絵島生島

絵島絵島生島事件1事件2悲恋物語事件3事件4事件5事件6事件7事件8事件9・・・月光院天英院生島新五郎稲生正武絵島生島蓮華寺絵島生島事件高遠城絵島疑獄 
大奥 / 大奥給与上臈御年寄御年寄謎解き暗闘の12年御客応答春日局田沼意次大奥法度 
諸話 / 三宅島流刑八丈島流人天一坊八丈島流人生島 

辞世の句  戒名 

雑学の世界・補考   

浮き世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光のかげもはづかし 
信敬院妙立日如大姉霊 (絵島) 
道栄信士 (生島新五郎)
 
絵島

えじま 天和元年-寛保元年(1681-1741) 旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、絵島生島事件の中心人物である。三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。 
家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。大奥の公務一切を取り仕切り、大奥内で最も政治的権力を持つ御年寄の立場にあった。 
正徳4年(1714)月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島との密会を疑われ、死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。また連座者として、旗本だった絵島の兄・白井平右衛門は斬首、同弟は重追放の処分を受けた。 
27年間の閑居生活の後、寛保元年(1741)に死去。墓所は蓮華寺にある。法名は「信敬院妙立日如大姉」。
 
絵島生島事件1
(えじまいくしまじけん)

江戸中期、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎ら多数が処罰された風紀粛正事件である。絵島生島事件、絵島事件ともいう。 
正徳4年1月12日(1714)江戸城大奥の御年寄・江島は仕えている月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れわたる事になり、評定所が審理することになった。 
当時の大奥には、現将軍・家継の生母・月光院を中心とする勢力と前将軍・家宣の正室・天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で幕政を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追い落とすため、譜代大名(関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍・綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。 
評定所によって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、同弟は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩お預けとなったが、事実上の流罪であった。江島の遊興相手とされた生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出された。最終的に1500名余の人々が罰せられたと言われている。 
この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀州の徳川吉宗が次の将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。
 
絵島生島事件2 / 門限に遅れると死刑

正徳4年1月12日(1714)。少年将軍家継の時代です。 将軍・徳川家継は数え6歳。実際に政治を動かしていたのは、将軍の補佐役・新井白石ですが、彼は老中の肩書きは持たず、幕閣には大老井伊直興・老中秋元喬知らが名を連ね、また側用人間部詮房が権力を振るっていました。どうもどこが幕府の中心なのか訳が分からない時代です。 
この日、大奥の年寄役(といっても当時30歳くらい)絵島はお仕えしている月光院(将軍家継の生母)の名代で、何人もの奥女中を連れ、前将軍家宣のお墓参りに芝の増上寺に行き、その帰り、懇意の呉服商後藤縫殿助の誘いで山村座の美男俳優生島新五郎の舞台を見ました。 
そして舞台がはねた後、絵島一行は生島たちを呼び、茶屋で宴会を開きます。ところが、宴会に夢中になりすぎて、絵島一行は大奥の門限に遅れてしまい、江戸城の中奥と大奥を仕切る扉の前で立ち往生する羽目になるのです。 
絵島/私は絵島であるぞ。通しなさい。 
係/いえ、たとえどなたでも時間を過ぎたら通せません。 
こんな押し問答をやっている内に、このことは江戸城内全てに知れ渡ることになり、さすがの絵島も何らかの処分を覚悟せざるを得ない状況になってしまうわけですが、それがとんでもないことになってしまいました。 
当時、大奥内には、前将軍家宣の正室・天英院を中心とする勢力と絵島が仕える将軍の生母月光院を中心とする勢力がありました。また天英院は老中・秋元喬知に親しく、月光院は側用人・間部詮房や補佐役・新井白石らに近い状況にあります。この事件は天英院や老中秋元らにとっては、勢力を挽回する絶好のチャンスと映りました。 
関係者が徹底的に調べられ、規律がゆるんでいた大奥の状況が次々と明らかにされます。関連して色々な問題が出てきた結果、処分者はなんと千数百名にも達してしまいました。巻き添えを食って山村座は廃絶され、生島は三宅島に遠島になってしまいます。ほか数名の役者が遠島になっています。またこれを機会に江戸のあちこちにあった芝居小屋が全て浅草聖天町(猿若町)に移転を命じられました。 
そして絵島自身はなんと死罪。絵島の兄の白井平右衛門も妹の監督責任を問われて切腹ということになりますが、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、高遠藩お預けとなりました。 
なお、この事件を題材にした芝居では、絵島が生島を呉服を入れる箱に隠して大奥に連れ込み、情事をしていた、などとされますが、これはあくまで創作であり、事実ではないというのが大方の見方のようです。 
なお、これで一矢報いたと思っていた老中秋元喬知ですが、本人がこの年8月にあっけなく亡くなってしまいます。しかしこの事件のあと大奥では天英院の勢力の方が優勢となり、翌年、将軍家継が亡くなると、この天英院が強く推した紀伊の徳川吉宗が次の将軍となります。 
吉宗は将軍に就任するとすぐに、月光院派とみた間部詮房や新井白石らを即罷免。また大奥にも大整理を掛けて、大奥の人員は半減したといいます。 
また吉宗は享保7年(1722)この事件の処罰者に対する恩赦を行い、中心人物の絵島以外は全員赦免されて、生島も江戸に戻ったといいますが、その後も芝居を続けたのかどうかは定かではありません。
 
絵島と生島の悲恋物語

 

大奥の女中「絵島」と人気役者であった「生島新五郎」との悲恋物語です。当時、大奥女中と役者との恋愛は御法度でした。絵島は宝永元年、江戸時代六代将軍家宣の愛妾である、七代将軍家綱の生母「月光院」に大奥女中として仕えることになりました。絵島は容貌が美しく、同僚にも慕われ月光院の信頼も厚く、出世して大年寄となりました。その後、絵島は正徳4年(1714)芝居見物で知り合った人気役者「生島新五郎」と馴染を重ねるようになりました。そして、大奥の権力争いから増上寺、墓参りの芝居見物がとがめられ、このことで絵島は公務をおろそかにしたということで裁きを受ける身となりました。そして生島新五郎との関係も暴露されることになりました。  
絵島と浮名を流した「生島新五郎」は見宅島に遠流され、「絵島」は高遠に遠流の身となりました。絵島は、火打ち平らの囲み屋敷に幽閉されたのです。絵島は最初、死罪の判決を受けたのですが、月光院の口添えがあったため死罪は免れ、高遠に遠流(おんる・死ぬまで流される)ということになりました。  
「絵島囲み屋敷」(長野県伊那市高遠)  
絵島は高遠に遠流の身となってから、質素な生活の中で日蓮宗に帰依して精進の日々を送りました。屋敷は格子や矢来で厳重に囲まれており、昼夜10人近くに見張られていたといいます。こうして絵島は28年を高遠で過ごし、二度と江戸の土を踏むことなく61才で病没していくのです。絵島が流されたのは33歳。高遠に在ること28年、寛保元年(1741)に没しました。「絵島」と「生島」の二人は別々の生涯を終えました。しかし後に、これを不憫に思った方が、生島の墓の土を絵島の墓に運び、一緒に埋設したそうです。現在、絵島の墓は高遠の「蓮華寺」に葬られています。
第1話「狂恋の舞い」  
母と、その再婚相手の義父と貧しくも仲良く暮らすお初。しかし父が勤める山村座は、尾張家の未亡人・天龍院と役者が密通したかどで手入れを受け閉鎖の憂き目に遭う。騒動の折義父も投獄され、戻るものの体を壊し、元より病の母を抱えたちまち生活は困窮。お初は金のため、前に名主から話のあった大奥勤めを志すのだった。  
第2話「春らんまん」  
閉鎖された山村座を横目に見て、お初はお城へ上がる。主の御側室・左京の方に気に入られた彼女は、耳目を集めるほどとんとん拍子に出世してゆき、左京の方が将軍の和子を産むに際し重要な役目を仰せつかり、遂に中揩ノ任ぜられ上様から「絵島」の名を頂く。  
第3話「風薫る」  
絵島の母の病が悪化、左京の方も気を遣い宿下がりを促すが、勤め第一と頑なに拒む絵島。新五郎が母病没を告げる役回り、自分も舞台を勤めていて親の死に目に会えなかったと語り、二人は初めて心を通わせる。一方、おすめの方の放った「内通者」が入り込み、陰謀が頭を擡げはじめる。  
第4話「うつせみの宴」  
左京の方が熱海湯治行の途次、将軍倒れるの報もたらされ、江戸へ取って返す間の緊迫の攻防。土屋以下の老中方が紀州吉宗を次期に推すなか、あくまで実子の鍋松をと、家宣は間部帰還まで露命をつなぐのだった。  
第5話「艶文まいる」  
いよいよ間部と頻繁に睦む月光院、不義の証拠を突きつけられ窮する主を救い、また幕閣により間部と遠ざけられ煩悶するのを見かね密かに会わせてやるなどする絵島。そんな彼女の心の隙を突くのは、新五郎名義の偽の恋文だった。  
第6話「浮草の恋」  
交竹院が頼まれた富商のお城出入り請願の件に容喙する宮路、絵島と新五郎を煽り立てる方向に持ってゆく。新五郎の立場をまずくする件に、命を張って口を閉ざした吉原の奴遊女は、かつて尾張家の奥女中を勤め政治の犠牲になった女だった。  
第7話「女ごころ」  
間部に会えず悶々とする月光院が思いついた「心中立て」を悪謀に組み込む宮路、歌舞伎役者を大奥に引き入れさせることに成功するが、絶体絶命の危機は月光院自身が食い止める。  
第8話「はかなき心」  
絵島を労い町屋敷を与える月光院、そこで愛を紡ぐ二人だが、新五郎の周囲は不吉な翳を嗅ぐ。そして屋敷は宮路の陰謀の舞台となり、新五郎は成田屋の諌めを容れて絵島に別れの文を書く。  
第9話「恋ざんまい」  
突きつけられた別離の言葉が信じられず煩悶する絵島、やつれた彼女を案じた月光院は出納業務を宮路に委ねるが、もちろんこれも策謀。宮路は得たポストを最大限に利用し、絵島を陥れる証拠つきの既成事実を次々と積み上げてゆく。  
第10話「盲目のほのお」  
宮路が絵島の名を出して侮辱した薩摩藩士から訴状、間部は月光院に絵島を切れと迫る。その間部にも罠が仕掛けられ、間の悪いことに月光院の流産騒ぎが起こるのだった。  
・返事をくれない会ってくれないと沈む絵島が佇む庭、阪口か(池泉・切石橋の上)。月光院の懐妊に悩む絵島も同所。  
・新入りの女中に目を留める間部、相国寺林光院式台玄関。間部邸に近付く虚無僧、林光院境内仕切塀際、間部に色仕掛けで取り入った女中が虚無僧とツナギをとるのは仕切通用門。  
・江戸城イメージ、皇居巽櫓。  
・月光院流産後、知りすぎたと間部に脅され放逐された交竹院が土屋の手の者に捕まってしまう城外、西教寺大師堂裏手〜北塀前(お堂裏手の石垣際を走り、北塀の端から石段下に出る。大師堂北門前で土屋の人数が殺到、捕まるのは本堂への石段前・脇の石垣が効果的)。  
・絵島の憔悴ぶりを案じた侍女のはからいで、それと知らず駕籠に乗った新五郎が入ってしまう拝領屋敷、中山邸通用門(絵島に垂を開けられて居眠りからさめてびっくり・逃げるが座敷へなだれ込み)。  
第11話「落花の賦」  
会ってしまった二人はもはや感情を抑えきれずぼうぼうと燃え上がり、添い遂げるため上方へ逃れようという話に。しかし絵島を指弾する評定が開かれ、罠にはまった間部は決議に従う旨の委任状を書いてしまい欠席、遂に二人は捕われる。  
・間部邸に現れる虚無僧、相国寺林光院門前。スパイの侍女とツナギをとるのは空地側の塀の内外をクレーンショットで。  
・玉椿名義の文で呼び出された宮路が絵島に呼び止められる紅葉山、彦根城玄宮園池畔。後段、玉椿に口封じされる宮路も同所。  
・江戸城イメージ、皇居巽櫓。  
・縄を打たれ城外へ出される絵島と連座した女たち、彦根城天秤櫓〜観月台の橋〜埋木舎前濠端(同じく引かれゆく新五郎のシーンと交互に出る)。  
第12話「あだし世」  
絵島の身柄は小伝馬町の牢に移され責め問いも行われるが、月光院と間部の関係についての証言は得られない。我が身に迫る危機に、間部たちは絵島切り捨てを決める。  
・縄付きとなり城を出される絵島、彦根城天秤櫓(大奥に上がった日の回想が被る)。  
・小伝馬町牢屋敷、大覚寺明智門。  
・江戸城イメージ、皇居巽櫓。  
第13話「花散る里」  
関係者の処刑も始まり、絵島は内藤家お預けに。間部と白石は懸命に保身に走るが、幼将軍は身罷り吉宗は二人を罷免する。三宅島と高遠と、離れ離れとなり二度と会うこともなく生涯を閉じる恋人たち、恋は完結する。  
・絵島がお預けになる内藤駿河守邸、大覚寺大門。  
・新五郎に会いに小伝馬町牢屋敷へやって来るも阻まれる義妹、大覚寺明智門。門番に言われた「伝手」を土屋に求め縋るくだり、土屋邸の庭は不明(建物は茶室っぽい)。  
・間部の差し金で土屋邸の座敷牢から逃げる交竹院、出る門は西教寺客殿平唐門、間部の刺客に斬られるのは真盛上人御廟石段。  
・内藤家から出され高遠へ向かう絵島の駕籠、大覚寺大門〜流れ橋〜田畔の地道(不明)。  
・江戸城イメージ、皇居巽櫓。  
・高遠の里、山麓に萱葺屋根とお堂、不明。山川のイメージは山峡。三宅島の荒磯、不明。  
・高遠の里の龍源院別院へ参篭する絵島、神光院中興堂。会いにやって来た新五郎の義妹が舞台衣装を手渡す川辺、不明(河原は石礫)。 
 
絵島事件3

 

正徳4年(1714)江戸城大奥を揺るがす大事件が起こった。絵島事件である。 
正徳4年1月12日大奥の年寄絵島(当時34歳)は月光院の名代として前6代将軍家宣の命日に芝増上寺へ参詣した。その帰路、絵島は大勢の供の者を従え、木挽町にある山村座に立ち寄り芝居見物。芝居終了後には当時評判の美男役者の生島新五郎と茶屋で酒宴におよんだ。その結果、絵島一行は大奥の門限である午後4時までには帰りつかなかったというのである。当時、大奥の女中たちが外出にかこつけて芝居見物をすることはよくあったことなのだそうだが、この事件はただの事件では収まらず、大醜聞へと発展していった。 
絵島のこの行為は、生島新五郎との密通を疑われた。これが事実であるかどうかは分からない。全くの冤罪であるという説もあるし、事実であったという説もある。中には、絵島が生島新五郎を大奥に入れるため、長持ちに潜ませて連れ込んだという話もあるが、いくら何でもこれは疑わしい。 
事実はどうだか分からないが、下された処罰は厳しいものだった。 
絵島は死罪。生島新五郎は三宅島に流罪。絵島の兄である白井平右衛門も妹の監督責任を問われて斬首。絵島を山村座に案内した奥山喜内は死罪。山村座は廃され、座元の山村長太夫、作者の中村清五郎も流罪。絵島の弟とその子供は追放。月光院派の女中たちは着物や履物を取り上げられ、不浄門である平川門から裸足で追放。その他連坐刑も含め遠島・改易・永の暇を下された者は1500人以上だったという。また、山村座以外にも、市村座、森田座、中村座、の3座にも風紀の乱れを理由にそれぞれお咎めがあった。ただし、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、高遠藩お預けとなった。 
絵島は信州、高遠の内藤駿河守へお預けとなった。当初、絵島は高遠城から一里も離れた非持村火打平に幽閉され、享保4年11月(1719)高遠三の丸の囲い屋敷に移された。食事は一汁一菜で一日二食、酒、タバコ、菓子は不可。衣服は木綿着物、布かたびら、この他は不可、というものだった。その後、事件に関わった人々が次々に罪が許されていったが、絵島は終生高遠で過ごしている。高遠に流されてから亡くなるまで30年近くである。絵島だけ罪を許されなかったという説もあるし、罪は許されたが、自分の意思で高遠で余生を送ったという説もある。 
いずれにせよ、晩年はある程度の日常の自由を得、遠照寺の日耀上人の法話を聞きに行ったり、時折上人と碁を打っていたりしたという。絵島は、寛保元年4月(1741)61歳でその生涯を閉じ、配所からそれほど遠くない日蓮宗妙法山蓮華寺に埋葬された。 
事件の背景 
当時、大奥には同様の不祥事はあったらしいのだが、絵島の件は大事件へと発展した。このことについては、いくつかの背景、要因がある。それらの要因が絡み合って大事件になったのであろう。 
大奥の内部対立 
天英院は前将軍、家宣の正室である。しかし彼女の生んだ男児は早世してしまい、将軍の生母となることはできなかった。月光院は前将軍、家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで7代将軍家継(就任当時はわずか4歳)となり、将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。この正室対生母の対立の結果、生母月光院の家老とも言える絵島が正室天英院派に狙われたというわけである。ただ、天英院という人は、思慮深く温厚な人物だったようで、天英院が直接事を起こしたということは無いだろう。 
新旧勢力の対立 
6代将軍家宣、また、7代将軍家継に仕えた側用人である間部詮房は、もとは能楽師であり、また、補佐役である新井白石は新参の儒学者であった。この二人が実際に政治を動かしていたのだが、これが、代々徳川家に仕えてきた武士にとってみると面白くなかった。この旧勢力の代表が、大老伊井直興、老中秋元喬知である。また、月光院派は、新勢力である間部詮房、新井白石らに近く、天英院派は、旧勢力である伊井直興、秋元喬知に近かった。さらに、家宣の儲けた男児の中で、月光院(当時はまだ、お喜世と呼ばれていた)の児だけは無事成長したが、天英院(当時はまだ、煕子と呼ばれていた)はじめ他の側室の産んだ児はいずれも早世しているのだが、これには、間部詮房の動きがあったとも云われている。 
こうした中で、間部詮房、新井白石を追い込むために月光院派の絵島が狙われたというわけである。事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、7代将軍家継がわずか8歳でこの世を去ると、8代将軍には紀州から徳川吉宗がなり、それと同時に、間部詮房、新井白石らは失脚していくことになる。 
大奥の綱紀粛正 
この頃、大奥の規律はかなり乱れていたという。大奥の女中たちが出入りの商人と癒着したり、芝居見物に現をぬかしたり。絵島自身もそうであったが、芝居見物の後、門限などの規則を平気で無視しようとしたり、また、大奥の女中たちの気に入らない人間を役職からはずさせたり…。さらには、月光院と間部詮房の関係も噂されていたと云う。月光院(当時、お喜世)の産んだ子(後の7代将軍家継)の幼名が「鍋松丸」。間部の旧姓は真鍋、つまり、家継は間部詮房の子であり、間部詮房は自分の子を将軍にするために動いたと言うのである。月光院の台頭と共に大奥の規律は緩み風紀は紊乱したと言う。こうした乱れた大奥に憤りを感じ、このまま放置できないと決起し、行動に移したのが、老中秋元喬知であった。このとき大奥を仕切っていたのが、月光院派。秋元喬知が絵島の法度を無視した不行状を咎め、これをきっかけに大奥の粛清を行ったというのが、この事件ということである。この事件の処罰を見ていると、女中たちは勿論、役者、芝居小屋までが対象になっていることから、大奥粛清、綱紀粛正のための事件ということも納得できる。 
事件には絵島の兄の白井平右衛門が関わっていたという説もある。妹の監督不行き届きだけで本人たちより罪の重い死罪ということを考えると、あるいはそうだったかもしれない。
 
江島生島事件4

 

正徳4年1月(1714)歌舞伎役者と大奥女中とのスキャンダルです。 役者の名は、生島新五郎(いくしましんごろう)。事件の当時の年齢は40歳を少し超えたばかり。役者としても人間としても、最も脂の乗った分別盛りです。主な役どころは「濡れ事」、「やつし」で、美貌の二枚目であるのみか、演技にも長じていたといわれています。江戸は木挽町・山村座の専属俳優で、当時たいへんな人気役者だったということです。(自分の目で見た訳ではないのですが、この事件を題材にした劇の多くが、そういう設定になっています。)  
一方の当事者は、時の権力の中枢、江戸城大奥の女中、大年寄江島(えじま)。 江島というのは、7代将軍家継の生母・月光院つきの大年寄です。そして、 こちらもたいへんな美女であると、芝居の方では大概そうなっていますが、本当のところはお目にかかってみないことには分かりません。 
さてどんな事件かというと、大奥の女中江島が芝増上寺代参の帰途、上野寛永寺代参の同役宮路と共に、女中衆を引き連れて、木挽町・山村座で遊興、帰城に遅れたという。さらに、歌舞伎役者生島新五郎と馴染みとなり、情を通 じたというものです。 
世にいう不倫です。たかがこの程度のことで、権力の中枢にいる江戸城大奥の大年寄江島、神奈川県警ですら簡単に出来た事件の揉み消しが、何故出来なかったのか不思議でなりませんが、そこは陰謀渦巻く?大奥のことです。権勢争いの確執(かくしつ)でもあったのか、詳しくは知りません。 
とにかく幕府身内の不祥事として、江島は信州高遠(たかとお)に流罪になり、あわれ生島新五郎は三宅島に島流しに遭いました。そして同時に、千人を超す関係者が、処分の対象となったのだから驚きです。 山村座は、廃絶になりました。いまなら免許取消し処分です。この事件以降、江戸三座となったのです。
 
絵島生島5

 

明暦3年(1657)の大火以来、江戸では、中村・市村・森田・山村の四座が興行を許されていましたが、正徳4年(1714)山村座が廃絶となる事件が起きます。それが「絵島生島」事件です。 
七代将軍家継の生母月光院に仕え、大奥取締役の職についていた絵島(江島とも表記)は代参として総勢130人ほどの女中らとともに増上寺に参詣します。その帰り、木挽町にあった山村座に立ち寄って、桟敷で芝居を見物した後、座元の山村長太夫、狂言作者の中村清五郎、人気役者の生島新五郎らを茶屋へ呼び酒宴を催し、派手に遊興しました。生島新五郎は濡れ・やつしの名手と賞賛され、「女中がたがお好きになるのも道理」と評される当代一の人気役者でした。早くに父を失った二代目團十郎を指導し、後に二代目が豪快な荒事芸ばかりではなく「市川一流のぬれ事」と賞美されるほどの優雅でやさしい和事芸や、実事をも演ずることができるようになったのもこの新五郎の指導によるものともいわれてます。 
翌日、この酒宴が発覚。大奥の大スキャンダルとして厳しい詮議を受け、山村座は廃絶、絵島は信州高遠へ流刑、新五郎は三宅島へ、山村長太夫は大島へ、中村清五郎は神津島へ、それぞれ遠島を命じられます。 
大奥に対する幕府の引き締め政策だったなど、様々な憶測が残っていますが、この事件以降、いわゆる江戸三座が明治の初めまで続くことになります。
 
絵島事件6 / 月岡芳年の浮世絵から読みとく絵島生島事件の裏側

 

 
 
みなさんは月岡芳年という浮世絵師をご存知でしょうか?日本最後の浮世絵師と言われ、同時に日本最初のイラストレーターとも言われています。昨年、「ららぽーと豊洲」の「平木浮世絵美術館UKIYO-еTOKYO」にて、その月岡芳年の名品展が行われました。  
「新撰東錦絵と竪二枚続」を副題に掲げて行われたその展覧会。そこで披露された作品のうちのひとつが「新撰東錦絵」シリーズの「生嶋新五郎之話」です。  
「新撰東錦絵」は、浮世絵を横に二枚組み合わせた作品のシリーズです。「生嶋新五郎之話」も2枚で1枚の作品。男女が二階桟敷で仲睦まじくしている風景が描かれています。  
左と右で2枚の絵からできています  
左の絵で胸元をはだけた色男として描かれているのは生嶋新五郎です。  
また右の絵で生島に目線を送る姿で描かれているのは江戸城大奥御年寄・絵島です。  
そう、実はこの絵「生嶋新五郎之話」は「絵島生島事件」を描いたものなのです。  
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、七代将軍徳川家継の生母月光院に使えていた絵島たちが、寛永寺・増上寺への代参の帰りに木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄って、桟敷や座元の居宅で遊興し帰城したとして咎められました。  
これが絵島生島事件です。  
この事件は、疑獄事件であるとも言われていまして、そのために様々な説が存在します。  
また、スキャンダル性ゆえに演劇や小説などの芸術娯楽作品の題材にとられることも多い事件としても知られています。  
仲間由紀恵主演の「大奥」では、絵島と生嶋新五郎の間に純愛が芽生えていたという設定で描かれています。  
この絵島生島事件の語られ方には、いくつかのパターンがあります。  
まず、ほぼすべての説に共通して出てくる見解として、  
1 当時、月光院や絵島の権勢を好ましく思っていなかった、前将軍家宣の正室天英院派が事件を利用して勢力を挽回しようとした。というものがあります。これは現在ではほぼ定説となっているようです。 
問題は、事件をどこまで天英院派が操っていたのか、という点です。  
たとえば、映画「大奥」では、  
2 天英院派が生島との密会を積極的に誘導し、月光院派の勢力を削ぐため、意図的に事件を起こして騒ぎを大きくし、絵島を陥れた。といった内容で、かなりの部分で絵島と生島に対し同情的な描かれ方がなされていました。  
また、  
3 絵島が芝居小屋を訪れていたのは事実だとしても、淫行や酒宴などの報告はでっちあげではないか。などという見解もあります。  
この見解は「徳川実紀」の「薄暮に及びてかへりぬ」などといった記述から、酒によって夜遅く帰ったわけではないこと、そのほかいくつか疑わしい記述が存在することから考えられるもののようです。  
しかし、「三王外記」ではおおむね次のように書かかれています。  
4 絵島は芝居小屋で酒宴し、江戸城の門限に遅れ、月光院のはからいで問題を一度回避した。しかし、後日の調査で絵島の「淫行」はその一日だけに留まらないことが明らかになり、厳しい処分を受けた。  
また、「千代田城大奥」では、以下のようにその「淫行」がさらに派手に描かれており、絵島の処罰は致し方ないものだろうという書き方がなされています。  
5 絵島の「淫行」は実に開き直ったもので、酒宴も大騒ぎであった。あろうことか、増上寺から持参した金子までも花代に遣わした。帰城が遅れたことにも悪びれもしていなかった。また、代参に随行した御徒目付らは、この芝居見物や茶屋遊びを内密にしていると後日共犯に問われかねないということを恐れ、若年寄に報告をした。  
この説によれば、天英院派の陰謀説はかなり薄いように描かれています。  
ただ、実際の史料にも細部に様々な事実の相違があることが指摘されていることから、実際、真相を解き明かすことはかなり難しいようです。  
たとえば、「江島実記」によれば「右衛門桜」を興行した際に、新五郎演じる丸橋忠弥が着用した小袖を所望し、その代わりに葵御紋付の小袖を与えたとありますが、伊原青々園の「歌舞伎年表」によれば、その時期の興行は「東海道大名曾我」であることがわかります。  
このことより、新五郎の小袖をねだったというのは後日の作なのではないか、との疑いがあるようなのです。  
様々な見解を取り上げましたが、多くの創作物などからも1の天英院派対月光院派の権力争いが事件の顛末を大きく動かしていたとする考え方が、ほとんど通説となっているようです。  
しかし、天英院派とともに事件を動かした人間たちの狙いは、果たして絵島にばかり集中していたのでしょうか?  
ここで、冒頭で取り上げた月岡芳年の浮世絵の名前を思い出してほしいのです。  
「生嶋新五郎之話」。  
多くの史料においてこの事件は「絵島」の事件として語られているのですが、この浮世絵の名前には「生嶋」の名しか入っていないのです。  
ここから僕は以下のように考えました。  
おそらく民衆の間では、この事件は「生島」の事件であったのではないか、と。  
正徳元年(1711年)の「役者大福帳」には、こうあります。  
「名物男坂田藤十郎、大和屋甚兵衛、中村七三郎及び嵐三右衛門の四人相果てらるれば今が三津で濡れやつしこの人につづくはなし。濡れの中村七三郎の跡継ぎ、今の名物男は生島新五郎か」  
ここから察するに生島の人気役者ぶりは相当なもののようなのです。  
となれば、絵島の失墜をもって、月光院派の権力が失われたことの裏を考えるとどうでしょうか。  
すなわち、生島をはじめとする山村座関係者への厳罰によって失われたものはなんだろうか、ということです。  
幕府はこの事件をきっかけに、芝居道に厳格な制限を課しはじめたのです。  
芝居小屋は簡素にし、桟敷は二階三階を作らず一階のみにするように、豪華な衣装は慎むように、演劇は日没までに終えるように、劇場近くに座敷のようなものを備えた茶店を作らぬように。遊興をすることも禁止し、俳優らは桟敷や茶店に招かれても行ってはならない 。 
こういった取締りがその後の芝居道に大きな影響を与えたのであろうことは想像に難くありません。わが国演劇史上においても見逃すことのできない事件なのであります。  
絵島たちを裁くことになった評定所の関係者たちは、絵島生島事件を利用して、江戸の風俗を取り締まろうとしたのではないでしょうか。  
実はこのころ、江戸の風俗に対する取り締まりは非常に多くなっていたのです。  
逆に言えばそれだけ、評定所は風俗に頭を悩ませていたのであろうと思われます。  
特にこのころの幕府からの御触書には、性風俗や芝居に関するものがいくつもあるようです。  
男色の禁止や、赤穂浪士を題材にした芝居の禁止などがお触れとして出されています。  
このことから、江戸の性風俗をかねてから懸念していた幕府関係者にとっても、絵島生島事件はある意味好都合となる事件であったのではないかと考えられます。  
山村座の取潰しや演劇への取り締まり強化までに至ったのには、「大奥内の権力争い」で済ませられないものがあるとしか考えにくいのです。  
性風俗取締を強化したい幕府の人間と月光院派の思惑が一致したということが、もしかしたら重要なファクターだったのではないでしょうか。  
それにしてももし月光院派の権力が実際よりもっと強く、それで絵島が無罪になっていれば、当時の文化がより色濃く現代にも伝わっていたかもしれません。  
浮世絵の生島を見ても、胸をはだけさせてずいぶん男の色香がありますね。ああいった色香が現代に伝わらなかったのは実にもったいないように思います。  
注)ブログ中に「絵島」「江島」および「生島」「生嶋」の表記のゆれが見られますが、誤りではありません。一般的な表記に従い、「絵島」と「生島」を採用しましたが、史料からの引用や書名等については、原文にしたがいました。なお、「江島」のほうが正確な表記だとされています。 
 
絵島事件7 / 絵島囲み屋敷

 

徳川六代将軍家宣の愛妾である月光院に仕えていたが、不義の発覚で高遠に遠流の刑が下されこの地で一生を終えました。  
「緑なれや百年の後ふる寺の中に見出し小さきこの墓」  
大正5年7月田山花袋は蓮華寺の裏山で、桜の老樹の下に小さな墓を発見し、こう詠み見ました。そこに葬られていたのは、江戸時代、権力争いの果てに遠流に処された悲劇のヒロイン「絵島」です。  
絵島は、江戸桜田御殿にいる、甲斐の綱豊(後の6代将軍家宣)の愛妾おきよの方に、美貌に加えて才色も兼ね備え、皆から慕われていたようです。絵島は除々に累進し32歳のときに大年寄りになります。正徳2年には家宣が逝去、おきよの方が産んだ家継が7代将軍となりました。  
その頃、出家して月光院と号していた、おきよの方の権勢は正室の天英院を凌ぐようになり、大年寄である絵島の力も絶大なものとなりました。  
元禄から正徳にかけての時代は、学問・文化の発達が進み、成金も勃興して、世の中に享楽的なム−ドが流れ幕府内部の勢力争いも激化していきました。  
そんな折り、絵島は家宣命日に月光院の代参として芝の僧上寺に墓参しました。  
しかし、その帰りに芝居見物に寄ったことが、反対勢力の企てにより問題となってしまいました。  
この頃、老中の秋元但馬守は大奥の風紀を粛正しようとしていた時でした。絵島には死罪が下り、人気役者の生島新五郎は三宅島に遠流されました。月光院の口添えで、死罪を免れた絵島は、高遠に流され、火打ち平(ひょうじだいら)の囲み屋敷に幽閉されました。  
5年後には花畑に移りますが、極めて質素な生活を余儀なくされ、日蓮宗に帰依精進の毎日を送りました。  
絵島は最期の28年を高遠で過ごし寛保元年(1741)享年61歳で病死しました。  
その一生に感じ、墓参に訪れた文化人は多く、有島生馬、斉藤茂喜、今井邦子らの碑が高遠に残されています。  
平成17年4月2日、作詞家「山崎ふみえ」先生が高遠町歴史博物館の前庭に歌碑を建立されました。絵島・生島の忍び難い人生にまた、絵島様の悲しみに想いを寄せられて冥福を祈りながら歌碑を心から捧げたいと建立されました。  
生島新五郎が三宅島に流された[絵島・生島]の歴史的な関係で、伊那市では三宅村と友好盟約を締結しています。  
大奥女中、絵島は、家継の母月光院に仕え、大奥と絡んだ幕府の勢力争いにまきこまれ、高遠に流されました。この事件のきっかけとなった歌舞伎役者生島新五郎は三宅島に遠流。処罰は1500人にも及びました。絵島が高遠で流刑生活を送った屋敷を当時の見取り図をもとに復元したのが絵島囲み屋敷です。格子や矢来で厳重に囲まれた質素な屋敷で、絵島は昼夜十人近くの武士・足軽に見張られていました。 
 
絵島事件8

 

江戸時代中期、徳川七代将軍家継の生母、月光院(六代将軍家宣の側室、左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で、表向きの老中に匹敵する地位)を務めた絵島は、当時名代の歌舞伎役者、生島新五郎との恋愛沙汰が露顕して、“絵島生島事件”として後世に長く伝えられる、大きなスキャンダルを起こし、失脚したといわれる。絵島は果たして、本当に“禁断の恋”に走るほど奔放な恋多き女性だったのか? 
今日に伝えられる絵島生島事件は、錦絵に描かれ、新作歌舞伎で演じられ、大年寄絵島は隠れもなき美男、生島新五郎との悲恋のヒロインとして粉飾されたものだ。そのため、この事件の真相は、禁を犯した、あたかも大奥女中と歌舞伎役者の情事に決定的な原因があったように印象付けられている。 
だが、江戸・木挽町の芝居小屋、山村座での芝居見物はただ一回のことだったし、絵島と生島新五郎の二人の情事を裏付けるような史料はない。また当時、大奥女中の芝居見物は“公然の秘密”として、通常は見逃されていた。それがなぜ、大年寄絵島をはじめとして、その由縁の人多数が斬首、流罪、追放に処せられなければならなかったのか? 
結論からいえば、大奥を含めた江戸城内の幕閣の権力争いが背景にあり、絵島はその争いに巻き込まれ、いわば“スケープゴート”にされたのだ。具体的には、幼少の七代将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人、間部詮房(まなべあきふさ)、家継の学問の師・新井白石らの勢力と、譜代の大名、旗本や六代将軍家宣の正室、天英院らの勢力との対立だ。大奥では絵島が属する月光院側が優勢だった。そこで、この“絵島生島”事件が天英院側の勢力挽回策としてつくり上げられたのだ。いわゆる“正徳疑獄”と称されるものだ。したがって、通常でさえほとんど罪状としていないことを、針小棒大に表現、疑獄として構築された、あるいは事件としてでっち上げられた部分も少なくないだろう。対抗勢力に決定的なダメージを与えることに目的があるのだから、それも当然だ。 
事件は1714年(正徳4年)、絵島らが月光院の名代として上野寛永寺および芝増上寺に参詣した折、その帰途に木挽町の山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。これにより、絵島は同僚、宮路ともども親戚に預けられ、目付、大目付、町奉行の糾問を受けることになった。このとき女中7人も押込(おしこめ)となっている。評定所の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠藩主、内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、だれかれとなくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)と馴れ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったこと−などだ。 
相手の生島は三宅島に流罪、絵島の兄の白井勝昌は死罪に処せられた。旗本、奥医師、陪臣など連座するものは多数に上り、刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1年)61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年赦されて江戸に帰った。絵島の“禁断の恋”に擬せられた芝居見物の代償は何と大きかったことか。
 
絵島事件9

 

はじめに  
四十年ぶり近くで、この四月に、かつての長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市高遠町)に足を運んでみた。幸いにも、高遠城の満開の桜に迎えられた。  
「えにしなれや もも年の後 古寺(ふるでら)の中に見出し 小さきこの墓」  
大正五年(一九一六年)七月二十六日、作家、田山花袋(本名、録弥(ろくや))が高遠町内の蓮花寺の裏山で、桜の老樹の下に小さな墓を発見し、こう詠んだ。そこに葬られているのは、江戸時代、権力争いの中に翻弄された末に遠流(おんる)に処された悲劇の絵島だった。  
町人文化が華開く江戸で起きた大騒動も、絵島の死によって終わりを告げ、以来二世紀近く、田山花袋によって絵島の墓が発見されるまでは、世間からはまったく葬り去られていた。その絵島事件をほんの少し掘り起こしてみよう。
大奥を揺るがす大事件のまとめ  
江戸城大奥を揺るがす大事件、いわゆる絵島事件の発端となったのは、正徳四年(一七一四年)一月十二日のこと。その日、大奥の年寄絵島(当時三十四歳・表記は江嶋が正しいらしい)は、月光院の名代として前六代将軍家宣(いえのぶ)の命日に芝増上寺へ参詣した。月光院とは、家宣の側室で七代将軍・家継の生母で、次の2に出てくるお喜世の方(かた)のことである。絵島は月光院の右腕であった。芝増上寺の帰路、絵島は大勢の供の者を従え、木挽町(こびきちょう。現在の銀座四丁目。鋸引き職人が集まっていた町)にある山村座に立ち寄り芝居見物。芝居終了後には当時評判の美男役者の生島新五郎と茶屋で酒宴におよんだ。酒宴の結果、絵島一行は大奥の門限である午後四時までには帰りつかなかった。  
このことで、絵島は、生島新五郎との密通を疑われた。まったくの冤罪であるという説も強い。真実はともあれ、下された処罰は厳しかった。  
絵島は死罪。ただし、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、信州、高遠藩藩主の内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)親子にお預けとなった。生島新五郎は三宅島に流罪。絵島の兄、白井平右衛門も妹の監督責任を問われて斬首。絵島を山村座に案内した奥山喜内は死罪。山村座座元の山村長太夫は伊豆大島、作者の中村清五郎も伊豆神津島へ流罪。絵島の弟豊島平八郎とその子供は追放。月光院派の女中たちは着物や履物を取り上げられ、死人か罪人しか通さない平河門手前の不浄門から裸足で追放。その他連坐刑も含め遠島・改易・永の暇を下された者は千五百人以上だったという。また、山村座は廃座処分。残った市村座、森田座、中村座、の三座にも風紀の乱れを理由にそれぞれお咎めがあり、興行規制が敷かれた。
絵島とは  
絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。  
江嶋始末集成一によれば、「江嶋の出所立身の事を尋ねるに、父は白井某とて軽きご家人也しとかや、江嶋若年の時は尾張殿相勤候、その時はみきと云えり、その後尾張殿を出て、常憲院(綱吉公)御代御奉公に出る」(以下略)とある。  
庶民文化の花開いた元禄の江戸が才気煥発で情感豊かな娘として絵島を育てた。元禄十六年(一七〇三年)みき(後の江嶋)は、二十三歳のとき紀伊徳川綱教(つなのり)の奥方、鶴姫に女中として仕えたが、鶴姫が夭逝したため、白井の友人の奥医師、奥山交竹院(伊豆の利島へ島流し)の世話で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊(後の六代将軍家宣)の側室、お喜世の方(後の月光院)に仕えることになった。二十四歳であった。お喜世の方は性格も明るく才気があり、その上天性の美貌の持ち主で綱豊の寵愛を受け、綱豊の三人目の側室となった。  
絵島は、段々の出世により「表使い」家宣の時代には「御年寄」へさらに家継の頃には「大年寄」となり、大奥の多数の女中の中の最高位に取り立てられた。その才覚利発さによって、大奥の経済全般を掌握し、金の出し入れ、呉服など権益をひとりで自分の思いのままに支配できる大実力者になっていた。(引用:『絵島事件はこうして起こった』=(有)しんこう社出版部)
事件の背景  
当時、大奥には同種の不祥事はあったようだが、絵島の件がなぜ大事件へと発展したのか、ひとつだけ書いておこう。  
大奥の内部対立があった  
天英院は前将軍、家宣の正室である。しかし彼女の生んだ男児は早世し、将軍の生母となることはできなかった。月光院は前将軍、家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで七代将軍家継(就任当時はわずか四歳)となり、将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。この正室対生母の対立の結果、生母月光院の家老とも言える絵島が、正室天英院派に狙われたとみることができる。ただ、天英院という人は、思慮深く温厚な人物だったようで、天英院が直接事を起こしたとみることは疑問だ。(正室・継室・側室とは…簡単に言えば、正妻、後妻、妾のこと)  
綱豊が六代将軍家宣となり、お喜世の方がその子を生んだとき、絵島は年寄りに上げられ四百石を与えられている。家宣が死に、四歳の家継将軍が生まれた。月光院となったお喜世は将軍の生母としての威勢を張ることによって、家宣の正室、近衛家からきた天英院、他の二人の側室から嫉妬反感の攻撃を受ける。絵島を厳しく取り調べた評定所の役人たちは、すべて天英院派に属していた。年若い月光院は、家継の補佐役である側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)を頼りにし、詮房は妻も側室も持たず、江戸城内に住んで政務に励んだという。  
家宣が学問の師として迎えた新井白石と政治顧問として迎えた間部詮房を追い込むために月光院派の絵島が狙われたことは間違いない。事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、七代将軍家継がわずか八歳でこの世を去ると、八代将軍には紀州の徳川吉宗がなり、同時に、間部詮房、新参の儒学者、新井白石らは失脚していった。
厳しかった絵島お取調べ  
正徳四年二月二十二日、絵島は、預かり先の白井平右衛門宅へやってきた目付役人に、厳しく取り調べられた。  
世上には、絵島と生島という役者とのうわさ以上に、月光院と間部詮房との間に「私通」があったのではないかということが、取り調べの目的であった。この絵島取り調べの前に、生島新五郎は目付けらによって徹底的に取り調べられ、「石抱き」という拷問にかけられた。石抱きとは、両手を後ろ手に荒縄で縛りあげ、正座させた膝の上に四角の石を乗せ、白状するまでだんだん石を重ねていき、その石を前後左右に揺り動かす。このため皮膚が破れ、その苦痛から逃れるために目付らの言い分をすべて認めさせられ、生島新五郎は、「絵島と情交があった」と白状した。  
この新五郎の自白を盾に、絵島は「うつつ責め」という厳しい拷問を受けた。この「うつつ責め」とは、三日三晩一睡もさせずに責め立て、意識朦朧の中で無理矢理に供述させる拷問だが、このような責め苦にあっても、絵島は新五郎との情交はなかったと最後まで頑強に否定した。  
絵島は老中らの拷問も交えた厳しい追及にも、「月光院様と詮房殿には不純な関係は一切ありません」と明確に否定している。絵島は法廷にあって生島とのあいだに何らやましいことは断じてないと言い開き、大奥のことについては、口外一切厳禁の法度だからと固く口をつぐみ、三日三晩不寝の糾問と鞭打ちに何も語らず、月光院と間部詮房をかばって一言も語ることがなかったという。  
絵島の罪状は、事件の担当者、老中秋元但馬守喬知が若年寄、大目付とともに評定し、おのが情欲に負けて大奥の重い職責にありながら風紀を乱したとされたが、冷酷無残さは前代未聞の、疑獄事件であった。正徳四年三月のことであった。
絵島の取り扱い  
絵島は高遠へ遠流(おんる)の刑が下された。  
正徳四年三月十二日午後二時ごろ、高遠藩江戸屋敷に、老中阿部豊後守正喬から切り紙がきた。  
城戸十兵衛が出頭すると、二通の書付が渡された。一通には、絵島の取り扱いの指示が書かれていた。  
「一、かろき下女一人附置き候事。 一、食物一汁一菜に仕り朝夕両度ノ外無用ニ候。(食事は一汁一菜とし、朝夕の二食とすること)。附、湯茶ハ格別 其ノ外酒菓子何ニても給えさせ申間敷候(菓子、酒などは与えてはならないこと)。一、衣類木綿着物帷子(かたびら)の外堅無用ニ候。(衣類は木綿の着物とし、帷子(かたびら)以外は無用のこと)。 右之外ノ儀ハ追て伺わるべく候 以上 」  
この書状と同時に、正喬から直接十兵衛へ、口頭で次のように申し渡された。  
「一、絵島はお預けではないから、そう心得て、遠流の格で諸事を取り計らい申すよう、つまり高遠へ遠流と心得られよ。一、申すまでもないことではあるが、男女間の関係は随分気を付けられよ。一、絵島の受け取りについては委細を坪内能登守と打合せ、牢屋で請取られたし」  
十兵衛は早速立ち帰り、絵島請取りの人数をつれ町奉行所に出張し、町奉行坪内能登守から絵島を受け取り、駕籠に錠をおろして藩邸に運び、一室に監禁した。絵島を受け取るとき、十兵衛は、係官に絵島の月経の有無を尋ねた。淫奔(いんぽん)の女であったからということで妊娠を知らずに高遠へ押送(おうそう)したのち、子どもでも生まれたならば、あらぬ疑いを受けることを恐れたからだ。牢舎の役人は高遠方の入念に感じ早速絵島に訊ね、その滞りのなかったことを伝えたという。  
高遠藩にとっては天から降って湧いたような、迷惑この上ない災難であったに違いない。罪科人とはいえ、江戸城大奥で権勢を振るった大年寄り、過ちや粗忽があったらお家断絶にもつながりかねない。藩主以下家老たちは相談し、どんな些細なことにもいちいち伺い書を出した。  
翌十三日にもなお、幕府へ伺いを出した。これに対して、直ちに附箋で指示を指示してきた。  
覚  
一、絵島事、屋敷の風並悪しく火事の節は私の下屋敷へ退けてよろしきか。(附紙)下屋敷へ退けられてよろしい。  
一、たばこをほしいと申したら出してもよろしいか。与えなくてもよい。  
一、硯や紙をほしいと申したら渡しますか。渡さなくてよい。  
一、扇子や団扇(うちわ)や楊枝などをほしいといわれたならば出してもよろしいか。与えてもよろしい。  
一、髪を結う時、櫛道具・はさみは渡してもよいか。それも差し支えない。  
一、爪を切りたいと申し出たら、切らせてもよいか。それもよろしい。  
一、毛抜を欲しい時は出してもよいか。よろしい。  
一、カネ(歯を染めるために)をつけたいと申す時はその道具を出してもよろしいか? 出さなくてよろしい。(※人妻や奥女中などは歯を染めたが、絵島には許さなかった)  
一、風呂に入りたいと申したら湯に入れてよいか。差し支えない。   
一、病気の節は手医師の薬を用いてよろしいか。その通りにいたされたい。  
一、絵島へ私(※藩主)は折々逢いまして様子をみなくてはなりませんか。左様なことはせずともよろしい。  
これを見ても、藩はその取扱いに慎重であり、また幕府の命に背かぬよう、微に入り細にわたり、かつ峻厳であったかがうかがわれる。このお預かり罪人の留置やら、護送やら、在所におけるお囲み屋敷の準備など、高遠との連絡で忙しい日々が続いた。  
高遠藩では、道中事故があってはと特に願って護送の人数を増やし、一行は八十余人になった。絵島を高遠まで護送する錠前つきの駕籠は、三月二十六日(三月二十八日説もある)の午前四時、四谷を出発した。囚人駕籠に身を入れるときは、法廷で気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。
絵島 囲み屋敷(長野県伊那市高遠)  
信州、高遠の内藤駿河守へお預けとなった絵島は、当初、高遠城から一里も離れた非持村火打平(ひじむらひうちだいら)に幽閉されていた。絵島が高遠にきて三年目に家継が世を去り、紀州の吉宗が八代将軍となる。翌年、間部詮房は越後村上藩主となって江戸を去る。幕府も大奥も月光院や間部の勢力を恐れる必要がなくなり、享保四年(一七一九年)十一月絵島は冬の西風が寒い非持村火打平から、武田信玄が山本勘助らに命じて、拡張改装させた名城・高遠城三の丸の囲い屋敷に移された。  
絵島が移された屋敷の外塀は二メートルほどの高さ、その上に一メートルぐらいの忍び返しが組まれてある。二十八年もの長期間、十人近くの武士、足軽に昼夜見張らせることは時の高遠藩内藤家にとってかなりな負担であったろう。  
最初の囲み屋敷のあった火打平から山室川を遡ること六キロ、日蓮宗の遠照寺がある。当時の住職は、絵島と同じ甲州生まれだったという。絵島が寺を訪れたきっかけは、囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりで、住職の法話を聞き、囲碁の相手もしていたなど、囚われの身ではあったが、寺を訪れることは許されていたという。絵島は日蓮宗へ帰依した。絵島の希望でここの寺に遺品や歯など分骨を埋めた墓がある。その死の際に、墓は蓮華寺にと告げた。  
絵島は高遠に遠流の身となってから、亡くなるまで二十八年、質素な生活の日々を送った。江戸時代の女性版ネルソン・マンデラさんであるが、マンデラさんは釈放されたが、絵島は二度と江戸の土を踏むことなく、寛保元年(一七四一年)四月六十一歳でその生涯を閉じ、配所からそれほど遠くない蓮華寺に埋葬された。  
浮世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光の影も恥ずかし [江戸出発の折、絵島が詠んだと伝えられる]  
あわれなる流されひとの手弱女(たおやめ)は 媼(おうな)となりてここに果てにし [斎藤茂吉]  
絵島の死後、三宅島に流されていた生島新五郎は寛保二年(一七四二年)に許されて帰り、翌年七十三歳で亡くなっている。
終わりに…  
絵島裁判は、たった一ヵ月の間に大勢の人を裁き、死罪、遠島、追放、所払いなど非常に過酷で乱暴極まりない裁きを下した。門限をやぶるという軽微な犯罪である。そこに油をかけ火を大きくしたのは、嫉妬からまる権力闘争である。大奥内の次期将軍争いのために利用されたといっても過言ではない。門限破りで終身刑はひどい。最も恐るべきは、人間の心に巣食う権力の魔性だ。「裁定を下した人たちは、自責の念のために死ぬだろう」という声が、江戸庶民の中から起こった。事実、処断のあった一ヵ月後の四月に、秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかとも)は死去した。喬知は処断のあった日から邸宅に閉じこもったまま一歩も外出しなかったという。  
絵島の断罪判決のあった二ヵ月後の五月、老中坪内能登守定鑑(さだかね)は、「流人の扱いに手違いがあった」と将軍からけん責処分を受けた。またこの裁判の主要目付稲生次郎左衛門は出仕拝謁(※出勤・高官面会)を差し止められた。そして事件後間もなく、この事件に関連して処分された人々は、重罪に処せられた者の外は大勢が赦免となった。  
絵島は、江戸時代から今日にいたるまで「絵島生島」と呼ばれて芝居や映画で演じられてきたが、実際にはこの恋は存在しなかったと考えられる。  
高遠藩は幕府に対して再三絵島の赦免要請をしたが、最後まで「上告棄却」で望みは断たれ、絵島は幽閉地の高遠で没した。派閥抗争の中での評定に、江戸の粋な計らいはなかった。  
高遠の内藤家は、尾張徳川家と親しかったことが、絵島を押し付ける原因になったと思われるが、厄介極まりない預かり人に対して、高遠藩がやさしい心遣いをしたことはせめてもの慰めである。(完) 
 
 
月光院

 

貞享2年-宝暦2年(1685-1752) 江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)、叙任時の名に輝子(てるこ)がある。 
父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲、母は和田治左衛門の娘。 
初め京極氏、次に戸沢氏に出仕し、後に四代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養女に迎えられた。そして宝永元年(1704)には徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿に出仕するようになった。 
やがて喜世は綱豊から寵愛を受ける。その年の12月には五代将軍徳川綱吉の養嗣に綱豊が迎えられ、江戸城の西の丸に入ることになり、正室近衛熙子や喜世らの側室も西の丸に同行した。 
宝永6年(1709)には綱豊が家宣となり六代将軍に就任。同年7月、喜世は男児(家宣の四男)を出産。鍋松と名付けられた。後の家継である。喜世も左京の局と呼ばれるようになった。この時、家宣には大五郎(家宣の三男)という側室の須免が産んだ子がいたが、宝永7年(1710)に大五郎が3歳で急逝。その2年後の正徳2年(1712)10月に家宣が死去し、喜世は落飾して「月光院」となった。翌正徳3年(1713)、家継に将軍宣下。月光院は従三位の位を賜った。 
大奥で月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との間に生まれたなどとも言われるが、いずれも俗説で信憑性は低い。 
正徳4年(1714)、月光院の右腕とも言える大奥御年寄絵島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れた絵島生島事件が発生した。 
享保元年(1716)、家継は風邪をこじらせて死去した。月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞をさせたためとも言われる。その後の八代将軍には、家宣の遺言と言うこともあり紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられた。吉宗が延享2年(1745)に引退の動きを見せると、九代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとしたともいわれる。 
そして宝暦元年(1751)に吉宗の死を見届けた翌年、宝暦2年(1752)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。 
月光院は和歌にも優れており、歌集「車玉集」を著している。
 
近衛熙子 (天英院)
1

 

このえひろこ 寛文6年-寛保元年(1666-1741) 江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の皇女・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。 
延宝元年(1679)、徳川綱豊(後の6代将軍・家宣)に嫁ぐ。父・基熙にとってこの結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記(基熙公記)に記しているように不本意な物であり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた。結婚前に水戸徳川光圀の養子徳川綱條との縁談話があったが、基熙はこれを断っている。ただし、基熙の伯母泰姫は徳川光圀に嫁いでおり、実際に先祖の遺誡があったかどうかは不明である。しかし幕府からの正式な要請は断ることが出来ず、「無念々々」としながらも縁談を承諾した。このため結婚前に、熙子は近衛家の門葉である権中納言平松時量の養女となって嫁した。但し、この養女縁組は幕府側から見ると幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、近衛親子と平松時量以外には秘密であった。このため熙子の扱いは近衛家の娘のままであった。 
綱豊との仲は良好だったらしく、2人の子供(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。その事で彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かる。30年後に夫・綱豊は6代将軍に就任、御台所として江戸城大奥に入った。これにより、当時朝廷において閑職にあった父・基熙は将軍の岳父となり、宝永6年(1709)には江戸時代最初の太政大臣に就任するなど権勢を振るった。このため、霊元法皇は基熙を呪詛する願文を上御霊神社に納め、皇室の影響力を高めるために皇女八十宮吉子内親王を家継の御台所にしようと奔走するようになる。 
ところが、甲府時代とは異なり、大奥に入ると夫婦生活は一変し、憂鬱な生活を送っていたといわれている。さらにお喜世の方が側室に迎えられた事によって、さらに疎遠になった。 
正徳2年(1712)に夫・家宣は病により没し、熙子も剃髪して院号を天英院と号する。お喜世の方が産んだ家継が将軍宣下を受けたのに伴って従一位を賜り、一位様と呼ばれた。 
将軍家継の生母・月光院(お喜世の方)とは不仲であったといわれ、御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代門閥層と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったとされている。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている。 
家継の早世後、紀州藩主の徳川吉宗を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、また吉宗に正室が不在だったこともあり、その後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。 
寛保元年(1741)、76歳で没。戒名は「天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀」。 
日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。 
天英院煕子2 
六代将軍徳川家宣正室。父は関白太政大臣近衛基煕。1679年甲府宰相綱豊(のちの家宣)との婚儀がなり、江戸に下向する。二子をなすがいずれも夭折した。家宣の没後、次期将軍家継が幼いため(当時四歳で生母、月光院のもとで育てられていた)大奥が政治の中心となり、奥女中は天英院側と月光院側に分かれ勢力を競っていた。月光院との対立が絵島生島事件へと発展する。 
1714年、少年将軍家継6歳のとき、実際に政治を動かしていたのは、将軍の補佐役・新井白石ですが、彼は老中の肩書きは持たず、幕閣には大老井伊直興・老中秋元喬知らが名を連ね、また側用人間部詮房が権力を振るっていました。 
この日、大奥の年寄役・絵島はお仕えしている月光院(将軍家継の生母)の名代で、何人もの奥女中を連れ、前将軍家宣のお墓参りに芝の増上寺に行き、その帰り、懇意の呉服商後藤縫殿助の誘いで山村座の美男俳優生島新五郎の舞台を見ました。そして舞台がはねた後、絵島一行は生島たちを呼び、茶屋で宴会を開きます。ところが、宴会に夢中になりすぎて、絵島一行は大奥の門限に遅れてしまい、江戸城の中奥と大奥を仕切る扉の前で立ち往生する羽目になるのです。 
このことは江戸城内全てに知れ渡ることになり、さすがの絵島も何らかの処分を覚悟せざるを得ない状況になってしまうわけですが、それがとんでもないことになってしまいました。当時、大奥内には、前将軍家宣の正室・天英院を中心とする勢力と絵島が仕える将軍の生母月光院を中心とする勢力がありました。また天英院は老中・秋元喬知に親しく、月光院は側用人・間部詮房や補佐役・新井白石らに近い状況にあります。この事件は天英院や老中秋元らにとっては、勢力を挽回する絶好のチャンスと映りました。関係者が徹底的に調べられ、規律がゆるんでいた大奥の状況が次々と明らかにされます。関連して色々な問題が出てきた結果、処分者はなんと千数百名にも達してしまいました。 
巻き添えを食って山村座は廃絶され、生島は三宅島に遠島になってしまいます。ほか数名の役者が遠島になっています。またこれを機会に江戸のあちこちにあった芝居小屋が全て浅草聖天町(猿若町)に移転を命じられました。そして絵島自身はなんと死罪。絵島の兄の白井平右衛門も妹の監督責任を問われて切腹ということになりますが、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、高遠藩お預けとなりました。なお、この事件を題材にした芝居では、絵島が生島を呉服を入れる箱に隠して大奥に連れ込み、情事をしていた、などとされますが、これはあくまで創作であり、事実ではないというのが大方の見方のようです。 
なお、これで一矢報いたと思っていた老中秋元喬知ですが、本人がこの年8月にあっけなく亡くなってしまいます。しかしこの事件のあと大奥では天英院の勢力の方が優勢となり、翌年、将軍家継が亡くなると、この天英院が強く推した紀伊の徳川吉宗が次の将軍となります。吉宗は将軍に就任するとすぐに、月光院派とみた間部詮房や新井白石らを即罷免。また大奥にも大整理を掛けて、大奥の人員は半減したといいます。また吉宗は享保7年(1722)この事件の処罰者に対する恩赦を行い、中心人物の絵島以外は全員赦免されて、生島も江戸に戻ったといいますが、その後も芝居を続けたのかどうかは定かではありません。 
 
生島新五郎

 

寛文11年-寛保3年(1671-1743) 江戸時代中期の歌舞伎役者である。江戸城大奥の御年寄であった絵島と共に、絵島生島事件の中心人物である。 
大坂生まれ。貞享元年(1684)に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年(1691)、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者となった。 
正徳4年(1714) 、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。このことから絵島との密会が疑われ評定所が審理した結果、新五郎に三宅島へ遠島(流罪)の裁決が下る。また山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座となった。 
寛保2年2月(1742)、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没する。戒名は道栄信士。墓所は三宅島にある(この生島の物故については先述の説のほか、享保18年に三宅島で死去したという説もある)。 
この事件を題材にした川柳に「やつさずに濡れ事をする新五郎」がある。「やつす」とは「化粧をする」という意味。 
新五郎を哀れんで三宅島の民謡に歌はれた。 
○花の絵島がから糸ならば、たぐり寄せたい身がそばへ
 
稲生正武

 

いのうまさたけ 天和3年-延享4年(1683-1747) 江戸時代の旗本。父は稲生正照。通称次左衛門、官位は下野守。元禄5年(1692)、10歳で将軍徳川綱吉に拝謁し、26歳で家督を継承した後、御徒頭、目付と昇進。徳川宗家の血筋が途絶え、紀州藩から徳川吉宗が新たな将軍に就任し、人事が刷新された後も重用され、勘定奉行や大目付に任ぜられ職務に当たった。大岡忠相と共に町奉行を分担して務めたこともある。 
絵島事件 
稲生の事績の中でも特に目覚しいのは絵島生島事件と天一坊事件の追及に寄与したことで、絵島生島事件の折には、当時目付であった稲生は仙石久尚、坪内定鑑らと協力して主犯の絵島や生島新五郎の他事件に連座した者への尋問を担当し、裁定を下した。稲生は絵島に対して直接取り調べに及び、拷問を用いて罪を白状させようとし、その峻烈な追及を「人を嵌めるものは落とし穴と稲生次左衛門」と落書で市井の人々から風刺された。絵島生島事件を扱った後世の創作物でも、苛烈な拷問で絵島を追い詰める悪役として描写される傾向がある(徳川風雲録 八代将軍吉宗など)。 
天一坊事件 
天一坊事件では、品川で捕縛された天一坊の取調べを関東郡代伊奈忠逵と分担して担当し、天一坊の処断に大きく関与した。天一坊事件は稲生と伊奈によって解決された事件であったが、後世の講談などでは脚色されて大岡忠相の功績にされている。
吉宗の御落胤騒動天一坊事件の流人 
テレビドラマ「暴れん坊将軍」でも有名な、八代将軍吉宗の時に、世に言う天一坊事件というのが起きている。事件の実体そのものは大した事件ではなかったが、この事件を巷間に有名にしたのは、河竹木阿弥の戯曲である。明治初年の新富座時代を飾る名作であるが、名奉行大岡越前守を戯曲の中に取り込んだことで、よりその効果を上げているようだ。明治29年に発行された「帝国文庫」に、16編の「大岡政談」なるものが収録されている。 
天一坊、白子屋阿熊、村井長庵、煙火屋喜八、直助権兵衛、越後伝吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衛、後藤半四郎、松田阿花、喜川主税、小西屋、雲切仁左衛門、津ノ国屋お菊、水呑村九助であるが、このうちで最も有名なのは、天一坊事件である。この16件の事件の中で、大岡越前守が自身で裁いたのはただ一つ、白子屋阿熊事件だけである。他の15件の大岡政談は、みな幕末の講釈師たちが、あちこちのネタ本から探し出した物を、巧みに潤色脚色したものである。 
河竹黙阿弥の戯曲もその例外ではない。この事件で八丈島に流罪になった流人が二人いる。流人明細帳によると、一人は常楽院で、享保14年(1729)6月流罪、流罪名は天一坊一件で、身分住所は南品川御伝馬役次郎右衛門地借り山伏となっていて、明和5年(1768)3月17日に島で病死している。 
その天一坊事件の真相は、歴史読本・特集大江戸悪人伝「御落胤の幻想天一坊と常楽院」高野澄によると次のようである。天一坊と常楽院、および関係者多数の取り調べの結果、およそ以下の真相が判明した。天一坊の母は紀州田辺の者で、紀州藩の藩士の家に奉公していた時、主人の手がついて男の子を産んだ。これが天一坊である。天一坊は「吉宗の落胤」と称しているのだが、紀州との関係に限ってはまんざら出鱈目でもなかったわけだ。4歳の時に母とともに江戸に出て、叔父の徳隠という僧をたよった。 
母は徳隠の世話で、浅草蔵前の半兵衛という町人と再婚。数年して母は病死、半兵衛も不景気のために店をたたんだので、天一坊は徳隠の弟子になって僧の修行をはじめた。 
母は生前、口癖のように言っていた−お前は紀州家の歴々の人の落胤だから、いずれはお侍になるべき人、そのつもりで生きておくれ。ここにお前の由緒書がある、叔父さまに預けておくから、大事にしなさい、云々。 
その由緒書は享保6年の火事で焼けてしまったのだが、源氏にゆかりの血を引いている、といったことが書いてあったので「源氏坊天一」と名乗ることにした。 
享保12年に徳隠が死んでしまったので、天一坊は尭仙院という山伏の弟子になった。山伏としての名は改行という。ところが天一坊は、山伏の修行には熱を入れない。いれないどころか、自分の生まれのいいことを誇って、酒を飲んでは師に乱暴ばかりしていた。 
もてあました尭仙院は寺社奉行に駆け込んで懲戒してもらおうとしたが、酒のうえのことでは致し方なしと、相手にしてもらえない。ここで天一坊は、すっかりその気になってしまったようだ。 
俺の身分のことは寺社奉行にもわかっている。だからお咎めがなかったのだ。ますます増長するのに困り果てた尭仙院は、天一坊を弟子の常楽院にあずけた。この常楽院がただものではない。 
将軍吉宗の治世はすでに14年、ますます型破りの政治を展開していて、いい意味でも悪い意味でも人気が高い。天一坊が将軍吉宗の御落胤として認められ、大身に出世するという筋書は成立する常楽院はこういう目論見をたてた。世間には浪人がうようよしている。 
大身に出世することが確実の人間がいるということを宣伝すれば、浪人がカネを持って集まってくるに違いない。 
天一坊は、この話にとびついた。共犯者の意識があったかどうかは、そのあたりは断言できないが、将軍の御落胤として売り出すことについては罪の意識はなかったと思いたい。自分ではすっかりその気になっていたはずだから。 
常楽院が、この計画は「カネが儲かるぞ」という形で説明したのかどうか、それについても判断がむずかしい。天一坊の精神状態は、将軍の御落胤という華やかな幻想に浸りきっていたというところに重点があったとおもわれ、それにくらべたら、カネのことは二の次、三の次であったろう。 
常楽院は、人間の心理を読むことではしたたかな腕をもっていたはずだ。天一坊にはカネの話はしないほうがいい、そのように判断したのだと思う。 
浪人は集まってきた。食うや食わずの暮らしのなかから血のでるような苦労の末にあつめたカネを握って、浪人はやってきた。 
天罰覿面というか、惜しむべきはというべきか、常楽院は撤退のことを計算にいれていなかった。ザックリとあつまってきたカネの重みで、撤退を忘れたのであった。潮時を見計らって行方をくらます、それが悪人たる基本姿勢だが、撤退をわすれたところに常楽院が悪に徹しきれないミニ悪人だった理由がある。 
享保14年の4月21日、評定所で判決がくだされた。 
「世良田松平源氏坊天一」こと山伏改行は、「偽の儀を申し立て、浪人共を集め、公儀を憚らざる不届きにつき、死罪のうえ獄門」の判決。31歳だった。 
赤川大膳こと山伏常楽院ほか三人が遠島、江戸払が13人、家財取上や闕所など、多数の者にそれぞれ処罪がくだった。 
以上が高野澄氏の「天一坊事件の真相」である。 
これには名奉行といわれている大岡越前守の姿は、影も形も見当たらない。それもその筈であり、そのとき大岡越前守は南町奉行ではあったが、御府内(江戸内)での事件ではなかったから、管轄外であった。 
天一坊を捕縛し吟味したのは、勘定奉行稲生下野守と大目付鈴木飛騨守であった。判決では常楽院ほか三人が遠島になっていて、常楽院とその手下で最もよく活躍した本所松井町二丁目又左衛門店浪人の南部権太夫は、同時に八丈島に流罪になっているが、他の二人は伊豆七島のどの島に流罪になったのか、私は知らない。 
 
絵島生島

 

正徳四年(1714)、七代将軍家継の時代である。 
月光院は故・六代将軍家宣の側室だったが、時の将軍家継の生母だけに、大奥では権勢並びなきものがあった。 
その月光院付きの女中絵島は、美貌と教養を兼ね備えた才女だった。このとき三十四歳で、大年寄の役職にあった。奥女中の高位である。 
一月十二日、前将軍家宣の法会が芝増上寺と上野寛永寺で執りおこなわれ、奥女中の絵島、宮路、梅山、吉川らが代参した。 
江戸城を出た絵島の一行は芝、宮路の一行は上野にそれぞれ参詣を終えると合流して、木挽町にある山村座に向かった。芝居見物をしたのである。 
借り切った二階座敷には、座長はもとより、生島新五郎ら役者も次々と挨拶に訪れた。生島は四十四歳で、濡れ事を得意とする、当時人気絶頂の役者である。 
酒も酌み交わされ、華やかな雰囲気に包まれた。 
大奥の通用門である平河門は暮六ツ(午後六時ころ)に閉門する。絵島の一行は芝居が終わるのを待たず急ぎ帰途についたが、平河門にたどりついたときにはすでに門は閉じられていた。 
門限に間に合わなかったことで、絵島らの芝居見物が表沙汰になった。 
二月二日、処罰が言い渡された。 
絵島の兄の白井平右衛門は御家人だったが、妹の放恣を諌めなかったとして死罪に処せられた。 
絵島は、信州高遠(長野県高遠町)藩内藤家にあずけられた。高遠に流されたのである。 
役者の生島新五郎は三宅島に流罪。 
山村座は取り潰しとなり、座長は大島に流罪。 
宮路ら奥女中もすべて処罰を受けた。 
そのほか、多数の幕臣や大奥出入りの商人などが改易や追放などの処分を受けた。 
徳川幕府の正史である「徳川実紀」には、 
「二月二日 後閤の女房絵島、宮路、ともに親戚の家にめしあづけらる。これは正月十二日東叡、三縁両山にまうづるとて、みちよりかたらひ合せ、おなじ女房ともなひ、木挽町の劇場にまかり、薄暮に及びてかへりぬ。二人ともに年寄をもつとめながら、かうやうのふるまひせしをもて、きびしくとがめらるべけれど、寛宥さらるゝにより、かたくつゝしみあるべしとなり。おなじことにより、梅山、吉川等の女房七人禁錮せらる」と記されているのみである。 
その後、巷間では、山村座で芝居見物をしたとき、絵島と生島がしばらくのあいだ姿を隠したとか、生島が長持のなかに隠れて大奥に出入りしていたなどという淫靡な風評が流れた。 
 
「翁草」「一話一言」「月堂見聞集」「徳川実紀」などにも記載がある。 
この事件は、「絵島生島」としてあまりに有名である。江戸時代の約二百五十年間を通じて、江戸城大奥のもっとも代表的な醜聞といってもよかろう。 
有名な事件であり、しかもその後は多くの小説に描かれ、芝居や映画にもなってますます有名になったため、虚実が入り混じって、かえって真相がわからなくなっている。 
現在、多くの人が読んだり、観たり、聞いたりしてイメージしている「絵島生島」は、絵島と生島の悲恋物語か、あるいは大奥の淫乱暴露話であろう。 
「悲恋」や「淫乱」が独り歩きしている感がないでもない。 
後世の創作が、史実になってしまっているようだ。 
とくに、生島が長持に隠れて大奥に忍び込んだなどは、当時の想像をたくましくした巷説にすぎないのだが、大奥の女中は男に飢えていたという説は読者、とくに男性読者に受ける。 
ともあれ、あくまで史料として伝わっている「絵島生島」は、上記の通りである。曖昧模糊としているといってもよかろう。 
絵島生島は、政争の具として利用されたという見方もある。 
ひとつは、六代将軍家宣の正室と、側室月光院の対立という、大奥の権力争いである。もうひとつは、七代将軍家継は病弱で子供もなかったことから、次の将軍に誰が就くかという継承争いである。さらには、幕閣のあいだの主導権争いもあろう。これらが複雑に絡み合い、絵島生島事件を契機に、大がかりな粛清が断行されたのではなかったか。 
処分が広範囲にわたり、しかも過酷なことから、政治的な背景があったことはじゅうぶんに想像できる。 
たしかに、前将軍の法会のあとに芝居見物をしたのは不謹慎だったとしても、当時、大奥の女中が寺社の参詣を利用して芝居を観るのはよくあることだった。さほど風俗紊乱というわけでもない。どう考えても、処分は重すぎる。 
絵島生島事件には、史料には記されていない裏があるに違いないが、真相は藪のなかである。
蓮華寺

 

縁起当寺は正平十五年(1360)の創立で、身延山久遠寺五世鏡円阿闍梨日台上人をご開山、後に、京都妙顕寺二祖大覚大僧正妙実上人を開基とした日蓮宗の寺院である。会津松平の祖・保科正之公の父・正光公によって、高遠城下に寺地寺領百石を賜って寺を建立した。鳥居忠晴公城主の時、当寺十九世日隆上人の代、慶安四年(1651)に、本堂、庫裡、鳥居公寄進の徳川四代将軍家綱公の尊牌堂、七面堂等の建立をみた。本光院宮、梶井宮家等の祈願所となって末寺も六ヶ寺を数え、東龍華院中本山と呼称される寺格を備う。本堂は文化四年(1807)に改築、間口十一間・奥行九間、庫裡は間口七間・奥行十四間の広さで、安永年間(1772年頃)建立された約二百年前の建築物である。その他、本堂裏丘には、妙見堂、大奥大年寄絵島の墓、その脇には絵島女人成仏像がある。 
絵島と蓮華寺  
正徳四年(1714)、絵島三十四歳の正月、月光院の代参として増上寺に将軍慰霊の法要の帰途、山村座で芝居見物をし、たまたま門限に遅れたことが口実となり、処罰を受けたのであった。死罪二人、遠島追放等事件に連座し罰せられた者、医師、身許引受人、芝居関係者、商人等千五百人からを数えられるのである。 
浮き世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光のかげもはづかし  絵島  
高遠に流された絵島の生活は自己に厳しいものであった。蓮華寺に残る検死問答書に日常のことが細かく記されているが、その一例を食事の面にみると、半月は精進日を設けて魚類を断つ生活をしていた。四年後の三十八歳からは全く精進の毎日で、寛保元年(1741)四月十日、六十一歳で死去するまで二十四年間は魚類を全く断つ生活をおくっていたのである。 
絵島は江戸在城中より日蓮宗の信者であったので、遺言によって蓮華寺二十四世本是院日成上人の導きを受け、蓮華寺後丘に埋葬された。戒名を「信敬院妙立日如大姉」と授与され、妙経百部の回向を受け、永代霊膳の丁重なる扱いをされたのである。 
絵島を詠んだ和歌  
えにしなれやもも年の後古寺の 中に見出でし小さきこの墓   田山花袋 
あわれなる流されひとの手弱女は 媼となりてここに果てにし  斎藤茂吉 
向う谷に陽かけるはしやこの山に 絵島は生きの心堪へにし  今井邦子 
物語まぼろしなりしわが絵島 墓よやかたよ今うつつの里    有島生馬
 
絵島生島事件

 

岩波書店の広辞苑によれば、「江島(絵島)は七代将軍徳川家継の生母月光院に仕えた大奥の御年寄(大奥女中の取締役)。山村座の芝居を愛好し、俳優生島新五郎と交際があったことなどを咎められ、正徳四年たかとう(1714)信州高遠に流刑、関係者数十人も処罰された。維新後、歌舞伎・舞踏劇・小説に脚色された。」と書いてある。 
また、旺文社の日本史事典には、「絵島事件は江戸中期、江戸城大奥の風紀紊乱事件である。正徳四年(1714年)将軍徳川家継の生母月光院に仕えた年寄絵島が大奥に権威をふるい、大奥出入りの商人を利用して風紀を乱し、当時の人気役者生島新五郎との乱行で信濃国高遠に流された事件で、連座者は1500余人にも及んだ。」と書いてある。 
この2つの事典は学究の徒のものであるから、出来るだけ真実を書いているだろうが、2つの間には微妙な違いがある。広辞苑は生島新五郎との交際に重きをおき、日本史事典の方は、大奥の風紀紊乱に重きをおいているようである。 
この事件にしろ天一坊事件にしろ、幕府が関係している事件には、不明な点が多すぎる。それは幕府は自分に都合の悪いことは、左の物を右とも言える権力を持っていたからであろう。だから歌舞伎や小説のネタにもなるのだろう。 
これも学究の徒のための出版物が多い、学習研究社(学研)から出ている「江戸町奉行」の中から、田井友季子氏の“江戸最大の疑獄事件の陰に張り巡らされた罠”というタイトルの絵島事件を見てみよう。 
正徳四年(1714)1月12日に端を発した絵島騒動は、同年3月9日をもって結審し、絵島に対して下された判決文は、「素行が修まらず、御奉公向をないがしろにしたから、一体ならず死罪に処すべきところであるが、御慈悲を以て、遠島の終身刑に処する」と、ひどく恩に被せたものであった。 
絵島は、前将軍家宣のお部屋様で、当代将軍家継の生母である月光院に仕え、お気に入りの老女であった。彼女は正徳四年には33歳であった。 
この事件の近因になった例の1月12日の増上寺代参の帰途の、豪勢な芝居見物は、確かに顰蹙を買うに足るものであった。お年寄りは奥向きのこと一切を取締まる実権者で、いうまでもなく御代参も老女の重大な役目の一つである。 
挟箱や供侍守られ御廟所に乗りつける絵島の堂々たる威風は、とてもこの大官が小普請組白井平右衛の妹とは思えないほどである。 
この兄は結審の結果、交竹院の弟奥山喜内とともに死罪に決まった。 
絵島の判決では、不品行の面だけ強調して政治的な面はすこしも取上げていないが、病気でもない彼女が奥医師の奥山交竹院とたびたび密談していることなどから、政治の渦に巻き込まれていたことはあきらかである。ときあたかも幕府の中枢では、月光院が側用人間部詮房と組み、幼将軍を擁して政務に口出しをする一方、前将軍の正室天英院は老中秋元但馬守と組んで、これに対抗するという両派の権力争いに感情がからんで、深刻をきわめていた。 
そんななかで、その日、絵島一行百三十余名のものが派手な供揃いで、山村座にくりこんだ。 
「宿下がりの節、物見遊山芝居見物など決しはっとて致すまじく候こと」という「女中法度」など忘れ果てていた。桟敷を借り切って酒肴を運ばせ、舞台そっちのけで酒盛りに興じた。無論、絵島の相手は和事の名優で、いまをときめく美男役者の生島新五郎である。 
やっと帰城したときは、七つ口の門限はすでに過ぎていた。随行の目付等は絵島をそのままにはしておかなかった。大奥付目付から支配若年寄へ一通の訴状が出され、閣中ではこの事件を重視し、短兵急に取り調べに着手した。 
当日の芝居見物は単なる奥女中のレクリエーションというだけではなく、薪炭屋栂屋善六が絵島とコネをつけるための饗応であることが発覚し、絵島は3月5日評定所へ召還された。 
この月光院派の絵島がひきおこした業者と大奥の癒着露見を前にしては、大奥の綱紀粛正の大義名分など間部も新井白石も口にすることは出来なかったに違いない。 
この事件を裁いたのは、老中秋元喬知、目付稲生次郎左衛門、町奉行坪内能登守定鑑ら天英院派の意をうけた官僚たちで、月光院派の間部詮房、新井白石らを敵視していた。絵島は信州高遠の内藤家に永のお預けとなったが、絵島につながりのある御用商人や、絵島の縁者たちのこうむった罪の重さが目立つ。 
3月26日、江戸を去る日、駕篭の中で、気丈な絵島は、秋元喬知のむごい仕打ちに、初めて泣いたという。同日、生島新五郎は、深川越中島から、三宅島さして配流の旅に発った。 
かくして正徳の情知事件、背任収賄事件は、芝居関係者、癒着業者1500人余りの処罰者を出すという江戸300年最大のスキャンダルとなった。 
これが筆者田井友季子氏の全文である。この事件で八丈島に流罪になったのは、金井六右衛門一人だけである。流人明細帳には、正徳五年五月流、享保三年五月十三日行方不明、着島年齢四一在島年数四、書置致し行衛知れず、流罪名は絵島生島一件、身分は小普請方。とある。この金井六右衛門の判決文は、次のようなものである。 
六右衛門、表面の御奉公を相勤め候者に候処、みだりに絵島に対面に及び、あまつさえ狂言芝居茶屋に誘引せしめ、芝居の者を召し集め、夜深更に至て酒宴を催し、その饗応の料を御用承り候町人栂屋善六と申す者に申し付け候て、かの善六をも絵島に参会せしめ、殊に又年来、その身不行跡、役儀勤め方等、姦犯の科重々に候。然りと雖も、寛宥の御沙汰を以ってその罪を減じ、流罪に行われ候者也。正徳五年三月五日。 
この判決文も絵島の判決文と同じ様に、ひどく恩着せがましい判決文である。これは幕府としての、新しい将軍を生み出す大奥に対する畏敬と、御台所や側室の圧力に対する恐れの現われである。 
この事件で八丈島以外の伊豆七島へ流罪になった者は、三宅島へは生島新五郎と栂屋善六、御蔵島は奥山交竹院(大奥医師900石)、新島は後藤千代清助、神津島は中村清五郎、大島は平田彦四郎と山村長太夫、利島は平田伊右衛門である。 
生島新五郎が流罪になった三宅島の文献には、生島新五郎は大坂出身で屋号を三浦屋という。江戸山村座の抱役者であり、その得意とする芸は和事で当時ならぶ者がいないと評判された人気役者である。 
正徳年間(七代家継治世)、大奥の大年寄絵島と恋愛関係を結んだ科によって三宅島へ配流され、相手の絵島は信州高遠に配流された。享保18年2月26日63歳の生涯を閉じた。 
 
高遠城

 

高遠城は武田信玄が山本勘助らに命じて、それまでの南北朝からの支配者高遠氏を侵略し支配下に収めこの城を拡張改装させた、とのことだ。この城の周辺の地形は三峰川と藤沢川に削られた断崖上の突端にあって、段丘の上から見れば平城、他の三方から見れば山城の形をしている。川、崖、曲輪、空堀の配置、構築は当時の進歩した築城技術と武田流兵法を勘案した名城といわれている。 
武田信玄の旗下に入った時代の高遠は、諏訪から伊奈に入る門戸であり、駿河、遠江に進出するためには高遠は重要な拠点であった。信玄が甲斐の府中から上洛の途についたのは元亀三(1572)年十月、遠江に侵入し、家康の居城浜松を素通りして信長・家康連合軍と三方ヶ原の戦いとなり、家康を敗走させる。しかし、病昂じ甲府に引き揚げる途中伊奈郡駒場で果てた。家臣は信玄の死を秘して遺骸と共に伊奈、高遠、甲府への道をどのような思いで急いだのであろうか。亡父信玄の遺志を継いだ勝頼は家康の支城長篠を包囲、設樂ケ原において家康との決戦に大敗して甲府に逃げ帰ることとなる。天正三(1575)年のことである。長篠の戦に大敗した武田勝頼は譜代の家臣や領民の人望を失い、従兄弟の穴山信君(梅雪)にまで家康に内通されるに至る。ただ一人、信玄の五男、勝頼の弟五郎盛信のように最後まで武田に殉じた武将もいた。長篠の戦に破れて、この間数年のことだ。そして、天正十年、甲斐源氏の棟梁として代々守護職を相伝してきた名家も滅亡を迎える。織田信長は中国大進撃に先立ち、甲斐の武田勝頼を討滅し後顧の憂いをなくそうとした。甲斐の武田勝頼は相模の北条氏政とも断交して孤立し、また、徳川家康との戦局も、前年の三月、遠江の高天神城を奪還されてからは戦局は敗色が濃かった。信長は家康と共同作戦を練り、天正十(1582)年三月五日、安土を出馬した。同時に駿河口からは家康、関東口からは北条氏政、飛騨口からは金子長近、信濃伊奈口からは信長と信忠が二手に分かれて甲斐に進撃した。 
天正10(1582)2月織田信長は信玄亡き後の武田氏を一挙に滅ぼすために、伊奈口からは長男信忠の率いる5万の大軍を送りこんだ。この大軍に怖れをなした伊奈谷の主は城を捨てて逃げ、或いは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃を血塗らずして高遠に迫った。26歳の青年城主仁科五郎盛信(信玄の五男)は降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返して、三千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。要塞堅固を以って響いた城であり、城主盛信以下将兵決死の奮戦も、十七倍の兵力の前にはいかんともし難く、三千の兵はことごとく討死した。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけたと古書は伝えている。武田勝頼は諏訪上原城から新府に退き天目山で自害し、高遠城の戦いは武田氏滅亡の最期のはなばなしい、そして悲しい戦の場となった。 
高遠落城のあと武田勝頼は韮崎新府城を捨て岩殿城に移ろうとするが、城主小山田茂に裏切られ、途中から天目山に向かう。麓の田野で織田軍の追求を受け長男信勝、妻の北条氏とともに自害し、ここに武田家は滅亡した。そして、信長は諏訪に陣して武田氏の遺領を処分する。家康には駿河の一国を与え、信長は四月二十一日安土に凱旋している。池宮章一郎著「本能寺」によると、この途中信長は、家康が信長のために新築した居館に渡り、接待を受ける。信長は、家康の接待に驚嘆し、絶賛してやまなかったと書いている。 
安土に戻った信長は五月十五日、駿河賞与の謝礼のため伺候した家康を接待する。接待役は明智光秀であったが、信長は光秀に急遽備中出陣を命ず。信長自ら家康を接待し、境に遊ぶことを勧めた。安土から上洛した信長を光秀が本能寺に襲い、信長「是非もなし」と自ら弓や槍をとって防戦したが衆寡敵せず、ついに火を放って自刃。六月二日早暁のことである。 
絵島囲み屋敷 
絵島生島の物語は小説・ドラマなどで世に広く知られていて、観光案内にも次のように書かれている。「絵島は徳川六代将軍家宣の愛妾である月光院に仕え、月光院の信頼が厚く、大年寄となった。彼女の地位を利用しようとした商人の手引きで合った役者生島新五郎との恋が発覚し、これを問われ生島は三宅島へ、絵島は高遠へ遠流(おんる)の刑が下された。高遠にあること28年、10人近くの武士、足軽に昼夜見張られ61歳で没するまで囲み屋敷で一人淋しい生涯をおくった」とある。 
屋敷の外塀は2メートルほどの高さ、その上に1メートルぐらいの忍び返しが組まれてある。屋敷は絵島の居間、下女や番人の詰め所を見物できるようになっている。 
28年もの永年、10人近く昼夜見張らせることは時の高遠藩内藤家にとってかなりな負担であったろう、また、なぜ高遠なのか、世上伝えられた物語の罪状にしては過酷な罰を受ける以外の、なにか隠されたものがあったのではないか。 
事件の裁きによって、絵島の兄白井平右門、自分の娘を絵島の養女に差し出した水戸家徒歩頭奧山喜内が死罪となっている。両家とも江戸開府以前の桓武平氏以来の名家だという。絵島の弟豊島平八郎は追放になった。千五百人もの男女が捕らえられたという。 
絵島の罪状は事件の担当者の老中秋元但馬守喬知が若年寄、大目付とともに評定して、極刑にすべきところをご慈悲で遠流にしたという。冷酷無残さは前代未聞であったとされている。 
絵島の罪状は、おのが情欲に負けて大奥の重い職責にありながら風紀を乱したかどとされたが、疑獄事件であったようだ。正徳四年(1714)3月のことであった。 
絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。庶民文化の花開いた元禄の江戸は才気煥発で情感豊かな娘として絵島を育てたが、二十三歳の時紀州候の徳川綱教の奥方に仕え、その死後に二十四歳で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊の側室おきよの方のもとに入った。 
綱豊が六代将軍家宣となり、おきよの方がその子を生んだ時、絵島は年寄りに上げられ四百石を与えられている。家宣が死に、四歳の家継将軍が生まれた。月光院となったおきよは将軍の生母としての威勢を張ることによって、家宣の正室、近衛家からきた天英院、他の二人の側室から嫉妬反感の攻撃を受ける。絵島を厳しく取り調べた評定所の役人たちは、すべて天英院派に属していた。年若い月光院は、家継の補佐役である側用人間部詮房を頼りにし、詮房は妻も側室も持たず、江戸城内に住んで政務に励んだという。 
世上には、絵島と生島という役者とのうわさ以上に、月光院と間部詮房との仲が取りざたされていたという。間部詮房は家宣の意見と同じに、次の将軍は尾州徳川家をと考えていたという。天英院派の望むのは紀州徳川家の吉宗であり、家宣は紀州徳川家に好感を持っていなかった。高遠の内藤家は、尾張の徳川に親しかった。そんなことが絵島を押し付ける原因になっていたらしい。 
絵島は法廷にあって生島とのあいだに何らやましいことは断じてないと言い開き、大奥のことについては、口外一切厳禁の法度だからと固く口をつぐみ、三日三晩寝かさずに糾問され、鞭打たれたが、何も語らず、月光院と間部詮房をかばって一言も語ることがなかったという。 
絵島は囚人として高遠まで護送される錠前つきの駕籠は、三月二十六日(新暦の五月九日)の午前四時、四谷を出発した。囚人駕籠に身を入れるときは、法廷で気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。 
最初の囲屋敷のあった火打平から山室川を遡ること六キロ、日蓮宗の名刹遠照寺がある。当時の住職は十六世見理院妙行日耀上人で、絵島と同じ甲州生まれの方だったという。絵島が遠照寺を訪れたきっかけは、囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりで、住職の法話を聞き、囲碁の相手もしていたなど、囚われの身ではあったが遠照寺を訪れることは許されていたという。絵島は法華宗へ帰依した。絵島の希望でここの寺に遺品や歯など分骨を埋めた墓がある。その死の際に、墓は蓮華寺にと告げた。その葬式は遠照寺の住職をはじめ大勢の僧侶が集まって、法華経100部の回向をささげたという。 
絵島が高遠にきて三年目に家継が死んで、紀州から吉宗が八代将軍となる。翌年、間部詮房は越後村上藩主となって江戸を去る。幕府も大奥も月光院や間部の勢力を恐れる必要がなくなり、絵島は山間の冬は西風が吹いて寒い非持村の火打平から、町中の花畑に移ることを許されている。享保五年(1720)間部詮房死去す。絵島が高遠にきて六年目にあたる。このとき事件関係者のほとんどが赦免になったが絵島だけは沙汰やみになっている。このあと22年間、幽閉されたまま61歳で亡くなったこととなる。絵島の死後、三宅島に流されていた生島新五郎は寛保2年(1742)許されて帰り、翌年73歳で死んでいる。 
 
「絵島疑獄」

 

奥山百合は水戸藩士奥山喜内の娘で、将軍家の侍医奥山交竹院の姪である。弟の千之介が、子守りしている時に怪我をして足が不自由になってしまい、それがもとで継母の兼世に憎まれ、交竹院に引き取られた。 
交竹院は幕臣白井平右衛門と碁敵で、その妹美喜(のち絵島)は百合の名づけ親でもあった。弟への罪の意識にさいなまれる百合を、絵島は優しく労る。美喜はその頃、平田彦四郎という武士と愛し合っていたが、美喜が年上のために周囲の反対を受けて引き裂かれ、稲生文次郎という武士との縁談をすすめられる。美喜は断り、百合を養女にして、交竹院のつてで、甲府宰相綱豊の愛妾お喜代の方に奉公することにする。 
やがて、五代将軍綱吉が死に、綱豊は六代将軍家宣となる。美喜は御年寄の地位につき、絵島と呼ばれていた。百合も絵島の部屋子として仕えることになる。利発で働き者の百合は、絵島に仕える若江、俊也といった同僚ともうちとけ、楽しく働く。百合が絵島に仕えるように、絵島もお喜代の方の理知的で明朗な性格に心酔し、心を込めて仕えていた。お喜代の方は江戸の町医者の娘で、家宣が甲府宰相になる前に、家臣の子として育てられていた時代に見初め、正室熈子や他の側室お須免の方・お古牟の方にも増して愛し、心を通わせていた。 
やがてお喜代の方が妊娠し、鍋松(のちの七代将軍家継)を産む。家宣は、正室や他の側室との間に何人か子をもうけていたが、みな、家宣の虚弱な体質を受け継いで早世していた。家宣の喜びは大きく、お喜代の方への熈子やお須免の方らの憎しみは募る。熈子は京都の近衛家から嫁ぎ、お須免の方はもとその侍女であった。お喜代の方や彼女に仕える者たちが江戸生まれで、明朗で淡白、やや単純であるのに比べて、熈子は仕える者たちまですべて御所風であり、陰湿なまでに緻密であった。早くから、お喜代の方とその周りの者を陥れるような出来事が起こるが、お喜代の方らは勝者の余裕もあってあまり気に止めない。鍋松も虚弱だったが、交竹院が侍医となって世話をしたためまずまずつつがなく育って行く。 
家宣は将軍になってから三年ほどで死ぬ。綱吉の「生類憐みの令」を撤廃し、官学の林派に対して私学の新井白石を登用した家宣は、庶民の立場に立った善政を行っていたが、綱吉の時代に作られた財政難は解決していなかった。革新的な政策には反発する者もあり、紀州徳川家の吉宗、林派らが巻き返しを狙っていた。家宣は尾張徳川家の吉通を信頼し、家継が幼いうちの後見を依頼していたが、吉通は急死する。毒殺の疑いがあった。 
絵島がお喜代の方に奉公してから七年目に、白井平右衛門が大阪で刃傷沙汰を起こし、弟の豊島平八郎が絵島に助力を求める。弟の妻お艶は、かつての恋人平田彦四郎の妹であった。久しぶりに会ったお艶の顔には、平八郎に突き飛ばされたために負った火傷の跡があった。お艶は、兄彦四郎が妻と別れ、二度と他の女性と結婚する意思はないことを絵島に伝える。絵島は動揺する。また、平八郎がかつて絵島と見合いをした稲生文次郎に、絵島に会わせるようなことをほのめかしては博打の金をせびっていることも知り、釘を刺す。 
お艶はまもなく亡くなるが、絵島と彦四郎はその後ひそかに会うようになる。 
家継やお喜代の方(家宣の死後落飾して月光院)に仕える絵島らの周辺には、余録にありつこうとするさまざまな人々が渦巻いていた。百合の父奥山喜内と妻兼世、豊島平八郎のほかに、いかがわしげな商人栂屋善六らであった。平八郎らは絵島を慰労するための花見や舟遊びを企画する。絵島は平八郎に金を渡していたが、平八郎はその金を使いこんで、栂屋に出費させていた。 
絵島は奉公をやめ、彦四郎と結婚する決意をする。そんな矢先、絵島のまわりは芝居熱が高まっていた。新たに召し抱えた藤枝という女が芝居通で、まわりの女たちを煽ったのだった。月光院の許可を得て、墓参りにかこつけて芝居見物に行った絵島たちだが、酔いつぶれる者などがいて、城に帰る時間が遅れる。それも暗黙の了解で許されるはずだったが、警護の役人らと藤枝が小競り合いを起こし、事件が明るみに出てしまった。このほか、絵島と歌舞伎役者生島新五郎が帯を交換し合ったことや、商人たちが絵島らに莫大なつけとどけをしていたことなどが次々に問題になり、絵島のほか多数の人々が罪に問われる。絵島の兄平右衛門と百合の父喜内は死罪、奥山交竹院、生島新五郎、平田彦四郎父子らは流罪となる。絵島も高遠に流される。 
裁きが異例の速さで行われ、連座者がおびただしく出たことについては、裏で糸を引いているものがあった。藤枝は天英院熈子の間者で稲生家とも結びつきがあった。家継と月光院をひきおろそうとする天英院や紀州吉宗、また新井白石や間部詮房に反感を持つ林派などが結託して絵島らを陥れ、勢力の逆転を狙ったのだった。 
百合は絵島を追って高遠へ行き、身分を偽って絵島に仕える決意をする。弟千之介と、交竹院の門弟香椎半三郎も交竹院のいる御蔵島へ渡る。交竹院が貧しい島の人々の力になり、信頼されている様子を、二人は手紙に書き送る。 
高遠で再会した絵島は、自分の軽率を悔やみ、自分たちの巻き添えとなって無実の罪に落とされた多数の人々への慙愧の念にあふれていた。百合が監視の目を盗んで、決まり以外の食べ物や、江戸から持って来た綿入れなどを渡しても、絵島は決して手をつけず、厳格な規制を守って尼のように暮らしていた。 
絵島は百合にも江戸へ帰るようにと言うが、百合は言を左右にして帰ろうとしない。幼いとき、千之介の足が不自由になったことを悔いる百合に、絵島は、悔いて許されない罪などないと言った。百合はその言葉を絵島に返したい気持ちだった。 
五年たち、香椎半三郎が高遠にやってくる。交竹院が亡くなったのだった。半三郎は、高遠で医院を開業し、百合と所帯をもちたいと話す。百合は、絵島に仕えることは変わらないが、それでもよければと承諾する。百合と半三郎は絵島が幽閉されている囲み邸の近くに所帯をもち、睦まじく暮らす。 
絵島は高遠に流されて二十八年後、六十一歳で亡くなった。百合夫婦は絵島の墓を守って高遠で暮らしたものと思われる。  
 
■大奥 

 

 
大奥
 
給与 
奥女中は大別して将軍付きと、将軍の正室である御台所(みだいどころ)付きに分けられる。 
下の二つの表は、上が13代将軍家定に付いた奥女中の職制と給与、下は将軍家定の御台所篤子(後の天璋院)に付いた奥女中の職制と給与である。二表とも藍色の他に青色の文字・数字がある。これは職制職種に関しては、一方にあって一方にないものを青色にしてある。数字の青色は篤子付き奥女中の表にしかないが、これは将軍付き奥女中の同役と比べて低いことを示している。赤色の数字が一つあるが、これは篤子付きの奥女中のほうが将軍付き奥女中より、全般に待遇が低い中、唯一高いものであったので記しておいた。 
給与を計算するにあたって米価の相場が判らないと、概算することもできない。本表の出所は(財)徳川黎明会の深井雅海氏が著わした「江戸城をよむ」(原書房)に挿入された表を利用させてもらっているが、この表は「学習院女子短期大学紀要」第30号に松尾美恵子氏が発表されたものから作成したとのことで、正確な年号年月が判然としない。 
幕末の米価は1年の差で銀10匁ほど違ってくる。しかし、幸いなことに将軍家定と篤子の婚姻期間は1年半ほどしかなく、安政3年(1856)12月に輿入れし、安政5年7月に家定は薨去している。よって、ほぼ妥当な米価は安政4年当時のものでいけるだろう。 
給与の概算を出す前に、各諸手当について説明しておこう。 
切米は幕府の蔵米から支給され、旗本・御家人の蔵米取は春・夏・冬の3回に分けて支給されたが、奥女中は5月と10月の2回に分けて支給された。切米は1年の給与。合力金は春日局の建議から設けられた。幕府初期に諸大名が競って将軍家に献上物を進呈し、その際に大奥の女中たちの末端に至るまで贈物があったが、家光の時代に幕府が大奥への進物を制限した。春日局は諸大名から貰わぬ代わりとして、衣服の援助金という名目の手当を支給するよう願い、この制度ができた。1年の給与だが、12等分して毎月支給された。 
扶持は詳細をいうと、男扶持と女扶持に分かれている。上の将軍付きの上臈御年寄の扶持は10人だが、中味は男扶持5人・女扶持5人、火之番の2人は男扶持1人・女扶持1人である。最下級の使番と御半下(おはした、「御末」とも呼ぶ)の1人は女扶持1人である。この最下級二役を除く他は、男同然に見なされており、男扶持を奥女中は給与されている。 
どういうことかといえば、上臈御年寄が支給される男扶持5人・女扶持5人は、男扶持1人を除く他は、部屋方つまり使用人の分であり、男4人・女5人を使用することができることを示している。火之番は男扶持1人・女扶持1人の支給だから、女1人を使用することが認められているわけである。ただし、これは資格であって使う使わぬは別である。なお、男扶持は1人1日玄米5合、女扶持は同様に3合で、毎月30日分を現物支給された。 
湯之木とは風呂の燃料。斜線で区切ってあるのは、奥女中の身分の高い層は上風呂と下風呂の二つをたて別けていたのである。さらに1日2度入浴する者もいた。一つ風呂の者や隔日入浴の者、数人で一つ風呂を使う者など、その束数が異なってくるのである。 
油とは部屋の行燈の油。有明は終夜燈、半夜は半夜燈で、「有明1半夜1」は行燈3ヵ所4升2合の量である。五菜銀は味噌と塩の料で銀で支給された。五菜の語源は不分明。銀玉と称して30日ごとに支給された。「200目1分」とは銀200匁+15匁(公定相場)である。 
では、安政4年の米価相場を米1石=銀95匁として、上臈御年寄と御半下の給与を概算で出してみよう。上臈御年寄の年給与は約204両、御半下は約12両2分弱。1両を現在の20万円として換算すると、御年寄は4080万円、御半下は250万円となる。1両を現在値に換算する時に、現在の米価を基準にする人がいるが、米穀通帳がないと米が買えなかった30年前ならともかく、スーパーで手軽に買える現在、いかがなものかと思う。適切な換算は年収から概算したほうが、わたしはいいと思っている。これについては当サイトがリンクしている「コインの散歩道」を参照してほしい。 
御半下の250万円は短大・高卒の新入社員の年収に近いであろう。御年寄の4080万円から9人分の扶持を引くと3600万円ほどになる。これは日本の主要企業の社長の平均年収3282万円より300万ほど高いだけである(03年度の財団法人労務行政研究所の調査結果)。つまり、奥女中の最高位と最下級は、現代の社長と新入社員の差と同程度なのである。  
職制 
将軍や御台所に直接お目通りできる、いわゆる御目見以上は、「御広座敷」を含めて上の役職がそれで、御三之間以下は御目見以下となる。 
表には記してないが、最下級の御半下の下に、「御犬小供」(おいぬこども)というのがある。これは15歳〜23歳までの女子で、雑用一切を務める役である。ただし、歴史家によっては御犬子供を部屋方、つまり奥女中の使用人とするケースも見られる。それでは順次説明していこう。
上臈御年寄(じょうろうおとしより)

 

 
大奥最高位だが実権はなし。儀礼や茶の湯などの催しの際の将軍・御台所の相談役を務めた。御台所付きの上臈は輿入れの際に、里方から随従してきた公卿の娘が就いた。家定正室の篤子の場合は、薩摩藩主島津家の一門島津忠剛の娘として生まれているが、藩主斉彬の養女となり、さらに五摂家筆頭近衛家の忠熙の養女となり、名を敬子から篤子と改めて将軍家へ嫁いできているから、お付の主要な奥女中のすべてが近衛家だったとは思われないが、3代家光を含めたそれ以降の歴代将軍御台所はいずれも宮家・五摂家の娘(養女も含む、11代家斉御台所も薩摩藩主の娘で近衛家の養女を経て輿入れしている)であり、上臈には公卿の娘が就いたわけである。御台所付きの上臈は御台所に万一のことがあれば、その身替わりになる覚悟をもって務めたという。 
では将軍付きの上臈は公卿の娘であったか。家定付きの上臈御年寄は3人いた。万里小路(までのこうじ)、歌橋、飛鳥井の3名で、各々の宿元(身元保証人)は万里小路は林肥後守、歌橋は佐藤兵庫、飛鳥井は三枝靱負。佐藤と三枝の身分は寄合だから家禄3000石以上の旗本である。林肥後守は悪評もあるが11代家斉の寵臣林忠英(ただふさ)を思わせるが、彼は弘化2年(1845)に死没している。安政4年(1857)当時に林肥後守と称しているのは忠英の四男で請西(じょうざい)藩1万石の藩主忠交(ただかた)であるが、この年には15歳にもなっていない。ということは、万里小路が大奥務めをした当初の宿元が林肥前守ということになろう。林忠英は文政8年(1825)に旗本から大名に列し、天保12年(1841)家斉の薨去後に減封され隠居を命じられている。万里小路は天保12年以前に大奥務めを開始したことになる。当時の実力者を宿元としていることから、万里小路は公卿万里小路家の娘(ないしは近親の公卿の娘)ということになろう。 
万里小路はなぜ家定付きの上臈なのか。どこから湧いてきたのか、これである。家定の正室は篤子が初めてではなく、その前に鷹司家の娘任子と一条家の娘秀子の2名がいる。鷹司任子とは天保12年に婚姻するも、任子は嘉永元年(1848)6月に疱瘡から薨去、一条秀子とは嘉永2年に婚姻するも、翌嘉永3年6月にこれまた薨去するのである。 
鷹司任子とは天保12年の婚姻で、林忠英が罷免された年だが、任子は天保2年(1831)には江戸へ下向してきているから、林忠英が宿元になっても不思議ではない。ということで、万里小路は鷹司任子の江戸下向時に随従してきたものと推測できる。主人の任子が亡くなった後も退職して京都へ帰らなかったのは、引き止める者がいたからであろう。それとも身替わりになる覚悟で残留したのかもしれない。 
他の上臈の歌橋、飛鳥井はどうか。歌橋は将軍家定の乳母から累進してきた者である。公卿家の名を付けているから公卿の娘ということではなく、いくつかの通り名があり、その中から賜ったという説もある。飛鳥井は公卿ではなく五位以下の公家の娘かもしれない。上臈の下の小上臈を見てみよう。「やち」という名で宿元は本多隠岐守となっている。本多隠岐守は膳所(ぜぜ)藩6万石の本多家のことで、安政3年に致仕した本多隠岐守康融(やすあき)ではないかと思う。引っかかるのは康融と前代の康禎(やすつぐ)が正室に薩摩藩主の娘を娶っていることである。小上臈の「やち」は御台所付きの奥女中ではなく、家定付きなのである。 
将軍家定は身体が不自由で病気がちで継嗣ができなかった。よって継嗣問題が起き、慶喜を推す一橋派と、紀州徳川家の慶福(よしとみ)を推す紀伊派(南紀派とも称す)が対立する。篤子は一橋派が大奥工作に送り込んだという説に乗るとすると、「やち」は篤子を援護するために送り込まれた工作員という推測もできる。ま、この工作は失敗に終わるが。「やち」のみならず結構な人数が送り込まれたのではないか。しかし、大奥は倹約を嫌う。一橋派は名君揃いで、大概名君といわれる藩主は倹約令を発布してから、改革に取り組む。一橋派の工作を阻んだのは江戸城大奥最後の年寄といわれる滝山とされている。 
だが、一橋派の首領水戸斉昭が大奥に心底嫌われていたのが、本当のところかもしれない。斉昭は部屋住みの頃、藩主となった兄斉脩(なりのぶ)に嫁した将軍家斉の娘峯姫付きの上臈唐橋を犯し妊娠させた不行跡があるのだ。女色に卑しい男は、名君であろうが大奥からは嫌われる。ちなみに唐橋の姉(義姉とも)は、天保の改革で大奥に倹約を迫る水野忠邦に、妾の有無を問い、手もなく追い返した大奥上臈姉小路である。  
御年寄(おとしより)

 

 
老女とか局(つぼね)とも呼ばれる大奥第一の権力者。御用掛、年番、月番などの役分担があり、御用掛は外出する際は10万石の格式であり、表御殿の重役である御側御用取次(8代将軍吉宗の時に新設)とよく内談したそうである。月番は朝四ツ(午前10時頃)に詰所の千鳥之間へ出勤して、煙草盆を前にして座り、表使や右筆など諸役を呼び付け差配し、昼七ツ(午後4時頃)に退出したという。中年寄ないしは御客応答(おきゃくあしらい)から御年寄の役に就くが、名称に似ず20代前半で就く者もあったらしい。 
御三家・御三公卿の御簾中(ごれんじゅう、将軍世子・御三家・御三卿の夫人に限った呼称、御台所は将軍夫人のみの呼称)が訪れても軽く頭を下げる程度だったというから大したものだ。この御年寄、大奥一切を差配することから、商人からの賄賂攻勢・誘惑や表御殿の政争に巻き込まれることもあった。例えば、7代将軍家継時世の年寄(大年寄との説もある)絵島。 
事件となるのは正徳4年(1714)2月2日、絵島と年寄宮路の二人に、東叡山寛永寺にて謹慎の旨が突然申し渡される。理由は20日前の将軍生母月光院の代参の折、七ツ口の門限に遅れたことであった。代参とは月光院付きの二人が、主人月光院の代理として前代までの将軍が埋葬されている寛永寺と芝増上寺へ参詣することで、これは正室や側室がが参詣すると、供物や行列が大掛かりとなり費用がかかるからである。七ツ口であるが、これを説明するには大奥の建物構造を紹介する必要がある。 
大奥は三つの区画に分けられる。御殿向、長局(ながつぼね)向、広敷(ひろしき)向の三区画である。御殿向には将軍の大奥での寝所や御台所、将軍生母、その子女(10歳くらいまでは大奥で養育)の居室、奥女中の詰所などがある。長局向は側室以下の奥女中が暮らす住居があり、広敷向は大奥の事務や警備を担当している男の広敷役人の詰所がある。 
将軍が暮らす表御殿の中奥と大奥は銅塀で区切られ、上下二本の御鈴廊下(吉宗の時代までは1本の御鈴廊下だったらしい)でつながっている。境に錠口があり、錠口を管理していたのは中奥側が小納戸役の中から担当する奥之番、大奥側は錠口という役の女中だった。常に閉まっていたため老中ないしは御側衆が大奥の年寄と面談したい時は女中の錠口に掛け合い、大奥年寄が彼らと面談したい時は奥之番に掛け合って錠口の杉戸を開けてもらった。将軍の出入りの際も女中の錠口が杉戸をいちいち開けたというから厳重なものだった。 
御殿向の後ろに接してあったのが長局向で、御殿向と長局向に接し、大奥の玄関廻りにあったのが広敷向である。御殿向で暮らす者が外出するには広敷向の玄関を通り、広敷御門から出る、この一つだけだった。長局向に暮らす者が外出するには、広敷向の下広敷と七ツ口の二つがあった。広敷向の玄関を通れるのは御台所、御部屋、広敷役人、用事があって大奥へやって来る表の役人などで、奥女中は通れなかったのである。七ツ口は主に奥女中の使用人の部屋方が出入りしていた。 
七ツ口は長局向の御半下部屋と広敷向の境にあり、外から広敷御門を入ると広敷玄関が正面右寄りに見えるが、この玄関とほぼ90度右奥へ歩いていくと七ツ口がある。朝五ツ(午前8時頃)に開き昼七ツ(午後4時)に閉まった。近くには広敷伊賀者などの詰所がある。 
奥女中が出入りする下広敷は、広敷御門を入ると七ツ口とは逆の左方向へ歩いて行くと下広敷御門があり、これを入ると下広敷がある。ここから広敷向の廊下を広敷向と御殿向の境へ向かうと境には御錠口があり、この御錠口は太鼓の合図によって、明け六ツ(午前6時頃)に開き、暮れ六ツ(午後6時頃)に閉まる。御錠口の隣には広敷伊賀者勤番所などがあった。 
また、年寄が御台所や生母の名代で寛永寺・増上寺へ代参する時は、長局の自分の部屋に吊るしてある駕籠を下ろして乗り、御錠口を通り下広敷から出掛けたというから、絵島もそうしたと考えられる。 
絵島の謹慎の理由は、七ツ口の門限に遅れたことだった。絵島らは御錠口は暮れ六ツ寸前に通っている。七ツ口は絵島らの使用人の女中が出入りするところである。本人らに過失はないが、その使用人に過失があり、管理を怠ったために謹慎という形である。御錠口と七ツ口の番人は伊賀者であり、奥女中は日頃から彼らに付届けなどをして、大目に見てもらっていたようである。この時も御目こぼしされて何事もなかった。20日後に謹慎なのである。事を問題視し荒立てようとする者がいたことは疑いないだろう。 
翌3月五日、次のような判決が絵島に下される。 
「絵島事、段々の御取り立て候て、重き御奉公をも相勤め、多くの女中以上に立ち置かれ候身にて、その行正しからず、御使に出候折々、又は宿下りの度々、貴賎を選ばず、よからぬ者どもに相近づき、さしてゆかりなき家々に泊り明し、中にも狂言座の者どもと年頃(ねんごろ)馴れしたしみ、その身のおこなひ、かくの如くなるのみに非ず、傍輩の女中をすすめ、道引(みちびき)あそびあるき候事ども、その罪重々に候へども、御慈悲を以て、命をお助けおかれ永く遠流に行はれ候者なり」 
年寄という重き身分にありながら、普段の行いがよろしくないから流罪にするというのである。狂言座とは木挽(こびき)町6丁目にあった山村長大夫座のことで、絵島らが代参の帰りに二階の正面桟敷に席を占めて観劇し、芝居の幕間に美男で評判の生島新五郎玉沢林弥などの人気役者が挨拶に来て酒の酌をしたという。奥女中たちにとっては最高の時間だったであろう。が、こうしたことは従来から普通に行なわれ、大目に見られてきたことである。死罪のところ御慈悲で流罪、などという大それた罪にはあたらない。 
絵島事件に連座して罪を得た者の数は1500人余り、流罪は絵島の他に生島新五郎、座元の山村長大夫、これで山村座は断絶、絵島に取り入った浅草の薪炭商人栂(つが)屋喜六、呉服商後藤縫殿介の手代満助、これら商人と絵島の間を仲介した奥医師奥山交竹院玄長(きょうちくいんはるなが)、彼は将軍家継の病気を治したことがあったという。死罪となったのは絵島の兄とされ、交竹院の遊興仲間とされる御家人白井平右衛門、絵島に遊興をすすめ交竹院の弟とされる水戸藩御徒頭奥山喜内。奥女中で流罪・追放刑となった者は68人いたという。 
商人が年寄に取り入るのは当然のことであろう。大奥の年間経費は約20万両であった。将軍家茂の御台所に和宮が降嫁して以降、4万両〜5万両超過することがあったというが、簡単に計算できるように20万石とし、さらに米1石の価格を江戸中期の元禄頃の1両として、将軍家全体の経費に占める比率を出してみたい。 
徳川将軍家の石高は時代により差はあるが約700万石あったといわれる。この内から旗本領を除くと約400万石。年貢徴収率を四公六民とすると約160万石が将軍家に入る。1石=1両の換算だから、約160両が年間予算として使える金額となる。20万両は全体の12.5%を占める。 
これは凄い冗費だ、と思ったまともな役人は多かったらしいが、大奥の経費削減は不可能だったようだ。ただ、幕末の慶応2年(1866)、大奥も節約する気になった。が、その節約は3万両であった。なのに前代未聞の大改革といわれた。以下の5点が主な節減だった。 
1、御台所の衣装は洗張(あらいばり)して見苦しくなければ再度着用 
2、上臈以下の奥女中は俸給を若干減俸する 
3、長局や詰所で湿気払いと称して朝夕杉の葉を焚いていた。この経費1日30両、これを廃止 
4、詰所、廊下などの金網行燈の張替えとして、1日に延紙50帖、障子繕いとして美濃 
紙1日50帖を使用していたのを月1度に改める(美濃紙1帖は48枚) 
5、1年に盆暮の2回畳の表替えをしていたのを暮1回にする 
話にならない節減である。幕末でさえ緊張感を大幅に欠いた大奥である。絵島の時代は砂糖にたかる蟻のごとく商人が取り入ったであろう。御用達となって利権を得るためだから、年寄が外出するや待ってましたとばかりに接待攻勢をかけてくる。芝居は奥女中接待には最適だったろう。美男の多い芝居を観劇させた後、お気に入りの役者を併設の芝居茶屋に招いて、後は奥女中の好き勝手にやれるように手配するなど、豪商たちには雑作もないことだったろう。  
謎解き

 

 
徳川将軍の側室の経歴を伝える書物のなかで、江戸研究家の三田村鳶魚翁が最も正確と評したのが、「幕府祚胤伝」(ばくふそいんでん)である。その幕府祚胤伝で絵島が仕えた家継の生母月光院(お喜世、あるいは左京)の項をみると、「正徳三年癸巳十一月三日、従三位に叙せらる。のち吹上御殿に御住居。宝暦二年壬申九月十九日、同所において逝去」とある。 
家宣の御台所熙子(てるこ)の項では、「正徳三年癸巳四月二日一位様と称す(三月三日宣下従一位)。享保二年丁酉十二月十五日西の丸へ御移り。同十六年辛亥九月廿七日二の丸へ御入り。元文六年辛酉二月廿八日同所に於いて御薨去」と詳しい。なお、熙子の法号は天英院。 
もう一人見てみよう。家宣の側室お古牟(こむ)は、「正徳二年薨御に依り十月廿日、落飾して法心院殿と号し、馬場先御用屋敷に住居す。其の後浜御殿の内に住棲す。明和三年丙戌六月二日、同所に於いて死す」と、この箇所に関しては月光院より若干長い。 
お古牟の法心院は家千代という男子を産んだが2ヵ月ほどで早世している。家宣は正徳2年(1712)10月に薨去したから、子のいない側室は本丸大奥から去り、御用屋敷に移るのが原則であった。よって法心院は馬場先御門内にあった俗に比丘尼屋敷と称した所に移り、そこが後の吉宗薨去後にその側室が移動してきたためトコロテン式に、浜御殿(後の浜離宮)へ移った。比丘尼屋敷としては桜田御用屋敷のほうが有名ではある。 
御台所の天英院は存命中に従一位を叙位されている。家継は形としては子にあたるが、実子ではないのに従一位をもらっているところが凄い。それも家継が将軍位に就く2ヵ月ほど前の叙位である。存命中に従一位に叙位された正室は天英院だけだと思う。他の正室は和宮も含め亡くなってから従一位を贈られるのが普通である。天英院の権勢大であったことを物語っている。 
天英院が本丸大奥から移るのは西の丸で、享保2年(1717)12月である。8代将軍として吉宗が江戸城へ入ってくるのは家継が亡くなったとされる正徳6年(1716、この年の6月22日から享保元年)4月晦日である。吉宗が入ったのは二の丸である。吉宗が将軍に就くのは同年五月朔日、本丸へ移るのが同年5月22日。吉宗の正室はすでに死没しているとはいえ、天英院の腰の重さはどうしたことだろう。1年半後に西の丸へ引越すのである。 
吉宗が本丸へ移った後の二の丸には吉宗の長男の長福(後の9代将軍家重)が享保元年8月に入り、さらに享保3年5月に吉宗の生母浄円院(お由利)が二の丸に入っている。天英院が西の丸から二の丸へ享保16年に移動するのは将軍世子となった家重の正室として伏見宮の娘比宮(なみみや)が京都から下向してきたからである。通常だと西の丸は将軍世子か、将軍譲位後の大御所が居住するのが原則だから、これで異常が普通に戻ったことになる。 
問題の月光院である。 
叙位の年は天英院と同じだが月日が11月と遅い。しかし、天英院の場合は弟の近衛家熙が前年まで摂政を務め、父の基熙(関白を10年以上も務めている)も朝廷に隠然たる力を持っていたお蔭もあるから当然としても、月光院の将軍生母として存命中に従三位に叙位されるのは、やはり権勢のあったことを物語っている。側室で将軍生母になり従三位を存命中にもらったのは他に、綱吉の生母として影響力大であった桂昌院(お玉)だけであろう。その後桂昌院は存命中に従一位に叙任されるという、離れ業をやってのけてしまう。家継が綱吉のように60歳以上まで長生きしていたら、月光院も可能であったろう。そう思うのは月光院が葬られたのは芝増上寺の桂昌院と同じ霊廟だからである。天英院が葬られたのは芝増上寺の崇源院(秀忠正室お江与)と同じ霊廟。比較はできないが、家宣・家継時代の大奥には桂昌院と崇源院が同居していたともいえようか。ともあれ、吉宗が前代の二人を粗末に扱わなかったことが判る。 
月光院の項のどこが問題かというと、「叙せらる。のち吹上御殿」の部分の「のち」なのである。吹上御殿とは吹上の庭園に新築した屋敷を指す。吉宗が月光院の住居する屋敷として造ったといわれる。天英院の西の丸への移動が遅いのは、月光院が吹上御殿へ移るのを待っていたのではないかと思われる。問題はどこから月光院は吹上御殿へ移ったのか、これなのだ。「のち」は正徳3年11月から享保2年までのおよそ4年間を不分明なものにしている。引用した幕府祚胤伝の難点は、「幕府を憚った痕跡が明らか」なところだと、校注者の高柳金芳氏は記している。 
正徳3年から吉宗が江戸城に入る前までの女中付きの女主人は4人いた。天英院と月光院に、綱吉の側室で鶴姫と徳松を産んだ瑞春院(お伝)と、綱吉の養女で会津松平家、次に有栖川宮家と婚約が成立しながらも、どちらの相手も嫁ぐ前に病没したため行かず後家のようになった竹姫(清閑寺熙定の娘)である。瑞春院は綱吉が薨去すると三の丸に移り、元文3年(1738)に亡くなるまでここで暮らしている。竹姫はどこかといえば、寂しい境遇から察して同じ公卿家出身の仲間がいる、本丸大奥ではなかったかと思う。 
月光院は絵島事件によってお付き女中総浚えのような形となり、将軍生母とはいえ気位の高そうな天英院の顔は見たくなかったであろうから、西の丸に移ったのではないかと思うのである。異常ではあるが、満でいえば3歳の子供が将軍に就くのも異常だ。時の権力者の側用人間部詮房(まなべあきふさ)と月光院の二人が、よく吹上庭園を散策していたという話がある。吹上庭園は本丸からより西の丸のほうが近い。 
天英院が西の丸へ引っ越すのに1年半も掛かったのは、月光院が吹上御殿へ移った後の西の丸のリニューアルに時間を喰ったからだろう。天英院は家宣が将軍となって西の丸から本丸へ移るにあたって、本丸大奥を70万両余りの金額をかけて改修させているのである。 
吉宗が月光院のために吹上御殿を建てたのは、当然天英院と月光院のソリの悪さを知っていたし、ある種の後ろめたさがあったからだろう、その後ろめたさは天英院にも忖度できることで、月光院への御殿新築を同意せざるを得ないところでもあった、と推測されるのである。 
これ以降、人名・年月が複雑になってくるので年表式にまとめ、それから説明に入ることにしよう。薨去は三位以上の死亡、年齢は数えで記した。  
暗闘の12年

 

 
宝永元年(1704)4月 紀伊藩主綱教に嫁いだ将軍綱吉の側室お伝の子鶴姫が逝去28歳 
同年(1704)12月 甲府藩主綱豊(後の6代将軍家宣)が将軍世子として西の丸に入る 
宝永2年(1705)5月 紀伊綱教が薨去41歳 
同年(1705)8月 紀伊綱教の父光貞が薨去80歳 
同年(1705)9月 紀伊綱教薨去後に藩主となった弟頼職が逝去26歳 
宝永5年(1708)12月 家宣の側室お須免が大五郎を産む 
宝永6年(1709)正月 5代将軍綱吉が薨去64歳 
同年(1709)5月 家宣が6代将軍位に就く 
同年(1709)12月 家宣の側室お喜世が鍋松(後の7代将軍家継)を産む 
宝永7年(1710)8月 お須免が産んだ大五郎死没3歳 
正徳元年(1711)8月 お須免が虎吉を産むも、2ヵ月余りで死没 
正徳2年(1712)10月 家宣が薨去50歳 
正徳3年(1713)5月 家継が7代将軍位に就く 
同年(1713)7月 尾張藩主吉通が薨去25歳 
同年(1713)10月 尾張吉通薨去後に藩主となった嫡子五郎太が死没3歳 
正徳4年(1714)3月 絵島事件 
正徳5年(1715)9月 家継に霊元法皇の皇女八十宮の降嫁が決まる 
正徳6年(1716)4月 家継が薨去8歳 
5代将軍綱吉の子女は二人しか生まれなかった。鶴姫と徳松、二人ともお伝の産んだ子である。鶴姫は延宝5年(1677)に生まれ、徳松はその2年後の延宝7年(1679)に生まれ天和3年(1683)に4歳で早世している。 
その後は子を孕む側室もないため吉宗は、母の桂昌院が絶大な信頼を寄せる僧侶隆光の進言を入れて、子宝に恵まれようと度が過ぎた生類憐みの令を頻発していく。 
綱吉に嫡子がない場合は、綱吉の甥にあたる甲府藩主綱豊が将軍位を継ぐのが筋とするのが大方の見方だった。綱豊は4代将軍家綱の継嗣候補に挙げられた一人であった。この時の候補は、館林藩主綱吉、綱吉の兄ですでに亡くなった甲府藩主綱重の子綱豊、有栖川宮幸仁親王を仮の将軍とし家綱の子を懐妊している側室お満流(まる)が男子を産んだらその子とし、有栖川宮には京都へ帰ってもううという、変則的なものだったが、甲府綱豊は綱吉と並ぶ将軍候補だったのである。 
いくら生類を憐れんでも男子の誕生がないと、桂昌院とお伝は鶴姫の夫である紀伊綱教(つなのり)を将軍世子にしようと画策する。が、長幼の順に厳しい水戸光圀に反対されてしまう。光圀は家綱の継嗣候補として綱吉を推した恩人であった。しかし、将軍世子として綱豊を迎えようとはしなかった。 
亡くなった綱豊の父綱重の生母はお夏といってお玉時代の桂昌院とは、同じ京都の町人の出身だったがソリが合わなかった。お夏の子を世子に迎えるくらいなら、鶴姫の夫の綱教のほうがずっといい、そう桂昌院は考えたのであろう。あるいは鶴姫が男子を出産してくれれば最高だとも願ったであろう。だが、その鶴姫が病没する。ここに至って、将軍世子としてやっと綱豊が迎えられることになる。綱豊42歳である。 
一時将軍位が目の前にあった紀伊綱教が41歳で亡くなる。続いて前藩主の父光貞が80歳で亡くなる。この二人の死因は自然死、つまり天命だったのであろう。しかし、次の頼職(よりもと)は自然死ではないだろう。光貞には3人の男子がいた。母はそれぞれ異なり側室である。長男綱教、三男頼職、四男頼方(よりかた、後の吉宗)。次男は早世、長男綱教と三男頼職の年齢差は15歳あるが、三男頼職と四男頼方の年齢差は4歳だった。大差ないから二人は元禄9年()に同時に従四位下左近衛権少将に叙任され、翌年には同時に3万石を封与され別家を立てているのである。 
頼職と頼方は意識しなくとも、二人の家臣たちは相当なライバル意識があったと思われる。いまや頼職は尾張55万5000石の藩主、一方我らのご主人は3万石の藩主。ほんのちょっと前まで待遇は同じだったのに、なんという大差!と焦ったとしても不思議ではない。 
紀伊藩の藩祖頼宣(よりのぶ)は大将の心得として、「兄弟の家へ行ってお茶を飲むな」といったそうである。さすが由井正雪事件で幕府から黒幕と疑われた頼宣だけのことはある。兄弟が最も危ない。作り話か本当なのかこんな逸話がある。 
頼方がまだ幼い頃、父の光貞が兄弟を呼び集めて、刀の鍔などが入った箱を出した。「この中に気に入ったものがあれば、遠慮せずに申してみよ」 
頼方は後ろに控え、他の兄弟らは選んだものを手にした。 
光貞が不審に思い、頼方に問うた。 
「わたしは兄君たちが選ばれた後、その箱ごと賜りたく存じ、ここに控えておりました」 
頼方がそう答えると、光貞は大いに感心し、満足げに箱ごと頼方に与えた。 
頼方は有り難く箱を頂くと、持ち帰って家臣たちに与えたという。 
兄たちが選んだ後に欲しいものは頼方にはなかったが、家臣たちのことを思って貰い受けてきたのである。頼方の家臣と他の兄弟の家臣のどちらが、後々主人に尽くしてくれるだろうか。紀伊藩譜代の家臣はいるが、四男になると信頼できる家来による組織固めは自分でつくり上げていかねばならなかったであろう。そして、頼方は確固とした家臣団を築いていったはずである。そして、家臣たちが政権をとるに相応しい主人と考えた時、先走る家臣も出てくる。それは主人に尽くそうという思いもあるが、主人が政権をとることによって自分の勢力・地位の上昇がもたらされるからでもある。 
兄たちの連続死によって、頼方は22歳で紀伊藩主となり、名を吉宗と改める。藩財政は赤字だった。寛文8年(1668)に領内大旱魃、寛文8年から元禄16年(1703)の間に江戸藩邸が4回大火、貞享2年(1685)に綱教と綱吉の娘鶴姫の婚礼があり出費、元禄10年(1697)と同14年の2回綱吉が紀伊藩邸を訪問し合計11万両余りの出費、宝永2年(1705)兄たちと父の葬儀費用と吉宗の藩主就任の儀式費用など。 
さっそく吉宗は改革に取り組み、倹約令を布くと共に町廻横目(まちまわりよこめ)や芸目付(げいめつけ)といった隠密役を設置する。町廻横目は衣服や調度などの贅沢や風俗の乱れを監察、芸目付は藩士の武芸修練の様子を監察するものだった。 
隠密の監察によるものと思うが、下役人や奥女中など130人余りの人員整理を行い、藩士の禄高の5lを藩に上納させ、年貢を増徴させるため治水と新田開発を行い、吉宗が将軍位に就く頃には、金14万両と米12万石近くが翌年に繰り越されるほどになったという。 
改革の成功を支えたのは隠密の監察政治にあっただろう。隠密は人の監察だけではなく、新田開発にあたり用水整備が可能な土地を探索・調査し、農耕地の拡大に寄与しているのである。隠密は官僚組織の役人であり、いわゆる忍者ではない。隠密は藩や幕府の家譜や分限帳に名前が載るが、忍者は隠密に使役される闇の者たちである。 
吉宗が組織した直属の隠密衆は薬込役(くすりごめやく)といった。将軍位に就くと彼らの内から17人を選び、幕臣に編入した。当初は「御庭番家筋」(おにわばんけすじ)と称したが、享保11年(1726)になって「御庭番」と称するようになる。御庭番の17人(家)は世襲であった。身分は初め御家人だったが、元文5年(1740)から旗本に取り立てられる者(家)が出始め、9代家重の時世になるとほとんどの家が旗本に昇格している。 
御庭番に隠密御用を命令できるのは将軍と、吉宗が新設した御側御用取次だけであった。御側御用取次には紀伊藩年寄小笠原胤次・御用役兼番頭有馬氏倫・同加納久通を任命しており、側近の小姓・小納戸も紀伊藩士で固めた。つまり、老中・若年寄は監察対象であり、吉宗が彼らを、いや身内以外の者すべてを警戒していたことが判る。 
幕府に隠密役がなかったわけではない。目付配下の徒目付(かちめつけ)、小人目付(こびとめつけ)があった。旗本・御家人の監察が主務で、老中・目付の命令で探索にあたることもあった。伊賀者・甲賀者もいたが彼らは警備を主務とする役職に就いており、隠密機能はすでに消失していた。 
暗闘の結果、将軍となった吉宗には、どうしても自分の意のままに動く隠密役が必要だった。自分を暗殺しようとする者を、水際で防がねばならなかったのである。 
6代家宣の子女は7人いた。産まれた順に記す。1番早かったのは御台所。男女1人ずつ産んでおり、女子豊姫は1ヵ月余りで死没、男子は死産だった。斎宮(いつきのみや)は母子ともに死没、お古牟は男子家千代を産むが2ヵ月余りで死没、お須免は男子大五郎を産み1年8ヵ月ほど生きていた、大五郎に7ヵ月ほど遅れて鍋松(後の家継)が生まれる。お須免が大五郎が死んで1年後に虎吉を産むが、2ヵ月余りで死没。 
整理しよう。 
家継が産まれた時に7ヵ月上の兄大五郎がいたが、家継が2歳の時に亡くなる。生母はお須免。家継が3歳の時に虎吉が生まれる。が、2ヵ月ほどで死没。生母は同じくお須免。 
ほとんどが産まれて数ヵ月しか生きていない。その中で大五郎と家継は1年以上生きている。大五郎はもう少し長く生きられたような気がするが、いかがなものであろうか。 
御台所とその父近衛基熙も、大五郎は長く生きられそうだと喜んでいたようだ。大五郎の生母お須免は公卿園池季豊の娘。お須免は、柳沢吉保が家宣の歓心を買い、自分の保身のために献じたといわれる。公卿の娘ということから御台所も目を掛けていた。その娘の産んだ大五郎が長く生きられそうとなると、御台所の権勢は一層大きなものとなる。 
大五郎が3歳になると、近衛基熙は京から下向してくる。63歳だった。この歳でわざわざ下向しなければならぬような重要事項は傍目にはなかった。下向の名目としては、家宣の将軍宣下の儀式やその祝賀に訪れる朝鮮通信使・琉球慶賀使の接応における「典礼指南」であった。いずれにしても前例があることであり、幕府には儀式典礼担当の高家があり、あえて高齢の基熙に下向を願う必要はなかった。 
それでも基熙は嬉々として江戸に着くと、辰ノ口の伝奏屋敷に腰を据えた。初めは大奥で有職故実の講義をした。基熙は座敷での杖の使用を許され、2日〜3日おきに登城した。その内に、有職故実は政刑の典章だからと政務に口を出すようになった。 
将軍の岳父であり最高のもてなしを受けている基熙は、俄然周囲から注目を浴び、俗に「辰ノ口の大御所」といわれるようになり、幕府の役人や大名からどっと付け届けが贈られるようになった。近衛家の家紋は杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)、この家紋を付けることが武士や町人に流行り、基熙とちょっと関係があると匂わせるだけで、大いに恐れられ羨ましがられた。 
江戸考証家の稲垣史生氏によると、輿入れ当初の家宣の正室熙子は関東の武家風をバカにして近衛家から連れてきた侍女の斎局(いつきのつぼね、側室の斎宮とは別人)や錦小路を相手に、歌書や物語ものを読むことに熱中し、家宣は眼中外だったという。 
家宣は武芸に励んで京風の学問にはまったく疎かった。家宣が学問好きとなるのは碩学の新井君美(きみよし、白石)を召し抱えてからで、さらに公卿家の娘お須免が側室にあがると、このお須免が和歌・管弦に優れていたそうで、徐々に公家風に引かれていったという。 
ある種の近衛基熙フィーバーが現出する中、家宣は「百年に礼楽(れいがく)起る」という古語を思い出し、基熙に諮問する。幕府は創府100年になった、いまこそ典礼を改定すべきではないか?基熙答えて曰く、こういったそうである。「武家といえども朝廷より官位の任叙があり、官位相当の服制によって上下の品等が判然とし、自ずから秩序礼節が生まれよう、天下泰平のもとはまず服制にはじまる」 
幕府が公家社会の乱れを正すために発布した公家諸法度の服制の条項の趣旨に似ている。家宣の頃の武家社会は、基熙から逆にいわれるほど弛緩していたわけである。 
家宣はさっそく羽織を道服に改め、裃に替えて直衣(なおし)を作った。すべて吉宗の代で覆るが、大奥の服制は覆すことができず、幕末まで生き残ったといわれる。 
基熙によって、すべてに公家風が幅をきかす中で、内心苦々しく思っていたのが間部詮房であったろう。家宣の手前、基熙には面従腹背で接したろうが、自分が押すお喜世(月光院)の産んだ鍋松(家継)の影が薄くなり、公卿の娘お須免が産んだ大五郎が前面に迫り出してきたことに大いに焦ったと思われる。ここで間部詮房の経歴を紹介しておこう。 
間部詮房の経歴 
寛文6年(1666)甲府藩士西田喜兵衛清定の長男として、武蔵忍で生まれる。母は忍藩阿部家の家臣小川次郎右衛門の娘。 
貞享元年(1684)甲府藩主徳川綱豊(後の家宣)の小姓として召し出され、切米150俵10人扶持、翌年250俵、間部右京(後に宮内)と称した。その後、綱豊の寵愛を受け、同4年両番頭格。 
元禄元年(1688)奏者役格、同2年用人並、同12年用人へと昇進。俸禄は度重なる加増で、同16年には1500俵。 
宝永元年(1704)家宣の将軍綱吉養嗣子になるにともない、西の丸に供奉して幕臣となる。従五位下越前守に叙任され、書院番頭格西の丸奥番頭となる。翌2年西の丸側衆、1500石加増される。同3年正月に若年寄格、7000石加増されて1万石の大名となる。同年12月、従四位下に叙せられ老中次席に昇格。同4年7月1万石加増。 
宝永6年正月、家宣が将軍家を相続。同年4月侍従に叙せられ再度1万石加増され、老中格に昇進。翌年5月さらに2万石を加増され、上野国高崎城主として5万石を領す。 
6代将軍家宣・7代家継の側用人として幕政を主導する。 
政策案件は侍講の新井白石が補佐したが、老中・若年寄などに関する人事案件は将軍に代わって伝達し、幼将軍家継の時代には老中・若年寄の任命についても、間部詮房が直接申し渡したという。 
 
甲府時代の家宣に召し出されてから、5万石の高崎藩主となるまでに要した年数は26年。歴史のある巨大多国籍企業に高卒で入社し、44歳で代表取締役に就いたようなものか。異常な出世である。異常を可能としたのは、父の前歴が猿楽の能役者だったからではないかと思われる。 
甲斐国の能役者から出世した者に、大久保長安(ながやす)がいる。 
長安は武田信玄によって武士に取り立てられ、年貢徴収や鉱山採掘の仕事で手腕を発揮する。武田氏が滅びると家康に仕え、特に治水・土木の面で優れた力量を認められ、伊奈忠次や彦坂元正らと共に代官頭となり、関東18代官と八王子千人同心を統轄する。 
関ヶ原の役後に石見の大森銀山奉行に任じられ、「大久保鋪(しき)」という大坑道を開き、従前の倍近い銀の産出高を達成する。次に佐渡金山奉行に任ぜられ、新技術「水銀流し」という洗滌法(せんじょうほう)を用いて産出量を驚異的に高めた。 
幕府の財政は大いに潤ったが、長安も蓄財したという。生活が贅沢になり、長安の屋敷は江戸の他に主要な鉱山の要所地にあったといわれる。財務官僚として抜きん出ていたため、姻戚関係を結ぼうとする諸士が多く、徐々に長安背後の勢力が大きくなり、家康が警戒するほどになった。 
長安が病没すると、家康は長安の葬式を中止させ、生前に陰謀があったとして諸国に散在する長安の屋敷を探索させた。すると、ポルトガルと組んで幕府転覆を計る連判状が出てきたという。これによって長安の子供と一族は処罰され、その遺産は没収された。 
家康に填(は)められるほどの財産を遺したのであろう。 
 
能役者と鉱山開発者の関わりがポイントとなろう。歴史学者網野善彦氏は「日本論の視座」(小学館)において、「室町時代初期ごろの[庭訓往来](ていきんおうらい)が、市町(いちまち)の興行に当って招き居(す)えるべき輩として、鍛冶(かじ)、鋳物師(いもじ)、などの手工業者に加えて、猿楽、田楽、獅子舞、琵琶法師、傀儡師(くぐつし)、県御子(あがたみこ)、傾城(けいせい)、白拍子、遊女夜発(やはつ)などをあげている」と記している。 
「庭訓往来」とは名のごとく往来物(寺子屋で用いる教科書)の一種で、庭訓の意は家庭教育だが、この書は南北朝末期から室町前期に成ったとされる。往復書簡の形式で編集されており、各書簡に衣食住、職業、産物、政治、仏教、病気などに関する単語を列記し、日常生活に必要な語句が学べるようになっている。江戸期には注釈本、絵入り本など数多く版行され、武士の子弟や庶民の寺子屋教育に利用されたようだ。 
 
鍛冶や鋳物師が市場や町の興行(祭も含む)に招くべき輩とされたのは、鍛冶は包丁や鎌などの販売修理、鋳物師は鋤や鍋、釜などの販売修理を行なったからだろう。また、勧進興行になると梵鐘や九輪塔など大掛かりな製作にあたる鋳物師が招かれたであろう。彼らは熟鉄(じゅくてつ)・打鉄と呼ばれる原料鉄も持ち運びしていたから、鉱山開発者である山師とも接触したであろう。鉄・水銀・銅・銀・金などの山を見立てるのは山師であり、山師には金子(かなこ)や間歩大工(まぶだいく)などの専門職が付随する。 
長安が能役者の出身でありながら、鉱山採掘で際立った手腕を最初から発揮できたのは、数々の興行で鋳物師と接し、彼らを通して山師との知己を得ていたからであろうし、長安の資質として諸国の山々を渡り歩く山師のネットワークを使いこなすだけの器量があったからだと思われる。また、ポルトガルとの陰謀を云々されたところから、西洋の鉱山技術を日本の山師たちに仲介したとも思われる。 
 
間部詮房である。詮房の姓の間部だが、当初は父の姓の西田を名乗っていたらしい。父の元の姓は真鍋といったらしい。家宣の小姓として召し出された際に旧姓に戻すことが許されたが、家宣が真鍋ではなく間部の漢字にせよといったことから、それ以降は間部になったそうだ。読みは「まなべ」だが、「まぶ」とも読める。「まぶ」は「間歩」でもあり、間歩は坑道の意である。 
山師は諸国の山々を見立て歩く、同じように諸国の山を渡り歩く者に修験や木地師(きじし)、採薬師、石工(いしく)などがいる。求めるものは互いに異なるが、求めるものがあるからこそ情報交換をしたであろうし、その気になれば諸国の情報がかなり収集できたであろう。故に採薬師は紀伊藩の隠密役を務め、石工は幕府の黒鍬者として隠密探索を務めている。 
間部詮房は父親を通して山師などの廻国者を隠密として使い、幕府・将軍綱吉や御三家、有力譜代の動向を探り、家宣に報告していたものと思われる。家宣が江戸城へ入った後も隠密工作は続き、当然大奥へは女の隠密を紛れ込ませていただろう。 
従って近衛基熙によって大奥が公家風に色濃く染まる中、正室熙子や他の公家出身の側室、上臈、年寄たちの間に、これで大丈夫とする安堵感が生じたであろう、その間隙を衝いて大五郎は死に至らしめられた、と推測する。 
 
正徳2年(1712)10月、家宣が風邪をこじらせて薨去する。新井白石の自叙伝である「折りたく柴の記」に、家宣の遺言めいた記事が載っている。 
家宣が薨去する3ヵ月ほど前、病床に間部詮房と新井白石が呼ばれた。世子の家継がまだ4歳なので、自分が死んだ後は尾張藩主の徳川吉通(よしみち)に将軍位を一旦譲るか、あるいは吉通に将軍に就いた家継の後見役になってもらおうかと考えているのだが、これについて詮房と白石はどう思うか、そう諮問されたそうである。 
吉通に一旦譲るというのは、家継が成人するまで中継ぎとして将軍になってもらう意である。詮房と白石は、家継は現在健康なのだから将軍となるのは当然家継であり、万一のことがあれば御三家から選べばいい、と進言した。 
家宣の子はすべて短命で亡くなっていたから、詮房も白石も家継が成人するとは思っていなかったであろう。家宣が将軍位についてまだ3年、緒についたばかりの政策案件が多かったから、中継ぎ将軍や後見役をつけられては、これまでの政策を継続できない恐れもあった。殊に白石は、元禄以降金銀貨の質を落とす改鋳を行い収賄の噂のあった勘定奉行荻原重秀を追い詰めている頃だった。荻原重秀を罷免に持ち込むのはこの年の9月であるから、家宣の次期将軍案には強く反対したと思われる。 
家宣の死から家継が将軍位に就く間が7ヵ月空いている。これは少々もめたからであろう。家宣が考えた次期将軍案が当時の常識だったと思われる。当時(家宣薨去から家継将軍就職の間)の大老、老中に就いていた者を挙げてみよう。 
 
大老・井伊直該(なおもり)30万石彦根藩主58歳娘が阿部正喬の正室 
老中・土屋政直8万5000石土浦藩主73歳正徳元年に1万石加増47歳で老中 
老中・秋元喬知(たかとも)6万石川越藩主65歳正徳元年に1万石加増51歳で老中 
老中・大久保忠増11万3000石小田原藩主58歳50歳で老中 
老中・井上正岑(まさみね)5万石笠間藩主61歳53歳で老中 
老中・阿部正喬(まさたか)10万石忍藩主42歳40歳で老中養女が間部詮房の弟詮言(あきとき)の正室 
 
幕閣の実権は老中格側用人の間部詮房が握っていた。大老の井伊直該は正徳元年に大老に就いている。大老を辞職するのは正徳4年。譜代の名門中の名門を大老に就けたのは、譜代層の不満を抑える効果を狙ったものだろう。正徳元年には阿部正喬が老中に就いている。阿部も譜代の名門である。間部詮房は阿部と姻戚関係を結び、阿部と姻戚関係にある井伊も取り込んでいる。阿部正喬は吉宗が将軍になると老中を罷免されていることから、間部詮房の同調者と見られる。井伊直該は同調者かどうか判らぬが反対に回ることはなかったと思われる。 
土屋政直と秋元喬知は古参だが1万石を加増してあるから、反対派に回ることはなかったであろう。秋元喬知は絵島事件ではハッスルして取り調べた者だが、単に正義感が強かっただけであろう。大久保忠増は正徳元年に勝手掛(財政面)担当となり、現職のまま正徳3年7月に死没するが、正徳元年は家宣の代だから反対派ではなかったであろう。井上正岑は吉宗の代になると1万石加増されている。反対に回ったか、家継の幼さを問題にした可能性が高い。 
こう見てくると、反対や危惧する者はいたが、万一のことがあれば御三家からとなり、家継の将軍就任が決まったものであろう。 
 
ところで正室熙子はどうであったろう。家継の将軍位就任に賛成したか。形としては家継の母親である。が、家継の父の家宣が次期将軍案としてあのようなことを考えていたことから、反対はしないが危惧するところがあるとは述べたであろう。だが、本当のところは尾張を積極的に押したかったと思う。 
というのは、家継が将軍位就任して2ヵ月後に尾張藩主徳川吉通が薨去するのである。吉通は夕食時に血を吐き悶え苦しんで絶命したという。明らかな毒殺だった。あまりに明白すぎる毒殺からして、プロの手によるものとは思われない。藩主吉通の3歳違いの弟継友の側近の者か奥向き女中の仕業であろう。その者は家宣正室熙子の影響下にあったと推測する。 
近衛家は五摂家筆頭の家である。近衛家の娘が将軍の正室となったのは熙子が初めてだった。御三家や有力大名の正室は宮家や公卿の娘がほとんどで、彼女らは実家の侍女を連れて遠く江戸へ下ってきている。従って江戸では公家出身の女中たちのネットワークが自然発生的に出来上がっていたことであろう。このネットワークの頂点にいたのは当代では熙子であったろうから、熙子付きの奥女中の気配りが過ぎて先走ったことをすれば、その奥女中の指示は熙子からの命令と早とちりする輩もおり、さらなる先走りを生む。こうした連鎖の中で毒殺は行なわれたものと思う。 
吉通の死から3ヵ月して子の五郎太が死ぬ。新たに尾張藩主となるのが、毒殺された吉通と3歳違う継友である。継友は近衛基熙の子家熙の娘と婚約中であった。後に輿入れするから、尾張継友は近衛基熙にとって孫となり、正室熙子には甥にあたる。すでに朝廷では近衛家は第一の実力を持ち、尾張継友が将軍となれば将軍家と2代続きの外戚となり、公家のみならず武家社会においても隠然たる力を発揮できることになる。近衛家の野望、これにて成就す、という次第である。 
 
しかし、そう巧くはいかなかった。紀伊吉宗の隠密が尾張藩邸に潜入していた。断定してしまったが、おそらく間違いないと思う。後のことであるが、紀伊吉宗が将軍に就任する正徳6年5月に、尾張藩邸や水戸藩邸に薬売りに変装した町人姿の紀伊藩の隠密が出没していたとの記事が、尾張藩士朝日重章(しげあき)が書いた、「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)に載っている。なぜ紀伊藩の隠密と判ったかといえば、尾張藩側にその隠密の顔見知りがいて、声を掛けると逃げたというからである。わざとらしいから陽動作戦で、尾張藩邸を内偵している潜入する内通者を隠すための演技だったと思われる。 
内偵者は忍びの者であろう。数年前に潜入している公算が強い。こちらはプロである。このプロは素人が吉通を毒殺する仕掛けを見ていた、そしてこの素人が正室熙子につながることも判っていた、と推測する。 
なぜそう推測するか。家継が死に次の将軍を誰にするか、候補者4人が選ばれるのだが、その候補者を挙げると尾張継友、水戸綱條(つなえだ)、家宣の弟で館林藩主松平清武、そして紀伊吉宗。この中で血が濃い者、つまり家康から代数を経ていない者は家康3代の水戸綱條(61歳)と、同じく家康3代の紀伊吉宗(33歳)、次に血が濃いのは家康4代の松平清武(54歳)、次が同じく家康4代の尾張継友(25歳)。 
年齢と家格から尾張継友と紀伊吉宗の二人に絞られる。血の濃さと政策手腕では紀伊吉宗だが、若さと家格では尾張継友である。また、血の濃さといっても尾張は2代光友の正室が家光の娘千代姫で、千代姫が産んだ綱誠(つななり)が3代藩主となっており、血の濃さでは吉宗、継友に大差はないといえる。 
こうして次期将軍が吉宗、継友の二人に絞られた時、なんと家宣正室熙子が家宣の遺言があるといったのである。紀伊吉宗を後継にという遺言があったというのである。吉宗と熙子の間に何らかの取引があったとしか思えないのだ。熙子に弱みがあり、吉宗がそれを衝きながらも、10年後に将軍位を継友へ譲位するというような脅しと甘言を巧く使った取引が存在したのでは、と怪しむのである。  
ここで振り出しの絵島事件に戻ろう。 
吉宗が生まれたのは貞享元年(1684)である。絵島事件は正徳4年(1714)に起きている。吉宗の年齢は数えで31歳、満で30歳である。30歳を迎える女性の気持ちは判らぬが、男の気持ちは判る。これまで積み重ねてきたことを想い廻らし、30代をどのような実のあるものにするか。吉宗も想い廻らしたであろう。紀伊藩の藩政改革は軌道に乗り、黒字になりつつある。一方幕府の財政を見ると、赤字である。原因は4代家綱の時世から金山・銀山からの産出量が減少してきたことにある。荻原重秀が金銀貨の質を落として出目(差額利益)を出して凌いできた。いまは金銀貨の質を元へ戻した結果、デフレになっている。自分が将軍になれば違った方策で・・・と考えても不思議ではない。 
 
家継が邪魔だが、大奥には手出しができなかった。大奥には家継を守るために間部詮房が配備した女中たちがいたるところにいた。詮房は1年に数回しか自分の屋敷へ帰らず、江戸城で寝泊りしたといわれる。それほど仕事熱心でもあったが、後ろ盾の家宣を亡くしたいま、家継は詮房にとって死守すべき最後の玉である。とても屋敷などへ帰る心持ではなかったはずだ。 
吉宗は大奥のことは大奥に任せた。間部詮房が配備した女中は家継付きが最も多かったであろうが、家継の生母月光院付きの女中たちとは仲が良かったはずである。そこで熙子は、絵島の行動を問題視すれば、家継付きの女中たちも芋づる式に大奥から一挙に追放できると考えた。熙子は我ながら妙案だと思ったのではないか。 
しかし、現実は熙子の思い通りに進まず、家継付きの女中で絵島事件に連座して追放される者の数は少なかった。 
ここから間部詮房と月光院の反撃は始まる。気位の高い熙子を貶めるにはどうすればいいか。熙子の後ろ盾になっているのは近衛家である。近衛家を貶め、さらに間部詮房・月光院陣営の地位を高める一石二鳥の策は、家継に天皇の姫を迎えることである。 
熙子と近衛家に反対されぬよう大義名分を立てねばならない。幼いことからくる将軍の権威の低下を高めるものとして皇女降稼を賜う。これなら形としては将軍の母、祖父になる熙子、基熙に反対はできない。 
当時の天皇、中御門天皇は15歳で家継に降稼さすべき子女や皇妹はいなかった。対象となりそうなのは中御門天皇の祖父、霊元法皇(仏門に入った上皇)の皇女だけだった。八十宮(やそのみや)といい、2歳であった。 
霊元法皇は幕府が嫌いだった。が、それ以上にソリが合わなかったのが近衛基熙であった(詳細はこちらを参照)。かってない皇女降稼の婚約が整うのは、霊元法皇の基熙嫌いだったわけだ。 
正徳5年9月、正式に八十宮の降稼が決まり、翌正徳6年2月に結納の儀が終わる。そして、2ヵ月後に当の家継が亡くなってしまう。間部詮房の落胆は言葉にできないものだったろう。守り切れなかった自責の念のみが強烈に自分自身を突き上げたはずだ。 
 
吉宗が二の丸から本丸に入る前に間部詮房は側用人を解職され、雁之間詰となり、翌享保2年高崎から雪深い越後村上へ移封。享保5年(1720)逝去、55歳。 
新井白石は解職されなかった。寄合だから最初から無役。しかし実質は側用人補佐役のような形で幕政に参与していたから、間部詮房が解職されたら無力な存在、自ら致仕した。享保10年(1725)逝去、69歳。 
熙子(天英院)、元文6年(1741)薨去、80歳。 
月光院、宝暦2年(1752)薨去、68歳。 
絵島、許されないまま流罪地信濃高遠で寛保元年(1741)逝去、61歳。 
吉宗、宝暦元年(1751)薨去、68歳。 
近衛基熙、享保7年(1722)薨去、75歳。 
尾張継友、享保15年(1730)薨去、39歳。  
御客応答(おきゃくあしらい、御客会釈の表記もある)

 

 
将軍が大奥に入った時の接待や、御三家・御三卿・諸大名などからの女使いの接待役。毎月1回の大奥の部屋部屋を見て廻る御留守居廻りの際は立ち会った(御留守居とは表御殿の5000石高の役職で、大奥や広敷役人などを統轄していた)。地位は姫君付きの御年寄と同格。年寄・中臈・表使・錠口などが隠居した後の役といわれるが、その老獪さは来客を利用して、外部の人間を動かすことがしばしばあったようだ。 
中年寄(ちゅうどしより) 
御台所、御簾中(ごれんちゅう、将軍世子の夫人)、姫君に限り付く役。将軍や将軍世子には付かなかった。年寄の指図をうけて働き、年寄が病気などの際は代理を務めた。毎朝仲居から魚、青物などの書き出しを取り寄せ、御台所の献立を指図し、毒味役も務めた。 
御中臈(おちゅうろう) 
将軍や御台所の身の回りの世話役。元来は御台所付きの役で、大身旗本の娘が小姓を経て中臈になるのが建前だった。将軍付きの中臈は御年寄が合議の上で決めた。ただし、将軍の目にとまって寵愛をうけた場合は、どんな地位の女中でも直ちに中臈となった。これを「御手付御中臈」と称し、その他の中臈を「清(きよ)の御中臈」と称した。部屋を賜るのは中臈の筆頭の者だけで、その他は御客応答か御錠口から選ばれた世話親の部屋で二、三人ずつ合宿していた。御手付御中臈も将軍の子女を産まない限り部屋は賜らなかった。 
御台所付きの中臈の勤務は、出番・お袖・非番と三分担し、出番は朝四ツ(午前10時頃)に出て、八ツ(午後2時頃)に一旦部屋に戻り、夜再び務めて翌朝交替した。お袖は九ツ(正午)か八ツ(午後2時頃)から翌朝四ツ(午前10時頃)まで務めた。 
将軍付きの中臈は、1日に3回だけ大奥にわたる将軍の身の回りの世話をするので、御台所付き中臈のような定めはなかった。 
御台所付きの中臈が将軍の目にとまり希望された場合は、将軍付きの年寄から御台所付きの年寄にその旨を伝達し、御台所の許しを得て、さらに本人を承諾させて後に初めて将軍付きとなった。これを「御付け替え」と称し、御台所から将軍へ差し上げる形をとった。 
しかし、本人が嫌なら断ることもできた。こうした際は世話親が説き聞かせ、父の扶持を取り上げるなどと脅したりしたという。それでも嫌ならば無理強いはせず、暇を出されて親元へ帰された。 
御小姓(おこしょう) 
大身旗本の娘が7歳頃から務め、13歳になると元服して「元服小姓」と称した。御台所、御簾中、姫君の御側に仕え、煙草や手水(ちょうず)などの世話をした。将軍の大奥入りした際は、錠口で男の小姓から将軍の佩刀(はいとう)を受け取り捧持もした。16歳位になると中臈になった。 
御錠口(おじょうぐち) 
表御殿の中奥(将軍の官邸)と大奥とを連絡する御鈴廊下の端の杉戸が、中奥と大奥の境だった。この境の御錠口(上ノ錠口)を管理した。本役と助(すけ)があり、錠口近くに設けられた詰所に勤番した。中奥の錠口を管理する「奥之番」と掛け合い、中奥との取次ぎ役を務めた。 
なお、御鈴廊下は9代将軍家重の時世の初めころまでは一本だったが、以降になると二本になったという。二本目の廊下は将軍が中奥から大奥にある将軍生母の住居「御新座敷」へ出向く時や、将軍が大奥で食す料理の品を中奥から「奥御膳所」(献立調進所)へ運ぶ時に使用した。 
表使(おもてづかい) 
大奥の外交係。大奥は三つの区画に分かれている。御殿向(正室・側室の居室や奥女中の詰所)・長局向(奥女中の住居)・広敷向(大奥の事務・警備を担当する男の役人の詰所)があり、御殿向と広敷向との境にある錠口(下ノ錠口)を管理。年寄の指図をうけて大奥一切の買物を担当し、留守居や広敷役人と応接した。買物があると広敷用人に通知し、また表御殿から広敷用人へ伝達してきた用向を御台所に取次ぎ、その返事を広敷へ通知した。 
将軍の奥泊まりは、宵の内に将軍から沙汰があった。沙汰された小姓ないし小納戸は御錠口で鈴を鳴らし、表使を呼び出す。その旨を伝えられた表使は、年寄に報告するのだが、この時には相手をする中臈は将軍から指名されていたそうだ。すなわち、大奥で勝手に中臈を決めて将軍へ勧めることはできなかったのである。 
この役は年寄に次いで権力があり、才智に優れた者が務めた。 
御右筆(ごゆうひつ) 
日記や諸向への達書、諸家への書状などを担当。御三家、御三公卿、諸大名からの献上物などは、右筆が検査した上で年寄に差し出した。職務は多義にわたり表御殿の奥右筆と同様な仕事だったという。すなわち年寄の政務補佐官兼秘書官であった。 
御次(おつぐ) 
道具や献上物の持ち運び、親戚との対面所などの掃除を担当。各種の催しがある時は演ずる役でもあり、遊芸一般に通じた者が選ばれた。 
 
昇進過程を眺めると、概ね御次からスタートしていることが判る。御次からいきなり中臈へ進んでいることを考えると、将軍が何かの催しで当の御次女中の遊芸を観覧して、目を付けたものと思われる。御次は目を付けられる機会が多い役だから、これぞと思う娘を御次に付ければ、将軍の子女を産むという確率が高まることになる。表御殿の役人で野心のある者は、大奥の幹部クラスと組んで、これぞと思う娘を探し出し大奥へ送り込み、その娘を懇ろとなった大奥幹部が御次に就ければ、翌年には将軍の男子を産んで、自分は一躍権勢家などという夢想をしたかもしれない。たが、表の親元を見ると、まんざら夢想ともいえないことが判る。 
ところで、将軍の子女を産んでも将軍家の家族にはなれなかった。上臈年寄上座というのは特別待遇ではあるが、依然として将軍家の使用人であろう。将軍の男子を産み、その子が将軍世子となって御内証之御方と称される。6代家宣以前は判然としないが、御内証之御方とは家族同然ということだろう。実に狭き門である。  
春日局

 

 
斎藤福 [さいとうふく、天正7年-寛永20年 (1579-1643) ] 安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。
幼少期から稲葉正成の妻となるまで
実家の斎藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門だった。福の実家の斎藤家も、この一門である。守護代斎藤氏が滅びると、一門であった斎藤家は明智氏に仕官した。福は、父・斎藤利三の所領のあった丹波国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は家臣として丹波国内に光秀から領地を与えられていた。
光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上郡全域を守護していたものと思われる。福は黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。
福は城主の姫として、幼少期をすごした。
その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。
福は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。
家光の乳母へ
福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。
将軍様御局
家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であった万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。
「春日局」が下賜される
寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜る。その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる。
寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。
死去
寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺。
死去の直前に当たる9月10日、家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。この上意は新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。以後正則・正俊はそれぞれ幕閣に登用され、老中・大老に就任、幕政に参加した。 
人物
○ 家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、徳川秀忠・江夫妻が竹千代の実弟・国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年(1615年)、駿府にいた大御所・家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされる。この直訴はその時は失敗し、後に家康が江戸城を訪れた時にその江の溺愛ぶりを見て考え直した、という説もある。
○ 江との対立として伝えられる事件としては、江に対抗意識を燃やして家康に訴えたことや、そのために駿府まで走っていったことは江戸時代の創作であると考えるのが近年では通説である。同様に、夫の浮気に怒って相手を殺して家を飛び出したこと、後水尾天皇に譲位を迫った(実際は譲位をしないように働きかけたのだが、さほど身分も高くない春日局がでしゃばったことに天皇が怒り、譲位を強行した)ことも創作であるとされる。
○ 狩野探幽筆の肖像画が麟祥院に所蔵されている。
○ 2012年、西本願寺で春日局の直筆の手紙が見つかる。自分の奉公人の母が西本願寺にいると知り、自ら筆を執り良如に「(部下を)母親に会わせ、西本願寺で奉公させてもらえたら大変ありがたい」と頼んでいる。春日局のような身分の高い人物が奉公人のために手紙を書くことは異例で、彼女の優しさや母性が垣間見える貴重な史料とされている。
○ 老中井上正就の嫡子の正利の縁談に春日局が介入し、結果、恨みを持った人物により正就は江戸城内で殺害された。江戸城内における刃傷事件の初例の原因は、春日局の権勢による圧力の結果である。
異説
○ 出生地については光秀の居城のあった丹波亀山城(京都府亀岡市)や坂本城(滋賀県大津市)などの異説がある。
○ 将軍家の乳母に登用された経緯には、京都所司代板倉勝重が一般公募した話などが伝えられる。あるいは、秀忠の正室・江の侍女である民部卿局の仲介で乳母となったともされる。また、家康の手が付いていたという見方もある。乳母に過ぎない身分の者が将軍世継ぎ問題で家康に直訴したとしても、通常家康が会うとは考えにくいとして、お福がかつて愛妾の一人であったとする説もあるが、定かではない。映画「女帝 春日局」(1990年)はこの異説で描かれている。
○ 春日局は通説では徳川家光の乳母であるが、小説家の八切止夫は春日局が家光の生母という説を立てている。詳細は徳川家光の記事を参照。
○ 大奥では、乳母は黒子のように覆面をして授乳する奇習があった。これは春日局の権勢に懲りた幕閣が、将来の将軍と乳母のつながりが深くなり、後に政治に介入されるのを避けるために考案した風習という説がある。
○ 山崎の戦いの後、義理の叔父である長宗我部元親を頼り、土佐の岡豊城で過ごしたという説がある。
縁故により出世した人たち
○ 春日局が参内できるよう画策した三条西実条は、後に朝廷から武家伝奏に任じられ、最終的には右大臣になった。子孫の玄長は、幕府に高家肝煎として迎えられた。その際、縁のあった武家名字「前田」を名乗った。
○ 春日局が強く望んで大奥入りさせられたお万の方は、三条西家の同僚の和歌の家である六条家の娘である。後に彼女の弟・氏豊も幕府から高家として迎えられ、その際にこちらも縁のあった武家名字「戸田」を名乗った。
○ 離縁した稲葉家の再興にも尽力し、浪人していた元夫の稲葉正成は松平忠昌の家老として召し出され、のち大名に取り立てられた。家光の小姓から老中に出世した者は多いが、その中には春日局の縁者も多い。特に実子である稲葉正勝と義理の孫に当たる堀田正盛が著名である。
○ 姪の祖心尼とその夫:町野幸和が蒲生氏改易に伴い浪人した際には、祖心尼を自分の補佐として出仕させ、また祖心尼の外孫・お振を大奥に入れた。お振は家光の側室となり千代姫を産んでいる。幸和も幕府直参旗本として取り立てられた。
○ 海北友雪:海北友雪の父友松は春日局の父斎藤利三が山崎の戦いで敗死すると、利三一家を厚く庇護したことがあった。そのことより春日局の推挙で徳川家光に召し出され、その御用を仰せ付けられた。
○ 斎藤利宗:春日局の実兄。明智家滅亡後は、加藤清正に仕えていたが、後に徳川家光に5千石の旗本として、取り立てられた。 
「江戸城三刃傷」
「江戸城三刃傷」と呼ばれるものに、貞享元年(1684)の若年寄稲葉石見守正休(いわみのかみまさやす)が大老堀田筑前守正俊を殺害した事件、元禄14年(1701)に浅野内匠頭長矩(たくみのかみながなり)が吉良上野介義央(こうずけのすけ)に斬り付けた事件、そしてこれから紹介する刃傷事件として最初のものがある。 
寛永5年(1628)8月10日、老中井上主計頭正就(かずえのかみまさなり)が目付豊島刑部少輔明重(ぎょうぶしょうゆうあきしげ)に、西の丸殿中で殺害される。抱き止めた者まで殺害したというから、浅野長矩とは格段の違いである。 
刃傷に至った原因は明瞭ではないが近世史学の水江漣子氏によると、「武野燭談」(ぶやしょくだん「江戸史料叢書」人物往来社)、「窓のすさみ」(「江戸著聞集」有朋堂文庫)が春日局の遠因説を伝えているという。 
井上正就の嫡子河内守正利と大坂町奉行島田越前守直時の娘の縁談がまとまっていた。仲人は豊島明重であった。これに春日局が介入した。春日局は井上正就を召し出し、「上意」と称して鳥居土佐守忠政の娘と縁を結ぶように命じる。井上はこれを承諾し、豊島明重に島田直時の娘との破談を申し出る。 
井上は天正5年(1577)生まれでこの年52歳、春日局は天正7年(1579)で井上より2歳年下である。老中格の井上を召し出し、上意であると告げるのだから頭抜けた権勢である。家光が将軍位に就くのは元和9年(1623)だが、秀忠は大御所として寛永9年(1632)まで健在で、事件の寛永5年は家光に実権はなかったはずだ。 
春日局が縁組を命じた鳥居忠政は出羽山形22万石を領有する、家康2代前の松平清康から仕える譜代の名門である。鳥居忠政は刃傷事件の翌月に病没し、嫡子忠恒が継ぐが寛永13年(1636)に継嗣を指名せぬまま病没したため断絶改易となるが(後に名跡相続3万石)、事件当時は22万石の名門譜代の国主大名だった。 
井上正就の家は父の清秀から家康に仕え、正就は天正17年(1589)に秀忠に近侍し150石を与えられ、元和元年(1615)1万石を加増され大名に列している。その後も加増され、事件当時は遠江横須賀5万2000余石を領有していた。 
春日局に命じられた形だが、井上にとっては良縁であったわけだ。自らも大名となったのだから大坂奉行クラスの小身旗本より22万石の鳥居と縁組したほうが井上家の将来性はある。たぶん春日局は破談を申し入れねばならない井上の立場を斟酌して、「上意」と称したものであろうか。 
井上に破談を申し入れられた豊島明重は、大いに困惑しただろうが、結末から推測すると上意を盾にしたであろう井上に憤慨し、面目を潰されたと激怒したはずだ。豊島は島田に自分の不明を詫びる手紙を送ると刃傷に及び、8月14日切腹を仰せ付けられ豊島家は断絶。 
事の顛末を聞いた島田直時は、自分の娘の縁談で豊島を刃傷へと追い詰めたことを申し訳なく思ったようで、自裁してしまうのである。 
「武野燭談」の巻之五には、春日局は諸大名の婚姻には特に干渉し、諸大名の息女たちを時々大奥の広座敷まで呼び出して、それぞれの縁組を申し渡すのが常だったという話が載っているという。凄い権力を持っていたことになる。春日局とはいったいどのような人間だったのか。家光の乳母になる前の、「お福」時代の春日局を知りたいものである。 
お福は美濃の名族斎藤内蔵助利三(くらのすけとしみつ)の末娘として生まれている。母は稲葉刑部少輔通明(ぎょうぶしょうゆうみちあき)の娘でお阿牟(あん)。 
父の利三は明智光秀の重臣で、豊臣秀吉との山崎の合戦に敗れ自裁。父の死後、お阿牟とお福らは縁故を頼って堺に逃れる。さらに父利三の妹が正室となって嫁いでいた、四国の覇者長宗我部宮内少輔元親(ちょうそかべくないしょうゆうもとちか)を頼って土佐へ渡る。 
土佐へ渡るにあたって便宜を計ったのは、明智光秀や長宗我部家と交流があった堺の茶人・豪商今井宗久だったといわれる。 
長宗我部家とは父利三の妹が正室となっているだけでなく、父利三の弟石谷兵部光政の娘が、長宗我部元親の嫡子信親(のぶちか)の正室として嫁いでおり、かなり親しい間柄にあった。お福は土佐の岡豊(おこう)城下で不自由なく暮らせたであろう。 
やがて長宗我部家も秀吉と戦うことになり、降伏した結果、阿波・讃岐・伊予を取り上げられ土佐一国のみとなる。さらに秀吉の出兵命令により九州へ出陣するが、豊後戸次川(べつきがわ、現・大野川)において島津軍に大敗、この時、長宗我部信親と石谷光政は戦死する。お福の親しんだ人たちが亡くなっていく。再び父利三の死を知った際の感慨が湧いてきたかもしれない。 
長宗我部家に御家騒動が起きる。戦死した信親の後継争いが泥沼化し、二人の兄を飛び越えて四男盛親(もりちか)が跡継ぎに決まるが、これを批判した者たちは誅戮されてしまう。元親が健在であったため、お阿牟とお福らの待遇は変わらなかったというが、目の当たりに御家騒動を見たお福には、後年の教訓となるものがあったはずだ。 
お福の長兄斎藤平十郎利宗は山崎の合戦に敗れた後、細川幽斎に預けられ、その後に加藤清正に仕えていた。この頃、尾張・美濃の大名衆が秀吉の正室ねね(後の高台院)の取り巻きを形成していた。お阿牟には戦国の女性としての子育ての理念のようなものがあったのかもしれない。お阿牟はお福らを連れて上方へ戻り、長宗我部家の正室一族として、大坂・伏見の長宗我部屋敷に住み、お阿牟の伯父稲葉一鉄の正室が大納言三条西実條(さねえだ)の娘であったことから、尾張・美濃の人脈のみならず公家人脈とも旧交を暖め、新しい人間関係を築いていったようだ。 
稲葉一鉄の庶子に稲葉重通がおり、この重通の婿養子に美濃十七条城主林政秀の子、稲葉八右衛門正成(まさなり)が入っていたが、重通の娘が一子を残して病没したことから、お福が重通の養女となり正成と結婚することになる。お福17歳、正成26歳であった。 
正成は当時、秀吉の甥である羽柴金吾中納言秀秋に仕える禄高2万石の重臣だった。秀吉に仕えていたが、幼少で丹波亀山10万石の大名となった秀秋に付けられていた。 
秀秋はその後、筑前名島(なじま)33万6000石の小早川隆景の養子となり、小早川家を継ぐ。 
お福が初めての子正勝を産んだ年に、小早川秀秋は二度目の朝鮮出兵の総大将を命じられ、夫の正成も出陣する。小早川家が朝鮮に出兵するには多額の金銭を要したであろう。領封した筑前名島には博多も封内にある。お福は堺の今井宗久・宗薫(そうくん)父子を介して博多の豪商神谷宗湛(かみやそうたん)らと交流があっただろう。正成も小早川家の家老として、封地の年貢を抵当にして出兵資金を調達したであろう。 
当然稲葉家の蓄財も行なったはずだ。当時の南蛮船の寄港地は平戸から長崎へ移っていたが、博多の神谷宗湛らは何人かの出資者と組んでリスクヘッジをし、盛んに長崎からアモイ、ヴェトナムなどに交易船を出帆させていたから、かなりの蓄えができたのではと思われる。 
ところがこの豊かな封地から小早川秀秋は、越前15万石へ移封されてしまう。朝鮮の戦役で秀秋は軍功を立てるのだが、石田三成などの讒言があったようだ。そのため封地を半減されたらしい。 
しかし秀吉が死没すると、五大老の筆頭家康によって秀秋は旧領筑前名島33万6000石に復す。関ヶ原で秀秋が転向するのは、高台院(秀吉正室ねね)や秀吉・ねね夫婦子飼いの加藤清正、福島正則らの働き掛けだけではなく、旧領に復させてくれた家康の以前からの配慮もあっただろう。 
関ヶ原後に秀秋は備前52万石を領封し、稲葉正成も5万石となった。だが、世間から裏切り者との烙印を押された秀秋は、老臣を殺すなどして狂乱していく。秀秋を見限る家臣が相次ぎ、正成も秀秋のもとを去り美濃谷口村に隠棲してしまう。果たせぬ野心に悶々の日々を送る正成だった。お福は四男を懐妊していた。正成はやがて京・大坂に出て仕官の道を探すが、浪人の身を抜け出せぬどうにもならぬ慰めに若い女に手を出し始める。 
そしてこの頃、父利三の友人でお福も親しく交遊していた京の絵師海北友松(かいほうゆうしょう)から手紙が届く。徳川秀忠と正室お江与の方の嫡子竹千代の乳母に、お福を推薦する者がいると記してあった。 
正成に愛想尽かししたお福は、産んだばかりの正利を一度抱いただけで家を出、海北友松からの手紙を正成に送り付けたという。京へ上ると三条西の屋敷に、今井宗薫と南禅寺金地院(こんちいん)の僧以心崇伝(いしんすうでん、金地院崇伝とも称す)が待っていた。 
金地院崇伝は家康の側近で「黒衣の宰相」などと呼ばれる政僧、今井宗薫は秀吉の死後に家康に取り入り関ヶ原の軍資金や武器を調達した政商である。この二人が推薦したのであるから、お福は単なる乳母ではなく、それ以上のものを彼らから期待され、また期待されうる器量を持った女人だったのであろう。「春日局」はお福がなるべくしてなった人物像といえようか。  
春日局諸話  
亭主も子供も置き去り  
三代将軍家光の話には、何としても乳母春日局(斎藤氏、福子)を取除けられません。その春日局は名高い女でありますから、かれの経歴もあまねく世間に知られて居るようですが、誰でもする春日局の話によって、伝えられた彼の人柄は、私どもの甚しく疑うところであります。  
かれは明智日向守光秀の部下として勇名を馳せ、粟田口で磔にかかりました斎藤内蔵助利三の女で、佐渡守利光、後に朝鮮征伐に強勇の聞えを取った斎藤竜本を兄に持ち、浮田中納言秀秋の家来林八右衛門(稲葉佐渡守正成の前名)の後妻になり、男子二人を産みながら、離縁して家光の乳母に出たという女なのです。  
春日局が家光の乳母になりましたのは、慶長九年七月十五日で、二十六歳の時ですが、二人の子供は慶長二年に産んだ丹後守正勝が八歳、慶長九年に生れた内記正利は当歳、この正利が生れた年に乳母になったのです。春日局は生れたばかりの正利を残して、何故稲葉家を去ったのでしょう。稲葉正成はまた何故女房を離縁したのでしょう。  
「麟祥院清話」には春日が乳母に任用されて江戸ヘ下った後に、本夫たる故を以て、正成も徳川家へ任用されると聞いて、妻の脚布に裹(つつ)まれて出る士ではないというので、急に離別したのだとありますが、それほど立派な見識のある正成ならば、何故自分の妻を徳川氏の乳母にしたか。家康の嫡孫の乳母の本夫ならば、早かれ晩かれ俸禄の来る日があるのは知れきって居ります。女房の御蔭を蒙りたくないたらば、竹千代(家光の幼名)の乳母などに出さぬがいいので、春日だって亭主の承知しないのに、乳母になろうとする筈がないと思うのです。  
ただ稲葉正成はその時既に浪人して居りました。春日が本夫が埋れ木の花咲くこともなさそうなのを心配して、世間へ出そうというので情を忍び、本夫と愛児とに哀別し、身を夫や子供の青雲の梯にするつもりで、乳母になって遠く関東ヘ下ったのでしょうか。それならば悲しい女房の親切に対して、正成もさすがに差留めかねる事情もありましょう。  
ここのところが頗る不明瞭でありますが、それを仮定すれば、妻の親切に対して関東行きを差留めかねたけれども、何と考えても嚊の御引立てを受けるのが辛抱しきれない。そこで煩悶懊悩の結果が絶縁となったのでしょうか。そうすると稲葉正成は煮えきらない、武士らしくない男になってしまうのみならず、春日もまた妙なものにならなければなりません。三百二十年前の離縁話ではありますが、今更のように首を傾けて、思案する余地はたしかにあります。  
新井白石も「藩翰譜」を書きますのに、いろいろな雑説を採らず、「正成初め斎藤内蔵助利三が如何なるゆゑやありけん、此妻、家を出て後、将軍家の若君竹千代殿の御乳母となされ」といって、離縁の事さえ云わないで、一切を不明瞭のままにしてあります。白石ばかりではない、誰にしても正成が幕府の下に大名になった順序から眺めて往きますと、妻の脚布に裹まれて、立身出世する武士ではないなどと、男らしく立派な言を吐いたとは信ぜられません。正成が慶長十六年、越前参議忠直卿に付けられて、大坂落城の際に軍功を立てましたのも、御乳母春日の故に早く召出されたからです。その忠直が元和九年五月に、豊後萩原へ配流になりました後、正成は春日へ申立てて幕府へ召返して貰いました。正成は女房お福の脚布にくるくる裹まって立身したのです。けれども越前家では永見右衛門の娘を娶り、幕府へ戻っては松平土佐守の女を迎え、春日局のお福の後に二度も妻を迎えて居りますから、春日を離別したのは事実に相違ありません。  
この離別に就きまして、「香宗我部記録」に「嫉妬にて佐渡守家を出、京都に行」とありますが、系譜で見ますと、正勝と正利との間に、異腹の女子があります。この女子は後に堀田勘左衛門の妻になり、加賀守正盛を産んで居りますが、申すまでもなく正成は妻でない、他の女にこの娘を産ませたのです。それで春日は嫉妬に堪えぬから、正利の分娩を待ちかねて、亭主も子供も置き去りにして、京都へ往ってしまったものらしい。稲葉の方では離縁するもせぬもあったものではありません。置き去りにされたのですから、三行半を与えるより外に方法はないのです。
嫉妬で名高い御台所  
焼餅黒々としたこの春日は、家光の乳母になって、千代田城の大奥へ入り込みました。家康の正妻築山御前(関口氏)は嫉妬で著名なものでありましたが、二代秀忠の夫人江子(こうこ)もまた嫉妬で名高い女であります。この人は浅井備前守長政の女で、淀君の妹に当るのですが、江子が伏見城へ入輿致しましたのは、二十三歳の文禄四年九月でありまして、その時秀忠は十七歳ですから、六つも違う姉女房なのです。第一の夫である尾州大野城主佐治与九郎とは生別し、第二の夫の丹波少将秀勝、第三の夫の九条左大臣道房とは死別して居りますので、丙午ではないかと思って繰って見ましたが、天正元年生れですから、まさしく癸酉である。秀忠は第四の夫に当るわけで、特に九条家では女子を二人も産んで居ります。新郎古婦とでも云って見たいような間柄でありますのに、焼餠の方は真黒々に焼き立てました。そうして結婚後十八箇月目の慶長二年四月十一日に千姫、四年六月十一日に子子姫(ねねひめ)、五年五月二十日に勝姫、六年十二月三日に長丸(おさまる)、七年七月九日に初姫、九年七月十七日に家光、十一年五月七日に忠長、十二年十月四日に和子(東福門院)を産んだのです。二十五歳から三十五歳までの十箇年問に、男女八人の母になったわけで、この分娩と妊娠とを、閑な御方は勘定して御覧なさい。その忙しいこと、殆ど失笑を禁じ得ません。秀忠の庶子はただ一人で、他は悉く嫡出の子女であります。その庶子肥後守正之は、慶長十六年五月七日の出生で、秀忠が三十三歳の時の子なのですが、奇妙なことに秀忠はその後に子がありません。正之の生母であるお静は、江戸近い板橋在の竹村というところの大工の娘で、部屋方へ奉公していたのに、秀忠が手を付けたのです。お静が懐胎したといっては、御台所浅井氏が納まりませんから、秀忠将軍も頗る閉口の体で、田安の閑栖にいる見性院(穴山梅雪の寡妻)を頼んで、ひそかにお静の始末をさせました。  
正之は足立郡大間木村の民家で生れ、やがて保科弾正大弼正光の養子にしてしまったのです。庶子であるにもせよ、正之は秀忠の末男でありますのに、御台所を憚って全く秘密にされ、その生前には父子の対面すらなかったのですから、二代将軍も随分な恐妻家であります。  
例の駿府逗留中の秀忠のところへ、家康が十八歳の美女に菓子を持たせて遣したところ、秀忠は上座へ引いて菓子を頂戴し、その方の御用は相済んだ、早く立帰れといって戸口まで送り出したという話、家康がそれを聞いて、将軍は律儀な人だ、予は梯子をかけても及ばぬ、と感心したというのですが、或はそんな宣伝芝居も行われないとも云えず、また秀忠は甚しく親父を恐れた人でもありますから、何も彼もなしに、ただ恐縮してしまったのかも知れません。併し私どもはお静に正之を産ませた手並を心得て居りますので、一概に彼の謹厳慎重を信ずるわけにも往かぬのです。  
手近い「視聴草(みききぐさ)」などを見ましても、後藤源左衛門忠正の女が、崇源院に仕えて大橋局といった、台徳院の御寵愛を蒙ったが、権現様の上意によって庄三郎光次に嫁した、というようなことが出て参ります。崇源院は江子の法名、台徳院は秀忠の諡号ですが、そうして見れば金座の後藤庄三郎の妻は、秀忠のお古なのです。それは家康も御存じであるに拘らず、お静の外には寵女がないことになっている。何故そうなっているかといえば、秀忠の恐妻のためなので、実は御台所江子の嫉妬の凄まじさを立証して居ります。我国に避妊の行われたことは、決して新しくありません。翻訳の新マルサス主義を珍しがったり、サンガー婆さんで騒いだりするのは、何も知らない連中のことでありまして、四百年乃至五百年前から、或階級には巧妙に実施されていたので見れば、二代将軍の奥向にも、嫉妬除けの厭勝(おまじない)として、或方法が行われていたかも知れません。
美人ではない  
こう考えて参りますと、「落穂集事跡考」の「若君の御実母御台所無類の嫉妬にて、春日局の年頃といい容儀あるを、台徳公の御手付かんかとの御疑ひより、諸事若君へうとくあられ候」というのが、私どもの眼を射るように感ぜられます。春日局は秀忠将軍と同年で、御台所江子は六つも年上なのですから、嫉妬の眼玉が光るのも無理はありませんが、伝説によると、春日局は美女でなかったといいます。それはかれの木像を安置してある湯島の麟祥院に伝わった説なので、木像を製作する時分に、つとめて容貌に似せて持え、両三度も改作させましたが、何分にも気に入らない。そこで仏師が考え直しまして、極めて柔和な容貌に持え、ただ瞳だけを写実にして見せたところ、漸く満足したというのです。  
現存する麟祥院の木像は、如何にも鋭い目つきをして居ります。しばらくこの伝説から逆に考えますと、春日局は凄まじい顔でありましたろう。無論悪女ではありませんが、好んで柔和な容貌に持えさせながら、また平凡になるのを避けて、目つきだけを鋭くさせた、そこに本人の人柄が露出して居ります。我執の強い、意地の悪い、小才の利く、御殿女中気質の標本に適当な女なのですから、春日局は決して嬉しい人物ではありますまい。秀忠との間柄は、果して御台所が睨める程度に達していたかどうですか、何とも判断することは出来ませんが、自分の腹を痛めた家光、忠長の二児に対して、際立てて愛憎し、全く家光を顧みないようになりましたのは、春日を睨む余り、諺にいう坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いわけなのでしょう。一体なら怜悧な春日だけに、家光を冷遇する御台所の心の底には、嫉妬のあるのを知らずにいる筈はありません。知っていたら御仕え申す幼君の御為を思って、速かに退身して御台所を安心させ、家光の安全を図らたければならぬのですが、  
意地の強い春日には、己れを撓めて無事を計ろうなどということは、夢にも考えられなかったのです。御台所は国千代(忠長の幼名)を殊に寵愛されましたので、幕府の吏僚は勿論、諸大名までが国千代の御機嫌を取難すように仕向けたのみならず、家光は長子でありますのに、衣服の給与さえ怠り、食饌も国千代より悪くしました。家光が呉服所後藤縫殿助に与えた墨付に「其の方の恩を忘るゝに於ては、黒本尊の御罰を蒙るべき也」と書くほどに感悦したのは何であるかといいますと、縫殿助は春日と昵近でありましたから、年中の御召物を無代で献進し、御不自由な物は何といわずに差上げたからであります。  
家光、忠長の両公子といううちにも、家光は嫡長子で三代将軍になるべき人です。乳母根性から兄の乳母、弟の乳母というだけでも、扁身の広狭が違いますのに、弟が兄よりも優遇される。衣服や食物にも逆に差が付けられては、如何に気楽な乳母でも堪えられますまい。まして意地強い春日が辛抱する筈はないのです。ただあいにくなことに惣領の順禄で、家光は賢くない。親父の秀忠が惣領の家光に相続させることをあやぶんだのは、国千代の方が怜悧だったからであります。家光に対して父母が暖くない理由は、同じではありませんが、熱の乏しいことに変りはありません。親の情、殊に女の親の心持から云えば、馬鹿な子ほど余計に可愛いのが世間並ですが、泥坊猫よりも腹の立つ春日が付いて養育している家光は可愛くない。嫉妬から愛子を忘れることになるので、春日も赤子を置き去りにして稲葉家を去りましたが、御台所江子も我子の家光を愛さないのです。衣服や食物にさえ不自由させたのも、春日を苦しめるためでありましたろう。もし春日が御暇を願って、家光の身辺から去り、秀忠の目にも触れないようになりましたならば、御台所江子が家光に加えた圧迫は、直ちに除かれたろうと思います。
妬婦兼騒動女  
嫉妬されればされるほど、春日はなお動きません。嫉妬するのは弱味、嫉妬されるのは強味と思うので、秀忠将軍の情愛を幾分でも殺ぎはせぬか、と感ぜしめただけの強味を持つ。これは御殿女中の一般心理ともいえましょう。まして嫉妬女の春日です。春日の性格からは、到底辛抱されまいと見える家光の待遇でありまして、飲食衣服にも事を欠く上に、国千代は利口で家光は馬鹿だと吹聴される。幕府の吏僚から諸大名までがする冷淡な取扱いも、対抗するのだとなれば忍耐するのです。春日が苦い苦い顔で忍耐するその顔色が、御台所の嫉妬心からは快いので、我子に飲食衣服の困窮をさせるのも忘れて、過度な圧迫を加えて気が付かない。二人の焼餅競争に挾まれて、童年を泣いて過した家光の運命は、まことに悲しむべきものでありました。  
賢女だとか烈婦だとか、春日局は頻りに褒められて居りますけれども、御台所江子は何故生みの子家光を虐げたかを考えないと同様に、春日の人物は一向に吟味されて居りません。彼がひどい嫉妬の女であったことすら殆ど知られなかったのです。ただ江村専斎はかれに就いて「慈照院殿の時、春日局と云ふ女あり、彼が所為にて応仁の乱起り天下騒動す、近来の春日局の号は、是を考へずして然る歟」と云って居ります。専斎は百歳の寿を保ち、寛文四年まで存生した医者ですが、親しく時勢を見ている人だけに、その言葉には寓意があるらしく思われる。妬婦春日局はまた実に騒動女でもありました。御台所江子の亡い後に、むごたらしく復讐を企てて、遂に忠長を自殺させるまで、何ほど世間を動揺させましたろう。  
忠長の謀叛を虚構するために、土井大炊頭利勝に偽廻文を作らせて、天下の諸侯を惑乱せしめるなどは、申分のない騒動女であります。私どもが春日局を想像する毎に、いつでも厭わしく思われるのは、かれの才走った往き方です。かれがまだ焼餅競争の最中に、家光が天然痘に罹ったことがありますが、その時春日は侍医の岡本玄冶に向って、酒湯にかかることは、唐の医書にないことであるから、御無用になされて御宜しかろう、と云った。すると玄冶が、唐になくて日本で致すことも沢山ある、それを酒湯に限って、古来の仕習わしもあるのに止めるにも及ぶまい、医者のすることを素人の止めらるるもその意を得ぬ、一体医書にないと云われるが、唐の書物を見もせずに文盲な申事である、これを御覧ぜよ、と云って懐中から唐本の医書を出して見せ、読んで聞かせて御酒湯を済ませました。玄冶は更に、素人の分、殊に女性の身として不念な事を申され、小癪でござる、と痛く春日を遣り付けたということです。  
御台所に睨まれて、多方面からの圧迫に対抗している時にも、このくらいの遣り過しをする春日なのですから、独り天下になった三代将軍の大奥では、三千石の俸禄を受けて、三万石の暮しをしました。家光の夫人鷹司氏は嫉妬が強いというので舳舳(しりぞ)けられましたが、実は忠長に同情されて、救解を試みられたのが、科条になったらしいのです。それがために大奥女中は悉く春日の支配するところとなり、後来御台所がありましても、奥向は一切御年寄という高級女中の取はからいに帰し、長く大奥女中の勢力が幕閣を動かす基礎を据えることになりました。この事はかれの続き柄で七八人の大名が出来たのよりも、なお大きい影響を徳川氏の運命に与えて居ります。
男女の道 / 号令結婚は武家の規模  
一体男女の欲ということ、それを万人が行って、一つも過(あやま)ちがないようにする。一人一人に過ちがないのみならず、世の中にも差支ないような仕方、そこに於て男女の欲は男女の道になるのです。自然から眺めて見ますと、どうしてもそれは生殖作用で、たしかに子孫繁昌ということになって行く。そこで例の生殖器崇拝などということも起るのですが、人が人を作る、これは実に霊妙な働きで、天地の大作用でありますから、それを崇拝するのは、男女の道を尊重することになる。一休和尚が一切衆生迷悟処。三世諸仏出世門」といって礼拝したという心持、それと同じ気持であるとすれば、人智が開けなかった為に、生殖器崇拝があるのではないようにも思われる。如何にも大切に行うべきものを冒濱し易い。それを娯楽と考え違いをするから、売買するようにもなって来るのです。  
昔の農村は素樸で、枯淡な暮し向でありましたから、その潤いのために盆踊もあれば、御祭や日待もありました。そうして早婚というものは、人民の離散する足止めの効用にもなったので、早婚をさせるから子供が早い。そこからまた堕胎、避妊等を生じても来るのですが、そこのところに政治の働きがあるので、御代官の手際もあれば、村成敗なんていうこともあります。自分の村の女に他村の者が手を付ければ、大問題になるけれども、村内の者ならどうもならないという習慣、あれも食い逃げをさせぬ仕方なので、田吾作の娘は兵吾助の伜が貰わなければならぬ、というような働きまでつけさせて置いたのです。その農村もだんだん副業のあるところが盛になって、副業のないところは寂れる。盛になれば金廻りがよくなり、人の出入りが多くなる。それが自然都会風になって行きますと、男女の道であるべき筈のものが、やはり男女の欲になってしまう。欲であるから、それが娯楽になって行って、村落も都会もどうやら弊風を同じくするものになって来るのであります。  
売る買うということの外に、売らぬ買わぬ方の者までが、娯楽として扱われるようになりまして、夫婦の間柄さえ、娯楽と見るようになる。だんだんに娯楽と見る方の幅が広くなって参ります。従って風俗はだんだん悪くなる。政治のよしあしは風俗で知れると云われて居りますが、風俗が悪くなって来れば、如何なるいい政治も行うことが出来なくなって来る。経済や法律はあるが政治でないのは勿論の話で、経済や法律で外形を取締ることが出来るにしても、それで人心を支配して行けるわけのものではありません。一体号令結婚を以て男女の道を捌いて行く。それは武家の規模でありまして、その規模を以て天下の規模とするように、何故したかということも、大いに考えて見なければならぬことであります。  
よく子供の玩具絵にある猪隈入道、あれは少将教利といった御公家さんでありますが、強い公家悪と思われて、大江山の酒顛童子などと一緒に扱われて居ります。猪隈の名前は酒落本や中本の中にも出て参りますし、常磐津や清元の中にも出て来る。これは慶長十二年二月に勅勘を蒙りまして、京都を出奔して、十四年十月に豊後で取押えられ、京都へ引戻されて来て、兼康豊後(かねやすぶんご)と共に斬罪になった人です。自体御公家さんの風俗が悪くなりまして、禁裹に当番を勤めることを忘れる者が多い。禁裹へ出仕する者も正服を著ないで、略服で出る者が多くなった。そこで、慶長八年九月に戒飭(かいちよく)するところの法令も出て居るのですが、十四年の七月には烏丸光広、大炊御門頼国などという御公家さんが、宮中の女官等と種々不行儀な事がありましたので、後陽成天皇は大層御立腹遊ばされました。この逆鱗事件というものが大きな問題になりまして、それが武家の号令結婚を以て天下の規模とするように、だんだん導いて行ったのであります。  
その時に所司代を勤めて居りましたのが、板倉勝重でありまして、この不行儀な御公家さん達のことに就いて、禁裏から所司代へ御相談があった。板倉は命を奉じて、駿府の家康に伝え、それから所司代が京都と駿府との間を往来しました結果、遂に家康は思召によって宮中を廓清することになりまして、御公家さん七人というものが流罪になり、関係のある宮女も悉く処分されました。この公家衆の不行儀問題の先頭をなすものが猪隈入道なので、後来も大悪人として取扱って居りますが、その大悪人の罪科というのも、男女の道を娯楽と心得て不行儀を働いたということになるのであります。  
この時家康が思召を以て宮中の廓清に手を著けた。宮中は宮中だけでその始末が出来なかった為に、それまで幕府が日本中で手の著けられぬのは、京都の御所の御築地の中だけだったのですが、勅命がありましたので、関東の手がはじめて御築地の中へ延びるように相成りました。家康が勅許を得てございました孫女、即ち秀忠の女の和子が、入内することになって居りまして、遂に元和六年六月に入内致しましたが、その前に宮中の御模様がどうも綺麗でないから、已に家康が先帝から勅許を得ているのですけれども、自分の女を入内させることは、この際御辞退致したい、ということを秀忠が申出ました。朝廷では已に先帝の思召で決著していることを、関東から御辞退申上げる、それも宮中の御模様故にとありましては、さし措くことも出来ませんので、宮中で御評議があり、御側の公家衆数人を流罪にして、秀忠を宥められ、とにかく入内のことを済ませました。この時に宮中の廓清に就いては、関東へ御任せになる、ということでありまして、天野豊後守、大橋越後守の両人が与力十騎、同心五十人を従えて、女御様御用人というわけで、はじめて京都へ乗込んで参りました。これが後には御付の武家ということになるのです。寛永三年には中宮法度なども出来て参りまして、その後ずっと禁裹付になり、関東から宮中御取締のために、武士を差出すことになりました。また仙洞御所の方にも御付の武家があるようになりました。
昔を振返る心持  
それから以後は、いつの所司代でも、宮中及び公家衆の風儀に関する役目が一つ出て参りまして、いろいろな話もありますが、江戸の話ではありませんから、一つ二つの事にとどめて置きましょう。ぐっと後になりますが、享保度に松平伊賀守が所司代を勤めている時、この人は御公家さんと懇意な人で、禁裹で「伊勢物語」の御講釈に列しましたところ、大分昔男を羨んだような話が出た。その時に伊賀守が堂上方に対して、万一今時業平のような不行儀な公家衆があったならば、斯く申す伊賀守が幸い関東の目代として居る以上、どうして傍観して居ろうか、立どころに取って押えて、流罪なり死罪なりにして、公家衆の捉を正さなければたらぬ、と云った話があります。こういう風に公家衆を睨みつけたのみならず、公家衆の非行に就いてやかましく云った者もありますが、御公家さんの行儀の始末がつかないので、いつの所司代も持て余して居った。ただ時々随分ひどい処分をしたので、僅かに支えられていたのです。  
神沢其蜩などは「翁草」の中で、東福門院様の御入内があってから、御所の御作法が改って、男女の別が出来、御風俗も正しくなって参った、それは最も宮中の御模様が御宜しくなかった頃より百余年も後の話で、やっと柳営の正しい捉を、天地と共に雲上へ差上げたからだ、と書いて居ります。東福門院というのは、前に申した和子の事ですが、その御入内以来、武家のきまりを禁中で執り行うようになり、一般の公家衆の風儀が悉く改らないまでも、猪隈や烏丸のように乱暴な、業平もどきの不行儀な御公家さんが、宮中にいないようになったのであります。  
如何にも風儀が一遍によくなった。成程、武家の遣方というものはきまりがいい、というので、大層感賞されたわけでありますが、それまでは実に面白からぬ風儀で、何とも仕様がなくて、倦み果てている時ですから、不義は御法度となって、ぴたりと一遍にきまるような往き方が、大いに効果があったので、世間を挙げて倣うようになった。遂にそれが天下の規模になるというようなことになりましたが、それから後八十年たった元禄時代に及んで、民間の方からそれを窮屈に思う者が出て来れば、士達の方にも迷惑千万に感ずるやつが出て来まして、だんだん動き出して参りました。  
元禄度の人々は、寛永度の振合を見て、昔風と申して居りますが、享保度になると、元禄時代を昔風というようになっている。安永、天明になりますと、享保を昔風と云うし、化政度には寛政を指して、昔風というようになった。この切れで見ると、先ず元禄が一切れで、そこが境で大きく替り、それから先はだんだん小さく区切がついているらしい、これは経済状態、生活状態から、切れ目切れ目を見ることが出来ますが、この生活の替りは何から来て居るか。無論経済法律からも来ているに相違ありませんが、武士の金看板である不義は御法度というやつ、その金着板に手がかかって外されかけたのは、享保以来の事と思われる。それが一つの切れになるわけです。  
元禄と享保との二つの切れ目が、どういうところに在るかといいますと、前のは武士の金看板に不服を懐き、窮屈を感ずるところに在り、後のは武士の金看板を取外そうとすることに在るようです。享保度は法律の世の中で、その時には町人どもなどの間に、金という字を草書で書くと、人という字と主という字になるので、人主金(ひとぬしかね)といいました。人主金という僅称は、前に申しました「天網島」に出た五左衛門の如き者で、金がたければ幕府でも維持することが出来ない、金さえあればというのに係っているので、その時はまた世の中に曲りくねりを生じた時ですから、享保以来という言葉も、そこから来た世の中の相であります。  
徂徠などは四代将軍の末、五代将軍の初めということを云い、それが革新の最もいい時機だ、と云って居ります。その時は町人達が一般に太り出した時でありまして、後には江戸の初めから元禄、寛永までは人情が厚く、御政道も盛に行われた、と申して居りますが、それはいずれも「不義は御家の御法度」という武士の金看板が、ちゃんとして居った時の事だったのです。化政度の人は元文、寛保の時代を「四貫相場に米八斗」といって、結構な世の中だとして居りますが、それなら果してその時がよかったかというと、この時が江戸で心中沙汰の多かった時であります。  
それから宝暦、天明の間になりますと、男女の道が売買取引せられるようになりかけた時で、文化、文政度には、それが珍しげもないようになった。宝暦、天明には珍しかったことが、文化、文政には目立たなくなっている。然るに天保度になると、文化の世界をもう一度見たい、といって翹望するようになっていたのです。大御所様の時代といって、家斉将軍在世の時代を、何よりも結構な時代として、謳歌するような有様でしたが、如何にも幕府の末になって衰世の相を現して居ります。 
田沼意次

 

 
江戸城は大奥・中奥(なかおく)・表向(おもてむき)の三つに区分され、大奥と中奥の境は銅塀で区切られ上・下二本の御鈴廊下によってつながっているだけだった、という説明はすでにした。が、中奥のことは記してこなかった。田沼と中奥は関わりが深いので説明しておきたい。 
大奥を奥御殿、中奥と表向を合わせて表御殿と呼んだりする。大奥と中奥の境に厳重な銅塀があったから、そのように呼んだものと思うが、表御殿の中奥と表向にも境はあった。 
中奥は将軍が日常生活を送り、政務を執る場所であり、幕府の中央政庁にあたる表向に詰める諸役人が、中奥に許可なく出入りすることはできなかった。 
中奥と表向の境には、「上ノ錠口と「口奥」の二ヵ所があった。上ノ錠口は黒書院の奥の杉戸にあり、将軍が表向へ出る時と諸役人が中奥の御座之間で将軍に御目見する時以外は閉鎖されており、将軍側近役の小納戸が開閉などを管理していた。 
口奥は土圭之間(時計之間とも表記)にあり、土圭之間に詰める坊主が常駐して、表向の役人が中奥に入らないよう見張っていた。中奥の役人と表向の役人が面談する際は、中奥の役人は土圭之間の内に座り、表向の役人は土圭之間の敷居の外に座る決まりだった。 
中奥と表向は中奥と大奥の境のような塀はないが、厳然とした境界はあったのである。表向の総取締役は老中だが、中奥の総取締役は側衆であった。8代将軍吉宗からは側衆の中に御用取次を新設したので、中奥の総取締役は御用取次(正確表記は「御側御用取次」)になった。 
中奥に詰める役人は側衆の他に、将軍の身の回りの世話にあたる小姓、小納戸、侍医の奥医師、侍講の奥儒者などである。田沼意次が最初に就いたのは小姓であった。 
意次は享保4年(1719)に生まれ、享保19年(1734)に小姓となっているから16歳で江戸城にあがったことになる。本丸小姓ではなく、当時将軍世子として西の丸にいた家重の小姓だった。 
意次の父意行(もとゆき)は吉宗が将軍となって江戸城に入った際に紀州藩から随行して幕臣となり、禄高600石で小姓から小納戸頭取となり享保19年(1734)に死没している。 
意次が中奥の総取締役である御用取次に就くのは、宝暦元年(1751)33歳の時である。禄高は父の遺領を継いだ600石に1400石が加増され2000石になっていた。 
御用取次の職務内容を説明しよう。主務は老中以下の諸役人から上がってくる未決・機密の案件を将軍へ取り次ぐこと、将軍の政事・人事の相談役、将軍の情報源である目安箱の取扱いと御庭番の統轄などで、殊に平の側衆が既決事項を上申するのに対して御用取次は未決の案件を上申するところがポイントで、将軍が若かったり病弱だったり暗愚だったら御用取次の政事・人事への影響力は絶大なものとなってしまう。よって野心・野望の持主が御用取次に就くと、表向の総取締役である老中もその権勢に恐れることになる。 
意次は御用取次を16年間の長きに渡って務め、明和4年(1767)49歳で側用人となる。側用人は御用取次より格上で常置の役職ではない。表向でいえば大老にあたるであろう。 
側用人は旗本が務める役ではなく、大名が務める役である。意次の禄高は相良城主2万石となった。さらに明和6年(1769)老中格、安永元年(1772)老中、老中でも「昵懇(じっこん)の職兼る事、故(もと)の如し」の命があり、中奥の総取締を兼帯した老中であったから、権勢並ぶ者なしとなった。 
9代家重が長男の家治に将軍位を譲るのは宝暦10年(1760)、10代将軍となった家治は24歳だった。意次が御用取次に就いて9年目であるから、家重・家治の2代に渡って意次は重んじられたわけだ。家重は言っていることが側用人大岡忠光にしか理解できなかった暗愚将軍(将棋が強く本当は頭が良かったとの説もある)だったとされる。家重が将軍位を譲ったのは、唯一家重の言語を理解する大岡忠光が死没したからだといわれている。息子の家治は父と異なり聡明で祖父吉宗に可愛がられたそうだが、政事に興味がなかったのか意次が興味をなくさせたのか分明ではないが、絵画を好んだとされている。 
家治の子女は4人あったが成長するのはお知保(ちほ)が宝暦12年(1762)に産んだ家基のみ。家治の正室は閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)の娘倫子(ともこ)で、家治との仲は良かった。従って家治に側室はいなかったのだが、倫子の産んだ子に女子が二人続いたことから、年寄松島が側室を置くように進言する。選ばれたのが松島の部屋で仕込まれて、家重の代に御次として奉公していたお知保だった。 
お知保は御家人津田宇右衛門(うえもん)の娘とされているが定かではない。このお知保に狙いを付けたのが意次だった。意次の側妾がお知保の知人だったそうだ。これは怪しい。お知保の知人の女を探し出して側妾にしたか、側妾の知人の女を年寄松島に預けて仕込ませたのか、このいずれかであろう。 
お知保の給与は20人扶持・強合力金150両だったのが、明和3年(1766)に50人扶持・合力金500両となり、安永2年(1773)に合力金1000両、同4年(1775)には2000両となる。 
お知保の弟とされる津田信之を明和2年(1765)に小姓から新番頭に出世させ、蔵米300俵から1000石の知行主にした。明和6年(1769)には側衆に引き上げ2000石、安永6(1777)年に5000石、天明6年(1786)に6000石としている。 
大奥の予算も要求されるままの額を給付し、意次の大奥での人気は絶大だった。家治の正室倫子は明和8年(1771)に薨去しているから、大奥の権勢はお知保に集中したろうから、お知保と以下の表(深井雅海著「江戸城をよむ」より原書房)の大奥年寄たちに気配りしておけば万全だった。 
話は前後するが、意次の父親と同様に吉宗が将軍となった際に紀州から随行して幕臣となり、共に小姓となった者に岩本正房がいる。正房の息子に正時と正利がおり、正時と意次は同じ日に家重の小姓となっている。 
正時の弟正利にお富(登美とも表記)という娘がいた。お富は意次の紹介で明和元年(1764)に大奥へあがることになる。すんなり大奥へあがったわけは、お富の母、正利の妻が大奥の年寄梅田の養女だったことが影響していよう。 
お富は美人ではなく青黒く太った女だったと伝えられるが、明和8年(1771)いかなる機縁があったか、一橋家の徳川治済(はるさだ、以下一橋治済と略す)の目に留まる。一橋治済という男は冷酷な策士の一面を持つから、女の好みも変わっていたようだ。治済は将軍家治にお富を是非とも側室に迎えたいと懇願した。 
一橋治済の正室は桂宮公仁親王(かつらのみやきみひとしんのう)の娘在子(ありこ)だが、明和4年(1767)に没していた。お富を治済の側室にするには大奥と一橋家奥御殿、中奥と治済側近衆の合意を必要とする。適任なのは意次であった。大奥に人気があり、意次の妻の父伊丹直賢(いたみなおかた)は一橋家の家老であったし、当時意次の弟意誠(おきのぶ)、意致(おきむね)も一橋家の家老となっている。 
お富は安永元年(1772)に一橋家奥御殿に迎えられ、中臈となって翌安永2年10月に、後の11代将軍家斉となる豊千代を産む。 
なぜ一橋家に生まれた豊千代が将軍になれたのだろう。10代将軍家治には家基という世子がいた。明和6年(1769)8歳で将軍世子となり西の丸に入るが、安永8年(1779)2月21日、新井宿への鷹狩の帰途、品川東海寺で休息する。この際に腹痛を訴える。急遽江戸城へ戻るも2日後に急逝。18歳だった。身体は壮健で頭脳も明晰だったようで、末頼もしい頑健英邁(がんけんえいまい)な世子だった。 
家基の急逝を食中毒死とする人がいるが、季節は2月である。昆虫のハンミョウの毒を盛られたという説がある。分明ではないが、いずれにしても自然死とは思われない。 
工作したのは誰か、となるが、推測すると9代将軍家重の血筋を嫌悪する者、一橋家の徳川治済であったろう。 
御三卿の田安家・一橋家・清水家はそれぞれ支配領地なしの10万石を給付されているが、家として成立した時期が異なる。最も遅いのが9代家重の次男重好(しげよし)が家祖となる清水家。宝暦3年(1753)に別家となり、後のことになるが、寛政7年(1795)に家祖重好が没すると、2代目は11代将軍家斉の子が継いでいる。 
田安家と一橋家は8代将軍吉宗の次男と四男が家祖となっている。田安家の家祖宗武の子は長男から四男まで早世して、五男治察(はるあき)が父宗武の没した明和8年(1771)に家督相続して2代目を継いでいる。治察の下に六男定国と七男定信がいたが、定国は明和5年(1768)に伊予松山藩松平家へ婿養子、定信は安永3年(1774)3月に陸奥白河藩松平家へ婿養子に出ている。定国の養父定静(さだきよ)は安永8年(1779)に没、定信の養父定邦は寛政2年(1790)に没しており、急ぐ養子縁組ではなかった。 
田安家を継いだ2代目の治察は、弟の定信が婿養子として陸奥白河松平家に入った同じ年安永3年8月に22歳で没する。治察に子女はなく、弟たちは養子へ出され、姉妹たちは大名家へ嫁ぎ、末妹は将軍家治の養女となっていたため、田安家は当主不在の明屋敷となったのである。 
一橋家は家祖宗尹(むねただ)が明和元年(1764)に没すると、三男の治済が家督相続して2代目となる。しかし、長男重昌と次男重富は養子へ出されている。次男重富と三男治済は側室の子であるが、長男重昌は正室一条兼香の娘顕子が産んでいる。長男重昌は延享4年(1747)に越前福井藩松平家へ養子に出ている。養父宗矩(むねのり)は寛延2年(1749)に没しているが、一橋家の嫡男が養子に出る必要があったか疑問だ。次男重富は養子に入った兄重昌が宝暦8年(1758)に没したことから越前福井松平家に養子に入っている。 
長男重昌が養子として一橋家を出た延享4年(1747)、長男重昌は5歳、次男重富は2歳で、三男治済は産まれてもいない。この有り様は一橋家が家として幕府から重んじられていない証しではないか。田安も同様であり、将軍家の血筋が絶えた際は、家重の血統である清水家を継承第一位にする意図が幕府にあると、一橋治済が考えたとしても不思議ではない。 
田安家・一橋家の養子縁組を裁許したのは、老中衆には憚(はばか)りがあったろうから、未決案件として御用取次に渡したであろうから、一橋家の長男重昌の件は大御所吉宗が、次男重富の件は将軍家重と側用人大岡忠光と御用取次田沼意次の合議、田安家のものは側用人田沼意次が将軍家治に裁許を進めたものだろう。「楽翁公伝」は、定信の才能を恐れた田沼意次が将軍職に就きかねない田安家から切り離すために養子へ出した、と述べているが将軍云々を除けばその可能性はあるが、将軍家治の世子家基が謀殺されるのは安永8年、定信が養子に出されるのは安永3年だから、将軍云々は関係ないと思う。 
家基が謀殺された安永8年(1779)、将軍家治は43歳だった。子づくりを諦める年齢ではないが、家基を失った落胆からか、元々淡白な質の将軍家治は、天明元年(1781)閏5月、一橋治済の長男豊千代を世子として西の丸に迎えるのである。家治に豊千代を薦めたのは田沼意次であり、意次は一橋治済に大きな貸しをつくったと確信したはずだ。 
しかし、治済は意次を成り上がり者と見下していたから、貸し借りレベルではなく、贈物としか捉えていなかったであろう。 
一橋治済が、田沼意次失脚への暗躍をいつ頃から始めたかは判然としない。おそらく意次の長男で若年寄に就いた意知(おきとも)が江戸城で新番組の佐野政言(まさこと)に刺され、この傷がもとで死没する天明4年(1784)4月から、松平定信が溜之間詰(幕府政治顧問の詰所)となる天明5年(1785)12月の間だと思う。意知の死を田沼家衰退の予兆と見て取った治済は、一橋家同様軽んじられた田安家出身の定信と手を組み、定信が溜之間詰となるよう意次へ薦めたものであろう。 
意次が老中を解任(形は病気を理由にしての依願退職)されるのは、天明6年(1786)8月27日。意次の禄高は5万7000石となっていたが、同年閏10月に2万石を減封され、江戸城への出仕止めの処分を受ける。 
なぜ、こうした処分となったか。意次の与党は江戸城に健在であった。意次の与党は、大奥に筆頭年寄高丘・年寄滝川、中奥に筆頭御用取次横田準松(のりとし)・御用取次本郷泰行(やすあき)・同田沼意致、表向の幕閣に大老井伊直幸・老中首座松平康福(やすよし)・老中水野忠友・同牧野貞長、若年寄井伊直朗がいた。なお、幕閣の与党として挙げた者たちは意次と親戚関係にあり、横田の前任の筆頭御用取次稲葉正明(まさあきら)は意次と同月同日に解任されている。 
意次が解任される2日前の8月25日に将軍家治が薨去している。ただし、薨去した日は8月25日ではなく、8月20日とする説もあり明確でない。また死因も明確ではない。家治は天明6年の春頃から病がちになったといわれる。一説によるとこうである。8月に家治の病状が悪化し、意次の家に出入りしている町医者若林敬順に投薬させたら、家治が三度吐き出した。病状は一層悪化したため、意次の反対を押し切った重臣たちは他の医師に診せた。若林敬順が調合した薬は十棗湯(じゅっかんとう)というもので、軽い病状には効くが重体の患者には効かないものだった。早い話が、意次のせいで家治は手遅れとなり死んでしまったというわけだ。 
将軍家治を殺すことは、意次が自分の首を絞めることと同様であり、バカげた説である。一橋治済が、家治が重体(重体にした)となった際に、息子の次期将軍家斉を楯に家治の寝所(この頃は中奥の御休息之間の上段18畳であろうか、天保期には御小座敷、と時代によって異なる)から人払いし、自分の与党に引き込んだ御三家(尾張宗睦・紀伊治貞・水戸治保)の連中と看病のふりをし、幕閣に家治の死を知らせず、いきなりある日幕閣の連中を呼び付け、家治の薨去を告げる。驚嘆する幕閣にすかさず意次が差し向けた医者の不手際を告げ、意次の解任を迫る。この場面に一橋治済の他に家斉と御三家の面々がいれば、意次の与党の幕閣といえども従わざるを得なかったであろう。 
家治の薨去により家斉が将軍位に就く天明6年、家斉は14歳、その父一橋治済は36歳、松平定信は29歳、田沼意次は68歳。年齢を並べると意次の高齢が目立つ。しかし、意次は江戸城に残る田沼与党を踏ん張らせるのである。 
天明6年閏10月6日付で一橋治済が御三家の当主たちへ送った書状に、老中として相応しい人物として、松平定信、酒井忠貫(ただつら)、戸田氏教(うじのり)の三人を挙げ、特に松平定信についてはその人となりをよく知悉していると推薦し、これを受けた御三家当主たちも、定信については十分には承知していないが、優れた人物と聞いていると答え、治済の意見に賛同した。そして、治済と御三家は12月15日に幕閣に対して、松平定信を老中に推薦することを申し入れる。 
だが、彼らの申し入れはすんなりとは通らなかった。 
同じ年、つまり意次が解任され江戸城出仕を禁じられ、治済と御三家が定信を推薦した同じ天明6年、この年の12月、田沼意次は雁之間詰として江戸城への出仕が許されるのである。翌天明7年の正月の年賀では、将軍家斉に拝謁した席次は老中に準じていた。 
将軍の実父にして御三卿の治済と御三家の意見が通らず、意次が復活してくるのである。どうした?そう思った治済と御三家は大奥の年寄大崎を天明7年2月1日に尾張江戸藩邸へ呼ぶ。 
年寄大崎は次のように内情を語った。 
「将軍家斉は、御三家の申し出であることに配慮して定信を登用したい意向であったが、老中水野忠友が反対したこと、また、大崎と同じ大奥年寄の高丘と滝川が将軍から意見を求められ、9代将軍家重の代に、将軍の縁者を幕政に参与させてはならないという上意があり、その点で定信は、将軍家斉とは同族であり、そのうえ定信の実妹種姫(たねひめ)が10代将軍家治の養女となっていて、家斉とは姉弟の関係にある[将軍の縁者]であるので、定信の老中登用は家重の上意に反することになると答えた」(藤田覚著「松平定信」) 
これに対して治済と御三家は相談し、家重の上意である「将軍の縁者」は母方の親類の外戚を指すのであり、松平定信はそれにあたらないとの書状を年寄大崎に渡す。上の年寄の表では大崎は七番目の年寄であるにもかかわらず、筆頭高丘と四番目の年寄滝川とは反対の立場を明確にとっていることが判る。天明6年に突然名前が登場してくることから、一橋家の奥御殿に勤めていたのが、家斉の将軍世子により西の丸に随行し、家斉が将軍位を継いだので本丸大奥の年寄として名前を連ねたものと思われる。 
治済と御三家が「将軍の縁者」は外戚を指すとしたにもかかわらず、それを公式の理由として幕閣は、2月26日に正式に定信の老中登用を拒否するのである。 
治済と意次の政争は膠着状態となった。 
その間にも大奥の大崎と高橋は、治済に頼まれて色々と活動している。彼女たちの活動を通して意次与党の中心人物が、筆頭御用取次の横田準松であることを知った治済は、天明7年5月某日に一橋邸に大崎を呼んで、横田準松への対応策を訊ねた。これに大崎は、 
「此度ハ甚六ヶ敷、私手際ニは参かね候」(この度ははなはだ難しく、私の手際には参りかね候」 と答えている。ここから、大奥の年寄は隠密同然の工作をする場合がある、ということが判る。 
治済らが思案に暮れていた同じ5月、意次与党が一挙に解任されてしまうのである。原因は5月18日から26日にわたって起きた、将軍お膝元の江戸における大打ち壊しだった。一橋治済はこの事件を小人目付12人(一橋家の家臣)を使って調べている。それより素早く御庭番を使って調べたのが、御用取次の中で唯一田沼意次に与(くみ)しない小笠原信喜(のぶよし)だった。横田・本郷・田沼意致の三人の御用取次は、将軍家斉に江戸打ち壊しの事実を正確に伝えなかった。ここを衝かれた。5月24日に本郷、28日に意致、29日に横田が解任されたのである。 
前代未聞の江戸の大打ち壊しは、25日までに江戸の町の米屋を中心に約1000軒の商家が襲われた。田沼意次が権力を握った明和・安永・天明期は低温が基調で不作の年が多かった。天明3年は浅間山の大噴火から関東・東北が大飢饉となり、天明6年は全国的な大凶作から商人の買占め・売り惜しみが起き、天明7年に困窮した江戸の店借り暮らしの町民が、町名主・町年寄らを動かし、彼らを通して5月18日に月番の北町奉行曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ)へ救済訴願する。だが、曲淵は、「町人というものは米を食事に用いる者にあらず、何にても用ゆべき」と、かえって叱り付け却下した。これでは町民の憤懣が爆発するのは当然である。 
6月19日、松平定信が老中に就任した。  
大奥法度

 

 
江戸考証家の稲垣史生氏によると、元和4年(1618)に秀忠が出した後、寛文10年(1670)に細部にわたるものがあるが、それは文中に年寄の名が出ており、4代将軍家綱の大奥のみを対象にしたものだという。江戸幕府終末まで大奥を規制した大奥法度は、8代吉宗が設けたもので、享保6年(1721)4月に発布された。以下は稲垣史生氏が現代語に直したものを、さらに砕けた文にしたものである(稲垣史生著「武家の夫人たち」)。 
定 
1、文通は祖父母・父母・兄弟姉妹・伯(叔)父伯(叔)母・甥姪・子と孫に限ること。この他に文通する時は御年寄に申し出ること。宿下がり(実家への帰休)の際の面談は前記の近親のみに限り、面談した相手の帳面に記し、後に御年寄の吟味をうけること。 
2、御目見以下の女中は親子・縁者を長局へ呼び寄せてはならない。近い親類で部屋子にしたい者があれば、その旨を御年寄に願い出、御留守居の指図に従うこと。 
3、宿下がりのない女中(御目見以上)は祖母・母・娘・姉妹・伯(叔)母・姪、男子は9歳までの子・兄弟・甥・孫に限り大奥へ呼び寄せても構わない。泊める理由があれば御年寄に願い出、御留守居に届け出た上、二晩限り泊めることができる。 
4、長局に使いの女を泊めてはならない。泊める必要があれば御年寄に届け出、御留守居の指図に従うこと。 
5、衣服・諸道具・音物(いんもつ、贈物)・振舞事は身分相応にすること。 
6、部屋で振舞事や寄合をしても、夜更かしは絶対にしてはならない。 
7、御紋(三ツ葉葵)付きの道具類は一切私用に貸し出してはならない。 
8、長局に出入りするゴゼ(按摩)は二人に定めおくこと。 
9、御下男(御広敷の小者)を私用に使ってはならない。急なことがあれば御年寄から御広敷番頭へ断わった上で使うこと。 
10、召使の内、不審な者は早々に辞めさせること。御城内を大切に思い、少しの油断もあってはならない。 
右の箇条を堅く守り、誓詞前書の趣、相違なきよう心がくべきこと。そのため左にしるしおく。 
誓詞 
1、御奉公のこと、実義を第一とし少しも後ろ暗いことをしてはならない。すべて御法度の趣、堅く守るべきこと。 
1、御為(主家)に対し悪心をもって申し合わせ致すまじきこと。 
1、奥方(大奥)のことは何事によらず外様(親兄弟も含む)へ申すまじきこと。 
1、女中方(大奥関係)の他、表向き(政治的)な願い事は一切すまじきこと。 
附、御威光をかり、私の驕(おご)り致すまじきこと。 
1、諸傍輩中(同僚)の陰口を申し、或は人の仲をさくようなことすまじきこと。 
1、好色がましきことは申すに及ばず、宿下がりの時も物見遊所へまいるまじきこと。 
1、面々の心および候ほどは、日頃の言動に気を配り申すべきこと。 
附、部屋の火元、念入りに申し付くべきこと。 
著名捺印 
大奥法度にある宿下がりについて付け加えると、表使以下の御目見以上は及び以下の者は、奉公勤めしてから三年目ごとの春に宿下がりが許され、一回目は六日間、二回目は12日間、三回目以降は16日間となっている。 
御台所には外出の機会はほとんどなく、表使以上の御目見以上の者も、代参に出るかその供に加わるかしない限り、大奥の外へ出ることはできなかった。ただし、親の病気など重大な時に限り、最小限の外出が許された。お手付き中臈の場合は、いつ将軍からのお召しが掛かるか知れないので、親の病気でさえ外出は認められなかった。 
奥女中に部屋子として使われている者は、毎年春秋二季に宿下がりがあった。宿下がりした彼女たちは一人前の奥女中を気取ることが多々あり、彼女たちの話をまともに聞いて版行した作者もいたようだ。  
大奥の逸話 
「七ツ口の貫目吟味」 / 年寄絵島が役者生島新五郎を長持に詰めて七ツ口から運び込んだため、事件後に大天秤を置き、長持は重さを計ってから搬入した。本当に新五郎を長持に詰めたか疑問。 
「御添寝役制度」 / 将軍が正室以外の中臈と同衾する際は添寝役のお手付き中臈と御伽坊主を各一人付け、翌朝年寄に報告させるが、これは将軍綱吉が柳沢吉保の側室染子を大奥にあげて同衾した際、染子が寝物語に100万石をねだり、綱吉が頷き一札を書いたため制定されたとする。綱吉は好色に描かれることが多いが、それにしては産ませた子女が二人と少ない。 
綱吉には他に側用人牧野成貞の妻阿久里(あぐり)を大奥にあげて側室にしたという話がある。阿久里は牧野との間に三人の女児を産んでおり、しかも館林時代に牧野と阿久里を結婚させたのは、他ならぬ綱吉である。側室にしたければ、結婚前の若い阿久里に手を付け側室にしたであろう。 
話が女だけの大奥となると、情報が漏れてこない分オーバーに伝わる傾向がある、といえようか。ただし、幕末の大奥に関しては、「千代田城大奥」「旧事諮問録」「海舟余波」などの体験者・目撃者の談話があり、そうしたことはないと思われる。また、大奥全般の時代に関しては三田村鳶魚翁の「御殿女中」が資料としてよく活用されているようだ。 
最後にちょっといい話を勝海舟が伝えているので、それを記しておきたい(引用資料「海舟余波」)。 
「天璋院と、和宮とは、初めは仲が悪くてネ。ナニ、お附のせいだよ。初め、和宮が入(い)らした時に、御土産の包み紙に、[天璋院へ]とあったそうナ。いくら上様でも、徳川氏に入らしては、姑だ。書(かき)ずての法は無いといって、お附が不平を言ったそうな。それで、アッチですれば、コッチでもするというように、競って、それはひどかったよ」 
そんな二人だったが、最後の将軍慶喜の時代となり、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜が上野寛永寺大慈院に謹慎。慶喜の正室美賀は一橋邸に留まったことから、江戸城の主は天皇家の娘和宮と官軍島津家の娘天璋院の二人となる。この二人がいては江戸城は攻撃できない。 
二人は徳川家の存続を心から訴える手紙を、天璋院は「薩州隊長人々」宛てに、和宮は京都朝廷へ送るのである。 
徳川家が存続し、江戸城が無血開城されたのも、蔭に彼女たちの力があったからともいえよう。 
明治になると、「私の家に御一処にいらした時、配膳が出てから、両方でお上りならん。大変だと言って、女が来て困るから、[どうした]と言うと、両方でお給仕をしようとして睨みあいだというのサ。(中略)お櫃(ひつ)を二つ出させて、一つ宛、側に置いて、[サ、天璋院さまのは、和宮さまがなさいまし、和宮さまのは、天璋院さまがなさいまし、これで喧嘩はありますまい]と言って笑ったらネ、[安芳(あわ、海舟のこと)は利口ものです]と言って、大笑いになったよ。それから、帰りには、一つ馬車で帰られたが、その後は、大変な仲よしサ」   
 
諸話

 

 
三宅島流刑 / 鹿之助
 
流刑  
流刑(遠島)はこの当時の刑罰では下表のように死刑に次ぐ重刑であった。  
この当時、京、大坂など西日本の流刑囚は隠岐、壱岐に送られたが、江戸、東日本ではでは伊豆諸島に送られている。  
当初は大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の七島がすべて流罪地だったが、大島は本土に近くて島抜げする者が相次いだり、その他の小さな島では生活環境が悪く、流人を受け入れる余裕がないなどの理由により、大島など四島が除かれ、後には八丈、三宅、新島の三島が流刑地となった。  
思想犯や重罪人は八丈島、破廉恥罪や比較的軽い罪人は三宅島と新島送りとなった。江戸で遠島が申し渡されると、小伝間町の牢獄に入れられ、年2、3回の流人船の出航を待つ。  
鹿之助は3月21日に遠島を申し渡されたが、折から伊豆諸島への便船が出る季節だったので牢獄で待つ間もなく、出航の日となった。  
島送りの船が出航する前日に囚人は獄庭に集められ、頭髪や髭を整えさせ糺問所に土下座させ、囚獄と奉行所から出張って来た与力とで、送られる島名が宣告される。  
流人には島での当面の生活の資とするための金が与えられた。揚座敷、揚屋に拘禁されている囚人には金3両(揚屋は1両)、紙2帖、船中の防備薬が与えられた。  
百姓囚、平民は金2分(半円)、時服1着それに紙、薬が与えられた。 
流人船  
いよいよ出発の朝になると、永代橋の際または霊岸島(または芝金杉橋)から囚人護送用のはしけに乗せられて本船に移される。  
永代橋から出るのはいかなることがあっても戻って来ることができない囚人、霊岸島または金杉橋の方は、何年かの後には特赦になる可能性のある囚人と決まっていたようだ。  
船は品川沖で停泊して荷物などを積み込むが、この間に船手組の役人の許しを得て、家族、親類との最後の面会や差入物の積み込みも行われたようだ。  
品川を出発してまず浦賀に向かう。浦賀では牢屋入りと同じように、罪科と本人に間違いがないかなど最後の確認を行い、いよいよ伊豆諸島に向かって出航する。  
当時は風が頼りの帆船であるから、直接伊豆諸島に向かうことは出来ないことが多く、稲取、下田などで風待ちをしながら島々に向かった。  
記録によれば順風に恵まれた場合、江戸から三宅島まで5日間で着いたこともあったが、普通は20日間、時には70日もかかる事もあり、慣れない船旅で途中で死亡してしまう流刑者はそれぞれの停泊地に埋葬して行った。  
流人船といっても、実は伊豆七島を春・夏・秋と年三回巡廻する五百石積の交易船に便乗した。  
船頭以下7,8人で運行されており、流人監視のための幕府船手組の水主同心2名が乗り込んだ。  
船内は座敷牢の形式になっており、武士階級と女は別囲、一般の罪人は雑居であった。  
三宅島と八丈島の間には流れの早い黒潮(黒瀬川)が流れており、渡るのが容易でないため、八丈送りの流人も一度三宅島に上陸し、八丈行きの出航を待った。  
八丈に着くまでの長い船旅と環境の変化に耐えきれず死亡する流人も多かったという。  
流人は期間が決められているものと、決められてないものがあった。運がよければ将軍宣下などの慶事で恩赦、大赦があり、予想より早い帰還が許されることがある。約4割の流刑者がこの恩恵を受けたといわれる。 
流刑地三宅島  
この時代より少し古くなるが、天明2年(1782)の七島巡見誌の中に当時の三宅島の様相について次のように述べられている。  
鳥の廻り凡10里余、東西平均凡2里余、南北凡3里余、船繋侯入江等一向無之、一体山々険阻平地も無之侯  
此島稼(かせぎ)之儀は山方之男は主に畑を作り或は薪を伐出し山萱を刈り苫(むしろ)にあみ国地え渡し、女は椿実、夜叉附子(やしゃぶし)を採り江戸え売出し、芋、野老(ところ)、葛を掘り或は椎の実を拾い虎杖(いたどり)を採り糧に致し、其の他海老、飽、栄螺(さざえ)等を取侯、海女も有之、近来は鮫おも少々宛釣り所にて灯油に煎し侯由、女は畑之耕作を第一に仕り其間にヒロメ、ハソバ、大フノリ、トコロテン草、海苔を採り、糧に致し少々宛江戸えも売出申候由。  
山は険阻で平地はなく、入江は乏しく船を繋留する場所もないこの島に2000人近い島民と幕府が送りこんだ100人余の流刑老が生活していたのである。この一文によっても当時の島民の貧しい目常生活がほぼ推察できる。  
耕地については山麓の緩傾斜を利用した畑で天明2年(1782)には島全体の耕作面積が24町9反9畝、4年後の天明6年(1786)には94町歩余に増大している。さらに文化年問に入ると急速に開発が進み天保11年(1840)には220町3反5畝3歩の畑ができている。  
天明2年に渡島した巡見使は見取り米(年々の作柄を見て小作料を定める制度)について伊ケ谷、坪田、阿古の三村については1反歩20文、伊豆、神着については他村より地味が秀れているとして1反歩25文に規定している。  
絵嶋生島で有名な生島新五郎は120年ほど前の正徳4年(1714)、三宅島伊ケ谷村に流され、ここで生涯を終えた。(絵嶋は死罪のところ、罪一等減じられ高遠に配流となった) 
三宅島上陸  
天保13年は記録によると、三宅島には6月に2回(町野左近御掛りと夏目勇次郎御掛り、各5人)、秋に1回(長谷川平蔵御掛りで7人)の流人船が着き、合計17人の流人が送り込まれている。  
鹿之助は数10日の船旅の後、天保13年6月に三宅島佐次右衛門所有の船で島に到着した。  
同じ春便のもう一艘の船で神道神主の井上正鉄が三宅島に送られている。この船は5月末に霊岸島お船手番所を出て三宅島に着いたのは6月7日夕方だったという。(正鉄の流刑は天保14年6月3日三宅島着という史料もある。)  
この時代、伊ケ谷村の大久保浜から国地(内地)への便船が発着していた。一行は僧侶、修行僧、百姓の妻、無宿人各一人の計5人である。  
百姓妻は「此者別囲にて差遣候」とある。女囚は別の船倉に入れられて来た。  
島に到着した流人の身柄は「流人請取り」の一札と引き換えに船手同心から島役人の手に引き渡される。島役人は改めて罪状の口書証文をとり、流人の爪印が押されると一切の事務処理が終わり流人生活が始まるのである。  
三宅島流刑史によると、流人帳には鹿之助はこの時29才、罪状は「父之科」となっている。 
村割  
上陸手続きが終わると流人を受け入れる村を決める「村割」が行われる。  
流人を受け入れる村側にとっては、凶悪罪人でなく、穏健でなるべく食料などの持参物を多く持っている裕福な流人を受け入れたいから、そこに地役人たちの職権乱用の余地が生まれ、問題となった事があった。そこで天保年間から公平なクジ引きとなった。  
三宅島は当時5ケ村に分かれていたが、康之助と一緒に三宅島に送られた5人は次のように各村1人づつが割り付けられた。  
氏名    身分など 年齢 罪状 宗派 村割  
仁杉鹿之助 鳥居甲斐守組元寄力仁杉五郎左衛門倅 29 父之科 禅宗 神着村  
日道 丸山浄心寺 48 女犯之科 日蓮宗 阿古村  
あき 関保右衛門御代官所  
武州葛飾郡西葛飾領、九右衛門新田  
百姓文蔵地借、道心者水見妻 31 火の当り之科 日蓮宗 坪田村  
恵教 大貫次右衛門御代官所  
羽州村山郡、当山修験正覚院、淳量倅 50 銀札之一件 伊ケ谷村  
安五郎 浅草無宿、豊吉事、入墨 32 賭博之科 日蓮宗 伊豆村  
鹿之助が村割された神着村は三宅島の北部にあり、かっては島役所があった島の中心地であったが、享保8年(1723)に伊ケ谷村に移り、陣屋と呼ばれるようになった。  
島役所は島内5ケ村の上部組織で島全体を統括する役所である。 
村での生活  
村割が決まると、そこが流人の居住区域になり、区域外の他村に出かけて行く事は許されない掟であった。居住区域内に幕府が建てた流人用の小屋があり、一戸に数人の流人が入れられた。  
この「流人小屋」は九尺二間(4畳半の部屋と半間幅の土間)で、三宅島全島で66戸もあった。  
流人は必ずしもこの流人小屋に住む必要はなく、金品に余裕のあるものは、村の空家などを借りて生活することも許されていた。  
先に述べた井上正鉄がその手記の中で「俗に地獄の沙汰も金次第・・・」と書いているように、島までの船の中でも島についても、万事金がものをいう世界である。島についてからは流人頭や先輩流人などえの相応の振る舞いをしなければならない。  
正鉄は記録によると鹿之助とともに一足先に三宅島に着いた恵教方に同居したという。そして再三「寅君よりの扶持・・」という言葉を繰り返していた。  
寅君とはかっての信者の一人の丹後宮津藩主・本荘宗秀のことで、この大名からの仕送りで正鉄は比較的楽な三宅島での生活を送っている。  
恵教の居所を出て百姓伝右衛門の隠居所に移り住み、初という島の娘を水汲女として迎えている。  
鹿之助も江戸を出る時に充分な金品を持って来ることができたらしく、流人小屋ではなく村民の隠居所か離れを借りて住んで居た事が、後に述べるように水汲女を迎えている。  
流人は江戸を出る時に、ある程度の食料や生活用品を持ち込む事が許されていた。文献によれば流人の持参物の数量制限は次のようであったとされる。予想外に多くの物品を持ち込めたが、これだけの金品を用意できた流人はわずかだったろう。  
米20俵麦5俵銭20貫文金20両  
これらの物品で当面の生活は出来たかも知れないが、それを使い果たした後は、わずかな土地を借りて耕し、自給自足で生きて行くしか手段はなかった。運がよければ、読み書きの出来る流人が村役場の書役に採用されることがあり、陣屋の書記役である大書役に取り立てられた流人もいる。  
三宅島は比較的住みやすいところであったが、その食料事情は江戸とは比較にならず、百姓が米を口にできるのは年に何回もなかった。  
ふだんは薩摩芋またはその切干、夏は麦こがし、あしたぐさ(あしたば)が主食であった。  
関が原で敗れ八丈島に流された宇喜田(浮田)一族は、加賀前田藩から隔年で70俵の米を送ってもらっていたにも関わらず、一族の当主の宇喜田秀家が「せめて米の飯を食べて死にたい」と言ったと伝えられている。まず食う事が重要であった。  
特に水不足で飢饉になりやすい小さな島ではまさに飢饉と隣り合わせの生活であった。  
三宅島からの回船が江戸に発つ時に、島役人を通じて江戸の留守宅に米や味噌や醤油などを托送するよう依頼することは許されており、これを「見届物」と言った。  
父の五郎左衛門が健在であれば、流刑先に金品を送ることはたやすいことであったが、父は死罪、仁杉家は断絶となっている。しかし分家の八右衛門(鹿之助には従兄弟にあたる)が有力与力として健在であったので、「見届物」を送ってもらう事は可能であったと考えられる。  
この時代、重罪は係累にも及ぶことが多かったが、八右衛門は処罰を免れており、五郎左衛門が死罪になった後も与力として健在で、しかも五番組の同心支配役に昇進している。  
ところで、流人は島にとって、新しい文明・文化をもたらす指導者であるとともに厄介な存在でもあった。八丈島に送られる流人が、三宅島で風待ちをしている間に甘藷を原料にした焼酎の作り方を伝授したり、後で紹介するような養蚕や織物をもたらしている。  
一方、島民は限られた土地で生きていけるぎりぎりの人口を維持するために、間引きなどを強いられている中で、幕府から多数の流刑者を押し付けられる迷惑な存在でもあった。  
天保年間だけでも251人(武士26、百姓15、町人58、僧侶41、女4、無宿人104など)が送り込まれた。  
天保14年、八丈島と共同で幕府に対して「島民渡世に難渋するため」として、流人の赦免と、これ以上の流人送り込み停止を願い出ている。しかしこの陳情は受け入れらず、流刑制度は明治7年まで続いた。 
現地妻  
流人の島内での生活は労働を強いられる訳でもなく、居住区域内での行動は自由であった。しかしすべて放任という訳でなく配流地での規律を守るため、下記の法度があった。  
1)内証便の禁止  
2)島抜けの禁止  
3)水汲女雇い入れの禁止  
内証便とは御用船の船頭などに袖の下を使って島外に送る書簡を制限したものであり、島抜けは「破牢」であり、発覚すれば極刑が待っていた。水汲女は現地妻のことである。  
内証便と島抜けは厳重に取り締まりがあったが、水汲女については黙認されることが多かった。  
流刑者が病弱であったり老いていたりすると、許可を得て近親者や家来が付き添って流刑先に行く事が出来たが、流人の配偶者については如何なる理由があっても同行する事は許されなかった。愛別離苦の苦痛を与えるためである。  
鹿之助は江戸に妻子を残して来ている。鹿之助が遠島の判決を受けた際、妻みやは「お構いなし」となっている。(実際には正式に結婚しておらず判決書では「妾」とある。)  
妻が同行できないとなれば、流人は島に着くとすぐにでも炊事や家事を自分でしなければならない。島の女は新人(あらひと)好みという言葉もあって、流人に寄せる関心は高かった。  
流人はよほどの凶悪罪人でないかぎり、島民から見れば先進地から来た文化人であり、教養人でもある。  
流人たちの不遇な男所帯への同情と興味から内縁の関係になって行くことも多かった。なかには金銭的なやりとりもあって水汲み女になった例もあるかも知れない。  
三宅島流刑史によれば、鹿之助はいつからであるか不明であるが、「たき」という名前の島の女を現地妻としている。何年に書かれた記録か定かでないが、たきは42才と記録されており、11才になる娘もいたと記録されている。  
妻も娘もいたのであるから、当然、流人小屋に住む訳に行かず、たきの知り合いの村民の隠居所か離れを借りて住んだのであろう。 
神道の門人に(古屋甚一著三宅島小次郎控より)  
鹿之助は少し遅れて三宅島に配流となった井上正鉄に師事、神道の門人になっていた。  
井上正鉄は館林藩士、安藤真鉄の次男に生まれ、武州足立郡梅田村神明社に入り、30年間に渡る諸国修行の後、神道「禊教」を開き、教祖となった。  
時あたかも天保改革の真っ只中、幕府は神道家に対する監視を強化していた。この禊教が天保14年(1843)6月、「世を惑わす異学異説」とみなされ、教祖井上正鉄には「御疑之筋にて遠島」の申し渡しがあり、6月3日三宅島配流となった。53才であった。  
正鉄は伊ケ谷村に村割となったが、病人の看護、養蚕の改良など島民の生活向上に貢献した。  
特に内地から土と石灰を取り寄せて作った天水をためる溜池(たたき井戸と呼ぶ)を作って、村民の水汲み重労働を軽減した功績は大きい。  
これは後に小金井小次郎によってより堅牢で容量の大きな溜池に改修されている。  
また、天保15年には島内に天然痘が流行正鉄の隣家に病人が発生した。重病で医者もさじを投げる病人に正鉄はみずから薬を調合し、難病を治癒させたという。在島6年、嘉永2年2月に病没している。  
流人には葬儀が禁じられていたが、島への貢献度が高かったため、妙楽寺住職が導師となって盛大荘厳な葬儀が営まれ、「徳安充満居士」の法号が贈られた。また流人としては異例の立派な墓も建立された。(左写真)  
鹿之助は住む村は異なっていたが正鉄と交流があったようで、神道の門人になり、この関係で、後述のように正鉄が取り寄せた新しい蚕の種を神着村に導入する役目を果した。 
島の養蚕業にも貢献  
三宅島誌によれば弘化3年(1846)、内地から取り寄せた新しい蚕の種を鹿之助が1年間養育し、これを島民の利八他に分け与えたところ、在来の蚕にくらべて利点が多く、この種による養蚕業がたちまち村中にひろまり、島全体にも広がって行ったという。  
利八という島民は進取の精神に富んでいたようで、島にない技術や知識を持つ流人が来ると積極的にそれを導入した。  
また当時では稀であった内地にも旅行し、伊勢参りをしているが、この時も油絞りの新しい方法を村に持ち帰り、椿油を絞るのに応用している。  
下は鹿之助が滞在した幕末期のみ三宅島神着村の記録  
弘化3丙午年(1846)、神着村百姓利八、同寅吉之両名「白滝」といえる織紀彫の蚕を飼い初める、此種は井上正鉄大人が弘化2年、内地より取り寄せ神道の門人、神着村仁杉鹿之助に興える、仁杉は1年是を養い、翌年弘化3年に利八、寅吉の両人に其種を分興す。両人は是を養い試すに果して利益あり、それより両家にて盛大に此蚕業を行ない遂に村内一般の事業となり後に五ケ村へ広まる、  
養繁往古よ当島の事業なりしが其の種類は雑蚕といい、虫4,5匹ずつがもやい作りの繭にして繰糸にはならず真綿に製し銘仙に引き太織に用いるのみなりしが繰糸用の蚕は是が初め也。  
弘化四丁未年(1847)、神着村名主藤右衛門辞職、奉職八年、其跡名主役元右衛門拝命。  
弘化四丁未年(1847)、神着村百姓伊助翁、水溜りたたき井戸を初む、此水溜は井上正鉄大きなる泉水を築造しその水中に蓮並に菖蒲などを植え込み相楽しみ又は雑水にも用いげるが弘化四年、神着村伊助が是を見て心付き早速我が邸内に石灰を用い三十樽入程のたたき井戸を築造し天水を溜め是を雑水に用いけるに至って利益あり是より追々村内にひろまる。  
弘化四丁未年、神着村百姓利八、蚕飼育法を村内にひろむ、此飼育法は上州の産市郎兵衛なる者、罪を得て八丈島え流される途中、三宅島に寄られ船待中に神着村東郷に滞在せしが此者養蚕の道に精しきを聞き利八は此市郎兵衛に就いて其道を習う。  
其術は粟糠を以て蚕尻を替る事、眠り中は養桑を止る事、その他色々飼育法の伝習を受げそれより村人に教え其伝をひろむ。  
嘉永元戊申年、神着村百姓利八、繰糸製造を初む、繰糸製法の伝は上州の産「おいね」と呼る者、罪を得て三宅島に流され伊ケ谷村に在りしが此者繰糸の業に長たるを聞き利八は此婦女を我家に雇いその伝を受け村内にひろむ、その時「いね女」より揚枠の恰好、寸尺等を聞き取り早速揚枠を製作して用い且村内にひろむ。  
嘉永元戊申年、神着村名主元右衛門辞職、奉職二年、其跡名主役又四郎拝命。  
嘉永五壬子年、神着村名主又四郎辞職、奉職五年、其跡名主役久右衛門拝命。  
安政二乙卯年、癌瘡が流行する。  
安政三丙辰年、神着村百姓利八、油〆道具を初む、此本道具は利八此年中、伊勢参宮に行き尾張地方に於て右之道具を見うけ、恰好寸尺等を記憶して来りて速かに其道具を製作し椿油をしめ試みけるに至って利益ありそれより此製法村々にひろまる。  
上記の記事に登場する「おいね」という女性については三宅島流人在命帳に次のように記載されている。  
天保六年四月流罪密通之御科にて遠島  
安藤対馬守知行今井龍蔵方に居り候  
はん妹 真言宗いね37才(伊ケ谷村) 
島に貢献した流人達  
流人は先進地である国地(内地)から来た知識人、文化人でもあるので、様々な流人が島にない文明、文化を持ち込み、島民の生活向上に貢献している。  
井上正鉄/上述  
仁杉鹿之助/上述  
小金井小次郎武州小金井村出身の博徒。3千人の配下がいたという大親分。安政3年配流、伊豆村に住む。井上正鉄の井戸を参考に伊豆村全体をまかなう大規模な天水溜りを、資財、人足などすべてを負担して作り、村人から小次郎大明神と呼ばれ感謝された。慶応4年(1868)赦免、水汲み女「ノエ」と娘を伴い江戸に戻る。  
多賀長湖(英一蝶)1652−1724  
町絵師。鎌倉仏師法喬民部とともに描いた風刺絵「朝妻舟」(将軍家綱の愛妾おでんが琵琶湖畔・朝妻の舟中で鼓を打ち綱吉が棹をさしている)が幕府の怒りに触れ、民部は八丈島へ、長湖は三宅島に流刑となった。三宅島では水汲み女「トヨ」との間に二人の子があった。島でもも創作活動を続け、いくつかの絵が島に残っている。宝永6年(1709)将軍の代替りによる大赦で江戸に戻り以後英一蝶を名乗った。  
梅辻規清/野ねずみ消除  
丹宗庄右衛門/八丈島へ流刑となり、途中三宅島で風待ち中に島民に芋焼酎の製法を伝達したという。 
内地への帰還  
義弟の清之助は短期間で赦免され、天保15年に江戸に戻っているが、鹿之助については三宅島から赦免を受けて江戸に戻った記録が見当たらない。  
上述のように、弘化3年(1846)に養蚕に関連する文献に鹿之助の名前が見えるので少なくとも4年間は三宅島に滞在している。  
また、水汲み女たきとの間に11才の娘がいたとあり、この娘が鹿之助の実子とすれば最短でも12年は滞在したことになる。  
何年に赦免されて帰還したのか不明であるが、安政6年の箱館奉行所名簿に鹿之助の名前が確認できる。箱館奉行所に出仕参照  
仁杉過去帳の欄外(左図)のように安政3寅年出改云々とあり、安政3年に箱館奉行所に出仕した可能性がある。  
箱館奉行所の廃止後、鹿之助がどのような立場で明治維新を迎えたのかわからないが、仁杉家の過去帳に  
常在院殿霊山修道居士仁杉鹿之助明治6年10月8日没  
とある。八右衛門家の過去帳にあるということは結婚して一家を構えていなかったのか。  
また別の史料に「鹿之助事伊東■■■」という記述がある。先祖の伊東氏を名乗ったのか、あるいは親戚筋の伊東家と養子縁組したのか、とにかく晩年は「伊東」を名乗っていたようだ。  
なお、同じ過去帳に  
常雲院徳扇良照居士伊東徳之助昭和3年4月9日  
という記録がある。法名に類似があることから鹿之助の子ではないかと推定される。
 
八丈島流人と生活 吉宗の御落胤騒動 / 天一坊事件の流人

 

テレビドラマ「暴れん坊将軍」でも有名な、八代将軍吉宗の時に、世に言う天一坊事件というのが起きている。事件の実体そのものは大した事件ではなかったが、この事件を巷間に有名にしたのは、河竹木阿弥の戯曲である。  
明治初年の新富座時代を飾る名作であるが、名奉行大岡越前守を戯曲の中に取り込んだことで、よりその効果を上げているようだ。  
明治29年に発行された「帝国文庫」に、16編の「大岡政談」なるものが収録されている。  
天一坊、白子屋阿熊、村井長庵、煙火屋喜八、直助権兵衛、越後伝吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衛、後藤半四郎、松田阿花、喜川主税、小西屋、雲切仁左衛門、津ノ国屋お菊、水呑村九助であるが、このうちで最も有名なのは、天一坊事件である。  
この16件の事件の中で、大岡越前守が自身で裁いたのはただ一つ、白子屋阿熊事件だけである。他の15件の大岡政談は、みな幕末の講釈師たちが、あちこちのネタ本から探し出した物を、巧みに潤色脚色したものである。  
河竹黙阿弥の戯曲もその例外ではない。  
この事件で八丈島に流罪になった流人が二人いる。流人明細帳によると、一人は常楽院で、享保14年(1729)6月流罪、流罪名は天一坊一件で、身分住所は南品川御伝馬役次郎右衛門地借り山伏となっていて、明和5年(1768)3月17日に島で病死している。  
その天一坊事件の真相は、歴史読本・特集大江戸悪人伝「御落胤の幻想 天一坊と常楽院」高野澄によると次のようである。  
天一坊と常楽院、および関係者多数の取り調べの結果、およそ以下の真相が判明した。  
天一坊の母は紀州田辺の者で、紀州藩の藩士の家に奉公していた時、主人の手がついて男の子を産んだ。これが天一坊である。  
天一坊は「吉宗の落胤」と称しているのだが、紀州との関係に限ってはまんざら出鱈目でもなかったわけだ。  
4歳の時に母とともに江戸に出て、叔父の徳隠という僧をたよった。  
母は徳隠の世話で、浅草蔵前の半兵衛という町人と再婚。数年して母は病死、半兵衛も不景気のために店をたたんだので、天一坊は徳隠の弟子になって僧の修行をはじめた。  
母は生前、口癖のように言っていた−お前は紀州家の歴々の人の落胤だから、いずれはお侍になるべき人、そのつもりで生きておくれ。ここにお前の由緒書がある、叔父さまに預けておくから、大事にしなさい、云々。  
その由緒書は享保6年の火事で焼けてしまったのだが、源氏にゆかりの血を引いている、といったことが書いてあったので「源氏坊天一」と名乗ることにした。  
享保12年に徳隠が死んでしまったので、天一坊は尭仙院という山伏の弟子になった。  
山伏としての名は改行という。  
ところが天一坊は、山伏の修行には熱を入れない。いれないどころか、自分の生まれのいいことを誇って、酒を飲んでは師に乱暴ばかりしていた。  
もてあました尭仙院は寺社奉行に駆け込んで懲戒してもらおうとしたが、酒のうえのことでは致し方なしと、相手にしてもらえない。  
ここで天一坊は、すっかりその気になってしまったようだ。  
俺の身分のことは寺社奉行にもわかっている。だからお咎めがなかったのだ。  
ますます増長するのに困り果てた尭仙院は、天一坊を弟子の常楽院にあずけた。  
この常楽院がただものではない。  
将軍吉宗の治世はすでに14年、ますます型破りの政治を展開していて、いい意味でも悪い意味でも人気が高い。  
天一坊が将軍吉宗の御落胤として認められ、大身に出世するという筋書は成立する 常楽院はこういう目論見をたてた。  
世間には浪人がうようよしている。  
大身に出世することが確実の人間がいるということを宣伝すれば、浪人がカネを持って集まってくるに違いない。  
天一坊は、この話にとびついた。  
共犯者の意識があったかどうかは、そのあたりは断言できないが、将軍の御落胤として売り出すことについては罪の意識はなかったと思いたい。自分ではすっかりその気になっていたはずだから。  
常楽院が、この計画は「カネが儲かるぞ」という形で説明したのかどうか、それについても判断がむずかしい。天一坊の精神状態は、将軍の御落胤という華やかな幻想に浸りきっていたというところに重点があったとおもわれ、それにくらべたら、カネのことは二の次、三の次であったろう。  
常楽院は、人間の心理を読むことではしたたかな腕をもっていたはずだ。天一坊にはカネの話はしないほうがいい、そのように判断したのだと思う。  
浪人は集まってきた。  
食うや食わずの暮らしのなかから血のでるような苦労の末にあつめたカネを握って、浪人はやってきた。  
天罰覿面というか、惜しむべきはというべきか、常楽院は撤退のことを計算にいれていなかった。ザックリとあつまってきたカネの重みで、撤退を忘れたのであった。  
潮時を見計らって行方をくらます、それが悪人たる基本姿勢だが、撤退をわすれたところに常楽院が悪に徹しきれないミニ悪人だった理由がある。  
享保14年の4月21日、評定所で判決がくだされた。  
「世良田松平源氏坊天一」こと山伏改行は、「偽の儀を申し立て、浪人共を集め、公儀を憚らざる不届きにつき、死罪のうえ獄門」の判決。31歳だった。  
赤川大膳こと山伏常楽院ほか三人が遠島、江戸払が13人、家財取上や闕所など、多数の者にそれぞれ処罪がくだった。  
以上が高野澄氏の「天一坊事件の真相」である。  
これには名奉行といわれている大岡越前守の姿は、影も形も見当たらない。それもその筈であり、そのとき大岡越前守は南町奉行ではあったが、御府内(江戸内)での事件ではなかったから、管轄外であった。  
天一坊を捕縛し吟味したのは、勘定奉行稲生下野守と大目付鈴木飛騨守であった。判決では常楽院ほか三人が遠島になっていて、常楽院とその手下で最もよく活躍した本所松井町二丁目又左衛門店浪人の南部権太夫は、同時に八丈島に流罪になっているが、他の二人は伊豆七島のどの島に流罪になったのか、私は知らない。 
 
八丈島流人と生活 江戸城大奥のスキャンダル / 絵島生島事件

 

岩波書店の広辞苑によれば、「江島(絵島)は七代将軍徳川家継の生母月光院に仕えた大奥の御年寄(大奥女中の取締役)。  
山村座の芝居を愛好し、俳優生島新五郎と交際があったことなどを咎められ、正徳四年(1714)信州高遠に流刑、関係者数十人も処罰された。維新後、歌舞伎・舞踏劇・小説に脚色された。」と書いてある。  
また、旺文社の日本史事典には、「絵島事件は江戸中期、江戸城大奥の風紀紊乱事件である。正徳四年(1714年)将軍徳川家継の生母月光院に仕えた年寄絵島が大奥に権威をふるい、大奥出入りの商人を利用して風紀を乱し、当時の人気役者生島新五郎との乱行で信濃国高遠に流された事件で、連座者は1500余人にも及んだ。」と書いてある。  
この2つの事典は学究の徒のものであるから、出来るだけ真実を書いているだろうが、2つの間には微妙な違いがある。広辞苑は生島新五郎との交際に重きをおき、日本史事典の方は、大奥の風紀紊乱に重きをおいているようである。  
この事件にしろ天一坊事件にしろ、幕府が関係している事件には、不明な点が多すぎる。  
それは幕府は自分に都合の悪いことは、左の物を右とも言える権力を持っていたからであろう。だから歌舞伎や小説のネタにもなるのだろう。  
これも学究の徒のための出版物が多い、学習研究社(学研)から出ている「江戸町奉行」の中から、田井友季子氏の“江戸最大の疑獄事件の陰に張り巡らされた罠”というタイトルの絵島事件を見てみよう。  
正徳四年(1714)1月12日に端を発した絵島騒動は、同年3月9日をもって結審し、絵島に対して下された判決文は、「素行が修まらず、御奉公向をないがしろにしたから、一体ならず死罪に処すべきところであるが、御慈悲を以て、遠島の終身刑に処する」と、ひどく恩に被せたものであった。  
絵島は、前将軍家宣のお部屋様で、当代将軍家継の生母である月光院に仕え、お気に入りの老女であった。彼女は正徳四年には33歳であった。  
この事件の近因になった例の1月12日の増上寺代参の帰途の、豪勢な芝居見物は、確かに顰蹙を買うに足るものであった。お年寄りは奥向きのこと一切を取締まる実権者で、いうまでもなく御代参も老女の重大な役目の一つである。  
挟箱や供侍守られ御廟所に乗りつける絵島の堂々たる威風は、とてもこの大官が小普請組白井平右衛の妹とは思えないほどである。  
この兄は結審の結果、交竹院の弟奥山喜内とともに死罪に決まった。  
絵島の判決では、不品行の面だけ強調して政治的な面はすこしも取上げていないが、病気でもない彼女が奥医師の奥山交竹院とたびたび密談していることなどから、政治の渦に巻き込まれていたことはあきらかである。ときあたかも幕府の中枢では、月光院が側用人間部詮房と組み、幼将軍を擁して政務に口出しをする一方、前将軍の正室天英院は老中秋元但馬守と組んで、これに対抗するという両派の権力争いに感情がからんで、深刻をきわめていた。  
そんななかで、その日、絵島一行百三十余名のものが派手な供揃いで、山村座にくりこんだ。  
「宿下がりの節、物見遊山芝居見物など決して致すまじく候こと」という「女中法度」など忘れ果てていた。桟敷を借り切って酒肴を運ばせ、舞台そっちのけで酒盛りに興じた。無論、絵島の相手は和事の名優で、いまをときめく美男役者の生島新五郎である。  
やっと帰城したときは、七つ口の門限はすでに過ぎていた。随行の目付等は絵島をそのままにはしておかなかった。大奥付目付から支配若年寄へ一通の訴状が出され、閣中ではこの事件を重視し、短兵急に取り調べに着手した。  
当日の芝居見物は単なる奥女中のレクリエーションというだけではなく、薪炭屋栂屋善六が絵島とコネをつけるための饗応であることが発覚し、絵島は3月5日評定所へ召還された。  
この月光院派の絵島がひきおこした業者と大奥の癒着露見を前にしては、大奥の綱紀粛正の大義名分など間部も新井白石も口にすることは出来なかったに違いない。  
この事件を裁いたのは、老中秋元喬知、目付稲生次郎左衛門、町奉行坪内能登守定鑑ら天英院派の意をうけた官僚たちで、月光院派の間部詮房、新井白石らを敵視していた。絵島は信州高遠の内藤家に永のお預けとなったが、絵島につながりのある御用商人や、絵島の縁者たちのこうむった罪の重さが目立つ。  
3月26日、江戸を去る日、駕篭の中で、気丈な絵島は、秋元喬知のむごい仕打ちに、初めて泣いたという。同日、生島新五郎は、深川越中島から、三宅島さして配流の旅に発った。  
かくして正徳の情知事件、背任収賄事件は、芝居関係者、癒着業者1500人余りの処罰者を出すという江戸300年最大のスキャンダルとなった。  
これが筆者田井友季子氏の全文である。この事件で八丈島に流罪になったのは、金井六右衛門一人だけである。流人明細帳には、正徳五年五月流罪、享保三年五月十三日行方不明、着島年齢四一在島年数四、書置致し行衛知れず、流罪名は絵島生島一件、身分は小普請方。  
とある。この金井六右衛門の判決文は、次のようなものである。  
六右衛門、表面の御奉公を相勤め候者に候処、みだりに絵島に対面に及び、あまつさえ狂言芝居茶屋に誘引せしめ、芝居の者を召し集め、夜深更に至て酒宴を催し、その饗応の料を御用承り候町人栂屋善六と申す者に申し付け候て、かの善六をも絵島に参会せしめ、殊に又年来、その身不行跡、役儀勤め方等、姦犯の科重々に候。然りと雖も、寛宥の御沙汰を以ってその罪を減じ、流罪に行われ候者也。正徳五年三月五日。  
この判決文も絵島の判決文と同じ様に、ひどく恩着せがましい判決文である。これは幕府としての、新しい将軍を生み出す大奥に対する畏敬と、御台所や側室の圧力に対する恐れの現われである。  
この事件で八丈島以外の伊豆七島へ流罪になった者は、三宅島へは生島新五郎と栂屋善六、御蔵島は奥山交竹院(大奥医師900石)、新島は後藤千代清助、神津島は中村清五郎、大島は平田彦四郎と山村長太夫、利島は平田伊右衛門である。  
生島新五郎が流罪になった三宅島の文献には、生島新五郎は大坂出身で屋号を三浦屋という。  
江戸山村座の抱役者であり、その得意とする芸は和事で当時ならぶ者がいないと評判された人気役者である。  
正徳年間(七代家継治世)、大奥の大年寄絵島と恋愛関係を結んだ科によって三宅島へ配流され、相手の絵島は信州高遠に配流された。享保18年2月26日63歳の生涯を閉じた。 
 

 

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