日本霊異記

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雑学の世界・補考

日本国現報善悪霊異記

[にほんこくげんほうぜんあくりょういき] 平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集で『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。著者は景戒。上・中・下の三巻。変則的な漢文で表記されている。
成立事情と説話の背景​
成立年ははっきりしないが、序と本文の記述から、弘仁13年 (822年) とする説がある。著者は奈良右京の薬師寺の僧、景戒である。景戒は、下の巻三十八の自叙伝において妻子とともに俗世で暮らしていたと記しており、国家の許しを得ない私度僧に好意的で、自身も若い頃は私度僧であったが後に薬師寺の官僧になったという。生国は、紀伊国名草郡。
話の舞台と世相​
上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話で、合計116話が収められる。それぞれの話の時代は奈良時代が多く、古いものは雄略天皇の頃とされている。場所は東は上総国、西は肥後国と当時の物語としては極めて範囲が広い。その中では畿内と周辺諸国が多く、特に紀伊国が多い。
『霊異記』の説話は、行基とその朋党が、民間布教と社会事業の実践のため遍歴した地域と重複する所が少なくない。また、遠国の説話には紀伊氏・大伴氏一族のかつての勢力圏や吉士氏の勢力圏の紀伊・大阪湾沿岸、ならびに二次入植地の東国と結び付くものが認められる。
登場する人物は、庶人、役人から貴族、皇族に及び、僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。
その一方で、景戒が属する興福寺や法相宗(薬師寺・行基集団などを含む)を称賛する説話を多数収録する反面、道慈や鑑真ら他宗の僧侶などに関する逸話を忌避しているという見方もあり、特に失明や眼病を悪行による仏罰であるとする説話を意図的に取り上げることで暗に(来日時に失明した)鑑真を否定的に評価する意図を有していたとする研究者もいる。
田に引く水をめぐる争い(上巻第3)、盗品を市で売る盗人(上巻第34、第35、下巻第27)、長期勤務の防人の負担(中巻第3)、官営の鉱山を国司が人夫を使って掘ること(下巻第13)、浮浪人を捜索して税をとりたてる役人(下巻第14)、秤や桝を使い分けるごまかし(下巻第20、第26)など、説話自体が事実を伝えるものではないとしても、その主題から外れた背景・設定からは、当時の世相を窺い知ることが出来る。
また、性愛を扱った説話も収められている。例えば息子を愛するあまりにフェラチオするようになった母が、臨終の際に息子のもの(陰茎)を吸いながら、「わたしは、今後次々に生まれ変わって、後の世でいつもそなたと夫婦になります」と言い残し、隣家の娘に生まれ変わって息子と結婚するといった奇譚などがある(中巻第41「子に愛心を結びて、 来世にて子の妻となる縁 」)。
説話の主題と思想​
編纂の目的から、奇跡や怪異についての話が多い。『霊異記』の説話では、善悪は必ず報いをもたらし、その報いは現世のうちに来ることもあれば、来世で被ることも、地獄で受けることもある。説話の大部分は善をなして良い報いを受けた話、悪をなして悪い報いを受けた話のいずれか、あるいはその両方だが、一部には善悪と直接かかわりない怪異を記した話もある。
仏像と僧は尊いものである。善行には施し、放生といったものに加え、写経や信心一般がある。悪事には、殺人や盗みなどの他、動物に対する殺生も含まれる。狩りや漁を生業にするのもよくない。とりわけ悪いこととされるのが、僧に対する危害や侮辱である。と、これらが『霊異記』の考え方である。
転生が主題となる説話も多い。説話の中では、動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く、人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。
諸本​
『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)、来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)、前田家本(下巻、重要文化財)、金剛三昧院(高野山本、上中下巻)などがあり、興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い(『日本霊異記』の諸本については小泉道『日本霊異記諸本の研究』1989)。  
 
日本霊異記〜猫

 

日本霊異記〜日本最古の猫の記録
2月22日は、「にゃんにゃんにゃん」の語呂あわせで「ねこの日」です。「ねこの日」は、日本の猫の日実行委員会が1987年に制定した記念日です。
奈良時代後期、中国からやってきた猫は「唐猫(からねこ)」と呼ばれました。珍しい動物なので、まずは上流階級のペットになり、その愛らしい姿は歴代の天皇の心を癒やし、やがて「源氏物語」などの平安文学にも登場します。猫の存在が初めて文献上で確認できるのは、平安時代に編纂された「日本霊異記(にほんりょういき)」です。「日本霊異記」は日本最古の仏教説話集で、編者は奈良・薬師寺の僧、景戒(きょうかい)、上・中・下の3巻、全116話で構成されています。
猫(原文での表記は「狸(たぬき)」)が登場する説話は上巻第三十で、705年(慶雲2年)9月15日の出来事を記したものです。豊前国宮子郡(ぶぜんのくにみやこぐん、現在の福岡県京都(みやこ)郡)の膳臣広国(かしわでのおみひろくに)が、急死後に生き返ります。広国が死んでいた間に地獄めぐりをしたところ、すでに亡くなっている自分の父親と再会します。父親は地獄での飢えと苦しみを息子に語りました。父親は空腹を満たすために、姿を変えて広国の家を訪れていたのだといいます。1年目は大蛇(だいじゃ)、2年目は犬の姿になりましたが、どちらも家に入れてもらえません。そして3年目に猫になったところ、ようやく家に入れてもらえ、3年間の空腹を満たすことができたというのです。当時の猫は、貴重な生き物で珍重されていましたが、大蛇や犬と同じように、人が転生する対象として扱われていたことがわかります。
「日本霊異記」に数多く記された「因果応報(いんがおうほう)」。「因果応報」とは、行為の善悪に応じて、その報いがあることを言いますが、現在では悪いほうに用いられることが多いようです。
日本霊異記の「猫」

 

平安期の日本人に「猫は、供え物を放っておくと、咥えて持って行ってしまうやつ」という感覚があったとすれば、猫と当時の日本人とは、比較的身近な距離にいたことがうかがえます。
前回、『日本霊異記』の、日本最古の「狸(ねこ)」の記述について触れました。今回は、その前後の記述を見て、史料に描かれた猫の姿を、少し詳らかにしていこうと思います。まずは、該当説話の全体を見るべく、検索したところ、すでに同じようなことを考えていた先人がいまして、「ねこ文献index」なるページが見つかりました。こららで、『新日本古典文学大系』を底本とした、該当説話の全文書き下しが見られます。そもそも、『日本霊異記』は仏教説話集で、その概略は下記の通り。
仏教説話集。「にほんれいいき」ともいう。三巻。薬師寺の僧、景戒撰。弘仁年間(八一〇〜八二四)頃成立。雄略朝から嵯峨朝に至る因果応報説話一一六篇を、ほぼ年代順に漢文体で記述。日本最古の仏教説話集。正称は日本国現報善悪霊異記。霊異記。(『日本国語大辞典』「日本霊異記」の項)
正式の書名に明示しているとおり善悪の応報を語る霊異譚が中心で、仏法の基本原理である因果応報の理が現実に世界を支配し各所に発現していることを説話を通して確認し、それによって信心と畏怖を深めようとする姿勢が著しい。(『国史大辞典』「日本霊異記」の項より抜粋)
『日本霊異記』の上巻・第三十縁に収められた、猫の出てくる話「理にあらずして他の物を奪ひ悪しき行を為ひて悪しき報を受け奇しき事を示す縁」も、そんな因果応報説話の一つです。
ストーリーを至極簡単にまとめると...
1.豊前国京都郡の次官だった膳広国が慶雲二年九月十五日に亡くなるも、三日後に生き返る
2.黄泉の国で体験したことを、広国はありありと語り始める
3.死別していた妻は、夫を憎み妬んだ罪により、苛烈な仕打ちを受けている
4.同じく死別していた父にも出会う
5.父は生前に犯した数々の罪のために、熱した銅柱を抱かされ、鉄釘を37本打ち込まれ、朝300、昼300、夜300、合わせて900回も、毎日鉄の鞭で打たれる
6.父は広国へ、「仏を造り、経を写し、父の罪苦を償ってくれ」と語る
7.父が死んだ直後、飢えた父は、大蛇、狗犬(赤犬=子犬)、そして猫に姿を変え、三度、広国の家に行った。
8.父、米一升を布施すると、黄泉の国での三十日分の食物に...などと、布施による功徳を語る
9.良きにつけ悪しきにつけ、さまざまな生前の報いを目にした広国は、幼い時に観世音経を写経した功徳により、黄泉の国の門を出て蘇生した、と体験の一部始終を語る
10.広国はこの体験談を記録し、世間に広める
11.そして、父のために仏を造り、経を写し、三宝を供養して、父の罪を償い、広国自身も正道へと赴いた
(※こちらの、高明寺のサイトにも該当説話の概要が記されています。猫は出てきませんが)
猫が出てくるのは、ストーリー7のところ。正月一日に、亡き父が猫へと姿を変えて、息子の広国の家に来た部分の書き下し文を引用しましょう。
「我れ飢ゑて七月の七日に大蛇に成りて、汝が家に到り屋房に入らむとせし時に、杖を以ちて懸け棄てき。また五月の五日に赤拘に成りて、汝が家に到る時に、犬を喚びて相はせ、 咋ひ追ひ打たしめしかば、飢ゑ熱ひて還りき。我れ正月の一日に狸に成りて、汝が家に入りし時に、 供養の飯と宍と種の味き物とに飽く。是を以ちて三年の糧を継ぎき。」
生前に数多の罪を犯した報いを、黄泉で受け続ける広国の父が語る部分の一節。飢えた父は、動物に姿を変えて、現世に現れます。7月7日に大蛇、5月5日に狗犬(あかいぬ:子犬のこと)、正月一日には猫となり、広国の家に現れたと語っています。
猫について考える上で、「大蛇」「狗犬」と、猫との関係性、そして並列の関係にある「五月五日」「七月七日」「正月一日」が気に掛かるところ。
ちなみに、上記の書き下し文の底本とした『新古典文学大系』の註では、
「七月七日ヘビ、五月五日イヌ、一月一日ネコ、という叙述が、どのような進行や習俗を背景にもつのかは不明。六八七年七月七日「巳」、六八八年五月五日「戌」、六八九年一月一日「寅」、といった十二支の配列に関係があるか。」との指摘があります。また、『日本霊異記』から後に編纂された『今昔物語集』にも、この広国の説話は収録されており、同じ『新古典文学大系』の『今昔物語集』の第二十巻「豊前国膳広国、行冥途帰来語 第十六」の該当箇所の註釈によれば、「節日に応じて動物の待遇も異なり、猫が最も優遇される。」との指摘がありました。しかし、「虎=猫」と見るのは、他に事例がなく、辞書で調べたところで理解するに、少々無理があるように思えますし、また、節日と動物との関わりも説得力に欠けるように思われます。と、もやっとしながら『新編 日本古典文学全集』の現代語訳と註釈を参照したところ、この疑問に対する回答とするに足る説得力がありました。
死んだ最初の年、わたしは飢えて、七月七日に大蛇となっておまえの家へ行き、家の中へ入ろうとした時、おまえは杖で引っかけてわたしを捨てた。また、翌年の五月五日に赤い小犬となっておまえの家へ行った時は、ほかの犬を呼んでけしかけ、追っ払わせたので、食にありつけず、腹だたしく帰って来た。ただ、今年の正月一日に、猫になっておまえの家に入りこんだ時は、昨夜の魂祭(たままつ)りで供養のため供えてあった肉やいろいろのご馳走を腹いっぱい食べて来た。それでやっと三年来の空腹を初めていやすことができたのだ。(『新編 日本古典文学全集』より抜粋)
つまり、「亡き父が姿を変えた猫」は、前日の大晦日の祖先供養のお供えを、人目を盗んで食べるために、人気の引いた正月一日に、広国の家に上がり込んだ、という解釈です。七月七日は七夕、五月五日は重陽、そして大晦日の翌日である正月一日の共通点は、供え物を捧げて祀る日で、大蛇・狗犬・猫に姿を変じたのはいずれもそれを狙ったとすると、3つの日にちが並ぶのも理解に難くありません。
魂祭りは、現在はお盆に行われる、先祖の霊を迎える祭りですが、『日本国語大辞典』の「たままつり(魂祭・霊祭)」の語誌によれば「平安時代には、一二月の晦の日に行なわれていたことが「後撰‐哀傷・一四二四」の「妻にまかりおくれて侍りける師走のつごもりの日ふること言ひ侍りけるに 亡き人のともにしかへる年ならは暮れ行く今日は嬉しからまし〈藤原兼輔〉」や、「和泉式部続集‐上」の「しはすの晦の夜 なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂(たま)なきの里」などからわかる。(『日本国語大辞典』「たままつり(魂祭・霊祭」の項より)」とのことで、古くは大晦日に行われていました。もしかしたら、大蛇、狗犬と二度、食べ物にありつくのに失敗したのに、猫となった3回目に、首尾よく食にありつけたのは、先祖供養の祭りだったことも影響しているのかもしれません。
加えて、これは想像にすぎませんが、説話のなかで「猫が供物を盗み食いしてしまう」というシーンが語られているのには、そのシーンを見聞きした経験が筆者にあったか、この説話を受容する階層の人々の間では、ごく一般的に見られる光景だったのではないかと思われます。また、なぜ他の動物ではダメだったのか、という視点で猫がこの箇所に登場した理由を考えると、「猫でなくては入れない屋内」「猫じゃなくちゃ飛び乗れない高台」に供物があったとの想像も膨らみます。平安期の日本人に「猫は、供え物を放っておくと、咥えて持って行ってしまうやつ」という感覚があったとすれば、猫と当時の日本人とは、比較的身近な距離にいたことがうかがえます。
お魚咥えたドラ猫を追っかけるのは、サザエさんの時代ではなく、平安時代から綿々と続いてきた話......なのかもしれませんね。
猫の日本史 / 「猫」の初出史料は何か

 

ネコンテンツ大国のルーツを、ちまちまと探ります。統計や検証による裏付けがなされているわけではありませんが、「日本人は猫好き」といった言説はよく耳にするところです。個人的な観測範囲では、猫ジャーナルの1セッションあたりのPV数などを見ると、一般的なサイト等と比べて妙に高い数値でして、「日本の猫好きが『猫を好き』な度合いは、やたら強い」点には首肯できるように思います。まあ、自身もその中の一人ではありますが。
猫を愛でる文化が日本にはあるならば、「じゃあ、それはいつごろから続いているのか」という点が気になりまして、初歩的ではありますが、史料上の初出を調べてみました。
日本史における猫の話を探ると、辞書にて史料として挙げられるのは、日本最古の説話集『日本霊異記』の記述です。ちなみに正式名称は『日本国現報善悪霊異記』。恐らく、こちらが「家猫」に関する、日本の史料における最古の記述と思われます。
「我(われ)、正月一日に狸(ねこ)に成りて汝(なむぢ)が家に入りし時、供養(くやう)せし宍(しし)、種(くさぐさ)の物に飽(あ)く。是(ここ)を以(も)て三年の粮(かりて)を継(つ)げり。」(霊異記、上三十)−平凡社『字訓』より
「我、正月一日−−[狸 禰古]になりて汝が家に入りし時」<霊異記・上・三十・訓釈>−小学館『古語大辞典』より
「我、正月一日狸[祢古]に成りて汝が家に入りし時」<国会図書館本霊異記訓釈 上・三十>−角川学芸出版『古典基礎語辞典』より
*霊異記〔810〜824〕上・三〇「我、正月一日狸(ネコ)に成りて汝が家に入りし時、供養せし宍(しし)、種(くさぐさ)の物に飽く。〈興福寺本訓釈 狸 禰己〉−小学館『日本国語大辞典』より
慶応義塾大学大学院でアメリカ経済誌と中南米古代文化を研究されていた木村喜久弥氏が、昭和29年に自費出版した『ねこ −その歴史,習性,人間との関係−』(1976年に新装版が、法政大学出版局より出版)の記述によると、上記の「狸/禰古・祢古」の初出部分の概要は下記の通り。
「豊前国宮子郡の膳(かしわで)の臣(おみ)広国(ひろくに)が文武天皇の慶雲二年九月十五日(西紀七〇五年)に死んだ。そして三日にして蘇り、その亡父がネコになって、三年という年月をその息子の家で飼われていたというのであるが、ただそれだけのことで、ネコの由来についてはまったく知る由もないのである」(『ねこ −その歴史,習性,人間との関係−』P70より抜粋)  
 
実在した「祟り神」早良親王

 

早良親王は平安遷都を行った桓武天皇の実弟
鳴くよ(794)ウグイス平安京。この語呂合わせ、テスト勉強から遠く離れても覚えているものですね。奈良時代後期に父親である光仁天皇の後を継いで即位し、784年に長岡京へ、794年に平安京へと遷都を行ったのが桓武天皇(即位前の名は山部親王)。早良親王は桓武天皇の同母弟で、兄を呪って平安京へ遷都をさせたといわれている人物です。一体、兄弟に何があったのでしょうか。
山部親王と早良親王の母親は、身分の高い女性ではありませんでした。そのため、山部親王は中務卿(なかつかさきょう)として朝廷に勤め、早良親王にいたっては若いころに寺に預けられていました。2人とも天皇になる予定のない皇子だったのです。しかし当時の有力貴族である藤原氏の策略によって、どんでん返しが起こります。山部親王を天皇に担ぎ上げようとしたのは、ときの権力者だった藤原百川(ももかわ)。光仁天皇の皇后と皇太子を「天皇を呪い殺そうとした」という罪で追放し、山部親王を新たに皇太子として擁立したのです。そして781年に桓武天皇として即位すると、早良親王が皇太子になりました。後ろ盾の弱い天皇のほうが、藤原氏には都合がよかったのかもしれません。百川は自分の娘である藤原旅子を桓武天皇の夫人(後宮で妃に次ぐ位)として、姻戚関係を結んでいます。
祟り神になったきっかけは長岡京への遷都
奈良時代には孝謙上皇が道鏡という僧侶を寵愛したことをきっかけに、仏教寺院が政治への関わりを強めていました。律令政治を取り戻そうと道鏡を左遷したのが光仁天皇。後を継いだ桓武天皇はさらに都を移すことで、仏教と政治を引き離そうとします。
長岡京の造営を命じられたのは早良親王と、桓武天皇を天皇の座へと押し上げた藤原百川の甥にあたる藤原種継。しかし、ふたりの仲はあまり良くなかったと伝えられています。そして長岡京遷都の翌785年に藤原種継が暗殺される事件が発生。その首謀者として捕らえられたのは早良親王でした。
皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された早良親王は無実を主張し、自ら飲食を断ちます。けれども命を懸けた抗議もむなしく淡路に流されることが決まると、移送の途中で絶命してしまうのです。
祟りを恐れた兄によって怨霊から神へ
その後、桓武天皇のまわりを立て続けの不幸が襲います。妻や母親など身近な人が次々に亡くなり、ついには早良親王に代わって皇太子となった息子までが病に倒れ……。怨霊による災いだと恐れた桓武天皇は、淡路に葬られていた早良親王に崇道(すどう)天皇という称号を送り、奈良県の八島陵に改葬をします。そして荒ぶる魂が鎮まるようにと、京都の御霊(ごりょう)神社に崇道天皇を祀りました。
これが御霊信仰の始まりで、平安時代の人々はこの世に恨みを残して亡くなった魂、すなわち御霊(みたま)が天災や疫病などの祟りを起こすことのないよう、神として祀るようになっていきます。
早良親王は無実だったのか?その真相は……
長岡京遷都からわずか10年後の794年に桓武天皇が平安京へと遷都を行ったのは、度重なる洪水の被害があったからという説と、早良親王の怨霊から逃れるためという説が有力です。怨霊を恐れていた桓武天皇には、きっと洪水さえも祟りのように感じられたことでしょう。
早良親王が本当に怨霊となって桓武天皇を祟ったのかどうか、真実はわかりません。早良親王が藤原種継暗殺の首謀者だったのか、無実の罪を着せられたのかも、真実は謎に包まれています。けれども、桓武天皇がこれほどまでに怨霊を恐れたということは、もしかしたら秘められた事件の真相があったのでは。そんな想像をかき立てられる、実在した祟り神のエピソードです。 
 
日本霊異記

 

平安初期の仏教説話集。正しくは『日本国現報善悪霊異記』。「にほんれいいき」とも読む。三巻。薬師寺の僧景戒(きょうかい)著。822年(弘仁13)ごろ成立。雄略(ゆうりゃく)天皇から嵯峨(さが)天皇までの説話116条を上・中・下三巻に分かち、年代順に配列する。各巻冒頭には序文を付す。所収話の多くは、書名に記されたごとく、善悪の応報を説く因果譚(いんがたん)である。上巻序文には、混迷する世相のなかで、応報の仮借なきありようを示すことで、人心の善導教化を図ろうとする著者の意図が明瞭(めいりょう)に述べられている。唐の唐臨『冥報記(めいほうき)』などの影響を受けて撰述(せんじゅつ)され、話型そのほかにこうした中国渡来の説話集との類縁を示すものも少なくない。しかし、所収話のすべては日本国のできごととして把握され、むしろ仏験の霊異がわが国にも及びえたことの不思議を随喜し、この国を天竺(てんじく)、唐土に比肩すべき土地として、矜持(きょうじ)とともにとらえようとする姿勢が顕著に現れている。これらの所収話の多くは、著者の生きた奈良朝末から平安初期の仏教界の最底辺に語り伝えられた話であり、説話の内部に著者の私度僧(しどそう)時代の布教体験が色濃く影を落としている。当時、私度僧の理想像であった行基(ぎょうき)を「隠身(おんしん)の聖(ひじり)」の顕現として高く評価していることも、そうした私度僧の信仰の実態を反映するものといえよう。一方、本書には、聖武(しょうむ)朝をわが国仏教史の頂点として位置づけ、中巻のすべてをこの時代の説話で埋めようとする姿勢もみいだされ、特異な歴史意識の現れをうかがうことができる。本書の説話には、前代までの神祇(じんぎ)信仰が仏教的な世界に包摂・同化される過程が鮮明に描き出されており、官寺仏教とは異なる民間仏教草創期の信仰の様態を知るうえで興味深い。現存するわが国最初の仏教説話集として、後の『法華験記(ほっけげんき)』『三宝絵詞(さんぼうえことば)』『今昔(こんじゃく)物語集』などに多大な影響を与えた。伝本には、真福寺本、興福寺本、前田家本、来迎(らいごう)院本などがあるが、その訓釈は、国語史の資料としても貴重である。
平安初期成立の仏教説話集。3巻。《にほんれいいき》とも読み,また《日本国現報善悪霊異記》,または《霊異記》ともいう。薬師寺の僧景戒の著。漢文で書かれた日本最古の説話集で,因果応報の日本における実例の奇事を示し,善行をすすめる唱導教化の書。《三宝絵詞》以下の諸説話集への影響が大きく,古語研究の資料としても重要。
平安時代前期の仏教説話集。「にほんれいいき」とも読む。薬師寺の僧景戒著。3巻。弘仁年間 (810〜824) 完成。書名を正しくは『日本国現報善悪霊異記』というように,善悪の行いが仏力によって現実に報われたことを語る説話を集成したもの。日本の仏教説話集としては最も早いもので,仏教文学に多大の影響を与え,思想史のうえでも重要な文献。
仏教説話集。「にほんれいいき」ともいう。三巻。薬師寺の僧、景戒撰。弘仁年間(八一〇‐八二四)頃成立。雄略朝から嵯峨朝に至る因果応報説話一一六篇を、ほぼ年代順に漢文体で記述。日本最古の仏教説話集。正称は日本国現報善悪霊異記。霊異記。
平安前期,日本最古の仏教説話集。正しくは『日本国現報善悪霊異記』という。822年ころ成立。全3巻。奈良の薬師寺の僧景戒 (けいかい) の編著。仏教思想に基づく因果応報の説話が多い。唱導文芸で,『今昔物語集』などの説話文学の源流をなす。
平安前期の日本最古の仏教説話集。3巻。景戒けいかい・きょうかい著。弘仁14年(823)ごろ成立。異聞・因果談・発心談など116の説話を、日本風の漢文で記したもの。日本国現報善悪霊異記。霊異記。にほんれいいき。
仏教説話集。日本の説話文学集の始祖的作品。〈にほんれいいき〉とも呼び,正式書名は《日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりよういき)》,通称《日本霊異記》,略して《霊異記》ともいう。奈良薬師寺の僧景戒(けいかい‖きようかい)撰述。成立は最終年紀の822年(弘仁13)以後まもないころ,ただし787年(延暦6)には原撰本が成るか。上中下3巻に116条の話を収める。各巻に序があり撰述目的も記す。
…仏教の基本的考えである因・縁・果・報の認識をもとに,宗教的達成をめざすための教えであるが,結果的には勧善懲悪的な役割を果たした。早くから,仏教が日本人に教えたことであったが,平安時代初頭の《日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)》にはこれが横溢している。この教えのすこぶる普及したことは,多くの因果応報説話によっても知られる。…
…〈きょうかい〉とも呼ぶ。日本の説話文学集の創始とされる《日本霊異記(りよういき)》(822ころ)の撰述者。景戒に関してこれが唯一の資料である。…
…このように水平的な方向に他界を想定する記紀神話の見方は,仏教の影響をうけたのちにも基本的に変化することがなかった。たとえば平安初期に作られた日本最初の仏教説話集である《日本霊異記》においては,記紀神話に固有の黄泉―常世観と仏教の地獄―極楽観が重層的に表現されているが,そこでは極楽と地獄が上下の関係においてではなく同一の平面に配置され,現世の地上世界との連続感が強調されている。 日本人の地獄観で第2に重要なのは,山中に地獄を想定したという点である。…
…それがある意図のもとに集成されたものが説話集で,説話文学は独自の文学的領域を形成している。 わが国での説話の採録は記紀以前にさかのぼるが,集的形態をとるようになったのは奈良時代末から平安初頭にかけての時期で,現存最古の説話集は9世紀初頭に成った《日本霊異記(にほんりよういき)》である。中国伝来の類書にならい,前代以来の本朝仏教説話を集録して因果応報の理を説いた作品である。…
… 日本では,輪廻説は仏教とともに受け入れられた。とくに平安初期に成立した《日本霊異記》のなかに輪廻と応報の諸相が描かれている。インド型の輪廻転生説がどちらかというと過去,現在,未来にわたる時空のなかで考えられているのに対して,《日本霊異記》に表現されている輪廻説は現世主義的な傾向を示しているということができ,その後の日本人の輪廻観をよくあらわしている。…  
 
日本霊異記 第十五話

 

仏教説話集。三巻。薬師寺の僧景戒けいかい著。「ニホンレイイキ」とも読む。正しくは『日本国現報善悪げんぽうぜんあく霊異記』。弘仁十四(823)年前後に成立。雄略ゆうりゃく朝から嵯峨さが朝までの説話116篇を、ほぼ年代順に漢文体で記述。主として仏教の因いん果が応報おうほうの原理が説かれている。わが国最古の説話集。霊異記。
悪人、乞食こつじきの僧を逼おびえかして、現に悪報を得し縁えに 第十五
昔、故ふるき京みやこの時に、一ひとりの愚人有りき。因果を信うけず。僧の食じきを乞ふを見て、忿いかりて撃うたむと欲おもふ。
時に、僧、田の水に走り入る。追ひて執とらふ。僧、忍ぶること得ずして、咒縛じゅばくす。愚人顛沛たふれ、東西かにかくに狂ひ走る。僧、即すなはち遠く去り、眄瞻かへりみること得ず。
其の人に二ふたりの子有り。父の縛を解かむと欲おもひ、便すなはち僧の房に詣いたりて、禅師を勧請くわんじやうす。禅師、其の状かたちを問ひ知りて、行き肯かへにす。二ふたりの子、懃ねもころに重ねて拝をろがみ敬ゐやまひ、父の厄やくを救はむことを請ふ。
其の師、乃すなはち徐おもふるに行き、観音品くわんおんぼんの初段を誦じゆし竟をはれば、即すなはち解脱げだつすること得たり。然しかして後に、乃すなはち信心を発おこし、邪を廻めぐらして正に入りき。 
 
『日本霊異記』と安宿郡の寺院

 

日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』は、景戒によって弘仁13年(822)ごろにまとめられたと考えられています。仏教の教えに基づく戒めなどの話を集めたものですが、奈良時代ごろの寺院のあり方や人々のくらしのようすなどがわかる貴重な史料です。その『日本霊異記』に安宿郡の寺院が二箇所に登場します。
一つは下巻第5話に、「河内国安宿郡部内、有信天原山寺」がみえます。この寺の僧が施し物の銭を盗んだが、菩薩の力によってばれてしまうという話です。「信天」は「しで」と読むようです。「信天原山寺」は一般には「信天原の山寺」と読まれていますが、「信天の原山寺」と読むこともできます。この寺とは、「原山」という小字名の地にある原山廃寺のことではないでしょうか。ただし、「信天」に関連する地名をみつけることはできません。この話には「河内市辺井上寺」もみえます。井上寺は石川の左岸にある衣縫廃寺のことで、市とは恵我市のことでしょう。石川の対岸とも頻繁な交流があったことがわかります。
もう一つは、中巻第7話にみえる智光の出身寺院として鋤田寺という寺院がみえます。「釈智光者、河内国人、其安宿郡鋤田寺之沙門也。俗姓鋤田連、後改姓上村主也。母氏飛鳥部造也。」とある。智光は元興寺三論宗の僧で、「智光曼荼羅」で有名な元興寺を代表する僧です。この話は行基のことを妬んだ智光が地獄に堕ちて苦しむという話ですが、その智光が安宿郡の鋤田寺の出身だったということです。この鋤田寺は東条尾平廃寺に想定されています。そして、その地が開発されるときに、元興寺仏教民俗研究所が発掘調査しています。場所は亀の瀬に近い国道25号の南側、現在金属鉄工団地となっているところです。しかし、前回紹介したように智光の住持した8世紀中ごろに遡る寺院は確認できませんでした。
なぜ東条尾平廃寺が鋤田寺跡とされてきたのか、確かな理由がわかりません。もしかすると、ほかの寺院が鋤田寺かもしれません。河内国分寺跡から古い瓦が出土することから、国分寺の前身寺院をあてる説もあります。鋤田寺跡がどこにあったのかは今後の課題ですが、智光の母が飛鳥部(戸)氏だったことも注目されます。智光のような僧侶を生み出す仏教的世界が安宿郡にあったのだと考えられます。 
 
日本霊異記の「役行者」物語

 

日本霊異記 上 第二十八に、役行者の説話があります。続日本紀の話に尾ひれがいっぱいついて、面白さが増しています。説話中の、役行者が流罪から許された年については、続日本紀については記載がないのですが、日本霊異記の記すところは辻褄が合います。役行者の出身地の話と共に、これは事実だったと信用していいのではないかと感じます。なかなか捕まらないので母親を囮逮捕したとか、具体性を持つ場面の中にも、史実だったかもしれないなあ、と思わせてくれるものがあります。
孔雀王の咒法を修持し、異(めづら)しき験力を得て、
 現に仙となりて天に飛びし縁(えに) 第二十八

 

( 日本国現報善悪霊異記 上巻 ) 
役(え)の優婆塞は、賀武(かも)の役の公(きみ)、今の高賀武(たかかも)の朝臣(あそみ)といふ者なりき。大和の国葛木の上(かみ)の郡(こほり)茅原(ちはら)の村の人なりき。生(うまれながら)に知り、博学なること一を得たり。三宝を仰ぎ信(う)け、以て業(わざ)とす。
毎(つね)に庶(ねが)はくは、五色の雲に挂(かか)りて沖虚(ちゅううきょ)の外に飛び、仙宮の賓(まらひと)と携(たづさ)はりて、億載の庭に遊び、蘂蓋(ずいがい)の苑(その)に臥伏(ふ)して養性の気を吸ひくらはむことをねがふ。所以(このゆゑ)に、晩(く)れにし年四十余歳を以て、更に巌窟(いはや)に居り、葛(かづら)を被(き)、松を餌(の)み、清水の水を沐(あ)み、欲界の垢を濯(すす)きて、孔雀の咒法を修習(しゅじふ)し、奇異(あや)しき験術を証得せり。
鬼神を駈(お)ひ使ひ、得ること自在なり。諸(もろもろ)の鬼神を唱(いざな)ひ、催して曰はく
「大倭(やまと)の国の金(かね)の峯(たけ)と葛木の峯とに橋を度(わた)し、通はむ」といふ。
是(ここ)に神等(かみたち)皆愁ふ。
藤原の宮に字御(あめのしたをさ)めたまひし天皇(すめらみこと)のみ世に、葛木の峯の一言主の大神、託(くる)ひ讒(しこ)ぢて曰(まう)さく、
「役の優婆塞、謀(はかりごと)して天皇を傾(かたぶ)けみとす」とまうす。
天皇、勅(みことのり)して、使を遣(つか)はして捉(とら)へしめたまふに、猶し験力(げんりき)に因りてたやすく捕へられず。故(そゑ)に其の母を捉ふ。優婆塞、母を免(まぬか)れしめむが故に、出で来て捕へられぬ。
即(すなは)ち伊図の嶋に流しき。
時に、身は海上に浮びて走ること陸(くが)を履(ふ)むが如し。体(み)は万丈に踞(うずくま)り、飛ぶことはふる鳳(おほとり)の如し。昼は皇(おほきみ)の命(みこと)に随(したが)ひ、嶋に居て行ひ、夜は駿河の富祇(ふじ)の嶺(たけ)に往きて修す。然(しか)して、斧鉞(おのまさかり)の誅(つみ)を宥(かく)れて、天朝(みかど)の辺りに近づかむと庶(ねが)ふ。故(そゑ)に、殺剣の刃を伏せて、富祇(ふじ)の表(ふみ)を上(たてまつ)る。斯(こ)の嶼(しま)に放(はなた)れて、憂へ吟(によ)ひし間、三年に至る。是(ここ)に慈(いつく)しびの恩(めぐみ)を垂れ、大宝元年の歳の辛丑(かのとうし)に次(やど)る正月を以て、天朝の辺りに近づかしむ。遂に仙と作(な)りて天に飛びき。
吾が聖朝(みかど)の人、道照法師、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて、法を求めむとて大唐に往きき。法師、五百の虎の請(ねが)ひを受けて、新羅に至り、其の山の中に有りて法花経を講ず。時に虎衆(とらども)の中に人有り、倭語を以て問ひを挙げたり。法師、
「誰そ」と問ふに、答ふらく「役の優婆塞なり」とこたふ。法師思へらく「我が国の聖人(しゃうにん)なり」とおもひ、高座より下りて求むるに无かりき。
彼(そ)の一言主の大神は、役の行者に咒縛せられて、今の世に至るまで解脱せず。其の奇(あや)しき表(しるし)を示ししこと多数(あまた)にして、繁きが故に略するのみ。是に知る、仏法の験術は広大なりといふことを。帰依する者(ひと)は必ず証得せむ。
語彙
三宝:仏・法・僧。仏法でもっとも大切とされるもの。
五色:青・黄・赤・白・黒。たくさんの色。
沖虚:奥深くてむなしいこと
仙宮:この語での記載を手持ち辞典で見出せませんでした。仙人の宮殿。
億載の庭:億=数が多い。載=載せる、頂く。億載=一億年、永遠。庭=家の中。仙宮をさすのだろう。
蘂蓋の苑:群がり生える草木に覆われた園。蘂は香草とも(テキスト注)
養性の気:性=もちまえの本質。健全さをさすのか? 健全さを養う空気?
孔雀の咒法:
験術:手持ち辞書に記載無し。験=こころみ、しるし、ききめ。術=方法。わざ、神秘的な行い。
証得:手持ち辞書に記載無し。修行の成果として実際に体得すること(テキスト注による)。
鬼神:あらあらしく恐ろしい神。(漢和)死者の魂。人の霊魂と天の神。
金の峯:テキストに「葛木山系の金剛山」とするのに従う。吉野の金峰山が通説で話として面白くなるが、だが地理的に遠すぎる。
葛木の峯:金剛山の北4キロ。
藤原の宮に字御めたまひし天皇:文武天皇
一言主の大神:
託(くる)ひ讒(しこ)ぢて:手持ち辞書に記載無し。物の怪が取り憑いて悪しざまに告げ口をする。(しこぢて、が古語辞典にもありません。それぞれ漢字の意味から推定した意味。)
伊図の嶋:伊豆の島。伊豆諸島のどの島なのでしょうね? いちおう、伊豆大島とされていますね。
斧鉞の誅:おのさまかりのつみ。死罪
富祇の嶺:富士山
憂へ吟ふ:愁訴する、といった意味でしょう。によふ=うめく。
現代語訳

 

役の優婆塞(在俗仏道修行者)は賀茂氏に属する役の公、今の高賀茂の朝臣を出自とする人であった。大和国の葛木上郡茅原村(現:奈良県御所[ごせ]市茅原)の人だったそうだ。生まれながらにかしこく、博学なことでは随一と評判だった。仏教をあつく信仰して、それを日常の営みとしていた。
いつもたかくのぞんでいたのは、彩り豊かな雲に乗って深々とし広々としているそのまた外に飛んで行き、天の仙人たちの宮殿の客と一緒に、その宮の永遠の庭を満喫し、香のいい種々に覆われた園に大の字で寝そべって爽やかこの上ない空気を旨いっぱいに吸うことだった。そうしたわけで、仕事も引退した四十を超えた年齢になって、いままでよりいっそう巌窟にこもり、蔓草の粗末な衣服をまとい、松の実を食料とし、清らかな水で沐浴し、世俗の垢を洗い落として、孔雀の咒法を習い修めて、その結果として不思議な験術を身につけたのだった。
あらあらしい神たちをこき使って、好き勝手な成果を得た。いろいろな鬼神を呼びつけ、催促して、
「大和国の金剛山と葛木山の橋を架けて行き来したい」と言った。
それで神々はみな気が滅入った。
文武天皇の治世に、葛木山の一言主神が巫女に憑いて告げ口して上申した。
「役の優婆塞が謀略で天皇を失脚させようとしています」と。
天皇が命令を発して使者を送って役の優婆塞を捉えようとしたところ、役の優婆塞が不思議な能力を発揮してなかなか捕まえられない。それでその母親を捕えた。役の優婆塞は母親を解放するために出て来て捕まってしまった。
即刻、伊豆大島への流罪に処した。
流されたものの、その体は海上に浮かぶようにして走るのは陸を行くのと変わりがなかった。昼は朝廷の罰に従って島にとどまって過ごし、夜になると富士山に行って修行した。そのようにしながら、死罪は免れて朝廷に近侍したいと願っていた。伊豆大島に放逐されて愁訴しているうちに、大宝元年の正月になって許されて朝廷に近侍し得た。ついには仙人となって天に飛んで行った。
日本人の道照法師が朝廷の命令を受けて仏法を極めるべく中国(大唐)に留学した。法師は五百匹もの虎が請い願うのを受けて、朝鮮半島の新羅国に出向き、その山の中に行って法華経の講義をした。そのときに虎たちの中に人間がいて、日本語で質問の声をあげた。道照法師が
「どなたですか」と訊くと、答えて「役の優婆塞です」という。法師は「日本の聖人ではないか」と思って、講演の高い席から降りて探したのだったが、園姿を見つけることは出来なかった。
例の一言主神は、役の行者に呪い縛り付けられて、今の世に至っても解き放たれずにいる。その神威はそれでもたくさん示されていて、いちいち上げたらきりがないので、事例を述べるのを省略するしかない。
以上で分かるのは、仏法の公験が広大だと言うことだ。帰依する人は必ず悟りを得ることが出来るだろう。 
 
日本霊異記 第二十二話

 

日本霊異記は、正式には日本国現報善悪霊異記と呼び、平安時代初期に編纂された我が国最初の説話集であります。特に仏教関係の物語をまとめており、奈良時代の世相が記述されています。この日本霊異記の第二十二話に登場する信濃国小県郡の跡目の里は、大法寺近くの当郷地区とされております。このことから、今から1,200年以上昔の奈良時代から、大法寺がある上田・小県地域が政治的に文化的に非常に発展しており、仏教が根付いていたと考えることができます。
第二十二話は、仏教において最も重要な考え方である因果応酬について語られております。生前に、細工を加えた秤を使って不正に財産を蓄えた者が、死後に地獄において大変な目にあう一方で、生前に写経を行ったことから救われたとしております。奈良時代において、法華経を写経することがいかに善行であったかをうかがい知ることができます。また納経を行ったしるしとして、札を作成していたことも書かれており、納経帳(御朱印)に似たようなことが奈良時代より行われていたと想像されます。
第二十二話

 

重いはかりで貸した物を取りたて、「法華経」を書き写して、この世で善悪二つの報いを受けた話
一、他田舎人蝦夷、冥界にいたる
他田舎人蝦夷(おさだのとねりえみし)は、信濃国小県郡の跡目の里の人でした。蝦夷は財産が豊かで、お金や稲を貸して過剰の利息を取っていました。また一方で蝦夷は仏教を信じており、「法華経」を二度書き写し、その度ごとに法会を催し購読しました。しかしある日、蝦夷が思い返してみると、まだどうにも満足できないので、謹んで三度目の洗写を行いました。ただし、三度目は完成の供養をしませんでした。
宝亀4年(773年)の四月下旬に、蝦夷は急に死んでしまいました。妻子たちは相談して、「丙の年であるから火葬にしないでおこう」と決めて、埋葬の場所を定めお墓を作り、亡骸を安置しました。ところが不思議なことに、蝦夷は死んだから7日経つと、急に生き返り次のように語りました。
「四人の使者がやって来て、私は連れていかれた。初めは広々とした野原があり、次に急な坂があった。坂を上りきると大きな建物があった。その建物のところに立ち見渡すと、大勢の人々がほうきで道を清掃しながら、「「法華経」を書き写した人がこの道をお通りになるので、私たちが掃除をしているのです」 と言っていた。私がそこへ行くと、人々は私を待ち構えておりお辞儀をした。その先には広さ一町ほどの深い川があり、橋を渡してあった。そこでも大勢の人々が集まって橋を修理しながら、「「法華経」を書き写した人がこの橋をお渡りになるので、私たちが修理をしているのです」と言った。私がそこへ行くと、ここでも人々は私を待ち構えておりお辞儀をした。
橋を渡っていくと黄金の宮殿があり、宮殿の中に閻魔大王がいらっしゃった。橋のたもとには、三つの分かれ道があった。一つは広く平坦であり、一つは草が少し生い茂っており、もう一つの道には草がぼうぼうと茂って道もふさがっていた。私はその道の前に立たされた。そして四人のうち一人の使者が宮殿に入っていき、「あちらに、その者を召し連れて参りました」 と申し上げた。閻魔大王は私を見て、「あれが「法華経」を書き写した者か」とおっしゃって、草の少し茂った道を指示し、「あの者をこの道に連れて行くように」とお命じになった。
四人の使者は私に付き添って草の少し生い茂った道を地獄まで連れて行った。そして熱い鉄の柱のところに行き、私にその熱い鉄の柱を抱くように命じた。そして更に、鉄を編んで熱く焼いたものを私の背中に押し付けた。この刑を三日三晩受けた。次に熱い銅を鉄のときと同じように抱かせ、同じく編んで熱くしたものを私の背中に押し付けた。この刑も三日三晩続いた。これらの熱さはまるでおき火のようであった。鉄や銅は熱いといっても耐えられない熱さではないが、そうかといって決して楽なものではない。編んだ鉄や銅は重いが、これも耐えられない重さではない。しかし決して軽くはない。生前の悪行の報いであるから、ただ自然と鉄や銅を抱き、背中に負う気持ちになった。
二、蝦夷、法華経を写す功徳により、冥界より生還す
三人の僧が私のところに来て、「そなたはこのような目にあわれる理由をわかっているか」と訊ねた。そこで私は、「まったくわかりません」と答えた。僧はふたたび、「そなたは現世で何かよいことをされたか」と訊ねた。それで、「私は「法華経」三部を書き写しました。しかしまだ一部は完成の後に、供養をしておりません」と答えた。
その時、僧が札を三枚だした。二枚は金の札であり、一枚は鉄の札であった。また秤を二基出した。一基は同じ量目で稲一束分だけ重くかかる。一基は同じ量目で稲一束分だけ軽くかかるようにできていた。そして僧は、「札を調べてみると、実際にそなたが言われたとおりです。そなたは、真心をこめて三部の「法華経」を写された。しかし「法華経」を写した一方で、重い罪をも作った。それは何か。そなたは二つのはかりを利用し、人に貸すときは軽いはかりを使い、徴収するときは重いはかりを使った。だから、そなたは閻魔大王に呼ばれたのだ。しかしもうよろしい。すぐに現世に帰ってよろしい。」といった。
私が冥界からこの現世に帰ってくると、途中では以前と同じように大勢の者がほうきで道を掃除したり、橋を作ったりして、「「法華経」を書写した人が閻魔大王の宮殿から帰ってこられた」と話していた。その橋を渡り終え、ふと見ると私は生き返っていたのだ」と語った。
そしてその後、蝦夷は三度目に写したお経を、信心の心を起こして購読し供養をした。
善を行えばよいことが招き寄せられ、悪を行えば災いがやってくることが、この話で語られております。善悪の報いは決して消え失せることはありません。そのため、蝦夷は同時に二つの報いを受けたのです。だから人はもっぱら善を行い、悪をしてはならないのです。  
 
日本霊異記より三話

 

愛欲の心を起して、吉祥天女の像を慕い、
 心が通じて不思議なことが起った話  第十三
和泉の国の和泉の郡の血渟(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の土製の像があった。聖武天皇の御代に、信濃の国の優婆塞(うばそく…在俗のまま仏道を修めている修行者)がその山寺に来て住んだ。優婆塞はこの天女の像を流し目で見、愛欲の心を募らせ、ひたすら恋い慕って、一日六度の勤めごとに、「天女のような顔のきれいな女をわたしに与えてください」と祈り願った。この優婆塞、ある夜天女の像と交接した夢を見た。明くる日に天女の像をよく見ると、裳(も…古代の女性が腰より下に着けるスカート)の腰のあたりに、不浄の物が染みついて汚れていた.優婆塞はそれを見て、恥ずかしさに、「わたしは天女さまに似た女が欲しいと顧っておりましたのに、どうして畏れ多くも天女さま御自身がわたしと交接されたのですか」と申しあげた。                                   
しかし実際恥ずかしくてこのことはだれにも言わなかった。ところが、弟子がひそかにこのことを聞き知った。後日、その弟子が師となる優婆塞に礼を尽くさないので、師は叱って追い出した。弟子は追われて里に出て、師の悪口を言い、吉祥天女との情事をあばき立てた。里人はこのことを聞き、行って真偽のほどを確かめた。なるほどその像を見ると、淫水で汚れていた。優婆塞は事を隠しきれずに、詳しくわけを話した。深く信仰すると、神仏に通じないことはないということがほんとうにわかる。これは不思議なことである。涅槃経に、「多淫の人は絵に画いた女にも愛欲を起す」と述べておられるのは、このことをいうのである。
悪夢を見たので、誠心をこめて読経してもらい、
不思議なことが起って命が助かった語 第二十

 

大和の国、添上郡の山村の里に、一人の年とった母親がいた.姓名はわからない。その母に娘がいた。結婚して二人の子を産んだ。娘の夫は役人で、地方官として派遣された。そのため妻子を連れて任地に赴き、一年あまり月日が過ぎた。娘の母は故郷に残って留守宅を守っていた。ある時、急にその母が娘に関して悪い知らせの夢を見た、驚き恐れて、娘のために読経してもらおうと思ったが、家が貧しいために、読経してもらう手だてがなかった、しかし母は不安を抑えきれず、自分の着ている着物を脱いで、洗い清めお経を読む僧たちの謝礼に差しあげようとした。と、またしても悪い知らせの夢を重ねて見た、母はいよいよ不安にかられ、今度はさらに着ていた裳を脱ぎ、洗い清めて謝礼にあて、以前と同じようにお経を読んでもらった。一方、娘は任地の役所の官舎に住んでいた、二人の子は官舎の庭の中で遊び、その母は家の中にいた。二人の子は、七人の僧が、母の住んでいる家の屋根の上に座って経を読んでいるのを見た。二人の子は母に、「屋根の上に七人のお坊さんがいて、お経を読んでいます。早く出て来てごらんなさい」と促した.その経を読む声は、蜂が集って鳴くようであった。子供たちの母はそれを聞き、不思議に思って後ろの住居から出ると、とたんに今いた住居の壁が倒れた。また、七人の法師も急に見えなくなった。女はたいへん恐れ怪しんで、ひそかに思った、天地の神々がわたしを助け、壁に押し倒されなかったのだと。その後、留守宅を守っていた老いた母は、使いを送ってよこし、悪い夢見のさまを述べ、お経を読んだことを伝えた。娘は母が伝えた様子を聞き、たいへん恐れ、真心こめていよいよ仏・法・憎の三宝を信じた。そこで、この娘の無事は読経の力と、仏・法・憎の三宝が守ってくださったのであることがわかる。
災難と吉事との前知らせがまず現れて、
 後にその災難と吉事の結果を受けた話し 第三十八

 

前略は(前半の部分は聖武天皇・孝謙天皇・称徳天皇・光仁天皇などの時代に起きた内乱や大事件などの前知らせとして歌や天変地異や夢などが予告される話しです)
日本霊異記の作者の僧の景戒が見た夢
またわたくしは、こんな夢もみた。延暦七年(788)春三月十七日の夜に見た夢である。わたくしが死んだ時、薪を積んで死体を焼いた。するとわたしの霊魂が自分の死体が焼かれている近くに立って見ていた。どうも思うように焼けないのである。それで霊魂自らが、小枝をもつて、焼かれている自分の体を突き刺し、串刺しにして裏返して焼いた。わたしよりもさきに焼いている人に教えて、「わたしのようによく焼きなさい」と言った。わたしの足、膝また関節の骨、ひじ、頭などがみな焼かれて離れ落ちた。するとわたしの霊魂が声を出して叫んだ。傍にいた人の耳に口を当てて叫んだ。遺言を語るのであるが、その声はむなしく、相手には聞かれないので、相手は答えてくれない。そこでわたしはあれこれ考えてみるに、死人の霊魂は声がないために、わたしが叫んでいる声も聞えないのである。こうした前知らせとしての夢の結果はまだ現れてはいない。ただ、あるいは自分は長生きするのだろうか、それとも官位を得るのだろうかと思う。今後、夢に見た解答を待って知ろうと思うばかりである。そうしていると延暦十四年(七九五)の冬十二月三十日、わたしは僧位第四位の伝燈住位を得た。ところが同じく桓武天皇が京都の都で天下をお治めになった延暦十六年夏の四、五月ごろ、わたしの部屋に夜ごとに狐の鳴く声がした。と時を同じくして、わたしが自分で造ったお堂の壁を、狐が掘って中に入り、仏座の上に糞をして汚したり、ある時は昼日中、住居に向って鳴いた。それから二百二十余日を経た十二月十七月にわたしの息子が死んだ。また廷暦十八年の十一、十二月のころ、わたしの家で狐が鳴き、また時おり、にいにい蝉が鳴いた。すると翌十九年正月十二日にわたしの馬が死んだ。また同じ月の二十五日にも馬が死んだ。これらのことによって、災いの前知らせがまず現れ、その後、実際に災難が来るということをほんとうに知るべきである。それであるのにわたしは、まだ黄帝が中国に伝えた陰陽道の術をも研究していない。まだ天台山の智者大師の到達した深い哲理も理解し得ない。ために災いを感じながらも避ける術を知らずに、その災いを受けている。災いを除く術をも研究せずに、ただ滅亡することを心配する結果になっている。もっと仏道を修行しなくてはいけない。また因果応報の理を恐れなくてはいけない。  
 
日本霊異記

 

最初の仏教説話集
薬師寺に属する僧であった景戒<きょうかい>が撰述した『日本霊異<りょうい>記』(正式な書名は『日本国現報善悪霊異記』)は、弘仁年間(八一〇年〜八二四年)に成立したと考えられており、景戒の経歴については、この本の末尾近くに収められた説話にその人の自伝風の回想が見えるほかに、伝記資料はほとんどない。
日本ではこのあとの時代に、『今昔物語集』に代表されるような仏教説話集が数多く編纂されることになるが、これはその嚆矢をなす書物である。その意味で、日本に生きる人々が仏教に触れたときに感じた動揺や、その信仰へと人々を導いた基礎にある、憧れの心情を知るための手がかりとして、重要なテクストと言えるだろう。漢文で書かれた書物であるが、以下、引用は小泉道校注『新潮日本古典集成 日本霊異記』(新潮社、一九八四年)の訓読文による。
もちろん欽明天皇の時代とされる仏教の伝来から二百年がすぎ、すでに神宮寺の形で神仏習合の信仰が確立した時代に書かれた書物であるから、仏教との出会いによる衝撃をそのまま伝えていると見ることはできない。だが、民間で語り伝えられた具体的な説話として、その原初の感覚をいくらか残していると考えてもいいだろう。
『日本霊異記』に収められた説話はしばしば、その事件がどの天皇の治世における出来事であったかを冒頭に明示する形で記されている。その時代は五世紀後半の雄略天皇の時代から、景戒の同時代、嵯峨天皇まで年代順に並べられており、独特の日本仏教通史のような形をとっている。そして天皇の治世を記すのは、時間軸の上でのその事件の位置を示すためだけではない。日本における仏法の普及を、天皇と深く関係づける思考がそこには働いている。
とりわけ景戒が重視するのは、上中下の三巻のうち中巻の序で「戒を受け善を修し、正をもちて民を治めたまひき」と、仏教に基づく統治を本格的に行なったと礼賛する、聖武天皇である。聖武天皇の時代の説話が中巻の全体を占めており、この天皇に対する評価がとりわけ高いことを示す。そして、下巻の末尾は仏教の慈悲の理想に基づいて、死刑を行なわなかった嵯峨天皇を「聖君」として讃える文句でしめくくられている。その語るところによれば、聖武天皇の治世において修行した僧、寂仙の生まれ変わりが、嵯峨天皇にほかならない。
さらに景戒は、嵯峨天皇の治世には「旱氏モゥんれい>」すなわち日照りや疫病が起こったから、決して優れた君主とは言えないという批判に対して反論を試みる。この批判に示されているのは、君主がみずから徳を実践することを怠れば、天がそれに反応して禍を起こすという、儒学に由来する発想の仏教版であろう。景戒は同じ発想を前提としながらこう答える。
この儀しからず。食(を)す国の内の物は、みな国皇の物にして、針を指すばかりの末だに、私<わたくし>の物かつてなし。国皇の自在の随<まにまに>の儀なり。百姓<おほみたから>といへどもあへて誹<そし>らむや。また、聖君堯舜の世すら、なほし旱獅るがゆゑに、誹るべからぬことなり。(前掲『新潮日本古典集成 日本霊異記』三一三頁)
中国で理想の君主とされている堯・舜の時代にも「旱氏vはあったのだから、「聖君」であることを否定する根拠にはならない。そして、天皇が支配するこの「日本国」の物はすべて天皇の所有物であり、天皇がすぐれた仏教者であれば、その徳の輝きは国土のすみずみまで、全体を覆っているはずである。――このように、仏法の信仰によって天皇の地位を新たに説明し直すことが、『日本霊異記』のねらいの一つであったことは間違いないだろう。天皇親政による安定した政治体制のもとで、宮中行事の改革が行なわれ、詩文が栄えた嵯峨朝時代の気風も、そこには反映されているはずである。
天皇と雷神

 

しかし、世界を窮極のところで支配する仏教の道と、歴史上の天皇たち、また天皇の権威の根拠であった日本の神々との関係は、『日本霊異記』の説話の全体においては、まだそれほど安定していない。書物本文の冒頭、上巻の第一縁<えに>として掲げられた説話「電<いかづち>を捉ふる縁」が、そのことを示している。
雄略天皇がある日、宮中で后と「婚合くながひ>」していたところに、側近である少師部<ちひさこべ>の栖軽<すがる>が突然にやってきた。そこで天皇は「恥ぢ」て行為をやめたが、そのとき雷が鳴ったので、雷を捉えてこちらへお迎えせよと命じた。栖軽は馬に乗って遠くまで行き、「電神<なるかみ>」が落ちて地面にいるのを発見する。雷神もまた天皇に従うものだと栖軽は語りかけながら、宮中へと連れてゆく。ところがそこで雷がまた光を放ったのを「天皇見て恐りたまひ」、供え物を捧げて、もとの落ちた場所へと帰させた。
ここで描かれている天皇の姿は、神々との紐帯をしっかりと保ち、日本国のすべての物を支配下においているという、古来の天皇の理想からかけ離れている。天皇が「恥ぢ」たことについて、伊藤由希子『仏と天皇と「日本国」――『日本霊異記』を読む』(ぺりかん社、二〇一三年)は、天皇の権威のゆらぎを雄略天皇が自覚していたことを読み取っている。すでに天皇は全能の支配者ではなく、天皇としてふさわしい行動をとっているかどうかについて、臣下の視線を気にしている。そして、雷神がどういうものなのかも知らずに、栖軽に雷を捉えるよう命じてその場から追い払ったが、雷神の力を目のあたりにしたとたん、「恐」れるしかなかったのである。そのことは、雷神とはどういう存在なのか、すでにわからなくなっており、しかもそれに対処する勇気も天皇が失なっていることを示しているだろう。
また、修験道の開祖とされる呪術師、役小角<えんのおづぬ>(「役優婆塞<えのうばそく>」)の活躍を語る、上巻第二十八縁も興味ぶかい。役小角は篤く仏道を信仰し、修行に努めた結果、雲に乗って自由に飛び回り、「諸<もろもろ>の鬼神」を自由に使う術を身につけた。そして葛木山の山頂に橋を掛け渡そうとしたので、その山の神である「一語主<ひとことぬし>の大神」が、中止させようとして文武天皇に訴えたが、天皇も役小角を捉えることができない。
この物語の最後では、天皇が「垂慈の音<こゑ>」を示すことで、役小角も従うことになるのだが、神々を従える力をもつはずの天皇も、その力はすでに仏道の優れた修行者よりも劣ることが露わになっている。しかも問題を解決できたのは、仏教の慈悲を思わせる態度を天皇が示したからである。おそらくは、聖武天皇から嵯峨天皇の時代へと至る歴史のなかで、天皇が新たに仏道の信仰に基づいて権威を再構築してゆく過程が、『日本霊異記』の底流に流れる歴史なのだろう。
牛に生まれ変わった父親

 

こうした仏道の日本社会への浸透は、もちろん一方では、欽明天皇や聖徳太子をはじめとする、王族たちによって推進されたものでもある。しかし『日本霊異記』が伝える物語は、むしろ在地の豪族たちや無名の庶民が、さまざまな不思議に出会い、仏教の因果応報の道理を理解してゆく過程である。とりわけよく登場するのは、律令国家が創建した官寺に属さない独立の修行者、自度僧であり、こうした自度僧を迫害した人物が、その悪業の報いを受けるという話が多い。景戒もまた、かつては「俗家に居て、妻子<めこ>を蓄<たくは>ふ」と回想しており、自度僧としての生活を長らく送ったと推測されている。そうした無名の人々の仏道への信仰のありさまを、身近に見聞きした経験からまとめられた作品なのである。
たとえば、上巻第十縁「子の物を偸<ぬす>み用ゐ、牛となりて役<つか>はれて異<あや>しき表<しるし>を示す縁」を見てみよう。大和国の山中に暮らす豪族の男が、自分の子供が収穫した稲から、十束(米五十升にあたる)をこっそりと盗んで他人に与えた。この悪業によって、男は死後に牛に生まれ変わり、成長した息子にこき使われることで、その罪を償う運命となったのである。放浪しながら修行する僧、おそらくはやはり自度僧がその家を訪れ、牛の語る声を聞き取ることを通じて、家族も父の化身であると知り、稲を盗んだ罪を許すことになる。そして和解がなり罪が消滅したことで、牛は涙を流し、安堵の大きな息をついて、まもなく死んだのであった。
自分の子供の財物を盗んだ親が、罰を受けて牛に生まれ変わるという物語は、ほかにも母子のエピソードとして収められており、財産や家族に関する古代人の考え方を知る上でも興味ぶかい。このような在地の豪族の家は、集団で土地を耕作したり漁業に従事したりして、財物を蓄えていたと考えられるが、近世の百姓・町人に見られるような、イエの財産という観念はまだない。あくまでも同一の氏族に属する個人がそれぞれに保有するものとして分割されている。子供の財物を盗むことが重い罪の例として登場するのは、それが重大な倫理違反と考えられていたことを示すだろう。
またこの物語のなかで、牛が実は父親の生まれ代わりだとわかったとたん、家族一同は「まことにわが父なりけり」と言って泣く。しかしその直後の動作は「すなはち起ちて礼拝して」罪を許そうと牛(父)に語りかけるというものであった。この涙には、罰を受けた父の苦しみを思いやる気持ちもまた、働いていることだろう。だが、すぐに立って礼拝するという動作から大きく感じられるのは、父親に対する愛情よりも、因果応報の道理をまざまざと目撃したことによる感銘と、仏道への信仰の深まりである。牛がすぐ死んだことについても、家族は悲しむようすを見せない。
日常的な家族の関係も、土地と結びついた神々の信仰も超えるような、絶対的で不思議な道理に対する帰依を、人々はこの時代に経験したのである。そうした道理の働きを、具体的な事実のなかから書き留めること。景戒にとっては、その著述を後世に伝える行為がまた、天皇を中心とした「日本国」の持続を保障するものだったのだろう。
 
天皇になろうとした男・道鏡が、女帝を虜にした手練 1

 

世界では巨大な男性器を信仰している地域が数多くある。男根信仰とは古代より男性器が多産・豊穣・開運をもたらす呪力を宿すものとして崇拝されてきたもので、日本では古くから金精神と称され、広義では男根の形をした御神体を祀った神全般をあらわすこともある。男根の形をした御神体を祀った道祖神(塞の神)と混同されることが多いが基本的に道祖神と金精神は異なる神である。古来、男性器は魔除けの呪具であり、生命の源、あらゆる活動の原動力とされ、信仰の対象となっていった。
そのため、より大きく、より逞しいことが男性にとって、その優位性を示すものとされ、格式の一つと捉えられる傾向がある。巨根とは他人よりも群を抜いて尨大で立派、という相対的な観念である。男性ならば誰しも巨大な陰茎に対する憧憬を抱くもので、そうした素懐を巨根願望という。「陰茎が大きい方が男らしく女性が喜ぶ」だとか「子供なみに男性器が小さければ、力のない男と見なされて情けない」という妄想を抱く男性も多いはずだ。では、巨根とはどのような水準を指すのか。陰茎の大きさは、身長などの割合からみた比率、大きさの実測によるものなど尺度はまちまちなため、具体的にこれが巨根だと定義するのは難しい。また、陰茎を組成する要素は逸物の長さだけでない。形状も重要な一端であり、その容体は実に多彩だ。中央部分が太いツチノコ型、根が太く尖端に向かって細くなるトマホーク型、亀頭冠が原爆雲のような形の松茸型など様々なバリエーションがある。
男性器には、その長さもさることながら太さと形、そして硬さも重要な要素であり、その組み合わせにより、性愛時における機動性と効果に影響が出る。人間の陰茎は他の霊長類や動物と比べて、身体の比率からすると大きいとされるが、それには、いくつかの説がある。性器が長く亀頭が大きければ、先客が交接した際、膣に残った精子の残滓を掻き出すことが容易となる。また、陰茎が雌に刺激を与えることにより排卵などを促す効果があるとされる。
さらには、人間は大きな脳の胎児を娩出するために女性の骨盤が大きく進化したため子宮の場所が腔のより後方にある。そのため、陰茎が大ければ精子がより子宮に近づけることで効率よく子孫が残せるとの説もある。男性の多くが大きな巨根に憧れを抱くのは、そうした潜在的に子孫繁栄といった本能的な動機によるものかもしれない。男性が巨根か否かを判断する材料としては、鼻が大きい。親指が長い、手の甲から小指までの長さが勃起時の長さにあたるというものもある。また、陰茎が太いか否かの見分け方として、左右の人差し指と薬指、合わせて4本を束ねて合わせた太さが陰茎の太さと一致するといわれ、男性器の大きさや太さを測る多くの俗説が散見される。日本人男性の成人の平均勃起陰茎長は12.5センチとされ、下限は5〜6センチ。中には30センチオーバーという規格外の猛者もいるそうだ。では、どの領域が巨根なのかといえば、一般に17センチ以上とされている。平均勃起陰茎幅、つまり太さの平均では直径3.2センチだとか。ちなみにアフリカ系では4〜6センチとの報告がある。
日本男児としての理想的な陰茎の構成要素の組み合わせとしては、長さは17センチ以上で径は4センチ以上。形は先端の鬼頭が大型の松茸型で、硬度の高いものが情事において、他人に引けを取ることなく、女性を悦ばせるための威力と効果が発揮されるようだ。男女問わず男性の陰茎の大きさとその形は国内外を問わず関心が高いが、日本で巨根の代表者を挙げるならば、奈良時代の僧侶、道鏡であろう。
天皇になろうとした男、道鏡とは

 

日光の金精峠は道鏡の男根を金精神として峠に祀ったのがその名の由来だが、道鏡の巨根伝説は全国各地に伝えられ、数々の歴史書にも記されている。
淳仁天皇(733-765)は「あの禅師(道鏡)、放っておいては為にならぬ。(孝謙)上皇の寵遇を嵩(かさ)にきて増上慢ぶりは目に余る」と、その憤激を家臣である藤原仲麻呂にぶつけた。その背景には、天皇の地位にありながら、孝謙上皇の背後で糸を引く妖僧、道鏡の介入が原因で思うように権力を握れない苛立ちによるものだった。道鏡は「大化の改新」の中大兄皇子で知られる天智天皇(626-672)の子・志貴皇子の落胤説で皇位を授かる資格があったとの説もある。ちなみに志貴皇子の孫は平安京に遷都した桓武天皇である。だが、物部氏の一族・弓削氏の末裔、弓削櫛麻呂の息子として生まれたというのが、道鏡の出自で最も有力な説とされる。道鏡は修験道の開祖・役行者が開山した葛城山で苦行を重ねて呪験力を身につけたという。その後、法相宗の高僧、義淵の弟子となり、さらには東大寺の華厳宗の名僧良弁の弟子となる。道鏡の祈祷は平城京の都で評判となり、やがて宮中に招かれる。宮中に設けられた仏教道場に仕える看病禅師として、道鏡は病に伏せった孝謙上皇を治療する役目を拝命する。
そこで密教占星術宿曜秘法を用いて上皇の病を治癒させた結果、道鏡は孝謙上皇の絶大な信頼を得ることになる。以降、上皇の寵愛を受け、政治的にも重用され続け、何の実績もないままに少僧都、大臣禅師と出世街道を直走った。そうした状況に危機感を募らせた淳仁天皇と藤原仲麻呂は、孝謙上皇との対立を深め反乱を企てるも失敗。藤原仲麻呂は殺害され、淳仁天皇は淡路島に流され憤死。孝謙上皇は、以前、孝謙天皇の時に退位し孝謙上皇となったが、称徳天皇と名前を変えてして再び天皇に返り咲いた。
称徳天皇となってまず行ったのが、史上例をみない太政大臣禅師に道鏡を就任させ、さらには聖徳太子のみ称せられた法王という最高位の地位を与えたのである。それは天皇とほぼ互角の地位に引き上げたことを意味する。女帝は道鏡を政権の中枢に座らせて、次期天皇候補となるほど権力を掌握させたのである。だが、日本は開闢(かいびゃく:天と地が初めてできた時)以来、天照大神の子孫である天皇家に生まれた者でなければ皇位を継ぐことはできないという決まりがある。「皇位簒奪」とは、「皇位は不朽の万世一系によるもの」という思想から出る言葉だが、なぜ称徳天皇は、その絶対規律を破ってでも、皇族ではない道鏡を天皇に就かせようとしたのか。宇佐八幡宮の神託であるとして、中臣習宜阿曾麻呂は「道鏡が皇位に就くべし」と報じると、称徳天皇は「宇佐八幡から道鏡を皇位につかせれば天下太平になるという神託があったから自分は道鏡に皇位を譲る」と言い出して聞かない。慌てた朝廷は、その真偽を確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送った。
結果、清麻呂が持ち帰ったのは「天皇の跡継ぎには必ず皇族を立てよ」「道鏡を天皇にしてはならない」という託宣だった。道鏡は、ここで天皇に即位する道が絶たれた。女帝称徳天皇が770年に崩御し、光仁天皇(709-782)が即位すると、道鏡は光仁天皇の勅命で下野国(栃木県)薬師寺別当となり、その2年後に客死する。葬儀の様相は庶民と同様の格式だったという。御皇統を揺るがした道鏡だったが、なぜ、これほどまでに女帝の心を鷲掴みにして、権力の絶頂に昇りつめたのか。その理由として、道鏡が女帝称徳天皇と多淫に耽った姦通説や道鏡の並外れた巨根説などが囁かれてきた。
歴史書にみる道鏡巨根伝説

 

道鏡失脚からまだ、然程、時が経っていない平安時代初期に成立した日本最古の説話集『日本霊異記』には孝謙女帝との秘め事の様子が詳細に綴られている。原文とともに現代語訳はスクリプトにて当時の状況を紐解いてみよう。
「道鏡法師が皇后と同じ枕に交通(とつぎ)」
(道鏡はついに孝謙上皇に究極の快楽を与えるチャンスが訪れたことに激しく昂奮し、たちまち股間の如意棒を天に向かって屹立させた。道鏡は女帝の腰をたたき込むように突きまくるにつれて、肉の袋に粘りと蠢きが発生し、女帝を酔い心地にさせた)
「法師等を裙着(もは)きたりと軽侮(あなず)れど、そが中に腰帯薦槌懸(こしおびこもづちさが)れるぞ。弥(いや)発(た)つ時々、畏(かしこ)き卿(きみ)や」
(法師たちは裳〈も〉をはいているから聖職者だと思って油断し侮ってはならない。裳の下には宝石で飾られた帯とともに青筋立った熱い獣が息づいている。その暴れ棒が一端、そそり立てば、潤った魔性の穴ぐらをかき回し続ける。その威力は凄まじいのなんの)
「和が黒みそひ股に宿〈ね)給へ、人と成るまで」
(私〈道鏡〉の怒昂した赤黒い肉鉾が、あなた〈称徳天皇〉の湿潤の花弁を押し開き、深部へと抉り込むように救い上げて差し上げましょう。あなたの身体が波打ち隆起し、生命が吹き込まれるまで)
など、道鏡の巨根が称徳天皇を淫奔に走らせたことを暗示する戯れ歌が綴られていることから、当時、女帝と道鏡の関係は宮中だけでなく、世間に広く知れ渡っていたようにも見受けられる。
さらに、鎌倉時代初期に成立した『古事談』には称徳天皇が自慰に耽ったことが崩御の引き金となったと明かしている。
「称徳天皇、道鏡の陰猶不足に思し召され、薯苧をもって陰形を作り、これを用いしめ給ふ」
(称徳天皇は道鏡との交接に耽溺していたが、やがて道鏡の巨大な肉棒にも飽き足らなくなった。女帝は自らから薯蕷〈やまのいも〉を削り、男根の形を模した巨大な張形を作ると、滾る欲望からか自らの蜜壺に、それをぐいっとねじ込んだ)
極上の快感から、頂上に達した女帝の身体は躍動的に波打ち、痴肉は小刻みに痙攣している。
すると、張形は、その振動と圧縮によって羞恥の源泉の通路の中で折れてしまった。女陰は、次第に腫れあがり、秘密の肉壁はさらに塞がり、いよいよ大事となる。
百済から来た手が赤子のように小さい女医の小手尼が、女帝を診察すると「安心してください、すぐに取って見せますから」と手に油を塗り、その手を女帝の花溝に入れようとした。
その瞬間、権臣の藤原百川が「この霊狐め!何する者ぞ!」と叫び、すかさず抜刀、小手尼の肩に斬りつけたことで、女帝は為す術もなくなり崩御した、とある。
道鏡が称徳天皇の愛人だったとする歴史書は『日本霊異記』『古事談』『日本紀略』『水鏡』など複数に及ぶ。そこには道鏡が称徳天皇を、巧みに手なずけて、自分の思い通りにできたのは、女を狂わせる絶妙な性の妙技と、霊動を発する巨大な肉杭によって女帝を陶酔させた結果によると、そろって、その手管を指摘している。称徳天皇が道鏡との情事を求め、気が遠くなるほどの快楽に浸っていた時、女帝は既に40代半ばだった。
彼女は東大寺大仏を建立した聖武天皇の娘に生まれ、政治上の謀り事や駆け引きにより史上初の女性皇太子となった。そして父・聖武天皇の後を継いだ。女帝となった彼女を待ち受けていたのは、権力闘争の渦中に身を置く暗鬱たる孤独な人生だった。そのような中で唯一、心の拠り所として彼女の人生の渇きを癒し、瑞々しい潤いをもたらせたのが、道鏡との最初で最後の愛の佳境だったのだろう。女帝は、男に一度入れ込んだら徹底して愛を貫く主義であった。
道鏡しか眼に入らない称徳天皇に、家臣が箴言しても耳を貸すことはなかったばかりか、血相を変えて逆上し「ならば尼になる」と言い出すなど直情的で暴走しがちな性分だった。自身の意に添わないこと、癇に障ることを言われると、反撥してそれを強引に抑え込もうとする頑固な性格が、そこに見て取れる。また、宇佐八幡宮神託事件では和気清麻呂に別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)などと卑しい名前を命名するなど、己の意に添わない相手や疎んじる者に対しては徹底して貶めるなど、攻撃的な性格も見受けられる。
江戸時代になると、道鏡と女帝の川柳が詠われた。
「道鏡は座ると膝が三つでき」
「道鏡に(女帝が)根まで入れろと詔(みことのり)」
「道鏡に崩御(昇天する。快感で法悦状態になる意)、崩御と称徳言い」
それは道鏡の巨根と、それに溺れた称徳天皇を皮肉交じりに詠ったものだが、道鏡の巨根説のモデルは中国の古典『史記』に記された、ある物語を起源とする説がある。それは、中国戦国時代の政治家で権勢を誇った呂不韋が、のちの秦の始皇帝となる太子・政の生母で太后の趙姫と密通してたという話である。趙姫は元来、淫奔な女性で、荘襄王の死後、性的欲求不満となり、太后から同衾の誘いによるものだったが、政が成長し王となると国母となった太后と不義密通を続けるのは危険と呂不韋は判断し、自分の代わりに嫪毐という巨根の男を太后にあてがい男性の入れぬ後宮に宦官に変装させて送り込んだ。淫乱な太后は嫪毐の巨根に無我夢中となって歓喜に浸った。
道鏡の女帝との姦通の話は、おそらく道鏡と嫪毐の話が結びつき、高貴な夫人を巨根の男がたらし込んだという連想によって作られた話との説もある。称徳天皇が崩御すると、道鏡は晩年、熊本を訪れ藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となった。藤子姫の献身的なもてなしと性愛により、淫蕩な道鏡は良き夫として安穏で幸せな晩年を過ごしたと、熊本の弓削神社に伝わっている。  
 
日本霊異記説話の研究 〔書評〕 

 

説話文学研究が盛行する中、我国最初の仏教説話集という栄誉を担うはずの『日本霊異記』は、研究史の上では不遇であったかに見える。その原因は、内容たる説話が奈良朝もしくはそれ以前のものであって、研究者の大部分が上代文学専攻者によって占められているにもかかわらず、作品の成立が平安初期であるため、文学史的には平安時代の作品とされてきたことにあった。結果は、中古文学の分野では、学界時評や学界展望などに取り上げられること稀で、その含み持つ問題の重さに比し、上代文学の側からも中古文学の側からも、十全のアプローチがなされたとは言い難いように思う。無論、益田勝美氏の『説話文学と絵巻』をはじめとする秀れた業績の集積はあった。しかし、それらが『日本霊異記』という一作品の枠を超えて、多くの研究者の手に迎え取られるといった状況は生れなかったのである。このことは、とりもなおきず、延暦六(七八七)年の原接から三十数年を経て最終的な完成をみたとぎれる、この作品の複雑な成立過程や、おそらくは何度かの屈折を経たであろう編著京城の苦渋に満ちた人生、そして何よりも、奈良朝から平安朝へという大きな歴史の転換点にあって激動する社会など、変革期の所産であるこの作品が、それが故に有するさまざまな問題のしからしむるところでもあったろう。
このような研究状況の下、説話研究に常に新生面を切り拓いてこられた丸山頴徳氏の論文が集大成されて一書にまとめられ、霊異記説話の研究に一つの確かな道筋が示されると共に、多くの研究者の利用の便に供されたことは、誠に慶賀にたえない。この骨太で力強い説話研究をめぐってまき起こるであろう論議が、新しい霊異記研究の胎動となることを信じて疑わないものである。
本書のタイトルが『日本霊異記説話の研究』であることによっても知られるように、本書の研究目的は、所収説話の一つ一つを丹念に読み解くことによって、個々の説話の形成過程を歴史的現実の中で解明してゆこうとする点にある。丸山氏の基本的立場は、個々の説話の研究によって取り出された実質を最大公約数的にまとめ上げることにあるとされるが、一つ一つの話の検討にあたっては、従来の歴史的研究や仏教的研究に加えて、中国説話との比較研究や民俗学的方法が多く駆使されて、当時の歴史社会の中での説話の伝承の実態が、具体的、時として刺激的に、生き生きと浮き彫りにされていく。その日くはりの広さと共に、博引勇証とどまるところを知らぬ論証過程は、読者に快い興奮と説話研究の醍醐味を覚えさせずにはおかないであろう。ここには、まざれもなく、丸山氏独自の「霊異の世界・奇事の世界」があるのた。
まずは目次によって、本書の内容をたどってみたい。
序 本書の方法と課題
第一篇 仏教と呪禁
第一章 中子部説話(上1線)/第二章 狐の直説話(上2縁)/第三章 道場法師説話(上3線)/第四章 狭屋寺説話説話と食入鬼説話(中00縁・33線)/第七章 隠身の聖説話(中日縁)/第五章 役小角説話(上28線)/第六章 討債鬼
第二篇 冥界説話
第一章 冥界説話の分類と特色/第二章 櫓磐鴫説話(中24縁)/第三章 奈良山枯骨報恩説話(上12線)
第三篇 仏教と民間伝承
第一章 漂着霊木説話(上5縁)/第二章 蟹報恩説話(中8線・12線)/第三軍 神身離脱説話(下24線)
第四篇 編者京成とその背景
第一章 景戒の出自とその背景(下館縁)
右からも明らかなように、著者がもっとも力点を置かれたのは、第一篤である。丸山氏は、多くの霊異記の研究者がそうであるように、益田勝美氏の「私度僧の文学」論に多大の影響を受けつつ、私度僧と言われる人々、あるいは『日本霊異記』の唱導の主体となった人々の宗教的内容を呪禁という形でとらえられた。氏のことばを借りれば、「呪禁」とは、「様々な災難や厄災を除き、人々の幸せを招くために行う積極的な呪術的宗教行為であり、極めて現世利益的なもの」とい、うことになるが、こうした観点からの説話の切り取り方は、景戒の説話編纂の方法、ひいては彼自身の思想的背景や、その出自などのとらえ方と、直ちに響き合うこと言ぅまでもない。丸山氏は、第四篤で景戒を紀伊国名草郡に長く居住したものと考え、その紀伊国在住時代の宗教的基礎体験が、彼の宗教を、民衆の方を向いた呪術的かつ現世利益的なものに仕立て上げたとも述べられている。思えば、執筆年代からして、氏の霊異記研究のほぼ出発点に位置づけ得るこの論が、個々の説話の性格の究明を通して、より確信的なものとなってゆくのが、第↓篤だと言うことができよう。
このような著者の立場からすれば、仏教説話集の巻頭に置かれているにもかかわらず、非仏教的な説話であるとして、古来その存在意義が訝られてきた上巻第一・二線も、前者は、小子部氏の軍事的性格ともかかわって、娃略天皇が雷という自然の驚異を小子部氏に捉えさせた呪禁の話、後者は、美濃地方に住んでいたと思われる狐の直なる呪術宗教者集団が、自らの有する超能力を継承し、社会的に認めさせるために、始祖を美しく描き上げた、いわゆる始祖伝承であると解け、いずれも『日本霊異記』の根底にある呪術的信仰を体現した話として、巻頭説話たる資格を充分に主張しうろこととなる。誠に明快な論であると言えよう。
従来、こうした問題は、多く日本の固有信仰と外来の異教との対立相克、もしくは仏教布教の方便としての固有信仰の利用、神話的世界の仏教的世界への包摂という観点から論じられてきた。しかし、第一篇最終章で説かれた如き、仏教的行者と呪術者の習合した宗教家「隠身の聖」の思想的系譜に、行基とその集団、京成に大きな影響を与えた沙弥鏡日、さらには景戒までが含まれるとすれば、仏教の伝来と定着をめぐる内なるものと外なるものとの対立緊張関係は、また別の相貌を呈することとなる。景戒や「隠身の聖」達が生きた世界には、日本の固有信仰や仏教の他に、現世利益的な呪術的宗教や、中国の民間道教、さらには神仙思想などが混満して轟動していたことが明かされてゆくからである。従って、このような混沌たる世界に生成する説話に立ち向かう丸山氏の武器も、多様なものとならざるを得ない。
再度、巻頭の二話を引くならば、「中子部説話」において、中子都氏が天皇を警護する軍事的な色彩の濃い氏族であるとの主張に、藤原京跡発掘の木簡に「(表)中子部門衛士□」、平城宮出土の木簡に「小千円」「小子部門」、『続日本紀』天平宝字八年十月十九日条に「中子門」とある点を押さえ、「狐の直説話」 で、美濃国鹿田郡に広まっていた狐の憑霊による信仰を指摘するにあたって、『文徳天皇実録』中の「藤原高房卒伝」 に着目されたのなどは、歴史的資料の利用が非常に有効であった例と言えようか。
他方、丸山氏の力量は、民俗学的方法でも発揮される。第三章「道場法師説話」、第四章「狭屋寺説話」においては、日本の古代文献資料だけでは実証困難であるとして、現代の民俗にも言及しっつ、前者では、道場法師が雷神の申し子であり、電蛇神の化身と考えられるところから、法師による元興寺鐘堂の鬼退治の話は、電蛇神信仰の現世的効果の一つである、鬼に象徴される厄災の退散に当たり、水争いの話は、毒蛇神信仰のもう一つの効果である、水神として水の守護者となることに当たるとされつつ、鬼退治の話を、元来は元興寺の中で儀礼的に行われた鬼払い式の由来話が道場法師説話に組み込まれたのではないかと考えられ、また、後者でも、悔過の場面における悪霊追放というところに焦点を絞って「狭屋寺説話」を論じておられる。現在奈良県に住まわれる丸山氏は、奈良県各地で行われている古寺院の迎春儀礼である修二会や追擬の祭りから、説話の背景としての呪禁の問題を実感をもって受けとめることができたとも述べられているが、こうした着眼自体、従来の説話研究者の枠を超えた、氏の幅広い行動力とフィールドワークの実績によるものと、敬意を表したい。ただ、上巻第二縁「道場法師説話」 では、雷神の寄胎した道場法師が悪霊(ここでは鬼)払いの呪師と、その際勧請された護法相としての両面性を有するとされるのに対し、上巻第一線「中子部説話」では、雷は中子部氏によって捕えられるもの、すなわち呪禁の対象として考えられていることなど、「呪禁」なる観念を導入することによって、逆に浮かび上ってくる問題も多い。面詰におげろ雷神信仰の位相の違い、さらには、片や天皇と土着神、土着氏族との対立、片や寺院側による電蛇神信仰の利用など、両誌のよって立つ説話的基盤の違いについて、今後の丸山氏の解明を期待したいものである。
丸山氏のフィールドワークは広く沖縄・韓国・台湾にまで及び、その成果の一端が、本書に続いて刊行された『沖縄民間説話の研究』(一九九三・一〇 勉誠社) で明らかにされた他、本書第二篇「冥界説話」 の考察にも大きく生かされている。現代に生きる我々には冥界の存在さえ信じ難いものとなっているが、韓国や台湾での巫俗調査で冥界の信仰が今に生きる姿を実感しっつ試みたとぎれる、冥界説話の体系化(第一章 冥界説話の分類と特色)は、『日本霊異記』の冥界説話のみならず、古代日本人の冥界観を考える上で、有効な祝座を提供するものと思われる。第二章「櫓磐嶋説話」が右の体系に言う「被招請冥官型」 の話であり、中国文化の影響を受けた沖縄の冥界説話に同じ話型のものが見出されるとの指摘も、フィールドワークを重んじられる丸山氏ならではの成果として、特筆に値しよう。続く第二章「奈良山枯骨報恩説話」 では、枯骨報恩評を冥界説話と位置づけちれた上で、冥界説話の伝承者は冥界との交霊者であり、浮かばれぬ凶癌魂を鎮めることを職掌としていた人々がいたのではないかとの発想と、大和、山城の国境の死者霊の寄りつく費界領域の山としての奈良山の異境性を重ね合わせて、枯骨報恩説話の形成の背後に、行基集団や土師氏のような鎮魂集団の働きを想定されている。丸山氏の論証は、例によって奈良山と南山城の異常死の話から、この地域における行基集団の活動、さらには土師氏との関係へと多岐にわたり、上巻第十二縁に関しては強い説得力を有する。ただ、枯骨報恩説話は、氏も言われる如く世界拡布型の民間説話であり、下巻第二十七縁の類語では、輯横の救済者を市に交易に出かけた備後国華田郡大山里人としていること、霊異記の二話の原話に敦煙出土『捜神託』の侯光侯周兄弟の話、もしくはそれに近い文献の存在が想定されることからすれば、「奈良山枯骨報恩説話」 の特殊に拘泥することには、いささかの危惧を覚えざるを得ない。本書では、第一篇第六章をはじめとする随所で中国の文献に記された説話との比較によって、霊異記説話の読みに新見が示されているし、第三篤では、民間伝承と説話の成立について、行届いた考察がめぐらされているのであるから、こうした視点を網羅した上で、「奈良山」の特殊を再度論じて頂ければと思う。
以上、紙幅の関係で、本書に挙げられた説話のすべてに触れることはできなかったが、全篇を通じて示された意欲的かつ斬新な手法と豊かな発想に多大の刺激を受けた。
時あたかも、「平安建都千二百年」 の議論が喧しい。ともすれば王朝文化に眼を奪われがちな我々に、本書は、平安遷都前後の日本の精神風土について、貴重な示唆を与えてくれる。中古文学を専攻する一人としても、本書を得たことを心から喜びたい。 
 
『日本霊異記』についての一考察 

 

『日本霊異記』とは
『日本国現報善悪霊異記』、通称『日本霊異記』(以下『霊異記』)は、「諾楽(なら)の右京の薬師寺の沙門」景戒が、一般庶民の仏教教化のため民間布教者(私度僧)によって各地で語られた話を集めて編纂した日本最古の仏教説話集である。本書の主題となっているのは「因果の理」、すなわち善悪の行いに対して何らかの報いがもたらされるという世界観である。善行に対しては災難を逃れたり財貨を得るなどの福がもたらされ、悪行に対しては異常な死を迎えたり、死後に地獄で苦役を受けたり、動物に生まれ変わって飢えや過酷な労働をさせられることとなる。本書における善行とは、仏を深く信仰して仏法僧の三宝を守る、殺生をしないことなどをいい、反対に悪行は乞食僧を迫害するなど仏法を誹る行為や、殺生や外道の神を信仰するなどの行為のことで、これら善悪の基準は仏教的な道徳観念に基づくものである。仏教が土着の信仰にとってかわるような影響力をいまだ持ち得ない時期にあって、このような道徳観は民衆には馴染みの無い新しい観念であった。
この仏教思想に基づいた道徳観念を仏教の基礎知識のない庶民に説くにあたって、ただ理念のみを抽出して説いて受容させるのは容易ではない。そこで語り手は、聞き手である民衆の生活に密着した場面設定に仏教的な世界観のストーリーを織り込んで、因果の理を現実のものとして認識させようとした。このような手法によって登場人物と明日の自分を重ね合わせる共感が生まれ、話中で起こったような善悪の報いが自分の身にも訪れるかもしれないと思わせることができるのである。また、正式名称に「現報」とあるが、これは現世での行いに対する報いが現世のうちに訪れることをいい、本書の中で最も多く収録されている応報のパターンである。それは来世や来々世といった遠い未来より、今日の行為の結果が明日の我が身に訪れる現報の方が庶民の関心を引くと考えた景戒の配慮の表れであろう1。本書で顕われる悪報は厳しいものが多いが、地獄に落ちたとしても生前に写経や放生(ほうじょう)(捕らえられた生き物を逃がす)を行っていたために死後それらの功徳が身を守ったという話や、死後に子が追善供養を行ってくれたおかげで親が苦しみから解放されたという話も収録されており、抽象的な教義よりも聞き手の想像力を刺激することを優先した物語によって、仏教信仰を奨励している。
このように、『霊異記』の説話の構成や編集には編者景戒の持つ世界観・人間観が表れているが、今回は説話の語り手である遊行の私度僧2が登場する説話を検討することで、僧と仏法の関係を景戒自身がどのように捉えていたのかを考察する。
『霊異記』の私度僧観

 

『霊異記』が編纂された平安時代初期、仏教は国家によって厳しく統制されていた3。教化活動は寺院内に限定され、出家にも国家の承認が必要とされていた。このような不自由な状況にも関わらず、市井で自由な教化活動を行うために、私的に出家して各地を遊行する私度僧は後を絶たなかったのである。しかし、単に物乞いをするため私度僧になる者も少なからずいたようで、私度僧は税も納めず定住しない浮浪人の一種と見なされることもあったようだ(下-14)。『霊異記』においては私度僧の多くが罵られたり、打たれて追い出されるなどの迫害を受けるケースが多いが、これは当時の状況を反映しているものと思われる。編者の景戒が当初は私度僧であったという説もあり4、『霊異記』における私度僧の扱いからは、彼の私度僧への深い共感が読み取れる。「われは学ぶるところなし。ただし般はんにゃだらに若陀羅尼をのみ誦持し、食を乞ひて命を活けらくのみ(中-15)」と自ら称する僧を筆頭に、『霊異記』に登場する私度僧のほとんどがみすぼらしい乞食僧である。他にも「 濫みだりがはしく供養を盛るところに就きて、鉢を捧げて飯を受」けて長屋王に頭を強く殴られてしまう者(中-1)や、法要を頼まれた家の蒲団を盗もうとする者(上-10)までおり、まるで聖人には程遠い、ある種非常に人間臭い人物が多い。このような僧であっても、かれらを迫害した者は悪報を受けることになるのである(上-19、中-1、下-14など)。このような物語展開は、これらの説話が各地で布教活動を行う私度僧たちが自己防衛のために語った悪報譚であるゆえであろう5。
しかし、『霊異記』内で私度僧が全面的に擁護されているのかといえば、必ずしもそうとはいえないのである。私度僧の中にも悪報を受けている者がおり、例えば人を騙して財貨を掠め取り、挙句の果てに寺の柱を燃料に使った報いを受けて死んだり(上-27)、乞食僧を誹って口が歪んだ私度僧(上-19)などが本書には登場している。また、行基に代表される「隠身(おんじん)の聖(ひじり)」を誹った寺の僧が悪報を受ける話もいくつか存在し(中-7、下-19など)、出家者という身分が仏の加護を受ける直接の要因にはなっていないことがわかる。
結論

 

景戒は私度僧という身分を特別視してはいたが、『霊異記』の世界において私度僧=聖人という図式は必ずしも当てはまるものではない。むしろ、かれらも俗人と変わりなく、同じ因果の理の中の存在として扱われているようである6。私度僧が他と異なるのは、民衆の間で読経を行うという点においてである。布教のため、生活のため、動機には個人差があるが、いずれにせよ私度僧は経を読誦することによって(本人が無自覚であっても結果的には)一般庶民へ仏教を伝播する役割を果たしており、それゆえに仏法の伝道者とみなされる。つまり私度僧に起こるさまざまな霊験は、仏法を護持するかれらを仏が守護しているということの顕れなのである。霊験は(下-14)のように法師自らが呪いを行使してもたらされる場合もあれば、(下-19)のように迫害されたとたんに守護神が現れて、迫害者に罰を下す場合もある。ちなみに(上-10)で僧が盗みをはたらく直前に牛(に転生した家主の父)に諭されたのも、僧に罪を犯させないための仏の加護の顕れともとれる。仏法の守護者である私度僧を侮辱したり、危害を加えることは、仏法を誹謗することと同等であるので、かれらを害した者は様々な悪報を受けることになるのである。反対に、仏法を大切にしない私度僧は仏に守護される理由を持たない。つまり(上-27)の似非坊主は仏教の伝道者としての役目を果たさないどころか、嘘をついて集めたお布施を生活費に充てたり、寺の一部を薪にするなどして仏法を侮辱したので、その悪行の報いを受けて地獄の業火に焼かれながら死に至ったのである。
(資料)『日本霊異記』各話のあらすじ

 

(下-14)「千手の呪を憶持(おくじ)するひとを拍(う)ちて、現に悪死の報を得る縁」
越前の国に浮浪人を取り締まり、雑役に追い使って調庸の税を強要する役人がいた。そこへ京からやってきた千手経を唱え勤行する朝臣庭麿という優婆賽(在俗のまま仏門に入って修行する者)がやってきた。役人が「おまえは、どこの国の者だ」と聞くと、朝臣は「私は修行者で、俗人ではありません」と答えた。すると役人は怒って「おまえは浮浪人だ。どうして調を納めないのか」と言い、朝臣を縛り上げて打ちのめし、雑役に従事させた。朝臣はなおも抵抗し、千手経の呪法を行使する。役人が家に帰りつき、馬から降りようとすると身体が硬直して降りられない。たちまちのうちに馬ごと空に舞い上がり、朝臣を打ちのめした場所まで連れ戻されてしまった。そのまま空中で一日一夜を経たあくる日の午の時刻、役人は空から落ちてばらばらに砕けて死んだ。そのありさまを見て恐れない者はいなかった。
(中-15)「法華経を写したてまつりて供養することによりて、母の女牛(めうし)となりし因を顕す縁」
高橋の連東人は、亡き母の法事のために法華経を写経し、法師を招いて供養を行う誓願を立てた。あくる日に、最初に出会った僧を招いて供養を頼むよう使用人に言いつけ、探しに行かせた。使用人が見つけたのは酒に酔いつぶれている間に髪を剃られ、袈裟のように縄をかけられて僧の姿にされた乞食だった。だが使用人は主人の言いつけに従って、この乞食を連れて帰った。東人は乞食を丁重に扱い、法服を作って差し上げた。乞食は困惑し「わたしは何も学んではおりません。ただ般若陀羅尼だけを誦持して食いつないでいるだけの者です」と言って断るが、東人が引き下がらないので、密かに逃げる決心をしたが、見張られていて逃げることはできなかった。その夜、乞食法師の見た夢に赤い雌牛が現れて、自らを東人の母と名乗った。前世で子の物を盗んで使ったとがで、今生は牛に生まれ変わってその負債を償っているのだという。このことが真実であることを証明するために、説法をする堂の中に座を設けてくれればそこに座ってみせると伝えた。目覚めた法師は驚き、翌日講座で夢の内容を詳細に語った。実際に座を敷いて雌牛を呼ぶと本当にそこに座った。息子である東人は大いに泣き、母の罪を許した。法事が終わると牛はそのまま死んだ。東人はその後も母のために重ねて功徳を修めた。
(中-1)「おのが高き徳を恃(たの)み、賤しき形の沙弥を刑(う)ちて、現に悪死を得る縁」
聖武天皇が天平元年の春、元興寺において大法会を催しなさったとき、僧たちに食事を供養する役目を長屋王に命じた。そのとき、一人の僧があつかましく供養の食事を盛っているところまでやってきて、施しを受けた。それを見た長屋王は持っていた杓でその僧の頭を打った。僧は頭から血を流し、恨めしく泣き声をあげると急に姿を消した。法会に集まった人々はこれを見て「不吉である」とささやきあった。それから二日後、長屋王を妬む人が天皇に「長屋王が謀反を企てている」と讒言すると、天皇は怒って長屋王のもとに兵を差し向けた。覚悟を決めた王は親族の命を絶った後、自分も毒薬を飲んで自害した。王と親族の遺骸は勅命により平城京の外で焼き砕かれ、河や海に流された。しかし長屋王の骨が流れ着いた土左の国では、多くの民が死んだ。天皇はこれを聞くと、王の骨を都に近づけないように、紀伊の国の奥の嶋に置かせた。
(上-10)「子の物を偸(ぬす)み用ゐ、牛となりて役(つか)はれて異(あや)しき表(しるし)を示す縁」
大和の国の土椋の家長の公は、法華経によって前世の罪を懺悔しようと考えた。そこで使用人に命じて、最初に出会った僧を連れて来させた。法要が終わった夜、僧が寝ようとすると、家長が被(掛け布団)をかけてくれた。僧は「明日お布施を貰うより、今この布団を盗んだ方がいい」と思い、布団を持って家を出ようとすると「その布団を盗んではいけない」という声がした。驚いて家の中を見回すが、いるのは倉の下に立っている一頭の牛だけである。牛は僧に、自分は家長の父の生まれ変わりだと告げた。前世で息子に黙って稲を十束取ってしまい、今は牛に生まれ変わってその罪を償っているのだという。このことの真偽を確かめたいなら、自分のために座席を設ければそこに座ってみせようと言った。ここで僧は自らの行為を大いに恥じ、引き返して一夜を明かした。翌日の法要が終わると、僧は親族だけを集めて前夜のことを事細かに話した。家長が座席を作ると昨夜告げたとおり、牛はそこに座った。牛が父であることを知った家長が牛を礼拝して前世の罪を許すと、牛は涙を流して大きく息をついた。その日の申の時に牛は死んだ。家長は昨夜僧が盗もうとした布団と財物をお布施として施し、さらに父のために功徳をつんだ。
(上-27)「邪見なる仮名(けみょう)の沙弥、塔の木を斫(さ)きて、悪報を得る縁」
石川の沙弥は自度僧で正式な僧名がなく、俗称も明らかではない。姿こそ僧をまねてはいるが、心は盗賊のそれであった。あるときには「塔を建てる」と嘘をついて人に寄進を求めて集めた財貨をそのまま懐に納め、家に帰って妻と共にその金で飲み食いをした。またあるときには摂津の国の春米寺に住みついて、塔の柱を切り取って燃料にして仏法を汚した。これ以上の無法ぶりは他にはないというほどであった。ついに石川の沙弥は味木の里で病気にかかり「熱い、熱い」と叫んで地面から一〜二尺ほども飛び上がった。その様子を見て「なぜそんなことをしているのか」と人が問うと「地獄の火がやってきて自分を焼いているのだ」と答えた。沙弥はその日のうちに死んでしまった。
(上-19)「法花経品を読む人を呰(あざけ)りて、現に口喎斜(ゆが)みて悪報を得る縁」
昔、山背の国のある自度僧が、俗人と碁を打っていた。そこへ乞食が来て、法華経を読んで物乞いをした。すると自度僧は軽蔑し、嘲りながら自分の口をわざとゆがめて乞食の読む経の口真似をした。俗人は碁を打つたびに「畏れ多い、恐ろしい」と言った。碁は全て俗人が勝ち、自度僧は何度打っても負けた。自度僧の口はゆがんでしまい、薬で治療してもついに治らなかった。
(中-7)「智者、変化(へんげ)の聖人(しょうにん)を誹り妬(うらや)みて、現に閻羅(えんら)の闕(みかど)に至り、地獄の苦を受くる縁」
鋤田寺の釈智光は生まれつき聡明で、智恵は第一人者といわれた。盂蘭盆・大般若・心般若などの経の注釈書を著して、学僧のために仏の教えを読み教えた。一方その頃沙弥行基という人がおり、人柄がかしこくて、生まれながらに才知があった。すでに菩薩の位を得ていたのだが、外見は修行者の姿をしていた。聖武天皇は行基の威徳に感じいって重用し、天平十六年十二月をもって大僧正に任じた。智光は行基に嫉妬し、「わたしは智人、行基は沙弥であるのに、なぜ帝はわたしの智恵をお認めにならず、行基ばかりを誉めて重用なさるのだ」と非難した。時勢を不満に思って故郷に退いてすぐに病気にかかり、一月ほどで臨終を迎えた。死の直前、自分の死体を十日ほどそのままにして、死んだことを伏せておくよう弟子に遺言を残した。弟子は遺言に従い、師の部屋の戸を固く閉じて秘密を守った。一方死んだ智光は閻羅王(閻魔王)の使いに召されて連れて行かれる途中、黄金の宮殿を見かける。使者によればそれは行基菩薩が往生した後に住むことになっている宮殿であった。閻羅王の前に召しだされた後、智光は三日ごとに熱く熱した鉄や銅の柱を抱かされ、阿鼻地獄に投げ込まれた。これらは行基菩薩を誹謗した罪に対する罰であった。罰を受け終えて地獄より帰されて蘇った智光は、弟子に向かって地獄での出来事を詳細に語り、その後難波にいる行基の元へ向かうと、彼を妬み誹謗したこと、その罪によって地獄で刑罰を受けたことを懺悔した。智光から自分が住むことになっている宮殿の話を聞くと、行基は「喜ばしい、尊いことだ」と言った。それから智光法師は行基菩薩を信仰し、彼が明らかに聖人であることを知った。行基菩薩は天平二十一年二月二日に亡くなった。法師の姿を捨てて、その魂は黄金の宮殿にお移りになったのである。
(下-19)「産生(う)める肉団(ししむら)のなれる女子(おみな)、善を修し人を化けする縁」
肥後の国の豊服の広公の妻が懐妊して、卵のような肉の塊を産んだ。夫婦は「よいしるしではない」と考えて山の石の中に隠しておいた。七日目に見に行ったところ、肉塊の殻が開いて女の子が生まれていたので、夫婦はこの子を育てた。八ヶ月を過ぎて急に大きくなった女の子は、頭と首がくっついて下顎がないなど、人とは異なる姿であったが生まれつき賢く、七歳になる前に法華経と八十巻の華厳経をちゃんと方式どおりに読めるほど聡明であった。ついには出家を願って髪を剃り袈裟を身に着け、仏教を修めて人々を教化した。その読経する声は尊く感銘させるものがあり、彼女の教えを信じない者はなかった。愚かな俗人たちは異形の姿を嘲笑して「猴聖(さるひじり)」とあだ名した。あるとき、託磨の国分寺の僧と豊前の国の大神寺の僧の二人がこの尼を妬んで「外道である」と嘲笑いからかったところ、不思議な人が空から降りてきて、鉾でかれらを突こうとした。二人の僧は恐れ叫んでついに死んでしまった。またあるとき、肥前の大領が戒明大徳を呼んで法会を開いた。戒明法師が八十華厳経を講釈しているときにその尼も人々に交じってこれを聞いていた。戒明法師はこれを見て「無作法にも聴衆の中に混じっているのはどこの尼だ」と呵責した。それに対して尼は「仏は平等の慈悲をお持ちなのだから、全ての人々のために正しい教えを広めなさるのです。どうしてことさらにわたしをのけ者にするのですか」と反論した。尼が戒明法師と問答をしたところ、法師は答えられなかった。これを見た他の名高い知識層が次々と質問をして尼の才智を試したが、彼女は答えられないことがなかった。このことでこの尼が聖者の化身であることがわかり、「舎利菩薩」と呼ばれるようになった。みな彼女に帰依し、教化の指導者として信仰した。
参考文献

 

小泉道・校注『新潮日本古典集成(第六十七回)日本霊異記』、1984年、新潮社
頼住光子「日本古代における「カミ」信仰と仏教受容に関する一考察 ―『日本霊異記』に即して―」(『淳心学報』第7号、1988年、現代人文学研究所)
駒木敏「『日本霊異記』と民話的手法」(『日本文学』vol.24-No.6、1975年6月)
霧林宏道「『日本霊異記』における行基説話の一考察―女性教化の視点から―」(『國學院雑誌』第102巻第12号、2001年)
曽我部順子「『日本霊異記』の一考察 ―現報のあらわれ方について―」(『女子大国文』vol.101、1987年6月、京都女子大学国文学会)

1 現報譚を多く採用した景戒の意図に関しては、曽我部順子「『日本霊異記』の一考察̶現報のあらわれ方について―」、頼住光子「日本古代における「カミ」信仰と仏教受容に関する一考察̶『日本霊異記』に即して―」などでも指摘されている。
2 小泉道によると、「私度僧」は「自度僧」とも表記し、特に景戒は自主的に得度したという意を込めて「自度」を用いているという(新潮社版解説より)。ただし今回は「私度僧」に統一して表記している。
3 仏教を重んじた聖武・孝謙朝では僧の得度も大幅に認められていたが、称徳朝で僧道鏡が莫大な権力を掌握するという事件が起こり、その後の光仁・桓武朝では私度僧の取締りなど、方針の転換がとられた。(小泉道・注、新潮社版『霊異記』解説より)
4 「薬師寺の沙門」景戒が元々私度僧であったという説は、彼が遊行僧である行基の関係する説話を多く採用している点からも指摘されている。(霧林宏道「『日本霊異記』における行基説話の一考察―女性教化の視点から―」など)
5 駒木敏は「『日本霊異記』と民話的手法」の中で、乞食僧の迫害説話の背景には、土着の神を信仰する地域に仏教が浸透する過程での葛藤があったとしている。
6 ただし、行基や(下-19)の尼のような人格的に優れた聖人は別格に扱う必要がある。
 
『日本霊異記』上巻冒頭説話の存在意義と役割について

 

1.はじめに
神仏習合思想を研究するにあたって、当時の一般民衆の思想を表している『日本国現報善悪霊異記』(以下『日本霊異記』と略記する(1))は重要な史料となる。したがって、この『日本霊異記』を考察していくことが神仏習合の現象を理解することにつながると考える。つまり、本論は神仏習合思想を研究するにあたり、その前段階としての『日本霊異記』の小考と位置づける。
さて、そこで問題となっているのが『日本霊異記』上巻冒頭話の存在である。『日本霊異記』は奈良時代から平安時代初頭に編纂された日本最古の仏教説話集である。そこには、仏教思想を中心に、地方の古代民間説話を集めた上中下の三巻構成で全 116 話が収められており、民衆の様々な生活様式が描かれて、当時の社会状況や古代思想を理解する文献となる。
しかしその上巻冒頭説話の既存研究では非仏教説話とされている。『日本霊異記』は仏教を流布するために編纂され、その対象者は一般民衆であった。しかしなぜ非仏教説話が入っているのか。そこで仏教説話集である『日本霊異記』の中で非仏教説話とされる上巻冒頭説話にどのような意義・役割があったのかを見て行く。
2.先行研究

 

『日本霊異記』上巻冒頭説話に関しては多くの研究論文があるが、その中でも日本固有の神の権威・地位に関する研究について、以下が主なものである。
まず、久保田実氏は巻冒頭説話には、固有信仰の代表的存在である、雷神の衰退を描かれていると解釈し、「上巻第一縁が仏教説話集の中の非仏教説話である。」と明言している。さらに、『古事記』『日本書紀』と比較しながら、上巻第一縁の解釈として「説話集の神的なものによる意味づけと、新しい信仰の前提として神の没落を意味するのである。」と論じている(2)。
次に、小泉道氏は上巻一縁と人間が自然を制圧してきた過程を物語る類話を比較し、「固有の呪的信仰の世界において死後の行為が暗示される伝承は、仏教信仰の世界における応報ないし転生譚を説く前座として、まさに恰好のものであろう。景戒もそういう意味をこれに持たせたのではなかろうか。」と論じている。そこから、『日本霊異記』全体の構成の中から「景戒は上一〜五縁において、固有呪術的世界に根ざしながら仏教世界への導入を一応完結させるべく構想づけた」と論じた(3)。
また、寺川眞知夫氏は「非仏教説話でも、説教では仏教的意義を担わせ得ると判断していた」と考察し「本縁は仏の霊威や功徳を説く話ではなかったが、仏教を信じず、固有信仰を保つ人々が崇拝する固有神の代表的存在、雷神の衰微を説く。その内容は仏菩薩やその眷属神の信仰と功徳を信じるよう勧める立場からすると好都合なものであった。また、景戒にも固有神の衰微を説く意図のあったことは、他の説話との関連でみると、十分考ええることであった。」と論じている(4)。
さらに、青木未幸氏は「前段は神の権威を守った話。後段は雷神が聖域に墓を作られたこと(聖域に対しての怒り)に対して怒り、報復にでる。しかし失敗して捉えられる結果になり神の衰微を描いた。」と考察した(5)。
それから、永田典子氏は『日本霊異記』の編纂を景戒の信仰と教化のフィルターを通しているという前提のもと「仏教的色彩のない説話にもそれなりの意義がある」とし「本縁は小子部氏の氏族伝承である」と論じている(6)。
また、義江明子氏は上巻 1 話を『日本霊異記』全体の構想からとらえて「上巻第 1話は、雄略朝のこととして語られてきた伝承に推古の時代を重ねて、「雷神を捉えた話」として描き、王権と仏教の歴史の始まりとしての明確な位置付けを示している」と論じている(7)。
そして、藪敏晴氏は序文に示されている仏法と説話配列によって読み取れる仏教史叙述の 2 側面から考察し「上一は因果の理こそを仏法として認識する『霊異記』にあって、その例証として機能する」と述べ仏教史を叙述する『霊異記』の中で歴史叙述に神話的枠組みを与えていると論じている(8)。
最後に、守屋俊彦氏は上巻 1 話について「仏教と神道の対立という視点が最も可能性がある」とし「因果応報という異国の思想に引き入れるための準備手段、いわば誘導路としての役割を果たしている」と論じている(9)。
したがって、これら上巻冒頭説話の神の権威・地位に関する研究の特徴は以下の 5点に分類される。
1 仏教説話への導入
2 神(固有信仰、雷神)の衰退
3 氏族伝承
4 王権・仏教史の始まり
5 仏教説話に神話的枠組みの追加
以上のように様々な学説が存在する。しかしそのどれもが定説には至っていないのが現状である。
このような先行研究がある中で、守屋俊彦・寺川真知夫氏の研究を概観しつつ「神祇信仰の相対的低下、仏教説話集への導入話」という視点に基づき上巻冒頭説話についての再考察を行っていく。
3.当時の社会状況と古代思想

 

上巻冒頭説話を考察する前に『日本霊異記』が編纂された当時の社会状況を見てみよう。
当時の社会状況をよく表しているのは『万葉集』(10)に収められている山上憶良の「貧窮問答歌」であろう。本論文では改めて「貧窮問答歌」を提示しないが、内容から当時の農民が極めて過酷な生活環境にあったことは容易に想像できよう。
では次に農民にとって重要な当時の土地制度の変遷についても確認していく。
土地制度における重要な分岐点となっているのが、まず 645 年の公地公民制であろう。土地の公民化は古代律令国家体制の要となる重要な政策であった。当時は私有地であった土地が国のものとなり租税の義務が発生し国民の生活が大きく変化していった。
次いで、701 年には班田収受法が本格成立し農地の支給・収容に関する重大な法体系が整っていった。しかし租税の重い負担などにより逃亡する農民が続出し次第に形骸化していくことになる。
土地制度が形骸化すると、朝廷・貴族の中央官僚と地方豪族・一般民衆の生活格差は縮まるどころか拡大するばかりで貧困の一途をたどるものであった。労役として諸国に派遣されていた人々は、労働の厳しさから逃げ出す者もいたほどであった。労役の義務が終わり、自国へ帰ろうにも食料が確保できずにいたるところで餓死するという出来事も日常であった。その後 723 年には三世一身法が発布される。さらに続いて班田永年私財法が行われるが田は不足し、重税から逃れるために浮浪者が続出した。公地公民制が制度化されてからわずか 100 年前後で土地制度の崩壊、さらに律令制が崩壊し社会は完全に疲弊している状態であった。
このような過酷な身分社会制度や税の取り立てから逃げた民衆についても『続日本紀』(11)のなかに見ることができる。また逃げた農民は浮浪者となる者も多かったとされる。それは『続日本紀』など史書の記事にされるようなほど大きな問題であった。
つまり、農民は律令体制のもと、公民として国家に把握・管理されており、その税は過酷であり、人として最低限の活動である生きること自体が脅かされる社会であったと推測できる。
次に当時の自然環境についても確認する。
古代当時においても自然災害や飢饉、飢餓が多発しており『続日本紀』に記載されている。自然災害による人的被害、精神的被害、住居環境の被害は甚大であったように思われる。古代において人間が生きる世界では人間だけではどうすることもできない事態が多くあったと推測できる。このような社会経済状況の中で一般民衆や地方有力豪族が金銭面でも精神面でも疲弊していた事は明白であろう。
当時の古代人はこのような人知を超えた力に対して畏怖の念・畏敬の念を抱き、自然を「カミ」として信仰していた。人の力が届かない現象に対して全て世の定めと受け入れていたという事は想像に難しくない。
この全てを受け入れるという考えは「自然(しぜん)」を当時「自然(じねん)」や「おのずから」と表現していた思想に現われている。しかし、このような苛酷な社会状況、生活環境の中で「おのずから」では全てをしぜんのあるがまま受け入れることができなくなってしまった。その中で仏教の流布・因果応報の理を民衆に教え広めるために『日本霊異記』が編纂されたのであるということをしっかりと理解しておかなければならない。
4.『日本霊異記』編纂意図の確認

 

先述したように朝廷や上流貴族以外は現在では想像できない過酷な環境の中で生活を営んでいた。このような苛酷な社会環境を背景として、「おのずから」では全てを受け入れられなくなってしまったという状況がある。そこで「おのずから」ではない新しい思想(仏教)を流布するために『日本霊異記』が編纂されることとなる。それでは、編者景戒がどのような意味・願をこめて編纂していったのか見ていく。
まず、改めて題目をみてみると、その正式書名は『日本国現報善悪霊異記』である。これはその題目通り日本国における善行・悪行はすべてが良い報い・悪い報いとして表れるという意味である。
次に、上中下各巻の序文の編纂意図や景戒の意識がうかがえる個所を抜粋する。まず上巻序文である。
1 愚痴の類は迷執を懐き、罪福を信なりとせず。深智の儔は内外を観て、信として因果を恐る。
2 是に諾楽の薬師寺の沙門景戒、熟世の人を瞰るに、才好くして鄙なる行あり。利養を翹て、財物を貧ること、磁石の鉄山を挙して鉄を嘘フヨリモ過ぎたり。他の分の欲ひ己が物を惜しむこと、流頭の粟の粒ヲ砕キて、以て糠を啖ムヨリモ甚だし。或は寺の物を貪り、犢に生まれて債を償ふ。或いは法僧を誹りて現身に災を被る。或いは道を殉め行を積みて、現に験を得たり。或いは深く信じて善を修め、以て生きながら祜に霑ふ。善悪の報いは、影の形に随ふが如し。苦楽の響ハ、谷の音に応ふるが如し。見聞きする者は、甫ち驚き怪しび、一卓の内を忘る。慚愧する者は、倐に悸キシタみ、起ち避る頃を忩ぐ。善悪の状を呈すにあらずは、何を以てか、曲執を直して是非を定めむ。因果の報を示すにあらずは、何に由りてか、悪心を改めて善道を修めむ。
3 何ぞ、唯し他国の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信じ恐りざらむや。粤二起ちて自ら矚るに、忍び寝ムコト得ず。居て心に思ふに、黙然ルコト能はず。故に聊かに側二聞けることを注し、号けて日本国現報善悪霊異記と曰う。上・中・下の参巻と作し、以って季の葉に流ふ。
4 祈ハクハ奇記を覧む者、邪を退けて正に入れ。諸悪莫作、諸善奉行。次に中巻序文である。
5 悪因は轡ヲ連ねて苦しき処に趍る。善業縁に攀ヂテ安き堺を引く。
6 庶はくは拾文を覯む者、天に愧ぢ人に慙ぢ、忍びて事を忘れ、心の師と作して、心を師とすること莫れ。
7 仏性の頂に登り、普く群生に施し、共に仏道を成ぜむ。
最後に下巻序文である。
8 世を観るに、善を修する者は、石の峯の花の若し。悪を作す者は、土の山の毛に似たり。
9 既に末劫に入りぬ。何ぞ仂めざらむ。喃レ汎く言惻む。那か劫災を免れむ。
10 記ゆること無くして罪を作せば、記ゆること無くして怨を報ゆ。何に況や悪心を発して殺さむときに、彼の怨報無きことあらむや。悪を殖うる因と、怨悪の巣とは、是れ吾が迷へる心なり。福因を作して、菩提を鑒るは、是れ我が寤れる懐なり。
11 奇異しき事を注して、言提フル流に示す。手を授けて勧めむと欲ひ、足を濡ギテ導かむことを欲ふ。庶はくは、地を掃ひて共に西方の極楽に生れむ。
というように、景戒は各巻序文に述べている。
このような序文を読んでいくと、なぜ景戒が『日本霊異記』を編纂するに至った経緯が当時の世界観から理解することができるのではないだろうか。
要約すると、当時の世の中は末法の世界で、多くの人々は自分の欲求のままに生きており、後世や現世において悪行の報いを得ている。善行をしている人は善の報いを得て幸福に生活している。しかし、悪行をしている人は雑草のように多くいて、善行を行っている人は極めて少ない。しかも他国の不思議な話は信じるのになぜ日本の不思議な話は信じない世の中であり、景戒は憂い嘆いていたと受け取ることができる。そこで景戒は日本の不思議な話を聞き集め因果応報の具体的な事例を各話に示しながら善行を勧め、悪人・悪行を行っている人を救い導こうという目的から編纂したのである。中田祝夫氏は各巻序文を通して「中国の仏教説話集にならって日本の奇事を集めた。これによって人々に善因善果、悪因悪果の応報のすみやかなることを知らせ、現世の行動の規範としたい」(12)と編纂意識を読み取っている。『日本霊異記』全体の説話を通しても中田氏は「各説話にも人間救済の具にしようとする意図がはっきりと感じ取れる」(13)と述べている。
それでは、景戒はどのような人々を仏教の道へ導こうとしていたのか。景戒がこの『日本霊異記』を誰に対して読み聞かせようとしていたかについて宇佐美正利氏は「景戒が対象として考えた相手は僧侶ではなく、あくまでも俗人であったのである。それゆえ俗人でも簡単に理解できる現象でもって善悪の報いを示し、因果応報の理を説明した」(14)と論じている。つまり、地方豪族や一般民衆を対象としていたと考えられる。
また、『日本霊異記』の因果応報説話は一般民衆に仏教を教化するにはうってつけの題材であった。一般庶民層に対して仏教の因果応報の理、善悪応報を説くためには現世利益を訴えるのが極めて効率的であったからである。
それでは、その『日本霊異記』の上巻冒頭説話はどのような意味を持つのか検討していく。
5.『日本霊異記』上巻冒頭説話の意義とは

 

『日本霊異記』では、上中下各序文で執拗なまでに「因果応報」を繰り返し説き、民衆を仏教の道へ導こうとしている。しかし、因果応報によって仏教で説くところの極楽浄土へ導くためには仏教の優位性を説き、土着的神祇信仰の相対的低下を表現しなければならないのではなかろうか。
景戒は仏教者であり『日本霊異記』の編纂意図からも分かるように仏教の民衆への強化が目的である。そこで 1 つの問題となるのが上巻冒頭説話の存在である。上巻冒頭説話は仏教説話集である『日本霊異記』の中で仏教臭さがあまり感じられず非仏教説話と考えられている。そのため解釈に関する研究もなかなか進展しないのが現状である。
前述した先行研究のまとめにて、先学者がさまざまな研究を行っており多くの研究学説が存在する。しかし定説とまでは至っていないのが現状である。そこで改めて上巻冒頭説話に関してその存在意義について考察していく(15)。
まず考察するにあたって冒頭説話全文を提示する。
雷を捉えし縁 第 1
少子部の栖軽は、泊瀬の朝倉の宮に、二十三年天の下治めたまひし雄略天皇の随身にして、肺脯の侍者なりき。天皇、盤余の宮に住みたまひし時に、天皇、后と大安殿に寐テ婚合したまへる時に、栖軽知らずして参ゐ入りき。天皇恥ぢて輟ミヌ。
時に当たりて空に電鳴りき。即ち天皇、栖軽に勅して詔はく、「汝、鳴雷を請け奉らむや」とのたまふ。答えて白さく、「請けまつらむ。」とまうす。天皇詔言はく、「爾らば汝設け奉れ」とのたまふ。栖軽勅を奉りて宮より罷り出ず。緋の縵を額に着け、赤き幡桙をフゲテ、馬に乗り、阿倍の山田の前の道と豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越しの衢に至り、叫囁びて設けて言うさく、「天の鳴電神、天皇設け呼び奉る云々」とまうす。然して此より馬を還して走りて言さく、「電神と雖も、何の故にか天皇の請けを聞かざらむ」とまうす。走り還る時に、豊浦寺と飯岡との間に、鳴電落ちて在り。栖軽見て神司を呼び、 籠に入れて大宮に持ち向ひ天皇に奏して言さく、「電神を設け奉れり」とまうす。時に電、光を放ち明りRケリ。天皇見て恐り、偉シク幣帛を進り、落ちし処に返さしめたまひきと者へり。今に電岡と呼ぶ。
然る後時に、栖軽卒せぬ。天皇勅して七日七夜留めたまひ、彼が忠臣を詠ひ、電の落ちし同じ処に彼の墓を作りたまひき。永く碑文の柱を立てて言はく、「電を取りし栖軽が墓なり」といへり。此の電、悪み恨みて鳴り落ち、碑文の柱を踊ヱ践み、彼の柱の析けし間に、電揲リテ捕へらゆ。天皇、聞こして電を放ちしに死なず。電慌レテ七日七夜留りて在り。天皇の勅使、碑文の柱を樹てて言はく、「生きても、死にても電を捕れる碑文が墓なり」といひき。所謂古時、名づけて電の岡と為ふ語の本、是なり。
まずこの上巻冒頭説話は前半後半の 2 部構成となっている。前半部分は冒頭少子部の栖軽は(中略)今に電岡と呼ぶ。までである(以下前半部 A と呼ぶ)後半部分は然る後時に(中略)是なり。である(以下後半部 B と呼ぶ)
簡単に話の流れを説明すると前半部 A は天皇と皇后が大安殿において共に寝ているところを栖軽に見られてしまい、天皇が栖軽に「雷を捕まえてこい」と勅命を出して雷を捉え、捉えた場所を雷の岡と呼ぶ。と言う話である。後半部 B は栖軽が死に「雷の岡」に栖軽の墓が建てられた。その墓に栖軽を恨んでいた雷が落ちるが、墓の柱の裂け目に挟まってしまい再び捉まってしまう。その後「生きても死んでも雷を捕える栖軽の墓」という柱が建てられた。と言う話である。
さてここで問題になるのが、話の中心は何なのかということである。
「小子部栖軽は、泊瀬の朝倉の宮に、二十三年天の下を治めたまひし雄略天皇の随身にして肺脯の侍者」であって「天皇、盤余の宮にみたまひしときに、天皇、后と大安殿に寝て婚合したまへる時」であっても「栖軽知らずして参ゐ入りき。」というほどの天皇の信頼が厚かった栖軽の功績譚(16)や景戒の祖先譚(氏族譚)(17)という研究もある。また、栖軽をして「電神と雖も、何の故にか天皇の設けを聞かざらむや」といわしめるほど天皇の権威が絶対的なものであったという考えもできる。つまり中心人物は「電神をつかまえた」栖軽なのか、「電神をつかまえて来い」と命じた天皇なのか、または、捕まえられた雷なのかということである。これは表題の「雷を捉えし縁」と示す通り素直に解釈すると「雷を捕えた」栖軽が主人公と考えられる。
ところで、上巻冒頭説話前半部 A と似た話が『日本書紀』(18)に異文として記されている。上巻冒頭説話との雷神の比較として検討するため全文を示す。
『日本書紀』巻 14 雄略天皇 7 年 7 月条
七年の秋 7 月の甲戌の朔にして丙子に天皇、少子部連蜾蠃に詔して曰く、「朕、三諸岳の神の形を見むと欲ふ。或いは云はく、此の山の神、大物主神とすといふ。或いは云はく莵田の墨坂神なりといふ。汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て來」とのたまふ。蜾蠃答へて曰さく、「試に住りて捉へむ」とまをす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒したまはず。其の雷虺虺きて、目精赫赫く。天皇、畏み、目を蔽ひて見たまはず、殿中に却き入り、岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷とす。
内容としては天皇が三諸岳の神を捕まえてこいと少子部連蜾蠃に言い、三諸岳の神である大蛇を捕まえた。しかし大蛇が怒ったため、天皇は恐れ、大蛇を解き放ち改めて大蛇に名前を与え雷となった。という話である。この話は『日本霊異記』冒頭説話前半部 A と非常によく似た話となっており、『日本霊異記』上巻冒頭部と『日本書紀』の話では巻 14 雄略天皇 7 年 7 月条は両方とも「雷神」を捉えた話である。特に『日本書紀』の話では三諸岳の神=大蛇=雷神として表現されており、古代の蛇=雷神の関係を表していると考えられる。
つまり『日本書紀』の大蛇(雷神ともいえる)は 1 度捉まってしまうのだが、天皇が恐れをなし解き放ってしまうという理解ができよう。この「大蛇(雷神)を恐れた」と言うのが 1 つのポイントとなっているのではなかろうか。『日本書紀』では神を恐れたのに対し『日本霊異記』の方ではどうだろうか。雷神は少子部栖軽に捕まえられ、その死後も捉えられてしまう。このような表現で雷神を恐れていたとは言えないであろう。
本来、農耕とかかわりのある雷(水の神)を祀るということが古代の絶対的常識であった。
冒頭説話の異文とされている『日本書紀』では神を恐れている。しかし冒頭部前半A では天皇の勅命で少子部栖軽なる人物に捉えられてしまう。本来であれば祀られなければならない雷神にもかかわらずである。冒頭部後半 B においても雷神は墓の柱に落ちて捉まるという大失態を犯している。この『日本書紀』と『日本霊異記』の比較から見えることは日本書紀(神話的神)から日本霊異記(仏教説話)へという神の変容であったのではなかろうか。
冒頭説話前半部 A を『日本書紀』と似せながらも雷神を恐れる話から雷神を捉える話へと変化させ、後半部 B でさらに雷神が捉えられる話を付け足し神の権威を相対的に低下させているのではないだろうか。つまり前半部 A は『日本書紀』とにせた仏教(仏教説話)への導入とし、さらに後半部 B で雷神が捉えられる話(神祇の低下)を表現していると考えられるのではなかろうか。
6.まとめ

 

本論文では『日本霊異記』上巻冒頭説話の存在意義を考察してきた。
まず『日本霊異記』が編纂された時代・社会背景は第 3 章で述べたとおり、『万葉集』や『続日本紀』などによると、重税や自然災害の多発などに苦しめられ当時の地方豪族、一般民衆は非常に過酷な状況で生活を営んでいた。
このような背景で「因果応報の理」を一般民衆に説き、民衆を仏教の世界、極楽浄土の世界に導こうとするために編纂したことを第 4 章で確認した。そこで問題になっていたのが上巻冒頭説話である。なぜ仏教説話集の中に非仏教説話が存在するのか、その意義が 1 つの問題であった。
そこで本論では、「神祇信仰の相対的低下、仏教説話集への導入話」という視点に基づき読み解いた。その結果、上巻冒頭説話は『日本書紀』と似せながら仏教説話の導入的な役割を果たし、仏教全体の優位性を示すために相対的に神の力の相対的低下(神祇の低下)を表現していると考察した。『日本霊異記』の因果応報説話は一般民衆に仏教を教化するにはうってつけの題材であった。一般庶民層に対して仏教の因果応報の理、善悪応報を説くためには現世利益を訴えるのが極めて効率的であった。当時の日本思想に対し緒方惟精氏は古事記、祝詞、万葉集を考察し「日本固有思想には「来世観」は認められない」(19)と述べている。当時の日本思想に来世観が見られないのは、先に述べたように物事の全てを受け入れるという「おのずから」という思想が関係あったのではなかろうか。当時の思想に来世観がなく良いことも悪いこともおのずからのままに生きている人びとにとって良いことも悪いこともおのずからのまま全てを受け入れて生活を営んでいる人びとにとって、過酷な社会環境や社会不安の中ではおのずからというありのままを受け入れることは非常に困難となっていった。このような民衆の人々にとっては因果応報、現世利益の考えは極めて解りやすかったのではないかと想像できる。おのずからという古代思想から因果応報という仏教思想へと変化させるためには当時の共同体がもっていた神祇的信仰から仏教思想を信仰するための変化があったのではないだろうか。

(1) 中田祝夫、1995、新編日本古典文学全集 10『日本霊異記』小学館、以下『日本霊異記』の本文は全てこれによる。
(2) 久保田実、1974、「仏教説話集における神の説話の意義」『駒澤國文』11 巻
(3) 小泉道、1974(昭和 49)、「雷岡の墓標」『國語國文』第 43 巻第 6 号(478 号)、中央図書出版社
(4) 寺川眞知夫、1996(平成 8)、『日本国現報善悪霊異記の研究』和泉書院
(5) 青木美幸、2001、「『日本霊異記』と神の衰微」武庫川女子大学大学院雑誌『かほよとり』第 9 号
(6) 永田典子、1981(昭和 56)、「小子部栖軽説話考」甲南女子大学大学院『論叢』第 2 号
(7) 義江明子、2003、「雷神を捉えた話と推古天皇」大隅和雄編、『文化史の諸相』吉川弘文館
(8) 藪敏晴、1995(平成 7)、「『日本霊異記』の仏法と歴史叙述」『説話文学研究』第 30 号
(9) 守屋俊彦、1978(昭和 53)、『続日本霊異記の研究』三弥井書店
(10)小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳、1994、新編日本古典文学全集 7『万葉集』小学館
(11)宇治谷孟、1992、『続日本紀(上)』全現代語訳、講談社
(12)中田祝夫、1995、新編日本古典文学全集 10『日本霊異記』小学館
(13)中田祝夫、1995、新編日本古典文学全集 10『日本霊異記』小学館
(14)宇佐美正利、1995、『日本霊異記とその時代』おうふう
(15)従来上巻冒頭説話の研究については、本論文で取り上げている冒頭話の存在意義以外にも多くの問題点がしている。1 点目は天皇と皇后が寝ていた大安殿の性格。2 点目は天皇と皇后が共に寝ていたという意味。3 点目は天皇と皇后が共に寝ていた時に鳴った雷の意味。4点目は上巻冒頭説話と道場法師系説話の関係などである。上記 4 点についても冒頭話を研究する際には合わせて考察しなければならないが、本論文では割愛し今後研究していく。
(16)山根対助、1961(昭和 36)、「道場法師系説話の位置」『國語國文研究』第 18・19 号
(17)柳田國男、1976(昭和 51)、「若宮部と雷神」日本文学研究資料叢書『説話文学』有精堂出版
(18)小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注訳、1996、新編日本古典文学全集 3『日本書紀』2 巻、小学館
(19)緒方惟精、1964、「日本霊異記の制作態度」千葉大学文理学部『文化科学紀要』第 5 号  
 
日本霊異記とは?現存最古の仏教説話集!

 

説話集には、かつて日本の日常生活に息づいていた〈神〉や〈仏〉への恐れや、願いにまつわるお話が多く見られます。そうした説話の種類のひとつが、仏教説話。これは悪行を避けて善行を積むようにという考えを人びとに教え、導くもので、仏教を布教するために、誰にでも分かりやすいようにと編纂されたふしぎで霊妙な話のことです。今回は仏教説話集『日本霊異記』から思わず背筋が凍るような、ちょっと怖くてふしぎなお話を紹介。話から見えてくる日本人の宗教観や信仰心について解説します。
『日本霊異記』とは?

 

『日本霊異記』の最大の魅力は、神話的な世界との共通点が見いだせることでしょう。 『日本霊異記』とか『霊異記』とか呼ばれるこの書物の正式名称はちょっと長くて、『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき)』といいます。タイトルから分かるように、「日本の国」で伝えられている「善」と「悪」の行為についての「現報」を語る話を集めたものです。仏教の教えを実践すれば良いことがあり、仏法や僧を信じなければ恐ろしい目にあいますよ、というのが基本的な内容となっています。しかもそれは「現法」という形で現世で被ることになるのです。『日本霊異記』は現存する最古の仏教説話集として、自度僧(あるは私度僧とも。自ら出家して修行する僧で公認されていない僧のこと)を経て薬師寺の僧となった景戒という修行僧により9世紀初頭に編まれました。景戒については、生没年をはじめ詳しいことは何もわかっていません。この書物は、上・中・下の3巻で構成されており、全部で116もの説話が収められています。その中から、仏教の教えを伝える3つのお話を紹介しましょう。
説話1 あまりにも悲惨すぎる因果応報!「蟻に食われた夫」

 

「人はいかに生きるべきか」を説く仏教説話集『日本霊異記』には、因果応報の話が多く収められています。次に紹介する「蟻に食われた夫」もまた、因果応報を教える話のひとつです。
「子どもの頃から寺や僧が嫌いな男がいました。ある夜、男が家に帰ると妻の姿が見えません。妻は仏を信じない夫の罪を許してもらおうと寺へ懺悔しに行っていました。夫は寺に乗り込み、妻を引きずりだします。僧がとりなすと、夫は僧を口汚くののしりました。
その晩、夫は妻を抱こうとします。しかし妻は、今は願掛けの最中だから身を清らかにしておかなければならないのだと夫を拒絶します。夫は嫌がる妻を無理矢理に犯してしまいました。 事後、眠気を催した夫のまわりに、どこからともなく蟻が集まりだしました。その数は10匹、100匹、数100匹と増してゆき、夫の陽根(陰部)を目指してたかりはじめ、そしていっせいに噛みつきだしました。あまりの痛さに跳ね起きた夫の陽根は見るも無残に腫れあがっていました。蟻はいくら払っても食いついて離れません、ほどなくして、夫はその傷がもとで死んでしまいました。」
説話2 法華経のふしぎな呪力「朽ちない舌」

 

「朽ちない舌」は、山中で修行にはげんでいた僧が死んでも経を唱え続け、白骨化してもなお舌だけは腐らなかったというちょっと気持ち悪いお話です。
「1人の若い僧が修行をしたいと寺にやってきたのは6年ほど前のことでした。その寺には、禅師永興(ぜんじえいごう)という名の高僧が修行していました。病気を癒すのを得意とし、京より南に棲んでいることから、人びとは彼を南の菩薩と呼んでいました。
若い僧の持ち物は、法華経と白銅の水瓶が1つ、縄で編んだ椅子だけでした。毎日熱心に修行して1年が過ぎたころ、自分はこの地を去って伊勢の国を超え山に入るつもりだと言いだしました。永興はもち米の干飯を粉にしたものを持たせ、国境まで寺男を付き添わせました。しかし国境が近づくと、若い僧は寺男に自分の持ち物をほとんど与え、麻の縄と水瓶1つだけを持って去ったのです。
2年後、川の上流の山で舟を作っていた村人が法華経を読む声を耳にします。その声は何ヶ月経っても絶えることがありません。不思議に思った村人の知らせで永興が山に入ると、たしかに経を読む声がします。さらに山奥へ進むと、声のするところに人の死骸がありました。麻縄を両足に繋ぎ、岩に吊りかかっていたのです。そばには水瓶が転がっています。まぐれもなく、あの若い僧でした。
それから3年後。村人はふたたび山中で経を読む声を聞きます。山へふたたび出かけて行った永興は驚きました。なんと白骨化した遺体にはまだ舌がついていて、それは腐ってすらいなかったのです。これはきっと法華経の力にちがいないと、永興は若い僧の髑髏となった体を丁重に葬りました。 」
仏の呪力が災禍から人びとを守ってくれる?

 

「朽ちない舌」は、法華経のもつ不思議な呪力を物語るお話です。またこの話は、死者の肉体が腐らないうちに霊魂が舞いもどれば、再生するという考え方を仏の側から語ったお話でもあります。
〈仏〉の教えが仏像とともに日本に流入したのは6世紀半ばです。それ以前はというと、日本の原始古代社会では人びとは〈神〉を祀り、崇めていました。流入してきた仏は、外国から来た神の一種類と理解されるようになります。それにより、仏像を拝み経典を読めばその不思議な呪力の恩恵を授かることができると考えられました。もちろん、仏は抵抗なく受け入れられたわけではありません。古来の神々の怒りをかうと恐れた者もいました。
仏教が入ってきた後も変わらなかったことがあります。それは、神様は不浄を嫌うという〈ケガレ〉の意識です。そうした宗教観のなかで人びとが執着したのは遺体よりも〈霊魂〉です。死ねば肉体から霊魂が離れていく。しかし完全に死んでしまうまえに霊魂を肉体に呼びもどすことができれば、死者は復活すると信じられていたのです。
説話3 怨みは何度でも繰りかえされる「狐と赤犬」

 

「狐と赤犬」は、惨殺した狐の霊に取り憑かれて死んだ男が赤犬に生まれかわって復讐に現れるというお話。
「永興のいる寺に病にかかった男が担ぎこまれました。永興は災厄を除き、功徳を授けるという陀羅尼(だらに)を唱えます。男の容態は一度は治ったようにみえましたが、ふたたび悪化しました。祈祷の効果はいっこうにあらわれません。
ある日、いつものように永興が呪文を唱えていると病の男の体が動きました。そして永興は狐の声を聞きます。「わたしは絶対に退散しない。呪文を唱えるのを止めよ」男には狐が取り憑いていました。狐は、この男には前世でひどい殺され方をした、報復しなければならないと言います。永興は狐に言います。怨みに怨みをもってすれば、いつまでも怨みはなくならない。忍耐の心が大切なのだ。よく耐え忍ぶ心を養えば、敵でも自分の恩師になる。しかし狐は永興の言葉を聞かずに、男を殺してしまいました。
それから1年後。病にかかった弟子が、かつて狐に取り殺された男と同じ場所に寝込んでいます。すると突然、赤犬が飛び込んできて祈祷場で病に伏せている若い弟子に噛みつきました。すべてを理解した永興が陀羅尼を唱えると、一年前の狐が現れました。狐は、弟子にふたたび取り憑いていたのです。赤犬は、1年前に取り殺された男の生まれ変わりで、復讐しようと現れたのでした。ついに赤犬は狐を追い詰め、喉笛を噛み切りました。永興は倒れた狐の傍らでこういいます。「愚かなことを。怨みに怨みをもってすれば、こういうことになるのだ」 」
怨霊は神さまだった?

 

8世紀になると、日本では怨みをもって死んだ人間の霊〈怨霊〉の恐怖が人びとを襲うようになります。「狐と赤犬」で病に伏せた男が復讐のために生まれ変わったように、怨霊の復讐心には計り知れない恐ろしさがあります。
たとえば、怨霊をことのほか恐れていた桓武天皇は、政敵だった同母弟の早良親王の墓を整備し、仏教僧に経を読ませて謝罪までしています。これほどまで死者の霊に配慮したその努力もむなしく、天皇は病に伏せ、死を迎えることになります。やがて一般の人びとのあいだに、桓武天皇は怨霊に苛まれながら死んだのだという噂が広まります。自分たちを襲う疫病や天変地異も怨霊の祟りなのだと信じるようになり、ついには桓武天皇の政敵だった霊を鎮魂しようとの動きまで出てきました。
人びとがこれほど怨霊を恐れた理由は、彼らが怨霊を神とおなじものとみなしたからだと言えます。
仏と神のあいまいな領域が生んだ『日本霊異記』

 

平安時代初期になると、全国の八幡宮に菩薩号が与えられるようになります。仏や菩薩が神の姿をしてあらわれる〈権現〉と神は称されるようになり、どんどん神と仏の境界はあいまいになっていきます。こうして因果応報をもたらす呪力があるとされてきた仏、怨霊でもある神という構図ができあがってくるのです。
そんな時代に編纂された『日本霊異記』には、仏の力やその優位性を示すお話をいくつも収めています。人びとが時代や社会をどのように生きてきたか、『日本霊異記』の説話は確かなリアリティをもってわたしたちに語りかけてくれます。 
 
日本最古の仏説集「日本霊異記」

 

日本霊異記、日本最古の仏説話
とあるところで古本市をやっていたので、立ち寄って探っていたところ、「日本霊異記(りょういき)」(小泉道校注)という何とも興味をそそるタイトルの古本があったのです。パラパラと中をめくると何やら日本最古の仏教の説話を中心とした日本の伝承話のようです。よくよく見ると、何と平安時代初期の822年に書かれたというではありませんか。何だか面白そうなので購入しました。
この日本霊異記が書かれたのは日本に仏教が伝わってからおよそ280年たった頃です。奈良時代に国分寺や東大寺などが建立され、平安朝初期には最澄(さいちょう)さんや空海さんが唐から帰国され、新たに天台宗とか真言宗が立ち上がってきた頃になるでしょうか。親鸞さんが生まれるおよそ350年前のことになります。著者は奈良・右京の薬師寺(飛鳥時代の680年建立)の法相宗僧侶・景戒(きょうかい)さんです。では、数話ほど概略を紹介していきたいと思います。現代訳は原田敏明氏・高橋貢氏の書を参照しています。
善悪の因果の報いの実例(様々な説話)を記す

 

本書の冒頭には主旨が書いてあります。「世の多くの人は卑しい行いをし、利得をむさぼるなど悪い行いをして、人間から牛の子に生まれ変わってその償いをする人、片や仏道に励み、良い行いを修めて生きながら幸せになる人もいる。このように善悪の報いは苦楽となって現われるものの、すぐに忘れたり、どうしてよいか分からなくなってしまう。だから善悪や因果の報いの実例を示して悪心を改めて良い行いをしてもらいたい。これまでは中国の例ばかりが紹介されてきたが、日本にも良い実例が多くころがっているので、少しばかり、聞き伝えたところを記し、日本国現報善悪霊異記と名づけて後世に伝える」と。
内経(仏教書)や外書(仏教外の書)は百済から入ってきたと記す

 

そして、ここで明らかになったのは、冒頭に「原夫(たづねみ)れば、内経(ないきょう:仏教関係書物)・外書(げしょ:仏教書以外の書)の日本に伝はりて、興り始めし代(広まり始めた時代)は、おほよそに二つの時ありき。みな百済の国より浮け来りき」とあるように、論語とか千字文(漢字の初級読本)の”外書”、仏典関係の”内経”は百済から伝わったといっているわけです。「誉田(ほむた)の天皇(すめらみこと:応神天皇(第15代))のみ代に外書来れり」、「欽明天皇(第29代)のみ代に内典来れり」とあるから、現在定説となっている伝来の時期は、平安初期にも定着していた様子がうかがえるわけです。そして、「生まれながらにして高弁(物事の判断に優れていること)に、・・・一たびに十の訴えを聞きて、一言も漏らしたまはず・・・」と、あの聖徳太子のことも言っています。
非常に謙虚な著者・景戒さん

 

私なんかはこうした事実だけでも興味深いのですけれども、もっと関心高かったのが景戒(きょうかい)さんの自分自身の分析です。序の最後にこう言っています。「しかれども、景戒、生まれつき賢くもなく、濁っている心を澄ますこともできない。知識は井の中の蛙というように狭くて長い間迷っている。上手な彫刻家(能功)の彫ったところに下手な彫刻家(浅工)が手を加えるようなもので、寒心の至りで、自分の心を痛めるだけに終わりはしないかと憂えるばかりである。ただ、名玉の産地である崑崙山(こんろんさん)の一つの石ころくらいの役目は果たすかもしれない。・・・後世の賢人たちは、どうか笑わないでいただきたい」。
どうでしょう。当時、僧侶という外来の文字の読み書きができるという、庶民からみれば雲の上の上級の人物が、何と奥ゆかしく謙虚な言葉を吐露しているではありませんか。源信さん、法然さん、親鸞さんと通じる心を持った方だと感じたしだいであります。
聖徳太子が不思議なありさまを示された話(上巻・第4話)

 

この説話は古語では「聖徳の皇太子(ひつぎのみこ)、異(あや)しき表(しるし)を示したまふ縁(えに)」とされています。解説によると、「聖徳太子」というように標題に人名を記しているのは他には行基(奈良時代の僧侶:668〜749)さんの2人だけだそうです。著者の景戒さんが本当に尊敬されていた方なのでしょう。
・ 話はまず聖徳太子には3つの名があるといいます。廐戸(うまやど)の豊聡耳(とよとみみ)、聖徳、上宮(かみつみや)の3つ。馬小屋の戸口でお産があったので廐戸、生まれつき賢く、十人が同時に訴え申すことを一言ももらさず、よく聞き分けられるので豊聡耳といっている。また動作容姿は僧侶に似ており、様々な経の注釈書を書き、仏法を広め衆生を救い、官史の功績を調べて冠位の制を定められたので聖徳といわれ、天皇の宮殿よりも上の御殿に住んでおられるので上宮の皇(おおきみ)と呼んでいる。
・ それで皇太子が斑鳩(いかるが)の岡本の宮に住んでおられた時のこと。たまたま近くを見回れていた時、路傍に乞食がおって病気で臥せっていたそうな。太子はこれを見て、御輿(みこし)から降りて、共に語り、いろいろと尋ねられた。着ていた衣を脱いで病人に着せかけ「やすらかにお休みください」といわれた。巡回を終え、御輿を引き返してこられると、脱いで着せておいた衣は木の枝にかかり、その乞食はいなかった。太子は衣をとってお召しになった。従者が「卑しい人に触れてけがれた衣です。なぜお召しになるのですか」と聞いた。太子は「いいんだ。お前には分からないのだ」と仰せになった。
・ その後、その乞食が他の場所で亡くなった。それを聞いた太子は死者を祭り、岡本村の法林寺の東北の隅の守部山に墓を作って葬り、「八木墓」と名づけられた。後に使いを遣わし見せたところ、墓の入り口は開けていないのに、乞食の遺骸はなく、ただ歌を書いたものが入り口に立ててあった。その歌は「いかるがの 富の小川の 絶えばこそ わが大君の み名を忘れめ」とあった。その意味は「小川の水が絶えることがないように、(太子の)お名前を忘れることは決してありますまい」ということです。これを聞いた太子は黙って何も言われませんでした。まことに、聖人は、聖人を知り、聖人の炯眼(けいがん)には、隠された姿に聖人の真の姿を見抜くのであると。
聖徳太子が亡くなってから丁度、200年たってこの日本霊異記が著されています。この時すでに聖徳太子は国民から尊敬の念を持たれていたことが伺えるのであります。「聖徳太子は実在しなかった」といわれる昨今でありますが、単なる”想像の人物”が当時においてそこまで高い評価がされるものではないだろうと思うのです。
亀の命を救って、現世で報いを得て亀に助けられた話(上巻・第7話)

 

・ 備後の国の三谷(広島県三次市双三)の長官の先祖が、百済を救うため軍隊を送った。「もし生きて帰ったら神仏のためにお寺を作る」と祈願した。そして無事帰国できた。そのとき百済の禅師・弘済(ぐさい)を招いて、共々に三谷寺を造ったという。禅師は仏像を作るために都に上り、私財を売って金や絵の具を買い取り、船に乗るため難波の津に着いた。そこで海辺の人が4匹の大亀を売っていたので、人に頼んで亀を買ってもらって海に放してやったそうな。
・ そして、三谷寺に帰るため、2人の童子(わらわ:お供の子)と共に船に乗り込んだ。ところが日が暮れて夜になると、舟人が欲を起こし、備前国の骨島の辺りに着いたとき、童子たちを捕まえ海の中に投げ込み、禅師にも「早く海に入れ」といって聞かない。しかたなく禅師は仏に祈って海の中に入った。腰まで水につかったとき石が足に当たったので、夜明けになってから足を見ると、亀に背負われていた。4匹の亀は頭を下げて去っていった。
・ ところで、しばらくして賊たち6人は、三谷寺に金や絵の具を売りにきた。檀家の者が集まって品定めしていたところ、あの禅師が現われた。賊たちは禅師を見て恐れ、進退きわまった。しかし禅師は彼たちを哀れみ、罰を加えず、仏像を造り、塔を飾って(童子たちのために)十分供養した。その後、禅師は海辺に住んで往来の人々を教え導いたという。
ここで禅師が直接、亀を買うのでなく、他の人に買わせたのは善を勧めて教化するのが僧侶の務めだったからといわれています。本書では「中巻」にも「蟹と蛙を買って放ち、現に報いを得た話」という同じような話も掲載されています。こういった話はわたしが小さい頃に、日本昔話としてよく聞いたり、読んだりした記憶があります。
真心を込めて写した法華経が不思議なしるしを見せた話(中巻・第6話)

 

・ 聖武天皇(奈良時代)の世に、山背国(やましろこく:京都府)のある人がいつも受けている四恩に報いるため法華経を写した。それを入れる箱を作るために白檀(びゃくだん)や紫檀(したん)の木を買って、職人に寸法を測らせ箱を作らせた。しかしお経が長くて箱に入らない。この人は大変後悔したが、改めて箱の材料を買うことはできない。それで法華経によって法事を催し、大勢の僧を招いて、三十七日の間、仏前で罪を懺悔し、泣きながら「もう一度、材料の木を得させてください」といった。二十七日が過ぎて、試みにお経を入れてみると箱は自然にのびてほんの少し入れないほどになった。発願したこの人は、ますます精進して懺悔し、三十七日してお経を入れてみると即座に入れることができた。お経が短くなったのか、箱がのびたのか、それで元のお経と新経を比べてみると同じ寸法ではないか。まことに大乗経典の不思議な力を示して、この人の信心の深さを試したのである。ゆめ疑ってはならない。
これも、まあ、信心のあり様の説話だと思いますけれども、宗教に多い奇瑞(きずい)の例です。太古の奈良時代ごろにはすでに、御伽草子のようなこうした話が出回っていた様子が伺えるわけであります。
沙弥(しゃみ)の乞食を打って、悪死の報いを得た話(下巻・第15話)

 

奈良時代末期の話です。「沙弥」とは出家したもののまだ得度を得ていない僧のことです。
・ 奈良の都の北の佐岐村に真老(まおゆ)という者が住んでいた。彼は生まれつきよこしまな考えを持っていて、乞食僧を嫌い憎んでいたそうな。ある日、一人の沙弥僧が真老の家の門にたって食物を求めた。真老は物を与えないで、かえって僧の袈裟(けさ)を奪い取り、「おまえはどういう坊さんだ」と責め問うた。僧は「わたしは自度僧(じどそう)※です」と答えた。これを聞いた真老はさらに打って追い出したので、僧は憎んで去っていった。
※ 本来、官の許可を得て出家し、得度という儀式で戒名(僧名)を頂き僧侶の仲間入りをします。自度僧とは自分で勝手に剃髪して僧尼の姿をしている者をいうそうです。
・ その日の夕方、真老は鯉(こい)を煮こごり(味付けして汁を固まらせる)にし、翌朝の8時に起きて朝床に座って、その鯉を口に入れて酒を飲もうとした。すると口から黒い血を吐いて、ばったりと倒れ幻のように息絶えたそうな。
・ よこしまな考えは身を切る鋭い剣であり、怒りの心は災いを招く鬼であり、物を惜しむことは餓鬼道に堕するもとであり、欲深いことは慈悲の施しを妨げる藪(やぶ)であることが本当に分かった。
・ さて、施しを求める者を見たならば、憐れみの心を起こして顔色を和らげ、仏法を説き、品物を施すのが良い。そこで「丈夫論」(大悲心によって行ずる布施の功徳を説く経論)では、「物惜しみの心の多い者は、泥でさえも金や玉より大切にし、慈悲心の多い者は、金や玉を施しても草木より軽んじる。乞食の人を見るときに、施すものがないということに我慢することができず、なき悲しんで涙を落とす」などと記している。
この話のように、沙弥とか仏道修行者、信者など仏法を学ぶ人に対して迫害した者が罰をこうむって死ぬというストーリーは、この他にも本書には数多く記されています。「慈悲を持って人を救済する」という仏の基本的教義がこの著者には強く意識にあったのでしょう。
本書は天皇代という時間軸で116の各地の説話を集録

 

さて、日本霊異記は実に116話からなっていますが、今回は紙面の都合上、数点だけ紹介しました。でもこれだけでは日本霊異記が分かるはずがありません。ですので、その基本的な特徴を研究者の論文を参考にまとめてみました。
・ 霊異記が描いた時代は5世紀後半から9世紀前半まで3世紀半にわたる。仏教が公伝し、すでに伝来してきた儒教や日本の在来信仰などと影響しあいながら、平安時代へと続く日本文化の基礎を創造していった時代だった。(関口一十三氏)
・ 天皇代という時間軸に従って「自土の奇事」(日本国の仏法の奇瑞)を並べると共に、それらを上中下三巻に分けて集録した。(山本大介氏)
・ 具体的には5世紀後半の雄略天皇から嵯峨天皇(809〜823)までの時代の説話が基本的には年代順に載せられ、大多数は奈良時代の話であり、とりわけ聖武天皇(724〜749)の時代の話が多い。最後の方には著者の伝記まで書いてある。(小泉道氏)
・ 説話の内容は「仏教関係の話」と「仏教とは直接関係のない話」に分けられる。大部分は「仏教関係の説話」である。仏教説話は「悪い報いのあった話」(僧や修行者を迫害したり打ったりして死の報いや悪い報いを受けた話、死後に牛に生まれたり、地獄に落ちた話など)と「善い報いのあった話」(たとえば釈迦仏や観音に祈り、経を読んだので海難から免れたり、穴の中から出られたり、弥勒仏や観音、吉祥天女像に祈って富や夫、妻を得た話など)に分けられる。また仏教関係の話には、僧の高徳や奇跡、仏像や経典の不思議な力を述べた話もある。(原田敏明・高橋貢氏)
・ 説話の地域分布についてみると、東は陸奥・上総から西は肥前・肥後まで、三十数カ国に及ぶ。(小泉道氏)
・ 霊異記には、多くの仏道修行者の呼称(自度、官度、沙弥、行者、法師、禅師、沙門、僧など)が見られる。それはこの時代、民間に様々な修行者がいたことを意味する。身近に仏道修行者たちを見るようになった人々の仏教に対する関心の高まりが「霊異記」のような書がこの時代に編まれる背景にあったのではないか。(関口一十三氏)
末法で社会不安が募る平安朝初期に書かれる

 

以上のような特徴があると指摘されています。では、薬師寺の一僧侶である景戒さんはなぜこういった仏説を中心とした説話を書いたのだろうか、という疑問が湧いてきます。それは当時の政治・社会の中での仏教のあり方について、景戒さんなりのいろいろな懸念等があったようです。
それでは当時の状況はどうだったのでしょうか。関口氏は「(景戒さんの時代は)仏教が公伝し、すでに伝来していた儒教や道教や日本古来信仰などと影響し合いながら平安時代へと続く日本文化の基礎を創造していった時代だった」といいます。では当時の社会の様相はというと、「班田収授法(国から農民に一定の田を貸与させる制度)による公民が、徭役(ようえき:強制の無償の労役)、出挙(すいこ:利子付きの貸借)、兵役などに追われ、飢饉・疫病が流行し、そのうえ天地異変も相次ぎ、庶民は疲弊し逃亡も相次いでいた。乞食僧や自度僧の横行も目立つ時代だった」(小泉氏)のです。
こうした状況を「(景戒さんは)正・像・末という三時説の中で、霊異記を編纂した日本国の延暦6年の”今”がすでに末法の時代にある」、まさに「因果への信心が衰退し、善より悪をなす者たちが横行する状況にある」(山本氏)と憂いていたのです。日本国が末法にあること、仏法衰退に対する景戒さんの危機意識は、「とりわけ仏道修行者にとっては、仏を感得し悟りに至ることが困難とされる末法の世をいかに生きるか」(同上)という点におかれた。その意識の根幹には「日本国、即仏国土であれ、と祈念する強い自土(日本)意識をしのばせていた」(仲井氏)との指摘は正鵠を得ていると思います。
善悪二相から世界を捉え、「仏法」「王法」に裁きと救いを求めた

 

ではどういった社会がよいのか。仲井氏は「(景戒さんは)霊異記で善悪二相から世界を捉え、”仏法”、”王法”に裁きと救いの両義を求めた」といいます。以前の当ブログ「真宗教団と真俗二諦論」ででたあの「仏法、王法」です。「善と悪を対立させる。罪の認定も、現実相の中で仏法と王法の二方向からなされる。仏法の罪を”因”として、王法の罰を”果”とする」(同上)。そういう思考のもとに霊異記が描かれた。しかし、罪を犯した者は多くは”死”の運命が待っている。そこには救いの手段は書いてない。仲井氏は「これが善悪を峻別する霊異記の一つの特徴だ」といいます。なぜなのか? 仲井氏は続けてこう論じます。「罪びとの行く末を曖昧にして記さなかったのではない。法に従い、罪びとは罰の世界に追放(つまり彼岸に)されたのである。罪びとが過酷な罰に苦悩する姿のまま放逐される峻厳な方の世界を描くことにより、諸善奉行(みずから諸々の善を行うこと)の必要性を強調しようとした」のだと。つまり「罪びとを彼岸に見て、奈落の果てに追放することで、罪と罰の関係を形成したのが本書」(同上)というわけであります。こうした景戒さんの思想は「罪即穢(けが)れとする古代的回路から超克し、新たなる人間観の模索を始めた平安朝黎明期の知識人による試行の足跡といえる。・・・平安朝後期にいたって往生(=善)へ導くための教訓として、地獄に陥った者を克明に描く地獄絵が「往生要集」などによりながら作られていった」(同上)ようです。
平安朝初期の仏教の弘通を探る上でも貴重な書

 

日本霊異記を読んでみると、「花咲か爺さん」とか「因幡の白兎」とかの昔の御伽噺のような話がずっと続いているので、本当のところ飽きてしまって全部は読みきれていません。けれども、当時の時代背景のなか、末法時代を意識した当時の知識人が、どのように生きる道筋を考えていたのか、神祇信仰や儒教・道教などが混在した中で、どう仏法を広めていこうとしていたのか等々、研究者の方々の論説をみて、これは単に古いだけでなく学問的にも大変重要な価値があるのだなと感じたしだいです。よくよく考えてみると、親鸞さんの伝説も相当な”奇瑞”の話があっちこっちにあって、そういった奇瑞を完全に否定された親鸞さんを考えると、「どうしてこんなに奇瑞の話があるのだろう」と常々、不思議に思っていました。ただ後世の門弟にとって、衆生に仏教を弘通させるには、師や高僧の奇瑞は最も効果的な方法だったのかも知れませんね。イエスキリストにも奇瑞の話が多くありますし。 
 
日本霊異記

 

応報即決主義
「親の因果が子に報い……」といえば、むかし場末の小屋で不具者を見世物にしていた大道香具師(やし)のセリフである。この種のあやしげなショ―は大正末期で姿を消したというが、私の少年時代である昭和戦前には、そのバリエーションともいうべきものがまだ残っていた。小頭児や白子など称するものを、ビン詰めにして観覧させるのである。「何の因果か、不幸な星のもとに生れた子供、云々(うんぬん)」というラベルが貼(は)ってあった。いかにもグロテスクなのだが、グロですんでしまうところを“因果”などというものだから、いっそう暗く湿っぽい恐怖感を煽(あお)られたものである。
因果というのは仏教のことばだが、何とも陰湿な感じがつきまとっている。というのも、人がもしその因果を背負っているとして何とか脱出しようと思っても、前生(ぜんしょう)における悪行の報いだと突っぱなされてしまえばどうしようもないからだ。本人は責任のとりようがない。貧乏に生れ、業病に苦しんでも、あるいは女にモテない顔に生れても、「何の因果か」とあきらめるほかはない。醜男(ぶおとこ)の嘆きなどはお愛嬌(きょう)ですむが、民衆の無気力や忍従の心を育んだとなれば問題で、このことは封建時代における仏教信仰の果たしたマイナス面として否定できないと思う。
ところが、同じ仏語でも“現報”という思想がある。このほうはさっぱりしている。現世に業をつくれば、この世で報いを受ける。つまり、自業自得というわけで、伝票がまわってくればさっさと決算をすませてしまうやり方だ。
こんな例がある。
――和泉(いずみ)の国の山寺に、吉祥天女の像があった。聖武天皇の御世に一人の優婆塞(うばそく=半僧半俗の行者)がやってきて、この寺に住み、天女の像を一目見て恋に陥り、朝晩「天女の如き容好き女を我に賜へ」と祈った。するとある夜、天女の像と婚(くなか)う夢を見たので、翌朝になって像をよく見ると、その腰衣に不浄のものが染みついて汚れていた。行者はつくづく恥じて「似たる女を願ひたるに、何ぞ忝ク天女専(もはら)自(みづか)ら交(まじは)りたまふ」とつぶやいたが、それを弟子に盗み聞きされてしまった。
のちにその弟子は、師の行者に無礼を働いたかどで寺を追われたが、腹いせに一件を村人にしゃべってしまった。村人がやってきて像を見ると、まさしく淫精が染みついているではないか。行者はついに隠しきれなくなり、すべてを告白してしまった。まことに、深く信心すれば、なにごとも神仏に通じぬことはない。たいへん珍しいことだが、涅槃経(ねはんぎょう)にいう「多淫の人は、畫(ゑが)ける女に欲を生ず」とはまさにこれをいうのだ(『日本霊異記』中巻)。《『古本説話集』類話譚》 
描ける女に欲を生ず

 

吉祥天女は、行者の要求どおり自分によく似た人界の女を与えればよかったのである。それをみずから交わった。衆生に福徳を与える女神として、熱烈な信者の願いをむげに斥(しりぞ)けるわけにはいかない。それどころか、信ずる者が救われぬでは、仏の沽券(こけん)にかかわる。ここは「一番、わが身を提供するほかはない……。
いやはたしてそうだろうか。吉祥天女は行者の、男としての口説に迷い、よろめいたのではあるまいか。すくなくとも民衆はそのように解釈したにちがいない。信仰が性的な陶酔とわかちがたくなってしまう忘我の一瞬、仏も生身の女のように迷うて悩んで、ついに誘いに乗ってしまった。腰衣に淫精が染みついたのは、その罰である。現報である。人とともに悩み、奈落(ならく)に落ちた仏を見て、民衆は救われた思いをするのである。
仏の像がいまだあたらしい平安初期の民衆にとって、吉祥天女という理想化された女性像は、今日でいうピンナップの役割を果していたと思えなくもない。美しい、魅力のある女性像だからこそ信仰の対象となること、マリアの像に同じである。それが草深いなかの男たちに何を思わせたか、想像するまでもないような気がする。「畫(ゑが)ける女に欲を生ず」であろう。男たちはそのことによって悩み、恥じ、しかもそれが信心によって救われると聞き、ホッと安堵(あんど)の胸をなでおろしたのだろう。
このように人情の機微をついた世間話を百十余話集めたのが、『日本霊異記』(正しくは『日本国現報善悪霊異記』)である。九世紀前半の書物で、編者は景戒(きょうかい)という坊さんである。
日本の仏教が、そもそも官の保護と統制を受けて発展したことはよく知られているが、坊さんになるにも官許を要した。官許をはみ出した坊さん志願者は、勝手に頭をまるめて「私度僧」となった。景戒はこの私度僧であり、しかも妻子持ちであった。当然、生活はきびしい。肩書きのつく役人と個人営業者のちがいである。ぬくぬくと袈裟(けさ)にくるまり、貴族などを相手に念仏だけ唱えていれば食っていける人種ではない。善男善女のささやかなお布施だけが頼りである。それには同じ説教するにも民衆の現実感覚に密着せねばならない。
死んで極楽に行けるだの、来世は金持ちなれるだのといった説教は、平均寿命が五十歳以下で、四十過ぎればみな老人といった当時にあっては、それなりの効果があったろう。しかし、若者や働き盛りの信者はそうはいかない。来世ではなく、この現世で善悪の報いが得られる。それについてはこんな例があるんだよ――といった、切れば血の出るような具体性と話術をそなえることにより、はじめて「うん、なるほど」と納得させることができる。
手すさびが国宝に

 

景戒という僧の出身はよくわかっていない。たぶん紀州あたりの豪族の出だろうという。中年以後、なにを感じてか熱心な布教者となり、各地を遍歴するうちに自然と伝承や世間話が耳に入ってきた。こうしたネタを説教の折などに一つ一つ頭のなかからとりだして、聞き手を感心させていたのであろう。話題の広さ、語り口のうまさで、人気のあるタレントだったのかもしれない。聴衆が乗ってくると、脱線してこんな話もした。
<そなたたち、飛鳥の里に雷(いかずち)の岡(おか)というのがあるのを知っとるかの。あそこの由来はこういうことじゃ。泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に二十三年天の下を治めたまいし雄略天皇の随身に、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)という者がおっての。ある日のことじゃった。大極殿へまいると、うっかりして天皇と后が寝て、婚(くなかい)したまえるところへ行きあわせてしもうた。天皇はてれて行為をやめられたのじゃが、ちょうどそのおり、うまいぐあいに雷が鳴りおったので、天皇は『あの雷を呼んでこい』と申されたのじゃ。栖軽は馬に乗って、どこまでも雷を追いかけ、とうとう落ちたやつを竹かごに押し込めて戻ったが、天皇がこわがりなされたので、もとのところへもどした。これを雷の岡というのじゃ>(『日本霊異記』上巻「雷を捉へし縁」「雷を捕まえた話」)
風流譚めかしたマクラで聴衆をひきつける。まことにたくらんだ語り口だ。景戒は晩年、奈良薬師寺の伝灯住位という地位を獲得した。当時の坊さんの五階級からいえば、ビリから数えて二番目という格だ。位は低いが、官許にはちがいない。生活も安定したであろう。しかし、二年後には息子に先立たれ、寂しい晩年を送った。そのつれづれの手すさびが『日本霊異記』である。
九世紀前半の書物であるから、もう原本(漢文)はのこっていない。最古の写本は、いま国宝として興福寺にのこっているもので、原本から約一世紀を経た平安初期、延喜四年(九〇四)の日付がある。ただし、上巻の十七枚分だけだ。巻子本で縦二八・八p、全長八九三・九p。巻末に「延喜四年五月十九日午時許書写已畢」と奥書があり、本文には豊富な訓釈がほどこされているのが特徴である。国宝指定は、昭和二十八年である。
日本では最も古い説話集だが、当時の坊さんたちには勤行の合間に娯しむ“話しの宝庫”だったのだろう。のちの『今昔物語集』の編者なども、この本を大いにタネ本として利用している。
景戒は、この本の序文に「後世の賢者よ、幸いにも笑うことなかれ。ねがわくば諸悪なすことなく、善を行なわんことを」と記した。後世よいったとき、彼はどのくらいの長さを見ていたのであろうか。現実感覚に富んだこの坊さんである。まさか、自分の書いた本が、一千年を生きて国宝になろうとは夢にも思わなかったにちがいない。
[補遺]仁寿年間(851?854)に慈覚大師円仁が中国の天台山を模して堂塔を建立し、天台声明の道場としたと伝える来迎院(天台宗)にも、『日本霊異記』中・下2帖(ともに国宝・平安)がある。《京都の寺社より》
日本霊異記 にほんりょういき 9世紀初めに成立した、わが国最古の仏教説話集。奈良薬師寺の僧景戒があらわした。正しくは「日本国現報善悪霊異記」。「霊異記」ともいう。3巻からなり5世紀後半の雄略天皇から9世紀初めの嵯峨天皇までの時期の説話116話を収録する。地域は上総(かずさ)、信濃など37カ国にわたるが、その3分の2は畿内に集中している。登場人物は200人以上にのぼり、貴族・僧から庶民にいたるまで幅広い階層にわたっている。
話材の多くは奈良末期から平安初期のもので、今昔の奇異をテーマに民衆教化の実例集となっている。法華経の功徳(くどく)や観音信仰による善報などをはじめ、善悪の因果応報の理(ことわり)を説く。収録作品の中には「冥報(みょうほう)記」や「金剛般若経集験記」などの中国の仏教説話の影響をうけたものも少なくない。平安末期に成立した「今昔物語集」には「日本霊異記」の変種と考えられる作品もあり、後世の仏教説話(→ 説話文学)に大きな影響をあたえた。 
 
日本霊異記

 

もうひとつの「長屋王墓」〜「日本霊異記」
1988年に平城京左京三条二坊から出土した3万5千点の木簡は、「長屋王家木簡」と名づけられ、奈良時代の貴族の生活を垣間みる、貴重な資料として知られています。これらの木簡は、古代史研究において長屋王の名を不動のものとしたのですが、彼は奈良時代の人物としては比較的史料がゆたかで、『続日本紀』のほか『懐風藻』『万葉集』といった文学史料、鑑真との交流を伝える『唐大和上東征伝』、『日本霊異記』のような仏教説話集、長屋王願経とよばれる写経など、仏教にかかわる史料にも多くその足跡をとどめています。
長屋王にかかわり、もっともよく知られた事件は、長屋王の変です。『続日本紀』によると、神亀6年(729)2月10日、「長屋王が密かに左道を学び、国家を傾けようとしている」との訴えにはじまり、王は妻の吉備内親王やその子とともに2日後に自害しました。事件は、皇位継承や藤原氏との権力争いによるものと考えられています。翌13日、長屋王と吉備内親王は生駒山に葬られますが、このとき、吉備内親王は罪がないので通常の葬礼をおこない、長屋王も罪人とはいえ葬礼を醜くしてはならない、との命が出ます。奈良県平群町梨本の二つの円墳が、長屋王と吉備内親王の墓とされています。
一方『日本霊異記』は、変にかかわる独自の「史実」を伝えています。それによると、ことの起こりは、2日前の同年2月8日の元興寺大法会の場。長屋(親)王が無作法な沙弥の頭を象牙の笏で叩く事件があり、その因果と応報により、2日後に讒言され、謀反の疑いをかけられたというのです。一族の亡骸は焼き砕いて京外の河や海に捨てられ、親王の骨は遠く土佐国に流されました。さらに、後に土佐国で多くの死人が出たとき、人々はその死を「親王の気(祟り)」によるものと訴えたため、これを聞いた天皇は、親王の骨を、紀伊国海部郡椒枡村の「奥ノ嶋」に移させたといいます(中巻第1縁)。
ところで、この説話とかかわるもうひとつの「長屋王墓」が、和歌山県有田市に残されています。「奥ノ嶋」に比定される沖ノ島の対岸、初島町にある椒古墳で、明治41年(1908)に発見されました。古墳の築造年代は古墳時代後期初頭を降らないものですが、地元では長屋王の墓として祀られ、墳丘頂上には「長屋王霊跡之碑」と刻まれた石碑が建てられています。こうした「史実」に由来する信仰が戦時中における古墳の保存を後押ししたことを考えると、もはや立派な『霊異記』にかかわる遺跡といってよいのではないでしょうか。説話や伝承の世界を荒唐無稽として切りすてるのは簡単ですが、そこにも史実を読み解くカギが隠されているのであって、それを解き明かしていくのも歴史学の醍醐味ではないかと考えます。
姿を現した西の大寺

 

小学校の教科書にも出てくる東大寺に比べると、西大寺は少し影が薄いかもしれません。とはいえこの西大寺、奈良時代後半に称徳天皇によって造営された当時は、東大寺に並ぶ平城京の西の大寺でした。
その壮大な奈良時代の伽藍(がらん)は、度重なる火災や災害によって次第に失われ、現在の主要な建物は、江戸時代に復興されたものです。
東大寺に比べると不明な点の多い西大寺ですが、戦後、奈文研を中心に進められてきた大小70回を超える発掘調査によって、創建当時の姿が徐々に明らかになりつつあります。
たとえば、現本堂の前に巨大な基壇と礎石が残る東塔跡。現在の基壇は四角形をしていますが、1956年の発掘調査で、基壇の周囲から八角形の掘込地業(ほりこみちぎょう)(土を一度掘り出した上で、突き固めて地盤を強化する作業)が確認されました。同様の痕跡は1989年の西塔の発掘調査でも見つかっています。
平安時代初期に書かれた『日本霊異記(りょういき)』には、時の権力者藤原永手が、西大寺の八角七重塔を四角五重塔に変更したため、地獄に落ちたという謎めいた説話があります。永手が地獄に落ちたかどうかはさておき、発掘の成果は、たしかに造営当初には八角塔を造ろうとしていたことを示すものでした。 
『日本霊異記』を歩く

 

ここ数年、月に1回の割合で、1日20q前後大和盆地を歩いています。アラフォー世代にさしかかり健康が気になりはじめた訳ではなく、薬師寺僧景戒(きょうかい)が、平安時代初めに編んだ日本最古の仏教説話集、『日本霊異記(にほんりょういき)』の注釈書を作る仕事にかかわり、説話の故地を訪れ、現地に即して理解することが目的です。仕事と健康を兼ねて大和の各地を歩くなかで、古代史料を読み解くヒントとなる、いくつもの小さな発見に恵まれました。ここでは、その一つを紹介します。
『日本霊異記』には、雷を捕まえた話があります(上巻第1縁(えん))。明日香村にある雷丘(いかづちのおか)の地名起源説話なのですが、この話によると、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)は、桜井の磐余宮(いわれのみや)から、いわゆる山田道を軽(現在の橿原市大軽町(おおがるちょう)付近)まで行って引き返し、豊浦寺(とゆらでら)と「飯岡(いいおか)」との間で落ちている雷を捕らえました。とすれば、この説話の舞台は、山田道(やまだみち)沿いに限定されるはずなのですが、「飯岡」は、いくつかの説はあるものの、江戸時代以来比定地不明とされ、多くの注釈書にもそれが引き継がれていました。
先日、栖軽の足跡を追い、遺跡や小字地名などを確認しながら、山田道を歩いてみました。そのなかで、明治20年代の地籍図にはみえないものの、それ以前までは残っていたらしい地名の一つに、「飯岡」をみつけることができました。その推定地は、県道15号桜井明日香吉野線の北側で、飛鳥資料館のすぐ近くと考えられます。今後さらに検証を続け、確実な資料や口伝を探したいと思います。
ともあれ、100年前までは伝わっていたらしい地名を手がかりとして、少子部栖軽が雷を捕らえたという説話は、山田道沿いの地名とともに、現地に即してより具体的に理解できるようになりました。大和は歴史の宝庫です。地名や道標、道ばたに佇む石仏を愛でながら、地図を片手に古道を歩いてみれば、また新たな、土地に刻まれた歴史の生き証人に巡り会えるような気がします。
今、世はイクメンの時代。

 

テレビや雑誌には、育児を積極的に「楽しむ」父親達が盛んに登場します。こうなると、イクメンならざる父親とて、育児への「協力」程度はせざるを得ないわけで、かくして私も、有無を言わさず子育ての渦中へと巻き込まれることとなった次第であります。そんな経験のおかげで、今まで気にもとめていなかったことが気になるようになってきました。
横江臣刀自女(よこえのおみとじめ)という、美しく、魅力的で、モテモテで、そして奔放な女性の物語が伝わっています。彼女は、男性との逢瀬を楽しむあまりに育児を放棄、母乳すら与えません。育児放棄の罰があたり、乳房が腫れ上がり猛烈に痛み、膿が流れ出すという苦しみを味わうことになります(『日本霊異記』下巻第十六)。
育児放棄の罰が「乳房腫れ上がり病」。何か引っかかる。「乳房腫れ上がり病」の症状、どこかで聞いたことがある。調べてみると、ありました。「乳腺炎」。
乳房が腫れ、膿が溜まり、時に高熱が出る。原因は、赤ちゃんが飲む以上の母乳を母親が生産してしまい、余った母乳が乳房に溜まることだそうです。横江臣刀自女さんも、授乳していません。とすると、まさに「乳腺炎」にぴったりです。奈良時代は豊満な女性が魅力的とされていたようですから、母乳供給過多も納得です。
さて、そうなると、「乳房腫れ上がり病」は観念的な「罰」ではなく、古代の人が実際に目にし、苦しんだ病気だったのです。多くの子に授乳した乳房からの表現という「垂乳根」といい、母子をめぐる古代人の観察は実に鋭く現実的です。
ただ、必死に子育てをしていても、乳腺炎になることもあります。そんなお母さんが、苦しみの理由を横江臣刀自女と同様にされたりしたら、何とも気の毒です。医学的知識の乏しい時代、偏見に苦しんだお母さんもいたでしょう。
古代、乳腺炎に苦しんだお母さん達が、苦しみを乗り越え、「垂乳根」の称号を得られたことを、1300年後から祈っています。ちょっと手遅れな気もしますが。 
 
二度、天皇になった“女帝”の話 〜 日本霊異記

 

さて、新聞に掲載される派手な女性週刊紙の広告を目にすると、途切れなく皇室の話題が出ている。それも毎週「雅子さま」に関するものが圧倒的に多いようだ。真の民主主義実現のためには「皇室廃止」が不可欠と思うのだが、その立場から現皇室、とくに民間出身の「皇后」を観察していると、まことに「お気の毒」と申さずにはおれない。長い間、“ストレス”でやつれた美智子さんの姿は国民の目にどう映ったか、引き続き今、雅子さんの不安定な精神状態(報道?)を国民はどう受けとめているか、正確な答は知らないが想像はできる。しかも、皇位継承がからんで「女帝」問題が浮上しているともいう。日本人は「雲の上」の話がよほど好きらしい。
「女帝」といえば、天下を騒がせた有名な人物“孝謙天皇”を思い出す。この女帝は二度も皇位についたことで知られ、さらにはスキャンダラスな人として名をはせ、戦前はこの女帝について語ることはタブーとされていた。女帝の名は阿倍内親王(718〜770)。奈良の大仏を作った聖武天皇(701〜756)と悲田院・施薬院など貧民救済で知られる光明皇后(701〜760)の間に生まれた。聖武夫妻に男子がなかった(弟がいたが夭折した)ので、異例の女性皇太子にえらばれ、生涯結婚もできなかった。この時代の権力闘争はすさまじく、阿倍内親王の運命も翻弄されたということだ。挿話第一。
「 事件の第一は皇太子交代事件である。
聖武帝はその死にあたって、未婚の、したがって、あとつぎのいないわが娘孝謙女帝のために、道祖王(ふなどのおう)という皇族(注:天武天皇の孫)のひとりを皇太子とせよと遺言した。
ところが、この道祖王が聖武帝の喪中にもかかわらず宮中の女官と密通したことがわかったので、憤慨した女帝は早速皇太子を止めさせてしまった。
――父上の喪中に、なんとみだらな!
未婚の女帝の潔癖感を思えば、その激怒ぶりも、大方察しがつく。代わりの皇太子には大炊王(おおいのおう)という別系の皇族がえらばれた。そしてこのとき、女帝の片腕として活躍したのは、当時の実力者、藤原仲麻呂だった。彼は光明皇后の甥だから、女帝とはイトコになる。… 」
『日本霊異記』下巻第三十八話に「災(さい)と善との表相先づ現れて、而る後に其の災と善との答を被(かがふ)りし縁」という、世を騒がせた“女帝”孝謙天皇の話がある。冒頭に、「世に善悪が現れるときには、それにまつわる歌が先ず流行するものだ」といい、話ははじまる。
「 諾楽(なら)の宮に25年天の下治めたまひし勝宝応真聖武太上天皇、大納言藤原朝臣仲麿を召して、御前に居(す)ゑて詔(みことのり)したまひしく、「朕(わ)が子阿倍の内親王(ひめみこ)と道祖(ふなど)の親王(みこ)との二人以(も)て、天の下を治めしむと欲(おも)ほす。云何(いかに)。是(こ)の語(こと)受くべしや不(いな)や」とのたまひき。仲丸答へて白(もう)ししく、「甚だ勝(すぐ)れて能(よ)し」と、御語(みこと)を受け白(もう)しき。 」 【現代語訳】 奈良の宮に25年の間、天下を治められた聖武天皇は、大納言藤原朝臣仲麿をお召しになり、天皇の前に座らせ、「わが子の阿倍内親王と天武天皇の孫にあたる道祖(ふなど)親王の二人に天下を治めさせようと思うが、そなたはどう思われるか。承知してくれるかどうか」と仰せられた。仲麿は、「誠に結構なことです」とお答え申して、勅命をお受けした。
『日本霊異記』には道祖親王の密通の話はでてこないが、女帝が親王を牢獄に入れて殺したとある。永井路子著にある第二の挿話。女帝が大炊王に帝位を譲った(淳仁天皇)あと、女帝が淡い恋心を抱いていた阿倍仲麻呂が天皇と密着し、女帝をかえりみなくなる。そのうえ母光明皇后がなくなって心痛のあまり女帝は病気になるが、ここに登場するのが呪僧の道鏡である。病気治癒に専心した道鏡に女帝が惚れてしまい話がからまる。これが第二の挿話。
「 第二に、そして最大の非難は彼が天皇になろうとしたことにむけられているが、これは誤解だ。資料を読んでみると、孝謙女帝のほうが、そのことに積極的なようにみえる。女帝はしんそこからつくしてくれる道鏡に次第に心を傾けていったのだ。恵美押勝(藤原仲麻呂の役名)はそうした女帝の態度に反対し、淳仁帝に道鏡との間を非難させた。
これをきいて憤慨した女帝は淳仁帝に、
「よくも失礼なことを言いましたね。もうこれ以後は、あなたの勝手は許さない。今後は小さい事だけに口を出しなさい。国家の大事は、私が裁決します」
と宣言した。これが原因で恵美押勝は反乱の兵をあげるが、失敗してあえない最期をとげ、淳仁帝も廃され、女帝は皇位に返り咲く。これが称徳帝である。 」
この部分を『日本霊異記』はこう書いている。
「 又宝宇の八年十月に、大炊(おほひ)の天皇(すめらみこと)、皇后(おほみおや)の為に賊(う)たれ、天皇の位を輟(や)めて、淡路国に退き逼迫(せま)りたまふ。並(また)仲丸等と又氏々の人とを、倶(とも)に殺死(ころ)しつ。彼(そ)の先に天の下挙(こぞ)りて歌詠(うた)ひしは、此の親皇(おほきみ)の殄滅(ほろ)びたまふ表相なりけり。 」 【現代語訳】 また天平宝宇八年(764年)十月に、淳仁天皇は、孝謙天皇にきらわれ、討たれて、帝位を退き、淡路島に引きこもられた。そのときに藤原仲麿および一族の人々は一緒に殺された。これより先に天下の人々が歌った歌は、あの道祖親王がなくなられる前ぶれであったことがわかった。
さて、孝謙女帝のスキャンダラスな話は広く知られていることだが、永井路子さんによれば、女帝が道鏡にゾッコンだったのは事実として、「二人の関係は正史から姿を消し、口さがない裏面史にだけ残されたために、話はヘンな方へエスカレートし、道鏡は稀にみる巨根、そして女帝は稀にみる好色女として囁かれるようになってゆく。が、じつを言うと道鏡の巨根説が登場するのはずっと後のことである」と言っている。では、『日本霊異記』にはどうあるか。
「 又、同じ大后の坐(ま)しましし時に、天の下の国挙(こぞ)りて歌詠(うた)ひて言ひしく、法師等を裙着(もは)きたりと軽侮(あなづ)れど、そが中に腰帯薦槌(こしおびこもづち)懸(さが)れるぞ。弥(いや)発(た)つ時々、畏(かしこ)き卿(きみ)や。
又咏(うた)ひて言ひしく、
我が黒みそひ股に宿(ね)給へ、人と成るまで。
是(か)くの如く歌咏(うた)ひつ。帝姫阿倍の天皇の御世の天平神護の元年の歳(とし)の乙巳(きのとみ)に次(やど)れる年の始に、弓削(ゆげ)の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政(まつりごと)を相(たす)け摂(と)りて、天の下を治む。彼の咏歌(うた)は、是れ道鏡法師が皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政を摂りし表答なりけり。 」 【現代語訳】 また同じく光明皇后のご在世のころ、流行歌が広まって、天下の人々は口をそろえて、こう歌った。法師たちを裳(も)をはいとる種族なんて見さげるな。裳の下には石で飾った帯や、陽根があるのだぞ。陽根がいきり立つと、それはそれは恐ろしいんだぞ。また、わたしの黒皮の陽根をまたに挟んでねんねしな。大君も生身の体、一人前になられるまで。このように流行歌に歌ったのである。女帝称徳天皇の御代、天平神護元年(765)の初めに、弓削氏の僧の道鏡法師が、女帝と同じ枕に寝て情を交わし、政治に実権を執って天下を治めた。この歌は道鏡法師が女帝と同じ枕に寝て情を交わし、天下の政治を執るという、その事件の前兆であったということがわかった。
『日本霊異記』の著者・景戒(きょうかい)は、仏教説話に因果応報を求めて人々に善行をすすめているが、これもそのなかの一つである。どこまでが史実か定かでないが、この書の成立が787(延暦6)年というから、わずか20年前のことを景戒は話にまとめたことになる。まんざら作り話でもなかろう。
永井路子さんは孝謙女帝をかばって「人が人を愛することがなぜ悪いのか。女帝として人間である以上は、これはあたりまえなことではないか。しかもこのとき女帝は四十を半ばすぎている。政略的な理由で異例の女性皇太子となって以来、ついに結婚の機会を与えられなかったひとの、最初にして最後の愛の燃焼なのだ」といい、最後に、「女帝が道鏡を夫とすることができたら」と仮定してしめくくっている。
「 それは孝謙女帝ひとりの幸福にとどまらず、日本の女性の歴史を少し変えたのではあるまいか。孝謙女帝のトラブルにこりたのか、それ以降日本歴史から女帝はほとんど姿を消してしまうが、女帝も結婚できるということになったら、もっと女帝が登場したかもしれないし、ひいては、女性のお値打ちも、もっと高まっていたかもしれない。 」
 
道鏡 2

 

[ 700 ? - 772 ] 奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。女性天皇である孝謙上皇(重祚して称徳天皇)に取り入り、天皇になる目前までと行った人物である。重祚して称徳天皇となった直後に、孝謙上皇は太政大臣禅師の地位を与え、さらには聖徳太子のみ称せられた法王という最高位の地位を与えられたほどの寵愛を受けていた。道鏡事件は宮中のトラウマになり、「女性天皇を立てると同じようなことが起きる」とされ、男児が成人するまでの中継ぎであっても女性を天皇にすることを避ける原因となった。
弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族。複数の系統があるが、道鏡の属する系統(弓削連)は物部氏の一族とされ、物部守屋が母姓を仮冒して弓削大連と称して以降、その子孫が弓削氏を称したという。孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよとの藤原仲麻呂からの奏上があったと語られるが、この「大臣」は大連の地位にあった物部守屋を指すと考えられる。
天智天皇の皇子である志貴皇子の落胤とする異説もある。
生涯​
   朝廷での出世​
文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれた。若年の頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学んだ。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。
天平宝字5年(761年)平城宮改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。淳仁天皇は常にこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。
天平宝字7年(763年)、慈訓に代わって少僧都に任じられ、翌天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、道鏡が太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。
道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。
   宇佐神託と左遷​
大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曾麻呂が宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。しかし、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。
神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。
道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)が捕えられて土佐国に配流された。(以上、「続日本紀」)
龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
風説​
孝謙天皇に寵愛されたことから、天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられた。『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかし、これらは平安時代以降になって唱えられるようになったもので、信頼の置ける一次史料はない。
江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳が詠まれた。また、大阪・奈良の山中に生息するオサムシの一種は、体長に比して非常に大きな交接器を持つことから、道鏡の巨根説にちなんで「ドウキョウオサムシ」と呼ばれる。こうした巨根説について、樋口清之は「道饗」と「道鏡」が混同され、道祖神と結びつけられたために成立したとしていた。
熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」という民話がある。
所縁の寺院​
『続日本紀』には、道鏡が建設に携わった由義寺の記述がある。2017年、大阪府八尾市教育委員会は、市内の東弓削遺跡の七重塔基壇を含む寺院遺構を由義寺のものであると発表している。  
 
『霊異記』の多面的な世界

 

『日本霊異記』(以下『霊異記』と略称)は平安初期、延暦〜弘仁の時代に生きた南都薬師寺の僧景戒きようかいの編した仏教説話集である。しかしこの説話集は編者景戒が単に知的に説話類を蒐集したお話集といったものではない。この説話集は一見そうは見えても、事実は景戒の人生において感動し共鳴を禁じ得なかった条々を書き記したもの、いわば景戒の赤裸々で生々しい人生観に裏づけられたもの、景戒の体臭さえ感じさせる説話集であるとして見るべきである。単に三冊の紙数を満たすために感動もなく寄せ集めたものと見てはならない。もっとももっぱら人生観を独白した書ではなく説話集であるから、複雑多面のものとして観察されるべきである。
またこの説話集は景戒が寄り集まった聴衆に語りかける話の種を集めたものでもあったと思う。そのために聴衆を引きつけ、教導し、倦うませない配慮もはたらいているはずである。つまり唱導説教の種本として使用された面もあった。だからこそ一々の説話が――文章は稚拙で筆の延びていない所もあるが――彼の感動共感に裏づけられていたはずである。
この説話集は種々の特徴をもっているが、その突出している特徴に、説話の伝承性の特異さと、景戒が呻吟してやまない時代苦の表白がある。『霊異記』のあらゆる面について詳説することは不可能であるから、仮の導入としてこの二面についてまず試論を進めたい。
『霊異記』説話の伝承性
ペルシャの古代叙事詩『シャー・ナーメ』に怪鳥ジグルドに育てられた白髪の勇士、ザールの物語がある。『霊異記』上巻第九話はこれと関係をもつ鷲にさらわれた嬰児の説話である。これが後の東大寺良弁ろうべん僧正の「二月堂縁起」や、「大山寺縁起」(神奈川県)、中世小説の「みしま」へと連なる「昔話・鷲の育て子型」説話の日本最古の源流となっている。
ブルフィンチの『ギリシャ神話』にキプロス島の石工ピグマリオンが、おのれが刻んだアフロディテの石像に恋し、女神に祈ると石像が動きだし、思いを遂げた神話が見える。この神話の流れが不思議にも『霊異記』の説話にも流れてきている。つまり『霊異記』には世界的な潮流の一脈が流れこんでいるのだ。
『霊異記』中巻第十三話は和泉国血渟ちぬ山寺で信濃国の優婆塞うばそくが吉祥天のしょう像に恋する。夢に吉祥天と婚合くながいするのを見て、翌日見れば像の裙もの腰が不浄に汚れていた。この説話も人気があり、『今昔物語集』にも受け継がれる。『古本説話集』では信濃国の優婆塞は鐘つき法師となり、無事思いを遂げて吉祥天の変じた美女と共に暮すことになる。そして大金持ちとなる。しかし、その美女のいいつけた“浮気をするな”の禁を破ったため、美女が去ってしまうとみるみるうちに零落してしまったという。これは『霊異記』にさらに民話的要素が付加された形、つまり『霊異記』にはピグマリオンの神話の系統が流れ、それがまた後世の説話の祖形となった。
ほかにも『霊異記』には上記のような伝承性に富む説話が多い。雷岡いかずちのおかの由来を語る上巻第一話は小子部栖軽ちいさこべのすがるが雷を捕らえた話。この話の類話に雄略紀七年七月の小子部蜾蠃すがるの三諸丘みもろのおかの捕雷説話がある。ともに雷神を祀る祭祀からでた神話である。上巻第二話の美濃狐みののきつねの直あたえの由来を説く説話は、中国説話の影響も見られる異類婚姻譚である。次の上巻第三話の雷の憙むがしびを得て産んだ道場法師の説話は、基本は異常生誕の昔話と軌を一にして、内容も民俗的要素に富む。これらの説話は道場法師の孫娘や美濃狐の活躍する中巻第四話、第二十七話とともに道場法師系説話として奇異説話の中核をなしている。
鷲の育て子説話、吉祥天説話、雷岡捕雷説話、美濃狐異類婚説話、道場法師説話などを景戒は「奇異の事」と述べている。その伝承はきわめて古くまで遡さかのぼることができるのだ。
同じ奇異説話でも中巻第八話は趣をことにする。置染臣鯛女おきそめのおみたいめが山に入り山菜をとっていると、大きな蛇が蛙を飲んでいた。「あなたの妻になりましょう。私に免じて蛙を放してください」と頼み込む。蛇は娘の美しい顔を見つめて蛙を吐き出した。娘は「七日後に迎えにおいで」といった。七日後に蛇がやってきて、家の壁を尾でたたく。娘は恐れて生駒山寺の行基大徳ぎようぎだいとくにこのことを申し上げた。大徳は堅く戒律を守れという。帰る道すがら画問邇麻呂えどいのにまろという老人が大きな蟹をもっているのに会った。彼が他に蟹を売り渡すという先約があるというのに、娘は衣と裳を脱いで蟹を買った。行基を招いて呪文を唱え願をかけた上で蟹を放った。八日目の夜、蛇が屋根の上から草を抜いて入ってくるが、一匹の大きな蟹が蛇をずたずたに切っていた。
同様の説話は中巻第十二話で、山城国やましろのくに紀伊郡きのこおりの一人の女を主人公として語られている。牧牛の村童が焼いて食おうとする蟹八匹を衣を脱いで買い、義ぎ禅師を招いて呪願してから放生し、蛇の難から救われたという。同郡深長ふかおさ寺の行基大徳の教えを仰ぐのも同様である。
この二つの説話が冒頭にあげた説話群と大きく異なるのは、こちらの方は仏教的色彩の濃いことである。先の第八話は奇異事とするが、報恩は戒の力によることを力説し、老人を聖者の化したものかと疑っている。このような隠身の聖者は『霊異記』の大きな特色の一つでもある。第十二話では三宝につかえ奉ることを強調し、報恩を強調し、山城国の放生の始めと述べる。ともに『霊異記』編者の景戒が尊敬し共感している行基を主人公の一人としている。この説話は相楽郡そうらくぐんの蟹満寺かにまんじ縁起となり、仏教説話として近世まで伝承された。
仏教的装いにもかかわらずこの二つの説話は、「昔話・蟹報恩型」説話に属する内容をもつ。ともに伝承は古くまで遡ることができる。『霊異記』の一つの特色は伝承性であり、それが一種の興味を添える。
『霊異記』に見える時代苦
『霊異記』の説話は、編者景戒の感動に裏づけられつつ、描写は具体的、具象的なものである。そのため当時の世相が如実に描き出されている。例えば上掲の鷲の育て子説話にも当時の農民の生活が写し出されている。吉祥天説話にも優婆塞が寺をもち、弟子をもつという当時の世相が描かれている。
ところでこの説話集は、『日本国現報善悪霊異記』の題名からもわかるように、景戒は善行の善因を作れば現世での現報があり、悪行の悪因を作れば現世で悪報が起きると述べることによって、人々を仏法に誘おうとしたに違いない。その景戒の意図は上巻序文によく表されている。
「善い種をまけば善い結果を得、悪い種をまけば悪い結果が現れる実例を示さなければ、何を基準としてまちがった考えを直し、行いのよしあしを決めることができよう。……昔、中国では、唐の時代に『冥報記みようほうき』や『般若験記はんにやげんき』が作られ、仏教の因果応報の教えが日本にも伝えられた。だが、どうして他国の伝えばかりを恐れつつしんで、身近な自国の不思議な出来事を信じ恐ろしがらないということでよかろうか。……そういうわけで少しばかり耳にしたことを書きつけ、『日本国現報善悪霊異記』と名づけた」。
『霊異記』には仏法意識と奇譚意識が明白に読みとれる。奇譚意識が宗教性の薄い話まで記録させたに違いあるまい。ともかくこのようにして集めた説話を景戒は上巻第一話の雄略天皇の時代から時代順にならべた。
景戒は現報譚を数多く集めた。それらの説話は多くが同一のテーマを持つ。たとえば僧侶迫害説話である(上巻第十五話他)。特に中巻第一話の長屋親王ながやのおおきみの説話は正史以外の記事として資料性が高い。法華の行者を迫害した説話(上巻第十九話他)や、仏像を斬り捨てた下巻第二十九話も同一テーマとしてよい。
他にも仏像の霊験譚(上巻第六話他)、経典の霊験譚(上巻第八話他)、蘇生譚(上巻第三十話他)、放生譚(上巻第七話他)、化牛譚(上巻序文・第十話他)、現世業火譚(上巻第十一話他)、貧女得幸譚(中巻第十四話他)などがある。(詳しくは巻末の関係説話表を参照されたい)
同一テーマの説話を数多く集めたのはけっして空疎な重複ではない。かえって編者景戒の宗教的熱意のほとばしりと見るべきものである。『日本往生極楽記』や『今昔物語集』巻十五を始めとする往生伝類にも同一の宗教的熱意が認められる。ただし後世の往生伝類よりも景戒の場合は漢文体であるにかかわらずいずれも描写は具体的であり、表現が画一的でなく、単調さを救っている。
『霊異記』には、悪因の報いとして悪報が起こるという悪報説話も繰り返し述べられているが、悪報説話には説話に付随して景戒の時代、奈良〜平安初期の人生と実生活の苦しみが強くにじみでている。これは景戒が強くもっている、世は末法に入ったという末法意識にも関わる問題であろう。そして『霊異記』の描写が具体的であればあるだけ、当時の人々の苦しみが我々に伝わってくる。それが『霊異記』の魅力である。
武蔵国多磨た まの郡こおり鴨の里の人、吉志火麻呂き しのひ ま ろは筑紫に防人さきもりにとられ、母を伴って出かける。三年たって妻のいとしさにたえかねて、母を殺しその喪によって兵役を逃れようとする。仏敵の提婆達多だいば だつたにも似た、地が裂けて墜落死するという火麻呂の最期(中巻第三話)は、広く唱導に好まれたと想像される。この説話は安居院流あぐいりゆうにとりあげられ、『曾我物語』にまで吉志飯丸きしのいいまろの名が見える。
このような兵役に取られる苦しみ(上巻第十七話他)、それから雑徭ぞうようの苦しみ(下巻第十四話)、出挙すいこの苦しみ(下巻第二十二話他)など時代の苦しみがいきいきと描かれている。貧女得幸譚も、なぜ零落したかという背景に時代の苦しみを感じざるを得ない。それが今日でも読者をひきつける。
その時代苦のもっとも端的に描かれているのが、下巻第三十八話後半の景戒その人の自伝である。
三十八話の題は「災難と吉事との前兆がまず現れて、後にその災難と吉事との結果を受けた話」と題している。前半では聖武天皇時代の藤原仲麻呂の乱や、孝謙天皇時代の道鏡の乱の前兆として、童謡わざうたの流行したことをあげている。後半では景戒自身の前兆としての夢や異変を言う。
山上憶良の「貧窮問答歌」(『万葉集』巻第五・八九二)にも比せられているのが、延暦六年九月四日の一節である。苦痛の多い時代を生き抜いていく作者景戒の姿が表されている。景戒は記す。
「ああ恥ずかしいことよ、面目ないことよ。この世に生れて生活しながらも、生き長らえる手だてもない。因果応報の原理のままに、愛欲の網にかかり、迷いの心にひかれて、生死の道をたどり、生活のために四方八方に奔走して、生きたこの身を焼き苦しめている。僧となっても俗生活を営み、妻子を持ちながらも、養うにも物がなく、野菜もなく、塩もない。衣もなければ薪もない。四六時中ないもの尽しで、思い悩み、わたしの心は安らかではない。昼も飢えこごえ、夜もまた飢えこごえる。わたしは前の世で物を与え施す善行を積まなかった。そのため、こんなにも乏しい生活をしているのだ。いやしいことよ、わが心は。さもしいことよ、わが行いは」。「貧窮問答歌」のように寒さを凌ぐために堅塩かたしおをなめてみるわけにもいかない。
憶良の歌にも無常感が満ち満ちているが、景戒の叫びも悲痛である。これが文学的虚構であるとは読みとれない。それほど『霊異記』の告白が人に迫ってくる思いがする。
本説話の末尾では、景戒は延暦十四年に伝灯住位(僧位の第四番目)を得ている。十六年には私的に造った堂に狐が入り込んでいる。また十九年には景戒の馬二頭が死んでいる。
僧位は買官であろうし、景戒は私的に堂を造る財力もあれば、運搬用として貴重な馬を少なくとも二頭以上は所有していた。それでもここには平安初期の人々の時代苦の悲痛な叫びがある。『霊異記』は単なる因果応報を説く書ではない。一流の文学たらしめている感動がそこに伏在しているのを読みとってほしい。 
 
日本霊異記 激しい権力抗争

 

仏教の教えを説話により紹介する『日本霊異記』は、突然、奈良時代の激しい権力抗争について触れています。これによると、激しい権力抗争の始まりは、聖武天皇の、『わが子(娘)阿部内親王と、天武天皇の孫王・道租(ふなど)親王の二人に、天下を治めさせよ。』という勅命を、藤原仲麻呂が守らなかったことによるというもの。しかし、天武天皇の孫王・道租(ふなど)親王を天皇とすることについては、政敵・橘諸兄一派の計画によるものであることから、藤原仲麻呂がこの勅命を守るはずもない。血なまぐさい権力抗争を経て、権力を掌握した藤原仲麻呂でしたが、僧・道鏡という新たな政敵の出現により、権力の座を追われるのでした。
聖武天皇は、藤原仲麻呂を御前に召して、勅命に叛けば、天地はあい憎み、大いなる災いが生じるであろうと述べて、次のとおり、誓わせた。藤原仲麻呂は、この勅命を受諾した。
○わが子(娘)、阿部内親王と、天武天皇の孫王・道租(ふなど)親王の二人に、天下を治めさせようと考える。
聖武天皇崩御後、勅命のとおり、道租(ふなど)親王は、皇太子となった。
しかし、阿部内親王が孝謙天皇(女帝)であった御代、天平宝字元年、皇太子である道租(ふなど)親王は、牢獄に入れられて殺された。この時、黄文王(長屋王の子)、塩焼王(天武天皇の孫)も一緒に殺された。
(注)
1 道租(ふなど)親王は、天平宝字元年、孝謙天皇の命令で皇太子を廃され、替わって大炊王(おおいおう。天武天皇の孫、のちの淳仁天皇)が皇太子となった。藤原仲麻呂の強い推挙によるもの。
2 道租(ふなど)親王を皇太子とすることについては、橘奈良麻呂(左大臣・橘諸兄の子)が深く関与。橘奈良麻呂は、孝謙天皇を廃し、藤原仲麻呂を排除するクーデター計画を立てたが、露見。計画に関与した道租(ふなど)親王、黄文王(長屋王の子)等は、獄舎において、当日、または数日のうちに、激しい拷問により絶命。なお、塩焼王(天武天皇の孫)は、関与した証拠がないとして釈放されている。
孝謙天皇が再即位して称徳天皇となった御代、弓削氏の僧・道鏡は、称徳天皇と同じ枕において情交し、政治の実権を握り天下を治めた。
(注)
1 天平宝字2年、孝謙天皇は退位し、藤原仲麻呂が推挙する大炊王(おおいおう)が即位して淳仁天皇となる。橘奈良麻呂ら反対勢力を一掃した藤原仲麻呂は、政治の実権を掌握。
2 孝謙上皇は、僧・道鏡を重用し、淳仁天皇、藤原仲麻呂と対立を深めてゆき、天平宝字6年淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言。
3 権力の座を失った藤原仲麻呂(恵美押勝)は、孝謙上皇と僧・道鏡の勢力に対して、武力によるクーデターを企てたが失敗(藤原仲麻呂の乱)。敗戦後、逃亡中に捕まった藤原仲麻呂は、妻子ともども殺された。淳仁天皇は、廃位され、淡路国に流された。
 
日本霊異記に見る外道

 

「日本霊異記」は正確には「日本国現報善悪霊異記」といい、平安時代の初期に編集された、上中下の三巻からなる説話集です。編集者は薬師寺の僧、景戒という人みたいです。編集は平安時代の初期に行われたみたいですけど、霊異記の話の背景は大部分が奈良時代及び奈良時代以前という感じみたいです。
成立年代については、あまり正確なことはわかっていない模様ですけど、ほぼ9世紀前半頃のものと見ておけば問題はなさそうです。奈良時代の背景を含んでいるそうですけど、結局は景戒が咀嚼して記述したという点を考慮すると、この話に出てくる「外道」の概念が奈良時代的用法・全国的展開を受けたものであるかについては非常にあやしそうですよね。よって、この文献からわかるのは景戒の時代・地域(薬師寺周辺)における「外道」概念にすぎないことはあらかじめ意識しておく必要はあるかもしれません。
「外道」関連箇所
訳本を調査したところによると、「外道」について以下の2例を見つけることができました。
•下巻「肉の塊から生まれた女が善をおさめて人を導いた話 第十九」
•下巻の「いやしい僧の乞食を打って、現に急に悪死の報いを得た話 第三十三」
破戒の仏僧でも外道よりマシ(下33)
まずは後者の事例から。じつは後者の事例は『大方廣十輪經』(大正410)からの引用みたいです。なのでこれ、「日本における用例」には入れられないですよね。入れられないですけど、せっかくなので一応紹介しておくと‥
「 そこで十輪経に「くちなしの花はしおれても、なおほかの多くの花にまさってよい香りを放ち、戒律を破った大勢の僧も、なお大勢の外道者よりはすぐれている。出家の人の過ちを説くのは、戒を破っても、守っても、戒があってもなくても、過ちがあってもなくても、それを説くのは万億の仏の身から血を出すより以上のことである」といっている。 」
「 所以に十輪経に云はく「薝匐の花は萎むといへども、なほ諸の余の花に勝る。戒を破れる諸の比丘も、なほ諸の外道に勝る。出家の人の過を說くは、もし戒を破るひとももし戒を持つひとも、もし戒有るひとももし戒無きひとも、もし過有るひとももし過無きひとも、説く者は万億の仏の身より血を出すに過ぎたり」とのたまふ  」
「十輪経に云はく」とあるとおり、ここは『十輪経』からの引用文という感じのようです。なので「日本における用例」という感じではなさそうなんですけど。でも一応、材源のチェックを行なってみましょう。
十輪経
『十輪経』における対応箇所があるはず‥と見てみました。
瞻蔔華雖萎 勝於諸餘華
破戒諸比丘 猶勝諸外道
[訳] 瞻蔔華 萎れてもなお 華の王 破戒の比丘でも 外道よりマシ
‥ つまり『霊異記』で『十輪経に云はく』として紹介されている部分を見てみると、
「 そこで十輪経に「くちなしの花はしおれても、なおほかの多くの花にまさってよい香りを放ち、戒律を破った大勢の僧も、なお大勢の外道者よりはすぐれている。出家の人の過ちを説くのは、戒を破っても、守っても、戒があってもなくても、過ちがあってもなくても、それを説くのは万億の仏の身から血を出すより以上のことである」といっている。 」
この部分は『十輪経』になくて、『霊異記』もしくは他の文献による解説が、あたかも『十輪経』の一部であるかのように混入してしまったんです。
梵網經古迹記
では。この部分はどこから流入したのか。どうでもいいことですけど、ちょっと調べてみました。
「 如 本業經云。有而犯者勝無不犯。有犯名菩薩。無犯名外道。又十輪云。占匐花雖萎猶勝諸 餘花。破戒諸比丘猶勝諸外道。説出家人過。若破戒若持戒若有戒若無戒若有過若無過 説者。過出萬億佛身血。 」
[訳] 本業経によれば「有罪ものは無罪のものよりマシ。有罪のものが菩薩であり、無罪のものが外道なら」と。十輪経にも「占匐花は萎れても、他の花よりよい。破戒比丘でも外道よりマシ。出家人の過失を説くのは、破戒・持戒・有戒・無戒いずれの場合でも、万億の仏身から血を出す以上のことだ」と。
‥この『梵網經古迹記』という本に、上の引用部分の後半部分の該当箇所もあります。『霊異記』は、ここからの引用ですか。
ところで。元とされた「十輪経」にある記述、つまり「仏教内部のサイテーのヤツでも、それでも、外道よりマシ」という内容の韻文になってますけど。ここでの「外道」、完全に「仏教以外の宗教」という意味になっているみたいです。インドの大乗系にありがちな用例に見えます。
そして「十輪経」の記述に、なにやら記述を追加した「梵網經古迹記」‥‥と、朝鮮新羅朝の太賢(8c中頃?)という人が書いた「梵網経」の通釈書みたいで、律、真言、法相では重視された書物、そういう感じみたいです。
梵網經菩薩戒本疏
「梵網経」の通釈ということはつまり、「梵網経」にも該当部分あるかな? と思って見てみました。「梵網経」には見当たらないんですけど、その注釈書である『梵網經菩薩戒本疏』(大正1813)あるのを見つけました。
「 經云。占匐 華雖萎猶勝諸餘花。破戒諸比丘猶勝諸外 道。又經云。有犯名菩薩。無犯名外道。是故彼 犯猶不可輕。如牛雖死牛黄益人。破戒比 丘猶能生於人天十種功徳。如十輪經説。 」
[訳] 経によれば「占匐華はたとえ萎れても他の華よりよい。破戒比丘でも外道よりマシ」と。また経によれば「有罪の菩薩と無罪の外道がいても、有罪だからと菩薩を軽んじてはならぬ。牛は死しても牛黄(胆石)は人の役に立つ。比丘は破戒しても人・天に十種功徳を与える」と。十輪経で説かれるとおりだ。
‥‥つまりこの表現、もともと「十輪経」にあるのを「梵網経菩薩戒本疏」が引いて、それを「梵網経古迹記」が引いて、それを「霊異記」が引用した、そういう流れになるんでしょうか。そして景戒は「梵網経古迹記」しか見てなかったんでしょう。「梵網経古迹記」にしかない記述を、「十輪経」と勘違いして引いてますから‥。
‥と、「日本における『外道』の使い方」とは全然関係ない話になってしまいました‥
肉塊から生まれた五体不満足な尼(下19)
まず該当箇所の引用から。
「 そのとき詫摩郡(いまの熊本県飽託郡)の国分寺の僧と、豊前国宇佐郡矢羽田の大神宮寺の僧の二人は、その尼を憎んで、「おまえは外道者だ」といって、嘲笑し、あざけってからかうと、(後略) 」
「 時に託磨郡の国分寺の僧とまた豊前国宇佐郡の矢羽田の大神寺の僧と二人、彼の尼を嫌みて言はく「汝は是れ外道なり」といひて、啁し呰りて嬲る。 」
ここでのポイント。
• 「憎んで」「嘲笑し、あざけってからかう」意味内容を「外道」が含んでいること。
• 「尼」すなわち出家者に対して「外道」という単語を使っていること。
ちなみに、なぜ「尼」なのに「外道」と呼ばれたかというと、それはかの尼の身体的な特異性に原因がありそうです。
• 肉の塊として生まれた。じつはその肉の塊は卵のようになっていて、その肉の塊のからを破って彼女が(再度?)生まれた。
• 頭と頸がくっついて、あごがなかった。身長は三尺五寸であった。
• 女陰がないので結婚はできず、ただ尿の出る穴だけがあった。
これを見てると「殻に入って生まれるということは、産道を通る苦しみはなかったわけか」「性器がない人って、誰かいたなあ」とかイロイロ思ったりするんですけど、まあ、それはともかく。要するにこの尼は人間離れした身体を持っていたので、出家の身にもかかわらず「外道」と呼ばれた、と。
さて。では、なぜ「人間離れした身体を持っていると外道」となるのか?、「根が揃っていない者は出家できなかったから」か。たしかに戒律関係のテキストには「無手・無足などの人間は出家できない」旨の記述がありますから、ということは、こんな感じですか。
「 民衆から尊敬されていた尼に対する嫉妬 --- そしてその嫉妬の裏には「なんだ女のくせに。しかも不具のくせに」という気持ちがあっただろうことは想像に難くない。ゲスはゲスの心を知る。 --- を持った僧どもは、どうしても尼のイメージが悪くなるような悪口が言いたい。そこで戒律の条文をタテにとって「このニセモノめ」すなわち「あいつは徳が多くないから敬ったって意味ないぜ」と言うことにより、尼の人気急落を図った。 」
「ヤツはダメだ。インチキだ」という意図をこめて、他の出家者(たち)を「外道」と呼ぶのは何となく日本的だなあ、という気がしないこともないですけど。この用例では「外道」の根拠を「身体的な特徴」に置いている点で非常に気になる用法といえるかもしれません。
「差別」か?
この構図を差別問題と結び付けて考えてみましょう。通常の人間とは異なる出自をした彼女は熱心に仏道に励んだわけですけど、彼女を憎んだ僧どもが彼女を不当に卑しめ、彼女に損害を被らせることを目的として「外道」呼ばわりをしたことになります。それゆえ、ここでの「外道」という単語の用法は差別的な意図をもったものといえましょう。
[付記]
講談社学術文庫版では、この「外道」について原文そのまま「外道」とせず、「異端者」という訳語がつけられていました。どう異端なのか、よくわからない。‥ですけど、想像するとアレですかね。「不具者だから出家できない。出家できないクセに尼を自称するニセモノ」という感じでしょうか。でもそれは「異端」とは違いますよね‥
「外道」ついでに、霊異記における非仏教な人たちについての描写を見てみましょう。何といっても「外道」のそもそもの意味は「非仏教」ということですから、その本来的な「外道」、すなわち非仏教な人たちが、日本への仏教流入当初どのような描写をされていたかを確認することも意味あることだと思うからです。
‥でも、これが意外と難しい。「三宝を信じない」「因果の道理を信じない」者のうち、どの程度が「仏教以外のものに対して信仰を持っているが、仏教に対する信仰は持っていない」人間なのか、どの程度が「単なる無知無教養」なのか、というのがよくわからないのです。
そのあたりを意識しつつ、非仏教徒な人たちの描写を追ってみましょう。
牛を殺して漢神(中05)
異教徒は中巻の「異国の神のたたりで、牛七頭を殺して祭り、また生き物を放してやった善行で、現世に善悪ふたつの報を得た話 第五」に登場してきます。
この人は、まあ、表題にもあるとおり、毎年牛一頭を殺して漢神を祭っていたみたいです。すると七頭を殺したところで病気になって、改心して、いろいろな生き物を放してやるようにした、と。やがてその男が閻魔様の前に立たされたときに、この男の処遇をめぐって、牛側(作中では「頭は牛、体は人間の形をした七人の非人」) と諸動物側(千万人あまりの人)が口論になった、と。こんな感じです。
• 牛側「明らかにこの人が中心となって、われわれの手足を切り、漢神の宮に祭って自分の利益を願い、なますに切って、肴として食べた」
• 諸動物側「われわれはこの人の罪ではなく、鬼神の罪だということをよく知っております」
で、最終的には多数決で諸動物側が勝利し、この男は無罪となります。その結果かれは仏法への信心をさらに強くして云々‥というのがこの話のオチとなります。
桓武天皇と「牛を殺して漢神」
さて。ここでの異教徒の描写について、改めて見てみましょう。「牛を殺して漢神」について、じつは別のところでこんな話があります。平安京遷都をおこなった桓武天皇にまつわる話のところで‥
「 桓武天皇の遷都が成った。以後、ライバルを退けた彼の独裁政治がはじめられるのであるが、あたかもそれを合図とするように、桓武の肉親に病人が出たり、社会に異変や異象が発生した。そしていつしか、それが他戸親王の祟りであり、早良親王の怨霊によるものであるとの噂が立つようになった。やがて彼は、さらに不思議な流言がささやかれているのを耳にする。このごろしきりに、諸方の民衆が牛を殺して漢神を祀っている。そして漢神というのは祟り神のことだ、という。それならば彼らは、なぜ牛を殺して祀るのか。理由はあいまいであるが、これはさらに浮説がくっついていた。あの他戸親王と井上皇后が死んだ日も、そして早良親王が死んだ日も、みな「丑の日」であったからだ、というのがそれだ。死者の怨霊と祟り神のはたらきが結びつけられて、口から口へと伝えられていったのである。 」
「霊異記」の成立年代は、桓武天皇の治世年代とそんなに離れていません。ですからたぶん、ここで出てくる「牛を殺す漢神」と、桓武天皇を悩ませた漢神、祟り神は同じものと見て間違いないでしょう。山折の記述からすると、たぶん、この「牛を殺す漢神」の起源はいまいち不明ながら、当時の京都周辺では民衆のあいだにそれなりに流行していたんじゃないかと思われます。そして庶民のあいだで流行していたので「霊異記」にも入ったんでしょうね。
仏教への回心を薦めてる?
霊異記ではこの「牛を殺す漢神」を崇拝していた男は、病気を契機として改心し、動物を殺すのをやめた、と。その結果、男が閻魔様の前に立ったとき、閻魔様の前で多数決が行われ無罪となり、さらに仏法への信心を深めた。 ‥物語はそんな感じで続いています。つまりこれは、庶民に対して「牛を殺す漢神」の崇拝を今から止めても間に合うよ、仏教に行こうぜ、という回心を促すエピソードになってます。これについては、ちょっと上で紹介した山折の、後続部分に‥
「 桓武の死後、平安王朝はにわかに仏教僧による加持祈禱の儀礼を重視しはじめた。というのも怨霊信仰がしだいに広く流行するきざしをみせ、それに対応する呪的装置を制度化する必要が出てきたからである。そしてその制度化のために活発に運動したのが空海であった。 」
こう書かれている部分と対応しそうですよね。民衆レベルのみならず皇族レベルでも、「牛を殺す漢神」「祟り神」を抑え込み、人々を最も幸せにする手段として「仏法」あり、そういう感じの流れが作られていて、その流れが、身分の上下を問わず、大きな流れになっていた、と。
ここで。何だかよくわからない「牛を殺す漢神」ですけど。まあ、ざっと見ておきましょう。すでに表題に「異国の神のたたりで」とあり、また物語中の台詞の中に「この人の罪ではなく、鬼神の罪」とあることから、漢神を信仰していた人であっても、その人自身には悪の属性が染み付いてしまっているわけではなく、単に一時の気の迷い・何かに騙されている・錯誤的状態にすぎない、という扱いになっていることがわかります。つまりその異教徒たちは、いま陥っている錯誤から抜け出しさえすればそれだけで問題は解決する、だから早く仏法に帰依せよ、そういう構図ですよね。つまり、カルトな宗教団体に属してしまった人たちに、「おまえ騙されてるよ。はやくこっちに来いよ」と言ってる人たちと似た感じですね。それを考えると、割と今もあるような構図で、あまり差別的、敵対的な描写とは言えなさそうです。
普通人な外道、人外な内道
視点を変えてみると、この、異教徒に対する描写って、わりと一般的というか何というか、異教徒の人たちを、びっくりするほど普通の人間として描いています。これはやはり「霊異記」の著者の周囲に実際そういった感じの人たちがいて、その人たちとも(敵対することなく)割とおだやかに共生共存できていたから、だからこそこんな「ふつーの人」的な描写になったんだろうとは思いますけど。
これよりも時代が下って平安後期あたりになってくると、確実に蝦夷にも仏教が浸透しているはずなのに、一般に蝦夷の人たちはまるで人間でないかのような描写しかされないのと比べると、なかなか面白いですね。霊異記の作者およびそれと同じ文化圏の人たちにとっては、きっと異教徒よりも、蝦夷で仏教を信奉している人たちのほうが文句なしに「外道」なんだろうな、と思ったりしてしまいました。
「三宝を信じない」「因果の道理を信じない」者たちに関する記述
「牛を殺して漢神」のような、あからさまな異教徒に関する記述は他に見当たらないみたいですけど。それ以外の、仏法に対する信心がない、と明示的に書かれてる者どもに関する事例を、簡単にまとめてみます。
僧の乞食を見て乱暴 / 上15(愚かな人で因果の法を信じない)
同上 / 上29(うまれつきよこしまな考えをもっていて、仏法を信じなかった)
同上 / 下15(生まれつきよこしまな考えをもっていて、乞食僧を嫌い憎んでいた)
同上 / 下33(生まれつき良くない性質で、因果の道理を信じなかった)
卵を食べていた / 中10(生まれつき邪見で因果の法を信じない)
僧に悪口雑言 / 中11(生まれつき邪見で、三宝を信じなかった)
仏像を盗んでバレた / 中22(生まれつき心かたくなで、殺人強盗を仕事にして、因果の道理を信じなかった)
道端にいた僧を打った / 中35(よこしまな心の持主で、三宝を信じなかった)
要するに強欲 / 下26(うまれつき、仏道を信仰する気持がなく、欲張で人に物を与えることはなかった)
仏法を信じないヤツらについては、「仏法を信じない、つまり他の宗教(神?)を信じたことが原因でひどい目にあってしまう」のと「(単なる粗暴で)ひどいことをしてしまうことが原因でひどい目にあってしまう」のを区分できると面白いかも、とか思ってたんですけど。ひどいことをしてひどい目にあってるヤツばっかりですね。  
 
早良親王 1

 

[ さわらしんのう ] 光仁天皇の皇子、母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇(すどうてんのう)と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。
母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた。天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている。
しかし延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した(『日本紀略』前編13、桓武天皇、延暦4年〈785年〉9月23-24日)とする。だが、親王の死は次の各説がある。
・抗議の絶食による死とする説
・桓武天皇が、意図的に飲食物を与えないで餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説。
種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。桓武天皇は道鏡事件での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする。
その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。また、この近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数km離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。
東大寺では毎年二月堂修二会のおり神名帳を奉読し法会の加護を願い、最終段で十一柱の「御霊」の名前を読み上げられるがその冒頭には八嶋ノ御霊と記され早良親王の怨念を慰めている。  
 
早良親王 2

 

奈良時代末期の皇族。追称は崇道天皇。御霊信仰で祀られる御霊の筆頭として崇敬され、一方で日本三大怨霊をも上回る別格の大怨霊ともされる。
奈良時代末期の皇族で親王禅師とも呼ばれた。追称は崇道天皇。ただし皇位の継承をしていないため歴代天皇には数えられていない。天平勝宝2年(750年)? 〜 延暦4年9月28日(785年11月8日)。
生涯
光仁天皇の皇子。母は高野新笠。能登内親王や桓武天皇の同母弟にあたる。 天平宝字5年(761年)に11歳で出家して東大寺に入ると定僧都を師とし、羂索院(法華堂)に住む。神護景雲2年(768年)には大安寺東院に移り住んだ。
亀宝元年(770年)に21歳で登壇受戒すると、同年に父の白壁王(光仁天皇)が即位したことから親王禅師と呼ばれた。この頃には東大寺運営の主導権を握っていたとされ、宝亀2年(771年)には実忠に命じて大仏殿副柱を構立するなど南都寺院において絶大な力を持つようになった。
天応元年(781年)に同母兄の山部親王(桓武天皇)が即位すると、光仁天皇の勧めによって還俗し、皇太弟として立太子された。東宮傳には藤原田麻呂、春宮大夫には大伴家持、春宮亮には林稲麻呂がたてられる。家持が集めた歌集がこの頃に早良親王に献上されたと言われ、これが後の万葉集勅撰の契機となったとされている。
桓武天皇は延暦3年(784年)11月11日に平城京から長岡京へ遷都し、延暦4年(785年)正月には宮殿で新年の儀式を行った。遷都の理由のひとつとして、桓武天皇は政治に影響力を持っていた南都寺院を排除したかったのではと考えられている。
しかし、同年8月に桓武天皇が伊勢の斎宮となる第一皇女・朝原内親王を見送りに旧平城京へと行幸したひと月後の9月23日夜に「藤原種継暗殺事件」が起こった。長岡京遷都の責任者であった藤原種継が暗殺されるという一大事件であるが、取り調べの結果、大伴家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継人・大伴永主・林稲麻呂らが早良親王を担いだ謀反であると断定され、早良親王も事件に連座していたとして廃太子された。9月28日には長岡京の乙訓寺に幽閉され、淡路国への流罪が決まった。
早良親王は無実であることを証明するためとも、朝廷から飲食を停止されたとも言われるが、幽閉から10日余りの絶食に耐え、淡路国に配流される途中、河内国高瀬橋(現在の大阪府守口市高瀬神社)付近で憤死したとされる。それでもなお桓武天皇は、弟の早良親王の亡骸をそのまま淡路国に運ばせて埋葬させた。
藤原種継暗殺に早良親王が実際に関与していたのかは不明である。
没後
早良親王の死から間もなく、延暦3年(784年)11月には桓武天皇の親王である安殿親王(後の平城天皇)が立太子した。しかし延暦5年(786年)に桓武天皇妃藤原旅子の母・諸姉が死去すると、この頃に安殿親王が発病したとされる。
延暦7年(788年)5月に藤原旅子が、翌月に後宮重鎮の皇后宮大夫であった石川名足が死去すると、7月には九州で霧島山が噴火した。
延暦8年(789年)に早良親王と桓武天皇の生母である皇太后高野新笠が崩御する。
延暦9年(790年)には桓武天皇の皇后藤原乙牟漏が病死する。その後も高津内親王の生母である坂上又子の病死が続き、さらには地震、日照りによる飢饉、疫病の大流行、洪水、伊勢神宮正殿の放火など様々な変事が相次いだ。
延暦11年(792年)年に安殿親王の病気の原因を陰陽寮に占わせたところ「早良親王の怨霊によるもの」であると判明しため、早良親王の御霊を鎮めるために幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
延暦12年(793年)年正月14日、桓武天皇は30人の僧を宮中に参内させ薬師経を読ませて、早良親王に鎮謝すると共に、体調不良の続く安殿親王の健康を祈願している。
それでもなお延暦12年(793年)8月、10月、延暦13年(794年)1月、6月、9月と長岡京で立て続けに地震が起こり、射場に怪異現象が出現したことから、長岡京造営から僅か10年後の延暦13年(794年)10月22日に桓武天皇は長岡京を廃都して平安京へと遷都し、11月8日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。
延暦16年(797年)5月に宮中に怪異があり早良親王の魂鎮めが行われ、8月には遷都した平安京でも地震が起きた。延暦18年(799年)年2月神野親王(後の嵯峨天皇)が元服の時に再び早良親王の魂鎮めが行われた。
延暦19年(800年)3月には富士山が噴火した。これを受けて7月には早良親王の怨霊鎮魂のために崇道天皇と追称され、淡路国から大和国に移葬された。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。
延暦24年(805年)4月には祟道天皇を慰霊するために、諸国に小倉を建てて正税40束を納めさせ、あわせて国忌と奉幣の例に加えることが命じられた。『日本後記』には「怨霊に謝するためである」と記述されており、これが日本の史料上に「怨霊」という言葉が登場した最初の記述とされている。
大同元年(806年)、日本で初めて彼岸会が行われた。『日本後紀』には、崇道天皇のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と記述されている。これがこの彼岸会員が現在の彼岸法要の由来・起源ではないかとされている。
貞観5年(863年)、神泉苑で御霊会が行われ、祟道天皇は「御霊信仰」で祀られる御霊の筆頭として、現在まで畏敬の念を持って崇められている。
御霊として信仰される一方で、都をひとつ廃都させるほどの被害をもたらした怨霊は早良親王のみであり、国家・社会全体にもたらした影響の大きさから早良親王は日本三大怨霊をも上回る最大・最強の大怨霊ともされる。江戸時代には菅原道真、平将門、崇徳院が読本や歌舞伎など物語化して現代に大きく影響を与えているが、早良親王は物語化することさえ憚られた。
平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本記』には、早良親王廃太子の記事は発端となった藤原種継暗殺事件と共に記載されていない。
当初は記載されていたものの削除され、平城天皇の代になって再び記載された。理由として平城天皇が種継の遺児である藤原薬子を寵愛したことや、早良親王の廃太子によって皇太子となったことから、早良親王が大怨霊となったことを否定することで、平城天皇の皇位継承は正当性があると主張したものと考えられる。
しかし嵯峨天皇の代になると早良親王廃太子の記事は再び削除されている。
俗説
淡路国へ配流される途中で憤死せず、吉備国児島へと逃れて名を隠したのが阿久良王であるという文献もあるが、伝説であり史実とは考えられていない。  
 
晩年の大伴家持

 

その後の公人家持
天平宝字てんぴようほうじ六年(七六二)正月、大伴家持おおとものやかもちは因幡守いなばのかみから信部大輔しんぶたゆうとなって帰京した。在任期間三年半というのは短いほうである。信部省は中務なかつかさ省の別名で、他の七省より格が上であり、その大輔(首席次官)となって、家持は少し面目を施す思いがしたのでなかろうか。しかも、その長官(卿きよう)は、家持より三歳年長で、これまで彼に好意的であった藤原真楯ふじわらのまたて(八束やつか)である。だが、真楯は四年後に、正三位大納言だいなごん兼式部卿で薨こうじた。時に五十二歳、その死は朝廷の内外から惜しまれた。
真楯は北家の出だが、その従兄で南家出身の藤原仲麻呂なかまろは、常々、真楯の徳望篤あついことを嫉ねたんでいた。反対勢力を次々に却しりぞけ、権謀術数にたけた仲麻呂も、後ろ盾と頼む光明皇太后の崩御を境に失速し、謀反を起したが、近江おうみ国高島郡勝野かつのにおいて敗死した。彼が担ぎ出した淳仁天皇(舎人親王とねりのみこの子、大炊おおいの王おおきみ)も配所の淡路あわじで怪死する。あたかも、七年前に家持が「咲く花はうつろふ時あり」(四四八四)と詠よんだのが的中したような結果となったわけである。しかし、奈良朝末期の政界がそれで浄化したのではない。入れ代りに台頭した怪僧道鏡どうきようが法王となって実権を握った。その道鏡も、宝亀ほうき元年(七七〇)に彼を支えた称徳天皇(孝謙)が崩ずると失脚し、故志貴親王しきのみこの子、白壁王しらかべのおおきみが推されて皇位に即つく。光仁天皇がそれで、これまで天武天皇の系統が占めていた皇位が天智天皇の子孫の手に戻ったことになる。
その間、家持はさまざまの官職を歴任するが、位階は黄金出現の年、天平勝宝しようほう元年(七四九)従五位上に進んだきり、二十一年間据え置かれていた。真楯またてがこの一階を二年半で通過したのに比べて、大変なスローペースである。その原因は、必ずしも仲麻呂なかまろらの、橘たちばな・大伴おおとも氏を中心とする一派に対する抑圧とばかりも考えられない。とにかくその宝亀ほうき元年(七七〇)にやっと正五位下となり、翌二年に従四位下に叙せられて、遅過ぎた春が家持やかもちの上に訪れたのである。
天応てんおう元年(七八一)四月、光仁天皇は皇太子山部親王やまべのみこに譲位、桓武かんむ天皇の代となり、早良親王さわらのみこが皇太子に立てられる。家持は右京大夫だいぶ兼東宮大夫正四位上となり、その年の冬十一月従三位に進んだ。三年後の延暦えんりやく三年(七八四)十一月、長岡京に遷都する。家持が薨こうじたのはその翌四年八月二十八日で、時に中納言ちゆうなごん従三位兼東宮大夫、陸奥按察使むつあぜち鎮守府将軍でもあった。年六十八歳。死後二十余日、その屍しかばねが葬られないうちに、藤原ふじわらの種継たねつぐ暗殺事件が起り、その主謀者大伴継人・竹良らに連なるという縁で除名された。皇太子(東宮)側の人でもあり、不利な立場であった。ただし、翌年復位する。
万葉集の欠落あれこれ
家持が天平宝字てんぴようほうじ三年(七五九)に万葉集最後の歌を詠よんで以後、延暦四年まで二十六年間に歌を作らなかったとは考えられない。ただ、百人一首にも入れられている、
かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更ふけにける
は、『家持集』という家持と無縁な歌集の中にあるが、家持の実作とは認められない。しかし、それと関係なく、万葉集の自作歌ないし周辺の人々の歌を、折に触れて、直したり、また削ったりしたのでないかと思われる。
即ち、十代の若書きの自作を、後年に至って、未熟と反省して削ったとおぼしい証拠がある。たとえば、巻第四・相聞そうもん・五八一の題詞。原文で示せば、
大伴坂上家之大娘報二贈大伴宿祢家持一歌四首(大おほ伴ともの坂上家さかのうへのいへの大嬢だいぢやうが大伴宿禰家持おほとものすくねやかもちに報こたへ贈おくる歌四首)
とあって、その中に「報贈」と見えることから推して、この前に家持からの贈歌何首かがあったと考えられる。それを後年、稚拙と認めて削ったに違いない。時には、後に家持と結婚する坂上大嬢の歌を、当人の要求によってか、削除することもある。大嬢の母、坂さか上郎のうえのいら女つめが跡見とみの荘園から奈良の留守宅の娘に贈った歌(七二三・七二四)のあとに、
右歌、報二賜大嬢進歌一也(右の歌は、大嬢が進たてまつる歌に報こたへ賜ふ)
とあるのがそれである。同じようなことが、六二七の前の佐伯さえきの赤麻呂あかまろ、七六九の前の紀女郎きのいらつめ、七八六の前の藤原久須麻呂ふじわらのくすまろの歌についても言えよう。これらは皆、家持周辺の人と考えられ、削らないと不名誉だとか、あまりに個人的な関係が表面化するとかの考慮から、関係者であり、編纂へんさん者でもある家持の裁量で除いたと考えられる。
以上挙げたところは、巻第十六以前の諸巻における削除であり、あるいは越中えつちゆう滞在中などの宝字三年以前の手入れと考えることもできよう。しかし、巻第十七以降の四巻の上に同じようなことがあれば、宝字三年より後の削除の可能性が高かろう。ただ、この四巻中の件数は二つで、共に書写段階に至って誤脱したとも考えられないところがある。その一つは巻第十八・四一三一の左注の、
右歌之返報歌者、脱漏不レ得二探求一也(右の歌の返報歌は、脱漏だつろうし探り求むること得ず)
である。これは、もと越中国掾じようで、その後、越前えちぜん国掾に遷うつった大伴池主いけぬしが書いた、訴状紛いの戯文と戯歌(四一二八〜四一三一)に対する、家持からの返信が散逸して見つからない、という断り書である。対池主に限らないが、家持の元に届いた書翰しよかんや歌が残るのは当然として、家持から出した書状類は、控えを取っていたのか、あるいはあとで返却してもらったものか、他のはほとんどすべて残っている。残っていないのは、これと巻第五の八六四の前の、大伴旅人たびとが都の吉田よしだの宜よろしに梅花歌三十二首と「松浦まつら川がはに遊ぶ序」とを贈るのに添えた書翰しよかんである。その実作者は山上やまのうえ憶良のおくらかもしれないが、それはこの際、問う所でない。その中身を宜よろしの返信の中から一部復原すると、
……辺城へんじやうに羈旅きりよし、古旧こきうを懐おもひて志を傷いたましめ、年矢ねんし停とどまらず、平生へいぜいを憶おもひて涙なみたを落とす……
というような泣き言を吐露してあったのだ、ということが分る。それから類推して、家持やかもちも池主いけぬしの悪ふざけに対して、多少感情的なことを言い贈り、後に気がとがめて、散逸したと見せかけた可能性が大きいのでないか。その削除の時期を特定できないが、橘たちばな奈良麻呂のならまろの変の主謀者の一人として逮捕された池主が、多分、刑死したと思われる、それ以後かと想像される。
もう一つの「散逸」は、家持が越中えつちゆう守のかみを辞して上道する時に、下僚を代表して次官の内蔵くらの縄麻呂なわまろが詠よんだ「盞さかづきを捧ささぐる歌」(四二五一題詞)である。家持の失念でない、と言い切れないが、あるいは、掾じようの久米広縄くめのひろつななどに比べて多少、歌に不堪ふかんであったとも考えられる縄麻呂の歌の拙劣さをカバーしての工作ではないか。
後日推敲して差し替え
削除のほかに、差し替えたと思われるものが、古写本の上に残ることがある。これも家持関係に限られるようである。即ち、家持から池主に贈られた書翰類に限って見られ、池主から家持への返信には絶えてその事がない。巻第十七の(A)三九六二・(B)三九六九・(C)三九七六の各歌の前文がそれであるが、今はその最後の(C)だけ取り上げよう。右図に示したものは紀州本(部分)で、次にそれの書き下し文を示す。上に示した記号(X)・(Y)・(Z)は大体の段落を示す。
(X)昨暮ざくもの来使は、幸むがしくも晩春遊覧の詩を垂れたまひ、今朝の累信るいしんは、辱かたじけなくも相招望野さうせうばうやの歌を貺たまふ。一たび玉藻ぎよくさうを看みるに、稍やくやく鬱結うつけつを写のぞき、二たび秀句しうくを吟うたふに、已すでに愁緒しうしよを蠲のぞきつ。この眺翫てうぐわんに非あらずは、孰たれか能よく心を暢のべむ。但惟ただし下僕われ、稟性彫ひんせいゑり難く、闇神瑩あんしんみがくこと靡なし。翰かんを握とり毫がうを腐くたし、研げんに対むかひて渇かわくことを忘れ、終日目流もくるして、これを綴るに能あたはず。所謂いはゆる文章は天骨にして、これを習ふに得ず。
(Y)豈あに字を探り韻を勒しるさむに、雅篇がへんに叶和けふわするに堪あへめや。抑鄙里はたひりの少児せうにに聞くに、古人は言げんに酬むくいずといふことなしといへり。聊いささかに拙詠せつえいを裁つくり、敬つつしみて解咲かいせうに擬あてはからくのみ。
(Z)如今いまし言を賦ふし韻を勒し、この雅作がさくの篇に同どうず。豈あに石を将もちて瓊たまに間まじへ、声こゑに唱へ走わが曲しらべに遊ぶに殊ならめや。抑はた小児の濫みだりなる謡うたの譬ごとし。敬みて葉端えふたんに写し、式もちて乱に擬りて曰いはく、
これを書いたのは天平てんぴよう十九年(七四七)三月五日だが、その二日前にも家持は(B)を池主に書き贈っている。この(Z)部は、大部分の仙覚せんがく本(寛元かんげん本・文永ぶんえい本とも)が小字二行割書きにしており、広瀬本も不徹底ながらそれに近い書式になっている。ところが、元暦校本にはこの(Z)部がない。(Z)部は(Y)部の別案、と言うより初案であり、池主へ贈ったのは(X)+(Z)の形であったろう。それが(X)+(Y)+(Z)と並ぶ本は(Z)の消し忘れである。しかも、注目すべきことに、(Z)の中にある「石を将ちて瓊に間へ」の句は、二日前の(B)の終り近くにも見える。恐らく編纂へんさん段階で捨てるに忍びず、そちらに移したのである。推敲すいこうした揚句の差し替えであろう。
歌詞の差し替えも少ないながらある。その一つは、巻第十九の初めのほう、天平勝宝しようほう二年(七五〇)三月三日、家持の館やかたで飲宴いんえんした時の彼の作、ここは第五句だけ原文で示せば、次の如くである。
漢人からひとも筏いかだ浮べて遊ぶといふ今日けふそ我わが背子せこ花はな縵かづら世余せよ(四一五三)
広瀬本と仙覚寛元本とにはかくあり、元暦げんりやく校本も「余」であるらしい。しかし、類聚古集るいじゆこしゆうと底本など文永本系の諸本には「世奈」とあり、旧全集本はそれを採った。しかし、家持やかもちが下僚に呼び掛けた歌には「いざ打うち行ゆかな」(三九五四)とも「馬しまし止とめ」(四二〇六)ともあり、ナを用いた勧誘も、命令表現そのものもあるが、対象たる「我が背子」の語があれば、「せよ」のほうがふさわしかろう。もっとも、これには「奈」と「余」とが字形の上で相近く、誤写の可能性がなくもない。
それに比べると、巻第二十の長歌「防人さきもりが悲別ひべつの情こころを陳のぶる歌」(四四〇八)の中の三分の一辺り、
……ちちの実みの 父ちちの命みことは たくづのの 白しらひげの上うへゆ 涙なみだ垂たり 嘆きのたばく 鹿子かこじもの ただひとりして 朝戸出あさとでの かなしき我あが子 あらたまの 年の緒を長く 相見あひみずは 恋こひしくあるべし 今日けふだにも 言こと問どひせむと 惜をしみつつ 可奈之備麻世婆かなしびませば 若草の 妻つまも子どもも……
この「可奈之備麻世婆」の部分にもう一つの異文がある。このマセバと同じなのは、底本などの仙覚文永せんがくぶんえい本の系統と広瀬本および多少不確実な点はあるが元暦げんりやく校本である。ところが、神宮文庫本などの寛元かんげん本とその末流に属する寛永かんえい版本などには「可奈之備伊麻世」とあり、類聚古集るいじゆこしゆうもその側に付くと思われる。このイマセはいわゆる已然形で言い放つ法で、上代語に珍しくない語法だが、それは概して原因・理由を表す。家持も「帰り来きて しはぶれ告つぐれ」(四〇一一)、「金くがねありと 申まうしたまへれ」(四〇九四)その他、三九六九・四一一一・四一二一などに用い、いずれも理由格を表している。家持はこのやや古風な確定条件の使用を好んでいたのでないかと思われる。しかし、右の場合は理由格では続かず、並立する複数の事柄の同時進行であり、イマセでは不適当だ、と家持は後に気づいたのでないか。その気づき・修整の時期の割出しは困難だが、あるいは天平宝字てんぴようほうじ三年(七五九)より後れるのではなかろうか。
家持がその晩年というべき時期にこのような手直しをしたのでないかと推測するわけは、原本が単一でなく、少しずつだが変化し、そのつど派生した結果、今日の多様な異文が生れた、と考えるからである。 
 
淡路国

 

律令制以前の淡路国は、「日本書紀」の応神・仁徳・履中・反正・允恭の各紀に、大和王権との関係を示す記述が多い。特に海人部の活動が目立ち、淡路以外に例を見ない棒状石製品を出土した三原郡西淡町の沖の島古墳群は御原海人族の遺跡として淡路の特色を示している。「旧事紀」の国造本紀によると、仁徳天皇の代に凡直氏の祖矢口足尼が淡路国造に任命されたという。律令制では、津名・三原の2郡からなる下国であった(延喜式)。国府所在地は、「和名抄」によると三原郡にあり、現三原郡三原町市市・十一ケ所・三条にまたがる地域に比定するのが近世の「淡路常磐草」以来の通説。「和名抄」によると、当国の本田2、650町9反160歩、正税3万5、000束、公廨4万5、000束、本穎12万1、800(12万6、800か)束、雑穎4万6、800束。「延喜式」では、正税3万5、000束、公廨4万5、000束、国分寺料5、000束、大和大国魂神祭料800束、文殊会料1、000束、修理池溝料1万束、救急料3万束。天平10年12月27日付の淡路国正税帳(正倉院文書2/大日古)と「延喜式」の記載から、当国からは贄の貢進が非常に多いことがわかる。同書によると、当国からも語部2名が参加して古詞を奏上した。同書に大社として淡路伊佐奈伎神社・大和大国魂神社と小社11社が見える。国分寺は、天平宝字年間に完成したというのが通説で、「日本霊異記」に同寺に関する説話がある。天平宝字8年10月9日淳仁天皇は孝謙上皇によって退位させられ、淡路公として淡路国衙付近に幽閉された。天平神護元年10月22日淡路公は逃亡を企てたが失敗し、翌23日逝去した(続日本紀)。延暦元年不破内親王、延暦4年早良親王(崇道天皇)の配流地となる。承和12年8月7日当国石屋浜と播磨国明石浜に、はじめて船・渡子が置かれ、往還に備えた(続日本後紀)。天慶3年2月藤原純友の軍船が淡路国府を襲い、兵器を奪っている(貞信公記)。長保元年当国百姓が朝廷に愁訴した結果、守讃岐扶範は解任され、平文佐が淡路守に任ぜられた(小右記)。大治2年淡路守であった平実親が、当国に新立荘園が多く、輸租田の少ないことを奏上したため、朝廷は寛徳2年以後に設けられた荘園を停止する太政官符を出した(壬生県文書)。平安末期の荘園には、菅原荘・炬口荘・内膳保・掃守荘・志筑荘・由良荘・佐野荘・生穂荘・鳥飼荘・枚石荘が見られる。
 
役行者 1

 

「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7〜8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。
役行者が、7〜8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。
「役優婆塞」とは、平安初期に成立したと目されている『日本霊異記』における役行者の呼び名です。優婆塞(うばそく)とは、サンスクリット「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、「在家仏教信者」を意味する言葉です。役行者は、僧侶ではなく、在家仏教信者として修行した人です。
このサイトでもっぱら使っている「役行者」という呼称は、平安期に入ってから使用されだしたもののようです。それ以前の奈良時代には、「役君小角」と一般に呼ばれていたようですが、詳細は不明です。
「神変大菩薩」とは、盈仁(えいにん)法親王がつとめられた「役行者一千百年御遠忌」を機に、聖護院門跡に三年間仮御所を置かれいた光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。諡号とは、僧侶や貴人などの死後に、その生前の行いを尊んで朝廷から贈られる名です。
さて、役行者にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっています。それら伝説のなかで、役行者は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされています。
伝説には、奇想天外にすぎて、現代的には到底信じがたいようなものが多くあります。しかし、いずれにせよ、役行者とは、数々の不可思議な事績をのこした偉大な修行者、修験道の開祖として崇められてきた存在です。
しかし、そのように伝説に彩られた役行者ですが、それが実在の人物であったことを確認できる正史と言われる史料は、非常に限られています。いや、たった一つで、しかもわずか数行でしかありません。平安初期に編纂された、『続日本紀(しょくにほんぎ)』にある記述がそれです。
『続日本紀』にみる役行者
「文武天皇三年五月丁丑」
役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル。初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。
外ノ従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト為ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。故ニ遠島ニ配セラル。
世ニ相イ伝エ言ク。小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。(原漢文)
〈訳文〉
文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。
世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。
ここからわかることは、「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、従五位下というかなり高い官位にあった弟子の告発で島流しにあった」ということだけです。
正史からは、役行者の人となり、生い立ちや思想などはまったく知ることが出来ません。しかも、役行者が流刑に処せられたのは事実としても、その業行は、あくまで「世間の噂」でしかありません。
宗教者が社会を「妖惑」するのは、いつの世も為政者にとって、とても危険なことです。例えば「僧尼令」でも、社会を妖惑する行為を第一条にて禁じています。正規の僧尼でも、これを行うものは処罰されたのです。役行者のように、山に住んでいる「在俗の者」がこれを行うのは、なおさら危険とされて配流されたのは当時として当然と言えるでしょう。
役行者に関連して、正史から知られることは、ただこれだけのことです。
『日本霊異記』にみる役行者
次に挙げるのは、史料ではなく、あくまで説話集です。
同じく平安初期に、『続日本紀』にやや遅れて成立したとされる、薬師寺の僧景戒(きょうかい)によって編纂された日本最古の説話集、『日本現報善悪霊異記』いわゆる『日本霊異記(にほんりょういき)』です。
この上巻に、当時の世間一般が流通していたであろう、役行者にまつわる説話が収録されています。ここでは、『続日本紀』に見られなかった、役行者の出自についてなどが若干記されており、いかなる修行を行っていたかを多少描かれています。 むろんこれは説話集ですから、それが事実であったかどうかは別の話です。
「孔雀王の咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ縁 第二十八」
役優婆塞(えんのうばそく)は、賀茂役公(かものえのきみ)、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)といふ者なり。大和国葛木上郡茅原(ちはら)村の人なり。
生(うまれながら)知り博学一なり。三宝を仰ぎ信(う)けて業とす。毎(つね)に庶(ねが)はくは、五色の雲に挂(かか)りて、仲虚(なかぞら)の外に飛び、仙宮の賓と携り、億載(おくさい)の庭に遊び、蘂蓋(すいがい)の苑に臥伏(ふ)し、養性(ようじょう)の気を吸ひ、くらふことをねがふ。
所以(ゆえ)に晩年四十余歳を以て、更に巌窟に居り、葛を被、松を飲み、清水の泉を沐み、欲界の垢を濯ぎ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を證し得たり。鬼神を駆使得ること自在なり。(以下略:後述)〈*原漢文〉
〈訳文〉
「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」
役優婆塞は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。大和国葛木の上郡茅原村の人であった。生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。
いつも(彼が)心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。
(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。鬼神を使役することは自由自在であった。(以下略:後述)
原文の全てとその訳文を掲載するのは長くなりすぎるため、省略いたしました。
以上に述べられているのは、役行者は、三宝に帰依する優婆塞あり、その上に道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たというのです。
ここでは道教と仏教とが混在しており、なんとも奇妙ですが、これが『日本霊異記』当時の日本民族宗教に対する一般的な見方とも考えられます。
これは、いまだ弘法大師空海によって、悟りをその第一目的とする「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に行われていた、悟りを第一目的にするのでなく、超自然的能力の獲得をこそ主目的とする「雑密(ぞうみつ)」を、役行者が行っていたとする伝承と見ることが出来るでしょう。また、修験がまだ正統な密教の影響を多分にうけて「修験道」として成立していない時代の反映とも見ることも出来るでしょう。
さて、以下に、先ほどは長きに過ぎて省略した箇所の、概要だけを示しておきます。
〈概要〉
この後、孔雀明王の呪法を習得した役行者は、鬼神達に、「金峯山(きんぷせん)と葛城山(かつらぎさん)の間に橋を架けろ」と、(途方もない無理難題を)言いつけます。鬼神達はそんなことは到底出来ない、と悩み、困り果てます。そこで、葛城山の一言主(ひとことぬし)という神は、(役行者の無理難題から逃れるため、人にとりついて)「役行者が、文武(もんむ)天皇を抹殺しようとしている」という託宣をさせます。
当然、文武天皇は、役行者を捕縛しようとしますが、役行者は不思議な力があるため容易に捕まりません。そこで、天皇が役行者の母を捕らえると、役行者は母のために自ら捕縛され、伊豆に流されます。
役行者は、昼は刑罰どおり伊豆でおとなしくしているも、夜になると富士山に飛んで行き、そこで修行する日々を送っていました。しかし、何者かが再び天皇へ讒言(ざんげん)したため、役行者は今度こそ極刑に処されかけます。ところが、不思議な出来事があって助かるのでした。
伊豆での生活も3年を過ぎた大宝元年(701)正月、役行者は恩赦(おんしゃ)によって許され、大和に帰ります。そして、役行者はついに仙人となって、どこか天高く飛んでいってしまうのでした。
この後、日本の道照(どうしょう)という高僧が、天皇の命によって唐に渡り、そこで五百人の中国僧を前に『法華経』を講義していると、日本語で問い掛けてくるものがあります。道照が「誰だ」とその名を問うと、「役優婆塞」という返答があります。道照は、日本の聖人に違いないとおもってその声の主を探しますが、ついに見つけることは出来ませんでした。
さて、役行者を讒言(ざんげん)によって流罪にさせた一言主は、いまだに役行者によって呪縛されたまま(『日本霊異記』編纂当時)だといいます。
以上が、『日本霊異記』に掲載される役行者の説話です。この説話の最後は、「役行者があらわした奇瑞はあまりに多く、それらを逐一挙げることは面倒である。ほんとうに仏法の不思議な力は広大で、信仰した者は必ずそれを知ることになるだろう」と結んでいます。
さて、以上はあくまで説話、いわゆる「お話」でありますが、例えば、唐で役行者の声を聞いたという道照は、白雉四年(653)から斉明天皇五年(660)にかけ唐に渡り、かの玄奘三蔵に師事して学んだ高僧で、文武四年(700)に没した人です。しかし、そうすると、『続日本紀』の記事にある「699年に役小角が伊豆に流された」と、『日本霊異記』の「701年(以降)に役小角がどこか天高く飛んでいった」「その後、道照が役行者の声を唐で聞いた」とする話とでは、半世紀ほどの年代的ずれが生じていることがわかるのです。
役行者が「どこかに飛んでいった」ときには、道照はすでに没してこの世に無かったのですから、この話は虚構に過ぎないと言えるでしょう。
また、別の側面から一言すると、そもそも役行者が流罪に処されたのは、鬼神達に対して全く理不尽と言える要求をしたことに起因しており、よって自業自得であったとも言えます。しかし、役行者は一言主神(ひとことぬしのかみ)を呪縛して放置するなど、仏教者として意外とも思える行動に出ていることが描かれています。
が、それでも『日本霊異記』の中で尊敬の対象とされ描かれているのは、『日本霊異記』の編者景戒が、役行者の「不思議な力を獲得していた」という伝承をこそ重く見たためでしょうか。
しかし、この『日本霊異記』の説話が、後代まで語り継がれることとなる、伝説的存在としての役行者の姿を描いた原型となったことは間違いないと見て良いでしょう。
役行者を「役優婆塞(えんのうばそく)」と仏教の在家信者としていること。仏教と道教との混同がみられること。『孔雀王呪経』という密教経典に基づくと考えられる、孔雀明王の呪法を行ったとしていること。富士山で修行したとすること。仙人となって中国に渡った、などといった点がそれです。
このような『日本霊異記』に見られる、伝説的存在としての役行者像の原型は、幾多の書物の中に踏襲され、鎌倉・室町・江戸と時代が下るごとに、さらに超人的能力を持った者として描かれていきます。
そしてまた、『日本霊異記』ではある観点からすると、むしろ「不思議な力で鬼神をも使う呪術者」とも捉えうる人であったのが、後代になるに従い前鬼後鬼を改心させた、あるいは雨乞いの民衆を助けた等の民話が出てきて「人格的にも優れた立派な人であった」と描かれるようになっていき、全国各地で民衆の信仰をより集める存在となっていきます。 
 
役小角 (役行者) 2

 

[ えんのおづぬ/えんのおづの/えんのおつの 舒明天皇6年(634)伝 - 大宝元年(701)伝 ] 飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)などとも呼ばれている。姓は君。日本独自に発祥・発展した山岳信仰である修験道の開祖。実在の人物だが、人物像は後世の伝説も大きく、前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場でも役小角・役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かも の えん の きみ)とも呼ばれている。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる。
生涯​
舒明天皇6年(634年)に大和国葛上郡茅原郷(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女(伝説では刀良女とも呼ばれた)。生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。
白雉元年(650年)、16歳の時に山背国(後の山城国)に志明院を創建。翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。20代の頃に藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。命令に従わないときには呪で鬼神を縛った。人々は小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。高弟に国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足がいる。
文武天皇3年5月24日(ユリウス暦699年6月26日)に、人々を言葉で惑わしていると讒言されて伊豆島に流罪となる。
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。。
寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁法親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。勅書は全文、光格天皇の真筆による。聖護院に寺宝として残されている。
伝説​
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。また同様に島を抜け出して熱海市の東部にあたる伊豆山で修行し、また伊豆山温泉の源泉である走り湯を発見したとされる。
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。
   続日本紀​
小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては『続日本紀』巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。
「 丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。 」
(大意)文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであった。ところがその後、ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。
文武天皇3年5月24日は、西暦699年6月26日(7月1日説もあり)。
解釈として、句末を示す助字の焉を抜かして文を繋げ、「外従五位下の韓国広足は小角を師としていたが、その後に師の能力を妬んで讒言した」とする説もある。広足が正六位上から外従五位下に昇進したのは、役小角が没したとされる時期から約30年後の天平3年(731年)である。さらには、広足の氏が韓国であることからか誤解される事が多いが、韓国氏は物部氏の分流であり、渡来人でない。
この記録の内容の前半の部分は事実の記録であるが、後段の「世相伝テ云ク…」の話は、すでになかば伝説のような内容になっている。役小角に関する信頼される記録は正史に書かれたわずかこれだけのものであるが、後に書かれる役行者の伝説や説話はほとんどすべてこれを基本にしている。
   日本霊異記
役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。後世に広まった役小角像の原型である。荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。
『日本霊異記』が書かれたのは弘仁年間(810年 - 824年)であるが、説話自体は神護景雲2年(768年)以降につくられたものであろうとされている。
『日本霊異記』で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。上巻の28にある「孔雀王の呪法を修持し不思議な威力を得て現に仙人となりて天に飛ぶ縁」の話である。
役の優婆塞は大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役の優婆塞の謀反を讒言した。優婆塞は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆大島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になって天に飛び去った。道昭法師が新羅の国で五百の虎の請いを受けて法華経の講義をした時に、虎集の中に一人の人がいて日本語で質問してきた。法師は「誰ですか」と問うと「役の優婆塞」であると答えた。法師は高座から降りて探したがすでに居なかった。一言主は、役の優婆塞の呪法で縛られて今(『日本霊異記』執筆の時点)になっても解けないでいる。
『続日本紀』との大きな違いは役小角を告訴したのが一言主の神となっていることで、この一言主神が後々のいろいろな説話や物語などに登場してくる。また、道昭が新羅の国で役小角に会う話が初めて出てくる。この『日本霊異記』にある説話は『続日本紀』の記録とともに、その後の役行者の伝記や説話の根幹になっている。
   在地伝説​
大和高田市奥田の伝説「奥田蓮池の一つ眼蛙」によると、役行者の母・刀良女(とらめ)は、奥田の蓮池で病を養っていたが、ある夏、捨篠神社へ参ると、蛙の鳴き声が聞こえ、光輝く池の蓮の茎が伸び、2つの白蓮が咲き、そこには金色の蛙が歌っていた。そこで刀良女は何気なく萱を一本抜きとって蛙に向かって投げたところ、蛙の片目に当たってしまい、射貫かれた蛙はそのまま水中深く潜ってしまった。その瞬間、池面をいろどった五色の露も一茎二華の白蓮も消え、蛙は醜い褐色色になって浮かんで来た。刀良女は自責の念から病が重くなり、42歳で亡くなる。母を亡くした役行者は発心して修験道を開き、吉野山に入ると、吉野山蔵王権現を崇め、蛙の追善供養を行い、母の菩提を弔った。毎年、7月7日には、山伏が吉野に来て、ここの行者堂と刀良女塚に香や花を献じ、蓮池の蓮180本を切り取って、蔵王堂から大峯山までの街道に祀られる祠堂に蓮を献じて、蛙の供養をした。
この伝説では役行者の母の没した年齢、および修験道を開いたきっかけが、母を亡くしたこととして語られている。
信仰​
役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。
肖像​
修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。
真言​
日本生まれの役行者に対し、そもそもがサンスクリット語のマントラの訳語である真言がつけられるのは考えにくく、聖護院(本山修験)などでは光格天皇より与えられた諡号である神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)を使い、
「南無神変大菩薩(なむ じんべん だいぼさつ)」
と唱える。
宗派によっては
「おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわか」
を真言と定めているところもある。 
 
蓮華会蛙飛び 役行者 3

 

金峯山寺で毎年7月7日に行われる伝統行事に「蓮華会蛙飛び」があります。7日という日は金峯山寺を開いた役行者の縁日で、お寺にとっては特別の日。特に7月7日は役行者が産湯をつかったと伝えられる大和高田市奥田にある弁天池の清らかな蓮の花を蔵王権現に供える蓮華会が営まれますが「蛙飛び」と呼ばれるユニークな行事もおこなわれ、夏の吉野山に歓声があがり、大いに賑わうのです。
―役行者って誰?―
金峯山寺を開いたという役行者とはどんな人だったのでしょうか。さまざまな伝説が残されていますが、「続日本紀」や聖武天皇の頃、薬師寺の僧景戒が書いた「日本霊異記」などには役行者のことが記されています。「日本霊異記」には役優婆塞(えんのうばそく)の名前で書かれていますが、優婆塞とは在家で仏教の修行をする人のことです。役行者、役小角、役優婆塞といろいろに呼ばれますが、同じ人のことです。
舒明天皇6年1月(634)に御所市茅原(ちはら)で生まれた役行者は、名前を小角(おずぬ)といいました。父は高賀茂朝臣真影麻呂(たかがものあそんまかげまろ)、母は都都岐(つづき)。賀茂一族は古代から葛城地方の豪族として知られています。税を集めたり、皇居や寺院、古墳などの造営のための人々を束ねる役を果たしていましたから、役行者が鬼神を操るという説話もこんなところから生まれのでしょうか。
役行者は幼い頃から優れた素質を持ち、土で仏像や仏塔を作ったり、伝えられたばかりの仏教を学んでいたようです。成長するにしたがって、ただ仏教を学ぶだけでなく、さまざまな欲望を断ち切ることが人間完成への道であり、国家平安、万民幸福の実現につながると悟りました。葛城山に登って苦行と修練の生活をしている時、大峯連峰の姿に惹かれ、熊野から大峯に入り、金峯山山上ヶ岳で一千日の苦行を実践したのです。
行者が乱れた世の中を救う為、仏の出現を念じていると、最初に釈迦如来が現れました。行者は今の日本では人々に本当のお姿が見えないのではと更に祈りました。次に現れたのは柔和な千手観世音菩薩でしたが、末法悪世の人々にはふさわしくないと祈りを新たにしたそうです。すると今度は弥勒菩薩が現れました。でも行者は悪魔をも降服させるような強いお姿をと更に祈り続けると天地が揺れ動き、とどろき渡る雷鳴と共に大地の間からすさまじい憤怒の形相の蔵王権現が現れました。行者はこれこそ末世の人々を救う守護神だと、深く感謝してそのお姿を桜の木に刻んだのです。金峯山寺ができたのも、吉野山が桜の名所になったのも役行者がいたからなのですね。
葛城山から大峯、金峯の山々で長く苦しい行を重ねた行者は強い精神力と清らかな人間性、超人的な力で多くの人々を救って、尊敬を集めるようになりました。行者の伝説には毎夜五色の雲を呼び寄せ、空中に飛び出しては大勢の仙人と遠くまで出かけたとか、思うままに鬼を使うことができて、葛城山から金峯山への長い橋をかけようとした、などというものもあります。その橋は神々にも命じたのですが、葛城一言主神は自分の容姿が醜いのを嫌がって、顔の見えない夜だけしか手伝わなかったために橋が架けられなかったと伝えています。行者は一言主神に怒り、葛で神を縛って岩窟(がんくつ)に押し込めたのだそうですが、これは行者の力の大きさが有名だったことの表れでしょう。
ところが弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は行者の名声を妬んで文武天皇へ讒言(ざんげん)をしてしまいます。行者は呪術を使って空へと飛び去ってなかなか捕まえることができなかったのですが、母を人質として捕らえられてついに姿を現し、伊豆大島へと流されました。このことは「続日本紀」に記されています。二年後(701)に無実の罪と分かって大和へと帰りました。帰国後間もなく亡くなったと伝えられていますが、箕面の山から空へ向かって行ったとか、母を鉢に乗せて海を渡り、唐の国へ行ったなど神秘化された話も残ります。平安時代に行者の尊称を贈られ、千百年忌にあたる寛政11年(1799)光格天皇は神変大菩薩という尊称を賜っています。日本にはたくさんの高僧名僧が人々を救ってきましたが、神変大菩薩という大きな尊称からは、その偉大さが窺えます。 
 
役小角とは何者 4

 

役小角伝説は何故創られたか?
その昔、七世紀末の大和国の葛城山山中に役小角(えんのおづの)という謎の人物が棲んでいた。「日本霊異記」上巻第二十八巻には、この不思議な男の話が、面白く語られている。
役小角。生まれも没した年の不詳のこの人物は、現在では山伏の元祖としてよく取り上げられることが多い。別名の「役行者」(えんのぎょうじゃ)の呼称もよく聞く名である。この人物の出自は、賀茂氏の出とされ、幼き頃より物覚えがよく、呪術を使い、文武三年(699)に、金峯山と葛城山に橋を架けようとしたが、困り果てた「一言主」(ひとことぬし)という地の神さまが人の口を借りて「役小角は天皇を滅ぼそうとしている」と陰口を言ったらしい。
それに怒った文武天皇は、彼を捕まえようとしたが、呪術を使うので簡単にはいかない。そこで彼の母を捕まえたら、彼は素直に縄について、伊豆に流された。しかしこの人物は転んでも只で起きるような人物ではない。昼は命令に従って伊豆に居たが、夜になると富士山に登って修行をし、三年の月日が経ち、ついに彼は恩赦を受けて大宝三年(701)に都に帰されることになったが、その時は、孔雀王の呪教を修めて仙人となり、空を飛ぶようになったというのである。そしてこの話には後日談がある。大陸に渡り、百匹の虎中から「ワシは役小角なり」という声がしたとか。あるいは陰口を利いた一言主は、今でも呪詛されていて縛られたままだというのである。人間である行者が修行して仙人となり、ついには他国に自由に飛翔し虎に化身したり地の神さまの一言主まで、呪詛して縛ってしまうというから本当に奇妙な話である。
そもそもこの日本霊異記という本は、薬師寺の景戒という僧侶が仏教の霊力を広める目的をもって8世紀末?9世紀初頭に編纂した日本最古の仏教説話集である。でもよくよく考えてみると、どうも私にはこの役小角という人物が、仏教修行者とは思われない。どう見ても古神道を信奉していた行者が、出来る人物ということで、仏教に取り込まれて伝説化していく過程のようにしか思えないのである。
まずこの話の骨子を分解してみれば、ある修行者が居て、その人物がAという山とBという山に橋を架けようとした。するとAという山に棲む国津神さまが、A?Bに橋を架ける人物は、天津神のアマテラスの子孫たる天皇を陰謀によって滅ぼそうとしたと告訴した。捕まった修行者は、三年の伊豆流罪の刑期中、こっそりと富士山に登ってさらに山岳修行を続け、ついに仙人となり天狗のように空を飛ぶ術を会得してしまい、告訴した国津神の一言主を術で縛って復讐を遂げる物語である。
更に単純化すれば物語は、冤罪(?)で投獄された山岳修行者が修行を続けて仙人になり、復讐を遂げる、ということに尽きる。一言主とは、おそらく葛城山の麓に住んでいた葛城氏の人々の祖神である。その神が、役小角によって縛られる。しかも役小角は、この霊異記の中で、仏道修行者のように変化させられて紹介されている。つまり仏の術を体得すれば、神さまも縛ってしまうことになるという構図になる。
おそらく日本全国、地の神だらけだったはずだから、仏に逆らえば、一言主のように縛られてしまうぞ。葛城氏の二の舞になるぞ。というプロパガンダ(文化宣伝)が、役小角の伝説の根底に、隠されていることになる。
これはよくある手だが、優れた人間を、あれは私たちの仲間のひとりということで仲間に入れて、伝説化しついには広告塔のようにしてしまうのである。今日本中には、役行者が来た修行の山というのが沢山ある。これはヤマトタケルに縁の地に負けない位の数に上るに違いない。山岳修行者ある所に役小角伝説ありと言っても過言ではない。
いったい役小角とはどんな人物か。岩窟に棲み、葛の衣を着て、松の葉を喰い、清泉を身に浴びて、けがれをすすぐ、空を飛ぶ、この一連の姿を思う時、それは仏教修行者の姿というよりは、山岳で修行する山伏(山岳修行者)の姿であり、極端に言えば天狗の姿に重なる。空を飛ぶというのが決定的である。しかも仙人というのだから中国の神仙思想をも含んでいて、不老不死になったのだとということもこの日本霊異記の伝説は、含んでいる。仏教の修行でそうなったということが大切なのである。もちろん現実の役小角も多少なりと仏教のことは知っていたかもしれないが、おそらく現実は日本古来からの神道の伝統を宿した土真面目な修行でしかなかったのではないだろうか。
彼が、金峯山から葛城山に橋を渡しというのは、ある種の誇張がある。少し前に書かれた「正史」である「続日本紀」(しょくにほんぎ:697-791までの編年体の史書。797年頃成立?)でも、同年の記述に鬼たちを使う術を持つ修行者として役小角のことが紹介され流罪になったことが書いてある。きっと当時としては大変な事件だったのであろう。この事件を教訓化し、プロパガンダに改変したのが、この日本霊異記の怪奇話ということになる。もちろん真相は不明だが、土地の人のために山に吊り橋を架けようとしたことだった可能性もある。そこに何らかの利権を持っている人間が一言主という神に象徴される人物で、その為に役小角は告訴されて捕まってしまうのである。その時にも、母を助けようとして、自ら縄についた訳だから、母思いのやさしい男であったことだろう。
私はこの役行者が、いつの間にか、仏教の修行者のようになっていく過程に、日本の神道が、身も心の仏教という新しい極めて体系的そして綜合的な宗教に絡め取られてゆく姿を見てしまうのである。現在、山伏を糾合する派は、「聖護院を本山とする天台宗本山派と醍醐三宝院を本山とする真言宗当山派に分れる」(岩波日本史辞典)ということになっている。山をネットワークとして存在した神々の祠と社は、次々と仏教に習合をさせられることによって、仏教の教えを根源とする思想に改変させられてしまったのである。
九世紀初頭、都が京都に移った。その頃にひとりの宗教的天才空海が現れた。彼が目指したのは、密教の加持祈祷の方法を中国から持ち帰ることによって、山岳修験者の多くを真言宗によって糾合することだった。それは好意的解釈すれば日本という国家のイデオロギーとしての宗教を密教の加持祈祷で短期間に鍛錬し、日本を一等国の仲間入りをさせようとすることだったかもしれない。確かにもしも密教というものが日本にもたらされなければ神仏習合が日本社会でこれほどスムーズに進んだかどうかははなはだ疑問である。加持祈祷と呪詛の最新技術が、密教には詰まっていた。あれほど桓武天皇(737- 806)が若い空海(774-835)を登用した裏には、密教の持つ絶対的な加持祈祷の神秘力が、新都を守ってくれると思えたからに他ならない。空海のライバルに最澄がいる。しかし密教では彼は遅れをとっていた。そこで弟子の円仁(794-864)は、中国に渡り、比叡の山に密教をもたらし未開の地と言われた東北に活路を見出そうと必死になった。その結果が、最後に山伏もまた天台と真言に分かれることになったと見るべきではないだろうか。今日そのどちら派にしても役小角が山伏の元祖というのであれば、その理由は極めて明解である。すなわち仏教が拡がる以前に、山伏のスタイルで修行をする古神道が、日本の山々をネットワークする形で確立していたとみるべきではないかということになる。 
 
役行者と修験道をとりまく背景 5

 

奈良時代の仏教は、国家仏教として七堂伽藍(しちどうがらん)のなかで政府の保護を受ける学問僧と、日本古来の山岳信仰が外来の道教や仏教の影響を受け、山岳修行により超自然の獲得に努める私度僧(しどそう)があった。役行者もその一人で、その呪術的な力を民衆に示し、自由に布教活動を行い、次第に勢力を増していった。そのため、僧尼令(そうにれい)等による規制もあったが、途絶えることなく平安時代の密教に継承され、新たな展開をとげた。天台・真言両宗の密教が比叡山・高野山を開き、山岳修行を奨励したことから金剛・葛城、吉野・大峯・熊野などの各地の霊山に修験者が自らの験力(げんりき)を高めるために入峯(にゅうぶ)した。このような山岳宗教の隆盛にともなって、役行者を修験道の開祖として仰ぐようになった。
葛城修験が大峯修験とともに最盛期を迎えた鎌倉時代前後頃になって、修験道は組織化され、天台系の本山派と真言宗の当山派とに分かれた。熊野は寛治4年(1090)に園城寺の僧増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を努めたことにより、園城寺に属し、園城寺あるいは上皇から賜った聖護院(しょうごいん)を本拠とした。これが本山派であり、天台系で役行者を開祖と仰いだ。それに対して、吉野から大峯山にかけては、興福寺などの後盾のもとに、大和を中心とする三十六ケ寺で組織された当山三十六先達があり、室町時代になると真言宗の醍醐寺三宝院を本拠として当山派と称し、聖宝(しょうほう)を開祖と仰いだ。また、全国各地の霊山においても組織化がおこってきたが、大和中南部の金剛・葛城、吉野・大峯・熊野は他地方とは一線を画しており、修験道の中枢であった。
また、中世には葛城を顕(けん)の峰(密教以外の仏教)、大峯を密(みつ)の峰(密教)と呼び、金剛・葛城の峰中、神霊が籠もる28の地に「法華経」28品を1巻ずつ埋納する経塚が祀られた。この経塚は和歌山県紀淡海峡の友ケ島を起点に、和泉山脈、金剛山脈を北上し、金剛山、葛城山、二上山、逢坂を経て明神山北麓の亀の瀬まで続いた。この28の経塚をひとつながりの行場として葛城修験は形成された。
なお、大峯修験は75の靡(なびき)と宿(しゅく)を祀った。本山派は法華の峯として葛城修行を重視し、大峯修行とは別に集団で入峯し、当山派は大峯修行の後で葛城修行をおこなった。葛城28宿の名称や位置は資料によって相違が見られるが、「葛嶺雑記」(かつれいざっき:嘉永3年=1850刊)を基本に、聖護院等の調査によってほぼ確認されている。現在、聖護院により28宿の行場を廻る葛城修験が復興されている。
近世になると、山岳で起居していた修験者達は、全国各地を遊行(ゆぎょう)し、寺社のまつりで護摩をたき、雨乞いや病気平癒の加持祈祷をおこなった。また、円空や木喰明満のように、自らの修行として作仏するものもあった。中期以降は、庶民が講(こう)をつくり、各地の霊山に登って修行するようになっていった。近代に入って、明治の神仏分離令、修験道廃止令によって本派本山に戻って天台・真言両宗に帰入するように命じられ、本山派、当山派ともそれぞれに天台宗・真言宗に包括された。第二次大戦後は、宗教法人法の試行により、本山派の聖護院は修験宗(現本山修験宗)、当山派の真言宗醍醐派など、多くの修験集団が独立した。
近畿の山々を巡っていると、たいてい山中か麓に古い寺がある。昼食を取ったり、休憩にそれらの寺の境内を使わせて貰う事が多かったのだが、ある時私はふと気づいた事があった。それは、寺の縁起を読んでいて思ったのだが「役行者開祖」という山や寺が近畿にはやたら多いのである。役行者(えんのぎょうじゃ)又は役小角(えんのおづの)という人物が、京都の山奥から奈良・和歌山に至るまで、あらゆる山寺を開山しているのである。「なんだこりゃ。ここも役行者かい!」という所だらけなのだ。後で知ったが、役行者が開いたという修験場や寺は、近畿一円ばかりか全国に及んでいた。歴史倶楽部を主宰してからは、みんなで訪ねる旧跡の近くには殆ど「役行者開祖」の修験場があったが、さすがに歴史倶楽部と言うだけあって、みんな幾らかづつは役行者についての知識を持っていた。私は、「修験僧の元締め」くらいの知識しか無かったのでみんなの話に耳を傾けたのだが、それにしてもなぜ一人でこんなに広範囲を開山できたかの疑問は残った。ある人は、「役行者は忍者の祖で、山を一日に10山位駆け登るなんざ朝飯前やったんよ。」と言い、ある人は、「役行者は実在の人物では無い。」という。又ある人は、「役行者の弟子達が手分けして全国に散ったのさ。」と説明してくれる。
一体「役行者」とはいかなる人物なのか。文献によると、役行者が実在したと思われる唯一の記述は『続日本記』文武天皇三年(699)の記述に、「役君小角は葛城山に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に讒訴(ざんそ)され、伊豆島に流された」とあり、続いて、巷間伝わる話として、「小角はよく鬼人を使い、水を汲ませ、薪を取らせた。もし鬼人が命に従わないときは、呪をもってこれを縛った」と伝えている。これが唯一、信頼できる文献に現れる役行者で、これをもって一応実在はしていたらしい、というのが通説のようである。しかしその後の風評は実に多彩で、まさしくスーパースターと呼ぶべき縦横無尽の活躍をし、宗教史に偉大な足跡を残している。天を飛んだ、谷から谷を一瞬で渡り鬼人を操って様々な土木工事を行った、妖惑の術を用いた、などと伝承されている。伊豆から大宝三年(701)年に帰国し、68才の時摂津の箕面山で没したとも言う。終焉についても諸説紛々で、天に飛去ったといい、或いは、海を渡って彼の地に消えた、いや唐に着いたと様々である。実在したとすれば、役行者は奈良時代の初め頃に没したと思われるが、平安時代中期以降の役行者伝説は、『三宝絵詞』『本朝神仙伝』『今昔物語』などに書かれ、鎌倉時代になると『古今著聞集』『私聚百因縁集』『元亨釈書』等に詳しい。これらの書を通じて「役小角」は「役行者」と呼ばれるようになり、修験道と強く結びつけられていく。
修行の場所も生まれ故郷の葛城山から、生駒山、信貴山、熊野山中と広がっていき、やがて全国各地の霊山が役行者の聖跡となっていくのであるが、これらの伝承の大元は、実はたった一書である。
奈良後期から平安初期に生きた薬師寺の僧、景戒(けいかい、ぎょうかい)がまとめたとされる、我が国最古の仏教説話集「日本霊異記」に役行者の記事がある。
上巻の「孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁 第二十八」というのがそれだ。ちなみに読み方を記しておくと、十八」「くじゃくおうのじゅほうをしゅぢしてめづらしきげんりきをえ、もってげんにせんとなりててんをとびしえにし 第二十八」となる。
孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪法を修めて霊術を身につけ、この世で仙人となって天を飛んだ話 第二十八
役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれた在俗の僧は、賀茂(かも)の役君(えんのきみ)で、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)はこの系統の出である。大和国葛城上(かつらぎのかみ)郡茅原(ちはら:現在の奈良県御所市あたり)の人である。生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行に努めていた。この僧はいつも心のなかで、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人達といっしょになって、永遠の世界に遊び、百花でおおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。このため、初老を過ぎた40余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛(かずら)で作ったそまつな着物を身にまとい、松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって、様々の欲望を払いのけ、『孔雀経』(くじゃくきょう)の呪法を修め、不思議な験力(げんりき)を示す仙術を身につけることができた。また鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在にこなす事ができた。
多くの鬼神を誘いよせ、鬼神をせきたてて「大和国の金峯山(きんぶさん)と葛城山(かつらぎさん)との間に橋を架け渡せ」と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武(もんむ)天皇の御代に、葛城山の一言主(ひとことぬし)の大神が、人に乗り移って、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている。」と悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて、優婆塞を逮捕しようとした。しかし彼の験力で簡単にはつかまらなかった。そこで母をつかまえることにした。すると優婆塞は、母を許してもらいたいために、自分から出てきて捕らわれた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。
伊豆での優婆塞は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万状もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰(ほうおう)のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、夜は駿河国(するがのくに:静岡県)の富士山に行って修行を続けた。さて一方、優婆塞は極刑の身を許されて、都の近くに帰りたいと願い出たが、一言主の再度の訴えで、ふたたび富士山に登った。こうしてこの島に流されて苦しみの三ケ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の放免があって、大宝元年(701年)正月に朝廷の近くに帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛び去った。
わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅(しらぎ)の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本の言葉で質問した。法師が「どなたですか」と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「我が国の聖(ひじり)だなと思って、高座から下りて探した。しかしどこにも見あたらなかった。例の一言主大神は、役優婆塞に縛られてから後、今になってもその縛(いまし)めは解けないでいる。
この優婆塞が不思議な霊験を示した話は、数多くあってあげつくせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ頼る人には、この術を体得できることがかならずあるという事を実証するだろう。
後世の、役行者について書かれた書物は、すべてこの「日本霊異記」に基づいていると言ってもいい。この説話をBASEに、あること無いこと、よってたかって脚色されていくのである。「古今集」などは明らかにこの「日本霊異記」の焼き直しだと言っていい。平安から鎌倉へ中世に入ってからも江戸時代になってからも、各山や寺の縁起(由来)が作られていくが、それらの作者は旧説に自説を加えて、どんどん「役行者」のイメージを広げてゆく。
つまり、修験道の分派と発展に伴い、各修験派は自派の開祖を「役行者」として、その生い立ちから果ては終焉に至るまで、他派に無い独自の「役行者」像を創造していくのである。熊野に籠もった、富士山で修行した、箕面の滝に千日打たれた、九州の英彦山に籠もった等々、まさしく日本中を股に掛けての活躍ぶりである。ついには、それらの話がさも真実であるかのように世間に受け入れられ、古代に「超人」が存在した事が明らかな事実であったようになってしまった。寛政年間には天皇までもが、その「役行者」の働きに対して「大菩薩」の称号を授けている。つまり「役行者」とは作られたSUPER HEROなのだ。実際の所、修験道を創設した教祖ではなく、逆に修験者達によって理想的なあこがれとも言える行者に祭り上げられた教祖なのである。
我が国では古来より、山岳は神の領域として崇め奉られる事が多かった。風雲をいただく山頂に、深い谷を取り巻く森林に、人々は何か人間の営みを越えたものの存在を感じていたのである。やがて山頂や山中やそして山麓に人々は祠を建て、そこに山の神を具現化して日々これを敬うようになっていく。これが神道の始まりだという説もある。一体何時の頃からそういう山岳信仰が芽生えたかについては、研究者間でも諸説あり判然としない。遙か石器人の時代からという人もいるし、仏教の影響だという人もいる。私見では、それはおそらく縄文中期から末期にかけてではないかと考える。即ち、人々が社会性を持つようになってからだろうと思う。人々が集まり、意識はしないまでも社会というものが発生し、一定のルールが必要になりだした頃、人間の存在を越えたものが必要だったのではないか。神は常に季節とともに在り、風とともに去って行く。そして高い山々から人々の営みを統治している。山は常に神がおわす聖域であり、侵すべからざる霊域だったのである。
弥生時代になってからは、稲作と農耕の中にも神々が存在し、又渡来人のもたらした新しい技術や渡来人自体も神と見なされるようになるが、山岳信仰は根強くそれらの新しい神々と共存しながら日本民族の中に根付いていったものと思われる。律令国家が発生する頃になると、山を対象として神と対話し、己の精神性を高めるための修行を山岳や峡谷で行う者達が現れた。これには明らかに外来の道教や仏教の影響が見受けられる。山岳信仰は渡来の新しい教典をも取り込み、時代により場所により変化を見せながら今日まで生き残っている。 
 
役行者と修験道 6

 

神仙思想から修験道へ移行させた人物に、役行者(六三四〜七〇一年)の存在があります。七面山に役行者の尊像があることからも、役行者はどのような修行者であったかを知る必要があります。修験道の教義・法則・歴史に関する文献に『修験道章疏』があります。このなかの役行者に関する伝記に、「役行者本記」「役行者顛末秘蔵記」「役君形生記」「役公徴業記」があります。このなかで古いのが室町末期の「役行者本記」です。役行者について最も古く確実な記録は、『続日本記』(七九七年)の「文武天皇三(六九九)年五月二四日の条」です。そして、役行者が孔雀王呪法を修法したことを記述したのは『日本霊異記』です。役行者の呪法の名声に託して孔雀王呪法の効験を広める目的があったという説があります。この『日本霊異記』の記述が、後の『今昔物語』『本朝神仙伝』『扶桑略記』『元亨釈書』などに引き継がれていきます。この過程に伝説は変化します。その時代の人々に適宜な内容に変化するといいます。その一つが各霊山の開祖とする伝説です。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三四五頁)。役行者の場合も大峰に埋葬した棺に遺骸はなかったとし、摂州にて姿を見たという伝説は、不死の境地に達成したことを示そうとしたと思われます。基本として変わらないのは仙人としての人物像です。追従した修験者たちが理想としたのも、山林斗藪(修行)を行うことによって、神仙の域に達することでした。役行者像は修験道の歴史において、その未成立の時代、確立された時代、教派として伸張していく時代ごとに、修験者集団の開祖役行者の伝承が変遷します。それを、成立期(八〜一一世紀)、確立期(一二〜一五世紀)、教派修験の確立と里修験化(一六〜一九世紀)に分けて、修験道にみられる道教から受容された要素を分析する見方があります。(宮家準著『役行者と修験道の歴史』『修験道と日本宗教』)
役小角を「賀茂役君小角」(かものえんのきみおづの)と呼びます。姓は君、幼名を小角・金許麿といい、大和国葛城上郡(御所)茅原に生まれています。役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族でした。賀茂始祖伝によりますと、一族は宮崎の高千穂に住んでいました。賀茂建角身命(たけつぬのみこと)の代に神武天皇の東征の際(天尊降臨)、日向の山中で日の神(高木神・天照太神)からの天啓を受け、長髄彦との戦いで苦戦していた神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導しました。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を与えられました。神武天皇在位中は葛城に駐まり天皇を補佐し、天皇の亡後は岡田の賀茂に閑居していましたが、神武天皇の子の綏靖天皇が再び召しています。岡田付近の木津川の流れも昔は「鴨川」と呼ばれていました。賀茂氏は雄略天皇の頃に葛城山の勢力を倒して、ここに展開したものと推定されています。雄略天皇の以降に賀茂一族が鴨川、秦一族が桂川沿いに展開して、両氏族が京都の開拓を始めます。賀茂神社の祭神である別雷大神(わけいかづち)の祖父が建角身命で、葛城峰に留まった一族に役行者がいます。加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる役民を管掌した一族であったことから、「役」の字をもって氏とし、大和国・河内国に多く分布していたとされます。賀茂氏は高鴨神社に仕える神官で、「鴨」を名のる古い社の発祥の地はこの高鴨神社です。高鴨神社の祭神を「味耜高彦根神」(あじすきたかひこねのかみ)といい、「耜」は鉄製農具を意味しています。小角は金属に関係をもつ賀茂氏を出自としています。葛城山麓にはかつて朝町銅山が稼働し、明治二五年頃に坑夫が二〇人くらい働いていたといいます。父の賀茂公大角は葛城山を奉斉して、葛城山神の神託を朝廷に奏状する代々の呪術師で天神族の一員でした。葛城山の神をまつるのが山麓の豪族である高賀茂朝臣で、その司祭者が役行者といいます。ですから役行者は呪術を駆使した帰化人系の呪法家だったのです。役行者は高賀茂氏からしますと神奴(かみのやつこ。かんやつこ。しんど)の長といいます。つまり、神社にいて掃除などの雑役を務めた奴婢ということになります。『日本霊異記』に「役ノ優婆塞者、賀茂ノ役ノ公ノ氏、今ノ高賀茂ノ朝臣者也。大和ノ国葛木ノ上ノ郡茅原ノ村ノ人也」と、高賀茂氏につかえた茅原の出自であることが書かれています。また、武内宿禰の後裔とされる葛城氏は、実在が確認できた日本最古の豪族で、古墳時代の大和葛城地方に本拠を置いていました。邪馬台国の東遷いこう紀氏は紀伊国に進出したといわれ、葛城氏と同じように武内宿禰を始祖とします。武内宿禰の五男が紀(木)角で、その弟が葛城襲津彦(そつひこ)です。もともと天道根命(あまのみちねのみこと)、または御食持命(みけもち)を祖とする「神別氏族」でした。神皇産霊尊―天御食持命―彦狭知命─手置帆負命─天越根命─比古麻命─天道根命という系図があります。襲津彦は漢人を連れ帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬか)に住まわせ葛城氏の拠点とします。南郷遺跡群から韓国と同じ大壁造の建物が検出しています。後述するように、役行者が葛城山(葛木山、金剛山)にて修行をしますが、葛城氏と紀氏は一族であるところに、道教との関連性がうかがえます。巫術などのシャーマニズムには脱魂と憑依がみられ、機能的には憑依のほうが強いといいます。卑弥呼は女性シャーマンの代表といいます。男女がペアをくむのが、神功皇后と武内宿祢・中臣烏賊津使主になります。男性のシャーマンの代表は役行者といえます。この流れが現在の行者や祈祷師などに受け継がれているのです。(『神道史大辞典』)
葛城山系の主峰である金剛山には金剛砂があり、二上山の近辺には石英や雲母などがあります。この条件のある場所を選び、中国から帰化した道士が仙境として住んでいたといいます。このことから、役行者は中国の道術・方術・符呪・呪禁を学んでいたと考えられ、鬼神を使役する呪法は道教を基盤とします。(宮家準著『修験道と日本宗教』一一四頁)。また、中国では茅山派の陶弘景に見られるように、すでに神仏習合の思想はできており、役行者においても仏教を受容する素地はできていました。(重松明久著『古代国家と道教』四四五頁)。一七歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだといいます。『孔雀王経』は叔父の願行上人から修得した精神統一に用いられたともいいます。(知切光蔵著『日本の仙人』一七頁)。「孔雀明王呪」の効験を役行者に託したのが『日本国現報善悪霊異記』の記述であるといいます。(和歌森太郎稿「山岳信仰の起源と歴史的展開」『山岳宗教の成立と展開』所収。三二頁。『修験道史研究』三三頁)。役行者は一七、八歳のころには巒気(らんき)と融合したといいます。役行者の神通力は中国の大仙と軌を一にするといいますが、苦修練行の法は役行者の独自のものといいます。そして、三二歳の時に葛城山に登り、金銅孔雀明王の像を岩窟に安置して験術を体得します。ほかに、熊野や大峰(大峯)の山々で山岳修行を重ねます。そして、吉野金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた山岳呪術者といえます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一二七頁)。本地は曇無竭菩薩という説があります。また、百済経由の道教思想と、金剛蔵菩薩に代表される華厳系の密教との関係が想定されるといいます。(重松明久稿「修験道と道教―泰澄と役小角を中心として」『古代国家と道教』)
平安初期の奈良薬師寺の景戒が、弘仁一四(八二三)年ころに編集をおえた、日本最初の仏教説話集である『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)に、役小角は仏法を厚くうやまった「役優婆塞」(僧ではない在家の信者)と呼ばれています。仏教的には下級の者ということで、日蓮聖人が「役優婆塞」(『忘持経事』一一五一頁)とのべているのは、当時の仏教者にとって当を得た見解なのです。同書には「孔雀明王の呪」に長じ、神通力を得て山林を飛行し鬼神を繋縛したとあります。鬼神とは人々が畏怖する魔性の存在をいいます。この鬼神を鎮める呪術者の代表が役行者でした。役行者は山伏修行者ではなかったのですが、のちに山伏の祖型となり修験者の祖師となります。また、役行者は成仏することを目的としたのではなく、不老不死の仙人になるという、現報本願の心持ちが強くみえます。鬼神を使役することが『後漢書』の方術や、葛洪の『神仙伝』や『抱朴子』などに共通します。つまり、役行者は道教の神仙思想を基盤としていたのです。役行者が仙人として描かれる背景には、葛洪の仙道の影響があります。このことは、この時代に山岳修行をしていた者に共通したものと思えます。あわせて、『続日本記』には鬼神(精霊)を役使して水をくみ薪をとらせ、その命令に従わなければ呪をもって縛り付けたとあります。(「能役使鬼神」)。この表現は中国の諸方術書にみえる表現で、鬼神とは山人に近いと言います。役行者が前鬼・後鬼を従えて給仕をさせたという記述は、張魯の鬼道いらいの道教の信仰が継承されていたことを伺わせ、それは、紀氏・葛城氏の祭祀文化にみることができます。そして、「汲水採薪」は提婆品の文(『開結』三四四・三四五頁)であり、これにより苦行奉仕の法としています。これに逆らえば「以咒縛之」というところに、相手が鬼神であり、役行者の力が強かったことを表現しているのです。山林苦行については『過去現在因果経』などに見られます。『日本霊異記』にいう「優婆塞」とは、神秘的な霊力をもっている行者をさしています。たとえば、春日山一帯の諾楽の東山の山寺にいて、執金剛神の塑像の脚に縄を結んで礼仏悔過した金鷲(こんしゅ)優婆塞。また、和泉の血渟(ちぬ)の山寺にいて、性欲を問題として吉祥天女を渇仰した信濃国優婆塞などが載せられています。これらは景戒が生きた時代が飢饉や疫病、それに、戦乱の社会であったこと。そこに、仏教者として勧善懲悪や因果応報などを説くため、怪奇を交えた唱導説教の種本として使用したということなど、景戒の人生観・死生観をさぐる良材となっています。修験道の祖といわれる役行者も、本書に置いては優婆塞としての観点にあるのです。
役行者は文武天皇三(六九九)年五月二四日に伊豆流罪となります。これは役行者が葛城山と吉野の修験集団の統合をはかったことで、国家から危険視されたという見方があります。(五来重稿『近畿霊山と修験道』一四頁)。葛城山のあたりは葛城氏と大和王権との政治的な衝突がありました。役行者を讒奏した一言主は国譲りをした大国主の子、事代主と同体、あるいは分身ともいいます。葛城峰の一言主神が役行者を謀反の疑いにて讒言したことは、高加茂氏一族の抗争とみる見方があります。また、山岳宗教と呪術とが、この時代に重要な意義をもっていたことがうかがえます。(和歌森太郎著『修験道史研究』三一頁)。役行者は古来の山岳呪術者として、卓越した力をもっていたところに役行者処罰事件が起き、この伊豆流罪により妖怪をあやつり人を惑わすという強烈な印象をいだかせたといいます。武内宿禰・葛城氏と一言主神の関連について、まず大伴・中臣氏との関係もあります。天岩戸神話に登場して天照太神を祭るのは、中臣連の祖天児屋命、忌部首の祖太玉命、玉祖連の祖玉祖命、猨女君の祖天鈿女命、鏡作連の祖石凝姥命などです。また、天孫降臨神話において天降る天孫瓊瓊杵尊に随伴するのは、右の神々と大伴の連の祖天忍日命、久米直の祖天津久米命らで、猨女君をのぞけばいずれも連・首・直を称する伴造(とものみやつこ)の祖先神であって、臣の姓を有する氏の祭神は登場していません。つまり、大伴氏や中臣氏が連を称していることと、その祖先神が神代に天皇家の祖先神につかえた神話をもっていることとは無関係ではないのです。大和王権の各部司を分掌した豪族なのです。伴造には秦氏・東漢氏・西文氏など代表的な帰化氏族がおり、ほかに、弓削・矢集(やずめ)・服部(はとり)・犬養・舂米(つきしね)・倭文(しとり)などの氏があり、連・造・直・公などの姓を称しています。いっぽう、武内宿禰(建内宿禰)の後裔氏族が臣を称していることと、その祭神が天皇家の祖先神に奉仕した神話を所有しないことは、互いにつながりがあるといいます。武内宿禰後裔の上位氏族は、葛城地方や本拠地の神々を祭り守護神としていたのではないかといいます。葛城地方には『記紀』の神話・伝承に活躍する重要な神々がいます。それは、事代主神・味耜高彦根神・一言主神などです。いずれも天皇家の祖先神につかえた神話がありません。それどころか、事代主神・味耜高彦根神は天照太神と敵対関係にあった出雲の大国主神の御子神とされ、一言主神は先制君主雄略天皇をひれ伏させたと伝えます。葛城地方の神々は天皇家の祖先神にたいして独立的、反抗的であったと見られています。これは、武内宿禰後裔氏族が大王にたいして自立的な性格を有していたことと無関係ではなく、一言主神はもともと葛城氏の奉斉神であったといいます。『修験故事便覧』(巻一。九筒封条)に役行者より呪縛された一言主の石索を、越の泰澄(六八二〜七六七年)が解こうとしていると、役行者が叱り止めさせたことが書かれています。これを新羅系の泰澄と一言主と、百済系の道教の信奉者である役行者の対立という見方もあります。後に役行者は当山派の修験道として展開し、泰澄は天台系の本山派として展開していきます。(重松明久著『古代国家と道教』四三七頁)。また、神武天皇と欠史八代の皇子たちは、元来、その後裔氏族であったとも指摘されています。武内宿禰後裔氏族や部民は、大王の食膳に奉仕するという共通性があります。上位氏族のなかで最も早く活躍したのは、五世紀前半から中葉にかけて大王家の外戚として権威を誇った葛城臣です。そして、武内宿禰は上位氏族となる葛城・蘇我・平群・波多・許勢・紀などの諸氏の祖とされるのです。(『日本の古代』)
役行者は諸国の神や葛城の一言主神に、葛城山と金峰山の間に橋を架けるように命じますが、一言主神は従わなかったので呪縛します。その讒言により伊豆に配流されます。役行者は験力により捕縛されずにいましたが、母が捕らえられたので母を許してもらうため、出頭して捕らえられたといいます。けれども富士明神の神文によって、三年後の大宝元(七〇一)年一月に大赦があり茅原に帰ります。そして、摂津の箕面山から母とともに仙人となって、天空に飛び渡唐したといいます。一言主神の讒言により伊豆流罪になったというのは『日本霊異記』の記述で、『続日本紀』には讒言したのは韓国連広足とあります。一言主神という神ではなく実在の人物が書かれており、正史である『続日本紀』の方が信頼されるといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』一九六頁)。韓国連広足は祖先の盬児が韓国に使いしたことにより韓国の姓を賜ったといいますが、本来、朝鮮からの渡来民であるといいます。ですから、広足は呪禁道に精通しており、天平四(七三二)年に典薬頭に任じられています。呪禁道は敏達天皇六(五七七)年に百済から渡来していました。この官吏の広足が役小角に弟子入りをしたのです。その真意はわかりませんが、結果的に官人の地位を利用して、当時、賀茂氏一族に禁ぜられていた一言主神の託宣を行い、それが朝廷に対して陰謀を企てたと中傷して、役小角を流罪にし失脚させたことになります。役行者は民間道教の道士であり、広足は官用道士の立場でした。
役行者は時をへるにしたがい伝説は発展し仏教的な山間修法の験者となります。役行者は神仙思想を取り入れていたことは確実なことです。(津田左右吉著『役行者伝説考』)。これにより謀反の罪に問われたという推測もなされました(五来重著『修験道入門』)。大陸から伝来した神仙思想・道教の呪法は継承されていたのです。ただし、このような仏教いがいの呪法を仏教徒は禁じていたのです。しかし、方術・小道・巫術などの呪術を取り入れたのが役行者と思われ、これらの道教、そして、仏教・陰陽道などが修験道にふくまれていくのです。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三五一頁)。つまり、雑部密教といわれる呪術性は、奈良時代に要求されていたことを示しています。(勝又俊教著『密教の日本的展開』二三〇頁)。同じように、陀羅尼信仰が僧尼や庶民のなかにも浸透していました。(『日本霊異記』)。純粋密教といわれる修法は、平安初期の空海により大成されていきますが、役行者などのように呪術を行った者として、敏達天皇のときに百済からきた日羅が勝軍地蔵法を修したこと、孝徳天皇のときに法道仙人が金剛摩尼法を修したこと、そして、泰澄が十一面観音法を修したことが挙げられます。役行者がどこまで修法と仏法を得ていたかはわかりませんが、日蓮聖人のなかには優婆塞としての程度の仏教理解であったと思われます。七面山に役行者を祀ることは、奈良時代末期における呪術性が保持されてきたことを示していると思います。その展開は空海の日本密教の教えによります。天台の密教(台密)は天台法華に融合させ帰一させることが根底にあります。これにたいし、真言密教は顕教である諸宗と異なった立場から教えを展開します。(勝又俊教著『密教の日本的展開』二六七頁)。ですから、空海の密教は釈尊の教を超えたとする独自性に、諸宗の上位に立つ優位性を主張しました。大日法身の雄大性が山岳信仰に合致し、これらの民族宗教をたやすく吸収したと思われます。なによりも山林優婆塞として四国の山岳にて修行をした体験が、密教の神秘性に附合したといえます。役行者が修験者の祖といわれるのは、平安時代の初頭に天台・真言の密教が山岳信仰に習合したことにあります。ですから、役行者が仏教の優婆塞であるとか、密教修法に長じた者といわれたのです。そして、大峰山と葛城山を両山、または、両峰と呼び、その他の霊山を国峰(くにみたけ)と称したように、中世いらいの修験道の霊山が各地に活気をもち、その霊山に役行者は登ったという伝説がつくられたのです。(『日本仏教史辞典』八二頁)。そして、愚勤住心編の『私聚百因縁集』巻八の「役行者ノ事」に、「山臥ノ行導尋源皆役行者ノ始テ振舞シヨリ起レリ」とあるように、役行者が山林を修行の場とした修験の祖とされたのです。
葛城山に関しては鎌倉中期の『大和葛城宝山記』(『日本思想大系』一九)があり、両部神道の立場から記したもので度会行忠は神宮秘記の最極書としています。(宮家準著『神道と修験道』六一頁)。和歌森太郎先生は役行者はほんらい大和の葛城山の呪術師であり、仏教者ではなかったとのべています。金峰山と葛城山との間に、呪力をもって橋をかけた優婆塞であるという伝説が平安前期にできたのは、吉野・金峰山に寄せる山岳信仰が強められた時期に、知名度の高い役行者の斗藪は効果があったのです。このときに行者という呼び名もおきたといいます。しかし、密教修行者を行者と呼ぶことがあるため、役行者と呼ぶようになったといいます。(『修験道史研究』新版三八九頁)。役行者が研鑽した密教の深さにもよりますが、「優婆塞」という呼称は空海や空也にもみられます。しかし、このような修験的な性格をもった優婆塞の呼称は、空也のころから絶えていきます。(井上光貞著『日本古代の国家と仏教』二〇三頁)。これは、「優婆塞」のレベルから、高度な仏教を主流とした修験道の確立したことを示すことでした。大峰山系が密教の金胎両界の曼荼羅とされたのに対し、葛城山は法華経の峰と呼ばれます。紀伊の加太の阿布利寺に序品の写経を納めた経塚をつくり、ここから二上山の普賢寺に勧発品を経塚に納め、この峰々に法華経二八品をめぐる修行が行われました。このため葛城山は法華経の世界とされました。首楞厳院(横川中堂)の鎮源が書いた『法華験記』(『大日本国法華験記』一〇四〇〜一〇四四年頃)などの諸伝にみられるように、法華経の信仰は律令時代から盛んに行われ、法華持経者という修行者が誕生します。この持経者の修行の場は神仏習合の色彩が強い神社や、霊山と呼ばれる山岳が目立ちます。(『日本仏教史辞典』四〇五頁)。『法華験記』においても、吉野や大峰をはじめとした霊山を修行の場としています。また、三井寺の珍蓮、沙門蓮長、行空、道命などは、一所不住に法華経を読誦しながら遊行・巡礼した持経者です。個々の罪障感を根底として、法華持経による滅罪の実修というところは、日蓮聖人の佐後以後の行動と共通性があるといいます。(井上光貞著『日本古代の国家と仏教』二一七・三四四頁)。たしかに、法華持経者は「不惜身命」の教えを信念としており、これら、法華経の提婆品や常不軽品を実践するという信仰のもとに、修験者たちの修行が行われるようになったのです。ただし、日蓮聖人の持経者としての認識は、法華経を身読するというところにあります。伊豆流罪中における自分は「昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存し候」(『四恩抄』二三五頁)と、山岳斗藪の持経者とは違っています。小松原の刀杖の迫害を受けた日蓮聖人は、持経者ではなく行者という認識に立ちます。『南条兵衛七郎殿御書』に、
「されば日本国の持経者はいまだ此経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。我不愛身命但惜無上道是也。されば日蓮は日本第一の法華経の行者也」
と、勧持品の文を挙げ明確に行者とのべています。つまり、法華経を持経することから弘経へ開拓することです。観念から事行へと進展するところが、大きな違いといえます。
ところで、『甲斐国志』によりますと、役行者が甲斐に来たことにより、七面山の山岳修験が始まるとあります。中里日応先生は役行者が甲斐に来た証拠として、八代郡一宮興法寺の由緒書きと、右左口村の七覚山円楽寺の寺記、都留郡小篠花蔵院の『院跡開起書上帳』を挙げています。そして、甲斐における修験道の古い歴史と、これに準じて七面山が修験道の霊場であったと推測されています。(「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号四四頁)。修験道が本格的に発展するのは平安時代(七九四〜一一九二年)になりますので、役行者の影響をうけた修験者が七面山に入峯したと思われます。平安時代に信奉された山は、冨士山・金峰山・地蔵ヶ岳・鳳凰山・大菩薩などで、とくに、金峰山と富士山は山岳宗教の拠点となりました。七面山もこれらにつらなる修験の霊場であったと想像されます。その理由として、大峰山の七面山と小室妙法寺の七面宮との関係が、七面山と摺り合わせられるからです。役行者像が七面山に祀られたのは、大峰山の修験者との関係と思われます。役行者の後継は、一、役行者――二、義学(葛城山に籠もる)――三、義元(吉野大峰を護る。前鬼・後鬼は吉野・熊野の境界を護って前鬼の里に住んだ)――四、義真(摂津の箕面を開発した)――五、寿元(九州の彦山修験を開発した)――六、芳元(四国の石鎚山を開発した)――七、助音(淡路島譲葉峰を開発した)――八、黒珍(出羽の羽黒を開発した)となっています。二代目の義学も完全に仏教に染まったのではないといいます。(知切光蔵著『日本の仙人』二五頁)。しかし、初期の修験道は日本の山岳宗教に、仏教の呪術性が取り入れられることから始まったのです。道教と仏教は同じころに中国から日本に伝わりましたが、結果的にも道教の神仙思想より仏教の神仏習合思想のほうが受け入れやすく、密教の呪術神秘性が日本人に受容されたといえましょう。天台密教の根本三流、真言密教の当山派小野広沢流については、『日蓮聖人の歩みと教え』「南都の仏教」を参照してください。
また、役行者の像と新羅明神の像との類似性が指摘されています。これは美術史家の視点からみたもので、この類似性は園城寺の聖護院門跡の修験道にあったといわれます。園城寺は大友皇子の子である大友与多王が、父天智天皇の追善のため、父が祭祀していた弥勒像を安置する寺院建立を願ったものです。天武天皇は「壬申の乱」では大友皇子と敵対していましたが、朱鳥元(六八六)年に寺の建立を許可します。大友与多王が自分の「荘園城邑」(田畑屋敷)を投げ打って一寺を建立しようとする孝心に感じいり、園城寺の寺号を与えました。天安二(八五八)年に円珍(八一四〜八九一年)は、唐から多くの経巻や法具などを携えて日本へ帰国します。そして、翌貞観元年にはこれらの什宝を園城寺(三井寺)に唐院を設けて格護します。新羅明神(新羅善神)は円珍によって再興され、貞観四(八六三)年に園城寺に祭祀されたものでした。これより園城寺の鎮守神となっています。円珍が唐からの帰途、船中に老翁が現れ、円珍のために仏法を守護すると誓ったのが新羅明神で、円珍が園城寺を創めたとき再び新羅明神が現れ守護したと言います。のち、園城寺の境内にある北野に住んだといい、現在の新羅善神堂(国宝)に、この円珍が船中で感得したという老体の新羅明神を安置しています。神像は両体側部から彫成し、割矧ぎとしないで内刳りを入れた檜の一木造りで、高さ七八aで国宝に指定されています。頭髪とあごひげに細かな毛筋を刻み、着衣部には大振りな彩色および金銀截金文様があります。血走って極端に垂れ下がる目、鋭く高い鼻、神経質な細かい指などに異様な像容といわれますが、神秘的な感情をたたえながらも彫法は軽妙といいます。今は失われた両腕の持物は、画像では黄巻と錫杖となっていますが、現状では持物を留めた形跡はないといいます。この新羅明神像は伝法灌頂の受者いがいは拝礼が禁じられています。この新羅明神の造像は三門派の赤山明神に対抗したものという説(辻善之助先生)や、奈良時代初期に新羅から渡来した大友村主氏が、自ら祭祀していた新羅明神を氏寺である園城寺内の北野に祀っていたといいます。円珍が再興したときに護法神となった(宮地直一稿「山岳信仰と神社」『山岳宗教の成立と展開』)ともいいます。中世期の修験道は熊野三山検校が統轄し、園城寺門跡や聖護院門跡が勢力をのばしていました。役行者が修験道の開祖とされ造像されたとき、この像容が新羅明神に酷似した関連性が指摘されています。園城寺に安置されている最古の新羅明神座像は、永七(一〇五二)年に造像されたと推測されています。画像としては痩身老相像と肥満老相像があるといいます(石川知彦先生)。鎌倉・室町期の熊野曼荼羅に、右下隅に新羅明神、左上隅に役行者が描かれています。役行者像の最古といわれるものは、冨士山北麓の行者堂旧蔵(中道町円楽寺に格護されています)の半跏像(総高一一六、五a)です。一二世紀初頭のものといわれます。この類似性の背景には園城寺の増誉(一〇三二〜一一一六年)が白河上皇の熊野御幸の先達を務めたことにより、熊野三山検校に補任されたこと、爾来、検校職は園城寺の重代職となったことにあります。寺門派が三門派と対峙する過程に、新羅明神を雛形とした役行者像が生み出されたといいます。(宮家準著『神道と修験道』)
『筥根山縁起序』に神仙として、聖占仙人・利行丈人・玄利老人などが登場します。四国の石鎚山には鬼神を駆使する上仙をはじめ、寂仙・石仙・常仙・法仙などがあります。山岳信仰の開基とされる日光の勝道上人や筑波山の徳一和尚は仏教者ですが、神仙とみなす要因がみられ、修験道と神仙思想は類似した修法(方術)をもっているのです。これを、役行者を道教の仙人に近い存在とすれば、修験者が役行者を理想としたのは神仙の境地に到達することが理想となりましょう。孔雀明法を体得したとすれば密教よりの役行者像ができてきます。修験道が神仙思想を受け入れてその柱の一つとした得意な存在であり、かつ、役行者を神仙としたことにより日本の修験道霊山を組織統一できた、という位置づけがなされるのです。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三五三頁)。役行者の存在はこのような神仙思想をもって、仏教のなかに位置つけられました。卓越した加持能力と自身の得脱を願うとき、道教には限界があります。たとえば、大峰の修験道は「神仙屈宅、賢屈所居」(修験道教典)というように、道教の教えを吸収し超越した形となって表れたといえましょう。行人という言葉は端的に目的をあらわした表現なのです。(五来重編『高野山と真言密教の研究』)
 
外道 1

 

仏教用語で、悟りを得る内道(ないどう)に対する言葉である。経典によっては「異道・邪道」などとも呼ばれる。転じて、一般に道に外れた人全般も意味する。
インドにおける本来の意味は渡し場・沐浴場・霊場を作る人のことで、一派の教祖を意味する。外道という漢訳語の原語にあたる言葉としては、他の教えを語る者と、他の宗派の僧・教祖がある。
中国や日本においては元来、外道とは、仏教以外の教え、またそれを信奉する人びとを総称した呼称である。もともとインドに仏教が興った紀元前5〜6世紀ごろマガダ国に存在した、ヴェーダの思想から外れた自由思想家たちの中でも極端なものや異教の思想を指して言った。それらをもう少し特定する形で仏教用語では六師外道とも呼ぶ。
仏典では96種(または95種)の外道があるとされる。『薩婆多論』によると六師外道のそれぞれが15種類の異なる弟子の法を出し、師の説と合わせて16種類になるため、6×16で96種類になるというが、『法華文句記』はこの説に反対している。
上記の用法から転じて、正論者から見て異論邪説を唱える人たちのことを貶めてこう呼ぶようになった。これがまた転じて日常用語となり、人の中でも特に卑劣な者、人の道や道徳から外れた者などを罵るために使う言葉になった。
 
外道 2

 

仏語。(イ) 仏教者が仏教以外の教えをいう語。また、仏教以外の宗教を信奉する者をさす。外学。外教。異教。※勝鬘経義疏(611)歎仏真実功徳章「我聞者、言阿難親従レ仏聞、所伝不レ謬、且欲レ表レ異二外道我自然知之過一」〔大品般若‐八〕(ロ) 仏教内の小乗などをいう。内外道。※翁の文(1746)一〇「天をば三十二までに説のぼしたり。是はみな外道(ゲドウ)の事にて」。真理にそむく説。また、その人。邪説。邪道。※観智院本三宝絵(984)中「世の人おろかなる物これを笑ひて名づけて猿聖といふ〈略〉『汝(なんぢ)はこれ外道なり』といひて笑ひそしり」。厄災をもたらすもの。悪神。悪魔。※黄表紙・桃太郎発端話説(1792)「厄払共、かいつかみし悪魔外道(ゲダウ)を一纏めになして」。悪魔やばけものの姿をした仮面。また、その仮装。※滑稽本・七偏人(1857‐63)五「ヲット自己(おいら)の下道(ゲダウ)なら、もう差支なく出来て居るのだ」。人をののしっていう語。※滑稽本・七偏人(1857‐63)五「ヘン悪魔下道(ゲダウ)め、人の陰徳のさまたげをして」。非道徳的な行為。人の道からはずれた行ない。また、そういうことをする人。※日葡辞書(1603‐04)「Guedǒuo(ゲダウヲ) ナス」。釣りで、目的の魚以外に釣れる別の魚。※青い月曜日(1965‐67)〈開高健〉一「ひょっとしたら外道(ゲドウ)で鰻や鱒がまじるかも知れないが」
仏教から見て仏教以外の教えの総称。また、そうした教えを奉ずる人。仏典では「九十五種外道」「九十六種外道」「六十二見」「六種外道」など種々の外道があると説かれる。今日においては仏教と同じくインド思想という点から論考されるべきであるが、仏典ではしばしば「魔」と同格のものとして用いられ、降伏すべき対象とされる。外道の定義については例えば『翻訳名義集』に「俱舎玄義に云わく。学、諦理に乖そむきて、自らの妄情に随いて内覚に返らざるを称して外道となす」(正蔵五四・一〇八四上)と示されるが、そうした視点は仏教内部へも注がれており、外道を世間種種外道・仏法内有諸外道といった二種や仏教外外道・附仏法外道・学仏法成外道といった三種に分類することがあり、外道の範疇は仏教の内外に及ぶものとも考えられている。法然は一念往生の義に関して、一遍や十遍の念仏でも往生がかなうとする阿弥陀仏の本願を曲解して多念や持戒を軽視するのは邪見であり、精進の人を懈怠にし持戒の人を無慚にするものとして、そうした考えの人を「附仏法の外道」(『越中国光明房へつかわす御返事』聖典四・四二二〜三/昭法全五三九)などと断じ、往生を願う人を妨げようとする人であると強く難じている。
仏教以外の教え、また、その教えを信ずる者のこと。古代インドの六師(ろくし)外道のように、本来は仏教以外の思想や宗教を奉じている者のことをいい、古くは「異学(いがく)」「異見(いけん)」と訳された。やがて、外道の語が用いられてから、他をけなす意味をも含むようになり、邪道と同義にさえ用いられるようになり、さらに、仏の教えを非難し、そしる者をも外道とよぶようになった。
仏語。仏教の信者からみて、仏教以外の教え。また、それを信じる者。⇔内道。道理に背く考え。また、その考えをもつ者。邪道。災いをなすもの。悪魔。また、邪悪な相をした仮面。「外道の面」。心のひねくれた人、邪悪な人をののしっていう語。「もっともっと恥かしい、堕落した、—のやり口よ」〈葉山・海に生くる人々〉。釣りで、目的と違った魚が釣れたとき、その魚のこと。
仏教においては、仏教以外の宗教や思想をすべて外道、外教(げきよう)あるいは外法(げほう)などと呼んでいる。サンスクリットの原語は(anya‐)tīrthakaであって、(その宗教より)以外の宗教およびその信者、すなわち異教、異教徒を意味している。外道に対して、仏教はみずからを内道(ないどう)、内教、内法などと言う。しかし、仏典中に用いられた外道の意味は必ずしも前述のように広くはなく、主として、古代インドにおけるものを指しており、六師外道、九十五種外道などすべてインドの外道である。
仏教以外のインドの諸思想。これには、古代からの伝統宗教であるいわゆるバラモン教の思想や、釈尊と同時代に興隆していたジャイナ教などの新興の諸思想を含む。仏教以外の教えや信徒のこと。後に仏教内の異端に対する貶称として用いられた。
仏教以外の宗教や思想。誤ったやり方。そんなのは外道だ。人の道を外れた行いをする悪人。(釣り)狙っていないのに釣り上げられた魚。
…私利私欲を満たすために、他人を犠牲にすることをも恐れない法術のことで、邪術や幻術とほぼ同義である。外術(げじゆつ)、外道(げどう)ともいう。天狗の行う法術(呪術)は外法であると考えられており、天狗のことを外法様、その術を行うことのできる僧を外法僧ということがある。…  
 
外道 3

 

釣り好きは幾度かこの語を口にしたことがあろう。目的以外の別種の魚が釣れてしまった場合、自らの腕の未熟を恥じて糊塗(こと)する一方、上がってきた魚を侮蔑(ぶべつ)して言う。
「外道」の文字および語感は、すでにあまり好い意味の語でないことを思わせる。かつて読んだ時代物活劇本や劇画には、妖怪や悪者退治の場面に、「この悪魔、外道め。」と決まり文句のようにあった。近時のオカルト系文学、あるいは陰陽師安倍晴明などを扱ったコミックス[漫画]にも、必ずといっていいほど「外道」は妖怪の類語・別語表現で頻出(ひんしゅつ)する。
外道の語が仏教語であることをご存知の方は多いであろう。仏教者が仏教以外の思想、諸宗教を邪説視し、貶称(へんしょう)したものである。これに対し、仏教内の思想、学派を「内道」というが、こちらの語はあまり一般に普及しなかったようである。要するに、仏教以外の教えや、仏教以外の宗教を信奉する者をいう。もっとも、大乗仏教からは仏教内部の小乗のあり方も外道に見えるので、世間種々の外道のほかに「仏法内の諸外道」(『大日経疏』)との用法もある。 
真理に背く説、あるいはその人、が外道にあたるが、その主たるものとされたのは古代インド、釈迦在世当時の自由思想家六人[六師外道]であった。六人の思想はそれぞれ、1. 道徳否定論、2. 懐疑論、3. 運命論・決定論、4. 快楽論的唯物論、5. 因果否定論、6. ジャイナ教。いずれも、バラモン教隆盛の当時にあって、バラモン教の宗教的知識を集成した宗教聖典ベーダの権威、およびバラモン階級の優越性を否定して、市中庶民の支持を集めた異端の思想家たちであった。こうした正統説の否定は釈迦と同じ姿勢であり、釈迦の説いた仏教はこうした思想的背景から生まれて、この六師外道説を克服した。  
親鸞は『歎異抄(たんにしょう)』において、「念仏者は無礙(むげ)の一道(いちどう)なり。」とし、「魔界外道も障礙(しょうげ)することなし。」と言う。魔界は悪魔、外道は異教徒を指している。外道説を克服して正説がある。ゲドウを釣って熟練の釣り人に至る。 
 
外道 4

 

世間で外道とは?
世間で外道というと、「道に外れた人」という意味で、卑怯な人や、邪悪な人、ずるい人がいわれます。たとえば、権力者でありながら、庶民を苦しめて私服を肥やし、栄耀栄華を極めている人は外道です。また、力の強いボスで、困っている人から暴力で金品を巻き上げる無慈悲で残酷な人も外道といわれます。また、頭がよく、人前ではニコニコと人格者を装いながらも、裏ではしたたかに他人を犠牲にして自分の利益をはかっていく人も、外道です。このように、人の道に背き、邪悪な心を持った卑怯者を世間では「外道」といいます。釣りの世界では、釣ろうと思っていたのと違う魚が釣れたとき、外道といわれますが、魚がかわいそうです。仏教では、このような道に外れた卑怯者ももちろん外道に入りますが、もっと広く深い意味があります。
仏教で外道とは
仏教で「外道」は「外学」ともいいますが、「道」とは教えということですから、「真理に外れた教え」「真理の外側の教え」を外道といいます。真理に反している、真理ではないということです。
『維摩経義記』には、「法の外の妄計、これを外道と称す」とあります。「法」とは真理ということですから、 「真理の外側の間違った考えを外道という」ということです。
真理とは、いつでもどこでも成り立つものです。「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理は、いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理ですから、因果の道理に反した教えを外道といいます。
世間でいわれる他人を犠牲にして、自分が幸せになろうとする人も、因果の道理に反していますから、仏教でいう外道ともいえますが、仏教でいう外道はもっと広いのです。
どんな宗教も大宇宙の真理を教えられている?
現代の日本人によくある考え方として、どんな宗教でも、究極的には同じ大宇宙の真理を教えられたもので、ある宗教ではそれを神といい、ある宗教ではそれを仏というのだろう、というものがあります。ところが実際に色々な宗教の教義の内容を調べてみると、それぞれまったく違うことが教えられており、とても同じ教えとは言えません。
外道の教えの具体例
2600年前、ブッダの時代のインドでも、色々な教えがありました。
例えばこの世を創造した最高神がいて、すべてはその神を原因とする教えがありました。現代でいえば、キリスト教やイスラムに似ています。
また、すべてを生みだした神はいないけれども、すべては過去の原因によって決まってしまっている、という宿命論もありました。これは現代でいえば、唯物論に似ています。
または、すべては何の原因もなく生じ、何の原因もなく消えるという考え方もありました。これは偶然論です。
このように、一方では神によってすべては生み出されたといい、また一方では神などいないといいます。ある教えでは、すべては過去の原因によってすでに決まっているといい、ある教えでは、原因など何もないと主張します。
これらの教えは、結局は同じことを教えられたどころか、同時には成り立たず、お互いに矛盾しています。
仏教では、このような教えはすべて因果の道理に反する教えとして、「外道」といわれます。
このような、真理に反した教えを信じているとどうなるのでしょうか?
外道を信じていたらどうなるの?
ブッダは『涅槃経』に、こう教えられています。
「一切外学の九十五種はみな悪道におもむく。」(涅槃経)
「外学(げがく)」とは外道のことです。
ブッダの当時、インドには、六師外道(ろくしげどう)といわれる6人の思想家がいました。
その6人には、それぞれ16人の弟子がいましたので、それらを全部合わせると、6×16=96で、96種類の外道があったのですが、その中で、1人だけ、因果の道理に似たことを教えていたので、96−1=95で、「九十五種」といわれます。ですから「一切外学の九十五種」とは、仏教以外の全宗教のことです。
そのような仏教以外の宗教を信じていると、「みな悪道におもむく」と教えられています。
「悪道」とは、苦しい世界のことですから、真理に反した教えを信じていると、この世も未来も苦しまなければならない、ということです。
そのような宗教で不幸になった実例は枚挙にいとまがありません。
例えば、輸血はいけないと教える宗教を信じて死んで行く人があります。
日本でも、たまに医者にかからずに祈祷をして死ぬ人があります。
これが国レベルになると大変なことになります。
キリスト教では、動物は人間が食べるために創られたと信じ、有色人種は人間とはみなさないために、インディオを虐殺してインカ帝国やアステカ王国を滅ぼしました。日本でも、ヒロシマやナガサキを一瞬で壊滅させ、ほとんどの主要都市を空襲し、当時の国際法に反して民間人を大量虐殺しました。
また、日本でも江戸時代までは仏教でしたが、明治時代になると、明治政府が神道によって国民を統制し、10倍の国力を持つアメリカに無謀な戦争を挑み、最後は神風が吹いて勝てると信じて国を滅ぼしました。
ブッダが「一切外学の九十五種はみな悪道におもむく」と教えられている通りです。
では仏教ではどのように教えられているのでしょうか?
では仏教は?
「外道」に対して、「真理の内側の教え」「真理の内に立つ教え」「真理」を「内道(ないどう)」といいます。
仏教は、因果の道理に立脚して教えられていますので、一切経七千余巻を貫く教えが因果の道理です。どれだけたくさんのことが説かれても、仏教には因果の道理に反した教えは1つもありませんから、仏教は、内道です。
わかりやすくいえば、「内道」とは仏教のことで、「外道」とは仏教以外のすべての宗教のことです。
ブッダは、因果の道理に反する教えでは、幸せになれないから、因果の道理に立脚して教えられた仏教を信じなさいと教えられているのです。 
 
内道と外道 5

 

『外道(げどう)』とは仏教の言葉です。道理に外れた教え、ということです。仏教では三世十方を貫く真理のことを『道理』といいます。『三世』とは過去世、現在世、未来世のことで「いつでも」ということです。『十方』とは東西南北上下四惟のことで「どこでも」ということです。いつでもどこでも変わらない真理、古今東西を通じて普遍の真理を『道理』といい、その道理に反する教えを『外道』というのです。
一方、仏教のことを『内道』と言います。道理の内側の教え、いつでもどこでも変わらぬ真理そのものが仏教に説かれているので『内道』と称されたのです。
これにより釈迦はすべての宗教思想を「内道」と「外道」とに峻別されました。
今日「外道」といえば、人の道を踏み外した、倫理観の欠如した、ひどい人物像のイメージがあるので、「あいつは外道だ」と言われたらかなり辛辣な悪口の部類に入るかと思います。
犯罪を犯した人に対し、その犯罪の内容によっては「あいつは外道だ」と言われますし、人を傷つけて生きてきた人にはやはり「アレは外道だ」と非難されます。
今日、仏教の言葉は多く誤解されていますがこの言葉もその一つといえましょう。元来の意味からすれば別に人柄や素行をもって外道かそうでないか、分けられるものではありません。
だいたい人柄を問題にすれば、叩けばほこりの出ない人はいない、どんな人でも過去の人生経験の中には人を傷つけたり、泣かせたり、貶めたりしたこともあるはず、まして仏教では身体でやった行為より心で思うことを問題にしますので、心まで暴かれたら、誰か一人でも“清らかな聖人君子”と合格する人はありましょうか。
仏教でいう「外道」とは、道徳的に劣った人物を指して言うのではありません。あくまでも真理に反した思想、教義を『外道の教え』といい、そういう教えを信じている人を『外道の人』というのです。
どんな人でも真理を知らなければ外道の発想しか出てきませんから、すべての人は外道から始まるのです。
では外道の発想とは何か、と言いますと「自分がこんな目にあうのはあいつのせいだ、こいつのせいだ」と他人のせいで苦しんでいる人の思考です。『他因自果』の発想です。
一方、内道である仏教は、徹頭徹尾『自因自果』『まかぬタネは生えぬ、またタネは必ず生える』一切の運命はすべて己のまいた種の結果これに万に一つも例外はないのだよ、と説かれます。
この外道から内道(仏教の異称)へ導かんとされるのがお釈迦様の教えです。 
 
外道 6

 

昭和 40 年代頃までの映画には、「外道」ということばがよく使われていたように思います。
〈人の道に外れた悪者〉なんかを「外道」と言っていました。
やくざ映画の中でも、当のやくざの親分が「あの外道めが」なんて言ってましたが、やくざから「外道」よばわりされるなんて、もう最高の (?) ワルということになりますね。
最近は、そういった昔の外道らしい外道とは違って、〈誰でもいいから殺したかった〉とか、〈人が苦しんで死んでいくところを見たかった〉なんていうとんでもない「外道」も増えてきています。
自分の子どもに食べ物も食べさせずに、床にたたきつけたり、故意に大火傷を負わせたりする親なんかは、絶対に許せない「外道」です。
しかし、この「外道」も、もともとはそういうような〈悪人〉をいうことばではなかったのです。
「外道」は、もともとは仏教用語で、仏教徒は仏教のことを「内道 (ないどう) 」と言い、それに対して、仏教以外の宗教や思想を、〈仏教以外の道〉という意味合いで「外道」と呼んでいたのでした。
仏教徒からすれば、仏教以外の教えは〈異端〉であり〈邪教〉だという意識はあったとは思いますが、だからといって、そういった宗教や思想を「悪」とまでは認識していなかったわけです。
ですから、「外道」は〈悪〉を意味してはいなかったのです。
ことばというのは、本来の分野の中で使われている分には、本来の意味で使われるものなのですが、やがて、その本来の分野の外へと広まっていきます。そうすると、そのことばの本来の意味がややもすると変化してしまう宿命にあります。
「外道」ということばも、仏教の分野から一般世間にも広まってきて、〈道から外れた〉という意味合いが強まってしまい、いわゆる〈悪の道に踏み込んだ者〉をいうようになってしまいました。 
 
日本霊異記

 

日本霊異記 上巻1 雷を捕える
雄略天皇が、少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)に命じて、雷を捕える説話です。なぜ、雄略天皇は、栖軽(すがる)に命じて、雷を捕えるよう命じたのか。なぜ、栖軽(すがる)の墓を、雷の落ちていた場所に作ったのか。なぜ、雷は、怒って、墓地の碑文が書かれた柱を蹴倒し、踏みつけたのか。それぞれを論理的につなぐ鍵が隠されている様な感じがするのだけれども、よくわかりません。
少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)は、雄略天皇の護衛官であった。雄略天皇は、妃と寝床で仲良くしていらっしゃるとき、栖軽(すがる)は、それに気づかず、参上してしまった。天皇は恥ずかしがり、事をやめられた。
ちょうどその時、雷が鳴り、天皇は、栖軽(すがる)に雷を連れて参るように命じ、栖軽(すがる)は、勅命を受けて、宮から退出した。
豊浦寺と飯岡との間に、雷が落ちていた。栖軽(すがる)は、神官を呼び、雷を輿(こし)に乗せて宮に持ち帰り、天皇に、雷をお迎えして参りましたと奏上した。
天皇は、光を放ち、明るく輝く雷を見て恐れ、落ちていた場所に雷を返した。その後、栖軽(すがる)は亡くなり、天皇は、雷の落ちた場所に彼の墓をつくり、「雷を取りし栖軽の墓」と記された碑文の書かれた柱を立てた。
この碑文に腹を立てた雷は、碑文が書かれた柱を蹴倒し、踏みつけていたところ、柱の裂け目に挟まって捕えられてしまった。天皇は、雷を裂け目から引き出してたすけた。
この場所が、雷の岡と名付けられた話の起こりは、このことによる。
日本霊異記 上巻2 亀をたすける
広島県三次市向江田町の丘陵の田んぼの中に廃寺跡があり、発掘調査の結果、塔、金堂、講堂、回廊のある大伽藍であることがわかってきました。一方、亀をたすけるこの説話の時代はというと、百済滅亡660年、日本の百済出兵661年、白村江の戦い663年。百済滅亡後、多くの王族、貴族が、難民として日本に流入した激動期。亀をたすけるこの説話によって、広島県三次市あたりに住んでいた者が、この戦乱に巻き込まれ、国を失った百済の僧を招聘、この地に三谷寺を建立したことがわかりました。『日本霊異記』によって、田んぼの中の廃寺跡と、激動の時代が一本の糸でつながりました。
備後三谷郡(現在の広島県三次市向江田町寺町あたりのことか)のある者が、百済救援のため出征した際、「もし、無事に帰りおおせたら、神々のために寺院を建立しましょう」と、誓った。
そのためか、災難を免れたので、百済の国の人である弘済(ぐさい)禅師を招き伴って故郷に帰り、三谷寺を造った。
弘済(ぐさい)禅師は、伽藍に安置する仏像を造るため、都にのぼり、私財を売り、黄金と丹(顔料)を買った。
弘済禅師は、帰路、難波の津で、海辺の人が大きな亀を四匹売っているのに出くわし、これを買ってたすけ、海に帰した。そして、船を頼み、童子二人とともに海を渡った。
夜も更け、船乗り達は欲心を起こし、童子らを海に投げ込んだ。そして、禅師にむかって、「速やかに海に入れ」と言った。禅師は教え諭したが、従わなかった。
禅師は、願を起こし、海中に入った。海水が、腰に及ぶとき、石が足に当たっているように思え、夜明けの光で見ると、亀の背の上にいた。
亀は、禅師を備中の海岸あたりまで送り、三度、頭を下げて去った。おそらくは、たすけた亀が恩を返したものであろうか。
船乗りの賊たちは、三谷寺に、黄金と丹(顔料)を売り込みにきた。賊とそれを知らぬ信徒が売買交渉をしている最中に、禅師が帰り、賊たちは進退窮まった。禅師は、賊たちを哀れみ、刑罰を加えなかった。そして、仏像を造り、塔を飾り、落成供養を終えた。
なお、禅師は、その後、海辺に住み、行き来る人々を教え導き、八十余りでその生涯を終えた。
日本霊異記 上巻3 金と食べ物と良い女
ある者が、吉野山で3年間、仏法を修行し、観音に『金と食べ物と良い女をたんまり授けてくれ』と、祈ったところ、観音の威徳の力により、財産と官位と妻を得ることができたという説話です。いくら、信じて祈れば通じるといっても、思わず、そんなのありかいなと思ってしまいます。しかし、考えると、むしろ、知らぬ間にあれこれとタブーを拵えているのは、こちらの方で、現世のご利益をあからさまに願う平安初期の説話の方が、うそがなく、健康的で健全なのかも知れません。
御手代東人(みてしろのあずまひと)は、聖武天皇の御代に、吉野山で3年間、仏法を修行し、観音に『金と食べ物と良い女をたんまり授けてくれ』と、祈った。
一方、その頃、従三位の粟田朝臣に娘がいたが、突然、病に罹り、しばしば苦痛を訴えた。粟田朝臣は、東人を迎え、呪文を唱えて祈祷させたところ、娘の病はたちまちにして癒えた。
娘は、東人に一目ぼれし、娘の親族も、いろいろ経過はあったが、二人の結婚を許し、彼に家屋敷、財産を与えた。また、東人は、朝廷に奏上してもらい、従五位の官位も得ることができた。
それから数年後、東人の妻は、病に罹り、瀕死となった。彼女は、死に臨むとき、兄に対して、自分が死んだら、兄の娘を東人の妻とするよう約束させた。
こうして、東人は、妻の死後においても、亡き妻の兄の娘と財産をもらいうけ、この世で大きな福徳を被ったが、これはすなわち、仏法修行の霊力と観音の威徳の賜物である。
力の強い女が力くらべをした話 中巻第4
説話は『日本霊異記』の「力の強い女が力くらべをした話」。8世紀前半の聖武天皇のころ、岐阜県での話。狐の血筋を引いた百人力の女と、雷神の申し子で強力で知られた道場法師の孫の女との力くらべが描かれています。当時の「市」の様子を垣間見ることもできます。(『日本霊異記』中巻第4「力ある女、力くらべを試みし縁」)
現代語訳
聖武天皇の御世に、美濃国片肩(かたかた)郡少川(おがわ)の市に、一人の力の強い女がいた。生まれつき体が大きかった。名を美濃の狐といった。<これは、昔、美濃国の狐を母として生まれた人の4代目の孫である>。力が強く、百人力であった。少川の市の内に住み、自分の力にまかせて、往来の商人を脅し痛めつけては、彼らの物を奪うのをなりわいにしていた。そのころ、尾張国愛智郡片輪の里にも、一人の力の強い女がいた。生まれつき体は小さかった。<これは、昔、元興寺にいた道場法師の孫である>。女は、美濃の狐が人の物を脅し痛めつけては奪い取るという話を聞き、力くらべをしてみようと、蛤(はまぐり)を50石、桶に入れて船に乗せ、少川の市に泊まった。また、あらかじめ備えをして、熊葛(くまつづら)の皮をむいて作った鞭(むち)を20本用意して荷に添えておいた。すると、美濃の狐がやって来て、その蛤を皆奪い取り、手下の者に売らせた。そうしてから、
「お前はどこから来た女か」
と、蛤の主の女に尋ねた。女は答えなかった。また問いかけたが、それでも答えなかった。重ねて4度尋ねたところで、ようやく、
「どこから来たのか知らない」
と答えた。美濃の狐は無礼な奴だと思い、女をぶつつもりで立ち上がり近寄ったところ、女は美濃の狐の両手を捕まえて、葛の鞭で1度打った。鞭に美濃の狐の肉がちぎれて付いた。もう1本の鞭でまた1度打つ。打つたびに肉がちぎれて付く。10本の鞭を打つたびに、肉がちぎれて付いた。美濃の狐は、
「降参です。悪いことをしました。恐れ入りました」
と謝った。これによって、美濃の狐より女のほうが力が優っていることが分かった。蛤の主の女が、
「これからは、この市にいることは許しません。もし、どうしても住むというなら、最後には打ち殺しますよ」
と脅した。美濃の狐はすっかり打ちひしがれてしまった。それからは、その市に住まず、人の物も奪わなくなった。市の人は、皆安穏になったのを喜んだ。そもそも、力のある人の血筋というものは、代々続いて絶えない。これでよく分かる、前世で大力となるような因縁を作って、それがこの世で現れ出たのだということが。 
 
日本霊異記の食文化考

 

奈良期の文献を用いて食文化に関わる考察を続けているが、今回は日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)を資料として用いた。
日本国現報善悪霊異記は正式名であり、通称は日本霊異記と呼ばれている。日本霊異記は平安初期に成立した上、中、下三巻からなる説話集であり、現存するものとしては最古のものと考えられる。
撰者は奈良右京薬師寺の僧景戒であり、仏教に関する不思議な話や、善行および悪行の報いの諸事を集め、人々に極楽往生の途を勧めた説話集である。成立時は延暦六年(787)または弘仁年間(810−824)と考えられ、説話の配列はほぼ時代順である。
上巻の三十五話は雄略天皇期(五世紀後半)より聖武天皇の神亀四年(727)まで、中巻の四十二話は聖武天皇の天平元年(729)より淳仁天皇の天平宝字七年(763)まで、下巻の三十九話は称徳天皇期(764−770)より嵯峨天皇期(809−823)までであり、総計百十六話が集められている。日本霊異記の成立期は平安初期であるが、説話の時代背景は奈良期およびそれ以前である。
説話の内容は仏教に関するものが大半である。善行による果報としては、釈迦や観世音に祈って経を誦したために、海難や穴の中から逃れた話、薬師仏を信じ、方広経、般若経を読誦して病気が癒えた話、蟹、蛙または亀の命を助けたことにより、災厄を免がれ、地獄よりこの世に戻られた話、弥勒仏、観音、吉祥天女像に祈願して財産や良き伴侶を得た話があり、その他に僧の徳や奇蹟、仏像や経典の持つ不可思議な霊力を語る話などの説話が集められている。
悪業による報いとしては、僧や修験者を迫害したり、嘲けったり、寺の持物を返さなかったために受ける業罰や、子や親を孝養しなかったり、馬、牛の酷使や兎、鳥への虐めに対する死の報いの話しなどがある。説話の中には、雷を捕らえる話、鷲に子を掠われる話、鬼に食われる話、力持ちの人に関する話など仏教に直接関係ない話も集められている。
説話の時代背景として、国司や郡司および役人の厳しい租税の徴収により、苦しい生活を送る農民、百姓の姿や、防人として辺彊の地に送られる庶民の、離別の惨めさが描かれている。中には逃亡して浮浪人になる者も多く、流浪の旅での病苦や、浮浪人を労役に使う話も含まれている。僧の徳を讃えたものとしては、行基に関わる伝承が多くあり、他に道昭と役小角および多くの私度僧がいる。道昭と役小角は、行基以前に仏教を民間に布教した先達者である。
私度僧は自度僧とも呼ばれ、公許を得ないで自ら僧となる人である。雑徭や出挙などの租税や労役を逃れ、または凶作や災害による貧窮により、土地を捨てて流浪する者の中から、税を納める必要のない僧を志す者が私度僧となった。
説話に登場する人々には天皇、貴族、宮廷官吏、僧、修行者、学生、写経師、裕福な人、貧乏人、浮浪人、盗賊、農民、漁師、商人、鉱夫がいる。物語の地理的背景としては大和、奈良の他に、遠江、越前、信濃、武蔵、伊予、讃岐、紀伊などの地方が描かれている。
日本霊異記は、最古の説話集として後代の諸作品に影響を与えているが、源為憲の編纂した三宝絵詞や、平安時代に成立した今昔物語などに引用が認められている。資料として用いたものは、狩谷棲斎の撰による群書類従本を原本として使用した、平凡社の東洋文庫r日本霊異記』である。これは上巻は高野本、中・下巻は真福寺本を底本としており、扶桑略記、今昔物語で補正したものである。
1 植物性の食
a 穀物に関する語
稲15 籾2 落穂2 米6 白米2 春米(ツキマイ) 糯米2 麦2 黍 麦畠 田l0 田畑 水田2 小墾田
一一仏像を稲の中に隠させる
一母が子供の稲を借りる
一少ない秤で稲を貸して、多い秤で取り立てた
一籾が沢山あるので、それを供へ物とする
一秋になって落穂を拾い画師を招き、また落穂を自分から霊に捧げて供養した
一正税の稲を人民に分け与えた
一白米一一万石、美女大勢施し給え
一糯米の粉などを男に与えて帰らせた
一炊いた襦米を粉にした食物を二斗僧に与えた
一米一升を施す報いは、三十日の食物が得られる
・米を搗く時、米搗き女達に間食をやろうとして、碓屋に入る
一畠の広さは一町余り、麦が二尺ばかり生えていた
一そして黍の藁三束を焼いて湯と混ぜ三斗の汁をとり煎じて二斗とし、猪の毛十把を刻んで粉にして汁を混ぜた
一田の水口を塞がせて、水を百姓の田に与えた
奈良時代の租税には租、庸、調がある。租は田租とも呼ばれ口分田、位田、功田、賜田の面積に応じて課税されるもので、一段に対し二東二把の稲を納めるのが通常であった。これは正税として正倉に納められ、出挙として貸し出され、利稲が国費に当てられた。
庸は年に十日間の歳役を課するもので、労役の代りに布や絹、米、塩、綿などの産物を代納することが認められていた。養老令では正丁で布二丈六尺と規定されており、農民による運脚が義務づけられていた。
調は大化改新では、田の面積に応じた田調と戸毎の戸調があり、七世紀末になると、唐制を模して成人男性の人頭税となり、絹、維、糸、綿、鉄、などの繊維製品、海産物、鉱産物の産品が課せられた。
その他に雑徭と称する労役があり、少丁は年15日、正丁は年60日を限度とする、土木建設工事などへの労力奉仕があった。
出挙は利息を付けて稲や財物を貸し付けるもので、公出挙は初めは救貧を目的としたが、後には強制的に行われ、春に官稲を農民に貸し出し、秋に三割ないし五割の利稲と共に回収するものである。
寺社や貴族の行うものを私出挙と称し、稲や銭を貸し出し、その利子は五割から十割であった。
雑徭と出挙は、国司や郡司または豪族が自らの利益のために農民に課すことが多くなり、利稲の負担に耐えきれず、他の土地に逃亡する者が輩出した。出挙として農民に貸与する際も、貸出しと返却時には異なる秤りを用い、貸出す者の利益が多くなるような不正が行われることがあった。出挙に関する不正については霊異記の中の数話に認められるので、かなり一般的に行われていたことが窺える。
b 野菜に関する語
菜5 葱 大蒜 瓜2
一いつも真心をこめて菜を摘み、行基大徳に差上た
一野原に出て菜を摘み、菜を土鍋に盛り上げ、うやうやしい態度で食べた
一春の野原で菜を摘み、仙人の草を食べる
一葱、大蒜の類は仏法で禁じられている
一瓜を売る者がいた
行基(668−749)は奈良時代の僧であり、道昭・義淵らに法相学を学んだ。諸国を巡り架橋、築堤をしながら民衆を教化した。一時弾圧されたが、聖武天皇の庇護を受け、東大寺や国分寺の造営を行い、大僧正、大菩薩の称号を受けた。
葱や大蒜は臭気が強いので、仏教では避けるべき食物とされていた。奈良時代には、耕作される野菜類は瓜類など極く僅かであり、野草、山菜の多くが菜摘みと称する採集により日常の食とされた。
c 果実に関する語
桃 梨2
一子は、像の胸から桃の脂のような物が急に出て垂れるのを見た
一梨の木を伐っておいて、何年かの歳月が過ぎた
食物の無い女が薬師に祈ると、木像より不思議な分泌物が出て、母子共に飢をしのいだ。この時代の代表的な木実や果実としては、桃、梨の他に橘、梅、栗、柿などがあるが、霊異記には記されていない。
U 動物性の食
a 獣類に関する語
馬13 牛34 牝牛6 子牛10 羊2 鹿4 猪6 獣肉 肉 猪油 狐9 狐の子3 兎
一おれは牛の肉の味が好きだから、牛の肉を御馳走する
一腰から上は牛となり、両手は牛の足となり、爪は裂けて牛の蹄に似ていた
一東大寺に牛七十頭、馬三十匹、田二十町、稲四千束を寄進した
一天皇の獲物とは知らずに鹿を殺して食った
一その人が兎を捕まえ、皮を剥いで野に放した
寺の品物や子の持物を借りて返さなかったために、死後牛に生れたり、兎、馬を苛めたために、地獄に落ちる説話が幾つか認められるが、これらの話には仏教説話の影響がみられる。
b 鳥に関する語
鳥4 鳥の卵4 卵 鶏 鷹2
一いつも鳥の卵を捜しては煮て食べていた
一形は鳥の卵のようである
一蘇曼が生んだ十個の卵は開いて十人の男となり、出家して皆阿羅漢果の悟りを得た
鳥の卵は、必ずしも鶏の卵のみを示すものではない。いっも鳥の卵を捜しては煮て食べていた若者が、その因果によって火に焼かれ地獄に落ちることが記されている。説話では涅槃経の「人と動物との間に尊卑や差別の違いはあっても、命を大切にし死を重く見るということは異なることが無い」と、善悪因果経の「現世で鶏の卵を煮、焼く者は、来世では灰河地獄に堕ちる」の文言を引用している。
c 魚介類に関する語
魚12 肴 鯉2 鱆2 鯔2 蟹9 大蟹3 蠣5 蛤6
一流水長者は一万の魚を放ち、魚は天に生まれて四万の珠をもち流水長者に報いた
一魚の肉を食べても仏法の罪とはならず、魚は変じて経となる
一鱆の吸物を売ることを仕事としていた
一八匹の鯔は八巻の法華経に変っていた
一難波に行って、たまたまこの蟹を手に入れました
一八匹の蟹を生け捕り、焼いて食べようとしていた
一五十石の蛤を採り船に積んで、小川の市に着いた
一釣縄に蠣が十個ついて上った
仏教における法力の奇蹟として、魚が法華経に変じた説話がある。この話の終りでは「仏法に精出す人は、麦を食べても甘い水に変じ、魚肉を食べても罪とならず魚は変じて経となる」と諭している。
鱆(ナカテ)は鰻に類した長形の魚の称である。鯔はスズキ目の魚で、オポコ、イナ、ボラ、トドの順に成長と共に名が変化する。
d 狩猟、漁猟に関する語
猟2 漁師 漁夫3 網4 釣縄 鷹狩
一漁夫は恐れて濃於寺に行き、お経を読んでもらう
一鷹や犬を養っては、鳥や猪鹿を猟る
一網で魚を捕ることを仕事としていた
一網を引いて魚を取る
一釣縄に蠣が付いた
一諾楽山で鷹狩をした
魚を獲るのは銛や籍で突刺すか、釣針で釣るほか、網で引く方法が一般的に行われた。
獣鳥類の狩猟は弓矢を用いたり、罠を設けて捕まえた。狩猟には、家畜化した犬を利用して獣類を追い立てたが、馴化した鷹を用いて、鳥類や兎などの小獣を捕らえる鷹狩も行われた。
V その他の食
a 酒に関する語
酒7 神酒2
一酒を作らせて、利息を殖やした
一この寺の薬に使うための酒を二斗借りて、返さないで死んだ
一酒に水を加えて量を多くして売り、多くの利益を得た
一天皇は仲磨に祈りの神酒を飲ませ、誓わせた
酒は古来から祭祀に欠くことのできないものであり、穀物を原料にして作られた。原初は米、芋、雑穀を卩中でよく噛み唾液で糖化させたものを酒槽に貯溜し、自然酵母の醗酵によって酒を得ていた。酒を飲むことによる酩酊状態を、神と一体となったものと捉え、神を祀るときには必ず酒が必要とされた。
酒は聖なる飲物であり、神に捧ずべきものとして御酒、神酒の語が生じた。酒はまた神前で誓約する時にも用いられている。
日本霊異記には酒に水を加えて量を多くしたり、酒を貸す時は小さな桝を用い、返させる時は大きな桝を用いたために、死んで牛になった女の話がある。
b 調味料、加工品に関する語
塩5 膾 煮凝 干飯 餅 吸物
一持って行った物は馬、布、綿、塩でした
一粗末な食物もなく、塩もなく、衣服もなく、薪木もない
一膾に切って、肴として食べました
一真老は鯉を煮凝にし、翌朝の八時に朝床に座り、その鯉を口に入れ、酒を飲もうとした
一鱒の吸物
一干飯がありますといい、鬼に与えて食べさせた
一餅を作り三宝に供養すれば、金剛力士のような力を得ることができる
米または雑穀を主食とする食事では、塩は貴重な調味料であった。塩は海水を煮つめたり、海水に浸した海藻を焼いて作った。膾は獣鳥肉または魚貝類を細かく切り、酢などで調味したものである。煮凝は魚の煮汁の凝固したものである。餅は食べると腹持が良く、力仕事に適した食物なので、餅を食べたり、供えたりすると力がつくと考えられた。
c 食具に関する語
鋺 皿 食器2 器物 土鍋 櫃2 釜2 鉢2 水瓶
一大きな櫃に色々の食物を入れてあり、よい味の臭いがした
一食器は皆立派な金属製の鋺と、漆器の皿である
一食器は後で返して下さい
一生きながらざんぶと釜に放り込んだ
一菜を土鍋に盛り
一持っていた水瓶はこれです
一鉢に盛られた食物を男に与えた
櫃は食器などの器具や食糧を入れておく大きめの箱である。食器は士器や木器が普通であったが、身分の高い者や富貴の者は、金属器や漆塗の器を用いることもあった。鍋や鉢、甕や水入れも土製のものが多く使用された。
d 食に関する語
飯7 斎食2 間食 食糧2 食物20 食事10 宴会4 飲物 飲食 甘露
一道のほとりに飯の包みが落ちていた
一お供えしてあった飯や肉、その他もろもろの物を十分に食べた
一一日斎食する者は十年間の食糧が得られる
一斎食をしようと思い、娘の所に行き飯を乞うた
一現在の甘露は未来の鉄丸である
一食物をもらうことにして、毎日欠かさず食事の時に来て会う
一決して地獄の物を食べてはいけない
斎食は仏教に関する食事の語で、一定の限られた時にする食事である。
甘露は古代中国で仁政が敷かれると、天が瑞祥として降らせたと云われる甘い露である。元はイソドの甘い飲物に由来するといわれ、苦悩を除き、長寿を保つのに益のあるもので、天人の飲物ともされていた。
「現在の甘露は未来の鉄丸である」は経典に示される語で、因果応報を説くことにより悪業を慎み、善行を勧めたものである。
地獄の食物を禁じた話は、日本神話の中で伊邪那美が黄泉戸喫をしたために、黄泉の国より此世に戻れなかったことに由来している。 
 
霊異記の殺牛祭神説話

 

(一) 中巻二十四話の問題点
霊異記中巻二十四話には前もって解明すべき二、三の問題がある。まず本話の主人公、楢磐嶋であるが、彼について「奈良の地名による姓か」とみて、多分に一般的な呼ぴ名のように考えるむきもあるが、この「楢」は奈良ではない。昭和三十三年天理市岩屋町西山(ワニ氏の本拠地内にあたる)にて発堀された墓誌に「大楢君素止奈」とあるように、君姓を持った新羅系の渡来人で、現天理市櫟本町楢周辺に蠕居していた。そもそも櫟本周辺は古代豪族ワニ氏の拠点で、楢君氏はその支配下にあったと思われるが、ワニ氏の勢力の北上につれて楢君氏一派が大安寺近辺に居住することは十分ありうる。しかも磐嶋は大安寺の「修多羅分の銭」を借用して越前の執賀へ「交易」に行ったとあるが、これまた架空の話ではないだろう。土橋寛氏は「この蟹やいづくの蟹、百伝ふ角鹿の蟹−…」(記四十二番)の歌謡の前半を、敦賀地方のワニ部が族長のワニ氏に蟹を貢納する時のほがいの歌と説いている。つまり敦賀から櫟本へのルートはほぼワニ氏の勢カ圏で、このほがいの蟹のルートと磐嶋のたどるルートは一致しているのである。概して説話は実際にあったことを核として話すという性格が強いが、磐嶋が敦賀へ「交易」に行ったということは、話し手・聞き手双方にとって事実講であったと思われる。この話の聴衆は絵そらごとに耳を傾けているのではない。
つぎに磐鴫はその帰り、琵琶湖を船にて渡る時「忽然に病を得」たという。それで船をおり、一人奈良の家に向かおうとして、馬を借りて急ぐ。ところがあとを三匹の鬼がし つこく追ってくる。たまりかねて事情を聞くと「閻羅王の關の、楢磐嶋を召しに往く使なり」との答えである。このあたりの話はなかなかに写実的で、路上の歩みと話の進みがぴたりと合っていて、われわれを話中に引きこむ。しかし磐嶋が急に病気になったことと、鬼の出現はいかなる関係にあるのか。当時の人々には自明のことでもわれわれにはすぐに通ぜぬ話もある。霊異記の注釈もこの点に関しては暖昧である。だが幸いなことにこの話につづく中巻二十五話では、
・・・讃岐の国山田の郡に、布敷臣衣女有り。聖武天皇のみ代に、衣女忽に病を得たり。時に偉しく百味を備けて、門の左右に祭り、疫神に賂ひて饗す。陥羅王の使の鬼、来りて衣女を召す。其の鬼、走り疲れにて、察の食を見て硯りて就きて、受く。・・・
とある。この例からみても人間の俄の病気と鬼の出現は関係があるとしなければならぬだろう。
さきに磐嶋を追いかけた鬼たちは疲れて空腹をうったえるが、磐嶋は彼らに干飯を与える。そのつづきはつぎのごとくで、われわれにはうす気味悪くひびいてくる場面である。
・・・使の鬼云はく「汝病我気故不依近。但恐るること莫かれ」といふ。終に家に望み、食を備けて饗す。鬼云はく「我、牛の宍の味を嗜むが故に、牛の宍を饗せよ。牛を捕る鬼は我なり」といふ。磐嶋云はく「我が家に斑なる牛二頭有り。以て進らむが故に、唯我を免せ」といふ。・・・
まずこの白文の箇所については、一般には狩谷校斎に基づいて「汝、我が気に病まむが故に、依り近づかずあれ」とよまれている。だがここを『三宝絵詞』中巻十四話では「汝がやむは我けなり。ちかくはよらじ」とし、『今昔物語集』二十巻の十九話では「汝ガ病ハ我等ガ気也。近ハヨルベカラズ」としている。この「気」とは「塩気立つ売磯」(『万葉集』一七九七番)、さらに「もののけ」.「毒気」という語もあるようにそのものから発散する精気である。霊異記においては気は鬼から発散しており、磐嶋は鬼に会う前からその目に見えぬ気のために病を得ていたのである。だから白文は「汝の病は我が気の故なり。依り近づかずあれ」とよむべきであろう。
気の用例は上代では接辞ふうのものが圧倒的であるが、霊異記には大事な例がもう一つある。中巻一話は天平元年長屋王が殺される話であるが、それは彼が元興寺の法会において物乞いの沙弥の頭を打ったから、その報いとして自害に追いこまれるに至ったと説いている因果謹である。ところがこの中巻一話にはつぎのように後日謹とも云うべきものが ついている。
・・・唯親王の骨は土佐の国に流す。時に其の国の百姓死ぬるもの多し。云に百姓患へて官に解して言さく「親王の気に依りて、国の内の百姓皆死に亡す可し」とまをす。天皇聞し皇都に近づけむが為に、紀伊の国の海部の郡の槻抄の奥の嶋に置く。・・・
これから推察するに当時は鬼ばかりでなく、死人の霊も悪しき気となって人に作用するように考えられていたのである。私はこれを怨霊の気と解するのだが、この中巻一話は後にも触れるように磐嶋の話と一脈通ずるものがあると云えよう。
つぎは使いの鬼と牛の宍との問題を解明したい。この関係の説明も今までは充分になされておらぬが、それでは風がわりな中巻二十四話の持ち味は掌握されないのである。すでに諸書に指摘されていることだが『日本書紀』皇極元年六月の条に
・・・戊寅に群臣相語りて日はく「村々の祝部の所教の随に、或いは牛馬を殺して、諸の杜の神を祭る。或いは頻に市を移す。或いは河伯を祷る。既に所数無し」といふ。蘇我大臣報へて日はく、「寺々にして大乗経典を転読みまっるべし。悔過すること仏の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈はむ」といふ云々。・・・
とあり、『続日本紀』延暦十年九月の条に、
・・・断一伊勢。尾張。近江。美濃。若狭。越前。紀伊等国百姓。殺レ牛用祭二漢神一。・・・
とあり。『類聚国史』巻第十、雑祭条にも、
・・・延暦廿年四月己亥、越前国禁行口加□]屠レ牛祭レ神。・・・
とある。これらによればわが国の古代社会において、牛を殺して神を祭る所謂殺牛祭神の信仰があったこと、この信仰が祈雨とも関連していたこと等がわかる。しかもその神は漢神でもあった。するとここに想起されるのは、 「漢神の崇に依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、現に善悪の報を得る縁」という題を持つ霊異記の中巻五話である。
これは漢神を祭るため牛を殺しつづけていた者が、ある時以後悔悟して償いのため多くの放生を行ない、死後閣羅王宮で殺生と放生のどちらの報いを受けるべきかの裁判をされ、多数の支持を受けて蘇生し、九十余才まで長生した話である。この閻羅王宮の裁判において、富める主人公が牛を殺した理由は「崇れる鬼神を杷らむが為に殺害せるなり」と説明されている。すると「漢神」は「鬼神」とも云われ、しかもこれらは中巻一話の「親王の気」と同じく崇る力を持っていたことになる。この力が鬼の気なのである。
また同じく中巻五話において、殺された牛たちは、
・・・是の人、主と作り我が四足を載りて、廟に杷り利を乞ひ、腫に賊りて肴に食ひしを。・・・
と云う。これから判断すれば、鬼神の毒気を払うため病者も健康な者も牛を殺して神に捧げるとともに、その肉をわかち食べ合ったことがわかる。これが当時の殺牛察神の具体的な姿であろう。すると磐嶋が鬼に「斑なる牛」を捧げたとあるのは、牛肉を好物とする鬼神に牛を捧げて鬼の気をやわらげ、なんとか病から免れようとしたのであり、また「食を備けて饗」したのも、鬼神を饗応して撃退しようと意図したのであろう。つまりこの話の背景には当時の信仰や習俗がはっきりと存在するのであり、云わばこの話の制作者はそのような信仰や習俗をふまえながら、それらを生のままでは出さないで、いきいきした会話を入れたり説明部分を脚色したりして本話を形成しているのである。かくのごとくわれわれが異様に感じとるこの奇談は、当時においては筋のよくとおった面白い話であったと考えられる。神田秀夫氏はその著『日本の説話』において、本話にでてくる三匹の鬼を「落晩した帰化人の屠殺者」としているが、それはあたっていないだろう。
『今昔物語集』よりさきにできた霊異記にもところどころではあるが『今昔物語集』と同じく、二話一類形式がみられる。その最たる例はともに信濃国小県の郡を舞台とする下巻の二十二話と同二十三話である。これと並んで、冥府の使いである鬼を饗応して冥府行きを免れるという点では中巻の二十四話と二十五話は類話である。ところが鬼神と同じ漢神があらわれ、且っ牛を殺す話を含む中巻五話はすでにみたごとく中巻二十四話との間に親近性がみられる。しかもこの話も閻羅王の君臨する冥府の世界を語っている。さらにまた長屋王の自害という史実に基づいて構成されている中巻一話は、すでに本文を引用したように特に本稿のテーマと係わりのある部分は、紀伊の国海部の郡の淑抄の奥の嶋の伝承である。ここは霊異記の編者景戒の出身地と目される同国名草郡の隣で、しかも景戒を海や航海に関連の強い古代吉士の後喬とすると、中巻一話は景戒の熟知せる郷里の伝承ということになろう。後にも触れるように殺牛祭神の信仰は怨霊思想と深い関係にある。この怨霊の問題に触れている中巻一話は前の三つの話と結びつく性質を持っている。つまり以上の四つの話は一群のものと見傲してよいであろう。
磐嶋の話をめぐって意味の不明確な所を検討してきたが、本話はかくのごとく孤立した話ではない。一般に説話文学は相互に無関係な断片的な話の寄せ集めで、体裁は集の形をとる。仮に関連があるとしても前後の二話に限られるのが普通である。しかるに本話には有機的に結びっいている他の話があるわけだが、それらをここでは殺牛祭神系説話と呼んでみよう。この殺牛祭神系説話は同じ霊異記に見出される説話群の道場法師系説話と何らかの関係にあるのではなかろうか。
(二) 中巻二十四話の形成過程
順序が前後したが中巻二十四話のあらすじを書いてみよう。
奈良の住人楢磐嶋は聖武天皇の時代、大安寺の御用商人として寺の「修多羅分の銭」を借用し、敦賀まで商売にでかけた。その帰り急に病気になり、一人奈良の家へ向った。辛崎(唐崎)、宇治橋といそぐ道を三匹の鬼が追いかけてくる。気味が悪いので聞いてみると「閻羅王の使いで磐嶋を召しにきたのだ」と答える。驚く磐嶋を尻目に「実はお前の家まで行ったのだが、寺の守護神である四天王に寺のため商売に行っているのだから許してやってくれと頼まれた。こうしてお前を探し求め、空腹をかかえている次第だが何かないか」と云う。磐嶋は持参の干飯を鬼たちに与えた。「お前の病気はわれわれの気によるものだ。あまり近づくな。しかし恐れることはないぞ」と云う。それを聞いて磐嶋は当時の習慣にならい、珍味を備えて饗応した。すると鬼は本音を吐いて、「われわれには牛の肉が好物なのだ。準備してもらえないか。牛をとる鬼とはわれわれのことだ」とはっきり云う。磐嶋はすかさず「牛の肉は進ぜるから冥府行きは勘弁願いたい」と頼みこんだ。ここで取引きは成立し、施しに対して恩を感じている鬼たちは相談の結果、磐嶋と同じく戊寅生まれの相八卦読(易者)を代りとして連行することになった。そして鬼たちは「閻羅王に罰せられるのを脱れるため、われわれの名を呼んで、金剛般若経百巻を読んでくれ」と、それぞれの名を告げて消えて行った。翌日みると磐嶋の家の牛が一匹死んでいた。磐嶋はいそぎ大安寺の南塔院へ行き、当時まだ沙弥であった仁耀法師にことの次第を話した。仁耀が二日かかって百巻のお経を読みあげると、翌日鬼はお礼を申しにやってきた。かくて磐嶋は九十余才まで長生きをした。 (以下はつぎのごとぎ景戒の結びのことばで終っている。)
・・・大唐の徳玄は、般若の力を被りて、閻羅王の使に召さるる難を脱れ、日本の磐嶋は、寺の商の銭を受け、閻羅王の使の鬼の追ひ召す難を脱る。花を売る女人は、何利天に生まれ、毒を供する掬多は、返りて善心を生ずといふは、其れ斯れを謂ふなり。・・・
ここに磐嶋と対比されている「大唐の徳玄」について、狩谷校斎の『日本霊異紀孜証』は「太平広記報応部載云出二報応記一」と説明している。ところが岩淵悦太郎氏によれば、『報応記』は霊異記よりは後に成立したもので校斎の説は正しくなく、徳玄とは唐の孟献忠の撰になる『金剛般若経集験記』の上巻救護篇に出てくる人物であり、しかも霊異記上巻の序文にある『般若験記』とはこの『金剛般若経集験記』 (以下『集験記』と略記する)のことであると説いている。念のためここに上巻の序文の該当部分を引用してみよう。
・・・昔漢地に冥報記を造り、大唐国に般若験記を作りき。何ぞ、唯他国の伝録に慎しみて、自土の奇事を信け恐り弗らむや。これによると景戒は明白に『集験記』を知っていることになり、さらに一歩進めて云えば景戒はこの書所収の話を原拠として磐嶋の話を形成したと云えよう。『集験記』は上巻の救護篇十三に徳玄の話を載せている。これも長い話であるから要旨だけを記してみょう。・・・
徳玄が楊州の按察になり准水を渡るとき、一人のしよげた者を見てあわれみを感じ、船に乗せ食事を与えた。やがて船を降り馬で道を行くと例の者がついてくる。「お前は誰だ」と聞くと、「冥府の王の使いの鬼で、貴君を召しにきたのだ」と云う。徳玄は「何とか免れる方策はないか」と頼みこむわけだが「貴君は食物をくれたのだし、俺はひとまず消え失せよう。ただし金剛波若経を一干遍謂したらまた相談にこよう」と答える。楊州にて徳玄がお経を読み終わると、鬼があらわれ「ともに王に会おう」とて徳玄を具して冥府へ行く。しかし結局は許されて徳玄は娑婆へ立ちもどった。のち鬼がまたあらわれ食物と金を請求するとともに、徳玄には道士を招いておはらいをすることすすめる。何回もおはらいをしたのち、徳玄は自分の今後の官位や寿命に ついてたずねた。「現在の宗正卿よりつぎつぎに昇任して左相になり、六十四才まで生きるであろう」と鬼は云った。徳玄のその後の生涯は鬼の予言どおりであった。
これら中国と日本の両話を比較しながら、中巻二十四話の形成を論じよう。前者に出てくる人物は、徳玄と鬼一匹、冥府の王、冥府の紫の衣を着たる人、道士で、徳玄を除いては実在性がうすく、また個性味もない。それに対し後者に出てくる人物は、磐嶋と鬼三匹、戦凧の社の譜の相八卦読、沙弥仁耀で、鬼以外は実在性が考えられる。そこで沙弥仁耀であるが、彼は『元亨釈書』第十二、忍行の部に つぎのごとく記されている者で、奈良時代から平安初期にかけて実在した僧侶である。
・・・釈仁耀。姓石寸氏。和州葛木上郡人。幼歳薙染。姿儀卑倭。取侮路人。而不以介懐。性慈懸。饒身蚤姦蚊蜻。忍可苦辱遊心真乗。延暦十五年二月卒。歳七十五。・・・
すると大安寺を通じての磐嶋と若かりし頃の仁耀との取合わせは単なる机上の創作と見傲すわけには行かなくなる。また当寺が「修多羅分の銭」を蔵していたことは大安寺の資料の示す所であり、「大安寺の南塔院に参ゐ入り」という書き方も詳細である。つまり中巻二十四話のそもそもの始まりは大安寺にて語られていた奇異なる事実課とするのが順当であろう。そしてそれは つぎのように磐嶋を主人公にし、仁耀を脇役とした単純な噂話程度のものと推定される。
・・・磐嶋は大安寺の御用商人として寺の金を借りて敦賀へ行った。ところが疫病にかかってしまった。当時疫病は鬼神のもたらすものと考えられていたから、懇意にしていた沙弥仁耀を頼んで厄よけのお経をよんでもらった。読経の効果は大いにあり、磐嶋の病気はなおって、しかも長寿を全うすることができた。それは磐嶋が寺のため尽力したからでもある。・・・
この話が景戒に達し、そこにて第二の変貌をとげて今みる形になったと考えてはいかがであろうか。霊異記には大安寺関係の話が六つある。 「薬師寺沙門」という肩書を持 つ景戒は当然奈良の都を知っていたわけだが、特に彼と大安寺を結びつけたのは沙弥仁耀ではなかろうか。何故というにこの仁耀に関して「未だ受戒せざりし時なり」と、本文中に割注があるからである。霊異記において割注を持っている人物や事項は概して景戒と関係の深いものが多い。この割注の意味は仁耀を「沙弥仁耀」と記したことの説明であるが、一歩突っ込んで云えば、この話の定着した設階では彼は『元亨釈書』にあるように、高僧として周知の人物であった。そのような人物を「沙弥」と記すのは読み手や聞き手に対しておかしいので、実は若い時の話なのだと説いているわけである。その仁耀は延暦十五年に没した。ところがその前年の延暦十四年には景戒は伝燈住位を得ている(下巻三十八話)。おそらく景戒と仁耀は帽懇の間柄で、しかも仁耀の死んだ延暦年間にこそこの中巻二十四話は定着されたのであろう。その理由は後に触れるが磐嶋の話には延暦期の時代思潮が垣間見られるのである。
さて、本論にもどって霊異記と『集験記』を比較してみよう。まず大きな類似点としては、両主人公がともに旅上にあり冥府の使いの鬼に会う。その鬼に食物を与える。鬼に読経を頼まれる。両主人公ともに天寿を全うするというようなことがあげられる。それに対し相違点は多い。『集験記』において徳玄は別人を送ることなく本人が一度冥府へ連行されているし、道士なる者が登場し、さらに徳玄の未来について鬼の予言がある。ところがこれらより大きな問題は両話においては鬼の性格が異なり、また霊異記には相八卦読なる者が登場している。
一読して明白なことだが『集験記』の鬼は暗くしょんぼりと描かれ、牛を食べたりもしない。ところが霊異記の鬼は「汝を召すに日を累ねて、我は飢ゑ疲れぬ。若し食物有りや」とチャッカリしたことを云う。磐嶋が干飯を与えると「汝の病は我が気の故なり云々」と正直そうに応答する。そうかと思うと、「我、牛の宍の味を嗜むが故に、牛の宍を饗せよ」と勝手なことを云う。これらが当時の習俗の上に立って考案された会話であることはすでに述べたが、このように鬼はいきいきと振舞い、人間的に登場している。しかもこの鬼の登場で最も笑いを誘うのは、二の名は高佐麻呂、二の名は中知麻呂、三の名は槌麻呂ぞ」と鬼がそれぞれの名を告げる箇所である。山田孝雄氏の『三宝絵略注』によると、 「槌」は土の宛字で最低を意味するとあるから、高・中・槌は鬼の背の順序を示していることになる。このような命名は話の読み手や聞き手にとってはまことに面白い。説話好みの景戒の手腕が発揮されている場面である。これと並んで鬼の出現を伏線とし、中程にて磐嶋の病気は実は鬼の気によるものだと暴露する箇所も可笑味がある。ここは話の落ちとも云うべきところであるかもしれない。このような盛りあがりを景戒は机上においてのみなしとげたのであろうか。私は別稿において景戒に遊行僧としての一面を指摘した。三匹の鬼に大中小の名を与えたのは説教という実践の中においてであろう。この創意のうらには聞き手の存在が想定されるのである。説話における創造とはかくのごとき場合を云うのではなかろうか。聴衆である民衆の多様な関心を無視しては創造はありえない。説話の狙いは興味や笑いだが、それは聞き手の反応や関心にも依存していると云ってもよい。
このことは「率川の社の許の相八卦読」の検討を通じても主張できるのである。この率川とは春日山より発して猿沢池の南をめぐり、西流して佐保川と合する小川だが、その河畔に式内率川坐大神御子神社とその若宮の率川阿波神社があった。「率川の社」はそのどちらかを指すわけだが、そこに寄食するかのごとく「相八卦読」がいたとするのはまことに頷かれる話である。下巻三十八話にでてくる天文事象の記録が見事的中していることから、私は景戒に民間の陰陽師・呪術師の一面をみる者である。おそらく説教師とは呪術師であり予言者でもあったのであろう。「相八卦読」とは同じく民間の陰陽師であるが、これは自度僧くずれとみて間違いあるまい。律令政府から出された度々の禁令からみても、かくのごとき輩が都の杜寺に寄食していたことは充分に考えられる。自度僧としての経歴を持つ景戒はこのような連中とも交流があったろうし、また民衆もかくのごとき「相八卦読」の存在を知っていた。つまり話し手・聞き手双方承知の人物や事項を取りあげることが説話形成の方法である。説教師景戒はその手にしっかりと民衆の心を撫んでいたのである。
中巻二十五話は『冥報記』下を原拠としている。同じく中巻二十四話が『集験記』に想を得ていることは間違いない。しかし大安寺を中心とした事実課への立脚、当時の信仰や習俗の摂取、さらには説教という実践活動を経過して、この話が興味深い説話として定着されたことを見失ってはならぬ。本話形成の秘密はこのようなところに隠されているのである。いわば大安寺に語られていたものは一つの素材であった。また『集験記』は一つのヒントであった。その素材やヒントを生かし、いろいろな場面を面白く組立て、その時代に合った着色を施して結晶させたのが景戒である。それはもう大安寺内部という狭い範囲に向けられたものではなく、外来説話の翻案でもなく、当時代に生きる民衆という広い属に話しかけるいきいきした説話文学であった。
芳賀矢一氏は『孜証今沓物語集」の序論にて
・・・斯して平安朝の初、延暦年間には、冥報記、冥報記拾遺等に収められた説話と同形式のものが、地名と人名とを日本に改めて、日本霊異記となって現れるまでになった。・・・
と述べている。それに対し岩淵悦太郎氏は前記論文にて多少の批判を浴びせながらも、磐鳴の話に関してはこの見解を認めんとしている。しかしすでに明らかなごとく巾巻二十四話については芳賀説は通用しない。むしろわれわれはこの説話に関しては景戒は翻案者ではなく、作者になっていることを認めるべきであろう。
(三) 道場法師系説話と殺牛祭神系説話
佐伯有清氏の説くところによれば、延暦時代に民衆が祭った漢神とは怨霊神であり、かかる怨霊神を祭ることは八世紀前半頃から起り、その盛行をみたのは桓武天皇の延麻旧期である。つまりこの時代には不幸な死に方をした早良親王をはじめとして、他戸皇子.井上内親王などの怨霊が崇りをなすと考えられ、民衆はそのような政治的敗者に同情しながらも特定の亡魂を祭らないで、崇りの神として一般化された漢神を祭った。そして牛を殺して漢神に搾げて怨霊をなぐさめ、その火りを国家の支配者(桓武天皇)に転じようとしたという。
すでにみてきたごとく中巻二十四話には、たとえ鬼神の崇りで病んでいる者でも鬼神に饗応したり、牛肉を与えれば、崇りを免れたり他の者へ転嫁できるという考えがあった。この考えと延暦期の民間における怨霊思想とは別個のものではない。磐嶋の代りに冥府へ連れ行かれる「相八卦読」を国家の支配者にかえたら、これはそのまま延桝時代の怨霊思想につながって行く。一方、現に景戒は下巻三十八条にて童謡を載せながら桓武の登極にふれ、桓武とその同母弟早良親王の長岡遷都を記し、さらに藤原種継暗殺事件に言及している。この種継暗殺事件とはそれに連座し、やがて淡路へ流される早良親王の死をも意味していると云えよう。
天文観測を通して長岡遷都(延暦二年)と種継暗殺事件(延暦四年)を予知した景戒は続く延暦六年に「漸悦の心を発」しながら一大回心に向かう。つまり景戒の回心は阜良親王の不幸な死という騒がしい風潮の中で行なわれるわけだが、私はこの回心が霊異記の編纂へつながって行くとみる者である。たとえば延暦六年にみる夢に観音に係わることが詳しく述べられているが、それに符合するかのように霊異記には観音信仰を背景に持った説話がかなりある。また下巻の序文も延麻六年という年を強調している。だから霊異記の中に怨霊思想の投影があるのは当然のことと云えよう。中巻二十四話に ついてはすでにみてきたが、仁耀法師が没して四年後の延暦十九年が、例の早良親王を崇道天皇と追称した年で、いわば怨霊思想盛行のクライマックスであった。そしてまた延暦期の世相をかなり描いている景戒の自伝はこの延暦十九年をもって終っているのである。
さきに引用した中巻二十五話の冒頭も、守屋氏によって道饗祭・御門祭との関連を指摘されており、その指摘は正しいが、やはり怨霊や鬼魅を追いはらおうという意図はみえている。中巻五語は正面から殺牛を取扱い、それがまた始めにふれた延暦十年と二十年の禁令に内容が合致しているのである。その上、中巻二十五・中巻五の両話はともに『冥報記』を原拠として形成されたものであるから景戒の手になる公算は強い。中巻一話の事件は天平元年のことではあるが不幸な死であり、その気が崇るとあるのは明らかに怨霊思想の前ぷれであろう。しかもこの話には景戒の郷国の伝承が加わり、また延暦十年の禁令には『紀伊等国百姓」も含まれている。景戒は富豪な百姓たちが牛を殺しながら饗宴を張る騒ぎをまのあたり経験したのである。要するに殺牛祭神系説話は延暦期の中央や地方の怨霊思想と関連があり、またこれらの説話の背後には景戒の存在が考えられる。
前記論文にて佐伯氏は殺牛祭神の行なわれた理由として、主にH雨乞いのためと、目崇りを枝うための二つをあげ、しかもこの二つを切りはなし後者にカ点を置いて説いている。一方、林屋辰三郎氏はこの見解を認めながらも、
・・・このように殺牛祭神の信仰は、佐伯氏の説くように、雨乞いと崇りを除くことの大きなちがいをたしかに混同してはならないが、しかしこの両者は日本においては同一平面上の転化ではないにしても、やはり同一信仰の飛躍であったと解すべきであろう。それというのは、さきにもふれた天神の場合においても雷神信仰に雨乞いから怨霊への飛躍があったからである。・・・
と説明しているが、穏当な見方であろう。すると霊異記の説話においても、雷神信仰と殺牛神信仰とはかけはなれたものとは云えなくなる。霊異記において雷神信仰を背景に持っている説話は上巻一話、上巻三話、中巻四話、中巻二十七話であるが、一般には上巻二話も含めて考えられており、これらが所謂道場法師系説話である。
しかもこの系統の説話が一旦明日香の元興寺に運ばれ、後に道場法師の話(上巻三話)を中核として配置され、景戒とも霊異記の編纂とも特別な関係にあることはかって説いたとおりである。今これに加うるに殺牛祭神系説話を見出しうることは霊異記の性格や成立の問題の解明に示唆を与えるであろう。現に上巻一話には「此の雷悪み怨みて鳴り落ち、碑文の柱を踊ゑ践み」とあり、道場法師系説話から殺牛祭神系説話への橋渡しもみられるのである。
(四) 霊異記の編纂と景戒
ここに霊異記の編纂の問題に一寸ふれてみよう。雷神信仰は怨霊思想の一母胎であった。道場法師系説話が上巻一話から始まり主に上巻の始めにかたまり、殺牛祭神系説話が中巻一話から始まり中巻にすべておさまっているのは景戒の意識にょるものであろう。道場法師の話は諸書にかなり多い。その中で霊異記の上巻三話がきわだった特色を持っているのは、一 つには延暦期の思潮に動かされるものがあったからであろう。かくのごとく延腐期は霊異成立上のエポックである。なるほど下套二十九話には「今、平安の宮に十四介年を経て、天の下治めたまふ賀美能の天皇是れなり。」とあるから霊異記の最終的完成は弘仁十三年(八二二年)とみられる。しかし景戒の自伝が含む最後の年号である延暦十九年(八○○年)からこの年まで二十二年問、霊異記は全くの空白である。因みに述べれば宝亀(十一年間続く)の年号を持つ説話は下巻十六話から三十話まで順次十五ある。次の天応(一年間のみ)はなく、ついで延暦(二十四年間続く)の説話は下巻三十一話から三十八話まで順次七つある。それが大同(四年間続く)をすぎ、さらに弘仁士二年まで全くないということは何を意味するであろうか。下巻三十九話は単なる増補とみてとってよいであろう。霊異記の成立とは延暦年間を中心に検討されるべきである。道場法師系説話.殺牛祭神系説話の存在はこのことを立証している。
つぎに霊異記編纂の場所の一つとして私は明日香の元興寺に注目してきたが、すでに一部見てきたように下巻三十八話は霊異記の編纂とからんでいる。しかもこの条の後半の事項は多く紀伊国名草の郡に係わっている。霊異記編纂の拠点として元興寺とともに名草の郡を考えてみたい。無論景戒の編纂の事業は孤立したものではないであろう。仲間として多くの自度僧があり、さらに明日香の元興寺、奈良の大安寺・薬師寺などは景戒に説話を提供したことであろう。だが霊異記にみられる地方的性格、景戒に感じられる在野的精神と泥くさい人問味、これらは景戒の生活の基盤が紀伊の国名草の郡であったことを物語っていよう。
殺牛祭神系説話の考察はこのように大きな問題を含んでいるが、さらにわれわれの興味を誘うのは磐嶋の話で発揮された景戒の作家的手腕である。この話においては景戒は編者というよりは制作者である。説話集に関しては一般には編者又は撰者という語が使われているが、これらの用語を乗りこえて「作家」ということを云っているのは西尾光一氏である。西尾氏は「今昔物語集』を始めとする仏教説話集や説話集に「作家」を見出さんとしている。その研究の姿勢は正しいと云えよう。ところが『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に予想される作家(又は作家たち)よりも、霊異記の場合はいろいろな資料に恵まれている。上中下の三巻に付せられている三 つの序文、各説話にある結びのことば、そして何よりも下巻三十八話の自伝。これらについての綿密な考究が進むと景戒の作家像もかなり鮮明になる。
今はそれほどの準備はないが磐嶋の話を通して景戒の想像力の使い方、彼なりの感情の起伏はある程度把握することができよう。少くとも景戒は遠く商売に出た磐嶋が病を得、仏の力にすがろうとした話に共鳴し、その話に基づきながら磐嶋の周りにあれこれの人物を点綴させたのである。景戒の先祖が水先案内の吉士で、その一族が後に楢君氏のように商人化したとする私の想定が許されるのなら、景戒と磐嶋は一層結び つく。景戒は身を入れて本話を制作したことになろう。琵琶湖岸を追いかけてくる鬼の様相は会話を通していきいきと描かれている。また磐嶋と相八卦読をともに戊寅の生まれとした着想も奇抜で面白い。しかしもっと大事なことは冥府の使いとして最も人に嫌われている鬼が、名前を持っていたり、施しに対し恩を感じたりする点である。しかもその鬼は真昼問大路を閥歩し、臆面もなく牛を要求する。だがこの鬼たちに少しも暗さやいやらしさがない。ここに作者景戒の人問性がうかがわれる。感覚の図太い、大らかな人間をここに感じる。しかもこの作者は自分の作った話に己自身も悦に入りつつ、聞き手・読み手とともに笑っているのである。その態度はまことにあけすけと云えよう。人問景戒に真撃な求道者をみるという従来の見方が誤っているというのではない。ただ傍証資料の多い中巻二十四話を検討してみると、かくのごとき一面を持った作家景戒が浮かびあがってくるのである。このようなプロフィルはおそらく景戒以降の説話作家にも指摘できるものであろう。 
 
『日本霊異記』の盲目説話

 

要旨
日本最古の仏教説話集『日本霊異記』には、病者が諸仏への信仰を契機として病を治癒する説話が載る。そのうち、盲目の母親が薬師如来の木像への帰依によって治癒を得る説話と、東アジア圏に見られる盲目説話を取り上げ、それらに共通する感応の様相と、それを語る手法を検討する。本稿では「郷歌」と、日本の説話文学作品に影響を与えたという『雑宝蔵経』を中心に取り上げた。「郷歌」の場合は、千手観音の絵像に眼を賜わるための歌によって盲目が治癒されており、歌によって千手観音から感応を得る。また、『雑宝蔵経』は称名や経典読誦によって仏からの施しを得ると語る。一方、『霊異記』の盲目説話は、仏道への信心の結果とされる感応(=治癒)が直接的に病者の盲を癒やすのではなく、そこに事物や周囲の人間の介在を要するのである。『霊異記』の病治癒譚は、漢訳仏典の世界における信仰の様相を基盤として種々の経典の効能を記しながらも、諸仏への至心とそれに心動かされた周囲の人々の援助を媒介させる展開を形成していた。『霊異記』の盲目説話は、東アジア仏教圏の感応譚を享受しつつ、そこに人間の善行を奨励させるための意図をもつ説話であると位置づける。
摘要
日本最早的佛教说话集《日本灵异记》,收录了颇多病人因信奉诸佛,而使病得以痊愈的故事。本文列举了其中的盲人因其母亲皈依药师如来的木像而重见光明,以及东亚圈的盲人故事,并探讨其共通的应验诸相及其叙事手法。拙稿以“乡歌”和给予日本说话文学作品影响的《杂宝藏经》为中心展开讨论。“乡歌”部分,列举了吟唱千手观音的画像求蒙赐双眼的和歌,而使盲目得以治愈的故事,即因和歌而获得千手观音感应的故事;《杂宝藏经》部分,则列举了因念佛诵经而获得施与的故事。另一方面,《日本灵异记》的盲人说话故事,并不是因对佛教的虔诚信仰所获得感应(=治愈)来直接治愈盲人盲眼的,而是需要周围的人与事的介入的。《日本灵异记》的治愈故事,记述了以汉译佛典世界的信仰与诸相为基础的种种经典的应验故事,这种感应形成于对诸佛的虔诚,以及被感动的周围人们的援助之中。《日本灵异记》的盲人故事是在吸收了东亚佛教圈应验故事的同时,作为一种鼓励人们善行的佛教故事而存在着。
1 はじめに
奈良朝末期である延暦年間から平安朝弘仁年間にかけて編纂された『日本霊異記』(以下、『霊異記』)は、善悪の行動によって起こる応報を、仏教思想や教義に拠りながら説くことを主眼とする仏教説話集である。『霊異記』には病者が諸仏への信仰を契機として、病を治癒するという説話があり、これらの説話は、病に際した衆庶の信仰を獲得するという仏教説話特有の機能がある。
本稿では、盲目の母親が薬師如来の木像への帰依によって視力を得たという話を中心に、東アジア圏を視野に入れて母子の盲目説話を取り上げ、共通する感応の様相とそれを語る手法を比較検討する。『霊異記』が東アジア圏において共有される感応譚を享受し、日本国の奇瑞として語る際、どのように展開を遂げたのかを論じるものである。
2 盲目の母
本稿の考察対象として『霊異記』下巻第十一縁(以下、本縁)を挙げる。これは盲目の女が、蓼原堂の薬師仏への祈願によって視力を得たことを記す説話である。
二つの目盲ひたる女人の、薬師仏の木像に帰敬して、以て現に眼を明くこと得し縁
諾楽の京の越田の池の南の蓼原の里の中の蓼原堂に、薬師如来の木像在り。帝姫阿部の天皇のみ代に当りて、其の村に二つの目ながら盲ひたる女有りき。此れが生める一の女子、年は七歳なりき。寡にして夫無し。極めて窮れること比無し。食を索むること得ずして、飢ゑて死なむとす。自ら謂へらく、「宿業の招く所ならむ。唯に現報のみには非じ。徒に空しく飢ゑ死なむよりは、善を行ひ念ぜむには如かじ」とおもへり。子をして手を控かしめて、其の堂に迄り、薬師仏の像に向ひて、眼を願ひて曰さく、「我が命一つを惜しむに非ず。我が子の命を惜しむなり。一旦に二人の命を已へむ。願はくは我に眼を賜へ」とまうす。壇越見矜みて、戸を開きて裏に入れ、像の面に向ひて、以て称礼せしむ。逕ること二日にして、副へる子の見れば、其の像の臆より、桃の脂の如き物、忽然に出で垂る。子、母に告げ知らす。母、聞きて食はむと欲ふが故に、子に告げて曰はく、「搏りて吾が口に含めよ」といふ。之を食へば甚だ甜し。便ち二つの目開きぬ。
定めて知る、心を至して発願すれば、願として得ずといふこと無きことを。是れ奇異しき事なり。
蓼原の里に盲目の寡婦がおり、この女は娘と二人暮らしで生活に困窮していた。女は盲目と困窮の理由が、自身の「宿業」という宿世における自身の罪に拠るものと認識する。この「宿業」とは、前世において為したとされる罪への観念である。『霊異記』説話においては、宿業の原因となる罪の内実は知られないままに、諸仏への信仰を経由として病の治癒を達成する(後述)。女は蓼原堂の薬師仏に向かい、自身の命ではなく娘の命を助けるために治癒を願う。堂の壇越はその姿を見て哀み、女を堂の中に入れ薬師仏の前で称来させた。二日後、娘は薬師仏の胸から「桃の脂の如き物」が垂れたのを見て女に教える。それを嘗めると女は視力を得たという。この桃脂はあくまでも薬師観音への感応を形象としたものであるが、あたかも母乳の如きに滴り落ちる様子には母の慈愛の投影を想起させる。『霊異記』は母の慈愛を礼讃する傾向にあることから、生命を育むための母乳について古代の呪的イメージが重ねられていることが指摘される。本縁では薬師観音の仏像が与える慈悲が人間の母が母乳を与える慈悲の姿に重ねて表されているのである。結語には「定めて知る、心を至して〔至心〕発願すれば、願として得ずといふこと無きことを。」と記すように、女の「至心」という薬師如来への熱心な信仰心による発願が治癒の奇瑞を顕したと説明しているため、説話の核には薬師仏への信仰と病者の願があるだろう。
本縁の信仰の様相は、奈良朝仏教における薬師信仰が背景としてある。『続日本紀』記事の孝謙朝には「薬師経に帰して行道懺悔す。冀はくは、恩恕を施し、兼ねて人を済はむと欲ふ。」(巻十八・孝謙天皇、天平勝宝二年四月)と見え、この「薬師経」とは『薬師琉璃光如来本願功徳経』に当たるとされている。さらに同年記事には薬師経に帰依した懺悔と同時に「仍て天下に大赦し」(孝謙天皇、同年記事)と記すことから、薬師経典は大祓と密接に関わりながら、仏教国家の統制において利用されていた。一方で民間における薬師信仰は、「滅罪信仰を媒介として治病延命の功徳にあずかろう」という方向性にあり、山に籠もって仏道を修する山岳修行と結びつく。本縁における薬師信仰の在り方は、里中にある「蓼原堂」という場所から考えれば、民間信仰に近いものであるだろう。薬師経典と本縁の関わりについて松浦貞俊氏は、以下に挙げる経典の大願の内容が本縁の境遇と当て嵌まることを指摘している。
1.第六の大願とは、願くは我れ来世に菩提を得ん時、若し諸の有情の其身下劣にして諸根不具・醜陋頑愚・盲聾瘖瘂・攣躄背僂・白癩癲狂、種種の病苦あらん。我が名を聞き已らば一切端正黠慧にして諸根完具し諸の疾苦無きことを得ん。(『薬師琉璃光如来本願功徳経』)
2.第七の大願とは、願くは我れ来世に菩提を得ん時、若し諸の有情に衆病逼切して救ひ無く帰する無く医無く薬無く親無く家無く貧窮多苦ならんに、我が名号一たび其の耳に経れんに、衆経悉く除こり身心安楽にして、家属資具悉く皆豊足し、乃至無上菩提を証得せん。(同上)
3.世尊薬師琉璃光如来の名号を聞きなば、此の善因に由つて今復、憶念して至心に帰依すれば、仏の神力を以つて、衆苦より解脱し、諸根聡利に智慧多聞あつて恒に勝法を求め、常に善友に遇ひ、永く魔羂を断ち、無明の殻を破し、煩悩の河を竭し、一切の生老病死憂愁苦悩を解脱せん。 (同上)
1の大願には、身体的な疾患の病症が列記される。「醜陋頑愚」とは姿形が醜く、愚かで強情な状態を指す。「盲聾瘖瘂」とは盲目と聾唖を指し、「瘖瘂」とは話すことの出来ない人間を指す。「攣躄背僂」とは、身体が痙攣等によって躄り歩く姿や背が曲がった状態であり、通常の歩行が困難な人間を指すと考えられる。「白癩癲狂」の「白癩」とはハンセン病の古名である。「癲狂」は精神の錯乱状態を指すことから、精神疾患として捉えられる。病者はその身が下劣であり、「諸根不具」という眼・耳・鼻・舌・身・意識のうちの認識器官の障害を受けているといい、薬師琉璃光如来への帰依によってこれらの病苦から解放されると教えるのである。無論こうした身体への疾患や容姿の特徴、精神疾患とが病者の罪業を原因とする言説は、仏教側が信徒を獲得するために機能した反面、白癩が所謂「業病」として偏見や差別を受ける原因ともなった。2の大願は衆生の貧困を救済する内容である。本縁の女の疾患は1の大願に、女とその娘の困窮の境遇については2の大願とが当て嵌まる。3は大願の項目ではなく、薬師信仰への帰依を推進させる文言である。注目すべきは「憶念して至心に帰依」することによって「一切の生老病死憂愁苦悩 」から解放されるとあり、本縁結語と共通する「至心 」の語による信心の推奨が説かれることである。本縁が薬師如来への帰依のみではなく、一心の発願である「至心」を併記するということは、この至心の願によってこそ成し遂げられるという意識が存するものと考えられる。この点について以下節を改めて、他の盲目治癒説話を併せて検討したい。
3 盲目治癒説話における願
『霊異記』には本縁を含めて盲人の話が三例あり、他も本縁と同様に仏教帰依によって平復を得たと語るものである。
4.奈良の京の薬師寺の東の辺の里に、盲ひたる人有りき。二つの眼ながら精盲なりき。観音に帰敬し、日摩尼手を称念しまつりて、眼の闇を明さむとしき。昼は薬師寺の正東の門に坐し、布巾を披き敷きて、日摩尼手のみ名を称礼せり。往来の人の、見哀ぶ者、銭・米・穀物を、巾の上に施し置く。或いは港陌に坐して、称礼すること上の如し。日中の時に、鐘を打つ音を聞きて、其の寺に参ゐ入りて、衆僧に就きて飯を乞ひ、命活きて数の年を経たり。帝姫阿倍の天皇のみ代に至りて、知らぬひと二人来たりて云はく、「汝を矜むが故に、我二人、汝の盲ひたる目を治めむ」といふ。左右各治め了りて、語りて言はく、「我、二日逕て、必ず是の処に来らむ。慎待つことを忘れずあれ」といふ。其の後久しくあらずして、倏に二つの眼ながら明きて、平復すること故の如し。期りし日に当りて待つに、終に復来らざりき。賛に曰はく、「善きかな、彼の二つの目ながら盲ひたる者。現生に眼を開き、遠く太方に通ず。杖を捨て手を空しくして、能く見、能く行く」といふ。誠に知る、観音の徳力と盲人の深信となることを。(『霊異記』下巻第十二縁)
5.沙門長義は、諾楽の右京の薬師寺の僧なりき。宝亀三年の間に、長義、眼闇み盲ひて、五月許逕たり。日に夜に恥ぢ悲しびて、衆僧を屈請し、三日三夜、金剛般若経を読誦しき。便ち目開き明かにして、本の如くに平ぎき。般若の験力、其れ大きに高きかな。深く信じて願を発せば、願として応ぜずといふこと無きが故になり。(『霊異記』下巻第二十一縁)
4は、本縁の次話である「二つの目盲ひたる男の、敬みて千手観音の日摩尼手を称へて、以て現に眼を明くこと得し縁」である。男は観音を信じ敬い、薬師寺の東の正門の前で日摩尼手を唱え念じる。行き来する人々は男を憐れんで、金銭や食物など施す。また、薬師寺に行っては僧達から食料の施しを得て数年を過ごしていた。こうして糊口を凌ぎながら日摩尼手を唱えた数年後、男の元に知らぬ人二人が現れて男の目を治癒させる。この説話に付される賛は、盲人が現世利益を得たことを賞賛する。それに続いて「誠に知る」以下は、病治癒までの因子が観音の力と、盲人の深信によってなるものと記しており、観音の力のみでは、盲目治癒への道は開かれないということを示している。『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』には「若為眼闇無光明者。当於日精摩尼手。」と見え、盲目の者には日摩尼手を用いることが説かれるように、盲目治癒の方法に、経典内容の思想背景があることが理解できる。しかし経典の威力の他に、盲人の信心が強調され、最終的には見知らぬ人の登場によって治癒したと記述する。
5は「沙門の一つの目眼盲ひ、金剛般若経を読ましめて、眼を明くること得し縁」で、4と同じく薬師寺が舞台であり、薬師寺の僧である長義が盲目となる。長義は病を患ってから日夜恥じ悲しみ、多くの僧を呼んで三日三晩の金剛般若経の読経を要請する。これによって僧長義の眼は元のように回復した。5の説話に賛は付されないものの、結語には般若経の霊験を賞賛すると同時に、長義の信心による願の結果であることを反語表現によって記す。4、5は対象となる仏教経典と盲人の信仰心との両方を称賛しているのである。
このような病気治癒と病者の信仰心を語る『霊異記』の説話について、小泉道氏は
信心による病気治癒譚において、病人の発心する場合の常套句である。いずれも、医薬未発達の時代の衆庶の生老病死に対する不安を基盤に、はじめて成立し得た説話群であるが、同時に本書の、あるいは(当時の)仏教思想の問われるべき根幹に関わる説話でもある。
と指摘している。民衆がその病への対処として医薬や医療を求めたとしても、困苦によって十分な治癒が施されなかった可能性も十分にある。また当時は、病者への扶助が規程として定められているものの、実質は機能不全の状態であったことが本縁を通して指摘される。信心に際した常套句に「誠に知る、願ひて得ざること無しと者へるは、其は斯れを謂ふなり」(中巻第二十一縁)、「闓かに知る、願として得ずといふこと无く、願として果さずといふこと无しと者へるは、其れ斯れを謂ふなり」(中巻第三十一縁)と、病者の心願を繰り返すことは、当時の状況から要請された記述であり、願によってこそ救われるという一縷の望みの結実ともいえる。そのために、『霊異記』は願によって感応を得ることを強調しただろう。このように『霊異記』の盲目治癒説話は、病苦に起因した諸仏への信仰を基本としつつ、盲人の「至心」や「深信」を必須としている。
4 「郷歌」にみる母子の盲目譚
前節では盲目治癒説話における病者の願の在り方が、薬師経典の内容と合致すること、病治癒説話の性格は漢訳仏典、ひいては東アジア仏教圏からの思想によってもたらされたものであることを確認した。本縁の盲目説話を考えるにあたり、その主題とモチーフに注目すれば、「盲目」、「母子」、「仏教や経典による救済」を挙げることができる。そこで本節では、主題の共通性から視点を広げ古代朝鮮の歌謡を収載する「郷歌」を比較対象とする。ここには、「禱千手大悲歌」という母と娘をめぐる盲目の逸話と歌が収録されている。
5.景徳王の代、漢歧里の女たる、希明の児、生れて五稔にして忽ち盲す。一日、其の母は児を抱きて芬皇寺の左殿の北の壁に画ける千手大悲の前に詣り、児をして歌を作り之を禱らしめたるに、遂に明を得たり。其の詞に曰く、
膝肹古召袮。二戸掌音毛乎攴内良。    跪いて、両手を合わせながら、
千手観音叱前良中。祈以攴白屋尸置内乎多。 千手観音の前にお祈り申し上げます。
千隠手□叱千隠目肹。          千の手を、千の目を、
一等下叱放一等肹除悪攴。        一つ取り放して、一つ取り除いて、
二于万隠吾羅。             二つでは多いので、
一等沙隠賜以古只内乎叱等邪阿邪也。   一つだけひそかに下さって、直してくださいよ。
吾良遺知攴賜尸等焉。          ああ、私に下さるのでしたら、
放冬矣用屋尸慈悲也根古。
   観音様の目を離して下さるのなら、その施された慈悲はとても大きいことでしょう。
賛に曰く、竹馬葱笙、咟塵に戯る。一朝、双碧、瞳を失ふの人。大士の慈眼を廻らすに因らずんば、虚しく度らん、楊花、幾社春。
新羅三十五代王である景徳王代の頃、漢歧里に住む希明という名の母と、その娘がいた。娘は五歳の時に盲目となる。母は盲目となった娘を憐れみ、娘を抱いて芬皇寺の千手観音の図像の前に連れてゆき、千手観音に眼を賜わるための歌を作って娘に歌わせる。すると、その歌によって子の盲目が治癒される。経典の読誦ではなく歌によって千手観音の眼を賜りたいと懇願するのであり、観音からの慈悲の結実を眼の治癒としている。歌の後の賛は、「竹馬葱笙」という竹の馬と葱の笛で遊んでいた子が視力を失ったが、観音の慈悲によって回復したと讃嘆する内容である。この「禱千手大悲歌」と『霊異記』本縁との共通点は、1仏像や仏画への信仰を通して盲目の治癒を得るという仏教の要素を基盤とする点、2母子のみで父が登場せず、母から娘への慈愛によって治癒を願う点、3「目」(郷歌)「胸・桃脂」(本縁)など、諸仏の身体における慈悲の象徴を通して、霊験を感得する点である。これと反対に相違点としては、1信仰の対象が千手観音である、2母ではなく娘の盲目を治癒する、3読経ではなく歌によって治癒を願う、4本縁は宿業の病を原因とする、という点があげられる。相違点は以上のようにあるものの、信仰を基盤として盲目を治癒する感応を語るという枠組みの中で両者は共通性を持つ。この「禱千手大悲歌」について『郷歌 注解と研究』は、千手観音信仰による盲目治癒説話である『霊異記』下巻第十二縁(本稿用例4)との関連性を示唆しているが、その相違点について次のように指摘している。
・・・『日本霊異記』下巻第十二縁に見る「二つの目盲ひたる男、千手観音の日摩尼手を敬み称へて、現に眼を明くることを得る縁」は、薬師寺の近くに住む盲人が千手観音の日摩尼手に祈願し、両眼が見えるようになった話であるが、注意すべきことは、観音を信仰したので視力が回復したとされずに、観音を信仰したので治癒する人がやって来て治したとされていることである。・・・
下巻第十二縁は盲人の前に「知らぬ人二人」が来て眼を治そうと語る。本縁も含めて『霊異記』の病者を巡る説話は、治癒までの様々な過程が段階的に示され、治癒までの因子は経典の読誦のみでなく、様々な媒介とされる人々が登場する。上記の指摘に拠りながら、この点について簡略に示したものが以下である。
・・・本縁 「薬師如来への称礼」→〈壇越〉→《薬師木像からの桃脂》/ 用例4「千手観音と日摩尼手を読経する」→〈知らぬ人二人〉/ 用例5「金剛般若と読経」→〈衆僧〉・・・
上記のように『霊異記』は盲人の信心を発端としながら、その信心と治癒までに第三者の人間を要している点に特徴があるといえる。一方、先に見たように「郷歌」の場合、母の慈愛から端を発し、治癒を求める願は歌によって千手観音からの霊験を得ることになる。『霊異記』と「郷歌」とは盲人の願を発起として、仏への願が如何にして到達されるのかといった方法の道筋が示されているのであり、両者には病苦に際した困難及び祈願による現世利益の共通性を見ることができる。
5 『雑宝蔵経』に見える盲目説話
前節では「郷歌」「禱千手大悲歌」に見える母子の盲目と治癒の因子について、『霊異記』説話との比較を行った。盲目は苦悩や困難の象徴としての普遍性を持つ故に、その困苦を逃れるための願が求められた。本節では更に、東アジア仏教圏における盲目譚を取り上げて比較をする。そこで、北魏に成立し、諸種の因縁・譬喩・本生等の物語を集録し、『霊異記』や『今昔物語集』に影響を与えたという『雑宝蔵経』を挙げる。
・・・6.差摩釈子は眼を患ふるを以ての故に、種種の色あるも之を見ることを得ず。差摩釈子即ち世尊を念じて、南無與眼者・南無與明者・南無除闇者・南無執炬者・南無婆伽婆・南無善逝と。仏は浄き天耳の人耳に過ぎたるを以て其音聲を聞きたまひて、阿難に告げて言はく、汝去け、今章句を以て差摩釈を擁護し、為に救を作し守を作し牧を作して災患を滅除し、四衆の為に利を作し益を作し安楽住を作さしめんと。爾時に世尊は差摩釈の為に浄眼 修多羅を説きたまへり。多折他 施利 弥利 棄利 醯醯多此浄眼呪を以て差摩釈の眼をして清浄なることを得せしめ、眼膜除くことを得たり。(『雑宝蔵経』巻第六、差摩子目を患ひ三宝に帰依して眼浄きことを得たるの縁)・・・
6は、仏を信奉する差摩釈子という者が眼の治癒を願い、「南無與眼者・南無與明者」と念じる。世尊はその声を聞くと弟子阿難に差摩釈子を救わせ、安楽なる住処を与えることを命じる。さらに世尊は浄眼のための「修多羅」である経を説く。また、「是の如く差摩釈をして名を称へしめ、余人も亦称名せよ、眼浄きことを得ん。眼浄きことを得已りて、闇を除かしめ、膜を除かしめん。」と記されている。これは仏に帰依することによる眼病治癒の方法であり、仏の名を称名することによる直接的な感応を示している。
また、『雑宝蔵経』には盲目の父母を養う仙人の話も収められている。こちらは盲目の父子への孝養による感応譚としての性格が強い。
・・・7.佛言はく。昔迦尸国王土界の中に一大山あり、中に仙人ありて睒摩迦と名く。父母年老ひて眼俱に盲たり、常に好菓鮮花美水を取り以て父母を養ひ、閑静無怖畏の處に安置せり。(中略)時に梵摩達王遊猟して行くに鹿の水を飲むを見、弓を挽き之を射しに、薬箭誤りて睒摩迦の身に中り、毒箭を被りぬ。(中略)是に於て、王は盲父母を将ひて、往き睒摩迦の邊に至れり。既に児の所に至りて胸を懊悩し、号咷して言く、我子は慈仁にして孝順なること比無しと。
天神地神山神樹神河神池神諸神偈を説きて言く、
釈梵天世王は     云何ぞ佐助せざるや、
我の孝順の子をして  此の如く苦ましむるや。
深く我孝子に感じて  速に命を救済せよ。
(『雑宝蔵経』巻第一、王子肉を以て父母を済ふの縁) ・・・
右は、仙人睒摩迦と盲目の父母との物語である。睒摩迦は盲目の父母を養っていたが、ある時、遊猟に来ていた梵摩達王の弓矢が睒摩迦に当ってしまう。王は睒摩迦の父母を探して、睒摩迦の元へと連れて行く。息子の事態に父母は懊悩して嘆き、我が子の仁慈と孝順なる様は比類無きものと語る。すると、父母の嘆きが天神、地神、山神などの神々に届き、神々は睒摩迦の孝順心を讃えた偈を説く。その偈は帝釈天(釈提桓因)にまで届き、睒摩迦の傷を平復させたという。右の例においては、差摩釈子が眼の治癒を仏へ祈り、盲目の父母の一心の願が帝釈天へと届くのである。盲人自身や、盲人がその家族を救済するための願いは、仏や帝釈天といった者達へ直接的に届き、それらに応じた感応を得ることが語られている。それは、先掲の「郷歌」が呪歌を用いて感応を導くよりも、より直接的な方法であるだろう。「郷歌」では呪歌により、観音との感応を達成したことを表しているのに対し『雑宝蔵経』では盲人の祈りの行為によって帝釈天、世尊へと届き、帝釈天や仏との感応を語るのである。
このように、盲人とその救済をめぐる種々の方法はテキストや説話によって多様な拡がりを持つのである。その中にあって『霊異記』の盲人は、他者の介在を以て救済を得ており、尚且つそこに「宿業」の観念を用いていることに注意する必要がある。
6 『霊異記』の宿業の病と感応
本縁の母には前世において為した罪である「宿業」がある。『霊異記』には宿業の説話が本縁を含めて三例あり、全て宿業による病を語る。二節で取り上げた他の盲目治癒説話に「宿業」の語は用いられていないが、本縁は盲目治癒と宿業の観念を併せ持つ説話であるため、病と宿業との関わりを説く以下の二話を参考としたい。
・・・8.義通は忽に重病を得て両つの耳並に聾ひ、悪瘡身に遍はり、年を歴れども愈えざりき。自ら謂へらく「宿業の招く所なり、但に現報のみに非じ。長生して人の為に厭はれむよりは、善を行ひて遄ニ死なむには如かじ」とおもふ。乃ち地 義禅師を屈請せむとす。先づ其の身を潔くし、香水を澡浴ミテ方広経に依りき。(中略)後に禅師重ねて拝するに依りて、片耳既に開けぬ。義通歓喜して亦重ねて更に拝せむことを請ふときに、両つながら耳倶に開けぬ。遐く近く聞く者、驚き怪しびずといふことなかりき。是に知る、感応の道諒に虚しからぬことを。(『霊異記』上巻第八縁)・・・
・・・9.巨勢呰 女は、紀 伊国名 草郡埴 生の里 の女なり き 。天平宝 字の五年の辛丑に 、怨 病身に 嬰り 、頸に 癭肉疽 を生じ 、大 苽 の如し 。痛苦 切るが如く にして 、年 を歴て 愈えず 。自 ら謂へら く 、「 宿業 の招く 所ならむ。但に現報 のみに は非じ 。罪を 滅し病を 差す よりは、善を行はむには 如かじ 」と おもへ り。髪を剃 り戒を受 け 、袈裟を著 て、其の里の大 谷堂に住 む。心 経を誦 持し、道を行ふ を宗 とす。十 五年逕て、行者 忠仙、来 りて共 に堂に 住む 。 忠仙此 の病相 を見て相 惆び、病を看て 咒護し 、願 を発し て言はく 、「是 の病を 愈 さむが為 に、薬師経・金 剛般若経 各三千 巻、観 世音経 一万巻、観音 三昧経一 百巻を読み奉ら む」といふ 。十 四年歴 て、薬師経 二千五 百 巻、金 剛般若 経千巻、観世 音経二 百巻を 読み奉 る。唯し 千手陀 羅尼は 間無く誦 せり。未だ巻数 に満たぬ に 、病 を受け し歳よ り以来 、逕る こと二十 八年、疽、自然に口 開き、膿 血を流 し出し、平 復する こと願 の如くな りき 。実に知る 、大乗の 神咒の 奇異し き力と 、病人行 者の 功を積め る徳となること を。「無 縁の大 悲は 、至感の 者に 、異形 を 播ス。無相の 妙智は、深信の 者に 、明色を 呈す 」と者 へるは 、其 れ 斯れを謂 ふなり 。 (『霊異 記』下巻 第三十 四縁 )・・・
8の義通という男は自身の病の原因は宿業にあると認識し、現世での病の完治を諦めて仏道に帰依しようと考える。義通は、義禅師を呼び『方広経』を読経してもらうことによって病が治癒する。義通と禅師の功徳について「感応の道諒に虚しからぬことを」と評しており、仏教帰依が感応の道に通じ、病者の信仰心と禅師(『方広経』)との功徳によって完治が達成したと説く。
9は、巨勢呰女という女の首に大きな腫瘍ができる。呰女はこれを自分の「宿業」が原因であると考え、剃髪をして戒を受け、大谷堂に移り住んで仏道修行をする。十五年後、行者である忠仙が現れ、彼の発願と呰女の修行によって二十八年後に腫瘍が癒えたという。この説話も、病者である呰女のみではなく、その姿に哀れみを覚えた行者の登場によって快癒へと展開する。
武田比呂男氏は、『霊異記』の宿業は修正が可能なものとして「宿業としての〈やまい〉が、来世での救済を志向する契機となっているという意味では、往生志向の可能性をはらんだ説話とみることができるのではないか。」と指摘するように、病者は「宿業の招く所」という常套句によって罪を自覚し、病の治癒を最優先するのではなく、善行に勤めようと志す。宿業の滅罪方法は、病者の自覚を契機とした仏道修行にある。その上で、宿業を背負った病者にもその信心の姿に哀れみを覚えた人間の介在が生じ、そこから罪を滅するための周囲の働きかけが描かれているのである。つまり、盲目や宿業の病を通して救済を語る上で、『霊異記』は他者を媒介とすることを必須、特徴としていると考えられる。
先述のように、本縁ではその役割が壇越であった。病人の経典読誦だけで願いは遂げられず、信心の強さに心を動かされた周囲の人間の介在が快癒への要因として現れてくるのである。この説話展開としての要因は、『霊異記』というテキストの主題と関わるものであろう。『霊異記』は各序文において、人々へ悪行を戒めて善行を奨励する。「深く信じて善を修め、以て生きながら祜に霑ふ。」(『霊異記』上巻序文)という善行と信心によって、世に起こる悪行の抑制を呼びかけたのである。既に『霊異記』編者と目される景戒の存した時代は末法の世であり、僧職の濫行も蔓延る状況であったことは『日本後紀』の延暦年間記事から知られる。『霊異記』は東アジア仏教圏に見える感応譚を享受しつつも、読経による諸仏との直接的な感応のみを語るのではなく、病者の信心を援助する人々の姿をそこに示したものと考える。
7 おわりに
本稿では、『霊異記』下巻第十一縁と「郷歌」、「禱千手大悲歌」との比較を起点として、東アジア仏教文化圏における盲目譚を取り上げ、病における信仰と願の共通性とそれらを救済する方法の描き方を検討した。比較対象とした「郷歌」の場合、娘の盲目は後天的なものであり、千手観音への帰依と歌によって娘の眼は治癒され、願を込めた歌によって観音と通じたと称賛する。一方『霊異記』の場合、母の盲目は宿業から来る先天性のものであり、この宿業を認識を通して薬師仏を信仰するが、壇越の介在や桃脂といった事物などを媒介とする。『霊異記』の他の盲目譚・宿業による病もこれと同様で、病者の至心にあわれみを持った人々が病者に対して働きかけをするのである。
無論、現実において個人の信仰の深浅によって病が治癒することは無く、宿業も病者自身に向けられた観念というより、病の原因を説明し得ないことに起因する言説であるから、仏典の内容は信徒を獲得するための方便ともいえる。『霊異記』においても、様々な霊異を示して仏教の験力を人々に知らしめることが書物の特徴としてある。その上で『霊異記』の病治癒譚は、漢訳仏典の世界における信仰の様相を基盤とし、種々の経典の効能を記しながら、諸仏への至心とそれに心動かされた周囲の人々の援助を媒介させる展開を形成していた。『霊異記』の盲目説話は、東アジア仏教圏の感応譚を享受し、そこに人間の善行を奨励させるための意義を持つ説話であると位置づける。 
 
美作国英多郡の鉄山について

 


『日本霊異記』下巻第13話に「法花経を写さ将として願を建てし人、日を断つ暗き穴にて、願力に頼りて、命を全くすること得る縁」と題する、次のような説話が載せられている。
考謙(称徳)天皇の時代、美作国英多郡に官営の鉄山があった。国司が役夫10人を使って鉄穴で採掘していたところ、落盤事故があり、−人の男が生き埋めとなってしまった。圧死の知らせを受けた、男の妻子は悲しんで観音の図像をつくり、写経をおこなって7日が経過した房方、穴の中の男は1.かねて発願している法華経の写経はいまだ完成していない。もし命を永らえることができるならば必ず成就したい」と祈願した。するとそのとき、人指指ぐらいの穴が開いて日光がさしこみ、その隙間から観音の化身である−人の僧が入ってきて、「汝の妻子が私に飲食を施して、私に汝を救わせた」といって食物を与えて立ち去った。しばらくして、2尺(60cm)四方,長さ5丈(15m)ほどの穴が天井まで通じた。ちょうどそのとき、30人余りの山人が葛を取るため鉄山に入ってきた。その人影をみた穴の中の男は大声で助けを求めた。そこで山人たちは葛で縄と髄をつくり、男を地上に引き上げた。助けられた男からこの話を聞いた国司は、大層感動して、知識を結成して男のかねての発願であった法華経の書写を完成させてやった。
以上の物語は、8世紀後半の考謙(称徳)天皇の代、美作国英多郡の官営鉄山の落盤事故で生き埋めとなった−人の男が仏教信仰により奇跡的に救出されたとする内容のものである。物語の主眼は仏教の因果応報を説くことにあり、そのすべてを史実とみることはできない。しかも、この説話は唐の『冥報記』上巻第8話とモチーフが極めて類似している。その『冥報記』の概要は次のとおりである。
「 東蕊(534〜550)末の頃、都の人が西山に入って銀砂を採取していた。仕事を終えて穴を出ようとしたとき、落盤事故が起こり−人が生き埋めとなってしまった。崩壊個所には日光の差し込む小さな穴が空いていたが、男は脱出することもできず、ただ一心に念仏を祈るだけであった。圧死の報を受けたその父は、子の死体を捜す手立てもなく、しかも貧乏であったので、その菩提を弔う法要をおこなうこともできなかった。そこで父は粗末な食物をもって寺に詣で、最も簡素な法要の執行を依頼した。ところが、美食に’慣れた僧侶たちは粗末な食物に見向きもしなかった。父が泣き悲しんでいると、−人の僧侶が哀れんで食物を受け、まじないを唱えてくれた。すると、その日のうちに、穴の中の男のもとに−人の僧侶が現れ食物を与えた。それを食べた男は二度と飢えることなく、文帝(550〜560)が即位して、西山に涼殿を造ることとなった。そのため工匠らが大岩を取り除くと、穴の中で人が生きているのが発見された。生還した男を迎えた父母は大層喜び-族をあげて仏教に帰依した。 」
以上のように、二つの説話に共通性のあることは一見して明らかである。『日本霊異記』は薬師寺の僧景戒が弘仁年間(810〜823)頃に編纂したもので、その序文にも記されているように、653年頃に編墓された唐の『冥報記』を参照している。したがって、『日本霊異記』下巻第13話は『冥報記』上巻第8話の翻案とみなすべきであろう。しかし、それは因果応報の仏教思想を説くためのモチーフを借用したのであって、それ以外の説話の内容は景戒自身によって構成されたとみてよい。そこで注目されるのが、『冥報記』が東蕊末の首都近郊での銀砂採取中の事件とするのに対し、『日本霊異記』は奈良時代の美作国英多郡の官営鉄山での事件としていることである。前者から後者を机上の作業のみで念出することは困難であろう。とすれば、実際にそこで落盤事故が起こったかどうかは疑問としても、8世紀後半の美作英多郡に国司の経営する鉄山があったことは認めてよいだろう。
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では、美作国司の経営する鉄山とは一体いかなる性格のものであろうか。『延喜式』巻24主計上によれば、美作国から調として鍬・鉄の貢納が定められている。また、平城宮跡・京跡からも、美作国英多郡大野里から鉄(『平城京木簡一』)、同勝田郡和気郷から鉄(『平城宮出土木簡概報12』)、英多里から披(同)を貢納する木簡が出士しており、うち和気郷の鉄は調と明記されている。このような状況からすれば、『日本霊異記』に記される美作国英多郡の官営鉄山とは、調鉄を都に貢納することを目的とするものと考えてよいだろう。
次に、『日本霊異記』の説話によると、男は深い穴に閉じ込められたとされているので、その鉄山の操業形態は砂鉄採取ではなく、地下穴を穿っての鉱石採取と考えられる。岡山県の鉱石を原料とする製鉄については、総社市千引力ナクロ谷遺跡で6世紀後半〜末頃の製鉄炉(『奥坂遺跡群』総社市教育委員会)、真庭郡落合町須内遺跡で6世紀末〜7世紀前半頃の鍛冶炉(『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告11』)、津山市狐塚遺跡から7世紀初頭頃の鉄鉱石と鉱石製錬津(『狐塚遺跡発掘調査報告』津山市教育委員会)、同築瀬古墳群から6世紀後半頃の鉱石製錬津(『築瀬古墳群』津山市教育委員会)が検出ないし出土している。岡山県においては、6世紀後半頃の製鉄確立以降、砂鉄製錬と鉱石製錬が並存したことは明らかである。このような状況からすれば、8世紀後半の美作英多郡に鉱石製錬の原料となる鉄鉱石採掘穴の存在を想定することは不自然ではないだろう。
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美作国司の経営する鉄山の所在について、『日本霊異記』には英多君陪'1内とあるのみで、詳細な地名を記さない。『和名類栗抄』等によると、英多郡には英多・江見・吉野・大野讃甘・大原・栗井・広井・楢原・林野・巨勢・川会の12郷があり、その郡域は現在の大原町・作東町・美作町・英田町・勝田町・東粟倉村・西粟倉村の5町2村に及んでいる。したがって、国司経営の鉄山をこのうちのどこかに想定することが可能であるが、その具体的な所在を確定することは現状では不可能である。しかし、若干の手がかりがないわけではない。
それは、先にもふれた平城京跡出土の木簡である。
「美作国英多郡大野里鉄一連」(『平城京木簡一』)これは平城京跡左京三条二坊のいわゆる長屋王邸の東辺部の南北溝SD4750から出土したもので、美作国英多郡大野里から貢納した鉄一連の貢進物付札である。単位が連とあるので、この鉄は製品ではなく鉄素材と考えられる。かつ和銅6年(713)備前国から美作国が分国し、霊亀元年(715)里が郷と改められているので、この木簡の年代は713年から715年の間である。大野里の擬定地については、『東作誌』吉野郡大野保条に川上.滝・田井・桂坪・赤田・立石・野形・小房の8村が記され、とりわけ川上村の古名を大野村とされていることから、現在の大原町川上を中心とする地域と考えられる。したがって、8世紀初頭の英多郡大野里内で都に貢納する鉄素材を製作するための鉄製錬がおこなわれ、さらにはその原料となる鉄採鉱が実施されていたことを推測することが可能である。その製錬の原料が砂鉄か鉱石か不明であり、かつ『日本霊異記』から知られる8世紀後半の英多郡鉄山と8世紀初頭の大野里の例をただちに結びつけることには慎重であらねばならないが、一つの可能性として『日本霊異記』の英多郡鉄山を現大原町川上周辺に擬定する案を提出しておきたい。
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すると、次の問題は大原町川上周辺に古代の鉄鉱石採掘場が存在するかどうかである。日本の製鉄においては、近世以降は砂鉄を原料とする、いわゆるたたら吹製鉄法に一元化され、古代に確実に存在した鉱石製錬法は中世以降ほぼ消滅してしまった。したがって、古代の鉄鉱石採掘場が現代人に認識しやすい状態で残存していることはありえず、人里離れた山深くに埋もれているか、もしくは鉄以外の別の鉱石採掘場となっているかである。
そこで、筆者の注目するのが大原町川上に所在する金谷鉱山である。これは川上川源流に近い標高約450mの谷底にある鉱山である。I東作誌』大野保川上村条に「金山」として、「往古銅山あり。鉱数カ所にあり。此谷奥、上村分にも銀鉱あり。慶長の頃まで銀を出す。森忠政侯、入国後国中を巡視し、此所に至りIWIの銀を得るを以って金汁作物に害ありとて停止せられしと云ふ」とある。それによれば、金谷鉱山は慶長年間(1596〜1614)以前に遡る銀・銅の鉱山で、津山藩主森忠政の執政期(1603〜1634)に農作物に被害があるとの理由で廃止された。その後、明治12年(1879)に採鉱が再開され、昭和33年(1958)に休山となり、現在に至っている。鉱種としては金・銀・銅・鉛・亜鉛・硫化鉄鉱がある(同和鉱業株式会社柵原鉱山所資料による)。
以上、『日本霊異記』の英多郡鉄山から出発して、大原町川上の金谷鉱山にまで議論が及んだ。その間、憶測に憶測を重ねたきらいもあるカミ今後の保存の問題もあり、あえて試論を提出した次第である。  
 
魚を食う僧   霊異記下巻六縁考

 

「霊異記」の下巻第六話は、「禅師の食はむとする魚、化して法華経と作りて、俗の誹を覆す縁」と題されたものであるが、その話の筋はほぼ次のようなものである。
吉野山中に海部が峯という山があり、そこに一入の僧がいて仏道の修行に励んでいる。精進の果に体力消耗し、起ち居もままならぬことになる。そこで滋養物として魚を食いたく思い、弟子に命じて魚を買いに行かせる。弟子は師のために紀伊の国の海岸まで出かけて新鮮な鮨入尾を購い、吉野への道を戻って来る。すると、途中で道連れとなった三人の檀越が、生臭い汁の垂れる櫃をいぶかしく思って中味を尋ねる。弟子は、「これは法華経です」と答えていいのがれるのだが、「大和の国内の市の辺」(今の五条市周辺か)まで来たときに、檀越たちは、「お前の持っているのは経ではあるまい、魚だろう。開けて見せろ」と追求の度を強め、とうとう魚の入っている櫃を開けさせてしまう。ところが、櫃を開けてみると、入尾の鮨は法華経八巻に化していた。檀越たちは、「恐れ異しみて去」って行く。しかし、一人は疑って、なおも事の次第を見届けようとひそかに尾行して吉野まで行く。一部始終を弟子から聞いたかの僧は、天の加護を知って感動し、その魚を食う。様子を窺っていたかの檀越は、魚が経に化した不思議な事実を確認し、天の守護の実在を信じる。そして自己の浅はかな了見に基づく行為を罪として告白し、僧の大檀越となる。――というのである。
この話の眼目は、仏道に精進する者には、天の加護があって、危難に際しては、不可思議な現象もてその権威が維持されるということを説く点にあろうかと思われる。しかし、それはそれとしても、なお、この話には、それが仏教説話である限り、一つの問題が残ると思われる。それは、僧が魚を食わんとし、又、実際に魚を食うという点である。それは常識に従うなら、仏教者としての持戒に反することであり、いわゆる破戒である。この説話にあっては、だからこそ、話のしめくくりとして、「当に知るべし、法の為に身を助くるに、食物に於きては、雑毒を食へども、甘露と成り、魚宍を食へども、犯罪にあらず、魚化して経となり、天感じて道を斉ふることを」といい、おっかぶせるように我田引水的合理化が行われなければならなかった。同じような思想は、上巻第四縁の末尾にも見えていて、それは次のように述べられている。即ち、「当に知るべし、これ聖の変化なることを。五辛を食ふは仏法の中の制にして、聖人用ゐ食へば罪を得ること無きのみ」と。この「五辛を食ふ云々」は、それに相当する説話の部分が現存の「霊異記」の本文に見当らない。恐らく失われたのであろうが、戒を破って五辛を口にし、問題を起した僧の話がそれに先立って語られたことは容易に推理できる。こうした合理化がわれるのは、語り手が仏教者である限り、当然のことではあろうが、「霊異記」の編者の意識を透視してみるときに、彼が僧として、肉食することに対し深く罪悪感を持っているか否かは、微妙な問題となって来るといわざるを得ない。
その点に閑しては、この説話とほぼ内容を等しくするものを記録したと見られる「三宝絵詞」、「法華験記」、「今昔物語」、「元亨釈書」等の説話のプロットを比較点検することが事柄を明らかにする筈である。
「三宝絵詞」では、魚を食うことを提案するのが弟子の僧であり、更にその言の中に、病僧の肉食が許されていることをいわせた上に、「売をかふはつみかるかなり。心みになほ魚をまゐれ」という科白まで用意し、更には又、「ねむごろにすすむれば、『なにかは』といふ」として、当初、師の僧は全く肉食の意志を持たなかったことを暗に強調するのである。又、使の者の持ち帰った魚を師の僧は口にしないことに話を改変していることも注目に価すると思われる。「法華験記」でも、養生のために魚を食うことは、師の僧からいい出されるのではなく、弟子の提案ということになっているし、一度は弟子の提案を受け入れた師の僧が、最終的には魚を食わぬことになるのも「三宝絵詞」と同断である。「今昔物語」の話は、この場合、「霊異記」の翻訳という性格が強く、師の僧が肉食のことを考えつき、弟子に相談するという形になっているし、持ち帰った魚を食うことにもしてある。しかし、「元亨釈書」は、肉食の提案が弟子によってなされ、且つ、それに対し、「恩不レ聴」と明記されているのであるから、「三宝絵詞」や「法華験記」に近く、又、それら以上に師の僧の破戒への抵抗が語られている。そして、師の僧は、「生二希有心一不レ食二其魚こということになるのであるから、その点も「三宝絵詞」や「法華験記」の扱いに従っていることになるのである。以上を整理すると、「今昔」以外は、微細な点では多少の出入りはあるにしても、明らかに「霊異記」の説話のプロットとは異る点を共通して有することを確認し得るのである。「法華験記」は、話の末尾に、「霊異詑に見えたり」と記すのであるが、日本思想大系本では、頭注において、「本書の著者は、『霊異記』を見ていない」としている。なるほど、「法華験記」は、「霊異記」に見える法華経関係の説話を、「三宝絵詞」に記載するもの以外すべて逸しているから、たぶんそうであろう。しかし、この話は、「三宝絵詞」を間に置いて、「霊異記」下巻第六縁の話とつながることはいうまでもない。「霊異記」や「三宝絵詞」に見えぬ広恩という師の僧の名が、「法華験記」に見えるのは、一つの特色であり、「霊異記」の話とルートを異にするのかも知れぬが、同時に、僧の居住する山の名が、他の本ともども海部が峯となっていることは、やはり、間接的であるにもせよ、書承の段階では「霊異記」を出発点としていることを感じさせる。
さて、以上の書物に記載されたこの説話のプロットを相互に点検してわかることは、「三宝絵詞」、「法華験記」、「元亨釈書」等にあっては、肉食の罪悪感を可能な限り師の僧に付与しようとする語り手の意識が顕著であるということである。それはとりもなおさず、語り手自身の肉食罪悪視の強度を示すものでもあろう。「霊異記」にあっては、この点他の本の場合よりも、語り手の罪悪感が稀薄であるように思われ、この点に興味が著しく感じられる。神田秀夫氏は、「日本霊異記覚書」(成隈国文一) で、この説話に触れ、「(魚を)食わなくては、この話はちっとも面白くない。奇蹟が起ったから、その入尾の魚が急に畏れ多くなって、食えなくなったとでも言いたげな、前記三書(「三宝絵詞」、「法華験記」、「元亨釈書」)の受けとり方は、世俗的には、いかにも尤もらしくて、結構なお話になっているのかもしれないが、仏の意志には明らかに反している。魚が俗人の目には法花経に見えるようにしたのは、この魚を童子に無事に持って帰らせ、禅師に食べさせようという仏の意志である。禅師が、もし、その加護を感じ得る人間ならば、自分が栄養を摂ろうとした態度の正しかったことを、ますます確信して、うむ、これはうまい、うむ、うまいと、その魚を賞味しなくてはならぬ。それがもし、できなくて、仏に対して、へんな遠慮をするなら、この禅師の精神はまだ、あやふやな低調なものであると見なくてはなるまい。つまり、三宝絵詞中巻十六、法華験記巻上第一○の平安朝的感性は、話を美化したつもりで、かえって弱いものにしてしまっている」といわれる。これは、肉食罪悪感以上の、仏の意志を感じ取るか否か、それを信じ得るか否かの問題でこの説話を見、かつ、説話の評価にまで及ぶ重要な発言であると思う。しかし、私はなお罪悪感の問題にこだわり、「霊異記」のこの説話における罪悪感の稀薄さの由って来るところを探索してみたいと思う。
所で、わが国の仏教的戒律は、鑑真渡来以前は主として「『玲伽論』を主体にした解釈に基づいて、『四分律』を依用し」、鑑真以後は、「四分と梵網は三聚浄戒の中に総摂され、統一されてくる」(石田瑞麿・鑑真-その戒律思想-) という。三聚浄戒や梵網戒は、数多くの規範を含み、五戒、十善戒の比ではない。「養老令」第二巻に見られる「僧尼令」二十七条は、唐の「道僧格」に原拠を持つといわれるが、恐らくは、それとても、何らかの戒律を基準として設けられたものであろう。「僧尼令」の第七条には、「凡僧尼、飲レ酒、食レ宍、服二五辛一者、計日苦使。若為二疾病一薬分所レ須、三綱給二其日限一。(後略)」とあるが、ここで注意されるのは、病気の場合、薬用としての酒肉は、制限を設けられつつも、許されていることである。ただ、「霊異記」のこの説話の場合、そのことは話者の意識にないと私は思う。「三宝絵詞」の場合と大きくその点は異るのである。松浦貞俊氏は、「日本国現報善悪霊異記註釈」の下巻六縁付言の項で、「『根本説一切有部毘奈耶薬事』巻第一に、僧、病衰の時には、『時薬』『更薬』『七日薬』『尽寿薬』の四種薬を用ふるを聴した事が見え、『言二時薬一者。一二紗。二二餅。三二麦豆餅。四二肉。五二飯っ此並時中合食。故名二時薬一』と説かれて居るから、薬物、栄養物として『肉』を採ることはあったのである」とされ、更に、「本条(「霊異記」下六)で、法の為魚宍を食ふと錐も犯罪に非ず、と云ふは、此等の思想に準拠して居るのであらう。薬用としての魚であったのだから、本書に記す通り、『大僧が之をたべた』とある可きで、『三宝絵詞』や『法華験記』の様に、食ふを中止したとあるは却って変である。-不レ食レ魚といふ筋に変へた為め、始め魚を求めたのも、弟子の意志に出でたという筋に改めた、即ち上掲のニケ所は作為の結果として相関的に表れたものだとの推定が出来ると思ふ。殊に『三宝絵詞』に『売をかふはつみかろかなり』とあるは、『陸設置害。水設網署。此是以網。若於屠殺人間以銭買肉。此是以財網肉』(法苑珠林、巻九十三) と云ふに対比すれば、決して奉仏者の言説として正しいものでは無いこと明らかである。斯かる安直な妥協的態度が見えて居ないのは幸である」と断じておられる。しかし、「根本説一切有部毘奈耶薬事」などの記事を拠りどころにして、病僧の肉食を肯定した上で、「霊異記」下六の説話が、「法の為魚宍を食ふと錐も犯罪に非ず」ということを主張しようとするのだと見るなら、そこに説話との問に隙間が生ずるような気がしてならない。第一、病気の場合は、肉食が僧にも許されるという事実を、「根本説一切有部毘奈耶薬事」や「僧尼令」などを盾にとって打ち出すのなら、弟子は檀越に魚のことをかくす必要はなかった。話の中で、弟子は真実を語っても、それが認められぬことをよく知っていたからかくしたのである。仏教者の病中の肉食が、たとえ、立て前として認められていようと、それを認めたくないとする一般の本音を語り手も見て取っているのである。そして、恐らくは、語り手の意識のある部分は、一般の本音と乖離するものではなかったであろう。にもかかわらず、この話では、吉野海部が峯の大僧は、いとも無造作に自ら魚を食いたいといい出し、結局は魚を食って話は終ることになる。そこをどう考えたらよいのであろうか。
この話の語り手を編者景戒であるとするなら、やはりこの話にも、景戒の単一ならざる顔が見えて来る。そして、その一つの顔は、肉食をさして罪悪視していない表情を持つのである。そこには、仏教渡来以前のわが国固有の信仰の影が落ちていると私は見る。景戒が単純に仏教一色で塗りつぶされる体の人物でなく、固有の信仰思惟も複雑にその構成要素をなしている人物であるらしいことは、「霊異記」の諸説話を通じていえることなのである。
わが国の古代の信仰生活にあって、最も古い神は、自然神であり、穀霊や動物神であった。穀物それ自体、山の幸、海の幸それ自体が神であった。従って、古くは、人に食われるもの、人の生命を維持するものがこの国の神であったのである。そうした事柄の痕跡が、この話に認められはしないだろうか。そういえばへ行基も魚と縁の深い人であった。里人に膳をすすめられてそれをこだわりなく食し、しかる後生きた魚を口から次々と吐き出した話(「法華験記」、「日本往生極楽記」、』今昔物語」、三宝絵詞」)、有馬山中に入ろうとして病人に出合い、その乞を容れて海浜に急行し、魚二尾を求め来り、味の如何を問われて、早速に口中にし、更に病人の膿汁を吸ってやったところ、病人変じて金色の薬師となった話(「古今著聞集」)、阿波国八坂にあって、塩鯖を運ぶ馬方に、一尾を所望するのに、馬方は行基を軽んじて鯖を与えない。そこでこらしめに、「大坂や入坂々中鯖一つ行基にくれで馬の腹病む」と歌ったところ、馬は腹痛のために動くことができない。馬子は後悔し、行基に鯖を贈ったところ、馬の腹痛はなおった。行基はくだんの歌の下の句を「行基にくれて馬の腹止む」と改めたという話(.雲錦随筆」)などは、いかにも行基が仏教者の概念を超える存在であることを物語る。その人物像には、後代の語り口を通してさえシャーマンとしての側面がつかめるような気がする。行基は帰化人系の人物であるが、少年時代から山林に深く入り込んだと伝えられるから、原始神道的な世界にも触れることは多かったに違いない。彼も亦「魚を食う僧」の一人であったのである。
ところで、「霊異異記」下巻第六縁の話に立ち戻って、二つばかり、如上の点に関連すると思われる素朴な疑問を提出しておきたい。
先ず、師の僧の居住する場所が、吉野山中の海部が峯であるという点である。これは、狩谷液斎の「孜讃」によると、「在二吉野郡小川荘麦谷村葡岳一」ということであるが、それは、「大和志」吉野郡古蹟の条、「廃高峯寺」の項に見えるとはいうものの、何故それがそうなのかよくわからぬ記述である。やはり、確証はないとすべきであり、従って、われわれは吉野と海部の結びつきを一応異としなければならない。次には、吉野の僧が、薬餌として魚を求めたとき、何故に紀伊の海の魚が求められねばならなかったか、という疑問である。吉野の川にも、いわゆる吉野の鮎を始めとして、ぐさぐさの川の魚はいた筈である。これは理解し難いことであると思う。
第一の問題に関しては、吉野川が紀の川となり、紀伊の海に注ぐことから、その山の名が、仮に虚構のものであるとしても、一筋の線が事実と名称の間に張られると考えてよい。紀伊の海辺に蝿鋸した海部にとって、紀の川、更にその上流の吉野川は、聖なる川であったと思われるからである。
第二の問題については、第一の問題とも関連するのであるけれど、「霊異記」のこの話に先行したであろう一つの伝承を想定し、その痕跡と見ることで解決できるのではないかと思われる。現存もせず、又、その存在したことの証明もできぬ一つの伝承を想像するのも問題ではあるが、「霊異記」の説話の輪郭を僅かな手がりとして推理するならば、ほぼ次のようなものを考え得るのである。即ち、紀伊の国の海部にとっての聖なる川、紀の川の上流に、神を杞る聖域があり、一人の司祭者がいた。年老いて身心衰弱したので、使の者を紀州の海に遣し、海の幸をもたらして貰い、彼らの神である魚を食づてその不可思議なカをわが身に感染せしめ、一挙に変若った――というのである。
「日本書紀」は、かの入岐大蛇退治の条で、素箋鳴尊が地上に出現したところを、「出雲国簸之川上」(本文、一の一書、三の一書、四の一書)、「安芸国可愛之川上」(二の一書)とする。この中、特に注目すべきは四の一書である。それは、「是時、素菱鳴尊、帥二其子五十猛神輔、降二到於新羅国一、居二曽尸茂梨之処一。乃興言日、此地吾不レ欲レ居、遂以二埴土一作レ舟、乗レ之東渡、到二出雲国簸川上所在、鳥上之峯一。」というのであるが、これには他の所伝にない山への来臨という要素がある。松前健氏は、素箋鳴尊を海人族と近親関係にある神として性格づけ、「この神は、琉球の二色人やマヤの神が、ニライ、ニルヤ、儀来、マヤの国などという海上の楽土から舟に乗り来訪するように、やはり海の果の根の国から舟に乗り、豊饒をもたらすマレビトであったのであろう」とされる。そうであるなら、簸の川や可愛の川(江川か)は、出雲の海人族にとって聖なる川であり、簸の川の川上なる鳥上の峯は、彼らの神の来臨する聖地ということになる。
伊勢の海人族の場合はどうであったか。当然のこととして、彼らの神は、「常世の波の重波」に乗って来臨し、五十鈴川の河口から更に遡ってその川上に向かう筈である。随って、五十鈴川こそ伊勢の海人族にとって、聖なる川であり、その川上には、聖地としての山岳が存した。海の彼方から来臨する神は、同時に垂直的に聖なる川の川上にも天降りますと思惟され、そうした伝承も生んだのである。筑紫申真氏によると、五十鈴川の川上に所在する神路山は、天照山とも呼ばれ、海人族の主神アマテル(アマテラスの前身)の「みあれ」の場所とされ、そのあたり一帯は、海人族の高天原であったという。そして彼らの神を招いたり送ったりする儀礼は、新しく伊勢の神として大和から移されたアマテラスを杞る神事の中に編入され、今日に至っているという。
賀茂川の上流に鎮まる貴船の社も、その水系を下っていけば、難波の海に注ぐのであるから、難波の海人族の信仰の所産であるやも知れず、その奥宮に現存する岩船も何となく意味が解けそうな気がしないでもない。
以上のように考えて来るとき、紀伊の海人族にとって、紀の川、更にその上流の吉野川が、彼らの聖なる川であり、その水源に聖地を持ったことは、十分に蓋然性の認められることであると思う。そしてその流域には、数々の海人族の伝承が行われたことと思われる。吉野川、紀の川の流域は、今日こそさびれて淋しい雰囲気の漂う地であるが、上古は大和と海を結ぶメインストリートであった。水陸の交通は繁く、想像以上に活気に満ちた要路であった。当然、海人族のものに限らず、神話的伝承や説話、或いは巷間の世間話等の口碑は多かったと思われる。そして、それらは、長い間には、相互に交渉を持ったことであろう。
「霊異記」下巻六話は、そうした先行の伝承を底に秘め、一部それに動かされたりしながら語られたような気配が見える。話者の心意にも固有の信仰の残照のようなものが漂うことによって、仏教説話としては完全な形に整形されないで終った。そこが又この話の面白いところでもあるのだが、いうならば、魚を食うことが仏教者の罪とされた時代に、神としての魚を宗教的な意味を含んで食っていた前時代の影が未だ落ちているところに成った説話ではないかと思われるのである。ともあれ、「霊異記」下巻六縁め説話を継承する後続の説話が、「霊異記」のそれと微妙な違いを見せているところに、「霊異記」の編者の内面の一端がはからずも浮かび出て、興味深いと思われるのである。 
 
『日本霊異記』における仏法

 

本論文の目的は『日本霊異記』を題材とし、日本の仏教のー側面を明らかにすることである。『日本霊異記』は、日本古代に記された仏教説話集としてよく知られるものであり、その説話のなかでは、当時の人々の日常生活を舞台にした様々な不思議な出来事が語られる。
この『日本霊異記』は、古代の歴史的状況を論ずるための手がかりとして注目され、また、文学作品として評価され、あるいは、国内外の説話と共通のモチーフを豊富に含む文献として研究されてきた。『日本霊異記』が含む内容は多様であるから、そこから読み取り明らかにし得る事柄も、多様であると言えるだろう。
そのような『日本霊異記』が含む内容のなかでも、本論文が試みるのは、『日本霊異記』の各説話が表現する仏教のありょうを解明するということである。「善悪の状呈すにあらずは、何を以てか、曲執を直して是非を定めむ。因果の報を示すにあらずは、何に由りてか、悪心を改めて善道を修めむ」(「霊異記上」30頁)
と述べられているように、『日本霊異記』のテーマになっているのは、因果応報の道理である。因果応報とは具体的には、善因善果、悪因悪果をいう。善い行為を行うと善い結果が得られる。悪い行為を行うと悪い結果を得ることになる。『日本霊異記』によれば、人間をはじめ生き物の運命は善因善果、悪因悪果の法則によって支配されている。
そして、善因を行った者が善果を得、悪因を行った者が悪果を得るということは、現にこの日本でも起こっている。そうした事実を収集し、示すことによって、因果応報の道理が真実であることを人々に信じさせ、善へと赴かせる。このことが『日本霊異記』の目指すところである。
ところで、『日本霊異記』における善行と悪行は、現在の常識とは異なった特殊な意味合いを持っている。簡単に言えば、仏法を信じるか否かということが、『日本霊異記』における善行と悪行の基準である10 仏法は仏菩薩、経典、戒律や行、僧などの形で『日本霊異記』のなかに登場する。
これら仏菩薩に対して祈願、称名、供養を行い、経典の書写、読謂を行い、仏が教える通りに持戒し、布施、忍辱などの行をおこなうことが、仏法を信じるということの具体的なあり方である。これらの善行を行うことによって、現世や来世の幸福、すなわち善果がもたらされる。善果とは具体的には、富貴を得ること、長寿を得ること、災難から救われること、病が癒えること、極楽浄土への往生などである。
これに対して、仏菩薩の像や仏塔を破壊し、経典を敬わず、仏が戒める殺生、倫盗、邪淫、不孝、不正な取引などを行い、仏法に帰依する僧を迫害することが、仏法を信じないということの具体的なあり方である。これらの悪行を行うことによって、現世や来世における苦難、すなわち悪果がもたらされる。変死、重病、災難、労働に苛まれる牛への転生、地獄での責め苦などが、悪果の例である。
このように、仏法を信じるのなら幸福がもたらされ、仏法を信じないのならば苦難がもたらされる。仏法が要となって因果応報の法則が働いている。それでは、このような仏法とは『日本霊異記』の中でどのようなものと考えられているのだろうか。以下に検討してみよう。
1、仏菩薩
『日本霊異記』のなかには、仏菩薩にまつわる説話が数多く収められている。これらのうちで目を引くのは、仏像に起こった異常な出来事を物語る一群の話である。例えば、中巻第二十三「弥勅菩薩の銅像の盗人に捕られて、霊しき表を示し、盗人を顕しし縁」は次のような話である。勅使が夜に巡回していると、「痛きかな、痛きかな」(「霊異記中」177頁)と泣き叫ぶ声が聞こえる。そこで駆けつけてみると、盗人が盗品の弥勤菩薩の銅像を打ち壊しているところで、あった。泣き叫ぶ声は弥勅菩薩の銅像が発していたのである。
これと同様に、中巻第二十二「仏の銅像の盗人に捕られて、霊しき表を示し、盗人を顕しし縁」では、盗まれて壊されていた仏像が泣き叫ぶ声をあげる。あるいは、中巻第二十六「未だ仏像を作り畢へずして棄てたる木の、異霊しき表を示しし縁」では、彫りかけの仏像が人や獣に踏まれて「鳴呼、痛く践むこと莫れ」(「霊異記中」196頁)という。中巻第三十九「薬師仏の木像の、水に流れ沙に埋れて、霊しき表を示しし縁」では、水底に沈んだ薬師仏の木像が、「我を取れ、我を取れ」(「霊異記中」259頁)と声をだす。下巻第二十八「弥勅の丈六の仏像の、其の頚を蟻に輔まれて、奇異しき表を示しし縁」では、弥勅菩薩の像が首を蟻に噛み砕かれて、うめき声をあげる。
この他にも、中巻第十七「観音の銅像と鷺の形と、奇しき表を示しし縁」では、池に沈んだ観音菩薩の像のありかが、不思議な鷺によって示される。中巻第三十六[観音の木像の神力を示しし縁」では、観音菩薩の像の首がひとりでに切れ落ち、翌日には自然に元通りになっていたばかりか、光を放っていた。中巻第三十七「観音の木像の火難に焼けずして、威神の力を示しし縁」では、観音菩薩の像がひとりでに火事から逃れ出た様子が語られる。
以上が仏像にまつわる不思議を語った一連の説話であるD ところで、これらの説話では共通して、不思議の原因を聖霊、あるいは法身と呼ばれるものの存在に求めている。
「木は是れ心元し、何にして声を出さむ。唯し聖霊の示したまへらくのみ。更に疑ふべからず」(「霊異記中」197頁)
とあるように、木に心はないのだから、人や獣に踏まれたからといって、本来ならば声を出すはずがない。にもかかわらず、彫りかけの仏像が声を出したことは不思議な出来事であるが、それは聖霊の仕業だというのである。
この聖霊は、『日本霊異記』の別の部分では「理智の法身」、「理の法身」などとも呼ばれている。理とは空の思想に表されるような真理のことを示し、智はその真理と合ーした智慧を意味し、法身とは仏の身体のうちの一つを指す。つまり「理智の法身」あるいは「理の法身」とは、真理そのものと一体である常住不変の仏を指す。
例えば、仏教の開祖として知られる釈迦は、誕生から入滅までその生涯が伝えられている。このような釈迦は、変化を免れない肉体を持った仏であると言える。だが、仏教徒の聞で仏の身体についての考察が重ねられた結果、真理そのものとしての常住不変の法身こそ、仏の本体であると考えられるようになった。このような考え方に従えば、釈迦の本体は法身であり、生まれ老い死ぬ肉体を持つ仏は、法身が衆生の教化のために現した仮の姿であることになる。
『日本霊異記』においても、仏の本体である常住不変の法身の存在が認められている。ただし、『日本霊異記』では、法身と関わる真理や智慧といった教説については、「理」「理智」などの言葉が登場する以外に言及されることはない。『日本霊異記』において、何よりも重視される仏菩薩の属性とは、それが超常的な威力を持っているということ、およびその力によって、現に不思議を引き起こす当体であるということである。そのことについては、例えば、「誠に知る、三宝の非色非心は、自に見えずと雄も、威力元きに非ぬことを」(「霊異記中」255頁)
と述べられている。法身は物質的な肉体を持つものではないから、目で見ることはできない。しかし、超常的な威力を持った存在として、現に活動している。そして、こうした法身の超常的な威力こそが、説話の中で語られる様々な不思議を引き起こす原因なのである。
では、なぜ法身は仏像に声を出させるなどの不思議な現象を起こすのだろうか。このことについて『日本霊異記』では以下のように解釈する。
「夫れ理の法身の仏は、血肉の身に非ず。何ぞ痛む所有らむ。唯し常住不変を示したまふ所以のみなり」(「霊異記中」177頁)
「誠に知る、理智の法身、常住元きに非ず。不信の衆生に知らしめむが為に示したまひし所なりといふことを」(「霊異記中」253頁)
『日本霊異記』のなかには仏菩薩の像が傷つけられて、泣き叫んだり、うめき声をあげるという話があった。しかし、法身は人間のように血肉を持った存在ではないのだから、仏像を壊されたとしても痛みを感じるはずがない。だから、壊されながら「痛きかな、痛きかな」などと声を発するのは、痛みを訴えることが目的ではないのだ。法身はそのような不思議によって、自己が常住不変であり、現に存在しているということを、人々に示そうとしているのである。
先にも述べたとおり、法身は人間のような肉体を持つ存在ではないから、自で見ることはできない。だから、人聞にはもともとその存在を確かめる術はないのである。しかし、法身は超常的な力を持っていて、時にその力を発揮し、仏菩薩の像などに不思議な現象を引き起こす。そのような現象によってこそ、人々は法身の存在を知り、信心を起こすことができるのだと、『日本霊異記』では考えられている。
したがって、仏菩薩の像にまつわる不思議が、『日本霊異記』に書き記されている理由とは他でもない。仏菩薩の像が起こす不思議を語ることによって、それを引き起こす威力のある仏や菩薩の法身の存在を人々に実感させ、信じさせようとしているのである。
2、化身
仏菩薩は別の場合には、隠身、あるいは反化などと呼ばれる形をとって人々の前に現れることもある口隠身、反化とは仏や菩薩の化身のことで、仏菩薩が仮に人間になって人々のところに現れてきた姿をいう。『日本霊異記』には幾人かの化身が登場するが、その例としては、聖徳太子、行基、円勢、猿の聖などの人物を挙げることができる。
『日本霊異記』においては、自ら仏法を実践し、仏法を人々に広めた功績のあるこれらの人々が、仏菩薩の化身であると考えられている。例えば聖徳太子と行基に関しては、上巻第五「三宝、を信敬したてまつりて現報を得し縁」という話が存在する。この話のなかには、大部屋栖野古という人物が仮死状態になって、極楽園へ行くというくだりがある。ここで大部屋栖野古は死んだ聖徳太子に出会い、聖徳太子とともに文殊菩薩のもとに赴くのだが、その後に聖徳太子は次のように大部屋栖野古に告げている。
「速やかに家に還りて、仏を作る処を除へ。我悔過し畢らば、宮に還りて作らむ」(「霊異記上」75頁)
この聖徳太子の言葉について、『日本霊異記』では、
「宮に還り、仏を作らむと者へるは、勝宝応真聖武大上天皇の日本の国に生まれたまひ、寺を作り、仏を作りたまふなりけり。爾の時に並に住む行基大徳は、文殊師利菩薩の反化なりけり。是れ奇異しき事なり」(「a霊異記上」76頁)
という注釈がなされている。つまり、聖徳太子が「宮に帰って仏を作ろう」と言ったのは、未来に聖武天皇として日本に生まれてきて、寺lを作り、仏を作ることを宣言したというのである。そして、その際に聖武天皇とともに活動する行基は文殊菩薩の化身であるという。
このように『日本霊異記』では、聖徳太子や行基は普通の人間ではなく、仏法興隆という目的のために、人間として生まれてくる仏菩薩であると考えられているD 仏菩薩は目に見えない存在であるのだが、人間に対して働きかけを行う。先の章で論じた説話にあるように、仏像に超常的な現象を起こし、自己の存在を知らしめるというのもその一つである。
この話の場合には、仏菩薩は人間の姿になって人間のなかに生まれてきている。そのような人物こそ聖徳太子や行基であるのだから、彼らの活動は人間の世界における仏菩薩の活動に他ならない。それでは聖徳太子や行基の活動は、『日本霊異記』においてどのように語られているのだろうか。
聖徳太子や行基など、仏菩薩の化身とされる人々が行うことは、当然のことながら自ら仏法を実践するとともに、世の中に仏法を広めるということである。そのような彼らの活動について、『日本霊異記』では、
「進止威儀僧に似て行ひ、加のみならず勝霊法花等の経の疏を製り、法を弘め物を利し、孝績功勲の階を定めたまふ。故に、聖徳と日す」(「霊異記上」58頁)
「俗を捨て欲を離れ、法を弘め迷を化す」(「霊異記中」76頁)
などと語られている。しかし実のところ、『日本霊異記』の説話の核心となっているのは、仏菩薩の化身とされる人々が行ったとされる、上記のような仏教活動の具体的様相ではない。『日本霊異記』において、それよりもなお一層重要であるのは、彼らが超常的な力を持ち、それを発揮したということである。
例えば、聖徳太子に関する話に、上巻第四「聖徳太子の異しき表を示したまひし縁」という話がある。 この話の筋は次のとおりである。 ある日、聖徳太子が道端で病んだ乞食に出会い、衣のやり取りをする口後日、乞食が死んでいたので埋葬し、人をやって墓のなかを確かめてみると、乞食の姿は消え失せていた。この乞食は実は仏菩薩の化身だったのである。
聖徳太子と乞食にまつわる以上の話の主題は、
「誠に知る、聖人は聖を知り、凡人は知らず。凡夫の肉眼には賎しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆと D 斯れ奇しく異しき異なり」(「霊異記上」59頁)
という一文に表現されていると言えよう。聖徳太子以外の人々の自に、乞食は単に賎しい人としか見えなかった。だが、聖徳太子のみがその正体を見抜き、仏菩薩の化身であることを知っていた。なぜならば、聖徳太子もまた仏菩薩の化身であり、物事を見抜く通限、つまりは超常的なカを持っていたからである。
次に、行基の活動を語る話として、中巻第二十九「行基大徳の、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、町責せし縁」というものがある。この話によると、ある時、行基が説法していると、その場に髪に猪の油を塗った女がいた。行基はこの女を見て、
「彼の頭に血を蒙れる女は、遠く引き棄てよ」(「霊異記中」214頁)
と言い、説法の場から女を追い出してしまった。このような行基の行動を、『日本霊異記』は以下のように説明する。
「凡夫の肉眼には是れ油の色なりといへども、聖人の明眼には、見に宍の血と視たまふ。日本の国に於ては、是れ化身の聖なれ隠身の聖なり」(「r霊異記中」214-215頁)
普通の人の目には、女が髪に、塗っていたものは単に油と見えていた。しかし、行基の常人を超えた目には、それが猪を殺して得た油であることが明らかだった。それゆえに、行基には女の頭に猪の血が塗られている様がありありと見えていたのである。
行基はこの話の他、中巻第七「智者の変化の聖人を誹り妬みて、現に閤羅の闘に至り、地獄の苦を受けし縁」 においては、他者の心を読む力を発揮している。あるいは、中巻第三十「行基大徳、子を携ふる女人の過去の怨を視て、淵に投げしめ、異しき表を示しし縁」では、説法を聞きにきた女性とその子供の前世を見抜いている。
このように『日本霊異記』では、行基は聖徳太子と同様に、普通の人には知り得ない物事の本質を見抜くカを持つとされている。なぜならば、行基もまた普通の人間ではなく、人間として仮に現れてきた仏菩薩であるからだ。
以上のように、仏菩薩の化身にまつわる『日本霊異記』の説話のほとんどは、仏菩薩の化身とされる人物が発揮した超常的な力に眼目を置くものであると言える。つまり、聖徳太子や行基が仏菩薩の化身であり、彼らの活動が仏菩薩の活動であるということは、彼らが超常的な力を発揮し、不思議をあらわすことによって証明されている。
なぜならば、上で述べたように、『日本霊異記』において、仏菩薩とはまず何よりも、超常的なカを持ち、不思議な現象をあらわす存在であったからだ。したがって、仏菩薩の化身の行状もまた、超常的な力を発揮する活動として描かれねばならないのである。
3、経典
『日本霊異記』には仏菩薩とともに、様々な仏教経典が登場する。そのような経典としては、『方広経』、『金剛般若経』、『般若心経』、『薬師経』、『観音三昧経』、『法華経』などを挙げることができる 。『日本霊異記』では、これらの経典にまつわる不思議も盛んに語られている。
そのような説話の例としては、まず、上巻第十四「僧の心経を憶持し、現報を得て奇しき事を示しし縁」という話を挙げることができるだろう。この話によれば、ある晩に義覚という人が、部屋の中で『般若心経』を唱えていた。唱え終わって目をあけてみると、部屋の四方の壁が消え去り、外の庭の様子がはっきりと見えた。そればかりか、部屋の中から自在に外へ出て行くことができた。このような現象を『日本霊異記』の著者は、
「即ち是れ心波若経の不思議なり」(「霊異記上」115頁)
と解説する。つまり、部屋の四方の壁治宝消え去るという不思議な現象が起こったのは、義覚が唱えていた『般若心経』の超常的な力によるものだとするのである。
ここで登場する『般若心経』とは、空の思想を説くことを内容とする経典である。具体的には、この世の一切が空であり、何ものも実体的に捉えることはできないということを明らかにするとともに、そうした空の認識を正しく得ることによって、何ものにも囚われることのない心の自由な状態が実現されると述べている。
『日本霊異記』の上巻第十四「僧の心経を憶持し、現報を得て奇しき事を示しし縁」の筋は、このような『般若心経』の教説を反映して形成されたものだと考えることができるだろう。つまり、義覚は『般若心経』の教説によって、何ものにも囚われず、妨げられることのない自由な状態を得た。そのような義覚の状態が、『日本霊異記』では、
「其の室の裏の四壁、穿げ通り、庭の中顕に見えたり」(「霊異記上」115頁)
という不思議な現象として表われているのである。
ところで、『般若心経』の主題である、実体的な思考法から脱却し、物事に対する執着から解放された心の自由な状態それ自体は、直接的には超常的な威力とは関わりのない教説である。しかし、それにもかかわらず、『日本霊異記』では、『般若心経』の空の教説が、壁が消え失せて自在に移動する不思議と結び付けて表現されている。そして、そのような現象を語ることによって、『般若心経』の持つ超常的な威力を示すことが試みられている。
このように、『日本霊異記』において経典が扱われる場合、最も重視されているのは、その経典がいかに超常的な力を発揮したかということである。ここから、『日本霊異記』が経典をどのようなものとして見ているのか、その態度をうかがい知ることができるだろう。つまり、『日本霊異記』において、経典は仏菩薩と同様に、あくまでも超常的威力を持つ存在で、あって、不可思議な現象を引き起こす当体として重要なものである。
このような経典への見方は、『日本霊異記』の他の説話からも確認することが可能である。例えば、下巻第十「如法に写し奉りし法華経の火に焼けざりし縁」という話によると、ある人が写経の法式に従い、清浄を保って『法華経』を書写した。その後、火災が起こって家が燃えてしまったのだが、『法華経』を納めておいた箱だけは、燃え盛る火のなかにあって少しも焼け損なわれることがなかった。箱を開けてみると、なかにある『法華経』は色も文字も鮮やかなまま無事であった。
「諒に知る、河東の練行の尼の、写せる如法経の功ままに顕れ、陳の時の王与の、経を読みて火難を免れし力再示したりといふことを」(「霊異記下」90頁)
という文に示されるように、ここでも『法華経』という経典は超常的な力を持つものと信じられている。 そうした力にまつわる出来事として、中国の河東の尼が書写した『法華経』の文字が、尼にしか見えなかったという不思議な現象や、陳の時代の王与の娘が、経を読んで、火難を免れたという出来事が挙げられているD そうした力が日本においても発揮され、「如法に写し奉りし法華経の火に焼けざりし縁」で語られるような不思議を引き起こしたのであると、『日本霊異記』は説明している。
この他にも、中巻第六「誠心を至して法華経を写し奉り、験有りて異しき事を示しし縁」では、『法華経』を納めるために作った箱が、不思議にも伸び縮みするという現象が起こる。また、下巻第一「法華経を憶持せし人の舌、曝りたる繭鰻の中に著きて朽ちずありし縁」は、『法華経』を読んで、いた人が死に、縄棲になった後にもその舌が腐らず、『法華経』を読み続けていたという異様な出来事を物語る。
「誠に知る、大乗不思議の力を示して、願主が至深の信心を試みたまへりといふことを。更に疑ふべからず。」(「霊異記中」72-73頁)
「諒に知る、大乗不思議の力にして、経を諦じ、功を積みし験徳、なりといふことを」(「霊異記下」35頁)
などと述べられているように、これらの説話はいずれも「大乗不思議の力」と呼ばれるような、経典の持つ超常的なカについて語るものである。 経典が超常的なカを持つものであるがゆえに、通常では考えられないような不思議な現象が引き起こされるのだと、『日本霊異記』では考えられている。
そして、『日本霊異記』において、以上のような経典の威力にまつわる説話が語られる理由は、
「是れ不信の人の心を改む能談なり」(「霊異記下」90頁)
という一文に示されていると考えられる。つまり、『日本霊異記』は、経典にまつわる不思議な現象を語ることによって、経典に代表されるような仏法が、現に不思議な威力を発揮していることを人々に知らしめようとしている。そのことによって、仏法を信じない人々の心を改め、仏法という威力あるものへの信心を起こさせようとしているのである。
4、仏法の特徴
総括するならば、『日本霊異記』において、仏法とは不思議を引き起こす超常的威力に集約されるものであると考えることができるらもちろん、そのような仏法への見方は、必ずしも誤ったものとは言えない。仏や菩薩が常人の持たない超常的な力を発揮する存在であることや、経典が無量の功徳を備えるものであることなどは、大乗仏教の思想においてはごく一般的に認められる考え方である。
しかしだからといって、仏法は本来、超常的威力への信仰のみに集約され得るものでもない。例えば、常住不変で超常的なカのある仏菩薩の存在は、空の思想、に代表されるような、世界の真のありょうを説く教説の裏付けを持っている。『日本霊異記』のなかにも登場する「理智の法身」という言葉からも、そうした教理的な背景を読み取ることは可能である。
あるいは、仏教の経典は、それぞれに独自の教説を表現するものである。そうした教説の目的は、単に仏法が超常的威力を発揮するという事実を示すことに尽きるものではない。そのことは、前述の『般若心経』で説かれる空の教説を見ても明らかである。
しかし、『日本霊異記』においては、こうした超常的威力と直接に関わりのない仏法の側面には、ほとんど関心が払われない。もしくは上巻第十四「僧の心経を憶持し、現報を得て奇しき事を示しし縁」のなかに見られるように、関心を払った場合であったとしても、それは必ず超常的な威力に結び付けられて扱われる。
このように、『日本霊異記』において重要なのは、仏菩薩や経典に代表される仏法が超常的威力を持つということ、およびそのような威力が現に発揮され、不思議な現象が引き起こされているということである 。~日本霊異記』では、仏教思想から超常的威力という側面を切り取ってくることで、仏法というものの全体像を描き出しているのである。
さて『日本霊異記』では、人々に対して盛んに仏法の信仰が勧められている。『日本霊異記』における仏法が、超常的威力に集約されるものであるとすれば、仏法を信じるということは、超常的な威力あるものを信じるということである。これはつまり、超常的な威力あるものと関わり、その威力に与ろうとすることを意味している。
『日本霊異記』において、このような関わり、つまり仏法を信じることは、具体的ないくつかの行為によって実践されている。その代表的なものは、仏菩薩、に対する祈願、称名、供養、また経典の書写、読諦、さらに経典に説かれる戒律や行(不殺生、不邪淫、孝行、布施、忍辱など)の実践である。『日本霊異記』においては、こうした行為の実践によって、仏法の威力を被ることが可能であると考えられている。次に、このような仏法信仰の具体的な様相について見ていこう。
5、仏法信仰の様相
『日本霊異記』における仏法信仰の説話にはいくつかの類型がある。まず、『日本霊異記』には、仏法の信仰によって貧窮から救われ、富を得るという展開の話がある。このような話の例としては、中巻第二十八「極めて窮れる女の、尺迦の丈六仏に福分を願ひ、奇しき表を示して、以て現に大福を得し縁」 を挙げることができる。この話によれば、聖武天皇の時代に、生きていくのも困難で、あるような窮乏した女がいた。この女は、大安寺の釈迦仏の像が人々の願いをかなえてくれるという評判を聞き、
「唯し貧窮に依り、命を存くるに便無く、帰するところ無く、怯むところ無し。故に、我是の寺の尺迦の丈六の仏に、花香燈を献じ、福分を願ひつらくのみ」(「霊異記中」210頁)
と決意する。女が月日を重ねて釈迦仏に花香燈の供物を捧げ、幸福を祈願し続けていると、ある日、女の家の前に大安寺所有の銭が置いてあった。そのことを知らされた大安寺の僧たちは不思議に思うが、釈迦仏が女に与えたのであろうと考え、女から銭を取り戻すことをしなかった。この銭を得たことをきっかけにして、女は豊かになり、長命を保つことができた。
この話と同様の筋を持つ『日本霊異記』の話には、中巻第十四「窮れる女王の吉祥天女の像に帰敬して、現報を得し縁」、中巻第三十四「孤の嬢女の、観音の銅像を還り敬ひしときに、奇しき表を示して、現報を得し縁」、中巻第四十二「極めて窮れる女の、千手観音のみ像を濃み敬ひて、福分を願日、以て大富を得し縁」などがある。
これらの話には共通して、貧困に苦しむ人々が登場する。 彼らは困窮のあまり、吉祥天、観音菩薩、千手観音など、身近にある仏や菩薩の像に救いを求める。 すると、不思議にも金銭が置かれていたり、隣人や姉妹が食物を持ってきてくれたりするのだが、金銭を授けてくれたり、食物を運んできたりしたものの正体が、実は仏菩薩であったことが後になって判明する口以上のような出来事について、『日本霊異記』は、
「諒に知る、尺迦丈六の不思議の力、女人の至信の奇しき表なる事を」(「霊異記中」210頁)
「定めて知る、菩薩の感応して賜りしことを。因りて大きに財に富み、貧窮の愁を免る。是れ奇異しき事なり」(「霊異記中」124-125頁)
などと語って総括する。つまり、貧国に苦しむ人々が仏菩薩を深く信じ、救いを求めて祈願した。その結果、仏菩薩が彼らの願いに応え、「不思議の力」などと表現されるような威力を発揮し、富を授けてくれた。
『日本霊異記』にはまた、仏法の信仰によって、病から救われるという筋を持つ説話も数多く存在している。例えば、上巻第八「聾ひたる者の方広経典に帰敬しまつり、報を得て両つの耳ながら聞えし縁」 には、重病のために両耳が聞こえなくなってしまった男が登場する。彼は禅師を招いて法会を行い、方広経典を読んで、もらう。すると不思議なことに、禅師が方広経典のなかの菩薩の名を称える声が、片耳に聞こえてくるD そこで更に、方広経典を読んでもらうと、もう片方の耳も聞こえるようになった。
これと類似する『日本霊異記』の話は、下巻第十一「二の目盲ひたる女人の、薬師仏の木像に帰敬して、以て現に眼を明くこと得し縁」、下巻第十二「二の目盲ひたる男の、敬みて千手観音の日摩尼手を称へて、以て現に眼を明くこと得し縁」、下巻第二十一「沙門の、一つの目眼盲ひ、金剛般若経を読ましめて、眼を明くこと得し縁」、下巻第三十四「怨病忽に身に嬰り、之に因りて戒を受け善を行ひて以て現に病を愈すこと得し縁」などである。
これらの話には共通して、盲目の男女や、身に悪い腫物ができた女など、病に苦しむ人々が登場する。彼らは病からの救済を願って、薬師仏などの仏菩薩に祈願したり、千手観音の日摩尼手や『金剛般若経』などの経典を読む。すると、彼らの盲目の目は聞き、腫物は癒されるのだが、こうした出来事はむろん、仏法の威力によるものである。
「誠に知る、観音の徳力と盲人の深信となることを」(「霊異記下」99頁)
「般若の験力、其れ大きに高きかな。深く信じて願を発せば、願として応ぜずといふこと無きが故になり」(「霊異記下」148頁)
「実に知る、大乗の神児の奇異しき力と、病人行者の功を積める徳となることを」(「霊異記下」233頁)
などと述べられているように、病人が深く信じて祈願したことに応じて、「観音の徳力」「般若の験カ」「大乗の神児の奇異しき力」などと呼ばれるような、仏菩薩や経典の超常的な威力が発揮される。その結果、病の治癒という奇跡が起こるのである。
この他にも、下巻第二十五「大海に漂流して、敬して尺迦仏のみ名を称へ、命を全くすること得し縁」、下巻第三十二「網を用ゐて漁せし夫の、海中の難に値ひ、妙見菩薩を懇み願ひて、命を全くすること得し縁」では、海で漂流した漁師が、釈迦仏や妙見菩薩に助けを求めることによって陸地に辿りつく。
上巻第六「観音菩薩を濃み念ぜしに売りて、現報を得し縁」では、橋を渡れず立ち往生していた者が、観音菩薩を心に念じた結果、河を渡ることができた。また、上巻第十七「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬したてまつり、現報を得し縁」では、兵士たちが観音菩薩に祈願することで、戦地の唐から帰国することができた。
さらに、上巻第三十二「三宝に帰信して衆僧を欽仰し、諦経せしめて、現報を得し縁」、下巻第七「観音の木像の助を被りて、王難を免れし縁」では、罪を得て処刑されそうになった者たちが、丈六の仏像に祈願して読経し、あるいは観音菩薩を敬うことで処刑を免れる。これらの話においても、
「海中難多しと雄も、命を全くし身を存めしは、寒に尺迦如来の威徳なり、海中に漂へる人の深信なり」(「霊異記下」177頁)
「蓋し是れ観音の力にして、信心之を至せるならむ」(「霊異記上」124頁)
などと語られているように、苦難に陥った人々は、仏法を深く信じることによって、仏法の威力(具体的には「尺迦如来の威徳」「観音の力」など)を被っている。 その結果、彼らは苦難から救い出され、安楽を得ることができたのである。
以上の仏法信仰に関する説話は、いずれも仏法を信仰する者が、仏法の威力を被ることで苦難から救われ、幸福をもたらされるということを主題としている。 1,2,3章で挙げた説話で示されていたのは、仏法とは現に超常的威力を持つものであるということであった。そうした威力とは要するに、生き物に幸福をもたらすためのものであると考えられていることが、これらの説話を見ることによって明らかである。
仏法を信じることによって、人間は仏法の幸福をもたらす力を被り、その加護に与ることができる。その結果、人聞をはじめとした生き物の境遇は安楽なものになる。すでに述べたように、仏法を信じることは、『日本霊異記』において善行と見なされる行為である。善行は具体的に言えば、仏菩薩に対する祈願、称名、供養、また経典の書写、読語、制戒の実践などであるが、これらの行為は、幸福をもたらす超常的な力に与るための方法なのであった。それゆえに、善因を行うのであれば、仏法の威力によって幸福、つまり善果がもたらされることになる。
6、仏法への不信
それでは、善行を行うのとは逆に、仏法を信じないのなら、どうなるのだろうか。仏法を信じないということは、『日本霊異記』においては、悪行と見なされる行為であった。このような行為とは具体的には、仏菩薩の像や仏塔を破壊し、経典を敬わず、仏が戒める殺生、倫盗、邪淫、不孝、不正な取引などを行い、仏法に帰依する僧を迫害するなどの行いである。
これらの行為を行うことによっては、当然のことながら仏法の威力を被ることはできない。しかし、『日本霊異記』において、幸福は仏法の威力と密接に結びっくものと考えられている。つまり、生き物の幸福は仏法によってのみもたらされるものである。
悪行によって、そのような仏法の威力から離反していくのであるから、仏法を信じない者に対しては、幸福が訪れることはない。したがって、悪因を作ることによってもたらされる結果とは、様々な苦難、つまりは悪果でしかない。
上に挙げた説話の『日本霊異記』の登場人物たちは、それぞれ貧困や病、海難などの苦難に悩まされていた。彼らの陥った苦難も実は、仏法を信じず、その威力に与らなかったがために、出会うことになったものであると、『日本霊異記』では考えられている。例えば、中巻第二十八「極めて窮れる女の、尺迦の丈六仏に福分を願ひ、奇しき表を示して、以て現に大福を得し縁」の主人公である女性は、
「極めて窮りて、命を活くるに由元くして餓ゑたり」(「霊異記中」208頁)
というほどに困窮している。しかし、このような困窮は、単なる不運によるものではない。困窮に苦しむ人物が登場する説話には、
「我、昔世福因を修せず。現身に貧窮の報を受け取る」(「霊異記中」209頁)
「我、先の世に貧窮の因を殖ゑて、今窮報を受く」(「霊異記中」124頁)
など述べる筒所が存在する。つまり、現在の自らを苦しめる貧困は、過去世に自分が行った行為を原因とするものである。そして、その過去世の行為とは、福因を行わなかったこと、あるいは貧窮の因を行ったことであるという。
福因とは善行を意味しており、具体的には仏法を信じ行うことである。だから、「福因を修せず」とは、仏法を信じず、行わないということである。次に、「貧窮の因を殖ゑ」るとは、貧窮の原因を作るということであるが、これは内容的には「福因を修せず」ということに等しい。要するに、仏法を信じず、行わなかったという過去世の自己の行状、つまり過去の悪行が、現在の貧窮の原因となったのである。
これと同様の考え方は、病に対しても見ることができる。例えば、上巻第八「聾ひたる者の方広経典に帰敬しまつり、報を得て両つの耳ながら聞えし縁」には、病気によって耳が聞こえなくなった人が、
「宿業の招く所なり。但に現報のみには非じ」(「霊異記上」89頁)
と思う箇所がある。ここでこの人は、自身の病の苦しみの原因は、宿業、つまり自分が過去世に行った行為であると考えている。この宿業の具体的な内容もまた、仏法を信じず行うごとがなかった、ということ以外にないだろう。そうした過去世の望ましからぬ悪行が、病によって、いわば露呈したのであるから、病にかかった人は、自身の身を「日に夜に恥ぢ悲し」(「霊異記下」148頁)むという態度を見せることもある。
なお、仏法を信じない悪行によって、今生のうちに苦難の結果が生ずる場合も、『日本霊異記』にはいくつも記されている。 例えば、下巻第二十五「大海に漂流して、敬して尺迦仏のみ名を称へ、命を全くすること得し縁」では、海難にみまわれた漁師が一命を取り留めた後、
「殺生の人に従ひて、苦を受くること量無し」(「霊異記下」176頁)
と述べる。この人は、漁師として殺生を行ってきたことが、自らの漂流の原因であると考えている。なぜならば、仏教の戒律には不殺生戒があり、生き物を殺すことを戒めている。 したがって、生き物を殺すことは、仏法に背く悪い行いである。このような悪行を現に行っていたことによって、今生のうちに漂流の苦しみを受けたというのだ。
既に述べたように、仏法は苦難を除き、幸福をもたらす威力を持つものである。こうした威力は、例えば、
「唯し衆僧にー持の食を資施するときには、善を修する福の於に、来るべき飢僅の災に逢はざらむ。苦み頼みて一日不殺の戒を持するときには、道を行ずるカに於て末劫万兵の怨に値はざらむ」(「霊異記下」24頁)
などと表現されている。 布施の行は、一握りの食物を僧に施すだけでも、その善行のカによって飢鍾の災いから免れることができる。仏法の不殺生戒は、一日受持するだけでも、その善行を行ったカによって、未来永劫万兵の災いにあわないようになる。このように、布施や持戒などの仏法を実践し、その威力に与ることによって、人間には富や安穏などの幸福の結果がもたらされる。
だが、もしも布施や持戒を行わないのであれば、その者に幸福は訪れない。下巻第二十五「大海に漂流して、敬して尺迦仏のみ名を称へ、命を全くすること得し縁iに登場する漁師は、魚を捕る仕事に従事していたために、不殺生戒を破らざるを得なかった口そのような行為の結果として、彼に安穏は訪れず、かえって漂流の苦しみにあうことになった。また、中巻第二十八「極めて窮れる女の、尺迦の丈六仏に福分を願ひ、奇しき表を示して、以て現に大福を得し縁」に登場する女は、過去世に布施の行を行わなかった。そのため、彼女に富はもたらされず、飢え苦しむ困窮に陥ることになった。
『日本霊異記』の著者自身もまた、自らの境遇について、
「昼も復餓ゑ寒ゆ。夜も復餓ゑ寒ゆ。我、先の世に布施の行を修行せずありき。部なるかな我が心。微しきかな我が行」(「霊異記下」271頁)
と述懐している。彼は今現に貧困の状態にあり、昼も夜も飢えて凍えている。このような状況は、前世に布施の行を行わなかった結果であるとして、彼は自身の心の卑しさと修行の乏しさを嘆いているのだ。
このように、『日本霊異記』の著者にとって、仏法とは超常的威力を持つものであり、この威力に与ることのみが幸福を招く唯一の道であった。その道から外れるならば、人間はいかに行為しても苦難に出あうより他にない。そのため、彼にとって、仏法への不信を改め、信心を起こすことが極めて重要で、あった。なぜならば、それは仏法の威力を受けず、苦難へ至るありょうから、仏法の威力を被って、幸福へ至るありょうへと転じることだからである。
7、僧について
以上のように、『日本霊異記』の最も主要なテーマとは、苦難を除き幸福をもたらす仏法の超常的な威力の実在と、その力に与る生き方であると言える。仏法の威力に与るという事態は、多くの場合、善因善果の過程として語られる。つまり、仏法の行の実践による幸福の到来こそが、仏法の威力に与ることの実態である。ところで、『日本霊異記』では、仏法の威力に与るという事態が、それとは少し異なる様相を見せることもある。
『日本霊異記』には、超常的な力を発揮する仏教者がしばしば登場する。例えば、上巻第二十六「持戒の比丘の浄行を修めて、現に奇しき験力を得し縁」で語られる僧は、持戒を行うことによって超常的な力を獲得する。この僧は、病人を癒すことに巧みであり、その「験力」(「霊異記上」160頁)、つまり仏法を修したことによって得た超常的な力によって、死すべき人ですら蘇らせることができた。この僧はまた、
「楊枝を取らむとして枝に上る時に、錫杖を錫杖に立つ。 互いに二つの物を用ゐ、物件れず。撃にて樹つるが如し」(「霊異記上」160頁)
と述べられるような、奇術ともとれるような不思議を行うこともできた。
この僧と同様に、役優婆塞も孔雀の呪法を修行したために、超常的な力を獲得する。上巻第二十八「孔雀王の児法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛ぴし縁」で語ることによれば、その力でもって彼は鬼神を使役し、自在に海の上を駆け、鳳風のように空を飛んだ。こうした役優婆塞の活躍を語ったうえで、『日本霊異記』の著者は次のように結論する。
「誠に知る、仏法の験術広大なることを。帰依する者は必ず証得せむ」(「呂行上」168頁)
つまり、仏法の威力は広大で、ある。仏法に帰依し、修行する者は必ずそれを獲得する。 そのことが役優婆塞によって実証されているというのである。このように、『日本霊異記』において、仏法とはそれを行ずる者に、超常的なカを獲得させるものでもあった口
先ほど論じた聖徳太子や行基もまた、『日本霊異記』では、超常的な力を発揮する存在であると見なされている。 なぜならば、彼らは仏菩薩の化身である。そのため、彼らが仏菩薩同様に超常的な威力を持つことは当然のことであると言える。しかし、病を癒す僧や役の優婆塞の場合は、『日本霊異記』のなかで仏菩薩の化身であるとは述べられていない。だから、彼らは普通の人間であるのだが、仏法の修行の実践によって超常的な威力を獲得し、仏菩薩に近い存在となったのである。
彼ら以外にも、超常的な威力を帯びた仏教者の姿は、『日本霊異記』に繰り返し登場するD 上巻第十五「悪人の乞食の僧を逼して、現に悪報を得し縁」では、乞食する僧を打とうとした男が、僧によって呪縛される。後に、禅師に頼んで観音品を読んで、もらうと、呪縛された男は自由になった。下巻第十四「千手の児を憶持する者を拍ちて、以て現に悪死の報を得し縁」では、行者を打った者が、空に引き上げられた挙句、地面に叩きつけられて死ぬ。行者が自らを打つ者に対して、
「何の故にか大乗を持せる我を打ち辱かしむる。 実に験徳有らむ。今威力を示さむ」(「霊異記下」109頁)
と宣言したとおり、この行者は「大乗」(「霊異記下」109頁)、つまり『千手経』の呪文を受持する者であった。その呪文の威力が行者の危機にあって発揮され、迫害者に死をもたらしたのである。この他、下巻第三十三「賎しき沙弥の乞食する刑なひ罰ちて、以て現に頓に悪死の報を得し縁」では、『薬師経』の十二薬叉の神名を称える沙弥が、男に打たれ脅かされたので、十二薬叉の神名を称えた口すると、その男はたちどころに倒れ伏して死んだ。
あるいは、『法華経』の持経者にまつわる一群の説話がある。上巻第十九「法花経品を読む人を皆りて、現に口咽斜みて悪報を得し縁」、中巻第十八「法花経を読む僧を皆りて、現に口明斜みて、悪死の報を得し縁」、下巻第二十「法花経を写し奉る女人の過失を誹りて、以て現に口哨斜みし縁」はいずれも、『法華経』を読む者、あるいは写す者を瑚ったために、口が歪んで、しまったという話である。
これらの説話において、超常的な威力を持つのは人間自身というよりは、「法華経』という経典や、「千手の児」「十二薬叉の神名」などの呪文である。 経典や呪文を称え、あるいは写すことによって、これらの人々は超常的な威力の加護を受けている。このような威力が彼らを侵害する者に対して発揮され、災いをもたらしたと考えることができる。 したがって、『日本霊異記』は、『法華経』の持経者をはじめ、仏法を信じ行う人について、
「当に慎みて信心すベし。彼の徳を讃すべし。其の欠を誹らざれ。大きなる災いを蒙らむが故なり」(「霊異記下」145頁)
などと述べる。仏法を信じ行う人は、仏法の威力を帯びた特別な存在である。それゆえに、その人を誘ったり、迫害するようなことがあれば、大きな災いを被ることになる。だから、仏菩薩や経典を敬うのと同様に、仏法を信じ行う人も敬わなければならないと考えられているのである。
結論
以上、『日本霊異記』における仏法のあり方について概観した。仏法は『日本霊異記』のなかで、仏菩薩、経典、各種の戒律や行、仏法を実践する僧から構成されている。これらのものが超常的な威力を持ち、それを発揮することで不思議な現象を引き起こす。
その仏法の威力こそが、人聞をはじめとする生き物に対し、幸福をもたらし、苦難から救い上げる当のものである。生き物にとって、幸福は仏法を離れてはあり得ない。仏法とは生き物の望ましい生き方の中核にあり、その要となるものである。
仏法を信じるということは、このような超常的威力に与ることを意味している。そのことによって、人間は現世や来世に幸福を獲得するとともに、自らもまた超常的な威力を帯びた存在となる。こうしたあり方を人々に勧め、現実に実現していこうとすることこそ、『日本霊異記』が執筆された第一の目的であると言えよう。 
 
神仏習合の死霊観 ――奈良平安期

 

はじめに
神仏習合は仏教が日本に入って固有の神祇信仰と融合してできた、日本の独特な信仰様式である。明治時代の神仏分離で、形式上の神仏習合は見えなくなったが、神仏習合の悠々たる歴史は抹殺できない。神仏の交渉は早く、仏教が日本に公伝してきた欽明朝にのぼれる。崇仏・排仏の争いと大化の改新を経て、徐々に積極的に習合の道へ歩み始めた。同時に、神仏習合に関する現象も文献に登場してくる。仏道に帰依しようとした神々の託宣によって、建立された神宮寺は最初の習合現象といってもいい。『藤原家伝・下』霊亀元年(七一五)に、気比神の託宣によって建てられた気比神宮寺は文献での初見である。しかし、習合の先駆となすものは天平勝宝元年(七四九)の宇佐八幡の上京である。後に、八幡神は護法善神として八幡大菩薩という菩薩号が与えられ、本地垂迹において阿弥陀如来の垂迹とされた。要するに、神仏習合はその流布とともに、信仰だけでなく、建築、思想などの面にも影響を及ぼしてきた。さらに、この影響は仏教布教の中心地――京にとどまらず、多数の遊行聖の努力で、神仏習合の信仰、思想などが庶民の間にも受容されるようになった。それで、神道と仏教は互いに他を排除することなく、二種の異なった信仰様式がその特殊性において対立しながらも、ひとつの生活の中でともに生かされ、京から地方へ、貴族から庶民へ、神仏習合は日本に深く、広く浸透してゆき、日本宗教の独特な重層面をなし、日本人の信仰、思想に大いに影響してきた。
したがって、神仏習合は諸学者の従来の関心を集め、宗教、思想、文化などの角度から様々な研究成果が挙げられている。他界観について、柳田国男氏は、日本人の他界観には矛盾するような思想があり、一つは仏教の他界観であり、人間は死後、西方の極楽浄土へ行くと信じられているが、もう一つは土着の宗教観念であり、死後、人間は山の奥へ行くと思われる。日本人はこのような矛盾に関心を払わずに、二つの矛盾するような他界観をそのまま持っている、と論じた。このような神仏習合の他界観は、神仏習合の信仰様式の影響で形成した、日本人の独特な観念にほかならない。では、歴史上における神仏習合の発生、展開はどうであったか。それを受け入れた人々の信仰意識に、何か影響を及ぼしたか。以下の先行研究を通して見ておきたい。
逵日出典氏が「山岳修行者の活動と神仏習合の展開」で、神仏習合の現象を論じた。氏によると、神仏習合の端緒を開いたのは、山岳に入って修行した仏教徒である。それら山岳修行者が地方を遊行し、豪族層をはじめ大衆と盛んな接触が行われていく中で、神仏関係に大きな転換が起こってくる。つまり、山岳修行者による神身離脱思想の鼓吹と、神宮寺の建立が、神仏習合の初めての現象を起こした。この間、八幡神が上京して中央への進出を実現し、中央においても習合現象の定着をみるに至った。
では、神宮寺をはじめとした神仏習合は、当時の人々にどのように受け入れられたのか。飛鳥時代から奈良時代にかけての造像銘などに、「願此功徳、現世親族福延万世、七世父母随意住、含霊之類同斯福力」5のような附記がよく見られる。竹田聴洲氏は、「七世父母」という言葉自体は、中国六朝時代の造像銘にしばしばみられるが、それが実際に使用されている内容についてみると、果たして祖霊の観念に基づくものである、と論じた。要するに、当時の人々にとって、仏教の受容は固有観念――祖先信仰に基づいたのである。祖先追善のための造像などは、祖霊を祀ることと同じ意義を持っていると思われていた。霊魂をめぐって、最初に仏教を受容した上層階級の人々の間には、神仏の習合現象がはやくあらわれた。
ところで、上層階級ほどの教養を持っていない下層社会――民間において、神仏習合の受容状況はどうであったか。神仏習合の霊魂観を中心に本稿で追究してみたいと考える。考察資料の選定においては、神仏習合が活発に展開した奈良、平安時代に成立した『日本霊異記』と『今昔物語集』という両説話集を取り上げる。説話集自体は、歴史書ほどの史実性を持っていないが、集められた説話は当該時代に広く流布していた話である可能性が高く、その主題から外れた背景、設定からは、当時の世相のより真実な一面が反映できることは認めなければならない。ゆえに、本稿は『日本霊異記』と『今昔物語集』を通じて、神仏習合が活発化した奈良・平安期を中心に、当時の神仏習合の死霊観を考察したい。また、現代日本人の他界観にも見える習合現象の原像を改めて描いてみたいと思う。
さて、本論に入る前に、神道と仏教、それぞれの死霊観を簡単にまとめておきたい。神道が「生」の宗教であると梅原猛氏は論じた9が、神道は完全に「死」と無関係というわけではない。神道古典の一部ともされる『古事記』には死にかかわる話が見える。周知の黄泉国と天若日子の話に、伊耶那美の黄泉国(穢国)への赴きと天若日子の「天之加久矢」にあたった神話が記されている。それは二人の神の死と言い換えればいい。この二人の神の死亡に対して、天の岩戸と大国主命の話に、天照大神と大国主命の各々の復活が記されている。要するに、神道の死霊観には、死後の世界、穢れや蘇生の観念が存在している。反して、仏教は死後世界への関心が顕著である。因果応報による六道輪廻、浄土往生などが周知である。つまり、人間の死生は連続的であり、業によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道に輪廻したり、「衆苦あることなく、ただ諸楽を受く」という浄土へ往生したりする観念である。相当に異なる両観念は、神仏習合が進んでいるうちに、融合して日本の独特な死霊観を形成してきた。
T 『日本霊異記』における神仏習合の死霊観
『日本霊異記』或いは『日本国現報善悪霊異記』は、八世紀末から九世紀初めに書かれた日本最古の説話集である。『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。景戒著、変則漢文で書かれ、上・中・下の三巻からなり、合計116話が収められる。奈良時代の話が多く、古いものは雄略天皇の頃とされる。場所は東が上総国、西が肥後国と当時の物語としては極めて範囲が広い。その中では畿内と周辺諸国の話が多く、とくに紀伊国の話が多い。登場する人物は、庶人、役人から貴族、皇族まで、僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。奇跡や怪異についての話が多いが、説話の大部分は、善をなして良い報いを受け、悪をなして悪い報いを受けたという因果応報の話であり、仏教説教の意味合いと色彩が強い仏教説話集とされている。だが、それぞれの話は、民間で流布していた怪談などを素材にして仏教的な解釈をつけたもののはずであるから、日本の土着の宗教観念と仏教教義との習合の名残は見過ごすことはできない。以下において、神道と仏教との習合現象があった死霊観に関する話を取り挙げながら、『日本霊異記』における神仏習合の死霊観を検討する。
中巻・5話「依漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報緣 第五」は、異教に迷って牛を殺した者が、悟って償いに放生をし、死後に閻魔王宮で、殺生と放生のいずれか多数決による裁判を受け、蘇生して仏法を修し、その生を終えたという話である。
話には、ある「富家長公」は漢神を信じ、その異神を祭り、七年を期間として一年ごとに牛を一頭ずつ殺し、合計七頭を殺してしまったが、後に「忽得重病 又逕七年間 醫藥方療猶不癒」、ゆえに「而祓祈禱」をしたが病はいや増しになった。したがって、殺生のせいで、病になったと思うようになり、あらためて斎戒を受け、放生の業を修し始めた。ここまではこの話の前半であり、この部分からあの「富家長公」の生きている間の信仰状況が窺がえる。「漢神」という殺生を誡めない異神を信じ、また「祓祈禱」という神事をも行い、放生で仏教にも帰依した。現世利益を中心に、多数の信仰を持っていたようであるが、そこから、当時民間において、神道、仏教以外の信仰様式も存在し、信仰の多様性が分かる。信仰における多重性は古くの奈良・平安期にすでに現れていたわけである。また、日本土着の穢れ意識が読み取れる。やはり穢れを病の原因、病を災厄としたからこそ、神事に頼って祓えをしたのであろう。
ところが、話が進んで、様々な作法を試みたあげく、あの「富家長公」は死んでしまった。そこで、物語の舞台は「閻魔王宮」に移った。あの「富家長公」は閻魔王宮に落ち、裁判を受けたが、たくさんの放生の功徳で、地獄に陥ることなく、「乘擧而荷」蘇生した。後半の話から、あの「富家長公」の死後の経歴と蘇生がわかる。生前と比較すると、死後の世界は、生前のような多数の信仰様式が見えなくなり、単一の仏教世界となっている。さらに、蘇生してから、もっぱら仏教を信じるようになり、一生を終えた。したがって、この「富家長公」の最終信仰は仏教であるといってもよい。死を境にして信仰が変わったのは、僧侶の説教のような外部影響によるものではなく、あの「富家長公」自らの経験から発生したと暗示しているのであろう。さらにこれを通して、仏教の霊験性を強調しようとしたと考えられる。その場合、蘇生は当時仏教が民間で布教するため、庶民の仏教に対する信仰心を引き起こすための看板のような存在であったと推測される。
さて、話の編纂者の説教意図はとにかく、当時の民間における多様な信仰様式は見過ごしてはならない。それは、あの「富家長公」が生きているうちに、漢神、神道、仏教などを信じたことから分かる。古来の神祇信仰とした神道に対する信仰は、あまり検討する必要はないが、信仰対象が漢神や仏へ変更したのは何故か。漢神信仰の原因は明記していないが、仏教に帰依する契機は、病を癒すためであった。つまり、重病にならなければ、仏教を信じないかもしれない。ここに、「富家長公」の信仰の現実性があらわれると同時に、当時における仏教の普及状況もある程度推測することができる。七世紀初めの頃から、上層社会に広く認められた仏教は、民間への浸透はかなりの時間がかかったようである。そして、民間への浸透は「富家長公」のような有力者から始まったと考えられるのである。
中巻・7話「智者誹妬變化聖人而現至閻羅闕受地獄苦緣 第七」は、智をほこる智光法師が、行基菩薩を誹った口禍で、死後地獄の責め苦を体験し、蘇生後、懺悔し、行基に帰依し、その遷化の後を追った話である。
ここで注目したいのは、智光法師の死後の話である。智光は死後、「閻羅王使二人 來召於光師 向西而往 見之前路有金樓閣 問 是何宮 答曰 於葦原國名聞智者 何故不知」、実際にその金樓閣は智光に誹られた行基の「將來生之宮」である。その門の左右に、二人の神人が立ち、「問曰 是有於豐葦原水穗國 所謂智光法師矣 智光答白 唯然」。引き続いては、様々な地獄についての詳しい描写である。人を焼き煎る「阿鼻地獄」等。智光は行基菩薩を誹った罪を滅ぼすため、業苦を嘗めてから「愼黃竈火物莫食 今者忽還」と言われ、蘇生した。
仏教説話としての性格ははっきりと見られるが、「葦原國」、「豐葦原水穗國」、「黃竈火物」のような言葉も目立っている。十部の神道古典とされる『古事記』にも『日本書紀』にも「葦原中國」という言葉遣いが見られる。『日本書紀』によると、「葦原國」は「豊葦原千五百秋瑞穂之地」である。神道では、天空の世界を「高天原」、地上の世界を「葦原中國」、地下の世界を「根国」と言う。この説話に出てくる「葦原國」、「豐葦原水穗國」は神道の地上世界、所謂「葦原中國」であることは疑いないであろう。また、「黃竈火物」と同じような意味を表す言葉も、『古事記』や『日本書紀』に見られる。『古事記』の神代巻に「黄泉戸喫」、『日本書紀』の神代巻に「飡泉之竈」とある。どちらも黄泉国の煮焚きしたもので、食べると、黄泉国の者になり、二度と人間の世に戻れないとされている。『古事記』、『日本書紀』と『日本霊異記』それぞれの成立時代をあわせて考えると、『日本霊異記』に出てくる「葦原國」、「豐葦原水穗國」、「黃竈火物」などは、『古事記』や『日本書記』への踏襲である可能性もある。
さらにまた、「葦原國」、「豐葦原水穗國」、「黃竈火物」を通して描き出そうとしているのは、神道の地上世界と死後世界であろう。だが、この話はあくまでも行基を神聖化するための仏教説話である。閻魔宮や阿鼻地獄などの描写は、仏教の死後世界を世間に伝える同時に、「不妄語」という妄語をしてはいけないという教義を説教しようとした、と考えられる。そこで、神道の観念を積極的に導入してきたのは、仏教布教の目的を実現しようとしたのかもしれないが、神仏習合の死霊観も同時に現れてきた。つまり、神道の地上世界「葦原國」、「豐葦原水穗國」で生きていた人間が死んでから、生前の業によって仏教の閻魔宮に来て裁判を受け、「黃竈火物」を食べ物とする地獄などに行くというわけである。死後の世界は仏教的な世界であるが、生前の世とされた神道の地上世界の後続であり、神道の黄泉国に重なった世界でもある。
U 『今昔物語集』における神仏習合の死霊観
『今昔物語集』は、12世紀初頭に成立したと見られる説話集であり、作者は不明である。全31巻で、インド・中国・日本の三国の約1000余りの説話が収録されている。『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっていることから由来している。『今昔物語集』の話はすべて創作ではなく、他の本からの引き写しであると考えられている。もととなった本は『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などが挙げられる。それまでの説話集の大成ともいえる。平安末期のみならず、それまでの各時の世相をも伝えている。したがって、『今昔物語集』を対象に奈良・平安期の神仏習合の死霊観を考察すると、『日本霊異記』を補充することができる。以下、本朝仏法部と本朝世俗部(巻11―巻29)の部分を対象にし、神仏習合の死霊観の表現がある話を取りあげてみようと思う。
16巻・29話「仕長谷観音貧男 得金死人語」は、長谷参詣の帰途、死人を担ぐ人夫に取られた生侍が、死骸の化せる黄金により富をなしたという話である。
三年間絶えずに長谷觀音に参詣した男は、長谷からの帰途で死人を担ぐ人夫に取られ、死人を引かされた。死人に対して、「奇異ク怖シク思フ」が、仕方なくて持たされ、いわゆる「此ル目ヲ見ル」と、哀れに思った。その死人は極めて重いし、一人でなかなか「川原」へ持ち行きがたいしと思いながら、「泣ク事无限」ことであるが、とりあえず男はその死人を家に持ち帰った。その重くて堅い死人を「木ノ端ヲ以テ指ス」、「小石ヲ以テ扣ケバ」、死人には黄金があることを発見した。結局、男はその黄金の死体を打ち割り、売った金で富人になった。
話のあら筋からみると、これは長谷観音の霊験譚といってもいい。だが、面白いのは、同じ死体に対して男が前後に表した違う反応・態度である。最初に死体を持たされた時、「奇異ク怖シク思フ」、「泣ク事无限シ」などの言葉の羅列から、男の死体に対する気持ちが十分に読み取れる。そのような感受を引き起こした原因を追究してみると、それはやはり死や死体そのものが穢れで、忌避すべきという観念から発したのであろう。黄泉国から戻ってきた伊耶那岐は禊祓をしたように、死や死体は接触どころか、できるだけ避けるべきである。しかし、黄金が入っていることを発見した男は、避けずにあえて死体を割って売った。前半にはっきりと読み取れる穢れの意識は、後半になると、少しでも感じられなくなった。このような甚だしい変化は、恐れに対する物質的な欲望の勝利、神道の穢れ意識に対する仏教霊験の勝利であろう。
ところで、この話は『今昔物語集』の本朝仏法部に収められたものであるから、根本的に伝えたいのは観音の霊験である。ところが、背後に流れていたその男の信仰意識にも注意すべきだと思われる。仏教に帰依して信仰していたが、潜在意識や生活習慣となってしまった神道の観念・意識は、消えてしまったわけではない。穢れに触れたら、祓をしたり物忌みをしたりするのに、この男は何もしないどころか、恐れながらも死体を割った。それこそは上層社会の人々の穢れに対する敏感さとのよい対照である。当時の民間において、庶民の信仰状況はかなり緩やかであったとも思われる。緩やかであったからこそ、神、仏が矛盾せずに習合し、ひいては人々に受け入れられたのであろう。
16巻・35話「筑前國人 仕観音生浄土語」は、香椎明神の祭に年預が、魚、水鳥を捕えんとして誤り池に転じ落命した、その池には、極楽往生のしるしとして後一面に蓮花が咲き広がったという話である。
この筑前国の年預は、とくに観音に仕えて観音経を読み、信心深く観音に帰依している。鳥を捕らえるため、男は池に落ちて死んでしまったが、その夜、父母の夢に現れ、極めて嬉しげに父母に「我レ、年・、道心有テ、悪業ヲ不好ズト云ヘドモ、神事ヲ勤メムガ為ニ、適ニ殺生ヲセムト為ルニ、三寶助給フガ故ニ、罪業ヲ不令造ズシテ、既ニ他界ニ移テ善キ身ニ生レニタリ」、「我レ生タリシ時、観音ニ仕テ観音品ヲ朝暮ニ誦シ故ニ、永ク生死ヲ離レテ浄土ニ生ル、事ヲ得タリト」などと言った。要するに、生前、男は観音に帰依して「不殺生戒」を守ってきたようであるが、神社の年預として魚や水鳥を捕って香椎明神へ奉納する勤めもある。「戒殺」と「殺生」という信仰と勤務の板挟みで悩んだ年預は、結局池に落ちて魚や鳥などを捕えないままで死んだ。さらに、両親の夢に現れてきた年預の話によると、年来の観音信仰の功徳で、今度の死によって殺生の罪業を作らずに浄土への往生を遂げたという。
この話から、香椎明神に仕えていた年預は、同時に観音にも帰依したことが分かる。また、神仏習合が活発に展開した奈良・平安期において、香椎明神という神はまだ仏や菩薩との交渉が見られない神であると推測できる。だから、仏教信仰に要求された「戒殺生」と明神に要求された生け贄との衝突が生じた。すると、仏道に帰依して神身を脱しようとした神々と同様に、神官でありながら、仏道への帰依を通じて死後の往生を遂げようというのは、この年預の願望であろう。そのため、神道の劣勢――人間の死後の極楽世界への憧れ・意欲が叶えないことがあばかれてくる。だが、神道の劣勢こそ、神道と仏教との習合を促成し、神仏習合の信仰様式が認められたのであろう。
興味深いところは、年預に説かれた彼の死後世界である。「他界ニ移テ」と「浄土ニ生ル」は、前後の文脈からみれば、同じ死後に行ったところである。すると、「他界=浄土」という結論となる。ところで、「浄土」は疑いなく仏教用語であるが、ここの「他界」はどうであろう。神道の「他界」とは、人が死亡してから、その魂が行く、または亡くなった祖先が住まうとされる場所である。山上他界、海上他界、地中他界などの多様な他界がある。それに、「他界」そのものは善悪の区別がないという。一方、仏教用語としての「他界」は梵語で、この世以外の世界のことを指す。広義では、六道の一つである人間道以外、浄土も入り、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上は、全部他界である。浄土は他界の一つであるが、他界は必ずしも浄土とは限らない。ゆえに、この話に出てきた他界は神道の他界のことである。そのため、「他界=浄土」より「神道他界=仏教浄土」のほうがもっと適当であると考えられる。この年預が死後に行った世は、山上他界であろうと海上他界であろうと、善の世界であり、「衆苦あることなく、ただ諸楽を受く」る浄土のようなところである。ここの他界は浄土と重なっているところで、浄土と区別せずに当時日本人の死後世界を構成していた。
16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕観音得活語」は、死後、一夜を経て蘇った蓮秀は、妻子に死後の経歴や蘇生を語った話である。
醍醐寺の蓮秀という僧は、生きている間に、毎日観音経を百巻読み、また、常に賀茂の神社に参詣した。後に、重い病気にかかって死んだが、一夜を経て蘇生した。妻に自分の死後の経歴を以下のように語った。途中、険しい峰や深い山を超え、広くて深く、恐ろしい河に至った。所謂三途河というところである。そこで、此方の岸にいる「奪衣婆」という鬼形の嫗が蓮秀の衣を奪おうとするときに、「四人ノ天童、俄ニ・テ、蓮秀ガ嫗ニ与ヘムト為ル衣ヲ奪取テ、嫗ニ云ク、『蓮秀ハ此レ、法花ノ持者、観音ノ加護シ給フ人也。汝ヂ、嫗鬼、何ゾ蓮秀ガ衣ヲ可得キゾト』」。すると、嫗は掌を合わせて蓮秀を敬い、衣をも取らなかった。そのあと、天童は蓮秀に、ここは「冥途也、悪業ノ人ノ・ル所也。汝ヂ、速ニ、本国ニ返テ」と教え、蓮秀とともに返った。が、途中、もう二人の天童が来た。「我等ハ此レ、賀茂ノ明神ノ、蓮秀ガ冥途ニ趣クヲ見給テ、令将返メムガ為ニ遣ス所也」といった。最後に、蓮秀は蘇り、病も平癒した。
この話は、蓮秀という僧侶の死後世界における経歴や蘇生を通して、法華経や観音の霊験を高揚しようとしているが、結局奪衣婆の衣奪いを止め、蓮秀が法華経の持者であることを奪衣婆に教え、蓮秀を冥途から蘇らせたのはほかならぬ賀茂明神が派遣していった天童たちである。ゆえに、この話は賀茂明神の霊験譚ともいえる。そこから、蓮秀という仏教の僧侶は、神道をも信じていたことが判明するが、さらにまた、賀茂明神という神は仏教の死後世界における出来事を知っていただけではなく、介入することもできたことが分かる。これは、ここまで取り上げられた話でも、なかなか見ることができない現象である。神道は主宰した「生」の世界に仏教が進出することはよくあり、しかも死後の世界で仏教との重なりがよく見られるが、仏教が強勢を示した「死」の世界に、神道の進出はほとんど見られなかった。
さて、この話に出てきた、観音の意志を伝える役目を担当した賀茂明神は、一体どんな存在であるのか、少し言及しておく。賀茂神社は、奈良時代により早く神宮寺が設けられた神社の一つで、祭った神は釈迦如来もしくは観音菩薩を本地仏としたのである。したがって、この話に出てきた賀茂明神は、神である同時に、観音菩薩の垂迹でもある。だからこそ、天童を冥途に派遣し、観音菩薩にも賀茂名神にも帰依した蓮秀を救わせたのであろう。この話は、当時の賀茂神社における神仏習合の状況をよく反映しているだけではなく、本地垂迹の思想に影響された死霊観をも表現していると考えられる。要するに、神仏一致と同様に、神仏の死霊観も一致する。
29巻・17話「攝津國耒小屋寺盗鐘語」は、小屋寺の鐘楼に頓死した老客僧を弔った若者たちは、兼ねてより共謀した賊の一味で、死穢で人の寄らぬことを利し、まんまと鐘を盗み出したという話である。
八十歳ばかりの老僧が、小屋寺の鐘楼に泊まり、無事に二泊を過ごしたが、その次の日に、小屋寺の鐘撞きの法師が老客僧を見に行ったところ、老客僧が「死テ伏セリ」のこと(実は死んだふりであった)を発見した。急いで住持に報告すると、住持は「周(アワテ)タル気色」になり、「驚テ」、鐘堂へ確認に行った。「戸ヲ細目ニ開テ臨ケバ」、老法師が確かに死んでいた。後に、このことを寺の僧どもに告げると、僧どもは、「由无キ老法師ヲ宿シテ、寺ニ穢ヲ出シツル大徳カナト」と言い、腹立つこと限りなしという。だが、老法師の死体を取り捨てるしかないが、「御社ノ祭近ク成ニタルニハ、何デ可穢キゾト」という理由で、「死人ニ手懸ケムト云フ者一人无シ」であった。
しばらくしてから、老法師の子供と称する二人の男が現れ、泣きに泣き、後に来た四、五十ばかりの人たちと一緒に、老法師の死体を持ち出すことになった。その間、「僧房共ハ鐘堂ヨリ遠ク去タレバ、法師ヲ将出スヲモ出テ見ル人无シ。皆恐テ房ノ戸共ヲ差シテ籠テ聞ケバ、後ノ山本ニ十餘町許去テ、松原ノ有ル中ニ将行テ、終夜念佛ヲ唱へ、金ヲ叩テ、明ルマデ葬テ去ヌ」。つまり、死穢を恐れてこもっていた小屋寺の住僧たちは、男たちが一晩中念仏を唱え、金を叩いていたのを葬儀をしているのだと思いこんでいた。後に、寺の僧どもは、「此ノ法師ノ死タル鐘堂ノ當リニ、惣テ寄ル者无シ。然レバ、穢ノ間、卅日ハ鐘搥モ寄テ不搥ズ。卅日既ニ畢ヌレバ」、鐘撞きの法師が鐘堂を掃除に行くと、大鐘がなくなっていることを発見した。
それほど長い話ではないが、老法師が死んだ後の描写は詳しく、話の大部分を占めている。そのうち、老法師の死や死体を取り出す時の僧どもの反応はいきいきと、とりわけ詳しく描かれている。「由无キ老法師ヲ宿シテ、寺ニ穢ヲ出シツル大徳カナト」という皮肉な言い方で、僧どもの怒ったふりもよく表している。また、「法師ヲ将出スヲモ出テ見ル人无シ。皆恐テ房ノ戸共ヲ差シテ籠テ」という描写は誇張に聞こえるが、前後の文脈に合わず、意図的な強調でもない。では、僧どもが怒った、また恐ろしがっていた反応を引き起こしたのは一体何であろうか。やはり、死穢によってもたらした恐怖感であろう。死そのものは、「寺ニ穢ヲ出シツル」ものであり、死体に触ることは、「穢キ」ことであり、死後の三十日は「穢ノ間」である。一言で、死は穢れで、忌むべきものであった。
ところが、この話が出来た場所は寺であり、主人公は僧どもである。仏に帰依し、仏法を信じていた僧侶であっても、死による穢れを恐ろしがり、伝統的な死後観念から脱することが出来なかったわけである。死後観念を主な看板にして布教する仏教は、当時の日本人の死後世界を豊かにしたが、古来の死にかかわる穢れ意識はなかなか克服できなかったようである。ここから、日本の宗教信仰の伝統性を認めなければならない。仏教を受け入れ、仏道を辿っていた礎石は、固有の観念で築かれたものである。固有の神道観念と仏教教義との駆け引きで、今度は死穢の意識において神道が勝った。
V 神仏習合の死霊観の帰納
1 死霊観習合の可能性
神道と仏教が習合できたには、歴史の背景・環境などの外部条件と、宗教の利益定位、宣教方式などの人為要素が大きな動因となる。同時に、両宗教それ自体にも相互の排斥から融合へ導く要素が含まれている。それらの要素をもとにしてはじめて、神道と仏教との習合ができ、さらに神仏習合の死霊観ができたのである。以下で、死霊観において神道と仏教が習合することが可能となる基点を検討してみたい。
   (1) 死をめぐって
死は宗教の永遠な話題といっても過言ではなく、いつも宗教の関心を集めるところである。世界三大の宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教、どれも例外ではない。生きている人間の死に対する無知、不安や恐怖感等は、宗教が存在する為の前提の一つであり、宗教教説の一部分を構成することが多い。
仏教では、死は今までの輪廻の終わりである同時に、もう一回の輪廻の始まりでもあると説く。往生を別にして、死は留まりもない輪廻でのただ一つの乗り換えの駅のようである。死は常に話題となり、かかる教説も充実に整っている。
神道は死の宗教ではないといわれてきたが、死に関わる意識や表現がないわけではない。日本人に嫌われる「穢れ」が、常に死や血に結びついていることからも、死にかかわる観念の存在が分かる。本論に入る前に引用した『古事記』の話の通り、神道の神も、いろいろなことで高天原から離れて死後の世界である黄泉国へ行ったり、葦原中国から離れて死後世界へ向かったりする。神そのものはなくなるというわけではなく、ただもとの生活していた世界を後にするわけである。要するに、死は居場所が変えられたり、変わったりすることを意味する。
したがって、死の観念において、神道も仏教も、死が存在の消失ではなく、何か別の形式で、どこかで継続することとされている。こういう「霊魂」の不滅・永遠性は、仏教にも神道にも認められている。
   (2) 蘇生をめぐって
生と死の区別は存在さえすれば、人間の死に対する反感が消えないと言える。「食色、性也」であれば、それらの前提ともいえる生命の存続こそが人間のもっとも根本的な欲求である。故に、古代から、長寿不死の霊薬を求める人が絶えずに現れてきた。さらに、死んでもまたこの世に戻り、蘇生できることも期待されるようになった。このような期待は多くの説話集にも読み取れる。
仏教には蘇生についての教義が無いが、因果応報の話で、果報としての蘇生は珍しいことでもない。死後、六道輪廻に陥ったものが、閻魔王の裁判によって人間の世界、元々の世間への蘇生が許されることはある。その蘇生は、善因から善果を生ずる説教に応じる、まことの善報である。
神道古典としての『古事記』や『日本書紀』には、蘇生、復活の話が天照大神や大国主命の身に見える。天照大神が天の岩戸にこもったことを死とされ、いろいろな儀式を通して、神たちに天の岩戸から引き出されたことを蘇生とされている。また、神兄たちに二度も殺された大国主命が、二度とも神産巣日神の力で復活した。要するに、死んでも、儀式や神様の力で、蘇生・復活できる。さらに、蘇生の観念は神話の世にとどまらず、臨終あるいは死の直後に死者の名を呼ぶことで、死者の霊魂を呼び戻して蘇らせる「魂呼び」の習俗をも生み出した。
蘇生とは、神道においても、仏教においても、死に反して、もとの世界、つまり死ぬ前に生活した所へ戻ることである。引き続き、死までの肉体、霊魂のままで生命を持ち続け、存在し続けるのである。仏教の蘇生は普通、善業からの善果とされているが、神道における蘇生は、業によらず、人間的な意志によってできたものであると思われる。
   (3) 霊魂の帰着
霊魂は、一般的に肉体のほかに別に精神的実体として存在するものと考えられる。それに、人間の霊魂が肉体の死後も存続するという霊魂不滅の観念も周知である。では、その不滅の霊魂は、肉体がなくなると、どこへ行くか、またどこが霊魂の最善の行き末であるか。
仏教では、死後の霊魂は人間の生きる道を離れ、次の行き先が決められるまでの時期――中有、空間――閻魔宮を経て、あらためて六道輪廻を繰り返したり、往生したりする。そのうち、浄土への往生は最善の報いであり、浄土は最善の帰着とされている。
神道では、人が死んだ後、その霊魂が他界へ行くとされる。さらに、山上他界、海上他界、地中他界の多種の他界がある。霊魂そのものも時間とともに変化するものである。死んだばかりの霊魂は死穢を持ち、子孫がこの霊魂を祀ることによって、だんだん死穢がとれ、浄化されていく。「端山」のような山で一定の年月が過ぎ、その霊魂はすこしずつ穢れや悲しみから超越し、清い和やかな神になり、祖霊・氏神になってから、他界へ行く。つまり、神になり、他界へ行くのは、すべての霊魂の帰着である。
以上で、神道、仏教の死霊観が習合する基点を検討してきて、不十分なところはまだ存在するが、神道、仏教双方とも霊魂の存在・不滅を認め、霊魂の存続する所に対する構想があることが判明した。仏教は死の観念を切口に、浄土の最善を看板に掲げ、日本人の精神的な需要を満足させるうちに、神仏習合の死霊観が生まれ、さらに『日本霊異記』と『今昔物語集』の話に吸収されたのではないか。前述で取り上げた六つの話には、いずれも死とのかかわりがあり、その中で、『今昔物語集』の16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕觀音得活語」という話では、蓮秀は法華経や観音の利益で、蘇生が可能となったが、それは賀茂神社の明神の助けがなければ、地獄から戻るのも無理であっただろう。蘇生するには、垂迹神からの利益も、本地仏からの利生もともに無視することができない。また、『今昔物語集』の16巻・35話「築前國人 仕觀音生凈土語」では、「他界=浄土」という意味合いが読み取れるように、神道の他界と仏教の浄土は同一となった。異なった信仰系統に属する二つの死後世界は、一つの主題をめぐって重なりあい、一致するようになった。
2 習合死霊観の特色
   (1) 神仏の機能配分
神道は日本人の原始信仰であり、祖先信仰と自然信仰を両柱とするものである。石田一良氏が神道に対する研究からまとめた神道の原理通りに、「生活中心主義」「共同体主義」「函数主義」は神道の特徴である。石田一良氏は「神道は各時期に共同体の生活意志を神格化にするものである」と説いた。故に、あくまでも、神道が関心するのは、現世の生活に緊密にかかわる物事である。そして、神道はいわゆる教説がまだ体系になっていない段階で、仏教の伝来を迎えた。神道に反して、仏教は現世より、来世のほうが重視され、それなりの教説も充実している。日本に入ってきた仏教は、自らの発展を図るために、積極的に日本の固有文化と調和し、日本の土着宗教である神道と融合していった。そして、神道と仏教が融合し合い、競争し合ううちに、各々の特徴によって、それぞれの機能や主宰する領域も確立してきた。つまり、神道は継続して日本人の生の世界を、仏教は神道の強調していない分野――死の世界を支配するようになった。生きる間に神社に参拝して神に祈願をし、死後、地獄に落ち、閻魔宮で裁判を受けて後の行き先が決まるような様式は典型的である。
『日本霊異記』の中巻・5話「依漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報緣 第五」、『今昔物語集』の16巻・35話「築前國人 仕觀音生凈土語」、16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕觀音得活語」などでは、当時の日本人の信仰状況がよく表されている。つまり、生きている間、信仰を神――神道に寄せたり、または多数の信仰を持ったりするが、死後のよい帰着はやはり仏に求めなければならない。死後の他界観などの死霊観はほぼ仏教が支配していた。現代の学者梅原猛氏は、現代日本人の宗教信仰には、神道は生の宗教で、一方、仏教は死の宗教であるという特徴を論じたが、現世のことを神道に、死後のことを仏教に委ねるという信仰の傾向、様式は、古く奈良・平安時代には既に存在したのである。
   (2) 穢れへの執着
習合は文字通りに相異なるものなどが折衷・調和することである。神仏習合は、日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が折衷して融合、調和することである。対抗・折衷・融合のうちに、神道と仏教は、互いの教説が補充されたり、克服されたりしてきたあげく、「神」に「仏」があり、「仏」に「神」があるような神仏習合の思想だけでなく、それなりの死霊観もできた。以上で述べたように神仏の機能配分の傾向はあったが、なかなか調和できなかった要素もある。それは神祇信仰における穢意識である。穢れは忌避すべきという観念は、陰陽道の導入によって一層肥大化するようになった。忌避・排除の方法においても祓から物忌という、より厳格な道がとられることとなった。『弘仁式』をはじめとした諸格式に、穢れによる物忌のことが詳細に規定されていた。穢れの対象、種類及び種類によって忌の日数、感染の範囲など、一々明確に決められている。このように肥大化した穢意識は、仏教との習合過程において、弱まるどころか、かえって強くなってきたようである。
例えば、『今昔物語集』の29巻・17話「攝津國耒小屋寺盗鐘語」で、仏法に帰依した僧たちでも、死体に手を出すことを恐れ、死体の穢れを避けるために、「皆恐テ房ノ戸共ヲ差シテ籠テ」という恐ろしがっている反応を示した。また、『今昔物語集』の16巻・29話「仕長谷觀音貧男 得金死人語」にも、男の死人に対する「奇異ク怖シク思フ」気持ちはやはり、死体の穢れを恐ろしいと思っていたのであろう。神仏習合において、死に関わることをほぼ独占していた仏教は、神祇信仰に強く根付いていた穢意識に勝つことはできなかった。
穢れ、とくに死穢は土着の意識であり、固有の文化の代表として、それなりの伝統性を持っていると思われる。神道習合の過程に、穢れ意識に対する固執から、日本の固有文化の伝統性と固執性、日本文化の主体性が表現されていると考える。外来の文化をいつも積極な体勢で吸収するようであるが、ただし、それはひたすらの自我改造ではなく、固有文化に対する執着も強く持っているということであろう。
   (3) 現実な応報観
共同体の現実利益を本位に、神々を祭ったり、祈願したりするのは、古来の神道信仰である。さらに、「私有」意識の出現につれて、神々に個人的な利益を求める信者も、個人的な祈願を叶えてくれる神々も現れてきた。しかし、公的な祈願といい、私的な祈願といい、人々が求める利益は、あくまでも生活、現実関係のものである。人々は神社へ参詣したり、奉納したりすることを通じて、神々からの現実的な「応報」を求めていた。さて、「応報」とは、仏語で、善悪の行いに応じて受ける吉凶・禍福の報いである。神々からの利益を「応報」というのは、不適当かもしれないが、良い「応報」は信仰の区別と関係なく、すべての信者が憧れて求めるものであろう。ただ、仏教の世界において、究極な追求は現世の利益より、来世の往生である。つまり、この輪廻の世を脱して浄土へ成仏することである。
異なる「応報」への求めは、神仏習合の展開を妨げなかった。代わりに、神仏習合の独特な応報観を促成した。それは、『日本霊異記』の中巻「依漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報緣 第五」、「智者誹妬變化聖人而現至閻羅闕受地獄苦緣 第七」、『今昔物語集』の16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕観音得活語」と、『今昔物語集』の16巻・35話「筑前前國人 仕観音生浄土語」との対照から分かる。『今昔物語集』の16巻・35話「筑前前國人 仕観音生浄土語」に現れたのは、一層仏教的な構想に相応しい、浄土への憧憬である。反して、以外の三つの話から伝わってきたのは、応報による蘇生のありがたさである。要するに、成仏の代わりに、死後に元の生活世界へ蘇生することは、もっと好ましい「応報」とされていた。この現実色彩が強い応報観念には、神道の現世中心主義からの影響がないとは考えられない。
   (4) 重層の死後世界
死霊観について、前述で論じたように、霊魂の乗り物である肉体の機能がなくなった後、霊魂というもの、また続けて存在するのか。存在することを前提としたら、霊魂は人間が死後、何が変化するのか。肉体の変わりにどんな形態で存在し続けるか。この世に存在し続けるのか、または別の世へゆくのか。これらの死後の様々なことをめぐって構成する意識や観念、または一種の信仰とは、死霊観であると思う。そのうち、いわゆる他界観は、死霊観の重要な一部分を構成する。
日本人の伝統的な意識では、葬られた場所によって霊魂は山、海、地下のような異なった他界へ行く。そこで、他界の場所は区別するための基準になるが、諸他界には本質的な相違はない。反して、仏教では、人間の霊魂の行き先は人の生前において為した業によるものであるから、良し悪しの相違は大いに存在する。輪廻・転生はやはり「苦」の継続で、ただ仏様のいる所である浄土は「極楽」の世である。そここそは生き物の最善の帰着である。では、神仏習合の死霊観はとうであろうか。『日本霊異記』、『今昔物語集』に表現された死後の世界は、仏、仏法だけに治められていないようで、他界へ行くことは往生であり、往生は他界へ行くことに等しい例も見える。『今昔物語集』の16巻・35話「築前國人 仕觀音生凈土語」には、「他界ニ移テ善キ身ニ生レニタリ」、「永ク生死ヲ離レテ浄土ニ生ル、事ヲ得タリト」という話がある。実際に、二つの文句は同じような意味を表している。つまり、この話で、「他界=浄土」である(この「他界」は神道の言葉であることは前にすでに論じた)。同じ死後世界は他界でもあるし、浄土でもある。最善の死後の行く末において、他界は浄土に同一化された。
同時に、死穢で満たされ、恐ろしい黄泉国の存在は、最善の浄土によって相殺されなかったようである。『日本霊異記』の「智者誹妬變化聖人而現至閻羅闕受地獄苦緣 第七」に、行基菩薩を誹った智光法師が、口禍で死後に落ちたところは、明らかな地獄のようであるが、その地獄には黄泉国の煮焚きしたものとされた「黃竈火物」もある。ゆえに、一言で智光法師が死後に落ちたところは地獄であると判断しがたくなる。そこは、単一な仏教世界より、黄泉国を地獄に同一化した最悪の死後世界であろう。死後世界において、神道と仏教は、互いの習合できるところを踏まえながら、善の帰着に他界と浄土を、悪の帰着に黄泉国と地獄を同一化したのである。それこそが、当該時期の死霊観の特徴の一つであり、重層の他界観を表現している。
おわりに
以上、『日本霊異記』と『今昔物語集』を中心に、奈良・平安期における神仏習合の死霊観を考察し、当該死霊観の大まかなイメージを知ることができた。神道、仏教それなりの理念が混合になり、できた習合の死霊観であるから、特質を追究するには、神道的な要素が強いか、それとも仏教的な色彩が濃いか、紛らわしくてなかなか一言で表現しにくいと思う。とくに、死後世界、または他界観に関する習合は、もっとも顕著である。そして、当時の人々も単純的、現実的な欲求を持ちながら、神道と仏教との相違より、人間の死後のよりよい帰着にもっと関心を寄せていたのであろう。日常生活にも染み込んでいた神道的な考えをもとに、仏教の他界観がまんまと融合してきた。「浄土即是他界、他界即是浄土」というごく楽天的な意識は、当該時期の他界意識といってもいいと思う。だが、習合の死霊観において、神仏の区別は完全に見えないというわけでもない。死の世界における仏教の大きな比重、穢れ意識における神道の強勢などは、神・仏それぞれの突出した表現である。
ところで、それぞれの説話を通じて、かかる時期の神仏習合の展開状況もうかがえる。以上六つの説話は、異なる説話集から取り上げた話であるから、作品の編纂時期、意図などにおいて、一定の相違があるのは当然である。『日本霊異記』の両説話は、聖武天皇の世(七二十四―七四十九年)の話であり、『今昔物語集』からの四つの話は、八世紀以後の話と判断できるが、具体的な成立時間は不明である。ところが、実際に、『今昔物語集』の16巻・35話「筑前國人 仕観音生浄土語」以外の五つの話は、発生場所が全部京中心の畿内地方である。摂津国の富家長公、河内国の智光法師、京の生侍、京醍醐寺の蓮秀、摂津国の小屋寺、それぞれの話どちらも京や京周辺の地域を舞台にして展開したのである。
では、八世紀頃の京における神仏習合の状況を一応見ておきたい。気比神宮をはじめ、宇佐八幡宮、伊勢神宮などの王権レベルの神社には、相次いで神宮寺を建立した。ゆえに、神仏習合という信仰様式は、八世紀の京において、すでに王権からの認可を得たわけである。さらに、このような信仰傾向は、京から畿内へ、中央貴族から地方豪族へ、徐々に浸透、拡散していった。多数の遊行聖の努力で、奈良後期になると、鹿島神社、多度大社などの地方レベルの神社にも神宮寺が建てられるようになった。飛鳥時代の瓦の出土から、当時の寺院址とみなされるものは全部で四十六カ所あり、其の内、大和二十八カ所、河内五カ所、和泉四カ所、山城四カ所、摂津三カ所が数えられている。飛鳥時代の仏教発展の気運を受けついだ八世紀以後の時期において、神仏習合がもっとも活発に展開された地域は、果たして京を中心とした畿内地方である。京は政治の中心だけではなく、文化の中心地でもある。京の先進文化を最初に接触できた地域は畿内であり、最初に接触できた人々は畿内地方の豪族である。この事実は、以上に挙げたいくつかの説話が裏付けていると思う。摂津、河内などの畿内の国々は、京で認められた神仏習合の発揚地であり、さらにそれを各地方へ伝播するための掛け橋である。同時に、地方の豪族は、神仏習合の唱導者となり、神仏習合の流布に大きな働きをした存在であった。
また、話の主人公たちにもう一度注目したいと思う。話に登場した鋤田寺の智光法師、醍醐寺の僧蓮秀、小屋寺の僧侶たちは、みんな仏法を宣揚する僧侶である。しかも、神仏習合の展開過程で、神社に神宮寺を建立したり、神宮寺の運営を担当したり、寺院に神社を勧請したり、その土地の地主神を寺の守護神としたりした役目もまた、主に僧侶が担ったのである。すると、逵日出典氏が論じたように、神仏習合にもっとも関与していた、神仏習合を展開する主な役割を担っていたのは、やはり僧侶であろう。積極的に習合を実現しよう、普及しようとした人々には、地方の豪族がいる、と義江彰夫氏は論じたが、表側に立っていた、神仏習合を積極的に広めようとしたのは、あくまでも仏教側及び仏教徒の僧侶たちであると思う。権門への接近によって、神仏習合は国家王権の認可を得たが、地方への布教は容易いことではなかったようである。なぜかというと、深奥で、論理的な教義より、現実な利益のほうに関心が集まったのは、庶民の信仰心であったからだ。病を癒すために、仏教に帰依し始まった富家長公、死穢を気にせずに金死人を割って売った生侍から、当時の人々の信仰の現実性、弛緩性が読み取れるのではないか。したがって、信仰様式にとどまらず、死霊観までも影響を及ぼした神仏習合は、当時の京を中心とした畿内地方において、顕著な発展を遂げたわけである。
神宮寺の建立、僧形神像の出現などは、終始仏教と神道が習合した外在表現である。それによって、朝廷の王権からの認可を受けながら、仏教の日本における伝教、発展を実現した。だが、信者、とくに民間の信者はどのように神仏習合を受け止めていたか。それは神宮寺や神像を通じて、なかなか読み取れないものである。かわりに、民間にひろく流布した説話などは、かえってそれをより鮮明に反映していると思う。『日本霊異記』、『今昔物語集』などの説話には、神仏習合が活発に展開したその頃における人々の信仰心があらわれているのであろう。さらに、本稿で取り上げた『日本霊異記』、『今昔物語集』の諸説話は、当時の民間に生活していた僧侶、庶民などの神仏習合の死霊観をいきいきと伝えている。
奈良・平安時代、四百年あまりの期間における神仏習合の死霊観を考察するには、単に『日本霊異記』と『今昔物語集』からの幾つかの説話を拠り所にし、説話分析の方法に偏って考察するのは、かなり不十分であると思われるが、本稿を通して奈良・平安期における神仏習合及びその死霊観の一隅を明らかにすることができれば、ありがたいであると考える。民俗学、歴史学と関連しながら、奈良・平安期における神仏習合の死霊観に対する一層深い考察を後の論稿に期したいと思う。 
 
奈良─景戒 『日本霊異記』

 

天皇は仏教徒だった
『日本霊異記』は平安時代初期に書かれた最古の説話集で、正式名称は『日本国現報善悪霊異記』、著者は薬師寺の私度僧・景戒(きょうかい)です。私度僧とは国家の許可を得ないで私的に僧になった人のことで、景戒は妻帯もし、俗人の暮らしをしながら、最後に薬師寺の僧になっています。
上皇陛下ご夫妻は6月12日、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)にある明治天皇の父・孝明天皇の陵墓を訪れ、譲位を報告されました。真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺には鎌倉時代から江戸時代までの歴代天皇・皇族の陵墓があり、皇室の菩提寺として御寺(みてら)と呼ばれています。
天皇の即位の礼が神道式になったのは明治天皇からで、鎌倉時代から江戸時代までは仏式の即位灌頂(かんじょう)が行われていました。灌頂とは、頭に水を注ぐことで仏の位を継承する儀式で、つまり、歴史的には天皇の宗教は神道ではなく仏教でした。
宗教には人々をまとめる力があります。神道が生まれたのもそうした必要性からで、納税の始まりは、秋にとれた稲穂の一部を神社に納め、翌春にそれを授かり、苗を立てたことだとされています。古代の神道は氏族や部族の神を祀るもので、一般的な宗教ではありませんでした。
それに対して仏教は普遍的な宗教で、さらにインドや中国、朝鮮で国造りの思想として用いられた歴史がありました。ですから、古代国家形成期の日本は、仏教を国造りの思想として導入したとも考えられます。とりわけ大乗仏教の布施という利他の教えは、人々に納税の意識を持たせるのに適していたのです。自分の財産の一部を上納することが、社会全体の維持に役立っているという意識です。仏教が普及した背景には、支配層がそうした意図をもって導入したからという側面もあります。
日本に伝来した仏教は皇室が受容することで根を下ろしました。それが民衆に広がっていく過程で、即位の礼も仏式で行われるようになったのです。とりわけ平安時代に空海と最澄という二大スーパースターが現れ、真言宗は皇居(明治以降は東寺)で国家安泰・玉体安穏・五穀豊穣・万民豊楽を祈る「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」を、天台宗は延暦寺で、天皇陛下の「御衣」を御形代に、玉体安穏、天下泰平、万民豊楽を祈願する「御修法大法」が行われるようになります。
仏教は日本人の根底にある神道と融合し、奈良時代から鎌倉時代にかけて形成された本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により神仏習合が進むという、世界でもまれな日本特有の信仰形態が生まれ、幕末まで1000年以上続きました。本地垂迹説とは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるという考えです。そうした仏教の日本土着過程を、各地の説話を通して物語っているのが『日本霊異記』です。
因果応報の教え
収録されている説話で一番多いのは、戒律に反することをした人が死後、牛になったりする話です。罪に対する罰が来世まで持ち越されるのはかなり厳しく、それが集団から個人の単位まで下りてきたのは仏教の普及によるものです。民衆に仏教を布教していく過程で、僧たちはそうした説話を積極的に用いたのでしょう。善いことをすれば善い結果に、悪いことをすれば悪い結果になるという仏教の因果の法則は日本人の感性に合っていたので、仏教はごく自然に受け入れられたのです。
インドで生まれた仏教には輪廻転生の教えがあります。ところが日本には輪廻転生のような死生観はありませんでした。『古事記』では人間を青人草と言い、男女の交わりから国が生まれているように、この世は自然に生まれてきたという考えです。生と死の始まりについて、イザナギが亡くなったイザナミを連れ戻しに黄泉(よみ)の国に行く話があります。最後に、黄泉の国から逃げ出そうとするイザナギがどうにか追っ手を振り切り、黄泉比良坂の入り口を岩で塞ぐと、イザナミは「毎日、1000人を殺す」という呪いの言葉をかけます。それに対してイザナギは「では、毎日1500人の産屋を建てよう」と答えます。これで世界に「生と死」が生まれたというのです。
もっとも縄文時代の遺跡や遺物にも、太陽の循環や月の満ち欠けなどから生じた、生命の循環、生まれ変わりの思想があったことを示すものがあります。例えば、函館の縄文遺跡で発掘された粘土板には、幼児の足形が残されていました。おそらく、亡くなった幼児の思い出を、また生まれてくることを願って、母親が粘土板に残したのでしょう。
人は亡くなると近くの山に住まい、子孫たちの暮らしを見守るようになり、何代か後に再び家族の子供として生まれてくるというのが、古代日本人の死生観です。ですから、インド仏教のように、はるか西方にある浄土に行くという考えはなく、子孫たちの近くにいるというものなのです。「草葉の陰から見守る」という言葉もありますね。もっとも、死後、動物などに生まれ変わるという考えはなかったので、その部分は排除しています。
538年に百済の聖明王から仏像や経典、上表文を献上された欽明天皇が仏教受容の可否を有力豪族にはかると、物部氏と中臣氏が反対し、賛成の蘇我氏との間で崇仏論争が起こったので、天皇は仏教を蘇我氏に預けています。
『日本書紀』には「神道を尊び、仏法を敬え」という欽明天皇の詔が記されています。天照大神を皇祖とし、天孫降臨神話をもつ天皇はいわゆる祭祀王であり、その下で物部氏は既得権力を持っていました。それに対して蘇我氏は、新しい技術をもつ渡来人や彼らの仏教を受け入れ勢力を広げようとしたのです。 
 
日本霊異記にみる役行者と富士山

 

富士山に関する記録として古いものでは、まず『常陸国風土記』が挙げられる。そして次によく『万葉集』が挙げられる。そしてその次に古いものとして、『日本霊異記』(にほんりょういき、9世紀前半成立とされる)が出てくる。『日本霊異記』は、興福寺の僧「景戒」が記した仏教説話集である。
『日本霊異記』における富士山に関する記述は、どのようなものであるか。それは「孔雀王の呪法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁第二十八」に記されている。この部分を簡単に説明する。前置きのみ書いておくと、優婆塞(役行者)が朝廷の命により伊豆の島に流されている…という設定です。
「 昼は勅命に従い島内(伊豆)にて修行した。夜は駿河国の富士山に行って修行を続けた。ところが優婆塞は斧やまさかりによる極刑を許されて、天皇のいる都近くに帰りたいと願い、そのために刃に伏して処刑されそうになったため再び危うく逃れて富士山に登った。 」
ここで、富士山を修験的側面と結びつける考え方が確認できる。そのため、この記録は富士信仰を考えるにおいて非常に重要である。 この記録は古い部類に入るため、その当時の富士山の性格を表す記録として非常に貴重である。
さて「富士山」というのは、「富士山の語源」で取り上げましたように、いろいろな表記がみられます。『日本霊異記』で富士山は「駿河富岻嶺(するがふじのたけ)」と記されています。
この記録で以下は言えると思います。
•富士山と修験を結びつける考えが明確にみられる(富士山と仏教)
•「富士山=駿河国」という普遍的認識は9世紀でも同様である
この記録は、役行者の説明としてもよく取り上げられる。ただ、夜伊豆を出発して海を走って富士山に行くというのは、現実的ではない。ですから実際にそのようなことを行なったわけではありません。しかしこれらの記録が信仰性を示すことは、何ら揺るがないのである。
「富士-信仰・文学・絵画」では以下のように説明している。
「 役行者は実在の人物であったようであるが、その行動自体は伝説化されていたのであり、この『日本霊異記』の記述も史実を示しているとは考えられない。しかし、この時期に、富士を活動の場とする山岳修行が始まっていた事実は示していると考えるべきであろう。 」
富士信仰を説明する際、外して語ることができない記録と言えそうである。  
 
『日本霊異記』 下巻(5) 乞食僧

 

奈良時代当時、租庸調の税の徴収は極めて過酷であったようだ。また、税だけでなく、防人として、家族や田畑から引き離されて、遠方に徴用されたりということもあったらしい。
このようななか、生活できなくなった者たちは、過酷な税から逃れるため、国の許可を得ない僧[自度僧(じどそう)]となり、托鉢をして生きていたものも多かったのであろう。
富める者からみれば、自度僧(じどそう)となって税を払わない輩は、許しがたい存在で、犬飼宿禰真老(いぬかいのすくねまおゆ)のように、托鉢に来た僧を愚弄して追い払っていたものもいたに違いない。
『日本霊異記』の作者である景戒(きょうかい)も、自度僧(じどそう)であったらしいが、富める者の、僧に対するそのような振る舞いは許しがたかったのであろう。
富める者、権力のある者に対する仏罰や閻魔様の過酷な罰は、当時の庶民にとっては、胸のすく話で、教化の手法として、説話の中にこのような話を取り入れることは効果的であったか。
垂仁天皇陵の北の佐岐の村に住んでいた犬飼宿禰真老(いぬかいのすくねまおゆ)は、乞食僧を憎み嫌っていた。
女帝称徳天皇の御代に、一人の僧が真老の門に来て食を求めた。真老は、食を施さないばかりか、僧の袈裟を奪い取り、「おまえはどういう類の僧か。」と、責めたてた。
この僧は、「私は国の許可を得ていない自度僧(じどそう)である。」と言ったところ、真老は、この僧を打ち追い払った。
翌日の朝、真老は、鯉の煮こごりを口に含み、酒を飲もうとしたところ、突然、口から黒い血を吐き、横ざまに倒れ、息を引き取った。  
 
日本霊異記

 

日本最古の仏教説話集。上中下巻に116縁(えに)を収録する。なぜ縁かというと、それぞれのタイトルがすべて「〜〜という縁」というように終わるからだ。たとえば、「法花経を億持し、現報を得て奇しき表を示す縁」というように。わたしは日本霊異記をたいへんおもしろく読み、これは日本の下層民の原点であるという感興をいだく。
一遍時宗の遊行者や説経節の芸能者は、この日本霊異記を祖先に持つように思う。なぜなら、この説話集は、全国を旅する私度僧のお話を集めたものだからである。学者によると実際は(聞き書きならぬ)書き写しが多いようだが、そうはいってもどの記録も最初はお話なのである。
私度僧(自度僧ともいう)とは、国からの認定を受けずに勝手に僧になったもののこと。わかりやすくするためバカにしたようなことをいうと、日本霊異記は、集団定住生活を送れないゴロツキや半端者が、僧を自称しながら喜捨(寄付金)を頼りにふらふら日本全国を放浪した際、そのお布施の見返りとして文盲の下層民に説いた因縁話を集めたものである。
このため、内容のほとんどが仏恩(功徳)と仏罰(地獄)に要約されてしまう。仏教的に善なることをしたら善の報いがあり、逆もまたそうであると説く。身もふたもないことをいうと、だからうちら坊さんに金品を恵んでくれというお願いである。もっと過激ないいかたをすれば、投資詐欺のセールストークといってもよい。
教科書的なきれいごとに話を戻すと、仏法僧の三宝を重んじよだ。正式な資格を持たぬ乞食と紙一重の私度僧も坊主なんだからたいせつにしてくれ。そして、作者の景戒もどうやら私度僧であったらしい。ちなみに、日本に絶対的善悪の価値観を根づかせたのは大乗仏典の法華経だから、善因善果と悪因悪果を説く日本霊異記はわが国最初の法華文学ということも可能だ。かなり飛躍したことをいえば、創価学会・宮本輝の文学作品は日本霊異記に通じている。
日本霊異記の持つ意味はもっと大きいとこのたび繰り返し読んで思う。わたしは文学、演劇、宗教の3つは同源であると体感的に信じている。演劇の起源は宗教的な行事であろうし、文学の言葉もまた宗教的生活雑感に根を持つような気がしている。異国のことをいえば、ギリシア悲劇はディオニュソス(バッカス)祭の催事だったし、聖書を文学作品として読むものも少なくないだろう。
さて、もし文学=演劇=宗教ならば、日本の場合、まさに日本霊異記にこの3つのジャンルの源泉があるように思うのだ。この説話集は、主に法華経の教えを低次元で説いたものである(宗教)。(断っておくと、西方浄土への憧憬が何度も見られるから法華経思想だけではない)多様な縁、つまり因果を底辺庶民に向けて物語っているため、それほど高級とはいえないにしろ文芸作品であることは疑いえない(文学)。しかし、本来的には読書されたものではなく、くずれ坊主がパフォーマーよろしく演者となって伝えた口承芸能である(演劇)。なにがいいたいのかというと、もしかしたら日本霊異記は源氏物語よりもよほど偉いのではないかということだ。自分が苦労して読んだからいうようだが、もっと重んじられてもいいのではないか。
この作品が偉いかどうかはわからないが、ふしぎな親しみを感じたのは間違いない。生きている世界観が近いとでもいおうか。貴族の高級な美感ではなく、下層民の俗なる悲喜を主として取り扱っているのがいい。ほとんどすべてのお話が不幸を物語っているのもいい。というのも、突きつめれば善因善果は「不幸→幸福」、悪因悪果は「幸福→不幸」ゆえ。つまり、人間の多彩な不幸に誠実に向き合っているのである。
日本霊異記には貴族のみやびな情感なぞからもっとも遠く離れた世界が描かれている。そこがとても気に入っている。ほめつづけるが、クソ庶民の生きるままならぬ地獄へしっかりと目が向いているのもいい。学のない下層民の低俗な関心をあおる奇怪なお話ばかり収集されているのもいい。結局のところ、どうしてこうも日本霊異記を気に入ったのか考えると、行き着く先はまさしくわたしが現代の下層民であるからという理由しかない。
ただの下層民ではない。原因不明の不幸に苦しむ下層民だからである。恵まれた上流社会のインテリはあほらしくて日本霊異記など読めないかもしれない。しかし、わたしはこの書をわがこととして読み込んだ。わが耳は、本書に込められたやぶれかぶれの乞食坊主の声をたしかに聞いた。それはたしかに仏教の教えであった。
とはいえ、いくらあなたが不幸な底辺庶民だったとしても、かたぎの人間にはなかなか日本霊異記を読めないと思うので、これから簡単に紹介する。作者の景戒自身が序文で本書の内容を要約している。
「あるいは」とは「ある者は」という意味。(以下、引用文中で変換できない漢字はカタカナで表記します)
「あるいは寺の物を貪り、犢(うしのこ)に生れて債(もののかひ)を償ふ。あるいは法・僧を誹(そし)り、現身に災ひを被(かがふ)る。あるひは道を殉(もと)め行を積みて、現に験(げん)を得たり。あるいは深く信(う)け善を修めて、生きながら祐(さいはひ)をカガフる。善悪の報いは、影の形に随ふがごとし。苦楽の響(ひびき)は、谷の声に応ふるがごとし」
人間に追い使われるかわいそうな牛は、前世における借財のためなのである。人生を貸しと借りで見る視点は、日本霊異記で一貫している。巻末には、天皇は前世で高僧として功徳を積んだからとのヨイショが書かれている。こういう前世思想を非科学的だからあほくさいと笑える人間は幸いだ。人生がいかに不平等でどれほど理不尽か、ということを腹の底まで思い知らされる経験をしていないのだから。なまなましい不幸を実感的な痛みとして味わい尽くすと前世がうっすら見えてくるはずだ。本書では前世でのしくじりのため牛に生まれ変わるという話が複数見られる。この場合、死が救済となるのはとても意味深い。仏僧のおかげで牛の前世が実は愛する親族だと判明したのちに、かの畜生は死ぬ。この死によって苦しみから解放されたと日本霊異記は物語るのである。生き物が死ぬのは、かならずしも不幸ではないということだ。根底にあるのは、生存そのものが苦かもしれぬという仏教思想である。さて、日本霊異記よりたくさんの苦しみうめく生命の悲鳴が聞こえてくる。だが、それだけではないのである。その苦しみを厳しく裁く視線もまた感じる。下世話なものいいを許してもらえるのなら、はっはっは、この世だけだと思うなよ!
「現報甚だ近し。因果を信(う)くべし。畜生に見ゆといへども、わが過去の父母なり。六道四生はわが生れむ家なり。そゑに、慈悲なくはあるべからず」
現世における善悪の報いはすぐやってくる。いくら遅いといっても来世にはかならずやってくるぞ。ならば、仏教の因果をどうして信じないか。六道四生はわが生れむ家なり。来世は六道四生のどこに生まれるか考えてから行動しろよ。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上。四生は、卵生、胎生、湿生、化生。
「三界を還(めぐ)るは、車の輪のごとし。生きながら六道を廻(めぐ)るは、ウキクサの移るに似たり。此(ここ)に死に彼(かしこ)に生れて、具(つぶさ)に万苦を受く。悪因は轡(くつばみ)を連ねて苦しき処にハシる。善業は縁にヨじて安き堺(さかひ)に引く」
六道を説いたこの二箇所は、日本霊異記の絶唱だとわたしは思っている。声に出して読むと、黒々とした毒々しい快感がわが身をつらぬく(不快感ではない!)。此(ここ)に死に彼(かしこ)に生れて、具(つぶさ)に万苦を受く。三界とは、欲界、色界、無色界のこと(順に高次な禅境へと移行していく)。欲望せよ、そして苦しむがよい。何度も生まれ変わって、そのたびに苦しめ。しかし、やはり現世だ。一回きりしかない現世をしかと見据えよ。
「誠に知る、現報のはなはだ近きことを」
これは日本霊異記のメインテーマといってもよいだろう。日本霊異記のお話を区分すれば、善報譚、悪報譚、ふたつを組み合わせたものの3つになる。特徴としては、どれも現世で報いが生じる点である。たしかに六道輪廻の考えはすみずみまで行き渡っているけれど、善報も悪報もかならずお話のなかで完結する。六道四生の生まれ変わりを考えるのは、現世の苦を受け入れるときだけである。たとえば、目の見えない身体障害者はどう考えるのか。
「みづからおもへらく、「宿業の招くところならむ。ただ現報のみにはならじ。善を行ひ念ぜむにはしかじ」とおもふ」
この説話のタイトルは、「二つの目盲(し)ひたる女人、薬師仏の木像に帰敬して、現に眼明くことを得る縁(えに)」である。タイトルからわかるよう、善因善果の善報譚だ。難病にかかったものの、おなじように考える。
「頸(くび)にヤウ肉を生じ、ソは大きなるウリのごとし。痛み苦しぶこと切るがごとくにして、年を歴(へ)てイえず。みずからおもへらく、「宿業の招くところならむ。ただの現報のみにはあらじ。罪を滅し病ひを差(いや)すよりは、善を行はむにはしかじ」とおもへり。髪を剃り戒を受け、袈裟を着て、その里の大谷の堂に住む。心経を誦持(ずじ)し、道を行ふを宗(むね)とす」
この難病は治るのに28年を要したそうだが、かならず現世で治癒するのである。忘れてはならないのは日本霊異記はたしかに仏教説話集だが、作者景戒はいまでいうノンフィクションを書いているつもりなのだ。仏心を起こさせるためのフィクションを書いているのではない。自分が見聞きしたところの実際にあった話を記録しているのである。そのうえで、事実を証拠として差し出してから、教えをたれる。
「祈(ねが)はくは、奇記を覧(み)む人、邪を却(しりぞ)けて正に入れ。諸(もろもろ)の悪をなすことなかれ。諸の善を奉行(おこな)へ」
いまでいう新興宗教の怪しげなパンフレットのようなものといってもよい。だれかの体験談を載せたうえで、作者は以下のようにまとめるのである。
「まことに知る、『願ひて得ずということなし』といへるは、それこれをいふなり」「アキらかに知る、『願ひて得ずといふことなく、願ひて果さずといふことなし』といへるは、それこれをいふなり」
長らく現世利益的信仰をバカにしていたが、最近宿業を強く感じさせることがあり、実体験によっておのれの考えを改めたしだいである。日本仏教の核というのは、現世利益にあるのではなかろうか。インテリはなんだかんだと理屈をいうかもしれないが、ああいう手合いはちっとも仏教を理解していないのだ。うまく出世の階段を登りつめたような高僧や大学教授に仏教のなにがわかるのか。けっ、わかるもんかよと思う。苦しくて苦しくて苦しくて、なんとかしてほしくてもう拝むしかない。実のところ、これが仏教信仰の真実の姿で、こういう庶民の態度を高みから現世利益的などと分類するやからは、きっとなにもわかっていないのだ。ほんとうにまったくそう思う。暴論を書く。伝統仏教はもはや宗教ではないのだ。新興宗教のみが真の仏教といえるのではないか。なぜなら、そこに苦しみがあるからである。日本霊異記は、内部に新興宗教的な熱を持っているところがいいのだと思う。人間苦に満ちているからいいのである。したがって、以下の俗なる願いが真実の日本仏教の姿なのだと下層民のわたしは思う。どうかインテリよ、バカにしてくれるな。
「われ昔の世に福因を修せず。現身に貧窮(ひんく)の報を受け取る。そゑに、われに宝を施したまへ。窮(せま)れる愁へを免(まぬか)れしめためへ」
さて、本書で胸打たれたお話をいくつか紹介したい。とはいえ、やはり典型的な善因善果の善報譚、悪因悪果の悪報譚はおもしろくないのだ。深みがないといいかえてもよいだろう。どうしても六道輪廻の入った物語をおもしろいと思ってしまう。
中三十「行基大徳、子を携(たづさ)ふる女人に過去の怨(あた)を視て、淵に投げしめ、異(あや)しき表(しろし)を示す縁(えに)」より。
行基というお坊さんがあるところに人を集めて法を説いていた。そこにひとりの女性が子連れで参加していたのだが、子どもの様子がただごとではない。子が泣き騒ぐため、行基の法話がよく聞き取れないのである。子どもは10歳になるくらいか。泣くばかりで言葉も話せず、また自力で歩くこともできない。たえずなにかものを食べていないと気が済まないという厄介な子だ。いまでいう障害児だろう。知的障害と身体障害をあわせもっていたようだ。さあ、行基上人はどういったか。「そこのお母さん、あなたの子どもを連れ出し、淵に捨ててきなさい」その場にいあわせたものは、ひそひそと噂したという。慈悲深いお坊さんが、どういうわけで、あんなことをおっしゃるのか。母親は子どもがかわいいので、捨てずに、そのままわが子を抱いていた。翌日の集会もおなじである。この障害児が泣き叫ぶのでうるさく、みなありがたい法話を聞くことができない。行基上人は、母親を責めていう。「その子を淵に捨てなさい」そこでようやく、母親はもう我慢の限界だと決心して、わが子を淵に投げ捨てた。すると、どうだろう。子どもが淵から浮き上がってきて、ジタバタしながら、こんなことをいうではないか。知恵遅れで足なえの子どもが目をらんらんと輝かせ、しきりに悔しがっていう。「ああ、残念だ。あと3年はきさまを食い物にしてやるつもりだったのに」これはいったいどういうことだと母親は行基上人に尋ねる。行基の答えはこうであった。「あなたは前世で、あの子に借りたものを返さなかったのだ。ために、現世であの子となって、返済を迫っていたというわけだ」お坊さんが母親に障害を持った子どもを捨てろという。こんな恐ろしいお話が平安時代初期に流布していたことに身震いする。安易なヒューマニズムで裁くことなどとてもできない深刻なお話であると思う。
さて、日本霊異記は計算高いというのか、この次にまた障害児のお話を掲載する。
中三十一「塔を建てむとして願を発(おこ)しし時に生める女子(むすめ)、舎利を捲(にぎ)りて産(うま)るる縁(えに)」より。
長年仏塔を建てたいと願っていた男がいた。男が70歳、妻が62歳になったときに、なぜか娘が生まれる。ずいぶんな高齢出産である。やはりというべきか子どもの様子がおかしい。娘は左の手をかたく結んで、開こうとしても、ますますかたく握りしめるばかり。これはいわゆる障害児であろう。両親はたいへん嘆いたという。「ばあさんや、高齢出産だったから不具の子が産まれたんだな。いやはや、恥ずかしいことだ。とはいえ、これも前世からの因縁ゆえにうちらの子となったに違いない」こういうわけで子を嫌って捨てたりせずに、かわいがって育てた。子が7歳になったときである。左手を開いていうではないか。「ねえ、これを見て」なんとそこにはありがたい舎利(釈迦の遺骨)がふたかけら。両親はたいそう喜び、触れてまわる。恥ずかしい子がそうではなかったのである。話は広がり、ついに国司の聞くところにもなった。結果、みんなで協力して七重の塔を建てて、その舎利を供養のため安置したという。仏塔が建立されるとすぐに、その子は死んでしまった。ひとつまえの話と正反対の内容といえるだろう。障害児は仏さまの子どもだというお話である。わたしは仏塔が建ったらすぐに子どもが死んだというところに深み、重みを見いだす。10歳にならずして死んだ子も立派な仕事をやりとげているのかもしれない。現代でも病院に行けば、難病の子どもであふれかえっているのである。どうして小さな子どもが難病で苦しまなければならないのか。その両親はもっと苦しいことだろう。ときに子が死んでしまうこともある。これはいったいどういう意味があるのだろうと両親の嘆きは底知れぬはずだ。しかし、その子はなにかとてもたいせつなものを両親に届けてくれたのかもしれない。はっきりいってしまうと、子を亡くすほどの不幸はそうそうないのである。亡児を思い悲嘆に暮れる二親に源氏物語なぞを語り聞かせても意味があるものか。貴族の子どもならばむかしであってもけっこうな医術が受けられたのだろう。しかし、下層民の子は次々に死んでいったのではないか。ときおり怪しげな坊さん(私度僧)が来てくれ、確信を持ってこんなお話をしてくれたら、どれほど慰められたか。下十九にも障害児の話がある。これは肉の塊として産まれてきた女児の話だ。なんでも尿道だけで女陰がなく、しかしのちに立派な尼さんになったという。この尼さんは猿聖(さるひじり)という蔑称を持っていたとのことだ。
中四十一「女人(にょにん)大きなる蛇に婚(くながひ)せられ、薬の力によりて、命を全くすることを得る縁」より。
ある裕福な家のお嬢さんが桑の木に登り葉を摘んでいたときのことである。「危ない!」と道を歩いていたものがいう。なんと蛇が娘さんに巻きつき、穴という穴を犯していたからである。娘さんは蛇から犯されていることに気づき、驚きのあまり蛇とともに落下した。これは獣姦とも、蛇のような男とも解釈できる。気を失ったお嬢さんは蛇と交わった恥ずかしい姿のまま実家に運ばれる。さっそく薬師が呼ばれ、秘薬が調合される。娘さんは衣服をすべて剥ぎ取られ、女陰丸出しの姿にされる。具体的には両足首を頭のうえで結ばれたという。なんのためかというと陰裂に注いだ薬汁が漏れないようにするためである。するとようやく交わっていた蛇が女体から離れたので、即刻打ち殺して捨てる。それから薬汁に刺激されたか、陰部から蛇の子がだらだら流れ出てくるではないか。白くかたまった蛙の子のような蛇の赤子がみな出てしまうと、娘さんは正気を取り戻していったという。「まるで夢でも見ていたみたい。いまはもう醒めています」しかし、このお嬢さんは3年後、また蛇に犯されて今度は死んでしまったという。蛇との情交がよほどよかったのだろうか。人間ならぬ畜生の淫欲にメスとして目覚めさせられたのか。娘さんは蛇を深く愛着するようになっており、死ぬ直前にこういい残したとのことである。「たとえ死んでも、来世でかならずまたあなた(蛇)と結ばれましょう」たまには作者景戒のコメントを引こう。
「それ、神識(たましひ)は、業の因縁に従ふ。あるひは蛇・馬・牛・犬・鳥等に生る。先の悪しき契(ちぎり)によりては、蛇となりて愛婚(くながひ)す。あるひは怪しき畜生となる。愛欲は一つにあらず」
さらに景戒は続ける。「経に説きたまへるがごとし」お経にもこのようなことが書いてあるのだが――。しかし、研究者によると、どこの経典かまだわかっていないという。余談になるが、本書を読むにあたってだいぶ学者の解説に助けられた。おそらく、文中の引用元を地道に特定するような行為が真の学問なのだろう。安っぽい新書を濫発するような学者は研究者ではない。しかし、文学研究はまったくわれわれの役に立たない。身もふたもないことをいうと、引用元の経典など、われわれ庶民にはどうでもいいのだから。まだデタラメ満載の新書のほうが暇つぶしとして役立つ。
話を元に戻す。いんちき坊主(私度僧)であった景戒の学識はいかほどであったのか。蛇と交わった女の事例を出したうえで、経典にこういう話があると続ける。むかし釈迦と弟子が墓場を歩いていたときの話である。墓のまえで夫婦が故人を偲んで泣いていたという。一見すると、なんでもない風景である。しかし、釈迦は嘆かわしいことだと憤る。なぜか。釈迦には因縁が見えていたからである。いま夫婦は亡母を偲んで嘆いているが、実のところ、汚らわしい因縁があったのである。いまは夫とともに義母を偲んでいる嫁が問題なのだ。この嫁の前世は、なにを隠そう、夫の母親だったのである。母親は男子を産んだが、深い愛欲が起こって、わが子のマラを口で吸っていたという。3年後、母親は重い病気にかかる。臨終の際、再度わが子のマラをしゃぶりながら、母はこう誓ったというのだから。「これから何度生まれ変わっても、いつもそなたと夫婦になろう」念願がかない、母親は近所の娘として生まれ、とうとう息子の嫁になった。炯眼の釈迦には、このよこしまな愛欲の因縁が見えていたから、大仰に嘆いたのである。これはもちろんいま亡母を思い泣いている男も、その妻も知らないことである。じっとりと蒸れ肌にへばりついてくるような仏教の愛欲観だと思う。そして、この世界をとても近しいものに感じるのである。血が濃いとでもいおうか、おかしな家庭環境で育てられたせいかもしれない。前世の因縁を前提にしないと理解できないような非常識な男女関係がある。経験したいとも(ほんとかよ!)敬遠したいとも思うが、これはもう人間にはどうしようもなく前世で決められたことなのである。蛇に限りなく近い執念深い男女というのはむかしからいたことがよくわかる。
これが最後ゆえ辛抱してついてきてくだされ。これもまた抜群におもしろい。下二「生ける物の命を殺して怨(あた)を結び、狐と狗(いぬ)とになりて、たがひに相報ゆる縁」より。
むかしは病人の治療をお坊さんがしていたという。ある村に重病人がいたので、お寺へ連れていって診てもらった。ところが、うまくいかぬもので寺の坊主が呪文を唱え祈祷するとそのときだけよくなり、やめるとすぐにもとの状態に戻ってしまうというありさまであった。病人は生きながら苦しむばかりである。坊さんがなんとしても治してみせるとなおも呪文を唱えていると、あるとき病人が悪霊にとりつかれたかのごとくうわ言を口にする。「おれは狐だ。よけいなことをするな、クソ坊主。呪文なんかやめちまえ」「いったいどういうことか」と坊さんが尋ねる。「この病人はな、前世で狐のおれを殺したんだ。いまおれはそのときの怨みを報いてやっているのさ。そんで、こいつが死ぬと、今度はこいつが犬に生まれ変わって狐のおれを殺すっていう具合なんだ」お坊さんはなんとか説得しようとしたがかなわず病人は死んでしまった。1年後のことである。今度はお坊さんの弟子が、おなじ部屋で病に伏せっていた。おりしも、ある人が犬を連れてお寺にやってきた。その犬がさんざん吠えて暴れるので、お坊さんはふしぎに思って、「首輪を放してやって、このわけを知ろう」と声をかけた。すると、どうだろう。犬は一目散に弟子の病臥する部屋に入っていく。なんと犬は狐をくわえて戻ってきたという。(どうやらある種の病気は狐がついていると思われていたようだ)坊主はなんとか犬を説得しようとしたが、犬は断固拒否して怨みを忘れず狐を残忍にも噛み殺してしまった。ここでとりあえず因果の輪は終わっているが、またこの狐がだれかにとりつくのだろう。そして狐にとりつかれたものが死に、今度は犬として生まれ変わる。いわゆる狐つきは、現代でいうところの精神病ではなかったかと思われる。精神病の人の執念深さは、狐がついたとしか思えぬほどの異常性がある。あれは前世で殺す殺されるの関係にあったと考えないととうてい理解できない。精神病の人の攻撃性というのは、阿修羅か畜生のように執拗である。わたしはこの話を読んだときに、これは狂人の世界だと直観したものである。精神病患者の頭のなかには殺しあう犬と狐が入っているようなものだ。この永遠に殺し殺されする関係性も、残念ながら、またわたしにはとても近しい。たぶん、人からひどく怨まれているし、こちらも憎い相手をけっこういまでも怨んでいる。この過程でときに精神が病んだりするのだろう。精神のみならず身体も病んでしまうことが、あるいはあるのかもしれない。このため、むかしは坊主の祈祷程度で実際に病気が治ったのだと思われる。怨みを忘れたら精神的肉体的な健康によろしいのはだれでも同意してくれるのではないか。もちろん、この話でも作者たる腐れ坊主(私度僧)の景戒は説いている。
「怨(あた)をもて怨に報ゆれば、怨なほし滅びず。車の輪の転(めぐ)るがごとくなり。もし有る人の、能く忍辱(にんにく)を発(おこ)さむ時に、怨人(あたひと)を見ば、わが恩師とせむ。その怨を報いずあれ。これをもて忍とす。このゆゑに、怨はすなはち忍の師なり」
なあ? お互い怨むのはやめようや!ちなみに、狂人の話は上二十三(P74)にも出てくる。下二十六(P268)の牛女も狂女とみなしてよいのではないか。 
 
「日本霊異記」

 

上巻三十二条
神亀四年九月、聖武天皇は群臣と、添上郡の山村の山で狩猟をされた。その時、一匹の鹿が逃げて、細見の里の農家に走り込んだ。家の人達は、これは幸とばかりに鹿を殺して食べてしまった。このことが、天皇に知れて、鹿を食べた男女十余名は逮捕されることになった。
彼らは恐怖のなかで、唯々大安寺の仏様にお祈りするばかりであった。そして、「私達が役所へ参ります時、寺の南大門を開いてください。鐘も鳴らしてください。」と頼みこんだ。さて、農民達は授刀寮(宮中護衛の詰所)に監禁された。ところが、ちょうどその時、折良く皇子が誕生されたので、朝廷は慶祝気分にわきたち、天下に大赦令を下して罪人を釈放した。かくて農民達は無事に家に帰ることができたのである。これはひとえに、大安寺の丈六佛のご加護であった。
【註】「日本霊異記」は、薬師寺所属の僧、景戒によって編纂された我が国最初の仏教説話集である。景戒は紀伊の国名草郡の豪族の出身で、中央の薬師寺に来て、唯識の教学を学んだ。景戒は、高僧として寺院の奥にとじこもるより、巷間に出て、悩める民衆に仏の教えを説き、庶民を救済したいと考えていた。そこで、一般民衆に仏の慈悲を分かりやすく、親しみやすい形の話としてまとめたのが、この上、中、下、三巻からなる「日本霊異記」である。
中巻二十四条
楢の磐嶋は左京六条三坊の人で、大安寺の西の里に住んでいた。彼は大安寺の御用商人として寺の「修多羅衆銭」を借用し、敦賀まで商売にでかけた。その帰り、急に病気になり、一人、奈良の家へ向かった。唐崎、宇治橋といそぐ道を、三匹の鬼が追いかけてくる。気味が悪いので聞いてみると、「閻羅王の使いで磐嶋を召しにきたのだ。」と答える。驚く磐嶋を尻目に「じつはお前の家まで行ったのだが、寺の守護神である四天王に、寺のために商売に行っているのだから許してやってくれと頼まれた。こうしてお前を探し求めているうちに空腹で困っているのだが、何かないか。」という。磐嶋は持っていた干飯を鬼たちに与えた。鬼は、「お前の病気は、われわれの気によるものだ。あまり近づくな。しかし恐れることはないぞ。」という。それを聞いて、磐嶋は当時の習慣にならって、珍味を供えて饗応した。すると鬼は本音をはいて、「我々は、牛の肉が好物なのだ。準備をして貰えないか。牛をとる鬼とは我々のことだ。」と、はっきり言った。磐嶋はすかさず、「牛の肉は差し上げるから、冥府行きは堪弁して頂きたい。」と頼み込んだ。ここで取引は成立し、ほどこしに対して恩を感じている鬼達は、相談の結果、磐嶋と同じ戊寅生まれの相八卦読み(易者)を、かわりに連行することになった。そして鬼達は、「閻羅王に罰せられるのをのがれるため、我々の名をよんで、金剛般若経百巻をよんでくれ。」と、それぞれの名を告げて消えていった。翌日みると、磐嶋の家の牛が、一頭死んでいた。磐嶋はいそいで大安寺の南塔院へ行き、当時まだ沙弥であった仁耀法師に事の次第を話した。仁耀が二日かかって百巻のお経をよみあげると、翌日鬼がお礼を言いにやってきた。そして、磐嶋は九十余歳まで長生きしたということである。
【註】「修多羅衆銭」というのは、大安寺修多羅衆の費用として施入された基金のことで、これを元金として貸し出し、その利息を修多羅衆の費用に割り当てていた。大安寺の修多羅は、大般若経を読誦したり、論議したりする研究組織で活発な活動をしていたから、その研究組織をより充実させるためるにも、この基金を有効に活用してくれる磐嶋のような商人は、どうしても必要だったのだろう。
下巻十九条
肥後の国八代郡の豊服氏の妻は、懐妊して肉の塊を生んだ。それは卵のようなものなので、夫婦は山の石の中に隠しておいた。七日経って行ってみると、卵の中から女の子が生まれていた。赤子は急速に成長したが、あごが殆どなく、身の丈は、三尺五寸(一米あまり)程であった。しかし生まれつき利口で、幼い時から、種々のお経を転読した。そして遂に出家を願い頭髪をそり、袈裟をつけて佛道をおさめ、人々を教化した。多くの人達は、彼女に帰依したが、一方、この尼僧を猿聖といって馬鹿にする者もいた。それは背が低く、身体の各部が未発達であったからである。
ある時、大安寺の高僧戒明大徳が、筑紫の国の大国師に任じられて九州に滞在していた。宝亀年間に、佐賀郡の大領が、戒明を招いて安居会を催した。その講義に例の尼僧は毎日出席したが、戒明は彼女を嫌って拒否しようとした。そこで、戒明と尼僧は、仏法をめぐって論議したが、戒明は尼僧の質問に答えきれず、とうとう大衆の面前で敗北してしまった。
尼僧の主張は、「仏様は平等の慈悲心を持っておられ、衆生のために正しい教えをお広めになる。どうして特に私だけを、のけ者にするのですか」というところにあった。ここに於いて、大勢の人は、この尼僧を敬い、舎利菩薩と名づけて指導者となした。
【註】中巻の話に出てくる仁耀、下巻の戒明大徳も、奈良朝の末期頃、大安寺におられた実在の人物である。
戒明は讃岐出身で、大安寺の慶俊に師事し、華厳経を修学した。後に唐に渡って修業したエリート型の学問僧。仁耀は、大和の葛城出身で、幼くして僧籍に入ったが、背が低く、風采が上がらなかったので、道ゆく人にまで馬鹿にされたという。しかし刻苦勉励して高僧となり、延暦十五年七十五歳で入寂した努力型の高僧。
九州から風の便りに伝わってきた、戒明と尼僧の話を仁耀は奈良にあって、どのような気持で聞かれたであろうか。 
 
水木しげるの日本霊異記

 

元興寺がんごうじと呼ばれる寺は、奈良県に二カ所ある。奈良県高市たかいち郡明日香あすか村の飛鳥寺あすかでらは、日本の仏教の出発点となった最古の本格的寺院で、「仏法を興す寺」という意で法興寺ほうこうじとも元興寺ともいう。崇仏派の蘇我馬子そがのうまこは排仏派の物部守屋もののべもりやを倒した翌年、崇峻すしゅん天皇の元年(五八八)に法興寺(元興寺)の創建に着手した。大化の改新で蘇我本宗が滅んだ後も重視され、朝廷より官寺と同様の扱いを受けた。和銅(わどう)三年(七一〇)の平城京遷都とともに法興寺は旧寺の一部を飛鳥の地に残し、新京には新寺を建て、飛鳥の旧寺を本元興寺と称して、現在も廃寺をまぬがれ安居院あんごいん(飛鳥寺)のみを残す。いっぽう新京(平城京)の新寺を元興寺と呼び、東大寺を筆頭とする南都七大寺に組み入れられた。平安京への遷都後、南都(平城京)が衰えるとともに、元興寺も衰退していった。安政六年(一八五九)の火災によって元興寺の大半が焼失した。現在、その法灯を伝えるのは奈良市中院町にある極楽坊ごくらくぼうの元興寺と、昭和二年(一九二七)に発掘された大塔(五重塔)跡。そして西新屋町の小塔院だけとなった。
奈良の元興寺にまつわる鬼は、ガコゼとかガゴウゼ、あるいはガゴジとかガンゴなどの発音で呼ばれ、それが恐しいモノを指す幼児語となって日本全国に知れ伝わったといわれる。また、目や口などを指で広げて鬼の顔のまねをしたり、鬼のような怒り顔をさせたりして、子供を脅したりなだめすかしたりする時にも言う鬼の代名詞でもあった。江戸中期の国語辞典『俚言集覧りげんしゅうらん』にも、「元興寺がこじ、小児をおどす詞。備後福山(広島県福山市)にてはガモウジーという。所によりガコセという。水戸(茨城県)にてはガンゴチという。(中略)奈良の元興寺の面のまねをして子供をおどすなり」、とある。元興寺の面とは今の極楽坊が所蔵している「八雷神面」、あるいは「元興神ガゴゼ」と呼ぶ鬼面である。大田南畝おおたなんぽの『南畝莠言ゆうげん』によれば、聖武天皇一千年御忌(一七五六年)の元興寺御開帳には、霊宝の中にあった古い面が、道場どうじょう法師の「一面龍雷五魂八雷変相悪魔降伏」の神像であったとして奇怪な図像を伝え、小児を脅す諺ことわざに“元興寺に噛ませる”とあるのが道場法師を指すといっている。その姿は竜神および雷神の相を顕あらわすとされるが、じっさいの鬼面の頭に雷神である竜蛇がまとわりついている。道場法師とは道場法師説話で語られる、元興寺の傑僧となった雷神の申し子である。
敏達びたつ天皇の御世(五七二〜五八五)のこと、尾張国阿育知あゆち郡片蕝かたわの里(現・愛知県名古屋市中区古渡町ふきん)で、童子の姿をした雷神が、農夫が捧げた金物の杖(雷除けの呪物)によって地上に落ちた。農夫は子供を授かることを条件に雷神を天上に帰らせる。その後、生まれた子供は、頭に蛇を二巻きまとっており、首と尾は後頭部に垂れていた(竜蛇は雷神の姿の一つで、元興神の鬼面の由来になっていると考えられる)。その後、怪力をもつ雷神の申し子は元興寺の童子となり、寺の鐘楼で鐘撞きの小僧を殺害していた幽鬼を退治した。さらに寺の優婆塞うばそく(在家の男性修行者)となった童子は、寺の水田の水引きを妨害する諸王をこらしめ、その功によって得度出家がかない「道場法師」と号したとされる。近世の伝承によれば道場法師はその後、聖徳太子作という薬師如来像をたずさえて、故郷の片蕝の里に戻り、奈良の元興寺の支院として尾張元興寺を建立したという。平安初期の歴史書『三代実録さんだいじつろく』に、元慶八年(八八四)に尾張国分寺が焼亡したとき、朝廷の勅によりその機能を尾張元興寺が代行したとあるので実在した寺であるが、中世以降は衰微、廃寺となり、今の名古屋市中区正木にその跡がある。なお道場法師の里帰りを裏づけるかのように、『日本霊異記』に片蕝の里の女で道場法師の孫娘が登場する。僧となった道場法師がいつどこで子孫を残したのかは不明だが、孫娘は道場法師の遺伝子を受けつぎ、人間ではとうていありえない恐るべき怪力を発揮している。
元興寺極楽坊の真東、春日大社の真南にある新薬師寺には、鎌倉時代に元興寺より移されたという梵鐘ぼんしょうがある。重要文化財のこの鐘表面を見ると無数のスリ疵きずがついているが、これは元興寺の鐘楼に夜な夜な現れ、鐘撞きの小僧を殺害した鬼の爪痕であるという。この鬼は後に道場法師となる童子に退治された、『日本霊異記』の幽鬼と同一としている。鬼を捕えるため隠れていた童子は、むんずと鬼の頭髪を掴んだままはなさない。夜明け頃まで格闘したすえ、鬼はごっそり頭髪を引きはがされ、血を地面にしたたらせながら逃走した。地元には『日本霊異記』にはない、鬼の逃走経路についての伝承がある。それによると鬼の逃げ足は速く、ある辻に逃げ込んだところで見失う。こつぜんと鬼の姿が消え、追って来た童子が不審に思ったので不審ヶ辻ふしんがつじ(不審ヶ辻子町)と名づけられたという。その辻の先を行くと、鬼隠きおん山または鬼棲山という丘の下の崖っぷちに行きあたる。その昔、不審ヶ辻子町の南に隣接する御所馬場町に松浦長者の屋敷があり、この屋敷に忍び込んだ盗人があったが、屋敷の使用人たちに捕えられて、鬼隠山の谷底へ投げ込まれて絶命した。その盗人の怨霊が恐しい鬼になったというのだ。元興寺が大火で焼亡する前の古地図を見ると、寺の鐘楼があった場所を基点として、不審ヶ辻および鬼隠山(現在の奈良ホテルが建っている場所)は一直線上にあり、その方位は鬼門(北東)方向にあたる。邪鬼が鬼門方向より来訪するという考えは、日本独自のものであり、奈良時代以降ににわかに信仰されるようになったものである。そもそも『日本霊異記』の道場法師による鬼退治の舞台は、平城京の元興寺ではなく、じつは本元興寺(飛鳥寺)のほうであった。不審ヶ辻伝説は江戸初期の創作らしい。平安末の『扶桑略記ふそうりゃっき』に、治安三年(一〇二三)十月十九日に奈良の元興寺を訪れた藤原道長が、道場法師が引きはがした鬼の頭髪を見ようとしたがかなわず、かわりに「比和子の陰毛」なる巨大な蔓のごときものを見たとある。全てがまやかしでなければ、真に訪れるべきは本元興寺のほうだったのかもしれない。
毎年の節分会せつぶんえに極楽坊の元興寺を訪れると、杉本健吉すぎもとけんきち画伯の筆になる鬼の絵馬が入手できる。節分なので追儺ついなの邪鬼かと思ったら、由来には「元興神」とあり、鬼を退治した雷神の申し子である道場法師だとある。鬼とは恐るべきものの総称であり、雷神もまた鬼の一種であり、降雨をもたらすモノとしては竜神(水神)でもあった。強烈な閃光と雷鳴、落雷の破壊力は、鬼神のしわざであり畏怖の対象であった。本元興寺僧義昭の撰録した『日本感霊録にほんかんれいろく』は、元興寺中門の四天王とその眷属けんぞくであった夜叉の霊験を語るが、四天王は雷神である霹靂神はたたがみを駆使し、夜叉も雷鼓を打ち鳴らす鬼形の雷神として登場する。「元興神」とは寺の護法となった道場法師にこの霹靂神と夜叉が習合した姿でもある。邪鬼を退治できる者は、その鬼の力を凌駕りょうがする強い善鬼だけである。源頼光みなもとのらいこうは、その名が雷公(雷神)に通じることから、鬼の首領の酒呑しゅてん童子も退治できたと信じられた、とする説がある。したがって雷神の申し子であり鬼退治をした道場法師も、強力な善鬼の化身だと信じられたのだ。 
 
オニの古代−説話・物語篇−

 

オニがしばしば登場する古代の説話集は『日本霊異記』(僧景戒撰)である。この平安初期に成立した仏教説話集には奈良時代を舞台にした説話が語られるが、そこに登場する鬼の一類は、地獄の王閻魔の命令で、人を冥界に連れてゆく使者として描かれている。
たとえば、平城京に住む商人、楢の磐嶋を迎えにきた「三の鬼」は、敦賀での交易の帰路にあった磐嶋をやっとのことで探し当てるが、問われるままに使いの用向きを語るとともに、空腹のせいもあって、好物の牛を振る舞われて食べてしまったために磐嶋を冥界に連れて行けなくなり、同じ年の生まれの別人を閻魔王のもとに連れてゆく(中巻24縁)。また、讃岐国山田郡の衣女を連れに来た閻魔王の使者である鬼も、あまりの空腹に、衣女の病気平癒の祈願にと「疫神に賂ひて饗」えするために門前に祭られていた「食」を食べてしまって冥界に連れて行けなくなり、隣の郡にいた同姓同名の女性を連れていってしまう(中巻25縁)。ここに描かれている鬼は、百目鬼恭三郎が言うように、現世の役所に勤める小官吏風に描かれ、その姿も人間と同じようで、後世の角をもった異形の鬼の像とは遠い。あるいは、他の人々にはその姿は見えていないのかもしれない。
もともと鬼が死の世界や死者の魂に繋がるものだということは、これらの説話からも明らかだ。境界を越えて異界から訪れるモノは、神を含めてさまざまに幻想されるが、鬼は常に死と向き合うモノであるゆえに畏怖と邪悪のイメージを負わされることになった。
同じく『日本霊異記』の、雷の子として誕生し、後に道場法師と呼ばれる怪力の「小さ子」が、元興寺の童子であった時に退治した鬼の血を辿ってゆくと、その寺で罪を犯した奴婢を生き埋めにした場所まで続いており、人々を苦しめていた鬼は「悪しき奴の霊鬼」だということがわかったという説話(上巻4縁)は、そうした古代の鬼の像をよく示している。死の穢れや鎮まらない魂が古代の鬼を立ち上がらせてくるのである。
一方、異界から訪れる恐ろしきモノとしての鬼の像は、来訪する神の伝承と重なって伝えられてゆく。たとえば、「女人、悪鬼に点められて食瞰はるる縁」と題された霊異記説話は次のような話である(中巻33縁、要約)。
「 大和国十市郡の金持ちの家の「万の子」という娘は美人で、多くの男たちの求婚をすべて拒んでいた。ところが、ある時たくさんの彩布などを持参した男に心を許し、男を迎え入れた。その最初の夜、娘の閨で「痛や」という叫び声が三度もしたのに、娘の両親は初めての交わりで痛いのだろうと思ってそのままにしておいた。朝になっても起きてこないので娘の寝室を覗くと、そこには娘の頭と指一本だけが残され、あとはすっかり食われていた。人々は神怪だとか鬼啖だとか言って恐れた。 」
神婚神話の様式をもつ伝承で、それは異界から訪れた神を迎えるヲトメが始祖となる神の子を孕むというのが原型的な伝承だが、ここでヲトメのもとを訪れるのは恐ろしき鬼であった。鬼に食われてしまうというのは、神婚の一つのヴァリエーションで、年毎に若いヲトメを生贄を要求する妖怪や魔物の伝承も同じパターンとしてとらえることができる。そして、ここに描かれている鬼は立派な若者の姿でヲトメのもとを訪れ、密室の中でそのヲトメをばりばりと食べてしまうのである。その時の鬼の姿は何も描かれていないが、異形の姿に変身しているはずである。
右の説話とよく似た芥川の鬼の話を、『伊勢物語』第六段から引いてみる(要約)。
「 昔、男がいた。高貴でなかなか手に入れられなかった姫君をやっと盗み出し、闇のなかを都から逃れ、芥川という川を越えたところで、鬼のいる所とも知らずに、雷もひどく鳴り雨もひどかったので、壊れかけた蔵に宿った。女を奥に入れ、男が戸口を守って夜を過ごし、夜明けも近い頃、鬼が来て女を一口に食べてしまった。女は叫び声をあげたが雷の音に消され、夜が明けて男が奥を覗いて見ると、女の姿はなかった。男は足ずりをして泣いたけれども、どうしようもなかった。 」
芥川をどことみるかについては意見が分かれるようだが、これはあくまでも物語なのだから、実在の地名と考える必要はない。京から鄙へ高貴な女を連れ、追手を気にしながら逃げる途中なのだから、その川は京と鄙との境界の川で、その名前からみて穢れた恐ろしい場所だということがわかりさえすればよい。そういう不安定で恐ろしい、鳴神(雷)の荒れ狂う真っ暗闇の空間とくれば、鬼の登場にもっともふさわしい状況だ。
女をさらって逃げてきた男は戸口で見張り続け、女は蔵のなかの密室でひとり夜を過ごす。しかも、その女は、「露」さえも知らないという穢れない姫君、神話的にいえば、間違いなく来訪する神を迎えるヲトメ(巫女)なのである。だから、闇の密室で忌み籠もりをしながら神の訪れを待つ女のもとに、雷の音とともに鬼が現れるというのはしごく当然のことなのだ。女の叫び声の聞こえなかった男が、夜が明けて蔵のなかを見ると、連れ出して来た女は消えていた。
ところが実は、右の話には後日譚が付け加えられていて、女は鬼に食われたのではなく、男に連れ去られたのを追って来た兄たちに見つけられ連れもどされたのが真相だったと語るのである。こうした語り口が可能になるのは、霊異記説話が語っていたような、鬼に食われたという女の死骸の一部が証拠として残されていないからである。なお、この高貴な姫君は、若き在原業平の恋の相手として有名な、後に清和天皇の后となった藤原高子であった。
この話は、後半部分を持つことで平安時代のかな物語として自立した。しかしそこでも、前半の、恐ろしき鬼への慄きが失われてしまったわけではない。境目の空間は、いつもこうした危うさをもつ場所として存在し続けるし、若い女は恐ろしきモノに脅かされ続けるのである。そして、異界から訪れる恐ろしきモノの象徴的な存在として、恐怖に満ちた鬼は語り継がれてゆくことになる。 
 
火に焼けなかった法華経

 

牟婁の沙弥
平安時代初期の薬師寺の僧、景戒(けいかい)が著した日本最古の仏教説話集『日本霊異記』に、牟婁の沙弥(むろのしゃみ)と呼ばれる人物が登場するお話があります(下巻第十)。
牟婁とは熊野地方のことです。紀伊国牟婁郡のことを熊野といいます。沙弥は自度僧(じどそう)。官の許可を得ずに自ら出家して僧となった者のことです:私度僧(しどそう)とも。
熊野の自度僧のお話。
如法に写し奉る法華経が火に焼けぬ縁
牟婁の沙弥は榎本氏である。自度僧であるため、僧名はない。紀伊国牟婁郡の人であるため、あだ名を牟婁の沙弥と名づける。安諦郡荒田村(※現・和歌山県有田郡実原村)に居住し、ひげや髪を剃り落とし、袈裟を付け、俗人の生活をして家計を立て、世渡りのために生業を営んでいる。
写経する法に従って心身を清浄にして法華経一部を写し奉ろうと発願し、もっぱら自分で書写する。大小便の度ごとに水を浴びて身を清め、書写の座に着いて以来、六か月を経て、清書し終わった。供養の後、漆を塗った皮の箱に入れて、外の所には置かず、居室の軒端に置いて、時々読む。
神護景雲3年(769年)の夏、5月23日の正午に家全体がことごとく焼亡した。ただその経を納めた箱だけが燃えさかる火の中にあってまったく焼け損じた所がない。箱を開けてみると、経の色はいかめしくて、周囲の人はみなこのことを見聞きして不思議に思った。
河東(かとう:黄河の東、魏の地)の修行を積んだ尼が写した法華経の功徳(※『冥報記』に「尼の写した法華経を他の僧が読もうとしたが字が消えていた。しかし、尼が修法して開いたら元のように字があった」という話がある)がここに現われ、陳のときの王与女が経を読んで火難から免れた力(※出典不明)が再び示されたのだということがよくわかった。
誉め讃えていう。
尊いことだ。榎本氏。信を深めて功を積み、法華経を写す。護法神が守って、火の対して霊験を示した。これは不信の人の心を改めるよい話で、邪見の人の悪を止めるすぐれた師である。
榎本氏
牟婁の沙弥の氏は榎本。榎本氏といえば熊野三党(熊野の有力者、宇井・鈴木・榎本の三氏)の一党です。エノキは神が降臨するとされた聖なる木。榎本は聖なるエノキの本という意味で、神職出に多い名字。 
 
楢磐嶋の交易

 

荘園に関係するものではないが、越前の交易にかかわる著名な伝承があるので、ここで紹介しよう。それは『日本霊異記』中二四の「閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁」にみえるものである。それによると、諾楽(奈良)の左京六条五坊の人楢磐嶋は、聖武天皇の時代に大安寺の修多羅分の銭三〇貫を借りて、越前の都魯鹿(敦賀)津に行き、交易して購入した品物を運び、琵琶湖を船で運搬して帰る途中、急病にかかった。そこで船を留め馬を借りて帰ろうとして、琵琶湖西岸を走る北陸道を南下し山代(山背)の宇治橋に至ると、閻羅王によって自分を召しに遣わされた三人の鬼に会った。しかし、家に連れて帰り食事を用意し食べさせたので、鬼は同年生まれの人を磐嶋の代わりに召していったため、彼は助かり九十才以上まで長生きしたという。
これによると楢磐嶋は大量の銭を借りて平城京から敦賀にまで出かけ、交易を行っている有力な商人であった。『日本霊異記』は、仏教の因果応報を説くために、平安時代初めに薬師寺の僧景戒によって著された仏教説話集である。しかし、そこにみられる話の背景はまったく荒唐無稽なものではなく、当時の状況を反映したものとみられている。したがって磐嶋の実在性はともかく、彼のような遠距離を往来して交易活動を行う有力商人は実際にいたと考えてよい。
そうした遠距離交易業者がめざしたのが敦賀であったということは、そこが大量の商品を仕入れるのに好都合の場所であったということを物語るものである。あるいは磐嶋は都で諸物資を仕入れて敦賀で売りさばき、それを元手に敦賀で品物を買い付けたとも考えられよう。越前における銭の未流通ということから想像される状況とは、いささか様相を異にする場が敦賀であったと思われる。
そこは日本海側有数の津であり、越前国内の物資だけでなく、沿海諸国の産物が集まってくる所であった。第四章第三節でみたように、『延喜式』では北陸道諸国の物資が、敦賀津まで海路で運ばれてくることもあったのである。それは決して官物にとどまらず、交易をめざす私的物資も各地から敦賀にもたらされたことであろう。そして敦賀にはさらに、渤海をはじめ諸外国の物資がきていた可能性さえ考えられよう。渤海の使節が北陸道諸国に来着し、敦賀にはそれを迎える松原客館が設けられた(第四章第五節)ような状況をみると、大陸や朝鮮半島から商人が敦賀に来航した可能性も大いに考えられよう。敦賀はそのように広範な地域の諸物資が集まり、それをめざして交易業者も集まってくる場であったのである。
  
日本霊異記 私度僧「景戒」の生涯

 

日本霊異記は奈良薬師寺の僧、景戒によって著された勧善懲悪と因果応報を説いた仏教説話集である。日本の数多い説話集の中でも「日本国現報善悪霊異記」ーここでは簡単に霊異記と呼ぶ事にする。これは最も古い説話に属するものだ。仏教説話としての「霊異記」(日本古典文学大系ー岩波版を参照している)が成立したのが、解説者氏の話では弘仁13年(822年)と言うから、ザット数えて1195年も前の事である。景戒のこの著作が3〜4年で書き終わる訳がないから、それに編集と筆記を換算すれば、凡そ1200年以上前に書き出された物であろう。上・中・下と3巻に分かれていて、上巻35話、中巻42話、下巻39話、合計116話で構成されている。おもに仏教的な因果応報を基にした、勧善懲悪の話が説かれているのだが、中には、それとは直接関係のない庶民の挿話もある。私がこの霊異記に親しみを感じるのは、当時の人々の素朴な生活実感も描かれており、平安時代初期の自然観、生命観、価値観が、自ずと滲み出ていて、誠に胸を打つものがあるからだ。景戒の自己紹介とも云える短い自叙伝が、下巻の終り近い38話に収録されて居るので、それは著者がこの説話を読むであろう不特定多数の読者に向かい、己の人生を語ったものだろう。
日本国に仏教が入って約300年、当時の仏教は「奈良仏教」と云って、インド由来の仏教を鳩摩羅什や玄奘らがダイレクトに漢訳した物であり、それは日本人の国民性に合う様な、十分に消化された仏教では無かった。一般庶民にはアビダルマ(存在の分析)とか言われても、何の事だかサッパリ分らないはずであり、その意味では仏教哲学としても、心の救済の宗教としても、一般民衆の心の血肉としては受容されていない未消化な外来思想であったと私は想う。どんな偉大な思想であれ、その民族の根底に在る生活感情と結びつかなければ、決して血肉と成る事は無いと言ってよい。南都八宗は学問としては、誠に立派なものであり、存在論や、認識論、宇宙論、生命論、呪術論など、大変に哲学的であり分析に優れて居り、果敢に人の心の深淵に探求の道を探し深層心理学的であるが、どこか一般民衆の生活感情と合致しない物があったのだろう。倫理哲学としては余りに高尚であり、庶民の生活感情とは直接的には薄いと感じられる。仏教が渡来する以前に日本国の民衆の中に在った信仰がある。それは遠く何万年もの過去にまで遡る事が出来る自然信仰でも有った。後年(江戸時代)に神道は整備され宗教の形態を感じさせる物に近付いたが、本来は自然に対する恐れ、或いは畏れの感情と感謝の感情の入り混じったものであろう事は、いまも日本の祭りが引き継いでいる潜在意識である。日本文化の根源を知るには、この原始神道の姿を明らかにする事が必要だ。自然を崇拝する古神道は、現代の一神教よりも何層倍か優れていると私は想う。人類を救うのはこの神道であろう。それは我々が常には忘れている魂の故郷へ誘う物であるから。
景戒は、この霊異記を書く以前は、和歌山と奈良の境辺りに生まれた人で、生家は何をして居たのか?兄弟は何人居たのか?よく分かっていない。想像だが、おそらく一集落の長、辺りの家にうまれ、二十歳くらいで結婚し、何かの商いの様な事をしていたのだろう。文字が書けて計算が出来るのには、職業としては商人辺りが想像できる。どんな事情が有ったのか分らないが、然し後年に薬師寺の寺僧に成って居るからには、景戒には僧に成りたい、或いは成らねばならぬ強い意志が有ったのかも知れない。僧は、当時は謂わば高級な職業であり身分でもあったのだろう。当時の僧は自分で勝手に成れるものでは無く。正式に僧になるには日本にある三戒壇(当時、日本には三か所に戒壇(当時の総合大学)が在った。それは北から、下野薬師寺、奈良の東大寺、九州の大宰府である。)で学び、官許を得る必要が有った。それが無い自称の僧は私度僧と言った。
原始仏教、草創の地であるインドの仏教は「日本霊異記」が書かれた9世紀半ばには、なぜか、当のインドでは衰退し、およそ10世紀には消滅している。砂漠の中から生まれた一神教が、強烈な布教を展開し、従わない民族を暴力で破滅に追い遣ったような事は仏教では見られない。元々、仏教は一神教のような神を前提として居ないのだ。その本体は心理学と思弁哲学に近いものであり、一説では、仏陀はモンゴロイドであった可能性もあるという。一神教の特徴である神という支配者は仏教では存在しない。それは神道でも同様だ。草創に地で消滅した仏教は、それでも「北伝仏教」として、チベットに波及し、当地の伝統信仰であるボン教と融合して「チベット仏教」として法灯を守った。チベット仏教には「西蔵大蔵経」の膨大な経典群が残されて居り、インドではすでに失われた経典類が残されて居る。これは貴重な物で、9世紀末には衰退し10世紀にはインドで消滅した小乗仏教、大乗仏教の、その経典がチベットに伝えられた事の意味は大きい。
また、北伝とは別なコースで、小乗仏教である「南伝仏教」が有る。これはスリランカからビルマ、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、に伝わった。北伝は主に大乗仏教の系統だが、南伝は小乗仏教の傾向が続いている。私は行った事は無いのだが、生きている内に一度で好いから出掛けて見たい。ジャワ島にはボロブドールの遺跡が有る、カンボジアにはアンコールワットの遺跡が有り、当地では大いに栄えた事を物語っているらしい。仏教が発生の地でなぜ滅びたのか?には多くの原因があるだろう。仏教はヒンズー教に吸収される形で現在もインドの中に痕跡として残っている。
百十六話という、多くの話は日本各地の怪異・奇譚として話題に載せられたものである。一つ一つ読んで見るのも宜しかろう。面白いもの、考えさせられるもの、好色で滑稽なもの、機知に富んだもの、恐ろしいもの、悲しいもの、奇跡的なものが根幹と成っている。景戒は、この説話集を書くにあたって、何を資料として参照したのだろう。彼がこの仏教説話集を書く以前に、この様な伝承逸話は他にも存在したのだろうか?、多分、有ったと私は想像している。人間の生活、その社会性、男女の営みは縄文時代を遥か超えて、人間に成ったときから生活感情は存在していたのだから。恐らくは、薬師寺が寺のネットワークを通じて集めた、各地の数々の逸話、伝承、奇縁、奇跡、色欲、吉兆、悪事、善行、狂気、慈悲、徳、化け物、幽霊、怪異、などの話が、すでに有ったのだと思われる。先ず彼がひとりで、これだけの話を集める事は現実には不可能だ。然し乍ら景戒は行基菩薩の弟子だったとも聞く。行基上人に従い、各地を放浪し逸話を集めないとも限らない。ただ常識的な考えでは、薬師寺の指導者が景戒に寺が集めた所の逸話伝承の編集を命じたのだろうと思う。
むかし親父の本棚で、子供の頃、たぶん小5だろう。この本を見たことがある。おそらく岩波文庫だろう。題名を見ると何とも恐ろしげな題名である。「日本霊異記」、「霊異」とは、お化け幽霊のことか!と思っていたのだ。臆病な子供であった私は、その題名から容易にこの本を開く事はなかった。なぜか知らぬが子供はお化けや幽霊を怖がる。生まれて来る前の深い記憶が、そうさせるのか??景戒、個人に付いて、その下巻38話の話以外に、確実な人物像、性格、描像、などは伝わってはいない。彼がどうして私度僧に成ったのか?僧になると云うのは、当時はどういう志向性が働いたのだろうか?是だけの話をまとめるには、切磋琢磨の相当の努力が要求される。逸話伝承は、生のかたちでしか伝わって居ないだろうから、それを勧善懲悪を背景とした説話として編集するには、確かな知性と文才が必要だろう。
私は思うのだが、「霊異記」の中に、ある貧しい夫婦の下に起こった事件がある。私には不思議と、その話は景戒自身の身の上に起きた怪異と二重に見えまた思えて仕方がない。それはこういう話である。
ある年のこと、夏が涼しくお天道様の光が見られぬほど悪天の日が長く続いた。その年の秋は、五穀がことごとく実らなかった。夫婦はやまの毛物をとって暮らしを立てていたが、その年は毛物さえ死に絶えたかと思われるほどに、山には毛物が見つからなかった。穀物と毛物を交換して暮らしを立てていた男は、食べる物にも事欠いた。妻はやせ衰えてお乳さえ出なくなり、腹を空かせた子供は、泣く力さえ失っている。男にはもう一刻の猶予も無かった。やまの中の大池に行けば、沢山の渡り鳥が来ているだろうと思い、朝早く気力を振り絞って、妻子の為に家から五里ほど離れた山の池に弓と矢をもって出かけた。
男は、道も不確かな山道を息をせいて急いだ。家に待つ、歳の行かない子供と妻の為に必ず獲物を得ようと決心して居た。森の中の大池に着き、静かに木の陰から覗いてみると、毎年、数多くの渡り鳥が羽根を休めている筈の池には、池之端に足った二羽の鴨の夫婦が泳いでいるだけである。男は、鴨でさえも飢えているのか?と思い、木陰から大きな方のオス鴨を狙って矢をつがえて放った。矢は運よくオス鴨を射て男は鴨を手に入れた。鴨を手に来た道を帰る途中には、山のキノコが沢山生えていて、汁の中に入れて食べれば、これほど美味い物はない。腰籠に一杯のキノコで、今夜は腹を満たす事が出来る。秋の日は暮れるのが早い、キノコや木の実を拾いながら家に付くと、その夜はキノコを料理して、妻も子も腹いっぱい食べて、久し振りにヒモジイ思いをせずに寝た。
だが夜半に成って不思議な物音が、台所の方から聞こえてくる。ガサガサという音に目が覚めた男は、さてはキツネが狙っているのか?と、そっと台所の方を覗いた。そこには取って来たオス鴨を梁に掛けて置いたはずだ、弓と矢を持ちだしてつがえた。だが、何とそこには、池で一緒に泳いでいたメスの鴨が、冷たくなったオスの鴨を、一生懸命に温めて、しきりに一緒に飛んで行こうと、揺り起こしている場景だった。男は一瞬にしてすべてを悟った。男の手は震えて、目には涙がドット溢れ出た。男は鴨を殺した事を深く悔いた。生活のためとは云え、メスの鴨に取っては掛替えのない夫の鴨を射てしまった。これまでも、生活の為に毛物を取って暮らし、数々の生き物の命をうばう殺生をしてきた。男は深く悔い、妻子をあずけて僧になった。
日本霊異記に書かれた、この話の男が景戒であるとは言わない。然し、私は、この話を読んだとき妙に景戒のことが思い出された。若しかして私度僧になった理由の一端には、これにも似た事が有ったのだろうか?と。
元々日本人は、大自然の摂理を自らの倫理として生活を立てて来た。ゆえに、山を神として命を取って生きる宿命、その為に夥しい神社を奉り、生きモノに感謝をして生きてきた。それは、縄文以来変わる事はなかった感情だ。大自然と言うものへの心の持ち方で有り、なを且つ、自分自身が大自然に属する物としての生活の規範であった。自然の恵みに感謝し、その畏れを知る生活感覚があった。それが、日本の根幹であり日本人の生き方であった。仏教は、そこにひとつの哲学を持ち込んだ。だがその哲学が日本人の生活感情に溶け込むまで、仏教は本当の意味では日本的文明には受容されなかった。仏教が日本に受容された後の伝統は、神道と仏教の融合であり、それはいま今日も連綿と続いている。
宗教という方便を離れて、世界は死にゆくものと生まれくるものとの出会いの場である。出来れば、此処では、世界と言う硬い言葉を使いたくはない。「この世」というコトバが一番似つかわしい。「この世」と云う言い方は、すでに「あの世」を前提としている。
世界と言う場があるのでは無く、生まれくるものが、それ自身で時間を背負っているのだから、その時間を背負ったいのち自体が、出あう場がこの世だ。あの世はこの世に現れる以前の、混沌としたものと言う以外の想像が湧かない。現在の全ての宗教は、それを解く力など元より無いと知るべきだ。幕末に日本を訪れた多くの外国人が、日本と言う国の特殊性について言及して居る。彼らの疑問は、日本人が貧しい身なりをして居るにも拘らず、「みな一様に幸せそうな顔をして日常を生きている事」であったという。ペリー艦隊が来航して幕府の官僚と会い、帰国するときのペリーの書簡は、日本と云う国がやがて世界の最先端に変貌するだろうと書いて居る。彼の航海記を読むとペリーの眼は節穴では無かったらしい。
古典としての「日本霊異記」が、私達に新たな感動をもたらすのは、生活感覚に溢れたた多くの話が、自然に我々を、日本と言う国の、本来の国体という文化的伝統に連れ戻すからなのだろう。絢爛たる日本古典文学群の森は、今まで余りにも蔑ろにされて来たのが現状だ。古代から紡ぎ残された、我々の祖先の培った膨大な量の古典文学の原生林、幾多の哲学思想の深い森を、自ら探検する若者は居ないのだろうか? 
先日、親父の蔵書をひっくり返して居たら奥の方から、ボズウェルの「サミュエル・ジョンソン伝」が出て来た、30年以上も前の、中野好之(「すっぱい葡萄」の中野好夫の長男)翻訳の三巻本である。暫し、この本を読むうち、あの有名な英語辞典の編纂者サムエル・ジョンソンの語る強烈な機知と皮肉、(腐敗した国家には、多くの法律がある)とか、(地獄への道には、善意と云うタイルが引き詰められている)…に驚嘆していると、ふとジョンソンよりも1000年以上も前の説話集の景戒も、こんな人物の一面も有ったのかもと思われた。そして同じく、明治の画期的な日本初の国語辞典「言海」の製作者大槻文彦を思い出した。著名な医家でもある大槻玄沢の孫として国語の統一に尽くした人物である。
江戸から明治にかけて、日本語を現在ある口語体に創り上げて行ったのは、漢学を基礎土台として持ち、更にその上に蘭学を乗せた人々であった。過去の膨大な古典群と共に、今の日本語が有るのは、この様な遠い昔から言葉を磨いてきた人々の弛まぬ努力と熱意に因る物である事を改めて肝に銘じた次第である。 
 
平安時代黎明期における記憶の在り方 ――日本国現報善悪霊異記

 

T.霊異記の基本構造
『日本国現報善悪霊異記』は、奈良時代末から平安時代黎明期にかけて諾楽右京の薬師寺沙門景戒によって編纂された仏教説話集である。集編纂の指針は、「豊浦寺」(蘇我稲目によって建てられた本朝最古の寺)によって示される
1)巻頭 万葉集と同じく雄略天皇にまつわる説話が配されている。朱の縵を額に着け、赤い幡桙をかかげた少師部栖軽が豊浦寺の前を走りぬけ、軽の諸越の衢において天の鳴神を大声で呼ぶ。
2)上5 敏達天皇の時代に、海から渡ってきた霊木(落雷にうたれた楠)で蘇我馬子が菩薩三体を造った。その仏像は、豊浦寺に置かれた。
3)下38 聖武天皇の御代に、朝日さす豊浦寺の西の方向に位置する桜井に沈む白い玉に関する童謡がはやったが、それは光仁朝を予祝するものであった。
霊異記の編纂は、奈良盆地に造成された都が廃され、長岡・山城の地に遷される時期にあたる。井戸の底に沈む白玉は、聖帝を通じて新時代寿福の意味をもっていた。
この時期は貨幣経済が急速に発達したため、霊異記にもその影響が表れている。なかにはバブル経済そのものを描いた話もある。
・・・山背国相楽郡の人が、法華経を入れる箱を造るために諾楽の京で銭百貫(10 万文)を払い材料となる白檀・紫檀を得たものの、計測しそこなって経が入らないと知るや集僧を招き「また、木を得しめよ」と祈った。すると、霊験により経典が入るくらいにまで箱が大きくなった。(中 6)。・・・
霊異記は、奈良朝末期から平安朝初期にかけて都市空間に生きる人々の生活を直視し、時代に即応した宗教の在り方とともに、時代を意味づけるための記憶の在り方をも問うている。
U.霊異記の時代
U−1 第一帯水層の水は飲めない
実際に井戸を掘って感じたことは、確かに地表から 20 m 程度の地中から湧きでる水は 18 度前後で水温は安定しているが、地表の汚染に影響されやすく飲料水には使えないということであった。現在、第一帯水層から飲用水を汲み上げることのできる井戸は、周辺や上流域の自然が保全されるなどの好条件に恵まれた場合だけであろう。
では、奈良盆地北部の山裾を広大な平面にならして、数万人規模の人口を保つことができる都を造り、そこに東大寺などの大規模伽藍を建てたら、第一帯水層はどのような状態になるのであろうか。
U−2 穢臭に満ちた都
平城京は、次の歌によって清らかな美しさを誇っていたと思われがちである。
・・・青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (『万葉集』巻 3・328 小野老)・・・
神亀 6 年[729]に長屋王が死去してすぐに、小野老が大宰府で詠んだ歌である。望郷の意味もあって美しいイメージで彩られているが、実際の生活環境は廃棄物処理技術がないためかなり厳しいものであった。
環境問題は、藤原宮時代からの課題であった。「京城の内外に多く穢臭有り」(『続日本紀』慶雲 3 年[706 年]3 月)と記されているように、本朝で初めて造営された本格的な都は廃棄物などで汚れていた。
環境問題だけではなく、輸送路も不便この上なかった。[田上山→琵琶湖→瀬田川→宇治川→小椋池→木津川→奈良山越え→佐保川→初瀬川→米川]というあまりに長い経路をたどって運び込まれた柱材は、中枢の施設建造だけでも2000 本を超える。寺を瓦葺きにするため 10 万枚以上の瓦も焼かなくてはならない。
理念と技術の乖離は、盆地北部への遷都を余儀なくした。
U−3 平城京の水源地に構築される瓦窯・巨大工房
藤原宮の水源地であった岡寺龍蓋寺の義淵(入唐し法相を学ぶ)のもとで学んだ行基や良辨が、ともに佐保川の水源地である御笠山に浄居山坊を設けていることについては注目すべきである。その後、ふたりはそれぞれの立場から東大寺創建に尽くすことになるが、土木事業の能力に秀でた彼らは水資源の重要さを認識しつつも、ゴミ処理のノウハウは持ちあわせていなかった。
そもそも、藤原宮で 3〜5 万人であったものが平城京では 10 万人以上に膨れあがっていく。上水道・下水道・廃棄物処理などの基本設計ができていない新都市での生活は、現在の難民キャンプのような様相を呈した。水を沸かすことも不自由な生活を強いられ、痘瘡で倒れた藤原四兄弟の例にみるように流行病に対してきわめて脆弱な都市空間になっていた。そこに、6 世紀末から続いてきた高層建築の黄金期が到来し、新都には礎石の上に巨木を置き瓦で押さえる巨大建造物が次々に建てられていく。
『続日本紀』和銅元年[708]2 月元明天皇の詔に「三山鎮をなし」とあるように、平城宮は東西と北方を神山に守られた地形であった。しかし、それらの山々には瓦窯が築かれた。平城宮に使われた瓦だけでも、約五百万枚が必要であった。歌姫瓦窯、歌姫西瓦窯、山陵瓦窯、音如ヶ谷瓦窯、押熊瓦窯、乾谷瓦窯、中山瓦窯、市坂瓦窯、梅谷瓦窯(興福寺)、瀬後谷瓦窯、荒池瓦窯(東大寺)などが築かれ、それらは佐保川や秋篠川の上流域の環境を破壊した。
瓦窯やタタラでは、大量の燃料を消費する。たとえば、タタラで鋼大塊 1 tを得るためには、砂鉄 24 t、木炭 28 t(薪 100 t)が必要であるとされる。鉱山事故に関する霊験譚(下 13)は、国家をあげて産業革命に奔走していた奈良時代ならではのニュースである。また、地獄に導かれた智光は赤く焼けた鉄の柱を見ることになる(中 7)が、「東の山」で大仏などを鋳込む光景を目にしている都人にとって、真っ赤になって溶融する金属をイメージすることは容易であったに違いない。山の木は、生活のための煮炊きにも切り出される。山の緑は奪われ、地中を流れる水にも大きな変化があっただろう。
都の整備がある程度まで進んだときに、聖武天皇は佐保川上流域に東大寺の創建を命じる。近隣には興福寺の建設も行われていた。大寺院の建立や仏像・鐘などを作るためには、大量の砂鉄や材木を必要とする。東大寺大仏は、天平19 年[747]9 月に鋳造が始まる。鋳造関係で延べ 514902 人、建築関係で 1665071人が従事した(『東大寺要録』)。
天平宝字 8 年[764]、称徳天皇が金銅の四天王と寺を建立することを誓願した。薬師寺の傍らを流れる秋篠川の上流、右京一条三坊・四坊に建てられることになる西大寺である。
V.聖武天皇以降の時代<霊異記が描こうとした[現在]>
薬師寺から見えたであろう平城京の風景と霊異記に描かれた世界とでは、大きな隔たりがある。
たとえば、馬の問題がある。景戒は少なくとも二頭の馬を飼育していたが、どこで飼育していたのであろうか。もし秋篠川周辺の草を飼料として使っていたならば、西大寺や唐招提寺の造寺・造仏にともない、瓦窯からの廃棄物や銅・水銀などの有毒な汚染物質、さらには工人たちによる生活排水の影響を受ける。加えて秋篠川は西市の堀川として運送にも使用されたため、上流域に東大寺や興福寺をもつ佐保川と同じように日本で最も汚れた川になっていたのではないか。川の汚染は、近隣の井戸水の汚濁も招いたことであろう。
平城京右京六条二坊に位置する薬師寺は、朱雀大路や西の市にも近いところにある。ここら一帯は平城京の商業地域であり、諸国から調を運んできた人たちなどが病に倒れたり、奈良時代後半期における度重なる洪水や飢饉で乞食になったりした者が多く住み着いていた。薬師寺の正東門に坐し日摩尼手の名を称礼していた盲人もそのような人々のひとりであった(下 12)。周辺には大陸からの渡来人が住み、鑑真一行の招来にも彼らは少なからず関与したであろう。薬師寺に隣接するような位置にある唐招提寺の金堂が宝亀年間[770−780年]からの建立とすれば、景戒は建築の槌音を聞きながら職務に励んでいたことになる。
霊異記説話は、本朝ではじめて造営された都市の生活を点描している。確かに山の修行者が重視され、桓武天皇との関わりから寂仙が大きな役割を果たしている(下 39)。しかし、光仁朝における山林修行を重視する政策7 は都において求められた山の仏教であり、修験の威力は都人から憧憬されたものである。聖徳太子(王法仏法の始原)−役行者(山)―行基(里)という排列は、三宝絵・往生極楽記・今昔物語集あるいは慈覚大師伝などが踏襲する菩薩伝であり霊異記もその系譜に入るが、山−里−海の仏教は全国に展開する円仁の寺院創建譚にみる如く、相互に補完しつつ天皇制と深層においてリンクされている。
大仏鋳造の頃は銅が巷に氾濫していた。鍛冶職の中心地であった和泉国日根郡に住んでいた盗人は、寺の銅を盗んでそれを帯にしておおっぴらに売っていた(中 22)。都には夜盗が出没するため、夜警が行われていた。しかし、平城京左京五条六坊にあった葛木の尼寺の弥勒菩薩(銅像)は盗まれ石で破壊され いかるがている(中 23)。 鵤の村岡本の尼寺の銅像六体も盗まれている。菩薩の池で一体は発見されたが、塗られていた金は剥げ落ちていた。私鋳銭をつくるため と かりに盗んだが思い煩い棄てたのであろうとされる(中 17)。河内国利苅の優婆夷は、昔盗まれた梵網経二巻・般若心経一巻を東の市で千五百文を払い買い取っている(中 19)。
東大寺造営は、仏法に基づく国家の繁栄をもたらすものではなく、むしろ万年通報[760 年]から神功開宝[765 年]の改鋳に明らかなように貨幣経済に混乱をもたらし、新都は都市型犯罪の温床と化していた。
霊異記は、都市生活における闇の部分を描いている。
W.国家の生成と情報革命<霊異記の歴史認識と都市の形成>
6 世紀の前半期に仏教が伝来して以来、文字・宗教・思想・法(律令)・サイエンス・マネージメントなどが急速に発展した。これらは、国家創建の必須条件であり、霊異記説話群成立の基盤にもなっている。霊異記は、以下のことを諸処に描くことでリアリズムの筆を獲得している。
・ 度量衡(計測するための基準)
・ 宗教 死後の世界観(善悪の認定)
・ 風俗・民俗
・ 組織の構築と運用(マネージメント)
・ 木工・金工
・ 銅・鉄・金鉱山の開発と精錬
・ 徴税システム(法制・戸籍台帳・組織)
・ 田畑の開墾(灌漑用水、水争い)
・ 貨幣経済(偽造通貨の流通)
・ 運輸機構の整備
・ 官僚組織
しかし、霊異の展開とリアリズムとは相反する作用をもたらす。
霊異記に描かれる霊験譚は、水戸黄門型説話と基本構造が近似している。すなわち、霊験によって階層を超えた栄達に浴することはなく、「仏の理」の発現によってヒエラルヒーはさらに整序される。黄門様の印籠によって幕藩体制(近世天皇制)の歪みが是正され士農工商それぞれが本来の道を進み始めるように、霊異記においても法華経をはじめとする経典などに基づく霊験によって理想社会(王法=仏法)の実現が図られる。
霊異記の仏教霊験譚がこのような構造を持つことと、説話の背景に社会制度が書き込まれることとは無縁ではない。
X.平城京の環境と霊異記説話
X−1 足萎えの子を遺棄する母親
行基が足萎えの子を淵に棄てよと命ずる話(中 30)について考えてみよう。
・・・河内国若江郡川派(川俣)里に、ひとりの女人がいた。子供を連れて行基大徳の法会に来て法を聞いた。その子は、哭き譴めて法を聞かせなかった。十余歳になるまで歩くことをせず、乳を飲み、絶え間なく物を喰っていた。行基は、母親にその子を淵に棄てよと告げた。しかし、母親は棄てることができなかった。明くる日も母親は子を抱いて法会に来た。子は哭き、聴衆は法を聞くことができなかった。大徳は子を淵へ棄てよと責めた。母が子を淵に棄てると、子は水の上で足をばたばたさせ眼を大きく見開いて「あと三年は前世の負債を徴収してやるつもりであったのに」と言った。・・・
話の舞台となった東大阪市川俣は、現在では長瀬川と第二寝屋川に挟まれた低湿地であるが、川の氾濫に悩まされてきた地域であった。川俣に隣接する「放出」には、以下のような地名由来譚が残っている。
・・・昔は「はなてん」と読まずに、「はなちでん」から「はなちで」と称していた。この地域は、古代から中世にかけて河内湖からの湖水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置しており氾濫が絶えなかった。仁徳天皇の頃にも旧大和川の氾濫が多かったため、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、その名が起こったともいわれている。・・・
生駒山の西に位置するこの地一帯は行基集団が活躍した地域でもあり、河内国の人大初位下河俣連人麻呂が銭一千貫を盧舎那仏の智識に奉ったことでも知られている10。このように地域的にも東大寺造営に関わりが深かったが、工業技術の先進地帯であることによる環境汚染や大和川の氾濫によって流れてきた水に重金属が含まれていたという事情があったのかもしれない。
この子の病の原因を特定することはできないが、水銀などが流れ出した奈良の都においても、怪我や病に苦しむ人々がいたと考えられる11。このような不幸な状況に陥った場合、古代では子を遺棄したこともあった12。本話の淵源をたどればヒルコを水に流したイザナギ・イザナミにまで辿り着くのであろう。
X−2 経済圏内で機能する寺社勢力
そもそも本話の論理に従えば、この子は因果の理により過去の債務を取りに来た借り主の仮の姿である。川に遺棄されたのは、この世の人間ではない。
話末詞書の趣旨は、「他人から銭を借りたら返せ」ということである。基盤にあるのは、貨幣社会であり、そこには利子の問題が絡んでいる。中世の寺社勢力が、利子請求権の正当性を仏の法によって保証し、未払いをすると地獄に堕ちると説いたことはよく知られている13。利子の適正な徴収を正当と捉える霊異記説話群からは、奈良朝末期に金融ビジネスを保証するような機能を仏法が果たそうとしていたことがうかがえ興味深い。
大寺院は、情報ネットワークのハブの役割を果たし、そこを生活の拠点とする人々は政治・経済の変化に即応し、教団の維持発展を図ろうとする。
薬師寺の僧行信と八幡神宮主神大神朝臣多麻呂が厭魅の術を行い、それがために詔が発せられ、行信は下野薬師寺に配流されたという『続日本紀』の記載14からは、薬師寺内において政争がらみの呪法を研究していたことがわかる。
薬師寺僧華達と範曜が博打をして争い、その結果殺人事件を起こしたという同書の記事15 からは、薬師寺の僧たちが貨幣経済の渦に巻き込まれ、世俗と変 さまよわらない無明の闇の中を彷徨っていたことがわかる。
いずれにしろ、本話が語られる相手は、銭の貸し借りをする人々であって、閉鎖的な村落共同体の中で暮らす善男善女ではない。遠国からやってきた見知らぬ人々が行き交い、決済が銭によってなされ、借りても逃げきれるような貨幣経済圏で暮らす人々に説く話である。
このように考えれば、「行基」「病を背負って生まれた子」「借金返済」などの道具立ては、国際的な商工業都市として発展しつつある平城の都にふさわしいものとなっていることが理解できよう。
X−3 罪の浄化
仏法が商行為に関する法体系を補完するものとして機能していることは、新しい時代の幕開けとしてふさわしいといえる。罪を自覚した人々や悪果を断ち切ろうとしている人々にとって、罪の浄化は「法会」を営むことによって可能となる。もちろん、法会は教団の運営と密接に結びつき、そこには広義の商行為(知と情報の商品化)が介在する。
[病を背負った子]=[悪因悪果の法則により自分に災いをもたらす存在]=[法会に参じ、水に流し因果の法則を絶つ]という構図は、罪の浄化の問題でもある。霊異記は法相の教義に則するため、悪人は心に仏性を宿さない闡提であり殺しても良い(中 22)として、永劫の堕地獄とする16。平安時代初期に最澄と徳一との間で交わされた悉有仏性に関する仏性論議は夙に名高いが、編者景戒の感覚は唯識の法理ではなく都人の生活に基づくものであった。霊異記の仏法は、教理による世俗法の裏付け、あるいは教団の護持発展(仏や経典・法・僧などの威力の顕現を説く)が主になっており、基本的には法相であっても「天台智者の問術」(下序・下 22)であっても差し支えない。
霊異記に登場する人々は、いかに商行為に身をやつし、銭によって善因善果を得ていったことか。
Y.霊異記における井戸<聖徳太子−聖武天皇−光仁天皇>
藤原宮や平城京の造営にあたって地下の水位や湧水量などを調べ、十万人規模の人口を支えるだけの水を地下から汲み上げることができるという観測はしていたであろう。藤原宮の時代には積み上げ式井戸を含め井戸枠構築のすべての技術が出揃うという事実は重要である17。しかし、平城京における土地整備と巨大寺院の建立は、造営に携わった官人たちの予想をはるかに超えるものとなっていった。
天平 17 年[745]6 月に平城京において東大寺大仏の造営が再開され、天平19 年[747]9 月に鋳造が始まる。それから約 5 年間で銅 500 t、金 440 kg、水銀 2.5 t、炭 7162 石、人間 250 万人を要した巨大公共事業を終える18。この工事は、盆地の地下水系にも著しい影響を及ぼしたに違いない。
金鷲行者の堂のある若草山・御蓋山・春日山一帯は水源地帯であり、この地における重金属の汚染は都の第一帯水層を直撃する。東大寺修二会は、大仏開眼会が行われた天平勝宝 4 年[752 年]に始められ、現在まで一度も途絶える おにゅうみょうじんことなく伝えられている。水は若狭の遠敷 明神にまつわる二月堂本尊に献じられたと伝えられ、若狭小浜市の神宮寺では今もこの井戸に水を送る「お水送り」の行事が行われている。これは、佐保川や都の地下水の浄化を祈念しての行事でもあっただろう。
東大寺が建立される以前、この水源の地に建てられていた堂に置かれた執金剛神の脛から光が発せられ、それを見た聖武天皇は金鷲行者を敬礼するようになった(下 21)。その聖武天皇の時代に、井戸に関する歌が都で流行していた。
・・・諾楽の宮に二十五年天の下治めたまひし勝寶応真大上天皇のみ代に、天の下挙りて歌咏ひていはく
朝日さす 豊浦の寺の 西なるや おしてや 桜井に おしてや おしてや 桜井に 白玉沈くや 吉き玉沈くや おしてや おしてや しかしては 国ぞ栄えむ 我家ぞ栄へむや おしてや 
かくのごとくに咏ふ。
後に帝姫阿部の天皇のみ代の、神護景雲の四年の歳の庚戌に次れる年の八月四日に、白壁の天皇、位に即きたまふ。同じ年の冬の十月一日に、筑紫の国、亀を進り、改めて宝亀の元年として、天の下を治めたまふ。(下巻 38)・・・
蘇我稲目によって建立された豊浦寺は、元興寺(飛鳥寺)とともに本朝仏法の始原にあたる。桜井には雄略天皇の磐余宮があり、霊異記巻頭話と首尾呼応する。
光仁天皇は、和銅 2 年[709]10 月生まれであり、聖武天皇の在位(神亀元年[724]―天平勝宝元年[749])期間中は青年期にあたる。歌が流布した時期は東大寺創建の前か後かという問題はあるが、霊異記では、聖徳太子−聖武天皇の系譜に基づき(上 5)、東大寺を創建し国分寺・国分尼寺体制に則した仏国土を夢見た聖武天皇の時代に、仏法発祥の地である豊浦寺の西にある桜井の白玉と白壁天皇とを結びつけ国家浄福を表相する歌が流行したということになる。
催馬楽で「榎の葉井」とされる井戸底に白い玉が沈んでいるという寿詞は、井戸水の浄化との関連から考察すべきである。奈良時代に平城京二条三坊の井戸底に敷かれていた礫は、秋篠川の河岸からチャートを主体とする礫を採取していた21。これらの礫は二酸化珪素を含むため、淡緑灰色や淡青灰色になることもあった。井戸の底に白い石が沈んでいるという歌のイメージは、平城京の井戸に通じていた。
『播磨国風土記』『常陸国風土記』などでは、清く澄んだ水が湧き出る井を天皇と結びつけて語っている。それらの井戸の中には、疲れを癒し病を治す霊力があると信じられているものもあった。
井戸から湧き出す清冽な水に都の浄福を祈り、平安という新時代を寿ぐ――霊異記の歴史認識の原点がここにある。
Z.霊異記の世界
説話集は集合知であり、集の編纂は過去の記憶の在り方を問うひとつの方法である。霊異記は、仏教という衣を纏い律令時代のさまざまな事象を仏の理によって組織化した。
その際、「理」を「知」によって導いている。「知」は、事象に遍在する仏の理を知りそれに瞠目するという機能を果たすが、仏教説話集の編纂行為が法施の菩薩行であるため、「知」は衆人の視線と交わる。
院政期に編まれた今昔物語集は、話末詞書を「思」で導く。ときには惑の世界に迷い込み思考を停止させてしまう今昔物語集編者の基本姿勢を端的に表すことばと言い得るが、「知」と「思」の違いが両書の決定的な違いといえる。
しかし、平安時代の初めと終わりに編まれたふたつの説話集は、記憶の在り方を問うという点では一致している。霊異記は発展しつつある貨幣経済の中で新時代の在り方を問い、今昔物語集は時代の変革点である院政期において、仏法部と世俗部を並列にすることで三国の今と昔を記述した。
軽の諸越の衢で天の鳴神を呼び叫ぶことで始まった平安朝黎明期の説話集は、院政期に至り同じ地域にある軽寺で幕を閉じる(今昔巻 31 第 35)23。豊浦寺を聖地とした霊異記ではあったが、今昔物語集まで敷衍して見てみると交易の場で結ばれていることになる。両書の基本的な性格を象徴している。 
 
日本霊異記より学ぶ!景戒が著した因果応報譚・仏教説話集

 

『日本霊異記』(日本国現報善悪霊異記)は、平安時代前期に薬師寺の僧景戒が著した、仏教の教えを判りやすく具体的に語る、3巻116編から成る仏教説話集です。
地域は上総、信濃など37カ国にわたりますが、その3分の2は畿内に集中し、登場人物は200人以上と貴族・僧から庶民にいたるまで幅広い階層に渡っています。
その内容ですが、主に中国の仏教説話集のスタイルを踏襲しており、因果応報の仏教思想に基づいて、雄略天皇の御代の雷神の話から始まって、桓武天皇の御代の僧の転生話と平城天皇賛に終わる頃までの、仏教に関する異聞・奇伝・霊験を描いた短編説話を漢文で著しており、日本での仏教普及をすすめた聖徳太子にまつわる話や、大仏建立の頃の行基の話、当時の庶民生活と仏教との関わりなどがリアルに描かれていて、まさに”物語による日本仏教史”ともいえるでしょう。
この『日本霊異記』を起点として『今昔物語集』など、たくさんの仏教説話文学に多大な影響を与えたといわれています。
上巻序文には、混迷する世相のなかで、応報の仮借なきありようを示すことで、人心の善導教化を図ろうとする著者の意図が明瞭に述べられています。
その上で『日本霊異記』に収められた説話の多くは、
・乞食僧に施し物を拒否した者が悪い死に方をする、お経をあげることによって、あるいは仏像を作ったり、写経をしたりして、罪や困難から救われる。
・一時的に死んで地獄に行き知人に遇って話を聞く。
・役人が税金を過酷にとったり誤魔化したりして、地獄で相応の苦しみをする。
といった具合に分けられているのです。
しかしこの『日本霊異記』は、単なる因果応報を説く書ではありません。
8世紀の聖武天皇から桓武天皇の御代における怪異な話ではあるものの、明るく淡々と語られる因果応報譚が多く集められており、この本が基となって「うらめしや」と化けて出てくる後の世の怪談話が生まれてくるようになるのですが、ここには近世の怪談のような陰惨な感じはあまりないのです。
しかも当時、完全にはお上の支配する秩序に囲い込まれていない民衆が生き生きと力強く描写された生き様は、陰惨や陰湿を寄せつけないしたたかなパワーを持っているのです。
このため、淡々とした語り口で描かれたお話の数々は、仏教説話集という言葉から連想される説教臭さもなく、興味深く読むことのできる内容になっています。
こうした、一流の文学たらしめている感動がそこに伏在しているのを、是非とも読み取ってみてはいかがでしょうか。
第一話 雷をつかまえた話
小子部の栖軽は初瀬にあった朝倉の宮で二十三年の間天下をお治めになった雄略天皇大泊瀬稚武の天皇と申すの護衛の武官、天皇の腹心の従者であった。天皇が磐余の宮にすんでおられた時のこと、后と大極殿でいっしょにお寝になっておられたのを、栖軽はそれとも知らずに御殿に入って行ってしまった。天皇は恥ずかしがってそのまま事をやめられてしまった。
ちょうどその時、空に雷が鳴った。天皇はてれかくしと腹いせの気持ちが手伝って栖軽に
「お前は雷を呼んでこられるか」と仰せになった。栖軽が
「お迎えして参りましょう」とお答えした。天皇は、
「ではお迎えして来い」とお命じになった。栖軽は勅命を受けて宮殿から退出し赤い色の縵を額につけ、赤い小旗をつけた桙を持って馬に乗り、阿倍村の山田の道の前から豊浦寺の前の道を通って行った。軽の諸越の街中に行きつくと、
「天の雷神よ、天皇がお呼びであるぞ」
と大声で叫んだ。そして、ここから馬を折り返して、走りながら
「たとえ雷神であっても、天皇のお呼びをどうして拒否する事ができようか」
といった。走り帰ってくると、ちょうど豊浦寺と飯岡との中間のところに、雷が落ちていた。栖軽はこれを見て、ただちに神官を呼んで、輿に雷を載せ宮殿に運んで、天皇に、
「雷神をお迎えして参りました」と申し上げた。その時、雷は光を放って明るくパッと光り輝いたのであった。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんの供え物を捧げて、落ちたところに返させたという。その落ちたところを今でも雷の岡と呼んでいる。飛鳥の郡の小治田の宮の北にある。
その後何年かたって栖軽は死んだ。天皇は勅を下して遺体を七日七夜、死体のままで安置して栖軽の忠信ぶりをしのばれ、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作られた。栖軽の栄誉を長くたたえるために碑文を書いた柱を立て、そこに、「雷を捕えた栖軽の墓」と記された。
雷は碑文を立てたのを憎み恨んで、雷鳴をとどろかせて落ちかかり、碑文の柱を蹴飛ばし踏みつけた。ところが雷は柱の裂け目にはさまれてまたもや捕えられてしまった。天皇はこの事をお聞きになり、雷を柱の裂け目から引き出して許してやった。雷は死を免れた。しかし、七日七夜の間は放心状態で地上にとどまっていた。
天皇は勅を下してもう一度碑文の柱を立てさせて、これに、「生きている時ばかりでなく、死んでからも雷を捕えた栖軽の墓」と書かせた。世間でいう古京の時、つまり飛鳥の京の時代にこの場所が雷の岡と名づけられた話の起こりは以上のような次第である。
第二話 狐を妻として子を産ませた話
昔、欽明天皇磯城島の宮で天下を治められた天国押開広庭天皇の御代に、美濃国(岐阜県)大野郡の人が妻とするために美しい女性を求めて馬に乗って出かけた。たまたま広い野原で一人の美しい女性に出会った。女は馴れ馴れしくなまめかしい素振りをするので、男は目を細めめくばせをして、
「娘さん、どこへ行くの」と尋ねた。女は、
「お婿さん探しに歩いているの」と答えた。そこで男も
「わたしのお嫁さんになりませんか」と誘った。女は、
「よろしゅうございます」と承知した。
男は早速家に連れ帰って結婚し、一緒に住んだ。しばらくして女は解任し、男の子を産んだ。ところが、その家の飼い犬も、十二月十五日に子犬を生んだ。その子犬は、いつもこの主婦に向かうといきり立っておそいかかり、にらみつけ、歯を剥き出して吠えた。主婦はおびえ恐ろしがって、主人に、
「あなた、あの犬を打ち殺して下さい」
と頼んだ。しかし主人は犬をかわいそうと思って、どうしても殺す気になれなかった。二、三月のころ、前から用意していた米をつくとき、主婦は米つき女たちに出す間食を準備するために、踏み臼小屋に入っていった。すると、親犬の方が、急に主婦に噛みつこうと追いかけ、吠えついた。主婦はおびえ、こわがって、たちまち狐の姿に身をかえて、逃げ、籠の上に登ってすわっていた。
夫はこれを見て
「お前とわたしとの間柄は、子供まである仲ではないか。わたしは絶対にお前を忘れたりしない。いつでもやって来いよ。いっしょに寝よう」
と声をかけた。そんなわけで、この狐はもとの夫のことばを覚えていて、いつも来ては泊まっていくのであった。それからこの女を「来つ寝」ー「狐」と名づけることになった。ある時、この妻は、裾の方を赤く染めたスカート・桃色をしたスカートをはき、上品でしとやかな様子でやって来て、スカートの裾をなびかせて、どこともなく去っていった。夫は去り行く妻の顔かたちを思い描きながら、恋い慕って次のような歌を詠んだのであった。
この世にある恋の思いは、全部わたしの身の上に集まってしまったように切ない気持ちだ。ほんのちょっとだけわたしといっしょにくらして、どことも知れず、遠くに行ってしまった。あのかわいい女のせいで。恋しくて恋しくてたまらない。
そこで、二人の間にできた子供の名をキツネと名づけた。またその子の姓を「狐の直」とつけた。この子はすごい力持ちで、走る事も非常に速く、鳥の飛ぶようであった。美濃国の「狐の直」という姓の起こりは、以上のようなものである。
第三話 雷の好意で授かった子供が力持ちであった話
   一 雷神の子の誕生
昔、敏建天皇の御代に、尾張国愛智郡片輪の里に一人の農夫がいた。耕作している田に水を引き入れていると小雨が降って来たので、雨宿りのために木の下に隠れて、鉄の杖を地面に突き立てて立っていた。折から雷がとどろきわたった。農夫はほっとして思わず鉄の杖を振り上げた。
ちょうどその時、雷が農夫の前に落ちて来て、小さな子供の姿になった。農夫が杖でつこうとすると、雷は
「わたしを殺さないで下さい。かならずご恩返しをいたしますから」といった。農夫が
「お前さん、何を報いるというのかね」と問うた。雷は、
「あなたに子供ができるようにして、お礼します。だから、わたしのために、楠の木で水槽を作って水を入れ、竹の葉を浮かべて下さい」といった。そこで雷のいうとおりにこしらえてやった。雷は、
「わたしに近寄ってはいけない」と農夫を水槽から遠ざけた。するとたちまち霧をまきおこし、あたりを曇らせて天に昇っていった。その後、産まれた子供の頭には蛇が二巻き巻きついて、頭としっぽが後頭部に垂れ下がっていた。
   二 雷神の子の強力
大きくなって十才余りになったころ、(大和国の桜井付近にあった)朝廷に力の強い人がいるときいて、ためしにその人と力くらべをしてみようと思い、大和の郡の皇居の近くに住んでいた。ちょうどその頃、力のずば抜けて強い王がいた。皇居の東北の隅にあった別邸に住んでいた。その東北隅には八尺(約2.5m)立方もある大きな石があった。力持ちの王は家から出てその石を取って投げた。石は住まいに入って門を閉じ、他人の出入りができなくなってしまった。
その子供はこれを見て、「世に聞こえた有名な力持ちの王というのはこの人なんだな」と思ったので、彼は夜、人に見られないようにして、その石を反対方向に力持ちの王よりは一尺(約30cm)以上も遠くへ投げ飛ばしておいた。力持ちの王はそこで、手につばをつけ手首をしなやかにするため準備運動までして意気込んで、石を取って投げ飛ばした。しかし前回よりも遠い距離に投げ伸ばす事はできなかった。その子供はさらに二尺も遠くの方に投げておいた。王はこれを見て再び投げてみたがやはり最初の時より遠くに投げ伸ばす事はできなかった。その子が立って投げた場所に、子供の小さい足跡が、深さ三寸(約10cm)ばかり地面にめり込んでいた。しかも投げた距離はさらに三尺も遠くであった。王はその足跡を見て、ここに住んでいた子供が投げたのだと知って、つかまえようと寄って来た。と、その子供は逃げた。王が追いかけると子供は逃げる。王は追う、子供は身体が小さいので垣根を抜け逃げる。そして垣根をくぐって戻ってくる。王は垣根を飛び越えてさらに追う。子供はまた垣根をくぐり抜けて逃げ走った。こんなふうで王はその子供をついにつかまえる事ができなかった。そして自分より力の強いやつだと思ってそれ以上追わなかった。
   三 元興寺の強力な童子
その後、その子供は元興寺の童子となった。その頃、その寺の鐘つき堂で夜ごとに死人が出るという事件が起きた。童子はこれを見て、僧たちに、
「わたしがこの死の災いをとり除きましょう」
と申し出た。僧たちはそれを聞き入れた。子供の童子は、鐘つき堂の四隅に四つの燈を置いて、四隅に待機させた四人の者に、「わたしが鬼をつかまえたら、いっせいに燈の覆いをとってください」と言い含めた。そうして彼は鐘つき堂の戸の所に隠れていた。夜中頃に鬼がやって来た。童子のいるのをちらりとのぞきき見て、一度は姿を隠した。が、また、深夜になって堂の中に入って来た。すかさず童子は鬼の髪の毛をつかまえて引っ張った。鬼は外に逃げようとし、童子は内側に引きずり入れる。待機させておいた四人は、うろたえ、腰を抜かしてぼんやりとしてしまって、燈のふたを開けようともしない。童子は抵抗する鬼を引きずりながら四隅を順番にまわって四つのふたを皆開けてしまった。夜明け方、鬼はすっかり髪を引き抜かれ逃げていった。
翌日その鬼の血の痕をたどって探し求めていくと、その寺の悪い奴を埋めた街の辻にたどりついた。そこで初めて、鬼はその悪い奴の霊鬼であったという事が判明したのであった。かの鬼の髪の毛は、今も元興寺に収められ、寺の宝となっている。 それから後、童子は在俗の修行者となって、なおも元興寺に住み続けていた。その寺では田を作っていたが、その田に水を引き入れた。朝廷の王たちが邪魔をして水田に引いた水をせき止めた。それで、寺の田が干上がりそうになった時に、その修行者は「わたしが田に水を引き入れましょう」と申し出た。元興寺の僧たちはそれを聞き入れた。十人がかりでやっと担ぐ事ができる鋤を作り、修行者に持たせた。修行者はその鋤の柄を持って、杖にしながら行って、水口のところに立てておいた。朝廷の王たちは、この鋤の柄を抜いて投げ捨てて、また水口をふさぎ、寺の田に水が流れないようにしてまった。そこで修行者たちは今度は、百人以上の力がいるような大きな石で水口をふさぎ、寺の田に水が入るようにした。王たちは修行者の怪力を恐れて、二度と水門に手をつけなかった。そんなわけで寺の田は干ばつにあう事もなく、よい収穫をおさめる事ができた。そこで、寺の僧たちは、その修行者に僧となる儀式を行って出家させて、道場法師と名づけた。後世の人が、「元興寺の道場法師は怪力だ」と言い伝えているのは、こうした話にもとづいている。道場法師が怪力を身につけたのは、前の世に善となる業を励み修めたためであって、そのためにこの世で、このような結果を得たという事をよく理解すべきである。これは日本国に伝わる不思議な話である。
   四 百済の僧、円勢の奇跡
また、籍法師の弟子の円勢師は、百済の国から来た高僧であった。この僧はわが日本の大和国の御所高宮寺に住んでいた。その頃一人の法師がいて、北の僧坊に住んでいた。名前を願覚といった。願覚は、毎日早朝に寺を出て里に行き、夕方帰ってきて坊に入っていた。これを日課としていた。円勢師の弟子で在俗のままで修行している者がこれを見て、師にこのことを告げた。師は
「誰にもはなしてはいけない。黙っていなさい。」と注意した。しかしこの修行者はひそかに坊の壁に穴をあけて、こっそり願覚法師の部屋の中の様子をのぞいて見ると、部屋の中は光にあふれ照り輝いていた。修行者はまた見た様を師の円勢法師に告げた。師は、
「だから私はお前に注意して、誰にもはなしてはいけないと言ったのです。」
と答えた。その後、願覚は急にこの世を去った。円勢師は弟子の修行者に
「火葬にして葬りなさい」
と命じた。修行者は師の命に従って、火葬し終わった。そしてその後、この修行者は近江国(滋賀県)に移り住んでいた。近江国のある人が、
「ここに願覚師がおられる」
と言った。修行者が行ってみると、その人は本当に、火葬したはずの願覚その人であった。願覚は、修行者に会い、かたりかけて
「このごろお目にかからないので、いつも恋しく思って、気になっていて落ち着きませんでした。」
というのであった。この人はひじりの生まれ変わった姿であることがよくわかるだろう。五種辛みのある野菜を食べることは仏法で禁じられているけれども、ひじりの僧がこれを食べた場合は罪を得るということはまったくなおのである。
第四話 聖徳太子が不思議な言動を示された話
聖徳太子は大和国の香具山の東方にある、磐余の池のほとりの双槻の宮で天下を治められた用明天皇の御子であった。小墾田の宮で天下を治められた推古天皇の御代に、皇太子になられた。太子にはお名前が三つつけられていた。一つの名は厩戸豊聡耳。二つには聖徳太子、三つには上つ宮と申し上げた。
第一の名は、馬の役所の厩の戸のほとりでお生まれになった。それで厩戸と申すようになった。生まれつき賢くて、十人が同時に訴えを申すことを、ひとことも漏らさずに、よくお聞き分けになった。それで豊聡耳と申すようになった。
皇太子は立居振舞いが僧のようであり、その上『勝鬘経』『法華経』などの注釈書をお書きになり、仏法を広めて人々に利益を与え、また冠位の制を定められた。それで聖徳と申したのである。第三の名は、天皇のお住みになる宮よりも南にある宮、つまり、上の宮に住んでおられた。それで上つ宮の太子と呼ぶようになったのである。
聖徳太子が斑鳩の岡本の宮に住んでおられたとき、ついでがあって御殿を出て巡幸にお出ましになられた。片岡村にさしかかると、路の傍らに、毛のむさくるしい乞食が病気にかかって伏していた。太子はこれを見て、御輿から下りて尋ねられ、召していた衣をお脱ぎになり、病人にかけてやり、そのまま巡幸を続けられた。巡幸を終えられて御輿を返してもとの場所にもどると、脱いで乞食にかけてやった衣は、木の枝にかかっていて乞食はそこにいなかった。太子はその衣を取ってお召しになった。すると、一人の臣下が、
「賤しい人にふれて穢れた衣ですのに、何の不自由があって、その衣をお召しになるのですか」とお尋ねした。太子は、
「いや、そのことはいわないほうがい。お前たちにはわかるまい」と答えられた。その後、その乞食は他の場所で死んだ。太子はこれを聞いて使いを遣わし、乞食の遺体を祭られ、岡本村の法林寺の東北隅の守部山に墓を作って葬り、そこを入木の墓と名づけられた。後に、使いを遣わして墓の様子を見に行かせたところ、墓の入口は開いていないのに、葬ったはずの乞食の遺体は何処かに消えてしまい、ただ、歌が一首詠まれて、墓の入口に立ててあった。その歌にはこういっている。
富の小川の流れの絶えるときがあるのなら、その時こそ聖徳太子さまの御名を忘れる時もありましょうが、この川の流れの絶えぬ限り、わたしはけっしてあなたさまのお名を忘れはいたしません。
使いが帰ってきて、この状況を太子に報告した。太子はこれを聞きだまったままなにもいわなかった。これによって、聖人は聖なる人を知るが、凡人にはそれが誰であるのかわからない。凡人の眼には賤しい乞食とみえるが、聖人が物を洞察する眼は、凡俗にやつした賤しい姿の中に、聖人の真の姿を見抜くものであるということがよくわかった。ほんとうに不思議な話である。
第五話 仏法をうやまい信じてこの世でよい報いを受けた話
大華位、大部屋栖野古の連の公は紀伊国名草郡宇治(和歌山市紀三井寺宇治)の大伴連らの先祖である。生まれつき心が清らかで、仏・法・僧の三宝を信じ敬っていた。屋栖野古の正しい伝記を調べると次のように書いてある。
敏達天皇の御代に、和泉国の海中から楽器の音がきこえてきた。その音は、ある時は笛・箏・琴・箜篌などを合奏しているようであった。また、ある時は雷が鳴りとどろく音のようでもあった。昼は鳴り夜は輝き、その音と光は東をさして流れていった。
大部屋栖野古はこの噂を聞いて時の敏達天皇に申し上げた。天皇は黙ったままでご返事をなさらずお信じにならなかった。そこで彼は今度は皇后へ申し上げた。皇后はこれをお聞きになり屋栖野古に、
「そなたが行ってお調べなさい」
とお命じになった。屋栖野古が詔を体して行ってみると、本当に噂に聞いたとおり音や光がありそこには落雷に打たれた楠が流れ着いていました。屋栖野古は都に帰って来、「高脚の浜に楠が流れ着いていました。お願いいたします。あの楠で仏像を造ることをお許し下さい。」と申し上げた。皇后は、
「そなたの望むとおりになさるように」と仰せられた。
屋栖野古は皇后のお許しを得てたいへん喜び、さっそく、島の大臣蘇我馬子に皇后の詔をお伝えした。大臣もまた喜んで、池辺直氷田を招いて、仏像を彫り、菩薩三体の像を造った。像は豊浦寺に安置し、多くの人々がお参りしてあがめ奉った。
ところが、物部弓削守屋の大連は、皇后に、
「だいたい仏像などを都の近くに置いたりしてはなりません。遠い所に捨てるべきです。」
と進言した。皇后はこれをお聞きになり、屋栖野古に
「早くあの仏像を隠してしまうように」
とお言いつけになった。屋栖野古は命を受けて、氷田直に仏像を稲藁の中に隠させた。すると、弓削の大連の公は火をつけて寺を焼き多くの仏像を探し出して、難波の堀江に流してしまった。そして屋栖野古に
「今、国に災害が起こっているのは、隣の国、百済の客神の像などを、わが国内で祀っているからだ。早くその像を差し出せ、すぐにもとの百済の国に流し捨てよ。」
と責め立てた。しかし屋栖野古は頑強にこれを拒否して、最後までこの仏像を差し出さなかった。弓削の大連の公はこんなことをし、気が狂って逆上し、皇位をも奪おうとの謀反をいだき機会を狙った。
この時、天の神も地の神も、これを嫌い憎んで、用明天皇の御代に、弓削の大連を誅罰してしまった。その後にこの仏像を取り出し、後世に伝わることとなったのである。
仏像は勅命によって大和国吉野郡の窃寺に安置された。光を放っておられる阿弥陀仏の像がこれである。
第九話 乳飲み子が鷲にさらわれ、他国で父親に合えた話
飛鳥川原の板蓋の宮で天下を治められた皇極天皇の御代の二年(634)の春三月の頃、但馬国美方郡の山里のある家に、女の赤子がいた。中庭をはっていたところ鷲がさらって空に飛び上がり、東の方へ飛んで行ってしまった。父母たちは悲しみかわいそうに思って、泣いて追いかけたけれども行方が分からなくなってしまった。そこでひたすらにそのこのために供養の法事を営んで、冥福を祈ったのであった。それから八年たって、丹波の北方の加佐郡のあるところへ出かけ、はからずも、とある家に泊まった。
その家の召使いの女の子が水を汲みに井戸へ行った。泊まっていたこの父親も脚を洗おうと思って女の子の後について行った。一方村の娘たちも井戸に集まり水を汲もうとして、泊まった家の召使いのつるべを奪い取った。召使いはつるべを取られまいと反抗した。すると村の娘たちは口をそろえて、この子をばかにしていじめ、
「お前は鷲の食い残し、なんでそんな礼儀しらずのことをする」
とわめき、押さえつけてぶった。召使いの女の子は打たれて、泣きながら家に帰った。家の主人が
「お前どうして泣くんだ」
と尋ねると、この家に泊まった父親が、見たとおりのいきさつを詳しく説明した。そして村の娘たちが、なぜこの子を打ち鷲の食い残しなどと悪口をいうのかとわけを聞いた。家の主人は答えて
「ある年の某月某日のこと、わたしが鳩を獲ろうと木に登っていると、鷲が赤子をさらって西の方から飛んできて巣の中に落して雛の餌にしようとしたのです。赤子はおびえて泣き雛はこれを見て恐ろしがってついばもうともしませんでした。私はなく声を聞いて巣からおろして育てたのがこの子なのです。」
と説明した。父親は自分の子のさらわれた年月日と、主人のいう年月日を考え比べてみるとぴったり符合した。この父親は、この子はまさしくさらわれた子であるとわかった。
そこで父親は悲しみ泣きながら鷲にさらわれた時の状況を詳しく説明した。主人は真相を知ったので父親の申し入れに応じて、女の子を実の親に返すことを承知した。ああ、この父親は、たまたまさらわれたわが子のいる家に泊まりあわせ、ついに実の子をさがし出すことができた。天が哀れんで助けてくれたもので、父子の縁はまことに深いということがしみじみとわかった。これは本当に不思議な話である。
第十話 子の物を盗んで使い、後に牛に生まれ変わって使われ、不思議なことが現れた話
大和国添上郡の山村の里に、昔、椋の家長の公という人がいた。十二月の頃、『大通方広経』を信じたよって、前の世で犯した罪を悔い改めようと思った。召使いに、
「お坊さんを一人お迎えして来い」と命じた。召使いは、
「何寺のお坊さんをお迎えしましょうか」と尋ねた。
「どこの寺のお坊さんでもよい。だれでもよい。最初に出会ったお坊さんをお連れ申せ」といいつけた。召使いは主人の希望のとおり、道を歩いている一人の僧をお招きして、家に連れてきた。家の主人は真心込めて、この僧を供養した。
その夜、法会が滞りなく終って、僧が寝ようとしたとき、主人は掛け布団を僧にかけてやった。そのとき僧は心の中で「明日の法事でお布施をもらうより、この布団を盗んで逃げた方がましだ」と思った。とたんに声がして
「これこれ、その布団を盗むでないぞ」
といった。僧はびっくりして家の中を振り返って見回したが、だれもいない。ただ牛が一頭倉の下に立っているだけであった。僧が牛のそば行くと、牛は、
「わたしは実はここの家の主人の父親なのだ。前の世でわたしは人にやるために、子には無断で稲を十束ほど盗んだ。そのため今は牛の身に生まれ変わって、前の世の罪の償いをしている。あなたが私の身の上話の真意のほどを知りたければ、私のために座席を用意しなさい。わたしはかならずその席に座ってみせましょう。そうすればまちがいなく、私がこの家の主人の父親であることがわかるだろう」と語った。
僧は大変恥ずかしく思い、部屋にもどって一夜を明かした。明くる朝、法事がすっかり終わった後で、僧は、
「他人をみんな遠ざけて下さい」
といった。人々を遠ざけてから、親族の人々を呼び集めて、詳しく昨夜のことを説明した。主人は悲しんで、牛のそばに近づいて、藁をしき、
「牛よ、お前は本当に私の父上だったのか」
といった。そして一同は立ち上がって牛に礼拝し、牛に
「前の世でお使いになった稲十束は、いっさい帳消しにしましょう」
といった。牛はこれを聞いて、涙を流し、大きくため息をついた。その日の午後の四時半ごろ牛は死んだ。
その後、昨夜僧がかけた掛け布団やその他の品物を、僧にお布施として与え、そのうえ、父のために広く追善供養のわざを営んだ。この話でわかるように、原因結果の道理をどうして信じないでいられようか。信じないわけにはいかないのである。
第十一話 幼い時から網で魚を捕り、そのためこの世で悪い報いを受けた話
播磨国飾磨郡(兵庫県姫路市付近)の濃於寺で、奈良の元興寺の僧慈応上人が信徒の招きを受け、夏の三ヶ月の修行を行ない『法華経』の講義をした。
そのころ、寺の近くに一人の漁師がいた。小さい時から網を使って魚を捕ることを仕事にしていた。あるとき、彼は屋敷の内にある桑の林の中をはらばい回って、大声を上げ、
「熱い炎がおそいかかる」
とわめきたてていた。身内の者が助けようとして近づくと、その漁師は、
「おれに近寄るな。今にもおれは焼けこげそうだ」
と叫びわめいた。そこで親が濃於寺にかけ込んで、夏の修行をしている行者、慈応上人にご祈祷をお願いした。行者が陀羅尼を唱えると、しばらくたってやっと火の難から免れられた。しかし身につけていた袴はすっかり焼けこげていた。漁夫はおそれおののいた。濃於寺へ行き、夏の修行をしている大勢の僧侶の中に入って、動物を殺した罪を悔い、心を改め、衣服の類いを寺にお布施として納めて、お経を読んでもらった。それからというものは、二度と殺生なことはしなかった。
『顔氏家訓』という本に、「昔、江陵の劉氏は、鰻を捕らえ、これで吸い物をこしらえて売ることを職業としていた。後に一人の子供が生まれたが頭はどう見ても鰻そっくりで、首から下はまさに人間の身体であった。」とかいているが、まさにこの説話と同一で、殺生の罪を諭したものである。
第十二話 人や獣に踏みつけられていた髑髏が、収集してもらったため、不思議な霊力を示して、恩を返した話
高麗の留学僧であった道登は元興寺の僧で、山城国(京都府)の恵満の家の出身であった。ずっと昔の大化二年(646)に宇治橋をかけるために、再三現場に往復した時、髑髏が奈良山の谷間にあって、人や獣に踏みつけられていた。道登はこれを哀れんで、従者の万侶に命じて、髑髏を拾い上げて木の上におかせた。
同じ年の大晦日の日の夕方であった。一人の人が寺の門前にやってきて、
「道登ひじりの従者の万侶というかたにお会いしたい」といった。万侶は出て会った。その人は、
「あなたの師の道登ひじりさまの御慈悲をいただき、このごろはたいへん安らかで、楽な毎日を送っています。ところでご恩返しをしたいのです。しかし、大晦日の今晩より他の日では、あなたさまにご恩返しをすることができないのです」
といった。その人は万侶を引き連れてある家へ行った。家に着くと戸がしまったままなのに中にすーっと入って行った。家の中には沢山のお供え物が供えてあった。その人は、自分に供えられたごちそうを万侶に分けてやり、二人で一緒に食べた。夜半から朝方にかけてのころ、男の声がした。万侶に対して、
「私を殺した兄がやってきそうなので、早々に帰りましょう」
といった。万侶は不思議に思って尋ねると、
「わたしは昔、兄といっしょに商売に行ったのです。そこでわたしは銀六百四十両ほどもうけました。すると兄はねたみ憎んで、わたしを殺して銀を奪い取ってしまったのです。それから後というものは、長い年月の間、往来の人や獣が私の頭を踏みにじってきました。このたびあなたの師の道登上人さまが御慈悲をかけて下さり、あなたにわたしの髑髏を木の上に置かせなさったので、わたしの苦痛は免れました。このご恩が忘れないままに、今宵ご恩返しをさせていただいたわけでございます」と答えた。
ちょうどそのとき、母と兄とが大晦日の魂祭りで、死んだ弟などの霊を拝むために、この仏間に入ってきて、見知らぬ万侶がいるのを見つけて驚き恐れ、ここへ来たわけを尋ねた。万侶は、さきほどからのいきさつを説明した。そこで母は長兄に向かって
「ああ、わたしのいとしいあの子はお前に殺されたのか。他の人ではなかったのだ」
とののしった。そして万侶に敬意をあらわし、万侶にごちそうを用意した。やがて万侶はその家から帰ってきて、一切の事情を師の道登に報告した。だいたい、このように死人の霊や白骨でさえも、なおかつ恩を忘れないのだ。まして生きている人間が、どうして恩を忘れて良いものであろうか。
第十三話 心の高潔な女性が仙人の霊薬を食べ、現在の身体のままで天上に飛んで行った話
大和国宇陀郡の漆部の里に心の高潔な一人の女性がいた。この女性は、同じく漆部の里にいた漆部の造麿の側室であった。彼女は生まれつき高雅で、行ないも気品に満ちていた。家政全般に気を配り、とくに料理のことは心をかけていた。七人の子供を産み育てていた。家は大変貧しく、食べるものもないので育児にも事欠いた。着るものもないので、自分で藤の皮で布を織って用いた。そして毎日水を浴びて身体を洗ってから、つづれの着物を身につけるのを習慣としていた。野原に行くごとに野草を摘んで帰るように心がけた。
またふだん家にいる時は、部屋のすみずみまできれいに掃除するのを習わしとしていた。摘んできた野草を調理し終わると、食器に盛りつけ、子供たちを呼んできちんと座らせ、にこやかに笑みをうかべ、和やかに家族の者たちと語り、感謝して食事をした。日常の起居、行動、心がけなど毎日の暮らしぶりは、すべてこうした調子で続けられていた。まるで天から下ってきた仙人のようであった。
さて、大阪の長柄の豊前の宮で天下を治められた孝徳天皇の白雉五年(654)に彼女のこうした高潔な心ばえが、神仙の心に通じて、その感応があったのだろう。彼女が春の野原で野草を摘み、これを食べているうちに、はからずも仙草を食べ、仙人と化して天上に飛んで行った。
なにも仏法を修めないでも、高潔な心に徹し、自己の信念に基づいてその道一筋に身を処していると、神仙の薬草がこれに感応することが、よく理解出来る。『精進女問経』に、「俗人の家に住んでいても、心を正しくして仏塔のある寺などの庭を掃くと、浄土に行ってからの五つの福徳が得られる」とお言葉のあるのは、まさにこの話のような場合をさしているのである。
第十四話 ある僧が般若心経を念じ、現実に不思議な霊異を示された話
僧義覚は、もとは百済の国の人であった。百済の国が滅びた時は、日本では後の岡本の宮で天下を治められた斉明天皇の御代にあたるのだが、その頃日本に渡ってきて難波の百済寺に住んでいた。義覚法師の身の丈は七尺もあり、仏教を広く学び、いつも『般若心経』を唱えていた。
そのころ、同じ寺に慧義という僧がいた。夜中にただ一人部屋を抜け出して、あたりを歩いていた。ふと義覚法師の部屋に光がこうこうと輝き渡っているのを見つけた。慧義は不思議に思って、こっそりと義覚法師の部屋の窓の紙に穴をあけて、のぞいて見た。法師はきちんと座ってお経を唱えていた。光はその口から出ているのであった。慧義は驚き恐ろしくなって、明くる日、ひそかに、他の室をのぞき見たということの罪を懺悔して、このことを広く寺内の僧たちに告白した。
すると義覚法師は、弟子たちに対し次のように語った。
「わたしは毎晩、一夜に『般若心経』を百編ほど唱えた。昨夜も唱え終わって、そっと目を開けてみると、部屋のまわりの壁はすべて消え去って、戸外の庭のなかまではっきり見通すことができた。そこでわたしは不思議なことだと思って、部屋からでて、寺院の境内を一巡し帰ってきて室内を見ると、消えたはずの壁も戸も、みなもとどおり閉ざされていた。そこで今度は戸外へ出て心経を唱えると、また壁や戸が消えて、外から室内がすっかり見通すことができた」
といった。これは『般若心経』の霊験によることである。
批評のことばに「まことに偉大な人というべきであるよ、義覚法師は。多くの経典を学んで知識が広く、外には人々を仏法で教化し、それ以外は一室にこもってひたすら『般若心経』を唱えた。心眼が開いて自由に障壁をも突き抜けて往来した。平常は奥深く静寂の境地におり、動揺、乱れなどはない。一たび『般若心経』を誦すると、その輝く姿は部屋の壁をもつき抜けて照り輝いたのである」という。
第十五話 悪人が乞食の僧を迫害し、この世で悪い報いを受けた話
昔、郡が奈良に定められる前の時代こと、一人の男がいた。仏法の原因結果の道理を全く信じなかった。僧が乞食となって修行し、門前で物を乞う姿を見て、腹を立てて打とうとした。僧は田んぼの中に逃げ込んだ。男は追いかけて僧をつかまえた。僧は我慢ができなくなり、呪文を唱え、法力によってその男の身体の自由がきかないようにした。この愚かな男はどたりと倒れ、狂ったようにあちこと走り回った。呪文でしばったまま、僧はそのまま遠くへ去ってしまったので、愚かな男の面倒を見る者たちは手のくだしようがなかった。
この男には二人の子供がいた。父の呪文による縛めをといてもらおうと思い、お寺に駆け込んで、そこの坊さんにお願いした。坊さんはことのいきさつを尋ね、実情を知ったので行くことを承知しなかった。二人の子は丁重に再三にわたって、父の災難を救済して欲しいとお願いした。そこで坊さんはやっとのことで腰をあげ、現場に行って『法華経』の観音品の初めの段を唱えた。唱え終わるとたちまちその人は解き放たれた。その後、彼は仏法を信ずるようになり、邪悪の心をひるがえして正しい道に入ったのであった。
第十六話 慈悲の心がなく、生きている兎の皮をはいで、この世で悪い報いを受けた話。
大和国に一人の男がいた。その村の名も、その男の名もまったくわかっていない。この男は生まれつき慈悲の心がなく、生き物を殺すことを平気でやっていた。ある時、この男は兎をつかまえ、生きながら皮をはいで、これを野に放った。その後、幾日もたたない頃、この男の体に悪質の腫れ物が一面にでき、皮膚はただれくずれた。その苦痛はなんともたとえようがなかった。腫れ物は最後まで治ることがなかった。男は叫びわめきつつ、ついに死んだ。ああ、悪い業に対するこの世での報いはてきめんで、すぐに報いは現れる。我が身のことをよく考えて、他人に対しては思いやりをかけてやるべきである。慈悲の心は持たなくてはならない。
第十七話 戦乱にあって観音菩薩の像を祈り、この世でよい報いにあった話
伊予国(愛媛県)越智郡の郡長の先祖にあたる越智直という人は、百済の国を救うために、百済の国に派遣された。方々に転戦していた時に、唐の軍勢に追いつめられ、捕虜となって唐の国まで連れて行かれた。そしてわが日本人の八人が捕虜となって、同じ一つの島に住むことになった。八人は観音菩薩の像を得て、これを信仰し、あがめ奉っていた。八人は共同して、松の木を伐って一隻の舟を作った。そして観音像をお迎えして舟中に安置して、それぞれが無事に日本に帰れるようにと観音像に祈願した。すると西風が吹き出し、この風に乗ってまっすぐに九州に到着した。
朝廷ではこのことを聞き、事の次第をお尋ねになった。天皇は哀れに思われて、望むところを申すようにとおいいつけになった。そこで越智直は
「新しく一郡を設けていただき、ここに観音様を安置し、礼拝奉仕したいと思います」
と申し出た。天皇はこれをお許しくださった。そこであたらしく越智という郡を設けて、そこに寺を建て、観音様を安置することになった。その時から今日に至るまで、越智直の子孫が相ついでこの像を心から信仰している。
思うに右のことは観音のご利益であり、また観音信仰の結果であろう。昔、親孝行の丁蘭が母の木像を造り、それに仕えた事により、本当に生きているような姿を示してくれたし、僧が愛した絵の中の女性でさえ、僧をいとしんでこれに応じてくれたという。ましてやこれは観音菩薩である。どうして感応のないことがあろうか。
第十八話 法華経を心に念じて常に唱え、この世で不思議を示した話
昔、大和国葛城上郡に、専一に『法華経』を唱えて修行している人がいた。丹治比氏の出の人である。この人は生まれながら利口であった。八歳以前に『法華経』をほとんど暗唱することができたが、ただ一字だけはどうしても覚えられなかった。
二十歳余りになっても、やはりその一字だけは覚えることができなかった。そこで観音菩薩に祈って仏前で前世の罪を懺悔し、その罪悪の報いを免れようとした。
ある日、夢を見た。その夢の中に一人の人が現れて、「お前はこの世に生まれて来る前の世では、伊予国別郡の日下部の猿という者の子であった。その時に、『法華経』をよく暗唱していた。燈火で経文の一字を焼いてしまった。だからその字だけは覚えることができなくなってしまったのだ。すぐにその家へ行ってみるといい」と告げた。夢から覚めて不思議に思い、親に、「急な用ができたので伊予国まで行って来たいと思うのですが」と相談した。両親はすぐに許してくれた。
さて、道中、道を聞きながら、目当ての猿の家にたどりついた。門をたたいて人を呼ぶと、一人の下女が出て来て、にっこり笑って家の中に駆け込み、その家の主婦に、「門にお客様が見えています。亡くなられた坊ちゃんにそっくりの方です」
といった。主婦が出てみると、ほんとうに死んだ息子とそっくりの客人であった。これを見た主人も不思議に思い、
「あなたはいったいどなたですか」
と尋ねた。客は国や郡の名を答えた。客の方もいろいろと質問し、主人も詳しく自分の姓と名を紹介した。それは夢の中で聞いたとおりの名前だったので、彼は、この人たちは自分の前世での両親であることが、はっきりわかり、そこで彼はひざまずいてあいさつした。
主人の猿もまた、いとしく思って客を家の中に呼び入れ、客座に座らせてじっと見つめ、
「ひょっとしたら、死んだわが子の霊魂ではないかと思うほどです」
といった。客は夢の中で見たことを詳しく話し、ここにおられる老夫婦は、前の世におけるわたしの両親なのですと説明した。猿もまた昔の因縁を話して、
「わたしの死んだ子の名前はこれこれといい、住んでいた堂はあそこ、読んでいたお経、また持っていた水瓶はこれでした」
と示すのであった。客はこれを聞いて、先に死んだその子が住んでいたという堂の中に入って、その『法華経』を手に取って開いてみた。どうしても覚えることのできなかった文字のところが燈火で焼け失せていた。そこで経の一部を焼いた前の世での罪を悔い、焼けたところを修復すると、完全に覚えることができた。そこでこの親と子は互いに顔を見合わせて、怪しんだり、喜んだりしたが、改めて親子の契りを結んで、その後は孝養の誠を失うことがなかった。
批評のことばに、「すばらしいことよ、日下部氏は。あなたはお経を読み、仏道を求め、過去と現在にわたって『法華経』を読誦した。この世では二人の父親に孝養を尽くし、よい名声を後の世まで残した。これこそひじりであって凡人ではない。ほんとうに『法華経』の威光はすばらしく、観音の威力の大きいことがよくわかるであろう」という。
『善悪因果経』に、「過去の原因を知ろうと思うなら、現在の結果を見よ。未来の報いを知ろうと思うなら、現在の行状を見るのがいい」とおっしゃっているのは、この話の場合のようなことをいうのである。
第十九話 法華経を読む人をあざけり、この世で口が曲がり悪い報いを受けた話
昔、山城国に官許を受けず、私的に僧形となった一人の私度の僧がいた。いつも碁ばかり打っていた。この私度の僧が俗人と碁を打っていた。乞食がやって来て『法華経』を読み、物を乞うた。私度の僧はこれを聞き、笑いあざけって、わざと自分の口をひん曲げて、声をなまらせ、乞食の口まねで『法華経』を唱えてみせた。俗人はこれを聞いて恐ろしがり、一目打つたびに、「畏れ多いことだ。恐ろしいことだ」とつぶやきながら、碁石を置いていた。それから以後は、俗人は打つたびに勝ち、私度の僧は打つたびに負けた。と、たちまち私度の僧の口がゆがんでしまった。医者を呼び寄せ、治療をさせたけれども、ついに治らなかった。『法華経』に、「もし法華経を信ずる者を軽蔑し、あざ笑う者がいたとしたら、この世でたちまち歯は抜けてまばらになり、唇は醜く、鼻は平らになり、手足はねじれ、目はすがめになるだろう」と書かれているのは、すなわち、この話の場合のようなことを言われているのである。
むしろ悪鬼に取り付かれて口走るようなことがあっても、『法華経』を信じ、それに頼っている人をそしってはいけない。よくよくことばは慎まなければならない。
第二十話 僧が湯を沸かすための薪を他人に与え、死後、牛となって使われ、不思議な結果を示した話
僧恵勝は延興寺の僧であった。この僧は、生前、寺の風呂用の薪一束を盗んで、他人に与えたままで死んだ。その寺に一頭の牝牛がいて、子供を生んだ。子牛は成長してから、体に車を付けられ、薪を積み、休むひまなく追い使われ、車を引いて寺に入った。すると、見知らぬ僧が寺の門にたたずんでいて、
「恵勝法師は『涅槃経』を上手に読んだが、車はうまく引けないだろう」
とつぶやいた。牛はこれを聞き、涙を流し、嘆息するかとみると、たちまち死んだ。牛の御者はその僧をせめて、
「お前は、よくもおれの牛を呪い殺しやがったな」とどなりつけ、僧を捕えて政庁の王に届け出た。
王は事情を尋ねようと、この僧を呼び出されたところが、顔はただ人とは思えないくらいに貴く、姿かたちは麗しくすぐれていて、畏れ多いほどであった。そこでひそかにその僧を清めた一室に控えさせて、絵師を呼び、「あの法師の顔かたちを、寸分違いなく絵にして持ってくるように」と命じられた。絵師たちは、命令を受けて筆をふるい、その絵を王に差し出した。王がご覧になるとどの絵師の絵も、みな僧の形ではなく観音菩薩の像そのものの絵であった。と、その見知らぬ僧はたちまち消えてしまっていた。まことに、観音菩薩が種々の姿を示されることは、少しも疑ってはいけないことがわかる。
たとえ飢えに苦しめられて砂や土を食べることがあっても、寺の僧の常用品を盗んで食べたりすることは、絶対に慎まなければならない。だから『大方等経』に、「四種の重罪、五つの大逆罪を犯した人でも、自分はよくこれを救ってやろうと思う。しかし、僧の物を盗むような者は、自分は断じて救済はしない」と記されてあるのは、このことをいうのである。
第二十一話 慈悲の心がなく、馬に重い荷物を負わせ、この世で悪い報いを受けた話
昔、河内国(大阪府)に瓜を売る者がいた。名を石別といった。その男は馬の能力以上に重い荷物を背負わせていた。馬が重さに絶えられず歩けなくなると、怒って鞭で打ちまくり、ひどくこき使った。重い荷物を背負って、馬は疲れ果て二つの目から涙をこぼした。瓜を売り終えると、男は哀れみの気持ちもなく、馬を殺してしまった。こうして殺した馬の数は、数えきれないほどであった。後日、石別が熱湯が煮え立っている釜のそばに、ちょっと近づくと、湯気で二つの目は煮られてしまった。
悪い行いに対するこの世での報いはてきめんで、はなはだ早いものである。仏法の因果応報の道理は、心から信じなければならない。この世における畜生は、一見われわれに縁がないように見えるが、実はそれが前の世の自分の父母であることが往々にしてあるのである。死後の六道の世界といい、生物の生まれる四つの形式などは、いずれも、われわれの来世に生まれて行く家である。だからこの世では、慈悲の心を欠いてはならない。
第二十二話 一心に仏法を学び世に広めて利益を与え、死ぬ時に不思議な霊異を示した話
今は亡き道照法師は、姓は船の氏で、河内国の人である。勅命を受けて、仏法を求めるために中国に渡り、玄奘三蔵と巡り会い、弟子になった。三蔵は弟子たちに、
「この方は、故郷の日本に帰って、さらに多くの人々に教化なさる方だ。そなたたちはこの方を軽んじてはいけない。不自由のないようによくよくお世話をするように」
と諭したほどである。勉学の業を終えて日本に帰り、禅院寺を建てて、ここにとどまり住んだ。道照は、智恵の優れたことは、無欠の玉のように円満完璧であり、学殖知識の優れていることは、いつも輝く曇りのない鏡のようであった。あまねく各地を歩き回り、仏法を広め、人々を教化した。後には寺に住みついて、ここで弟子のために中国から持ち帰って来た多くの経典の大要を説いた。死に際した時、体を洗い、着物を着替え西方極楽浄土に向かって正座した。そのとき光がへやいっぴに輝いた。道照は目を開き、弟子の知調を呼んで、
「知調、お前にはこの光が見えるか」と問うた。知調が、
「はい、見えました」と答えると、道照は、
「むやみにこのことを人に言いふらしてはいかんぞ」
と口止めをした。世も明けようとするころ、光は部屋から出て、寺の庭の松の木を一面に輝かせた。しばらく輝いた後に、光は西をさして飛んでいった。弟子たちはみな驚き、不思議に思わないものはいなかった。ちょうどそのとき道照ひじりは西に向かって正座し、心安らかに息が絶えた。ひじりが極楽浄土に往生したことは疑いのないことである。
批評のことばに、「船の氏、道照ひじりは徳をみがき、遠い中国まで仏法を求めて留学した。これはひじりのすることであって、凡人にできることではない。また死に際しては、光を放つ奇瑞を示して大往生を遂げられた。」という。
第二十三話 非道の男が母に孝養を尽くさないで悪い死に様の報いを受けた話
大和国添上郡に一人の非道な男がいた。本名は明らかでない。通称を瞻保といった。このものは難波宮で天下を治められた孝徳天皇の御代、大学寮の学生ふうのものである。前々から儒教の本のうわべだけ学んで、精神をつかまず、母に孝養を尽くさなかった。
あるとき母は息子から稲を掛け売りで買ったが代わりに返すものがなかった。瞻保は怒って代わりを出せと責め立てた。そのとき母は地面に土下座し息子は朝床に寝そべっているという傲慢な無礼さであった。まわりの人はこの様子をよくよく見かねた。そして瞻保に対し、
「君はどうして孝の道に背くのかな。よその人を見たまえ。父母のために塔を建て、仏像を造り、お経を写し坊さんを大ぜい招いて夏の三ヶ月間も修行させる人もいるのだぞ。君の家は財産も豊かじゃないか。貸している稲も沢山あって何の不自由もない。それなのに、どうして聖賢の道に反して母に孝養を尽くさないのかな」
と諌めた。瞻保は、
「よけいなことをいうな」
といって従おうともしなかった。そこでまわりの人たちは、その母に代わって借財を返し、一同はその場を立ち去った。
母は自分の乳房を出して、泣き悲しみながら
「わたしがお前を育てる時は夜も昼も休む時はなかった。よその子が親に孝行を尽くしているのを見ているが、わたしの子はこんなありさまで、かえってお前から辱めを受けている。わたしの願いは完全に期待はずれになった。ところで、お前はわたしの借りた稲を取り立てた。それならわたしもまた、お前から飲ませた乳の代金をいただこう。こんなことをいうなんて、これで親子の間も絶え切れた。天の神も地の神も、みな知っている。ああ、悲しいことだ」
と嘆き訴えた。瞻保は何もいわずに立ち上がり、部屋の奥の間に入り、これまでの借用証書の類を取り出し、庭の中でみな焼いてしまった。それから山に入り、心が狂ってどうしようもなかった。髪を取り乱し、体は傷つき、あちらこちらと狂い走り、家に帰ったかと思うと、また外をうろつき、家には住みつかない。三日の後には、突然火災が起きて、内外の家や倉はことごとく焼け失せてしまった。そして妻子たちは生活もできなくなってしまった。瞻保は身を寄せるところもなく、飢え凍えてついに死んだ。
この世での悪い行いの報いは、たちどころに現れるものである。どうして。信じないでおられようか。そのために、あるお経にも、「親不孝の者たちは必ず地獄に堕ちる。父母に孝行を尽くす人は、必ず浄土に往生しよう」といわれている。これはまさしく釈迦如来の説かれているところであり、大乗仏教の真のおことばなのである。
第二十四話 悪い女が母に孝行しないで、この世で悪い死にざまの報いを受けた話
都が奈良に移される前の京にこと、一人の心のよくない女がいた。姓も名前もはっきりしない。生まれつき少しの孝心もなく、その実母を大切にする気持ちはなかった。母はある斎日の日に食事の用意をしなかった。斎食しようと思って、娘のところに行って食事がしたいと頼んだ。
「今日は夫とわたしも同じように斎食しようと思っていたの。私たちの食べる分を取ると、ほかに、あげる余分のご飯はないわ」
と断った。その時、母は一人ではなく、幼い子供を連れていた。母は仕方なく、幼い子供を連れて、自宅に帰って行った。途中ふとうつむいて道ばたを見ると、誰かが置き忘れたのか、飯の包みがあった。それを拾ってどうにか飢えをしのいだものの、疲れのあまり、そのまま部屋で寝てしまった。だいぶ夜がふけたころ、ある人が、やって来て、戸をたたき、
「あなたの娘が、大声で、『わたしの胸に釘がささる』と叫んでいます。今にも死にそうです。行って看てやって下さい」
と知らせてくれた。しかし、母は疲れ果てて寝込んでいたので、自分の娘のところに行って助けることはできなかった。そしてその娘はついに死んでしまい、ふたたび母と会うことはできなかった。親に孝行を尽くさないで苦しんで死ぬ。それよりは、自分の分け前をさいて、母に孝行を尽くして死ぬのに越したことはないのだ。
第二十五話 欲が少なく分を知った忠義な臣が、諸神の感応を得ることができ、この世でよい報いがあり奇跡を示した話
なくなった中納言従三位大神高市万侶の卿は持統天皇の時の忠臣である。ある記録に、次のように記されている。
「朱鳥七年(692)二月、天皇はもろもろの役人に詔して、『三月三日を卜して伊勢に行幸しようと思う。この意向を体して万端の準備をせよ』
と仰せになった。時に高市万侶中納言は、天皇のお出かけが農事の妨げになるのを心配して、意見書を奉ってお諌め申した。しかし天皇は了承なさらず、なおもおいでになろうとされた。そこで高市万侶中納言は冠をぬいで朝廷に返上し、辞任を覚悟して、重ねて諌められた。
『時まさに耕作の忙しい季節です。お出かけになるべきではありません』
と進言もうしたのであった。
また、こういう話もある。あるひでり続きで困っているとき高市万侶中納言は、自分の田の水口をふさがせて、水を多くの人々の田に流れるようにした。その水も尽きると、神々は高市万侶中納言の善行に感じて、竜神がたちまち雨を降らせた。その雨は、ただ中納言の田に降り注いで、他の土地にはまったく降らなかった。これはまさに、堯のような慈しみの雲がたれ込め舜のような情けの雨が降り注ぐ、とでもいうべきものであろう。こうした不思議なしるしは、ほんとうにこの中納言の真心込めた忠臣ぶりの致すところであり、庶民を思う仁徳の偉大さによるものである」。
批評のことばに、「長い家系を伝えている大神氏よ。小さい時から学問を好む。真心を尽くして事に当たり、人々に慈しみの情で接している。こころは高潔で、汚れるところがない。人々に対しては恵みを施した。水を多くの人々の田に注ごうとして、自分の田の水口を塞いだほどである。天もこれに感じて、時折よろしく甘露の雨を降り注いだ。名臣としての栄誉は長く、後の世に語り伝えられることになった」といっている。
第二十六話 戒めを守った僧がひたすら修行を重ね、この世で不思議な霊験をあらわした話。
持統天皇の御代に、百済の国出身の高僧がいた。名を多羅常といった。大和国高市郡の法器山寺に住んでいた。この高僧は、仏道を勤め法力によって病を治すのを第一の仕事としていた。今にも死にそうな病人でも、この高僧のあらたかな霊験にかかると、もう一度生き返った。呪文を唱えて病人を祈ると、いつも不思議な効験が現れた。
この高僧は柳の枝を折ろうとして木の枝に登るとき錫杖の上にもう一本の錫杖を重ねて立てた。二つの錫杖は互いに作用し、錫杖は二本とも倒れない。まるでのみで穴をあけて継あわせたようであった。このような霊験を現すので、天皇も尊びおあがめになって、いつも物を布施された。また、人々も彼の徳を仰ぎ、霊験あらたかであるという名声が伝わり、病気を治すという慈悲の徳と栄誉が、長く後世まで伝わったのである。
第二十七話 不人情でむごい一人の僧が、塔の木をたたき割って、この世で悪い報いを受けた話
石川の僧は官の許しを受けず、私的に僧となったもので、法名はない。そればかりか俗姓も明らかでない。通称として世間の人々の「石川の沙弥」と呼んでいるわけは、彼の妻が河内国石川郡の人だったからである。この人は外形は僧形となっているのだけれども、表向きはもっぱらものを盗み取ることを心がけていた。
ある時は、表向きは塔を立てるためだといっては、人の喜捨をだまし取り、内実は妻と一緒に自分の私腹を肥やし、いろいろな物を買っては食べていた。ある時は、摂津国嶋下郡の㫪米寺に住んで、塔の柱をたたき割って燃料とするなど、仏法をけがすことをしていた。この無法ぶりに過ぎる者は誰もいないほどであった。転々として、最後には同じ三島郡の味木の里に身を寄せた。その時、急に病にかかり、
「熱い、熱い」
と大声でわめき叫んで、地面から一、二尺ぐらいはね上がって走り回るのであった。人々が集まりこれを見た。ある人が、
「なぜそんなにわめき叫ぶのか」と聞いた。
「地獄の火が襲って来て、おれの体を焼き焦がすのだ。だからこんなに苦しんでいるんだ。聞かなくてもわかるだろう」
と叫んで、その日のうちに死んだ。ああ、悲しいことだ。罪の報いは決して空しいものではないのだ。てきめんに現れる。どうして慎まないでよかろうか。『涅槃経』に「もしこの世で善い行いを行なうならば、その人の名は天上界に知られるであろう。また悪い行いを重ねるならば、その人の名はきっと地獄にしられるだろう。なぜかというと、この世での善悪の行ないは、来世でかならずその善悪の報いを受けるものだからである」といっているのは、まさこのことをいうのである。
第二十八話 孔雀明王の呪法を修めて霊術を身につけ、この世で仙人となって天を飛んだ話
役優婆塞と呼ばれた在俗の僧は、賀茂の役公で、今の高賀茂朝臣はこの系統の出である。大和国葛城上群茅原の人である。生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行につとめていた。この僧は、いつも心の中で、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人達といっしょになって、永遠の世界に遊び、百花におおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。
このため、初老を過ぎた四十余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛で作った粗末な着物を身にまとい、松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって種々の欲望を払いのけ、『孔雀経』の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけることができた。また、鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在になすことができた。
多くの鬼神を誘い寄せ、鬼神をせきたてて、
「大和国の金峯山と葛城山との間に橋を架け渡せ」
と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代に、葛城山の一事主の大神が、人にのり移って、
「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて、優婆塞を逮捕しようとした。しかし彼の験力で簡単には捕まらなかった。そこで母を捕まえることとした。すると、優婆塞は、母を許してもらいために、自分から出て来て捕われた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。
伊豆での優婆塞は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万丈もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、夜は駿河国の富士山にいって修行を続けた。さて一方、優婆塞は極刑の身を許されて、郡の近くに帰りたいと願い出たが、一事主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。こうしてこの島に流されて苦しみの三ヶ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の赦免があって、大宝元年(701)正月に朝廷の近くに帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛び去った。
わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本のことばで質問した。法師が、
「どなたですか」
と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「我が国の聖だな」と思って、高座から下りて探した。しかしどこにも見当たらなかった。例の一事主大神は役優婆塞に縛られてから後、今に至ってもその縛めは解けないでいる。この優婆塞が不思議な霊験を示した話は、数多くあってあげつくせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ頼る人には、この術を体得出来ることが必ずあるということを実証するだろう。
第二十九話 心が邪で乞食の鉢を割り、この世で悪い死にざまの報いを受けた話
白髪部の猪丸は備中国小田郡の人であった。彼は、生まれつき心が邪で、仏法を信じなかった。時に一人の僧がいた。門の前で食物を恵んでくれと乞うた。猪丸は求められた食物を与えなかった。そればかりか、かえってこの僧をせめ苦しめて、持っていた鉢まで割って追い返した。その時、石丸はよその里に出かける用事があった。そのときしばらくの間、よその倉の軒下で雨宿りしていると、突然、倉が倒れ、石丸を押しつぶしてしまった。
悪い行いの報いは、近い時点で現れることが、本当によくわかる。だからこの世における日々の行いを、どうして慎まないでよかろうか。『涅槃経』に、「一切の悪行はみな邪悪の心が原因になっている」といっているのも、このことをいうのである。また『大丈夫論』には、「慈悲の心を持って、たった一人の人に施しても、その功徳の大きいことは大地のようである。自分一個のことを考えて、この世のすべての人に施しても、その報いは芥子粒のように小さいものである。災難に遭っている一人の人を救うのは、その他の一切の施しに勝る云々」と記してある。
第三十話 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 (その一)
膳臣広国は豊前国宮子郡(福岡県京都郡)の次官であった。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代慶雲二年(705)の秋九月十五日に、広国は突然この世を去った。死んで三日目の十七日の午後四時頃に生き返って、以下、次のように告白した。
「二人の使いがやって来た。一人は大人で髪を頭の上で束ねていた。いま一人は小さい子であった。私、広国は二人に連れられて行った。駅を二つばかり過ぎると、道の途中に大きな川があった。橋がかけてあり、その橋は黄金で塗り飾ってあった。橋を渡って対岸に着くと、目新しい見慣れない国があった。使いに向かって、
『ここは何という国ですか』と尋ねると、
『度何の国だ』と答えた。その国の都につくと、八人の役人がやって来て、武器を持って、私を追い立てた。前方に黄金の宮殿があった。門に入ってみると、そこに王がいた。黄金の座席に座っておられた。大王は私に向かって、
『いま、お前をここに召したのは、お前の妻が嘆き訴えたからなのだ』とおっしゃった。すぐ一人の女を召し出した。見ると死んだ昔の妻であった。鉄の釘が頭の上から打ち込まれ、尻まで通っており、額から打ち込んだ釘は後頭部に遠ていた。鉄の縄で手足をしばり、八人がかりで担いで連れて来た。大王が、
『おまえはこの女を知っているか』と尋ねられた。わたしが、
『確かに、私の妻です』と答えた。また、
『お前は何の罪をとがめられて、ここへめしだされたのをしっているか』と尋ねられた。私は、
『知りません』と答えた。今度は妻に受かって尋ねた。妻は、
『私はよくわかっています。あの人は私を家から追い出した者なので、私は恨めしく、口惜しく、しゃくにさわっているのです』と答えた。大王は広大に、『お前には罪はない。家に帰ってよろしい。しかし、決してこの黄泉の国のことはしゃべってはならんぞ。それから、もしそなたの父に会いたいと思うなら、南のほうに行ってみるがよい』とおっしゃった。
第三十話(その二) 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 
行ってみると、本当に父がいた。非常に熱い銅の柱を抱かされて立っていた。鉄の釘が三十七本もぶち込まれ、鉄の鞭で打たれている。朝に三百回、昼に三百回、夕べに三百回、あわせて九百回、毎日打ち攻められている。私は悲しくなり、
『ああ、お父さん。わたしはお父さんが、こんな苦しみを受けておられようとは、まったく思いもよりませんでした』と嘆いた。父は次のように語った。
『私がこんな苦しみを受けていたのを、息子よ、お前は知っていたのかどうか。私は妻子を養うために、ある時は生き物を殺した。ある時は八両の麺を打って十両の値を取り立てた。ある時は軽い秤で稲を貸し、重い秤で取り立てた。またある時は人の者を無理に奪い取り、また他人の妻をおかすこともした。父母に孝行も尽くさず、目上の者を尊敬することもせず奴隷でもない人をまるで自分の奴隷でもあるかのように、ののしり、あざけった。このような罪のため、私の体は小さいのに三十七本もの釘を打ち込まれ、毎日九百回も、鉄の鞭で打ち攻められている。とても痛く、とても苦しい。一体、いつの日になったらこの罪が許されるのか。いつの時にか体を休めることができものであろうか。お前はすぐにも私のために仏を作り、お経を写し、私の罪の苦しみを償ってくれ。忘れないで必ずやってくれ。
私は飢えて、七月七日に大蛇となってお前の家に行き、家の中に入ろうとした時、お前は杖の先に私を引っかけてぽいと捨てた。また五月五日に赤い子犬となってお前の家へ行った時は、他の犬を呼んでけしかけ、追い払わせたので、私は食にありつけず、へとへとになって帰って来た。ただ正月一日に、猫になってお前の家に入り込んだ時は供養のために供えてあった肉や、いろいろのごちそうを腹一杯食べて来た。それでやっと三年来の空腹を、どうにかいやすことができたのだ。また私は兄弟や身分の上下を無視し、道理に背いたので、犬と生まれて食い、口から白い泡を出してあえいでいる。わたしはまたきっと赤い子犬になって食をあさることになるだろう』と語るのであった。
およそ、米一升を施す報いは、あの世で三十日分の食もつがえられる。衣服一着分を施す報いは、一年分の衣服がえられるのである。お経を読ませた者は、東方の宮殿に住むことになり、後には願いのまま、天上界に生まれる。仏菩薩を仏像に作った者は、西方の無量浄土に生まれる。生き物を放してやった者は、北方の無量浄土に生まれるのである。欲望を抑え一日断食すると、あの世で十年間の食料が得られる。
このほか、生前この世で善いこと悪いことをして、それからうけたあの世での報いなどを見てから地獄を出ようとした。そしてわたしはしばらくその辺をぶらぶらしていると、小さい子供がやって来た。すると、さっきの門番はその子を見て、両膝を地につけてひれ伏した。その子は私を呼んで、片側の脇門に連れて行き、門を押しあけた。そこから私が出ようとすると
『早く行きなさい』といった。わたしは、その子に、
『あなたはどなたさまですか』と聞いた。その子は、
『わたしが誰だか知りたいと思いますか、わたしはそなたがまだ幼かった時に写した「観世音経」なのです』
と答えた。そしてそのまま帰ってしまった。ふと見回すと、生き返っていたのである」という。
広国は、黄泉の国に行き、善い行いが善い報いをえ、悪い行いに悪い報いが帰ってくるいろいろな例を見たので、この不思議な体験話を記録して、世間に広めた。
この世で罪を犯して、あの世でその報いを受ける因縁は『大乗経典』に詳しく説いてあるとおりである。誰がこれを信じないでいられようか。このようなわけで、経典に、「この世で甘露のような甘い汁を吸っていると、未来は熱い鉄の玉を飲まされる」といっているのは、このことをいうのである。広国は、生き返ってから、父のために仏像を造り、お経を書き写し、仏・法・僧の三宝を供養して、父への恩返しをした。父の犯した邪悪の罪を滅ぼし、これからのというものは、広国ともども正しい道に入ることができたのであった。 
 
悪徳役人・商人 因果応報を説く『日本霊異記』

 

奈良・薬師寺の僧“景戒(きょうかい)”(生没年不詳)が書き残した仏教説話集に『日本国現報善悪霊異記(略・『日本霊異記』)』がある。上巻(35話)、中巻(42話)、下巻(39話)からなり、787(延暦6)年頃に成立したとされている。仏教の「因果応報」―善行には善果報があり、悪行は必ず悪因果で報いられる―をさまざまな不思議な出来事をあげて説いた説話集である。
現代でも、「因果応報」の事例は身辺に遍満する。高級料亭“吉兆”は悪行の末に廃業という因果を背負わされた。数々の食品偽装があとを絶たないが、それらの業者はいずれ悪因果に見舞われることだろう。役人の悪行も目に余るが、こちらはトカゲの尻尾きりみたいに、悪行をやった奴にそれに見合う悪因果が課せられたかどうか定かではない。役人の悪行は「遣り得」なのか。ベトナムやイラクで悪行の限りを尽くしているアメリカは、いずれ大きな悪因果を背負わされるだろう。その前兆はチラチラ見え始めている。
さて、『日本霊異記』だが、著者の“景戒”は「因果応報」について冒頭こう述べている。多少長くなるが、肝心な部分を引いてみよう。
是(ここ)に諾楽(なら)の薬師寺の沙門景戒、熟(つらつら)世の人を瞰(み)るに、才好くして鄙(とひと)なる行(わざ)あり。利養を翹(くはた)て、財物を貪ること、磁石の鉄山を挙(こ)して鉄を嘘(す)ふよりも過ぎたり。他(ひと)の分を欲(ねが)ひ己が物を惜むこと、流頭の粟の粒を粉(くだ)きて、以て糠を啖(は)むよりも甚だし。或いは寺の物を貪り、犢(うしのこ)に生れて債(もののかひ)を償ふ。或いは法僧を誹(そし)りて現身に災を被(かがふ)る。
【現代語訳】そこで、奈良の薬師寺の僧景戒が、つくづくと世間の人々の行いを観察すると、学問・才能がありながら、卑しい行いの者がいる。利益を得ようとつとめて財物をむさぼることは、磁石が鉄の山から鉄を残らず吸い取ってしまうよりもひどいものである。他人の持ち物をほしがり、自分の物を惜しむことは、水車の臼で粟の粉をつき砕いて、その実ばかりか、糠までも食いつくすより、もっとひどいといった欲深ぶりである。ある者は、この世で寺の財産をむさぼり取って、後の世に、牛の子と生れ変わり、前(さき)の世での負債をつぐなっている。ある者は、仏法や僧をそしって、生きながら火難を受けるといった嘆かわしい実情である。
或いは道を殉(もと)め行を積みて、現に験を得たり。或いは深く信じて善を修め、以て生きながら祜(さいはひ)に霑(うる)ふ。善悪の報は、影の形に随ふが如し。苦楽の響は、谷の音(こゑ)に応(こた)ふるが如し。見聞きする者(ひと)は、甫(すなは)ち驚き怪しび、一卓の内を忘る。慙愧する者(ひと)は、倐(たちまち)に悸(こころつご)きし、(いた)み、起ち避(さ)る頃(あひだ)を忩(いそ)ぐ。善悪の状(さま)を呈(あらは)すにあらずは、何を以てか、曲執(ごくしふ)を直(なお)して是非を定めむ。因果の報(むくい)を示すにあらずは、何に由りてか、悪心を改めて善道を修めむ。
【現代語訳】一方、仏道を求め、修行を積んで、この世で善い報いを得ている者がある。あるいは深く仏法を信じ善行を修めて、生きながら福徳をうける人もいる。このように、善悪の報いは、影の形について離れないようなものである。苦労や悦楽が人々の行いに応じて的確に現れることは、それぞれの声が谷のこだまとなって、てきめんに返ってくるようなものである。これらの因果の報いを見たり聞いたりする者は、たちまち驚き、不思議がり、同席している人たちの手前もはばからないほどに動転してしまう。罪を恥じる者は、たちまち心が痛み、なんとかそこから逃れ去ろうととまどう。だから善い種をまけばよい結果をえ、悪い種をまけば悪い報いが現れる実例を示さなかったら、何を基準としてまちがった考えや行いを改め、仏法を信ずる道へ導くことができようか。
“景戒”は、自分は賢明な天分を持ってはいないし、いわば井の中の蛙(かわず)で、この著書が読者の手を汚し苦しみを残すことになるかも知れないと謙遜しつつ、「お願いしたいことは、この珍しい話を読む人は、まちがった行いをしないで、善行を践(ふ)み行ってくれることである。どうか、どんな小さな悪でも、一切の悪を行うことをせずに、もろもろの善行を行ってほしい」と求めている。ここでいう「因果応報」説がそのまま仏説とは言えないが、仏の教えを広めるための方便として使われていたわけだ。
中国最古の哲学書といわれる『易経』にもこんな言葉がある。
“積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃” (積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃(よおう)あり)  
注:「余殃」とは先祖の行った悪事の報いが、災いとなってその子孫に残ること。
『日本霊異記』(上)第七「亀の命を贖(あか)ひて放生(ほうじょう)し、現報を得て亀に助けらえし縁」をみてみよう。
禅師弘済(ぐさい)は百済の国の人なりき。百済の乱れし時に当りて、備後の三谷郡の大領の先祖、百済を救はむが為に遣はされて、旅(いくさ)に運(めぐ)りき。時に請願を発(おこ)して言(まう)さく、「若し、平らかに還(かへ)り卒(をは)らば、諸(もろもろ)の神祇(かみたち)の為に伽藍を造り立てまつらむ」とまうす。遂に災難を免れき。即ち禅師を請(う)けて、相共に還り来り、三谷寺を造る。其の禅師の造り立てまつりし所の伽藍多(さは)なり。諸寺の道俗之を観て共に欽敬(きむきやう)を為す。…
【現代語訳】弘済禅師は百済の国の人である。百済の国が新羅と唐に侵略された時に、備後(広島県)三谷郡の郡長の先祖に当たるある者が、百済を救うために派遣軍の一員として出征した。そのとき「もし無事に帰ることができたら、諸神諸仏のためにお寺を建て、堂をお造りしましょう」と誓いを立てた。そのためか、災難を免れることができた。そこで彼は弘済禅師を招き、禅師を連れて、一緒に帰って来、三谷寺を造った。そのほか、この禅師の造ったお寺は数多くある。諸寺の僧や俗人たちは弘済禅師、またこの禅師の建てた寺をあがめていた。
弘済禅師は仏像を造るために都(南大和地方)に上った。私財を売って、材料とする黄金や赤の顔料などを買った。三谷寺に帰る途中、大阪の海辺まで来た時、海辺の人が大きな亀を四匹ほど売っていた。弘済禅師は人に説きすすめて、この亀を売ってもらい、亀を海に放してやった。その後、帰ろうと思い船を見つけ、童子二人を連れて、一緒に海を渡った。日が暮れ、夜も更けた。船乗りたちは欲心を起こし、岡山県の骨島(かばねじま)あたりにさしかかったころ、童子たちをつかまえて、海に投げ込んだ。そして弘済禅師にむかって、
「お前も早く海に飛び込め」
といった。弘済禅師はこんこんと教えさとしたが、賊は聞き入れなかった。そこで弘済禅師は仕方なく、願を起して、それからおもむろに海の中に入って行った。水が腰の深さぐらいまでつかった時、ふと脚に石が当たっているように思えた。そこで夜明けの光で見ると、亀の背の上にいるのであった。弘済禅師は亀の背に乗って広島県の海岸あたりまで送られた。亀は頭を三べん下げて去っていった。これはおそらく放してやった亀が恩を返したのであろう。
一方、賊たち六人は、弘済禅師から盗みとった黄金や赤の顔料などを、三谷寺に売り込みに来た。寺の信徒の者が値踏みをして買おうと決め、禅師は後から出て見た。賊たちはびっくり仰天、進退きわまってしまった。弘済禅師は賊たちを哀れんで、なんらの刑罰も加えなかった。その後、仏像を造り、塔を飾り立てて、十二分に落成の供養を終えた。それから弘済禅師は海辺に住み、行き来する人々を教え導いた。長命で、八十歳余りでこの世を去った。このように畜生でさえも受けた恩を忘れないで返すのである。まして道理を知っている人間たるものが、恩をわすれてよいものであろうか。

この国の政府・役人等は、ここに登場する賊のようなものだ。国民の大切な持ち物を剥ぎ取り、どこかの国に売り飛ばしていると言えなくもない。弘済禅師が賊を無罪放免したのは、「因果応報」の教えに反するように思えてならない。  
 
『日本霊異記』の漢文をめぐって

 

一 受容問題
『日本霊異記』は延暦六年(787)に一旦作成、その後増補し、弘仁年間(810 〜824)に現在見ている形で成立したとされる。時代は政治的に新都において新時代を開こうとした律令制再建期にあたり、奈良朝に引き続き唐文化の影響は大きいが、徐々にそれを消化し、日本化する傾向も見えてくる。『日本霊異記』上巻序文に、
昔漢地造冥報記、大唐国作般若験記。何唯慎乎他国伝録、弗信恐乎自土奇事。粤起目矚之、不得忍寝、居心思之、不能黙然。故聊注側聞、号曰日本国現報善悪霊異記、作上中下参巻、以流季葉。
とあるように、景戒は『冥報記』『般若験記』(『金剛般若経集験記』)などを読み、それらに刺激されて自国の説話を集め、『日本国現報善悪霊異記』と名づけた。それは信仰の証をみずからの生活の場である「自土」に求めて、信仰を己のものとし、人々をも教化しようと考えた景戒の見解のあらわれであろう。そこには、外来信仰の土着化への熱意と自国意識が露呈している。
しかし、その際、『冥報記』などのような、中国を経て齎された仏教説集などの伝承に大きな刺激と影響を受けた、ということは明らかである。特に『日本霊異記』は漢文で書かれているものであるし、漢籍からの受容という問題は言及しなければなるまい。
 『冥報記』と『日本霊異記』との両書の影響関係に関する研究史を例にしてそれをみれば、原典からの直接的な受容と唱導材料を介した間接的な受容という二つの傾向があり、しかも直接的受容から間接的受容への変化も見られる。この二つの傾向がそれ以後の『日本霊異記』の受容研究に影響を与えている。
原典からの受容については、芳賀矢一の後、片寄正義、小泉弘、佐藤謙三、矢作武、春日和男、藤森賢一諸氏、日本古典文学大系などの研究があげられる。従来、両書の関連説話を対照、集約していると認められるのは、佐藤謙三『校本日本霊異記』であり、その解説は「(冥報記が)霊異記の説話に影響を与えたと思はれる物が、上巻に三、中巻に二、下巻に九話見える」と指摘している。藤森賢一氏が佐藤氏の指摘した関連説話を再点検して、『日本霊異記』の原典摂取の様態について、1直接的、全体的に筋を借りるもの、2部分的に筋を借りて他の説話の部分と合成したもの、3発想の上で影響を蒙ったもの、4趣向を部分的に借りたものという四種類に分類し、霊異記が「外来説話の恩恵を蒙りつつも、独自の説話に仕立て直そうとする意識は十分認めることが出来るのである」と考察している。
その一方、倉野憲司、植松茂、小島瓔礼などの諸氏は、類話の背後に霊異記成立以前に広範な唱導が行なわれていたことを想定し、『日本霊異記』はそのような唱導資料を採録したものという考えを示した。その後、後藤良雄、原田行造、渥美かをる、八木毅など諸氏の一連の論文は、そういった唱導伝承を介する間接的受容説を採り入れ、両書の発想趣向とモチーフの類似に注意するに止まった論考を展開している。
仏教唱導を背景にした口伝及び定着資料による影響は排除できないが、しかし、『日本霊異記』は漢文で書かれた作品であり、また本書では「外書」と「内典」の渡来から起筆し、さらに『冥報記』、『金剛般若経集験記』、『諸経要集』などの具体的な書名までも出されていることからすれば、大陸文献との書承交渉は十分に検討されなければならないであろう。『冥報記』、『金剛般若経集験記』及び仏教類書など手元の漢文作品に触発され、遂にそれらを改作、翻案して自国の奇事として再構成したことも予想される。
実際、ディテールが明らかに一致した類話も見られる。例えば中巻第十「常鳥卵煮食以現得悪死報縁」、下巻第十「如法奉写法華経火不焼縁」、同第十三「将写法華経建願人断日暗穴頼願力得全命縁」などは、それぞれ『冥報記』下巻第八「隋冀州小児」、上巻第四「唐河東練行尼」、同上巻第八「東魏鄴下人」などと細部と話全体の運びが一致しており、翻案関係が確実視される。左の表に示す通り、この三組は筋がよく似ているだけではなく、各組の言葉遣いの類似性も高い。これは各地に語られたとされる日本在地の唱導説話からの生成という観点からしては容易に説明できない点であろう。『冥報記』は漢文作品で、『日本霊異記』を執筆した景戒にとって手元に置いて常に参考した本であったことを物語るものであろう。
『冥報記』と『日本霊異記』との受容関係観が、原典の直接的受容という見方から唱導材料を介した間接的受容という見解へと移行したのは、原典を通しての両書への対照研究を疎かにしたことがその大きな原因の一つではないかと思われる。つまり、両書の説話の粗筋、特に訓読文によった粗筋を通しての大雑把な比較をすれば、間接的受容という見方は納得しかねない。
勿論、『日本霊異記』における漢籍受容は、『冥報記』『金剛般若経集験記』など有数の幾つかの作品に止まらず、それ以外、『冥報記』の序文にみる『観世音応験記』三種、『宣験記』『冥祥記』、及び『顔氏家訓』など六朝以来の霊験記とそれらの関係書籍、『諸経要集』『法苑珠林』などの仏教類書、本書の各説話の話末にしばしば引用された数多くの仏典など、実に多くの文献に及んでいる。
そして、これまでの『日本霊異記』における漢籍受容研究は、その多くは、やはり説話と説話との典拠的な考察とか、或いは説話のモチーフの共通とか、というものであったが、これからは、原典を目指しての言語表現の受容特徴などに対する研究を進める必要があろうかと思う。この方面の研究においては、これまでの研究書や研究論文、大系本と新大系本などの頭注や脚注も含めて、幾つかの指摘(特に話末にみる仏典の引用などについて)があったものの、なおさらに検討すべき余地があるかと思う。例えば、仏経霊験説話、地獄蘇生譚、殺生説話などテーマごとの各共通説話群における言語表現や叙述特徴などといった、言語論的な視角による『日本霊異記』の原文研究を試みる価値があるのではないか。特に研究用資料のデータベースの作成も進んでいる今日では、そうした手段を生かして『日本霊異記』の原典への研究をより一層推進する必要が感じられる。
所附
『日本霊異記』中巻第十 常鳥卵煮食以現得悪死報縁 
…有一中男、…常求鳥卵煮食為業…不知兵士来告中男言、国司召也…眼見爝火、践足无間、走廻畠内而叫哭…時有当村人、入山拾薪、見於走転哭叫之人…執之而引、拒不所引… 地而臥…膊肉爛銷、其骨璅在…
『冥報記』下巻第八 隋冀州小児 (『冥報記』のテキストは前田家本によるもの。以下同)
…有小児、…常盗隣家鶏卵、焼而食之…見一人云、官喚汝…地皆熱灰砕火、深纔没踝、児忽呼叫、走趣南門…時村人出田、…見此小児在耕田中、口似啼聲、四方馳走…喚不肯来…皆見父而倒…血肉燋乾、其膝已下、洪爛如炙…
『日本霊異記』下巻第十 如法奉写法華経火不焼縁 
…毎大小便利、洗浴浄身…開筥見之、経色儼然、文字宛然…
『冥報記』上巻第四 唐河東練行尼 
…一起一浴、燃香薫衣…既而開視、文字如故…
『日本霊典記』下巻第十三 将写法花経建願人断日暗穴頼願力得全命縁 
…時山穴口、忽然崩塞動…一人有後出、彼穴口塞合留…彼穴戸隙、指刺許開、日光被至、有一沙弥、自隙入来、鉢 饌食、以与之…親属見之、哀喜無比…
『冥報記』上巻第八 東魏下鄴人 
…出穴未畢而穴崩…有一人在後、為石塞門不得出…小穴明処、見一沙門、従穴中入来、持一鉢飯、以授此人…父母驚喜…
二 原典の漢文について
その一.『日本霊異記』の和化漢文
『日本霊異記』の漢文はどんなものであるか、という問題については、これまではいろいろな指摘がある。例えば、武田祐吉氏は
霊異記の文章は、漢文体を使用している。しかし序文の如きは、特に注意して漢文の風習に依っているが、本文に於いては、かならずしも漢文の風習どおりにはなっていない。国語と漢語とでは、単語も語法も相違するので、国語に依る表現を保存するためには、已むを得ないことであり、かつ十分に漢文を作ることに慣れないので、一層純粋な漢文から遠ざけるのである。漢語と国語とでは、まず各個の語の置かれる位置が相違するのであるが、その文字の位置が、漢文風になっていないのは、かなり多量である。(中略)本書が、字音に依って棒読みすべきものでは無く、国語を以って読み下すべきものであることが、明白である。
と指摘されている。そして、春日和男氏は
日本霊異記の本文は、いうまでもなく漢文である。ひとくちに漢文といっても、序文や、引用文、賛辞のごとき、比較的純正な措辞法を保ったところと、各説話の主要部を占めるやや変則な措辞法の目立つ部分とに分けられる。全体から見ると、変則な部分の範囲が広いので、霊異記は一種の変態漢文をもって記述されているということになる。しかし措辞の整・不整ということは、読者側がとる訓法の上から相対的にいえることで、絶対的現象として指摘するには、困難な面もあって、その実情は単純でない。
と述べられている。また、筑島裕氏は
確に霊異記の本文は正格の漢文から見ると、異様な点もあるやうだが、一つには四字一句などの仏典の語法などの影響もあり、確かに一部には(中略)漢文の格を逸脱したかと思われる面も無いではないが、これは全体としては極く僅な部分であり、漢文の作文力が稚拙であるが故に、かやうに異様な感じを与へる文体となったのであって、(中略)これらの漢文に見られる特異性は、単なる『和習』であって、文体的には必ずしも本質的なものではないと考へるわけである。
とあって、「文法、語彙的面から見て、正格の漢文から外れた、しかもそれなりのパターンを有する」変体漢文には、「『日本霊異記』が含まれないことになる。」と言われている。
それぞれ本書の漢文の特徴をよく捉えたご指摘であったが、総じて言うと、『日本霊異記』には、純正な漢文と、訓読法で措辞されたいわゆる和化漢文が共存している。その和化漢文には、国語に依る表現を保存するために已むを得ず記されたもの(例えば敬語表現や和歌引用、人名地名の当用字など)と、十分に漢文を作ることに慣れなくて為されたものとが含まれており、変体漢文の文体としては形成されていないが、その端緒がすでに開かれたと言えよう。
その和化された漢文の特徴については、松下貞三「『日本霊異記』における漢文和化の問題」で詳しく論じされている。理解によって破格とされるかどうか決め難い例を除外して、大体は次の通りに指摘されている(事例は適当と思う一部だけを抄録する。ただし、【 】付きは、私に新しく付けたもの)。
1、返るべき動詞の位置が、目的格に対して破格であるもの。
  有苽販之人  
  【弟公捨而来之】(下巻 27)
2、動詞の目的格の部分が被修飾の名詞と、修飾部とからなっている場合、動詞がその両者の間に入って目的格のまとまりを割る場合がある。   
  応為妻覓好娘  
  著身脱衣置於三処
3、補格に対して動詞(述語)はそれより前に返るべきものであるのに、返らないで破格をなすもの。
  鉄釘卅七於其身打立   
  【半造未畢】(下巻 30) 
  【一遍読逃】(下巻 33)
4、動詞の位置の破格が、補語のまとまりをこわすもの。
  従天皇宮住上殿故   
  【我忘一語、不得念忍、故還来也】(下巻 30)
5、副詞的修飾語に対して、述語動詞の位置が破格であるもの。
  持戒比丘修浄行而得現奇験力縁   
  【毎萬物之無而思愁之、我心不安。】(下巻 38)
6、述語動詞の位置の破格によって、副詞的修飾語のまとまりを割ったもの。
7、主語に対して述語の位置が破格であるもの。
  裂地而陥   
  恐至余罪於後生世(余罪至)
8、述語動詞がそのまとまりを破って、その一部を破格の位置に置いているもの。(補充3参照)
  彼菩薩化葦原国已将生此宮    
9、上に返る名詞の位置の破格によって副詞と動詞のまとまりを割るもの。
  唯瞥所覲
10、介詞の位置が破格であるもの。(有、在、无、無、乎、於、以)
  以挫釘打立我手於而問打拍  
  【献於燃燈菩薩】(下巻5)
11、介詞の位置の破格のため、賓語のまとまりを壊すもの。
  響大地而所打有人音
以上は本書における漢文の措辞法を踏み外したものを多く示している。勿論、この分類及び各分類に挙げられた事例などは更に吟味する必要はあるが、ここでは一つの方便にその分類の修正を兼ねて少し補充をしてみると、以下の通りである。
1 動詞(述語)に対して、その連用修飾語の位置が破格であるもの
  見之白師、々言、莫言默然。(上巻4)〈默然莫言〉
  故竊一文銭、莫盗用也。(下巻 23)〈莫竊盗用也〉
  而有典主、念之己物、不免我、々恣不用。(下巻 24)〈恣用〉
  行者不得聞忍。(下巻 28)〈忍聞〉
2 動詞(述語)に対して、副詞の位置が破格であるもの。(便、未、即、毎、始、終、不)(厳密に言えば、2は1に含まれている。)
  便日申時命終之矣。(下巻 30)〈便命終之〉
  未造仏了  〈未了〉
  風吹毎動  〈風毎吹動〉
  天平神護元年歳次乙巳年、始弓削氏僧道鏡法師、与皇后同枕交通(下巻 38)
  〈始与皇后同枕交通〉
  即景戒将炊白米フ半升許、施彼乞者(下巻 39)〈景戒即フ将炊白米半升許〉
  呪之時愈、即退発病(下巻3)〈退即発病〉
  終後不顕乎彼悪事(下巻4)〈後終不顕乎彼悪事〉
  未都見聞(下巻 31)〈都未見聞〉
3 動詞(述語)にたいして、補語の位置が破格であるもの。(厳密に言えば、
3は1に含まれる。なお、松下氏の分類3と8との両項目はこの項目に統合
していいかと思う)
  豊浦寺與飯岡間鳴雷落在(上巻1)〈鳴雷落在豊浦寺與飯岡間〉(介詞連語が
補語としてその位置が破格となる。)
4 目的語に対して、その連体修飾語の位置が破格であるもの
  聞之有音誦法花經(巻下1) 〈聞之有誦法花經音〉
その二.『日本霊異記』の本文研究
つぎには、本文に見られる「有・在」と「為〜所、見、被」という二組の品詞の使い方を検討してみよう。
その1.【在と有】
第一に、「在」も「有」も共に人と物事の存在することを表す意味がある。しかし、例えば
  今灘上有石、或円如箪、或方似笥(『水経注』巻 43・江水)
  丹山在丹陽、属巴(同上)
  按地理志、巫山在縣西南、而今縣東有巫山、将郡縣居治無恒故也(同上)
とあるように、どこどこには何々がある(いる)という場合には、「有」を使うが、何々がどこどこにある(いる)という場合には、「在」を使うのがふつうである。しかし、日本語にはこのような使い分けのないため、往々にして「在」と「有」の誤用が生じる。例えば、
  二子白母言、屋上在七躯法師而讀經矣(中巻 20)
  諾樂京越田池南、蓼原里中蓼原堂在藥師如來木像(下巻 11)
  時行基菩薩有難波、令渡椅堀江造船津(中巻7)
  此非我家、々々有鵜垂郡 (同 25)
第二に、所有、或いはある物事が発生、出現したりするという意味を表す場合には、「有」を使うが「在」を使わない。例えば
  陳文子有馬十乗(『論語・公冶長』)
  丈夫生而願為之有室、女子生而願為之有家(『孟子・滕文公章句下』)
  大任有身、生此文王(『詩・大雅・大明』)(7)
こうした場合にも使用上の混淆が生じる。その誤用例を示すと、
  何吾子違思、今在異心耶(上巻3)
  又聖君尭舜之世、猶在旱氏A故不可誹之也(下巻 39)
などが見られる。
第三に、介詞として動作や情状などが及ぶ時間・場所・範囲などを表す場合には「在」を使うが「有」を使わない。例えば、
  何為棄墳井、在山谷為寇也(『洛陽伽藍記・王子坊』)(8)
その誤用例を示すと、
  九人僅出、一人有後出、彼穴口塞合留(下巻 13)
  三月廿七日午時、其長有其郡部内御馬河里遇行者曰(下巻 14)
などが見られる。
なお、「有」 は動詞として「止」「停止」「停留」などの意味も見られる。例えば、「客趨而進、曰、海大魚。因反走。君曰、客有于此。」(戦国策・斉策・一)とあるような例はそれである。このような意味でみれば、「法師受五百虎請、至於新羅、有其山中講法花經(上巻 28)」「時行基菩薩有難波、令渡椅堀江造船津(中巻7)」「時行基大徳有紀伊郡深長寺、往白事状(中巻 12)」などの文中の「有」は「誤用」と見なくてもよいかと思われる。ただし、こうした用例はあまり見られはしないし、また当時は景戒がこのような意味で使っているかどうか判明できないので、ここでは一応、ごく普通に使用する意味で「誤用」と看做すのである。
粗略な統計をしてみると、『日本霊異記』において、「在」を使うべきだが「有」と誤用したのは、26 例見られ、中には、6 例は介詞として使う場合の誤用例である。「有」を使うべきだが「在」と誤用したのは、9 例みられる。その一覧表で示すと、次の通りである。
「在」の誤用例一覧(○印で付けたのは介詞としての「在」の誤用例。)
 ○法師受五百虎請、至於新羅、有其山中講法花經 (上巻 28)
  問曰、是有於豐葦原水穗國所謂智光法師矣(中巻7)
 ○在于宮門二人告言、召師因縁、有葦原國誹謗行基菩薩。爲滅其罪故、請召耳(同)
  時行基菩薩有難波、令渡椅堀江造船津(同)
  時行基大徳有紀伊郡深長寺、往白事状 (同 12) 
 ○法師五人有前而行、優婆塞五人有後而行(同 16)
  尊像有寺、以像爲師。今自滅後、以何爲師矣(同 22)
  此非我家、々々有鵜垂郡 (同 25)
  久玖利之妻、有同國愛知郡片蕝里之女人、是昔有元興寺道場法師之孫也(同27)
  彼牛放退、屈膝而伏、流涙白言、我者、有櫻村物部麿也(同 32)
 ○他船人向於奧國而度、見之繩端泛有於海而漂留(下巻4)
  舅僧展轉乞食、偶値法事、有於白度之例、匿面而居、受其供養(同)
  若大直山繼在此類耶。答曰、有之(同6)
  彌勒之高有兜率天上(同8)
  唯彼納經之筥、有於盛爝火之中、都無所燒損(同 10)
 ○九人僅出、一人有後出、彼穴口塞合留(同 13)
 ○三月廿七日午時、其長有其郡部内御馬河里遇行者曰(同 14)
  林問、汝何女。答、我有越前國加賀郡大野郷畝田村也、横江臣成人之母也(同15)
  起窺見之、呻有鐘堂、實知彼像(同 17)
  我父母家、有于屋穴國里(同 27)
  先祖造寺、有名草郡能應村、名曰彌勒寺、字曰能應寺也(同 30)
  乞人者、有紀伊國名草郡内楠見粟村之沙彌鏡日也(同 38)
  鄙哉、彈指悔愁。有側之人聞之皆言、嗚呼當哉(同)
  爰景戒之神識、出聲而叫、有側人耳當口而叫(同)
「有」の誤用一覧
  得雷之憙令生子強力在縁第三 (上巻3)
  白家母、門在客人、恰似死郎 (同 18)
  何吾子違思、今在異心耶(同3)
  二子白母言、屋上在七躯法師而讀經矣(中巻 20)
  然死後經七々日、在大毒蛇、伏其室戸(同 38)
  諾樂京越田池南、蓼原里中蓼原堂、在藥師如來木像(下巻 11)
  粟國名兮郡麻坦填村在一女人、忌部首(同 20)
  大般若經云、凡錢一文、至廿日、倍一百七十四萬三貫九百六十八文倍在(同23)
  又聖君尭舜之世、猶在旱氏A故不可誹之也(同 39)
その2.【為〜所、見、被】
『日本霊異記』に見られる受身表現は、主に次のような三つのパターンがある。
 1「為+働きかける者+所」
 2「見+動詞」
 3「被+(働きかける者)+動詞」
例示すると、
 長生爲人所厭、不如行善遄死(上巻8)
 役優婆塞令免母、故出來、見捕(同 28)
 寶龜五年甲寅春三月、倏被人讒、〈為〉堂檀越所打損而死(下巻 23)
「為」は受身表現の一つとして現代中国語の「被」の使い方に当たり、「為」は動詞の前に置き、その動作者を引き出す働きがある。例えば、「長生爲人厭」(長生きは人に厭われる)、この一句の中の「人」は「厭う」の動作者に当たるものである。漢代以後、「為〜所」という使い方も使われる。つまり、「為」と動詞との間に動作者を置くほか、動詞の直前に「所」も入れ加える。「為」と「所」との間の動作者を表す単語を省略して「為所+動詞」という使い方が時には見られる。例えば
 不者、若属皆且為所虜(史記・鴻門宴) 
 遂與戦、果為所殺 (三国志・魏志・武帝紀)。
「為〜所+動詞」も「為所+動詞」も、その中の「所」はその後に来る動詞の語気を強める働きをするだけで、それを省略しても受身の意味が変わらない。しかし、逆に「為」を無くしたら、受身の意味が成立できなくなってしまう。それはまさしく『日本霊異記』に見られた誤用例の最も多いところである。本書にはその大多数は、「為」という介詞が省略された「動詞+所」という形で、いわゆる一種の受身文の破格となったものである。
なお、「為」のかわりに「於〜所」の形の受動句も二、三例見られる。「於」に受身の意味もあるが、「於〜所」という形での使い方は見られない。
「秀丸」で検索した結果を示すと、以下のとおりである。
上巻
 此電忿怨而鳴落、踊踐於碑文柱、彼柱之析間電揲所捕(上巻1)
 至于晨朝寺、鬼已頭髮所引剥而逃 (同3)
 號曰河邊法師、々々之性、忍辱過人、唐皇所重(同6)
 贖龜命放生得現報龜所助縁(同7)
○長生爲人所厭(同8)
 嬰兒鷲所擒他國得逢父縁第九 (同9)
 罵厭而打所指哭歸 (同)
 自巣取下育女子是也、所擒之年月日時、挍之當今語、明知我兒 (同)
 人畜所履髑髏救収示靈表而現□縁第十 (同 10)
○爲人畜所履、法師悲之 (同 12)
○母罵長子曰、呼矣我愛子、爲汝所殺、非他賊也 (同)
 到軍之時、唐兵所擒、至其唐國、我八人同住洲(同17)
 先子聞之入堂内、取彼法花經開見之、當不所誦之文、燈燒失也(同 18)
 駕車載薪、无憩、所駈控車入寺 (同 20)
 諒委、觀音所示、更不應疑、寧所迫飢雖食沙土、謹不用食常住僧物(同)
 後石別自纔臨涌釜、兩目於釜所煮 (同 21)(於〜所)
 役優婆塞謀將傾天皇、猶因驗力、輙不所捕、故投其母(同 28)
 彼一語主大神者、役行者所咒縛、至于今也不解脱(同)
 唯□佛獨存、曾无損、此乃婦人其咸所祐乎哉(同 33)
 昔有一家、絹衣十、盜人所取(同 34)
中巻
 贖蝦蟹命放生現報蟹所助縁第十二
 佛銅像盜人所捕示靈表顯盜人縁廿
 彌勒菩薩銅像盜人所捕示靈表顯盜人縁第廿三
 閻羅王使鬼得所召人之賂以免縁第廿四
 閻羅王使鬼受所召人之饗而報恩縁第廿五
 木作畢所棄佛像木示異靈縁第廿六
 將建塔發願時生女子捲舍利所産縁卅一
 好於惡事者以現所誅利鋭得惡死報縁第四十(為利鋭所誅)
 女人大蛇所婚頼藥力得全命縁第四十一
 筑紫前守所點、應經三年(中巻3)
 率母聞之。母所欺念將聞經(同)
 狐所打、不住其市、不奪人物(同4)
○時其尊像、爲人所盜(同5)
 非此人咎、所祟鬼神爲祀殺害(同)
 今雖作羅漢、而後得怨報、於婆羅門之妻所殺云(同)(於〜所)
○常墮婬女腹中生、々已棄之、爲狐狼所食、其斯謂之矣(同7)
 冀无慚愧者、覽乎斯録、改心行善、寛飢苦所迫(同9)
 執之而引、拒不所引、猶強追捉、從籬之外事之而出(同 10)
 汝婚吾妻、頭可所罰破、斯下法師矣(同 11)
 後其弟子於師無禮、故嘖擯去、所擯出里(同 13)
 請於我願有縁之師、欲所濟度(同 15)
○極窮、裸衣、不能活命、綾君之家爲所乞食(同 16)
 聖武天皇世、彼銅像六體盜人所取、尋求无得(同 17)
○誦心經之音甚微妙、爲諸道俗所愛樂也(同 19)
 聖武天皇御世、其郡盡惠寺佛銅像盜人所取(同 22)
 鬼言、我今汝物多得食、其恩幸故、今免汝者、我入重罪、持鐵杖應所打百段(同24)
 唯汝饗受牛一頭也、爲令脱我所打之罪呼我三名、奉讀金剛般若經百卷(同)
 大唐徳玄被般若力、脱閻罪王使所召之難(同)
 女言、犯人者頬痛所拍、船長聞瞋(同 27)
 出曜經云、負他一錢鹽債、故墮牛負鹽、所駈以償主力(同 30)
 寺家捉之、著繩繋、送年長大、於寺産業所駈使 (同 32)(於〜所)
 所嘖歸家、如常將禮(同 34)
 則以知之、先惡行者、令逢利鋭、所殺之表也、斯亦奇事也(同 40)
 彼孃復蛇所婚而死(同 41)
下巻
 是禪師一日道所送、而以法花經並鉢干飯粉等與優婆塞(下巻1)
 山繼爲征人、賊地毛人打所遣(同7)
 唯當流罪於信濃國、所流、然後不久召上(同)
 逢難所張曳其眼猶殘也(同)
 國司上下、思之所壓而死、故惆悵之(同 13)
 惡業所引、唯欲抱荷(同 22)
 倏被人讒、堂檀越所打損而死 (同 23)
 語夢見状而言、閻羅王闕所召而示三種之夢(同 26)
 明日見之、有一髑髏、笋生目穴而所串之(同 27)
 賊伯父秋丸所殺是也(同)
○嗟呼我愛子、爲汝所殺(同)
 彌勒丈六佛像其頚蟻所嚼示奇異表縁第廿八(同 28)
 不見於目聞之、響太地而所打有人音 (同 37)
 竊問傍人、此所打之人誰也(同)
○又寶字八年十月、大炊天皇爲皇后所賊(同 38)
○式部卿正三位藤原朝臣經繼、於長岡宮嶋町而爲近衞舍人雄鹿宿禰木積波々岐將丸所射死也。
 生世命活、存身無便、等流早所引、故而結憂網業、煩惱之所纏而繼生死、馳乎八方以炬生身
 過去時有善種子之菩提、所覆久不現形
 所燒己身之者、脚膝節骨臂頭、皆所燒斷落也
 彼語言音、空不所聞者、彼人不答
 智行雙有、皇臣見敬、道俗所貴、弘法導人、以爲行業。
以上の示す通り、70 余例のうち、○で示した正しいもの 10 例以外、すべて破格のものになっているのである。
そして、「見」という受動表現だが、本書では以下のような事例が見られる。
 優婆塞令免母、故出來、見捕、即流之於伊圖嶋之(上巻 28)
 見放斯嶼而憂吟之間、至于三年矣(同上)
 答言曰、閻羅王闕召於猶磐嶋之往使也。磐嶋聞問、見召者我也(中巻 24)
 女人惡鬼見點被食噉縁第卅三(同 33)
 然後不久、諾樂麻呂天皇見嫌(同 40)
 優婆塞二人副共遣使、見送(下巻1)
 得度、精懃修學、智行雙有、皇臣見敬、道俗所貴(同 39)
「見捕」「見放」「見嫌」「見敬」などの事例で示しているように、この受動表現は、通常は「見+動詞」という形となっている。ここの「見」は現代中国語の「被」とほぼ同じ使い方である。ただし、この「見」の表現は、「為」と「被」のように動詞の前に動作者を引き出すことができなく、動作者を句中に出すには、動詞のあとに「於」を介して動作者を置く、というようになっている。例えば
 吾長見笑於大方之家 (『荘子・秋水』)
 然而公不見信於人、私不見助於友(韓愈『進学解』)
ここの「見笑於大方之家」とは「為(被)大方之家笑」とも言い換えられる。同様に「見信於人」と「見助於友」とは、それぞれ「為(被)人信」「為(被)友助」とも言い直されて、「他人に信用される」「友人に助けられる」と言う意味である。しかし、『日本霊異記』中巻 40 と下巻 39 に見られるその二例は、その本文の文脈で分かるように、「諾樂麻呂天皇見嫌」とは、つまり「諾樂麻呂〈為(被)〉天皇嫌」(諾樂麻呂は天皇に嫌われる)、「皇臣見敬、道俗所貴」とは、「〈為〉皇臣敬、〈為〉道俗所貴」(天皇と大臣に尊敬され、道俗に尊ばれている)という意味であるが、その表現法そのままならば、「天皇」や「皇臣」はそれぞれ「嫌」と「敬」の動作者ではなくて、逆に受動の対象となってしまい、いわば、「天皇は嫌われる」、「天皇と大臣は尊敬される」という意味になるわけである。以下のように直せばよいかと思う。
 諾樂麻呂見嫌於天皇
 見敬於皇臣、為道俗所貴
その三.以下のような表現上の問題なども見られる。
 重複 
 起多諸寺(上巻7)
 自性天年彫巧為宗(下巻 30) 
 天骨悪性(下巻 33) 【「次生素戔鳴尊、此神性悪」日本書記巻1神代上】 
「多」と「諸」、「自性」と「天年」、「天骨」と「性」などそれぞれ意味上の類似した語が重なって使用した例が見られている。
 動詞の前後順序の倒置  
 法師合咲、不瞋而忍(下巻4)
 令誓而詔(下巻 38)
この二例の傍線部をそれぞれ「忍而不瞋」と「詔而令誓」という表現に直すべきものであろう。
比喩のイメージが漢語的表現に合わぬこと 
 如夢忽死(下巻 29) 
漢語には「夢死」という単語があるが、それは何もせずに空しく死ぬという意味で使われている。例えば、酔生〜。また、破滅しやすいという意で使用することもある。それらは、本文での「忽死」の修飾語で「儚いもの」という意味らしく使われているのと一筋違っていると考えよう。
表現の足らぬことで誤解を生じやすいもの
 将生〈為〉王子  
 暫間生〈為〉国王之子(下巻 39)
 觸於賎人而穢〈之〉衣、何乏更著之(上巻4)
 不知〈之〉二人来云(下巻 12) 〈未識之二人来云〉
 不知〈之〉兵士卅人来召父尊(下巻 36)(不知→未識)
 堕手取〈之〉筆)(下巻9)(或いは 堕手〈所〉取筆)
 而有典主、念之〈為〉己物、不免我、々恣不用(下巻 24)
「将生王子」だとすれば、「まさに王子を産まんとする」という意味になってしまう。それは本文の「王子として生まれようとする」との意味と食い違ってしまうものになる。「不知二人来云」だとすると、「二人が云いに来ることを知らない」と誤解されかねない。「念之己物」とは「己の物を思う」とその意味が変わってしまうのである。
【及以】
 読経及以持水瓶是也(巻上 18) 
 献銭衣及以供上一切財物(下巻8) 
 爰多利磨及以明規等(下巻 30) 
 不得撾打三宝奴婢及以六畜(下巻 33)
漢語には「及び」の意味で「以及」という単語がよく使われているが、「及以」は見られない。
漢語に見えない意味(日本語の表現と和化)
【能(よき、よく)】
 誠先世強修能縁所感之力也(上巻3)
 汝没此河、能践我蹤(下巻9)
 如我能焼之(下巻 38)
 甚勝能(下巻 38)
 景戒見之、如言能書(下巻 38)
【坐(います、いらっしゃる)】
 又同大后坐時(下巻 38) 
【食(おす、治める)】
 又諾楽宮食国帝姫阿部天皇代(下巻 38)
【本垢(ほんぐ、ほご、ほぐ)】
 又出本垢、授景戒言(下巻 38) 
【参(まいる)】
 更参還来、奉無礼状(下巻 30)
【所】
 彼國有修行僧從者數千所(下巻 24)
三 原典の整理と訓読
『日本霊異記』の原文に句読点をつけた文献は、よく見られるものを挙げると、佐藤謙三編『校本日本霊異記』(昭和 18 年)、日本古典全書所収本(昭和 25 年)、日本古典文学全集所収本(昭和 50 年)、日本古典文学大系所収本(昭和 42 年)、小泉道校注『真福寺本日本霊異記』、新日本古典文学大系本などがある。そのうち、前三種は句読点をつけたもので、旧大系本は句と句の間に一字のスペースを明けるという形をとっているもので、新古典大系本と小泉道校注本は読点のみをつけたものである。
それらはそれぞれの特徴をもってはいるが、何と言ってもやはり句読点をつけたものが読みやすいのである。しかし、句点と読点を共に施すことは、文章に対しての全体的な理解がなくてはなかなかできない容易なことではない。それは単なる句点或いは読点をつけることより更なる漢文の理解力と漢学の素養が問われる仕事なのである。
次には、新古典大系などを例に取って見てみよう。
下巻・沙門誦持方廣大乘沈海不溺縁第四
(中略)僧沈海、至心読誦方広経、海水凹開、踞底不溺、1逕二日二夜、後他船人、向於奧国、而度見之、縄端泛有、於海而 、留船取縄、牽之僧上、形色如常、於是船人大怪、問之汝誰、答云我某、我遭賊盜、繋縛陥海、又問、師何有要術故、沈水不死、答、我常誦持方広大乘、其威神力、何更疑之、唯聟姓名、向他不顕、冀我泊奧、船人随冀、送之於奧、彼聟奧国而爲陥舅、聊備斎食、供於三宝、舅僧展転乞食、偶値法事、有於自度之例、匿面而居、受其供養、聟掾自捧於布施、献於衆僧、2於是捨海中僧、申手受施、行掾見之、目 青、面赫然、驚恐而隱、法師含咲、不瞋而忍、終後不顕乎彼悪事(新大系本)
   1 
逕二日二夜、後他船人、向於奧国、而度見之、縄端泛有、於海而 、留船取縄、牽之僧上、形色如常
二日二夜を逕(へ)て、後に他船人(あたしふねびと)奧国に向(おもむ)きて度りて見れば、縄の端(はし)泛(うか)びて有りて、海に (ただよ)ふ。船を留(とど)めて人縄を取り、牽(ひ)けば僧上(あが)る。形色(かたち)常の如し。(新大系本)
注記 見(来前)−恩 船(来前)−船人 僧(来前)−忽僧
逕二日二夜後 他船人向於奧國而度 恩之繩端泛有於海而 留 船人取繩牽之 忽僧上 形色如常
二日二夜を逕(へ)て後に、他の船人、奧の國に向かひて度る。見れば繩の端(はし)泛(うか)びて、海に有(あ)りて (ただよ)ひ留まる。船人繩を取りて牽(ひ)けば、忽に僧上(あが)る。形色(かたち)常の如し。(旧大系本)
   2 
於是捨海中僧、申手受施、行掾見之、目 青、面赫然、驚恐而隱
是(ここ)に海の中に捨てられたる僧、手を申(の)べて施(ほどこし)を受く。行(ほどこ)す掾見て、目 青(ツヅラカ)になりて面赫然(オモホテリ)し、驚き恐りて隱る。(新大系本)
注記 申(来前)−由 赫(来前)−赦
   3 
於是於海中僧 由手受施行 椽見之 目漂青面赦然 驚恐而隱 
是(ここ)に海中に捨てられし僧、手を申(のば)して施行(せぎやう)を受く。掾見て、目漂青(ツヅラ)カニ、面赫然(オモホテリ)シテ、驚き恐りて隱る。(旧大系本)
下巻第四話は、娘婿のために金を貸したが、その返還を催促して、海に投げ入れられた僧が、大乗経典の功徳で救われ、婿の家で自分を供養する座に連なる。しかも忍辱によって婿の罪を現さなかった、という話。1と2は、新大系の作成した本文で、四字句を基調とした、『日本霊異記』漢文の特徴に拘りすぎたため、漢文の文意を損なったものである。例えば、1の一句目の「逕二日二夜」と二句目の「後」と一句にして事件発生後の時間を表すほうがより自然的であろう。「他船人」と「向於奧国」と「而度」とは一句の内容を三句に分けてしまってその文意が分かり難しくなったものである。「縄端泛有」と「於海而 」と「留」も一句にすべき内容であろう。ここの「泛有」の「有」は「在」の誤用であるが、つまり、「泛在」と「於海」、「 」と「留」などは互いに緊密度の極めて高い構成要素を成しており、それらを無理に分離させてかえって不自然な文章になってしまった。その注記によって、底本のその短文には、「船人」の中の「人」と「忽僧」の中の「忽」という二字も校合した結果カットされた、と窺われる。これもさぞ四字句で読もうとするためにそうさせたのであろう。
『日本霊異記』の文章は、基本的には『高僧伝』など僧伝の構想法と行文法を受けている。その構想法と言えば、大抵は文章の冒頭に僧侶の名前と出自、そしてその人となり、霊験譚、最後にはその霊験譚の伝承ぶりとか、或いは更に他人の霊験譚を簡潔に付加したりするなどの構成であり、その行文法には、唱導などによい簡潔な短句、特に四字句を基調とした特徴がある。しかし、やや複雑な叙述になると、四字句では不十分になり、長句的な行文になる。よって、四字句は到底その基調をなすものにとどまる程度で、絶対化してはならない。上に例示した部分は少しそのような絶対化した傾向が見られよう。2の「申手受施、行掾見之」の部分も同様なことがいえよう。この部分では、意味として「受施」とも「受施行」とも読めはするが、問題は「行掾」という構成はおかしい。だから、やっぱり「施行」(せぎょう)という既成の仏教用語の後に読点を入れたほうが無難であろう。
海部与安諦、通而往還、山有山道、号曰玉坂也(新大系)〔下巻 29〕
海部(あま)と安諦(あて)とを通ひて往(ゆ)き還(かえ)る。山に山道(やまみち)有り。号(なづ)けて玉坂(たまさか)と曰(い)ふ。
海鄭與安諦通而往還山 有山道 號曰玉坂也 (旧大系)
海部(あま)と安諦(あて)とに通ひて往き還る山に、山道有(あ)り。號(なづ)けて玉坂(たまさか)と曰ふ。
「海部與安諦通而往還」という部分は、その後の「山」の連体修飾語にあたり、つまり「海部與安諦通而往還(之)山」という構文なるはず。新大系の取り方は、文章としては流暢で読みやすいものになるが、それによって「山」がその句中の前の部分との連絡を切られて意味が途絶えた。よって、旧大系のほうが原文に近いかと思う。
下巻・假官勢非理爲政得悪報縁第卅五
白壁天皇之世、筑紫肥前國松浦郡人火君之氏、忽然死而至琰魔國。時王挍之不合死期、故更敢(「改」の誤写か)返。還時見之大海之中、【1有如釜地獄。其中有如黒桴之物而涌返沈浮、出告火君言、「待耶、物白耶。」即亦涌返、沈一復浮而言、「待、物白。」】如是三遍、於四之遍言、「我是遠江國榛原郡人、物部古丸也。我存世時、白米綱丁而經數年。佰姓之物、非理打徴。由其罪報、今受此苦。願爲我奉寫法花經者、脱我之罪。」大(「火」か)君見聞、自黄泉甦、還來而具解送於大宰府。々得解状、轉解朝庭。々々不信、故大辨官取彼黄泉之事状而繼累經廿年也。從四位上菅野朝臣眞道任其官上、見彼状以奏山部天皇。々々聞之、請施皎僧頭而詔之言、「世間衆生至地獄受苦、經廿餘年、免耶不也。」僧頭答曰、「受苦之始也。」「何以知爾。」「以人間百年、爲地獄一日一夜、故未免也。」天皇聞之、彈指、勅遣使於遠江國、令訪古丸之行事。方得問之、如解状不異有實。【2天皇信悲、以延暦十五年三月朔七日始、召經師四人爲古麿奉寫法花經一部、充經六萬九千三百八十四文字、】動率知識、擧皇太子大臣百官、皆悉加入其知識也。天皇勸請善珠大徳爲講師、請施皎僧頭爲讀師、於平城宮野寺備大法會、爲講讀件經、贈福救彼靈之苦也。【3嗚呼、鄙哉古丸、用于狐借虎皮之勢、非理爲政。受惡報者、不睠因果之賎心太甚也。非無因果也。】
生前人民に過酷であった物部古丸が、死んで地獄の責め苦を受け、折から閻魔庁まで行って戻る火君(ヒノキミ)に、法華経書写による免罪を依頼する。それが大宰府を経て、遂に天聴に達し、願いの通り写経供養が行なわれた、という話。本話の本文は、旧大系を底本にして他の諸本と対校して作成したものであるが、1の「其中有如黒桴之物而涌返沈浮」と「即亦涌返、沈一復浮而言」で分かるように、「涌返沈浮」とは、「涌返」(涌いては返る)と「沈浮」(沈んでは浮く)との二つの類義語を並列させて合成した四字語で、「涌→返」、そして「沈→浮」という反対方向の交替動作で「黒桴之物」(黒きクヒゼ)が釜の中で熱湯の作用による起伏運動の様子を表している。ここで、その繰り返しの様子を時間的に捉えており、「涌返沈浮」という状態で往復運度をしているが涌き浮いて出たところそのクヒゼが火の君に話しかける、それを、「涌返沈浮→出」で表しているが、更にその「涌→返」の交替連動をしている動作が「沈む」(=返)から「浮く」(涌)という変動が完了した時点、もう一度話しかける、それを「亦涌返、沈一復浮而言」で表しており、前回よりもっと詳細な描写となる。新旧大系などでは「其中有如黒桴之物、而涌返沈、浮出告火君言」とある。そうした句読点では、クヒゼの全体的な動きの状態に対する描写を支離させたのであった。次の「涌返沈、一復浮而言」(新旧大系など) は意味は読み取れるが、一つの変化状態として読点を「沈」の前に入れたほうがより適切であろう。
2の短文の中の「始」の位置だが、もしそれを「天皇信悲、以延暦十五年三月朔七日、始召經師四人爲古麿奉寫法花經一部」にすれば、「始」の意味も、時間の始発を表す「始め」から時間的副詞の「始めて」と変わる。その文脈では、「以〜(為)始」という前者の意を取りたいと思われる。因みに新旧大系をはじめほぼすべてのテキストは後者の意味で読んでいる。「充經六萬九千三百八十四文字」の「充」という字は、旧大系など一部のテキストには「宛」にしている。実はそれは「充」の別字「 」の誤認であろう。
3の部分について各書の本文作成とその読みを挙げると、
嗚呼鄙哉、古丸用于狐借虎皮之勢、非理爲政、受悪報者、不睠因果之賤心、太甚也、非無因果也、〔嗚呼(あ)、鄙(とひと)なるかな、古丸狐(きつね)の虎の皮を借る勢(いきほひ)を用(もちゐ)て、理(みち)にあらずして政(まつりごと)を為(おこな)ひ、悪しき報(むくい)を受くることは、因果(いんぐわ)を睠(かへりみ)ざる賤(いや)しき心の太(いと)甚(はなはだ)しきなり。因果無きにあらず。〕(新大系本)
嗚呼鄙哉 古丸 用于狐借虎皮之勢 非理爲政 受惡報者 不睠因果之賤心 太甚也 非無因果也〔嗚呼(ああ)、鄙(とひと)ナルカナ、古丸、狐が虎の皮を借る勢を用(も)て、非理に政を為し、悪報を受けしは、因果を睠(かへり)み不(ざ)る賤しき心の、太(イト)甚(はなは)だしきなり。因果無きに非ざるなり。〕(旧大系本)(古典全書本ほぼ同)
嗚呼鄙哉、古丸。用于狐借虎皮之勢、非理爲政、受悪報者。不睠因果之賎心、太甚也。非無因果也。〔嗚呼(ああ)鄙(とひと)ナルカナ、古丸。狐の虎の皮を借る勢を用(も)て、非理に政を為し、悪報を受くと者(い)へり。因果を睠(かへり)みぬ賤しき心の、太(イト)甚(はなは)だしきなり。因果無きにはあらぬなりけり。〕(古典全集本)(新潮集成本ほぼ同)
と、それぞれ分かれている解釈だが、最大の分岐点は、「鄙哉」はその意味上、本文のその後のどこまでに係わっているのか、というところである。
 短文の意味からすると、それを前半と後半との二つに分けられる。前半は古丸が役人としての職権を濫用して、非道な政治を為したこと、そして、後半は、悪報を受けたのは、賤しい心をあまり持ちすぎて因果のことを顧みられなくなったからで、因果の道理が元々ないわけはないということを述べている。それで「鄙哉」は、卑しい行為への感歎の表現として、まず第一次的な意味で前半に係わっていることも自明であろう。後半は「〜者は、〜也、〜也」という判断の句形で、「賤心」と「悪報・因果」との関係を説明する。それは第二次的な意味で前半部分と連絡している(図1)。
しかし、上に列挙した新旧大系などの訓読文では、ともに「嗚呼鄙哉」から「太甚也」までは意味上の一区切りとされる。(図2)、そして古典文学全集本と新潮集成本では、「鄙哉」から「古丸」までは意味上の一区切りとされる。両方共には、短文の前半と後半との意味関係に混乱を生じさせた(図3)。それぞれ図式すると、以下のとおりである。
それらを整理すると、次のようになる。
図1は、ああ、卑しいことだ、古丸が役人の職権を濫用して非道な政治を為したのは。その悪報を受けたのは、正にそのような、因果を顧みない賤しい心の甚だしさによってである。しかし、因果の道理のない訳はないよ。
図2は、ああ、卑しいことだ。古丸が役人の職権を濫用して非道な政治を為し、その悪報を受けたのは、因果を顧みない賤しい心の甚だしさによったものである。しかし、因果の道理のない訳はない。
図3は、ああ、卑しいことだ、古丸。役人の職権を濫用して非道な政治を為し、悪報を受けたと言われている。因果を顧みない賤しい心の甚だしいものである。因果の道理のない訳はない。
何が卑しいことか、と言うと、図1では、それが非道の政治を為したこと。図2では、それに対応するものは遂に見付からなかった。図3では、古丸が卑しいことだ、というものの、それ以後の文脈が遂に混乱が生じその意味を読み取れなくなったのである。
以上の数例から分かるように、原文の句読点の付け方の如何は、直接に訓読を正しく読めるかどうかを定めている。『日本霊異記』を正しく読むには、原典の深い読みが求められる。勿論、たとえ正しく句読点を付けたとしても、ぴったりとその原文を訓読できるとは限らない。ここでは、漢文に対する理解上の誤読の事例を少し見てみよう。
上例にみる一句であるが、「天皇勸請善珠大徳爲講師、請施皎僧頭爲讀師、於平城宮野寺備大法會、爲講讀件經、贈福救彼靈之苦也。」即ち、「物部古丸」(モノノベコマル)のことを聞いて、天皇が哀れに思って、高僧を勧請し、奈良の宮の野寺に大法会を設けて、彼のために件の法華経を講読せしめ、福を贈ってその魂の苦を救う、というのである。ここの「為」は、目的を表す「ため」の意で、即ち「為〈彼〉講讀件經」というべきであるが、新大系以外のテキストは、殆どは「件の経を講読することを為し」と読んで、動詞「為す」の意味として理解されている。それは明らかな誤読であろう。
其時有塔木、未造淹仆伏而朽。(下巻 28)
いまだ造らずして、淹(ひさ)しく仆(たふ)れて伏(ふ)して朽(く)つ。(新大系)
未(いま)だ造らずして、淹(ひさ)しく仆(たふ)れ伏して朽ちたり。(旧大系)
旧大系の頭注では、「ながい間倒れたままで腐っていた」、古典文学全集頭注では「長い間倒れていて」とあるように、すべては「仆」の連用修飾として解釈している。しかし、 「淹」は、ここで「遅滞」の意味で、「未造」と関係して「未造淹」と一つの纏った意味になるべきであろう。同じような意味で使われた例には、下巻第8話にも見られる(「発願未写、而淹歴年」)。よって、この一句は、「其時有塔木、未造淹、仆伏而朽。」(未だ造らずして淹しければ、仆れて伏して朽ちたり)、というふうに読むべきであろう。

怨病嬰身、頸生癭肉、疽如大苽(あしき病身に嬰(かか)り、頸に癭肉(くびのあましし)を生(な)り、疽(は)れたること大(おほき)なる苽(うり)の如し。)(下巻 34)(新大系)
怨病嬰身 頸生癭肉疽 如大苽(怨病身に嬰(かか)り、頸に癭肉疽(やうにくそ)を生じ、大苽(うり)の如し。「旧体系」
「疽」は名詞なので、旧大系のように「癭」と「肉疽」を一つにして読むべきであろう。)

今幸逢嘉時、盍申所思、伏願、蒙尊芳慈、欲畢聖像、(今幸(さきはひ)に嘉(よ)き時に逢ふ。盍(いかに)して思ふ所を申さむ。伏(ふ)して願はくは、尊(きみ)の芳(よ)き慈(うつくしび)を蒙(かがふ)りて聖(ひじり)の像を畢(を)へむと欲(おも)ふ。)(下巻 30)(新大系)
命幸逢嘉時 盍申所思 伏願蒙尊芳慈 欲畢聖像(今幸に嘉(よ)き時に逢ひ、盍(イカニシ)テか思ふ所を申さむ。伏して願はくは、尊(みこと)の芳慈を蒙(かがふ)り、聖像を畢へむと欲ふ。)(旧大系。古典全集・新潮集成も同)
以上の各注釈によっては、その前なる「今幸逢嘉時」とはなかなか文意が合えないものになってしまう。実は、ここでの「盍」は、「何不」の音が詰まって一字で表された反語で、勧誘・同意を求める意(「なんぞ〜ざる」)を表すもの。つまり、今、幸いに良い時に逢って、何で思ふところを申さないか。との意。早くも『日本霊異記考証』では「盍 ヌテ也。疑何不也之偽」と指摘している。古典全書所収本と『日本国現報善悪霊異記校注』では、それぞれに、「いづくにぞ思ふ所を申(の)べざらむ」、「盍(いかで)か思ふ所を申さざらん」と、正しく読んでいるのである。

故定知、大乘神咒奇異之力、病人行者積功之徳。無縁大悲、至感之者、播於異形。無相妙智、深信之者、呈於明色者。其斯謂之矣。(下巻 34)
無縁(むえん)の大悲(だいひ)を至りて感(かがふ)る者(ひと)は、異(あや)しき形を播(す)てむ。無相(むさう)の妙智(めうち)を深く信(うやま)ふ者(ひと)は、明(あきらか)なる色(かたち)を呈(あらは)さむ」といふは、其(そ)れ斯(こ)れを謂(い)ふなり。(新大系)
無縁の大悲は、至感の者に、異形(いぎやう)を播(ホドコ)ス、無相の妙智は、深信の者に、明色(みやうしき)を呈(あらは)すとは、其(そ)れ斯(こ)れを謂ふなり。(旧大系)
ここの「者」は、「則」と同じように仮定の条件を表すべきである。私案として次のように試みた。
無縁の大悲は、之れを至りて感ぜば、異形(いぎやう)を播(ホドコ)ス、無相の妙智は、之れを深く信ぜば、明色(みやうしき)を呈(あらは)すとは、其(そ)れ斯(こ)れを謂ふなり。
つまり、「異形」を播したり「明色」を呈したりしたのは、「無縁大悲」と「無相妙智」であり、それを感じたり信じたりした人ではない、ということが明らかであろう。

徐就見之、其沙彌前有長二丈許廣一丈許板札、於彼札者一丈七尺與一丈印也。景戒見之、問、斯是修上品與下品善功徳人之身印耶、答、唯然也。(下巻 38)
彼(そ)の札には一丈七尺と一丈とを印(しる)すなり。景戒見て問ひていはく、斯(こ)れは是(こ)れ上品と下品との善き功徳を修ふ人の身を印(しる)すや」といへば、答へていはく、「唯然(しか)り」とい。(新大系)
其(そ)の沙彌の前に、長さ二丈許(ばかり)、廣さ一尺許の板の札(フミタ)有(あ)り。彼(そ)の札に一丈七尺と一丈との印(しるし)を著く。景戒見て問ふ「斯(こ)は是(こ)れ上品と下品との善功徳を修する人の身の印(しるし)なりや」といふ。答ふらく「唯然(しか)り」といふ。 (旧大系)
「者」とは「著」の誤写かと思う。「印」の前の部分はそれの大きさを表す内容だし、「印」は明らかに名詞の「しるし」と取るべきであろう。旧大系の方がよいかと思う。
下巻・漂流大海敬稱尺迦佛名得全命縁第廿五
白壁天皇世寶龜六年乙卯夏六月十六日、天卒吹強風、降暴雨、潮漲大水、流出離木。萬侶朝臣遣于駈使、取於流木。長男小男二人、取木編桴乘於同桴、拒逆而往。水甚荒急、絶繩解栰、過潮入海。二人各得一木以乘、漂流於海。二人無知、唯稱誦南無々量災難令解脱尺迦牟尼佛、哭叫不息。其小男者、逕之五日、其日夕時、淡路國南西田町野浦燒鹽之人住處僅依伯也。長男馬養、後六日寅卯時、同處依泊也。
(注)
白壁の天皇のみ世、寶龜六年乙卯(きのとう)の夏六月十六日、天卒(にはか)に強き風吹き、暴(あら)き雨降り、潮(みなと)に大水漲(タダヨ)ヒテ、雜(くさぐさ)の木を流し出す。萬侶の朝臣、駈使(おひつかひ)に遣りて、流るる木を取らしむ。長男・小男の二人、木を取りて桴(イカダ)に編み、同じ桴に乘りて、拒逆(こぎやく)して往く。水甚(はなは)だ荒くて、忽(たちまち)に繩を絶ち栰(イカダ)を解き、潮(みなと)を過ぎて海に入る。二人各一つの木を得て、乘りて海に漂ひ流る。二人無知にして、唯(ただ)「南無、無量災難を解脱(げだち)せ令(し)めよ、尺迦牟尼佛」と稱誦し、哭き叫びて息(や)ま不(ず)。(旧大系)
傍線部の「二人無知」について、新大系本にも旧大系本にも解釈なし。古典全集本頭注には、「なすべき方法もなく」、新潮集成本その頭注には、「釈迦仏を称名するほか何も知らない。無知なるがゆえに、二人の信心がより純粋で強靭であることが強調される」、ちくま学芸文庫本には、「二人は仏教の本質をわきまえていたわけではないが」とある。『今昔物語集』巻第十二第十四話の本文では、「然レドモ、二ノ人互ニ知ル事無シ。」とあり、それについて新大系本『今昔物語集』の脚注には、「二人は互いにもう一人がどうなったか知るよしもなかった。」と解釈している。本話での文脈からすれば、『今昔物語集』本文の取り方がより合理的ではなかろうか。
下巻・殺生物命結怨作狐狗互相報縁第二
   新大系本
嗚呼惟也、怨報不朽、何以故、毗瑠璃王、報過去怨、而殺釈衆九千九百九十万人、以怨報怨、々猶不滅、如車輪転、1若有人能学忍辱時、見怨人者、爲我恩師、不報彼怨、以之爲忍、是故怨者、即忍之師、所以書伝云、2若不罵忍、心危打殺其母者、其斯謂之矣、 (嗚呼(あ)惟(おもひみ)れば、怨(うらみ)の報(むくい)朽ちず。何を以(も)ちての故に。毗瑠璃王(びるりわう)、過去の怨(あた)を報いて、釈衆(しゃくしゅ)九千九百九十万人を殺す。怨(うらみ)を以(も)ちて怨(うらみ)を報ゆ。怨(うらみ)なほし滅びず、車の輪の轉(めぐ)るが如し。もし有(あ)る人能く忍辱(にんにく)を学ぶる時に、怨(うら)むる人を見ば、我が恩(めぐみ)の師とせよ。彼(そ)の怨(うらみ)を報いず、之(こ)れを以ちて忍(にん)とせよ。是(こ)の故に、怨(うらみ)はすなはち忍(にん)の師なり。所以(このゆゑ)に書伝に云はく「もし罵(のること)を忍びずは、心危(あやふ)くして其の母をすら打殺さむ」といふは、其(そ)れ斯(こ)れを謂(い)ふなり。)
   旧大系本
嗚呼惟也 怨報不朽 何以故 毗瑠璃王 報過去怨而殺釋衆九千九百九十萬人 以怨報々々猶不滅 如車輪轉 若有人 能發忍脣 時見怨人者爲我恩師 不報彼怨 以之爲忍 是故怨者即忍之師 所以書傳云 若不買忍心 凡打殺其母者 其斯謂之矣(嗚呼(ああ)惟(おも)ふに、怨(をん)報朽ち不(ず)。何を以(も)ての故にとならば、毗瑠璃王(ひるりわう)、過去の怨(あた)を報いて、釋衆九千九百九十萬人を殺す。怨(あた)を以(も)て怨(あた)に報ゆれば、怨(あた)猶(なほ)滅び不(ず)、車輪の轉ずるが如し。若(も)し人有(あ)りて、能く忍辱(にんにく)を發(おこ)し、時に怨人(あたびと)を見れば、我が恩師とし、彼(そ)の怨(あた)を報い不(ざ)るは、之(こ)れを忍(にん)とす。是(こ)の故に、怨(あた)は即(すなは)ち忍(にん)の師なり。所以(このゆゑ)に書傳に云はく「若し忍の心を買は不(ず)は、凡(おほよ)そ其(そ)の母を打ち殺さむ」といふは、其(そ)れ斯(こ)れを謂(い)ふなり。)
新古典文学大系本の本文作成に用いた底本は、上巻は興福寺本、中巻は来迎院本(冒頭より序の末尾まで)と真福寺本(右以外)、下巻は前田家本(冒頭より序の末尾まで)と真福寺本(右以外)とされている。旧大系本は、同じく上巻は興福寺本、中巻と下巻は真福寺本を底本としている。その対校本には、新大系本に用いられた来迎院本が、旧大系本本文作成の当時にまだ発見されなくて利用できなかったほか、両方ともに前田家本(下巻のみ)、国会図書館本などを使用しているのである。
上に示している本文は下巻第二話の後半部で、線で示している1と2は、新大系本の作成の本文である。以下は、底本(真福寺本)、旧大系本などと対照しながらそれを検討してみる。
1 「若有人能学忍辱時」(新大系本) 校記 学忍辱(来国)−発忍脣
  「若有人能發忍脣」(旧大系)   校記 脣 国類「辱」(考「依高野本改」)
2 若不罵忍 心危打殺其母者(新) 校記 罵−買  危(国)−凡
  若不買忍心、凡打殺其母者(旧) 校記 なし
新大系の1の校記で分かるように、「学」は来迎院本と国会図書館本によって底本を改めたものである。旧大系は底本通りに翻刻する方針を採っているため、「学」にあたるところの「發」をそのままにして、ただ「脣」を国会図書館本などで対校しているのである。その前後の文脈からすれば、ここの「忍辱」とは「忍辱之心」という意味らしく、それで「学」より「發」を保留したほうがよいのではないかと思われる。なお、草書の「学」と「發」の字形が近い。
それより、2 には大きな問題がある。新大系2の校記からしては、「罵」という一字は、校注者が底本の「買」によって意改したもので、「危」は国会図書館本で改めたものである。しかし、そのように作成された本文はどうであろうか、新大系本のこの文の脚注によれば、他人に罵詈されることに耐えられないならば、心に不安を生じ殺生の業をつくるであろう。自分の母さえもついに打ち殺すであろう。母からの叱責にさえも耐えられないであろう。いかにも牽強付会の解釈しか言えない。しかも、本文においてこの一句は全文を締め括る働きで引用されているもので、前文にそれと少しも関係のない「罵る」という文言が出る理由はどこにあろうか。だから、新大系の作成したこの文は意味として分かり難いし、前後の文脈にも相通じない。こうした例を、改悪したものと言わざるをえないであろう。
とはいえ、底本そのままの「買」の解釈も納得しがたい。旧大系のほか、日本古典文学全集所収本や新潮日本古典集成所収本、日本古典全書所収本などにも底本どおりにしている。ただ、全集本所附の現代語訳と全書本の頭注には「養う」という意味で訳されている。このようにさっぱり解決できない問題は『日本霊異記』には多く残っている。だから、その原文の研究をさらに一歩進めなければと感じさせられる。
この部分について、昭和 48 年に出された松浦貞俊氏の遺稿『日本国現報善悪霊異記注釈』では、「若し忍心を置かざれば、危うく其の母を打煞さん(高野本ヲ採ル)」とあるように訓んでおり、その注解(16)には、以下のように解釈されている。
その文言、棭斎本の原文には、「若不買忍心、凡打殺其母」に作る。買ノ字の意義定かならず。前田家本は、この所、五十三字を欠く故に参酌するに由なし。「高野本」には、買ノ字を「置」に作り、凡ノ字を「危」に作る。この方、意明らかなれば採り訓む。
「高野本」系統の国会図書館本を見ると、「買」か「置」か、とても微妙な字形で、草書としてそのどれにも読み取れるかと思われる。だから、この場合には、前後の文脈で判断を下すしかできないであろう。松浦氏の読み方はまさにそうなさったのであろう。「置」ならば、「立つ」「立てる」「植える」「具えも受ける」などの意味があって、この文章の意味が明らかに読み取れる。
なお、『竜龕手鏡』(釈行均)において の項目に「新蔵作置、在高僧伝上帙中」とあり、「置」の別字としている。『康熙字典』の同字の項目には「篇海知意、切音置、出高僧伝義缺(解か)」とある。これらの幾つかの資料を合わせ考えれば、やはり「買」を「置」に読むべきであろう。また『康熙字典』によれば、それに「知る」という意味もあるのである。
同様に字形で考えると、以下のような例も検討すべきではないか。
○於是捨海中僧、申手受施行。掾見之、目漂青、面赦然、驚恐而隱(下巻4)
 赦は「赧」の誤写か
○時王挍之不合死期、故更敢返(下巻 35)
 敢は「改」の誤写か
○以天平寶字五年辛丑、怨病嬰身、頸生癭肉疽、如大苽(下巻 34)
 怨は「悪」の誤写か
四 結び
『日本霊異記』についての研究では、そのテキスト整理や漢文訓読などに関しての未解決の問題が尚多くも残っている。それらの問題を解決するには、その原典まで辿らないと通らないものであろう。本書の基礎的な研究として、原典を目指しての重要性をより一層強調したいものである。
( 注 特に説明しない場合には、拙文に使う『日本霊異記』の本文はその旧大系本を底本にして他の諸本と校合し、私に句読点をつけたものである。 )  
 
日本古代の法華経滅罪信仰の形成と民間への浸透

 

『日本霊異記』の法華経滅罪説話群に焦点を当てて
日本における法華経信仰史を辿る時に興味をひかれる事は、時の権力者によって催された法華八講などの盛大な法会や、日本工芸の粋を代表するとも言える豪奢な写経類の後景に隠れるように、庶民によってなされた、ささやかであるが膨大な数にのぼる仏事が営まれていたことである。例えば、細長い木片に『法華経』の経文を書き写し束ねた、夥しい数の柿経(こけらきょう)と呼ばれる写経類のあった事、さらに六十六部または六部とよばれ、写経した(後には印刷された)『法華経』を日本全国66ケ所の寺社に一部ずつ奉納して歩いた一般庶民を含む宗教者たちが、明治4年の太政官布告で禁止されるまで連綿と続いていた事など、歴史学、民俗学などの分野で研究が進められている。罪障消滅、亡親の追善等、仏事を営む人々の祈りが記されたそれらの遺物を目にする時、なぜこれほどまでに『法華経』は滅罪の経として人々の心を引き付けたのか、またこのような法華経関連の庶民の仏事はどこに起源を発するのか、関心は尽きない。
この関心に導かれて、本稿では、日本最古の仏教説話集『日本霊異記(原名:日本国現報善悪霊異記、以下「霊異記」とする)』に採録されている法華経に関する説話を中心として、滅罪思想と法華経信仰に焦点を当てて考察をすすめる事とした。仏教説話は、唱導の方法として主に出家仏教者によって担われ、文字の読めない層も含めた一般の人々を対象として、仏教の民衆化、すなわち仏教が民衆の生活感覚の中で受け入れられて定着されること、さらに、民衆が布施などの実践を行なう事を促す機能を持つ。仏教説話の形成は、人々の生活感覚の中にある在来的、既層的な宗教観念を意識して汲み取り、その思考様式の枠組みを用いて行なわれたのではないか。本論の研究対象の中心となる『霊異記』は、奈良薬師寺の僧である景戒によって平安時代のごく初期に撰述された。景戒は延暦14年に伝燈住位の地位を得ているが、ある時期まで市井にあって妻子を養う私度僧であった点からも、『霊異記』の説話群の持つ位相が推測される。
本論では、まずこの『霊異記』にみえる法華経滅罪説話の分析を通して、奈良時代における民間の法華経信仰が、当時の既層的宗教観念を受容基盤として「滅罪の呪力を持つ経」というあり方で形成されたことを論証したい。その上で、鎮護国家の経としての法華経信仰から発展し、滅罪の経として法華経信仰が民衆に浸透していった事について、奈良時代、特に天平年間の政治的、社会的な時代背景の分析と共に検討を加えたい。  
T.日本的改変としての法華経滅罪説話
本節では、この『霊異記』の法華経滅罪説話の特徴を明らかにするために、まず、これに先行して撰述された中国の仏教説話集である『冥報記』に収録されている説話を説話分析のための比較対象として用いることとする。
『冥報記』は唐代初期に、吏部尚書であった唐臨(−650−655−)が民間に口承されている説話を撰述したものであり、当時の民間でおこなわれた仏教信仰のあり方をよくあらわしている。この説話集の編纂意図はその自序にある通り、現世における善悪の行為とその結果の実例をあげて、仏法に従うべきであることを示すところにある。『霊異記』の上巻序文にも言及されているように、『冥報記』のこの善悪による因果応報観は『霊異記』の撰述にも強い影響を与え、また実際に『霊異記』に収録されているいくつかの説話はこの『冥報記』の説話から題材を採集し、日本の説話として改変されたものと考えられている。
1 『霊異記』における『法華経』と滅罪思想の結合
さて、『霊異記』の説話にあらわれる経典で、もっとも高い頻度をもってあらわれるのが『法華経』であり、その数は24話にのぼる。(これ以降、『法華経』の語があらわれる説話を「法華経関連説話」とする。)同じ事は『冥報記』にも言える。『冥報記』の法華経関連説話は11話数えられ、他の経典に比べて最も高い頻度であらわれている。さらに、それぞれの説話集の全話数に対する法華経関連説話の割合を調べると、ともに約20%にのぼり、両書ともに法華経関連説話が大きな部分を占めている点で違いは見られない。
しかし、川口恵隆氏、増尾聡哉氏、中村史氏などの研究ですでに明らかにされているとおり、『霊異記』の法華経関連説話の多くは滅罪思想の傾向性をもっている。この点に関して『冥報記』の法華経関連説話と比較すると、その違いは歴然としたものがある。
まず、両書の法華経関連説話の中から、「罪」、または何らかの罪の結果による「苦」や「災難」に関わるエピソードをもつ説話グループを「法華経滅罪説話群」とする。したがってこの中には、『法華経』によって滅罪するエピソードと、法華経誦経者等への誹謗の罪のために罰を受けるエピソードが入っている。ここで、両書の法華経滅罪説話群を抜き出して、法華経関連説話の総数との割合を見てみたい。
『霊異記』:上11、15、18、19、中6、15、18 下6、9、13、18、19、20、22、24、29、35、3613)、37
法華経滅罪説話群話数19話 法華経関連説話総数24話 割合79%(説話総数116話 割合16%)
『冥報記』:12(中2)、34(下5)、29(中19)<前田家本の説話番号、()内は大正大蔵経収録の高山寺本説話番号>
法華経滅罪説話群話数3話 法華経関連説話総数11話 割合27%(説話総数56話割合5%)
上記のように、法華経関連説話総数の内、法華経滅罪説話群が占める割合を『霊異記』『冥報記』で比べると、『霊異記』の方にはるかに高い割合で法華経滅罪説話群があらわれている事が分かる。(それぞれの全説話数に対しての割合も、両書間で同様に三倍弱の違いがある。)
ただし、この法華経滅罪説話群の割合の違いから、『霊異記』の全体的な傾向として『冥報記』よりも滅罪思想が濃厚であると考えることはできない。これは以下の調査によって論証できる。
『法華経』関連であるか否かに関わることなく、「罪」、および「罪」に準じる内容の語(咎、科など)を用いる説話を『霊異記』『冥報記』からそれぞれ取り上げ、それらの中からさらに滅罪のエピソード、すなわち仏教行為によって『罪(または咎など)』を滅するエピソード、および何らかの罪で罰を受けるエピソードを持つ説話(「滅罪説話」とする)を抽出すると以下のようになる。
『霊異記』滅罪説話:上10、11、30、中1、3、5、7、9、15、16、24、38、下6、14、16、22、23、24、26、33、34、35、36、37、38
滅罪説話 話数 25話 説話総数 116話 割合22%
『冥報記』滅罪説話:2(上2)、12(中2)、18(中10)、26(-)、29(中19)、31(下2)、33(下4)、34(下5)、43(下13)、46(下15)、49(下19)、50(-)、52(-)、53(下21)、54(下23)
滅罪説話 話数 15話 説話総数 56話  割合27%
罪などの語があらわれる説話の中で、滅罪のエピソードを持つ説話が両書の総話数に占める割合を見ると、『霊異記』は22%、『冥報記』も27%と、かえって『冥報記』の方がわずかに高い割合を示している。このことから、滅罪という点に関してのみ見るならば、『霊異記』『冥報記』ともに同様な重要度の関心を払っていると考えてよいだろう。
以上の調査から、『霊異記』において『冥報記』と特徴的に異なっている点を考察すると、『法華経』と滅罪に関わるエピソードが顕著に結びついているという点に求められよう。『冥報記』においても滅罪のエピソードは重要な要素であったことは上記に見た通りである。しかし、そこでは『法華経』と滅罪との強い結びつきはあらわれていない。その結びつき、すなわち滅罪に基づいた法華経関連説話が始めて顕著にあらわれているのが『霊異記』なのである。
さて、法華経滅罪説話群は、上記で簡単に触れたが、さらに大きく二種類にわけられる。まず一つは、前述の諸氏が指摘されたところの『法華経』による滅罪譚、すなわち「自己、または家族などの犯した罪を滅するためになんらかの法華経に関する仏教行為を自らが行う、もしくは他に行わせる」というモチーフである。
『霊異記』:上11、18、中6、15、下6、9、13、22、24、35、36、37。
『冥報記』:12(中2)、29(中19)、34(下5)。
もう一つは、「『法華経』誦経者等を誹謗する者に対する(護法神による)刑罰としての悪報」のモチーフである。
『霊異記』:上15、19、中18 下18、19、20、29。
『冥報記』:無し。
本稿では、第一のモチーフを「法華滅罪譚」とし、第二のモチーフを「護法刑罰譚」と称することとする。
次項では、『霊異記』のいくつかの法華滅罪譚に焦点を絞り、その原拠と見られる『冥報記』説話との比較を行ないたい。この比較作業により、いくつかの『霊異記』説話が、『冥報記』の説話を素材としつつ、法華滅罪譚として改変されているケースが見られることを調査する。(後者のモチーフ「護法刑罰譚」は『冥報記』にその類話を見ない事から、このモチーフの分析については第二節において行なう事とする。)
2 『霊異記』における法華滅罪譚のリエンジニアリング
『霊異記』にはある役夫が鉄山で作業中に生埋めになるという説話がある。これと類似のモチーフを持つ説話が『冥報記』にある事から、この両話の説話要素を抽出して比較してみたい。

『冥報記』:第8話(上8)              『霊異記』:下巻13話
東魏の末/下                   帝姫阿倍天皇の御代/美作の国、英多郡
a、一人の男が銀山の穴で生き埋めになった。    a、一人の役夫が鉄山の穴で生き埋めになった。
b、その父がある僧へ一鉢の斎食を行なう。     b、その妻子が観音像を図絵、写経し、福力を追贈。
c、僧はそれを食してから呪願して去る。      c、(無し)
d、生埋めになった男は一心に仏を念ずる      d、役夫は、法華経写経の願を果たすことを願う。
e、小さな穴から一人の沙門があらわれ、      e、小さな穴から一人の沙門があらわれ、
  一鉢の飯を男に与える。              鉢にごちそうを盛って飯を男に与える。
f、人夫はそれ以来飢えず、10数年後発見される。  f、その穴が大きくなり、役夫は発見救出される。
g、父母とも喜び、以来門を塞いで練行する。    g、救出された男の願をきいた国司が知識
                           を引率し、法華経を造り、供養する。
h、(撰者による評語:無し)            h、「法華の神力、観音の贔屓」
 
まず、この2つの説話の説話要素が酷似している点から、『霊異記』下巻13話が『冥報記』第8話を原拠に形成されたことが推定される。その上で、『霊異記』説話における日本的変容の顕著な特徴は、『法華経』に無関係の説話である『冥報記』第8話を、「法華経信仰により生埋めという災難からのがれる」という説話に変換している点にみられる。ここでの法華経信仰とは、観音像の図絵、法華経の写経、そして写経の発願といえる。このことから、『霊異記』下巻13話の変換をおこなった仏教者(たち)は、『冥報記』第8話の説話の舞台を日本の美作の国、英多郡にうつしかえるとともに、その説話が担うメッセージを、「僧への斎食がおこした奇跡」から「法華経と観音によって災難をのがれる話」、すなわち法華滅罪譚へと変換したことは明らかである。また、この『霊異記』説話での法華経信仰が、役夫の写経の発願、その妻子の造図、写経、さらに国司に率いられた知識による写経、供養と、何段にもわたって強調されている点から、この変換は法華経信仰強調の意図を持って行なわれたと推測される。そこで本稿では、『霊異記』説話において以上のように、法華経信仰による滅罪を強調する意図を持って行なわれたと推測される法華滅罪譚への変換を、「リエンジニアリング」の語を用いて示すこととする。
次に、『冥報記』の食卵の因によって悪報を受ける説話モチーフについて、『霊異記』に見られる二つの説話との比較をしてみたい。

『冥報記』第38話(下8)       『霊異記』中巻10話       『霊異記』上巻11話
(隋代開皇初/翼州)        (天平勝宝6年/和泉国)     (年代記述無し/播磨国)
a、卵を常食する少年       a、卵を常食する若者      a、漁夫
b、桑田             b、麦畑            b、桑林
c、炎火の城と見て喚いて走り回る c、火の山と見て喚いて走り回る c、「炎火身に迫る」と叫び喚く。
d、父に呼ばれ助けられる     d、薪取りの村人に助けられる  d、親が、夏安居で法華経を講説                  
                                  する僧を請じ、咒をして免れ
                                  させる
e、脛から上の血肉が乾き、    e、脛肉が焼けただれ、     e、はいていた袴を焼く
  膝下は遂に骨のみとなる      骨のみ残るが、やがて死ぬ
f、村の男女は皆持戒練行する。  f、(無し)           f、漁夫は行者のいる寺で罪を懺
                                  悔し、衣服などを布施して誦
                                  経をしてもらう
 

『霊異記』中巻10話は、冥報記第38話と比べると、いくつかの相違があるが、基本的に冥報記説話を原拠として形成された説話と言える。その一方、『霊異記』上巻11話では、さきの中巻10話と同じように、その主要なプロット、「殺生をするものが生きながら地獄の炎に焼かれる」において『冥報記』説話との類似性を示し、その引用関係も推測できるものの、『冥報記』第38話には見られない説話要素が混入していることに注意しなければならない。その挿入された説話要素とはやはり「法華経による滅罪」に関係している。dで漁夫の親から勧請された僧は、夏安居で法華経の講説を行なっていたとの記述があり、漁夫が救われたのちに懺悔のために誦経してもらった経が『法華経』と考えることは自然であろう。また、「夏安居」という伝統的仏教行事そのものが、その行事の最終日七月十五日において懺悔という宗教行為を伴っていることも注意される。この懺悔という宗教行為が「法華経による滅罪」というモチーフとともに連想されることはまた、極めて自然なことであろう。この『霊異記』中巻10話も、法華経関連説話ではない『冥報記』の説話を用いて、法華滅罪譚へとリエンジニアリングをした説話である事が分かる。
さて、以下の説話は共に法華経関連説話であるが、ここでも『霊異記』説話は興味深いポイントを提供してくれる。

『冥報記』第24話(中1)           『霊異記』上巻18話
(隋 開皇中/魏州)             (年代記述無し/大和葛木の上の郡)
a、魏州刺史縛陵 崔産武          a、丹治比氏/法華経持経の人
b、法華経第7巻の末尾を記憶できない    b、法華経の1文字のみ記憶できない
c、(無し)                 c、観音悔過する
d、地方巡視の際訪れた村が自分の前世に   d、夢に人があらわれ、この持経の人の前世が
  住んでいた村であることを思い出す      伊予国別郡日下部の猿の子であることを示す
e、前世の家で、第7巻の末尾が燃えて文字が e、前世の家で、憶えられない1文字の部分が焼けている
  読めなくなっている『法華経』の経凾を見  『法華経』の経巻を見つける
  つける(生前、読経に用いていたもの)     (生前、読経に用いていたもの)
f、(無し)                 f、懺悔して、経巻の修繕をすると、
                        その1文字を憶えられるようになる
g、その家の主人(前世での夫)に、衣物など  g、前世での父にも孝養を尽くす
  を贈る
h、(撰者による評語:無し)         h、「法花の威神、観音の験力」
 

まず、『冥報記』第24話のプロット、「『法華経』のある特定の部分を記憶できない理由は、前世に読んでいた経巻になんらかの問題がおこったためであった」は、『霊異記』上巻18話に基本的に踏襲されている。しかし、以下の2点においてこの『霊異記』説話は、『冥報記』類話と重要な違いを見せている。
1、『法華経』の一文字を記憶できないことを罪と捉え、観音悔過をおこなったこと。
2、悔過、懺悔による「法華経の威神、観音の験力」によって、過去の罪を修正したこと。
悔過とは、仏前に懺悔し、罪を免れることを求める仏事儀礼を指し、日本の奈良時代頃までこの呼称で呼ばれた。中国の『冥報記』では、日本の「悔過」に当たる仏事儀礼は「懺悔」「懺礼」等と表現されている。しかし、この『冥報記』第24話では、懺悔等の語彙が使われていないだけでなく、滅罪の思想はこの説話内容に全くあらわれていない。すなわち、滅罪の思想とは無関係であったこの『冥報記』の法華経関連説話を、『霊異記』上巻18話では観音悔過を基軸とした法華滅罪譚へとリエンジニアリングしていることは明白である。この類話比較も『霊異記』の特徴であるところの法華経と滅罪思想の顕著な結合形態を説明するポイントになろう。
また、紙数の関係から、ここでは検討に加えなかったが、『霊異記』中巻15話「法華経を写し奉り、供養することに因りて、母の牛と作る因を顕す縁」も、家族が盗み等の罪のために家畜に転生する説話として『冥報記』第41、43、46、56話と類話関係を持っている。この『霊異記』説話も、『冥報記』にみえる家畜転生のモチーフを用いて、法華滅罪譚としてリエンジニアリングしている例と考えられよう。
以上、『霊異記』の法華滅罪譚は、『冥報記』類話と説話素材のレベルで引用、被引用の関係を持つものの、滅罪思想と『法華経』の結合という点では『冥報記』類話の影響下に成立したものではなく、日本においてリエンジニアリングされた説話であることを検証した。
本節第一項でみたように、『冥報記』と比較して『霊異記』では『法華経』と滅罪思想の結合が数値の上から特徴的に顕著である点、さらに第二項で確認したように、法華滅罪譚のリエンジニアリングが<『法華経』と滅罪思想の結合>という明確な意図を持って行なわれているとしか考えようのない点から、これらの『霊異記』の法華滅罪譚が、偶然の所産として自然発生的に起こったとは考えられない。何らかの必要性があって、『法華経』と滅罪思想が結合し、このような説話のリエンジニアリングが行なわれたと見る方が自然であろう。この必要性の政治的、歴史的背景については第三節で考察する事として、この説話リエンジニアリングの機序、説話とその受容基盤についての社会的、文化的文脈からの考察を次節で行ないたい。 
U、法華経滅罪説話群と既層的宗教観念
1 法華滅罪譚における「供養/布施」の社会的、文化的文脈から見た意義
さて、『霊異記』と『冥報記』の法華滅罪譚をそれぞれ読むと、『霊異記』のそれでは「供養/布施」が各エピソードに頻出するという顕著な特徴がある事に気付く。この特徴を示す説話番号と、その法華滅罪譚の特徴をここで一覧にして、『冥報記』の法華滅罪譚との比較を試みたい。
上11 漁夫の(殺生の)罪/衣服等を布施して寺の僧たちに誦経せしむ
中15 亡母の盗みの罪/法服を師に布施し功徳を修する
下6 (師を疑った)罪/大檀越となり供養
下9 亡妻の苦/法華経を写し講読し供養
下13 役夫の「生埋め」の災/観音像を図絵し(法華経を)写経+知識を引率して法華経を造り供養
下22 私出挙で不当に利益を得た罪/(法華経を)講読し供養
下24 出家の修行を妨害した罪/法華経の誦経を依頼、僧に供養するために知識に入る
下35 非理の政をした罪/天皇が知識を率いて法華経講読の法会
下37 官人の罪/妻子による法華経を書写し供養
『冥報記』
12(中2)同道の僧の罪/法華経書写(供養の記述無し)
34(下5)ある富豪の罪/家人による法華経書写、造像(供養の記述無し)
29(中19)ある役人(罪は無し)/生前斎講に施し、法華経を誦経した功徳で蘇生
『霊異記』の法華滅罪譚は計12話を数えたが、そのうち上記のように9話(75%)までが布施/供養を記述している。これらの「布施/供養」は、下9話、下13話を除き、すべて罪に対応している。下9話では「苦」とのみあり、また下13話も「生埋め」とあるのみで、罪の語は見えない。しかし、下9話の苦も下13話の生埋めの災難も、ともになんらかの罪の結果としての報いであり、他の説話群と同じようにそこでなされる供養はその罪に対応し、その償い、賠償としての志向性を持つものと言える。
これに対して、『冥報記』の法華滅罪譚の計3話のうち、布施/供養に関する記述として第29話の「斎講ヘの施」が1例見えるにとどまる。しかしこの記述は、主人公、李山龍が生前に布施と誦経の福をすでに積んでいたので蘇生を許された、という文脈の中で語られるものであり、そこに主人公が生前犯した罪の記述はなく、斎講への施しが罪に対応する償いであるとする意識は薄い。
ただし、『冥報記』の説話すべてにわたって、滅罪のための供養/布施の現れが薄いかというと、そうではない。『冥報記』『霊異記』の全説話から、法華経関連説話であるかどうかを問わず「滅罪(追福)行為としての供養の実践」を抽出すると、『冥報記』が6話、『霊異記』で16話となる。それぞれの全話数における割合をだすと、『冥報記』11%『霊異記』14%となり、両書においてほぼ同じ割合で滅罪のための供養/布施があらわれていることがわかる。これに対して、『冥報記』における「滅罪のための供養の実践」全6話のうち、法華経に関連する説話は1話、17%に限られるのに対して、『霊異記』では「滅罪行為としての供養の実践」全16話のうちで、法華滅罪譚が占める割合は計9話、56%にのぼっている。しかも『冥報記』の1話とは、前述した第29話で、「罪」に対応する性格が薄いと考えられる例なのである。このことは、すなわち、『冥報記』では「滅罪のための供養の実践」は『霊異記』と同じ程度に重視されているが、『法華経』との結びつきにおいては特別な意識がもたれていたわけではなかった事を示すとともに、それに対する『霊異記』においては「供養/布施」としてなされる行為は、法華滅罪譚と顕著な結びつきをもっていることが推測される。
さて、『霊異記』法華滅罪譚におけるこの供養に対する強い志向性に関して、下巻24話は興味深い観点を提供してくれる。この説話では、近江国のある山で修行する僧に対して、白猿の姿をしたタガの神が、自分が神身を受けたのは、過去世東天竺の王であった時に僧侶の従者の数を減らしてその修行を妨げた罪の報いであると述べ、その罪を滅するために『法華経』の読誦を依頼するところから始まっている。注目すべき点は、依頼された僧が「然らば供養を行へ」と神に対して要求し、さらに「この村に籾多(あまた)有り。此を我が供養の料に充てて経を読ま令めよ」とその神に勧め、その上「供養無くは、何すれぞ経を読み奉らむ」と断言していることである。『霊異記』のこの説話は堕落し私利を貪る出家者がモチーフではない点から、この「供養」という要素が、「法華経読誦」という仏事と並列して必要な要件であることを示すエピソードと考えられる。
また、供養/布施が罪に対応し、その償い、賠償としての志向性を持つ、という点に着目すると、下巻9話の説話において、主人公藤原廣足が出産時に死亡した妻のために、法華経書写、講読、供養を行ない、その「苦を贖(あか)ひ祓へき」とした記述が注目される。
この記述で用いられている「祓」の語は、「科祓」、すなわち刑罰として罪を償うという意味をもっていた。『霊異記』編纂とほぼ同時代、延暦20(801)年に発布された太政官符では、様々な罪を4種類にわけ、それぞれに対応する刑罰、つまり「祓」として科された「科物」を示している。最も重い罪である「大祓」の科物の一部をあげると「馬一疋、太刀二口、弓二張、刀子六枚、木綿六斤、麻六反、庸布六反、鍬六口、鹿六枚、猪皮六張、酒六斗、米六斗、稲六束、鮑六斤、堅魚六斤、塩六升、海藻六斤、坏六口、盤六口」など27種類があがっている。
刑法史的に見るならば、この賠償的、財産刑的「祓」の起源は、紀記神話におけるスサノヲノ尊が犯した罪に対しての制裁、「祓具(はらへつもの)」(日本書紀 神代上 第七段一書第二)「千座置戸(ちくらおきと)の解除(はらへ)」(第七段一書第三)の記述に求めらる。また、雄略紀13年3月の条では、采女と関係を持った歯田根命がその罪を責められて、「馬八匹、大刀八口を以て、罪過を祓除(はら)ふ」とある。ここでも、ある物品をもって「祓」「科祓」とし、罪の賠償としていることが伺える。
「祓」のこうした性格は、民間にも深く根付いていたことは、『日本書紀』孝徳紀大化2(646)年3月の「愚俗」矯正令として知られる記事から伺える。その中の一部をあげると、その第8段では、地方へ戻る役夫たちの一人が道中に死亡した場合、その路頭の家人達がその仲間の役夫に対して「祓除(はらへ)」を要求すること、第9段では、役夫の一人が川で溺れ死んだ場合、また、第10段では路頭で炊飯をした場合、それぞれ同上の要求がされることなどをあげ、そうした習俗を禁止している。ここで「祓除」とあるのは、宗教的贖罪儀礼としての「祓除」に必要な経費であり、賠償金としての性格を持つものと考えられる。こうした習俗が、当時の人々によってすでに広く共有されていた宗教的観念(本稿ではこれを「既層的宗教観念」とする)と深く結びついたものである事はいうまでもない。この既層的宗教観念こそ、民衆のこれらの風習を下支えるものであり、改廃の詔がでたとはいうものの、そのためにただちに民間から消失するとは考えにくい。
また、「贖(あか)ふ」の語も、「祓除」の一つの手段を意味すると考えられていたとされる。景戒より年長となるが、奈良朝の同時代を生きた官人であり、有名な歌人でもあった大伴家持(717-785)の歌として次のものがある。
酒を造る歌一首
中臣の太祝詞言(ふとのりとごと)言ひ祓へ贖ふ命も誰がために汝れ (万葉集 巻十七 4055番)
これは、「中臣氏の管掌する祝詞(大祓の祝詞のこと)をもって(罪を)祓い、(この酒を捧げて)贖うこの生命は誰のためかと言うと、あなたのためなのです」という内容の歌であるが、ここで神に捧げる酒は罪を祓い、自己の生命を贖うための科物としての役割をもっている。この「祓除」の一手段としての「贖」の意義に関係してさらに言及するならば、律には「贖銅(ぞくどう)」という制度が規定されている。これは元来、ある一定の身分の者が罪を犯した時、財物を差し出すことによって実刑を免れることができるという制度であったが、やがて、罰金刑としての過料、科料と変質してゆく。
以上の検討から、『霊異記』下巻9話で「苦を贖ひ祓へき」とあるのは、亡妻が冥府で受ける苦は罪の結果によるものであるから、その罪を「祓う」ために「贖」う、つまり賠償が必要であり、そこに法華経書写、講説と並んで供養という行為の重要性があったことを示している。すなわち、供養という行為は、社会、文化的枠組みを通して考察するならば、当時の人々によってすでに広く共有されていた既層的宗教観念を受容基盤として受け止められていたと考えられる。したがって「供養/布施」とは、法華経の読誦、講説を僧にしてもらうためになす準備的行為、または僧が行なう仏事に対する対価としての意義を持つ行為というよりも、「罪」そのものに対する賠償的、財産刑的な性質を持った「祓い」「贖い」の意義を持つものとして、法華経の読誦、講説と並列する重要度を持った行為として認識されていたことが推測される。
2 滅罪思想を支える日本古代の精神的土壌としての既層的宗教観念
「祓」「贖」の考察からさらに敷衍するならば、「供養」というポイントにとどまらず、『法華経』による滅罪という思想そのものを、仏教教理的観点からというよりも、説話の成立した社会、文化、歴史的枠組みを通して考える必要性があることが認識される。つまり、社会、文化、歴史的文脈を背景にすることで、当時、このような説話群を享受した人々の精神的土壌を理解することができるのではないか、と考えられるのである。この点で、いち早く重要な指摘をされたのが川口恵隆氏であった。氏の論文「『霊異記』の法華経」は、きわめて短編ながら、氏の幅広い学識に裏付けられた鋭い直感的指摘がいくつもなされている。この中で、川口氏は『霊異記』の時代の人々が滅罪そのものを「あたかも国津罪や天津罪が祓によって消滅するごとく単純になされるという観念」から捉えていたことを指摘し、さらに「(『霊異記』での)法華経がけつして仏教的な意味においての受容ではなくして、古代人の「神」観に、より接近したものであることを知るのである。」と述べている。
氏の言われる「国津罪や天津罪が祓によって消滅する」とはおそらく、『六月の晦の大祓』の祝詞の詞章を念頭に置かれたものであろう。この祝詞では、「千座置戸」にたくさんの物(祓具)を置き、「大中臣」が「天つ祝詞の太祝詞」を宣ることで、8種の天津罪、14種の国津罪のすべては祓われ、「天下の四方には、今日より始めて罪という罪はあらじ」という理想的な状態になることを述べている。14種の国津罪の中には、「病い」や「災い」も含まれている。この祝詞が唱えられる儀式が、6月の晦(つごもり)、そして12月の大晦の日に執り行われる「大祓」である。川口氏が指摘されるように、『霊異記』当時の人々の滅罪の捉え方は、煩悩などの執着を断ち切って解脱するとか、罪空思想など仏教教理の上からの理解の仕方ではなく、大祓の儀式によって全ての罪が悉く無くなるように、災いや苦しみとしてあらわれる罪を祓い、贖い、免れることという理解だったと考えられる。
下巻39話で示される、以下の景戒の評釈的記述部分はこれに関連して興味深い。
「天台智者の甚深の解を得ざるがゆえに災を免るる由を知らずしてその災を受け、災を除く術を推(たづ)ねずして、滅び愁ふることを蒙る」
ここで「災を免るる」「災を除く」の「災」とは、例えば下巻23話に「(寺の)物を(私物として)用いる災、これ我が招ける罪にして、地獄の咎にあらず」とあるように、「罪」と同義である。この記述から、景戒にとって、天台大師の「解」が志向するものが、「罪を免れるための手立て」や「罪を除く方法」を知ること、すなわち「滅罪」と認識されていることが分かる。さらに、このような意義を担う「解」の語に関連して、『霊異記』上巻15話、下巻25話の二つの説話にあらわれる「解脱」の用法を調べると、さらに興味深い点が浮かび上がる。
上巻15話では、乞食する僧を責め立てたために呪縛された愚人が、その僧の観音品の誦経によって呪縛を解かれる事を「即ち解脱することを得たり」と述べている。ここでの解脱とは、僧を迫害した罪に起因する呪縛という災いから解き放されることであり、この意味で滅罪と同義であろう。また、下巻25話では、大海に漂流してしまった二人の男が、「南無、無量災難を解脱せしめよ、尺迦牟尼佛」と称える記述にあらわれる。この用法も上記の例と同じく、解脱を災難としてあらわれたところの罪から逃れることの意味で用いている。
すなわち、下巻39話の「解」や上巻15話、下巻25話の「解脱」は、いわゆるmoksaとしての解脱や悟り/智慧としてではなく、災いや苦しみとしてあらわれる罪から逃れるという滅罪の文脈の中で用いられたものであることが理解される。『霊異記』の滅罪の思想は「仏教思想そのものの受容による人間の罪業の自覚」に基づくものではなく、厄災を罪と同視する既層的宗教観念にかぶさる形で、厄災や罪の祓除とパラレルに「解」、「解脱」の語を置いて滅罪思想を位置付け唱導したのではないか。
繰り返すならば、『霊異記』説話で法華経信仰の目的として強調された滅罪は、仏教教理で示される解脱のように人間存在、精神における宗教的完成といった理念的境地をめざすものではなかった。そこでの滅罪とは、罪の贖いの意義を持つ点で、いわゆる神祇信仰に関連して形成された「祓除」という既層的宗教観念の文脈の中で理解されていたと考えられる。したがって、滅罪に伴って行なわれる供養は祓除に必要な祓具として、また、そこで行なわれる経典の読誦、講説は祓除に際して罪を祓う機能を持つ呪言として称えられる祝詞の如きものとして理解されていたのであろう。
このようにして受容された民間における法華経信仰を一つの地下水脈として考えると、平安末期から中世、さらに近世にかけて庶民によって全国の各地で行なわれた法華経書写の柿経は、その水脈が地上にあらわれたものの一つと考えられはしないだろうか。注目すべき事は、元興寺極楽坊の柿教がその屋根裏から発見されている一方で、各地で多くの柿経が、河川沿いや、遺跡の池跡などから出土していることである。元興寺では柿経が保存されていたことから推し測ると、多くの柿経が河川沿いや池跡から出土していることについて、書写が終わった柿経が遺棄の目的で水辺に捨てられたと考えるのはやや単純ではないか。むしろ、水によって罪穢を浄める在来の習俗、例えば木片で作られた人形(ひとがた)に一撫(なで)一吻(ふき)し自己の罪穢れを移して川などに流す禊祓の儀礼などに結びついたところの、仏教民俗学でとりあげられる「流れ灌頂」など、卒塔婆、経木、地蔵符などを川や池へ流す仏事との関連で捉えるべきであろう。謡曲『鵜飼』などで語られる、『法華経』の各一字をそれぞれ一つの石に書き写し川などに投げ入れる一字一石経の仏事も、同じように上記の仏教民俗学的文脈から理解できよう。
3 護法刑罰譚について
次に、『霊異記』において法華滅罪譚と並んで法華経滅罪説話群を構成するもう一つの説話グループである、護法刑罰譚について考察したい。このグループは「『法華経』誦経/写経/持経者を誹謗する者に対する(護法神による)刑罰としての悪報」がその主なモチーフとなっている。ここに分類される説話を一覧にすると、以下のようになる。
上15 乞食の僧を迫害したために呪縛された男が、その僧の観音品読誦で助かる。
上19 法華経持経者を誹ったために、口が歪む。
中18 法華経誦持の人を嘲ったために、口が歪み悪死する。
下18* 法華経書写の経師が淫行の為に、女とともに悪死する。
下19* 猿聖と呼ばれる法華経読誦の尼をあざけり笑った人が、空から降りた神人によって悪死する。
下20 法華経書写の人を悪口したために、口が歪む。
下29* 子供の作った塔を壊したために、悪死する。
(*印は「護法(神)」の語があらわれている話。)
『霊異記』の護法刑罰譚は以上のように7話にのぼるが、これに対して『冥報記』の法華経関連説話の中では、「『法華経』誦経者等を誹謗する者に対する(護法神による)刑罰としての悪報」をモチーフとする説話は1話もみられない。また、法華経関連説話に限らず、この『冥報記』全説話の中においても「護法神」があらわれていない点を考えると「(護法神によって)法華誹謗者が罰せられる」というコンセプトは、『霊異記』の時点で見るならば、極めて日本的な表出と考えてよいだろう。
これらの点から推定できることは、『法華経』は、「滅罪の呪力を持つ経典であるが、誹るならば厳罰がある」という理解において、『霊異記』で受け止められていたということである。これは「法華経についての、守護的、肯定的威力と攻撃的、否定的威力を兼ね備える存在という理解」と言い換えることができよう。「守護的、肯定的威力と攻撃的、否定的威力を兼ね備える存在という理解」を、上述のように社会的、文化的、歴史的枠組みを通して見るならば、「神祇」いわゆる天神(あまつがみ)および、地祇(くにつがみ)の特徴的な属性である両義性、「和御魂(にぎみたま)/荒御魂(あらみたま)」という宗教的観念を下地においていると考えることが可能である。
和御魂とは神祇の守護的、招福的側面を示し、この属性は、さらに「幸御魂(さきみたま=幸い、豊穣をもたらす神威)」「奇御魂(くしみたま=超自然的な不思議な神威)」に分けて考えられる。逆に、荒御魂は、「荒く猛き神霊(神功紀訓注)」の意味で、神祇の猛々しい神威が祟りとして顕在化する側面を示す。この荒御魂の猛威の顕在化は、特に、その神ヘの対し方、祀り方が適切でない場合に起こる。神に対しての対応を過ったことを理由に、甚大な被害、破滅的な結果が生じた例は、正史に頻出する。『日本書記』にあらわれたいくつかの例をあげると以下のようになる。
(崇神紀5−6年条)疫病が流行し大半の民衆が死亡し、残った多くの者も流浪民となってしまった。この災は大物主神の祀り方が適切でなかったためであり、神が告げた通りに太田田根子を祭官にして祀ったところ、国が平穏になり、五穀豊穣で農民が豊かになった。
(仲哀紀8年−9年および神宮皇后摂政前紀)神が仲哀天皇に新羅征伐を告げるが、天皇はそれを信じなかったために突然の病いによって急逝する。妻である神功皇后は「罪を解(はら)へ過ちを改めて」祈ったところ、その四柱の神々の名前が分かり、教えられた通りにその神々を祭った。また、その教えのままに新羅征伐に成功した。
(履中紀5年条)宗像三神が、その神戸の民の奪われたことを履中天皇へ告げたが、天皇がそれに対して適切な対応をしなかったところ、皇妃が急逝した。「天皇、神の祟(たたり)を治めたまはずして、皇妃を亡(ほろぼ)せることを悔いたまひて」、どのような過ちが神の怒りを招いたのか調べたところ、車持君が宗像三神の神戸を私有していたことが分かった。そこで車持君に「悪解除(あしはらへ)・善解除(よしはらへ)」を負(おほ)せて、長渚崎に出して、祓へ禊(みそ)」ぎをすることを命じた。
以上のように、神の「荒御魂」という側面が顕在する時、疫病が流行して多くの民衆が死んだり、皇妃はもとより、天皇自身ですら亡くなってしまうという事態もあったことが記されている。また、民間の伝承を集成し、中央政府へ提出した各地の『風土記』にも神祇のこうした両義的な属性が種々に描かれている。このように、天神地祇にたいしての適切な対応、祭祀が非常に重要であること、神祇は人々を守護し、豊穣をもたらす反面、対応を誤れば、その「荒御魂」の祟りの猛威によって死もあり得ることを、古代の人々が理解していたことがわかる。
さて、このような「守護的、肯定的威力」と「攻撃的、否定的威力」という神威の両義性を、古代人が有した一つの宗教的観念のパラダイムであるとすると、上記で考察した、『霊異記』における『法華経』に対しての両義的理解が、この宗教観念の枠組みを通して共有されている事が推測される。すなわち、「守護的、肯定的威力」としての『法華経』の「滅罪」の威力は、神祇の「和御魂」に相当するもの、「攻撃的、否定的威力」としての「法華経誦経者等を誹謗する者への厳罰」は、神祇の「荒御魂」に相当するものというように。
もちろん、『法華経』そのものが誹謗者への法罰を強調していることからの帰結として、『霊異記』説話群に護法刑罰譚が顕著にあらわれたとの想定もできようが、前述した通り『冥報記』では法華経に関連する護法刑罰譚が1話もないことから、『霊異記』の護法刑罰譚は経典内容に由来する普遍的な表出の帰結とは言えない。ここで提起したいことは、日本的法華経経巻信仰の受容の一形態として、『霊異記』当時の日本の文化的、社会的思考様式の枠組みを用いて「滅罪の呪力」と「護法譚」の関係が受容されたのではないか、という点である。すなわち、このようにすでに民衆間に存在する宗教的パラダイムを用いて、そのうえに展開する形で『法華経』の威力を唱導したと考えられる事である。逆に言うならば、既層的宗教観念が仏教的装いを持って説話上に発現した例とも言える。すなわち、すでに民衆間に存在する宗教的パラダイムを用いることによって、『法華経』の威力が民衆にとって理解し、受容しやすくなるのであり、さらに言うならば、このような神威こそがまた、民衆が宗教的に求めるものに最もよく答えるものでもあったのではないか。ここにもまた、我々は、このように『法華経』説話をリエンジニアリングしたある種の意図を感じるのである。 
V 国家と仏教者と「語られる仏教」
1 法華経滅罪説話群「法華滅罪譚/護法刑罰譚」の成立時期
法華滅罪譚の特化という点で、その特徴を見せる各説話が設定されている時代に焦点をあわせてみると、法華経信仰に特化してあらわれる滅罪説話は、『霊異記』下巻にほぼ集中しているという点が浮かび上がる。『霊異記』の話順の編纂方針が、年代順を基本としていることから、法華滅罪譚のリエンジニアリングが行なわれた時期をおおまかに措定する事ができる。各法華滅罪譚に記される年代を、説話番号順に一覧にしてみる。
上11  (年代の記載無し)
上18  (年代の記載無し)
中6   「聖武天皇の御代」(724−749)
中15  (年代の記載無し)
下6   「帝姫阿倍天皇」(749−758/764−770)
下9   「帝姫阿倍天皇」「神護景雲2年」(768)
下13  「帝姫阿倍天皇」(749−758/764−770)
下22  「宝亀四年」(773)
下24  「白壁天皇」「宝亀年中」(770−780)
下35  「白壁天皇」(770−782)
下36  「延暦元年頃」(782)
下37  「平城の宮の天皇のみ世」(742−782)
これらの法華滅罪譚12話のうち、四分の三に当たる8話が下巻に集中している事が、まず注目される。このことは、法華滅罪譚というカテゴリーが新しい説話の部類になることを示している。下巻37話はかなり幅のある年代になっているが、これは死後黄泉で罪報に苦しむ登場人物が、その在世中宮廷に仕えていた年代を示すものであり、説話自体が設定されている年代は782年以降となる。すなわち、これらの法華滅罪譚は、八世紀中葉以降、具体的には「帝姫阿倍天皇」すなわち孝謙(称徳)天皇の時代、749年以降の設定と考えられる。
では、上巻、中巻に編纂されている法華滅罪譚についてはどう考えるのかと言うと、これらは他の8話とはやや趣を異にしている点に注意しなければならない。まず、上巻11、18話および中巻15話について、それぞれの説話が設定されている年代は説話中に言及されていない。このことはこれら3つの説話が、それぞれ『冥報記』から話材を取材したものであることから、任意に上巻、中巻に入れ込まれたと想定される。また、「聖武天皇の御代」とある中巻6話は(上巻18話とともに)、他の滅罪譚と比べて、「悔過」の用語を用いている点で違いがある。先にあげた川口氏の研究においても、「悔過」の用語を用いた法華滅罪譚が、下巻に集中してあらわれる法華滅罪譚とは、その性格に違いがあると述べている。
次に法華経護法刑罰譚について見たい。以下の一覧は護法刑罰譚が設定されている年代をまとめたものである。
上15  「昔故京の時」
上19  (年代無し)
中18  「天平年中」(729−749)
下18  「宝亀二年」(771)
下19  「宝亀二年」「宝亀六七箇年の此頃」 (771−776または777)
下20  「白壁天皇の御代」 (770−782)
下29  「白壁天皇の御代」 (770−782)
これを一覧すると、上巻19話の年代記述無しの説話、および中巻18話以外の4話は下巻に集中している。(中巻18話で犯された過ちは「法華経誦経者等ヘの誹謗」ではない点で、他の護法刑罰譚とはややその趣を異にしている。)この特徴も、『霊異記』の法華滅罪譚で確認した年代的特徴に対応するものと考えられる。
では、比較のために、『法華経』には関係しないが護法刑罰譚に近似する、すなわち「仏法(者)に敵対したために刑罰としての悪報をうける」というモチーフを持つ『霊異記』説話を参考にみてみたい。
上15  (年代記述無し)乞食の僧を責め脅かした愚人が悪報を受ける。
上27  (年代記述無し)外見のみ沙弥の姿をした男が、仏塔を壊して燃やすなどして悪死。
上29  (年代記述無し)白髪部猪麿が、乞食の僧を責め、その鉢を割って、悪死。
中1   「天平元年」(729)長屋王、乞食の沙弥の頭を打った悪報で自害。
中7   「天平十六年」(744)行基を誹った罪で、智恵第一の智光が地獄で罪苦。
中11  「聖武天皇の御代」(724−749)文忌寸が僧への誹謗と邪淫によって悪死。
中35* 「聖武天皇の御代」(724−749)宇治の王が法師を殴打して、護法神により悪死。
下14  「神護景雲三年」(769)浮浪者を取り締まる役人が、千手の呪を誦持する行者を迫害して悪死。
下15  「帝阿倍の天皇の御代」(749−758/764−770)犬養宿禰真老が乞食する沙弥を殴打して悪死。
下33* 「延暦四年」(785)紀直吉足が、乞食する沙弥を殴打して、護法神により悪死。
この一覧を見ると、『法華経』の関与しない仏法敵対悪報譚は、上巻全3話、中巻全4話、下巻全3話と、年代記述を持たない「昔」とのみ記される時代から延暦年中にいたるまで満遍なくあらわれている。このことは、『法華経』が滅罪思想と結びつくより以前に、仏法敵対悪報譚はポピュラーな教化のモチーフであったことを示していよう。法華滅罪譚が八世紀後半以降に形成されるようになると共に、それと対になる形で、法華経誹謗者に対する悪報というモチーフの護法刑罰譚が形成されていったのではないだろうか。
2 護国経としての『法華経』の地位の確立と、その時代背景
法華経滅罪説話群が749年以降に集中的にあらわれるという点は、すでに増尾氏の「『日本霊異記』における『法華経』の位置について」において既に指摘されている。氏はこの点について、741年の勅をスタートとする「国分尼寺が『法華経滅罪之寺』と名付けられる事によって、滅罪の経典としての捉え方が民間にも浸透していった事の反映が現れているものと考えるべき」と述べている。
この指摘はさらに、勝浦令子氏の論文「法華滅罪之寺と洛陽安国寺法華道場」における所説とも合致している。ここでは勝浦氏はまず、『法華経』の「提婆品」は奈良時代においては流布されていなかったため、「提婆品」は『法華経』と滅罪の結びつきに関与していないことを種々の先行研究に基づいて論証されている。その上で、その結びつきの重要な先例として、「生死の罪を滅する」ための法華懺法(法華三昧)を行ない有名になった唐代洛陽の二人の尼が、712年から尼寺である安国寺に招請され、そこに皇帝の詔によって法華道場が置かれたことに求められている。さらに、勝浦氏はこの情報は天平8年(736)に渡来した僧、道 によってもたらされたと推定され、その情報に基づいて天平19年(741)の詔によってスタートした国分寺システムの一つである国分尼寺が、「国家(天皇)の滅罪」の意義を込めて「法華滅罪之寺」と名付けられたと論証されている。
勝浦氏が考察されたように、『法華経』に滅罪の概念を結びつける思想が、8世紀前半(勝浦氏の所説では736年)に中国から日本へもたらされたものであることを考えると、749年以降を年代設定とした法華滅罪譚が『霊異記』下巻に顕著にあらわれるのも首肯できる。
しかし、『法華経』に焦点をあてて正史、正倉院文書などの歴史的記録を見てみると、一つ疑問として浮かび上がる事がある。それは、推古朝における聖徳太子による『法華経』の講説(606)や『義疏』撰述(615)の記事以降5)、国家の行事として『法華経』が書写、読誦、講説された記事は正史に長い間あらわれる事がなく、半世紀以上過ぎた神亀3(726)年8月、元正上皇不予のために行なった法華経書写の記事で、ようやくあらわれる事である。それ以降『法華経』関連の記事は、天平6(734)年11月に定められた『法華経』または『最勝王経』のいずれかの読誦と浄行3年以上を必須とする得度の制、天平9(737)年1月『法華経』転経(橘三千代忌日)、天平12(740)年6月『法華経』十部書写、七重塔建立を諸国に命じる詔、天平13(741)年2月諸国に『最勝王経』『法華経』を写させる詔、同年3月国分寺建立の詔(僧寺「金光明四天王護国之寺」、尼寺「法華滅罪之寺」の詔)等と、頻出し始める。
かりに滅罪の経としての『法華経』という概念が日本へもたらされたのが勝浦氏が想定される736年と想定するならば、推古朝以降、正史ではまったく見られなかった『法華経』関係の記事が、726年以降に頻出しはじめる事実との関係が問われるであろう。とりわけ、734年の、『法華経』または『最勝王経』のいずれかの暗誦を要求する得度の制の仏教政策上の重要性を考えると、やはり726年以前に『法華経』に関わる情報が唐からもたらされたとする可能性を考慮するべきではないだろうか。奈良時代の朝廷の法華経受容と渡唐留学僧または渡来僧との関係について、今後さらに多角的な考察が必要であろう。
さて、日本における法華経受容史の重要な節目となる天平年間は、また厄災が重なり続いた時期でもあった。とりわけ、天平4年から始まった旱魃、飢饉、疫病の流行は翌年、翌々年とおさまるところを知らず、その間に頻発した大地震(同6年4月7日、9月24日)、天体の異変(同7年5月4日)、さらには天平7年夏、太宰府から始まり、多くの官司が罹病したために朝廷も停止せざるを得ないほど猛威をふるった天然痘の流行、天平9年夏の相次ぐ朝廷要職者の死亡、さらには藤原広嗣の乱が天平12年9月に勃発、朝廷はただちに強硬な制裁措置をとったものの、その翌月10月には聖武天皇が慌ただしく都を出立し、現在の三重、岐阜、滋賀県にあたる各地を約2ヶ月にわたって転々と行幸した末、その年末に恭仁宮に遷都をする等、国家の根幹に関わる深刻な事態が多発した。
このような事態にたいして、朝廷が行なった国家的安全保障の対策は、神祇祭祀と仏事を重ねて行なうという重層主義、祭祀や仏事を数多く執り行なうという数量主義、またそれらを諸国くまなく執り行わせようという徹底主義に貫かれていた。たとえば、天平7(735)年8月の勅では、太宰府管内での疫病流行のため、太宰府管内の神社へ幣帛を捧げるとともに、太宰府の観世音寺と他の諸寺に『金剛般若経』を読誦せしめることを命じ、長門国より都側の山陰道諸国の国守には、ひたすら斎戒し道饗みちあえの祭祀をして疫病を防ぐことを命じている。さらに天平9(737)年8月13日の詔では、まだ幣に預かっていないすべての神を幣帛の例にいれよとし、二日後の15日には宮中15ケ所で700名にのぼる僧による『大般若経』『最勝王経』転読を行なっている。天平12年の広嗣の乱に際しては、9月11日に臣下を派遣して 伊勢太神宮に幣帛を捧げさせるとともに、同月15日にはすべての国に対して、高さ7尺の観世音菩薩像の造像および観世音経十部の写経を命じている。
天平6年11月太政官奏の『法華経』、または『最勝王経』の暗誦を必須とした得度制の制定、天平13年2月の諸国すべてへの『法華経』『最勝王経』書写の詔、および法華滅罪之寺を含めた国分寺システムの制定など、詔による国家安全保障(護国)の方針として法華経信仰が行なわれ始めた背景にはこのような時代状況があった。
この時代状況の下、仏教先進国・唐からもたらされた「生死の罪を滅する」意義をもつ『法華経』信仰の情報にもとづき、『法華経』は厄災としてあらわれた国家の罪を滅する祓除的意義をもつ経典であるとして変換されて、採用されたのではないか。国家安全保障の一環という切実さを持って、天平年間において『法華経』は護国経としてその地位を確立したと考えられる。
3 法華経滅罪説話群の形成と、法華経信仰の民衆ヘの普及
さて、こうした時代の中、以上のような国家鎮護の要請を背景として、その遂行の任務を担った仏教者たちはどのような対応をみせたのか。『法華経』に焦点をあてて考えるならば、まず当然のこととして官僧による法華経読誦、講説など法会等の勤修があげられる。また、学僧によっておこなわれた法華経研究もそこに加えられよう。八世紀後半、中央官寺の僧侶によって極めて多くの法華経研究書が著されたことが、『東域伝燈目録』によって知られる。井上光貞氏によるこの目録の研究によれば、奈良時代の僧侶の著した研究書では、『法華経』に関するものが十六または十五例にのぼり、他の『最勝王経』の五例、『維摩経』の五例に比べて破格に多い事が示されている。氏はこの理由を、学団外部の護国密教への呪術的関心を軸に、護国経として鎮護国家の法会で『法華経』が講説される機会が多かった事、それに伴い、後進の教育の為に『法華経』講議の必要があった事をあげられている。
以上の対応は言うならば、王権への奉仕のために「中央」で「公的な」意義を持って行なわれる、いわば上方へのベクトルを持つ行為と考えられよう。しかし、正史に記録される朝廷の宗教的国家安全保障の対策の、とりわけ諸国全てにわたるように意図する徹底主義を考えると、この王権の方針に対するレスポンスとして仏教者が担った実践は、王権奉仕のために「中央」で「公的な」意義を持って行なわれる仏事にのみとどまるものではなかったであろう。本論前半で考察した法華滅罪譚および護法刑罰譚で構成される法華経滅罪説話群の形成は、国家護持の王権の方針への、「中央」ではない場における、また「公的」意義にとどまらない、仏教者たちのもう一つのレスポンスとして考えるべきではないだろうか。ここにはまた、仏教者による王権の方針への追従と、それによる自己の権威付けという意味が浮かび上がってくる。
この点を考えるにあたって、まず天平年間における仏教政策の規制緩和に伴った、律令国家が意図した官僧像の変化についてみておく必要がある。まず養老元年の詔、同2年の太政官符によって、山林練行を伴いつつ民衆との接触を断った上での寺院寂居による学業重視と呪術的儀礼の勤修という官僧像が形成された。この官僧像における規範的な姿として、例えば渡唐留学僧であり養老2(718)年に帰朝した道慈が、翌養老3年の詔で賞賛されている。この養老年間、国家による理想的官僧像と対置され苛烈な弾圧の対象となったのが、山林練行の点は共有しつつも、民衆への布教や頭陀行、造橋、灌漑などの社会福祉事業を伴った民間における仏行をこととする仏教者グループであった。行基に代表される後者の仏教者たちを階層で示すならば、私度の沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷といえる。この仏行者の階層こそ『霊異記』説話の登場人物として好んで取り上げられた階層であり、とりわけ法華経滅罪説話の護法刑罰譚において誹謗者から迫害される者として描かれている階層でもある。なにより、その階層こそ、『霊異記』撰者景戒自身の出自であった。言い換えるならば、これらの階層の仏教者こそ庶民への仏教の唱導教化の前線に立っていたといえよう。
天平3年、行基に代表される仏教者のグループの中から部分的に得度が認められるようになり、天平5年前後からそれまで弾圧を受けていた行基ヘの評価が180度変化し精進練行の仏行者として迎えられるのと期を一にして、極めて多数の得度者が生み出されている。それまで私度として民間で活動していた出家仏教者たちの多くが官許を得て、得度を受けたのがこの時期と言える。天平6年の太政官奏で、朝廷が設けた最低限の必須条件が『法華経』または『最勝王経』の暗誦、および浄行三年という基準であった。これらの仏教者が行いえた仏行の傾向性を知るため、官許を得て得度するための推薦状である『優婆塞貢進解文』をみると、『法華経』が最も多く、その70%以上の者がその読経を修得していることが伺われる。これはすなわち、天平6年の太政官奏以降、非常に多くの私度の沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷が『法華経』を修得して官許を得たということを示しており、また逆に言うと、官許を得た出家者としての彼等の権威の源泉の一つが、『法華経』読誦であったと解釈できよう。
諸国地方の私寺、私堂、山寺などで、中央官寺と同様に『法華経』の講読、書写、法会が行なわれていた事も『霊異記』に散見されるところである。下巻9話では、藤原廣足が宇陀郡真木原の山寺で写経を行ったこと、同じく下巻18話では丹治比郡の野中堂と呼ばれる道場で、経師を招請し行われた写経に在俗の女たちが参加したこと、また下巻20話では粟(阿波)の国のある在俗の女人が麻殖郡の苑山寺で法華経を書写したことを記している。さらに中巻3話では、ある防人の男が同行した母を殺そうとして誘い出す言葉が、山中で法華経の大会が7日間にわたって行なわれる、というものだったことが記されている。これらの説話から、法華経書写に携わろうとする在俗の男女や法会に参加せんとする庶民を受け入れる私寺、私堂、山寺などの場が地方の各地にあった事が伺われるが、このような場こそ、多くの沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷が滞在、往来した場であり、さらに、彼等が地方民衆と直に接し、法華経滅罪説話などを持って滅罪の呪力を持つ経典としての『法華経』を唱導教化した場であったと考えられる。
『法華経』に焦点を当ててみるならば、養老年間初期から律令国家によって強力に押し進められた僧尼令政策によって到達した一方の頂点が、国家の仏教としての、中央官寺の学僧による法華経研究とすると、天平三年以降徐々に認められ、同年間後半には夥しい数の得度者を生み出した規制緩和によるもう一方の頂点として、民衆への唱導教化としての「法華経滅罪説話群」があり、そのような説話を集成した『霊異記』があげられよう。
しかし、この事は両者の断絶した関係を意味しない。実際、景戒その人はもとは私度僧であったが、のちに薬師寺に寺籍を持ち、伝燈法住位という僧位を得た官僧となっている。彼の属した宗派は明確に記録されていないが、薬師寺が法相宗の大本山の地位を有していることとからも、師蛮の『本朝高僧伝』以降、景戒が法相宗に属していたとすることは定説に近い考え方になっている。景戒の自伝ともとれる下巻38話には、「等流果」「不定種子」「無種姓」「本種子(本有種子)」「新種子(新薫種子)」などの唯識思想の専門的用語がいくつかあらわれていることから、景戒がある程度の法相宗、唯識思想を学んだであろう事も推測されている。『霊異記』の中で法相宗に属する行基が高い尊敬の念を伴った描写で頻出するのを筆頭に、法相宗に所属する僧侶が『霊異記』において高い割合で現れていることを志田氏は指摘されている。
翻って、先に述べた『東域伝燈目録』にあらわれている法華経研究書を著した八名の僧侶の内、法相宗に属する者が七名を占めている。さらに、合計16または15書の法華経研究書の内、法相宗の学侶によって著されたものは15から14書にのぼっている。『東域伝燈目録』はもと叡山の学僧で、後に興福寺において法相宗を学んだ永超が撰した目録であるため、法相宗の学侶による著作が多くおさめられているという点はごく自然の帰結と言えようが、いずれにしても奈良朝から平安初期にかけて法相宗学僧が法華経研究に力を入れていたことがわかる。とりわけ法相宗学侶の一人で秋篠僧正とも呼ばれた善珠(723−795)は天皇家のあつい帰依を受け活躍した官僧であるが、『東域伝燈目録』にもその著である『法華経肝心一巻』があげられている一方で、『霊異記』の2つの説話において重要な役割を果たす僧侶として描かれている。一つは下巻35話で、桓武天皇からの勧請を受け、堕獄した官吏の滅罪のために善珠が講師として法華経の大法会で講読したとある。もう一つは、同じく下巻の39話で、桓武天皇から行徳を讃えられた善珠は、死後、天皇の第十一子として生まれ変わったとされているのである。
ここで提起したい事は、中央官寺の学僧たちが、国家的な要請・方針に直接的に接する階層であった点、八世紀後半以降、その学侶たち、とりわけ景戒が近い関係を持った法相宗の多くの学侶たちが「『法華経』による生死の罪の滅除」という国家安全保障の方針へのレスポンスの形で法華経研究に携わったという点、さらに、法相宗に所属する僧侶が『霊異記』において高い割合で登場する点、またその学侶の一人にたいして『霊異記』説話は特に深い敬意をはらっている点等を踏まえると、法相宗を中心とした中央官寺の僧侶達がなんらかの形で法華経滅罪説話の形成に関わった可能性があるのではないか、という点である。
また中央官寺の僧尼たちにとって、法華滅罪譚リエンジニアリングの原拠である『冥報記』へのアクセスはあり得たであろう事もまた念頭に浮かぶ。舘江順子氏は『霊異記』にあらわれる日付の調査分析を通して、ある種の説話群の日付が、氏の家記、太宰府の解、地方から太宰府への解、百姓から官司への解など、正史編纂のもととなった資料を参考にしている可能性がある事を論証されている。舘江氏のこの指摘も、上記のような資料に接しうる立場としての中央官寺の僧が、『霊異記』の説話形成に関わった可能性を裏付けるポイントになるであろう。
さらに、法相宗にかかわりの深い中央官寺(元興寺、興福寺、薬師寺など)が、法華経滅罪説話をふくむ仏教説話の集積・中継地点として関わったのではないかとも推測できる。中央官寺の僧たちが、寺院に寂居していただけではない事は周知の通りである。『霊異記』の中の法華経関連説話を取り上げただけでも、元興寺の慈応大徳(上巻11話)、興福寺の永興禅師(下巻1、2話)、大安寺の戒明大徳(下巻19話)、大安寺の僧恵勝(下巻24話)、山階寺の満預大法師(下巻24話)など、中央と地方を往還する僧侶の姿が描かれている。
こうした往還の中で、中央官寺の官僧らと、上記に述べたような地方における僧尼、沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷らの仏教者との交流があったであろう事は想像にかたくない。基礎史料にアクセスする中央官僧、民衆により近いポジションにたち、各地域の地名、出来事などの情報を持つ地方仏教者たち、これら多様な地域・階層の出家仏教者の交流をうけた情報交換の上に法華経滅罪説話群の各説話の生成・リエンジニアリングの過程があったと考えられよう。
そして民衆に接する仏教者たちによって法華経滅罪説話は共有され、『法華経』を護国経として信奉する王権の威光を背後に自己の権威付けとして、様々なバリエーションを持って「全国、各地域で」行なわれる「私的な」仏事において唱導教化されたと考えられる。このような背景から生成された法華経滅罪説話群は、既層的宗教観念に上書きする形で形成されたその性格からも、滅罪の威力を持つ経としての法華経信仰を民衆にスムーズに浸透させ、長く定着させるのに役立ったのではないか。
さらにいうならば、神祇祭祀と仏事を同じ目的のために重ねて行なう重層主義は、ひとり朝廷の好むところではなく、民間にも広く共有されたものといえよう。たとえば、『万葉集』巻第五における以下の905、906番の二首は、それを明らかに示している。
若ければ道行き知らじ幣(まひ)は為(せ)む黄泉(したへ)の使負ひて通らせ (905番)
布施置きてわれは乞ひ祷(の)むあざむかず直(ただ)に率去(いゆ)きて天路(あまぢ)知らしめ(906番)
この二首は子供を亡くした親の哀切な心情を詠んだ長歌に付されたもので、905番歌では神祇信仰に基づく捧げものである「幣」を、また同時に906番歌では仏事供養としての「布施」をもって、亡児を送るために心を尽くす様子を伝えている。
このように多くの民衆は、亡くなった家族の滅罪追善のために、また現実の災難、病いとしてあらわれる罪を祓うために、神祇信仰に基づく祭祀を行なうと共に、仏教に基づく儀礼をも求めたのであろう。したがって、法華経による滅罪という思想と、それに基づく書写や供養などの仏事儀礼は、国家的要請だけではなく、また民衆が求めるものでもあったのであろうから、『霊異記』法華経滅罪説話群が語る法華経に対する信仰が、広く民衆に受け入れられ根を下ろしてゆくことは極めて自然な事であったと思われる。  
むすび
『霊異記』撰述とほぼ同時代、延暦25(806)年、法華経一乗思想をかかげた天台法華宗が年分度者2名を受け一宗として公許された。これ以降、日本天台宗は後に続く日蓮宗とともに、日本の歴史、文化を彩る法華経信仰の様々な表出の重要な源として考えられてきた。しかし、たとえば、冒頭に記した柿経の例を用いれば、平安末頃から浄土信仰の地として活況を集めた元興寺極楽坊など、『法華経』を書写した柿経が発見されている寺々が天台宗もしくは日蓮宗寺院とは限らない事を考えると、庶民信仰として行なわれた法華経信仰が、必ずしも天台、日蓮宗にのみ属するとは言えない。滅罪の経としての法華経信仰は、民間で地下水脈のように、宗派の違いに関わらず時代を通してあった事が伺われる。このことはまた、既層的宗教観念の枠組みを用いて法華経信仰が民間へ浸透したという本稿の一つの措定を裏付けるものと考える。
本稿では、まず、この天台宗成立に先立つ8世紀以降、日本における既層的宗教観念に上書きする形でリエンジニアリングされた法華滅罪譚をはじめ、種々の護法刑罰譚を含んだ法華経滅罪説話群が形成された事を検証した。さらに、護国経としての『法華経』の地位の確立を背景に、国家の安全保障の要請に対する仏教者からのレスポンスとして、法華経研究と共に、法華経滅罪説話が形成され、滅罪の経としての『法華経』が民間へ広められたのではないかと考えられる事、さらに一つの可能性として、法相宗に近い中央官寺の僧侶たちがその形成に関わったと考えられる事について考察を行なった。  
 
『日本霊異記』における家族形態

 

はじめに
数年前の論文で、『日本霊異記』に表れた婚姻形態について分析を行った。その続編として、この度は、家族形態について考察したい。
日本の古代家族をどう捉えるかについては、父系家族説・母系家族説・双系家族説がある。まず、父系家族説は、家族形態は父系合同家族(家父長制的世帯共同体)であり、婚姻居住形態は夫方居住婚が原則であったとする。このような学説をとる代表的な研究者は吉田晶氏である。氏は、「七・八世紀の個別経営について、個々の小家族的結合だけでは、経営としての自立性を持ちえず、数個の小家族的結合を含む家族形態を、当時の個別経営の主体として考えるべきことを主張した。…家父長を中心とする数個の小家族の結合体が、この時期の農村で存立可能な家族形態であり、それは、家父長的世帯共同体としてとらえることができるω」という。また、鬼頭清明氏は、関口裕子・吉田孝両氏の論文を考慮に入れた上で、「八世紀の日本の基本的な家族形態を未成熟な家父長制的世帯共同体と考えておきたい」とか、「郷戸=家父長制的世帯共同体は、個別経営として自立しておらず、全農業労働過程の一部分での協業単位にとどまっていた…郷戸の人数はほぼ二十数名であるから、この人数は東国における竪穴小グループ群の居住人数とほぼ対応する。そうして竪穴小グループ群は、農業の生産構造の中での自立した経営ではなかったが、労働過程における一つの単位としてまとまっていた。したがって、この単位が一つの家族的結合をなしていたことは間違いあるまい。さて、この家族的結合がどのような家族形態をとっていたのかは、ほぼ戸籍上の郷戸が対応する」といっている。吉田晶・鬼頭両氏等の主張は、八世紀の家族を、家父長制的世帯共同体として捉えること、つまり夫婦は、各夫婦単位で竪穴住居に別々に住み、それぞれが小家族を形成していたとしても、各小家族は、一人の家父長を中心として一つの家族的結合をなしていたと構想する。要するに、古代家族を父系合同家族として捉える考え方である。
次に母系家族説についてみると、高群逸枝学説を継承する関口氏は、「七世紀末〜一一世紀中葉の全階層の婚姻居住規制および具体的家族形態は、高群が一〇〜一一世紀中葉の貴族層について実証したものと同じであると結論できよう」といい、高群が実証した見解とは、「具体的家族形態は、はじめからの夫婦家族と母系合同ないし直系家族を経た夫婦家族の併存」であるとする。したがって、「当時の具体的家族形態として…父系合同家族ないし父系直系家族は存在の余地がない」とする。
次に、双系家族説の代表的研究者の吉田孝氏は、「夫方居住・妻方居住の場合にも、夫婦は自分たちの住む屋(嬬屋)を新しくつくるのが一般的な慣習であり、とくに、父母と息子夫婦、兄夫婦と弟夫婦は…別居するのが原則であった。したがって夫方居住といっても後世の嫁入婚(父方居住)とは全く異なり、新夫婦の世帯は新しく独立に作られた。…それは、親族名称やインセスト・タブーから想定された夫婦と未婚の子供からなる小家族とも対応している。しかしこのような小家族が、当時の社会のもっとも基礎的な単位ではあっても、まだ自立した存在ではなく、より大きな集団のなかに包摂されていた。そしてその集団は、数個の小家族からなる集団から郡レベルの集団にいたるまで、いくつかの層をなして、上位の集団は下位の集団を包摂する形で、重層的に存在していたと想定される」という。
要するに、
(一)父系家族説は。日本の古代社会を家父長制的父系社会であるとする。古代の家族が小家族形態であるとする研究者もいるが、基本的には、夫方居住婚を主たる婚姻形態としているから、父系直系同居家族の存在を承認する。また、父系家族説は、戸籍を実態として捉える見解が多く、数家族が小家族に分かれ住んでいたとしても、一人の家父長を中心として父系的に結合し、父系合同家族(家父長制的世帯共同体)を形成していたと構想する。
(二)母系家族説は;家族は非家父長家族であり、母系的紐帯を基礎とし母系直系家族もしくは母系合同家族をへた夫婦家族(小家族)であり、それは娘の結婚とともに母系直系家族ないし母系合同家族に成長するサイクルを繰り返すと構想する。
(三)双系家族説は、古代社会を双系制社会とする。家族形態は小家族形態であり、家長の地位は流動的で、小家族の集合体は特定の一個人を中心に組織されるというよりも、構成員相互が親類の関係にあったと構想する。
このように、それぞれの学説によって古代家族の内容はかなりちがっているのである。一つの住居に同居する家族の形態をどう捉えるか、そして小家族と小家族の結合をどう構想するのか、それぞれ意見が一致しない。父系家族説は、父系的紐帯を強調し、母系家族説は母系的紐帯を、そして双系家族説は双方的紐帯を主張する。では、『日本霊異記』にどのような家族と紐帯関係が描かれているのかみていきたい。 
第一章『日本霊異記』に表れた家族構成
まず、一つの住居にどのような家族成員が同居しているのかを考察したい。『日本霊異記』に関する先行論文を検討すると、この間題で意見の分かれるのは、『日本霊異記』に、父系もしくは母系の二世代の同居家族がみられるか否かである。篠川賢氏は、『日本霊異記』の時代では、夫方居住婚と父系直系家族ないし父系合同家族が主流であったとし、同記には父系直系同居家族が描かれていると主張する。っまり、一つの住居に父母と息子夫婦が同居する形態がみられるというのである。しかし、その見解には問題が多いことについては別稿で論じた。本稿でも後述したい。
また、関口氏は、母系直系家族もしくは母系合同家族が存在するという。つまり、一つの住居に母(父)と娘夫婦が同居する形態がみられるというのである。高群学説を継承する氏の見解にも問題が多いことは別稿で検証した。本稿でも関口説を再検証したい。さらに、『日本霊異記』における「家」の問題を考察した太田愛之氏は、「『日本霊異記』の説話中「家」の人的構成が比較的に明瞭な例において、「家」内の血縁関係は意外に単純で、…その家族的構成員はほぼ核家族と直系家族に限られる、これに対し、拡大家族を内包する「家」の明示的な例はまず見当たらないという。氏は「直系二組の夫婦とその近似型」として、上巻第一〇・上巻第二三・中巻第二七をあげている。太田氏は三つの説話に描かれた家族を抽象的な「家」という概念で把握しているが、具体的な居住形態からの考察でないために、「直系二組の夫婦」とは、一つの住居に親子が同居している形態と解釈するのか、それとも二つの住居に分かれ近住していると解釈しているのか明確でない。
以上のように、丁日本霊異記』には、父系直系家族もしくは母系直系家族が描かれているという二つの見解が提示されている。ではまず、父系直系家族の問題から考察したい。
『日本霊異記亅において、父系直系家族と関連する説話といえば、まず想起されるのは、中巻第二七の尾張宿祢久玖利の話である。当話は、怪力の妻が国司を懲らしめたところ、後難をおそれた夫の父母のすすめで、息子が怪力の妻を離婚した話である。家族は、父母と息子夫婦によって構成されているから父系直系家族となる。ただし、『日本霊異記』の内容では、二世代の夫婦が同居していたのか、近住していたのか明確でない。同居しておれば、父系直系同居家族(これを同居型父系直系家族と呼ぶこととする)であるし、別居していたとしても、二世代の夫婦の関係は、相互に密接な関係があったことが知られるので、父系直系家族的な結合関係(これを近住型父系直系家族と呼ぶこととする)があったと考えられる。この事例は父系家族説に極めて有利な史料といえる。
そこで、これに類する事例がないのかと求めると、『万葉集』(巻五、八九二番)に、
「直土に、藁解き敷きて、父母は、枕の方に。妻子どもは、足の方に、圍み居て」
とある。『万葉集』の八九二番は、いわゆる貧窮問答歌のことで、これについて、関口氏は、「父系二世代の夫婦同居を示すが、かかる例はこれを除き当時の史料に存在しない。父系二世代の夫婦の同居、すなわち異なる母系(姑と嫁)の同居同火が、当時は無論鎌倉末に至るまで厳しく禁忌された事実を考えると、6(貧窮問答歌のこと一栗原注)は到底事実とは信じ難く、それは結局儒教思想への傾斜の濃厚な作者山上憶良による理念的家族像の表出に過ぎない期という。また、義江明子氏は、「一つの狭い竪穴住居のなかでの三世代同居の姿が読みとれる。だが、これはほんとうに当時の農民の一般的な家族生活を描いたものなのだろうか。…夫の両親との同居を明確に示すものとしては、この「貧窮問答歌」がほとんど唯一の例外なのである。…憶良は、…男性にとってそれぞれに重要な存在である父母と妻子を、一つの竪穴のなかで身を寄せて暮さざるを得ない姿で描くことで、農民の貧しさを強調したのである。…この歌の表現を文字通りに受け取って当時の農民生活の細部をうかがうのは、早計にすぎると言わねばならなレ個」といっている。吉田孝氏は、「この歌のように妻子ある男が、父母といっしょに、一つの竪穴住居に住むことは、貧窮の極限ではあり得ても、庶民の生活の一般的なあり方とは考え難いことである。若い夫婦は、貧しくともそれなりに自分たちの妻屋を建てて生活するのが、当時の習慣と推定されるかちである」という。
家族研究を専門とする研究者は、そろって「貧窮問答歌」を当時の家族の実態を憶良がそのまま描写したのではなく、実態はこれとは違うと主張している。しかしながら、貧窮問答歌の内容と『日本霊異記』中巻第二七の内容を比較すれば、両者ともに父母と息子夫婦の二世代の同居が描かれている点が酷似している。これは単なる偶然とは言い難い。
貧窮問答歌が奈良時代の事例であり、つづいて平安初期の史料である『日本霊異記』に同形態の家族がみられるということは、貧窮問答歌に描かれた家族形態は、必ずしも憶良の文学的創作とばかりは言えないのではないと考えられるのである。と同時に、『日本霊異記』中巻第二七のような父系直系家族の存在は、史料の上からは認めなければならないであろう。
では、次に同居型や近住型を含め父系直系家族は、『日本霊異記』にどの程度の頻度で存在しているのかをみていきたい。そこでまず、同記の。一一六話のなかで、家族が描かれていると考えられる説話から、家族構成を調査してみた。その結果は次のようであった。
小家族的
夫婦 / 9(上巻第二四、上巻第二七、上巻第三〇、上巻第三三、中巻第一一、中巻第一六、中巻第三四、下巻第四、下巻第七)
夫婦と娘 / 9(上巻第九、中巻第一二、中巻第二五、中巻第三一、中巻第三三、中巻第三四、中巻第四一、下巻第四、下巻第一九)
夫婦と息子 / 3(上巻第一八、中巻第二、下巻第三〇)
夫婦と子供 / 10(上巻第二、上巻第五、中巻第五、中巻第一六、下巻第八、下巻第二二、下巻第二五、下巻第二六、下巻第三七、下巻第三八)
母と娘 / 3(中巻第八、下巻第一一、下巻第三一)
母と息子 / 2(上巻第一二、下巻第三九)
母と子供 / 3(上巻第一三、中巻第四二、下巻第一六)
父と子供 / 1(上巻第一五)
計 / 40
二世代同居的
 夫方
父母と息子夫婦 / 1(中巻第二七)近住?
父母と息子夫婦 / 1(下巻第一三)近住?
 妻方
父と娘夫婦 / 1 (上巻第三一)
母と娘夫婦 / 1(中巻第二〇)
父母と娘夫婦 / 1(中巻第三三)
計 / 5
注 一つの説話に二つの家族が描かれている場合は、別々に数えた。「夫婦」というのは、説話に描かれている家族成員が夫婦だけの家族の意味である。以下。「夫婦と娘」とは夫婦と娘もしくは娘達が描かれている場合である。上巻第二四・上巻第三〇は、親の世代の居住形態が不明であり子供の居住例のみ例示した。上巻第二三・中巻第ヨ1ηは、母親と息子夫婦が同居している、と解釈できなくはないが、母親の居住形態が不明であり、同居例に含めなかった。二事例は、二世代の家族が小家族を形成し、近住している可能性はあるが、直系家族的に密接な結合関係があったのかまでは分からないので、除いている。また。下巻第二七は、第四章参照。
筆者の調査では、家族成員がある程度描かれていると判断される説話は四〇話余あり、それらを家族構成別に分けたのが上の表である。『日本霊異記』は短い説話であり、当然そのすべてが家族成員を正確に描いているのではないであろう。しかし、それらは当時の実態からほど遠いとばかりは言えず、当時の何らかの家族構成を反映していると思われる。これらの数値をみると、小家族的家族四に対して、二世代同居的家族は五である。
二世代同居的家族にはやや説明が必要である。まず、夫方二世代同居的家族例は、中巻第二七の尾張久玖利の話の他に、中巻第四〇にその可能性が考えられる。同話は、狐が橘諾楽麻呂に復讐するため、彼の祖母に化けた話であり、二世代同居的家族と解釈できる余地があるが。居住形態の記述がはっきりせず事例から除いた。また、下巻第二七は、オイがオジに殺される話で、父系観念が濃厚な事例であるが居住関係がはっきりせず、やはり除いた。このように、『目本霊異記』で、父系二世代の同居的事例として確実性の高い説話は、中巻第二七だけといってよいが、下巻第一三も可能性がある(後述)。
次に、妻方二世代同居的事例は、上巻第三一(修行僧が貴族の娘と結婚した話)と中巻第二〇(娘が国司の妻となった話)で、中巻第二〇は、夫の赴任地の関係で一時的に妻の母親と別居しているが、本来は二世代同居的であったと考えられるので同居例とした。ただし、この夫婦は、帰京後、母親と分節して小家族化する可能性があることを留意しておきたい。また、中巻第三三(結婚初夜に娘が鬼に食われた話)は、婚姻解消となっており、事例から除かれるべきかもしれないが、婚姻居住としては妻方二世代同居的事例に含まれるとしておきたい。
以上のように、二世代同居的事例は夫方二、妻方三とした。ただし、同じ二世代同居といっても夫方と妻方では性質を全く異にするから、結局、中巻第二七のような父系直系的家族の事例は、四五例中の二例である。この数値から考えても、やはり父系直系的家族は多くはなかったと考えられる。
しかしながら、説話の居住形態を、二世代同居的であるとか、そうでないという判断は調査者の主観に左右される。そこで、次に調査者の主観の入る余地が低い方法として以下の考察を行った。同記には、ある人物が死線をさまよい、その後再び蘇生・生還する話が多く掲載されている。その時に、つまり人間が生死をさまようという重大な出来事に、それを心配して周りにいる人物こそ、家族的に最も親しく、かつ同居していた可能性が高い家族成員であると考えられる。そこで、人間が蘇生・生還した時、その周辺にいる家族成員を調査した。すると次のような結果になった。
妻と子供 / 6(上巻第五、中巻第五、中巻第一六、下巻第二二、下巻第二五、下巻第三七)
夫と子供 / 1(下巻第二六)
父母 / 1(卞巻第二三)
その他 / 3(下巻第九、下巻第一三、下巻第二三)
同記によれば、夫の枕元には、そのほとんどが、「妻子に語りて曰く」とか「妻子に向ひて、具に先の事を陳ぶ」とあって、「妻子」が、側にいたと描写されている。また、下巻第二六は妻である田中真人広虫女が重病に陥るが、その時広虫女は、「夫と並八の男子を呼び集め」たとある。周囲にいたのは「夫と子供」である。妻の場合が「夫と子供1となるのは、夫の場合が「妻と子供」となることと同一であり、同じ家族形態を、妻と夫の立場から、それぞれ表現したことに他ならない。
また、中巻第二五は、別の女性と体が入れ代わった衣女の話で、彼女が冥土から帰り蘇生した時、その枕元には「父母」がいる。衣女は独身の女性であるから、家族構成は「父母とその娘」となる。
つまり、上表では「妻と子供」六例、「夫と子供」一例、「父母」一例と表示しているが、これらは「夫婦とその子供」、の家族構成を別の角度から表現をしているのである。したがって、これらをまとめると、「夫婦とその子供」八例、その他三例とすべきなのである。
次に、「その他」三例の内訳は次の通りである。下ひろたり巻第九は、主人公の藤原広足が冥土から帰ってくる話であるが、この時彼の枕元に、「親属(うから)」つまり彼の親族がいたことが描かれている。ところが、広足の妻は産死しており、その妻の嘆きによって冥土へ呼ばれたとなっている。仮に妻子が生存していたとすれば、他の事例と同様に、枕元には妻子がいた可能性が強いのである。
もう一つの例は、下巻第二三で、信濃国の小県郡の大伴連等が氏寺を作り、その寺の僧となった忍勝が一族の者に殺害され、後に蘇生したした時、「親属に語りて言はく」とある。忍勝の枕元にいた「親属」とはどのような範囲の親族をいうのか不明である。忍勝は、出家人であるから、本来なら寺に居住し、「親属」とは別居していたことは確実であり、彼の死にともなって親元に送られて、そこに「親属」がいたと推測され、彼が日常的に親と同居していたのではないと考えられる。彼の事例は、通常の人々の居住形態と比較すると特殊であり、考察の対象外とすべきであろう。
次に、下巻第一三は、坑夫が落盤事故から生還する話である。この時、人々は彼を「親の家に送りぬ。親属見て、哀び喜ぶること比無し」という。彼は親と同居していたかの如くであるが、同話によれば、これより先に、坑夫には妻子があり、嘆き悲しんだ妻子の善行によって救われたとある。坑夫は、この妻子と同居していたと考えられる。ところが、彼が運ばれた家は、うから「親の家」とあり、「親属」が喜んだとある。「妻子」が喜んだとは描かれていない。筆者は、この説話から推測される居住形態は、親夫婦と坑夫夫婦は、近住別居していたと推測するが、しかし、坑夫が「親の家」へ運ばれたとある限りは、二世帯が同居していた可能性も否定できない。そこで、この例は同居型もしくは近住型の父系直系家族としての可能性を考えておかねばならない。(坑夫が妻子のいる家ではなく、「親の家」に運ばれた理由はよく分からない。関口説のように長期的別居婚の故、つまり坑夫はまだ一時的訪婚の期間中であった故に、親の家に運ばれた可能性は無いわけではないであろう。また、『今昔物語集』の編者も、この辺の事情の解釈に悩んだのか、同集では、坑夫は「我が家」に帰還し、「妻子」が喜んだと内容を変更している)。
生還・蘇生譚に描かれた事例でも、夫婦と子供が基本的家族構成員であり、父系二世代の同居的な事例は、坑夫の事例をそれと考えても、小家族八に対して、直系的家族一となり、全体的傾向としては、やはり孤立的である。
念のため、『今昔物語集』の蘇生話と比較し、『日本霊異記』の蘇生話に父母が描かれていないことが偶然ではないことを明確にしたい。『今昔物語集』は「父と息子夫婦」の同居(もしくは近住)を示す説話は、一六一ニー・二九一二五・三〇一四などにみられる。さらに「父母夫婦と息子夫婦亅の同居を示す説話は二例ある。一ニー二八には、鬼に食われそうになった書生が、その事実を「父母・妻子二此ノ事ヲ具二語ル」とあり、また、一六一三五には、男が水死したことを知らされた家族は「父母・妻子、此レヲ聞テ、泣キ悲ム」とある。『今昔物語集』では、男の側に父母と妻子がいる様子が明快に描かれている。これによって理解されるように、『目本霊異記」が、父母と妻子を同時に描がいていないのは、同居していた父母を書き漏らしたのではなく、平安初期では、父系二世代の同居形態が非常に少なかった故であると考えられる。以上のように、父系二世代同居家族は、全く存在しなかったとはいえない。しかし、そのような形態は、主流的であったとはいえず、むしろ例外的存在として理解すべきであろう。
では次に、母系家族説について言及したい。古代の家族形態を、母系直系家族もしくは母系合同家族をへた夫婦家族(小家族)であり、それは、娘の結婚と共に母系直系ないし母系合同に成長するサイクルを繰り返す、と構想するのは関口氏である。氏は、高群学説の婚姻居住説をほぼ全面的に受け入れ、その学説が正しいとして氏の家族説を構想している。しかし、古代においては、妻は、妻方の提供した家屋に生涯的に居住するという高群氏の学説は、実証に基づかない彼女の創作であった。これについては別稿で詳細に論じた。したがって、高群学説に依拠する関口氏の構想は根本的な所に問題点があるのである。
『目本霊異記』には、妻方の二世代同居的家族が三例みえる。これは関口氏が想定している母系直系家族もしくは母系合同家族でないことを説明しておきたい。古代における婚姻は、男達は妻方へ一時的訪婚もしくは一時的妻方居住をするのが一般的形態であったと想定される(中巻第三三参照)。その後、若い夫婦は独立可能になると、妻方を出て夫婦二人の独立した住居に移転する。その後、年若い姉妹達も結婚とともに親と同居し、年代順に次々と親元から独立していったと想定される。問題は、若い夫婦が独立する際、二人が生活をする家屋は、妻方と夫(方)のどちらが提供していたかである。
奈良〜平安時代にかけての婚姻居住の史料を検証すると、婚姻用の家屋は、妻方が提供するより夫方が提供する事例の方が多い。つまり、住居は、母親ではなく父親の所有邸であることが多かったと考えられる。したがって、父親邸に、娘夫婦が一時的に同居する場合が多いのである:しかし、古代はキョウダイが均分相続であるから女子が宅地を相続する場合もある。したがって、妻の所有邸に夫がズり、その後、その宅地を娘が相続する形態が存在したことは考えられる。しかし、日本の古代社会は、住居を母から娘へ母系継承することが優勢であったという証拠や、母系出自や母系相続などの痕跡もない。
娘夫婦が父毎と居住する形態は、外観上は、母系直系家族らしき形態であるが、母系制社会でない日本の古代社会で、母系制の居住形態と似ている個所のみを取り出して、それを「母系」直系家族ということは適切とはいえないであろう。この形態は、あくまで夫(方〉が住居を提供する形態が主流であった社会にみられる疑似母系的現象であったと考えられる。『日本霊異記』の上巻第三一。中巻第二〇、中巻第三三などの事例は、そのような古代の一般的な在り方を反映した事例と考えられ、「母系」などと表現される性格のものではないであろう。
以上の考察によって、『日本霊異記』の家族構成調査から推測される平安前期の家族は、同居型もしくは別居型の父系直系家族は稀にみられるが、父系合同家族はみあたらず、一般的には、夫婦と子供からなる小家族が通常の形態であったと考えられる。  
■第二章父系合同家族説と『日本霊異記』
ところで、七〜八世紀の家族は、相互に独立した経済的単位としての家族ではなく、非自立的家族であったという見解が通説となっている。この非自立的家族の実態にっいては、父系家族説・母系家族説・双系家族説によって、主張内容にかなり食い違いがある。筆者は、双系家族説を支持しているが、母系家族説系の見解が成立しないことについては、すでに論じたので、ここでは、父系家族説の見解を検証していきたい。
   上巻第二(系図1)
   稲春女   狐女――――大野郡人
               男子
父系家族説め鬼頭氏には、上巻第二の話を分析した「稲舂女考」という論文があるので、氏の論文を通して、父系家族説の見解を見ることにしたい。当話は、狐が人間の妻となつた話(系図1)で、狐女が「家室」となって稲春女に間食を与えることなど、当時の農業経営の一端を知ることができる。当話から、鬼頭氏は、「古代の家族論や社会論に関係する方向で稲春女の簡題をとりあげ」たという。氏は、家長が、(1)食料分配権を最終的に保持していたこと、(2)産業(なりわい)の指揮権を保痔していたこと、(3)稼の財産の処分権を保持していたこと、などを根拠にして、『日本霊異記』に描かれている家族が、家長主導型の家族であることを主張する、それと同時に、狐女の一家と稲春女との間には、雇用関係を媒介とした支配と隷属関係があったとする。そして、結論として、「八・九世紀の米め国家への貢納、各豪族での収取、庄家での収取等を通じて、その春成の労働は女性がになっていたのであるが、収取の責任や管理については豪族の家長等、男性が主としてになっていたように思われ、全社会的には広い意味での家父長制的支配原理が規定的に働いていたように思われる。」といっている。
鬼頭氏が主張するように、「家長と家室」との間に、上下関係があったこと、そして「家室と稲春女」の間に、支配と隷属関係が存在していたとすることは、さして異存はない(ただそれを「家父長的色彩」と解釈すべきかどうかは別問題であるが)。しかしながら、上巻第二に描かれている家族は、鬼頭氏が想定している家族形態と、あまりにもかけ離れている事実を、何ら問題としないのは承認しがたい。というのは、鬼頭氏は、前述のように、郷戸の人数をほぼ二〇数名といっている。仮にそうとすれば、家父長は、三〜四家族ほどの息子夫婦を統率していることになる。このような家父長制的世帯共同体は、かなり複雑な親族組織となり、イトコ・マタイトコまでが一つの共同体の中に含まれ、共同生活をすることになる。
そうとすれば、有力者層と推定されている狐女家族には、親子・兄弟関係以上のもっと複雑な親族関係が表出しているべきである。しかも、当話は、狐女が夫の家に入り、結婚が開始され、やがて子供が産まれ、妻が「家室」として農業経営の一翼を担って生活をする時間の経過が記述されている。したがって、鬼頭説に則って考えれば、狐女は、夫方の世帯共同体に編入され、そこで結婚生活をしているのであるから、約二〇人と推定されている共同体の夫方の父母や他の成員が、一人くらい登場しても不思議でない。ところが、同話に描かれた登場人物は、「狐女・その夫・男子・稲春女等」となっている。基本的家族は、夫婦とその子供という典型的な小家族であって、鬼頭氏が想定している世帯共同体、つまり数世帯が結合する合同家族らしき痕跡はみられない。
鬼頭氏の想定する家族像が正しいとするならば、同話には、家父長の父母・オジ・オバ・キョウダイ・イトコ・オイ・メイ等そしてそれらの妻達が何らかの形で登場すべきである。鬼頭氏は、日本の古代史の諸知識を駆使して、稲春女をめぐる多くの側面を明らかにしている。それならば、鬼頭氏のいう郷戸的家族(父系合同家族〉と狐女家族(小家族)との大きな食い違いを説明しなければ、「古代の家族論や社会論に関係する方向で稲春女の問題をとりあげ」たことにはならないであろう。要するに、鬼頭氏は、古代社会が家父長制的世帯共同体であったと主張しながら、上巻第二には、そのような家族が、描かれていない点を何ら言及していない。
明らかに、鬼頭氏は、自己の構想する家族が、『日本霊異記』に表れていない事実を充分に取り上げていない。おそらくこれはやむを得なかったと考えられる。というのは、『日本霊異記』には、在地の有力者を描いた説話は、少なくないにもかかわらず、それらの説話には、鬼頭氏等が構想する郷戸的家族が、ほとんど見られないからである。この点を検証するために、同記の中から在地を題材とし、内容が比較的詳しく書かれている代表的説話をいくつか取り上げたい。
まず、中巻第三四(殖槻寺付近の零落した娘の話)ならを取り上げよう(系図2)。同話は、場所は諾楽の右京となっているから、都市のことで、在地ではないのであるが、在地の事例とかけ離れていると思われないから取り上げたい。さて、当話では、一人娘であった女の家では、両親が死去すると、裕福であったにもかかわらず、またたく間に奴婢や牛馬等の大切な財産を失しない、一〇年ほどで急速に極貧になっている。
この内容を読んで不思議な念にかられるのは、娘が。何故に父系親族(父方のオジ・オバおよびその他の世帯共同体の成員)から援助を受けられないのであろうかということである。わずかの間に、すべての親族が、死去または出奔したとは考え難い。当時(話は聖武天皇の御世となっているのだが)、親族の結合原理が、家父長制的世帯共同体であったならば、娘の家族は、元々は裕福だったのであるから、父母に連なる世帯共同体成員が、多数存在していたはずである。共同体というのであるから、一夫婦が何らかの事情で死去したとしても、必ずその周辺に世帯共同体成員がいて、相互扶助によって彼らから助力が得られるはずである(仮に援助をしない関係であるなら、もはやそれは共同体とはいわないであろう)。
仮にこの時代が、家父長制的世帯共同体の時代であったとするならば、一人の娘が両親を失った場合は、世帯共同体の家父長が、何らかの援助をすべきである。しかし、家父長が援助を与えたような形跡はみられない。もちろん、孤女の父親が家父長であったのであれば、次期家父長が責任を持って援助するはずである。ところが、実際は、孤女は世帯共同体らしき成員から援助は得られず、急速に零落している。中巻第三四に限らず、『日本霊異讙には貧困にあえぐ人の話は少なくないのであるが、共同体の長と思われる人物が、一族の成員を援助する話はみあたらない。当話は、先に見た上巻第二の狐女の家族と同様に、夫婦とその子供(小家族)しか描かれておらず、家族が複数の世帯から形成されている様子がみられない。
   中巻第三四(系図2)
   母―――父
     女子
   上巻第一二(系図3)
      母
   弟―――兄
次に、上巻第一二をみたい(系図3)。当話は口兄と一緒に「交易」に行った弟が、兄に殺害される話である。兄が弟を殺した原因は、弟が多く儲けたことを兄が妬んだことになっている。これは、仮に兄弟が世帯共同体の一員として、経済的に一体となっていたのであれば、二人で儲けた売り上げは、兄弟の所属する共同体の儲けとなるはずである。弟が、自分の才覚で莫大な売り上げを得たとしても、それは弟のみが儲けたことにはならない。ところが、この話は、兄が弟の儲けの方が多いとして、弟の金品を奪うために殺害したとなっている。この背景には、兄弟二人が協力して「交易」に行ったとしても、二人の財布は別々であり、収益の差はそのまま平準化されず、相互に別産であったことを前提としなければならない。このことは、兄弟は、最終的には経済的に合体しないことを意味していると思われる。
また、この説話では、母と兄が、大晦日の霊祭りを行っている。兄弟達が、家父長制的世帯共同体の成員であるとするならば、このような霊祭りは、母親ではなく、世帯共同体の長である家父長が執り行うべき性質のものである。また、兄がおかした殺人事件に、処罰を加えるのも、当然、家父長でなければならない。ところが、兄に対して非難をしたのは、母親とされていて、殺人事件を知らせてくれた僧侶に返礼をしたのも母親とされている。
当話でも、基本的家族は、母親と二人の男子から構成される小家族となっている。この母子家族が他の小家族と複雑に合体しているとか、世帯共同体の統轄責任者としての家父長が活躍する様が描かれていない。
次に、中巻第一六をみたい(系図4)。当話は、讃あやのきみ岐国香川郡の富豪綾君の話で、家族構成やその内部での様子が、かなり具体的に書かれていて、八〜九世紀の在地の富豪の家族的実態を知る上では欠くことのできない事例である。当話によると、富豪の綾君の家には、綾君夫婦と数人の使用人がいたことになっている。この話の中心になる綾君家族は、夫婦のみが描かれており、子供さえもみえず、その他の家族成員は登場しない。綾君は、富豪であり在地の有力者であるから、綾君家族が、家父長制的世帯共同体であったとすれば、傍系家族成員を含む多くの家族成員から構成されているはずである。ところが、説話は、綾君の家族の内部をかなり詳しく記述しているにもかかわらず、綾君夫婦以外で描かれているのは、隣家の男女の老人と使用人とその妻子が主要な人物で、綾君の父系血縁者と思われる家族成員は一人も描かれていない。
基本的な家族形態は、夫婦だけの小家族である。そして、富豪としての綾君が、家父長制的世帯共同体の頂点に立ち、複雑な親族関係の中心に位置しているなどいう様子はみられない。綾君の家は、夫婦と使用人とで自己完結的に描かれている。結局、綾君家族はあくまでも小家族なのであって、家父長制的世帯共同体の片鱗さえ窺うことができない。
次に、下巻第二六をみたい(系図5)。当話は、讃岐国美貴郡の大領の小屋県主宮手の妻田中真人広虫女の話である。これも在地の有力者の話であるから、在地の家族的実態を知る上で重要な説話と考えられる。広虫女は、非常に裕福で強欲な女性であり、莫大な財宝と馬牛・奴婢・稲銭・田畠を所有し、あくどい商売をしていた。そのために悪死を得た話である。広虫女は、女手一人で独自に商売を行っているように描かれており、ここにも家父長制的世帯共同体的諸関係らしき描写がない。広虫女は、病を得て死の床につくが。そこに呼ばれた家族成員は、「其の夫と並八の男子」と、夫とその子供だけで、他の世帯共同体成員らしき人物は誰も登場しない。
当話も、富農層に属する階級の様子が、比較的詳しく書かれているのであるが、数世帯が共同して経営を行い、多くの財産を築いているのではない。あくまで財産は、広虫女一人の力で築き上げられたことになっている。広虫女家族は、夫婦とその子供という小家族だけで完結的に描かれており、主人公(女性)が、家父長制的世帯共同体の一員として活動している様子は、全く描かれていない。
   中巻第一六(系図4)
   姥(隣家)
   耆(隣家)
   家ロ(使用人)
   妻(綾君)―――夫(綾君)
   下巻第二六(系図5)
   田中真人広虫女――――――小屋県主宮手
              男子・男子・・・
以上のように、鬼頭論文を念頭に置いて、在地の有力な農業経営者を描いた代表的な説話(上巻第二・中巻第一六・下巻第二六)を検証したが、家父長制的世帯共同体もしくは、郷戸的家族らしき家族は全く描写されていない。したがって、氏の主張する父系家族説に従うことはできない。
鬼頭氏を始めとして、古代父系家族説を主張する研究者は、そろって家父長制的世帯共同体説を強調する。『日本霊異記亅のなかで、中巻第一六の綾君は、讃岐国香川郡の「富める人亅とあり、召使いもおり、夫と妻は「家長」「家室亅と表記されている。しかも、家の内部が比較的詳しく描写されている。また、下巻第二六の小屋県主宮手は、讃岐国美貴郡の大領であり、外従六位上であった。その妻田中真人広虫女は、「富貴にして宝多し。馬牛・奴婢・稲銭田畠有り」とあり、東大寺に莫大な財産を奉納している。恐らく、この家族は、身分的にも、美貴郡屈指の富豪であったと想像される。
綾君と宮手の二つの家族は、在地の有力な農業経営者であったにちがいない。とすると、当時の最も代表的な家族であったと考えられる。父系家族説の論者が、家父長制的世帯共同体として、農業を積極的に営んでいた好例として取り上げるべき事例である。ところが、二つの家族はいずれも小家族として描かれており、家父長制的世帯共同体もしくは、郷戸的家族らしい片鱗は微塵も感じられない。これは、八〜九世紀の在地の家族構成は、世帯共同体(父系合同家族)ではなかったことの有力な証拠でなければならない。  
第三章父系的血縁紐帯と女系的血縁紐帯
前章で、『日本霊異記』に描かれた家族構成を検証し、一つの住居に父系直系家族が形成されることは例外的であり、小家族が一般的であることをみてきた。小家族が一般的であったとするならば、次に問題になることは、小家族の内部の実態と、小家族と小家族の諸関係である。
ところで、関口氏は、日本の古代社会は女系的血縁紐帯が規定的であったと主張している。この見解は、古代社会は家父長制的世帯共同体(葺父系的血縁紐帯が規定的)であるとする父系家族説に対する反論として提出されたものである。したがって、『日本霊異記』に関する関口氏のさまざまな解釈も、そのような見解に沿った形で論じられている。これに対して、関口説を批判する篠川氏は、同記には、父系血縁紐帯を示す話が存在すると反論している。
両説を検討してみると、両氏は、それぞれ自説の正当性を強調するために、自説に有利な説話を取り上げて論じ、自説に不利な説話には説明不足になっていると思われる。これでは、相互に自説を一方的に主張しているにすぎず、『日本霊異記』そのものの実態が明確にならない。そこで、本章では、『日本霊異記』の全説話を、父系的血縁紐帯と女系的血縁紐帯という視点から、それらを数量的に比較し、どちらの紐帯が優越しているのかを検証したい。
まず、『日本霊異記』全一一六話に、主題もしくは主題的に描かれている家族・親族関係を抽出し(一話に二つの親族関係がある場合を含む)、それを分類すると、その結果は次のようであった。
夫婦関係 / 13(上巻第二、上巻第二七、上巻第三〇、上巻第三一、上巻第三三、中巻第二、中巻第三、中巻第一一、中巻第二七、中巻第三四、下巻第七、下巻第九、下巻第一三)
父と娘関係 / 2(上巻第九、下巻第四)
父と息子関係 / 4(上巻第一〇、上巻第一八、上巻第三〇、下巻第三六)
父と子供関係 / 1(上巻第一五)
母と娘関係 / 4(上巻第二四、中巻第二〇、下巻第一一、下巻第三一)
母と息子関係 / 6(上巻第一二、上巻第二三、上巻第二八、中巻第三、中巻第一、下巻第三九)
母と子供関係 / 1(下巻第一六)
両親と娘関係 / 6(中巻第一二、中巻第二五、中巻第三一、中巻第三三、中巻第四。一、下巻第一九)
親と息子関係 / 2(上巻第一一、下巻第一三)
兄と弟関係 / 2(上巻第一二、下巻第二七)
兄と妹関係 / 2(上巻第三一、中巻第三二)
姉と妹関係 / 1(中巻第四二)
夫方両親と嫁関係 / 1(中巻第二七)
舅と聟関係 / 1(下巻第四)
オジとオイ関係 / 1(下巻第二七)
一族関係 / 1(下巻第二三)
これによれば、『日本霊異記』に、夫婦とその子供を中心にした話は三七、キョウダイ関係五例、その他四例である、同記に描かれている家族が、小家族中心的であることがここからも推測できる。また、「夫婦
関係」を描いた説話が一三例と最も多く、ついで「母と息子」「両親と娘1となっている。これだけをとっても、同記には父系女系の偏りが少ない印象である。これらの数値を父系(父と息子・兄弟)そして女系(母と娘・姉妹)という観点からみると、
   父息子関係 4
   兄弟関係 2
   母娘関係 4
   姉妹関係 1
となり、両系ともに拮抗した数値を示しており、どちらが主として描かれているということなく、ほぼ同じ比率で描かれ、父系関係・女系関係どちらも偏りがない。また、親と子供の関係では、「母と息子」の話が一番多いというのも、父系か女系かという視点では解釈が困難である。つまり、『日本霊異記』を父系社会の産物として解釈しても、また逆に女系社会の産物として捉えても、捉えきれない。
では次に、・説話の中に主題的に描かれていてもいなくても、全説話を、父系的血縁紐帯と女系的血縁紐帯という視点から説話を抽出すると次めようになった。
父系的血縁紐帯例
上巻第一〇(父が牛になった話、息子が父を供養)
上巻第一八(読めない経を読む話、母がいながら「父子の義」「二父に孝」と父を強調)
上巻第三〇(妻を追い出した話、冥界での父子関係)
中巻第二七(怪力の妻を離婚した話)あしおぎ
下巻第二七(オイがオジに殺された話、「弟は葦蘆の礫の如く」とある)
下巻第三六(藤原永手の話)
女系的血縁紐帯例
中巻第二〇(地方へ行った娘を母が救った話)
中巻第四二(観音の化身が妹であった話)
下巻第一一(盲目の母とその娘の話)
これらによれば、父系的血縁紐帯例六、女系的血縁紐帯例三と前者が優勢であつたことになる。ところが、この分類は、父系的血縁紐帯(父と息子・兄弟関係)と女系的血縁紐帯(母と娘・姉妹関係)に限定して分類しているためにこのようになっているのであって、この分類から除外された事例を考慮にいれると、単純に父系的血縁紐帯が優越しているとはいえなくなる。例えば、上巻第一〇は、父親が息子の物を盗み牛となった話で、息子が父を供養しているので、「父と息子」の父系的血縁紐帯を示す例になるであろう。ところが、上の分類に含まれていない中巻第一五には、母親が息子の物を盗み牛となった話がある。同話では、息子が母親を供養している。この中巻第一五と上巻第一〇の内容を比較すれば、上巻第一〇の方に父系的血縁紐帯が表出しているとばかりはいえなくなるであろう。
また、母親と息子の関係でいえば、上巻第二三には、息子が母親を養わず悪死する物語がある。この時代は、母息子関係が厳しい時代であったとも受け取れなくはない。しかし、息子は母親に対する不孝によって死にいたる厳しい処罰を受けたのであるから、母息子関係は、重要であるとする観念が内在するとすべきであろう。また、上巻第二四には、娘が母親に一度の食事を拒否すると悪死した物語がみられる。とすると、ここでも母娘関係は、死に値するほどの重要性をもっていたことになるであろう。
このように考えてくると、有名な中巻第三の吉志火麻呂が、妻恋しさに母を殺そうどして悪死した話も無関係ではないと思われる。この場合は、母を殺そうとする重罪を犯しているから、その悪死は当然であろう。しかし、同話の根底に、上の説話と同様に母息子関係の重要性の精神が流れていると思われる。また、上巻第二八の役小角が逮捕された話では、その母が捉えられたために、自首したことになっている。これも、母息子関係といえるであろう。
さらに、上巻第一一では、商売に絡んで兄が弟を殺害する話である。したがって、この背景には兄弟、つまり父系的紐帯の観念があるという考え方もできる。ところが、この説話では、殺された弟の霊を祀っているのは、彼らの父親ではなく母親である。ここにも、母息子関係をみることができる。また、下巻第三九には、母の姓を継承した善珠禅師の話が採用されている。
このようにみてくると、上の父系的血縁紐帯六例の中に、父息子関係は五例(尾張久玖利例を含む)であるが、上に示さなかった母息子関係の紐帯の重要さを直接的に描いた事例が四、間接的に描いた事例が二あるから、父息子関係と母息子関係は、双方あまりかわらない数なのである。
これと反対に、女系的血縁紐帯三例の中に、母娘関係の絆の強さを示すが二例あるが、先にもみたように、父娘関係の絆の強さをを示す説話も同じく二例みることができる。これも同数である。つまり、『日本霊異記』に描かれた「父息子関係と母息子関係」、「父娘関係と母娘関係」は、紐帯関係の強弱・数量がどちらかに偏る傾向がなく、双方同じ程度みることができる。これらの数値をみて理解されるように、『日本霊異記』を、父系か女系かという視点で捉えようとすることに無理があると考えられるのである。
この点を確認するために、もう一つみておきたい。『日本霊異記』の婚姻居住形態には、妻方提供型と夫方提供型とほぼ同数見られることは別稿でみた。これらの居住形態は、母系家族説の論者は妻方提供型を、父系家族説の論者は夫方堤供型をそれぞれ強謁しがちである。当然のことながら、前者は女系的血縁紐帯を、後者は父系的血縁紐帯を主張する。そこで、同記に描かれている妻方提供型と夫方提供型の双方を取り上げて、そこにどのような血縁紐帯関係がみられるのか検証した。その結果は次のようである。
妻方提供型
上巻第二七(石川の盗賊の話。妻の母が出てこない)
上巻第三一(御手代東人の話。妻の父と兄は出るが母は出てこない)
中巻第三四(殖槻寺付近の零落した娘の話。妻の父母は死去している)
中巻第二〇(夫と地方へ行った娘を母が救った話)
夫方提供型
上巻第二(狐の女性を妻とした話。夫の父が出てこない)
上巻第三〇(妻を追い出した話。夫の父は死去している)
中巻第二七(怪力の妻を離婚した話。夫の父母が出てくる)
下巻第四(聟に殺されそうになった僧の話。夫の父が登場せず、妻の父(舅)が描かれる。夫は自分の父ではなく妻の父に借金する)
注 上巻第二四は筆者のみの推定であるからここでは論じない。仮に取り上げたとしても、夫の父は登場しない。
まず、妻方提供型からみておきたい。上巻第二七は、石川の沙弥という自度僧が妻方に居住していた事例である。当話は、夫妻のみが描かれ、妻の父及び母はみられず、紐帯関係ははっきりしない。次に、上巻第三一は、吉野山の修行僧御手代東人が、貴族の娘の病を治癒し、その縁で夫婦となり、妻方の財産を得る話である。妻方提供型が明確な事例である。と・ころが、当話では妻の父粟田の卿が「使を八方に遣はして、禅師・優婆塞を問ひ求めしとき」とあって、娘の病気に対して父が主体的に方策を考え行動して、母が描かれていない。明らかに、妻方提供型でありながら母娘関係より父娘関係が優越して描写されている。しかも、東人の妻が夫より先立っ時、妻は後々のことを兄に依頼し、東人は妻の兄の財産をも得ている。したがって、当話は妻方提供型に父娘関係・兄妹関係がみられ、母娘関係が描かれていない。安易に女系的血縁紐帯例とすることはできない。
次に、中巻第三四は、殖槻寺付近の零落した娘が観音の助けによって富裕な夫を得る話である。夫婦は、妻方に居住したことが推測され、妻方提供型例としてよいであろう。当話では、娘の父母は死去しており、居住形態と血縁紐帯の関連は不明である。次に、中巻第二〇は、夫(地方官)の赴任地へ同行した娘の命が、故郷に留まって家を守っていた母の信心によって救われた話である。妻方提供型の居住形態が推測され、かつ母娘関係、つまり女系的血縁紐帯がみられる。婚姻居住形態と血縁紐帯関係が整合的な事例である。ただ、こ。の事例が、単純に両者の整合例とできないのは、娘が夫の赴任地に同行している事実である。この形態は、夫の居住形態の都合が優先している。したがって、当話は、妻方提供型と女系的血縁紐帯が整合的な事例であるが、夫方提供型の側面もみられるから、居住形態の全体的評価としては純粋な妻方提供型とできない点は留意しておきたい。
次に、夫方提供型をみたい。まず、上巻第二は、狐の女性を男が自分の家に連れてきて妻とした話で、夫方提供型である。この話には、夫の家族成員が描かれていないので、婚姻居住形態と血縁紐帯の関連が不明例である。
次に、上巻第三〇は、夫が妻を何らかの理由で追い出した話で、夫方提供型例である。この話では、夫とその父の関係が描かれているが、それは冥界でのことであるから、婚姻居住形態と父子関係は直接関係がないとみるべきであろう。したがって、婚姻居住形態と血縁紐帯の関連が不明例である。
次に、中巻第二七は、怪力の妻を実家に帰した話で、夫方提供型であることが明確な例である。妻との離婚は、「大領の父母、…其の子に告げて言はく、「汝此の妻に依りて、国の司に怨まれ、事に行はれむ」とあって、夫の父母の助言によって実現しており、父系的血縁紐帯関係が顕著である。これは居住形態と血縁紐帯関係が整合的な事例である。
次に下巻第四は、娘聟に殺されそうになった舅の話である。娘は、「別に夫の家に住む」とあり、夫方提供型が明確である、ところが、この夫(娘聟)は、「舅の僧に銭二十貫を貸りて」とある。もうすでに、妻を夫方に迎えているのに、夫は、借金を実父ではなく、妻の父に頼っている。したがって、当話は、夫方提供型と聟舅関係が結合しており、婚姻居住形態と血縁紐帯関係が不整合な組み合わせということができる。以上、婚姻居住形態と血縁紐帯の関係をまとめると、
妻方提供型
母娘関係(女系的血縁紐帯)例 / 1(中巻第二〇)
父母死去例 / 1(中巻第三四)
妻方家族成員が描かれない例 / 1(上巻第二七)
父娘関係・兄娘関係例 / 1(上巻第三一)
夫方提供型
父息子関係(父系的血縁紐帯)例 / 1(中巻第二七)
父死去例 / 1(上巻第三〇)
夫方家族成員が描かれない例 / 1(上巻第二)
舅聟関係例 / 1(下巻第四)
となる。両者を比較するとやはり共通した内容になっていることに気付くであろう。両者ともに、居住形態と血縁紐帯が整合的なのは各亠例である。また、妻方提供型に父娘関係・兄娘関係が一例あり、夫方提供型に舅聟関係が一例ある。これらは、居住形態と血縁的紐帯が矛盾しているとまでは言えないにしても、両者が不整合的であり、それが各一例みえる。このように、居住形態と血縁紐帯の関係においても、妻方と夫方は、両者ともに拮抗しているといえるであろう。
以上の考察によって、『日本霊異記』には、父系親族もしくは女系親族の関係を、より強調した説話が、どちらか一方に偏っている傾向がない。双方ともに、平均的にほぼ同程度みることができる。したがって、関口氏の女系的血縁紐帯が規定的であるとする説、そして、篠川氏の父系的血縁紐帯の強調説、いずれも『日本霊異記』の内容に一致しない。やはり、『日本霊異記』に描かれた家族の実態を父系的か女系的かとする観点そのものが問題があるのであって、同記には、父系観念でも、また女系観念でも解釈しきれない面が多いと言うことが明らかである。 
第四章小家族と小家族の関係について
さて、吉田晶・鬼頭両氏と同様な観点から。『日本霊異記』の家族を取り上げたのは、管見め限り篠川氏である。最後に、篠川氏の見解を通して父系合同家族(世帯共同体)説を再検証し、『日本霊異記』が小家族と小家族の結合関係をどのように描いているのか考察していきたい。
篠川氏は、中巻第二七(尾張久玖利の話)について、「(久玖利の)父母の例については、断言はできないが夫婦同居とみるのが自然であり、さらには、息子夫婦とも同居していた可能性が高いといえよう。ところで、ここでいう同居の意味についてであるが、これはかならずしも同じ建物に久玖利夫婦とその父母が住んでいることのみをいうのではない。久玖利は大領に任じられている在地豪族であり、その居宅は、周囲に垣(カキ)をめぐらし、門(カド)をもち、その中に多くの建物を含んだ一っの独立した区画(すなわちヤケ)を形成していたと考えるのが妥当であろうが、そのような一区画(ヤケ)の中に久玖利夫婦とその父母が別々の建物に住んでいた場合も、当然、同居とみなさなければなるまい(傍点篠川氏)」という。父系家族説を支持する研究者が、当然抱く構想である。つまり、『日本霊異記』の時代は、家族が小家族ごとに住居を別にしていたとしても、各小家族は、父系直系家族もしくは父系合同家族的な結合をしていたという見解である。このような構想の下で、篠川氏は、次の八つの説話を根拠とし、父系直系家族もしくは父系合同家族が存在していた可能性を指摘する。そして、「夫婦とその未婚の子供のみが登場する説話が圧倒的に多いからといって、夫婦家族が支配的であったとは、けっしていえないのである」、「『霊異記』の時代においては、すでに家父長制家族が支配的になっていた」と主張する。
篠川説
1 上巻第二(狐の女性を妻とした話夫婦の所に夫の父母が同居)
2 上巻第一一(火の難にあう漁夫の話、「漁夫」と「親属」の同居)
3 上巻第三〇(妻を追い出した話、父と息子の同居)
4 上巻第三二(鹿を食って逮捕された村人の話何組かの夫婦の同居)
5 中巻第三(妻恋しさに母を殺そうとした話、母と息子の同居)
6 中巻第二七(怪力の妻を離婚した話、父母と息子夫婦の同居)
7 下巻第一三(落盤事故から生還した坑夫の話、夫とその妻子が夫の親元に同居)
8 下巻第二七(オイがオジに殺される話、父母と息子と伯父が同居〉
そこで、これらの説話を順次考察しておきたい、これらの中で、1・3・5・6は、別稿よび本稿ですでに論じたので、それ以外をみていきたい。
まず、篠川氏は、2上巻第一一の「漁夫有り。幼きより長るに迄り、網を以て業とす。後時、家の内の桑の林の中に匍匐ひ、声を揚げ、叫びて曰く『炎火身に迫る』といふ。親属救はむと欲へば、其の人唱ひて言はく『我に近づくこと莫かれ。我頓に焼けむと欲ふ』といふ」を引用して、「この場合「親属」の内容は不明であるが、上の記述からして「桑の林」を持っところの「家」に、「漁夫」と「親属」が同居していた可能性が高いであろう」として、この事例も父系直系家族ないし父系合同家族の事例とする。
これに対し、関口氏は、「単に仏罰をうけた漁夫の親属が漁夫を救おうとしたとの記述があるのみで、この親属が同居のそれか否かは不明であり、仮に篠川氏の言うように同居親族であるとしても、それが父系の紐帯によるものか否かは全く不明で、ここでも篠川氏の父系家族説は二重の仮定に基づかないと成立しない」と批判する。
当話では、「親属」の実態及び漁夫と「親属」との親族関係や居住形態が明確に書かれていないこと、それに、漁夫が結婚しているか否かがはっきりしていない。この程度の記述で、篠川氏のように父系直系家族・父系合同家族を云々することは無理がある。この説話に関しては、関口氏の批判が妥当であると考えられる。
次に、上巻第三二は、聖武天皇が猟をした時に、鹿が百姓家に入り、事情を知らない家人が殺して食い、その罪で「時に男女十余人、皆其の難に遭ひぬ」という話である。これに対し、篠川氏は、「「納見の里の百姓の家」の構成員が「男女十余人」であったことが知られるが、この人数は、何組かの夫婦が同居している「家」を想定すべき人数であろう」という。
これに対して、関口氏は、「しかし鹿を食した家人がそのまま男女十余人を意味するとは、当例から確実には言えず、偶然手に入った鹿の肉を集落の近隣の人達と共食した可能性は、当話が古代社会の例である点を考慮すると当然考えられる」と批判する。
筆者は、関口氏の見解を支持したい。同話を精読しても、鹿の事件で男女十余人が逮捕されたことは判明するが、彼らの居住形態・親族関係が明らかになる内容ではない。この説話から、家族形態を云々すること自体に無理がある。とても父系合同家族の存在を想定する説話とすることはできない。
次に、7下巻第一三は、落盤事故から生還した坑夫の話で、救助された坑夫は、「持ちて親の家に送りぬ。親属みて、哀び喜ぶること比無し」とある。これについて篠川氏は、「夫とその妻子とは夫の親元に同居しており、そのため、運ばれた家が「親の家」と記されていること(この場合は夫方居住婚になる)も十分考えられる」と主張する。この話は先にみたが、篠川氏は、坑夫の妻子は坑夫の親と同居していると構想し、関口氏は、坑夫は長期的訪婚期間中で、自分は親の家におり、妻子とは別居していたと構想している。
筆者は、坑夫は妻子と同居し、彼の親とは別居していたと構想している。この点、『日本霊異記』の記述内容は、明確に記述されておらず、どの見解が正しいのか、説話の内容からはどちらとも決し難い。しかしながら、当話は、親家族と息子家族が描かれているので、二つの可能性が考えられる。一つは坑夫の父母と坑夫夫婦が同居している場合と、一つは親子二つの世帯が住居を別にしている場合である。先に考察したように前者の可能性は低く、坑夫夫婦は父母と住居を別にしていたと推測されるが、話の内容から二つの世帯は近接していたことは確実である。したがって、当話は、父系二世代が、直系家族的に近接居住(近住型父系直系家族)していた可能性が考えられる事例であり、篠川氏の主張に近い事例である。
次に、8下巻第二七は、市場への帰り道でオジに殺された男の霊が、通りすがりの男に真実を語り、実の父母に知らせるという話である。篠川氏は、「(実父はオジを)兄弟のよしみによってその犯罪を匿し、追放するだけですませたというのであり、このことから、本来は父母と息子と「伯父」が同居していた状態を推定できるのではあるまいか。なお、追放したとあるだけでは同居とまではいえな。いかもしれないが、少なくとも、父系の親属が強い結び付きを有していた点は、はっきりとうかがうことができるのである」という。おこれに対して、関口氏は、「債ひ出し」たと記される事実を、同居していた家から追い出したと断定することはできず、日本古典文学大系(岩波書店、一九六七年)、並びに日本古典文学全集同書頭注のように、「縁故(血縁)関係を絶って」と解すべきであろう。従って(ロ)(下巻第二七のこと一栗原注)から父系家族の存在は言えない」と批判する。
筆者は、関ロ説と同様に、篠川氏が「檳ひ出して見さ不」などから、「本来は父母と息子と「伯父」が同居していた1と推測するのは無理があると考える。何お故なら、「檳ひ出」すとは、必ずしも家からとは限らず、自分たちの集落から追い出したと言う意味の可能性があるからである、その上、実父とオジとの居住形態は描かれていないから、当話から、二人が同居していたか否かまで云々することは妥当ではない。
しかし、篠川氏の同居説が否定されたとしても、関口氏が主張するように、この事例を「父系家族の存在は言えない」として、実父とオジの関係をそれ以上追求しようとしない態度には同調できない。仮に、実父とオジが、この時代の一般的居住形態と考えられる小家族ごとに別々の建物に居住していたとしょう。そうすると、「父母を同じくする弟は。葦蘆の陳の如き」とある内容から、二人は非常に親しい関係であり、そして、実兄がその弟を追い出したというのであるから、二人は近住していたのは確実である。このような形態を、関口氏のように、別居していることを根拠として、「父系家族の存在は言えない」という批判では批判になっていない。当然、別居しつつ父系家族的結合、つまり父系合同家族を形成していた可能性があるからである。当話は、その可能性のある事例であり、篠川氏が「父系の親属が強い結び付きを有していた」事例とすることは、妥当性があるとすべきである。したがって、当話は、父系合同家族の可能性のある事例としなければならない。
では次に、『日・本霊異記』に篠川氏の提示する以外に、父系家族説に有利と考えられる事例がないか検討しておきたい。篠川氏の提示するほかに、小家族と小家族の結合がが父系合同家族と推測される可能性のある説話は、下巻第二三である。当話は、信濃の大伴忍勝が、「心を同じくして、其の里の中に堂を作り、氏の寺とせり」という話であるが、忍勝は、「檀越に打ち損はれて死にき。檀越は即ち忍勝の同じ属なり」とある。忍勝の里には、氏の寺を造営することが可能なほど彼の「親属」が居住していたことが分かる。彼らは、父系合同家族を形成していた可能性がある。もちろんそのような可能性はあるのであるが、何分この程度の内容では「親属」の実態や小家族がどのように結合していたのか知ることができない。したがって、これを父系合同家族を示す事例とすることはやはり無理があると考えられる。
以上が、『日本霊異記亅において、父系合同家族もしくは父系直系家族の可能性が考えられる説話である。これらを、筆者の立場で再整理すると、
上巻第二三 瞻保の話(母親と息子夫婦)
中巻第三  吉志火麻呂の話(母親と息子夫婦)
中巻第二七 尾張久玖利の話(父母と息子夫婦)
下巻第一三 坑夫の話(父母と息子夫婦)
下巻第二七 オイがオジに殺された話(兄夫婦と弟夫婦)
となる。
ところで、吉田・鬼頭両氏を中心とする父系家族説の研究者は、「八世紀における全社会的な動向として、家父長制的世帯共同体が家族の基本的形態である」という。ところが、先に示したように、『日本霊異記』に表れた小家族は四〇例であり、父系合同家族らしき事例と小家族の割合は五対四〇となり、明確な父系家族の近住例はさして多くない。しかも、この五例の内容が問題である。これらのうち、上巻第二三と中巻第三は、「母親」と息子夫婦の近住であるから、これらは必ずしも「父系」家族の近住とばかりは解釈できない。そうするとこれら五例の中で、確実に父系といえるのは、中巻第二七・下巻第一三・下巻第二七の三例である。
ところが、これさえ問題がある。吉田・鬼頭両氏の構想は、一人の家父長に統率され、多数の世帯が共同に運営されている家族(父系合同家族)と主張している。「数世帯から構成される家族亅という観点から三例をみれば、中巻第二七話は二世帯の近住例であり、下巻第一三も同じく二世帯の近住例の可能性が強く、しかも描かれているのは親子であるから、これらの家族形態は合同家族というより直系家族的である。また、下巻第二七は、兄弟の近住例であり、最も合同家族の可能性が高い事例である。しかし、この事例でさえも、二世帯の近住例である。したがって、これらを家父長制的世帯共同体の事例とするには、親族関係の範囲が狭く、親族がより広い範囲で結合している痕跡がない。つまり、父系家族の可能性のある三例の内訳は、
父母と息子夫婦の二世帯近住2例 (中巻第二七・下巻第一三)
兄夫婦と弟夫婦の二世帯近住1例 (下巻第二七)
ということになる。これで理解されるように、『日本霊異記』には、一人の家長を中心に、数家族が結合している典型的な父系合同家族は、一例も描かれていないことが判明するのである。したがって、この事実から推測されることは、八世紀には、多数の近親世帯が近住し父系合同家族を形成していた可能性は極めて低いと考えられる。
ところで、平安時代の居住形態を専門的に研究してきた筆者にとって、重要なテーマは、貴族社会に父系二世代の同居形態(父系合同家族や父系直系家族)が存在していたのかということである。これに関する結論をいえぱ、今現在そのような事例は・。一例も見つかっていないない。平安時代の貴族は、広大な屋敷地を所有しており、邸宅内に多数の家族が同居することが可能であった。ところが、同一の邸宅に父夫婦と息子夫婦が同居する習慣がなかったようで、貴族の家族は夫婦とその子供達が基本的な家族成員である。息子は成長と共に親元から離れ、一時的に妻方へ居住し、何年か後に、父母とは別に住居を構えるの一般的形態であった(ただし、父親との同居を避けたうえで、父の所有邸を相続することはあったと考えられる)。つまり、貴族と庶民は、邸宅の規模の大小の差はあっても、一つの住居に同居するのは、夫婦と子供であり、小家族を基本的形態とすることにおいて共通しているのである。
『日本霊異記』に圧倒的多数を占める小家族は、実は貴族と同形態なのである。父系家族説または同居型父系直系家族が存在していたと主張する研究者は、この事実にもう少し注目すべきである。庶民と貴族の家族形態の一致は決して偶然ではないから。奈良〜平安初期の一般的家族形態は、小家族であったと結論づけることができるであろう。
父系合同家族説について、少し角度を変えて考えてみたい。上巻第一〇は、父親が息子の稲を一〇束盗んだとして、その罪で牛になったが、そのことが後に明らかになり、子供の「椋の家長」が、父親を供養したという話である。当話には、父親と息子が描かれており、二人がかつて同居もしくは近住していたことが、可能性として考えられる。とすると、父系家族説の立場で解釈すれば、当話の父子は、同居型もしくは近住型の父系直系家族となる。そうであるなら、この親子は、経済的には一体として結合していたはずである。それなのに、前家長である父親が、息子の稲を使用することが、盗みとされ、それが罪となり、牛にならなければならなかったのは何故であろうか。息子が、父の管理に背いて盗みを行うのであればまだしも、本来、父親が管理支配してきた財産であると考えられる稲を、父親が使用したところで、それは盗みとはならないはずである。ところが、当話は、父親が息子の稲を盗んだことを罪としている。このことは、明らかに、息子の稲は、父親の財産と共通の財産ではなかったことを意味している。つまり、父親と息子は、財産上、一体ではなかったことになる。したがって、父親と息子は別経済であるから、父子別産であったことになる。
当話と同様の事例として考えられるのが、中巻第一五の高橋連東人の母親の話である。大変裕福であった東人の母親は、息子の物を盗用したとして牛になっている。貧しい母親が、息子の物を盗むことはあり得るかもしれないが、東人の家は裕福であった。ところが、裕福な家で、母親が息子の物を無断で使用することが盗みと認識されている。
また、上巻第二三の「瞻保」という男の母親は、息子から稲を借りていながら、返済できなかったところ、息子の瞻保に責めたてられ、土下座したという。
これらの事例における親子関係は、財産を親子で共有する観念がみられず、相互に独立していることが前提になっている。親子間で財産が独立しているということは、関口氏の指摘しているように、親子は別産であったことを意味している。
『日本霊異記』の時代に、親子別産の観念、つまり親子で財産を別々に所有する考え方が存在していたとするならば、吉田・鬼頭・篠川氏が主張する父系合同家族説は、成立し難い。何故なら、父系合同家族説では、家族の財産は家長を中心として共有であったということが前提条件となるからである。父系合同家族説に立脚する研究者は、父子関係が描かれている話から、父系合同家族や父系直系家族の存在を推測するのはよいとしても、同時に描き出されている父子間の経済関係も考慮にいれて家族形態を復元すべきである。『日本霊異記』に描かれている経済観念からすると、当時の家族は、家父長制的世帯共同体という形態からほど遠いことが暗示されていると考えられる。
また、中巻第二七・下巻第一三などの記述内容から、別居型父系直系的な家族は、存在したと考えられる。しかし、直系的家族であっても、親と息子は、息子の成人後、婚姻別居と同時に、財産が別々となり、経済的に相互に独立する。親と息子は、親子という親近さはあるが、経済的観念上は一体ではなく、貸借関係が成立する間柄である。したがって、この時代の「父系直系的家族」は、父系家族説の研究者が想定しているような、運命共同体的な一体化した性格の家族ではない。この意味において、この時代の「父系直系的家族亅は、真の意味での父系直系家族に到達していないというべきであろう。
この点は、『日本霊異記』より約百年ほど遅れて成立した、『善家異記』の内容が参考になると思われる。同書に、備中国賀陽郡の賀陽良藤が行方不明になったとき、「良藤兄大領豊仲・弟統領豊蔭・吉備津彦神宮禰宜豊恒、及良藤男左兵衛志忠貞等、皆富豪之人也、・・悲嘆懊悩…若得良藤死骸、当造十一面観世音菩薩像」とある。良藤が行方不明になると、その兄弟達が懊悩したとあり、一見するとこの記述は、賀陽郡の大領である兄を中心にし、弟達は、兄の側に近住し、父系合同家族を形成し、精神的にも経済的にも強固な連帯性があったのではないかという印象を受ける。
ところが、その職業・居住場所を詳細にみていくと、父系合同家族と解釈することはできない。兄弟の中で、兄大領豊仲は賀陽郡の服部郷に居住し、弟の良藤は賀陽兄弟の本拠地の隣国備前国の下級の役人となって御野郡に居住し、弟の豊蔭は統領となって太宰府か九州のどこかに居住していた。また、もう一人の弟の吉備津彦神宮の禰宜豊恒は、賀陽郡の板倉郷に、良藤の長男忠貞は平安京に居住している。
要するに、良藤の兄弟は、全員が役職を異にし、居住場所が別々なのである。彼らは、兄弟の一人が失踪すると皆が嘆き哀しんだとあるから、最も近い親族として相互に連帯意識をもっていたことは確かである。しかし、そのことは、兄を「家父長1とし、弟達が結束して父系親族集団として経営を共同にしていることを意味しない。彼らは、全員が住居を異にしており、兄を中心とした経済的・権力的支配下にあったのではなく、それぞれは、相互に独立的に自己を養い経営していたことが窺われるのである。『善家異記』のなかに、「皆富豪之人也」とある、仮に「家父長」の兄豊仲を中心にして兄弟が裕福なのであれば、「皆」とはならず、兄豊仲の富豪ぶりが強調されるはずである。この「皆」という表現と兄弟が別住していた事実を考慮に入れると、弟達は、兄を中心とした経営体(家父長制的世帯共同体)に序列的に従属し拘束されていたのではなく、各自かなり自由に生活していたと想定される。つまり、兄弟は、凝集的傾向より分散的傾向が濃厚であるといえる。
これらを居住形態という観点から見れば、良藤兄弟は結婚と同時に別住し、それぞれが、夫婦とその子供の小家族を形成する。そして、兄弟は、経済的一体性はない様子であるから、各小家族は、兄(家父長)を中心とした世帯共同体を形成せず、それぞれが、相互に独立的であったことになる。したがって、兄の弟達に対する統制支配の権力(家父長的支配権)はそれほど強くはなかったであろう。このような賀陽兄弟の形態は、『日本霊異記』に描かれた諸形態と共通しており、おそらく古代の兄弟別産の観念によって、兄弟は成人すればそれぞれが独立して別経営でやっていかなければならないという古代の通念の反映と考えられる。 
おわりに
『日本霊異記』の家族的分析をおこなうと、四〇余の説話から家族構成を知ることができる。その多くは小家族である。父系家族説では、古代の家族は、夫婦単位で住居を別々にしていたとしても、数世帯が、一人の家父長を中心にして一つの家族的結合をなしていた主張する。そこで、『日本霊異記』の家族構成が判明する四〇余の説話を検証すると、複数の父系の小家族が描かれていると思われる事例は、わずか三例しかみられない。しかも、三例とも二世帯の家族であり、せいぜい直系家族的結合である。数世帯が一人の家父長を中心に家族的結合をする合同家族の事例は一例もみられない。また、小家族的に描かれた説話について、一人の家父長に統率され、数家族が集合した合同家族の痕跡が読みとれないか検証してみたが、それらはほとんどみいだすことができない。
また、関口氏の主張する母系家族説は、高群氏が平安時代中期の貴族層の婚姻・家族についておこなった研究の結論が八〜九世紀の豪貴族層・庶民層にも適用できると構想する。しかし、これらの構想は高群学説の創作に気付かないまま継承された見解であって、とりわけ、妻方居住はもとより独立居住まで、原則的に全ての婚姻用の住居を妻方が提供するという実証の伴わない学説を基礎として構成されているのである。したがって、『日本霊異記』以前の史料を検証しても、妻方提供型の居住形態は少なく、夫方提供型の事例が多く見出される。さらに、平安前期の貴族の家族を調査しても、ほとんどが、夫方提供型のそれが見出されるのであって、妻方提供型のそれは具体的事例を提示することが困難である。母系家族説は受け入れがたい学説というほかない。
まとめると、『日本霊異記』に描かれた家族は、夫婦と子供からなる小家族が一般的であったと考えられる。小家族における親族関係をみると、父系観念が中心的になる説話が多く見られるなどという傾向はなく、父系的・女系的どちらも同程度みられる。このような傾向が表れるのは、古代の家族が父系家族でもなく、母系家族でもなく、双系的な家族であったからであると考えられる。
また、古代においては、子供が結婚適齢期になると、男子は妻方へ一時的訪婚もしくは一時的妻方居住婚をおこない、女子は実家に留まり、夫から一時的訪婚・一時的妻方居住婚をうけたと想定される。『日本霊異記』には、複数の娘家族が親と同居している話がみられないことから、富裕な階級を除けば、親と同居している年上の娘夫婦は、年下の娘が結婚する頃には親元から独立して、別世帯を形成したであろう。つまり、順繰りに娘達は次々に巣立って行き、複数の娘夫婦が親元に同居することは一般的ではなかったのではないかと推測される。そして、男子も女子も経済的に自立が可能になると、それぞれ、夫婦単位で独立した家屋に居住していたと考えられる。したがって、古代の家族は、娘夫婦を独立するまで留めるために、家族の周期的過程の中で。一時的に世帯が複合する時期があるが、結局は、親子は小家族に分裂することが基本的性格であったと考えられる。直系の子供との間が分裂的であったと考えられるから、家族内に傍系親族を含むことも稀であったと思われる。『日本霊異記』に、小家族が多く描かれているのはこのような古代の一般的な居住形態を反映しているからであろう。
次に問題としなければならないことは、小家族単位に分かれた家族と家族の関係である。『日本霊異記』には、親子の二家族に密接な関係が存在していたと推測される話がみられる。古代においては、子供達は結婚を機に、次々に独立していったと考えられるが、その多くは、親と同一の集落に居住していたと考えるのが穏当であろう。また、子供達は、両親から財産を相続するのであるから、両親の居住地とかけ離れた遠隔地で別世帯を形成していたとは考えにくい。そうすると、子供達の住居が父母のそれと隣接することもあったであろう。このようなことは、男子の場合でも、女子の場合でもあり得たはずである。男子が父母の住居の近隣に居住したとすれば父系直系家族的関係となる。このような形態は、古代において少なからずみられたと想定される。しかし、この形態は、父系家族説の論者のように父系的な側面を強調して、父子関係の強固な(もしくは密接な)家族として理解することに賛成できない。
もちろん、父夫婦と息子夫婦は、親子の関係であるから、日常の生産活動や消費生活を通じて親近な感情が存在していたであろう。しかし、古代の親子間は、相互に貸借関係が成立する別産(別家計)であり、財産を共同所有としない慣習であった。したがって、父と子が一つの土地に結集し、経済的に結合しようとする精神が弱く、彼らは絶えず分散し独立的に経営していく傾向が強かったと想定される。そのため、父子が、直系的に近接居住する形態があったことは考えられるが、その結束力・連帯力は弱く、その後、ずっと父系の子孫がその地域に結集し続けるのではなく、系譜的連続性を志向せず、次の世代となれば、また父子・兄弟が独立して他出し、分散したと想定される。古代の直系的家族は、以上のように理解すべきであると考えられる。
また、父系合同家族は、兄弟が同一の居住地域から離れず、そこへ居住し続けることが条件となる。しかし、古代の兄弟は、別産であるために、原則的に、経済的一体化が達成されず、結束力はどうしても脆弱である。したがって、家父長制的世帯共同体という数家族の結合形態は存在し難い。兄弟は、父母の財産・土地を相続するために、彼らが近隣に居住することはあったと考えられる。しかし、分割相続と兄弟別産の慣習のために、経済的には一体化しておらず、相互に独立しているから、同一の血縁であるという連帯感情は強いとしても、それが経済的一体性をもたらさないために、感情的連帯と経済的不結合という「つかず離れず」という状態が存在していたと思われる。
『日本霊異記』に多数の小家族が結合している家族が描かれず、あたかも一小家族が共同体から何の拘束も受けずに、孤立的に存在するかのように描き出されているのは、上述のような親族的特質からきていると考えられる。 
 
説話にみる父母像の変容―『日本霊異記』から『今昔物語集』へ―

 

1 .はじめに
「広く神話、伝説、昔話などの総称」とされる説話文学は、「個性に乏しく芸術的価値も高いとはいえないが、庶民の日常生活、社会生活の実態などが示されていて、史的な資料として興味深い」1)、ゆえに、史料として活用されてきた。とりわけ、古代から中世の女性史や家族史等のジェンダー分析には、貴重な史料として取り上げられ、分析されてきた。その際、最も重要な点は、各物語集の体系性や時代背景を総体的総合的に分析し意義付ける研究方法である。
総合的全体的分析の欠如を示す象徴的な論文が、飯沼賢司「イエの成立と親族」である。日本中世のイエの特質を夫婦・親子の「愛」の原理によって結合される男女対等な永続的経営体と規定するが、その根拠は、13 世紀後半に僧無住によって編まれた仏教説話集『沙石集』(第 6⊖1)で、尼が息子の供養をしたとき、僧が、「亡き息子さんは尼君そっくりでした。子は、愛欲をおこし、性的快感をもった方の親に似るといわれるので、性交したときさぞや尼君は良い気持ちだったのでしょう」と言ったとする説話である。飯沼氏は、この説話を夫婦対等な性愛関係と断定する。「ただ、女性の『愛』は一見献身的傾向をもつものであり、これが男性に対して従属的な関係を発生させる原因であったことは否めない」が、「単婚の経営体は、夫方・妻方の双方の『一家』の影響下にあり、夫婦は、そのイエの職能を分掌する経営者であり、妻は夫に服従する関係ではなく、『愛』という『絆=結合原理』によって結びついていた。このような平等に近い夫婦関係は、親子の関係において父権によってイエを統制するのではなく、父権・母権の並列する親権によって統制され、親から子への継承を実現した」2)とされる。しかし、「説教師の施主分聞き悪き事」と題する説話の一つであり、編者は、露骨で聞きにくい話だ、と批判しており、夫婦の対等な性愛を読み取る史料とは言い難い。
しかも、すでに『沙石集』を総合的にジェンダー分析した論文が出されており、1女の性愛は否定的、2母の霊的な力を礼賛し孝養を要請、3妻子養育の義務を背景に夫の優位性を強調、4妻は童・下人に準じる位置、5女は嫉妬深く男は性に淡泊で鷹揚であることを繰り返し強調、等々の特質を指摘され、説話の背景には、家父長制的男性優位の家が成立していることを明確に指摘されている3)。飯沼論文は、先行研究も参照せず、一例の説話を取り上げるだけで、中世の性愛の男女対等性をあたかも実証したかのように主張しているのである4)。
小稿では、以上のような批判をもとに、9 世紀初頭に薬師寺の僧景戒によって編纂された『日本霊異記』(日本国現報善悪霊異記、以後霊異記と略す)と 12 世紀初頭に僧たちの集団によって編纂されたとされている『今昔物語集』(以後今昔と略す)を主として取り上げ、各々全体の中での父母の特質を抽出したうえで、同一内容の説話を取り上げ具体的な変容を丁寧に分析することで、歴史的背景を考察することとしたい。
2 .父系制の確立と父親の可視化
1 )父母説話の数量的比較と古代家族
まずは、霊異記と今昔(本朝部のみ)の中で、父と母がどのような割合で登場するか、数量的に確定しておく。「量は質を規定する」との謂いもあり、一定度の傾向はおのずと明らかになると思われるからである。霊異記は、索引で検索する限り5)、父 9 話、母 25 話、父母 13 話、「おや」とよむ祖は 1 例で、継母・継父の用語はない。今昔では6)、父 73 話、母 61 話、父母 78 話、祖(おやと訓)55 話、継母 4 話、継父 2 話である。比較すると、霊異記では、母は父の 3 倍近く、しかも、父が主人公になっているのは 3 例しかない。いっぽう、今昔では父が母より多くなっている。9 世紀初頭では、親子関係は母子関係の方がより緊密だったことが推察される。
これは、奈良時代、8 世紀に編纂された『万葉集』とも共通する特質である。『万葉集』には、母、父、母父、父母を詠み込んだ歌が 100 首ほどあるが、母を詠ったのは 60 首、父は 10 首ある。母の方が 6 倍にもなる。しかも、父が詠われているのは母、父、あるいは父、母と対になっているのがほとんどで、父単独は 1 首である。さらに、作者や歌の内容から詠者の性別が判明するものを分類してみると、女性詠者 20 首あるなかで父母を詠んだものは 1 首のみで、他はすべて母を詠んでいる。いっぽう、男性詠者の場合は、母のみと、父母、母と父の対がほぼ同数になっている。母と娘の緊密な結合と、父を含んだ親への傾斜がより強い息子の実態が浮かび上がってくる7)。
じつは、古代、オヤとは母親の意だった。『古事記』や『風土記』では、ミオヤ(御祖など)とは母神の意であり、『日本書紀』においても、オヤとは天皇の母や祖母であり、一族の長を生んだ母親の権力や地位の高さをしめすものとされている8)。さらに、近年の古代家族・婚姻史研究の成果によると、8 世紀の家族・婚姻は、「母子の強い絆、夫に依存しない経済生活、ゆるやかで流動的な婚姻関係が想定され」、現実の生活形態は「母子+夫」(夫の部分は容易に入れ替わる)を中心に、家父長制以前の家族が双方的親族関係で結びついていた、とさている9)。
2 )霊異記の母と父
「母子+夫」の生活形態で、母子の結び付きが強いものの、けっして戦後の日本家族の父親不在、母子癒着型といわれるような母子密着ではない。
霊異記上巻第 23 は、「凶しき人嬭房の母に孝養せずして現に悪しき死を得る縁」である。貧しい母に稲を貸し付けた裕福な息子が、イスに座り、地に跪く母から厳しく取り立てたところ、母は乳房を出し、「乳の値を取り立てよう、母子の道は今日で絶えた」と泣き叫ぶと、息子は、借金証文を破り、狂い、ついに火事で内外の屋倉が全焼し、飢え死ぬ。最後に、「孝せざる衆生はかならず地獄に堕つ。父母に孝養せば浄土に往生す」と仏教的訓戒が記される。この説話では、息子と母は別財であり、息子から借りた物は借財となり返さねばならないことがうかがえる。
中巻第 15 話は、「法華経を写し奉り供養するによりて母の女牛と作りし因を顕す縁」である。伊賀国の豪族層の家長が母のために法華経を写し、願立てに縁あるお坊さんを招いて法会を行おうと決意し、使いの者に最初に出会ったお坊さんを連れてくるように命じる。使者は道端で酔って寝ていた乞食僧を連れてくる。乞食僧は辞退し逃げようとするが、夜の夢に、赤い牝牛がきて、「私は、昔先の世に、子の物を偸み用い、ゆえに今、牛の身を受けて、その債を償っています、本当かどうか知りたければ座を用意してください」と言った。翌朝、乞食僧は、家長に夢を話し、座を用意すると、牝牛は座に伏した。家長は母をゆるし、法要が終わると牝牛が死ぬ。この説話では、息子の物を母が使用すると盗みとされており、この説話でも、母と息子は別財である。また息子でも母を養う実態がない説話である。
上巻 10 話「子の物を偸み、牛と作りて役われ、異しき表を示す縁」は、同様な話型で、父が牛になっている。大和国に豪族の家長がいた。12 月に前世でおかした罪の懺悔をしようと僧を招いた。その夜、読経が終わって後、僧が、明日の仏事の礼物をもらうよりはこの衾を盗もうとすると、牛が家の倉の下で、「私はこの主人の父です。前世で人に与えようと子に黙って稲 10 束を盗みました。そのため牛に生まれ変わって償っているのです。あなたは出家の身でありながら、どうして衾を盗もうとするのですか。私の話を嘘だと思ったら座を用意しなさい。私はその上にすわりましょう」と話す。翌朝、家長が座を設けると、牛は膝をまげて座に腹ばいになった。諸親は泣いて本当に父であることを知った。牛は、涙を流して嘆息し、その日の夕方死んだ。家長は僧に衾や多くの品物を施し、父のために供養を営んだ。この説話でも、富豪層の父と息子は別財である。なお、この説話は、父は息子の財を盗んだのではなく、他人に出挙するために無断で借用したのであるが、私的経営を展開する富豪層の息子にとっては、父こそ克服の対象だったのであり、父に共同体的首長の面影を読み取るべきとされている10)。
父が主人公になり話が展開する説話は、前述のように父登場の 9 例中 3 例であり、他の 2 例は、共に父が悪行を行い、息子が供養する説話である。上巻 15 話「悪しき人乞食の僧をおびやかして現に悪しき報を得る縁」は、愚人である父が修行僧を迫害し、かえって呪縛されてしまったので、2 人の息子が僧を懇ろに拝み敬って父を救う話である。上巻 30 話「理にあらずして他の物を奪ひ悪しき行を為ひて悪しき報を受け奇しき事を示す縁」は、死去した息子が、悪行により地獄に堕ちた亡父に逢い、生き返って父の為に仏を作り写経し供養する話である。3 例とも、息子が父を救う話となっている。
母が主人公の話は前述のように多い。上巻第 24 話「凶しき女生める母に孝養せずして現に悪しき死の報を得る縁」は、母娘別財の話型である。奈良の都に 1 人の女性がいて、孝行する心もなく、母を尊ばなかった。母は斎日に、飯を炊かないで、娘の所にいって食を乞うた。しかし、「家長と私の分しか無いので母にたてまつる物はありません」と言って、母と幼きキョウダイへ食事を提供しなかった。母達は道端の包みを拾って飢えを凌いだ。夜、ある人が来て、娘の胸に釘が刺さり死にそうだから行ってみて欲しいと言ったが、母は寝入って行けず、娘の死に目に会えなかった説話である。母と娘でも結婚すると母娘別財であり、同居でもなく、密着しているわけでもない。
前述の 2 例と併せると母子別財は 3 例あり、父子別財よりも母子別財の話型の方が多い。「母子+夫」の生活家族を歴史的背景にしていよう。いずれも、親子が財産を共有する経営体としての家が未成立だったことは多くの指摘がある11)。
他にも母を主人公とする説話は多い。下巻第 11 話は、夫を亡くした盲目で極貧の母が、娘と共に薬師の木像を拝礼して、木像からにじみ出た樹脂を食べると目が開いた話である。中巻第20 話は、娘が夫に従って地方に赴任し、あとに残った母親が悪夢を見て、熱心に読経を行い、娘を救った話である。他にも、上巻第28話は、捕まった母の為に出てきて捉えられる役行者小角、上巻 12 話は、髑髏が僧に殺されたいきさつを語り、兄が弟を殺した事を知る母、中巻 3 話は、妻を愛し母を殺そうとはかり悪死する息子でも命を救おうとし、死後の追善供養をした母へは「母の慈は深し」と記す説話、等々、「母」の用語を使用した説話は「父」のそれより圧倒的に多い12)。
いっぽう、母への不孝例も多い。9 世紀初頭頃までは、前述のような生活家族としての「母子+夫」実態を背景に、父母役割等は未だ規範的に定着していなかったことが説話からも推察される。
3 )今昔の父と母
前述のように、今昔では、父の登場が母を凌ぐようになり、数量的には大変多くなる。ゆえに、霊異記のように全部の説話を例示することはできないので、全体的な特質を挙げてみる。さらに、300 年ほど後に編纂された今昔には、霊異記を再録した説話が多い。しかし、12 世紀の人々に合うように部分的に改編されている。父登場の特色を提示したうえで、主として霊異記と比較することで、歴史的変容過程を分析する。
まず、父が多く登場する第 1 の要因と特色は、登場人物を説明するカ所にある。たとえば、「奥六郡ノ内ニ安倍頼良と云者有ケリ。その父ヲバ忠良トナム云ケル」(第 25 巻 13 話)のように、父や祖父の名前を記すようになる故である。9 世紀初頭は、いまだ双系的(両属的)系譜意識が残存していたが、12 世紀には父系が定着することは、古代史では通説になっている13)。
第 2 は、子どもの実の父親が「父」として登場してくることである。前述の霊異記上巻第 10話は、息子が父の物を盗んで牛になり返済していた話だったが、呼び集められた親族が、「諸の親、声を出して大に啼泣きていわく、『実に吾が父なり』」と描写されいる。「吾が父」とよぶ人々は、「諸々の親」すなわち親族なのである。霊異記では「父」とは、血縁的実父だけを意味せず、親族の統括者的意味で使用されていたことがうかがえる。これは、霊異記の「母」にはない特徴である。ところが、今昔第 14 巻 37 話に再録されると、牛が「此ノ家主ノ父也」と語り、「家主」が「実ノ吾ガ父ニ在シケリ」と泣くことになっており、さらに、「年来知ラズシテ仕ヒ奉ツル罪ヲ免シ給ヘ」との一文が付け加わる。「父」は、「家主」の実父であり、家主である息子は、「長年父だとは知らないで使役してきてしまった罪をお許しください」と謝るのである。「父」は血縁的実親としてほぼ限定され、さらに父親への不孝は許されないことだと変容している14)。
第 3 は、「家」の成立である。霊異記上巻 24 話凶しき女生める母に孝養せずして現に悪しき死の報を得る縁」は、今昔第 20 巻 32 話「古京ノ女、不孝ナルガ為ニ現報ヲ感ズルコト」として再録される。今昔には、「ソノ母寡ニシテ、家食貧して」「父母ニ孝養スベキ也トナム語リ伝エタリトヤ」が付加される。母は夫に先立たれた寡婦であり、「家」が貧しく食が用意できない、との説明が付加される。母子が食に事欠くほど貧困なのは、父(夫)が死去してやもめだからであり、家が貧しいのだ、との説明が入る。さらに、父母への孝養も強調される。この背景には、父・夫こそ、母子・妻子を養う必要があり、生活の単位は家である、との時代変化がうかがえる。
中巻42話「極めて窮しき女、千手観音の像をより敬ひ福の分を願ひて大きなる富を得る縁」は、今昔第 16 巻 10 話「女人、穗積寺観音ノ利益ヲコウブレルコト」として再録される。内容は、奈良左京に住む 9 人の子持ちの貧女が穂積寺の千手観音像に祈願したが、足に馬糞のついた皮の櫃を妹が預けたので開けてみると、銭百貫が入っていた。妹は知らないと答える。観音像の足に馬糞がついていたので観音様が下さった銭だろうかと思う。3 年後、穂積寺の銭百貫が失われていた。やはり観音様が下さった銭だったと理解する。観音が信心に感じてくださると銭が入って貧乏の愁いがなくなり、幸福となって子を養い食に飢えることもなく、衣の充分になった説話である。今昔では「家極テ貧シクシテ」と霊異記になかった「家」が挿入される。12 世紀には、夫(父)が妻子を養う「家」が、どの階層にも未熟ながらも成立していたことがうかがわれる。
3 .父親像・母親像の変容〜家の成立
1 )霊異記の母親像・父親像
家が未熟ながらもどの階層にも成立した 12 世紀頃の今昔の段階と、9 世紀初頭の霊異記の時代とは、親子関係や母親像・父親像が相違していた。先に、霊異記は母が圧倒的に多く、その背景には「母子+夫」の生活家族が想定されている歴史的背景を指摘した。ただし、母子が密接な生活空間にいたとしても、母として出産・授乳・子育て役割が規範化・強制化されていたわけではない。前述の上巻第 23 話「凶しき人嬭房の母に孝養せずして現に悪しき死を得る縁」は、借財返還を強要する富豪の息子に、授乳した乳の値を要求する説話であり、「嬭房の母」と表現されていた。この説話が、今昔第 20 巻 31 話「大和国ノ人、母ノタメニ不孝ナルニヨリテ現報ヲウルコト」として再録されるとき、題名から「嬭房の母」の表現はなくなる。しかも、霊異記では、「母その嬭房を出して泣き叫びて」と近隣の人が集まる前で乳房を息子に見せる場面は、今昔では、「母泣キ悲シミテ」だけになっており、乳房を見せてはいない。
霊異記では、「嬭房の母」はこの 1 例だけであるが、「乳」は、「乳母」を除外すると、他に 3例ある。中巻 30 話「行基大徳子をうだける女人を過去の怨と視て淵に投げ捨てしめ異しき表を示す縁」は、10 歳になっても立つことが出来ず、「なき責めて乳を飲み、物を喰らうこと間なし」と法要の席で泣きわめく子どもを、行基大徳が淵に投げ捨てるように命ずる話である。母が先の世で借財を返還しなかったために債権主が児となり負債分を乳で返済させようとした、と説明されている。先の説話と同様、母の乳は、即物的である。なお、今昔第 17 巻 37 話「行基菩薩、女人ニ悪シキ子ヲ教エ給フコト」として再録されるときには、「足立タズシテ、常ニ泣キセメテ物ヲ喰フ事ヒマ無シ」と描写されていて、「乳を飲む」はなくなっている。母の乳房は隠されていく15)。
下巻 16 話 「女人、濫しく嫁ぎて、子を乳に飢えしむるが故に、現報を得る縁」は、とりわけ象徴的である。越前国加賀郡に住む横江臣成刀自女は、生まれつき多情で、むやみに「嫁」いで、若死にした。紀伊国の僧侶の夢に、裸で踞り、両方の乳房が竈のように腫れあがり膿が流れて痛がっている女性が出てきて、「濫りに嫁ぎ、幼き子を捨て、男とともに寝て、子に乳を飢えさせ、特に成人がとても飢えたため、乳の腫れる報いを受けているが、子どもたちが許してくれたらこの罪を免れることができる」と訴える。僧は、成人を探し出し夢の事を話すと、「私は幼い頃から母を離れて知りませんが姉なら知っています」、と答える。姉を訪ねて行くと、「我が母公、貌うるわしくて、男に愛欲せられ、濫しく嫁ぎ、乳を惜しみて、子に乳を賜はらざりき」、「我、怨に思はず。何ぞ慈母の君、是の苦しびの罪を受くる」と言って、仏を造り写経して母の罪をつぐなう。僧の夢に女性が出てきて「今は我が罪免れぬ」と語る。最後に、「母の両つの甘き乳、まことに恩深しと雖も、惜しみて哺育まずは、返りて罪と成ることを。豈飲ましめざらむや」と結ばれている。なお、「嫁ぐ=とつぐ」とは、「ト(処)を接ぐ」ことで性交そのものを指す言葉である16)。母は美人だったので、多くの男と性関係を結び、子どもたちに乳を与えなかった。しかし、この説話では、姉の言葉にあるように、乳を与えられなかった子どもたちは、母を恨んではいない。女性は、臣の姓や、家の経営主体としての名称だった「刀自」を名に持っており、富豪層、あるいは一族的結合の統率者的女性と推察されるが、そのような階層でも、授乳や子育てが母親の義務であるという規範は定着しておらず、ゆえに仏教説話で訓戒を垂れねばならなかったと推察できよう。9 世紀初頭では、乳房は女性自身のものだったのである。
行基が「百くさに八十くさ添えて賜ひてし乳房の報ひ今日ぞ我がする」(『拾遺和歌集』1347)と詠んだとされるのも、乳房を女性自身の欲望から引きはがし、生む性への自覚を植え付けるためだったのかもしれない。この説話が今昔に再録されなかったのは、12 世紀初頭には、母親の育児放棄に対する子の対応が説得性をもたなかったからであろう。
最後の 1 例は、中巻第 2 話「烏の邪淫を見て、世を厭ひ善きことをおこなう縁」であるが、仏教とは矛盾する説話となっている。雌烏が夫烏や子烏を捨て、「今の夫に姧婚い」巣から出て行くのを見た大領が、妻子を捨てて出家する。のこされた妻が息子を養う。息子が病気になり死に臨む時、「母の乳を飲まば、我が命延ぶべし」と望む。息子は、乳を飲み、「母の甘き乳を捨てて我れ死なむかな」と言って死ぬ。嘆いた妻(母)も出家する。夫も妻も出家する説話である。しかし、仏教では死に臨んで何かに「愛着」することは成仏を妨げるはずである。また、父が妻子を養育する義務は規範化されておらず、最後の仏教的訓戒もあまり成功していない。夫烏や子烏を捨てて他の雄烏と一緒になった場面を、「今の夫」と表現することや、「姧婚」うと表現されていることも、当時の婚姻形態の対偶婚を示していて興味深いが、今回は問わない。説話の文脈から推察して息子は乳を飲む年齢、すなわち乳幼児ではなく、童以上の年齢だと推察されるのに、「母の乳を飲みたい」と申し出て、母は授乳する場面も、養育の為の授乳ではなく、欲望の為の授乳のように読み取れ、何とも不思議な説話である。この説話も今昔に再録されていない。
いっぽう、霊異記の父親像は、父の登場が少ないこともあって、あまり鮮明にならない。上巻第 9 話「嬰児、鷲にとられて他国に父に逢ふこと得る縁」は、但馬国山里の乳女児が鷲にさらわれて、丹波国で父親が遭遇して女児を取り戻す話である。「誠に知る、天の哀のたすくる所にして父子の深き縁なることを」と、父子の縁が深いと結ばれている。再録する今昔第 26 巻 1 話「但馬国ニシテ鷲、若子ヲツカミトルコト」では、実父と養父が、「共ニ祖トシテ養ウベキ也」と契りを結ぶ部分が加わる。父は「親として子を養う」必要があることが 12 世紀の父親役割になっていることはうかがえるが、霊異記の段階では、珍しい縁との奇縁譚だけである。霊異記の段階では、母親像も父親像も、実子を養育し扶養しなければならない、との規範がともに未成立だったことをしめそう。子どもは、古代的共同体、あるいは双方的親族共同体等で養育すると認識されていたことが推察される。
2 )今昔の父親像・母親像
今昔の父母像の特徴は、父権を発揮する父親像が登場することである。第 29 巻 11 話「幼児、瓜ヲ盗ミ父ノ不孝ヲ蒙ル語」がもっとも象徴的である。いい瓜を得た父親が夕方帰ってきたら人にあげようと戸棚に入れて取らないように言い置いて外出して、帰宅すると瓜が 1 個ない。家の者を厳しく責めても誰も名乗り出ない。最後に仕えていた女性が「阿子丸」様が食べました、と答える。父は、町に住む長老達を呼び集め、「瓜ヲ取タル児ヲ不孝シテ、此ノ人々ノ判ヲ取」り、追い出した。「母ハタラ云キニモ非ズ、極ク恨ミ云ケレドモ、父、由無キ事ヲ云ヒソ」と取り合わない。「不孝=勘当」された子どもは元服して宮仕をしていたが、盗みをして捕まった。役人がやってきて父親の責任を追及しようとしたが、父親は長老たちが連署した「不孝書」を見せると、役人は帰り、子どもだけが獄に入れられた。人々は「極ク賢カリケル人カナ」と褒め称えた。最後に、「祖ハ子ヲ愛スル事ナレドモ、賢キ者ハ兼テ子ノ心ヲ知リテ、此ク不孝シテ、後ノ過ヲ蒙ラヌ也ケリ」と訓戒を披瀝する。父親の命に背き、瓜を取って食べ名乗りでなかった息子を「不孝」にして、褒められた父親の話である。母が止めても、父は独断で父権を発揮している。家に血縁家族だけで無く多くの構成員を持つ平安末の在地の富豪層、在地領主層では、母権より父権の方が強いことを示していよう。
同様な説話は、第 19 巻 9 話「小児ニヨリテ、硯ヲワル侍出家スルコト」では、左大臣藤原師尹は、伝来家宝の硯を割った若君を「此ノ子ハ子ニハ非ズ」と追い出すが、じつは、家人の侍が割り若君が身代わりを申し出ていたのだった。乳母の家に移った若君は病気になり父母に見舞われることなく亡くなってしまう。硯を割った家人は出家する。左大臣は事実を知り嘆き悲しみ後悔するが出家はしなかった。この説話でも、追い出した父親に対し、母親は泣くばかりで反対はできなかった。平安中期の上層貴族層でも、父権が成立している。中世でも父権と母権は対等であったとする議論があるが、このような説話が出現しているのであり、父権の方が強かったことは間違いない。だたし、両説話とも典拠不明であり、平安中期以降の設定であり、父権は、平安中期頃にみられるようになるのだと思われる。なお、霊異記には父権を発揮する説話は見られない。
さらに、今昔では、父への孝養説話が登場する。第 19 巻 25 話「滝口藤原忠兼、実父得任ヲ敬フコト」では、忠兼は幼少の時から養子になっており、養父も実父として育ててきたが、ある雨の日、実父忠兼がずぶ濡れになっているのを見て、走り寄って笠をさしかけ家まで送り届けた場面をみた多くの人々は、もらい泣きをし広めると、僧が「汝ガ孝養ノ心極テ貴シ」と褒め称えている。養子が広く行われるようになったことと、養父と実父ともに孝養を尽くすことを訓戒した説話であり、出典は不明である。霊異記が再録された説話では、最後に「父母ニ孝養スベシ」と同様な訓戒が記されるが、この説話では父への孝養説話である。
同様な父への孝養や父権への従属を促す説話はいくつもでてくる。第 19 巻 26 話は、「下野公助、父敦行ノ為ニ打タレテ逃ゲザルコト」である。右近の馬場で、「手蕃」という 5 月 5 日に行われる年中行事の騎射が行われていた。舎人の下野公助は、騎射の名手であったが、どうしたわけかその時は 3 つの的をはずしてしまった。これを見た 80 歳を超えた父敦行は、走り寄って公助を打った。公助は逃げず、父に打たれ続けた。見物人たちや後に聞いた関白まで褒め称えたので、公助は関白からも信頼を得て、「子孫モ繁昌シテ有リトナム語リ伝ヘタルトヤ」と結ばれている。的をはずしただけで大勢の見物人の前で父親に打擲され続ける息子こそ、父親への孝行者だ、と関白も含めた多くの貴族層が承認したのである。貴豪族層、下級官僚層の都市民の中では、父への孝養が強要されつつあったこと、それこそが家や子孫の繁栄であるとの時代背景がうかがえよう。
霊異記再録以外では、母への「孝養」文言使用説話は、今昔第 19 巻 7 話「僧浄源、地蔵ニ祈リテ絹ヲ老イタル母ニ与フルコト」だけである。比叡山横川の僧浄源は、道心堅固で慈悲深い僧であった。飢饉の年、京の家には貧しい老母と妹がおり食物に飢えていた。浄源は地蔵菩薩に熱心に祈願したところ、母の夢に小僧が絹 3 疋を手にして出てきて、これを米に交易するように言う。覚めると本当に絹 3 疋があった。「従者ノ女」に命じて交易させたら、富家が米 30 石に買ってくれ、「一家富テ食物ニ飽満ヌ」。老母は、地蔵菩薩の利生と「浄源ノ孝養ノ深コトノ心ヲ喜ビケリ」、と結ばれている。貧しい家と言いながら「従者女」を家内に抱える裕福な都市民である。母への孝養も霊異記同様に要請されているが、今昔では、父への孝養を取り上げる説話の方が多くなる。
なお、今昔での「乳」は、基本的に乳幼児に母や乳母から授乳する描写のみである。霊異記再録以外では、4 歳の時に比叡に登りたいと言った夜に、母の夢に「児ヲ懐テ乳ヲ飲マシムル程ニ、児、急ニ成長」する姿が出てくる説話(第 12 巻 33 話)、さしたる夫がいないまま 2 人目の子どもを出産したので捨てようとする女性から児をもらい受け、乳が張るように祈願した老年の乳母の乳がにわかに張って乳がこぼれでた話(第 19 巻 43 話)、犬が捨て子に乳を飲ませて養育した話(第 19 巻 44 話)、夫も身よりもない女房が懐妊したので、子を産んで捨てようと思い女童 1人を同行して山城の山の中の老婆のいる小屋で出産したが、捨てることができず、「乳ヲ打含マセテ伏」してたところ老婆が赤子を喰おうとしたので逃げ帰る話(第 27 巻 15 話)、乳母が米を撒き悪鬼を退治して、児に乳を含める話(第 27 巻 30 話)、助けられた猿が鷲にさらわれた児を取り返すと、母が泣く泣く喜んで「子ヲ抱キ乳ヲ飲」ませる話(第 29 巻 35 話)の 6 例がある。今昔では、授乳するのは実母か乳母であるものの、乳は乳幼児に飲ませる場面のみである。出産・授乳の母親役割が定着していることを示そう。
今昔の母親像では、継子に対する慈愛を訓戒する説話が登場することも特徴である。第 26 巻5 話「陸奥国府官大夫介ノ子ノコト」は、在庁官人である地方豪族層で、継母が先妻の子どもを殺そうと謀って失敗する長い説話であるが、最後に、「此ヲ思フニ、継母ガ心極テ愚也。我子ノ如ク思テ養立タラマシカバ、惑ワズシテ、孝養モシテマシ」と訓戒が記される。貴族豪族層では、12 世紀前後には一夫一妻妾制が定着し、妻が死去した場合など後妻を設けることが多くなる17)。すると、継母の立場になることが頻繁になろう。継母も継子を実の子のように大切に育てれば親孝行を期待できる、との結論は、逆に養育することによって親孝行や老後の扶養も期待できることが規範化されていたことが推察されよう。
4 .おわりに
9 世紀初頭に成立した『日本霊異記』と、300 年近く後の 12 世紀前後に編纂された『今昔物語集』の父と母の用語を使用する説話を主としてとりあげ、さらに霊異記を再録した今昔の説話との比較を行い、父母像を検討した。中国の法律を土台にし大宝元年(701)に成立した『大宝律令』名例律第 1「不孝条」には、祖父母や父母の直系尊属に対する諸罪が規定されており、戸令には家族関係の法が規定されている。唐令と比較すると家族に関する日本律令の特色は、家父長制を導入することは否定的で、むしろ租庸調等の負担関係が順調に継承されるように規定された、とされている18)。不孝罰則や親権を規定しても、実態的には、奈良時代は、親権の強固な家父長制家族は未成立であったことが通説となっている。親権の欠如、「不孝」実態が霊異記に散見されている。また、双系制・両属制等と論者によって微妙な相違があるものの、父系制が定着していなかったことは確認されている。平安時代は、実態生活の上においても貴族豪族層から、官職・政治的地位の父子継承を主軸とする家が次第に定着する時期であった。今昔の時代、院政期は、貴族や豪族層には家が未熟ながらも定着した時代であった。

1)『日本国語大辞典』6、小学館、1979 年、769 頁。
2)飯沼賢司「イエの成立と親族」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座3 中世の形成』東京大学出版会、2004 年)、278⊖292 頁。
3)野村育世「『沙石集』における女性観」(『民衆史研究』33、1989 年)、41⊖51 頁。
4)飯沼論文は、日本史関係学会である歴史学研究会と日本史研究会の共同で、ほぼ20年に1度、最新の研究成果に基づいて企画され、日本史専攻学生必読書とされている日本史講座に掲載されたものである。『日本史講座』全 10 巻は、女性執筆者が 1 割もいないことに象徴されるように、ジェンダー視点が大変脆弱であり、日本史学会の現状がよくわかるので、ぜひ目を通して欲しいと思う。服藤早苗「女性史とジェンダー〜日本中世形成期の場合」(『ジェンダー史学』創刊号、2005 年)、同「ジェンダー史と日本古代史・中世史研究」(『歴史評論』672 号、2006 年)、同『古代・中世の芸能と買売春』明石書店、2012 年等参照。
5)学習院大学上代文学研究会編『日本霊異記訓釈索引』(学習院大学文学部研究年報、1975 年)使用。岩波日本古典文学大系を底本としている。なお、本文の引用は、出雲路修校注・新日本古典文学大系『日本霊異記』(岩波書店、1996 年)を使用する。
6)有賀賀壽子編『今昔物語集自立語索引』笠間書房、1982 年。同様に岩波古典文学大系を底本としている。同様に、本文では、池上洵一校注・新日本古典文学大系『今昔物語集』3 〜5(岩波書店、1993⊖1996 年)を使用する。
7)服藤早苗「古代の母と子」(森浩一編『日本の古代 第 12 巻 女性の力』中央公論社、1987年)、281⊖284 頁。
8)西野悠紀子「律令制下の母子関係」(脇田晴子編『母性を問う(上)』人文書院、1985 年)、81⊖82 頁。
9)義江明子『日本古代女性史論』吉川弘文館、2007 年、246 頁。服藤早苗監修『歴史のなかの家族と結婚』森話社、2011 年参照。
10)義江明子「“子の物を盗む話”再考」(『帝京史学』21 号、2006 年)、64⊖68 頁。
11)吉田孝『律令国家と古代の社会』岩波書店、1983 年。関口裕子『日本古代家族史の研究』上下、塙書房、2004 年。
12)なお、父や母の用語を使用していないが親子関係をうかがえる説話は他にもあるが、小稿では、用語使用の親子関係のみに絞って考察した。
13)義江明子『日本古代の氏の構造』吉川弘文館、1986 年。
14)義江明子 前掲書。服藤早苗『平安朝の父と子』中央公論新社、2010 年。
15)木村朗子『乳房はだれのものか』新曜社、2009 年。
16)服藤早苗『平安朝の女と男』中央公論新社、1995 年。
17)服藤早苗『平安朝の家と女性〜北政所の成立』平凡社、1997 年
18)坂上康俊「律令国家の法と社会」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座 2 律令国家の展開』東京大学出版会、2004 年)  
 
『日本霊異記』が伝える親心

 

昔から「出来の悪い子ほど可愛い」などと言いますが、どんな子であっても、愛さずにはいられないのが母親というもの。それこそ命をかけて世に生み出した子供ですから、たとえ命の危機があろうと省みずに我が子のことを思い続ける母親は少なくありません。平安時代の説話集『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)』より、とある男とその母親のエピソード。
鬼に惑わされた男の末路
今は昔、とある男が鬼(モノ。悪霊)にとり憑かれてしまいました。
(……せ、……殺せ、……そなたの母を、殺せ!)
そなたの人生が上手くいかないのは、すべて母親のせいだ……あやつはそなたを愛しているようでいて、実は愛情を隠れ蓑に、そなたをスポイルしているのだ……あの母親を殺さずして、そなたの成功はあるまいぞ……!
最初はそんな声に耳を傾けなかった男ですが、次第に心の隙を衝かれて鬼の言い分を信じるようになってしまいます。
「殺す!殺す!俺は、母(ヤツ)を殺す!」
見開いた眼を血走らせ、一心不乱に刀を研ぎ続ける息子の異変に気づき、母親は問いただしました。
「若(も)し、汝(なんじ)鬼(もの)に託(くる)へるにや」
【意訳】もしかして、お前は鬼にたぶらかされているんじゃないのかい?
託うとは狂うの意味で、ここでは鬼に心を託して(奪われて)しまったことを示しています。
「うるせぇ、この××婆ぁ!お前みたいな△□なんか☆〇してブッ殺してやるんだ!」
「そんな罰当たりなことを言ったらダメ!いつもの優しいお前に戻っておくれ!」
「黙れ黙れ黙れ……っ!」
必死の説得も聞く耳持たず、息子が研ぎ上がった刀を振りかざして母親に斬りかかった、次の瞬間。
「あぁっ!」
どうしたことか足元の地面がバックリと裂けて、息子は奈落の底へ落ちかけます。
「危ないっ!」
母親がとっさに息子の髪をつかんだお陰で、息子の身体は宙づり状態となりましたが、成人男性の体重を、年老いた母親一人で支えるのは大変です。
これは息子に対する天罰に違いない……母親は必死に耐えながら、天を仰いで叫びます。
「吾(あ)が子は物に託(くる)ひて事を為せり。実(まこと)の現(うつ)し心には非ず。願はくは罪を免(ゆる)し給へ」
【意訳】私の息子はモノノケに狂わされてこんな事をしてしまったのです。本心から私を憎んでいる訳ではなく、本当はとてもよい子なのです。どうかこの子の罪をお許し下さい。お願いします!
「うるせぇ、××婆ぁ!痛ぇじゃねぇか、放しやがれ!」
この期に及んでも錯乱状態の息子は自分を助けようとしている母親への悪態をやめず、また天もその罪を許すことなく、息子の髪がブチブチと切れてしまいました。
「あぁ……」
かくして息子は奈落の底へと真っ逆さま……きっと地獄の業火に焼き尽くされてしまったことでしょう。
終わりに
……と言う、実に救いのないエピソードですが、どんな状態であろうと、それこそ自分が殺されようと子供だけは助けたい親心がひしひしと伝わって来ます。
しかし、今回は鬼に惑わされてしまったものの、そもそもこういう事態に陥らないに越したことはありません。
一、赤子はしっかり肌を離すな
一、幼児は肌を離し、手を離すな
一、少年は手を離し、目を離すな
一、青年は目を離し、心を離すな
これは「子育て四訓」と言うそうですが、子供は成長段階に応じて適切な距離感をもって愛情を伝えることで、鬼にも惑わされない親子の絆が育まれるのではないでしょうか。 
 
『日本霊異記』に見る奈良時代庶民の生活と苦悩と泣き笑い

 

『日本霊異記』とは
『日本国現報善悪霊異記』(にほんこく・げんほう・ぜんあく・りょういき)
平安時代初期
最古の説話集
著者=景戒
上・中・下三巻。変則的漢文表記の仏教説話集
『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)、来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)、前田家本(下巻、重要文化財)、金剛三昧院(高野山本、上中下巻)などがあり、興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い(『日本霊異記』の諸本については小泉道『日本霊異記諸本の研究』1989)
景戒 けいかい 
もとは私度僧(しどそう=優婆塞うばそく。還俗したまま勝手に僧の修行をする者。奈良時代僧侶資格のない者の勝手な僧侶化は禁止されていた。つまり違法独学の修行者が私度僧)
晩年になってようやく国家に僧侶を認められ、薬師寺の僧侶に。 
出身:紀州(和歌山)名草郡波多村あたりの漁民?としか考えられない(筆者推定)
妻子もちで友人藻波多村出身者の、ともに半農半漁のモグリの行者かと考えている。 

「日本霊異記」はその間に紀州で見聞、あるいは直接見た、経験した仏教的、霊的奇異譚の拾遺集で、自分が貴族でもない平民それも豪族や神社や王宮ににえを献上させられていた漁民(調=つきの者の身分)から僧侶になれたゆえに、国家が禁じていた私度僧に好意的だった。調の者の多くが、ある意味租を納めていたほかの百姓(おおみたから)から差別された一族でもあった事情があり、そのことも解説するつもりである。
「日本霊異記」の最後から二番目の章=下巻末の第38話に、景戒自身の奇異経験など私的な記述があるのでまずこれから読むとこの説話集のできあがる事情がうすうす見えるかも知れない。本文で後述。概略は「延暦6年(787年)には景戒は僧の身でありながら、一方では世俗の家に住み、妻子がいたものの、それを十分に養うだけの財力がないという状態にあった。また、延暦14年(795年)に伝灯住位の僧位に進んでいる。また、その2年後の延暦16年に造立した仏堂に向かってキツネがいくたびか鳴くので不審に思っていたところ、自身の子息や牛馬が相次いで亡くなったという」。
おそらく説話中に登場する漁師たちにも似たような境遇の遭難者がいるが、景戒もそれと同様に、漁師をしていたときには、領主、網元が提供する海の小屋に住み、妻がわずかな畑を耕して口に糊する貧民だっただろう。それだけに彼には同じ貧民や賎民、漁民への慈悲あふれる思いがあったようである。彼らは遭難して戻らない者も多くあったらしく(農家で言えば庄屋と小作=水のみ百姓のような、大変な格差のある生活である)、それは当時、国法違反であるが国司が不問にして、哀れんで食料を分け与える内儀の話なども見える。涙と笑い、ペーソスも充分味わえるはずである。
もちろん仏教説話である限り、そこにコレクションされた怪異は、いきおい、すべてが仏のご利益、仏を信じれば報われる、そむけば自身、あるいは家族に不幸が起きる、だから仏法を信じなさいという仏教拡販的宗教宣伝用コピーであるのはやむをえず、なにもかもが因果応報思想で描かれるのも否めない。場合によっては、その目的のために元ネタを改変、潤色したケースもないとは言えまい。しかしそこには、当時の民衆、漁師やその家族の納税情報や、献上した物品(贄ニエ・調)の詳細、和歌山を中心とする近畿海岸部の情報、地名、地形、その他いつごろ海に出ているか、どこでなにを採集しているか、網本としての紀氏、網子としての漁師の実生活、それをいわゆる税を納めていた農民の生活や形態などと比較できたりと、山のような庶民情報が含まれ、近年重視されてきた出土木簡に書かれていた物品やその納品先などと合致していたりする。
紀州名草郡や海部郡、あるいは海草郡などは、そもそも紀氏に従属する古来からの海人族の多い地域で、景戒も波多村の漁師の出身である。波多は秦氏のはたではなく、海の氏族の波多氏一族とその部民の姓である。太平洋側の良港に多い氏姓。波多野、波多田など。その倭国における派生元は九州有明海の肥前など。それ以前はおそらく朝鮮半島南岸部、伽耶あたりであろうと思われる。肥前、紀州、相模などに多い苗字。また紀氏がスサノヲを祖とする氏族で、任那(伽耶の一部)が実際にあっただろう渡来氏族人名なども登場すること、なぜスサノヲ子孫を名乗るか、なども見えてくる可能性があろうかと思っている。
いくつかの話をピックアップして、日本霊異記を重箱の隅をつつくようにあらゆる事柄、言葉、現象、地名、人名に絡んでみるつもりなのでおたのしみに。それぞれ10数行の簡潔で短い説話だが、つっこみどころの非常に多い民俗誌なので、解説は一章にかなりボリュームのあるものになるかと感じている。
古代の民衆の暮らしぶりは、わずかに『貧窮問答歌』などに垣間見られる和歌がある、問答歌作者の山上憶良にしても官僚であって、実際の平民であったものが吐露する現実と近かったかどうかなんともいえないところがある。それに比べて『霊異記』は元平民だったものが、現地で集めた身に詰まる実話性が希少で、実生活の具体性に富む資料だと言えよう。 
 
日本霊異記

 

■日本霊異記全タイトル総覧と上巻序文と下巻第二十五
日本霊異記全タイトル一覧
(原文は説話ナンバーが、第一、第二となっていてタイトルのあとにつけられているが、便宜上通し番号としてアラビア数字を頭に付した)
日本国現報善悪霊異記 上巻
序・諾楽の右京の薬師寺の沙門景戒録す
1・電を捉へし縁 
2・狐を妻として子を生ましめし縁 
3・電の憙を得て、生ましめし子の強力在りし縁 
4・聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 
5・三宝を信敬しまつりて現報を得し縁
6・観音菩薩を憑み念ぜしによりて、現報を得し縁 
7・亀の命を贖ヒテ放生し、現報を得て亀に助けらえし縁
8・聾ヒタル者の方広経典に帰敬しまつり、報を得て両つの耳ながら聞えし縁
9・嬰児の鷲に擒はれて他の国にして父に逢ふこと得し縁
10・子の物を偸み用ゐ、牛と作りて役はれて異しき表を示しし縁 
11・幼き時より網を用ちて魚を捕りて、現に悪報を得し縁 
12・人・畜ニ履まれし髑髏の、救ひ収めらえて霊しき表を示して、現に報いし縁
13・女人の風声なる行を好みて仙草を食ひ、現身を以て天を飛びし縁 
14・僧の心経を憶持し、現報を得て奇しき事を示しし縁 
15・悪人の乞食の僧を逼シテ、現に悪報を得し縁 
16・慈の心无くして、生ける兎の皮を剥リテ、現に悪報を得し縁
17・兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬しまつり、現報を得し縁 
18・法花経を憶持し、現報もて奇しき表を示しし縁
19・法花経品を読む人を呰りて、現に口ゆ斜みて悪報を得し縁
20・僧の湯を涌す薪を用ちて他に与へ、牛と作りて役はれ、奇しき表を示しし縁
21・慈の心无くして、馬に重き駄を負せ、以て現に悪報を得し縁 
22・勤に仏教を求学し、法を弘め物に利あらしめ、命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 
23・凶人のち房の母を敬養せずして、以て現に悪死の報を得し縁
24・凶女の生める母に孝養せずして、以て現に悪死の報を得し縁
25・忠臣の欲小なく、足るを知り、諸天に感ぜられて報を得、奇しき事を示しし縁
26・持戒の比丘の浄行を修めて、現に奇しき験力を得し縁 
27・邪見ある仮名の沙弥の塔の木を斫キて、悪報を得し縁 
28・孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁 
29・邪見に乞食の沙弥の鉢を打ち破りて、以て現に悪死の報を得し縁 
30・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁
31・慇懃に観音に帰信し、福分を願ひて、以て現に大福徳を得し縁 
32・三宝に帰信して衆僧を欽仰し、誦経せしめて、現報を得し縁 
33・妻の、死にし夫の為に願を建て、み像を図絵きしに、験有りて火に焼けず、異しき表を示しし縁 
34・絹の衣を盗ましめて、妙現菩薩に帰願しまつり、其の絹の衣を修得せし縁 
35・知識を締び、四恩の為に絵の仏像を作り、験有りて、奇しき表を示しし縁 
中巻
序・諾楽の右京の薬師寺の沙門景戒録す
1・己が高徳を恃み、賤形の沙弥を刑ちて、以て現に悪死を得し縁 第一
2・烏の邪淫を見て世を厭ひ、善を修せし縁 第二
3・悪逆の子の、妻を愛みて母を殺さむと謀り、現報に悪死を被りし縁 第三
4・力ある女の、力くらべを試みし縁 第四
5・漢神の祟ニ依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報を得し縁 第五
6・誠心を至して法華経を写し奉り、験有りて異しき事を示しし縁 第六
7・智者の変化の聖人を誹り妬みて、現に閻羅の闕に至り、地獄の苦を受けし縁 第七
8・蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得し縁 第八
9・己に寺を作りて、其の寺の物を用ゐ、牛と作りて役はれし縁 第九
10・常に鳥の卵を煮て食ひ、以て現に悪死の報を得し縁 第十
11・僧を罵むと邪婬するとにより、悪病を得て死にし縁 第十一
12・蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報に蟹に助けられし縁 第十二
13・愛欲を生じて吉祥天女の像に恋ひ、感応して奇しき表を示しし縁 第十三
14・窮れる女王の吉祥天女の像に帰敬して、現報を得し縁 第十四
15・法華経を写し奉りて供養することに因り、母の女牛と作りし因を顕しし縁 第十五
16・布施せぬと放生するとに依りて、現に善悪の報を得し縁 第十六
17・観音の銅像と鷺の形と、奇しき表を示しし縁 第十七
18・法花経を読む僧を呰りて、現に口ゆ斜みて、悪死の報を得し縁 第十八
19・心経を憶持せし女の現に閻羅王の闕に至り、奇しき表を示しし縁 第十九
20・悪夢に依りて、誠の心を至して経を誦ぜしめ、奇しき表を示して、命を全くすること得し縁 第二十
21・せふの神王のこむらの光を放ち、奇しき表を示して現報を得し縁 第二十一
22・仏の銅像の盗人に捕られて、霊しき表を示し、盗人を顕しし縁 第二十二
23・弥勒菩薩の銅像の盗人に捕られて、霊しき表を示し、盗人を顕しし縁 第二十三
24・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の賂を得て免しし縁 第二十四
25・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五
26・未だ仏像を作り畢へずして棄てたる木の、異霊しき表を示しし縁 第二十六
27・力ある女の強力を示しし縁 第二十七
28・極めて窮れる女の、尺迦の丈六仏に福分を願ひ、奇しき表を示して、以て現に大福を得し縁 第二十八
29・行基大徳の、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵嘖せし縁 第二十九
30・行基大徳、子を携ふる女人の過去の怨を視て、淵に投げしめ、異しき表を示しし縁 第三十
31・塔を建てむとして願を発しし時に、生める女子の舎利を捲りて産れし縁 第三十一
32・寺の息利の酒をおきのり用ゐて、償はずして死に、牛と作りて役はれ、債を償ひし縁 第三十二
33・女人の悪鬼に点されて食らはれし縁 第三十三
34・孤の嬢女の、観音の銅像を憑り敬ひしときに、奇しき表を示して、現報を得し縁 第三十四
35・法師を打ちて、以て現に悪しき病を得て死にし縁 第三十五
36・観音の木像の神力を示しし縁 第三十六
37・観音の木像の火難に焼けずして、威神の力を示しし縁 第三十七
38・慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁 第三十八
39・薬師仏の木像の、水に流れ沙に埋れて、霊しき表を示しし縁 第三十九
40・悪事を好む者の、以に現に利鋭に誅られ、悪死の報を得し縁 第四十
41・女人大きなる蛇に婚せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四十一
42・極めて窮れる女の、千手観音の像を憑み敬ひて、福分を願ひ、以て大富を得し縁 第四十二
巻下
序・諾楽の右京の薬師寺の沙門景戒録す
1・法花経を憶持せし者の舌、曝りたる髑髏の中に著きて朽ちずありし縁 第一
2・生物の命を殺して怨を結び、狐と狗とに作りて互に相報いし縁 第二
3・沙門の十一面観世音の像に憑り願ひて、現報を得し縁 第三
4・沙門の方広大乗を誦持して海にしづみて溺れざりし縁 第四
5・妙見菩薩の変化して異形を示し、盗人を顕しし縁 第五
6・禅師の食はむとする魚の化して法花経と作りて、俗の誹を覆しし縁 第六
7・観音の木像の助を被りて、王難を脱れし縁 第七
8・弥勒菩薩の願ふ所に応じて奇形を示したまひし縁 第八
9・閻羅王の奇しき表を示し、人に勧めて善を修せしめし縁 第九
10・如法に写し奉りし法華経の火に焼けざりし縁 第十
11・二つの目盲ひたる女人の、薬師仏の木像に帰敬して、以て現に眼を明くこと得し縁 第十一
12・二つの目盲ひたる男の、敬みて千手観音の日摩尼手を称へて、以て現に眼を明くこと得し縁 第十二
13・法花経を写さむとして願を建てし人の、断えて暗き穴に内り、願力に頼りて、命を全くすること得し縁 第十三
14・千手の咒を憶持する者を拍ちて、以て現に悪死の報を得し縁 第十四
15・沙弥の乞食するを撃ちて、以て現に悪死の報を得し縁 第十五
16・女人、濫シク嫁ぎて、子を乳に飢ゑしめしが故に、現報を得し縁 第十六
17・未だ作り畢へぬ捻せふの像の呻ふ音を生じて、奇しき表を示しし縁 第十七
18・法花経を写し奉る経師の、邪婬を為して、以て現に悪死の報を得し縁 第十八
19・産み生せる肉団の作れる女子の善を修し人を化せし縁 第十九
20・法花経を写し奉る女人の過失を誹りて、以て現に口ゆ斜みし縁 第二十
21・沙門の、一つの目眼盲ひ、金剛般若経を読ましめて、眼を明くこと得し縁 第二十一
22・重き斤もて人の物を取り、又法花経を写して、以て現に善悪の報を得し縁 第二十二
23・寺の物を用ゐ、復大般若を写さむとして、願を建て、以て現に善悪の報を得し縁 第二十三
24・修行の人を妨ぐるに依りて、猴の身を得し縁 第二十四
25・大海に漂流して、敬みて尺迦仏のみ名を称へ、命を全くすること得し縁 第二十五
26・非理を強ヒて以て債ヲ徴り、多の倍を取りて、現に悪死の報を得し縁 第二十六
27・髑髏の目の穴の笋を掲キ脱チテ、以て祈ひて霊しき表を示しし縁第二十七
28・弥勒の丈六の仏像の、其の頸を蟻に嚼まれて、奇異しき表を示しし縁 第二十八
29・村童の戯れに木の仏像を剋み、愚なる夫斫き破りて、以て現に悪死の報を得し縁 第二十九
30・沙門の功を積みて仏像を作り、命終の時に臨みて、異しき表を示しし縁 第三十
31・女人の石を産生みて、之を以て神とし斎きし縁 第三十一
32・網を用ゐて漁せし夫の、海中の難に値ひ、妙見菩薩を憑み願ひて、命を全くすること得し縁 第三十二
33・賤しき沙弥の乞食するを刑なひ罰ちて、以て現に頓に悪死の報を得し縁 第三十三
34・怨病忽に身に嬰り、之に因りて戒を受け善を行ひて以て現に病を愈すこと得し縁 第三十四
35・官の勢を仮りて、非理に政を為し、悪報を得し縁 第三十五
36・塔の階を減じ、寺の幢を仆して、悪報を得し縁 第三十六
37・因果を顧みずして悪を作し、罪報を受けし縁 第三十七
38・災と善との表相先づ現れて、而る後に其の災と善との答を被りし縁 第三十八
39・智と行と並に具はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九
上巻序文
「そういうわけで、奈良の薬師寺の僧わたくし景戒、世の中を見るに、才能がある人でも卑しい行いをする、利益を求めて財物をむさぼること、磁石が砂鉄を吸い寄せる以上のものがある。
人のものを欲しがって自分のものは惜しむ。粟の実を砕いてぬかまで食ってしまう。あるいは寺のものを盗んで牛の子に生まれ変わってしまう。仏法や僧を謗って現に炎に焼かれる。他方、道を求め行を積み現に験を得る、深く信じて善を修め生きながらに幸いに合う。
善悪の報いは影の形に従う如くである。苦楽の響きは谷の声に応えるが如し。これを見聞きする人は、驚き怪しみ動転する、慚愧するひとはどきどきし心が痛み何とかそこから立ち逃れようとする。
善悪がどんなものか語らずして、どうして曲がった執着を直して良し悪しを定めることができよう。因果応報を語らずして、どうして悪心を改めて善道を修めることができよう。
昔、漢の地では、※「冥報記」をつくり、大唐国では※「般若験記」を作った。どうして他国の伝録を大事がって自国の奇事を信じおそれないのか。省みるにそのままにして黙っていることもできず、いささか仄聞したことを記録し日本国現報善悪霊異記と名づけた。上中下の3巻とし、後世に伝える。
しかしわたくし景戒は生まれつき賢明ではなく、濁った心を澄ますこともできない。井戸の中の知識であり、長く人の道とは何か迷っている。よくできたお話にまずい彫刻刀をいれ、自分の手を傷つけるだけ。あるいは名玉を産す崑崙の山の石ころひとつかもしれない。また、説話の詳細が分からず書き漏らしている部分も多いかもしれない。善を願う心ばかりが強くて雑音を入れるだけかもしれない。後の世の賢者、どうか嘲り笑わないで欲しい。
願うところは善悪応報の不思議をみるひとが、邪を退け正に入ること、諸悪なさざること、諸善を奉り行うこと。
※「冥報記」=唐臨の著 唐高宗の永徽年間(650〜655年)仏教因果応報話集。
※「般若験記」=「金剛般若経集験記」孟献忠撰。唐玄宗の開元6年(718年)成立。金剛般若経の霊験談集。

ここには著者がなぜこの見聞、伝聞集を著したかがこまかく書かれている。その内容は霊異記が、勧善懲悪・因果応報という仏教の二大規範によっていることがわかる。あらゆる日本人にとって非常に好ましく、そして理解しやすい概念だろう。つまり霊異記は、その読者を、小難しい理論を好むようなインテリには設定していない、庶民に向けた説話集だということになる。だから読みやすい。そして文章も簡潔で、平易な語彙で書いてある。
平安時代の、822年あたりに成立とされるこの書物、上記序文は景戒自身の手になるが、いささかくどいほどに謙虚な態度で書き始めている。序文は上・中・下巻のすべてにいちいちついていて、この人の、やや懇切丁寧・慇懃無礼・細やかすぎる性格がよく見える。まあ、底辺から独学で世に出る人の常であり、そのあたりはおおめに見よう。
序文には、これといった時代情報もないので、紹介だけにとどめ、いよいよセレクトしたいくつかのお話に入ってみよう。

最初に下巻25を扱う。ここには紀・中臣のかばねを持つ人々が出てくる。
朝臣はついてはいるが、中央の紀氏や中臣氏よりずっと格下の地方小氏族であり、土地だけは広く持つ、しょせんは地主で網元に過ぎない人々。業突く張りの領主といった風情で、下に網子の、やはりかばねだけは紀臣・中臣連と立派だが、紀朝臣にこきつかわれている漁師である。まるで蟹工船みたいなみじめな生活。
網元と網子の関係は、大農家の庄屋と小作人の関係と思えばよかろう。上にいるほうは多くの実労働者を従えて、動かし、利を得ている。下のほうは、いくら働いても、いくら大漁でも、もらえる賃金はすずめの涙で、年中ぴーぴーしていて、なのに妻はおり、決まって子沢山というステレオタイプ。いわばミズノミである。
古代は農夫・漁師その他の職人に限らず、どの職業でも「百姓 ひゃくせい」とされ、「おおみたから」と持ち上げられてはいるが、概してそれは租税のための人間であり、どれもが貧しい。いや赤貧洗うが如しの、今日の口糊のためのタケノコ生活である。ただし古代には賃料はまとめて一年分を「年価」として名主・地主・庄屋からいただいていた。だからわずかな金も、一年もつはずもなく、だいたいは半年もせずに底をつく。だから漁師は、故網野善彦が言うように、みな半漁半農で、女房が猫の額のような浜の畑で、野菜を作り自給自足である。筆者が高校の教師から聞いた話では、漁村の食事は、三度がみな、たくあん・干物・主食は浜辺のこととて水田はないので、畑で取れたあわ・ひえ飯、あるいは芋である。生物学上、栄養学上も、それで充分であると教師は言うていた覚えがある。そうしたつましい食事は、ついこないだまでさして変わらなかった。延々として、庶民は粗食であり、そのおかげで成人病や虫歯のない日本人なのであった。戦後、それらのすべてが崩壊し、欧米のスタイルに一変することで、日本人は成人病に苦しむことになったのである。白米、肉食、建材伐採、自然からの隔離と平和ボケ・・・。それを「文化進歩」とも言うのだが、果たして進歩なのかどうかさまざまな問題が出ている。
下巻 大海に漂流して、敬(つつし)みて尺(釈)迦仏のみ名を称へ(となえ)、命を全くすること得し縁 第二十五
長男(丁男)紀臣馬養(きのおみ・うまかい)は、紀伊国安諦郡(あてのこほり)吉備郷の人なりき。小男(せなん)中臣連祖父麿(なかともに・むらじ・おほぢまろ)は、同国海部郡(あまのこほり)浜中郷の人なりき・・・。
解説。
このふたりはかばねは立派だが、ただの網子・漁師つまり作業員でしかない。長男とか小男というのは、次男三男の長男ではなく丁男で年齢区分を示すものである。『養老令』「戸令」に、黄は三歳以下、小は4~16歳、中は17~20歳、21~60歳は丁、61~65歳は老、それ以上は耆(き)、とある。
原文
凡男女。三歳以下為黄。十六以下為少。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾。
ということは上の馬養は長男とあってつまり丁男だから、青年〜中高年ほどの年恰好でベテラン漁師だろう。一方の名前だけは祖父となっている祖父麿のほうは小男で、まだ少年であることがわかる。
こういう年齢規範は、租税をふんだくるための目安である。中国の法律をまねたものであった。養老律令の編者は藤原不比等で、設定したのは孫の仲麻呂。聖武天皇の時代である。その前の天武時代の大宝律令の選定メンバーにも不比等はいた。古代日本の法律を決めたのはだから藤原不比等一家である。
網元である紀朝臣の居住地はあとで出てくるが、和歌山県日高郡から御坊市あたりと推定されている。潮と地名があるので今の御坊市の日高港であろう。網子らに過酷な3K労働を課して、都に多くの調を差し出し名を売りたい、悪徳大名のような奴である。
租庸調というのは規定があり、租はコメか金、庸は労働、調は主に布・絹織物である。すると紀朝臣麻呂は漁師から何を徴収してさしだすか?それはまず贄=食品であろう。だからこれは租庸調の外にあった外品で、贄というものに当たる。あわびとかなまことか、タイやイギスといった産地の高級特産品だろう。木簡の記録にほぼ一致する海産物である。木簡とはそうした伝票である。布には布に書いた付箋がついたのだろうが、残っていない。直接製品に書いてあることも多いが。まずは木製品しか残っていない。
時代はあとで出てくるが、光仁天皇の頃というので、平安時代直前である。つまり彼らは紀貫之・友則の先祖の時代の人である。
紀臣馬養の出身地は和歌山の安諦郡。「あんてい」はのちに「在田 ありた」郡で、それから「有田郡」に変化する。今の和歌山県有田郡であり、そのどこかに吉備郷があったことがわかる。なぜ紀伊国に吉備郡があるのか?それはもちろん大昔、弥生時代くらいに紀氏一族が伽耶〜九州筑紫国・肥国から豊国を経て吉備国に入り、吉備式の土器をたづさえて大阪湾に入り、拡散したからである。どこかで聞いたことがあるルート・・・そう天日矛の日本人妻だったアカルヒメの逃避ルートとそっくり。つまりあれは紀氏や中臣氏の渡来ルートだろう、すると夫のアメノヒボコとは?もちろん秦氏であろう。土器でわかる話。
紀州は海人族が建てた国であり、その頭目だったのは紀氏・海部(あま)氏である。大和の葛城、京都山城の宇治・深草・伏見などに入ってそれぞれ紀氏となった。海部氏は尾張・岐阜が有名だが、主に太平洋岸を北上した海岸部と河川上流に多い氏族。おそらくここに紀氏とともに出てくるので、両氏族は古代からともに海を渡る氏族だったのだろう。有田郡は幡陀郷という古名の時代もあり、羽田、波多、幡は渡来人秦氏ではない「はた」の氏族である。伽耶からおそらく秦氏を乗せてきたのだろう。海人族である。
中臣連祖父麿は海部郡浜中郷の人。これは現在の海草郡下津町(最近海南市になった)。浜中地名は各地にあって、たいがいが漁師町である。浜の中ほどに住まわされていたのであろう。筆者知人には浜中さんもあれば、浜西さんもいたが、たぶんご先祖は漁師である。だからやはり彼もそもそもが漁師そ子である。中臣氏なのに?中臣氏もやはり九州豊前に地名が存在する、行橋市草葉が旧中臣村である。ここも海岸部で古墳が多い。豊前には秦氏、中臣氏、紀氏、そして隼人氏がいた痕跡が見られる。いずれも海に関わってきた氏族だ。
それらが大和に入って貴族紀氏が生まれた。その紀氏は祖神がスサノヲである。紀伊国に種をまき、木部という一族ができあがる。だからその祖先はスサノヲの子・イタケルである。まさに紀氏も海人族も渡来人もみな、スサノヲの子であるのだ。紀伊の地名も木を植えたからで、もとは木氏・木部(岐部)である。岐部は豊後国東の地名だが、岐とは木の股のことだ。木の股とは神の名。そこからさまざまの命を生み出す。つまり女性のまたぐらと同じであり、大月姫のことだとなる。この月が租庸調の調(つき)を意味する。だから月神とは食べ物、生命で、それは王家や豪族や神社から見て贄を差し出す一族だとなる。それで調がつく氏族(伊調など)は月神を祭る貴族の従属氏族だとなるわけだ。スサノヲや月読が記紀で、その神を切り殺すわけはないのにわざとそう書かれてしまっている。敗北氏族をさしているのである。
これらは氏・臣・朝臣・連がいて、その下に人・首・部があった。この噺の漁師たちはみな部であるはずだが、なぜか臣や連を名乗っている。以前はそうした身分で磊落したものか?紀氏は確かに不遇な氏族だった。それは大伴や物部、一時的には中臣もそうだったわけである。
それにしても連と臣の子孫が網子の漁師となってしまうとは。
二人がなぜ共に紀朝臣の網子になったかの経緯はわからない。別々で流れてきたのか、一緒に来たのか?いずれにせよ中臣のほうはまだ年端も行かぬ15・6の少年で家族もなかろう。紀のほうには妻がいたとあとで出てくる。
この二人はのちに大水で漂流して対岸の徳島あたりに漂着し、ひとりは帰国、ひとりは徳島に居残ることになった。次回、そこから再開する。
■霊異記下巻第二十五 (続き) 真言と称名・日高見とは
下巻 大海に漂流して、敬(つつし)みて尺(釈)迦仏のみ名を称へ(となえ)、命を全くすること得し縁 第二十五
「長男(丁男)紀臣馬養(きのおみ・うまかい)は、紀伊国安諦郡(あてのこほり)吉備郷の人なりき。小男(せなん)中臣連祖父麿(なかともに・むらじ・おほぢまろ)は、同国海部郡(あまのこほり)浜中郷の人なりき。(ここまで前回解説は済んでいる)
吉備郷は今の有田川町であろう。
追補:尺(釈)迦仏のみ名を称へ(となえ)について
「釈迦仏のみ名」、とは、ほとけの御名前を唱えるということで、助けてもらいたいという呪である。仏に帰依して救いたまえと身を投げ捨てること。「南無」。南無とはインドのサンスクリット語で「ナマス」=帰依するである。挨拶で使うナマステは「あなたを信じます」ということである。
「み名」は称号。仏陀なら仏陀の名前。阿弥陀仏に帰依するなら「南無阿弥陀仏」なのだが、これまでこうした称号の唱文は鎌倉時代から始まったとされていた。しかしその後の研究では少なくとも平安時代にはもうあったとされている。ところがこの説話は奈良時代末の光仁天皇(桓武天皇の父・天智天皇の直系子孫)の頃の話だとなっているから、称号風習はすでに奈良時代にはあったことになってしまうのである。
もちろんこの説話集ができあがる時代は光仁天皇時代よりもあとのこと。その時代に起こった霊威を書いているだけだから、称号唱文があったとすることは簡単なことだろう。霊異記はそういう仏教拡販のためのわかりやすい物語集でしかないのだから、いくらでも前倒しは可能である。
ただ、南都仏教にはすでに空海によって「真言」が届いており、それはやはり呪文として仏の名を唱える・・・ただしサンスクリットで・・・ものだったのだから、そうした手法はすでに飛鳥時代あたりにもあった可能性はある。空海が真言を持ち帰ったと言っても、空海は入唐前から真言密教や真言唱和を知っていたはずだからだ。そうでなければ空海がいきなり真言密教の本場であった江南に渡るわけはない。記録は、それは難破による偶然だとするが、それは空海の霊威を言いたいがための宣伝的展開に過ぎないだろう。最初から空海は真言を極める目的で中国南方を目指したのである。どうやって?簡単ではないか。空海つまり四国佐伯氏=蝦夷俘囚出身の彼には伊予・讃岐(愛媛と香川)の実力者である阿刀大足(あとの・おおたり)という母方の叔父がいたのだ。彼は学者であったが、地盤は交易する海人族である。つまり空海遣唐の船主、パトロンなのだから。(大足という名前はダイダラボッチ、山の神の意味だろう。阿刀という苗字とあわせて、彼らは蝦夷刀鍛冶だったのでは?)
さて、称号とは阿弥陀仏とか仏教教義である「妙法蓮華教」に帰依するときの呪文である。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華教と繰り返し唱えて、その仏や教義に帰依しますと誓うことである。真言も同じである。あなたがいくらか真言宗の葬儀などに参列した経験があるなら、真言宗の坊さんがなにやらわけのわからぬ言葉を唱えるのは聞いたことがあるだろう。あれはサンスクリットの仏の名前を唱えているのである。オン・サバラ・・・なんたらかんたらソワカなどと叫んでは印を結ぶ行為だ。すべて仏教のほとけの名前のインド語である。
こうした、名前を何度も何度も称えるのを呪文とするのに似た風習は、実は欧米にもあるのをご存知?アメリカ映画を見ていると、知り合い同士が出会うシーンで、彼らは必ず相手の名前を呼び合うはずだ。
なんでいきなり名前を呼び合うのか?そう思ったことはないか?こいつら少し気色悪いかも・・・とか感じたことは?なぜ、まずは挨拶とか天気の話じゃないんだ?
名前を呼び合うところには彼らの交信の意味がある。安心して話していいかを確認せなばならないのだ、大陸では。
必ずそう言っている。そして互いにしばらくじっと目を見交わすのである。それは欧米人・・・キリスト教徒には非常に大事な挨拶「互いに信頼しているという証の、暗黙の”交信”」なのである。名前を呼び合うことに霊の交信が存在する。ところが日本人は、あまりそういうことはしない。出会ったら「よう元気?」「おう、そっちは」「いい天気だね」「まったくなあ」・・・程度でおしまい。名前など、しかも互いにセカンド、ミドルネームで呼び合う習慣などない。よほど小さいときから家族同然の仲間にしか〜〜ちゃんなんか言わないはずだ。しかしアメリカ人は会社の同僚にでさえ下の名前で、「ハイ、ジョン?」である。この?にこそ相互の交信が見えている。
真言はまずもってそれに近い呪文である。だから仏教は外国から来た宗教だとはっきりしている。つまりアメリカ人の「は〜いジョン?」には「まかはんにゃしんぎょうと同じくらいのシンシアリティ=「あなたに帰依する」思いが集約されているのだ。
そもそも、仏の名前など、唱えてどんなご利益があるのだろう?この説話の二人はしかし、そのおかげで無事に陸地へたどり着く。当然である。説話なのだから。たどりつけずに、どんどん数奇な映画じみた冒険へと、話は広がりはしないのだ。そうしてしまうと、冒険物語になってしまい、説話であることが忘れられるからだ。映画のようにわくわくさせ過ぎては、言いたいことが別のところへ行きかねない。だから『今昔物語』にしてもこの霊異記にしても、中国の説話や『山海経』なども短い、簡潔な文章でできている。長すぎたら、庶民はあきるし、読めなくなる。ぱっと読ませて、ちゃっと簡潔に、しかもなるほど!でなければ駄目なのだ。説話とはそういうものなのである。仏を信じさせること以外の余計なことは絶対言い出さない。
およそ呪文とはそうしたものなのである。神や仏や、助けてあげたい人、愛する人の名前を呼び合うだけのことである。修験道の開祖であるという役の行者ですら、山々を彷徨しながら、孔雀明王の真言を唱えるのである。すると何かご加護があると。信じればそうなるのだ。
前回記事の訂正一箇所・・・ふたりの漁師が流されてたどり着くのは淡路島である。徳島(阿波)ではない。勘違いだった。
「紀万侶朝臣(きの・まろの・あそん)は、同国日高郡の潮(みなと)に居住し、網を結びて魚を捕りき。馬養・祖父麿の二人、庸賃(ちからつくのい)して年価を受け、万侶朝臣に従ひて、昼夜を論ぜず、苦行に駆使せられ、網を引きて魚を捕る。(ここまで前回解説済み)
白壁天皇(光仁天皇=こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日)〜 天応元年12月23 日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日)〜 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。)の、宝亀六年の乙卯(いっぽう)の夏六月十六日、天にはかに(にわかに)強く風吹き、暴き(あらき)雨降り、潮に大水漲ひて(ただよいて)、雑木を流し出す。万侶朝臣、駆使に遣はして、流木をとらしむ。長男と小男の二人、木を取りて桴(いかだ)を編み、同じ桴に乗りて、拒み逆らひて往く。水甚だ(はなはだ)荒く急(せ)くして、縄を絶ち桴を解きて、潮を過ぎて海に入る。二人各(おのおの)一つの木を得て、以て乗りて海に漂ひ流る。二人無知にして、唯、「南無、無量の災難を解脱せしめよ、尺迦牟尼仏」と称誦し、哭き叫びて息(や)まず。
其の小男は、巡(ふ)ること五日にして、其の日の夕の時に、淡路国の魔に南面の田野浦の、塩を焼く人の住める処に、僅かに依り泊(は)てぬ・・・。」残りは次回に。
そもそも現代でも紀伊半島は雨の多いところ。山などは年がら年中雨である。それで日高川が氾濫してしまう。
日高という地名は蝦夷樵の地名であろう。「ひた」「ひたか」ひだ」「ひたかみ」地名には蝦夷の日高見という考え方が影響するとよく聞く。意味は「日を高く見る」「火を高く見る」で、太陽か、あるいはやぐらの上の火を目印にしていた場所である。日本海側に巨木の高層建造物が多いことを思わせる地名だ。蝦夷かどうかは知らぬが、そういうやぐらを目印に、船も陸路も家路のランドマークにしていたのではあるまいか?
光仁天皇は奈良時代最後の天皇。天武系であらねばならない時代に、ありえなかった天智系としてにわかに復活した王家である。やがて其の子供に桓武天皇が登場する。こうして平安京へ時代は大きく切り替わったわけだが、問題はその前の聖武天皇だった。この人も桓武も、とにかく遷都を繰り返す。聖武は夫人の藤原光明子の仏教帰依に影響されたのか、突如、大仏建立を思い立ち、光明子は光明子で、父・不比等を正当化するために画策。そこから蘇我入鹿らを反面神とする聖徳太子を思いつく。その前提に、天智天皇の白村江大敗北がある。天智は国中を一丸として唐と新羅の追っ手に立ち向かわねばならなかった。そうでないと彼は筑紫から大和に戻る大儀がなくなる。そこで考えたのが蘇我氏の政治と厩戸皇子の故事である。厩戸を太子に仮託することで、英雄・聖人のいたことを言い始めた。光明子はそれを受けて「聖徳太子」という名前を考え付いたのである。
さて、二人の漁師は、上司である網元の命令で、たくさんの同僚たちと日高川上流に向かい、流木を集めさせられたわけである。流木は大金になる。奈良時代に流木を飾りにする風習があったかどうかは知らないが、どっちにしても木材は高額である。それを紀万侶朝臣はちゃっかり手下に集めさせて、乾燥させて都に売ろうとしたのであろう。つくづく金儲けにさとい男だ。
しかし二人はその流木を縄で編んで、流れに逆らい、上流へむかって逃避行。しかし濁流ですぐにイカダはばらばらになり、二人は一気に下流河口へ流される。海へ出て、そのまま対岸の淡路島に漂着するのである。
古代、河川は高速道路だった。大和へ向かうには紀ノ川や有田川、あるいは日高川は重要だ。紀伊のように山が多く、木材の多い地域は、杣・番匠がいかだを組んで、吉野山などの材木を難波江へ運んだが、小船なら逆に上流へも漕いでゆけたのだろう、氾濫さえなければ。この二人には漁師としてそういう経験があったに違いない。
■霊異記第二十五 (完結)
「長男馬養は、後るること六日の寅卯のときに、同じ処に依りて泊てぬ。当土(淡路島)の人たち、見て来由を問ひて、状(さま)を知りあはれび養ひ、当の国司に申す。国司、聞き見て、悲しび賑(めぐ)みて糧を給ふ。小男嘆きて曰く、「殺生の人に従ひて、苦を受くること量(はかり)なし。我まためぐり到らば、彼れまた駆使せられ、猶しついに殺生の業を止めじ」といひて、淡路国の国分寺にとどまり、その寺の僧に従ふ。長男は二月経て、本の土(故国)に帰り来る。妻子見れば、面目つづらか(顔面蒼白)なり。驚き怪しびて言はく、「海に入りて溺れ死に、七々日をへて、斎食(さいしき)を為し(葬儀をし)、報恩することすでに畢(をは)りぬ(喪に付してしまった)。思はぬ外に何ぞ活きて還り来れぬ(どうやって生き返ったのか?)。若しは是れ夢か。若しは是れ魂か」といふ。馬養、妻子に向かひて、つぶさに先の事を陳(の)ぶ。是に妻子聞きて。相悲しび、相喜ぶ。馬養発心し、世を厭ひ、山に入り法を修しき。見聞く者、奇しびずといふことなし。海中難多しといへども、命を全くし身を存(とど)めしは、まことに尺迦如来の威徳にして、海中に漂へる人の深信なり。現報すら猶し是(か)くの如し。況(いわん)や後世の法をや。」
家族のない少年祖父麿は、「殺生に生きる人に従属したがために、なんとも大変な苦労をさせられたものだ。このまま戻ったら、またこきつかわれて、もっと殺生してしまうに違いない」と嘆いて、淡路島に留まり、国分寺の僧侶にその身をゆだねた。
一方、家族がある馬養のほうは、ふた月ほど療養して家に戻った。すると妻は顔面蒼白。びっくりして怪しみ、「あなたは海で溺死して、もうとうに葬儀を済ませた。死んだはずのあなたは、いったいどうやって無事に戻れたの?夢のようだ」と問う。馬養は経験したことをとつとつとして妻に語った。その後、馬養は発心し、世をはかなんで、僧の修行に山へ入ったという。このうわさを見聞きした者たちはみな、実に稀有な話だと感心した。命が無事だったのは仏を信じたおかげであり、まことに仏法は守るべきだ。
第二十五はこれで終わっている。
ハーマン・メルビルの『白鯨』や、ヘミングウェイの『渦にのまれて』を少年時代に読まれたことがあろうか?これらは思春期の男子中学生くらいにおすすめする名作だが、ちょうどそのようなお話ではあるまいか?主人公はこのお話では渦潮に呑まれて遭難し、命からがら生還したとき、頭髪が真っ白になっていたという。それほどの艱難辛苦である。しかし日本の二人は、ともに僧の修行に入るのである。「殺生を仕事とするもの」とはもちろん網元の万侶朝臣のことだ。漁業とは殺生なのである。
魚を捕らえて食べる行いを、仏教は殺生であり、やってはならぬことだとしている。しかるに二人はそれを生業とする網元にこきつかわれていた。今回の遭難は、まさに殺生の報いであり、それゆえにともに僧侶の修行に向かった・・・これがこの一文の主題である。一方、それを聞いた民衆は、仏の名を唱えたから救われた、まことに仏法のご加護だ・・・と感心している。
魚も肉も殺生で手に入る。それは確かにそうだ。しかし植物である野菜やコメはどうだろう?あれとて殺生であろう。ところが仏教では、植物食は殺生には入らない。なにが違うだろうか?筆者にはそこがわからない。
ならば植物は仏法で、動物から差別され、生命があるものと思われていないのか?まさに遅れているではないか?仏教を信じるあなたなら、これをどうするのか?
人が死んだとき、斎食をする。これを「おとき」などと言う。精進料理である。精進潔斎して家人を見送るのであるが、精進料理とて、植物食であるにすぎまい。なまぐさ食は古代仏教できびしく規定があり、葬儀以外でも日を決めて四足や魚介を食べないようになっていた。ここでも「七七日」とある。これは四十九日である。ほかにもすでに一周忌や初七日も奈良時代にはあったらしい。
仏教が特に入り込もうとしていたのが漁村だった。漁業が殺生行為だったからだ。毎日、漁師たちは海で生き物をとらえている、だから特に彼らには仏法の殺生禁断を教え、慈愛を持って彼らこそ救済せねばならぬモノだった。
日本で、最も寺が多くある地域、あなたはご存知だろうか?まず京都・奈良・・・そして福岡である。筑紫。筑紫は日本で最も早く文化が到着する場所であった。稲作も製鉄も、道教や仏教も、一番最初に届く。日本最古の寺院が、間違いなく奈良の飛鳥寺であった証拠は記紀にしかない。しかし福岡の観世音寺のほうが古い可能性はある。ただ九州には記録が残っていない。だからいきおい、考古学の発掘と記録の比較ができにくい。面白い話になかなかならない。あるのは魏志だけだからだ。九州に住むものとしてそれは慙愧の念である。いかんせん、九州の歴史が全国的には話題性が低いのはそういう理由である。考古学だけでは・・・。
筑紫は、文化はいくつもやってきたが、そこから文明へとアップデートできていない。これはやむをえない歴史だろう。つまり大和のように朝廷を築き上げるには、立地があまりに列島の端っこだったということだろう。紀氏や海部たちが、西から東へ動いた、その理由がそれだ。筑紫はあまりに大陸に近かった。大陸が動揺すると、まともに影響を受けてしまう。要するに最前線から撤退したものたちが朝廷を作ったのだ。逃げ込んで、争いを避けて生きる・・・それが文明成立の、少なくとも日本での歴史だった。そしいぇ近畿はまさに列島の中心部で、瀬戸内海をいう大動脈があった。あなたなら、どっちを選んだか?きっとあなただって大和を選んだことだろう。そうして近畿は天下の台所を呼ばれる、流通のかなめになりえた。歴史の必然だと思うべきだろう。
和歌山は現在、関西で「近畿のおまけ」とすら言われるはじっこの地域に甘んじている。これも立地や歴史の必然だろう。しかし弥生時代から古墳時代、そこは吉備を経てやってきた大陸文化の玄関だった。紀ノ川は吉野〜奈良へ通じる高速道路だった。紀ノ川沿線からは大阪の藤井寺などへも道が通じている。藤井寺周辺は太子道で大和へつながっている。そういう場所から紀氏のような有力氏族は台頭できた。そして彼らの、近畿以前の本拠地は九州だったのである。
今、筆者は関西生活から生まれ故郷の九州に戻って生きている。戻った頃は、なんと時間がゆっくりと動いているところだろうという驚きしかなかった。忘れられた辺境であった。車は遅く、反応は鈍く、愚鈍で粗野な人たちが生きている・・・そう感じていた。近畿での生活の前、高校生で九州を出た頃と、少しも変化していない地域。今もさしてそれは換わらない感想である。ゆっくりと時間が動いている。だがそれでいいのだとも思うようになった。なにを急いで変らねばならないのか?還暦を過ぎて、せいていた青年時代、大都会のせわしない暮らしにはもう戻ろうとも思わない。それでいいのだ。地方は変らなくていい。変るのは首都圏と大阪だけで充分である。なぜって民族の特性が飲み込まれ、どこへ行っても同じ町しかない日本に、魅力を感じないからである。
日本霊異記上巻第十一 家=やけとはなにか? 
「霊異記」上巻 幼き時より網を用ちて魚を捕りて、現に悪報を得し縁  上巻第十一
播磨国飾磨郡(しかまのこほり=兵庫県姫路市付近)の濃於寺(のおでら)で、奈良の元興寺の僧慈応上人が信徒の招きを受け、夏の三ヶ月の修行を行ない『法華経』の講義をした。
そのころ、寺の近くに一人の漁師がいた。小さい時から網を使って魚を捕ることを仕事にしていた。あるとき、彼は屋敷→(原文は※家(やけ)となっている)の内にある桑の林の中をはらばい回って、大声を上げ、「熱い炎がおそいかかる」とわめきたてていた。身内の者が助けようとして近づくと、その漁師は、「おれに近寄るな。今にもおれは焼けこげそうだ」と叫びわめいた。そこで親が濃於寺にかけ込んで、夏の修行をしている行者、慈応上人にご祈祷をお願いした。行者が陀羅尼を唱えると、しばらくたってやっと火の難から免れられた。しかし身につけていた袴はすっかり焼けこげていた。漁夫はおそれおののいた。濃於寺へ行き、夏の修行をしている大勢の僧侶の中に入って、動物を殺した罪を悔い、心を改め、衣服の類いを寺にお布施として納めて、お経を読んでもらった。それからというものは、二度と殺生なことはしなかった。
『顔氏家訓』という本に、「昔、江陵の劉氏は、鰻を捕らえ、これで吸い物をこしらえて売ることを職業としていた。後に一人の子供が生まれたが頭はどう見ても鰻そっくりで、首から下はまさに人間の身体であった。」とかいているが、まさにこの説話と同一で、殺生の罪を諭したものである。
家 (やけ)
古代の家は「やけ」と読み、単なる家屋や屋敷には留まらず、敷地内にいくつもの施設を持っていた。
「古代には,個々の建物は,ヤとかイホ,ムロ,クラなどと呼ばれ,イヘは建物そのものをさす言葉ではなかった。また,家という漢字はイヘとともに〈ヤケ〉という日本語を表記するためにも用いられたが,ヤケは,堀や垣でかこまれ,そのなかにヤ(屋)やクラ(倉)をふくむ一区画の施設をさす言葉で,朝廷に属するミヤケ(屯倉)のほか,オホヤケ(大きいヤケ),ヲヤケ(小さいヤケ)など,さまざまなヤケが重層して存在していたと考えられる。ヤケは農業経営の拠点でもあり,所有や相続の対象となる古代社会の重要な単位であった。…」
だから古代に宮家、三宅、屯倉などという場合の建物は、そういうかなり大きな敷地を持った施設群であろうと考えられる。
宮家は文字通り皇居のような王宮のようなもの、あるいはそういう家柄・氏族。あるいは宮家に勉めることがなりわいの官僚までふくむ氏姓。
三宅は新羅系渡来人の名乗ったかばね、
屯倉は国の徴税施設でコメなどの産物の一時留め置き倉庫と役所である。
もうひとつ筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)という語もあるが、この人たちはのちの筑紫国(北部九州・福岡など)を治めていた人々=筑紫国造家あるいは筑紫君かとも思えるが、神八井耳の子孫であると書かれており、『日本書紀』の言う筑紫国造は大彦を祖としているので、別族だったかも知れない。三家は屯倉を意味する。三つのではないだろう。もうちょっとこれについて。
少々ややこしいが・・・
大彦命は八代孝元天皇の御子で、神八井耳命はおなじ『日本書紀』で神武天皇の御子であるから、系譜が違うことになる。また神武も孝元も実在しない天皇なので、この二人の系譜も造られていること考えうる。しかし大彦の名前は鉄剣にもある。とは言っても『日本書紀』の大彦のことかはわからない。
だからやはり筑紫国造とか君と、筑紫三家連が同じ氏族とは筆者には思えないことになる。
すると神八井耳で同族のような仲間だったと『日本書紀』が磐井の反乱部分で書くところの筑紫三家連は、矛盾するけれど、同じ『日本書紀』の言う筑紫国造家ではないことになってしまう。つまり磐井は筑紫国造家ではなく、風土記が書くとおり「君」であったとなるか?
みやけ・おおやけ・こやけ
現代語の「公」=おおやけの始まりが大家である。これは公私の公的施設、公的集団、公的発言などに使うわけだが、古代大家はそういうものだったのだろう。「をやけ・こやけ」は小さめの公的施設だろう。さてするとなぜ渡来人がみやけを名乗ったのかが気になる。

三宅には
1姓氏録にあるアメノヒボコの後裔渡来新羅王族子孫
2屯倉の役人、特に秩父。
3その後中世以後に三宅という地名を名乗った武家
がある。
ここでは1だけ扱う。ほかは由来がはっきりしているからだ。「新撰姓氏録」が言う古代三宅連氏は、自らを新羅王・昔の子孫と名乗り、日本ではアメノヒボコの末裔だとしてある。どこまで本当かどうかは疑わしいが、宮中に柑橘の樹木を持ち帰った但馬守(たじまもり)の子孫で、アメノヒボコが祖であるとなっている。その柑橘は「橘」となっているが、今のみかんかどうかはわからない。もしかすると金柑でもおかしくないかとも思える。なぜなら金柑は薬草だったからだ。不明。その子孫が三宅連石床である。みやけの・むらじ・いわとこ、生年不明 - 天武天皇9年7月23日(680年8月23日))飛鳥時代末期の人。連を賜うまでは三宅吉士。伊勢国国司だったらしい。壬申の乱で活躍。
続いて下巻第三十で僧・観規という人物を扱う。この人の元の姓は三間名干岐(みまなの・かんき)で、伽耶任那出身の渡来人だった。この記事があるおかげで、伽耶に任那があったことが言われるので大事な人物である。
その後、『日本書紀』が孝徳天皇が定めたとされる地域単位の評が出てくる記事を引用する・評についてはあくまでも『日本書紀』、あるいは国家が定めた単位で、実は全国の民間では、旧来の郷や村や里やをいつまでも使っていた風が見られる。それは九州に限らない民俗誌的な風習だった。ついでに村と里の違いなども言及したい。
このように「霊異記」には、各地で語り継がれていた奈良以前の事項がたくさん出てくる。記紀や六国史ではわからない民間の生の伝承記録である。そこには多くのヒントと資料があふれている。これを読まないと地方や全国各地の、国が定めた決めごとを守ってはいない、また消された記紀以前の記録の残照すら垣間見え、記紀が語らない古代の謎まで知らないままに終わってしまうから、ぜひ読むことをお勧めする。
霊異記下巻第三十 みまなのかんきについて
「年とった僧観規(かんき)は出家以前の俗名を三間名干岐(みまなのかぬき)といった。紀伊国名草郡(和歌山県海草郡)の人である。生まれつき手先が器用で、彫り物、細工などが得意であった。この僧は知恵のすぐれた学僧で、多くの人を指導していた。しかし、世俗の人のように農業を営み、妻子を養っていた。この人の先祖の造った寺が名草郡の能応(のお)の村にあった。名を弥勒寺といい、通り名を能応寺(のおでら)といっていた。 
観規は、聖武天皇の御代に願を起こして、釈迦の丈六仏と脇侍二体を彫り、光仁天皇の御代、宝亀十年(779)に造り終わった。これを能応寺の金堂に安置し、法会を設けて供養した。それからまた願を起こして、十一面観音菩薩の木像、高さ十尺ばかりあるのを彫ろうとしたが、これは途中まで作れただけで、まだ完成には至らなかった、それに手助けする人もなく、年をとって、老いぼれて力も衰えた。そして自分で彫ることはもうできなかった。
さて、年とった僧観規は、年齢が八十有余歳に及んだとき、すなわち長岡の宮で天下を治められた桓武天皇の御代、延暦元年(782)の春二月十一日に、能応寺でその生涯を閉じた。
それから二日の後、観規は生き返って、弟子明規(みょうき)を召して「わたしはひとこといい忘れ、そのままにしておくことができないので生き返って来た」といった。そこで座席を作り、蓆(むしろ)を敷いて食事の用意をさせた。そして武蔵村村主多利丸(すぐりたりまる)を講師として招いて、座席に座らせ、食事を勧めて顔を向かいあわせていっしょに食事をとった。食事が終って座席より立ち、明規と親族の人たちを引き連れて、ひざまずいて多利丸に一礼していった。
「観規は天運つたなく命も尽き、十一面観音菩薩の像を造り終えずに、急にこの世を去りました。今、幸いに良い機会にめぐりあい、どのようにわたしの思いを申したらよいのやら。どうかあなたのお恵みをいただけましたならば、これによって、わたし観規は死後の冥福が得られますし、あなたがこの世での功徳をお受けになりましょう。思いあまる心情抑えきれずに、この世に立ち帰って無礼なお願いをいたしました。このぶしつけさ、恐れながらもつつしんで申し上げます」といった。
そこで多利丸と明規たちは泣き悲しみ、涙を流して、「お話しいただきましたこと、わたしはかならず成し遂げたいと思います」と答えた。観規はこの返事を聞き、立ち上がって礼をし、小躍りして喜んだ。
それから二日たって、同じ月の十五日に、明規を召して、「今日はお釈迦様のお亡くなりになった日であるから、わたしは今日死のう」といった。明規はうなずこうとしたが、師の観規の慈愛に満ちたお姿を見ると、愛情の思いに堪えられずに、偽って、「いいえ、まだその十五日にはなっておりません」と答えた。師の観規は暦を持ってくるようにいいつけ、暦を見てから、「今日は十五日ではないか。なんで弟子たちは偽って、まだ十五日ではないといわれるのか」とおっしゃった。
観規は湯を用意させて体を洗い、法衣に着替え、ひざまずいて合掌し手に香炉を持って香をたき西方を向いて、その日の午後四時ごろ大往生を遂げた。
仏師多利丸は観規の遺言を受けて、十一面観音像を造り、法事を行うにあたり、仏像完成の由来を告げて、供養を終えた。この観音像は今、能応寺の塔のもとに安置してある。
批評のことばに「ああ喜ばしいことよ、三間名干岐(みまなのかぬき)の氏の大徳は。修道心を抱き持ちながら、外は凡人の姿を現している。俗世の中にあって世事に関与しながらも、なお仏道の戒めを破らず、往生するときには西方浄土を望み、生前に残した一事に思いを馳せて、不思議な現象を現された」という。これは尊者である。ただの凡人でないことがほんとうにわかる。」
三間名干岐
三間名は伽耶国任那(みまな)、干岐は大臣クラスに相当する半島での役職名である。だから『霊異記』のこの文に誤りがないなら、朝鮮には任那は確かにあった、しかしそれが『日本書紀』の言う、日本の出先機関である日本府のことかはわからない。しかし、伽耶滅亡後に三間名干岐を名乗る人が、日本に避難帰化してきていることがわかる。
姓氏録で三間名公は「弥麻奈国主牟留智(むるち)王後也」とある。
任那国、豊貴王の後――摂津国諸蕃 三間名公−−観規
つまり任那滅亡後、彼らは摂津を経て紀州名草郡にきたらしい。ならば任那という国はあったわけだ。そして今は摂津や紀州にその残り香があっていいこととなる。
『日本書紀』がそれを日本府だとするのは、彼らの伝承を受けてのことかも知れない。くどいようだが、だからと言ってそこが日本府だった証拠にはならない。
能応寺
紀伊名草郡にあった能応寺が、正式名称「弥勒寺」。ゆえに真言宗寺院である。寺には名前が二種ある。それがある地域名と、仏教に関連する正式名称(法号)である。従って能応(のお)は地名、弥勒は仏の名である。そして頭に寺のある山の名がつく。こうした風習は七世紀末頃に始まると思われる。
観規が記述どおり任那公子孫なら、この寺はその氏寺だったことになる。ならば能応村にはほかにも渡来系子孫がたくさんいたことになろう。山口廃寺だった可能性もある。未発掘。
武蔵村村主多利丸
武蔵は今の東京・埼玉、スグリは漢氏系渡来人の族長。
弟子明規
その名前はほかの記録に一切出ていない。しかし本文に「父」、「弟子」から「わが子」変化とあるから、実子かあるいは養子か。実子なら寺相続に世襲制があったことになる。なお、僧侶の妻帯世襲はインドや・中国・インドシナにはほとんどない。
名草郡能応村
不明
霊異記に見る村・里・郷・評 戸制は民間で無視された
戸制
大宝律令(701)以降に「ヤマトの王権」により定められた行政単位。
戸(こ/へ)とは、戸主とその下に編成された戸口と呼ばれる人々から構成された基本単位集団。戸籍・計帳の記載単位。あるいは里・郷・保の構成単位となり、地方行政単位の最末端に位置づけられるもの。
「律令」戸制以前
日本においては律令制以前の6世紀以降(鎌田元一によれば評の制定は孝徳天皇朝『律令公民制』2001)に、ヤマトの王権が伝統的な部に属しない帰化系氏族を組織・掌握するために部分的に採用されたと言われている。
大化の改新後に新羅などの制度などを取り入れる形で施行されていったと考えられている。『飛鳥浄御原令』の段階で、50戸=1里の編成が正式に採用され、以後里制(郷制)終焉までこの基本原則に変わりが無かった。これが国―郡―里制度である。しかし最近の考古学の発掘で、多くの木簡に、「●●●●郡五十戸」という記録が書かれてあって、実際には「里」は50戸という単位が先行しており、その後それを「里 り、さと、こざと」と言うようになったようだ。
戸とはどんな状況だったか? 戸は今使う一軒とは違い、かなり広い敷地を言う単位である。なぜなら一戸の中には戸主一家だけでなく、氏族で言う人・首・部・奴婢といったあらゆる血脈以外の一族が仕えており、それらも含めての一戸であった。つまり使用人や奴隷が住まわされている区画すら一戸に入ったのである。これは江戸期の商家を数倍に膨らませたような「集団」だったことになる。従業員から奴隷まで、だからその戸主の姓を名乗っただろう。
前述した「霊異記」に登場する紀臣とか中臣連とかいうかばねも、おそらく下層だが名乗っていたと考えられよう。考えてみれば戸主、あるいは氏族の長にとっては、かなりの責任を隅々まで行き届かせる必要があったに違いない。なにしろ、素性知れぬ奴婢まで同姓のうちに入ってしまうのだから。
さて、701年に大宝律令によって律令制の中の戸制について規定がある。
第一条 凡そこれ戸は五十戸を以って里となす
律令以前までは木簡にある通りまだ「里」がなく五十戸となっていた。やがて「50戸=里 り」が生まれる。おそらく天武よりあとである。
ところが奈良時代末〜平安の『日本霊異記』を見ると、そのほとんどに「里」は使用例がない。多くが「村」となっている。どういうことか?つまり里単位の行政施行が、地方にまで及んでいなかったのである。
これは評や郡にも言えることだった。評は、国の孝徳大王(難波宮の飛鳥時代。天智の叔父)が決めた行政単位で、のちに郡に変る。孝徳大王の治世は非常に短く、すぐに皇極・天智によって打ち捨てられたため、孝徳は病んだあげくに死んでしまう。そのため、評単位は極めて短い期間しか使われなかったため、全国に広がる前に消えている。それが天武以降、大宝令で郡になる。いずれも読み方は「こほり」で、今で言う「ぐん」にあたる。
律令以後、国―郡―里の行政単位になったはずだった。しかし、霊異記にあるように、地方では里を使っていない。では村と里はどう違うのか?

村(ムラ)は民間で決めていた弥生時代からあった単位である。それがほぼ明治時代まで民間では存続した。
一方、里は、国の行政単位。行政上は里であっても、在地地元民はそれを使わない。いや、知らなかったと言って良いだろう。せいぜい知っているのは国の役人と対応できたムラ首長だけである。以下にわざわざ言って聞かせる必要もない。言っても無学文盲だから理解しないだろう。
それで地元民の間では、いつまでもムラは村のままだった。だから50戸の里よりも範囲が広いルーズな範囲の村には、複数の行政上の里が存在することになった。多いところで3つ以上あった地域もある。筆者が知っているのは大分県玖珠郡に里がいくつもある。

さて税の話である。これも出土木簡によってわかったことだが、租庸調という租税以外に、木簡にはやたらニエが記載されている。ニエ、大ニエ、御ニエなどとある。次に品名が来る。アジ、鯛、黒鯛、鮑、にし貝・・・などと本当に書かれていて、どこどこの国のなになに郷の、どこそこからどれくらい、だれそれに・・・まで書かれている。だから伝票である。そこには記紀のような主観的潤色は一切ありえない。完全な客観資料である。うむを言わせない。
つまりそのニエとは、租庸調の払えない下層民からの献上物だったことがわかる。ところがそお品目のまあ豪華なこと。高級魚介類や特産品、加工品のオンパレードだった。長屋王などは、毎日それらを食べていたのである。セレブだったのである長屋王は。
その流れは明治直前まで続く。それがいわゆるのちに「御用達 ごようたし」商人になるのである。彼らはほとんどが元は賎民出身者である。まずもって間違いなく全部がそうである。そうやって氏族の回復を成し遂げようと言う涙ぐましい努力。だからそれは古墳時代の古墳職人でしかなかった土師氏から菅原道真が、四国の蝦夷俘囚でしかなかった空海が、あるいはただの紀州の漁師漁民でしかなかった紀氏から貫之が出たのと同様の行為で、まったく見下げることではないはずだ。儒教導入以前の日本では、敗北被差別氏族であろうとも朝廷にあがるチャンスがあったわけである。なんとなれば源平の武家ですら、最初は貴族の門番に過ぎない。
日本霊異記 九州の話
下巻第十九 卵のような肉の塊から生まれた女が、仏法を修め、人を教化した話。
肥後国八代郡都(やつしろのこおり)豊服(とよぶく)の郷(熊本県下益城郡松橋町)の人、豊服広公の妻が懐妊して、宝亀二年(771)の冬十一月十五日の午前四時ごろ、一つの肉塊を生み落とした。肉塊は鳥の卵のような格好であった。夫婦はこれは吉祥ではないと思い込んで、入れ物にいれ、山の石の中に隠して置いた。七日たって行って見ると、肉貝の殻は破れて、女の子が生まれていた。夫婦は赤子を取り上げ、改めて乳を飲ませ養育した。これを見聞きした人々は、国中だれ一人として不思議がらないものはいなかった。
その女の子は八ヶ月も過ぎると体が急に大きくなったが、頭と首がくっついて、普通の人と違ってあごがなかった。身の丈は三尺五寸ほどである。生まれながらに物を知り、天性賢い子であった。七歳にならない年齢で『法華経』、八十巻『華厳経』を転読した。しかしこのことは黙っていて、人に誇ろうとはしなかった。
女の子は出家して尼になろうと思い立ち、髪を剃り、法衣を着、仏法を修めて他人を教化した。だれ一人としてこれを信仰しない者はいなかった。声量が豊かで、聞く人はみな感動した。しかしこの尼の体は通常の人間とは異なっていた。女陰がないので結婚することもなかった。ただ尿を出す穴だけがあった。そこで愚かな人たちは、嘲笑して、猿聖(さるひじり)といった。
当時、同じ肥後国託磨郡(たくまのこおり)(熊本市出水町)の国分寺の僧と、豊前国宇佐郡八幡(うさのこおりやはた)(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮の僧の二人が、その尼をねたんで、「貴様は異端者だ」ときめつけ、見下げあざけりからかうと、仏教の守護者が空から降りて来、桙で僧を突こうとした。僧は恐れ叫んで、そのまま死んでしまった。
大安寺(大和国奈良左京)の戒明禅師が、九州の大国師に任ぜられたとき、宝亀七、八年(776.7)のころに、肥前国(佐賀県)佐賀郡の郡長、正七位上佐賀君児公が安居会(あんごえ)を催した。その時、戒明禅師を招き、八十巻『華厳経』の講義を請うた。その講義を尼は欠かさず多くの人の中に交じって聴聞した。講師の戒明禅師は尼を見ると、「どこの尼だ。無作法にも聴衆の中に交じっているのは」と叱った。
尼は、「仏さまは平等の慈悲心で、一切衆上のために正しい教えを広めなさる。どういうわけでわたしを除け者にするのですか」と尋ねた。
さてそこで尼が、仏教詩の詩句の形式を整え、それをもって質問したときに、講師の方は詩句の形式を整えて答えることができなかった。大ぜいの知識僧たちは不思議に思い、ひたすら尼に質問を浴びせた。しかし尼は最期まで負けなかった。そこで、人びとは、この尼は仏が人間に姿を変えて現れた者であることを知り、さらに名を舎利菩薩とつけた。僧も俗人もこの尼を信じ敬い、尼を教化の重要な人物とした。
昔、釈迦が生きておられたとき、サエ城のスダチ長者の未婚の娘ソマンが卵を十個生んだ。それが割れて十人の男の子が生まれ、それがいずれも出家して阿羅漢果(あらかんか)の悟りをえたという。また、カビラエ城の長者の妻は、懐妊して一つの肉塊を生み、七日の後、その肉塊は破れて百の童子が生まれた。その後、彼らは一時に出家し、百人全部が阿羅漢果の悟りをえたという。わが日本の一握りほどの狭い国土でも、このような奇譚の人を得た。これはまた、まことに不思議なことである。
上巻第三十 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 (その一)
膳臣広国(かしわでのおみひろくに)は豊前国宮子郡(福岡県京都郡)の次官であった。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代慶雲(きょううん)二年(705)の秋九月十五日に、広国は突然この世を去った。死んで三日目の十七日の午後四時頃に生き返って、以下、次のように告白した。
「二人の使いがやって来た。一人は大人で髪を頭の上で束ねていた。いま一人は小さい子であった。私、広国は二人に連れられて行った。駅を二つばかり過ぎると、道の途中に大きな川があった。橋がかけてあり、その橋は黄金で塗り飾ってあった。橋を渡って対岸に着くと、目新しい見慣れない国があった。使いに向かって、『ここは何という国ですか』と尋ねると、『度何(どなん)の国だ』と答えた。その国の都につくと、八人の役人がやって来て、武器を持って、私を追い立てた。前方に黄金の宮殿があった。
門に入ってみると、そこに王がいた。黄金の座席に座っておられた。大王は私に向かって、『いま、お前をここに召したのは、お前の妻が嘆き訴えたからなのだ』とおっしゃった。すぐ一人の女を召し出した。見ると死んだ昔の妻であった。鉄の釘が頭の上から打ち込まれ、尻まで通っており、額から打ち込んだ釘は後頭部に遠ていた。鉄の縄で手足をしばり、八人がかりで担いで連れて来た。大王が、『おまえはこの女を知っているか』と尋ねられた。わたしが、『確かに、私の妻です』と答えた。
また、『お前は何の罪をとがめられて、ここへめしだされたのをしっているか』と尋ねられた。
私は、『知りません』と答えた。今度は妻に受かって尋ねた。妻は、『私はよくわかっています。あの人は私を家から追い出した者なので、私は恨めしく、口惜しく、しゃくにさわっているのです』と答えた。(そこで広大とその以前に死亡した妻との過去の事実が詳しく調査せられたが、その後で)大王は広大に、『お前には罪はない。家に帰ってよろしい。しかし、決してこの黄泉の国のことはしゃべってはならんぞ。それから、もしそなたの父に会いたいと思うなら、南のほうに行ってみるがよい』とおっしゃった。
(その二)
行ってみると、本当に父がいた。非常に熱い銅の柱を抱かされて立っていた。鉄の釘が三十七本もぶち込まれ、鉄の鞭で打たれている。朝に三百回、昼に三百回、夕べに三百回、あわせて九百回、毎日打ち攻められている。私は悲しくなり、『ああ、お父さん。わたしはお父さんが、こんな苦しみを受けておられようとは、まったく思いもよりませんでした』と嘆いた。父は次のように語った。
『私がこんな苦しみを受けていたのを、息子よ、お前は知っていたのかどうか。私は妻子を養うために、ある時は生き物を殺した。ある時は八両の麺を打って十両の値を取り立てた。ある時は軽い秤で稲を貸し、重い秤で取り立てた。またある時は人の者を無理に奪い取り、また他人の妻をおかすこともした。父母に孝行も尽くさず、目上の者を尊敬することもせず奴隷でもない人をまるで自分の奴隷でもあるかのように、ののしり、あざけった。このような罪のため、私の体は小さいのに三十七本もの釘を打ち込まれ、毎日九百回も、鉄の鞭で打ち攻められている。とても痛く、とても苦しい。一体、いつの日になったらこの罪が許されるのか。いつの時にか体を休めることができものであろうか。お前はすぐにも私のために仏を作り、お経を写し、私の罪の苦しみを償ってくれ。忘れないで必ずやってくれ。
私は飢えて、七月七日に大蛇となってお前の家に行き、家の中に入ろうとした時、お前は杖の先に私を引っかけてぽいと捨てた。また五月五日に赤い子犬となってお前の家へ行った時は、他の犬を呼んでけしかけ、追い払わせたので、私は食にありつけず、へとへとになって帰って来た。ただ正月一日に、猫になってお前の家に入り込んだ時は供養のために供えてあった肉や、いろいろのごちそうを腹一杯食べて来た。それでやっと三年来の空腹を、どうにかいやすことができたのだ。また私は兄弟や身分の上下を無視し、道理に背いたので、犬と生まれて食い、口から白い泡を出してあえいでいる。わたしはまたきっと赤い子犬になって食をあさることになるだろう』と語るのであった。
およそ、米一升を施す報いは、あの世で三十日分の食もつがえられる。衣服一着分を施す報いは、一年分の衣服がえられるのである。お経を読ませた者は、東方の宮殿に住むことになり、後には願いのまま、天上界に生まれる。仏菩薩を仏像に作った者は、西方の無量浄土に生まれる。生き物を放してやった者は、北方の無量浄土に生まれるのである。欲望を抑え一日断食すると、あの世で十年間の食料が得られる。
このほか、生前この世で善いこと悪いことをして、それからうけたあの世での報いなどを見てから地獄を出ようとした。そしてわたしはしばらくその辺をぶらぶらしていると、小さい子供がやって来た。すると、さっきの門番はその子を見て、両膝を地につけてひれ伏した。その子は私を呼んで、片側の脇門に連れて行き、門を押しあけた。そこから私が出ようとすると
『早く行きなさい』といった。わたしは、その子に、『あなたはどなたさまですか』と聞いた。その子は、『わたしが誰だか知りたいと思いますか、わたしはそなたがまだ幼かった時に写した「観世音経」なのです』と答えた。そしてそのまま帰ってしまった。ふと見回すと、生き返っていたのである」という。
広国は、黄泉の国に行き、善い行いが善い報いをえ、悪い行いに悪い報いが帰ってくるいろいろな例を見たので、この不思議な体験話を記録して、世間に広めた。この世で罪を犯して、あの世でその報いを受ける因縁は『大乗経典』に詳しく説いてあるとおりである。誰がこれを信じないでいられようか。このようなわけで、経典に、「この世で甘露のような甘い汁を吸っていると、未来は熱い鉄の玉を飲まされる」といっているのは、このことをいうのである。広国は、生き返ってから、父のために仏像を造り、お経を書き写し、仏・法・僧の三宝を供養して、父への恩返しをした。父の犯した邪悪の罪を滅ぼし、これからのというものは、広国ともども正しい道に入ることができたのであった。
第十七 戦乱にあって観音菩薩の像を祈り、この世でよい報いにあった話
伊予国(愛媛県)越智郡の郡長の先祖にあたる越智直(あたえ)という人は、百済の国を救うために、百済の国に派遣された。方々に転戦していた時に、唐の軍勢に追いつめられ、捕虜となって唐の国まで連れて行かれた。そしてわが日本人の八人が捕虜となって、同じ一つの島に住むことになった。八人は観音菩薩の像を得て、これを信仰し、あがめ奉っていた。八人は共同して、松の木を伐って一隻の舟を作った。そして観音像をお迎えして舟中に安置して、それぞれが無事に日本に帰れるようにと観音像に祈願した。すると西風が吹き出し、この風に乗ってまっすぐに九州に到着した。
朝廷ではこのことを聞き、事の次第をお尋ねになった。天皇は哀れに思われて、望むところを申すようにとおいいつけになった。そこで越智直は「新しく一郡を設けていただき、ここに観音様を安置し、礼拝奉仕したいと思います」と申し出た。天皇はこれをお許しくださった。そこであたらしく越智という郡を設けて、そこに寺を建て、観音様を安置することになった。その時から今日に至るまで、越智直の子孫が相ついでこの像を心から信仰している。
思うに右のことは観音のご利益であり、また観音信仰の結果であろう。昔、親孝行の丁蘭(ていらん)が母の木像を造り、それに仕えた事により、本当に生きているような姿を示してくれたし、僧が愛した絵の中の女性でさえ、僧をいとしんでこれに応じてくれたという。ましてやこれは観音菩薩である。どうして感応のないことがあろうか。

最後の話は白村江戦いの話になっている。伊予の越智直は越智国造の一族で、海人族だったから百済救援にいかされたのだろう。信濃安曇野(長野県北部)の安曇連もやはり救援に行ってはなばなしく戦っている。
船の民の多くが、この海外軍事派遣で出向いていたことがわかる。
地名に当時の行政単位であるはずの評が使われず、越智郡になっている。この話が書かれたときはもう奈良時代だからか?違う。ほかの霊異記記事でも多くは里は村になっていて国政単位は無視されている。その時代にそうだったのである。
越智直は現地で捕虜になって島に放り込まれた。たぶん今の舟山諸島のようなところが収容所だったのだろう。今も舟山には観音道場になっている。
それが戻ってきて、天皇はこれを哀れに思い、願いを聞いてやっている。福岡市に越智姓がいくらかある。ここだろうか?

最初の話は朝鮮や日本に多い「卵生説話」の残存が奈良時代にあることがわかる。
しかしこの夫婦はこれを吉兆とは見ていない。むしろヒルコ扱いで土中に埋め隠している。しかしそれでも女子が生まれたから持って帰り育てる。ところが女子には女陰がなかった。やはりこれはヒルコ=異常出産児だろう。
恵比須はそういう異常出産した胎児のことを神格化したものである。出雲神話では八重事代主と言う。「やえ・ことしろ・ぬし」葛城鴨氏の神社高鴨アジスキタカヒコネ神社に鎮守されている。オオクニヌシの子で、国譲りで船に乗って魚釣りしており、出雲を譲ると言ったあと海に消えたという。海人族の神であろう。

真ん中の話は豊前国宮子郡の話。今の福岡県京都郡である。行橋市あたり。ここは豊前国国府・国分寺跡があるが、そこに膳臣(かしわでのおみ)が国司に次ぐ介(すけ)で来ていた。
膳臣氏は古代の斎(にえ)の官吏である。神前に供物をささげた氏族。大伴氏の一派。
神使えた氏族も、仏教では観音にひざまづくのだと言っているのだろう。因果応報。
霊異記 下巻第二十六 強欲ゆえに死んで牛になった高利貸の女
下巻 第二十六 貸した物に不当な利息を押し付けて取り立て、多くの利息を得ていたが、悪い死にざまの報いを受けた話。
その一 田中真人広虫女、閻魔王の冥界に召される
田中真人広虫女(たなかのまひと・ひろむしめ)は、讃岐国美貴郡(さぬきこくみきのこおり 香川県木田郡)の郡長、外従六位上・小屋県主宮手(げじゅろくいのじょう・おやのあがたぬしみやて)の妻であった。八人の子を生み、裕福で財産も多かった。馬牛・使用人・稲・銭・田畑など豊富であった。生まれつき、仏道を信じる心がなく、欲深で、人に施すことをしなかった。酒に水を加えて量を増やして売り、多くの利益を得た。
貸すときには小さな升を用いて貸し与え、返却させるときには大きな升を用いて受け取った。稲を貸し付けるときには小さなはかりを用い、返却させるときには大きなはかりで取り立てた。そして、遠慮なく強引に利息を取り立てる。それはひどいものだった。また、道理にそむくこともあえてし、時には貸したものの十倍を徴収し、あるときは百倍を請求した。貸した物は人から強引に取って容赦しない。借りた人たちはみな憂え、家を捨てて逃げ去り、他国を放浪するなど、こんなひどい例はほかには見なかった。
広虫女は、宝亀七年(776)の六月一日、病の床につき、長いことわずらい、七月の二十日に、その夫と八人の息子を呼び集めた。そして夢に見た様子を語って、「わたしは冥界の閻魔大王に召されて、三つの罪を示された。一つはお寺の物を多く用いて帰さなかった罪である。二つには、酒を売るのに水増しして不当の利益を得た罪である。三つには一斗の升を二種類使って、貸すときは十目盛りを偽って七目盛りにして貸し、徴収するときには偽って逆に十二目盛りを用いたことである。『これらの罪によってお前を召した。この世で報いを受けることを、今お前に示しただけだ』とおっしゃった」といった。夢みたさまを語り伝え、その日のうちに死んでいった。
その二 広虫女、牛に変わって生まれる
七日過ぎるまで火葬せずにおき、坊さんや在俗の修行者三十二人を頼み招いて、九日の間願を立て、亡き広虫女の冥福を祈った。七日目の夕方、広虫女は生き返り、棺のふたがひとりでに開いた。
そこで棺の中をのぞいてみると、なんともいいようのなく臭かった。腰より上は牛に変わっており、額には角が生え、長さは四寸ばかりであった。二つの手は牛の足となり、ひびが入って爪が割れて、牛の蹄に似ていた。腰より下のほうは人の形をしていた。飯をきらって草を食い、食い終わるとふたたび口まで吐き出してかんでいた。裸で着物も着ずに、糞をした土の上に臥している。あちこちから人々が走り集ってき、不思議がって見、見物客はたえ間なかった。
夫の郡長(小屋県主宮手)と息子たち、娘たちは恥ずかしがり、妻(子供たちには母親)の後生を心配し、体を地に投げ出して、あらゆる願を立てた。罪の報いを償うために、その土地の三木寺にいろいろな家財を奉納し、東大寺に牛を七十頭、馬三十匹、田二十町、稲四千束を寄贈し、他人に貸し付けていた物は、みな帳消しにして、返済の必要がないことにきめた。
讃岐国の国司や郡の役人はこれを見て、都の官庁に報告書を出そうとしているところ、五日たって死んだ。これを見聞きした国府や都庁の人たちは、ことごとく来世の運命を嘆き悲しんだ。死んだ宮手の妻は、因果応報の道理をわきまえず、道理もなければ義理もなかった。だからあれは道理に外れた非道な行為、義理も人情もないない者への現世での悪報であったのだ。この現世における悪報でさえもこのとおりである。ましてや来世の報いは知るべきである。
仏典に、「物を借りて返さないときには、馬や牛になって支払わされる・・・」とお説きになっている。物を借りている人は奴隷のように弱く、物を貸している人は王者のように振る舞う。借りている人は雉(きじ)のようであり、貸している人は鷹のようである。ただいかに相手に負債があるからといって、理不尽に徴収すると、かえって馬や牛となって、借りた人に使われるので、度を越えた徴収をしてはならない。

地獄から閻魔につきかえされ、死んだのに蘇らされたあげくに、牛の姿で九日間もいきはじをかかされたあげく、九日目についに死んだごうつくな高利貸女の哀れな末路である。実際、そんなことなどあろうはずもないのに、この著者はしゃあしゃあと聞き書きしている。こういう与太話は、果たして著者が考えて脚色したのか、それとも最初からそういう伝承として村々に伝わっていたものなのか、はんぜんとはしないが、おそらく前者だろう。なにしろ仏教説話である限り、そのように怪奇譚に仕上げるものなのだから。それにしてもすごい想像力。中国にタネ本でもあったのだろう。
中国ではこうした怪異物語は「志異」などというが、仏教よりも道教色の強い噺ばかりである。あちらでは仏教よりもいまだに道教の人気が高い。そういえば中国の僧侶なんか、あまり見たことがないではないか?
奈良時代の僧侶、いや寺そのものが、かなりの数、金を貸していたことは商業史では有名である。お布施だけでは生きていけない僧侶や、経営できない寺が山ほどあったのである。この広虫女のように、幅広く商売する寺も多かった。もちろん国司や介たちも大差はない。手広くあきない、しかもあくどいやつらは山ほどいたようだ。時代劇の「お代官さま」的な官吏である。私腹を肥やし、弱者からとれるだけ奪って、3k仕事ばかりさせている。
ところが庶民のほうもしたたかで、その上を行くあくどい商売などで生き抜こうとする。それが現実の人間生活というものだろう。
この物語はまあ、学校で道徳教育に使っても、いまどきのガキどもなら、「んなあほな」だろう。「もっとストーリーにリアリティもたせなきゃ、現代の子供は怖がらないで」と言うだろう。こまっしゃくれやがって。そっちのほうが怖いわい。 
 
景戒

 

[きょうかい/けいかい、生没年不詳] 奈良時代の薬師寺の僧。日本最初の説話集『日本霊異記』の著者として知られる。
日本最初の仏教説話集である『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)』(全3巻)を編んだ景戒の事績を示す文献資料(史料)は、『日本霊異記』そのものだけであり、そのため、景戒という人物の全体像は謎に包まれている。
そのなかで、『日本霊異記』下巻末の第38話には景戒自身が登場する。それによれば、延暦6年(787年)には景戒は僧の身でありながら、一方では世俗の家に住み、妻子がいたものの、それを十分に養うだけの財力がないという状態にあった。また、延暦14年(795年)に伝灯住位の僧位に進んでいる。また、その2年後の延暦16年に造立した仏堂に向かってキツネがいくたびか鳴くので不審に思っていたところ、自身の子息や牛馬が相次いで亡くなったという]。
いっぽう、下巻第12話および同第21話には、景戒自身が実際に大和国薬師寺で見聞したとみられる話が収められていることから、称徳天皇の代(764年-770年)には薬師寺の仏僧となり、その後は、ふだんは紀伊国に住みながら半僧半俗の生活を長くつづけたものと推測できる。
出自についても詳細は不明であるもの、『日本霊異記』の諸記述の検討の結果、紀伊国名草郡の大伴連の先祖の話や大伴氏の歴史的な活躍を詳細に伝えることから、同地の大伴氏の出身とする説が有力である。薬師寺の僧となってからも景戒はふだん名草郡粟村の近くに住んでおり、貴志村にあった貴志寺の行者であっただろうと考えられるのである。
『日本霊異記』には私度僧(国家の許可を得ず僧を称したもの)にまつわる説話が多いことや、彼自身半僧半俗の生活が長かったことなどから、私度僧としての生活が長く、晩年に近くなって得度を受けたのではないかとする説もある。
『日本霊異記』中巻には、行基の事績として語られる説話が多く収載され、行基の師であった道昭の入唐時の逸話やその極楽往生に関する話、さらに行基の弟子にまつわる説話も多く収載されているところから、日本史の五味文彦(古代中世史)は、景戒自身が行基の弟子となったものであろうと推測している。中巻はまた、平城京を中心とし、東は遠江国、西は讃岐国、北は山城国、南は紀伊国におよぶ、比較的広い範囲に取材しているところから、景戒自身行基集団に属して諸国を行脚し、そこで見聞した話を集録したものとも考えられる。天平17年(745年)、行基が大僧正に進んだのち、行基の学んだこともある薬師寺の僧となったと考えられ、上巻に収載された説話の多くは、薬師寺において多くの書籍に出会ったことを機縁としているとも考えられる。
なお、彼は延暦6年(787年)に著した『日本霊異記』の初稿本を年を追って集成し、それが完成したのも弘仁13年(822年)のこととみられている。
 
景戒の火葬の夢

 

「分身」を問題とする時、 まず頭に浮かぶのは、いわゆる自体幻視の現象である。 小論では、 この自体幻視の現象を、 古代という時間の中に限定しながら、 その幻視を引き起こす浮遊する魂が、 個体としての自己の内面に発見された心への自覚、換言すれば個体にかかわる倫理意識の象徴としてあらわれてくる状況を、 ひとつの精神史の問題として考えてみたい。 浮遊する魂が、もうひとつのおのれの姿としてありありと幻視される、 そのような現象を、 ここでは「分身」の問題として捉えてみたいのである。
さしあたり小論で考察の対象としたいのは、 『日本霊異記』の次の一節である。
また、 僧景戒が夢に見る事、 延暦の七年の戊辰の春の三月十七日乙丑の夜に夢に見る。 景戒が身死ぬる時に、薪を積みて死ぬる身を焼く。 ここに、 景戒が魂神、 身を焼くほとりに立ちて見れば、意のごとく焼けぬなり。 すなはちみつから桔を取り、 焼かるるおのが身を茱棠き、 挽に串き、 之を返し焼く。 先に焼く他人に教へていはく、 「わがごとく能く焼け」といふ。 おのが身の脚膝節の骨、臂・頭、 みな焼かれて断れ落つ 。 ここに、 景戒が神識、 声を出して叫ぶ。 側らにある人の耳に、 口を当てて叫ぶ。 遺言を教へ語るに、 その語り言ふ音、 空しくして聞かれずあれぽ、 その人答へず。 ここに、 景戒惟ひ忖らく、「死にし人の神は音なきがゆゑに、 わが叫び語る音も聞こえぬなりけり」とおもふ(引用は、新潮日本古典集成本による) 。
これは、 下巻三八話の後半、一般に景戒自伝とよばれる記事の中の一部である。 この自伝は、この説話集を流れる仏教的な時間の中に、 自らの宗教的な覚醒をひとつの霊異として定位させようとする意味をもつが、 そこに景戒は二つの夢を配し、 その意義を解きあかすことによって、 それが仏の世界からの啓示であることを証明しようとこころみている。 自身を火葬にするというこの夢は、ちょうどその第二の夢にあたる。
この夢の意義について、 景戒は「もし長き命を得むか。 もし官位を得むか。 今よりのち、 夢に見し答えを待ちて知らまくのみ」と述べており、 しかもその直後に伝燈住位の地位(僧位の第四階)を得たことを記しているから、 とくに官位にかかわる啓示としてこの夢を理解していたらしいことがうかがわれる。 福島行一によれば、 この火葬の夢に景戒は、 自らを自己の理想像としての道昭と重ねあわせて思い描いていたという(福島行一「日本霊異記下巻三十八縁に就て」『芸文研究』」○、昭三五・六) 。 いうまでもなく、 道昭は、我国ではじめて火葬に付されたと伝えられる高僧である。 さらに新潮日本古典集成『日本霊異記』頭注は、 道昭のみならず願覚、 行基など火葬にされた聖者の世界を希求した正夢としてこの夢を解している。
たしかに、景戒にとってこの夢は、 自らの栄達の前兆として、それらの高僧たちの事跡になぞらえ見られるものであったのかもしれない。 しかし、 考えてみると、 この夢はかなり奇怪な内容をもっている。 小枝で死体を突き刺し、 ひっくり返して焼くというのは凄惨なようだが、 火力の弱い薪を用いる当時の火葬の実態を伝えたものと見てよいだろう(人間の体は簡単に焼けるものではない、という体験譚を読んだことがある)。 それ以上に注目したいのは、 火葬にされる景戒の横で、その魂(原文「景戒之神識」 。 「神識」が魂であることは、 『類聚名義抄』で「神」「識」のいずれもがタマシヒと付訓されていることからもあきらかである)が、 火葬の光景を見ており、 しかも魂自身が小枝を取っておのれの体を焼き、 さらには側にいる人間に向かって焼き方についての指示をあたえていることである。 魂は遺言を伝えようとしたところ、 その声は相手の耳には聞こえず、 「死にし人の神」には音がないためだろうと思った、 という不思議な話も付け加えている。
夢の中の出来事とはいえ、 夢がもうひとつの現実であった古代人の意識からすれば、 おのれの死体を焼く魂のありかたは、 もうひとりの自分、 すなわち「分身」としての自己を象徴するものと考えてよいだろう。 もちろん、 ここに遊離魂の観念が見えていることは否定できない。 古代人は、 魂(タマ)を、 それぞれの肉体(カラ)に宿り、 その生命を支える独特な力をもたらす不可思議な存在として考えていた。 魂は、 基本的には外からやってきて、 それぞれの肉体に入り込む。 魂はまた分割されたり、 対象に向かって献納することのでぎるものとも考えられていた。 反対に、 強力な威力をそなえた魂を付着させることで、 衰えた魂の生命力を賦活させることもできると信じられていた。 恋(コヒ)とは、 おのれの魂が対象(恋人)にわけもなく吸引されてしまう現象を意味したし(多田一臣「〈おもひ〉と〈こひ〉と」『語文論叢』一六、 昭六三二〇) 、 死も肉体から魂が完全に脱け出てしまった状態のことだと考えられた。 夢もまた、 こうした遊離魂の活動が引き起こす現象だと考えられていたのである。
筑波嶺の彼面此面に守部据ゑ母い守れども魂そ逢ひにける(巻一四・三三九三)
魂は朝タベに賜ふれど吾が胸痛し恋の繁きに(巻一五・三七六七)
これは万葉歌に見られる魂合いをうたった例。 魂合いは恋の成就を意味するが、 これらの例では夢を通しての出会いがうたわれている。 三七六七歌は、 そのような出会いではもはや満たされないことを表現している。 いずれにしても、 魂の活動によって夢がもたらされると信じられていたことがわかる。 西郷信綱が述べるように、 魂とは、 容器としての身体の深部に棲み込み、 人間の生命を支える神話的あるいは形而上的な、 つまり非物質的な何ものかであり、 睡眠中とか恍惚や失神の状態とかには、 たやすく身体から分離しうるもの、 と考えられていたのである(西郷信綱「夢殿」『古代人と夢』) 。
したがって、 景戒の火葬の夢にも、 魂のはたらきが当然認められなければならない。 睡眠中に遊離した魂が、 おのれの火葬を凝視させる夢を見せている、 ということになるのかもしれない。 しかし、夢が遊離魂のはたらきではあっても、 この夢がきわめて特異なものであることは、やはり注意されなければならない。 夢の中とはいえ、 景戒は、 おのれの魂のはたらきをありありと自覚している。 魂がおのれの体を焼くさまをつぶさにながめているのである。 おそらく、 かれは魂の姿をしっかりと見ているのであろう。
もちろん、 古代人にとって、 魂の姿を見ることは、それほど特別なことであったわけではない。 倭大后の「青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬか」も(巻二・一四八)の歌は、亡き天智の魂を見たことをうたっている。 鳥や雲が死者の魂の具体的形象と考えられていたことも参考にされてよいだろう。 しかし、 これらの魂は、 いずれもある対象のものでしかない。 換言すれば、 主体の魂の遊離が、 遊離として明確に経験されているのではない、 ということである。 だが、 景戒の夢の場合は、かれ自身がおのれの魂のはたらきを見据えている。 微妙な言い方になるが、 景戒とその魂との間にはあきらかな分離があるといってよいだろう。
さらに、 鳥や雲などに形象される死者の魂の場合、 死者の肉体から遊離したものではあっても、 結局はある共同性に支えられた時空意識の中に帰属させられてしまう。 それは、 魂が本来、 外からやってきた個体の中に棲み込んだものであり、 個体に自生的ではなく、全体から分化されたものと考えられていた(西郷信綱、 前掲論文)からである。 死者の魂は死者の世界に赴くが、 その世界はまさしく共同性そのものの象徴にほかならない。 このような魂の遊離は、 本来的な意味で、 個体の存在にかかわる問題とはなりえないのである。 けれども、 景戒の夢の場合、 遊離したその魂のはたらきは、 景戒という個体の存在とわかちがたくかかわっている。 景戒の抱えるある不安が魂の分離を促し、 自らの火葬を夢見させることになっていると思われるのである。 遊離した魂の行方を共同性に帰属させることを許さない個体の問題がそこにはあるように見える。
ところで、 この景戒の夢にかぎらず、 ある主体がおのれから遊離する魂のありかたを知覚することは、 それほどめずらしいことではない。 恋は、 すでに述べたように、 対象に吸引される魂のはたらきを意味したから、 そこでは我が身からあくがれ出ようとする魂のありかたが意識され、 時にはその姿が具体的に捉えられることさえあった。 和泉式部の「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいつる魂かとそ見る」(後拾遺集、 雑六・一一六〇)という有名な歌や、『源氏物語』の「物思ふ人の魂は、 げにあくがるるものになむありける」(「葵」)という例に見える「あくがるる魂」は、 魂合いをもとめて遊離する魂のありかたを示したものである。 とくに和泉式部の歌では、 その魂は「沢の蛍」に重ねられて視覚として対象化されている。 「あくがるる魂」は、 万葉歌では、 霞や霧として具体化される場合が少なくない。
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何処辺の方にわが恋ひ止まむ(巻二・八八)
茜ねさす日並べなくにわが恋ひは吉野の川の霧に立ちつつ(巻六・九一六)
これらの霞や霧は、 実際の景を叙したものとも見られ、 恋の状態の単なる比喩とも考えられるが、遊離した魂の具体的な形象と考えるのが、 古代の歌の表現の理解としては正しいと思われる(多田一臣、 前掲論文)。
もちろん、 このような魂のあくがれは危険な状態をその主体にもたらしたから、遊離を防ぐ呪術がおこなわ、れた。 いわゆる魂結びの呪術がそれである。 一方、恋の成就が魂合いによってもたらされることはすでに述べたが、 恋の呪術にはその魂合いをうながすものもあった。 たとえば恋人の名を喚ぶこと、 袖で床を払づたり、 衣手を折り返して寝たりすることなどがそれである。 だが、恋における魂のはたらきが呪術のカによって左右されるのだとすれぽ、その魂はやはり共同性に帰属するものとして捉えられていたことになる。 なぜなら、 呪術とは、 共同性に支えられることで機能するものだからである。 恋における魂のはたらきが主体に不安をもたらしたとしても、 少なくとも多くの万葉歌の表現レベルでは、主体の存在そのものを問い直すところまでは届いていない。 その不安は、結局は呪的な世界において、すなわち共同性の水準において、 解消されてしまうのである。 それは、魂が、 本来個体に自生的でなく、 共同性に帰属すると考えられていたこととどこかで結びあうためであるに違いない。
だが、 繰り返すように、景戒の夢の場合は、 遊離した魂は、かれの抱える不安そのもののあらわれであったと考えることができる。むしろ、 個体の存在への不安が、 かかる魂の分離を生み出しているということでもあった。 おそらくそれは、 景戒における心の発見に見合う現象であるに違いない。 そこで、 以下、 節をあらためて、 魂の分離と心の発見の問題を、 より詳しく考えてみたいと思う。
魂の分離と心の発見の問題と右に述べたが、 その前に考えておかなけれぽならないのは、魂と心の関係についてである。 魂が外からやってきてそれぞれの肉体に入り込み、 その生命を支える独特な力をもたらすものであるということについては、すでに記した。しかし、 魂と心の関係については、 従来、 あまり明瞭には論じられてこなかったように思われる。 それというのも、 心がどのようなものであるのかが、 あまりあきらかではないからである。
心について、たとえば『岩波古語辞典』は、《生命活動の根源的な臓器と思われていた心臓。 その鼓動の働きの意が原義》とし、 そこから《広く人間が意志的、 気分・感情的、また知的に、 外界に向かって働ぎかけていく動ぎを、 すべて包摂して指す語》と説明する。 たしかに、 万葉歌を見ると、 「肝向ふ」とか「群肝の」ということばが「心」に冠せられているように、 心が内臓の動きと結びついて考えられていたらしいことがわかる。 ココロの語源が「凝る」にあり、 それは内臓器官の形姿とかかわる、とする理解もある(西郷信綱、 前掲論文) 。 『古事記』の天安河のウケヒの章段で、 スサノヲの十握劔を物実として誕生したタコ(キ)リヒメが「田心姫」と表記されていることも参考にされてよいかもしれない。
しかし、心が外界に向かってはたらきかける動ぎをもったとしても、それが主体にとっての意志的な作用であったかどうかは大きな問題となる。 おそらく、 心のはたらぎは、 本来自律的なものとしては意識されなかったに違いない。 それは、 外界とのかかわりの中で、 はじめて意識されるものであったと思われる。 猪股ときわは、『万葉集』の無心所着歌を考察する中で、 歌の〈こころ〉とは、 歌のよみ手に憑いてきて歌をよませるもの、 と考えた(猪股ときわ「歌の〈こころ〉と「無心所着歌」」『古代文学』二六、 昭六二・三) 。 古橋信孝が、 心を、ある個体に固有のものではなく、 ある事態によって引き出される真理、 と説明している(古橋信孝「『記紀』歌謡」『解釈と鑑賞』 、 昭六三・九)のも同様な理解である。 さらに、野田浩子は、〈こころ〉とは、 個体内部のうごめきのすべてであるとし、 しかもその持ち主にとって掌握不能ないわば内部の闇であり、つまるところ神的なものとの対応の中から生じるのが〈こころ〉であるとして、 それが共同性の側のもの、 向こう側のものであることを論じている(野田浩子「〈こころ〉の発生」『国文学』 、 昭六四・一)。 野田も指摘するように、 「心神」(巻三・四五七) 、 「精神」(巻三・ 四七一)、「聡神」(巻一二・二九〇七)など、 「神」の裹記が「心」に用いられていることも、 その不可思議なはたらきが向こう側のものと考えられていたことを示している。
たしかに、心の不可思議なはたらきは、 他律的なものとして意識されたに違いない。 万葉歌には次のような例もある。
わが情焼くもわれなり愛しきやし君に恋ふるもわが心から(巻一三・三二七冖)
「情」が焼け、 「君」を恋しく思うのは、 どうにも統御できない「わが心」のはたらきである。 その「心」とは、 なにか名状しがたい力が外から訪れて意識されるものだった。 「秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも」(巻一〇・二二四二)という歌があるが、 ナビキとはたとえば「玉藻の靡」きがそうであるよう
に、異界から訪れる特別な力のあらわれを示すことぽである。 尾花の廉きが妹に寄る心の比喩でありうるのは、 心のはたらきが他律的なものであるからだろう。 このような他律的な心のはたらきは、 「恋ふれかも胸の病みたる思へかも心の痛」ぎ(巻一三・三三二九)という表現にも見られるように、 胸の痛みとして具体的に自覚されることもあった。 「卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴くほととぎす…聞くごとに心つごきてうち嘆き…」(巻一八・四〇八九)とあるのは、 ほととぎすの鳴く音に恋情が刺激されることをうたったものだが、 「心つごきて」とは、 外界からやってくる力によって、わけもなく心が動揺させられてしまうことを意味している。 このことばは、 『霊異記』の訓釈が「悸」を「志々呂津古支之(こころつごきし)」と訓んだように、 心臓の鼓動を意味している。 心のはたらきが胸の痛みや動悸として自覚されるがゆえに、 心は内臓器官に宿ると考えられ、 「肝向ふ」とか「群肝の」ということばと結びあわされることになったのだと思われる。
心のはたらぎが他律的なものとして意識されたとすれば、 それは心の他者性を示すことにほかならない。 だとすれば、 同じく外からやってきて個体の内部に宿ると考えられた魂の他者性とのかかわりが問題となるに違いない。 実際、 他者性という観点から、 魂と心を重ねあわせて考えようとする論者もいる。 野田浩子は、 「心をし君に奉ると思へれぽ…」(巻冖一・二六〇三)を「魂は朝タベに賜ふれど…」(巻一五・三七六七)の表現と引き較べることで、 魂と心が別物ではないことを述べている(野田浩子、 前掲論文) 。 なるほど、「たしかなる使を無みと情をそ使に遣りし夢に見えぎや」(巻一へないめ二・二八七四)とか「あしひきの山き隔りて遠けども心し行けば夢に見えけり」(巻一七・三九八一)といった例を見ると、 恋人のもとに送った心には夢を見させるはたらきがあると信じられていたことがわかる。 このような夢は、 いうまでもなく魂合いの結果もたらされるものだから、 ここには魂と心が同一視されていたらしい証跡をうかがうことがでぎる。 「玉の緒の現し心」(巻一一・二七九二)という言い回しにも、 魂と心の重なりあいがあらわれている。
万葉歌の中で、 ウラということばがしばしば心の意に解されているが、 本来は、隠されているもの、 表面には見えないものを指す。心も外からうかがい知ることのできないものだから、 それをウラと解するのも理由のないことではない。 占(ウラ)の結果、 神意が、文字通り神の「御心」としてあらわれることも、 ウラと心の関係を示している。 一方、ウラには内在する生命力の本質という意味もあって、こちらはより魂に近い用いられかたをしている。 片恋の状態や死者の形容にウラブレということぽが使われるのも、 遊離した魂が恋人のもとにあくがれたり、 死者の国に奪い去られたさまを形容するものとしてである(多田一臣、 前掲論文)。 ウラブレは、 ウラ+アブレの約であるという(『岩波古語辞典』) 。
このように、 ウラは、 魂と心の重なりあいを示すことばであるように思われるが、同時にまた万葉歌のウラの用字は「裏」「浦」が大半で、 「心」字を宛てた例はひとつもないとされる(野田浩子「うら」『古代語を読む』〈古代語誌刊行会編V) 。 やはり、ウラと心は必ずしも同一ではなく、 さらには魂と心も完全に重なりあうものではなかったらしい。 魂と心はどちらも他律的でありながら、魂が外部から依り来る本来的な他者として存在したのに対して、 心は主体の統御を超えて意識される不可思議な力のはたらきを意味した。 魂が遊離しあくがれ出ることがあるのに対して、 心ははたらきそのものであるがゆえにあくまでも主体から離れ出ることはなく、 その存在が個体の内部で意識されるだけのものでしかなかった。 もちろん、「心を奉る」という例のように、そのはたらきが外界に対して及ぶ場合もあったが、 そのような際に、 魂との重なりあいがつよく意識されることになったのだと思われる。 心とは、つまり、そのはたらきが意識されることによってはじめて存在があらわれてくるものだったのである。
魂と心の関係を右のようにながめた時、それでは景戒の夢における魂の分離と心の発見とはどのようにかかわってくるのか。 その問題を次に考えなけれぽならない。
右に述べたように、 心とは、 そのはたらぎが意識されるところにはじめてあらわれてくるものだった。 それゆえに、 はじめから心は発見されるものとして存在したことになる。しかし、 ここで心の発見というのは、 それが個体の存在にかかわる、 いわば倫理意識ともいうべきものの象徴として自覚されてくることを意味する。 もちろん、 それは、 個体の存在に対する自覚が生じてくることと不可分な意識である。
たとえば、 万葉歌には、 心の状態をあらわすイブセシということばを見ることがでぎる。 これは、主体の意志では統御することのできない心のさまをあらわす語で、掌握しがたい心の他者性をうかがわせることばである。 とくに、 大伴家持の作品を中心に用いられたらしい。 このことばの表記は「鬱悒」だが、 家持以前のたとえば人麻呂歌集あたりでは、 この表記はオボボシに対応するものであったらしい。 オボボシの表記は、 他に「不明」「鬱」などを見ることができるが、 これをオボボシと訓むかぎり、 それは本来外界のはっきりしないおぼろげなもの、 ほのかなものの形容であり、 それを心の状態にまで拡大して用いたということになる。 山本健吉によると、「鬱悒」の語を、 外界の不分明さをあらわすオボボシの訓みから切り離し、 イブセシの訓みを与えることで個体の胸中の憂愁を純粋にあらわすことばとして使用したのは家持なのだという。 オボボシの転用では済ますことのできない、 心の結ぼれ滞った閉塞状態が、 このイブセシの訓みにはあらわれているともいう(山本健吉「家持と「鬱悒」」『図説日本の古典2万葉集』月報) 。 家持における、 オボボシからイブセシへのこの変化が、 おそらく心の発見に見合う現象であったと考えることができる。 共同性からの剥離が自覚される中で意識される心のありかたが、 この「鬱悒」にほかならない。
家持における「鬱悒」の意識は、 個体の存在への自覚が生み出したものである。 その自覚は、 「うつせみの借れる身」(巻三・四六六) 、 「泡洙なす仮れる身」(巻二〇・四四七〇)という、 我が身を仮合の身と観ずる仏教的な存在意識とも無縁でなかったように思われる。 しかし、 仮合の身たることを深く自覚し、そこからおのれの心を発見したのは、 まず第一に仏教者たちであった。 景戒は、 まさにそのようなひとりだったのである。 景戒における心の発見は、自己の存在を「恥」と感得するところに認めることができる。 下巻三八話には、 次のような一節がある。 いわゆる景戒自伝の最初の部分である。
延暦の六年丁卯の秋の九月の朔の四日甲寅の酉の時に、 僧景戒、慚愧の心を発し、 憂愁へ嵯きていはく、 「鳴呼、 恥しきかな、 訟しきかな。 世に生れて命活ぎ、 身を存へむに便なし。 等流果に引かるるがゆゑに、 愛網の業を結び、 煩悩に纒はれて、 生死を継ぐ。 八方に馳せて、 生ける身を炬し、 俗家に居て、 妻子を蓄ふ。養ふ物なく、 菜食なく、 塩なく、 衣なく、 薪なし。 つねに万の物なくして、思ひ愁へて、 わが心安くあらず。 昼もまた飢ゑ寒い、夜もまた飢ゑ寒ゆ。 われ先の世に、 布施の行を修せずありき。 鄙なるかな、 わが心。 微しきかな、 わが行」といふ。
ここに述べられているのは、 僧の身でありながら俗家におり、 飢えと寒さに苛まれつつ妻子を養わなければならない現在の生活のありさまである。 しかも、 その貧窮の生活にあることが慚愧の対象とされ、 「鳴呼、 恥しきかな、 宏しきかな」と嘆じられているのである。 景戒によれば、 その飢寒の生活は、 前世に布施行をった報いであるという。 その宿縁のつたなさが「恥」の感覚を喚び起こしているのである。 「鄙なるかな、 わが心」ということばには、 おのれの心への痛切な自覚があらわれている。
この記事に続けて、 景戒は、 自身の見た夢を記している。 冒頭に示した二つの夢のうち、 第冖の夢にあたる。 そこでは前世の具体的な功徳が、 上品・下品それぞれ一丈七尺・一丈の板に印された身長としてあらわれており、 この世で五尺あまりの身長しかもちえなかった景戒は、 「われ先にただ下品の善功徳をだにも修せずありき。そゑにわれ、 身を受くることただ五尺あまりあるのみ。 鄙なるかな」と悔い愁いて、 やはり慚愧の心をおこしている。 夢の中とはいえ、 ここで景戒が慚愧するのは、 わが短身に前世からの宿縁が露呈されたことでつたなき行業が自覚され、 「恥」の意識ωが生じたからである。 そこにも、 個体の心を見据える目があらわれている。
だが、 なぜ景戒の心の中で、前世からの宿縁が「恥」として感じとられなければならなかったのか。 そこに、おそらく、 個体のありかたが不安とともに自覚されなけれぽならない状況が見えている。「恥」は、 いうまでもなく倫理意識としてあらわれる。 それは、 個体の閉じられた心の中に生じるのではなく、宿縁が露呈し、その結果が衆目にさらされることによってはじめて起こる感情である。 衆目は、 いわば共同性に支えられた規範意識を意味するから、 「恥」は共同性の側から逆に照らしだされるおのれ自身の存在の意味を、それぞれの個体の内部に痛切に突きつけていくことになる。 しかも、その規範意識の根拠となるのは、 仏教の説く因果律にほかならない。 一人ひとりの個体の存在は、すべて前世の宿縁にもとつくものであり、 善因善果、 悪因悪果を導く因果律は、過去・現在・未来を流れる仏教的な時間の中にそれぞれの行業を通じてきびしく貫かれていると信じられていたのである。
因果律のきびしさが絶対的なものであったのは、 たとえば『霊異記』説話のありかたを見ることでもわかる。 善因には善果が、 悪因には悪果が正しくあらわれるのであり、たとえ善悪両面にわたる行業が同一人物について問われる場合であっても、 それらが相殺されることはけっしてない(原田行造「『日本霊異記』における表相信仰の世界」『日本霊異記の新研究』) 。 そこに因果律の仮借のないきびしさが示されていたのである。 『霊異記』の場合、 そのきびしさは、 いわゆる「無記作罪」の世界にも及んでいる。 「無記作罪」とは、 無意識のうちに罪を冒してしまうことで、これに対しても「果」が的確にあらわれるのだという。 これは、 いかなる場合にも、 「因」に対する当事者の責任回避を認めないという意味で、もっとも厳密な因果律の極致を示したものということができる(原田行造、 前掲論文) 。 善悪いずれをも問わず、無意識の世界をも含めて、 一人ひとりの行動のすべてに因果律が貫かれているという自覚は、 個体の存在に対する認識を鋭く人々に突きつけていくのである。
「恥」は、 それゆえに、 前世の悪因が悪果となって現在に露呈することへの倫理的な畏怖をあらわす感情であった。 景戒が、 「鄙なるかな、 わが心。 微しきかな、わが行」と嘆いたことは、 繰り返すように、 過去の行業のつたなさを悔いる中で、心のありかたが痛切に自覚させられたことを意味している。
もちろん、 ここで景戒が慚愧の対象とするのは、 蝕えと寒さに苛まれる現在の貧窮の生活である。 だが、 貧窮とは、 本来、個体の存在が倫理として問われるような問題ではありえなかった。 それは、村落(共同体)そのものの存立にかかわる問題だったのである。 村落は、 さまざまな矛盾を不可避的に抱えもつ。 その内部に貧富の差が生まれるのもそうした矛盾のひとつである。 しかし、 村落は、 そうした矛盾を、 たとえぽ繁栄と豊穣の理念の中にたくみに吸取した。 貧窮は、 村落全体にかかわる問題として考えられたのである。村落の成員一人ひとりの抱える矛盾は、 村落の理想が実現されることによって解消されるはずだとする幻想がそこにはある(個体と共同体のこのような問題は、 古橋信孝「異郷論」『大系仏教と日本人 1 神と仏』〈桜井好朗編〉などに詳しい) 。 けれども、 村落(共同体)が、 国家の影にすっぽり覆われるようになると、村落の秩序を支えていた幻想は変質する。 国家は、一方で、 村落の理念や価値観を超えて、 成員一人ひとりに直接力を及ぼすようになる。 そうした中で、 個体のもつ矛盾が、 あらためて表面に噴き出てくるのである。しかし、 変質した村落の理念は、 もはやその矛盾をつなぎとめる力を持ちえない。 そこで、その矛盾は、 村落と国家のはざまに個体の不安として投げだされることになる。 その不安を克服するものとして受容されたのが仏教だったのである。 仏教は、 個体のもつ矛盾を個体の存在に即して説明する。 それが因果律である。 貧窮はこうして、 個体の存在にかかわる倫理の問題として意識されることになった。 「恥」の音喞識の中で、 おのれの心が自覚されるようになるのは、 まさしくこの段階においてである。 景戒の「鄙なる心」への慚愧は、そのことをよく示している。
もとより、 国家のレベルで、 心の倫理が問題とされることがなかったわけではない。 たとえば津田左右吉は、 『記紀』や祝詞にあらわれる「善心」「邪心」「赤心」「黒心」「邪意」「穢心」などの心、すなわちヨキココロ・アシキココロを取り上げ、 心のはたらきに対する自覚が見られることを説いて、 そこに道徳意識の発達がうかがわれることを論じている(津田左右吉「上代日本人の道徳生活」『日本上代史の研究』) 。 また、 呉哲男も、天安河のウケヒの章段におけるスサノヲの「心の清明」を問題とすることで、 心という抽象観念が獲得される中で形成される「規範意識(倫理)」のあらわれについて言及している(呉哲男「清明心の発生」『文学の誕生シリーズ・古代の文学3』〈古代文学会編V) 。しかし、 津田の場合、道徳意識の発達というものの、 そのヨキココロ・アシキココロが、個体にかかわる倫理としてはあらわれていないことに注意しなければならない。 津田は、 スサノヲの高天原からの追放譚を引用し、 スサノヲがその行為に対する道徳的責任を負わされたことを説いているが、これとても個体の存在(人格)が問われているわけではない。 スサノヲは、 ある共同性の象微にほかならないのである。 その点では、 呉が、やはりスサノヲのウケヒを問題としながら、《ここにいう「心の清明」がスサノヲの心的活動としての道徳性を問うものではない》との限定を加えていることは、 その見識を示すものといえる。 ここでの心は、あくまでもある共同性を体現する意味しか与えられていないのである。
だが、 繰り返すように、景戒における慚愧の感情とは、 個体の内側に発見された心の状態がもたらしたものだった。 「恥」を生み出すその倫理意識は、個体の存在にかかわるものとしてあらわれたのである。 スサノヲの「心の清明」がある共同性の体現であったとするならば、 景戒の「恥」はむしろ共同性からの剥離を不安として自覚したところに見いだされたものにほかならない。 その不安を、 仏教の説く因果律の中に清算した結果、 感じとられたのが、 その慚愧の心だったのである。 その慚愧の心がなぜ火葬の夢に結びつくのか。 最後にその問題を考えてみたい。
火葬の夢が分離した魂のはたらきであることは、 すでに述べた。魂は、 本来共同性に帰属するものではあるが、 繰り返すように、 ここに分離された魂は、 共同性の水準に解消されることを許さぬ個体の不安の象徴として存在した。 なぜなら、 個体の抱える矛盾が、 村落と国家のはざまの中に不安として噴き出たところに、 その位置が自覚されたからである。 仏教の因果律は、 「恥」の感覚を喚び起こすことで個体の心を発見させたが、 その「恥」とは、 揺れ動く個体の不安を仏教の側から、倫理意識として照らしだしたものにほかならない。こうして、魂のありかたもまたそうした不安の象徴として漂い出ることを余儀なくされるのである。浮遊する魂は、まぎれもなくもうひとつの「分身」として幻視されるものだった。
もとより、『霊異記』の記述の中で、火葬の夢が官位にかかわる啓示として、肯定的な意義を与えられていたことは否定できない。しかし、それが景戒自身の存在の不安を示す夢であったことは、前とひと後の記事を見ればあきらかである。とくに、おのれの「鄙なる心」を慚愧した第一の夢とのつながりは重要である。むしろ、因果律の絶対を信じながら、夢に未来の果を必死に探りもとめようとする姿勢の中に、かえってその不安の深刻さをかいま見ることができる。火葬にされるおのれ、そのおのれを焼く魂、さらにそれを夢に見るおのれは、ひとりの個体の分裂を暗示している。それは、個と全とを結ぶ古い共同体的紐帯の解体(西郷信綱、前掲論文)をうかがわせる現象であったともいえるだろう。

注(1) みずからの存在を自覚する中から「恥」の意識を吐露した人物として山上憶良の名を忘れることはできない。憶良もまた「仮合の身」たるおのれのありかたを深く感じ取っていた。ちょうど家持や景戒の先蹤的存在といえる。
 
物語・説話と説話文学

 

物語と説話
平安時代末期に成立した『今昔物語集』は三十一巻(うち三巻を欠く)一千数十話の短い話を集めた一大作品であるが、その個々の話を“説話”と称することから、これを“説話集”といっている。ところが、その作品名は『今昔物語集』である。これからみると、この短い話は、もとは“物語”とされていたので、それが多く集められた作品としてこう名づけられたのであろう。このような話を“説話”と呼ぶようになったのは近代以降のことであり、それが多く収載された作品(平安時代から鎌倉時代を通じて次々と成立した、『日本霊異記』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』『沙石しやせき集』『三国伝記』『私聚しじゆ百因縁集』等々)を、『竹取物語』(伝奇物語)、『源氏物語』(作り物語・写実物語)、『栄花物語』(歴史物語)、『平家物語』(軍記物語)等の物語類とは異性格のものとして、古典文学ジャンルの上でも“説話集”と呼ぶようになったのである。『伊勢いせ物語』『大和やまと物語』などは歌物語と呼ばれるが、それらは和歌を中心にした短い話を多く集めたものであるから、別称として和歌説話集ともいっている。
さて、前記のように説話はもと物語と呼ばれていた。なぜなら、それは元来〈ものがたる〉ものだからである。“物語”の語源については、すでにすぐれた考察がなされているが、それはさておいて、〈ものがたる〉〈かたる〉は、ある特定の人物の言動やその生き方とか、事物の由来、特殊な出来事などを人々に伝達しようとする言語行為であり、それは日常会話としての言語行為である〈はなす〉と異なる。この〈ものがたる〉〈かたる〉実体が“物語”であるが、一般には、ある作者によるまったくの創作であっても、何かの言い伝えをとらえたものであっても、原則的に人に語る形で叙述された散文体(漢文・和文・和漢混淆こんこう文)の作品を“物語”とする。その物語のうち、実在・仮構を問わず、一人または複数の人物の生涯、またはその一部を主題として語る長編・中編を“物語”と称し、ある人物の一挿話とか、事物の由来、異常な一事件など、原則として伝承または自ら見聞した、過去の事実としての一つの出来事や一つの事態・状況に興味・関心を持って、それを主題として語る作品――それは必然的に短いものとなるが、それを“説話”と称するものと思われる。その内容は多種多様であるが、次に二つの説話集からアトランダムに二話を取り出して例示しよう。
『今昔物語集』巻二十八は笑話(滑稽こつけい談)を集めた巻である。その中に「池尾禅珍内供鼻語第二十」がある。これと同じ話が『宇治拾遺物語』中に「鼻長僧事」(二五)として収められている。これを要約して記してみる。
池の尾という所の寺に禅珍ぜんち(智)という僧がいた。戒律を守り、修行に努める立派な僧であったから、寺は大いに栄えていた。ところが、この僧は異様な鼻の持ち主で、その長さは五、六寸、顎あごの下までとどくほど。色は赤紫で表面はぶつぶつとしてふくれており、まるで蜜柑みかんのよう。これがかゆくてしかたがないので、鍋なべに沸かした熱湯の湯気で鼻をゆでたうえ、横に寝て、用意した板の上に鼻を載せ、それを人に踏ませる。すると鼻の表面から白い小虫のようなものが無数に出てくる。それを毛抜きで取り去ってから、また前のようにゆでると、鼻は普通の人のように小さくなっている。しかし二、三日もするとまたもとのようになるので、またこれを繰り返していた。だがふくれている日のほうが多い。困るのはうまく食事ができないことで、食事時には弟子を前に座らせ、一尺ほどの平らな板を鼻の下にあてがい、鼻を持ち上げさせて食べる。持ち上げ方が悪いと不機嫌になり食事をやめる。そこでこれの上手な弟子を一人決めてやらせていたが、ある日、禅珍が朝粥あさがゆを食べようとしている時、この弟子が折り悪しく出てこなかった。他の弟子たちが困っていると、一人の小坊主が、「わたしだってうまくやれますよ」と言ったので、やらせてみると実に上手にやる。禅珍は喜んで粥をすすっていたが、その小坊主が思わず大きなくしゃみをした。とたんに手もとが狂い、板が鼻からはずれたので、鼻が粥椀の中にぼちゃっと落ちて、粥汁が禅珍の顔や頭に飛び散った。禅珍は怒って、「こいつ、とんでもない奴だ。もしこのわしでなく、貴いお方の御鼻を持ち上げるような時に、こんな失礼をするつもりか。さっさと出て行け」と言って追い出す。出て行った小坊主は物陰に行って、「なにをえらそうに。こんなけったいな鼻を持った人がこの世にほかにおいでになるならば、よそで鼻持ち上げもしように。ばかなことをおっしゃるお坊様だ」と言う。これを聞いた他の弟子たちは、その場から逃げ去って大笑いした。思うに、どんな鼻だったのだろう。何ともあきれた鼻だ。小坊主は実に面白いことを言ったものだと、これを聞いた人は皆ほめた。
この話は、禅珍の異様な鼻をもとに笑いを生じた一出来事に興味を持ち、それを主題として語った笑話であり、その点で“説話”といえる。これを素材にして芥川龍之介が書いた『鼻』は短編ながら小説であり、笑話ではない。禅珍の言動に近代的な心理解釈を施しながら、一抹の哀感をただよわせる人間を描き出している。だからこれは、“説話”ではなく近代小説である。
『古今著聞集』巻十六「興言利口第二十五」の中の極めて短い一話の要約。
前大和守時賢やまとのかみときかたの墓所は長谷はつせという所にあったが、そこの墓守をする男が鹿を捕えようと、葛かずらを用いたわなを仕掛けておいたところ、ある日、大鹿がかかった。わなで捕えたというのもくやしいから、射止めたのだといって自分が弓の達人であることを人に知らせようと思い、わなで捕えたままの鹿を大雁股かりまたの矢で射たところ、矢がそれてわなの葛かずらに当り、射切ってしまった。鹿はそのまま逃げていった。男は頭を掻いたが、どうにもならなかった。
この話は、墓守の男がわなで捕えた鹿をめぐって、自分が弓の達人であることを自慢しようとして失敗した一出来事を主題にした“説話”である。これには、つまらぬ自慢行為に対する戒めの意を伴っている。
古代において自然界・人間界の事象のそれぞれを、各氏族・部族などにとっての神格的存在の作用によるものとして語る「神話」も、ある一族または集団の出自や特定地域の自然物・事件などの由来を語る「伝説」も、〈むかしむかしある所に〉などの言葉で語りはじめ、〈あったとさ〉〈あったげな〉などで結ぶ空想的内容の「昔話」(〈昔〉で始る〈話〉の意の命名)も“物語”であるが、この三者ともまた説話としてとらえられている。『今昔物語集』所収説話のすべては、冒頭に「今昔(今は昔)」の語を置き、末尾を「…となむ語り伝へたるとや」で括くくる。これは「昔話」の語り口を承けているものであり、もと“物語”といわれた“説話”叙述の一典型である。漢文体の『日本霊異記』(平安初期)も収載説話の多くが「昔」を冒頭に置く。また『宇治拾遺物語』(鎌倉初期)も大部分の説話の冒頭が「今は昔」「是も今は昔」である。だが、説話冒頭に「昔」などを置かない説話集も多い。
仏教説話と世俗説話
ところで、説話はその内容から通常二種に分けられる。一は仏教説話、一は世俗説話。前者は仏教信仰を主とするもので、それには、三宝さんぼう(仏・法・僧)霊験談、因果応報談、寺塔縁起談、その他がある。三宝霊験談には、仏宝ぶつぽう霊験談(釈迦しやか仏・薬師仏の諸仏の霊験を語る)、法宝ほうぼう霊験談(『般若はんにや経』『法華ほけ経』等の諸経典の霊験や念仏の利益りやく=往生などを語る)、僧宝そうぼう霊験談(観音・地蔵・弥勒みろく等の諸菩薩や歴史上の高僧たちの霊験やすぐれた行跡を語る)の三つがあり、因果応報談は、善因善果・悪因悪果のありようを語るものであり、寺塔縁起談は諸寺・諸塔の建立由来を語るものである。仏教説話にこれらのほかさまざまのものがあるが、その多くは僧徒が布教用に語るためのもので、これらもみなある事件・事象の興味・関心に寄せて語られる。一方、世俗説話は右以外の世事一般にかかわる説話で、上は皇族・貴族の公的な場、私的生活の中での言動や事件、漢詩文・和歌にかかわる話、下は都鄙とひの一般民衆・僧侶・乞食・盗賊に至るまでの者の日常生活の中での種々さまざまの出来事の一つをとらえて語るものである。そして仏教説話・世俗説話の二種のうちの仏教説話を主として収載した作品を仏教説話集といい、世俗説話のみ、あるいはそれが大多数を占める作品を世俗説話集といっている。
説話はおおむね前記のような特性を持つものであるが、それらを語り、また記述するに当っては、多くの場合、単に人々の興味・関心に訴えるだけでなく、実用的な目的・意図を持っている。仏教説話はそれによって仏教信仰を強め、戒律に添って生活態度を戒めようとする説教性の強いものであり、世俗説話はそれによって日常処世のありよう、心のもちようを教え導こうとする。すなわち説話は仏教説話と世俗説話を問わずこのような目的・意図を具そなえて語り、記述する、換言すれば説示するものである。これによって“説話”という名称が与えられたのかもしれない。これらのことから、説話集はどちらかといえば社会体制の変動期、文化の変異期により多く現れるといえよう。
仏教信仰は奈良時代から平安時代を経て鎌倉時代に至るにつれ、貴賤の間にしだいに深く浸透してゆき、次々に仏教説話集を生むことになった。平安初期に『日本霊異記』が書かれ、次いで平安中期には『日本往生極楽記』『三宝絵詞』『打聞集』などが成立している。平安末期の『今昔物語集』は、三十一巻のうち前半二十巻(うち巻八・十八欠)が仏教説話であり、後半十一巻(うち巻二十一欠)が世俗説話であるから、全体としては仏教説話集とも世俗説話集ともいえない。これが成立する前の平安中期頃から藤原氏を頂点とする貴族権力の衰退傾向に伴い、下級官僚の進出、地方武人勢力の台頭が目立ちはじめ、また中央・地方間の往来が多くなってくる。こういう状勢をうけて、都人たちの間に人間のもつさまざまな個性や能力・欲望に対する興味・関心が強まり、それらにかかわる世俗説話が仏教説話とともに『今昔物語集』の中に多く収められ、『宇治拾遺物語』にも取り上げられた。世俗説話は後世になるにつれ、武人階層・庶民階層の興味・関心をとらえた説話を生み出し、それを収めた説話集が作られてくる。
説話文学と説話
さて、説話に関連して“説話文学”ということがいわれる。これは説話が“文学”であるということなのか。説話も、その多くが人々の感情や情緒に訴える作品であるからには、広い意味で“文学”といえるであろう。しかし前記のように、個々の説話が主として一つの出来事・事態・状況の興味・関心において語られるものであるとともに、日常的な教導・教訓を目的として語られる短小な実用的作品であり、真正面から人間・人生を描き出そうとするものでないからには、その説話が人物をとらえたものであっても、往々にして人物描写・心理描写はおろそかになり、また情景描写などもおざなりになりがちで、その点からいわゆる文学性は希薄なものになっているといわざるをえない。
だが“説話文学”というのは、一般に、個々の説話についていわれるのではなく、それらを一括収集した説話集をとらえての呼称、すなわち同義語とされる。そうであれば、個々の説話の文学性の有無にかかわりなく、全体としてそこに喜怒哀楽さまざまの人間模様や社会の種々相が万華鏡を覗のぞき見るように現れてくる。その面白さをとらえて“説話文学”というのであろう。
 
仏教説話の世界

 

仏教説話とは、仏教に関する話が語られている説話で、内容は発心(ほっしん)・遁世(とんせい)・往生(おうじょう)・霊験(れいげん)などです。それぞれ、ざっくり説明すると、
発心は、悟りを得ようと仏の道に志すこと。
遁世は、俗世の煩わしさを捨てて静かな生活に入ること。
往生は、この世を去って極楽に生まれ変わること。
霊験は、仏の霊力によって起こる不思議な出来事。
たくさんある説話集の中で、『発心集〔ほっしんしゅう〕』『撰集抄〔せんじゅうしょう〕』『閑居友〔かんきょのとも〕』『沙石集〔しゃせきしゅう〕』は仏教説話集と呼ばれています。また、これ以外の『今昔物語集〔こんじゃくものがたりしゅう〕』『宇治拾遺物語〔うじしゅういものがたり〕』『古今著聞集〔ここんちょもんじゅう〕』などの説話集は世俗説話集と呼ばれていますが、これらの説話集にも仏教説話はたくさん含まれています。
平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて仏教説話集がぞろぞろと出現するのは、まず、仏教の言う末法思想が前提にあります。これは仏教の歴史観で、釈迦の教えが正しく行われる時代、次に、釈迦の教えが行われても悟る人のいない時代、最後に、釈迦の教えがまったく行われない時代が来るというものです。日本では一〇五二年から末法に入ったとされていました。この終末観がもとにあって、さらに現実の政治的な不安定、社会的な不安定が重なってきて、保元の乱、平治の乱、治承の乱〔:平家と源氏の戦乱〕などの戦乱が続いた上に、大地震や大風などの天変地異〔:鎌倉時代初期の『方丈記〔ほうじょうき〕』に書かれています〕が続いたことによって、人々は生きるので精一杯、こういう暮らしはもう勘弁してほしいという思いが平安京に充満していて、心静かに穏やかに暮らせる日々の到来を願っていたのです。多くの仏教説話集が生まれたのは、いわば、時代の要求であったということです。
資本主義の現代に生きている私たちは、ジャンボ宝くじが当たって何億円ものお金があったら、毎日遊んで暮らせるとか、豪邸に住んでみたいとかとか考えますが、この時代の人たちが何億円ものお金を手にしたら、何よりも先に仏に寄進して出家をしようと考えたことでしょう。この時代の人々は心や精神のあり方について、現代の私たちよりもかなり高いレベルでいろいろと考えていたようです。

説話には形式があります。誰がどうしたこうしたという話の部分と、それについての感想や批評、教訓などを述べた評言と言われる部分の、二つの部分から成り立っています。評言は、評語とも言います。2008年度のセンター試験本試の問4で「評言」という言葉を使っていたので、ここでは評言を採用することにします。説話によっては、話の部分だけのものもあります。また、入試問題では、出題者が評言の部分を削除してしまっているものもあります。「仏教説話を読もう」では入試問題から文章を選んでいますが、評言が特別に長いものは適宜省くことにして、原則として削除せずにすべて載せることにします。
■1話 『古本説話集』五九   
観音〔かんのん〕の御利益〔ごりやく〕の話を読んでみましょう。観音の本名は観世音菩薩〔かんぜおんぼさつ〕。世の人々の救いを求める声を聞いて、三十三の姿になって現われ衆生を救済しようという誓いを立てたと言われています。観音は、平安時代の中ごろから現世来世にわたって利益を与える菩薩として信仰され、清水寺・石山寺・長谷寺の本尊である観音には多くの人々が参拝しました。清水寺は京都市の東山にある寺院、石山寺は滋賀県大津市にある寺院、長谷寺は奈良県桜井市にある寺院です。
次は清水寺の観音の御利益の話です。
〔本文〕
今は昔、頼りなかりける女の、清水にあながちに参る、ありけり。参りたる年月積りたりけれど、つゆばかりその験〔しるし〕とおぼゆることなくなり、いとど頼りなくなりまさりて、果ては年ごろありける所をも、そのこととなくあくがれて、寄りつく所もなかりけるままには、泣く泣く観音を恨み奉〔たてまつ〕りて、「いみじき前〔さき〕の世の報いなりといふとも、ただ少しのたより賜〔たま〕はり候〔さぶら〕はん」と、いりもみ申して御前にうつ伏したりける夜の夢に、「御前より」とて、「かくあながちに申すはいとほしく思し召せど、少しにてもあるべき頼りのなければ、そのことを思し召し嘆くなり。これを賜はれ」とて、御帳〔みちゃう〕の帷〔かたびら〕を、いとよくうち畳みて、前にうち置かると見て、夢覚めて、燈明〔とうみゃう〕の光に見れば、夢に賜はると見つる御帳の帷、ただ見つるさまに畳まれてあるを見るに、「さは、これよりほかに賜〔た〕ぶベき物なきにこそあんなれ」と思ふに、身のほど思ひ知られて、悲しくて申すやう、「これ、さらに賜はらじ。少しの頼りも候はば、錦をも、御帳の帷には縫ひて参らせんとこそ思ひ候ふに、この御帳ばかりを賜はりて、まかり出〔い〕づべきやう候はず。返し参らせ候ひなん」と口説〔くど〕き申して、犬防〔いぬふせぎ〕の内にさし入れて置きつ。さて、またまどろみ入りたるに、また夢に、「など賢〔さか〕しうはあるぞ。ただ賜〔たま〕はん物をば賜はらで、かく返し参らするは、怪しきことなり」とて、また賜はると見る。さて醒〔さ〕めたるに、また同じやうになほ前にあれば、泣く泣くまた返し参らせつ。
かやうにしつつ、三度〔みたび〕返し奉るに、三度ながら返し賜〔た〕びて、果ての度〔たび〕は、この度返し奉らば、無礼〔むらい〕なるべきよしを戒〔いまし〕められければ、「かかりとも知らざらん僧は、御帳の帷を放ちたるとや疑はんずらん」と思ふも苦しければ、まだ夜深〔よぶか〕く、懐にさし入れてまかり出でにけり。「これをばいかにすべきならん」と思ひて、引き広げて見て、「着るべき衣〔きぬ〕もなし。さは、これを衣にして着む」と思ふ心付きぬ。それを衣や袴〔はかま〕にして着てける後〔のち〕、見と見る男にまれ、女にまれ、あはれにいとほしき者に思はれて、すずろなる人の手より物を多く得てけり。大事なる人の愁へをも、その衣を着て、知らぬやむごとなき所にも参りて申させければ、かならず成りけり。かやうにしつつ、人の手より物を得、よき男にも思はれて、楽しくてぞありける。されば、その衣をば納めて、かならずせむと思ふことの折〔をり〕にぞ、取り出でて着てける。かならずかなひけり。『古本説話集』五九
〔訳例〕
今は昔、頼りとする人もなかった女の、清水寺に一心に参詣するのが、いた。参詣した月日が積もっていたけれども、少しもその御利益と思われることがなく、ますます縁故の者もなくなって、最後には、長年いた所をも、これという理由もなくさまよい出て、身を寄せる場所もなかったので、泣く泣く観音を恨み申し上げて、「ひどい前世の報いであるといっても、ともかく少しの生活の手がかりをいただきたいです」と執拗にお願い申し上げて、御前にうつ伏していた夜の夢に、「観音様から」と言って、「このように熱心に申し上げるのは、気の毒にお思いになるけれども、少しでも与えることができる生活の手がかりがないので、そのことを悲しみなさるのである。これをいただけ」と言って、御帳の帷をとてもきちんと畳んで前にぽんと置かれると見て、夢が覚めて、御灯明の光で見ると、夢でいただくと見た御帳の帷が、まったく見た通りに畳まれてあるのを見ると、「それでは、これより他に、お与えになることができる物がないのであるようだ」と思うと、身のほどがしみじみ分かって悲しくて申し上げることは、「これは、決していただかないつもりだ。すこしの生活の手がかりもございますならば、錦をも、御帳の帷には、縫って差し上げようと思いますのに、この御帳だけをいただいて、退出してよいわけがございません。お返し申し上げてしまいましょう」と、くどくど申し上げて、犬防〔いぬふせぎ〕の中に入れて置いた。そうして、またうとうとしていると、また夢に、「どうして生意気なのか。ともかくお与えになるような物をいただかずに、このようにお返し申し上げるのは、けしからんことだ」と言ってまたいただくと見る。そして、目が覚めたところ、また同じように相変わらず前にあるので、泣く泣くまたお返し申し上げた。
このようにしては、三回お返し申し上げると、三度ともお返しくださって、最後の時には、今度お返し申し上げたならば無礼であるに違いないことを注意されたので、「こうであるとも知らないような僧は、御帳の帷を外したと疑うだろうか」と思うのもつらいので、まだ夜が暗いうちに、懐に入れて退出してしまった。「これを、どうするのがよいのだろう」と思って、広げて見て、「着ることができる服もない。それでは、これを着物にして着よう」と思う考えがひらめいた。それを衣や袴にして着てしまった後、見るすべての男にでもあれ、女にでもあれ、気の毒にかわいそうな者に思われて、見ず知らずの人の手から物を多くもらってしまった。重要な訴訟も、その衣を着て、見知らない重々しい所にも、参上して申し上げさせたところ、かならずうまくいった。このようにしながら、人の手から物をもらい、よい男にも愛されて、裕福であった。だから、その衣をしまって、かならずなしとげようと思うことの時に、取り出して着てしまった。かならず実現した。
〔解説〕
この時代の人々は寺院に参拝するだけでなく、「参籠〔さんろう〕」と言って、寺院に泊まり込みをしました。一人で泊まる場合もあるし、数人で泊まる合宿というような感じになることもあったようです。参籠する時には、いつも懇意にしている僧が世話をしてくれます。泊まる場所は、几帳や衝立などで間仕切りしたものから、ちゃんとした壁のあるものまでいろいろだったようです。
参籠をして夜寝ている間の夢で観音からのお告げを得るというのが、よくあるパターンだったようです。その夢で、御帳の帷を観音からもらうのですが、これはお寺の壁に掛かっているカーテンみたいものです。女が目を覚ますと、現実に目の前に御帳の帷がある。それを不満に思って返して寝ていると、また夢の中で御帳の帷をもらい、また、それを返す。これを繰り返して、とうとう四回目の夢では、返すのは無礼だとしかられて、それをもらって帰ったわけです。この女房、寝たり醒めたりを繰り返していますが、夢の続きを見ているのがすごいですね。夢は、神仏のお告げであるともとらえられ、夢で見たことが実現すると信じられていました。また、夢は一つの現実としてとらえられ、夢が何を表わすかということを判断する「夢解〔と〕き」「夢占い」「夢合せ」や、悪い夢を見た時にはよい夢に変える「夢違〔ちが〕へ」がよく行われました。夢は、この時代の人にとって、とても大事なものでした。
女は、御帳の帷を衣に仕立てて着ていると、誰も彼も気の毒に思い、物をたくさんもらいました。「たのし」という形容詞は、説話などでは、裕福だという意味で使われることが多いのですが、この女房は観音からいただいた御帳の帷がもとで裕福に暮らすことができたわけです。
■2話 『閑居友』下・五 
次は、奈良県桜井市にある長谷寺の観音の御利益の話です。
〔本文〕
中ごろ、東〔ひんがし〕の京に、頼りなき若き女ありけり。形〔かた〕のやうなる宮仕へなどしけれど、さしあたりて身を助くばかりのはかりごとにも当たらでのみ過ぎ行きける。かかるままに、月ごとに初瀬〔はつせ〕の観音〔くゎんおん〕に参りて、さまざまにぞ身を愁へ侍〔はべ〕りける。かくて、三年〔みとせ〕の冬にもなりぬれど、さらにその験〔しるし〕なし。さすがたやすからぬ道なれば、いよいよその懐も狭くぞなりまさりける。また、世の中のならひなれば、人も口やすからずもて扱ひけり。さて、この女、さのみは道の用意もしあふべくもあらざりければ、「このたび参りて、身のほども愁へはて侍りなば、今はさてこそはやみなめ。人の言ふもことわりなり」など思ふよりまだきに、かき暗〔くら〕されてぞ悲しく侍りける。
さて、いつよりも心を調へて参りにけり。「このたびは限りぞかし」と思ふに、あやしの木草までも目にかかりて、かき暗さるること限りなし。さて、その夜、涙を片敷〔かたし〕きて、御前〔まへ〕にうたたねともなくまろび臥しにけり。さて、夢の中に、僧のいみじく尊く、年たけ、徳〔とく〕至れりと見ゆるが、出〔い〕で来〔き〕給〔たま〕ひて、「あはれに思ふぞよ。恨めしくな思ひそよ。その後〔あと〕の方〔かた〕に臥したる女房の薄衣〔うすぎに〕を、やをら取りて着て、早く起きて帰りね」と仰せらるる、ありけり。夢醒めて思ふやう、「あさましのわざや。はてはては人の物、盗むほどの身の報〔むくい〕にてさへ侍りけるよ。たとひ取りたりとても、衣〔きぬ〕一つはいくほどのことかは侍るべき」とは思ひながら、「さりとては、やうこそはあるらめ。さばかり身を任せて参り侍らん甲斐には、たとひ見つけられて、いかなる恥を見るとても、それをだにも仏の奉公にこそはせめ」など思ひて、後〔あと〕の方〔かた〕を見るに、まことに、衣ひき着て寝〔い〕ねたる女房あり。やをら引き落して取るに、さらなり、仏の御計らひなれば、なじかは人も知らむ。
さて、取りて着て、やがて出でにけり。胸うちつぶれて、わびしくも悲しけれども、念じ返して、初瀬川〔はつせがは〕のほどまで出でにけり。後ろにものいとののしりて来ければ、「あな悲し。さればこそ」と思ひて見れば、このこと、あやむべき人にはあらで、馬に乗りたる者のあまたまかり出でけるなるべし。
さて、この馬に乗りたる男のいふやう、「あの前に見ゆるは、女房にておはするにこそ。いかに夜深〔よぶか〕くはただ一人出で給ふにか。衣〔きぬ〕など着たるは、ことよろしき人にこそ侍るめれ。あれとどめ聞こえよ。馬に乗せて明〔あか〕からん所まで送り聞こえん」と言ひけり。さて、供の男、走りつきて、このよしを言ひければ、そら恐しけれども、ただ仏を頼みて、「さらば、さも」とて乗りにけり。夜もほのめきて、人顔見ゆるほどにて、この女を見れば、我が浅からず思ひし、ものの病に患ひて亡せにしに、つゆも違〔たが〕はず。喜びて、具〔ぐ〕して行きにけり。
男は美濃〔みの〕の国の、人に仰がれたる者にてぞ侍りける。なにごとも乏〔とも〕しきことなかりけり。さて、この女をまたなくいみじきものに思ひて、年月を送りけり。かかるに、この男、京に上〔のぼ〕るべきことありて、言ふやう、「これに一人おはせんも、月日もいたづらにおぼえなん。京に親しき人はなきか。かつは、かやうに行方〔ゆくへ〕もなくかきくらしてしも、いぶせくも思ふらん。ともに上りて、さやうのことも明〔あき〕らめばや」と言ひけり。この女、親しき者一人もなけれども、さすが、ありのままに言はんもいかがおぼえけん、「姉にてありし者こそただ一人侍りしか。さらば上りもせむ」とて、出で立ちけり。男、さまざま姉の料〔れう〕とて、物どもあまた用意などしてけり。
さて、上〔のぼ〕りて、粟田口〔あはたぐち〕より京に入りぬ。胸うち騒ぎて、「よしなきあだことを言ひて、跡なきことよと思はれなば、身もいたづらになりぬべし。また、仏の照し給はんことも畏〔おそ〕れあり。なにの狂はしにかくは言ひけるにか」と悲しくて、三条わたりになりて、「しばし待ち給へ。このほどを尋ねん」と言ひて、いたく無下〔むげ〕ならぬ家の、いと古びて見ゆるが、平門〔ひらかど〕に車寄〔くるまよ〕せなどさるほどにしたるが、いたく騒がしくもなくて、うちしめりたるやうなる、ありけり。そこにて馬より降りて、さし入りて見るに、女〔め〕の童〔わらは〕のありけるに、「御前〔ごぜん〕はこれにおはしますか」と言ひければ、「おはしますめり」と言ひけり。「立ち出で給へ。もの申さむ」と言はせたれば、四十ばかりなる女房、いたく思ひくたすべくもなき、妻戸〔つまど〕に出でて、「誰〔たれ〕にかおはする」と言ふ。この人、「申すにつけて憚り多く侍れど、この二三年田舎に侍りつるが、夫のまかり上〔のぼ〕りて侍るが、『親しき者やある。そこに泊まらむ』と申し侍るなり。これを姉にておはする所と申さむは、いかが侍るべき」と言ひけり。この主人〔あるじ〕、「さらに憚りなし。疾〔と〕くそのよしを聞こえ給へ」と言ひつ。
さて、この家に入りて、前〔さき〕の用意の物ども内へ遣〔や〕りてけり。さて、旅の具〔ぐ〕どもしたため、のどめて後〔のち〕、内より呼びければ行きぬ。主人〔あるじ〕の女の言ふやう、「さても、いかに侍ることにてありしぞ」など問ひければ、ありのままに初めより語りつ。これを聞きて、この主人、よよと泣きをりけり。あやしと思ひて、「いかに」と問へば、「かの初瀬〔はつせ〕にて、衣〔きぬ〕失ひてありし者は、我にて侍るなり。いとかなはぬ心に、観音の誓ひを仰ぎて参り侍りしほどに、あることはなくて、あまりさへ衣を失ひて侍りしかば、人のはかなさは、なにとなく恨めしき心地して、その後は歩みを運ぶこともなし。家のさまも、日に随ひて数ならずのみなりゆきて、夫も亡〔う〕せてさへ侍れば、思ふ方〔かた〕なくて侍りつるなり。我が身ばかりにてはいかにもかなふまじく侍りければ、せめても行末〔ゆくすゑ〕を照らし給ひて、かやうにさまざまの物どもを賜〔たま〕はり侍ること、一度〔ひとたび〕は御身〔おんみ〕の情と思へども、二度〔ふたたび〕思ふには、仏の賜はせたる物ぞかしと思ふに、とにかくに堰〔せ〕きかねて侍るなり」と言ふ。これを聞きて、この女、声も惜しまず泣きけり。二人、いといたう泣きまさりて、なごむる方もなかりけり。
さて、「さるべき昔のことにてこそ侍るらめ。今よりは真〔まこと〕の姉妹〔あねおとと〕につゆちり違〔たが〕ふまじ」など、ねんごろに頼めつ。また、頼むほどなれば、夫〔おとこ〕にもかすめ果つべきにあらざりければ、ありのままに知らせつ。夫もいみじくあはれがりて、いよいよ仏の御はからひなれば、浅からずぞ思ひける。
げに、あはれに侍りける御恵みの深さかな。すべて観音のあはれみは、殊〔こと〕に類〔るい〕を出でて侍るにや。唐土〔もろこし〕に侍りし時、聞き侍りしは、愚かなる男の一人侍りけるが、法華経〔ほけきゃう〕を読まむとするに、えかなはず侍りければ、いみじく容姿〔かたち〕よき女の、いづくよりともなくて来〔きた〕りて、妻〔め〕となりて添ひ居て、ねんごろに教へて、一部終りて後〔のち〕、観音の容姿〔かたち〕に現はれて、失せ給へることありけり。かやうにありがたき御あはれみを思ふに、そぞろに頼もしく侍る。一期〔いちご〕の夕ベには蓮台〔れんだい〕捧〔ささげ〕げ給ひて、深き御恵みあらむずらんかしと、頼もしくかたじけなくおぼえ侍る。『閑居友』下・五
〔訳例〕
そう遠くない昔、左京に、頼りとする者のいない若い女がいた。型どおりの宮仕えなどしたけれども、さしあたって窮乏を救うほどの手立てにも出会わないばかりのまま月日が過ぎていった。このようであるので、毎月、長谷寺の観音に参詣して、さまざまに貧しい暮らしぶりを訴えました。こうして、三年目の冬にもなったけれども、まったくその御利益がない。そうはいうものの容易ではない道中であるので、ますますその懐具合もますます悪くなった。また、世の中の定めであるので、人も口悪く言い立てた。そして、この女は、そうばかりは道中の用意も十分にできるはずもなかったので、「今回参詣して、貧しい暮らしぶりを訴え終わってしまいましたならば、こうなった今はこれで終わってしまおう。人が言うのももっともである」など思うより先に、涙で目の前が暗くなり悲しうございました。
そして、いつよりも気持ちをしっかり持って参詣してしまった。「今回は最後だよ」と思うと、つまらない草木までも目に留まって、涙で目の前が暗くなることは限りがない。そして、その夜、涙で濡れた袖を敷いて、観音の前でうたたねするともなく転がって横になってしまった。そして、夢の中に、僧のとても立派で、年を取り、徳が十分にあると見受けられるのが、出ていらっしゃって、「気の毒に思うぞよ。恨めしく思ってはいけません。おまえの後ろの方に横になっている女房の薄衣を、そっと取って着て、朝早く起きて帰ってしまえ」とおっしゃるのが、いた。夢が醒めて思うことは、「あきれたことだよ。挙げ句の果ては人の物を盗むほどのわが身の前世の報いでさえございましたよ。たとえ奪い取っていても、着物一つはどれほどのことがございましょうか」とは思いながら、「そうであるといって、わけがあるのだろう。その程度のわが身を任せて参詣しますような御利益としては、たとえ見付けられて、どのような恥をかくといっても、せめてそれだけでも仏への御奉公とはしよう」など思って、後ろの方を見ると、本当に、薄衣を被って寝ている女房がいる。そっと引き落として奪い取ると、言うまでもないよ、仏の計らいであるから、どうして人も気が付くだろう。
そして、奪い取って着て、そのまま出てしまった。胸がどきどきして、がっかりでもあり悲しいけれども、無理に我慢して、初瀬川のあたりまで出てしまった。後ろにとても大騒ぎをして人が来たので、「ああ悲しい。やっぱりそうだ」と思って見ると、このことを怪しむはずの人ではなくて、馬に乗っている者が大勢下向したのであるに違いない。
そして、この馬に乗っている男の言うことは、「あの前に見えるのは、女房でいらっしゃるのだろう。どうしてまだ夜が暗いうちにたった一人でお出になるのだろうか。衣被〔きぬかずき:高貴な女性が外出の時、単衣の小袖を頭からかぶり、顔を隠すようにしたこと〕などしているのは、かなりよい人でございますようだ。あの人を引き留め申し上げよ。馬に乗せて明るいだろう所までお送り申し上げよう」と言った。そして、供の男が走って追い付いて、この事の次第を言ったので、空恐ろしいけれども、ただ仏を頼って、「それならば、そのようにも」と言って乗ってしまった。夜もかすかに明けて、人の顔が見えるほどで、この女を見ると、自分が並々でなく思った、病を患ってなくなってしまった妻に、少しも違わない。喜んで、連れて行ってしまった。
男は、美濃の国の、人に敬われている者でございました。どんなことも貧しいことはなかった。そして、この女をまたとなく大事な者に思って、年月を送った。このような時に、この男は、京に上らなければならない用事があって、言うことは、「ここに一人でいらっしゃるようなのも、月日も手持ち無沙汰にきっと感じられるだろう。京に親しい人はいないか。一方では、このようにどこへともなく姿をくらましてしまったことも、気掛かりにも思っているだろう。一緒に上京して、そのようなことも明らかにしたい」と言った。この女は、親しい者は一人もいないけれども、そうはいうものの、ありのままに言うようなのもどうかと感じられたのだろう、「姉であった者がたった一人おりました。それならば上京もしよう」と言って、準備をした。男は、さまざま姉のためにということで、物をたくさん用意などしてしまった。
そして、上京して、粟田口から京に入った。胸がどきどきして、「つまらない嘘を言って、根も葉もないことよと思われてしまったならば、わが身も滅んでしまうに違いない。また、仏が御覧になるだろうことも畏れ多い。何が狂わしてこのように言ったのだろうか」と思うと悲しくて、三条あたりになって、「しばらくお待ちください。この辺りを探そう」と言って、それほどひどくない家の、とても古めかしく見えるのが、平門に車寄せなどそれなりにしてあるのが、それほど騒がしくもなくて、ひっそりとしているようであるのが、あった。そこで、馬から下りて、中に入って見ると、女の童がいたのに、「御主人はこちらにいらっしゃるか」と言ったところ、「いらっしゃるようだ」と言った。「お出ましください。お話し申し上げたい」と伝言させたところ、四十歳くらいである女房の、それほど見下げなければならないこともないのが、妻戸〔つまど〕に出て、「誰でいらっしゃるのか」と言う。この人は、「申し上げるにつけても遠慮が多くございますけれども、この二三年田舎におりましたけれども、夫の上京しておりますのが、『親しい者はいるか。そこに泊まろう』と申すのでございます。こちらを姉でいらっしゃる所と申し上げるようなのは、いかがでございましょう」と言った。この主人は、「まったく差し支えない。すぐにその旨を申し上げてください」と言った。
そして、この家に入って、前もって用意の物を奥へ届けてしまった。そして、旅装を片付け、供の者どもを落ち着かせて後、奥から呼んだので行った。「それにしても、どのようでございますことであったのか」など尋ねたので、ありのままに最初から話した。これを聞いて、この主人の女は、おいおいと泣き続けた。女は変だと思って、「どうして」と尋ねると、主人の女は「あの初瀬〔:長谷寺〕で、衣を失っていた者は、私でございますのである。まったく思いどおりにならない気持ちで、観音の誓いを頼って参詣しました時に、得ることはなくて、おまけに薄衣を失っておりましたので、人の愚かさは、何となく恨めしい気持ちがして、その後は歩みを運ぶこともない。家の様子も、日が経つにつれてただただ取るに足りなくなっていって、夫も亡くなりまでもしておりますので、途方に暮れておりましたのである。わが身だけではどうにも暮らしていけそうにもなくございましたので、少なくとも将来を明るく照らしてくださって、このようにさまざまの物をいただきますことは、一度はあなたの情けと思うけれども、もう一度思うには、仏がお与えになった物だよと思うと、どうにもこうにも涙を抑えかねているのでございます」と言う。これを聞いて、この女は、声も惜しまずに泣いた。二人は、ますますとてもひどく泣いて、なだめようもなかった。
そして、「そうなるはずの前世からの約束でございますのだろう。今からは本当の姉妹に少しも違わないようにしよう」など、心をこめて頼りにさせた。また、頼りにしている関係であるので、夫にもすっかりごまかしきれるはずでもなかったので、ありのままに告げ聞かせた。夫もとても感動して、ますます仏の取り計らいであるので、並々でなく思った。
確かに、心打たれました恵みの深さだなあ。すべて観音の慈悲は、格別に仏の中で抜きん出ておりますのだろうか。私が中国におりました時、聞きました話は、愚かな男が一人おりましたのが、法華経を読もうとするけれども、思いどおりにできませんでしたところ、たいそう容姿の美しい女が、どこからともなくてやって来て、妻となって一緒に暮らして、丁寧に教えて、全部終わってから、観音の姿として現われて、姿を消しなさったことがあった。このようにめったにない観音の憐れみを思うと、ひたすら心強うございます。一生の終わりの(阿弥陀如来が来迎する)時には(亡き人を乗せた)蓮の台を捧げ持ちなさって、深い恵みがあるだろうよと、心強くもったいなく思われます。
〔解説〕
当時、大勢の人が長谷寺に参詣していましたが、旅程が分かるものとしては、『蜻蛉日記』では、早朝に京の法性寺〔ほっしょうじ:今の東福寺辺りにあった寺院〕の近くで門出〔:吉日吉方を選んでひとまず近くに移り、そこで準備を整えて出発すること〕をして木津川の渡し場の手前で一泊目、「寺めくところ」に二泊目、椿市〔:現在の桜井市〕に三泊目、翌日の昼前はいろいろあって、その日の夕刻に長谷寺に参拝しているようです。『更級日記』では、早朝に京を出発して宇治と木津川の間の井手町あたりで一泊目、山辺にある天理あたりの寺で二泊目、三日目の夕刻に長谷寺に到着しているようです。京から長谷寺へは、余裕をみて三泊四日(『蜻蛉日記』)、頑張って二泊三日(『更級日記』)、これは貴族の旅程ですから、普通の人はどんな日程だったのでしょう。往復だけで一週間はかかります。お寺に参籠すると、ざっと二週間。毎月、京から長谷寺へ参拝に通うのはさぞかし大変だったのでしょう。
長谷寺に参詣したこの女は、「その後の方に臥したる女房の薄衣を、やをら取りて」とあるので、雑魚寝をしているようです。「石山寺縁起絵巻」でも参詣した人がそのままそこで寝ている様子が描かれています。
「こんな話1」では、夢に出て来た人がどのような人なのかがはっきりしませんが、この女の夢に出て来たのは、「僧のいみじく尊く、年たけ、徳至れりと見ゆる」とあって、徳のある年老いた僧のようです。
たまたま出会った女の人をそのまま妻として連れ去ってしまうという話は、略奪婚と言われるものですが、ほかの説話にもこういう話があります。
粟田口〔あわたぐち〕は大津から山科〔やましな〕を経て京へ入る入り口です。美濃から東海道に出てやって来たのでしょう。「三条わたりになりて」とあるのは、鴨川を渡って、「市内」に入ったようです。ここから後の話、よく出来ていますね。
この説話には「評言」と言われる、説話の末尾につく批評の言葉があります。これが評言の全文です。「一期の夕ベには蓮台捧げ給ひて」は、阿弥陀如来が死者を極楽に迎えに来る時、観音菩薩が死者を蓮の台に乗せて捧げるとされていたと注釈があります。「唐土に侍りし時」とありますが、『閑居友』の著者の慶政は一二一七年ごろに宋に渡ったとされています。その時の見聞なのでしょう。「もろこし」は「唐土」や「唐」と表記しますが、中国の唐王朝を指すではなく、いつの時代でも日本から中国を指して言う言葉です。
■3話 『古本説話集』下・五三 
次は、丹後の天の橋立にある成相寺の観音の御利益の話です。
〔本文〕
今は昔、丹後の国は北国〔きたぐに〕にて、雪深く風けはしく侍〔はべ〕る山寺に、観音験〔げん〕じ給〔たま〕ふ。
そこに貧しき修行者籠もりにけり。冬のことにて、高き山なれば、雪いと深し。これにより、おぼろけならずは人通ふべからず。この法師、糧〔かて〕絶へて日ごろ経〔ふ〕るままに、食ふべき物なし。雪消えたらばこそ出でて乞食〔こつじき〕をもせめ、人を知りたらばこそ「訪〔とぶら〕へ」とも言はめ、雪の中なれば、木草の葉だに食ふべき物もなし。五六日請ひ念ずれば、十日ばかりになりにければ、力もなく、起き上がるべき心地もせず。寺の辰巳〔たつみ〕の隅に破れたる蓑〔みの〕うち敷きて、木もえ拾はねば、火もえ焚かず、寺は荒れたれば、風もたまらず、雪も障〔さは〕らず、いとわりなきに、つくづくと臥せり。物のみ欲しくて、経〔きゃう〕も読まれず、念仏だにせられず。ただ今を念じて、「今しばしありて、物は出〔い〕で来なん。人は訪〔と〕ひてん」と思はばこそあらめ、心細きこと限りなし。
今は死ぬるを限りにて、心細きままに、「この寺の観音、頼みてこそは、かかる雪の下〔した〕、山の中にも臥せれ、ただひとたび声を高くして、『南無菩薩〔なむぼさつ〕』と申すに、もろもろの願ひみな満ちぬることなり。年ごろ仏を頼み奉〔たてまつ〕りて、この身いと悲し。日ごろ観音に心ざしを一つにして頼み奉るしるしに、今は死に侍りなんず。同じき死にを、仏を頼み奉りたらむばかりには、終はりをも確かに乱れず取りもやするとて、この世には、今さらにはかばかしきことあらじと思ひながら、かくしありき侍り。などか助け給はざらん。高き位を求め、重き宝を求めばこそあらめ、ただ今日食べて、命生〔い〕くばかりの物を求めて賜〔た〕べ」と申すほどに、戌亥〔いぬゐ〕の隅の荒〔あば〕れたるに、狼〔おほかみ〕に追はれたる鹿〔しし〕入り来て、倒れて死ぬ。
ここにこの法師、「観音の賜〔た〕びたるなめり」と、「食ひやせまし」と思へども、「年ごろ仏を頼みて行ふこと、やうやう年積りにたり。いかでかこれをにはかに食はん。聞けば、生き物みな前の世の父母〔ちちはは〕なり。我、物欲しといひながら、親の肉〔しし〕を屠〔ほふ〕り食〔くら〕はん。物の肉食〔く〕ふ人は、仏の種を絶ちて、地獄に入る道なり。よろづの鳥獣〔とりけだもの〕も、見ては逃げ走り、怖〔を〕ぢ騒ぐ。菩薩も遠ざかり給ふべし」と思へども、この世の人の悲しきことは、後〔のち〕の罪もおぼえず、ただ今生きたるほどの堪〔た〕へがたさに堪へかねて、刀を抜きて、左右の股の肉を切り取りて、鍋に入れて煮食ひつ。その味はひの甘きこと限りなし。
さて、物の欲しさも失せぬ。力も付きて人心地〔ひとごこち〕おぼゆ。「あさましきわざをもしつるかな」と思ひて、泣く泣くゐたるほどに、人々あまた来る音す。聞けば、「この寺に籠もりたりし聖はいかになり給ひにけん。人通ひたる跡もなし。参り物もあらじ。人気〔ひとけ〕なきは、もし死に給ひにけるか」と、口々に言ふ音す。「この肉を食ひたる跡をいかでひき隠さん」など思へど、すべき方〔かた〕なし。「まだ食ひ残して鍋にあるも見苦し」など思ふほどに、人々入り来〔き〕ぬ。
「いかにしてか日ごろおはしつる」など、廻りを見れば、鍋に檜〔ひのき〕の切れを入れて煮食ひたり。「これは、食ひ物なしといひながら、木をいかなる人か食ふ」と言ひて、いみじくあはれがるに、人々仏を見奉〔たてまつ〕れば、左右の股〔もも〕を新しく彫〔ゑ〕り取りたり。「これは、この聖〔ひじり〕の食ひたるなり」とて、「いとあさましきわざし給へる聖かな。同じ木を切り食ふものならば、柱をも割り食ひてんものを。など仏を損〔そこな〕ひ給ひけん」と言ふ。驚きて、この聖見奉れば、人々言ふがごとし。「さは、ありつる鹿は仏の験〔げん〕じ給へるにこそありけれ」と思ひて、ありつるやうを人々に語れば、あはれがり悲しみあひたりけるほどに、法師、泣く泣く仏の御前〔おまへ〕に参りて申す。「もし仏のし給へることならば、もとのさまにならせ給ひね」と返す返す申しければ、人々見る前に、もとのさまになり満ちにけり。
されば、この寺をば成合〔なりあひ〕と申し侍るなり。観音の御験〔しるし〕、これのみにおはしまさず。『古本説話集』下・五三
〔訳例〕
今は昔、丹後の国は北国で、雪深く風激しうございます山寺に、観音が霊験をお示しになる。
そこに貧しい修行者が参籠してしまった。冬のことで、高い山であるので、雪がとても深い。これによって、並大抵の用事でなければ人が行き来するはずもない。この法師は、食料がなくなって日数が経つにつれて、食べることができる物もない。雪が消えたならば寺から出て行って托鉢もできるだろうけれども、人を知っていたならば、「訪れて来い」とも言うことができるだろうけれども、雪の中であるので、木草の葉さえ食べることができる物がない。五六日仏に祈念すると、十日ほどになってしまったので、力もなく、起き上がることができる気持ちもしない。寺の辰巳〔:南東〕の隅に破れた蓑を敷いて、木も拾うことができないので、火も焚くことができず、寺は荒れているので、風もさえぎらず、雪も妨げられず、どうにもつらい所に、じっと横になっている。食べ物ばかりがほしくて、経も読むことができず、念仏さえもすることができない。今を我慢して、「もうしばらくして、食べ物はきっと出てくるだろう。人はきっと訪れるだろう」と思うことができるならばよいだろうけれども、心細いことは限りない。
こうなった今は死ぬまでの間、心細い思いのままに、「この寺の観音を、頼りにして、このような雪の中で、山の中でも横になっているけれども、ただ一度声を大きくして、『南無観音』と申し上げると、多くの願いがすべてかなってしまうことである。長年仏をお頼り申し上げて、この身はとてもつらい。普段、観音に対して気持ちを一つにしてお頼り申し上げる御利益として、今となっては死んでしまうでしょう。同じ死ぬことを、仏をお頼り申し上げているようなからには、最期をも確かに乱れずに迎えることができるかということで、この世では、今改めて頼みになることはないだろうと思いながら、このようにずっとしてきております。どうしてお助けにならないだろうか。高い位を求め、重い宝を求めたならば、いけないだろうけれども、ただ今日いただいて、命をつなぐくらいの食べ物を探してお与えください」と申し上げる時に、戌亥〔:北西〕の隅の壊れた所に、狼に追われた鹿が入って来て、倒れて死ぬ。
ここでこの法師は、「観音がお与えになったものであるようだ」と、「食べたらよいだろうか」と思うけれども、「長年の間、仏を頼りにして修行することは、次第に年月が重なった。どうしてこれを急に食べることができようか。聞くと、生き物はみな前世の父母である。自分は食物がほしいといいながら、親の肉を切り裂いて食らうだろうか。物の肉を食べる人は、成仏する可能性を絶って地獄に入る道にあるのである。すべての鳥獣も、見ては逃げ走り、怖がり騒ぐ。菩薩も遠ざかりなさるに違いない」と思うけれども、この世の人の悲しいことは、将来の罪も思い浮かばず、今生きている時の堪えがたさに堪えられなくて、刀を抜いて、左右の股の肉を切り取って、鍋に入れて煮て食べた。その味のおいしいことはかぎりがない。
そうして、食物の欲しさもなくなった。力も付いて人心地がついた。「とんでもないことをも、してしまったなあ」と思って、泣く泣く座っていた時に、人々が大勢来る音がする。聞くと、「この寺に籠っていた聖はどうおなりになってしまったのだろう。人が通った跡もない。召し上がる物もないだろう。人の気配がないのは、ひょっとしてお亡くなりになってしまったのか」と、口々に言う声がする。「この肉を食べた跡をどうやって隠そうか」など思うけれども、どうにも仕方がない。「まだ食べ残して鍋にあるのも見苦しい」など思っている時に、人々が入って来た。
「どのようにして数日間いらっしゃったのか」など、周りを見ると、鍋に檜の切れ端を入れて煮て食べてある。「これは、食べ物がないといいながら、木をどういう人が食べるのか」と言って、たいそう気の毒がっている時に、人々が仏を見申し上げると、左右の股〔もも〕を新しくえぐり取ってある。「これは、この聖が食べたのである」と思って、「とてもあきれたことをなさった聖だなあ。同じ木を切って食べるのであったならば、柱をも割って食べてしまうのがよいのに。どうして仏を傷付けなさったのだろう」と言う。驚いて、この聖が見申し上げると、人々が言う通りである。「それでは、先ほどの鹿は仏が霊験を現わしなさったのであったよ」と思って、先ほどのありさまを人々に語ると、皆が感心し気の毒に思っていた時に、法師は泣く泣く仏の観音の御前に参上して申し上げる。「もしも仏がなさったことであったならば、もとのようにおなりになってしまってください」と何度も申し上げたので、人々が見ている前で、刀でえぐり取った所がもとのようになり盛り上がってしまった。
だから、この寺を成合〔なりあい〕と申すのでございます。観音の霊験は、これだけではいらっしゃらない。
〔解説〕
成相寺〔なりあいじ〕、今は山の中腹にありますが、寺伝によれば、もとはもっと山の上の方にあって、山崩れのために移転したのだそうです。もともとは山岳宗教の修行の場所だったようです。
参籠した僧が、寒さと飢えに耐える場面、また、観音に訴える場面、よく書けています。僧が横になっていた場所が寺の建物の辰巳〔たつみ:南東〕、鹿が飛び込んできたのが戌亥〔いぬい:北西〕というのは、意味があるようです。丑寅〔うしとら:北東〕の方角は、今でも鬼門〔きもん〕と呼ばれることがありますが、戌亥〔いぬい〕の方角は、「忌むべき神聖な方角。祖霊の往来する方角であり、神変霊異の現われる方角と考えられていたらしい」と、注釈があります。僧が横になっていた所は戌亥〔いぬい〕の反対側で、戌亥〔いぬい〕から現われる神変霊異を待ち受ける角度になっているのでしょう。
「なりあふ」とは、すべての部分ができあがる、十分に成長することを言います。刀でえぐり取った観音像の股が、むにゅっと元に戻ったんですね。
■4話 『今昔物語集』一六・三二 
次は、京都六角堂の観音の御利益の話です。
〔本文〕
今は昔、いづれのほどのこととは知らず、京に生侍〔なまざむらひ〕の年若きありけり。常に六角堂に参りてねむごろに仕〔つか〕まつりけり。しかる間、十二月の晦日〔つごもり〕、夜〔よる〕に入りて、ただ一人知りたる所に行て、夜深更けて家に帰りけるに、一条堀川の橋を渡りて西へ行きけるに、西より多くの人、火を燃〔とも〕して向ひ来〔きた〕りければ、「やむごとなき人などのおはしますにこそあんめれ」と思ひて、男、橋の下〔した〕に急ぎ下〔お〕りて、立ち隠れたりければ、この火燃したる者ども、橋の上を東〔ひむがし〕ざまに過ぎけるを、この侍、やはら見上げければ、はやう人にはあらずして、怖しげなる鬼どもの行くなりけり。あるいは目一つある鬼もあり。あるいは角生〔お〕ひたるもあり。あるいは手あまたあるもあり、あるいは足一つして踊るもあり。男、これを見るに、生きたる心地もせでものもおぼえで立てるに、この鬼ども皆過ぎ持て行て、後〔しりへ〕に行く一つの鬼の云はく、「ここに人影のしつるは」と。また、鬼ありて云はく、「さる者見えず」。「かれすみやかに搦めてゐて来」と。男、「今は限りなりけり」と思ひてあるほどに、一人の鬼、走り来りて、男をひかへてゐて上〔あ〕げぬ。鬼どもの言はく、「この男、重き咎〔とが〕あるべき者にもあらず。許してよ」と言ひて、鬼、四五人ばかりして男に唾〔つはき〕を吐きかけつつ皆過ぎぬ。
その後〔のち〕、男、殺されずなりぬることを喜びて、心地違〔たが〕ひ頭〔かしら〕痛けれども、念じて、「とく家に行きて、ありつるやうをも妻〔め〕に語らむ」と思ひて、急ぎ行きて家に入〔い〕りたるに、妻も子も皆、男を見れどもものも言ひかけず。また、男、もの言ひかくれども、妻子〔めこ〕、答〔こた〕へもせず。しかれば、男、「あさまし」と思ひて近く寄りたれども、傍らに人あれどもありとも思はず。その時に、男、心得るやう、「はやう、鬼どもの我に唾〔つはき〕を吐きかけつるによりて、我が身の隠れにけるにこそありけれ」と思ふに、悲しきこと限りなし。我は人見ること元のごとし。また、人の言ふことをも障りなく聞く。人は我が形〔かたち〕をも見ず、声をも聞かず。しかれば、人の置きたる物を取りて食へども、人これを知らず。かやうにて夜〔よ〕も明けぬれば、妻子は、我を、「夜前〔やぜん〕、人に殺されにけるなんめり」と言ひて、嘆きあひたること限りなし。
さて、日ごろを経〔ふ〕るに、せむ方なし。しかれば、男、六角堂に参り籠〔こ〕もりて、「観音、我を助け給〔たま〕へ。年ごろ頼みをかけ奉〔たてまつ〕りて参り候〔さぶら〕ひつる験〔しるし〕には、元のごとく我が身を顕〔あらは〕し給へ」と祈念して、籠もりたる人の食ふ物や金鼓〔こんぐ〕の米〔よね〕などを取り食ひてあれども、傍らなる人、知ることなし。かくて二七日ばかりにもなりぬるに、夜〔よ〕寝たるに、暁方〔あかつきがた〕の夢に、御帳〔みちゃう〕の辺〔ほとり〕、尊〔たふと〕げなる僧出〔い〕でて、男の傍らに立ちて、告げてのたまはく、「汝〔なんぢ〕、すみやかに朝〔つとめて〕ここより罷〔まか〕り出〔い〕でむに、初めて会ふらむ者の言はむことに従ふべし」と。かく見るほどに夢覚めぬ。
夜明けぬれば、まかり出〔い〕づるに、門〔かど〕のもとに牛飼〔うしかひ〕の童〔わらは〕のいと恐ろしげなる、大きなる牛を引きて会ひたり。男を見て言はく、「いざ、かの主〔ぬし〕、我が供に」と。男、これを聞くに、「我が身は顕〔あらは〕れにけり」と思ふに、うれしくて、喜びながら夢を頼みて童の供に行くに、西ざまに十町ばかり行きて、大きなる棟門〔むねもん〕あり。門〔もん〕閉ぢて開かねば、牛飼、牛をば門に結びて、扉の迫〔はさま〕の人通るべくもなきより入るとて、男を引きて、「汝〔なむぢ〕もともに入れ」と言へば、男、「いかでかこの迫〔はさま〕よりは入〔い〕らむ」と言ふを、童、「ただ入れ」とて男の手を取りて引き入るれば、男もともに入りぬ。見れば、家の内大きにて、人、きはめて多かり。
童、男を具して板敷〔いたじき〕に上〔のぼ〕りて、内へただ入りに入るに、いかにと言ふ人あへてなし。はるかに奥の方〔かた〕に入りて見れば、姫君、病に悩み煩ひて臥〔ふ〕したり。跡〔あと〕・枕に女房たち居並〔ゐな〕みてこれをあつかふ。童、そこに男をゐて行きて、小さき槌〔つち〕を取らせて、この煩ふ姫君の傍らに据ゑて、頭を打たせ腰を打たす。その時に、姫君、頭を立てて病みまどふこと限りなし。しかれば、父母、「この病、今は限りなんめり」と言ひて泣き合ひたり。見れば、誦経〔ずきゃう〕を行ひ、また、やむごとなき験者〔げんざ〕を請〔しゃう〕じにつかはすめり。しばしばかりありて、験者来たり。病者〔びゃうざ〕の傍らに近く居て、心経〔しんぎゃう〕を読みて祈るに、この男、尊きこと限りなし。身の毛いよたちて、そぞろ寒きやうにおぼゆ。
しかる間、この牛飼の童、この僧をうち見るままに、ただ逃げに逃げて外〔ほか〕ざまに去りぬ。僧は不動〔ふどう〕の火界〔くゎかい〕の呪〔しゅ〕を読みて、病者を加持〔かぢ〕する時に、男の着る物に火付きぬ。ただ焼けに焼くれば、男、声を上げて叫ぶ。しかれば、男、真顕〔まあらは〕になりぬ。その時に、家の人、姫君の父母より始めて女房ども見れば、いといやしげなる男、病者の傍らに居たり。あさましくて、まづ男を捕へて引き出〔い〕だしつ。「こはいかなることぞ」と問へば、男、ことのありさまをありのままに初めより語る。人皆これを聞きて、「希有〔けう〕なり」と思ふ。しかる間、男、顕れぬれば、病者〔びゃうざ〕、掻〔か〕きのごふやうに癒〔い〕えぬ。しかれば、一家、喜びあへること限りなし。
その時に、験者〔げんざ〕の言はく、「この男、咎〔とが〕あるべき者にもあらず。六角堂の観音の利益〔りやく〕を蒙〔かうぶ〕れる者なり。しかれば、すみやかに許さるべし」と言ひければ、追ひ逃がしてけり。しかれば、男、家に行きて、ことのありさまを語りければ、妻、「あさまし」と思ひながら喜びけり。
かの牛飼は神の眷族〔けんぞく〕にてなむありける。人の語らひによりてこの姫君に憑〔つ〕きて悩ましけるなりけり。その後〔のち〕、姫君も男も身に病なかりけり。火界の呪の霊験〔れいげん〕のいたすところなり。観音の御利益にはかかる希有〔けう〕のことなむありけるとなむ、語り伝えたるとや。『今昔物語集』一六・三二
〔訳例〕
今は昔、いつの頃のこととは分からない、京に生侍の年若いのがいた。常に六角堂に参詣して熱心に帰依し申し上げた。そうするうちに、十二月の晦日、夜に入って、たった一人で知り合いの所に行って、夜が更けてから家に帰った時に、一条堀川の端を渡って西へ行ったところ、西から大勢の人が、火を灯して向かって来たので、「重々しい身分の人などがいらっしゃるのであるようだ」と思って、男は橋の下に急いでおりて、立ち隠れていたところ、この火を灯している者どもが、端の上を東に向かって通り過ぎたのを、この侍がそっと見上げたところ、なんと人ではなくて、恐ろしい感じの鬼どもが行くのであった。あるものは目が一つある鬼もいる。あるものは角が生えているものもいる。あるものは手がたくさんあるものもあり、あるものは足が一本で跳ねるものもある。男は、これを見ると、生きている気持ちもせずに、茫然として立っていると、この鬼どもが皆通り過ぎて行って、最後に行く一つの鬼の言うことは、「ここに人間の姿がしたぞ」と。また、鬼がいて言うことは、「そういう者は見えない」。「そいつをすぐに捕まえて連れて来い」と。男は、「今は終わりであったよ」と思っているうちに、一人の鬼が、走ってやって来て、男を引っ張って連れて上げてしまった。鬼どもの言うことは、「この男は、重い落ち度があるはずの者でもない。解放してしまえ」と言って、鬼は、四五人ほどで男に唾を吐きかけながら皆通り過ぎてしまった。
その後、男は、殺されずに済んでしまったことを喜んで、気分が悪くなり頭が痛いけれども、我慢して、「早く家に行って、さきほどの様子をも妻に語ろう」と思って、急いで行って家に入ったところ、妻も子も皆、男を見るけれども、なにも言葉をかけない。また、男が、言葉をかけるけれども、妻子は返事もしない。だから、男は、「あきれたことだ」と思って近くに寄ったけれども、側に人がいてもいるとも思わない。その時に男は理解することは、「なんと、鬼どもが私に唾を吐きかけたことによって、我が身が隠れてしまったのであったよ」と思うと、悲しいことは限りがない。自分は人を見ることはもとのとおりである。また、人が言うことをも差し支えなく聞く。人は自分の形をも見ることができず、声をも聞くこともできない。だから、人が置いたものを取って食べても、人はこれを分からない。このようにして夜も明けてしまったので、妻子は、自分を、「昨夜、人に殺されてしまったのであるようだ」と言って、皆で悲しんでいることは限りがない。
そして、数日経ったけれども、どうしようもない。だから、男は、六角堂に参籠して、「観音さま、私を助けてください。長年頼りにし申し上げて参詣しました御利益としては、もとのように我が身を見えるようにしてください」と祈念して、籠もっている人の食べ物や金鼓の米などを取って食べているけれども、側にいる人は、分かることがない。こうして十四日ほどにもなってしまったころに、夜寝ていると、明け方の夢に、御帳の近くに、立派そうな僧が現われて、男の側に立って、告げておっしゃることは、「お前は、すぐに、明け方ここから退出するだろう時に、最初に会っているだろう者の言うだろうことに従わなければいけない」と。このように見るうちに夢が覚めてしまった。
夜が明けたので、退出すると、門のもとに牛飼い童のとても恐ろしそうな者が、大きな牛を引いて、ひょっこり出会った。男を見て言うことは、「さあ、そこの方、私の供に」と。男は、これを聞くと、「我が身は姿が見えるようになってしまった」と思うと、うれしくて、喜びながら夢をあてにして供として行くと、西の方に十町ほど行って、大きな棟門がある。門が閉じて開かないので、牛飼いは、牛を門につないで、扉の間の人が通ることができそうもない所から入るということで、男を引っ張って、「お前も一緒に入れ」と言うので、男は、「どうしてこの隙間からは入ることができるだろうか」と言うと、童は、「ともかく入れ」と言って男の手を取って引き入れるので、男も一緒に入ってしまった。見ると、家の内が広くて、人がとても大勢いる。
童は男を連れて板敷きに上がって、内へどんどん入るけれども、どうしてと言う人はまったくいない。ずうっと奥の方に入って見ると、姫君が、病にかかり苦しんで横になっている。足元と枕元に女房たちが並んで座ってこれを看病する。童は、そこに男を連れて行って、小さい槌を与えて、この苦しむ姫君の側に座らせて、頭を打たせ腰を打たせる。その時に、姫君は、頭を振ってひどく苦しむことは限りがない。だから、父母は、「この病は、今は最期であるようだ」と言って泣きあっている。見ると、誦経を行い、また、優秀な験者を呼びに行かせるようだ。しばらく経って、験者が来た。病人の側に近く座って、般若心経を読誦して祈ると、この男は、ありがたいことは限りがない。身の毛がよだって、なんだか寒いように感じられる。
そうしているうちに、この牛飼い童は、この僧をちょっと見るなりに、どんどん逃げて外の方へ行った。僧は不動の呪を唱えて、病人を加持祈祷する時に、男の着物に火が付いてしまった。どんどん焼けるので、男は声を上げて叫ぶ。それで、男は丸見えになってしまった。その時に、家の人は、姫君の父母からはじめて女房どもが見ると、とても身分の低い感じの男が、病人の側に座っている。びっくりして、まっさきに男を捕まえて引きずり出してしまった。「これはどういうことか」と尋ねると、男は、事情をありのままに最初から説明する。人は皆これを聞いて、「めったにないことだ」と思う。そうしている間に、男は姿が見えてしまったので、病人はぬぐい去るように治ってしまった。だから、一家は、皆で喜ぶことは限りがない。その時に、験者が言うことは、「この男は、落ち度があるはずの者でもない。六角堂の観音の御利益をいただいている者である。だから、すぐに解放しなければいけない」と言ったので、追い出してしまった。だから、男は家に行って、事情を語ったので、妻は、「あきれたことだ」と思いながら喜んだ。
あの牛飼い童は神の眷族であった。誰かの依頼によってこの姫君に取り憑いて苦しませたのであった。その後、姫君も男も身体に病はなかった。火界の呪の霊験がもたらすものである。観音の御利益にはこのようなめったいにないことがあったと、語り伝えているとか。
〔解説〕
この話は、これまで読んできた観音の御利益の話とはずいぶん違っています。男が鬼どもに見つかってしまった時に、「この男、重き咎あるべき者にもあらず」と鬼が言い、「この男、咎あるべき者にもあらず」と、験者が言うのも、験者の言葉の続きに「六角堂の観音の利益を蒙れる者なり」とあるように、男が熱心に信仰した六角堂の観音の御利益であったと考えられます。六角堂は京都中京区にある寺院です。六角のお堂が独特で、本尊は如意輪観音です。
大晦日には、悪鬼を追い払う「追儺〔ついな〕」が行われますが、追い払われた悪鬼や悪霊が跳梁する夜でもあったということです。男が出会ったのは、いわゆる「百鬼夜行〔ひゃっきやぎょう・ひゃっきやこう〕」で、一条大路はこの百鬼夜行の通路であったようです。『宇治拾遺物語』一六〇の「一条桟敷屋、鬼の事」には、一条大路で百鬼夜行に出会った話が記されています。
唾液の呪力に関する信仰は全世界的にあるということです。透明人間になって困ってしまった男は、六角堂に参籠しますが、夢でお告げを受けるというのは、「こんな話1」「こんな話2」と同じパターンです。男は、お告げのとおりに行動しています。男が出会った童は、どういう神であるのかはよく分からないのですが、人に禍を災いを与える神の手下なのでしょう。「人の語らひによりてこの姫君に憑きて悩ましけるなりけり」と、種明かしがあります。
小槌に呪力があることは、一寸法師の打出の小槌から分かりますが、この話では姫君を苦しめるために用いられています。
注釈書には、ほかに類を見ない、めずらしい話だとあります。
■5話 『宇治拾遺物語』一六 
次は地蔵の霊験の話です。地蔵信仰は鎌倉時代になってから民間に広まったようです。そのためなのか、入試問題ではあまり取り上げられていません。
〔本文〕
今は昔、丹後の国に老尼〔らうに〕ありけり。地蔵菩薩〔ぢざうぼさつ〕は暁〔あかつき〕ごとにありき給〔たま〕ふといふことを、ほのかに聞きて、暁ごとに、地蔵見奉〔たてまつ〕らんとて、ひと世界をまどひありくに、博打〔ばくち〕のうちほうけてゐたるが見て、「尼公〔あまぎみ〕は寒きに、なにわざし給ふぞ」と言へば、「地蔵菩薩の暁にありき給ふなるに、会ひ参らせんとて、かくありくなり」と言へば、「地蔵のありかせ給ふ道は、我こそ知りたれ。いざ給へ。会はせ参らせん」と言へば、「あはれ、うれしきことかな。地蔵のありかせ給はん所へ、我を率〔ゐ〕ておはせよ」と言へば、「我に物を得させ給へ。やがて率て奉らん」と言ひければ、「この着たる衣〔きぬ〕、奉らん」と言へば、「さは、いざ給へ」とて、隣なる所へ率て行く。尼、悦びて、急ぎ行くに、そこの子に、地蔵といふ童〔わらは〕ありけるを、それが親を知りたりけるによりて、「地蔵は」と問ひければ、親、「遊びに往〔い〕ぬ。今、来〔き〕なん」と言へば、「くは、ここなり。地蔵のおはします所は」と言へば、尼、うれしくて、紬〔つむぎ〕の衣〔きぬ〕を脱ぎて、取らすれば、博打は急ぎて取りて往ぬ。
尼は、地蔵見参らせんとて居たれば、親どもは心得ず、などこの童を見んと思ふらんと思ふほどに、十ばかりなる童の来たるを、「くは、地蔵よ」と言へば、尼、見るままに、是非も知らず、伏しまろびて、拝みいりて、土にうつ伏したり。童、すはゑを持ちて、遊びけるままに来たりけるが、そのすはゑして、手すさみのやうに、額を掻けば、額より顔の上まで裂けぬ。裂けたる中より、えも言はずめでたき地蔵の御顔、見え給ふ。尼、拝みいりて、うち見上げたれば、かくて立ち給へれば、涙を流して、拝みいり参らせて、やがて極楽へ参りにけり。
されば、心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけると信ずべし。『宇治拾遺物語』一六
〔訳例〕
今は昔、丹後の国に老尼がいた。地蔵菩薩は、毎日、暁に歩きまわりなさるということを、かすかに聞いて、毎日、暁に地蔵を見申し上げようと思って、あたりをさまよいまわると、博奕にうつつをぬかしている者が見て、「尼公は寒いのに、どういうことをしなさるのか」と言うので、「地蔵菩薩が暁に歩きまわりなさるということであるので、お会い申し上げようと思って、こうして歩きまわるのである」と言うと、「地蔵の歩きまわりなさる通り道は、私が知っている。さあどうぞ。会わせ申し上げよう」と言うので、「ああ、うれしいことだなあ。地蔵の歩きまわりなさるだろう所へ、私を連れていらっしゃってください」と言うと、「私に物を与えてください。すぐに連れて差し上げよう」と言うので、「この着ている物を、差し上げよう」と言うと、「それでは、さあどうぞ」と言って、隣にある所へ連れて行く。尼は喜んで、急いで行くと、そこの子に、地蔵という童がいたのを、その親を知っていたことによって、「地蔵は」と尋ねたところ、親は、「遊びに行った。すぐ、戻って来るだろう」と言うので、「ほら、ここだ。地蔵のいらっしゃる所は」と言うので、尼はうれしくて、紬〔つむぎ〕の衣を脱いで、与えるので、博奕は急いで取って立ち去る。
尼は、地蔵を見申し上げようと思って座っていると、親たちは理解できず、どうしてこの子を見ようと思っているのだろうと思ううちに、十歳ぐらいである童が来たのを、「ほら、地蔵だ」と言うので、尼は、見るとすぐに、我を忘れて、転がりまわって、ひたすら拝んで、地面にうつ伏している。童は、木の枝を持って、遊んだそのままに来ていたのが、その木の枝で、手で遊ぶように額を掻くと、額から顔の上まで裂けてしまった。裂けた中から、なんともいえないほどすばらしい地蔵のお顔が、お見えになる。尼はひたすら拝んで、さっと見上げていると、こうしてお立ちになっているので、涙を流して、ひたすら拝み申し上げて、そのまま極楽へ参上してしまった。
それゆえ、せめて心だけでも深く祈念してしまうと、仏も姿をお見せになるのであったと信じるのがよい。
〔解説〕
丹後国の話が続きます。この話、現代の我々にはかなり衝撃的な話です。「涙を流して、拝みいり参らせて、やがて極楽へ参りにけり」という結末、老婆が興奮のあまりに心臓発作をおこしたのだろうという冷ややかな見方もできますが、確かにそうであったとしても、「尼、見るままに、是非も知らず、ふしまろびて、拝みいりて、土にうつぶしたり」「尼、拝みいりて」「涙を流して、拝みいり参らせて」と、「拝みいりて」が三回繰り返されていることから、ひたすら信仰していたことが分かります。
顔が裂けて中から地蔵の顔が現われたのですが、『宇治拾遺物語』一〇七には、画家が宝志和尚の姿を描こうとすると、私の本当の姿を写しなさいと言って、額に爪を立てて引き裂くと、中から金色の観音の顔が出てきたという話が載っています。この顔の裂けている「宝志(宝誌)和尚像」が京都国立博物館に所蔵されています。
「伏しまろぶ」は、極端な悲しみや喜びのあまり身体を地面に投げ出してころげまわることを言います。
『延命地蔵経』などの話によって、早朝に地蔵と巡り会えると信じられていて、地蔵と巡り会った話がたくさんあるそうです。で、その地蔵が子供の姿であるのはなぜなのか、よく分からないようです。その子供は「すはゑ」を持っていることが多く、子供と「すはゑ」の組み合わせに何か意味があるのだろうと注釈があります。
■6話 『撰集抄』一・三 
執着を断つ話を読んでみましょう。出家するということは、権力・地位・名誉・財産などへの欲望や、親子・兄弟姉妹・夫婦・男女などへの愛情、俗世の縁をすべて断って釈迦の弟子になるということなのですが、これはなかなかできないことなので、逆に、みごとに執着を断った人たちの話が残るのでしょう。次は、都の内をさまよい歩く僧の話です。
〔本文〕
中ごろ、都の内に、いづくの者とも知られで、さそらへありく僧、侍〔はべ〕り。頭〔かしら〕面〔おもて〕より始めて、足手泥形〔どろかた〕にて、気色〔けしき〕あさましきが、肩またき物なども着ず、莚〔むしろ〕薦〔こも〕などうち着つつ、人の家に入りて物を乞ひ、世を渡り侍るになん。心ばへのいみじくよくて、また、心確かに侍り。いささかの木の枝なども、主〔ぬし〕の許し侍らねば、取り用ゐるわざも侍らざりしかば、人憐れみを垂れて、命を支ふるほどのことは侍りけるとかや。
ある時、人の、家に呼び入れて、「これ着よ」とて、帷〔かたびら〕を得させ侍りければ、この僧の言ふやう、「御志は返す返すもありがたく侍り。かかる頼りなき者は、人の御憐れみならでは、何とてか片時〔へんし〕も侍るべきなれば、便宜〔びんぎ〕よく侍る時にはこれを賜〔たま〕はる。ただし、我らは莚〔むしろ〕薦〔こも〕着慣れて、さやうの物を肩に掛け侍れば、これはいとあたらしく侍るべければ、返し奉〔たてまつ〕るに侍り。ただ、莚薦などの捨て給〔たま〕ふべき時、侍らむ、それらをば得させ給へ」とて、返しければ、主〔ぬし〕思はずにおぼえて、押して取らせ侍れども、「思ふやう侍り」とて、つゆ手にも掛けねば、力なくてやみにけり。
物などもおほよそ多くは食はず。人の得させなどするにも、「今日は食べぬればよしなし」とて、取らずぞ侍りける。後〔のち〕のためとて蓄ふるわざもなし。念仏申し、要文〔えうもん〕など誦〔ず〕して、思ひ入りたるさまなれども、法文〔ほふもん〕の方〔かた〕は、もて離れたるさまをぞしける。
ある時、印西といふ聖〔ひじり〕の許〔もと〕に寄り来〔きた〕りけるに、聖対面して、「心の晴〔は〕るけ侍る法文、ひと言葉のたまはせよ」と、ねんごろに聞こえ侍れば、そばなる垣に朝顔の花の咲きけるに露の置きて侍りけるが、折節〔をりふし〕風の吹きて露の落ち侍りけるを見て、うち涙ぐみて、
見るやいかにあだにも咲ける朝顔の 花に先立つ今朝の白露
「これこそ法文よ」とて、出〔い〕で侍りぬ。その後〔のち〕はいづちへかさそらへ行きにけん、ふつと見え給はずとなん。
この聖のありさま承るこそ、ことに尊〔たふと〕くおぼえて侍れ。げに、あるにもあらぬ夢の世に、はかなくあだなる身に思ひをとどめて、山林〔やまはやし〕にも籠もりやらで、名利〔みゃうり〕の心も晴れざんめるに、ひたすら幻の世、仮〔かり〕の身をもて離れ、徳を隠して、乞食〔こつじき〕頭陀〔づだ〕のありさまを示されけん心の中、まことに潔〔いさぎよ〕くぞおぼえ侍る。昔の賢き跡を見るにも、「一挙〔いっこ〕万里〔ばんり〕によぢて、徳を隠す」と言へり。されば、いかなる智者〔ちしゃ〕の、心を発〔おこ〕せるにておはしけるやらん。かへすがへすもゆかしく侍り。歌さへありがたく侍るぞや。朝顔の花をこそ、はかなき例〔ためし〕には申すめるに、花に先立つ白露、落ちてはさらに跡もなく、吹き過ぎぬる風、またとどまる所も見えず。花、また日影〔ひかげ〕にしたがひてしぼみ、日、むなしく山に傾きぬ。あだなる世の中に、白駒〔はっく〕も過ぎやすく、金烏〔きんう〕も留〔とど〕まりがたし。されば、なにとてしばしがほどもいたづらとして過ごせるぞや。額にはすずろに老いの波を重ね、眉には霜の積もれるをも弁〔わきま〕へずして、はかなき嬰児〔えいじ〕の父母に貧するごとくにして、むなしく馳せ過ぎ、来世〔らいせ〕の苦しみを思はざるは、くちをしきにはあらずや。知り顔にして知らざるは、生死〔しゃうじ〕の無常に侍るぞかし。あはれ、この乞食の人の心のごとくなる思ひが、須臾〔しゅゆ〕ばかり付けかしとおぼえて侍り。<以下略> 『撰集抄』一・三
〔訳例〕
それほど遠くない昔、都の内に、どこの者とも知られずに、さまよって歩きまわる僧がおります。頭や顔から始めて、足や手が泥んこで、様子が驚くほどであるのが、肩のちゃんとした物なども着ず、筵や薦などを着ては、人の家に入って物を乞い、暮らしておりますので。気立てがとてもよくて、また、心掛けも確かでございます。ちょっとした木の枝なども、持ち主の許しがございませんと、取って使うこともございませんでしたので、人は情をかけて、命を支えるほどのことはございましたとか。
ある時、人が家に呼び入れて、「これを着よ」と言って、帷を与えましたところ、この僧の言うことは、「お気持ちはほんとうにありがたいです。このような寄る辺のない者は、人の御慈悲でなくては、どうしてもわずかな間も生きていることができないものであるので、都合のよくございます時にはこれをいただく。ただし、我らは筵や薦を着慣れて、そのような物を肩に掛けますと、これはとてももったいないに違いありませんから、お返し申し上げるのでございます。ただ、筵や薦をお捨てになるはずの時がございましょう、その時にそれらをお与えください」と言って、返したので、主人は意外に感じで、無理に渡しますけれども、「考えがあります」と言って、まったく手を触れないので、仕方がなくてそのままになってしまった。
物などもだいたい多くは食べない。人が与えなどするときにも、「今日はいただいたので必要がない」と言って、受け取らずにおりました。将来のためということで蓄えることもない。念仏〔:南無阿弥陀仏の六文字を唱えること〕を唱え申し上げ、要文〔:経などの中の大切な文句〕など口ずさんで、深く心に思っている様子であるけれども、法文〔:仏の教えを記した文章〕の方は、関わりを持たない様子をしていた。
ある時、この僧が印西という聖のもとに立ち寄っていた時に、聖が対面して、「心が晴れ晴れします法文を、一言おっしゃってください」と、熱心に申し上げますので、そばにある垣に朝顔の花の咲いたのに露が降りておりましたのが、ちょうどその時、風が吹いて露が落ちましたのを見て、さっと涙ぐんで、
見るか、どのように。はかなくも咲いている朝顔の 花よりも先に消える今朝の白露を
「これこそが法文だよ」と言って、出て行きました。その後はどちらへさまよい行ってしまったのだろうか、まったく姿をお見せにならないと。
この聖〔:印西ではなく冒頭の僧を指す〕のありさまをお聞きするのは、格別に尊く感じられております。確かに、はかない夢のような世の中で、むなしくはかない身にこだわりを持って、山林にもすっかり籠もらずに、名誉と利益を求める心も晴れないようであるのに、ひたすら幻の世の中で、かりそめの身体から離れ、徳を隠して、乞食頭陀〔:食を乞いながら諸国を巡って仏道の修行すること〕のありさまをお示しになったという心の中は、まことに思い切りがよく思われます。昔の賢い方々の事跡を見るにつけても、「はるかかなたに離れて、徳を隠す」と言っている。だから、そのような智者が発心していらっしゃったのだろうか。ほんとうに心ひかれます。歌までもすばらしうございますよ。朝顔の花こそ、はかない例には申しますようであるけれども、花よりも先に行く白露は、落ちてはさらに跡もなく、吹いて通った風は、また留まる所も見えない。花は、また日の光に従ってしぼみ、日は、空しく山に入ってしまう。無常の世の中で、月日も容易に過ぎ、太陽も留まることはできない。だから、どういうわけでしばらくの間も、空しく過ごしているのか。額にはむやみに老いの波を重ね、眉には霜の積もっていることをも理解せずに、はかない乳飲み子が父母にむさぼるようにして、むなしく走り過ぎ、来世の苦しみを考えないのは、残念ではないか。分かっているような顔つきで分かっていないのは、生死の無常でございますよ。ああ、この乞食の人の心のような思いが、しばらくの間だけでも私の心に付けよと思われております。<以下略>
〔解説〕
泥んこでまともな着物を着ていない僧の話です。この僧は、衣服に執着がありません。また、食事にも執着がありません。
「帷」は、ここでは、裏のない単衣の着物のことで、今の浴衣〔ゆかた〕みたいなものです。これを与えても、莚〔むしろ〕や薦〔こも〕を着慣れているから、こんな上等なものは要らないと言って返すこの僧、また、仏の教えを記した文章を教えてくれと言われたので、朝顔は朝咲いて昼には萎んでしまうはかない花であるけれどもその朝顔よりも露はもっとはかないよと歌を詠んだこの僧、すごいですね。評言で「この乞食の人の心のごとくなる思ひが、須臾ばかり付けかしとおぼえて侍り」と筆者が述べるのも、もっともです。ここまで到達した人はなかなかいなかったのでしょう。
この説話の評言、かなり長くて、まだまだ先がありますが、以下省略です。とりあえずは訳してありますが、こういう仏教関係の文章は的を得た訳ができているかどうかは心許ないです。
■7話 『閑居友』上・六 
東国の僧の話です。
〔本文〕
昔、東〔あづま〕の方〔かた〕に、いみじく思ひ澄ましたる聖〔ひじり〕ありけり。ただ一人のみありて、すべてあたりに人を寄せずぞ侍〔はべ〕りける。ただわが心とぞ、時々出〔い〕でて、人にも見えける。また、身に持ちたる物、少しもなし。仏も経〔きゃう〕もなし。ましてそのほかの物、つゆちりもなし。隠るべきことや近付きておぼえけん、日ごろ標〔し〕めをきたりける山に登りて、火打笥〔ひうちけ〕に歌をぞ書きて侍りける。
頼む人なき身と思へば今はとて 手づからしつる山送りかな
さて、はるかにほど経〔へ〕て、なすべきことありて山に入〔い〕れる人、これを見出〔い〕だしたりけるとなん。ことにあはれにしのびがたく侍り。
何も持〔も〕たらぬこそ、ことにあはれに好もしく侍れ。かの天竺〔てんじく〕の比丘〔びく〕の、坐禅の床〔ゆか〕のほかにはなにもなくて、客人〔まらうど〕の菩薩〔ぼさつ〕のおはしたるに、木〔こ〕の葉をかき集めて、それに居させ奉〔たてまる〕りける事を見侍りしより、このことはいみじく好〔この〕もしく侍り。「いにしへ、軒近き橘〔たちばな〕を愛せし人、蛇〔くちなは〕となりて木の下〔もと〕にあり」なども、伝〔でん〕には見え侍り。また、「釈迦仏〔しゃかぶつ〕、昔、ただ人にておはしましけるに、毒蛇となりて、さきに土に埋〔うづ〕めりし黄金〔こがね〕を纏〔まと〕ふ」とも侍るめるは。かかるに、この人、なにの持〔も〕たる物にかは、つゆばかりの心も働き侍るべき。なほなほうらやましく侍り。唐土〔もろこし〕にまかりて侍りしにも、さらに何もなくて、袈裟〔けさ〕と鉢とばかり持ちたる人、少々見え侍りき。なほ、仏の御国〔みくに〕に境近き国なれば、あはれにもかかるよと、思ひ合はせられ侍りき。また、人を遠ざかること、いみじく尊〔たふと〕く侍り。なにわざにつけても一人侍るばかり、澄みたることはなし。昔の高僧の跡を尋ぬれば、皆かやうにのみ侍るにや。なほなほあはれに侍り。歌さへ優〔いう〕に侍るこそ。『閑居友』上・六
〔訳例〕
昔、東国の方に、たいそう仏道にひたすら心を入れた聖がいた。たった一人でいて、まったく周囲に人を寄せ付けずにおりました。ただ自分の気持ちがおもむく時に、時々、里に出て、人にも姿を見せた。また、身に持っている物は少しもない。仏像もお経もない。ましてその他の物は、まったくない。死ぬはずのことが近くに感じられたのだろうか、普段、自分の死ぬ場所として用意しておいた山に登って、火打笥に歌を書いておりました。
頼りにする人がいない身の上と思うので、もうこれでということで 自分で行なった山送りだなあ。
そして、ずいぶん月日が経って、しなければならない用事があって山に入っている人が、これを見付け出していたと。格別に心打たれ感動の気持ちを抑えられません。
何も持っていないのが、特に心打たれ好感が持てます。あの天竺〔:インド〕の僧が、座禅の敷物の他には何もなく、客人の菩薩がいらっしゃった時に、木の葉を掻き集めて、それに座らせ申し上げたことを見ました時から、この話はとても好感が持てます。「昔、庭先の橘を大事にした人が、蛇となって木の下にいる」なども、『拾遺往生伝』には見えます。また、「釈迦仏が、昔、普通の人でいらっしゃった時に、毒蛇となって、以前に土に埋めていた黄金にまとわりついている」とも『賢愚経』にはございますようだよ。こうであるのに、この人は、どういう持っている物に対して少しばかりの執着の心も動くはずがありましょうか。やはりやはりうらやましいです。唐土〔:中国〕に参っておりました時にも、まったく何もなくて、袈裟と鉢ばかりを持っている人が、少々見えました。やはり、仏の御国〔:インドを指す〕に土地が近い国であるので、すばらしいことにもこのようであるよと、ふと思い当たりました。また、人から離れることは、とても立派でございます。どういうことにつけても一人でおりますほど清らかなことはない。昔の高僧の事跡を調べると、すべてこのようでばかりございますのだろうか。いっそう心打たれます。歌までも素晴らしうございます。
〔解説〕
「こんな話6」と同じく、この僧も、必需品以外、物をまったく持っていません。火打笥というのは火打ち石など、発火用具を入れておく箱です。必要最小限の炊事はしたでしょうから、火打笥は必需品です。
評言の、「この人、何の持たる物にかは、つゆばかりの心もはたらき侍るべき」は、反語表現です。「この人はどういう持ち物に対しても、少しも執着の心は動くはずはない」ということです。評言に蛇が出てきていますが、執着の象徴なのでしょう。「身に持ちたる物、少しもなし。仏も経もなし。ましてそのほかの物、つゆちりもなし」と述べていますが、物に執着しないことは、やはり、とても難しかったのでしょう。
亡くなる時に歌を書き残すことは、説話によくあります。「山送り」は山中に亡骸を葬ること、「野辺送り」は野辺に亡骸を葬ることです。
人を近付けずに一人だけでいたことについても、「何わざにつけても一人侍るばかり澄みたることはなし」と、『閑居友』の筆者は感心しています。人と一緒にいることから生じる煩わしさを断つことも一つの重要なテーマです。これについては、5の「心の静かさ」でいろいろ読んでみましょう。
「唐土にまかりて侍りし」とありますが、「こんな話2」で解説したように、『閑居友』の著者の慶政は一二一七年ごろに宋に渡ったとされています。
■8話 『閑居友』上・一三 
高野山の僧の話です。
〔本文〕
中ごろ、高野〔かうや〕に、南筑紫〔みなみつくし〕といふ往生人〔わうじゃうにん〕ありけり。筑紫の者の二人高野に住みて、北、南に住処〔すみか〕を構へて侍〔はべ〕りければ、時の人、「南筑紫」「北筑紫」と言ひけるなるべし。
この南筑紫は、日に一合〔いちがふ〕の御料〔ごれう〕を食ひて、さらにそのほかの物も食はずありければ、痩せ衰えてぞ侍りける。ある時、さるべき人々集まりて、「なじかはかくばかり身をいましめ給〔たま〕ふべき。仏は御法〔みのり〕を習ひ行なふをこそ、本意とは仰せられたんめれ。ただ物など多からぬほどに食ひ、勤めをもよくしておはせかし」と言ひければ、聖〔ひじり〕の言ふやう、「昔の、心の発〔おこ〕り侍りしころ、好みて聴聞〔ちゃうもん〕をし侍りしに、尊き聖の法〔のり〕説き給ひしを聞きしかば、『昔、賢き人ありき。いまだ家にありける時、いみじく小鳥を愛して飼ひけるが、一籠〔いっこ〕にやまがら二つ入れたりけるに、一つのやまがらは、物も食はで、常には籠〔こ〕の胴〔はら〕につきて籠の目〔め〕より出〔い〕でんとのみして、痩せ細りて、水をだにも多くは飲まで、出でむとする営みのほか、さらに異〔こと〕わざなし。いま一つの山がら、物いみじく食ひて、勇みほこれり。身も肥え太りてぞありける。さるほどに、この痩せたるやまがら、いたく身も細りて、いかがしたりけん、籠の目より脱け出でて飛びて去りぬ。これを見て、そのあるじの男、「されば、憂〔う〕き世を出でんと営まむ人もさるべきにこそ侍るめれ。常にうちしめりて、高き咲〔ゑわら〕ひもせず、心思ひに物なども食はでこそあるべかんめれ」と悟りて、やがて頭〔かしら〕おろして、いみじく行ひて侍り』と説き給ひしを聞きしが、いみじく身に染みて、『我もし出家の心ざしを遂げたらば、さらむよ』と思ひそめしのち、今はや、あまたの年を送り侍りぬ。我、物いみじく食ひて力ありとても、何の行ひをかし侍るべき。誤りて怠りぞ出で来〔き〕侍るべき。はや、ゆるぎなく思ひ固めてしことなれば、いかにのたまはすとも、従ふまじきなり」とぞ、答〔いら〕へける。さて、人々も涙を落として、言ふこともなくなりにけりとなん。
このことを聞きしより、深く身に染みて忘るる時なし。かのやまがらのいにしへも、ことにあはれに偲〔しの〕ばしく侍り。
されば、仏は、あるいは、「三口食へ」とも教へ給ふ。あるいは、「五口食へ」とも仰せられたり。また、舎利弗〔しゃりほつ〕は、「五口、六口食ひて、これを足すには水を以てせよ」と言へり。されば、竜樹〔りゅうじゅ〕菩薩〔ぼさつ〕は、「身を益して、馬を養ふがごとくはすべからず」と説き給ひて、天台大師は、「食の法〔のり〕たることは、もと身を資〔たす〕けて道に進まさむがためなり」と説き給へり。これらの教へを聞かずして、おのづからやまがらのゆゑに悟りを発〔おこ〕しけん心、げにありがたく侍るべし。また、伝へ聞きて、げにと身に染みけん人も、賢き心なり。
つらつら思ひ続〔つづ〕くれば、この一盛〔ひともり〕の食ひ物は、数もなき労〔わづら〕ひより来〔きた〕れるにはあらずや。春の日の長きに、山田を返す賤〔しづ〕の男〔を〕の、引く標縄〔しめなは〕のうちはへて、営〔いとな〕みたつる労〔わづら〕ひ、驚かす鳴子〔なるこ〕の山田の原の仮庵〔かりいほ〕、霜冴〔さ〕ゆるまで困〔たしな〕みて、晩稲〔おしね〕を積める営み、あるいは、上〔のぼ〕れば下〔くだ〕る稲舟〔いなぶね〕に、水馴〔みなれ〕れ棹〔さほ〕差しわび、あるいは、逢坂山〔あふさかやま〕のはげしきに、足を速〔はや〕むる駒〔こま〕もあり、また、手づから負ひ、みづから荷〔にな〕へる営み、その数いくそばくぞや。いかに言はんや、山人の練〔ね〕るや練麻〔ねりそ〕の手もたゆく、力を尽くせる薪〔たきぎ〕にてこれを営み、月の夜ごろは寝〔い〕ねもせず、からく営める塩竈〔しほがま〕の行方〔ゆくへ〕などを思ふに、涙もとどまらずおぼえて、「我これを食ひて、今日、その経〔きゃう〕、その伝を披〔ひら〕きて、いささか心を発〔おこ〕しつ。この功徳〔くどく〕をば、あまねく分かちて、この営みの人々に施す」など、思ひ居て侍るぞかし。
しかあるに、憚りなく労〔いたは〕りなく、いみじく多く食ひて、しはてには、こぼし散らしなどせんこと、その罪いかばかりぞや。願はくは、帳〔ちゃう〕の外〔ほか〕を出でず、褥〔しとね〕の上〔うへ〕を下〔くだ〕らずいまそからんあたりまで、げにとおぼしとがめさせ給はば、功徳〔くどく〕にや侍る。されば、唐土〔もろこし〕には、いかなる者の姫君も、食ひ物などしどけなげに食ひ散らしなどは、ゆめゆめせず。よにうたてきことになん申し侍りしなり。この国は、いかにならはしたりけることやらん、はや癖になりにたれば、改めがたかるべし。ただかなひぬべからんほどを、御慎みもあれかし。仏の、「この一粒〔いちりう〕の米を思ひはかるに、百の功〔こう〕を用ゐたり」と仰せられ、竜樹菩薩の、「これをはかり思ふに、食は少けれども汗多し」とのたまへる、あはれにこそ侍れ。『閑居友』上・一三
〔訳例〕
それほど遠くない昔、高野山に、南筑紫という極楽往生を願う人がいた。筑紫の者が二人高野山に住んで、北と南に住まいを構えておりましたので、その時の人が、「南筑紫」「北筑紫」と言ったのであるに違いない。
この南筑紫は、一日に一合〔:一升の十分の一〕のお食事を食べて、まったくその他の物は食べずにいたので、痩せ衰えておりました。ある時、しかるべき人々が集まって、「どうしてこれほど身体を厳しく慎みなさるのがよいだろうか。仏は教えを習い、実行することを、本来の目的とはおっしゃっているようだ。ただ食事など多くない程度に食べ、勤行をも十分にしていらっしゃいよ」と言ったので、聖の言うことは、「昔の、仏道に志しました頃、好んで聴聞〔:説法や法話などを聞くこと〕をしました時に、尊い聖が仏の教えを説きなさったのを聞きましたところ、『昔、賢い人がいた。まだ家にいた時、たいそう小鳥を大事にして飼ったのが、一つの籠にヤマガラを二羽入れていたところ、一羽のヤマガラは、物も食べずに、常に籠の胴に付いて籠の目から出ようとばかりして、痩せ細って、水をさえも多くは飲まずに、出ようとする努力の他、まったく他のことをしない。もう一羽のヤマガラは、物をとてもたくさん食べて、威張っている。身体も肥えて太っていた。そうこうしているうちに、この痩せているヤマガラは、ひどく身体も細くなって、どうしていたのだろうか、籠の目から抜け出して飛んで去ってしまった。これを見て、その主の男は、「だから、つらい世の中を捨てようと努める人も、そうするのがよいことでございますようだ。いつもしんみりとして、大声で笑うこともせず、心のままに物なども食べずにいるのがよいようだ」と悟って、すぐに剃髪して、たいそう熱心に仏道修行をしております』と説きなさったのを聞いたのが、たいそう身に染みて、『私がもし出家の念願を達成したならば、そのようであろうよ』と思い始めてから後、今すでにたくさんの年を送りました。私が、物をひどくたくさん食べて力があるといっても、どういう勤行をすることができるでしょうか。間違って、過ちを犯すに違いありません。すでに、固く決心してしまったことであるので、どのようにおっしゃっても、従うつもりはないのである」と答えた。それで、人々も涙を落として、言うこともなくなってしまったと。
このことを聞いた時から、深く身に染みて忘れる時がない。あのヤマガラの昔話も、格別に感動的で思い慕われます。
そもそも、仏は、あるいは、「三口食べろ」とも教えなさる。あるいは、「五口食べろ」ともおっしゃっている。また、舎利弗は、「五口、六口食べて、これを足すには水をもってせよ」と言っている。だから、竜樹菩薩は、「身体を保って、馬を飼うようにはしてはいけない」と説きなさって、天台大師は「食事の教えとしての事は、本来、身体を助けて仏道に進ませるようなためである」と説きなさっている。これらの教えを聞かずに、自分からやまがらがもとで悟りを発〔おこ〕したという心は、ほんとうになかなかいないに違いありません。また、伝え聞いて、そのとおりだと身に染みたという人も、すばらしい心構えである。
よくよく考え続けると、この一盛りの食べ物は、数限りない労働から生まれているのではないか。春の日の長いころに、山にある田を耕す農夫が、引く標縄〔しめなわ〕が長く続いて、しきりに努める労働、鳥を驚かす鳴子の山田の続く仮庵で、霜が冷たく冴えることまで精を出して、遅く実る稲を積み上げている労働、あるいは、上れば下る稲を積んだ舟に、使い慣れた棹を差すのに苦労し、あるいは、逢坂山の険しい道で、脚を速くする馬もあり、また、自分で背負い、自分で肩にのせて運ぶ労働、その数はどれほどか。まして、山人が練る練麻〔ねりそ:木の枝をねじって縄の代用とするもの〕の手もだるく、力を尽くした薪でこれを作業し、月の夜は寝ることもせず、つらい思いで作業する塩竃の煙の行方など思うと、涙もとまらなく感じられて、「私はこれを食べて、今日、なになにのお経、なになにの往生伝を開いて見て、わずかの仏道心を発〔おこ〕した。この功徳を広く分けて、この労働をする人々に分け与える」など、ずっと思っておりますよ。
そうであるのに、遠慮なく心遣いなく、ひどくたくさん食べて、挙げ句の果てには、こぼし散らしなどするようなことは、その罪はどれほどか。願うことは、帳〔とばり〕の外に出ず、褥〔しとね:座ったりする時の敷物〕の上から下りずにいらっしゃるような方々まで、確かにそうだと気に懸けなさったならば、功徳でございましょうか。だから、中国では、どのような者の姫君も、食べ物などをだらしなく食べ散らしなどは、けっしてしない。とても厭わしいことに申しましたのである。この国〔:日本〕は、どのように習慣づけていたことであるのだろうか、すでに風習になってしまっているので、改めることは難しいに違いない。ただ思いどおりになるに違いないだろう程度を、慎んでくださいよ。仏が、「この一粒の米について考えをめぐらすと、百の労働を用いている」とおっしゃり、竜樹菩薩の、「これを考えると、食は少ないけれども汗は多い」とおっしゃっているのは、心打たれます。
〔解説〕
食事の欲望を断つ話です。「ただ物など多からぬほどに食ひ、勤めをもよくしておはせかし」とアドバイスされても、いや、考えがあるんだと言って、食事を多く摂らないでいるのは、現代人のダイエットとはまったく次元が違います。「三口食へ」「五口食へ」「五口、六口食ひて、これを足すには水を以てせよ」という釈迦や舎利弗の言葉を読むと分かります。
高野山は、弘法大師が開いたお寺、金剛峯寺〔こんごうぶじ〕です。東南部の専修往生院を中心として、いくつかの谷に極楽往生を願う修行者が多く集まって、修行の場になっていたということです。また、麓の谷にも別所〔べっしょ〕と呼ばれる修行者の集落があって、その中でも「天野〔あまの:高野山の北の麓〕」が有名です。高野山は女人禁制であったので、別所には尼も住んでいました。
「つらつら思ひ続くれば」以下、歌語を多く用いた美文になっています。注釈書に挙げられている和歌を並べると、
小山田〔をやまだ〕に引く標縄〔しめなは〕のうちはへて 朽ちやしぬらん五月雨のころ
〔山田の苗代に引き渡してある標縄がずっと雨が降るので ぼろぼろになってしまっているだろうか。五月雨の降るころ〕『新古今和歌集』三
秋田守〔も〕る仮庵〔かりいほ〕作り我がをれば 衣手寒し露ぞを置きける」
〔稲刈りの前の秋の田を守る仮屋を作り私が見張っていると 袖が寒い。露が降りているなあ〕『新古今和歌集』五
霜冴ゆる山田のくろのむら薄〔すすき〕 刈る人なしみ残るころかな
〔霜が冷え冷えとする山田のあぜのむら薄が 刈り取る人がいないので残るころだなあ〕『新古今和歌集』六
最上川上〔のぼ〕れば下〔くだ〕る稲舟〔いなふね〕の いなにはあらずこの月ばかり
〔最上川を上ると下る稲舟のように 否〔いな〕ではない。今月は都合が悪い〕『古今和歌集』二〇
水馴れ棹取らでぞ下す高瀬舟(たかせぶね) 月の光のさすにまかせて
〔使い慣れた棹を使わずに下す高瀬舟は 月の光のさすのに任せて〕『後拾遺和歌集』一五
かの岡に萩刈る男〔をのこ〕縄をなみ 練るや練麻〔ねりそ〕のくだけてぞ思ふ
〔あの岡で萩を刈り取る男が縄がないので 練る練麻のように心を砕いてもの思いをすることだ〕『拾遺和歌集』一三
こういう和歌が下敷きになっています。
この評言、食料の生産に関わる労苦の話に話題がずれて、高貴な姫君は食事を食べ散らかしたりしないようにと述べていますが、こういう記述が『閑居友』のあちこちにあるので、『閑居友』は高貴な女性の求めに応じて書かれたのではないかと考えられています。鎌倉時代の内親王の、式乾門院〔しきけんもんいん:一一九七〜一二五一〕、安嘉門院〔あんかもんいん:一二〇九〜一二八三〕などが考えられるようですが、決め手に欠けるようです。
執着を断つことは、現代人にとっても大きな課題です。
■9話 『閑居友』上・二〇 
観想という言葉があります。これは、ある特定の物事に意識を集中させて、迷いの心を取り除こうとする修行で、対象により不浄観や日想観などいろいろあると辞書に説明があります。次の、山城の国の男の話には不浄観が出てきます。どんなものなのか、読んでみましょう。
〔本文〕
中ごろのことにや、山城の国に男ありけり。あひ思ひたりける女なん侍〔はべ〕りける。なにとか侍りけん、疎々〔うとうと〕しいきさまにのみぞなり行きける。この女うち口説〔くど〕き、「かくのみなりゆけば、世の中も浮き立ちておぼゆるに、誰〔たれ〕も年のいたう言ふかひなくならぬ時、おのが世々になりなんも、ひとつの情なるべし」と言ひけり。この男、驚きて、「え去らず思ふこと、昔につゆちりも違〔たが〕はず。ただし、一つのことありて、疎々しきやうにおぼゆることぞある。過ぎにしころ、ものへ行くとて、野原〔のばら〕のありしに休みしに、死にたる人の髑髏〔どくろ〕のありしを、つくづくと見しほどに、世の中あぢきなくはかなくて、『誰も死なん後〔のち〕は、かやうに侍るべきぞかし。この人もいかなる人にか、かしづき仰がれけん。ただ今は、いと気疎〔けうと〕くいぶせき髑髏にて侍るめり。今よりわが妻〔め〕の顔のやうをさぐりて、このさまに同じきかと見んよ』と思ひて、帰りてさぐり合はするに、さらなり、などてかは異〔こと〕ならん。それより何となく心も空におぼえて、かくおぼし咎むるまでなりにけるにこそあんなれ」と言ひけり。かくて、月ごろ過ぎて妻に言ふやう、「出家の功徳〔くどく〕によりて仏の国に生まれば、必ず帰り来て、友を誘はん時、心ざしのほどは見え申さんずるぞ」とて、かき消つやうに失〔う〕せぬとなん。ありがたく侍りける心にこそありけれ。
誰も皆さやうのことは見るぞかし。さすが岩木〔いはき〕ならねば、見る時はかき暗〔くら〕さるることもあり。いかにいはむや、目のあたり見し人の、深き情、むつましき姿、さもとおぼゆる振る舞ひなどの、ただうたたねの夢にてやみぬるは、殊〔こと〕に心も発〔おこ〕りぬべきぞかし。しかはあれど、憂〔う〕かりける心の習ひにて、時移り時去りぬれば、声立つるまでこそなけれども、咲〔ゑわら〕ひなども侍るべきにこそ。かかるに、この男の深く思ひ入れて、忘れず侍りけんこと、かねてはかの天竺〔てんじく〕の比丘〔びく〕のごとく、昔の世に不浄観などを凝〔こ〕らしける人の、このたび思はぬ縁〔えん〕に会ひて、憂き世を出〔い〕づる種〔たね〕となしけるにやともおぼゆ。昔、いかなりける屍〔かばね〕の、せめてもこの人を導かんとて、あだし野の露消えもはてなで残りけるやらんと、おぼつかなくあはれなり。「あはれや、昔の聖の屍にや」とも思ひやり侍り。羅什三蔵〔らじふさんざう〕の御母の、塚のほとりにて人の骨の白きを見給ひて、道心〔だうしん〕発して、永く憂き世を出ではて給ひけん、思ひ出でられてあはれなり。
げにも、心あらむ人、これを見むばかり道心発りぬべきことやは侍る。されば弘法大師は、「白き虫、孔〔あな〕の中にむくめき、青き蝿〔はへ〕、口の内に飛ぶ。昔のよしみを尋ねんとするに、一たびは悲しみ一たびは恥づべし」とぞ書き給へる。止観〔しくわん〕の中に、人の死にて身の爛〔みだ〕るるより、ついにその骨を拾ひて煙〔けぶり〕となすまでのことを説きて侍るは、見る目も悲しう侍るぞかし。かやうの文〔ふみ〕にも暗き男の、おのづからその心発りけんこと、なほなほありがたく侍るべし。『閑居友』上・二〇
〔訳例〕
それほど遠くない昔のことだろうか、山城の国に男がいた。互いに思っていた女がおりました。どのようでございましたのだろうか、よそよそしい様子にばかりなっていった。この女は愚痴をこぼして、「このようにばかりなってゆくと、夫婦の仲も落ち着かなく思われるので、誰も年齢がひどくがっかりにならないうちに、自分のそれぞれの暮らしになってしまうようなのも、ひとつの情けであるに違いない」と言った。この男は驚いて、「あなたから離れることができなく思うことは、昔とすこしも変わらない。ただし、一つのことがあって、よそよそしいように感じられることがある。先だって、ある所へ行くということで、野原があった所で休んだ時に、死んだ人の髑髏があったのを、つくづくと見た時に、世の中がつまらなく空しくて、『誰も死ぬだろう後はこのようでございますに違いないよ。この人もどのような人に大事にされ敬われたのだろうか。今は、とても気味の悪く厭わしい髑髏でございますようだ。今から自分の妻の顔の様子を手で触って、この様子と同じかと確かめようよ』と思って、帰って手で触って髑髏の形と合わせると、言うまでもない、どうして違うだろうか。それから何となく心も上の空に感じられて、このように怪しみなさるまでなってしまったのであるようだ」と言った。こうして、数ヶ月が過ぎて妻に言うことは、「出家の功徳によって仏の国に生まれたならば、必ず帰って来て、友人を極楽に誘うだろう時に、あなたへの愛情のほどはお見せ申し上げるつもりだよ」と言って、さっと消すようにいなくなってしまったと。めったにないほどすばらしうございました心であった。
誰も皆そういうこと〔:髑髏が野ざらしになっている様子〕は見るよ。なんといっても人は岩や木でないので、見る時は悲しみにくれることもある。まして、目のあたりに見た人の、深い情け、慕わしい姿、いかにもと思われる振る舞いなどが、ただ仮寝の夢で終わってしまったのは、格別に仏道心も発〔お〕きてしまうに違いないよ。そうではあるけれども、情けなかった心の常で、時が移り時が経つと、声を上げるまではないけれども、笑うことなどもございますに違いないのだろう。このようであるのに、この男が深く心に掛けて、忘れずにおりましたということは、昔はあの天竺の比丘〔:一般に僧を言う〕のように、前世で不浄観などを熱心に行なった人が、今回は予想しない縁に出会って〔:野原で髑髏を見たことを指す〕、憂き世を捨てるきっかけとしたのだろうかとも思われる。昔、どのようであった亡骸が、せめてこの人〔:話題の男〕を導こうと言うことで、葬送の地の露はすぐに消えてしまうのにすっかり消えずに残ったのだろうと、はっきりしないながらも心打たれる。「ああ、昔の聖の亡骸だろうか」とも想像します。羅什三蔵〔:鳩摩羅什〕の母君が、墓のほとりで人の骨の白いのを御覧になって、仏道心を発〔お〕こして、ずっと憂き世をすっかり捨てなさったということが、ふと思い出されて心打たれる。
なるほど、仏道心があるような人は、これ〔:髑髏〕を見るようなことほど仏道心を発〔お〕こしてしまいそうなことがございますか。だから弘法大師は、「白い虫が、穴の中にうごめき、青い蝿が、口の中に飛ぶ。昔の縁故の人を捜し求めようとすると、一度は悲しみ一度はきまり悪く思うに違いない」とお書きになっている。『摩訶止観』の中に、人が死んで身体が腐乱する時から、最後にその骨を拾って煙にするまでのことを説明しておりますのは、見る目も悲しうございますよ。このような書物も知らない男が、自然とその仏道心がおこったということは、やはりやはり滅多にないことでございますに違いない。
〔解説〕
「執着を断つ」で、物欲を断ったり食欲を断つ話を読んだのですが、色欲を断つのもなかなか難しいことでしょう。『摩訶止観〔まかしかん〕』には、男女の色欲を断つには不浄観が一番だと記されているそうです。「不浄観」とは、肉体の腐乱してゆく様子を観察し、その不浄を悟り、煩悩や欲望を取り除くことだということですが、自分の妻も中身は野原に転がっている髑髏と同じなんだと思うと、確かに「疎々しいきさま」になりますよね。この時代は、人の亡骸が放置されていることも珍しくなかった時代ですから、髑髏を目撃することも稀ではなかったと注釈があります。
「止観の中に、人の死にて身の爛るるより、ついにその骨を拾ひて煙となすまでのことを説きて侍る」ということですが、この時代の人はそこまでして人に対する執着を断とうとしたのでしょう。
■10話 『閑居友』下・九 
ある僧都の話です。
〔本文〕
昔、某〔それがし〕の僧都〔そうづ〕とて、尊〔たふと〕き人、ある宮腹〔みやばら〕の女房に、心ざしを移すことありけり。思ひかねてや侍〔はべ〕りけん、うち口説〔くど〕き、心の底を表はしければ、この女、とばかりためらひて、「なじかはさまでにわづらひ給〔たま〕ふべき。里にまかり出〔い〕でたらんに、必ず案内し侍らむ」と言ひけり。この人、ただおほかたの情〔なさけ〕かとは思へども、さすがまた、昔には似ずなん思ひをりける。
かかるに、いくほどもあらで、「このほどまかり出でたること侍り。今夜はこれに侍るべし」と言ひたり。さるべきやうに、出で立ちて行きぬ。この人出で会ひて、「仰せの揺ぎなく重ければ、まかり出でて侍り。ただし、この身のありさま、臭く穢〔けが〕らはしきこと、譬〔たと〕へて言はんかたなし。頭の中には脳髄〔なづき〕間〔ま〕なく湛〔たた〕へたり。膚〔はだへ〕の中に、肉〔ししむら〕骨を纏〔まつ〕へり。すべて、血流れ、膿〔うみ〕汁〔しる〕垂〔た〕りて、一つも近付くべきことなし。しかあるを、さまざまの外の匂〔にほひ〕を傭〔やと〕ひて、いささかその身を飾りて侍れば、何となく心にくきさまに侍るにこそありけれ。そのまことのありさまを見給はば、定めて気疎〔けうと〕く、恐しくこそ思〔おぼ〕しなり給はめ。このよしをも、細かに口説〔くど〕き申さむとて、『里へ』とは申り侍りしなり」とて、「人やある。火〔ひ〕灯して参れ」と言ひければ、切灯台〔きりとうだい〕に火いと明〔あか〕く灯して来たり。さて、引き物を上げつつ、「かくなん侍るを、いかでか御覧じ忍び給ふべき」とて出でたりけり。髪はそそけ上がりて、鬼などのやうにて、あてやかなりし顔も、青く、黄に変はりて、足などもその色ともなく、いぶせく汚くて、血、所々付きたる衣〔きぬ〕のあり香〔が〕、まことに臭く、耐へがたきさまにて、さし出でてさめざめと泣きて、「日ごとに繕ひ侍るわざを止〔とど〕めて、ただ我が身の成り行くにまかせて侍れば、姿も着る物もかくなん侍るにはあらずや。そこは、仏道近き御身なれば、偽りの色を見奉〔たてまつ〕らむも、方々〔かたがた〕畏〔おそ〕れも侍りぬべければ、かやうにうちとけ侍りぬるなり」と、かき口説き言ひけり。この人、つゆもの言ふことなし。さめざめと泣きて、「いみじき友に逢ひ奉りて、心をなん改め侍りぬる」とて、車に急ぎ乗りて、帰りにけりとなん。
まことにいみじく賢く侍りける女の心なりけり。今の世にも、さほどおどろおどろしきまでこそなけれども、捨つとなれば、人の身はあらぬものになり侍るにこそ。かの水の面〔おも〕に影を見て、身をいたづらになし果てけん、さこそは廃〔すた〕れけん顔立ちは悲しく侍りけめ。小野小町がことを書き記せる物を見れば、姿も着る物も、目を恥〔はぢ〕しめ侍るぞかし。まして、いたう顔も良からぬ人の、成りゆくにまかせて侍らんは、などてかはこの女房の偽りの姿に異なるべき。いはんや、息止まり身冷えて、夜を重ね日を送らん時をや。いかにいはんや、膚〔はだへ〕ひはれ、膿〔うみ〕汁〔しる〕流れて、筋〔すぢ〕溶〔と〕け、肉〔ししむら〕溶くる時をや。まことに、心を静めてのどかに思ふべし。『閑居友』下・九
〔訳例〕
昔、なになに僧都と言って、高徳な人が、ある宮様を母とする女房に、恋心を抱くことがあった。恋しい思いに耐えられずにおりましたのだろうか、しきりに気持ちを訴えて、思いのすべてを述べたので、この女は、しばらく気持ちを抑えて、「どうしてそうまで思い悩みなさる必要があろうか。実家に退出してるような時に、かならずお知らせしましょう」と言った。この人は、ただ通り一遍の情けかとは思うけれども、そうはいうものの一方で、以前とは違って恋い慕っていた。
こうしているうちに、どれほどもなくて、「近ごろ退出していることがあります。今夜はこちらにおりますことになっている」と言っている。そうであるはずのように支度をして出掛けた。この人は面会をして、「お言葉が揺らぐことがないほど重大であるので、退出しております。ただし、この身のありさまは、臭く汚らしいことは、たとえて言うようなすべがない。頭の中には脳髄が隙間なくいっぱいになっている。肌の中に、肉や骨が絡みついている。すべて、血が流れ、膿や汁が垂れて、一つも近づくことができることがない。そうであるのに、さまざまの外の美しさを借りて、すこしばかりその身体を飾っておりますので、なにとなく心ひかれる様子でございますのであったよ。その真実のありさまを御覧になったならば、きっと気味悪く、恐ろしくお思いになるようになるだろう。そのことをも、細かく説明し申し上げようと思って、『実家へ』とは申しておりましたのである」と言って、「誰かいないか。火を灯して参れ」と言ったので、切灯台に火を明るく灯して来た。そして、仕切りの物〔:几帳や帳〔とばり〕の類〕を上げながら、「このようでございますのを、どうして御覧になって我慢なさることができようか」と言って、出て来ていた。髪はぼうぼうと乱れ、鬼などのようで、優美であった顔も、青く、黄に変わって、足なども何色ともなく、厭わしく汚くて、血がところどころに付いている衣の匂いが、じつに臭く、堪えられない様子で、出て来てさめざめと泣いて、「日々に手入れの手を休めて、ただ我が身の次第にそうなってゆくのに任せておりますので、姿も着る物もこのようでございますのではないか。あなたは、仏道に近い御身の上であるので、偽りの色をもお見せ申し上げるようなのも、あれやこれや懸念がきっとございますに違いないので、このように隔てなくお見せしましたのである」と、くどくどと繰り返し言った。この人は、すこしも言葉を言うことがない。さめざめと泣いて、「とてもすばらしい友にお逢い申し上げて、考えを改めました」と言って、牛車に急ぎ乗って、帰ってしまったと。
ほんとうにたいそう優秀でございました女の心構えである。今の世の中でも、それほど気味悪くまではないけれども、心配りをしないとなると、人の身体はとんでもないものになりますのだろう。あの水面に映る自分の姿を見て、身をすっかり亡きものにしたという安積沼の女は、さぞかし衰えただろう顔立ちは悲しうございましたのだろう。小野小町のことを書き記した物を見ると、姿も着る物も、見る人に目を背けたい思いをさせますよ。まして、それほど顔立ちも良くない人が、そうなってゆくのに任せておりますようなのは、どうしてこの女房の偽りの姿と異なるはずがあろうか。まして、息が止まり身体が冷えて、夜を重ね日を送るような時は。言うまでもなく、肌が膨れ上がり、膿や汁が流れて、筋が溶け、肉が溶ける時は。本当に、心を静めてゆっくりと考えるのがよい。
〔解説〕
この話もすごいですね。これが入試問題として出題されていたのですw(゚o゚)w
この僧都は、女房から色よい返事をもらっていそいそと出掛けたのですが、「頭の中には脳髄間なく湛へたり。膚の中に、肉骨を纏へり。すべて、血流れ、膿汁垂りて、一つも近付くべきことなし」と諭されて、切灯台で照らされた姿は、「髪はそそけ上がりて、鬼などのやうにて、あてやかなりし顔も、青く、黄に変はりて、足などもその色ともなく、いぶせく汚くて、血ところどころ付きたる衣のあり香、まことに臭く、耐へがたき」というありさま、百年の恋も一瞬にして冷めてしまったでしょう。
この説話、人の身体の不浄を、ここまで書くかというところまで、遠慮なく書いています。でも、当時の感覚ではこれくらいはまだまだ穏やかなものなのでしょう。「こんな話8」で指摘したように、『閑居友』はある高貴な女性の求めで書かれたとされているからです。
ここまで「仏教説話を読もう」で登場した僧は、普通の人や、名もない修行者でしたが、この僧都、「某の僧都」とぼかしていますが、大きな寺院の名のある僧都なのでしょう。そういう人が色恋に迷ってしまったという話です。立派な僧が堕落したということですが、大きな寺院が加持祈祷などの現世利益を追求するようになって儀式化世俗化が進んだ結果なのでしょうか。当時の仏教が貴族との関係を深めていたことは、「こんな話19」で、院源について少し調べてあります。
こういう不浄観の対極にあるのが、「色好み」でしょう。現代語の「色好み」とは、もちろん、全然別のもので、『徒然草』一三七で「逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ」と説明されるようなものでした。恋愛のさまざまな情趣を深く理解して洗練された恋愛ができること、また、そういう人を言います。平安時代には男にも女にも言って、容貌・態度・性格・人柄が優れ、和歌や音楽にも堪能で、恋に一途に生きる人を意味して、「色好み」は、貴族らしい雅びな趣味の持ち主であると賞賛される、恋愛の情趣を尊ぶ美的理念でした。不浄観が、物としての人間の存在を突き詰めていくのに対して、「色好み」は、恋愛のせつなさを突き詰めていったものなのでしょう。
「かの水の面に影を見て、身をいたづらになし果てけん」は、『大和物語』一五五にある、水面に映った自分の衰えた顔立ちを見て、絶望のあまりに命を絶ってしまった女の話です。
■11話 『閑居友』上・一九 
比叡山延暦寺の身分の低い僧の話です。
〔本文〕
昔、比叡〔ひえ〕の山に、なにがしとかや言ひける人のもとに使はれける中間〔ちゅうげん〕僧ありけり。主〔しう〕のために一事も違〔たが〕ふ振る舞ひなし。いみじく真心〔まごころ〕にて、いとほしき者にぞ思はれたりける。
かかるほどに、年ごろ経〔へ〕て後〔のち〕、夕暮れには必ず失〔う〕せて、つとめて疾〔と〕く出〔い〕で来ることをしけり。主もいみじく憎きことに思ひて、「坂本に行き下〔くだ〕るにこそあんめれ」など思ひけり。帰りたる時も、うちしめりて、人にはかばかしく面〔おもて〕など合はすることもなし。常には涙ぐみてのみ見えければ、「行きかふ所のことを飽〔あ〕き足らず思ひて、かかるにこそ」とぞ、ゆるぎなく主も人も思ひ定めける。
さて、ある時、人を付けて見せければ、西坂本を下〔くだ〕りて、蓮台野〔れんだいの〕にぞ行きにける。この使、「あやしく。なにわざぞ」と見ければ、あちこち分け過ぎて、言ひ知らず忌忌〔いまいま〕しく爛〔みだ〕れたる死人のそばに居〔ゐ〕て、目を閉ぢ、目を開きして、たびたびかやうにしつつ、声も惜しまずぞ泣きける。夜もすがらかやうにして、鐘も打つほどになりぬれば、涙押し拭〔のご〕ひてなん返りける。この使、思はずに悲しくおぼえて、思ふらん心のほどは知らねども、涙を流すこと限りなし。
さて返り来〔き〕ぬ。「いかに」と尋ぬれば、「そのことに侍〔はべ〕り。この人、あやしく露深くしをれけるは、理〔ことわり〕にぞ侍るべき。かうかうのことの侍りて、はや失せけるなるべし。いみじき聖〔ひじり〕の行なひを、みだりにあやしのさまに思ひ汚〔けが〕しける罪のほども逃〔のが〕れがたく、悲しくて」と言ひけり。主〔しう〕驚きて、その後〔のち〕はいみじき敬〔うやま〕ひを致して、さらに常の人に振る舞ひ比べず。
さて、ある時、朝の粥〔かゆ〕を持て来たりけるに、辺りに人もなく侍りければ、「まことにや、おのれは不浄観凝〔こ〕らすことあんなる」と言ひければ、「さることいかでか侍らん。さやうのことは智恵ある人こそし侍るなれ。この身のありさまは、皆知ろし召したるらむ」と言ひけり。「いかにかかることは言ふぞ。皆知りたるものを。その後〔のち〕は心ばかりは尊〔たふと〕くありがたく思ふに、かく心置きてあるこそ」と言ひければ、「そのことに侍り。何と深くは知り侍らねども、おろおろは仕うまつり侍り」と言ひければ、「さだめて験〔しるし〕あるらんな。その粥、観〔くゎん〕じて見せ給〔たま〕へ」と言ひければ、折敷〔をしき〕をうち覆〔おほ〕ひて、とばかり観念して、開けて侍れば、みな白き虫にぞなりてける。これを見て、この主〔あるじ〕、さめざめと泣きて、「必ず我を導き給へよ」と、懇〔ねんご〕ろにぞ誂〔あつら〕へける。いとありがたく侍りけることにこそ。
天台大師の『次第禅門〔しだいぜんもん〕』といふ文〔ふみ〕に、「愚かならん者、塚のほとりに行きて、爛〔みだ〕れ腐りたらん死人を見れば、観念成就しやすし」と侍るめれば、この人もさやうに侍りけるにこそ。また、『止観〔しくゎん〕』の中に、観を説きて侍るには、「山河も皆不浄なり。食ひ物、着物、また、不浄なり。飯は白き虫のごとし。衣は臭きものの皮のごとし」など侍るめれば、かの人の観念、まことにいみじくて、おのづから聖教〔しゃうげう〕の文〔ふみ〕にあひかなひて侍りけるにこそ。されば、天竺〔てんじく〕の仏教比丘〔びく〕は、「器物〔うつはもの〕は髑髏〔どくろ〕のごとし。飯は虫のごとし。衣は蛇〔くちなは〕の皮のごとし」と説き、唐土〔もろこし〕の道宣律師は、「木はこれ人の骨なり。土はこれ人の肉〔ししむら〕なり」とは説き給ふぞかし。かやうのいみじき人々の説き置き給ふことをも知らぬあやしの僧の、おのづからその教へに当たりて侍りけん、頼もしくも侍るかな。<以下略> 『閑居友』上・一九
〔訳例〕
昔、比叡の山に、なになにとか言った人のもとで使われていた中間法師がいた。主人のために一つのことも背く振る舞いもない。たいそう真面目で、いじらしい者と思われていた。
こうしているうちに、何年も経ってから、夕暮にはかならずいなくなって、翌朝早く現われることをした。主人もたいそう気に入らないことに思って、「坂本〔:比叡山の東麓〕に下って行くのであるようだ」など思った。帰った時も、しんみりして、人にはっきりと顔を合わせることもない。普段は涙ぐんでばかり見えたので、「行き来する所のことを残念に思って、このようであるのだろう」と、間違いないことのように主人も他の人も決めつけてしまった。
そうして、ある時、人をつけて様子を見させたところ、西阪本を下って、蓮台野に行ってしまった。この使いの者は、「不思議だ。どういうことなのか」と思って見たところ、あちこち道を縫って通って、言いようもないくらい気味悪く腐乱した死人のそばに座って、目を閉じ、目を開きして、何度もこのようにしながら、声も惜しまずに泣いた。一晩中このようにして、虎の刻〔:午前四時ごろ〕の鐘も打つころになってしまうと、涙を押し拭って戻った。この使いの者は、予想外で悲しく感じられて、中間法師が思っているだろうことは分からないけれども、涙を流すことは限りがない。
そうして戻って来た。「どうなのか」と主人が尋ねると、「そのことでございます。この人が、不思議と涙っぽくしんみりしているのは、もっともでございますに違いない。これこれのことがございまして、なんと、姿を消したのであるに違いない。たいそう立派な聖のような行いを、分別もなく不可解なことに思い傷付けた罪のほどもまぬがれることができず、悲しくて」と言った。主人は驚いて、その後は、たいそう立派だと考え、まったく普通の人の行動と同列には考えない。
そして、ある時、朝食の粥を持ってきていたので、辺りに人もなくございましたので、「本当だろうか、おまえは不浄観を凝らすことがあるということだ」と言ったので、「そういうことはどうしてありましょうか。そのようなことは知恵のある人がいたしますということだ。この身のありさまは、皆がお分かりになっているのに」と言った。「どうしてそのようなことを言うのか。皆知っているのに。その後は心の中では尊くすばらしく思うのに、このようによそよそしくするのは」と言ったので、「そのことでございます。これこれと深くは知りませんけれども、大体はいたします」と言ったので、「きっと霊験があるだろうな。その粥を観想して見せてください」と言ったので、折敷で覆って、しばらく観想して、開けておりますと、すべて白い虫になってしまった。これを見て、この主人は、さめざめと泣いて、「必ず私を極楽へ導いてくださいよ」と、心を籠めて頼んだ。ほんとうに滅多になくございましたことで。
天台大師智〔ちぎ〕の『釈禅波羅蜜次第禅門』という書物に、「愚かな者は、墓のそばに行って、腐乱しているだろう死人を見ると、観念は実現しやすい」とございますようであるので、この人もそのようでございましたのだろう。また、『摩訶止観〔まかしかん〕』の中に、観想を説明しておりますには、「山河も不浄である。食物、着物、また、不浄である。飯は白い虫のようである。衣は臭いものの皮のようである」などございますようであるので、あの人の観想はほんとうにすばらしくて、たまたま仏典に合致しておりましたのだろう。だから、天竺の仏教比丘は、「器〔うつわ〕は髑髏〔どくろ〕のようである。飯は虫のようだ。衣は蛇の皮のようだ」と説明し、唐土の道宣律師は、「木は、人の骨である。土は人の肉である」と説明なさるのだよ。このようなとても立派な人々が説明して置きなさることをも知らぬ身分の低い僧が、たまたまその教えに合致しておりましたということは、心強くもございますなあ。<以下略>
〔解説〕
不浄観の話、三つ目です。男女関係ではなく、人間そのものの不浄を突き詰めたという話です。
「中間僧」は「中間法師」とも言って、雑用をした地位の低い僧のことだそうです。きちんとした仏教の知識もないこのような人が不浄観を達成していたのもすごいことですが、この、後をつけて行った使の者も、そして指示をした主人も、不浄観ということが分かっていたようです。主人も使いの者も、仏教を一通り学んだ僧侶だったのでしょうか。
「坂本」は比叡山の東の麓で、延暦寺の里坊が多くあって、門前町のようになっていて、遊楽の場所もあったようです。最初は、そこで夜な夜な遊んでいるのだろうと思われていたわけです。「蓮台野」は京の船岡山の西の麓の墓地が有名ですが、そこだとすると、夜に比叡山から下りてきて明け方に戻るということですから、相当の脚力が必要です。「蓮台野」は、蓮台に乗って浄土へ行くということで、墓地や火葬場を言うので、ここでは、西坂本の近くにあった墓地を言っているのでしょう。
この中間法師は、観想によって飯を白い虫に変えていますが、観想が現実に奇跡を起こすと信じられていたと注釈があります。『撰集抄』(七・六)の「恵心僧都、水となる事」には、「昔、延暦寺に恵心僧都といふやむごとなき人おはしけり。つねに観法を修して、我が身ならびに一室をことごとく水になし給ふわざをなむし給ひけり(昔、延暦寺に恵心僧都源信という立派な方がいらっしゃった。常に観想を行なって、自分自身ならびに一室をすっかり水にしなさることをしなさった)」という記述があります。部屋中水だけらというのは、まるでマジックみたいですが、ある日たまたま居合わせた内記入道は、「一室みな水を湛えて波はげしく侍れど、いささかも濡れ給はずぞ侍りし(部屋中すべて水でいっぱいになって波がはげしうございますけれども、少しもお濡れにならずにおりました)」と記されていて、やはり、本物の水ではなかったようです。比叡の山の中間法師が観想によって飯を白い虫に変えたのも、そう見えただけなのでしょう。
この説話の評言は、この後、衣食の贅沢を慎めという日常的な注意に話が変わっていきます。例の、『閑居友』の筆者慶政は高貴な女性が読むのを想定して、過激な話から穏やかな話になるように配慮したのでしょう。
■12話 『閑居友』上・一七 
しんどい話が三つ続いたので、今度は稲荷山の日想観の話です。
〔本文〕
近ごろ、稲荷〔いなり〕の返り坂に、崖〔きし〕の上〔うへ〕にあやしの薦〔こも〕一つうち敷きて、年いと老ひたる入道〔にふだう〕、ただひとり居〔ゐ〕て、西に向ひて夕日を拝みて、さめざめと泣く、ありけり。
「いかに」と人の問ひければ、「我は信濃国〔しなののくに〕の民〔たみ〕にて侍〔はべ〕りしが、世の中いといたうあぢきなう侍りしかば、かくまかりなりて侍り。都はなにわざにつけても良く侍りと聞きて、問ふ問ふまかり上〔のぼ〕りて侍り。知れることもなければ、ただ阿弥陀仏を頼み奉〔たてまつ〕りて、夜昼、『疾〔と〕くして迎へ給〔たま〕へ』と、泣き喚〔をめ〕き、あつらへ奉るよりほかのことなし。夜は、この下〔しも〕なる人のあたりに侍るが、一夜〔ひとよ〕うち寝〔ね〕ぬればさらに目も合はず、『あはれ、夜のはやも明けて、日の出〔い〕で給へかし』と、夜もすがら待ち奉る。さて、鐘も打ち、夜もほのめくほどになりぬれば、この崖に居〔ゐ〕侍りて、東に向ひて、『はや日の出で給へかし』と思ひをりて、日も出でてやうやう南にめぐり給へば、それに随ひてまた南に向ひて、『疾くして我を具〔ぐ〕して西へおはしませ』と願ひ侍りて、かやうの時に、西の山の端〔は〕にかからせ給ふ時には、声も惜しまず泣かれ侍りて、『我を捨ててはいづくへおはしますぞ』と、すずろに悲しくて、みどり児〔ご〕にて侍りし時、母のものにまかり出でしが心細く慕はしく侍りしよりは、なほ比〔くら〕ぶべくもなく悲しく侍りて、『阿弥陀仏、いかにし給ひつるぞ』と、泣くよりほかのことなし。今も、人の見給ふに、少し忍び侍らんとつかうまつりつるが、さらにかなはで、かく見咎〔みとが〕めさせ給ふまでに侍りけるにこそ」とぞ言ひける。さて、この問ふ人、いとあはれに思て、時々物調〔ととの〕へてつかはしなどしけり。ある時、尋ねさすれば、「跡かたもなし」となん語り侍りし。いといたうあはれにおぼえ侍り。
いとこまかにこそなけれども、をのづから日想観〔にっさうくゎん〕に当りて侍りけるにこそ。雨などの激しく降りけんに、いかがわびしく侍りけん。思ひ量りある人こそさまざまに慰む方も侍れ、短き心にはさらに晴るる方〔かた〕なく思ひ乱れてこそ侍りけめ。また、かの人の行方〔ゆくへ〕いかになりにけん、ことにおぼつかなく侍り。誰〔たれ〕ゆゑ立て初〔そ〕め給ふ誓ひなればかは頼む人を御覧じ過ぐすべきなれば、さだめてかの御国〔みくに〕にこそは生まれ侍りにけめ。いとほしく侍りける心かな。『閑居友』上・一七
〔訳例〕
最近、稲荷山の返り坂で、崖の上でむさ苦しい薦一つを敷いて、年をとても取った入道が、たった一人座って、西に向かって夕日を拝んで、さめざめと泣くのが、いた。
「どういうことなのか」と人が尋ねたところ、「私は信濃国の民でございましたけれども、世の中がとてもひどくつまらなくございましたので、このようになっております。都はどういうことにつけても良うございますと聞いて、尋ね尋ね上京いたしております。理解していることもないので、ただ阿弥陀仏をお頼り申し上げて、夜昼、『はやく迎えてください』と、泣き叫び、お願い申し上げるよりほかのことはない。夜は、この下〔しも〕にある人の所におりますが、一晩寝たところ、まったくまぶたも合わず、『ああ、夜もはやく明けて、日が出てくださいよ』と、一晩中お待ち申し上げる。そして、鐘も打ち、夜もかすかに明るくなるころになってしまうと、この崖に座りまして、東に向かって、『はやく日が出てくださいよ』と思っていまして、日も出てだんだん南にめぐりなさると、それに従ってまた南に向かって、『はやく私を連れて西へいらしゃってください』と願いまして、このような時に、西の山の端にかかりなさる時には、声も惜しまず泣かずにはいられませんで、『私を捨ててはどこへいらっしゃるのか』と、やたらに悲しくて、幼児でございました時、母がどこかへ出掛けましたのが寂しく恋しうございましたことよりは、やはり比べようもなく悲しうございまして、『阿弥陀仏よ、どうなさってしまったのか』と、泣くよりほかのことはない。今も、あなたが御覧になるので、すこしひかえましょうといたしましたけれども、まったく思うようにできずに、このように御覧になって怪しみなさるまででございましたのだろう」と言った。それで、この尋ねる人は、とても気の毒に思って、時々、食べ物を用意してやりなどした。ある時、その入道を探させると、「跡形もない」と使の者は言いました。とてもとても心打たれるように感じられます。
それほど正確ではないけれども、たまたま日想観に相当してございましたのだろう。雨などが激しく降っただろう時に、どんなにかつらくございましただろう。仏道修行に知識のある人はさまざまに気持ちが紛れるすべもございますけれども、思慮の足りない心にはまったく気持ちが晴れることがなく思い悩んでございましたのだろう。また、あの人の行く方はどうなってしまったのだろう、それが特に気掛かりでございます。誰のためにお立てになった誓いであるからか、いや、衆生を救うためにお立てになった誓いであるから、頼りにする人を阿弥陀仏は見過ごしなさるはずはないから、きっとあの御国〔:阿弥陀仏の浄土〕に生まれてしまったのでしょう。いじらしうございました心だなあ。
〔解説〕
この稲荷山、清少納言が登ってへとへとになって大変だったという話が『枕草子』(うらやましげなるもの)にあります。今の伏見稲荷です。
日想観というのは、太陽が西に沈む様子を見ながら浄土のありさまを思い浮かべる修行だそうです。現在のお彼岸は、春分と秋分に日想観を行なったことに由来しているそうです。
この稲荷山の入道、入道とは剃髪して僧衣をまとってはいるが在俗のまま寺に入らず家にいる人ということですが、「知れることもなけれ」とあるように、仏教の教義や経典などの勉強はしていないようです。それゆえ、ただひたすら一つの方法によって極楽往生を目指していたわけです。
この、ただひたすら極楽往生を願う人として、『今昔物語集』(一九・一四)には、極悪無道の源大夫という男が、鹿狩りの帰りに立ち寄った法会の講師の僧から阿弥陀仏の本願の話を聞いて突然発心し、「我その仏の名を呼び奉らむに、答へ給ひなむや(私がその仏の名をお呼び申し上げるような時に、きっとお答えになるだろうか)」と僧に尋ね、「などか答へ給はざらむ(どうしてお答えにならないだろうか)」という返事を聞くと、すぐに剃髪をして、「阿弥陀仏よや、おいおい(阿弥陀仏よ、おうい、おうい)」と、金鼓を叩きながらひたすら阿弥陀仏に呼びかけ、西へ西へと向かい、西海を臨む山の木の上で往生したという、心打たれる話が記されています。稲荷山の入道は、日想観ということはまったく知らずに、ただひたすら太陽に向かって呼びかけていました。源大夫と同じように、ひたすら極楽往生を願ったのですが、このようにただひたすら一つの方法によって極楽往生を願う心が、鎌倉の新仏教が生まれてくる下地になっているようです。
■13話 『閑居友』上・四 
次は、心の静かさについての話です。まず、空也上人の話です。
〔本文〕
昔、空也〔くうや〕上人、山の中におはしけるが、常には、「あなもの騒がしや」とのたまひければ、あまたありける弟子たちも、慎みてぞ侍〔はべ〕りける。度々〔たびたび〕かくありて、ある時、かき消つやうに、失せ給〔たま〕ひにけり。心の及ぶほど尋ねけれども、さらにえ遇ふこともなくて、月ごろになりぬ。さてしもあるべきならねば、皆思ひ思ひに散りにけり。
かかるほどに、ある弟子、なすべきことありて、市〔いち〕に出〔い〕でて侍りければ、あやしの薦〔こも〕引きまはしたる中に、人あるけしきして、前に異〔こと〕やうなるもの差し出だして、食ひ物の端々〔はしばし〕受け集めて置きたる、ありけり。「いか筋の人ならむ」と、さすがゆかしくて、さし寄りて見たれば、行方〔ゆくへ〕なくなしてし我が師にておはしける。「あな、あさまし。もの騒がしきとのたまはせしうへに、かきくらし給ひてし後〔のち〕は、ふつに、世の中に交じらひていまそかるらんと、思はざりつるを」と言ひければ、「もとの住処〔すみか〕のもの騒がしかりしが、このほどはいみじくのどかにて、思ひしよりも心も澄みまさりて侍るなり。そこたちを育〔はぐく〕み聞こえんとて、とかく思ひめぐらしし心のうちのもの騒がしさ、ただ推し量り給ふべし。この市の中はかやうにて、あやしの物、差し出だして待ち侍れば、食ひ物おのづから出で来て、さらに乏〔とも〕しきことなし。心散る方〔かた〕なくて、ひとすぢにいみじく侍り。また、頭〔かうべ〕に雪をいただきて世の中を走〔わし〕る類〔たぐひ〕あり。また、目の前に偽りを構へて、悔〔くや〕しかるべき後〔のち〕の世を忘れたる人あり。これらを見るに、悲しみの涙、掻き尽くすべき方なし。観念たよりあり。心静かなり。いみじかりける所なり」とぞ、侍りける。弟子も涙に沈み、聞く人もさくりもよよと泣きけるとなん。
その跡とかや、北小路〔きたこうぢ〕猪熊〔いのくま〕に石の卒塔婆〔そとば〕の侍るめるは、いにしへはそこに市の立ちけるに侍る。あるいは、その卒塔婆は玄ム〔げんばう〕法師のために空也上人の建て給へりけるとも申し侍るにや。まことにあまたの人育まんとたしなみ給ひけむ、さこそはと思ひやられ侍り。
あはれ、この世の中の人々の、いとなくとも事欠くまじきものゆゑに、あまた居〔ゐ〕まはりたるを、いみじきことに思ひて、これがためにさまざまの心を乱ること、はかなくも侍るかな。命の数満ち果てて、ひとり中有〔ちゅうう〕の旅に赴かん時、誰〔たれ〕か随〔したが〕ひとぶらふ者あらん。すみやかにこの空也上人のかしこきはからひに従ひて、身は錦〔にしき〕の帳〔とばり〕の中にありとも、心には市の中に交〔まじ〕はる思ひをなすべきなめり。<以下略> 『閑居友』上・四
〔訳例〕
昔、空也上人が山の中にいらっしゃったけれども、普段、「ああなにやら騒がしいなあ」とおっしゃったので、大勢いた弟子どもも、静かにしておりました。度々このようにあって、ある時、さっと消すように、いなくなりなさってしまった。想像のつく範囲を探したけれども、まったく出会うこともできなくて数ヶ月になってしまった。そのままでいるのがよいことでないので、皆、思い思いに散らばってしまった。
こうしているうちに、ある弟子が、用事があって、市場に出ておりましたところ、むさ苦しい薦〔こも〕をぐるりに張った中に、人がいる様子がして、前に風変わりな物を差し出して、食べ物の端々を受け集めて置いているのが、いた。「どういう関係の人であるのだろう」と、そうはいうものの心ひかれて、近付いて見ていると、行く方知れずになってしまった自分の師匠でいらっしゃった。「ああ、驚いた。なにやら騒がしいことだとおっしゃったうえに、さっと姿をくらましなさってしまった後は、まったく、俗世間の中にいらっしゃっているだろうと、思わなかったなあ」と言ったので、「もとの住居がなにやら騒がしかったけれども、この辺りはとてものどかで、予想したよりも心もいっそう迷いがなくなっておりますのである。あなたたちをお育て申し上げようと思って、あれこれ考えた心の中のなにやら騒がしい感じは、ただただ推測なさるのがよい。この市場の中はこのようであって、妙な物を差し出して待っておりますと、食い物が自然と出て来て、まったく食物の足りないことがない。気持ちが散ることがなくて、ひたすらとてもすばらしいです。また、頭に雪〔:白髪〕を載せて世の中を奔走する人々がいる。また、目の前に偽りを構えて、後悔するに違いない後世の報いを忘れている人がいる。これらを見ると、悲しみの涙をすっかりなくすことができるすべがない。観想に都合がよい。心は静かである。とてもすばらしかった所である」とお言葉がございました。弟子も涙をひどく流し、聞く人もしゃくり上げておいおいと泣いたと。
その跡とか、北小路猪熊〔:平安京の東市の中央〕に石の卒塔婆がございますようであるのは、昔はそこに市の立ったのでございます。あるいは、その卒塔婆は玄ム法師のために空也上人のお立てになっていたとも申しますのだろうか。ほんとうに大勢の人を育てようと気配りなさったということは、さぞかし大変だっただろうと自然と想像されます。
ああ、この世の中の師たる僧たちが、あれこれ忙しくても物に不自由するはずもないので、大勢弟子が取り囲んでいるのを、とてもすばらしいことに思って、弟子のためにさまざまに心を乱すことは、つまらなくもございますなあ。命の数がすっかり満ちて、一人で中有の旅〔:冥土の旅〕に赴くだろう時、誰が付き従い世話をする者がいるだろうか。すぐさまこの空也上人の優れた判断を見習って、身体は錦の帳の中にあっても、心には市場の中に入り交じる思いをなすべきであるようだ。<以下略>
〔解説〕
空也〔くうや:九〇三〜九七二〕は、平安中期の僧、念仏を広め、浄土教の普及に貢献しました。六波羅蜜寺に伝わる空也上人像が有名です。
「ものさわがし」は「なにやら騒がしい」と訳してあります。弟子たちは、声や物音が大きくてうるさいと理解したようです。「慎みてぞ侍りける」は、音を立てずに静かにしていたということでしょう。でも、「そこたちを育み聞こえんとて、とかく思ひめぐらしし心のうちのものさわがしさ」という空也の言葉を読むと、「心が落ち着かない」という意味であったことが分かります。市場はとても騒がしい所ですが、「このほどはいみじくのどかにて、思ひしよりも心も澄みまさりて侍るなり」という言葉から、空也が心の静かさを求めていたことがよく分かります。確かに、現在の都会の雑踏、特に地下街の多くの人が行き来する所は、誰にも邪魔されないという面で、心の静かさを得ることができる場所と言うことができるでしょう。空也上人でさえも、誰にも邪魔されない場所、チャンネルがまったく異なる場所というのが必要だったようです。
「観念たよりあり」は、注釈に従って、「観想に都合がよい」と訳しておきました。反面教師としての市場の人々を目にして、空也は極楽浄土のありさまを思い描いているのでしょう。この話を読んでいて驚くのは、「聞く人もさくりもよよと泣きける」という一文です。「聞く人」というのは市場で商売している人、たまたまその場に居合わせた人でしょう。その人たちが空也の言葉を聞いて、声を上げて泣いたということです。普通の人が、「観念たよりあり。心静かなり」という空也の言葉を聞いて、ともに感動し涙を流すということは、今ではとてもありえないことですが、時代のこのような思潮が、空也が生きていた時代なのか、『閑居友』が書かれた時代なのかは判断が付きかねますが、確かにあったことが分かります。僧侶ではない普通の人も、相当高いレベルで心の静かさを求め、また、極楽往生を願っていたのでしょう。
「身は錦の帳の中にありとも、心には市の中に交はる思ひをなすべきなめり」は、この『閑居友』の読者であろう高貴な女性を意識した言葉です。
■14話 『撰集抄』五・七 
西山の聖の話です。
〔本文〕
近ごろ、西山の麓〔ふもと〕に、形〔かた〕のごとくの庵〔いほり〕結びて、ただ独り居〔ゐ〕たる僧、侍〔はべ〕り。身にまとふ麻の衣〔ころも〕のほかは、本尊〔ほんぞん〕持経〔ぢきゃう〕よりほかは、持〔もた〕る物なければ、夢にも人の主〔ぬし〕に知られで、犯すたづきも侍らず。法文〔ほふもん〕を知れるよしを示さざれば、おのづから尋ねけるわざもなく、いづくの人と知られねば、語らひ寄る類〔たぐひ〕もなし。いかにしてかは露の命をも支へけむと、いとどおぼつかなくて侍り。
このこと、世の中にかかる僧侍りと沙汰〔さた〕し侍りけるを、徳大寺〔とくだいじ〕の大臣〔おとど〕の、「いでや、いかなる僧ぞ。召せ」とて、召さるるに、御返事〔かへりごと〕をだにも申されざりければ、御使あやなくおぼえて、このよしを申すに、「いかさまにもやうあり。ただ召して参れ」とて、重ねて人を遣〔つかは〕されけるに、この住処〔すみか〕をば引きたてて、跡形〔あとかた〕なくぞなりにける。さても、戸の内を開きて見れば、側〔そば〕の板にかく、
過ぎ行きし方〔かた〕も悔しき柴の庵〔いほ〕を わが住処〔すみか〕とてなに手折〔たを〕りけん
と書きつけて、跡形なく見えず。
この歌の心をおろおろ心得るに、この聖〔ひじり〕は、この庵〔いほり〕を我がためとて手折りけむを悔〔く〕ゆるなるべし。すべてなにも持〔もた〕らざるに、よしなきかりそめの宿を結びおきて、我が身をここに置くゆゑに、心にもあらぬことを聞くことのむつかしさよと詠むにや。この人、いかに心の澄みていまそかりけむ。なにもなく、なにとてか露ばかりの執〔しふ〕もとまるべき。山深く住みて、心に執だにも侍らずは、などてか澄まざるべき。
心の乱るるは、妻子珍宝のためなり。これを見ては貪〔とん〕し、かれを見ては嗔恨〔しんこん〕すれば、心やや乱れて、まことの悟りは発〔おこ〕らぬとかや。それに、わが身のほかには物を持たで、わづかの住処をさへ悔〔くや〕しむほどの心ばせ、げに、さぞ潔〔いさぎ〕よかりけむ。げにげにうらやましくぞ侍る。
さてもこの人は、また柴の庵をも結びていませじ。なにの山の峰、いかなる野のほとりにかいまして、本意のごとくおはしけんと、過ぎし方〔かた〕いとどゆかしくぞ侍る。あはれ、近きほどのことにて侍れば、さすが世の中は天〔あめ〕より外〔ほか〕の下〔した〕はあらじなれば、広く尋ねて、いささかの縁をも結びなんとおぼえてこそ。『撰集抄』五・七
〔訳例〕
近ごろ、京の西山の麓に、型どおりの庵を結んで、たった一人住んでいる僧がおります。身体にまとう粗末な衣のほかは、本尊〔:個人が信仰の対象とする仏〕や持経〔:常に手元に置いて読誦する経文〕より以外は、持っている物がないので、少しも人の主人に知られずに、仏の戒めを犯す手掛かりなる物もございません。法文〔:仏の教えを記した文章〕を理解しているそぶりを見せなかったので、たまたま人が訪ねて来たこともなく、どこの人とも分からないので、親しく話をしに来る仲間もいない。どのようにして露のようにはかない命をもつないだのだろうと、ますますよく知りとうございます。
このこと、世の中にこのような僧がおりますと噂が広まりましたのを、徳大寺の大臣が、「さてさて、どのような僧か。呼びつけろ」ということで、お呼びになると、お返事をさえも申し上げなさらなかったので、使者はわけが分からなく感じられて、この旨を申し上げると、「どう見てもわけがある。ともかく呼びつけて参れ」ということで、重ねて人をおやりになったところ、この住居の戸を閉めて、その人のいた跡形もなくなってしまった。それでも、戸の内を開いてみると、横の板に、
過ぎ去ったことも後悔されるよ。粗末な庵を 自分の住居としてどうして結んだのだろう。
と書き付けて、跡形もなく姿も見えない。
この歌の趣旨を不十分ながら解釈すると、この聖は、この庵を自分のためにということで結んだということを後悔しているのであるに違いない。まったくなにも持っていないのに、簡単な仮初〔かりそ〕めの庵を結んで置いて、自分の身体をここに置くことがもとで、心にもないことを聞くことの煩わしさよと詠んでいるのだろうか。この人は、どんなにか心が澄んでいらっしゃったのだろう。なにも持たずに、どうして露ほどの執着の心も生まれるはずがあろうか。山深く住んで、心にせめて執着の思いだけでもございませんならば、どうして澄まないはずがあろうか。
心が乱れるのは、妻子や珍宝のためである。これを見ては欲しがり、あれを見ては羨むので、心は次第に乱れて、本物の悟りは得られないとか。それなのに、自分の身体以外に物を持たずに、ささやかな住居をまでも後悔するほどの心構えは、本当に、さぞかし潔かっただろう。まことにまことにうらやましいです。
それにしてもこの人は、ふたたび粗末な庵をも結んでいらっしゃらないだろう。どういう山の峰、どのような野のほとりにいらっしゃって、望みのとおりにいらっしゃったのだろうかと、昔がますます心ひかれます。ああ、最近のことでございますので、そうはいうものの世の中は空の下より他はないだろうということであるから、どこまでも探して、少しの縁をも結ぼうと思われて。
〔解説〕
本文には分かりにくい箇所があちこちにありますが、入試問題で繰り返し取り上げられているのは、やはり、内容に魅力があるからでしょう。
私の邪魔をしないでくださいと、この聖は庵から出て行ってしまったのですね。徳大寺の大臣とかいう偉い人は、藤原実能〔さねよし:一〇九六〜一一五七〕だろうと注釈があります。この人は鳥羽天皇皇后の璋子の兄です。そういう偉い人に呼び出されて、なんだかんだと煩わしいことがあるのが嫌だったのでしょう。「心の乱るるは、妻子珍宝のためなり」と、『撰集抄』の筆者は言っていますが、これ以外に、心の乱れるもとは、「こんな話13」のような弟子であったり、この話のような偉い人であったり、いろいろあるわけです。『古今和歌集』には、「世を捨てて山に入〔い〕る人山にてもなほ憂き時はいづち行くらむ(世を捨てて山に入る人は、山でもつらい時はどこへ行くのだろう)」という歌がありますが、そういう煩わしいことから心の静かさを守るために逃げ出してしまうというのは、「山にてもなほ憂き時」の解決の一つの方法だったのでしょう。出家そのものが、人とのつながりの煩わしさを絶つことであるわけですが、出家してからも、いろいろと煩わしいつながりがあったということです。逃げるが勝ちということでしょう。
■15話 『撰集抄』七・一五 
次は伊勢の国の山中の尼の話です。
〔本文〕
近きころ、伊勢の国に、ある山中に、柴の庵〔いほり〕結びて、尼の痩せ衰へて、顔より始めて手足まことに汚き尼の、涙を流して念仏する、侍〔はべ〕り。「深く思ひ入れらん人とは見ゆれども、あまりに顔より始めて汚くおはするはいかに。さまではあらじはや」と人々言ひければ、「さうなり。さぞ汚く思〔おぼ〕すらん。されど、思ひ給〔たま〕ふるは、女身〔にょしん〕なんどは、様〔さま〕もなだらかならば、そぞろなること言ひて、本意ならぬことも侍るべし。されば、わざと身をやつすに侍り。常に涙のこぼるることは、生死〔しゃうじ〕の恐ろしさに、いかがおぼえて、泣かるるに侍り」と言ひけり。まことに、夜昼念仏の声怠ること侍らねば、人々も「まことの後世者〔ごせしゃ〕にこそ」とて尊〔たふと〕みて、形〔かた〕のごとくの命を支〔ささ〕ゆるわざをば、里の人々とぶらひ聞こえけり。
ある時、尼の言ふやう、「ちと人にも知られで、避〔さ〕りがたき人の来〔きた〕りて、庵の有様をも見むと申せば、入れ聞こえむと思ひて侍り。今五日はゆめゆめ誰々〔たれたれ〕にも差しな入り給ひそ」と言ひければ、「さればこそ。女は心憂〔こころう〕きものにてありけるぞ。後世〔ごせ〕の者と思ひたるは、夫やらん、人にも知られで入るべき人のありと言ふことよ」とて、あさみあへり。しかれど、約束のままに五日は行きもせず。四日までは念仏の聞こえけれど、五日の暁〔あかつき〕より念仏の声絶えければ、人々怪しみて行きて見るに、西に向きて手を合はせて、引き入りにけり。日ごろの本意のごとく、まことの往生を遂げにけり。
かやうの際〔きは〕の人は、後世〔ごせ〕のこと、心に掛くることは侍らぬに、思ひ取りけむ心、いといとありがたくぞ侍りし。阿弥陀仏の御誓ひは、さらに偏頗〔へんぱ〕は侍らず。ただ我を頼まむ人を救はむと誓ひ給へり。されば、なにとてかこの尼の往生を遂げざるべき。生死を思ひて涙を流し、弥陀〔みだ〕を信じて宝号〔ほうがう〕を怠り侍らざりけむこと、げにげにゆゆしき心とぞおぼえ侍りし。これを聞くにも、さても最後臨終のありさま思ひ出〔い〕でられて、そぞろに汗あえてぞ侍る。<以下略> 『撰集抄』七・一五
〔訳例〕
近ごろ、伊勢の国に、ある山中に、粗末な庵を結んで、尼のやせ衰えて、顔からはじめて手足が実に汚い尼の、涙を流して念仏するのが、おります。「極楽往生を深く一途に思っているような人とは思われるけれども、あまりに顔からはじめて汚くいらっしゃるのはどうして。そうまですることはないだろうなあ」と人々が言ったので、「そうである。さぞかし汚くお思いになっているだろう。けれども、思いますことは、女の身などは、容姿もそこそこであったならば、男が思いがけないことを言い寄って、不本意なこともありますに違いない。だから、わざわざ身なりを汚らしくするのでございます。常に涙がこぼれることは、死の恐ろしさで、どのようになるのだろうと思われて、泣かずにはいられないのでございます」といった。本当に、夜昼念仏の声が休むことがございませんので、人々も「本当の極楽往生を願う者であるのだろう」と思って尊んで、型どおりの命を支えることを、里の人々が世話をし申し上げた。
ある時、尼が言うことは、「ちょっと誰にも知られずに、断わることができない人がやって来て、庵の様子をも見ようと申しますので、お入れ申し上げようと思っております。あと五日は決して決して、誰も誰も中にお入りになってはいけません」と言ったので、「思ったとおりだ。女は嫌なものであったよ。極楽往生を願う者と思ったのは、夫だろうか、誰にも知られずに入れなければならない人がいると言うことよ」と言って、皆で軽蔑した。そうであるけれども、約束のとおりに五日は行きもしない。四日までは念仏が聞こえたけれども、五日の明け方から念仏の声が途絶えたので、人々は不思議に思って行って見ると、西方浄土に向いて手を合わせて、息を引き取ってしまった。日頃の念願のとおりに、本当の往生を成し遂げてしまった。
このような身分の人は、極楽往生のことを心に留めることはございませんのに、こうと決めたという心は、まったくまったく滅多になくございました。阿弥陀仏の御誓願は、まったく偏りはございません。ただ自分を頼りにするだろう人を救おうと誓いをなさった。だから、どうしてこの尼が往生を成し遂げないことがあるはずか。死ぬことの恐ろしさを考えて涙を流し、阿弥陀仏を信じて阿弥陀仏の名号を怠らなかったでしょうことは、本当に本当にすばらしい心と思われました。これを聞くにつけても、やはり最後臨終の様子が自然と思い出されて、やたらに汗がにじみ出ております。<以下略>
〔解説〕
泥んこの僧は「こんな話6」でも出て来ましたが、この話では尼です。女の身の上として、男から言い寄られるなど、いろいろあるわけですが、そういう煩わしいことから離れて極楽往生したいために、わざと泥んこにしていたということです。これだけでも、すごいことなのですが、さらに注目しなければならないのは、「ちと人にも知られで」以下の言葉が、実は、嘘であったということです。里の人々は、内緒で夫がいたのだと理解したのですが、わざと里の人々に軽蔑されて、人々が近づかないようにしておいて、心静かに極楽往生しようとしたのでしょう。偽善ではなく、「偽悪」です。そうまでして、誰にも煩わされない心の静かさを求めたのでしょう。
それにしても、この時代の人も「汗」なんですね。
■16話 『閑居友』上・一二 
近江の国の石塔寺の僧の話です。
〔本文〕
中ごろ、近江〔あふみ〕の国、石塔〔いしだう〕といふ所に僧ありけり。年半ばに余りて、世を厭ふ心なん深く侍〔はべ〕りける。さて、日に添えては、人に肩を並ぶることなど飽〔あ〕きたく侍りければ、寺の交じらひを離れんと思ひて、暇〔いとま〕を乞ひけれど、人々惜しみて許さず。
さて、この人、いみじく思ひ嘆きて日ごろを経〔ふ〕ふるほどに、そこ近く、所の長〔をさ〕なる男の身罷〔みまか〕れる、ありけり。その跡に常に行きて、ある時は縁〔えん〕の上〔うへ〕に夜を明かし、ある時は昼忍びに来て、立ち帰ることもありけり。かかりければ、この主〔あるじ〕の女は、「日ごろも心発〔おこ〕したる人と聞くに、合はせで、心の色をも増さんとするよな。あはれなるべき心の中の情けかな」と思ひをり。
さて、度〔たび〕重なりければ、人々、「あやしのわざや」など言ひけり。ある人は、「罪の得ること、な聞こえ給〔たま〕ひそ。我におきては承け引かず。かかること聞かじ」など、もて離るる者もあり。かくて月ごろを送るほどに、げにただことともおぼえずありければ、あまねくこの筋がちに言ひなりにけり。
さて、「この寺には、さやうの聞こえある人はなし」とて、房〔ばう〕切り、さまざまに恥がましきことありて、追ひ出〔い〕だしつ。この人、「年ごろありつきて、離れまうく侍れど、今はさらに甲斐なし」とて、出でぬ。さて、はるかなる所にあやしの庵〔いほり〕結びて、ただ一人居〔を〕りけり。さて、この女伝へ聞きて、わび嘆くこと限りなけれども、いまだこまやかなる対面もせねば、嘆くにも便りなし。また、人伝てに聞こえさすべきことにもあらねば、さてのみ日を送る。
さて、その後は、この人、ふつとこの家に寄り来ることなし。夜昼を分かず念仏を申す。常には道場〔だうぢゃう〕に居て、西に向ひて定印〔ぢゃういん〕を結びて、観念をしけり。食ひ物などは、人の情をかくる時はそれをなん日を送るはかりことにしける。また、おのづから絶え間などのある時は、里に出でて乞ふこともありけり。かくてあまたの年を経〔へ〕ぬ。
さて、ある時、この女の家に来て、「見参〔げんざん〕すべきことあり」と言ひけり。あやしく、なにごとならんとて、急ぎて会ひたれば、「いかにも世を遁るることを思ひ扱ひて侍りしに、そこの御徳に、年ごろの本意をなん遂げて侍り。今、極楽に参らんずることの近く侍れば、その悦び申さむとてなん、詣で来たる」と言ひて出でぬ。
さて、七月七日、草のとざし静かにして、ひそかに息絶えにけり。その時、あやしき雲、空に見えければ、人々驚きて尋ぬるに、この人の隠れぬることを知りぬ。さて、七日が間〔あひだ〕、あまねく人に縁をなん結ばせける。いみじくありがたく侍りける心の内なるべし。
人の習ひには、いかになりはつるまでも、ほどに触れつつ、骨をば埋〔うづ〕むとも名を埋まじと思ひたんめるに、今この人のさま、いかでか仏も御覧じとがめず侍るべき。かやうにふつに身を捨て侍る人には、終はりの時、必ず目立たしきほどの瑞相〔ずいさう〕の侍るなんめり。なほなほあはれに侍り。『閑居友』上・一二
〔訳例〕
そう遠くない昔、近江の国、石塔という所に僧がいた。中年を過ぎて、俗世を嫌に思う心が深うございました。それで、日が経つにつれては、人と競うことなど飽き飽きでございましたので、寺の交際から離れようと思って、暇乞いをするけれども、人々は惜しんで認めない。
それで、この人は、ひどく悲しんで毎日を過ごすうちに、そこの近くの、土地の長である男の亡くなったのが、いた。その男の住んでいた所に常に行って、ある時は縁の上で夜を明かし、ある時は昼間こっそりと来て、立ち帰ることもあった。こうであるので、この亡くなった男の妻は、「日頃も仏道心を発〔おこ〕した人と聞くけれども、私と顔を合わせずに、亡き人への深い思いをも増そうとするのだな。心打たれるに違いない心の中の情けだなあ」と思っている。
そうして、度重なったので、人々は、「疑わしいことだ」など言った。ある人は、「罪を得ることを、申し上げなさってはいけない。私においては承知しない。このようなことは聞きたくない」など、取り合わない者もいる。こうして数ヶ月を送るうちに、確かに尋常なこととも思われなかったので、どこもかしこもこちらの方〔:邪淫戒を犯している〕に多く言うようになってしまった。
それで、「この寺には、そのような噂のある人はいない」ということで、僧坊を破壊し、さまざまに恥ずかしいことがあって、追い出してしまった。この人は、「長年住み着いて、離れがたくございますけれども、今となっては仕方がない」と言って、出て行った。そして、遠く離れた所に粗末な庵を結んで、たった一人で住んでいた。そして、この女は伝え聞いて、悲しむことは限りないけれども、いまだに親密な対面もしないので、悲しむにも心もとない。また、人伝てに申し上げるのがふさわしいことでもないので、そのままで日を送る。
そして、その後は、この人は、ばったりとこの家にやって来ることがない。昼夜を区別せず念仏を唱え申し上げる。普段は道場〔:修行をする室〕にいて、西に向かって定印〔:密教で瞑想状態に入ったことを示す手の形〕を結んで、観想をした。食べ物などは、人が情けをかける時は、それを日を暮らす手立てとした。また、たまたま食物がない時などがあるときは、里に出て乞食〔こつじき〕をすることもあった。こうしてたくさんの年を過ごした。
そして、ある時、この女の家に来て、「お目にかからなければならないことがある」と言った。不思議で、どういうことだろうと、急いで会ったところ、「どのようにも俗世を捨てることができずに困っておりました時に、あなたのお力で、長年の念願をかなえております。今、極楽に参上するだろうことが近うございますので、そのお礼を申し上げようと思って、やって来ました」と言って、出て行った。
そして、七月七日、草の戸が静かで、静かに息が絶えてしまった。その時、不思議な雲が空に見えたのので、人々が驚いて探すと、この人の亡くなったことが分かった。そして、七日の間、広く人々に結縁〔けちえん〕させた。ほんとうにめったにないほどでございました心の内であるに違いない。
人の習いとして、どのようになってしまうまでも、身のほどに応じて、骨は埋めても名前は埋めないようにしようと思っているようであるのに、今この人のありさまは、どうして仏も御覧になって心を留めなさらないはずがありましょうか。このようにきっぱりと我が身を顧みない人には、臨終の時、必ず顕著なくらいの瑞相がございますのであるようだ。なんといってもやはり心打たれます。
〔解説〕
石塔寺〔いしどうじ〕は、滋賀県東近江市にある寺院です。
本文には分かりにくい箇所があちこちにありますが、「心の静かさ」という視点で整理すると、この僧、出家したとはいえ、「人に肩を並ぶることなど」とあるような、ほかの僧と競いあうような僧侶のあり方に心が乱されて、それにうんざりしていたようです。「あきたし」は「飽き甚〔いた〕し」で、飽き飽きしてうんざりに思う心情を言います。寺院での僧侶としての付き合いをやめて、寺を離れようとしますが、認めてもらえません。
たまたま近くで、「所の長なる男」が亡くなって、弔問という形で毎日訪れていたのですが、後に残された、亡くなった男の妻との関係で噂が立ち、「邪淫戒を犯している」と言われるまでになりますが、「こんな話15」の尼がわざと「男が訪ねて来る」と受け取られることを言ったように、これは「偽悪」で、悪い噂が立つことをねらって、毎日のように通っていたのでしょう。
僧はとうとう寺院から追放されてしまいます。しかし、これは、僧としては、願ったりかなったりです。この「心の静かさ」の流れで判断すれば、これはこの僧の意図したこと、ねらっていたことでしょう。自分から出て行くよりは、追放される方がなにかと都合がよいのは、理解できます。「年ごろありつきて、離れまうく侍れど、今はさらに甲斐なし」という僧の言葉は、言ってみれば、演技でしょう。「まうし」は、「〜したくない」意を表わす助動詞です。助動詞「まほし」からの連想で作られたのだろうと言われています。
その後、庵を結んで仏道修行をし、「こんな話15」の尼と同じように自分の亡くなる時期を察した僧は、この妻に挨拶にやって来ます。「そこの御徳に、年ごろの本意をなん遂げて侍り」とは、あなたのお蔭で、念願かなって、心静かに修行の日々が送れていますということです。その後、この僧は心静かに極楽往生を遂げています。
この時代の人たちは、これほどまでのことをして、心の静かさを求め、極楽往生を願っていたことが分かります。
この僧が亡くなる時、「あやしき雲、空に見えけれ」とありますが、これは「来迎〔らいごう〕」の雲で、「来迎」とは阿弥陀仏を深く信じて念仏を唱える人が亡くなる時に、極楽から阿弥陀仏や菩薩が雲に乗って迎えに来ることです。空から花が散り、よい香りがし、妙なる音楽が聞こえると言われています。つまり、この僧は極楽往生したということです。
参考として京都知恩院蔵の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を参照してください。画面右下の建物の中で合掌している人が念仏行者で、この行者を迎えに阿弥陀如来がいろいろな菩薩と一緒にやって来たところです。画面中央上が阿弥陀如来です。
「あまねく人に縁をなん結ばせける」とあるのは、「結縁〔けちえん〕」をさせたということです。「結縁」とは、仏道に入る縁を結ぶことですが、ここでは極楽往生したこの僧にあやかりましょうと、皆で拝みなどしたのでしょう。
■17話 『十訓抄』七・一 
いろいろな話を読んでみましょう。最初は、空を飛ぼうとした河内の国の金剛寺の僧の話です。
〔本文〕
河内〔かはち〕の国、金剛寺〔こんがうじ〕とかやいふ山寺に侍〔はべ〕りける僧の、「松の葉を食ふ人は、五穀〔ごこく〕を食はねども苦しみなし。よく食ひおほせつれば、仙人ともなりて、飛びありく」と言ふ人ありけるを聞きて、松の葉を好み食ふ。まことに食ひやおほせたりけむ、五穀の類〔たぐひ〕食ひ退〔の〕きて、やうやう両三年〔りゃうさんねん〕になりにけるに、げにも身も軽くなる心地しければ、弟子などにも、「我は仙人になりなむとするなり」と、常は言ひて、「今々」とて、うちうちにて身を飛び習ひけり。
「すでに飛びて、登りなむ」と言ひて、坊〔ばう〕も何も弟子どもに分け譲りて、「登りなば、仙衣〔せんい〕を着るべし」とて、形〔かた〕のごとく腰に物を一重〔ひとへ〕巻きて出〔い〕で立つに、「わが身にはこれよりほかは、要るべきものなし」とて、年ごろ、秘蔵して持ちたりける水瓶〔すいびゃう〕ばかりを腰に着けて、すでに出でけり。弟子、同朋〔どうぼう〕、名残惜しみ悲しぶ。聞き及ぶ人、遠近〔をちこち〕、市〔いち〕のごとくに集まりて、「仙に登る人、見む」とて、集〔つど〕ひたりけるに、この僧、片山〔かたやま〕の岨〔そば〕にさし出でたる巌〔いはほ〕の上に登りぬ。
「一度〔ひとたび〕に空へ登りなむと思へども、近くまづ遊びて、ことのさま、人々に見せ奉〔たてまつ〕らむ」とて、「かの巌の上より、下に生〔お〕ひたりける松の枝に居〔ゐ〕て遊ばむ」とて、谷より生ひ上がりたる松の上、四五丈〔ぢゃう〕ばかりありけるを、下〔さ〕げざまに飛ぶ。人々、目を澄まし、あはれを浮べたるに、いかがしつらむ、心や臆〔おく〕したりけむ、かねて思ひしよりも、身〔み〕重く、力〔ちから〕浮き浮きとして弱りにければ、飛びはづして、谷へ落ち入りぬ。人々、あさましく見れども、「これほどのことなれば、やうあらむ。さだめて飛び上〔あ〕がらむずらむ」と見るほどに、谷の底の巌に当たりて水瓶も割れ、またわが身も散々〔さんざん〕打ち損〔そん〕じて、ただ死にしたれば、弟子、眷属〔けんぞく〕、騒ぎ寄りて、「いかに」と問へど、いらへもせず。わづかに息のかよふばかりなりけれど、とかうして坊へ掻き入れつ。ここに集まれる人、笑ひののしりて帰り散りぬ。
さて、この僧、あるにもあらぬやうにて病み臥せり。とかく言ふばかりなくて、弟子も恥づかしながら、扱ふあひだ、松の葉ばかりにては命生〔い〕くべくも見えねば、年ごろ、いみじく食ひ退〔の〕きたる五穀をもてさまざま労〔いたは〕り養へば、命ばかりは生〔い〕けれども、足手腰もうち折れて、起き居もえせず。今は松の葉、食ふにも及ばず。もとのごとく五穀むさぼり食ひて、弟子どもにゆゆしく譲りたりし坊も宝も取り返して、かがまり居〔ゐ〕たり。
仙道に至る人、たやすからぬことなり。文集〔もんじふ〕には、「いやしくも金骨〔きんこつ〕の相〔さう〕なくは、丹台〔たんだい〕の名を期〔ご〕しがたし」とこそ書かれて侍〔はべ〕るなれ。ただ松の葉を食ひ慣〔な〕らひたるばかりにて、さう深き谷へ向ひて飛びけるこそ、よく思ひ量〔はか〕りなけれ。
ただし、唐の玄宗〔げんそう〕の宮に、西王母〔せいわうぼ〕といふ仙女参りて、仙桃〔せんたう〕を七つ奉れりけるを、「この種を、わが宮に移さむと思ふ」とのたまはせたりければ、王母うち笑ひて、「天上の菓〔くわ〕、人間〔じんかん〕に留〔とど〕まりがたくや」と申して、はかなげに思ひ奉〔たてまつ〕りけり。帝〔みかど〕だにも、かくおろかにおはしましければ、まして、この僧、仙を得たりと思ひて、未得謂得〔みとくゐとく〕の心、幼かりけるもことわりなり。『十訓抄』七・一
〔訳例〕
河内の国、金剛寺とかいう山寺におりました僧が、「松の葉を食べる人は、五穀〔:米・麦・キビ・アワ・豆〕を食べなくても苦しみがない。十分に食べきると、仙人ともなって、飛びまわる」と言う人がいたのを聞いて、松の葉を好んで食べる。本当に食べきっていたのだろうか、五穀の類を食べるのをやめて、だんだんと二三年になってしまった時に、確かに身体も軽くなる気持ちしたので、弟子どもにも、「私は仙人になってしまおうとするのである」と、普段は言って、「すぐにすぐに」と、内緒で飛ぶ練習をした。
「もう飛んで、空に登ってしまおう」と言って、僧坊も何も弟子どもに分け譲って、「空に登ってしまったならば、仙人の衣を着なければならない」ということで、型どおりに腰に布を一枚巻き付けて身支度をすると、「我が身にはこれよりほかは必要な物はない」と言って、長年、大事に持っていた水瓶だけを腰に着けて、はやくも出掛けた。弟子や友人は、名残を惜しみ悲しむ。聞きつけた人は、あちこちから市のように集まって、「仙人として登る人を見よう」ということで、集まっていたところ、この僧は、片方が崖になっている山の突き出している岩の上に登った。
「一度に空へ登ってしまおうと思うけれども、近くでまずは飛びまわって、様子を人々にお見せ申し上げよう」ということで、「あの岩の上から、下に生えていた松の枝に降りて飛びまわろう」と思って、谷から上に伸びている松の、高さが四五丈〔:12mから15m〕ほどあったのに向かって、下向きに飛ぶ。人々、目を凝らし、感動の表情を浮かべている時に、どうしたのだろう、気後れしていたのだろうか。前もって思ったよりも身体が重く、力がふわふわとして弱わってしまったので、飛び損なって谷へ落ち込んでしまった。人々、驚きあきれて見るけれども、「これほどのことであるので、わけがあるのだろう。きっと飛び上がるだろう」と思って見るうちに、谷の底の岩に当たって水瓶も割れ、また我が身もさんざんに痛めて、ただもう気絶してしまったので、弟子や、従者は、慌てて近寄って、「大丈夫か」と尋ねるけれども、返事もしない。やっと息ができるほどであったけれども、あれこれして僧坊へ担ぎ入れた。ここに集まった人は、大笑いをして散り散りに帰った。
そして、この僧は、生きていても生きていないようで、病んで床についている。あれこれ言うほどもなくて、弟子も恥ずかしいけれども、看病するうちに、松の葉だけでは命が持ちそうにも見えないので、長年、ひたすら食べるのを避けている五穀を用いてさまざまに看病し世話をするので、命ばかりは取り留めたけれども、足や手、腰も折れて、起きたり座ったりもできない。今は、松の葉を食べることもなく、もとのとおりに五穀をがつがつ食べて、弟子どもにたいそう立派に譲っていた僧坊も宝物も取り返して、うずくまっていた。
仙人の道にたどり着く人は、容易ではないことである。『白氏文集〔はくしもんじゅう:中国唐の白居易の詩文集〕』には、「かりにも金骨〔:凡俗を脱した様子〕の人相がないならば、丹台〔:仙人の住む所〕に名を連ねることは期待できない」と書かれておりますということだ。ただ松の葉を食べ慣れているだけで、そのように深い谷へ向かって飛んだのは、本当に思慮分別がない。
ただし、唐の玄宗皇帝の宮廷に、西王母という仙女が参上して、仙界の桃を七つ献上していたのを、「この種を、私の宮廷に移し植えようと思う」とおっしゃっていたところ、西王母は笑い声を立てて、「天上の果物が、人間世界に留まることは難しいか」と申しあげて、つまらないことを言うと思い申し上げた。帝さえも、このように愚かでいらっしゃったので、まして、この僧が、仙人になれたと思って、出来ていないのに出来たと思った心が、愚かであったのももっともである。
〔解説〕
『十訓抄』は十の教訓を立てて、その教訓に沿った説話を集めた説話集です。巻七は「思慮を専らにすべき事」という教訓であるので、この説話では、「思ひはかりなけれ」「未得謂得の心、幼かりける」と、この金剛寺の僧が思慮分別に欠けていたことが強調されています。
すでに仙人の域に達したと思い込んで、空を飛ぶところを見せようと思ったのは、言うまでもなく、思慮分別に欠けますが、一方で、この金剛寺の僧は、五穀を断つと空を飛べるんだと聞いて、こうと思い込んだらもうそのまま一直線という、とても人のよい、純真な人という印象があります。弟子たちに譲った僧坊や宝物を取り返すところなど、自分の気持ちのままに行動しています。今まで「仏教説話を読もう」で読んできた僧たちとはあきらかに一線を画す人物です。
僧が托鉢に持って歩く鉢を飛ばしたという話は、手近なところで『宇治拾遺物語』(一〇一・信濃の国の聖の事)、(一七二・寂昭上人飛鉢事)、(一七三・清滝川の聖の事)、『発心集』(四・二・浄蔵貴所鉢を飛ばす事)など、あちこちにあるようですが、本人が空を飛んだというのは『宇治拾遺物語』(一〇五・千手院僧正仙人に逢ふ事)の陽勝仙人、この人は十一歳で比叡山に登り、後に吉野に移って、修行を続けて、とうとう通力〔つうりき〕を得て、延喜元年仙人になったと伝えられています。年まで分かっているのがすばらしいです。
この話の金剛寺の僧は、修行が足りなかったのか、前世からの約束だったのか、通力を得ることができなかったようです。
■18話 『宇治拾遺物語』一三三 
桂川で入水〔じゅすい〕をする聖の話です。
〔本文〕
これも今は昔、桂川に身投げんずる聖〔ひじり〕とて、まづ祇陀林寺〔ぎだりんじ〕にして、百日懺法〔せんぽふ〕行ひければ、近き遠き者ども、道も避〔さ〕りあへず、拝みに行きちがふ女房車など隙〔ひま〕なし。見れば、三十余りばかりなる僧の、細やかなる目をも人に見合はせず、眠〔ねぶ〕り目にて、時々阿弥陀仏を申す。そのはざまは唇〔くちびる〕ばかりはたらくは、念仏なんめりと見ゆ。また、時々、そそと息を放つやうにして集〔つど〕ひたる者どもの顔を見渡せば、その目に見合はせんと、集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめきあひたり。
さて、すでにその日のつとめては堂へ入て、先にさし入たる僧ども、多く歩み続きたり。尻に雑役車〔ざふやくぐるま〕に、この僧は紙の衣〔ころも〕、袈裟〔けさ〕など着て、乗りたり。何と言ふにか、唇はたらく。人に目も見合はせずして、時々大息をぞ放つ。行く道に立ち並みたる見物の者ども、打ち撒〔ま〕きを霰〔あられ〕の降るやうに中道〔なかみち:意味未詳〕す。聖、「いかに、かく目鼻に入る、堪〔た〕へがたし。志あらば、紙袋などに入て、我居〔ゐ〕たりつる所へ送れ」と時々言ふ。これを無下〔むげ〕の者は、手をすりて拝む。少しものの心ある者は、「などかうはこの聖は言ふぞ。ただ今、水に入〔い〕りなんずるに、『きんだりへやれ。目鼻に入る、堪へがたし』など言ふこそ、あやしけれ」などささめく者もあり。
さて、やりもて行きて、七条の末〔すゑ〕にやり出〔い〕だしたれば、京よりはまさりて、入水〔じゅすい〕の聖拝まんとて、河原の石よりも多く人集ひたり。川端〔かはばた〕へ車やり寄せて立てれば、聖、「ただ今は何時〔なんどき〕ぞ」といふ。供なる僧ども、「申〔さる〕の下〔くだ〕りになり候〔さぶら〕ひにたり」と言ふ。「往生〔わうじゃう〕の刻限〔こくげん〕には、まだしかんなるは。今少し暮らせ」と言ふ。待ちかねて、遠くより来たる者は帰りなどして、河原、人少なになりぬ。これを見果てんと思ひたる者はなほ立てり。それが中に僧のあるが、「往生には刻限やは定むべき。心得ぬことかな」と言ふ。
とかく言ふほどに、この聖、たうさきにて、西に向ひて、川にざぶりと入るほどに、舟端〔ふなばた〕なる縄に足を掛けて、づぶりとも入らで、ひしめくほどに、弟子の聖、外〔はづ〕したれば、さかさまに入て、ごぶごぶとするを、男の川へ下〔お〕りくだりて「よく見ん」とて立てるが、この聖の手を取りて、引き上げたれば、左右の手して顔払ひて、くくみたる水を吐き捨てて、この引き上げたる男に向ひて、手をすりて、「広大〔くゎうだい〕の御恩蒙〔かうぶ〕り候〔さぶら〕ひぬ。この御恩は極楽にて申し候はむ」といひて、陸〔くが〕へ走り登るを、そこら集まりたる者ども、童部〔わらはべ〕、河原の石を取りて、撒〔ま〕きかくるやうに打つ。裸なる法師の、河原下〔くだ〕りに走るを、集ひたる者ども、受け取り受け取り打ちければ、頭〔かしら〕うち割られにけり。
この法師にやありけん、大和より瓜〔うり〕を人のもとへやりける文〔ふみ〕の上書〔うはが〕きに、「前〔さき〕の入水の上人〔しゃうにん〕」と書きたりけるとか。『宇治拾遺物語』一三三
〔訳例〕
これも今は昔、桂川に身を投げようとする聖ということで、先立って祇陀林寺〔:京都市上京区にあった寺〕で、百日懺法〔:百日間経を読誦して罪障を懺悔する法要〕を行なったので、遠近の者が、道を避けることができないほどで、拝みに行き来する女の乗る牛車など、隙間がない。見ると、三十歳余りである僧が、細い目をも人と合わせず、眠ったような目で、時々、阿弥陀仏を申しあげる。その間は唇だけが動くのは、念仏であるようだと見受けられる。また、時々、そっと息を吐くようにして集まっている者どもを見渡すので、その目と目を合わせようと、集まっている者どもが、こっちへ押し、あっちへ押し、ひしめき合っている。
そして、すでにその日の早朝は堂へ入って、先に入っている僧どもが、大勢歩いて続いている。後に雑用に使う車に、この僧は紙の衣、袈裟などを着て、乗っている。何と言うのか、唇が動く。人と目を合わさずに、時々大きな息を吐く。行く道に立ち並んでいる見物の者どもは、打ち撒き〔:お供えの米〕を霰の降るように撒〔ま〕く。聖は、「おい、このように目や鼻に入るのは、我慢できない。気持ちがあるならば、紙袋などに入れて、私が居ていた所へ送れ」と時々言う。これを身分の低い者は、手を擦って拝む。少しものの分かる者は、「どうしてこのようにこの聖は言うのか。今すぐ、水に入ってしまうだろうのに、『きんだり〔:祇陀林寺の通称か〕へやれ。目鼻に入るのは我慢できない』など言うのはおかしい」などささやく者もいる。
そして、どんどん行って、七条大路の西の端に進め出していると、京よりは多くて、入水の聖を拝もうということで、河原の石よりも多く人が集まっている。川端へ車を進め寄せて停めていると、聖が、「今は何時か」と言う。供である僧どもが、「申の刻の下り〔:午後四時過ぎ〕になってしまっております」と言う。「極楽に生まれ変わる定刻には、まだ早いようだな。もう少し時を過ごせ」と言う。待ちわびて、遠くから来ている者は帰りなどして、河原は人少なになった。これを見届けようと思っている者はそのまま立っている。その中に僧がいるのが、「極楽に生まれ変わるのには時刻を決める必要があるか。理解できないことだなあ」と言う。
あれやこれや言ううちに、この聖は、ふんどしで、西に向かって川にざぶりと入る時に、船の縁にある縄に足を引っ掛けて、ざぶりとも入らずに慌て騒ぐ時に、弟子の聖が縄を外したので、逆さまに入ってごぼごぼとするのを、下男の、河原へ下りて「よく見よう」と思って立っているのが、この聖の手を取って引き上げたので、聖は左右の手で顔を拭って、口に入った水を吐き捨てて、この引き上げた下男に向かって手を擦って、「たいそうな御恩をいただきました。この御恩は極楽でお返し申しあげましょう」と言って、川岸へ走り登るのを、大勢集まっている者どもや、童部が、河原の石を取って撒き掛けるように投げつける。裸の法師が河原を川下へ走るのを、集まっている者どもが受け取り受け取り石を投げたので、頭を割られてしまった。
この法師であったのだろうか、大和から瓜を人のもとへやった手紙の上書きに、「前の入水の上人」と書いていたとか。
〔解説〕
「入水」というのは、どぼんと飛び込んで、つまり、死んでしまうわけですが、これは「捨身行〔しゃしんぎょう〕」と言って、仏に供養し、または、他者を救うために、我が身を捨てて布施とすることが目的であったということです。平安時代中ごろから浄土教が広まると、阿弥陀仏のいる西方浄土に往生し、仏になることを願って行われた、断食や入水などの「捨身行」が数多く記録されているということです。桂川は入水の多かった所だそうです。
しかし、『発心集』(三・八)には、蓮花城〔れんげじょう〕という僧が入水をしたものの、入水直前に、こんなことはしなければよかったと後悔し、その気持ちも察してもらえずに沈められてしまった恨めしさで極楽往生できずに、懇意にしていた僧の夢に現われたという話が伝えられています。
で、この祇陀林寺の僧は、最初から入水して極楽往生するつもりはまったくなく、「志あらば、紙袋などに入て、我居たりつる所へ送れ」と言っているところを見ると、入水のパフォーマンスで一稼〔ひとかせ〕ぎしようとしていた、とんでもない僧であるようです。「前の入水の上人」と自分から名乗るのは、なんともあつかましく、恥を恥と思っていないんですね。こういう、いかさまを働くようなとんでもない僧の話も説話集にはたくさん残っています。
「こんな話17」の『十訓抄』では「聞き及ぶ人、遠近、市のごとくに集まりて」と大勢の人々が集まっていましたが、この『宇治拾遺物語』の話でも「近き遠き者ども、道も避りあへず、拝みに行きちがふ女房車など隙なし」「河原の石よりも多く人集ひたり」というように、大勢の人が集まっています。このひしめく群集が『宇治拾遺物語』の特徴の一つだということです。娯楽が特にない時代ですから、なんでも珍しがって見物をしに出掛けるのが普通だったのでしょう。でも、ただ見物に来ているだけではありません、とんでもない者に対しては、「集ひたる者ども、受け取り受け取り打ちけれ」とあるように、それなりの対応をしているのがいいですね。
「その目に見合はせん」とあるのは、入水しようとする人と目が合うと結縁〔けちえん:仏門に入る縁を結ぶこと〕できるというようなことがあったのでしょう。「京よりはまさりて」とある「京」は、一条大路、九条大路、東西の京極大路に囲まれた地域を指します。
■19話 『発心集』四・四
比叡山延暦寺の僧の話です。
〔本文〕
山に叡実〔えいじつ〕阿闍梨〔あじゃり〕といひて、貴〔たふと〕き人ありけり。帝〔みかど〕の御悩み重くおはしましけるころ、召しければ、度々辞し申しけれど、重ねたる仰〔おほ〕せ否〔いな〕びがたくて、なまじひに罷〔まか〕りける道に、あやしげなる病人の足手もかなはずして、ある所の築地〔ついぢ〕のつらに平〔ひら〕がり伏せる、ありけり。阿闍梨、これを見て、悲しみの涙を流しつつ車より下〔お〕りて、あはれみとぶらふ。畳、求めて敷かせ、上に仮屋さしおほひ、食ひ物求め扱ふほどに、やや久しくなりにけり。勅使、「日暮れぬべし。いといと便〔びん〕なきことなり」と言ひければ、「参るまじき。かく、そのよしを申せ」と言ふ。御使驚きて、ゆゑを問ふ。阿闍梨言ふやう、「世を厭〔いと〕ひて、心を仏道に任せしより、帝の御事〔こと〕とても、あながちに貴〔たふと〕からず。かかる病者〔びゃうじゃ〕とてもまたおろかならず。ただ同じやうにおぼゆるなり。それにとりて、君の御祈りのため、験〔しるし〕あらん僧を召さんには、山々寺々に多かる人、誰〔たれ〕かは参らざらん。さらに事欠くまじ。この病者に至りては、厭ひ汚〔きたな〕む人のみありて、近付き扱ふ人はあるべからず。もし、我捨てて去りなば、ほとほと命も尽きぬべし」とて、かれをのみ憐れみ助くるあひだに、つひに参らずなりにければ、時の人ありがたきことになん言ひける。
この阿闍梨、終はりに往生〔わうじゃう〕を遂〔と〕げたり。くはしく伝にあり。『発心集』四・四
〔訳例〕
比叡山延暦寺に叡実阿闍梨といって、尊い人がいた。帝の御病気が重くいらっしゃったころ、お召しがあったので、何度もお断わり申しあげたけれども、重ねてのお言葉が断わり切れなくて、しぶしぶ参りました途中に、むさ苦しい感じの病人の、足や手も動かなくて、いる所の築地の側に平らになって伏しているのが、いた。阿闍梨はこれを見て、悲しみの涙を流しながら牛車から下りて、気の毒に思い見舞う。畳を探して敷かせ、上に仮屋を掛け、食べ物を探し世話をするうちに、かなり時間が経ってしまった。勅使は、「日が暮れてしまいそうだ。とてもとても具合の悪いことだ」と言ったので、「参上することはできそうにない。このように、この事情を申しあげよ」と言う。お使いは驚いて、わけを尋ねる。阿闍梨の言うことは、「俗世を捨てて、心を仏の道に任せた時から、帝のことといっても、必ずしも貴くない。このような病人といってもまたいい加減でない。ただ同じように感じられるのである。それについて、天皇の病気を治すお祈りのため、効験のあるような僧をお召しになるような時には、山々寺々に大勢いる僧は、誰が参上しないだろうか。まったく困らないだろう。この病人については、嫌い汚らわしく思う人ばかりいて、近付いて世話をする人はいるはずがない。もし、私が見捨てて立ち去ってしまったならば、ほとんど命も尽きてしまうに違いない」と言って、その者をばかり気の毒に思い助けるうちに、とうとう参上せずじまいになってしまったので、当時の人は、なかなかできないことと言った。
この阿闍梨は臨終の時に往生を遂げた。詳しくは『続本朝往生伝』にある。
〔解説〕
こんなすばらしい僧もいるんですね。「こんな話17」や「こんな話18」の僧とは大違いです。この叡実阿闍梨は、どのような人なのか、伝記もよく分からないようです。
この説話の評言の「くはしく伝にあり」の「伝」は『続本朝往生伝』であるという注を手掛かりに、『続本朝往生伝』の叡実阿闍梨の箇所を見ると、叡実阿闍梨を呼び付けたのは円融天皇〔:九五九〜九九一〕であることが分かります。手近なところで『栄花物語』をぱらぱらとめくってみると、円融天皇に対して叡実阿闍梨が加持祈祷を行ったというような記述は見当たりません。ほかの天皇についても、加持祈祷の記述を探してみても、具体的なものはほとんどなく、円融天皇の父の村上天皇〔:九二六〜九六七〕が病気になったところに、
〔本文〕
月ごろ内に例ならず悩ましげに思〔おぼ〕しめして、御物忌〔ものいみ〕などしげし。いかにとのみ恐ろしう思しめす。御読経〔みどきゃう〕、御修法〔みずほふ〕など、あまた壇〔だん〕行はせ給〔たま〕ふ。かかれどもさらに験〔しるし〕もなし。『栄花物語』月の宴
〔訳例〕
数ヶ月、主上は身体の調子が悪く苦しそうにお思いになって、物忌なども頻繁である。どうしてなのかとばかり恐ろしくお思いになる。御読経や御修法など、たくさんの壇を設けて行わせなさる。このようであるけれども、まったく効き目もない。
と、あるくらいでした。天皇の加持祈祷は、実際にはたくさんあったんでしょうが、やはり、恐れ多いので、詳しくは書かないのでしょう。
『栄花物語』をあちこち見ていると、院源〔いんげん:法性寺・崇福寺・元慶寺の別当を歴任、一〇二〇年天台座主〕が、何度も登場していることに気付きます。一条天皇〔:九八〇〜一〇一一〕や三条天皇〔:九七六〜一〇一七〕が出家をした時の戒師〔かいし:出家に際して戒を授ける法師〕を務めています。一条天皇の出家のところでは、
〔本文〕
かくて院の御悩みいと重ければ、御髪〔みぐし〕おろさせ給〔たま〕はんとて、法性寺〔ほっしゃうじ〕座主〔ざす〕院源僧都〔そうづ〕召して仰せらるることども、いみじう悲しともおろかなり。『栄花物語』いはかげ
〔訳例〕
こうして一条院の病気がとても重いので、剃髪なさろうということで、法性寺座主院源僧都をお呼び付けになっておっしゃる言葉〔:出家にあたっての誓いの言葉〕は、たいそう悲しいという言葉では表現できないくらいだ。
三条天皇の出家のところでは、
〔本文〕
御悩み重らせ給〔たま〕ひて、院源僧都召して御髪〔みぐし〕おろさせ給ふほど、宮々、中宮をはじめ奉〔たてまつ〕りて、いみじう世になう悲しきことに思〔おぼ〕し召して、涙に沈ませ給へり。『栄花物語』ゆふしで
〔訳例〕
御病気がひどくおなりになって、院源僧都をお呼び付けになって剃髪なさる時、皇子たちや中宮を始め申し上げて、たいそうまたとなく悲しいことにお思いになって、涙にくれなさっている。
院源は天皇が出家する時に戒を授ける立場にあったわけで、とても重要な位置にいた僧だということが分かります。
また、朝廷との関係だけでなく、一〇〇八年に藤原道長〔:九六六〜一〇二七〕の娘の一条天皇中宮彰子が土御門〔つちみかど〕邸で敦成〔あつひら〕親王を出産した時は、
〔本文〕
月ごろ殿の内にそこら候〔さぶら〕ひつる僧はさらなり、言はず、山々寺々の僧の少しも験〔しるし〕あり行ひすると聞こしめすをば、残らず尋ね召し集めたり。『栄花物語』はつはな
〔訳例〕
この数ヶ月、邸の中で大勢伺候していた僧は言うまでもなく、詳しく言わない、山々寺々の僧のすこしでも効験があり仏道修行をするとお聞きになる者を、残らず探し出し、呼び集めなさっている。
このように大勢の僧が呼び集められたのですが、院源僧都も呼ばれています。
〔本文〕
法性寺〔ほっしゃうじ〕の院源僧都〔そうづ〕、御願書読み、法華経この世に広まり給〔たま〕ひしことなど、泣く泣く申し続けたり。『栄花物語』はつはな
〔訳例〕
法性寺の院源僧都が御願書〔:安産を祈る願文〕を読み、法華経がこの世の中に広まりなさったことなどを、仏に泣く泣く申し上げ続けている。
彰子が無事に出産できるように仏に祈る文を読み上げています。やはり、重要な立場にあったわけです。
叡実阿闍梨が比叡山延暦寺の僧だという紹介だったので、延暦寺つながりで、天台座主〔てんだいざす:延暦寺の最高位の僧職〕になった院源を調べてみたのですが、院源は、『栄花物語』のあちこちの記述から、朝廷や藤原道長と関係がとても深かったことが分かります。当時、朝廷や貴族と密接な関係にあった僧侶は、この院源だけでなく、ほかにも大勢いたわけですが、そういう時代の流れの中で、「世を厭ひて、心を仏道に任せしより、帝の御事とても、あながちに貴からず。かかる病者とてもまたおろかならず。ただ同じやうにおぼゆるなり」と発言する叡実阿闍梨は、出家とは本来こうあるべきだという姿を示しています。しかし、叡実阿闍梨のような行動は、「ありがたきこと」とあるように、なかなかできないことだったのでしょう。
ちなみに、『続本朝往生伝』は漢学者大江匡房〔まさふさ:一〇四一〜一一一一〕の著作で、一一〇一年から一〇一一年の間の成立だろうと言われています。
■20話 『古本説話集』下・六〇 
生まれ変わりの話です。
〔本文〕
今は昔、大和〔やまと〕の国に長者ありけり。家には山を築〔つ〕き、池を掘りて、いみじきことどもを尽くせり。
門守〔かどまぼ〕りの女の子なりける童〔わらは〕の、真福田丸〔まふくたまろ〕といふありけり。春、池のほとりに至りて、芹〔せり〕を摘みけるあひだに、この長者のいつき姫君、出〔い〕でて遊びけるを見るに、顔形〔かほかたち〕えも言はず。これを見てより後〔のち〕、この童、おほけなき心付きて、嘆きわたれど、かくとだにほのめかすべき便〔たよ〕りもなかりければ、つひに病〔やまひ〕になりて、そのこととなく臥したりければ、母あやしみて、そのゆゑをあながちに問ふに、童、ありのままに語る。すべてあるべきことならねば、わが子の死なんずることを嘆くほどに、母もまた病になりぬ。
その時、この家の女房ども、この女の宿りに遊ぶとて、入りて見るに、二人の者、病みて臥せり。あやしみて問ふに、女の言ふやう、「させる病にはあらず。しかしかのことの侍〔はべ〕るを、思ひ嘆くによりて、親子死なんとするなり」と言ふ。女房笑ひて、このよしを姫君に語れば、あはれがりて、「易〔やす〕きことなり。早く病をやめよ」と言ひければ、童も親もかしこまりて、喜びて、起き上がりて、物食ひなどして、もとのやうになりぬ。
姫君言ふやう、「忍びて文〔ふみ〕など通はさむに、手書かざらん、くちをし。手習ふべし」。童喜びて、一二日に習ひ取りつ。また言はく、「わが父母死なむこと近し。その後〔のち〕、なにごとをも沙汰〔さた〕せさすべきに、文字〔もんじ〕習はざらん、わろし。学問すべし」。童、また学問して、物見明かすほどになりぬ。また言はく、「忍びて通はんに、童、見苦し。法師になるべし」。すなはちなりぬ。また言はく、「そのこととなき法師の近付かん、あやし。心経〔しんぎじゃう〕、大般若〔だいはんにゃ〕など誦〔よ〕むべし。祈りせさするやうにもてなさん」と言ふに、言ふに従ひて誦みつ。また言はく、「なほ、いささか修行せよ。護身〔ごしん〕するやうにて近付くべし」と言へば、また修行に出〔い〕で立つ。姫君あはれみて、藤袴〔ふぢばかま〕を調〔てう〕じて取らす。片袴〔かたばかま〕をば、姫君みづから縫ひつ。これを着て修行しありくほどに、この姫君、はかなくわづらひて亡〔う〕せにけり。かくしめぐりて、いつしかと帰りたるに、「姫君亡せにけり」と聞くに、悲しきこと限りなし。それより道心〔だうしん〕深く発〔おこ〕りければ、所々行ひありきて、貴〔たふと〕き上人〔しゃうにん〕にてぞおはしける。名をば智光〔ちくわう〕とぞ申しける。つひに往生〔わうじゃう〕してけり。
後〔あと〕に弟子ども、後〔のち〕の業〔わざ〕に、行基〔ぎゃうき〕菩薩〔ぼさつ〕を導師〔だうし〕に請じ奉〔たてまつ〕りけるに、礼盤〔らいばん〕に上〔のぼ〕りて、「真福田丸〔まふくたまろ〕が藤袴〔ふぢばかま〕、我ぞ縫ひし片袴」と言ひて、異事〔ことごと〕も言はで下〔お〕り給ひにけり。弟子どもあやしみて、問ひ奉〔たてまつ〕りければ、「亡者〔まうじゃ〕智光、かならず往生すべかりし人なり。はからざるに惑〔まど〕ひに入りにしかば、我、方便〔はうべん〕にて、かくは誘〔こしら〕へたるなり」とこそ、のたまひけれ。
行基菩薩、この智光を導かんがために、仮〔かり〕に長者の娘と生れ給〔たま〕へるなりけり。行基菩薩は文殊〔もんじゅ〕なり。真福田丸は智光が童名〔わらはな〕なり。されば、かく、仏、菩薩も、男女〔をとこをんな〕となりてこそ導き給ひけれ。『古本説話集』下・六〇
〔訳例〕
今は昔、大和の国に長者がいた。家には山を築き、池を掘って、とても贅沢なことをすべてやっている。
門番の女の子であった童で、真福田丸という子がいた。春、池のほとりにやって来て、芹を摘んだ時に、この長者の大事な姫君が、出て遊んでいたのを見ると、顔立ちがなんとも言えないほど美しい。これを見てから後、この童は身分不相応な思いが起こって、悲しみ続けるけれども、これこれとさえ、それとなく伝えることができる機会もなかったので、とうとう病気になって、どこが悪いということもなく寝込んでいたので、母が不思議に思って、その理由を無理に尋ねると、童は、ありのままに語る。まったくあってよいことでないので、わが子が死んでしまうだろうことを悲しむうちに、母もまた病気になってしまった。
その時、この長者の家の女房どもが、この女の家で遊ぶということで、入って見ると、二人が病気で寝込んでいる。不思議に思って尋ねると、女の言うことは、「これといった病気ではない。これこれのことがございますのを、心配することによって、親子は死んでしまおうとするのである」と言う。女房は笑って、このことを姫君に語ると、気の毒に思って、「簡単なことである。早く病気を治せ」と言ったので、童も母親も恐縮して、喜んで、起き上がって、食事をしなどして、もとのようになった。
姫君が言うことは、「人目を忍んで手紙などをやり取りするような時に、文字を書くことができないようなことは残念だ。文字を書くことを習いなさい」。童は喜んで、一日二日で習得してしまった。また言うことは、「私の父母が死ぬだろうことが間近だ。その後で、どんなことも仕切らなければならない時に、学問を習っていないようなのは、よくない。学問をしなさい」。童は、また学問をして、物事の道理を見極めるほどになってしまった。また言うことは、「人目を忍んで通うような時に、童は、見苦しい。法師になりなさい」。さっそくなってしまった。また言うことは、「これという用事がないのに法師が近づくようなのは、不都合だ。『般若心経〔はんにゃしんぎょう〕』『大般若経〔だいはんにゃきょう〕』など読誦しなさい。祈祷をさせるように取り計らおう」と言うので、言葉に従って読誦した。また言うことは、「やはり、すこし修行せよ。護身〔:加持祈祷によって人を守ること〕をするようにして私に近づきなさい」と言うので、また修行に出発する。姫君は気の毒に思って、藤袴〔:葛などの繊維で作った粗末な袴〕をあつらえて与える。袴の片方を、姫君が自分で縫った。これを着て修行してまわるうちに、この姫君は、これといった病気からでもなく亡くなってしまった。このようにしてあちこち修行してまわって、早く早くと帰って来たところ、「姫君が亡くなってしまった」と聞くと、悲しいことは限りがない。その時から仏道心が深く起こったので、各地を修行してまわって、貴い上人でいらっしゃった。名前を智光と申し上げた。最後には極楽往生してしまった。
後で弟子どもが、死後にいとなむ法要に、行基〔ぎょうき〕菩薩〔:菩薩は行基への尊称〕を導師としてお招き申し上げたところ、礼盤〔:仏前で礼拝読経をする高座〕の上に上って、「真福田丸の藤袴は、私が縫った片袴だ」と言って、他のことも言わずに下りなさってしまった。弟子どもは不思議に思って、お尋ね申し上げたところ、「亡き智光は、かならず極楽往生するはずの人であった。思い掛けなく迷いに入ってしまったので、私は、方便で、このように教え導いたのである」とおっしゃった。
行基菩薩は、この智光を導くようなために、かりそめに長者の娘として生まれなさったのであった。行基菩薩は文殊である。真福田丸は智光の童名である。それゆえ、このように、仏や菩薩も、夫婦〔めおと〕となって導きなさった。
〔解説〕
「輪廻転生」という言葉があります。車輪が無限に回転するように、衆生〔しゅじょう:すべての生き物〕の霊魂が成仏できずに、いつまでも生まれ変わることを繰り返すことです。「輪廻転生」というのは、上がりのない双六〔すごろく〕みたいものなのでしょう。行いが悪いと、人として生まれ変わることができずに、畜生として生まれ変わることもあるようです。ということで、来世では必ず極楽往生できるようにと、人々は熱心に仏道修行をしたのでしょう。極楽往生というのは、双六の上がりということなのでしょう。
『古本説話集』の話では、智光の供養の時に行基〔:六六八〜七四九〕が導師として出てきていますが、『古来風体抄』にも同じ話があって、こちらでは智光と行基が対面しています。
〔本文〕
行基、まだ若くおはしける時、智光法師に論義〔ろんぎ〕に逢ひ給〔たま〕ひたりけるを、智光、少し驕慢〔けうまん〕の心にやありけん、若き敵〔かたき〕に逢ひたりと思へる気色〔けしき〕なりければ、(行基が)歌を詠みかけられける、
真福田が修行に出〔い〕でし片袴〔かたばかま〕 我こそ縫ひしかその片袴
かく言はれて、「二生〔にしゃう〕の人にこそおはしけれ」と、(智光は)帰伏〔きふく〕しにけり。
〔訳例〕
行基がまだ若くいらっしゃった時、智光法師に論義〔:法会などで経文の要義を問答すること〕で出会いなさっていたのを、智光は、すこし驕り高ぶる心であったのだろうか、若い相手に出会ったと思っている様子であったので、行基は歌を詠みなさった、
真福田が修行に出た時の片袴は 私が縫った。その片袴を
こう言われて、「行基は二生の人〔:前世も現世も人間に生まれた人〕でいらっしゃったなあ」と、智光は降参してしまった。
「二生の人」という言葉があるようです。やはり、続けて人間に生まることはなかなかできなかったのでしょう。『古来風体抄』の話では、行基が智光に向かって、「真福田が修行に出でし片袴我こそ縫ひしかその片袴」と歌を詠んでいますが、こう言われたら、智光は、「あなたが私を仏道に導いてくれたのですね。ありがとうございました」と、これはもう、降参するしかありません。
生まれ変わりに関連して、『発心集』にこんな話があります。
〔本文〕
少納言〔せうなごん〕公経〔きんつね〕といふ手書〔てか〕きありけり。県召〔あがためし〕のころ、心の内に願〔ぐゎん〕を発〔おこ〕して、「もしことよろしき国、賜〔たま〕はりなば、寺造らん」と思ひけるを、河内〔かはち〕といふ、あやしの国の守〔かみ〕になりたりければ、本意なくおぼえて、「さらば、古き寺などをこそは修理せめ」と思ひて、国に下〔くだ〕りにけり。
さて、その国の中にここかしこ見ありきけるに、ある古き寺の仏の坐の下〔した〕に文〔ふみ〕の見えけるを、開きて見れば、「沙門〔しゃもん〕公経」と書けり。あやしみて、細かに見れば、「来〔こ〕ん世にこの国の守となりて、この寺を修理せん」といふ願〔ぐゎん〕を立てたる文にてなんありける。これを見て、しかるべかりけることと思ひ知りて、望みの本意ならぬことをも諌〔いさ〕めつつ、信〔しん〕をいたして修理しける。書きたる文字のさまなども、今の手につゆほども変らず似たりけり。伏見の修理大夫〔しゅりのかみ〕のやうに、昔、同じ名をつけるなりけり。
我も人も、先の世を知らねばこそはあれ、なにごともこの世ひとつのことにては侍〔はべ〕らぬを、空しく心をくだき、走〔わし〕り求めて、かなはねば、神を誹〔そし〕り、仏をさへ恨み奉〔たてまつ〕るは、いみじうおろかなり。かつは、願の昔に違〔たが〕はぬにて、願としてなるべきことを知るべし。『発心集』五・六
〔訳例〕
少納言公経という達筆な人がいた。県召〔:諸国の国司を新しく任ずる儀式〕の頃、心の内に願を立てて、「もしかなりよい国をいただいたならば、寺を造ろう」と思ったけれども、河内というわびしい国の国守になっていたので、残念に感じられて、「それならば、古い寺などを修理しよう」と思って、任国に下ってしまった。
そして、その国の中であちこち見てまわったところ、ある古い寺の仏像の台座の下に文章を書き記した紙が見えたのを、開いてみると、「沙門公経」と書いてある。不思議に思って、くわしく見ると、「来世にこの国の国守となって、この寺を修理しよう」という願を立てている願文であった。これを見て、そうであるはずであった前世からの約束であると身に染みて分かって、願いがかなわなかったことに対する残念な気持ちも抑えながら、信仰心を尽くして修理した。書いてある文字の様子なども、今の筆跡と少しも変わらずに似ていた。伏見の修理大夫のように、前世も、同じ名前を付けているのであった。
自分も他人も、前世を知らないから仕方がないけれども、どんなことも現世だけのことではございませんのに、いたずらに思い悩み、名利をあくせくして求めて、思うどおりにならないと、神に対しても悪く言い、仏に対してまでも不満を申し上げるのは、たいそう愚かである。一方では、願が、前世で立てた願と違わないことによって、願として実現するはずであることを理解すべきである。
藤原公経〔きんつね:?〜一〇九九〕は、前世でも「公経」という僧だったということです。前世での行いがよかったのか、公経はふたたび人間として生まれることができたようですが、信仰心を尽くして寺の修理をしたのは、それこそ前世からの因縁を痛感したからでしょう。
途中に出てきた「伏見の修理大夫」は、橘俊綱〔としつな:一〇二八〜一〇九四〕という人で、藤原頼通の次男ですが、いろいろあって、橘俊遠の養子になりました。橘俊綱は、前世では俊綱〔しゅんがう〕という僧であったようですが、その話は『宇治拾遺物語』(四六・伏見修理大夫俊綱の事)にあります。橘俊綱については、「白河院説話を読もう」の「遊覧」を参照してください。
■21話 『撰集抄』九・一〇 
出家した男が長谷寺で妻と再会する話です。
〔本文〕
その昔、頭〔かしら〕おろして、貴〔たふと〕き寺々参りありき侍〔はべ〕りし中に、神無月〔かんなづき〕上〔かみ〕の弓張りのころ、長谷寺〔はせでら〕に参り侍りき。日暮れかかりて、入相〔いりあひ〕の鐘の声ばかりして、もの寂しきありさま、梢〔こずゑ〕の紅葉〔もみぢ〕、嵐にたぐふ姿、なにとなくあはれに侍りき。
さて、観音堂に参りて、法施〔ほふせ〕なんど手向〔たむけ〕け侍りて後〔のち〕、あたりを見めぐらすに、尼、念珠〔ねんず〕する、侍り。ことに心を澄まして念珠する侍るあはれさよ。
思ひ入りて擦る数珠〔ずず〕音〔おと〕の声澄みて おぼえずたまるわが涙かな
と詠みて侍るを聞きて、この尼声をあげて、「こは、いかに」とて、袖に取り付きたるを見れば、年ごろ借老同穴〔かいらうどうけつ〕の契り浅からざりし女の、はや、様〔さま〕変へにけるなり。あさましくおぼえて、「いかに」と言ふに、しばしは、涙、胸に塞〔せ〕けるけしきにて、とかくもの言ふことなし。ややほどへて、涙を抑へて言ふやう、「君、心を発〔おこ〕し、出〔い〕で給〔たま〕ひし後〔のち〕は、何となく住み浮かれて、宵〔よひ〕ごとの鐘の音〔おと〕もそぞろに涙をもよほし、暁〔あかつき〕の鳥の音〔ね〕もいたく身に染みて、あはれのみまさり侍りしかば、過ぎぬる三月のころ、頭〔かしら〕おろして、かくまかりなれり。一人の娘をば、母方のをばなる人のもとに預け置きて、高野〔かうや〕の奥、天野〔あまの〕の別所〔べっしょ〕に住み侍るなり。さてもまた、我を避けて、いかなる人にも馴れ給はば、よしなき恨みも侍りなまし。これはまことの道におもむき給ひぬれば、露ばかり恨みも侍らず。かへりて知識〔ちしき〕となり給ふなれば、うれしくこそ。別れ奉〔たてまつ〕りし時は、浄土の再会をとこそ期〔ご〕し侍りしに、思はざるに、みづから夢とこそおぼえ侍れ」とて、涙塞きかね侍りしかば、様変へけることのうれしく、恨みを残さざりけんこと、悦ばしさに、そぞろに涙を流し侍りき。さてあるべきならねば、さるべき法文〔ほふもん〕など言ひ教へて、高野の別所へ尋ね行かんと契りて、別れ侍りき。
年ごろもうるせかりし者とは思ひ侍りしかども、かくまであるべしとは思はざりき。女の心のうたてさは、かなはぬにつけても、よしなき恨みを含み、堪〔た〕えぬ思ひにありかねて、この世はいたづらになしはつるものなるぞかし。しかるに、別れの思ひを知識として、まことの道に思ひ入りて、かなしき一人娘を捨てけん、ありがたきには侍らずや。このこと、書き載せぬるも、憚り多く、かたはらいたく侍れども、何となく見捨てがたきによりて、我をそばむる人の心を顧〔かへり〕みざるべし。『撰集抄』九・一〇
〔訳例〕
その昔、剃髪して、ありがたい寺々を参詣してまわりました中で、神無月〔:陰暦十月〕の上弦の月の頃、長谷寺に参詣しました。日が暮れかかって、入相の鐘の音ばかりして、もの寂しい様子や、梢の紅葉が強い風に吹かれて散る様子は、なにということもなくしんみりいたしました。
そして、観音堂に参詣して、仏前で経文などを唱えましてから、あたりを見まわすと、尼の数珠を擦るのが、おります。格別に心を澄まして数珠を擦りますことの心打たれることよ。
心を籠めて擦る念珠の音が澄んで 思わず溜まる私の涙だなあ。
と詠んでおりますのを聞いて、この尼は声を上げて、「これは、どうして」と言って、袖に取り付いているのを見ると、長年偕老同穴〔:夫婦が死ぬまで仲睦まじく連れ添うこと〕の約束が並々でなかった女の、なんと、出家してしまったのである。意外に感じられて、「どうして」と言うと、しばらくの間は、涙が胸にいっぱいになった様子で、あれこれ言葉を話すことがない。しばらく経って、涙を抑えて言うことは、「あなたが発心して、家を出なさった後は、なにとなく落ち着いて住むことができずに、宵ごとの鐘の音もやたらに涙を誘い、明け方の鳥の声もひどく身に染みて、寂しさばかりが募りましたので、先だっての三月の頃、出家剃髪をして、このようになっております。一人娘は、母方のおばである人のもとに預けて置いて、高野〔こうや〕の奥の、天野〔あまの〕の別所〔べっしょ〕に住んでいるのでございます。それにしてもまた、私を避けて、もしあなたがどのような女性にも馴れ親しみなさったならば、つまらない恨みもきっとございましたでしょうのに。あなたは仏の道に進みなさったので、露ほどの恨みもございません。かえって仏の道に入るきっかけを与える人とおなりになるということであるので、うれしく。お別れ申し上げた時は、浄土での再会をと心に決めましたけれども、思い掛けないことに、自分でも夢と思われます」と言って、涙を抑えきれませんでしたので、妻が出家したことがうれしく、恨みを残さなかったということの喜ばしい思いがもとで、ただもう涙を流しました。そのままでいるわけにいかないので、しかるべき法文などを言って教えて、高野の別所へ訪れて行こうと約束をして、別れました。
長年も気の利いた者とは思いましたけれども、このようになるまであるはずだとは思わなかった。女の心の嘆かわしさは、思いどおりにならないことについても、筋の通らない恨みを持ち、身に不相応な思いを持てあまして、自分の一生をすっかり空しいものにしてしまうものであるよ。そうであるのに、別れの思いを機縁として、心に深く思って仏の道に進んで、愛しい一人娘を捨てたということは、なかなかできないことではございませんか。このことを、書き載せてしまうのも、気兼ねが多く、きまり悪くございますけれども、なんということもなくそのままにできない思いによって、私を横目で見る人の心を気にしないつもりだ。
〔解説〕
長谷寺は大勢の人が参詣するので、誰かとばったり出会うということがよくあったようですが、先に出家した夫が、後から出家した妻に出会うなんていうことがあったんですね。
尼の言葉に「高野の奥、天野の別所に住み侍るなり」とありますが、この尼は、高野山には住んでいずに、高野山の麓の谷にある天野の別所と言われた所に住んでいるということです。
日本の古代仏教では、女性は、仏道を求める僧にとって最大の障害であるとして、学問と修行を旨とする比叡山や高野山などは女性の立ち入りを拒絶していました。高野山では極楽往生を願う修行者が多く集まって、修行の場になっていたということです。また、麓の谷にも別所〔べっしょ〕と呼ばれる修行者の集落がいくつかあって、高野山に入ることができない尼も住んでいたようです。この尼の住んでいた「天野の別所」は、その中でも有名な所だったということです。
また、『大般涅槃経〔だいはつねはんぎょう〕』などの経典〔けいてん〕の記述から、女性自身は生まれながらにして成仏や往生の条件を欠いているされていたようです。言わば、女性は仏から見放された存在であったわけです。「女の心のうたてさは、かなはぬにつけても、よしなき恨みを含み、堪えぬ思ひにありかねて、この世はいたづらになしはつるものなるぞかし」という評言も、こういうものの見方に基づいているのでしょう。
『撰集抄』は、江戸時代までは、西行の著作であると信じられていました。この文章も、和歌を詠んだり、自分の妻のことを書き記すのは遠慮があるとか述べているので、まるで西行自身が自分のことを記しているような感じがします。
この話の続きになるような話が『発心集〔ほっしんしゅう〕』にあって、西行が娘が世話になっている養母の冷泉殿〔れいせんどの〕の邸を訪れて、娘に出家を勧めるという話です。(2009年度京都大学から)。
〔本文〕
<略>(西行は)ことの有様などを聞きて娘に言ふやう、「そこの生れ落ちしより、心ばかりは育〔はぐく〕みしことは、大人になりなん時は、帝〔みかど〕の后〔きさき〕にも奉〔たてまつ〕り、もしはさるべき宮ばらの候〔さぶら〕へをもせさせんとこそ思ひしか。かやうの次の所に賄〔まかな〕ひせさせて聞こえんとは、夢にも思ひよらざりき。たとひ、めでたき幸ひありとても、世の中の仮〔かり〕なるさま、とにかく心安きこともなかんめるを、尼になりて母が傍〔かたは〕かたはらに居て、仏の宮仕へうちして、心にくくてあれかしと思ふなり」と言ふ。やや久しくうち案じて、「承りぬ。計らひ賜〔たま〕はせんこと、いかでか違〔たが〕へ奉らん。さらば、いつと定め給〔たま〕へ。その時、いづくへも参りあはん」と言ふ。「若きに、ありがたくもあるかな」と返す返す喜びて、しかじか、その日、乳母〔めのと〕のもとへ行き合ふべきことよくよく定め契りて帰りぬ。
このこと、また知る人もなければ、誰〔たれ〕も思ひもよらぬほどに、明日になりて、「この髪を洗はばや」と言ふ。冷泉殿〔れいせんどの〕の聞きて、「近う洗ひたるものを。けしからずや」など言はれければ、ただことさらに言へば、「物詣でやうのためなり」と思ひて洗はせつ。明くる朝〔あした〕に、「急ぎて乳母のもとに行くべきことのある」といへば、車など沙汰〔さた〕して送る。今すでに車に乗らんとする人の、「しばし」とて帰り来て、冷泉殿〔れいせんどの〕に向かひて、つくづくと顔うち見て、言ふこともなくて、立ち帰りき。車に乗りて去〔い〕ぬ。あやしくおぼゆれど、かかることあるべしとはいかでか知らん。かくて、久しく帰らねば、おぼつかなくて尋ねけるを、しばしはとかく言ひやりけれど、日ごろ経〔ふ〕れば、隠れなく聞こえぬ。
冷泉殿は五つよりひとへに我が子のやうにして、片時〔かたとき〕傍〔かたは〕ら離るることなくて馴らはし育〔はぐく〕み立てるうちにも、大人びゆくままに、心ばへもはかばかしう、ことに触れてありがたきさまなりければ、深くあひ頼みて過ぎけるに、かく思はずして永く別れぬれば、「恨めしかりける心強さかな。猛〔たけ〕き者の筋といふ者、女子〔をんなご〕までうたてゆゆしきものなり」と言ひ続けてぞ恨み泣かれける。「ただしすこし罪許さるることとては、すでに車に乗りし時、また見るまじきぞかしと、さすがに心細く思ひけるにこそ。させる言ふべきこともなきに、しばし立ち帰りて、我が顔をつくづくとまもりて出でにしばかりを、恨めしきなかに、いささかあはれなる」とぞ言はれける。<以下略> 『発心集』六・五
〔訳例〕
<略>西行は娘の日ごろの暮らしぶりなどを聞いて娘に言うことは、「おまえが生まれ落ちた時から、気持ちだけは大事に育てたことは、大人になったならばその時には、帝の后にも差し上げ、あるいは、しかるべき宮様たちの奉公をもさせようと思った。このような一段低い所で食事の給仕をさせて申し上げようとは、夢にも予想しなかった。たとえ、すばらしい幸福があるといっても、世の中のはかないありさまは、何やかやと心休まることもないように思われるので、尼になって母の側にいて、仏の宮仕えをして、心ひかれるありさまでいなさいよと思うのである」と言う。娘はかなり長い間じっと考えて、「承知いたしました。指図してくださるようなことは、どうして背き申し上げようか。それならば、いついつと決めてください。その時にどこへも参上してお会いしよう」と言う。「若いのに、めったにないほどすばらしいなあ」と、西行はしきりに喜んで、これこれと、いついつの日、乳母のもとへ落ち合うはずの手はずをよくよく決めて約束して帰った。
このことを、ほかに知る人もいないので、誰も予想もつかない時に、明日になって、「この髪を洗いたいなあ」と娘は冷泉殿に言う。冷泉殿は聞いて、「最近洗ったのに。変だなあ」などおっしゃったので、ただただひたすら言うので、「参詣するようなためである」と思って洗わせた。翌朝、娘が「急いで乳母のもとに行かなければならないことがある」と言うので、冷泉殿は牛車などを手配して送る。今ちょうど牛車に乗ろうとする人〔:西行の娘のこと〕が、「ちょっと」と言って帰って来て、冷泉殿に向かって、しみじみと顔をじっと見て、言葉もなくて、立ち戻った。牛車に乗って出て行った。不思議に感じるけれども、このようなことがあるに違いないとはどうして分かるだろうか。こうして、娘がいつまでも帰らないので、冷泉殿が気掛かりになって尋ねたところ、しばらくの間はあれこれと言ったけれども、日数が経つと、西行の娘が出家剃髪してしまったということがすっかり分かってしまった。
冷泉殿は西行の娘を五歳からひたすら我が子のようにして、わずかな間も側から離れることなくずっとそうして育て上げた中でも、娘が成長してゆくにつれて、気立てもしっかりしており、何かにつけてめったにない優れた様子であったので、娘を深く信頼して過ごしていたのに、このように予想外な形で二度と会えない別れをしてしまったので、「恨めしかった気の強さだなあ。勇ましい者〔:武士のこと〕の血筋という者は、女の子までひどく恐ろしいものである」と言い続けて、恨みに思いお泣きになった。「ただし、すこし大目に見ることができることとしては、もう牛車に乗った時、ふたたび会うことができないのだよと、そうはいうものの寂しく思ったのだろう。これといって言わなければならないこともないのに、ちょっと戻って来て、私の顔をまじまじと見つめて行ってしまったことだけを、恨めしい中で、すこし心打たれる」とおっしゃった。<以下略>
ふらりとやって来た父親に、出家しなさいと言われて、しばらくは考えるものの、はい分かりましたと返事をするという父と娘のやり取りは、現代では考えられません。この時代はこの時代でそれとなく世の中に漂っているものがあって、それをはっきりとは意識していなくても、人々は、俗世を捨てて極楽往生したいという願いというか、思いというか、感覚というか、そういうものを感じ取っていたようです。資本主義社会で暮らす現代人は、宝くじが当たったら、美味しいものを食べたいなあとか、遊んで暮らせるなあとか考えるわけですが、この時代の人がもし宝くじが当たったならば、一億円でも二億円でも出家するために全額使ってしまうでしょう。一人一人の意識ではどうしようもないところの、時代の思潮というものがあるのだろうと思います。
西行はもともと鳥羽院の北面の武士でした。事情はよく分からないようですが、二十三歳で出家しました。西行の娘の育ての親の冷泉殿は、「恨めしかりける心強さかな。猛き者の筋といふ者、女子までうたてゆゆしきものなり」と言っていますが、当時の人たちにとって、武士というものには、やはりかなり違和感があったようです。「馬盗人」で有名な『今昔物語集』(二五・一二・源頼信朝臣の男頼信、馬盗人を射殺したる語)の、父源頼信〔よりのぶ〕と息子頼義〔よりよし〕の阿吽の呼吸というか、密接な主従関係というか、一心同体という武士の行動の仕方が、当時の人たちにとっては驚きでもあり、理解を超えた存在だったようです。詳しい事情の説明などはまったくせずに育ての親のもとから立ち去ってしまった西行の娘に対して冷泉殿は「恨めし」という言葉を繰り返しています。「恨めし」は現代語ほど深刻ではない言葉ではあるのですが、相手の心や処置が期待に反するものであったり、望ましい事態が自力ではどうにもならないような時に、それに対する不満や心の内のわだかまりを言う言葉です。武士ではない冷泉殿のような普通の人は、もっと緩く穏やかな人間関係の中で生きていたのでしょう。
■22話 『発心集』六・一三 
山奥で暮らす尼の話です。
〔本文〕
ある聖〔ひじり〕、都ほとりを厭〔いと〕ふ心深くて、住みぬべき所やあると尋ねありきけるほどに、北丹波といふ深き谷に至りて、跡〔あと〕絶えたる深山〔みやま〕の奥の方〔かた〕に、川より切り花のからの流れ出〔い〕でたる、あり。いとあやしくて、いかなる人のいかにして住むらむとおぼつかなさに、尋ねつつはるかに分け入りて見れば、形〔かた〕のやうなる柴の庵〔いほり〕の、軒を並べて二つあり。いとめづらかにおぼえて、近く歩み寄るほどに、窓よりその容貌〔かたち〕ともなく黒み衰へたる人、わづかにさし出でて、人のけしきを見てひき入りぬ。「あはれ、さ申ししものを。花がらを谷に散らし給〔たま〕ひて」と言ふを聞けば、女声なり。「濁れる末の世にも、かかる住居〔すまひ〕する人はあるものかは」とありがたくおぼゆるにも、まづ涙落ちて、「いかなる人の、かくておはしますぞ。身に堪〔た〕へたる我らだに、なほ、え思ひ取り侍〔はべ〕らぬを、いといと希有〔けう〕の御志なりや」と、さまざま語らへど、ふつといらへもせず。
その時、いたう恨みて、「我が身はしかしかの者に侍り。菩提心〔ぼだいしん〕を発〔おこ〕して世を遁〔のが〕れ、身を捨てて山林〔やまはやし〕にまどひありき侍れば、志同じきゆゑに、ことに随喜〔ずいき〕し奉〔たてまつ〕るうちにも、女の身には、ことに触れて障〔さは〕りあり。かく思〔おぼ〕し立ちけんことの、返す返すもあはれに類〔たぐひ〕なくおぼえて侍り。かつは、こまかに承りて、我が心をも励まし侍らむと思ふなり。深く隔て給へば、いと本意ならず」なんど、こまかにうち口説〔くど〕き恨むれば、とばかりためらひて言ふやう、「隠し申さんとも思ひ侍らず。年ごろここに住み侍れど、いまだかく訪ね来る人もなきを、思い掛けず来〔きた〕り給へれば、何となく心騒ぎて、御いらへもとどこほり侍るばかりなり。我らがありさま申し侍らん。昔、二十〔はたち〕ばかりの時、二人同じやうにて、上東門院〔じゃうとうもんゐん〕に仕〔つか〕うまつりて侍りしが、世のありさま移り行くを見るにも、高き賤〔いや〕しき、片端より隠れゆく。すべてこの世には心も留〔と〕まらず。されば、ことに優〔いう〕なりし所の習ひに、色深き心とて、ことにふれつつ身も苦しく、罪の積らんことも恐しく侍りしかば、二人申し合はせて行方〔ゆくへ〕も知らず走り隠れにき。その後〔のち〕、ここかしこにへつらひ侍りしかど、人のあたりは、なにごとにつけても住みにくく、心にかなはぬことのみ侍りしより、思ひ掛けぬここに跡を留〔と〕めて、おのづから多くの年月を経〔へ〕たり。花の散り、葉の色付くを見て、春秋の経ぬることを数〔かぞ〕ふれば、四十余年になんなりぬる。住みそめ侍りしころは、嵐もはげしく、はかなき鳥獣〔とりけだもの〕のはげしきまでも気疎〔けうと〕き心地して、ことごと堪へ忍ぶべくもあらざりしかど、今は住み馴れて、たまさかに立ち出〔い〕でたる時も、ここを栖〔すみか〕と急ぎ帰りまうで来れば、さるべかりけることとあはれに侍るなり。なにと慣はせることにか、生ける数とて、雲風〔くもかぜ〕に身をまかせても、縁〔えん〕なければ、一人一人替はりて、十五日づつ里に出でて、今一人を養ふわざをなんし侍る。この並べる庵の内に、窓を開けて、わづかにとぶらひ侍るをたよりにて、ただ明け暮れは念仏し侍るなり」と、まめやかしくあてなるけはひにて語る。聖もおぼえず袖をしぼりつつ、一仏浄土の契りを結びて帰りぬ。またその後、麻の衣〔きぬ〕、時料〔ときれう〕など用意して尋ね行きたりければ、庵の跡はさながら行方〔ゆくへ〕も知らず隠れにけり。
人の心同じからねば、その行ひもさまざまなれど、女の身にてかかる棲〔すまひ〕思ひ立ちけん、おぼろけの道心〔だうしん〕にはあらざるべし。今、このことを思ふに、汚〔けがらは〕しくあだなる身を山林の間に宿〔やど〕し、命を仏にまかせ奉りて、清浄不退〔しゃうじゃうふたい〕の身を得んことは、げに、心柄〔こころがら〕によるべき行ひなり。<以下略> 『発心集』六・一三
〔訳例〕
ある聖が、都の周辺を嫌う心が強くて、住むのにふさわしい所があるかと探しまわった時に、北丹波といふ深い谷にやって来て、人の行き来がなくなっている深山の奥の方で、川から切り花の切った残りが流れ出ているのが、ある。とても不思議で、どのような人がどのようにして住んでいるのだろうと不審な気持ちから、探しながら遥かに分け入って見ると、型どおりの柴の庵が、軒を並べて二つある。とても風変わりに感じられて、近くに歩み寄る時に、窓からその顔立ちともなく黒っぽくやつれた人が、かすかに顔を出して、人の様子を見てひっこんだ。「ああ、そう申し上げたのになあ。花を切った残りを谷に散らしなさって」と言うのを聞くと女の声である。「濁った末の世の中でも、このような住居をする人はいるものだなあ」とめったになくすばらしく思われるにつけても、何よりも先に涙が落ちて、「どのような人が、こうしていらっしゃるのか。山林での修行が堪えうる我々さえ、やはり、決心できませんことを、まったくまったくめったにないお志であるよ」と、さまざまに言葉をかけるけれども、まったく返事もしない。
その時、たいそう恨み言を言って、「我が身はこれこれの者でございます。菩提心を発〔おこ〕して俗世を遁れ、出家をして山や林をさまよいまわりますと、志が同じなので、ことさらに感動し申し上げるなかでも、女の身の上は、何かにつけて差し障りがある。このように決心なさったということが、本当に本当に心打たれ例がなく思われております。一方では、細かくお話をお聞きして、自分の心をも励ましましょうと思うのである。ひどくよそよそしくなさるので、本当にがっかりである」など、心をこめてくどくどと言い不満を言うので、しばらく思い迷ってから言うことは、「隠し申し上げようとも思いません。長年ここに住んでおりますけれども、いまだに、このように訪れて来る人もいないのに、思いがけずお越しになっているので、なにとはなく心が落ち着かずに、お返事もすらすらとできませんだけである。私どものありさまを申し上げましょう。昔、二十歳ぐらいの時、二人とも同じように、上東門院にお仕え申し上げておりましたけれども、世の中のありさまが変わってゆくのを見ますにつけても、身分の高い人も低い人も、端からどんどん亡くなってゆく。まったくこの世の中には心ひかれない。だから、特に優美であった所〔:宮中〕の習わしで、恋愛を好む心ということで、何かにつけて我が身も苦しく、罪障の積もるだろうことも恐ろしくございましたので、二人で相談しましてどこへともなく逃げ出して隠れてしまいました。その後、こちらやあちらで、人に気を遣いましたけれども、人の近くでは、どういうことにつけても住みづらく、思いどおりにならないことばかりございましたので、思いもしないここにとどまって、自然と多くの年月が経っている。花が散り、葉の色付くのを見て、春秋の経ったことを数えると、四十年あまりにもなってしまった。住み始めましたころは、山から吹く風も激しく、ちょっとした鳥や獣の荒々しい様子までも気味悪い感じがして、一つ一つのことが我慢できそうにもなかったけれども、今は住み慣れて、たまに里に出向いた時も、ここを住居として急いで帰って参りますので、そうなるはずであったことと心打たれるのでございます。どのようにして習慣になっていることだろうか、生きている身ということで、雲や風に身を任せても食べていけないので、一人一人交代で、十五日ずつ里に出て、もう一人を養うことをしております。この並んでいる庵の中で、窓を開けて、かろうじて安否を確かめますのを拠り所として、ただ明け暮れは念仏をしますのである」と、誠実で気品のある様子で一部始終を話す。聖も思わず涙で濡れた袖を絞りながら、一仏浄土〔:阿弥陀如来の極楽浄土を指すが、ここでは極楽往生しようという約束〕を結んで帰った。またその後、麻の衣や、食料などを用意して、訪ねて行っていたところ、庵の跡はそのままで二人の尼は行方も知らずいなくなってしまった。
人の心は同じでないから、その仏道修行もさまざまであるけれども、女の身でこのような住居を思い立ったということは、並一通りの仏道心ではないに違いない。今、このことを考えると、汚らわしくはかない身を山林の間に住まわせ、命を仏に任せ申し上げて、清浄不退〔:煩悩がなく清らかで、ふたたび元に戻ることがない〕の身を得るようなことは、確かに、その人の考えの持ち方によるに違いない仏道修行である。<以下略> 〔解説〕
上東門院とは藤原道長の娘の彰子〔:九八八〜一〇七四〕で、一条天皇〔:九八〇〜一〇一一〕の中宮でした。この京の北山にいた二人の尼はこの彰子に仕えた女房二人であるようで、説話の記述から判断すると、姉妹ではないようです。華やかな宮中では、雅びなことや風流なことを楽しむばかりではなかったようです。『紫式部日記』でも、出仕してからは「さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな(ほんとにまあ残ることなくしみじみ感じられる我が身のつらさだなあ)」と書かれています。この二人の女房も、「ことにふれつつ身も苦しく、罪の積らんことも恐しく侍りしか」とあるように、俗世での憂さ、我が身のつらさを痛感していたのでしょう。それに堪えかねて、「二人申し合はせて行方も知らず走り隠れにき」とあるように、俗世を捨ててしまったわけです。
俗世を厭う気持ちは、この二人は十分に持っていたわけですが、説話の評言に「女の身にてかかる棲思ひ立ちけん、おぼろけの道心にはあらざるべし」という言葉があるように、女の身として並大抵の仏道心ではないと言っています。これは、もちろんほめているのでしょうけれども、「こんな話21」で解説したように、女性自身は生まれながらにして成仏や往生の条件を欠いているされていた日本の古代仏教の考え方がもとにあるのでしょう。
説話の終わりに「庵の跡はさながら行方も知らず隠れにけり」とあるのは、「こんな話14」と同じ行動です。知られてしまったということは、今後、いろいろと煩わしいことがあるかもしれないので、人との関わりを絶ったのです。
■23話 『古今著聞集』孝行恩愛三一二
親孝行な法師の話です。
〔本文〕
白河院の御時、天下殺生〔せっしゃう〕禁断せられければ、国土に魚鳥のたぐひ絶えにけり。
そのころ、貧しかりける僧の、年老いたる母を持ちたる、ありけり。その母、魚〔うを〕なければ物を食はざりけり。たまたま求め得たる食ひ物も食はずして、やや日数〔ひかず〕経〔ふ〕るままに、老の力いよいよ弱りて、今は頼む方〔かた〕なく見えけり。僧悲しみの心深くして、尋ね求むれども得がたし。思ひあまりて、つやつや魚捕〔と〕るすべも知らねども、みづから川の辺にのぞみて、衣〔ころも〕に玉襷〔たまだすき〕して、魚をうかがひて、はえといふ小さき魚を一つ二つ捕りて持ちたりけり。禁制重きころなりければ、官人〔くゎんにん〕見合ひて、からめとりて、院の御所へ率〔ゐ〕て参りぬ。
まづ子細を問はる。「殺生禁制、世に隠れなし。いかでかそのよしを知らざらん。いはんや法師の形として、その衣を着ながらこの犯〔をかし〕をなすこと、一方〔ひとかた〕ならぬ科〔とが〕、逃〔のが〕るるところなし」と仰せ含めらるるに、僧、涙を流して申すやう、「天下にこの制、重きこと、みな承るところなり。たとひ制なくとも、法師の身にてこの振る舞ひ、さらにあるべきにあらず。ただし、我、年老いたる母を持〔も〕てり。ただ我一人のほか、頼める者なし。齢〔よはひ〕たけ身衰へて朝夕の食物〔くひもの〕たやすからず。我また家貧しく財〔たから〕持たねば、心のごとくに養ふに力堪〔た〕へず。中にも魚なければ物を食はず。この頃、天下の制によりて、魚鳥の類〔たぐひ〕いよいよ得〔え〕がたきによりて、身の力すでに弱りたり。これを助けんために、心の置き所なくて、魚捕る術〔すべ〕も知らざれども、思ひのあまりに川の端〔はた〕に臨〔のぞ〕めり。罪を行はれんこと、案〔あん〕のうちに侍〔はべ〕り。ただし、この捕るところの魚、いまは放つとも生きがたし。身の暇〔いとま〕をゆりがたくは、この魚を母のもとへ遣はして、今一度〔いまひとたび〕あざやかなる味を勧めて、心やすく承りおきて、いかにもまかりならん」と申す。
これを聞く人々、涙を流さずといふことなし。院聞こし召して、孝養〔かうやう〕の志〔こころざし〕浅からぬをあはれみ、感ぜさせ給ひて、さまざまの物どもを馬・車に積みて賜〔たま〕はせて、ゆるされにけり。乏〔とも〕しきことあらば、かさねて申すべきよしをぞ仰せられける。『古今著聞集』孝行恩愛三一二
〔訳例〕
白河院の御代に、国中で殺生を禁止されたので、国土に魚や鳥の類がなくなってしまった。
その頃、貧しかった僧の、年老いた母を持っているのが、いた。その母は、魚でないと物を食べなかった。たまたま手に入れた食べ物も食べずに、だんだんと日数が経つにつれて、老人の力はますます弱って、今となってはあてにする手立てもなく見えた。僧は、悲しみの心が深くて、探し求めるけれども手に入れることができない。思い余って、まったく魚を捕る手立ても知らないけれども、自分で川の岸に出て、衣に襷をして、魚をねらって、はえという小さい魚を一匹二匹捕って持っていた。禁制が厳重な頃であったので、役人が見つけて、捕らえて縛って、白河院の御所へ連れて参上した。
まっ先にわけをお尋ねになる。「殺生の禁止は、世の中に知れ渡っている。どうしてそのことを知らないだろうか。まして、法師の姿をして、その僧衣を着ながらこの罪を犯すことは、並一通りでない過ちは、言い逃れをするところはない」と言ってお聞かせになると、僧は涙を流して申し上げることは、「国中にこの禁制が厳重であることは、すべてお聞き申し上げるところである。たとえ禁制がなくても、法師の身でこの振る舞いは、決してあってよいことでない。ただし、私は年老いた母を持っている。ただ私一人以外、頼りにしている者がいない。年齢は盛りを過ぎ身体は衰えて、朝夕の食事は容易でない。私は家が貧しく財産を持たないので、思いのとおりに養うのに力が足りない。中でも、母は魚がないと物を食べない。この頃、国中の禁制によって、魚や鳥の類は、ますます手に入れにくいことによって、身体の力はすでに弱っている。これを助けるようなために、心の置き所もなくて、魚を捕る手立ても知らないけれども、思いのあまりに川の岸に出た。処罰を執行なさるだろうことは、考えのうちにあります。ただし、この捕るところの魚は、今、放しても生きることはできない。私の身体の猶予を許されることができないならば、この魚を母のもとへやって、もう一度新鮮な味わいを勧めて、安心して聞き届け申し上げて、私はどのようにもなりましょう」と申し上げる。これを聞く人々は、涙を流さないということはない。
白河院はお聞きになって、親に孝行を尽くす気持ちが浅くないのを不憫に思い、感心なさって、さまざまの物を馬や車に積んでお与えになって、お許しになってしまった。足りないことがあったならば、ふたたび申し上げるのがよいとおっしゃった。
〔解説〕
白河院〔:一〇五三〜一一二九〕は、平安時代後期の天皇です。院政を行ったことで有名です。白河院は、仏教を深く信仰し、殺生を禁じました。『今鏡』には「生きとし生けるものの命を救はせ給ひて、隠れさせ給ふまでおはしましき(生きているすべてのものの命を救いなさって、お亡くなりになるまでいらっしゃった)」と語られています。殺生の禁令は何度も出ているようですが、「紀伊国、進ずるところの魚網を、院の御門前に焼棄す。その他、諸国進ずるところの羅網五千余帖を放棄し、以て、殺生を禁ず」という記事が『百練抄』〔:鎌倉時代後期に成立した歴史書。著者未詳〕にあるということです。ずいぶん過激なこともしているんですね。白河院は平安京の東の郊外の白河に法勝寺を建立するなど、仏教への信仰心が篤いのはそれはそれでよいのですが、人々が魚もまともに食べられなかったということですから、当時の食生活はどうなっていたんでしょうか。
僧侶が殺生をするのは戒律で禁じられています。それは十分に分かっていながら、この僧が母を思うあまりに魚を捕ったことに、白河院は「孝養の志浅からぬをあはれみ感ぜさせ給ひて」と感動して許しています。「ともしきことあらば、かさねて申すべきよしをぞ仰せられける」とありますから、白河院はよほど心打たれたのでしょう。杓子定規ではなく、白河院は柔軟なところもあったようです。
この『古今著聞集』の話とほぼ同じ話が『十訓抄』(六・一九)にあって、2009年度に大阪大学文学部で出題されています。「白河院説話を読もう」の「その8」で読んでいるので、参照してください。
 
近世仏教説話の一考察

 

江戸時代書林の発行部数が飛躍的に増加したと云われる元禄を境としてその前後の仏教説話書の刊行状況を検討すると、「元禄書籍目録(元禄五年刊)」に掲載の分は一四部を数えるが、この中、中国選述と平安末編集のものを除くと五部が残る。目録には脱落しているが現存する刊本に「地蔵感応伝(貞享二年刊)」「地蔵利生記(貞享五年刊)」の二部があるので、元禄五年以前に刊行された近世仏家編集の仏教説話書は七部二九巻四人の編者となる。
元禄九年、十一年、宝永六年、享保十四年、宝暦四年、明和九年の各書籍目録と、享保以後大阪江戸出版書籍目録との中より仏教説話書を摘出すると、蓮体の「鉱石集(元禄六年刊)」から馬琴の「金毘羅御利生略記(文化九年刊)」の刊行まで(一六九三-一八一二)、いわゆる江戸中期に三九部一八七巻二六人の編者を数えることができる。その中、元禄六-元文五(一六九三-一七四〇)の前半約五十年間に二三部一四一巻が出版され、寛保元-文化九(一七四一-一八一二)の約七十年間に一六部四六巻が出版され、文化九年以後は刊行が跡絶える。従つて近世における仏教説話の流行は江戸中期、殊に元禄-元文の間をピークとし、末期には消滅したと云える。
縁日、開帳、巡礼、福神信仰などの習俗信仰が庶民の間に流行するのが元禄前後からと云われているが、習俗信仰の流行と仏教説話の流行が、ほぼ時期を同じくしていることは両者の関連性を思わせる。近世は後世往生よりは個人の現世利益が追求され、神仏の霊験奇瑞、陀羅尼、念仏、題目、経典の現世利益的呪術的効験への期待が庶民の間に強く働いている。この庶民の期待が習俗信仰を流行させると共に仏教説話を流行させたものと思われる。
仏教説話には、響喩、因縁、本生、縁起、霊験、往生、僧伝など多種の説話が包含されているが、近世の仏教説話書には、「霊験記」「感応伝」「利生記」などの表題が多い如く、その内容にも霊験利益説話の比率の高いことが特色である。今、代表的と思われるもの数部について検討した結果、治病除災延寿獲福安産などの現世利益がテーマになつている霊験説話の説話総数に占める比率は、鉱石集の三三%が最も低く、妙憧の地蔵利益集の八五%が最も高く、他はすべて五〇%を越えている。このような霊験利益説話を主とした近世仏教説話の流行は、近世庶民の需要に応じたものと云える。
超海編「薬師瑞応塵露集」の「和州宇知郡東浄寺疸瘡神ハ薬師仏ノ応化ナル事」(巻三・第十二)妙憧編「仏神感応録」の「洛陽西ノ岡母集女村ノ薬師霊験ノ事」(巻八・第一)蓮体編「鉱石集」の「泉州牛滝五郎兵衛三十三所巡礼ノ因縁」(巻一・第二十)はそれぞれ、流行神、開帳、巡礼の勧化に直接結びついた説話の一例であるが、このような説話は、編者が習俗信仰と妥協することによって唱導の効果を挙げることを目的とした結果であり、蓮体が「役行者霊験記」の序に於て、行者の奇端のみを追求する時俗の迷を批難しつつも、「時二違ハズ俗二背力」ないために、行者の霊験を語り、福神の利益を集録したことを述べているのは、現世利益追求を次善のものとして認め、時俗に順応しつつ庶民教化を行う態度であり、近世仏教説話編者の多くに共通した姿勢である。
菊地良一氏によれば、日本の仏教説話書は、印度中国の仏教説話の集録、中国の故事逸話や日本古代中世の一般説話の仏教説話への組替へ、日本の風土的な生活感情で培われた信仰の体験の中から生まれた説話によって構成されていると云われるが、近世仏教説話も又例外ではない。ただ、近世にはこのような書承伝承説話の集録、再生産よりは、庶民の現実生活に密着した事象の説話化に重点がおかれ、庶民の日常生活の中に説話の素材を発掘している点で、極めて庶民的であると云へる。庶民の日常生活と密着した習俗信仰を素材とするのもこの傾向の現われである。仏教説話が唱導を目的としたものである以上、元来庶民性を有するものであるが、近世仏教説話は右の意味で古代中世の仏教説話に比して庶民性が強いと云えよう。
鈴木正三の因果物語の編者雲歩の序には「殊に此物語は元亨釈書沙石集に載る所よりも、証拠正しくして初心の人の為に大幸ありといへども只今現在する人の仮名有之を以ての故に門人堅く秘して世に不出也」と述べられているほどに現実的身辺的説話が多く語られているのである。
説話の日常性ひいては信愚性を印象づけるために、年月日、場所、登場人物の名前職業などをできる限り正確に語り、編者自身の見聞或は見聞した人からの直接の話であることを強調する。例へば正三は「牛雪和尚より直談に聞くなり」マノアタリ(因果物語上巻・第一)妙橦は「面聞テ或ハ哀ヲ催シ」(仏神感応録巻七・第二)蓮体は「近処ノ僧面会予二語レリ」(役行者霊験記巻下第三七)必夢は「予ガ眼前二見タル地蔵ノ罰ナリ」(地蔵経鼓吹巻三・第五五)という語り口を随所に用いている。今、蓮体の代表作鉱石集(正続六巻)について検討するに、説話総数二二九話中、近世に素材をもつ説話が一八六話(年代記載がなくとも前後の事情より近世と推定されるもの三二話を含む)で八一%に当る。それらの説話の主人公の職業別は、大名三、武士二一、富商一九、庄屋及富農一三、僧二九、農民二九、職人一〇、馬子・船頭・下僕・狩漁人・物売・相撲取. 浪人など三一、童子四、不明二七と類別される。この中、農民以下童子までを庶民層とみると七四人を計えるが、僧の中、讃州安宅の教清(巻四・第二)河州万福寺の弟子慧順(続巻上・第十一)高野山晩年入道自休(続巻下・第九)など比較的下級僧と考えられるもの一六人を加えると九〇人となり、庶民階層を主人公とした説話は、近世説話の五七%を占める。不明とは或る男或る女などと語られているものでその殆んどが庶民層に属すると思われるのでこれを加算すると六三%に達する。このような類別は、蓮体の唱導範囲を推察せしめうると共にその庶民性を裏付けるものである。
現世利益の効験の確実性への庶民の強度の欲求が、今は昔の物語よりは、日常的事象の説話化を期待したのであり、この期待が書林の出版に影響を与え、説話編者への書林の要求となつた事情を、我々は必夢の地蔵経鼓吹(別名・延命地蔵経直談鋤)の蹟文にみることができる。即ち「余当鋤始錐レ引二証前録効験少分一書林族従二嫌障一近所レ及二見聞一正跡髄集二霊応一誌レ舷侍計思不レ因二梓人轡一争為レ隠感応出レ世」と述べて書林の要求によつて近時見聞の霊験説話を加へたことを告白している。
近世仏教説話が庶民の側に立つことによつて、民心を離れた教団仏教、庶民を愚弄する民間祈濤への批判的発言を覗かせる場合がある。白隠は地獄より蘇生したお蝶という娘が母に地獄の苦患を語るという構成の説話(延命十句観音経霊験記)の中で「いとも貴き智者高僧僧正よ阿闇梨よ能家よ長老よ大善知識よ大和尚よなと称せられ」た人々が、堕地獄して苦しむ有様を細かに描写することによつて、世俗の儒学者と教団仏教への強い批判を示した。蓮体は「渡世ノ為ノ山伏」を批難し(役行者霊験記)巫蜆陰陽師称宜山伏など当時の民間祈濤師の無効験を難じる一方、真言利益の優越を唱導して民間祈濤との対決の姿勢を示した。(観音冥応集巻四・第七・第八)
近世仏教説話には、継子いじめ、女性の執念への警告など庶民の生活倫理を説くことが多いが、殊に孝の倫理を強調する点は見逃せない。「江州木本ノ地蔵菩薩孝心を感ジテ憐ヲ垂レタマフコト」(地蔵利益集)「仏・孝ヲ説キ玉フ事」(鉱石集)「親二孝心アル者禍ヲ免レ福ヲ得ル事」(薬師瑞応塵露集)「洛東六波羅密寺琶掛地蔵尊之縁起」(地蔵経鼓吹)などその例である。孝の倫理を仏教本来の倫理として強調する裏には、「仏法により孝道衰う」という排仏論への対抗」意識があると共に、儒教論理との妥協を通して幕藩体制への順応意識が働いている。仏教説話には概して、因果応報、勧善懲悪を唱導するものが多く、体制順応の世俗倫理に終始する結果となる。既にみた習俗信仰との妥協といい、体制順応の世俗倫理を強調する点といい、近世仏教説話は、近世庶民の後向きの姿勢と密着していたと云わざるをえまい。
蓮体の観音冥応集が西国霊場の縁起説話を含む故に、西国巡礼案内としての性格を具えているとも云えるが、各種の霊場記には更にこの性格が強まる。しかし厚誉の「観音霊場記(享保十一年)」にみる如く、案内書としての性格は強まつても、縁起霊験説話を数多く集録している点で仏教説話書と同質であり、更に「西国巡礼十種の功徳」(巻十)を挙げ、次いで因果の理を裏付けとして巡礼者の倫理が具体的に説かれ相互扶助の精神が述べられている点で極めて唱導性が強く、霊験記と同質であるといえる。
ところが西川某の「西国巡礼細見記(安永五年)」になると可成りの変質がみられる。細見記には、霊場の本尊、開基、宗旨、坊数、来歴を極めて簡単に招介する一方、道中の宿所、舟渡し、里程、旅銭等に関しての記述は詳細を極めている。「順礼十種の徳」を数える所は霊場記の面影を残しているが、「順礼十三ケ条心得の事」として「はらぐすりきつけもつべし」「日のうちにはやくやどをかるべし」などを箇条書きにする当りは、倫理性も唱導性も認められない。このように細見記には、説話は集録されず、唱導性の欠除が目立つ反面、案内記としての性格が表面化する。
霊験記←霊場記←細見記・名所記・道中記という変質過程は唱導性の欠除への過程とみられないだろうか。この変質は庶民の習俗信仰が遊山・遊興化することと無関係ではなく、庶民信仰は次第に庶民仏教家の手のとどかない所で続けられてゆくことを物語るのではなかろうか。「西国巡礼たびすすめ」(藤屋伊兵衛著)「西国巡礼行程図」(寺島順安著)など案内書の作者には在家人が多くなつてくるのである。
唱導性の喪失は仏教説話の没落を意味する。文化九年以後、仏教説話書が書籍目録から姿を消してゆく原因もこの当りにあるのではなかろうか。
 
怖い仏教説話

 

仏教の怖い話といえば地獄
寛和元年(985)、浄土教の僧源信が仏教の経典をもとに『往生要集』を著しました。第一章は地獄についての説明です。地獄には等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、無間地獄の8つの種類があり、その大きさやどんな責め苦にあうかを細かく描写して人々の恐怖心を煽り、入信を勧めました。
焦熱地獄
獄卒は罪人を捉えると、熱鉄の地面に横たえ、仰向けにしたりうつぶせにしたり、頭から爪先に至るまで、焼けた大きな鉄の棒であるいは打ち、あるいは搗き固めて、さながら肉団子のようにしてしまう。時には沸騰する巨大な鉄鍋の上に置き、猛火で炙り、左右に転がし、腹を焼き背を焼いて薄くのしてしまう。時には巨大な鉄の串を肛門から頭へと貫き通し、裏返し裏返しして火に炙る。罪人のもろもろの器官や毛の孔、口の中に至るまで、みな火を吐くまで焼き上げる。あるいは沸る鉄の釜に入れ、あるいは熱い鉄の高楼に置く。すると鉄火は熾烈を極め、骨といわず髄といわず、くまなくしみとおるのである。ここの寿命は一万六千年。
幽霊が出てくる最も古い仏教説話
日本最古の仏教説話集『日本霊異記』は、弘仁年間(822ごろ)に薬師寺の僧景戒が著しました。正式タイトル『日本国現報善悪霊異記』が示す通り、因果応報や不思議な霊験の話を盛り込んで人々を仏教に惹きつけました。
原本は失われ、この写本は12世紀ごろのものです。装丁は綴葉装てつようそうといい、数枚の料紙を重ねて二つ折りにし、現代の大学ノートのように、数くくりを重ねて折り目に糸を通して綴っています。
下巻 第廿七「髑髏の目の穴の笋をぬき脱ちて、以て祈ひて霊しき表を示し縁」
寶龜九年、備後国の人が日暮れに竹藪を通ると、うめき声が聞こえ「目が痛い」と言っている。朝になって見てみると髑髏があり、目から筍が生えていたので、早速これを抜いてやり供養した。帰りに同じ竹藪で野宿すると髑髏が幽霊となって現れ「叔父に殺された」と話し、両親の家に連れて行った。家にいた父親は自分の弟が息子を殺したと知るのだった。

『三寶繪詞』は永観二年(984)、源為憲が冷泉天皇第二皇女尊子内親王のために仏教をやさしく解説したものです。中巻の大部分は『日本霊異記』から採っており、若い親王のために優しく改変しています。「絵詞」なので元々絵がありましたが、残念ながら伝わりませんでした。
日本最大の説話集
『今昔物語集』は、平安時代の末期に形成された日本最大の説話集で、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の当時でいうところの全世界の説話が31巻に1000話以上納められています。  原本は失われ、興福寺の僧によって書写された鈴鹿本が最古の写本です。
巻第十四第三「紀伊国道成寺僧写法華救蛇語」は、安珍・清姫の説話です。能、歌舞伎、浄瑠璃などさまざまな題材に転用されました。
百鬼夜行
深夜に鬼や妖怪の群れが行進する様子が、平安時代から室町時代にかけていろいろな説話に登場します。
『打聞集』(うちぎきしゅう) は平安後期の仏教説話集。長承三年(1134)頃に僧榮源が写本した下巻のみが残っています。「昔、」で始まる漢字片仮名交じりの文体でインド・中国・日本の説話27編が収録されています。
「昔、西三条大殿ノ御子君若御」
東大宮方(ひがしおおみやのほう)ヨリ人二三百人火炬(とも)シテ来たる。御戸柱本(はしらもと)ニテ典(ただし)居給(いたまい)ヌ。火炬物共(ひともすものども)過(すぎる)ヲ見(みれ)バ、手三付(みっつつき)テ、(足)一付物(ひとつつきるもの)有(あり)。面ニ目一ツ付物(つきるもの)有(あり)。
芥川龍之介の元ネタ
芥川龍之介は『今昔物語集』や『古今著聞集』『十訓抄』『宇治拾遺物語』など中世説話文学をもとに、数多くの作品を書いています。『地獄変』は、『宇治拾遺物語』や『十訓抄』の「絵仏師良秀」から着想を得て創作されました。
十訓抄
『十訓抄』は鎌倉中期の説話集。建長四年(1252)六波羅二搓カ衛門入道著。十か条の教戒を立てて、約280の説話を年少者のために集めました。
不動明王の炎を上手に描くために、火事になった我が家を見物する絵仏師の良秀。
沙石集
『沙石集』は、鎌倉時代の仏教説話集。弘安六年(1283)成立。庶民にわかりやすく仏法を教えるため和歌説話、動物説話、因果応報説話、笑話、地方の珍話など実際に取材した話が多いのが特徴です。一度完成した後も無住自身による二度の大改訂と後人による改変により、記述に差異のある伝本が多数存在しています。
巻ノ八第九「愚痴ノ僧之牛ト成ル事」
学問も修行もせず、ただお布施をもらうだけの僧が、ある日三河の師の元へ行って坊に入ろうとすると、小坊主が棹を持って打ちに来る。「これはどうしたか」と言おうとすると声が出ない。小坊主が「この牛は何か思うことでもあるのだろうか」と言うので自分を見てみると牛になっていた。罪を消す尊勝陀羅尼のお経を唱えようと思っても覚えていないので唱えられない。題名すらもちゃんと発音できないので「そそ」と言うだけだった。三日三晩頑張って「尊勝陀羅尼」と言えた時、元の法師に戻ることができた。それからは尊勝陀羅尼を一生懸命勉強した。
江戸時代の逆立ち幽霊
江戸時代の挿絵で幽霊が逆立ちしていることがあります。これは井戸や川などにつき落とされて殺された死にざまを表しています。また底なしの無間地獄へ落ちているイメージもあったと思われます。
『因果物語』は、寛文元年(1661)江戸前期の仮名草子。鈴木正三自身が見聞した仏教の因果話を中心に諸国の怪異譚を、時、場所、名前などを掲げてリアリティを持たせています。弟子の義雲と雲歩が刊行した片仮名交じり本と絵入り平仮名本(了意筆)があり、本学所蔵は平仮名本。
巻第二第一「妬て殺せし女主の女房をとり殺す事」
本妻に嫉妬され、井戸に突き落とされて殺された幽霊が、舟に乗せてくれと頼んでくる場面。このあと本妻をとり殺しにいきます。
ドッペルゲンガー
生き霊、分身、一人が同時に違った場所に現れたりする現象ですが、日本にもドッペルゲンガーの話があります。唐時代の伝奇小説『離魂記』から採っています。
江戸時代の出版文化の発達に伴い、仏教説話が板本となって民間に流布しました。
巻之十一第七「倩娘離魂ノ事」
倩河の張鑑の娘、倩娘には王宙という許嫁がいたが、幕僚の賢者に嫁がされることになった。宙は深く恨んで都に行こうと舟に乗り、数里行ったところで、夜倩娘と出会う。彼女を舟に匿って、蜀国で五年暮らした。二人の子どもも生まれ、倩娘は両親に会いたくなったので、宙と共に故郷に戻り、先に宙が両親の家に行って、倩娘との不義を謝った。すると父親は、倩娘は病で数年臥せっている、嘘をつくなと言う。倩娘は舟に残っていると答えると、父親は使者に舟を見に行かせた。すると本当にその通りだった。使者が戻り事実を報告すると、臥せていた娘がこれを聞いてとても喜び、起きだして外に出て、倩娘に会うと、二人は一つの体になったという。
大蜘蛛
歳を経たクモが怪しい能力を持つという俗信から、怪談、文芸、芝居などに取り上げられています。
『狗張子』は、江戸前期の仮名草子作家、浅井了意が著した近世怪異小説。先行の『伽婢子』(おとぎぼうこ)の続編。初板は元禄五年刊。中国の伝奇小説や『太平記』『本朝神社考』などを題材にしています。
巻第七第二「蜘蛛塚」
山伏の覚円が五条烏丸あたりの大善院で一晩泊めてもらおうと頼むと、粗末な小屋を提供された。覚円怒って聞くと、本堂には妖怪が住んでおり、三十年間に三十人が死に、死骸も残らないという。覚円が本堂で寝ていると、夜あたりが寒くなって、堂内がしきりに震動した。そして天井から大きな毛の生えた手が覚円の額をなでた。覚円が刀で払ったところ、朝見てみると大きな蜘蛛が死んでいた。
於千代物語
江戸時代、九州の薩摩藩や人吉藩では浄土真宗(一向宗)が弾圧がされていました。一向一揆の情報が伝えられ、大名が恐れたり、「生きとし生けるいのちは等しく尊い」という教えが封建体制に添ぐわなかったのでしょう。
家中青木清助の娘お千代は十八歳の時、京都見物にかこつけて国の掟に背き本願寺を参詣した。三年後の寛政八年七月ついに見つかり、お付きの者と共に処刑されてしまう。すると涼しい風が吹き、西方より紫雲たなびき異香が香って、音楽が響き渡った。打ち離された首が一つ一つ地面から八尺(2.5メートル)浮き上がり、西を向いてしばらく念仏を唱えると、顔は麗しくほほえみを浮かべ、紫雲に乗って西へ飛んでいった。
おつゆ蘇甦物語
越後国の百姓喜助の女房おつゆは全く信心しないので、夫が心配して旦那寺の住職に相談し説法してもらう。しばらくしておつゆは妊娠するが、大変な難産で苦しんだあげく死んでしまう。旦那寺の住職もその日に亡くなったが、次の日頼み込んで葬式をしてもらうと、おつゆは蘇甦し、そして極楽浄土がどんなにすばらしい所だったかを語りはじめる。また、自分の本当の寿命は四年後ので、母は来年の十一月二十日であること、今生より十六代前には金持ちの家の嫁であったが、夫の妾を憎んで毒殺したところ、その女が赤子として自分に宿り、難産で命を奪ったのだと話した。それが証拠に極楽で旦那寺の住職と会い、自分と同じ日に死んだと言っていたと話した。母親はその言葉通り次の年の十一月二十日に亡くなった。
 
死霊解脱物語聞書

 

[しりょうげだつものがたりききがき] 元禄三年(1690年)に江戸で出版された仮名草子で、下総国羽生村(現在の常総市)での、慶長十七年(1612年)から寛文十二年(1672年)までの60年にわたる子殺し、妻殺しから親子三代の因果として起きた死霊の憑依騒動を、浄土宗の僧祐天が念仏称名によって解脱に導くという、仏教説話の勧化本の体裁をとっている。
著者と登場人物​
著者は作品中で自身を浄土宗の僧らしき「残寿」と名乗っているが一切不明であり、ただの一僧侶の筆力ではなく、またこれほどの作者が他に作品を残さなかったのも奇異の感がある。本書が浄土宗門の異端ともいえる祐天一派と幕府の企画したプロパガンダ出版だとすると、有力な作家を密かに起用し、彼らとの関わりを秘するために偽名を使用した可能性もある。また祐天自身が作者であろうという見方もあり、多くの信者を集めていた祐天は話術、説法に長けていた雄弁家と見られ、この程度の著作は十分可能だったと考えられる。作者が正体不明でこの一作で終わっていること、作品の記述が浄土宗の説法に沿うこと、語調が読み聞かせに適した文体であることはこの推測に符合する。
作者が全く不明である一方、登場人物の祐天和尚(1637年 - 1718年)は芝増上寺法主として大僧正にまでなった実在する浄土宗の高僧であり、本書はその存命中に出版されたことから、祐天本人か側近の監修を受けていると考えられる。弘経寺住職の檀通上人や利山和尚も実在し、また村人の累、与右衛門、菊、名主の三郎左衛門、年寄の庄右衛門などの名が当時の法蔵寺の過去帳に見えることから、おそらく実在人物の名を取ったものと見られる。作中に見える鬼怒川沿いの地名や、浄土宗檀林の弘経寺をはじめ、累の墓がある法蔵寺、霊仙寺、報恩寺なども常総市に現存する。
物語の内容​
冒頭に「菊と申す娘に累といえる先母の死霊とりつき因果の理を顕し」とあるように、本書は因果応報を説く仏教説話として書かれている。あらすじは以下の通りである。
下総国羽生村の農民与右衛門は入り婿だが、醜く性悪な妻の累を嫌い鬼怒川で殺害した。目撃した村人も皆累を嫌っていたため黙過した。与右衛門は妻の供養もせず田畑家財を手に入れ後妻を貰うが次々死に、六番目の妻が娘の菊を生む。菊が十三の歳にその妻も死に、菊に婿を取らせるが、翌年正月に菊は発病して苦しみ、やがて自分は殺された先妻の累で復讐に来たと言い出す。村人は与右衛門に剃髪させ謝罪させるが怨霊は離れず菊は苦しみ続けた。村名主が怨霊と問答の末に、その望みは読経ではなく念仏供養による成仏と聞いて、村中の念仏を興行し怨霊は去る。回復した菊は怨霊憑依の間地獄極楽を巡っていたとその様を村人に語るが、それは仏典に書かれた通りであった。
二月になって再び怨霊が菊に憑き、凡俗の念仏では成仏できないと石仏の建立を要求する。名主は過ぎた望みと拒むが、苦しむ菊を見かねて怨霊に石仏の建立を約束する。翌日村中が集まる中で、名主は怨霊に再度の念仏供養をする代わりに亡くなった村の先代たちの冥途の行く末を教えろと頼み、まず自分の親の消息を尋ねると地獄に堕ちたと言い、その他の村人の親たちも大半地獄に堕ちたという。偽りだと怒る村人に、怨霊は因果の理として親たちの悪事の証拠を片端から暴露するので、驚いた名主は問答を打ち切り念仏供養を行って怨霊を去らせ、菊は回復した。
翌三月になって再び菊に怨霊が憑き、約束を守らないと名主をなじる。困り果てた名主の嘆きを弘経寺の家人が聞き祐天和尚に知らせた。祐天は最初宗門の傷になってはと逡巡するが、六人の学僧と共に怨霊と対決するため夜に紛れて羽生村に行った。苦しむ菊を見て祐天らは読経、念仏を繰り返すが怨霊は去らない。気づくと村中の者が詰めかけて見守っていて、後に引けない祐天は意地の領解を発して命がけで臨もうとするが、菊自身による念仏を思いつき、抗う菊の髪をつかみ無理やりに念仏させることで怨霊は退散した。弘経寺に戻った祐天は、菊は地獄極楽を見た因果の理の生き証人だとして、今後の衣食の援助を寺に委嘱した。石仏は建立され弘経寺での開眼法養の後に羽生村の法蔵寺に安置され、累は理屋松貞と戒名を授けられ成仏を遂げた。
全て解決と思われた四月に村年寄が弘経寺に駆け込み祐天に怨霊の再来を告げた。驚き駆けつけた祐天が村中が見守る中で苦しむ菊の髪をつかんで怒り返答を強いると、自分は助という小児で鬼怒川に投げ込まれたという。祐天は名主に糾明を求めるが嫌がるので、怒って役人に届け出るぞと脅して村人に触れまわさせた。六十年前の事件を知っているという古老から、助というのは累の実父である先代与右衛門の後妻の連れ子で、障害があったため与右衛門が邪魔にして後妻に鬼怒川に投げ込ませたのだと聞きだす。その後生まれた累も同じ障害を持っていたため、村人は因果の報いと噂していた。祐天は助の身の上に涙しながら単刀真入と戒名を与えて念仏称名し、村人が唱和する中で入日差す周囲は荘厳な光に包まれ助は成仏した。
菊は回復すると出家して祐天の弟子になりたいと言い出し、名主と共に弘経寺の祐天を訪れるが祐天は菊の出家を許さない。菊の発心を尊び出家させよと迫る名主に祐天は笑って、菊は幼い身で出家は哀れだし、半端な修行で尼になって村の庇護を受けても真の修養はできない。むしろ在家で念仏を務めれば、女人でも極楽往生できるのだと諭した。菊は出家をやめて働き、家も栄えて子供も二人でき、今も安楽に暮らしているという。
本書に先行する著作として椋梨一雪の「古今犬著聞集」天和四年(1684年)があり、この巻十二に祐天和尚の加持除霊話がいくつか載っている中の「幽霊成仏之事」が本書とほぼ同一の、羽生村農民与右衛門の妻「累」殺し、累の怨霊の後妻の娘「菊」への憑依、祐天の念仏による解脱、菊の地獄極楽物語り、累の異父兄の「助」の憑依、祐天による再度の念仏による解脱、という筋書となっており、本書はこれを下敷きにして書かれたと見られる。しかし「古今犬著聞集」のほぼ筋書きだけの簡単な著述に対し、本書には著しい潤色が加えられて読み物として格段の充実が図られている。
その潤色された部分では、累の霊が述べる罪人の末路やそれを救う念仏の功徳、菊が語る地獄極楽の様相から、祐天が加持祈祷ではなく、ひたすら念仏によって死霊の救済を試みるなど、浄土宗の聖典である「往生要集」から多くを引用して念仏の効用を説き、もっぱら浄土宗の宗旨に沿った称名念仏のみによる救済を目指し、苦戦しながらも達成する様子が記述されていて、祐天の功績を称揚しつつ異端霊能者として大衆があがめる祐天像の修正を図っていると見られる。一方、祐天をはじめ累、村名主、菊などの登場人物の性格、心理、葛藤なども細かく描写され、特に祐天は、短い間に幾度となく喜び笑い、泣き、怒って見せ、また出家を願う菊の後押しをする村名主に向かって「年端もいかぬ若い身で出家など可哀そうだ」と一喝するなど、世俗を離れた修行僧ではなく人情味にあふれた人物として描き出されている。祐天自身の出家が数え十一歳だから十四の菊が出家に若すぎるということではなく、あくまで菊の世俗的な幸福を配慮しての方便と見られる。後に書かれた祐天伝に見られるように、近世の高僧伝はその人間性に焦点をあてたものとなっていくが、本書が既にこのような方向性を打ち出している。これが祐天自身の筆であるという見方も説得力があるが、ここまで自分で自画像を描いたかという疑問点もある。夜間人目を避けて羽生村を訪れ除霊を試みる祐天らが、再三の念仏も通用せず意気を殺がれて振り返ると、村中のものが詰めかけて成り行きを見守っているなど、映画に見るような劇的な場面構成や、怨霊の方が村人を「亡者をたぶらかす」となじるなどユーモラスな場面が描かれている。また意地の領解として、歌舞伎のような大見得と啖呵を切ったり、再三の念仏に怨霊が去らないのは本人に唱えさせないからだと気付くなど、祐天の信心、熱意と決意、そして機略などの描写が、読んで面白いスリリングな娯楽性を併せながら続いている。新著聞集その他の祐天伝においても祐天の除霊がいくつも紹介されるが、いずれも祐天自身かその教示による念仏で怨霊は成仏しており、本書に書かれたほどの悪戦苦闘は他にない。それは何も累が特別に執念深かったというより、本書における意図的な拡大、潤色の創作の結果であろう。
本書の内容は、上記のように実在の人物や寺院が登場することから、死霊はともかく何らかの実際に起きた事件に基づくと見られるが、現在常総市の法蔵寺にある、累の墓碑とされ物語中で建立される「理屋松貞」銘の如意輪観音碑には承応二年(1653年)という刻印があり、累が殺されたのが正保四年(1647年)、憑依があったのが寛文十二年(1672年)とする本書の内容に合致するものではない。また累の一件は事実としても助の事件は後から加えたものではないかという見方もある。奈良時代に書かれた「日本霊異記」に、前世からの因果応報を説く「行基大徳、(障害のある)子を携うる女人に過去の怨を視て淵に投げしめ異しき表を示す縁」という記述があり、本書のこの部分は他の仏教説話の中に古い起源をもつ可能性もある。
記述形式​
本書は浄土宗の勧化本の形をとっているが、浄土宗は除霊の加持祈祷を異端行為としており、祐天は出版当時の元禄時代に宗門から離れて除霊などしていたので、宗門の正規の祐天伝にこのような事蹟は記載されていない。本書を宗門の所化僧が公然と執筆、流布し、勧化本として説法に用いた結果宗門の拡大に結び付いたとは考えにくく、正規の浄土宗門ではない祐天周辺の教団、さらに祐天人気が取り込んだその外側の一般大衆や幕府勢力をも対象とした出版だったと見られる。 記述形式としては、題名の通り「聞書き」即ちルポルタージュであって、著者が実際に見たことではないが、この事件にかかわった祐天上人や村人から直接聞いた実話とされ、伝奇伝承の話ではない。また死霊の顕現は菊の言動を通して語られるに限られ、その姿は菊の夢や幻覚中でのみ描かれ、祐天をはじめ他の登場人物の耳目には一切触れないなど、憑依された菊の異常な言動という現実的描写のみによる実話という形に厳格に徹して、他の怪談奇談とは一線を画してる。助が成仏する時、小児の姿が仄見え、あたりが金色の光で包まれたという奇蹟のクライマックスシーンでも、「日もくれ方の事」と夕映えの光でそう見えたという現実的な説明が添えてある。
本書は、本文を上下巻各六段に区切り、各段の冒頭でそれまでのいきさつに触れたり一応の完結を見たりと、連続ラジオドラマ風の構成が組まれている。さらに文章は句点を多用して短く区切り、要所に七五調の語調を取り入れるなど、後に翻案される浄瑠璃にも通じる読み語りを意識した書き方で、これは本書が単に出版販売のみならず、読み聞かせによる非識字層までの流布をも意図しているプロパガンダ出版物で、その狙いは、古今犬著聞集から大幅に潤色された部分で端的に示されるように、浄土宗の勧化、説法の形を借りて、浄土宗門と一般大衆の両方に対する祐天の評価、人気の向上にあると見られる。さらに本書の内容が、妻殺し、子殺しに対する報いであることから、出版と同時期に発布された「捨て子禁止令」など、戦国時代以来の殺伐とした世相を改善しようとした五代将軍綱吉下の幕政とも協調したものではないかともみられる。先の日本霊異記の説話では因果の理ゆえに障害を持った子の遺棄を正当化する内容だったが、本書ではそれを非とし祐天は子の身の上に涙しているのも、それ以前の因果話と一線を画している。浄土宗門では異端扱いであった祐天が、五代将軍綱吉と生母桂昌院、六代将軍家宣と正室天英院の信任を得て後に大僧正まで上り詰めたことから、祐天と幕府との深い協調関係が窺われる。
出版
本書は「元禄三年午(1690)十一月廿三日 本石町三丁目山形屋吉兵衞開版」の奥付(元禄版)と、「正徳二壬辰歳(1712)改 川村源左衞門開板」の奥付(正徳版)の二種が知られているが、誤記、ふり仮名、送り仮名の訂正があるのみで本文に変更はない。しかしそれぞれの版の本に何種かの訂正の異同があり、また正徳版からは西村重長の挿絵入りの物も出ていることから、幾度も重版、改版が繰り返されたことが知られる。さらに肉筆の写本もいくつか伝わっており、本書の人気が高かったことが窺われる。
出版以降の推移​
本書自体が評判を取り流布したと見られるが、それ以降に本書に続く流れは大きく二つあり、祐天上人の伝記としての継承と、浄瑠璃、歌舞伎などの翻案でいわゆる「累もの」と呼ばれる作品群である。 祐天の伝記はほぼ本書内容を継承しており、本書は史実として受け入れられていた。なお浄土宗正史の祐天伝には、当然異端となる除霊活動は書かれていない。しかし馬琴が「新累解脱物語」を執筆するに際し、版元の河内屋太助が本書を馬琴に送り、本書は「文辞粗漏にして婦幼の耳目を楽しまするものにあらず。願はくは先生修飾してその奇を増すを乞ふ」としていて、本書自体が大きな評判を得たにもかかわらず、馬琴の作品にある様な娯楽性を欠いた、文学作品ではない実録、ノンフィクションであると受け止められていて、このような見方は近年まで続いた。
本書を取り入れた祐天の伝記書(実際は大同小異だがさらに多数ある)
・『新著聞集』寛延二年(1749年)
・『祐天大僧正御伝記』宝暦十三年(1763年)
・『祐天上人一代記』享和四年(1804年)(伝記とはいっても大幅な創作が入った読み本)
・山東京伝『近世奇跡考』文化元年(1804年)(羽生村を訪れ、累の殺害現場を累ヶ淵とした)
・祐海『祐天大僧正利益記』文化五年(1808年)
・山東京山『かさね得脱実記』天保十一年(1840年)
・仮名垣魯文『成田山御利生記』安政二年(1862年)
一方「累もの」の発展流布は津打治兵衛の「大角力藤戸源氏」享保十六年(1731年)に始まり、土佐浄瑠璃の「桜小町」享保十九年(1734年)を経て以後多数の作品が出た。「桜小町」で原作にない美醜が表裏の関係という小町伝説にからめた設定が採用されている。本書における「親の因果が子に報い」という概念の導入は浄土宗の法理にはないもので、本書の勧化の本筋からも外れたものである。本書において累の怨霊が説く「因果の理(ことはり)」とは当人の現生の悪事により来世では地獄で罰を受けるということである。仏教の六道輪廻の考えでは、現世の親子でも前世、来世ではそれぞれの因果を背負った赤の他人か人間ですらないものなので、親の所業が子に及ぶということはない。前記の日本霊異記の話も、女人と障害児がそれぞれ前世で確執のある同士の生まれ変わりのための因果応報の物語になっており、親子の間に因果の関係があるのではない。もし日本霊異記や因果物語などの法理に従うなら、累は助の生まれ変わりとして与右衛門夫妻への復讐のために転生したということで祟りの筋が通るのだが、本書では累は助とは別の存在であり、因果の理が計りがたく筋が通らない。本書において因果応報の原理が破綻しているのは、本書の主眼がそこになく、むしろ地獄極楽の後生の興味本位な描写にあるからだという見方もあり、本書のプロパガンダ出版説とも符合するが、この不条理な因果こそが本書の眼目でもあって、累はまったく無辜の身でありながら、親の罪障により醜く生まれて障害に苦しみ、嫌われ疎まれて惨殺されなければならなかった。累がこのような親の因果を背負っているという点がそれまでの仏教説話にないもので、この酷さ惨めさ、理不尽さが、当時の作者たちを刺激して、続く「累もの」の主要主題になった。歌舞伎における、累が本来は美しい女だったというそれまでにない設定は、女形を引き立てるためだけでなく、祟りの理不尽さ、惨めさを一層強調するためだったとも考えられる。特に鶴屋南北はこの物語に強い関心を持ち、以後いくつかの「累もの」の作品を残しているが、本来勧善懲悪を旨とした因果応報の法理が土俗的な信仰と合体して、江戸後期には南北にあっては善悪の法理を脱却した「異界的空間」の構成に、勧善懲悪に留まった馬琴にあっては「暗鬱なニヒリズム」の中に展開することになったという見方がある。
累ものの中の累の人物像も、生来醜く性悪な女から貞淑な美女と嫉妬に狂った鬼女まで入れ替わるものなどさまざまである。本書では夫と野良仕事に出かけ夫より重い荷を背負ったり、地獄問答では予め「腹を立てないように」と気遣ったりしており、更に菊を苦しめたとあるが、本書の展開では菊は累が憑依している間に体外離脱して冥途見物をむしろ楽しんでいて、累に苦しめられた記憶はない。その間に累が菊に入れ替わって死の苦しみを演じて見せていただけと見られ、村人が菊に問いかけると、すぐ苦しむのをやめてすらすら返事をするのも、累の自演らしさをうかがわせる。ただ物語後半では本当に菊を苦しめている模様である。また怨霊の再三の出現も与右衛門への復讐は最初の犯行暴露のみで、四谷怪談のお岩のように執念深く周囲を巻き込んだ凄惨な報復をするわけではなく、与右衛門自身も物語の最初の二段しか登場しない。累は二十六年間恨んで祟り続けたわけではなく、累の言葉では二十六年ぶりにやっと地獄からこの世に戻ってきただけで、その間の与右衛門の妻六人の死と不作続きの困窮という不幸は、累が死に際に残した呪いと自らの悪業が招いた自業自得だという。累はその後も再三現れはするが、与右衛門のことなど忘れかえったように、村人との問答で因果の理を説き、専修念仏に導き、仏像を建立させるという、むしろ結果的に進んで村人を勧化する役割を演じていて、後代、因果と復讐に絡め様々に変遷した累像とは全く異なる。累が地獄問答において、村人の親たちの旧悪を次々暴露して村を存亡の危機に陥れたのは、累殺害を黙認した村全体への報復だという見方もあるが、悪事の暴露を「其科を出すべし」と要求したのは村人の方で、そもそもこの地獄問答自体も村人の提案である。「知らぬもあらんか」とためらう累に、名主が強引に「くわしくかたりて聞せよ」「知りたるばかり答えよ」と要求し、累が「かまへて腹ばしたたさせたまふな」と断って答えた結果であって、累が勝手に言いふらしたのではない。本書では羽生村の二十六年前からの伝承では「かだましきゑせもの=ひねくれた嫌われ者」とされていて、この容貌に伴う心根の醜さが古今犬著聞集から累ものに至る累の変容の端緒とする見方もあるが、本書ではむしろ暗に累の実像を良く修正している。後世の累ものは、本書には全くない恋愛、情欲や嫉妬などの要素を加味するため、これら全てを累の上に背負わせたと見られ、元禄から近世を通じて人々は累に深い同情と共感を寄せていたといえる。
明治以降本書自体は顧みられなくなったが「祐天大僧正御伝記」などが講談として語られ、またその頃、怨霊事件から百年後の安永・天明・寛政年間に同じ羽生村で起こった別の惨劇の話として作られたスピンオフ作品、三遊亭圓朝の怪談噺「真景累ヶ淵」は何度か映画化されて今日に至っていaる。これは全く別の怪談噺だが、幽霊=幻覚(=神経病=真景という掛詞になっている)として扱われているという本書の趣旨が継承されている。
「累もの」の主要作品
・津打治兵衛『大角力藤戸源氏』享保十六年(1731年)
・浄瑠璃『桜小町』享保十九年(1734年)
・藤本斗文『曽我累物語』「累解脱蓮葉』元文四年(1739年)
・桜田治助『伊達競阿国戯場』安永七年(1778年)
・曲亭馬琴『新累解脱物語』文化四年(1807年)
・鶴屋南北『法懸松成田利剣』文政六年(1823年)
・三遊亭圓朝『累ヶ淵後日の怪談』安政六年(1859年)(後に「真景累ヶ淵」と改題)
・河竹黙阿弥『新累女千種花嫁』慶応三年(1867年)
・松浦だるま『累-かさね-』平成二十五年(2013年)
・山本隆世『解体-死霊解脱物語聞書-累麻疹』平成三十年(2018年)
現代の研究・評価​
明治以降本書が顧みられることは少なかったが、柳田によって全文の印影が、服部によって詳細な紹介と全文の活字翻刻が初めて出版され、さらに高田により本書の包括的解析と再度の翻刻が行われるに至った。それ以後上記本文引用にあるような研究がいくつか発表され、小二田により初めて翻刻と詳細な現代語訳と解説の併載がなされた。近年また新たな「累もの」がアニメや劇で上演されている。さらに物語の底流に、まだ殺伐とした戦国時代の名残の多い当時の村社会の因習と差別に着目するものもある。また累の身の上を女性差別の象徴と見るものや、逆に菊を差別に対抗し憑依を自演して立ち上がるヒロインとしてとらえるものもあるが、「菊が十四の春、子の正月四日」の事なので、すでに婿のいる新妻とはいえ、当時菊は満十二歳、今の小学六年生であり、そのようなヒロイン像には無理があるようにも見える。また本書が祐天の人気、評判を画策するプロパガンダ書として、その目的のため筋書きや登場人物の言動の細部まで綿密に再構成されたものだとすると、本書に書かれた細部を詮索して別の意味を引き出そうという試みは、書かれたことが全て事実に基づくという仮定を暗黙の裡に引き入れることになり、それは本書の江戸時代の読者と同じく、現代のジャーナリズムとも比肩しうる「聞書き」スタイルの記述の説得力に乗せられてしまっているという可能性がある。
本書の翻刻・現代語訳(出版年代順)(完全に原本に忠実で正確な現代語訳は未刊)
・松崎仁三郎 『実説かさね物語』 祐天寺教化部、1962年。(おそらく最初に活字化された本書の現代語訳だが異本の内容も混入)
・服部幸雄 「死霊解脱物語聞書」『変化論-歌舞伎の精神史』、服部幸雄、平凡社<平凡社選書41>、1975年。(元禄版・本書の最初の活字翻刻)
・高田衛・原道生編 『近世奇談集成』第1巻、国書刊行会、1992年。(元禄版翻刻)
・志村有弘 『江戸怪奇草紙』 角川書店<角川文庫>、2005年。(現代語訳だが初歩的誤訳が散見される)
・深沢秋男・菊池真一・和田恭幸編 『仮名草子集成』第39巻、東京堂出版、2006年。(元禄版翻刻)
・伊藤丈・主編 『祐天寺史資料集』第3巻 大東出版社、2006年。(元禄版、正徳版、正徳版挿絵入り改版、筆写の異本の翻刻)
・小二田誠二 『死霊解脱物語聞書-江戸怪談を読む-』 白澤社、2012年。(正徳版翻刻、現代語訳、現代語訳は細部まで忠実な訳ではなく、解りやすく補足・詳述し、また省略してある)
輪廻転生の怪談話「累ヶ淵」 
日本の怪談話には、殺された女性の怨霊が祟り続けるという物語がたくさんある。「東海道四谷怪談」「番町皿屋敷」そして日本三大怪談の一角を成す「累ヶ淵」。落語、講談、錦絵でもおなじみの累という女性の怨霊とその恨みが、幾代にもわたって祟り続けたという江戸時代を代表するこの話。その累の伝説を語った『死霊解脱物語聞書』は江戸の人々の注目を集めた。昔の人々はこの輪廻転生の物語で何を語ろうとしていたのか。時を超え、現代に残る怪談話をひもといてみた。
『怪談 累ヶ淵』あらすじ
江戸は寛文年間(1661〜1673)の話である。江戸からすこし離れた下総国岡田郡羽生村に、与右衛門という百姓がいた。妻を亡くした与右衛門は隣村の杉を後妻に迎えたが、杉には助という醜い子どもがいた。与右衛門は、助を憎しみをこめて邪険に扱い、殺意さえ抱くようになっていた。
ある日のこと。夫があまりにも自分の子どもを嫌うので、思いあまった杉は助を淵へ沈めて殺してしまった。翌年、杉は累(るい)という女の子を授かった。ところが因縁というのは恐ろしく、累は助に生きうつしの醜い女だった。人々は、これは助が重ねて生まれてきたのだと言って、累を「かさね」と呼んだという。
その姿のためか、身を隠すようにして寂しく暮らしてきた累だが、彼女にもようやく縁談話が持ち込まれ、ついに幸せがやってきたかに思えた。その相手は、既に亡くなっていた父・与右衛門の財産に目をつけた男だった。この男は累と結婚するや、これ見よがしに疎んじはじめた。そして累もまた、畑仕事の帰り道に夫に川の淵へと突き落とされ、殺されてしまう。その場所は、奇しくも杉が我が子を沈めたあの場所だった。
因縁の恐ろしさを伝える累ヶ淵の伝説
話はこれで終らない。
累を殺した男は、しらじらしくも妻を亡くした悲しみの夫を装った。うとましい妻を始末してせいせいしたと思った男は、まもなく後妻を迎えたが、彼女は病気ですぐに亡くなってしまう。3人目、4人目、5人目と不幸は終わらない。どの妻も原因不明の病で亡くし、やがて6人目の妻が念願の娘・菊を生んだ。しかし、この妻も出産してまもなく死んでしまう。
菊が14歳の折、突然なにかに憑かれたように奇妙なことを口走るようになった。菊は口から泡をふき、両眼に涙をうかべ、男を睨みつけてこう言った。
「私は菊ではない。26年前に殺されたお前の妻の累だ。そのとき直ちに殺してやろうとしたが、地獄で昼夜責め苦しめられていたのでそれもできなかった。だからお前の妻を6人殺してやった」
あの恨み、果たすべきか――。
累の怨霊を成仏させた、祐天上人(ゆうてんしょうにん)
事件のあらましを聞いた村人たちは、男を問い詰めるが「まったく身に覚えがない」としらをきる始末。しかし菊の口を借りて、累が目撃者がいたことを告げると、男は罪を認めて累に謝罪した。ところが、怨霊は菊の体から出ていこうとしない。
累の怨霊を不思議な力で払ったのが、たまたま飯沼の弘経寺に止宿していた祐天上人だった。菊の様子が再びおかしくなり、かつて殺された助という子どもの霊が取り憑いた際にも、祐天上人がこの子の怨念を解き、成仏させた。
祐天上人は浄土宗の高僧で、法力によって悪霊を調伏する能力に優れた人物だった。多くの霊験を残しており、その生涯を念仏弘通とそれによる人々の救済に捧げ、その信仰は絶大なものだったと言われる。
「累ヶ淵」は実話だった?
憎しみの果てに助を殺し、累を殺し、妻を6人も奪った後、菊がその真相を伝えるという、サスペンスドラマさながらの結末を迎える累伝説。この死霊憑き事件は『死霊解脱物語聞書』に記されているので、詳しく読みたい方はそれにあたっていただくとして、おもしろいのは『聞書』によれば、どうやらこの話はどうやら本当に起こった事件らしい。それって本当だろうか?
茨城県の法蔵寺には、いまもなお祐天上人が死霊解脱供養に用いたという数珠と累の墓が残されている。とは言え、累の物語は創作ではないかと言われている。祐天上人が弘経寺に在寮していたことは史実にあるけれど、そもそも、『死霊解脱物語聞書』は死霊を祓った祐天上人の験力を称えることで、宗派の拡大を目的に刊行されたものなのだ。だから、この伝説はその点を差し引いて読む必要がありそうだ。
それでもなお、累伝説が後の日本の芸能に大きな影響を与えたことはまちがいない。
累伝説から生まれた作品たち
元禄3(1690)年に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』で世に広まった累伝説は、日本の怪談話の大きな演目になった。
『東海道四谷怪談』や『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』などで人気の高い狂言作者、四代目鶴屋南北は歌舞伎『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』を上演した。三遊亭圓朝は落語『真景累ヶ淵』を発表。馬琴の『新累解脱物語』も『死霊解脱物語聞書』から創作されたと言われる。
醜い顔で生まれながらも卓越した演技力をもつヒロインが、口づけをした相手と顔と声を入れ替えることができるという口紅の力を使い、舞台女優として活躍していく姿を描いた漫画『累 -かさね-』(原作・松浦だるま)もまた、古くは累の怨霊を思い出させる物語だ。
累伝説には、ほかの怪談話にあるように、幽霊や怨霊が実際に姿を現して恨みを果たそうとするわけではないのに、妙に背筋の凍る怖さがある。なまなましい憑依の情景は、まれにみる怪奇な物語であるゆえに、その怖さが長く人々をひきつけてやまなかったのだろう。
江戸の人々を怖がらせた死霊
呪い、しいては輪廻転生の考えかたは日本に古代からあったものだ。江戸時代もまた、生者と死者の世界から作られていた。
この世に強い未練を残したまま死んだ人があの世に行けずにさ迷っていたり、あるいは未練を果たすために恨んでいる者やその周囲に災厄をもたらすことがある、と江戸の人々は信じていた。そのひとつが、死霊憑きだ。
死霊憑きとは、死者が生きている人間の体に乗り移るというもの。乗り移るのは人間だけではない。神や狐や、鬼などの妖怪も取り憑くことがあるとされた。『死霊解脱物語聞書』では累と助という霊が菊に憑き、病人の口を借りて真実を語っている。
死んだ人が生前の姿のまま目の前に現れる、というのは現代の私たちには馴染みの光景(というのも変だが)かもしれないが、こうした形で幽霊が現れるようになったのは江戸時代からだといわれている。
江戸時代以降になると、動物や道具の妖怪が登場することが少なくなってくる。怪異たちの活躍の場が、芝居や絵のなかに移ったからだ。それに代わり人々を怖がらせたのが、『東海道四谷怪談』に代表されるような人の姿の原型をとどめた幽霊だという。
さいごに
いったい人の姿形を「醜い」と言い、憎しみさえもつのはなぜだろう。人間の心には、不条理な何かがひしめいているのかもしれない。
江戸時代に流布した『死霊解脱物語聞書』が人々の関心を引いたのは、この本が霊妙なる功徳を明らかにした書物であったというだけではない。庶民レベルで語られた累の事件は、時代の背景が生み出す差別や排除の実体を浮かびあがらせた。
無残に殺された助や累の死霊、菊への憑依がたんなる怪異説話ではなく、今まさに人々が生活している日常と結びついたのだろう。そして、それに紡ぎだされた怨霊たちの恐ろしさと凄惨さが、江戸の人々にはあまりにも現実的に映ったのかもしれない。 
妄想「累ヶ淵」 
夏場なのでどうあっても幽霊を出したいところである。この連載コラムは、カント、ヘーゲル、エンゲルスと来たのだから次は順当にいったらベルクソンあたりなんだろうが、赤毛ものばかり続くのも少し飽きてきたところだ。それに、夏の幽霊と言えば日本の風物詩であるから、今回はがらりと趣向を変えて日本の幽霊を出したい、いや、お出でいただきたい。ということで、ハイ出ました、出ていただきました。どなたかというと、「累ヶ淵」の累さんである。ルイじゃありませんよ、かさね、と呼んでください。実在した人物ですからね、失礼のないようにしたいものです。
なぜ累さんかというと、宣伝めいて恐縮だが(実はまったくの宣伝なのだが)、「累ヶ淵」の原話の一つで、江戸時代の怪談実録『死霊解脱物語聞書』を翻刻・出版する企画があり、この連載のお陰かどうか、不肖広坂にも久しぶりに怪談のお座敷がかかって、監修者の小二田誠二先生(静岡大学)のお手伝いを勤めさせていただいた。そんなわけで、この一年というもの私がいちばんよく読んでいた怪談は、実はカントでもヘーゲルでもエンゲルスでもなく『死霊解脱物語聞書』だったのである。この怪談のヒロインが累さん。たいへん面白いこの本格実話怪談は、今夏『江戸怪談を読む 死霊解脱物語聞書』(小二田誠二解題・解説、白澤社発行・現代書館発売)として刊行されたので、是非ともご購読くださいますようお願いいたします。
ご存じ圓朝『真景累ヶ淵』から
さて、『死霊解脱物語聞書』と聞いてもご存じない方でも、「累ヶ淵」と言えば、三遊亭圓朝の名作人情噺を思い出されるだろう。
ご存じ圓朝の『真景累ヶ淵』は、旗本・深見新左衛門が高利貸の皆川宗悦を斬殺したことを発端に、深見の息子・新五郎と新吉、宗悦の娘・豊志賀とお園が、互いに仇同士だとは知らずにかかわりを持ち新五郎は過ってお園を殺し、豊志賀は愛人にした新吉に見捨てられて死に、その怨みから新吉に取り憑いて新吉の行く先々で怪事件が起こるというストーリーで、落語というより長編小説のような趣である。この長い物語の中でも、豊志賀と新吉のエピソードは歌舞伎に翻案されてしばしば上演されるほか、小説はもちろん、この噺を原作としたコミック『累』(エンターブレイン)や、中田秀夫監督の映画『怪談』(2007年公開、尾上菊之助・黒木瞳ほか出演)もある。
ところでこの圓朝『真景累ヶ淵』は、冒頭に「名題を真景累ヶ淵と申し、下総国羽生村と申す処の、累の後日のお話でございまするが」とことわりが入っている。もともとこの噺は「累ヶ淵後日の怪談」という題名であったそうで、つまり「累ヶ淵」として知られている物語の後日談である、という位置づけになる。
江戸時代、寛文十二年(1672)、下総国岡田郡羽生村(現在の茨城県常総市羽生町)で、菊という少女に父親・与右衛門の先妻である累(かさね)の死霊が取り憑き、村中を巻き込んだ騒動が足かけ四か月にわたって続いた。この騒動は、羽生村に隣接する飯沼弘経寺の修行僧だった祐天が念仏の功徳によって死霊を往生させて決着した。この事件について語ったものが、円朝の前提としている「累ヶ淵」である。
羽生村の事件が江戸に伝わるや多くの人々の関心を呼び、歌舞伎、浄瑠璃、文芸、落語、講談など、さまざまなジャンルでこの事件を題材にした作品が生み出された。文芸では曲亭馬琴による『新累解脱物語』(文化四年、1807)があり、歌舞伎では鶴屋南北による『法懸松成田利剣』(文政六年、1823)の後半が羽生村の事件の話になっており、今では『色彩間苅豆』として独立して上演されている。また、文人たちの随筆や日記にも登場する。こうした二次作品群のなかで、現在もっとも有名なのが、幕末・明治になってから創作された『真景累ヶ淵』である。
それではそもそもの「累ヶ淵」とはどういう話だったのか。圓朝は『真景累ヶ淵』の中で、その発端になった羽生村の事件について短くふれている。
年上の愛人・豊志賀の嫉妬に嫌気がさした新吉は、病気の豊志賀を見捨てて家を飛び出すが、その間に豊志賀は死んでしまう。「此の後女房を持てば七人まではきっと取殺すから然う思え」という遺書を見た新吉は、豊志賀と暮らした江戸にいるのが怖くなって、恋仲のお久と、お久の故郷である羽生村をめざして駆け落ちする。二人が鬼怒川(引用文中では絹川)のほとりにたどり着いたところで、圓朝による「累ヶ淵」の説明が入る。
「 あの辺は筑波山から雲が出ますので、是からダラ/\と河原へ下りまして、渡しを渡って横曾根村へ着き、土手伝いに廻って行くと羽生村へ出ますが、其所は只今以て累ヶ淵と申します。何う云う訳かと彼方で聞きましたら、累が殺された所で、與右衞門が鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだと云う事、全くは麁朶を沢山脊負わして置いて、累を突飛ばし、砂の中へ顔の滅込むようにして、上から與右衞門が乗掛って、砂で息を窒めて殺したと云うが本説だと申す事、また祐天和尚が其の頃脩行中の事でございますから、頼まれて、累が淵へ莚を敷いて鉦を叩いて念仏供養を致した、其の功力に依って累が成仏得脱したと云う、累が死んで後絶えず絹川の辺には鉦の音が聞えたと云う事でございますが、これは祐天和尚がカン/\/\/\叩いて居たのでございましょう。 」
圓朝が「鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだと云う事」と言っているのは、この噺に先行する累ヶ淵怪談の代表的な作品、例えば、馬琴の『新累解脱物語』、南北の『法懸松成田利剣』などでは、累は夫・与右衛門に鎌で切り殺されたことになっているからだ。
また、圓朝は登場人物の作蔵とお賤に次のようにも言わせている。
「 作「お賤さん是が累の墓だ」
賤「おやまア累の墓と云うと、名高いからもっと大きいと思ったら大層小さいね」
作「小さいって、是が何うも何と二十六年祟ったからねえ、執念深え阿魔も有るもので、此の前に助と書いてあるが、是は何う云う訳か累の子だと云うが、子でねえてねえ、助と云うのは先代の與右衞門の子で、是が継母に虐められ川の中へ打流されたんだと云う、それが祟って累が出来たと云うが、何だか判然しねえが、村の者も墓参りに来れば、是が累の墓だと云って皆線香の一本も上げるだ、それに願掛が利くだねえ、亭主が道楽ぶって他の女に耽って家へ帰らぬ時は、女房が心配して、何うか手の切れる様に願えますと願掛すると利くてえ、妙なもので」 」
この会話からは、累の事件が有名であったこと、累は二六年にわたって祟りをなしたこと、累の物語には「助」という子がかかわっているが、どういう事情かはっきりしないこと、累の墓は浮気封じの願掛けに効くとして女性に信仰されたこと、などがわかる。
さて、現在もっとも知られている累ヶ淵怪談、三遊亭圓朝『真景累ヶ淵』から、元の羽生村の事件についてわかることはこの程度である。まさしく作蔵のセリフのように「何だか判然(はっきり)しねえ」のである。それは圓朝の怪談噺が後日談であることと、それに先立つ累ヶ淵怪談については広く知られていることを前提としているからでもあるが、先に述べたように、元をたどれば羽生村の騒動から派生したとはいえ、実に多くのジャンルで、さまざまな脚色をほどこされて語られてきた結果、もともとはどういう話だったのか、事件の概要がはっきりしなくなっていたからでもある。
『奥の細道』のかさね
松尾芭蕉『奥の細道』に次のようなくだりがある。岩波文庫から引く。
「 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかゝりて直道を行かんとす。遥に一村を見かけて行くに、雨ふり日くる。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中をゆく。そこに野飼の馬あり。草刈るをのこに歎きよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。如何すべきや、されども此の野は縱横にわかれて、うひゝゝしき旅人の道ふみたがへん怪しう侍れば、此の馬のとゞまる処にて馬を返し給へと貸し侍りぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。一人は小姫にて名をかさねと云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名なるべし  曾良  」
みちのくをめざして那須野を北上する芭蕉と曾良は、途中で馬を借りる。そうすると、幼い子どもが二人、馬のあとを追ってついてくる。一人は少女で名前を尋ねると「かさね」という。聞き慣れない名前がかわいらしく感じられたので曾良が一句詠んだ。そういう場面である。なんだかほのぼのとした味わいのある場面で、ご記憶の方も多かろう。
しかし問題は「かさね」という名前である。岩波文庫の『おくのほそ道』に併載されている江戸時代の注釈書『奥細道菅菰抄』には、「名をかさねと云」の注釈として、次のようにある。
「 按ずるに、世に云、祐天上人の化度有し、鬼怒川の与右衛門が妻、かさねと云しは、或は此小姫の成長したる後か。大概時代相応にて、きぬ川も亦此あたり近し。 」
安永七年(1778)の時点で、このように思った人もいたわけだ。
『奥細道菅菰抄』は、芭蕉が那須野で出会った、かさねという小姫が成長して、後に怨霊となり、祐天上人に教化されて往生を遂げる(だと面白いのにな)というように想像し、「大概時代相応にて、きぬ川も亦此あたり近し」と想像に蓋然性を与えようとしているが、かなり無理がある。
芭蕉が奥の細道の旅に出たのは元禄二年(1689)。翌元禄三年に累騒動を描いたドキュメント『死霊解脱物語聞書』が刊行されているが、実はそれ以前に、天和二年(1682)頃成立したと思われる『古今犬著聞集』(刊記は天和四年(貞享元年)1684)に、累の怨霊を祐天上人が成仏させたとの記事がある。
そもそも、累騒動が起きたのは寛文十二年(1672)のことで、この年に与右衛門の一人娘・菊に、父の先妻にあたる累の霊が憑依して大騒ぎになるのだが、その累が与右衛門に殺されたのは、さらにさかのぼって正保四年(1647)のことであって、元禄二年(1689)に芭蕉が出会った小姫が、その四十年ほど前に殺されていたとはとうてい考えられず、「大概時代相応」とはとても言えない。また、場所についても、同じ鬼怒川流域とはいえ、羽生村のある水海道界隈と芭蕉がかさねという小姫に出会った那須のあたりとではかなり距離がある。
案ずるに、『菅菰抄』の著者は累の事件にはあまり詳しくなかったのだろう。『死霊解脱物語聞書』の刊行が元禄年間だったことから、元禄のころ関東で起きた事件として認識して、そのイメージをかぶせてしまったというところではないか。ただ、芭蕉が書いているように「かさね」という名前が珍しいものだったとすれば、やはり、『奥の細道』と累伝説とのあいだに何らかの連絡があったのではないかと連想してしまうことは避けられないように思う。
つまり、累ヶ淵の元の話がはっきりしなくなったのは、円朝が『真景累ヶ淵』を創作した幕末・明治になってからのことではなかった。すでに江戸時代中頃に、有名だけれども真相のよくわからない事件になっていた。
累が淵怪談の舞台
元禄の初めの頃、おそらく元禄二年だろうと思われる。残寿という僧が、江戸から羽生村を訪れたはずである(確証はない。以下、筆者の妄想まじりの記述になるのでご注意)。目的は、累憑依事件の関係者への聞き取り調査であった。
残寿とは、自己申告によれば、累を往生させた祐天の弟子にあたる浄土宗僧である。当時の祐天は、浄土宗教団の役職を離れ、増上寺を出て江戸で独自に布教活動をしており、江戸の庶民からたいそうな人気を得ていた。祐天の人気は優れた弁舌にもよるのだろうが、それ以上に、累の怨霊を成仏させたという祈祷僧としての実績が世間に流布していたからでもあった。祐天の活動については、高田衛『江戸の悪霊祓い師』(筑摩書房)に詳しいのでここでは省略する。
残寿はその祐天を師と仰いだ。そして、羽生村での師の活躍に夢中になった。顕誉上人(祐天)にお会いした折にたびたび懇願して直接お話をうかがったと言っているから相当な入れ込みようである。その残寿が羽生村に向かったのは、祐天の談話だけでは不明な点があったからである。残寿の書き記した『死霊解脱物語聞書』は上下巻にわかれており、上巻には祐天は登場しない。累の怨霊が菊にとり憑いたのは一月二三日だが、祐天が累の怨霊と対決した三月十日まで、一月半以上も日にちがある。この間に羽生村で何があったのか。
残寿も読んでいただろう『古今犬著聞集』では、この間の事情を「とやせまし、かくやせまして、日をふりし」(そうこうしているうちに日がたって)と簡単にすましている。残寿はそこが気になった。師匠にも根掘り葉掘り尋ねたことだろう。だが、おそらく祐天は、自分も詳しいことは知らぬ、と答えた。そこで残寿が羽生村の人々に聞いてみようと思い立ったのか、あるいは祐天が、その間の事情は羽生の人に聞け、と言ったか。ともあれ、残寿は羽生村をめざして江戸を発った。懐には祐天による羽生村名主宛の紹介状を携えてのことだったろうことは想像に難くない。その旅の途中、奥の細道の旅に出た芭蕉師弟と知りあって、累の話をしていたと仮定したらさぞや面白かろうと思うのだが、妄想をふくらませるのもほどほどにしておこう。
事件の舞台となった羽生村は、水海道の町に近い鬼怒川沿いに開けた農村だが、背後に飯沼弘経寺という大寺院があった。事件当時、祐天が修行僧として所属していた寺である。羽生村に着いた残寿は、まずこの飯沼弘経寺に身を寄せたのだろうと思われる。江戸時代の飯沼弘経寺は単なる寺ではない。北関東における浄土宗の拠点である。私が現地を訪ねときに、現在の弘経寺本堂から1キロくらい離れたところに弘経寺大門跡を見つけて驚いた。そこが元の大門だとすると、かつての飯沼弘経寺の境内はとんでもなく広大なものだったことになる。広い敷地に多数の堂宇が立ち並び、大勢の僧侶が生活して、北関東一円の浄土宗寺院のセンターとしての業務を行なっていたわけだ。そこでの日用品を納める業者も周囲にいただろうし、同じ宗門の本山である芝の増上寺との連絡のために江戸との間を往復する人もいただろう。この弘経寺に隣接した羽生村は、単なる農村ではなく大寺院の門前町でもあったわけだ。
残寿は菊に会ったか
弘経寺で旅装を解いた残寿は、さっそく羽生村名主の三郎左衛門と年寄(名主の補佐役)の庄右衛門を訪ねたに違いない。祐天の紹介状の効力は絶大で、残寿は大歓迎されたはずである。『古今犬著聞集』には、累事件の後、すっかり祐天に感化された三郎左衛門と庄右衛門が念仏信仰の宣布に一役買っている姿が描かれているほどだ。さっそく十七年前の事件を目の当たりにした男たちが呼び集められたことだろう。
男たちが呼び集められた、と私が推測するのには理由がある。『死霊解脱物語聞書』には大勢の人々の発言が記録されているが、女性の発言者が極端に少ない。当事者である菊、累、累の霊、の三者を除けば、名前のない老婆による発言が一か所あるだけだ。事件は長引くにつれて村中どころか隣村にも知れわたる騒動になっていくのに、その記録に村の女たちの発言がほとんど残されていないのは不自然である。これは取材対象が男性に限られていたからではないか。もし、菊をはじめとして村の女たちが集められていたら、『聞書』は現在残されているものとは違った形になっていたかもしれない。
そして『聞書』に登場する羽生村の人々は、累の家のメンバーを除けば、村役人である三郎左衛門と庄右衛門のほか、念仏杢右衛門、八右衛門という人物以外には名前がない(このうち杢右衛門は事件当時すでに故人である)。『聞書』下巻で八右衛門は累殺害以前の古い因縁を語り伝える証人として重要な役回りを演じるが、この他にも累の墓所の菩提寺である法蔵寺の住職や、累の怨霊との会話に加わった村人たちも大勢いるのに、彼らの名前がない。もし残寿が一軒ごとに訪ね歩き、一人ずつから取材したのであれば、もう少し名前が記録されていてもいいはずだ。
以上のことから、残寿の取材は、名主が自分の屋敷に村の男たちを呼び集め、江戸からの客人にあの時のことを話してやってくれ、とうながして行われたと想像する。そして、集められた村人たちの中に、当事者である菊の姿はなかった。
残寿はおそらく菊と会っていない。遠目に姿を見て、ほら、あれがお菊さんだよ、と名主か年寄から教えられることはあったかも知れないが、じかに会って言葉を交わすことはしなかったはずだ。残寿が羽生村を訪れた元禄の初め頃、菊は存命だったが、『聞書』では事件後の菊について「今に安全とぞ聞へける」(今も安らかに暮らしていると伝え聞いた)と巻末に記すだけである。もし残寿が菊本人にあって当時の話を聞き、今の暮らしの様子を見ていたのであれば、「とぞ聞へける」とは書かなかっただろう。
なぜ残寿は菊に直接取材しなかったのか(あるいは、できなかったのか)。理由はいくつか考えられるがここでは詮索しないでおこう。ともあれ、『死霊解脱物語聞書』上巻は、残寿が憑依事件の当事者に取材して書き上げたものではあるが、それは憑依の当事者にではなく、事件の目撃者、それも男性にのみ取材したものであろうことを仮説として提出しておきたい。
羽生村という語り手
名主の屋敷に呼び集められた村の男たちは、三十代が中心だったはずである。十七年前、今は亡き菊の父と夫を除けば、憑依に最初に気づいたのは月待の行事で集まっていた「隣家の若き男共」であり、累の怨霊と初めて言葉を交わしたのも「村中の若者共」だった。事件当時、十代から二十歳そこそこくらいの青少年だった男たちが、この村の累世代なのである。江戸からの珍客を迎えて、同窓会よろしく思い出話に花が咲いたことだろう。
この集まりは、一日ではすまず、二日、三日と続けて行われたかもしれない。このときの聞き取りが『死霊解脱物語聞書』上巻の主なニュースソースであろう。祐天も詳しくは語らず、『古今犬著聞集』では「とやせまし、かくやせまして、日をふりし」としか書かれていない空白の期間にどんなことが起きていたか、残寿は興味津々で聞き入ったに違いない。
こうした集まりでは、大勢の人が、自分の見たのはこうだった、自分が聞いたのはこうだったと口々に語る「藪の中」現象も起きるはずだが、『聞書』にはその痕跡がほとんど見られない。特に『聞書』冒頭の二つの章、累殺害の様子を描く「累か最後之事」と、累の怨霊が最初に菊にとりついた場面を描く「累が怨霊来て菊に入替る事」は、まるで週刊誌の事件記事のようにきれいにまとまっている。
これには二つ理由が考えられる。第一に、聞き手である残寿による編集である。『聞書』執筆の目的は、世間に流布して人々は噂しているが、前後の事情も表現も語る人によってまちまちで、確かなことがわからなくなってしまった累の怨霊得脱の物語を、祐天をはじめとする当事者たちへの取材によって再構成しようということであった。だが、その動機はあくまでも祐天の活躍を描くこと、ひいては念仏信仰の優位を説くことにあった。残寿はこの方針に沿って、村人たちの証言を取捨選択し、再構成し、書き換えすらした。そのことを残寿は『聞書』本文でことわっている。
第二の理由として、体験談を語る村人たちの側で、この事件についての共通認識がすでに出来上がっていたことが考えられる。とにかく大事件だったのだ。事件発生から残寿が羽生村を訪れるまでの十七年、その間にも羽生村にはいろいろな人たちが訪れ、何が起きたのかと何度も尋ねられたことだろう。あるいは、代官所から名主へ問い合わせがあり、村方書上のような報告書を提出するよう求められていたかもしれない(発見されれば私的には第一級史料だ)。羽生村は、こうした問答を繰り返すうちに、事件を一人ひとりの体験としてではなく、村の歴史の一コマとして要領よく伝えるパターンを作りだしていったと想像される。障害のある妻を夫が殺す「累か最後の事」、若い娘に死霊が憑依して人格が変化する「累が怨霊来て菊に入替る事」、『聞書』巻頭のショッキングなこの二つの場面は、羽生村の共通認識としてある程度まで物語化されていた部分だったのではないか。その語り手は、一人ひとりの名前と顔をもった具体的個人ではなく、羽生村という集合意識だったと想像される。
このように考えてくると、『死霊解脱物語聞書』上巻は、ある意図をもって取材する聞き手・残寿と、集団的語り手である羽生村との協働作業によって成立したと言える。
累の醜さとはなにか
『死霊解脱物語聞書』は次のようにはじまる(以下、原文は小二田誠二氏の翻刻を拝借するが、句読点は適宜変えた。原文には読点「、」はなくすべて句点「。」である)。
「 累か最後之事
過にし寛文十二年の春、下総国岡田郡羽生村と云里に、与右衛門と聞ゆる濃民の一子、菊と申娘にかさねといへる先母の死霊とりつき、因果の理を顕し、天下の人口におちて、万民の耳おどろかす事侍りしか。 」
テンポのよい文体で、事件の起きた時期、場所、主たる人物(与右衛門、菊、累)の職業と続柄を簡潔に示しながら、この事件が世間の噂(天下の人口)となり多くの人を驚かせたとニュースの反響まで述べている。声に出して読み上げるとリズムがあって、昔のお坊さんはこういう調子で庶民に説法していたのかな、と思わされる。
「 その由来をくわしく尋るに、彼の累と云女房、顔かたち、類ひなき悪女にして剰へ心はえまでも、かたましきゑせもの也。しかるに親のゆつりとして田畑少々貯持故に、与右衛門と云貧き男、彼が家に入甥して住けり。 」
なぜ、こんな事件が起きたのか、その大元の原因を過去にさかのぼって詳しく調べると、と言っているのはもちろん残寿である。以下、残寿が羽生村での現地調査の結果を踏まえて過去の殺人事件の概要を明らかにしていくのである。
まず、被害者である累が描写される。顔は悪いし性格も悪い女だとひどい言われようだが、残寿は累に会ったことがない。これは羽生村の伝承なのである。残寿はこの後、累殺害の様子を描写してから、その年を正保四年(1647)としている。羽生村での残寿の聞き取り調査が私の想定通り元禄二年(1689)だとすれば、せいぜい四五歳以上の年齢の人でなければ累の顔を覚えていることはあるまい。ましてや性格については幼い子どもでは判断できないから、さらに一世代上の人たちの証言による他はない。そして、先に想定したように残寿の取材対象は世代的には三十代が中心だった。だから「顔かたち、類ひなき悪女にして剰へ心はえまでも、かたましきゑせもの也」という人物描写はこの時点で既に、生前の累を知る人たちから後続の世代に語り伝えられたもの、すなわち羽生村の伝承であった可能性が高いと思うのだ。
累の醜さとは何か。これを考える上で参考になるのが、『死霊解脱物語聞書』下巻の、それも全編のクライマックス「顕誉上人助か霊魂を弔給ふ事」にのみ登場する八右衛門老人の証言である。三十代の村人を中心とした集団的語り手と、村役人として事態の収拾に奔走した三郎左衛門と庄右衛門、この他にもう一系統、別のニュースソースに残寿は羽生村で接触した。それが存命であれば七七歳であったろう八右衛門である。累と同世代の八右衛門に残寿が直接会ったかはわからない。あるいはすでに故人で、八右衛門の言葉として名主か年寄かが記憶していたものを残寿は聞き取ったのかもしれない。いずれにせよこの老人の証言には、三十代男性たちを中心とする羽生村の伝承とは微妙に異なるニュアンスがある。
さて、八右衛門は累の容姿についてなんと言ったか。差別的表現だが原文にあるのでご容赦願いたい。「めつかいてつかいちんば」、「かたわもの」、「かたわ娘」。八右衛門はそう言った。片目と片手と片足に障害があったというのである。生前の累を苦しめただろう病がなんだったのか正確にはわからない。ただ、何らかの身体障害のある女性だったということははっきりとしている。そして「めつかいてつかいちんば」、「かたわもの」、「かたわ娘」という表現が、累が少女時代に村の悪童どもから投げつけられた罵声そのものであったろうことも。
八右衛門は、累の不幸の原因を累の父の代からの因縁として、累の家の中に封じ込めるようにして語っているのだが、私はそうは考えない。累は醜さのゆえに嫌われていたが、親の遺産として「田畑少々貯持故に、与右衛門と云貧き男」を婿にとって暮らしていた。ここでは「田畑少々」とだけあるが、あとで累の怨霊は菊の口を借りて「此かさね親のゆづりを得て、持来る田畑七石目あり此たはたは村中一番の上田なり」と言っている。つまり累は、この村では裕福な部類に入る家の一人娘だったのである。裕福といっても、七石という石高が現在の貨幣価値にしてどの程度の年収に当たるのか単純比較はできないが、少なくとも障害を持つ娘を成人するまで大切に育てあげるだけの財力があった。これは江戸時代の話なのである。子どもが生まれても育てられないと思えば間引きすることも珍しくない時代だったのだ。当時、障害のある子どもを育て上げ、家を継がせるのは並大抵の苦労ではなかっただろうに、それをなしとげるだけの力が累の親にはあった。
さて、「かたましきゑせもの」、すなわち頑なでとげとげしい女という性格評価は、この財産に由来するのではないか。江戸時代初期のことだから女家長もそれほど珍しくはなかっただろうが、身体に障害があり、若くして親に死に別れて兄弟姉妹もなく、差別され孤立していた累としては、親の遺してくれた田畑宅地を守り抜くことだけが自らの生きる術であったはずである。頑なにもとげとげしくもなろうというものだ。だから、羽生村の伝承における累の性格は、村と累との関係の中でつくりだされたものだろうと私は考えている。
財産目当ての婿か
孤立無援の累のもとへ婿入りしてきた男がいた。羽生村の伝承では、累が親の遺産として田畑を持っていたので与右衛門という貧しい男が入婿して住みついた、となっていて、いかにも財産目当ての婿だろうという印象だが、古老・八右衛門の記憶では微妙な違いがある。両親の没後、累が独身でいるのを心配した先代の名主が、代々続いた家をつぶすわけにはいかないとして、与右衛門を婿として世話したのだという。
与右衛門とは累の父の名前を継いだもので、この男の元の名前はわからない。しかし名主の世話なら、それなりに身元の確かな男だったろうし、単に金目当てで近づいてきたとは思えない。そんな男であれば、累は警戒して受け入れなかっただろう。名主の選んだのは、累の差別に加担したことのない他村の男、障害のある累をいたわる気の優しい青年だったのではないか。だから与右衛門は、婿入りしてきた当初は、累を助けて実直に働いたのだろうと思う。『聞書』には、累が殺される直前の夫婦の会話が記録されている。
「 わらわが負たるははなはだ重し、ちと取わけて持給へとあれば、男のいわく今少々絹川辺まで、負ひ行、彼こより我かわり持べし 」
「わたしの荷物がとても重い、ちょっと分けて持ってくれない?」、これが生前の累の言葉として残寿が書き留めた唯一のものである。これに対して男(与右衛門)は、「もう少し鬼怒川べりまで背負って行って、そこから俺が替わりに持つから」と答えている。この会話から累が与右衛門に心を許しているように感じるのは私だけだろうか。なかよく仕事に精を出す農民夫婦の姿が目に浮かぶのである。だが、この時すでに彼は妻殺しを決意した後だった。与右衛門はどうして心変わりしたのか。
哀れ成哉賤しきものヽ渡世ほど、恥がましき事はなし。此女を守りて一生を送らん事、隣家の見る目朋友のおもわく、あまりほひなきわさに思ひけるか。本より因果を弁ふるほとの身にしあらねば、何とぞ此妻を害し、異女をむかゑんと思ひ定めて。
引用した文章は謎めいている。哀れなるかな、賤しい者の生活ほど恥の多いことはない、というのが、残寿の個人的感想なのか羽生村の伝承にあった言葉なのか。いずれにしても、ずいぶんと上から目線の発言で、もし羽生村の伝承であれば自虐的とすら言える。続く文章は与右衛門の心変わりの理由を述べているのだが、いったい誰が彼の胸中を語りえたのか。残寿の聞き取り調査の時点で与右衛門はすでに死んでいる。仮に、事件後、悔悛した与右衛門の懺悔の言葉を誰かが記憶していたのだとして、それは何者だったのか。
この女を守って一生を送ることが俺の人生だとしたらやりきれない、という与右衛門の思いに、隣人の視線、友人の意図が影響していることを語っている。これは与右衛門に累殺害を教唆した村人がいたことをほのめかす言葉であり、羽生村としては外聞が悪い。どうにかしてこの妻を殺して別の女を嫁に貰おう、というのは、極論すれば周囲の意志を代弁しているにすぎないことになるのだから、仮にそれが事実だとしても羽生村がそれを語るだろうか。
そこで、もしや祐天らを含む弘経寺サイドによる状況分析だったのではないか、そうであれば上から目線も、与右衛門は因果応報の理をわきまえない者だったので、といういかにも仏教的な理由付けも自然に聞こえる、とも思ったが、よく考えるとやはり違う。羽生村の人間以外にこれを語りようがない。
集団的語り手としての羽生村は、元禄二年の時点ですでに世代交代していた。羽生村が自分たちの不名誉を語るはずがないと想定したが、残寿が聞き取りの対象とした三十代の現役世代からみれば、与右衛門の累殺しは四十年も前の昔話なのである。彼らの祖父世代にあたる事件関係者の多くもすでにこの世を去っていただろう。その上、彼らの多くは、累に憑依された菊から、累が誰にどのようにして殺されたのか、殺人事件の様子を被害者の口からじかに聞くという得難い体験をしていた。その鮮烈な経験は、老人たちの自己弁護の言葉より、はるかにリアリティがあっただろう。
累殺し
さて、いよいよ悲劇の発端が描かれる。正保四年(1647)旧暦八月十二日のことであった。この日、累と与右衛門は夫婦連れだって畑に出て飼料用の大豆を刈り取った。南北の歌舞伎『色彩間苅豆』はこの場面に取材している。
夕刻、与右衛門は収穫物を累に多めに背負わせて家路についた。累が自分の荷物の重さに不満をもらし、与右衛門がなだめたのはこの時の会話である。累は仕方なく息を切らしながら鬼怒川のほとりまでたどりついた。その時、累の背後から与右衛門が非情にも襲いかかった。
「 なさけなくも女を川中へつきこみ、男もつヾゐてとび入り、女のむないたをふまへ、口へは水底の砂をおし込、眼をつつき咽をしめ、忽ちせめころしてけり。すなはち死骸を川にてあらひ、同村の浄土宗法蔵寺といふ菩提所に負ひ行き、頓死とことはり、土葬し卒ぬ。戒名は妙林信女、正保四年八月十二日と、慥に彼寺の過去帳に見へたり。 」
累に重い荷物を背負わせて鬼怒川のほとりまで行かせたのもすべて与右衛門の計画のうちだった。計画では背後から突き飛ばして川で溺死させるつもりだったのだろうが、おそらく背負った荷が重すぎて累はあおむけに倒れた。川の水かさは思ったより浅く、累は助けを求めてもがいていた。そこで与右衛門も川に飛び込んで累の胸を踏みつけ、助けを呼ぶ口に川底の泥を押し込み、裏切った夫を睨みつける眼をつぶし、首を絞めて息の根を止めた。それから遺体を川の水で洗って、事故死と偽って菩提寺の法蔵寺に葬った。
殺害の手口の描写が詳しすぎると奇妙に思う人もいるかもしれないが、この殺人事件には複数の目撃者がいた。
「 さて其時同村の者共一両輩、累が最後の有様、ひそかにこれを見るといへども、すがたかたちの見にくきのみならす、心ばへまで人にうとまるヽほど成ければ、実にもことわりさこそあらめとのみ、いヽて、あながちにおとこをとがむるわざなかりけり 」
累殺害の現場を二人の村人が見ていたのである。アリバイもトリックもない。これが推理小説なら話はここで終わりだが、『聞書』では、この目撃者の沈黙こそが長いドラマの始まりとなる。殺害現場の目撃者は累が嫌われ者だったため、こうなるのも運命さとのみ言って、与右衛門を告発しようとはしなかったのだ。それから二五年、与右衛門の犯罪は羽生村の半ば公然の秘密として、沈黙の底にしまいこまれた。
我は菊にあらず、汝が妻の累なり
累殺害から四半世紀の間に、与右衛門は、おそらく累を殺して手に入れた財産に物を言わせたのだろう、次々と六人もの後妻を迎えたとされている。五人目までは子どもももうけずに早死にし、六人目の妻との間にやっと娘が生まれた。この「女房を持つ事、段々六人也」というのは羽生村の伝承なのだろうが、どうも与右衛門の強欲ぶりを強調するための誇張のような気がしないでもない。
生まれた子は菊と名づけられた。遅くできた子どもだから与右衛門は可愛がったことだろう。菊の母親は、娘が数えで十三になった年の八月中旬に亡くなったと『聞書』には記されているが、これは八月に殺された累との因縁をほのめかすためではないか。法蔵寺過去帳を調査した浅野祥子氏の論文「『死霊解脱物語聞書』の考察」(「国文学試論13号」大正大学、1997)によれば、キヨという名前だったらしい菊の母親は五月没とのことである。
母に死なれたばかりの菊に、あわただしく縁談がすすめられた。おそらく菊が十四歳になるのを待って、その年の暮れ十二月に同村の金五郎という少年を菊の婿に取った。現在よりは結婚適齢期が早かったとは言え、十四歳では一家の主婦と言うには若い、いや幼い印象がある。もっとも、この結婚の目的は婿を取って与右衛門の老後の生活を支えるためであったそうだから、許婚を早めに同居させて家業を手伝わせることに主眼があったのかも知れない。
年が明けて寛文十二年一月四日より、幼妻菊が急な病になった。どうも様子が尋常ではない。一月二三日、菊の病状は急変した。
「 果して其正月廿三日にいたつて、たちまち床にたふれ口より泡をふき、両眼に泪をながし、あらくるしやたえがたや、是たすけよ誰はなきかと、泣さけび苦痛逼迫して既に絶入ぬ。父も夫も肝を冷しおどろき騒ひで。菊よゝと呼返すに。 」
菊は突然、床に倒れ、口から泡をふき、両目に涙を流し、「ああ苦しい、我慢できない、誰か助けて」と泣き叫び、苦痛のあまりついに気絶してしまった。与右衛門も金五郎も肝を冷やしたのは当然である。意識を取り戻させようと「菊よ、菊よ」と呼びかけた。かつては気絶とは、魂が体外に抜け出たため起こるものと考えられていたので、名前を呼んで、どこかに行ってしまった魂を呼び返そうとしたのである。
しばらくして菊は息を吹き返したが、菊の身体には菊ではない者が帰ってきていた。
「 やヽありて、息出で眼をいからし、与右衛門をはたとにらみ、詞をいらでヽ云やう。おのれ我に近付け、かみころさんぞといへり。父がいわく汝菊は狂乱するやと。娘のいわく我は菊にあらず、汝が妻の累なり。 」
目を覚ました菊は父親をハッタと睨みつけ、声を荒げて言った。「お前、こっちに来い、噛み殺してやる」。与右衛門は娘の豹変にうろたえた。「菊よ、気でも違ったのか」。
少女は宣言した。「我は菊にあらず、汝が妻の累なり」。
ここから怨霊と羽生村との足かけ三ヶ月にわたる長いドラマが始まるのである。
以上、『死霊解脱物語聞書』上下巻全十二章のうち、巻頭の「累か最後之事」のあらましと、第二章「累が怨霊来て菊に入替る事」の冒頭部分をご紹介した。本稿では、「累か最後之事」についてやや詳しく私見を述べたが、『聞書』はこの後からが本編で、上巻では村役人と累の怨霊との緊迫した交渉、臨死体験をした菊の語るあの世の物語、再び帰ってきた累に振り回される村人たちが活写され、下巻ではついに祐天が登場、己の信仰を賭けて菊に取り憑いた死霊と二度の対決を繰り広げる。いずれの場面も様々な解釈が可能であり、読んで面白く詮索して楽しい読み物なので、続きをお知りになりたい方はぜひご覧いただきますようお願いいたします(ト最後まで宣伝なのでした)。  
法蔵寺 累の墓 (かさねのはか) 
法蔵寺には、後世に演劇の題材として取り上げられて有名となった「累ヶ淵」の伝承が残されている。この話は『死霊解脱物語聞書』という書物として江戸時代に流布しており、以下のようなあらすじとなる。
事件は、寛文12年(1672年)に羽生村の百姓・二代目与右衛門の娘である菊に霊が憑依したことから始まる。
菊に憑いていたのは、二代目与右衛門の最初の妻であった・累(るい)の霊であった。累の霊は、正保4年(1647年)に入り婿の二代目与右衛門によって川に突き落とされ殺されたことをはじめ、数多くの悪事を暴露した。そして自らの供養を求めて菊に取り憑いたのだと語った。そこで近くの弘教寺の住職・祐天が引導を渡し、累の霊は成仏した。
しかしその直後、再び菊に何ものかが取り憑いて怪事を引き起こした。祐天は再び取り憑いたものに問い質すと、助(すけ)と名乗る子供の霊であった。村の古老に尋ねると、助は累の異父姉にあたり、初代与右衛門の後妻・お杉の連れ子であったが、生来片目で手足が不自由であったために義父の初代与右衛門に疎まれ、慶長17年(1612年)にお杉によって、後に累が殺されたのと同じ場所で川に投げ込まれて殺されたのである。さらに、助の死んだ翌年に生まれた累は容貌が瓜二つと言ってよいくらい似ており、村人は累の容貌は助の祟りと噂し合っていたのであった。祐天は、この助の霊も成仏させ、60年にも及ぶ悪因縁を絶ったのであった。
法蔵寺の境内には、累の一族の墓がある。その正面には3基の墓がある。左より菊、累、助の墓とされる。また本堂にはこの3名と祐天上人の木像が安置されており、また祐天上人が死霊供養に用いたとされる数珠も保管されている。
『死霊解脱物語聞書』
元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本。ここに書かれた内容を元にして、四世鶴屋南北が歌舞伎「色彩間苅豆」を上演、また三遊亭圓朝が落語『真景累ヶ淵』をを発表している。
祐天
1637-1718。浄土宗の僧。法力によって悪霊を調伏する能力に優れていたと言われ、多くの霊験を残した。徳川綱吉とその母の桂昌院、徳川家宣らの信任篤く、幕命により有名寺院の住職を務める(弘教寺もその一つ)。増上寺36世として大僧正の位を授かる。その後、草庵を結んで隠居し(現在の祐天寺の始まり)、その地で没する。 
 
今昔物語

 

今昔物語集は、平安時代末期の十二世紀初頭に成立した説話集である。1059話からなる大部の書物であり、インド、中国、日本の三国に分けて説話が記載されている。内容は仏教関係の話が中心だが、まったく仏教に関係のない話も少なからず含まれる。
巻第二十の第十三話 審神
今は昔、京都の愛宕山(あたごやま)に、長く修行を続けている持経者(じきょうしゃ)の上人があった。僧坊から出ることなく長年にわたり余念なく法華経を読誦していたが、智恵はなく法門を学んだこともなかった。
その山の西に鹿や猪を射殺すことを仕事とする一人の猟師が住んでいた。猟師は上人をねんごろに敬い、しばしば訪れては折節に供養の品を届けていた。ある日、久しぶりに猟師が果物などを持って訪れると、上人はよろこび迎え会わなかった間の消息などを話していたが、急にひざを進めてささやいた。
「近ごろきわめて貴いことがある。長いあいだ余念なく法華経を読誦してきた霊験であろうが、最近、夜な夜な普賢菩薩が現れたまう。だから今宵はここに留まって拝んでいきなされ」
「それはきわめて貴いことでございます。拝ませていただきます」。そう言って猟師は寺に留まり、そっと上人の弟子の幼い童子に尋ねた。
「普賢菩薩が現れると上人は言われるが、汝も見たことがおありか」
「もちろんです。五、六度拝見しました」
「ならばわしでも拝見できるかもしれない」
そう思いながら猟師は上人とともに寝ずに待っていた。九月二十日すぎのことなので夜はたいそう長い。今か今かと待っていると、夜半過ぎと思われるころ東の峰のあたりが月が出たように明るく白くなり、あたりを払うように峰の嵐が吹き、僧坊の中も月の光が射し込んだように明るくなった。
見れば白く輝く菩薩が白象(びょくぞう)に乗って下りて来られる。その様は限りなく貴くありがたく、やがて菩薩は僧坊正面すぐの所に下り立たれた。上人は泣きながら恭しく礼拝し、後ろにいた猟師に言った。
「どうだ。そなたも拝みなされたか」
「まことに貴く拝みました」
と猟師は口では答えたものの、心の中で思った。「上人は長年法華経を読誦してきたのだから、菩薩が見えて当然かもしれない。しかしお経も知らない童子やわしにも見えるというのは実にあやしい。まことの菩薩かどうか試してみるのも、信心のためなら罪を作ることにはなるまい」
そこで、とがり矢を弓につがえて強く引きしぼり、拝み伏している上人の頭越しに射かけてみた。矢はみごと菩薩の胸に命中し、とたんに火を吹き消すように光は消え失せ、大きな音をたてて何かが谷の方へ逃げて行った。
「こっ、これはいったい何をなされるのか」と泣き叫ぶ上人に、猟師がねんごろになだめるように言った。
「お静かになされませ。合点がいかず怪しく思ったので試してみたまでです。決して罪作りなことではありませぬ」
しかし上人の嘆きは止まなかった。夜が明けてから菩薩が立っていたところを見ると、血がたくさん流れている。その血をたどっていくと一町ほど下った谷底に、大きな狸がするどい矢で胸から背中まで射抜かれて死んでいた。それを見てやっと上人の悲しみは消えた。
修行を積んだ上人といえど智恵のない者はこのようにたぶらかされる。殺生の罪を作っている猟師といえど、思慮があれば狸の化けの皮をはがすことができる。狸は人を化かすことができるかもしれないが、そのために命を失うなら化かしたところで何ら益なきことである。
巻第十三の第二四話 法華経の功徳
今は昔、世に一宿(いっしゅく)の上人と呼ばれる僧がいた。名を行空(ぎょうくう)といい、出家の後は住所を定めず、ひとところに二宿することなく、ましてや庵を作って定住することはなかった。そのため一宿の上人と呼ばれたのだった。
上人は若くして法華経を習い、昼に六部、夜に六部、合わせて毎日十二部、読誦することを欠かさなかった。また三衣一鉢(さんえいっぱつ)すら持たず、その他のものを蓄えることもなく、身に付けているのは法華経一部だけだった。
上人が修行して歩いているとき、もしも道に迷うことがあれば見知らぬ童子が現れて道を教えてくれた。水のない所であれば見知らぬ女が現れて水を与えてくれた。食べ物がなくて飢えれば食べ物を与えてくれる人がおのずと現れた。また法華経の功徳により、夢のなかに貴く気高い僧が現れて共に語らうとか、高貴な俗人が現れて付き添ってくれるとかの、奇特なことがつねに数多くあった。
そうして旅を続けていたので、五畿七道(ごきしちどう。日本全国)のなか至らざる所なく、六十余国のうち見ざる国もなかった。老いを迎えたとき上人は九州にいた。齢九十にして法華経を読誦すること三十余万部に達し、命終のとき「普賢菩薩と文殊菩薩がお出でになられた」と言いながら、貴い様でこの世を去った。
巻第十二の第四〇話 法華経に生きる
今は昔、奈良県吉野の薊岳(あざみのたけ)という所に良算(ろうざん)持経者という上人がいた。上人は東国の生まれで、出家してからは穀物と塩を断ってもっぱら山菜や木の葉を食し、法華経を信奉するようになってからは、他の行をやめて日夜に法華経のみを読誦し、つねに深い山の中に住み里に出ることはなかった。
上人はつねにこう思っていた。「この身は水の泡の如く、命は朝露の如きもの。さればこの世のことを思い煩わず後世のために勤めよう」
老いを迎えたとき故郷を捨てて吉野の金峰山(きんぶせん)に参詣し、薊岳に草庵を結ぶと、そこに籠もって法華経を読誦した。初めのうち山の鬼神たちは上人を惑わそうと邪魔をしていたが、上人が怖れることなく一心に法華経を読誦していると、やがて読経を聞くことを尊ぶようになり、供養のために木の実、草の実を持って来るようになった。さらには熊や狐や毒蛇までもが集まって来た。
また美しい衣服をまとった端正な容姿の女人が時々あらわれ、上人のまわりを回りながら礼拝して帰っていくのを幻のように見ることがあった。これは天女ではないかと上人は思った。
上人は山に住む人が食物を与えてくれても喜ばず、人がやって来て話しかけても答えず、ひたすらお経を読んでいた。眠っているときも眠りながら読経する声が聞こえていた。このようにして十余年が過ぎ、命終のときを迎えた。そのとき上人は血色がきわめて良く、笑みを含んでいた。それを見た人が問うて言った。
「上人、何故そんなうれしそうな顔をしているのです」
「長年の貧乏の身が栄華を得て官位をいただくことになった。どうして喜ばずにおられよう」
この言葉を聞いたその人は、上人は狂気に陥ったのではないかと思った。
「栄華や官位の喜びというのは何のことです」
「煩悩不浄の体を捨てて、清浄微妙なる身を得ることを喜びというのだ」
そう言って上人は入滅した。
巻第十三の第廿六話 法華経の霊験
筑前(ちくぜん)の国に役人がいた。その妻は、目が不自由になってものを見ることができなくなってしまった。妻は、いつも涙を流して、そのことを悲しんでいた。だが、誠の心を起こして、こう思った。
「このうえは、ひたすら善行(ぜんこう)を積んで、後生(ごしょう)のことを頼みとするほかはない。「法華経」 を一途(いちず)に読誦する日々を送ることにしよう」 ひとりの僧について、「法華経」 を習うことにした。そして数年がたった。
ある日のこと、夢に貴(とうと)い僧が現れて告げるのだった。「お前は、目の光を失う運命となったが、今、発心(ほっしん)して「法華経」 を読誦することにより、両眼(りょうがん)がただちに開くようになるであろう」 貴い僧は、手で妻の目をなでた。そこで、夢から覚めた。
その後、両眼は夢の僧が言ったように見えるようになった。妻は涙を流して喜んで、あらためて「法華経」 の霊験あらたかなことを知って礼拝供養(らいはいくよう)した。また、夫、子息、親戚もこぞってこれを喜んだ。国の内外の人々も、この奇跡を聞いて法華経の力を敬(うやま)うのだった。
妻は、いよいよ信仰心を起こして、昼も夜も「法華経」 を読誦するようになったが、これも当然のことといえるだろう。また写経(しゃきょう)にも励(はげ)んだということである。 
巻第十三の第六話 閻魔法王
摂津(せっつ)の国の豊島郡(とよしまのこおり)に多多院(たたいん)というところがあった。一人の僧が住み、山林に交わって仏道を修行していた。また、日夜「法華経」 を読誦して年を重ねていた。つまり、聖人(しょうにん)ともいうべき存在である。
この修行を貴く思った一人の男がおり、食べ物などを運んでいつも助けていた。そのうちに、男は病気になり、やがて死んでしまった。家族らは死人を棺に入れて木の上に置いた。5日後、なんと中から叩く音がする!恐ろしくてだれも近づけない。だが、もしや蘇(よみがえ)ったのではないかと思い棺を下してみると、本当に男は生き返っていたのである。
奇妙に思って家に連れ帰ると、男は妻子に向かってこう言った。「私は、死んで閻魔(えんま)大王のところへ行った。すると、大王は帳面を見たり、札を見たりしていろいろ考えたあと¨お前は罪業が重いので地獄へ行くべきなのだが、この度は許して元の国に返してやろう¨ なぜなら、「法華経」で修行する僧を助けているからだと。その功徳は限りなく、生き返ってさらに聖人を助ければ、あらゆる諸仏を供養するより価値があるとも言うのだ。それで人間界へ帰れることになったのだよ。
この言葉をもらい閻魔大王の館を出て人間世界へ戻る途中、すばらしい仏塔を見た。荘厳さは言葉ではいいようもなかった。ところが、私が助けているあの聖人が、口から火を吐いて塔を焼いているではないか。そのとき虚空(こくう)から声があって、¨この塔は、僧が「法華経」 を読誦して見宝塔品(けんぽうとうほん)にいたったときに出現した塔である。しかし、僧は自分の弟子たちにつまらない怒りをぶつけている。その怒りの火でせっかく出現したありがた仏塔を自分で焼いてしまっている。お前は、帰って僧にこのことを告げよ¨ と言った。この話しを聞いたかと思うと私は生き返ったのだ」
妻子は、この話を聞いて限りなく喜んだのだった。その後、男は聖人である僧のところへ行ってこの冥土(めいど)の話をすると、僧は大いに恥じたのだった。そして、その後は弟子たちと別れ、ひとりで住んで一心に「法華経」 を読誦する生活に入った。男は、このありさまを見て、いっそう聖人を助けることに努めた。聖人は、何年も経て寿命が尽きるときに、身に病気がないまま、自然に「法華経」 を読誦して亡くなった。
それにしても、聖人といわれる僧でも怒りの心は起こすべきではないということを人々は知ったのである。
巻第十二の第廿八話 妙の1字
肥後(ひご)の国に一人の書記官がいた。ある日、急な用事で、早朝から馬に乗って家を出たのだが、どういうわけか道に迷って広い野原に出てしまった。一日中歩き、日も暮れたころようやく家を見つけたので、道を訪ねることにした。声をかけると不気味な女の声で「どうぞお入りください」という。「いや、道を教えてくれるだけでいいのです」と言ったのだが、恐ろしい気配を感じ始めたので、男は逃げ出した。
女は追いかけてくる。見ると、背丈が家の高さほどもある鬼女ではないか。目と口から雷のような火を出して、大口を開けて追いかけてくる。その恐ろしさに気を失いかけたが、必死になって馬にムチを当てて走り去ろうとした。しかし、馬がついに倒れてしまった。もう少しで捕まるというときに、墓穴を見つけて中に入ったが、馬は逃げられず鬼女に食べられてしまった。
絶体絶命。だが、鬼女は外でこう言うのだった。「この男は今日の自分の食事になるはずのもの。それを横取りするとはひどいではないか。なんということをする!」 これに答えて穴の中で声がした。「いや、この男は私の今日の食事だ。お前は馬を食べたからいいではないか」 男は思った。どうやら、この穴も鬼のものらしい。どっちにしろ、この命はもう助からない。ああ観音さま..........
外の鬼女は、何度も不平を言ったが、中の声は許さなかったので帰っていった。男はいよいよ自分が食べられると思ったところ、中の声は意外なことをいう。「お前が日ごろ熱心に観音を念じていたので、鬼の難から逃れることができたのだ。これからは「法華経」 を受持し読誦しなさい。そもそも、私をだれだと思うか」
「いえ、わかりません」
「その昔、ある聖人がこの近くに卒塔婆(そとば)を立て、中に「法華経」 を納めた。今は、卒塔婆も経典も朽ち果てたが、ただ妙法蓮華経の¨妙¨ の1字のみが残った。その1字こそが、私なのである」 男は喜んで家に帰ると、以後「法華経」 を熱心に受持する生活を送った。
これをもって¨妙¨ の1字にすら、限りない功徳があることは明らかである。
巻第十三の第二話 法華経の神通力
今は昔、葛川(かつらがわ)という所に籠もって修行する僧がいた。五穀を断ち山菜を食べ、何か月にもわたって熱心に修行していた。ある日、夢の中に気高い僧があらわれて告げて言った。「比良山(ひらさん)に仙人があって法華経を読誦(どくじゅ)している。汝すみやかにそこへ行き、かの仙人と縁を結ぶべし」
夢覚めてのち、僧はすぐに比良山に入って探したが仙人は見つからなかった。それでも何日間も熱心に探し求めていると、遠くからかすかに法華経を読む声が聞こえてきた。その声はたとえようもなく貴かった。僧は喜び勇んで東西に走りまわって探したが、声が聞こえるばかりで姿は見えない。さらに心を尽くして探していると、岩場に洞窟があることに気がついた。かたわらに生えている松の大木が笠のように洞窟の入口を覆っている。洞窟の中を見ると、骨と皮ばかりの体に青い苔をまとった一人の聖人が坐っていた。聖人が僧を見て言った。
「そこに来たのはどなたじゃ。ここはいまだかって人が来たことのない所じゃ」
「私は葛川に籠もって修行する者です。夢のお告げにより結縁(けちえん)のために来ました」
「汝、しばらく我れに近づかず離れておれ。人間の煙の気が目に入って耐えがたい。七日を過ぎてのち近くにこられよ」
僧は数十メートル離れた木の下に宿り、七日間過ごした。仙人はその間も昼夜、休みなく法華経を読み続けている。読経は貴くありがたく、聞くだけで無始以来の罪障がみな消滅するように感じられた。見ていると鹿や熊や猿や諸々の鳥がやって来ては、木の実を仙人に供養している。仙人は一匹の猿に命じて僧のところにも木の実を持ってこさせた。こうして七日を過ぎてのち洞窟に近づくことができた。
仙人が言った。
「我れはもと奈良興福寺の僧にして名は蓮寂(れんじゃく)という。法相宗(ほっそうしゅう)の学僧として法門を学んでいたとき法華経を拝読し、『汝もし法華経を取らざれば後に必ず憂い悔いるだろう』 という一文を見て、初めて菩提心を発した。
さらに、『寂寞(じゃくまく)として人声無きところでこの経典を読誦すれば、そのとき我れ清浄光明なる身を現わさん』 という文を見てより、永く本寺を出、山林に入って仏道を修行し、徳を重ね功至り自ずから仙人になることを得た。
今は前世の因縁によりこの洞窟に住している。人間界を離れて後は法華経を父母とし、戒律を身の守りとし、法華一乗を眼として遠くの世界を見、慈悲を耳として諸々の音を聞き、心で一切のことを知る。また兜率天(とそつてん)に昇って弥勒菩薩を見たてまつり、諸処に行きて多くの聖者に近づく。天魔波旬(はじゅん)も我が近くへ寄らず、怖れも災いもさらにその名を聞かず。仏を見、法を聞くこと、思いのままである。
この松の木は笠のごとし。雨降るといえど洞窟の前に雨来たらず、暑きときは陰でおおい、寒きときは風を防ぐ。これは自ずからこうしたものじゃ。汝がここへ尋ね来たのもまた宿縁無きにあらず。されば汝ここに住して仏法を行ぜよ」
僧はこの言葉を聞き、仙人を敬うとともに、その生き方を好もしく思ったが、自分にはとてもその生き方はできないと思い、あつく礼拝し帰り去った。仙人の神通力により僧はその日のうちに葛川に帰りついた。同行(どうぎょう)の僧にこのことをつぶさに語ると、聞いて貴ぶこと限りなかった。真心をこめて修行する人はこの仙人の如くなれると語り伝えている。 
巻第十二の第三十話 焼けなかったお経
今は昔、平安時代の中ころのことです。願西(がんさい)という名の、ひとりの尼(あま)さんがいました。横川(よかわ){京都府と滋賀県にまたがる比叡山の北部の地}に住む源信僧都(げんしんそうず)のお姉さんでした。妹であったともいいます。
この尼さんは、生まれつき心がやさしく、人をおこったり、人をうらんだりすることは、けっしてしませんでした。女性でしたが、さとり深くて、因果をわきまえておりました。出家してからも、きびしい戒律をおかすことなく、ひたすら、美しい心をもって、よい行いをつづけました。また、法華経を声をあげて読み、その教えを深く理解しておりました。毎日長い時間をかけ読経し、念仏も相当な回数に達していました。
あるとき、「ゆうべ、尼さんが尊い行いをしている夢を見ました。」 と、遠くから告げにくる人がおりました。その後、何人もの人が、同じようなことを告げにきました。尼さんが着ているものは、わずかにからだをかくすだけの粗末なもので、質素な身なりをしておりました。食事も、ただ命をつなぐばかりの粗食(そしょく)でした。けっして、ぜいたくな生活をしませんでした。もっぱら、西方(さいほう)の安養浄土(あんようじょうど)を願って生きていましたので、世間の人びとは、安養(あんよう)の尼君(あまぎみ)といって、ほめたたえました。
安養の尼君が、持ちたてまつる法華経は、霊験あらたかでした。病に悩む人が、この法華経を受けとって、お守りにすると、かならず霊験があり、病がなおるのでした。あるときのことです。奈良の興福寺(こうふくじ)に、寿蓮威儀師(じゅれんいぎし)というお坊さんがいました。その妻は、長いあいだ、物(もの)の怪(け){人にとりつき、なやましたという死霊(しりょう)や生きた霊(りょう)など}のために重くわずらっており、苦しみやんでいました。尊いお坊さんに読経をたのんでも、霊験があるといわれている巫女(みこ)さんに祈祷してもらっても、いっこうによくなりません。
そこで、世間の人が、「安養の尼君の、年来読経をなさっている法華経は、霊験あらたかでいらっしゃる。」 というのをお坊さんは聞いて、
「それでは、お願いしてみよう。」 と、尼君の読経なさった法華経をたいせつに受けとって、箱にいれ、妻の枕元に置いておきました。すると、それ以来、物(もの)の怪(け)の発作もおこらず、心のなやみも消えて、ついに、病はなおりました。お坊さんも妻も、心から、尼君をとうとびました。その後もしばらくは、法華経を枕元に置きました。
ところが、ある日、夜中に、その家が火事になりました。家の人たちは、大あわてで、まずは、大切な書類や、宝物をとりだそうとしているあいだに、この法華経のことを、すっかり忘れてしまいました。この家は、全焼しました。翌日の昼になって、法華経をとりださなかったことを思いだし、みなで、嘆きあいましたが、もうどうしょうもありません。その翌日、せめて釘や金物を拾いあつめようと、家の者が集まって、焼けあとを見にいきました。夫婦の寝所(しんじょ)だったあたりに、なにかもりあがったものが見えます。
「なんだろう。」 と不思議に思い、灰をかきのけてみました。お経をいれていた箱は、すっかり焼けてなくなっていましたが、法華経八巻がそのままありました。まったくこげたところさえなく、灰の中からかきだされました。全部ぶじだったのです。
これを見た人びとは、「奇妙で、ふしぎだ」 と、おどろき、
「なんとすばらしい、霊験あらたかなお経だろう。」 と、喜びあいました。
里の人びとは、この話を聞いて、競うようにやってきて、このお経をおがみました。興福寺のお坊さんたちも、この話を聞いて、大勢が集まってきて、法華経をおがみました。その後、家の者は、おそれをなして、このお経を、安養の尼君のもとに返しにいきました。まことに、不思議で、尊いことでした。
思うに、この尼君は、ふつうの人ではなく、仏さまが人びとをすくうためにこの世にあらわれたのではないかと、みなで話し合いました。きわめて尊い聖(ひじり)であったと、語り伝えたということです。
巻第十三の第三十三話 竜の恩返し
今は昔、奈良に、大安寺(だいあんじ)という由緒ある大きなお寺があり、その南に、竜苑寺(りゅうえんじ)というお寺がありました。
竜苑寺には、ひとりお坊さんが住んでいました。そのお坊さんは、長年、声をあげて、法華経を読んでいました。また、読むだけでなく、法華経のことばの意味をきちんと学んで、その教えをを深く理解することにもはげみました。毎日、その一部をくわしく講義し、その経文を、声をあげ読むことにしていました。
この竜苑寺のそばに、一ぴきの竜が住んでいました。また、お経の中の尊い教えを、わかりやすく説明する、講義も耳にしていました。この竜は、もっとしっかりと聞きたいと思い、人のすがたになって、竜苑寺にかよい、毎日、お経の講義を聞いていました。
毎日やってくる人に、感心したお坊さんが、「あなたは、いつもきて、熱心に、わたしのお経の講義を聞いておられますが、どのようなお方ですか。」 と、聞きました。
「じつは、私の本当の姿は、竜です。あなたさまが、法華経を読んでいる声をそば近くでお聞きし、また、法華経の教えを学びたく、毎日かよっています。私は、竜に生まれました。前世からの、なにかの因縁があるのかもしれません。その苦しみからのがれるために、こうして尊い仏の教えを聞きに通っているのです。」 と、その人は、竜であることをうちあけました。
お坊さんは、仏の教えを学ぼうとしている竜に、心を動かされました。また、竜も、尊い仏の教えを語るお坊さんを、尊敬しました。ふたりは、法華経の教えを通して、親しい間柄になりました。それからも、竜は、以前よりもまして熱心に、欠かすことなく、竜苑寺にかよいました。お坊さんも、法華経の読経や講義に力をいれ、ふたりは、ますます親しくなりました。お坊さんと竜との仲よい関係は、いつのまにか世間の人々の知るところとなりました。
そのころ、国内では、日照りがつづき、雨が一滴もふらない日々がつづきました。田畑の土は干上がり、作物は枯れはじめました。身分の高い人も低い人も、みな、このことをひどく嘆き悲しんでいました。ある人が、天皇に、奏上(天皇に申しあげること)しました。
「奈良の大安寺のそばに、お寺がございます。その寺に住む僧が、長年、竜と心をかよわせて、親交の約束をかわしているということです。その僧をお召しになって、「竜に雨を降らせるように話をつけろ」 と、宣旨(せんじ){天皇からだす命令書}をくだされるとよろしいのではないかと思います。」 竜は、雨を降らすことができると、人々に信じられていたのです。
「なるほど、それは妙案だ。」 と、お考えになり、さっそく、竜苑寺の僧を、朝廷に召しだしました。なにしろ、天皇からの命令です。竜苑寺のお坊さんは、ふつうなら、朝廷に自由に出入りすることなどできない身分です。
「なにごとだろう。」 と、不思議に思いましたが、宣旨(せんじ)を受けとったのですから、早々に、朝廷にでかけていきました。
天皇は、お坊さんにこういいました。
「おまえは、長年、熱心に法華経を講じているので、竜が、やってきて法華経の講義を聞いているという。そのうえ、竜は、おまえと親交を結んでいると、世間では評判になっているというではないか。」
天皇は、なおもつづけます。
「おまえも知っての通り、今、日照りがつづき、このままでは、五穀(米、麦、粟、稗、豆や穀物の総称)はみな枯れはててしまいそうだ。国として、これほどの嘆きはあるまい。おまえが、法華経を講じたら、その竜にかならず聞きにくるであろう。そのときに、竜にたのんで、雨を降らせるようにせよ。もし、うまくやりとげなかったら、おまえを追放する。日本国の内には住んではならぬ。」  
天皇のきびしい命令です。お坊さんは、どうしていいかわからず、肩を落とし、嘆きながら、竜苑寺に帰りました。竜を寺に招いて、天皇からの命令を伝えました。
「どうしたものだろう。」 お坊さんは困った顔をして、竜を見ました。
竜は、静かに目をとじ、じっと考えていました。目をあけた竜は、お坊さんを見て、いいました。
「わたしは、長年、あなたさまの法華経を聞いて、悪業(あくごう)による苦しみが去り、善根(ぜんこん){善い行い}による安心感や楽しみを経験してまいりました。今は、この身を捨てて、聖人{尊い僧}のご恩にむくいたいと思います。しかし、この雨のことは、わたしの領分ではありません。大梵天王という、宇宙を創造し、つねに仏を守護する王をはじめとする方がたが、なさっていることなのです。きっと、われわれには知りがたい、なんらかの因縁があって、国土の災難を止めるために、雨を降らさないのだと思われます。だから、もしわたしがいって、雨が降りだすという戸をひらけば、わたしの首はたちまち切られてしまうことでしょう。」
お坊さんは、竜のことばをじっと聞いていました。 竜は、なおもつづけます。
「しかしながら、わたしは、命を投げだして法華経に供養し、死後に、地獄、餓鬼、畜生などの三悪道(悪業のむくいとして死後落ちる悪所)に落ちるようなむくいをうけたくないと思います。それゆえ三日間だけ雨を降らせましょう。」
そして、一息ついた竜は、お坊さんを見つめていいました。
「聖人さま、お願いがあります。わたしのしかばねをさがしだして、うめ、その上に寺を建ててください。平群郡(奈良県生駒郡)の西の山の上に、ひとつの池があります。そこでわたしを見つけるはずです。その場所をいれて、四か所わたしのいくところがあります。そこのも、同じように寺を建ててください。」
聞きおわると、お坊さんは、深いため息をつき、嘆き、悲しみました。しかし、天皇の命令、すなわち勅命(ちょくめい)です。のがれることは、できません。お坊さんは、竜の遺言をすべて承知し、寺を建てる約束をして、泣く泣く竜と別れました。
その後、お坊さんは、竜が語ったことを、天皇に奏上しました。天皇は、これを聞いて、たいそう喜び、雨の降るのを待ちました。
竜が約束した日になりました。その日は、何日も、何十日もつづいた日と同じように、真っ青な空の問題お、ぎらぎらした太陽が、照っていました。とつぜん、西の空に小さな雲がでたかと思うと、にわかに空は真っ暗にかきくもり、雷鳴(らいめい)がとどろき、稲妻が光、大粒の雨が、落ちてきました。あっという間に、大雨になりました。大雨は三日三晩降り続きました。
雨があがると、国中に水が満ち、五穀もゆたかに実りはじめました。あの干ばつがうそのように、国土は、青々と緑におおわれ、すっかり回復しました。天皇は、竜のことばどおり雨が三日間降りつづいたことに、たいへん感心しました。また、大臣から百官(多くの役人)、一般の人びとにいたるまで、みんな大喜びでした。
お坊さんは、、竜の遺言どおり、西の山の峰にいってみました。まちがいなく、ひとつの池がありました。その池は、紅色(くれないいろ)でした。
「なんという色だろう。」
お坊さんは、おどろいて、池の近くまでいってみました。池の中には、ずたずたに切りきざまれた竜が、捨てられていました。その血が、池に満ちて、池の水は、紅色(くれないいろ)に染まっているのでした。
お坊さんは、これを見て、大声をあげて、泣きました。しかし、泣いてばかりいては、竜の遺言ははたせません。
気をとりなおしたお坊さんは、こまかくきれぎれになった竜のからだを集めてうめました。そして、その上にお寺を建てました。そのお寺を、竜海寺(りゅうかいじ)と名づけました。お坊さんは、その寺で、法華経を講じ、読経し、竜の供養をしました。
また、竜との約束どおり、ほかの三か所にも、みな寺を建てました。天皇にも奏上して、寺を建てるために、さまざまな援助をあおぎました。その寺々が、竜心寺(りゅうしんじ)竜天寺(りゅうてんじ)竜王寺(りゅうおうじ)などです。
お坊さんは、一生のあいだ、竜海寺に住み、毎日、法華経を読経し、竜の後世成仏(ごせじょうぶつ)をとむらいました。
この寺は、今もあると、語り伝えられている、ということです。
巻十四の第二話 蛇とネズミ
今は昔、信濃の国(長野県)に、国司(こくし){地方官}として赴任していた守(かみ){長官}がおりました。守(かみ)が、四年間の任期を終えて、都に帰る途中のことです。大きな蛇が、信濃守(しなののかみ)の上京のお供についてきます。一行が、立ち止まると、蛇が藪(やぶ)の中にとどまっています。昼は、一行のあとになり、先になり、ついてきます。夜は、御衣櫃(おんきぬびつ){衣類を入れる大型の箱}のそばでとぐろを巻いています。
従者(じゅうしゃ)たちは、「これはまったくあやしいことだ。こいつをぶちころしてやろう」 と、口ぐちにいいます。
これ聞いた守(かみ)は、「けっして殺してはならぬ。これにはなにか訳があるにちがいない。」 と、従者たちを押しとどめました。
守(かみ)は、心の中で、「わたしを追ってくる蛇は、この国の神さまでいらっしゃるのか。それとも、悪霊(あくりょう)が、たたりをしようとして追ってくるのか。わたしには、どうしてもわかりません。たとえ、わたしがなにかあやまちをおかしていたとしても、凡人(ぼんじん)のわたしには、わかりません。どうか、夢の中でおしめしくださいまし。」 と、祈りました。
すると、その夜の夢に、まだらもようの水干(すいかん){庶民の男子の平腹}に袴(はかま)をはいた男がでてきて、信濃守(しなののかみ)の前でひざまずき、「わたしの長年のうらみかさなる敵が、今、御衣櫃(おんきぬびつ)の中にこもっています。あの男をやっつけようと、お供をして参りました。もし、あの男をいただけましたならば、ここから引き返すつもりでございます。」 と、いうのを聞き、守(かみ)は、夢からさめました。
夜が明けて、守(かみ)は、ゆうべの夢を従者たちに語って、さっそく衣櫃(きぬびつ)をあけてみました。
底のほうに、年をとったネズミが一匹いました。とてもおびえたようすで、人を見ても逃げることなく、衣櫃(きぬびつ)の底に小さくなってうずくまっています。
「このネズミを、早く捨てましょう。」 従者たちは、いいます。しかし、守(かみ)は、
「この蛇とネズミは、前世からの仇敵(きゅうてき){かたき}だったのか。」 と知って、あわれに思いました。
「もし、このネズミをこのまま放りだしたら、あの蛇にかならずのみこまれてしまうだろう。それならば、よい行いをして、蛇とネズミを、両方すくってやろう。」 と思った守(かみ)は、そこにとどまって、蛇とネズミのために、一日のうちに、法華経を一部写経して供養することにしました。大勢の従者たちも、力をあわせてお経を書き写しました。おかげで、一日のうちに、八巻もある法華経一部を、全部書き終えました。さっそく、同行していた僧にたのんで、蛇とネズミのために、きまりどおりに、供養をいとなんでやりました。
その夜、守(かみ)の夢に、ふたりの男がでてきました。ふたりとも、うるわしい容貌(ようぼう)にほほえみをうかべ、美しい衣装を着て、守(かみ)の前にかしこまり、こういいました。
「わたしたちは、幾世(いくよ)にわたり仇敵(きゅうてき)同士になって、たがいに殺しあってまいりました。それで、今度も、殺そうと思っておりました。ところが、あなたさまが、慈悲のお心でわたしたちのために、一日のうちに法華経を書写し、供養してくださいました。この善根(ぜんこん)のお力によって、わたしたちは前世の因果で生まれていた畜生(ちくしょう){動物}の身から解放されて、今度は、忉利天(とうりてん){天上の地名}に生まれることでございましょう。この広大なご恩は、何代にわたってもお返しすることができないほどでございます。」
いいおわると、ふたり一緒に空高くのぼっていきました。そのあいだ、美しい音楽の音が、空に満ちていました。守(かみ)は、夢からさめました。
夜が明けてから見ると、あの蛇は死んでいました。また衣櫃(きぬびつ)の底を見ると、ネズミも死んでいました。これを見た人はみな、尊び、感動するのでした。まことに、この守(かみ)の慈悲心はありがたいものです。蛇とネズミにとって、守(かみ)は、この世のみならず、はるか遠い昔から深い縁でつながった、良き友であり、高徳(こうとく)の人であったのでしょう。また、法華経の威力もすごいものです。
この話は、守(かみ)が、都にのぼってみなに語ったのを聞きついで、このように語り伝えたということです。
巻第十七の第八話 お地蔵さん
今は昔、陸奥(むつ)の国の小松寺(こまつでら)という寺に、蔵念(ぞうねん)という名の沙弥(しゃみ)が住んでいた。
彼は平将門(たいらのまさかど)の孫にして、金泥(こんでい)の大般若経一部を書写供養した良門(よしかど)の子である。蔵念という名は、二十四日の生まれなので、地蔵菩薩にちなんで父母が付けた名であった。
この沙弥は幼いときから、起居つねに地蔵菩薩を祈念して怠ることがなく、また見る人みなが誉めたたえる美しい姿と、聞くものみなが貴ぶ妙なる声をしていた。そのため人々はこの沙弥を地蔵小院(じぞうこいん)と呼んでいた。
地蔵小院の所行は、はなはだ奇特なものだった。日々夜々(にちにちやや)に錫杖(しゃくじょう)をふるいながら家々を訪ねては、人々に地蔵菩薩の名を唱えて聞かせ、法螺貝(ほらがい)を吹いては地蔵菩薩の悲願を讃嘆した。
そのため信心をおこす人がきわめて多く、殺生をほしいままにする人でさえ、この沙弥を見れば即座に悪心を止めて善心をおこすほどだった。地蔵小院はお地蔵さまの大悲の化身に違いないと人々は言い合った。
このようにして年月を重ねて齢七十になったとき、沙弥は独りで深い山にはいり跡をくらました。国中の貴賎も男女も、沙弥がいなくなったことを惜しんで探し求めたが見つからなかった。
人々は悲しみ嘆き、沙弥が入った山に向かって合掌礼拝しながら言った。
「地蔵小院はまことに生きた地蔵菩薩だった。我々の罪があまりに重いので、我らを見捨てて浄土へお帰りになったのだ」
その後ついにこの沙弥の消息を聞くことはなかった。 
オン カカカビ サンマエイ ソワカ 、オン カカカビ サンマエイ ソワカ〜! (お地蔵様の真言です)
巻第十九の第十一話 王藤観音
今は昔、信濃の国に筑摩(つかま)の湯という温泉があった。「薬湯なり」 として多くの人が湯浴みに来る温泉であった。
ある夜、その温泉の里人が夢を見た。人がやって来て、次のようなお告げをする夢だった。
「明日の昼ごろ、観音さまがお出でになって湯浴みするであろう。結縁のため必ずみんな来るように」
夢の中で里人は問うて言った。
「どのようなお姿でお出でになるのでしょう」
「年は四十ばかり、髭は黒く、い草の笠をかぶり、節黒の矢筒を背負い、革を巻いた弓を持ち、紺の着物を着て、白い足袋をはき、黒作りの太刀を帯び、葦毛(あしげ)の馬に乗って来る人あれば、それはまぎれもなく観音さまである」
里人はおどろき怪しみ、夜が明けると里のみんなに告げて回った。
これを聞いた人々はこぞって湯に集まり来て、すぐに湯を替え、周囲の庭を掃除してしめ縄を引き、お香と花を備え、多くの人が居ならび待っていると、日は移り正午を過ぎて午後二時になるころ、葦毛の馬に乗った男がやって来た。夢で聞いたのと寸分ちがわない顔や身なりをしている。
その男は人々に向かって言った。
「これは何事じゃ!!?」
人々はただ礼拝するばかりで答える人はいない。男は一人の僧が手をすりあわせて礼拝しているところに近づき、ひどいなまり声で尋ねた。
「いったい何事があったというので、みんながわしを拝むのだ?」
「じつは昨夜ある里人がしかじかの夢を見たのです」
それを聞いた男が言った。
「わしは二日前に狩りをしていて、馬から落ちて左腕を骨折した。それを湯治しようとやって来ただけじゃ。このように拝まれるいわれはない」 
と言ってあちこち逃げ回るのを、人々は追いかけて大騒ぎしながら拝む。男は困り果てて言った。 
「されば我が身は観音だったのか。それではわしは法師(ほうし)になろう」
と言って、その場に弓矢を捨て、武具をはずし、たちどころに髪を切り、法師になった。それを見た人々は貴び感激すること限りなかった。 
たまたまこの男を見知っている者が現れ、「あれは上野(こうずけ)の国の王藤(おうどう)様ではないか」 と言ったものだから、それを聞いた人々はこの男を王藤観音と呼んだ。
男は出家してのち比叡山の横川(よかわ)に登り、覚朝僧都(かくちょうそうず)という人の弟子となり、四年ばかり横川にいたあと土佐の国へ行った。その後のことを伝え聞く人はいない。
巻二十九の第十八話 羅城門
今は昔、摂津国(せっつくに){大阪府と兵庫県の一部}のあたりから、ぬすみをしようと、京へのぼってきた男がありました。夕方に京につきましたが、まだ、日が暮れません。男は、京の入り口に建っている羅城門(らじょうもん)の下にかくれていました。
門からまっすぐにのびた朱雀大路(すざくおおじ)は、天皇が住んでいる内裏(だいり)につづいている大通りです。その大路(おおじ)を、大勢の人が行き来しています。夜になり、人通りが静まるまで、羅城門の下で待っているつもりでした。
そのうち、京の外の山城(やましろ)のほうより、大勢の人たちがやってくる音がします。
「見られとまずい」 と思った男は、門の柱にとりつき、二層(にそう){二階}にそっとよじのぼろました。門は、二層(にそう)になっていました。
「人などいまい。」 と思っていたのですが、小さなあかりが見えます。不思議に思った男は、格子窓(こうしまど)から中をのぞきこみました。すると、若い女の死体が横たわっているのが見えました。
その枕元には、火がともっていました。そこには、たいそう年とった、白髪の媼(おうな){おばあさん}が座りこみ、死体の髪の毛を、手あらくぬきとっています。
「もしや、鬼では!」 と、男は肝(きも)をつぶしましたが、
「ひょっとしたら、死人が生き返ったのかもしれぬ。おどかして、ためしてやろう。」 と思い、戸にそっと手をかけ、刀をぬき、
「こいつめ、こいつめ。」 と、どなりながら、走り入りました。
老婆は、おどろき、あわてふためき、手をすりあわせて、うろたえます。
「おまえはなに者だ。そこで、なにをしている。」 と聞くと、媼(おうな)は、
「わたしのご主人でした姫さまがなくなりましたが、お葬式などしてくれる親戚も、身よりもありません。しかたがないので、こうして、ここにお置きしているのです。姫さまの御髪(おぐし)は身の丈(たけ)にあまるほど長いものですから、せめて、御髪(おぐし)をぬきとって、かつらにしようと思っておりました。あやしい者ではありません。どうぞ、お助けください。」 と、手をこすりあわせて、哀願します。
それを聞いた男は、若い死人の着ている着物も、媼(おうな)の着ているものをはぎとりました。そのうえ、媼(おうな)がぬきとった髪の毛もうばいとって、かけおりて、逃げていってしまいました。
ところで、その当時は、羅城門の二層(二階)には、死体の骸骨がたくさんごろごろしていました。葬式などだす費用のない、おちぶれた貴族や京の人びとが、門の上に捨てていったからです。この門は、あの世とこの世とでも考えられており、死人が捨てられていたようです。
このことは、その男が、ほかの人に語ったのを聞きついで、語り伝えられた、ということです。
巻二十七の第四十話 狐の約束
今は昔、物の怪(もののけ)にとりつかれる病に、なやまされている人の家が、ありました。そこで、その家の人は、物の怪を追う出すために、巫女(みこ)とお坊さんをよびました。巫女は、病人についている物の怪を自分に乗りうつらせ、その正体を名乗らせ、病人にとりついた理由をなどを語らせます。そのうえで、お坊さんの加持祈祷によって、その物の怪を退散させるのです。
よばれた巫女に、さっそく、物の怪が乗りうつり、巫女の口をとおして、いいます。
「おれは狐だ。この人にたたりをするためにきたのではない。ただ、このところには食い物が散らばっているものだと思って、家の中をのぞいているうちに。僧侶の加持の力によって、身うごきがとれなくなってしまったのだ。」
そういうと、ふところから、小さいみかんくらいの白い玉をとりだして、それを投げ、手玉にとりはじめました。見ている人びとは、
「きれいな玉だな。きっと巫女が、もともとふところに持っていて、人をだまそうとするのだろう。」 と、うたがっておりました。
そばに、血気さかんな、若侍が、いました。男は、巫女が打ちあげる玉を、手をだして、さっと横どりして、ふところにしまいこみました。すると、巫女にとりついた狐は、
「ひどいことをするやつだ。その玉を返してくれ。」 と、しきりにたのみます。
男は知らん顔をして、聞きいれないでいると、狐は、泣く泣く男にむかって、
「そなたは、※その玉をとったところで、使い方も知らないから、なんの役にも立つまい。自分には、その玉をとられるとひどい損になるのだ。だから、その玉をそなたが返してくれないなら、自分は末長く仇敵になろう。もし、返してくれるなら、自分は、そなたに守り神のようにつきそって、守ろう。」 といいいます。
男は、「たしかに、こんないたずらをして、自分がこの玉を持っていてもしかたあるまい。」 という気になって、
「ほんとうに、わたしの守り神になってくれるか。」 と、念をおしました。狐は、「もちろんだ。かならず、お守りしよう。」
「自分のような獣は、けっしてうそはつかない。また、人の恩を忘れるようなことはない。」 と、いいます。
男は、「そなたをつかまえている仏法護法の神が、証人になってくださるか。」 というと、狐は、
「まことに、護法もお聞きください。玉を返してくれたら、まちがいなくこの人をお守りします。」と、仏法護法にも約束します。男は、ふところから玉をとりだして、巫女にあたえました。狐は、何度もお礼をいって、その玉をうけとりました。
その後、狐の霊は、験者(祈祷をするお坊さん)に追われて、去っていきました。見守っていた人びとは、その巫女をおさえて、引きとめ、ふところの中をさぐりました。しかし、どんなにさがしても、先ほどの白い玉はどこからもでてきません。
それで、人びとは、「ほんとうに、病人についていた狐が持っていた玉だったのだ。」 と、さとりました。
その後、この玉をとった男は、太秦(うずまさ)の広隆寺(京都市右京区)に参拝しました。そろそろ暗くなるころ、御堂(みどう)をでて、帰途につきましたので、夜にはいって、官庁街の内野(うちの)をとおることになってしまいました。夜は、暗くさびしい場所です。南の正面の応天門(おうてんもん)のあたりにさしかかると、なんとなくぞくぞくして、おそろしくなりました。どうしてこんなにおそろしい気になんるのだろう、と不思議に思っているうちに、「そうだ、自分を守ってくれる約束の狐がいたぞ。」 と、思いだし、暗やみの中に、ただひとりで立って、
「狐、狐。」と、よびました。すると、「コン、コン」と、鳴いてでてきました。
見ると、たしかにあの狐が、あらわれました。「さては、約束を守ってくれたな。」 と、思って、男は、狐にむかって、こういいました。
「おい、狐、ほんとうに、うそをつかなかったな。じつにうれしくありがたい。さて、ここをとおろうと思うのだが、どうもおそろしい。わたしをおくってくれ。」
狐は、心得顔(こころえがお)で、ふりかえり、ふりかえり、先に立って歩きます。男は、狐のうしろについていきますが、いつもの道とはちがう道をとおっていきます。と、狐は立ちどまり、背中をかがめ、ぬき足で歩いて、ふりかえりました。
男も、同じように、ぬき足で行くと、人の気配がします。そっと見ると、弓矢、武器を身につけた者どもが大勢立って、なにやら相談しています。垣根ごしに、耳をすますと、なんと、盗人(ぬすびと)たちが、おしいろうとするところについて、打ちあわせをしているのでした。この盗人たちは、いつも男がとおっている道に立っていたのです。だから、狐はいつもとちがう道をとおって、しかも、その裏のせまい垣根のあいだの道を案内したのです。
男は、「狐は、このことを知っていて、盗人たちの立っている垣根ごしにとおって、危険を知らせようとしたのだ。」 と、納得しました。
男が、せまい垣根のあいだの道をとおりぬけると、狐は、姿を消しました。狐は、この一件だけでなく、いつも男のそばにそっとよりそっていて、いろいろと助けてくれるのでした。
ほんとうに、「お守りします。」 といったことばは、うそではなかったのです。男は、心から感心しました。もし、あの玉をおしんで返さなかったら、男に、よいことはなかったことでしょう。ぎゃくに、悪いことばかり起こっていたのかもしれません。
ですから、「あのとき、あの玉をよくぞ返してやったものだ。」 と、つくづく思うのでした。
これを思うに、このような獣は、人の恩を知って、うそをつかないものです。ですから、たまたま機会があって、助けてやれそうなことがあったら、かならず助けてやるできです。
ただし、人間は、思慮分別(しりゅふんべつ)もあって、ものの道理を知っているはずなのに、かえって、獣より人の恩を知らないで、不実(ふじつ)な心を持つ者もあるものだ。 と語り伝えているということです。
巻二十九の第三十一話 新羅の虎
今は昔、九州に住んでいた人たちが、交易(こうえき)のために、一艘(そう)の船に、大勢乗り込んで、新羅(しらぎ)にわたりました。新羅は、朝鮮半島にあった国です。新羅と日本は、このような交易が活発でした。新羅との商いが終わり、新羅の国の品物を積んで、帰るとちゅうのことです。新羅の国の山裾(やますそ)にそって、船をこいでいましたが、飲み水をくみいれるために、水が流れだしているところを見つけ、船を止めました。
何人かが船からおりて、水をくんでいました。そのとき、船に乗っていた人がひとり、船ばたにいて、海をのぞいていたところ、山の影が水面にうっていました。ところが、その水面に、高さ三、四丈(一丈は約三メートル)ばかりある断崖の上に、虎がうずくまって、なにかえものをねらっているのがうつりました。
その人は、「われわれをねらっているのではないか。」 と考え、水をくみに陸にあがっている仲間を、「虎だ。早く船にもどれ。」 と大声でよびよせました。
水をくんでいた乗組員たちは、びっくりして、大あわてで、船に乗りこみました。「大いそぎで、船をだそう。」 乗組員たちは、手に手に櫓(ろ)をとって、いそいで船をだしました。と、そのときです。虎は、断崖から身をひるがえして、船に飛びこもうとしました。
しかし、船が動きだしたほうが、一瞬だけ、早かったのです。そのうえ、虎が断崖から落ちてくるまでに、多少の時間がかかったこともありました。おかげで、虎は、船にもう一丈ばかり飛びおよばず、海に落ちこんでしまいました。
船の乗組員たちは、これを見ておそれおののき、力をあわせてこぎ、全速力で逃げていきながら、みな、虎に注目していました。
すると、海に落ちこんで、しばらくうかびあがってこなかった虎が、泳いで、陸にあがってきました。虎は、波打ち際(ぎわ)の、たいらな石の上にのぼろます。どうするつもりなのかと、虎を見ていた乗組員たちは、みな、「あっ。」と、息をのみました。
虎の左の前足は、膝(ひざ)から下が切れてなくなっており、血が流れおちているのです。
「わにざめに食いちぎられたにちがいない」 みなそう思って見ていました。
虎は、その切れた足を海の水にひたしています。血のにおいをかがせ、わにざめをおびきよせようとしているようです。塩水は、傷口にしみるにちがいありません。しかし、虎は、からだを低くして、身がまえて、待っています。
そのうち、沖のほうから、わにざめが、この虎をめがけて突進してきました。「わにざめが近づいてきたぞ。」 乗組員たちは、固唾(かたず)をのんで、見守っていました。わにざめが、虎におそいかかると見えた瞬間、虎は、右の前足で、わにざめがの頭に爪(つめ)を立てて、陸のほうに投げあげました。
わにざめは、一丈ばかり浜に打ちあげられました。砂の上にあおむけになり、ばたばたしています。虎は、わにざめのところに走りよって、あごの下におどりかかってかみつき、二,三度ばかりゆさぶりました。わにざめは、へなへなと、力なく、横たわりました。
虎は、わにざめを肩に打ちかけて、てのひらを立てたように切り立った。高さ五、六丈ほどもある断崖を、残った三本の足でのぼっていきます。まるで、坂を走りくだるかのように、軽がると、走りのぼっていきました。
船からこの一部始終(いちぶしじゅう)を、固唾(からず)をのんで見ていた乗組員たちは、生きた心地(ここち)もしませんでした。
「さてさて、すごい虎だなあ。もし、この船に飛びこんでいたら、われらひとり残らず、食いころされていたなあ。国に帰って、妻や子の顔を見ることもできなかったよ。」 ひとりの乗組員がいうと、
「すごい性能(せいのう)の弓矢や刀剣で身をかためた、千人の軍勢がいても、まったく役に立たなかっただろうなあ。」
もうひとりの乗組員が、いいます。
「あたりまえだよ。こんなせまい船の中では、太刀(たち)や刀をぬいて対戦しても、ああも力が強く、足も早いときては、なにができようか。」
また、ほかの乗組員が、身ぶるいしながら、答えます。
みな、口ぐちにいいあい、胸をなでおろしました。こうして、船をこぐも上の空で、必死に、九州まで帰ってきました。
帰国した乗組員たちは、妻や子に、このことを話しました。「ほんとうに、ごぶじで。」 ほとんど死ぬところであったのに、運よく助かって帰ってきてくれたことを、心から、喜びあいました。
この話を聞いた人たちも、おそろしさにふるえあがりました。思うに、わにざめは、海の中でこそ、強く、知恵もまわるものですから、虎が海に落ちこんだとき、前あしを食いちぎることもできたのです。それなのに、考えもなく、陸にあがった虎を、なおも食おうとして、陸に近づいたりしたから、命を落としたのです。ですから、万事、みな、このようものです。
人は、これを聞いて、「あまり身のほど知らずはやめたほうがよい。なにごとも、ほどほどにするがよい。」と、語り伝えた、ということです。
 
現代の苦難、悩みに打ち勝つ「仏教の言葉」

 

今、なぜ仏教が求められているのだろうか。宗教学者として活躍する僧侶の釈徹宗さんは、仏教にはつらい日常を乗り越えるためのヒントが数多くあると言う。そこで今を生きるニッポン人のために、現代の悩みに打ち勝つ「珠玉の言葉」を教えてもらった。
弟子に「仏教を学んだ人と学ばない人ではどう違うか」と問われた仏陀は、「第2の矢を受けなくなる」と答えています。
嫌なことをされたり、言われたりしたら、イライラし、むかっとするのが第1の矢。これは避けようがありませんが、同じだけやり返さなければ気が済まない、同じように自分も得しなければ嫌だと思うのが第2の矢です。
何かを妬ましいという心が1つの苦しみを生み、他者を妬むという第2の矢も生み出してしまう。ついにはその人のことが好きでなくなり、関係まで苦痛になっていく。坂道を転がるように妬み体質になっていきます。その連鎖を止めよ、というのがここで紹介する言葉です。
他人がもうけたというのはただの現象の一つです。そこから妬ましいと思う心へと連鎖しない。隣の人がもうけたと知っても、「もうけてはんねんな」で心の動きを止める。自分の心と体を調えて、怒りや妬みの連鎖を、安らぎの連鎖に転換していくのが仏道です。
出典である『ダンマパダ』は、1番から423番まで番号が振られている金言集です。その中の「怨(うら)みは怨みをもって息(や)むことなし」という言葉は、サンフランシスコ平和会議の演説でも知られています。各国が賠償金などを求めて主張し合うなか、スリランカ代表ジャヤワルダナ氏がこの言葉を演説に引用し、仏教の精神に基づき無条件調印することで、怨みの連鎖を止めようとしました。
かつて日本では、ひとり暮らしのお年寄りがいれば、隣近所で様子を心配するなど、少なからず社会がお世話し合っていました。
現代社会は、さまざまな制度を作ることで、人の世話にならずに暮らせるシステムを目指してきました。
その結果、「他人の世話になるのが苦手な人」が急激に増えていると感じています。
借りをつくるのは嫌、という消費者体質です。支払った対価と同等のサービスを受ける等価交換でないと納得しない、居心地が悪い。しかし考えてみれば、一切、他人の世話にならずに暮らそうというのは、ある意味傲慢な話です。
多くの人がひとりの老後を迎える時代です。いかにお互いにお世話上手、お世話され上手になるかは、これからを生きる現代人のテーマともいえます。
人の心とシンクロし、喜ばれることを喜びとする心の共振現象をもって、お世話し合える関係を築きたいものです。
その上で『スッタニパータ』の、「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の困難に堪(た)えて、恐れることなく、犀(さい)の角のようにただ独り歩め」という言葉のように、「どこにでも赴き、機嫌よく暮らし、あるものを分かち合って満足し、ひとりで生きて死んでいく」覚悟があれば、困難にも恐れることなく人生を全うできるのではないでしょうか。
私は、自分がつらいときにこの言葉をつぶやくと、「いっそ一人で行け」と背中を押されるようで勇気が出ます。
仏教は、そもそも人生は苦だと説きます。「苦」とは自分の思い通りにならない、不満のある状態のことを指します。自分の評価と周囲の評価との乖離(かいり)は、まさに苦の状態ですね。
なぜ乖離するのかといえば、誰もが自分の都合というフィルターを通して、世界を見ているからです。
フィルターを通すことで、ある人は実際以上に自分を大きく映し、ある人は小さく映して低い評価をしている。時には、既に目の前にいない人を見続けて腹を立てていることすらあるのです。
評価や批判も、それがゆがんだフィルターで見ている人からのものであれば、いくら聞いてもゆがむ一方です。「人からの批判や教えを受けるなら、物事を見通せる人こそ近くに置いて、批判してもらえ」というのが、『正法眼蔵随聞記』 の「人を愧(は)づべくんば、明眼の人を愧づべし」という言葉。
しかし、誰からの批判を受け入れるにしても、現実が自分の思い通りになる人はそうはいません。現実との落差によって苦が生まれるのですから、肝心なことは自分の思いのほうを調えることです。
自分の都合を横に置いて、心を鏡のように平明にし、物事をクールに見るトレーニングを積めば、適切な道筋が見えてくるというのが仏教の手法。
ただし、仏教の教え通り自分の都合を小さくして物事を見れば、心は楽になり苦しみも少なくなりますが、出世するかどうかは、また別の話です。
世の中には、不機嫌で場を支配するクセの人がいますね。不機嫌はなった者勝ち。周りは合わせなければ仕方がありません。本人は不機嫌を表すことで、場を支配している気になっていますが、誰一人気持ちよくない。
共にいる人との関係を改善しようとするなら、このような場の支配の仕方をしていないか、自分の都合で物事を見ていないかを見直し、自分の考え方や行動様式を変えていくことが必要です。
その一歩が『大無量寿経』 にある「和顔愛語」。「和やかな優しい表情と慈しみや愛情のこもった言葉」のことです。何一つ持っていなくてもできる『無財の布施』として知られています。布施とは、お経を読んでもらったお礼に渡すものという認識の方もあるでしょうが、本来、執着を離れ、「こうでなければならない」という自分都合の枠組みを取り外すための、心と体を調えるトレーニングのことです。
施したことで感謝されたいと思うのは自分の都合。相手がどう思おうとこだわりなく施す。そして受ける側も、何のこだわりもなく受け取れるのが布施。和顔愛語という布施によって、相手に恐れを与えないよう、嫌な気持ちを起こさせないよう、自分自身を調えるトレーニングを心がけてはどうでしょうか。
これまでの生活を変える道筋にもなり、お互いの心地いい場を生む助けにもなるはずです。
 
『古本説話集』における叡山仏教

 

一 序
仏教説話文学の一冊である『古本説話集』は、侠名の写本が唯二の伝本で、撰者未詳である。現在は『古本説話集』の仮称で、前半は上巻といい、和歌説話四六編ある。また、後半は下巻で、仏教説話二四編からなっている。成立年代は未詳だけれど、写本の推定年代は鎌倉中期を下らないといわれる。先学の諸研究によると、『宇治大納言物語』と同じ系統と考えられ、天治から大治(一=西ー二;=)にかけての写本という説が有力である。
ところで、いくつかの説話集における叡山仏教の濃度を調べた結果を示すと、概要つぎのようである。
A説話集名 / B全説話数 / C叡山説話数 / C/B
今昔物語集 / 六二八 / 一一八 / 二八%
宇治拾遺物語 / 一九七 / 六一 / 三二%
古今著聞集 / 七二六 / 二四二 / 二〇%
沙石集 / 二五六 / 四八 / 三〇%
拾遺往生伝 / 八四 / 四三 / 五二%
雑談藏集 / 七四 / 二八 / 三八%
古本説話集 / 七〇 / 一四 / 二〇%
ところで、本稿の課題であるが、第二に、中世においては、このような説話集の類書がかなり沢山あったのではないだろうか。仏教人口が増加したので、仏教を大衆化しなければならず、そのため仏教指導者が、それぞれテキストを持っていたのではないだろうか。
第二に、この仏教説話集にも比叡山関係の説話が二〇%もあるということは、貴族を中心とする仏教だった天台が普及し、大衆化した実態を反映しているのではないだろうか。仏教の聖地比叡山が育てた説話と見る説話文学なのか。比叡山の天台仏教が文学の姿をかりて、大衆化を果したと見るべきか。
第三に、平安末期から鎌倉前期にかけての説話集には、伝教大師、慈覚大師などの高僧が説話に登場したが、…鎌倉中期の成立と思われる古本説話集には、賀朝・高光・覚超などが登場し、伝教大師や慈覚大師が姿を消している。いかなる意味があるだろうか。単に時代の推移とだけとは見られない。天台の色彩が、鎌倉仏教の登場で淡薄化したというべきなのか。現代のような宗我にこだわる時代でないから、仏教に関心の高い文人貴族や、興福寺系の僧の撰述と推定することが妥当とすれば、中世社会の仏教常識として天台の高僧をどのように捉えたかを明らかにする必要もある。
以上の三つの課題に、どこまで解答しうるかは不安であるが、大胆に論述することにしよう。
二 叡山関係説話の実態
(1)舞台 各説話にでてくる叡山仏教に関する地名・寺名などを示すと、次のようである。
第一 雲林院・三井寺、第七 書写(円教寺)、第八 山(比叡山)、第三〇 横川、第三三 愛宕(京都珍皇寺元天台の寺)、第五〇 関寺(大津三井寺所属)、第六六 比叡の山・鞍馬、第六九 横川、第七〇 三井寺
右の地名・寺名は、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などとかなり異っている。比叡山三塔の中核的なものがまことに少なく、むしろ別所とか、地方の天台寺院が多いのは、撰者の性格が、地方的な人物であるか、地方に目を向けたものであることを暗示する。つまり、地方の指導的役割を果たすテキストの性格が強いというべきであろう。
(2)人物 舞台と同じく説話ごとに列記すると、次のようである。
第一 (三井寺にて)尼、第七 (書写の)聖(性空)、第一五 道命阿閣梨、第一七 賀朝(比叡山の僧)、第二一 若狭阿閣梨隆源(三井寺の僧)、第三〇 高光の少将
右によると、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などでは、伝教大師や慈覚大師といった宗祖や高僧が多く登場したのに対し、『古本説話集』では地方の天台僧や無名の僧の登場が特筆される。このことは天台の門流に対する関心度を示すもので、平安仏教の天台宗を正面切ってとりあげず、自然にとりあげているのに注意すると、仏教の国風化を示すものと考えられる。
(3)教学 つぎに天台の教学思想を説話の中に探ると、わずかに三個所があげられる。
第一 不断念仏(慈覚大師)
第七 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(法華経化城喩品)
第六十三 龍樹韮口…薩(大智度論・中論の著者)
以上、舞台・人物・教学について列記したが、具体的にどのような説話の中で、どのように述べられているかについては項を改めて書き進める。
三 本集説話の系譜
ところで、この説話集の叡山説話の考察を進めるために、各説話の前身や後身の関係について瞥見しよう。
第一 今昔物語集巻一九第一七(後半同話)、第二 同上巻二四第三三(同話)、第四 同上巻二四第五二(同話)、十訓抄巻三 古今著聞集巻五(共に関連話)、第一一 宇治拾遺物語第一四六(部分同話)、第一五 今昔物語集巻一二、宇治拾遺物語 古今著聞集巻八(すべて類話)、第一六 宝物集(類話)、第一七 今昔物語集巻三〇(関連話)、第一八 宇治拾遺物語 第四〇 (同話)、第一九 今昔物語集巻三〇(類話)、第二〇 宇治拾遺物語第四一(同話)、第二一 同上第四二(同話)、第二二 同上第一五〇(同話)、第二四 今昔物語集巻二四(関連話)、第二五 宇治拾遺物語第四三(同話)、第二七今昔物語集巻二七第二(同話)、第二八 同上巻一九第五(同話)、第二九 同上巻二四第四七(同話)、第三一 同上巻二四第三四(同話)、第三二 同上巻二四第三八(同話)、第三三 同上巻二四第四九(同話)、第三四 同上巻二四第四八(同話)、第三五 同上巻二四第五八(関連話)、第三八 宇治拾遺物語第一四七(同話)、第四〇 今昔物語集巻一九第一三宇治拾遺物語第一四八(共に同話)、第四一 今昔物語集巻二四第四三 宇治拾遺物語第一四九(共に同話)、第四四 今昔物語集巻二四 第五五 宇治拾遺物語第一=(共に同話)、第四六 今昔物譜集巻二四第四二(類話)、第四七 同上巻二二第二二(類話)、第四八 日本霊異記巻中第三四 今昔物語集巻一六第七 同上第八 宇治拾遺物語第一〇八(共に類話)、第四九 今昔物語集巻一九第四〇 同上第四一宇治拾遺物語第九五(共に同話)、第五一 打聞集第二三 今昔物語集巻一四第四二 真言伝巻四(共に類話)、第五二今昔物語集巻一四第三五 宇治拾遺物語第一九一 真言伝巻二(共に同話)、第五三 今昔物語集巻一六第四 三国伝記巻八第三 宝物集 大日本国法華経験記巻下八四(いずれも類話)、第五五 三宝絵詞(類話)、第五六 今昔物語集巻三第二二 宇治拾遺物語第八五(共に同話)、第五七 宇治拾遺物語第八六 今昔物語集巻一六第三七(同話)、第五八 宇治拾遺物語第九六 今昔物語集巻二六第二八 雑談集巻五(同話)、第五九 今昔物語集巻六第三〇 宇治拾遺物語第二二二(同話)、第六〇 今昔物語集巻一七第三三(関連話)、第六一 同上巻一七第四七 宇治拾遺物語第二九二(同話)、第六二 日本霊異記巻中第一三今昔物語集巻二七第四五(共に関連話)、第六三 打聞集第一三(同話) 三国伝記巻二第二九(類話)、第六四 宇治拾遺物語第八七(同話) 大日本国法華経験記 今昔物語集(類話)、第六五 宇治拾遺物語第二〇二(同話)、第六六 同上第八八(同話)、第六九 同上第八九 今昔物語集巻一九第一一(同話)、第七〇 今昔物語集巻一二第二四(同話)
右に示した同話とは、ほとんど同じ内容の文であり、類話とはよく似た説話を意味し、関連話というのは人物・舞台が同じで、内容を異にするものである。これによると、『今昔物語集』は同話二二、類話七、関連話六で、計三五となり、約五〇%に達する。つぎの『宇治拾遺物語』は、今昔と重復するのを加えて同話・類話、関連話を合せると一九あり、このほか、本集の説話の出典を探ると、源氏物語、伊勢物語、大和物語、栄華物語、枕草子、徒然草、詞花集などから、紫式部日記、世継物語などじつに多くの典拠作品がある。
これらのことを考えると、本集の作者の創作意欲ないし、独創的な編集の意図はきわめて薄いといわねばならない。となると、この説話集は、地方的感覚の編者が、自分の考えで、多くの説話、とくに仏教説話のなかから選んで編集したと考えられる。つまり、これに類する説話集はかなり多くあったのではないだろうか。
四 叡山関係説話の具体例
前項で考察した観点から、地方的仏教リーダーの叡山仏教に関する教養の程度を具体例について考えてみたい。
まず叡山関係の寺名・地名の登場する説話から述べる。巻上第一につぎの記述がある。
後一条院の御時に、雲林院の不断の念仏は九月十日のほどなれば、殿上人四、五人ばかり、果ての夜、月のえもいはず明きに、
「念仏にあひに。」
とて、雲林院に行きて、丑の時ばかりに帰るに、斎院の東の御門の細目に開きたれば、そのころの殿上人・蔵人は、斎院の中もはかばかしく見ず、知らねば、
「かかるついでに、院の中みそかに見む。」
と言ひて入りぬ。
斎院とは村上天皇第十皇女で、天皇が何度も替られたが、ずっと斎院であった。毎朝の念仏をかかさず、阿弥陀仏の前で法華経を朝に夕に読まれたという。斎院は賀茂神社に仕えた未婚の内親王のことで、その居住の御所をも斎院といった。雲林院は京都の紫野にあり、元は淳和天皇の離宮だが、遍照僧正に与えられた寺である。不断念仏は比叡山の慈覚大師が中国より請来し比叡山の常行三昧堂ではじめられた。従って、『今昔物語集』では慈覚大師にふれているのに、『古本説話集』では雲林院をとりあげている。しかも斎院とのかかわりであることに注目すると、比叡山の仏教が紫野に移ってとりあげられたのである。つまり、天台の末流が力を待たと見るべきであろう。
つぎに、同じ説話で、「三井寺にて尼にならせ給ひにける」とか、上巻第三十三の「蓮の葉を上に覆ひて、愛宕に持て行きて、拝みて去りにける」の文を考えると、三井寺は四箇大寺に発展し、延暦寺や東大寺と並ぶ寺なので有名寺院だけれど、愛宕は珍皇寺のことで、天台系の寺だが、かなり延暦寺より遠い存在の寺である。また、同じ三井寺系の寺としても、下巻第五〇の「関寺」は地方色が濃いのである。
また、比叡山が登場するにしても上巻第八では「法師子をもちて山に」とあるだけだし、下巻の第六六も「今は昔、比叡の山に僧ありけり」と僧の名もでてこない程度の登場である。それから、上巻第七などのごときも「書写の聖のもとへ」とあって「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」が引用されている。比叡山の高僧がほとんど登場せず性空のような地方の天台高僧に移ったと見るべきであろう。性空も高僧ではあるが、姫路の書写山に住んでいたのである。書写は西の比叡山である。性空上人をとりあげたのは時代が下ったためか、それとも編者の地方色の豊かさを意図したものかなどと検討すると後者の色彩がきわめて濃厚に思われる。
さらに人物を検討すると、上巻第一五に、道命阿閣梨が登場するが、道命は藤原道綱の子で、天台座主慈恵大師良源の弟子であり、大阪四天王寺の別当をつとめ、歌人としても活躍したから『後拾遺集』などに作品を残している。地方的とはいえないけれど、比叡山から少し離れた存在である。
また、上巻第二二にはつぎの一節がある。
またの日、まだつとめて、若狭阿閣梨隆源といふ人、歌よみなり、来たり。「あはれ、この事聞きたるよ」と僧正おぼすに、懐より名簿を引き出でて奉る。
僧正とは永縁のことで、清水寺別当、興福寺別当をつとめ、歌人として名を残している。ところで、若狭阿閣梨隆源は藤原実頼の子孫で、三井寺の僧だが、歌人としても有名で『隆源口伝』の著がある。
そして、比叡山の僧であっても、上巻第一七の「賀朝事」や、下巻第六八の「今は昔、小松の僧都と申す人おはしけり。まだ小法師にてのをり、山より鞍馬へ参り給ひけり」などと登場する賀朝や小松(実因)は詳しく知られていない天台僧である。
だから、上巻三〇の「高光少将(叡山で出家)」、上巻第三九の「花山院(元慶寺で出家)」のほか、わずかに、下巻第七〇の「源信僧都」だけが有名な天台僧と考えられる。
このことからも編者の意図が推定される。
つぎに、天台の教学としてとりあげられたものを探すと、すでに述べた不断念仏のほかには、上巻第七に「暗きより云々」の歌があるくらいである。これは『法華経』の「化城喩品」の「冥きより冥きに入りて、永く仏の名を聞かず」の一句に通ずるものである。また、下巻第六三には龍樹菩薩が登場するが、中論や大智度論の著者で、八宗の祖といわれるが、この説話で示された「この龍樹菩薩は、賢く宮のうちを逃げ給ひて、法師になり給ひて、かく龍樹菩薩とはあがめられ給ふなりけり。されば、もとは俗にてぞ」とあるは、仏がもとは凡夫であるという、悉有仏性の天台の思想を現わしたものである。
五 結
さて、以上のように本稿では最初に示した三つの課題を解決すべく具ハ体的に述べてみた。そこで、最後に一応の結論を述べておきたい。
第一の仏教指導者が各人ごとに自由に従来から伝承された説話を適宜書き集めたものが多く、本集はその一例ではないかという問題については、三の「説話の系譜」で見た通り、同話引用も多く、要約説話、部分引用説話がほとんどで、原話採取、創作的再話、新説話の発掘など皆無なので、編者それぞれの教化用テキストとしての性格が強く、本集はその一例にすぎないのでないかという結論である。
第二、第三の課題では、比叡山関係説話において、今昔とか、宇治拾遺に、比叡山の根本中堂や西塔が多く登場し、人物も伝教大師や慈覚大師といった一級の高僧名僧が多かったのに、本集では地名や寺名に書写・三井寺・愛宕とか、人物にしても賀朝・道命・隆源などが登場し、源信僧都がもっとも有名といった程度である。このことはいかなることを意味するであろうか。それは時代の移り変りだけとは考えられない。むしろ、天台仏教が中央貴族から、地方豪族に移ったためではないだろうか。別のいい方をすれば、延暦寺の荘園が、地方に激増したことと関係があり、地方の仏教指導者が、それぞれの好みで、本集のような仏教説話テキストを作成していたのではないだろうか。
要するに、『古本説話集』は、地方的仏教指導者の教養の深さを示す、自作のテキストだと考えるのがの本稿の結論である。
 
宇治拾遺物語

 

宇治拾遺物語 1
鎌倉時代の説話集。編者不詳。古写本・古活字本は二巻か、もしくはそれを更に四巻・八巻にわけてあるが、万治二年(一六五九)刊の流布本は十五巻。前者が本来の形であろう。建暦二年(一二一二)ころ成立の『古事談』から話を採っていることと、承元四年(一二一〇)―承久三年(一二二一)在位の順徳天皇を「当今」と書いていることなどから、そのころに成立したものとみられているが、多少の増補もあるらしい。雑纂形態で説話総数百九十七、その配列順序に諸本間の異同はない。『今昔物語集』と同文的な話が八十余あるのをはじめ、約百二十話において、諸書と同文的な伝承関係にある。ことに『古事談』『古本説話集』からは、同文的な話のグループを採りこんでおり、密接な伝承関係にあると推定されている。しかし、その他の約七十話のうちには、鬼のこぶとり、腰折雀などの昔話、くうすけの仏供養、空入水の僧の話のような世間話、随求陀羅尼を額に籠めた僧や仮名暦の話のような滑稽話など、口誦を直接に採録したとみられる生彩のある説話が多い。全篇を通して仏教説話が多いが、教説的傾向は少なく、破戒凡愚の僧の活躍する話や、迷信を斥け、仏教の呪縛から解き放たれた人間が写されている。平安朝の宮廷や貴族に関する説話も少なくないが、王朝思慕の懐古的な気持よりも、事件的物語的興味から発想されたものが多い。編者は貴族階級に属する人と考えられ、文体も王朝和文脈であるが、本書の何よりの特色は地方的、庶民的な発想につながる説話が多く、集められた説話が本書の中で書承からも口承からも生き返って、何かを語りかけているような感じを読者に与えるところにある。編者の説話の並べ方は雑なようで案外精妙であり、愚かしい人間とそのかもし出す事件を寛容に愛情をもって見守り、軽妙に描出し、健康な笑の文学の世界を構成している。古来広く愛読されたゆえんであろう。『(新訂増補)国史大系』一八、『日本古典文学大系』二七、『日本古典文学全集』二八、『岩波文庫』などに収められている。
宇治拾遺物語 2
巻第一 / 三 鬼に瘤取らるる事
こりもいなかった。その恐ろしさといったら紛らしようもない。木の洞穴のあった所にこごんで入って、まんじりともせずにかがんでいると、遠くから大勢の人の話し声がして、どやどや近づいて来る足音がする。まことに山の中にたった一人でいたところに、人のやって来る気配がしたので、少しほっとした気持になって、外の方をのぞいて見ると、およそ種々さまざまな連中が、赤い色の体には青い物を着、黒い色の体には赤い物をふんどしに締めて、いやはや目一つある者もあり、口のない者など、何とも言いようのない異形の者どもが、百人ばかり所狭しと集まって、火を日輪のように真っ赤にともして、自分のいる洞穴の木の前に、ぐるりと輪になって坐った。まるで生きた心地もない。
首領と思われる鬼は上座に坐っている。左右に二列に居並んだ鬼は、数知れぬほど。その姿はどれもこれも言葉では言い尽しがたい。酒を勧めて遊ぶありさまは、この世の人間そのままである。たびたび盃が交されて、首領の鬼はしたたかに酔った様子である。末座から若い鬼が一人立ち上がって、折敷を頭にのせて、何と言うのか、くどくように節のある調子で言って、上座の鬼の前にゆらゆらと歩み
宇治拾遺物語 巻第一
一 道命、和泉式部の許に於いて読経し、五条の道祖神聴聞の事 / 二 丹波国篠村、平茸生ふる事 / 三 鬼に瘤取らるる事 / 四 伴大納言の事 / 五 随求陀羅尼、額に籠むる法師の事 / 六 中納言師時、法師の玉茎検知の事 / 七 竜門の聖、鹿に代らんとする事 / 八 易の占ひして金取り出す事 / 九 宇治殿倒れさせ給ひて、実相房僧正、験者に召さるる事 / 十 秦兼久、通俊卿の許に向ひて悪口の事 / 十一 源大納言雅俊、一生不犯の鐘打たせたる事 / 十二 児の掻餅するに空寝したる事 / 十三 田舎の児、桜の散るを見て泣く事 / 十四 小藤太、聟におどされたる事 / 十五 大童子、鮭盗みたる事 / 十六 尼、地蔵見奉る事 / 十七 修行者、百鬼夜行にあふ事 / 十八 利仁、芋粥の事
宇治拾遺物語 巻第二
一 清徳聖、奇特の事 / 二 静観僧正、雨を祈る法験の事 / 三 同僧正、大嶽の岩祈り失ふ事 / 四 金峯山薄打の事 / 五 用経、荒巻の事 / 六 厚行、死人を家より出す事 / 七 鼻長き僧の事 / 八 晴明、蔵人少将封ずる事 / 九 季通、殃ひにあはんとする事 / 十 袴垂、保昌に合ふ事 / 十一 明衡、殃ひに合はんと欲る事 / 十二 唐に卒都婆血つく事 / 十三 成村、強力の学士にあふ事 / 十四 柿の木に仏現ずる事 /
宇治拾遺物語 巻第三
一 大太郎盗人の事 / 二 藤大納言忠家、物いふ女放屁の事 / 三 小式部内侍、定頼卿の経にめでたる事 / 四 山伏、舟祈り返す事 / 五 鳥羽僧正、国俊と戯れの事 / 六 絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶ事 / 七 虎の鰐取りたる事 / 八 木こり歌の事 / 九 伯の母の事 / 十 同人仏事の事 / 十一 藤六の事 / 十二 多田新発意郎等の事 / 十三 因幡国の別当、地蔵造り差す事 / 十四 伏見修理大夫俊綱の事 / 十五 長門前司の女、葬送の時本所に帰る事 / 十六 雀報恩の事 / 十七 小野篁広才の事 / 十八 平貞文、本院侍従の事 / 十九 一条摂政歌の事 / 二十 狐、家に火つくる事
宇治拾遺物語 巻第四
一 狐、人に憑きてしとぎ食ふ事 / 二 佐渡国に金ある事 / 三 薬師寺別当の事 / 四 妹背嶋の事 / 五 石橋の下の蛇の事 / 六 東北院菩提講の聖の事 / 七 三河入道、遁世の事 / 八 進命婦、清水寺へ参る事 / 九 業遠朝臣、蘇生の事 / 十 篤昌、忠恒等の事 / 十一 後朱雀院、丈六の仏造り奉り給ふ事 / 十二 式部大輔実重、賀茂の御正体拝み奉る事 / 十三 智海法印、癩人法談の事 / 十四 白河院おそはれ給ふ事 / 十五 永超僧都、魚食ふ事 / 十六 了延に実因、湖水の中より法文の事 / 十七 慈恵僧正、戒壇築きたる事 69
宇治拾遺物語 巻第五
一 四の宮河原地蔵の事 / 二 伏見修理大夫の許へ殿上人行き向ふ事 / 三 以長、物忌の事 / 四 範久阿闍梨、西方を後ろにせぬ事 / 五 陪従家綱、行綱、互ひに謀りたる事 / 六 同清仲の事 / 七 仮名暦あつらへたる事 / 八 実子にあらざる子の事 / 九 御室戸僧正の事、一乗寺僧正の事 / 十 ある僧、人の許にて氷魚盗み食ひたる事 / 十一 仲胤僧都、地主権現説法の事 / 十二 大二条殿に小式部内侍、歌詠みかけ奉る事 / 十三 山の横川の賀能地蔵の事
宇治拾遺物語 巻第六
一 広貴、閻魔王宮へ召さるる事 / 二 世尊寺に死人掘り出す事 / 三 留志長者の事 / 四 清水寺二千度参り、双六に打ち入るる事 / 五 観音、蛇に化す事 / 六 賀茂より御幣紙、米等給ふ事 / 七 信濃国筑摩の湯に観音沐浴の事 / 八 帽子の叟、孔子と問答の事 / 九 僧伽多、羅刹国に行く事
宇治拾遺物語 巻第七
一 五色の鹿の事 / 二 播磨守為家の侍佐多の事 / 三 三条中納言、水飯の事 / 四 検非違使忠明の事 / 五 長谷寺参籠の男、利生にあづかる事 / 六 小野宮大饗の事、西宮殿富小路大臣大饗の事 / 七 式成、満、則員等三人滝口弓芸の事
宇治拾遺物語 巻第八
一 大膳大夫以長、前駆の間の事 / 二 下野武正、大風雨の日、法性寺殿に参る事 / 三 信濃国の聖の事 / 四 敏行朝臣の事 / 五 東大寺華厳会の事 / 六 猟師、仏を射る事 / 七 千手院僧正、仙人にあふ事
宇治拾遺物語 巻第九
一 滝口道則、術を習ふ事 / 二 宝志和尚影の事 / 三 越前敦賀の女、観音助け給ふ事 / 四 くうすけが仏供養の事 / 五 恒正が郎等、仏供養の事 / 六 歌詠みて罪を許さるる事 / 七 大安寺別当の女に嫁する男、夢見る事 / 八 博打の子、聟入の事
宇治拾遺物語 巻第十
一 伴大納言、応天門を焼く事 / 二 放鷹楽、明暹に是季が習ふ事 / 三 堀河院、明暹に笛吹かさせ給ふ事 / 四 浄蔵が八坂の坊に強盗入る事 / 五 播磨守佐大夫が事 / 六 吾妻人、生贄をとどむる事 / 七 豊前王の事 / 八 蔵人頓死の事 / 九 小槻茂助の事 / 十 海賊発心出家の事
宇治拾遺物語 巻第十一
一 青常の事 / 二 保輔盗人たる事 / 三 晴明を試みる僧の事 / 三 続 晴明、蛙を殺す事 / 四 河内守頼信、平忠恒を攻むる事 / 五 白河法皇北面、受領の下りのまねの事 / 六 蔵人得業、猿沢の池の竜の事 / 七 清水寺御帳賜る女の事 / 八 則光、盗人を斬る事 / 九 空入水したる僧の事 / 十 日蔵上人、吉野山にて鬼にあふ事 / 十一 丹後守保昌、下向の時致経の父にあふ事 / 十二 出家功徳の事
宇治拾遺物語 巻第十二
一 達磨、天竺の僧の行ひ見る事 / 二 提婆菩薩、竜樹菩薩の許に参る事 / 三 慈恵僧正、受戒の日延引の事 / 四 内記上人、法師陰陽師の紙冠を破る事 / 五 持経者叡実効験の事 / 六 空也上人の臂、観音院僧正祈り直す事 / 七 増賀上人、三条の宮に参り振舞の事 / 八 聖宝僧正、一条大路渡る事 / 九 穀断の聖露顕の事 / 十 季直少将歌の事 / 十一 木こり小童隠題歌の事 / 十二 高忠の侍、歌詠む事 / 十三 貫之歌の事 / 十四 東人、歌詠む事 / 十五 河原院融公の霊住む事 / 十六 八歳の童、孔子問答の事 / 十七 鄭太尉の事 / 十八 貧しき俗、仏性を観じて富める事 / 十九 宗行が郎等、虎を射る事 / 二十 遣唐使の子、虎に食はるる事 / 二十一 ある上達部、中将の時召人にあふ事 / 二十二 陽成院ばけ物の事 / 二十三 水無瀬殿むささびの事 / 二十四 一条桟敷屋、鬼の事
宇治拾遺物語 巻第十三
一 上緒の主、金を得る事 / 二 元輔落馬の事 / 三 俊宣、まどはし神に合ふ事 / 四 亀を買ひて放つ事 / 五 夢買ふ人の事 / 六 大井光遠の妹、強力の事 / 七 ある唐人、女の羊に生れたるを知らずして殺す事 / 八 出雲寺別当、父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事 / 九 念仏の僧、魔往生の事 / 十 慈覚大師、纐纈城に入り行く事 / 十一 渡天の僧、穴に入る事 / 十二 寂昭上人、鉢を飛ばす事 / 十三 清滝川聖の事 / 十四 優婆崛多の弟子の事
宇治拾遺物語 巻第十四
一 海雲比丘の弟子童の事 / 二 寛朝僧正、勇力の事 / 三 経頼、蛇にあふ事 / 四 魚養の事 / 五 新羅国の后、金の榻の事 / 六 玉の価はかりなき事 / 七 北面の女雑仕六が事 / 八 仲胤僧都、連歌の事 / 九 大将つつしみの事 / 十 御堂関白の御犬、晴明等、奇特の事 / 十一 高階俊平が弟の入道、算術の事
宇治拾遺物語 巻第十五
一 清見原天皇と大友皇子と合戦の事 / 二 頼時が胡人見たる事 / 三 賀茂祭の帰り武正、兼行、御覧の事 / 四 門部府生、海賊射返す事 / 五 土佐判官代通清、人違して関白殿にあひ奉る事 / 六 極楽寺僧、仁王経の験を施す事 / 七 伊良縁野世恒、毘沙門御下文の事 / 八 相応和尚、都卒天にのぼる事、染殿の后祈り奉る事 / 九 仁戒上人往生の事 / 十 秦始皇、天竺より来たる僧禁獄の事 / 十一 後の千金の事 / 十二 盗跖と孔子と問答の事
( 全 197話 )
宇治拾遺物語 3 
鎌倉初期の説話集。作者不詳。1221年ごろ成立か。序文によれば、書名は『宇治大納言(だいなごん)物語』の続編(拾遺編)の意とも、編著にかかわる侍従(唐名拾遺)という官職にちなむものともいわれている。道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)と和泉式部(いずみしきぶ)との情事を伝える巻頭第1話に始まり、聖哲孔子が大盗賊にやりこめられるという末尾の第197話に至るまで、長短の説話が自在な連想のもとに書き継がれている。天皇、貴族から僧侶(そうりょ)、武士、盗賊に至るまでのあらゆる階層の人物が登場し、それぞれ、成功談、失敗談、あるいは奇妙な話、不思議な話、笑い話など、さまざまな内容の話が載せられている。また中国、インドなど異国を舞台とした話や、『こぶ取り爺(じじい)』『わらしべ長者』などの昔話に通じる民話風の話もみられ、他の説話集と比べて、素材や内容の面で広がりは著しく、そこには作者の人間や社会に対する自由で柔軟な思考や感覚といったものをうかがうことができる。「今は昔」「是(これ)も今は昔」といった穏やかな語り出しに始まり、全体に平易でわかりやすい和文脈の語り口で語られてはいるが、その内容には鋭い人間批評や風刺、皮肉がきいているものも少なくなく、味わい深い作品である。散逸した『宇治大納言物語』(成立不詳)の影響の下に成立したと考えられ、『古本説話集』(1131ころ成立か)、『古事談』(1215以前に成立か)、『世継(よつぎ)物語』(成立不詳)などとほぼ同文の類話を多く載せ、相互の密接な関係を推定することができるが、80余の共通話をもつ『今昔(こんじゃく)物語集』(成立不詳)とは直接の書承関係は認められない。
宇治拾遺物語 4
鎌倉時代の説話集。15巻15冊。ただし,巻を立てない2冊本や3冊本もある。編者は未詳。鎌倉時代初期の成立で,1220年(承久2)前後と見る説が有力。書名の由来は諸説あって一定しないが,古来宇治大納言隆国(源隆国)編,またはそれに取捨を加えたものとされてきたことからの称らしく,中世には《宇治大納言物語》と異称されたこともあった。197話の長短編説話を集録し,ひらがな本位の和文体で記した典型的な読物的説話集。雑纂形式で格別の部立はないが,説話の配列には連想による類集性も目立つ。内容は広範多岐にわたり,地域的には日本の説話を主体にインド・中国の説話を収め,話性的には仏教説話系と世俗説話系に二大別される。登場人物は帝王,貴族から武士,庶民に至る社会の全階層に及び,収載説話の分布も都鄙を選ばず,全国的規模に広がっている。主流をなすのは世俗説話系で,全体の約3分の2を占める。説話に対する興味と関心から,広く世上の奇譚珍聞を採録したもので,その内容は貴族的,懐古的趣味に根ざす和歌説話や芸能風流譚から,超階級的関心に支えられた巷間の霊怪譚や卑俗な笑話・昔話まで,世俗百般の話題を集めてきわめて多彩である。芥川竜之介が取材した巻一の〈利仁(としひと)芋粥の事〉,巻二の〈鼻長僧の事〉,巻十一の〈蔵人(くろうど)得業(とくごう)猿沢の池の竜の事〉や,《伴大納言絵巻》の詞書と同話の巻十の〈伴大納言応天門を焼く事〉,また現行昔話の古態を伝える巻一の〈鬼に瘤(こぶ)取らるる事〉,巻三の〈雀報恩の事〉などは,世俗説話中の著名なもの。一方仏教説話系は,仏法僧の霊験奇特譚や発心往生譚など,広く三宝の霊威と信仰の諸相を伝えるものが多いが,概して説教臭に乏しく,ここでも採録の基調が布教よりは説話的興味にあったことがうかがわれる。この系統に属するものとしては,《信貴山縁起絵巻》の詞書と同話の巻八の〈信濃国の聖の事〉や,昔話〈わらしべ長者〉の源流と見られる巻七の〈長谷寺参籠の男利生にあづかる事〉などが著聞する。
話性のいかんにかかわらず,総じて構成にむだがなく,表現も洗練されて,読物的説話としての完成度が高いが,わけても魅力的話題に富むのは世俗説話で,そこに展開する多彩な事件描写と,それに対処する貴賤男女の思慮と行動の叙述には人間理解の深さもうかがわれて秀逸なものが多い。《今昔物語集》《古本説話集》《古事談》などに本書収載話と同文に近い説話が多出するのも,それらが当時人気ある話題として書承されていた一証で,その意味でも本書は,編者の趣向を通じて,中世初期の時代的好尚を凝結した出色の説話集と評価することもできよう。なお中・近世を通じて比較的流布したようで,後代文学への影響も顕著なものがあった。本書のもつ笑話的性格が安楽庵策伝の《醒睡笑》以下,近世咄本の世界で珍重され,奇譚異聞的内容が浅井了意の仮名草子や,井原西鶴,都の錦などの浮世草子に素材を提供したことなどはその好例である。芥川竜之介以下の近代作家が注目したのも,多彩な話題と巧みな人間描写にひかれるところが大きかったのであろう。
宇治拾遺物語 5
鎌倉時代前期(建暦2年(1212年)〜承久3年(1221年))成立と推定される日本の説話物語集である。『今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる。編著者は未詳。
題名は、佚書『宇治大納言物語』(宇治大納言源隆国が編纂したとされる説話集、現存しない)から漏れた話題を拾い集めたもの、という意味である。他にも拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名とも。
全197話から成り、15巻に収めている。古い形では上下の二巻本であったようだ。
収録されている説話は、序文によれば、日本のみならず、天竺(インド)や大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。ただ、オリジナルの説話は少ない。先行する説話集と酷似する話が、『今昔物語集』とは約60話、『古本説話集』とは23話、『古事談』とは20話ある。他にも『十訓抄』『打聞集』などに類似の話が見られる。
貴族から庶民まで、幅広い登場人物が描かれている。また、日常的な話題から滑稽談まで、と内容も幅広い。
「芋粥」や「絵仏師良秀」は芥川龍之介の短編小説の題材に取り入れられている。
『宇治拾遺物語』に収録された説話の内容は、大別すると次の三種に分けられる。
・仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
・世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
・民間伝承(「雀報恩の事」など)
民間伝承には、「わらしべ長者」や「雀の恩返し」「こぶとりじいさん」などなじみ深い説話が収められている。仏教に関する説話も含むが、どちらかというと猥雑、ユーモラスな話題(比叡山の稚児が幼さゆえの場違いな発言で僧侶の失笑を買う、等)が多く、教訓や啓蒙の要素は薄い。信仰心を促すような価値観に拘束されておらず、自由な視点で説話が作られている。その意味において、中世説話集の中では特異な存在である。後世の『醒睡笑』などに影響を与えた。
成立​
建暦2年(1212年)〜承久3年(1221年)成立と推定される。序文では、この説話集の成立の経過について、次のようなことが書かれている。
1.まず、「宇治大納言」と呼ばれた貴族、隆国によって書かれたという『宇治大納言物語』が成立した(現在は散佚)。
2.その後、『宇治大納言物語』が加筆・増補される。
3.この物語に漏れた話、その後の話などを拾い集めた拾遺集が編まれた。
いずれにしても、成立について諸説あるが、『古事談』を直接の出典としている話が包含されていることにより、その成立期である建暦期であるとする説や、第159話に「後鳥羽院」という諡号が出てくるのでこの諡号が出された仁治3年(1242年)以後まもなく、とする説もある。
現存の『宇治拾遺物語』はこうして成立したらしいが、3.がさらに抄出された版であるという見方もなされている。一方で、この序文自体が編者もしくは後世の創作であるとする説もある。
原典​
二十数種の伝本があり、古本系と流布本系に大別される。前者は宮内庁書陵部御所本が代表的な伝本。後者は万治二年板本で、挿絵入りで、内閣文庫他に現存する。
 
『宇治拾遺物語』の特色

 

はじめに
『宇治拾遺物語』に納められている説話には、他書に同話が発見されているものがかなりある。他書との伝承関係を一覧表にした「説話目録」によれば、『今昔物語集』に八十三話、『古本説話集』に二十二話、『古事談』に十九話の同文的な同話が発見されている。この他にも、幾つかの文献に同話や類話が発見されており、現在、他書に同話が発見されている説話は百九十七話中百四十三話である。これに対し、数は少ないが、残る五十四話の説話には、他書に見ることのできない、素朴で、親しみやすい内容のものが多い。
本論文では、後者の説話を中心に『 宇治拾遺物語』の特色を探り、この書が如何なる説話集であるのかということを明らかにしてゆきたい。
なお、考察に入る前に、『宇治拾遺物語』とこれと多くの同話を持つ先行説話集との関係について記しておく。まず、『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』の関係であるが、両書が親子関係にあるという考え方は、現在ではほとんど否定され、ともに『宇治大納言物語』を祖本にした兄弟関係にあるというのが通説となっている。『 古本説話集』との関係も、これと同様、『宇治大納言物語』を祖本にした兄弟関係である。これに対し、『古事談』と『宇治拾遺物語』は親子関係にあると言われている。さらに、この二書は成立年代が近いため、当時、巷間に流布していた話などを、両書の編者が別々に採録したということも十分考えられる。従って、『 古事談』とは親子関係にあり、かつ口承をふまえた兄弟関係にもあると言えよう。『宇治拾遺物語』の伝承関係については、こうした通説に従い、以下の論を進めてゆく。
一 冒頭句について
『今昔物語集』では全ての説話の冒頭句が「今は昔」に統一されているが、これに対し、『宇治拾遺物語』の説話には種々の冒頭句が見られる。
「今は昔」八十三話
「これも今は昔」六十五話
「昔」三十三話
「これも昔」三話
「この近くのことなるべし」一 話
その他( 直接書き出したもの )十二話
『宇治拾遺物語』では、こうした種々の冒頭句を持つ説話が、一見したところ雑然と並べられているが、これらの冒頭句の使い分けには、何か意味があるのだろうか。そこで、まず、それぞれの冒頭句の分布状態を調べてみた。以下、特徴的な箇所を挙げてみる。
巻・話 / 冒頭句 / 内容
a 巻一第十一話〜巻一第十五話 / これも今は昔 / 全て笑い話
b 巻二第六話〜巻三第一話 / 昔 / 英雄説話を中心に種々の内容
c 巻三第八話〜巻三第十一話 / 今は昔 / 全て和歌説話
d 巻四第九話〜巻四第十七話 / これも今は昔 / 主に霊異譚
e 巻五第四話〜巻六第一話 / これも今は昔 / 主に笑い話
f 巻六第二話〜巻六第八話 / 今は昔 / 主に霊異譚
g 巻十第五話〜巻十第十話 / 今は昔 / 主に霊異譚
h 巻十二第十話〜巻十二第二十二話 / 今は昔 / 和歌説話と倫理説話
i 巻十三第十一話〜巻十三第十四話 / 今は昔 / 全て霊異譚
こうしてみると、同一の冒頭句はある程度連続していること、その内容も同一のものが多いということがわかる。さらに、これらはその伝承関係も同じであることが多い。例えぽ、(a)と(e)は「これも話が発見されていないものである。(d)も同じく、「これも今は昔」という冒頭句を持つ説話であるが、こちらは『古事談』に同話が発見されているものが多い。(c)の説話は全て『古本説話集』に、また、(i)の説話は全て『 今昔物語集』に同話が見られる。
以上のように、同一の冒頭句によって始まる説話は、内容的にも伝承的にも共通している場合が多く、そこには一定の規則があるように思える。そこで、この一 定の規則を明らかにするため、これらの冒頭句と「 説話目録」に掲げられている伝承関係の一覧表とを組み合わせて考察を行なってみた。その結果、次のωからの四点が明らかになった。
(イ)『古本説話集』に同文的な同話が見られる二十二話の説話のうち、巻七第四話と巻十五第六話を除いた二十話は、「今は昔」という冒頭句を持つ。内容から見ると、その約半数にあたる九話までが和歌説話である。(『古本説話集』と『宇治拾遺物語』に共通する説話に和歌説話が多いのは、上巻に和歌を中心とした説話を多く集めている『古本説話集』の性格によるものと思われる) 。
(ロ)『今昔物語集』に同文的な同話が見られる八十三話の説話のうち、その半数近くが「今は昔」という冒頭句を持ち、次いで「昔」という冒頭句が三割近くを占めている。内容的には種々の話がある。ただし、この中で「昔」という冒頭句を持つ説話に、巻十三第四話「亀を買ひて放つ事」のような昔話風の話が含まれていることは注目したい。
(ハ)『古事談』に同文的な同話が見られる十九の説話のうち、その八割近くが「これも今は昔」という冒頭句を持つ。これは前述の「今は昔」・「昔」という冒頭句を持つ説話に比べ、主人公が時代的に新しい人物であることが多く、『宇治拾遺物語』の編纂された時期に近い頃の話であると思われる。
(ニ)他書に同話が発見されていない五十四話の説話のうち、半数の二十七話が「これも今は昔」という冒頭句を持つ。内容的には口誦的な笑い話が多い。これものと同様、主人公が時代的に新しい人物であることが多い。これに比べて、数は少ないが、「昔」.「これも昔」という冒頭句を持つ説話もある。この中には巻一第三話「鬼に瘤取らるる事」や巻九第八話「博打聟入の事」といった口誦的な昔話風の話が含まれている。
以上のことから、冒頭旬と伝承関係の間には、次のような規則があると推測される。
1 (イ)・(ロ)より、『宇治大納言物語』を祖本としている説話には、「今は昔」という冒頭句を持つものが多い。
2 (ロ)・(ニ)より、口誦的な昔話風の説話には、「昔」または「これも昔」という冒頭句を持つものが多い。
3 (ハ)・(ニ)より、時代的に新しい説話や口誦的な説話(これは2における口誦的な昔話風の説話より時代的に新しいもの)には、「これも今は昔」という冒頭句を持つものが多い。
このうち、1に含まれる説話は祖本の特色を受け継いでいる可能性が非常に強いため、『宇治拾遺物語』の特色を探るのには適当でない。また、2は数が少ないので、参考程度に留まらざるを得ない。これらに対し、3に含まれる説話のうち、現在、他書に同話が発見されていない二十七話が、『宇治拾遺物語』独自の説話として、その特色を最も顕著に表わすものと考えられる。
この二十七話の説話は、『 宇治拾遺物語』全十五巻において次のように分布している。
巻一 ←八話、巻二←○話、巻三←二話、 巻四←一 話、 巻五←八話、巻六←○話、巻七←一 話、巻八←二話、 巻九←○話、 巻十←○話、巻十一 ←二話、巻十二←○話、巻十三←○話、巻十四←二話、巻十五←一 話( 計二十七話)
こうして見ると、巻一と巻五に各々八謡ずつと、この二巻に集中していることがわかる。そこで、次の項では、他書に同話が見られず、「これも今は昔」という冒頭句を持つ説話のうち、特に、巻一と巻五に収載されている説話を基にして、『宇治拾遺物語』の特色を明らかにしてゆこうと思う。
二 巻一・巻五の説話から
巻一 第二話「 丹波国篠村平茸生ふる事」では、不浄説法をした僧は平茸に生まれ変わるとされている。不浄説法というのは、もちろん僧として許されぬ行為であるが、この話には、それに対する強い否定や仏教的な戒めの態度というものがほとんど感じられない。編者は、こうした僧にあるまじき行為というものを.どのように捉えているのだろうか。以下、僧を主人公とした説話を基に、この点について考えてみよう。
巻一 第五話「 随求陀羅尼額に籠むる法師の事」 、続く巻一第六話「中納言師時法師の玉茎検知の事」は、いずれも「いかさま僧」が主人公である。両話とも主人公が物々しい格好をして登場し、人々をだますという形をとっているが、これは「尊き僧」に見せかげて、多くの喜捨に預ろうとするための演出である。そして、彼らはいかにも真面目くさった顔で、「額の傷は随求陀羅尼を籠めた時のものだ」(「随求陀羅尼額に籠むる法師の事」)とか、「煩悩を断ち切るため自分自身の一物を切り取ったのだ」(「中納言師時法師の玉茎検知の事」)という嘘をついており、これは僧として誠に許しがたい行為である。しかし、編者はこの僧の行為を否定するわけでもなく、説話の結びに教訓的な言葉も付けてはいない。「こういったことを仕出かす奴も世の中にはいるんだよ。まったくあぎれてしまうね」といった寛容な態度で主人公を見つめているのである。だまされた人々も怒るのではなく、あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず笑い出してしまっている。この人々の朗らかな笑い声は、そのまま編者自身の笑い声でもあり、困ったことを仕出かした主人公を見つめる編者の姿勢を象徴したものと言えよう。ここに、編者のほのぼのとした、暖かな人柄が感じられる。
このように、僧にあるまじき行為をしておいて、その化けの皮を剥されても、なお、平気でいるというずうずうしい「いかさま僧」もいるが、巻一第十一話「源大納言雅俊一生不犯の鐘打たせたる事」の主人公のように、自分が僧であることと人間であることの間にはさまり、苦しむ小心者の僧もいた。この僧は「いかさま僧」の場合とは異なり、自分自身で「かはつるみ」をしていることを告白して人々の笑われ者となったために、むしろ哀れな感じさえ受ける。編老はここで、厳しい戒律の中にあって俗人的行為を捨て切れない僧の苦しみを、「悪い事だ」と決めつけたりはしない。それどころか、その正直すぎる僧の態度に好感さえ持っているように思われる。ここに、弱い人間を見つめる編者の寛容な態度が表われている。この説話もまた、人々の笑い声の中で幕が降ろされ、教訓的な言葉は付けられていない。
以上の説話は、全て民間笑話と思われる話であるが、これらは庶民性に志向した新興仏教が、時代の転換期において台頭してきた結果、文学の世界に登場したものである。こうした話を口語りにより聞き知った編者は、「まったくあきれた僧もいたものだな」と苦笑しながら、この作品に書き留めたのだろう。そこには、既成の概念などには囚われない編者の人間把握の態度が見られる。また、どの説話も多くの会話文を用いることにより、事件や主人公の心理を巧みに表現し、親しみやすい文章に仕上げられている。
僧でさえ、これほど「性に係わる事件」が多いのだから、まして一般の人々の問に、こうした事件が起きないはずがない。巻一第十四話「小藤太聟におどされたる事」は、その代表的な作品といってよかろう。
この話で最も注目すべきことは、男性の「あの物」に関する写実的な描写である。このことは、前掲の「中納言師時法師の玉茎検知の事」にも言えることである。
○ さて小侍の十二三ばかりなるがあるを召し出でて、「あの法師の股の上を、手を広げて上げ下しさすれ」とのたまへぽ、そのままに、ふくらかなる手して、上げ下しさする。(中略)あやにくにさすり伏せける程に、毛の中より松茸の大きやかなる物のふらふらと出で来て、腹にすはすはと打ちつけたり。(「中納言師時法師の玉茎検知の事」)
○ 衣をぽ顔に被きながら、あの物をかき出して、腹をそらして、けしけしと起しければ(後略)(「小藤太聟におどされたる事」)
こういった「あの物」に関する写実的な表現は、これまでの王朝文学のそれとは趣きを異にするものである。この他にも、巻五第十一話「仲胤僧都地主権現説法の事」において、
犬は人の 糞を食ひ養をまるなり。
という表現があるが、この「糞」という言葉も王朝文学では使われないものであった。ここに、時代の流れに伴う文学の移り変わりが見られる。
「小藤太聟におどされたる事」に続く巻一第十五話「大童子鮭盗みたる事」も性にまつわる説話である。これは、鮭を盗んで懐に入れた盗賊が、この鮭を運ぶ人夫頭に見つかってしまい、着物の前を無理矢理に開かれた時に、
あはれ、もつたいなき主かな。こがやうに裸になしてあさらんには、いかな渇女御、后なりとも、腰に鮭の=一 尺なきやうはありなんや。
と、「鮭」に「裂」を掛けた駄洒落を言い放ったという話である。政治的に不安定な時期だっただけに、現実の社会では盗賊などが多くはびこっていたであろう。この説話は、そういった盗賊を主入公にした話ではあるが、そこには暗さはなく、むしろ馬鹿げた洒落によって人々の笑いを呼び起こしている憎めない盗賊の姿が描かれている。ここに、編者の人間把握における基本的な姿勢が見られる。
また、会話文を多く使用することにより、主人公の性格や心の動きをよく表わしている点も注目される。例えば、人夫頭から鮭を盗んだのではないかと疑われた時には、
さる事なし。何を証拠にてかうはのたまふぞ。わ主が取りて、この童に負ふするなり。
と言い、このあたりまではまだ平然と構えているが、人夫頭が二人とも懐を調べてみれぽわかると、着物を脱ぎ始めると、
さまでやはあるべき。
と、だんだん逃げ腰になってくる。そして、ついに自分の着物を無理矢理に脱がされてしまうと、今度は開き直ったように、先程の駄洒落を言い放つ。こうした会話文により、その時々の主人公の心の動きが手に取るようにわかる。文学的にも高度な作品と言えよう。
これまで挙げてきた説話の主人公が全て男性であったのに対し、巻五第七話「仮名暦あつらへたる事」は、珍しく女性を主人公にした笑い話である。これは、でたらめな仮名暦を信じて、何日も大便を我慢していた女房が、とうとう堪えきれずに洩してしまったという内容の話であるが、『宇治拾遺物語』において、こうした若い女性の生理現象を笑いの種にした説話というのはほとんどなく、この話の他には巻三第二話「藤大納言忠家物いふ女放屁の事」に見えるだけである。それも男性を主人公にした話に比べると、かなり軽いタッチで描かれている。これは、女性を主人公にした性にまつわる話というものが、男性のそれに比べて、からっとした明るい笑いになりにくい場合が多いため、編者は女性を主人公にした話をなるべく避けるようにしたのではないだろうか。『今昔物語集』や『古事談』などの先行説話集に、女性を主人公にした性にまつわる説話が見られることから考えても、編者がこの種の話をまるで知らなかったとは思えない。しかし、それを敢えて書こうとしなかったのは、編者が性にまつわる説話に求めていたものが、明るく、おおらかな笑いであったからではないだろうか。
このことは『宇治拾遺物語』が当時の戦乱の様子を描いた説話をほとんど持たないということにも通ずる。昔の戦乱や武士の様子を描いた説話はあるが、当時の戦乱の様子を描いたものは、巻四第十四話「白河院おそはれ給ふ事」と巻八第五話「東大寺華厳会の事」の二話だけであり、それも前者では前九年の役について、後者では東大寺炎上についてほんの少し触れられた程度のものであるつ戦乱の最中に、その戦乱の様子を描けば、やはり生々しく、重苦しい雰囲気が漂うこともあるだろう。編者はそれを避けたものと思われる。さらに、盗賊を扱った話にしても、前掲の「大童子鮭盗みたる事」のように全く残忍性を持たず、どことなく憎めない人物を主人公にする傾向が『宇治拾遺物語』には多く見られる。これらのことから、編者はこの書の編纂にあたり、「エロ・グロ」の甚だしい話を切り捨てるという態度をとったことが推測される。これも、編者が『宇治拾遺物語』を単なる教訓の書や備忘録としてではなく、多くの人々に楽しんで読んでもらう書として編纂したことを物語るものであろう。「仮名暦あつらへたる事」は、女性を主人公にしながらも、こうした編纂意図に反することのない話であったため、ここに載せられたものと思われる。
以上のように、『宇治拾遺物語』における笑いは、「性に係わる事件」を通して表現されているものが多く見受けられるが、この他の話材を用いた笑い話にも注目すべき作品がある。例えぽ、巻一第十二話「児の掻餅するに空寝したる事」、続く巻一第十三話「田舎の児桜の散るを見て泣く事」は、ともに子供の心理を巧みに捉えた傑作であり、『宇治拾遺物語』の代表作と言えるものである。
「児の掻餅するに空寝したる事」では、省ける言葉がまるでない程、簡潔な文章であるにもかかわらず、状況の設定から主人公の心理、さらに周囲の人々の笑い声に至るまで鮮明に描かれている。一度呼ぼれて、すぐに起きたのでは、ぼた餅の出来上るのを待っていたと思われるのではないかと考え、もう一 度呼ばれるまで待とうという主人公の配慮。この配慮は全く子供らしくないものである。そして、もう一 度起こしに来てくれるのを待っているが、ムシャムシャと盛んに食べる音が聞こえる。このままではぼた餅がなくなってしまうのではないかと心配する主人公。このあたりから、だんだん子供らしくなってくる。もし、これが大人だったら、恥をかくことを避けるため、残念だがぼた餅をあきらめて、そのまま寝てしまうだろう。(中には、口惜しさのあまり、まんじりともしないで夜を明かしてしまう人もいるかもしれないが)しかし、この主人公の場合、恥をかくことを恐れる気持ちより、食べたいという欲求の方が強かったため、ついに、とんでもない時に「はあい」と返事をしてしまうのであり、ここに、子供らしい、素直な感情が表現されている。この場合の子供らしさとは、すなわち人間らしさである。編者は乙にすました人間の上面より、その人間が本来持っているはずの性格や感情に注目していたのである。
「田舎の児桜の散るを見て泣く事」では、桜の花の散るのを見て「もののあはれ」を感じた僧と、この桜の花を散らしている風が自分の父の作った麦の花まで散らし、そのために収穫が減るのではないがと心配して泣いた田舎の子供との感覚の違いがみごとに描かれている。この子供の持つ感覚は、王朝人の忌み嫌うものであった。こうした新しい、そして、生活に密着した庶民の感覚が文学に取り上げられるようになったということは、時代の流れに従って、衰えつつある貴族文化に取って変わろうとする新しい文化の芽ばえが、文学に反映したものとして注目される。
この二つの説話からは、これまでの文学では、話材としてあまり取り上げられることのなかった「子供の心理」というものに対する編者の関心と理解の深さが窺われる。この他にも、巻五第六話「同清仲の事」の陪従のように、身分が低いものであるゆえ、王朝文学ではほとんど登場することのなかった人物を、『宇治拾遺物語』では主人公として活躍させている場合が多く見られ、ここに階級意識を離れ、全ての人々に深い興味を持っていた編者の説話収集の姿勢が窺われる。
三 『宇治拾遺物語』の特色
以上、巻一・巻五の説話のうち、他書に同話が見られず、「これ
も今は昔」という冒頭句を持った説話の考察を行なってきたが、こ
れから得られた特色は、次の七点である。
(一)口誦性を多分に含む笑い話が多い。
(ニ)人間心理の描写が巧みである。
(三)会話文が多く使われている。
(四)王朝文学では見られない人物が登場する。
(五)短編のものが多い。
(六)仏教色が薄い。
(七)教訓性がほとんど見られない.
次に、この七つの特色が、単に巻一・巻五から選ぽれた説話における共通点であるだけでなく、『宇治拾遺物語』全体の特色としても認められるものであることを明らかにするため、巻一・巻五以外の説話において、これらの特色を検討してみよう。
まず、(一)の特色について見てみよう。『宇治拾遺物語』には、笑い話が二十八話あるが、そのうち他書に同話が発見されていない説話は十九話であり、約七割を占める。これらは口語りを直接採録したと思われるものが多い。前述のように、『宇治拾遺物語』は書承性の濃厚な説話集であるが、この笑い話に属する説話は、他書に同話が発見されていないものが多い。だから、『宇治拾遺物語』独自の作風を備えた説話であると言えよう。
(ニ)の特色を持つ説話としては、巻十一第六話「蔵人得業猿沢の池の龍の事」が挙げられよう9これは、自分ででたらめなことを言っておいて、終いには、そのでたらめが本当なのではないかと錯覚するようになってゆく人間心理の変化を見事に描写した作品である。この場合も、編者は主人公の愚かしい行為を批判しておらず、「鼻蔵」と「鼻暗」という、いわば語呂合わせのおかしみにより幕を降ろしているところに、彼の寛容な人間把握の態度が見られる。
この説話は、他書に同話が発見されておらず、編者自身の創作にょるものか、あるいは、口語りによる話を筆録したものか詳かではないが、いずれにせよ、『宇治拾遺物語』独自の説話として、その特色を知る上では重要な作品である。
(三)の特色を持つ説話としては、巻九第四話「くうすけが仏供養の事」 、巻十一 第九話「空入水したる僧の事」 、巻十四第七話「北面の女雑仕六の事」などが挙げられよう。いずれも他書に同話は発見されておらず、編者の「説話作家」としての技量が遺憾なく発揮されている作晶と言える。特に、「空入水したる僧の事」は、会話文を多く用いることにより、人間心理の描写を巧みに行ない、また、僧を主人公にしながらも仏教色は薄く、教訓性もない笑い話であるという風に、先に挙げた七つの特色のほとんどを含んでおり、これこそ最も『宇治拾遺物語』的な作品と言えよう。
(四)の特色を持つ説話としては、巻九第八話「博打聟入の事」が挙げられよう。博打といったアウトサイダー的職業は、王朝文学ではあまり注目されていなかったものであり、ここに、貴族中心であった文学が、徐々にではあるが、庶民の文学へと移り変わってゆく様子が窺える。
この説話は、先行文献に同話が発見されておらず、また、その内容や文体から見ても口承による説話であると思われる。そして、これと同系の話は、現在に至るまで、民話として多くの地方で語り継がれている。この他にも、『宇治拾遺物語』には、我々がよく知っている「 こぶ取り爺さん」や「舌切り雀」といった話と同系のものが、巻一第三話「鬼に瘤取らるる事」、巻三第十六話「雀報恩の事」(いずれも他書に同話は見られない)として収められている。これらの説話から、『宇治拾遺物語』の編者が、口誦性を多分に含んだ民間伝承の話に非常に興味を持っていたことがわかる。
(五)の特色である短編性は、『宇治拾遺物語』に限ったことではなく、説話文学全体に言える特色である。しかし、同じ短編であっても、『古事談』のように備忘録の域を脱していない説話集に対し、『宇治拾遺物語』は文学的に優れた説話を多く持っている。ここにも、『宇治拾遺物語』を多くの人々に親しんでもらいたいと願う編者の横顔が窺われる。
(六)の特色は、先に挙げた「蔵人得業猿沢の池の龍の事」や「空入水したる僧の事」など、口承によると思われる説話だけでなく、書承伝承による説話においても見ることができる。『宇治拾遺物語』は全体の四割以上が仏教説話であり、その他にも、僧を主人公にした説話や仏教的素材を取り入れた説話を多く持つ説話集であるにもかかわらず、そこには仏教色がほとんど見られない。これらの説話は仏教的教義よりも、むしろ、その説話の持つ物語的なおもしろさによって採録されたと思われるものが多く、ここに、既成の概念に囚われない編者の自由な精神が感じられる。
(七)の特色は、特に口承によると思われる説話において顕著である。他書に同話が発見されていない五十四話の説話の結びを見てみると、簡単な後日譚や編者の感想程度のものを付けてあるものが多く、さらに、こうした結びの言葉さえ持たないものもかなりある。これらに対し、「だから、これこれしてはいけない(または、しなければならない)」といった教訓的な結びを持った説話は、この五十四話のうち、巻一第三話「鬼に瘤… 取らるる事」・巻三第十六話「雀報恩の事」・巻三第二十話「狐家に火つくる事」・巻十三第五話「夢買ふ人の事」のわずか四話に過ぎない。
一方、他書に同話が発見されており、書承によると思われる説話の結びはどうであろうか。まず、同文の度合が大きい『古本説話集』とは、本文だけでなく結びの言葉まで全く同じであるというものが、二十二話の同文的同話のうち十話もある。残る十二話も表現上のわずかな違いはあるが、ほとんど同じであると言えるものである。これに対し、『 今昔物語集』との同話における結びの言葉には、両書の間にかなりの違いが見られる。例えば、 『宇治拾遺物語』巻十第八話「蔵人頓死の事」と『今昔物語集』巻三十一第二十九話「蔵人式部拯貞高、於殿上俄死語」は同文的な同話であるが、両話の結びの言葉を比較してみると、前者では故人が主人公の夢に現われて、泣く泣く手をすって喜んだという後日譚だけで結ぽれているのに対し、後者はその後に、
然レバ 、人ノ為ニハ専二情可有キ事也。
此ヲ思フニ、頭ノ中将然ル止事无キ人ナレバ、然モ急ト寄テ被俸ケル也トナム、此ヲ聞ク人皆頭ノ中将ヲ讃ケル トナム語リ伝へタルトヤ。
という言葉が付けられており、前者に比べて教訓的であることがわかる。
これは、『宇治拾遺物語』と『古本説話集』では祖本の説話にある教訓や感想の言葉を、そのまま忠実に書写したのに対し、『今昔物語集』は仏教説話の結集を志した説話集であるので、それにふさわしい説話にするために本文のみならず、結びの言葉にも改変. 加筆をしたものと考えられる。こうして見ると、『宇治拾遺物語』の淡々として、批判性の少ない説話の結び方は、そのまま祖本『宇治大納言物語』の性格であったことが推測される。
このように、『宇治拾遺物語』の編者は、書承による説話の場合は、その祖本に教訓や感想の言葉が付いていればそれを忠実に書写しているが、口承による説話の場合は、特に教訓など付けず、それぞれの説話の持つ興味ある出来事に重きを置いていたものと思われる。
以上の考察から、先に挙げた七つの特色は、口承によると思われる説話において、特に顕著に認められるものであることが明らかとなった。
四 むすび
『宇治拾遺物語』のように他書との間に多くの同話を持つ説話集は珍しいが、これらの説話のほとんどは祖本である『宇治大納言物語』の文章を忠実に書写したものと思われる。これに対し、数は少ないが、口語りによる話( 『宇治大納言物語』には採られていない話、特に隆国以降の時代の話)で編者自身が聞き伝えたものを書き留めたと思われる説話が採録されている。これらは『宇治拾遺物語』の中でも、また、他の説話集の説話と比較してみても高度な文学性を持つ説話であり、ここに『宇治拾遺物語』の説話集としての価値がある。
このように、『宇治拾遺物語』は、『宇治大納言物語』の精神を受け継ぎながらも、そこに編者自身の筆による説話を織り込むことにより、祖本を越え、独自の文学性を確立し得た説話集なのである。
 
今昔物語・宇治拾遺物語の違い

 

今昔物語集と宇治拾遺物語集の違い
今昔物語集 / 宇治拾遺物語集
説話数 1000話以上 /  197話
編纂時期 1120年頃 /  1220年頃
醜い話 世が醜いという事実を伝える / 話の最後の教訓を伝える
笑い話 笑いの先にある教訓を伝える / 単に面白いという事実を伝える
ここでは同じ説話集である宇治拾遺物語との相違点を通じて考察を進めてゆこう。未完と推測されるとはいえ、千数十話もある今昔物語集に対して、百九十七話の宇治拾遺物語という説話の数の違いはあるものの、両説話集には共通する話が八十一も存在している。
いずれも源流を遡れば『宇治大納言物語』というひとつの説話集にたどり着くと考えられているが、『宇治大納言物語』はすでに散佚してしまった説話集である。両説話集を読み較べ、そこにある差異を明らかにしてゆくことが、今昔物語集の特徴を掴む唯一の方法であろう。
最初に、それぞれの説話集に書かれた最も醜い部分を取り上げる。
今昔物語集の巻二十九第二十五話「丹波守平貞盛、児干を取る語」
戦いで矢傷を受け悪性の瘡をつくってしまった平貞盛が、それを治すために妊婦の腹を裂き、特効薬である男児の肝臓を求めるというおぞましい話である。赤子の命を犠牲にして瘡を治したと思ったら、矢傷を負ってしまうような弱将であるという外聞が広まるのを恐れるあまり、平貞盛は息子の平維衡に命じてその医者を殺そうとした。
これら平貞盛の行動にはどこにも遠慮がない。丹波の守を務めていた平貞盛の、権力者としての横暴があたかも当然のように書かれていて、我々現代人が読んでも当時はこういうことがありうる時代だったのだ、と納得しまうほどではないか。権力者を正当化させる説明がこの話の節々にはある。
親が子に対して、使用者が使用人に対して、無理難題を要求する。それが困難な話であっても、両者の間には絶対的な権力が作用しているから、要求された側は拒むことができない。矢傷が公になっては武将の威厳を保つことはできないし、東北の反乱勢力を鎮圧するために次期の陸奥守として朝廷から派遣される地位を掴みそうだった平貞盛にとって、地元の争いで負った矢傷が原因で瘡ができたというマイナスイメージは流すことができない失態であった。
平貞盛自身の失脚は家全体の失脚であるから、確かにそれは個人の問題だけではなかった。平貞盛が地位を失えば、その一族郎党や使用人も同時に仕事を失うのである。息子の平維衡にしても、それが分かっているから無理な要求を拒むことができなかったのも理解できる。そもそも悪性の瘡であるから、平貞盛からすればどんな犠牲を払ってでも治療したいと思うのは当然のことでもあった。
京から丹波へわざわざ呼び寄せた医者が唯一の特効薬は男児の肝臓だと言うのだから、その方法にすがらない理由はない。最初に平貞盛は息子の嫁が妊娠していることを指摘し、その子供の肝臓を要求する。息子の子供ということは自分の孫であるのに、自分のことしか目に入っていない平貞盛は躊躇することがない。
困った息子は医者と相談した上で、「我が胤は薬に成らず」と医者から言わせることでその無理矢理な要求から逃げることに成功した。使用人の飯炊きの女が懐妊して六カ月になっていることを知った平貞盛は、その女の腹を裂いて胎児を取り出す。胎児が女子だったからその死骸を捨てておく場面には、平貞盛の非道ぶりから思わず目を背けたくなる。なんとか別の妊婦を探して児肝を得た平貞盛は、なんとか命を取り留める。
要件を済ませた医者が帰ろうとするのを見て、平貞盛はその治療法を教えてくれた医者を殺して話が世間に漏れるのを防ごうとするのだ。それも自分自身で実行するのではなく、ここでも息子に命じて帰京の山中で強盗を装って医者を殺そうとした。医者に恩を感じていた息子は策を巡らせ、医者と別人を入れ替えさせて、強盗に別人を殺させた。医者の命を救って無事に京都へ帰させたのだが、医者を殺したと思い込んだ平貞盛は「喜て有ける」と書かれている。
こうして話を取り上げることも躊躇するほどの非道ぶりであるし、さすがの今昔物語集の著者も「貞盛朝臣の婦の懐妊したる腹を開きて児干を取らむと思ひけるこそあさましく慚はき心なれ」と自分の非難意見を書いているほど、平貞盛の行動は醜さの頂点に達している。偶然にも平貞盛は丹波守や家長として強い権限を持っていたから、そんな悪事も実行可能であった。他の人が同じ状況に置かれたとして、考えることはあっても果たして実行に移すまではできたのだろうか。
その行動も自分の社会的な立場があって、立場上追い込まれていた平貞盛ならではのことと言うこともできる。他人に不幸を強いて行動しなければ、自分や自分の周囲の人々が危うい立場に置かれるだけなのだ。自分ひとりの不幸であれば、悪性の瘡も運命と考えて、死を受け入れる選択肢も視野に入ったかもしれない。
ただ、自分には家族がいて、一族の未来を背負っていたから安易に死を選ぶことができなかったということもある。そう考えれば、平貞盛は今昔物語集の中で意図的に仕組まれた悪役なのだと捉えることもできないか。彼がしたのは申し開きできない悪行ではあるが、何も好き好んで悪事を働いたのではなく、そうせざるを得ない状況に追い込まれていた、ということも考慮に入れないといけない。
他の醜い話を挙げてみると、巻二十九第二十六話の「日向守◇、書生を殺す語」
日向守が任期を終えるにあたって今まで自分がしてきた不正を誤魔化すため、部下の書記官に命じて書類を偽造させる話がある。離れ部屋に監禁して書類偽造を完成させた後に、書記官に褒美の品を与えたまではよいが、その後には書記官が予感していた通り、口封じのためにその書記官を殺害しようとするのだ。
殺されるために山奥へ連れて行かれる道中、書記官は老母と妻子に一目会いに行き「露錯たる事も無けれども、前の世の宿世にて、既に命を召しつ。痛く歎き給はで御ませ。此の童に至ては、自然ら人の子に成ても有なむ。嫗共何かにし給はむずらむと思ふなむ、殺さるる堪へ難さよりも増て悲き。今は、早う入給ひね。今一度御顔を見奉らむとて参つる也」と言うのだ。
日向守から殺害を命じられた郎党たちも、さすがにそれを聞いて涙を流すが、最後は主命だからと書記官は殺害され、その首が日向守まで届けられるのである。これもまた非道極まりない話である。話の最後には「日向守いかなる罪を得けむ、詐りて文を書かするそら、なお罪深し。いわんや、書きたる者をとが無くして殺さむ、思いやるべし。これ重き盗犯に異ならずとぞ、聞く人憎みけるとなむ語り伝えたるとや」と書かれてはいるが、話の途中であまりの醜さに遠慮して、救いどころを作るようなことは一切ない。日向守の非道さを最初から最後まで淡々と書きあげて、この説話は終わりを迎えてしまうのである。
巻二十九第二十四話の「近江国の主の女を美濃国に将て行きて売りたる男の語」
若くして夫を亡くした妻が、長年仕えていた使用人に騙されて身売りされる話だ。湯治か山寺にでも行って気晴らしをしようと言ってきた使用人を信じて妻が出かけると、近海の家から美濃の見知らぬ男の元へと身売りされてしまう。裏切られたと知った妻は、下賤の者を信頼してしまった自分が愚かだった、と絶望のあまり食事を摂ることをせず、そのまま死んでしまう。妻を買った家の主人が京に上ったときに「糸奇異く哀れ也ける事かな」と、まるで他人事のようにこの話を広めたことが、今昔物語集に書かれることにつながったと最後に結ばれている。
こんな醜い話も当の本人が堂々と他言できるような世の中だったのだと思うと、ますます醜さが増幅されてくるようだ。この話の妻にも、救済の道がひとつも示されていない。若くして夫が死んだのはまだやむを得ないまでも、頼りになる親や親戚もいなければ、唯一頼りにしていた長年の使用人にも裏切られ、知らない男に金で売り飛ばされてしまう。その男にも不幸な身の上を話したところで、全く聞き入れてもらえることなく、最後は食事を取ることもないほど精神的にやつれて死んでゆくのである。
先の平貞盛の行動と同様に、これら二つの説話も何の言い訳もできないぐらい醜い内容ではないか。日向守と使用人に共通することも、平貞盛と同じである。人道に背くとはいえ、偽造と口封じをしなければ日向守はいずれ自分の後任者に、今までしてきた悪事を見破られてしまう。雇ってくれる主を亡くした使用人は、そのまま女に仕えていてもいずれは自分の食いぶちに困ってしまう。
背水の陣に追い込まれた人間が醜い行動に移るのは世の常なのだと、今昔物語集ではそれが当然のように、そして遠慮なく話中に投影されていることが分かる。その背景にあるやむない状況が説明されることなく、淡々と悪事だけが書かれるのだから、読者はまるでそれが故意的に行われたかのように錯覚して、悪人たちへの非難を強めるのである。悪事をした者が責められるのは当然ではあるが、今昔物語集に書かれた言葉だけを見ていると公平な判断を誤ることにもつながるのではないか。
一方の宇治拾遺物語を探してみると、これほどまで醜さが強調された話は存在していない。巻十三第八話の「出雲寺別当父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」には、自分の父親がナマズになったと夢見で知った出雲寺の別当が「異人交ぜず、太郎、次郎童など食ひたらんをぞ故御房はうれしと思さん」として、進んで自分からそのナマズを殺して食う話がある。
父親の化身であるナマズを自分から進んで食べるなど恐ろしい話であるが、その話では別当の残酷な行動で話を終わらせるのではない。悪いことをした別当は喉にナマズの骨を詰まらせて死んでしまい、「妻はゆゆしがりて、鯰をば食はずなりにけりとなん」と、親不幸は必罰であるという教訓を伝えようとしているのだ。
巻十三第七話「ある唐人女の羊に生れたるを知らずして殺す事」
死んだ娘が羊に生まれ変わった話である。周囲の人が言う話をよく聞くことがなかった主人であったため、羊を羊にしか見ることができなかった唐人の調理人が、早く主人に料理を出さないと怒られると思い、娘の羊を殺してしまう。調理人の誤解が原因だったとはいえ、娘が殺されてしまった後でようやく話を理解した主人も、最後は「悲しみて惑ひける程に、病になりて死にければ、田舎にも下り侍らずなりにけり」として、父親までも死なせ、親子の運命の儚さという教訓を伝えようとしているのだ。
巻十四第四話「魚養の事」は妻子を唐に残して日本に帰った遣唐使の話
「宿世あらば、親子の中は行きあひなん」として母が唐の海に投げた子を、父が日本の海で拾い上げる。思いがけず息子に再会した父は、自分の行動を悔い改めるわけでも、母を呼び寄せるわけでもなく、「しかるべき縁ありてかく魚に乗りて来たるなめりと、あはれに覚えて、いみじうかなしくて養ふ」と書かれている通り、前世の縁で再会できたのだと都合よい解釈をして喜ぶだけだ。
話は最後に「さてこの子、大人になるままに手をめでたく書きけり」という別の話にすり替えられ、書が上手い理由をこの数奇な運命にこじつけ、魚養を偉人化して終わるのである。外国に家族を置いてきた父も父なら、子供を海に投げ捨てた母も母で、互いが異常な行動を取っている。子供が死ぬことなく魚の上に乗って海を渡ったというエピソードを、前世の縁があるからできたことだと美化するのは妥当であろうか。本当の醜い話がかわされ、別の話に結ばれていることが分かる。宇治拾遺物語の他の話を探しても、最初から最後まで悪人に徹して書かれている話がない。話中で言いたいことは、醜いものを非難する場面ではなく、それが現実だと割り切る場面でもなく、それらを通して獲得できた教訓を伝えようとする場面にこそ、あるようなのだ。
こうして今昔物語集と宇治拾遺物語の醜い部分を比較してみると、下記のようなことが分かってくる。
両説話集の共通点として、醜い行動をする人は、あるべき姿と現実の姿とのギャップを強調され、仕立てあげられた悪役である。権力者は弱者をいたわり、親は子供を愛すべきだという社会道徳上のあるべき姿があり、一方でそれを無視して私利私欲に走る現実の姿が話中に描かれている。そのギャップが大きくなるような話が設定されており、もっともらしい理由を付けて行われる悪事に弱者たちが翻弄される。無力な者の側に読み手を感情移入させるのが、説話集での醜い話の典型だということができるだろう。
両説話集の相違点を深堀してゆくと、今昔物語集では遠慮のなさが浮き彫りになってくる。いずれの悪役の行動にも救いの道だとか、同情の余地がない。自分のエゴを他人に押し付けるだけの醜い姿を、どこまでも手を加えることなく書こうとしている様があるではないか。平貞盛も日向守も使用人も、追い込まれていた立場にあったとはいえ、彼らが他人を裏切ったことは事実である。
そして彼ら全員が、その行いの罰を受けていない。彼らによって不幸になった人がいる半面で、当の張本人である彼らはそれまでと変わらない生活を続けているのだ。こうして醜い行動をした本人らを生かし、被害を受けた弱者たちだけに不幸を押し付けさせる。主張した者、権力を持つ者を一方的な勝者にして話を終えるところが今昔物語集における醜い話の型である。
一方の宇治拾遺物語は、比較するとやや遠慮がちで、最後まで悪役を演じきっていない。
悪行そのものではなく、最後に示される教訓こそが中心と考え、その結論につなげるための構成なのではないか、と推測することができる。父親の化身であるナマズを食べた息子は、その罰で死んでしまう。娘の羊を救えなかった父親もまた、悩んで死んでしまう。魚養の両親に至っては、その後にどうなったかすら記載がなく、話が全く別のことに向けられて話が終わる。
挙げた三つの説話には、本当の悪役を見つけることができないのだ。こうして、両説話集の醜い話を比べるとひとつの仮説が浮き上がってきた。今昔物語集では、話を通して何かを伝えることが目的ではない。現実の姿そのものを描くことが目的でないか。宇治拾遺物語では、物語の最後にある教訓を伝えることが目的ではないか。醜い話だけを最後まで続けても教訓にはつながらないから、途中で話を変えてゆく必要性もこの仮説で説明できる。
このように今昔物語集と宇治拾遺物語には、現実の姿を描こうとしたものと、教訓を伝えようとしたもの、という違いが存在するのではないか。同時代の類似説話集といえども、説話の結末が違う理由は、目的の相違によるものではないか。
仮説を別の角度から考察するため、今度は醜いものではなく、笑い話を比べてみることにする。
今昔物語集の巻二十八第十話「近衛の舎人秦武員、物を鳴らせる語」は、禅林寺の御壇所で高僧と話をしていた秦武員という近衛の舎人が、誤って大きなオナラをしてしまう話だ。そこは僧侶たちが集って勉学をする御壇所というあまりに厳粛な場所であったし、秦武員は武士たちを統率する将曹という重要な役にあったことから、周囲の誰もが何も言えずに沈黙が続いていた。時間を空けてようやく武員が「哀れ、死ばや」と恥ずかしがる発言をしたことで、座から爆笑が起こり、武員がその場から退散したところで話は終わっている。
オナラした武員がすぐに謝れば良かったし、周囲の人々も音を聞いたらすぐに笑ってしまえば良かったものを、中途半端に間が空いてしまってお互いに失敗したと思ったことだろう。このまま何も言わないと自分が辛いだけだし、時間が経ってしまったから謝るのも違うと思ったのか、「恥ずかしくて死にたい」と素直な気持ちを出して、武員がその場をやりすごしている。武士の頭である武員の威厳と、そこが厳粛な御壇所であったことが、オナラというあまりに単純な恥ずかしさとのギャップを引き立てて、この話に絶妙な面白さを加えているのだ。この武員は日ごろ愉快に話をする人で、その時も機転を利かせて「恥ずかしくて死にたい」と言った。並の人なら知らん顔を続けるだろうし、それでは場も白けてつまらないところを、武員が絶妙な言い方をしたことに好感を持つ。失敗したら早く謝るとか、時間が空いてしまったらユーモアを入れて謝るといいだとか、そういう教訓がこの話から伝わってくるではないか。話の最後には「此も彼も否不云で居たらむは、極く糸惜なむかし」とあり、何も言えずにただそのまま座っているのはすごく可哀そうなことだという教訓で結ばれている。この説話は笑い話であるが、それ以上に機転を利かせることによってピンチをチャンスに転換できた武員の知恵と温かな人間性を、この笑い話からは読み取るのだ。
巻二十八第三十八話の「信濃の守藤原陳忠、御坂に落ち入りたる語」
信濃守である藤原陳忠が任期を終えて都へ帰ろうとする時の話だ。道を踏み外して谷底に落ちた陳忠だったが、途中の木に引っ掛かって命を取り留めた。谷底から救い出された陳忠は、なんと平茸を一杯に抱えている。命が助かってさぞ喜ぶかと誰もが思っていると、「未だ残りやありつらむ、云はむ方なく多かりつる物かな。極じき損を取りつる心地こそすれ」と言い、もっと平茸を取れたはずだと残念がっている陳忠の姿が書かれた話である。
受領を一期務めればそれだけでひとつの財をなしたと言われていた受領階級のがめつさが笑いの対象なのだが、それは次の連想につながる。租税の取り立て役である受領がそんなに強欲な性格であれば、任地ではさぞかし取りっぱぐれなく租税を徴収した「名」受領なのだろう。役人のしたたかさに結び付け、元の不幸な事故を忘れてしまうぐらい、話を笑いへ転換させている。
現に陳忠は「宝の山に入りて、手を空しくして返りたらむ心地ぞする『受領は倒るる所に土を掴め』とこそ云へ」と周囲に教訓を垂れて、それを笑い話にするのではなく本当に悔しがっているのである。受領たる者かくあるべき、という素直な教訓として捉えることもできるし、「然許りの事に値ひて、肝・心を迷はさずして先づ平茸を取りて上りけむ心こそ、いとむく付けけれ。増して便宜あらむ物など取りけむ事こそ、思ひ遣らるれ」と民衆から皮肉たっぷりに褒められるところがまた笑い話になっている。
いずれにせよ、命を失っていたかもしれないピンチにおいても、もっと稼ぐチャンスに変えた陳忠の人間性というか、商売根性は見事であるし、それがこの笑い話に魅力あるものを加えている。面白いのは平茸を手にして上がってきた時の笑い話が、最後にはがめつさに対する冷笑になっており、笑い話は笑い話でも種類が変わっているし、郎党たちから民衆へと笑う人物が変わっているのだ。そのくせ、ピンチをチャンスに変えるという教訓まで織り交ぜて、この話は結ばれている。
巻二十八第十六話「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」
深夜まで京の宮中で仕事をしていた書記官が、西の京の自宅まで牛車で帰るときに盗賊に襲われてしまった時の話だ。盗賊たちが牛飼童を追い払い、牛車の簾を開けると書記官が全裸で座っている。「こはいかに」と声をかける盗賊たちに対して、「東の大宮にてかくのごとくなりつる。君達寄り来て、おのれが装束をばみな召しつ」と書記官が笏を持ちながら、上司に言上するようにかしこまって言うものだから、盗賊たちはみな大爆笑してそのまま何も取らずに退散していった、という話だ。
話の最初には「車に乗りて大宮下りにやらせて行きけるに、着たる装束をみな解きて、片端よりみなたたみて、車の畳の下になほく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠をし、襪をはきて、裸になりて車の内に居たり」という説明がある通り、書記官は深夜の京の大通には盗賊たちがはびこっていることを知っており、大変高価な仕事用の衣服をあらかじめ隠しておいたのである。しかも書記官は盗賊たちが呆れて、それ以上何も盗む気にもさせないよう、大爆笑させる効果を準備している。裸のくせに冠と笏は忘れていない。さらには盗賊たちを高貴な人を指す言葉である「君達」と呼び、「召しつ」という尊敬語を使いながら、かしこまって返事をすることで、笑いを生みだすことを成功させた。一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、騙された人こそが悪だという中世の現実的な社会を見ることができるし、それを笑いに変えていて面白い。
そこまででも十分な笑い話として完結しているのだが、この説話には「さて、妻にこの由を語りければ」と続きがある。帰って妻にこの一件を話したところ、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける」と妻に笑って感心されているのだ。最後は「この史は、極めたる物言ひにてなむありければ、かくも言ふなりけり、となむ語り伝へたるとや」と結ばれており、この書記官のしたたかさ、機転と用心深さを称賛し、笑い話だけに留めることなく教訓へと結びつけたところで話が終わっている。
一方の宇治拾遺物語では、巻一第十五話の「大童子鮭盗みたる事」という話を見てゆこう。
大童子が鮭を盗み、それを咎めた男と町中で口論になって、互いに互いが盗んだと主張したものだから、男が真っ裸になって無実を証明する。着物を脱げと言われた大童子は拒否するが、無理矢理に着物を脱がされると、その腰には盗んだ鮭が隠されていた。そこで大童子が「こがやうに裸になしてあさらんには、いかなる女御、后なりとも、腰に鮭の一二尺なきやうはありなんや」と苦し紛れの駄洒落を言うと、見物していた人たちが大爆笑した、として話が結ばれる。
そこには教訓はないし、政治も文化も人間の身分差もない。ただ読む人を笑わせるためのエンターテインメントだ。腰の鮭を、女性器の裂けと読み替えて、裸にすればどんな高貴な女性でも鮭ぐらい出てくる、とこじつけているのである。本当にこんな騒動や駄洒落があったとは思えないほど、面白さだけが誇張された話に思われて仕方がない。鮭と裂けの駄洒落を思いついた人が、駄洒落を言いたいがためにこの話を作って語ったのではないだろうか。懐に鮭を隠す大童子も不自然だし、町中で着物を脱ぐ人も不自然だ。あまりによく出来過ぎた駄洒落だから、現実の騒動の記録ではなく、市井で流行していた下品な駄洒落を記録したものだと思えてしまう。
他の例を挙げれば、巻一第十四話「小藤太聟におどされたる事」では、
小藤太という羽ぶりのよい侍が、雨で出かけられない娘婿の退屈を紛らわそうとした話がある。酒と肴を持って部屋を訪れたのはよいが、娘が帰って来たと勘違いした婿が、夜着をかぶり下半身を丸出しにして出迎えたので、小藤太は驚きのあまり転倒して頭を打ち、のびてしまったという話だ。
単純に面白い。愉快に笑って、また次の話を期待しながら読みたくなる気持ちになる。ただ、この話のどこにどういう教訓を見つけたらよいのだろう。
巻一第十二話の「児の掻餅するに空寝したる事」は、空寝した比叡山延暦寺の小僧の話だ。
ぼた餅が出来上がり周りの僧たちから一度は起きろと言われたものの、小僧は意地を張ってもう一度声をかけられるまで待とうとした。小僧の空寝を知っている大人の僧たちが「や、なおこしたてまつりそ。おさなき人はね入り給ひにけり」と言ってわざと声をかけないでいると、ぼた餅を食べたくて我慢できなくなった小僧が、時間を空けて「えい」と返事をしたものだから、「僧達わらふ事かぎりなし」という結末になっている。これも面白い。何しろ子供のすることだから、叱るとか真似するなどの教訓にはつながらないが、やはり読んでいると単純に面白い話なのだ。
宇治拾遺物語の笑い話はどれも面白い。それも実に面白い。
純粋に腹を抱えて笑うことができるし、誰にでも分かる共通の面白さがある。疑ってみれば、どれもそれが実話だとは思えないほど、上手に出来上がっている笑い話である。実話かどうかでは問題ではないし、教訓がなくていいと、著者が思っていたのではないか。現実の出来事だけでは満足な面白い話にできないから、そこに若干の加工をすることで、より面白い話を作り上げようとしたのではないか。
今昔物語集の笑い話も面白いのだが、その奥に待っているものは教訓であって、話全体を単純な笑いが支配しているというわけではない。一方の宇治拾遺物語の笑い話は、後先を考えることなく、笑う瞬間の面白さだけを楽しむことができるような話の構成になっているのが対照的だ。『宇治拾遺物語』の性的な話題が『古今著聞集』などに比べれば明らかなように、決して陰湿ではなく、おおらかな笑いに包まれていると言われるが、「大童子鮭盗みたる事」や「小藤太聟におどされたる事」に確かなように、性に関する話が宇治拾遺物語では明るく書かれている。
教訓じみたものを最後に据える今昔物語集にも、巻二十五第二十五話の
「弾正弼源顕定、摩羅を出して咲わるる語」のように性に関する笑い話がある。実際に笑いを取ったものの、話の最後には「されば、人、折節知らぬ由なき戯れはすまじき事なりとなむ、語り伝へたるとや」と結ばれているのだ。今昔物語集では性を笑いにするどころの話ではなく、最後は逆にそれが失敗した原因だとして、性に否定的な教訓になってしまっているのだ。
こうしてみると両説話集では、先の醜い話での仮説と正反対のものが浮かび上がってくるではないか。
醜い話においては、教訓がなく、単純に醜さだけの話が今昔物語集だ。教訓があって、単純ではない話が宇治拾遺物語だ。
笑い話においては、教訓があって、単純ではない笑いが今昔物語集だ。教訓がなく、単純な笑いがあるのが宇治拾遺物語だ。
この通り、醜い話と笑い話を並べてみたところ両説話の内容が逆転していることが分かる。これは何故だろう。そもそも今昔物語集では、教訓を伝えたり、笑わせたりすること自体が目的ではないのではないか。世の中をありのままに映し出すことをした結果、それが偶然か必然か、最後には教訓や笑いにつながっているのではないか。宇治拾遺物語では、教訓を伝えることや笑いをとること自体が目的ではないか。その本来の目的を達成するために構成された内容であるから、最終的に醜い話で教訓を伝えて、笑い話で笑いを取らなくては話が成立しないのではないか。
こうして、それぞれの目的が違っているという内因が、説話の構成上の違いという外因に表れているという考えにたどりつくことができる。先行する指摘では、柳田国男が『笑いの本願』で書いた「今昔物語集は笑わせる文学で、宇治拾遺物語は笑ってやりましょう文学」という考え方があるが、私は若干の修正を加えさせていただきたい。すなわち、「今昔物語集は真顔で笑って教訓を得よう文学で、宇治拾遺物語はみんなで笑って楽しもう文学」というのが私の意見である。
今昔物語集は「笑わせる文学」ではあるのが、読者を笑わせることを主として書かれたものとは思えない。誰を笑わせるか、それは何故笑わせたいのかと解析してゆくと、その話を読んだ読者を自然に笑わせて楽しませたところで、最後に教訓を持ってきがちな今昔物語集であるから、笑いと教訓という二つの目的を「笑わせる文学」の一言で説明できないように思える。
笑わせるだけならば教訓はいらない。これが「真顔で笑って教訓を得よう文学」と私が命名した理由だ。宇治拾遺物語は「笑ってやりましょう文学」ではあるのだが、これも何故笑ってやりましょうなのかと解析してゆくと、それは楽しみたいから笑ってやりましょう、ということになる。笑ってやりましょうの意味は、元々笑ってもらうための説話内容に作り込みをしたから笑ってやりましょうということなるのだが、やはり何故笑ってやりましょうなのか、笑う目的を明確にしたい。「笑ってやりましょう文学」の言葉でほぼ言い足りていると思うが、より噛み砕いた言葉にして「みんなで笑って楽しもう文学」と名付けてみた。
『宇治拾遺物語』の方がはるかに詳しく、物語の作り方が丁寧であり、一般的に内容をより細かく描写していると言われるが、それは結論を教訓や笑いという明確なものに持ってゆくための伏線として考えてみることにしよう。今昔物語集では人間の行動そのものを見せることが目的だから、細かい説明を補う必要性はなく、ただ現実のままを書けばよいのである。現実描写の細かさはあっても、それはまぎれない現実を伝えるために必要な時に描写が細かくなるだけのことだ。
宇治拾遺物語の「三条中納言の水飯の事」では、ダイエット中の三条中納言が食べているものを
「ほしうりを三きり計くひきりて、五、六ばかりまゐりぬ。次に、鮎を二きり計に食ひ切りて、五、六計やすらかにまゐりぬ。次に水飯を引きよせて、二たび計はしをまほし給ふとみる程に、おものみなうせぬ。『又』とてさし給はす」というように、何をどれだけ食べたかということを具体的に書いているが、それは細かく書くことで「確かに水飯を食べたが、他のものを食べ過ぎているのでダイエットにはなっていません」という最後の笑いにつなげようという意図があるからである。
同じ食事風景でも今昔物語集の「鎮西の餌取の法師、往生せる語」では
「この持て来たる物共を食するを見れば、牛・馬の肉也けり」と、ごく最低限の言葉で終わらせている。肉食をする法師の話とはいえ、食事内容の部分が教訓の趣旨とは無関係であったからである。一般的に大衆に受け入れやすいのは、現実のままの姿から読者向けに加工されている宇治拾遺物語であろう。現実のままを映し出している今昔物語集は、生々し過ぎて時としてつまらなく、一般的には受け入れがたいところがある。
しかし、悪行篇など、『今昔』本来の趣旨からいえば番外の物語のほうが、仏教説話や名人譚などよりはるかに生き生きしているという意見もある。人の醜い欲望が隠すところなく表れているのが悪行であるのだから、ありのままの姿を語ることが今昔物語集の意図だと考えれば、悪行などは事実記録の格好の材料である。著者も一層の興味関心をもって書くことができたため、そこに生き生きとした文章が生まれたのではないか。説話における一方の境地は知恵という美しい話、笑い話であろう。
その対極にあるのが醜い話であって、人間の醜い姿そのものが映し出されているから、今昔物語集の著者には魅力的に映ったのも頷くことができる。説話が書かれた時代は、貴族・皇族から武士へと支配者階級が移ってゆく過渡期であった。それは藤原氏の摂関政治や天皇たちの院政を経て、実に二世紀もの時代をかけて緩やかに移行していったものである。
民衆にとって個人の力では逃れられない大きな流れが世の中には存在しており、そこから救ってくれるのが浄土往生という仏教への信仰である、ということが古い価値観であった。しかしそうした価値観にも徐々に限界を感じてきていた民衆は、権力者の横暴から個人の英知によって逃れられることを知り始めていた。これら説話集からは古代的な律令法や価値観の終焉と中世的な価値観の成立の狭間にあり、権力への服従と個人の生命力の間で悩みつつある民衆の姿を見て取ることができる。
それはまだまだ遠くからの足音とはいえ、東国武士が活躍する力強い様に顕著だ。宮廷女房たちが作った非現実の王朝物語にはない人間臭い話が説話集には収められている。それも今昔物語では日本全国だけにとどまらず、舞台は天竺から震旦まで、登場人物も神仏・天皇から盗賊・妖怪まで、笑い話から醜い話まで、説話集は人間の生存環境を一通り網羅するほど、広い世界を題材として取り扱っているのである。
夢幻の物語から、現実に即した説話へ。
説話集の視点は、あくまで民衆から現実社会を見たものが中心である。先の醜い話と笑い話の逆転現象を解く鍵として、誰に読んでもらうための説話集かという切り口で紐解いてみることにしよう。今昔物語集には読者という考え方はないとされる。十二世紀頃の成立から、誰にも読まれることなく保管され、江戸時代中期の亨保五年(1720)に井沢長秀によって「考訂今昔物語」が一般大衆向けに開放されるまで、六百年間も一部の関係者だけに秘められていた説話集なのである。
それが自分のためだけの説話集とすれば、他人に分かりやすくするための説明を加える必要性はない。だからこそ笑い話を一人笑いだけに留めることなく教訓を求め、醜い話には事実記録のために徹底した現実描写を、今昔物語集の著者が追及するようになったのではないか。基本的には自分だけが分かる内容であれば良かったのが今昔物語集であろう。自分が分かっているから細かい状況描写などは最小限に留め、ただ醜い現実の把握と、一人で笑うのではなく笑いの先に教訓を求めようとして、今昔物語集は説話を書きあげられていったのだ。
ことのなりゆきを徹底して追求し、ついに究明しえずに断念した絶望的な結果の言明、不信の表明が今昔物語集と言われる。千話を書き重ねていった結果、最後の答えが出ることはなく自己矛盾に陥り、ついには未完のまま終焉を迎える。自問自答の今昔物語集だからこそ、最終話がないのは自然ではないか。
序文に「世の人、これを興じ見る」とあるように、宇治拾遺物語は明らかに多くの人々に読ませることを前提として書かれた物語である。醜いものにはフタをしながら教訓を入れることで読みやすいものを作り上げた。笑い話には誰でも何を考えずに笑うことができる単純な話を目指した。「いろいろおもしろいことを語って読者の気をそそっては、最後は何がいいたいのかわからない、読者を煙に巻いてしまうような語り口なり表現が非常に多いので、『宇治拾遺物語』はまさに狂惑を方法とした作品であるし、『宇治拾遺物語』はむしろ最初から行方を追わない。おぼめかし、あいまいな内にことを溶暗させてしまうとも言われるが、そこに迷いはない。なにしろ読者に読んでもらうこと自体が目的だから、書くべき話が尽きたらそこが最終話になりうる性質の説話集である。
柳田国男は『鳴滸の文学』で「笑ひは群で楽しむ場合が最も効果が多く、それを成し遂げるのは文学の力である」と書いたが、この点でも今昔物語集より宇治拾遺物語の方がより笑いの効果を持っている。読者を想定して書かれていれば、それは群で楽しむということにつながるからだ。今昔物語集では読者があることをそもそも想定しておらず、宇治拾遺物語では読者ありきの文学を作った。著者が何のために書き、読者にどう読ませたかったか、という意思の違いが、両説話集の性質の違いを説明する鍵となる。
今昔物語集の名前の由来となった「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」という最初と最後の定型の書き方は、自らの語りこそ唯一正統な伝承である保証を得る方法であったことから採られたのであろう。はっきりと言いたいことも書いてあるはずなのに、著者と限られた周囲の人たちにだけ分かればよいはずの今昔物語集だが、そこでこの最初と最後の決まり文句を常用することで、本来自分が言いたかったはずの今の言葉が、あたかも昔から伝承されてきた一般的な既成事実と同化して、うやむやになってしまうことには違和感がある。
しかし書かれていることはおよそ伝承とは言い切れないことも多々あるから、定型踏襲という口語りの伝承を擬装することによって、語りの主体を確立し、書くことの自由を得、伝承そのものから解放されたと考えることもできる。また、即ち、今昔物語集は自己の語りを正当化するために過去を仮構し対象化しているというように、今昔物語集は伝承を隠れ蓑として利用していると解釈できる。一見すると妙なところで説話を書き上げた責任をよそに転嫁して、著者が自分の存在を隠そうとしているようにも思える。
そこには紫式部はつくり物語のそらごとゆえに、地獄の苦患のなかにあると言われていたような事情があった。そらごと・虚構を通して、この世にある人の有様の真実を追求するのがつくり物語であって、院政期の人々はつくり物語を否定的に捉えているという価値観が存在していた。
「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」で入口と出口を統一した今昔物語集は、全話が実話であって、決してつくり物語ではない、という主張と捉えることができる。醜い世の中はありのまま書き残してしまおう、つくり物語のように虚構を書いても地獄に落ちて苦しむだけだ。笑いは笑いで楽しむが、それだけではなく今を生きている我々がその笑いからどんな生きる教訓を得ているのか、それを中心にして世の中を記録しよう。今昔物語集のこんな編纂意図を、私はそこから感じ取る。
一方の宇治拾遺物語では、今昔物語集ほど「今は昔」が形式化していない。
「今は昔」「昔」「これも今は昔の話」「これも昔」といういくつかの形式を取っている。今昔物語集の後の時代に書かれ、今昔物語集と同じ話も納めている宇治拾遺物語であるから、今昔物語集の意図的な統一を知らないわけがない。今昔物語集の形式をある程度は踏襲しながら、しかし決して完全には統一しなかったのはまた示唆的な点である。
宇治拾遺物語では、自分が行っているのが事実の記録だけではないことをはっきり意識していたし、それを読者にも理解させようとしていたからではないか。それは先に述べたように笑いを純粋に楽しむ説話集、醜い世の中を生き延びる教訓を得る、という実践的なものを取り入れた説話集にしようとする編纂意図があったからこそではないか。
宇治拾遺物語の序文には気になる一文がある。「五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山ぎはに、南泉房といふ所にこまりゐられけり」「もとどりをゆひわげてをかしげなる姿にて、むしろを板にしきて、すずみゐはべりて、大なる打輪をもてあふがせなどして、往来の者、上中下をいはずよびあつめ、昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひておほきなる双紙にかかれけり」と序文に書かれている。
避暑地・宇治にある貴族の別荘で、寝そべりながら話を聞いて書き込んでいった書物だとは信じることができないのは、宇治拾遺物語の内容が完成されているからである。この序文が言いたったことは、そのぐらいのんびりした雰囲気で書いたので、決して固く読まないで欲しい、という著者の意図ではないか。ましてや「我は内にそひふして」とあるのだから、著者の源隆国本人は話し手と直接面と向かって話を聞いたのではないと捉えることができる。簾越しに聞くか、あるいは間に誰かを挟んだことになる。
しかし、そんな間接的なやりとりでこれだけの説話集が書けるとは誰も思わないだろう。どこかの寺院で、とある著者が、常人離れした根気を持って千数十話という膨大な説話を書き上げた、ストイックなものが今昔物語集である。肩肘張ることなくリラックスしながら書かれた 宇治拾遺物語との書かれ方の違いに、両説話集の性格の違いの一端を見ることができる。
今昔物語集に序文が残されていないのは残念だが、それは偶然だろうか。推測が許されるのならば、序文というもの自体が今昔物語集になくて、それは読者を想定せず自分のためだけの説話集であったから、他人に前提となる状況を理解させるための序文というものを書く必要性がなかったからではないか。横暴な権力者の気まぐれで自分がいつ危険な目に合うかもしれない。
今日の笑いは楽しいものの、明日は笑っていられるか、あるいは本当に明日も無事に生きていられるかすら民衆が信じられない時代であったのだ。そんな時代に生きた人々にとり、現実の姿をありのままで残し、生きる知恵として教訓を考えるのは自分の生きた証を刻む術であったのだろう。今昔物語集にはこうした人々の必死の思いが込められている。自分の命はいつ終わりを迎えるか分からないが、そうなった時でも自分が書き残した説話集は自分が生きた記録として永遠の命を持ってゆくのだ。自分と読み手たちがそこにいる場だけ楽しめればいいエンターテインメント性を含みつつ書かれた宇治拾遺物語との決定的な違いがそこにある。
芥川龍之介は「今昔物語について」の中で、今昔物語集を「野生brutalityの美しさ」と評した。荒削りで洗練されていない生の話のくせに、そこが妙に美しい。生きようとする人々の真剣な思いを話中から読み取って「野生の美しさ」と表現した芥川の評価には多いに共感できる。
こうして今昔物語集を読み解いてみると、美醜同居の美しさという表現が私には浮かび上がってくる。美しいものは美しい。それに加えて、つくり物語との決定的な違いである、醜い人間の姿までもが含まれている点において、そしてそれを宇治拾遺物語と比べてあからさまに書きあげているところに、今昔物語集の特性を見る。
醜いものも美しいのが、今昔物語集なのである。今昔物語集は読み手のために書かれたものではなく、現実社会の正確な記録として、またそこから教訓を得て生きてゆく人たちの力強い様を描いたものである。こういった特有の世界観を持ちながら書かれた説話集が今昔物語集なのであると、宇治拾遺物語との醜い話と笑い話の内容比較を通して説明することができる。
今昔物語集とは、庶民の価値観が書かれた説話集
巻二十八第十五話には、海賊に襲われた僧が勇猛なことで有名な伊佐の入道能観をとっさに名乗り、見事に海賊を追い返したという話がある。頼れるものは自分自身の才覚だけであって、見破られて殺されるのも覚悟の上であれば、嘘を突き通す度胸が本物であれば生き延びることもできる。嘘をつくことが悪と言うよりも、一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、騙された人こそが悪だと、この話は語りかけてきている。
色仕掛けで医者を騙して患部を治療してもらい、治ったと同時に姿をくらました美女の話もまた自分の器量一本で上手に生きてゆく人間を描いたものである。色男の平中を焦らして恋煩いの末に殺してしまった女も、機転があればこそ話の主人公となりえるものである。貴族階級の日常が中心に描かれていた王朝文化では書き得なかった庶民の生活での知恵や、個人の器量の大切さというものが今昔物語では明確に描かれている。身分は低くとも、逞しく生きようとする生命力を捉えた話には活き活きとした庶民の力を感じることができる。
これは現代でも共通することであって、一億総中流を目指せばよかったバブルの時代が崩れ去った後の資本主義社会においては、自分自身を売り込む能力がないと勝ち残ってゆくことができない。今昔物語の生まれた平安時代末期のように、それまで隆盛していた貴族文化や天皇支配という時代が衰退し、武士という新階級の台頭が目前に迫ってきていた時だからこそ、新しいものが生まれる直前にあった。
我々の現代でも、経済優先・会社中心だった我武者羅な時代は崩れ、環境保護や個人の時間を中心にして人々が暮らすように変化してきている今、そこではやはり個人の能力が問われるのではないだろうか。そうした場において、個人の力だけではなく神々の力を借りて成功を収める場面があるのが今昔物語である。伊香の郡司という話では、上司の国守から難題と引き換えに妻を要求された郡司が、観音様の力を借りて難題を乗り切っている。自分自身の力だけに限定せず他の力を借りようとも、なんとか困難を乗り越えることは今昔物語での美徳である。
そこには仏教信仰の影響もある。修行僧が性欲に負けて山奥で他人の妻を襲ったところを、狩の最中に偶然通りかかった夫が獲物かと思って放った矢が、修行僧に突き刺さる話には、個人の才覚というよりも仏の力が難を逃してくれる、ということも描かれた。巻二十七第三十六話では、墓場で鬼に襲われそうになった男がどうせ死ぬのならば悪あがきしてみよう、と鬼に向かって太刀を振るった結果、鬼だと思っていた大きな猪を倒して無事を得たという話がある。
流転する時代に巻き込まれ、死が身近だった時代に生きる人間たちは、常に死を意識していたし、その死に抵抗しようと全力で運命に立ち向かっていった結果、命を取り留めたという成功譚は今昔物語の代表的な美談だ。古代の貴族社会から武士台頭の中世までには、実に二世紀もの長い歳月をかけて緩やかに移行していった歴史がある。藤原氏が摂政・関白を独占して政治の実権を握った時代から、院政をひいた天皇が支配した時代、律令法による古代的な貴族・天皇支配の時代は長かったし、その後の平清盛に始まる平氏の支配、源頼朝ら鎌倉武士が日本の政権を担う時代まで、京都の貴族・皇族と地方の武士階級が支配を交代していった長い時代の中から今昔物語は生まれている。
平家物語の盛者必衰の理を体現するかのように、繁栄しては衰退してゆく貴族たちに、台頭してはまた別の武士に滅ぼされてゆく武士たち。生も死も不確かな時代の中では、人々は王朝時代にあった優美なものよりも、もっと身近でもっと人間臭いものを求めていったのではないか。それが証拠に、今昔物語の本朝部に登場する主人公の多くは源氏物語のように特権階級の人ではなく、一般庶民であるのだから。貴族文化から生まれた王朝文学では、雅でないものには焦点を当たることは少なく、美しいものが取り上げられている。そこに庶民の感情や生き様が入る余地はない。今昔物語のような説話文学は王朝文学の対極に位置しており、どんな低俗なものでも自分自身が直接目で見て確認しなくては引き下がれない、という民衆の視点にまで下がってきている。
巻三十第一話で色男の平中が、どうしても自分のモノにできない美女に懸想をして、恥ずかしがらせてやろうと便器を調べ、美女が仕掛けていた金の糞を見つけるのも、幻想を幻想に終わらせるのではなく、自分で最後まで解決しようした人間の行動が説話になったものだ。王朝時代の人にもこうした行動があったのだろうが、それが文学に残るだろうか。いや、風雅の世界に生きた人々がこうした話を文字に刻むことはなかっただろう。グロテスクなシーンも今昔物語の世界では取り上げられている。
平貞盛は自分の悪性の瘡を治すためだけに胎児の生き肝を捜し、息子の嫁の腹を裂けと言うし、実際に台所で働いている下女の腹を割いたりしている。その上で、この治療法を教えてくれた医者を、己の出世と世間体のために殺して口封じしようとするなど、あまりに惨い話までが生々しく語られているのも、今昔物語ならではだ。この話だけが特殊だったのかもしれないが、少なくとも当時の人々の間ではこうした必死の生存競争が行われていたことを読み取ることができるし、確かにその一部を今昔物語の話の中で垣間見ることができるのである。
権力者の横暴もまたひどい。中国の国王が百丈の卒塔婆を石工に造らせたが、他国でも似たものが造られるのを阻止しようと、その石工を殺そうとした話には権力者のエゴが隠しようがないぐらいに出ているし、その危機を石工夫婦が機知で切り抜けた場面には庶民ロマンの軽快さがある。古代では権力者からの強制を逃れる術を庶民は持たなかったが、今昔物語が書かれた時代にはそれも個人の勇気と知力によって克ち得る可能性を秘めていた。
与えられた苦しみにも信仰心を持って耐え抜くことで救われるのは受動的な仏教の救いの世界であるが、民衆は自分たちが能動的に行動することで救いを獲得できるということを、身をもって知っていたのだ。この人生の苦難の話と、美徳を美徳としてだけ書いた話を比べてみる。物語の多様性を考えれば幸せと不幸の話が交互に散りばめられているのも説話集には必要だとは思うが、どうしても美徳だけの話には奥行きが乏しく思えて仕方がない。
鬼や盗賊の姿を描く暗黒の物語に民衆の貧困を見ることができる。無人の寺で賊から襲われた女性が、命こそ優先であるから諦めて犯される場面もある。自分の子供を犠牲にして暴漢から貞操を守った別の女の話でも、相手の男が乞食だったから子供の命と引き換えにしても自分の身体を守ろうとしたと考えるならば、身分階級こそがその女を突き動かしていたものと思うことができる。
今昔物語では話中に美人を登場させたいときに、風貌のどこが美しいかを描くことよりも、生活様式の品位や全体の趣味で美人をイメージ付けたように、やはり身分階級意識は当時の人々にとって強いものだったのだろう。奪おうとした男も必死ならば、守ろうとした女も必死。互いに必死を生きる中でも、当時なりの価値観によって人々は動かされていたのだ。武士の力が眩しく描かれている。
巻二十三第十四話では、明尊僧正が三井寺へ往復する道中に武人の平致経に警護を命じるが、出発姿では平致経と下人一人だけと頼りない警護だったのだが、歩くごとに道脇から武士仲間たちが無言で共に加わってゆき、終いには三十人もの黒装束の武士たちが警護していた。目的を済ませて京都へ戻るにつれ、逆に仲間たちが無言で順に姿を消してゆき、最後には平致経と下人一人だけとなった。それらが無言のうちに行われたというところが、武士たちらしい生死を賭けた訓練と以心伝心の賜物である。まだ貴族支配の社会が残っている今昔物語の時代に、刀の音を鳴らして歩いてくる武士の姿を取り上げたところに、今昔物語の編者たちの先見の明を感じることができる。
古代では貴族たちには優雅こそが大事だという価値観があり、今昔物語時代には何よりも命が大事だとする庶民的な価値観があり、その先の中世では名を惜しめという武士たちの価値観がある。その中でも一番強烈なものは、やはり何よりも命が大事だという人間臭いらしい必死な動機ではないだろうか。生き延びることへの執着心。悟りを開いて死に甘んじる仏教の姿ではなく、貪欲に生きることこそが人間本来の美しさだと、今昔物語の編者たちは伝えたかったのだろうか。
それは世の仏教信仰とは相反する意識であるから、公にはできなかったものと推測できるのだが。そもそも宗教には支配者層が権力を正当化するために便利なように作られてきた歴史がある。中国の儒教は官僚支配構造のために生まれた歴史があるし、ヒンズー教は階級社会を正当化するものだ。中世ヨーロッパの宗教改革は上からの束縛から脱出するために民衆が巻き起こした運動である。鎌倉仏教は国家からの自立と個人の救済を趣旨として生まれたものであり、この今昔物語の貧民たちもまた、崇高な仏教ではなく純粋に人間解放を求めていたと捉えるともできる。
しかしながら、人間解放へと向かおうとしても当時はまだ闇の時代であった。古代権力支配の力が残る中で、先が見えない民衆らはそれでも自由への道へと向かおうとする意思を持ち、「今は昔」の仮の物語を組み立てることで将来を模索し、解放への道筋をつけようとしたのではないか。「今は昔」の言葉を額面どおり捉えれば過去のことを言っているように思われるが、実際は過去にまぎれて自分の将来を仮定しようとしたのではないか。千話に及ぶ膨大な説話集を一人の人間の人生で体験できるものではない。人は自分が経験したものしか書くことができないのだから、編者が呼び止めた人から珍しい諸国の話を聞いて書き留めたものに手を加えて編纂したのが、この今昔物語なのであろう。今昔物語には真面目な徳を描いた話もあるが、わたしにはどうも興が失われている気がする。
巻十六第二十話には、勇敢な夫が相手に騙されつつも、妻の機転によって好機を得て相手を退治するという、若い夫婦が協力して困難を脱してゆく美しい話がある。強い夫とそれを支える妻という、日本の理想的な夫婦のあり方には違いないが、他の話では生々しい人の欲望や生き様があり、言わば醜さと美しさが矛盾なく同居して、それが不思議と輝いているのが今昔物語の魅力であろう。美徳だけが強調されているところを見て、今昔物語を知った気になるのは片手落ちと呼ぶべきものだ。運命の非情さにも容赦がない。貧しさゆえに別れた前の夫とは知らずに、また結ばれたことに気付いた女が、わが身の不運を思って息途絶えてしまった話なども、容易に幸せな結末に結び付けず、そこで死を迎えさせてしまったところに今昔物語の厳しさがある。
同じく貧しさゆえに別れた男女のうち、別の豊かな男にもらわれた女が、農作業中の落ちぶれた元夫を偶然見つけてその貧乏に同情し、着物を与えた。そしてそのまま東と西に生き別れる男女の、なんとも残酷の時の流れ。希望を与えずそのまま冷たい運命に引き裂かれて話を終わらせるところに非情さを伺うことができる。この説話集に所収された話の量は格別であり、それまで巷にあふれていた仏教説話をほぼ網羅しており、古代日本における仏教説話集の様相さえある。それも主役は人間だけではなく、動物や信仰までもが主役になりえたということは、世界は人間を中心としては回っているわけではなく、神々や精霊など人間が制御できない何か大きな輪廻転生のようなものが支配していた、いう考え方に違いない。
それまでの裕福層を中心とした物語とは変わって、一般庶民から僧侶、賊から武士、貴族に天皇、菩薩から鬼や蛇など様々な立場に沿って書かれている。そこには本当の意味での主役が存在しない。王朝文学に本当に共感できたのは限られた裕福な貴族層だけであったのだろうが、今昔物語では庶民を含む世間一般全体が読者になる可能性を秘めるようになっている。全ての人が読んで、全ての人が登場人物になりえて、全ての人が笑われる立場になる。今日笑っている自分が、一歩間違えば明日には笑われている自分になるかもしれないという危うさは、明日死んでも不思議ではない、と死をありふれたものとして受け止めていた当時の人々には身近なものだったのかもしれない。
混沌とする時代の中で、人々は現在や未来がどうなるか予想ができなかった。今は昔、として昔を例にあげる方法が精一杯だったのだろう。太平記や平家物語が今を生きる人間に焦点をあてて自分の身の回りの人間像を描いたのとは違い、今昔物語では昔に生きた人間として話を組み立ててゆくなかで、故人たちを非難してもしかたないことであるから、そういう人物が過去には存在したのだ、という事実を描き、それは必然的にありとあらゆる人間像を描き出す物語を完成させることにつながった。
古代から中世への変化を記録した物語。王朝文学にはなかったもので、後の人間解放の中世文学を生み出す源が潜んでいて、文学の時代と時代をつないでいるもの。和漢混在の文体で書かれているところを見ると教育があった著者だったのだろう。庶民の必死な生き様のようにグロテスクなものは貴族には書けないはずであるから、当時の文化層である寺院の僧侶階級が書いたものだろうと想像がつく。印度・中国の仏典までも引用しているのだから、仏教の僧が関係していた間違いないだろう。源隆国の宇治大納言物語など、いくつもの書物が出典と考えられているが、それにしても膨大な物語の数は尋常ではないし、そもそも編纂された意図さえも不明なのが今昔物語だ。
内外の仏教説話がまとめられているところから推測すると、仏教僧による修行目的の書だったのかもしれない。別の観点で言えば、混乱の世の中を憂う一人の人間として、その時代を生きた証拠を残そうとしてまとめた書物なのかもしれない。仮に複数の僧が作ったものとすると、ある程度の仏教の知識を持つ知識人たち、それも現在を疑問視する人々で、かつ未来を切り開こうとする意思があった人たちなのだろう。彼らは過去と現在を書物に封印するために今昔物語を作ったのか?いいや、連歌や歌合いのように美しい連想を楽しむ、一種の知的娯楽のような感覚でなかったのか。
そこではアイディアが現実を飛び越えてゆく。元となった話に沿っていても、イメージはそこに閉塞されたものではなく、互いに思い切った面白さを競い合うように新しい物語を生んでいったに違いない。現世を未来に残そうとする意識よりも、ただ目の前の世界を物語に詰め込んだだけだったと考えて不自然はないと思う。野生の美しさ、と評した芥川龍之介の指摘は最もだ。王朝文学の優美さは地に足がついていないのでつまらなく、台頭した市民層による中世の文学も豊か過ぎてつまらない。
台頭せず、時代に流され、貧しいままの市民層の視点で描かれた物語、田舎である東人を馬鹿にしている都人の笑いが聞こえたと思ったら、東国の兵馬どもが勇ましく駆けてくる馬の音が聞こえそうであるし、荒削りのままで洗練されていない文体は今昔物語の魅力である。所詮、王朝物語は限られた貴空間だけで行われていたものであって、世界が狭い。
それに引き換え今昔物語には当時の世界まるごと、庶民生活から宗教世界まで、京都周辺を中心とはしているものの日本各地からアジアまで、あらゆるものが詰め込まれたアートボックスなのである。宗教が湿っぽく語られているかと思ったら、低俗な事柄が感情豊かに描かれていて、全体的に陰気から笑いまで豊かに含んでいる。地上の左右から高低まで、あらゆる人間の姿を地図に描こうとしたのが今昔物語ではないだろうか。
この説話集には人の醜さと貧しさが否定できず、そこに人の生命力の美しさというものまでが矛盾なく同居している。この今昔物語の世界感の広さこそ、野生の美しさを感じさせてくれるものであるし、わたしがひきつけられた魅力的なものなのである。
 
『日本霊異記』冒頭部の構成と景戒

 

大伴氏と飛鳥元興寺とを結ぶもの
一、景戒の周辺と道場法師系説話群
古代の代表的仏教説話集である『日本往生極楽記』や『本朝法華験記』が、聖徳太子・行基菩薩を冒頭部に配列する方式を採っているのに対して、『日本霊異記』が仏教的色彩の稀薄な小于部栖軽・三野狐・道場法師の登場するいわゆる道場法師系の説話群をもって冒頭部を構成していることは、かなり特異な形態ということができる。先に、筆者は、景戒の生活環壌を考察した際に、その考察方法上、三つの視座が設定され得ることを指摘しておいた。即ち具体的に申せば、
1 藤原種継事件や下巻終結部の構成面から大伴連ゆかりの人物
2 帰化人系の道昭・行基との結びつきを強く有する人物
3 道場法師系説話をもとに、 小子部一族との関係の深いことを推測し得る人物
という視角である。 本稿で、『霊異記』のエニークな上巻巻頭部の構造を分析し追究していくことは、右の第三の局面を掘り下げて考究することに直結するといえよう。つまり、飛鳥の道場法師系説話群が『霊異記』の中で占める位置を考察していけば、結局のところ景戒の出自及び人物隸の解明に連なっていくのである。だが、この面の研究は、かつて柳田国男氏が「乃ち強力の血筋には深い因縁のあったことを、後々まで語った家が彼地に残って居た証拠であって、事によると沙門景戒もその一族かも知れず更に一段の想嫁を進めるならば、かの書の巻頭に精細なる一異伝を載せた小子部栖軽の子孫も、出でてあの地方に住んで元の信仰を敷衍して居たのかとも思はれる。」と提言され、景戒が小子部にゆかりの深い道場法師の流れを汲むものと示唆されて以来、殆ど進展を見ていない。
筆者は、これまでに景戒の出自が下巻第三十八話(以下下38と記す)後半部における藤原種継事件の記載の位置を中心に、大伴氏と深い関係にあることを論じて来た。この事件を精細に検討された志田諄一氏の説−黒幕である大伴継人が登場していないことの指摘―は、謹聴に値するものであった。そして、更に調査を進めてみると、1 宮廷正史に見られぬ詳細な記述がある 2 公的事件が景戒の私生活を語る後半部に位置している人名表記の傾向から種継事件の部分のみに低位の近衛舎人雄鹿宿禰木積と波々岐将丸が記載されているのは不自然である等々の観点から、大伴連に近い環鏡にある人物を想定し得た。中でも 2 の部分は重要である。下38の自伝は、前半部と後半部とに分かれているのが原初形態であると思われるが、そうすると、前半部が桓武天皇の即位の個所で終おり、後半部が長岡遷都の記事から開始していることは不自然である。というのは、福島行一氏が述べられるように、前半部が社会事象の不安定、後半部が個人生活における不幸を述べたものならぽ、なにゆえに桓武朝の記事が真中で分断されているのであろうか。前半部に存する即位の記載が公的であるのはいうまでもないが、後半部冒頭の長岡遷都や藤原種継事件もまた公的なものである筈だ。しかるに景戒が、この記事を私的な境遇を記述する後半部に置いたのはなぜか。それは、この長岡京造営の途上勃発した種継事件は、確かに常識的には公的事件ではあったが、景戒にとってきわめて身近かなもので、私的生活を開陳する導入部に置くにふさわしい出来事として意識されていたのに他ならなかったからである。
だが、こうした立場に生きる彼が、いかなる事情で飛鳥の道場法師系説話群を最初にもって来たかは、依然として謎である。自伝の中で、彼が道昭・行基を追慕し、夢の中でわが身を火葬に付して、燃え落ちるのを吉兆と喜ぶ姿は、狭手彦の頃から魔々朝鮮半島に転戦し、帰化人と深い関係を有する大伴氏の周辺部に生きた人物像を彷彿させるものがある。筆者は、飛鳥の道場法師系説話群と景戒とを結ぶ線の究明をなし、後日言及すべきことを予告しておいたが、この間に黒沢幸三氏によって、道昭・行基とも関係深い飛鳥の元興寺に景戒が出入し、そこで道場法師系の説話を入手したことと、上3の伝承過程の実態など多くの問題が論じられ、解明が加えられた。また、八木毅氏は、『霊異記』は下巻部から編纂が進められ、中巻部から上巻部へ向けて組織化される時、飛鳥時代の古い説話が入手困難で、話数少なきがため、数話を上巻部に移動させるとともに、上13・上25など非仏教的なものも編入されたと推定しておられる。更に、小泉道氏は、小子部栖軽の死後をも含めた忠誠譚上1こそが本書の冒頭部を飾るにふさわしく、それは上5大部屋栖野古登場への序曲でもあったと考え、この部分を上1から上5までの説話群として把握する新しい見解を打ち出された。
以上、三氏の注目すべき新見に導かれつつ、大伴氏と飛鳥元興寺との接点を見つめ、景戒が道場法師系説話を入手するまでの様々な局面を考察してみたいと思う。
二、紀伊国の大伴連と飛鳥元興寺
大伴氏は、任那の失政に対して金村が、欽明元年、物部尾輿らに
「曩者、男大迹天皇六年、百済遣使、表請任那上移悧・下喀嚠・婆陀・牟婁四県大伴大連金村、輙依表請、許賜所求。由是、新羅怨曠積年。不可軽爾而伐。」と天皇の面前で真向から批判され、住吉の宅に隠退してからは、朝政の最高権力の座からは下りたが、それ以後も主として蘇我氏のもとにおいて、朝鮮半島の戦闘を指揮し、武門の家として重きをなした。ここでは、摂津・河内・紀伊国に蟠踞していた大伴氏の実態と、飛鳥朝における政治・宗教上果たした役割につき考察し、飛鳥元興寺への関わりにつき論じてみよう。
(1) 大伴氏の根拠地と紀伊国
紀伊国名草郡大伴連公の先祖と伝えられる上5の大部屋栖野古は、推古三十三年の冬十二月八日に難波に住んでいた。また、前述の通り、大伴金村も住吉に隠退したことから、古くから大阪湾一帯に大伴氏の根拠地があったのは疑うべからざる事実である。このことは、上田秋成も『冠辞考続貂』にて「大伴氏は代々大連の重職にありて、この摂河の両国を食地にや領ぜられけむ。」と述べている。「大伴の御津の浜松」とか「大伴の御津に船乗り」とか、『万葉集』にも大伴の地名は名高い。
ところで、名草郡宇治里に大伴連を名乗る人々が群居していたことは、大部屋栖野古が彼らの祖先だと記す説話からも推測される。彼らの多くは、金村の二男狭手彦の後裔のようだ。例えば、彼の子孫が大伴太田宿禰を賜わったことが『三代実録』(貞観三年八月)の伴善男奏言中に見られるが、彼らは恐らく名草郡太田庄に住んでいたと思われる。また、『伴氏系図』によれば狭手彦は「榎本氏先祖、以二松浦佐与姫一為〆妾。」とあり、『新撰姓氏録』左京神別の項にも、榎本連は大伴佐旦彦の後裔だと伝えているが、その榎本連もやはり当国に集住していた。例えぽ、本書下10牟婁沙弥は、安諦郡荒田村在住の榎本氏出身の人であり、また天平神護元年十月に名草郡前少領榎本連千嶋が稲二万束を献じて、豪族の表情を留めている。更には、時代が遡るが、雄略九年三月に狭手彦の祖父談連が、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・小鹿火宿禰らとともに新羅に侵入し、紀岡崎来目連と一緒に戦死している。このことにつき、『紀伊続風土記』は「今按ずるに紀は国の名崗前は此地の名来目ノ連は大伴氏の帥うる久米部将なれば、此時大伴ノ談ノ連に従ひて、新羅の軍に死せるなり。Lと見解を述べているが、恐らく談連も名草郡に根拠地の一つを有していたと推定される。
その他、同国名草郡に住居を構えていた大伴連の族に、大伴若宮連を名乗る一族がいた。彼らは、忌部郷に生活していたが、養老から神亀の頃に大伴若宮連真虫、天平から天平勝宝期に同部良が居り、両人の戸口であった経師同大淵も仏教に深い関心を示していた。同じく大伴連の族で、名草郡少領正八位下大伴櫟津連子人は、神亀元年の行幸の際に二階級昇進の栄に浴している。更に時代は降るが、貞観六年八月十三日に、大伴連宅子は、節婦の故を以て「叙位二階。免尸内田租。表其門閭。以旌貞節。」と表彰されている。
那賀郡に目を転ずると、まず本書下17で弥気の山室堂にて修行中の大伴連出身の沙弥信行が目を惹く。また、大伴連伯万呂も同郡に居を置く戸主で、彼の戸口に経師蓑麿が居るが、天平二十年の二十九歳の時、労三年の理由で書写所から出家を願い出ている。その他、粉河寺建立にまつわる大伴連孔子古も那賀郡の人だ。宝亀年中頃に生ぎた人であるが、その子孫については、「孔子古の子を正六位上船主と云。……中略……其子益継に至りて始めて俗別当の称あり。其子大伴ノ山雄貞観年中に当りて、当郡広田ノ荘を賜ふ。……中略……仁和の比俗別当和泉守大伴ノ貞宗あり。」と『紀伊続風土記』に報じているが、貞宗・益継については、貞観十四年八月十五日に「紀伊国那賀郡人左少史正六位上伴連貞宗。父正六位上伴連益継等改本居。貫隷右京」と『三代実録』は伝えて居地変更を示した。
さて、『三代実録』の先にあげた伴善男の奏言によれば、狭手彦の子孫は太田宿禰を名乗って、紀伊国に生活しており、その状況は、「挙二朱綾一者。曠レ世無レ聞。」と芳しくはなかったが、彼の弟の阿彼布古のそれは、歴代尊顕であったという。金村の子息には、第一子磐、第二子咋子、第三子狭手彦があり、他に糠手子・阿彼比古がいた。とくに、狭手彦の子孫が繁栄しなかったとする善男の見解は、彼らが紀伊国という一地方に住まい、主に仏教的な世界に関心を示し、政治的には郡司クラスに留ったことを意味していると思われる。したがって、景戒も狭手彦流に近いところに生き、もしかすれば、彼が多くともない来た帰化人の末喬とも考えられるのである。
(2) 狭手彦を中心とした仏教活動
大伴氏諸流の中で、とりわけ古くから仏教に関心の深かったのは狭手彦の周辺であった。彼は、武門の家大伴の名を誇り、果敢に朝鮮半島に渡たり転戦している。まず、宣化二年に任那救援のため遠征した時、兄磐が後方をかためるために筑紫に残ったのに対して、彼は積極的に渡海して新羅の侵入を阻止した。その後再び欽明二十三年八月に、兵数万を率いて、高麗が百済へ南下するのを防ぐため、かの地で奮戦したが、その際「其王踰墻而逃。狭手彦遂乗勝以入宮。尽得珍宝敗賂・七織帳・鐵屋、還来。」と珍品を入手し、それらを「以七織帳、奉献於天皇。以甲二領・金飾刀二口・銅鏤鍾三口・五色幡二竿・美女媛媛名也。并其従女吾田子、送於蘇我稲目宿禰大臣。於是大臣遂納二女、以為妻、居軽曲殿。」と帝や蘇我氏に献上して、武威の高揚を期している。ところで、献上品のうち、彫刻を施した青銅の鐘や五色の幡などは、仏具ではなかったか。すでに、十年ほど前に百済の聖明王から仏像と経典が献上され、蘇我稲目が試験的に礼拝したが疫病流行のため、物部・中臣両氏の反対に逢い、下火となっていたこの時期に、狭手彦がこうした態度を示したことは、以後蘇我氏のもとにて仏教政策や外交政策に全面的に協力していく姿勢が確立されたわけで、きわめて大きな意義を有するものである。思うに、狭手彦の如く、屡々海外に足跡を印し、外国の文物に接する機会が多ければ、仏教に対する理解が深まっていくのも自然の趨勢であった。したがって、先に出家した司馬達等の娘善信たちが百済で戒を受けるために離日したが、崇峻三年に、帰国して桜井寺(豊浦寺)に住むと、狭手彦は、わが娘を出家せしめて善徳尼と称させ、同時に彼が高麗からつれて来たと思われる大伴狛夫人やその他新羅媛善妙・百済媛妙光等々も出家させ、それと鞍作司馬達等の子息多須奈も行をともにした。
まず、仏教がわが国に定着するにあたり、司馬達等一族の果たした功績は絶大なるものがあった。即ち、敏達十三年九月、百済から持ち来たった弥勒の石像などをもとに仏法を盛行させようと蘇我馬子が、修行者を求めた時、達等は池辺直氷田とともに高麗の恵便を播磨国にさがし出し、また馬子が宅東に仏殿を造営すると斎食の上に仏舎利を得て献上したりしている。また、多須奈は用明二年四月に、病床の天皇のため丈六の仏像と南淵坂田寺を作った。更に孫にあたる鞍作鳥は、飛鳥元興寺の丈六像を作製した。顧みるに、司馬達等が最初に日本に渡来したのは、継体十六年二月の古い時代で、すぐに大和国高市郡坂田原に本尊を安置したのである樹。その頃は、丁度大伴金村の全盛時代にあたるから、彼が司馬達等の入国を許し、仏鱇礼拝を許可したものに相違ない。最初の帰化人による仏教の移植は、大伴氏の傘下で行なわれたといってよかろう。
さて、話が前後したが、先に挙げた欽明二十三年八月に、高麗と戦火を交えた狭手彦に従って、和薬使主という人が入朝した。彼は、呉国主照淵孫知聡の流れを汲む人物であるが、薬書・内外典・明堂図等百六十四巻の他に仏像一躰をもたらした。狭手彦の周辺部の人々が、仏教と大きな関わりを有していたことを証明する一例である。
飛鳥の元興寺には、多くの帰化人が出入し、先進諸国の文物が滔々と流入していたと思われる。推古十七年に百済から呉国に派遣された僧道欣・恵弥を頭に十人の僧と俗人七十五人は、呉国に乱あったため入国でぎず、帰還の途中肥後国葦北津に漂着し、僧は帰国の途上、留まることを希望したので、飛鳥の元興寺に住まわせたという圓。完成時のこの寺が、高麗僧慧慈や百済僧慧聡たちによってスタートしたことを想起すれば、いかにエキゾチヅクな雰囲気に包まれたものであったかは贅言を要しない。大伴金村以来、朝鮮半島の動向に大きく関わり、任那・百済・新羅・高麗と接触の大きかった大伴氏は、帰化人を伴なって帰国する機会も多かったし、また同氏を頼って渡来するものもあり、仏教の興隆に中心的な役割を果たしていたのである。
(3) 周蘇駿馬子の飛鳥元興寺建立と大伴氏
大伴氏が、海外の情勢に明るく崇仏政策を推進する蘇我氏と密接な関係にあったことはこれまで見て来た通りであるが、なかんずく用明二年七月に積年の対立に決着をつけるため勃発した蘇我・物部二氏の一大決戦の際には、実に顕著な動きを示した。即ち同年四月、用明天皇はなくなる直前に崇仏の意志を示されたが、その頃から急に動きが激しくなり、七月某日機先を制して馬子は群臣諸皇子とともに軍勢を率いて押しよせた。一方、大伴連噛も阿部臣人・平群臣神手・坂本臣糠手などとともに渋河の家に攻めこんでいる。戦いは凄絶で、勝敗の帰趨は予断を許さぬ厳しいものであったため、聖徳太子や蘇我馬子は、それぞれ戦勝の暁には、四天王寺・寺塔(飛鳥元興寺)を建てることを誓約した。その後、迹見首赤檮は、朴の枝間で弓を射て奮戦中の守屋を射落としたのである。かくして、蘇我氏の覇権が確立され、崇峻元年に約束の飛鳥元興寺を建立する道がひらかれたのである。
注目すべきは、如上の決戦に先立ち、馬子の身辺を警戒していたのも大伴毘羅夫であった。守屋が危険を察知して阿都の別邸に急遽引きあげた旨を連絡し、抗議して来たがため、馬子も早速に大伴毘羅夫に事の状況を伝えると、彼は弓矢と皮楯をもって武装し、槻曲の家を昼夜守護したのである。以上の情勢を考慮すれぽ、馬子に賭けて戦いに参加した大伴氏は、その戦勝の象微ともいうべき飛鳥元興寺にきわめて親しい感情を持ったことは充分考えられよう。かてて加えて、前述の如く狭手彦の周囲に仏法に熱意を示す雰囲気が醸成されていたことを思いあわすれぽ、大伴連一族及びその周辺部に棲息する帰化人が、この寺で仏事に励んでいたことは必然視される。
崇峻元年は、飛鳥元興寺建立に象徴されるように、崇仏派の基礎が定着した記念すべき年であるが、百済は当年仏舎利の他僧恵総・令斤・恵寔を派遣し、多くの僧や寺工・鑪盤博士・瓦博土・画工などを献上して来た。崇峻三年三月に至ると、先に百済に戒律を学ぶため留学していた善信尼たちが帰国して桜井寺に住んだ。この時、大伴狭手彦の娘が善徳尼として出家し、他に狛夫人・新羅・百済の媛が行をともにしたことは先にも触れた。充実しつつあるこの尼寺に対して、法師寺(飛鳥元興)寺も建築が進捗し、同五年十月には、仏堂と歩廊ができ上っている。推古元年正月には、仏舎利を刹柱礎の中に収めて立柱された。そして、四年十一月に一応の完成を見、馬子の子息善徳臣を寺司に任じた。ちなみに桜井寺(豊浦寺)にある狭手彦の娘と同名である点意味深長なものを感ずる。
大伴氏の蘇我氏への傾斜は、益々顕在化していく。崇峻天皇の妃となった小手古は、大伴糠手子の娘であるが、寵愛の衰えを恨み、馬子に天皇の言辞を讒言して馬子をして弑せしめている。天皇の存在に危機感を受けた馬子の断行を正当化・合理化するために、小手古は利用されたに過ぎないとも考えられる。蘇我氏との協調路線は、蝦夷の代になっても継承される。即ち、推古天皇亡き後、田村皇子を立てようと企図する蝦夷は、群臣を前にして、先帝の遺志だと前置きしてまくしたてる。だが沈黙がつづく。だれも反応しない。三たび態度決定を蝦夷が促すや、真先に大伴鯨連が、「既従天皇遺命耳。更不可待群言。」と述べ、大勢が山背大兄王に傾いていたその易の空気の流れを変え、采女臣摩礼志他三名の賛成者を出すきっかけを作った。如上の路線を持つ大伴氏は、蘇我氏の仏教政策の推進役となり、飛鳥元興寺と豊浦寺との二極を軸に傘下の帰化人を中心に、熱心に仏道修行に携わる者を生み育てたことだろう。
飛鳥の元興寺と紀伊国名草郡・那賀郡の大伴連とのつながりは、以上の考察で明らかな如く、狭手彦の周辺部の人々の仏教活動を精査していけぽ、今後益々強固な絆が、発見されていくことだろう。『霊異記』下17の大伴連出身の沙弥信行は、慈氏禅定堂において左京元興寺の沙門豊慶と一緒に住んでいたという。勿論この元興寺は、飛鳥のそれとは異なり、養老二年頃に奈良京に移転したものであるが、何れにしても両寺は関係深いものであり、その一方の寺院と交流があるということは、やはり飛鳥の元興寺とかの地の大伴連一族と深いつながりを有していたことを想定せしむるのである。
(4) 飛鳥元興寺・豊浦寺と景戒の説話収集の実態
まず飛鳥の元興寺と最も深い関係にある説話群を列挙してみれぽ次のようになる。主人公は、
   第一表 飛鳥元興寺に関する説話
   説話 / 場所 / 王人公 / 時代 / 備考
上3 / 元興寺周辺 / 道場 / 敏達朝 / 愛知郡片蕝里
上11 / 播磨国餝磨郡 / 慈応 / 不明 / 元興寺で管理
上12 / 元興寺・奈良山 / 道登 / 大化二年 / 高麗人の学生
上22 / 禅院寺他 / 道昭 / 不明 / 往生伝
何れも元興寺僧であり、飛鳥元興寺で伝承されていたものを景戒が入手したものと考えられる。この他に、上5大部屋栖野古伝も、紀伊国名草郡宇治里の大伴連家の氏寺から入手したとも考えられるが、豊浦寺周辺にて収集し得たと考えた方が自然である。当話は、渥美かをる氏の詳細をきわめた研究により、その成立は天平十九年頃と判明するが、氏の指摘されるように、「今推之、逕之八日逢銛鋒者、当宗我入鹿之乱也。」以下「行基大徳者、交殊師利菩薩反化也。」までを絵解きの部分と解するならば、狭手彦と時代の近接した所に、大部屋栖野古なる架空の人物を設定して、この一文を作成したのは、飛鳥元興寺と関係深い大伴氏ゆかりのもので、それは豊浦寺の善徳尼を憧憬する後代の尼僧たちの間で語り伝えられ、唱導の具に供されていたとも推測される。もし、これが紀伊国名草郡の大伴連に関する氏寺で語られていたとすれば、記文中に名草郡の地名とか或は在地的人名が記述されている筈であるが、それもなく、肝心の屋栖野古は高脚の浜で霹靂の楠の流木を拾い、難波で薨じている。ゆえに当話は、都周辺の寺で語られていた公算が大きく、雷に関する楠から作成した三躰の仏像は、まず豊浦堂に置いて礼拝されたという点から、ここに伝承の場を求めることも不可能ではない。
『日本書』紀では、霹靂の楠事件は欽明十四年となっており、溝辺直氷田に命じて二躰を作らせたというが、最初に安置した場所を記さない。蘇我稲目に対抗して仏像を難波の堀江に流し、寺に放火した物部尾輿と中臣鎌子の所行はその一年前のことと記されている。これに対して『霊異記』上5では、仏の崇廃を争う場面を『日本書紀』の欽明十四年における流木事件と敏達十四年の物部・蘇我の抗争とを結びつけたような形になっている。そして、『書紀』のどこにも豊浦寺に仏釁を収めた旨は記されていない。面白いことに豊浦寺に関する記述は、上1にも存している。小子部栖軽が、緋の蘰を額にっけて、赤い幡桙を奉げ持ち、馬を駆って雷を捉えに出向いたのは豊浦寺の前の路であり、雷が落ちたのも豊浦寺と飯岡との間というわけで、ここでもこの尼寺が大きくクローズアップされて来るのである。本話の如き内容の説話が尼寺で語られていたか否かは疑問であるが、上5とともに上1の原型説話圏が豊浦寺と何らかの深い関連を有していたと考えられよう。わが国の仏教の本格的な始まりは、法師寺からではなく尼寺であり、その中心が桜井寺(豊浦)寺であったことは強く記億に留めておかなくてはならない事実だ。豊浦寺の尼僧たちが、受戒のために法師寺建立を切望していたがため、その要求もあって飛鳥元興寺も順調に誕生し発展していったのである。このように考えて来ると、この両寺院はまさに日本仏教の礎を築いた一対の寺院であり、『霊異記』の冒頭部(上1・上3・上5)が舞台をそこに求めていることは、重大なことで、本書の個性を高める原動力となっている。
三、飛鳥の道場法師系説話群とその集成過程
用明二年に渡来した百済の調使が、「我等国老、法師寺尼寺之間、鐘声互聞、其間無難事。半月々々日中之前往還処作也。」と述べた如く、豊浦寺は、向原の寺・桜井寺・豊浦寺と若干の推移はあったが常に飛鳥元興寺の近傍に存し、とくに推古天皇元年に豊浦寺となってからは、飛鳥川の西岸で近接した場所に定着した。如上の背景の下に、道場法師系説話がいかなる経路によって寺院に流入し、景戒の手になったか、若干の考証を加えていきたい。
(1) 『霊異記』の構想と上巻冒頭部の重層性
最初に、本書の上巻冒頭部の構想を中心として、二三気づいた点を述べておきたい。
小子部栖軽の冒頭説話が、上5の大部屋栖野古伝を強調するため、その先導役を果たしており、序想部と上4聖徳太子伝を受けた上5は、同時に後続する諸条展開の指針を明示していると唱えられた小泉道氏の見解は誠に当を得たものといえる。そこでこの部分を更に異なった観点から観察してみると、当初は本書も古代説話集の定型的構成をとり、上4聖徳太子伝から開始しようと景戒は考えていたのではあるまいか。本話では、第一に仏教の基礎づくりに尽力した太子の偉大さを賞揚し、ついで片岡山での一乞者との対面の場面を描ぎ、その慈悲に触れている。次の上5では、太子の肺脯の侍者たる屋栖野古伝を配し、壮大な一代記を構成しているが、主人公二人は、主従関係というスムーズなつながりを示している。ところで、太子は仏法の父とも呼ぶぺき普遍的な偉大さで描かれているのに対して、つづく屋栖野古伝は、大伴連家の顕彰譚であり、いわぽ私的な家文の色彩を有するものであった。主従・公私という観点から編者の精妙な配列意図を窺い得るのだが、更に上5に行基の登場する点を考慮すれば、編者の脳裡には、聖徳太子i行基の定型化を狙う意識が作用していたのかもしれぬ。
次に中巻冒頭部に目を転ずると、中1は、奈良左京元興寺を舞台とした法会の席で、長屋王と一乞食僧との劇的な対決をテーマとしている。この話型を、原上巻冒頭説話の聖徳太子伝と対比させると面白いことに気づく。即ち、上4の、路傍にて病み臥せる乞者に対し、やさしく語りかけて着衣をかけてやるその慈愛あふれる行為は、中1の瞋恚の炎に燃えて、鉢を奉げて飯を乞う乞者の額を牙冊で殴打する悪行とは、あまりにも対蹠的である。この両話を通じて、”隠身の聖”に対して正反対の対応の仕方を強調しようとしたと考えられる。入木毅氏は、中巻部の構成に関して、「第二次編纂の時に、中巻の巻首から数篇を、この巻、上巻の末尾へ移動させ」たと推定されている。この指摘は、また上巻冒頭部を景戒がいかに考えていたかを探る上に重要な鍵を提供するものである。最初上30と上31の間で上巻と中巻を分けようとしていたが、上巻部の説話が入手難で少量のため、急遽中巻部から上巻部に移動させたと考えれぽ鯛、やはり原冒頭説話たる聖徳太子伝の話型と対照の妙を得る手法を採り、長屋王の私度僧迫害説話を中巻部の冒頭説話とするところで固定したのであろう。とすれば、上巻冒頭部は聖徳太子・大部屋栖野古、中巻冒頭部も長屋王と対決した乞者(行基)・血渟県主倭麿という構成で、ともに主従関係ということになり、更に下巻冒頭部も永興禅師・永興の弟子と二話連結し、一貫した説話団の構成法を採っていたのである。しかし、それでも上巻部の説話が払底していたため、景戒は紀の川沿いのコースで飛鳥地方に出向いて、その採録に熱中したものと思われる。冒頭部の道場法師系説話は、まさにその時飛鳥の元興寺を中心に収集し得たものといえよう。そこで、一旦構想の整ってそれなりに完備していた冒頭部に、更に小子部栖軽・三野狐・道場法師を主人公とする三話を収録したわけであるが、その構成のしかたは実に用意周到である。栖軽から屋栖野古への肺脯の侍者としての人物鱇の発展的流れが、素直に印象つげられるし、二度も栖軽に屈服した雷神が、仏教圏に奉仕する形で道場法師の怪力と、屋栖野古伝の不滅な仏像に継承されているのである。また、序想部をもたせたことは、日本古来の雷神信仰と仏教との連結を円滑化したわけで、本書の奥行きを深めている。そして、中巻部の力女説話(中4・中27)で数代後の子孫にまで因果応報を実演して見せることになり、結果的に冒頭部に道場法師系説話を増補したことは、現『霊異記』誕生過程で画期的な編纂行為であった。そこで、如上の道場法師系の各説話につき、微視的な覚え書を述べることとしよう。
(2) 栖軽説話の構成と子部神社
上1栖軽説話は、諸先学の指摘される通り『日本書』紀雄略七年の記事の異伝である。両説話がいかなる関係にあるかは種々の議論の存するところであるが、「雄略紀」の所伝の方がより原初形態を保つもので、『霊異記』のそれは、雷の岡に付会した説話であろう。まず、「雄略紀」の伝では、三諸岳にいる雷を捉えに出かけた栖軽は、大蛇の形をした雷神を捕獲するのだが、異伝は、空の雷に対して「緋蘰薯〆額肇二赤幡桙一」という勇ましいいでたちで乗馬して、勇躍と出陣する。しかし、雷が反応しないので、「天鳴雷神天皇奉二請呼叩」とか、「雖二雷神一而何故不7聞二天皇之請一耶。」と自信に満ちた挑戦的言辞を吐く。この言葉は、推古二十六年に安芸国で造船用の良材を得て伐ろうとする際、その霹靂の木を前に「其雖二雷神画山豆逆二皇命一耶。」と叫んだ河辺臣のそれと全く同想のものである。長野一雄氏も、『日本書紀』の記事に自然で古い素朴さを認め「霊異記上一の方では、雷神を天皇の権威の前に屈伏させようとする意図をもっているが、書紀巻十四の方はそうした意図がな」国いという傾聴すべき見解を述べておられる。その他宮中に持って来た雷を紀では天皇が直視し得ず殿中に逃げているが、本書では、見たと書いている。このことも先の見解を補強してくれる一要素となる。
本話が重層的な構成を有することも長野一雄氏が既に発表されているが、後半部における栖軽の墓標に捕えられた雷は、全く矮小化されて威力を失なっている。即ち「然後時栖軽卒也。」以下の部分である。この部分は、雄略天皇の時に雷の名を賜わった小子部一族の子孫によって、死後の栖軽の力を誇示しようという意図で新たに付加されたものであろう。このように考えて来ると、前半部の構成にも問題がある。即ち、雄略天皇が大安殿で后と婚合していた部分を除去すれば、雷を捉えた場所が三諸岳と雷の岡と異るのみで、他は大差が見られないのである。本話は、『日本書紀』の所伝をもとに、更に栖軽の武勇を讃えんがために、勇猛果敢な忠誠ぶりを描き永くその名誉を記し留めようとして天上の雷と対決する話型に発展させている。そして、雷の岡と先に呼ばれていたこの小丘に説話を定着させて三諸岳にまつわる伝とは異なる所伝を伝承していったのである。次に、雷が天皇の命に屈伏して落下するにしても、そうさせるべき原因(威力)が具体的に天皇に備わっていることに思いを致して、先頭部分が付加されたと推測されよう。市村宏氏は、この点きわめて示唆に富んだ指摘をされている。即ち「この説話の前部に「天皇与后寐大安殿婚合之時、栖軽不知参入」とあるのは本説話の本筋とは関係がなく、何のための挿入か明らかでない。後世も稲穂は雷光(稲づま)によって孕むとしながら、雷の際の交合を忌むる習俗があるが、(註、貝原益軒“養生訓)前文に続いて「天皇恥輟。当於時雷鳴。即天皇勅栖軽而詔。汝鳴雷奉請之耶。」とあるのは、この後世の禁忌と関係があるかも知れない。」と。恐らく、ここに第一次の増補を認め得ると思う。そして、前半部が整った後に後半部付加という第二次増補が行なわれたのである。
『日本書紀』の所伝も『霊異記』の異伝も、テーマとなっているのは、栖軽の忠誠心であるが、更に、雷神と帝権との戦いが図式化されている。そして、徐々に帝権が神々と対等の道を歩み、果ては、天皇の力の方が大きいことを強調するようになっていく。『万葉集』巻三の冒頭歌は、その典型例である。
天皇、御遊雷岳之時、柿本朝臣人暦作歌一首
皇は神にしませば天雲の雷の上に盧するかも(巻三―二三五)
右或本云、献忍壁皇子也。其歌日、
王は神にしませぼ雲隠る伊加土山に宮敷きいます
天皇名は明確ではないが、持統天皇らしい。雷の岡に行幸した現実を、その上に庵を構えられても何の崇りも受けぬという比喩的敬意をもって詠じている。そこには、小子部氏の伝承する雷の岡説話を踏まえた立場で詠歌している人麻呂の姿勢が看取される。武田祐吉氏は、「その岡は雷神の落ちた処であって、その神霊が宿っていると信じられているのであるから、その上に盧をすることは、異常の威力」圃だと述べておられる。或本の歌も殆ど等しい内容を持ち、雷の岡に宮殿を建築しても何の障害もない忍壁皇子の勇姿が讃美されているのだ。その際、天皇を神であると崇拝して雷神を駆逐せんとしているのである。自然神・在地神の暴威は、帝の広大な力で平定されるという認識上の変化が、時とともに強力となっていった。
そこで、本話がいかなる事由で飛鳥元興寺に流入したのか、考えてみたい。この点に関して信仰上の問題から本質的な解明を加えられたのは、今野達氏であった。氏は、飛鳥寺の金堂造営の位置に立つ槻に在来信仰の象徴を見、それを仏教的世界が征服していく実情を考察された創。その実証例の中でも、とくに注目すべきは、百済大寺に対する子部神社の崇りであった。舒明天皇によって百済川(今の曾我川)の近くに建立されたこの寺は、隣接する子部神社の樹木を伐ったがために、堂宇と九重塔が炎上したのである。天平十九年成立の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には、「於百済川側。子部社乎切排而。院寺家建九重塔。入賜三百戸封。号日百済大寺。此時、社神怨而失火。焼破九重塔並金堂石鴟尾。」と報じ、宝亀六年の淡海三船撰『大安寺碑』交や寛文八年成立の『大安寺縁起』にも同内容の子部神社の崇火のことが記載されているばかりか、宮廷正史『三代実録』(元慶四年十月)にまで「昔日。聖徳太子創建平群郡熊凝道場。飛鳥岡本天皇遷建十市郡百済川辺。施入封三百戸。号日百済大寺。子部大神在寺近側。含怨醸焼堂塔。」と略述されているから、実に子部神社の崇りは天下周知のことであったのだ。
子部神社の起源は古く、『延喜式』にもすでに「子部神社二座」(大和国十市郡)とあり、小子部一族の祖神八井耳命を祀っている。その他大伴氏の祖天忍日命を祀っているとか或は小子部栖軽が祭神となっているとかの言い伝えがある幽。現在、橿原市内にあたる旧平野村飯高の地にある神社であり、恐らくその近辺には小子部一族が蟠踞し、雷神を駆使する氏族をもって任じていたのであろう。そして、彼らが雷の岡を舞台にする異伝を伝承し、その内容を少しずつ増補して英雄栖軽豫を拡大していったと思われる。飛鳥の元興寺が建立され、隆盛をきわめるためには、今野氏論文にある如く、在来信仰の中心的な雷神を仏法に奉仕するものとして、組み入れることが必要であった。百済大寺が建立されたのは、舒明天皇十一年七月に「今年造二作大宮及大寺叩則以二百済川側一為二宮処ごとあることから、飛鳥元興寺が竣工して後、四十年余りということがわかる。恐らく飛鳥元興寺では、次々とおこる百済大寺の怪火の噂を耳にすることに、益々雷神を統御する必要性を感じ、積極的に小子部一族の集住する子部神社に伝承される雷の岡説話を寺中に導入したと思われる。勿論、この説話は、表面的には単に栖軽(雷)を顕彰する筋書のものであるが、本話の記文を入手して、寺の“霊験之簿”に筆録することは重大な意味があった。というのは、記録された雷神関係説話は、『霊異記』の道場法師伝や『日本感霊録』第一話中門の四天王等々の如く、子部神社などの系譜下に位置づけられた雷神やその申し子たちが、寺のために全力をあげて奉仕しているのだ。だから、百済大寺のような災厄を回避し得ると確信するのみか、信徒の絶大なる信望をかち得ることになっていく。つまり、本書冒頭の栖軽説話には、飛鳥元興寺の雷神関係説話と子部神社との栖軽伝承とを連結する役割が期待されていたわけで、ここに本書の上1が、仏教的色彩を欠くにも拘らず、飛鳥元興寺にて管理される真因があった。
(3) 道場法師伝の原型とその生成過程
かつて、神と帝との対決が重要なテーマとされて来た雷神信仰も、仏教が普及して飛鳥元興寺が建立されると、雷は更に仏法圏とも対峙を迫られ、やがて仏教への奉仕者として屈服させられていくのであった。子部神社周辺で伝承されていたものを採録した上1の栖軽雷説話を前提として上3の道場法師伝は登場するのであるが、本話では、雷の申し子が飛鳥元興寺のために獅子奮迅の鋤きをしている。今日、その構成はおよそ四部分で成っていると考えられている。
1 尾張国愛知郡片葹里にて、一農夫が雷を助けることを条件に一子を授かった。
2 その子は、首に蛇を巻きつけた異能の童子で怪力の持主。十余歳で上京し、都の力人と力競べして勝つ。
3 飛鳥元興寺の童子となり鐘つき堂に出没する鬼を退治する。
4 同寺の田に怪力をもって水をひき、妨害した諸王を懲しめる。その結果出家を認められ、道場法師と称した。
本話の原形については、黒沢氏論文に詳細に論じられている。氏は、1 尾張での出生の段は、固有信仰である雷神畏怖の立場に基づくもの、2 の力くらべの段は、中4にヒソトを得て構成されたもの、3 の道場法師鬼退治は元興寺縁起の一部分、4 の寺田引水は、やはり元興寺の寺伝に基づくものと考えられている。筆者も、3.4 ははやくから飛鳥元興寺で伝承されていたと考えている。そして両話は、元来別々な説話であり、したがって文体面でもかなり異なり 3 に比して 4 は、「田焼之時優婆塞言」など全体的に和臭を帯びていると思われる。本話の主人公道場法師が登場するのは、最後の 4 の部分である。黒沢氏は、和田萃氏の示教とことわられて「現在、飛鳥寺(元興寺)の南に、道場なる地名があり、またその近くで寺の南西三百五十メートルの所には飛鳥川が流れ、本文の「百余人して引く石」に応ずるかのごとく、大きな弥勒石(大きさ一メートル八十センチ)があるとのこと」図と注目すべき報告をされ、この地に飛鳥の地主神道場法師を祭った神社があり『今昔物語集』巻十一i22の元興寺縁起に言及された山鳥の神社は、方角からいってこの神社だと推定されている。とすれぽ、4 の部分は道場神社(雷神・水神)を飛鳥元興寺に奉仕させたものであったといえよう。3 の部分は、先述の通り子部神社の小子部一族を念頭におき、栖軽の膂力すぐれたるを想起し、その子孫としての小子をして、元興寺の童子として活躍させるべく鬼退治を申し出させるのである。1.2 は、尾張国愛知郡片蘿里にて雷から誕生した小子譚であるが、実は、当地に飛鳥元興寺の支院があったのである。
この寺のことは、『三代実録』にも元慶八年八月二十六日条に「勅令尾張国愛智郡定額願興寺。為国分金光明寺。縁本金光明寺災火焼損也。」とあり、由緒ある大寺であった。当支院の古代における動向は、これ以上明確なことは判明しがたいのであるが、近世にいたるや、様々な伝承を盛った資料が続々刊行されている。『三代実録』にいう尾張元興寺は、現在の名古屋市中区正木町にあった。
『尾張名所図会』は道場法師を古渡の出生として居り、更に『尾張徇行記』では元興寺が南都元興寺、末刹尾頭山元興寺と号した旨を記し、「道場法師は尾張国阿育郡の人也。法師生れて霊蛇頸を纒ひ繞りて首尾相並て後に垂るといへり。尾頭の地名これより起る乎。」とあり、また建武の後数百年の兵乱で荒廃し、牛立村へ引移ったと伝え、旧地は近世に至り国豊山元興寺として知恩院の末刹となったと報じている。ところで、この牛立村の元興寺にまつわる説話として『張州府志』は、「牛立村願興寺伝日、大道法師者願興寺僧、有二膂力→捕二妖鬼嚇是付二会道場法師故事一恐不レ足レ拠」とのべているが、『尾張志』では「されども願興寺の伝に大道法師といへるは即道場法師の訛にて努力ありける事など附会とはいひがたし。」と述べて反論している。また、黒部通善氏によれぽ、牛立の願興寺に「寺の衰微したとき妖怪が住みつき大道法師が退治して首尾を切って寺の東南に埋め、此を尾頭塚といった」圃という伝承が存している。尾張元興寺に伝わる鬼退治の説話と、本書上3の 3 との関係をどのように考えるべきかは大問題であるが、これらの伝承が飛鳥元興寺にそのまま伝わったとは考えられない。上3前半部(1.2)は、実際に尾張元興寺の俊才(童子)が、飛鳥元興寺へ修行のために上京した実例が背景にあり、そこへ鬼退治をクライマックスとする一寸法師型の発想が関与してでき上って来たのであろう。また、その小子が雷の申し子だとする話型も在地に類型の信仰が息づいている。例えば、黒沢氏も指摘されているが、『尾張国風土記逸文』や『熱田大神宮縁起』には、宮酢媛のもとに立ち寄った日本武尊が、夜に厠へゆぎ剣を桑の木に掛けておいたところ、その刀身に雷神が宿ったという所伝が熱田神宮に関わって伝えられている。『霊異記』上3の農夫も木のもとに金の杖をついて立っていたという類似発想が存するから、上3の 1 の雷から子を授かる伝承は尾張元興寺に存していたと思う。そして雷神信仰と一寸法師譚がミックスしたような形態の話−雷に授かった小子が都に出むぎ、飛鳥元興寺で鬼退治などもし、ついに傑出した僧となったーが尾張支院から飛鳥元興寺へと伝えられたのではなかろうか。勿論、本寺ではこれとは別に鐘堂の鬼退治譚が、子部神社などを背景に形成されており、尾張からの鬼退治の発想部分は吸収されてしまったと思う。そして、飛鳥元興寺の説話が、今度は逆に尾張支院に様々な発想上の影響を与えていることも考慮される。『尾張名陽図会』の「世に名高き道場法師出生の地にして此僧奈良の元興寺に住しが年老て古郷へ帰りて己が在所に其寺を移せし」などの所伝は、そうしたコースを暗示させる一例といえよう。
(4) 中巻部の力女説話の形成基盤
次に、上2三野狐説話と中巻部の力女説話(中4・中27)につき言及していこう。これらの説話群と、上3前半部(1.2)は、尾張元興寺に管理されていたものと考えられる。まず力女の一人は、尾張宿禰久玖利の妻で、片藉里出身。道場法師の孫娘である。当地に古くから力女がいたことは、『政治要略』巻五十三交替雑事の項に「膂力婦女田廿七町三段。尾張国二町、参河国一町三段……以下略……」という記事が存することにより可能性が大きい。そして、現在もかつて片蘿里といわれた近傍には二女子・四女子などの地名が残存している。『古渡志』は「むかし当村に有徳之人あり。娘七人持七所江嫁し子孫栄えたり。冖女子村より七女子村迄之号あり。此村を一女子村といひし。後に改て古渡村と云。又かたち不具成故に片輪里共いへるとそ。外も此村のごとく追々改号し、今二女子村・四女子村・五女子村のみ残れり。」と伝え、更に『尾張名所図会』は、「あるひは此七人のむすめは道場法師が孫女にて、姉とあるは、則尾張宿禰久玖利が妻なりともいへり。」とまで述べている。先の『政治要略』の記事をもとに、このような伝承に接すると、茫漠とはしているが力女の活躍する説話の成立基盤を感知し得る。中4では、小型で強い片葯里の力女が、美濃国の大型で邪悪な力女と対決し、懲しめて小川の市に平和をとり戻しているし、また中27では、横暴な国司若桜某を畏怖させ、また草津川で無礼な言動のあった船長に謝罪させている。この二話にはともに悪に対する止むことなき尾張国の力女の正義感というものが横盗している。
一方、大型の美濃国の力女もまたその系譜が問われる。そして尾張の支院では、それを、大野郡に本拠を有し、狐に関わる在地信仰を奉ずる一族に求めている。雷の申し子である小子の系統をひく小型の力女が、狐の直の系統をひく大型の力女を打倒する構想は、丁度飛鳥元興寺が子部神社や道場神社の在地神に対して優位性を確立していこうとする意識と同想のものであった。尾張元興寺から、上2・上3前半部(1.2)・中4・中27の原話を入手した飛鳥元興寺の住僧は、既に寺内で伝承され、上3の 4 に登場して 3 をも統合していた道場法師を、主人公もしくは祖父として、これらの説話群と結合させて統一した。そして、狐の直系と道場法師系の対決点を明確化したのである。景戒が、飛鳥元興寺で文献化されていた上記の説話群を入手した時には、上2・中4・中27は勿論のこと、上3の四部分も整合して、今日『霊異記』を通してみる形態と大差なくなっていたと思う。彼は、上2の狐の直・上3の道場法師と、中4・中即の二人の力女との系図的位置づけを施し、それにともなって上2(欽明朝)・上3(敏達朝)・中4と中27(聖武朝)の説話の時代を大まかに設定した。そして、その他若干の手直しと末尾の寸言を加えたに過ぎないのではなかろうか。
四、結語にかえて
以上の考察によって、景戒が大伴連に近い環境に生きた僧でありながら、飛鳥の元興寺や豊浦寺周辺から、本書上巻冒頭部の説話を入手し得た理由とその状況とを管見し得たものと思う。今改めて上巻部を通覧して痛感するのは、説話の舞台が、飛鳥元興寺関係説話群を除けぽ、殆どが畿内で、それも圧倒的に大和地方を舞台とするものが多いという点である。しかし、仏教普及の揺籃期においては、文化的・政治的中心地であった当地以外でこの期の仏教説話を入手することは至難のわざであった。このことに気づいたか景戒は、紀の川づたいに遡り、比較的近距離の飛鳥地方を遍歴しつつ説話を集めた時期もあったと思われる。時代的に古い上巻部収録の説話で、畿内以外の説話を挙げると第二表の如くである。
これらは、文献か特殊なルートの予想される説話である。上9の舞台が丹波国加佐郡とあることは、同地が和銅六年以後丹後国に編入になったことを思いあわするに、それ以前に文献化されていたことを想像させる。また上30でも、蘇生した広国が、地獄の見聞を顕録して流布とあるからやはり文献化されていたのだろう鋤。上11は、播磨国餝磨郡の濃於寺に夏安居で赴いた元興寺の慈応大徳が持ち帰ったものである。とすれば上7・上17の郡寺関係の説話も出張した飛鳥元興寺僧らによって同寺にもたらされたとも推定される。また上29の猪麿の私度僧迫害説話は、巡遊する遊行僧によって伝播されたものだろう。
   第二表 上巻部における畿内以遠の説話
   説話 / 場所 / 主人公 / 時代 / 備考
上7 / 備後国三谷郡 / 弘済 / 不明 / 三谷寺関係者
上9 / 丹波国加佐郡 / 父・娘 / 皇極二年 / 文献資料
上11 / 播磨国錺磨郡 / 慈応 / 不明 / 飛鳥元興寺僧
上17 / 伊予国越知郡 / 越智直 / 不明 / 越智寺関係者
上29 / 備中国少田郡 / 猪麿 / 不明 / 白髪部と大伴氏
上30 / 豊前国宮子郡 / 広国 / 慶雲二年 / 文献資料
上34 / 紀伊国安諦郡 / 被盗人 / 昔 / 景戒の居国
この他の説話では、上8衣縫伴造義通の現世利益譚は、飛鳥元興寺建立の地真神原と関連があるようだ。上15の私度僧迫害説話も奈良京元興寺を舞台とする中1の原型のようであるし、また上19の法華経冒濱説話も、中18の山城国相楽郡高麗寺栄常の類話とともに大伴氏に近い人が入手し得る条件は揃っていた。当地の高麗族は、往昔大伴狭手彦が渡来せしめたものだからだ。
今後は、説話の生成背景と伝承伝播の経路を、追跡し得ると目される部分から一つずつ丹念に究明し続けることによって、はじめて『霊異記』の成立過程が一段と浮き彫りにされて来るものと思う。
 
 

 

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