最上義光の娘「駒姫物語」

駒姫1駒姫2駒姫3駒姫4駒姫5最上義光1義光2義光3関ヶ原義光4義光5義光6最上義守光姫義姫伊達政宗義光の妻大崎義光の妻天童義光の妻清水寒河江十兵衛直江兼続の最上侵攻最上家親最上家信・・・
 
辞世の句 

雑学の世界・補考   

罪なき身も世の曇りにさへられて ともに冥途に赴かば 五常のつみもほろびなんと思ひて
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき
(つみをきるみだのつるぎにかかるみの なにかいつつのさわりあるべき)
駒姫1

文祿4年(1595)8月2日、立秋を過ぎて一ヶ月もたつのに、京都は厳しい残暑が続いていた。 この日の午後、京都鴨川の三条河原で、罪なき女性と幼い子ども30余名が斬殺されるという、史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた。殺されたのは、前関白豊臣秀次の妻妾とその子供たち。義光の次女駒姫が悲劇の死を遂げたのは、このときである。
処刑を命じたのは、豊臣秀吉であった。
秀吉は、長らく子どもに恵まれなかった。側室淀殿(織田信長の妹お市の方の娘)にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にし、後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、天正19年(1591)12月その職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなる。
ところが、朝鮮出兵さなかの文祿2年8月淀殿がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する秀吉の態度には大きな変化が生じてくる。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃しようとするのである。
秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞をなし、世の顰蹙を買うことがしばしばだったという。秀次はその非をとがめられ、加うるに太閤に対する謀反の疑いまでかけられて、官職剥奪、高野山追放、ついには切腹を命じられて自決する。側近家臣ら10人も追い腹を切る。文祿4年(1595)7月15日であった。
豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃だった。動揺する大名たちに対して、秀吉は7月20日愛児秀頼(お拾い様)への忠誠を誓わせる。「お拾い様へ対したてまつり、いささかも表裏なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条である。
その誓約書には29名の諸侯とともに「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をなした。その文書は岡山市の「木下家文書」に収められている。  
秀次を切腹させて首を取っても、秀吉の気持ちはおさまらなかった。続いて、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子ども全員の殺害を命じた。その中に駒姫(聚楽第では「おいまの方」と呼ばれた)が入っていた。
義光は八方手を尽くして助命嘆願をしたというが、秀吉は「父親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たぬ」と言って許さなかったという。後述のように、淀殿を通して嘆願したところ太閤も無視できず、「尼にして寺に入れよ」と命ばかりは許したというが、これは創作の域を出ないだろう。
実際のところ、義光や伊達政宗も秀次と親しく、聚楽御殿にしばしば出入りしていたという理由でもって、閉門謹慎を命じられていたのだから、娘の助命嘆願もできない立場だったかもしれない。
妻妾たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらをも秀吉は許さなかった。罪なくして斬首の刑に処されると知ったとき、彼女等の悲嘆はいかばかりだったか。泣いても嘆いても、助かる術はなかったのだ。
8月1日女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をする。
駒姫も形見を残したことは確かだろう。山形市門伝の皆龍寺には、駒姫着用と伝えられる高雅な衣裳の切れが、大切に保存されている。
同2日死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。たまたま上京中で、その様を目撃した岡崎(愛知県)上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録によると、引き回しは次のようであった。
車は7台。1台目には三人の女性とその子ども3人。1歳から3歳の幼児であった。
駒姫は2台目の車に乗せられた。「最上殿御子 おいま様 十五」と記されている。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳の4人であった。
以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみがメモされている。合計34人、「一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」と、尊祐は書き記した。
小瀬甫庵「太閤記」によると、まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼い子どもの姿に、見る人はみな泣いたという。
市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられる。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。  
殺戮は正午ごろから開始された。最初は子どもたちだった。
「五十ばかりの髭男が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した」「抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」と「太閤記」には描かれているが、泰平を謳歌したように思われる桃山時代の京都で、このように残酷な処刑が行われたのである。
おさな子が終わると、処刑は女性たちへと移る。その様を秀次一族の菩提寺、京都三条瑞泉寺の縁起では、以下のように語っている。
最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、31歳(32、34歳とも)、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性である。 第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。 第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。 処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だったという。
「第十一番に、お伊万(いま)の前、出羽最上家の息女十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、 「鎌倉で尼にせよ」と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」 「つぼめる花のごとき姫君で、未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」(「出羽太平記」)。
駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、うしろに斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸を前にさし延べたと書いたものもある。
瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられている。
罪なき身も世の曇りにさへられて ともに冥土に趣かば  五常の罪も滅びなんと思ひて   
 伊満(いま)十五歳
罪を切る弥陀の剣にかかる身の  なにか五つのさわりあるべき
「罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう」
30余名の処刑は申の刻(午後4時ごろ)まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれた。築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられた。
見物に来た人たちは、「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったと「太閤記」は語る。 その夜、京都は10日ぶりに雨になった。太陽暦では9月5日、そろそろ秋の気配がただよう季節になっていた。  
人々はこの事件を厳しく批判した。夜のうちに辻々に貼り紙がなされ、「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという( 「太閤記」)。
この前後、義光は閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向ける。行ったのは上級家臣浦山筑後だとも、そうでなく、もっと身分の低い家来だったともいう。
義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという( 「奥羽永慶軍記」ほか)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのである。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかったのだ。
その後数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。
不幸は、続けざまに義光を襲う。
駒姫死後の27日(ふたなのか)めにあたる8月16日妻が急死する。駒姫の母親であろう。亡くなった事情はよくわからないが、独り黄泉路に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかと、多くの研究家は想定している。「山形殿内室、奥州大崎家の娘」と 「最上家代々過去帳」に記された女性である。
20歳前後に義光のもとに嫁ぎ、幾人かの子女をもうけ、会津へも京へも行って夫を支え、苦楽を共にした妻である。その急死を義光がどれほど嘆いたかは想像に余りある。 しかし、義光は一国の主として、ただ耐え忍ぶ以外にすべはなかっただろう。
文祿4年8月は義光の生涯で最も苦しい秋であった。  
秀次の切腹、三条河原の処刑、すべて秀次の謀反が原因と、石田三成、増田長盛、前田玄以らを中核とする政府は説明したが、事実は秀頼を立てるために、秀次に謀反人の濡れ衣を着せて亡きものにしたというのが歴史家おおかたの見方だ。
京都の事変は、8月10日過ぎには山形に急報されたに違いあるまい。姫様は囚われ、やがてご生害、殿は閉門蟄居、なじみ深い方々が死罪あるいは流罪。わが最上家にも、いかなる難儀が出来するか計り知れぬ 、最上家存亡にかかわる一大事である。
おそらく山形にいた一族重臣が協議した結果であろう、8月13日嫡男義康が大沼明神(西村山郡朝日町にある。浮島で有名)に祈願状をささげた。
「敬白 立願状之事 このたび父親義光の身命が無事でありましたなら、社殿を建立し、村に住む人々を皆山伏(神社に奉仕する者)にし、また、境内の松はいっさい伐らないようにいたします」
願主は「源義康」となっている。神仏に願を立てるときは、本姓(最上氏は「清和源氏」)を使うのが通例だった。この祈願状には、後で書き加えたらしい次男「寒河江家親」の署名もある。父親の無事と最上家の安泰を願う、必死の祈りだった。祈願状は、ほかの社寺にも捧げられたと思われるが、現在はこの一通が残っているだけらしい。
7月15日秀次切腹。20日秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺し、ついで閉門蟄居、10日ほど後には娘を殺され、悲嘆と不安の真っ只中の8月16日今度は妻が死ぬ。しかも、次にどんな無理難題を吹きかけられるか知れないのである。
理不尽とは、こういうことを指すのだろう。
だが、幸いにして最上・伊達両家にかけられた謀反加担の疑いは程なく晴れ、閉門蟄居は解除される。こうしたこともまた、山形に報らされたはずである。一門家臣たちも、ほっと一息ついただろうと思われる。
後日、秀吉は義光に使者をつかわして、こう伝えた。
「娘を死罪に行ったことを、きっと不快に思うだろうが、秀次が反逆を企てた以上は、やむをえないことと思うべきである。こうなったからには、汝の罪科も許してやろう」
義光はこれに対して、「有難き御上意」と答えただけだったという(「永慶軍記」)。秀吉と石田グループに対する不信と怒りは、極限に達していたに相違あるまい。 それだけに、従来から親しかった実力者、徳川家康への傾倒は、いっそう強まっていっただろうと思われる。 五年後、天下を二分した関ヶ原の戦いのとき、義光が家康を支える盟友として誠実に行動し、強大な上杉軍の攻撃を真正面から受け止めたのも、自然なことであろう。  
京都人にとって、出羽山形は遥かな異郷だった。遠い片田舎の山形から出てきて、人臣最高位の関白・豊臣秀次の邸に迎え入れられたのも束の間、悲劇的な生涯を閉じた駒姫のことは、当時大きな話題になったと思われる。傍証として、二つの事例をあげよう。
甫庵「太閤記」の記事
駒姫らが処刑された翌年(慶長元年/1596)9月国交回復のために明国の使者が伏見城に秀吉を訪問したとき、歓迎の宴が盛大に催された。宴の後の茶の席で、点前に出たのは施薬院全宗(やくいん・ぜんそう)だった。これを見ていた富田一白は、小さな声で「茶をもてなすにしても、小督の御方か、おいまの御方のお点前なら、ひときわ興趣があっただろうに」と、かたわらの人に語ったという。全宗も一白も、秀吉側近のすぐれた教養人である。
「小督」は、「平家物語」で「宮中一の美人、琴の上手」「峯の嵐か松風か/たづぬる人の琴の音か」と歌われた「琴の音」の主である。あるいは、徳川秀忠に嫁して、千姫(豊臣秀頼の妻)や後水尾天皇の后・和子[まさこ]を産んだ女性「お江よの方」(「小督」とも呼ばれた)かもしれない。どちらにしても、気品、容貌、立ち居振る舞い、すべてにおいて最高の品格と優雅さをもった女性だった。
「おいま」は駒姫である。彼女が「小督」と並べられたのは、駒姫がいかに美しく雅やかな女性として評判になっていたかを物語るといえるだろう。
仮名草子「恨の介」の挿話
「恨の介」は、作者不詳の読み物で、幕府旗本武士と宮中女房の恋愛と情死をテーマとしたものであるが、その一部に三条河原の処刑場面が出てくる。
30余人の女性たちが刑場に下ろされ、みな秀次の死骸を見て涙にむせんでいるとき、「中でも出羽の国の住人、最上殿の御娘、おこぼの上臈と申す方は、御年十六歳にておわしますが、涙をとどめて」こう語った。
「この涙は、関白様から賜りました嬉しいお言葉や熱いお情けが、今更のように思い出されて、とまらない涙なのでございます。わたしたちを見守っておられる皆様も、けっして自分の死を嘆き悲しむ涙だとは、お思いなさらないでくださいませ」
こう言ってから、一首の和歌を秀次の亡骸に手向ける。
「南無阿弥陀 蓮(はちす)の露とこぼるれば 願ひの岸に到る嬉しき」
これを見た女性たちは、われもわれもと和歌を作って手向けたので、秀次の死骸も動くばかりに見えた。やがて「おこぼ」は、衣の下から守り刀を取り出し、切っ先をくわえ「南無阿弥陀仏」の一声を最後に、うつ伏して死ぬ。残った女性たちも次々と自害する。
このようなエピソードである。「おこぼ」とは、創作上の仮の名であろう。
「恨の介」は、慶長末年(1615)以前の成立とされ、だとすれば、義光在世のころに、駒姫ははやくも物語の人となっていたわけである。最上家の姫君のうわさが、京都町衆の間に広まっていた故に、創作文学の中にまで取り込まれたと考えてよい。  
「奥羽永慶軍記」では、駒姫と伊達政宗との小さな関わりが語られている。
天正9年(1581)の秋、最上家に女の子が生まれた。たまたまその日、少年政宗と伯父義光が千歳山阿古屋の松を題材に和歌の贈答をした。
「恋しさは秋ぞまされる千とせ山の あこやの松に木隠(こがく)れの月  政宗」
「恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月  義光」
義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこれを採らず、出羽の名山「御駒山」にちなんで「お駒」と名づけたという。
義光は、祝いの連歌会を催そうとした。ところが、山形には連歌のできる者がいなかった。町人でもだれでもよい、歌の道は身分の上下を問わないと、町奉行に捜させたが連衆(連歌参加者)となる者が見出せず、連歌は沙汰止みとなった。
駒姫が亡くなったとき、「誕生ノ祝儀連歌ノ止ムモ不吉ナリ」と政宗は語ったという。可憐な従妹の悲しくはかない運命を、政宗も心を痛めて受け止めたのであった。
一方、この悲劇を父・義光の責めに帰そうとする見方もある。伊達一門の伊達成実は、次のように書いた(「成実記」より意訳)。
「義光は、秀次公が最上在陣のみぎり、息女を差し上げた。大名に似合わざるやりかたと、世間で取り沙汰していたところ、今度のこの始末だ。天下の嘲弄、尋常ならず」
確かに結果的には悲惨な結末になったわけだが、当時の状況を考えれば、豊臣政権の後継者たる青年関白から娘を所望されたとき、果たして断り通すことができるかどうか。実際その場に立ったら、それは不可能というしかあるまい。
「天下の嘲弄、尋常ならず」は「ざま見ろ」というに近い、悪意の言葉である。これほど悪し様に書けたのは、「成実記」が義光亡きあと、最上家改易の後に書かれたものだからであろうか。  
三条河原の事件は、刑死者の人数・年齢・辞世の和歌など、異説が少なくない。
駒姫の年齢についても、15、16、19などの説(数え年)がある。しかし、史料として重視される尊祐メモと瑞泉寺縁起は、ともに15歳となっている。また「永慶軍記」では、伊達政宗15歳の年(天正9/1581)に駒姫が生まれたとされているから、刑死した1595年には15歳だったことになる。やはり、15歳が正しいのだろう。
駒姫の辞世にも別伝がある(他女性の作も文献によって違うものがある)。
「罪を切る弥陀のつるぎにかかる身の」が、山形ではよく知られているが、この和歌は後代の代作とされ,仏教思想が強調されて、若い女性らしさがなくなってしまった。ところが「太閤記」では、次の和歌が掲げられている。
「うつつとも夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」
「現実なのか夢なのか、それさえわからないこの世の中に、長く住むことなく、私はあの世に帰るのでしょう。澄むことなく、寄せては返る白川の水のように」
このほうが若くて世を去らねばならない女性の心情が、痛々しく表れているような気がする。「すまでぞ」は「住むことなく/澄むことなく」二重の意味をもつかけ言葉。「白川」は鴨川に東から合流する川で、刑場となった三条あたりも、当時は「白川」と呼ばれていたものらしい。辞世29首の中には「白川」を詠み込んだものが4首ある。
なお、これら辞世和歌は覚悟をきめた女性たちが前もって詠じておいたものを、1巻にまとめたものだということである。
もう一つ。「太閤記」によれば、駒姫のほかにもう1人、山形の女性が処刑されている。第25番「おこちゃの御方、廿歳、最上衆なり」
濡れぎぬをきつつなれにしつま故に 身は白川の淡(あわ)と消えぬる
「謀反人という濡れぎぬを着せられて死んだ、私のなれ親しんだ夫(秀次)ゆえに、わが身は白川の泡となって消えてしまうのです」
これによれば、山形の女性2人が同じ時に処刑されたわけだが、「おこちゃの方」とはどんな身分・立場の女性か、手がかりがない。駒姫につき添って聚楽御殿に入った女性だろうという想像もあるが、そう考えるのがいちばん妥当かもしれない。  
山形市緑町、浄土真宗の専称寺に駒姫の墓がある。境内の最も奥まった一隅に、ひっそりと立つ五輪塔がそれである。駒姫の母もこの寺で弔われているはずだが、墓は建立されていない。三周忌にあたる慶長2年(1597)義光は妻と娘の画像を寺に寄進した。駒姫の画像は見ることがむずかしいが、夫人画像は山形県有形文化財に指定され、さまざまな図録類に掲載されているので、それで見ることができる。
庫裏の一部には、駒姫の居室を山形城から移建したという一室がある。板襖には、400年余の歳月を経て色彩・描線は薄れているが、今も繊細な絵が見て取れる。
義光は折に触れてこの寺を参詣したといわれ、本堂の前庭には「義光公駒つなぎの桜」と名づけられた桜樹がある。春ごとに薄くれないの花を咲かせるしだれ桜である。 義光は、還暦を迎えた慶長11年に、京都で造られた梵鐘をこの寺に寄進した。 年老いてもなお深まるばかりの、深い嘆きをこめたものだろう。山門を入って左側にある古風な鐘楼と刻銘明らかな梵鐘と、いずれも県指定文化財である。
駒姫の墓は、京都三条大橋西たもとの浄土宗瑞泉寺にもある。 四条の繁華街へ下る町筋の、清楚で品のいい寺である。豪商角倉了以が、舟運の便を図るため高瀬川(森鴎外の名作でも知られる)を開削したとき、女性たちを悼んで刑場跡地に建立したものだという。了以は、連歌を通じて義光と親しかったから、駒姫のことも聞き知っていたのであろう。
墓地は、秀次の墓を正面に、一族妻子と殉死した家臣ら合わせて49名の墓碑が並んでいる。その中に、駒姫の墓もある。
 
駒姫2

関白豊臣秀次の側室と言えばどういった境遇であったか、すぐ想像出来る方も少なくないであろう。しかし非業の死を遂げた秀次の正室側室、娘たちの中でも彼女はまた別格であろう。豊臣秀次は太閤豊臣秀吉の甥にあたるのだが、嗣子のいない秀吉の養子となり関白に任ぜられた男である。やがて豊臣家の全権を(つまり天下の権を)譲られるべき男であった。ところが関白に落ち着いた秀次を待っていたモノは過酷な運命であった。秀吉に待望の男子が誕生したのである。こうなると秀吉にも欲が出てくる。我が子に跡を嗣がせたい。自分の本当の息子に全てを譲りたい。そうなると邪魔者となるのは既に関白となって将来を約束された秀次である。秀吉の秀次に対する愛情は急速に冷め、ふたりの間の溝は深まる。加えて秀次の悪評が世間に流れる。
女と酒に溺れ、執政を顧みない。手当たり次第、気に入った女を寝所に引き入れる。妊婦の腹を割く等々。人々は秀次のことを殺生関白と呼んだという。これについては様々な見解もある。平凡な男が突如手に入れた権力に舞い上がり歯止めが利かなくなった。秀吉の急な変わり身にストレスが溜まりヤケになった為。全くのデマで、その後の秀吉の処置を正当化させるための秀吉の策謀。秀吉の側近と秀次側近との、または秀吉家臣団内部の主導権争いによる犠牲等々。その真相云々を検証するのはまた別の機会のこととして、現実には秀次はそのような悪評と謀反を理由に関白の地位を剥奪されるのである。そして高野山へ追放となり、自刃を命ぜられ切腹して果てる。
さらに秀次の側近、正室側室子供たちまでも三条河原で斬罪に処されたのである。
さて、駒姫もその一人なのであるが、彼女の運命も残酷なものである。遡ること5年前、天正18年(1590)南部氏の家臣であった九戸政実が背き乱となったのを平定に向かった秀次が見初めたのが最上義光の娘、駒姫である。未だ幼い駒姫をその時にどうのこうのとはなかったようだ。だが、駒姫が成長して美しい娘となったので、あらためて秀次が所望したという、この時駒姫は19歳。(諸説あり17歳、15歳など)。
かくして駒姫は山形から京へと嫁いでいったのである。だが駒姫が京に着いたのは既に秀吉から秀次へ詰問がなされたあとの事であり、秀次は瞬く間に関白剥奪、高野山追放、自害へと運命を流れるように歩んでいく。つまり駒姫は嫁いできたものの、秀次と顔を合わす間も無かったに違いない。形の上では側室であったかもしれないが実質、側室としての立場も日々もなかったのである。しかし駒姫は形の上通り、三条河原に連れ出され、十一番目に断罪された。
「罪をきる弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき」
5年前に見た秀次の顔を駒姫は覚えていたのだろうか。京の華やかな町と関白の側室という自分の姿を夢見、ようやくたどり着けば幾ばくもなく捕らわれて顔も微かに覚えているか否かの男の為に処刑される。そんな自分の身上をいかに嘆いたか。私たちには想像できうることだろうか。最上義光もその経緯を理由に助命を嘆願したが間に合わなかったとも言う。
  
駒姫3

天正7年-文禄4年8月2日(1581-1595/9/5) 最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室。別名、伊万(いま)。伊達政宗の従妹に当たる。彼女の名は御駒山からとられている。
駒姫は、その類いまれな美しさから父母に溺愛されて育ったという。時の関白・豊臣秀次は、東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に迫った。義光は断ったが度重なる要求に折れ、十五歳になったら娘を山形から京へと嫁がせると約束する羽目に陥る。なお、九戸政実討伐の帰途、山形城に立ち寄った秀次を、義光が駒姫に接待させたという挿話は後世の創作とみたほうが妥当である。
文禄4年(1595)駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられてしまった。そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。まだ実質的な側室になる前だったと言われている。父の義光が必死で助命嘆願に廻り、各方面からも処刑せぬようにと声があがった。秀吉もついにこれを無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣した。しかしあと一町の差で間に合わなかった。享年15。その従容とした死に様は、さすが大名の娘であるといわしめた。
辞世の句 / 罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき (慈悲深い弥陀様の剣に斬られる私に、どうして往生できない五つの罪があるのでしょうか)
この辞世は彼女愛用の着物で表装され、他の処刑者のものとともに京都国立博物館に保存されている。複製品は京都・瑞泉寺、山形市・最上義光歴史館で見ることができる。
彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願ったが許されず、その場で掘られた穴に投げ込まれ、さらにその上に「畜生塚」と刻まれた碑が置かれた。そのむごたらしさに都人は浅ましいとも何とも言いようがない思いを感じたと伝わる。
娘の死を聞いた母の大崎夫人も、悲しみのあまり処刑の14日後に亡くなった。自殺と推察されている。
義光の憤激と悲嘆も激しく、この悲劇がのちに彼が関ヶ原の戦いで東軍に属すきっかけになったという説もある。駒姫の死の翌年、義光は高擶で布教中の真宗僧乗慶に帰依、専称寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺とした。さらに慶長3年(1598)八町四方の土地と寺領14石を寄進し城下最大の伽藍を建立、敷地に村山地方の真宗寺院十三ケ寺を塔頭として集め、のちに寺町と呼ばれるようになる町を整備した。この寺には、山形城より駒姫の居室が移築されており、大崎夫人像とともに彼女の肖像画が保存されている(なお、広く知られている彼女の肖像画は大正期に描かれたものである。もとの画は尼僧姿のもの)。
当時の武家社会でも男子はともかく女性は助けられるのが慣例であり、秀吉が秀次の妻妾子女ほぼ全員を処刑したのはそれを無視したものであった。幼い駒姫の死や、遺骸の処理は当時の社会通念からしても明らかに不当かつ残忍極まりないもので、最上家はもちろん諸大名、世間一般にもショッキングなものと受け取られたことは想像に難くない。 ちなみにごく一部ではあるが、秀次の妻子でも助命されたものもいる。駒姫がまだ実質的な側室ではなかったにも関わらず、助命嘆願を無視して処刑されたことを考えると、当時義光が秀吉から冷遇されていたことがわかる。この事件以降、義光は反豊臣急先鋒となり、慶長出羽合戦では奥羽における東軍の要として活躍した。この惨劇は豊臣政権の寿命を縮める一要因ともなったわけである。  
 
駒姫4

最上義光(「もがみよしあき」と読む、義光自身が「よしあき」と平仮名で書している書状が残っている)には目に入れても痛くないほどかわいいかわいい娘がいました。二女(末娘ともいわれる)の駒姫です。
駒姫は「お伊満」ともいわれ、当時東北随一の美しさと言われたそうです。ですが、それだけ美貌が有名になると、権力者の目にもつきます。駒姫も例外ではありません。このときの権力者は豊臣秀吉の跡を継いで関白となった豊臣秀次。秀次は奥州で反乱を起こした九戸政実征伐の時に奥州に下向し、その時に駒姫にも初めて会って「うわさどおりの美しさ。ぜひ余の妾に」と所望したそうです。はじめは義光がまったく承諾しません。「娘をあんな男にやれるか」とは言いませんが、そういう心境であったと考えると心情がわかりやすいかもしれません。
義光は丁重にお断りしましたが、秀次も一向に引き下がりません。「くれよくれよ、駒姫くれよ」とせっついてきます。
相手は関白ですので、断りきることができず、義光はやむなく駒姫を京都に連れて行きます。そして、駒姫は名目上秀次の側室の一人となったのでした。
ところが、同じ頃、秀次は叔父であり現・太閤でもある豊臣秀吉との不仲が決定的となり、ついに「謀反をたくらんだ」という疑いをかけられてしまっていました。やがて秀次は、高野山に追放。さらに切腹させられてしまいます。
これで済めば、義光も駒姫も安堵だったでしょう。「秀次様がお亡くなりになりましたので、娘は連れて帰ります。」とでも言えたかもしれません。ですが、そうは問屋がおろしませんでした。秀吉の信じられない命令が出されたのです。
「秀次の室、子含め、家族は皆殺しにしろ」
かくして、駒姫も秀次の側室として殺されることになってしまいました。これを聞いた義光は大急ぎで助命嘆願を始めましたが、その努力もむなしく駒姫は1595年8月2日、秀次の家族、侍女らと共に京都三条河原で打ち首となってしまったのです。享年は15歳。
駒姫が最期に詠んだ詞書と和歌
罪なき身も世の曇りにさへられて 友に冥途に赴ば 五常のつみもほろひなんと思ひて
解釈1/罪のない身でありながら、世間から疑いをかけられてみんなとともに冥土に行きます。そのことによって、人が行うべき五つの道に背いた罪も、消えるだろうと思って歌を詠みます。
解釈2/罪もない身だが世間の疑いにかけられて、みんなと一緒に冥途に行けば五常(仁・義・礼・智・信=思いやり・正しき道・礼儀・知識・信用)の疑いが消えると思い歌をよみます。
罪を斬る弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき
解釈1/罪を切り払って下さる慈悲深い阿弥陀様のおぼしめしによって、刃にかかる私ですから、極楽に行くのに妨げになるような罪などあるはずがありません。
解釈2/何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから。
解釈3/罪を斬ってくださる、阿弥陀(あみだ)様の剣により、斬られる自分は、極楽に行くうえで、妨げになるような罪などありません。(阿弥陀様に斬られる罪などないから、極楽へ行ける)
駒姫は、京都に行ってからわずか1ヶ月ほどで、「秀次に関係ある人物」として斬られたそうですので、本人も自分がなぜ斬られるのか納得できていないかのようです。恨んではいるけど恨みつらみを書くわけにもいかずといったような無念の気持ちが感じられます。
義光の復讐
義光は駒姫の斬首を知って、ひどく悲しんだでしょうが、義光も出羽の虎将と呼ばれた名将です。恨みから反旗を翻すようなことはなく、その後も領国を保ち続けました。ところで、この義光の助命嘆願の際に、何かと手伝ってくれた義光にとっての恩人武将がいます。徳川家康です。家康は、義光の訴えを聞き入れ、義光と共に秀吉に駒姫の助命嘆願をしたそうです。結局駒姫は処刑されてしまいましたが、義光は家康に大いに恩義を感じたでしょう。ですから、後に関ヶ原の合戦の際に義光が家康軍についたことについて、駒姫事件のことが遠因になっているとさえ言われています。
秀吉晩年は残酷な沙汰などをすることが多かったようですが、この駒姫の悲劇もその一つですね。なんだかわからないうちに斬られるハメになった駒姫はかわいそうですが、逆上しなかった義光もさすがです。さすがに予想はしてなかったでしょうが、関ヶ原時には徳川方について結果的には豊臣家に復讐を果たしていますし・・・。
 
駒姫5

「何かの間違いであろう」
と、石田三成は持ち前の冷静な顔のまま言った。
だがそれとは裏腹に背中を冷や汗がつたう。折しも季節は夏である。
何かの間違いとは、太閤が関白に謀叛の疑いありと言い出したことを耳にしたからであった。
いや、彼もこの日この時が来るやもしれぬとは内心思うところがあった。太閤の拾丸への異常なまでの思い入れをみれば、あるいはと思っても無理はない。だが、彼はまだ聡明であったころの、彼を見出した頃の秀吉像が脳裏にあった。
(いくら拾丸様がかわいいとはいえ、みすみす豊臣の血を屠るとは思えぬ。そんなことあってはならん。だがしかし――)
豊臣政権の弱みは、血族や譜代の数が少ないところだ。たとえば徳川家は、何代も前から忠誠を誓う三河武士団が家康をとりまいている。家康自身にも男子が多い。ひるがえって豊臣家を見ると、一代で成り上がっただけに祖父や親の代からの家臣なぞいるはずもない。畢竟、数少ない血縁者や妻・ねねが台所飯を食わせた子飼い武将が贔屓目でみられ、とりたてられることとなる。この中には、豊臣秀長、石田三成、大谷吉継のような内政に長けた者もいれば、加藤清正、福島正則のような勇猛な者もいた。秀吉が人たらしと称せされるほど、あらゆる家の名臣を引き抜こうとするのは、そのあたりに原因がある。
秀吉は天下をとってからは、己以外に貴いものなぞこの世にないと思うほどに傲慢であった。人たらしと呼ばれたのも、昔はともかく権力者となってからは買収と恫喝で、相手を従わせているだけだ。彼が心の底から褒め称えている者がそもそもいるはずなぞない。以前、徳川家重臣であった石川数正の引き抜きに成功して以来、このうまみが忘れられなくなったとみえる。
さらに悪いことに、秀吉は胤がないとひそかにささやかれるほど、子ができなかった。長浜時代に石松丸という子ができたが、これはまだ幼いうちに亡くなった。淀殿との間にできた鶴松も夭折した。養子もまた短命である。信長の四男であった秀勝はわずか十八で亡くなった。秀次の弟・秀勝も朝鮮で陣没している。
こうした中、やっとうまれたのが拾丸というわけだ。秀吉自身の年齢を考慮しても、おそらく最後の子となろう。だからこその熱愛ともいえるが、だからといって秀次をとりのぞいていいものか、どうか。
三成は否、と思っている。何と言ってもまだ拾丸は幼いのだ、あの歳では秀次がいなくなっても関白になぞなれるはずもない。秀次を後見人として拾丸の成長を待ち、譲位させるのがもっとも豊臣政権が安泰となる道である。秀吉自身いつまでも生きられるかわからぬが、秀次はとりあえずまだ若いのだから。
しかし秀吉がその道を厭う理由があった。
本能寺で主君・織田信長が斃れたのちに、一介の家臣にすぎぬ秀吉が政権奪取を達成できたのは、信長の嫡孫である三法師を擁立したことが一因としてあった。彼は幼主を奉じて権勢をひとたび握ると、信長を悪し様に罵り、追悼のための寺建立は中止した。信長の子である信孝を屠り、その母であり信長の側室であった女をも殺した。織田の貴公子である長益や信雄を道化のようにあつかった。織田の血を引く女や、信長の側室を執拗に求め、閨に侍らせ犯した。旧主の仇討ちをかかげて政権を奪取しながら、ここまで旧主をこけにした者がいたであろうか。織田信長を弑逆したのは明智光秀だが、織田家の血をすすり肥えふとり、ふみにじったのは秀吉である。
秀吉は、同じことを秀次がせぬかと恐れているのである。
秀吉ははじめ、この邪魔者を朝鮮で殺そうとした。五月に膠着状態の朝鮮戦線へ関白秀次が率いる大軍団を送り込まれる予定が立てられてたいたのである。秀吉はこの軍団に秀次派の目障りな大名どもをくっつけて派遣し、一気に地獄に堕とさんとしていた。この中には最上義光、伊達政宗の名もふくまれていた。しかし明使が日本入りし、和平交渉が開始されたことで、ついにこの計画は実現することなく終わった。
秀吉はもう手段をえらばず、ともかく秀次を葬ることにした。そうせねば枕を高くして眠れぬと彼は決意を固める。いちいち行動を監視させ、白を黒とするべく目をぎらつかせて甥の行動を監視した。
確かに秀次は、叔父の蔭から抜け出すべく自立の動きを見せていた。蒲生氏郷死後、その家督相続に関する係争を太閤の裁可を無視して決着させた。朝鮮出兵で疲弊した大名たちを救うと称して、金銀の貸し付けを行っている。
若い頃はろくに書物を読む時間もなかった叔父とはちがい、秀次は文化面でも卓越した才を発揮していた。十五で風流人として知られる三好康長の養子に入って以来、連歌師・里村紹巴、茶道会の大物・津田宗及、千利休らに指導を受けている。秀次はまた、京都五山や公家の庇護にも熱心であった。秀次の主催するこうした風流の会に出入りせねば、当時の文化人としては画竜点睛を欠くのである。権力とは関係なしに、ただ風雅のために秀次に近づくものが多い。細川忠興、最上義光、伊達政宗らも、まったく政治的配慮がなかったとはいえないが、文化の薫り高い血ゆえに関白に近づいてしまった面があった。
こうした文化人の交流面もふくめて、捜査が進んでいった。そしてついに狂った独裁者は関白謀叛の材料を拾ったのである。
七月三日(新暦八月八日)、関白が朝廷に対して白銀五千枚を献上したという知らせが、太閤の耳に届いた。さらにその二日後の五日、毛利輝元が関白に奏上していたという誓書案文を太閤に提出した。太閤は目を通すとにやにやと笑みをうかべつつ、言った。
「奴め、ついに尻尾を出しおったわい。こりゃ謀叛の確たる証拠じゃぞ」
きわめてあいまいな文言ではあるが、それは有事の際に忠勤をもとめるものと読めなくもなかった。さらに彼が細川忠興、伊達政宗ら多くの大名に金を貸していたことも不審とされた。そうは言っても、朝鮮出兵で今財政に余裕のある大名なぞ、どこにもいない。こんなことが不審であるはずもないのであるが。
「いや、しかし、これだけで謀叛とは言い難いのでは」
石田三成はじめ、皆これには異議をとなえた。三成の実弟・光重は秀次家臣でもある。秀次の失脚はこの弟の将来をもあやうくする。太閤はふんとその言葉を笑いとばす。
「なんじゃおまえら、日頃わしに忠誠をちかっておいて何ぞ異議なぞほざきおる?わしが馬を鹿と呼べばそう言うのが、おまえらの役目じゃろ。役立たずの屑どもが雁首並べおって」
三成はなおも抗弁する。
「いいえ、関白は必ずや拾丸様を慈しみ、後見なされるはずです」
太閤はこの忠臣の顔を、じろりと睨み付けた。
「ほお、なしてそんなことが言い切れる?」
「なぜと仰りますが、それはその……」
三成の語尾が、彼にしては珍しくにごった。太閤はぴくぴくとこめかみに青筋を立てている。
「もうええ、さあ早う、秀次のところへ去ね!首を取るまで戻ってくるなよ」
こう太閤にせかされて、渋々三成、前田玄以、益田長盛、長束正家の四奉行が聚楽第へとむかっていった。
聚楽第にはいった四奉行は、まず関白をささえる補弼の臣から話を聞いた。
木村重茲、山内一豊はじめ大多数の者は疑惑を一笑に付した。
「それはありませんぞ、関白は誠心誠意拾丸様、ひいては豊臣家に尽くす所存です」
彼らは冷や汗を垂らしつつもそう答えた。石田三成はじめ四奉行もうなずき、安堵の息をもらした。
「御言葉ですが――」
そうしておさまりつつあった場で、おずおずと一人の男が口をはさんだ。徳永寿昌、見るからに人の良さそうな丸顔をしている。
「関白は武士であれば常に非常の心がけをと、禁制の場で狩りをなされたり、甲冑を身につけ都を練り歩いておられました。また、よく手ずから罪人の試し斬りなぞなさっておりました。なにせ太閤が名護屋におられる時ですし、都人も不安に思うでしょうからと私は止めましたが、聞く耳を持たず……」
(な、何を言い出すのだ!)
四奉行はじめ、関白の家臣はぎょっとした顔になった。
「ええ、さらに多大な金銀を諸侯に貸し付けておりましたが、これはまあ、豊臣家に対する忠誠を誓わせるためかと。いやいや、決して関白個人に対してではありますまい、しかしこのような時にと私は思いましたが。
そうそう、豊臣家のためと言えばあれほどたくさんのご側室がおられるのも、豊臣の血を残したいがためだそうです。まあ、軽率ではないかと私は内心思っておりましたが――」
穏和な丸顔が、関白をおいつめる材料をぺらぺらと吐き出していく。三成はぴんときた。
(こいつは、もう関白を見捨てたのだ。そして主を謀反人として太閤に売り渡し、立身出世せんとしている!)
こんな男は悪党だ。味方につけたとて、最も信頼がおけぬものだ。そもそも彼は柴田勝家を裏切って豊臣についた男でもある。
(いくら太閤とて、こんな男のくだらぬ讒言は信じまい。そうだ、きっとそうだ!)
三成ら四奉行は関白に、ひとまず高野山で太閤の勘気が解けるまで待つようにしたらどうかと助言し、聚楽第をあとにした。
三成はいやな予感をおさえつつ、詰問の結果を太閤に報告した。
太閤は徳永寿昌の言葉をことのほか喜んだ。
「徳永寿昌か、これぞ忠臣よのう。ういやつ、ういやつ!これでやっとあの阿呆を屠れるわけじゃ。めでたいのう」
ほくほく顔で太閤は、甥を殺すと言い切った。
それを知らず八日には、関白秀次はしおらしい顔をして伏見城の叔父をおとずれた。しかし太閤は一切の弁明をゆるさなかった。
太閤にかわり、石田三成が彼の言い分を聞くことになった。はじめのうち、彼は己の赤心をせつせつと述べ、謀叛なぞありえぬと必死で弁明していた。
「わしは、そう、わしは……拾丸様のために誠心誠意で尽くす所存……」
彼はそう言うと言葉をつまらせ、涙を流しつっぷした。三成は彼をいたましげな目でみつめた。
「それはよう、わかってはおりますが」
既に太閤は、秀次を弁護している木村重茲らの切腹まで決めつけていた。能力の有無や実績ではなく、秀次に従うかそうでないかで処分が決まっていく。彼を真っ先に売り払った徳永寿昌は、秀次妻子拘束を申し出て太閤をことのほか喜ばせていた。
三成は唇をふるわせつつ、やっとのことでこう言った。
「ゆるしてくだされ、関白よ。三成はもう何もできませぬ。もう、我が力では……せめて高野山で身を慎まれませ、さすれば太閤も情けをかけてくださるかと」
秀次はしばらく嗚咽を漏らしてしていたが、やっと顔をあげてひたと三成を見据えた。
「な、おまえはなぜわしが拾丸様に忠誠を誓うか、誰よりもよくわかっておろうにな。でも仕方あるまい、猿めは何も知らぬ。拾丸様の父はこの――」
そこから先はもう、彼の言葉は続かない。彼は三成の顔をみつめたままふっと笑みをうかべた。その穏やかな顔は、取り乱す前の風流貴公子にふさわしいものだ。
「なあ、三成よ。わしはおまえを恨んではおらんぞ、おまえはわしを人生たった一度の恋にめぐりあわせてくれた、いわば月下氷人よな。あの御方がいない我がこころの穴は、どんな女でも埋められなかった!わしは、地位より名誉よりもあの御方が欲しかっただけなのに」
彼の顔は、恋に酔う光源氏かと思うほど艶やかであった。だが、そこまで言ったところで彼の顔は怒りでゆがんだ。
「哀れなのは秀吉じゃ、この世でもっとも麗しい女人を抱きながら、決して愛されることはなかった猿面冠者め。あの猿はこの秀次が結局のところ、拾様の邪魔になるからではなく、男として優れているから憎いのじゃ。哀れな役立たずよ」
そうぶつぶつとつぶやく彼の顔には狂気と絶望がきざまれている。だがそれでも彼は壮絶でこのうえなく美しく見えた。死の前に燃えさかる、恋の一念があやしいまでに彼の美貌をきわだたせているのだ。その美しい瞳から涙がこぼれおちていく。
「花よりも花らしい御方、藤の如く儚きひと、わすれえぬ女人……ふふ、三成よ。伝えられぬとは思うがもしできるならば、あの御方にこう申せ。あなたのもっとも愛した男が、いずれ地獄で歓をともにせんと申していたとな」
彼はそう言うとにっと笑みをきざんだ。彼の言葉は三成から、藤の花に似たひとに伝わることはなかった。だが、恋する者だけが持つ不思議な力でおそらくつたわったことだろう。
関白秀次は釈明を一切ゆるされず、その日のうちに高野山へ向かうこととなった。高野山青巌寺で秀次は木食上人のもと剃髪し、太閤の上使を待つこととなる。
そしてその使者にあたる福島正則、福原直高、池田秀氏の三名が七月十五日(新暦八月二十日)、おとずれた。正則は剃髪し憔悴しきった秀次を見て、号泣した。
彼らは秀次の目をまともに見ようともせず、官位剥奪の旨と「腹を切れ」という太閤のことばを伝えて去っていった。高野山は聖地を血で穢すとはとあきれはてたが、いかな者といえど太閤に対して抗弁はゆるされない。
秀次は柳の間に入った。彼の前には玄隆西堂、雀部淡路守、そしてあでやかな前髪をたくわえた小姓である不破万作、山本主殿、山田三十郎三名がいた。この小姓らはみな二十歳にも満たない。彼らは恐怖よりもむしろ、愛する主君のために死ぬという陶酔をかがやく双眸にうかべていた。
そう、秀次には人に愛される不思議な魅力と官能があった。彼らはそれに酔えばこそ、こうも落ち着き払っているのだろう。
「お先に参ります」
彼らはそう言うと、次々と秀次から賜った刀で白い腹を切った。秀次の刀がひらめき、うつくしい首が三つ落ちていく。
さすがは剣術にも熟達した秀次の一撃だ。あざやかなまでの切り口を見せて彼らは死んでいった。そのまま秀次は愛した美童の血のついた刀で己の腹を割り、内臓をつかみだすと畳にすりこんだ。享年三十一である。
彼の首を落としたのは雀部淡路守である。彼と玄隆西堂もまた、主君の後を追った。
五名の死は、この先延々と続く屍の列においてはまだ先頭の数名にすぎない。
木村重茲、白井成定、熊谷直澄、粟野秀用、前野長康・景定父子、渡瀬繁詮、服部一忠、明石則実、一柳可遊、白江成定らが自裁、賜死等で命を落とした。
秀吉を関白にするためかつて奔走した公卿の菊亭晴季は、娘が秀次の妻であったため、流刑となり失脚した。改易・遠流・左遷をふくめて処分された人数は三十九名にもおよぶ。中には豊臣のために尽くした有為の材も、数多くいた。
日ごろ秀吉は家臣にめぐまれた家康らをうらやみながら、掌中の宝である者どもをきわめてぞんざいに扱い、殺してばかりいるのだ。
かつてはともかく今のこの男を、賢いとどうして言えるだろうか。  
聚楽第でおそるべきことが起きていたその前後、最上屋敷に駒姫が山形より到着した。十五になったこの姫は、そこにいるだけで周囲の空気があかるくなるかと思われ、まるで開き始めた花のつぼみのように可憐だった。
彼女は噂通り、東国一の、いやもしかすると日本一といっていいほどの、すばらしい美貌の持ち主にそだっている。今も美少女だが、あと五年もすればどれだけ磨きがかかることか。何もつけずとも桜桃のようにうすあかい唇、細工物のようにかたちよくととのった鼻、血の筋がすけてみえるかと思えるほど白くかがやく肌、絹糸のような長い睫にふちどられたすずしけな黒い瞳。声はいつもあまえるようで、父に似て大柄なからだはのびのびとしていて、そして何よりその気性のあかるさときたらない。
「おひさしぶりです、父上、母上。それに太郎四郎に、お亀や」
無邪気な笑みをうかべて、両親に挨拶する娘を見て義光はふかく歎いた。
(我が娘はどうしてこんなに愛らしいのか。八の宮は我が姫たちの美しさゆえにかえって不幸になるのではないかと悩み苦しんでいたが、己もまたそうだ。この子がもっとみにくければ。いっそ鼻でも耳でもこの場でそぎ落としたい)
生まれてはならぬ家に、あまりに美しく生まれてしまったため、彼女は親のもとから遠くはなれてゆく。いつか来るその日ではあるが、彼女の行き先は茨の道だ。
「長旅ゆえ疲れたろう。ゆっくり休めよ」と、彼が労って声をかけると駒姫は首をふった。
「いいえ 駒は父上、母上、それに弟に逢えると思うともううれしくて、飛ぶような思いで都まで参りました」
駒姫はちょっと首をかしげてにっこりとまた微笑んだ。前に見たときは、こどもらしいかわいらしさだけであったのが、今は顔つきや体つきは親でも目を見張るほど、少女のそれから女のそれへと変わっている。そうはいっても聡明そうな表情やしぐさに、時折あどけなさがまじるのが見ていて痛々しいほどだ。
「姉上、おひさしぶりです。すっかり、そのう・・・とても、お美しうなられて」
(我が姉ながら、こんな美しい女人は今まで見たことがない。泥にまみれてともに遊んでいた駒姉さまが、こうも)
少し顔をあからめつつ、そう言ったのは、徳川屋敷から姉の顔を見に来ている家親だ。彼は一歳年上の姉が、あまりに美しいのに面食らっていた。駒姫は弟にほほえみ返した。
「あら、そうお 太郎四郎、いや今は家親でしたか。おまえのほうこそすっかり大人になって。今はもう、いじめられて泣いたりしないのでしょう」
「もちろんですとも もう家親は徳川家の臣ですぞ、めそめそするはずがありませぬ」
声変わり特有のざらついた声で家親が言い返す。彼は今年の正月には、正式に徳川家臣の列にくわえられていた。両親はそんな二人を見守っている。
大崎御前は、乳母から亀丸をあずかって駒姫の前に座らせた。
「お駒も家族が増えてうれしいでしょう。お亀や、姉上ですよ」
今年二歳になる亀丸は、ちょこちょこと姉のほうへと歩いていった。そして彼はきょとんとした顔で姉の顔をみあげている。
「まあ、とってもかわいらしい おいで、お亀や」
駒姫は弟を抱き寄せて頬をつついた。
「駒もこんなかわいい赤子を産みたいなあ」
「それはちと、気が早いな」
義光は苦笑をうかべつつ、そう言うだけで精一杯だ。もしもっと別の男の子ならば、一日でも早く産んで欲しいのだが。大崎御前もまた、娘の言葉に複雑な顔をした。
(子ができたとして、お駒は素直によろこべるのだろうか。ただの子ではなく、豊臣一族の血をひく子。産まれなくとも地獄、産まれてもきっと・)
目の前が潤んでくるのを必死でこらえて、大崎御前は顔をあげた。
「さあ、お駒。いっしょにおまえの道具を見ましょうね。父と母で、ひとつひとつ選んだものですよ」
「まあ待て、としよ。お駒ももう疲れているだろうに」 義光が止めようとすると、
「いいえ、綺麗な道具を見たら疲れなど吹き飛びます」 駒姫は首をふってあわててさえぎった。 愛娘のことばに従って、両親はこの日のためにと準備してきた裲襠や化粧道具、櫛や鏡を見せていった。大崎御前が、鹿の子絞りに五彩の色糸で梅花を施した裲襠を手にとる。彼女のために用意された衣装の中でももっともあざやなものであった。
「これはねえ、父も母も生地を見たとたんに息を呑んだのですよ。お駒のために織られたみたい、と。着てみせてちょうだい」 立ちあがった娘に、母がそっと裲襠を着せてやる。駒姫は袖に通した腕をそっと伸ばした。両親の見立て通りそれは彼女の白い肌や桜色の頬をよくひきたてている。その姿を見て父と母は眼を細めた。
「思った通りだ、本当によく似合っているぞ。ごらん、次はこれだ」
「まあ ふふ、駒はほんとうに幸せです」 父の言葉に彼女は少しだけ照れてみせながら、また座った。義光は娘のてのひらをとると貝をのせ、蓋をあけた。
「これは紅だ。鼻につけるなよ、末摘花になってしまうからな」
義光はおどけて末摘花の名を出してはいたが、内心もしこの姫が末摘花のような面相ならばこんなことにはならないのに、と苦い思いでもある。駒姫は父の言葉を聞くとたまらず、袖に顔をうずめて笑いをこらえている。それからやっと顔をあげると、
「私って、笑いすぎてはしたないとよくしかられるのです。皆、父上に似たのではないかって」 といたずらっぽい目になった。義光は娘の肩をぽんぽんと叩く。
「よく笑うのはいいことだ、かわいらしいじゃないか」と夫が言うと大崎御前もくすりと笑った。
「無理に笑うなとは言いませんよ。けど、たしなみがないとやっぱり田舎の姫と馬鹿にされるからほどほどになさい」
駒姫は父母の言葉にうなずいている。
「そうだお駒、父はよいことを思いついてな。この紅、なかなか値が張るものでなあ。そこで先日堺の商人に聞いてみたのだが、今紅花がたいそうあちこちで売れているそうだ。そこで種を買い付けてな、最上で育てたらどうかと思うのだ。知っているか、紅花はとげがあるから朝露で湿っているうちに摘むのだよ。最上の土地いちめんに紅花が咲いていて、それを朝に乙女が摘む。どうだ、きっと綺麗だろうな」
「まあ、それはすてき。駒も見てみとうございます」
「うんわかった、おまえが里帰りするまでには最上を紅花で埋め尽くそう」
「約束ですよ、父上」 駒姫は瞳をかがやかせて父を見返している。しかし彼女がまた実家である山形にもどれる日なぞいつのことだろう。義光の胸にまた棘がささっていく。 心のうちは見せず微笑みあう父子を、やはり笑顔で見守りながら、大崎御前は桐の箱を取り出し蓋を開けた。そこには珊瑚色の切房がついた水晶の数珠が入っている。
「お駒、これを常に持ちなさい。何かつらいことがあっても、この数珠を大事にして御仏の慈悲にすがればきっと心が安らぎますからね」 駒姫は数珠を握りしめ胸にあてた。
「ありがとうございます、水晶ってほんとうに涼しげできれい。草の葉についた朝露のようですね」 少女の白くしなやかな指に握られて、数珠はいっそう美しく輝いている。母の言葉に素直に頷く彼女はこれからの苦労なぞ思いもよらない無邪気な表情だ。その姿に夫妻はまた胸に苦しさを覚えている。
もう、娘に関わることが何もかもが痛みとなって両親の胸に突き刺さってくるのだ。
それから数日後、親子で聚楽第へ入る準備をしていると小姓がふみこんできた。
「申し上げます か、関白が謀叛の疑いで切腹なされたとのことでございます」
義光夫妻は顔を見合わせた。だが、このとき二人は今後の展開なぞ予想ができるはずもない。むしろ一瞬だが嫁ぐ相手が消えたことで娘が我が手に戻るのではないかと考えたほどである。 義光が部屋から出ると数名の足音と怒号、そして侍女たちの甲高い悲鳴があがった。足音の主は徳永寿昌と捕吏たちである。
「一体これは何事か」
義光がいぶかしげな顔でたずねると、先頭の徳永寿昌が言い返した。
「出羽殿、謀反人秀次の妻妾は皆同罪との太閤のお達しです。おとなしくお伊満の方を引き渡されよ」
義光の顔から血の気がひいた。
「いったいそれはどのような・」 彼がそう言う間にも、男たちは部屋に飛び込んで鳥の羽でもむしるように、駒姫の腕をとらえ引きずり出した。
(ばかな、関白と同罪 お駒が、お駒が罪人だと)
「おやめくだされ、何かのまちがいでしょう」 義光は思わず娘の袖をとったが、彼は男どもにひきもどされる。だが怪力の義光はそれもものとはしない。四五人が裾にとりついて、この父をやっとのことで止めた。
駒姫はあまりのことに彼女は悲鳴をあげることもできず、ただ恐怖と涙に満ちた目で父母の顔を見ている。彼女の腕は後ろに縛り上げられ、男どもにこづき回されながら引き摺られていく。 あまりのことに大崎御前はへたりこみ、口をあけはなしたまま娘らの後ろ姿を見守っている。義光はなおも男たちにしがみつかれたまま、
「お駒、お駒ーッ」 あらんかぎりの声で、何度も何度も愛娘の名を呼んだ。
太閤は関白の命のみならず、その生きた痕跡をも抹消せんとした。それが彼の重臣殺害や追放であり、聚楽第破壊であり、妻妾の殺戮である。彼は秀次の死を聞くと喜びとびあがって満面の笑みをうかべたまま、
「糞次の女子供も皆殺しじゃぞ。ええか、あれの胤ひとつぶたりとも残してはいかん」と、言い切った。
秀次の思い人の中には、既に剃髪し尼となっていた者もいた。だが太閤は尼だろうと容赦はしない。あくまで殺し尽くすことに、この独裁者はこだわった。このとき、今や太閤の忠臣となった徳永寿昌は、秀次妻妾の捕縛と護送をかってでている。この秀次の妻妾一覧の中に、まだ秀次の顔すら見ていない駒姫の名もふくまれていたのだ。
女人たちは聚楽第から徳永寿昌邸にあつめられ、次いで丹波亀山城へと送られた。
秀次と己の運命を思い泣き叫ぶ彼女らの中で、駒姫はしずかに、ただ水晶の数珠を手に祈りをささげていた。彼女には、最上屋敷から彼女の世話をしたいとおこちゃという二十歳になる娘がついてきていた。 駒姫はこのおこちゃに、しみじみと語りかけた。
「おこちゃ、世の中には悲しいことがこんなにもあるのだと、私は今はじめて知った気がします。駒は、父上と母上、それに他にも大勢の方々の手で、悲しみから守られて育てられてきたのね。駒は、とてもしあわせな生き方をさせていてもらった」
彼女はそこで言葉を切って、目をとじた。長い睫に涙のつぶがやどる。
「駒は死ぬことよりも、その御礼をもう申し上げられないことが、ただただつらいのです」
おこちゃはただただ涙を流しつつ、主君の手をとった。
「姫さま、ともに祈りましょう。一心不乱に祈りをささげれば、きっとこの思いは父上、母上に届きますよ。さあ・」
駒姫はきゅっとおこちゃの手をにぎりかえした。この世の悪意や穢れを何一つ知らなかったのに、それに殺されることとなった乙女たちは、ただ祈り続けた。
彼女たちは知っている・・・己の命はもう助からないと。 だが彼女の父はそうは思っていない。彼はこのときも、娘を救うために奔走していた。
秀次の死から五日後の7月20日(新暦8月25日)太閤は諸侯を伏見城へと集めた。
「ええか、おまえらは皆我が子拾丸に絶対忠誠を誓わねばならんぞ。中には秀次の阿呆めに尻尾を振っておったうつけもおるようじゃが、そういう者こそ身の証をたてい」
彼は満面に笑みをうかべてそう言った。その腕にはあどけない顔をした、拾丸が抱かれている。諸侯はこの幼児への忠誠を誓う五か条に、誓詞血判を押していった。
義光もまた、羽柴出羽侍従としてそれに従った。彼は血のついた指を書面におしあてると、顔をあげて太閤にむかって声をあげた。
「申し上げます この義光めは表裏なく誠心誠意をもって、拾丸様に奉公致しまする。ですから何卒、我が娘の命だけはお助けいただきたく」
彼は畳に額をなすりつけつつ、そうやっとやっと絞り出すように言った。秀吉は彼の嘆願をカカカと笑い飛ばす。
「拾丸に忠誠を誓うなぞ当然じゃ、誓わぬというのならば殺すまでじゃからのう。それはそれ、これはこれじゃ。そうやって秀次めにも忠誠を誓って、娘の尻をさしだしたのだろうが。おまえの娘が死ぬのは自業自得じゃ、せいぜい極楽往生を願ってやればええわい」
義光は面を伏せたまま、このつめたい言葉を聞いていた。つづけて畳に涙の落ちるかすかな音を彼は聞いた。
(ああ、お駒、お駒・・・)
誰もが彼に声をかけることもできないのか、何事かひそひそ囁きつつ通り過ぎていく。と、ぐいっと誰かの手がその襟を引っ張った。
「気を確かになされい、武士ならば弱みは見せてはならん」
立ちあがった義光の目をひたと見据えたのは、やや顔色があおざめているがなおも意気軒昂な隻眼・政宗である。
「これはかたじけない」
義光は甥にふかぶかと頭をさげた。政宗もやはり苦渋の表情をうかべつつ、こう彼の耳元に囁いた。
「心得違いをなさるなよ、あの姫君がどうにかなれば我が母上もお嘆きになる。それが嫌なだけだ、そなたを気遣ってなぞおらんからな」
彼はそう吐き捨てるように言うと、大股でずんずんと彼のもとを立ち去っていく。その背中を見ながら義光は、(確かにそうだ、弱みだけは見せてはならん)と唇を噛みしめた。
義光はそれからも、寝食もろくにとらずに娘の助命嘆願に奔走していた。
彼はまだ駒姫が秀次に見参もしていないこと、まだ幼いことを理由に、片っ端から関係者の邸宅を訪れ必死で懇願した。髪を振り乱し、涙を浮かべて頼み込む義光を見て皆同情したが、誰が太閤に逆らえるというのだろうか。成果は一向に上がりそうにない。
それでも義光はあきらめきれなかった。祈り続ければ神仏が助けてくれるかも知れないと、嘆願から戻ると持仏堂に籠もり読経に励んだ。眠るのもこの持仏堂の中でだった。
経を持ったままうつらうつらとすると、夢の中に駒姫の顔があらわれる。涙をこぼし、父に助けを求める彼女に彼はうなされ、目が醒める。朝まで彼はそれを繰り返した。
義光の訴えに一番親身になったのは、秀次切腹時は江戸にいた家康である。京都に戻った家康は、義光の血を吐くような思いを聞いて太閤にかけあった。
「太閤のお怒りももっともかとは思います。しかし最上の姫はまだ幼いうえ、秀次の枕席に侍ったこともないとか。これを害するのはあまりに無体なことではありませんか」 家康がこんこんと説くのを太閤は黙って聞いていたが、やがて頬にニタニタと笑みを浮かべた。
「たしかにその娘に罪はないわな。だがな、親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たんわい」と、もっともらしいことを彼は言う。が、実際のところ池田恒興の娘にあたる若御前は、父の嘆願により助命されている。こんなものはただの建前にすぎない。
「実はのう、わしはあの出羽が小面憎くてならんのじゃ。そのように美しい姫がいるならば、おとなしくこのわしに差し出せばいいものを、あの糞次めにやるとはとんだ阿呆よのう このわしじゃいかんと、あの阿呆同士面つきあわせて語り合っておったのじゃろうて。天下のほとは皆わしのものなのに不埒な奴らが」 太閤はにくにくしげな顔で吐き捨てた。
「それにあのたわけは、おまえにも随分となついているようじゃな。あの糞たれめは誰がこの国を統べているかわからんと見える。ふん、あれも娘の命なぞ気にしている場合かよ、次には最上一族皆殺してやってもいいというのにのう」 義光の二男・家親が徳川家臣の列に加わっていることを、家康に向かって嫌味ったらしく突いてきたのである。
だが彼はそれを聞き流し、持ち前の粘り強さでなおも引き下がらなかった。
「太閤、出羽は奥羽諸侯のうちでも忠勤に励んできたものではありませぬか。小娘の命ひとつで、あの者を飼い慣らせるならば安いくらいでしょうに。それにいかな罪人とて、係累の女子は助命するものではございませぬか。どうかご再考を」
「いーや、何度考えても同じことよ。出羽の娘は殺す」
太閤はせせら笑った。彼は乱杭歯をむきだしにしつつ、家康の耳元でささやく。
「わしゃのう、地位のある者の妻や姫を犯すのが好きじゃ。次に楽しいのはな、そういう女を殺すことよ。どっちもその女の夫なり父なりが、地団駄踏んで悔しがるじゃろ。いわば女と男を同時に犯すようなもんじゃ。出羽が泣きわめくほど、楽しいわい。ふふはは・」
こう言いながら、秀吉の脳裏には旧主信長につながる女をものとした喜びでも浮かんでいるのだろう、その双眸は血走ってらんらんと輝いている。
秀吉の顔を見ながら家康は額の汗をぬぐった。秀吉はなおも続ける。
「まあええわい、些細なことよ。すぐに父と娘、あの世で抱き合って泣く羽目になるのじゃからのう。そんなことよりよ、わしの拾丸はほんに賢くてのお・」 にこにこと笑みを浮かべつつ、太閤は親馬鹿丸出しで我が子の自慢を始めた。
万事休すか、と家康は唾をのみこんている。
 
駒姫の菩提寺・浄土真宗専称寺

専称寺は,文明15年(1483),本願寺蓮如の弟子願正により高擶に開基され、慶長元年(1596)、出羽山形の戦国大名最上義光によって、彼の次女あるいは三女といわれる「駒姫(於伊万)」の菩提を弔うため、山形へ移建されました。
駒姫の容姿は「双なき美人なりし」と伝えられており、天正19年(1591)、陸奥の九戸政実討伐の帰路に山形へ立ち寄った関白豊臣秀次から、見初められる事になります。
「奥羽永慶軍記」では、駒姫の器量をこう伝えています。
「既に此君養はれて深窓に在りし頃より、若紫のにほい、殊に初元結の寝乱れし髪、百の媚ある眸は、夕陽の霧の間に弓張月の風情、其容貌只是天のなせるかと疑はる。周の褒じ・貴妃が一笑、巫山の神女雲と成りし昔の夢もかくやらん、猶あでやかに臈たけて、物打いひたる言の葉も多からず、すなほにして梅かをる夜の朧月にたたずみし心ばへ、容色嬋奸世に勝れたるのみにあらず、小野小町がもてあそびし道を学び、優婆塞の宮のすさび給ひし跡をも追わんとのみ、琵琶を弾じては傾く月の影を招き、花の下に歌を詠じては、移らふ色をいためたり。」
しかしまだ11歳の童女であったため、父義光は成人した暁には送ると承諾して、文禄4年(1595)15歳になって後、駒姫を京都へ上らせました。
しかし京都に到着した駒姫に、思いもよらぬ事態が起こります。世に言う秀次事件です。
秀次自身は高野山で切腹。
駒姫も、義光の助命嘆願虚しく、8月2日に秀次の他の妻妾子供らと共に三条河原に引き立てられ、11番目に処刑されました。山形からの長旅のため京都の最上屋敷で静養を取っており、未だ秀次と対面叶わぬ内の出来事と言われています。
辞世の句「罪を切る弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき」(京都瑞泉寺)
そしてこの知らせを聞いた駒姫の母、大崎夫人(釈妙英)も悲しみのため、そのわずか14日後に亡くなってしまいました。
これ以降、義光は深く太閤秀吉を恨み、徳川家康へ傾倒していくことになります。
慶長元年(1596)の伏見の大地震の際、加藤清正は真っ先に秀吉の所に駆けつけ警護に付き、その忠義から「地震加藤」と称えられました。また他の大名達も、我先にと秀吉の見舞いに訪れました。
しかし義光だけは秀吉を差し置き、家康の所に駆け付け見舞っています。
後に“関ヶ原の合戦”で義光は東軍に付きますが、この時既に秀吉を見限っていたのです。
 
最上義光1

人間評価のむずかしさ
ひとりの人物をどう評価するかということは、なかなかむずかしい問題である。戦時中私たちは、足利尊氏は乱臣逆賊の典型のように教えられた。戦後では、田沼意次が贈収賄に明け暮れて、腐敗政治の元凶のように教えられたこともある。しかし、その後聞いたり読んだりしたところでは、尊氏にしても意次にしてもなかなかすぐれた人物であり、その業績も高く評価される面があるとのことだ。時代が変わることで判断の基準が変わり、従来目の向けられなかった面が脚光を浴びたりして、人物評価はさまざまに変わるのだろう。さらには、史料の取り上げ方によって実像から離れた人物像が形成され、それが広く流布してしまい、一般の評価がなされてしまうというような場合もある。実は、最上義光に対する現今世上の評価は、どうもこれらしいのだ。
今までの最上義光評価
大正二年(1913)は、最上義光没後三百年に当たっていた。山形城を築き、山形市の原型をつくりあげた英傑ということで、山形市民は盛大な記念行事を行なった。その総括として翌年に発行された記念誌では、次のように最上義光をたたえている。読みにくい文体だが、一部を抜き出してみよう。
「国民にして尚武の気風甚だ貧弱なるに於ては到底宇内列強の競争場裡に立ちて対峙的態度を取ること能はざるを知らざる可らず、由来英雄栄拝が日本国民性として意義あるも亦た以なきにあらざるなり、我が山形中興の最上義光公の如きは此意味に於て最も崇仰すべきグレートマンたると同時に山形市が今日に於て東北地方の一都市として雄を競ふに足れるも亦た要するに公が遺徳と遺績の之が因たらざる可らず」
このように、西欧に追い付き追い越そうとする時代風潮を反映して、高い評価がなされている。戦後は武人的な面は強調されず、単純に 「山形の城や町をつくった大名」となり、義光祭もまた商店街に活気をもたらすイベントとなったのだった。
「悪人」義光を定着させたもの
義光についての評価が大きく変わったのは昭和四十年代、きっかけとなったのは「山形市史」である。この浩瀚な通史は、戦国奥羽の諸侯のなかでもリーダー格であった義光を、まことにつまらぬ人物として叙述した。「市史」では、中世末から近世初期における義光時代に多くのページを割き、多方面にわたる彼の業績を紹介しながらも、義光の人間像については、傲慢で残忍、冷酷、一族を根絶やしにし、謀略をこととし、権威におもねる人物というような性格づけで貫いている。
「義光の強引にして不遜な態度には義守も怒り」
「義光は武勇のみならず、謀略にも長じ…」
「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった。」
「谷地を屠った義光は、勢いに乗じて川西地方の掃討を断行した。」
文章記述だけでなく、「義光の追従外交」という見出しを設けて、豊臣・徳川に臣従したのは義光の権威にへつらう「追従」であるとした。だが、そもそもこの時代はどこのどんな大名にしても、豊臣や徳川に反抗できる情況ではなかったのだ。
このような文言でもって、義光の人間性を、俗な言い方をすれば、引きずりおろしてしまったのであつた。
昭和五十二年に山形城址に義光像を建立しようとしたとき、文化人の間からは猛烈な反対運動が起きた。
「血で血を洗う武力闘争と、権謀術数でもって地域を制覇した最上義光のような人物の銅像を、平和都市山形の市民憩いの場に建てるとはなにごとか。」
反対者の意見はつまるところ、こういうことだった.
そしてそれは、ほかならぬ 「山形市史」が作り上げた義光の人間像を、鵜呑みにした考え方だった。
「市史」が信頼すべき公的出版物として大量に発行され、全国の都道府県や大学の図書館に頒布されたのだから、戦国時代を研究する人たちや、戦国に主題をとる文筆家は、たいていこれに従うこととなる。
「羽州の狐」「狡猾無慈悲」「冷酷残忍」式の枕詞が義光を形容する言葉となった。某女流作家などは 「私のもっとも嫌いな人物」と一刀両断するにいたる。
本来なら客観記述を要請されるはずの歴史辞典でさえ「冷酷、最上義光」を潜めた記述になっているものがあって、「山形市史」の影響の根深く強いことに驚いてしまう。
だいぶ前のNHKの大河ドラマ「独眼龍政宗」では、主人公政宗に光をあて、彼を愛すべき尊敬すべき大人物とするために、対照的な役まわりにされたのが最上義光であった。時には競争相手となり、時には敵対して小競り合いを起こしたこともある義光が、その損な役にされたのも、劇の構成上は仕方がなかったのかもしれない。
しかし、多くの人は、このフィクションを、史実であるかのように受け取ってしまった。
「山形の殿様最上義光とは、あんなふうに陰気で残忍な、暗い人間だったのか。そうだったのか。わかった。」
多くの人がそう思い込んでしまったところがある。そして、その余波は今以て消すことがむずかしい。わたしの狭い経験でも、いろんな人からそういう意味のことをまともに言われた。
このことは、やや大げさに言えば、山形人の精神にまで影響を及ぼしているような感じがするのだが、どうだろうか。
出羽の国が成立してからまさに千四百年。その長い歴史のなかで、最大の業績を成し遂げた出羽の人、現山形県の最上川流域の発展に絶大な功績を残した山形人武将が、陰険で狡猾、卑小な人物だったとなれば、山形人としてはふるさとの歴史そのものに自信を失いかねない。
たいせつな故郷と、山形人自らのプライドを失うことにつながっていくだろう。
それならば、本当に最上義光はその程度の、つまらぬ人物に過ぎなかったのか。かれが武人としてなした仕事、ひとりの人間として残した文学作品や近親知人にあてた手紙類、領国の支配者としてなした地域発展のための業績、もたらした文化的な遺産等々をつぶさに見ていけば、今世上に行き渡っている義光像は、大きな誤解から生まれたものだと言って間違いあるまい。
義光の戦いぶり
戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。
一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである。
上山が伊達と最上義光の間にあって去就に迷っていたとき、義光はあえて武力に訴えなかった。上山の重臣層が内部分裂を起こして結局最上に従った後は、その地の支配を上山里見家の一族にゆだねている。
ことは天童家(里見氏か)との対戦でも同様である。天童を中心とした村山北部の勢力は同盟して最上に反抗した。義光は軍勢を差し向けたものの、力づくで殲滅しようとはしなかった。同盟の結束を政略結婚で弱体化し、そのうえで攻撃をしかけ、盟主天童頼澄が奥州へ逃亡するのを見逃したのであった。もし義光が天童家を完全に滅すつもりなら、いともたやすい情況だったにもかかわらず、彼はそれをしなかった。
天童氏が今なお宮城県内に名族として残っている背後にはこのような歴史事実があつたのである。
金山、真室川の領主、佐々木典勝が、最上に抵抗を続けていたのを、無駄に殺すなという義光の方針で生き延びて、後日最上義光に帰参して一万千石余の本領を安堵された例もある。
戦って敗れた寒河江一門や、降伏した上杉軍の将兵に対する扱いの寛大さも驚くほどだ。寒河江肥前は、二万七千石(異説あり)という高禄を与えられた。下次右衛門は、降参後は庄内攻めの先鋒とされて功績を賞され、一万二千石を与えられた。
慶長六年(1601)に、上杉領だった酒田東禅寺城を、最上軍は大挙して攻撃した。城将川村兵蔵、志田修理亮らは死力を尽くして戦うが、及ばずして降伏する。山形にいた義光は、降伏したものが最上家に仕えるならそれもよし、会津に帰るならそれもよしとした。まことに大らかな扱いだ。両将は、この扱いに感謝しながら素直に上杉家にもどつていく。
よく知られている白鳥十郎誘殺事件。これなどは、もし戦えば惨憺たる大戦になるところを、トップを討ち取るだけで済ました、という見方をすれば、残酷とか非道とかいうには当たるまい。多くの民衆にとつては、このほうが遥かにありがたいことだった。
なお、そのときも白鳥家の重臣(一門のものも含むか)は許されて現地の有力者となった。現にその子孫といわれる家が存続しているのは、何よりの証拠といってよいだろう。
ちなみに白鳥十郎をだまし討ちにしたときの血飛沫が散った桜樹が「血染めの桜」であるという、広く知られた物語は、江戸時代、明治時代を通して、山形の名所名木ないし物語としてまったく記録されたものが見当らない。明治最末期の明治四十四年「山形県名勝誌」、四十五年「山形略記」にもなく、私が見たかぎりにおいて、大正五年発行の「山形市誌」が最もはやいものだ。
その前後から、「血染めの桜」はその他の印刷物にも取り上げられるようになったのであろう。
更に兵営内で生活を送る兵隊たちは、上官から士気を鼓舞する趣意で繰り返しこの話を聞かせられたはずだ。「連隊にいるときよく聞かされたものだ」と語る人が、しばしばある。兵隊は、除隊して家に帰るとそれを親類知人に語って聞かせる。こういうことが終戦までの約三十五年、入営、除隊の度に継続されたために、あたかも史実であるかのように「血染めの桜」は、民間に広く深く行き渡ってしまったのだろうと、私は推定している。
 
最上義光2 / 最上氏

出羽山形の最上氏の祖は出羽探題となった斯波氏で、足利氏とは同族である。
南北朝期に南朝の勢力が強かった奥州に足利尊氏は同族斯波氏を探題に任じた。その後嗣直持が奥州に入り大崎氏を、直持の弟兼頼が出羽山形に入り最上氏を名乗る。
山形盆地を中心に村山郡・最上郡に勢力を伸ばし大名化するが、戦国期に入ると12代義光が積極的に領土を拡大し戦国大名となる。
豊臣時代を乗り切った義光は、家康にも早くから接近していたことが功を奏して、関ヶ原後には57万石の太守となる。しかし家督問題から家臣間の対立が起き、義光死後8年後の元和8年(1622年)にお家騒動から改易となり、以後幕府高家となる。
斯波氏から最上氏へ
出羽山形最上氏の祖は、奥州探題となった斯波家兼の二男兼頼が羽州探題として、最上郡を領したことに始まる。
斯波氏は足利氏四代泰氏の庶長子家氏が奥州斯波郡(現在の岩手県紫波郡)を本領としたことで、斯波氏を称したとされる足利一門でも名族で、家氏-宗家-宗氏-高経と続いた。
高経のときに元弘の乱が起き鎌倉幕府は滅亡したが、乱では足利尊氏に従って活躍した。その後の南北朝期でも足利尊氏に属して戦功があったが、特に南朝方の新田義貞の討滅に執念を燃やした。
高経は建武元年(1334年)に越前守護に任じられ、北陸方面に勢威を張っていた。建武3年(1336年)に京で尊氏軍に敗れた新田義貞が、皇太子恒良親王を奉じて越前に逃れてくると、高経は義貞が籠る金ヶ崎城を囲んだ。
義貞は金ヶ崎城を脱出して逆に高経を攻めるが、高経は平泉寺の宗徒を味方にして危機を脱し、義貞を討ち果たすことに成功した。
義貞討滅の大功をあげた高経だったが、尊氏に功績が認められず、観応の擾乱(足利尊氏と弟直義の争い)では尊氏に反旗を翻す。しかしその後、のちの二代将軍である尊氏長男の義詮に従い南朝方を攻撃、戦功を挙げ越前守護に復帰した。
そのころの奥羽の地は、後醍醐天皇が陸奥国司として公卿の出身で中院(なかのいん)家の分かれである北畠顕家を任じ、それに対し足利尊氏は建武2年(1335年)に斯波高経の長子家長を奥州探題にしたという。
実際は家長が奥州探題というより東国全般の執事的な役割であったらしい。後醍醐天皇は顕家に上洛を命じ、顕家は鎮守府将軍となり伊達氏、南部氏などの支援を得て鎌倉に迫った。建武4年(1337年)12月には鎌倉杉本観音寺城で家永は顕家により自害させられてしまう。顕家はその後も西に向かうが、翌暦応元年(1338年)に和泉で高師直勢に討たれ戦死する。
義貞、顕家と勇猛な武将を相次いで失った後醍醐天皇は、「奥州にて親王を奉じて、再び京に攻め上る」との結城宗広の献策を入れ、顕家の弟北畠顕信を従三位近衛中将陸奥介・鎮守府将軍として義良親王とともに奥州に派した。
暦応3年(1340年)後醍醐天皇が崩御、皇太子義良親王が即位し後村上天皇となった。顕信は陸奥大介兼鎮守府大将軍となった。
もともと南朝勢力の強かった奥州へ賢信の入奥は新たな緊張を生んだ。奥州各地で南朝方と北朝方の戦いが起き、足利幕府は梃入れのために奥州総大将石塔義房を奥州探題としたほか、新たに足利一門の吉良貞家と畠山国氏を奥州探題として下向させた。
賢信と北朝方との戦いは激しさをましたが、中央では足利勢が支える北朝が優勢となり、観応3年(1352年)賢信は吉良貞家に攻められて出羽に逃れ、奥州の南朝勢力は衰退する。
これが、斯波家兼が探題として奥州に下向する直前の情勢だった。
文和3年(1354年)若狭守護斯波家兼が長男直持、二男兼頼とともに奥州探題として多賀国府入りした。これは足利尊氏の斯波氏離間策、つまり越前と若狭という京の喉首を兄弟で抑えさせたくないという考えだといわれている。
これも観応の擾乱の時に、斯波宗家の高経が尊氏に反旗を翻す一つの要因になったのであろう。ちなみに観応の擾乱では斯波氏は高経と二男氏頼が直義=直冬派、高経弟の家兼と高経長男の氏経は尊氏派であった。
奥州でも情勢は複雑であった。家兼が奥州管領となる直前吉良貞家は死去し、嫡子満家が跡を継いだ。吉良氏は直義=直冬派であった。
さらに観応の擾乱で貞家に敗れた尊氏派の畠山国氏の後継国詮と、先に罷免された石塔義房の子義憲も各々探題を名乗り、なんと4人の探題が入り乱れている。
延文元年(1356年)家兼は奥州下向後1年半で争いの決着を見ないまま没し、跡を長男直持が継いだ。やがて四探題の争いは、最後に斯波氏が勝利し直持は奥州に入り大崎氏を、弟の兼頼は出羽山形に入り最上氏を名乗った。
出羽探題から地方大名へ
出羽に入った兼頼の立場は羽州探題であったとされている。当時の出羽は奥州と同じく南朝勢力が強く、その最大のものは寒河江大江氏であった。
さらに奥州から逃げた北畠顕信が田川郡藤島城にいた。兼頼は弟の義宗を国人の里見義景の養子にしたり、南朝方だった山形の山家信彦を婚姻によって兼頼側にするなどの工作を行い、徐々に勢力を浸透させていった。
延文5年(1360年)から貞治3年(1364年)にかけて顕信は次第に北方に圧迫され、やがて津軽浪岡に逃れて、この地で浪岡御所と呼ばれ戦国期まで生き残る。
貞治6年から翌応安元年にかけて、幕府管領斯波高経、二代将軍義詮、鎌倉公方足利義氏、関東管領上杉憲顕、南朝の後村上天皇など南北朝首脳が相次いで死去した。
鎌倉公方とは関東十ヶ国に対する室町将軍の代理であり、正式な役職ではない。なぜ、こんな事をするかといえば、鎌倉は前時代に幕府があったところであり、関東は武士の世界であった。
その統治を容易にするためには武家の象徴が必要であり、それが将軍代理としての鎌倉公方の役割であった。その鎌倉公方が代替わりし、その隙をついて反乱が起きた。
反乱は鎮圧されたが、南朝方の脇屋義治が出羽に逃げ込んできた。これが出羽最大の南朝勢力だった寒河江氏を刺激した。
応安2年(1369年)に、寒河江氏と出羽探題兼頼の間で漆川の合戦が起こる。合戦場は今の大江町左沢あたりらしい。結果は探題兼頼側の大勝で寒河江氏は最上氏に降り、出羽における南朝勢力は壊滅した。これにより兼頼の勢力は村山地方に及ぶことになった。
次に兼頼の出羽地方掌握の障害となったのは伊達氏である。奥州伊達郡の地頭職から力を得た伊達氏も当主宗遠が、康暦元年(1379年)に突然国境の二井宿峠を越え、出羽置賜郡に侵入してきた。
この年6月兼頼は没し直家が家督を継いだが、伊達宗遠はたちまし高畠庄から長井庄付近一帯を占領し、これ以後伊達氏と最上氏は長年にわたり複雑微妙な関係を続けていくことになる。
直家は山形城に長子満直、天童城に二男頼直、黒川城(宮城県大和町)に三男氏直、高擶城(天童市)に四男義直、蟹沢城(東根市)に五男兼直、泉出城(山形市)に六男兼義を置き領内支配を固めた。
直家同様に三代満直も長子満家を山形城を継がせ、二男満基を中野(山形市)、三男満頼を大窪(村山市)、四男満国を楯岡(村山市)に置いた。
さらに天童に入った頼直の子の頼高が東根城、頼種が鷹巣城(大石田町)、満長が上山城にそれぞれ分封され、泉出兼義の子満久も清水城(大蔵村)に入り最上氏の勢力圏を拡大した。
明徳2年(1391年)になると奥羽両国は鎌倉公方の支配下になり、奥羽探題府は解体される。これは、鎌倉公方足利氏満が反幕的であり、左遷によって力をそぐのが目的であったとされる。
これにより探題職を失った直家であったが、さらに追い討ちをかけるように将軍義満は、関東管領上杉憲方に出羽大泉庄を与えた。
直家は大泉を上杉に、置賜を伊達に奪われ、探題でもなくなり以後最上・村山両郡を有する地方大名としての道を歩むことになる。
さて、ここから最上氏の系図が怪しくなる。三代満直(直家の子)-四代満家(満直の子)-五代頼宗(満家の子)-六代義春(頼宗の弟)-七代義秋(義春の弟)-八代満氏(義秋の伯父)-九代義淳(満氏の子)と続くのだが、四代満家は山形を退去して長瀞館(東根市)に隠居、満家長子の五代頼宗は満家に先立ち死去、六代義春七代義秋と兄弟の相続、義秋で嫡流が絶え伯父であった中野満氏への相続と複雑な家督が繰り返され、その間の記録もない。なんらかの政変があったと見る向きもある。
戦国の出羽
戦国の時期、出羽でも他国の乱が波及して争乱が起こった。争乱の最初は庄内で起きた。遡ること三代将軍義満により関東管領家に与えられた庄内大泉庄は、この頃には越後守護上杉氏が総地頭となっていた。
越後では守護代長尾為景の下克上で、守護上杉氏と守護代長尾氏の争いが激しくなり、上杉氏の力が弱まるに従って庄内への影響力も減じてきた。
その庄内では、上杉氏の代官大宝寺氏が上杉氏の勢力減退と反比例して力を得、戦国大名化しつつあった。永正9年(1512年)にその大宝寺氏から自立を図った一族の砂越氏が反乱を起こし、大宝寺澄氏の守城東禅寺城を攻めた。砂越方の攻撃で東禅寺城は陥落し、大宝寺方は千人以上が討たれたという。
翌永正10年に勝ちに乗じた砂越氏は田川郡に攻め入ったが今度は大宝寺澄氏に破れ討ち死にした。この砂越氏と大宝寺氏の合戦が出羽の戦国時代の最初の合戦といわれる。
これらの戦いに刺激されたのか、次に動いたのは置賜郡の伊達氏であった。伊達の当主稙宗は、永正11年(1514年)に荒砥城から兵を出し、狐越街道を進んで最上領長谷堂城を攻めた。
長谷堂城は山形城の2km南に位置し、長谷堂が落ちれば山形までの間に防御線は何もなく、次は山形城が攻められることになる。
最上側は楯岡城主楯岡満英、長瀞城主長瀞左衛門、山辺城主山辺刑部、左沢城主寒河江政周らが出陣したが、千人以上が戦死し長谷堂城も奪われてしまった。
これにより山形城主最上家十代義定は、山形を出て中野城に避難した。
翌永正12年(1515年)義定は稙宗の妹を正室とする条件で、稙宗と和を結ぶが、これは出羽探題家の嫡流を誇る最上氏にとっては屈辱的ともいえることであった。これにより稙宗は長谷堂城から撤兵し、義定は山形城に帰った。
稙宗の妹は翌永正13年に入輿したが義定との間に子がないまま、義定は永正17年(1520年)急死した。このため未亡人となった伊達姫が山形城で采配を振うこととなった。
この事態に国人たちが反発し同年4月上山城主の上山義房が反乱を起こした。すると寒河江一族をはじめ多くの国人たちが同調した。
この当時の村山・最上両郡は、かつて最上氏二代の直家や三代の満直時代に分封された最上一族の子孫や、寒河江氏系の国人たちが多かった。
俗に「最上八楯」といわれるが、これは天童城の天童氏をはじめ楯岡氏、成生氏、野辺沢氏、尾花沢氏、飯田氏、六田氏、長瀞氏をいいいずれも最上郡内に本拠を持つ一党であり、地縁的結合体をとっていた。その盟主的な存在は天童氏の当主頼長であった。このほか反旗を翻した上山氏も最上一族であった。
反乱に対して伊達稙宗が出陣して上山城を攻めてこれを落とし、さらに山形城に入って天童城や高擶城を攻撃する。また、寒河江城にも兵を向けるが最上一族や寒河江一族の抵抗を受け、ついに稙宗は最上領の直接支配を諦める。
大永2年(1522年)、最上一族の中野義清の二男義守を最上宗家の当主としたが、義守はまだ2歳の幼児であり、義母として伊達姫が引き続き最上宗家を支配した。
大永3年(1523年)伊達稙宗は、将軍義晴から初めての奥州守護職に任じられ、すさまじい勢力拡張を行う。
稙宗には21人の子女があり、これらを近隣の主だった大名の養子にしたり、縁組をして配下に組み入れたりした。かつての奥州探題家の孫大崎氏にも小僧丸を養子に入れ、名門大崎氏も乗っ取ってしまった。
出羽では最上氏を妹を通じて間接支配していたが、ここに稙宗と長子晴宗が武力衝突する天文の乱が起こる。このとき稙宗の最上氏間接支配政策によって中野氏から最上宗家の養子に入っていた義守は24歳になっていた。
天文の乱は、稙宗と晴宗の政策の違いが原因であった。すなわち、稙宗は婚姻や養子縁組などで縁戚関係を作り、間接的な支配体制を築く方針であったが、晴宗は国人たちを家臣化して直接支配下に組み入れる方針であった。
天文11年(1542年)6月越後守護上杉定実の養子に稙宗の三男時宗丸を入れる問題で、稙宗と晴宗の対立は頂点に達し、ついに晴宗は稙宗を捕らえ幽閉してしまった。
この強引なやり方に、特に伊達氏の外戚である相馬氏や田村氏、葦名氏、二階堂氏らが反発して武力で抵抗した。最上義守も稙宗側にたった。
一方の晴宗側には実弟である大崎義宣(小僧丸)や伊達一族の留守氏、白石氏などがつき、伊達氏を二分する大乱となった。
義守は伊達領長井庄に出陣して戦功を挙げ、笹谷峠を越えて奥州川崎城主砂金常久を攻めた。
天文の乱は当初稙宗側が優勢であったが、天文16年(1547年)ごろになると晴宗側が優勢となった。義守はこれを見て晴宗側についた。
天文17年(1548年)長く続いた戦乱も、将軍義輝の命で稙宗・晴宗父子が和睦してようやく終った。稙宗は丸森城に隠居し晴宗が伊達家の当主になった。
一方、最上氏にとっては、この天文の乱が伊達氏の支配体制を脱する契機となった。
義光 / 家督争いと領内支配権の確立
最上氏歴代のなかで最も有名なのは義守の跡を継いだ義光である。その義光が義守の長子として生まれたのは天文の乱のさなかの天文15年(1546年)である。
義光を語る場合必ずといっていいほど、少年時代のこととして取り上げられる話がある。
義光16歳のとき、父義守とともに蔵王の高湯温泉に湯治に行った。ある夜のこと十数人の盗賊が父子を襲い、そのとき義光は近習たちとともに自ら大刀を振るって、たちまち盗賊の頭領らを討ち取り、義守から褒美に家宝の笹切という名刀を与えられたというもので、義光の勇壮さを伝えるものとして創作されたものであろう。
この義光の勇壮なところが父義守の気に入らなかったようで、義守は二男義時を家督にしたかったようだ。
義光には3人の弟と1人の妹があり、義時は一族の中野氏を継ぎ、義保は長瀞氏、義久は楯岡氏に入り、妹義姫は伊達輝宗に嫁ぎ、のちに政宗を生む。
義光と義時の家督争いは元亀元年(1570年)ごろには武力衝突にまで発展したが、翌元亀2年に和睦し、義守は隠居し仏門に入り、義光が正式に家督を継ぎ山形城主となった。このとき義光26歳である。
しかし、天正2年(1574年)になると義光と義時の対立は再燃する。義時には最上一族の天童頼貞、谷地城主の白鳥長久、蔵増城主の蔵増頼真などが与し、その背後には米沢の伊達輝宗がいた。
この年5月輝宗は反義光派の国人らに出陣を告げ、上山の中山口から最上領に入った。しかし戦闘にはならず、9月に白鳥長久が仲に入り、輝宗は義光と和睦した。
この結果、天童頼貞らも義光と和し、義時は一人取り残され、翌天正3年に義光から迫られて自害して果てた。
家督争いに勝利した義光が次に立ち向かったのは、自立した多くの国人たちだった。
最上氏は一族を各地に分封して領地を広げてきたが、戦国期には一族が自立して統制がきかず、却って最上氏を圧迫した。国人たちを家臣化して直接支配しなければ、最上氏の発展は望めない。そのため義光は領内の国人たちの直接支配化へ向けて動かなければならなかった。
「最上八楯」といわれる国人たちの盟主的存在である天童城の天童頼貞・頼澄父子が当面の敵であった。天正5年(1577年)に義光はこの天童城を攻めた。
これに対し延沢城主の野辺沢満延や最上八楯の東根頼景、楯岡満英らが天童城に入り頼貞らを助けた。特に領内に延沢銀山をもつ野辺沢満延は、豊富な資金力によって武力を充実させ、満延自身の武勇もあって、天童守備軍の中核となっていた。
このため義光の天童攻めは遅々として進まなかった。
このころ織田信長は天下取りに向けて大きく前進していた。最上義光が天童城を攻めた天正5年(1577年)とは、武田氏は既に滅び、安土城は完成し、北陸筋では上杉謙信と信長軍が対決していた年である。中央から遠く離れた奥羽の諸大名も信長を意識せずにはいられなくなりつつあった。
出羽では谷地城主白鳥長久がいち早く信長に馬を贈り、自ら出羽守護だと名乗った。天正5年7月信長から返書と返礼があった。
上杉軍と対峙している信長とすれば、上杉勢の本拠越後の背後である出羽からの贈り物い喜んだに違いなかった。
このことに義光はショックを受けた。義光も即座に青鷹一連、馬一匹、月山打ち鑓二十本を信長に贈り、同時に出羽守護は自分であると書き送っている。
天童攻めに失敗した義光は、力攻めを諦め野辺沢満延の嫡男康満に義光の娘松尾姫を嫁がせて、和睦を図る作戦にでる。
満延は、
一、義光より二心なき旨の起請誓紙を賜りたい。
一、いかなることがあろうと、天童氏の子孫を絶やさぬこと。
一、最上八楯のうち降るものはこれを赦し、降らないものの処置は満延に一任ありたい。
一、霧山城(延沢城)は野辺沢家代々の居城とすること。
という条件を示し、義光はこれを受け入れた。これにより、武勇を誇った野辺沢満延は、義光に服属した。
このことが最上八楯の分裂を招いた。義光は、天正8年(1580年)天童頼貞の二男である東根頼景の拠る東根城を攻略、さらに楯岡城主の楯岡満英を自害に追い込む。
これを見て成生館、飯田館、六田館の各館主たちは義光に降り、天童城は孤立し、村山郡のほとんどは義光の勢力下となった。
天正9年(1581年)に入ると義光は、尾花沢で催した馬揃えに参陣しなかった小国城主細川直元を攻めた。直元の娘は天童頼澄に嫁いでいるので不参は当然で、義光は山刀伐峠を越えて小国に入り、細川氏を滅亡させた。
これにより新庄盆地を押さえ、さらにその北の鮭延城に拠る鮭延秀綱を攻めてこれを降した。秀綱主従は舟で最上川を下り、庄内に出て大宝寺城の大宝寺義氏を頼った。
義光 / 庄内への進出
大宝寺氏は鎌倉時代初めに大泉庄地頭となり、大泉氏を名乗った氏平を祖とする藤原姓の名族である。南北朝時代には奥州探題斯波氏に属して各地を転戦したが、大泉の地が越後守護上杉憲顕に与えられてからは、上杉氏の被官となっていた。
大泉庄大宝寺(鶴岡市)を居城としてからは大宝寺氏を名乗るが、それまでは武藤氏を名乗っていたため武藤氏とも呼ばれる。
鮭延秀綱が義光との戦いに敗れて大宝寺氏のもとに来た頃、大宝寺一族の勢力圏は庄内一円に及び、日本海の交易も押さえ、さらに羽黒山別当職も得て羽黒山の山伏勢力も配下に組み入れていた。
天正10年(1582年)に義光と大宝寺義氏の戦いの最前線は最上川中流の清水城(大蔵村)であった。
ここは酒田で捌かれる日本海の交易品を舟運により最上領に運ぶための陸揚げ中継地であり、最上氏の重要な拠点であった。清水城の当主は清水義氏であったが、義光は三男義親を養子に入れていた。
大宝寺氏の清水城攻撃は日増しに激しくなるが、大宝寺氏はこのころ最上氏だけでなく、秋田の安東愛季とも干戈を交えていた。
義光は大宝寺に対して謀略をもって臨んだ。義光が目をつけたのは大宝寺氏の被官であった砂越氏であった。砂越氏は大宝寺一族であったが、当主の也足軒は大宝寺氏と干戈を交える安東愛季の義父でもあった。その微妙な立場を利用することにしたのだ。
砂越氏を通じて安東氏と連絡を取った義光は、安東氏と連携して大宝寺氏を攻め、北と東から挟撃した。さらに大宝寺氏の重臣たちに謀反を勧めた。また、鮭延秀綱を調略し、本領復帰を条件に寝返らせることに成功した。
翌天正11年(1583年)、大宝寺氏と安東氏の間で大規模な合戦があり、一進一退の攻防を続けていたが、3月突然に大宝寺義氏は館を国人たちに囲まれた。謀反であった。
義氏は悪屋形と呼ばれて日ごろから悪逆の限りをつくしていたといい、民心も離れており、強引な勢力拡張を目指した戦闘に国人たちが反発したのであろうが、裏では義光が謀略によって重臣たちに反乱を勧めていたことは間違いないであろう。
義氏は自害して果て、鮭延秀綱は約束どおり本領に復帰した。
義光は大宝寺義氏を始末したあと一気に庄内地方を平定したかったが、そのためには村山郡内に残る敵性勢力白鳥長久の討滅を図る必要があった。
長久はいち早く織田信長によしみを通じ、出羽守護と自称したほどの抜け目のない武将である。この時期長久は村山郡の名族寒河江大江氏と連携して反義光の旗を挙げていた。
義光はまず自身が重病であるとの虚報を流し、長久の元に義光嫡男義康の正室に長久の息女を娶り、義光死後の両家の安泰の礎にしたいと申し入れた。
長久は話を引き取り調べてみると義光の重病は本当らしい。長久には娘はなかったので重臣らと協議し、寒河江兼広の二女日吉姫を長久の養女にし、義康に嫁がせることにした。
白鳥氏にとってもけっして悪い話ではないので、話は急速に進み、天正12年(1584年)5月に日吉姫は山形城に入輿した。
その一月後、義光危篤の報せが長久の元に届く。長久もひとかどの武将である。すぐには信じない。重臣に謀り、山形の様子も調べさせたが義光の危篤は間違いないらしい。
長久はわずかな供回りを連れただけで山形に向かった。しかし城内に入った途端に周囲を囲まれ斬殺されてしまった。
義光は長久を討つと即座に寒河江氏攻撃の兵を興した。まず、長久の居城谷地城を落とし、寒河江氏との決戦に臨む。最上軍3千、寒河江軍2千といわれる合戦は、数で勝る最上軍が地の利も押さえて大勝し、その勢いをかって寒河江城を落とし、ここに名族寒河江大江氏は滅亡した。
さらに、この年10月義光は長く敵対関係にあった天童城を攻めてこれを開城させた。城主天童頼澄は、落ち延びて関山峠を越えて伊達家臣の国分盛氏を頼り、のちに伊達家に仕える。
これによって村山・最上両郡は完全に最上支配下に属することとなった。
天正13年(1585年)になると再び義光の周辺が慌しくなってくる。大宝寺義氏の跡を継いだ庄内の大宝寺義興が動き出したのだ。
庄内では義興と義光に与する東禅寺氏が対立し、さらに大宝寺義興は最上領の清水城を攻めた。この年の暮れには大宝寺氏と東禅寺氏の争いは激化し、東禅寺氏は義光に援軍を求めてきた。
一方、大宝寺氏には越後の本庄繁長の援軍が加わった。これは、大宝寺氏が最上氏に服属することはなく、上杉氏につくことを選んだことになる。さらに大宝寺義興は本庄繁長の二男義勝を養子に迎えた。
翌天正14年(1586年)最上軍は飽海郡、大宝寺軍は田川郡を確保したが、この段階で双方から和睦の動きが出てきた。
その調停をしたのは伊達政宗であった。政宗の仲介で最上・大宝寺の争いは一応終息を見た。
しかし、翌天正15年(1587年)の年明け早々、再び庄内で大宝寺氏と東禅寺氏の争いが勃発する。これに対し再び政宗の調停が行われ、同年8月に和睦がなった。
ところが二ヶ月とたたないうちに東禅寺筑前が義興に対して攻撃ののろしを挙げる。政宗の調停は完全に失敗した。
政宗はこの時期、会津の葦名と常陸の佐竹の連合軍対策、相馬義胤の反政宗への動きの対応など多忙を極めている。義光はそれを見て、山形と米沢の中間にある鮎貝城(白鷹町)主の鮎貝宗信を誘って政宗に叛かせた。
政宗の動きはすばやく、宗信を攻めたが、周囲の情勢からそれ以上の行動には出れず、義光はその隙をついて自ら庄内に出兵した。
これを知った大宝寺義興は田川郡の松根・黒川付近(櫛引町)で迎撃したが、背後を東禅寺氏に突かれ大敗し、義興は自害した。ついに義光の庄内支配が現実のものとなった。
義光は尾浦城に目付役として重臣中山玄蕃光直をいれ、庄内三郡の支配は東禅寺筑前に任せた。
義光 / 豊臣大名となる
義光の庄内進出はやがて思いがけない結果を招く。この時期関東以西を統一した豊臣秀吉は、義光の庄内攻略を知り、奥羽惣無事令を発した。
越後の上杉氏は景勝の代になり、既に秀吉に服属している。義光が攻撃した大宝寺義興の養子義勝は本庄繁長の二男であり、その繁長は上杉家の家臣である。義光の行動は秀吉への反抗とも取れる。
天正16年(1588年)になると本庄繁長は、庄内に攻め込んで来た。義光も防戦に努め、十五里ヶ原(鶴岡市)で本庄軍を迎撃するが、背後からも攻め込まれて大敗、東禅寺筑前も戦死してしまう。
続いて義光の庄内支配の本拠尾浦城や大宝寺城も落城し、義光は手に入れたばかりの庄内を失ってしまった。
義光はここで秀吉に対し、繁長が武力で庄内を乗っ取ったと、奥羽惣無事令を逆手にとった訴えを起こす。争いは政治の場に持ち込まれた。
繁長側は景勝とその重臣直江兼続が石田三成を経由して秀吉に繋がるラインを築き上げていた。これに対し義光は奥羽惣無事令の担当者である徳川家康を頼った。
家康は将来を見据え義光を味方にすべく奔走し、秀吉から義光の庄内支配の朱印状が出される寸前まで話が進んだ。あとは義光が直接上洛し秀吉と対面するだけであった。
しかし、それは実現しなかった。伊達政宗が大崎家中に混乱を起こし、義光が動けないように妨害したのだ。大崎氏の当主義隆の妹は義光の正室で、義光と義隆は義理の兄弟になる。
義光は上洛の機会を逸してしまい、庄内問題は繁長側の勝利となった。義光は庄内を失ったが、このことにより家康とのパイプができた。
庄内問題が決着したころ、秀吉は小田原の北条対策に腐心していた。天正18年(1590年)になると秀吉は上洛に応じない北条氏を攻める決心をする。
この時期義光は家康への接近を図っている。前年天正17年の冬、義光は家康に鷹を贈り、上洛して秀吉に謁見することの是非を尋ねている。
家康は庄内問題も決着したので上洛の必要はないが、小田原には必ず参陣するよう忠告している。
天正18年3月1日、秀吉は京を発ち小田原に向かう。奥羽の諸大名は小田原に参陣するかどうかを決めなければならなかった。
奥羽最大の大名伊達政宗の去就が自ずと注目される。政宗はなかなか参陣を決めなかったが、ついに4月に入り参陣することを決断した。ところがここに事件が起こる。
政宗の母保春院、つまり義光の妹で政宗の父輝宗に嫁いだ義姫のことであるが、この保春院が政宗を毒殺しようとしたのだ。
保春院は政宗を毒殺したあと弟の小次郎を家督とするハラだったらしい。政宗は血を吐き気絶したが命は取り留めた。
保春院はこれを見て伊達領を出て山形に逃れた。「伊達治家記録」には、この事件の背後に義光がいたというが真相はわからない。
さて、小田原への参陣であるが、義光と政宗はほとんど同じ頃に参陣したらしい。
政宗は秀吉に拝謁を願ったが、すぐには許されず、箱根山中の底倉に蟄居を命ぜられた。これは昨天正17年(1589年)に政宗が会津の葦名氏を攻めて滅亡させたためであった。秀吉の奥羽惣無事令の明確な違反であった。
政宗は正当防衛を主張し、さらに秀吉に茶の湯や碁を教示願いたいと申し出て機嫌を取り結ぶ。ようやく許されて秀吉に拝謁するときも白装束に茶筅髪の髻は水引という死装束で現れ、秀吉の御意にかなった。
一方の義光の拝謁は徳川家康を通じて行われ、秀吉の謁見が滞りなく終ると家康は義光を招き酒宴を張ったという。
小田原は天正18年7月11日に陥落し北条氏は滅亡した。
秀吉は奥羽平定のために軍を北上させ会津に入る。小田原陣に不参または遅参した大崎氏や葛西氏、白川結城氏などの所領は全て没収された。
政宗は、攻め取った会津は没収され、安達・二本松・信夫・伊達など奥州15郡と出羽置賜郡の合わせて70万石が所領として認められた。
義光の関連では最上領は安堵されたが。庄内の検地は上杉に命ぜられ、庄内の旧大宝寺領は上杉領となった。
会津からの帰路、義光は家康の陣屋を訪れ、二男太郎四郎(後の家親)を近習にと願い出た。実質的には人質である。
家康はこれに感激し、太郎四郎を小姓の列に加えたが、のちにこれが最上家に暗い影を落とすことになる。
天正18年11月28日義光は上洛した。すでに義光正室は人質として入洛している。
天正19年(1591年)早々に、義光は従四位下侍従に叙せられるが、このころ奥州では大規模な一揆が発生した。大崎・葛西の旧領から南部領にかけての大規模一揆で、裏で糸を引くのが伊達政宗との噂があった。
天正19年春、義光も山形に帰国、一揆征伐の一軍として加わった。二男太郎四郎を家康のもとに差し出したのはこの時との説もある。
一揆は義光ほか総勢5万の大軍の攻撃を受け平定された。これにより、伊達政宗は大崎・葛西の旧領を与えられ、安達郡などの仙道の各郡と出羽置賜郡を失った。
秀吉も奥州一揆の背後に政宗の影があると疑っていたのである。これにより政宗の本拠は米沢から岩出山に移り、米沢は会津の蒲生氏郷の与えられた。
この奥州一揆の総大将を努めたのは秀吉の甥の羽柴秀次、副将は家康であった。義光は家康に二男を差し出し接近したが、秀次には次女駒姫を側室として仕えさせた。
秀次は天正19年(1591年)11月秀吉の養子となり、翌月には関白を譲られる。秀吉は太閤(関白を退いた人)となり、以後朝鮮への出兵に専念する。
その朝鮮出兵、いわゆる文禄の役は文禄元年(1592年)に始まり、西国の諸大名の軍が続々と玄海灘を渡った。義光は兵5百を率いて肥前名護屋に参陣したが渡海はせず、もっぱら家康と親交を深めていたようだ。
翌文禄2年(1592年)秀吉に実子秀頼が生まれる。これにより太閤秀吉と関白秀次の間がおかしくなってきた。二人の間は日が経つに従って対立を深め、秀次は殺生関白といわれるように乱行を重ね始める。
多分に脚色された嫌いはあるが、おそらく秀次がストレスからかなり乱れた生活を送ったのは、ある程度は事実であろう。
文禄4年(1595年)ついに秀次は謀反の罪で捕らわれ、関白は剥奪、高野山に追われたあと、7月15日自害させられた。
さらに側近や妻妾も捕らわれ、妻妾と秀次の子三男一女は全て三条河原で処刑された。義光の次女駒姫も18歳でその生涯を閉じた。義光は山形に専称寺を建て駒姫の菩提を弔った。
義光 / 関ヶ原
豊臣秀吉が62歳で死去したのは慶長3年8月18日のことであるが、その半年前に越後の上杉景勝が会津に移封された。
会津は葦名氏が戦国大名として支配していたが、伊達政宗により滅ぼされた。しかしその行為が秀吉の奥羽惣無事令に違反したとして没収され、秀吉の側近蒲生氏郷に与えられた。
その氏郷が没し、その跡を継いだ秀行は幼いとの理由で宇都宮に移り、越後から上杉景勝が入った。会津は伊達政宗を始め奥羽諸大名の押さえの地である。
景勝は会津のほか、それまで領有していた庄内と佐渡をそのまま与えられ都合120万石の大大名となった。これは徳川家の255万石、毛利家の120万5千石に次ぐ石高である。
しかも景勝は五大老でもあり政権の中枢におり、景勝の重臣直江兼続は切れ者で、陪臣ながら秀吉の気に入りであった。この上杉家に対し最上家は24万石、その重圧は大きかった。
秀吉が死去すると文禄・慶長の役といわれる朝鮮出兵は中止となった。もともと秀吉の思いから起きた戦いなので、秀吉当人が死んでしまえば、誰も続けたいとは思わなかった。
撤退は迅速に行われ、その後諸大名は九州から順次帰国した。この間、政治の中心となったのは形式的には五大老であったが、実質的には徳川家康と前田利家だった。
五大老・五奉行というのは秀吉が晩年に整えた政治機構で、大老は合議のうえ政策を決める意思決定機関、それを受けて五奉行が政策を執行する機関である。
五大老は家康・利家・景勝のほかに毛利輝元と宇喜多秀家であったが、実力と経験から家康と利家が双璧だった。一方、五奉行の代表は石田三成だった。
豊臣氏は一言で言えば、どこの馬の骨とも知れぬ秀吉が一代で築き上げた家であった。したがって譜代の家臣というものがない。
そのため秀吉は出世するに従い、かつては同僚や先輩であった武将たちを配下に組み入れていった。そして明智光秀を破り、柴田勝家を屠り、信長の後継者となると信長恩顧の大名達を傘下に収め、さらに戦国期を生き抜いた武将達を屈服させ天下人となった。その過程で自前の子飼い武将をも育成していった。
秀吉が自身で育成した子飼いの武将たちは、さらに大きく2つのグループに分かれる。のちの言葉で言えば1つは武功派であり、いま1つは吏僚派である。制服組と文官組とでも言った方がいいのかもしれない。
武功派と呼ばれる武将たちは、戦場で先頭きっての戦働き、冑首をいくつ取ったの、敵城に一番乗りをするだのという戦闘こそ自身の働き場所という連中で、戦の功で領地を増やし出世し大名になった。
加藤清正、福島正則、加藤嘉明らである。これに子飼いではないものの戦場での働きを重視する、細川忠興や黒田長政らが加わる。
一方の吏僚派は石田三成に代表される集団で、これは戦場働きより経済、内政など政治を扱うことで出世したグループである。とはいえ戦国期の武将だから、戦がまったく駄目ということはない。ただ戦よりは政治に向いている、逆にいえば武功派は戦場ではよいが、国全体を動かすような政治は不得意か苦手ともいえる。
もちろん、武功派、吏僚派と黒白はっきり分けられるわけではなく、多くはその中間的な人間であった。しかし関ヶ原に至る歴史を見る場合は、このような色分けがなされている場合が多いし、そのように考えたほうがわかり易いのも事実である。
武功派と吏僚派は、最初から仲が悪かったわけではない。しかし水と油的なところはお互い持っているので、日頃の出来事が積み重なって対立が深まっていき、それが頂点に達したのが文禄・慶長の役であった。
武功派曰く、三成らは戦場で働きもしないくせに、朝鮮での我々の働きを歪曲して太閤殿下に伝えている。
一方、吏僚派の代表格の三成は統制側には統制側の苦労があり、事実は事実として全て報告するべきであるし、公平を期すためにもそれは当然と思っていたらしい。
どちらにしても戦場と後方、非統制側と統制側では立場も違えば行動も違ってくる。これは現代でも同じであり、ましてや通信状態が悪く情報の確度も低い当時にあっては、対立を生むのはやむを得ないと言ってよかったのかもしれない。
しかも、それを統御していた独裁者が死ねば、混乱は助長され対立は増幅するのは必然であった。
三成は戦場働きがまだまだ武士の本分であった時代に、計数に明るく、政策立案能力もある程度あり、秀吉政権が安定しだして基盤整備が急務となると重用された。
大規模な戦闘でも後方勤務が多く、常に秀吉のそばにいるので、自然と秀吉の信任は厚くなった。一方、三成に対して加藤清正・福島正則ら秀吉子飼いのはこれが、武功派には面白くない。
徐々に対立を始め、文禄・慶長の役で火を噴いた。秀吉逝去後に三成と浅野長政が博多に派遣され、朝鮮からの引き上げ事務や諸将の出迎えの任にあたった。湊で出迎える三成を、引き上げて来る武将達は、ほとんど無視したという。中には加藤清正のように敵意を剥き出しにする者もいた。
天下取りを狙う家康はこの対立に目をつけた。家康は武功派に肩入れし、三成らを追い詰めていった。利家が慶長4年に秀吉の後を追うように死去すると、もはや家康の前に敵はいなくなった。
あとは秀吉の遺児秀頼をどうするかだけであった。家康は秀頼の力をそぐために豊臣恩顧の大名の力を弱め、最終的に自派に取り込もうとする。
武功派と吏僚派の対立を煽ったのもその一環である。
一方で家康は大大名であるほかの四大老にも矛先を向けた。まず、利家亡き後の前田家であった。家康は、利家の跡を継いだ利長に謀反の濡れ衣を着せ討伐すると脅した。
利長は重臣を派遣して陳弁に努め、母親芳春院を家康の人質に出してまで、家康の機嫌をとり、屈服した。
次は景勝であった。景勝は会津移封直後である、領国整備と称して橋をかけたり道を広げたりと軍事力の増強を行い、新城の普請にも着手した。
家康にとっては自領の関東の北側にあたる会津に景勝がいるだけでも目障りなのに、この動きは不気味で仕方がない。
さらに上杉家の重臣直江兼続は三成とは仲がよかった。直江兼続は、戦略眼の鋭い頭脳明晰な参謀役であり、秀吉にも目を掛けられて、独立した大名に取り立てようと誘われた形跡もあるほどだった。
会津移封の際にも特に米沢30万石を与えられ、米沢は直江領とまで秀吉に言わせた。上杉家中でも別格の扱いで、与力まで付与されていた。実質的に上杉の家は兼続でもっているといっても過言ではなかった。
家康は、この上杉を挑発する作戦にでた。
上杉はこの挑発に乗った。堂々と責めてくるなら受けてたつという態度に出たのである。家康はさっそく会津討伐を宣言する。慶長5年(1600年)5月3日のことであった。
すぐに出陣の準備がなされ6月6日大坂城西の丸に諸将を集め、作戦会議を開いた。周囲を山に囲まれた盆地の会津にはいくつか入口がある。北側の米沢口には山形の最上義光と出羽の諸将、東側の信夫口には陸奥の伊達政宗、東南の仙道口には常陸の佐竹義宣、西側の津川口には前田利長と越後の諸将、南側の白河口には家康・秀忠父子の本隊、総数20万ともいわれる大軍で会津を攻めることした。
6月15日には豊臣秀頼から家康に軍費と軍糧が与えられ、これによって上杉討伐は公戦となった。家康は6月16日会津に向けて大坂を発った。
家康の出陣と前後して義光は帰国している。山形に一刻も早く立ち戻り、会津攻めの準備をしなければならない。
家康は東海道を下り7月2日に江戸城に入った。7月7日江戸城中で軍議、会津攻撃は同月21日と決定した。同時に奥州の諸将にも命令書が伝えられた。
義光は南部利直、安東実季、小野寺義道、戸沢政盛らとともに米沢口より会津攻撃を行うこととされた。米沢口の軍勢は総勢1万を越え、先陣は義光嫡男の義康が6千5百を率いて努めることになった。
一方大坂では、この間石田三成が挙兵、7月17日には西軍総大将として毛利輝元が大坂城に入った。19日には西軍の大軍が家康の留守城伏見城を囲み攻撃を開始した。
家康は24日下野小山の陣でこの報せを聞く。翌25日のちに小山評定といわれる軍議を行い、会津討伐は中止、軍を西に向け三成と決戦することになった。
家康は背後から上杉軍に追撃されるのを恐れ、宇都宮に秀忠や結城秀康らの息子達を残して充分に備えをして江戸に戻り、その後西に向かった。
義光のもとには家康から状況を知らせる手紙が来た。「軍は西上するが、会津のことは秀忠と相談してくれ」とあった。
さらに8月19日には南部利直、安東実季、小野寺義道らの帰国を許した。とくに領内和賀軍に一揆が発生した南部利直は大急ぎで帰国した。また伊達政宗は孤立化を恐れ、上杉と和睦してしまった。
これらにより義光は反上杉のまま、取り残されてしまった。
上杉は家康軍は追撃せず、最上領を攻めることにした。家康が西に向かっている間に領内の防御を整える作戦だった。最上領が手に入れば、飛び地のような存在の庄内と連絡できるようになる。
9月8日直江兼続率いる2万数千の軍勢が米沢城下を出て、狐越街道を使って最上領に乱入してきた。9月12日に荒砥を出て畑谷城を包囲した。畑谷城主は勇猛で知られた江口光清で、嫡子小吉とともに籠城した。
翌13日早朝から上杉勢は攻撃を開始し江口父子も城外で戦ったが、衆寡敵せず光清父子は自刃した。
畑谷城を落とした兼続は山形に向けて兵を進め、14日には山形城の南西8kmの長谷堂城に達した。兼続の長谷堂城への攻撃は、翌15日から始まった。
兼続は1Kmほど離れた菅沢山に布陣した。菅沢山からは山形城がよく見えた。
兼続の作戦は長谷堂城を一気に落とし、その勢いをかって山形城攻撃にかかるというものであった。義光は楯岡光直(義光弟)、清水光氏(義光三男)らを長谷堂城救援に向けるが、途中で兼続方の水原常陸に阻まれてしまう。
長谷堂城主は志村伊豆守であり、猛攻に耐えたが、数に勝る直江軍が優勢なのは明かであった。
さらに庄内から上杉軍の酒田城主志駄義秀と尾浦城主下吉忠が最上領に攻め込んできた。志駄義秀は、最上川を船で遡り、下吉忠は六十里越街道を進み谷地城や白岩城を落した。
また、北に隣接する横手城主小野寺義道が最上領の雄勝郡合川城を攻め始めた。
義光は、これを見て嫡子義康を北目城にいた伊達政宗のもとに派遣し、援軍を求めた。
長谷堂城攻撃が始まった9月15日というのは、関ヶ原本戦で東軍家康が西軍三成を破った日であった。関ヶ原で激突したのは両軍合せて17万とも20万ともいわれるが、それがわずか半日で東軍の勝利に終わったのだった。
もっとも奥羽で戦う義光や兼続・景勝は知る由もなかった。
政宗は救援要請に応じた。政宗の参謀役片倉景綱は救援せずに直江を勝たせ、その後に直江を討てば一挙両得との案を出したが、政宗は、「長年、最上とは争ったが、一つには家康公のため、今ひとつには母上のため(政宗の母保春院は最上家にいた)」と言い、政宗の叔父の清水城主留守政景に騎馬5百余り、鉄砲隊7百余りを率いさせ救援に向かわせた。
政景は22日に国境の笹谷峠を越え、翌23日には山形城に入り義光と作戦を協議、24日に山形城と菅沢山の中間の沼木で直江勢と対峙した。
政景の山形入城を受け、政宗は自ら白石に出陣した。白石は伊達氏の旧領で、これはどさくさまぎれの旧領回復戦であった。
長谷堂城も志村伊豆守の必死の防戦で膠着状態が続いていたが、伊達の援軍が到着したことで最上軍の士気は大いに上がった。
9月29日城方は突然城門を開き討って出た。上杉勢は不意を突かれて激戦となり、この激戦の中で上杉方の上泉泰綱が討ち死にしている。
泰綱は新陰流兵法を開いた上泉伊勢守の孫であり、祖父と同じくすぐれた武芸者として名が高かった。義光は泰綱の首を手厚く葬った。
最上義光、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続らが、相次いで関ヶ原本戦の結果を知ったのは、9月30日から10月1日にかけてのことであった。
報せを聞いた瞬間、皆一様に驚いたことだろう。当時の常識では、これだけの会戦がわずか半日足らずで決着がつくはずはなかった。これは彼らだけではなく、全国のほかの諸将も同じであった。
最上軍の士気は一気に高まり、一方直江兼続のもとには景勝から即時撤退の使者が向かう。兼続は撤退を始めたが最上・伊達勢の追撃を受けた。
兼続は殿軍に水原親憲と前田慶次を宛てた。前田慶次は天下に知られた文武の英傑で、追いすがる最上軍を大身の鑓で追い散らしたという。
兼続は10月3日に荒砥城撤退を終えたが、両軍の損害は最上方6百余、上杉方2千百余という。
義光の死
関ヶ原戦後、義光は旧領に加えて、庄内三郡と出羽由利郡33万石を加増され、合わせて57万石の大大名となった。上杉景勝は会津や庄内を削られ、米沢30万石となり、伊達政宗は関ヶ原のドサクサ紛れに南部領の和賀一揆を唆したしたとされ数万石の加増に留まった。
また、横手の小野寺義道は所領没収、出羽北部の安東実季や戸沢政盛、六郷政乗らは常陸に転封となり、変わりに常陸から佐竹義宣が20万石減封されて移動してきた。
最上領だった雄勝郡はこれにより佐竹領に変わり、新たに得た由利郡はその替地であった。
義光は北を佐竹氏、南を上杉氏と豊臣方大名に挟まれ、佐竹への備えとして由利郡最北部の赤尾津城に4万5千石で楯岡満茂を入れた。
庄内は鶴岡城を義光直轄地とし、尾浦城に義光六男の光隆を入れ2万7千石とし、亀ヶ崎城(酒田)には志村九郎兵衛を3万石、小国城には小国日向を8千石でそれぞれ置いた。
また義光の子供たちは、長男義康を嫡男とし、二男家親は家康に仕えさせ、三男光氏は清水城主(2万7千石)、四男義忠は山野辺城主(1万9千石)、五男光広は上山城主(2万1千石)、六男光隆が大山城主(2万7千石)とした。
ほかに弟の楯岡城主の楯岡光直が1万6千石、野辺沢遠江守が2万石など万石以上の大名級の大身は15名にもなった。義光の蔵入地・直轄領は約10万石であった。
義光は、まず城下町山形の整備に取り掛かった。さらに酒田を貿易港として整備し、酒田と内陸部を結ぶ最上川の水運を確保するために最上川の難所とされた碁点・三ヶ瀬・隼の三ヶ所を開削している。
さらに大宝寺を鶴岡と改めて、ここは将来の隠居城にするべく、新たに城下の整備をした。最上領内はどこも活気に満ち溢れていたことだろう。
このように順調に見えた最上家に家督問題が持ちあがる。この年、義光は既に58歳になっていた。58歳といえば隠居して嫡子に家督を譲ってもおかしくない。すでに嫡子の義康も30歳になっていた。
義康の家臣からは家督相続に対する不満が高まる。慶長8年(1603年)家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。天下は名実ともに徳川家のものとなった。
家康の征夷大将軍就任祝いに、ほかの諸大名同様た江戸城に向かった。家康に謁見した義光との間に最上の家督問題が話題になった。
家康は幼少時より近侍している家親を推す。家親はこのころ20代半ばに達し秀忠に近侍しており、けっこう利発な青年であったらしい。
義光は山形に帰ると義康を呼び出家して高野山へ入山せよと命じた。義康は家督は家親と決まり、もはや抗いがたいものと悟ると近侍のもの十数名とともに山形を出て六十里越街道を西に向かった。
義光は土肥半左衛門に命じて、義康一行が庄内田川郡に入ったところを銃撃させて撃ち殺した。
最上家ではこの義康暗殺事件以後、家中の空気がなんとなく重苦しくなり、不穏の気が流れていたという。義光もそれを感じたのか、あまり表立っての行動しなかったようだ。
慶長18年(1613年)68歳となった義光は、死期を悟ったのか弱った体で無理をして駿府の家康のもとに向かう。家康と秀忠に今後の最上家のことを頼みに行ったのだった。
駿府で家康は義光を丁重にもてなし引き出物を与え、江戸では家親と秀忠が迎えて、秀忠は家康の意を受けて最上家の諸役の三分の一の免除を伝えた。
帰国した義光は立つことすら出来なくなり慶長19年(1614年)正月69歳で死去した。
最上氏改易
義光の死後、最上の家督は既定方針通り家親が継いだ。しかしほとんどを家康・秀忠のそばで過ごした家親は、家臣との面識もあまりなく、義康暗殺以後の不穏な空気は払拭されない。
幕府も最上家中の状況を察知していたらしく、慶長19年(1614年)に幕府老臣土井利勝・酒井忠世・本多正信は連署して、最上家中に対し一致して家親を支えよとの命令書を出している。
慶長19年という年は、家康が大坂城の豊臣秀頼の処理を決め、この冬に大坂の陣が起きる年で、いきおい諸大名の動静に気を配ることになる。
ところが最上家中では、6月に鶴岡城下で事件が起こってしまった。
田川郡添川館の主一栗兵部大輔が手勢を率いて鶴岡城代の新関因幡守の屋敷を襲撃したのだ。一栗兵部大輔は家親の家督相続には反対で、義光三男の清水城主光氏の擁立を酒田城主志村光清に説いたが入れられなかった。
この日、新関因幡守の屋敷にはその酒田城主の志村光清、大山城主の下秀実が招かれていて、一栗兵部大輔はそれを好機と見たのだった。
不意を討たれて志村・下の二人は一栗勢にその場で討たれたが、新関因幡守の家臣によって一栗勢はことごとく討ち果たされた。
このことは家親の疑心悪鬼を生み、家親に光氏殺害の大義名分を与えるものでもあった。
この年10月1日家康は諸大名に大坂城攻めの出陣を令した。家親は江戸城留守居を命じられた。出発の直前家親は、野辺沢遠江守と日野将監に光氏の討伐を命じて江戸に向かった。
野辺沢・日野の両将は10月18日千八百の兵を率いて清水城を襲い、光氏を自害させた。光氏の嫡子義継も家親の命により首を刎ねられた。
家親は大坂冬の陣、続く翌年の夏の陣ともに江戸城留守居となった。これは同じく江戸城留守居となった豊臣恩顧の福島正則の監視役で、それからしても家親が家康・秀忠の信頼を得ていたのがわかる。
大坂の陣での江戸城留守居役を無事に果たして家親は山形に帰国した。豊臣家は滅亡し、それに安堵したのか家康は元和2年(1616年)に75歳で死去した。
ところがその翌年の元和3年、山形城中で家親が突然死去してしまう。まだ36歳であり、あまりに唐突な死に毒殺されたとの噂も流れた。
幕府は嫡子義俊への家督相続を認めたが、
一、義光及び家親が定めた制度を守ること。
一、2千石以上の婚姻は幕府の許可を得ること。
一、訴訟裁断は今までどおり取り計らい、合議において決定しかねる場合は幕府に言上、指示を得ること。
一、義光及び家親の代に任じた有司は改変しないこと。改変する場合は幕府に届けること。
一、義光及び家親の代に追放した者を許さざること。
一、家臣への加増、新規家臣の召抱えは幕府に申請し、沙汰を受けること。
という条件をつけた。
これは半ば幕府の管理下にあるようなものであったが、仙台の伊達、秋田の佐竹、米沢の上杉と周囲の大藩に対する押さえとしての役割を与えられているのが最上家であることを考えれば、幕府のある程度の介入はやむを得ないことでもあった。
しかも家親の不審な死、さらに跡を継いだ義俊はまだ12歳の幼君である。通常なら転封になってもおかしくないのだから、幕府は家中が一致して義俊を補佐するものと考えたのであろう。
しかし、家臣間の対立は止まなかった。元和8年(1622年)義光の甥にあたる松根備中守は出府して、老中酒井雅楽頭に前藩主家親の死は楯岡光直、山野辺義忠、鮭延越前らによる毒殺であると訴えた。
酒井雅楽頭は訴えに基づき楯岡光直らを江戸に呼び出し審理を行ったが、松根備中守の訴えには、はっきりした証拠がなく、返って誣告罪で筑前柳川藩主立花宗茂に預けられた。
審理終了後、幕府は島田弾正、米津勘兵衛を山形に下向させて、「最上領は要害ゆえ、領地は暫く収公し、義俊には新たに6万石を与える。家老たちも心を一にして義俊を補佐し、国政を私せず沙汰したならば、義俊成長ののち本領を返し給わる」と告げた。
これに対して山野辺義忠、鮭延越前は「松根のような逆臣を厳刑に処さずそのままにしておくようでは、再び讒言人が出るやも知れない。義俊本領が収公されるならば、われら暇を給わり出家して高野山に入りたい」と返答した。
幕府はもはや収拾策はないと判断し、元和8年8月18日最上家の改易を決定した。最上領は本多正純・永井直勝が上使となり伊達政宗や上杉景勝らによって接収された。
同年9月山形には鳥居忠政が20万石で入部したのをはじめ、鶴岡には酒井忠勝が13万8千石、上山には松平重忠が4万石、新庄には戸沢政盛が6万石入った。
義俊はその母とともに近江で5千石を与えられ高家となり幕末まで続く。また、伊達政宗の母保春院は仙台に引き取られた。
 
最上義光3

(1546-1614) 南北朝から室町時代にかけて、足利氏の一族で奥州探題となった斯波家兼の次子・兼頼が、羽州探題として最上郡山形を本拠とし、奥州藤原氏が滅亡した直後からこの地に来ていた大江氏(南朝方)を下してより、最上氏の祖となる。
最上氏は、伊達氏と同様に中原から離れた辺境の豪族であったが、北部に武藤氏、南部の伊達氏、という強大な勢力が出来る中、両勢力の中央に挟まって基盤を持ち、居城山形を中心として近隣の豪族を併呑し、徐々に大きくなって行ったが、その頂点が義光のときであった。
義光は天文15年(1546)、山形城に生まれた。11代目という。
父・義守と義光の軋轢から、一族が分裂抗争した後に義光が家督を継いだ。
一説に、父・義守は義光の弟・義時に家督を譲ろうとしたため、義光が反発したとも言い、また伊達輝宗らが干渉したが、義光が伊達氏と和解して当主となったとも、義光が弟・義時や庄内の武藤氏らを謀殺したとも言う。
義光は勇将の反面、謀略が得意で、近隣に勢力を拡げ、版図を拡大した。
伊達政宗とは仇敵同志の家と言え、長年にわたり抗争を繰り広げたが、政宗の母は義光の妹で、政宗とは伯父・甥の関係である。
義光の最大の危機は天正16年(1588)、芦名・佐竹連合軍を破って勢いに乗る伊達政宗と、越後の上杉景勝に挟撃され、孤立する。しかも念願の日本海進出も、上杉氏に庄内を制圧されて一時、挫折した。
この危機を、徳川家康を通じ豊臣秀吉に臣従することで乗り切ったと言われ、天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を小田原に討った時、小田原にも参陣、はじめて上洛して秀吉のもとに行き、本領を安堵されて、従四位下・侍従に任ぜられた。
以降、豊臣(大納言)秀次には娘の駒姫を側室とし、秀頼(この時期だと秀吉だろう)には三男・義親を、翌19年(1591)の奥州征伐(九戸政実の乱)の時から、二男の(左馬助)家親を徳川家康の近習として仕えさせるなど、全方位外交を展開する。
が、関白となった豊臣秀次が秀吉の怒りにふれ切腹したとき、娘の駒姫も首をはねられ、義光もあやうく所領を没収されそうになったところ、家康の助言で安堵されたため、家康と義光の親交は深くなった。
慶長5年(1600)、家康の子・結城秀康を援けて、会津の上杉攻めの先鋒となり、上杉景勝と交戦。この構図から関ヶ原では当然、東軍になったわけだが、いわゆる東北の関ヶ原においては、逆に、上杉勢の直江兼続に山形城に追いつめられ、苦戦する。
が、現地の関ヶ原において家康が勝利した事によって、庄内を奪還した。
慶長6年(1601)には、出羽庄内に由利領を含め、57万石の太守となり、左近衛少将となった。
晩年は酒田など後の繁栄港や、水路の発達など後の農業推進の基盤を形成したとも、病床についていたとも言われる。慶長19年(1614)正月18日、山形城で没した。69歳。
義光死後、子・家親や次の代・義俊のとき、子供らに内紛があり、家臣統制がままならぬため国政治まらず、本領を没収され、最上氏は改易の憂き目にあう。
一大勢力を誇った最上氏の丸ごと改易は欠損が大きく、こうした事は、何かと軋轢のあった地続きの小野寺氏も改易され同様だろうが、その後の山形藩は城主がめまぐるしく交替しては、領地減少の一途を辿り、天領のみ増加、他藩の飛び地が入り組んで、領国の枠を超えて商人が発達し賑わう地域のある一方、貧富の差も激しく、飢饉や一揆が多発、影響は最近まで長く残った。こうした事柄は、史料などにも同様に(散逸や混同などの)影響を疑わずにはおれない。  
 
最上氏と関ヶ原

会津討伐へ
豊臣秀吉亡き後、五大老の筆頭として政務を預かっていた徳川家康が、関ヶ原の戦いの前段階である会津討伐を宣言したのは、慶長5年(1600年)5月3日のことであった。
前年に父祖の本拠地越後から会津に移封されたばかりの上杉景勝に対し、家康は五大老の重職にある景勝の上洛を何度も促したが、景勝はそれに従うどころか家康の神経を逆なでするような返事をし、上洛どころか国内で戦争準備を始めた。
上杉のこの行為は周辺諸大名の知るところとなり、景勝の跡に越後に入った堀秀治から上杉謀反の訴えが家康になされた。家康は堀秀治や最上義光ら会津の周辺諸大名に上杉家から眼を離さないように命じていた。とくに堀は上杉が残しておくべき年貢を全て持ち去ったり、上杉が越後で一揆を扇動したりで上杉とは仲が悪かった。
家康の方は半分挑発で景勝に上洛を促したのだから、戦争準備を始めればそれを口実に会津を攻めて上杉家の勢力を削ぐか滅亡させるだけ。そのための出陣であった。
ただ家康だけがのこのこ出て行っては単なる私戦だから、形式を踏まなければならない。家康は会津征伐を決めると6月6日大坂城西の丸に諸将を集め、作戦会議を開いた。
周囲を山に囲まれた盆地の会津にはいくつか入口がある。北側の米沢口には山形の最上義光と出羽の諸将、東側の信夫口には陸奥の伊達政宗、東南の仙道口には常陸の佐竹義宣、西側の津川口には前田利長と越後の諸将、南側の白河口には家康・秀忠父子の本隊、総数20万ともいわれる大軍で会津を攻めることした。
6月15日には豊臣秀頼から家康に軍費と軍糧が与えられ、これによって上杉討伐は公戦となった。家康は6月16日会津に向けて大坂を発った。
義光をはじめ佐竹義宣、伊達政宗の3人は家康に先立って帰国した。至急準備を整えなければならぬ。家康は途中わざと時間をかけて東下し、半月もかけて7月2日に江戸に入った。これはこの間の上方での動きを察知し、動きがあれば会津征伐を中止して反転することを考えていたためという。
江戸に入った家康は7月7日に軍議を行い、会津攻撃を同月21日と定めた。米沢口は義光が先陣となり、南部利直、安東実季、小野寺義通、戸沢政盛らが後詰めとなり、庄内への押さえとして由利十二頭の小介川孫次郎、仁賀保挙誠があたると決められた。
これにより山形には南部勢5千、安東勢2千6百、戸沢勢2千2百、小介川・由利勢千7百などが入った。評定により義光の嫡男義康が6千5百の兵を率いて、先陣として米沢口に向うことが決せられた。
このまま行けば会津の上杉は四方から敵を受け、いくら120万石の強兵をもってしても、ひとたまりもないはずであったがそうはならなかった。
周知の通り上方で石田三成が決起し、五大老の毛利輝元を担ぎ上げて家康に挑んだのだった。この報は急を以って家康のもとに知らせられた。家康がそれを知ったのは24日下野小山でのことだった。
実はこの少し前に家康を弾劾した一人であり、五奉行でもあった増田長盛から家康のもとに三成決起確実の密書が届けられた。長盛は裏切ったというより、家康が勝った場合の保険をかけたのであろう。
この長盛からの密書に接した家康は、直ちに義光に書状を送り会津進撃を中止させる。大坂に動きがあるから、しばらく様子を見る、それまでは動くなというものである。 
会津討伐中止と奥羽の動き
小山で正式に三成決起の急報を受けた家康は、翌25日軍議を開く。前日黒田長政を通じて福島正則に言い含め、それを受けて正則は直ちに反転三成を征伐すべしると口火を切らせた。
もともと上方決起の際は反転西上、東西決戦に及ぶというのが家康の描いた戦略だから、家康は会津攻撃を中止し宇都宮に長子秀康を押えに残し西に急いだ。
家康はそれでよいが、他方面の将はそう簡単にはいかぬ。天下第一の精強を誇る上杉勢が無傷で残っているのだ。
伊達政宗は上杉と和睦しさっさと兵を退いた。もっとも家康は上杉と伊達に結ばれては適わないから、伊達政宗に伊達家の旧領48万石の加増を約束する書状を与えている。世に言う百万石のお墨付である。だが、関ヶ原後このお墨付は政宗に不審な行動ありとして反故にされる。
また、南部、小野寺、安東など山形に集まったの諸将たちには家康は帰国を許した。これによって南部ら諸将は早々に帰国してしまい、義光だけが上杉の前にさらされることになった。
当時の義光の所領は24万石、これは上杉の臣で米沢を治める直江兼続の所領30万石にも及ばない。直江は上杉家の臣であり軍師であったが、才能にあふれ秀吉から独立した大名として一本釣されかけた。
しかし、それを断り、その才を惜しんだ秀吉が景勝の会津移封の際に特に米沢30万石を与えたのだった。所領でも及ばないのに天下第一の才に攻め込まれてはたまらない。
義光は上杉家へ書状を送った。それは上杉家が会津に移封されてからのち上杉家には臣下同然に接してきた、今後も家臣同様に勤めるし、嫡子義康を人質に差し出す用意もあるから、最上を攻撃しないで欲しいというものだった。
ある意味降伏状のようにもとれるが、家がなくなるよりは降伏同然でも残るほうがましである。義光も必死であった。
一方家康は江戸に入り会津対策を指示した。すでに先発隊は美濃に向い、大垣城を攻撃奪取した。この報を伝えて義光と政宗に激励と上杉押さえ込みを命じた。
また、越後を守る堀秀治にはもし上杉が越後に出てきた場合は春日山城を守れ。背後から秀康以下関東衆を攻め込ませるというものであった。
それらの対策を終えると家康は東海道を西に向った。これを知った上杉家軍師直江兼続は最上攻撃を決意した。米沢から山形までは自然の障害が少なく、また義光の陣がもっとも手薄であったから、これは当然の判断であった。
9月8日、直江兼続は2万4千の兵をもって米沢を出陣し、最上領攻撃に向った。
米沢に入れた細作の報告で攻撃を察知していた義光の戦略は、無理に決戦をせずに持久戦に持ち込むという作戦であった。同時に嫡子義康を伊達政宗のところに派遣して援軍を要請、山形の南にある荒砥、長谷堂、上野山の各城に応援を入れて死守せよと命じた。
一方の直江兼続は軍を二分し、木村親盛、松本善右衛門、横田宗俊、篠井泰信、椎野弥七郎らに4千の兵を預けて上野山城に向わせ、自身は2万の主力を率い長谷堂城に向った。
さらに本庄繁長を大将にして、志駄義秀、下治右衛門らが兵3千をもって庄内から六十里越街道を東進させて寒河江、左沢、長崎方面を攻略させた。
上野山に向った直江軍の支隊は地形の関係もあって苦戦した。特に伏兵に背後から襲われたり、前進しようとすれば山上より巨石を落とされたりで、主将の木村親盛をはじめ椎野弥七郎らを失い、中山城に撤退しなければならないほどであった。
一方兼続は率いる主隊の方は狐越街道を進んで畑谷城を攻め落とした。畑谷城は小城ではあるが糧道確保のためには絶対に落としておきたい城であった。
畑谷城を守っていたのは江口道連で、道連は渓流を城外に引いて氾濫させて城の守りとした。上杉勢は最初これを攻め倦んだが、夜間に堤を破って水が引くのを待ち、翌日猛攻を加えて攻め落とした。
城将江口道連は力戦して自刃して果てた。これを聞いた義光は嘆き悲しんだという。
その翌日、兼続は富神山を迂回して長谷堂に向う。富神山を過ぎればはるか山形まで自然の障害物はほとんどない。したがって山形城も遠くに望めるはずであるが、この日は低く霞がかかって山形城を見ることはできなかった。山形城の別名を「霞ヶ城」ともいうが、それはこのとき生まれたともいう。 
長谷堂城を巡る攻防
兼続が長谷堂城の攻撃にかかった9月15日は、遠く西方の関ヶ原で東西決戦が行なわれた日である。もちろん兼続、義光ともにそんなことは知らない。
兼続は長谷堂から1キロほど離れた菅沢山の北山崎に本陣を置いて長谷堂攻撃にかかった。長谷堂城の守将は志村伊豆守光安。長谷堂を落とされれば山形城の命運も風前であり、城兵の反撃も凄まじかった。
長谷堂城と菅沢山の間には一面の深田が広がっており、そのために戦いは城方に有利であった。上杉勢は深田にはまって思うように動けず、城方は充分に上杉勢を引きつけて一斉に銃火を浴びせた。上杉勢の攻撃ははかばかしい結果を生まなかった。
その夜、義光は兵8百をもって直江軍の背後から夜襲をかけたが、これは直江軍に察知されて失敗した。その翌日16日、さらに17日長谷堂では城兵が奮戦し城を守った。ここに至って直江兼続は長谷堂の攻略を断念。直接山形城の攻撃に取り掛かるべく作戦を練り直すことにした。
義光の方は必死であった。長谷堂は風前であり、六十里越街道を進んできた本庄軍は寒河江城や白岩城を奪取して山形に圧力をかけている。また、この状況を見て横手城主小野寺義道は西軍に寝返り最上領に侵攻し、雄勝郡の合川城を攻め落とした。
一方このころ義康の要請を受けた伊達政宗は最上への援軍を決定していた。政宗の参謀役片倉景綱は救援せずに直江を勝たせ、その後に直江を討てば一挙両得との案を出したが、政宗は、「長年、最上とは争ったが、一つには家康公のため、今ひとつには母上のため(政宗の母保春院は最上家にいた)」と言い、政宗の叔父の清水城主留守政景に騎馬5百余り、鉄砲隊7百余りを率いさせ救援に向かわせた。
政景は22日に国境の笹谷峠を越え、翌23日には山形城に入り義光と作戦を協議、24日に山形城と菅沢山の中間の沼木で直江勢と対峙した。
政景の山形入城を受け、政宗は自ら白石に出陣した。白石は伊達氏の旧領で、これはどさくさまぎれの旧領回復戦であった。
長谷堂では志村伊豆守光安の必死の防戦で膠着状態が続いていたが、伊達の援軍が到着したことで最上軍の士気は大いに上がった。
9月29日城方は突然城門を開き討って出た。上杉勢は不意を突かれて激戦となり、この激戦の中で上杉方の上泉泰綱が討ち死にしている。
泰綱は新陰流兵法を開いた上泉伊勢守の孫であり、祖父と同じくすぐれた武芸者として名が高かった。義光は泰綱の首を手厚く葬った。
最上義光、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続らが、相次いで関ヶ原本戦の結果を知ったのは、9月30日から10月1日にかけてのことであった。
報せを聞いた瞬間、皆一様に驚いたことだろう。当時の常識では、これだけの会戦がわずか半日足らずで決着がつくはずはなかった。これは彼らだけではなく、全国のほかの諸将も同じであった。
最上軍の士気は一気に高まり、一方直江兼続のもとには景勝から即時撤退の使者が向かう。兼続は撤退を始めたが最上・伊達勢の追撃を受けた。
兼続は殿軍に水原親憲と前田慶次を宛てた。前田慶次は天下に知られた文武の英傑で、追いすがる最上軍を大身の鑓で追い散らしたという。
兼続は10月3日に荒砥城撤退を終えたが、両軍の損害は最上方6百余、上杉方2千百余という。
また、義光は勢いに乗じて寒河江方面を回復した後、庄内に攻め込み尾浦城を攻め落とし、酒田城に圧力をかけた。仙北口からは雄勝郡に兵を入れて横手城を攻めた。
これを見て仙北の安東実季、戸沢政盛、六郷政乗、仁賀保挙誠らも最上勢に加勢して小野寺領を攻めている。
奥羽での関ヶ原と呼ばれる長谷堂城を巡る戦いは以上であるが、これらの結果最上義光は庄内・由利33万石加増され57万石の太守に、一方の上杉景勝は90万石を減封されて、直江兼続の所領であった米沢30万石に、伊達政宗は100万石のお墨付を反故にされわずか2万石の加増、小野寺義道は所領を没収され改易となった。 
 
最上義光4

はじめに
羽州探題斯波氏にはじまる奥羽の名門最上氏が飛躍的に発展したのは、戦国末期に登場した十二代義光の活躍によるといっていい。
ところが義光という人物は、暗く陰湿なイメージがあって、山形以外ではあまり評判がよくない。これは、最上家が江戸初期に改易されたことで最上氏側の資料が乏しいこと、謀略や調略を比較的多く使ったこと、弟や嫡子を殺害する冷徹な人物であったこと、などによるものと思われる。
特にNHKの大河ドラマ「伊達政宗」では原田芳雄演じる最上義光は、政宗を窮地に追い込むことに専念する悪役として描かれ、それが奸悪イメージに拍車をかけたようだ。
伊達氏側から見れば敵対勢力であった最上を悪く見るのは至極当然であって、ある程度の誇張はやむを得ないにしろ、冷静に義光の行動を見つめたときに、それはあまりにも誇張されすぎているようだ。
それでは、義光のいくつかの行動を見てみよう。いずれも義光が奸悪であるというイメージが語られる根拠となりそうなものを選んだ。 
天正最上の乱
義光には3人の弟義時、義保、義久と1人の妹があり、義時は中野氏を、義保は長瀞氏を、義久は楯岡氏をそれぞれ継いだ。いずれも最上氏の一族である。妹の義姫は伊達輝宗に嫁ぎ、のちに政宗を産んだ。
さて、義光らの父義守は義光を嫌い、二男の義時を寵愛した。ついには義時を家督にしようとまで考え、義光と義守の間の不和は決定的となり、義光は山形を去り高擶城に移ったほどであった。
この父子の対立は近隣の大名につけいる隙を与え、庄内の武藤氏は最上領進出の動きを示しはじめ、伊達輝宗も干渉してきた。
見かねた宿老氏家尾張守が必死の諫言を義守に行い、ついに父子は和解し、元亀2年(1571年)8月に義守は隠居して仏門に入り栄林と号し、義光が26歳で家督を継いだ。
家督を継いだ義光と弟義時の間に対立が再燃するのは天正2年(1574年)のことであった。義時にすれば、一時は家督となるかもしれなかったわけで、義光には不満を抱き不遜な態度を取ったという。
一族たちも義光の家督には不満であったらしい。それは義光の武断的な性格をみて、一族がその地位保全に不安を感じたのだろう。
義光は後の行動を見てもわかるとおり、中央集権的な政治を目指し、強力な一族が割拠することを嫌った。地位やそれに伴う権益を侵されるかもしれない一族が反発するのは当然である。義時に対して一族の多くが味方した。
また、伊達輝宗も干渉してきた。輝宗にすれば義光は、岳父の義守を隠居させて、その意思に反して半ば強引に家督を継いだ冷酷な男と写ったであろうし、近隣の内紛は領土拡大のチャンスでもある。
天正2年(1574年)5月輝宗は反義光派の国人らに出陣を告げ、上山の中山口から最上領に入った。しかし輝宗は本気で戦闘をするつもりはなかったらしく、鷹狩に興じたりして米沢城に帰城した。
一説には義姫あたりが懇願したのかもしれないともいい、輝宗の出兵は牽制だけに終わり、国人たちも帰参している。だが8月に入り輝宗は再び中山口に出陣、最上軍との間で小競り合いがあった。
このときは北からも天童氏が義光を挟撃すべく出陣したし、庄内の武藤氏(大宝寺氏)も最上領への出陣の準備をはじめ、最上一族の内部抗争を煽った。
しかし戦線はこう着状態となり、睨み合いに倦んだ和解の方へ進み、9月に谷地城主白鳥長久が仲に入り、輝宗は義光と和睦した。輝宗は米沢に帰城し、伊達の撤兵によって天童氏も義光と和睦した。
これによって義光は憎むべきは一族と、翌天正3年に義時に切腹を迫り、義時は自害して果てた。さらに義光はその憎しみを一族に向け、一族を次々に討滅していった。
以上が天正最上の乱といわれる、最上義光による家督相続と覇権の確立の過程で起きた、一族討滅の騒動である。とくに一族の討滅については、残忍冷酷な手段で行われたという。
だが近年定説であったこの天正最上の乱に、疑問が呈され解釈が変りつつあるという。
なによりの問題は義光による一族討滅を証拠だてる史料がまったくないことで、さらに義守と義光の対立や義時の反攻の事実も、まったく史料には現れていないという。
先に記したように最上家に関する資料は少ない上に、天正2年の伊達輝宗の出陣も最上側の史料は一切なく、「伊達家日記」に記述があるだけだそうだ。
それにしても輝宗の動きもおかしい。最上領に侵攻しておいて撤兵し、すぐに再出陣している。さらに義光挟撃のチャンスに和睦に応じるなど、輝宗は本気で義光を相手に合戦しようとしていたとは思えない。
この後の動きから義光は、一族をはじめ国人たちを家臣化して直接支配しなければ、最上氏の発展は望めない。そのため領内の一族や国人たちの直接支配化へ向けて動かなければならないと考えて行動を起し、その過程で既得権益を侵される一族や国人たちが叛旗を掲げ、伊達輝宗を巻き込んだのではないか。
輝宗にすれば、どちらが勝っても状況が変わるわけではなく、むしろ最上の一族が内紛を続け、双方が弱体化することを臨み、対立を煽る意味で出兵したのだろう。
煽るだけ煽って、義光が一族討滅を決意すれば、それで目的は達し、あとは最上一族の内訌の激化に期待したに違いない。
こう考えると冷酷、奸悪なのは義光ではなく、輝宗でありまた義光に敵対した最上の一族や国人である。むしろ義光は正当防衛的に一族や国人に立ち向かわなければならなかった。そうしなければ自らが滅んでしまうことになる可能性が高いからだ。 
義康の暗殺
比較的早くから家康に接近していた義光は、関ヶ原役でも東軍に属して会津の上杉氏と戦い、戦後、義光は旧領に加えて、庄内三郡と出羽由利郡33万石を加増され、合わせて57万石の大守となった。
最上領の北の秋田には、常陸から佐竹義宣が20万石減封されて入封し、南の米沢には上杉景勝が所領を4分の3減らされて30万石で入った。
義光は北を佐竹氏、南を上杉氏と豊臣方大名に挟まれ、家臣の配置にも腐心しなけらばならなくなった。まず、佐竹への備えとして由利郡最北部の赤尾津城に4万5千石で楯岡満茂を入れた。
庄内は鶴岡城を義光直轄地とし、尾浦城に義光六男の光隆を入れ2万7千石とし、亀ヶ崎城(酒田)には志村九郎兵衛を3万石、小国城には小国日向を8千石でそれぞれ置いた。
また義光の子供たちは、長男義康を嫡男とし、二男家親は徳川家康に仕えさせ、三男光氏は清水城主(2万7千石)、四男義忠は山野辺城主(1万9千石)、五男光広は上山城主(2万1千石)、六男光隆が大山城主(2万7千石)とした。
ほかに弟の楯岡城主の楯岡光直が1万6千石(楯岡城主)、野辺沢遠江守が2万石(野辺沢城主)、寒河江肥前守2万7千石(寒河江城主)、氏家左近1万7千石(天童城主)、里見民部1万7千石(長崎城主)、松根備前1万石(白岩城主)、鮭延越前1万2千石(鮭延城主)、東根源右衛門1万2千石(東根城主)、坂野紀伊守1万3千石(長谷堂城主)など万石以上の大名級の大身は15名にもなった。義光の蔵入地・直轄領は約10万石であった。
さらに城下町山形や藩の外港酒田の整備、さらに舟運の円滑化を目的とした最上川改修など領国の基盤を整備し、最上領の経営は順調な滑り出しをみせた。
一方、最上家では家督が問題となりはじめた。義光は既に58歳になっており、当時としては老齢であった。嫡男義康はすでに30歳であり、義光は隠居し義康が当主となっていてもおかしくない。
しかし義光は一向に義康に家督を譲ろうとしない。義光と義康の間に対立感情が芽生えてきた。義康の家臣たちの不満も高まった。状況は違うが、下手をすれば義光家督のときの父子対立の再燃になりかねない。
慶長8年(1603年)2月、徳川家康は征夷大将軍に補されて江戸幕府を開き、天下は名実ともに徳川家のものとなった。家康の征夷大将軍就任祝いに、ほかの諸大名同様た江戸城に向かった。家康に謁見した義光との間に最上の家督問題が話題になった。
先にも書いたが義光の二男家親は家康に仕えていた。義光が家親を家康のもとに差し出したのは、天正18年(1590年)小田原北条氏を滅ぼした秀吉が、会津に入り奥羽の大名の配置を決めた、いわゆる奥羽仕置の直後である。
このとき会津に参じた義光は、家康の陣屋を訪れ、当時太郎四郎といった二男を家親を近習にと願い出た。実質的には人質である。
家康にとっては、外様からのはじめての人質である。自身が今川の人質となっていた家康が、逆に人質をとる立場になったのだ。家康は大いに感激し、太郎四郎を小姓の列に加えた。(二男を人質に差し出したのは、天正19年の奥州での葛西・大崎一揆の鎮圧戦のときとの説もある)
太郎四郎は家康から家の字を賜って家親と名乗り、家康や秀忠に可愛がられたという。家康は最上の家督に家親を推した。家親はこのころ20代半ばに達し、秀忠に近侍しており、けっこう利発な青年であったらしい。
江戸時代初期に最上旧臣により著された「最上義光物語」では、義光が「家康公へ右のあらまし、そっと仰せ上げられ候の処」、家康は「その方老いにあれ、家督を遅く譲られるとて、一命に懸け、親を恨む段、言語に絶したる事共也、去は一日も親の達者にて公用を勤こそ、子の身として悦ぶ可き事なるに、左はなくて隠居の遅れを憤る事、不孝の子に非ずや。今こそ別儀無しとしても、自然国中の騒動の事も有ならば、折を得、必ず国の仇と成る可きの間、帰国次第生害致され候え。不便なる子さえ国には替えられず、況や左様に不孝なる子をや。」と書いているという。
「右のあらまし」とは義康や義康の家臣の不満のことで、それに対して家康は、家督がなかなか譲られないからといって不満を述べる親不孝な子は、将来必ず国の不為となるから、今のうちに殺してしまえ。不憫ではあるが国の安泰には替えられない、と言ったというのだ。
義光は帰国次第義康を切腹させると答えると、今度は家康が誰に家督を譲るのかと問い、義光は家親にと述べ、どれを聞いた家康は義光の申し出でを誉めたという。
義光がどう考えていたかはともかく、家康にこういわれては殺害せざるを得ないだろうし、家康が家親家督を狙っているのはあきらかだ。
義光は帰国すると義康を呼び、対面もせずに高野山入山を命じた。出家命令だ。義康は悄然として、十数名の家臣とともに高野山へ向った。
その途中、田川郡櫛引村の六十里越街道で、義光は義康一行を襲わせた。土肥(戸井)半左衛門らの一隊を待ち伏せさせて、鉄砲を撃ちかけ射殺したらしい。陰惨なやり方である。
義光は義康を暗殺してから後悔の念にかられたらしい。義康は、かなりの傑物であったらしい。また、そうでなければこの時代に家督を待望する家臣など、そうそうでるはずもない。
讒言もあったという。原八右衛門という人間が義光に義康の非をならして義光はそれを信じたが、義康暗殺後に讒言であったことがわかり、八右衛門を断罪したともいう。
義光は、もともと疑り深い性格というか、自分以外は信じなかったのではないか。自分を除けば、次に信頼できるのは家臣であり、一族にはあまり信は置いていなかった。親族については一番警戒したろう。
それは、自分が家督をとった天正最上の乱のことを思い合わせれば、当然であろう。自身が老齢になって、ますますその念を強くしたに違いない。義光のようなタイプは、猜疑心が弱まることはないタイプだ。
ただ、義光も一代で最上を大大名に押し上げたほどの人物だから、激情だけで義康暗殺をするほど単純ではないだろうとも思う。
そこで一つの仮説である。義光は最上の行く末を考えると、義康より敢えて家親を家督にした方が有利であると考えたのではないか。
最上の領国支配は多分に中世的であった。近世大名に完全に脱皮できなかったことが、最上家改易に繋がる騒動を引き起こすのだ。
義光はそれを懸念したのだろう。1万石以上の領地を持ち、軍事力を持った家臣たちが領内に割拠しているのである。義光が生きて目を光らせているうちは良い。だが、いくら傑物とはいえ義康の代になったら統制がとれるだろうか。
義光の頭の中には、自分が家督当初に苦労をし、領内の反乱を潰した経験が苦々しく甦ったかもしれない。本来なら中央集権的な体制に一気にもっていければよいのだが、戦国の色が濃く、まだ領国が不安定な時代にそんなことをすれば、騒動にもなりかねない。
この時代はどこの大名家でもおなじようなものだし、最上家同様に急激に領地を広げた外様大名では、とくにその傾向が強かった。
さらに一段の転換を図って近世大名化に成功した家も多いが、失敗した家も多い。最上家の悲劇は義光が偉大すぎることにあった。隠居したくてもできなかったのではないだろうか。
そこで義光が考えたのが、家親を家督にすることだった。義康を家督にした場合、下手をすれば騒動になり家が潰れる確立が高い。それは義康と家臣のあいだにしがらみがありからで、とするならしがらみがない家親の方が確立は低くなるかもしれない。
しかも家親には後盾に家康や秀忠がついている。徳川家という絶対的な権力を背景にして、その力を借りて近世大名への脱皮を図ろうとしたのではないか。
そこまでいかなくても、最上の行く末を考えた場合、徳川家が背景にいるという家親が家督であれば、何かあった場合でも幕府は悪いようにはしないと考えたのではないか。
事実、義光が没して家親が家督をとった以降の最上家はそのようになっている。結果として、その家親が元和3年(1617年)に若くして死去し、跡を継いだ義俊が12歳の幼君であったことが最上を潰したのだ。
いずれにしろ、義光は家親に最上の将来を託し、近世大名への一歩としての領国の安定化を期待したのではなかろうか。 
おわりに
義光が冷酷、奸悪といわれる根拠として、よくあげられる天正最上の乱と義康暗殺を取り上げて、仮設を交えて検証してみた。
ほかにも騙し討ちや駒姫の悲劇など、義光にダーティーな印象を与える行為も多いが、戦国末期の生き残りをかけた時期のことであれば、同じようなことをどの武将もやっている。
織田信長も弟と戦い、伊達政宗も弟を殺している。家康にしても信長に命じられて長男信康に自害を命じた。駒姫の悲劇など、秀吉が実子可愛さに秀次を廃さなければ起きなかった事件だ。一概に義光の責任ではない。
だが、義光の場合は同じ事をしても、なぜか冷酷非情、悪役のイメージがつきまとう。やはり最上家が江戸期の早い時期に改易になり、儒教的な世界観が強い江戸時代に悪いイメージが作られ、誇張されていった面が強いのだろう。
義光は本当は冷静で慎重であり、将来を見据えた目を持ち、家の安泰のためには自分が泥を被る覚悟を持った名将であったのではないか。そして、その裏には出羽探題にはじまる名族名門意識があったのかもしれない。
最後に本稿の天正最上の乱に関する部分については、歴史読本2007年8月号の片桐繁雄氏の「最上義光の合戦研究最前線」を特に参考にさせていただいた。 
最上氏主要家臣   
氏家氏
氏家氏は藤原北家宇都宮氏流といわれ、斯波兼頼の執事として兼頼とともに奥羽に下向したものという。代々にわたり最上家の執事的な立場にあったらしく、義光の頃にもその重臣として活躍している。 義光代の氏家の当主は光氏で、義光の三女竹姫を娶っている。天正5年(1577年)の天童攻めの際に、一旦失敗した義光は力攻めを諦め、天童方の勇将野辺沢満延の嫡男康満に義光の娘松尾姫を嫁がせて、和睦を図る作戦にでる。この和睦の斡旋をしたのが氏家光氏であった。 また、その後義光は白鳥長久を謀殺するが、その謀を献策したのも光氏だといわれている。この謀は志村光安が指揮したが、当時の義光の側近が氏家、志村の両名だったことがよくわかる。 氏家氏は最上氏の改易後どうなったかは詳らかではないが、一説に伊達家臣になったとも言われている。 
鮭延氏
近江源氏佐々木氏族といわれ、1400年代末ごろに近江から出羽に下向、そのころの仙北地方の領主小野寺氏の客将となったといわれる。 その後最上郡内に進出し、大永年間鮭延庄を賜り鮭延氏を称したらしい。鮭延への進出時期も諸説あるが、小野寺氏の南進策の一環で行われたのは事実のようだ。 その後小野寺氏、最上氏、大宝寺氏の三つ巴の抗争に巻き込まれ、鮭延秀綱は最上義光に城を囲まれる。秀綱は籠城して抵抗したが、抗しきれずに庄内の大宝寺氏を頼って城を出て、鮭延城は最上領となった。 一旦大宝寺氏の庇護下に入った秀綱だが、義光の謀略で本領復帰を条件に義光に寝返り、義光の大宝寺攻略の手引きをし、その功で鮭延に復帰し、以後は最上の家臣となる。 その後最上家中で重臣となった秀綱は、長谷堂合戦などでも活躍し、関ヶ原後は真室城主となり1万1千石を領する。元和8年(1622年)の最上家改易により秀綱は土井利勝に預けられ、のち許されて土井家の家臣となった。 
志村氏
志村氏の出自はよく分かっていないが、義光時代の志村光安は先手の侍大将として数々の武功を上げ、関ヶ原戦の頃には1万石を領し長谷堂城主となっていた。 これより前に谷地の白鳥長久が出羽守護を自称して、出羽の武将ではいち早く信長に贈り物をしたことがあったが、それを聞いた義光は慌てて信長のもとに進物を贈り、出羽守護家は最上である旨説明した。その時義光の名代として信長のもとに行ったのが、志村光安である。 さらにその白鳥長久を義光はのちに謀略により篭絡し、山形城に誘い入れて暗殺するが、そのときの指揮をとったのも光安であり、義光の信任が厚かったのがわかる。 関ヶ原戦の裏で行われた長谷堂合戦では、長谷堂城は上杉の属将直江兼続の猛攻にあうが、よく守り義光勝利のきっかけを作った。 戦後庄内東禅寺(酒田)城主となり3万石を給されるが、慶長16年(1611年)光安は没し、嫡子光清が継ぐ。しかし一栗兵部大輔の反乱に巻き込まれて死去した。 
楯岡氏
楯岡氏は最上宗家四代満家の弟満国が楯岡城を与えられたことで始まる、最上氏の一族である。このころの最上氏は典型的な惣領制の世界で、一族を盛んに領内各地に分封していた。 楯岡氏を有名にしたのは義光時代の満茂の存在である。満茂は仙北の小野寺氏と最上氏の対立の中で、義光嫡子の義康とともに対小野寺作戦の首脳として活躍する。このころ当主義光は庄内方面の作戦に忙殺されていたので、満茂の活躍はありがたい限りであった。 結局小野寺氏は最上氏と抗争したものの最上領には踏み込むことは出来ず、関ヶ原での対応を誤り滅亡してしまう。関ヶ原で新たに由利郡を得た義光は満茂に由利郡4万石を与えた。満茂は本荘を拠点とし以後本荘氏を名乗る。 また、郡内の要地矢島には満茂の弟満広を入れて治めた。 最上氏改易後は満茂・満広とも酒井雅楽頭に預けられ、その後許されて本多氏の家臣となったといわれている。 なお、楯岡氏が本荘に移ったあと、義光の弟義久が楯岡に入り楯岡氏を名乗る。最上氏改易の直接のきっかけとなるお家騒動の渦中の人物光直がその人である。 光直(義久)は、義光の跡の家督を継いだ家親を毒殺した人物の一人として名指しされ、幕府に訴訟を起こされた。幕府の取調べを受けたが訴訟自体は証拠がなく無罪となったが、反家親派の中心人物の一人であったことは間違いないようだ。 
新関氏
新関氏は因幡守久正が関ヶ原後に6千5百石、騎馬百騎、足軽二百を預けられて鶴岡城代となった。鶴岡城は義光が隠居城と考えていたらしく、義光直轄領で新関氏はあくまで城代であった。 久正は鶴岡に入ると川筋を変えて水利の便を図る大事業に着手するが、中途で最上氏が改易となり事業は中止となった。その後、元禄2年(1689年)に庄内藩酒井家の手で同事業は復活、川筋の堰に因幡堰の名を残した。 新関久正が鶴岡城代を勤めていた慶長19年(1614年)義光の死去直後に一栗兵部大輔の反乱にあう。義光の後嗣家親にあくまで反対する一栗兵部大輔が、鶴岡城を襲い久正の客として来ていた、酒田城主の志村光清と大山城主の下秀実を討ったのだ。 一栗兵部大輔一統も久正の家臣に討たれたが、これがのちの最上氏改易に繋がることになる。 
野辺沢氏
野辺沢氏は延沢城を本拠とする最上八楯の一で、領内に延沢銀山があったために資金力は豊富であり、義光時代の当主満延は武勇にすぐれていた。 義光が最上八楯の盟主天童氏を攻撃しだすと、ほかの八楯の当主同様天童氏に与し、天童城に籠城し義光軍を悩ませる。刀は三尺三寸の三月丸と一尺七寸の行光、鎧通しは来国行の一尺五寸、青貝の鞍を置いた雲雀毛の馬といういでたちには義光勢は瞠目し、これに向かった義光勢の本間左馬助は一撃のもとに倒されたという。 天童城が落ちないのも、ひとえにこの満延がいるためといわれた。 義光は満延に対し、満延の嫡男康満に義光の娘松尾姫を嫁がせて、和睦を図る作戦にでる。満延はいくつかの条件を出し、その全てを義光が入れたことで両者は和睦、これが最上八楯の分裂を招き、天童城は義光に降る。 満延の跡を継いだ康満は、家親時代に家親に命ぜられてその弟(義光三男)光氏の討伐を命じた。これは一栗兵部大輔ら家臣の一部が家親の襲封に反対し、光氏を当主に担ぎ出そうとの謀があったためであった。 最上家改易により肥後熊本の加藤家に預けられてる。 
山野辺氏
義光の四男であり山野辺城主となって山野辺氏を名乗る。2万石で、初名は光茂といった。 家親の急死後に最上家は家臣間の内紛が置き、重臣の楯岡光直や鮭延越前はこの山野辺義忠を当主に据えようと画策する。それが楯岡、鮭延、山野辺らの家親毒殺説となって、ついに幕府の裁くところとなるのであるが、当主に待望されるだけあって、義忠はかなりの人物であったらしい。 家親の跡を継いだ義俊は柔弱で、体も弱かったらしいので重臣たちの期待は義忠に集まったのだろう。 最上氏改易後は水戸徳川家に仕え、家老職になった。水戸家の重臣山野辺氏は、義忠から出ているのである。
 
最上義光5

テレビ・ドラマ「独眼龍政宗」において、最上義光は、悪役、敵役ともいうべき揖な立場に立たされている。私利と策謀の権化のように行動させられている。血も涙もない冷血動物のように描かれている。それだけでなく、毒を持ったさそりのようにさえ描写されている。
義光には、たしかにそういった一面があったかもしれない。いま私の手元にある安政四年写の「義光物語最上記」の第二話「城取十郎死之事」を見ると、次のようなことが書かれていて、その事が裏書きされているように見える。
〔現代話訳〕出羽国谷地という処に、城取十郎(ふつうは白鳥十郎と書く)という大名がおりました。義光を討とうと思い、京の信長公へ鷹一居(すえ)、馬一疋(ぴき)を贈り、「最上の領主にて候」と偽りを申し立てましたが、信長公も遠国のことなので、ご存知なく、その旨のご返事(江戸時代の「お墨付」)を下さいました。この事を義光公が聞いて、志村九郎兵衛を使者として、最上の系図と耳白の鷹(「府白の鷹」「白府の鷹」とある本もあり、その方が正しいと思われる)一居を贈ろうと思い、国の乱れた折なので越後廻りで上京させました。そしてご機嫌を伺って上申しましたところ、遠国からの使者ということで召し出されました。その上で最上家代々の系図をつぶさに検討されて、「最上出羽守」のご返事(お墨付)を下さいました。
そこで義光は、何としても十郎を討ち取ろうと思い、臣下の氏家尾張守と評定し、尾張守から十郎殿へ書状を送らせました。その書状には、「近隣が不和なので通行も自由にできず、人々が困窮しております。それにつけても義光は、其方と和睦したい考えでおりますので、ご同意ならば今後たがいに異心を抱かないように、十郎殿ご息女を義光の嫡子修理太夫にめ合わせ申したい」旨をいろいろ取りつくろって書いてやりました。
十郎殿もそこで、つくづくと思案をし、義光の武勇の誉れを聞くに、なかなかいつまでも敵対関係にあることもかなうまい。この上は、尾張守が和親の提示をしてきたのを幸いに、義光と和睦し、その加勢を受けて近里を手に入れ勢いが強大になったら、その時はその時でいかような謀も可能であろうと熟慮し、義光と和睦したい旨を返事しました。
それからたがいに使者の行き来がありましたが、十郎殿はまだ用心深くて、山形城へ来ることはありませんでした。それでまた尾張守と相談をし、義光公から使者を出して、次のように言わせました。「このごろは、私も病気が重くなり、先行きのことが心配でなりません。どうか十郎殿に対面をし、国の掟を頼み、また修理太夫が幼年の間は、家の系図も預かってもらいたい」と。そんなふうに言ってやりましたところ、十郎は、願ってもない幸いと悦んで、「そのうち間もなく参会致しましょう」という返事をよこしました。そこでいろいろの謀を構え、その日を待っておりました。
そして十郎は、時日を移さず山形へやって来て様子を見ると、「屋形の御気色」(義光のご病気)が、殊のほか重いといって、家の子郎党残らず前後に並んでおりました。書院では成就院が護摩の壇をかざり、熱心にご祈祷をしておりました.御座所の次の間にはご一門の者が詰めておりました。そのほか、医師、陰陽師があまた出入りし、誠にご病気が重大のように見えました。
十郎も、日ごろは用心深かったが、その有様を見て哀れをもよおし涙ぐんでいました。最上の家臣が「御寝所へお早く」と申しましたところ、義光公も言葉をかけて、「ここへここへ」と枕元近く寄らせました。十郎は「このような病気とは知りませず、不本意にも遅参してしまいました.この上はどんな事でもお心やすく仰せつけて下さい」と謹んで申されました。その時、義光公は超き直り、「最初の対面を満足におもいます。それにつけても私が亡くなったら、きっと他国から侵略を受けるでしょう。そうなった場合は、万事その方を頼みにしています。また代々の系図も、修理太夫が成人するまでは、預け置きます」と言って、一巻の書を差し出しました。十郎殿は、それを受け取り、三度頂戴し、これで出羽の主はこの我であると、言葉には出さないが色に現れて見えました。
そうしているところを、義光公は座り直すような風をして、床の下に隠しておいた太刀を取り、抜打ちに切りつけたので、さしもの十郎も二つになって仆(たお)れ伏しました。(以下略)
これを見ると、まことに卑怯な騙(だま)し討ちといった気がするが、しかし義光物語の記述は、十郎びいきに書かれている面がないでもない。そして不幸なことにこの義光物語が広く流布して、義光びいきに書かれだ書は、あまり流布しなかったようである。それにこの時の血で赤く染まったという”血染めの桜”と移する桜樹を、後続の大名たちはわざわざ城内に残して、義光の悪宣伝の材料にしたようなふしもあって、義光のイメージはますます残忍なものになっていったような気がするのである。
義光びいき
義光びいきに書かれた物語の一つに「最上物語」(六冊)がある。これはあまり流布しなかったらしく、翻刻もされていないようであるが、それには白鳥十郎という人物は、たいへん悪い人間であったと青かれている。
同国村山都谷地と申(す)郷に、白鳥十郎光清とて、弓矢とつての達人あり。然るに光清、元来放蕩無類にして、おのれが武勇に高慢し、領分の民をしゐたげ、他のなげきをかヘリミず。類は友を集(む)るならひなれば、附(き)したがふ郎等に、荒木隼人之助、岩波平栽、獅子ヶ洞大蔵坊、斉隠霜太郎などとて、勇力無双の悪従ども、白鳥十郎の四天王として威を近所に振ひける。
と、「放蕩無類」な人物であったと記されている。だから斬られても仕方がなかったのだという風に、もっていくわけである。
この書には、信長から義光へ伝達された「お墨付」の文面も、次のごとく記きれている。
白鳥十郎以偽謀欺人晁不悦
不移時日可令追誅もの也
右大臣信長 判
最上義光殿江
これは、
白鳥十郎、偽謀ヲ以テ人ヲ欺クハ、晁(晃の誤字か)ラカニ悦(よろこ)バシカラズ。時日ヲ移サズ、追誅セシム可キモノ也。
と読むべきものかもしれないが、これによって義光のとった行為を合理化しようとしているわけである。
また「最上盛衰記」(三冊)という写本もあって、これも流布はしなかったようであるが、義光びいきの書物である。この書に谷地事件は、
一其比、山形より六里北の方、谷地と云所の城主に、白鳥十郎藤原長尚又長久とて、貪欲無道の城主なり。然るに長尚思ひけるハ、今国中の諸士、義光が威光に恐れ、彼に随ふ者多し。何共なれ、長尚に於てハ思ひもよらず。いかにもして義光を亡し、山形を押領せんとはかり、其頃天下の武将織田信長公に使者を以て、青鷹一居、駿馬一疋を献じて、某ハ出羽の按察使斯波兼頼より以来、代々最上の主たる由、言上す。
と書き出されている。やはり十郎を「貪欲無道の城主」と罵っている。そしてその十郎が抜け駆けの功名をねらって、信長からお墨什を貰ったのに対し、義光も、白府の鷹一聯月山鍛の鎗百筋駿馬三疋と、最上家の系図を願って、お墨付を拝領したことを記している。
この信長への進上物に限っていえば、「義光物語」や「最上物語」よりも、「最上盛衰記bの記述が、事実に近いと思われる。義光物語では鷹一居と系図だけ、最上物語では「鷹の羽一箱」と家系を示す「御教書」だけ贈ったことになっているが、それでは十郎の贈り物に及ばない。後から頼む者としては、前者以上の贈り物をするのが常識と考えられるからである。
ところで、この白鳥十郎事件だが、最上義光の謀略と言われてきているが、はたしてそうだろうか。城主の義光がこのような策略を思いつき、家臣に命令しても、秘密が守れただろうか。遠い所ならともかく、わずか六里しか離れていない谷地に、それが洩れずに済んだだろうか。そのようなことを考えると、この事件の演出家は、義光本人ではないように思われてくる。そこで浮かぴ出てくる人物が、氏家尾張守である。
義光は、元亀元(一五七〇)年ごろ、家督問題で父義守と対立したが、その時諌言をもって和解させたのも氏家尾張守であった。この人物は、伊達家の片倉小十郎、上杉家の直江兼続はど存在が派手ではないが、最上家にとってきわめて重要な存在であったように思われる。彼が白鳥十郎の謀殺を思いつき、その筋書きに添って義光が実演したまでではなかっただろうか。それゆえにこそ、この大謀略が洩れずに実現できたのではなかっただろうか。
それだけでなく、それ以後の義光の度重なる合戦も治政も、秀吉対策も、家康対策も、この人物が発案し構想したものではなかっただろうか。氏家尾張守の演出したものを、最上義光が演技する。そんな関係にあったのではないだろうか。そんな風にさえ思われる両者の緊密な間柄であったのである。そしてその関係があまりにべったりであったため、氏家個人は光彩を放つことがなかったのではないだろうか。氏家尾張守は、義光の最期を見とどけて、義光没の翌年、すなわち慶長二十(一六一五)年に亡くなった.彼の生きている間中、最上家は安泰であった.しかし逝去後間もなく、最上家ががたがたにゆらいでいくことは周知のごとくである。その氏家家も、最上改易により萩に移るが、氏家尾張守の位牌は、白岩の軽部家に保存されている.そしてその位牌の底には「大先祖」と書かれていて、軽部家の先祖も氏家を名のった由であるが、どうして大先祖の位粋が白岩にあるのかは、まだわかつていない。
駒姫の悲劇
「最上物音」(山形県立図書館蔵・写本)の巻六に、「義光公息女京都にて被レ害給ふ事」という項目がある。義光の娘の駒姫が、京の三条河原で生害を受ける場面を措いたものである。戦国の世においても、稀れに見る惨劇といってよい駒姫たちの最後を、詳細に報じたものは少ない。「義光物語」巻下の「従二上杉景勝公一使者之事」の条にも、駒姫の死について触れてはいるが、簡単である。また三条河原を六条河原としてあつて、正確でない。
テレビ・ドラマ「独眼竜政宗」において、ドラマチックに改変されて報ぜられている於伊満(おいま)の方こと駒姫について、関心が集まっているだけに、事実はどうであったかを、知りたいものだと思う。
「最上物語」の記述に誤りがないかどうかはわからないが、詳しさにおいて他書より勝るように思う。それでこの条の全文を現代語に直して紹介してみたいと思う。
〔現代語訳〕義光公が、豊臣家に恨みがあることは、それだけのわけがあることであります。そのわけというのは、義光公に一人の息女がおりました。まことに美しい息女で、義光公の可愛がりょうはこの上もないものでしたが、十五歳におなりの年に、関白秀次公がしきりにご所望になりましたので、是非なく、上方へ送り遣わされました.ところが間もなく、秀次公がご勘気をこうむり、太閤のお怒りが強く、ついに紀州の高野山でご切腹なされました。そして秀次公の妾三十六人をもことごとく三条河原で殺害してしまいました。義光公のご息女も、その中の一人でしたが、折ふし、義光公もご在京中でしたので、ひとかたならず悲しみなさって、秀吉公へいろいろと詫言(わびごと)を申しあげましたが、お許しが出ませんでした。それで家臣の満山筑後守を呼んで、「明日、秀次公の妾三十六人が、河原で殺されるということだが、わが娘もその中の一人であると聞いている。だから其方は、雑人に紛れこんで余所ながら、姫の最期の有様を見届けて、おれに弄って聞かせてくれ」と、涙とともにおっしゃいました.筑後守は「委細かしこまりました」と返事してご前をしりぞき、日ごろ親しい者たちに向かって、「明日は大事な役目の使者に参ります。おのおの方もご承知のように、それがしの子どもたちは未だ幼少なものばかりですので、万事お力添えくださるよう頼みます」と申しました。するとみんなは、不審をいだいて、「それほど大事なお使いとは、いったいどんなことですか」と尋ねますと、筑後守「それほど隠さなければならないことでもないので申しましょう。明日は、姫君が不慮のご災禍に逢わせられますので、ご最期のありさまを見届けるようにとの仰せでございます。それだからとて、三代相恩の主君の姫君を雑人ばらの手に懸けさせて、何と報告の仕様がございましょうか。時分を見合わせ走り出て、姫の御首を打ち参らせ、その後で腹を十文字に掻き切って果てるつもりです。そして三途の川のお供を仕ることに覚悟を決めました。だから、あとあとのことどもをお頼みするのです」と語りました。その言葉を聞いた人たちは、みなもっともと感じながらも筑後守に申しました。「主君としましても、姫君のご最期の模様を、くわしくお聞きになりたいとお考えになって、功績の大きい貴殿を遣わされるのです。それなのに最のご心底をも顧りみないで、そのように事を運ばれようとする心底は、詮ないことに一命を捨て、人々のあざけりを招くでしょう。よくよくご思案ください」ととどめましたが、浦山は頑として承引しませんでした。そして「仰せ言はそうでも、私がそのようにすることに決心したのです」と言って止まる様子がありませんでした。
それで朋友たちは、やむなく義光公に申し上げましたところ、義光公「なるはど、浦山筑後のいつていることももっともである。このような忠義の持を犬死にさせる結果を招くことは、考えもしなかったことだ。様子を見るだけなのだから、だれでもさしつかえあるまい」と言われて、代りに小ざかしい下部ニ人を遣わされました。
このようにして、この両名は、始終を見とどけて立ち帰り、姫のご最期の模様をくわしく言上いたしましたが、それを聞いた義光公は、、三、四か日間は食事も召されませんでした。眼を怒らし、牙を噛んで、「無念なり」とだけ言われたとかいうことです。
〔評〕駒姫の上格を、本書では十五歳の時とし、専称寺の縁起にもそうなっている。しかしテレビ・ドラマでは、十一歳の時に見初められ、十三歳で上落して秀次の侍妾になり、十五歳で殺害されたことになっている。於伊萬の方として二年間ほど秀次の寵愛を受けたことになっているのである。しかしテレビ・ドラマの原本である山岡荘八著「伊達政宗Jには、「義光の方にも秀吉はとにかく、関白秀次に乞われて、止むなく京へ呼んだ娘の於伊万を、秀次の顔も見ないままに三条河原で処刑された怨みがある」(夢は醍醐の巻)と記して相違する。
一方、郷土史家誉田慶恩氏の「奥羽の農将−最上義光」の年表では、天正十九(一五九一)年十月に「義光駒姫を豊臣秀次の侍妾に出し、二男家親を家康のもとに送る」とあり、文録四(一五九五)年八月二日に「聚楽第事件により駒姫ら豊臣秀次の妻妾、二条河原で惨殺される」と記して相違している。
続駒姫の悲劇
駒姫の経歴についても、書によって大きなくい違いがあることがわかったが、私はここでそのどれが正しいかを立証するつもりはない。ただ、秀次の妻妾らの処刑がどのように行なわれたかを知り、駒姫悲劇について地元の人の関心をかき立て得るならば足りると考えている。そんな意味からも、「最上物語」の前回につづく全文の現代語訳を掲げることにしよう。
〔現代語訳〕さて、秀次公が御父の太閤と不仲になった原因をさぐってみると、秀吉公は、下賎から身をおこして、官は関白にいたり、位は従一位に上り、人間の栄華の頂点をきわめました。それで戦を辞して子息(養子)秀次公へ関白を譲り、ご自分は憶居して太閤と号せられました。ところがその後、淀殿のお腹に秀頼公がご誕生なされました。それで秀吉公も親子の愛情のことだから、実の子に家督を継がせたいと思うようになりました。しかしそうするのは、義理の筋目に反することになるので、お考え通りに仰せつけるわけにもいかずにいました。そういう事情を、秀次公も内々に魂れ聞きなさって、それでは自分の身がどの面からも安穏(あんのん)ではあるまいとお考えになり、いささかのご過失もないよう心掛けていました。しかし侫人(ねいじん)どもは、いろいろと過失を作り出して讒言(ざんげん)し、御父子の間を縁切りにまで追い込みましたので、秀次公はご勘気をこうむって、高野山で切腹を仰せ付けられたのでした。
この秀次公は、殊のほか好色で、たくさんの妾がいました。遠国偏土の果てまでもお探しになって、美目、容姿の優れた女人を、大小名、寺社、百姓の差別なく召し集められました。そのようにして選びぬかれた美人が三十余人いましたが、この女人たちは玉のすだれ、錦の帳(とぼり)のなかに、金銀をちりばめ、色を尽くした重ねの衣を身にまとい、月に吟じ、花に詠じ、栄華をほこって暮らし、日の光(かげ)さえ見ないといったありさまでした。しかし一盛一衰の時がめぐってきたというのでしょうか、汚い破れ車に、五人、三人と乗せられてゆくのは、なんともいたわしいことだとて、勇猛な武士から賎(しず)の身にいたるまで、涙を流さない人はいませんでした。
ところで、秀次公には五人の子どもがおりました。第一は姫君です。第二は仙千代丸、五歳で、母は尾張の住人、白根野下野守の娘の腹です(注・「娘の腹」というと、孫になってしまうが、ここはその娘から仙千代丸が生まれたことをいう)。第三は於百丸、四歳で、山口松雲の娘の腹です。第四番は、御浅智丸、同じく四歳、第五番は於十丸、三歳で、北野別当松梅院の娘の腹でした。この人々(注・子どもだけでなく、母たちも含めていっている)は、わけてもご寵愛が深くありましたので、ことごとくお髪(ぐし)を落としなさって、日ごろ信心の寺々へ遣わし、またせ高野山へ上らせられた人もいたとかいうことです。
三十六人の女中方は、上京、下京を引きまわされ、一条、二条を引き下らされて、羊の群のように三条の橋へと近づき移されてゆきましたが、その光景は、いたわしいなどと言っても余りがありました。
検視は、石田治部少帝三成、増田右衝門尉長盛でした。三条大橋から西の土手のかたわらに、敷華を敷いて並んでいました。お車の列が近づいてきたので、まず「若君たちを害し奉れ」と下知しました。雑色(ぞうしき)、若殿ばらがそれを承って、玉のような若君たちをお車から抱きおろしなさって、父の首を見せましたところ、仙千代君はしばらくご覧になって、「これはどうしてなんとなられたのですか」と言って、つと走り寄ろうとしましたので、母上たちは言うまでもなく、貴賎の見物衆、守護の武士、太刀取りにいたるまで、涙にくれて前後を弁えないありさまでした。長盈と三成は、声をあげて、「見苦しいぞ。方々、早々に手を下しなされ」と下知しましたので、心弱くては叶うまいと、太刀取りはうしろに廻って、胸元を一刀のもとにさし通しました。母上たちは、人目を忘れ、「われわれをどうして先に殺さないのですか」と言って、空しいご死骸に抱きついて伏しまろびました。そのありさまは、焼野の雉子(きぎす)が身を捨てて煙にむせぶさまにことなりませんでした。一刻も遅れまいと、ご最期を急がれたのは、本当に哀れでした。
御妾たち都合三十六人をも、ことごとく殺し、大きな穴を一つ掘って、その中へご死骸をつぎつぎと投げ入れました。そしてその上に塚を築いて、畜生塚と名づけたということです。
罪のあるものを誅するのは、世の常のことですが、こうまで情けなくいたわしいことがあってよいものでしょうか。秀次公をこそ、憎いとお思いになっても、この人々は、その罪を露ほども関知しなかったのではないでしょうか。「評するに孥せず」(注・「孥」は妻のこと)という聖言もあるではありませんか。たとえ一命は助け給わらなくとも、死後まで恥辱を与えられることのいたわしさよと、心あるものは秀吉公の行く末はどんなだろうと、舌を振りましたとかいうことです。
義光公は、このような心憂いことをお聞きになって、お悲しみの余り、帰国の後、山形近在の高(たかだま)という処にあった専称寺という寺を山形に移し、寺地を下されて同じ専称寺という名で、姫君の御跡を弔らわせられたとかいうことです。一説に、義光公が御朱印を下せられようとする話が伝えられましたが、住職何某の望みで、それより最上中の一向宗の支配権がほしいと言い、それならばその意向にまかせようということで御朱印は下さらなかったという。また十四石の御朱印で、その経、今出川家から住職の衣を下されたともいいます。可レ考。
駒姫の墓
昭和十五年の秋ごろであっただろうか。山形高等学校の学寮(山大数養部のところにあった)の一室で、”山形市のどまん中にジャングルがある”という話を聞いた。二年先輩で、柔道部の主将をしていたHさんの話であった。Hさんはまじめな人で、けっしてでたらめをいう人ではなかった.だがその時はわれわれ後輩数人も半信半疑で聞いた。「いやァ、驚いたネ、そこに紛(まぎ)れこんだ時は、信じられないという感じで、首筋のあたりが寒くなったョ。そこは、とにかくジャングルという以外に表現できないような場所だったョ」とHさんはつづけた。緊張で顔がひきつっているように見受けられた。
Hさんは、そこがどこかということまではなかなか言わなかった。われわれの執拗な質問がつづき、「それは、専称寺の奥だよ。夕暮れ近く、たまたま紛れ込んでね」という答えを得るのに、かなりの時間がかかった。
今にして思えば、Hさんの紛れ込んだのは、専林寺の駒姫の墓域であっただろうと思う。そこは、中塀で区切られ、門扉が鎖(とざ)してあって、俗人の入りこめない場所である。たまたまそこの桟(?さん)が外れていて、Hさんが潜入することができたものであったろう。
その時から四十七年が経つ。そしてHさん以外に、その墓域に足をふみ入れた人の話を聞いたことがない。寺側は、おそらくそこを聖域として、俗人に汚されないように守ってきているのだと、最近では思うようになった。
「駒姫の墓は、草ぼうぼうで、とても参詣していただくような状態にありません。そのうち、綺麗に整備でもして、皆さんにお詣りしていただきたいとは考えているのですが」 と、寺ではいう。何千回、何万回もくり返してきた科白だと思う。いや、おそらくは三百年の間くり返してきた断わりの文言だとも思う。
わずか十五歳で処刑された駒姫の菩提を弔うために、最上義光は大伽藍専称寺を建てた。先祖や親を弔うためではなく、一女子のためにである。そして庫裡の一部に駒姫の間をしつらえ、広い境内の約三分の一をその墓域に充てた。駒姫の墓−−髪塚ともいう−−は、中塀内の一番奥まった処にあるというが、それは遺髪を埋葬した場所がそこだというにすぎない。巨大な前方後円墳も、棺のある場所は一部にすぎないが、全体が墓である。と同様に、駒姫の墓も約千坪の塀内全部が墓域だと見るべきものかもしれない。
幼少の身で、関白秀次に召された駒姫は、充分に遊ぶ間もなく、自然に親しむ暇もなく果てた。短期間でもそこに暮らしたであろう聚楽第の局も、窮屈な場所であっただろう。山形の専称寺では、そんな窮屈な思いはさせたくない。自然を友として自由に遊び廻り、遊び疲れたら、駒姫の間にきて休む。そのようにして永遠に生かしつづけたい−−そのような欲念を義光が抱いたのではなかっただろうか。
そしてそういう義光の願望を、専称寺の代々の住職は、見事に引きつぎ果たしつつ今日に至っているのではないだろうか。ジャングルのように、そこを放置してあるのも、けっして寺の貧困のゆえではなく、ことさら荒らしているわけでもない。自然の趣を保たせてあるだけだ、と解すれば納得ができる。
独眼尭政宗のブームで、義光も悪役的存在で登場し、駒姫の間は、テレビの画面に映し出された。これは寺の歴史にとって、画期的なことであった。というのは、駒姫の間(二条城の局を摸した、山形城のそれを移したものだという)も俗人には頼みこませない聖域の一部であったからである。しかし墓の方は、NHKも写し出さなかった。写そうと思えば写せたのかどうか知らないが、とにかくテレビ画面には現われずに終った。寺側では、さぞやほっとしたことであっただろう。
政宗ブームのあおりを食いそうになる前にも、寺側を深刻に悩ませたもう一つの事件があった。しかもそれは二、三年間もつづいた.椋(むく)鳥の大群の襲来であった。この墓域には、欅(けやき)を主とする多くの古木が亭々とそびえ、椋鳥には格好の棲み家となった。冬期間はとくに、数万羽の椋鳥が鈴生りになって、濁声(だみごえ)の大合唱を奏でた。”夜もろくろく眠られない”という怨嗟(えんさ)の声が、付近の住人たちからも起こったのも無理からぬものがあった。聖域の保持は、まさに最大の危機に直面したのであった。
しかしそれも、大目玉の風船を吊り上げたりすることで、撃退に成功した。昨冬は、椋鳥の大群の飛来はなく、一応胸をなでおろすことができた。したがって周辺住民の苦情も消えた。
私はこんな文をつづって、ことさら専称寺の秘密をあぼこうなどとは毛頭考えていない。寺側の意向の大半は、私の想像であって、当たっていないかもしれないが、仮に当たっていても、それを非とするものではない。よくぞ聖域を守りつづけてきた、と賞賛したい気持で一杯である。そしてこれまで守りつづけてきたものであったら、これからも守りつづけてほしいと思うものである。そして山形市民も、寛容の心をもってそのことを理解してほしいと思うものである。
テレビドラマの義光は、残忍で野卑で冷血動物のような部将として映し出された。人間らしさを感じる場面はなかった。しかし実像の義光は、どの部将にも及ばないほど父性愛に溢れた人物ではなかっただろうか。
 
最上義光6

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国の戦国大名・最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大名に成長させて全盛期を築き上げた。
1546年1月1日、第19代当主・最上義守と母・小野少将との間に長男として生まれる。幼名は白寿。
1560年に元服し、将軍・足利義輝より偏諱を賜って、源五郎義光と名乗った。この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。
1563年、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁したが、その折に道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が近年再発見された。
1564年には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、1567年には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。
1570年、原因は未だ明確になっていないが、当主の義守と嫡男の義光父子の間で争いが生じる。この時は、5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解して、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌1571年に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。
しかし1574年1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。
9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。
以後、義守・義光父子は完全に和解し、再び争うことはなかった。従来、義守が義光を廃嫡して次男の中野義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている。
家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏分家の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久に至っては、最上氏の家職である羽州探題を自称し、中央の実力者織田信長に出羽守への推任を願い出る有様で、この時点ではまだ最上一郡の支配すらもおぼつかない状態であった。そのため義光はしばらくの間、家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。
1577年、義光は天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦を結んで頼貞の女を義光の側室に迎えた(天童御前)。
1578年、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。
義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込むと、敵陣に鉄砲隊で集団射撃を加え、連合軍に手痛い打撃を与えた。
浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。
1580年、義光は満兼の重臣・里見民部に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、上山城は義光の手に落ちた。
1581年早春、尾花沢で「馬揃え」を大々的に行う。これには村山郡だけではなく最上郡の国人衆も大挙して集った。
こうして最上の力を見せつけることで、戦わずして国人を支配下に置き、かつ敵味方の区別をつけた。この年から村山郡にも兵を進め、まずは天童氏の姻戚である小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略する。
1582年、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。
1583年、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃した。
1584年、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。
1586年、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。
1587年、大宝寺義氏の弟・義興が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・義勝(上杉家臣・本庄繁長の子)は越後に逃れた。
1588年2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して伊達軍を破ったが、妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。
8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が庄内に侵攻し、本庄繁長に十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は上杉氏に奪われた。その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。
1590年、豊臣秀吉の小田原の役に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けた。
この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に徳川家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった(小田原参陣前に義光が安東愛季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある)。また奥州仕置の際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡(上浦郡の一部)を削り取った。なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺を目論んでいたとされることがあるが、この説が正しいかは諸説ある。
1591年、徳川家康が九戸政実討伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。
この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。一方で秀吉とその側近たちとは波長が合わなかったようである。奥羽で撫で斬りも辞さない過酷な検地を行う秀吉に義光は不快感を抱き、一方で緩やかな検地を行う義光を秀吉側は相手と通じているのではないかと疑った。
1592年、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。また、この年より山形城の改築に取り組み始めた。
1594年、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。この計略にはまった義道は道為を成敗した。その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では西軍に味方し、戦後改易された。
1595年、豊臣秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際に、義光の娘の駒姫が京三条河原で15歳の若さで、事件に連座し処刑された。
一説ではこのとき駒姫は実質的な側室ではなかったという。義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事をとることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。義光は秀吉の不興を買い、さらに伊達政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。
これ以降、慶長の大地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康の護衛を自発的にする等、徳川方への傾斜をますます強めていく。
1598年、会津若松城主・蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封されると(蒲生騒動)、会津には上杉景勝が奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために送り込まれた。景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。
1600年、家康は会津の上杉景勝が軍備を増強していることを詰問する。上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。
しかし、家康が会津征伐に赴いている最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵する。家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じ上方に引き返した。これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。
義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。しかし、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。上杉景勝は直江兼続に2万-2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。これに対抗する最上軍は7千余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく三千余)でしかなかったが、上杉軍に対して最上義光は2千挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。
わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1千名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。
続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1千名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。他にも上山城・里見民部、湯沢城・楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた(慶長出羽合戦)。
義光は嫡子・義康を派遣し、甥・伊達政宗に援軍を要請した。この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた。政宗は留守政景率いる約3千の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。
一説によれば、政宗は重臣片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。
9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。
上杉軍が退却し、和平交渉へ向けて動いている間に最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、尾浦城主下秀久も降伏した。
こうして短期間のうちに上杉領の庄内地方・由利郡を奪取し、勢いに乗り小野寺氏の横手城攻略にまで成功した。
義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などを加えられ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。
また、秋田実季が東軍を裏切ったとして訴え、移封させた。江戸幕府成立以降、義光は領内の復興に尽力した。
義光は自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役をばかけぬ」と謳われた。義光は居城である山形城を改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。まず、商人町を整備するため、山形城下においては地子銭・年貢を免除し、間口四間半から五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。
さらに上杉から奪い返した日本海の要津・酒田港を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる二本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。また職人町は「御免町」として諸役が免除され、職人の中には家臣並の待遇を受けた者も居た。当時の町数は31、町屋敷は2,319軒で人口19,796人。これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。
農政面では、治水工事を積極的に推進し、北楯利長・新関久正らに命じ北楯大堰・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を大きく向上させた。最上時代に築かれたこれらの疏水は、今なお庄内平野を潤し続けている。また、紅花の栽培を奨励し、米穀管理のための「米券法」を制定した。
大宝寺城を改築して鶴ヶ岡城と改称し、自らの隠居所とした。義光と嫡男・義康は当初良好な関係であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。そんな中、1603年、(1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない。
家康は、義光が近侍させていた次男・最上家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。
この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。義康の死が最上家改易の遠因になったことは再三指摘されることではあるが、改易には二代目・家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。
城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく大変手厚いものであった。
1611年3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。
1613年、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。
明けて1614年1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。享年69。葬儀当日、寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。
義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。義光の死後、後を継いだ家親は1617年に急死した。このため、義光の孫・最上義俊が藩主となったが、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の1622年に改易となった(最上騒動)。
義俊の死後はさらに石高を1万石から5千石に減らされ、最上家は大名の座から消えたが、幕府の旗本の高家として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。また、四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えている。
テレビ時代劇「水戸黄門」に登場する国家老・山野辺兵庫は、山野辺義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。
義光は調略による敵陣営の切り崩しを得意とした。内応工作に応じる者が多かったのは、その度量の広さが知れ渡っていたことが大きい。例えば寒河江氏は義光に降った旧臣らの嘆願を受け再興を許されている。義光は常々「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。
義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。1574年の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。最上家には弓500張に対し2千丁余の鉄砲があった。
義光は力が強く武勇にも優れていた。幼少の頃から背が高く、5-6歳の時には既に12-3歳程度に見え、16の頃には7-8人がかりで動かしたた大石をやすやすと転がしたという。16歳のとき、父の供をして高湯温泉(現:蔵王温泉)へ湯治に行った際、鹿狩りのあと眠りについていたところ、盗賊数十人に襲われた。義光は先頭に立って防戦、二人に重傷を負わせ一人と組み合って刺殺、その際に顔に複数の傷を受けたという。
我が子の武勇を賞して父は名刀・笹切を授け、義光はこれを受け取ると感動して言葉もなく涙していたという(羽陽軍記、奥羽永慶軍記に記述あり)。
蔵王温泉には、家臣と力比べをしてただ一人で持ち上げたという「義光公の力石」が残されている。また、最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒は、重量およそ1.8kg(刀の約二倍)であり、義光が実戦で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったと想像できる。
家臣の制止を振り切った義光が単騎突撃を行い、敵の首を取って自陣に引き返してきたのを見た氏家守棟が涙ながらに「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか、御大将ならば軽々しい振る舞いは控えられよ」と諫めたため、義光は面目なさげに首を投げ捨てたという話が伝わっている。
義光には当時描かれた肖像画は伝わっていない。広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。
冷徹な印象が強い義光だが、家族を愛する面を示す逸話もある。最上伊達両家の抗争を止めよう駕籠で乗り付けた義姫に、幼い我が子が慕い戯れたのを見て号泣したという。義光は豪傑肌の人物を好むところがあった。
義光は、由利一族の大井五郎という剛力のものが横暴だとして、土地の者から討ち果たすよう頼まれた。義光は五郎を山形城に招いたが、5-6人前の食事を平らげる五郎の男ぶりにすっかり感心し、暗殺計画をすべて打ち明け褒美をとらせて帰らせたという。
鮭延秀綱の家臣・鳥海勘兵衛が、義光の正室付きの侍女・花輪に惚れ、隠れて文のやりとりを重ねるようになった。ある日落とした恋文よりこのことが発覚し、義光はこの二人に死罪を命じた。しかし義光は鮭延秀綱の諫言により罰することをとりやめ、花輪を勘兵衛の妻として賜った。勘兵衛はこれに感激し、慶長出羽合戦では鮭延秀綱をかばい討ち死にを遂げ、花輪も夫のあとを追い自害した。勘兵衛の遺書を目にした義光は、二人を罰しようとしたことを大いに恥じ涙を流し、丁重に夫妻を弔った。
日本三大植木市の一つとされる山形市の「薬師祭植木市」は、義光が大火で失われた緑を取り戻そうと住民に呼びかけたのがはじまりとされている。
山形城にある義光像は馬が二本脚で立つ大変珍しい形をしている。この造型は寄贈者である鈴木傳六(でん六創業者)たっての意向であり、大変難度の高い技術を用いているとのことである。
義光は「伊勢物語」等の古典文学に親しみ、家臣にも文学を熱心に奨励した。特に「源氏物語」に関しては、上洛中に乗阿の講義を受けて切紙(免状)を授与された。また、絵巻物・屏風・陶器等の美術品を蒐集し、乗阿・山本宗佐らを領内に招聘して(乗阿は1603年、光明寺の住職として招かれた。彼が領内に至ると義光自ら迎え、さらには置き場所に困るほど扶持米を届け乗阿を感激させた)山形城下に桃山文化を移入した。
義光が残した連歌の数は現存33巻・248句にのぼり、これは同時代諸侯の中では細川幽斎に次ぐ多さである。同席者も里村紹巴をはじめとする錚々たる顔ぶれであり、後陽成天皇から発句を賜ったこともあった。1592年2月には、京の連歌師たちの求めに応じて江口光清に発句を届けさせている。また、連歌の研究書「連歌新式注」一巻も執筆しており、義光を桃山連歌の主要作家と評する声もある。
「梅咲きて匂い外なる四方もなし」などは、義光の見事な句である。
和歌や手紙の文体・書体も秀でており、その文才は高く評価されている。妹・義姫との間でやりとりした手紙が現在も多数残されている。「さてもさても御ねんころに候て、一度御めにかかり、そら(虚)もまこと(実)もかたり申度候」といった文面からは、兄妹の仲の良さがよくわかる。長らく、義光はその名前から「よしみつ」、「よしてる」等と呼ばれていたが、彼が義姫に宛てた手紙に自らの名を平仮名で「よしあき」と書いていたことから、「よしあき」が正しい呼び名であることが明らかになった。名護屋滞在中に家臣に当てた書状の一節「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候(最上の)水を一杯のみたく候」は、彼の強い郷土愛をしのばせる。晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず、自筆で書状を記していることも注目される。
最上家は代々宗教の保護に取り組んでおり、義光もまた信仰心があつかった。愛用の指揮棒に「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻していたことからもそのことがよくわかる。1579年8月、義光は重病に罹っていたらしく湯殿山で祈願を行っている。義光は領土拡大と藩政確立に伴い、寺社の建立と保護を行った。
最上山専称寺、立石寺、羽黒山、義光山常念寺(嫡子義康の菩提寺)などは義光時代に建てられた寺である。山形一の伽藍を持つ専称寺は、非業の死を遂げた愛娘・駒姫と妻を供養するためのものだといわれ、山形城内から駒姫の居室が移築された。境内には義光が参拝するときに馬を繋いだという伝説のある「駒つなぎの桜」が残されている。
義光について、軍記物においてであるが、以下のような評価が存在し、英雄視されていたことが分かる。
「義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。近隣従ひつかずといふことなし」(「最上義光物語」) 「およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり。」(「会津四家合考」) 「武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ。」(「会津四家合考」) 「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ。」(「奥羽永慶軍記」)
また、「羽州の狐」、「奥羽の驍将」、「虎将」(官位・近衛少将の漢名である「虎賁郎将」からとった)と称されることがある。
しかし、死後に最上家が改易されたため最上家側の史料は乏しく、義光について書くとなると敵対した伊達家側の史料を引用することが多くなること、また、義光自身に調略を用いて敵を滅ぼした事蹟がたびたびあること、さらに検証不足の史料で誇張された様々な奸悪な挿話の印象から、現代の小説・時代劇などでは奸雄として描かれることが多い。近年では改善されつつある。

最上義守

最上義光という巨星の光茫に幻惑されて、その父義守の方はとかく目立ちにくいが、その生涯をながめると、さすがは名門大名最上家の主だという感じがする。
永正11年(1514)の春、突如攻め入った米沢伊達稙宗の軍勢に、最上連合軍は1000人以上の死者を出して惨敗、長谷堂城は占領下におかれる。
だが、どうしたわけか伊達側は、翌年、稙宗の妹を最上義定に嫁がせ、長谷堂城を返還して、和平が成立する。ところが、せっかく来たその夫人に子供ができないまま、義定が没してしまい、山形城はいっとき主がいない状態になったらしい。
そこに入ったのが、最上の一族である中野氏義清の次男、まだ幼かった義守である。
たぶん、すぐれた家臣の支えがあったのだろう、義守はその後50年余、歴代最も長期にわたって山形城主であり続ける。
まだ20歳前の天文3年(1534)には、山寺の日枝神社を再建するために、一族とともに協力した。同12年4月から8月にかけては、戦火に荒廃した山寺立石寺に、本山の比叡山延暦寺から法燈を移すために、義守の母が「大檀那」となるが、そのための費用や往復の警固はおそらく義守の配慮があったはずである。
20歳を過ぎてからは、義守の力量は一段と高まったらしい。
1540年前後に伊達領内に争乱が起こったときには(天文の乱)、これに介入して、いったんは置賜全域を制圧し、伊達の争いに睨みをきかせた。また、治安維持のために笹谷峠を越えて出兵もしている。堂々たる戦国大名としての動きである。
永禄6年(1563)、義守は18歳の義光をつれて京都に上り、第13代将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「六月十四日しばらくぶりに将軍足利義輝公の邸にうかがったら、ちょうど出羽国の御所(大名のうち特別な家柄のものをこう呼んだ)山形殿父子が来ておられた。父子は、将軍に馬と太刀を献上して御礼を申された。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、わたしもそこに参席させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。わたしも深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」(「山科言継卿記」)
義守・義光親子が京都に上って将軍に面会したときのことが、たまたま一貴族の日記に記録されていたわけである。
上京した義守は自分の地位や領地を将軍から認めてもらったらしい。当時は実力で獲得した領地も、天皇をバックとした将軍の承認がなければ正当なものとは認められなかったのである。
それにしても「御所」と書かれたり、将軍からこんなに丁重にもてなされたりしたのは、やはり最上家が将軍の親類筋にあたる別格の家柄と見られていたからだろう。
たぶんこのころと思われるが、娘(義姫)を伊達家の若殿、輝宗に嫁がせた。伊達家でも最上家の娘をもらって親戚になることは、都合がよかった。永禄10年(1567)に生まれた男児が、後にその名も高い「独眼竜」政宗である。
晩年は禅に帰依して仏門に入って栄林と号する。たぶん、嫡男義光に領主権を譲り渡したころかと思われるが、まだあいまいな所もないではない。表向きの政治からはいったん身を引いたと推測されるのだが、詳細は不明である。
その後なんらかの問題が起こって、一時期義光と厳しく対立する場面もあった。しかし、この対立は譜代の重臣氏家伊予守定直の諌言によってほどなく融和し、義光が完全に領主権を掌握することとなったようだ。
天正11年(1583)のころに、義守が大病をわずらって危篤状態におちいったことがある。そのとき彼は、義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえたという話が、「奥羽永慶軍記」にある。
「今自分が亡くなったなら、義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。これだけが心にかかることだ。最上と伊達がいくさをして、たとえ輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。逆に義光が戦いに勝ったところで、奥州を手に入れることはできないだろう。おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも、没落することはないはずだ。最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。
八日町浄光寺の伝えでは、日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ、これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。
義守はその後龍門寺に隠栖し、政治からは手を引いたが、天正18年(1590)5月17日(一説27日)に70歳の長寿を終えた。戒名は後龍門寺殿羽典栄林公。山形城の北、曹洞宗龍門寺が菩提寺である。
この寺におもしろい(?)文書がある。葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意されていたのである。元亀2年(1571)、秋彼岸の日付である。義守が亡くなる20年前のものだ。ひょっとしたらかれは生前葬を執り行ってから、龍門寺に入ったのかもしれない。
義光以前に、約50年間の山形城主として活躍した義守は、最上家繁栄の基礎固めをした傑物だったというべきだろう。
 
光姫

「お金万貫、米万石、それに美人の女房をお与えください。」
こんなぜいたくな願いを観音様からかなえてもらった男の話が「日本霊異記」という古い本にある。
33に姿を変えて人々の願いをかなえてくれるという信仰から、いわゆる「三十三観音」はスタートしたらしいが、最上札所の起こりについては、確実なことはわかっていない。
応永(1400年前後)のころ、最上頼宗に“光姫”という美しい姫君がいた。姫は自分のために二人の男が争って命を失ったのを悲しみ、乳母とともに尼となり、観音巡礼の旅に出た…これが「最上三十三観音」の始まりだという伝説がある。だが、これは史実ではないようだ。
江戸時代に「お札打ち」が盛んになってから、時代をさかのぼらせ、最上家の架空のお姫さま“光姫”が創作されたものらしい。
最上時代をなつかしむ山形の人々の心が、こうした伝説を生み出したのであろう。
札所の範囲は、南は上山から北は最上郡まで、天正末期(1590年ころ)から慶長初期(1600年ころ)の最上氏の領地とほぼ一致しており、33箇所がセットになったのは、およそその時代と考えていいのではあるまいか。
全国各地に成立した「三十三観音」のなかでも、最上札所は、鎌倉時代に近畿地方に成立した「西国」には及ばないものの、比較的早い時代にできたものとされており、「坂東」「秩父」と並んで、昔から多くの巡礼がおとずれたところだ。
慶長8年、最上義光は千手堂の観音さまに、年老いた母のために御詠歌の額を奉納した。
「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」
これにはなぜか「第一番」と書かれているが、順番はまたあとで変わったりしたこともあったのだろう。
現在は第1番は天童市の若松。ここからはじまって、打ちとめは33番の鮭川村庭月、これに番外として最上町の向町観音を加えて34箇所。
山ふところや丘のうえ、あるいは川のほとりや集落の木立のなかに、遠いむかしから人々の信仰を集めて、観音さまのお堂はひっそりと建っている。
中には山形地方を代表する古い建造物として、重要文化財に指定されているのもある。巡礼が貼りつけた無数のお札は、信仰の広さ篤さを物語る。お堂の中には、ご本尊の観音像がまつられ、板壁には絵馬や俳諧の額などがかかげられているのを見ることもできる。
ちなみに、山形市内には、山寺・千手堂・円応寺・唐松・平清水・岩波・六椹・松尾山長谷堂と、九箇所の札所があって、春や秋の良い季節になると、昔に変わらず「お札打ちさん」が訪れている。“光姫”は、千歳山の“あこや姫”とともに、山形のひとびとが作り上げた美しいロマンの一つといってよいだろう。
 
義姫

山形城主、最上義守の娘として、天文17年(1548)に生まれた。義光は2歳年上の兄。年齢の近い兄妹ということで、二人は仲が良かったらしく、後年の手紙などをみると、互いに心を打ち割って音信を取り交わしていたことがわかる。
父義守が、最上家を守り発展させてきた経過をもそれなりに見聞きしたせいであろうか。
世の平和を願う心は、人一倍強かったらしい。
たぶん1565〜6年のころに、米沢伊達家の若い当主・輝宗にとついだらしい。政略結婚といえば言えるかもしれないが、東北地方南部の名門最上家が、実力派大名の伊達家と縁組をするのは、戦乱を未然にふせぐためにも重要な方策であった。もちろん伊達家としてもありがたいことだった。米沢では館の東に住まいしたために「お東の方」と呼ばれ、自分でも手紙などには「ひがし」と署名した。
永禄10年(1567)に、男児を出生。これが梵天丸で、後の仙台藩主伊達政宗である。次子は小次郎。
米沢時代の伊達家の記録には「お東の方は、日ごろ時世の乱れを見ては、国が安らかに繁栄するよう心にかけておられた」とあるように、平和を求める気持ちの強い女性だった。
ところが非情の戦国、争乱は身近に頻繁に発生する。
天正2年(1572)には、実家最上家で、父・義守と兄・義光の争いがあり、夫・輝宗は義守方に味方して上山、楢下、狸森、畑谷などに兵を出した。戦闘は小規模なものだけだったが、それでも半年ほどごたごたと続いた。九月に乱は終息。
義姫がこの時何を考え何をしたかはわからないが、身内同士が戦いにうつつを抜かす状態には、ほとほと愛想を尽かしたのではなかったか。
結婚後20年ほどのちの天正13年(1585)、38歳で夫を失う。
しかも、夫の死は、息子が当の立役者になっていたのだ。輝宗が宿敵畠山義継に、拉致連行されようとしたとき、追跡した政宗軍の鉄砲隊の乱射によって、義継ともども、夫も死ぬ。息子の命令で夫が殺されたと知った義姫が、どれほど悔やしんだか、はかりしれない。「戦いは、もう、たくさん」というのが、彼女の偽らざる心情だったろう。
ところが、彼女の心を踏み付けにするような事態が、兄・義光と息子・政宗の間に発生したのである。
天正16年(1688)、政宗が大崎領を攻めたとき、義光は妻の実家であることもあって、こちらを援護した。「敵の味方は敵」である。政宗は伯父・義光に刃を向けてきた。
最上領・伊達領の境界、中山(現上山市南部)で、両軍がにらみあい、一触即発の状態にたちいたったとき、義姫が輿に乗って割り込んできた。両軍の間に仮住居をしつらえ、そこに起居して、兄と息子とに兵を引くように迫るのである。
この期間およそ80日に及んだことが、義光が書き残した数通の手紙で確認される。で、結局、この戦いは両方が手を引くことで決着する。
身を挺して戦いをやめさせた平和の女神、という比喩はともかく、戦国の世にありながら、戦いを憎み、和平実現のために自ら行動した女性として、大きく顕彰されてよい人物だろう。
ところが、この義姫については、悪いうわさが意図的につくられた形跡がある。次男小次郎を愛するあまり、長男政宗を毒殺しようとした。それに失敗して、実家である山形に逃げ帰った。冷酷、不届きな女性だ、云々。
だが、世に知られたこの話は、最近明らかにされた史料によって否定されている。それどころか、義光・政宗という大人物が二人とも、どういうわけか、義姫に対しては綿々と心を打ち明け、あるいは、すっかり頼りきっているような、そんな手紙さえ残っているのである。
政宗が朝鮮に渡って苦労をしているとき、ねんごろな手紙と黄金3枚を送ったことは有名な事実である。その時の義姫の手紙は残されていないが、政宗が書いた返事は、仙台にしっかりと残っている。手紙をもらった政宗の感激、喜び、異国で苦戦している様子、家来たちが死んでゆくつらさなどとともに、母親に一目あいたいという息子としての願いも、しみじみとうかがわれる手紙文の傑作だ。
義姫が、伊達の本拠地であった岩出山から山形にもどったのは、文禄3年の冬であった。
彼女が山形に帰って来た事情は、残念だがよくわからない。兄の配慮で、村木沢の悪戸や南館の館で暮らしたことは事実であろう。
慶長5年(1600)、上杉軍が最上領に侵入したとき、義光は9月15日に嫡男義康を走らせて伊達政宗に援軍を要請した。16日の返事はOKだったが、肝心の軍勢がなかなかこない。しびれを切らした義姫は、19日卯の刻(午前6時ごろ)、援軍の早い到着を求めて、みずから緊急の手紙をしたためる。かまわずに置けば山形が滅亡するかもしれない怱忙の間である。文字はなかなかの達筆。簡潔ながら文面には心情がほとばしっている。
「ここもとへ御越えのよし、御大儀、満足申し候。とてものことに一足も早く早く、御越え候べく…修理(義康)親子も待ち入り申し候、いそぎいそぎ、とくとく…」
幸いに、伊達の援軍は22日に山形に到着。月末に関が原で上杉家の加担した西軍が敗れた報せを受けて、上杉軍は撤退し、山形は助かる。男同士の表向きの折衝だけでなく、義姫の懸命な動きも、伊達側を動かしたことは確かだろう。
元和8年(1622)、最上家の没落を機に仙台にもどり、保春院にはいって、翌年76才の長寿を全うした。墓は北山覚範寺にある。
村木沢の旧家加藤家には、義姫の愛用品だったという優雅な横笛や迫力ある能面が秘蔵されており、彼女がまつった阿弥陀堂も近くにある。また南館の神明神社付近には、義姫居住時代の面影が、いまもかすかながら残っている。
 
伊達政宗

小説になり、ドラマになった仙台藩祖、独眼龍・伊達政宗。
ここで取り上げるまでもない超有名人だが、最上家との深いかかわりから見て、やはり抜かせない人物だ。
最上義光の妹、義姫の子、つまり伯父甥の関係になるわけだが、二人の交流となるとあまり知られていないようだ。しかし、さすがに血のつながった伯父と甥、こまやかな心の交流のあったことが、「奥羽永慶軍記」に書かれている。
十五歳の政宗が義光に和歌をおくった。
恋しさは秋ぞまされる千歳山の阿古耶の松に木隠れの月
これに対する義光の返し。
恋しくば訪ね来よかし千歳山阿古耶の松に木隠るる月
政宗は永禄10年(1567)8月3日、米沢で生まれた。伊達輝宗の嫡子である。湯殿権現の申し子であるとの伝説をまとった生誕で、幼名を梵天丸といった。幼いときに疱瘡を病んで片方の目が悪かったことは、よく知られている。
18歳で、家督をつぎ、伊達家17代の当主となる。
翌年、政宗は大内定綱を攻め、その属城小手森城を攻めて勝利を収めたとき、さっそく義光に戦果を報告した。
「敵兵はもちろん女子供まで千百余人を撫で斬りにした。このぶんなら関東まで攻め入って領分を広げることもたやすいこと」と、いかにも誇らしげだ。
「撫で斬り」とは、無差別の皆殺し。当時の世相の中で、全国的には必ずしもとしてはめずらしいことではないが、奥羽地方では今までになかった乱暴さだ。もっとも、このときは義光からも援軍が出ていたので、そのお礼を兼ねての戦勝報告だったらしい。
同じ年の10月には、父・輝宗が畠山義継に拉致されて連行されたとき、これを追跡し、敵将もろとも父をも銃撃して死なせてしまった。これまた乱暴なやりかただ。
曾祖父稙宗のころ(1500年代初期)から始まった領土拡大政策を受け継いで、政宗は南進して大内・石川・白川や会津の芦名などの諸大名を攻め立て、北に侵攻しては葛西や大崎を併呑しようとした。周辺の諸大名はこれを警戒して同盟してこれに対抗する。
南の方では、常陸の佐竹義宣が中心になった。北の方では最上義光が中心となった。いわば、危険な伊達から連帯して身を護ろうとしたわけである。
わが甥ながら、義光としては止むを得なかったに相違ない。
境を接する戦国大名同士、最上と伊達が競り合うのも仕方ないことだった。
義光の妻の実家大崎家に政宗の矛先が向けられたときには、義光は伊達との境界に布陣してこれを牽制する。あわや全面対決かと思われたところに義姫が割り込んで、和平にこぎつけたこともあった。
徳川家康は心配して、義光と政宗に「親類同士、仲良くしてくれ」と手紙をよこている。
天正17年に、有名な摺上原の合戦に打ち勝って会津の芦名氏を放逐した政宗は、奥羽南部の覇者となるが、翌年豊臣秀吉による小田原征伐に参戦して以後は、豊臣政権に従属することとなり、領土拡張戦はストップせざるをえなくなった。小田原参戦に先立って、政宗が弟小次郎を斬ったが、伊達家の内部には、なんらかの複雑な事情があって、そうせざるをえなかったのだろう。ただし、母義姫が政宗を毒殺しようとした云々の話は作り話であったことが、仙台市博物館長・佐藤憲一氏の研究から明らかになっている。
その後、奥州北部で九戸政実が乱を起こしたときには、蒲生氏郷とともに乱の鎮圧におもむいたが、政宗はあまり熱が入らなかった。氏郷は、政宗の動きに不信の念をあらわにする。
秀吉もまた政宗を警戒する。その結果、現福島県中央部、宮城県南部から本領だった米沢地方までも取り上げられ、岩出山に移転させられてしまう。
もはや勝手な動きができない情勢であることを知って、政宗は、中央政権の実力者と密接な関わりを持とうと努める。その一方、「奥羽の覇者・伊達政宗」を積極的にアッピールするようになる。派手なことの好きな秀吉は、だんだん政宗をひいきするようになる。
彼が朝鮮侵攻のために京都を出発するときには、軍兵の装束があまりにも奇抜で、見物の都びとたちが驚きの声をあげて見送ったそうである。朝鮮に渡ってからの働きも、上方大名衆からまけまいと懸命だった。その一方、悪戦苦闘のさなかに母親からねんごろな手紙と黄金三枚をおくられたときには、感激の涙あふれんばかりの返事を書いた。
帰国した政宗は、秀吉がもよおした吉野山の観桜会に参加を許されたが、これは28歳の青年大名政宗としては、異例破格の待遇だった。31歳で、右近衛少将。秀吉亡きあと、徳川家康の息子にわが娘五郎八姫を縁約。
慶長5年(1600)、関が原合戦の東北版とも言われる「慶長出羽合戦」で、上杉軍が最上領内に侵攻してきた時、最上義康が援軍を求めて政宗のもとに走る。政宗は援軍派遣を了承する。伊達政景のひきいる援軍が山形に来たのは、9月22日。不安にかられていた義光と最上の人々にとって、これは非常な喜びだった。
上杉軍が山形周辺から撤退した10月下旬、義光はみずから政宗の所におもむいて、したしく援軍派遣への礼を述べた。よほどありがたかったのだろう。
徳川家康は、この戦いの前に、政宗を味方につけるために有名な「百万石のお墨付」を出していたが、これは反古(ほご)にされた。政宗はその後何回かの加増で2万石を増されただけだったが、それでも62万石となり、義光は長年望んでいた庄内地方に秋田南部の由利郡をも与えられて、57万石の大名となった。伯父と甥、親戚同士の両家が、めでたく大大名として東北に相並ぶこととなったのである。
両家ともに、地域の産業振興や文化発展のためにさまざまな施策を行なう。
だが、残念ながら最上家は、わずか20年にして、内部分裂を理由に改易の憂き目にあう。義光の後を継いだ家親が36歳で急逝した後、山形藩主となった12歳の家信(義俊)は、家臣団をおさえきれなかったのである。
それに対して、政宗は一族家臣をしっかりと掌握した。一家、一族を中核とした家格制などで序列を明確にして混乱や分裂を未然にふせいだ。本拠地仙台には新たな城郭を築き、城下町の建設を進めた。のみならず、視野を世界に向けて、慶長18年(1613)には支倉常長をローマに派遣している。時代を先取りした斬新な企てであった。
最上改易(元和8・1622年)のとき、政宗は特別に編成した部隊を派遣して、山形にいた母お東の方・義姫を仙台に迎え入れた。時に政宗56歳、母は75歳だった。
政宗は60歳のとき、従三位中納言に叙任。将軍、秀忠や家光に対しても遠慮なくものを言えるという点では、彼が一番だったとも言われる。剛毅さにおいてすぐれた人物であったが、古典文芸の素養や和歌・漢詩、書にもすぐれた才能をもっていた。
「馬上少年過ぎ 世平らかにして白髪多し残躯天の許すところ 楽しまずんば是いかん」
「馬上で戦場をかけまわった若い時代、今や世は泰平、わが身は白髪、老いた身体は天命のまま、楽しまずして、何としようぞ。」
晩年、生涯を振り返って詠じた漢詩である。寛永13年5月24日没。70歳だった。
 
義光の妻たち1 / 大崎夫人

「矢が飛ぶのは弓の力、雲が走るのは龍の力、男がことをなすのは女の力によるのだ」日蓮上人はこんな意味のことを述べている。歴史の表面には表れなくても、女性の力の大きさは、だれも否定できないだろう。
最上義光が偉大な業績をなしとげた陰には、彼を支えた女性がいたはずである。
正室は、奥羽の名門大崎家の娘とする「最上家譜」その他と、近隣の豪族天童頼貞の娘とする「光明寺本系図」等があって、いまひとつはっきりしない。
郷土史家、故川崎浩良氏は、大崎夫人を正室と見ておられる。この夫人が長男義康や駒姫など何人かの子をもうけ、また夫とともに会津に出かけて豊臣秀吉に謁したり、京都にのぼって京文化を楽しんだりしたという 。
一方、山形大学教授で宗教史の権威、松尾剛次博士は、最上系図や山形寺町の成立過程、浄土真宗の弘通状態、さらに当時の女性の信仰・帰依などの問題を研究されて、天童氏の出とするほうが妥当であろうとしておられる 。
いずれにしても、義光の長男義康が生まれたのが天正3年(1575)であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか。
最上家研究では大きな問題だが、これは今後にゆだねることとして、ここでは従来山形で語られてきたように、正室を大崎夫人として述べてみたい。
義光の子は、義康の後に松尾姫、駒姫、家親、光氏(後、義親)とつづく。その何人かが、大崎夫人の子ということになるだろう。
近江八日市市の最上家菩提寺、曹洞宗妙応寺の記録や「最上家代々過去帳」によると、文禄4年(1595)8月16日、「山形殿内室、奥州大崎家女」が亡くなったという。法名は「月窓妙桂大禅尼」。この日は、駒姫がはかない最期をとげてからわずか14日後である。ちょうど二七日(ふたなのか)めにあたるところから、夫人の死は、悲しみのあまり自ら命を断ったのではないかという人もあるほどだ。
夫人を開基とする寒河江市の正覚寺には別伝がある。彼女は義康の生母であり、一時寒河江を領した義康と居をともにし、この地で亡くなったという。はたしてどちらが正しいか、これもはっきりしない。正覚寺の墓地には彼女の菩提をとむらう大きな五輪塔が建っている。
また、山形市内専称寺は、駒姫の菩提寺として知られているが、この寺には慶長2年(1597)に義光が寄進した「出羽守内室像」といわれている画像が秘蔵されている。一般にはこれが大崎夫人であり、駒姫画像といっしょに寄進されたところから、駒姫を生んだ女性だとされている。品のいい尼僧姿を描いた桃山時代絵画として、県文化財に指定されている。
名門大名最上家がどこから妻を迎えたかという、基本的なことがらさえ、いまだに確定できないのは、少なからず残念なことだ。
 
義光の妻たち2 / 天童夫人

山形の北隣の領主天童氏、里見家は、舞鶴山に城を構える有力な豪族だった。室町時代中期には山形と並ぶ大名とさえ見られていた。義光がこの家から側室を迎えたのは、当時としては当然の政略結婚であった。
天正5年(1577)、義光が最上川下流方面へ進出しようとしたとき、天童氏を中心とした「最上八楯」の豪族グループは、同盟を結んでこれに抵抗した。さすがの最上軍もこれを攻め崩すことができず、一旦は和睦をしたらしい。和睦を維持するために、天童からこの女性が入ったのであろう。
和泉守天童頼貞の娘であり、頼久(頼澄とも)の姉だという。父頼貞は、山形と和睦成立中の天正7年に没し、そのあとをまだ若かった頼久がつぐ。
夫人は、天正10年に義光の三男光氏(後清水氏を嗣ぎ、義親と改めた)を生み、その年の10月12日には亡くなってしまう(大蔵村清水興源院の記録)。産後の肥立ちでも悪かったのだろうか。おそらくは、20歳代の若さだったにちがいあるまい。
最上と天童を結びつけていた彼女がいなくなると、両者の関係はふたたび悪化する。政略結婚であろうとも、この女性は両家の仲をやわらげる大きな働きをしていたのである。
そのころは、野辺沢氏の離反で、天童氏を盟主とする「最上八楯」同盟も崩れており、天正12年10月の最上勢攻撃のまえに、天童方はもろくも敗れ去る。頼久は山を越えた奥州の国分能登守(母の実家)を頼って逃亡する。
義光はしかし、これを追撃しなかった。逃げ去るのを黙認した。
無駄な戦いは避けるべしという義光の信念からか、それとも亡き天童夫人への思いやりからであろうか。おそらくその両方だったかと思われる。
義光は、城跡の山頂に勝軍地蔵をまつる愛宕神社を再建した。これは、もともとは天童氏が尊崇した神社である。「最上氏も天童氏も、ともにこの地の主として生きてきた。敵対したとはいっても、憎しみはない」という義光の考えによるものと語られている。
慶長14年(1609)6月24日、清水城主となっていた光氏は、愛宕神社に石灯篭を寄進した。この年、年令は28歳ごろと推定される。
「光氏祈念成就之所」として、「矢口左衛門尉・角川小源太・角河治部少輔」の名も彫られている。名字から見て、彼らは現最上郡、新庄市を中心とする地域の有力な国人層と思われ、側近として光氏を支えていたのであろう。
ところで、光氏の「祈念」とは、何だったろうか。生母の実家である天童氏が逃亡し去り、長兄・義康は父の不興をかって廃嫡のうえ、不幸な最期をとげた。関連して一部家臣が国外に退去する。父は、一族・重臣を領内の要所に配置し、領国支配の体制を固めつつあった。どこか不安な雰囲気をはらむ情況のなかではあったが、自分は清水という最上川中流の重要拠点の城主に抜擢され、2万7千3百石という大領地を与えられた。青年光氏にとって「祈念成就」すなわち「願いがかなった」とは、このことであろうか。
彼は、城地清水の興源院を母の菩提寺として、位牌を安置した。
安定した地位を得たとき、光氏が母のふるさと天童の鎮守愛宕神社に、感謝の意をこめて寄進したのが、この石灯篭かもしれない。そう考えると、この神社に寄進した理由が理解できるような気がする。
 
義光の妻たち3 / 清水夫人

先に天童夫人を失い、13年後の文禄4年(1595)には、大崎夫人の急死にあう。義光の落胆は想像にあまりある。
とは言っても、壮年の出羽守山形城主に正室がいないのも困る。そこで白羽の矢を立てられたのが、清水第六代城主(現最上郡大蔵村)清水義氏の一人娘であった。
清水氏は、現最上郡南部を領する有力な豪族だった。川が交通路として大きな役割をもっていた時代、最上川中流の清水は、軍事的にも経済的にも重要な所だった。
ここから下れば庄内地域となり、海運の根拠地である酒田、そこから日本海を経て上方へとつながっていく。山形の最上氏にとって、なんとしても自分の支配下におきたいところ、それが清水だった。
最上家が、一族成沢兼義の一子満久を清水に封じたとする「最上系図」を信じるなら、室町中期の文明年間(1469〜87)には、最上の勢力はここに及んでいたことになる。
清水氏は、この満久を祖として義氏まで六代にわたって、ここの城主だったとされるが、義氏のころは庄内の武藤義氏と山形の最上義光という、両強豪のはざまにあって苦難の時代があったらしい。
天正14年(1586)10月18日、義氏が没したとき、あとに男児がなかったため、その名跡を嗣いだのが、義光の三男光氏(のち義親)であった。清水家にはこのとき11、2歳の一人娘がいたとされ、義光が大崎夫人を喪ったころは、20歳前後の妙齢だった。
名を「お辰」といい、うら若く美しい盛りだったに違いない。
彼女が義光の室に入ったのは、はっきりしたことは不明だが、慶長の初め(1596〜)、義光50歳過ぎでもあろうか。「清水夫人」がこれである。
寂しい暮らしをしていた義光にとって、春の日がさしこんだような明るく楽しい思いがしたのではなかったか。そのうちに、子供も生まれたのだろう。
義光の子らの生年をみると、大崎・天童(そのほか?)夫人の所生と考えられる6人、1575年…義康  78年…松尾姫  81年…駒姫  82年…家親・光氏(義親)  84年…竹姫  88年…光茂(義忠)と、ここまでは、間隔が四年以内だ。ところが、この後は11年の間隔をおいて、1599年=光広(上山)、1602年=光隆(大山)の二人が生まれている。年若い清水夫人の子であろう。これに加えて、阿波徳島の里見家系図に「(里見親宜奥方)最上義光長女、寛文4年(1664)8月6日逝去」とある女性も、没年から推測して清水夫人のなした娘と見ることができそうだ。「増訂最上郡史」には「最上義光に嫁し……数子を分娩す」とあるそうだが、以上の考察からは、彼女には男児二人、女児一人があったことになる。
清水夫人は、当然夫とともに京都に上り、中立売通りの最上屋敷で暮らしたと考えてよいだろう。慶長2、3、4年、義光の京都にあっての文学的活躍は、目覚ましいものがあるが、夫人のことも思いがけず、北野天満宮の記録に残されていた。
慶長3年10月7日、「最上殿内衆が源氏物語をあつらえ、蝋燭二十丁を手土産に届けた」たという内容である。「内衆」とは家来たちのことだが、「源氏」をたのしむ家来などたぶんないだろう。これは義光の奥方、清水夫人からの依頼と見て間違いあるまい。上流階級の女性として、「源氏物語」は必須の教養書だった。まして、夫・義光が「源氏」の免許皆伝を受けていたのだから、なおさらだ。
慶長5年の関ケ原稼の戦いに連動した出羽合戦(長谷堂合戦)では、義光は結局は勝ち組となって、57万石の大大名となった。翌年の夏には、早くも京都に行っている。
清水夫人は、義光の晩年に明るい彩りを添えた女性だったといえるだろう。
義光の領国経営も、いっそう力が入ったような感じがする。城下町の建設、最上川の開削、庄内地方の開発も順調にすすみ、いずれは鶴岡に隠居してのんびり暮らそうかなどと考えたのも、優雅な清水夫人がそばにいたからかも知れない。
20年近い歳月を共にした義光が亡くなったとき、夫人は38歳。夫人は、生家清水家をたより、ふるさとに帰って草庵に隠棲、法名を真覚尼と称した。彼女の隠棲した庵が、現在の清水山光明寺である。
清水家はやがて、当主義親が兄の山形城主家親と対立し、慶長19年にその攻撃を受け、滅亡の憂き目を見る。続いて家親が江戸屋敷で急死、後を嗣いだ家信の代、元和8年(1622)に最上57万石の大領地は没収されて、壱万石で近江大森へ移封となる。時に、夫人は47歳だった。
若くして出羽の太守の奥方となり、大勢の侍女や家臣にかしづかれた都の暮らしも、まるで夢のような感じだったのではあるまいか。
いにしへの錦の床も夢とのみ 心しみずの里にこそすめ
「むかしのぜいたくな寝床もまるで夢のような過去となり、今はふるさと清水の里に住んで、心も澄みきっております」。「すめ」はかけことばである。
今はわれ浮き世の空の雲晴れて 心の月の澄み渡るかな
「今は私はつらい浮き世の雲も晴れ渡り、心の月が清らかに澄み切った思いです」
夫人の詠じた和歌である。
近衛少将、出羽守の後室ということで、新庄藩主、戸沢政盛は真覚尼に五十四石の土地を寄進して、手厚く遇した。
寛永15年(1638)8月20日逝去。62歳であったという。
大蔵村清水の光明寺と興源院には、夫人の遺品として、和歌の歌留多や、銅鏡、着用した袈裟などが大切に秘蔵されているが、それらにも夫人のやさしい人柄や高い教養を感じ取ることが出来る。
 
寒河江十兵衛

慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した「最上義光物語」に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた「寒河江家文書」(以下、「文書」)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、「文書」は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。

「寒河江家略系」
十兵衛元茂−親清−勝昌−勝弘−広政−範勝−元清−元澄
十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。
「文書」から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」
このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。               

しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。
光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。
勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。
河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。

現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。  十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。  中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。
このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。
このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。
天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、「東遊雑記」に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「…山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり 」
 
直江兼続の最上侵攻

慶長5年(1600)9月、直江兼続は米沢から最上領に侵攻し、畑谷城攻略を経て山形城西方の長谷堂城を囲んだ。上杉勢は庄内からも侵攻した。長谷堂合戦は膠着状態となるが、関ヶ原の戦果が伝わるや、兼続率いる上杉勢は一部を除いて撤退した。
同年六月、徳川家康は上洛要請を拒んで会津で領国経営に専念していた上杉景勝に向けて出兵した。このとき会津領国に対する包囲網が構築された。このような中で上杉氏は旧領越後の春日山に入った堀秀治に向けて越後一揆を扇動した。また、白石城を奪取して上杉領となった旧領を窺う伊達政宗を伊達・信夫方面に迎撃した。一方佐竹氏とは明確に手を結び、相馬氏や岩城氏らとも目立った戦闘はなかった。相馬には使者が送られている。後述のように越後北部(下越)の溝口・村上両氏とも交渉で戦闘の回避が意図されていたが、両氏は越後一揆の鎮圧に動いた。そして、最上義光を山形に攻めたのである。
さて、誉田慶恩氏は兼続の最上侵攻の理由として
@最上氏が伊達氏に比べ戦力的に弱小で攻めやすいこと、
A家康の命によって北奥羽の諸士を率いて上杉領へ攻め込もうとしていたこと、
B上杉領における会津と庄内を結合して上杉氏の軍備の弱点を補おうとしたことなどを挙げ、特にBを強調した(「奥羽の驍将―最上義光―」)。
傾聴すべき見解であるが、会津と庄内の一体化は庄内と連続する越後の下越地方から実現することもできたと思われる。そこは旧領である。残存した旧勢力とともに上杉家臣団による軍勢が動員されれば、軍事作戦は最上攻めよりも優位に展開できたのではなかろうか。また、同じく飛び地の状態であった佐渡との一体性も確保できる。
ところが兼続は、越後一揆は秀治に向け、下越の村上・溝口両氏を攻撃しないように指示している(八月四日付兼続書状。「新潟県史 史料編五 中世三」所収三二二九号文書。現実とは異なり交渉で戦闘を回避したと認識していた。つまり兼続には下越掌握による庄内の連結という構想はなかった。領国の一体化を目指すにしても、最上領を攻める固有の理由があったのではあるまいか。
前掲八月四日付書状で兼続は義光と政宗を討つのは容易いが、家康の出方を見極めるまで動けないと記している。既に戦いに及んでいた政宗とともに、いまだ軍事行動を起こしていない義光が挙げられている。兼続は義光と政宗を東北における敵対勢力として当初から認識していた。そして、義光や政宗に対する攻撃は家康の動向に規定されていた。また、九月三日付の兼続書状では、景勝の関東出兵に休戦した伊達氏の同陣の可能性を探っているが、政宗との戦闘回避によって初めて景勝の家康との軍事対決が可能になるのであった。そして、ここでも義光の動向は政宗と一体的に捉えられている。
九月には義光・政宗の動向が家康への攻撃を規制しており、義光・政宗の動向が家康の背後への上杉氏の攻撃を防いだとする指摘を裏付けるが、基本的な兼続の視線は関東と東北の問題に向けられている。家康の駿府入りで関東への気遣いがなくなったという認識が上杉家中にある(「山形縣史」一所収九月一八日付上泉泰重書状写)が、上杉氏の活動が関東までを対象としていたことが分かる。会津は関東・東北支配の要地であった。兼続の行動はこの全国支配の方針に基づく、すぐれて政治的なものと考えられる。
家康との衝突が回避されつつある八月、反転攻勢として義光攻撃の準備が進められる一方で義光・政宗と外交交渉がもたれたとみられる。政宗のように休戦が成立すると、前述のように一転家康攻撃への動員が模索された。上杉氏の課題は東北の家康派の解体であったと考えられる。攻撃準備は圧力とみられるが、九月三日付書状にしめされたように交渉破綻を機に侵攻が実行された。それはあくまで家康派の解体・抑え込みが目的であったと考える。最上氏を滅ぼす必要はなく、一定の打撃を与えられれば十分だった。しかし、それは成功しなかったのだが。  
 
最上駿河守家親 (もがみするがのかみいえちか)

第12代山形城主。天正10年(1582)の生まれであるから、清水城主となった光氏(義親)とは同年齢の異母兄弟である。幼名を太郎四郎、左馬助といった。天正19年に、徳川家康が奥州九戸の乱を平定するために福島在の大森に着陣しているとき、義光が10歳になった太郎四郎をつれて行き、「この倅をさしあげます。自分の代わりに召し使ってくだされ」と申し出た。家康は「国持ち大名の子息を家来にするとは、初めてのこと」と非常によろこんだという。
文禄3年(1549)8月5日、家康の前で、徳川四天王の1人井伊直政の理髪で元服をした。名乗りは「家康」の一字を拝領して「家親」。駿河守となる。「康」をもらったのは何人かいるようだが、「家」をもらったのは、最上家親と島津家久の2人だけらしい。それだけ、彼に寄せる期待も、最上家を大切に思う気持ちも、家康にはあったのだろう。
15歳(慶長元年)から江戸詰め。家康のそばから移って、秀忠に仕えることになった。
19歳のとき、関ケ原の戦いの直前、徳川軍が会津征伐に出たときは、秀忠にしたがって宇都宮にいたり、ついで信州真田攻めに従軍する。
いわゆる「武功」の話は聞かれない。名門大名最上家の御曹司ということで、前線に出て戦うよりも、主君秀忠の側にあって、戦陣の心得などを学び取っていたのかもしれない。
世の中がしずまった慶長10年4月には従四位下侍従に叙され、同月9日には細川忠利とともに宮中において天皇から盃を賜った。その夜、家親は京都の家康邸を訪問しているが、これはおそらくお礼言上のためであろう。
同じ時期に、父親義光も京都にいた。3月29日には義光は秀忠に随行して参内。天盃を下賜された。4月26日にも、秀忠の将軍宣下に扈従して、殿上に昇った。
出羽山形57万石、最上家は花盛りだった。
翌年、家親の嫡男が生まれる。源五郎、後の家信、あらため義俊である。母は不詳。最上家のような名家の妻がどこの出か知れないとは、まったく不思議なことで、世間には「西三条家」の娘だとする説もあるが、根拠となる史料は見あたらない。
その後の家親は、江戸城内で開かれる正月恒例の御謡初めには着座を許され、琉球国王の訪問では奏者役となり、摂関家から使者が訪問すれば披露役を務めるという具合で、幕府の重要式典に参画しているのが目立つ。詳細を書く余裕はないが、文化的芸術的なたしなみが豊かだったことがうかがわれ、有職故実などにも詳しかったのであろうか。
家親は江戸暮らしが常態だったらしく、その邸には京都から来た公家も訪れた。
慶長16年(1611)10月21日には、江戸城内で催された申楽に、家親も参席した。
その4日後、船橋秀賢と山科言経(いずれも京都の公家)の宿所を訪問して、それぞれに紅花50袋をプレゼントしたことが、両人の日記からわかる。
慶長19年(1614)1月18日、義光逝去。その報せが小田原にいた家康にとどくと、家親はただちに帰国を許され、2月6日、山形城下の慶長寺(光禅寺)において葬儀をすます。そのあと半年ほど山形にいたと推測される。新藩主として、さまざまな政務を処理したと思われるのだが、そのころの最上領内のムードは必ずしも平穏無事ではなかった。
6月には庄内鶴ケ岡城下で一栗兵部の反乱が勃発、酒田城主の志村光惟と大山城主の下秀実が襲殺されてしまう。最上重臣クラスのなかには、徳川につくか豊臣につくかということで互いに疑心暗鬼の状態だったらしく、家親に親しみ薄いグループの中には大坂方を支持する者があったことも否めないだろう。
家親は、家督承認の御礼をするために9月に山形を発った。そのとき、これは果たして史実としてよいかどうかだが、野辺沢遠江、日野将監らに、清水城、清水義親討伐の命令を下していたといわれる。家親が駿河で家康に謁していたちょうどそのころ、清水は最上宗家の大軍の攻撃を受けて滅び去る。10月13日とされている。
同年11月、家康、秀忠は、20万といわれる大軍をもって大坂攻撃を決行する。いわゆる「大坂冬の陣」であるが、このとき家親は徳川の本拠江戸城の留守居役を割り当てられた。翌年4、5月の「夏の陣」でも、家親は江戸城留守居を命じられた。
「冬の陣」のとき、家親は1日も自分の邸に帰らずに、江戸城本丸に詰めたと「最上家譜」には記されている。
冬・夏ともに、伊達、上杉、佐竹など東北外様諸大名は軒並み危険な戦場に駆り出されたのに対して、最上家だけは別格の役割だった。これは、家親に対する徳川家の厚い信頼を物語るものであろう。もっとも、多少の軍勢は大坂に派遣したようで、上級家臣武久庄兵衛が大坂で功績があったので賞された旨、分限帳の書き込みが見られる。
江戸にあって、家親が高名な文人僧、足利学校の庠主(しょうしゅ/校長)寒松和尚と親交を結んでいたことが、近年小野末三氏によって明らかにされている。幾編かの漢詩を贈られたことも、新しい発見であった。
冬の陣の直後、慶長20年正月16日、寒松が最上邸に参上した時の日記と漢詩を、読み下しで掲げてみよう。
「最上家のお屋敷では、珍しいご馳走があった。如白(寒松の弟子か)もお相伴した。その席で「春の雪」の詩を差し上げ、楽しい語らいに時を過ごし、すっかり酔って帰った。
夜雪空に連なって、月色ゆたかなり、壁門金殿、瓦溝めぐる、江天暁に到りて、尺をみたし難し、ことごとく是れ軍営、喜気消えんか」
学僧で文人、幕府要人との付き合いの多かった寒松との交際は没年まで続く。元和二2(1616)2月26日、家親は山形六椹八幡宮に鷹の絵を寄進した。「源家親」の記名がある。彼自身の作であろうか。
ところで、家親については、山形ではとかく好ましからぬ風評が語られている。
最上家を乗っ取ろうとするグループによる毒殺とか、女に刺し殺された、などという話である。だが、これらは作り話に過ぎない。
亡くなったのは、元和3年3月6日。36歳。「徳川実記」では「在府して猿楽(能狂言)を見ながら頓死す、人みなこれをあやしむ」とある。「在府」は「江戸府にあって」ということ。「頓死」は「急死」である。
大大名の若い当主の急死は、うわさ話にはもってこいである。「人みなあやしむ」というのも無理はない。
確かな史料で見ると、秋田藩重臣、梅津政景の日記によると「四日の晩から苦しみだし、
6日の四つ時(午前10時ごろか)死去した」とされている。
いっぽう、将軍秀忠からは、病気見舞いの手紙が寄せられている。
この年の3月4日は、太陽暦では4月9日。江戸は春の花盛りである(鈴木靜兒氏の御教示による。)花見がてらの能狂言、酒に肴に音曲に…。
このような状況から推測して、これはまったくの想像にすぎないが、家親はにわかな食中毒にかかったのではなかったか。二晩を病に苦しんで亡くなったのであろう。
後日、一族の松根備前守光広が「毒殺の疑いあり」と訴え出たけれども、幕府は調査のうえこれを却下、光広は偽りの訴えをしたとして築後柳川に流罪となった。幕府の判定も、
変死とはしなかったのだから、やはり病死だったとするのが正しいだろう。
彼の領内政治がどんなものであったか。今のところ、ほとんど知ることはできないが、小野末三氏の研究によって、その人物像は少しずつわかりかけていると言ってよいだろう。

最上源五郎家信 (もがみげんごろういえのぶ)

元和3年(1617)3月6日(太陽暦4月11日)、山形藩主最上家親が急逝した。さて、このとき嫡子源五郎は12歳。そのときどこにいたか、確かな記録はないが、おそらく江戸であろう。藩主急死。江戸の藩邸で大騒ぎをしている3月8日、山形では城下が大火に見舞われていた。
「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」という、光明寺の記録がある。山形ではこの段階で主君の死を知るはずがなく、家臣、町人、寺社関係者にいたるまで、火災の後始末に懸命だったろう。そこに藩主急逝の報せが届いたのである。
英主・義光没後わずか3年、重なる凶事に領内は不安に覆われたに相違あるまい。
ところで地元山形領内の政務は、家親が幕府奥向きの役職のため江戸詰めが多かったことから、一族のめぼしい者や重役層が評定衆となって執行していたと思われる。そうして見たとき、最上藩にはどういう人物がいたか。
まず最上一族ではどうか。
慶長八年(1603)の政変で、長男義康はとうにいない。三男清水光氏(義親)は義光没年(慶長19年/1614)の一族抗争で敗死した。残る主な親類は、次のようだ。
山野辺光茂(義光の四男。後、義忠。天正16年(1588)生まれ、30歳。山野辺城主、1万9千300石)
上山光広(義光の五男。推定慶長4年(1599)生まれ、19歳か。上山城主、2万1千石)
大山光隆(義光の六男。推定慶長7年(1602)生まれ、16歳か。庄内大山城主、2万7千石。)
楯岡光直(義光の弟。永禄8年(1565)生まれか。52歳ほど。甲斐守。楯岡城主、1万6千石。)
松根光広(義光の弟、義保の子。天正17年(1589)生まれ、29歳。庄内松根城主、1万2千石。)
本荘満茂(最上家分家筋。弘治二年(1556)生まれ、62歳。由利郡本荘城主、4万5千石)
いずれも大名格だが、上山と大山はまだ10代で、源五郎の叔父とはいっても兄のような若さで、力量は期待できまい。光直はもう年だ。そうなると義光の四男、前藩主の弟という近親者。年齢に不足なく、城池が山形に近いこともあって、藩内第一のリーダー格は山野辺光茂ということになりそうだ。政治の表向きには出なかっただろうが、義光の妹義姫(お東の方)が70歳で健在だった。
いっぽう家臣の方は、寒々とした状況だった。義光とともに戦い、最上家の隆盛をもたらした往年の勇将、智将の多くはすでに亡くなっていた。
志村伊豆守光安…慶長16年(1611)死去。後継者の光惟は義光の死去半年後に、鶴ケ岡城下で勃発した一栗兵部の反乱で殺害された。
氏家尾張守守棟…慶長20年(1615)死去。男子三人がいたようだが、上の二人は早世。三男、左近丞親定は26歳。幼少時から仏門入っていたため、政治には疎かっただろう。
坂紀伊守光秀……元和2年(1616)死去。
上山を領していた里見越後・民部親子、義光の信頼厚かった成沢、谷柏らの一族は、義康廃嫡時の政変で失脚したらしい。最上家を本気で守ろうという気概をもった宿老は少なかった。
残るは、歴戦の勇将鮭延越前守秀綱(真室川/鮭延城主、1万1千500石。56歳)・里見薩摩守景佐(東根城主、1万2千石。老齢、病身だった。)・野辺沢遠江守光昌(野辺沢城主、2万石。30歳代半ばか)・小国日向守光基(小国城主、8千石。年齢未詳)など。
これらの中で、実力者は、血筋、年齢、経歴から見て、随一は鮭延である。こういう状態で、藩主が亡くなり、12歳の長男、源五郎が残されたのである。

家督相続者は、江戸時代に入ってからは長男と決まったようなものだが、当時はまだこの考えは確立していなかった。12歳の源五郎でよいかどうか。領内でもとりどりの評判があっただろうし、幕府内部でもさまざま検討がなされただろう。しかし、結局幕府は5月3日に源五郎の家督相続を承認し、57万石は安堵された。
同月10日、幕府は未成年藩主であることに配慮し、領内政治の安定を図るべく7項目の指示をだした。内容は次のようなものである。(「徳川実記」「最上家譜」から要約。)
1義光、家親が定めた制度を変えないこと。
2家臣の縁組みは、2千石以上の場合、幕府に報告して許可を得ること。
3訴訟裁断は先代の如く計らい、判定し兼ねる場合は幕府と協議すること。
4父祖が任じた役職は、勝手に改変しないこと。
5父祖が勘当追放した者を、領内に立ち入らせないこと。
6家臣への加増、新規召し抱えは、家信幼稚のうちは幕府の許可を得ること。
7家臣らが徒党を組むことは厳しく禁ずること。
幕府としては、義光の忠節ぶり、家親の律儀な奉公ぶりを高く評価し、奥羽全体の平和と安定のために最上家を重視していた。だから山形藩が整然と成り立っていくようにと、大所高所からの助言を与えたのだった。源五郎が「家信」を名乗るようになったのは、この前後であろうかと思われるが、定かではない。
ちょうどこのころ、先に義光が三重塔を建造し、3千石といわれる莫大な寺領を寄進した出羽の大寺、慈恩寺の大改修が進行中だった。家親急逝の後は、家信が願主となったのであろう。翌元和4年8月に、本堂が完成し大々的な入仏法会が行われた。
家信は、程なく江戸に出る。そういうときも国元では叔父山野辺光茂らが中心となって、領内政治を行っていたのであろう。
家信は江戸の最上邸(和田倉門付近にあった)に滞在していたと思われるが、たまたま起こった事件解決に大きな役割を果たす。
元和5年(1619)6月、幕府は広島藩主福島正則の改易を決定した。江戸の福島邸を接収するにあたって、家来たちの武力抵抗が予想されたため、幕府は監視・鎮圧の役割を最上家信および、松平忠明、松平忠次、鳥居忠政らに命じた。家信は軍勢を率いて出動し、事なく福島邸の接収を完了した。その功を賞して、秀忠は長光の太刀を褒美として下賜したと、「重修寛政諸家譜・最上氏系図」にある。家信十四歳である。
ところが、家信の評判は悪いほうに向かう。
元和6年9月12日の「徳川実記」に、
「十二日、最上源五郎義俊は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」
という話が記録されている。大大名の当主になったとはいっても、それなりの教育も、訓練も受けていなかったのだと思われる。藩内部でも混乱が生じたらしい。同年10月16日、家信は山形の山王権現(現、香澄町三丁目日枝神社)に絵馬を3枚奉納した。金蒔絵の板に馬と猿を描き、「おさめたてまつる馬形三疋」と幼い筆跡で書き添えられている。猿は山王権現の使いで、馬を御し、しあわせをもたらすとされる。最上歴代が崇敬し、以前は山形城内に鎮座したこの社に、十五歳の藩主は何を願ったのだろうか。
行跡おさまらぬ主君から、家臣は離反しはじめる。重臣たちは相互に不信感をつのらせ、仲間割れしてしまう。この状態を、最上家が幕府に提出した自家の系譜ですら、
「義俊(家信)若年にして国政を聴く事を得ず、しかのみならず常に酒色を好みて宴楽に耽り、家老共これを諫むといえども聴かざるにより、家臣大半は叔父義忠(山野辺光茂)をして家督たらしめん事を願う」(前出、寛政・最上氏系図)と記述する。奥羽の押さえとされた名門大名最上家は、大きく傾きはじめた。

元和6年8月7日、東根2万2千石の城主、薩摩守景佐は、嫡子源右衛門親宜(ちかよし)あてに遺言状をしたためた。景佐は義光の傍らにあって大きな働きをした人物である。子・親宜は家親から一字をもらい、義光の娘を妻に迎え、最上家とは縁つづきの関係にあった。元の姓は里見氏。慶長七年の義光書状では「里見殿」と書いていたが、11年には「東根殿」となっている。出羽の要地を領する最上一門の誇りをこめて、姓を変えたのだろう。
さて、景佐の遺書は、「自分が死んだなら、源五郎様へ相続の御礼に行くように」から始まって、めんめんと思いを述べた文章である。「少しなりとも少しなりとも、殿様へご奉公いたして、粗略のないように心がけよ」「自分は少しも間違ったことをしなかったからこそ、東根の地をみな頂戴して、そなたへ渡すことができるのだ」
そういうこととともに、山野辺光茂、小国光基、楯岡光直へは、内々で形見を贈るよう指示した。景佐は、藩政運営にあたって、この三人と共同歩調を取っていたのであろう。そして、この遺書は、最後のところで驚くべき指摘をしている。
「最上の御国、三年とこの分にあるまじく候。せめて御国替えにも候へばいつともにて……」。最上の国もこのままでは三年と持つまい。せめて国替えにでもなったら(以下意味不明)、というのである。義光とともに戦った老臣東根景佐の、最上家の将来に対する厳しい洞察であった。

こうして、最上家内部は混乱を深め、改易への道筋を走ることとなる。詳細なのが「徳川実記」である。現代語になおしてみる。(本来は藩主は「家信」、山野辺は「光茂」とすべきところだが、この記事では「義俊・義忠」となっているので、それに従う。)
…義俊は年若いために、みずから国政を掌握し、決裁することができなかった。常に酒色にふけり宴楽をもっぱらにし、重役家臣らが忠告をしても、取り入れようとしなかった。そこで家来たちの多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主にして、最上家を継がせようと望んだ。
ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しなかった。のみならず、彼は先代家親の死についてまで、「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出た。
当時、家親の急死には不穏な風説があったという。家親が鷹狩りのため城を出ての帰途、一族の家老楯岡甲斐守の家で宴を催したが、家親はその席でにわかに病を発し、ついに絶命してしまった。これは、同じく家老格の鮭延越前守と楯岡甲斐守が共謀して、山野辺義忠を主にしようと計って毒をすすめたのだ………というような話である。松根はこの噂を取り上げ、江戸に上って幕府にこう訴え出た。
「鮭延らは、山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」
事実なら大事件である。幕府では酒井雅楽頭忠世が双方を邸に呼び出し、取り調べをしたが、松根の言い分には根拠がないことが判明した。松根は虚偽の訴えをしたとしてただちに罪人とされ、九州柳川の立花家にお預けとなった。
その後、幕府では町奉行島田弾正利正・米津勘兵衛由政を使者として、将軍の意向として次のように伝えた。
「義俊は年若くて政務が行き届かず、家臣らが騒動に及んでいる。最上というところは、奥羽越後に境して、東国第一の要地である。しばらく領地を幕府で預かり、義俊には6万石を与えよう。九人の家老も心を一つにして補佐し、国政を確実にするなら、義俊の成長後に本領を返すこととする。義忠はじめ家老一同、明日参上のうえ返答せよ」
しかしながら、山野辺、鮭延らの家老たちは、
「厳命承りましたが、松根のような逆臣を厳しく処分もなさらず、そのままにしておかれるのでは、またまた同様の讒臣がでて問題を起こすでしょう。そうなったらどうなることか。いよいよ義俊の本領を収公なさるとならば、我々家老どもはみな最上家から暇を取って出家遁世し、高野山に籠ろうと存じます」と、申し上げた。
義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年8月18日、ついに断を下した。
最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。
こうして、義光が築き上げた最上百万石は、崩壊した。
江戸時代を通じて、これほど大きな大名が改易処分となった例は、ほかにない。先にあげた福島正則は安芸広島約50万石、肥後熊本、加藤忠広もほぼ同じ。最上家の57万石は最大である。しかも最上家は、家康、秀忠二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずである。最上家改易は、全国諸大名にとって衝撃的な事件だった。

この年家信は17歳。詳細な経緯はわからないが、江戸城和田倉門前の最上邸は返還させられた。名字の「家」字は家康から父がもらい、それを引き継いだものだったが、これも元和9年8月以後に返したと見え、「源五郎義俊」が呼び名となる。
寛永8年(1631)7月15日、義俊は「一遍上人絵巻」を山形光明寺に再寄進する。これははじめ義光が光明寺に寄進し、訳あって一時源五郎のところで預かっていたものだった。「文祿三年七月七日義光寄進」と巻末に銘記されているから、義光が京都で華やかに文化活動をしていた、そのころにあたる。現在は国指定重要文化財、奈良国立博物館に寄託、保管されている。
義俊は、絵巻物を寺に返して4箇月ばかり経った11月22日、1歳の男児、仙徳丸(後、義智)を残して江戸で亡くなった。二十六歳であった。浅草の万隆寺に葬られ、墓碑はそこにある。山形の光禅寺にも、祖父義光、父家親の墓と並んで、後日建立された墓碑がある。
若くして逝った薄倖な最上の主を悼んで、翌年4月吉日に山形七日町の法祥寺に供養の五輪塔を建てた人物がいた。
「寒河江之住人、微力をもってこれを造立す」と刻まれている。 
 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。