が賽の河原である。親に先立ち死亡した小児がこの河原で父母の供養のため小石を積んで塔を作る。すぐに鬼が来てそれを壊す。また積み始める。際限のない労作業が続く。そこへ小児を救いに地蔵菩薩が現れる、という話である。  
15世紀後半の室町時代末期の高まる地蔵菩薩信仰とともに、幼い子供たちが堕ちる地獄、「賽の河原」の仏話は、「賽の河原地蔵和讃」として詠われ、現代まで伝えられている。  
地蔵菩薩はお釈迦様の没後から弥勒菩薩が成道するまでの無仏時代の衆生済度を付嘱された菩薩であるといわれる。地蔵菩薩信仰は中国では唐代、日本では平安時代中期の末法思想とともに民衆に流行した。無数の分身に変身して衆生済度すると信じられ、最も親しまれ、僧(坊主)形で左に宝珠、右手に錫杖を持つ姿が一般的である。  
「賽の河原和讃」以降、地蔵が子供の仏とされるようになる。そして安産・子育て・延命ほかさまざまな現世利益にかかわって、広く信奉されてきた。現代でも児童のまつりとして毎年8月に行われる地蔵盆の風習が関西を中心に残っている。  
さて、「賽の河原地蔵和讃」は、時代あるいは地域によって若干異なる詩のようである。いたいけない子供が罪で地獄に堕ち、罰を受けるという残酷な物語は、当初、宗教的効果を狙ってか、残酷な表現が多かったようである。また、あまりに残酷な物語であるから、ソフトに変化したようだ。ここで、例示してみよう。(なお、研究不足で例の出典・作成時期・伝承地域等は不明。インターネットに記載のものを例示した。) 
1例  
帰命頂礼世の中の   定め難きは無常なり   親に先立つ有様に      
諸事の哀を止めたり   一つや二つや三つや四つ 十よりうちの幼子が    
母の乳房を放れては   賽の河原に集まりて    昼の三時の間には     
大石運びて塚をつく   夜の三時の間には   小石を拾ひて塔を積む   
一重積んでは父の為  二重積んでは母の為   三重積んでは西を向き  
樒程なる掌を合せ   郷里の兄弟我ためと  あら痛はしや幼子は  
泣々石を運ぶなり   手足は石に擦れだだれ  指より出づる血の滴     
体を朱に染めなして  父上こひし母恋しと   ただ父母の事ばかり  
云うては其儘打伏して   さも苦しげに歎くなり あら怖しや獄卒が      
鏡照日のまなこにて   幼き者を睨みつけ   汝らがつむ塔は      
歪みがちにて見苦しし  斯ては功徳になり難し   疾々是を積直し    
成仏願へと呵りつつ    鉄の榜苔を振揚げて  塔を残らず打散らす    
あら痛しや幼な子は   又打伏して泣叫び   呵責に隙ぞ無かりける    
罪は我人あるなれど   ことに子供の罪科は   母の胎内十月のうち   
苦痛さまざま生まれ出で  三年五年七年を    纔か一期に先立つて    
父母に歎きをかくる事  第一重き罪ぞかし  母の乳房に取りついて   
乳の出でざる其の時は   せまりて胸を打叩く  母はこれを忍べども    
などて報の無かるべき  胸を叩くその音は   奈落の底に鳴響く      
修羅の鼓と聞ゆるなり  父の涙は火の雨と  なりて其身に降懸り     
母の涙は氷となりて   其身を閉づる歎きこそ 子故の闇の呵責なり     
斯る罪科のある故に   賽の河原に迷来て  長き苦患を受くるとよ    
河原の中に流れあり   娑婆にて嘆く父母の  一念とどきて影写れば    
なう懐しの父母や   飢を救ひてたび給へと 乳房を慕ふて這寄れば    
影は忽ち消え失せて  水は炎と燃えあがり  其身を焦して倒れつつ   
絶入る事は数知らず  中にも賢き子供は  色能き花を手折きて     
地蔵菩薩に奉り    暫時呵責を免れんと 咲き乱れたる大木に     
登るとすれど情なや  幼き者のことなれば  踏み流しては彼此の     
荊棘の棘に身を刺され 凡て鮮血に染まりつつ  漸く花を手折り来て     
仏の前に奉る     中に這出る子供等は   胞衣を頭に被りつつ     
花折ることも叶はねば  河原に捨てたる枯花を 口にくはへて痛はしや    
仏の前に這行きて   地蔵菩薩に奉り     錫杖法衣に取付いて     
助け給へと願ふなり   生死流転を離れなば  六趣輪回の苦みは   
唯是のみに限らねど  長夜の眠り深ければ   夢の驚くこともなし     
唯ねがはくば地蔵尊    迷ひを導き給へかし  (101文節) 
2例  
これはこの世のことならず  死出の山路の裾野なる  
さいの河原の物語  聞くにつけても哀れなり  
二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬおさなごが  
父恋し母恋し  恋し恋しと泣く声は  
この世の声とは事変わり  悲しさ骨身を通すなり  
かのみどりごの所作として  河原の石をとり集め  
これにて回向の塔を組む  一重組んでは父のため  
二重組んでは母のため  三重組んではふるさとの  
兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども  
日も入り相いのその頃は  地獄の鬼が現れて  
やれ汝らは何をする  娑婆に残りし父母は  
追善供養の勤めなく  (ただ明け暮れの嘆きには)  
(酷や可哀や不憫やと)  親の嘆きは汝らの  
苦患を受くる種となる  我を恨むる事なかれと  
くろがねの棒をのべ  積みたる塔を押し崩す  
その時能化の地蔵尊  ゆるぎ出てさせたまいつつ  
汝ら命短かくて  冥土の旅に来るなり  
娑婆と冥土はほど遠し  我を冥土の父母と  
思うて明け暮れ頼めよと  幼き者を御衣の  
もすその内にかき入れて  哀れみたまうぞ有難き  
いまだ歩まぬみどりごを  錫杖の柄に取り付かせ  
忍辱慈悲の御肌へに  いだきかかえなでさすり  
哀れみたまうぞ有難き  南無延命地蔵大菩薩 
「賽の河原地蔵和讃」の内容  
登場人物は、親に先立ち死亡した子供、その父母、地獄の鬼(1例では「獄卒」と表現)、地蔵菩薩である。なお、死亡した子供は、1例では、複数登場する。「河原の流れに嘆く父母の影写れば、‥‥乳房を慕ふて、‥身を焦して‥絶入る事は数知らず」、「賢き子供」、「這出る子供等」と河原にあって多様な行動をする姿が表現されている。死亡した子供が遭遇する艱難辛苦がいかに多く、むごいかを際立たせている。説話の効果を狙って、多くの子供を登場させているのであろう。物語の内容は、以下は以下のとおりである。  
1例  
この世は無常である、その中でも親に先立ち、子が死亡することが一番哀れである、と話を始める。賽の河原の場所は定かに示されない。  
十歳にも満たないで死亡した子は、昼は大石、夜は小石を積んで、父母、兄弟、そしてわが身の回向のため塚を作る。手足は石に擦れ出血し、父母恋しいと苦しげに歎く。死した幼子が父母、兄弟、そしてわが身の回向をなぜするのかは説明されない。  
獄卒があらわれ、幼子をにらみながら言う。「お前の積んだ塚は曲がっていて見苦しい。これでは功徳がない。積みなおして成仏を願え」と。そして、塚を壊す。  
幼な子は打伏して泣叫び、「罪は我にある。子供の罪科は、母の胎内十月間苦痛さまざま生まれ出で、短い期間で父母に先立つて死し、父母に歎きをかける事だ。乳の出でない時は、母にせまり胸を打叩いた。母はこれを忍んでくれた。報があるのが当然だ」と、罪を告白する。幼子は自身の罪と罰を承知している。  
また、獄卒は幼子に不可能な完璧さを要求する。ここで、塚を築く作業は、父母、兄弟、そしてわが身の回向のためではなく、無意味で不可能な苦役、すなわち罰を表示しているだけのように思える。  
幼子は河原の流れに映った父母の姿を見て、懐しい父母に「飢を救い給へ」と近寄るが、姿は消える。水は炎と変わり、焼け焦げて気絶する子供も多い。幼子の中で賢い子供は、地蔵菩薩に花を手折ってささげ、しばし呵責を免れようと、花の咲く木に登る。が、幼いために足を踏み外して、棘に刺さる。鮮血に染まりながらも花をささげる。もっと小さく、はいはいする子供たちは花を手折れないから、河原にある枯れ花を口にくわえて、地蔵にささげ、錫杖法衣に取付いて助け給へと願う。  
地蔵様、迷いを導き給へ、と願いと依頼で終わる。   
2例  
「この世の話ではない。死出の旅路の話だよ」と断りを入れている。賽の河原は山路の裾野にある。  
十歳にも満たないで死亡した子は、父母恋しいと泣きながら、回向のために石を積み塔を作る。父母、兄弟、そしてわが身の回向のためだ。なぜ幼子が父母、兄弟、そしてわが身の回向をするのだろうか。  
明示はされない。幼子がすることである、石積みは回向とは意識されず、本人にとっては昼の遊びであろう、と、理由はあいまいにされている。  
夜になると、地獄の鬼が現れ石積みの塔を壊す。理由を当の鬼が明示する。「父母は追善供養の勤めなく、酷や可哀や不憫やと嘆き悲しむばかりだ。親の嘆きが、子供のお前が受ける苦しみの原因だ。俺を恨むな」と。子供の罪は、父母に転嫁される。石積みの回向が何のためかがさらにあいまいになる。  
地蔵が出現し、「我を冥土の父母と思うて明け暮れ頼めよ」と、子供を救済する。救済の言葉および動作は細やかに表現される。  
お地蔵様への感謝で終わる。  
 
以上2例のように、「幼子が死亡して賽の河原で石積み、地獄の鬼が積み上げた石を崩す、地蔵が幼子を救済する」との話の大筋・展開は、幼い子供たちにわけのわからない恐怖を与える。  
死んでも鬼にいじめられる。地獄は怖いところだ。また、寺で地獄図を見ることも多かった。炎の中で鬼が大口を開けている。やせこけた男が食われる。炎の中に落下していく、等など。視覚・聴覚から恐怖が増幅され、記憶される。きっと夢に見て叫んだことだろう。  
なぜ死んでもいじめられるのか、近親者の死からは想像もつかない。安らかなデスマスクにそのような災難があるとは思いつかない。加えて、僧、祖父母あるいは父母が地獄図を解説する際に、生前悪いことをすると地獄に落ち、よいことをすれば天国に行くと聞かされていた。  
子供にとって、父母兄弟、友人、他人に悪いことをすれば地獄に落ちると理解はできる。だが、子供にとっての悪いことは限られる。また、自己主張の始まる時期である。賽の河原の物語を聞いても、理解しがたい。自己の無罪を主張する。賽の河原の子供はよほど悪いことをしたんだな、と解釈してこの話は忘れる。  
地獄に行かなければ、地獄が無縁であれば、地蔵様の救済は意味を成さない。村はずれのまん丸坊主の、優しいお顔は何回も見てはいる。現世ご利益のお願い事もした。あくまで願掛けの対象であり、苦の救済者ではない。子供に苦があろうか。あるのは現世ご利益、満たされない物質的欲望が大部分であろう。幸せなことに。 
和讃の狙い  
以上2例のように、「幼子が死亡して賽の河原で石積み、地獄の鬼が積み上げた石を崩す、地蔵が幼子を救済する」との話の大筋・展開は同じであるが、その目的したがって表現方法には差異がある。  
私が幼き日に直感した恐怖と違和感あるいは疑問に関わらして、この点の細部検討をしてみよう。  
1例では、幼子の有罪を主張している。幼子が生まれ、そして生きることは、母に苦痛・苦労を強いる。  
子の立場からは生命の自然の動きといえるが、父母にとっては産みそして養育することは容易でない。  
肉体的のみならず精神的にも、父母とりわけ母に犠牲を強いる。  
生まれた者は、無意識で、あるいは自己の欲求で強いた母の犠牲に対して、成長後に恩に報いるのがヒトであるとの前提がある。和讃は、幼子の死が恩を返さないことになること、そして新たな悲しみと苦悩を父母に強いることにおいて、子の罪と主張している。  
子の主張もあろう。「自分の好きで生まれたわけでない。あなたの好き勝手の結果でしょう」と。子は無罪で、ヒトの快楽、一歩謙虚に言えば、種の保存という自然の欲求が有罪というべきでしょう、との主張だ。  
子の有罪を主張すれば、時代や時代の倫理観・道徳に関係なく反論されたであろう。ヒトは自己を否定されたまま生きられない。  
時代の倫理観・道徳は反論を圧殺するが、子供の内部に鬱々と生き残る。そして、社会的また家族的葛藤・争いの中で将来に爆発する。  
もっとも、子供の無辜(罪のないこと)の残酷性は遊びの場面で見られる。小動物や植物を意味なく傷つけ命を奪う。罪の意識がないから、無辜(無罪)である。不法・不道徳であるが、責任は問えない。  
和讃は、上記を承知の上で、幼子を断罪するのであろう。そして、恐怖で有罪判決を納得させようとしたのであろう。また、2例の和讃では、幼子の罪は明示されていない。恐怖の罰のみを述べ、有罪判決を推測させる。ただし、この考え方は還暦を過ぎた現在のものであり、祖母の話を聞いたときは、納得できなく恐怖のみ覚えたのであろう。幼い日の違和感はこの感覚であろう。  
次いで、罪に対する罰が執行される。ヒトにとって、「考える葦」であるヒトにとって、最大の苦痛は、意味のないことを行うことである。ヒトは、自分にとってあるいは他人にとって役立つこと、意味のあることを行う。禁固・懲役の罰の基本は、周囲を遮断し、無為に過ごさせることであろう。もっとも現在は、受刑者の社会復帰あるいは矯正・再教育を目的に「正業の」作業を実施している。収入を得る、技術を身につける、場合によっては自己表現ができるなどの目的がある作業を実施している。また、思いにふけることが苦痛でない一部のヒトには、罰の意味がないこともあるだろうが。  
和讃では、罰として、父母、兄弟及び自分の回向のために石を積む作業が詠われる。ここで、理解しにくいのが、「回向のため」という作業目的である。  
「えこう・回向」は、広辞苑によれば、仏教用語で以下の意味であるという。  
(1)自己が行なった修行や造塔・布施などの善行の結果を、自己や他者の成仏や利益(利益)などのために差し向けること。  
(2)死者の成仏を祈って供養を行うこと。  
(3)浄土真宗で、阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し、またこの世に戻って人々を救済すること。前者を往相廻向、後者を還相(げんそう)廻向という。  
ここで回向とは、石を積んで塔をつくり、仏に対して献じて、自分の成仏を祈ることを言っているのであろう。塔は、自分のもののみならず、父母・兄弟の分まで作る。いたいけない子供が小さな手で世話になった人々への恩返しをする行動が、哀れさと悲惨さを増幅する。  
そう、自分が生き長らえれば、父母・兄弟の供養をする立場にある。その責務を果たせない無念さをここで現している。当然ながら、孝行・長幼の序という道徳が前提になっている。この道徳と仏教がなければ、石を積んで塔をつくることは遊びであり、創造であるかもしれない。強制されるのはつらいが、意外にも楽しみであるかもしれない。  
作られた塔は、地獄の鬼に破壊される。幼子の想いと行動の成果が無駄になる。哀れさと悲惨さはさらに増幅される仕掛けになっている。  
1例では、鬼が幼子に難癖をつける。「お前の作る塔はゆがんでいる。そんなもの回向の役に立つか」と。幼子を日夜目にする父母には子供の日々の成長が楽しみである。きのうできなかったことが今日できたと喜ぶ毎日である。完璧は期待できないことは十分に知り尽くして、少しでもできたことを喜ぶ親心である。ここも、親の気持ちを意識した巧みな計算の難癖といえよう。テレビドラマで嫁をいじめる姑の定番せりふを思わせる。  
2例では、鬼がこの場面で幼子に罪の説明をする。が、幼子にとって対応の仕様もない、辛い理由だ。「娑婆に残りし父母は、追善供養の勤めなく、ただ明け暮れの嘆きには、酷や可哀や不憫やと。親の嘆きは汝らの苦患を受くる種となる」物心ついた子供であっても、「私のために嘆かないで。仏に祈って」と、親に言えるだろうか。鬼が意図的な意地悪をしている。無論、子供への意地悪の効果は、父母とりわけ母に対する効果を狙っている。  
回向のための作業は石の積み挙げと破壊が繰り返されると、残酷な罰となる。無意味な行為の際限ない繰り返しは、耐えるのが困難だろう。繰り返しは記述されないが、推測される。  
1例では、加えて、幼子が苦しみから逃れる別の行動を記述する。賢い子は、地蔵の助けを求めてお供えする花を手折るために棘の木に登る。血だらけでやっと花を手にする。木に登れない小さな子は、はいはいで河原の枯れ花を拾い口にくわえる。はいはいする子が、地蔵の助けを求めてお供えする花を探す才覚があるかどうかは疑問だが、賢い子が教えるのであろうか。河原の石で傷つきながら、朽ちて異臭を放つ枯れた花を口にする姿は、まさに地獄絵の題材である。なお、2例では、更なる悲惨を記述していない。  
ここで、1例で不審に想うのは地蔵の行動である。地蔵はこのような悲惨な犠牲を求めている。罪ある存在としてのヒトは、苦しみの中で救いを求めなければならない、そして罪を認めたヒトのみを仏は救う、という行動をしている。 2例では、地蔵は救済者として幼子に呼びかける。「幼くして父母から別離した子供よ。今日からは私が冥土においての父母となろう」  
和讃は、1例では地蔵への「助けたまえ」という願い、2例は地蔵への感謝で終わる。地蔵さんのイメージも異なる。2例では、地蔵は自ら幼子に救いの言葉を呼びかける。天国と地獄を行き来して、特に子供を地獄から救い挙げる。1例では、地蔵は自ら救いを提供しない。はいはいする子が傷つきながら枯れ花を供花するのを受ける。「天は自ら助くる者を助く」のようである。  
時代、地域、宗派などによって、和讃の趣旨・目的があるいは地蔵のイメージが違うのであろう。上記のように、1、2いずれの例も、子供が罰せられる悲惨さ・哀れさを強調する筋書きであるが、1例は、子供の罪を断罪し親の苦悩を引き出す、2例では、親の罪で子が罰せられる様子を示し親を断罪する。 
和讃の果たした役割  
まず、和讃が歌い継がれた背景と役割を考えてみよう。  
今、戦前に生まれた世代以外では和讃を知る人は多くないだろう。祖母から聞いた和讃を私も子供に伝えた事はない。和讃が詠いつづけられた背景、あるいは地蔵信仰が継続した背景を、そして私が伝えなかった背景を考えてみる。  
和讃の主人公は、幼くして死亡した子供である。主人公は、時代とともにその数、死亡の原因に変化があるが、有史以来絶えることなく日常的な存在である。現在の父母にとっても、例外ではあるが、知らない出来事ではない。  
風水害・地震など天災地変、戦乱、事故、病気は、対策の進歩により減少しているが、これらの原因による幼子の死亡が避けられてはいない。飢餓は日本では皆無に近いとはいえ、地球の何処かで起きている。交通事故、殺人による死亡は近代の新たな原因である。間引き、人工中絶、虐待死は、その起因が異なるとはいえ継続して幼子のリスクである。  
ところで、和讃が生まれ育つには、幼子の死亡するリスクと救いの大衆宗教がなければならない。末法思想の大流行とともに、地蔵信仰が国民化したのは平安時代末期といわれる。それ以前では仏教は、奈良時代の移入以来、支配階級における護国宗教であった。その仏教が国民各層に信仰されるようになるのは、平安期の浄土教の流行を機としている。  
中央や地方の政治がみだれ,人々の心が不安になるにつれて,念仏をとなえて阿弥陀仏にすがれば,極楽浄土で幸福がえられると説いた浄土教がさかんになった。ここで、浄土教の変遷を見てみる。  
阿弥陀信仰である浄土教はすでに奈良時代に日本に伝わっていた。奈良時代には,阿弥陀仏像が多数つくられた。その本質は祖先崇拝、祖先の追善供養であった。死者を極楽浄土に往生させようとする呪術的儀礼が,奈良時代の阿弥陀信仰の本質であり,その哀訴の対象として阿弥陀仏が礼拝された。  
阿弥陀仏の救済によって「極楽浄土で永遠の命を得る」ということ、信仰は、諸行無常という仏教の根本原理と矛盾する。それは、インドで生れた仏教が諸文化・宗教の要素が加わることによって変容した結果と考えられている。阿弥陀仏の誓願(阿弥陀仏が仏になる前に、将来このような仏になろうと決意して建てた誓い)の中に、  
「念仏をとなえたならば・・・・極楽に迎え入れる」という表現があるそうだ。「‥‥すれば、極楽に迎え入れる」という考え方は、「契約」そのものである。  
シルクロードの活発な交流の中で、ゾロアスター教を介して旧約・新約聖書さらにはコーランへと流れる「契約宗教的」要素が含まれた、と考えられる。基盤は仏教でありながら、独特の教義を持つのが浄土教だといえる。この浄土教が日本に入り普及した経緯を見てみよう。  
仏教は、1世紀半ばの後漢代には中国にもたらされていた。3世紀から5世紀に、浄土教『無量寿経』、『般若経』、『維摩経』、『法華経』、『阿弥陀経』が翻訳され、浄土教『観無量寿経』が書かれ、後に言う「浄土三部経」が揃った。  
日本に広範囲に浄土教を布教したのは、円仁(794―864年)である。遣唐使として唐から帰国した円仁は、念仏三昧(ざんまい)の法を比叡山に伝え、いわゆる「山の念仏」をはじめた。休むことなく口に阿弥陀仏の名を唱え、休むことなく心に阿弥陀仏を想う行であった。十世紀の後半にいたると、日本の浄土教は新しい段階を迎える。  
空也(903―972年)および源信(942―1017年)の登場によって、浄土教は二つの方向に発展する。空也は、信者とともに鉦(かね)を叩(たた)き、踊りながら一心に念仏を唱えた。この踊り念仏は、激しい動作によって宗教的興奮をもたらす伝統的な修行の形式を継承したものである。念仏を自ら唱え、あるいは僧俗男女の別なく他の人とともに唱えるものであった。空也は各地の人々が集まる市などをめぐり,庶民に浄土教の信仰を説いた。「市の聖(いちのひじり)」といわれた。堂舎や念仏僧を必要としないため、庶民のあいだに根を下ろしていく。人々は、もっぱら死後の安楽を求め、呪術的な現世利益を念仏の行に期待した。  
他方、源信(天台宗の僧。恵心僧都(えんしんそうず)ともいう)は、985年に『往生要集』を著し浄土教を発展させた。末法の時代に「だれでも帰依しなければならないほどすぐれているのが浄土の教えである。  
顕教とか密教と呼ばれている教えはたくさんある。しかし、智恵のすぐれた人にとっては、それほどむずかしいと思わない教えであっても、私たちのような愚かな者は、どうして修することができようか。そんな人たちのために用意しておかれた教えが念仏の法門である。だれでも阿弥陀仏を一心に信じればすくわれる」と説く。  
『往生要集』は、すさまじい地獄の有り様と、妙なる音楽が響き天人が舞う清らかな極楽の有り様とを、対比的に生々しく描きだした。源信の説く浄土教は、僧侶、貴族で関心を集めた。彼らは、往生を確実にするために阿弥陀堂を盛んに建立した。その代表的なものが藤原頼通の建てた宇治・平等院鳳凰堂で、中堂は阿弥陀浄土を具現しているといわれる。  
ここで、時代の潮流であった末法思想について見てみよう。  
釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなるとするのが末法思想であり、中国から伝えられた。  
平安時代後期は、飢饉や日照り、水害、地震、疫病の流行、僧兵の抗争が続き、貴族も民衆も危機感を募らせていたので、末法思想が現実感をともなって受け止められる。  
最澄によれば1052年(永承7年)に末法に入るといわれ、仏教界のみならず一般思想界にも深刻な影響を与えた。末法の世という時代と、その時代に生を受けた人間の性質に相応しい教えとして生まれたのが、法然や親鸞などの、いわゆる鎌倉新仏教だと言われる。  
仏教の大衆化を以上の経過をたどったという。ここで、本題の地蔵信仰を見てみよう。地蔵菩薩は、梵語で、命の源泉である「大地」を意味するという。インドにおいて、釈迦生誕以前に、婆羅門教(バラモン)の地神であったという。釈迦が悟りの境地に達せられたとき、この地神が現われて、釈迦の悟りを証明したという(「過去現在因果経」)。  
また、地蔵十王経によれば、閻魔大王に化身し、死後の裁定を行なうという。地蔵十王経等の地蔵経典は、奈良時代に伝来したが、信仰はさほど広がらなかった。  
平安時代、社会状況の不安定、末法思想の流布、浄土教の庶民層への普及、の時代環境の中で、釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するまで、すなわち末法の時代に、現世利益はもとより死者を輪廻から救済すると信じられ存在感を示した。  
また、室町時代になって、六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)の一切衆生を教化する存在とされ、地蔵菩薩が爆発的に信仰されるようになったという。六地蔵は、六世界に現れた地蔵の姿を表わしたもので、宝珠地蔵・宝印地蔵・持地地蔵・除蓋障地蔵・日光地蔵・檀陀地蔵という名前が付いている。日本古来よりの道祖神と習合して発達したという。  
さらに、江戸時代には、身代わり地蔵信仰が発展して、延命地蔵・子育地蔵・腹帯地蔵・とげぬき地蔵・水子地蔵などが作り出された。  
地蔵像の形には、一般に童子の姿の地蔵と僧形の地蔵があるが、歴史的には僧形のものが古い形で、だいたい12世紀ころから童子の形の地蔵が出てきたとされる。  
大寺院や荘厳な阿弥陀仏に代表される護国仏教として信仰された仏教が、庶民の素朴な信仰と結合して、六道の苦と日常的な救済の祈りとして、庶民に地蔵信仰が広まっていく。その確かな証左が、童子の形の地蔵であり、身代わり地蔵信仰である。今も全国の村はずれに立つお地蔵さんは庶民の信仰の長い歴史を証明する。もちろん、仏教の経典に見られる複雑な論理は忘れ去られる。地蔵が閻魔大王に化身し、死後の裁定を行なう、同時に、釈迦入滅後弥勒菩薩が出現するまで、現世利益はもとより死者を輪廻から救済するという論理は分かりにくい。閻魔=鬼、地蔵=救済者、の二元論の中で、庶民の個別の苦しみごとに、諸地蔵が生まれる。「生まれる」「育つ」という庶民の切ない望みに地蔵はかかわっている。  
和讃はこの地蔵信仰の中で生まれ、そして庶民信仰を構成し、歌い継がれて行く。  
明治期の国家神道創設の中で、廃仏棄却の強権発動を通じ、仏教が壊滅的打撃を受ける。ただし、国家権力といえども、庶民信仰を消し去ることは出来ない。地蔵は村々に残り、和讃も歌い継がれる。しかしながら、老獪な国家権力は、教育勅語・軍人勅諭・天皇信仰の社会システムで、精神と生活様式を規制する。地蔵も和讃も反国家的でないので、黙認されたというべきかもしれない。あるいは、庶民の迷信とさげすまれながら見捨てられたのかもしれない。祖母もそんな中で、賽の河原地蔵和讃を詠い続けていたのだろうか。  
戦後、天皇の人間宣言および教育改訂に伴い、日本教信仰の支柱が崩壊する。同時に経済混乱と経済発展の中で、宗教の多様化と無宗教化が進展する。食べるのが最優先であり、また、豊かになっていく。  
リスクの形が変わっていく。また、リスクの認識の仕方も変わる。病は治療される可能性が見出される。貧困は乗り越えられる可能性が見える。種々のリスクに回避の可能性が見える。もちろん、死には回避の可能性がないのは知っている。科学知識の普及の中、賽の河原地蔵和讃の物語は現実との接点を失っていく。  
ただ、人の悩みは尽きない。人のすぐ傍にずっといた地蔵は、密やかに立ち続ける。そして、新たに生まれ変わる。親族に迷惑掛けないで安らかに死にたい、こんな望みは、ぽっくり地蔵を生む。  
が、地蔵が持つ閻魔大王への化身、地獄の裁定者の側面なくして、和讃は生まれない。救済者だけを望む、現世利益だけを望む世界に、和讃は育たない。物言わないお地蔵さんは立ち続けても。大菩薩峠から尾根伝いに岩場を乗り越えると、旧峠に至る。賽の河原と命名されている。 
 
 
安楽寺松虫姫鈴虫姫和讃

帰命頂礼 都にて 東山なる 鹿ケ谷  
仰いで松虫 鈴虫の あらまし由来を 尋ぬれば  
円光大師の 御弟子にて 住蓮上人  安楽は  
柴の庵の 明け暮れに 心を澄ます 谷水の  
流れを人の 聞き伝え 人里まれなる 鹿ケ谷  
なお山深く 分け入りて 柴の庵を 結びつつ  
恵心僧都の 御作なる 座像の弥陀を 安置して  
不断念仏 なしたまう その頃松虫 鈴虫は  
後鳥羽御門の 后にて 容顔美麗に なりければ  
御門の寵愛 浅からず 数多の官女の 妬みより  
とかく浮世を 厭い捨て 菩提の道を 求めんと  
一念心を 傾けて 剃髪染衣を 求めんと  
夜も深々と 丑の刻 錦の褄を 手に持ちて  
徒歩や跣で 二人連れ 潜み潜みて 裏門を  
手に手を取りて 出でたまう おりしも九月の 末なれば  
月は隠れて 真の闇 足は急げど 夜の道  
歩みも馴れぬ 山坂を 辿り辿りて 鹿ケ谷  
いまだ東雲 明けざるに 住蓮安楽 二方は  
はや晨朝の 勤め声 朝の嵐か 松風と  
宝の起伏 極楽を したう思いの 山寺の  
門の扉を 押し開けて いとしみじみと 礼拝し  
住蓮安楽 二方は 具に事の 由を陳べ  
剃髪染衣を 願いなば 言葉揃えて 御歳は  
幾歳にならせ たまうぞと 問わせたまえば 松虫は  
歳は十九に 鈴虫は 十七歳と 答えたまう  
雲居に住みし 女中方 花か蕾を 見るような  
いまだ年端も いかぬ身で 出家を願う こころざし  
最も殊勝の 事ながら しばし時節を 待ちたまえ  
示したまいて 剃髪を 止めたまえば 女人らは  
余りに儚き 娑婆世界 老いも若きも 諸共に  
今に出かくる 未来をば 心に懸けし われわれよ  
密かに禁裡を 出でしより いとど出家が 叶わずば  
哀れ尊き 法のみを 何処の河辺に 沈むとも  
ふたたび禁裡へ 帰るまじ 暇の誓いを たまわれば  
住蓮安楽 二方は 詮方なくして 許したまう  
憐れなるかな 女人らは 緑の黒髪 剃り落し  
松虫妙智と 鈴虫は 妙貞法尼と 名を変えて  
容顔美麗の 姿をば 松葉の煙に くすべつつ  
墨の衣に 麻の袈裟 夜半に紛れて 粉河へと  
月の行く影 諸共に 都の露と 消えたまう  
その後住蓮 上人は 出家を許せし 咎として  
建永二年の 春の頃 二月九日 午の刻  
衣に邪見の 縄を掛け 辛き憂目の 近江路や  
馬渕の里に 曳き出だし ここにて暇を たまわると  
西に向かいて 手を合わせ 念仏唱える 後ろより  
閃く太刀の 稲妻の 首のあとより 一本の  
妙なる蓮の 咲き出でて 消えて儚く なりたまう  
その後安楽 上人は 倶に籠れる 鹿ケ谷  
出家を許せし 咎として 建永二年の 春の頃  
二月九日 午の刻 六条川原に 引き据えて  
西に向かいて 手を合わせ 日没礼讃 行じつつ  
六条河原の 水の泡 消えて儚く なりたまう  
その後松虫 鈴虫は 加多ヶ浦より 船に乗り  
安芸国なる 厳島 光明三昧 院に着き  
住蓮安楽 二方の 菩提を弔い たまいしに  
おりしも松虫 局には 三十五歳の 御歳にて  
その後鈴虫 局には 四十五歳の 御歳にて  
光明輝き 華も降り 紫雲棚引き 極楽の  
音楽歌舞と 諸共に 消えて儚く なりたまう  
かかる謂れを 聞く人は 仏恩報謝の 為にとて  
明け暮れ称名 唱うべし 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 
松虫姫鈴虫姫和讃  
和讃(わさん)とは、和文で仏・菩薩や仏教の教え、寺の由来、あるいは先徳の伝記や行蹟などを讃歎した歌のことをいい、訓伽陀・御詠歌と並ぶ仏教讃歌のひとつです。『安楽寺松虫姫鈴虫姫和讃』は、その題名が示すように、安楽寺の縁起について述べた和讃です。つまり後鳥羽上皇の女官であった松虫姫と鈴虫姫が、安楽寺の開山である住蓮上人と安楽上人のもとで剃髪染衣(ていはつぜんね)を求め出家するいきさつが、七・五調の句を重ね、美しい調べにのって語られています。  
安楽寺さんの御詠歌に  
身も安く 心も安き 古寺の 深き恵みは 楽しかりける 
 
現世利益和讃 十五首

阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて  
 金光明の寿量品 ときおきたまへるみのりなり  
山家の伝教大師は 国土人民をあはれみて  
 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなふべし  
一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば  
 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり  
南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし  
 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ  
南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す  
 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり  
南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに  
 よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず  
南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す  
 かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり  
南無阿弥陀仏をとなふれば 難陀・跋難大竜等  
 無量の竜神尊敬し よるひるつねにまもるなり  
南無阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す  
 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり  
南無阿弥陀仏をとなふれば 他化天の大魔王  
 釈迦牟尼仏のみまへにて まもらんとこそちかひしか  
天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり  
 これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり  
願力不思議の信心は 大菩提心なりければ  
 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり  
南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに  
 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり  
無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして  
 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり  
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は  
 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり 
 
聖人和讃

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南  
弥陀成仏の このかたは  
いまに十劫を へたまへり  
法身の光輪 きはもなく  
世の盲冥を てらすなり  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南  
知恵の光明はかりなし  
有量の諸相 ことごとく  
光暁かふらぬ ものはなし  
真実明に帰命せよ  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南  
解脱の光輪 きはもなし  
光触かふる ものはみな  
有無をはなると のべたまふ  
平等覚に帰命せよ  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南  
光雲無碍如虚空  
一切の有碍に さわりなし  
光沢かふらぬ ものぞなき  
難思議を帰命せよ  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南  
清浄光明ならびなう  
遇刺光のゆへなれば  
一切の業繫も のぞこりぬ  
畢竟依を帰命せよ  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
南  
仏光照曜最第一  
光炎王仏と なづけたり  
三塗の黒闇 ひらくなり  
大応供を帰命せよ  
願以此功徳  
平等施一切  
同発菩提心  
往生安楽国 
 
賽の河原

幼くして、親よりも早く亡くなった子どもが行き、いつ終わるともなく石を積み続けるという苦を受ける、三途の川の河原を“賽の河原”といいます。現世と来世の境界にあるとか、冥土の手前にあるといわれています。観念上の地獄の一つですが、これを現世に現出させた場所でもあります。平安時代の僧・空也による西院河原地蔵和讃の「一重組(積)んでは父のため、二重組(積)んでは母のため」という哀しい旋律が涙を誘い、ここは子どもの霊が浮遊する霊地というイメージがあります。中世以降、多くの女性たちがこの場所で今は亡き子どもの冥福を祈り、罪悪感に責めさいなまれている自分を慰めてきました。  
これから賽の河原の歴史や意味をご紹介してまいります。見慣れない言葉が多数出て来てわかりにくいかもしれませんが、最後までお付き合いください。なお、私は専門家ではありません。理解不足や間違いも多々あるかと思います。どうかご容赦の上ご教授ください。  
さて、これまでに発見されている古代から近世の史料には、賽の河原の成立過程を書いたものは発見されていません。しかし民俗学、歴史学等の研究によって多くのことがわかっています。たとえば、先の和讃は空也(くうや)の作ではないというのはもはや常識です。真鍋氏は元禄9(1696)年〜寛保2(1742)年に創作されたと主張し、森山氏は真鍋説よりもう少し古いと主張しておられます。空也は民間浄土教の祖とされ、生前から市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖といわれて庶民に慕われた高僧です。このような人物の作とすることで、和讃の価値や効果を高めようとしたのだと言われています。後述するように、賽の河原は日本生まれ民間に伝承された思想であるため漢字がありません。そこで西院河原、西の河原、佐比河原、塞河原など様々な字があてられ、それらしい言い伝えと共に伝わっています。  
賽の河原の起源は、村境、峠、四つ辻などの“境界”に道祖神[塞(さえ)の神]を祀って柴を折ったり石を置いて(積んで)、流行り病など災いの侵入を塞(さえ)ぎろうとした道祖神信仰にあるといわれています。道祖神信仰は仏教が日本に伝来する以前から日本にあった民間信仰です。これに地蔵信仰、仏教が習合して完成しました。このように賽の河原の原型は古代からあったのですが、“さいのかわら”が初めて文字にあわられるのは室町時代の御伽(おとぎ)草子『富士の人穴草子』です。富士の人穴を探検して様々な地獄に出会った武将が、帰ってからこれを人に話したところ死んでしまうという話です。また、絵画(地獄絵図)に描かれるのも室町時代が初出です。  
冒頭の“幼くして”とは何歳くらいまでをいうのでしょう。上述の『富士の人穴草子』でも、筆で書き写した本(江戸初期)には7〜8歳とあり、版画刷りした本(江戸初期)では12〜13歳となっています。また、西院河原地蔵和讃には“十にも足らぬみどり子(嬰児)が”と表現されています。“十より下の”とされているものもあります。いずれにしても十歳であることにかわりありません。室町時代の末期、駿河国(静岡)では15歳以上の者の処罰が規定されていました。その30年後の甲斐国(山梨)では、13歳以後の者が殺人を犯した場合は罪を免れないとされていたそうです。江戸時代に幕府は、10歳までを幼少として罪を問わないとしていました。こうした少年法の精神に基礎を置いて西院河原地蔵和讃は創作された、と真鍋氏は書いています。また、“みどり子”という言葉には、石を積み続けるような苦役を苦と思わないような幼さが表現されていると思います。まったく関係ありませんが、心理学的に9歳は重要な意味をもっています。“9歳の壁”といいます。9〜12歳は具体的思考から抽象的思考に移行する時期です。“たとえ話”で物事を理解できるようになるわけです。また、9〜15歳の間に文化を獲得します。その国の人になるということです。9歳以上の年齢になると生意気な口を利くようになったり、イジメや自殺が起きたりします。また、海外への適応も幼い頃よりも困難になります。  
法華経の方便品に次のようなことが書かれています。仏のために塔や像や廟などを建立した人は、もはや誰もが仏道を成就した(悟りを得た)ことになります。それが子どもであっても同じです。たとえば、子どもが石を砂を集めて仏塔を造ったなら、それが遊びであっても、もはやこの子は仏道を成就したことになります。この「乃至童子戯 聚沙為佛塔 如是諸人等 皆已成佛道」という一節が賽の河原の根拠だという説があります。法華経が賽の河原の成立と発展に与えた影響は重大ですが、江戸時代に出されたこの説は否定されています。法華経で石を積むのは生きている子どもであって、亡くなった子どもではありません。また、この一節は石を積むことの根拠にはなるかもしれないが、賽の河原が創造された根拠にはならないともいわれています。こうした批判も踏まえて、賽の河原は仏教経典に基づいた信仰ではなく(経典には書かれていない)、中世後期(室町時代)に日本で創造された地獄だとする説が定着しています。“七歳までは神のうち”という言葉があります。この年齢までは人間よりも神に近い存在であって、死んでも生まれ変わるという思想です。ですから子どもが亡くなっても、その葬儀は大人よりも簡略に、しかも大人とは異なる場所に埋葬されました。それが室町時代になって葬送儀礼(葬儀、先祖供養)を介して仏教が庶民生活に浸透してくると、墓の形態が変化したり、子どもの位牌を作るようになるなどの変化がみられるようになります。また、子どもの肖像画が描かれたり、子どもへの刑罰が定められたりしました。子どもへの関心の高まりがみられるのです。こうしたことを背景にして、日本で初めて“子どもを対象にした”“子どもの堕(お)ちる”地獄として賽の河原が創造されたのです。中世後期から近世にかけて、女性は血のケガレがあるので血の池地獄に堕ちる、という思想が各地にひろまります。出産時に死亡した女性もこの地獄に堕ちるとされました。これは仏教の女性差別思想が根本にあります。女性の血はケガレているという考え方は、古代の、少なくとも仏教伝来以前の日本人にはなかった観念のようです。また、子どもを産めなかった/産まなかった女性は石女(うまずめ。不産女)地獄に堕ちます。そこで女性たちは、屈辱的で、しかも無意味で不可能な作業を永遠にさせられます。人々(特に女性)は救われたい、成仏したい、タタリが怖いという心意から、護符(ごふ)を買って身につけたり、観音や地蔵に祈ったりしたのです。  
中世後期に日本で誕生した地獄(賽の河原、血の池、石女など)は、実は、非常に現実的な理由から作為的に作られたものだったのかもしれません。血の池地獄がこの時代に普及した背景について、高達氏がおもしろいことを書いています。要旨を書きます。中世後期、荘園経済が衰退して金持ちからお金を集めることが困難になってきた。そこで庶民からもお金を集めるため、庶民にもわかりやすい地獄を創り出し、絵画に描き、唱導によって広めていったことも想定される。唱導にしても、和讃にしても、「おとしめて、おとしめて、救う」ものだった。血の池と賽の河原はセットで考えていくべき地獄ですから、血の池だけでなく賽の河原も、このような理由があって創造されたのかもしれません。  
天下が統一されて戦乱が治まった江戸時代、幕府は封建体制の立て直しをはかるため士農工商の身分制度を導入します。子どもが家(家督、家業、家財、先祖供養等)を継ぐ仕組みも確立します。家を代々維持継承していくためには跡継ぎが重要です。よって、これまで以上に子どもは重くみられるようになり、女性は子ども(特に男の子)を産み育てることが必要にして十分な役割だとされます。幼いときには親に従い、嫁したら夫に従い、子を産み育て、老いたら子に従いなさいということです。こうして女性の心性、権利と地位は中世よりもさらに抑圧されたものになります。身分制度と男尊女卑をはじめ、疫病、貧困、時に訪れる飢餓といった苦しみを救ってくれるのがお地蔵様だ、と人々はみなしていました。そんな庶民の味方であるお地蔵様を政治が利用します。江戸幕府は人心を掌握し、体制を維持していくために寺院に着目します。僧侶を通して、勤勉や(忠孝の)孝を守る(=親孝行)ことを庶民に徹底し、ひいては、謀反や異教信仰を阻止しました。幕府は檀家(だんか)という仕組みをつくって、寺院を通した間接的な民衆支配を行ったのです。西院河原地蔵和讃が創作されたのは、こんな時代でした。室町時代の賽の河原(の絵画や物語)には鬼は必須ではありませんでしたが、西院河原地蔵和讃では必ず出てくる必須アイテムになります。和讃の描く世界が恐ろしければ恐ろしいほど、悲しければ悲しいほど、庶民はお地蔵様と寺院への信仰を篤くしました。ひいてはそれが国の体制の安定に寄与することになります。抽象的にいうと、賽の河原は舞台であり、西院河原地蔵和讃は舞台で演じられる演目であったと思うのです。新潟県長岡市(旧・栃尾市)では一時途絶えていた河原での石積みが復活しています。このような行事は江戸時代に庶民の間にお盆(盂蘭盆会)が普及した結果、先祖を供養する目的で行われるようになったものです。「地蔵信仰と盂蘭盆に付随し、地蔵経から生まれた祖先供養の行事のひとつであった」(石田)ということです。  
賽の河原にお地蔵様(地蔵菩薩)がいるのはなぜなのでしょう。今でもお地蔵様は子どもの守り神だといわれます。また、道祖神も子どもを管轄(管理)する神だといわれていて、地蔵菩薩は道祖神を継承したとか、道祖神の“本地”であるといわれます。これは江戸時代に出てきた説です。一方、平安時代の十王信仰では地蔵は閻魔(えんま)と同体だとか、閻魔の“本地”であるといわれます。閻魔様は地獄の支配者です。手に持った鏡で、亡者が生前に行ったすべての所業を映して裁断をくだす神です。お地蔵様はこれら地獄に堕ちた亡者を救うばかりか、来世往生(成仏)と現世利益をもたらしてくれる仏だとみなされていました。なお、現世利益とは病気退散と回復、無病息災などこの世での利益を望むことです。観世音菩薩、弥勒菩薩など、菩薩にも何人かいますが、“菩薩”とは仏(如来)になろうと修行中の存在です。地蔵菩薩は仏となって来世(浄土)に常住せず、来世と現世を行ったり来たりしながら、地獄や人間界などあらゆる世界(六道)にいる人々の迷いや苦しみを救おうと誓いをたてます。来世と現世の境で苦を受けている子どもを救うには、ちょうどよいのかもしれません。外見は人に近い、修行僧の格好をしていて親しみやすい存在ですが、地蔵菩薩の功徳はほかの菩薩よりも優れているとされていました。  
賽の河原に出てくる鬼は仏塔を壊すわけですが、それは子どもの仏道成就を邪魔することになります。いえ、それ以上に、法華経の精神を邪魔する「悪」だといえます。地蔵菩薩はそんな悪鬼ですら殺したり、打ちのめしたりしません。それだけ地蔵菩薩の“大きさ”が強調され、人々の信頼を集めたのでしょう。このようなことから地蔵菩薩は、賽の河原の救済者として最適な存在であったのです。  
以上の地蔵菩薩の利益についての説明は、地蔵経典をはじめ縁起・説話などに書かれていることです。地蔵信仰はインドで誕生し、中国を経由して、日本には奈良時代に地蔵経典が伝えられました。お地蔵様は伝来時から庶民の仏というわけではなく、はじめは僧へ、平安時代に貴族に信仰されました。その後に武士や庶民に伝わり、室町時代に入ると賽の河原が創造されるなどして庶民に定着します。近世の地蔵信仰は身代わり地蔵、子安地蔵などの信仰法に発展します。こうした石仏が盛んに建立され信仰されました。このように地蔵信仰の視点からみた賽の河原は、地蔵が民衆社会に定着し発展していく中での一過程である、と捉えられているようです。  
残念ながら、私は、賽の河原の数を全国集計した文献を見たことがありません。本やネットで賽の河原を探したところ、北は国後島から南は九州まで100か所以上を見つけることができました。沖縄は不明です。私が見つけることができなかったり、撤去されていたり、地元の老人が知るのみでまったく語られていない場所などもあるでしょう。ですから昔はこの数倍はあったのではないでしょうか。ではどんな場所にあるのでしょうか。具体的には山(信仰の山、火山、温泉湧出地)、水辺(海岸、岬、川岸、沼や湖の淵)、洞穴、墓地、寺院、神社のうち、ひとつ以上の要件に合致する場所にあるようです。上に書いたように、賽の河原の起源は道祖神にあって、峠、四つ辻などに建てられたといいます。しかしネットや本に書かれた賽の河原を一覧にしてみると、峠や四つ辻とされる場所にはほとんどありません。消滅や移動を考慮に入れても、少なすぎるのではないかと思います。この点はもっとよく検討する必要があるのではないでしょうか。賽の河原というと元箱根が有名です。ここ(現在地)に移転される前は精進池のほとりにあって、鎌倉時代に地蔵霊場とされた場所でした。「かつて箱根は地獄だった」といわれますが、噴煙、溶岩、熱湯といった風景を往時の人々は地獄とみたのです。実際に、箱根には大地獄(大涌谷)、小地獄(小涌谷)などといわれる場所がありました。地獄を思わせるような場所、海岸沿いや山中で修験者は自然と一体になりながら修行し、悟りを得ようとしました。そして、修験者は各地で地蔵信仰をひろめつつ、人々を救済します。来世往生と現世利益の要求に応えていったわけです。室町後期から江戸初・中期にかけて、修験者たちは賽の河原を造営したり、または、名づけていきました。このように、賽の河原の所在する場所には法則があります。何の脈絡もなくそこに存在しているわけではなく、周辺地域の信仰状況を反映しているということができます。近くに地獄絵図が伝えられていたり、地蔵や浄土といった名のついた山・川・地名があったり、修験(天台・真言)の寺院があったり、弘法大師や役小角(えんのおづぬ)の伝説が残っていたりします。(弘法大師空海は言宗の祖であり、役小角(または役行者)は修験道の祖とされています。)なお、周辺地域という場合、町内とか郡市町村といった範囲ではなく、もっと広い地域で理解したほうがよいようです。(北信州、下北、房総といった感じ)  
近年、寺院境内に水子供養を目的とする賽の河原が造営されています。水子の考え方は中世にもあったようですが、これを供養しようとする考え方が出てきたのは近世(おそらく江戸初期)に入ってからです。しかも、本格的になったのは、昭和40年代以降のことです。  
西院河原地蔵和讃では、追善供養を怠って親が嘆いてばかりいるから子どもは苦を受けるのだ、とうたわれます。また、賽の河原に現れたお地蔵様は、泣き叫ぶ子どもを衣で隠して守ってくれますが、鬼を追っ払ったりやっつけて、子どもが石を積みやすいようにはしてくれません。これについて盛永氏は、これこそが賽の河原のお地蔵様の慈悲なのだとして、次のような説明をしています。子どもにふりかかった苦難を親や大人が取り除いてやるのではなく、苦難に立ち向かえる勇気と忍耐力を持つ子どもに育て(教育し)なさい。自分にも子どもにも苦労をさせない(=鬼を追い払う)ようにする人が多いけれども、それが幸せではありませんよ。現代社会には“極楽”はあっても“地獄”がありません。ないというよりも否定する社会といったらいいかもしれません。地獄とは恐れを知り、自らの限界に気づく場所だと私は思います。イケイケドンドンの世の中で、恐れや身のほどを知って退くことをしないので、脱落者が出たり、精神的な疾患を呈す人が出てくるのです。ですから、“地獄”が持つ意味は現代でも失われていないと思いますし、子育てにおいて賽の河原が担っている役割も失われてはいないと思います。  
古臭いといわず、また、気味が悪いと妄想を膨らませずに、あなたも賽の河原を訪れてみませんか。 
奥尻島賽の河原 (北海道奥尻郡奥尻町稲穂)  
海難犠牲者、幼少死亡者などの慰霊の地。奥尻島賽の河原は奥尻島の北端、稲穂地区の荒涼とした海岸沿いにある。この賽の河原は15世紀に霊場となり、明治20年8月には地蔵尊が祀られた。約6ヘクタールにおよぶ敷地に石積みが並び、海難水死者の家族や奥尻島出身者が帰島するとお参りに来たという。  
この平和な慰霊の地は、1993年7月12日に発生した北海道南西沖地震によって壊滅的な被害を受けた。震度6の烈震に加え、標高4〜7mの稲穂地区に最大高さ9.1mの津波が押し寄せた。このため地区内すべての住宅・小学校は全半壊を含む何らかの被害を受け、死者・行方不明者は16名を数えた。賽の河原もこの地震によってすべてが破壊された。石積みはもちろん、地蔵も流されてしまった。一部の地藏はその後に発見され、地蔵堂に安置された。その地蔵堂は半壊した。3軒の売店も使用不能になった。この地震の後、この一帯は公園として整備され、地蔵堂も再建された。併せて、地震によって亡くなられた稲穂地区住民の慰霊碑が建立された。地震後、賽の河原を訪れる人は減ってしまったという。それでも、参拝者によって積み上げた石の塔は、今日も海の安全と亡き幼な子の鎮魂のため、海を見ながらひっそりと立っている。  
毎年6月22日、23日に盛大な例祭が営まれている。地元3集落が一年交代で準備運営している。地震以後には、海難犠牲者慰霊、水難溺死者慰霊、幼少死亡者慰霊のほかに北海道南西沖地震被害者慰霊という目的を追加して、地震後も毎年滞ることなく続いている。迎え火、送り火、読経や灯篭流しなどの宗教行事のほか、芸能発表やソフトボール大会などの娯楽行事も盛大に行われている。  
最後に、『旅と伝説』に出ていたことをまとめておく。奥尻島開発当初この周辺は難破船の残骸が累積しており、その中に地蔵堂があった。幕末の嘉永4(1851)年に初めて供養が行なわれた。その後、明治20(1887)年に大施餓鬼が行なわれたが、このさい亡霊がたくさん集まってきて、祭壇が弓なりに曲がった。この年以降、毎年のように供養をするようになった。 
積丹半島西の河原 (北海道古宇郡神恵内村珊内)  
積丹半島の西側、ジュウボウ岬の付け根にあたる位置に西の河原がある。神秘的なところといわれており、また、霊地とされているが、交通不便な地にあるため訪れる人は少ない。地元の人々によって信仰され、守られている。  
積丹半島は船の難所であり、多くの人が遭難した。犠牲者の霊を慰めるために地蔵が祀られるようになり、地蔵堂の前には浜の石が積み重ねられている。近くには地獄穴、極楽穴、血の池と呼ばれるところもあり、悪いことをした人はその沖に落ちるといわれている。  
以下、参考文献に記されていることを書いておく。神恵内村にはすべての町内に地蔵が祀られている。西の河原の地蔵は木の根を人型に彫ったものだが、亡児の救済、海難者供養、家内安全、海上安全、大漁祈願など幅広く利益があるとされている。特に、海難犠牲者供養の色彩が強い。地蔵堂には石の地蔵も30体ほどある。江戸時代末期、安政3(1856)年松浦武四郎の日誌に「和人西院川原という。舟を寄るに小石を積置けり。(中略)余は丙午[弘化三年]の年ここに一宿せし時、水夫の話とて、此石を昼崩して置時は、夜の間に前日の如く積あると語るに、余試し事あれども、人の信をさます事故記さず。」(一部現代語に修正。弘化三年は1846年))とあり、この時代にはこの場所で石積みが行われていたことがわかっている。昭和30年代までは1月、6月の年2回月舟寺と西の河原を会場に地蔵講が行われていたという。その後は6月23〜24日のみ執り行われた。昭和61(1986)年〜平成10(1998)年まで6月に西の河原極楽まつりを同時開催していたが、13回目で終了している。(その後の地蔵講の開催状況はわからない。)ここの地蔵の言い伝えには次のようなものがある。難船で妻子を亡くした男性が妻と子どもを木に彫って祀ったことに始まる。浜に漂着した流木をニシン粕(魚肥)を作るための薪にしたが燃えず、海に流しても浜に打ち上げられるので地蔵にした。 
恵山賽の河原 (北海道函館市柏野町)  
霊峰恵山は函館市(旧・恵山町)のシンボル。駐車場から賽の河原までは遊歩道がのびており、ところどころの地蔵を眺めながらそぞろ歩く。点在する地蔵には一つひとつ番号がふられている。そのほか、個人が寄進したと思われる名入りの観音様が建っている。 
恐山賽の河原 (青森県むつ市田名部字宇曾利山)  
恐山(宇曾利山)は西暦862年に慈覚(じかく)大師円仁が開闢し、恐居山金剛念寺と称した。この頃は天台密教の寺であった。蛎崎(かきざき)の乱で寺は破壊(1457年)されて衰退したが、1530年に聚覚(じゅかく)によって再興された。曹洞宗に改宗され、釜臥山菩提寺と称して円通寺(むつ市)が別当をつとめた。なお、聚覚は円通寺の開山(開祖)である。  
賽の河原がいつから在ったのかはわかっていない。次の2点の資料にその存在を確認できる。1点目は『恐山本坊円通寺誌』である。寛政5年(1793年)8月付けの覚に“西院ノ河原 石仏ノ地蔵尊”との記述がある。2点目は菅江真澄の日記である。寛政5年6月23日付けの文中に“さいの河原”との記述がある。菅江のほうが円通寺誌よりも数十日古い記述である。これら2点よりも古い記述は見つかっていない。  
賽の河原の石造阿弥陀如来坐像の台座に、安政4年(1857)の日付とともに、出産時に死亡した女性(享年25)の供養のための血盆経が刻まれている。  
恐山の広大な敷地には4つの温泉(かつては5ヵ所)、地蔵堂、イタコが口寄せを施行する建物などが点在している。敷地内は火山岩が山積みになっており、亜硫酸ガスがブクブク、ジュワーという音をたてながら湧出し臭気を放っている。このような場所は賭博地獄、血の池地獄などと名づけられ、108の地獄(かつては136地獄)とされた。そして宇曾利湖の湖畔に賽の河原がある。  
恐山はもともと豊作・大漁、航行安全など現世利益を祈願する民間信仰の地であった。18世紀以降、仏教経典に基づく地蔵信仰が習合し、徐々に死者&先祖を供養する信仰が加わった。しかし江戸時代はまだ現世利益を祈願する地としての機能のほうが大きかった。(蝦夷地と交易する海商が恐山を信仰した。多くの寄進物が残されている。)死者の魂はお山に登るという山中他界観は江戸時代にもあった。夏の大祭では恐山に登拝し供養が行われた。このような観念は地域の女性たちによる“地蔵講”によって支えられてきた。現在のようなイメージが固着するのは太平洋戦争後のことである。戦争で家族を亡くした人々が恐山登拝して死者を供養し、イタコの口寄せによって癒されたのである。その後テレビが普及して恐山とイタコの存在が映像によって知らされたことで参拝者が増加し、かのイメージが強固なものとなっていったのである。  
恐山というとイタコの口寄せが有名だ。私が訪れたときにも、平日であったにもかかわらず、口寄せを行っている姿をみることができた。大祭の日にはさぞや賑うことだろう。とはいえ、大勢のイタコが集まるようになったのは戦後のことであり、戦前にはわずか2〜3名が施行するにすぎなかったのだという。  
恐山には言い伝えが多い。特に人が亡くなる前後に恐山で姿を見かけたという話が多い。下北地方では人が亡くなると恐山に上っていくとか、恐山は死者の霊の集まるところといわれたことに由来している。ほかに、大祭には地獄の釜が開くのでじいさん、ばあさん、子供の霊が賽の河原にやってきて遊ぶ。夜中にこの地を訪れると子供たちの泣き声や笑い声が聞こえるという言い伝えもある。 
今泉賽の河原 (青森県北津軽郡中泊町今泉)  
シジミ貝で有名な十三湖を望む高台に、湖を望むように今泉賽の河原がある。本堂をはさんで、(屋外に)大きな地蔵が2体、小さな地蔵が33体並んでいる。すべての地蔵がかわいらしい帽子と服を着せてもらっている。この賽の河原は、「日本最古のイタコ発祥地」「川倉賽の河原(川倉地蔵尊)発祥地」と言い伝えられている。  
今泉賽の河原では、祖先供養と仏供養を目的とする例大祭が毎年6月23日に盛大に開催されている。イタコの口寄せ、歌謡ショーやカラオケ大会のほか、小学生による鼓笛隊の演奏などもあり多くの来場者で大変に賑わう。この日以外はお参りする人は少なく、ひっそりとしている。(近所の人の話)  
この賽の河原は南北朝時代の大津波や室町時代の戦乱で亡くなった人を供養したのが始まりであり、明治初期に木造の地蔵尊が出土したことからこの地に復活したのだという。 
川倉賽の河原 (青森県五所川原市金木町川倉七夕野)  
川倉賽の河原地蔵尊には、未婚の男女の霊が結婚適齢期に達すると神様が夫婦として結びつけてくれるという伝説がある。これを死霊結婚もしくは冥婚という。ここには大小約2000体の地蔵が祀られている。本堂事務所に売店があり、1万〜1万5000円程度の花嫁人形や夫婦人形が売られている。参拝者がそれを購入し、子どもの名前と配偶者の空想上の名前を記して人形堂にお供えするのだという。管理事務所の人は、「売れてますよ」と言っていた。津軽地方はもちろん阪神地方から訪れる人もあるという。なお、松崎の調査と考察によれば、津軽地方から広がったこの習俗の歴史は1950年以前には遡れない、とのことである。  
この地蔵尊の宗派は天台宗。東北総本山は平泉中尊寺。川倉の地蔵尊は津軽地方の地蔵信仰の中心といわれている。  
2007年8月の例大祭に行ってきた。老若男女でたいそう賑わっていた。野外ステージでは民謡等の出し物が演じられ、境内には食べ物やおもちゃの店が出ていた。お堂内外の石地蔵には新しい服が着せられ、化粧直しされ綺麗な顔をしていた。売店で草履が売られていたので聞いてみると、死後百か日までは草履をお供えし、それ以降は普通の靴でよいとのこと。地蔵尊堂にはたくさんの草履が供えられていた。そのほか、参詣者は手ぬぐい、かざぐるま、菓子、衣類などを供える。地蔵尊堂の中にはお坊さんが数人いて、供養の受け付けをしている。地蔵尊堂裏手はイタコマチだ。テントの下に床板が張られ、4つに仕切られている。そこで4人の女性が女性たちの相談に応じている。女性たちのまわりには、それぞれ十人くらいの男女が座り、女性の話を聞いていた。  
『東北民俗資料集』(1979)によれば、この賽の河原は文政年代(1818〜1830)から川倉賽川原講中が管理していた。戸主が講員となり世襲性で、行事の準備や運営を行った。6月の祭礼、春秋の彼岸にはイタコの口寄せ(ホトケおろし)が行われる。立川(1993)によれば、少なくとも鎌倉時代以前からイタコがこの場所で口寄せを行っていた。1965年には60人のイタコが地蔵祭に集まった。その後イタコは減少し、1985年頃からは岩木山で修行したカミサマ(カミサン)が縁日に集まるようになった。イタコはホトケそのものに語らせる「口寄せ」を行うのに対し、カミサマは神霊を憑依させて託宣するという区別があるというが、縁日に集まるカミサマは口寄せ的なことをするのだという。  
現在は境内から下る坂道を賽の河原としているが、以前は別の場所だった。坂道を下りきったところに藤枝溜池(芦野湖)がある。この池にかかる芦野大橋の下の川を賽の神川といい、この河原を賽の河原と言っていた。江戸時代以前この橋は金木村と川倉村の村境だった、と地元民から教えてもらった。  
本に出ていた言い伝えを書いておく。暗くなってから水辺を通ると闇の中で子どもの声が聞こえたり、雨上がりの朝に水際に小さな足跡がついていることもある。亡くなった子供の着物等を地蔵堂に安置し、毎年着物を取り替える。身内で病気が出た時には、その着物を借りてきて病人に着せると早く治る。地蔵にお参りすると病気が治る。布で地蔵をなでて、その布で自分の悪いところをさすると病気が治る。病気が重いときは地蔵を家に連れて行き、地蔵と病人をかわるがわるなでて祈る。赤ちゃんが熱を出地蔵したら、地蔵を抱かせると熱が下がる。この地方で人が亡くなると賽の河原に魂が行く。(昔の言い伝え)賽の河原で積まれている石は亡くなった子供が積むが、例大祭の23日だけは鬼が出てこない。その日は子供だけでなくその親も一緒に石を積む。賽の河原では亡くなった子供がたくさんさまよっていて、そこに穴を掘るとその中から子供たちの笑い声や泣き声が聞こえる。雨の日などには子供たちの声がガヤガヤと聞こえてくる。昭和31年8月20日、泉谷惣太郎という人が仕事中にナタがそれて左ひざにあたった。ところが刃跡はあるが切れてはいない。それから地蔵尊にお参りにいったところ、地蔵の左ひざのところが切れていた。賽の河原身代わり延命地蔵尊に実際にあった話として伝わっている。  
興味深い言い伝えを書いて終わりにしたい。「また、以前は三年に一度は飢饉があり、その時に子どもを捨てた山、子捨て山が、賽川原となっている。賽川原には蟹がいるが、川倉では赤ン坊のことをカニといい、賽川原に行けばカニがいるということがいわれている」(『資料集』)「賽の河原にはガニ(蛙)がいて、雨の降りそうな日の晩になると赤子の鳴き声がする」(『地蔵の世界』) 
岩崎賽の河原 (青森県西津軽郡深浦町森山)  
青森県深浦町(旧・岩崎村)の海岸に突き出た岬に賽の河原がある。数年前に某ドラマの撮影にも使われた。賽の河原は、伝説が語り継がれている神秘の洞窟“ガンガラ穴”の上にあり、昔から霊地とされてきたところである。地元民によると、明治以前からこの地にあるのだという。「賽の河原に積んだ石を投げると海が荒れる」「8月7日の夜は訪れてはいけない」という言い伝えがある。  
毎年8月23、24の両日大祭が行われ、供養される。参拝者によって1年間に供えられた物を、この大祭で整理するのだという。確かに、お供え物を何年もそのままにしておくわけにもいかないので、大祭をきっかけに整理するというのは合理的なことだ。お祭りということでイタコの口寄せ、出店、長寿万年粥のサービス、歌謡ショーなどが行われて賑わう。しかし、それ以外は訪れる人は少ないのだという。  
文献に記載されている言い伝えを書いておく。賽の河原は主に子供を亡くした母親が積む。子供だけでなく、花が咲かなかった人も亡くなったら賽の河原に行く。積まれた石が崩れても次の日には元通りになっている。母親が石を積み重ねているときに石を崩したり海に落としたりすると、海が荒れたり台風が来たりする。朝早くに行くと、小石に血がついているものがある。子供の手の皮がむけて血が出るためである。ガンガラ穴の天井から落ちる水は、賽の河原の子供たちが泣いている涙である。 
浄土ヶ浜賽の河原 (岩手県宮古市鍬ケ崎)  
岩手県宮古市の“浄土ヶ浜”は、天和年間(忠臣蔵の20年ほど前)、宮古常安寺七世霊鏡竜湖和尚が名づけたといわれる名勝であり、陸中海岸国立公園の中心である。  
浄土ヶ浜には西から東に向って細い樹枝状の細長い半島がある。竜湖はこの小さな半島の外海を地獄、内湾を極楽に見立てたという。半島の突端を“血の池”と称し、内湾に少し入った海岸沿いの小さな浜を“賽の河原”と称している。ここから登ったところに、竜湖が安置したと伝えられる賽の河原子安地蔵が祀られている。  
賽の河原と子安地蔵に歩いて行くことはできない。観光船も近づかない。貸しボートを借りて、自ら漕いでいくしかない。さすがの私もそこまでして現地に行かなかったので、石積みの有無等についての様子は不明である。  
現地の人の説明では、(上述のように)海岸沿いの小さな浜を賽の河原と称しているという。一方、古い地図では半島の中央部が賽の河原とされており、そこに子安地蔵が祀られている。地獄と極楽(外湾と内湾)の境に位置しているということになるだろう。現在の場所を賽の河原と称するようになったのは、いったいいつ頃のことなのであろうか?  
祀られている子安地蔵(坐像)は胸に子供を抱いており、目が大きい。また、兄弟地蔵が三体?あり、それぞれ別の寺院等に安置されている。これらはすべて竜湖の作と伝えられている。 
五葉山賽の河原 (岩手県大船渡市日頃市町)  
五葉山(ごようざん。1341.3m)は岩手県の海沿い、釜石市、大船渡市、住田町にまたがる。動植物が豊富。鹿は集団生息の北限とされているほか、クマも住む。むかしは仙台藩に材木を供給する御用の山であった。良質なヒノキ皮は火縄銃の着火に用いられた。また五葉山は、古来より信仰の山とされてきた。天台密教、熊野信仰など神仏混淆であり、山伏の修験道場であった。3市町には山をまつる神社が多い。明治初めまで五葉山は女人禁制であった。  
標高712mの赤坂峠(大船渡市)に車を置き、登ること25分。3合目(930m)“賽の河原”に着く。これまでの植物がうそのように、ここだけが土と岩の世界である。南北90m、東西120mに及ぶというから、東京ドームより若干小さい程度の広さだ。この場所だけが植生がなく山肌がむき出しであることや、北西の偏西風の通り道であることなどから、あの世とこの世の境を連想し賽の河原と名づけられたのであろうか。にもかかわらず賽の河原には、地蔵はもちろん、ほかのどのような信仰の対象も祀られていない。  
五葉山については様々な方面から研究がなされています。いろいろと調べてみたのですが、賽の河原についてはこれ以上何も出てきませんでした。面目ないです。 
金華山賽の河原 (宮城県石巻市鮎川浜(金華山))  
宮城県牡鹿半島(旧・牡鹿町)の沖1Kmに浮かぶ霊島金華山。現在の島には人よりも野生の鹿や猿が多く住んでいる。西方ではなく東方に浄土をみていた古代の日本人は、金華山をまさに黄金のあふれる東方浄土とみなしていた。古代末期から中世にかけては、真言系修験者がこの島を黄金出土地と宣伝していたという。  
島の東岸の断崖絶壁に賽の河原がある。  
この賽の河原に行くには石巻市街から自動車で50分、定期船で25分、金華山山頂経由で徒歩2時間25分(帰りは3時間)を要する。休憩時間は含まない。基本的に島内は徒歩以外に交通手段はない。  
黄金山神社社務所から水神社経由で山頂(海抜444.9m)までは一本道なので道に迷うことはない。一方、山頂から東側は道に迷いやすいという。帰ってこない登山客があると、夜、社務所職員が探しに出ることもあるとのこと。実際、2005年5月に私が訪れたとき、大函崎に至る最後の約1kmは道がほとんどない状態であった。行きは問題なかったが、帰りは道に迷ってしまった。これで精神的にかなり疲労した。甘く見ずに、事前準備を周到にしていく必要がある。なお案内図によると、ハイキングコースは大函崎で行き止まりである。小函崎&賽の河原には行ってはいけないことになっている。  
大函崎から鹿の糞が敷きつめられた草地を下ると賽の河原がある。様々な大きさの花崗岩の塊が積み重なっている。長さは150m。鎮魂を目的として積み上げられたと思われるような“石積み”はない。  
この場所に2体の仏体をみることができる。1体は高さ350mmで東南方向を向いて立っている。その下に両親による鎮魂の文が埋め込まれている。もう1体の詳細は不明である。台座から折れており、地蔵菩薩を彫った石は海が見えるように北東向きに横に寝かせられていた。  
文献に記されていることを書いておく。嘉永年間、藤原広泰の『金華山紀行』に「大箱、小箱先を越えると賽の河原があり・・・」と記されている。藤原秀衡が島に48坊を建立し、すべてが天台系だといわれている。この島での修行の一環として賽の河原にも修験者がお参りにいく。明治初めまで、女性は神社の鳥居までしか行くことができない女人禁制の島であった。島に上陸する時と帰島する時に必ず草履を履き替える風習があった。子供を亡くした親が行くと子供の声が聞こえ、親しい人を亡くした人が行くとその人の声が聞こえる。  
金華山は真言系?天台系?私は金華山&修験道についての知識がないのでわかりません。両方だったのかもしれませんね。詳しいことは金華山社務所にお尋ねください。 
泉ヶ岳賽の河原 (宮城県仙台市泉区)  
泉ヶ岳は船形火山群の最後に形成された錐状火山である。(なんのこっちゃ?)賽の河原はこの山のもっとも一般的な登山ルートの途中にあり、(おそらく)8〜9合目にあたる。山の西南斜面に位置しており、この場所から蔵王連峰等を望むことができる。  
大駐車場に車を置き、泉ヶ岳少年自然の家(標高583m)を通って水神(825m)に向う。大岩(1000m)を過ぎると賽の河原である。 
賽の河原に到達すると、“賽の磧”の横看板あり。すぐ上に地蔵菩薩と思われる石仏あり。石仏の下部は枯れ草と石で覆われており、坐像なのか立像なのか確かめることができなかった。観察した限りでは坐像であろう。  
地蔵は錫杖を持たず、両手は禅定印(座禅のときの手のかたち)をむすび、宝珠(丸い玉)を抱いている。大正三年八月廿六日の日付と発起人として(おそらく)総勢16名の名前が刻まれている。“おそらく”と書いたのは、枯れ草と石で文字が隠れて見えなかったためである。  
この場所はテニスコート2面くらいの広さがある。裸地で、石がゴロゴロしている。その上に、さらに広い裸地が広がっている。“さいの河原”の横看板がある。裸地をすべてあわせると野球場の半分くらいの広さもあるのではないだろうか。  
山頂には三吉大明神を祀る小さなお堂がある。文政年間(1818-1829)に奉納されたものだという。また、山頂の東斜面には薬師如来を祀る小さなお堂があるという。七北田川流域の人々が雨乞い、悪疫退散を祈願した。 
七ヶ宿賽の河原 (宮城県刈田郡七ヶ宿町東谷地山)  
七ヶ宿町は福島県と山形県に接している。伊達政宗が米沢と福島を往復するためにこの地に道が開かれた。江戸時代には奥羽街道(羽州街道)として庄内や秋田などの大名の参勤交代や御城米の陸送に利用された。仙台とは山を隔てているため、伊達家の目の届きにくい街道だったのだ。宿場は大いに賑わったという。一里ごとに七つの宿場があったことから七ヶ宿の名がついた。  
この町を流れる横川と白石川の合流するあたりの河原を賽の河原といった。山伏山、傾城森(けいせいもり)という山伏が修行した山の麓だ。かつてこの場所は関村(宿場)の外れで、さびしいところだった。現代の町民もこの周辺は賽の河原だという認識はあるという。しかし、河原には賽の河原を思わせる何もない。ただ、関浄化センター(活水所)近くのT字路に三体の地蔵が安置されており、賽の河原の地蔵といわれている。道路の路面ではなく目線の高さの位置に置かれている。ここに階段はなく足場(斜面)は草で覆われていた。この地蔵にも祭日があり、戦前には、祭日になると傾城森の山頂で飲み食いする習慣があった。現在、寺と住民による行事としての供養は行われていない。個人的に自宅で供養している人はいるかもしれないが、確認できていない。  
現在祀られている地蔵のうち二体は高さ約50センチと小ぶりだ。山田音羽子(おとわこ)さんの絵日記(1845年)の挿絵に描かれた賽の河原の地蔵はこれより大きいように見える。また、江戸期には地蔵は一体のみだが、現在は三体だ。その経緯は不明である。  
明和9(1772)年の封内風土記、安永年間(1772〜81年)の風土記御用書出にみられる記述は次のとおり。横川と内川が合流するところを土地の人々は賽の河原と言っている。河原の処々に小石が重畳しており、石造の地蔵が東向きに一体立っている。お堂はない。地蔵の作者は不明だが、明和2(1765)年9月29日に関泉寺の和尚が再興した。別当は関泉寺。祭日は9月29日。  
言い伝え。人が死ぬと横川の河原を通っていく。その足跡が残される。そのとき現世で悲しい思いをした者は泣き、幸せだった者は笑う。夜釣りに行ってその声(泣き声、笑い声)を聞くこともあった。昔、秋田に子どもを次々と亡くした殿様がいた。家来が江戸に向う途中、3〜4人の子どもがこの河原を走って来て、武士の袂にすがりつき「道中無事に」と言った。後に、武士はこの河原に地蔵を建て、子どもたちを供養した。現在建っている板碑に地蔵の衣に子どもがすがった像が彫ってあるのはそのためだという。賽の河原の民話もある。地蔵が団子を追って穴に落ちたところを鬼に捕まってしまう。翌朝、鬼がいなくなったところで、鬼が集めた宝物を地蔵が手に入れて、困っている人に配ってまわった。  
宮城県百科事典の“賽の河原”の項に、「死者が通る道(七ヶ宿町関)」として写真が掲載されている。これは関の内川橋付近から撮影したものだという。  
別件だが、書き足しておく。私が七ヶ宿を訪れた2007年8月現在、湯原、峠田、横川等の集落では葬式行列が行われている。10年ほど前までは関でも行われていたが、国道の交通量が多く危険なので取りやめるように指導があって、その後は行われていない。葬式の際に女性だけで念仏を唱える習慣は今も続いている。子どもが亡くなった時の葬儀は簡略(自治会を通さない)にする習慣もある。 
飛島賽の河原 (山形県酒田市飛島)  
山形県唯一の有人離島である飛島は周囲10.2km、面積2.32平方kmの小さな島である。山形でも北に位置しているが、対馬海流の流路にあるため年間気温12度と非常に温暖である。春・秋には渡り鳥の宝庫となり、また、暖地系、寒地系の植物が500種類近くある。2005年6月末現在、人口312人、147世帯。高齢化率は60%近い。  
昔、飛島は沖乗り航路の中継地として機能していた。1672年に西廻り航路が開かれ酒田が米の集散地となってからは、酒田港の補助または避難港としても機能した。島内には国別に宿があったという。当時の飛島は自給自足の島であったが、こうした船のために島民は貴重な食料・水を分け与えた。  
船が難破すると、春には南東の風にのって船荷、残骸、死体が海岸に打ち上げられた。中村の鴨の浜は死人原(しびとわら)といわれたし、勝浦の小松浜(海水浴場になっている)にも上がった。余談だが、太平洋側は大洋に死体が流されてしまうと陸には上がらない。しかし、日本海側は潮の流れ、風向きから救助される可能性も高かったし、死体が海岸に打ち上げられる可能性も大きかった。太平洋側に比べて日本海の海岸沿いに賽の河原が多いのは、こうしたことも関係しているのではないだろうか。  
島の西方沖の御積島(おしゃくじま)は島民にとって最大の信仰の地である。女人禁制の霊島とされてきた。岩山であり人は上陸できない。この島には大きな洞窟がある。そこの壁面は黄色のうろこ状で、硫酸アンモニアの影響でピカピカと光っている。昔の人はこれを見て“海の神様だ”と信仰していた。この洞窟をもって遠賀美(おがみ)神社の本殿とされ、現在に至っている。御積島の南に烏帽子(えぼし)群島がある。玄武岩でできた大小の島が点在している。ここは遠賀美神社の境内にたとえられた。  
賽の河原は第2の信仰の地である。勝浦の海水浴場から遊歩道を歩いた海辺にある。成立時期は不明であるが、文化元年(1804)鶴岡の藩士による紀行文が残されている。烏帽子群島から賽の河原周辺までは海台(海底の台地)をなしており、粉砕された玄武岩は潮の流れに乗って海台を転がり、角がとれて丸い小石となって浜に上がった。賽の河原にはこれが幾山にも団子積みされている。平成に入って賽の河原の沖合いに波消しブロック設置されたため、この潮の流れは寸断され、石が浜に流れて来ることができなくなった。さらに、浜にあったはずの石も潮に流されて海中に戻されてしまった。(実際、元は海岸にあったはずの多くの石が海中に沈んでいた。)このようなことから、昔は浜いっぱいにあった賽の河原の石積みは、今ではすっかり減ってしまったのだという。  
この賽の河原には3体の石仏が御積島を背にして立っている。南南西向き。この石仏については『羽後飛島図誌』に詳しい。  
賽の河原の北に明神社が御積島を向いて建っている。創建年代は不明。賽の河原の守り神様である。明治以前、この神社は外浦観音、飛鳥大明神などと呼ばれ、遠賀美神(竜神)、小物忌神社(風神)を祀っていた。明治9年に遠賀美神社と改称し、勝浦の遠賀美神社(拝殿)の摂社と位置づけられ、大海津見命(海神)ほかを祀った。現在、遠賀美神社の摂社が正式な名称・地位であるが、俗に明神社とか明神の社と呼ばれている。遠賀美神社(拝殿)と御積島は大海津見命ほかを祀っているが、明神社は小物忌神社を祀っている。非常にわかりにくいが、長い歴史の中で翻弄されてきた神社なのだろう。  
この賽の河原には書ききれないほど多くの伝説がある。飛島の人だけでなく死んだ人は必ず賽の河原を訪れる。賽の河原は死んだ者がいくところで、有縁の者が詣るところではない。村で死者あるときは、河原に向って歩く足音を聞くことができる。この河原の石を持って定期船に乗ると船が故障する。これについて島在住の中年男性は言う。「信じるもなにも、言い伝えですからねぇ。島の人は皆そう考えています。」 
袈裟丸山賽の河原 (群馬県みどり市)  
詩画家・星野富弘さんの美術館で有名な、みどり市(旧・東村)に袈裟丸山(けさまるやま)という山がある。  
この山の頂は大きく2つあり、南北に二股となっている。北峰を後袈裟丸山(1908m)、南峰を前袈裟丸山(1787m)という。前袈裟丸山の南東の稜線、標高1550mほどのところに賽の河原がある。この地への最短ルートは国道122号線から林道を車ですすみ、折立登山口から登る弓の手コースである。約1時間で到着する。家族連れでも可能な道だが勾配が急で体がきつい。もうひとつのルートは塔ノ沢登山口から登り、寝釈迦(石造釈迦涅槃像)を経由して賽の河原に至る塔ノ沢ルートである。前袈裟丸山の山頂には賽の河原からさらに2時間以上の距離がある。  
袈裟丸山は赤城、榛名などと同じ新生代第4紀の火山のひとつである。前袈裟丸山は山頂付近から噴出した火山岩(複輝石安山岩とカンラン岩)から成っており、山頂から半径2kmの範囲で拡がっている。賽の河原の石積みもこの火山岩である。また、この地は裸地で木が生えていないが、周囲にはツツジが咲く。  
赤城周辺には“死者の魂は赤城にのぼる”“旧4月8日に赤城山に登ると死者に会える”という言い伝えがあった。袈裟丸山にも“その年に子どもを亡くした人が賽の河原に行くと死者に会える”という言い伝えがあり、寝釈迦に参拝した後で賽の河原に登って石を積んだという。とくに旧暦4月8日は寝釈迦の祭日になっていることから、地元の僧が寝釈迦に行き祈祷を行った。(赤城山と同様に)この日に登ると死者に会えるということで、この日に登る人も多かった。戦前は村人や銅山関係者が詣でてにぎわったが、戦後はすたれていった。  
寝釈迦、をはじめとして、山中には宗教的な地名や名称がいくつかみられる。地元の修験者が山で修行を行ったとも伝えられている。しかし現在は信仰の対象とはなっていない。 
草津温泉西の河原 (群馬県吾妻郡草津町大字草津)  
“草津よいとこ一度はおいで〜”と草津節に歌われる草津温泉は、有馬、下呂と並び日本三名湯のひとつに数えられている。開湯の伝説には日本武尊であるとか、奈良時代の僧・行基であるとか、源頼朝が狩りに来て家来が発見したとか諸説ある。白根山を信仰する修験者(山伏)が発見して広く紹介していったというのが史実だろう。すでに延徳3(1491)年の記録に草津、有馬、湯島温泉を日本の霊湯の最たるものと紹介している。  
白根山は修験の山であり女人禁制の霊山であった。その麓に位置する草津は白根山修験の根拠地だ。草津に鎮座する白根神社は白根山を信仰の対象にしている。現在の本白根山(=古白根山)が信仰の対象だったが、後に草津白根山も加えられた。草津白根山は白根明神、本白根山は古白根明神を祀っている。明治6年に現在地に移されるまでの白根神社は運動茶屋公園内の皇大神社の周辺にあった。この地点は温泉街から近く、江戸道と沢渡道の分岐点であり、街道の最も高い位置という重要な地点である。近くの祈祷壇からは信仰の山々(白根山、榛名山、浅間山)を遥拝することができるという。  
現在賽の河原といえば西の河原公園のことであるが、昔は地蔵の湯にもあった。地蔵湯畑から流れ出た温泉が細く流れているところを賽の河原といった。ここには地蔵堂、不動堂、大日堂などがあった。文化文政の頃(19世紀初頭)ここは草津の盛り場といわれたように、時代が下るにつれて開発が進み、湯が流れ下ることはなくなり、ここが賽の河原であることは人々の記憶から消えていった。現在、源泉は共同浴場や近隣の宿泊施設に配湯されるとともに、足湯も出来て癒しの空間になっている。  
地蔵の湯も地蔵堂も細野氏が所有していた。このお堂は常楽院といい、山号は草津山。細野氏は修験者で、草津を政治的に支配した湯本氏の系列だ。地蔵堂内には高さ25cmの地蔵が本尊として祀られているほか、細野氏の位牌等も並べられている。不勉強なので理由は不明だが、常楽院は文政12年(1829)に山号を光泉寺に譲っている。江戸時代に描かれた絵図をみると、光泉寺が大きく描かれ、一方、常楽院はまったく描かれていない。光泉寺の影響力の大きさ、人々の信仰の大きさをうかがい知ることができよう。  
西の河原公園周辺はあたり一面の至るところから温泉が湧き出しており、草木は生えず、臭気が漂っている。さながら黄泉の国を思わせる景色から“鬼の泉水”といわれ、 訪れる人は稀であった。いつの頃か不明だが、この地には鬼の伝説が言い伝えられている。さて、当地の「西の河原」の“西”は、“さい”ではなく“にし”と読むのが正しいと地元の人が教えてくれた。草津には大きくわけて3つの河原、すなわち仲の河原、西(にし)の河原、地藏の河原(東の河原)があり、このうち西と地藏が賽の河原だという。江戸時代の随筆や絵図で調べてみた。どれも“鬼の(が)泉水”“泉水”“さいの川原(河原)”となっている。“にしのかわら”と明確にわかるものは見つけられなかった。それでも古老は、“にしのかわら”が正しいと言う。  
昭和30年草津白根山の湯釜から硫黄を採掘中に、地中から笹塔婆(柿経)が出土した。平安時代後期の大噴火直後(尾崎の説)もしくは15世紀前半(時枝の説)のものだ。笹塔婆には血盆経の経文らしい文字が記されている。修験者が白根山(火山)の鎮護と女人救済を目的に経文を書き、祈祷しながら湯釜に向けて投げ込んだ。しかしそれが湯釜に入らず、硫黄層の下で腐らずに残ったものだ。世界有数の酸度を誇る湯釜だけに、その中に投入されていれば溶けて発掘されることはなかっただろう。これら発掘された笹塔婆のうちの数枚は草津温泉資料館に展示され、「12世紀ころ奉納された」と解説文が添えられている。 
天面西院の河原 (千葉県鴨川市天面)  
房総半島、鴨川市の中心部から国道128号線をしばらく下った天面(あまつら)集落のはずれに賽の河原がある。地元の人々は西院の河原と言っている。2008年夏にここを訪れ、西徳寺の住職さんからいろいろと聞くことができた。  
現在ここは房総半島唯一の賽の河原だ。数十年前までここに石仏は数十体があるだけだった。いわゆる水子ブームの影響があり、宗旨に関係なく石仏を置くことを許可してきたことも手伝って、石仏や写真などの奉納が増え続け、現在のような満杯状態となった。このため現在は石仏を新規に置くのを断っているという。水子に限らず、ここには様々な年齢の人たちの供養のために石仏が奉納されている。毎月24日の縁日に限らず、地元民はもとより大阪、群馬、埼玉といった遠方からも家族、夫婦、または個人など様々な男女がお参りに訪れている。  
幕末期、この地を治めていた岩槻藩(さいたま市岩槻区)の藩士が天面にやってきて砲台を検分した。藩士はその時の日記に、砲台の左方にサイノカワラの石積みがあると記している。現在までに西院の河原は3回の移転を繰り返してきた。当初は太海小学校をはさんだ反対側にあった。それが現在地側に移転し、昭和の初め頃に現在地(旧道脇)に移設された。コンクリート造の建物を建てたのは今から20年ほど前のことで、山から土砂が落ちてきて危険なためだという。国道128号線ができるまでは、旧道のむかいがわは海岸で石がゴロゴロしていた。この石をひろってきて西院の河原に積んでいた。しかし、この海岸に国道ができてからは石を拾ってくることができなくなり、石積みは途絶えた。西院の河原の管理は当初天面集落で行っていたが管理しきれなくなり、講に委ねたがそこでも管理しきれなくなって、地元の西徳寺に移管された。現在、住職夫妻が毎日交代で西院の河原に詰めているという。私が訪れたときにも、ちょうど住職がやってきて、茶をふるまっていただいた。  
民俗学では、房総半島は両墓制(埋め墓と詣り墓)で有名だ。天面ではオコツアゲ(お骨上げ)といわれる改葬習俗が特筆された。私が住職に西院の河原と両墓制との関係を尋ねたところ、「関係なし」と即答された。天面集落は3地区あり、西院の河原のある地区は他地区からは外れた位置にある。他地区に住んでいた人たちが、災害などために現在地に移転してきて出来た地区なのだという。この地区は、同じ天面集落でも文化的には異なっているとのことである。  
住職によれば、賽の河原は全国に多くあるが「西院の河原」と書くところはほとんどなく、このような字をあてる賽の河原には“明るさがある”のだそうだ。この明るさとはどういったことなのか、私にはよくわからなかった。だが、偶然やって来た地元の老女と住職と私で話が弾み、大いに笑ってその場を後にすることができた。これも西院の河原の“明るさ”というものだろうか。  
最後に言い伝えを書いておく。結婚していない男女(子孫を残さずに死んだ男女)は何歳になっても西院の河原に行く。亡くなった子どもの霊は西院の河原に集まってくる。西院の河原の前を通りかかったら子どもが出てきて通さなかった。ここは(来世往生(←特に子ども)も現世利益も)何でも願いをかなえてくれる。 
鬼来迎 (千葉県山武郡横芝光町虫生,広済寺)  
千葉県北東部、九十九里浜に面した町、横芝光町の虫生(むしょう)という小さな集落に広済寺という真言宗(かつては浄土宗)の寺がある。本尊は地蔵菩薩。この寺には(縁起によると)鎌倉時代から鬼来迎(きらいごう)もしくは鬼舞いといわれる宗教仮面劇が伝わっている。1976年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。毎年8月16日に本堂で行われる施餓鬼(せがき)供養の後、本堂脇の仮設舞台で虫生集落の人々によって演じられている。一度でも休むと里に悪い病が流行るという言い伝えがあり、戦時中も休むことなく演じられてきた。私が訪れた2008年は昼頃に猛烈な大雨が降ったけれども、上演時間が近づいたらお天道様があらわれて、多少の蒸し暑さの中で無事に上演された。虫生集落の人々が準備からすべて行っているというから、そのご苦労には本当に頭が下がる。  
鬼来迎は地獄の様相を描いた地獄劇である。“大序”“賽の河原”“釜入れ”“死出の山”の四段にわけられて演じられる。赤鬼、黒鬼、鬼婆(奪衣婆)、亡者(大人、子ども)、閻魔、倶生神、菩薩(観音、地蔵)が総出演者だ。この劇は往時の人々にとって娯楽であると同時に、因果応報と菩薩への帰依を衆生にわかりやすく説く役割をもっている。  
“賽の河原”の段の内容は次のとおり。亡者(大人)に先導された数人の子どもの亡者(以下、「子ども」という。)たちが賽の河原にやってくる。子どもたちは「一つや二つ三つや四つ十より下の幼子が〜」とうたいながら石を積む。そこに赤鬼・黒鬼があらわれ、「汝ら父母は娑婆にあり。朝夕、ただ、むごいや可愛や愛しやと思うばっかりにて、追善供養の心はなし。皆、汝らの罪となる。我らを恨むことなかれ」と言いながら、逃げ惑う子どもたちを追いかける。そこに地蔵菩薩があらわれると、子どもたちはその背に隠れる。地蔵は鬼を追い払い、子どものひとりを抱き上げると、ほかの子どもたちを従えてゆっくりと退場する。その間、和讃が詠じられる。  
鬼来迎は鎌倉初期を舞台にしてはいるが、その成立は室町前期である。この頃には賽の河原はまだ誕生していないというのが定説なので、鬼来迎の成立当初から“賽の河原“の段があったとは考えにくい。加えて、“賽の河原”の段だけに子どもが出てくるのはなぜか、この段が“大序”と“釜入れ”の段にさしはさまれて演じられているのはなぜかという疑問を持った。また、劇中で詠じられる地藏和讃の成立は江戸時代である。これらのことから“賽の河原”の段は鬼来迎の成立時からあったとは思えない。生方氏が書いているように、この段がまとまったのは江戸時代とみるのが正しいと思う。長い年月のうちに様々な工夫が追加されたり、はぶかれたりしながら現在の鬼来迎になったのだ。  
上演の幕間に“虫封じ”が行われる。鬼婆(奪衣婆)に赤ちゃんを抱いてもらうと健康に育つという言い伝えがあることから、多数の赤ちゃんが親の願いの犠牲(?)になる。鬼婆が抱き大声をあげると、大泣きする子、平気な子、寝ている子など様々だ。そんな反応に会場から歓声があがる。我が子が健康で親孝行な子に育って欲しいと願いつつ鬼来迎/虫封じを見に来た往時の女性たちには、よい息抜きになっただろうし、さらに信仰を深めるきっかけにもなったことだろう。  
賽の河原の信仰は実際の場所としての賽の河原だけでなく、劇狂言、伝承(昔話や伝説)、和讃、民謡、絵画と絵解きなど様々な手段を用いられて民衆に浸透した。 
元箱根賽の河原 (神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)  
芦ノ湖の湖畔、箱根神社の大鳥居の足元に賽の河原といわれる場所がある。残念ながらここは賽の河原とは名ばかり。石仏がきれいに並べてあるだけで、まったく雰囲気がない。  
この賽の河原がいつ成立したのか不明であるが、1658年の『東海道名所記』に“芦ノ湖畔に賽の河原があり”と記されている。その後1841年の『新編相模国風土記稿』などによれば、芦ノ湖湖の水際に130あまりの石塔・石仏・銅仏が累々と並び、山側にはカヤ葺きの地蔵堂が5つ並んでいたという。明治維新の神仏分離令に伴って賽の河原は箱根神社の管轄から離れ、また、同令による廃仏毀釈運動の高まりに伴い石塔等の多くが売却等の憂き目にあった。その後2度の移転、整理、整備を繰り返し現在の姿となった。石仏のうちの多くは“コの字”に並べられているが、西向きに立っているものはない。  
江戸時代、箱根には芦ノ湖のほか、六道の辻(精進池付近)、姥子にも賽の河原があったという。六道の辻を訪れてみたが、芦ノ湖よりもずっと雰囲気がある。ただし、“賽の河原”という特定の場所が現存しているわけではない。精進池の湖畔を石仏群を眺めながら散歩するとよい。 
佐渡願の賽の河原 (新潟県佐渡市願)  
佐渡カーフェリー発着場から車で1時間。外海府の北端に願集落がある(←民宿あるよ)。駐車場に車を置き、かつては生活道路だったという石畳の自然遊歩道を歩く。700〜800mほど進んだところに、行く先を遮るように大きな岩が横たわる。その先は見えない。この岩の中心がくり貫かれており、そこを通り抜けると突然に異空間がひろがる。賽の河原だ。この場所から二ツ亀が間近に見えるが、二ツ亀附近から賽の河原を見ることはできない。上からも左右からも死角になった場所に賽の河原はあるのだ。実に絶妙な場所だと感心する。この場所は地積では鷲崎であるが、願の賽の河原とされている。古くから願集落の人々が管理してきた。賽の河原は海食洞穴(入口高さ約5m)の中にある。ここに大小様々な地蔵立像が安置されている。洞穴内の(向って)左奥のくぼみは「血の池」と伝えられている。  
いつの頃からここに賽の河原が存在するのだろう。1736〜1741年頃に書かれた佐渡巡村記に「村内に賽の河原というところあり」と記されていることだけは調べられた。それより昔のことは不明だ。関心のある人は、参考文献ページにいくばくかの情報をまとめたのでご覧いただきたい。  
近代から現代の状況についていくらか記しておこう。  
民俗学者柳田國男が佐渡を訪れた大正期には、ここに地蔵堂があった。宮本の著書には地蔵堂遠景の写真が掲載されている。真更川の村人は三崎遍路(上回り遍路とも。小木・赤泊方面)から帰ると海府遍路も回る習慣があり、その一泊目がこの地蔵堂であったという。賽の河原は寺院ではないため、佐渡に伝わる複数の遍路の正式な札所ではないが、ここも併せて巡拝されていた。賽の河原の前を通る遊歩道は、県道45号線が整備されるまで地元の生活道路であった。馬も通った。うん十年前の賽の河原は“うっそうとした場所で、子どもひとりでは怖くて通れなかった”と地元の女性は言う。1996年8月にここを訪れたとき、高さ10cmほどの水子地藏があちらこちらに無数に置かれていた。2009年に再訪したらその数は激減していた。数年前に高波があって波にさらわれたので、できるだけ拾い集めたが激減したのだという。なお、この大量の水子地藏は、むかし、観音寺の住職が持ってきて岩に接着したものとのこと。現在、住民の減少と高齢化で管理はままならないようだ。海岸漂着ゴミの清掃、日頃の掃除、賽銭泥棒対策など役割は多く重い。この集落にはほかにも神社や観音堂がある。近年はカンゾウの保護増殖にも力を入れている。やることがいっぱいだ。ここの信者に和歌山の人がいて、希望者を募り、先達(せんだつ)になって年数回やって来ては清掃し、風車を交換していくという。こんな人がいないと維持が大変だ。旅行者はゴミを置いてこないよう気をつけたい。  
毎年7月末に祭りが開かれる。2009年はあいにくの雨模様であった。それでも高齢者を中心に信者が集っていた。無数に並ぶ地蔵の中から自分の地蔵を見つけ出し、菓子などを供えては手を合わせていた。所定の時間になると僧侶が読経するとともに、信者の住所と氏名を唱えて供養していた。その地名には島内だけでなく北海道や東京もあった。なお、佐渡の観光パンフやガイドブックにこの祭りは掲載されていない。観光行事ではなく信者のための供養の場ということだ。  
地元では寒念仏(2月)には必ずお参りするし、家族が亡くなると3年間は毎年お参りに行く。島内各地から子どもを亡くした親がお参りに来ることも多いという。  
長くなっていてごめんなチャイ。次に、ここに伝わる伝説を書く。  
まず、2009年時点で未確認の伝説をひとつ書く。小児を亡くした者の船が賽の河原の沖合いを通過するときには、船の帆を下げる。  
次に、2009年時点でも地元に伝わっている伝説を書く。石積みをしている子供が誤って石を落としてしまっても、翌日には必ず元通りになっている。ここで石積みをするのは10歳以下の子供の霊であって、子供が亡くなるたびに石の数が増える。ここの地蔵を持ってくると、夜になると家の中が“がやがや”する。  
この賽の河原にあるものは何ひとつ持ってきてはいけない、と地元の人は言う。昭和時代に“本当にあった話”を聞いたので最後に書いておく。遠方に住む家族がここの賽の河原を旅行した。その後この家に災いが続いた。宗教者を呼んだところ、「賽の河原から何か持ってきていないか」と聞く。夫婦には身に覚えがない。子どもを問い詰めたところ、「あまりにかわいかったから、地藏をひとつポケットに入れて持ってきた」という。宗教者から「返してきなさい」とアドバイスを受け、家族はすぐに再訪して地藏を元に返した。すると災禍は止んだ。 
笹神賽の河原 (新潟県阿賀野市勝屋(畑江))  
新潟で賽の河原というと佐渡が有名だが、旧・笹神村の霊峰五頭山(ごずさん)の麓、出湯(でゆ)温泉近くにも賽の河原がある。  
牛頭山は弘法大師空海が開いたと伝えられている。五つの頂があり、それぞれに石仏が祀られている。この山の麓に阿弥陀如来信仰の霊地といわれる華報寺(けほうじ)を極楽、賽の河原を地獄、そして大荒川の下流にある優婆尊(うばそん)を三途の川にみたてて信仰していた。華報寺を中心として周囲には蓮台野、経沢、血の池、地獄谷、塔婆塚山などの地名があったとされ、蓮台野や経沢から出土した中世期の阿弥陀如来などの石造物は県内最大級とのことである。また、華報寺の境内には、弘法大師ゆかりの温泉(漲泉窟)があり、共同浴場として安い料金で開放されている。  
賽の河原のある場所は、むかし、大荒川の広い河原で、大小の石がゴロゴロしていた。松もうっそうとしていた。人通りがなく寂しい、あるいは怖い場所であった。加えて、度重なる大荒川の氾濫。昭和42年8月の羽越豪雨では、8月29日に360mの集中豪雨による大荒川の土石流&山津波があり、9月13日には「賽河原橋、越水」とも記されている。そしてその後の大荒川のコンクリート護岸工事。また昭和30年代の国道工事による賽の河原経塚の消滅。賽の河原公園の住所は(市の公園条例では)「阿賀野市畑江471-1」とされている。一方、市の文化財指定リストでは「阿賀野市勝屋地区 賽ノ河原石造物群 平成9年10月22日」とある。市の職員に聞いたところ、戦後、勝屋と出湯を切り分けて畑江をつくったのであり、畑江でも勝屋でもどちらも正しいとのことであった。文献によれば、戦後、畑江には入植者の開拓部落ができたのだという。なぜこのようなことを書いたかというと、戦後の開拓、災害、工事のために、賽の河原の風景は一変し、信仰の地という雰囲気からほど遠いものになってしまった、ということを理解していただきたいと思ったからである。  
ここの賽の河原は、華報寺の開祖が造営したものだという。五頭山と同様に華報寺も806年に弘法大師が開いたと伝えられている。言うまでもなく史実ではない。賽の河原と華報寺が関係していたらしいが、暦仁元年(1238年)の大火で出湯36坊が焼失しており、資料は残されていない。  
国土地理院の地図で賽の河原は大荒川の上流になっているが、現在、賽の河原地蔵尊は下流の国道沿いに安置されている。そこは市の公園として整備されている。露天に数体の地蔵、板碑等がすべて西向きに並んでいる。この配置では、人は、牛頭山に向って祈ることになる。最大の地蔵は坐像で、高さ1m、横70cm。すぐ横に大きな地蔵堂がある。板の間は4畳半はあるのではないか。その縁に小石がたくさん積まれている。地蔵堂の奥に2体の地蔵が鎮座している。どちらも西北西を向いている。大きいほうは台座を含めた高さ1m85cm、横幅80cmと大きい。この2体の地蔵と並んで、家庭から奉納された人形が並べられている。こういうところに置いてある西洋人形はなかなか迫力がある。(薄気味悪いという意味です。)  
この公園の帰りがけ、200mほど離れた国道沿い(養鶏場前)に地蔵などが数体並んでいるのを見かけた。しかも隣に真新しい(平成15年6月落慶の)お堂が建っている。お堂に入ってびっくり。僧侶、地蔵、鬼、赤いよだれかけをした無数の子供たちの土人形が飾られている。むかし、この場所も賽の河原であったかどうかは不明である。しかし少なくとも、ここが仏教の盛んな地域であったこと、各所に石仏が点在していたことをうかがい知るのに十分である。  
柳田國男は、この賽の河原について次のようなことを書いている。毎年4、5月は里人がたくさん集まってくる。お寺では水施餓鬼を行う。追善供養として寺では小塔婆を多く売り、信徒はこれを納めた。どういうわけで石を積むのか民衆も僧侶も知らないのだが、民間因習の強い力で毎年欠かさずに行われていた。  
最後に、波多野ヨスミさん(笹神村)が語る昔話「賽の河原」の概要を紹介したい。ダンナ様の家の男の子が亡くなりました。子どもを大切にするあまり、したい放題に育ててきたから神様がばちをあてたのだ、と村人はささやきます。母親は悲しんで胸をかきむしりたいほどでした。母親は和尚さんに相談に行きます。「親の積んだ石は鬼も崩さないという。おまえさんも賽の河原にいって石を積むといい。」母親は毎日賽の河原に行き石を積みました。その後、母親は女の子を産みます。この子にはあまりわがままをさせないで育てたので、いい子に育ちました。 
栃尾賽の河原石積み行事 (新潟県長岡市, 旧・栃尾市)  
地獄の釜も休むという8月7日は「七日盆」といわれている。この日ばかりは子供たちの霊も石積みを休むという。この日の早朝、この世の人間が子供の霊に代わって石を積み、一日もはやく霊が極楽浄土に行くことができるように願って行われるお盆の行事である。  
この日だけの行事であるので、恒久的に石積みが存在しているわけではない。早朝5時ころから三々五々に石積みが行われ、実質1時間程度で終了する。  
この行事がいつ頃から行われていたかは不明であるが、江戸時代には行われていたという。栃尾では昭和30年代を最後に衰退したが、地元住民によってほそぼそと続けられてきた。平成4年に復活の動きがあり、平成15年からは観光行事として市が協力し、あわせて、市の仏教会も協力して刈谷田川橋の周辺で施餓鬼(せがき)供養が行われるに至る。この行事は栃尾だけでなく見附、下田でもみられたというが、衰退している。  
裏話をひとつ。この行事では石積みをするほか、蓮の葉に折り紙などを載せて川に流します。これらのものは、市の職員が下流で拾い上げているのです。何とも現代的だなあと思わせるひとコマでした。(職員さん、ご苦労さまです。)  
最後に、栃尾市史(1972〜1978年発行)に記されていることをまとめておこう。この石積みは8月7日の早朝(朝食前or日の出前)に子供が近くの川に行き石積みを行う。(市史に昭和20年代後半〜30年代初頭に撮影されたと思われる写真が出ていたが、大人は数少なく、子供が思い思いに高く上手に積んでいた。)現在は刈谷田川が会場になっているが、衰退前は子供たちの地元の川で石を積むものだった。石の積み方は、自分の年の数だけ積めばよい、長く崩れないようにたくさん積んだほうがよい、3つ重ねれば積んだことになるなど、町内によっていろいろである。また、川に薬が流れてくるので川で顔を洗うとよい、河原の水がきれいな時に髪を洗うとよい(まめになる)、川で洗い物をすると虫が食わないなどの言い伝えがある。この日に墓掃除をする町内もある。 
小菅山賽の河原 (長野県飯山市大字瑞穂)  
飯山市の野沢温泉寄りに小菅山がある。白凰時代に役小角(役行者)が開山した修験の山だ。役小角は小菅権現(摩多羅神/馬頭観音。天台宗)を主神として、戸隠、熊野、金峰、白山、立山、山王、走湯の七神を勧請して祀った。だから小菅権現は八所権現と呼ばれた。しかしこれはあくまで伝説であり、現実には平安時代に開かれたようだ。小管山の中腹に小菅庄といわれた集落がある。小菅神社の里社などがある。創建当初は学問僧が占めていたが、その後修験者(=僧兵)が数を増していった。平安末期には飯綱、戸隠、小菅は奥信濃三山とか北信濃三大霊場といわれた。小菅庄は中世期に隆盛を極め、多くの寺院が置かれ、僧侶などが300人以上もいたという。川中島合戦の影響で奥社を除いて山が焼失するという悲劇もあったが、江戸期に再建された。明治に入って神仏分離の影響を受けて、明治33年に小菅神社と改められた。山麓の一の鳥居から仁王門そして奥社は一本の道で結ばれている。この道から妙高山を正面に、千曲川を眼下に望むことができる。小菅山は信仰世界を計画的に配置・形成した一大宗教地区だったのだ。  
小菅集落から小菅神社奥社まで参道を登った。修験の道だ。長さ1500m所要1時間。参道のはじめは樹齢300年という180本の杉並木が600〜700mほど続いている。この間は余裕だ。しかし並木が切れたところから本格的に山を登る。そりゃもう、とんでもなくしんどかった。賽の河原は奥社まで残り400m強の地点にある。奥社に向って、参道右側は崖になっており、石積みがある。参道左側は山で、道から数m高い地点に地蔵一体(高さ90cmの立造)が祀られている。体の半分は枯葉で埋もれていた。地蔵の目は、そこを通る人々をやさしく見守っているような感じであった。  
奥社の裏に滝と池がある。この水が小菅のご神体だという。水分信仰という。  
南北朝期の絵図に地獄谷と呼ばれる地名がある。現在、観音堂前に六地蔵が祀られ、地獄極楽絵図(江戸時代)が伝わり、鬼の伝説が言い伝えられている。参道の御座石と名づけられた巨石には、役小角/弘法大師が休息したという伝説がある。愛染岩には愛染明王が、不動岩には不動明王が祀られている。賽の河原については、“平たい石をここで積み上げると、いいことが・・・”とガイドマップに記されている。これについて調べてみたが、根拠(文献)を見つけることができなかった。賽の河原というと地蔵和讃の悲しいイメージが一般的だが、小菅山の場合はそんな印象はまるでない。参道にいくつかある伝説的な石のひとつという位置づけしか感じられなかった。  
まったく関係ないが、賽の河原の近くに蝦蟇(がま)石という巨石がある。がま蛙に似ているという。私はマイケル・ジャクソンに見えて、ひとりで大笑いした。  
妙高山にも伝わる柱松神事と同様の神事が小菅神社に伝わっている。柱松柴燈(柴灯)神事といって、7世紀から続いている。かつては修験者が行っていた。現在は3年に1回、集落の住民によって行われている祭りだ。奥社ではなく小菅集落内で開催されている。 
光前寺賽の河原 (長野県駒ヶ根市赤穂29, 光前寺)  
南信州随一の祈願霊場として知られる宝積山光前寺。開基は860年。宗派は天台宗(経典は妙法蓮華経、総本山は比叡山延暦寺)。この古刹の一角に賽の河原がある。いつ出来たのか、誰が発願したのか不明である。  
座高1.38mの親地蔵は江戸時代中期の石工:守屋貞治の作になると伝えられている。(光前寺には貞治の作となる石仏がこのほかにも数体ある。)この親地蔵の周囲に数十体の子地蔵や観音像が並んでいる。全部で60体ほどもあるだろうか。中には、建立者や童子・女の名を刻んだものもある。昭和、平成のものもある。2歳児の名と水子(みずこ)が並んで刻まれた一体の地蔵があった。事故で亡くなったものであろうか?何とも言えない気持ちになり、しばらく動くことができなかった。  
これらの地蔵などは、ほぼすべてがおよそ東の方角を向いて建っている。仏壇は西を背にして配置するのがよいとされているというが、ここ地蔵も同様の趣旨での配置されているのだろう。(これまで賽の河原めぐる旅の中で、地蔵が建っている方角など気にしたことがなかった。これからは方位磁石をもって旅に出ようと思う。)  
地蔵におもちゃが供えられているのは光景は哀しい。菓子の包装フィルムなどがゴミと化している光景は悲しい。きれいにしてあげてほしいものだ。 
 
西院河原地蔵和讃(賽の河原地蔵和讃)

『さいのかはらぢぞうわさん』  
これはこのよのことならず。しでのやまじのすそのなる。さいのかわらのものがたり。  
きくにつけてもあわれなり。二つや三つや四つ五つ。十にもたらぬみどり子が。さいのかわらにあつまりてちちこひしははこひし。  
こひしこひしとなくこゑは。このよのこゑとはことかわり。かなしさほねみをとおすなりかのみどりこのしよさとして。かはらのいしをとりあつめ。これにてゑかふのとうをくむ。  
一じうくんではちちのため。二じうくんではははのため。三じうくんではふるさとの。きやうだいわがみとゑかふして。ひるはひとりであそべども。ひもいりあひのそのころは。ぢこくのおにがあらはれて。やれなんぢらはなにをする。しやばにのこりしちちはははついぜんざぜんのつとめなく。ただあけくれのなげきには。むごやかなしやふびんやと。おやのなげきはなんぢらが。くげんをうくるた子となる。われをうらむることなかれと。  
くろが子のぼうをのへ。つみたるとうをおしくずす。そのときのうけのぢぞうそん。ゆるぎいでさせたまひつつ。なんぢらいのちみぢかくて。めいとのたびにきたるなり。しやばとめいどはほどとうし。われをめいどのちちははと。おもふてあけくれたのめよと。おさなきものをみころもの。もすののうちにかきいれてあはれみたまふぞありかたき。いまたあゆまぬみとり子を。しやくじようのゑにとりつかせ。にんにくじひのみはだへに。いたきかかへてなてさすり。あはれみたまふぞありがたき。  
なむあみだぶつ
[ これはこの世のことならず。死出の山路の裾野にて、賽の河原の様子です。かわいそうな様子です。2歳から10歳以下の幼児たち、賽の河原に集まって、父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、この世の声とは違いすぎ、骨まで悲しくなるのです。そこでの幼児の決まりごと。河原の石を拾い積み、罪減らしの塔を積む。一つ積むのは父のため、二つ積むのは母のため、三つ積むのは故郷の兄弟そして自分のため。こうして昼を過ごします。日暮れに地獄の鬼が来て、「ムダなことをしやがって、いくら積んでも父母はおまえのせいで嘆くのだ、嘆けばそれがお前らに苦痛を与える素となる。だから俺を恨むなよ」言うなり鉄棒うち振って、積んだ塔を崩します。そのとき能化の地蔵様。「汝ら、いのち短くて、冥途の旅に来たるなり。ここは家族と遠すぎる。我をここでの父母の替わりと思って頼めよ」と。幼児を自分の懐に抱き寄せくださる、有難き。まだ歩けない稚児たちに、錫杖の柄を握らせて、抱き寄せ、なでてくださって、憐れみくださる、有難き。]
「西院河原」というのは「さいのかわら」ということで、他にも「賽河原」「賽の河原」などの表記があります。たぶん「さいのかわら」という言葉だけ先にあって、後からテキトーに字を当てた結果、「西院」とか「賽」とかの表記違いが出てきたんじゃないかと思います。  
空也上人作とされていることが多いですが、実のところは近世初期〜中期にできあがったと考えられているようで「真鍋氏は、こうした和讃の成立を江戸初期から宝永・享保のころ、大部分は十八世紀前半の作と考えた」(『地蔵信仰』)とのことです。  
いわゆる「お経」扱いされる文献とは異なり、同じもののはずなんだけど中身がかなり違う‥という感じの異本がけっこう存在するようで、「長短十二編におよぶという」と述べています。ここで紹介したものより記述が簡潔なもの、また逆にここで紹介したものよりも長い、子どもたちが辛い目にあう様子がもっと詳細に描かれているバージョンのものもあるみたいです。望月仏教大辞典の「賽河原」の項目で紹介されている和讃の一部も、上記のものと結構ちがってます。  
ただ、明治期以降に主流となっているのは上記のものなんだろうと思います。たとえば中里介山『大菩薩峠壬生と島原の巻』でも突然、登場人物たちの会話の中で地蔵和讃が丸ごと紹介されていますが、その内容は(漢字混じりになっていますが)紹介のした内容とほとんど同じです(細部が微妙に違う)。
地蔵和讃と西院河原和讃  
賽の河原和讃  
賽の河原について。その出典はどこなのか?という話からすると、望月仏教大辞典はこう書いています:地蔵和讃、賽の河原和讃等に其の相状を記述せり。‥(略)‥地蔵和讃に基き、更に其の意を詳述したるものを賽の河原和讃とす。  
つまり、こんな感じみたいですね。---まず、地蔵様を賛嘆する「地蔵和讃」というものがある、と。そして地蔵和讃群の中でも、とくに子ども、賽の河原について語るものが「賽の河原和讃」という感じのようです。  
ちなみに「西の河原」じゃない地蔵和讃とはどんな感じか。短いものを一つ紹介すると、こんな感じのようです:  
地蔵和讃  
八万四千の罪のうみ万業罪障の水ふかし  
四八の波はなを高く千たび百度沈む身を  
地蔵大士は只ひとり臓腑の中に入り充て  
菩提涅槃の花さかし薩婆若の果を興なん  
皆ききたまへ誰々も二仏の間の迷子を  
救はん大悲の恩徳を南無阿弥陀仏と称べし子どものため‥というより、まずは生死の縛りから逃れられない自分たちのため、という感じの和讃ですね。  
賽の河原和讃は10種類以上  
和讃を、仏教のいわゆる「お経」と同等に考える人もいるかもしれませんが、実のところ「お経」とはずいぶん扱いが違っています。なんで違うか?何が違うか?‥要するに「お経は、仏様の言行録、金言集」ということです。仏様の金言集だから、勝手に細部を変更するなんて、とんでもない!‥という話になるため、その継承や伝承はかなり慎重に行なわれてきたはずです。反対に「和讃」というのは、「お経」ほどは継承や伝承に気を遣われなかったみたいです。だから全国あちこちに、さまざまな種類の亜流?類似品?が伝えられ、その多くは忘却され、一部が現代まで残った。‥だいたい、そんな感じになりそうです。  
真鍋広済『地蔵菩薩の研究』によると、「地蔵和讃」という名前の和讃が、確認できたものだけでも35種類存在しているようです。そしてそのうち「西院河原」「賽河原」的なタイトルがついたものは9種類、紹介されています(そして、その8番目が紹介しているもの。それ以外にも「地蔵尊和讃」という題ながら中身は「西院河原」的なものも一つ存在しており、合計10種類の「西院河原」的な和讃が存在していることがわかります。  
ちなみに、この10種類の和讃を見てみると、そのすべてに「一重積んでは‥」「二重積んでは‥」という例の表現を入れています。西院河原和讃の中でもやはりこの部分が、多くの人にとってはいちばん心にグッと来るところなんでしょうね。  
真鍋以外の本を見ると、「西院河原」和讃の種類は10種類よりもっと多いみたいです。  
「地蔵和讃」には多くの種類があり、「さいのかわら」と題されたものだけでも、十種以上の異本が数えられるのだが、それらは、口誦芸の常としてさまざまなヴァリエーションを伴いながらも、五つの基本要素だけはきっちりと埋め込んで、この地獄の定型化に力を貸している(本田和子「「賽の河原」考」)。  
賽河原は昔も今も  
以上のことから、まず地蔵菩薩を讃える「地蔵和讃」という大きなグループがあること。そして、とくにその中でも西院河原・子供の冥福に特化した「西院(賽)河原(地蔵)和讃」と呼ばれる和讃群(どれがいちばん正当かは不明)が、これもやっぱり大量にあること。そしてその西院河原に特化したグループが、たぶん昔も、して現代であってもとくに水子供養などとの絡みでいちばん目立ってる、という感じのようです。これってやっぱ賽河原和讃というのが、独特で強烈な存在感をもって私たちの心に迫ってくるものだから。だから人々のあいだで生き続けているということですよね。---昔も、今も。 
 
念仏和讃

こうみょう・光明 
こうみょうへんじょう じゅっぽうせかい / 光明遍照 十方世界  
ねんぶつしゅじょう せっしゃふしゃ / 念仏衆生 節射普射  
みだたのむ みだたのむ / 弥陀頼む 弥陀頼む  
らいしょうのことを みだたのむ / 来世の事を 弥陀頼む  
こくらくじょうどは とにもかくにも / 極楽浄土は 兎にも角にも  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
みだたのむ みだたのむ / 弥陀頼む 弥陀頼む  
ひとはあまよの つきなれど / 人は天世の 月なれど   
くもははれねども にしへよこそ / 雲は晴れねども 西へよこそ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
おやのさん・親の讃 
あさゆうみあげし わがおやの / 朝夕見上げし 我親の  
ししてめいどへ まいるとき / 死して冥土へ 参る時   
のべのおくりも ゆめじさえ / 野辺の送りも 夢路さえ  
ひろいのはらも せまくなる / 広い野原も 狭くなる  
せんだのたきぎを つみかけて / 千駄の薪を 積みかけて  
のべかやまかで かそうする / 野辺か山かで 火葬する  
いちにちににちは けむりたつ / 一日二日は 煙り立つ  
さんにちさんやと もうすとき / 三日三夜と 燃うす時  
こつをひろいし はいをよせ / 骨を拾いし 灰を寄せ  
ゆうひかがやく そのてらへ / 夕日輝く その寺へ  
こつをおさめし いはいたて / 骨を納めし 位牌立て  
おやのためとて こうをもりて / 親の為とて 香を盛もりて  
こうのけむりが はなとたつ / 香の煙りが 華と立つ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
そこまでや そこまでや / そこまでや そこまでや  
よそとおもいし はすのはに / よそとおもいし 蓮の葉に  
ことしてにとる みそはぎを / 今年手に取る ミソハギヲ  
たむけもうすよ わがおやに / 手向け申すよ 我親に  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏      
はかけ・葉かけ 
ただいまもうした おねんぶつは / 只今申した お念佛は  
こがねのおはちを つみあげて / 黄金の御鉢を 積みあげて  
ほとけのまえに さしあげて / 佛の前へ 差し上げて  
おいたとまおまもうして いざかえる / お暇申して いざ帰る  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
はやかわ・早川 
はやかわの はやかわの / 早川の 早川の<  
つながぬふねの とまるとも / 繋がぬ船の 止まるとも  
しするいのちは もはやとまらぬ / 死する命は もはや止まらぬ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
いそげひと いそげひと / 急げ人 急げ人  
みのりのふねの いでむまに / 実りの船の 出でぬ間に  
のりおくれれば たれかわたさん / 乗り遅れゝば 誰か渡さん  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
はなださん・花陀山 
きみょうちょうらい はなださん / 帰命頂禮 花陀山  
はなのようなる こをもちて / 花の様なる 子を持ちて  
むじょうのかぜに さそわれて / 無常の風に 誘われて  
あまりわがこの こいしさに / 余り我子の 恋いしさに  
はなだのてらへ まいりきて / 花陀の寺へ 参り来て  
てらのしょえんに こしをかけ / 寺の所縁に 腰を掛け  
はなをつくづく ながむれば / 花をつくづく 眺むれば  
ひらきしはなは ちりもせず / 開きし花は 散りもせず  
つぼみしはなの ちるごとく / 蕾し花の 散るごとく  
げにやわがこも あのごとく / げにや我子も あのごとく  
とりはふるすへ かえれども / 鳥は古巣へ 帰れども  
なぜかわがこは かえりゃせぬ / 何故か我子は 帰りゃせぬ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   
ぎょうや・行屋 
おぎょうやでは おぎょうやでは / お行屋では お行屋では  
さてもみごとな おぎょうや / さても見な お行屋  
まえにぼんてん おたてやる / 前に梵天 お立てやる  
うちにはななえの しめをはり / 内には七重の 注連を張り  
ひだりには ひだりには / 左には 左には  
しせいぼさつが おたちやる / 勢至菩薩が お立ちやる  
みぎりには みぎりには / 右には 右には  
かんのんぼさつが おたちやる / 観音菩薩が お立ちやる  
なかにはだいにち ゆりのざに / 中には大日 ゆりの座に  
さてもみごとな おぎょうや / さても見事な お行屋  
おもしろや・面白や 
おもしろや おもしろや / 面白や 面白や  
うかのさかもり おもしろや / うかの酒盛リ 面白や  
しろがねちょうしに こがねさかづき / 白金銚子に 黄金盃  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
おしゃくには おしゃくには / お酌には お酌には  
びしゃもんべんてん おたちやる / 毘沙門弁天 お立ちやる  
まいるかたには うかとだいこく / 舞いる方には うかと大黒  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
みだのさん・弥陀の讃 
そもそもみだの せいがんに / そもそも弥陀の 誓願に  
しょぶつのなかに すぐれたまう / 諸佛の中に 優れ給う  
ほうぞうびくの むかしより / 法蔵比丘の 昔より  
しじゅうはちがん じょうじゅして / 四十八願 成就して  
によけこうにょらいと あらわれて / によけこう如来と 現れて  
いちねんみだの くりきにて / 一念弥陀の 功力にて  
かならずらいしょう ひつじょうして / 必ず来世 必生して  
じゅあくごじゃくの つみにけり / 十悪五逆の 罪にけり  
このねんぶつの くりきにて / この念佛の 功力にて  
にせいあんらくと たのみあげ / 二世安楽と 頼みあげ  
しるもしらぬも おしなべて / 知るも知らぬも 押並べて  
すくはせたまえ みだにょらい / 救はせ給え 弥陀如来  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
やくしさん・薬師讃 
きみょうちょうらい なむやくし / 帰命頂禮 南無薬師  
やくしようかに まいりきては / 薬師八日に 参り来ては  
じゅうにのいとを てにもちて / 十二の糸を 手に持ちて  
じゅうにちょうの ゆみをはり / 十二丁の 弓を張り  
くでんのわきなる かぎかねを / くでんのわきなる かぎかねを  
かけつきねんに もうしべし / 掛けつ祈念に 申すべし  
これもやくしの ちかいなり / これも薬師の 誓なり  
やくしのうえとて かたにかけ / 薬師の上とて 肩に掛け  
それもやくしの ちかいなり / それも薬師の 誓なり  
なむやくしの じゅうにじん / 南無薬師の 十二神  
しるもしらぬも おしなべて / 知るも知らぬも 押並べて  
すくはせたまえわ なむやくし / 救はせ給え 南無薬師  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
かんのんさん・観音讃 
あかつきごやに にしみれば / 暁ごやに 西見れば  
しほうしくんの くもたちて / 四方紫薫の 雲立ちて  
なかにはみりの かんのんの / 中にはによりの 観音の  
じひなほとけに ましせんば / 慈悲な佛に ましせんば  
せかいのにょにんの みがわりに / 世界の女人の 身代わりに  
ひろさがはちまん よじんなり / 広さが八万 余旬なり  
ふかさはちまん よじんなり / 深さ八万 余旬なり  
ちなるいけにぞ おたちやる / 血なる池にぞ お立ちやる  
かたちやつれて おたちやる / 形やつれて お立ちやる  
まよいのにょにんは それしらず / 迷いの女人は それ知らず  
ひかりおがまぬ あわれさよ / 光を拝まぬ 哀れさよ  
ひかりおがみし ひとはまた / 光を拝みし 人はまた  
ななえのひざを やえにおり / 七重の膝を 八重に折り  
はちすのこうべを ちにつけて / はちすの頭を 地に付けて  
とうのれんげを さしあげて / 塔の蓮華を 差し上げて  
みだかんのんと ねんずべし / 弥陀観音と 念ずべし  
ごしょうしょしょとんじょう / ごしょうしょしょとんじょう  
じょなんぼう / じょなんぼう  
ふだらくせかいなり / 補陀落世界なり  
はんにゃのふねに のりうつり / 般若の船に 乗り移り  
ちはやはんにゃの かぜふかば / 千早般若の 風吹かば  
すぐにじょうどに まいるべし / 直ぐに浄土に 参るべし  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
 

 

しゃかさん・釈迦讃 
おしゃかはつきひの お子なれど / 御釈迦は月日の お子なれど  
ななつでがく なるべし / 七(ナナ)つで覚 なるべし  
じゅうごでせんぶつを およみあげ / 十五で千佛を お読み上げ  
しちじゅうごにんの でしをもち / 七十五人の 弟子を持ち  
ろくじゅうにとめと もうすとき / 六十二とめと 申すとき  
ごにゅうめつ なさるべし / 御入滅 なさるべし  
しちじゅうごにんのなな でしたちが / 七十五人の 弟子達が  
みなすいしょうの ずずをもち / 皆水晶の 数珠を持ち  
ねりあるとの ごせいがん / ねりあるとの 御請願  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
かのえさん・庚讃 
かのえおまえを ながむれば / 庚お前を 眺むれば  
ろくじのはなが さきみだれ / 六字の花が 咲き乱れ  
はなはおりたし きはたかし / 花は折りたし 木は高し  
はなれがたきの おまえばな / 離れ難きの おまえ花  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
じゅうさんぶつ・十三佛 
いちにおふどう ににおしゃか / 一にお不動 二にお釈迦  
さんにおもんじゅ しにふげん / 三にお文殊 四に普賢   
ごにはじぞう ろくみろく / 五にはお地蔵 六弥勒  
ななにおやくし はちにかんのん / 七にお薬師 八に観音  
くにはしせいの みだにょらい / 九には勢至の 弥陀如来  
あしくだいにち こくうぞう / 阿閦大日 虚空蔵  
たなばた・七夕 
しちがつなぬかの たなばたに / 七月七日の 七夕に  
おきからふねが うきてくる / 沖から船が 浮きて来る  
たなばたさまの さきのりで / 七夕様の 先乗りで  
あとにおきさき ただひとり / 後にお妃 ただ独り  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ろくどう・六道  
ろくどうは ろくどうは / 六道は 六道は  
つじにまよわば なむじぞう / 辻に迷わば 南無地蔵  
みちびきたまえ みだのじょうどへ / 導き給え 弥陀の浄土へ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ふたつ / 二つ  
ろくどうは ろくどうは / 六道は 六道は  
いづるおうやは くらがらり / いづるおうやは くらがらり  
なむあみだぶつを さきにたて / 南無阿弥陀仏を 先にたて  
むあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   
さらさら・さらさら 
さらさらと さらさらと / さらさらと さらさらと  
にわのいさご ふみわけて / 庭の砂 踏分けて  
おてらまいりは さきのよのため / お寺参りは 先の世の為   
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ふたつ / 二つ   
このてらに このてらに / この寺に この寺に  
こがねのほとけが おたちやる / 黄金の佛が お立ちやる   
そのやひかりで てらがかがやく / そのや光で 寺が輝く  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
しんけ・新家 
きみょうちょうらい このおんいえへ / 帰命頂禮 この御家ヘ  
なんたらばんじょうが おたてやる / なんたら番匠が お建てやる  
じゅうさんやと おあたごが / 二十三夜と お愛宕が  
ばんじょうなさりて おたてやる / 番匠なさりて お建てやる  
じゅうごやおつきが やねふきで / 十五夜お月が 屋根葺きで  
みかづきさまが はりふきで / 三日月様が 梁葺きで  
とらげみしまの しちくだけの / とらげみしまの 七九だけの  
おほくだけて おしめやる / おほくだけて おしめやる  
ほどなくおえも じょうじょして / 程なくおえも じょうじょして  
めでたきものは わたまわし / 目出度きものは わたまわし  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
このてらは このてらは / この寺は この寺は  
しほうしらかべ すぎばんば / 四方白壁 杉ばんば  
すぎとしびきを うえまぜて / 杉と樒を 植え混ぜて  
しびきのはばめに はながさく / 樒のはばめに 花が咲く  
はなじゃござらぬ みなろくじ / 花じゃござらぬ みな六字  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
いしだて・石建て  
わがおやの わがおやの / 我親の 我親の  
まんねんたもつ はかじるし / 万年保つ 墓印  
うえへねんごう きりつけて / 上ヘ年号 切り付けて  
なかはかいみょう かきふらべ / 中は戒名 書きふらべ  
したへれんげの ざをすえて / 下ヘ蓮華の 座を据えて  
さてもみごとな はかじるし / さても見事な 墓印  
たてておがむ ものなれば / 建てて拝む ものなれば  
すえはあんらく にぎやかに / 末は安楽 賑やかに  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
こうみょうへんじょう・光明遍照 
こうみょうへんじょう じゅっぽうせかい / 光明遍照 十方世界  
ねんぶつすぜう せっしゃふしゃ / 念仏衆生 節射普射  
せっしゃふしゃの こうめようの / 節射普射の 光明の  
ねんずるところを てらすなり / 念ずるところを 照らすなり  
こうめようの こうめようの / 光明の 光明の  
ひかりかがやく みちなれば / 光り輝く 道なれば  
ろくどうのつぢば ありやかにゆく / 六道の辻ば ありやかに行く  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
えそげた / 急げ?  
えそげただ えそげただ / 急げただ 急げただ  
みのりのふねの いでぬまに / 実りの舟の 出でぬ間に  
わがのりし わがのりし / 我が乗りし 我が乗りし  
みのりのふねの みなしざお / 実りの舟の みなし竿  
さゝずとわたらへ みだのじょうどへ / さゝずと渡らへ 弥陀の浄土へ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
はやかわの はやかわの / 早川の 早川の  
つながぬふねは とまれども / 繋がぬ舟は 止まれども  
しするいのちは よもやとまらぬ / 死する命は よもや止まらぬ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
みだたのむ・弥陀頼む 
みだたのむ みだたのむ / 弥陀頼む 弥陀頼む>  
ひとはあまよの ほしなれば / 人は天世の 星なれば  
くもはれねど にしへこそゆく / 雲晴れねど 西へこそゆく  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
みだたのむ みだたのむ / 弥陀頼む 弥陀頼む  
らいせのことは みだたのむ / 来世の事は 弥陀頼む  
ごくらくじょうどは とにもかくにも / 極楽浄土は 兎にも角にも  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 
 

 

あげねんぶつ・あげ念佛 
われらがもうした おねんぶつは / 我等が申した 御念佛は  
ほとけのために もうしおく / 佛のために 申しおく  
うけとりたまえ これのおほとけ / 受取り給え これのお佛  
なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏  
おうじょうごくらく みだのじょうどへ / 往生極楽 弥陀の浄土へ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
わがおや・我親  
わがおやの / 我親の  
たびのしょうぞく みもすれば / 旅の装束 見もすれば  
こしよりしもは しろじたて / 腰より下は 白仕立て  
こしよりかみは もんぎきょう / 腰より上は もんぎきょう  
ずだとかんむり えりにかけ / 頭陀と冠 襟に掛け  
ひらけしれんげを かさとして / 開けし蓮華を 笠として  
つぼみしれんげを てにもちて / 蕾みし蓮華を 手に持ちて  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
れんげのじくを つえとして / 蓮華の軸を 杖として  
しゃかのみでしを さきとして / 釈迦の御弟子を 先として  
すぐにじょうどへ まいるべし / すぐに浄土へ 参るべし  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
こどもねんぶつ・小供念佛 
あぶらひの あぶらひの / 油灯の 油灯の  
とぼるまもなく うまれきて / 灯る間もなく 生れきて  
おやをとはずに おやにとはれる / 親をとはずに 親にとはれる  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
あさがおの あさがおの / 朝顔の 朝顔の  
はなのうえなる つゆよりも / 花の上なる 露よりも  
はかなきものは ひとのいのちかな / はかなき物は 人の命かな  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ねんきねんぶつ・年忌念佛  
うちならし うちならし / 打ち鳴らし 打ち鳴らし  
かねのごしえを ゆめさめて / 鉦のごしえを 夢醒めて  
あをのにじを きくぞうれしき / あをの二字を 聞くぞ嬉しき  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
わがおやの わがおやの / 我親の 我親の  
ほとけになるを ゆめにみて / 佛になるを 夢に見て  
うれしながらも しぼるそでかな / 嬉しながらも 絞る袖かな  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無)阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
こどもねんぶつ・子供念佛 
きみょうちょうらい はなださん / 帰命頂禮 花ださん  
はなのようなる こをもちて / 花のようなる 子を持ちて  
むじょうのかぜに さそわれて / 無常の風に 誘われて  
あまりわがこの かわいさに / あまり我子の 可愛いさに  
はなだのてらにと てらまいり / 花田の寺にと 寺参り  
てらのしょいんに こしをかけ / 寺の書院に 腰をかけ  
つくづくおにわを ながむれば / つくづくお庭を 眺むれば  
ひらけしなは ちりもせず / 開けし花は 散りもせず  
つぼみしれんげが ちるごとく / 蕾みし蓮華が 散る如く  
すなわちわがこも あのごとく / すなわち我子も あの如く  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ろくどう・六道 
ろくどうの ろくどうの / 六道の 六道の  
つじにまよわば なむじぞう / 辻に惑わば 南無地蔵  
みちびきたまえ みだのじょうどへ / 導き給え 弥陀の浄土へ  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
おぼんねんぶつ・御盆念佛 
しちがつは しちがつは / 七月は 七月は  
ほとけのために たかとうろう / 佛のために 高燈籠  
てんにおそれて ちゅうでかがやく / 天におそれて 中で輝く  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
むさしのの むさしのの / 武藏野の 武藏野の  
いろあるはなは おおけれど / 色ある花は 多けれど  
なみだながすは みそはぎのはな / 涙流すは みそはぎの花  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
ひがんねんぶつ・彼岸念佛  
ありがたや ありがたや / 有難や 有難や  
これのおしとげ ありがたや / これのおしとげ 有難や  
こんにちひがんに あいあたり / 今日彼岸に あい当たり  
ちゃくみのおんせき おそなえて / 茶汲くみの御席 お供えて  
いざさらよりて おねんぶつ / いざさらよりて 御念佛  
なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏  
おひとげさまへの おみやげに / おひとげさまへの 御土産に  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏>  
ぎょうやねんぶつ・行屋念佛 
ありがたや ありがたや / 有難や 有難や  
おぎょうやさまへは / お行屋さまへは  
ぼんてん おたちやり / 梵天 お立ちやり  
うちにはなゝよの しめをはり / 内にはなゝよの 七五三をはり  
けさをむすんで えりにかけ / 袈裟を結んで 襟に掛け  
ほうかんかぶりて みをきよめ / 宝冠被りて 身を清め  
おくのおやまの ほととぎす / 奥の御山の 時鳥  
なにをめすやら こえがよい / 何を召すやら 声が良い  
いちにかやのみ ににきのみ / 一に茅の実 二に木の実  
さんにしきびの はなをめす / 三にしきびの 花を召す  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
はかいしをたてたねんぶつ・墓石を建た念佛 
ありがたや ありがたや / 有難や 有難や  
こんにちたてたる はかいしは / 今日建たる 墓石は  
まつだいまでの はかじるし / 末代までの 墓標  
うえにはいんごうを きりつけて / 上には院号を 切り付けて  
したにはなまえを かきしるし / 下には名前を 書き記し  
たてゝくどくを するひとは / 建て功徳を する人は  
まつだいちょうじゃで くらすべし / 末代長者で 暮すべし  
なむあみだぶつ なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  
 

 

こうぼうだいしわさん・弘法大師和讃 
きみょうちょうらい へんじょうそん / 帰命頂禮 遍照尊  
ほうきごねんの みなづきに / 宝亀五年の 六月に  
たまよるちょう さぬきがた / 玉藻よるちょう 讃岐潟  
びょうぶがうらに たんじょうし / 屏風が浦に 誕生し  
おんとしななつの そのときに / 御歳七つの 其の時に  
しゅじょうのために みをすてて / 衆生の為に 身を捨てて  
いつつがたけに たつくもの / 五が嶽に 立つ雲の  
たつるちかいぞ たのもしき / 立つる誓いぞ 頼もしき  
なむだいし へんじょうそん / 南無大師 遍照尊  
ついにすなわち えんりゃくの / 遂にすなわち 延暦の  
すえのとしなる さつきより / の年なる 五月より  
ふじわらうじの かのうらと / 藤原姓の 賀能等と  
もろこしぶねに のりをえて / 遣唐船に 法を得て  
しるしをのこす ひともとの / しるしを残す 一本の  
まつのひかりを よにひろく / 松の光を 世に広く  
ひろめたまえる しゅうしをば / 弘め給える 宗旨をば  
しんごんしゅうとぞ なづけたる / 真言宗とぞ 名付けたる  
なむだいし へんじょうそん / 南無大師 遍照尊  
しんごんしゅうしの あんじんは / 真言宗旨の 安心は  
じょうこんげこんの へだてなく / 上根下の 隔てなく  
ぼんじょうふにと さだまれど / 凡聖不二と 定まれど  
げこんにしめす いぎょうには / 下根に示す 易行には  
ひとえにこうみょう しんごんを / 偏に光明 真言を  
ぎょうじゅうざがに となうれば / 行住座臥に 唱うれば  
しゅくしょういつしか きえはてゝ / 宿障何時しか 消えはてゝ  
おうじょうじょうどと さだまりぬ / 往生浄土と 定まりぬ  
なむだいし へんじょうそん / 南無大師 遍照尊  
ふてんにくしん じょうぶつの / 不転肉身 成佛の  
みはありあけの こけのした / 身は有明の 苔の下  
ちかいはりゅうげの ひらくまで / 誓は龍華の 開くまで  
にんどをてらす へんじょうそん / 忍土を照らす 遍照尊  
あおげばいよいよ たかのやま / 仰げばいよいよ 高野山  
くものうえびと しずのをも / 雲の上人 賎の男も  
むすぶえにしの つたかづら / 結ぶ縁の 蔦かづら  
すがりてのぼる うれしさよ / 縋りて登る 嬉しさよ  
なむだいし へんじょうそん / 南無大師 遍照尊  
むかしくにじゅう おおひでり / 昔国中 大旱魃  
のやまのくさき みなかれぬ / 野山の草木 皆枯れぬ  
そのときだいし ちょくをうけ / 其の時大師 勅を受け  
しんぜんえんに あまごいし / 神泉苑に 雨乞いし  
かんろのあめを ふらしては / 甘露の雨を 降らしては  
ごこくのたねを むすばしめ / 五穀の種を 結ばしめ  
くにのうれいを のぞきたる / 国の患を 除きたる  
いさおはいまに かくれなし / 功は今に 隠れ無し  
なむだいし へんじょうそん / 南無大師 遍照尊  
なむだいじだいひ へんじょうそん / 南無大慈大悲 遍照尊  
しゅうじうじゅうざい ごぎゃくしょうめつ / 種々重罪 五逆消滅  
じたびょうどう そくしんじょうぶつ / 自他平等 即身成佛  
『こうぼうだいし』 / 弘法大師  
ありがたや / 有難や  
たかののやまの いわかげに / 高野の山の 岩陰に  
だいしはいまに おわします / 大師は今に 居わします  
『こうきょうだいし』 / 『興教大師』  
ゆめのうち ゆめもうつゝの ゆめなれば / 夢の内 夢も現の 夢なれば  
さめてはゆめも うつゝとぞしれ / 醒めては夢も 現とぞ知れ  
ぜんこうじ・善光寺 
ありがたや / 有難)や  
かねのすだれを まきあげて / 金の簾を 巻き上げて  
ねんぶつこえを きくぞうれしき / 念佛声を 聞くぞ嬉しき  
みはこゝに / 身はこゝに  
こころしなのの ぜんこうじ / 心信濃の 善光寺  
みちびきたまえ みだのじょうどへ / 導き給え 弥陀の浄土へ  
りゅうしょういん・龍性院 
ごくらくの / 極楽の  
たからのいけを おもえたゞ / 寶の池を 思えたゞ  
こがねのいずみ すみたたえたる / 黄金の泉) 澄み湛えたる  
まんこういん・満光院 
ごくらくの / 極楽の  
みだのじょうどへ ゆきたくば / 弥陀の浄土へ 行きたくば  
なむあみだぶつ くちぐせにせよ / 南無阿弥陀仏 口癖にせよ  
じぞういん・地蔵院  
むつのちり いつつのやしろ あらわして / 六つの塵 五つの社 顕して  
ふるきにいだの かみのたのしみ / 古き仁井田の 神の楽しみ  
ほうせんじ・法泉寺 
ながむれば / 眺(なが)むれば  
つきしろたえの よわなれや / 月白妙の 夜半なれや  
たゞくろたにに すみぞめのそで / たゞくろたにに 墨染の袖  
じんしょうじ・神照寺  
いくさには / 戦には  
かつまときけば ぼんのうの / 勝間と聞けば 煩悩の  
つみはほろびん ちえのじりに / 罪は滅びん 知恵の鏃に  
とらやくし / とら薬師  
せんりのみちを ひとすじに / 千里の道を 一筋に  
みちびきたまえ みだのじょうどへ / 導き給え 弥陀の浄土へ  
かさもりじ・笠森寺 
だいひなる / 大悲なる  
かさもりでらの みほとけに / 笠森寺の 御佛に  
くすのひかりが よもにかがやく / 楠の光が 四方に輝く  
ひはくるゝ / 日は暮るゝ  
あめはふるのの みちすがら / 雨は降る野の 道すがら  
かかるたびじを たのむかさもり / かかる旅路を 頼む笠森  
うきにふる / うきに降る  
なみだのそでに ぬれるとぞ / 涙の袖に 濡れるとぞ  
きょうはかさもり たずねきにけり / 今日は笠森 尋ね来にけり  
じゅうさんぶつ・十三佛 
われらがもうしたる おねんぶつは / 我等が申したる お念佛は  
ろくまんろくせん ろくじぞう / 六万六千 六地蔵  
じゅうまんおくの みだたのむ / 十万億の 弥陀頼む  
たのみもうすよ じゅうさんぶつ / 頼み申すよ 十三佛  
ごくらくじょうどの まんなかに / 極楽浄土の 真ん中に  
おふどうさまが おたちやり / お不動様が お立ちやり  
とにもかくにも わがみをば / 兎にも角にも 我身をば  
おふどうさまに まかせおく / お不動様に 任せおく  
なむあみだぶつ / 南無阿弥陀仏  
だいしさま・大師様 
なむだいし へんじょうこんごう / 南無大師 遍照金剛  
かもんはんえい そくさいえんめい / 家門繁栄 息災延命  
にせいあんのん ならしめたまえ / 二世安穏 ならしめ給え 
 

 

そもそも遠州  
そもそも遠州浜松の 大念仏の始まりは   
元亀三年さるの年 頃は五月の下旬なり   
家康公と信玄と 三方ケ原にいくさして   
てんややわんやの閧の声 暗さは暗し道見えず   
あたり近所は五里七里 夜も寝ることはさもならず   
さも寝ることはよもならず そもそも七月十五日   
曽我の源氏におとされて 其の時亡者がむこうべし   
往生安楽南無阿弥陀 南無阿弥陀仏と申します  
我が親  
我が親の我が親の 野辺の送りの其の時は   
広き野原もせまくなる 千段たき木をつみくべて   
一日二日は煙立つ 早三日となりぬれば   
妻子子供が集まりて 遺骨を拾って箱につめ   
墓のしるしに松植えて 松は木となる親子石   
親の御墓の八重桜 花を見るとも枝折るな   
それげにおしみの花なれば 雨をも風をもいとうべし   
花におしみはないけれども 親の御墓がうすくなる   
よくよく念仏申すべし  
我が妻  
我が妻の我が妻の 妻に別れしその時は   
あまり心が淋しさに 東窓なる北にねて   
今朝の明夜の雲見れば 西や東に別れ行く   
我等もあの道あの如し 往生安楽南無阿弥陀   
南無阿弥陀仏と申します  
浜千鳥  
帰命頂礼浜千鳥 浜の小松に巣をかけて   
打ち来る波に子をとられ また引く波に巣をとられ   
余りわが子の恋しさに 浜のお寺え参るべし   
お寺の小縁に腰を掛け 花をつくづく眺むれば   
開きし蓮華は散りもせず つぼみし蓮華の散るを見て   
何故にわが子は帰りこん 往生安楽南無阿弥陀   
南無呵弥陀仏と申します  
箱根山  
これより東の箱根山 登りて見れば一つか二   
下りて見れば八つの谷 八つの谷から落とされて   
見だらせ川とて川ひとつ その川すその川すその   
さんこ鳥とて鳥羽 親に不幸な鳥じやもの   
目をも霧にとどされて 羽をば雪にとたたまれて    
足をば氷にとじられ はやく来年春来たら   
楽師の山えと参るべし よくよく念仏申すべし   
くろだに  
帰命頂礼くろだにの 伝行大師の教えには  
人間わずか五十年 花にたとえて朝顔の   
露よりもろき身をもちて なぜに後生を願わんぞ   
往生安楽南無阿弥陀  
高き山  
高き山高きすすきを刈りわけて 親のみ墓に花立てて   
帰る姿を見上げれば 裾は露露裾涙   
よくよく念仏申すべし 往生安楽南無阿弥陀   
南無呵弥陀仏   
この寺  
この寺へこの寺へ 参りて見ればありがたや   
一のご門は瓦ぶき 二のまたご門はこけらぶき   
お寺はこけらでふきつめて 前に治水の池がある   
池の蓮華が咲き乱れ お寺のどうじょをめいわかれ   
往生安楽南無阿弥陀 南無呵弥陀仏と申します  
地蔵菩薩  
帰命頂礼地蔵菩薩 地蔵の菩薩の遊山船   
中は唐紙櫓は小金 柱は金紗の巻柱   
やあがてほくえの帆を上げて 極楽寺坂を楽々と   
往生安楽南無阿弥陀 南無呵弥陀仏  
これより西  
これより西の美濃の国 親に孝行の子が御座る   
親に七度売られても 親の為とて髪を剃り   
黒染衣を肩に掛け 鉦と撞木を手に持ちて   
あなたの門にてナムアミダ こなたの門にてナムアミダ   
往生安楽南無阿弥陀  
 

 

きいみょう  
きいみょうちょうらい長者様 年の初めの初夢は    
かかるめでたし夢をみて ま白きねずみを三つつれて   
黄金のお蔵に金運び それを殿様ごらんじて   
黄金の銚子に御酒詰めて 歌え大黒舞恵比寿   
しゃみにうたれて歌の声 往生安楽南無阿弥陀   
南無呵弥陀仏と申します  
たかなわ  
帰命頂礼たかなわの 二十六夜のご来光   
拝むとすれば雲かかる 雲ほど邪険なものわない   
雲に邪険はなけれども 我が身の邪険がじゃまをする   
心入れ替え身を清め また来る六夜を拝まんせ   
往生安楽南無阿弥陀 南無呵弥陀仏南無呵弥陀  
 
和讃解説

 

■ 弥陀の名号となへえつつ 信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり

弥陀の名号である南無阿弥陀仏を称えつつ、真実信心を得ている人は、如来の本願を憶念する心が常にあり、仏恩報謝の思いから自然に念仏が称えられるのである。
1 となへつつ  「つつ」の語に三首の訳し方があり、「て」と「ほどふる」と「ながら」である。「て」は名号を称え続けて信心まことにうる、と訳す。「ながら」は雖もの意味で、第二種の和讃にかけて理解する。名号を称えていても、信心まことにうる人と読む。三種のうちいずれでもよいと思うが、次の和讃と関連させ、「ながら」で読むのがよいかもしれない。
2 憶念の心つね  憶念は今は信心相続して本願を思い出すこと。「つね」の語に二つの意味がある。一つは衆生に信じられている名号に常住不断の徳があり、これが衆生心中に受けいられているので信心断絶しない、即ち「つね」であるという。これは信じられている名号の徳から「つね」の語を解釈する。他の一つは衆生の信じぶりより「つね」の語を解釈する。衆生は信心をいただいても、常住不断に本願を思いづめに思っておれない。しかし、いつ本願を思い出しても、往生がまちがいないという心は変わりない。その意味で信心が変わらずつづいていることを、「つね」といわれているとする。今は二つの意味を含みつつ、信じぶりについてつねに、と述べられていると思う。

このご和讃は、「三帖和讃」の巻頭にあり、「誓願不思議をうたがひて、御名を称する往生は、宮殿(ぐでん)のうちに五百歳、むなしくすぐとぞときたまふ」の一首と合わせて「冠頭二首の和讃」とも呼ばれています。
親鸞聖人は、恩師法然上人より「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と教えられました。
その法然上人の「ただ念仏」のこころは、本願を信じて称えよ、ということであり、本願を疑う自力念仏ではないぞ、信心が肝要であるぞと教えられているのが、この二首の心であります。
そして、「三帖和讃」全体が、信心を勧め疑いを誡めていますから、この二首は「三帖和讃」全体の大意を述べられたものともみられています。
「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは」とは、弥陀の名号を称えても、ただ称えてはたすからない、信心まことに得て称えよと勧められるのです。
信心を得るということは、法蔵菩薩が苦悩に浮き沈みし、迷いから永劫に出ることのできない私をみそなわして、「もし生ぜずは、正覚をとらじ」との誓いを発し、私のたすかるいわれも、信心までも成就してくださって、阿弥陀仏となられ、十万億土の彼方から、今現に私のところに来てはたらいていてくだされていることを信ずるのです。
私の口から南無阿弥陀仏と出るのは、称えさせねばおかぬ仏心の表れである称える念仏が、私の念仏ではなく、称えさせてたすけずばおかぬという仏の本願力が私の口に現れてくださるのです。
その南無阿弥陀仏と称えさせる本願力を信ずるのです。
そこに、往生成仏に定まった身の上をたまわり、往生成仏という生きるめあて、人生の目標をたまわるのです。また、老・病・愛・憎などこの世の苦悩を超える生の依りどころをいただくのです。
「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」とは、信心がこころの奥深くずっと続き、途切れることなくつづいていく、ちょうど二河白道に切れ目がないように、ずっと続いています。そして折にふれ縁にふれて、仏恩報謝の念仏となってあふれ出るのです。
私たちが念仏を称えるのは、仏にああしてください、こうしてくださいと願う心ではなく、すっかり私の願いが満たされたとき、大満足が報謝の念仏となって出てくるのです。
わずか一首四十字たらずの詩ですが、心にしみるものがあります。
■ 弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
  法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり

阿弥陀如来が法蔵菩薩の昔、一切衆生を救いたいという願いをおこし、永い永い修行の結果、さとりを開き仏をなられてから、釈尊が説法されたその時までに、すでに十劫という長い時間が経っている。阿弥陀仏の成仏以来、その仏の御身より放たれる光は、限りなく、十方のいずこをも、また過去、現在、未来を通して、どこでも、いつでも照らし続け、智慧のない私たちに信心の智慧を与え続けていてくださるのである。
1 十劫  劫とはサンズクリットのカルパの音写で、インドの時間の単位の中で最も長い時間。次のような例によって表現される。一つは、一返が四十里の磐石を百年に一度づつ天女が羽衣で払拭して、この磐石がなくなる時間が一劫。二つは、四十里四方の大城に芥子の実を満たし、百年に一度一粒ずつ取り去ってなくなってしまう時間を一劫という。三つには、塵点劫という言い方もある。
2 法身  普通、法身というのは、阿弥陀如来の報身、釈迦如来の応身に対して、宇宙の真如法性の理を法身というが、今はそれと異なる。今は法性法身から顕れ出た方便法身の弥陀の御身ということ。
3 光輪  仏の光明を転輪王の持つ輪宝にたとえたもの。転輪王の持つ輪宝にたとえたもの。転輪宝が行幸するとき、その車が山を砕き谷を埋めて平地となし、王の進む道を作るという。このように如来の光明に照らされた人生を歩むものは、もろもろの人生の苦難にあっても浄土への人生を導かれる、如来の光明のはたらきを転輪王の輪宝にたとえたもの。

親鸞聖人は、曇鸞大師の作られた『讃阿弥陀仏偈』を『大経』と同等に見られ、これによって四十八首の和讃を作られ、『讃阿弥陀仏偈和讃』と名づけられました。
曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』というのは、阿弥陀を讃嘆した偈文ということですが、親鸞聖人はそこに説かれている阿弥陀仏の御身も、浄土の七宝樹林・八功徳水みなことごとく、われら罪業深重の衆生を救うためのものであると味わわれたものです。
そして浄土真宗の教えは、この阿弥陀如来のおさとりから流れ出てきたものであることを顕すために、「三部経和讃」の前に『讃阿弥陀仏偈和讃』をおかれました。ですから『浄土和讃』も『高僧和讃』も『正像末和讃』も、すべてその源は、阿弥陀如来のおさとりから流れ出たものであるということができるわけです。
さて、「讃阿弥陀仏偈和讃」の最初の一首が先にあげた和讃です。阿弥陀如来が仏となられてから今までに、すでに十劫という永い永い時間が経っている。その間も如来の御身からは、際限のないお光りを十方に放って、世の迷いの衆生を照らしていてくださっている。
何ともったいないことであろうかと、如来の光明の中にご自身を見出された親鸞聖人のよろこびをうたわれたものです。
親鸞聖人が命がけで求道されたことは『恵信尼消息』からも分かります。
「聖人が比叡山を出て、六角堂に百日お籠もりになって、九十五日目の暁に、聖徳太子の示現にあずかり、やがて法然上人にお会いになり、また百か日、降るにも、照にも、どんな大事なことがあってもお訪ねになった」とあります。
このことからも、聖人の命がけの求道の姿が目に浮かんできます。
けれども、いかに厳しい求道をしても、いや厳しく自己を見つめれば見つめるほど、煩悩のなくならないわが身が見えてくるばかりでした。
「まことに知らぬ、悲しきかな愚禿親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数には入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし 」と悲しまれています。
如来の大悲の中になりながら、かわいい、欲しい、大事にされたいの心がなくならないばかりか、さとりに近づくことさえも喜ばない煩悩の姿を悲しまれています。
この煩悩の根深さは、五十年、百年前からのものでなく、深い深い十劫もの歴史をもっており、この煩悩の歴史にそって大悲がかけられたことを讃嘆されたのがこの和讃です。 
■ 智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
  光暁かぶらぬものなし 真実明に帰命せよ

阿弥陀如来の智慧から放たれる光明は、人間の力によってはとても量り知ることができない。いつの時代も、どんな国のどのような衆生もみな、この如来の光照をこうむって、煩悩の闇をはらし明るい世界をたまわらないものはない。真実の知惠の如来である阿弥陀如来に信順したてまつれ。
1 智慧  如来の智慧には実智(じっち)と権智(ごんち)との二つの側面があるといわれている。実智というのは空・無我をさとる智慧ともいわれ、善も悪も優も劣も、迷いも悟もどれもわけへだてなく平等に見る智慧。この智慧は分け隔てしない智慧だから、無分別智(むふんべっち)などともいわれる。権智というのは、善人も悪人も、迷いもさとりも平等に見る知恵を根底に持ちながら、しかもその上で悪を善に導き、迷いをさとりに導くときに、善・悪・迷・悟を区別。分別して知らなければならない。この衆生を救うときにはたらく智慧が権智である。
2 有量  古写本の左訓に「うりゃうはせけんにあることはみな、はかりあるによりて、うりゃうといふ。ぶちほふは、きはほとりなきによりてむりゃうというなり」とある。如来の智慧のはたらきの無量、無限であるのに対して、われわれの世界は何一つとして有量、有限でないものはない。有量であるわれわれの世界のものは、すべてそれぞれの姿、形を持っているから、諸相といわれる。
3 光暁  智慧の光明に照らされて、無明煩悩の闇がはれて、明るくなることを暁に譬えたもの。『尊号真像銘文』に「摂取心光常照護といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり」と述べられている。
4 真実明  古写本の左訓に「しんといふは、いつわり、へつらわぬを、しんといふ。じちといのこと、なからず、もののみとなるをいふなり」とある。「もののみとなる」とは、ものとは衆生のこと、「み(実)とは、真実の利益となるということだろう。」
5 帰命  サンスクリット、ナマスの訳語。帰命の語を、(イ)仏の方から、たのみとせよ、たすけると、如来の方から帰せよと命じておられるとする意味と、(ロ)信心が礼拝となって動作に表現されるものを帰命という場合もあるが、(ハ)今は衆生の方から、仏がたのみとせよ、たすけるの「命に帰する」衆生の心をいう。

この一首は、前項の「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまへり、法身の光輪きわもなく、世の盲冥をてらすなり」とありました法身の光輪が、際限なく世の迷いの衆生をお照らしてくださるありさまを、これから後に詳しく十二の光で讃嘆され、阿弥陀仏に帰命せよ、阿弥陀仏に帰命せよと勧められています。
一人の女性でも、親から見れば娘であり、夫から見れば妻であるように、阿弥陀仏にはたくさんの名前があります。
「真実明」「平等覚」「難思議」「畢竟依(ひっきょうえ)」など、みな阿弥陀仏の別名です。
この阿弥陀仏の別名をあげて、帰命せよ、帰命せよと勧めてくださっています。
「南無阿弥陀仏」ということを、親鸞聖人は「帰命は本願招喚の勅命なり」と述べて、阿弥陀仏が帰せよと命に、よびかけておられる姿であると教えてくださいました。親鸞聖人は、ご自身が如来の光明を仰ぎつつ、言葉をかえ表現をかえて、私たちに阿弥陀仏に南無せよ、阿弥陀仏に帰命せよと勧められています。
「智慧の光明はかりなし、有量の諸相ことごとく、光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし」とは、如来の智慧の光明は、無量光、つまり量りない光であり、有量すなわち量りある、限りあるものは、ことごとく光暁をこうむらないものはない、ということです。
「光暁(こうきょう)」ということには深い意味を感じます。
暁とはあかつき、あけぼの、夜明けのことです。闇の中に光が射し込んでくる姿です。
智慧の光明に照らされて、如来のお慈悲に気づかされていただき本願を疑う闇がはれても、煩悩の闇がなくなるわけではありません。
光明に照らされれば照らされるほど、それまで気づかなかった闇が見えてくるというのです。
「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえずと、水火二河のたとへにあらわれたり」とありますが、煩悩の闇の中に光を仰いでいくことを「光暁」と述べられたものと思われます。
私の煩悩の姿に気づけば気づくほど、真実の如来の光明を仰がずにはいられません。
■ 解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな
  有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ
束縛から解き放ってくださる如来の光明は、いつの時代にも、どんなところでもはたらいていてくださっている。この光明にふれるものは、有れば有で苦しみ、無ければ無いといって悲しむことから解放されると、『讃阿弥陀仏偈』には述べられている。私たちに平等をさとらせてくださる阿弥陀仏に帰命してたてまつれ。
1 解脱  古写本の左訓に「げだつといふは、さとりをひらき、ほとけになるをいふ。あわらがあくごふ、ぼむなうを、あみだの、おむひかりにて、くだくといふこころなり」とある。解脱とは種々の意味があるが、今は左訓のように、悪行、煩悩の執着をはなれて真理をさとり、仏となることで、涅槃と同じ意味。
2 きはもなし  和讃に「解脱の光輪きはもなし」と述べられている。「きはもなし」とは無返際の光ということ。この無辺光には、二つの意味が含まれていると考えられる。一つにはきわほとりがないという意味で、三世十方世界を、あまねく照らすという意味。二つには、一方にかたよらない中正な光ということ。それでかたよった執着がやぶられる。
3 有無  有無とは有の見、無の見の二つの誤った考え方。有の見とは、人間の死後も、生前と同じ霊魂が変わらず存在し続けると、個人や世界の存在(有)に執着した考え方で、無の見と他の存在が無に帰するととらわれるのが無の見である。有の見も無の見も、ともに正しいものの見方とはいえない。それで「有無をはなる」の左訓に「じゃけんをはなるなり」とある。
4 平等覚  すべての執着をはなれて一切を平等にみる智慧の仏、阿弥陀如来のこと。古写本の左訓に「あみだは、ほふしんにてましますあひだ、びゃうどうかく、というなり」とある。阿弥陀仏は一切の現象を貫く平等の法、即ち法身をさとった仏であるから平等覚という。

前項の一首では、「智慧の光明はかりなし」と阿弥陀仏の光明は、量りなき、無量の光明であると讃嘆されました。
「無量光」とは、十劫の昔から未来永劫尽きることのない光明ということです。
これをうけて、「げだつのこうりんきはもなし」とうたわれたのです。
如来のおさとりは、何ものにも束縛されない広々とした世界であり、このさとりから私たちの束縛を解く光明が放たれています。
それを「解脱の光輪きはもなし」と詠じられています。如来の光明はきわもない、無辺の光明、無辺光と讃えられています。
無辺光とは、日本とかアメリカとかヨーロッパとか、所を嫌わず、どこでも照らすということであり、また善人であれ悪人であれ、男女、優劣、好き嫌いと分け隔てのない、一返にかたよらない光明ということです。
ですから無辺光とは、一切衆生一人としてもれることなく、お照らしくださる光明です。
「光触かぶふものはみな、有無をはなるとのべたまふ」とは、如来の光明にふれるものみな、心中の計らいが融かれ計らいをはなれさせていただく、この計らいのことを「有無」と述べられています。
有無とは、私たちの迷いのあり方すべてをこの二文字で言い表されているのです。
有無とは、辞書では、有に執着する有見と、無に執着する無見とを合わせた言葉で、ともに邪見であると述べられています。
私たちの日常は、自分と他人、生と死、幸と不幸、善と悪、正と邪、優と劣、好きと嫌い、信心と疑心というように、ものごとを分けていずれか一方に執着しています。
ですから、一方にかたよったものの見方です。このようにものごとを分けて、いずれか一方に執着するかたよったものの見方を「有無」といわれているのです。
阿弥陀仏は、「有無」をはなれた仏さまです。
「有無」をはなれた仏さまの無辺光に照らされ、私たちも「有無」をはなれさせていただくのです。
「平等覚に帰命せよ」とは、無辺光でお照らしくださる阿弥陀仏は、私たちに平等のさとりをお与えくださる仏さまです。
自他、生死、禍福、信疑と二つに分けるのは人間の計らいです。信も疑も、自分で疑いをなくし、自分で信じ込んだものなら計らいです。
自分の考えをもとにしたものは計らいです。阿弥陀仏は善であれ悪であれ、平等にたすけるぞ、とよびかけてくださいます。
わが身の計らいの姿に気づかされ、平等覚を仰がざるを得ません。
■ 光雲無碍如虚空 一切の有碍にさはりなし
  光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ

如来の光明は雲のように、あまねくゆきわたって法雨をそそぎ、衆生を利益したまい、妨げるもののないことは、あたかも大空のごとく、現象世界のどのようなもの、この光明のはたらきの障碍となるものはなく、光明の潤いをこうむらないものはない。不可思議な光明の如来である阿弥陀如来に帰命したてまつれ。
1 光雲無碍如虚空  「光雲のごとくにして、碍わりなきこと虚空のごとし」とも、「光雲無碍にして虚空のごとし」とも読み、光明の無碍である  ことを虚空に譬えられる。この七字は曇鸞大師の作られた『讃阿弥陀仏偈』の語をそのままあげられたもの。
2 一切の有碍  一切はすべて、有碍とは有限なる存在ということ。大正生まれの人は昭和生まれに変わることはできない。男も女に変わ   ることはできない。その意味では有限な存在は不自由な存在、さわりある、有碍なるものといわねばならない。それで古写本の左訓に「よろづのこのよのことなり」とある。また特に、衆生の悪業煩悩のさわりあるものということも指す。
3 さはりなし  如来の光明は障碍されることのない無碍光であることを意味する。『往生論註』に「この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く」とか、『一念多念証文』に「無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり」などとあり、衆生の悪業煩悩に妨げられず、自由自在に衆生を救うはたらきをいう。

この一首は、阿弥陀如来の無碍光を讃えられます。
『光雲無碍如虚空』とは、曇鸞大師のお言葉です。
光雲とは、「光」は如来の光明、「雲」とは雲のように潤いを与えるものということで、光明の恵みを表しています。
無碍とは、碍りなし、障碍がない、妨げが無いということです。虚空とは空のこと、広々として障りがないことです。
如来の光明の恵みに障りがないこと、あたかも大空のように広々して、山も容れる、ビルも建つ、ロケットも飛ばせる、何も妨げるもののない広いお心です。
「一切の有碍にさはりなし、光沢かぶらぬものぞなき」とある有碍とは、障碍がある、自由があさまたげられているもの、制約されているものということです。私たちの目にふれるものは、すべて制約されています。
動物にしろ、植物にしろ、山・川すべて制約された存在です。
ですから「一切の有碍」の左訓に「よろづのこのよのことなり」とある異本もあります。
ともあれ、この世のすべてのものは、もれなく、阿弥陀如来の無碍の光明の恵みを蒙っています。
そのことを「光沢」とい讃えられています。光明の沢潤(うるおい)ということです。
親鸞聖人は、如来の無碍光について「無碍といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり」と述べて、特に衆生の煩悩悪業に妨げられないことを無碍光と味わわれました。
どれほど如来さまに背をむけても、疑っても、誹謗しても、如来さまはけしからんとも、ひどい目に合わせたともお思いにならない、このように私たちの煩悩悪業にまったく妨げられない広々としたお心のことです。
そして、私たちに悪業も煩悩をもそのままにして、たのめよ必ずたすけるとよびかけてくださいます。
この如来のおよび声、南無阿弥陀仏の願力におまかせする一つで、阿弥陀如来と同じ広々とした無碍のおさとりを得させていただくのです。
「難思議」とは、阿弥陀如来の別名です。私たちの思いでは、はかることのできない如来さまということです。
煩悩悪業に苦しむ私たちが、南無阿弥陀仏の願力一つで、阿弥陀如来と等しいおさとりを得させていただくことは、私たちの心では決して思いはかれない広大なお徳であるといわねばなりません。ただただ仰ぐほかありません。 
■ 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば
  一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依に帰命せよ

一切の煩悩をはなれた、清らかなさとりより放たれる弥陀如来の光明が、諸仏の光明にすぐれていることは他に比べるものがない。この光明にお遇いするゆえ、迷いの世界に繋ぎとめる煩悩悪業は、すべてみな除かれてしまう。究極のよりどころである阿弥陀如来に帰命してたてまつれ。
1 清浄光明  われわれを救うために、煩悩をはなれ智慧をもって、真理のままさとりをあらわし、衆生の悪業煩悩の汚れを除き清浄にしたまう光明。古写本の左訓には、衆生を救う側面のみについて、「とむよくのつみを、けさんれうに、しゃうじゃうくわうみゃうとひなり」とある。「れう」とは、はたらき、ため、という意。
2 ならびなし  ならぶものがない、他にくらべるものがない、とびぬけている、最高であるなどの意味だが、これを大別して二義があるといわれている。一に無対比、くらべるものがない、諸仏の光明も弥陀の光明にははるかに及ばないという意であり、二に無敵対、かなうものがない、敵対できるものがないという意で、一切の有碍にさわりなしというのは、この意味であり、今は「一切の業繫ものぞこりぬ」とあるので、無敵対の意味を主としつつ、無対比の意も含んでいる。
3 遇斯光  この光に遇うということ。『讃阿弥陀仏偈』の曇鸞大師の言葉をそのまま和讃に使われています。光とは、阿弥陀如来のことと聖人は見ておられる。『唯信証文意』に「しかれば阿弥陀仏は光明なり」とか、『一念多念証文』に「この如来は光明なり」と述べられている。また「遇」という文字を「まうあふ」と読まれるときには、本願にあう、光明にあう、如来の回向にあうという場合がほとんどで、「まうあふ」はお遇いする意味で尊敬を表す。そこで「まうあふと申すは本願力を信ずるなり」と信と意味する。それで、光にあうとは如来を信ずるという意味。
4 畢竟依  究極の依りどころの意。古写本の左訓に「ほふしんのさとり、のこるところなく、きわまりたまひたりと、いふこころなり」とあり、法身のさとりであって、あらゆる煩悩が滅した究極的さとりである。それゆえにすべての衆生に絶対の安らぎ、依りどころとなる。畢竟依とは、諸仏に通じる名であるが、今は阿弥陀仏に限って用いられている。

この一首は、無対光を讃嘆されています。
「清浄光明ならびなし」とは、阿弥陀如来の煩悩をはなれた清浄の光明は、どんな諸仏・諸菩薩、神々も対(なら)びない、比べものにならない光明(無対光)で、私たちのどんな悪行煩悩も、この光明のはたらきに敵対し、妨げることはできません。
私たちは、何が真のたのみになるのか、永遠のめあてになるものかも知らずに、金を求め、財を求め、地位を貪り、愛に繋がれ、生に執着しています。お金も、愛も生命も有難いものではあります。
しかし残念ながら私たちの永年の依りどころにはなりません。この永遠の依りどころ、真のたのみにならないものを、永遠のたのみであるかのように思っている私の心を、お照らしくださるものが、如来の清浄光明でありましょう。
ですから、和讃の古写本には、清浄光明の左訓に「貧欲の罪を消さん料に清浄光明といふなり」とあります。
たのむべからざるものを、たのみにして、貪っている罪を消すはたらきが、清浄光明であるということでしょう。
清浄光は一切の罪を除くはたらきであることは、次の句で分かります。
「遇斯光のゆゑなれば、一切の業繋ものぞこりぬ」、遇斯光とは、この光に遇うということです。
親鸞聖人は、光明をはなれて阿弥陀如来はましまさず、阿弥陀如来は即ち光明であるといただかれ、「まうあふ(遇いたてまつる)と申すは本願力を信ずるなり」と述べられています。
ですから、遇斯光とは、阿弥陀如来の本願を信ずることです。
この如来の本願を信じたからには、信じたと同時に「一切の業繋ものぞこりぬ」(一切の業繋も除かれてしまう)、迷いの因が獲得と同時に除かれてしまうと讃えられます。
信心と同時に、いい際の業繋が除かれてしまうとは、業繋がなくなってしまうことではないでしょう。
如来の清浄光に照らされ、煩悩によって業を作り、苦果の縄に縛られて迷いから出られない私の姿を心底から知らされ、いかなる業繋も必ず除いてくださる如来のはたらきに、私のすべてを投げ出したとき、業繋があるままで、生きてよし、死んでよしという自由な、業に繋がれない世界が与えられます。
生きてよし、死んでよし、すべてをおまかせにした自由無碍な世界を与えてくださるものは、最後の依りどころ(畢竟依)であるに違ありません。
■ 仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり
  三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

阿弥陀如来の光明の耀きのすぐれていることは、とても諸仏の光明の及ばないところにある。それで光炎王仏と申し上げる。このようなすばらしい徳のある、大応供とも讃えられる阿弥陀如来に帰命したてまつれ。
1 光炎王仏  光明の中で最もすぐれた光明の仏ということ。炎は光の盛んなこと。王に自由自在の意味と尊貴の意味があり、三塗の黒闇をひらくというのは自由自在の意味であり、諸仏の光明の及ぶことができないすぐれた光であるというのは尊貴の意味である。なお、『大経』には「光炎王仏」とはいわず「炎王光仏」と述べられているが、意味は同じである。
2 ひらく  三塗の黒闇ひらくとは、地獄、餓鬼、畜生の苦を受けている人がその苦がなくなり、法を聞き、浄土に往生してさとりをうること。
3 大応供  応供は仏の十種の名の一つである。梵語のアルファベットの訳。価値のある人。尊敬すべき人。他人からの供養を受けるに十分相応すべき人。すべての煩悩を断ちきって他人の供養を受ける資格のある人などの意であり、諸仏に通じる名。今は阿弥陀仏が諸仏の中で、最もすぐれた仏であることを「大」の一字を加えて表現し、弥陀の別名とされている。

この和讃は十二光の中、光炎王の徳を讃嘆されます。
「仏光照曜最第一、光炎王仏となづけたり」とは、阿弥陀仏の光明の照らし耀くことは、諸仏の光明も及ばないほど、最も勝れ、それゆえに光明(炎)中の王さまの仏、とも名づけられたと阿弥陀如来の光明を讃えられます。
「三塗の黒闇ひらくなり」とは、光炎王仏だからこそ、最も罪業深い者の堕ちる、地獄、餓鬼、畜生の三悪道(三塗ともいう)の苦悩(黒闇)さえ破ってお救いくださると讃嘆されます。
このことは、『大経』の「この光に遇う者は、むさぼり、いかり、愚痴の煩悩(三垢)が消滅し、煩悩の氷が溶け、心身柔軟になる。もし三塗の苦の処にあって、この光明を見てたてまつれば、みな苦悩がやみ、再び苦にもどることなし、命終わりてののちに、みな解脱を蒙る」とあることによられたのもでしょう。
三悪道を作るものは、私たちのむさぼり、いかり、愚痴の煩悩でありましょう。
煩悩によって私たちの心が閉ざされ、ふさがれ、氷のように他人ともとけ合えない、他人のことも受け入れられないことになります。
このような私たちの心中が照らされた私の姿が反省させられていくとき、閉ざされ、塞がれた心が開かれていきます。
「三塗の黒闇ひらくなり」とは、このように閉ざされ、塞がれていた心が開かれていくことを讃えられたものでしょう。
「大応供を帰命せよ」の「応供」とは、仏の十の呼び名の一つ、供養に応ずる徳のあるお方ということで、諸仏に通ずる名です。
今は阿弥陀如来が諸仏の王であるということで、大の字を加え、阿弥陀如来の別名とされます。
阿弥陀如来は、一切の衆生を救うために、五劫思惟し、身命を投げ出して、兆載永劫のご修行をしてくださいました。
そして三塗に沈む衆生をさえお救いくださる徳をもった如来です。
従って一切衆生から、深いお敬いの供養を受けるべき如来であるといわれています。
さて、わが身を振り返るとき、人のために何をしてあげているのだろうか。
大したこともしてあげることのできないわが身の不徳に気づかされず、身にあまる幸せをいただいていることを感謝ぜずにはいられません。
大応供に帰命して、はじめて身にあまる幸せをしらされるのです。
それで大応供に帰命せよ、阿弥陀如来に帰命せよとお勧めくださいます。
■ 道光明朗超絶せり 清浄光仏とまうすなり
  ひとたび光照かぶるもの 業垢をのぞき解脱をう

阿弥陀如来のさとりから放たれる光明が、光り輝くようすは、すぐれていてとても諸仏の及ばないところである。それゆえ、清浄光仏と申し上げるのである。一度この光明のお照らしをうけるものは、即座に悪行煩悩の垢が除かれ、浄土の往生して迷いの世界を脱し、仏のさとりを得べき身となるのである。
1 明朗  明るく輝くこと。開けて明るいありさま。あいまいさがなく、明らかで、ものがよくわかり、はっきり認証できること。
2 清浄光  衆生の煩悩を除き、清らかにしてくださる弥陀の光明。諸仏はすべて煩悩をはなれて清浄である。しかし悪行煩悩の衆生を清浄にし、解脱を得しむるのはただ弥陀如来のみである。〈清浄光、歓喜光、智慧光〉この三光によって衆生往生の因である信心が得られるが、この三光の関係について、種々の見方がある。(一)三光を貧瞋痴(とんじんち)の三毒に当て、清浄光は貧欲、歓喜光は瞋恚を、智慧光は愚痴の病を治療するものとする見方。(二)三光を本願の三信である至心、信楽、欲生に当てる見方。(三)三光を体、相、用(ゆう)に当て、智慧光は、仏智を信ずる信心の体、歓喜光は往生の定まったことを喜ぶ信心の相、清浄光は、往生を決定する信心の用と見る。そして、歓喜光、智慧光を後にして、信心の用である清浄光を先に讃えられるのは、罪はどれほどであろうとも、煩悩の縄を断ち切って、さとりを得させてくださるはたらきの大きさを知らせるためであろうといわれている。今は、三光について三つの見方がある中で、三光を体、相、用に当てる見方がよいと思われる。清浄光によって、貧欲、瞋恚、愚痴などのすべての煩悩を除きさとりを得るというのが今の和讃。清浄光によって貧欲のみを除くとみるのは、不適当でしょう。 
3 ひとたび光照かぶるもの  一度、如来の光明のお照らしを受けた者はということ。光明に照らされて悪業煩悩が除かれるのは、何度も照らされて除かれるのではまく、信心がおこったとき、たちどころに迷いの世界に繁がれる因が切られる。
4 業垢  悪業煩悩のこと。 悪業は心身を染汚((ぜんお))するので垢(く)という。煩悩は心を惑わせ汚すはたらき。

この一首は、清浄光を讃嘆されます。
「大経和讃」に「無碍光仏のひかりには、清浄・歓喜・智慧光、その徳不可思議にして、十方諸有を利益せり」とあり、一無碍光が、清浄光、歓喜光、智慧光の三光となって衆生を利益するとあります。
それで今の一首が清浄光、次に歓喜光、つづいて智慧光を讃嘆されていますから、これら三首が一組となって、光明の衆生利益を讃えられたものとみられます。
「道光明朗超絶せり」、道光の「道」は「菩提」の訳語で、さとりの智慧のこと、道光は阿弥陀如来のさとりの智慧の光明です。
その光明は「明朗」である。明るく広々と開かれた、物事がはっきりわかるような明るさで、諸仏の光明に超えすぐれていると讃嘆されます。
超は超勝、絶は勝絶の意で、二字ともに超え勝れたことを意味します。この第一句が清浄光仏と呼ばれる理由を表しています。
「清浄光仏とまうすなり」、智慧の光明は、私たちの三毒の煩悩のすがたを照らします。
私たちの煩悩心の底には、我執があるといわれます。我執によって、自他、好嫌、善悪などを分け隔てていきます。
そして、好きなもの、都合のよい者には、どこまでも引きつけられる、それが貧欲でしょう。
いやなもの嫌いなものにはどこまでも反発する、これが瞋恚。我執のすがたに気づかないのが愚痴でしょう。
この三毒のすがたを照らし出し、懺悔(さんげ)、慚愧(ざんぎ)せしめ、五逆十悪の凡夫の業垢を除き清浄にできるのは、ただ弥陀のみである、それで弥陀如来を清浄光仏と名づけられます。
「ひとたび光照かぶるもの、業垢をのぞき解脱をう」、この光照を蒙りはじめた刹那(せつな)に、業垢が除かれ、解脱を得る身の上とさせていただくと讃えられます。古写本には「業垢」の左訓に「悪業煩悩」等とあり、「解脱をう」の左訓に「解脱というは仏果に至り仏になるをいふ」とあります。聖人のおこころを伝えるものとして注意したいと思います。
ともあれ、罪はどれほどあろうとも、煩悩界の縄を切ってくださるものは如来の清浄光です。
先には「清浄光明ならびなし……一切の業垢ものぞこりぬ」とあり、今は「業垢をのぞき」とあります。
「業繋(ごうけ)」も「業垢(ごつく)」も同じ意趣を表していると思われます。
■ 茲光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
  法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ

阿弥陀如来のお慈悲の光明は、われわれとははるかに隔たった境地から、いつでもどこでも果てしなく照らし、その光明に照らされて信心をいただくものは、自らみ法を喜ぶ心が得られると曇鸞大師は述べられている。衆生の大きな安らぎと慰めとなってくださる弥陀如来を帰命したてまつれ。
1 歓喜光  衆生にお慈悲を喜び浄土往生を喜ぶ心がおこるのは、衆生の能力によっておこるのではなく、如来の歓喜をここさせる歓喜光のはたらきによって、おこしていただくのであるということ。
2 ひかりのいたる  仏の方からいえば、仏光が衆生心中に至り届くこと。衆生の方からいえば、信心を得ること。
3 大安慰  案慰(あんに)とは安らぎと慰めとなるということ。『法華経』従地涌出品(じゅうじゆしゅつぼん)などでは、釈尊の慈悲のはたらきとして「われ今、汝を案慰せん」と使われている。今この案慰に「大」の字を加えて、もっとも広大な案慰となる仏、阿弥陀如来の別名として用いられている。案慰のない者が大安慰を帰命することが信心である。

この一首は、阿弥陀如来の大慈悲の光明は、私たちの信心の喜び(信心歓喜)をお与えくださる歓喜光であると讃えられます。
それは『大経』本願成就文の「その名号を聞きて、信心歓喜せんことと乃至一念せん」の意や、同じく『大経』の阿弥陀如来の光明無量の徳を嘆じられる「それ衆生ありて、この光明に遇うものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。
歓喜踊躍して善心生ず」とある意によって、 信の一念に苦悩の世界を超えて、さとりを得べき身とさせていただく喜びを嘆じられるのです。
「茲光はるかにかぶらしめ、光のいたるところには、法喜をうとぞのべたまふ」とは、阿弥陀如来の大慈大悲の光明は、どれほど如来から遠く離れたところにいようとも、どれほど隔てていても、三世十方に光明を蒙らしめ、この光明が心中に到り届いたところに、
信心の喜び(法喜)を得ると曇鸞大師はお述べになっている、このように詠まれます。
ところで、「はるかに」三世十方を照らす光明を、親鸞聖人は、如来よりはるかに遠く隔たっているご自身、如来の光を受ける資格もないご自身と受けとめておられたのではないでしょうか。
『教行信証』総序に「ああ、弘誓の強縁、多少にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と述べられています。
如来と「はるかに」隔たり、光に遠く離れているからこそ、本願に値いがたく、信心も獲がたいと教えられるのです。
ですからこそこの「はるか」という語には、如来と境界を遠く隔てているという意味が込められています。
その私たちに十劫の「はるか」過去から茲光がかけられて信心の喜び(法喜)が与えられているのです。
古写本には、「法喜」の左訓に、「歓喜光仏を法喜という、これは、貧欲、瞋恚、愚痴の闇を消さん料なり」とあります。
信心の喜びは私たちのものです。けれども、如来にそむき、はるか如来に隔たった者が信心の喜びを得られたのは、全く歓喜光仏(阿弥陀如来)より回向された喜びと味わわれたのでしょう。
古写本には「大安慰に帰命せよ」とある部分の左訓に「大安慰は弥陀の御名なり、一切衆生のよろずの嘆き憂え悪き事を皆失うて安く安からしむ」とあります。
煩悩具足の私たちの生の依りどころ、死の帰することろなり、真の安らぎ慰めとなってくださるのは、阿弥陀如来の外にはありません。
■ 無明の闇を破るゆゑ 智慧光仏となづけたり
  一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまへり

衆生の本願を疑う心を破り、信心の智慧をお与えくださるゆえに、阿弥陀如来を智慧光仏と名づけられた。一切の諸仏方や、仏教に因縁をもつすべての人びとは、皆ともにこの如来の光明のお徳を誉め讃えられた。
1 無明  智慧がないこと。親鸞聖人は、無明という言葉を二つの意味に用いられている。一つは、ものをありのままに見る智慧がない、仏の智慧がないかという意味。『一念多念証文』の「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく」とある無明は、凡夫にはものをありのままに見る仏の智慧がないという意味である。それに対して、本願を疑うことを無明といわれる場合がある。今の和讃や、『高僧和讃』の「尽十方の無碍光は、無明のやみをてらしつつ、一念歓喜するひとを、かならず滅度にいたらしむ」とある無明は、本願を疑う心を意味している。
2 智慧光仏  衆生の本願を疑う心を破り、仏の智慧を生じさせる仏、即ち阿弥陀如来のこと。衆生に信心を与える如来の光明に、清浄光、歓喜光、智慧光と順次に讃嘆されてきた。しかし、この光明を順次に受けるのではなく、信心がおこった刹那にこの三つの光明を受けるのである。すなわち信心がおこった刹那に無明の闇がはれ(智慧光のはたらき)、同時に法喜を得(歓喜光のはたらき)、それとともに業垢(ごつく)がのぞかれる(清浄光のはたらき)。

この一首は、阿弥陀如来の智慧光を讃嘆されます。
「無明の闇を破するゆゑ、智慧光仏となづけたり」、この部分を讃嘆される親鸞聖人は、『大経』の「かの化生(真実の浄土に往生)のものは智慧勝れたるゆゑなり。
その胎生(方便の化土に生まるる)ものはみな智慧なし」のどの「胎化得失(たいけとくしつ)」と呼ばれている文や、『往生論註』「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は、十方世界を照らしたまふに障碍あることなし。
よく十方衆生の無明の黒闇を除く…」などの文を念頭においておられたことと思います。
さて、「無明の闇」とある「無明」には二つの意味があります。一つはさとりの智慧がなく、ありのままに物事を見ることのできない愚かさを意味し、二つには仏智を疑うこと、信心の智慧のないことを意味します。
この和讃では、信心の智慧のないことを「無明」と表せています。
「智慧光仏」とは、阿弥陀如来のことです。この如来は、智慧の光明でお照らしくださいます。
智慧の光明は、今まで見えなかったものを見るようにするはたらき、それまで気づかなかったことを気づかせるはたらきです。
永遠の依りどころ、究極のたのみとならないものをたのみとして、貧欲、瞋恚に明け暮れているわが身の愚痴(おろかさ)のすがたに気づかされ真実の依りどころ、永遠の依りどころはただ弥陀の智慧であると思い知らされるとき、阿弥陀如来の智慧を依りどころとした信心の人生が恵まれます。
この如来の智慧が恵まれるとき、そこに自ら「無明の闇が破」られることになります。
「一切諸仏三乗衆、ともに嘆誉したまへり」、この二句は、『大経』の中の「ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。
一切の諸仏・声聞・縁悪・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに嘆誉すること、またまたかくのごとし」とあることによられたものです。
「一切諸仏三乗衆」とは、仏教に種々の立場の違はあるけれども、仏道を歩むものすべてということなのです。
「嘆誉」とはほめること、讃嘆することです。私たちに如来の智慧を得させていただき、無明の闇を破ってくださったのは、一切諸仏三乗衆のお勧めがあったからほかなりません。
■ 光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり
  聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す
如来の光明が信心の人を絶え間なく照らし続けていてくださる故、阿弥陀如来を不断光仏とも名づけられた。如来の法名の不思議な力を信ずる故に、信心も不断で、本願に対する一念の疑いも生じず、憶念の心絶えずに往生するのである。
1 不断光仏  絶え間なく照らし続ける仏。清浄光・歓喜光・智慧光は、空間的に十方世界の衆生を照らす光明であることは、「大経和讃」に「無碍光仏のひかりには、清浄・歓喜・智慧光、その徳不可思議にして、十方諸有を利益せり」と、十方諸有すなわち空間的にどこの衆生も利益するとある。これに対して不断光は、永遠の昔から永遠の未来まで、時間的に一貫して絶え間のない光明を表している。この光にひかれて往生を得る。
2 聞光力  聞は信心、光は光明摂取、力ははたらき。これに二つの読み方がある。(一)光力を聞くと読み、光明摂取のはたらきを信じて、光明摂取の力によって往生する意味となる。(二)聞光の力と読み、光明摂取を信じる力、衆生の信力によって往生を得る意味となる。今は、如来の不断光の力を讃えられるのですから、(一)の読み方がよいと思う。

この一首は不断光を讃嘆されます。
清浄光、歓喜光、智慧光の三光は、他力の信心をおこさせる徳を嘆じられたものであるのに対して、不断光は他力の信心を相続させる徳を讃えられたものです。
「光明照らしてくさえざれば、不断光仏となづけたり」、阿弥陀如来の光明は、照し通しに絶え間なく私たちをお照らしくださいます。
それで阿弥陀如来のことを、不断光仏と名づけられました。
「聞光力のゆゑなれば、心不断にて往生す。」、「聞光力」とは、光明の力を聞くということ。
『大経』の「その光明の威神功徳(いじんくどく)を聞きて、日夜に称説(しょうせつ)して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得」とある。「光明の威神功徳を聞く」によられたものです。
光明の威神功徳の力を聞くとは、名号に込められている如来の誓願力を聞くということです。
聞くとは信ずることです。ですから「聞光力」とは、如来の願力を信ずるほかなりません。
古写本には聞光力に左訓に「弥陀の御ちかひを信じまゐらすなり」とあるによってもあきらかにしられます。
「心不断」とは、信心が途切れることなく続くということです。
古写本の左訓に「菩提心の絶えぬよりて不断という」とも、「弥陀の誓願を信ぜる心、絶えずして往生すとなり」ともあります。
「菩提心」とは、ここでは他力の信心のことです。ですから「信不断」とは信心相続のすがたを表しています。
阿弥陀如来の光明は、久遠とも十劫とも知らぬ昔から私たちを照らしずめに照らし、はたらきづめにはたらいてくださっています。
この如来の願力が、私たちに届いて信心となってくださいます。
今、信じた力で往生するのでなく、久遠劫以来かけられた変わらぬ如来の願力によって往生させていただくのです。
如来の不断の願力が私たちに届いて、私たちの信心(憶念の心)となってくださいます。
眠っていようが、忘れていようが、背こうが、私たちの心が変わろうとも、変わらぬ如来の願力が、私たちに信心相続のすがたとなってくださいます。それが「心不断にて往生す」です。
ここにいたって、阿弥陀如来を不断光の仏と仰がずにはいられません。
■ 仏光測量なきゆゑに 難思光仏となづけたり
  諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ
阿弥陀如来の光明は、ただ仏でなければ十分知り通すことのできないほど広大で、われわれ迷いの衆生に知りつくすことができないので、難思光仏と名づけられた。十方諸仏は、衆生の往生をすばらしいこととほめながら、衆生を往生させる弥陀の功徳を称讃される。
1 測量なき  はかることのできない意。測量とは、深浅、広狭、軽量、多少などをはかること。
2 難思  思いはかることができないこと。難思という語に二つの意味がある。一つは如来のさとっておられる真理そのものは、衆生に思いはかることができないという意味。二つは阿弥陀如来は罪悪深重の最下の凡夫を、本願を信ずる一つで、一つで、最高に往生させるという。今は後の意味である。
3 難思光  光明のはたらき。清浄光、歓喜光、智慧光、不断光の四つは、衆生に信心を得させるはたらき。それに対して、難思光は衆生に往生を得させてくださるはたらきである。

この一首は、次の「神光の離相をとかざれば、無称光仏となづけたり、因光成仏のひかりをば、諸仏の嘆ずるところなり」とある一首とで、阿弥陀仏の光明は、不可思議の光明であると讃嘆されます。
仏教が中国に伝えられたとき、さとりの智慧や仏力の勝れていることを表現するために新しく作られた言葉が「不可思議」や「不思議」であります。ですから、これらの言葉はともに如来の徳は心で思うことも、口で議論し説くこともできないほど勝れたものであることを示しています。
そこで、今の一首は、心に思いはかることもできない「難思光」であることを讃嘆され、次の一首では口で詳説し、説き表すこともできない「無称光」の徳を讃嘆されます。
「仏光測量なきゆゑに、難思光仏となづけたり」とは、『大経』の「如来の智慧海は、深広にして涯底(がいてい)なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかにさとりたまへり」の意によって讃嘆されたものです。 
如来の智慧の光明海は、底なしに深く、広さはてしないゆゑ、私たちの心も言葉も絶えはてた難思光仏と仰がれるのです。
讃嘆はそのまま帰依の表れでしょう。帰命の心が讃嘆となって表れたものでしょう。
私たちは、ともすると人間の知恵を尺度のして如来をとらえようとします。
けれども、それは知らず知らずのうちに、如来よりも人間の智慧の方が確かな依りどころとしていることになります。
人間の智慧の尺度ではかられたものは、真実の帰依処ではない。
真実の帰依処は、人間相対の尺度ではかられないと身に沁みて分からせていただいて、はじめて絶対無限の智慧を仰がせていただくことができるのです。「難思光仏」と讃えられるのは、このような心を表せているものでしょう。
「諸仏は往生嘆じつつ、弥陀の功徳を称せしむ」とは、十方諸仏方が衆生の浄土往生を讃嘆して、これもひとえに阿弥陀如来の難思光の功徳によりものと称賛したまうと詠じられます。
これは『大経』の「往生者は、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに嘆誉して、その功徳を称せられん」とあるものによっています。
しかし、『大経』では、すでに往生をおとげている人びとも、今往生した人もともどもに弥陀の難思光の功徳によって往生したものであると、弥陀の功徳を讃嘆されるものと思われます。
                                                
「和讃」にみる親鸞の宗教性

 

一、はじめに
和讃とは、仏教讃歌の中の一種である。仏教讃歌の最初のものは、奈良時代の和歌形式のものがあるが、平安中期には「教化」といわれるものと和讃と呼ぼれるものが現われて、少し遅れて「伽陀」と講式の「声歌」などができたのである(1)。
和讃とは、仏徳と讃嘆するという内容のものであり、平安期においては、源信が「天台大師和讃」や「極楽六時讃」などの多くの和讃を作り、千観も「極楽国弥陀和讃」を記している。
それらの和讃の中でも最も形式が整備されているのが親鸞の和讃であり、字数や句数を整えて、仏や高僧の徳を讃嘆している。形式をみても、それ以前のものに比べて格調が高いと言える。現存する親鸞の和讃は五百首以上に及んでおり、晩年において多くの和讃が書き記されている。その中の主要なものは『三帖和讃』であるが、その他に聖徳太子を讃仰した和讃が多くみられるのが特徴である。
これらの和讃については、従来より書誌学的、教義学的な側面より様々に論じられているが、和讃という形式を重視するならぼ、和讃が備えているはたらきに注目してみることも重要なことであろう。和讃という形式によって表現されたところに、他の親鸞の著述にはみられない特性があるように思われる。そこで今回は、儀礼的な側面に視点をあてて和讃を捉えることによって、親鸞の宗教性を別の角度より探ってみたいと思う。
二、調諦を意識した和讃
親鸞が、和讃を如何なるものとして捉えていたかを考えれば、仏恩及び師徳を報謝するものであったことは言うまでもないが、ただそれだけではなかったと考えられる。
和讃とは元来、暗諦するものではなく颯諦することを目的として編み出されたものである。例えぼ、『日本往生極楽記』には、千観の作った「極楽国弥陀和讃」が人々に謡われていたことが記されている。法然やその門下の伝記などをみても、和讃を調諦していたことが窺える。このことに関して多屋頼俊氏は、鎮西派の祖である弁長が臨終の時に、門弟たちに源信の「来迎讃」を調諦させ、念仏の功徳を讃嘆していることや、空阿が念仏の問に文讃をいろいろ諦していたことが『法然上人行状画図』の四十八に記されていることを指摘している(2)。
親鸞も法然門下にいたわけであるから、このような和讃を颯諦するという作法の影響を受けていたことは想像に難くないところである。
そこでまず、親鸞の和讃記述における基本的な形態についてみてみたい。専修寺所蔵の『三帖和讃』よりその基本となる形をみれぼ、和讃は四句で一首であるが、四句のうちの最初の一句を一字上げて書いており、句の頭に順番を示す番号が記されている。漢字には、右側に読みを示す振り仮名がうたれているものが多い。字句については、左訓が施されている。また、漢字には圏発という符号が朱色で付されているところがあり、文字の音韻についての感覚の厳しさを知ることができるのである(3)。
また、和讃とは詩的な形式がとられているかち、そこには韻律性がみられるのである。特に、和讃においては韻を踏む表現が多くみられ、ほとんどが脚韻であり、対句的な表現がとられているものがいくつもみられるのである。対句表現は、平安時代の朗詠においてはよく用いられた方法であり、親鸞が和讃においてこのような表現を用いたのは、音読した時の響きを大切にしようとする意図があったと推測できよう。
『三帖和讃』の成立に関して武石彰夫氏は、『浄土和讃』の「讃阿弥陀仏偶和讃」および『梁塵秘抄』の「法文歌」の中の仏歌の冒頭が、内容において共通性をもっていることに注目して、親鸞が「法文歌」に接し、『梁塵秘抄』の歌謡にふれていた可能性があることを指摘している(4)。『梁塵秘抄』とは、今様を中心に集めたもので、当世風の歌誥であり、誥うところに魅力があったのである。親鸞がこのような『梁塵秘抄』の歌謡に―接し、その影響を受けているとすれぼ、「謡う」という意識をもって和讃が記されたとみることもできるであろう。
親鸞の在世中から親鸞が作った和讃が一般に調諦されていたとみるには問題があるかもしれないが、親鸞が和讃を作る時に、節をつけて口ずさみながら記したものであることは想像されるのである。
親鸞は、御草稿和讃の「現世利益和讃」の「和讃」の字の左訓に「やわらげほめ」と記している。「やわらげ」とは、「わかりやすく平易に」という意味であるが、「親しみやすく」という意味もある。この左訓よりみれば、和讃とは民衆にとってわかりやすく、・親しみやすいものでなけれぼならないという意識のもとで記されたと考えられる。即ち、颯諦という行為を、当然意識していたとみることができるのである。
存覚は『破邪顕正抄』において、和讃についてつぎに和讃の事。かみのごときの一文不知のやから経教の深理をもしらず、釈義の奥旨をもわきまへがたきがゆへに、いさ・かの経釈のこ・ろをやはらげて無智のともがらにごdうえしめんがために、ときどき念仏にくはへてこれを諦しもちゐるべきよし、さづけみたへらる」ものなり(5)。
と述べているのである。即ち、存覚の解釈としては、経釈のこころをわかりやすく心得させようと、念仏に加えて和讃を認諦するよケに授け与えられたものとみているのであり、存覚の時代においては、自然な形で念仏和讃が唱えられていたと考えられよう。
三、尊崇儀礼としての和讃
和讃を、颯諦という視点より捉えた場合に、そこには親鸞の儀礼的な側面をみることができるように思われる。調諦するという行為には、儀礼的な要素が多―分にみられるからである。
まず、そのことが明確に窺えるのが『高僧和讃』においてではないだろうか。『高僧和讃』とは、師への尊崇を表す心情が儀礼的に表現されたものとみることができる。特に、源空讃においては、それが明確にみられるのである。源空讃は二十首あるが、その中で「本師源空」という表現が十回もみられ、法然への尊崇の姿勢が現われているのである。例えぼ
本師源空のをはりには
光明紫雲のごとくなり
音楽哀腕雅亮にて
異香みぎりに映芳す(6)
という和讃などは、,法然の臨終の様子を儀礼的に表現し讃嘆することによって、師を純粋に讃ずる姿勢が明らかになっていると考えられる。
ところで、『浄土和讃』に「『首楞厳経』によりて大勢至菩薩和讃したてまつる」と題した八首の和讃が記されており、それらは勢至菩薩が念仏の衆生を摂取して浄土に帰入させることを述べている。そして、八首の和讃が終ったあとに「以上大勢至菩薩」と記され、その次に「源空聖人御本地なり。」と記して『浄土和讃』が終わっているのである。このような表現からみて、法然が勢至菩薩の化身であると親鸞は信じていたとみることができるであろう。
以上のことから考えて、『浄土和讃』『高僧和讃』においては、勢至菩薩の化身としての法然を讃仰するところに和讃のウエイトが置かれていたと言えよう。
それに対してもう一つの流れとして、『正像末和讃』や聖徳太子和讃においては、聖徳太子が讃仰されているのである。『高僧和讃』・の巻末には、三国の七祖の名を列挙した後に
聖徳太子 敏達天皇元年 正月一日誕生 したまふ。
仏滅後一千五百二十一年に当れり(7)。
と記されており、『浄土和讃』と『高僧和讃』においては、聖徳太子への讃仰が現われていないにもかかわらず、ここに名前が出されているのである。これは、太子が出世したのは末法に入ってからであることを表すと共に、太子こそは日本の教主であることを示す素意が窺えるのである(8)。
それから、『正像末和讃』の「聖徳奉讃」には
救世観音大菩薩
聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして
阿摩のごとくにそひたまふ(9)
と記されているように、観音の化身としての太子が讃仰されており、慈悲のはたらきをすることを父母に讐えて讃嘆しているのである。
慈悲については、他の「聖徳奉讃」に
久遠劫よりこの世まで
あはれみましますしるしには
仏智不思議につけしめて
善悪・浄稼もなかりけり(10)
と記されているが、「仏智不思議につけしめて」という言葉から窺えるように、聖徳太子の慈悲によって、流転してきたこの身が仏智の不思議につき従うことになったと頒解しているのである。即ち、久遠の聖徳太子と救世観音と慈悲の父母とを一体のものとみていると考えられよう。
このように和讃においては、観音の化身としての太子観がみられるが、『教行信証』においてはほとんどみられないのである。「行巻」に『往生礼讃』を引用する中で観音について記され、勢至菩薩と共に説かれてはいるが、観音菩薩が独立した形で示されているところはみられないのである。
そこで、なぜ和讃において聖徳太子に関するものが数多く表出してきたかが問題となるところである。『皇太子聖徳奉讃』七十五首と『大日本国粟散王聖徳奉讃』百十四首は、聖徳太子の史伝を讃詠したものである。平安時代には、聖徳太子の本地を観音菩薩とした文献は多くみられ、慶滋保胤が著した『日本往生極楽記』にも、太子が救世観音の化身であるとみられている。故に、親鸞が多くの太子に関する文献からみた太子への理解は、平安時代以来の仏教徒に通ずるものであり、親鸞独自のものではないが、親鸞はそれらの太子史伝をそのまま受け容れていたのである。
親鸞は、師を仰ぐ儀礼として和讃を捉えていたという面が窺われ、太子和讃も太子への尊崇儀礼として表されたと共に、自らが姿を変えて衆生を救済するという観音に導かれてきたという心情を表日したものであったと言える。
ところで、親鸞は康元二歳の二月九日の夜に夢告を受けたことを『正像末和讃』の冒頭に記しているが、この時期に多くの太子和讃を制作していることから考えて、これが聖徳太子の夢告であったと考えるのが妥当であろう。夢告とは、親鸞にとって信仰体験の中で大きな意味をもつものであった。親鸞は比叡山から百日間六角堂に参籠し、そこで聖徳太子から示現の文を授かった。また、「化巻」では夢告によって緯空の名前を改めたことが記されており、存覚は『六要鈔』において、この改名も聖徳太子の夢告によるものであったとみている。そして、晩年に「夢告讃」を記していることから考えて、親鸞にとって太子(1観音)信仰は終生変わらぬものであり、その心情が夢告をきっかけとして表出されたのが『正像末和讃』所収の「聖徳奉讃」の十一首ではないかと考えられる。
『皇太子聖徳奉讃』七十五首や『大日本国粟散王聖徳奉讃』などの聖徳太子に関する和讃は、どれも親鸞が八十三才以降に記されたものであるが、親鸞にとっての太子(=観音)信仰は、決して晩年だけのものではなかったのである。それは、六角堂参籠における夢告以来続いているものであり、観音信仰と太子信仰とは別のものではなく、太子1観音への思いが儀礼的な表現として湧き出たのが、太子和讃であると言えるのではないだろうか。
聖徳太子を観音の化身とする見方が、親鸞における救済の枠組みでは、還相の菩薩と捉えられていたと考えられる。「証巻」の還相廻向釈に、観世音菩薩が衆生の誥難を除き、誥願を満たすために三十三身を現じて衆生を救うとみていることからも窺える。また、「聖徳奉讃」に
聖徳皇のおあわれみに
護持養育たえずして
如来二種の廻向に
すすめいれしめおはします(11)
とあり、聖徳太子が二種廻向をすすめる菩薩とみていることが明確に述べられている。更に
上宮皇子方便し
和国の有情をあはれみて
如来の悲願を弘宣せり
慶喜奉讃せしむべし(12)
と記されていることより考えれば、如来廻向の弘宣者として聖徳太子を捉えていることが知られる。観音には、大地にどつしりと根を据えた慈悲の父母というイメージが強いのであり、観音を還相の菩薩とみるのは、ある意味では大地に還ることを表すものとも考えられる。
このような聖徳太子和讃より窺えば、親鸞は観音(1太子)のもつ大地性を救済の枠組みめ中に見出し、観音の化身としての太子の導きを深く受け止めていたと言えるのである。そして、そのような観音の育みへの感謝が、和讃という儀礼的な形となって表されていったのではないだろうか。
四、結び
和讃という形式を考えれぼ、調諦という視点を抜きにしては捉えることができないのであり、和讃とは声に出して讃詠することを目的とするものであったと言えよう。
その場合、師への尊崇儀礼という側面が現われてくるのであるが、そこには二つの流れをみることができるのである。一つは、勢至菩薩の化身としての法然への讃仰であり、法然は七高僧を代表するものとみてよいであろう。もう一つは、観音の化身としての聖徳太子への讃仰である。
即ち、阿弥陀仏の悲願は、勢至と観音が法然と聖徳太子に化現して導き、親鸞に到りとどいたものとみていたのであろう。特に、聖徳太子(1観音) への信仰は、和讃でなけれぼ表れない純粋な親鸞の心情を表わすものであったと言えよう。
故に、親鸞の宗教性を理解する上で、このような二つの救済成就の流れを重くみる必要があるように思える。私たちは、親鸞思想を論理的な側面からだけ捉えようとする見方が強いのであるが、感性とも言える儀礼的な側面に注目することによって、今まで見えなかった親鸞の宗教性が明らかになってくるのではないかと思われる。

1  多屋頼俊著『和讃の研究』(法蔵館)三二〜三三頁参照
2  同右三四頁参照
3  名畑応順校注『親鸞和讃集』(岩波文庫)三二三頁
4  武石彰夫著『和讃・仏教のボエジイー』(法蔵館) 一三六〜一四三頁参照
5  『真宗聖教全書三』一六九頁
6  『浄土真宗聖典・註釈版』五九八頁
7  同右五九九頁
8  名畑応順校注前掲書三三二頁
9  『浄土真宗聖典・註釈版』六一五頁
10 同右六一六頁
11 同右
12 同右 
 
『三帖和讃』

 

和讃とは、和語(やまとことば)をもって仏徳を讃嘆する詩ということであるが、特に平安時代の中期から鎌倉時代にかけて流行した、七五調の四句で一首になる「今様」と呼ばれる詩形で、仏徳を讃嘆するものを『和讃』と呼んでいる。もっとも、親鸞は和讃のことを「やわらげほめ」と言われたように、漢文で書かれていた経典や祖師の釈文を「やわらげ」て、誰にでもわかるように易しく表わしたものであると言われている。事実、親鸞の和讃には、依り処になった経釈の文があるということが特徴の一つとなっている。
親鸞の和讃は550首ほどにも達するが、その中で『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を特に『三帖和讃』と呼び習わしている。その制作年代は、『浄土和讃』と『高僧和讃』は76歳の時に初稿本がまとめられ、83歳の時に改訂本が出されたようである。『正像末和讃』は85歳以後に順次成立していったようである。
浄土真宗の門徒は、この『三帖和讃』を僧俗の隔てなく日常の勤行に用いて親しんできた。特に高田門徒では早い時期から和讃を諷誦(音読)する習慣があったようであるが、本願寺では第8代宗主・蓮如以前は特別な勤行以外に和讃を用いることはなかったようである。それを日常のお勤めに採り入れたのは蓮如であった。蓮如は、そのために文明5(1473)年に『正信偈』と『三帖和讃』を一組にして木版刷りにし一般に頒布した。それを『文明版の三帖和讃』と呼んでいる。
しかし、『和讃』の原本には様々なものがある。高田本山専修寺に伝わる、いわゆる国宝本『三帖和讃』は『浄土和讃』にあたるのが116首、『高僧和讃』が117首、『正像末和讃』が34首、それに『夢告讃』1首、『別和讃』5首の総計273首が収録されている。それにひきかえ、文明版の『浄土和讃』は118首、『高僧和讃』は119首、『正像末和讃』は116首で、合計353首が収録されている。また「文明版」の終わりには『自然法爾御書(ごしょ)』が付録されている。
さらに『三帖和讃』の他に、83歳の時にまとめられた『皇太子聖徳奉讃』75首と、85歳の作と考えられる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首があり、またどこにも所属していない和讃や、文言が少し変わっているものが『別和讃』として顕智などによって伝えられているから、総てを総計すると550首程になる。
これ程多くの和讃を作った人は他にいないだろう。高い格調をもち、雄渾な声調で詠い上げられる親鸞の和讃は、質量ともに日本の和讃史上最高の地位を占め続けるに違いない。
『浄土和讃』は、国宝本では『弥陀和讃』と呼ばれていたようであるが、その最初は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』をやわらげて和讃された『讃阿弥陀仏偈和讃』48首で始まっている。まず阿弥陀仏の功徳を12の光明の徳をもって讃え、十方の衆生を救う還相の菩薩の功徳と、さらに浄土の功徳とが讃嘆されている。次いで『浄土三部経』を和讃した「大経和讃」「観経和讃」「弥陀経和讃」が説かれ、さらに「称讃浄土経」「法華経」「涅槃経」「華厳経」などの諸経によって阿弥陀仏を讃嘆する「諸経和讃」、また「金光明経」や「十往生経」などによって「現世利益和讃」が作られ、最後に「首楞厳経(首楞厳三昧経)」によって大勢至菩薩すなわち法然聖人を讃仰する「勢至和讃」が置かれている。
『高僧和讃』は、浄土真宗の法義をインド・中国・日本の三国にわたって伝えられた、龍樹菩薩、天親菩
薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信僧都、源空聖人(法然)という7人の高僧の徳を讃えられたもので、『正信念仏偈(正信偈)』の後半の部分を和讃として広く讃詠されたものと言えよう。
『正像末和讃』は、釈尊を遠く離れるにつれ、仏法は正法・像法・末法と次第に衰退し、今日では最早自力の修行によって証りを開くことができない末法濁乱の時代になっている。そんな時代に生きる私ども凡夫が救われる道は、阿弥陀仏の本願の外にはない。その本願の救いに遇うことができたのは、ひとえに如来大悲の恩徳であり、浄土の祖師のお陰であると讃仰された和讃である。それ故、最後は、
   如来大悲の思徳は/身を粉にしても観ずべし
   師主知識の思徳も/ほねをくだきても謝すべし
という、いわゆる「恩徳讃」で結ばれている。
さらに本願を疑うことを誡めた「誡疑讃」と、観世音菩薩の化身である聖徳太子を讃仰する11首の「皇太子聖徳奉讃」、自身の愚かさと、頽廃(たいはい)した仏教界の現実を悲嘆する「愚禿悲歎述懐」、それに聖徳太子和讃の残片と見られる「善光寺和讃」を加えて、全体を『正像末和讃』と呼んでいる。 
 
『三帖和讃』の読誦について

 

研究課題
本稿は浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の残した著述の内、『三帖和讃』に注目し、 その諷唱の歴史
と背景について探究を試みるものである。親鸞聖人はその生涯において莫大な著述を残し特に晩年にそれらは集中している。そして今日、 聖人の代表的著述といえば『教行証文類』と『三帖和讃』が挙げられ両著は共に浄土真宗の根本聖典となっている(*1)。その中でも『三帖和讃』は真宗の各寺院においてその全般が諷唱されており真宗声明として今も伝承されている。これは『教行証文類』が「行巻」の末尾にある「正信念仏偈」のみを読誦し、 その他は余り儀式の中に取り入れられない事と対称的である。
和讃とは本来、 仏教歌謡と言うべきもので要するに「日本語(和語)で書かれた讃歌」という意味である。親鸞聖人はこの和讃を晩年の約20年の間に何と五百首以上創作されており、それらは大きく分けて五種類の和讃に分類されるが、 その五種の中の聖徳太子関係の和讃二種類を除いた残り三種類の和讃をまとめて『三帖和讃』と呼んでいる(*2 )。そして、 この『三帖和讃』が数百年に渡って諷唱されてきた訳である。
そこで本論は聖人の和讃創作の背景から考察し、 聖人没後の教団形成において和讃が諷唱される経緯について考えてみたい。また声明的見地から現在行われている和讃の「重構造」(*3)について、その源流についても推論を試みるものである。

注1 親鸞聖人(1173〜1262) の著述は法然門下時代に執筆したと言われる『観無量寿経・阿弥陀経集註』以外は全て60 歳以降に著している。例えば『教行証文類』の草稿本は58歳から63 歳にかけて大半を執筆しているが、これが最も若い年齢の著作である。その後の著述は76歳に『浄土・高僧和讃』を著し、 最後の著述は88 歳における『弥陀如来名号徳』である。(鳥越正道著「最終稿本、教行信証の復元研究』(法蔵館〉より第1 章、 最終稿本教行信証の作成過程の概観P 、27 参照。)
注2 親鸞聖人の和讃を年齢順に列記すると『浄土和讃118 首、 高僧和讃119 首』(76 歳) 『皇太子聖徳奉讃75首』(83歳) 『大日本粟散王聖徳太子奉讃114首』(85歳)「正像末和讃116 首』(86歳) になる。この内『浄土和讃・高僧和讃』と『正像末和讃』を併せて現在では『三帖和讃』と呼んでいる。尚、『三帖和讃』の名称は従覚(1295〜1360) (本願寺第三世覚如の次男)著の『慕帰絵詞』(1348) の中に「『浄土』・『高僧』等三帖和讃内の肝要…」 とあり、 これが名称の初出と思われる。(『真宗聖教全書』第3 巻、 P .813)
注3 重構造とは1 っの中心音とその上下に付随する音とで形成する旋律の動く範囲を指す。その中心音によって低い方から1 )初重、 2 )二重、 3 >三重と呼んでいる。この構造は声明だけではなく平曲や謡曲にも用いられている。(天納傅中他編『仏教音楽辞典』(法蔵館〉より「重」の項参照。)
第1 章 親鸞聖人と和讃
親鸞聖人は9 歳で出家され29 歳まで比叡山延暦寺に堂僧として修行された。堂僧とは遣唐使僧、円仁が中国五台山竹林寺から持ち帰った行の1 つ「常行三昧堂の不断念仏」を行ずる僧の事である(*1)。常行三昧とは『摩訶止観』第二にある90 日間に渡る三業所得の念仏を言う。また不断念仏とは常行三昧を簡素化させた念仏の事で聖人の時代にはこの念仏を声明の節付けをして行じていたと言われている(*2)。この行を聖人がいつ頃から行じていたのかは定かではないが聖人が堂僧であった事は妻である恵信尼の文書からも確かめられており、 この事からも聖人が声明に携わる生活を送っていた事は明らかである(*3)。それ故、 聖人が和讃という音楽的比重の高いジャンルを布教のために多く著した事と青年期に日夜声明の世界に身を置いていた事とは決して無関係とは思えない感覚的な共通性を感じるのである。
また、 聖人の音楽的感性を考える上で注目したい点は聖人の和讃が『梁塵秘抄』の影響を受けているという事である。この『梁塵秘抄』とは平安時代後期に後白河法皇によって撰述された今様(いまよう)歌謡の集大成ともいえる書である。当時は全10 巻で搆成されており、 今様の諸様を知る貴重な歌集で後世にも影響を与えている(*4)。又、 この題名の「梁塵」とは『劉公別録』の中に記されているように「歌謡・音楽」を意味する。要するに『梁塵秘抄』とは『歌謡集』と同義語なのである。
そしてその『梁塵秘抄』の第二巻「法文歌」(ほうもんのうた)には聖人の和讃と類似する点がいくつも認められるので、 その論点より考察を進める事とする。それは次の3 項目に集約されると考えられる。すなわち1 ) 内容、 2 )形式、 3 )音節数における類似点である。この内、 最も類似すると思われる『法文歌』と『和讃』 を比較検討してみよう。まず「仏歌(ほとけのうた)」第一首を示す。
  釈迦の正覚なることは
  此の度初めて思ひしに
  五百塵点劫よりも
  彼方に仏と見えたまふ(法文歌一22)(*5)
この歌は法華思想に基づく歌であるが、この歌と内容、 表現とも大変類似する「和讃」が親鸞聖人の著した『浄土和讃』の中に見える。
  弥陀成仏のこのかたは
   いまに十劫とときたれど
   塵点久遠劫よりも
   ひさしき仏と見えたまふ(『浄土和讃』より「大経意」第5 首)(*6)
双方の歌とも内容的には久遠成仏の思想を歌ったものであるが、 先の「仏歌」1 句目の「釈迦の正覚」と『大経意和讃』第5 首の1句目「弥陀成仏のこのかたは」の部分が異なる以外、 この二首は極めて類似性の高い内容と思われる。
次の例を示す。まず『法文歌』の中に次のような歌がある。
観音深く頼むべし              生死の苦海辺なし
弘誓の海に船泛べ             仏法真如岸遠し
沈める衆生を引き寄せて         妙法蓮華は船筏
菩薩の岸まで漕ぎ渡る(法文歌一158) 来世の衆生渡すべし(法文歌一210)(*7)
この2 首に極めて類似する『和讃』があるので、これらと比べてみよう。
  生死の苦海ほとりなし
   ひさしくしずめるわれらをば
   弥陀の悲願のふねのみぞ
   のせてかならずわたしける(『浄土高僧和讃』より「龍樹菩薩」第7 巻首)(*8)
これら3 首を比較すると内容の上では、 罪の重さに深く沈んでいる衆生を引き上げて船に乗せ、菩提の岸(彼岸の世界) へ引接する凡夫衆生の救済を歌っている。その意味では三首は共通して仏の衆生救済を説いている。もっとも救い主は「観音菩薩」「法華経」「如来の誓願」と各々異なっているが、いずれも苦悩するわれら衆生を救うという本質は変わらない。また、 この場合、 海を人間界、 岸を彼岸の世界に譬えて表現している事も見のがせない類似点である。
更に、 次の例は聖人の教えと共通する、 思想的類似性の高い歌として注目したい。
  弥陀の誓ひそ頼もしき
  十悪五逆の人なれど
  一度御名を称ふれぼ
  来迎引接疑はず(法文歌一30)(*9)
この歌は念仏の教えに基づく歌であり「十悪五逆」という所から考えて原典は恐らく『観無量寿経』の下品下生段に基づく歌と思われるが(*10)、 内容的には法然上人、 親鸞聖人の説く専修念仏の思想に通じるものである。この場合は対応する『和讃』は見あたらないが、『歎異抄』における「悪人正機」説を先取りしたものであり、 暗に愚禿親鸞の到来を予見しているような歌である。
この他にも、いくつかの類似点を挙げる事ì ƒìができるが、 以上の点からも双方の類似性は認められると思われる。
次に2 )形式の類似点について言及する。そもそも「法文歌」は一般の今様と同じく「4 句で1首」という数え方をするが、 聖人の『和讃』もまた「4 句1 首」として独立し、 これを一首と数える。本来、和讃は七五調の句を幾重にもつなげてゆく形を取り、 例えば源信僧都の『十楽和讃』のように何十句も続けて1 つの和讃にしている例もある。従って4 句を1 首として独立させた形の和讃は親鸞聖人以前には存在しないと言って良い。それ故、 この型は和讃史上初めての形式といえるのである。その意味において「4 句1 首」の形式を持っている「法文歌」は親鸞聖人の和讃形式における先蹤的存在と言えよう。この点は先学の研究によっても指摘されている所である(*11)。
更に3 )韻律についてであるが、「法文歌」の韻律(音数) を全220 首880 句について調べてみると、 本来、 日本語のリズムと思われていた「7 ・5 調」ではなく、 むしろ「8 ・5 調」の句が多い事が解った。つまり「3 ・4 ・5 」や「4 ・3 ・5 」よりも「4 ・4 ・5 」のリズムで出来上がっている訳であるが、 聖人の『和讃』も同様に「8 ・5 調」の句が多いのである。そこで「法文歌」220 首、 880句と『三帖和讃』351首、 1404句の韻律を比較すると次のような結果になった。
    韻律数の比較(*12)
         8・5 調   7・5 調  7・5 調
         4 ・4 ・5   3 ・4・5  4 ・3 ・5   その他    計
法文歌    382/53%  188/26%  105/15%  45/6%    720
三帖和讃   507/43%  260/22%  189/16%  225/19%  1,181
※ 双方共、 1 つの句が3 部分に分かれる(例えば3 ・4 ・5 ) ものだけを対象にした。従って「極楽深重の衆生は」の句などは2 部にしか分かれないのでそれらは省いた。
つまり双方共、 従来の「7 ・5 調」にとらわれない表現、つまり漢語をそのまま用いる手法を多く取り入れているという点が特徴といえる。この場合の漢語とは仏教用語が主であり、 これらは無理に和語に直すと意味が薄れたり、 異なったりする恐れがあるため仏教語をそのまま用いる事で「8 ・5 」の調子が生まれたものと考えられる。この事は注目すべき点であり、 当時の歌といえば「和歌」が文学の主流であり、師法然上人も和歌を用いられた方であるが、そうした時代に親鸞聖人はあえて「和歌」ではなく「和讃」によって衆生を教化したという事は、 よほどこの分野に精通しなければ出来る事ではないと思われる。それ故、 親鸞聖人は以前よD 『梁塵秘抄』特に「法文歌」を深く研究され、 その特性を知り尽くした上でそれを晩年の和讃創作の中に取り入れていったと考えられるのである。
以上、 表現、 形式、 韻律の上から「法文歌」と親鸞聖人の『和讃』との類似点について言及した訳であるが、 その結果双方には多くの類似点が存在する事が確かめられた。そして創作年代を考えると『梁塵秘抄』が平安後期に撰述されている事から「法文歌」は親鸞聖人の和讃のお手本になった可能性が極めて高いと考えられる。
それ故、 これらの考察によって親鸞聖人の和讃は中世の音楽である今様の様式を持ち歌謡的性格の強いものである事が確かめられた。つまり親鸞和讃は謡う性格の強い聖教という事である。しかし、 単に歌謡的性質があるだけで「和讃」が数百年間も諷唱され続けたと考えるのは説得力に欠ける。なぜなら大衆歌謡である今様だけが変化もせずに約七百年間も一宗門の根本聖典として唱え続けられるとは考えられないからである。
やはり親鸞聖人の和讃は形式こそ今様風であるが何と言っても和讃の1 首1 首が優れた内容であり、 教えの根本を的確にとらえ、 その領解を歌にしているからこそ後世の人々が真宗の根本聖典に取り上げたと考える方が自然である。特に『三帖和讃』は聖人の根本思想を歌ったものでありこの点が『教行証文類』の和語版(*13)であると評される由縁と思われる。
つまり聖人の和讃はその内容も形式も共に優れていたからこそ門弟はじめ多くの人々に親しまれかつ研修されたのだと考える。また聖人自身も和讃を教化のために使っており例えば如来の誓願について専信房へ宛てた手紙の中で他力の領解と如来の願力を述べた後、 末尾に次の和讃を二首記している。
  弥陀の本願信ずべし          願力成就の報土には
   本願信ずるひとはみな         自力の心行いたらねば
   摂取不捨の利益にて          大小聖人みなながら
   无上覚をばさとるなり          如来の弘誓に乗ずなり(*14)
この和讃の共通点は「みな」という言葉が入っている点であり、 これは専信房に対し如来の誓願を信ずる者は皆、 残らず救われるのだから迷う事なく真実の教えに励む事を願って、聖人が記したものと思われる。
また逆に直弟からの手紙の中に和讃を信心の証文として示している例もある。これは聖人の直弟慶信房から聖人へ送られた文の一部である。
「『大无量寿経』に「信心歓喜」と候。『華厳経』を引て『浄土和讃』にも「信心よろこぶ其人を、 如来とひとしと説きたまふ、大信心は仏性なり、 仏性即ち如来なり」と仰せられて候に、(中略)また「真実信心うる人は、 正定聚の数に入る、 不退の位に入りぬれば、 必ず滅度にさとらしむ」と候(*15)。」
これは如来の信心について自らの領解を語り、 日夜念仏を称える生活を送っている事に対する御意見を伺うために送った手紙であるが、ここにも和讃が信心の証しとして記されているという事は聖入の和讃が門弟たちの間にも広く伝えられていた例として注目したい。この中の和讃は文の中に組み込まれているので解りづらいが本来は4 句1首の形式である。これは聖人自身ではなく直弟が和讃を書いている訳で、 それも自らの領解した考えに沿った内容の和讃を記す程、研鑽を続けているという点において改めて和讃の普及した広さと深さを感ずる。それは4 句1 首という短い形式にした事が普及した理由であると考えられ、 和讃の持つ性質の内、 解り易く意味深い事に加えて「読み易い」という要素が加味されて、 より一層近しいものになったと想像できる。
このように和讃は聖人の在世当時から門弟たちによって次第に広まってゆく訳であるが、 聖人没後も途断える事なく聖人の言葉として引用された。『歎異抄』第15 章に登場する和讃はその好例である。
「これをこそ、 今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ、 『和讃』にいはく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはさふらふは、信心のさだまるときに、 ひとたび摂取してすてたまわざれば、 六道に輪廻すべからず(*16)。」
『歎異抄』は直弟である唯円(*17)の著といわれており聖人の信心を書き留めた文書として大変重要な聖教である。この章では他力のさとりというもののとらえ方について自力のさとりとの相違を説き、 さとりとは全て如来の願力によって成就せしむる事を重ねて述べ、その中で聖人の言葉として前述の和讃を引用するのである。
このように和讃は聖人の生の言葉として文書の中に引用されている。そして、 和讃の持つ布教的性質が聖人没後には増々重要視され、 年忌、 月忌の際には聖人の遺徳を偲ぶ意味から次第に勤行の中に和讃を取り入れるようになり、 それが定着していったものと推測する。例えば、 高田派の本山専修寺には聖人実筆のある『三帖和讃』草稿本〔庄18 ) と共に聖人の高弟であった顕智上人の写本(*19)が残されているが、これらは『三帖和讃』を順番に編集し、その上に四声点や左訓まで付しているという事から恐らくは順番に読誦あるいは諷唱するために整えたものと考えられるのである。そして、その事は和讃の性格から見れば、 ごく自然な傾向といえるのかもしれない。
それでは次に和讃が門弟の間で、 どのように諷唱されてきたのか、 その経緯について史料を基に探ってゆく事にしよう。そこから和讃が真宗教団の中でどのような役割を果たしてきたのかについても併せて考えてみたい。

注1 田村芳郎著『日本の仏教入門』(角川選書25)第七章、 参照。
注2 山田文昭著『真宗史稿』(法蔵館) より本論、第二章「不断念仏」の項、 参照。
注3  『恵信尼文書』第三通には「この文ぞ、 殿の比叡の山に堂僧つとめておはしけるが、 山を出でて、 六角堂に百日こもらせ給て」とあり、 親鸞聖人の修行期を記す貴重な史料として重要である。(『真宗聖教全書』第5 巻よりP.106 参照。)
注4 後白河法皇(1127〜92)撰述の『梁塵秘抄』は当初、全10 巻に加えて、『梁塵秘抄口伝集』全10 巻の計20巻で構成されたと推測する。現在ではこの内、『梁塵秘抄』第1 、 第2 、 の2巻『梁塵秘抄口伝集』第10〜14、 の5 巻が残されている。今様の他にも庶民の生活心情や自らの音楽的自叙伝も収録しており、 文学や音楽芸能史の重要な資料になっている。(棚橋光男著『後白河法皇』(講談社選書メチエ)より第1 章、 後白河論序説、 及び前掲書『仏教音楽辞典』より「梁塵秘抄」の項参照。)
注5 武石彰夫著『仏教歌謡』(塙書房) より第三章「三帖和讃をめぐって」参照。
注6 『真宗聖教全集』第2 巻、 P .492 。
注7 秦恒平著『梁塵秘抄』(NHK ブックス311) P、227及び注5 前掲書P .84 参照。
注8 『真宗聖教全集』第2 巻、 P.502。
注9 『梁塵秘抄』P .226。
注10 『観無量寿経』下品下生段には「下品下生者 或有衆生 作不善業 五逆十悪」とあり五逆と十悪の順序が逆になっているが内容的は同一である. (『真宗聖教全集』第1 巻、 P .65。)
注11 4 句1 首の形式が親鸞聖人和讃の特徴であり、かつ『法文歌』との関係について言及したのは多屋頼俊大谷大学教授である。氏の著書『和讃史概説』後編、 第三章、 第二節に詳しい。その後、 前述の武石彰夫らによって更に双方の関係が解明された。
注12 その他の部分は韻律が「3 ・3 ・5 」「3 ・5 ・5 」の句で今回はまとめて、 その他として数えた。
注13 阪東性純著『親鸞和讃一信心をうたう』(NHK 出版) より序章、 親鸞の生涯と著作、 P .15参照。
注14 『真宗聖教全集』第2 巻、 P.716。専信房は遠江(現在の静岡県西部)の人。『門侶交名帳』光源寺本には直弟としてではなく「上人面授」の人として、 直弟とは別扱いの6 名の内の1人に記されている。『交名帳』の中で遠江出身者はこの専信房ユ名である。(『真宗史料集成』第1 巻、P.1001参照。)
注15 『真宗聖教全集』第2 巻、 P 、675。慶信房は常陸(現在の茨城県〉の人。『交名帳s には聖人の直弟子として真仏(真宗高田派の第2 世)の次に記されている。
注16 注15 に同じ。P .787。
注17 唯円房は常陸国河和田の人。生没年は未詳であるが、 真仏の弟子であり聖人面授の弟了: として当時の門弟の間では重要な人物であった。『歎異抄』の中では第9 章、 13 章に唯円の名がある事から、 この著の編作者とされている。正応元(1277) 年には上洛して覚如(本願き第三世) に教授したと伝えられる。(菊村紀彦著『親鸞辞典』(東京堂出版) よりく唯円〉の項参照。)
注18 生桑完明氏によると『親鸞聖人真蹟三帖和讃国宝本』の内、 実際の真筆は『浄土和讚』の題名、巻頭の『称讃浄土経』文、 巻尾の『首楞厳経』文、『浄土和讃』全文、『浄土高僧和讃』の題名、『正像末和讃』の第1 首から第9 首までの9 首のみが聖人の筆跡と認められ、 その他は別筆との調査結果であった。又、 書写した人物は『浄土・高僧』の二和讃については禾だ特定できていないが、『正像末和讃』は表紙に『釋覚然』とある事から覚然房が書写した人物と考えられる。この覚然房は正元元(1259) 年の聖人の書簡にその名前がある事から聖人面授の1 人と思われる(『親鸞聖人真蹟三帖和讃国宝本解説』参照。)
注19 顕智房(1226〜1310?)は越後(新潟県) の人。初めは真仏上人に師事したが、 のちに親鸞聖人に帰依し、 のちに高田派の第三世となった。現在、 専修寺に残されている顕智写本の『三帖和讃』は奥書きに「正応三(1290)年庚寅九月十六日令書写之畢」と記されている。
第2 章 和讃諷唱略史
前章では和讃の構造と性質を確かめ、 その上で諷唱する背景を考察したが、 ここでは歴史的に親鸞聖人の没後、 和讃が人々の間でどのように唱えられ広まっていったのかについて具体的に考えてゆきたい。
まず史料として挙げたいのは意外にも真宗関係ではなく天台宗僧侶の記録である。聖人没後5〔1 年頃の記述で「近頃の在家信徒の中には『阿弥陀経』も『六時礼讃』も読まずに善信(親鸞聖人の事)の作った和讃ばかり唱えてけしからん」という内容である。これは『愚暗記』と題する著述である。
「阿弥陀経読まざる事 当世一向念仏して在家の信者を集め愚禿善信と云う流人作し為る和讃を謡い、 長じて同音に念仏を唱る事有り、 無量寿経に三輩往生の相を説に、一向専念無量寿仏の文有り、 是を本説とし一向念仏と云う名言出で来る云て、阿弥陀経も読まず六時礼讃も勧行せず、 但男女行道して六字の名号ばかり唱え彼の和讃を同音に謡長せり。(*1)」
これは宗門側の史料ではなく他宗の記述である事から、 この中の和讃諷唱は事実と考えて良いだろう。ただし、「謡長」とある事から長々とした節回しで余り品の良くない雰囲気であった事が考えられ、 その声が、『愚暗記』で皮肉られる理由になったものと想像できるのである。そして、 和讃や念仏に節をつけて勝手に唱えるという傾向は各地に起こったようで、 その事を戒めるように本願寺の覚如上人は『改邪抄』の中で節の事に触れ、 単に歌を歌うように念仏を唱えても決して往生の因にはならない事を説き、 称名念仏の本意を強調した。
「祖師の御意巧としてはまたく念佛のこはひびきいかやうにふしはかせ(*2)をさだむべし、 というおほせなし、 ただ弥陀願力の不思議凡夫往生の佗力の一途ばかりを自行化佗の御つとめましましき音聲の御沙汰さらにこれなし、 (中略〉音曲さらに報土往生の眞因にあらず、 ただ佗力の一心をもて往生の時節をさだめまします條(*3)」
覚如上人は親鸞聖人の曽孫であり直接会った事はないはずであるが、 あえて聖人の名を挙げて注意をうながしているという事は聖人没後に門弟の間で様々な考え方が現われてそれが深刻化していた事を示す記述と思われる。特に多念義の念仏は数にこだわる念仏であり念仏往生の本家ともいうべき浄土宗の中でも、いつの間にか唱名念仏を芸能化する傾向が強まり法然上人もあえて制戒(*4)を記して念仏が世俗化する事を懸念していた。法然、 親鸞の両聖人とも多念念仏については注意をうながしていたが、 やはり開祖らの没後には自然発生的に現われてきた動きと考えられる。
また覚如上人の長男である存覚.一ヒ人は念仏と和讃を唱える際の心がけについて『破邪顕正抄」の中で次のように述べている。
「つぎに和讃の事。かみのごときの一文不知のやから経教の深理をもしらず、 釈義の奥義をもわきまえがたきゆへに、 いささかの経釈のこころをやはらげて无智のともがらにこころえしめんがために、 ときどき念佛にくはへてこれを誦しもちゐるべきよし、 さづけあたへらるるものなり。これまた往生の正業にあらずただ念仏の助行なり。(中略)この和讃等はまなびやすきがゆへに、 もし称名にものうからん(物足りない) とき、 かつは音聲をやすめしめんがために、これをしめしをかるる ばかりなり。しかりといひてこれを誦せざらんもの往生をえざるべきにあらず。往生の正業はただ南無阿陀仏の一行なり(*5)。」
存覚上人は和讃を唱える事は否定していないが、 それはあくまで助業であって正定の業 } ではない事を述べているのである。又、 この中で念仏に加えて和讃を誦す事に触れているが、 これは現在の真宗各派で行われる勤行である「念仏一和讃」の形式の源ともなる記述で注目したい。しかし、この頃はまだ教団の形成初期の段階であり、聖教の編さんも儀式の様も確立していなかった。それ故、 存覚上人のこの教えがどの程度門弟の間に伝わったのか興味深い所である。
従ってこの時代において声明の形式を具体的に表わしたものは『算頭録』が最も明確と思われる。これは仏光寺派の僧、 了源が門徒に示した制法であり、 その中に声明の作法としての記述がある。
「六時ノツトメ(往生礼讃) ノツトメヲパフキテ三時トナシ、 光明寺和尚(善導大師) の礼讃ニカヘテ、 正信念仏偈等ヲ諷誦セシメタマヘリ、マタ念仏ノモノウカラムトキハ、 和讃ヲ引声シテ五首マタ七首ヲモ諷誦セシメタマヘリト、 先師明光ヨリウケタマハリキ(*7)。」
この著は元徳元(1329) 年に書かれたものであり本願寺の覚如、存覚両上人とも同時代のものであるが、 この条文を見る限り和讃はこの時代にも既に諷唱されていたと考えて良いだろう。しかも和讃と共に「正信念仏偈」(略して正信偈) も唱える事を指示している点は興味深い。いわゆる「正信偈一念仏一和讃」の形は本願寺教団から始められたという記述が数多くあるが、 それ以前に仏光寺の勤行に既に取り入れられていた事は声明の歴史上、 考え直さなければならない点である。
また、「五首マタ七首ヲモ諷誦」とあるが、 こういう形で行う勤行は現在でも高田派に残っていて「和讃、 五首引」と言われている. 恐らくこの形式は真宗の初期から考えられたものと思われるが、それが現在のような「三重構造」になっていたかどうか記されていないのが残念である。
これまで和讃を中心にして諷唱の歴史を見てきた訳であるが、 和讃の歌謡性と宗教性が様々な形で人々に受け入れられ真宗教団が形成される以前から自然のうちに親しまれ広がっていった事が史料の中から読み取れる。しかし同時に和讃諷唱はまだ一般的な行いではなく真宗の教えの本質を見極めた者か、 あるいは一部の熱狂的な信者以外は「念仏一和讃」の形式を知らなかったし又、 統治者側もそれ程積極的に呼びかけた訳ではないので勤行としてはまだ試験的な状況であったのかもしれない。
やはり蓮如上人が登場するまでの真宗教団は勤行といえば『往生礼讃』(*8)だったと思われる。それは蓮如上入の十男、 実悟の記した『山科御坊事』に詳しい。
「61、 昔は六時礼讃を朝暮の勤行也。讃念仏は近年の事なり。讃念仏蓮如上人卅ばかりの御歳よりと聞え申候。越中瑞泉寺は住持なくて留守衆、 堂衆斗候の間、 文明の始比までは朝暮の行事に六時礼讃申たるとて候。」
『往生礼讃』は元々、 浄土宗で行われている勤行で、 あの『徒然草』(*9)にも登場する程に人々の間では盛んに行じられていた聖教である。また、 この史料の中で「越中瑞泉寺」を特に取り上げて、六時礼讃を行っている事実を記しているが、 これは最も極端な例として挙げたものと思われる。実はこの瑞泉寺は本願寺第五世、 綽如上人が建立された寺院(*10)であるが、 この上人の遺品を見ると全てが浄土宗の形式で真宗の特色が一斉残されていないのである。つまり綽如上人の肖像画は浄土宗の衣をまとい、 使用した声明本は全て浄土宗の本、 そして有名な「勧進本」にも浄土宗の思想をとり入れた内容なのである。もっとも綽如上人自身は大変な碩学であり朝廷からも重要視されていたほどの人物であるから対面上、 浄土宗の形式を真似る事で他宗派との融和をはかったとの見方もできる。
しかし、 そのような妥協的考え方は独自性を失わせる結果になり、 その一例として瑞泉寺を挙げたものと思われるが、いずれにせよ真宗の独自性は蓮如上人が第八世を継承されるまで開花できなかったと考えられ、 綽如上人から蓮如上人の頃までは仏光寺派や三門徒派が隆盛を誇っていた。特に仏光寺派の発明した「名帖と絵系図」は大流行し、 仏光寺の門前は大いににぎわった。これは信心決定を金銭によって定め血脈譜に自分の名前と肖像画を描き、 それで往生極楽の証しとするも のである。誰が見ても、 このような行為は正統ではないが、 こうした現世利益の行いは民衆が何か救いの道を必死で探そうとしているまさしく凡夫の姿であり、 それほどに世の中が乱れていたという事であろう。その意味で蓮如上人の登場は歴史の必然と言えるかもしれない。上人はこうした現世利益的行為を最も嫌い、親鸞聖人の教えに還る事を強調した。
その蓮如上人が30歳頃の事であるが、 本願寺においても浄土宗の色から脱け出し真宗独自の儀式を定めようとする動きが出始めた。その提唱者が蓮如上人の父、 存如上人(醐である。前の史料にもあるように蓮如上人が30歳の頃に儀式が『六時礼讃』から「讃念仏」つまり「和讃と念仏」に変更されたとあるが蓮如上人が第8 世を継承されるのは43 歳である事から、 この英断を行ったのは第7世存如上人という事になる。これは真宗教団にとっては画期的試みで、 覚如、 存覚上人の頃の和讃諷唱とは異なり、 正式に儀式作法の中に親鸞聖人の和讃を組み入れるという事である。これによって真宗はようやく独自の形式を持って声明を行うようになった。この事は当時の弱小寺院である本願寺にとっては小さな出来事だったのだが、 やがて蓮如上人の代になってその効力は発揮される。それが、 文明5 (1473)年に行なわれた『正信偈・和讃』の開版である。蓮如上人は布教活動の一環としてこの声明本を出版した。その時、 父である存如上人の形式を継承し『三帖和讃』と『正信念仏偈』を加えて四冊本として世に出したのである。この「正信偈一和讃」のスタイルはかつて仏光寺派の了源によって提唱されていたが、 蓮如上人が知ってか知らずか一番先に論破しようとした派の形式を用いるというのは、 何とも歴史の皮肉といえよう。
この文明本「正信偈・和讃」の開版後、 真宗の門徒は勤行の際には正信偈・念仏・和讃の形で行うようになり、 それ以後このスタイルが定着した。そして、 それ以前に行われていた『往生礼讃』は傍らに置かれた(*13)。この形式が現在においても本願寺教団を中心にしてその後脈々と受け継がれていくのである。

注1 『愚暗記』の著者は長泉寺別当、 孤山隠士と名乗る者である。長泉寺は現在の福井県鯖江市街にあった天台宗寺院である。尚、『愚暗記』は上下二巻よりなっていたようであるが、 現在ではこの上巻のみが現存している。(『真宗史料集成』(同朋舎) 第4 巻、P90 、 719 )
注2 「はかせ」とは「博士」の事で声明譜の記号の事である。因みに真言宗は音高表示を目的とした「五音博士」を用い、 天台宗で旋律を象徴的に記号化した「目安博士」を用いる。この当時は状況から考えて「目安博士」の事を指していると思われるが、蓮如上人以降の真宗声明では博士は簡略化された。現在では博士と言わず「節譜」と称するのが一般的である。
注3 『真宗聖教全書』第3 巻、 P .78〜9。
注4 この制戒とは法然上人が浄土宗の教えについて、 正しい教えの中で念仏する事を願って、とかく外道に走らんとする者を戒めるために記した『七ヶ条の制戒』の事である。その第六条には「黒闇の類、己が才を顕さんと欲ふて、 もつて浄土教を芸能として、名利を貧し檀越を望む。恐らくは自由の妄説を成して世間の人を狃惑せよ。班惑の過殊に重し。」とあり念仏の芸能化を懸念している。(『定本親鸞聖人全集』(法蔵館) 第5 巻、 P .138)
注5  『真宗聖教全集』第3 巻、 P 、169。存覚上人は覚如上人の長男であるが、 2 度も義絶させられ、本願寺の継承は次男の善如が受けた。尚、 存覚上人は著述の中に和讃を指針として挙げる事があり、 例えば「女人往生聞書』(『聖教全書』第3 巻、 P .116)や『浄土見聞集』(『同書』P .382) にも『三帖和讃』を引用している。
注6 『観無量寿経』散善義には浄土門内の行を正行と雑行の二種に分け、 更に正行を細分して、1 )読誦、 2 )観察、 3 )礼拝、 4 )称名、 5 )讃歎供養の五行とした。その上で4 )の称名を正定の業(阿弥陀仏の本願に選定された浄土往生のための正しい因となる行為) とし、その他の行を助業(往生の助けとなる行為) とした。(『真宗大辞典』の第二〈正助二業〉の項参照。)
注7 『真宗史料集成』第4 巻、 P .568。
注8 『往生礼讃』は『六時礼讃』とも称する。中国唐代の善導(613〜81)の撰述。日没、 初夜、中夜、 後夜、 晨朝、 日中の六時に阿弥陀如来を初めとする諸仏に礼拝する際に用いる文集、日本における礼拝儀式は建久3 (1192)年に京都八坂の引導寺で法然上人とその門弟たちによって行ったのが始まりである。(『仏教音楽辞典』(法蔵館)〈往生礼讃偈〉参照。)
注9 『徒然草』第227 段は『六時礼讃』について書かれており「六時礼讃は法然上人の弟子、安楽といひける僧、 経文を集めて作りて勧めにしけり、 云々」とある。(松尾聰著『徒然草全釈』(清水書院) P .350〜1)
注10 瑞泉寺は明徳元(1390)年、綽如上人によって現在の富山県井波町に建立された。大谷派井波別院が今の通称である。
注11 存如上人〔1396〜ユ457 )年は本願寺第六世巧如上人の長子として生まれた。蓮如上人の思想体系は存如上人の指導に依る所が多い。
注12 現在では『往生礼讃』の勤行は浄土宗、西山浄土宗、時宗、融通念仏宗においては主要な聖教であり浄土真宗本願寺派においても行われているが、 真宗大谷派において『往生礼讃』を行う事は特殊な場合であり、 通常は用いない。
第3 章 三重構造について
蓮如上人が開版された文明本『正信偈・三帖和讃』は、 その後広く流布され本願寺の勤行式は、それまでの『往生礼讃』に代わってこの『正信偈・和讃』を用いるように変わっていった。そして、蓮如上人の晩年には、 この様式が既に定着していたようである。それは『金森日記』にある上人の葬儀の次第を見ると現在と変わらない内容である事が解る。ここには「正信偈・和讃三首」とあり和讃は『正像末和讃』から選んでいる。そして「初重・二重・三重」と各々和讃を明記している事から、 三重構造の様式が公の儀式にも行われていた事を記す史料として注目したい(*1)。
ここで「三重構造」について、 その源流を探ってみる事にしよう。まず「重」という意味であるが、 端的に言えぼ「旋律を構造している音の中で中心となっている音の高さに付けられた名称」と言えよう。従って「三重構造」というと、中心になる音が三つ存在するという意味で、初重、二重、三重の順に音が高くなる、 という意味も含まれている。
ところで、この「三重構造」のルーツについては諸説あって確定できないため、 今回はその説を紹介して今後の研究に役立てたいと考えている。まずは『堅田本福寺明誓聞書』と『山科御坊事』の二つの記事についてである。これを列記して示す。
「大谷殿様御つとめは北野の釈迦念佛を、かたどりたまふとかや。(本福寺聞書)(*2)」
「和讃を念佛にくはへ申事の次第は口伝あり、 九重にこれをさだむと也。当時はやうやう品は三重ばかりにて候。口伝等次第心得られ度事にて候(*3)。(山科御坊事)」
この二つの文を併せて考えてみると「三重構造」のヒントになると思われる。つまり当初、 九重構造であった和讃が次第に三重になった、 という記述である.そして「北野の釈迦念仏」とはまさしく「九重念仏」を行った寺であった。この寺は現在も京都にある大報恩寺の事で蓮如上人の時代は浄土宗の寺であった。つまり『山科御坊事』の中の「九重」とはこの大報恩寺で行われた「九重念仏」の事を指していると考えられる。この「九重念仏」とは『観無量寿経』の九品思想瀏から取られたものであり念仏を九重に分けて唱えたようである。しかし九重の場合は初重から九重まで順に高くなるのではなく、 三重まで音が上がると四重は1 つ下がって二重と同じ高さになる。そして五重も1 っ下がって初重と同じ高さになり、六重で再び上がって二重と同じ高さになる訳である。従って九重といっても音は3種しかなく初重の音が3 回、 二重の音が4 回、 三重の音が2 回登場する事になる。これを図に書くと次のようになる。恐らく史料から推測して、 この「九重念仏ll の内の最初の「三重」だけを採り入れたとの説が成り立つのである(*5)。
次の説は「五会法事讃』に関係するという説である。これは真宗十派の中の三門徒派にも関係する事なので、 まず三門徒派について述べる事とする。この派は鎌倉後期から室町中期にかけて最も極端な念仏を唱えた集団であり、 前章で示した『愚暗記』の中の念仏もこの三門徒の人々ではないかと言われる程である。この集団は現世利益のための呪術的念仏を勧めて活動しており、 覚如、 存覚両上人も注視していた集団であった。彼らの特徴は皆で親鸞聖人の和讃を唱える事で、 三門徒とは実は「讃門徒」つまり和讃を唱える人々という意味であったらしい。この讃門徒たちが和讃の他に『五会法事讃』を唱えていたというのである。
『五会法事讃』とは唐の僧、 法照の作であり正確な名称は『浄土五会念仏略法事讃』と称する。内容は五音(宮商角微羽)の曲調に合わせて修する時の作法を略述したもので37種の讃文が挙げてある。この讃文の内、 三種の文が『教行証文類』行巻に引用されている所から、『五会法事讃』そのものは決して真宗と無関係な書ではない(*6)。そして、 この作法を行ずる際、 五音に分けて唱える訳だが、 五音は音を取る事が困難であるため、 五音を簡略化し三音にして唱え、それが三重念仏の基礎になったのではないか、 とする説である。この説は大胆な仮説が多く含まれるので史料不足の感は否定できないが、 三門徒派との関係を考えると今後充分検討すべき課題と思われる(*7)。
最後に真言宗に伝わる「四座講式』に関係する説である。『四座講式』とは一口に言えば長大な仏教声楽曲であるが、 これと大谷派の三重念仏の形式とに類似点があるのでそれを示そう(*8)。
  1 )三重形式である事。
  2 )初重と三重が同じ譜法を用いる事。
  3 ) その初重と三重の記譜が同じであっても唱える時の音の高さによって節回しが異なる。
これらが類似する点であるが何故、 大谷派の声明とだけ比較するかというと、 それは大谷派の声明が蓮如上人の時代からほとんど手を加えられていないためである。因みに他派は江戸時代に何度も声明改正を行っていて当時の原型をとどめていない。従って真宗声明の中で室町時代から伝承されている大谷派声明と鎌倉時代の伝統を受け継いでいる『四座講式』の類似点は大変興味深い。特に2 ) と3 ) の類似点は両宗の接点がどこにあったのか更に考察すべき必要がある。
以上、 和讃の「三重構造」について諸説を列記してみた。その中では、 やはり最初に述べた「九重念仏」が史料のある分、有力である。しかし『四座講式』のような様式の確立している声明を手本にしたという事も可能性があり、いずれの要素も否定できない。結論を出すとすれば、 何かの声明を手本にして再構築したものが和讃の「三重構造」として伝承されたという事であろう。

注1 『真宗史料集成』第2 巻P .903。
注2 『続真宗大系』第17 巻より足利螢含編「声明作法に関する古記抄出」P .109。
注3 『真宗聖教全書』第5 巻、 P .632。
注4 浄土に往生するのに9 種類の類別がある事をいう。先ず上品、中品、下品の3 つに分け、それぞれに上生、 中生、 下生の三つに分ける。すると1 )上品上生、 2 )上品中生、 3 ) 上品下生、 4 ) 中品上生、 という具合に9 種が出来上がる。
注5 赤松美秀述「吉崎以前に於ける正信偈、 三帖和讃諷誦の研究」(大谷学報第24− 6)参照。
注6 「定本親鸞聖人全集」第1 巻、P .50〜52。
注7 この説は大谷大学文学部教授、 故藤島達朗博士よりお伺いした話をまとめたものである。
注8 志田延義監修『四座講式』(Colombia GL  7006) の解説書一青木融光著厂四座講式」解説参照。
まとめ
これまで『三帖和讃』を中心にして、 その諷唱の歴史を整理しまとめてみた。その結果、親鸞聖人の和讃は今様のひとつ『法文歌』の影響を受けており、 併せて和讃の精神である「やわらげほめ」の姿勢と深い仏教理解の言葉が融合された「信心歓喜」の歌として創作当時から門弟によって受け継がれてゆき、それが次第に教団形成の中で声明としても用いられるようになった事を歴史資料より知る事ができた。更には長年の謎とされてきた「三重構造」についても、いくつかの説をまとめる事ができ同時に課題も見い出す事ができたが、 声明から見た和讃の考察は未だ多くの謎や課題が存在する。今後は和讃の教学的な面を中心にしつつ、 様々な視点から未解決の問題に取り組みたいと考えている。  
 
勧学法話

 

一 年頭法話
去年の歳がたち、当年のお正月となって、お互いに人の顔を見合す度ごとに新年を迎えて「おめでたい、おめでたい」と皆挨拶いたしますが、御信心をもろうて御報謝で日送りなさるお方にしてみると、時々刻々お浄土が近くなりますゆえ結構じゃ。「楽しみ楽しみ、おめでたい、おめでたい」と申すももっともじゃが、今日この御座まで不信未領解で、人の付き合いやら名聞で参詣している人は、新年が来て「おめでたい」というても、その実おめでたいとは言われぬ。一息一息地獄へ堕つるのが近くなるじゃで、なかなかめでたいどころじゃない悲しみ、追々情けないと言わにゃならぬ。一休和尚が「門松や冥土の旅の一里塚」と言い、また舎利頭を持って「御用心、御用心」というて京の町を廻られた。もし未信のお方は、当席は、新年の改まったとともに、疑いの心を改めて真実の信に基づいて、心の底からおめでたい春を迎えて、心ひろく体ゆたかに、楽しみ楽しみ浄土の花見の春を待ち受ける身となってこそ、めでたい新年を迎えたというものじゃ。
蓮如上人は「年々をふといえども同篇たるべきように見えたり」と仰せられてある。あれは報恩講のことばかりのように思うてはなりませぬ。これは今のことじゃ。十年も二十年も三十年も、聞き通しに聞き続けていても、命は一年一年縮まっても、何とも驚きも立てない、ただウカウカと説教の上手とか下手とか、長いとか短いとか、耳新しいことを聞くと覚えて人に言うくらいで「我身の一身をもしかじかと決定する分もなく、唯人真似ばかりの体たらくなりと見えたり」とお叱りを受けるようなことでは、いつまでも信心決得なられることはない。歳の改まったとともに、心を改め驚きの念を立て、この初の御座を幸いに信心を獲得なられましょうぞや。
古人の言葉にも「一年の計は元日にあり」ということがごあります。この世の中に士農工商、皆その業に就いて計画のありますものじゃ。本年はかく致しましょうと思うたら、その年の始めからその用意しておかにゃならぬ。その月のことは、ぞれぞれ月の始めからこしらえしておかねばならぬ。また暑中の用意は春のうちにする。寒中の覚悟は夏秋の間にこしらえをしておきます。草木でも、冬のうちは枯木のようになって、春になって花の咲くように、その用意がしてあるで、春が来ると花が咲く。人間としてその用意が無くては叶わぬ。『御一代聞書』に「勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に、御前へまいりたるに、蓮如上人おほせられさふらふ。道徳はいくつになるぞ、道徳念仏まうさるべし、自力の念仏といふは、念仏おほくまうして、仏にまいらせ、このまうしたる功徳にて、仏のたすけ給はんずるやうにおもふてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念おこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏まうすは、御たすけありたる、ありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは、他のちからといふこころなり、この一念臨終までとほりて、往生するなりと、おほせさふらふなり。」と。この御化導はただ徒に年を迎えて、お雑煮を喰うて祝うが所詮で無い。信心を得て念仏する身は、一年一年浄土の無量寿の証が近くなるゆえ、めでたいめでたいと祝う所詮あれど、一年一年三悪道の近まる身にしては、新年祝うても祝い甲斐無ければ、往生治定の上から、念仏申し申し御祝いせよとのことである。
そこで念仏するにも、自力と他力とありて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と声に出るのは一つなれど、称え心が大いに違う。もし自力心の人なれば、実に臨終が危ない。平生業成の他力信心に基づいて称うる行者は、御助けありたることの有難や有難やと、往生治定の上から、生涯称うるゆえ、いつ臨終が来ても、その場が浄土の春である。よって念仏を申すも、称えたゆえ参ると称功を募るにあらず、称えさせて頂いた南無阿弥陀仏の力にて往生と喜ぶ、これが他力の味わいである。未信の人も、他カ本願の御謂を聴聞して、信の上からその心得にて念仏相続せられたい。
二 『本典』と『三帖和讃』
宗旨宗旨には、それぞれの経典がある。我が浄土真宗では、浄土の三部経を以って正依の経典とし、七祖の聖教を依憑するのであるが、この外には御開山様が、浄土真宗の基礎として『教行信証』六巻の聖教を御製作なされて、教の巻において「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一には往相、二には還相なり。この往相の廻向について、真実の教行信証あり」と仰せられてある。この御言葉を一口にお話をすれば、教行信証とは、教はおしえで、学校でも先生が教えて、その教えの通りをば学問するのが行で、その学問勉強の上、卒業のできたが証、これを卒業の証という。然るに、浄土真宗は、浄土へ参るは南無阿弥陀仏で参ることを教えて下さるが『大無量寿経』。その南無阿弥陀仏は、衆生が勉強するではない、阿弥陀様が永劫に修行して下されて凡夫の行と成就して下されたを行という。されども仏の手許では行ができても、衆生に手渡しができねばならぬ。そこでその行をもらうのが信であるゆえ、行の次に信ということを知らして下されたが、自力の法においては無いことで、他力の上では一番信が肝要となるゆえ、自力では教行証の三つであるけれども真宗では、行と証との間に信が加えてある。これは行者の方に修行はいらぬ、信ずるばかりで、行は如来の方より御廻向になるからである。故に信ずれば証が開かれる故に、信の次に証と漣ねて、教・行・信・証と仰せられた。この教行信証は、吾々が娑婆から浄土へ、入り込む次第を知らせて下されたのじゃ。
また三帖の『御和讃』を御述作なされた。そしてまず初めに冠頭讃と申して、浄土真宗の要を顕して下された。和讃とは難しい言葉を、和国すなわち日本の言葉に和らげて、愚かな凡夫に分かり易く御讃嘆下されたゆえ、和讃という。元来『和讃』に三帖ありて、その次第は、『教行信証』とは顕わし方が違うて、これは阿弥陀如来の正覚の果海より、「十方世界普流行」と、遠くは十方、近くはこの娑婆世界にあらわれて、吾々が機にはたらいて下さる次第を知らせて下されてある。
そもそも今御讃嘆の初めの「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」の一首が信を勧め、次の「誓願不思議をうたがいて、御名を称する往生は、宮殿のうちに五百歳、むなしくすぐとぞときたもう」の一首は疑いを誡め、三帖の『御和讃』、その数多けれど、肝要はこの勧信と誡疑の外はない。そこで信を勧め疑いを誡むるの二つを、まず看板にかけて知らせて下された。ちょうど米屋は米の看板、酒屋には酒屋の看板が掛けてある如く、この二首の和讃を看板にかけて、名号を称えても信が無くてはならぬ。疑うて称うれば、化土の往生じゃと知らせて下されたのじゃ。
それから弥陀成仏の『和讃』を最初に置きあそばして、阿弥陀様が衆生往生せずば正覚取らぬと誓うて、その正覚成就して「法身の光輪きわもなく、世の盲冥をてらすなり」と、我々無明の迷いの闇を照らして下される。そこでその御徳を知らして、十二光の和讃を作り、次の浄土の二十九種の荘厳を御讃述なされ、皆これが正覚成就のいわれ、また『三経和讃』も、正覚成就ゆえに、衆生が往生できることを如らせ、次に『諸経和讃』も、阿弥陀如来の御徳を、諸経に説きこんであることをお知らせ下され、『現世利益和讃』は、ただ未来助かるばかりでない、現に広大なる利益のある、正覚成就の南無阿弥陀仏なりと知らせ、『勢至和讃』も、その六字を勢至菩薩が弘通あそばすということを教え二帖目の『高僧和讃』は七高僧が『三部経』のいわれを御相承なされたことを示して、正覚の果海から三経と顕われ、七高僧の御聖教と流れ出で来るすがたである。また『正像末和讃』は、正覚成就の南無阿弥陀仏は、正像末の三時に弘まることを知らせたもう。かように『三帖和讃』は、正覚の本から我々の機を讃嘆させて下さる次第をお知らせ下されてある。
三 邪義と秘事
「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。かかる不思議の名号、もしきこえざるところあらば正覚取らじと誓ひたまへり。われらすでに阿弥陀といふ名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりといふことを。きくといふは、ただおほやうに名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて疑はざるをきくとはいふなり。御名をきくも本願より成じてきく、一向に他力なり。」
これは『安心決定鈔』の御文「不思議の名号、もしきこえざるところあらば正覚取らじと誓ひたまへり。われらすでに阿弥陀といふ名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりといふことを」と仰せらる、この名号の不思議とあるは、因人の菩薩や羅漢がたの了簡には及ばないことである。してみれば我々凡夫の了簡に及ぶことではない。その不思議とは、凡夫が仏になるということである。然るに凡夫の了簡でとやかくと自力の心をもって、本願不思議を疑うておりしことを大いに慚愧すべしとある。然るに我らが往生成就につき、十劫邪義に陥る人があるゆえ、このところをよくきかねばならぬ。
元来世には十劫秘事というも、あれは秘事というのではない、秘事というは他人に秘密にするを秘事というのである。十劫安心は公然と人にも言うから秘事ではない、邪義と言わねばならぬ。そこで『御文章』にも十劫安心のことは秘事と言うてはない。秘事は不拝(おがまず)秘事というように、「秘事といいて仏を拝まぬものは」と仰せられてある。十劫安心は秘事ではなけれども、邪義である。その邪義とは「十劫正覚の初めより、我らが往生を弥陀如来の定めましましたまえることを、忘れぬがすなわち信心のすがたなりといえり。これさらに弥陀に帰して他力の信心を得たる分はなし」と『御文章』にもありて、ただ十劫の昔より、我々が往生を成就してあると知ったままにて、機に引き受けたところは更にない。
例えば火事じゃ火事じゃという声を聞いて、どこが火事か、あれは伏見と聞き知った一念に、伏見の焼けているということは疑わねど、京の人は火事じゃそうなというておるまでのこと、自分には何ともない。然るに自分の町内の火事と聞けばじっとしてはおれぬ。これは自分のことに引き受けたからじゃ。よって火事が治まったと聞けばよその火事なら、治まったそうなと疑わぬまでのこと。自分には何ともない。町内の火事が治まったと聞けば、やれやれと安心するは我がことに引き受けたからじゃ。今もその如く、十劫邪義はよその火事の治まったのを聞くのも同じことで、疑いはなけれども我が身に引き受けてはおらぬ。正意の御領解は、我が近所の火事で心配し、火事の治まったと聞いて安心するごとく、我が後生の大事が心配でならぬに、それを仏の方に引き受けて、往生は間違わさぬ、必ず助けるぞよと呼んでくださる仰せが、行者の方に引き受けられて、後生に安心のできたが、真の御領解というものである。
ちなみに秘事ということについて少しお話を致すが、世には光明秘事(土蔵秘事)、来迎秘事などというのがある。これは光明を拝むとか、来迎が拝めるとかいうのである。筑前のある同行が未来を心配して、処々にて法を聞けども安心ができぬところから、光明秘事を教える知識(仏教の先生)のところへ行った話がある。そちらへ行くと、「信心の貰われたものは光明が拝まれる」というのである。同行が訪ね行きしに、「まず信心を得るには第一に懺悔をせねばならぬ」と言う、「そんなら如何に懺悔しますか」と言えば、偽知識は同行に向かって言うに、「お前は偸盗したことがある」。同行は不思議な顔をして、「イーエそのような盗みなどした覚えはござりませぬ」と答えれば、「それでもよその家へ入って、金銀等は盗まずとも、よそのナスビを取りはせぬか、大根は取りはせぬか、花を折り取ったことはないか」と責め立てれば、「若いときにはよその大根を取ったことがあります」と言えば、再び、「それが偸盗罪じゃ、懺悔せねばならぬ」と言うて、その懺悔には誓詞を認めさせ、この度信心をお授けの上は、外に出ては何事も秘して言わぬという書付を出させるのである。そして薄暗い土蔵の中に連れて行って、昼夜五、六人も寄り合って前から手を持ち、左右からその同行を、南無阿弥陀仏の声とともに左に引き右に引き、ちょっとも眠らせずに引きずり合い、いよいよくたびれ切った時分になると、サァサァ今が信心の頂かれた時じゃと、灯明をかき立てて今のくたびれた同行の顔をなぐって目を開かしめて、光のあるを眺めて光明の拝まれた如く見せかけるのである。また博多に先年、事の一念妙法蓮というのがあって、これは日蓮宗のものであるが、信心を得たものは病気が平癒するというて、一時信仰者がたくさんあったが、ある事件から警察より調べを受けたのである。これも同じく昼夜種々なる話をなし、人のくたびれた頃になると、その時が信心の頂かれた時、信心の頂かれた者は日蓮上人の前に立っている、お花の動くのが見えるというので、前卓のかげから、ひそかに酒を花瓶にさす、花瓶の中にはドジョウがたくさん入れてあるゆえ、ドジョウが驚くと花が動くという仕掛けで、それを見て自分は信心が得られたと喜ぶ、誠に気の毒な話である。然るに一方の誓紙を取るのはもし内輪のことを、他の話したら盗みしたこともその他のことも、警察へ訴えるぞという脅しである。誠に浅ましいことの極みである。さりながらそんなことに惑うのは、自分の欲や愚痴からである。よってどうぞ迷わぬようにしてもらいたい。然るに一心に弥陀たのむ身になれば、さようなことに惑うはずはない。どうぞ本願の理を頂き後生に安心して、その上は人間の世渡りに注意ありたきものである。
さて弥陀たのむ御安心とは、中興上人(蓮如上人)は御弟子の法敬に対して、「弥陀たのめということを教えてくだされたは、誰じゃ知っておるか」と仰せられたら、法敬坊は「知りませぬ、どうぞ教えてくださりませ」と申し上げたれば、「それでは何ぞ物を参らせよ、大工や左官でも教えてもらうには物を参らす、後生ほどの大事を教えてもらうには、何なりとも参らせよ」と仰せられたれば、「この法敬が命でも差し上げましょうから、何とぞ教えくだされ」と申し上げたれば、「それでは言うて聞かせる、弥陀をたのめとは阿弥陀如来が教えてくだされたのである」と仰せられた。これを聞き違えぬようにせねばならぬ。物を参らせよと仰せられたは、大様にならぬよう大事をかけることを知らせてくだされた。また弥陀の教えであるとは、例せば、金を借りたいといえば、人が某のところへ行って頼め、と教えてくれても安心はならぬ。然るに金の主より金が入れば用立ててやる、利子はいらぬ、いつなりと取りに来いよという言葉をきけば、間違いはないから安心じゃ。今もその如く、外より阿弥陀様をたのめと教えてくれても、まだ安心のできぬことがあれど、阿弥陀如来が直々に仰有ることなれば、これほど確かなことはない。これを知らせて、阿弥陀が教えてくだされたのであると仰せられるのである。然るにたのむとは、往生間違わさぬの如来様の御誠をたよりに、往生の一大事を安心すること、すなわち助けるの仰せのままが機に御受けのできたのが、あなたのたよりになられたことである。御受けのできたとは、助くるの勅命に助けたまえと、信順すること、「たまえ」の言葉は人が物をやるぞといえば、「くれたまえ」と受けると同じことで、助けるぞの仰せに助けたまえと受けるばかりである。
四 心得やすの安心
親鸞聖人は『歎異鈔』の中に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおほせをかうぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり」とおほせられてあります。誠によく、この上もなくすなおに信順せられたものと存じます。皆様も祖師聖人の如く、従順に如来の仰せに従うことができますか、いよいよ往生に安心ができましたか。
皆さんの中には、安心を自分自身で製造する人がある。領解大事にこりかたまりて、とかく従順に如来の御誓願に信順しないからいけないのであります。後生大事を忘れて領解大事と機に滞って、一向如来の大悲に目のつかぬのは大きなる誤りで、後生大事のこころより如来様のまことを仰げば、その後生は案じるに及ばぬ、その機のなりで救うと明らかに申されているから何ら心配も無いはずであります。然るに皆様は領解大事と機をながめ、すなおに如来の仰せをまうけにせぬから、とかく重荷はおろされませぬ。真実仰せが真受けにせられたならば、只々有難うと御受けするより外はないのであります。
元来、安心のできぬというのは、全くお慈悲に目がつかぬからであります。後生大事とふみ出して、如来の御慈悲に目がついたなら、引き受けるとの御誠に助けられるとなったなら、何ほど小言の言いたい我々でも、信ぜられぬ、戴かれぬ、安心ができぬということはできぬではありませんか。如来様からはすでに先手をかけて、そなたの願行はできてある、罪や障りは消してやる、そのまま助くるぞよの仰せに、後生助けたまえと思う心が、取りも直さず安心である。
本当はこんなに信じ易い安心でありますが、皆様はとかく難しく考え過ぎる。すなわちたすけたまえとたのむのであると聞くと、その助けたまえに喰いついて、そのたのみ方がどうのこうのと心配を始める。たすけたまえとあるゆえに、どうぞという請願の心が加わらねばならぬとか、口ばかりでは行かぬ、三業が揃わねばならぬとか、いろいろと心まどいが生じて来ます。名高い三業惑乱などは全くこの一つで、信明院(本如上人)様が命にかけてこの迷いを御裁断くだされて「助けたまへとたのむといふは、ただこれ大悲の勅命に信順するこころなり」と示されてある。然るにたのみごころにとやかく言うている、これらは悉く間違いで、只々大悲の勅命に信順する外はないのであります。例せば、人が物をやるぞと言うとき、くれたまえと返事するは、やるぞよの命に順うたのである。うけたのである。今も如来はやるぞと仰せらるる、我々凡夫はくれたまえと御受けをするより外には、何の雑作もないのであります。たのむというのも往生の勅命のままに、御まかせするというのに外ならぬのであります。御経に「聞其名号信心歓喜」と申されてあるのはこの心で、「信心歓喜」というのは、浄土の往生は疑いなく思うて喜ぶ心であります。我々は助けられ手、如来は助け手、それゆえ、機の方には何一つ用意も、準備も必要なく、このまま参らせて戴くのであります。さてかく安々と往生させて戴くことの、ああ有難やかたじけなやと、疑いなく思うてよろこぶ心が、すなわち一念の信心の相続のすがたである。
我が身の方から疑いをはれてかかるのではありません、必ずや往生させてやるの如来の大悲に疑いが無くなり、御浄土参りに心配が無くなるのであります。如来は何もかも仕上げた上、何もかも見抜いた上で、疑いなく、間違いなく助けてやろうと、およびかけくださるのであります。凡夫の方では何の思案も、何の用意もいらんのであります。只々御受けするばかり、如来の御言葉に順いまいらす外はないのであります。
世の中には疑いさえなければよいと心得て、阿弥陀如来の御慈悲は、いかなる衆生も救うと仰るから、私は助けてもらうことと思うておるというて、何のよろこびも無い者がたくさんあります。たとえば、石は固い物、綿はやわらかい物とは、誰も信じて疑いません。しかし、石はかたい、綿はやわらかいと信じたのみでは、ありがたいもうれしさをも感ずることはできないのであります。
たとえば、今二人の娘があったと考えてみる。さて父親がその二人の娘に向かって申しますには、「今度はお前達を京都や奈良見物に連れて行ってやろう」と。すると一人の娘の申しますには、「それは有難いことでございます。私も一度御本山へ参詣したいと思っていましたのに、今度お父さんが連れて行ってくださるとは、何とした有難いことでございましょう。このようなうれしいことはございません」と言う。ところが一人の娘の申しますようは、「京都や奈良も結構ですが、なにもこの頃のような暑い時分でなくとも、いつでも私はやってもらいます。一人でも行きます。今のような暑いときに汗だらけになって見物するよりは、ゆっくり家に休んでいたほうが、よほどましだと思いますから、今度は止めに致します」と勝手を言うている。この二人の娘について考えて御覧なさい。二人とも父親が連れて行ってくれるということは信じています。この暑い時分にと言った娘でさえも、お父様が連れて行ってくれないとは思っていません。しかし、一方は何よりのことと父の仰せを受けた、一方は全くこれがありません。これが二人の相違であります。疑いはせぬが、ありがたいと御受けせぬのは、言葉を疑わぬだけで、少しも先方の親切を受けていないのであります。これに反して一方の娘は、これは何よりうれしいこと、私も一生のうちには是非一度参らせてもらおうと思っていたのに、今度連れて行っていただくとは、この上もない身の仕合せと、如来の慈悲が身に受けられると、受けられぬとの違いであります。受けられた人はいつ思い出しても有難い、受けられぬ人は、平生は疑いさえなければとすましているが、一朝病気にでもかかると、何となく心苦しくて、いよいよ未来は参ることができるかとおしつめられると、何やら薄紙をへだてたような心地がする。皆さんはそんな感じは起こりませんか。これは前の娘と同様で、如来様の心と自分の心とが離れていて、せっかくの親心が私の心にとおりていないからであります。
無論死ぬるとなれば、何ほど信心堅固の人だからとて、決してうれしい思いは致しません。御開山様(親鸞聖人)でさえ「久遠劫より、いままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土は、こひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩興盛のさふらふにこそ、なごりおしくおもへども娑婆の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまいるべきなり」と申されてあります。我々の根性から申せば、なかなか浄土参りがうれしいというような心は起こらぬ。却って娑婆がなごりおしく思いつつ死ぬのでありますが、聖人の仰せらるる通り、力なくして終わるとき、やがて彼の土で参るのであります。そしてこのようなあわれな根性であっても、如来は決して捨てたまわぬのであります。聖人は次に「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまふなり。これにつけてこそいよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ」と仰せられて、このような浅ましい心の凡夫をことにあわれんで、往生は決して間違わぬぞよと、仰せらるるのが親様の御慈悲なれば、かかる娑婆執着の者を御救いくださるる、尊い御慈悲であると思えば、まことにたのもしく喜ぶより外はないのであります。
然るに皆さんの中には、あるいは疑いさえなくばと形付けて、如来の親切を身に受けなかったり、または、信心大事、信心大事とただ一概に信心大事と固くなって、如来の慈悲に背を向けたりなさる人が多いので、いつまでも安心安堵はできぬのであります。我々は御開山の御真似をさせて戴くのが、何よりの早道であります。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおほせをかうふりて、信ずるほかに別の仔細なきなり」と仰せらるる通り、我らも只念仏して弥陀にたすけられまいらするより、外に道はないのであります。
念仏して弥陀に助けらるるとは、第十八願であります。第十八願とは、信じて称えるものを往生させようと、御誓いなされた願であります。皆さんの中にはかねがね信心一つで、往生と聞いていたのに、往生にも念仏が要るのかと不思議に思わるる方もありましょうが、それは心得違いで、願力の信心には必ず名号がつき物であります。御聖教にも「信心ありとも称名せざらんは栓なく候、たとへ称名すとも信心浅からんは栓なく候」と申されてあります。こういう次第でありますから、聖人の「念仏して弥陀にたすけられ参らすべし」と申さるるのは、ただ称名するというのではなくして、無論信心から出た称名であることは申すまでもありません。第十八願のとおり、如来の願力によって助けらるると信じ、助けらるるとなると、うれしい。うれしいから思わず知らず出る称名に外ならぬのであります。
でありますから、わたくしどもも聖人と同じく、後生の一大事は如来の願力によって御助けにあずかると御まかせして、そのご恩うれしさ有難さに命の限り念仏するより外はありません。ご承知の通り信心には形がありませんから信心の如実不如実は他人から見ることはできません。しかし信心の如実不如実は御相続の上から見るとよくわかります。如実の信心には必ず如実な相続があります。不如実の信心は若存若亡、末通った相続は決してできないのであります。
しからば信ずる一念の時、称える暇もなくて命終わった者は、どうするかと不審に思わるる人もありましょう。無論、かような人には相続の有無によりて、往生には何の障りもありません。聞信の一念で確かに往生はとげらるるのであります。御開山はこのことを『歎異鈔』に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と申されてあります。念仏申さんと思い立つ心の起きる時は、すでに摂取不捨の利益にあずかっているのであります。それゆえに信ずる一念の時、念仏する暇がなくて相果つとも、信ずる心さえ他力であれば、めでたく往生をとぐるのであります。命のぶれば自然と多念に及ぶのであれば、一期をかぎり、御恩のほどをよろこんで、称名念仏おこたらぬようにしなければならぬのであります。もはや後生の大事は一切如来に御まかせしたのでありますから、我が機の手もとには露塵ほども、用意も心配も要らないのであります。後生は一切如来の大悲大願に御まかせして、往生一定御たすけ治定と安心し、その後はせめてもの御恩報謝の念仏とともに、世間の道を守る外はないのであります。これが我が真宗でやかましく申しまする、信心正因称名報恩の御謂れで、実にた易いと申しても、これほど易い御法はないのであります。
五 平生業成
「あらゆる衆生、その名号を聞いて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に往生せんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗せんを除かん。」
本願成就文の御文に、「あらゆる衆生」というは、どんなことかというてみると、上は等覚補処の弥勒大士を始めとして、下は下々品の悪機に至るまで、余さず漏らさずこの本願を信じた者は、悉く皆御浄土へ参らさにゃおかぬということじゃ。これを善導大師の二種の深信の御教化について伺えば、このあらゆる衆生とは機の方じゃ。「その名号を聞いて、信心歓喜」するとは法の深信じゃ。そこでかかる者を御助けと信ずる中に、この機法二種の深信があるのじゃ。かかる者とは機の深信、御助けというが法の深信、法の御助けと頂いた一念、我が身は用にたたぬと成って有るのじゃ。我が身に未だ値打ちがあると思うて、どうかしたら助かろうかと気の扱いするうちは、我が高ぶっているゆえ、法が軽うなって御法の尊いことが知られぬ。ちょうどカラウスのようなものじゃ、機の方が高いと法の方が低うなる、法が高うなると機が低くなってくる。これを先徳が「我あれば仏なし、仏あれば我なし」というておかれたが、この我(われ)という我(が)のあるうちは仏はなしじゃ。御法が信ぜられてみると、我がないようになる。然るに世間にあるならいじゃ。誰でも、仏とも知らず日暮しをする人の心中には、多くは我は悪事はせぬ、盗みはせぬし、人を殺したことはない、不義理はしたことはない、人に憎しみを受けるようなことはしはせぬ、これまで正直一遍で今世を渉って来たゆえ、我が身は未来は悪趣へ沈むようなことはないと、自分免許しているうちは、我はよきものじゃと高い処にとまってるゆえ、未来と聞いてもなんともない。アレハ地獄へ落ちるような、悪いことをした人のための、いましめじゃなどと思うてるゆえに、我がこととは少しも思わぬで、法も仏もなきことになりてある。ところが少し法が耳に入りかけて、何でも未来出離は大事じゃと出離に心をとめると、自分の浅ましきことが思われて、かかる者も往生ができるであろうかと疑いの出て来るのは、法のお明かりより自然(じねん)に我が身の悪しきことが知らせられる。さりながらこのような機ざまでは、このような浅ましきことではと、機歎きをしているは、まだ真実な二種の深信になられてないのである。真実に法のままが聞こえて、かかる浅ましき機を御助けとなられたれば、浅ましきについても愚かなるについても、かかる者を御助けと機のはからいがすたりて、ただ法を仰ぐばかりとなるを二種の深信という。よって等覚の菩薩も機は用にたたぬとなりてあるゆえ、弥勒菩薩でも自力功なし、唯願力に乗じて往生となるゆえ、「諸有衆生」とは、かかる衆生と機を見捨てる相、「聞其名号」が法を仰ぐ相となって、弥勒菩薩も我々も一味平等の、他力廻向の信心となるのじゃ。
然るに名号の御助けをのけて、自分の機の方を眺めて疑うているそのうちに死ねば、千万千万残り多いことじゃ。もしこの内にも未信の御方があれば、しかと聞かにゃなりませぬぞ。そんならそれはなんと聞きますのかというてみると、中興上人(蓮如上人)は
「聞くといふは唯おふように聞くにあらず、善知識にあひて南無阿弥陀仏のむつの字のいはれをよく聞きひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり」
と仰せられた。何も余事はない、唯願も行も如来の方に身代わりに成就して、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏と救う、六字のおいわれを聞き開くばかりじゃ。後に延ばさず今ここで、大事にかけて聞かにゃなりませんぞ。
それについて今思い出したことがある。先年、私の方に老人で寺の世話もする、また他人から見ても信者と言わぬ者がない位な同行があったが、ある時、その家から先曳付きの人力車で、大急ぎで私に来てくれよと呼びに来たで、直にその車で参ったが、右の老人がかねて肺病の気があったが、次第に重くなって医者も手を離した。もはや今日明日と逼った。そこで娘の家にも兄弟にも知らせて、呼び寄せた。然るに、娘が来るなり枕元へ行って、
「おとっさん、今度は出立じゃそうな。お医者さんもむつかしいと言われます。因縁なれば仕方がない。どうで今度はお暇乞じゃ。あなたはかねてヨー聴聞してござるゆえ、早や結構な御浄土へお参りになるのでおざる。私もやがてのうちに参らせていただきますからどうぞ蓮華の半座をわけて、浄土で待っていてくだされ」
と言うと、病人が何とも言わず目を閉じて返答をもせず、唯両眼からハラハラ涙をこぼしているばかり。しばらくして
「アア娘ヨウ来てくれた。さりながら今まではうっかり聴聞していたことの恥ずかしいわい。半座をわけて待っているゆえ、あとより参って来よと言いたいなれど、心の中からその言葉が出ぬわい。平生大様に聞きなしていたことの恥ずかしや。今となって向こうを思えば、何確かにない。平生は参るつもりであったなれど、何やら機すみがせぬ」
とサメザメ泣き出した。それから近辺の喜ぶ同行、隣村まで呼びに走るやら騒動起こした。そこで私を迎いに来たのであったとのことじゃ。拙僧が病人のところへ参ったれば、右の通りのことであったによって、病人に対して、
「半座をわけて待っているなどとの返答は、お前の心でどうしてできるものか。その返事は仏様からしてくださる。元来蓮華の上の対面は、娘と親父との約束ではない、若不生者のお約束にあること。娘も親父も共に蓮華の台で、対面させてやるとあるが、若不生者のお約束なれば、そなたの返事に及ばぬ。阿弥陀如来が娘も親父も共に、一所に迎え取るぞの仰せぞと、あなた(阿弥陀仏)のお約束より返事をさせてもらえば、慥かなことでないか」
と聞かせたら、その親父は大いに喜び、
「我が胸ばかりながめなと聞いておりつつ、やはり私の胸で娘に返事をしようと、我が胸を眺めておりました。ホンニ如来様が親父も娘も共に浄土で対面させてやるとの、お約束より返事をさせていただくとなれば、何も返事のできぬは思うに及ばぬ。あなた(阿弥陀仏)の間違わぬお約束の慥かなことを喜ぶよりほかはありませぬ」
と喜ぶ。その翌日参ったところ、その親父が
「何を今までは聴聞しておりましたやら、道理は聞き分けつつやはり機は大様にありました。あなた(阿弥陀仏)の若不生者のお約束を仰げば、このような気楽な有り難いことはありませぬ」
とて、念仏三昧でおったが、それから二、三日があいだ絶え間なくお念仏を称えて、ついにめでたい素懐を遂げられた。
ここじゃ、お同行がた、平生無事息災の時には何も思いはしませんが、多くは大様懈怠で日を送っておりますが、さて臨終となってみたところで、「我は先に浄土参りして半座をわけて待っているゆえ、皆後より来いよ」と慥かに返答しられますか? 皆平生に業事成弁して、いつこの無常の風が吹いて来ても、心底にしかとした御領解になっておかぬと、臨終に騒動が起こって来ますぞや。とかく大様に聞くからのことじゃで、篤と心を鎮めて大事をかけてお聞きなされや。仏法においては明日ということはないと心得、モシ聞き損うて命終わったならば、万劫の後悔もハヤ取戻しはできませぬ。今申しました病人などは仕合せなことは、病気が実正であった病症じゃで、存生に信心が獲得なられましたが、さてとなってからはなかなか聞こえるものじゃない。平生業成じゃという御当流の御教えじゃ。無事達者な時に慥かに領解になられてないと、どんな病を受けて命終わるかも知れぬゆえ、この御座へ参詣の人たちは別してのことじゃ、信心決定してその上世渉りするのが肝要である。 
 
和讃と和歌 / 思想の表現としての和讃

 

一、和歌と和讃
「 俳人の辞世の句をオリガミ六角形にする」ことを試みていた。オリガミ六角形は三場面あるから、俳句にの序破急にぴったりなのだ。これを見せながらの法話は、皆さんに興味を持って頂ける。
そこで次は和讃をオリガミ六角形にしようと考えた。ところが、あまりの難しさに断念した。なぜ難しいのだろうか。
最初それは内容にあると思って、親鸞さんの和歌ならできるのではと考えた。親鸞さんの和歌を調べていたら、有名な「 明日ありと思う心の・・・」も、ご自身の歌とは言えないらしい。そうなると、次の疑問が浮かんでくる。法然上人や一遍上人は和歌を作っておられる。親鸞さんはなぜ和歌を作らなかったのだろうか。
親鸞さんが和歌を作らなかった理由が、「 親鸞聖人正明伝」にはエピソードとして書いてある。 佐々木正『 親鸞始記 隠された真実を読み解く』この理由は、「 安城の御影」のテーマにもなっているという。とすると、親鸞さんは意図して和歌ではなく和讃を選ばれたということだ。
つまり、「 仏法の表現として」和讃を選ばれた理由があるはず。「 親鸞さんはなぜ和歌ではなく、和讃を作ったのか」
まず、和歌と和讃の違い
      和歌                 和讃
( 一) 57577                75757575
( 二) 57調と75調             75調
( 三) 優雅                 リズミカル
( 四) 区切れがほぼ決まっている   どこで切るのか自由
次に57調の歌を調べてみた。これが極めて少ない。
  名も知らぬ 遠き島より
  流れよる ヤシの実一つ
  故郷の 岸を離れて
  汝はそも 波に幾年
と君が代ぐらい
ほとんどの歌が7575調である。
平家物語の冒頭の句は75調である。
「 いろは歌」も「 黒田節」も「 君死にたまふことなかれ」も75調。
「 荒城の月」も「 北の宿」も「 青い山脈」も「 青春時代」も75調。
私たちの身体のリズムに染み込んでいる。
では、表現はどうなっているのだろう。
富めるものの 訴えは
 石を水に入るが ごとくなり
 乏しきものの あらそいは
 水を石にいるるに にたりけり
罪障功徳の 体となる
 氷と水の ごとくにて
 氷多きに 水多し
 障り多きに 徳多し
というように、和讃は対句表現ができる。
極めて漢文的なのである。
また、4句一首だけでなく、連続した、長歌の様に表現できる。
一切菩薩の のたまわく
 われら因地に ありしとき
 無量劫 へめぐりて
 万善諸行を 修せしかど
恩愛はなはだ たちがたく
 生死はなはだ つきがたし
 念仏三昧 行じてぞ
 罪障を滅し 度脱せん
この例はもっと長いものもある。
ここまで調べて検索してみた。
[ なぜ一遍が和歌を作って、親鸞が作らなかったか ]というサイトを発見。
まず、言語へのとらえ方に共通するものがあると述べている。
一遍さんにとっては、さとりの表現・さとりへ導く手立てとして和歌が最適だった。
となふれば 仏も我もなかりけり
      南無阿弥陀仏の声ばかりして
自らの計らいや分別を捨ててしまったその時、十劫の成仏と唯今の念仏は異なったものではなく、 念仏となって出ずる息そのものが阿弥陀仏である。
となふれば 仏も我もなかりけり
      南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
親鸞さんにとっては、自己存在の罪悪性と仏の大慈大悲大智の間の矛盾は切り離せないものであって、 矛盾した二つの面を同時に表すためには和歌よりも和讃の方が適切であったと述べている。 親鸞さんにとって、ご自身の思想と和讃という表現形態は切り離せないものだったのだ。 そういう観点から改めて和讃を読むと、更に味わいが増す。
良し悪しの 文字をも知らぬ 人はみな
 まことの心 なりけるを
 善悪の字 しりがほは
 おおぞらごとの かたちなり
是非知らず 邪正もわかぬ この身なり
 小慈小悲も なけれども
 名利に人師を このむなり
この和讃には、575のリズムも入っている。思想がリズムを通じて身体に入ってくる。
二、正信偈と和讃
対句という表現を通して、和讃と正信偈には共通点があることに気がつく。正信偈は四句一まとまり、和讃も四句一首。
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ
煩悩にまなこさへられて
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身をてらすなり
正信偈と和讃を比べると、正信偈の二句が和讃の四句になっている。そうなると、正信偈=高僧和讃ということになるが、 正信偈と直接つながる和讃は源信讃ぐらいで他には見つからなかった。もっと読み込まなければ。
三、正像末和讃と平家物語
二つの和讃がある。
一つは、1257年( 正嘉元年 85歳)草稿本「 正像末和讃」
罪業モトヨリ所有ナシ
 妄想顛倒ヨリオコル
 心性ミナモトキヨケレハ
 衆生スナハチ仏ナリ
もう一つは、1258年( 正嘉2年 86歳)顕智書写本「 正像末和讃」
罪業モトヨリカタチナシ
 妄想顛倒ノナセルナリ
 心性モトヨリキヨケレト
 コノ世ハマコトノヒトソナキ
聖典には顕智本の方を載せてある。
最初に両方を読んだとき、前の方は誰かが作ったものではないかと思った。だから、最初に前の句を作られ( メモをされ)、そして、改訂( 訂正)されたことに興味を持った。調べてみると、なんと、平家物語にこの和讃が引用されている。
平家物語「 清水寺炎上」の巻。延暦寺の衆徒が清水寺を焼く場面である。
『 ・・・ 爰に、無動寺法師に伯耆竪者乗円と云ふ学生大悪僧の有りけるが、 進み出でて僉議しけるは、「 罪業本より所有なし、妄想顛倒より起こる。 心性源清ければ、衆生即ち仏也。只本堂に火を懸けて焼けや者共」 と申しければ、衆徒等「 尤々」と申して火を燃し、御堂の四方に付けたりければ、煙、雲井はるかに立ち昇る。 感陽宮の異朝の煙を諍ふ。一時が程に回禄す。あさましと云ふも疎か也。』
この平家物語は延慶本であるが、 この和讃を親鸞聖人の和讃からの引用( これは逆かもしれないが)だとすれば、まさに、 この焼き討ちが、先の草稿本を改訂された理由であるとはっきりする。 この二つの和讃は同じ本覚思想を述べながら、結論は全く異なっている。親鸞さんはこの和讃を悲嘆述懐和讃に載せている。 そして、本覚思想をどうのりこえるのかということが、この和讃からうかがうことができると思う。
先ほどの、和讃での自己の矛盾した姿を表現するという立場から言えば、 この二つの和讃の違いこそ、それを明確に表しているとわかる。草稿本の方は一見魅力的に感じる。 しかし、顕智本の方こそは親鸞さんらしい見事な和讃である。私たちの愚かさ、罪悪性の自覚は仏の救いの根源であり、 救いはその愚かで罪を持ったものこそ目当てであるということ。 この二つは切り離すことができない。 
 

 

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