争いの昭和史

昭和史 / 血盟団事件五一五事件神兵隊事件青年将校と北一輝永田鉄山殺害事件二二六事件宇垣内閣流産仏印進駐事件・・・
かくて玉砕せり / 序説敗北の真相米勝利の開始点日米戦闘力東京特急山本元帥の怪死アッツ島戦1アッツ島戦2ギルバート諸島戦タラワ島戦タラワ島の戦慄マーシャル群島侵攻トラック島破壊サイパン島戦1サイパン島戦2日本艦隊の潰走サイパン島の最後テニアン玉砕グアム玉砕硫黄島玉砕沖縄陥落・・・
太平洋戦争 / 評価と反省神話と迷信太平洋戦争の前夜日米会談決裂真珠湾奇襲の黒い霧真珠湾論争の審判真珠湾奇襲の功罪と遺産・・・
北一輝 / はじめに帝国主義と国家社会の進化と個人公民国家天皇機関論社会主義運動論国体論辛亥革命中国革命認識東洋的共和政論亜細亜モンロー主義改造法案国家改造国内改造の基本構想クーデター思想猶存社・・・
諸話 / 血盟団事件1血盟団事件2血盟団事件判決文五一五事件海軍青年将校犬養毅問答無用神兵隊事件北進か南進か北一輝1北一輝2北一輝の思想北一輝と二二六事件天皇機関説北一輝論の感想北一輝3相沢事件1相沢事件2永田鉄山死刑判決太平洋戦争を止められた永田鉄山の逸話​二二六事件1二二六事件2226事件の背景と影響226事件の原因226事件の悲劇226事件若者達の回想青年将校「父母への手紙」立憲政治の危機仏印進駐東南アジアと日本日本改造法案大綱亜細亜主義と北一輝皇道派と統制派・・・
陸海軍歌 / 明治大正昭和1-11昭和12昭和13昭和14昭和15昭和16昭和17昭和18昭和19昭和20「君が代」古関裕而・・・昭和軍歌大正軍歌明治軍歌・・・
 

雑学の世界・補考

朝日新聞記者の見た昭和史

序   
軍縮と、金融恐慌と、農村不況と、社会不安の中に発足した昭和日本の歴史は、政党の腐敗と軍部の決起によって動乱化し、満州事変、上海事変、五・一五事件、二・二六事件、日華戦乱を相ついでまき起こして、急速調で戦争への道を突進し、ついに、太平洋戦争の火ぶたを切ったのであった。この昭和の二十年こそ、実に血みどろな日本民族の相剋と闘争と侵略と受難の大史劇であり、また戦後の今日よりかえりみると、まさに民主日本誕生の偉大な陣痛であった。私はこの風雪二十年の昭和日本を彩るいくつもの歴史的事件を、現地でなまなましく目撃した一人のジャーナリストとして、とくに日本の興亡を賭した真珠湾の奇襲攻撃の運命の日をアメリカの首部ワシントンで迎えた奇縁の戦史研究家として、いまここに、私の見た昭和動乱史を綴ることは、意義のある使命だと思っている。それは今日の日本のもろもろの苦難も矛盾も、また将来の日本の限りない希望も不安も、それはすべて昨日の日本の――すなわち風雪二十年の因果応報であるからだ。戦後三十年余を経た昨今、大小さまざまの昭和史がすでに刊行されて、若い世代の読者の間に熱心に迎えられているようである。しかし、それは大抵、当時の新聞記事の切り抜きや回想録の抜粋などを寄せ集めて、適当にイデオロギーで粉飾した論文調のものであり、当時の息づまるような時代の雰囲気を呼吸したことのない、いわゆる戦後に育った若い史学者連中の合作、研究によるものが多いので、なかなか調査も行きとどき、万事がソツなくまとめられてはいるが、ただ、なまなましい真実感と迫真力に欠けているために、いわば「死んだ歴史」のような物足りない不満を私はいつも感じている。たとえば、「あの歴史的な二・二六事件の起こった雪の朝……」と記してみても、いったいどんなふうに雪が降っていたのか、またどの程度の大雪が積もっていたのか、あるいはその前夜に反乱の気配はなかったのか。昭和十一年二月の当時にまだ小・中学生であった史学者たちにはいくら記録を写しても、二・二六事件の実感は決して描き出せないであろう。しかし、そういう私自身でさえも、自分のこの目で見とどけ、自分の足で書いた風雪二十年の生きた歴史は、しだいに忘却の彼方へうすらぎつつある。いまこそ、私の忘れないうちに、私の見た昭和動乱史を綴って読者諸君の参考に供したいと念願するわけである。  
第一章 軍国への道 / 昭和動乱二十年、血盟団事件

 

一  
昭和の風雪二十年――それはひとくちにいって、ねっとりした寝汗をかきながら悪夢の連続を見つづけていたような、苦しい、息づまるような思い出である。それは要するに、神武建国以来、二千六百年にわたる長い長い歴史の絵巻物の最後を、血なまぐさい反乱と戦争と敗北と降伏によって描き終ったようなものであった。何と弁明してみたところで、まことに後味の悪い風雪二十年の走馬燈のような転変であった。結局、日本ははじめて明治、大正の二代、六十年間に鎖国のカラを破ってめざましく発展し、一躍、世界の一流国となりながら、粒々辛苦してたくましくも築き上げた国富と国土と国威を、惜しくも、昭和の二十年間にいっきょに喪失して、貧弱な三等国へ転落してしまったのだ。それは戦後、日本がいかに民主主義的に生まれ変わろうとも、また現在、日本がどんなに外見上は立派に復興しようとも、おそらく永久に取りかえすことも、呼びもどすこともできない「偉大な過去」になってしまった。昭和日本は、暗殺――反乱――戦争のコースをまっしぐらに突進して自滅したのである。しかし、軍国日本は亡んでも、民主日本がけなげにも生き返った。まったく不思議な日本民族の運命である。しかも八紘一宇(はちこういちう)をめざして宣戦の大詔を下した「現人神(あらひとがみ)」の天皇が、敗戦必至ときまるや、意外にも、「一億玉砕」を呼号した狂信的な軍部を押さえて終戦の詔勅をラジオ放送により発したうえ、さらに戦後の占領下に居残ってみずから神格を否定し、人間の座に下り、日本民主化の象徴となられたことは、まったく古今東西に未曾有の奇蹟現象であった。第一次世界大戦における帝政ロシアでも、第二次世界大戦におけるファッショ・イタリアとナチス・ドイツでも、敗戦によって国民大衆が決起し、皇帝を殺したり、独裁者を追放して血みどろな労農革命(共産革命)または国体の変革が起こったのは当然の成り行きであったが、日本だけは戦争に破れてもいわゆる国体(天皇制)はもとのまま護持されて、同じ天皇がそのまま占領軍(連合国軍)総司令官と円満に協力して、日本国民の不変の敬愛をうけ、皇位が首尾よく保持された。この皮肉な事実は、まことに風雪二十年の悪夢の奇々怪々なる様相を思い出すにつけても、私はいまでも不可解至極に考えている。なぜならば、昭和の暗殺と反乱と事変を強力に実行し、あるいは熱烈に推進した国家主義者と右翼団体は、明治、大正以来、日本を毒してきた(?)自由主義と民主主義を打倒して、神ながらの大道にもとづく昭和維新と国家改造をめざし、いわゆる天皇絶体主義の下に祭政一致の皇道を内外に打ち立てようと夢みていたにもかかわらず、太平洋戦争の完敗と無条件降伏の結果、生まれ変わった新日本は、じつに米英流の自由主義と民主主義にもとづいたものであった。すなわち、「米英撃ちてし止まん」の聖戦完遂の日本精神が、風雪二十年にわたる鉄火の試練をへて、意外にも米英に依存、協調する新日本精神に変わってしまったのだ。いったい、なんのために戦争を起こしたのか?――と自問自答するほかはない。だから、昭和動乱史を正しく描くことは、今日それを理解するのと同様にきわめてむずかしいことである。日本の敗戦を境として、戦前と戦後とでは、国家の理想も、民族の精神も、すっかり一変してしまった。しかし、同じ日本人でありながら(旧軍人をふくめて)昭和維新をめざした烈々たる国家主義の流行した時代と、今日の自由享楽の民主主義の全盛時代とを二つながら生き抜いて、別に矛盾も反発も苦悶も感じていない有様は、いったい、どういうわけであろうか? それは日本人の健忘症のためであろうか? それとも長いものに巻かれろ、という日本民族の習性のせいであろうか? はたまた日本人が覚醒したためであろうか? 昭和の風雪二十年を通じて、日本主義の思想と運動の最長老とみなされた徳富蘇峰(当時七十六歳)は、昭和十三年十二月に執筆した『昭和国民読本』の巻頭で、明治維新が昭和維新につながる日本の宿命をつぎのように喝破していた。「要するに維新大革新の運動は、皇室を中心として、日本を統一すること。日本を中心として、世界に皇道を宣揚することに他ならない。前者が尊皇(そんのう)であり、後者が攘夷(じょうい)である。攘夷は消極的の文字にして、その精神を積極的に言い顕わせば開国進取である。別語をもって説明すれば八紘一宇(はちこういちう)の皇謨(こうぼ=スローガン)である」 これが、昭和五年より十年間、日本を支配した暗殺と反乱の時代に狂信的な国家主義者と急進的な軍人グループの直接行動の指針となった尊皇攘夷の思想であり、また世界制覇を夢みた八紘一宇の理想であった。この蘇峰の徹底した日本主義の聖典ともいうべき『昭和国民読本』が、当時、日本の二大新聞の一つであった東京日日、大阪毎日新聞社(現在の毎日新聞社の前身)より堂々と刊行されて、数十万部も売りひろめ、ベストセラーになったことは、そのころの険悪な時勢をなまなましく反映したものだった。私は、昭和十年八月十三日、白昼に陸軍省内で執務中の軍務局長永田鉄山中将(当時少将)に軍刀をふるって斬り殺した、相沢三郎中佐の陸軍軍法会議公判の報道を、朝日新聞記者として担当したが、せまい法廷で長身の色浅黒い被告相沢中佐が直立不動の姿勢で、訊問しようとする判士長の佐藤正三郎少将を睨みつけながら、破鐘(われがね)のような大音声(だいおんじょう)で、「尊皇絶対であります!」と何回となく絶叫していた鬼気迫まるような光景を、いまなお忘れることができない。思慮分別ある当年四十七歳の剣道達人の現役の陸軍中佐が、国体を誤る不忠の臣として上官たる永田中将を一刀の下に殺害して尊皇を唱えるところに、恐るべき昭和の暗殺の時代の特色があった。ああ、これが、悪夢にあらずしてなんであろうか?

 

明治初年、熊本の乱を起こした敬神、国粋主義の神風党の巨頭大野鉄平は、失われゆく日本民族の誇りを惜しんで、排外、攘夷の熱情に燃え立ち、反乱を指揮し、「世は寒くなりまさるなり唐衣(からごろも)、討つに心の急がるるかな」と長恨の歌を残した。私は大正のころ、若い中学生時代に徳富蘆花(徳富蘇峰の実弟)の名著『青山白雲』の中で、この神風党の決起した当時を偲んだ名文を読んで印象が深かった。それは、大正のいわゆるデモクラシー流行と欧米模倣時代の反動として、ふたたび日本精神思想、国家主義運動が嵐をはらむ黒雲のごとくにわかに台頭して、左右両陣営の直接行動が目立ってきたからであった。歴史はくり返すように思われてならなかった。とくに大正の中ごろより昭和初年にかけて盛んになったマルクス主義思想とプロレタリア運動に挑戦、対決した急進的な国粋、国家主義運動は、まるで燎原の火のごとく日本中に燃えひろがっていった。その背後には、軍部、とくに天皇絶対主義にこり固まった陸、海軍青年将校の動きが烈しくなっていた。しかも当時の深刻な農村不況と議会政治の腐敗、堕落と労働争議の激化による社会不安を憂えた血気さかんな中堅ならびに青年将校の各グループは、「桜会」と「小桜会」を結成し、全国的に相互に連絡をとりつつ、時世を痛憤して、いわゆる挺身救国の非常決意をひそかに固めつつあった。そして、右翼言論界の大立者大川周明や、中国浪人で不朽の論客『日本改造法案大綱』の著者北一輝(本名、北輝次郎、二・二六事件の民間側首魁として死刑になる。後述)や、日蓮宗の怪僧井上日召(本名井上昭、血盟団事件首脳として無期懲役になったが、戦前に恩赦出所す)たちの強烈な指導原理と弁舌によって大いに啓発され、鼓舞されたのであった。それで、民間の各右翼団体は軍人と密接に結びついて、いっせいに示威大会を開いて不穏な形勢であったが、当時の政党政治の無気力と財界の無責任と一般国民の無頓着(いわば触わらぬ神にたたりなしといったような気持だった)とが、ますます彼らに慨世憂国の切迫感を覚えさせたようであった。私の考えるところでは、昭和の暗殺と反乱の時代を正しく理解し、評価するためには、決してその表面の事件のみによって判断してはならぬ。その裏面の底流を深くさぐり、彼らを指導し、あるいは煽動し、また決起させた思想と原理とを把握することが肝要である。なぜならば、当時の暗殺事件は、あたかも明治維新前後の暗殺時代とよく似て、いわば国家革新の捨て石となって大義名分のために直接行動に出たものであるから、それは、戦後のいわゆる犯罪流行時代の「理由なき殺人」とはまったく異なったものである。むしろそれは、「理由のありすぎた政治的殺人」と呼ぶべきものであった。ただし、その理由が正しいかどうかは別問題だった。昭和初頭、私が東京帝国大学の法科の学生だったころ、すでに学内には「民本主義(デモクラシー)」のチャンピオンたる吉野作造博士の指導する左翼の新人会と、国家主義に徹した上杉慎吉博士に率いられた右翼の七生社とが対立し、両派の学生有志が正面衝突して、平和な学園にも騒動が続発していた。いわゆる一高――帝大の官吏出世コースをめざす大多数の法科学生は、この険悪な学園の闘争を白眼視してはいたものの、地方出身の気骨ある真面目な学生ほど不況と就職難と生活苦の暗い日本の現状打破を志して、マルクス主義か、国家主義か、その一つを選んで社会革新の変動の荒波へ敢然と投じたものだった。もちろん、一九一七年(大正六年)十月のロシア大革命の深刻な社会的影響は、日本へも押し寄せてきた。それは、帝政ドイツの軍国主義の打倒とあいまって、軍縮と反軍と、平和を唱える民主主義と社会主義が世界中を風靡していただけに、日本でも欧米流の左翼、自由主義思想が圧倒的に優勢になり、これに対抗する右翼の国家主義陣営はいたく刺激されたものだ。そして、軍縮に反対する軍部と共同戦線を張り、天皇を利用した国体明徴運動によって勢力挽回を企てた。このように、昭和の暗殺時代は、あい反するマルクス主義の革命運動と日本主義の革新運動とが現状打破の点で皮肉にも相通じ、はからずも日本をめぐる内外情勢の圧力の下に激突して、ものすごい火花を散らし合いながら幕を開いたのである。この強烈な二大思潮と二大革新運動の板ばさみになり、左右から強く突きあげられた当時の政府も議会も政党も、ただ口先で空(カラ)元気だけは示したものの、井上日召の采配をふるった「一人一殺」主義の血盟団の直接行動の前には、ただおののくばかりであった。政府としては、国体を変革する目的の共産主義運動の方は、治安維持法の改正(最高刑は死刑)によって弾圧を強化し、三・一五事件(昭和三年三月十五日)と四・一六事件(昭和四年四月十六日)と、あいついで日本共産党の空前の大検挙(約六万五千人)を行なったが、国家主義運動の方は、背後でニラミを利かせていた軍部に気がねして積極的取り締まりができなかった。それにつけこんで、右翼陣営は、国体明徴と米英排撃と既成政党打倒、財閥追放と国防国家建設など、盛りだくさんの目標をかかげて、天皇帰一の皇道政治の実現と軍国主義の鼓吹(こすい)に努めた。かくて、日本の社会にはいたるところ殺気がみなぎり、暗殺と反乱の危機はまさに一触即発の状態にあった。  

 

私の友人で、戦前に三十年も東京に駐在していたロンドン・タイムスならびにニューヨーク・タイムス両紙の特派員であったヒュー・バイアス君は、当時、日本通の外人記者として、内外で有名であったが、彼は日米開戦直前に帰米して、昭和年間の日本の政情を痛烈に分析、批判した本を著わして、これにいみじくも『暗殺による政治』という題名をつけた。なるほど、民政党内閣の浜口雄幸首相襲撃を皮切りに、政友会内閣の犬養毅首相も、井上準之助前蔵相も暗殺されたし、さらに岡田非常時内閣も岡田首相(じつは奇蹟的に難をまぬがれて義弟松尾伝蔵老大佐が身代わりになって即死)が暗殺未遂、斎藤実内府と高橋是清蔵相が暗殺されるという有様で、そのつど、政府は倒れて政変が起こった。そして政変のたびに、政党は、ますます影がうすらいで、軍部独裁の色彩が濃厚になっていった。これでは、鋭い外人記者の目に、日本の政治がまるで暗殺によって左右され、右翼テロ団と軍部の思うままに支配されて、やがては無謀な対米英戦争への道を突進するように気づかわれたのも、至極もっともであった。この学究肌の老練な外人記者バイアス君は、一八七五年(明治八年)、英国スコットランドの生まれだから、もしも今日まで生き長らえていたらもう百歳の老人であるが、幸か不幸か、戦時中に英国へ帰らず米国で急逝したので、戦後の日本の民主政治を知らない。さぞ地下で、「暗殺による政治」がなくなった事実を驚き、かつ喜んでいることであろう。
「 (明治初年の神風党の大野鉄平以来、日本では進歩と自由の外来思潮が急なる場合には、かならず敬神、愛国の志士が決起して、排外と守旧の反動が激化するのは、天皇制の特色であろう。たとえば、二・二六事件の反乱軍を尊皇義軍と呼んだり、天皇の信任する重臣を暗殺しながら、これを尊皇討奸(とうかん)と号するような日本独得のファシズムの正体は、外人記者の目には、まったく奇々怪々に映じたことであろう。しかしながら、昭和二十年九月、日本の敗北降伏調印以降、外国軍隊に長らく全国土を占領されながら、排外攘夷の暗殺事件が、意外にもぜんぜん起こらなかったのは、日本人が骨抜きになったためか、それとも終戦の詔勅に対する「承詔必謹」の日本精神によるものなのか、これまた不可解なことであろう) 」
私は決して縁起をかつぐわけではないが、公正な立場より日本の現代史を検討してみて、明治時代の未曾有の国家的大発展をとげて増長した日本が、大正時代にはあまりパッとせず、失政を重ねて、昭和時代にその報いの混乱と反動の大激変をまねいたように思われてならぬ。これは日本の宿命であり、また因果応報ではあるまいか? 日本主義の代弁者ともいうべき徳富蘇峰でさえも、さきに引用した『昭和国民読本』の中で、つぎのように述べているのは注目されるだろう。
「 明治天皇の崩御は中外に大衝動をあたえた。英国の有力なる新聞は、『これから日本は下り坂である』と揚言した。しかしてわが国民の中にも、これに共鳴する者が皆無ではなかった。それは日本歴史の血管中に流れみなぎる日本精神を無視したる者の言にすぎない。しかも大正の御代は不幸にして日本が浮き腰となり、浮き足となり、その心までがみずから陶酔し、みずから放心したる時代であった 」
たしかに、大正の代は明治の代にくらべてはなはだ見劣りがした。それはわずか十五年で、短くもあり、はかなくもあった。日本は第一次世界大戦に米英側に加担、参戦して素晴らしい黄金景気をもたらし、異常な成金時代を現出したが、それも蘇峰流の表現を借りれば、まさに「邯鄲(かんたん)枕上(ちんじょう)黄粱(こうりょう)一炊(いっすい)の夢」にすぎなかった。そして、大正の後半期には大不況が到来して、大量失業と倒産と銀行取り付けと生活難と労働争議が続出した。蘇峰はこれをつぎのように論じている。
「 ――歓楽(かんらく)極まりて、哀情(あいじょう)生ず。流星の如く騰上したる成金者流は、また流星の如く落下した。しかして大正の下半期においては、上半期に呑み込みたる黄金そのものを、個人も国家も、ほとんどみな吐き出さればならぬ運命に立ち至った 」
大正十五年十二月二十五日午前一時二十五分、長らく脳病をわずらい、政務をはなれて療養中の大正天皇は、葉山御用邸で四十八歳で淋しく亡くなられた。そして、その日より皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が即位して年号を昭和と改元した。新しい天皇はすでに大正十年十一月以来、摂政として政務をみてはいたが、当年二十五歳の若さで、昭和の国難を一身にになうことになった重責はまことにお気の毒であった。かくて昭和元年はわずか一週間にて、昭和二年へ移っていった。昭和という年号は書経の中の、「百姓照明(しょうめい)して、万邦(ばんぽう)協和(きょうわす)」という大変お目出度い言葉からとっているにもかかわらず、じつは暗い宿命の代となったのは皮肉な歴史の悪戯(いたずら)であったのだろうか? 

 

昭和二年三月には、金融大恐慌が起こり、ついに四月二十二日より全国に三週間のモラトリアム(支払い停止)が施行され、また五月には、田中義一(陸軍大将)内閣によって第一次山東出兵が断行された一方、中国各地に日貨排斥運動が激化した。ついで昭和三年に入ると、三月十五日には日本共産党の全国一斉検挙(三・一五事件)が行なわれ、五月に中国では済南事件が突発して日中両軍が発砲、衝突し、六月四日朝には、軍閥の巨頭の張作霖(ちょうさくりん)が北京より奉天に帰る途中、京奉線列車で爆死するという事件が起こった。当時、これは「満州某重大事件」として新聞に報道されたものだが、政府ならびに軍部の厳重な検閲のために、国民大衆はその内容を知ることができなかった。六月十二日付の陸軍省公表によると、
「 ――かくて四日午前三時ごろ、怪しき支那人三名ひそかに満鉄線鉄道堤を上らんとしおるを発見せるわが監視兵は、ただちにこれに近づき誰何(すいか=誰かと問う)せしに、該支那人はわが兵に向かい爆弾を投擲せんとしたるため、わが兵はただちにその二名を断殺したるに、他の一名はついに逃亡せり。わが兵は該支那人の死体を検視したるに、爆弾二個および三通の書信を発見せり。内二通はまったく私信に過ぎざりしも、一通は国民軍関東振撫使の書信の断片にして、これらの点より考察すれば南方便衣隊員なること疑いなし…… 」
ということであった。しかし、真相は、関東軍高級参謀河本大作大佐の一世一代の大謀略で、排日の巨頭たる張爆殺を計画、実行したものであった。彼は、これ以外に、満州問題解決の鍵はない、一個の張を抹殺すれば足りると決意し、極秘の中にわが龍山工兵隊の手で、京奉、満鉄両線の交差点の陸橋の脚上に強烈な爆薬を仕掛けたのであった。そして残酷にも、あらかじめ用意した中国人二名を現場付近で挙動不審として剌殺して、ニセの証拠品より、南方便衣隊の仕業のように偽装したものだった。これは、じつにどんなスパイ小説もスリラー映画も顔負けするような大胆不敵の陰謀計画であり、河本大佐は、張爆殺を合図に軍隊を出動させて満州南部占領を夢みていたが、これは失敗した。結局、軍部はこの真相をひたかくしにした。主謀者河本大佐を軍法会議にもかけず、予備役編入という行政処分でアッサリ片づけたが、田中首相は天皇より叱責されて面目を失い、翌、昭和四年七月、内閣総辞職となった。それから二ヵ月後に苦悩した彼は急死した。しかし、それから三年後の昭和六年九月十八日夜、満州奉天付近の柳条溝事件によって河本大佐の夢はついに実現され、満州事変――満州国成立――国際連盟脱退という昭和動乱の劇的なコースをたどったのである。これは、前回と同様に満州独立を画策した関東軍の高級参謀板垣征四郎大佐(のちに陸軍大将、陸相、東京裁判で絞首刑となる)と作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐(のちに陸軍中将、終戦直後病死)と奉天特務機関花谷正少佐たち一味の大謀略計画によるもので、関東軍部隊将校の手で柳条溝の満鉄線路を中国兵の仕業のようにみせかけて爆破すると同時に、在奉天部隊が夜襲を敢行して北大営の中国軍兵舎を総攻撃、占領して満州事変の狼火(のろし)を上げた。当時、政府と軍中央部は関東軍の過激な実力行動を事前に察知して、これを未然に防止するため、参謀本部第一部長(作戦担当)建川美次少将(のちに陸軍中将、元駐ソ大使、戦後病死)を現地へ急行させた。ところが、いわゆるミイラ取りがミイラになった形で(軍中央部の同志として計画の概要は予知していた)、酒好きの建川少将が九月十八日午後に奉天に到着し、同夜、市内の料亭菊文で陶然と酔っ払っていた最中、ほど近い奉天駐屯日本軍兵舎(歩兵第二十九連隊)にひそかに据えつけられていた二十八サンチ要塞砲が、轟然と響いて北大営砲撃の火蓋を切ったので驚いた――というウソのような真相が、戦後はじめて明らかにされた。要するに、当時の関東軍幕僚(佐官級、中堅将校)たちは、日露戦争で日本人の尊い血を流して獲得した満州生命線を、排日、抗日の嵐からあくまでまもり抜くためには、武力によって満州を占領し、中国から独立させ、皇道精神にもとづく五族協和の安民楽土の実現を念願としていた。そして彼らは、国内の革新運動とクーデター計画(昭和六年の三月事件と十月事件、後述)に呼応し、あるいはそれを外地より促進、支援するために、軍中央部を強力に牽制したり、その意向を無視したりして目的達成に努力した。彼らは、目的のためには手段を選ばぬような下剋上(げこくじょう)の気風をほしいままにしたのである。それはまた、昭和動乱時代の恐るべき原動力ともなった。もっとも、遠く故国をはなれて満州の現地でみると、日ましにつのる排日のあらしの中で、わずか一万の日本軍の駐屯部隊は、二十万以上の中国軍を相手にいくら頑張っても、在留邦人は圧迫されて、生命、財産の危険は刻々と増大して、事態はきわめて重大化していた。それで、ゆくゆくは満鉄さえも線路を取りはずして日本内地へ引き揚げねばならなくなるであろうと心配されていた。しかも浜口内閣(幣原(しではら)外相)は、いわゆる平和協調主義の軟弱外交で、米英列強の鼻息をうかがい、断乎たる方針を立てず、国内では政党あまた腐敗して、勲章疑獄(昭和五年、賞勲局総裁天岡直嘉その他連座)や、五私鉄疑獄(同年、元法相、鉄相小川平吉その他連座)や東京市会疑獄(昭和三年、民政党代議士三木武吉、政友会代議士中島守利その他連座)など大がかりな汚職事件が続出して、まさに底なしの疑獄時代を呈していたので、まさに内憂外患のため国家革新断行の必要をますます痛感させられたのである。こうして、日本をめぐる内外情勢は、一般の国民大衆が気づかない間に急速に険悪化して、すでに爆発的に切迫しつつあった。しかし、当時の都会の世相は案外、自由享楽的で市民は明暗二筋道をよろめいていた印象が深く、軍部の勝手な言動や、極左と極右の二大勢力の抗争や疑獄事件にも、「またか……」といった無関心な市民大衆は、浅草や銀座の青い燈、赤い燈に酔いしれ、賑やかな「東京行進曲」「東京音頭」「モン・パリ」や、甘美な「浪花小唄」「島の娘」「酒は涙か利息か」といったような非軍国調の流行歌が大流行していた。要するに、大あらしのせまる直前の息苦しい世の中を、庶民は酒や歌でごまかして、不安ながらもその日その日を気ままにすごしていたのだ。 

 

さて、昭和の暗殺時代の恐ろしい血祭りの火蓋を切ったのは、日蓮宗の怪僧井上日召を盟主とした血盟団であった。彼は昭和三年以来、茨城県磯浜海岸の丘に立つ立正護国堂に立て籠(こも)って、農村青年と海軍青年将校の同志を集めて、国難打開のために日本精神を鼓吹し、国家革新の必要を力説していた。そのたくましい雄弁と狂言的な信仰心は、若い青年同志に力強い感化をあたえていた。彼は怪僧といっても、もともと僧門の出ではなくて、群馬県の田舎の医師の四男に生まれて、明治三十八年に県立前橋中学を卒業後、各地を放浪したあげく満州に渡って苦労を重ね、いわゆる憂国慨世の浪人となり、日蓮宗に帰依して立正安国の大望を抱くようになった。そして、大正九年に内地へ帰ると、郷里(群馬県利根郡川場村)の荒れ果てた僧堂にひとり籠って、日蓮宗独特の荒修行を積んで、断食しながら決死の法悦(ほうえつ)を感得したらしい。かくて、満州浪人井上昭は、その名前の文字を日と召に分けて、熱血の僧日召(にっしょう)と名乗り、いわゆる「一殺多生」の国家革正運動を志して、その先達をもって自他ともに任じたのである。彼は、「非常時には非常手段もやむを得ない」と考え、また、「あくまで捨て石にならなければならぬ、権力に執着して真の革新はできない。破壊なくしては建設はあり得ず、究極の否定はすなわち真の肯定なるがゆえに、破壊すなわち建設、不二一体なり」と提唱していた。こうして、昭和の暗殺と反乱の時代には、大川周明博士のような社会的に有名な学者と北一輝のような中国革命育ちの実力者と、軍部の将軍連中と中堅将校と青年将校の各グループと、民間の右翼、愛国団体とがいきり立つ中に、日召のような無名の日蓮僧まで飛び入りして、昭和維新の名の下に、烈火のごとき国家革新の気運をぐんぐんと高めていったのだ。昭和五年十一月十四日朝、東京駅ホームで浜口雄幸首相(民政党総裁)が、右翼団体、愛国社員の佐郷屋留雄(さごやとめお=当時二十三歳)にピストルで狙撃されて重傷を負った。犯行の動機は浜口内閣の財政緊縮政策とロンドン海軍軍縮条約調印に反対、憤慨した軍部と愛国団体の煽動によるものであったが、浜口首相は東大塩田外科で手術の結果、幸いにも生命を取りとめたので、政変は避けて幣原外相が首相代理となり、政治的衝動は、だいぶ緩和された。なるほど、大正十年十一月には、原敬首相(政友会総裁)も東京駅頭で右翼団体の壮士中岡艮一(こんいち)のために暗殺されたし、昭和四年三月には、京都で労働党代議士山本宣治氏が、右翼団体、七生義団員の黒田保久二に刺殺されているので、浜口首相の暗殺未遂事件はまだ運がよかったのかも知れなかった。当時、新聞社でも、また世間でも、まだまだ暗殺時代が到来するとは予想もしていなかった。ところが、昭和六年九月、満州事変が起こるや、これに刺激されたような国内の革新運動は一段と激化して、三月事件と十月事件の軍部クーデター計画によって、ますます険悪な情勢となってきた。
かくて昭和七年二月九日夜、浜口内閣の蔵相として緊縮財政、金解禁、軍縮をすべて切りまわして軍部の恨みを買っていた井上準之助(元日本銀行総裁)氏が、東京本郷駒込小学校選挙演説会場入口で血盟団員小沼正にピストルで射殺され、三発命中、即死した事件が起こった。それからわずか四週間後の三月五日正午前に、三井財閥の巨頭の団琢磨(だんいくま)男爵(三井合名理事長、当時七十五歳)が、東京日本橋の三井銀行玄関で自動車から降りたところを、待ちうけていた血盟団員菱沼五郎のためにピストルで射殺される事件が続発した。このあいつぐ二つの暗殺事件は、さすがに日本中を驚愕させた。明治維新以来、これまでの暗殺をあまり憎むべき凶悪犯罪とは思っていなかったらしい日本人の感情も、同じ血盟団員によるこの連続暗殺には驚きもしたし、また血盟団という不気味な殺人秘密結社の正体には、恐怖を感じたのだ。「これはただごとではない、これからさきどんなことが起こるかわからないぞ」と当時、朝日新聞の若い事件記者であった私はすっかり緊張してしまったことを、いまでもなまなましく覚えている。ことに、現場で逮捕された暗殺犯人の小沼、菱沼の両青年は、落ちつきはらって、取り調べの係官に向かって志士気どりで堂々とつぎのように暗殺目的を語り、政界と財界に深刻な衝動をあたえた。
「 農村の窮乏を見るに忍びず、これは井上前蔵相のやり方が悪かったからだ! 」
「 腐敗しきっている既成政党を打破する目的でやったもので、政党の背後にはかならず大きな財閥の巨頭がついているから、まずその連中からやる計画を立てた。団男爵をやったのはいまの財閥の中心は三井で、三井の中心人物が団男爵だから同氏を血祭りに上げたのだ 」
奇しくも、この二人の暗殺犯人は、茨城県那珂郡出身の同郷の青年と判明したので、捜査当局で厳重追究の結果、井上日召を盟主とする、恐るべき昭和血盟団の「一人一殺計画」の全貌が暴露された。かくて昭和日本の暗殺の時代は、反乱の時代へ急転していった。 
第二章 問答無用! 撃て!  / 五・一五事件

 

昭和七年(一九三二年)五月十五日は、青空が晴れわたり、さわやかな微風がこころよく青葉をゆるがしていた日曜日であった。東京市内の目ぬきの盛り場は、どこも楽しそうな家族づれの人出で大いに賑わい、いかにも天下泰平の明るい表情を呈していた。つい数ヵ月前、この同じ年の二月から三月にかけて、前蔵相井上準之助氏と三井合名理事長団琢磨男爵が、血盟団団員の手で、あいついで暗殺された恐ろしい悪夢のような記憶も、毎日の生活に追われて忙しい庶民大衆にとっては、きびしい暗い冬が去りゆくのといっしょにすっかり薄らいでいたようだった。明るい、楽しい五月の好季節をむかえて、世の中も、大衆の気持を反映するかのように浮き浮きして、もはや、暗殺などという縁起のわるい、うわさ話は、だれでも忘れたい心地がしたであろう。これが、当時、若い朝日新聞記者であった私のいつわらぬ実感であった。というのは、この前年の昭和六年(一九三一年)の三月と十月にひそかに起こった陸軍の中堅幕僚と青年将校を中心とする軍部のクーデター(武力による政府打倒)計画未遂事件(三月事件および十月事件と呼ばれた。後述)については、国民はまったくツンボ桟敷におかれて全然なにも知らなかったし、新聞社の情報通でも、憲兵隊を怖れて実情を調べることはできないくらいであったからだ。それゆえ、軍部の中に爆発しかけていた現状打破の気運と革新運動の底流を、世間では少しも感づいてはいなかった。いわゆる識者でさえも同年九月に満州事変が起こって、軍部の永年つもりにつもった欝憤(うっぷん)と、軍縮をめぐる政党政治に対する不平不満の絶好のハケ口ができたので、軍人の旺盛なエネルギーはいっせいに満州の天地へ注入されていたので、むしろ国内の国家革新運動は、軍人の関心と協力が薄らいで下火になるのではないか、という楽観説をみとめていたくらいであった。このような時代の雰囲気の中で、五・一五事件は突発したのであった。それだけに、政治的にも社会的にも衝撃は深刻なものだった。この五月十五日午後五時二十七分ごろ、軍服を着用した海軍青年将校四名と陸軍士官候補生五名の一団が、突如、麹町(現在千代田区)永田町の高台(国会議事堂の裏通り)にある首相官邸に自動車二台で乗りつけて、表門と裏門の両方からピストルを振りかざしながら乱入した。首相官邸警備係の田中五郎、平山八十松両巡査が驚いて押し止めようとするや、軍人たちはいきなりピストルを乱射して両巡査を血祭りに上げた。彼らはいきり立って、ヒッソリと静まりかえった広い官邸の奥へ、軍靴の足音も荒々しく侵入した。彼らのめざす人物は、老齢七十八歳の首相犬養毅氏(政友会総裁)であった。犬養老首相は旧岡山藩士で、明治二十三年(一八九〇年)の国会開設にあたり第一回衆議院議員に当選以来、毎回当選四十余年の議会生活で鍛え上げた最古参の政党人であり、また、清貧に甘んじてきた日本の議会政治の最後のホープでもあった。彼は、田中義一大将(首相)の死後を継いで政友会総裁となり、さらに、前年の昭和六年十二月に、若槻内閣(民政党)が閣内不統一で倒れた後、難局打開の信念を燃やして首相の地位についたものである。
夕方五時半とはいっても、五月ともなれば日は長く、まだ西日が明るく当たっていた。ガランとしたモダンな洋風建築の首相官邸の一番奥まった日本間には、白い山羊ヒゲを生やした小柄の痩せ細った仙人のような風貌の犬養老首相がひとりで書見をしていた。彼は数日来の風邪気味のため、この晴れた日曜日の午後も、官邸の奥に閉じこもって静かに休養していたのだった。そこへ、ただならぬ物音、驚いた老首相の目の前に青年将校の一団が土足のまま現われた。「諸君はいったい、なんの用で来たのか? 乱暴なまねをするな、靴ぐらい脱いだらどうだね、おたがいに話せばわかることだ!」と、さすが犬養首相は生粋の党人の老政治家らしい貫祿をしめして、あまり取り乱したようすもみせず、自分の孫のように若い将校連中に向かって説得をこころみた。しかし彼の胸先には、数分前に警官を射殺したばかりの銃身の生あたたかい軍用ピストルの銃口が黒く光っていた。おそらく老首相は、血気にはやる軍服の若者どもをまずなだめて、その言い分を十分に聞いてやり、よく話し合えば誤解もとけて、まさか手荒いことはしないであろう、と考えたことであろう。彼は決して逃げ出そうとしたり、恐怖のあまり騷ぎたてるようなことはしなかった。その落ちついた老首相の態度は、一瞬、ピストルを握った青年将校たちの決断をにぶらせたようであった。腐敗した政党政治の張本人として、また国威を失墜した軟弱外交の責任者としてねらわれた老首相が、意外に気骨のある人物であることをはじめて知ってたじろいだのであろう。返事もせず無言のままニラミ合ったとき、首領格の海軍将校が大声で怒鳴った。「問答無用! 撃て!」轟然とピストルは発射され、犬養首相は、バタリと、まるで枯木が倒れるように、もろくも小さい身体を崩れ伏せた。日本間のクタミが赤く血に染まって、庭先よりさしこんだ夕陽に無気味に、映えていた。青年将校の一団は、顔面を血まみれにしてむごたらしくも虫の息で倒れている老首相に向かって、直立したまま目礼をすると、ふたたび靴音も荒々しく廊下づたいに立ち去った。そして、待たせてあった自動車に分乗して、意気ようようと帰途、警視庁を襲撃したのち、東京憲兵隊へ車を乗りつけていっせいに白首した。これが、いわゆる五・一五事件のクライマックスであった。「問答無用! 撃て!」という有名な歴史的セリフを叫んだのは、リーダー格の山岸宏海軍中尉(横須賀在勤)で、ピストルを発射したのは黒岩勇海軍少尉(予備)と三上卓海軍中尉(重巡「妙高」乗組)であった。弾丸は二発とも犬養首相の下顎部と右コメカミに命中して、ほとんど即死も同然の致命傷であった。(凶行後、急報により、午後六時十五分、東大青山外科の権威、青山博士が官邸に駆けつけて応急手当をつくしたが効なく、犬養首相は、翌十六日午前二時三十五分に絶命した。また重傷の田中巡査も数日後に死亡した) こうして犬養首相は暗殺されて、戦前の日本で最後の政党内閣はついに亡んでいった。
「 (犬養首相の死後、ただちに内閣は総辞職したが、後継内閣でもめたため、十日間、高橋是潸蔵相〈四年後の二・二六事件で暗殺された〉が臨時首相代理をつとめた後、元老西園寺公の苦慮のあげく、とうとう軍部の圧力で政党内閣は見切りをつけられ、前朝鮮総督、海軍大将斎藤実(まこと)子爵〈二・二六事件で暗殺された〉に大命が降下して、いわゆる非常時挙国一致内閣〈軍部、官僚、政党よりなる〉が出現した) 」 

 

当時――昭和七年のことであるが、私は朝日新聞記者とはいっても、まだ入社二年生の独身で横須賀支局に勤務していた。軍港市内の小さい旅館の一室を借りて住み、仕事にさしつかえのない限りは、土曜日の夜おそく東京荏原区(目蒲線、洗足田園調布)の親の家へ帰って、日曜日をゆっくり楽しんでいたものだった。ことに新橋駅より横須賀線で、わずか一時間あまりで任地へ往復できる点が非常にうれしかったので、いつも銀ブラの味を忘れなかった。じつはこの歴史的な五月十五日の午後も、私は銀座に出かけていた。夕方になって、けたたましい号外売りの鈴の音に、さすが商売柄、神経をとがらせて、さっそく一枚買ってみて、アッと驚いた。「海軍青年将校、首相官邸を襲撃、犬養首相射殺、市内各所に爆弾……」というような見出しの太文字は、本当に私の脳天をなぐりつけるほど強烈な衝撃をあたえた。「これは大変だ!」と、私はたちまち全身の血が逆流するような気持で、もうまったく夢中だった。それは空前の大事件が突発したという新聞記者らしい緊張感と、さらに休日ではあるが任地を離れていたという責任感とが、いっきょに胸中にこみ上げてきたためだった。「犯行の海軍青年将校はもしかしたら、横須賀鎮守府管内の海軍軍人ではあるまいか? まさか……それとも……」と私の頭脳は一瞬の間にくるくると回ったが、まさか目と鼻の先にある朝日新聞本社へ立ち寄って詳報を尋ねるわけにもゆかず、小走りに新橋駅からただちに横須賀行きの電車に乗って、任地へ舞いもどった。まだ日が長くて、軍港の空も海も明るかったように記憶している。市内のガケ下の小さい支局へ息を切らせて飛びこむと、意外にも主任は不在でだれもいなかった。本社からはまだなんの連絡手配も来ていなかった。私は、ホッとして、はじめて人心地がついたように感じた。急に咽喉がかわいて、お茶をがぶがぶ飲んだことを覚えている。それから、しばらくたって、卓上の電話が鳴った。ハッと胸をおどらせて受話器をとると、案の定(あんのじょう)、本社通信部からの至急報であった。相手はK次長で、いつもは落ちついているのに、このときばかりはよほど緊張して急いでいるようすで、早口ながらつぎのように指令してきた。
「 すでに号外かラジオでご承知と思うが、――今日の午後、陸海軍人の一団が首相官邸を襲撃して、犬養さんを殺したほか、警視庁や日本銀行や政友会本部や市内各変電所などを襲って爆弾を投げた。また、牧野内府邸も襲撃されたが、牧野さんはぶじだった 」
「 ところで、犯人一味は目下、憲兵隊で取り調べ中であり、まだよく判らないが、本社の探知したところによると、主謀者とみられる海軍将校の三上中尉と山岸中尉と村上少尉は横須賀に関係があるようだから、大至急調査されたい。これは重大事件だから、とくに自動車を二台ぐらい借りきって、全力をあげて手配を願います。いますぐ応援のため鎌倉通信部のK君にそちらへ行ってもらいました。調査の判明次第、どんどん本社へ通報されたい…… 」
私は脂汗をかきながら、電話の指令を受けとると新聞記者らしい興奮に燃えたっていた。あいにく、支局の主任は家族づれで、晴れた日曜日の朝からどこか田舎の方へ出かけて、まだもどっては来ないが、私は、十年に一回も起こりそうにもない大不祥事件の犯行軍人が、現任地の横須賀に関係があるとは、まことにニュース運にめぐまれたものだと感激しながら、まず、自動車を横鎮(横須賀鎮守府の略)へ飛ばした。そして、当直の副官に会って、いろいろ押し問答を重ねたうえ、ようやく横須賀在勤の山岸中尉その他の住所を確かめた。 それから、応援にやってきたK君と自動車に同乗して、まず、田浦方面の山岸中尉の下宿先へ向かった。もう日はとっぷり暮れて、丘とトンネルの多い横須賀から田浦へ通ずる街道は、真っ暗であった。当時、若い海軍軍人たちは陸上勤務のものも、海上勤務のものも、たいてい横須賀、田浦、逗子方面の素人下宿の一室を借りて生活または休養の場所にしていたものだ。しかし、これらの下宿先はいずれもガケの上の丘の中腹にあったり、あるいは畑の中の一軒家などが多いため、夜間に町名、番地を頼りにはじめて探し当てることは、それまでの私の支局勤務の経験からはなはだ困難であった。それゆえ、私はK君と手分けして、暗夜の田浦のガケや階段の多い坂道を転げるようにあちこち歩き回って、山岸中尉と村上少尉の下宿先を突きとめるのにとても苦労した。もちろん、自動車の利用できない細い小路であった。それから長い時間がたった後、私どもは山岸中尉と村上少尉の下宿先のおばさんや家人からいろいろ両人の平常の生活や言動について情報を集めて、支局から本社通信部へ電話で送稿した。といっても、それは翌日の朝刊紙上を華やかに飾るわけではなかった。なぜならば、この日の大事件――すなわち五・一五事件については即日、内務省警保局より当局発表以外、一切記事掲載禁止を命令されたからであった。ただ号外だけが、禁止発令前に刷り出されて東京市内その他でバラ撒かれたのだ。こんなわけで、私の綴った事件当夜の探訪記事は、一年後に記事解禁になったとき、はじめて「横須賀電話」として本紙社会面の片隅に小さく掲載された。それでも、私の三十年間にわたるジャーナリスト生活の中で、これは今日でも決して忘れられない思い出となった。なお事件直後、犬養首相の死去と内閣総辞職の報道につづいて、五月十七日、陸海軍当局がはじめて発表した事件内容は、つぎの通り、まことにお粗末なもので、真面目な国民をバカにしたものであり、かえって流言蜚語が世間に乱れ飛んだ。そして、社会の不安と人心の動揺をもたらした。
「 〔海軍省発表〕  [首相官邸その他における今次の不祥事件に関与せる海軍側人員は、海軍中、少尉六名にして、内一名は予備役にあるものなり、事件後ただちに全員、東京憲兵隊に自首したるをもって目下、同隊に収容取調中なり」 」
「 〔陸軍省発表〕  「帝国国内の現状に憤激し非常手段に訴え今次の不祥事件を惹き起こしたる一味に関与せる陸軍側人員は、在学中の陸軍士官学校生徒十一名にして、事件後ただちに全員、東京憲兵隊に自首したるをもって目下、憲兵隊に収容取調中なり」 」
正直にいって、私の見た昭和動乱史の中で、五・一五事件について私のなまなましく触れたものは、山岸中尉らの事件直前の生活と言動の片鱗にすぎない。実際に私が五・一五事件の全貌を新聞記者として承知したのは、一年後の昭和八年(一九三三年)五月十七日午後五時に公表された司法、陸軍、海軍三省共同の長文の発表文によるものであった。それほど軍当局では事件の内容を厳秘にして、その取り扱い(とくに後日の軍法会議による審理、処罰にも手心をくわえたらしい)に苦慮した模様である。というのも、五・一五事件の暗殺と襲撃に参加した海軍青年将校と陸軍士官候補生たちは、いずれも血盟団盟主井上日召一派の国家革新運動の熱烈な共鳴者であり、また信奉者であって、昭和七年(一九三二年)三月に血盟団事件(前述)の一斉検挙直後より、軍人を中心に計画を立てて急速に実行に移したものであったからだ。要するに五・一五事件は、同年二月の井上前蔵相の暗殺事件と、三月の団男爵暗殺事件とに密接に関連した、底知れない、大規模な軍民一体の直接行動計画の氷山の一角のようなものであった。政府も議会も政党も、このような連続テロ事件の発生には恐怖したが、軍首脳部でも、前年(昭和六年)に起こった二つの奇怪な軍部クーデター事件(三月事件と十月事件)を未然にモミ消して、ウヤムヤに葬り去り、国民大衆の前に頬被(ほおかぶ)りで押し通してきた手前からも、なんとか責任を他へ転嫁しようと腐心した。とくに満州事変(昭和六年九月)以来、軍部の鼻息はますます荒く、軍部の行動を批判したり、軍国主義を非難したりする自由言論にたいしては、直接、または間接に強い弾圧をくだしていたので、五・一五事件の当局発表文にも、いろんな手心をくわえて、軍部の面目と威信を保つ工夫をこらしていた。たとえば、事件経過の共同発表にさいして、当時の陸相荒木貞夫中将(のちに陸軍大将、皇道派の主要人物)と海相大角大将は、それぞれつぎの通り、被告たちを大いに弁護するような談話を発表したものだ。それは、その後の軍法会議の審判と量刑に無言の圧力と暗示をあたえたことは明白である。
「 荒木陸相談 「本件に参加したものは少年期からようやく青年期に入ったような若いものばかりである。これら純真なる青年がかくのごとき挙措(きょそ)に出たその心情について考えれば、涙なきを得ない。名誉のためとか私欲のためとか、または売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったことである。ゆえに本件を処理する上に、単に小乗的観念をもって事務的に片づけるようなことをしてはならない…… この事件を契機として三省再思、もって犠牲者の心事を無にせざらむことを切望する次第である」 」
「 大角海相談 「ただ何か彼ら純情の青年をして、この誤りをなすに至らしめたるかを考えるとき、粛然として三思すべきものがある……罪とか刑罰の問題を離れ、ただ彼ら青年の心事に想到するとき、涙なきを得ぬのである」 」
今日からかえりみると、いやしくも天皇の親任した総理大臣を白昼、堂々と官邸の中に押し入りピストルで射殺した乱暴残酷な、制服の軍人一味を、いかにも純情憂国の志士のように賞揚、弁護した陸相も、まったく正気の沙汰ではないが、これが当時の険悪な社会的雰囲気の中では別におかしくはなかったのだ。 

 

五・一五事件のテロ行動は、軍人行動隊(十八名)と民間行動隊(十四名)の手によって、犬養首相を暗殺したほか、警視庁襲撃にあたり、同庁長坂書記と読売新聞高橋記者(同庁詰)の両名にピストルを乱射して重傷をあたえ、また仲間割れした革命家の退役陸軍中尉西田税(にしだみつぎ=その後に、二・二六事件に連座、反乱罪の首魁の一人として死刑になった)を襲い、ピストル六発を発射して瀕死の重傷を蒙らせた。しかし、牧野内府邸(芝三田)をはじめ、日本銀行、三菱銀行本店、政友会本部などを襲撃した連中は、ただ玄関先へ小型爆弾や手榴弾を投げこんですぐ自動車で逃走しただけであった。しかもその爆弾も手榴弾も不発が多く、その被害はとるに足らず、ただ人騒がせをした程度であった。また、帝都の暗黒化を狙ったと自称する市内各変電所を襲撃した民間側のいわゆる農民決死隊も、革命行動隊としては破壊訓練も行動計画も、未熟であったため全然、不成功に終った。要するに、彼らは国家革新の意識はものすごく過剰であったが、諸外国の武力革命にみられるような合理的な大衆煽動手段と政府打倒の具体的計画に欠けていたので、いわば一殺多生の血盟団的テロの軍人版になったわけだ。彼らは決して、犬養個人に恨みはないが、総理大臣たる彼を殺すことによって堕落した政党と腐敗した政界に粛清の痛棒をくわえ、また市内各所の襲撃によって政府を覚醒させ、みずから昭和維新の捨て石たらんことを念頭したものであった。したがって、その後のことはあまり深くは考えず、軍部の長老と先輩の手によって、一君万民の天皇政治の本然の姿が首尾よく顕現されるであろうと希望的観測をしていたようである。五・一五事件に関する当局の共同発表文は、つぎの通り各被告の心情に大いに同情して、犬養首相の暗殺を傷むよりも、むしろ加害者の憂国の至情に敬意を表している点は、当時の軍部のたかぶった国家観念と政治干渉をしめすもので、いわば日本を破滅にみちびいた「反乱への道」の重要な道標の一つといえるであろう。
「 ――本件犯罪の動機および目的は各本人らの主張するところによれば、近時わが国の情勢は政治、外交、経済、思想、軍事などあらゆる方面に行き詰まりを生じ、国民精神また頽廃を来したるをもって、現状を打破するに非ざれば帝国を滅亡に導くの恐れあり、しかしてこの行き詰まりの根源は、政党、財閥および特権階級がたがいに結託し、ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなりとし、この根源を排除して、もって国家革新を遂げ、真の日本を建設せざるべからずというにあり 」
さらに、昭和八年(一九三三年)九月十九日の陸軍軍法会議判決理由は、つぎの通り五・一五事件に参加した士官学校生徒の動機と目的を大いに取りあげて、間接的に彼らの反乱行動を正当化し、また光栄化している点は注目される。コチコチの固苦しい文章だが、かえって当時の雰囲気がよくにじみ出ている。
「 ――各被告人はわが国現下の状態を目し、皇道扶翼の精神は日に衰え、国体の尊厳は日に疎んぜられ、いわゆる支配階級たる政党、財閥および特権階級は腐敗し、堕落し、相より相助けて私利私欲に没頭し、国防を軽視し、国政を紊(みだ)り、外は国威の失墜を招き、内は民心の頽廃、農村の疲弊を来せるなど、皇国の前途はすこぶる憂うべきもののあるのみならず、とくに満州事変の勃発に伴う国際情勢およびロンドン軍縮条約の結果、わが対外関係の危機は一日の偸安(とうおん)をゆるさずとし、速やかにこれら時弊を革正し、もって建国の精神に基づく皇国日本を確立するため国家革新の必要を痛感し、しかも叙上(じょうじょう)の焦眉の事態と、被告人当時の境遇上、とうてい合法手段をもってしては、これが革正を期し難しとし、ついにみずから国家革新のための捨て石となり、直接行動によりこれら支配階級の一角を打倒し、支配階級および一般国民の覚醒を促し、もって国家革新の気運を醸成せんことを欲し…… 」
(海軍側の判決理由もこれとほぼ同じ趣旨であり、きわめて各被告人に対して寛大なものであった)また、事件の計画と経過については、司法、陸海軍三省の共同発表文はつぎのように明らかにした。
「 ――従来、海軍部内における運動の指導的地位にありたる海軍大尉藤井斉は上海に出征し、同年(昭和七年)二月五日戦死し、その中心を失うこととなりたるも、当時、霞ヶ浦海軍航空隊に勤務しておりたる古賀清志、中村義雄(いずれも海軍中尉、軍人行動隊の首脳部)らは謀議の末、井上昭(血盟団盟主井上日召の本名、同年三月検挙された)たちのいわゆる一人一殺主義は、その効果薄しとなし、むしろ一斉集団的に直接行動を実行し、これにより帝都の治安を紊(みだ)し、一時、恐怖状態に陥らしめ、戒厳令の布告せらるべき情勢を引き起こせしめんことを企図し、同年三月二十一日、かねて国家改造に関する文献などに刺戟せられいたる池松武志、後藤映範、篠原市之助(いずれも陸軍士官候補生、その他氏名は前表参照)たちと会見し、その企図を告げたるに、同人らはただちにこれに賛同し、行動を共にすることを約し、また当日、右会合に列せざりし中島忠秋もその後に参加することとなりたり 」
また一方、民間側の農民決死隊の参加のいきさつは、つぎの通りであった。
「 ――橘孝三郎(受郷塾頭)は、同年一月二十二日、茨城県土浦町において、古賀清志、中村義雄らに対し講演をなして農村の窮状を説き、国家革新の要あるを論じ、青年士官の奮起を奨励したることありて、肝胆相照らすにいたり、同年三月二十日以降、古賀、中村と、しばしば論議の結果、別働隊としてその配下なる後藤圀彦および塾生たちを率いて行動の第一線に立たんことを約したり 」
このように、歴史的な五・一五事件の全貌は、今日の民主日本の社会通念からかえりみると、まことに奇怪千万なものであった。とくに暴力否定の人道主義の立場からみれば、「一人一殺」とか「一殺多生」などという考え方は、いかに彼らの国家革新の熱情と天皇絶対主義の理想が純真なもので、愛国の至誠に燃え立ち、みずから護国の人柱たらんことを誓っていたとしても、偏狭な日本独特の独善、排他の軍国主義のバリエーションのようなものであった。少なくとも、彼らの唱えた「正義」は、今日の平和時代の「自由」と表裏一体をなす民主主義的な「正義」ではなかった。だが、彼らの信念と熱情が決していい加減な一時の気まぐれであったと判断してはならぬ。当時、深刻な農村不況と生活苦と就職難の暗い世の中で、政府はほとんど無為無策で社会不安は増大し、政党は腐敗して、疑獄事件が続出し、また、財閥は政商と結んで金もうけに狂奔して驕り高ぶり、まったく貧富の対立は、「これが同じ日本人の生活か?」と驚くほど激化していた。したがって、真面目な正議感の強い青年ほど、険悪な世相を憂え、支配階級の横暴を憎んでいた。とくに実行力と決断力に富んだ陸海軍青年将校たちが、日本の現状打破のために決起した気持は、当時の暗い泥沼のような社会的雰囲気を理解すればするほど、私にはよくわかるような気がする。むしろずるい意気地のない青年たちほど、険悪な社会相の現実を見て見ぬ振りをして、当時流行のジャズや、低級な流行歌や、銀座の青い燈、赤い燈の享楽主義へ逃避して、ひそかにウサ晴らしをしていたとも解せられるであろう。当時の日本の社会では、「正義」と「自由」とが背中合わせになって、いわば鋭く対立していたのだ。要するに、この当時、昭和日本は右せんか、左せんか、重大な十字路に立っていたのだ。いずれにせよ、張作霖の爆死から満州事変へとたくましく動き出していた軍部の巨大な推進力は、もはや日本を現状に立ちとどまらせておくことを許さなかった。かくて昭和日本は、天皇制の下に左旋回するよりも右旋回する方が、歴史的にみても、国民性からみても、きわめて容易で自然的であったため、急速に軍部の推進と圧力によって、狂信的な軍国主義と超国家主義による国家革新――すなわち、昭和維新をめざして突進していった。それが「反乱への道」であった。だから、五・一五事件の軍法会議の判決がきわめて軽かったのは、当時の社会的雰囲気の中では当然の情状酌量の結果であり、その責任は軍部のみならず、軟弱な政府にも、堕落した政党にも、横暴な財閥にも、利己主義にこり固まった支配階級にもあったわけである。ただ軽すぎる判決を不審に思い、不満に感じたのは善良な国民大衆であったが、しかし、大衆にはその当時、言論の自由もなく、また新聞を通じて真実を知る権利もあたえられていなかったから、まったく無力であった。私のような若い新聞記者も、ただ事件をめぐる情報をとったり集めたりするのが、精いっぱいの仕事であった。いわば巨大なドス黒い時代の潮流に浮かんで押し流されているようなものだった。
もう一つ、私の忘れられない点は、五・一五事件の公判が、軍人をさばく海軍の軍法会議と、民間人をさばく東京地方裁判所とか、それぞれ昭和八年(一九三三年)七月から九月の間に別々に開かれて、しかもその審理と判決がパラパラで統制を欠き、いかにも軍人偏重のバランスのとれない印象をあたえたことである。それは軍首脳部が青年将校を恐れた一方、また民間の革命家を嫌っていたせいであろう。すなわち、各被告人の判決は別表の通り軍人には反乱罪が適用されて、しかも一国の首相を多勢で取り囲んで射殺しても、首魁や下手人の古賀、三上、黒岩、山岸の各海軍将校はわずかに禁錮十五年(求刑は死刑)ないし十年という驚くほど軽いものであった。また、陸軍側の士官候補生十一名には、やはり反乱罪が適用されたが、一律に禁錮四年(しかも未決拘置百五十日通算、ただし求刑は禁錮八年)という、じつにバランスのとれない形式主義の判決が下った。ところが、民間側の被告全部には、反乱罪のかわりに、「殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反」などの忌(いま)わしい罪名が適用されたうえ、ほとんどすべて求刑通りの厳刑が言い渡された。たとえば、犬養首相暗殺の直接下手人ではない黒幕の愛郷塾頭、橘には無期懲役、また被告池松は、陸軍側の士官候補生と同一行動をとりながら士官学校中退の民間人であるために、陸軍側の一律禁錮四年にたいして、懲役十五年の重刑といった工合であった。しかも陸海軍人がすべて愛国の志士扱いで「禁錮刑」であるのに反して、民間側は不名誉な「懲役刑」といった差別待遇(併合罪のためではあるが)が目立った。これについては、当時、弁護人側でも異論が出て、上訴すべしと意見もあったようだが、愛郷塾頭、橘孝三郎は全被告を代表して、
「 刑の軽重のごときはいまさら問うところではない。自分にあたえられた無期の判決は、青年将校の身代わりになり得たことと思われるのが光栄である。これより既知、未知の同志が将来、ぞくぞく起って国家革新に当たって下さるであろうと思う 」
と天晴れな男前をみせた。そして、全員が一審服罪の覚悟を明らかにした。この五・一五事件に関して、陸海軍当局が、ひそかにもっとも心配したのは、国家革新運動に参加する若い青年将校たちが、いわば世間知らずの血気盛んな純真な熱情から、大川周明(神武会頭)とか、本間憲一郎(紫山塾頭)とか、橘孝三郎(愛郷塾頭)とか、井上日召(血盟団)とか、いったような、民間のいわゆる職業的愛国運動家に煽動されたり利用されたりして、軽挙妄動して軍の威信を傷つけ、あるいは軍部独自の立場を危うくする恐れがあることだった。ことに陸軍首脳部としては、苦しい悩みがあった。前年の昭和六年に起こった三月事件では宇垣陸相を首班とする軍部政権を企て、さらに同年の十月事件では荒木中将(当時)をかつぐ軍政府の樹立を図るなど、一部の将官と有力幕僚と中堅将校の団体「桜会」(昭和五年九月結成)を中心とする軍部クーデター計画が続出していたやさきなので、たとえこの両事件が一応、未然に阻止されたとはいえ、それからわずか半年後に起こった五・一五事件に直面して、将軍連中が内心で愕然としたのはもっともであった。それは、軍部のクーデター計画と青年将校の反乱の陰謀とはたがいにからみ合って、いまや急進的な国家革新行動の底流は、刻々と全国的に青年将校層へひろまり、佐官級より尉官級へ、さらに尉官級より士官侯補生へと、まるで狂熱病のごとく伝染してゆく有様になったからだ。もはや、古い将軍連中の頭と力とでは、青年将校たちの血管に激流する反乱の熱情を押さえることはできなかったし、また、五・一五事件の反乱将校を寛大に扱ったことは、いっそう事態を悪化させるばかりだった。 
第三章 愛国大行進 / 神兵隊事件

 

犬養老首相を血祭りに上げて、政党内閣に最後の止(とど)めを刺した五・一五事件の恐怖と戦慄がまだすっかり消え去らず、なんとなくぶきみな不安と険悪な社会雰囲気が低迷していた昭和八年七月に、とつじょ、その名も奇怪千万な神兵隊事件が帝都に勃発した。もっとも、前年(昭和七年)の五・一五事件のように政府要人の暗殺、襲撃が実行されたわけではなくて、いわば大がかりな内乱計画の決行の直前に、警視庁の手で関係者多数の一斉検挙がおこなわれたので、大事にいたらず未然に防止された。しかし、新聞記事のさしとめによって、事件の内容はいろいろ臆測されて、早耳の新聞社内でも、「誇大なデッチ上げ」説と、想像以上に広汎な恐るべき「クーデター陰謀計画」(武力による政府打倒)説とが乱れ飛んだくらいであった。実際に、司法当局でも、関係者の取り調べの進行にともなって、しだいに明るみに出てきた事件の真相には、そうとう手を焼いたもようであった。それほど神兵隊事件は、奇怪、複雑をきわめて、その全貌がはっきりとつきとめられるまでには永い月日を要した。すなわち、昭和八年七月十日夜、警視庁特高課の総動員によって、東京代々木の明治神宮参道橋際の神宮講会館に、「国難打開、国防祈願」と称してひそかに集合中の前田虎雄、影山正治以下四十九名を一斉検挙し、さらに翌十一日朝までに鈴木善一以下多数を総検挙して神兵隊事件関係者を根こそぎにしてから、昭和十年九月十六日に東京刑事地方裁判所の予審終結決定にいたるまで、じつに満二ヵ年以上もかかっていた。しかも主要被告は全員、「内乱予備罪」として、大審院の特別裁判に付せられたが、昭和十二年十一月九日、その第一回公判いらい、回をかさねること百十六回におよび、その間に、国体明徴論争や裁判長忌避事件などいろいろ大波瀾をまきおこして、被告側の法廷闘争を有利に展開したあげく、昭和十六年三月十五日に、大審院法廷において意外にも全被告にたいして、「その刑を免除す」と無罪同然の判決が下るまで、まさに足掛け九年間を要した。これこそ、昭和動乱史の中でもとくに奇怪きわまる悪夢のような大事件の典型であった。まず、「神兵隊」と自称する民間決起部隊の構想もなかなか国粋的であり、また効果的であった。少なくとも、口の悪い社会部記者の間でも、なにか、神がかりな関心を高めたことは事実であった。これは後日、首謀者の被告の取り調べによって明らかにされたのであるが、神兵隊という名称の由来はつぎのようななかなか由緒あるもので、直接行動司令の前田虎雄が命名したものである。それは国学の大家藤田東湖以前の水戸学の重鎮であった会沢正志斎の詩に、「神兵之利」という言葉が使用されており、また彼の著『神論』にも、「天神之兵」という文字があるのを引用したものであった。その正志斎の文字の注釈によると、武器は元来、神のもので、平時はこれを神前にそなえ、有事のさいはこれを神の許しをえて取り出すべきであるというのである。前田はこの文字をとって、最初は大日本神兵隊と命名したのであったが、統率者の天野辰夫弁護士が日本の歴史と使命を論じて、「神兵は日本にこそありて、他の国にはないはずである」と主張したので、前田もその説を容れて大日本の三字を削り、ただ神兵隊と称することにしたのである。はからずも、事件から八年後に起こった太平洋戦争で、日本軍は皇軍あるいは神兵とみずから名乗って、大東亜各地へ進撃し、あるいは空中より挺身降下したのであった。かくて神兵隊の名称は昭和動乱史の中で、今日、すでに伝説化されているのだ。 

 

昭和八年といえば、すでに満州事変の二周年を迎えて、満州国は成立して、日本の承認によって日満一体の体制ゆ確立されたが、国際連盟は満州国不承認を決議した。また、この年にドイツではヒトラー内閣が成立、米国ではルーズベルト大統領が就任する一方、日本の国際連盟脱退など、まさに内外情勢はただならぬ波瀾の形勢をしめして、風雲急をつげつつあるようであった。もちろん、いますぐ世界動乱に火がつくとは、だれも思わなかったが、このまま進展したならば、軍国日本を中心とする東亜の情勢も、また、ナチス・ドイツを中心とした欧州情勢も、かならずや重大化することは識者の心配するところであった。しかし、正直にいうならば、この当時、日本の大新聞はすでに軍部に追従して、むしろ紙面を通じて非常時宣伝に協力することによって、かえってその発行部数を激増しているありさまであったから、満州事変以降、いわゆる言論と批判の自由は、知らず知らずのうちに放棄されつつあった。また、この昭和八年には、軍部の強力な別働隊として在郷軍人の国家主義運動への進出が目立ち、まず四月五日には、等々力(とどろき)森蔵陸軍中将を総裁として皇道会が結成された。その顔ぶれは、副総裁山下鋭八郎海軍中将、幹事長富家政市陸軍少将、顧間奥野英太郎陸軍中将その他、陸海軍の将星をつらね、また、五来欣造(ごらいきんぞう)博士と平野力三(りきぞう=日本農民組合)など右翼民間人もくわえて、いわゆる「兵農一致」の新政治体制を提唱し、全国府県に百個所の支部を設置して、宣伝運動に努めた。その宣言はつぎのようにきわめて激烈であり、また、その綱領もつぎのとおり、当時の軍国主義と国家革新主義とを大いに取り入れた、危機意識の時代色を濃く反映たものであった。今日からかえりみると、まことに大人げないような独りよがりの在郷軍人幹部の言動であった。当時、ひさしく社会より忘れられていたような旧軍人の老人や在郷軍人が、カビ臭い古い軍服を着用して、いわゆる「陽の当たる場所」に出現して気勢を上げはじめた光景を、私自身をはじめ若い新聞記者連中は、内心苦々(にがにが)しくは思いながらも、やはり軍国時代のカーキ色の従軍服と社名入りの腕章には誇りを感じて、勇躍して満支のニュース戦線へぞくぞく飛び出していったものだった。
「 宣言――「皇統三千年の光輝ある歴史を有する日本の現状は今や未曾有の危機に直面せり。すなわち国民生活はますます窮迫し、産業は停廃して、勤労大衆は餓死線上に彷徨(ほうこう)し、思想はますます悪化して極右極左ともに跳梁し、国民道徳は弛緩して軽佻浮華(けいちょうふか)の風は日に盛んとなり、列強は名を国際平和に藉(か)りて帝国の正当なる権益を抑圧せんとす。かくのごとくんば、皇国の前途は為に暗く、吾人の痛憤措(お)く能わざる所なり……(後略)」 綱領――皇道政治を徹底し、もって金甌(きんおう=黄金で作ったかめ)無欠なるわが国体の精華を発揮するを主眼とす。
一、既成政党の積弊を打破し、もって公明なる政治の確立を期す
二、資本主義経済機構を改廃し、国家統制経済の実現を期す
三、国民道徳の振興を図り、もって綱紀の粛正を期す
四、軍備を充実し、もって国防の完備を期す
五、国際正義を図り、世界資源の衡平を期す  」
すると、これに呼応するように、またこれと勢力を競うように、同年五月十六日に、田中国重(くにしげ)陸軍大将を総裁として明倫会(めいりんかい)が結成された。その理事には陸軍中将伊丹(いたみ)松雄、同二子石(ふたごいし)官太郎、海軍中将東郷吉太郎、伯爵山田英夫、元全権公使堀口九万一(くまいち)、同清水精三郎、法学博士大山卯次郎(うじろう)、実業家石原広一郎などの軍人と民間の有力者を網羅していた。みんな当時の有力者は、軍国時代のバスに乗り遅れまいとひしめいていた感がふかい。
「 (戦後の日本で、いわゆる当時の有力者たちがいずれも民主主義のバスに乗り遅れまいとひしめき合ったことを思いくらべてみると、まことに主義こそ異なれ、人間の心理は似ており、歴史はくり返す、との感ふかまるを禁じ得ない。将来、民主日本にふたたび軍国主義と国家主義が復活、再来しないとはだれも絶対に保証はできないであろう。もしも歴史の教訓を為政者が忘れたならば――) 」
この明倫会は資金も豊富で組識も強大であり、その政治、社会活動のために統制部長渡辺良三陸軍中将、政務部長匝瑳胤次海軍少将、宣伝部長二見甚郷(ふたみじんごう)元公使といった名士の顔ぶれをそろえていた。その綱領もつぎの通り、皇道会と大同小異ながら、もっと具体的であった。
「 綱領――一大難局に直面し徒(いたずら)らに袖手傍観するに忍びず、奮然蹶起し、明治天皇の御偉業を奉承恢弘(かいこう)し、聖恩の万一に酬い奉らん。
一、皇祖肇国の神勅を奉戴して天壌無窮のわが国体を尊重し、忠君愛国および献身奉公の至誠と道義的観念との普及徹底を期す
二、既成政党の積弊を打破して、天皇政治の確立、国家本位の政治の遂行を期す
三、退嬰追従外交を排して自主と正義とを基調とする外交を断行し、もって国威、国権の宣揚発展を図り、かつ大亜細亜主義の実現を期す
四、統帥大権の発動ならびに国際的軍備平等権を確保し、もって自主的国防の安固を期す
五、根本的行政、財政および統制の整理を断行し、かつ産業の振興、中正なる経済政策の遂行ならびに民族の海外発展によって国力の充実および国民生活の安定を期す 」
さらに同年十月十五日には、右翼の有力者たる小林順一郎海軍大佐を中心に、陸軍大将大井成元男爵、陸軍中将菊地武夫男爵、同浅田良逸男爵、同両角(もろずみ)三郎、同四王天延(しおうてん)孝、海軍少将南郷次郎、貴族院議員井田磐楠、同渡辺汀、同井上清純などの右翼議員たちの手で三六倶楽部泓結成され、全国の在郷軍人に強力に呼びかけて陰然たる大勢力を結集し、国家革新運動と国体明徴運動に拍車をかけた。(この三六倶楽部の名称は一九三六年の危機にちなんたちのであるといわれ、全国多数の会員に会報「三六情報」を配布していたが、昭和十三年一月に瑞穂倶楽部と改称した) こういう、物情騒然たる社会状勢を背景にして、神兵隊事件の破天荒な内乱計画がすすめられていたのだった。 

 

血盟団、五・一五事件についで首相官邸、警視庁の空爆、閣僚の暗殺、牧野内府邸、鈴木、若槻両総裁邸襲撃などを企てた民間側有志によるクーデター計画の神兵隊事件は、二年後の昭和十年九月十六日午前十一時に予審終結、決定書送達と同時に新聞記事の解禁となり、同日付の東京朝日新聞の号外は、つぎの通り驚くべき事件の全貌を報じて、天下を衝動させた。この新聞紙一ページ大の詳報号外は、当時、全国民にむさばるように読まれたものであった。それは、「『皇道維新』を標榜し、帝都動乱化の大陰謀、天野弁護士等五十四被告に『内乱罪』最初の適用」との五段ヌキの大見出しの下に、まず、司法当局の発表文を掲げていた。この原文は、いかなるスリラー小説よりも奇々怪々な事件の真相をはじめて明らかにしたものだった。
「 〔司法当局発表〕  「被告人天野辰夫外五十三名に対する殺人放火予備、爆発物取締罰則違反、被告人岩村峻外三名に対する殺人放火予備、被告人寺本久八に対する爆発物取締罰則違反事件は東京刑事地方裁判所予審に継続中であったが、本日、天野辰夫外五十三名の処為は刑法第七十八条(内乱の予備陰謀)に該当するをもって管轄違い。また岩村峻外四名の被告人については公判に付すべき嫌疑ありとして、東京刑事地方裁判所の公判に付する旨の予審終結決定があったが、本件の大要は次のごとくである」「被告人天野辰夫らは、かねてより現下のわが国は明治維新以後、欧米の物質文明と共に輸入せられた自由主義、個人主義、唯物主義の思想により政治、経済、法律その他社会諸般の組織制度が蠹毒(とどく)せられ、日本精神は忘却せられ、日本民族の将来は危殆に瀕し、一大改革を要するものと思考していた」「しかして、いわゆる血盟団、五・一五事件の同志があいついで蹶起したに拘わらず、政党、財閥、特権階級はますます相結び国家を紊(みだ)り国威を失墜したものと断定し、ロンドン条約の締結、国際連盟の脱退等により惹起せらるるものと予想すべき未曾有の国際的非常時局に直面し、皇国をこの危局より救い永遠無窮の発展を遂げしむるためには最後的に蹶起し、斎藤内閣を打倒し一挙に国家統治の中枢機構を破壊し、帝都を動乱化して戒厳令下に置き、大詔渙発を奏請して特異の内閣を組織し、皇道を指導原理として帝国憲法をはじめ国家統治に関する諸般の法律、制度、組織を根本的に改廃し、一君万民、祭政一致の天皇政治を確立し、神武肇国の皇政に復古し、いわゆる昭和皇道維新を断行し、もって憲法の大綱に一大変革を行なわんことを企てた」「その目的達成のため内閣総理大臣官邸における閣議開催時を期し、同志故海軍中佐山口三郎をして、飛行機により内閣総理大臣官邸および警視庁に爆弾を投下せしめ、これを合図に被告人前田虎雄を総指揮者とする地上部隊はそれぞれ数十名ずつ隊伍を組み内閣総理大臣官邸、警視庁、牧野内大臣、山本海軍大将、鈴木立憲政友会総裁、若槻立憲民政党総裁等の官邸または私邸、立憲政友会本部、立憲民政党本部などを襲撃してこれに放火し、かつ斎藤首相以下各大臣、藤沼警視総監等を殺害し、警視庁、日本勧業銀行等を占拠して本部となし、戒厳令施行に至るまでこれを死守し、もって政府顛覆その他朝憲を紊乱することを目的とし、暴動を起こさんことを企て、昭和八年五月ごろより諸般の準備を了したのである。(後略)」 」
今日、この司法当局の発表文を読んでみると、まことに荒唐無稽の架空の革命計画のように思われてならないが、実際に神兵隊事件は血盟団事件や五・一五事件と結合して、いわば、昭和暗殺時代の三部劇をなすものであり、当時の険悪な社会的雰囲気の中で、その「一殺多生」の奇怪な思想底流の根強さは驚くべきものがあった。なぜ、このような大規模な内乱的計画が企てられたのであろうか? 神兵隊事件は、血盟団事件および五・一五事件と同様に、当時の国家革新運動の合言葉であった「君民一致」の実現をめざして国家の大改造を企てたものである。血盟団の盟主井上日召は、錦旗革命事件(昭和六年三月事件と十月事件を指す)の首謀者、すなわち陸軍幕僚、中堅将校たちの独善的な態度と権力的な目的にあきたらず、昭和七年一月末に陸軍軍人側と手を切り、みずから「国家の捨て石」と称して血盟団を結んで、政界と財界の巨頭の一人一殺主義を実行したのであった。そして、彼が自首した後、その影響を受けていた海軍青年将校の手で、犬養首相暗殺の五・一五事件が決行されたわけだ。ところが、血盟団事件にせよ、五・一五事件にせよ、その期待していた「国家改造」も「昭和維新」もついに実現せず、すべて不成功に終わったので、井上日召と親交のあった熱血漢の天野辰夫弁護士はみずから乗り出して大規模な革命計画を決行する肚(はら)を決めた。彼は静岡県浜松の有名な日本楽器株式会社の元社長天野千代丸氏の長男で、大正二年に東京帝国大学独法科に入り、三年間病気休学の後、同八年に卒業して弁護士となり、また同十二年に法政大学教授となった。彼は大学時代から、天皇主義憲法の権威上杉慎吉博士に私淑(ししゅく)して国家主義運動に熱中し、同じ東大の内部で吉野作造博士の指導する左翼学生の新人会と対抗して学園闘争の先頭に立った。彼はいわば当時の右翼国家革新運動のインテリであり、熱烈な理論家兼闘士でもあった。大正十五年一月、第二次日本共産党が強力に指導した浜松楽器の大争議が起こるや、彼は父の会社を応援するというよりは、むしろ左翼勢力と大決戦を挑むために帰郷して、百五日間にわたり会社内に籠城して、悪化した争議団と猛烈に実力闘争を重ねて新聞紙面を賑わせた。かくて、彼の声望は愛国戦線に重きをなして、昭和四年から愛国勤労党を結成して軍国時代に大きくクローズアップされていた。神兵隊事件当時、彼は四十二歳の男盛りであった。では天野弁護士は、どうして宿望ならず下獄した井上日召の遺志を継いで革命計画を思い立ったのであろうか? それにはつぎのような宿縁があった。事実はまったく小説よりも竒なりの感がふかい。昭和七年二月から三月にかけて、井上準之助元蔵相と三井合名理事長団琢磨男爵の連続暗殺が決行されて、犯人の血盟団員小沼正と菱沼五郎両名が検挙され、一人一殺主義の暗殺計画の全貌が暴露されるや、盟主の井上日召はもはや身辺危うしと覚悟を決めて、潜伏中の東京市渋谷区常磐松(ときわまつ)の天行会道場内で割腹自殺を企てようとしていた。急報を聞いて、ひそかに駆けつけた天野弁護士は、彼一流の熱弁をふるって、
「 「まだ死ぬときではない。われわれはおたがいに偉大な目的を貫徹するまで、あくまで正々堂々と戦わねばならぬ。むしろ、いさぎよく自首して法廷で闘争すべきだ。われわれはかならず後につづいて決起するぞ――」と説き伏せた。 」
かくて、日召は天野の激励に感激して自決を翻意(ほんい)、同年三月十日に、当時、霞ヶ浦海軍航空隊に所属していた古賀清志海軍中尉(五・一五事件の主謀者)をたずねて後事を託した後、翌十一日、天野弁護士および親友の右翼団体、紫山塾頭本間憲一郎両名にともなわれて警視庁に自首したのであった。こんな関係から、天野は日招はじめ血盟団ならびに五・一五事件の同志、同憂の士を見殺しにはできず、みずから決起する覚悟をかためた。そして、同年五月、ただちに彼のもっとも信頼していた前田虎雄(神兵隊の行動隊司令となる)を上海より電報で呼びもどした。それから天野を中心に東京で極秘の協議を重わた結果、昭和維新の決行にあたり、「破壊」担当者がそのまま「建設」の任に当たるべきではない(これは三月事件および十月事件の軍部中心のクーデター計画の関係者の野心を戒めたものだ)、ということに一決し、前田はみずから捨て石となって、その「破壊」任務を担当することを内定した。もちろん、天野は「建設」を引き受けた。 

 

神兵隊の行動司令として決起、破壊計画を担当した前田虎雄は、まず、天野弁護士の主宰する合法団体の愛国勤労党に参加して中央委員となり、表面上はその資格で北海道、茨城、大阪各方面へひそかに遊説して、行動隊に投ずる青年同志の獲得に努めた。とくに彼は右翼愛国戦線の友誼団体たる皇国農民同盟、大日本生産党青年部、大亜細亜協会、神武会、大化会、国家社会党、大阪愛国青年連盟その他、国士館大学学生、敬天塾塾生などを動員しようと狙って、その代表者だちと連絡を図っていた。たまたま昭和七年夏、前田は紫山塾頭本間憲一郎の紹介状をたずさえて、当時、横須賀海軍工廠実験部長の山口三郎海軍中佐を訪ねて、大いに時局を論じ合って共鳴するところがあった。山口中佐は、わが海軍随一の空爆の名手であり、また国家革新の意気に燃えた熱血漢でもあった。前田はその後、数回も山口中佐と会見して意見を交わした結果、同中佐こそ「昭和維新」のために直接行動にくわわるべき重要人物であると確信するようになった。それで、翌昭和八年一月三日、前田は山口中佐を新年の挨拶をかねて訪ねて、はじめて神兵隊挙兵計画を打ち明けて助力を求めた。それは、もし山口中佐を味方に引き入れて帝都爆撃の大狼火(のろし)をあげることができたら、政府首脳をビックリ仰天させて、軍部の手で戒厳令の即時施行と革新政権の樹立を容昜ならしめるであろうと、途方もない内乱の夢想をしていたからだ。すると、相手の山口中佐は欣然として応じた。前田は大いに感激した。「よろしい、わしもできるだけの力を貸そう。その計画をまちがいなく成功させるためには、しかるべき有力な指導者を頼んだ方がよかろうね」「中佐! まことに有難く思います。中佐がわれわれの味方になって下さるならば、まさに千万人の味方ができたような力強さを感じます」 こうして、前田の手で早急に決起計画の腹案がつくられた。それによると、これまでの暗殺、反乱の計画が、ただ少数のピストルまたは爆弾と日本刀などにたよった破壊力の貧弱な点を非とし、思いきって警備当局の意表を衝いて、飛行機を使用して閣議開催中の首相官邸と警視庁と牧野内府邸に空中より爆弾を投下して粉砕する一方、これを合図に民間愛国、右翼団体の精鋭分子を出動させて空襲直後の首相官邸と警視庁を襲撃、占領させ、また市中の要府に放火して大混乱を起こせば、戒厳令はかならず施行されるにいたり、昭和維新の前提条件たる「破壊」の任務は達成される――というのであった。それで同年二月中に、前田は山口中佐とひそかに会見して、この大計画案を提示したところ、中佐は豪快そうに笑いながら、相手の真剣な顔を見つめるように答えた。「うん、それはなかなか、どうどうたる計画だね。しかし、警視庁の空爆は宮城が近いから、よほど慎重に考慮せねばならんよ」こうして、同年六月中に天野辰夫、前田虎雄、鈴木善一(青年行動隊の動員関係司令)など主謀者の手で練られた決起計画の最終案はつぎの通りで、その動員総数は三千六百名であった。
「 神兵隊第一次決行計画案
一、決行日時――昭和八年七月七日午前十一時(斎藤内閣閣議の日)
二、動員総数――三千六百名(ほかに飛行機一機)
三、決行方法――空爆、地上襲撃(ピストルおよび日本刀)、武器掠奪、放火
四、襲撃目標――首相官邸、警視庁、牧野内府邸、鈴木政友会総裁邸、若槻民政党総裁邸、故山本権兵衛伯邸、政民両党本部、裁判所(公判中の井上日召奪還)、社会大衆党本部、日本工業倶楽部、市中銃砲火薬店
五、事後行動――日本勧業銀行占拠ならびに籠城、対戦、戦死
六、主張宣伝――檄文撒布(空中ならびに地上)、幟(のぼり)大旗類による示威、襷(たすき)、腕章、鉢巻などによる愛国的表徴の染め抜き  」
なお、この計画によると、注目された山口中佐担当の帝都空爆用の海軍機は、爆弾を搭載して東京上空に飛来し、首相官邸、警視庁その他の目標にそれぞれ投爆し、また、空中から檄文を撒布したうえ、地上隊員の警視庁襲撃をまって、宮城前に着陸し、地上隊に合流するという予定であった。また、地上隊員は数隊に分かれて、一隊はピストルと日本刀をかざして首相官邸を襲撃し、もし閣僚中に生存者があれば、これを殺害する。他の一隊は同様に牧野内府邸を襲い、もし、空爆不完全とみれば、乱入して牧野内府を殺害するといった工合に、襲撃目標の人物と建物を殺害、あるいは占拠したうえ、麹町内幸町の日比谷公園前の日本勧業銀行本店の建物に立て籠(こも)り、その屋上より、「昭和維新決行、神兵隊」と大書した大白布を垂れ下げて、全市の警官隊を相手に戦って勇ましく討死を遂げようという筋書であった。かくて、昭和維新の第一段階の「破壊」の目的を達するや、ついで、第二段階の「建設」に移り、全市戒厳令の下で、全国民の信望を集めていた東郷平八郎元帥を中心に仰いだ補佐機関をともなう特別内閣に大命降下を期して、西園寺公を動かして、その下準備工作を行なう方針を決定していたそうだ。さて、神兵隊決起計画の首謀者の顔ぶれは別表の通りであった。いずれも血盟団の井上日召の流れをくむものであり、とくに山口三郎中佐が、井上の長兄で海軍航空隊の草分けである名パイロット、故井上二三雄(ふさお)中佐を敬慕していた後輩であったことは、まことに大空に結ばれた奇縁として、当時、新聞紙上に書き立てられたものだった。なお、右表の年齢はすべて昭和十年九月、予審終結のときの発表資料によるものであるから、昭和八年七月の事件当時には、各関係者ともこれより二歳ずつ若かったわけである。ところが、神兵隊の大規模な決起計画には首謀者たちの苦心と努力にもかかわらず、最初からいろいろな困難と無理がつきまとっていた。それは古今東西を通じて、革命計画の実行にともなう共通の悩みである資金難と武器の入手難であった。神兵隊事件の軍資金として実際に用意されたのは、総計六万二千円程度であったと司法当局ではみなしていた。また、この軍資金の一部を使用して、前田は関西方面の密輸ピストルの大量かき集めを図り、腹心の部下を大阪、神戸へ派遣したが、あいにく五・一五事件以来ピストルの密輸取り締まりが厳重になって入手できず、結局、第一次決行計画の七月七日までに調達した武器は、わずかにピストル(各種)十六梃、弾丸約七百発、その他に日本刀九十八本、木刀および短刀数十本、放火用の揮発油入り水筒十六個といった貧弱な有様であった。  

 

なぜ、神兵隊事件は決行直前に警察当局に探知されて、未然に一斉検挙されたのであろうか? それは計画があまりに大がかりで、しかも杜撰(ずさん)であったのみならず、首謀者たちの間でも即行論と慎重論(時期尚早論)が対立して動揺していたうえ、事件ブローカーの早耳を通じて秘密が漏れ、当局のスパイ網に情報が筒抜けにキャッチされたからだ。即行、急進派の天野、前田、山口中佐たちは、これを「最後的でかつ必勝的挙兵」とするために、まず、愛国学生連盟はじめ愛国諸団体数万名を動員して、東京市内で一週間にわたる「愛国大行進」の示威運動を行ない、一般国民大衆の愛国熱を煽動したうえ、大行進の最終日にあたる決行当日には、日比谷公園に決死隊三、四百名を待機させて、空爆を合図に一斉決起させる計画だった。しかし、その実行が困難のため、次第に計画を縮小して前述の第一次計画に決定したが、これまた直前に幹部の意見対立と武器不足のために延期された。そして、第二次計画(動員四百名予定)が立てられ、いよいよ七月十一日に決行ときまったところが、その前夜に集合中を一網打尽になってしまった。では、帝都空爆の大任を担った山口中佐はいったい、どうしたか? 彼は当時、七月中旬に行なわれる海軍特別大演習に参加するため、横須賀航空隊実験部長から臨時第二航空隊司令に補せられたが、横須賀より千葉県館山に移り、決行日の到来するのを待ちかまえていた。
彼は細心の注意をはらって空爆実施計画をたびたび練りなおし、決行当日には爆弾投下後、代々木練兵場に着陸、ただちに自動車を駆って明治神宮前に集結、進発した地上隊に追いつき参加することに決めていた。ところが、待望の七月七日は延期され、さらに七月十一日未明に、行動隊司令前田以下、一斉検挙の急報を電話によって東京の同志から知らせてきたので、山口中佐は失望落胆して、予定の行動を中止し、そのまま連合艦隊とともに洋上の演習へ出動してしまった。一方、神兵隊の中心人物たる天野弁護士と安田陸軍中佐は、連絡不十分のためにこの中止事情を知らなかったので、十一日午前十一時を期して空爆が決行されるものと信じていた。安田中佐は軍資金を提供した内藤へわざわざ決行時間を電話で予報したうえ、みずから麻布霊南坂の上で空を仰いで海軍機の飛来を待っていた。一方、天野は世田谷の自宅の窓から、これまた空ばかり眺めていたそうだ。まったく笑えない悲喜劇――神兵隊事件のみじめな終幕であった。この事件が、戦前の刑法ではじめて内乱予備罪を適用された理由は、当時の司法当局の発表によると、「五・一五事件と異なり、神兵隊事件は破壊と建設の両計画を立てており、その後者は憲法を停止して政治、経済、社会の諸機構を根本的に変革して、君民一致の国家たらしめんとするものであるから、これは朝憲の紊乱(びんらん)に該当する」というのであった。ところが、大審院の特別裁判の判決理由はつぎのとおり、まことに太平洋戦争の開戦直前の軍国時代の時勢におもねったのか、奇怪至極なものであった。今日より公正に考えてみると、じつに裁判の神聖なる権威とは、いつの時代にもあまり当てにならぬもののような気持がしてならない。それほど時代の嵐の圧力は強大なものだといえるだろう。(ただし事件当時から、戦後の今日にいたるまで、神兵隊事件は職業的革命家の天野弁護士が仕組んだ複雑巧妙な芝居で、もともと実現の可能性はきわめて薄く、かえって警視庁当局に利用されて誇大にデッチ上げられたものだという見方があるのは、注目される)
「 ――内乱罪の成立には朝憲紊乱の目的あるを要す。しかして刑法にいわゆる朝憲紊乱とは、皇国の政治的基本組識を不法に変革することをいうものにして、朝憲紊乱の一として刑法に例示せらるる政府の転覆もまたこの意義に解すべく、したがって、単に時の閣僚を殺害して、内閣の更迭を目的とするに止まり、暴動によりて直接に内閣制度その他の朝憲を不法に変革することを目的とするものに非ざるとき、朝憲紊乱の目的なきものとして、内乱罪を構成せざるものと解すべし 」
「 ――被告人らは皇国諸般の制度の改廃を一に天皇の大権の発動にまつべきものとなし、承詔必謹(しょうしょうひっきん)を以て臣道とし、民意強行の意図のごときは毫末もこれを有せず。(中略)
皇運を扶翼し奉らんことを念願したるものにして、被告人らは暴動により内閣制度を破壊し、その他憲法および諸般の制度を不法に変革することを目的としたることは、とうていこれを認め難し、したがって、本件暴動計画は内乱予備罪を構成せざるものといわざるべからず 」
今日、この判決文を読んでみると、じつに軍国調百パーセントの名文(?)のような気持がするが、当時のまさに噴火山上の軍国日本の社会的雰囲気を正直に反映したものとして、歴史的興味はふかい。かくて、全被告の犯罪内容は九年前の起訴当時の振り出し点にもどって、放火および殺人の予備罪に該当するものとみなされたが、「その動機、原因ならびに目的において大いに憫諒(びんりょう=あわれみ)すべきものがあり、かつ本件発生後におげる皇国内外のいちじるしき事情の変更その他、諸般の情状にかんがみて」、ついに有罪ではあるが、その刑を免除されたわけである。求刑では、首謀者天野は禁錮五年、前田は同四年、安田中佐は同四年、鈴木は同三年、影山と中島は同各二年六ヵ月、その他の被告は一年ないし二年の禁錮刑であったが、すべて非常時体制下の情状酌量によって神兵隊事件は御破算となり、右翼陣営は拍手喝采をしてこの名(?)判決を迎えた。 
第四章 戦ナキ平和ハ天国ノ道ニ非ズ / 青年将校と北一輝の思想

 

昭和日本の宿命ともいうべき動乱の歴史はすでに述べてきたように、血なまぐさい暗殺と恐ろしい反乱によってまことにすさまじく飾られ、むごたらしく彩られているが、この動乱の道をふり返ってみると、昭和六年から昭和十一年にわたるわずか足かけ六年の間に、九つの歴史的な重大事件が昭和日本の方向をしめす里標として残されている。この短い期間に自由日本は軍国日本へ大きく極石の急旋回をして、政党政治は軍部専制へ切りかえられ、昭和維新の名の下にいわゆる「尊皇討奸(そんのうとうかん=天子を敬い悪を討つ)」と「米英撃滅」の戦争への道を突進したのであった。同じ天皇制の下にありながら、たった六年間で、昭和日本の大改造が断行されたのは、この九つの重大事件の政治的ならびに社会的影響力が、いかに深刻なものであったかをしめすものであろう。
この九つの里標とは、つぎの通りである。
「 一、三月事件(昭和六年) 二、十月事件(同年) 三、血盟団事件(昭和七年) 四、五・一五事件(同年) 五、神兵隊事件(昭和八年) 六、十一月事件(昭和九年) 七、国体明徴、天皇機関説排撃事件(昭和十年) 八、永田鉄山中将殺害事件=相沢中佐事件(同年) 九、二・二六事件(昭和十一年) 」
このように、昭和動乱のものすごい火の手は、明治維新当時のほかには近代日本史上で決して見ることができないような猛烈なものであり、いっさいの障害も反対もたちまち焼きはらう勢いであった。そのクライマックスは、雪の朝の大反乱、二・二六事件であり、それから以後の日本は、まったく軍部の意のままに戦時体制を急速にととのえて、ついに五年後に太平洋戦争へ突入したわけである。しかし、今日より回顧してわれわれが見落としてならない点は、この昭和初期の六年間に日本の国内が暗殺と反乱によって血ぬられていたとき、国際情勢もまた大きくゆらいでいたことである。すなわち米国の金融大恐慌(一九三一年)とフランス大統領ドウーメル暗殺(一九三二年)、大海軍主義者のルーズベルト米大統領の当選(一九三二年)、ヒトラーの政権獲得(一九三三年)、オーストリア首相ドルフス暗殺(一九三四年)、エチオピア戦争(一九三五年)、スペイン内乱(一九三六年)というふうに重大な事件があいついで起こり、戦争の危機を予報する赤信号の下に全世界は騒然としていた。要するに目本の危機は、はからずも世界の危機に通じ、また、世界の風雲は東亜の戦雲に反映されていたともいえるであろう。こう考えてみると、昭和日本のいたましい悲運もまた、世界の宿命に相通ずるものがあるであろう。なぜならば、戦争はかならず相手を要するものであり、決して日本の軍部だけでひとり相撲はとれないからである。日本の国内で暗殺と反乱によって、軍部が「天皇親政」とか「昭和維新」の美名の下に戦争準備に努力していたとき、はるか遠い欧州の天地では、ナチ党(国家社会党)を率いてドイツに独裁政権を確立したヒトラー総統が、同じような暴力と煽動によって、ベルサイユ体制打破と大ドイツ帝国建設のためひそかに戦争準備をすすめていた。  

 

ところで、昭和動乱の原動力となった日本の軍部と青年将校と民間愛国団体は、いったい、いかかる日本の革新を意図していたのであろうか? また当時、軍国日本の合言葉となっていた「昭和維新」とか「国家改造」という言葉は、いったい、どんな具体的内容を持っていたのであろうか? さらにまた、一人一殺をめざした血盟団の同志や、五・一五事件の青年将校たちは、いかなる「皇国日本」の理想像を夢に描いていたのであろうか。それはひと口にいって、きわめてアイマイなものであった。なるほど、歴代政府の失政と政党の堕落、官僚の腐敗と財閥のあくどいヤミ取り引き、農村の窮乏などが、昭和日本の醜く歪んだ姿として、正義感と愛国心の旺盛な若い青年将校や士官候補生や大学生の目に映り、彼らの怒りを爆発させたことは明らかである。また、軍部の長老や、いわゆる佐官級の幕僚連中も、大正末期より国内に吹きまくった軍縮の冷たい風を身にしみて感じて、長いあいだ世間に出ても肩身の狭い思いをしていたことをまだ忘れていなかっただけに、いまや昭和動乱の黒い旋風に便乗して軍国時代の到来を迎えて、大いに一陽来復の快心の笑みをもらしていた気持もよくわかる。しかしながら、一般の軍人にとっては、ただ満州事変(昭和六年九月)の勃発以来、にわかに軍務が忙しくなり、異動や進級がはげしくなって、はなはだ活気づいてきた以外には、格別な言動の変化はみられなかった。彼らはすべて軍人勅諭(明治十五年一月四日、とくに明治天皇より軍人に賜わりたる日本軍人の根本精神の聖典)の中に明記された「朕(ちん)は汝ら軍人の大元帥なるぞ、されば朕は汝らを股肱(ここう)と頼み汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親さは特に深かるべき……」という天皇の言葉を有難く拝誦して、いわばその本分をよく守り、「世論に惑わず、政治に拘(かかわ)らず」(軍人勅諭第一条)、全国の任地で日夜、その職務に精励していたものだ。ところが、中央の陸軍省や参謀本部の要位についていた佐官級の幕僚連中、すなわち陸軍大学校を卒業して将来の軍部中枢を約束されていた連中は、いずれも秀才ぞろいで頭脳もよかった代わりに、野心も根強いものがあった。彼らは軍服の胸につけた天保銭型の陸大マークを誇って、皇軍の将来をになうものと自他ともに任じていた。彼らはみずから軍国日本のエリートをもって任じていたので、この千載一遇の絶好のチャンスを利用して、腐敗した政治家の政党政治にとって代わり、「天皇親政」の下に軍人政治を確立しようとひそかに企てたのである。それは軍人勅諭の中に述べられた「朕の股肱」(天皇の一番頼りにする部下の意)であるという軍人独特の優越感の現われであり、また、「帝国軍人」のみ強く正しいという偏狭な独善的正義感も大いにはたらいていたようである。この野心満々たる幕僚連中は、まず軍部の長老をかついで、「昭和維新」の大義名分の下にクーデターの陰謀をひそかに計画した。それが、いわゆる三月事件と十月事件の正体であった。しかし、軍部の長老と呼ばれた将軍連中の多くは、たいてい口先は強硬でも、内心は優柔不断の日和見(ひよりみ)主義者であって、いわゆる国難打開のためにみずから「昭和維新」の捨て石とならんとするような勇猛心も烈々たる気魄も欠けていた。ただ長年の上官のよしみとして、少壮気鋭の幕僚連中から、「閣下、閣下」と呼ばれてかつがれたら、決して悪い気持はしなかったのだ。一方、尉官級のいわゆる青年将校たちは、同じ「昭和維新」の合言葉の下に結集しながら、その純真な気持は、いわば天下乗っ取りを策する幕僚連中よりはずっと真剣であり、また人生の苦労も経験も足りないだけに、その必死、必殺の言動は神がかりで強烈なものがあった。このような青年将校の精神と感情をもっとも端的に現わしたのは、五・一五事件で首相官邸を襲撃した一味の中の陸軍士官学校本科生後藤映範(当時二十三歳)が軍法会議法廷で供述したつぎの心境であろう。
「 ――君国のために死ねる軍人をつくるのが根本の大精神であると思っています。国家革新のために慷慨(こうがい)、楽しんで死におもむいたのはこのためであります。もう一つの影響は維新志士、烈士の言行であります。私は烈士に対しては宗教のごとき信仰を持つようになり、志士の歴史は私にとって経典のような感じがしています 」
「 ―― 一君万民、天皇は国家意思の代表者であらせられる。したがって、これより生まれた忠君愛国、また家長中心の宗族制度、これが国体の特徴である。宇宙の大原則、生命道は惟神(かんながら)の道であり、これは祖先によって完成された。日月の運行、昼夜の別、風吹き雨降ろ生命現象は一定不変で間違いがない。これみな天の徳である。天の誠である。惟神の道は生命の大法則である。生命の大法則は誠の道である 」
彼は若年ながら、士官学校では同級生より、「昭和の松蔭」と呼ばれ、つねに愛読していた本は、北一輝著『日本改造法案大綱』、徳富蘇峰著『日本国民読本』、権藤成卿著『自治民範』、大川周明著『日本的言行』といった、いわゆる昭和維新の教典であったといわれる。また彼の盟友で、同じく五・一五事件の行動隊に参加した陸軍士官候補生の吉原政巳(当時二十三歳)もまた、国家改造運動にくわわった動機と、昭和維新に対する決意を、法廷で、つぎの通り明らかにした。
「 ――将校となって壮丁(そうてい=20歳で徴兵検査を受ける若者)を教育するには、まず国体の研究が必要であると思い、その研究に没頭しました。大西郷(隆盛)の、『名もいらぬ、金もいらぬ、名誉もいらぬ人間ほど始末に困るものはない』という遺訓には深く心を打たれました。坂本龍馬はかって西郷は馬鹿な奴だと評したが、非常時日本の要求するのは偉い奴ではなくて、この馬鹿な奴であります 」
これが若い血気さかんな青年将校の描いた昭和維新の夢であり、彼らはみずから生命を国家改造の直接行動に捧げて、幕末の烈士と明治維新の志士の遺志を継ぐつもりであった。  

 

その当時、全国の青年将校の間でもっとも熱狂的に愛読されて、ものすごい共鳴と深い共感をあたえていたのは、昭和動乱史上にもっとも奇怪な足跡を残した天才革命家・北一輝(きたいつき、本名、北輝次郎、明治十六年、新潟県佐渡郡生まれ)が熱血をこめて書き下ろした『日本改造法案大綱』一巻であった。もっとも、天皇中心主義と日本主義の理念については、明治、大正、昭和の三代を通じて徳富蘇峰がいちばん熱心に提唱してきたから、軍人の間では、だれでも敬意を表していた。しかし、彼はいわば日本学の長老であり、天皇主義の大記者ではあったが、つねに筆先で大抱負を説くばかりで、みずから国家革新の烈火の中へ身を投ずる献身、熱情の革命家ではなかった。それゆえ、彼の言葉はたとえば『昭和国民読本』の中で、つぎのように雄弁に昭和維新の由来を説いてはいるか、いかにも得意の漢文調の抽象論に終始している印象がふかい。したがって、直情径行の青年将校たちは蘇峰学人の門を叩くことなく、むしろ中国革命運動で鍛えられた上海帰りの実行力百パーセントの怪人物、北一輝のもとへ熱心に出入りしていた。
「 徳富蘇峰の『昭和国民読本』 「もし明治、大正、昭和の三代を一言にして尽くさば、明治は始め、大正は守り、昭和はこれを遂ぐ。昭和御代の任務は、明治皇政維新の大目的を徹底的に成就するにあり。その大目的とは、皇室中心主義をもって国内を統一し、一君万民の実を挙げ、統一したる国力を挙げて、皇道を世界に宣揚することである。しかしてその第一程は実に東亜の興隆に存す」 」
「 日本国は神の産みたまいし国にして、日本国は神裔(しんえい)の統治したまう国である。ゆえに日本国は神国である。神の産みたまいし国とは、かならずしも論理的に、物理的に、科学的に言うのではない。日本は国としての存在が、実にわが皇祖神に因りて出で来ったというのである。もしその証拠をしめせといわば、万世一系の皇統がそれである。今上天皇より神武天皇に遡り、神武天皇より神代に遡る。しかして、その原頭が、すなわち日本国の生産せられたる神代の創始だ 」
「 われらは、皇道の世界化をもって、天から日本に命ぜられたる天職と心得て、猛然その事に任ぜねばならぬ。これがすなわち、明治維新、開国進取の皇謨(こうぼ=天皇が国家を統治する)である。これがすなわち神武肇基(じんむちょうき=神武は日本の建国)、八紘一宇(はちこういちう)の聖猷(せいゆう=天子のはかりごと)である 」
こんな調子では、革命行動への煽動力は稀薄で生ぬるい。ところが、北一輝の『日本改造法案大綱』は、さすがに、全国の青年将校たちの愛国心を烈しくゆさぶり、昭和維新の大目標をはじめて具体的に明示しただけに、国家革新の恐るべき迫力と煽動効果を発揮した。それは当時、昭和維新の教典と呼ばれたのにふさもしく、直接行動によって現状を打破した破壊の後に、はじめて実現されるべき天皇親政の皇国日本のもろもろの姿をきわめて詳細に規定して、在来の抽象的な日本主義国家革新運動のめざす理想像を、大胆にもなまなましく具象化したものであった。それは輝かしい悪夢のようなものだった。それゆえ、同じ軍人でありながら、純真な若い青年将校たちは、北一輝にたちまち心酔して師事したのに反して、中年の幕僚連中は、彼を軍部を利用する民間の職業的革命家として憎み、さらに軍部長老将軍連中は、彼を危険な天皇制共産主義者とみなして青年将校を煽動する革命企図を恐れたものであった。それほど、北の『日本改造法案大綱』の内容はショッキングなものであった。彼が上海の病院で、高熱にうなされながら、しかも四十日間も断食したあげくに、この超怪文書ともいうべき長い原文をまるで神がかりのような有様で一気呵成(いっきかせい)に書きあげたのは、大正八年(一九一九年)八月であった。そして彼は、全文の最後につぎのごとく書き添えると、バッタり病床に倒れて昏々と深い眠りに落ちたといわれる。
「 ――日本国民ハ速ヤカニ、コノ日本改造法案大綱ニ基ヅキテ、国家ノ政治的、経済的組織ヲ改造シ、以テ来ルペキ史上未曾有ノ国難ニ面スペシ。日本ハ亜細亜(アジア)文明ノ希臘(ギリシャ)トシテ、スデニ強露波斯(ペルシャ)ヲ『サラミス』ノ海戦ニ破砕シタリ。支那、印度七億民ノ覚醒(かくせい=目覚め)、実ニコノ時ヲ以テ始マル。戦ナキ平和ハ天国ノ道ニ非ズ 」
その翌年――大正九年早々、彼は「支那よりも日本が危ない」と心配して上海より東京へ引きあげて来たが、彼のカバンの中には畢生の心血をこめて綴った『日本改造法案大綱』の原稿が秘められていた。それは間もなく猶存社(ゆうぞんしゃ=大川周明博士と北一輝を中心とする右翼愛国団体)同人有志の手によって、騰写版刷りで数百部が秘密出版され、各方面へ配布されたが、同年一月末に内務省警保局より不穏文書として頒布を禁止された。しかし、それはかえって彼の声名を国家革新陣営の間に高めた。とくに『日本改造法案大綱』の騰写版刷り原文は、年がたつにつれてつぎからつぎへと複写されて、全国の愛国団体同志と青年将校の間でむさぼるように愛読されたといわれる。それはいわゆる怪文書の王座を占めるものであった。その後、大正十二年五月に、「国家改造行程の手段、方法」など、不穏個所を削除したりえで公表を許可され、改造社より小型の売本(一部一円)が刊行された。さらに大正十五年一月に、彼は愛弟子で革命ブローカーと呼ばれた西田税に、この版権をゆずり、第三次の印刷頒布が行なわれた。しかし、この新版もまた削除と伏せ字の多いものであったから、昭和動乱時代に入るや、青年将校の間のみならず、広く政界や財界や新聞社方面にまで秘密出版の完本が一部数十円の破格の高価で、しかも十部、二十部と取りまとめて右翼団体の手でひそかに頒布されて、革新運動の資金稼ぎに大いに利用されたのは皮肉な現象であった。それはいわば、軍国時代の怪文書のベストセラーであった。当時、朝日新聞の社会部記者であった私もまた、ある有力実業家の手を通じて、伏せ字のまったくない全文二百七頁(騰写版刷りの初版原本)の『日本改造法案大綱』のほかに、同じく北一輝の執筆した『支那革命外史』序文「ヨッフェ君に与うる公開状」『国体論及び純正社会主義』序文などの有力な参考論文を収録した大冊の秘密出版(本邦文タイプ印字)を入手して通読、強烈な衝動をうけた。この本は今日、貴重な資料文献として私の書棚におさめられている。 

 

では、この昭和動乱の原動力とはいわずとも、最大の煽動力となった北一輝の『日本改造法案大綱』の眼目はなんであったろうか? 彼はその序文の中でつぎの通り叫んでいる。それは同じ軍人でも、みずから生命を投げ出して昭和維新の捨て石たらんと念願する青年将校たちに感激の天啓をあたえたが、陸大出の特権を自負した出世主義と権勢欲の幕僚連中や保守反動の将軍連中にとっては、共産主義革命の色彩の強烈な禁断の書であった。彼らにとっては、北一輝が若い青年将校を煽動して悪用する恐るべき危険人物に見えたのだ。
「 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患、竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ワレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権、軍権、財権ヲ私セルモノハ、タダ龍袖(天皇の庇護)ニ隠レテ徨々(きょうきょう)ソノ不義ヲ維持セントス。而シテ外英米独露コトゴトク信ヲ傷ケザルモノナク、日露戦争ヲ以テ漸ク保全ヲ与エタル隣邦支那スラ酬ユルニ却ッテ排侮(はいぶ)ヲ以テス。真ニ東海粟(アワ)島ノ孤立、一歩ヲ誤ラバ宗祖ノ建国ヲ一空セシメ、危機誠ニ幕末維新ノ内憂外患ヲ再現シ来レリ 」
「 タダ天佑(てんゆう)六千万同胞ノ上ニ炳(へい=明らか)タリ。日本国民ハ須(すべから)ラク国家存立ノ大義卜国民平等ノ人権トニ深甚ナル理解ヲ把握シ、内外思想ノ清濁ヲ判別採捨スルニ一点ノ過誤ナカルペシ。欧州諸国ノ大戦(第一次大戦)ハ天ソノ驕侈(きょうし)乱倫ヲ罰スルニノアノ洪水ヲ以テシタルモノ。大破壊ノ後ニ狂乱狼狽スルモノニ完備セル建築図ヲ求ムペカラザルハ勿論ノコト、コレト相反シテ、我ガ日本ハ彼ニ於イテ破壊ノ五ヵ年ヲ充実ノ五ヵ年トシテ恵マレタリ 」
「 彼ハ再建ヲ言ウベク、我ハ改造ニ進ムベシ。全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ、天ノ賞罰カクノ如ク異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スペキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ、終ニ天皇ヲ奉ジテ速ヤカニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルペカラズ 」
このように、北一輝の文章は古くさい漢文調ながら、なにかしら教祖的な説得力と神秘性が秘められていて、しかも、つぎの本文のようにきわめて明確に、昭和維新の断行すべき国家改造のもろもろの姿を指示していたから、読者の印象は痛烈であった。青年将校たちが狂喜したのもムリはなかった。これまで、いかかる日本学の学者も右翼の革新運動家も急進的な軍人も、みんな奥歯にもののはさまったようなアイマイな調子でごまかしてきた「天皇親政」のあり方と、国家革新の進め方を、彼ははじめて思いきって大胆不敵にも天下に堂々と発表したわげである。その反響がいかに深刻であり、その影響がいかに広汎におよんだか、今日よりかえりみても想像に難くはない。そして天皇制のつづく限りは、彼の「日本改造」の構想は現在も将来も注目の価値があるだろう。いわゆる今日の天皇制の民主化が、当時の北一輝の天皇制の国民化の考え方にもおよばないのはいったい、どういうわけであろうか? また今日、この『日本改造法案大綱』を読んで耳の痛い人々が、宮中にも政府にもさぞ多いことであろう。
「  巻一 「国民ノ天皇」
憲法停止――天皇ハ全日本国民卜共二国家改造ノ根基ヲ定メソガタメニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間、憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。
(注) クーデターヲ保守専制ノタメノ権力濫用卜速断スルモノハ歴史ヲ無視スルモノナリ。
ナポレオンガ保守的分子卜妥協セザリシ純革命的時代ニ於テクーデターハ議会卜新聞ノ大多数ガ王朝政治ヲ復活セントスル分子ニ満チタルヲ以テ、革命遂行ノ唯一道程トシテ行イタルモノ。
マタ現時、露国革命ニ於テ、レーニンガ機関銃ヲ向ケテ妨害的勢カノ充満スル議会ヲ解散シタル事例ニ見ルモ、クーデターヲ保守的権力者ノ所為卜考ウルハ甚シキ俗見ナリ。
日本ノ改造ニ於テハ、クーデターハ必ズ国民ノ団集卜元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ。
天皇ノ原義――天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義ヲ明ラカニス。
コノ理義ヲ明ラカニセンガタメニ、神武国祖ノ創業、明治大帝ノ革命ニ則リテ宮中ノ一新ヲ図リ、現時ノ枢密顧問官ソノ他ノ官吏ヲ罷免シ以テ天皇ヲ補佐シ得ベキ器ヲ広ク天下ニ求ム。
天皇ヲ補佐スベキ顧問院ヲ設ク。顧問院議員ハ天皇ニ任命セラレ、ソノ人員ヲ五十名トス。
顧問院議員ハ内閣会議ノ決議及ビ議会ノ不信任決議ニ対シテ天皇ニ辞表ヲ捧呈スベシ。
但シ内閣及ビ議会ニ対シテ責任ヲ負ウモノニ非ズ。
(注) 現代ノ宮中ハ中世的弊害ヲ復活シタル上ニ欧州ノ皇室ニ残存セル別個ノソレ等ヲ加エテ、実ニ国祖建国ノ精神タル平等ノ国民ノ上ノ総司令者ヲ遠ザカルコト甚シ。
明治大帝ノ革命ハコノ精神ヲ再現シテ近代化セルモノ。シタガッテ同時ニ宮中ノ廓清ヲ決行シタリ。
コレヲ再ビスル必要ハ国家組織ヲ根本的ニ改造スル時、独リ宮中ノ建築ヲノミ傾柱壊壁ノママニ委スル能ハザレバナリ。
華族制廃止――華族制ヲ廃止シ、天皇卜国民トヲ阻隔シ来レル藩屏(はんぺい=垣根)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ラカニス。
貴族院ヲ廃止シテ審議院ヲ置キ、衆議院ノ決議ヲ審議セシム。審議院ハ一回限リトシテ衆議院ノ決議ヲ拒否スルヲ得。審議院議員ハ各種ノ勲功者間ノ互選及ビ勅選ニヨル。
普通選挙――二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権を有ス。地方自治会モマタコレニ同ジ。女子ハ参政権ヲ有セズ。
国民自由ノ回復――従来、国民ノ自由ヲ拘束シテ憲法ノ精神ヲ毀損セル諸法律ヲ廃止ス。
文官任用令、治安警察法、新聞紙条例、出版法等ナリ。
国家改造内閣――戒厳令施行中、現時ノ各省ノ外ニ、下掲ノ生産的各省ヲ設ケ、サラニ無任所大臣数名ヲ置キテ改造内閣ヲ組織ス。
改造内閣員ハ従来ノ軍閥、吏閥、財閥、党閥ノ人々ヲ斥ケテ、全国民ヨリ広ク偉器ヲ選ビテコノ任ヲ当ラシム。
各地方長官ヲー律ニ罷免シ国家改造知事ヲ任命ス。選任ノ方針上ニ同ジ。
国家改造議会――戒厳令施行中、普通選挙ニヨル国家改造議会ヲ召集シ、改造ヲ協議セシム。
国家改造議会ハ天皇ノ宣布シタル国家改造ノ根本方針ヲ討論スルコトヲ得ズ。
皇室財産ノ国家下付――天皇ハ親(ミズカ)ラ範ヲ示シテ、皇室所有ノ土地、山林、株券等ヲ国家ニ下付ス。皇室費ヲ年額三千万円トシ国庫ヨリ支出セシム。但シ時勢ノ必要ニ応ジ議会ノ協賛ヲ経テ増額スルコトヲ得。
(注) 現時ノ皇室財産ハ徳川氏ノソレヲ継承セルコトニ始マリテ、天皇ノ原義ニ照スモ、カカル中世的財産ヲトルハ矛盾ナリ。国家ノ天皇ハソノ経済モマタコトゴトク国家ノ負担タルハ明白ノ理ナリ。 」
ではもう少し、『日本改造法案大綱』を展望してみよう。読者諸君もさぞ珍しい興味をそそられることであろう。
「  巻二「私有財産限度」
私有財産限度――日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ一百万円トス。
海外ニ財産ヲ有スル日本国民モマタ同ジ。
コノ限度ヲ破ル目的ヲ以テ財産ヲ血族ソノ他ニ贈与シ、マタハ何等カノ手段ニヨリテ他ニ所有セシムルヲ得ズ。
(注) 限度ヲ設ケテ一百万円以下ノ私有財産ヲ認ムルハ、一切ノソレヲ許サザラソコトヲ終局ノ目的トスル諸種ノ社会革命説卜社会及ビ人生ノ理解ヲ根本ヨリ異ニスルヲ以テナリ。
個人ノ自由ナル活動マタハ享楽ハコレヲソノ私有財産ニ求メザルベカラズ。
私有財産限度超過額ノ国有――私有財産限度超過額ハスペテ無償ヲ以テ国家ニ納付セシム。
コノ納付ヲ拒ム目的ヲ以テ現行法律ニ保護ヲ求ムルヲ得ズ。
若シコレニ違反シタルモノハ、天皇ノ範ヲ蔑ニシ国家改造ノ根基ヲ危クスルモノト認メ、戒厳令施行中ハ天皇ニ危害ヲ加ウル罪及ビ国家ニ対スル内乱ノ罪ヲ適用シテコレヲ死刑ニ処ス。
(注) 違反者ニ対シテ死刑ヲ以テセント言ウハ、必シモ希望スルトコトニ非ズ。
マタモトヨリ無産階級ノ復讐的騒乱ヲ是非スルニモ非ズ。実ニ貴族ノ土地徴集ヲ決行スルニ、大西郷卿ガ異議ヲ唱ウル諸藩アラバ一挙、討伐スペキ準備ヲナシタル先哲ノ深慮ニ学ブベシトスルモノナリ。
二、三十人ノ死刑ヲ見バ天下コトゴトク服セン。
改造後ノ私有財産超過者――国家改造後ノ将来、私有財産限度ヲ超過シタル富ヲ有スルモノハソノ超過額ヲ国家ニ納付スベシ。
国家ハコノ合理的勤労ニ対シテ、ソノ納付金ヲ国家ニ対スル献金トシテ受ケ、明ラカニソノ功労ヲ表彰スルノ道ヲ取ルペシ。コノ納付ヲ避クル目的ヲ以テ血族ソノ他ニ分有セシメ、マサニ与スルヲ得ズ。
違反者ノ罰則ハ、国家ノ根本法ヲ紊乱スルモノニ対スル立法精神ニ於テ別ニ法律ヲ以テ定ム。
在郷軍人団会議――天皇ハ戒厳令施行中、在郷軍人団ヲ以テ改造内閣二直属シタル機関トシ、以テ国家改造中ノ秩序ヲ維持スルト共ニ、各地方ノ私有財産限度超過者ヲ調査シ、ソノ徴集ニアタラシム。在郷軍人団ハ在郷軍人ノ平等普通ノ互選ニヨル在郷軍人団会議ヲ開キテ、コノ調査徴集ニ当ル常設機関トナス。
(注) 在郷軍人ハカツテ兵役ニ服シタル点ニ於テ国民タル義務ヲモットモ多大ニ果シタルノミナラズ、ソ ノ間ノ愛国的常識ハ国民ノ完全ナル中堅タリ得ベシ。
且ツソノ大多数ハ農民卜労働者ナルガ故に、同時ニ国家ノ健全ナル労働階級ナリ。
而シテスデニ一糸乱レザル組織アルガ故に、改造ノ断行ニ於テ露独ニ見ルガ如キ騒乱ナク、真ニ日本ノ、専ラニスベキ天命ナリ。
日本ノ軍隊ハ外敵ニ備ウルモノニシテ、自己ノ国民ノ弾圧ニ用ウベキニ非ズ。
   巻三「土地処分三則」
私有地限度――日本国民一家ノ所有シ得ベキ私有地限度ハ時価十万円トス。
コノ限度ヲ破ル目的ヲ以テ血族ソノ他ニ贈与シ、マタハソノ他ノ手段ニヨリテ所有セシムルヲ得ズ。、
私有地限度ヲ超過セル土地ノ国納――私有地限度以上ヲ超過セル土地ハコレヲ国家ニ納付セシム。
国家ハソノ賠償トシテ三分利付公債ヲ交付ス。但シ私産限度以上ニ及バズ。
ソノ私有財産卜賠償公債トノ加算ガ私産限度ヲ超過スルモノハ、ソノ超過額ダケ賠償公債ヲ交付セズ。
違反者ノ罰則ハ戒厳令施行中、前掲ニ同ジ。
徴収地ノ民有制――国家ハ皇室下付ノ土地及ビ私有地限度超過者ヨリ納付シタル土地ヲ分割シテ、土地ヲ有セザル農業者ニ給付シ年賦金ヲ以テソノ所有タラシム。
年賦金額、年賦期間等ハ別ニ法律ヲ以テ定ム。
都市ノ土地市有制――都市ノ土地ハスベテコレヲ市有トス。市ハソノ賠償トシテ三分利付市債ヲ交付ス。
国有地タルペキ土地――大森林、マタハ大資本ヲ要スベキ未開墾地、マタハ大農法ヲ利トスル産地ハコレヲ国有トシ、国家自ラソノ経営ニ当ルペシ。
   巻四「大資本ノ国家統一」
私人生産限度――私人生産ノ限度ヲ資本金一千万円トス。
海外ニ於ケル国民ノ私人生産業モマタ同ジ。
私人生産限度ヲ超過セル生産業ハスペテコレヲ国家ニ集中シ、国家ノ統一的経営トナス。
賠償金ハ三分利付公債ヲ以テ交付ス。賠償ノ限度及ビ私有財産トノ関係等スペテ私有財産限度ノ規定ニヨル。
違反者ノ罰則ハ戒厳令施行中、前掲ニ同ジ。
(注) 現時ノ大資本ガ私人ノ利益ノタメニ私人ノ経営ニ委セラルルコトハ、人命ヲ活殺シ得ベキ軍隊ガ大名ノ利益ノタメニ大名ニ私用セラルルコトト同ジ。
国内ニ私兵ヲ養イテ私利私欲ノタメニ攻伐シツツアル現代支那ガ政治的ニ統一セルモノト言ウ能ワザル如ク、鉄道電信ノ如キ明白ナル社会的機関ヲスラ私人ノ私有タラシメテ甘ンズル米国ハ、金権督軍ノ内乱時代ナリ。
(巻五「労働者ノ権利」、巻六「国民ノ生活権利」、巻七「朝鮮ソノ他、現在オヨビ将来ノ領土ノ改造方針」、巻八「国家ノ権利」は紙面の都合により省略――筆者)  

 

以上、概観した通り、北一輝の「日本改造」の構想はロシア大革命(一九一七年)の直後の大正八年にまとめられただけに、労農革命の強い影響をこうむっていることは明らかであるが、まさに天皇制の下に日本的な社会主義革命を実現せんと夢想した点は、大いに進歩的なものであったともいえるであろう。それが急進的な青年将校を狂喜させ、また、反動的な将軍連中に嫌悪された理由でもあったのだ。彼は、国家の生理的組織として、政府のなかに銀行省、鉱業省、工業省、商業省などを設置して、民間の資本家より接収した金融業も大工業も貿易業も、すべて国有、国営として経営するほか、労働省を設けて労働者の権利を保護し、満十六歳以下の幼年労働を禁止、ストライキは別に法律の定めるところによって労働省が裁決することにした。また、満六歳より満十六歳まで十年間を国民教育年限として無月謝、教科書給付、昼食支給、男生徒に無用な服装の画一を強制せず、英語を廃止し、国際語(エスペラント)を第二国語に採用するなど、教育改造の方針においてもはなはだ先見の明を示していた。そして、日本民族の自立自活と、国家の自己防衛のためには開戦の権利を有することを認め、国際間における国家の生存および発達の権利として現行の徴兵制度を永久に維持するが、大学生に対する徴兵猶予、一年志願等は廃止する。また、現役兵に対して国家は十分な俸給を支給し、兵営または軍艦内では、階級的表章以外は、物質的生活の階級、差別を全廃するなど、じつに驚くべき革新的措置を明らかにしていた。しかも彼は、日本国民が全アジアの盟主たる大使命を有すると主張し、また日本は、もっとも近い将来にシベリア、豪州等の地域をその主権下におくものであると予想していた。さらに彼は、
「 国家ハマタ、国家自身ノ発達ノ結果、他ニ不法ノ大領土ヲ独占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スルモノニ対シテ、戦争ヲ開始スルノ権利ヲ有ス 」
と宣言して、開戦の積極的権利を強調した。(彼は当面の現実問題として、日本か、豪州または極東シベリアを取得するために、その領有者に向かって開戦するのは国家の権利であると主張していた) ああ、これこそ昭和動乱史上、暗殺の時代に華々しく活躍し、反乱の道をたくましく突進した、血気さかんな青年将校たちが胸の中に描いていた昭和維新の夢であり、日本改造の理想図であった。さればこそ、日本改造運動の大先覚者であった日蓮宗信者の北一輝(きたいっき)と、その熱狂的な信奉者であった愛弟子の西田税(にしだみつぎ)の両人は、軍首脳部から極度に憎まれ、睨まれたあげく、ついに二・二六事件(昭和十一年)に連座して、「青年将校一味の決起を煽動した首魁(しゅかい)」として検挙された。陸軍軍法会議の裁判(非公開で上告をみとめない暗黒裁判であった)の結果、両人とも死刑の宣告をうけた。かくて両人は翌十二年八月十九日、銃殺刑を執行されたが、それは日本改造の輝かしい悪夢をいっそう、劇的に飾る効果があった。当時、北は五十五歳、西田は三十七歳であった。しかし、北一輝は死すとも、彼が心血を注いで綴った『日本改造法案大綱』は亡びず、戦後の今日までも生き残って、昭和維新を夢みた当時の青年将校たちの教典として、いまなお注目されている。この書は、将来日本に天皇制の存続する限り、天皇制共産主義者北一輝の奇怪な遺書として、だれも決して無視することはできないであろう。 
第五章 尊皇絶対であります! / 永田鉄山殺害事件

 

昭和十年八月十二日、月曜日はものすごく蒸し暑い日であった。この日は、朝から薄ぐもりではあったが、風のない大東京の中心の町々は、銀座も日比谷も、朝からうだるような暑熱に、すでに喘ぎはじめていた。街路樹もホコリにまみれて生色がなかった。「今日も、すごく暑そうだね……」「こう毎日、昼も夜も相変わらず暑いと、頭がガンガンして痛くなるよ」「鋭い頭ほど暑さに狂いやすいというからね……」銀座と日比谷の中間にある数寄屋橋の橋畔に立ったモダン建築の朝日新聞社の三階、大きな編集局の窓際を黒塗りの長い机の列で占めた社会部では、ボツボツ出そろってきた元気のよい十数名の遊軍記者(つねに本社に待機して重要な事件や行事に出動する万能の中堅記者)とクラブ詰記者(各官庁の記者クラブに専属するか、朝夕は本社へ連絡打ち合わせに立ち寄る。ただし朝は自宅から直接にクラブヘ出勤する場合もある)とが、食堂から取り寄せた冷たいソーダ水やアイス・コーヒーなどをすすりながら、いつもの通り雑談に花を吹かせていた。ちょうど、午前十時半ごろのことだった。とつじょ、社会部のデスクの電話がけたたましく鳴った。もっとも、新聞社の編集局の電話は、いつも大事件の突発を知らせるようにけたたましく鳴るものではあるが、この真夏の朝の電話くらい、さすがに心臓の強い記者連中をアッと驚かせたことは稀(まれ)であったろう。「なに? 今朝、軍務局長が斬られた? 生命危篤? 永田鉄山少将……犯人は制服の軍人……氏名不詳……その場で捕えられた……調査すみじだい、正式発表がある……それまで記事さしとめの見込みか……よしッ、いますぐ、遊軍と写真を記者クラブへ飛ばせるから、くわしく判明次第、電話を入れてくれたまえ!」電話の受話器を左手に握りしめながら、分厚い束のザラ紙に右手で鉛筆を走らせている次長の表情は緊張して、額には脂汗がタラタラ流れていた。その異様なようすを間近で眺めていた多数の記者連中は、にわかに雑談をやめて、そのまわりに集まった。しばし暑熱を忘れさせるような冷たい殺気を感じたものだった。「おい! エライ事件だぞ! 陸軍省で軍務局長がやられたそうだ、永田鉄山が斬られたんだ、犯人も軍人らしい……」と、たちまち重大ニュースが、社内の暑気を吹き飛ばすように流れた。急に社内はざわめいて、それまでいわばお茶を引いていた遊軍記者も、クラブ詰記者たちも、それぞれワイシャツの袖をまくったまま、上衣を片手にせわしく飛び出していった。みんな、赤い旭日の社旗を立てて自動車で、真夏の熱風を切るようにぞくぞくと持ち場へ急行した。そんなときこそ、新聞記者は暑さも寒さもつい忘れて、全身に異常な緊張感と闘志をわき立たせるものだ。当時、まだ二十九歳の青年記者だった私も、その中の一人であった。白昼の陸軍省内の上官殺人事件! これは、今日から見ても依然としてスリル百パーセントの奇怪な大見出しだ。いわんや、当時は軍国主義の最高潮の時代であり、しかも前述したように、それまでの数年間に血盟団事件、五・一五事件、神兵隊事件と、血なまぐさい暗殺と物騷きわまる反乱とが続発していただけに、今度はまた、意外な軍部内の奇怪事件へ飛び火したものだという強烈な印象をうけた。もはや軍のタガもゆるんで、メチャクチャな時勢になったものだ、と感じた。正直にいって、当時、昭和日本はすでに軍部と超国家主義愛国団体の共同戦線によって、がんじからめにされて、まったく合理性と知性を失った狂乱状態に陥っていたようなものだった。軍務局長永田少将(当時)の暗殺事件もまた、そのなまなましい反映であり、まったく正気の沙汰ではなかった。この日の午後零時十七分、陸軍省新聞班から記者クラブを通じて、各新聞、通信社にたいしてつぎのような第一回の発表が行なわれた。そして、この短い発表文は、その日の夕刊紙上に大きな見出しと活字で、全国いっせいに掲載、報道され、この前代未聞の陸軍省内の不祥事件について、日本の国民大衆を驚愕(きょうがく)させたのであった。
「 永田陸軍軍務局長 省内で兇刃に倒る(危篤) 犯人は某隊付中佐(朝日新聞の大見出し)「軍務局長永田鉄山少将は軍務局長室において執務中、午前九時四十分、某隊付某中佐のため軍刀をもって傷害を受け危篤に陥る。同中佐は憲兵隊に収容し、目下取り調べ中なり」 」
これこそ、真夏の狂乱にあらずして何んぞや――というほかはない。それは酒に酔った無頼漢の刃傷沙汰(にんじょうざた)ではなくて、天皇が「朕(ちん)の股肱(ここう)」と呼んでいた帝国軍人の現役中佐が正々堂々と上官の少将を斬殺した(叙勲のつごうで危篤と発表されたが、実際は即死であった)のであるから、まことに驚くべき大変な出来事であった。 

 

昭和動乱史上よりみると、この八月十二日事件は、まさしく翌年の二・二六事件(昭和十一年)の序曲であり、それこそ恐るべき大反乱事件の、スリルとサスペンスに富んだ死の前奏曲でもあった。なぜ永田軍務局長は、部下の一中佐のために軍刀で斬られたのであろうか? 満州事変(昭和六年)以来、準戦時気分が強くなって、出入りの警戒の厳重な軍閥の本拠ともいうべき陸軍省内で、なぜ大勢の軍人たちは、大胆不敵な犯行を未然に防ぐことができなかったのであろうか? また、軍務局長の受け付けや局課員たちは、なぜ犯人と応戦して、その場で射殺できなかったのであろうか? いったい、国体明徴とか政界粛正とか大言壮語してきた軍首脳部は、この驚くべき軍紀紊乱(びんらん)の上官襲撃事件について、上は天皇から下は国民大衆に対していかに釈明できるであろうか? これこそ思いあがった軍部自体の腐敗、堕落の現われではなかろうか? 当時、若手の新聞記者連中は、いずれもこのような奇怪な疑惑と深刻な感慨で胸を突きあげられるような心地であった。私自身も、取材に飛びまわりながら、内心では、斬った軍人も、斬られた軍人も同じ穴のむじなであり、同罪のような気がしてならなかった。それは軍国日本の悲劇であった! また、軍部の内状が、このようないわゆる下剋上(げこくじょう)の暴状をあさましくも露呈するようになっては、いったいこれから先、日本はどうなることであろうか――と心配でならなかったのは、決して青年記者の私ばかりではなかった。(果然、それから六ヵ月後に軍隊の大反乱の二・二六事件が起こり、さらに五年後に太平洋戦争へ突入したのであった!) この事件の当日は、午後になって事件の全貌と真相がしだいに判明するにしたがって、各新聞社の政治部と社会部は、暑熱の中でゴッタ返すような騒ぎを呈した。汗まみれの記者連中は、陸軍省を中心に関係各方面に飛んで、猛烈な取材活動をつづけていた。政治部記者は、陸軍大臣の責任問題と、その政局におよぼす重大影響について追求する一方、社会部記者は、永田軍務局長の斬られた当時の模様と、犯人の「軍服の殺人者」の正体を探求するため、夕刊の締め切り時間(午後二時)がすぎても、ひと休みするいとまもなく、翌日付の朝刊用の詳報記事を追って自動車を走らせていた。
「 (当時、各新聞社では、この未曾有の不祥事件をいち早く号外で報道しようと努力したが、事件発生後ただちに発令された内務省警保局の記事さしとめ命令によって妨げられた。その間、陸軍省内部にも発表説と禁止論〈軍の威信を失墜して国策遂行上に悪影響をおよぼすとの理由から、たとえば張作霖爆殺事件のごとく闇へと葬り去ること〉とが対立して、もめたが、新聞班長根本博大佐の意見によって、ようやく夕刊第二版に間に合うよう、とりあえず第一回発表が簡単ながら行なわれたのである。それから逐次、記者クラブ側の強い要望により、陸軍当局も、しぶしぶながら事件の続報を公表していった。それらの発表文は、軍事課課員の武藤章中佐が筆をとったものだといわれていた。しかし、本当に事件の全貌が全国民の前に明らかにされたのは、それから半年後の翌十一年一月二十八日に第一師団軍法会議の公判が開幕されてからであった。それまで事件の真相は、陸軍当局の正式発表以外、相変わらず記事掲載をさしとめられていたので、いわゆる自由な特ダネ競争はできなかったが、各社の担当記者たちは、記事解禁の日をめざして「書かれざる特ダネ」の情報資料集めに懸命であった) 」
もっとも、この事件の第一報をのせた夕刊の紙面には、政治部で書いた、「不統制の責任を負い、陸相進退を考慮」(大見出し)というような、当日午前中の陸軍省をめぐる林銑(せん)十郎陸相以下首脳部のあわただしい動きを報じた記事も掲載されてはいたが、もちろん、軍務局長室の凶行現場の写真など、一切、発表を禁止されて、ただわずかに外部から陸軍省二階の一角にある局長室の古びた木造建物を撮影したニュース写真と、黒い鉄ブチの眼鏡をかけた神経質そうな永田少将(当時)の生前の写真が、ものものしく掲載されているばかりであった。しかし、社会部では、「陸軍省当局の発表以外には書いてはならぬ」という記事さしとめ命令のギリギリの線で、つぎのようなふくみのあるニュースを、発表文のほかに小見出しでのせるように努力したものであった。当時の新聞記者は、言論の自由の今日ではとうてい想像もできないような人知れぬ苦労をかさねていたのである。
「 永田少将を襲撃した某中佐は目下、東京憲兵隊に収容、取り調べを受けているが、取り調べ終了をまち、第一師団軍法会議に付せられることになった。 なお某中佐は剣道の達人だったとのことである 」
ついで午後四時三十分、陸軍省より第二回発表が、つぎの通り行なわれて、永田軍務局長の死亡が確認された。
「 「任陸軍中将、叙従四位 陸軍少将、正五位勲二等、永田鉄山 十二日午後四時卒去せり」また、日の暮れるころ陸軍省よりはじめて事件の内容がつぎのようにやや詳しく発表された。しかし、真相がしだいに判明するにしたがって、ますます奇々怪々な印象をふかめていった。そして取材を担当する記者たちもまた、その記事を、はじめて翌十三日朝の新聞紙上で読まされる全国民も、いずれも同様の鶩きと嘆きを味わったものだ。「軍務局長永田少将は十二日午前八時、平常の通り陸軍省に出勤し、局長室にて執務中、午前九時すぎ東京憲兵隊長新見英夫(にいみひでお)大佐来訪、所管業務について報告聴取中、同四十分、某中佐突然同室へ闖入(ちんにゅう)し、軍刀をもって局長の右胸部を刺し重傷を負わした。当時、同憲兵隊長は身をもってこれを制止せんとしたため、左腕上膊部に受傷し東京第一衛戍病院に入院加療中なるが、傷は上膊部に及び全治三週間を要すべし」 」
これでみると、軍警察の元締めたる憲兵隊長がおりよく現場に居合わせながら、犯人を阻止することも、あるいは取り押さえることもできず、かえって犯人のために上官の永田軍務局長もろとも斬り倒されてしまったのだ。ゴッタ返す記者クラブの一隅では、ダラシのない憲兵隊長だなあ――とつぶやく声も聞こえたが、また犯人はよほど腕に自信のある剛勇の軍人らしい――という驚嘆の声も高まった。それで、ともかくこの発表文を堂々と掲載した八月十三日付、朝日新聞朝刊第二面(その当時は朝刊の第一面は広告で全面を占められ、記事は第二面よりはじまっていた)のトップには、つぎのような意味深長な大見出しがつけられた。そのころは各新聞とも、同一の発表記事には、せめて見出しによってそれぞれ異なったニュアンスと含蓄(がんちく)をしめそうとした。挺身、凶行を制止し、 新見憲兵隊長も重傷 永田軍務局長遭難詳報(大見出し)はたして謎の某中佐とは何者であろうか? 

 

当時、軍国主義の隆盛期にあたり、軍部の鼻息は日増しに荒くなりつつあったが、その中でも軍務局長永田鉄山の名前は断然、陸軍のホープとして光っていた。彼は陸軍士官学校十六期の出世頭として、卒業のとき以来、つねにトップに立ってきた英才であり、すでに軍事課長のころから将来の陸軍を背負って立つ第一人者のようにいわれていた。それだけにまた敵も多かった。彼は一見、青白いインテリ型の軍人であるが、鋭い眼光を近眼の眼鏡の奥より光らせて、物腰はおだやかだが、意志と信念はきわめて強く、陸軍部内でも有名な論客であった。そして、彼は昭和九年三月に軍務局長になるや、日本の国力を最大限に発揚して、高度国防国家を建設するために、ナチス・ドイツ流の統制経済の緊要なことを提唱して、みずから財界代表へも直接に呼びかけていた。それで、三井財閥の長老の池田成彬、有賀長文の諸氏とも交際があった。彼は財閥を倒さないで、むしろこれを利用して軍部に積極的に協力させようと企てていたようである。彼自身も陸軍部内の国家革新グループの有力者であり、昭和六年の三月事件(軍部のクーデター計画)には陸軍省軍事課長として加胆していたぐらいであったが、しだいに過激な暴力革命方式にあきたらず、いわば、「問答無用」の皇道派より、「話せばわかる」の統制派へ転身していた。要するに、永田鉄山の立場は、国家革新をあくまで合理的、かつ合法的な手段と方式によって実現しようとするものであり、それにはまず、軍部内部の見苦しい派閥抗争を解消して軍紀を粛正し、全軍が一致団結して全国民の前で率先垂範すべきであると主張していた。そして、軍務局長の強力な地位と権限により、いわゆる青年将校の下剋上の弊風を打破して、部内の統制強化をめざした。それは、たしかに正当な主張ではあったが、国家革新を「皇道精神」にもとづいた昭和維新として、いかなる犠牲を払っても決行しようと呼号する皇道派の青年将校たちから、彼はいかにも財閥と接触をはかる、なまぬるいダラ幹のごとく憎まれた。これが永田鉄山の悲劇であると同時に、また軍国日本の悲劇でもあった。さて、殺された永田軍務局長の経歴を、読者諸兄の参考までにたどってみょう。
「 彼は明治十七年一月、長野県上諏訪町に生まれた。父は医者であったが、彼は小学生のときに死別して貧乏の中に育った。そして十四歳のときに他家へ養子にいったが、家庭の事情で離縁してふたたび実家にもどるなど、淋しい孤独な生活に鍛えられた。小、中学校の成績は中位であったが、士官学校へはいってから、めきめきと頭角をあらわして秀才といわれた。また、無口だが太っ腹な男だともいわれた。 」
「 明治三十七年十月、陸軍士官学校を卒業、同四十四年十一月、陸軍人学校を首席で卒業、大正二年八月、歩兵第五十八連隊中隊長、同年十月に軍事研究のためドイツへ駐在、大正三年八月、教育総監部付、同四年六月、デンマーク駐在、同十年六月、スエーデン日本公使館付武官、同十二年二月、参謀本部付、同十三年一月、陸大教官、同十五年十月、陸軍省整備局動員課長。昭和二年三月、歩兵大佐、同三年三月、歩兵第三連隊長、同五年八月、陸軍省軍務局軍事課長、同七年四月、陸軍少将、参謀本部第二部長、同年八月、歩兵第一旅団長、同九年三月陸軍省軍務局長(昭和十年八月に至る) 」
この軍歴がはっきりとしめしているように、彼は陸軍の中枢の出世コースをめざましく歩んできた。いわゆる田舎まわりをまったくしないで、東京と海外の重要ポストを往復しながら、陸士同期生のトップを切って栄進し、将来の陸軍首脳たるべき軍務局長の栄位に落ちついたのだ。しかも軍事課長時代には、革新グループの智謀として三月事件のお膳立てを自分でつくったとさえいわれた急進的な彼も、それから三年後に軍務局長の要職について重大な内外情勢を真剣に考察、検討した結果、彼の革新思想は非合法な実力行使のクーデターを排撃して、ナチス流の統制経済による高度国防国家の建設へと大きく前進し、かつまた成熟してきた。彼の企図した国家革新は、流血をみない静かな日本革命であったようだ。しかし、それは血盟団、五・一五事件以来、大火山の鳴動するように神がかりの昭和維新をめざして、決起を誓う陸海軍の青年将校派と、国家主義愛国団体の過激分子の共同戦線からみると、彼こそ憎むべき裏切り者であり、また政界より逆用された昭和維新の道を阻止する害悪者であった。このような緊迫した雰囲気の中で、永田軍務局長を攻撃、誹謗(ひぼう)した怪文書が軍部内に乱れ飛んで、全国各地の部隊の中にいる血気の青年将校の憤激をそそり立てた。そして、一部の急進分子は、昭和維新の血祭りに、まず「永田斬るべし」とさえ唱えられた。また一方、永田自身の側にも誤解をまねく言動はあったようだ、彼はきわめて自信の強い、意思のはなはだ固い性格であったから、すこしも外部の圧迫には屈せず、三月事件以来、ガタついた軍の統制と粛正の断行を決意していたので、まったく妥協の気持はなかったらしい。それはひとつには、彼が貧しい孤独な家庭に育ったため、冷たい性情の持ち主であり、また、先夫人と死別後に十八歳も年下の若い美しい後妻をめとったために、家庭的にも複雑な事情がいろいろあったもようで、彼の印象はいまをときめく軍のホープに似合わず、その私生活にはなにか暗い影がつきまとった陰性な冷厳な人物のようであった。実際に、凶行事件の起こった当時、重子夫人(当時三十四歳)は、昌子(四歳)、外征雄(三歳)、忠彰(一歳)の愛児三人をつれて、神奈川県三浦半島の久里浜海岸に建設中のゴルフ場の事務所の閑静な留守宅を借りうけて避暑中であったが、このいわば貸別荘の世話をみていたのは、三井合名の長老の池田成彬の遠縁に当たる横浜在住の有力者O氏であった。
このO氏は、池田氏に頼まれて軍部と財界の間の重要な折衝(せっしょう)にも非公式に一役を買っていたので、永田軍務局長の一家とはとくに親しくつき合っていた。そのような事情から、O氏は当時三井財閥を相手に独力で抗争していた皇道派の満井佐吉(みついさきち)中佐(陸大教官、三井炭鉱をめぐる大牟田事件の中心人物、のちに相沢中佐の軍法会議公判で特別弁護人として大活躍す)とも交渉があったので、かえってO氏を通じて満井中佐は永田軍務局長の立場を曲解して、軍首脳部が財閥と結託するように痛感したらしい。軍人が財閥の世話で避暑用の別荘を借りるとはけしからん――というわけだ。永田軍務局長は凶刃にたおれたとき五十二歳であった。色白の若々しい三十四歳の重子現夫人は、その日の午後一時ごろ、東京からはるばる久里浜まで自動車を飛ばせて迎えにきた林陸相代理多田兵器局長から、はじめて悲しい知らせをうけて卒倒せんばかりに驚いた。それはあまりに意外な凶報であり、幼い三人の遺児を抱えて彼女の前途は真っ暗であった。重子夫人には、私も親戚関係にあった横浜市本牧海岸のO氏の家で、以前に会ったことがあるが、年齢よりもずっと若く見える色白の中肉の美人であった。気むずかしそうなイガ栗頭の痩身の永田少将(当時)には、むしろ不釣り合いのようにも思われたが、最初の結婚生活か夫人の病弱のためにあまり恵まれなかったせいか、若い現夫人と再婚した永田少将は元気で新家庭も円満そうであった。夫人は涙ながらに、三人の幼児をともなって迎えの自動車に乗って東京へ向かい、午後二時半ごろに渋谷区松濤の自宅に着いた。そこには急報で駆けつけた義理の長男の永田鉄城氏が、すでに喪主として座っていた。この長男は病弱のため中学校だけでやめて、当時、杉並区荻窪町の川南(かわなみ)郵便局長をしていたが、父の永田少将が若い後妻をめとって以来、父子の間柄も冷やかになり疎遠になっていたようだった。そんな複雑な家庭の事情が、永田家の悲しいお通夜の光景にも、ひそかにうかがわれた。陸軍最大のホープとして、永田将軍の横死を悼む立派な花輪は、座敷から玄関前までいっぱいに飾られており、とくに各宮家からの弔花も目立っていた。しかし、その死因がいかにも複雑怪奇なだけに、ぞくぞくと悔やみにやって来た将軍連中の厳(いか)めしい軍服姿も、かえって近所の人々の眼には奇異に映ったようであった。偉い軍人さんが部下の軍人に殺されるなんて――まったくわけがわからなかった。 

 

永田軍務局長殺害事件の第二日目、八月十三日の午後一時四十分に、陸軍省では謎の犯人たる某中佐の正体について、はじめてつぎの通り発表した。その内容は、ただちにその日の各新聞の夕刊市内版に報道されたが、陸軍、内務両当局のあまり大きく刺激的に扱わぬようにという要望によって、割り合いに控え目に相沢中佐の写真入りで掲載された。
「 「陸軍省発表――軍務局長永田中将に危害を加えた犯人は陸軍歩兵中佐相沢三郎で、第一師団軍法会議の予審に付せられ、十二日午後十一時五十分、東京衛戍(えいじゅ)刑務所に収容されたり、凶行の動機はまだ審(つまび)らかならざるも、永田中将に関する誤れる巷説(こうせつ)を妄信したる結果なるが如し」「同中佐は本月(昭和十年八月)の異動にて、歩兵第四十一連隊(広島県福山)付より台湾歩兵第一連隊付に転じて、台湾総督府台北高等商業に(配属将校として)服務を命ぜられた。その赴任準備を終わり十一日夜、上京したものである」 」
これで、永田中将を斬殺した「軍服の殺人者」の正体は明らかにされたが、この相沢三郎中佐とはいったい、どんな人物であろうか? 彼の軍歴はつぎの通りであるが、それは被害者の永田中将の晴れの出世コースを歩んだ軍歴と比較してみると、とくに興味がふかいであろう。すなわち、永田が陸大出の天保銭(てんぽせん)組(軍服の胸につける陸大卒の記章が小判形の天保銭に似ていたので、この異名が生まれた)のトップを切った幕僚型の秀才であったのに反して、相沢は無天組(陸大にいかない鈍才の意)であり、しかも、戸山学校(陸軍の歩兵実施学校、新宿区戸山にあった)の剣道教官で剣道四段という実戦型の猛者であった。相沢中佐は、明治二十二年、岩手県一ノ関に生まれ、彼の父は公証人を勤めて若干の財産を残した。彼は仙台幼年学校より陸軍士官学校に入り、第二十二期生として明治四十三年に卒業、任官した。それから戸山学校剣道教官、青森歩五、秋田歩十七などの歩兵連隊付をへて、昭和八年に福山(広島県)の歩兵四十一連隊付の中佐となっていた。要するに、彼は永田のような軍中央部の智謀型の軍人ではなく、剣道と禅で心身ともにたくましく鍛えあげた田舎まわりの武人であった。性質は単純で熱狂的であり、政界の腐敗と財閥の横暴と軍上層部の堕落について悲憤慷慨(ひふんこうがい)していた皇道派の闘士であった。彼は事件当時、四十七歳であったから、被害者の永田中将より五歳年下であり、また陸士は六期後輩であった。彼は見るからに武骨であったが、家庭では案外、気立ての優しい人情味のあつい人柄であったようで、よね子夫人との間には当時、十五歳を頭に一男三女があった。彼は歩兵少尉として仙台の歩兵二十九連隊に勤務中、三年間も市内北山町曹洞宗輪王寺に止宿して、住職の福定無外師について禅の修業を積んだ。それで彼はますます簡素、無欲な生活に徹する一方、皇道精神にも徹してきたらしい。幼少より貧乏で孤独な暗い生活にもまれた永田が、かえって華やかな軍中央部の出世コースをめざしたのに反して、公証人の中流家庭に育って仙台市内に四百坪の家屋敷まで所有した相沢が栄達、出世を求めず、青年将校として熱心に剣道と禅で自己修養を積んでいたことは注目に値するであろう。私は決して、犯人の相沢中佐に同情するわけではないが、事件後、世間をはばかり、門を固く閉めて謹慎していた相沢一家を、深夜、中野区鷺(さぎ)の宮の自宅に訪ね、悲痛なよね子夫人と対談して中佐の男らしい性格と質素な生活態度などを聞いたことがあり、今日でもその深刻な印象を忘れることができない。
ではいったい、剣道と禅で深く心身ともに修養を積んだ思慮分別のある相沢中佐が、なぜ、白昼、大胆不敵にも、まるで「軍服の殺人者」さながらに、陸軍省に現われて執務中の永田軍務局長を襲撃し、軍刀一閃の下に斬殺したのであろうか? それは公憤によるものか? それとも私怨によるものであろうか? まず、陸軍当局の非公式発表によると、犯人の相沢中佐の事件以前の行動はつぎの通りであった。
「 ――相沢中佐は、一昨年(昭和八年)暮に福山より上京の汽車中にて、中耳炎(ちゅうじえん)にかかり手術の結果、脳膜炎を併発し、昨年(昭和九年)五月まで慶応病院に入院、一時は危篤に陥り回復したが、元来、単純で熱狂的に悲憤慷慨する性質であったと友人間の噂である。長い病気と昨年、実母まきさんの死亡で三千五百円ほど借金ができて、本年(昭和十年)六月、仙台市光禅寺通り六の家屋敷(四百坪)を一万三千円で売却した。怪文書を絶えず手許に送られてきて、つねに悲憤していた 」
これでみると、当時の陸軍当局はもちろん、統制派の林陸相の下に永田派のそうそうたる幕僚連中が顔をそろえていたから、犯人の相沢中佐を憎むあまり、脳膜炎をわずらった狂人扱いにしていることが明瞭であった。しかし、反永田派のいわゆる皇道派の青年将校たちからみると、相沢中佐こそ憂国至誠の志士であり、彼こそ財閥と相通じた軍閥堕落の張本人たる永田鉄山に天誅(てんちゅう)をくわえたものであった。また、陸軍当局の発表によると、相沢中佐の凶行の動機は、「誤れる巷説を妄信した」とあるが、その巷説とは、陸軍部内の派閥抗争を暴露した幾多の、いわゆる怪文書を指すものである。それがはたして、虚説であるか、真説であるかは、決して軽々しく判断を下すことができないほど、すでに陸軍部内は血で血を洗うような険悪な状態に陥っていた。とくに軍中央部の実情にうとい地方勤務の相沢中佐は、同年四月に、十一月事件(昭和九年、士官学校)の首謀者として、皇道派の同志の村中孝次大尉と磯部浅一(いそべあさいち)一等主計が停職処分に付せられたうえ、さらに両人が、「粛軍に関する意見書」と題する怪文書を頒布した廉(かど)により、八月二日、免官処分となり、陸軍より追放されたことに大いに憤激した。また彼は、同年七月十五日に、皇道派の総帥として全軍の青年将校たちから慈父のごとく敬愛されていた教育総監真崎甚三郎大将が、本人の意思に反して突然、罷免、更迭されたことを永田軍務局長の策謀なりとして、激怒していた。これらの事実は、いずれも怪文書によって、その真相が相沢中佐の手許にも伝わってきたので、かねてから昭和維新の決行のために、みずから捨て石たらんという念願に燃え立っていた相沢中佐は、いよいよ陸軍部内の革正をはかるため、永田軍務局長に天誅をくわえようとひそかに決意した。そこへ、はからずも八月一日の陸軍定期異動が発令されて、相沢中佐は内地より遠く台湾へ転任することになった。無天組の彼は別に出世コースを期待してはいなかったので、台北高商の平凡な配属将枚に赴任することをいとわなかったが、しかし、内地を去っては昭和維新の決行のときにも間に合わず、また、永田軍務局長に天誅(てんちゅう)をくわえることもできない。
それゆえ、彼は同志のだれにも相談せず、ただひとりで最後の決断を下して、八月十一日の暑い日曜日の夜、福山より単身上京し、山手線の原宿駅で下車、まっすぐに渋谷区千駄ヶ谷に住む同志の退役陸軍中尉西田税(革命家北一輝の弟子で昭和維新の煽動家)の家を訪ねて一泊した。彼は上京の途中、わざわざ伊勢神宮に立ち寄り、参拝して目的達成を祈った。その翌十二日朝、相沢中佐は陸軍省へ台湾赴任の挨拶に行くと告げて、西田方を立ち出た。この二人の熱血の同志は最後の朝食をともにして別れたが、相沢中佐はしごく落ちついて、少しも言動に異状はなかったそうだ。彼は陸軍省に出頭して挨拶をすませた後、八月十四日にいったん、福山に帰り、家族同伴で台湾へ赴任する予定であった。してみると、彼は剣道四段の腕前で永田軍務局長を一刀の下に斬りすてた後、本気でゆうゆうと台湾へ赴任するつもりでいたのであろうか? 昭和動乱史上、もっとも奇怪な記録をのこした上官殺害犯人の相沢三郎中佐は、翌十一年一月二十八日、東京青山の第一師団軍法会議公判廷に立って、その狂信的な殺人の決意を滔々(とうとう)と吐露し、「尊皇絶対であります!」と大音声で絶叫しつづけるのであった。私は、この驚くべき「陸軍省内の上官殺害事件」の犯人、相沢三郎中佐を裁く軍法会議公判を担当した当時の社会部記者として、いまでも、顔色の浅黒い、筋金入りのように筋骨たくましく引きしまった長身の相沢中佐の直立不動の姿と、判士長を鋭い眼光で睨みつけながら、大声で、「尊皇絶対」を説く中佐の熱弁を忘れることができない。いや、おそらく永久に忘れることはできないであろう。 

 

私の三十年間にわたるジャーナリスト生活は、昭和五年に東大法学部を出てからはじまり、戦前と戦中の朝日新聞記者ならびに海外特派員として十八年、さらに戦後の自由ジャーナリストとして十二年より成り立っている。このじつに長い鉛筆一本、ペン一本のあわただしい活動と生活の全期間を通じて、いろいろな大事件に出会った中で、私がもっとも感銘ふかく終生忘れられない重大事件は、昭和十六年十二月七日午後(米国時間)、真珠湾攻撃の第一報を米国の首都ワシントンで聞いて、宿命の日米開戦を敵国で迎えた、私にとって一生一代の衝撃をのぞけば、なんといっても、昭和十年八月の永田中将殺害事件と、それにつづく翌年一月の相沢中佐の軍法会議公判、さらにこれに直結した皇軍大反乱の二・二六事件であった。とくに私は、その当時、朝日新聞東京本社の社会部遊軍記者として、永田事件直後より殺害犯人たる相沢三郎中佐(当時四十七歳)の取り調べ、予審、公判一切の取材と報道を担当して、朝から夜おそくまで大いに飛びまわり、また大いに書きまくったので、その印象と思い出は、今日でもなおなまなましく、こんこんとしてつきない。ところで、陸軍のホープといわれた軍務局長永田鉄山中将(当時五十二歳)の殺害事件は、いろいろ深刻な反響と波紋をまき起こしたのみならず、また意外な副産物を生じた。まず第一に、永田中将の無残な横死は、粛軍と部内統制強化に努力していた林銑(せん)十郎陸相(陸軍大将)以下、中央部のいわゆる統制派に大打撃をあたえた一方、かねてより「永田斬るべし」と怪文書を通じて叫んでいた皇道派の急進青年将校たちには、いわば「天誅下る」とばかり喝采を博した。それは永田軍務局長がナチス・ドイツ流の統制経済による高度国防国家の実現をめざして、重臣や財閥とひそかに接触していた一方、理由の如何(いかん)を問わず軍紀粛正のため、青年将校の軽挙妄動を厳重に取り締まり処罰していたことから、「尊皇討奸(そんのうとうかん)」をめざして昭和維新を念願とする皇道派の青年将校ならびに中堅佐官級より、彼は憎悪の的になっていたようだ。その有力な証拠として、永田中将を斬り殺した相沢三郎中佐の行動を、皇道派の連中は、国体明徴のための義挙(ぎきょ)と呼んでいたし、また、翌年(昭和十一年)の二・二六事件の中心人物として策謀、行動したため、銃殺刑に処せられた(昭和十二年八月十九日執行)元陸軍一等主計磯部浅一(いそべあさいち=当時三十三歳)は、その獄中でしたためた遺書形式の行動手記(看守の手でひそかに持ち出されて戦後の昭和三十二年に二十年ぶりで正式公表された)の中で、
「 今度の相沢さんの事だって、青年将校がやるべきです。それなのに何ですか、青年将校は……相沢中佐のようなえらい事は余にはとても出来なかった。それで相沢事件以来は、弱い自分の性根に反省を加え、これを叱咤(しった)激励することにつとめた 」
と明記している。それは当時の昭和維新派の若い青年将校たちの相沢中佐に対する絶大な尊敬の念を代表するものであり、また、「相沢中佐の後につづけ!」と叫んで維新義軍(後日二・二六事件で決起した反乱軍はみずからこう名乗った)の決起をうなす勝鬨(かちどき)でもあった。また、磯部元一等主計は銃殺されるまで「尊皇討奸(そんのうとうかん)」の信念を変えず、二月義軍事件(二・二六事件を、決起青年将校たちはこう呼んでいた)の絶対正当性を主張していただけに、その獄中日記(昭和十一年八月、相沢中佐ならびに同志青年将校の処刑後に記したもの)の中には、相沢中佐の率先決断と捨て身の勇気を絶賛した文句がいたるところに見られた。
「 ……いまや、天上維新軍は相沢司令官統率のもとにまさに第二維新を企図しあり、地上軍は速やかに態勢を回復し、戦備を急がざるべからざるを痛感す 」
「 明日は相沢中佐の命日だ。今夜は待夜(たいよ)だ、中佐は真の日本男児であった……。中佐を殺したる日本はいま苦しみに堪えずして、七転八倒している。悪人が善人を図(はか)り殺して良心の苛責(かしゃく)にたえず、天地の間にのたうちもだえているのだ。中佐ほどの忠臣を殺した奴に、その報(むく)いが来ないでたまるか、今にみろ、今にみろ 」
いま私は、この磯部の獄中日記をひもときながら、この奇怪な文字の行間に躍る彼の切々(せつせつ)たる心理と烈々たる感情を汲み取りつつ、当時の動乱日本の険悪な社会的雰囲気をなまなましく思い起こすことができる。それは、決して笑ってはすまされぬ厳粛な破局寸前の軍国日本の歪(ゆが)んだ姿であった。 

 

また一方、永田中将殺害事件は意外な副産物をつぎつぎにもたらした。その一つが事件当時、永田軍務局長の下で兵務課長を勤めていた山田長三郎大佐の自殺事件であった。暑い夏もようやくすぎて、すがすがしい秋も次第に深まりつつあった昭和十年十月五日、すでに永田事件の加害者相沢中佐にかかわる第一師団軍法会議の予審取り調べもすすんで、近日中に予審終結し、その真相が天下に公表される日も近づいていたおりから、突如、また、新しい事件が陸軍首脳部を痛撃した。それは、この日午前十時ごろ、陸軍兵器本厰(ほんしょう)付砲兵大佐山田長三郎(当時四十九歳)が、世田ヶ谷の自宅で軍刀をもって自殺を図り絶命しているのを家人が発見したのであった。同大佐は、この朝、夫人を無理に外出させたのも、軍服に威儀を正して、覚悟の自殺を遂げたのだ。山田大佐の自殺の第一報は、当日、陸軍省の発表よりも数時間も早く朝日新聞社の社会部デスクには速報されていた。 それは、同性の整理部部員Y君が山田大佐の甥に当たるので、この事件をいち早く知って電話で知らせてきたわけだ。しかし、陸軍省の正式発表のあるまでは、夕刊記事を勝手に書くことは許されなかった。当時、すでに新聞報道と言論の自由は大幅に制限されていたのである。なぜ山田大佐は自殺したのか? それは今日、ひろく流行しているスリラー推理小説さながらの奇怪な謎につつまれているが、もちろん、表向きの理由は陸軍省発表の通り、「永田中将の死に深く責任を感じた」ためであった。では、いったい、なぜ山田大佐は、直属上官の永田軍務局長の横死について、それほど深く責任を痛感したのであろうか? ちょうど二ヵ月前の八月十二日午前九時四十五分ごろ、相沢三郎中佐が軍刀を抜いて陸軍省二階の軍務局長室へ闖入(ちんにゅう)し、執務対談中の永田軍務局長に斬りつけたとき、そこに居合わせたのは東京憲兵隊長新見英夫(にいみひでお)大佐であった。同大佐は午前九時すぎに来訪して憲兵所管業務を報告中であったが、剣道達人の相沢中佐の襲撃に出会って、永田局長を実力でかばうこともできず、かえって相沢中佐の軍刀で斬り倒されたのであった。その間に相沢中佐は、「天誅(てんちゅう)!」と叫んで、ゆうゆうと永田局長を斬り殺したのであったが、ただ不審なことには、永田局長が背中に第一刀を受けながら、よろめくように隣室(軍務局兵務課へ通ず)の扉まで逃れて凶刃を避けようと懸命に努力していたとき、隣室ではだれもこの騒ぎを知るや知らずや、助けに飛び出してきたものはいなかった。しかも奇怪なことには、だれかが隣室の内部より扉を固く押さえて、故意に開けさせなかったために、永田局長は扉のところで、残酷にも相沢中佐の軍刀により、背後からグサリと一突きに刺されてしまった。その軍刀の尖端は永田局長の背後から胸に貫通して血を憤出し、扉にまで刺さったといわれた。なぜ、血まみれの永田軍務局長が扉を押しても開かなかったのであろうか? だれか反永田派の兵務課課員が隣室の大騒動に気づきながら、わざと知らぬ顔で扉を押さえていたのではなかろうか? また、この軍務局長室の隣室へ通ずる扉は押せばすぐ開く外開きであったか、それとも瀕死の重傷の永田局長が内部から体当たりしても(隣室の方から開けない限りは)決して開かない内(うち)開きであったか? 当時、このようなさまざまな疑問が、私をはじめ永田事件担当の各社記者連中の間で黒雲のようにうず巻いたものだ。ことに不可解千万であったことは、隣室の兵務課長たる山田長三郎大佐は、相沢中佐が乱入するつい直前まで永田局長室に居合わせて、業務報告中の新見憲兵隊長としばらく同席していた点であった。かくて山田大佐の事件当日の行動については、深い疑雲が高まった。たとえ彼は軍務局長室を出た後で、相沢中佐が軍刀をふるって飛びこんできたとはいえ、扉ひとつへだてた隣室にいながら、ものすごい叫び声や、乱闘の音を聞かないわけはあるまい。しかも、扉一枚の向こう側では血まみれの永田局長が、必死になって凶刃をさけようともがいていたのではないか! なぜ、山田大佐はみずから軍刀なり、ピストルなり、あるいは素手でもよいから、すぐ扉を開いて隣室へおどりこんで屈強な課員総出で、「軍服の殺人者(キラー)」を凶行現場で取り押さえなかったのであろうか? それとも、山田大佐は扉ひとつへだてた隣室の出来ごとを本当に知らなかったのであろうか? あるいは知っていたが、恐れをなしていくじなく上官の惨死を見送ったのであろうか? また、山田大佐は犯人相沢中佐と知り合いで見のがしたのではなかろうか? この奇怪な謎を秘めたまま、山田大佐は自殺したのであった。もっとも彼の行動と責任についでは、部内でもいろいろ取り沙汰されて、軍首脳部でも、士気粛正のため永田事件後、同大佐を兵務課長の要職よりはずして兵器本厰付に左遷(させん)したくらいであった。それゆえ、山田大佐の自殺は明らかに、彼が永田事件をめぐる苦慮したあげくの覚悟の自決であった。彼の心境についての唯一の手がかりは、自殺決行の前日の十月四日付で書き残した宛名のない一通の遺書であったが、その内容はつぎの通りであった。(陸軍省発表の原文のまま)
「 山田長三郎大佐の遺書
一、永田軍務局長事件当時の行動に関し疑惑を受くるものありしは、まったく不徳のいたすところにして、ここにその責を負うて白決す。
一、同事件に対し、余と相沢中佐とはなんら関係なし。
一、中途にしてご奉公をなし得ざりしは遺憾(いかん)に堪えざるところなり。
一、大元帥陛下の万歳を祈り奉り皇軍のますます隆昌ならんことを祈る。
    十月四日      山田長三郎  」
今日よりかえりみると、この山田大佐自殺事件もまた、昭和動乱の巨大な歴史の歯車にはさまって押しつぶされた一人の気の弱い軍人の哀れな悲劇であったと思う。それは、永田中将殺害事件のまき起こした意外な波紋の一つであった。 

 

さて、話は永田事件の直後にもどるが、私は新聞の社会部記者として、永田事件=相沢事件を専門に担当することになったので、他のニュースにはいっさいかかわらず、朝から晩まで社旗を立てては自動車を乗りまわして、この事件の取材、調査に努力した。まず、O社会部長ならびにM次長と打ち合わせたうえ、私はつぎのような三つの任務と方針をきめて、この重大事件の真相とその全貌をできるだけ明らかにしようと企てた。それは新進の青年記者として、大いに働きがいのある仕事だった。
「 一、永田事件の犯人である相沢三郎中佐について細大もらさず調査、追及すること。とくに事件前後の彼の行動と、平常の思想、性行と、背後の黒幕、あるいは共同謀議の事実をたしかめること。
二、相沢中佐の犯行事実を正確かつ詳細に知るために、同事件の取り調べを担当する責任者の第一師団司令部法務部長島田朋(とも)三郎氏(相沢事件軍法会議公判の検察官)を毎日一回、かならず自宅に訪ねて、根気よくその取り調べ状況と事件の概況を探知すること。
三、相沢中佐の夫人、家族ともつねに連絡をとって、東京渋谷区宇田川町の陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所に収容、拘禁中の相沢中佐の身辺動静をくわしく知っておくこと。 」
〔それは、同中佐の身辺に、なにか異変が起こるかも知れないし、また当時、急進派の青年将校と極右愛国団体の間で、同中佐を昭和維新の志士として、身柄の奪回計画のデマまで乱れ飛んでいたからだ〕 こうして、私はまず、青山南町の電車通りの第一師団司令部を再三訪問して、第一師団長柳川平助中将(公判当時は転出して堀丈(たけお)中将に代わる)にも島田法務部長にも面会して、いろいろ事情をたずねた。〔しかし、あまり自由には会えなかった〕 それは当時、相沢事件に関しては陸軍当局発表以外には記事掲載を禁止されてはいたものの、予審終結の場合の記事解禁の日に備えて、少しでも早く、また少しでもくわしく、事件の真相を知り、確かめて内報ニュースを集めておくことが当時の新聞記者の重要な任務であった。
「 (今日のように新聞言論の自由な時代では、政府当局の記事さしとめ命令がないので、新聞記者はなんでも探知、取材したニュース記事をすぐ自由に書いて報道することができる。 当時の軍国時代を思うと、まったく隔世の感がふかい) 」
当時、第一師団の島田法務部長は、青山一丁目の電車の交差点にある「石勝」という有名な大きな石屋の横をはいった狭い露地の奥の小さい古い二階家に住んでいた。陸軍少将同等の法務部長の家にしては粗末なものであったが、師団司令部まで歩いて数分の近い点が便利であったのだろう。彼は見るからに野人肌の剛直清廉な人柄だった。私は毎晩九時か十時ごろ、島田法務部長が疲れて帰宅した時分を見はからっては、この露路奥の家を訪ねた。他社の記者になるべく気づかれないように、社旗をはずした自動車をわざわざ半丁ぐらい先へとめてから、この石屋の横の露地を緊張してはいる。あまり早すぎては、島田法務部長は、まだ自宅にもどってはいない。彼は毎日、渋谷の衛戍(えいじゅ)刑務所へ出張して、相沢中佐の訊問、取り調べに専念しているからだ。また、あまり遅すぎては、彼は、疲れてすでに寝てしまっているからだ。私が顔馴染みになった家人にいくら頼んでも、 「明朝(あす)が早いので、もう寝ていますから……」と何回も断わられたものだった。だが、私はじつに根気よく石屋の露地に島田法務部長を訪ねて、いつも玄関先で、四、五分ぐらい立も話を交わした。もちろん、彼は相沢中佐の取り調べ内容を私に特別にもらしてくれるわけではない。当時、天下注目の重大事件の真相だけに、相沢中佐の取り調べは極秘であり、とくに軍部の威信にかかおる不祥事件だけに、取り調べ状況が外部へ漏洩することを敝重に取り締まっていた。しかし、島田法務部長も、毎晩、私宅に現われる私の根気には次第に負けたようすで、一日の取り調べの疲労から寛いでひとりで晩酌をしていることがよくあった。そんな夜には、彼は赤ら顔で玄関へ現われて、「やあ中野君、君はじつに熱心だね。こんなに夜おそくまで大変だねェ」と私を温かく迎えてくれた。
「いや、貴方こそ毎晩、おそくまで重大なお仕事で大変ですね。どうですか、もうだいぶ、取り調べは進んでいますか?」「ああ、順調に進んでいるよ」「世間でも、また陸軍省の中でも、相沢中佐は頭がオカシイとか、気狂いであるとか、脳膜炎をわずらったことがあるとか、いろんな評刊が立っていますが、精神鑑定はやりましたか?」「そんなバカなことはないよ。相沢はしっかりした軍人だよ。もっとも熱狂的な性質のようではあるがね。私にはとても礼儀正しく丁重だよ……」「ところで、相沢が永田中将を軍刀で斬ったのは、一太刀(たち)ですか、それとも二太刀ですか、その中の一回は突きですか?」「それは……予審内容については、なんとも返事はできないよ。まあ君の想像にまかせるよ」「いや、どうせ記事解禁まで書けませんから、ただ参考までにお尋ねするだけです。ただイエスか、ノーかを、知らせて下されば結構ですよ……。すると相沢はまず軍刀を抜いてから『天誅(てんちゅう)』と大声で叫んで、立ち上がって逃げようとした永田中将の背部に第一刀をくわえたのですね。それから追って扉のところで、永田を後方より第二刀で強く突き刺したうえ、さらに第三刀で止(とど)めを刺そうとして倒れている永田の頭部へ斬りつけたんですね……」と、私はねばり強く島田法務部長を誘導訊問した。すると彼は、やはり老練な法務官らしい調子で、「やあ、君はなかなかくわしいね、だいたいそんなところだろうね。もうおそいからこれで失礼するよ」と彼は奥へ引きとる。私は大きな収獲に心を躍らせながら、ふたたび社旗をつけた自動車で深夜の町を疾走していた。
こうして、私の相沢事件に関する真相調査メモは毎日、毎晩くわしく集まっていった。それで翌昭和十一年一月二十八日に第一師団軍法会議の公判が開かれて、陸軍省より公訴状全文が発表されて新聞記事さしとめが解除された朝、朝日新聞号外には、私が事件五ヵ月間にわたり苦心して丹念に収集した事件の全貌が、予審調書大要としてくわしく報道されて異彩を放った。それはあまりにも詳細に凶行当時の模様を記事にしていたので、他社では朝日新聞社が極秘の軍法会議の予審調書(三冊三千枚)をひそかに入手して記事を書いたのであろう……と邪推されて陸軍省記者倶楽部でも問題化された。しかし、実際は前述のごとく、私が予審調書など決して見ないでも、島田法務部長を毎晩、私宅に訪ねて問答を重ねている間に、みずから事件の真相を新聞記者の鋭い第六感で正しく感得するようぱなったわけである。 

 

私は前述のように第一師団の島田法務部長を、毎夜、自宅に訪ねて相沢中佐事件の真相を探るために苦労した一方、また相沢中佐の家族にもぜひ会見して、家庭より見た中佐の人物、性行などを正しく知ろうと努めた。その当時、永田中将を軍刀で殺害した凶悪犯人として、相沢三郎中佐の名前は日本中に轟いていたが、軍部でも、政府、政界、財界方面でも、彼を狂人か、あるいは半狂人扱いにして、いわば、陸軍当局発表以外には彼の存在を黙殺したような形であった。それほど相沢中佐の犯行は、新聞界でも苦々しいものとして憎(にく)まれていた。しかし、私は正義感と好奇心の狂盛な元気な青年記者として、相沢中佐の犯行の動機を昭和維新運動に直結するものとして、個人的に好むと好まざるとにかかわらず重視する一方、中佐のような熱狂的な、いわば神がかりの軍人で、しかも、思慮分別のある四十七歳のスパルタ式の武人は、いったいどんな家庭を持っていたか――大きな関心を抱いていた。また、新聞記者の良心は決して、罪を憎んでも、その人を憎んではならぬと私は信じていた。それで私は、相沢事件担当者として社会部のM次長を口説いて、事件以来、世間よりまったく消息を絶っていた相沢中佐夫人訪問を企画して、カメラマンをともなって秋風の立つ十月のある夕方に朝日新聞社の門を出た。「たぶん、世間をはばかって相沢夫人は会うまい。もし会ってくれたら心温まる記事を書いてみたい。相沢中佐の家族こそ永田中将の家族以上に気の毒だ……」と私は柄になく感傷的になっていた。その気持は、奇しくもこの一文を綴る私のいまも変わらざる心境である。その夜、私は大きな感動にはげまされて長文の記事を書いた。この相沢中佐夫人会見記は、昭和十年十月十四日(月曜日)付の朝日新聞朝刊社会面トップに、五段抜き四行の破格の大見出しでつぎの通り掲載されて、珍しく特ダネ会見として大きな反響をまき起こした。
「 憂愁の相沢中佐夫人 “夫を信じ強く生きる” 母親の震う膝に戯れる児 秋月、隠れ家寂し 〔記事〕 天下を震駭(しんがい)した八月十二日――前陸軍省軍務局長永田鉄山中将が陸軍省構内で非業(ひごう)の死を遂げてから、早くも二ヵ月余、すでに事件は予審終結もせまり公判の日も近づいた。贖罪(しょくざい)の幽暗にひそむものは被告人の汚名をきる相沢三郎中佐とその一家だ。冷たい秋風が愁々たる夕まぐれ、囹圄(れいご=牢屋)の相沢中佐の心境は? そしてこの世のもっとも不幸な宿命をジッと涙にかみしめる家族の人たちの祈りは?
煌々(こうこう)たる月光が黒い雑木林を青白く照らしている。中野区鷺(さぎ)の宮の丘の上の一軒家、雨戸を固く鎖ざした真っ暗な門内は空家のように無気味に静まり返っている。マッチのフラッシュに浮かんだ古ぼけた標札『相沢三郎』――手探りで叩く玄関にかすかに人の気配がして、闇の中に悲しそうな女の顔が現われた。油気の無い頭髪を無造作に束ねて粗末な紺色のセルの着物をきた相沢よね子夫人(三十五歳)は、驚きの鼓動を抑えるように無言のままジッと考え込んでいたが、やがて記者を案内して奥座敷に対座した。つぎの間には、女学校二年の長女をはじめ三人が静かに勉強中である。
鈍い電灯のともったガランとした八畳間、床の間の菊の花は枯れかけて、傍に中佐愛用の指揮刀二本、『随処主為』の扁額は中佐が師事した仙台輪王寺の禅僧の筆だ。事件直後から杳(よう)として消息を絶った相沢一家――黙々と遁世の生活をつづけていたよね子夫人は、いまはじめて記者に火のような熱い涙の胸中を打ち開けたのである。「本当に世間をお騷がせ致して……いろいろと皆様に大変ご迷惑をおかけして申しわけの言葉もございません。永田様の御遺族にも一度お会いしてお詫び申し上げたいとは心に念じながら、いかにもあつかましいようで気が引けて独り悩んでおります。私どもはなんという不仕合わせな運命に生まれたのでしょう。四人の子供たちさえいなければ、私は死んでしまった方がましかも知れません。でも私はやっと堪えました。たとえ主人の身がどうなるとも、私はこれから十年、二十年――この末の女児(四歳)が大人になるまでは強く生きてゆかねばなりません」 母親の震える膝の上に無心に戯れる「父のいない子」のいじらしさ――
絶望の幽暗の中に一縷(いちる)の希望の光を探し求めるように、夫人は語りつづける―― 「でも私は信じています。子供が親を信じるように、ただなんとなく主人を固く信じているのです。主人が悪いことをしたとはどうしても思えません。主人はなにか私には話せぬ深いわけがあってしたことですから、私は主人の気持をいたわるだけで、責める気など全然ありません」「考えればまるで夢のような半年でした。十七年前に私どもが結婚したとき、主人は台湾の連隊(台北)の中尉でした。そのころから現在まで主人はいつも木綿の着物に小倉の袴を着用して、いつか私がセルの袴を作ったら真っ赤になって怒鳴られました。この八月はじめに思い出多い台湾へふたたび転任すると聞いたとき、私は飛び上がるほど喜びましたのに……。十二日に主人が東京から帰るのを福山の宅で待っていた私は、意外な事件の知らせに茫然(あぜん)としました。あまり大きな衝動でただボンヤリしていたというのが本当です。それから、台湾へ向けて発送ずみの家財道具の荷物を門司で押さえて、福山の家をたたむと十六日、ひそかに上京しました。四年前に主人が東京在任中に建てたこの家が空いたので引きこもったわけです」「ときどき、刑務所に主人に会いにゆきますが、『俺のことは心配するな、用がなければきてはならん』と平常の性質そのままの口調です。主人は家庭や子供のことをいったい、思ったことがあるのでしょうか? 子供のことを考えればあんなことは決してできないでしょうが、でも最近実弟が訪ねたら、『子供は丈夫かい?』と珍しく尋ねたそうです」果てしなき悲しみの夫人の泣き笑いに、記者も思わず涙をさそわれて、「どうか写真を」とも言い出せず暗然とした。 」
以上が私の書いた会見記事の全文である。そして、相沢中佐夫人と家族の写真の代わりに、「世を忍ぶ相沢家=昨夜撮影」と題する生垣のある家の写真が大きく掲載されていた。この記事はあまりにも大きく扱われたために、社内でも相沢中佐に同情しすぎるといって非難する向きもあったが、私はいまでもこれは軍国時代には珍しい立派なヒューマニズムの記事であったと思っている。たとえ古めかしい美文調で、いささかセンチメンタル気味であったことは認めるとしても――。同じ日付の紙面に、私はもう一つ相沢中佐の記事を書いた。それほど私は相沢事件の報道に全力を注いでいたのだ。
「 感想録を綴る獄中の中佐 獄衣のまま端坐して 〔記事〕 渋谷区宇田川町――厳めしい東京衛戍刑務所の奥深く相沢中佐は“ただ一人”で独房の明け暮れを送っている。独房の窓から覗く青空に、奇しくも向かい側の代々木練兵場の銃剣の響きがこだまする。中佐は取り調べの際には軍服を着用する。衣服は差し入れも断わり、獄衣のままつねにジッと腕を組んで蓙(ござ)の上に坐し、禅(ぜん)の冥想に耽(ふけ)っているといわれる。とくに当局の許可をえて、率直な真意を吐露した長文の感想録を綴りながら黙々と公判の日を待っている。 」 

 

かくして、事件後三ヵ月をへた十一月二日午後、陸軍省では永田中将殺害事件の犯人たる相沢三郎中佐が、「用兵器上官暴行、殺人及び傷害」の罪名で正式起訴されたと、つぎの通り事件の概要を発表した。相沢中佐は事件後ただちに逮捕されて、第一師団軍法会議で予審中であったが、十月二十八日に、同軍法会議長(第一師団長)柳川平助中将のもとに一件書類が提出され指揮を仰いだ。それで柳川中将は、十一月二日に陸相川島義之大将へ報告した後、相沢中佐起訴の命令を発した。それによって、軍法会議の島田朋三郎検察官は起訴手続きをとり、軍法会議公判に付することに決定したものである。
「 〔陸軍省発表〕 「相沢中佐はかねてよりわが国の現状をもって建国の精神に悖(もと)り、各部門とも悪弊累積して、その前途すこぶる憂慮すべきものありとし、速やかにこれを革新して国体の真姿を顕現せざるべからずと思惟しありしが、昭和八年ごろより国家の革新は軍部が国体観念に透徹して、一致結束して巡進せざるべからざるに拘わらず、陸軍の情勢はその期待に反するものありとし、まず部内の革正を断行せざるべからずとの意見を抱懐するに至れり」「しかし、昭和九年三月、永田少将(当時)の陸軍省軍務局長就任以来、同少将がことさらに国家革新運動を阻止するものなりとの一部の者の言を信じ、同少将に不満の念を抱きおりたるところ、同年十一月、反乱陰謀被疑事件起こり、これに関連して村中孝次(みらなかこうじ)、磯部浅一(いそべあさいち)が停職処分にふせられ、ついで同十年七月中旬、教育総監(真崎甚三郎大将)の更迭(こうてつ)を見るにおよび、一部の者の言説および、いわゆる怪文書の記事等により、これはまったく永田少将の策動に基づくものとし、なお七月十九日、同少将に面談し辞職を勧告しおきたるも、その後これが実現を見ざるを知り、同少将をこのまま放任するにおいては陸軍の革正はとうてい期し難く、したがって皇軍の前途憂慮に堪えざるものありとし、八月十日、福山発、単身上京し、同十二日、陸軍省軍務局長室において急進、執務中の永田少将に迫り、これを殺害するに至りたるものなり」 」
こうして、いよいよ陸軍未曾有の現役中佐の上官殺人事件は、第一師団軍法会議公判に付せられることになった。十一月二十七日に公判準備がととのい、裁判長(判士長)には歩兵第一旅団長佐藤正三郎少将、裁判官(判士)には歩兵第一連隊長小藤恵大佐、野砲兵第一連隊長木谷資俊大佐以下、木村(民)大佐、若松中佐、杉原法務官、また、検察官には島田法務部長がそれぞれ任命、発令された。また、被告弁護人には軍部と愛国団体に信望の高い法曹界の長老、鵜沢聡明(うざわそうめい)博士、特別弁護人として革新派の熱弁家の参謀本部付、陸大教官満井佐吉(みついさきち)中佐が選任、決定した。一方、天下注目の相沢中佐を裁く軍法会議法廷は、青山南町の第一師団司令部の構内に建つ古びた木造の小さい建物とされた。かって、大正十二年には社会主義者大杉栄(さかえ)夫妻を惨殺した甘粕(あまかす)憲兵大尉事件を審理し、また昭和八年には五・一五事件の陸軍側被告の裁判が行なわれた思い出のふかい法廷であった。しかも、今回の相沢中佐公判に検察官として立ち会い、論告、求刑の大役をになった島田法務部長は、三年前の五・一五事件公判では裁判官として判決を起草した奇しき因縁があった。彼は公判直前に、顔なじみの私に向かってつぎのように感想を語った。「今回の相沢事件は、五・一五事件と異なり、陸軍部内の政治的問題に関連するので、私の立場ははなはだ難しく、いわゆる憎まれ役ですが、私情を超越して淡々たる公明厳正な態度で、適切な論告をする覚悟です」かくて相沢中佐の軍法会議公判は、昭和十一年一月二十八日午前十時から息づまるような緊張した雰囲気の中で開廷されたが、せまい法廷の最前列の記者席(各社一名)の粗末な木製の長机とベンチに陣どって、十数本の鉛筆と、ザラ紙の新聞用原稿紙をまえにおいて、興奮しながらはしり書きする私のすぐ前に、直立不動の姿勢をとった、はじめて見る被告相沢三郎中佐(当時四十八歳)の筋骨たくましい長身と眼光烱々(けいけい)たる不敵の相貌は、まことに異様なおそろしい印象をうけた。しかも第一回公判は、冒頭より特別弁護人満井中佐の「予審のやり直しと公判延期」の爆弾動議の提起によって荒れ、はやくもその前途には不吉な暗影を投げかけた。はたして、公判の成り行きはどうなるであろうか? 

 

全陸軍のホープといわれた軍務局長永田鉄山中将(当時少将、五十二歳)を軍刀で斬り殺した相沢三郎中佐にかかわる「用兵器上官暴行、殺人及び傷害事件」の第一回公判は、昭和十一年一月二十八日から全国民注目の中に、東京青山南町の第一師団軍法会議法廷で開かれたが、果然、その冒頭から大波瀾をまき起こした。それは、被告相沢中佐(当時四十八歳)の特別弁護人として、とくに皇道派の急進将校たちの間で選定、推薦された参謀本部付、陸大教官の満井佐吉中佐が開廷直後、いちはやく、「裁判長!」と叫んで立ち上がり、意外にも法廷闘争の火蓋を切って、「予審のやり直しと公判の延期を」要求する爆弾動議を提起したからであった。なにしろ、第一師団司令部構内の片すみに建った古い粗末な平家建ての軍法会議法廷はとてもせまくて、軍部ならびに司法部内の特別傍聴人百名と毎回その朝九時に表門で抽選による一般傍聴人わずか二十五名で、すでに満員の有様であった。それで被告席のすぐ後方に設けられた新聞記者席には、主要新聞各社一名に限り入廷を許されて報道に当たり、原稿は書くそばから竹筒に入れて、特別通行証の腕章をつけた各社の原稿係(給仕)が記者席わきの出入口より足音を忍ばせて受けとっては、軍法会議場の正面玄関前にいくつもテントを張った各社の相沢中佐公判報道本部へ届けて、そこに陣どった多数の記者が、それぞれ特設電話で、本社社会部デスクへ読み上げて、送稿する仕組みになっていた。この陸軍未曾有の不祥事件の裁判を、細大もらさず、全国民ヘー刻も早く、かつくわしく報道するためには、法廷内外の報道陣は、ものものしく緊張していた。私はこの年の八月、永田中将暗殺事件の発生以来、同事件の責任記者として、この相沢中佐を裁く軍法会議の開廷の日を、まさに一日千秋の思いで待ちわびていただけに、この日は若い記者としてまことに一生忘れられない重大な報道任務の感激をひしひしと感じていた。そして、僚友の司法記者S君とそれぞれ午前と午後の公判を交代で分担して、まず、私が第一日の前半を受け持って入廷し、記者席へ着いた。せまい法廷にぎっしりつめきった傍聴人たちも、息をのむような緊迫した重苦しい雰囲気の中に、ゆうゆうと現われた軍服姿の相沢三郎中佐は長身で、顔色は浅黒く、いかにも殺気をふくんだ恐ろしい眼光であった。裁判長(判士長)は歩兵第一旅団長佐藤正三郎少将で、見るからに温厚篤実そうな人がらであったから、最初から被告相沢中佐にはその気魄において圧倒された形であった。公判開始前に、私は佐藤少将に歩兵第一旅団司令部で会見したが、少将はつぎのように語り、相沢中佐の言い分をよく聞いて、なんとか公判を荒れないようにぶじに進行させようと、ひそかに苦心しているようすであった。そのときの旅団司令部の副官が、後日の二・二六事件の首魁として決起、処刑された香田清貞(こうだきよただ)大尉であったことは皮肉なめぐり合わせであった。私が数回会った印象は、落ちついた物わかりのよさそうな青年大尉であった。「私ども各判士は、ただ公正無私、何人の意見もきかず、何人の掣肘(せいちゅう)も受けず、誠心誠意、適切な裁判を期するのみです。私は昨年十一月、裁判長に任命されて以来、調書を閲読すること数十回、判士打ち合わせも十二回開いて、もはや調書の内容を暗誦したくらいで、研究は十分できました。あとは公判廷で、ただ静かに被告の陳述を聞くばかりです。いまや責任の重大なることを痛感するとともに、公判のぶじ進行を祈るしだいです」このように、用兵器上官暴行、殺人という恐るべき皇軍部内の不祥事件に対して、当時、陸軍首脳部はきわめて低姿勢をとり、なるべく被告相沢中佐を支持する皇道派の急進将校連中を刺激しないように配慮していた。この極秘の方針にもとづいて、佐藤裁判長は相沢中佐をなるべく怒らせずに、なんでも言いたいことは十分に言わせて、公正な裁判を首尾よく行なうつもりでいたらしい。ところが、昭和維新をめざす青年将校の一派は相沢中佐を偉大な烈士として尊敬するあまり、「相沢中佐を犬死させるな!」といっせいに猛烈な法廷闘争をめざして立ち上がり、優柔不断な軍首脳部を鞭韃(べんたつ=元気づける)して、昭和維新の気運を大いに推進しようと企てた。そのお先棒をかついで公判廷を晴れの舞台に、ナチス仕込みの熱弁をふるったのが熱情家の特別弁護人満井佐吉中佐であった。
さて、この歴史的な相沢中佐公判第一日のなまなましい模様を、当時、私が熱心に綴った報道記事(昭和十一年一月二十九日付朝日新聞夕刊第一面)より引用して紹介しよう。
「 〔新聞記事〕――この朝、酷烈の寒気を衝いて殺到した傍聴人の大群と警戒の厳めしい憲兵の一隊で、第一師団司令部の門前はただならぬ混雑を呈し、異常の興奮の熱気があふれる中を、特別傍聴の将星連の緊張した顔が、門内に吸い込まれてゆく。九時三十分、相沢中佐を乗せた「東刑二号」の自動車が憲兵分乗のサイドカーに護送されて到着、ただちに法廷裏の仮監に入った。早朝、明治神宮に参拝して「公判の公正」を祈願した裁判長佐藤正三郎少将以下各判士検察官は相前後して構内に足早に消える。――九時四十分、法廷のせまい傍聴席に、百二十五名の傍聴者と二十四名の新聞記者団が、ギッチリ身動きならぬ興奮につつまれて、前方の被告席を凝視して待つ。ほどなく、佐藤裁判長以下入廷(中略)。ときに正十時、やがて緊張の中に軍服に丸腰の相沢中佐は、左手の入口から看守および警査数名に付き添われて現われる。弁護士席には、法服の鵜沢聡明(うざわそうめい)博士と特別弁護人満井中佐がならんでジッとみつめている。息づまる満廷の沈黙が裁判長の厳(おごそ)かな「開廷」の宣言で破れると、眼光鋭いやせた長身の相沢中佐は軍帽を右手に、直立不動の姿勢で、幾分青味がかった顔を真正面に向け、「私は相沢三郎中佐であります」と力強く一言――ここに歴史的公判の第一ページを切って落とした……。
かくて、佐藤裁判長が荘重な態度でかたのごとく氏名点呼をはじめると、相沢中佐は、東北訛(なまり)の強い軍隊口調で、身分、本籍、現住地、前任地など、いちいち明瞭に答えた。そのとき、突然、満井中佐が立ち上かって、いわゆる爆弾動議を「投げつけた」のであった。「裁判長!」と叫んだ満井中佐の異常な大声は、法廷中にみなぎる緊張した雰囲気をどよめかして、だれもハッとおどろいて息をのんだ。一番、驚いたのは真正面の高い裁判長席に座った佐藤少将であったろう。彼のおだやかな顔色はサッと青白く変わった。「本公判の進行について重大な発言を致します……」と、いかめしい参謀肩章をつけた満井中佐は立ち上がって、 「公判の中止と再審の要求」を申し入れた。この満井中佐については、昭和動乱劇で躍(おど)った興味ふかいワキ役の一人として、後でくわしく説明するが、当時の私の綴った報道記事は、この光景をつぎの通り記していた。「――法廷内はこの意外な出来事に息をこらして、ひたすら同中佐の一言一句に聞き入る。中佐も極度の緊張から両手の拳骨を固く握りしめ、一言一句、力のこもった調子で滔々(とうとう)と主張のあるところを明らかにして、どうか本公判は本日はこのまま審理に入らず閉廷せられ、審理をさらに延期せられたいと、予審のやり直しおよび公判の延期を正式に上申した……」 」
満井(みつい)中佐の主張する理由は、つぎの三点にあった。
「 一、相沢中佐の行動(永田軍務局長を斬殺したこと)は公人として行なったものか、私人の資格でやったのか全然、明確になっていない。すなわち犯行の主体が公人か、私人か明瞭でないまま取り調べを終わり、公判に付することは不可である。
二、行動した被告側の審理調査は十分できているが、その行動の原因、動機たる社会的事実の審理調査がまったくないので不可である。
三、被害者たる永田中将の死亡時刻が、事件当日陸軍省公表では午後四時死亡せりというが、検察官の談によると午前九時四十分やや過ぎ、犯行後数刻を出でずして死亡したとなっている。 」
すなわち、前者の公表によれば永田中将は重傷を負い、その後に死亡したことになる。陸軍大臣の言に誤りがあるか、また検察官の起訴に誤りがあるか、いずれかである。もし永田中将の死亡後さらにいつわって存命させ、官位昇叙を奏請したと考えれば皇軍のため重大な不正である。この大きな食いちがいの調査が行なわれないで公判を開くことは不可である。この特別弁護人満井中佐の緊急動議は、まるで戦後に激化した左翼事件裁判の法廷闘争そっくりの戦術であるが、今日より回顧すると、昭和動乱史上を飾るいくつもの極右運動事件が戦後の極左運動事件と、その過激な闘争行動と巧妙な戦術において一脈相通ずるものがあるのは感慨ふかいことだ。ところで、満井中佐の爆弾動議の内容をよく検討してみると、常識では、とうていみとめられないような論法が目立っていた。たとえば、たとえ軍人であろうと民間人であろうと、人を殺しておいて、その犯人が公人の公的行為であるか、または私人の私的行為であるか、などと論争することは正気の沙汰ではない。しかし、当時の重苦しい昭和動乱時代の雰囲気の中では、相沢中佐が重臣、財閥と結んだ永田中将を斬ってすてた行動が、立派な昭和維新の烈士の「尊皇討奸」(天皇を敬い奉り君側の奸臣を討ち亡ぼす意)の義挙であるかのように急進的な青年将校の間でみとめられたようであった。それは、一点の私心も一片の邪念もなき、忠君愛国の赤誠の表現であるというわけであった。もちろん、このような矯慢な考え方は、当時の軍首脳部も一般将校も決してみとめていたのではないから、佐藤裁判長は合議のため約二十分間、休憩して別室で判士会議を開いた後、 「弁護人の申請はこれを却下する。これより公判を続行する」と宣した。これでいちおう、公判は軌道にのって進行し、杉原主任法務官の訊問により事実審理にはいったが、公判の前途には暗い影がただよっていた。それを佐藤裁判長は、はたして知るや、知らずや? 記者席で鉛筆を走らせる私の頭の中には、「これは大変なことになりそうだ!」という不吉な予感がうずいて、思わず指先がふるえた。 
十一

 

軍法会議公判廷で、被告相沢三郎中佐は、直立不動の姿勢で、正面の高い壇上にいならんだ佐藤裁判長以下各判士を直視しながら、まるでにらみつけるような眼光も鋭く、烈々たる憂国の心境を吐露した。彼は、「兵器を用いて上官暴行、殺人」という現役軍人として最悪の大罪を犯しながら、すこしも悪びれたり後悔するようすは見えず、あくまで、「尊皇討奸」の正義の刃をふるって、国運をあやまり皇軍を毒する永田軍務局長に対して、いわゆる「天誅」をくわえたことを主張した。したがって、人を殺しながら悪いことをしたという犯罪意識は毛頭なかった。佐藤裁判長は、杉原法務官の訊問と相沢中佐の答弁を、黙々として聞いていたが、その表情はますます固く暗かった。おそらく彼は、内心ではパラパラして気をもんでいたことだろう。生真面目な善良な軍人として、彼はこのような重大な軍法会議の裁判長などまったく不慣れであり、やっかい千万な法廷闘争などは苦手であった。杉原法務官 「被告の信仰はどうか?」
「 相沢中佐 「私は小さいとき、父から一つの重大な教訓を受けております。私の父は、白河藩の藩士でありましたが、誤った考えから御維新当時、いちど官軍に叛(そむ)き賊軍の汚名をこうむったのであります。父はこのことを非常に残念に思い、お前は大きくなったら、かならず天子様のためにつくしてくれ、と懇々と教えられておりました。およそ、この日本の国に尊い生を受けるものは、自分のものというのは何ものもないのであります。みなこれ天子様からお預かりしているものでありますから、時が来れば、すべてを捧げるべきであるというのが私の不動の信念であります」 」
相沢中佐の答弁は、裁判官の命令で事実審理をすすめる法務官の訊問にたいして被告が答えるというよりは、むしろ軍隊で部下を集めて訓示するときのように、たくましく胸を張り、頭を上げて大声をふるわせて熱弁をふるった。とくに、皇室の尊厳なるゆえんを述べるときには、みずから興奮のあまり、感きわまってパラパラと落涙し、それを右手の大きな拳骨ではらう有様であった。杉原法務官が、相沢中佐の答弁がワキ道へそれるのを注意して訊問をすすめるや、中佐はクワッと殺気だった目を大きく見ひらいて、法務官をにらみつけ、「もっとしっかり聞いて下さい。そうでないと気合いのこもったことは申し上げられませぬ」と右手に持った軍帽を打ち振り、満廷の緊張を高めた。また相沢中佐は、正面壇上で黙々と審理問答を聞いている佐藤裁判長の態度がいわゆる気合いのこもらない、いい加減なものと思ったのか、それとも判士連中の眠気をさまそうとしたのか、突然、大声を立てて、「尊皇絶対でありますぞ! もっとまじめに聞いて下さい」と叫んで裁判長を叱り、超満員の傍聴席をどよめかすような場面もあった。しかし、相沢中佐はそのつど、ハッと気づいたものか、まるで神がかりの状態から我にもどったような調子で、軍隊式に両足のかかとを鳴らして直立不動の姿勢をとりながら、「失礼しました!」と佐藤裁判長の前に恭々しく最敬礼をしたので、記者席にも傍聴人席にもホッと安堵の色が流れた。それから、相沢中佐は独特の熱弁をふるって、明治維新の精神を説き、欧米思想(民主主義を指す)の国内浸潤を述べて、悲憤慷慨し、日本国民はあくまで藩籍奉還の大精神に立ち返らねばならぬと、あたかも裁判長以下各判士へお説教するような調子であった。しかし、佐藤裁判長は、相沢中佐の発言を制して怒らせては、どんな事態をもたらすかもわからないと心配したらしく、中佐の滔々(とうとう)たる意見陳述を苦々しく思いながらジッと聞いていた。
杉原法務官 「それでは、被告の信念はだいたい、父からの影響が一番大きかったのだね」
相沢中佐 「はッ、そうであります。そのほかに私は仙台の無外和尚の教えを受けるところが多かったのであります。その方丈を私は父と思い、なんでもあったことはかくさず言っておりました」 この無外和尚というのは、相沢中佐が陸軍少尉時代に下宿していた仙台市北山町曹洞宗輪王寺の住職で、中佐はその指導の下に三年間も禅の修業を積んだのであった。
佐藤裁判長 「その無外和尚はまだ生きておられるのか?」
相沢中佐 「はッ、まだご存命であります。私の決行後、二度も……二度もおいで下さいました……」 恩師の無外和尚のことにおよぶと、相沢中佐はふたたび感きわまって泣いた。
佐藤裁判長 「教えられた、一番大事なことはなにか?」
相沢中佐 「はいッ、尊皇絶対であります!」
記者席で脂汗を額ににじませながら鉛筆を走らせていた私は、相沢中佐がまるで号令でもかけるような気合いのこもった大声で叫んだ「尊皇絶対であります!」という言葉の異様な響きを、いまでも、いまだにハッキリと覚えている。それは昭和維新のおそるべき雄叫びであった。 
十二

 

公判は午前十一時四十分、休憩、午後二時十分、再開して、杉原法務官は、相沢中佐の抱いている「国家革新の思想」について訊問をすすめようとした。すると、相沢中佐は、憤然と色をなして法務官の訊問をさえぎり、怒りをこめた大声を張り上げて、つぎの通り大見栄を切った。それは、どう見ても、厳めしい軍法会議で裁かれている被告の態度ではなくて、天晴れ「天に代わりて不義を討つ」昭和維新の志士をもってみずから任ずる人物の狂信的な姿であった。「相沢の申し上げることに国家革新などという言葉を当てはめられるのはまったく誤りであります。天子様のまします国に、国家革新などということがありようはずはありませぬ。まずこれをハッキリ決めてからかかります」それから相沢中佐は、現時の世相に対して関心を持つにいたったのは、鉄道疑獄、勲章疑獄、東京市会疑獄、教育疑獄など続発した泥沼のような汚職事件と、また政党、財閥、特権階級の腐敗、堕落の実状を見て、あまりに天皇陛下の大御心を悩まし奉ることのみ多いのを衷心(ちゅうしん)から憂えたためであると述べた。さらに相沢中佐は、いわゆる「青年将校」の本質を説いて、まるで裁判長以下各判士の認識不足を是正するような調子で、純情至誠の青年将校たちこそ、皇室中心と上下一致の精神的結合をなんとかして築き上げたいということのみを念願しているのである――とはげしく主張した。
「 相沢中佐 「青年将校が国家革新のためには直接行動もあえて辞せぬ、などと簡単に申されるのにはまったく心外の至りであります。青年将校の昭和維新を念願しながら切瑳琢磨(せっさたくま)する実情を見れば、日本国民として熱涙にむせない者がありましょうか?」 」
かくて、相沢中佐のものすごい気合いと鋭い熱弁にまくし立てられて、せまい法廷には、異常な雰囲佃が重苦しくよどんで、裁判長以下各判士も傍聴人も咳き一つせず、疲れたような暗い表情であった。しかし、相沢中佐ただ一人は、胸中のうっぷんを思う存分に晴らしつつあるかのごとく、疲れも知らぬげに明るい顔つきであった。公判は午後三時、休憩、三時二十分、再会、いよいよ杉原法務官は相沢中佐の思想背景と交友関係を諮問して、永田鉄山中将の陸軍軍務局長就任当時の模様を追及した。
「 相沢中佐 「永田閣下が軍務局長就任と同時に、ある青年将校の会合を阻止された一事があったのであります。しかも、これはいったん許しておきながら、直前に各隊長を通じ禁止されました。その背後には政治的な策謀のあったことを聞き、陸軍大臣を補佐すべき唯一の永田閣下がかかる政治的策動に相通じて弾圧を下されたものと認定し、私は以後ふかく陸軍首脳部の動向を注意して見たのであります。すると永田閣下が、純真な士官学校生徒を使って青年将校たちの間を探らせ、事件を起こしたことを知り、私は慨嘆にたえなかったのであります。なおこのほか、罪のない各地の青年将校が酷く扱われた例などたくさんのことを知っております」 」
(注) 昭和九年十一月中旬、在京青年将校および士官候補生の間に不穏な計画が伝えられて、極秘のうちに関係者が検挙され、軍法会議において厳重取り調べが行なわれた。しかし、証拠不十分として不起訴と決定し、闇に葬られたが、これは十一月事件または士官学校事件と呼ばれた。その関係者として、翌十年四月二日、歩兵第二十六連隊大隊副官歩兵大尉村中孝次、陸軍士官学校付歩兵中尉片岡太郎、野砲兵第一連隊付一等主計磯部浅一の三名が停職処分に付された。ところが、村中大尉および磯部一等主計は、この十一月事件が統制派の永田軍務局長一味のデッチ上げた陰謀なりとして憤慨、「粛軍に関する意見書」と題する同事件の真相を暴露したいわゆる怪文書を各方面へ配布したうえ、さらに教育総監更迭に関する怪文書も頒布したため、部内の統制を紊乱(びんらん)するものとして、同年八月二日、免官処分に付された。この十一月事件こそ、相沢中佐の単独決起の直接動機であり、また、村中、磯部両人こそ、来るべき二・二六事件(昭和十一年)の首魁として華々しく活躍した人物であった。この両人とも昭和十二年八月十九日、銃殺刑を執行された。
杉原法務官 「そういう話はだれから聞いたのか?」
相沢中佐 「前に申し上げたような人びと――西田税、村中、磯部、大蔵(陸軍大尉大蔵栄一)などであります……」
杉原法務官 「なぜ、その人びとの言葉を本当と思ったのか?」
相沢中佐 「私は世の実情を自分で詳細に真剣に注視しておったので、私の背後に指導者などはありません」
杉原法務官 「それ以外になにか聞いたことはないか?」
相沢中佐 「聞いたわけではありませぬが、いろいろ中央部の幕僚だちと会って、その気分などから察知したのであります」
杉原法務官 「では、被告の感じだね?」
相沢中佐 「感じといわれても、致し方もありませぬ。証拠がないのですから……。(珍しく苦笑)しかし、私はまったく苦心して注視しておったのであります」
こうして、相沢中佐は午前、午後にわたる長時間の大熱弁の陳述を終わり、大公判の第一日をぶじ終了したが、彼は言うべきことを十分に吐露したせいか、たくましい浅黒い顔に微笑さえ浮かべて上きげんに見えた。ちょうど、裁判長の背面にかけられた古びた円形の大時計は、午後三時四十八分をしめしていた。法廷内にみなぎる緊張した空気はようやくとけて、記者席にも、スシづめの傍聴人席にも、ホッと重荷を下ろしたような解放感が流れた。表に出ると、一月の寒風が熱した頭を快く冷やしてくれた。「まあまあ、ぶじに終わってよかったね……」と、私は軍法会議場正面入口の前にテントを張った朝日新聞社の相沢公判報道本部で、僚友のI次長、S君、F君その他と肩をたたき合って、オートバイの原稿係が、本社よりとどけて来たばかりのインキの香りも高い夕刊の第一面をデカデカと埋めつくした相沢中佐の軍法会議公判記事を、息もつかずに、むさぼるように読みかえしていた。つい数時間前に、自分が夢中になってザラ紙に鉛筆で走り書きした原稿が、いま堂々たる歴史的な大記事となり、活字になって日本中の国民大衆に読まれていると思うと、私は青年記者としてさすがに大きな感激で胸がはずむようであり、ひどく緊張した一日のつかれも忘れた気持になった。 
十三

 

相沢中佐の軍法会議続行公判(第二回)は、二日後の一月三十日午前十時から、前回と同じ第一師団司令部構内の法廷で開かれた。なにしろ、第一回公判で被告相沢中佐も、特別弁護人満井中佐も、この公開の法廷を通じて、日本中に昭和維新の気運を盛り上がらせようと念願して、いわゆる法廷闘争を企てていることが明らかになったため、軍首脳部も内心では大いに成り行きを憂慮した。また一方、急進派の青年将校だちと極右愛国団体のあわただしい動きもいろいろ流布され、愛国熱血の志士相沢中佐を護送途上で奪回、救出せんとするようなデマまで乱れとんで、いかにも公判の前途は重大化しつつあるように感じられた。それで、この日の早朝より赤坂憲兵分隊長の率いる二十五名の武装憲兵が法廷内外を厳重に警戒する一方、渋谷宇田川町の陸軍衛戍刑務所より青山の第一師団軍法会議法廷まで、相沢中佐を護送する沿道にも憲兵隊のサイドカーが爆音も荒々しく走りまわるなど、ものものしい警戒ぶりであった。とくに第二回公判で目立ったことは、第一回公判にはほとんど顔を見せなかった金ピカの肩章の将軍連中が大勢、特別傍聴席に居ならび、その中には香椎東京警備司令官、堀第一師団長などの固苦しい顔も見えた。また、警視庁、司法省、裁判所の幹部級も公判を重大視して列席するなど、帝都治安の責任者たちの表情はいずれも心配そうであった。前回と変わらぬ温顔の佐藤裁判長が午前十時四分すぎ、おごそかに、「これより公判を開廷する」と宣告するや、まさに間髪を入れず、待っていましたとばかり、特別弁護人の満井中佐が参謀肩章をひるがえしてすっくと立ち上がり、「裁判長! 公判の進行につきお願いがあります!」と大声で叫んだ。緊迫した法廷の雰囲気は、またしても冒頭よりかき乱されて、「また例の満井中佐だぞ、第二発の爆弾動議だ!」と、記者席にたちまち、ざわめきが起こった。佐藤裁判長は、ハッと表情を変えながらも満井中佐の意気ごみに押され気味で、「それは、公判の進行についてのみですよ」と注意したうえで発言を許した。すると満井中佐は、あらかじめ用意した書類を片手にしながら、自信満々たる口調でつぎのような強硬な主張を行ない、法廷をますます緊張させた。彼の熱気のこもったネバリ強い口調は、いかにも軍人には珍しいくらい理屈攻めで、本職の弁護士も顔負けするくらいの堂に入ったものだった。
「 一、軍法会議の存立精神は建軍の根本精神の擁護にあるから、事件の正邪善悪を裁くのは裁判長以下本科将校みずからこれに当たられて、法務官はただ法律適用のみに当たられたい。(その趣旨は、軍人精神に徼せぬ文官たる法務官に軍人を訊問させるのは、軍法会議の精神に反して不当であると、裁判長を牽制したものだ)
二、本件は皇軍未曾有の重大事で、軍統帥の根本問題にかかわるものである。したがって軍はもちろん、財界、政界、元老、重臣の各方面にも関連するものである。しかし、現時は昭和維新の途上の異常な情勢にあり、本事件を裁くにあたっては、前述の通り各方面の理解、洞察力あるを要する。この点については、とくに法務官にお願いがある。
三、それはつぎの三点である―― 第一に一件調書はきわめて不備である。第二に公訴状もはなはだ不備である。第三には法務官の被告訊問の態度方法は、事件の重大本質を衝くに足らず、下級者にして上級者を刺し殺すというその形式は、皇軍のため、ふたたび反覆を許さぬものではあるが、中佐の精神に関しては、小官あてにまいった多数の信書により明らかである。 」
満井中佐は、このようにヒトラー張りの大熱弁をふるって、弁護人席の机上に積んだ書類の中より一通の長文の手紙を取り上げてゆうゆうと朗読しはじめた。それは越村(こしむら)捨次郎という後備歩兵少尉から寄せられた血判の助命減刑嘆願書であった。おだやかな佐藤裁判長も、たまりかねて満井中佐の朗読をさえぎるようにして、「それは私の方で読んでおくから、貸してもらいたい。まだたくさんあるのか?」と打ち切るように求めた。しかし、満井中佐は色をなして裁判長をなじるような語調も荒く、「いいえ、これは公判の進行に重大関係があるものです、判士諸官はもっと公正な態度で謹聴されたい」とがんばった。そして、そのまま朗読をつづけて、全国各地と朝鮮在任の多数の青年将校および青年団、愛国団体などからきた数十通の激励電報や嘆願書を涙ぐみながら約一時間にわたって読みあげた。これには佐藤裁判長も無理に押しとどめるすべもなく、ただにがりきって、黙々と傾聴するのみ――午前十一時十五分、満井中佐はようやく熱弁の朗読を終わり、休憩に入った。しかし、記者席では、「公判第一日で被告相沢中佐が佐藤裁判長を叱り、また第二日では特別弁護人満井中佐が同裁判長を叱りつけた。佐藤少将には気の毒ではあるが、こんな調子ではいったい、厳正な裁判ができるであろうか」という不安と不満のささやきが聞こえた。
第二日の公判は午後一時五分、再開、審理はようやく本筋にもどって、杉原法務官は前回(第一日)の事実審理にひきつづいて陸軍教育総監真崎甚三郎大将の罷免当時の相沢三郎中佐の心境の訊問にはいる。
杉原法務官 「教育総監更迭にさいして、村中、磯部についてどう考えたか?」
「 相沢中佐 「国軍が憂うべき方向に進んでいることを衷心より心配いたしました。教育総監は不当に更迭させられ、しかも、これに警告した人びとは軍法会議に付せられるような状態では、皇軍はまったく腐敗、堕落の渕に瀕している。これはどうしても尊皇絶対の思想を、子弟の間に強く植えつけねばならぬと思いました。たまたま福山に士官学校の優等生が帰ってきました。しかし、話をしてもいっこうに反応がないので驚いた次弟であります。それ以来、私は国家の現状を憂慮して食事の箸もとれぬ有様でありました。そこで私か演習中とくに連隊長に上京方をお願いしたところが、『間違いないよう』。との注意をうげて許可されました。そして、私は七月十七日(昭和十年)午後四時発の急行で上京し、途中、和歌山で大岸大尉に会い、同夜は語り明かしました。その翌朝、ふたたび車中の人となり東京へ向かいました」 」
公判廷は重苦しい雰囲気の中で、相沢中佐のたくましい軍隊口調の陳述がつづき、いよいよ永田事件の核心にふれてきた。すると相沢中佐は突然、一段と大声を張り上げて、「これからのことは、じつは恥ずかしいことが多くありますが、思い切って申し上げます」と前置きして、永田軍務局長との関係について述べはじめた。いったい、相沢中佐はなにが恥ずかしいのか? それは、相沢中佐が永田将軍に天誅をくわえる決断が容易につかなかった点をみずから昭和維新の志士として恥じるとともに、また、ほかの若い同志の前に自分の優柔不断を恥じたのであった。はたして狂人か? 愛国者か? 相沢中佐の神がかりの熱弁は、まるでドス黒い悪夢の霧のごとく、法廷内に立ちこめて、記者席も傍聴人席も圧倒されたように気味わるいくらい静まり返っていた。
「 相沢中佐 「私は車中で明治維新の志士のことなどを思い浮かべて、自分の力の足りぬことを考えたり、あるいはこれではいかぬとみずから激励したりして、ついに考えは永田閣下を一刀両断にせんと決心するにいたりました。そして着京後、恥ずかしいことながら神田で短刀まで買い求めたのでありますが……もちろん、これはだれにも言わずただ一人で考えたことであります」 」
相沢中佐の発言は、ますます熱をおびて彼の横顔は異様に輝いていた。確かに彼は当時四十八歳の現役中佐とは思われぬくらい熱狂的な壮士の印象が強かった。とうてい正常な軍人には見えなかった。それから、相沢中佐は陸軍省へ赴いて、有末少佐(当時、陸相秘書官)らに会い、昼食をとった後、所用で外務省より帰庁したばかりの永田軍務局長に面会を求めて、辞職を勧告した模様を、なまなましく陳述した。しかし、永田局長が軽くあしらって相手にしたいため、相沢中佐はその無誠意を深く怒り、もはや永田局長の反省を求めるには一刀両断にするほかなしと重大決意をしながら、いったん、福山へ帰任した経過を明らかにした。かくて、相沢中佐の軍法会議公判が全国民の息づまるような注目の中に進行しつつある間に、ひそかに昭和維新をめざす青年将校の同志一味は、東京の近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊を中心に維新義軍のクーデター決行計画をちゃくちゃくと進めていたのであった。ああ、それは昭和動乱史を鮮血で彩る皇軍反乱の前夜――奇々怪々たる相沢中佐公判はそのクライマックスに達したのだ――。 
十四

 

あとから考えると、陸軍部内最悪の不祥事件として注目された軍務局長永田鉄山中将殺害事件の犯人、相沢三郎中佐を裁く第一師団軍法会議公判こそ、じつは後に来るべき皇軍未曾有の大反乱――二・二六事件の騒がしき前奏曲であり、また奇怪な序幕であった。それは、昭和維新をめざした、軍隊反乱の大爆発を起こした、恐るべき導火線でもあった。しかし、軍首脳部も、軍法会議当局も、相沢中佐公判が被告の言い分をよく聞いて順調に進行中の間は、いかかる急進派の青年将校一味といえども、決して実力行使の直接行動に出ることはなかろうという、虚しい希望と安心感にとらわれていたのである。だが、実際には相沢中佐公判で、被告自身と特別弁護人の陸大教官満井佐吉中佐の思うままに神がかりの自己弁論が堂々と行なわれていた最中に、意外にも、皇道派の青年将校一味は、天下注目の法廷闘争の成り行きには頓着せず、第一師団扇下諸部隊の満州移駐、出動の時期切迫をおそれで、昭和維新断行と武装決起の計画を極秘のうちにぐんぐん進めていたのだ。それゆえ、相沢中佐公判のおそるべき導火線がまだ燃え切らないうちに、二・二六事件という大爆発が起こったわけである。では、皇軍反乱の前夜――いったい、相沢中佐公判はどこまで進行していたのであろうか? また、ヒトラー張りのチョビヒゲと熱弁で一躍、日本中に皇道派の有力人物として名声を馳せた満井中佐は、はたして事前に二・二六事件の決行を予知していたのであろうか? 相沢中佐公判と二・二六事件の不可分の関係を知れば知るほど、昭和動乱と昭和維新の奇怪な宿命にふれて慄然とするのは、ひとり私のみではあるまい。したがって、二・二六事件の秘密を明らかにするためには、どうしても相沢中佐公判の真相を正しく理解する必要があるのだ。ところが、事実上は二・二六事件という未曾有の大爆発が起こったために、かえってその導火線となった相沢中佐公判は、中途半端のままウヤムヤに葬られた感が深く、とくに、戦後の今日ではすでに伝説化された二・二六事件のもろもろの謎のベールのかげにおき忘れられたように思われる。これは記録をみるとよくわかるが、二・二六事件が勃発したために、相沢中佐の公判は二月二十五日以降、論告、求刑、判決をみずに審理中途でいちじ延期された。その後、判士の一部も更迭(こうてつ)して審理を更新し、四月二十二日以来、五回にわたり非公開のまま公判を開き、いわゆる秘密裁判によって、五月七日、死刑の判決が宣告された。陸軍当局では、前回の相沢公判のものすごい法廷闘争とその反響に懲りて、「現下の情勢上、安寧秩序を害し、かつ軍事上の利益を害するおそれあり」という理由で、新公判の公開を禁止してスピード判決を行なったのであった。それは、軍首脳部がいかに被告相沢中佐や特別弁護人満井中佐の発言を恐れ、かつ憎んでいたかをしめすものであった。それだけに、昭和十一年一月二十八日から二月二十五目までの第一次相沢公判の内容こそ、昭和動乱史上きわめて重大な歴史的意義があるといえるだろう。
「 (注) 被告相沢三郎中佐は、死刑の判決を不当として、五月八日、陸軍高等軍法会議に上告したが棄却され、同年七月三日、東京渋谷の陸軍衛戍刑務所内で銃殺された。それは二・二六事件の決起将校の第一次処刑(十三名)にさきだつ九日前のことであった。そういうわけであるから、私は読者諸君の正しい理解のために、もう少し二・二六事件の恐るべき導火線となった相沢中佐公判の複雑な内容と、その奇怪な行方を明らかにしておきたいと思う。 」 
十五

 

昭和十一年一月三十日、相沢中佐を裁ぐ第一師団軍法会議の第二回公判の午後の審理で、相沢中佐は、陸軍省で軍務局長永田鉄山中将(当時、少将)に面会して辞職を勧告した場面をつぎのようになまなましく述べた。彼は昭和十年八月十二目、永田軍務局長を斬り殺す約一ヵ月前に、わざわざ任地の広島県福山市(歩兵第四十一連隊の所在地)より上京して陸軍省へ出頭し、永田局長に面会を求めて強硬意見を申し入れたのであった。それは同年七月十九日午後三時すぎごろのことであった。
「 「私は軍務局長室にはいって挨拶をした後、単刀直入に、『近ごろ、大臣閣下のやられることには間違いが多いようですが、永田閣下は大臣の唯一の補佐官であるから責任をとり、ご引退になってはいかがでしょうか?』とご忠告をしたところが、永田閣下は、『それはどういうわけか、もっと具体的に言え!』と反問されました」「それから、『ご忠告はまことにありかたいが、わしも誠心誠意、大臣を補佐しているが、大臣が、きかれねば止むを得ぬ』とのことでした。さらに、二、三問答しましたが、結局、私との問答にも少しの誠意も認められぬと思いました」 」
かくて、相沢中佐は永田局長の責任回避の態度を論難したうえ、その夜は急進派の青年将校の有志、大蔵栄一大尉と昭和維新運動の中心人物西田税とも会って、いろいろと教育総監真崎甚三郎大将更迭の裏面を聞かされ、なんだか淋しい感を抱くにいたった模様を重々しく陳述した。それから審理はいったん、休憩の後、午後二時二十五分、再開、杉原主任法務官の訊問はいよいよ相沢中佐の犯行直前の行動と事件の核心にうつり、超満員の法廷は極度に緊張した。
「 相沢中佐 「私は、永田閣下がまったく辞職する気がないとはっきり認めて、福山に帰任しました」 」
杉原法務官 「被告は、八月、また上京したね、それを述べなさい」
「 相沢中佐 「私は、村中大尉から送られてきた教育総監更迭事情の書類その他を見て、皇軍が急速度で私兵化している重大危機を憂いました。村中が苦心して書いた粛軍意見書を、連隊に配布せず葬り去り、さらに村中大尉と磯部一等主計も免官にされてしまいました。私が怒ると、いまの世の中にそんな正直なことを言うのは馬鹿だと、冷笑する軍人もありました」 」
相沢中佐は直立不動のまま、その語調はますます熱気を帯びて、興奮気味となり、紊乱した軍部の内状と享楽化した世相にいたく悲憤慷慨(ひふんこうがい)した。いま法廷に立って熱弁をふるう中佐の胸中にいら立つ激情こそ、まさしく五ヵ月前に氷田中将を斬ってすてた公憤の殺意に相通ずるものであったろう!
「 相沢中佐 「貪乏しながらも田舎の青年まで麻雀に熱中するようではもはやいかん! 私はいまこそ無外禅師(相沢中佐が師事、参禅した仙台市輪王寺住職)の教訓を身を挺して行なう時期が来たと悟りました。私が永田閣下に目標をとったのは、もっとも重大責任ある永田閣下が職責を行なわないからであります。八月一日に私は突然、台湾に転任を命ぜられましたが、台湾に行くことは忍びないことでありました」 」
杉原法務官 「それからどうしたか?」
「 相沢中佐 「永田閣下を除くには方法が三つありました。一つは時世が許さぬ、一つは私の貧しい知恵と力ではできぬ、結局、最後の一つとして私の刀を向けるほかはないと決心しました。それで私は、八月十日に福山を立ち、宇治山田に一泊して、十一日早朝、伊勢両宮(内宮、外宮)を参拝したのち、大蔵、村中、西田に『神代餅』の土産を求めて出発しました。東京に着き原宿に下車したのは夜の九時すぎでした。明治神宮を遥拝し、雨上がりの淋しい神域にむかって、祈願をこめた後、円タクに乗り午後十時ごろ、代々木山谷の西田税方に落ちつきました。しかし、私も万に一つの情勢の変化を望んでいました。西田は喜んで迎えてくれましたが、情勢に変化なしと聞いて、私はガッカリしました。そこへ大蔵も来合わせましたが、話は不愉快なことばかりでありました。午後十一時ごろに別室に入り寝につきました。このとき、明日は偕行社で買い物をして台湾に赴任すると、大蔵に伝えました」 」
いまや、相沢中佐の陳述は永田軍務局長斬殺事件の核心に迫ってきたので、佐藤裁判長以下各判士も、満廷の傍聴人も、また、記者席の担当記者たちも、みんな固唾(かたず)をのんで、中佐の一言一句にじっと耳を傾けていた。それは相沢中佐公判の絶大なスリルであった。
日本中を驚愕させた昭和十年八月十二日、白昼堂々と陸軍省軍務局長室で全陸軍のホープといわれた永田鉄山将軍を軍刀で斬り殺した奇怪な不祥事件の真相は、いまこそ犯人の相沢三郎中佐の口より明らかにされようとしていた。記者席で鉛筆を走らせる私の胸もさすがにときめいて、いわば歴史の重さを指先にひしひしと感じていた。
「 相沢中佐 「その翌日――八月十二日朝、私はブラブラと西田税方を出て、円タクで陸軍省の裏門に着きました。フト、私は山岡閣下(陸軍省整備局長山岡重厚中将)に会おうと考えました。予審では、私がなにか深い企みがあるように、この点を訊問されましたが、山岡閣下は私の尊敬する昔の上官で、ご挨拶するつもりだったのであります。裏口の受付で山岡閣下の部屋をたずねると、給仕に案内させてくれました。山岡将軍にお目にかかると、将軍は、『ひさし振りだ、まあ掛けろ』と言われ、私は座りながら、『閣下はいつもお若いですね』と言うと、『悪いことをしないものは若いのだ』と笑われました。私は、『永田閣下に会いたい』と言いますと、『なぜか?』とたずねられました。私が給仕に永田閣下の在否をきいたので、山岡閣下は、『お前は会ってはならぬぞ』と注意されました。私が山岡閣下に向かって、『世のなかは重大時期だから、しっかりやって下さい』と言うと、『俺は知らんよ』と言われたので、私もムッとして詰問しました。ちょうどそこへ給仕がもどって来たので、後でご説明しますと断わり、永田閣下の部屋へ向かいました。部屋に入ると、永田閣下のほかにだれか二人いました。私はすぐ軍刀を抜いて迫りました。永田閣下は私の権幕に驚いてスッと駆けられた」 」
そこで、相沢中佐は思わず興奮したようすで両手を振りかざし、軍刀を上段にかまえた形で、恐ろしい凶行の瞬間の光景を述べて、法廷には戦慄の殺気が流れた。
杉原法務官 「それからどうしたか?」
「 相沢中佐 「私は、それから先はハッキリ覚えていません、永田閣下がヒラリと体をかわして逃げたので、一刀を浴びせると、閣下は隣室(軍務局兵務課)のドアの方へ逃げ、ピタリと身体をドアにつけた。私は斬れないので、両手で軍刀を握り、背中からグサリと突き刺しました。そのとき、軍刀のキッ先がドアに刺さったように思いました。私が軍刀を引き抜くと、閣下はヨロヨロと部屋の中央の円テーブルの下に這って倒れました。私は後を追って、閣下の首に深く斬りつけました。このとき隣室で押さえろとかなんとか、どよめきが聞こえました」 」
佐藤裁判長以下各判士は、壇上より、身振りよろしく熱弁をふるう相沢中佐をじっと見つめながら、口をはさむ余地もないほど深刻な無言の表情だ。また、満廷の傍聴人も、この「陸軍省構内の上官殺人事件」のなまなましい恐怖にとらわれたように息をのんで、咳ひとつ聞こえない。これまでの相沢中佐の陳述で明らかにされた点は、つぎのような奇怪な諸事実であった。それは、永田中将暗殺事件の背景をなす軍部の派閥抗争の底知れぬ醜状であった。
「 一、相沢中佐は性質が単純で、熱狂的な正直者であった。だから軍中央部の派閥抗争にまきこまれて、その犠牲になった。
二、軍中央部では、反永田派の山岡重厚中将や山下奉文(ともゆき)少将(当時、調査部長)などは、相沢中佐の犯行を咎(とが)めるどころか、かえって、「よくやった!」と激励した形跡が濃厚である。もちろん、犯行を教唆したわけではないが、彼らは積極的に制止することはせず、むしろ内心では、時世に乗じて出世コースを独走する目の仇の統制派の重鎮、永田鉄山中将を除いて清々した気分であったらしい。
三、現状打破と国家革新を主張する同じ皇道派でも、中央部の権勢欲の強い将軍連中と、陸大出の目先の利いた秀才の幕僚(佐官級)たちと、名利に頓着せぬ直情熱狂の青年将校(尉官級)たちとの間には、それぞれ相異なる思惑があった。 」
相沢中佐はこの実情を公正に理解し、冷静に判断する能力に欠けていた。相沢中佐は、上官たる永田軍務局長にたいして軍刀をふるってまず袈裟斬りにしたうえ、背中より柄(つか)も通れと突き刺し、さらに第三刀で首筋に止めを刺したものであったが、あくまで「天に代わりて不義を討つ」という烈々たる気概をしめして、まったく犯罪意識はなかった。しかも、彼は被害者たる永田中将にたいして閣下という敬称をつけて呼んでいた。その驚くべき心境を公判廷で、彼はその通りまさに堂々と開陳して、裁判長以下各判士にも傍聴人にも深刻な印象はあたえていた。
「 相沢中佐 「私は、永田閣下を刺して廊下に出たとき、兵務課長山田大佐の声で、『相沢、相沢』と呼ばれたのを覚えています。私はそのまま山岡閣下の部屋にもどると、閣下は私の左手の血を見て驚かれ、新しいハンカチで、手首を結(ゆ)わいてくれました。なんとか血を止める方法はないかと閣下はしきりに心配して、いまからどうするのかと聞くので、私はこれから偕行社に行き買い物をして台湾に赴任すると答えました。だんだん、騒ぎが大きくなりましたので、私はこの部屋にいてはならぬと思い、部屋を出て医務室に行くと、病院の担架が廊下を出るのを見ました。このとき、私は自分が戸山学校の剣道教官をやったことがありながら、一刀両断できないのは情けないと残念に思いました。また、局長室に軍帽を飛ばして置き忘れた失策をしている。そこへ私服の憲兵などが来たので、早く帽子を持って来てくれと頼んだが、持って来てくれません。私は軍帽なしでは不体裁で困ると思っていると、憲兵が、麹町分隊に行きましょうと言うので、出かけました。その出がけに、新聞班長根本大佐が丸くなって駆けつけてきて、私の手を強く握ったので、私は士官学校では彼より先輩なので兄貴のような気持がして喜んで、『お国のためにしっかりやってくれ!』と言うと、根本は感きわまったように固く握手しました。そこへこの法廷にいられる山下閣下が見えて、『おいどうしたか、静かにしろ!』と言われたので、私は敬礼して階段を降りました」 」
相沢中佐は、永田局長を斬り殺した直後、もっとも痛感した一事は、自分が剣道四段の達人でありながら、「永田閣下」を一刀の下に殺害できなかった未熟と不覚の念であった。そして、彼は犯行について一切の責任は感じないで、ゆうゆうと落ちついて、台湾へ赴任するつもりであった。それは皇道派の将軍連中が当然、しかるべく後始末をしてくれるものと信じていたようすであった。まことに驚くべき異常な心理であり、奇怪な愛国者の信念であった。
「 相沢中佐 「私は偕行社で帽子を買って行きたいと申し出たが、許されないので、そのまま憲兵隊へ行きました。私の左手から血がホクホク出るので、地方の医者が来て包帯を巻いてくれました。それから取り調べがはじまりましたが、最初は憲兵曹長で、つぎに森憲兵少佐が訊問されました。私はここに来た以上は、憲兵司令官に会って聞きたいことがあれば、お話してから偕行社にもどり、買い物をするくらいに軽い気持でいました。しかし、これは私の認識不足でありました。森少佐から私は永田閣下の死亡されたこと、および新見憲兵大佐に傷を負わせたことも、はじめて知りました。新見大佐のことは、私は再三きかれたが、どうも覚えがありません。ただ怪我をさせたのは、たしかに私であると思います」 」
あくまで、昭和維新をめざす熱狂的な信念の下に正しい行動をしたと陳述する相沢中佐の熱弁は、滔々として尽きるところを知らぬ調子であった。佐藤裁判長はこのとき、はじめて口をはさんで、「被告は疲れはいないか?」とたずねると、相沢中佐は、「はい、別に疲れません。いくらでもこのままお話いたします」と答えた。しかし、裁判長は、杉原法務官と耳打ちして、「今日はこれまで……」と午後三時二十分、閉廷を宣した。それで、極度に緊張をつづけていた傍聴人席も、やっと救われたようにホッと息をついた。 
十六

 

相沢中佐の第三回公判は、二月一日午前十時二十五分から第一師団軍法会議法廷で続行されたが、相沢中佐は、軍人として最悪の、上官殺人の大罪で裁かれている被告であるという観念は全然なく、あくまで君側の奸臣に天誅をくわえた明治維新の烈士たる気概をしめして、むしろ優柔不断の軍首脳部と立身出世主義の天保銭組(陸大出を指す)幕僚連中に痛烈な警告をあたえるような態度であった。まず冒頭に、杉原法務官から、「被告は前回、永田中将を殺害した顛末を述べたが、なにか原因と動機についてつけくわえることはないか?」 と訊問されると、相沢中佐は、いよいよわが意を得たりとばかり、大声一番、満廷の緊迫した注目のうちに、つぎのような点につき熱弁をふるい、公訴状の語句を一々、反駁して大見栄を切った。
一、大義名分の上から永田中将を斬り棄て、重臣、財閥と結託した軍首脳部の反省を求めたこと。
二、凶行後、根本博大佐(当時の陸軍省新聞班長)が飛んで来て握手した事実は、純真な青年将校を煽動しながら、蔭では自己の栄達のみを図る中央部の幕僚連中の不純な態度の現われであること。
三、満州事変以来、ひそかに、尊敬していた石原莞爾大佐の要領のよいやり方にも疑惑を抱くようにたったこと。
四、現内大臣斎藤実子爵へも、獄中より国家革新の要求書を書いて出そうとしたが、法務官にさしとめられたこと。
「 相沢中佐 「海軍は藤井斉少佐、陸軍は西田税、この二人こそ青年将校の発祥であって、この二人の後にみんなついて来ます。そして、だんだん広く根を張って来ました。公訴状に書いてある国体観念なんてバカな言葉はありません…… いや失礼しました。バカではありませんが、こんな言葉は青年将校を侮辱した言葉であります!」 」
こんな調子で、相沢中佐は、公訴状の字句を不敬扱い(当時の絶対天皇制の下では、天皇制自体や国体を論ずることさえ不敬罪の疑いをかけられた)にするので、さすがに温厚な佐藤裁判長以下各判士も、「聞き捨てならず」とばかり緊張して被告を見つめた。
「 相沢中佐 「私が真崎閣下のために、なにか企んだように思われているのは絶対ウソであります。私は法律の知識はありませんが、私はただ大君にたいする信念から統帥権干犯(かんぱん)の事実を確信するのであります」 」
いかにも中年軍人には珍しく単純で熱狂しやすい性格の相沢中佐は、軍部の堕落と国家の現状を憂えるあまり、前年の一月二日に上京したとき、当時、伊豆の伊東温泉の山田旅館で、真崎大将に会って青年将校のことにつき意見を述べようと行ってみると、意外にも陸軍の某大将その他の将官連中が財界の某氏別荘で昼食をしていることを知り、また、数名の青年将校たちも某宿屋で地方の人々となかなか愉快に飲み食いしていたと聞き、大いに義憤を感じて、公訴状のごとく軍人が「財閥、官僚と通じ」という事実もあることを承知したと苦言を呈した。かくて軍法会議法廷は、狂信的な相沢中佐の独壇場と化して、満員の傍聴人席を埋める金ピカの将星たちも、右翼関係者たちも、息をのんで、ただ黙々と傾聴するばかり――。新聞記者席でもこの異様な被告の恐るべき気合いに押されて、ザラ紙の原稿用紙に走り書きする鉛筆に思わず力がこもった。そのうち相沢中佐は、一通の手紙をポケットから取り出して読みあげた。それは中佐が永田軍務局長を斬り殺したとき、同席して重傷を負った東京憲兵隊長新見大佐が、事件後の八月十九日付で獄中の中佐へ送ったものであった。
「 ――先日は小生の周章狼狽(ろうばい)尽くすべきことを尽くさず、永田軍務局長を死なせ、貴官を不自由の身にいたしたることは、じつに慚愧(ざんき)に堪えず、深くその責任を痛感し、その罪は万能に当たるべく、ここに深くお詫び申し上げ候 」
当時の軍国時代で、地方の人々には鬼のごとく怖れられた憲兵隊長が、上官殺人の狂乱した軍人に向かって、しかも自分も斬られて重傷をこうむりながら、このような「お詫びの手紙」を差し出すとは、まことに常識ではとうてい考えられたいことであった。しかも相沢中佐は、この気の弱い憲兵隊長を憐れむよりは、むしろ軽蔑するような調子で、つぎの通りコキ下ろした。
「 新見大佐は、この手紙によるとまったく私の精神を知らず、ただ永田閣下の死と、私の入獄というような事実だけで、この書面を下されたとすれば、失礼ながら番犬のごときものといわざるを得ません! かくのごとき状態でありますから、私は斎藤内大臣閣下に一言申し上げたいことを再三、杉原法務官殿にお願いしてきたのであります。どうかいまお許し下さいませんか? どうか(軍人の)英邁(えいまい)と横着(おうちゃく)とはあくまで区別していただきたい。私欲のために洞(ほら)ヶ峠を決めこんで、いつも利口に立ちまわっているようなものはあくまで一刀両断すべきであります。最後に私は無理かも知れませんが、お願いがあります。私が永田閣下を斬ったのはお国のため、また皇軍のためであります。上(かみ)陛下の宸襟(しんきん)を悩まし奉り皆様にご心配をかけたことは申し訳ありませんが、どうかこの尊皇絶対の精神により一致団結、勇往邁進していただきたい 」
かくて、第三回公判は暗い影を法廷に残して、午後三時に閉廷したが、相沢中佐はいかにも満足そうであった。
このように相沢中佐公判は、ますます荒れ模様を呈してきたので、最初に第一師団軍法会議当局が予定していた事実調べ二回、証拠調ベ一回、証人調べならびに検察官論告求刑一回、弁護人弁護一回、合計五回で結審判決へ持ちこもうとしていた方針はすでに崩れてしまった。すでに三回の事実審理もすべて相沢中佐のまさにひとり舞台で、杉原法務官の訊問さえろくろく、行なわれず、あべこべに相沢中佐の「尊皇絶対」の熱弁に圧倒されてまったく手も足も出ない有様だった。その後の記録はつぎの通り。
「 第四回公判――二月四日午前十時より午後二時二十五分まで。
杉原法務官 「被告は国法の大切なことは知っているが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのであるか?」
相沢中佐 「そうであります。大悟徹底の境地に達したのであります……。私は憲兵司令官に私の精神を十分にわかってもらえば、当然、『安心して任地に赴任せよ』といわれ、私は台湾に赴任することになると思っておりました。私がこの法廷でお調べを受けようとは思いませんでした。これは私の期待したもっともよき状況の場合であります。ただし、もし悪い状況ならば、私は憲兵隊で殺されたであろうと思います」 」
「 第五回公判――二月六日午前十時より午後一時十五分まで。
島田検察官 「上官に暴行すれば上官暴行罪にたり、人を殺せば殺人罪になることぐらいわからかったのか?」
相沢中佐 「私は罪状を隠蔽するために前回申し上げたのではありませぬ。勅語にある国憲を重んじ、国法に遵いの文字通り、国憲重しとみたためであります」
島田検察官 「その動機はわかったが、刑事上の責任を考えず、台湾に赴任するなどとどうして考えたか?」相沢中佐はさすがに答弁につまって、気短そうに顔を真っ赤にして、「国法を犯しました!相沢のバカなためでありました!」と破鐘のような大声を発して法廷を驚かせた。
島田検察官 「国法は陛下のご裁可により発布されたものであるから、国法を犯すことは陛下の大御心にそむく結果となることを考えなかったか?」相沢中佐はまたもや答弁をしぶり、傍聴人席をハラハラさせたが、特別弁護人の満井中佐が助け舟に立ち上がり、つぎのような得意の大熱弁をふるって、被告を弁護しながら検察官に反駁した。「中佐の陳述を総合大観すると、相沢個人が永田個人を刺しだのではなくて、中佐は皇軍の一員たる公人の資格をもって軍人勅諭を守り決行したのであると思います。中佐は皇軍を救うためにやむにやまれぬ志から部隊付将校として行なったのではありませんか!」相沢中佐は欣然として、「ハイ、その通りであります!」 」
「 第六回公判――二月十二日午前十時より十一時五十五分まで。
永田事件当時の前陸軍次官橋本虎之助中将の証人喚問が行なわれたが、「軍事上の利益を害するおそれがある」との理由で公開を禁止された。新聞記者も傍聴人も全部、取り締まりの憲兵に追い立てられた非公開の法廷で、橋本中将は約一時間にわたり重大な証言を述べた。 」
「 第七回公判――二月十四日午前十時より午後二時三十分まで。
法務官の証拠調べが行なわれ、永田軍務局長の血染めの軍服や、相沢中佐が兇行に使用した刀身の歪んだ血痕のついた軍刀などの証拠品が並べられて、法廷に息苦しいような殺気が漂っていた。 」
「 第八回公判――二月十七日午前十時より午後零時二十五分まで。
永田事件当時の陸軍大臣で現軍事参議官林銑十郎大将が勅裁を仰いで証人として喚間され、相沢中佐の凶行の原因となったといわれる教育総監(真崎甚三郎大将)更迭問題と統帥権問題(天皇の大権を干犯したか否かの争点)の真相を明らかにするため、二時間にわたり非公開の中で重大な証言が行なわれた。 」
「 第九回公判――二月二十二日午前十時より午後五時四十五分まで。
公開禁止のまま、佐藤裁判長から前回の林大将の証言が相沢中佐に読みきかされた後、午後より公開審理にもどり、相沢中佐の「心の父」といわれる禅道の恩師の輪王寺(仙台市)住職福定無外師が特別傍聴人として出廷し、相沢中佐と劇的対面をした。 」
「 第十回公判――二月二十五日午前十時より午後五時まで。
永田事件の謎のカギを握る最重要の証人として前教育総監、現軍事参議官真崎挂三郎大将が公開禁止の中に喚問されたが、「軍の機密事項は勅許がなければ証言できない」と堂々と答弁して、わずか四十七分で退廷した。 」
これは自分の意思に反して教育総監を罷免された真崎大将の暗黙の挑戦として、軍法会議当局も狼狽したし、また新聞記者団も事態を重大視した。しかも、午後の公開法廷で特別弁護人満井中佐は、次回に証人として、次の人々の喚問を正式申請したうえ、「もしもこの証人喚問をみとめなければ重大事態を招来しますぞ!」と裁判長に向かって意味深長な発言をこころみた。三井財閥の巨頭池田成彬(せいひん)氏、その親戚の会社重役太田亥十二(いそじ)氏、木戸幸一侯爵、井上三郎退役陸軍少将、牧野前内府秘書下園佐吉氏、内務省警保局長唐沢俊樹氏。 
十七

 

忘れもしない昭和十一年二月二十五日夕刻、私は同僚数名とともに青山南町の第一師団軍法会議の相沢中佐公判をすませて、朝日新聞の社旗をひるがえした自動車二台をつらねて有楽町の数寄屋橋々畔の本社へもどった。私は心身ともにヘトヘトに疲れきっていたが、この日の公判は永田事件の黒幕的人物とみられた重大証人の真崎大将が、意外にも、「天皇の勅許がなければ何も言えない」と言い放って退廷し、大波瀾を起こしたので、なにかきわめて不吉な重苦しい気分にとらわれていた。それに満井中佐の申請した証人もあまりに大物ぞろいで、いかにも重臣ブロック攻撃の気がまえが見えすいて気がかりであった。「これはどうもただごとではないね、なにか大事件が起こりそうだぞ!」「だが、軍法会議が相沢中佐の言い分をよく聞いて、万事納得のゆくように進めている間は、まさか青年将校連中も無茶な行動はするまいよ」「それもそうだね、まあまあ先が長いから、今日はおたがいに早く帰宅して休養した方がよかろう」こんな会話を私は社内で同僚とかわしながら、この夜に限って好きな酒を飲まずに早目に、車で荏原区洗足田園調布の自宅へ帰った。ひどく底冷えのする厳冬の夜であった。そして夜半より大雪が降りはじめた。その翌朝――二月二十六日、水曜日の早朝六時半ごろ、私はけたたましい電話のベルで目を覚まされた。それは本社の交換台からで、徹夜勤務の交換嬢の声もうわずっていた。すぐ社会部の宿直記者が電話口に出て、歴史的な二・二六事件の突発を知らせてくれた。「いま、社の車はみんな出払ってないから、タクシーを雇って大至急、出社してくれたまえ!」薄明の窓外には、珍しい大雪が深々と積もって、見渡すかぎり白一色の銀世界であった。天下注目の相沢中佐公判の担当記者として、私はついに来るべきものが到来したという感慨無量なものがあった。一夜のうちに積雪は深く道を埋めて、郊外の町通りにはタクシーの影も見えなかった。私はイライラしながら、電話であちこちのハイヤーを頼んでまわり、ようやく午前八時前に本社へたどりついた。それはすでに反乱軍によって朝日新聞社が襲撃された直後であった。騒然たる本社三階の編集局の中央にある社会部のデスクに飛びこんだ私は、息もつかずに大書された社内特報の貼紙をむさぼるように読んでいた。
「 ▽本日未明、軍隊反乱が起こり、青年将校指揮の下に重臣をつぎの通り襲撃、殺害す。 ▽首相官邸――首相岡田啓介海軍大将即死(のちに生存判明) ▽内大臣私邸――内大臣斎藤実(まこと)子爵即死 ▽教育総監私邸――陸軍教育総監渡辺錠太郎大将即死 ▽大蔵大臣私邸――大蔵大臣高橋是清(これきよ)子爵即死 ▽侍従長官邸――侍従長鈴木貫太郎大将重傷 ▽湯河原伊藤屋旅館――前内大臣牧野仲顕伯爵生死不明  」
「これで相沢公判もすっかり吹っ飛んでしまった。この雪の朝の大反乱事件にくらべたら、これまでの血盟団事件や五・一五事件などまるで子供だましのようなものだったなあ」と私はしみじみ思った。それから、社会部長の命令で、私はカメラマンをつれて自動車で雪の市街へ出動した。青山の高橋蔵相私邸と杉並区の渡辺大将邸をめざして――。 
第六章 日本軍、東京を占領す / 二・二六事件

 

昭和十一年(一九三六年)二月二十六日未明、帝都警備の大任をになった完全武装の軍隊が反乱を起こして、天皇の信任篤(あつ)い重臣と政府、軍部の首脳をいっせいに襲撃、殺害したいわゆる二・二六事件は、日本中を驚愕させたのみならず、全世界へも不吉な大衝動をまき起こした。それは今日より回想しても、いまだに不可解な謎が残され、奇怪な真相が十分に明らかにされていないほど黒い秘密のベールにつつまれたものである。なぜならば、この秘密こそ軍国日本の推進者として、それまで天皇制をわがもの顏に最大限に利用してきた軍部にとっては、きわめて都合の悪いものであったから、むしろ一般に高まった粛軍(しゅくぐん)と厳罰主義を要望する世論にたくみに便乗して、二・二六事件の謀議に参与し、あるいは部隊指揮にあたった青年将校全員を、反乱罪で非公開のスピード裁判にかけて銃殺刑に処し、みずからの口をぬぐってしまったからだ。四年前の五・一五事件で犬養(いぬかい)老首相を官邸に襲撃、射殺した海軍青年将校ならびに陸軍士官侯補生にたいして、大いに弁護して破格の減刑(反乱罪で禁錮十五年から同四年の軽い判決、前述)をみとめた軍首脳部としては、まことに奇怪な方針の大転換であった。これは後でくわしく追究するつもりであるが、要するに、それまで現状打破をめざす士気旺盛な青年将校の推進力をたくみにあやつって、いわゆる「軍の総意」を切り札として政党政治に強引に介入してきた軍部は、もはや青年将校の力をかりなくとも思うままに日本の政治を左右し、支配することができるようになったのだ。むしろ軍首脳部の肚(はら)の中は、重臣や財閥を指導して、聖戦の名の下に「支那事変」に全面的に協力させたうえ、ナチス・ドイツ流の高度国防国家を建設することが焦眉の急務であると決意していた。したがって、ただ空想的な日本改造の昭和維新を呼号する青年将校の一派の急進的行動は、かえって軍部として迷惑千万であり、まかりまちがえば権勢欲の強い将軍連中の出世昇進主義の中央幕僚(陸大出の佐官級)たちの足元をさらい、その地位をゆさぶる危険さえ生じてきた。そこで二・二六事件の決起将校たちが、維新義軍とみずから名乗り、それまで尊敬していた真崎甚三郎大将(前教育総監・軍事参議官)はじめ皇道派の軍巨頭のきもいりで、天皇より「維新大詔」の渙発(かんぱつ=公布)を奏請することを期待していたのに反して、事件直後、宮中に参内、集合した軍参議官の将軍連中は、いずれも責任のがれと一身の利害にとらわれた優柔不断に終始し、だれ一人として賊軍の名に甘んじた西郷南洲の大決断にならうものはなかった。それどころか、かえって青年将校たちを国体とあいいれぬ危険思想の持ち主とみなした。かくて、二・二六事件は、表面上は「雪の朝の大反乱」として昭和動乱史上、もっとも劇的なクライマックスを展開しながら、その結果は不可思議な矛盾だらけの事件におわり、われみずから昭和維新の捨て石たらんとこころざした前途有為の青年将校たちの悲願もむなしく、結局は獄舎で犬死にに終った。しかしながら一方、軍首脳部自体の積年の責任追及は頬かぶりでおし通されたのみならず、いわゆる功利的な幕僚ファッショ時代をもたらし、日本の戦時体制はますます強化されて政党も新聞も骨ぬきにされてしまったから、二・二六事件の犠牲となって殺された重臣たちの死にまったく報いられなかった。殺した方も悪いが、殺された方も悪い――というのが軍部の賢明な独善的立場だったのである。読者諸君はすでに、戦後の出版物や、映画やテレビドラマによって、この二・二六事件の表面的な経過についてはいろいろご承知のこととは思うが、しかし、私がこれから当時の悪夢のような雰囲気を紙上に再現して公正に検討しようとする二・二六事件の大秘密というものは、いったい、なんであるか? そのためには、以上の通り、いくつも奇怪な矛盾と謎が事件の背後に秘められたまま葬られている点を、ここに前もって推察していただきたい。そうすることによって、今日すでに伝説化され、あるいは講談化されている二・二六事件の真相がはじめて冷静に見なおされるであろう。 

 

さて、その二月二十六日の大雪の朝、私か荏原区洗足の自宅から、都心の朝日新聞社へ緊急呼び出しをうけて出社したときには、幸か不幸か一足ちがいで、同社を襲撃した反乱軍の一部隊は「自由主義的な朝日新聞」を“膺懲(ようちょう=こらしめる)”したうえ、引き揚げたばかりであった。―― まだ烈しい興奮と驚愕の熱気が、厳冬の朝の社屋の中に立ちこめているような心地がした。同僚の話では、一階の裏手の印刷局の工場へ銃口をかざした兵士多数が乱入して、植字台や活字箱をひっくり返して暴れたが、ズラリとならんだ巨大な輪転機には別に被告がなかった。もしも手榴弾や爆薬によって輪転機がやられたら、人的ならびに、物的の損害はさぞ甚大なことであったろう。一方、正面玄関から、指揮官らしい若い青年将校が大型ピストルを右手ににぎりながら、銃を構えた手兵を率いて押し入って来たそうだ。応待に出たO主筆の落ちついた態度にかえって逆上したらしく、血相を変えて大声でわめいて威嚇(いかく)したが、新聞社側では全然さからわず、無抵抗のまま、彼らのいいなり放題にまかせて、全社員がゾロゾロ社屋の外へ避難退去したので、幸いにも衝突も発砲騒ぎも起こらなかった。しかし、いちじ、朝日新聞社は反乱軍によって完全に占領された。その間に、新聞社玄関前の数奇屋橋々畔には、反乱軍の機関銃隊が物々しく銃座をすえて警戒陣を張り、もしも近くの警視庁から武装警官隊がかけつけてきた場合は、華々しく一戦をまじえて撃退する作戦計画を立てていた。この威勢のよい指揮官は、反乱軍随一の急進的青年将校といわれた歩兵第一連隊の柴原安秀中尉であり、この早暁すでに三百名の部隊を率いて麹町永田町の首相官邸を襲撃して、岡田啓介首相(海軍大将)を血祭りに上げた(ただし後に、これは人違いで、岡田首相の義弟の松尾伝蔵予備海軍大佐を殺害したものと判明した)後、意気ますますあがり、さらに下士官兵約五十名を指揮して軍用トラック三台に分乗し、朝日新聞社を襲撃したものであった。それから栗原中尉の一隊は、同じ有楽町にある東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)、時事新報社、国民新聞社、報知新聞社、電報通信社の各有力社をまわり、代表者にそれぞれ面会してかねて用意したガリ版刷りの決起趣意書を配布して、同日夕刊の紙面にいっせい掲載を要求した上、ゆうゆうと反乱軍が占拠中の首相官邸へ引き揚げたのであった。このように、東京にある大新聞社の中で朝日新聞社のみが反乱軍の憎悪のまとになって襲撃されたことは、当時の軍国時代の言論界の動向をしめすバロメーターとして注目されよう。もっとも反乱軍側でも、欧米の武力革命行動の定石である、現政権を打倒したうえ、新聞社とラジオ放送局を奪取占拠して、国民大衆へ革命支持を強くアビールするような意図はまったくなかった。そこが昭和維新をめざす青年将校たちの、日本独特の武力革命行動の特色であった。なぜならば、彼らの大目的は民衆的な西洋流のいわゆる社会革命ではなくて、あくまで天皇制のワクの中で、ただ君側の奸臣、財閥を除いて天皇親政を実現しようとする、古めかしい大化の改新のような昭和維新の義挙であったからだ。反乱軍の青年将校一味の単純な考えでは、日本の政治を動かしている目ぼしい重臣たちさえ血祭りに上げれば、皇道派の軍長老が事態を収拾し、戒厳令下で尊皇討奸(そんのうとうかん)の昭和維新は立ちどころに実現されるものと期待していたようである。したがって、朝日新聞社の襲撃にしても、あまり深い魂胆(こんたん)はなくて、ただ時局に対する反省を促すための威嚇攻撃のようなものであったかも知れない。もちろん一発も銃弾は飛ばなかったし、一人も負傷者を出さなかった。ただ多数の鼻っぱしの強い新聞記者連中が、小人数の反乱兵士の銃口に平伏して、ぜんぜん争うこともなく、まるで屠所の羊のようにおとなしく新聞社の生命であり誇りである三階の編集局の広い職場を放棄して、エレベーターも使用不能のためゾロゾロとせまい階段をあわてて降りて、屋外へ追い出された光景はみじめなものだった。恐怖のために足がすくんで背中で階段をすべりおりたという中老の編集幹部もいたと噂されたものであった。かくて、数百人の新聞記者たちが命拾いをしたころには、日本の最高指導者たる重臣たちはすでに残酷にも血みどろな死体となって、それぞれ官邸または自邸で冷たく横たわっていた。その殺し方は、機関銃とピストルと日本刀と小銃を乱用したじつに残虐なもので、外国映画に出てくるギャングや殺し屋でもおそらく顔をそむけるくらい大規模な殺人戦闘作戦であった。
反乱第一日――二月二十六日、大雪の水曜日は、帝都をはじめ日本中の国民大衆はまったくツンボ棧敷におかれて、二・二六事件が起こったことも、重臣たちが軍隊の手でみな殺しにされたことも知らなかった。ただ、政府関係者と警察方面と新聞社のみが朝からちまなこになって右往左往するばかりだった。それは、今日より考えると、まったく驚くべき言論報道機関の意気地なさをしめしたものだ。しかし、当時の険悪な軍国主義の社会的雰囲気は、すでに数年来、血盟団事件(昭和七年)、五・一五事件(同年)、神兵隊事件(昭和八年)、永田中将殺害事件(昭和十年)、相沢中佐公判(昭和十一年)と、たび重なる血なまぐさい変乱のために大爆発点に達しており、ついに来るべきものが到来したという深刻なあきらめのような宿命感が各方面にみなぎっていたので、ただ新聞界の無力だけを責めるわけにはゆかなかった。要するに、最悪の事態に直面した場合には、ペンは剣よりも弱いものであった。いわゆる「世界に冠たる国体」を護持するために、「精強無比」な皇帝の武装部隊が青年将校の指揮命令の下に堂々と出動して、重臣たちをいっきょに襲撃、殺害したのであるから、これに正面から対抗する力というものは、あの当時にあるものではなかった。ただ反乱軍を慰撫して、原隊へおとなしく復帰させることぐらいが、軍首脳部の将軍連中のなしうる限界であった。その軍長老の連中でさえ、陸相官邸で反乱軍の手中に軟禁されている川島義之陸相(陸軍大将)の生死を気づかうあまり、血相変えた青年将校の鼻息(はないき)をおそるおそるうかがうばかりで、はじめから毅然(きぜん)たる態度で反乱軍を叱責して、大義名分と理非曲直をあきらかにした将軍はいなかったようである。たとえば、太平洋戦争の末期、敗戦降伏の前夜の昭和二十年八月十四日に、天皇の終戦勅命に抗して反乱を企てた青年将校代表に対して、断乎、その不心得をさとして軍隊の私用を拒否し、軽挙妄動を厳禁したためピストルで射殺された、当時の近衛第一師団長森赳(たけし)中将のしめしたような武将らしい勇気は、当時の将軍連中たちは一人として持ち合わせていなかったのである。それはまた、狂信的な昭和維新の実現のために、いわば捨て身になって決起した青年将校一味の気魄と、軍部独裁による栄達で「わが世の春」を謳歌しようと肚の中で打算していた将軍連中の気合いの大きな相違をしめしていた。これまで青年将校を甘やかして、軍の推進力として、むしろ利用してきた軍首脳部は、天皇の軍隊を率いて堂々と決起した青年将校たちをただちに抑えつける決断力も勇気もなかった。それで突然、舞いこんできた軍政権樹立の絶好のチャンスではあったが、将軍連中にとって、内心、嬉しくもあり、また、恐ろしくもあった。彼らは不意を突かれたように、見苦しくも戸惑ったのだ。それはなぜか? 天皇自身の考えがサッパリわからなかったからである。絶対天皇制を看板にして、「われこそ天皇の股肱(ここう)である」という軍人勅諭の特権意識にこり固まっていた将軍連中も、じつは天皇の真意はまったくわからなかったのだ。そしてそれは、決起した青年将校たちもまた同様であった。ここに二・二六事件の不可解な秘密があり、近代世界革命史上でも珍しい「尊皇討奸」という革命目的の奇怪な謎がのこされている。さて、このような未曾有の大不祥事件が未明に起こりながら、一切の新聞、ラジオのニュースは十五時間以上もさしとめられて、はじめて事件の内容について陸軍省発表が行なわれたのは、同夜八時十五分のことであった。それは、重臣のみな殺しによって日本政府が一時的にせよ、抹殺同然にされたためでもあるが、即刻、天皇に奏上し、一身の利害をすてて、生命を賭しても事態を早急に収拾すべき軍長老が優柔不断で、ますます見苦しい混乱と狼狽を重ねていたからであった。 

 

この最初の発表は、つぎの通り、いかにも決起した青年将校の行動を弁護した口調のものであり、この発表文と戒厳令公布の発表記事以外は、翌二月二十七日付の新聞記事は一切の論評も報道も禁止されて、まったく間の抜けたものになった。たとえば同日付の朝日新聞朝刊をみると、社説は皮肉にも、「職業紹介制度の改正」と題する見当ちがいのものであり、社会面トップは、「世界注目の焦点・日蝕――各国の天文学者北海道へ急ぐ、完全な成功か完全な失敗か」という四段抜きの大見出しで、これまた間の抜けた閑(かん)ダネが大きく掲載されて、政治面の「重臣襲撃」の発表文と奇妙な対照(コントラスト)をしめしていた。ただ社会面の左上段に、厳重な検閲をのがれる窮余の一策として、「吹雪に暮れる春の東京二十六日夕 数寄屋橋で」と題して、暗い雪空の街上に傘をさした群衆の集まっている不思議な光景のニュース写真が、ポツンと一枚、掲載されていた。それはさながら、苦悶する当時の言論報道機関のわびしい象徴のようなものであった。
「 〔二月二十六日午後八時十五分、陸軍省発表〕 本日午前五時ごろ、一部青年将校等は左記個所を襲撃せり。首相官邸(岡田首相即死)、斎藤内大臣私邸(内大臣即死)、渡辺教育総監私邸(教育総監即死)、牧野前内大臣宿舎、湯河原伊藤屋旅館(牧野伯爵不明)、鈴木侍従長官邸(侍従長重傷)、高橋大蔵大臣私邸(大蔵大臣負傷)、東京朝日新聞社 これら将校らの決起せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危急のさい、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を芟除(せんじょ)し以て大義を正し国体を擁護開顕せんとするにあり、これに関し在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめられたり。 」
「 〔二十六日午後九時十五分、内務省発表〕 さきに陸軍省より発表せられたる事件に関しては帝都および全国各地方とも一般治安は維持せられ、人心は動揺なく平静なり。また当局発表の形式で、つぎの二本の重大記事が意味深長に掲載されているが、一切ノーコメントで、解説さえ禁止された。 」
二十六日午後、後藤内相は次のごとく首相臨時代理を仰せつけられた旨、午後六時、内閣より発表された。
「 内務大臣 後藤文夫 内閣総理大臣臨時代理被仰付  政府は二十六日枢密院の御諮詢を仰いで戒厳令を発布することとなり、二十七日午前三時半、次のごとく公布した。
勅令――朕(ちん)茲(ここ)ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢(しじゅん=諮問)ヲ経テ帝国憲法第八条第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
   御名御璽(ぎょじ)   昭和十一年二月二十七日  各国務大臣副署 」
この勅令にもとづいて、さらに戒厳司令部令が公布、施行されて、東京警備司令官兼東部防衛司令官香椎浩平中将が戒厳司令官に兼補され、安井藤治少将が戒厳参謀長に任命された。それで警視庁も戒厳司令官の指揮下に入れられた。戒厳司令部は東京九段の軍人会館に設置された。歴史的な、反乱第一日の重大ニュースは、こんな簡単な発表形式によって、翌二月二十七日付の朝刊新聞により全国いっせいにつたえられた。それゆえ、日本中にありとあらゆるデマや流言が乱れとんだのは当然であった。しかしながら、軍隊の大反乱の渦中にあった都心はいわば台風の眼の中のように、案外、平静であった。それはこの反乱が、一般大衆の感情と世論をまったく度外視して、まるで神がかりの尊皇思想の世界で決行されたからであろう。外国の革命によくみられるように軍隊の決起にともなって、民衆がいっせいに蜂起して現政権を打倒し、国体または政体を変革しようとする気配も計画も全然なかった。私はいま当時を回想して、とくに興味ふかく思ったことは、この二月二十七日付の朝日新聞朝刊第二面の陸軍省発表文(朝日新聞社襲撃をふくむ)の下に、つぎのような社告が掲載されている点である。これは自分の社が反乱軍によって攻撃されたが、社員は全員ぶじであったという一種の御見舞い御礼のようなものだった。輪転機には異状がなかったので、予備活字を使用すれば二十六日午後の夕刊はつつがなく印刷発行することができたが、反乱軍に気がねして(もしも被害なく夕刊発行をしたら反乱軍を刺激して再襲撃の心配があった)夕刊を出さなかったものである。
「 社告  二十七日付夕刊(二十六日発行)は不慮の事件のため工場の一部に支障を生じやむなく休刊いたしましたが、今朝刊より平生通り印刷発行いたしましたからご諒承を願います。なおこれに付きさっそく各方面より懇篤なる御見舞いをうけましたが、故障も復旧し従業員は一同無事執務いたして居ります。取敢えず紙上を以て厚く御礼申し上げます。   東京朝日新聞社 」
では、いったいこの二・二六事件を起こした青年将校一味はどんな顔ぶれで、いかなる目的と計画を立てて決起、行動したのであろうか? それは、一言でズバリと答えることは不可能なくらい複雑怪奇をきわめている。これまで二・二六事件に関する出版物は戦前、戦中、戦後を通じてじつにおびただしく出ているが、いずれも一方的に偏し、あるいは一知半解のものが多くて、事件の真相はなかなか究明されなかった。ことに右翼関係者の見方は、青年将校決起行動を英雄化しやすく、また、左翼関係の者の見方は、二・二六事件そのものを公式的にファッショ革命の暴力なりと軽率に片づけている。さらにまた刑死した青年将校たちの遺族関係者は、あくまで「昭和維新の烈士」として彼らの生と死を光栄化(グローリファイ)しようと望んでいる。私はこの三種三様の見方のどれにも真実の一面を認めながら、あくまでこの三通りの見方を立体的に総合したうえ、是を是とし、非を非とする公正な立場から、二・二六事件の全貌とその秘密を追究しようと思う。そのためには、入手可能のあらゆる史実資料とドキュメントを利用、または引用して読者諸君の自由な判断の参考に供したいと思う。
まず最初に、反乱軍の謀議指揮に直接参加した青年将校二十名の顔ぶれと、その所属部隊、攻撃任務などを一覧表にして御覧に入れよう。それは前掲の通りであり、これをよく念頭において本文を読まれると、当時の反乱軍の行動がよくわかると思う。(この一覧表は二・二六事件に関する東京陸軍軍法会議の判決理由書にもとづいて作成したものである) また、これらの青年将校一味の決起した目的は、彼らが二月二十六日朝、各新聞社へ直接配布した有名なガリ版刷りの「決起趣意書」に明らかにされている。それは反乱直前の二月二十四日、青年将校の尊敬のまとになっていた盟主格北一輝の自宅の二階で、二・二六事件の民間側の中心人物と目された元陸軍大尉村中孝次が、反乱軍の首魁の野中四郎大尉の執筆した原文に加筆、補生してできあがったものだった。そして事件の前夜、歩兵第一連隊内で騰写印刷をして、決起後に川島陸相はじめ軍首脳部と各新聞社などへ配布して、維新義軍の大義名分を強調した。しかし、その全文はつぎの通り、いかにも神がかりの難解なものであったから、いわゆる右翼的な国学の素養のないものは、物識りの新聞記者でさえ通読するのに骨が折れた。いわんや青年将校の命令、指揮下に重臣暗殺の武力行動に盲目的に参加した一千数百名の下士官兵たちが、はたしてこの「決起趣意書」を読んでどれくらい理解したか、それは大いに疑問であろう。
「 決起趣意書(原文のまま)
謹ンデ惟(おもんみ)ルニ我神州タル所以ハ、万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化育(せいせいかいく)ヲ遂ゲ、終ニ八紘一宇(はちこういちう)ヲ完(まつと)フスルノ国体ニ存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖(てんそ)肇国、神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整へ今ヤ方(まさ)ニ万方ニ向ッテ開顕(かいげん)進展ヲ遂グペキノ秋(とき)ナリ。然ルニ頃来(けいらい=近頃)遂ニ不逞(ふてい)兇悪ノ徒(やから)簇出(そうしゅつ)シテ、私心我慾ヲ恣(ホシイママ)ニシ、至尊(しそん)絶対ノ尊厳ヲ藐視(びょうし)シ僭上(えんじょう)之レ働キ、万民ノ生成化育ヲ阻碍(そがい)シテ塗炭(とたん)ノ痛苦ニ呻吟(しんぎん)セシメ、従(よ)ツテ外侮外患日ヲ逐(お)フテ激化ス。所謂(いわゆる)、元老重臣軍閥官僚政党等ハ此ノ国体破壊ノ元兇ナリ、倫敦(ロンドン)海軍条約並ニ教育総監更迭ニ於ケル統帥権干犯(かんぱん)、至尊兵馬大権ノ僭窃(えんせつ)ヲ図リタル三月事件或ハ学匪、共匪、大逆教団等利害相結(むすん)デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、其ノ滔天(とうてん)ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬(たと)へ難キ所ナリ。中岡、佐郷屋、血盟団ノ先駆捨身、五・一五事件ノ噴騰(ふんとう)、相沢中佐ノ閃発トナル、寔(まこと)ニ故ナキニ非ズ。而(しか)モ幾度カ頸血ヲ濺(そそ)ギ来ッテ今尚、些(いささ)カモ懺悔反省ナク、然モ依然トシテ私権自慾ニ居ッテ苟且倫安(こうしょとうあん)ヲ事トセリ。露支英米トノ間、一触即発シテ祖宗遺垂ノ此ノ神州ヲ一擲破滅ニ堕(おとしい)ラシムルハ火ヲ賭(み)ルヨリモ明カナリ。内外真ニ重大危急、今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮(ちゅうりく)シテ、稜威(みいつ)ヲ遮(さえぎ)リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除(せんじょ)スルニ非ズンバ皇讃ヲ一空セン。恰(あたか)モ第一師団出動ノ大命渙発セラレ、年来御維新翼賛ヲ誓ヒ殉国捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ帝都衛戍ノ我等同志ハ、将(まさ)ニ万里征途に上ラントシテ、而モ顧ミテ内ノ世状ニ憂心転々禁ズル能ハズ。君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼(か)ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ伍トシテ能ク為スペシ。臣子タリ股肱(ここう)タルノ絶対道ヲ今ニシテ尽サザレバ破滅沈淪(ちんりん)ヲ翻ヘスニ由ナシ。茲(ここ)ニ同憂同志機ヲ一ニシテ決起シ、奸賊ヲ誅滅(ちゅうめつ)シテ大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕ニ肝脳(かんのう)ヲ竭(つく)シ、以テ神州赤子ノ微衷ヲ献ゼントス。皇祖皇宗ノ神霊、冀(ねがわ)クバ照覧冥助(めいじょ)ヲ垂レ給ハンコトヲ。
昭和十一年二月二十六日   陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同  」 

 

反乱第一日の二月二十六日夕刻から、昼間はやんでいた雪が、ふたたびさかんに降り出して、沈黙の帝都はさむざむとした銀世界と化していった。私は相沢中佐の軍法会議公判の担当記者で苦労していただけに、すでに前にも述べたように二・二六事件には新聞記者としても、また一日本人としても、当時、いろいろ深い関心と感慨無量なるものがあった。それを今日、私はすべて細かく記憶しているわけではないし、またくわしく読者諸君へつたえるだけの紙面をあたえられてもいない。しかし、忘れ難い二月二十六日、「雪の朝の反乱の日」の東京の雰囲気は、じつにシーンと静まりかえって、沈黙の町と化していたことをなまなましく覚えている。いつも騒々しかった街上の雑音もパタリとやんで、反乱の流言を知った銀行、会社も商店も早じまい。また浅草や丸の内の映画館も夕方より休場して、盛り場は火の消えたようになり、反乱の夜はふりしきる雪の中に気味悪くふけていった。東京の中心地がこんなにしずまりかえったのは、それから九年後の戦争末期に大空襲下におびえて暗い死の町と化したときをのぞいては、まったく未曾有の経験だった。もう一つ、私の決して忘れることのできない印象は、この大雪の一日がとても長かったことである。朝早く自宅で新聞社の電話の急報にたたき起こされてから、郊外の積雪の道を自動車で走らせて出社して以来、反乱事件のニュースを追って、終日あちこちとびまわり、やっと夜おそくなって、鍛冶橋際の朝日新聞社専用の旅館の臨時宿舎に多数の同僚とゴロ寝したときは、まったく心身ともに綿のごとくつかれきっていた。わずか一日前の二月二十五日、相沢中佐の第十回公判に証人として出廷した青年将校の信望のあつい皇道派の長老、真崎挂三郎大将は、「軍の機密事項は勅許がなければ証言できませんぞ」と大見栄をきって退廷したが、はたしてこの硬骨の老将軍は、十数時間後に切迫した青年将校一味の決起を、内心、ひそかに予期していたのではなかろうか? また今朝、未明に決起した青年将校たちは事態収拾を真崎大将に一任したので、同大将は午前中に宮中に参内して、各軍事参議官と軍政権樹立の重大会議を重ねているらしい――という情報も私は耳にしていた。さらに私は、この反乱の日の正午ごろに、雪どけの泥道を朝日新聞社の社旗をひるがえした車で飛ばして、杉並区荻窪二丁目のバス通りに面した新築したばかりの明るい簡素な渡辺教育総監の私邸を訪問したなまなましい印象を思い浮かべた。渡辺邸の、玄関の真新しい洋風ドアには、まるで蜂の巣のごとく無数の大粒の機関銃弾で撃ち抜かれた穴があいているので驚いたものだった。軍用トラックで渡辺大将を殺しにおしよせた反乱部隊は、まず車上より玄関めがけて機関銃を乱射しながら、庭先へまわり、雨戸をけ破り、日本間に就寝中の渡辺大将を縁側先より、下から上向きに機関銃で掃射したため、大将の鮮血と肉片は無残にも四散して天井まで付着した、と涙ながらに語るすず子未亡人の悲しみと怒り――それも私には強い衝動をあたえた。その夜、それやこれやで、私は宿舎の日本座敷に大勢の同僚とゴロ寝しながら、頭が妙にさえて、真夜中すぎてもなかなか、眠られなかった。一生忘れられない反乱の雪の夜はしんしんと更けていった。 

 

昭和十一年二月二十六日水曜日、大雪に明けて吹雪に暮れた歴史的な二・二六事件の第一日、「尊皇討奸」をめざし、「昭和義軍」と名のって決起した急進的青年将校一派の率いる約一千四百七十名の武装兵力は、あらかじめ慎重に決められた重臣の襲撃殺害計画にもとづいて、きわめて迅速に、しかも時計の針のごとく精確に行動して、なんらの妨害も受けずに、ほぼその第一段階の目的を達成したようにみえた。正確な記録によると、これらの決起部隊の実力行動は、まことになにものもはばかるところなく、堂々と皇軍の威力を行使して遂行されたのであった。しかし、もちろん、前述したように、その当時には言論、報道機関はすべて厳重な軍検閲の下におかれて、当局発表(毒にも薬にもならないような検閲ずみの雑報記事)以外は一切、掲載をさしとめられていた。そのために新聞関係者にも反乱部隊の行動はなかなかわからず、二・二六事件に関する具体的な事実は、半年後の昭和十一年七月七日午前二時付で陸軍省から発表された、反乱事件の軍法会議審判の判決理由書(七月五日判決言い渡し、後述)によって、はじめて新聞、通信社へも全国民へもあきらかにされたのであった。
「 一、まず、急進的青年将校の代表格の栗原安秀中尉(歩兵第一連隊)の指揮する首相官邸襲撃隊は総理大臣岡田啓介大将殺害を任務とし、対島勝雄中尉(豊橋教導学校)、林八郎少尉(歩兵第一連隊)、池田俊彦少尉(歩兵第一連隊)が参加した。二月二十六日未明、栗原中尉らは所属部隊である、歩兵第一連隊機関銃隊下士官らに命じて非常呼集を行ない、機関銃隊全員を兵舎前に整列させて決起の趣旨を告げ、みずから機関銃隊下士官兵約三百名を率いて、午前四時三十分ごろ、兵営を出発し、同五時ごろ、永田町の首相官邸を襲撃した。官邸を護衛していた警官村上嘉左衛門、土井清松、清水与四郎、小館喜代松の四名ならびに首相秘書官事務嘱託松尾伝蔵大佐の計五名を機関銃を乱射して殺害したが、松尾秘書官を岡田首相と誤認したため首相殺害の任務をぱたさなかった。 」
「 二、中橋基明中尉(近衛歩兵第三連隊)および中島莞爾少尉(陸軍砲工学校)は、大蔵大臣高橋是清私邸襲撃隊を指揮し、高橋蔵相殺害を任務として担当した。二月二十六日午前四時ごろ、中橋中尉は近衛歩兵第三連隊第七中隊に非常呼集を行ない、明治神宮参拝と称して下士官兵約百二十名を指揮し、同四時三十分ごろ、兵営を出発し、自ら突入隊を率いて中島少尉とともに同五時ごろ、赤坂俵町の高橋蔵相私邸を襲撃して老蔵相を殺害した。 」
「 三、坂井直中尉(歩兵第三連隊)は、高橋太郎少尉(歩兵第三連隊)、麦屋清済少尉(同前)、安田優少尉(陸軍砲工学校)とともに内大臣斎藤実私邸襲撃隊を指揮し、斎藤内府殺害を任務とした。二月二十六日午前四時二十分ごろ、坂井中尉らは歩兵第三連隊の下士官兵約二百名を率いて兵営を出発し、同五時ごろ、四谷区仲町の斎藤邸を襲撃して老内府を殺害したうえ、そのさいに身をもって内府の殺害を防ごうとした春子老夫人にたいしても銃創を負わせた。それから坂井中尉は主力部隊を率いて陸軍省付近にいたり、占拠する一方、高橋、安田両少尉は下士官兵約三十名を指揮し、軍用トラックに分乗して杉並区荻窪二丁目の教育総監渡辺錠太郎大将私邸へ向かい、同六時すぎごろ、同邸を襲撃、すず子夫人の制止するのを排して、渡辺総監を殺害した。 」
「 四、首謀者の一人である安藤輝三大尉(歩兵第三連隊)は、侍従長鈴木貫太郎大将の殺害を任務とした。二月二十六日午前三時ごろ、安藤大尉は歩兵第三連隊第六中隊長として、非常呼集を行ない、全員を兵舎前に整列させ、同三時三十分ごろに兵営を出発、同四時五十分ごろに侍従長官邸を襲撃し、鈴木侍従長に数個の銃創を負わせて瀕死の重傷をあたえた。ついで安藤大尉は侍従長に止めを刺そうとしたが、孝子夫人の懇願によりこれを中止して、殺害せずに同五時三十分ごろ、引き揚げた。 」
「 五、首謀者の一人である野中四郎大尉(歩兵第三連隊)は、警視庁を制圧、占拠する任務を担当し、常盤稔少尉(歩兵第三連隊)、清原康平少尉(同前)、鈴木金次郎少尉(同前)も参加、二月二十六日午前二時ごろ、歩兵第三連隊の各所属中隊の非常呼集を行ない、準士官以下約五百名を指揮して、同四時三十分ごろ、兵営を出発し、同五時ごろ、警視庁に到着した。かくて同庁周辺に機関銃、軽機関銃、小銃の各分隊を配置して同庁の出入口をやくし、さらに同庁舎屋上に軽機関銃、小銃若干分隊を配置し、また電話交換室にも一部配置し、外部との通信を妨害して、同庁を完全に占拠した。 」
「 六、丹生誠忠中尉(歩兵第一連隊)は三宅坂の陸軍大臣官邸を占拠し、陸軍および参謀本部周辺の交通を遮断して、首謀者の香田清貞大尉(歩兵第一旅団副官)、村中孝次(元陸軍大尉、昭和十年八月怪文書事件で免官処分)、磯部浅一(元陸軍一等主計、怪文書事件で免官処分)ら三名の、陸軍上層部にたいする折衝を容易ならしめる任務を担当した。二月二十六日午前四時ごろ、丹生中尉は歩兵第一連隊で非常呼集を行ない、下士官兵約百七十名を指揮し、香田大尉、村中、磯部らとともに同四時三十分ごろに兵営を出発、同五時ごろ、陸相官邸に到着し、主力部隊を官邸の表門に配置し、特定人以外の出入りを禁止した。 」
こうして、数班に別れた決起部隊は、大雪の朝が明けるころにはすでにそれぞれ任務を果たして、あらかじめ決めた計画にもとづき、首相官邸、陸相官邸、陸軍省および警視庁を占拠した。そしてさらに麹町区西南部地区一帯の交通を厳重に制限して、帝都の中心部、すなわち日本の心臓部を完全にその手中におさめた。当時、日本中の新聞、通信は、事実上すべて軍当局の威圧の下に絶対的な検閲下におかれていたから、この緊急事態を全国民へ速報することは許されなかったが、東京駐在の外国新聞、通信特派員たちは、いち早く反乱事件の内容を打電して、「日本軍、東京を占領す!」と報じたのであった。さすが横暴な軍部も、法律上、外国の新聞、通信電報までさしとめることはまだできなかったのである。決起部隊は、いわば電光石火のごとく武力行動を首尾よく完了すると、いよいよ第二段階の軍政府樹立による事態収拾へと迅速に動いた。すなわち兵力一千四百七十名の反乱軍は、作戦上の重要拠点を確保して、万一の政府軍の反撃に備えて戦闘警備態勢を強化する一方、有力な首謀者香田大尉、村中、磯部三名による陸軍首脳部への重要工作を実力によって支援した。それは、宿望の昭和維新をいっきょに実現するためであった。それで、これらの首謀者一行は、午前五時ごろ、丹生中尉の指揮する部隊とともに陸軍大臣官邸に到着して、風邪気味でまだ就寝中の陸相川島義之大将をたたき起こして面接を強要した。日本陸軍最高の地位にある陸相も、押しかけたピストル片手の血相変えた青年将校と、銃剣や朧関銃をたずさえた反乱部隊の恐ろしい気勢には意気地なく圧倒されて、たちまち軟禁状態にされてしまった。川島陸相にとっては、まったく寝耳に水のような驚きであった。
天下注目の相沢中佐の軍法会議公判もどうやら順調に進行中であったし、また革新的青年将校が多くて不穏な言動の中心とみられていた東京の第一師団(師団長堀文夫中将)の各部隊も、いよいよ満州駐屯中の岩越、児玉両部隊と交代のため派遣されることに決定し、この二月二十日に陸軍省より正式発令されたので、いわば永田鉄山中将暗殺事件以来、陸軍部内にみなぎっていた粛軍騒動も、これではっきりと終止符が打たれるものと期待されていたからだ。厳冬の二月の午前五時といえば、まだ夜は明けきらず、洋風の官邸の広い応接室は火の気のなく氷のように冷えきっていた。ただ窓外は雪明かりでほんのりと薄明るく、多数の武装兵のひしめく姿がかえって恐ろしく異様に見えた。「いったい、これはどうしたことだ! 君たちはだれか?」と川島陸相は将軍らしい威厳をつくって発言したものの、その言葉は弱々しく、身体までかすかに震えていた。彼は軍人として決して気が弱いわけではなかったろうが、このような夢にも思わぬ異常な状況の下におかれては、もはや、厳しい陸軍大臣もただ一個の平凡な人間にすぎないように思われた。将軍もまた、自分の生命の危険をまず心の中で感じていたであろう。「閣下、いよいよ昭和維新断行のときがまいりました!」一同を代表して年長の香田清貞大尉が落ちついた、しかし、力強い語調であいさつした。それから彼は大きな声で、「決起趣意書」を朗読するとともに、すでに各重臣を襲撃して昭和維新の血祭りにあげた状況をくわしく説明した。みるみるうち、川島陸相の顔面は蒼白(そうはく)となり、もうこれ以上、恐ろしい報告を聞きたくないような悲しい表情をしめした。もはや、眼前に意気揚々(いきようよう)といならんでいる青年将校や元将校の革命家たちに反抗する気力も、また軍の長老として叱責(しっせき)、訓戒する意志もくずれ去ってしまった。
「 閣下、いまや維新断行のときでありますぞ! どうか閣下もこの事態をよく理解されてご尽力を願います。ついては、真崎閣下(皇道派の総帥として青年将校の信頼の的であった前教育総監真崎甚三郎大将)を至急、招かれて、よろしく事態収拾のため善処されたく思います 」
香田大尉は、眼前に青くなって放心したように座っている川島陸相に向かって、きつく真崎大将中心の軍政府樹立を要求した。その善後策のため、彼は黒幕的指導者の村中、磯部両人と耳打ちしながら、皇道派の古荘(ふるしょう)陸軍次官、山下奉文少将、斎藤瀏予備少将、満井佐吉中佐(相沢中佐軍法会議公判の特別弁護人)たちをも至急、陸相官邸に招致するように申し入れた。その間、陸相官邸周辺区域は反乱部隊によって厳重に警備されており、夜が明けて騒ぎは大きくなったが、川島陸相は人質同然にされて、陸軍省上層部の機能はマヒ状態に陥っていた。午前九時半ごろ、警戒線を突破して、陸相官邸の表玄関前に現われた軍務局課員の片倉衷少佐は、かねてより統制派(相沢三郎中佐に斬殺された永田軍務局長らの一派で皇道派と鋭く対立す)の腹心とみられて革新的な青年将校連中から憎まれていたため、「陸相に会わせろ」「会わせられぬ」と押し問答のあげく、激怒した磯部浅一のためにピストルで頭部を射撃されて瀕死の重傷を負った。このただならぬ銃声と流血の騒ぎは、いっそう陸相官邸内外の雰囲気を緊張させて、まさに昭和維新の第二段の革命行動は成功しそうにみえた。 

 

記録をよく検討してみると、二・二六事件の大反乱を計画した首謀者たちは、いわゆる重臣殺害の行動班と、軍首脳部と折衝してまず皇道派の軍政府を樹立して、昭和維新の実現を図る政治班とに分かれていた。このうち後者は、決起将校中の最年長者であり、また地位も上位であった香田清貞大尉と、民間側から元将校の青年革命家としてすでに知られていた村中孝次(元陸軍歩兵大尉香田と同期の陸士第三十七期)と磯部浅一の三名が参加指導して、その全責任を引き受けていた。この中で村中、磯部両人が、『日本改造法案大綱』の著者の職業革命家北一輝に心酔していたことは注目される。彼らは反乱前夜の二月二十五日夜、歩兵第一連隊内でひそかに会合して、決起後に各個所の襲撃と占拠を完了したらただちに陸軍大臣に面接して、要望すべき事項を打ち合わせて決定した。それはつぎのような六個条の要求であり、予定どおり川島陸相にたいして突きつけられ、一応陸相内諾をみたのであった。
「 一、陸軍大臣の断乎たる決意により、すみやかに事態を収拾して維新に邁進すること
二、皇軍相撃の不祥事を絶対に惹起せしめざること
三、軍の統帥破壊の元凶をすみやかに逮捕すること
四、軍閥的行動をなしきたりたる中心人物を除くこと
五、主要なる地方同志を即時、東京に招致して意見を聞き、事態収拾に善処すること
六、前各項実行せられ、事態の安定を見るまで決起部隊を現占拠位置より絶対に移動せしめざること  」
さて、反乱軍によって包囲された陸相官邸では、川島陸相からの電話の招きにより、午前八時ごろに早くも軍事参議官(前教育総監)真崎甚三郎大将が、軍服姿もいかめしく緊張したおももちでかけつけだ。皇道派の総帥と自他ともに任じていた真崎大将は、すでにこの日の未明四時半ごろに、世田ヶ谷の自宅で青年将校の一味で右翼浪人の亀川哲也の来訪を受け、反乱決起の内報を聞いて万事承知していた。しかも、彼は亀川から、「決起将校はいずれも閣下のご出馬を待望しております。どうか昭和維新断行のためによろしくご尽力を願います。閣下の手で時局を収拾されるよう、一同、希望しております……」と、ひそかに懇請(こんせい)されていたのだった。それから冬の夜の明けるまでの数時間、老将軍の胸中は、「青年将校にかつがれて天下を取るか? それとも青年将校を叱って決起部隊を解散させるか?」と深刻に迷ったことであろう。しかし、陸相官邸にいち早く駆けつけた真崎大将は、待ちうけた決起将校のスポークスマン格の磯部から、決起の趣旨と武力行動の概要について報告を受けたうえ、決起趣旨の貫徹につき努力するよう懇請された。すると彼は、真剣な表情にかすかな微笑をたたえながら、諸君の精神はよくわかっとると意味深長な言葉をもらした。それから、気の毒なくらい大きなショックを受けて心身ともに衰弱した川島陸相をまじえて、真崎大将は決起将校の要望事項と決起者の氏名表などを閲読(えつどく)しながら協議を重ねたうえ、「自分はこれから諸君の要望にそって善後処置に取りかかることにしよう」と大きくうなずいた。そして、川島陸相と相前後して自動車で宮中へ参内し、緊急召集された軍事参議官会議に出席した。
この歴史的瞬間に立った真崎大将の奇怪な言動は、二・二六事件をめぐる最大の謎の一つとして、戦後に、同大将の病死した後までも釈然(しゃくぜん)としない点が多い。老将軍は二・二六事件の首謀者と、いったいどの程度に共鳴、協力していたのであろうか? また真崎大将は、昭和維新断行について、はたしていかなる信念と決断を、持っていたのであろうか? 事件後二十年以上もたってから、はじめて遺族有志の手で発表された故磯部浅一(昭和十二年八月十九日銃殺刑執行)の「獄中手記」をみると、当時の模様を、つぎの通りなまなましく綴ってしる。これはおそらく現場の真実の情景であろう。
「 ――歩哨の停止命令をきかずして、一台の自動車がすべり込んだ。余が近ずいてみると真崎将軍だ。『閣下、統帥権干犯の賊類を討つために決起しました。情況をご存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前たちの心はヨオークわかっとる、ヨオッークわかっとる』と答える。『どうか善処して頂きたい』と告げる。大将はうなずきながら官邸内に入る。門前の同志とともに事態の有利に進展せんことを祈る……  」
かくて午前十時ごろ、真崎大将は宮中に参内するや、まず、侍従武官長室で先着の川島陸相に向かい、「決起部隊はとうてい解散しないであろう。こうなった上はご詔勅(しょうちょく=天皇のお言葉)の渙発(かんぱつ=布告)を仰ぐほかはなかろう」と強く進言し、さらにその席にいあわせた軍事参議官の荒木貞夫、阿部信行、林銑十郎各大将にもこの意見を力説して同調を求めたといわれる。しかし、日ごろは国体明徴問題などきわめて強硬な発言をする陸軍の長老連中も、さすがに重臣の大量殺害と皇軍反乱という、驚くべき非常事態に直面しては、ただ、とまどうばかりで、断乎たる決戦を行なう勇気も気魄(きはく)も欠けていた。いましばらく反乱軍のようすをみてから、打つ手を慎重に考えるべきであろう、いますぐ天皇にたいして「維新大詔」の詔発を要請することはあまりにおそれ多い――という常識論がめずらしく将軍連中の心理を支配したようであった。しかし、この未曾有の日本改造革命の進行する真最中のこのような生ぬるい態度は、結局、いわば優柔不断な責任回避でもあった。すなわち、陸軍の長老たちは、宮中に参内しながらムリをしてもぜひ天皇に拝謁を願い出ることもせず、侍従武官長室にて、いかにもアイマイな態度で小田原評定を重ねるばかりであった。その結果、反乱軍の忠君愛国の趣旨と行動を一応みとめながら、興奮した決起将校たちを、慰撫(いぶ)して、これ以上の事件の進展をくいとめるために、各軍事参議官は合議のうえ、「陸軍大臣告示」の草案をまとめた。それは川島陸相のもとで極秘の告示命令となり、その日の午後三時三十分に、東京警備司令部から、ガリ版刷りで各部隊へ配布された。
「  陸軍大臣告示(原文のまま)
一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられたり
二、諸子の行動は国体顕現(けんげん)の至情に基(もとず)くものと認む
三、国体の真姿顕現(弊風(へいふう)をふくむ)については恐懼(きょうく)に堪えず
四、各軍事参議官も一致してこの趣旨により邁進することを申合せたり
五、之れ以上は一に大御心(おおみこころ)に待つ  」
この奇怪な「陸軍大臣告示」は当時、陸相官邸に頑張っていた決起将校代表にたいしてはとくに山下奉文少将を派遣して口頭で伝達された。これを聞いた決起部隊は大いによろこび、いよいよ「維新大詔」の渙発もちかいというきわめて有利な情報判断をした。ところが、翌二十七日午後より形勢は一変して、決起部隊は騒擾(そうじょう)部隊とレッテルをつけ変えられてしまった。さらに二十八日には、正式に反乱部隊として討伐の奉勅命令がくだったのであった。川島陸相も各軍事参議官も優柔不断でぐずぐずしている間に、天皇から不満の内意が伝えられたために、彼らはにわかに態度を変えて、遅まきながら第三日目に反乱軍の討伐へ踏み切った。だが、反乱軍の行動を是認した二十六日付の「陸軍大臣告示」は決して取り消されず、そのままだった。かくて、昭和維新はついに成らなかったのである。 

 

二・二六事件には表裏ともにいろいろ意外な副産物の怪事件が続出したが、その中で一番世間をビックリ仰天(ぎょうてん)させたのは、雪の朝の反乱で真っ先に血祭りに上げられた首相岡田啓介海軍大将が、反乱軍に襲撃占拠された麹町永田町の首相官邸の奥深く、じつは女中部屋の押し入れの中でぶじに生き残っていたビッグ・ニュースであった。血なまぐさい重臣の大量殺害という黒い恐怖の霧が立ちこめる中で、まったく息づまるような不安と疑惑におののいていただけに、この岡田首相生存の朗報には、「まあよかった!」と全国民がホッと愁眉をひらいたものだった。しかしながら、あの四年前の五・一五事件に、同じ首相官邸で、ピストルを片手に血相変えた青年将校たちを相手にして悠然と、「話せばわかる!」と叫んでたおれた犬養毅(いぬかいつよし)老首相の悲壮な最期とくらべると、女中部屋へ逃げ込んで命びろいした岡田首相の幸運は、いかにも武人らしくないわびしいものであったともいえるだろう。また、「生きている首相」を「即死」と全国民の前に発表した陸軍省当局の狼狽(ろうばい)ぶりも思いやられて、まったく国民大衆は悲喜、明暗こもごもといった矛盾した気持であった。ではいったい、どうしてこんな悲喜劇的な出来事が起こったのであろうか? まず記録の上からみると、二月二十六日未明、柴原中尉らの指揮する決起部隊約三百名が永田町の首相官邸を襲撃して以来、官邸は占拠されてしまったので、岡田首相の死体を検視、確認することは陸軍当局にもできなかった。また、官邸警備の村上巡査部長以下警官四名も、ピストルを撃ち尽くして、いずれも壮烈な殉職を遂げたので、岡田首相殺害の確報を警視庁へ知らせることはできなかった。一方、若い青年将校連中はかねて岡田首相に面識あるものはなくて、ただ新聞写真などでその顔を覚えている程度にすぎなかったから、あの異常に緊張、興奮した殺気あふれた雰囲気の中では、顔つきも年齢もきわめてよく似た寝間着姿の老人を岡田首相と誤認したことは、むしろあたり前であったろう。じつは当時、われわれ新聞記者たちでさえあの広い首相官邸の奥の間に、顔も年齢も岡田啓介首相にそっくりの老人が、もう一人住んでいようとは夢にも思わなかった。この哀れにも首相の身代わりになって惨殺された老人は、岡田首相の義弟で私設秘書官の予備陸軍歩兵大佐松尾伝蔵氏であった。松尾大佐は、岡田首相の身辺の世話をみるために官邸に寝泊まりして、いわば兄弟仲よく静かに暮らしていたわけだ。これこそ、世界革命史上にもおそらく比類ない「事実は小説よりも奇なる」めずらしい実例であろう。そんなわけで、反乱の第一日には、岡田首相は完全に「殺された」ものとみとめられて、だれも疑うものはなかった。したがって、二十六日夜八時十五分、陸軍省の最初の発表――いわゆる十五時間おくれの第一回発表にも、「本日午前五時ごろ、一部青年将校らは左記個所を襲撃せり、首相官邸(岡田首相即死)……」と、まことにハッキリと明記されていた。だが、意外にも岡田老首相は生きていたのだ! それは無残にも同じ時刻に襲撃されて本当に殺害され、即死した内大臣斎藤実(まこと)子爵、大蔵大臣(元首相)高橋是清(これきよ)子爵、陸軍教育総監渡辺錠太郎大将たちの悲運を思うと、まことにくすぐったいような皮肉な印象をかくすことができなかった。また、岡田首相即死の報に驚き嘆いた内閣は、二十六日午後、た危ちに総辞職を内定して、後藤文夫内相が内閣総理大臣臨時代理をおおせつけられたと正式発表した。そして同夜半おそく、正確にいうと翌二十七日午前一時三十分、彼が宮中に参内して天皇に閣僚全員の辞表を奉呈したことも、今日から考えるとずいぶんあわてた話である。天皇はこの朝から殺された重臣を深くいたみ悲しんで、青年将校のテロ行動にも、軍首脳部の優柔不断な態度にも、大きな怒りを感じていたといわれる。それはみずから「尊皇討奸」をさけんで決起した青年将校一味にとっては致命的な「聖慮(せいりょ=天子の考え)」であり、また、昭和維新という名の天皇制日本革命は、その奇妙な矛盾と取りかえしのつかない盲点をさらけだした。忠君愛国の志士をもって任じていた彼らは、いわば天皇をかつぎながら天皇に嫌われたのだった! なんという悲惨な誤信であろう! (それだからこそ、二・二六事件の原動力となった黒幕的革命家磯部浅一は、獄中で天皇を不甲斐なく思いつめてうらんだ手記を残した。これは後述する)
かくて、反乱平定直後の昭和十一月三月一日付の日本全国の朝刊新聞は、「岡田首相生存」のビッグ・ニュースをデカデカと掲載して、大きな反響をまきおこした。それは「内閣発表」の形式でつぎの通り述べていたが、発表時間は二月二十九日午後四時五十八分で、その内容はまことに劇的なエピソードであった。
「 今回の事件にさいして、岡田首相は官邸において、遭難せられたものと伝えられ、(冗談ではない! 二月二十六日付の権威ある唯一の陸軍省発表ではないか!――筆者注)まことに痛惜に堪えぬ次第であったが、はからずも今日まで首相と信ぜられていた遭難者は義弟の松尾大佐であって、首相は安全に生存せられていたことが判明した。昨朝、首相はまず後藤臨時代理を経て闕下(けっか=天子)に辞表を奉呈し、同夕刻、参内して奉伺するとともに、今回の事件にたいし宸襟(しんきん=天子のお心)を悩まし奉り恐懼に堪えざる旨、深くお詫びを申し上げたところ、優渥(ゆうあく)なるご沙汰を拝し、恐懼感激して御前を退下したのである。ついで後藤内務大臣にたいし、内閣総理大臣臨時代理被免の辞令が発せられた 」
一方、「岡田首相即死」の重大誤報の責任者であった陸軍省でも、同日付でつぎのような奇妙な訂正発表を新聞、通信社にたいして行なった。これは、じつに取り乱した軍当局にとっては泣き面に蜂のような醜態であった。
「 二月二十六日午後八時十五分、陸軍省発表中、岡田首相即死とあるはこれを取り消す 」
だが、これらの発表だけでは、どうして岡田首相が生き残ったかという真相はあきらかにならず、いろいろな流言やデマが、新聞記者の間にも高まって世間へ広く流布されたのは当然であった。それで三月五日午後九時半になり、はじめて「総理大臣秘書官発表」の形式で、つぎの通り岡田首相の「死の首相官邸」脱出の模様が公表された。それは、今日流行のいかなるスリラー推理小説も顔負けするような興味ふかい事実であった。いま読みなおしてみても、じつに面白いから参考のために引用しよう。
「 二月二十六日早暁、官邸が反乱軍の襲撃を受くるや、おりから日本間に就寝中の岡田首相は、松尾大佐および村上、土井両護衛警官とともに日本間の奥の方に難を避けられたところ、彼らは松尾大佐をたおしてこれを首相と誤信し、それ以上捜査しなかったため、首相はついにぶじなるを得られたのである。首相のぶじなることは間もなく私(岡田首相女婿の迫水久常(さこみひさつね)秘書官)にわかったので、速やかに、官邸より出そうと努めたが、反乱軍の警戒厳しく、ついに遺憾ながら同夜はその目的を達することができなかった。しかして翌二十七日午後にいたり、弔問者の出入りが許されたので、男ばかり十二名の弔問客にまぎれてぶじ、官邸を出てもらうことができた。このときの服装は、モーニングの上から外套を着し、マスクをかけていた。この間、首相は警戒のため派遣せられた憲兵の犠牲的な掩護の下に、日本間の一室に安全にしておられたのであって、ときに二、三の兵士の目に留まったこともあるようであるが、別に咎(とが)められることもなく、ぶじに経過したのである。二十七日午後、官邸を出てひとまず知人の淀橋区下落合三丁目の佐々木久二氏宅に落ちつかれ……云々 」
とあった。ではいったい、早耳の大新聞社では、いつごろこの首相生存の秘密をかぎつけたであろうか? 記録によると、反乱第二日の二月二十七日夜までに、新聞社にはまだ岡田首相生存のニュースははいっていなかったようだ。なぜならば、二月二十八日付朝刊の朝日新聞社会面には皮肉にも「首相即死」の記事が掲載されていたからだ。淋しいお通夜 岡田・斎藤の両邸―― 岡田前首相の遺骸は二十七日午後二時五十分、消え残る雪をふんで官邸から淀橋角筈(つのはず)一ノ八七五の私邸へ移された。二年前の七月四日、首相の印綬を帯びて裏町の私邸を出て行った岡田さんの帰宅である。正式の発喪(はつも=死の公表)はされていないので、二十七日夜は弔問客もなく、近親の人々数名だけが佗びしく坐っているばかり。花輪もなく、玄関に自動車さえ一台もない。陸相、内閣書記官長、満鉄総裁各代理の焼香がなされた。
あとからかえりみると、当時六十九歳の奸人物の海軍長老だった岡田啓介大将は、「生きながら死者扱いにされてお通夜とお焼香をうけた」ただ一人の現職首相の珍記録を昭和史上に永く残したわけである。 

 

いわゆる「君側の奸臣(かんしん)」を実力によってたおして、天皇親政の昭和維新の実現をめざした二・二六事件の決起部隊の指揮をとった、革新的青年将校一派は、中心人物の歩兵第一旅団副官香田清貞大尉と歩兵第三連隊第五中隊長野中四郎大尉の各三十四歳を最年長として、あとを三十歳以下の中尉と二十四、五歳の少尉が大半をしめ、最年少は歩兵第一連隊付の二十三歳の林八郎少尉であった。彼らはみな、強烈な愛国心に燃えた成績優秀な青年将校たちであり、謹厳な軍人の子弟が多かった。とくに注目されるのは、彼らは陸軍士官学校を卒業後、陸軍少尉に任官して各連隊へ配属されるや、学業抜群、志操堅固の模範将校のホープとしてあこがれの的である、晴れの連隊旗手を勤めたものが多かった。ことに竹島中尉は、昭和三年に陸軍士官学校を卒業したときは首席で恩賜の軍刀を授けられた秀才であり、また、決起部隊の総指揮役の安藤輝三大尉は、東京麻布にあった歩兵第三連隊の第六中隊長として、同連隊付の秩父宮とは陸軍士官学校以来の長い、深い関係があって信任があつく、彼の抱いていた革新思想には、殿下もかねてよりひそかに共鳴していたといわれる。秩父宮が連絡将校の坂井直中尉を通じて、安藤大尉に対して、「もしも決起のさいは、一個中隊の兵を率いて迎えに来いよ」といわれたという話は、いまでは有名な伝説となっている。彼らは急進的な国家革新の決意と意気に燃えながら、民間のいわゆる右翼、愛国団体の壮士のように大酒をあおって大言壮語する粗暴な連中とはまったく人間がちがっていたようだ。彼らはむしろ平常は生真面目で口が重く、いわゆる正義感の旺盛な硬骨漢ではあったが、情誼(じょうぎ=真心)にあつくて部下を愛することが強く、下士官たちから深い信頼と尊敬をあつめていたものがめだった。たとえば歩兵第三連隊の中隊長として、一番多数の部隊(九百数十名)を率いて決起した安藤輝三大尉のごときは、日蓮宗の熱心な信者で、農村出の部下の貧しい兵士のために給料の大半をさいてあたえるなど思いやりが深く、日ごろから部下より絶大な信頼をうけていた。それで彼は、早くより第一師団麾下部隊を中心とする革新的青年将校の指導的立場にあり、「もし安藤が起てば三連隊は動く」とまで同志の間で期待されていたそうだ。しかも彼は、昭和維新の決行の時機と方法についてはあくまで慎重であり、即時決行を叫んだ民間側の磯部浅一、村中孝次と現役側の河野寿大尉、栗原中尉たちとは意見を異にして自重論をとなえたが、ついに同志の熱情に動かされて昭和維新の捨て石たらんと覚悟をきめて同意した。この信念の強い安藤大尉が決行に踏み切ったときこそ、二・二六事件の導火線に点火されたときであるといわれる。また、決起将校中最年長の歩兵第一旅団副官香田大尉も日蓮宗の信者で、つねに法華経を愛誦していた、いわゆる不言実行型の信念の強い人物であった。永田軍務局長を刺殺した相沢中佐事件を裁く軍法会議の判士長(裁判長)に、同旅団長佐藤正三郎少将が任命されて以来、私は数回にわたり青山南町の歩兵第一旅団司令部で香田大尉と会見したことがあったが、彼はきわめて丁重な態度と物静かな口調で新聞記者の私を迎えて、大変に好感をあたえた。彼からは、いわゆる時世に悲憤慷慨(こうがい)して昭和維新を呼号する豪傑気どりの志士くさい言動はまったくくみとれなかった。それだけに、事件鎮定後に陸軍省発表の反乱軍将校の氏名リストの筆頭に香田大尉の名前を発見したとき、本当にビックリしたのは決して私だけではなかったはずである。相沢事件の担当記者として、私はまったく半信半疑で温厚な彼の面影を浮かべたものであった。要するに、二・二六事件を計画、実行した指揮将校たちは、血気さかんな若い青年将校ではあったが、決して思慮分別のあさい、粗暴な、若気のいたりの単純な暗殺、破壊行動であるとは断言できないと思う。しかも、彼らの烈々たる憂国の熱情と尽忠尊皇の悲願は、いずれも昭和維新の実現のための捨て石たらんとするものであって、だれ一人として、決起後にみずから軍政府の要位について天下に号令せんと欲するような西洋流の野心的な革命家はいなかった。それゆえ、昭和六年十月に発覚して、未然に阻止された奇怪な幕僚ファッショ的クーデター陰謀の十月事件で、荒木貞夫大将を首班にかつぎ、みずからは内相や警視総監の地位をそれぞれ約束していた橋本欣五郎中佐(当時、参謀本部ロシア班長)、長勇(ちょういさむ)大尉(当時、北支軍参謀)一派の強引な権勢欲につかれた自称革新軍人連中とは、その計画も人柄も全然ちがっていたわけである。では、これらの邪念も私欲もない謹直、純情の青年将校一味は、なにを目あてにして昭和維新の必成を期していたのであろうか? また、彼らはなぜ天皇の親任した重臣たちを残酷にもみな殺しにすることによって、いわゆる「君側の奸臣」をのぞいて「君臣一如(いちにょ=一体)」の維新の天業を成就するものと確信していたのであろうか? それは彼らが、皇道派の総帥たる前教育総監、軍事参議官真崎甚三郎大将がかならず決起後の非常事態を収拾して、すぐにも軍政府を樹立して、昭和維新を実現するものとひそかに期待していたからだ。その順序として彼らは、真崎大将以下の将軍連中の斡旋と、天皇の最有力の側近とされた皇弟の秩父宮少佐(事件当時、青森県下の歩兵第三十一連隊大隊長)の理解と協力によって、宮中の内外より強く天皇を動かして、晴れの「維新大詔」の渙発を待望していた。そのためには大義親を滅すというか、あるいは泣いて馬謖(ばしょく)を斬るというか、彼らは老いた重臣たちを惨殺しても、昭和維新の血祭りとしてやむをえないとわりきっていたようだ。ともあれ、第一段階の情勢は決起部隊にはなはだ有利に展開した。それは皇道派の第一人者と自他ともに任じていた真崎大将が、万事、陸軍長老の間で強力なるイニシャチブをとって、決起部隊の行動と信念を大いに称揚し、「決起の趣旨については天聴に達せられたり」にはじまる陸軍大臣告示が示達されるなど、いかにも青年将校の悲願が天皇の耳に通じて、いまにも天皇より軍政府樹立の大命が降下しそうな思惑が高まりつつあったからだ。ところが、重臣を皆殺しにして殺気だった青年将校たちの信望を一身に集めた真崎大将は、頑固一徹ながら、あんがいにも小心翼々たる正直者の老将軍であった。彼はこの朝、いちはやく陸相官邸へ駆けつけて、血相を変えた青年将校たちに囲まれて軟禁状態にあった川島陸相を救い出しながら激励する一方、興奮した青年将校たちをなだめるように、「とうとうやったか! お前たちの心は、ヨォークわかっとる、わかっとる」と、いかにも自信満々たるようすで宮中へむかったものだ。そこまでの彼は、慈父のごときたのもしい老将軍らしく、表面はいかにも堂々として立派であった。真崎大将は、同じ皇道派の大立者の荒木大将はじめ他の陸軍長老連中が、二・二六事件突発の報をまったく寝耳に水のような形で知ったのとはちがって、いまだ夜の明けぬこの日の午前四時半ごろに、世田ヶ谷一丁目の自宅を訪ねてきた右翼浪人の亀川哲也と会見して、反乱蜂起の内報を事前に聞いて、極力阻止するどころか、かえって武者ぶるいした形跡があった。彼は青年将校一味のクーデターによる真崎首班の軍政府の出現を予想して、大命降下にそなえて軍服に勲章を佩用(はいよう=付ける)し、いつでも天皇の御前に出られる身仕度をととのえたうえ、陸相官邸へ急行したのだ。しかしながら、この日本未曾有の内乱勃発に直面したとき、いかに歴戦の名将軍といえども戸惑うことはむしろ人間として当然であったろう。なぜならば、軍人にとっては外敵を相手の戦争の方が長年、作戦準備に専念するだけに、周到な戦略と冷静な心構えもととのうであろうが、まるで天から降っておいたような軍隊の内乱では、いわゆる「皇軍柤撃つ」という最悪の事態も起こりかねないため、平常は日本精神のチャンピオンのような老将軍も内心はとり乱して、公明正大な言動をつい忘れがちであったとしても、責めるのは気の毒であろう。これは戦後の公正な記録にもとづいた結果論ではあるが、どうやら真崎大将は、決起将校一同が絶対に信頼し、また衷心より期待したほど、昭和維新の必成をにないうる大人物ではなかったようだ。これをいいかえると、彼は運を天にまかせて、彼を慕いあおぐ青年将校の必死の意気に感銘して、帝国軍人の長老として一身の毀誉褒貶(きよほうえん)をかえりみず、決起部隊といさぎよく生死をともにする覚悟を明らかにするべきであったろう。そのためには、彼はみずからすすんで天皇に拝謁を願いでて、直接に事件の重大性と真因について奏上して、いわゆる「維新大詔」の渙発を奏請しなければならなかった。そして、もしも、天皇がこれに反対して、逆に重臣暗殺と軍隊反乱の責任を追及し、陸軍長老たる彼の軽挙妄動を叱責した場合には、彼はむしろ決起将校一同に代わって不明の罪を謝し、明治十年の西南の役に敗れた西郷隆盛のごとく、決起将校もろとも自決したら、かえって昭和動乱史上に、ながく芳名を残したことであろう。だが、反乱第一日の午後になって、宮中に参集して事態拾収を熱心に協議していた陸軍長老たちの先達(せんだつ=指導者)格の真崎大将も川島陸相も、天皇に不満の色が濃いという知らせを侍従武官長よりもれ聞くやいなや、まったく青菜に塩のごとく萎縮(いしゅく)してしまったようだ。将軍連中はたがいに苦い顔を見合わせて、だれも全責任を一身に引きうけて天皇に、また決起将校代表に、堂々と面接して国家百年の大計のために是非を明らかにするような気魄のある人物はいなかった。ただ、目前の内乱拡大の危機を避けるだけで精一杯だった。かくて真崎大将は、天皇をおそれて、心ならずも自重して千載一遇のチャンスを逸し、青年将校たちの必死の期待を裏切った。また麻布の歩兵第三連隊に在任中から、安藤大尉や坂井直中尉たち革新的青年将校と親交のあったといわれる秩父宮の、天皇にたいする働きかけも、急には間に合わず、期待はずれに終った。記録によると、秩父宮は、大正十一年十月に、陸軍歩兵少尉に任官するや、歩兵第三連隊付に補され、さらに、昭和六年十一月、大尉として陸大を卒業後、ふたたび同連隊中隊長に任命されて、急進青年将校たちと長く深い関係を結ばれたものといわれる。秩父宮がはたして二・二六事件の首魁(しゅかい)の安藤大尉たちと、従来どの程度まで国家革新について話し合っていたかは明らかにされていないが、事件発生直後、秩父宮が勤務中の青森の歩兵第三十一連隊より無断で上京して、その軽率な行動を母親の貞明皇太后より叱られたという秘話はあまりにも有名である。結局、皇道派の巨頭たる真崎大将が笛吹けど天皇は踊らず、決起将校の待望した「維新大詔」は、川島陸相が軍事参議官一同の承認をえて、二十六日正午ごろ、宮中より陸軍省へ電話して軍事課長村上啓作大佐に起草を命じ、同大佐はただちに部下の岩畔豪雄、河村参郎両少佐に至急、草案の執筆を下命しながら、とうとう陽の目をみずに握りつぶされてしまったといわれる。従来、陸軍に関する天皇の勅語はすべて陸軍省軍務局の軍事課で起案することになっていたので、この当日も命令をうけた岩畔、河村両少佐が大急ぎでこの歴史的な「昭和維新」の勅語を起草していたところ、午後三時ごろに村上軍事課長が現われて、その草案を、わしづかみにして、あわてて陸相官邸へ急行したという。それは、官邸に集まって殺気だっていた決起将校たちへ内示して、極度に興奮した彼らを慰撫するために利用されたらしい。もちろん、これは天皇の意思ではなくて、川島陸相か、村上軍事課長の独断によるものだろうが、すでに天皇を怒らせてしまった以上、「維新大詔」どころの騒ぎではなくて、この勅語草案は永久に闇に葬られた。その内容は反乱軍の首魁の一人である野中四郎大尉が起草、配布した狂信的な「決起趣旨書」を全面的に認めたものであり、重臣を血祭りに上げて、いきり立った決起将校に対して、「大詔はまさに渙発されんとしているが、内閣が辞表を出していて副署ができないためおくれている」とたくみに説明されたらしい。かくて、「尊皇絶対」を狂信した彼らは、天皇にさえソッポを向かれたわけだ。

 

国民大衆はもちろん、早耳の各新聞社でさえぜんぜん知らない舞台裏で、二・二六事件はこのように深刻にゆれていた。もしも、真崎大将をはじめ陸軍長老が固く結束して、天皇に帷幄上奏(いあくじょうそう=内閣を通さず上奏する)して「維新大詔」の渙発を要請したならば、あるいは天皇はこれに同意して形勢はたちまち一変していたかも知れない。また、皇道派の総帥たる真崎大将自身が、形勢の非を察知して保身上より決起将校の期待を裏切っても、もし彼らが名実ともに「維新義軍」の目的貫徹のため、重臣暗殺後にもっと積極的行動に出て、西洋流の民衆解放の社会革命へ踏み切っていたら、たとえ天皇の錦の御旗の争奪のために「皇軍相撃つ」ような大惨事をまねいたとしても、もっとスッキリした事態を展開したかもわからない。しかし、決起青年将校のめざした昭和維新の目的は、「決起趣旨書」の難解な文字の羅列がしめすように、国民大衆には、まったく理解も共鳴もできないものであった。彼らは不正不義の政党、軍閥をことごとくたおして農村の窮乏を救い、庶政を一新して肇国(ちょうこく=建国)の理想であった「君民一如(一体)」の天皇親政を実現すると呼号しながら、天皇制本来の封建的な矛盾と元老、重臣中心の側近政治の宿命を打破することは毛頭、考えていなかった。それは彼らの考えがあまかったというよりは、むしろ幼年学校より士官学校まで一貫した「天皇の股肱(ここう=忠義の家来)」たる帝国軍人の精神教育の行きすぎた悲劇の結果ともいえよう。すなわち、半世紀以上にわたって帝国軍人のバイブルであった「軍人勅諭」(明治十五年一月四日発布)の五ヵ条の誓いの第一に命ぜられた通り、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」という天皇の至上命令をもっとも忠実に、万難を排して励行せんと企てたのが決起将校たちだったからだ。彼らは、日本の政党の腐敗、財閥の邪悪、軍閥の堕落の現状を見るに忍びず、いわゆる軍人の本分をもっとも忠実に尽くそうと決心して、「君側の奸臣、軍賊を斬除(ざんじょ)して、その中枢を粉砕する」(「決起趣旨書」による)ために決起したのだ。しかし、彼らの忠節はかえって、天皇のもっとも信任していた重臣を流血の中に殺してしまったのだ! しかも彼らは、天皇より大いにその「忠節」を嘉賞(かしょう)され、「維新大詔」が渙発されることを衷心より期待していた。かくして、彼らはみずから天皇のもっとも忠誠な股肱(ここう)であり、尽忠の臣下であり、また熱誠な味方であると固く信じこんでいたのに、実際には穏健で気の弱い天皇のもっとも好まない、過激な反乱分子とみなされ、いわゆる賊臣乱臣になり下がってしまった。要するに、ことの理非曲直にかかわらず、天皇のいわゆる「鶴の一声」にはもっとも弱い青年将校一味は、みずから重臣へ「天誅」をくわえたかわりに、今度は天皇から悲しい「天罰」を頂戴したわけだ。さて、反乱第二日の二月二十七日には、戒厳令が施行されて、香椎(かしい)浩平中将が戒厳司令官に任命されて、東京市内の警備は、ぞくぞく入京した、甲府、佐倉両連隊をはじめ横須賀の海軍警備隊まで到着して、厳重に固められた。いわゆる決起部隊は、第一日の二十六日午後以来、歩兵第一連隊長小藤恵大佐の指揮下にそのまま入れられて、「麹町地区の警備を命ず」という珍妙な待遇をうけていたが、武器を棄てて神妙に原隊へ復帰せよとの連隊長の説得に服さず、相変わらず、陸相官邸を中心とする三宅坂一帯の帝都の心臓部を占拠して、「昭和維新の目的貫徹まで戦う」という不穏の形勢を強化してきたので、ついに反乱第三日の二十八日朝、天皇より伝家の宝刀を抜いた「奉勅命令」が下った。しかし、軍首脳部の心境と対策の変化にもとづいて、決起部隊の呼称が騒擾部隊となり、さらに反乱部隊となり下がっても、決起青年将校たちの決心は断固として変わらなかった。なぜならば、彼らには、この「奉勅命令」は、当時、正式には下達されず、彼らはかえって、大先輩の革命家北一輝の激励をうけて、あくまで天皇の維新の天業翼賛(よくさん=助ける)を狂信していたから、「奉勅命令」を利用した軍閥の謀略を粉砕すべく、討伐の包囲軍に抗戦する覚悟をあらたにした。それで、「維新義軍」の名で、決起部隊にたいするつぎのような檄文が配布されて、ふりしきる雪の中に、いよいよ反乱軍と討伐軍の壮烈な市街戦が現出する形勢になった。
決起部隊本部から各行動部隊下士官に配布された檄文 (ガリ版刷り、二月二十八日午後配布、原文のまま)
「 尊皇討奸(そんのうとうかん)ノ義軍ハ如何ナル大軍モ兵器モ恐レルモノデハナイ。又、如何ナル邪智策謀ヲモ明鏡ニヨッテ照破(しょうは)スル。皇軍卜名ノツク軍隊ガ我が義軍ヲ討テル道理ガナイ。大御心(おおみごころ)ヲ奉戴セル軍隊ハ我ガ義軍ニ対シテ全然同意同感シ、我ガ義軍ヲ激励シツツアル。全国軍隊ハ各地ニ決起セントシ、全国民ハ万歳ヲ絶叫シツツアル。八百萬(やおろず)ノ神々モ我ガ至誠ニ感応シ加護ヲ垂レ給フ。至誠ハ天聴ニ達ス、義軍ハ飽(あ)クマデ死生ヲ共ニシ昭和維新ノ天岩戸(あまのいわと)開キヲ待ツノミ。進メ進メ、一歩モ退クナ、一ニ勇敢、二ニモ勇敢、三ニ勇敢、以テ聖華ヲ翼賛シ奉レ。   昭和十一年二月二十八日   維新義軍   」
もうこのころには、反乱第一日の千両役者であった真崎大将も川島陸相も、二・二六事件の舞台裏より姿を消してしまって、宮中も政府も軍部も、天皇の勅命の下に皮肉にも一体となり、数万の大軍を出動させてでも、頑強な反乱軍の武力討伐にふみ切ることを決意した。かくて二十八日夜より二十九日朝にかけて、つぎのような戒厳司令部発表が新聞とラジオのために行なわれ、さすがにツンボ棧敷におかれた全国民を驚かせ、心配させたものだ。
「 〔戒厳司令部発表第三号〕 (二月二十八日午後十時三十分)
一、一昨二十六日早朝、騒擾を起こしたる数百名(実際は約一千四百七十名であるのをごまかしている――筆者)の部隊は目下、麹町区永田町付近に位置しあるも、これに対しては戒厳司令官において適応の措置を講じつつあり
二、前項部隊以外の戒厳司令官隷下の軍隊は陛下の大命を奉じて行動しつつありて軍紀厳正、志気また旺盛なり
三、東京市内も麹町区永田町付近の一小部分以外は平静なり、またその他の全国各地は何等の変化なく平穏なり  」
「 〔戒厳司令部告諭第二号〕 (二月二十九日午前六時二十分)
本職はさらに戒厳令第十四条全部を適用し、断固南部麹町区付近において騒擾を起こしたる反徒の鎮圧を期す、然(しか)れどもその地域は狭小にして波及大ならざるべきを予想するを以て、官民一般は前告諭に示す兵力出動の目的をよく理解し、特に平静なるを要す   戒厳司令官 香椎浩平  」
「 〔戒厳司令部発表第四号〕 (二月二十九日午前六時二十五分)
二月二十六日朝、決起せる部隊に対しては各々その固有の所属に復帰することを各上官よりあらゆる手段を尽くし、誠意を以て再三、再四説諭したるも、彼らはついにこれを聴き容るるに至らず、そもそも決起部隊に対する措置のため、時日の遷延(せんえん)をあえて辞せざりしゆえんのものは、もしこれが鎮圧のため強硬手段をとるにおいては流血の惨事あるいは免(まぬが)るる能(あた)わず。不幸かかる情勢を招来するにおいては、その被弾地域は誠に畏(かしこ)くも宮城をはじめ皇、王族邸に及び奉るおそれもあり、かつその地域内には外国公館の存在するおり、かかる情勢に導くことは極力これを回避せざるべがらざるのみならず、皇軍互いに相撃つが如きは皇国精神上、真に忍び得ざるものありしに因るなり。然れども徒らに時日のみを遷延せしめて、しかも治安維持の確保を見ざるはまことに恐懼(きょうく)に堪えざるところなるをもって上奏の上、勅を奉じ現姿勢を撤し各々所属に復帰すべき命令を昨日、伝達したるところ、彼らはなおもこれに聴かず、遂に勅命に抗するに至れり、事すでにここに致る、遂に已むなく武力をもって事態の強行解決を図るに決せり、これに関し不幸兵火を交うる場合においても、その範囲は麹町区永田町付近の一小地域に限定せらるべきをもって、一般民衆は徒らに流言蜚語にまどわされることなく、勉めてその居所に安定せんことを希望す。 」
「 〔戒厳司令部発表〕 (二月二十九日午前七時十分)
万一、流弾あるやも知れず、戦闘区域付近の市民は次の様御注意下さい。
一、銃声のする方向に対して掩護物を利用し難を避けること
二、なるべく低いところを利用すること
三、屋内では銃声のする反対側にいること
四、立退区域=市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎の門、桜田鬥警視庁前、三宅坂を結ぶ線は戦闘区域になるから立ち退きのこと、この区域内には、国会議事堂、霞ヶ関離宮、閑院宮邸、外務省、警視庁、府立一中等がある……(以下略) 」
かくて、反乱の第四日――二月二十九日未明から有力な兵力の討伐部隊は、四方八方より反乱軍を包囲して武力弾圧の作戦行動を開始した。私は朝日新聞社会部記者として、切迫した皇軍相撃つ市街戦の実況を目撃、報道するために、前日夕刻より写真班をともない、三食分の食糧を用意して、社旗を立てた自動車で四谷見附を迂回して、国会議事堂と三宅坂をすぐ眼下に眺める四谷一丁目の電停角に立つ東京電力の変電所になっていた大きな三階建てのビルにようやくたどり着き、その屋上に陣どって、酷寒の一夜を外套とセーターにくるまって緊張して明かした。暗い雪空の下、暁の薄明かりがさしたころ、戦車数台がゴトゴト近づいてきた。私は思わず息をのんで、刻々迫る壮烈な反乱軍討伐戦をいまか、いまかと待ちかまえていた。だが――幸か不幸か、新聞記者としては残念ながら、市街戦ははじまらず、一発の銃声も聞こえなかった。ただ、にわかに飛来した数機の軍用機の上から、また三宅坂より議事堂周辺をさかんに示威行動していた戦車群の砲塔から、まるで白雪のごとくたくさんの降伏勧告ビラが撒布されて、空中にも、交通の絶えた路上にも舞い散り、異様な印象を私にあたえた。そのビラにはつぎの通り印刷されていた。
「  下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊へ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部、逆賊デアルカラ射殺スル 
  オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
  二月二十九日   戒厳司令部   」
また、同時刻ごろ、反乱軍のたてこもった議事堂と陸相官邸の周辺に、彼らによくわかるように、芝田村町の飛行館屋上から大きなアドバルーンが雪空に高く揚げられて、「勅命下る! 軍旗に手向うな」 の大文字がフワリフワリと寒風に震えていた。いっぽう、午前八時五十五分から東京中央局のラジオ放送(当時はJOAKと呼んでいた)は、歴史的な「兵に告ぐ」と題する香椎戒厳司令官の帰順勧告を電波にのせて、くり返しさけんでいた。
「 勅命が発せられたのである。すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである。(中略) この上お前たちがあくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っておったと知ったならば、いたずらにいままでのいきがかりや義理上からいつまでも反抗的態度をとって、天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない……  」
反乱鎮圧に乗り出した軍当局の反乱下士官兵に対する切り崩し戦術は、たちまち効を奏した。まず、二十九日午前十時前後から参謀本部付近で、機関銃を有する兵隊約三十名が帰順したのを皮切りに、ついに兵火を交えることなく午後二時ごろまでに全部帰順して、四日間にわたる大反乱はまったく鎮定された。では昭和維新の実現に失敗した、「尊皇討奸」の熱血に燃えた決起青年将校たちはいったい、どうしたのか? 彼らは結局、真畸大将はじめ日和見(ひよりみ)主義の軍長老に裏切られ、また絶対視した天皇にも裏切られ、さらに部下の下士官兵一千数百名にも逃げだされて裏切られ、いまや名実ともに孤立無援の絶体絶命の窮地におちいった。かくて、反乱軍の首魁、香田、安藤両大尉以下幹部将校ら二十二名は陸相官邸で、総自決か公判闘争か、悲痛な論争を重ねたあげく、午後になって野中四郎大尉のみ別室で轟然一発、ピストルで単独自決したが、犬死にをきらった他の二十一名は、あくまで「獄中闘争」の決意をあらたに燃やして、夕刻までに、全員が悠然と多数の憲兵の手で逮捕された。そして彼らは、輝かしい帝国軍人の誇りも空しく軍服の肩章と襟章をもぎ取られたうえ、渋谷宇田川の代々木練兵場裏手の古めかしい東京陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所へ護送されて、氷のように冷たい鉄窓につながれたのであった。それから半年後に、これらの青年将校と元将校の囚人たちは、いずれも特設された東京陸軍軍法会議で、非公開の秘密裁判にかけられたのち、昭和十一年七月五日、極刑の判決を言い渡された。そして上告も、訴願も一切許されず、わずか一週間後の七月十二日朝、香田大尉以下十五名の第一次処刑が銃殺により執行された。ただし、村中、磯部両名のみは、皇道派革命分子の根だやしの策謀から、一年間もおくれて翌十二年八月十九日、国家革新運動の大立物たる北一輝、西田税両人もろとも銃殺刑を執行された。かくて全日本を震撼した二・二六事件の幕は閉じたが、秘密裁判であわてて大量処刑された青年将校の亡霊は天皇をうらみ、将軍を呪いながら、二十五年後の今日にいたるもいまだに浮かばれず、奇怪な謎を秘めている。それはつぎに述べる。  

 

昭和三十五年十月十二日、秋も深まったさわやかな水曜日の午後三時半ごろ、東京の日比谷公会堂で開かれた都選挙管理委員会と公明選挙連盟共催の三党首立ち会い演説会の壇上で、社会党委員長浅沼稲次郎氏(六十一歳)が、千数百名の聴衆とテレビ・カメラとラジオ・マイクの寸前で暗殺されたテロ事件は、日本中を愕然(がくぜん)とさせた。しかも犯人は児島高徳(こじまたかのり=御醍醐天皇時代の天皇主義の武将)や、吉田松陰や西郷隆盛や、ヒトラーを深く尊敬するという、絶対天皇主義の愛国少年山口二矢(十七歳)の狂人的な一人一殺の右翼テロであると判明したので、世間はいっそうビックリした。それは戦前の軍国主義の狂乱時代に、日本の政界と社会を衝動した一人一殺の血盟団事件(昭和七年)や犬養(いぬかい)首相を暗殺した五・一五事件(同年)、陸軍統制派の実力第一人者永田鉄山中将を斬殺した相沢三郎中佐事件(昭和十年)、斎藤実(まこと)内大臣、高橋是清蔵相以下重臣を大量殺傷した二・二六事件(昭和十一年)などの、流血走馬灯のごとき一連の昭和暗殺譜を二十五年ぶりになまなましく思いおこさせる事件であった。それで、新聞、ラジオ、テレビがいっせいに「テロ時代来る!」とヒステリックに騒ぎ立てたのもむりはなかった。さる六月の日米安保条約改定阻止の左翼デモの集団暴力に対抗して、ついに右翼テロの古風な一人一殺の暴力が荒れ狂いはじめたのだ! 歴史はくりかえす――と私は二十五年前の暗殺と反乱の各事件を回想して、まことに感慨無量であった。この「昭和動乱史」の記録こそは、読者諸君に貴重なドキュメント的読み物として無限の興味をそそるものと信じている。この晴天の霹靂(へきれき)にも似た浅沼暗殺事件について、海外の反響はきわめて日本に不利であった。たとえば英国のロンドン・タイムス紙は、「日本における民主主義の将来は絶望的と思われるにちがいない」と論じ、また米国の各新聞はペンをそろえて、「日本の民主主義はまだ借り物であり、戦前の軍国時代の右翼テロが復活した」と難じている。さらにフランスや西独の新聞までがいちように、「公衆の面前で白昼堂々と白刃をふるって政党党首を刺殺した日本人の残忍性」を酷評した。しかし、日本国内の反響はかならずしも一定せず、ことに戦後、長いあいだ鳴りをひそめていた、いわゆる愛国右翼団体はいっせいに拍手喝采(かっさい)して、この十七歳の少年テロリストを白虎隊の勇士のごとく称揚し、また尽忠愛国の志士のようにあつかい、「赤化社会党」の浅沼委員長が山口少年の白刃に刺殺されたのは「天罰」であり、「安保デモの集団暴行を指揮した当然の報い」であると称号したものだ。私は新聞紙上で、犯人山口二矢が十七歳の少年に似合わず、落ちついたゆうゆうたる心境を取り調べの係官に吐露したつぎのような言葉を知り、思わず慄然(りつぜん)とした。それはちょうど二十五年前の夏の白昼、永田軍務局長を「天誅(てんちゅう)!」と叫んで斬殺した相沢中佐の「尊皇討奸(そんのうとうかん)」の心境と、いみじくも相通ずるものがあったからだ。
「 ――社会党は、国家のためにならないものだと信じていました。社会党はけっきょく、ロシア革命のときに政権を共産党にわたす役をやったケレンスキー内閣の日本版になると考えたからです。私は安保闘争でこの考えに確信をもち、浅沼氏のほかにも、野坂日共幹部会議長、小林日教組委員長もやらねばならないと思い、ねらっていました……  」
また山口少年の自宅の裏庭には、必殺の空手を練習していたワラをまいた一本の太い杭が立っていたが、その角柱の両面にはそれぞれ「神州不滅」「皇紀二千六百二十年」という文字が墨で大書されて残っていた。しかも、彼が凶行当時着用していた古ぼけたジャンパーのポケットに入れた一冊の中型の手帳には、黒インキでつぎのような和歌二首が書きこまれていた。
「 国ノ為、神州男子ハ晴レヤカニ、ホホエミ行カン死出ノ旅 」
「 大君ニ仕エマツレル若人ハ、昔モ今モ心変ラジ 」
私がこれらの事実を知って、しみじみと痛感したことは二十五年前の血盟団の一殺多生(いっさつたしょう)の精神と、二・二六事件の青年将校たちの昭和維新をめざす殉国捨身(じゅんこくしゃしん)の覚悟がいまだ亡びず、民主日本の今日に生きながらえているということであった! それから、三週間たった十二月二日夜、冷たい秋雨が降りそぼる八時半ごろ、東京練馬の少年鑑別所に収容されたばかりの浅沼暗殺犯人山口二矢は、独房内で首つり自殺をとげた。その壁には、歯みがき粉を水でといて、「七生報国、天皇陛下万歳」と指先で書き残されてあった。私はこの秋雨の蕭々(しょうしょう)と降る深夜十二時すぎ、書斎で奇しくも二・二六事件の記録を調べながら原稿を執筆していたとき、突然、ラジオ放送の臨時ニュースで意外な山口少年の自殺を知り、まるで胸を突かれたように驚いた。そして、重苦しい気持で五・一五事件や二・二六事件の悪夢のようなもろもろの思い出を偲(しの)んで、夜がふけてもなかなか眠られなかった。私はふと、こんなことを妄想した―― 二十五年前に大量処刑された決起青年将校たちの亡霊はいまだに浮かばれず、民主日本の今日もなおさまよいつづけて、十七歳の少年愛国者の山口二矢の心身に乗りうつったのではなかろうか? なぜならば、あの当時の青年将校の物事の考え方と、二十五年後の山口少年の考え方とは、世の中の移り変わりを超越してあまりにもよく似ているからだ。しかも、山口が凶行後、検察当局の取り調べにたいして率直に自供した内容はつぎの通りで、二・二六事件の決起将校の残した獄中手記や遺書とあまりにも相通ずるものが多いように思われた。
「 ――襲撃計画の目標には、小林日教組委員長、野坂日共中央幹部会議長、浅沼社会党委員長、社会党の松本治一郎氏らを選んだ。これらの人々は日本を滅亡さす赤色革命を起こす原動力になるからだ。自民党の河野一郎、石橋湛山の両氏も考えの中に入れ、狙ったが計画を中止した。浅沼委員長を襲ったのは十月十二日の事件当日、三党首の立ち会い演説会が開かれるのを知ったからだ。一人一殺の考えは大日本愛国党を脱党してからだ……。具体的な行動を起こす決意をしたのは、自宅で短刀を見つけた十月初旬だ。十月六、七日には明治神宮に参拝し、和歌二首(前掲)を詠んで神助を祈った。浅沼委員長が死んだのは警視庁に連行されてから知った。気の毒ではあったが、やむを得ない。しかし、目的は達した 」
要するに山口少年は、昭和維新をめざした血盟団団員や皇道派の急進将校とまったく同様に、「尊皇討奸」の若い狂信者であり、「身を捨てて大義を行なう」と悲壮な覚悟をかためていたのだ。そして、いわゆる古めかしい楠公(なんこう=楠正成)精神に深く感銘して、「七生報国」を念願し、実行したのだ!そしてそれが、軽薄狂燥のロカビリー時代、カミナリ族の横行するスポーツとセックス万能の現代の世相をしり目に、正義感と愛国心の強烈な十七歳の山口二矢の悲しい抵抗の姿であった。山口少年の残した歌を、もう一度、つぎに平がなに言き改めて引用してみよう。それは二十五年前の決起将校たちの辞世と比較して、驚くほどそのムードがよく似ていることに、読者諸君もさぞ同感されるであろう。
国のため神州男子は晴れやかに、ほほえみ行かん死出の旅   山口二矢
ひたすらに君と民とを思いつつ、今日永(とこし)えに別れ行くなり   香田清貞
心身(こころみ)の念おもいをこめて一向(ひたふる)に、大内山に光さす日を   安藤輝三
しばしして人の姿は消えぬるを、ただ捧げなん皇御国(すめらみくに)に   竹島継夫
日は上り国の姿も明るみて、昨日(きのう)の夢を笑う日も来ん   対島勝雄
君がため捧げて軽きこの命、早く捨てけん甲斐のある中   栗原安秀
五月雨の明けゆく空の星のごと、笑を含みて我はゆくなり   中橋基明
むら雲に妨げられし世をすてて、富士の高嶺に月を眺めん   丹生誠忠
身は一代名は幾千代の命なり、義を残してぞ生甲斐にこそ   丹生誠忠
大君のために生れて大君の、ために死すべき我身なりけり   坂井 直
我はもと大君のため生れし身、大君のため果つる嬉しさ   田中 勝
身はたとひ水底の石となりぬとも、何惜しからん大君のため   中島莞爾
我がつとめ今は終りぬ安らかに、我れかへりなむ武夫(もののふ)の道   安田 優
うつし世に二十四歳の春過ぎぬ、笑って散らん若ざくら花   高橋太郎
鬼となり神となるともすめろぎに、つくす心のただ一筋に   林 八郎
ただ祈りいのりつづけて討たればや、すめらみ国のいや栄えよと   村中孝次
国民よ国をおもひて狂となり、痴となるほどに国を愛せよ   村中孝次
わが魂(たま)は千代万代(ちよよろずよ)にとこしえに、厳(いか)めしくあり身は亡ぶとも   磯部浅一  
十一

 

さて、本題に立ちもどって、前述のとおり、二・二六事件を計画、指揮した決起将校一味の大量銃殺は、昭和十一年七月十二日朝、代々木練兵場裏手の東京陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所で執行された。これよりさき、七月五日の東京陸軍軍法会議の第一次判決では、反乱罪首魁として元歩兵第一旅団副官、元陸軍歩兵大尉香田清貞以下、元将校十三名と常人四名、計十七名が死刑をいい渡された。この元将校というのは決起当時は現役将校であったが、反乱鎮定後に逮捕されて、「大命に抗し陸軍将校たる本分に背いた」という理由で免官処分に付せられたうえ、位の返上と勲等功級記章の褫奪(ちだつ=剥ぎ取る)を命ぜられた人びとである。また常人というのは、反乱当時、すでに軍人の身分を喪失していた村中孝次元大尉と磯部浅一元一等主計両名(いずれも十一月事件ならびに粛軍に関する意見書の怪文書事件で昭和十年八月、免官処分となる)に、さらに陸士本科中退の渋川善助をふくめていたので、純粋の民間人は日本大学出身の弁護士で湯河原の旅館に牧野伸顕(しんけん)元内府を襲撃(河野寿大尉の指揮下に入り、同大尉の負傷後、代わって指揮をとった)した水上源一(当時二十九歳)ただ一人であった。以上の死刑囚十七名のうち、職業的革命運動家とみなされた村中、磯部両名を除いた元将校ならびに常人、計十五名は、七月十二目に銃殺刑を執行されたのである。村中、磯部両人が分離されて処刑を延期されたのは、陸軍首脳部がかねてより青年将校を煽動して革命思想を鼓吹する黒幕の危険人物として憎んでいた、急進将校のバイブルといわれる『日本改造法案大綱』の著者、北一輝とその弟子の革命運動家西田税(元陸軍少尉、五・一五事件にも関係)両名を反乱罪首魁(しゅかい)として断罪するために、利用しようと企てたからだ。その結果、二・二六事件には法律上、直接関係の薄かった北と西田は、村中と磯部もろともに、第一次判決処刑より一年以上もたった昭和十二年八月十九日(判決は八月十四日)に、反乱罪首魁として銃殺刑を執行された。さて、このようなわけであったから、二・二六事件の首謀者または謀議参与、群集指揮者として、特設の軍法会議で死刑の宣告を受けた被告たちの心境はかならずしも同様ではなかった。もちろん、彼らは昭和維新のみずから捨て石となる覚悟は固くできていたから、決して三月事件や十月事件に連座した権勢欲の強い将軍や、幕僚(陸大出の佐官級)連中の不純なクーデター計画の野心とは、同一視すべきものではない。彼らは衷心より祖国日本の理想実現をめざして、一点の私利、私欲の邪念もなかったように思われた。だから、昭和維新実現のために天皇の信任した重臣たちを無残にも暗殺した責任について、彼らは決して生命を惜しむつもりはなかったであろうが、しかし、血気にはやる青年将校の胸中にはあくまで「君側の奸臣(かんしん)を除いて国体明徴に徹することが、臣子(しんし)たり股肱(ここう)たる絶対道である」と確信していたわけだ。さればこそ、彼らは天皇より「維新大詔」の渙発(かんぱつ=公布)を期待して、皇道派の総帥たる真崎甚三郎大将を首班とする軍政府の樹立を切望していたのである。それをはっきりと見とどけるまでは決して死ねるものではなかった。ところが、天皇は重臣暗殺をいたくなげいて、青年将校の暴挙を怒り、ことに真崎大将はじめ皇道派の将軍連中を前々から毛嫌いされていたので、いわゆる昭和維新の夢はたちまち破れて、皇軍反乱の悲劇はわずか四日間でその幕を閉じた。そして、「皇祖皇宗ノ神霊、翼(ねがわ)クハ照覧冥助(めいじょ)を垂レ給ハンコトヲ」(決起趣意書)とて、昭和維新の成功を祈念した決起将校は、いも早く自決した野中四郎大尉を除いて全員、反乱軍首魁または謀議、指揮者として憲兵隊の手で一斉逮捕されて、鉄窓に収容された。しかも弁護人もつけられず、非公開の一審制の軍法会議のスピード裁判によって事件後わずか四ヵ月半で十八名の元将校のうち、十三名もが死刑の判決を受けたのであるから、彼らの胸中にみなぎる激情はいかにも深刻であったろう。彼らが銃殺刑の執行直前に詠んだ辞世の和歌は、既述のようにいずれも名利を求めぬ淡々たる志士の心境をしめしてはいるが、しかしながら、七月五日に死刑の宣告を受けてから、七月十二日に銃殺刑を執行されるまでの一週間の彼らの獄中での懊悩(おうのう=苦しみ)は、まことに絶望の地獄の苦しみであったろう。なぜならば、彼らは絶対崇拝する天皇から勅勘(ちょくかん=天皇からのとがめ)をこうむり、またみずから最大の忠臣をもって任じながら、意外にも最悪の逆賊として処刑されることになったからだ! したがって、彼らの中にはあくまで判決の不正を攻撃して自己の正義を主張するもの、あるいは反乱の失敗を反省して自己の不明を謝するもの、さらにまた忠義者を見殺しにする天皇を怨んで軍長老の無責任と裏切りを呪うものなど、さすがに木石ならぬ死刑囚の心は生死の境で乱れざるを得なかった。
大量銃殺の悲運をむかえて、東京陸軍衛戍刑務所の独房の中で、昭和維新の志士を気どる死刑囚たちは、それぞれ遺書を書き残した。それは生前に義侠心のある看守の手を通じて、あるいは面会に来た家人の手を通じて、または死後、遺品といっしょに、合法的に、または非合法的に、獄外へ持ち出された。そして戦中も戦後も、長い間ひそかにかくされていたが、連合軍の占領終了後、ようやく発表された。これらの悲痛な獄中手記や遺書を丹念に読むと、奇々怪々な二・二六事件のまさに氷山の一角に触れたような気持がする。ここにそのいくつかの記録を紹介しよう。彼らの亡霊は、今日にいたるまで、いまだに浮かばれず鬼哭(きこく=霊魂が泣く)啾々(しゅうしゅう)たる感がふかい。
「 安藤輝三(元歩兵第三連隊、陸軍大尉)
公判は非公開、弁護人もなく(証人の喚請は全部却下されたり)発言の機会などもなくまったく拘束され、裁判にあらず捕虜の尋問なり。かかる無茶な公判のなきことは知る人のひとしく怒るところなり」「万斛(ばんこく=多大)の恨みを呑む――当時、軍当局は吾人の行動を是認し、まさに維新に入らんとせり。しかるに果然、二十七日夜半、反対派の策動奏功し、奉勅命令(撤退命令)の発動止むなきにいたるや、全く掌を返すがごとく『大命に抗せり』と称して討伐を開始(奉勅命令は伝達されず)、全く五里霧中の間に下士官兵を武装解除し、将校を陸相官邸に集合を命じ、憲兵及び他の部隊を以て拳銃、銃剣を擬せしめ山下奉文少将、石原莞爾大佐らは自決を強要せり。一同はそのやり方のあまりに甚しきに憤慨し自決を肯んぜず(とくに謂れなき逆賊の名の下に死する能はざりき)今日に至れり」
「叛軍ならざる理由――
(一)決起の趣旨に於て然り、
(二)陸軍大臣告示は吾人の行動を是認せり、
(三)天皇の宣告せる戒厳部隊に編入され、小藤大佐(当時、歩一連隊長)の指揮下に小藤部隊として、麹町地区警備隊として任務を与えられ、二十七日夜は配備に移れり、
(四)奉勅命令は伝達されあらず」  」
「 栗原安秀(元歩兵第一連隊、陸軍中尉)
「昭和十一年七月初夏の候、余輩青年将校十数士、怨(うらみ)を呑みて銃殺せらる。余輩その死につくや従容たるものあり。世人或いはこれを目して天命を知りて刑に服せしと為さん。断じて然らざるなり」「余、万斛(多大)の怨を呑み、怒りを含んで斃れたり。我魂魄(こんぱく=霊魂)この地に止まりて悪鬼羅刹となり我敵を馮殺(ひょうさつ)せんと欲す。陰雨至れば或いは鬼哭啾々として陰火燃えん。これ余の悪霊なり。余は断じて成仏せざるなり。断じて刑に服せしにあらざるなり。余は虐殺せられたり。余は斬首せられたるなり。嗚呼、天は何故にか、かくも正義の士を鏖殺(おうさつ)せんとするや」「そもそも今回の裁判たる、その慘酷にして悲惨なる、昭和の大獄に非ずや。余輩青年将校を拉致し来りこれを裁くや、ろくろく発言をなさしめず、予審の全く誘導的にして策略的なる、何故にかくまで為さんと欲するや。公判に至りては僅々一ヵ月にして終わり、その断ずるや酷なり。政策的の判決たる真に瞭然たるものあり。すでに獄内に禁錮し、外界と遮断す、何故に然るや」「余輩の一挙たる、明らかに時勢進展の枢軸となり、現状打破の勢滔々(とうとう)たる時、これが先駆たる士を遇するに極刑を以てし、しかして粛軍の意を得たりとなす。嗚呼、何んぞその横暴なる。吾人徒(いたずら)らに血笑するのみ、古(いにしえ)より狡兎死して走狗(そうく)烹(に)らる(注)、吾人は即ち走狗なるか」(注=兎が死ねば猟犬は不要になって煮て食われる。敵国が滅びれば軍の忠臣は邪魔物として殺されるの意味) 「余は悲憤、血涙、呼号せんと欲す。余輩はかくの如き不当なる刑を受くる能はず。しかも戮(りく)せらる、余は血笑せり。同志よ、他日これが報いをなせ、余輩を虐殺せし幕僚を惨殺せよ。彼らの流血をして余の頸血(けいけつ)に代わらしめよ、彼等の糞(ふん)頭を余の霊前に供えよ。余は瞑せざるなり、余は成仏せざるなり、同志よ須(すべから)く決行せば、余輩十数士の十倍を鏖殺すべし。彼等は賊なり、乱子なり、何んぞ愛憐を加ふるの要あらんや」  」
「 香田清貞(元歩兵第一旅団副官、陸軍大尉)
「南無妙法蓮華経、決起の主意は決起趣意書に示せる通りなるも、或いは伝はらざらん。大意は天日を暗くする特権階級に痛棒を与へ国体の真姿を顕現し、国家の真使命を遂行し得る態勢になさんことを企図せるなり」「二十五日夜より二十六日朝にわたり、歩一第十一。中隊に在りて諸準備をなす。二十六日、午前四時三十分、首相官邸に於いて大事決行中の栗原部隊を横に見ながら、陸相官邸に至り、陸相と会見、上部工作をなす。正午過ぎ、陸軍大臣告示を山下(奉文)少将より伝達を受く。二十六日夜、宮殿下を除く軍事参議官全員を集め交渉をなす。同夜は同邸に在り」「二十七日、戦時警備令下令せられ、その部隊に入る。次いで戒厳令下令せられ同部隊に入り、小藤大佐指揮官となり、麹町地区守備隊となり、完全に皇軍として認めらる。二十七日午前、戒厳司令部に至り司令官に交渉せり。二十七日夜、陸相官邸に於いて、真崎(甚三部)、西(義一)、阿部(信行)の三大将と交渉す」「奉勅命令は誰も受領しあらず。安藤大尉は維新の大詔の原案を示されたり。軍幕僚並に重臣は吾人の純真、純忠を蹂躙(じゅうりん)して権謀術策を以て逆賊となせり。公判は全く公正ならず判決理由は全く矛盾しあり。父は無限の怨を以て死せり。父は死しても国家に賊臣ある間は成仏せず、君国のため霊魂として活動してこれを取り除くべし」  」
「 竹島継夫(元豊橋教導学校、陸軍中尉)
「昭和十一年二月二十六日、皇軍未曾有の大事に参加し、ついに七月五日、反乱の罪名の許に死刑の宣告を受けたり。顧ればこの世に生きを受けて三十年、過去は是れ一場の夢、我が三十年は悉(ことごと)く是れ非なりき。道を求むる事無く、酔生夢死、今に至りて悔恨(かいこん)の情に苛(さいま)まれ然も及ばず。ここに過去を悔(く)ゆるまま、思い出ずるままを書き残し、以て前車の轍(わだち=跡)を後人をして踏まざらしめんとす」「天皇陛下に対し祟り恐懼(きょうく)に堪えず、微臣(びしん)謹んで刑に服し以て地下において御詫び申上げ祟る。然れども微臣御上に対し祟り、一点邪心、二心無かりしを、死に臨みて言上し祟る」「皇軍に拭ふべか参ざる汚点を印したるは、我が浅慮の致すところ、その威信を失墜したるは誠に衷心申訳なき極み、死してなお償ふべからざるものなり。願はくば皇軍上下一層、自奮自励、その士気を作興し、その歩武を正し、以て、上(かみ)聖明に対し祟り、下(しも)国民の期待に反かず、以てその威信を中外に宣揚せられんことを」「獄中所感――吾れ誤てり、ああ、我れ誤てり。自分の愚かなため、是れが御忠義だと一途に思い込んで、家の事や母の事、弟達の事気にかかりつつも、涙を呑んで飛び込んでしまった。然るにその結果はついにこの通りの悲痛事に終った。ああ、何たる事か、今更悔いても及ばぬ事と締める心の底から、押さえても押さえても湧き上がる痛恨悲憤の涙、微衷(びちゅう=私の心中)せめても天に通ぜよ」「我れ年僅かに十四歳、洋々たる前途の希望に輝きつつ幼年校に入り、爾来星霜十五年、人格劣等の自分ながら、唯々陛下の御為めとのみ考えていた。然るにああ、年三十歳、身を終わる。今日自分に与えられるものは、反乱の罪名、逆徒の汚名、この痛恨、誰が知ろう」 」
「 中橋基明(元近衛歩兵第三連隊、陸軍中尉)
「吾人は決して社会民主革命を行ないしに非ず。国体反逆を行ないしに非ず。国の御綾威(おみいづ=御威光)を犯せし者を払いしのみ。事件間、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、明らかに維新にならんとして反転せるなり。奸臣の為に汚名を着せられ且つ清算せらるるなり。正しく残念なり。我々を民主革命者と称し、我々を清算せる幕僚共は昭和維新と称する」「秩父(ちちぶ)宮殿下、歩三に居られし当時、国家改造法案も良く御研究になり、改造に関しては良く理解せられ、此度決起せる坂井(直)中尉に対しては御殿において、『決起の際は一中隊を引率して迎えに来い』と仰せられしたり。これを以てしても民主革命ならざる事を知り得るなり。国体擁護の為に決起せるものを惨殺して後に何か残るや、来るべきは共産革命に非ざるやを心配するものなり。日蘇(につそ)会戦の場合、果たして勝算ありや、内外に敵を受けて何如となす」「吾人が成仏せんが為には昭和維新あるのみ。『日本国家改造法案』は共産革命ならず。真意を読み取るを要す。吾人は北、西田に引きずられしに非ず。現在の弊風を目視(もくし)しこれを改革せんとするには軍人の外、非ざるを以て行ないしなり」 」
以上のような反乱首謀の青年将校たちの獄中手記、あるいは、遺書形式の絶筆を熟読してみると、今日もなおなまなましく、刑死を目前にして獄中に呻吟(しんきん)する若い魂の激動を感ずることができるように思う。  
十二

 

しかし、なんといっても、二・二六事件の表舞台で活動した決起将校たちは、いずれも世間ずれのしない直情径行の現役軍人であったから、ついに事が志に反して失敗し、みずから逆賊として処刑される悲運に立ちいたっても、あまり見苦しく天皇を怨んだり、軍長老の冷淡な豹変(ひょうへん)を怒るものはなかった。ところが、二・二六事件より二年前の十一月事件(昭和九年十一月中旬、在京青年将校と士官候補生若干名を中心とする不穏計画事件)に連座して停職処分を受けたうえ、さらに粛軍に関する怪文書事件によって免官追放された村中孝次大尉(当時、歩兵第二十六連隊大隊副官)と磯部浅一一等主計(野砲兵第一連隊付)の両名は、あくまで冤罪(えんざい)を主張して争い、深く軍首脳部の統制派を恨んで、烈しい憎悪を燃え上がらせて、昭和維新運動の急先鋒となって奔走していた。それゆえ、反乱の当時すでにこの両名は民間人の自由な立場にあって、青年将校一味の指導的役割を努めて、重臣襲撃後の軍上層部への政治工作を担当して奮闘した。したがって、両名とも直接、重臣の暗殺行動には参加しなかったが、軍法会議では反乱罪首魁として死刑を宣告されたわけだ。ところが、既述のようにこの村中、磯部両名は、国家改造運動の大先覚者たる北一輝と弟子の西田税両名を断罪するために利用されたので、死刑執行を一年余も延期され、獄中で翌年の昭和十二年八月まで生き延びた。その間に、両名は革命家として悲憤慷慨のあまり激烈な獄中手記を丹念につづっていた。とくに熱血革命児をもって自他ともに任じていた磯部は、長文の手記のほかに遺書や北と西田の助命嘆願書などを大いに書きまくり、獄内でものすごい鬱憤(うっぷん)晴らしをしていたらしい。それらの獄中手記は、まったく奇蹟的にも非合法的に刑死前に持ち出されたうえ、戦中も戦後も絶対に秘密にかくされていた。こうして二十年ぶりではじめて発表されたこの貴重な手記を通読して、私がもっとも興味をひいたのは、彼が「尊皇討奸」の夢破れて、深く天皇を怨み、正しい天皇制のあり方について苦言を呈している幾多の率直な文章であった。もしも、忠臣は諌言(かんげん=主君をいさめる)するというならば、死刑囚の磯部浅一こそ昭和史上、未曾有の忠臣であるといわねばなるまい。彼は天皇のために、また日本国家のためによかれかしと念願しつつ、明治維新につぐべき昭和維新の天業をみずから生命を賭けて翼賛(よくさん=助ける)し奉ろうと企てたものであった。しかし、維新義軍の決起は、かえって天皇が深く信頼した重臣たちの老体を血祭りに上げたために、平和好みの温情な天皇の悲しい怒りを買って、逆賊と反軍の汚名をさせられてしまった。だが、このような天皇の態度に磯部は不平であり、不満であった。みずから正しいと信ずる彼は、あくまで天皇の反省と覚醒をうながすために、烈々たる獄中日記を書き残したのだ。
「 天皇陛下! 陛下の側近は国民を圧する漢奸(かんかん=売国奴)で一杯でありますゾ。御気付き遊ばさぬでは日本が大変になりますゾ。今に今に大変な事になりますゾ。明治陛下も皇太神宮様も何をしておられるのでありますか。天皇陛下をなぜ御助けにならぬのですか。日本の神々はどれもこれもみな眠っておられるのですか。この日本の大事をよそにしているほどのなまけものなら日本の神様ではない……」「死刑判決主文中の『絶対に我が国体に容れざる』云々は、如何に考えてみても承服出来ぬ。天皇大権を干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ。剣をもってしたのが、国体に容れずと言うのか、兵力をもってしたのが然りと言うのか」「仮りにも十五名の将校を銃殺するのです。殺すのであります。陛下の赤子を殺すのでありますぞ。殺すと言うことはかんたんな問題でない筈(はず)であります。陛下の御耳に達しない筈はありません。御耳に達したならば、なぜ充分に事情を御究(おきわ)め遊ばしませんので御座いますか。なぜ不義の臣等をしりぞけて、忠烈な士を国民の中に求めて事情を御聞き遊ばしませぬので御座いますか。何人というも御失政はありましょう。こんなことを度々なさりますと、日本国民は陛下を御うらみ申すようになりますぞ…… 陛下、日本は天皇の独裁国であってはなりません。重臣、元老、貴族の独裁国であるも断じて許せません 」
はたして磯部元主計は、獄中で気が狂ったのであろうか? 私はここにこそ、天皇制の不可思議な実体があり、また、相沢中佐から磯部以下、決起将校の「尊皇討奸」イデオロギーの神秘性がひそんでいると思う。この問題をタブーにして戦中も戦後もあい変わらず頬被りしていては、二・二六事件の真相と正しい究明は永久に不可能であろう。だが、磯部にせよ、香田にせよ、栗原にせよ、あるいは相沢中佐にせよ、皇道派の革新将校連中は、天皇の理想像について致命的な誤算と誤解をかさねていた。彼らはその「決起趣意書」の中で、猛烈に元老、重臣、軍閥、官僚、政党を非難攻撃して「国体破壊の元凶」ときめつけ、また「ロンドン海軍条約並に真崎教育総監更迭」を天皇の統帥権干犯なりとはげしく憤激していながら、皮肉にも、天皇自身がそれを統帥権干犯などとは考えていない事実を知らなかった。また当時、軍部や愛国、右翼団体がうるさく騒ぎ立てていた天皇機関説をめぐる国体明徴問題についても、天皇は案外にも無関心であって、戦後にはじめて明らかにされた元侍従武官長本圧繁大将の手記には、
「 天皇機関説はいけないといろいろ論ぜられているが、自分はそれでもよいと思う――と仰せあり」という天皇の言葉が記載されている。また、この本圧大将手記によると、「軍の配慮は朕にとっては精神的にも肉体的にも迷惑至極である。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招くことについて慎重に考えてもらいたい……」 とも天皇が語ったようにつたえられている。 」
要するに、天皇制そのもののあり方について、天皇およびその有力側近者(つまり元老重臣たち)と、陸軍ならびに皇道派の急進青年将校たちとの間に、決定的な思想上の相違と対立があったのだ。これは二・二六事件の奇怪な秘密を追及するための有力な手がかりとなるものであろう。それはまた日本国民にとって、過去の問題ではなくて、現在ならびに将来の重要な問題であろう。 
十三

 

二・二六事件は、雪の朝に決起した「維新義軍」の青年将校たちの大量銃殺によって幕を下ろし、あわただしくも片づけられたが、この軍隊反乱の傷痕は意外に深く日本の運命に残された。それは、軍国日本の支配をめざして陸軍派閥の主流たる統制派が、つねに目のかたきにしていた真綺甚三郎大将を統帥とする皇道派を徹底的に弾圧、追放する口実に、この事件をたくみに利用したからであった。こうして、いわゆる口うるさい邪魔者を根こそぎ一掃した統制派の軍首脳部は、反乱事件をしかるべく逆用して、財界と手をむすんで経済統制を強化しながら、国民大衆の関心を大陸へ向けて、日華事変の拡大と太平洋戦争への道を突進したのである。「もしも陸軍首脳部に皇道派が健在であったならば、無謀な太平洋戦争はおそらく起こらなかったであろう。そうすれば日本は敗戦の悲運も、降伏の屈辱も決してうけることなく、建国二千年の光輝ある歴史を汚すことはなかったであろう」と、年老いた真崎大将が戦後にもらした所感は、かならずしもそのまま受け容れられるものではない。しかし、二・二六事件以来、まったく軍部より追放されて、長年、悶々の蟄居生活をしのんできた老将軍にとっては、祖国の開戦も敗戦も、その真因が遠く二・二六事件の不当な処理と弾圧にさかのぼることを、だれよりも痛切に感じていたのであろう。要するに、当時の軍首脳部は形式的な厳罰主義を励行して、国民大衆の前にゆらいだ軍の威信を取りもどそうと懸命に努力する一方、事件の全貌と真相を国民の眼から極力かくそうとあらゆる策略を弄したようだ。すなわち、表面上、決起将校を「問答無用」とばかり迅速に大量処刑にしながら、皮肉にも彼らの悲願の決起の趣旨は、そっくり統制派の要望として、狼狽し恐怖した政界および財界に圧力をかけ、かえって統制派に有利な軍部独裁体制を促進した結果となった。こうして、昭和維新の捨て石たらんと決起した皇道派の急進青年将校たちが打倒しようとねらった「奸臣軍賊」が、亡びるどころか逆にかえって枕を高くして眠れるような、ぼう大な軍事予算と戦争景気を謳歌する時勢が到来したわけだ。したがって、特権階級の排除と万民の至福をめざした「国家革新」は、いわゆる軍閥や財閥につごうのよい「戦時体制」にスリかえられてしまったのである。 
十四

 

国民大衆が完全に眼をふさがれてツンボ桟敷で、ただヤキモキしながら、日本の運命をゆさぶる重大危機の二・二六事件を心ならずもウヤムヤに見すごしていたとき、はからずも東京の一角から雪の朝の大反乱をじっと目撃して、その実相を、いちはやく全世界へ向けて打電し、「日本軍、東京を占領す!」と題する長文の現地報告をタイプライターで叩いていた老練な外国新聞特派員があった。それは私の長年の友人で、当時、はからずも日比谷の帝国ホテルに止宿していた英人記者ヘッセル・チルトマン氏である。この彼の歴史的な二・二六事件報告記は、彼の著書『極東はいよいよ接近す』(一九三六年十月、ロンドン、ジャーロルド社刊)の中に、第五章「死が東京を打つ」として収録されているが、今日でも貴重なドキュメントとして異彩を放っている。ではいったい、全世界を衝動したといわれる二・二六事件は、青い眼の外人記者に当時、どのように映ったであろうか? チルトマン氏は満州事変以来、英人記者としてたびたび日本にきて、日華事変には日本軍と中国軍の双方に従軍するなどめざましく活躍し、当時、朝日新聞記者だった私と親交を結ぶようになった。奇しくも昭和十五年(一九四〇年)末に、私が波高き太平洋をわたってニューヨーク特派員として赴任するや、彼もまた一足さきにロンドンより着任したばかりで、ニューヨークのタイムス・スクェア近くのホテルに同宿することになり、日米開戦の日まで長い間、朝夕いつも顔をあわせて、軍国日本の動向と、昭和動乱の行方を心配しながら、たがいに愁眉をよせあう間柄であった。さて、英人記者チルトマン氏の二・二六事件報告記の要点をつぎに紹介しよう。まず、彼の当時の日本観はつぎの通りで、よく日本の実力と、その目標を鋭く洞察していた。
「 極東――それは、歴史の終局の場であり、いまや移り変わりつつある。日本はもはや島国ではなくて、大陸国家である。日本軍の手により満州、蒙古、北支において中国領土を約百万平方マイルも奪取したことは、アジアの現状を打破してしまった。しかも、それは現代の歴史上の重大事件の一つとなってしかるべきものであろう 」
「 今日、日本の国境はソ連との国境にまで進出している。黒竜江とウスリー河の両河に沿って、また、蒙古の大草原をこえて、非公式の『戦争』が、日本=満州国とソ連=蒙古の両連合軍のあいだで、すでに過去二年間も戦われており、その死傷者数は絶えず増大している……。日本の新軍備拡張計画は、日本を六年以内にソ連のごとく強力にするよう企画されている。欧米の列強からの抗議に対して、日本の実際の支配者である軍国主義者たちは、“必然”という口実をもって返答し、また国内の穏健主義者からの忠告に対しては暗殺をもって回答しているのだ! 」
さすがに日本通の老練な英人記者は、当時、日本を支配していた軍国主義者の正体をよく見ぬいていた。そして、軍国日本を「太平洋の火薬庫」と呼び、また「極東の噴火山」にたとえていた。そのチルトマン記者が、昭和十一年二月、ちょうど、反乱事件の起こるわずか数日前にはるばる上海経由でロンドンからヒョッコリと入京して、常宿の日比谷の帝国ホテルに旅装をといたことは、まことに国際的ジャーナリストたる彼にとって好運であった。二月二十六日朝、軍隊反乱の報を聞くや、彼はすぐホテルの玄関から積雪の日比谷公園へとび出して、お濠端より警視庁方面へ急行し、反乱軍に占拠された桜田門一帯の実況を視察した。そしてひと通り取材をすませて、ホテルのロビーヘもどると、止宿中の外人連中にたいして、決起の趣旨をよく説明して、昭和維新が決して西洋流の革命にあらざることを強調し、「在留外人の保護には万全を期するから心配なし」と申し入れてきた皇道派の有力な革新的幕僚、満井佐吉中佐とロビーのテーブルをかこんで会談した。彼は外国新聞特派員として、まことに絶好のときに、絶好の場所にいあわせて、自由な立場よりこの歴史的な反乱事件を冷静に、公正に、報道したり批判することができた。ちょうど同じころに、私もまた、日本人記者として雪の東京市内を取材にとびまわってはいたが、すっかり緊張し、とても興奮してしまって、とうてい冷静な軍部批判などは思いもよらなかった。もっともそんなことを口に出したらい恐ろしい憲兵の眼がたちまち光って、ひどい目にあったことであろう。今日から回顧すると、いかにも不思議にみえるが、当時、日本中の新聞社と新聞記者が、すべて厳重な検閲と言論統制の下に、いわばはがいじめにされていたのに反して、在留外人記者たちはいずれも自由に思うままに取材し、打電していたものだ。要するに当時の日本では、軍部も政府も、国民大衆にはつごうの悪いことを、なるべく知らさぬために、厳重な記事掲載さしとめ政策を強行していたが、さすがに「言論の自由」の欧米諸国からきた外人記者連中までも取り締まることはできなかった。だから、二・二六事件の実相についても、外国にはすっかり筒抜けになりながら、知らないのはかえって日本人ばかり、というわけであった。 
十五

 

これまで述べた通り、二・二六事件の突発した朝より、四日目に反乱の鎮定した夕刻まで、この重大なニュースの報道にあたり、われわれ日本人記者はその見聞したことを当局発表以外、いっさい書くことも、発表することも厳禁されて、まったく新聞人として意気地なくも全国民を裏切ったようなものであった。当時の日本の新聞を拡げてみても、ただ大活字と大見出しで当局発表の官製ニュースがものものしく掲載されているばかりで、雪の朝の戦慄した市内風景や、市民の驚愕と反響などについては一行も報道されてはいない。ところが、チルトマン記者をはじめ外国新聞特派員は、その見聞した反乱ニュースをさかんに書きまくり、それぞれ海外へ向けて打電していた。それこそ新聞の本然の姿であり、また何ものも恐れぬ真実の追求こそ新聞記者の唯一の使命であったのである。残念ながら二・二六事件のような日本の運命を左右する重大事件にのぞんで、日本の新聞はまったく無力であり、私のような若くて元気な新聞記者もまた、軍部を恐れて意気地がなかったと思う。おそまきながら深く反省するしだいである。だが、チルトマン記者の「東京反乱」の現地報告は、今日あらためて読んでみても、じつになまなましくて、つぎの通り当時の模様を目前に見るように記録している点は、まったく敬服せざるをえない。
「 一九三六年(昭和十一年)二月二十六日朝五時十分ころをもって、とうとう日本の総理大臣は、もはや支払い金額の如何をとわず生命保険をかけることができなくなってしまった。(昭和七年の五・一五事件で犬養首相が暗殺されて以来、日本の首相は生命保険会社より加入を敬遠されてきたが、ついに二・二六事件で完全に忌避されたという寓意である)。この時刻に“死”が東京を打ったのだ―― それは全世界を目覚ますほど高らかに打ちのめした 」
「 その大雪の朝、東京は眠りよりさめると、東京そのものが、いわゆる、『ニュースの渦中にある』ことを発見した。日本軍の満州侵入以来、アジアから起こった最大のニュースがすぐ東京の鼻の先で突発したのであった。『これは軍事革命だ。岡田、高橋、おそらく斎藤など半打(ダース)の重臣が暗殺された!』と第一報は報じた 」
「 乱れとぶ流言から真実をふるいにかけてよりわけるには、若干のときを要するが、ただ一つの事実は、水晶のごとく明白であった。すなわち、夜半の間に、東京駐屯部隊の一部よりなる日本の軍隊が反乱を起こして、東京市のもっとも重要な地区を占拠したのだ。その地区の中には、宮城と政府官庁(ただし外務省をのぞく、同省は皮肉にも反乱軍から無視されたのだ!)と警視庁と東京逓信局と参謀本部その他、重要建物が包含されていた。そして海外電信も長距離電話も不通であった。東京は世界よりまったく隔絶されたのであった 」
「 この事態はクーデターのように見えた。ただ似ていたのみならず、その後におこった諸事件が証明したように、たしかにクーデターであった。この反乱は青年将校の一団の命令のもとに東京駐屯の第一師団の約一千五百名によって遂行され、少数の砲兵隊員に支援されたものであり、青年将校中の野中四郎大尉と安藤輝三大尉の両人が指揮官として行動した」「この『殺人部隊』は二月二十六日の真夜中すぎに機関銃、小銃、手榴弾で武装し、軍用トラックに分乗して兵営を抜けだした。それから二時間後に、彼らは宮城(したがって天皇もその中にいた!)を包含する市内の中心の戦略地点を首尾よく占拠したうえ、反撃に対して防衛態勢を固めようと布陣していた。これらの出来事は、世界第三の大都市で、日本帝国政府の所在地であり、また軍統帥部の各総司令部のある東京の心臓部で、最初の暗殺が決行される少なくとも四時間以前に起こったのであった 」
「 東京は能率の高い警察力と特高刑事隊をもつ大都会である。ところが奇怪千万にも、全東京中だれ一人として、すでに起こったこれらの出来事について、総理大臣の岡田啓介海軍大将に、もしくは他の閣僚たちに、緊急警告しようと企てたものさえいなかったようだ。かくて呪われた運命の人々は、いまだ暁の到来しないまえに、その寝床の中で、無残にも惨殺されるままに放任されていたのだ! 」
「 東京の中枢地区をすべて占拠したうえ、暗殺任務を担当した選抜隊は、『君側の奸臣たる自由主義分子を芟除(せんじょ=削除)するために』午前五時ごろには進撃した。しかし、この目的は平易な言葉でいいかえれば、『陸軍のアジア膨脹計画を支持しない重臣全部を皆殺しにする』ことであった。多分その槍玉にあかって死んだ最初の犠牲者は、老練な大蔵大臣高橋是清(これきよ)であったろう。反乱部隊は午前五時すこし過ぎに彼の家に乱入して、彼の寝室に押し入り、彼をめがけて拳銃を三回も発射した 」
「 日本財政界の偉大な老人は、『諸君はいったいなにをするのか?』と、反問した。この質問は殺人部隊を指揮する将校を激怒させたようだ。その将校はいきなり軍刀を抜き放ち高橋老を斬り倒し、ほとんどその右腕を切断した。かくして老人はそのままおきすてられ、数時間のうちに死んだのである 」
チルトマン記者の二・二六事件の現地報告は、さすが、長年にわたり全世界の動乱をかけめぐり、流血の革命騒ぎを見聞してきたベテランだけに、日本の新聞記者にはとうてい描けないような鋭いセンスと表現力を発揮している。そこで日本全国の新聞が、まるで唖のように黙殺していた反乱第一日の二月二十六日の東京市内の光景を、つぎのとおりなまなましく描いているのが注目される。
「 その二月二十六日の正午、私は町へ出て日本人の群衆にくわわった。そこには大勢の女や子供たちもまじっていた。いずれも吹雪まがいの粉雪が荒れ狂うのにもめげず、東京を占領した日本軍の珍しい光景を見物しようと、遠くから市内の中心へでかけてきたのであった。しかし、群衆の大きな行列は、みんな怒るでもなく悲しむでもなく無表情な顔つきをして、宮城地域のまわりに反乱軍が構築して守備する鉄条網のバリケードまえを、ぞくぞくと通り過ぎていった 」
「 また群衆は、警視庁とその近辺を占拠して守備していた、五百名の軍隊と二十五梃の檐関銃のまえに立ちどまって、珍しそうに見つめていた。彼らは政府官庁の建物の前を、ゾロゾロと過ぎて行ったが、交通のほとんど途絶した道路の中央に、まるで銃剣をもった雪人形のごとく立ちはだかった反乱軍の兵士たちに、立ちどまらないで、歩くよう押されていた。また彼らは、反乱軍の大半が所属した歩兵第三連隊の兵舎の門前で、軍用トラックから重い大きな弾薬箱がたくさん積みおろされて、門内へ搬入されるのを眺めていた 」
「 私の見たところでは、三マイルたらずのみちのりに沿って、数万の見物人が列をつくって集まっていたにちがいない。その全部の人々は、厳重な検閲と軍発表の詳報がまったく欠けていたにもかかわらず、『どうか立ち止まらないで下さい』とどなっていた兵隊たちが、ほんの数時間まえに、八十二歳の高橋蔵相をふくめて日本の有する偉大な公僕(パブリックサーバント)の多数を暗殺した凶行に関与したことを知っていた。この高橋老に国民大衆からよせられていた人気は大変なもので、私はつぎのような光景を数日前に総選挙運動中の大阪で目撃したばかりであった。それは『右翼』のある候補者が高橋の政策を思いきって攻撃したところが、演説会場の全聴衆が憤慨して、一人のこらず立ち去ったのであった 」
「 それでいながら、この反乱の日の群衆の中に、私はすこしでも感情を顔にあらわした人を見かけることはなかった。これらの東京市民は、みんな完全に沈黙して、完全な秩序を守りながら、ゾロゾロと不可解な無表情のまま、この『革命』を視察していた。その中の多数は、会社から早退した会社員であった。それはこの当日、東京市内の会社は休業していたからであった。そして彼らはこの『革命』なるものを自分の眼で見物すると、いそいで市内電車か乗合バスに乗ってしずかに帰宅していった。それで東京の中心は人通りも絶えて、一面の雪と反乱軍兵士と、その『尊皇討奸』の思想に独占されたのであった 」
「 この二月二十六日の夕暮れちかく、湿ったボタ雪が降りつづいて、道路上に立哨した反乱軍と政府軍の双方の兵士の頭上に公平に白く積もっていた。私は宮城に接近した東京の心臓部の一角に立って、現代史上で珍しい光景を見つめていた。私のすぐ後方には、宮城へ通ずる道路を守備する反乱軍の一隊が、機関銃を鉄条網のバリケードのそばに立てて黙々と立っていた。彼らは日本流に銃剣をつけた小銃を脇の下にかかえていた。それは多分、二百名くらいの部隊であったろうが、いずれも厳重に武装して東京の大動脈を支配していたのだ。そしてその近辺には、もっと多数の部隊と、若干の砲兵部隊もかくれていたといわれる。彼らの機関銃は豊富な弾薬を供給されていたので、恐るべき殺戮の十字火をもって、その辺一帯を掃射することができたであろう 」
「 突如、東京中央駅の方角より軍隊の行進してくる軍靴の音がひびいてきた。すると軍隊の一部隊があらわれた。それは一隊また一隊とぞくぞく現われ、雪まみれの軍帽と長外套を着用し、雪の泥道のぬかるみをはね返しながら勇ましく行進していた。その兵士の一部は機関銃を携行しており、また他の兵士は多量の弾薬箱をはこんでいた。これは東京警備司令官香椎中将が反乱軍を『掃蕩する』ために急遂、呼集した政府軍の中の、兵力数千の先遣部隊であった。この先遣部隊の先鋒隊が、最初の反乱軍の前哨陣地の前面にさしかかったとき、そのときこそまさに強烈な劇的な瞬間であった。ただ一本の舗道が、この相反する両兵力をへだてているばかり。それは一瞬にして流血の海と化するのだ。もしもこの瞬間に、だれか一人の兵士が小銃をぶっ放したならば、たちまち血なまぐさい修羅場と化したことであろう。世界中のほとんどすべての他の国々では、このような、いわゆる『政府軍』の行進は、流血の悲劇に終ったことであろう! 」
「 この光景を目撃していたごく少数の外国人は、香椎司令官が危険を賭してとった措置を知ったとき、思わず呼吸をとめて緊張した。だが、外人記者たちは気をもむ必要がなかったのだ。香椎将軍は日本人をよく知り、とくに日本の軍隊をよく知っていた。しかも、彼はなによりも、反乱軍がいわゆる『君側の奸臣』を手当たりしだいに殺害した後で、いまや彼らが引き起こした混乱の中より脱け出る道を探し求めていることも承知していた。しかも、日本軍の戦友愛は、まったく英国軍の戦友愛のように、固いものである 」
「 この反乱軍も政府軍も、その下士官兵はいずれも同じ型の貧しい農村の家庭の出身であった。その両者とも、同一の強烈な国家主義精神を鼓吹されていた。また、両者とも武士道をわきまえて、それを実行していた。この武士道とは、だれかがすでに述べていたように、『従容として死ぬ術』を守りぬく信条である 」
「 かくて、東京の中心を占拠していたカーキ色の制服を着た武士は、実弾をこめた小銃を手にしたまま、いそいで構築したバリケードの後方で黙々と身動きもせず立ちつくしていた一方、その相手のいわゆる『敵軍』の部隊は、近代戦のあらゆる武装を完備して行進をつづけていった。そしてこの政府軍の各部隊は東京市内の警備のため、またもしも必要あらば革命を粉砕するため、指定された地点に陣どった 」
このように、雪の日の大反乱をじっと見つめていたチルトマン記者のなまなましい描写と鋭利な洞察は、二・二六事件の真相をいち早く全世界へ興味ふかく報道した。さすがに長年の敏腕な特派員生活を通じて世界中の動乱や革命を目撃してきた彼は、反乱の第一夜、反乱軍と政府軍の衝突の危険をいちばん重視して、吹雪に暮れゆく町角に立って、大きな「歴史の鼓動と戦慄」をひしひしと感じていたのだろう。しかし、皇軍は決してあい撃つことがなかった。その理由を、日本通のチルトマン記者は、外国人のだれよりも十分によく理解していたようである。
「 それから、ぞくぞくとやってくる政府軍の行進は、一回か二回ばかり、反乱軍の立哨によってさしとめられたが、別に何事も起こらなかった。政府軍の兵士の一部は、反乱軍の陣地に接近していたので、会話をかわしていた。また煙草をたがいに分けあい交換するものもいた。両軍の半打(ダース)ばかりの兵士は、たがいに二ヤード以内で向かいあって、立哨しながら話し合っていた。それは、私のすぐそばであったので、私は彼らの顔をよく見つめた。それは絶対に無表情であった。私に限らずだれでもその場に居合わせたものが言えたことは、この反乱軍と政府軍の双方の兵士たちが、まるで何事も起こらなかった平常の一日のように、この反乱の日をむかえているように見えたのであった!なにか異常な大事件が起こったのを信ずることは不可能だった 」
「 もしも、この道路一面を殺戮の銃火で掃射できるようにかまえた反乱軍の機関銃座がなかったならば、また積雪の中に立てた反対側の機関銃座もなく、しかも反乱軍を威嚇しないようにわざと狙いをそらせた銃口さえ見えなかったならば、この光景はなにか軍隊の儀礼行進の後始末のようなものに見えたことであろう。そこには完全に非現実な雰囲気がただよっていた。それとも、反乱軍はすでに疲れていたのであろうか? あるいは、また、彼らはもはや唯一の終末しかあり得ないことを悟っていたのであろうか? おそらく、これらの説明のうちどれよりも重要な理由は、日本の軍隊固有の紀律と訓練のしからしめたものであろう 」
合理的な考え方を重んずる青い眼の外人記者には、昭和維新の奇怪な反乱がこう映ったのだ。結局、反乱の第一夜で日本の革命は失敗したことを彼は直感した。しかし、二・二六事件の犠牲者の屍をのりこえて、軍国日本は中国大陸へ、南方へ、北方へ、あくまで進軍することを彼は予言していた。
「 ――かくてつぎの事実は、いまや一点の疑問の余地がなくなった。それは斎藤実子爵や高橋是清氏や野中四郎大尉が同様に死んで埋葬されたのではあるが、しかし、進軍をつづけてゆくのは野中大尉の魂である! 」
私の親友である英国著名の日本通の新聞記者チルトマン氏は、二・二六事件の現地報告「日本軍、東京を占領す」の終わりをこの言葉で結んでいた。今日より読み返してみて、まことに先見の明のある警句であったと思う。  
十六

 

雪の朝の皇軍反乱として全世界を驚かせ、また、重臣の大量殺傷で日本全土を衝動した二・二六事件が昭和十一年二月二十六日未明に勃発してから、すでに二十五年が過ぎた。まったく歳月は水の流れるごとく早くすぎ去るものであるが、一方、また古今東西を通じて歴史がくりかえすものであることは、だれでも異様におそろしく感ずるであろう。なぜならば、二・二六事件後約二十五年たった昭和三十五年十月、社会党委員長浅沼稲次郎氏を脇差(わきざ)しで一撃の下に刺殺した十七歳の狂信的少年刺客山口二矢(おとや)は、二十日後に東京練馬の少年鑑別所の独房内で、「七生報国、天皇陛下万歳」と壁に書き残して首つり自殺をとげたが、彼の受国精神は、皮肉にも二十五年前の雪の朝に反乱を起こした青年将校たちの憂国精神と、一脈相通ずるものがあるからだ。たとえ左翼偏向の大新聞や、興味本位のマスコミが、いくら少年刺客の行動を抹殺しようとつとめても、彼の精神と行動は、日本独特の天皇制国家主義者の各団体によって広く是認され、また強く支持されて、十二月に盛大な追悼会まで開催された事実を、決して黙殺するわけにはゆかぬ。よかれ悪しかれ、日本に天皇制のつづくかぎり、この事件は決して忘れられないであろう。私は浅沼暗殺事件と、山口自決事件とを表裏一体のものとして、昭和三十五年度の日本の十大ニュースの上位をしめるものであると信じていた。それは、私の二・二六事件の調査、研究がすでに明らかにしたとおり、「尊皇絶対」を信じて行動しながら、不覚にも、天皇自身に見棄てられて大量処刑された青年将校の、いまだに浮かばれぬ亡霊が、今日の民主日本に黒い影をひいて、いまなおさまよっているからである。(前述) 彼らは――二十五年前の決起青年将校も山口少年も同様に、日本固有の絶対天皇制の理想政治と理想社会をつねに夢に描いて、いわゆる「天皇親政」の「維新」という名の革命を悲願としていたのだ。その原因はもちろん複雑ではあるが、なによりも、まず第一に彼らを刺激し、悲憤慷慨させ、決起させた要因はつぎの五点に要約されるであろう。
「 一、政党政治の腐敗と官僚の堕落
二、重臣と財閥の結託、不正
三、特権階級の専横
四、農村の疲弊と大衆の貧困
五、軍縮と米英追従外交   」
また一方、日本とはまったく国情も民族精神も異なるアフリカの黒人帝国エチオピアでも、この年(昭和三十五年)の十二月に三千年の歴史をゆるがして、ハイレ・セラシエ皇帝の追放と庶(しょ)政一新をめざすクーデターが親衛隊の青年将校連中の手で企てられた。エチオピア国民にとっては幸か不幸か、それはひとまず失敗に終ったけれども、反乱を起こした青年将校の決起理由として、皮肉にも日本の二・二六事件の決起青年将校と共通したつぎの原因が挙げられていたのは注目すべきことだった。
「 一、大衆の貧困
二、特権階級(皇族、僧侶、金持、大地主)の独裁、専横
三、支配階級(宮廷、重臣、政治家、官僚)の腐敗   」
もちろん、日本の天皇制とエチオピアの皇帝制とを同列に比較することはできない。が、しかし、国民大衆の望んでいる理想的な社会建設を夢みて、現状打破の直接行動に決起した青年将校の気概と悲願には、時代も国境もこえて、なにか大きな共通点があるように思われる。また、山口少年の場合でも、二・二六事件は彼にとっていまだこの世に生まれてこない遠い昔の出来事ではあるが、しかし、不可思議にも敗戦後の自由享楽のロカビリー時代に生きる、彼の異常な愛国精神は、「尊皇討奸」の旗印の下に決起したいまは亡き青年将校の熱狂的な憂国精神を再現したのだ! それは時代をこえて同じ児島高徳(こじまたかのり)や、吉田松陰の天皇中心主義に培われたものである。今日の民主日本に右翼革命や軍隊反乱の危険はあまりなさそうであるが、さりとて決起した青年将校たちが、夢に描いたような昭和維新の理想日本は、いまだになに一つ実現されてはいないのだ! われわれ日本国民は、戦前と戦中と戦後の各世代をとわず、二・二六事件の全貌と真相を、あらためて認識し再検討して、その血みどろな教訓を正直にくみとることを恐れてはなるまい。二十世紀の後半の現代にて、国王や大統筒が高級車を乗りまわしながら、民衆が貧しくハダシで暮らしているような矛盾した国では遅かれ早かれ、また左翼か右翼かをとわず、革命とクーデターは必至であろう。  
十七

 

さて、二・二六事件が昭和動乱のクライマックスであるならば、それより五年前の奇怪な三月事件と十月事件は、まさに二・二六事件の導火線ともいえるだろう。この軍部中心の二つのクーデター陰謀事件は、戦後の今日でこそ、一般に知れわたってはいるが、昭和六年の事件当時はもちろんのこと、戦前も戦中も長年の間、終始一貫して厳秘に付せられていた。なぜならば、それは上は軍閥を牛耳(ぎゅうじ)る老将軍たちから、下は陸大出のいわゆる天保銭(てんぽせん)組(陸大卒業の楕円形の記章が天保年代に徳川幕府の作った銅銭に似ていることに由来す)の秀才少壮幕僚(佐官級)まで参加して、武力発動により政党政府を打倒し、戒厳令下に軍部政権を樹立して、いわゆる「天皇親政」の実現を企てたものであったから、その後の非常時色の時代相と世論の高揚の手前、軍部としてもはなはだ都合が悪く、面目上より、闇から闇へと葬り去って、「そんなことは軍を誹謗するデマだ」と空トボけて頬被(ほおかぶ)りしていたからだ。当時は早耳の新聞社情報通でさえ、事件については、いわゆる怪文書によって推察するほかはなかった。それが日本国民の前に正々堂々と公表され、はじめて自由に事件の真相を討議されるようになったのは、敗戦後の昭和二十一年四月より二年有半、世界注目の中に、東京で開廷された極東国際軍事裁判の法廷であった。そしてこの東京裁判の判決(昭和二十三年十一月)によって、三月事件の正体はつぎのように明らかにされ、これまで久しくツンボ棧敷におかれていた天皇はじめ、国民大衆を驚かせたものであった。その後、旧軍人の手記などで三月事件も十月事件もいろいろと論議されたが、いずれも自己弁護か、あるいは派閥の相手方を非難する偏狭な言辞がめだち、この東京裁判の判決文の冷静、かつ客観的な批判にとうていおよぶものではない。 今日では、この判決文も入手困難であるから、読者諸君の参考のためにつぎに原文を引用、紹介しよう。
「 一九三一年(昭和六年)三月二十日を期して、軍事的クーデターを起こす計画が立てられた。この事件が、後に『三月事件』として知られるようになったものである。参謀本部による絶え間ない煽動と宣伝の流布(るふ)とは、その効果を挙げた。当時、軍事参議官であった岡田啓介男爵(海軍大将、元首相)が証言したように、陸軍が満州の占領を開始することは、単に時の問題であるというのが一般の人の考えであった 」
「 陸軍が満州に進出する前に、このような行動に対して好意を有する政府に政権を握らせることが必要であると考えられた。当時は浜口内閣が政権を握っていた。そして、総理大臣(浜口雄幸)の暗殺未遂事件(昭和五年十一月十四日、犯人は佐郷屋留雄)のために、『友好政策』の主唱者、すなわち外務大臣幣原が総理大臣代理をしていた 」
「 橋本(A級戦犯、橋本欣五郎陸軍大佐、終身禁固刑)の計画は、参謀次長であった二宮(二宮治重中将)と参謀本部第二部長であった建川(建川美次少将)とをふくめて、参謀本部の上官の承認をえたものであるが、それは議会に対する不満の意を表わす示威運動を始めることであった。この示威運動の中に警察と衝突が起こり、それが拡大して陸軍が戒厳令を布き、議会を解散し、政府を乗っ取ることを正当化するような混乱状態にまで達せさせることができようと期待されていた 」
「 小磯(当時、陸軍省軍務局長小磯国昭少将、のちに陸軍大将、戦時中に首相)、二宮、建川およびその他の者は、陸軍大臣宇垣(宇垣一成大将)を官邸に訪問し、この計画について宇垣と討議し、彼らの策謀のためには、宇垣はいつでも利用できる道具であるという印象をもって辞去した 」
「 大川博士(A級戦犯、大川周明博士、獄中で精神異状を呈し免訴釈放)は大衆示威運動に着手するよう指示された。小磯がその際に使用するために確保しておいた三百個の演習用爆弾を、橋本は大川にとどけた。これらの爆弾は群衆の間に驚愕と混乱をまき起こし、暴動のような外見を強くするために使用することになっていた 」
「 ところが、大川博士は熱心さのあまりに、陸軍大臣宇垣にあてで書簡をおくり、その中で宇垣大臣が大使命を負うことになる時期が目前にさしせまったとのべた。陸相はいまや陰謀の全貌を見てとった。彼はただちに小磯と橋本をよび、政府に対するこの革命を実行するために、陸軍を使用する今後のすべての計画を中止するように命令した。計画されていたクーデターは未然に阻止された。当時の内大臣秘書官長であった木戸(A級戦犯木戸幸一元内大臣、終身禁固刑)は、このことを宮中に知らせておくべきだと告げた友人によって、この陰謀のことを前もって十分に知らされていた 」
「 この『三月事件』は浜口内閣の倒壊をはやめ、この内閣につづいて一九三三年(昭和八年)四月十四日に若槻内閣が組織されたが、幣原(しではら)男爵が抱壊していた『友好政策』をとり除くことには成功しなかった。彼が総理大臣若槻の下に、外務大臣として留任したからである。朝鮮軍司令官を免ぜられ、軍事参議官になっていた南大将(A級戦犯、南次郎大将、終身禁錮刑)が陸軍大臣として選ばれた。陸軍の縮減を敢行し、また、『三月事件』に参加することを拒んだために、陸軍の支持を失った宇垣大将に代わって、南は陸軍大臣の地位に就いた。宇垣は陸軍を辞めて隠退した 」
要するに、この三月事件は軍部の枢要部が中心となり、軍部独裁をめざすクーデターを企てたもので、その関係者のリストをみると、当時の軍事課長永田鉄山大佐(のちに陸軍中将、昭和十年に軍務局長に在任中、相沢三郎中佐に斬殺さる)のごとき志操堅実の統制派の智謀まで参加していたことは注目される。結局、彼らは、政党政治の腐敗を口実に武力を使用して政府を倒し、天皇制軍事国家を建設しようと策動したのだ。しかし、一味にかつがれた当時の宇垣陸相自身が、にわかに変心して計画を裏切ったのか、それとも誠心誠意で反乱を未然に防止したのか、この点を戦後にも、明らかにせず他界してしまった。あるいは悲運の老将軍の心中に、なにか暗い影が秘められていたせいかもしれない。すると、同じ年の十月に、またもや軍部中心のクーデター(十月事件)が計画されたが未遂に終った。その主謀者は、三月事件の中心が、参謀本部の将軍級であったのに反して、佐官級のいわゆる幕僚ファッショ連中であり、その指導分子は、参謀本部支那課長重藤千秋大佐、同ロシア班長橋本欣五郎中佐(当時)、北支軍参謀長勇(ちょういさむ)大尉といった顔ぶれで、皇道派の重鎮、荒木貞夫中将(のちに陸軍大将、陸相、文相を兼任す、A級戦犯、終身禁錮刑)をかついで、軍事革命政権の首班にしていた。これについて、東京裁判の判決文は、つぎの通り鋭く論断している。
「 (日本政府が満州事変について)国際連盟とアメリカ合衆国に与えたこれらの誓約(「日本政府が満州においてなんらの領土的意図をも抱くものでないことは、あえてくり返す必要がないであろう」)は、内閣(第二次若槻内閣、幣原外相)と陸軍との間には、満州における共通の政策について、意見の一致がなかったということを示した。この意見の相違がいわゆる『十月事件』を引き起こした。これは政府を転覆するクーデターを組織し、政党制度を破壊し、陸軍による満州の占領と開発の計画を支持するような新政府を立てようとする参謀本部のある将校たちと、その共鳴者との企てであった。この陰謀は桜会(急進派の犒本欣五郎中佐を中心に昭和五年九月に結成された国家改造をめざす革新将校一味の団体)を中心としていた。その計画は政府首脳者を暗殺することによって、『思想的と政治的の雰囲気を廓清(かくせい=粛清)する』ことにあった。橋本がこの一団の指導者であり、陰謀を実行するために必要な命令をあたえた 」
「 橋本は、荒木(当時、陸軍中将)を首班とする政府を樹立するために、一九三一年(昭和六年)十月の初旬に、自分がこの陰謀を最初に考え出したということを認めた。木戸がこの反乱計画のことをよく知っていた。彼の唯一の心配は、広汎(こうはん)な損害や犠牲を防止するために、混乱を局限する方法を見出すことにあったようである。しかし、根本(根本博中佐)という中佐は、警察にこの陰謀を通報し、陸軍大臣(南次郎大将)がその指導者の検挙を命じたので、この陰謀は挫かれた。南がこの反乱に反対したという理由で、白鳥(元駐伊大使白鳥敏夫、枢軸外交の提唱者、A級戦犯終身禁固刑)は彼を非難し、満州に新政権を立てるために迅速な行動をとることが必要であり、もし南がこの計画に暗黙の承認をあたえたならば、『満州問題』の解決を促進したであろうと断言した 」
記録によると、橋本中佐一味は同年十月十八日を期して若槻首相、幣原外相、牧野内府らの重臣、大官を暗殺した上、軍隊を出動させて政府と議会その他、要所を占領し、戒厳令下に新内閣を樹立する計画であった。そして宮中には東郷元帥を参内させて天皇の承認を得る一方、閑院宮(へいいんのみや)と西園寺公には急使を特派して、新興勢力に大命降下を奏上させる工作を企てた。彼らはみずからを新興勢力と称して、きわめて権勢欲が強く野心的であり、つぎのとおり新内閣の顔ぶれまで手まわしよく内定していた。 (この点は、名利を求めず、昭和維新の捨て石たらんと念願した純忠な二・二六事件の青年将校たちとは、まったく精神も理想もちがっていた)
首相兼陸相 荒木貞夫中将
内務大臣  橋本欣五郎中佐
外務大臣  建川美次少将
大蔵大臣  大川周明博士
警視総監  長勇少佐
海軍大臣  小林少将(中将として 霞ヶ浦に在る海軍航空隊司令)
これをみると、橋本中佐一派の計画したクーデター計画は、まるで日本でトルコやエジプトや中南米諸国なみの軍事革命を起こそうとしたものであり、しかも、一味は財界の一部より多額の軍用金を提供させて、連日連夜、築地の待合「金竜亭(きんりゅうてい)」その他の料亭に居つづけて酒と女にひたり、明治維新の志士を気どって大言壮語していたとつたえられている。まことに腐りはてた軍人魂の正体である。こんな邪心と野心と私心をもって国家改造とか昭和維新とかを論じながら、天皇制軍隊を革命の道具に使おうと企てた彼らこそ、じつに昭和日本の墓穴を軍人みずから掘ったものといえよう。 
十八

 

このような将軍中心の三月事件と、幕僚中心の十月事件の二つのクーデター計画を未然に探知して阻止しながら、軍首脳部は軍刑法の反乱予備罪を公正に適用して断乎、関係者を軍法会議に付して、徹底的に捜査、摘発するということをせず、処罰もせず、ただ、軍の体面上より軽い行政処分(転勤ならびに禁足処分)でごまかして、ひそかに闇から闇へ葬り去ったのであった。これがその後に来る五・一五事件(昭和七年)から二・二六事件(昭和十一年)にいたる一連の暗殺、反乱時代をまねいたのであった。しかも、軍部の手による国家革新のクーデターのタネをまいた将軍や、幕僚連中が、わずか数年後には、「統制」と「粛軍」の名の下に直情径行の青年将校(尉官級)の言動をおさえて、皮肉にも昭和維新の芽をつみとろうと努力したことが、かえって全国各地の青年将校たちの憤激を誘発した。とくに革命家北一輝の大著『日本改造法案大綱』に心酔、感激して、「重臣、財閥とともに内閣も君側の奸臣(かんしん)として仆(たお)すべし」と主張した急進派青年将校の指導者、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計の両人は、昭和十年四月に、「粛軍に関する意見書」と題する三月事件および十月事件の真相を暴露、追及した怪文書を各方面に頒布したため停職処分に付せられ、さらに同年八月、免官処分となった。それ以来、青年将校たちは統制派の軍主流をむしろ敵視して、昭和維新へ独走したわけだ。(前述)なぜ、三月事件と十月事件の中心人物たちが、わずか数年間のうちにクーデター壮画を放棄して、かえって重臣、財閥と手を結んで、高度国防国家の建設へ邁進したのであろうか? なぜ、青年将校たちの崇敬の的であった皇道派の大立者の真崎甚三郎大将が、軍主流の統制派よりにくまれて、冷(ひや)飯を食わされたのであろうか? それは、日本人固有の偏狭な島国根性がとくに軍人心理に強く作用していた点もあるが、最大の要因は、昭和六年九月十八日、奉天北郊の柳条溝(りゅうじょうこう)の爆音一発により満州事変が起こって、軍部のかねて計画していた日満一体化の大陰謀が着々と成功しつっあったため、軍主流の将軍も幕僚連中も、軍部の政治的発言権が飛躍的に増大し、巨大な軍事予算も思うままに獲得できるようになって、「わが世の春」を謳歌していたからであった。軍人もまた人間である以上、とくに野心満々たる将軍や出世コースをめざす幕僚たちは、新橋や赤坂の一流料亭で、政財界の有力者ならびに革新官僚グループと接触している間に、冒険的なクーデターや、空想的な国家改造計画を未練もなく棄てて、満蒙支の経営と国防充実に熱申するようになった。このような将軍や幕僚の変節は、純真で単純な青年将校一派をいっそう、痛憤させて、これらの軍上層部を「軍賊」と罵倒して憎悪させるようになった。それで、二・二六事件の首魁として銃殺刑を執行された磯部浅一元主計の獄中遺書をみると、決起将校たちは川島陸相にたいする要望事項の一つとして、「小磯国昭、建川美次、宇垣一成、南次郎などの将軍を逮捕すること」を決定していたし、さらにまた、磯部個人として作成した斬殺すべき軍人リストには、「林銑十郎、石原莞爾(かんじ)、片倉衷(ちゅう)、武藤章、根本博の五人の将軍と幕僚(いずれも統制派)」が記入されてあった。
また磯部は獄中より、尊敬する革命の先覚者北一輝と西田税両人(いずれも反乱罪首魁として死刑)の助命と冤罪(えんざい=無実の罪)について、再三、激烈な上申書を出しているが、その一節につぎのようにのべている。
「 北、西田両氏の思想は、わが国体顕現を本義とする高い改造思想であって、当時流行の左翼思想に対抗して毅然としているところが、愛国青年のもとめるものとピッタリと一致したのであります 」
「 要するに、青年将校の改造思想は、時世の刺激をうけて日本人本然の愛国魂が目をさましたところからでてきておるのであります。ですのに官憲は、北、西田の改造法案を弾圧禁止することにヤッ気になっています。これは大きな的(まと)はずれです。為政者が反省せず、時勢を立てかえずに北、西田を死刑にしたところで、どうして日本がおさまりますか? 」
「 北、西田を殺したら、将来、青年将校は再び尊皇討奸の剣をふるうことはないだろうと考えることは、ひどい錯誤です。青年将校と北、西田両氏との関係は、思想的には相通ずるものがありますけれども、命令、指揮の関係など断じてありません。ですから、青年将校の言動はことごとく愛国青年としての独自のものです。この関係を真に理解してもらいたいのです。北、西田が青年将校を手なづけて軍を攪乱するということを、陸軍では大きな声をしていいます。こんなベラ棒な話はありません 」
「 軍を攪乱したのは、軍閥ではありませんか。田中(田中義一大将)、山梨(山梨半造大将)、宇垣(宇垣一成大将)の時代に、陸軍はズタズタにされたのです。この状態に憤激して、これを立て直さんとしたのが青年将校と西田氏らです。永田鉄山(陸軍省軍務局長、相沢中佐に刺殺さる)が林(陸軍大臣林銑十郎大将)とともに、財閥に軍を売らんとし、重臣に軍を乱されんとしたから、粛軍の意見を発表したのです。真崎(教育総監真崎甚三郎大将)更迭の統帥権干犯問題は林、永田によってなされたのです 」
「 三月事件、十月事件などは、みな軍の中央部幕僚が、ときの軍首脳者と約束ずみで計画したのではありませんか。何をもって北、西田が軍を攪乱するといい、青年将校が軍の統制を乱すというのですか? 北、西田両氏と青年将校は、皇軍をして建軍の本義にかえらしめることに身命を賭している忠良の士ではありませんか! 」
「 昭和六年十月事件以来の軍部幕僚の一団のごとき『軍が戒厳令を布いて改造するのだ』『改造は中央部で計画実施するから青年将校は引っこんでおれ』『陛下が許されねば短刀を突きつけてでもいうことをきかせるのだ』などの言辞を、平然として吐く下劣不逞なる軍中央部の改造軍人と、北氏の思想とを比較してみたら、いずれが国体に容れるか、いずれが非(ひ)か是(ぜ)か、容易に理解できることです。軍が二月事件の公判を暗闇のなかに葬ろうとしているのは、北氏の正しき思想信念と青年将校の熱烈な愛国心とによって、従来、軍中央部で吐きつづけた不逞きわまる各種の放言と、国体に容れざる彼らの改造論をたたきつぶされるのが恐ろしいのが有力な理由であります。重ねて申します。北、西田両氏の思想は断じて正しいものであります 」
要するに、三月事件、十月事件から二・二六事件にいたる五年間のいたましい昭和動乱の傷あとを冷静にさぐってみると、私は天皇制の矛盾という大きな厚い壁にぶつかるのだ。すなわち、将軍も幕僚も青年将校も、すべて軍人勅諭によって天皇に直結し、天皇絶対の軍隊を構成しながら、みにくい派閥内争と、いわゆる下剋上(げこくじょう)の抗争をつづけ、いずれも「朕の股肱である」という特権意識の上にあぐらをかいて驕兵(きょうへい)のそしりをまぬがれなかった。しかも天皇自身の強い自由な発言権は、側近者と古い因習とによって「おそれ多い」という口実の下に封じられていたようだ。将軍も幕僚も青年将校も、めいめい相手を非難、攻撃しながら、それぞれ天皇をかついで、われこそ「天皇の寵児(ちょうじ)」たらんと忠臣ぶって言動していた。この天皇=将軍=幕僚=青年将校の奇々怪々な四角関係に思い切ってメスを入れないかぎりは、二・二六事件の複雑な秘密は永久に解けないであろう。しかも戦後に民主化されたとはいえ、二・二六事件のときと同じ天皇の下に、新しい軍隊たる自衛隊はすでにかなりの兵力を備えている。多数の“青年将校”たちはいったい、なにを考えているであろうか? 彼らは天皇制をどう思っているであろうか? また、今日の自衛隊の青年将校は二十五年前の天皇制軍隊の青年将校と、どこがちがっているのか? どこがちがっていないのか? 私は率直に訴えたい――天皇も政府も財界も官界も言論界も自衛隊も国民大衆も、どうか二・二六事件の真相を直視して、決して、腐い物にふたをすることかく、いったい、なにが誤っていたか、なにが正しかったか、当時の皇軍反乱のもろもろの教訓を、あらためて真剣に反省しようではないか! 我々の同胞と子孫とがふたたび同じような誤りを犯さないために――。 
十九

 

おそらく現代の国民の大半は、もはや二・二六事件などはるか遠い昔の軍国主義時代の日本のおぼろげな悪夢として忘れてしまったか、あるいは、いまではまったく関心のない昭和史上の軍人ファッショの狂気のさたとして、あっさりかたづけているのではなかろうか? もちろん、我々日本人にとっては、悪夢といえば太平洋戦争(開戦――敗戦――降伏――占領をふくめて)という大きな悪夢をだれでも覚えているはずであるから、これにくらべたら同じ悪夢といっても、二・二六事件のごときはいわば「茶碗の中の嵐」のようなものであり、しかも、それは直接に国民大衆とのつながりのない絶対天皇主義固有の独断的な軍人クーデターに終ったので、いまや二・二六事件が一般の国民大衆の間にもはや忘れられてしまっても別に怪しむにはおよばないであろう。しかし、二・二六事件は、そんなに現代の日本とは無関係であり、また今日の国民大衆より忘れられてよいものであろうか? 私のような戦史家の立場よりみると、二・二六事件こそ、まさに日本を破滅へみちびいた昭和動乱史上の、いわば呪いの墓標であり、またそれは、天皇制日本に永久に残された奇怪な傷痕でもある。さらにまた、二・二六事件の真相摘発と責任追及をゴマ化したがために、かえって天皇制の名の下に軍部と財閥の合作によって、軍国日本の戦争体制はいっそう強化され、無謀な太平洋戦争へ突入する破目におちいったともいえるだろう。私に率直にいわせるならば、二・二六事件は今日まで、本当はまだ未解決なのだ。その証拠には、戦中または戦後に育った世代が中学校や高校で学習した教科書には、いずれも二・二六事件の真実も意義も故意に省略されるか歪曲されて、いわば臭い物にふたをするように無視されている。また生徒が質問をしても、正確に答えられるような知識も関心も、今日の若い教官たちには欠けているようにみえる。それはいったい、なぜだろう? おそらく、二・二六事件こそ、日本に天皇制のつづく限りは、戦前と戦後を通じてつねに、天皇自身をはじめ歴代の為政者にとって、はなはだていさいの悪い、また都合の悪い不祥事であるために、いわば国民大衆の健忘症に便乗して故意に忘れさせられてきたように思われる。それはいいかえると、二・二六事件の真因を厳正無私の立場から追及、検討すると、どうしても天皇制のアイマイな本質、すなわち、その長所と短所をふくめた大きな矛盾を明らかにせねばならなくなるために、とうとう歴代の政府は事件そのものを闇から闇に葬りさり、国民大衆も真相を知らぬまま、いつとはなしに事件そのものを忘れてしまったのではなかろうか? では、なぜ二・二六事件の真因を明らかにすると、天皇制にとって都合が悪いのであろうか? それはまず第一に、天皇個人に傷がつく恐れがあるからだ。あの当時、武力決起した急進的な青年将校一派は、いずれも幼年学校、士官学校を通じて天皇制軍人教育によって徹底的に鍛えられた心身ともに百パーセントの愛国者であったから、その目的はその「決起趣意書」が明示していたように、あくまで天皇政治の理想的社会を実現するため「尊皇討奸」(いわゆる君側の奸臣を実力で排除すること)を決行して、日本的錦旗(きんき)革命と呼ばれた「昭和維新」を達成することであった。それはじつに決起青年将校たちの邪悪な野心のためではなくて、ただただ絶対天皇制の真価を広く日本民族のために顕現せんとする滅私奉公の尊皇精神の発露であった。したがって、重臣、財閥の腐敗と政党の堕落を憤怒して武力決起した青年将校一派の行動も理念も、結局は天皇制のもたらした悲劇であり、また行きすぎた天皇制軍人教育の生んだ奇型的忠義の実践をしめしたものだ。なぜ天皇は大元帥として、これらの純忠な青年将校たちと事前に親しく話しあい、無用の流血を阻止する決意を、もたなかったのであろうか? おそらく、気の弱い善意の天皇自身は「現状維持」になれて、血気さかんな青年将校連中よりも、保守的なおとなしい老人の重臣たちを頼りに思っていたのであろう。もしも天皇自身が、永田鉄山中将を白昼、陸軍省構内で「天誅!」と叫んで斬り殺した相沢三郎中佐の「尊皇絶対」の国粋精神に身ぶるいして、国家革新運動を内心、恐れて悪感情を抱いていたとしたならば、天皇こそじつに重臣、財閥、政党などいわゆる「腐敗、堕落した特権階級」の最大の味方であり、天皇親政を念願しながら、心外にも逆賊の汚名をさせられて刑死した青年将校たちの亡霊は永久にうかばれないであろう。私は決して二・二六事件の決起将校の行動を正当化したり、あるいは彼らの理念を光栄化したりするものではない。むしろ、彼らの言動と精神の深刻な矛盾を公正に検討することによって、この不祥事件の矛盾の禍根(かこん)が今日の日本にまだそのまま取り残されている点を明らかにしたいと望んでいるのだ。敗戦のおかげで日本の政治体制は独裁的な軍国主義と、神がかりの超国家主義から、自由、平和の民主主義へ百八十度の大転換をとげながら、天皇制にたいする日本人の国民心理の習性と惰性は、決して一朝一夕で変わるものではないことは最近の情勢からも明らかである。 
二十

 

さて、今度は二・二六事件の反乱軍、すなわち、決起将校一派のひきいた「昭和義軍」の正体と、その戦闘力について、私か入手した資料にもとづいて検討してみょう。それはいったい、どれくらいの兵力あるいは武力があったら、二・二六事件ぐらいの規模の反乱、ないしはクーデターが日本で実行できるであろうか――という今日の時点よりみた興味ある軍事的研究の題目であると思う。「決起趣意書」その他の文書にも明記されたとおり、決起将校たちはみずから「昭和義軍」または「維新義軍」と呼んで、大きな白布の幟(のぼり)に墨痕もあざやかに大書して幾旒も用意していた。それは彼らのつねに悲願としていた「昭和維新」を決行するための正義の軍隊を意味するものだった。わずか数人の年老いた元老、重臣を暗殺するためのみならば、彼らはそれほど多数の軍隊も武器も必要とはしなかったであろう。その場合には、おそらく五・一五事件(昭和七年)に参加した海軍、陸軍、民間各側をあわせてせいぜい三十名ぐらいの人数でことたりたであろう。しかしながら、彼らのめざす「昭和維新」の実現をみるまで、あくまで「尊皇討奸」を徹底的に断行するためには、まず、警官隊と憲兵部隊の干渉を制圧せねばならないし、また最悪の場合には、政府軍とも一戦をまじえるだけの戦闘力を保持する必要があった。彼らは天皇より「維新大詔」が渙発(公布)されるまでは、断乎として戦いぬかねばならなかったのである。それゆえ、彼ら決起部隊の武装と兵力は、つぎの通りきわめて強力なものであった。
「 一、首相官邸を襲撃して、岡田啓介首相殺害の任務を担当した栗原部隊(歩兵第一連隊)の兵力―― 指揮官=栗原安秀中尉、兵力約=三百名、武器=機関銃七、同実包二千数百発、軽機関銃四、小銃百数十挺、同実包一万数千発、拳銃二十、同実包二千数百発、発煙筒約三十、防毒面約百五十、このほかに梯子(はしご)などを携行す。
二、大蔵大臣私邸を襲撃して高橋是清蔵相を殺害、ならびに宮城坂下門を制圧する任務を担当した中橋部隊(近衛歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=中橋基明中尉、兵力=約百二十名、武器=軽機関銃四、小銃百、同実包千数百発、拳銃数挺、同実包百発、ほかに梯子などを携行す。
三、内大臣私邸を襲撃して、斎藤実内府殺害の任務を担当した坂井部隊(歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=坂井直中尉、兵力=約二百名、武器=機関銃四、軽機関銃八、各実包二千数百発、小銃約百三十梃、同実包約六千発、拳銃十数梃、同実包約五百発、発煙筒若干。
四、侍従長官邸を襲撃して鈴木貫太郎侍従長殺害の任務を担当した安藤部隊(歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=安藤輝三大尉、兵力=約二百名、武器9機関銃四、同実包約二千発、軽機関銃五、同実包千数百発、小銃約百三十衍、同実包約九千発、拳銃十数衍、同実包約五百発。
五、警視庁占拠の任務を担当した野中部隊(歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=野中四郎大尉、兵力=約五百名、武器=機関銃八、同実包約四千発、軽機関銃十数衍、同実包約一万発、小銃数百衍、同実包二万発、拳銃数十衍、同実包千数百発。
六、陸軍大臣官邸占拠の任務を担当した丹生部隊(歩兵第一連隊)の兵力―― 指揮官=丹生誠忠中尉、兵力=約百七十名、武器=機関銃二、同実包約一千発、軽機関銃四、小銃約百五十衍、同実包約一万発、拳銃十二衍、同実包約二百発。
七、朝日新聞社襲撃の任務を担当した栗原部隊(歩兵第一連隊)の兵力―― 指揮官=栗原安秀中尉、兵力=約五十名、武器=機関銃一、軽機関銃二、軍用自動車三台。
八、湯河原伊藤草旅館に牧野伸顕前内府を殺害する任務を担当した河野隊(軍人および民間人)の兵力―― 指揮官=河野寿大尉(所沢飛行学校)、兵力=下士官兵(歩兵第一連隊)二名、民間同志五名、武器=軽機関銃二、ほかに小銃、拳銃同実包各若干、日本刀数本(自動車二台に分乗して二月二十六日午前零時四十分に東京を出発、午前五時ごろに湯河原に到着) 」
以上が、二・二六事件を引きおこした空前の「昭和義軍」の正体であった。その強力な戦闘力は、重火器その他の大型兵器をまったく保有してはいなかったが、各部隊ともいずれも「昭和維新」の捨て石たらんと決意した、いわば筋金入りの青年将校――――たちに指揮された必死、必殺の特攻隊のようなものであったから、もしも政府軍との間に兵火を交えるような不幸な事態を生じたならば、おそらく徹底的に最後の一弾まで撃ちつくして壮烈に戦いぬいたことであろう。 
二十一

 

ところで、戦後になってはじめて明らかにされた反乱事件関係記録を仔細に検討してみると、当時の政府も軍首脳部も、また、軍長老連中も、ただ天皇の前では最敬礼して形式的に「恐懼(きょうく)にたえず」とあやまりながら、軍部内にみなぎっていた恐るべき下剋上の雰囲気を強力に取りしまる措置と実行には驚くほど欠けていた。むしろ、彼らは二・二六事件のような軍隊を利用した反乱、またはクーデターが近く起こるべきことをひそかに予想しながら、これを未然に防止するために、政府も軍部も一丸となって全力をあげて努力することをあえてしなかった。しかも外部にたいしては、軍の絶大なる威信をつねに強調して、わがもの顔に、あの狂信的な「国体明徴」の運動の推進力となっていた軍部自体が、その内部では将校と幕僚と青年将校の三者がバラバラにはなれて、たがいに「われこそ天皇の股肱である」とひとりよがりをして争っていたのであるから、まったく収拾がつかないのも当然であったろう。また一方、木戸日記などによると、天皇の軍部不信の念はそうとうに根強いものがあったようで、二・二六事件の第一日午前中に参内した川島陸相にたいして、天皇は、「今回のことは精神の如何を問わず、はなはだ不本意である。国体の精華を傷つけるものと認める」と手きびしい発言をしている。また同日記によれば、同夜参内した臨時総理大臣代理の後藤文夫内相に対して、天皇から、「すみやかに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復するまで職務に精励せよ」という言葉があったそうだ。しかし、二・二六事件は、決して一朝一夕にして起こったわけではない。それは昭和六年の三月事件と十月事件から、さらに昭和七年の五・一五事件から、ずっと引きつづいた軍部中心の国家革新運動の激流のごときものである。それがいわば昭和維新の系譜であり、その淵源(えんげん=根本)は遠く天才的革命家北一輝が大正八年に狂熱をこめて書きあげた『日本改造法案大綱』にあるとみられている。したがって、二・二六事件の大爆発が起こるまでには、長年にわたり奇怪きわまる怪文書が乱れ飛んで、国内はもちろん、満支方面の各部隊の少壮血気の青年将校たちの悲憤を駆りたてていたものだった。その一例として、つぎのような珍しい記録が残っている。これこそ昭和維新のムードをしめす有力な資料文献であると思う。しかし、このようなムードが肝心な天皇自身には全然、理解されていなかったのは皮肉千万であった。
陸軍士官学校卒業第四十五期生の間に送付された維新運動に関する不穏文書の要旨。 (昭和十年四月一日付、原文のまま)
「 「全国同期生諸兄に送るの書」
此度(このたび)次の如き意見の一致を見たるに就き全国同期生諸兄に御通知致す次第に御座候、希(ねがわ)くは諸兄同期生百四十名の意の存する処を熟読玩味せられ各衛戍(えいじゅ)地同期生は勿論、青年将校全般に普及徹底せられ、以て全国青年将校一体の維新運動を促進せられる様、切に希望する次第に御座候。
一 現在の国情に就きて――全面的に国体に違反す。吾人は明治維新の強化を断行せざるべからざるを痛感するものなり。
二 現在軍部内の情勢に就きて――軍部内にファッショ的勢力あり。彼の十一月二十日事件に於いて士官学校中隊長辻(政信)大尉が佐藤士官候補生を使嗾(しそう=けしかける)して青年将校の状況を偵察せしめて青年将校の間に何等かの計画あるかの如く捏造して告発したるは此のファッショ的精神の活動の証左なり。
三 時局に対する同期生並に青年将校各位の態度宣明(せんめい)。方針――吾人青年将校は国体顕現(けんげん)の為に剣を提げて立つ青年武士なり。下記のものは悉(ことごと)く国体反逆の存在にして、所謂「天皇機関説」と同列なり。
1 元老重臣等中心の国家支配―― 一木氏(喜徳郎博士)が天皇機関説の開祖なること。
2 議会中心主義、政党政治主義。
3 国民的協翼(きょうよく)を否認ぜる一党独裁主義。
4 唯物的、功利的、個人的なる経済思想に依る財閥の国家経済の壟断専恣(ろうだんせんし)、所謂資本主義経済。
5 官僚中心主義――特に軍部内に於ては幕僚中心主義、軍部幕僚一部間に潜在し常に暗躍さるる権勢奪取のクーデター、その下に対してなされたものが十一月二十日事件と称せられる皇軍一体主義破壊の密計なり、然してこの官僚主義独裁主義は必ず国家社会主義に堕落して恐るべき赤化(せっか)共産主義の前駆となる。
6 皇族内閣を提唱する改造断行請願運動。
7 国家社会主義、一国社会主義。
8 赤化共産主義。
これを要する吾人を以て見れば、国家の殆ど全部の存在が、何れも五十歩、百歩の国体反逆なり。今や美濃部博士の存在抹殺と其の旧書の焚却(ふんきゃく)とか国体明徴に非ず。それは実に末枝の一葉のみ。斯くして国体原理の具現(ぐげん)拡充を方針とする「皇道維新」以外に吾人と皇国との行うべき途なし。
処置――
1 先ず衛戍(えいじゅ=赴任)地又は学校毎に維新的団体を完成す。
2 在京同期生と各衛戍地との連絡を密にするため……。
3 唯に同期生に止らず青年将校団結のため……。
   四月一日 在京同期生    」
これらの急進的な青年将校一派のいわば旗印となった「尊皇討奸」の思想こそは、天皇制のワクの下に現状打破をめざす軍人反逆の時代精神であった。それは結局、天皇制の美名にかくれた右翼暴力革命ともいえるであろう。当時、このような軍人反逆の時代精神がいかに猛烈に流行していたか、つぎの記録は読者諸君に異常な興味をわきたたせるであろう。これを一読すると、二・二六事件の起こったことは格別に驚くにはあたらず、来るべきものが到来したといえるだろう。北満に駐屯中の青年将校有志が陸軍大臣に宛てた十一月事件に関する上申書。(原文のまま)
「 北満鎮護の任に服し内に外に皇軍の負える使命、殊に深大なるを体感す。
国体の正しき精神と形容とを皇軍自体の特有優秀なる組織の上に顕現することにより、凡有(あらゆる)反皇道的歪曲の照魔鏡たらしむる事実に之が帰結的念願たり。即ち畏(おそれおおい)けれども、陛下を頭首と仰ぐ上下一体の秩序と調和とを名実共に具象化して、以て不言(ふげん)の範を示す喫緊(きっきん)の急、之を措きて朔北(さくほく=大陸の辺境)の光明も延いて亦期すべからざらんとす。頃日(けいじつ)偶々(たまたま)十一月二十日事件なるものの生起を耳にす。而してその真相の、一部不純分子による作為的捏造(ねつぞう)たるを知るに及び、切歯痛憤止み難きを覚ゆ。更に従来、屡々(しばしば)なる犬糞的泥試合的中傷讒侮(ちゅうしょうざんぶ)、目的の為には手段を択ばず底(てい)の非武士的暗黒行為の実演者が是等(これら)権術の徒輩(とはい)たりしを知り、憐愍(れんびん)と憎悪とを超え正に活人剣(かつじんけん=正しい剣)一揮(き)して道義の峻崇(しゅんそう)堅持(けんじ)せらるべきを祈念す。蓋(けだ)し下剋上的乃至相剋的妄想を根底とせる此種(このしゅ)非違を寛仮(かんか、看過の誤りか?)するに於ては満天下の信望は国軍を去り、国軍は亦自らの毒素により、その死命を制せらるべく、而して又根本的に破邪(はじや)顕正(けんしょう)の肇国(ちょうこく=建国)的信念に汚点を印せらるべきを恐慄(きょうりつ)すればなり。不肖(ふしょう)等上記の念願に立ち急転直下して此怪聞(かいぶん)に直面するや勃然たる義憤如何ともすべからず。不肖等が護国の本分に基き茲(ここ)に天誅必加を決意す。即ち先ず司直(しちょく)の明断により正邪曲直の理法を明かにし明大義正人心の道開かるべきを天神地祇(てんしんちぎ)に拝跪し、絶対不可奪の志を貫徹せんとす。不肖等の尊信する顕要(けんよう)高邁(こうまい)なる先輩と純情赤誠の僚友とを陋劣(ろうれつ)卑穢(ひあい)なる奸手(かんしゅ)より救出するは誠に今日の要事なりと信ず。敢て微沈(びちん)を披瀝(ひれき)し謹みて御賢慮を希(こ)い奉(たてまつ)る。
   昭和十年三月十日   在北満 歩34中隊長、陸軍歩兵大尉。山田洋(以下略)  」
これはまた、いったいなんという神がかりの悪文であり、難解な迷文であろう! しかし、よくこの一言一句を検討してみると、それは当時の日本全国ならびに満支各地に駐在中の各部隊の急進的青年将校の間にまるで燎原(りょうげん)の火のごとく燃えあがりつつあった国家革新気運の恐るべき狂熱を反映したものであることがわかる。まさに切迫していた相沢中佐の永田軍務局長斬殺事件(昭和十年八月十二日)と皇軍反乱の二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)の前兆たる異常な昭和動乱的気圧をしめすものであった。 
二十二

 

私は二・二六事件に決起した青年将校たちの殺人行為を憎み、かつ悲しむけれども、しかし、彼らの純情と義憤と反逆の気持には深く同情を禁じ得ない。その一方、血気さかんな青年将校の行動力を利用して、軍部独裁の権勢を張り、あるいは厖大な軍事予算の獲得に成功して戦争準備に踊った将軍と幕僚連中の利己的な野心には烈しい怒りを感じた。そして、「尊皇絶対」の殉教的信念に燃えた青年将校たちを、いたずらに犬死にさせた不運な天皇とその側近の無為、無策に、ただもどかしさと失望を深く覚えるばかりである。それは要するに、真善美の理想をめぐる天皇国家の、夢と現実の間の永遠の矛盾を物語るなまなましい姿ではなかろうか? 私の手許には、国家革新の理想と情熱に挺身した青年将校たちの残した、いろいろな記録資料がある。それを今日の時点より読みなおしてみると、左翼と右翼、学生と軍人のちがいはあっても、正義感の強い青年大衆の現状打破の反逆精神には、不思議に一脈相通ずる熱気があるように思われてならない。
反乱軍首魁の安藤輝三大尉の街頭演説の要旨(昭和十一年二月二十八日午後十時半赤坂の料亭「幸楽」門前にて)
「 我々が諸君の前に発表せんとすることは、わずか一言にして尽くし得る。すなわち、我々も諸君も同じく日本臣民であるということである。我々の心情は一切を挙げて、陛下の下へということでなければならぬ。そもそも日本帝国には天皇は唯一人であらせられるはずである。しかるに何ぞ! 腐敗せる軍閥、堕落せる財閥、重臣らは、その地位を利用して、畏(おそれ)多くも上(かみ)天皇の大権干犯(かんぱん)を為し来っているではないか! なお言うならば、わが同胞が貴き血を流し骨を曝(さ)らして手に入れた満州は全土を挙げてこれら分子の喰(く)うところとなり終っているではないか! 我々はこれを知る。しかして諸君においても、同じくこれを知っているはずである。いまや我々は長きにわたる熟慮の結果、諸君らには為し得なかったところの腐敗分子の一斉除去を敢えてしとげたのである。我々はこれを喜ぶとともに、これにより諸君が為すべき仕事として幾重にもお願いすることは、我々同志が恐らくは為し得ずに残してゆくであろうところの新日本の建設である。しかして、やがて生まれ生ずる新しき日本の姿が、従来のそれと大差ないものであるならば、此度(このたび)の挙(きょ)は単なる暴動として漸次、世人の記憶から薄らいでゆくであろう。だが諸君らの力により、立派な日本が生まれ出るならば、我々の死は昭和維新の人柱(ひとばしら)として価値あるものたり得るのである。我々は諸君を信じ、我々に課せられたる任務とともに喜んで死んで行くものである。諸君! 我々は諸君が我々の死を踏み越えて、新日本の建設に進まれんことを希望するとともに、日本国民が一切を挙げて共同し、陛下の下に帰せられる日の一日も早きを祈って止まない次第である。   天皇陛下万歳三唱   」 
二十三

 

私は前述のように二・二六事件の真相を自由、公正な立場より、戦後あきらかにされた重要な資料と、私自身の貴重な体験とにもとづいて追及、検討しているが、まだまだ論じつくさぬ点がいろいろ多いので、すこし謎のベールをはいで、皇軍反乱事件の実相を忌憚(きたん)なく描いてみょうと思う。それは歴史の教訓を決して忘れないためである。これまでに私は、主として大量刑死した決起青年将校たちの烈々たる闘魂と切々たる悲願をくんで、なるべく当時の腐敗した政界と重苦しい社会的雰囲気を生かして反乱事件の核心をドキュメント本位に描いてきた。それは「尊皇討奸」を叫んでいっせい決起しながら、かえって天皇の信任厚い重臣を大量殺傷したために、気の弱い天皇の嘆きと不興を買い、逆賊叛徒として葬られた純忠血気の青年将校こそ、二・二六事件という国民的悲劇の主人公であるからだ。しかしながら、我々は決起目的の是非いかんにかかわらず、青年将校たちの犯した流血の惨事の犠牲者を弔うことを忘れてはなるまい。これらの重臣は、決起将校一味から「不義不忠」と呼ばれ、また「国体破壊の元凶」とののしられ、さらに「奸臣軍賊」と憎まれながらも、やはり天皇制を支持して明治憲法による議会政治の下に日本の発展に大いにつくしてきた人たちであった。さて、二・二六事件の血祭りに上げられた重臣たちの殺され方は、まことに残酷非情なものであった。私はいまここに、昭和十一年(一九三六年、日独防共協定調印、スペイン内乱勃発という重大な年だった)二月二十六日の早暁、反乱軍の軍刀と銃弾にたおれた老重臣の最期を明らかにして、その冥福を衷心より祈りたい。反乱軍の重臣襲撃の行動については、事件発生の五ヵ月後の昭和十一年七月七日午前二時、陸軍省発表(七月七日付全国新聞掲載)の軍法会議判決(同年七月五日判決言い渡し)ならびに理由概要によってはじめて全国民の前に明らかにされたが、しかし、その公表内容はなるべく国民に悪感情と反軍的影響をあたえないように、殺害の模様はほとんど省略されていた。しかし、戦後になってようやく入手された判決理由書全文の原文によると、重臣殺害の凶行場面はつぎの通り、慄然として目をおおうようなものすごいものであった。
「 〔斎藤内府の殺害〕 坂井直中尉(歩兵第三連隊)、高橋太郎少尉(同前)、麦屋清済少尉(同前)、安田優少尉(陸軍砲工学校)は、内大臣私邸を襲撃して斎藤実内府を殺害する任務を担当したが、その行動はつぎのごとくである。昭和十一年二月二十四日夜、坂井中尉は高橋少尉と麦屋少尉をともない、東京市四谷区仲町三丁目の斎藤私邸付近を偵察し、二十五日午後十一時ごろ、歩兵第三連隊第一中隊将校室において協議し、部隊を突入隊と警戒隊とにわかち、さらに突入隊はこれを表門、裏門の二隊にわけ、坂井、麦屋は表門、高橋、安田は裏門突入隊をそれぞれ指揮し、警戒隊は下士官をしてこれを指揮せしむることを決定した。ついで、第一中隊下士官の大部および第二中隊下士官の一部を集合せしめ、週番司令の命令とし、本件計画の概要をしめして、おのおのその任務を定め、二十六日午前二時ごろ、第一中隊全員に起床を命じ、出動準備をなし、第二中隊および配属をうけた機関銃隊の一部とともに、兵舎前に集合せしめたうえ、払暁を期して昭和維新断行に邁進する旨および計画目的等を告げ、下士官兵約二百名を指揮し、午前四時二十分ごろ、兵営を出発した。二十六日午前五時ごろ、斎藤私邸に到着して侵入、軽機関銃を発射して女中部屋の雨戸を破壊し、屋内に、闖入し、斎藤内府にたいし坂井、高橋、安田および林伍長は、拳銃をもって、兵一名は軽機関銃をもって各射撃して殺害した。そのさい、身をもって内府の危害を防がんとした妻女にたいし、あやまって、銃創を負わしめたうえ、午前五時十五分ごろに退去した。坂井、麦屋は主力を率いて、陸軍省付近にいたった。このようにして、七十七歳の老重臣は、全身にまるで蜂の巣のごとく四十数個所の弾創をうけて即死したが、これについて反乱の首魁の一人、村中孝次元大尉が、死刑執行前の獄中遺書の中で、つぎのようにこの残酷な殺し方を弁解しているのは注目される。やはり自責の念によるものであろう。「同時に内府の居所を発見した三将校が同時に拳銃を発射し、これに続行せる一下士官もまた発射し、さらに同下士官と同行せる軽機関銃手が、これにひきつづき連続発射したもので、勢いのおもむくところ蓋(けだ)し止むを得ざるものありしならん」 」
当時、八十二歳の高齢の高橋蔵相は、自由主義思想の持ち主として、また自由経済の擁護者として反乱軍から強く憎悪されていた。そのせいか、まるで白ヒゲの童顔の達磨さんのような風貌のこの老政治家は、決起将校たちの銃弾と軍刀によって、無抵抗のまま、もっとも残酷な殺し方をされた。全身に銃弾を撃ちこまれたうえ、まるで手足を斬りおとされた血達磨のようになって寝床の上で絶命した。当時、彼らは 「達磨に手足は不要なり!」と豪語していたと伝えられた。その殺害の模様は、公表されなかった判決理由原文によると、つぎの通りであった。
「 〔高橋蔵相の殺害〕 中橋基明中尉、中島莞爾少尉は大蔵大臣私邸を襲撃して高橋是清蔵相を殺害する任務を担当したが、その行動はつぎのごとくである。二月二十五日夜、中橋中尉は栗原安秀中尉より、襲撃用小銃実包一千四百四十発、拳銃三梃、同実包五十発を受領し、二十六日午前四時ごろ非常呼集を行ない、近衛歩兵第三連隊第七中隊下士官兵約百二十名を指揮し、明治神宮参拝と袮し、軽機関銃四挺、小銃百梃、同実包千数百発、拳銃数挺、同実包百発、ほかに梯子等を携行し、午前四時三十分ごろ兵営を出発し、途中で突入隊にたいして高橋是清襲撃に赴く旨を告げ、実包の分配および装填をなさしめ、赤坂区表町シャム国公使館付近において今泉義通少尉の率いる守衛隊控兵(第二小隊)を待機せしめ、中橋みずから突入隊(第一小隊)を率いて蔵相私邸に到着した。ついで邸前に軽機関銃を配置し、中橋は表門より、中島は東側の塀をのりこえて侵入し、内玄関の扉を破壊し、兵若干名を指揮して屋内に闖入(ちんにゅう)し、臥床中の蔵相にたいし中橋中尉は拳銃を発射、中島少尉は軍刀にて殺害、午前五時十五分ごろ同邸を退去し、中島は突入隊を指揮して首相官邸にいたった。  」
このように高橋蔵相の殺害方法が残忍であるという非難にたいして、前記の反乱首魁の村中孝次元大尉は、その獄中手記の中で、つぎのように青年将校たちの立場を弁護している。
「 高橋蔵相にたいしては、中橋中尉の拳銃発射とほとんど同時に中島少尉が軍刀をもって斬りつけしものにして、後に評判せられたるごとく、『達磨に手足は不要なり』というがごとき観念をもって軍刀をふるいたるものにあらざることは、打ち入りし者の真剣必死の心理に想到せばおのずから明らかなり 」
「 要するにこの三者(斎藤内府、陸軍教育総監渡辺鋺太郎大将、高橋蔵相を指す)とも、死屍に対して無用に射撃し、斬撃したるにあらず。数名の者がほとんど同時に射撃し斬撃したる結果、勢いの赴くところ、意外の創傷をあたえたるものにして、武道の未熟なりと評せらるは止むを得ざるも、故意に残忍酷薄なる所業をなせしに非ざること明瞭なり 」
また一方、侍従長鈴木貫太郎海軍大将は、いわゆる「君側の奸臣」の大物として、反乱軍の襲撃をこうむり、重傷をうけたが、幸運にも生命はとりとめた。
「 〔鈴木侍従長の殺害未遂〕 侍従長殺害の任務を担当した安藤輝三大尉の行動はつぎのごとくである。二月二十五日夜、安藤大尉は歩兵第三連隊第一大隊の週番司令服務中、週番士官坂井直中尉、鈴木金次郎少尉、清原康平少尉をあつめ、明早朝に昭和維新を断行するにつき非常呼集を実施する旨等を指示し、また連隊兵器委員助手新井軍曹をして、弾薬庫より機関銃実包約八千五百発、軽機関銃実包約一万五千発、小銃実包三万五千発、拳銃実包約二千五百発、代用発煙筒等若干を搬出して、出動各部隊にそれぞれ交付せしめた。さらに機関銃隊週番士官柳下良二中尉にたいし、機関銃十六分隊を編成し、二十六日午前三時までに野中部隊(警視庁襲撃部隊)に八個分隊、安藤部隊、坂井部隊に各四個分隊を配属すべき旨を指示した。ついで所属第六中隊下士官約十名にたいし、侍従長殺害を告げ、各分担任務をさだめた。二十六日午前三時ごろ、非常呼集を行ない、所属中隊および配属せしめた機関銃の一部とも、下士官兵約二百名を指揮し、午前三時三十分ごろ兵営を出発し、午前四時五十分ごろに麹町区三番町の侍従長官邸に到着、外部を警戒せしめるとともに、各一部を下士官に率いさせて表門と裏門より邸内に侵入、下士官などが鈴木侍従長を拳銃にて負傷せしめ、ついで入室した安藤大尉は侍従長にとどめを刺さんとしたが、妻子の懇請によりこれをやめて、午前五時三十分、退去し三宅坂付近にいたった。 」
かくして、鈴木侍従長は奇蹟的に命拾いをしたが、それから九年後に終戦内閣の首相として天皇の内命を奉じて、和平降伏の至難の大任を果たした鈴木老提督は、戦後まで生き残り、奇しくも遭難当時の模様を、みずから『鈴木貫太郎自伝』のなかで、つぎのように記録しているのは興味がふかい。
「 「二・二六事件の前触れのように、我々が感じたのは、昭和十年に九州大演習がありましたとき、流言があって、私たちが暗殺されたということが世の中に流布された。それから二・二六事件の十数日前くらいであったが、今度はなにか不穏な陰謀が陸軍青年将校の間に企てられ訓練をしており、それがよほど進んでいる、という噂を耳にしたことがある。なにか革新運動に障害のある大臣を片づけるんだというようないろいろの風説があり、本庄君(侍従武官長本庄繁陸軍大将)からも気をつけるようにという注意があった。二月二十五日夜は、アメリカのダルー大使から斎藤内大臣夫妻らと共に招待をうけて、午後十一時ごろに帰宅した。二十六日の朝四時ごろ、熟睡中に女中が私を起こして、『いま兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えてはいって来ました』と告げた。(中略) 私は、すぐ跳ね起きて、防御になるものを搜したが見当たらない。その中に大勢、闖入の気配が感ぜられたので、(中略)八畳の部屋に出て電灯をつけた。すると周囲からいちじに二、三十人の兵が入って来て銃剣でとりまいた。その中の一人が進んで出て簡単に『閣下ですか』と丁寧な言葉でいう。『そうだ』と答えて、『静かになさい、理由を聞かせてもらいたい』と言った。それでもみな黙っている。三度目に下士官らしいのが『もう時間がありませんから、撃ちます』と言うから、『それなら止むを得ませんからお撃ちなさい』と言うて、直立不動で立ったそのとたん撃たれた。私の倒れるのを見て、向こうは射撃を止めた。すると大勢の中から、『止(とど)め! 止め』と連呼する者がある。そこで下士官が私の前に座った。そのときに妻は数人の兵に銃剣とピストルを突きつけられていたが、『止めはどうかやめていただきたい』ということを言った。ちょうどそのときに、指揮官らしい大尉が入って来て、(中略)『止めは残酷だからやめろ』と命令した。そう言って指揮官は引きつづいて、『閣下に対し敬礼!』という号令を下した。そこにいた兵隊は全部、折り敷き、ひざまづいて捧げ銃をした。指揮官は、妻に行動の理由を述べ、安藤輝三とはっきりと答え、自分もこれから自決すると口外した。(中略) その後に脈が消えたが、自分が蘇生したのは、妻が懸命に霊気術と止血法をやってくれたのが成功したのかも知れません。  」
全身に銃弾を浴びて、瀕死の重傷で呼吸も絶えだえの、老重臣の血まみれの姿をまえにして、「敬礼!」の号令一下、反乱兵がいっせいに捧げ銃をした光景こそ、じつにショッキングな全世界に類例のない天皇制軍隊の反逆の姿であった。それがいわば「尊皇討奸」をめざす昭和維新の奇怪なあり方でもあった。こうして、この雪の朝の皇軍反乱――すなわち決起青年将校の唱えた「昭和義挙」により、斎藤内府と高橋蔵相のほかに、岡田啓介首相の身代わりとして首相官邸に同居中の義弟の松尾伝蔵予備海軍大佐と、皇道派からもっとも憎まれていた陸軍教育総監渡辺錠太郎大将とが、無残にも全身に銃弾を撃ち込まれて惨殺されたのである。これについて、さきに引用した反乱首魁の村中孝次元大尉が、その獄中遺書『続丹心録』の中で、つぎのとおり無理に弁明しているのは、やはり内心で一沫の良心の苛責を感じていた証拠ではなかろうか?
「 殺害方法が残忍酷薄にして、非武士的なりという非難あり。斎藤内府は四十数ヵ創を受け、渡辺大将は十数ヵ創を受けたりと言い、人をして凄惨の感に打たしむ。残忍といえば、すなわち残忍なり。ただし、一弾一刀を以て人の死命を制し得る武道の達人に非ざれば、むしろ巧妙を願わず、数弾を放ち、数刀を揮(ふる)うことをいとわず、完全に目的を達するを可とし、宋譲の仁は絶対に避くべきなり。余は一、二同志に向かい、必ず将校みずからが手を下し、下士官は自己の護衛および全般的警戒に任ぜしむべきこと、五・一五事件の山岸中尉のごとく『問答無用』にて射殺するを可とする旨を言いしことあり……  」
しかしながら、二・二六事件で凶弾にたおれた各重臣のいたましい犠牲について、軍の内部にも痛烈な自己批判の声が高まったのは当然である。ことに多数の反乱部隊をだした第一師団ではいたく狼狽して、師団長堀丈夫中将以下幹部は大いに自粛、謹慎し、麾下(きか)部隊の責任者を緊急召集して、つぎのとおり舞(まい)参謀長より決起将校を徹底的に非難する極秘の発言をおこなった。
「 第一師団参謀長舞伝男(まい・つたお)少将口演要旨
(前略)この事件は皇軍を盗用して大命に抗したるものにして、この間用捨することは一つもこれ無く、目下西田税、北一輝を調査中にして、彼らの思想は矯激にして純真なる将校が彼らと悪縁を結び判断を誤りて彼らに動かされたるものにして、かくの如きことは隊の青年将校にも示して疑惑なき如くせよ。師団においては事件直後における収拾、今後の建直しに努力しありて、これが真の御奉公にして決して責任を避けんとする意志なく、将兵一同昼夜心血を注ぎ努力しあること、このことが真の御奉公の道なりと信ず。反乱将校の態度は武士道に反し指断すべきもの多々あるを遺憾とす。たとえば、
1 大官を暗殺するに機関銃数十発を射撃して、これを斃(たお)し、血の気なくなりたる後、これに斬撃を加えたるものの如し。
2 大元帥陛下をはじめ奉り全国挙(こぞ)って憂愁に暮れある間に、反徒は飲酒銘酊醜態を演じありたり。
3 死すべき時来れるに一人の外、悉(ことごと)く自決するに至らざりき。事件の原因として、ようやく判明しつつある事項を挙げれば次の如し。
4 反軍幹部及び一味の思想は過激なる赤色団体の思想を、機関説に基く絶対尊皇の趣旨を以て擬装したる北一輝の社会改造法案及び順逆不二の法門に基くものにして、我国体と全然相容れざる不逞思想なり。尊皇絶対を口にするも内容は然らずして、如何にも残虐なる行為をなして、これを残虐と考えざる非道のものなり。
5 彼らが敵とせる財閥は、これを恐喝して資金を提供せしめたる事実あり。(原文のまま) 」 
二十四

 

さて、二・二六事件の舞台裏で踊った人々のなかで、いちばん注目された人物は、決起青年将校たちから最大の尊敬と信頼をあつめていた陸軍内部の皇道派の巨頭で前教育総監、軍事参議官真崎甚三郎大将であった。彼は葉隠れ武士の本場の佐賀県生まれ、陸軍士官学校第九期卒業、明治四十年に陸軍大学校を優等で出ていらい、かがやかしい経歴をたどって陸軍部内の長老の地位にあり、陸士第九期の同期生には、荒木貞夫大将、阿部信行大将、松井石根大将、本庄繁大将などがいて有力な勢力をつくっていた。彼が皇道派の巨頭として、全国の青年将校たちより「おやじ」として慈父のごとく敬愛されていたのは、彼の素朴で強烈な忠君愛国の熱情と、村夫子然たる態度によるものであり、また容易に妥協せぬ頑固な一徹者の気性のせいでもあったようだ。それだけに、彼には敵も多く、個性のつよい正直者といわれた反面、また腹黒い野心家とも誤解された。それで二・二六事件がおこったとき、戒厳令下で、もちろん新聞報道は厳禁されていたが、各新聞社の消息通の間では、はやくから事件の背後に黒幕の大物として真崎大将の姿が大きくクローズアップされていたものだ。それはなぜか? これにはいろいろ複雑な理由があったが、とくにだれの眼にもあきらかであったことは真崎大将が陸軍部内で、もっとも革新的な皇道派の巨頭として、二・二六事件の導火線ともいうべき統制派の第一人者、永田鉄山少将斬殺事件の犯人、相沢三郎中佐の軍法会議公判廷で、いかにも被告相沢中佐の行動を支持するがごとき同情的な態度をしめしたうえ、「軍の機密事項は天皇の勅許がなければ証言できない」と、大ミエをきり、軍法会議当局にたいして非協力というよりも、むしろ挑戦したからであった。それは波瀾万丈の相沢中佐公判の第十回目――昭和十一年二月二十五日午前、公開禁止の証人喚問の法廷における出来ごとであり、はたしてその翌日未明に、二・二六事件が突発したのである。すくなくとも彼は、「昭和維新」という名の大規模な軍隊反乱をかねてより内心で予想していたのではあるまいか? かれが相沢中佐に深く同情するのは当然であった。なぜならば、皇道派の中堅将校のなかでいちばん熱狂的な相沢中佐は、昭和十年七月十五日に、当時の教育総監真崎大将が、本人の意思に反して突然、罷免されたことを、永田軍務局長を中心とする統制派の陰謀によるものであり、これは「統帥権の干犯」であると信じこんで、単身、決起して、「天誅!」とさけんで永田局長を斬殺したからであった。すなわち、相沢中佐の決起した直接の原因は、真崎大将の教育総監罷免問題であり、それは後に二・二六事件の民間側首魁として死刑を宣告、執行された西田税の配布した「軍閥重臣の大逆不逞」と題する怪文書のなかでも、つぎのごとく誇大に強調されて、全国の皇道派青年将校たちを激怒させていたからだ。
「 教育総監更迭の背後には、重臣軍閥のおそるべき陰謀がある。軍閥の中心は永田軍務局長であり、林陸軍大臣はそのカイライである。かれらは統帥大権を干犯し、皇軍を私兵化した  」
また当時、十一月事件(士官学校事件とも呼ばれ、昭和九年十一月の在京青年将校および士官候補生の不穏計画をさすが、軍法会議で取り調べの結果、証拠不十分で不起訴となる)に連座して停職中の革新派の急先鋒、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計の両人もまた、真崎教育総監の罷免にいたく憤慨して、「教育総監更迭事情」というパンフレットを各方面に配布したため、いずれも昭和十年八月二日付で免官処分に付された。こんな調子で、真崎大将は血気さかんな青年将校たちのあいだで、国家革新運動の「偉大な犠牲」のごとくみなされて、当時、陸軍中央部を支配して粛軍方針をおしすすめていた統制派とまっこうから対立し、部内の派閥争いをますます激化させていた。しかも、相沢中佐公判をめぐる急進派の法廷闘争の台風の中心にあった真崎大将自身は、軍の長老として私情をはさまず、青年将校同志の軽挙妾動をいましめるべき立場にありながら、かえってかれらの過激な国家革新運動の火にアブラをそそぐような言動がめだった。かくて二・二六事件が突発するや、かれはあたかも待っていましたとばかりに軍服の正装に威儀をただしていちはやく、反乱部隊が包囲占拠中の麹町永田町の陸相官邸へ急行して、重臣暗殺をすませた決起将校一味にむかって、「とうとうやったか、おまえたちの心はよくわかっとる、よおくわかっとる」となぐさめたうえ、宮中に参内して、侍従武官長を通じて決起の趣旨を上奏し、いわゆる「維新大詔」の渙発を期待して軍政府樹立をめざす工作につとめたのであった。もしも二・二六事件が成功して昭和維新が実現していたら、絶対天皇制のもとに、真崎大将を首班とする国家革新的な色彩のつよい軍部独裁政権が出現したことであろう。 
二十五

 

私は当時、朝日新聞社会部の相沢中佐公判担当記者として、世田ヶ谷一丁目一六八番地の新築早々の真崎大将邸を再三たずねて、将軍とも数回会って、いろいろ意見を聞いたことがある。そのときに私がいちばんつよく印象づけられた点は、この陽焼けしたあから顔の質素な田舎の村長さんのような風采の老人が、急進的な国家革新派の軍人の巨頭とはどうしても思われなかったことだ。私はもっと眼光炯々(けいけい)とした熱弁の鬼将軍の風貌を想像していただけに、かえってかざらぬ口下手の真崎大将には好感がもてた。おなじ皇道派の重鎮として相たずさえていた荒木貞夫大将が、陸軍大臣として華やかなりしころ、ピンとはった得意のカイゼルヒゲと青白い顔で革新的な熱弁をふるっていた才子型の派手なようすとくらべると、真崎大将はじつに地味な鈍重な印象をあたえた。ところが、この人の好さそうな老将軍が、ひとたび教育総監更迭問題におよぶや、にわかに語調をかえ、満面に朱をそそいだように激情をしめしたので、私はおどろいた。それほど、彼はこの問題に怒り、こだわり、帝国軍人として面目をつぶされたことを無念に思っているようであった。そして、彼をこの要職より追放した統制派の陰謀者たちを心の奥底より憎悪し、呪詛しているようにみえた。なぜならば、これまで陸軍の永いしきたりとして、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官の人事は三長官の同意を要することになっていたにもかかわらず、昭和十年七月、統制派の林銑十郎陸相は、永田軍務局長の策謀に応じて部内の皇道派を粛清するため、閑院宮参謀総長をだきこんで、真崎大将の同意をうることなく、二対一の多数決で勝手に教育総監の更迭を断行、発令したことは天皇の統帥大権を干犯した大逆行為である――というのが真崎大将の憤怒の理由であった。しかも彼の後任には、統制派の大物の渡辺錠太郎大将(航空本部長、台湾軍司令官を歴任した政治色のない温厚な人物とみられていた)が任命されたことも、老将軍をいっそう痛憤させたようだ。「よくわかりましたが、もし三長官の同意を要することを無視したのならば、閣下は、なぜあくまで正々堂々と更迭問題について反対、抗議されなかったのですか?」と私は青年記者らしい熱意をこめて、思いきってたずねてみた。相手はさすがに胸中の激情をおさえるように、ふとい両腕を組んでしばし思案していたが、まるではき出すように、
「 あれは勅勘(ちょくかん=天皇からのとがめ)である。勅勘をこうむった以上、わしはなにもできん。残念ながら、わしの生きている間にこの勅勘をといて汚名をそそぐことはできないが、わしがけっして間達っていたいことと悪いことをしなかったことについては、わしの子孫に遺書を残して十分にあきらかにしておく覚悟である……  」
これは、いかにも実直が忠誠の古武士が、はからずも勅勘をこうむったため自己弁解の余地なく、無念至極ながら謹慎しているといった心境であった。要するに、かれは陸軍最高地位の一つである教育総監として、青年将校の訓育のみならず、重大時局にさいして帝国軍人の士気振興の重大責任をになう軍長老として、皇道精神の鼓吹(こすい)におおいに努力してきただけに、あくまで自分は正しいと信じていながら、天皇と直結する閑院宮参謀総長まで、彼の反対側にたった以上は、もはや理非曲直をあらそうことができず無念の涙をかみしめていたわけだ。しかし、かれもまた人間である以上は、とくに明治の建軍以来、軍部内では薩摩だ長州だ佐賀だと出身地や先輩、後輩をめぐる派閥感情が一般社会よりもはなはだ強く、職業軍人の通癖にたっていただけに、かれを敵視する統制派の陰謀によって、教育総監の栄位を追われたことをあきらめきれず、かれのもとに出入りする青年将校有志に、胸中の鬱憤をもらすことがしばしばあったようだ。一方、真崎大将に皇道精神の大先達のように心服し、慈父のように敬愛していた青年将校一派は、この問題をおおきくとりあげて、「統帥権干犯」という錦の御旗をおし立て、軍中央部の統制派へ「天誅」の大鉄槌をくだすために決起した。それで、正体のあいまいな「絶対天皇制」は、まるでフットボールのようにおなじ皇軍部内の皇道派と統制派のあいだの血みどろな争いに利用されたわけだ。かくて永田軍務局長は相沢中佐に暗殺され、また、渡辺新教育総監は二・二六事件の血祭りに上げられたのである。
かくて、真崎大将は二・二六事件の黒幕の重要人物として、ついに東京軍法会議に召喚、身がらを拘置された。そして、獄中にあること一年余、極秘のうちに厳重取り調べの結果、雪の朝の大反乱のかげにひそんだつぎのような諸事実が明白になった。
「 一、昭和十年十二月、対島勝雄中尉の来訪をうけたとき、真崎大将は、「教育総監更迭問題については自分はつくすべきところをつくしたのみならず、この更迭には妥協的態度に出ず、最後まで強硬に反対した。私は近来、そのすじより非常に圧迫をうけている。天皇機関説問題については、まじめに考慮する必要あり」と力説した。
二、同月二十四日ごろ、元一等主計磯部浅一および小川三郎大尉と自宅で面接したとき、真崎大将は興奮した態度で、「総監更迭につき相沢中佐は命までささげたが、自分はそこまではいかないが、最後まで強硬に反対した」と語り、また小川大尉が、「もし国体明徴問題と相沢公判がうまくはこばない場合は、流血も避けがたい」と述べると、かれは、「たしかにそのとおりだ、血をみることがあるかも知れぬ。しかし、自分がこういえば青年将校を煽動するようにみとめられるから、はなはだ困る」と意味深長に答えた。
三、同月二十八日ごろ、香田清貞大尉が来宅したとき、真崎大将は、「国対明徴問題にたいする青年将校の努力がまだ足らぬ」と非難した。また、相沢中佐の決起精神を称揚してふかく同情の意を表し、同中佐の公判には統帥権問題で証人に立つこと、教育総監渡辺大将が辞職すればつごうよく運ぶむねを説いた。
四、昭和十一年一月および二月に相沢中佐弁護人満井佐吉中佐と二回、自宅で会見したとき、真崎大将は教育総監更迭のいきさつと最後まで反対した内情を説いたうえ、同中佐から青年将校の革新運動の激化した状況をくわしく聴取した。
五、同年一月二十八日ごろ、磯部が来訪して、「教育総監問題であくまで努力するから、金千円か五百円の支出をねがいたい」と申し出たとき、真崎大将は、「よろしい、なんとか都合しよう」と約束した。
六、反乱当日の二月二十六日午前四時半ごろ、二・二六事件の民間側参謀格の亀川哲也が真崎大将の自宅をたずねて、「今朝、青年将校等が部隊をひきいて決起し、内閣総理大臣、内大臣等を襲撃するにつき、青年将校たちのため善処をねがいます。また、同人たちは、閣下が時局を収拾されるよう希望しているから自重されたい」とたのまれた。亀川はかねてから数回、大将宅をたずねて青年将校の不穏情勢を報告していた。
七、真崎大将は反乱事件の発生を了承し、夜の明けるころまで、その対策をひそかに熟考していたおりから、軟禁中の川島陸相より電話招致をうけて午前八時ごろ、陸相官邸に急行した。そこで、磯部、香田、村中より、決起の趣旨と行動概要をきき、その目的貫徹方を懇請されるや、「諸君の精神はよくわかっている、自分はこれよりその善後処置にとりかかる」と豪語して官邸を出て、午前十時、宮中に参内した。
八、真崎大将は参内後、侍従武官長室で川島陸相にたいし、「決起部隊はとうてい解散しないだろう。かくなるうえは詔勅の渙発をあおぐほかはない」と昭和維新の実現をつよく進言し、さらに、居あわせた荒木大将以下の軍事参議官たちにも同一趣旨の意見を強調した。
九、同日夜、真崎大将はふたたび陸相官邸におもむいて、決起将校側にたって斡旋努力中の満井中佐にむかい、「宮中に参内して種々努力したが、なかなか思うようにゆかないから、決起将校たちをよろしくなだめられたい」と告げた。
十、翌二十七日、決起将校一味が、大先輩格の職業的革命家北一輝とその愛弟子の西田税両人より、「人なし、勇将真崎あり、正義軍一任せよ」との霊告(北は法華経を狂信して霊感をうけていた)ありと電話指示をうけた結果、時局収拾を真崎大将に一任することに決して、軍事参議官一同に会見をもとめるや、大将は午後四時ごろに陸相官邸で軍事参議官の阿部信行、西義一両大将の立ち会いのうえ、決起将校十七、八名と会見して、「無条件でいっさいを一任せよ、誠心誠意努力する」と約束した。(軍法会議の判決理由書による) 」
以上の諸事実は、真崎大将がいかにも反乱を事前に通報されて、決起の趣旨を貫徹するために尽力したことをしめすもので有罪の見込みであったが、二・二六事件発生の一年半後の昭和十二年九月二十六日正午、意外にも陸軍省よりつぎのとおり無罪と発表された。
「 東京陸軍軍法会議においては、二・二六事件に関し『反乱者を利す』被害事件として起訴せられし真崎大将につき慎重審理中のところ、九月二十五日、無罪判決言い渡しありたり 」
この判決理由全文を検討してみると、真崎大将は取り調べにたいして終始一貫して、「決起将校とは関係なく、反乱事件には関知せず」と一身の潔白を主張したもようであり、彼を敬慕した皇道派の青年将校が、軍法会議の極刑判決によって大量銃殺された件についても、軍長老として部下を擁護するどころか、むしろかかわりあうことをおそれで見殺しにしたという感がふかい。それで真崎大将は、軍内外で信望を失墜してしまったようだ。とくに天皇からひどくきらわれて、ついに戦中も戦後も、「忘れられた老将軍」として陽の目をみず、彼のおそれた勅勘はとうとう死ぬまで解けなかった。つまり真崎大将は、長年にわたり陸軍部内で国体精神の宣揚と、皇室観念の涵養(かんよう)につとめて自他ともに皇道派の大立者をもって任じてきたが、かれを崇敬する急進的青年将校がしだいに独走して、特権階級の打倒と、国家革新を目的とする「昭和維新」の断行のために、ついに決起するや、彼はこれを敢然(かんぜん)と阻止せんとする勇断もなく、かえってこれに便乗する言動をしめした。しかも天皇の厳命により討伐令が下って、形勢逆転するや、たちまち反乱軍と手をきり、家にとじこもって一身の保全につとめた態度こそ、奇怪にも公明な皇道精神にそぐわないものだった。私の朝日新聞時代の親しい先輩で、陸軍通として有名な高宮太平君は、「真崎甚三郎はハラ黒い役者で、陰険な野心家であり、それは彼の眼のまわりの黒いくまがよくしめしていた。ただ純真な青年将校がだまされていたのだ」ときわめて手きびしく批評しているが、私は多少の面識があったこの老将軍に、むしろ好印象をおぼえている。かれもまた、天皇制という美名のもとに、「われひとり正しい」と信じて忠君愛国をはげみながら、歴史におどらされた不幸な日本軍人ではなかったろうか? ただ彼は、戦場ではなばなしく名誉の戦死をとげるかわりに、敗戦後、さびしくタタミの上で病死したのだった。 
二十六

 

永田軍務局長を、いわゆる「大逆不逞の軍賊」として、軍刀で斬り殺した相沢中佐の軍法会議に、特別弁護人として活躍した、当時、陸大教官満井佐吉中佐もまた、二・二六事件の舞台裏で暗躍したワキ役の花形であった。彼は、ドイツ在勤のあしかけ三年間(一九二九〜三二年)、ナチス・ドイツのすさまじい国家社会主義運動に共鳴して、隆々たる統制経済と軍備強化との姿を眼のあたりにして帰国したのだ。すると、日本の政党政治の腐敗と官吏の堕落と財閥の搾取が目にあまり、胸中の正義感が爆発した。たまたま北九州の三井経営の三池炭鉱に大争議がおこるや、ナチスじこみの満井中佐は、数万のまずしい炭鉱夫と家族を見ごろしにする資本家の横暴にいかり、大牟田市の市民大会に軍服のままとびいりして、三井財閥庸懲(ようちょう=こらしめ)をさけんで大熱弁をふるったうえ、みずから単身上京して日本橋の三井合名本社へ乗りこんだ。そして財閥の長老の池田成彬氏に面会、軍刀で床をたたきながら強談して善処を要求したのは、当時、すでに有名な話であった。この事件で、九州に熱血漢満井中佐あり、とばかり彼の雷名は、にわかに国家革新の運動上にクローズ・アップされた。そして昭和九年八月、陸大教官に転任して上京した後は、すでに国家革新運動の闘士になっていた。彼が相沢中佐の公判で、特別弁護人に選任されたのは、急進的な青年将校一派のあいだで、先輩格の彼の地位と熱弁と闘志が、たかく買われたために推薦されたからであった。私は当時、相沢事件の専任記者としてたずねたが、まず初対面でおどろいたことは、彼の軍人にはめずらしい滔々たる現状打破の熱弁と、頬骨が出てヒトラー流のチョビヒゲをはやした神経質な青白い顔にするどく光る異様な眼光であった。さて、ついに二・二六事件がおこるや、彼は率先して決起将校のために事態収拾に乗り出し、軍首脳部にたいして、「日本を救うためには青年将校の精神を生かして、これを機会に速やかに維新を実現せしめよ!」と強く進言して、二十八日に討伐の奉勅命令の下るまで連日、反乱軍のために奔走したのであった。かくて、反乱部隊の鎮定後、満井(みつい)中佐は事件の黒幕の有力人物として検挙され、「反乱者にたいして軍事上の利益をあたうる行為をした」という罪状により起訴され、東京陸軍軍法会議の公判に付された。皮肉にも彼は、一年まえに相沢中佐の弁護に立ち、重臣、財閥攻撃の熱弁をふるった法廷で、みずからがさばかれる身とかわったが、昭和十二年一月十八日に禁固三年の判決を言いわたされた。また、二・二六事件の突発のために中断されていた相沢中佐の永田中将殺害事件の審理は、判士(裁判官)を更迭したうえ、非公開のまま裁判のやりなおしを行ない、昭和十一年五月七日に死刑の判決が宣告された。これにたいして、相沢中佐は不服で高等軍法会議に上告したが棄却され、同年七月三日に代々木陸軍衛戍刑務所で銃殺された。それは二・二六事件の香田大尉以下、多数の決起将校の処刑の九日前であり、享年四十七歳だった。 
第七章 下剋上 / 宇垣内閣流産

 

昭和日本史上に奇怪な汚点を残した二・二六事件は、決起青年将校の大量銃殺と、事件参加者および関係者多数の検挙、処罰、さらに、上部責任者の引責、引退(陸軍の軍事参議官全員総辞職、予備役編入)とによって一応、片づげられた。そして、事件の責任をとった岡田内閣のあとをついで、広田弘毅前外相を首班とする新内閣が成立した。しかし、日本の軍部は、欧米の民主主義国の軍部のように政党出身の文官支配ではなくて、統帥権という絶対的な特権によって、大元帥たる天皇に直結していたから、軍部の横暴なり、越権なりを絶対に押さえる力は、事実上、天皇以外には政府にも政党にも世論にもなかった。しかも天皇自身は遠慮しがちで、すべて元老と重臣にまかせきりだった。それにつけこんで、軍部はのさばりだしたのだ。だからといって、財閥と手をむすんだ政党の腐敗と、汚職(当時は疑獄とよんで鉄道疑獄や勲章疑獄までおこって政府の大官連中が検挙された)事件の流行による政治家の堕落が、善良な国民の反感をあおり、とくに農村の不況と生活苦とあいまって、ますます軍部の独善的正義感を刺激した事実を見おとしてはなるまい。たしかに軍部をのさばらせたのは、政党の責任であった。そんな険悪な社会的雰囲気の中で、ひとにぎりの老練な政治家が生命の危険さえも覚悟して、議会の壇上で、軍部にたいして個人的な抗議をつづけていたことは注目すべき現象であった。その有名な実例は、二・二六事件の軍法会議判決もまだおわらない昭和十一年五月七日、第六十九議会の衆議院本会議でおこなわれた民政党の闘士斎藤隆夫代議士の大熱弁であった。彼は、事件後まだ二ヵ月半しかたたない当日、最高責任者たる陸相寺内寿一大将にたいして、軍人の政治活動の禁止と五・一五事件、および二・二六事件の責任と処断などについて、つぎの通りするどく追及した。
「 申すまでもなく、軍人の政治運動は上(かみ)御一人(ごいちにん)の趣旨に反し、国憲、国法の厳禁するところであります。かの有名な明治十五年一月四日、明治大帝が軍人に賜わりましたところのご勅諭(ちょくゆ)を拝しましても、軍人たるものは世論にまどわず、政治にかかわらず、ただただ一途におのれが本分たる忠節を守れと仰(おお)せだされている聖旨のあるところは、一見明瞭、なんら疑いをいれるべき余地はないのであります。帝国憲法の起草者でありますところの伊藤博文公は、その憲法義解において、『軍人ハ軍旗ノ下ニ在リテ軍法、軍令ヲ恪守(かくしゅ)シ専(もっぱら)ラ服従ヲ以テ第一義務トス……即(すなわ)チ現役軍人ハ集会結社シテ軍政マタハ政事ヲ論ズルコトヲ得ズ』とあります。また陸軍刑法、海軍刑法におきましても、軍人の政治運動は絶対にこれを禁じて、犯したるものについては三年以下の禁固をもってのぞんでいる……。もし軍人が政治運動にくわわることを許すとなりますると、政争の結果ついに武力に訴えて自己の主張を貫徹するにいたるのは自然の勢いでありまして、ことここにいたれば、立憲政治の破滅はいうにおよばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありますから、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。しかるにこれらの青年軍人は、天皇親政、皇室中心の政治というようなことをいうが、いったいどういう政治を行なわんとするのであるかというと、さっぱり分かっておらぬ。ただある者が今日の政党、財閥、支配階級は腐っているというと、一途にこれを信ずる。ロンドン条約は統帥権の干犯であるというと、一途にこれを信ずる。国家の危機目前に迫る、直接行動のほかなしといえば、一途にこれを信ずる。かくのごとくして、軍人教育をうけて忠君愛国の念にこりかたまっておりますところの直情径行(ちょくじょうけいこう)の青年が、一部の不平家、一部の陰謀家らの言論をそのままうのみにして、複雑なる国家社会に対する認識を誤りたることが、この事件(二・二六事件を指す)を惹起するにいたりたるところの大きな原因であったのである。それゆえに、青年軍人の思想はきわめて純真ではありますが、また同時に危険であります。禍(わざわい)のもとはすべてここから胚胎(はいたい)しているのでありますから、この思想を一洗するに非ざれば、将来の禍根を芟除(せんじょ)することはとうていできないと私は思います。陸軍大臣はこの点についてどういう考えを持っておられますか? 」
こんな調子で斎藤隆夫代議士は、陸軍当局が、三月事件、十月事件、五・一五事件の適切な処理をあやまったために、二・二六事件をまねいた点を非難し、また五・一五事件の海軍軍法会議で山本検察官が厳正な論告ののち、首魁(しゅかい)三名に死刑を求刑したところ、海軍部内外より猛烈な反対と圧迫をこうむり、身辺が危険となって、同検察官は憲兵の保護をうけ、家族一同は遠方に避難したという怪事実まで暴露したので議場は騒然となった。寺内陸相は、
「 ただいまの軍部に関しまするご質問、まことに熱誠適切なるご所論をうけたまわりまして、私はその論旨につきましては同感でございます 」
と表むきは低姿勢で答弁したものの、軍部の政党打倒の火に油をそそいだ結果となった。ことに政党の内部からさえ、「あんな演説をして軍部を怒らせたらとんでもない破目になるぞ」と目先のきく政治家連中も少なくなかった。それで、斎藤代議士は新聞界では大いに男前(おとこまえ)を上げたものの、民政党のなかではこの痛烈な演説がたたって、かえって孤立するようになった。(その後、天下の形勢は日一日と軍国主義の一色にぬりつぶされていったので、斎藤代議士の「自由の熱弁」も次第に影がうすくなっていった。そして軍部から徹底的にニラまれた彼は、それから四年後の昭和十五年三月に、衆議院での対華政策批判演説が問題化して、とうとう除名処分を決議され、議会より追放されてしまった)また翌年の昭和十二年一月二十一日、第七十議会で政友会の老闘士浜田国松氏は、政府ならびに軍部にたいする質疑としてつぎの通り追及した。
「 軍部は近年みずから誇称(こしょう)して、わが国政治の推進力はわれらにあり、乃公(だいこう)出でずんば蒼生(そうせい)を如何(いかん)せんの慨(がい)がある。五・一五事件しかり、二・二六事件しかり、軍部の一角よりときどき放送せらるる独裁政治意見しかり、議会制度調査会におげる陸相懇談会の経緯(いきさつ)しかり、満州協和会に関する関東軍司令官の声明書しかり。要するに、独裁強化の政治的イデオロギーは、つねにとうとうとして軍の底を流れ、ときに文武恪循(かくじゅん=行う)の提防を破壊せんとする危険あることは、国民のひとしく顰蹙(ひんしゅく)するところである 」
軍部は痛いところをつかれたので、寺内陸相はただちに反撃のため立ちあがり、
「 先刻来の浜田君の所説中に、軍人にたいしていささか侮辱するような言辞のあったのは遺憾である 」
と開きなおった。すると浜田代議士は、さすが政界に硬骨(とうこつ)で知られた老政治家だけに、黙ってひっこんではいなかった。すぐ再登壇すると、力のこもった声で陸相にむかい、
「 いやしくも国民の代表者である私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したというケンカをふっかけられてはあとへは退けませんぞ……  」
と逆襲した。 これにたいして、陸相もまた負けてたまるものかと立ちあがり、
「 侮辱するがごとく聞こえるところの言辞は、かえって浜田君のいわれる国民一致の精神を害するからご忠告申し上げる 」
とやった。これは五・一五事件いらい、つもりにつもった政党の軍部にたいするうっぷんをはきだしたもので、拍手と怒号が議場にわきたった。議員のなかにもひそかに軍部と手をにぎっていたものがあったから、浜田老代議士の熱弁をかえって、
「 時局をわきまえぬ旧体制の政治家の世迷言(よまよいごと) 」
のごとく野次(やじ)ったのだ。 それで同代議士もあとにひくわけにもいかず、満場騒然たるうちに三度、登壇してつぎのように大みえをきり、ついに軍部と正面衝突した。
「 速記録を調べて、僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君が割腹せよ! 」
これには寺内陸相も内心、ビックリしたらしいが、一応その場はおさまり、議会は質疑第一日を終えた。しかし、この浜田発言で軍部はカンカンに怒り、そのはねかえりは、たちまち広田内閣の屋台骨をゆさぶった。表面は柔和な顔つきで貴公子然たる寺内陸相も、陸軍省の鼻息の荒い幕僚連中から強くつきあげられて、「政党に反省の色なし、議会を解散すべし」と、強硬な申し入れを政府へすることになった。政府は議会の散会後、院内で緊急閣議をめぐり論争を重ねたが、結局、二日間の停会ののち、広田首相は軍部の強圧にたえかねて、一月二十三日、あえなくも総辞職を行なって軍門へくだったのでった。いずれきたるべき運命ではあったが、浜田発言は寺内陸相に挑戦しながら、かえって返り討ちにあったようなものだった。すでに当時の大新聞も世論も、錦の御旗を押したてた軍部の威圧と実力を恐れて、政党の没落を積極的に反対、もしくは抗議する気概もかけていたといえるだろう。明治いらいの古い福岡の右翼団体「玄洋社」の出身というので、外交官にはめずらしく右翼方面に評判のよかったはずの広田弘毅首相も、とうとう軍部の横車には勝てず、あっさり退陣したわけだ。それくらい、軍部のいわゆる「集団独裁力」は、もはや当時の日本を事実上、支配していたのである。 

 

そこで、天皇をめぐる元老、重臣たちは政局のなりゆきを心配して、このさいに軍部のわがままを押さえるためには、軍出身の長老を総理にすえることが肝要である、と常識的にかんがえた結果、大正の末と昭和のはじめに陸相を二回もつとめた軍人政治家として定評のある宇垣一成大将(予備役)に、一月二十五日、組閣の大命が降下した。宇垣大将は明治元年、岡山県の生まれで、陸軍士官学校の第一期卒業であり、明治三十三年に陸大を優等で出てから参謀本部第一部長、陸大校長、教育総監本部長、陸軍次官、陸相を歴任した陸軍の大先輩であった。しかも昭和六年に退官、予備役になってから朝鮮総督に任命されて、十一年八月まで満五年間の在任中、政治家としての実力を大いにみがき、軍人にはめずらしい、幅の広い見識と清濁あわせのむ器量を兼備した人物といわれ、当時六十八歳であった。それだけにまた、彼を目の仇とする軍部内外の反宇垣派もなかなか、根強いものであった。とくに宇垣陸相時代の軍縮で首にされた多数の予備役軍人の反感は大きかった。しかし、宇垣大将自身の目からみれば、当時、いわゆる陸軍首脳部として、ときめいていた将軍連中も、たいてい十年以上も後輩のいわば小物であった。たとえば二・二六事件当時の陸相川島義之大将は陸士第十期、後任の陸相林銑十郎大将は陸士第八期、また皇道派の巨頭といわれた元教育総監真崎甚三郎大将と元陸相荒木貞夫大将の両人は、いずれも陸士第九期といったぐあいで、陸士第一期の宇垣大将のはるかに末輩であった。だから、先任順序をなによりも重んずる陸軍部内では、宇垣大将が出馬すれば、いくら政党打倒と軍部独裁をめざす強硬な将軍たちも幕僚連中も、一応、おさまるであろうと元老、重臣方面では期待していたし、また政党側も、「宇垣ならば軍部をうまくまとめるだろう」と注目しており、世論もまた大いに議会政治の存続を希望していた。ところが、組閣大命の降下した一月二十五日から、軍部は猛烈な宇垣反対運動を起こした。まず、静養中の伊豆の長岡より上京する宇垣大将の自動車を途中で待ちかまえた憲兵司令官がとめて、みずから寺内陸相の使者なりと称し、部内の険悪な情勢を理由にして「大命拝辞」を強要した。「おやめになった方が閣下の身のおためですぞ。もしもムリをされたら重大事がおこります」とおどかした。宇垣大将は内心、この末輩の不穏当な言動ににがりきりながら軽くあしらって上京し、堂々と参内(さんだい)して天皇に拝謁したうえ、大命を受諾した。一方、陸軍首脳部では宇垣参内の報に、驚きあわてて寺内陸相を中心に宇垣内閣の出現をはばむ非常措置を講じた。そして、ロボット的存在の閑院宮参謀総長と杉山元教育総監をくわえた形式的な、いわゆる、三長官会議の決議として、同日夕刻に宇垣大将にたいし、「全軍の総意」により、「協力せず」と寺内陸相から正式に通告した。陸軍が宇垣内閣に「協力せず」ということは、「陸軍大臣を出さない」ということである。なぜ天皇が、最適任者として組閣を命じた軍部の大長老の宇垣大将にたいして、かくも軍部が猛烈な反対をしたのであろうか? 天皇の命じた次期内閣首班に協力せず、と公言することは、絶対天皇制下の帝国軍人首脳として、最大の抗命罪に該当するものではなかろうか? (もしも天皇自身が怒って、大元帥の資格で三長官を叱責したら、もちろん、軍首脳部は協力せざるをえなかったであろう!)
さて、表面上の反対理由には、つぎの二点があげられていた。
一、粛軍完成のため、宇垣内閣の出現は部内に悪影響をおよぼし、全軍統制の上において絶対反対である。
二、時局認識において、宇垣内閣は陸軍の待望するところと、根本的に相いれざるものと思惟(しい=思考)される。
要するに、軍部としてはせっかく、広田内閣を倒して軍部の政党不信と国防強化の方針をはっきりと打ちだしたやさきに、かつて大正末期の軍縮時代に大ナタをふるったのみならず、奇怪な三月事件の黒幕的人物として注目された宇垣大将が、内閣首班として登場することは、内心でコワかったのだ。また、長年にわたり政党とも財界とも深いむすびつきのある宇垣大将が首相となれば、没落しかけた政党政治がふたたび力をもりかえして、軍部の行動は大いに牽制され、国内体制も軟化するおそれがある――といったような軍人らしい偏狭と独善の敵愾心(てきがいしん)から、陸軍の大先輩にむかって「全軍の総意」を口実に楯をついたわけだ。現首脳部にとっては目の上のコブのような、邪魔者にたいする軍人らしいあくどい嫌がらせともいえた。さらに同夜七時、寺内陸相と杉山教育総監を中心に、陸軍首脳部は緊急会議をひらいたうえ、主要幕僚(統制派)もろとも、「宇垣絶対反対」の方針をかためた。そして、翌二十六日午前十一時、寺内と杉山両大将が打ちそろって組閣本部を訪ね、大先輩の宇垣大将にたいして、かさねて後任陸相の推薦は困難であるからとて、「大命拝辞」と「組閣断念」を勧告した。宇垣大将としては、かっての部下である寺内、杉山両大将から体裁よくボイコットの通告をうけたことは心外千万であり、また片腹いたく思ったことであろう。なぜならば寺内寿一は陸士第十一期、杉山元は陸士第十二期で、いずれも陸士第一期の宇垣よりみれば、十年以上も年下の後輩であった。たとえ革新的な幕僚連中につきあげられても、これをしっかりとおさえて、軍の長老たる宇垣の組閣に協力することが軍の秩序を守るゆえんであったろう。また、絶対的な天皇の大命による組閣であってみれば、「宇垣は好かん!」とか、「宇垣は政党と財閥とに腐れ縁がある!」とか、悪口をいってケチをつけたり、いやがらせをすることは紀律を重んすべき軍人としてもっともつつしむべきことであったろう。またもし、寺内陸相や杉山教育総監たちの宇垣阻止運動が、かならずしも本人の意思ではなくて、部下の幕僚のつきあげによるものであったというならば、それこそ「粛軍」を金看板にしていた統制派首脳もまた、革新青年将校にとってかわった、いわゆる「幕僚ファッショ」に牛耳(ぎゅうじ)られていたわけであり、いまやかがやかしい皇軍の実体は、もっとも忌むべき「下剋上」の風潮に深くむしばまれてしまったことになるのだ。それが「日華事変」のかくれた原動力となったのではなかろうか? 宇垣大将としては、軍部の横車は明らかに大権干犯であると考えていたが、軍首脳部は、「もしも宇垣がそのような非常措置をとったら、それこそ宇垣個人の政治欲を満たすために天皇を利用する大権干犯である」と逆宣伝につとめた。当時、組閣本部につめきった各新聞社の記者連中は、たいてい宇垣老将軍の苦しい立ち場に同情をよせて、「宇垣に一度やらせてみたらよいでぱないか?」「天皇から組閣の大命を拝受した以上、これを妨害するものは大命に抗するものだから餃罰にしたらよかろう!」という意見が強かった。私も老獪で腹のすわった宇垣大将のことだから、いく日でも辛抱強くねばって、なんとか妥協するか、あるいは重臣の支持で強引に押しきるであろうと期待していた。しかし、軍国日本のわが世をときめく軍部の「集団独裁力」は、軍長老の宇垣個人よりもはるかに強大であった。宇垣が湯浅内府に頼みこんでいた間に、二十七日午後、陸士第十五期の大後輩の梅津美治郎次官は、この大先輩排斥に追い討ちをかけるように、「宇垣大将はすみやかに拝辞を期待する」という敵意のあふれた談話を発表した。そして翌二十八日、宇垣が低姿勢で懇請した陸軍三長官との会見を体裁よく拒絶した。かくて長年、軍部最大の実力者とか、政界随一のダークホースとよばれて注目されていた宇垣大将は、大命降下後、五日間にわたる努力もすべてむなしく一月二十九日、ついに組閣を断念して投げだした。彼の悲壮な表情を私は決して忘れないだろう。そして、同日の深夜、あらためて組閣の大命は、軍部のロボットのような元陸相林銑十郎大将(陸士第八期)に降下した。今日より冷静に回顧すると、元老の西園寺公も湯浅内府その他の重臣たちも、軍部を恐れるあまり、まことに優柔不断で勇気をかき、そのような気の弱い補弼(ほひつ=天皇の助言者)のワクのなかで、ただ気をもんでいた軍服を着た天皇の姿こそ、軍国日本の悲劇の象徴であったといえるであろう。二・二六事件から「日華事変」にいたる一年半の間には、このような昭和動乱史をかざる奇怪な幕間(まくあい)劇が演ぜられたのであった。昭和十二年七月七日夜、北京郊外の芦溝橋(ろこうきょう)に鳴りひびいた一発の銃声によって八年間にわたる「日華事変」という名の限定戦争がおこった。これは太平洋戦争の文字通り大序曲をなすものであり、満州事変いらい、日本軍部が公然と熱望していた中国大陸への進出の野心は、ついに実現の日を迎えたのであった。七月二十八日、日本軍は内地の三個師団に動員発令、七月末までに電光石火のごとく平津地区の中国軍を掃蕩したが、八月十三日に戦火は上海へ飛んで華中へ拡大した。いよいよ、「北支事変」は「支那事変」と改称されて、全面的な日中戦争の様相を呈してきた。かくて、日本軍は破竹のごとく進撃して十二月十三日、ついに中国の首都南京を攻略したが、意外にも、それは国民政府の降伏をもたらさず、かえって勝ち誇った日本軍を泥沼のような、長期抗戦の中へ引きずりこんだのであった。  
第八章 軍靴の足音 / 仏印進駐事件

 

想えば、昭和三年の張作霖爆殺事件以来の日本をめぐる、重苦しい雰囲気のなかで、軍部は“支那事変”という名の日中戦争へ突入したのだった。六年まえの満州事変の成功と、満州国建国という大冒険に味をしめた軍部の急進派は、ついに第二の冒険をめざして中国大陸へ武力行動を起こしたのである。しかし、満州事変とうじとは国際情勢が一変しており、とくに中国の蒋介石政権はすでに米英両国の援助によって、抗日態勢を日ましに強化していたから、軍部は武力によって、中国四億の民衆を征服するかわりに、ひさしい年月の間、列強の間で、「眠れる獅子」と呼ばれていたこの老大国を、意外にも「挙国一致」で決起させてしまうことになった。私は、今日でもまだ決して忘れないが、昭和十二年(1937年)七月、芦溝橋事件が突発して、いよいよ“支那事変”が悪化の一途をたどりはじめた暑い日の正午ごろ、東京霞ヶ関の、外務省情報部の玄関先で出あった、当時の在京外人記者団の長老格のヒュー・バイアス君は、私にむかって、つぎのようにいみじくも語った。「ミスター・ナカノ、日本政府は不拡大方針とか、現地解決とか声明しているが、戦争は相手があるから、決して日本の思うようにはいかないだろう。昔から“Short War is Long War”ですよ」彼は当時、米英両国の代表的新聞である「ニューヨーク・タイムズ」と、ロンドンの「タイムズ」両紙の東京特派員をかねた、学究肌で日本通の立派な英人記者であったが、その公正な報道と率直な論評によって、憲兵隊や特高警察から睨まれてはいたものの、外務省当局はじめ日本の上層階級とインテリ層からひそかに尊敬され、かつ重視されていた。また、私は当時、朝日新聞記者で、外務省内の記者クラブ「霞クラブ」の担当記者として、毎日、朝と夕の2回の情報部長会見に出席していた。外人記者団の会見( Press Conference と呼ばれた)は一日おきで、午前十時よりはじまり、それがおわると、日本人記者たちの会見が情報部長室で行なわれるシステムであった。ここで情報部長をめぐり、当日の国際情勢をめぐる外務省着公電(世界各地の在外公館からあつまる情報報告)について、質疑応答がおこなわれ、また外務省当局の公式発表も、この席上でおこなわれた。“支那事変”がおこって極東情勢が悪化するや、この霞ヶ関の情報部長会見は外人記者団にとって、非常に重荷なニュース源となり、トーキョー発の外電は、世界中の新聞の第一面を賑わせていたものだ。老練なバイアス記者は日本に長年住んで、日本文化を愛し、著名な政界や財界の日本人に、たくさん友人知己を持っていただけに、狂信的な軍国主義に支配された昭和日本の危機を痛切に感じていたらしい。とくに“支那事変”には深刻な憂慮をしめして、「早く片づけなければ大変なことになる、大戦争になる」と私に再三、うち明けていた。彼がいみじくも喝破した「短期戦こそ長期戦なり!」という言葉は、“支那事変”の正体をズバリと言い当てたものだった。もちろん、日本側にもそれ相当のいい分はあった。たとえば日本が、華北の平津地区(北京、天津)に兵力を駐屯させる権利は、北清事変(日清戦争後の明治三十三年五月、清国におこった義和団の暴動事件で北京の列国公使館が襲撃され、日、英、米、独、仏、印、露、墺の八ヶ国が出兵して鎮圧する)の細末議定書にもとづく正当なものであったが、時世の移り変りにともなって、中華民国政府としては、清朝時代の国辱的な取決めをなるべく速やかに廃棄して、国内統一をはかる立場にあった。それで北支に駐屯する日本軍(支那駐屯軍と呼ぶ)の存在は、蒋政権にとって目ざわりである一方、日本軍部としては満州建国の威勢をかって、米英の援助のもとに抗日、排日、侮日(ぶにち)に増長する蒋政権に反省をもとめて、もしもききいれない場合は、実力をもって庸懲(ようちょう:こらしめる)し、日本の権益を守りぬくという固い決意であった。しかも、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの呼号する、米英体側打破と欧州新秩序建設にならって、米英体制にとってかわる日本帝国支配のもとに、東亜新秩序の樹立を目指して、“支那事変”を誘発する謀略工作に、陸軍の出先機関はいずれも懸命であったようだ。私は戦史家の立場より、太平洋戦争の開戦にいたるまでの、足かけ五ヵ年にわたる泥沼のごとき“支那事変”で、勇敢に戦った日本軍将兵の労苦と犠牲を、決して忘れるものではない。しかし、事変当初に大元帥たる天皇の前で、「支那事変はすぐ片づきます」と自信満々で奏上した陸軍首脳の軽率な戦略指導と、近視眼的な戦局誤断は、まことに英人バイアス記者の予言のごとく、日本を泥沼の中へ投げこんで取返しのつかないハメにおちいらせたもので、その責任は極めて重大だと思う。なぜならば、東亜の平和を望んだ天皇自身でさえ、“支那事変”の長期化には大変、不興であった事実が戦後になってはじめて明らかにされたからである。記録によると、昭和十六年九月六日の御前会議で、統師部の強い要請により、対米開戦準備を十月下旬までに完了するという重大方針が決定した前日に、近衛首相がこの議題を内奏したところが、天皇はいたく心配して、陸海軍統師部の両総長を呼んで、近衛首相立ち会いのもとにみずから質問した。
「 まず天皇は、杉山元参謀総長にたいして、「日米に事おこらば、陸軍としては幾許(いくばく)の期間に片づける確信があるか?」とたずねた。杉山大将は、「南洋方面だけは、三ヵ月ぐらいにて片づけるつもりであります」と答えた。すると、天皇はいかにも不機嫌なようすで杉山大将をみつめながら、「汝は支那事変勃発とときの陸軍大臣であるぞ、そのときに陸軍大臣として、事変は一ヵ月ぐらいにて片づくと申したことを記憶する。しかるに、四ヵ年の長きにわたり、まだ片づかんではないか?」と追及した。杉山大将は、すっかり恐縮して脂汗をかきながら、「支那は奥地が開けておりまして、予定通り作戦しえなかったわけでございます」と、まったくしどろもどろな答弁をした。 天皇はこれを聞いてさすがにムッとした面持ちで、一段と声を大きくして、「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか! 汝はいったい、いかなる確信があって三ヵ月と申すか?」と叱責した。杉山大将はかえす言葉もなく、ただ顔を蒼白にして低く頭を下げ、直立不動の姿勢のまま震えていたという。 」
このように杉山参謀総長は、支那事変のはじめにも、太平洋戦争の直前にも、その戦争指導上のいい加減な見通しについて、天皇からきつく叱られていたにもかかわらず、いわゆる“幕僚ファッショ”の下からの突上げによって、ずるずると泥沼のような長期戦の中へ引きずりこまれていったようである。ではいったい、かくも平和愛好の天皇が、重臣を大量殺傷した二・二六事件以来、不信の念を強くしていた軍部にたいして、なぜ、もっと強硬な態度をしめして厳然たる天皇の統帥大権を発揮して、陸軍の専断、独行を禁圧しなかったのであろうか? 別の記録によると、日米開戦の危機迫るころ、天皇は、しばしば自重論者の東久邇宮稔彦(ひがしくにみやなるひこ)王(陸軍大将、終戦直後の首相)にむかって、「軍にも困ったものである」と嘆息していたという。しかし、天皇は側近の近衛公のみたところでは、「いつもご遠慮がちと思われるほど、御意見をお述べにならない」というのであった。それは長年にわたり元老の西園寺公などから、「陛下はなるべく自主的発言をしない方がよろしい。あまり陛下が政治上の指図をすると、かえって君徳(くんとく)を傷つける畏れがある」という趣旨の、いわゆる日本独特の天皇学を吹きこまれていたせいであろう。要するに、軍部の独断専行を押えることができた、ただ一人の大元帥たる天皇は昭和動乱史上、つねに消極的で孤独であった。そして、天皇は“支那事変”から太平洋戦争にかけて、軍部の武力行動を、いつも不安な眼と危惧の念でじっと見まもっていたが、積極的にこれを阻止したり、あるいは断固として抑制するような勇気に欠けていた。(ただ敗戦のときだけ、はじめて自由意思による聖断をくだした。) これについて、戦後、日本のある政治学者が天皇と戦争の関係を、つぎのように鋭く批判していたのは注目されるであろう。
「 近衛が言っているように、天皇が終始一貫して平和主義の態度をとられており、大戦争に突入するさいも、たいへん、苦慮されたことは、明らかなことであった。ただ当時は、側近にもどこにも、すでに真に天皇を支持するものとてなく、戦争を主張する強大な軍部や右翼勢力の前には、天皇個人は極めて微力な、そして気の毒な存在でしかなかった 」
かように天皇の個人的意思は軽視または無視されたが、天皇個人から切りはなされた天皇の神的権威そのものは、ときの支配的政治勢力(軍部と右翼)によって、あくまで鼓吹宣伝され、彼らの内外における政策遂行の道具として、十二分に利用されたのであった。 

 

さて本題にもどって、の推移をみよう。すでに述べたように、軍部の企図した中国征圧の野望は、意外にも思うままにはかどらず、杉山参謀総長が天皇の前で、「一ヵ月で片づける」と奏上した“支那事変”は、首都南京を攻略(昭和十二年十二月十三日)しても一向に片づかず、ますます泥沼のような長期戦の様相を呈してきた。それは、軍部が完全に見通しを誤ったのだ。空軍がなく、まともな海軍もないような中国軍にたいして、日本は世界一流の強大な陸、海、空軍兵力を保持していたから、いざ決戦となれば、中国軍はまったく手も足も出ずに蹴散らされ、殲滅されて、蒋介石の国民政府はたちまち降伏するか、崩壊するものと希望的観測にひたっていた。ところが、日本軍は、中国大陸に進撃して転戦すればするほど、巨大な厚い壁にブツかったのである。それは中国四億の民衆の、烈火のような抗日意識と、米英の無限に近い物量的援助であった。けっきょく、日本軍は中国の首都を攻略し、軍事上ならびに交通、商業上の要点を次から次へと占領して、いわゆる「連戦連勝」をつづけても、決して“支那事変”は片づくものではなかった。それはますます中国民衆の対日憎悪と抗日意識を深めて、重慶政権を死物狂いに決起させるばかりであった。それで、翌昭和十三年一月十一日の御前会議で、軍部がメンツをたもつのに都合のよいような「支那事変処理根本方針」が決定された。そして「過去いっさいの相剋か一掃して、日満華提携の新国交を、大乗的基礎の上に再建する」という、いかにも結構な趣旨と講和交渉条件が再確認されて、中国側の出方を期待した。しかし、さんざん武力で痛めつけた重慶政権にたいして、いまさら日本の都合次第で、仲直りしようと申しでても、それは無理であった。日本側としては大いに寛大な態度をみせて譲歩したつもりであったが、重慶や昆明の奥地で徹底抗戦を決意した蒋介石政権は、一月十五日の期限をすぎても、日本側の提示した解決条件(容共抗日満政策の放棄、日満両国の防共政策に協力、非武装地帯の設定、日清華三国間の経済関係の緊密化、対日賠償の支払いその他)にたいして回答を与えなかった。もはやすでに、中国は米英の援助をたよって、日本といい加減な妥協に応ずる吐はなかった。それには中国共産党の大きな抗日的圧力が利いていた。その第八路軍(いわゆる紅軍)は日本軍にたいして、猛烈なゲリラ戦を展開して気勢をあげていたからだ。
一方、日本の軍部内では、相変わらず派閥争いがたえず、“支那事変”の処理をめぐってさえも激しく対立していた。すなわち、参謀本部第一部長石原莞爾(かんじ)少将一派は、「支那と決して戦うべからず、ソ連と戦うべし」と主張して、中国との和平交渉に大いに熱心であったが、杉山陸相以下、陸軍省の主流派はむしろ、和平交渉に冷淡であり、米英と固くむすんだ重慶政権の完全打倒と、親日カイライ政権の樹立による「第二の満州国」の建設を望んでいた。なるほど、日本の立場からみると、この両派のどちらにも、一理はあった。しかし、日満華一体の、いわゆる東亜協同体というような遠大な構想は、強大な政治指導力と、世界戦略の緻密な計算に基ずかないかぎりは、ただ慢心した軍部の号令と、銃剣のみによっては到底、達成されるものではなかった。けっきょく、石原少将一派の和平主張を押さえて、昭和十三年一月十六日、日本政府は、「国民政府を相手とせず」という有名な声明を発表して、事変解決の門を自ら閉ざした形となった。そのかわり“支那事変”の長期化にそなえて、三月三十一日には国家総動員法が判定された。また、前年の十一月には日露戦争いらい三十年ぶりで、大本営がすでに設置されており、ついに “支那事変”は宣戦布告をしない、本格的戦争として拡大していった。かくて同年六月には、徐州大会戦がおこなわれて、日本軍は大勝利をおさめ、蒋介石軍に大打撃を与えたのみならず、十月下旬には武漢および広東も陥落した。だが、重慶政権の所在地まで、日本軍は攻め込んで行くだけの兵力も補給力もなかった。当時、日本中の全兵力を中国大陸へ投入しても、広大な中国の400余州を占領することは、とうてい不可能であった。こうなると、日本の軍部は深刻にあせる一方、重慶政権はビルマと仏印の、いわゆる援蒋ルートをフルに活用して、莫大な戦用物資をぞくぞく輸送して、長期抗戦の有利な構えをみせた。日本にとって、気楽な“負ける心配のない戦争”であった“支那事変”は、いつのまにか苦しい“勝つ自信のない戦争”となりつつあった。いったい、どうしたらよいか? それにはつぎのような三つの手があった。しかし、どれもこれも、泥沼のような“支那事変”を一挙に解決する決め手ではなかった。
「 (一) さきの「国民政府を相手とせず」という大見得を引っ込めて、ふたたび国民政府(重慶政権)と和平交渉をすること。(近衛新声明)
(二) 日本側と内通、了解のあった国民党副総裁で和平派の大立者、汪兆銘(おうちょうめい)を引っ張りだすこと。彼は昭和十三年十二月、重慶を脱出して雲南省経由、仏印のハノイにあらわれ、和平反日救国の声明を発表して、日本とむすんで新中央政府(汪政権)樹立の運動を発足した。(昭和十五年三月三十日、南京で中華民国の新政府成立する)
(三) 重慶(じゅうけい)政権の屈服を促進するための最重要方策の一つとして、米英の援蒋補給を完全に断ち切り、蒋介石一派の孤立、窮乏をはかること。 (仏印の援蒋ルートとビルマ・ロードの閉鎖要求問題がおこってきた) 」
(一)の近衛三原則によっても、また、(二)の汪工作によっても、重慶政権との和平と事変の解決ができないとなれば、日本軍はどうしても、(三)の武力制裁を強化するほかはなかった。それで蒋介石政権の背後にある、米英勢力と正面衝突する危機をはらんできた。こうして“支那事変”は刻々と、対米英戦争へ実質上、移っていったのだ。四年前に英人記者ハイアス君が日本のために一番心配していた最悪の事態が、今や目前に迫っていたのである。 

 

昭和十五年五月、逆巻くドイツ軍の破竹の進撃によって、フランス本国が没落し、その海外権民地が、本国と連絡を断たれて孤立状態に陥るや、日本の軍部はただちに仏領印度支那(略称仏印、今日のベトナム)に目をつけた。そして“支那事変”の早期解決に資する目的と称して、微力な仏印政庁に難題をふっかけて、強引な軍事謀略を企てた。まず、日本側では仏印当局にたいして、重慶政府向けの物資輸送にあたっていた、いわゆる援蒋ルートの即時閉鎖を要求し、もしもこれに応じない場合は、実力をもってしても、要求を貫徹する覚悟であることをほのめかした。これに驚いた当時の仏印総督カトルー陸軍大将は、本国政府(パリよりビシーに移転)と無電連絡もとれず、さりとて、ぐずぐずしていては広東省境より日本軍の侵入する恐れもあったので、本国政府にははからず、独断をもって、日本側の要求をすべていれた。そして、問題の援蒋ルートを全部、自発的に閉鎖したから、その実状をぜひ視察されたいと日本政府に通告してきた。当時、いわゆる仏印の援蒋ルートというのは、北部仏印のトンキン地方の玄関口に当るハイフォン港を起点とし、首都ハノイをへて中国国境のラオカイに達し、それより雲南省の省都昆明に至る有名なテン越鉄道と、ハイフォン港より北上してランソンを通り、それより国境の鎮南関径由で、広西省の省都南寧に通ずる自動車道路を二大幹線としていた。このほかに、自動車道路により、奥地のジャングル地帯の淋しい国境の町カオバン、ハージャンなどを経由して、広西省と雲南省へ直通していた。ただし輸送物資はすべて米国製産の軍需品であり、主として米国船よりハイフォン港に陸揚げされていた。こうして、仏印政庁は日本側の要求をいれて、中国国境に接するラオカイの国境駅の構内で鉄道を切断し、また、鎮南関付近の峠の下で、自動車道路を破壊するなど、中国むけの援蒋物資の輸送禁止を命令する一方、日本政府に監視団の派遣をもとめて、この一行を国賓待遇でもてなし、歓心を買うことにつとめた。それは、もしも日本軍を怒らせたら、どんなヒドイ目にあうかわからなかったからだ。ところが、日本の軍部、とくに南支の仏印国境近くで作戦行動中の現地の広東軍と、東京の参謀本部では、懸案の援蒋ルートの自発的禁絶などではとうてい満足せず、このさいに仏印政庁の弱点をついて、強圧による日本軍部隊の北部仏印(トンキン地方)への進駐、確保をのぞんだ。それは盟邦ナチス・ドイツの、あざやかなオーストリアならびにチェコスロバキア無血進駐をまねてみたい野望であった。
かくて、昭和十五年六月二十五日の正午、突然、大本営陸海軍部と、外務省の同時発表によって、陸軍部内で、有数のフランス通であった西原一策少将(元フランス駐在陸軍武官)を団長とする「大本営派遣援蒋禁絶監視団」が、特別機で空路、仏印の首都ハノイに急派されることになった。それは陸軍と海軍と外務省の専門監視委員より混成された、総員三十数名の一行(あとでもっと増員された)であり、荒涼たる奥地のジャングル地帯に監視所を設定するため、日本式の鍋、釜類からコンロなど炊事道具まで、陸軍省の小使や軍属が要員として携行するという騒ぎであった。海軍側は柳沢蔵之肋大佐(当時、海軍省高級副官)と根本純一中佐その他、陸軍側は元フランス駐在の小池大佐以下、奉天憲兵隊特高課長から転じた有賀甚五郎少佐、それに事務員格のフランス語の大家、徳尾俊彦元少佐など多彩な顔ぶれであった。また、外務省側は最初、フランス通の文化人として知られた一等書記官柳沢健(元ポルトガル代理公使)、元ハノイ総領事宗村丑生の諸氏を予定されていたが、まるで、足もとより鳥が飛びたつような陸海軍側の早急な東京出発(六月二十六日)には、とてもまにあわず、しぶっていたために忌避されて、若手の元気のよい、欧亜局第二課事務官与謝野秀君(歌人の与謝野晶子夫人次男、戦後にスペイン大使、東大以来の筆者の友人)が選抜され、自宅に戻るひまもなく、着のみ着のままで、フランス語のできる書記数名をひきつれて、ただちに参加し、大本営が緊急徴発した日本航空の新鋭ダグラスDC3型三機をつらねて台湾の台北経由で、堂々と空から仏印へ乗込んだ。この重大な軍事的外交使命をおびた監視団には、朝日、毎日、読売、同盟通信の四社より、記者各々一名ずつが特別に随行を許された。当時、私は外務省詰の記者で、英語で電報も打てるところから、運よく一行に加わることになり、たった半日のあわただしい出発準備で、はるか仏印のハノイを目指し、汽車と飛行機を乗りついで急行した。私は念のために、在京フランス大使館より旅券査証を入手する一方、海軍省より南支方面艦隊付の従軍許可証をうけて東京を出発した。(私は外務省のほか、海軍省の記者クラブ「黒潮会」にも加入していたので便宜をえられた) そして西原少将一行より数日おくれて、台北より大本営特別機に便乗して、当時、長らく、いっさい外国人旅行者、とくに日本人へ門戸を固くとざしていた謎の国、仏印の首都ハノイ市郊外のジアラム飛行場に到着した。ものすごく暑い、燃えるような日の午後であった。それから、私の約4ヵ月間にわたるスリル100%の汗まみれの新聞記者的冒険がはじまった。それは、私自身が、はからずも昭和動乱史上に奇怪な秘密をいまだに秘めている“仏印の嵐”の真唯中にまきこまれて、日本軍のいまわしい、平和を偽装した流血進駐の正体を生々しく現地で目撃した、極めて少数の“歴史の証人”の一人となったからだ! その驚くべき真相は次に述べよう。 

 

今日、昭和動乱、風雪二十年の記録を飾る奇怪な秘話――日本軍の仏印(現在のベトナム)進駐事件といっても、日本人の大半にとっては、遠い昔の、おぼろげな記憶に残るか残らないかわからないような出来事であろう。しかも、仏印進駐といえば、いまでは大抵の人々は、太平洋戦争の序幕となった、昭和十六年七月28日に決行された、日本軍の南部仏印進駐を思い出すようであるが、この1年前に日本国民の眼をごまかして「平和進駐」と銘をうった北部仏印進駐は、どうも忘れられているようだ。しかし、実際には、太平洋戦争の開戦の足場として、日本軍の南部仏印進駐が、無抵抗でスラスラと運んだのは、前年の無理押しの北部仏印進駐で、流血の騒乱を起こした結果であった。これを正直にはっきり言いかえれば、日本軍は北部仏印へ「武力進駐」したおかげで、仏印当局と仏印軍を恐怖萎縮させ、とうとう骨技きにしたため、その翌年に南部仏印へ平和進駐できたわけである。ただ、このような複雑な真相を、当時の日本人は、すべて新聞報道の禁止的検閲によって、知らされなかったので、日本軍の北部仏印進駐こそ、いわゆる皇軍の威光が中国大陸よりさらに進んで、天然資源の無限の宝庫たる広大な仏領印度支那にまでおよんだと、単純に喜んだものであった。それは当時、すでに軍部の厳重な指導下にあった日本中の新聞と、そこで活動する新聞記者たち全体の総合的責任でもあった。いわゆる、国策にそった言論、報道活動しかみとめられなかった苦難の時代であったのだ。私自身も、やはり朝日新聞紙上には、仏印の首都ハノイより「日本軍堂々と進駐、仏印にひるがえる日章旗――」という感激の大見出しにふさわしい現地報告記事を綴って、打電しなければならなかった。しかし、私は、それとは別に私個人の記念のメモをつくって、この日本軍進駐の波瀾万丈の内幕ニュースをひそかに綴っていた。それは、当時はもちろん、戦時中もいっさい発表することを許されず、二十年以上もハノイ土産の、古ぼけた革トラソクの中に、他の記録資料類とともに秘蔵されていた。いま私はここに、この汗まみれの貴重なメモを拡げている。こうして「仏印の嵐」の真相を綴っていると、まことにめまぐるしい祖国日本の移り変わりを偲んで感慨無量である。それはまさに、昭和動乱の大詰めがいよいよ切迫してきたという、恐ろしい不吉な予感であった。あの当時、私は新進気鋭の新聞記者として、いわゆる昭和動乱が刻々と「昭和戦争」へ向かって進展してゆく、軍靴の歴史的な足音を鼓膜に刻み込んでいたのである。
さて、私が昭和十五年六月末に、西原一策少将の率いる「大本営派遣援蒋禁絶監視団」(仏印側ではミッション・ジャポネーと呼んでいた)に随行して、空路ハノイ市に乗込んだとき、この緑したたるような美しいフランス風の町並木の首都は、まるで世界戦乱の荒々しい動きから取り残された、平和な別世界の秘境のように静まりかえっていた。灼熱の大陽のもと、住民も建物も、風物いっさいが、ただ汗をかきながらじっと眠っているような第一印象をうけた。仏印と国境一つへだてた中国大陸の南部、とくに広西省では、血みどろな南寧攻略作戦が行なわれていて、日本軍が悪戦苦闘していたことは、仏印の首都ハノイではとうてい想像もできなかった。だが、大本営派遣の監視団が突然、ハノイ市内にあらわれて、軍服姿の日本人が町に出没したり、銀翼に日の丸を描いた日本機が、時々燃えるような青空から連絡に飛来するようになってから、仏印をめぐる風雲は、にわかに急を告げはじめた。東洋の小パリと呼ばれた、ハノイ市内のカフェーのテラスに、三々五々たむろしたフランス人たちの顔は、暗く眉をひそめて、のんびりした地元の安南人男女の群れも、流石にわれわれ日本人を眺めてヒソヒソ話し合うという有様であった。それはひと口にいって、まさに嵐の前の静けさという表現が、実にピタリと当てはまった。ところが、この六月二十五日付の大本営発表には、「仏領印度支那当局が先に帝国に対し誓約せる援蒋物資輸送禁止の実行を監視するため、陸海軍および監視員を編成派遣することとした」とあり、その目的は文字通り、「支那事変」の解決のガンであった米英両国の、蒋介石政権(重慶)への物資援助ルートを禁絶するためという、監視団の看板の通りであった。また、晴れの団長に任命された西原一策少将は陸士第二十五期の逸材で、大正十一年、陸大を優等で卒業したのち、東京帝大法学部に学んだうえ、フランスに駐在し、さらにジュネーブの軍縮会議にも前後二回、随員として参加するなど海外勤務が長いだけに、やっかいな対外交渉にはもっとも適したフランス語の達人であった。しかも彼は、気骨のある外柔内剛の人格者であり、この大任を負って、実に誠心誠意、その当時としては珍しい軍人外交に努力した。とくに西原少将が私に親しく語ったところによると、当時、陸軍の「支那事変」の処理について、不安と不満を、ひそかに痛感していたといわれる天皇の意向を反映して、出発前に閉院宮参謀総長より、「いかなることがあっても、慎重に平和的に仏印当局と折衝して、日本の正当な要求を達成すべし、決して性急な武力行動をとるべからず」という思召(おぼしめ)しが伝達されたといわれる。ところが「支那事変」のドロ沼の中で、皮肉にも勝ちながら苦しんでいた、日本軍の主兵力たる南支那方面軍(軍司令官安藤利吉中将)では、南寧攻略作戦で惨憺たる苦難をなめてようやく難行軍のあげく、翠緑(すいりょう=青々とした)したたる仏印国境までたどりついた。そして、いよいよ好機をみはからって、仏印に対する武力進駐の夢を抱いていただけに、今回の大本営の監視団派遣にはすこぶる不満であった。それで南支方面軍では、参謀本部首脳に強硬に申し入れた結果、監視団長の西原少将を牽制するために副団長として、南支方面軍参謀副長佐藤賢了大佐を参加させ、広東より直接、軍用機でハノイに遅ればせながら着任させた。そして、佐藤大佐は西原少将の目付役として、監視団内部で策勤し、日仏印交渉にひそかに水をさして妨害するなど、目にあまる行動があったようだ。私は当時、個人的には西原少将とも、佐藤大佐とも現地で懇意にしていたので、この両人がいずれも、「国家のためによかれかし」と念じながら、日仏印軍事交渉を有利にするために、熱病の地で汗を流しながら努力していた事実を目のあたりにしている。しかし、この両人は、余りにその肌合いが違っていたのみならず、その目指す目的もかけ離れていた。要するに西原少将は、東大に学んだほどの理論家肌の紳士型軍人であり、佐藤大佐は、「だまれ事件」の示すような、直接行動的の野人型軍人であった。この両人が、異邦の地にある艦視団という狭い枠の中で、しかも、表面は如才がないが、外交的かけ引きの巧妙なフランス軍人を相手にして、仲よく調和して任務に精励することは、とうてい無理であった。そこに歴史的な日仏印軍事交渉に、はじめから内在した暗い影があったのだ。西原少将は、天皇の思召しを謹んで拝承して、たとえどんなことがあっても、辛抱強く交渉を続けて、仏印側を説得し、東亜の新秩序と日本の真意について、フランス軍人を納得させることを目的としたので、武力行動は絶対に避ける決心を固めていた。一方、佐藤大佐は、仏印もまた米英と同様な敵性国家群の一つとみなして、武力庸懲(ようちょう=こらしめ)の必要を主張する強硬な南支方面軍を背景にして、「仏印との交渉は、期限をつけて、相手の老獪な引きのばし策に乗ぜられてはならぬ。もし相手に反省の色なく、ダラダラと交渉をつづける場合は、断乎たる処置をとるべし」と提唱して、監視団の内部から西原少将を牽制した。
このように、フランス本国の没落をめぐる国際情勢の急変によって、それまで渋っていた仏印当局が、にわかに日本側に笑顔をみせて、監視団派遣を招請したことは、当時の第25代仏印総督カトルー将軍の政治的配慮によるものだった。彼はフランス本国政府の対独降伏によって、たとえ本国を独軍に占領されて独立を失っても、極東のフランス植民地たる印度支那だけは、安全にフランス人の名誉のために守り抜きたいと覚悟を固めていた。しかも仏印は、天然資源が豊富で、経済的にも自立ができるため、当時、仏印の通貨ピアストロは、フランス本国のフランの十倍以上の価値をもち、米国のドルと一対一で、直結して実力があった。(当時、1ドルは約4円)
「 (注) 当時、仏領印度支那は、フランス語で、アンドシーヌと呼び、トンキン、アンナス、ラオス、カンボジアの4保護領(形式だけの王様がいて、統治はフランス政府任命の知事が行なっていた)と直轄植民地の交趾(こうし)支那から構成されて、人口的2480万(安南人1800万、カンボジア人300万、マレー人100万その他)、面積は朝鮮、台湾、南樺太をふくめた、当時の日本全土よりも大きかったが、わずか4万のフランス人が政治、軍事、経済のすべてを支配していた。また、地物的には、アジア大陸の東南部インドシナ半島を占める要点であり、各王国の内乱につけこんで、一八八三年、フランス遠征軍が侵入して占領、植民地化したのである。 」
日本軍部が仏印へ進出したのも、その戦略的価値により、大平洋戦争への踏み石にしたものである。カトルー総督は、無電連絡の一時、杜絶した本国政府の許可をまたず、独断で日本の要求を入れ、日・仏印軍事交渉に踏切ったのであった。ところが、七月中旬になって突然、カトルー総督がフランス本国のビシー政府(ドイツ傀儡政権)から解任された。その理由は、本国政府に無断で日本と軍事交渉をはじめたというのであった。その背後には、ナチスドイツ政府が、「フランスを倒したのはドイツの独力によるもので、日本はまったく手伝わなかった。したがって、世界中のフランス植民地の処理はドイツの権限であり、日本は勝手に仏印へ手を出してはならない」という指示が、ビシー政府にあったものと推定された。当時、たとえ日独両国が親密な同盟関係にあっても、仏印の処理は別問題であると、ヒトラーは打算したのであろう。かくて、親日的態度のカトルー将軍は失望してハノイを去り、その後任として仏印艦隊司令長官のドクー海軍中将がサイゴン(現在のホーチミン市)より出てきて、第二十六代仏印総督に就任した。しかし、彼は見るからにコチコチの、融通のきかない小柄の提督で、好人物ではあったが、万事、本国のビシー政府へ訓令を仰がねば、日本との交渉に応ぜられないという態度であった。その結果、待望された日・仏印軍事交渉はすっかり停頓して、いっこうに進捗しなかった。また一方、大本営の内部でも、仏印対策について陸軍省首脳部(東条英機陸相)の和協方針と、参謀本部首脳(閑院宮参謀総長はロボットで、大本営陸軍作戦部長をかねた第一部長冨永恭次少将は、仏印武力介入を支持していた)の強硬方針とが最初から相反していた。しかも、援蒋ルートの禁絶状況を監視するという名目で、はるばる仏印入りをしながら、まるで居直り強盗のごとく、監視団を通じて仏印当局へあとからあとから重大な要求の付け足しをしたので、西原少将も非常に交渉がやりにくくて困っていた。 

 

日仏印交渉が東京に移って、ハノイにいた西原少将以下の監視団も、われわれ少数の特派記者団もひさしぶりでくつろいで、炎暑下に仏印当局の招待で、白塗りのフランス砲艦に乗り、仏印の奇勝ベイダロン(龍の洞窟湾)へ、舟遊びを楽しんだことがあった。そして燃えるような青空の下、美しい仙境の海上で、中国古風の帆船(ジャンク)に乗り移って、フランス名産のブドー酒と御馳走を、心ゆくまで味わいながら、平和の有難味をしみじみと味わったものだ。なぜ日本軍は、この平和な仏印へ「支那事変」を口実に荒々しく侵入して、静かな、幸福そうな雰囲気をかき乱したのであろうか。その当時、日本軍部の野望はフランス本国の没落を利用して、いわゆる火事ドロ的に、フランス植民地を日本植民地に塗り変えようとしたのではなかろうか。白人植民地主義の打破と、安南民族の自由解放などは、後からコジつけた能弁にすぎない。それから数日後に、西原少将一行は、仏印軍代表の案内で援蒋自動車道路の主要線のランソン(諒山)経由、鎮南関へ視察に赴いた。私も同行したが、そこは中国の広西省と接する国境で、まるで芝居の背景に描かれたような淋しい峠の上に古色蒼然たる大きな城門が立っていた。そして、コケむした石の楼上には、「鎮南関」の三文字が大きく記されてあった。この日は、かねて大本営より連絡してあったので、中国側より、すでに鎮南関付近まで、戦闘態勢で進撃してきていた中村部隊(第5師団)の中村明人中将と、仏印側より監視団団長の西原少将が、この峠の上の城門で相会した。ところが、驚いたことには、定刻に、軍用トラック数台に分乗した戦闘部隊を率いて現われた中村部隊長は、いかにも歴戦の豪将らしく、軍刀のツカに手をかけながら、のしりのしりと、肥満した身体をゆさぶり、先着の西原少将の持ちうけたところにちか寄るや、いきなり「貴様はそれでも日本軍人か!」と面罵した。それは軍人にふさわしからぬ、軟弱な外交交渉などに専念していた西原少将一行が、よほど癪にさわって憎悪していたせいであろう。「フランス人相手に香水などつけて、お世辞をつかっているとは何事だ!」とも怒鳴りつけたそうだ。すると、温厚で端正な西原少将も、さすがに憤然と顔色を変えて、「バカなことをいうな、日本軍人の面目のために無礼千万なことをいうな!」と怒鳴りかえした。私は新聞特派員として、鎮南関の城門下で、はからずもこの異常な光景を生々しく目撃しで、実に嫌な気持になった。仏印軍代表のフランス人将校たちの前で、日本軍人の偏狭独善な心理をさらけ出したような悪感に打たれたのである。はたして九月四日に、ハノイでようやく西原・トクー協定が調印されたが、翌5日未明に、中村部隊(第5師団)の一個大隊が、正式の「進駐命令」もなくして乱暴な大隊長の独断で、鎮南関より越境して仏印へ雪崩こんだため、仏印守備隊と交戦した。 しかし、大本営の命令で一応は撤退した。(注:細目協定は調印されたが、進駐期日は受け入れ準備の都合で追って協議のうえ、取決めることになっていた。)
この越境事件のため、仏印側は怒って協定の無効を主張して、日本側と対立した。一方、南支方面軍は大本営首脳部の軟弱方針にあきたらず、参謀本部の強硬派の冨永少将と結んで政府を動かし、仏印側の遅延策と不誠意を責め、期限つきで仏印代表へ正式回答を要求し、もし九月二十二日を期限として交渉成立しない場合は、武力進駐することに決定した。こうして強硬方針へ転じた大本営陸軍部は、ただちに南支方面軍司令官安藤利吉中将に対して、大本営命令を下した。
「 北部仏領印度支那進駐日時は、九月二十二日零時(東京時間)以降とし、進駐にあたり仏領印度支那軍抵抗せば、武力を行使することを得る。進駐の目的は、対支作戦の基地を設定するとともに、支那側補給連絡路遮断作戦を強化するにあり 」
しかし、この作戦命令は、乱暴な話であった。相手の仏印側が、外交交渉を妥結してもしなくても、日本側は勝手に仏印国境を越えて進駐するというのは、一体いかなる国際法上の権利にもとづくものであろうか。またこれは一体、天皇の希望した「平和進駐の趣旨」にそうものであろうか。なぜ日本軍はもっと正々堂々と、あせらずに仏印側を納得させて、万全の準備を完了した上で、双方で取決めた期日に、晴れの進駐を行なう雅量を示すことができなかったのであろうか。この作戦命令の進駐日時は、その後になって、一日遅らせて「二十三日零時以降」と変更されたが、実際の進駐日時の細部は、現地の西原少将と仏印代表の間で取決めることになっていた。日本側は難色をしめす仏印当局を威圧するため、大型汽船二隻を、ハイフォン港に回航して、仏印全土より在留邦人多数の総引き揚げをやってみせたり、さらに西原少将以下、監視団本部の閉鎖と引き揚げのため、ハイフォン港に大型駆逐艦「子の日」一隻を横づけにして最悪の事態に備えたり、あらゆる手段を尺くした結果、ついに強情な仏印側も折れて、期限ギリギリの九月二十二日午後二時半(東京時間で午後四時半)に、ハイフォン港のホテルにいる西原少将と、総督代理との間に協定調印を完了した。だが、鎮南関の国境に集結中の戦闘部隊は、すでに進撃行動を起こしかけていた。東京の大本営から南支方面司令官(すでに広東から海南島へ戦闘司令部を進出)へ急電した「協定成立したから進駐待て」の命令もむなしく、また、西原少将の特使の有賀憲兵少佐が、仏印側連絡将校をともないハイフォンより、自動車と小型飛行機と乗馬を乗り継いで、数百キロを走破、真夜中の鎮南関へ急行したときすでにおそく、日本軍部隊は砲撃を開始して、仏印国境を突破して進撃南下していた。かくて、仏印守備隊は必死に応戦し、ドンダン要塞付近で大激戦が行なわれ、仏印軍は連隊長以下全滅した。それから日本軍は、猛烈な勢いで大挙して北部仏印の軍事基地ランソンを攻略した。この凶報に、仏印側も西原少将も大本営もビックリ仰天した。大本営は現地部隊進駐中止と、戦闘停止を厳命していたので、ようやく、二十五日までに国境方面各地の戦闘は終わった。しかし、仏印当局は激昂して、再び協定違反を理由に日本軍の海上進駐をみとめず、協定とりやめを通知してきた。私は西原少将一行とともに、この変転極まりなき仏印の嵐の中をくぐり、いよいよ最悪の事態に陥ったので、二十五日夜半、ハイフォン港に待機中の駆逐艦「子の日」に便乗して、冒険的に仏印を脱出した。そして二十六日の暁があけそめるころ、ハイフォン港は日本機によって爆撃され、西村兵団三個大隊は海上より輸送船団で、ドーソン海岸へ既定の敵前上陸を決行した。しかし、海軍側は、大本営命令にそむいた陸軍部隊の武力進駐を認めず、藤田少将の率いた第三水雷戦隊は、輸送船団の護衛任務を中止して、海南島基地へ引き返した。それゆえ、もしドーソン砲台の仏印軍集中砲撃をくわえたら、西村兵団は、たちまち全滅したことであろう。(だが仏印軍は意気地なく沈黙したので西村兵団は無事上陸した) 西原少将の一行は、三ヵ月間にわたる炎熱下の、悪夢のような空しい努力の思い出を抱いて、駆逐艦で海南島に到着、上陸しようとしたところが、南支方面車司令部の連中から、「西原一味が上陸したら、新聞記者もろとも斬ってすてるぞ」とスゴまれて、私は軍人の恐ろしい執念に驚いたものであった。これが日本軍の面目を汚した、奇怪な北部仏印流血進駐の真相である。この不祥事件は、平和念願の天皇を大いに怒らせたため、大本営もさすが頬かむりはできず、命令に違反して、前後二回にわたる越境戦闘事件の責任者として、南支方面軍司令官安藤中将と、大本営陸軍作戦部長冨永少将の罰免、中村師団長の左遷、越境大隊長を軍法会議にかけるなど、関係部隊長を厳重処分し、また、閉院官参謀総長も辞職交代した。
以上は、私の見た昭和動乱史の奇怪な終章である。この翌十六年七月、日本軍は南部仏印へさらに進駐して、それから五ヵ月足らずで太平洋戦争へ突入したのだ。思えば対外的には、満州事変から「支那事変」をへて北部仏印進駐へ、また、国内的には五・一五事件から相沢中佐事件を経て二・二六事件へ――この昭和動乱こそ太平洋戦争へ通ずる道であったのだ。 
 
かくて玉砕せり――敗戦の歴史 中野五郎

 

日本の民主化は敗戦の洗礼によって始まり、新日本の建設は降伏の廃墟の中よリ着工された。今日よリ顧みると太平洋戦争こそ軍国日本の挽歌であり、また封建日本の弔鐘であった。何故ならば太平洋戦争の敗北と無条件降伏によって、初めて七千五百万の日本人大衆は軍部独裁の暗い社会よリ解放され、自由な平和な新日本が生まれ出たからである。だから日本の敗戦の歴史は、我々にとって決して過去の悲しい悪夢として強いて忘れられる可きものてはなくて、寧ろ我々の子孫代々のために、新日本誕生の偉大な陣痛の記録として、正直に残されねばならないであらう。今や戦後三周年を迎え、さらに世界注目の市ヶ谷の極東国際軍事法廷で戦争犯罪人裁判の最後の審判が宣告される時、我々は世界平和のためにも、我々の子孫のためにも敗戦の歴史を今こそ厳粛に反省し、残酷な玉砕作戦の秘められた真相を正視して、決して再び戦争の悲惨と野蛮と恐怖に巻き込まれないことを誓いたい。
筆者略歴 / 1906年東京生まれ、東大法学部卒業、元朝日新聞ニューヨーク特派員として在任中に日米戦争が勃発し、一時アメリカに抑留され交換船で駐米日本大使一行と一緒に帰国、著書には、戦前はアメリカ研究のものが多かったが、戦後はアメリカの日米戦の記録の翻訳と、太平洋戦争に関する著書を多く手掛けた。これはその第一号の著書。  
はしがき
日本の民主化は日本の敗戦より始まり、新日本の建設は降伏の日よりスタートレた。この厳粛な、しかも偉大な現実を幸いにも生き残った七千五百万の日本国民大衆が正しく認識するためには、太平洋戦争の真相を十分に知ることが肝要である。われわれ日本人は民主化の甘い夢に耽けるまえに、長い苦い悪夢を忘れてはならないであろう。何故ならば、軍国日本の過去の恐しい悪夢こそ新日本の将来に対する正しい教訓と反省の警鐘となるからである。即ち太平洋戦史を研究して日本がいかに敗北したかを正しく知ることは、日本人の老若男女大衆の重大な勤めと言うべきであろう。アメリカ署名の歴史学者でコロンビア大学名誉教授デビット・S・マズィー博士は、『現在は過去に蒔かれた種より成長した植物の如し。現在の諸問題を解く鍵は過去の中に潜んでいる 』といみじくも説いているが、この言葉は敗戦の過去の中より立上る日本国民にとって特に含蓄が深いものである。成程、事件の連続としての過去は永久に去った。昨日の過去はジュリアス・シーザーの過去と同様に去ったが、しかし一つの国家の生成と変遷の歴史として、また一つの国民の発展の物語としての過去はつねに現在に生きているのだ。われわれは現在を説明するために過去を利用せねぱならない。この歴史の連続性をマズィー博士は『現在の中の過去』と称して、新しい民主的歴史観の命題としている。しからば軍国日本の敗戦は、決して七千五百万の日本人のすぺてにとって、単なる『過去の悪夢』に非らずして寧ろ新日本建設の『現実の教訓』とならねぱならないであろう。本書は私がアメリカ太平洋戦史研究と題して1946年(昭和21年)秋より翌47年(昭和22年)春まで前後五回にわたり『中央公論』誌上に連載して好評を博した新形式の戦争記録を、さらに推敲の上で一巻にまとめたものである。もともとこれは私が戦争中並に戦後にアメリカで続々刊行された多数の第二次大戦記録を広く捗読した中より、特に太平洋戦争の真相と経過について日本人の立場より知る可くして未だに知らなかった幾多の事実を紹介して、これを当時のわが大本営発表の戦果報道と比較対照しつつ戦況の批判を加えたものである。したがって雑誌に、連載の形式上、一回宛興昧深い主題を中心にして解説的に筆をすすめているために、今ここに一巻にまとめてみると太平洋戦史研究としては甚だ簡略すぎるように思われて意に満たないものがある。しかしながら、ここに収録された日本の敗戦の歴史的諸事実は『中央公論』誌上に発表当時予想外の反響を巻起して各方面の注目を集めたのみならず、私の連載記事は同誌が昨年夏、発表した読者誌上人気投票で諸名家の評論記事を圧倒して第二位の高点を獲得したのであった。それは山本元帥の怪死事件の真相をはじめ幾多のかくれた戦況事実が初めて 日本全国に衆知されたためであって、日本の民主化が日本の敗北の中より生まれつつあるととを思えば、この悪夢の如き祖国敗戦の歴史と同胞玉砕の記録を冷野に且つ厳粛に直視して、その真相を探ぐり且つその教訓を学ぷことがいかに意義深いものであるかを示すものであろう。この山本元帥の怪死事件をめぐる反響の一例として、私は1946年(昭和21年)12月22日付の毎日新聞(東京)紙上の『余録』の全文を次に引用したい。『山本五十六元帥の戦死について、日本人はいづれ真相が知れる時があるだろうとは思っていた。山本元帥が太平洋戦争の前途に見切をつけて、楠正成が湊川で戦死したように、わざと死の飛行をやったのだろうという噂もあった。ところがギルバート・キャント氏の著書を解説した中野五郎氏によれば、真相は全く想像とは違う。昭和18年4月17日で米海軍長官ノックス氏からソロモン群島方面空軍司令官にあてた秘密電報は、山本元帥が西南太平洋の日本基地を巡察する道筋を詳細に記して、山本を討取るため最大の努力を以てせよとの命令であった。つまりアメリカでは前から日本海軍の暗号を解読していたのだ。元帥は苦もたく討取られたのだ。即ちジョン・W・ミッチェル少佐指揮の陸軍三八型ライトニング戦闘部隊は、元帥を待ち構え、元帥の爆撃機はライフィアー大尉に撃墜され火を噴いてジャングルの中に打込まれた。』このように私の綴った敗戦の歴史は当時、天下の耳目を衝動させたといっても過言ではあるまい。ところがその後、日本の民主化は進行しながら太平洋戦争の正しい戦況調査と記録研究は日本では一向どこにも行はれず、ただ帰還軍人又は報道班員の不確実な記憶に基く個人的手記が少しばかり現われたにすぎなかった。そして七千五百万の日本人の老若男女大衆は『知らぬが佛』で戦争に引摺り込まれて開戦し、敗北し降伏しながら今日もなお敗戦の歴史に目をふさいで『知らぬが仏』でいて果してよいのであろうか? これに反してアメリカでは終戦直後に公表されたマーシャル陸軍参謀総長の戦争報告、キング海軍作戦部長の戦争報告、アーノルド陸軍航空総司令官の戦争報告の権威ある三部作的記録をはじめとしてアイゼンハワー元帥、パットン将軍、ウェインライト将軍、スティルウェル将軍、ニミッツ提督、ハルゼー提督その他アメリカ陸海空軍の要職にあった人達の貴重な手記又はその幕僚の手になる精密豊富な資料に基いた戦争記録が続々刊行されている。さらに東西両戦線に従軍した多数のアメリカ新聞、通信特派員のもたらした大小さまざまの戦争現地報告記は今日に至るまで引っきりなしに刊行されて後世の史家のために興味深い資料を提供している。その中で太平洋戦争について特に私の注目を惹いたものは、ギルパート・キャント著『太平洋の大勝利――ソロモン群島より東京まで』(1946年刊)、退役海軍大佐ウォルター・カーリッグ編著『アメリカ海軍戦闘報告』(1946年-48年刊)、海兵隊少佐フランク・ホー著『島の戦争』(1947年刊)などである。いづれも正確豊富な軍当局の資料を縦横に活用して、人類の戦争史上空前の大規模な太平洋上の海、陸、空の立体戦争の激烈な戦況並に劇的な戦略を描いている。殊にキャント氏の著書は戦時中、彼が『ニューヨーク・ポスト』紙並に『タイム』の戦争記事主任として今大戦の全局面を細大漏らさず報道解説する任に当った敏腕のジャーナリストであり、且つまたアメリカの太平洋反攻の勝利のスタートとなったガダルカナル戦以来、二回にわたり戦火燃え立つ太平洋戦線全域を従軍視察しただけに、宛かも豊富な資料に血が通って、生々と躍動し、夥しい事実と数字も劇的描写に巧くみに織込まれて単なる無味乾燥な戦争記録に堕さず異彩を放っているし、また彼の戦略批判もよくバランスがとれて概ね妥当なように思われる。私は今まで広く渉読したアメリカの太平洋戦争記録の中でこのキャント氏の書に大いに教えられ且つ甚だ負うところが多い。また彼はこの他にも『海上の戦争』及『第二次世界大戦に於けるアメリカ海軍』の両著があり、この三部作で今大戦に於けるアメリカ海軍の海戦と未曾有の水陸両用作戦の全貌を綿密に研究報道しているのは注目に値する。勿論アメリカの太平洋戦史は勝利の記録であり、それはわれわれ日本人にとっては悲しい敗戦の歴史である。しかしながらわれわれは平和国家として再建途上にある祖国日本の将来のために、敗戦の教訓を永久に忘れてはならないであろう。そしてわれわれの子孫のために、正しい敗戦の歴史を綴り、同胞玉砕の記録を残すことはわれれれ戦争の時代に生まれ、敗戦の責任を荷うものの義務ではなかろうか? 私はかく考え、かく信じて、ここにこの小著を一巻にまとめて日本の終戦三周年記念に刊行し、今や敗戦の辛苦をともに苦しみつつある全国七千五百万の同胞諸君に捧げるものである。全世界の視聴を集めている三年越しの市ヶ谷の東京戦犯裁判も、いよいよ近く極東国際軍事法廷で最後の宣告が下されることになり、われわれ日本人は誰も好むと好まざるとに拘らず、悪夢の如き太平洋戦争の真相とその意義を厳粛に回顧して、反省せねばならない。その時に、このささやかな敗戦の歴史と玉砕の記録が広く読まれて、日本の民主化のために役立てば私の幸甚とするところである。なおアメリカ太平洋戦史研究と題して本文の執筆にあたり、私は豪州よりニューギニア、レイテ、フィリッピン作戦を指揮したマッカーサー作戦を省略して、専らアッツ、タラワ、マキン、クェゼリン、ルオット、サイパン、テニアン、グアム、硫黄各島の攻略戦を指揮したニミッツ作戦を詳述した。それはこれらの太平洋上の孤島の日本軍守備隊がいずれも全滅又は玉砕したために、今日まで悲しくも全然、闇の中に葬り去られていた戦況の真相を、初めて日本国民同胞のために紹介したいと念願する私の意図によるものであることを付記する。 
序説

 

日本の民主化は、日本の敗戦より始まる。従って日本が戦争にいかに敗北したかを知ることは、日本の民主化の不可欠の要件であらう。しかし、日本人は敗戦3週年を顧みて日本の敗戦についてどれだけ知ったであらうか? また日本の知識層は、日本の民主化の甘い空想のみを描いて、日本の敗戦の苦い悪夢を忘れてはいないであらうか? もちろん、新日本の将来は明るい希望と輝しい光明にあふれている。しかし、この理想のゴールに辿り着くためには、われわれはすべて過去の醜い事実を正しく認識し、その中より現実の針路をしっかりと把握せねばなるまい。それが新日本の将来を指導する無言の羅針盤となるであらう。従ってわれわれは過去の悪夢を決して怖れず、また少しも偽らず、日本の敗戦の真実の姿を反省することによって、日本の民主化の確乎たる設計をむしろ促進するてあらう。実際、日本人たるものは、惨憺たる祖国の敗戦の真相を知れば知るほど、醜怪なる軍部官僚の戦争指導の亡国的責任に驚愕と憤怒を禁じえないであらう。それと同時にまた、日本人たるものはあらゆる階層と職域とにかかわらず、その程度の相違こそあれ、自分の愛国的心理と戦争努力に対して忸怩(じくじ)たる感が深いものがあろう。われわれは敗戦国民として敗戦の真実を究めようではないか。それは消極的な自嘲のためではなくて、接極的な覚醒のためである。臭い物に蓋をしないで、むしろ腐敗した戦史の実相を明るみに暴露し、また過去の汚辱を闇の中に葬り去らないで、これを現実の批判の前に剔抉(てっけつ:えぐり出す)しよう。それは苦しいことであり、また辛いことではあるが、しかし、日本人のすベてにとって甚だ有益なことである。なぜならば、日本人は老若男女すぺてが程度の差こそあれ、日本人の伝統的精神の中に必勝不敗の神話的信仰を胚胎(はいたい:持つ)していたからである。それは世界連合諸国で記念されたVJデー、すなわち9月2日、日本の降伏調印の一周年記念日にあたりマッカアーサー元帥が発表した歴史的なステートメントの中にも次のとおり強調されているのである。
「 幾世紀の間、日本人は太平洋地域の隣人、即ち中国人、マレー人、インド人及び白人と異なり、戦争技術を勉強し、武士階級(warrior)を崇拝して来た。日本人は太平洋に於ける生まれつきの武士であった。日本の武力の不敗は、日本人の必勝不敗の信念を植えつけ、その文明の 全機構は武士階級の力量と知能に対する殆ど神話的な信念の基礎の上に打ち立てられた。それは政府のあらゆる機構のみならず、生活のあらゆる面に、すなわち肉体的の、心理的の、精神的の面にも完全に浸透し、且つこれを支配したのである。またそれはあらゆる政治的活動のみならず、すべての日常生活の面にも織込まれた。それは日本の存在の本質であるのみならず、また実際の縦糸と横糸であった。あらゆる支配は、全人口の僅か一部分にすぎない封建的支配者によって行われた一方、残る7000万大衆は僅かな進歩的分子を例外として、伝統や伝説や神話や軍隊組織の哀れな奴隷に過ぎなかった。戦争の全期間を通じてこれらの7000万大衆は、日本の勝利と日本の敵の野獣性以外はなにも聞かなかったのであった。そこへ突如、全面的敗北という深刻な衝撃を受けた。彼らの全世界は崩壊した。それは単に彼らの軍事カの崩壊と国家の大敗北とにとどまらず、彼らの信念の崩壊であった。それは彼らが信じ込み、それによって生き、それを求めて考えていた、すべてのものの分解であった。そしてただ道徳的な心理的な肉体的な完全なる真空(vacuum)が残ったのである。そしてこの真空の中へ、民主的な生活のあり方(Democratic Way of Life)が流れ込んで来たのであった。 」
しかし、日本人は民主的な生活のあり方を習得するばかりではなく、民主的な物事の考へ方(Democratic Way of Thinking)を体得せねばならない。それはマッカーサー元帥の忠告に俟つまでもなく、現在の7500万の日本人が『従来、教えられていたことの虚偽と旧指導者の失敗と過去の信念に対する悲劇的な失望とが、実際の現実の中に表示されたことを正しく理解するためである。もしこのような民主的な考え方を体得することなく、ただ単に民主的な言動のみを恣(ほしいま)まにするならば、マッカーサー元帥の説くごとく『日本人は3千年の歴史と伝統と伝説の上に築いた生活の理論と実践とが殆んど一夜にして粉砕した精神的革命の意義』をかえって、水泡に帰する恐れがあるであろう。日本の敗戦を正しく知ることは、日本人の精神的革命の不可欠の要素なのである。日本の敗戦の記録は日本人にとってもはや、怖しい悪夢ではなくて、むしろ貴重なる教訓となるであろう。そして、それが日本の民主化を推進する精神力となるであろう。 
日本敗北の真相

 

太平洋戦争――日本人は従来これを大東亜戦争と呼んでいたが、今後は第二次世界大戦の東亜戦線として国際的な名前を使用することになるであらう――の全戦争期間を通じてアメリカはいかに勝ち、また日本はいかに敗れたのであろうか? これは1941年12月月7日、日曜日(アメリカ時間)日本軍のパール・ハーバー攻撃によって始り、1945年9月2日、日曜日(日本時間)日本の無条件降状によって終った太平洋戦争の勝敗の結論的意義である。これに対して『太平洋の大勝利』の著者キャント氏は、420ページに及ぶ戦史の最終の第24章『大降伏』(GrateSurrender)において、次のとおり論断しているのは注目される。
「 日本の敗北はテクニカル・ノックアウト(TechnicalKnockout)であった。それに種々多様の攻撃の複合型式によって速成されたものだ。アメリカの空軍力は敵の心臓部の地域に最大の痛打を与えたけれども、いわゆる『空軍力による勝利』(Victorythrough Air Power)はなかった。また新しき海軍力として空母航空力と協同し、日本に最も接近した戦略的爆撃機の基地を前進させることを可能にしたが、しかし『海軍力による勝利』(Victorythrough Sea Power)もなかった。さらにまた歩兵部隊が基地線を前進させた重大な役割にもかかわらず『陸軍力による勝利』もなかった。何故なら休戦のラッパが鳴り響いた時に、日本の主力軍はいまだ撃破されず、実際は交戦さえもしなかったのであった。また原子爆弾によって最後の一撃を加えたが、原子物理学による勝利でもなかった。その代り、これらのすべてが窮極の勝利をもたらした複合的軍事力の本質的要素であったのである。 」
これはパール・ハーバーの攻撃より東京湾頭の降伏まで、アメリカの戦争記録を詳細に検討した新進の軍事評論家キャント氏の興味深い結論であるが、わたしはこれを捕捉して特に次の2点を強調したい。
(1) 日本の敗北は惜敗にあらずして、実際上テクニカル・ノックアウトであった。それは日米両図の軍事カに格段の相違があったからである。
(2) しかし、戦前ならびに戦争中アレキサンダー・セバースキー少佐一派の主張した『空軍力による勝利』(セバースキー少佐の同名の著書は1942年度のベスト・セラーとなった)の空軍万能論も、またW・F・カーナン中佐一派の主張した『陸軍力による勝利』(カーナン中佐の著宿『防禦は戦争に勝たず』も、また1942年度のベスト・セラーとなった)の陸軍万能論も、あるいはフランク・ノックス海軍長官一派の『海軍カによる勝利』の海軍至上論も、実戦の結果いづれも理想論ないしは希望的意見にとどまり、大戦争の現実は最近強力の陸、海、空軍の複合的軍事カが窮極の勝利を収めることを示し、かつ証明したのであった。
さて太平洋戦争は、日本の攻勢とアメリカ側の反攻ならびに勝利の二つないし三つの時期に分けられるが、キャント氏はこれを次の二つの時期に大別して、それぞれ二つの著書に詳述している。前期――1941年12月7日(アメリカ時間)日本軍のパール・ハーバー攻撃より、1943年夏ガダルカナル上陸作戦まで(キャント氏著『第二次世界大戦に於けるアメリカ海軍』) 後期――1943年ソロモン群島全域にわたるアメリカの反攻より、1945年9月2日戦艦『ミズーリ』号上の日本の無条件降伏調印まで(同氏著『太平洋の大勝利』) この前期の戦況に関しては、開戦の翌春すなはち1942年4月いち早く人気評論家ジン・ガンサーの名著『亜細亜の内幕 InsideAsia 』の改訂戦争版が刊行されて、第7章『日本の開戦』、第8章『パール・ハーバーと太平洋』、第20章『シシガポールの悲劇的最期』、第21章『戦火の蘭領東印度』、などにおいて太平洋戦争の緒戦の概要が記録されている。これは恐らくアメリカの太平作戦史の最初のものであらう。その後ガンサーは、戦局の進展に応じて要領よく毎年改訂をつづけたものと想像されるが、わたしがアメリカで 抑留中に入手した戦争版の第一版は、旧版の5000ヶ所を改訂し3万語を書き加えたと宜伝しているのは、さすがにアメリカ的のスピード・ジャーナリズムの典型であろう。しかしこや前期の戦記として最も注目されるのはキャント氏の前掲書を除いて、アメリカ海軍(退役)のウォルター・カーリング大佐及びウェルボーン・ケレー大尉共著『戦闘報告――パール・ハーバーより珊瑚海まで』(Battle ReportPearl Harbor to Coral Sea)である。これはルーズベルト大統領がアメリカ議会に対する開戦の教書(War Message)の劈頭で『屈辱の日』(TheDay of Infamy)と呼んだ1941年12月7日(アメリカ時間)のパール・ハーバーの惨害より珊瑚海々戦までの6ヶ月間、アメリカ海軍の歴史上の最悪の時期の勇戦苦闘を海軍側資料に基づいて記録したもので、当時アメリカの太平海艦隊が数的劣勢にもかかわらず、日本海軍の圧倒的攻勢といかに抗戦して、危機を打開したかを知るには貴重た文献である。これはノックス海軍長官の訓令により編纂されたものであるだけに、各海戦に関する正確な資料と記録的叙述が、従軍記者の戦記と異なりとくに異彩を放っている。ところで、太平洋戦争の後期の戦況については、いまここに紹介するキャント氏の著書が最も新しくかつ総合的に記録している。もっとも各海戦の部分的研究に関しては、例えばアメリカ著名の海軍評論家フレッチャー・プラットの『日本艦隊の死滅』(The Death of Japanese Fleet 『改造』1946年4・5月号掲載)の如き論文が注目される。しからばこの時期においてアメリカの『太平洋の大勝利』はいつから開始されたか? これに対してキャント氏は明瞭に1943年2月11日と記している。しからばこの日は、一体いかなる日であらうか? 彼の記録をひもといていて、日本の苦々しい敗戦の跡を辿ることにしよう。 
アメリカ勝利の開始点

 

1943年2月11日、全連合国はほっと安堵の胸を撫で下したのであった。なぜならアメリカ合衆国海軍は次の通り発表したからであった。「ガダルカナル島の日本軍は一切の組織的抵抗を終了した」かくて軽率な連中は、ガダルカナル戦の手間どった損害の多い勝利の後は、東京への道は今や坦々と開けて連合国軍はその決勝点へ向ってようやく突進するように話合ったものだ。しかしこの遠隔の、一般によく理解されていない戦争を闘いつづけている前線の将兵は、その前進についてそんな生易しい幻影を抱いていなかった。もっとも彼らもすべて東京へ到達するに要する時日については過少評価していたが、しかし彼らは補給の困雛と熱帯戦の惨憺たる状況と、今後連合国軍が前進するごとに抵抗するであらう日本軍の強情な頑張り――それはその中で最も重大なものであるが――を決して過少評価していなかった。ここでキャント氏は太平洋戦線の地図を入れて、1943年2月11日現在の日本軍の態勢を次の通り詳細に説明している。これはアメリカの『太平洋の大勝利』の開始点として、その後の世界戦争史上未曾有の近代的水陸両用作戦の全貌を正しく理解するために必要な前提条件となっている。
日本軍の配備要図を概観すると、まず北は本州の東北延長である千島列島のみならず、アリュシャンン群島のアッツ及びキスカ両島(アガツ島は1942年夏、この両島とともに占領されたがその後に放棄された)に前進基地を有した。アッツ及びキスカ両島の日本軍は アラスカまたはカナダ及ぴアメリカ本土には積極的脅威を及ぼさなかったが、しかしこの2基地より日本軍は飛行機及び潜水艦の偵察哨戒を行うことが出来たので、もし両島の開発施政に熟練と工夫を凝らしたならば北アメリカ全土に重大なる潜在的脅威となりえたであらう。いづれにしても日本軍がこの両島に立籠るかぎりは、太平洋の濃霧の発生地であるアリューシャン群島経由のアメリカの千島及ぴ北海道進攻作戦は実現不能であった。
千島・アリューシャン線より南方のミクロネシアに至る間は、尨大なる海洋の空所が横たわり、東京の南東1150哩(マイル)、北緯25度の辺りにある南鳥島(マーカス)に達するまでの広大な水面には、僅かな汚点は一つもなかった。そのつぎにウェーク島があるが、これまをた偵察機の重要な基地であり、また恐らく潜水艦の作戦基地でもあった。それよりはるかに重大であり、かつ1943年2月におけるアメリカの軍事力では接近し難く見えたのは、日本の天嶮ともいうべき飛び石――すなわち南鳥島及びウェーク両島の西方に横たわる伊豆、小笠原、硫黄、マリアナ諸島群(グァム島を含む)であった。それはあたかもT字を逆さにして直立させたごとく、カロリン群島に直接連なっていたが、このカロリン群島はフィリッピン群島の戦闘機行動圏内まで延々2000哩の洋上に広がっていた。そしてマーシャル群島とその南方の次の占領島嶼のギルパート群島が、日本軍のミクロネシアにおける前線をなしていた。
マーシャル群島の主要地点は攻撃並びに防禦の両用に十分配備され、またギルバート群島の主環礁たるタラワ島も同様であった。この東方及び南方の洋上には小さい無人島が連なっていた。ホーランド及びベイカー両島ともアメリカの国旗の下にあったが、太平洋戦争の勃発するまでは、いまだ軍事的目的のため開発されていなかったので、ただ海鳥の巣に委ねたまま放棄されていた。日本軍もこれらの島の空巣狙いはしなかった。かくて敵のアリューシャン列島侵入を除けば、ちょうど国標日付変更線が日本軍対アメリカ軍の海洋戦線を形成し、それははるかに赤道を越えて南方350哩のエリス諸島の付近まで達していた。そこで日付変更線は東南にそれているが、もし180度の子午線を辿るならば、ちょうどエリス諸島の真中を通過するであろう。したがって日米両軍の戦線は子午線に沿っているといえるかもしれない。なぜならば当時、エリス諸島は日米両軍のいづれの側にも確保されていなかった。1942年12月、同群島にいた少数の英軍は撤退して、日本軍が各環礁に巡視隊を派遣していたが、しかし1943年2月に日米両軍ともその占領を声明していなかった。そしてこのエリス諸島の一つのフナフテイ島の作戦こそ、ギルバート及びマーシャル両群島よりマリアナ群島に至る蛙跳び作戦の大連続戦の開始点となった。エリス諸島は南緯10度辺で消えているが、ちょうどここで戦線は右角をなし西方に折れ、南緯10度線と並行して1200哩の洋上をソロモン群島まで及んでいる。そして少々曲りながらガダルカナル島の北部を経てニューギニアに達している。この南緯10度線の真南にあたり、世界第2の大きなニューギニア島の東端にミルン湾があった。日本軍と連合国軍はこのミルン湾の争奪と確保を競争したが、1942年8月及ぴ9月に遂に連合国軍の勝利に帰した。またこの少しばかり北方にグツトイナフ島があったが、これも同年10月オーストラア軍によって再占領された。そして1ヶ月後にはオーストラリア軍及びアメリカ軍の両部隊はニューギニアのオーエン・スタンレー山脈を突破してプナ及びゴチ付近で合流し、日本軍を海岸沿いにラオン湾へ向けて押返し始めていた。しかし連合国軍の支配は南部ニューギニアでさえも、同島の中央部(豪州行政下のパプア)以上には及ばず、蘭領の西半分の全域は敵の手中に在った。そして実際に日本軍は蘭領東インド(現インドネシア)の一平方フィートの土地さえもことごとく占領して、それはインド洋に臨んだスマトラの西北端の岬にあるサバンまで西方3000哩(マイル)に及んでいた。また日本軍はフイリッピン群島、英領ボルネオ、マレー諸州及び海峡植民地(シンガポポールを含む)のすべてを占領し、さらに仏領印度シナ(べトナム)、シャム(タイ)及び印度洋上のアンダマン及びニコバル両島を占領していた。また日本軍はビルマでは、最北部の嶮峻の山岳地帯のフォートー・ヘルツ付近の数平方哩を除いた全土を占領し、中国では国内の大部分と福州及び温州を除く良港を全部占絡していた。かくて東シナ海はまるで日本の湖であった。開戦後18ヶ月以上の間、連合国側の飛行機は一機も東方の洋上より来襲しなかったし、また連合国軍の艦船は一隻も、2年以上の間この湖に侵入しなかった。このように敵国日本は広大なる生存権を保持して、潜水艦以外の連合国艦船の攻撃より全く安全に、蘭印諸島(インドネシア)の掠奪品を、本国に連続往復して運搬し、また本国より軍隊を交通の内線に沿って前哨地点へ派遣することが出来た。そしてこの潜水艦の封鎖も決して完成されなかった。実をいえば、この日本軍の防禦線の周界は日本のように潜在力の乏しい国にとっては余りに長大すぎたが、しかし安く買って高く売ることが出来た前哨基地によってよく護られていた。また日本の内面要塞線(日本、揚子江以北の中国占領地域、朝鮮及び満州)に自給自立していたので、たとえ凡ゆる外廓線が突破されても十分に防禦に堪え、攻撃するには困難なものであった。かくて東亜において戦う連合国の直面した任務は、全く恐るべきものであった。これがキャント氏の説明する歴史的な1943年2月11日現在のアメリカの『太平洋の大勝利』の開始点の戦線概要である。 
日米戦闘力の比較と評価

 

それではこの当時、日本軍の戦闘力とアメリカ軍の戦闘力との比較はどうであったろうか? それはキャント氏もいうように日米両軍の重爆撃機より銃剣に至るまで各種類、各性能について比較し、かつ評価するのが最も便利であらう。
これについて彼の詳細な説明を要約すれば次の通りである。
(1)長距離爆撃機については、アメリカによって代表される連合国軍は日本より圧倒的に勝れている。
(2)中型爆撃機については、日本もほぼ同等であった。
(3)雷撃機については各種のグラマン製『アベンジャー』機は、日本が1943年に新型の雷撃機の大量生産を開始するまで、比較にならないほど勝れていた。
(4)急降下爆撃機については、アメリカが断然優勢であった。
(5)戦闘機については、日米両軍の功績に関してつねに論争があった。戦争の初期における、あらゆる日本軍の戦闘機の原型は三菱の零型戦闘機であった。それは軽快で、快速で、高度の機動性があった。初戦には連合国軍のいかなる戦闘機よりも上昇力で勝れていた。また20ミリの戦闘砲2門と機関銃2基を装備していた。これに対して初期の連合国軍の戦闘機は、速力も、上昇力も、機動性または火力装備も不十分であった。また連合国軍のパイロットは、このような敵に打向って闘う訓練も経験も十分にもたなかった。連合国軍は、敵と死物狂いで闘うべく努めたが、それはいわば零型戦闘機の条件の下でそれと闘うのと同然であった。しかし1943年当初には、連合国軍は改善された戦術と急速に改良された新鋭機をもって、日本軍の零型戦闘機と闘う手段を講じつつあった。
(6)対日戦の多くは尨大なる海洋上で闘われねばならなかったので、この任務のために海上航空力すなわち航空母艦勢力が頗る重要であるが、この時期において連合国側の航空母艦は全部で甚だ僅少であった。パール・ハーバー以来、4隻のアメリカ航空母艦すなわち『レキシントン』『ヨークタウン』『ワスプ』『ホーネツト』は沈没していた。また『レンジャー』はいまだ大西洋上にあり『エンタープライズ』は1941年4月以来、引続いて太平洋勤務にあったが、東ソロモン群島及びサンタ・クルス両海戦で爆弾の被害を蒙っていたので、1942年夏より43年まで南太平洋上で補助勤務についていた。かくて当時、太平洋戦線で戦闘に適するアメリカの戦闘的航空母艦は『サラトガ』ただ一隻であった。そして新造航空母艦はいまだ一隻も戦闘行動の用意が出来ていなかった。すなわち『エセックス』は1942年7月31日に進水して同年の暮れに就役したがいまだに装備中であり、新しい『レキシントン』は1942年9月26日に進水し、『バンカー・ヒル』は同年12月7日に進水したが、両艦とも就役していなかった。また新しい『ヨークタウン』は1943年1月21日まで進水しなかった。したがって日本艦隊に対して『サラトガ』のみに重荷を負わせておくことは出来なかった。キャント氏の見解によれぱ、この当時アメリカ海軍の情報部でさえも日本海軍にこの時、いかなる型の航空母艦が、何隻存 存していたか判らなかったことが明瞭であった。しかしその後の撃沈状況によってみると 日本側にはまだ数隻の戦闘用の航空母艦のみならず、アメリカ側の『ロング・アイランド』、または当時就役中の他の型の護送用航空母艦よりも大きくて速い護送用航空母艦があったことを示している。イギリス海軍はこの劣勢を補うために、航空母艦『ビクトリアス』を太平洋戦線に振向けたので、1943年初めの数ヶ月間、ハルゼー提督靡下の南太平洋艦隊には『サラトガ』と『ビクトリアス』の航空母艦2隻が作戦したのであった。要するに航空母艦では日本が優勢であった
(7)戦艦でも日本がそれまでには相当に有利であった。パール・ハーパー攻撃によって、アメリカ戦艦群の中で『アリゾナ』は永久になくなり、『オクラホマ』は戦闘不能となり、また『カリホルニア』及び『ウエスト・バージニア』はいまだ再就役していなかった。かくて当時アメリカ海軍には11隻の戦前の型式の戦艦が残存していたが、この中で旧式の4隻は大西洋上にあり、残る7隻は太平洋上にあった。そしてこの太平洋上のアメリカ戦艦群には、16インチ砲を9門備えた3万5千トン級の新鋭戦艦『ノース・カロライナ』『ワシントン』『サウス・カロライナ』の3隻が加わっていた。この中で『サウス・カロライナ』はガダルカナル戦で損害を蒙り修理中であった。また新戦艦『マサチューセッツ』はカサブランカ攻撃後、太平洋へ移動する予定であったし、『インディアナ』はちょうど、太平洋に到着したところで、『アラバマ』も間もなく馳せ参んずることになっていた。これに対して日本側の戦列については種々の臆測が乱れ飛んでいたが、いまより推測するに、1943年初頭に戦艦10隻並びに巡洋艦1隻が就役していた。その中には修理中のものも若干あり、その後数ヶ月間に戦闘出動の危険を冒したものは一隻もなかった。
(8)日本側の巡洋艦と駆逐艦については、より以上に観測が混乱していた。連合国側のコミニュケにおいて2回ないし3回も撃沈された日本の艦隊並びに戦隊があった。たしかに間違いが相当あったに違いない。なぜならば日本側では1944年末に至るまで、相当数の巡洋艦と駆逐艦を引続いて繰出していたからだ。
(9)日本の軍艦の質を分析することは、その数を評価するのと同様に困難である。日本の軍艦の中には、甚大なる損害を蒙りながら異常な頑強さを発揮したものもあり、またサバオ海戦におけるごとく優秀な砲撃を見せたものもあった。また各艦の単独行動においても艦隊または戦隊行動においも、ともに立派に操作されたものもあった。しかしながら、日本艦隊の行動はつねに無定見であった。例えば、臨機応変の処置が遥かによい結果をもたらすであろうときでも、頑固に予定計画を強行したことが時々あった。そして戦局が進展するにつれて、日本側が当然に予期しうるよりもはるかに安価なる勝利を仕遂げる希望をもって、いわば戦争市場における格安品(バーゲン)を買いあさって、狡猾な且つ複雑な戦術に訴える傾向を示すようになった。これら日本人の特異な心理的過程はさておいても、これは日本軍の武器の特徴を反映している。例えば日本軍のレーダーは馬鹿にはできないが、連合国軍のレーダーのように優秀でもなければ、かつまた大量でもなかった。また砲撃装置も主としてレーダーに依存しているので、これが大分苦しんだ。
(10)日本の軍艦は一般に速力も速く、機動性もあり、装甲や艦内設備も勝れていた。しかし軍艦は専らこれを指揮する士官の良否に依存するが、日本人はこの点でその素質が最もムラがあって不均衡であった。例えば厳格なる命令によって行動し、奇襲を敢行するときには日本人は最善を示したが、しかし戦闘が白熱化して状況の変化に応じ作戦計画を修正しないとならないときには必ずいつも、日本人の考えは融通が利かず、まるで一本槍でかつ進取の気象に欠け、アメリカ又はイギリJスの海軍士官には不可解であった。これは、また日本軍の指揮官の場合も全く同様だ。もちろん、勝ち戦さの時には立派にみえたが、戦況が悪化したときにはその欠点が明瞭になった。すなわち、日本軍の指揮官の防禦戦法はまるで木偶坊(でくのぼう)のごとく間の抜けたものであった。その戦術は全く単調な型式であったが、それでも初期の段階ではまだ悪くもなかった。それに連合国軍の守備線に侵入して司令部を夜襲したり、あるいは同様の撹乱戦術であった。しかし、そのいわゆる正面突破攻撃はしばしば愚劣に敢行され、まるで殲滅的な砲火の中へ狂気のごとく殺到していった。 その次の段階は、神道主義を発揮したバンザイ突撃であったが、これは決して健全な戦術ではない。
(11)日本兵の最も顕著な且つ実際の特徴は、その頑張な粘りであった。どんな小さい地点でも、各人が確実に死に直面するまでは守り通した。また日本の将官級の将校は天皇の命令があるまでは、決して降伏しなかった。レイテ島で片付けられた約7万人の日本軍の中で、最高位の捕虜は大尉であった。大部分の戦闘において、とくに初期の戦局では捕虜になった日本兵と殺された日本兵との割合は一人対約百人であった。そして1943年末まで、アメリカ側に捕えられた日本軍の捕虜は、わづか277人にすぎなかった。これは神道と現代日本の『思想コントロール』が甚だ預かっていた。日本の徴募兵は8歳の子供の時分より軍国的病毒を注射されて、軍事的指導者が欲するもの以外の外界の知識は全く持たなかった。彼らはただ『白い野蛮人』に捕えられたら拷問されると教えられていた。また自殺(切腹またはハラキリ)でさえも、天皇のために死ぬことは光栄の軍神化を意味し、これに反して捕虜に甘んずることは死よりも悪い言語道断の不名誉であると教えられてきた。これに対してアメリカ兵は10人の中の1人さえも、日本兵が満州か中国で実行してきたような軍事的訓練または経験に匹敵するものも持っていなかった。さらにアメリカ兵は10人の中の1人さえも、日本兵または他のいかなる侵略者と闘う積極的慾望をもっていなかった。実際、アメリカ兵の士気の最大の弱点は、なぜ、闘わねばならないかに関して明確な観念を持たなかったことだ。それは陸軍省が、嫉妬深い議会を怖れて、政治的なものに近似した教養(ドクトリン)をアメリカ兵に吹込むごとを注意深く避けたからであった。その結果は、従軍記者や戦線視察の議員がアメリカに向って、なんのために戦っているかと尋ねたとき、彼らの答はつねに『オッ母さんのアップル・パイの一片』であったのだ。もっともこれは、数億のアジア人の上に天皇の支配を達成しようと欲する日本兵の欲望よりは、はるかに称賛されるぺきものかもしれない。しかし、それはアメリカ兵を軍事的に、より効果的にはしなかった。
(12)軍事的技術者としては、アメリカの徴募兵は日本の徴募兵に対して二つの大きな利益をもっていた。第一にはアメリカ兵は個性主義者であるから、戦況の変化に即応して自己ならびにその計画を、いつでも修正する能力があった。第二にはアメリカ兵は少年時代より自動車工場や機械修理工場の仕事を見て興味をもっているので、機械的に熟練して近代戦争の扱いがたい武器も怖れなかった
(13)アメリカ軍の軍隊指揮の弱点は、主として急速な兵力拡張の直接の結果であった。1943年〜44年度におけるアメリカ陸軍は、1940年9月に軍備接張のパークウォズワース法案が通過する直前のアメリカ陸軍の、50倍〜75倍に当った。ところがこの同じ期間に、日本陸軍はわづか2倍から3倍に拡張したに過ぎなかった。またアメリカ海軍は約10倍に拡大したのであった。
(14)太平洋戦争は、アメリカ陸軍にはとくに卓越の可令官を生み出さなかったようにみえる。マッカアー元帥かクルーガー大将のごとき人物の名声は、むしろパール・ハーバーの開戦以前に樹立されていた。またアメリカ海兵隊ではバンデグリフト大将やホーランド・スミス中将やローイ・ガイガー中将が顕著な功績を立てたが、しかしこれらの任務は陸軍の同地位の将軍の任務とは比較にはならないほど大きかった。海兵隊はあらゆる輝しい成功を収めたが、いまだに海軍の付属物である。これに反してアメリカ海軍には、太平洋戦線におけるあらゆる他の人物を圧倒するごとき二大人物が出現した。それはニミッツ元帥とハルゼー大将の両提督であった。ハルゼー大将はパール・ハーバー以前よりアメリカ海軍の士官ならびに水兵の間にすこぶる人気があったが、大平洋戦の初期の航空母艦機動作戦の痛快な『ヒット・アンド・ラン』攻撃戦によって全米に人気と名声を博した。ただし皮肉にも彼は1944年10月の第2次フィリッピン海戦までは、日本海軍との主要な海戦にぶつからなかったのである。 しかし太平洋全作戦の礎石はニミッツ元帥であった。この中肉中背の白髪の提督の責任はあまりに重大であったので、彼は戦争期間の大部分を全作戦の神経中枢であったパール・ハーパーを離れることが出来なかったが、彼はここで見事に『太平洋の大勝利』の責任を果したのであった。ニミッツの名前は、太平洋の名前とともに残るであろう。 
『東京特急』の出発

 

これがキャント氏の説明する1943年2月当時の日米両国の戦闘力の概観である。もちろん、これらの戦闘力の根幹には彼我(ひが:敵と自分)の軍事生産力、軍事的資源、戦争政治指導力、その他の重要な問題が横たわっているが、しかしキャント氏の指摘した直接的の戦闘力の比較評価のみを見ても、日本の敗北の宿命的結論が容易に見出されるであらう。すなわち日本のテクニカル・ノックアウトの要素はあまりに多くありすぎたのだ。かくてパール・ハーバーの騙し討ち (Trickily Attack) よりこの1943年2月11日まで、アメリカは太平洋戦線における連合国軍の主軸として苦難の道を辿って来たが、いよいよ大反攻の準備なるやここに勝利の大道が開けたのであった。そして水陸両用の画期的ないわゆる『蛙跳び作戦』を大規模にかつ合理的に展開して、東京行特急列車(TokyoExpress)が猛然と全速力で出発したのであった。アメリカの大反攻の前に、日本軍は周章狼狽して、狂信的 (fanatic) な抵抗を試みたが、もはや実力を無視した長大なる防禦線は『アメリカ軍が攻めるところ必ず落ちる』の悲劇を繰返すのみで、『東京特急』は時間表 (Time Table) の通り目的地へ進んだのであった。あるときは予定の停車駅 (Stop) に立ち寄らずに通過し、前進したことも再三あった。最もこのアメリカの勝利の出発より東京入城の最後の決勝点までに2年半の歳月を要しているが、これは日本軍の善戦よりむしろアメリカ軍のヨーロッパ戦線に対する重点的努力、ならびに太平洋作戦の海上輸送、補給、集結の困難によるものであることがキャント氏のみならず、あらゆるアリカ側の太平洋戦争記緑によって明らかにされている。日本ならびに日本人にとって、宿命的な敗北は、すでにこの歴史的な日に審判されたのだ。日本でも1942年夏ガダルカナル島争奪戦の最中に、日米戦争の関ヶ原の決戦であると一時宣伝されたことがあったが、日本軍の敗退に伴い、いつのまにかガダルカナル島の戦略的転進と逆宣伝されるに至り、天皇の名における勅語と大本営発表が日本人を欺くための道具化したのは、後世にまで注目されるだらう。また日米開戦以来、太平洋戦争を冷静に注視していたソ連でさへ、著名な軍事評論家M・トルチェノフ大佐が『戦争と労働階級』誌上で1942年中に早くも次のとおり喝破していたことも反省されねぱならなかった。『日本海軍は1942年5月及び6月、ミッドウェー及び珊瑚海の二大海戦の敗北によって、完全に太平洋上の制海権を失い、戦局は逆転して戦争の主導権はアメリカ海軍の手に移った』またある外国新聞記者が『日本は戦争を開始する準備のみして、戦争を最後まで遂行する準備を怠っていた』『日本人は近代戦争 (Modern War) の素人 (Amateur) であった。彼らの武器も戦法も日露戦争当時より、概して進歩を見せていなかった』と痛烈な批評しているのは決して悪意ある毒舌ではなかった。その証拠には目下、市ヶ谷の国際戦犯法廷で刻々と暴露されつつある日本の戦争指導者の意図もまた、『アメリカには勝てないが、戦争が長く続けばなんとかなるであらう』という実に最初から無責任極まるものであったからだ。わたしは、キャント氏が詳述しているとおり『日本の敗北はテクニカル・ノックアウトであった』をいう悲しい恥ずかしい結論を、むしろ日本人に対する好意ある忠告として認めざるをえないのである。 
山本元帥の奇怪な死

 

軍国日本の勝利の『偉大たる幻影』(Grand Illusion)の象徴であり、無敵海軍のホープであった連合艦隊司令長官山本五十六元帥の戦死は、実に全日本国民にとって青天の霹靂’へきれき)のごとき衝動を与えた。そしてこれは太平洋戦争の全経過を公正にかつ冷静に点検してみると、それは極めて宿命的な日本の敗北に対する恐しい兇兆の予言的象徴であった。それはただ単に敗北の凶兆であったのみならず、日本大本営の作戦指導上の根本的失策の奇怪な事実を露呈したものとして注目される。キャント氏もこの点を指摘してとくに第4章を『山本の怪死』(The strange death of Yamamoto)と題して、その冒頭で『ニュー・ジョージア島の侵入作戦の準備が進行中に、太平洋戦争中で最も注目すべき事件の一つが起った』と説明している。この山本元帥の死が、なぜ注目されるかというと、それは当時日本の大本営が日本人のために発表したように、同元帥が勇敢に機上から日本軍を指揮中に戦死したものではなくて、日本大本営と作戦首脳部の不注意より日本海軍の極秘暗号電報がアメリカ側によってすでに一年前より解読されていたために、同元帥の行動が予知されて驚くほどあっけなく日本海軍の巨星が地に墜ちたからであった。これを1943年(昭和18年)5月21日15時、大本営は次のとおり発表した。
「 連合艦隊司令長官、海軍大将山本五十六は本年4月前線において全般作戦指導中、敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に連合艦隊の指揮を執リつつあリ。 」
それと同時に情報局は『――多年の偉功を嘉せられ大勲位功一級に叙せられ、元帥府に列せられ、特に元帥の称号を賜い、正三位に叙せられ、逝去につき特に国葬を賜う』と発表したが、決して一ヵ月以前に起った山本元帥の奇怪な死の真相を国民の前に知らせなかった。それは無敵海軍のホープを保ち、かつ日本の勝利の『偉大なる幻影』を傷つけまいとする政府当局のはからいであるよりは、むしろ山本元帥の奇怪た原因をうやむやに葬って責任を頬被りしようとする大本営の腹黒い魂胆と見られた。しからば実際に、山本元帥の戦死の事実はいかなるものであったか? 私はいま詳細なる記録によって奇怪なる真相をつぎに要約しよう。1943年4月17日、ガダルカナル島のへンダーソン飛行場とルンガ湾の中間の谷間にあるソロモン群島方面空軍司令部の司令官に宛てて一通の極秘の電報がくばられた。その電文は白本の連合艦隊司令長官山本五十六提督が南太平洋ならびに西南太平洋の日本軍基地を巡察する道筋を詳細に記してあった。それによると山本は翌朝ラバウルを出発、三菱零一型双発爆撃機(アメリカ軍では『ベッティー』と通称する)に搭乗し、幕僚の大部分は同型の他機に分乗して零型戦闘機6機の護衛の下に南下し、一方は地方時間の午前9時45分にブーグンビル島の南端のカヒリ飛行揚(ブイン付近)に到着する予定であった。同方面のアメリカ軍司令官は山本を討取るため『最大の努力』 (Maximum Effort) をつくすべしと命令された。そしてこの電文の最後には海軍長官フランク・ノックスの署名があった。
当時ガダルカナル島を起点に勝利の大反攻のスタートを切ったアメリカ軍は、まづヘンダーソン飛行場より戦闘機の前進基地を推進するために、60哩先のラッセル諸島を占領して、そのバニカ、バヴヴ両島に数ヶ所の飛行基地を建設した。それはヘンダーソン飛行揚より往復120哩で、戦闘機にとって僅か20分間の飛翔時間にすぎなかったが、しかし当時連合国空軍の最新型戦闘機であった『ワイルド・キャット』『コルセーア』『ウォアホーク』『エアコプラ』の航続距離は500哩を少し越える程度であったから、ガダルカナル島より日本空軍の基地のニュー・ジョージア島西南端のムンダまで190哩を翔破してここで戦闘を交へた後、さらに同距雛を飛び帰ることは非常な危険であった。それはせっかく日本空軍の基地を襲っても、僅か数分間の戦闘時間しかガソリン・タンクが許さなかった。従って、アメリカ空軍のラッセル諸島進出は、僅か60哩の基地前進でも重要な攻戦略的意味があったのだ。例えぱソロモン群島の日本軍の主要基地であるブーゲンビル島南部のブインを昼間爆撃する場合には、アメリカ軍の重爆撃機はガダルカナル島のへンダーソン飛行場より出発して来たし、途中ラッセル諸島より発進した戦闘機群と合流して、その攻撃的掩護の下に目的地を空襲することが出来るようになった。このアメリカの尺取虫式の二段構えの空軍基地の前進戦法は、太平洋全戦局に適用されて、その後サイパン島及び硫黄島よりB29及びP38戦爆連合の日本本土総爆撃の最終段階まで、合理的な威力を発渾したのであった。ところで『山本討取れ!』のノックス海軍長官の直電をソロモン群島方面空軍司令官が受取ったとき、ラッセル諸島のバニカ島に新設した飛行場が、目指すプーゲンビル島のカヒリ飛行場に最も近い連合国軍基地であったが、生憎、いまだ長距離戦闘機の使用には適さなかった。それでこの重大命令は当時ヘンダーソン飛行場に臨時駐屯中のジョン・W・ミッチェル少佐指揮の陸軍P38型『ライトニング』戦闘機に下ったのであった。
かくて太平洋戦争中で最も注目すべき劇的な事件が映画的スリルの中に開幕した。重大命令を受けたP38型『ライトニング』戦闘機は、胴体に補助タンクを取りつけても行動半径は僅か500哩にすぎなかった。しかるにヘンダーソン飛行場よりカヒリ飛行場まで直行航程でも300哩あり、もし中部ソロモン群島を占領中の日本軍のレーダー基地を避けるために西南海上を迂回すれば、400哩以上もあった。これは山本元帥一行を攻撃する限界が僅かにカヒリ飛行場に近接して攻撃しなければならないことを意味した。かくてチミチェル少佐ならびにトーマス・G・ランヒァー大尉の計画に基づいて山本元帥一行をカヒリ西北方35哩の地点で撃撃することに決定した。ヘンダーソン飛行場では別に用心もせず行動を秘密にしたかったので、多数の地上勤務の将校と兵隊は直ちに何ごとが進行中であるかを知った。そしてそれは、あとで司令部にとって重大な困惑の種となったのであった。さてこの任務のために戦闘機隊の『ライトニング』機を18機繰り出すことが出来た。そしてミッチェル隊長は、この中の4機をランファイアー大尉指揮の攻撃隊に割当て、残る14機を自ら直接指揮して上空掩護隊に用いる意図であった。それはソロモン群島方面の日本空軍司令官が来訪する山本提督に敬意を表するため、その指揮下の100機以上の飛行機を進発させることが十分予期されたからであった。この山本提督こそ、パール・ハーパー攻撃が計画されたときの日本の当局者であったのみならず、彼がホワイトハウスで城下の誓いを行うであらうと豪語したことによってアメリカ全国民の憎悪の的となった人物であった。かくていよいよ4月18日早朝壮挙敢行にあたり、ランフィアー少尉指揮の攻撃隊4機の中の一機は、滑走中に車輪のタイアをハンクさせて離陸不能となり、また他の一機はエンジン不調のため引返したので、ミッチェル隊長は自分の指揮下の2機をもってこれを補充し、上空掩護隊は12機で当ることになった。ブーゲーンビィル島への飛行は時速250哩で海面をすれすれに超低空飛行を続けが、予定の目的地に到達する5分前に一斉に急上昇を行った。ランフィアー少尉指揮の攻撃隊は3000メートル、またミッチェル少佐指揮の上空掩護隊は6000メートルへ昇った。そして午前9時33分にブーゲンビィル島の海岸を通過した。この重大任務の成否はほとんど全くタイミングにかかっていた。それは山本元帥一行の到着時間の予測に対する攻撃隊のタイミングの予測という微妙なものであった。しかし山本元帥にとって不運なことには彼は敏速な性格を持ち、彼の習慣を熟知したアメリカ諜報将校は、戦闘機隊に対して必ず彼の一行が予定の到着時刻に現れるであろうことを請け負っていた。そして彼はアメリカの予期より1分早く現われた。午前9時34分、敵爆撃機2機は零型戦闘機6機を伴って現われた。しかし護衛を強化するため、同方面の各飛行場より集まる敵戦闘機の、予期された雲のような大群は実現しなかった。敵の先頭の零型戦闘機はランフィアー大尉機に向って来た。そして彼がこの敵機と交戦して撃墜した間、山本元帥及び幕僚を乗せた改良爆撃機は、樹木の上の高さにまで急降下した。ランフィアー大尉は直ちにこれを追って敵の零型戦闘機2機に肩すかしを喰わせながら先頭機に向って挑みかかった。彼自身の目測では彼はこのとき樹上僅か3メートルの超低空にあったが、この瞬間彼は敵爆撃機の編列に向って直角に猛射を浴びせかけた。たちまち山本元帥を乗せた爆撃機は右側エンジンと右翼に火を噴いて、ジャンダルの中へもんどり打って突込み、粉砕し、焼失した。(その後日本側の報道によれぱ、山本元帥は座席で両膝の間に軍刀を挾んだまま死んでいるの発見された。) それから矢つぎばやにレックス・パーバー中尉機は第2番目の幕僚を乗せた爆撃機を、敵の零型戦闘機3機を追払ったのち、同様の猛射で撃墜した。この攻撃でアメリカ側の損害はレイモンド・M・ハイン中尉の1機のみであった。それはバーバー中尉機を襲撃した敵戦闘機と交戦後、黒煙を吐きながら高度を失ってゆく姿が望見された。そしてハイン中尉の消息はその後聞かれなかった。ガダルカナル島の米軍基地では盛大な凱旋祝賀会が催された。そしてこの吉報は直ちに空軍の陣中新聞に掲載された。ところが、もしアメリカ軍が山本元帥一行の巡察飛行を予知していることを日本軍が探知したならば、彼らはこの情報の根源を追及しうるかもしれないことがわかった。それは当時、明瞭にも敵は山本元帥一行の搭乗した、特別の爆撃機の襲撃について、背後になにか潜んでいるかも知れないと不審に思いながらも、全くアメリカにとって幸運な『まぐれ当り』に他ならないと確信していたからであった。それならこの山本元帥の怪死の真相は如何? その説明は実に全く簡単だ。アメリカ海軍の情報将校はすでに山本元帥がこの最後の死の飛行に出発する一年以前より、日本海軍の暗号 (code) を解読していたので、日本海軍の無電の傍受により、山本元帥の巡察計画を知っていたのであった。これが山本元帥の奇怪な死の真相であり、嘘のような平凡な最後の事実であった。もはや、これ以上蛇足を付け加える必要もあるまいが、アメリカ側でも日本海軍の暗号解読の事実を秘するために山本元帥の『討取り』をあまり宣伝しなかった。そして日本の降伏の年の9月11日、アメリカ陸軍省は初めてアメリカ空軍P38戦闘機隊が山本元帥一行の搭乗機を待ち伏せして見第に撃墜した事実を簡単に公表したのであった。これは9月12日ワシントン発電で、14日付の日本の各新聞紙上の一隅に申し訳的に掲載されたが、降伏直後の国内不安で人心動揺の最中のため、気に留めた人は少かったようである。 
アッツ島攻略戦の全貌

 

山本元帥の『討取』によって、士気いよいよ昂まったアメリカ軍は、南太平洋艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将総指揮の下に、下部ソロモン群島(ガダルカナル島、ラッセル諸島、フロリダ島など)を拠点として、日本軍の支配する中部ソロモン群島(ニュー・ジョージア島、レンドバ島、コロンハンガラ島、バングス島など)へ、大規模な進攻追撃作戦を快速調で開始した。かって日米修交の当時、ワシントンで客死した故斎藤博駐米大使の遺骨をはるばる日本まで送り届けた儀礼艦『アストリア』号の艦長であったリッチモンド・ケリー・ターナー少将(当時大佐)が水陸両用作戦の指揮官に当り、フロリダ島のツラギは海軍の前進基地となり、またラッセル諸島には膨大なる南太平洋上陸用艦艇部隊司令部が新設されてジョージ・H・フィート少将が司令官に任命された。かくてアメリカ本国で新造された最新型の各種上陸用艦艇(LST・LCT・LCI)の大群が集結され、新鋭の陸軍及び海兵隊の大部隊が続々到着して、3月より6月にわたり南太平洋戦線はとみに緊張した。キャント氏はこれを『ハルゼーのニュージョージア進軍』と呼んで、約25ページにわたって世界戦史上未曾有の特異な水陸両用作戦の全貌を詳説しているが、ここでは紙数の制限のため割愛せねばならない。ただ8月13日ニュー・ジョージア島の日本軍の重要な拠点ムンダの陥落により、リチャード・M・ペイカー少佐指揮の海兵戦闘部隊が進駐し、これによってアメリカ空軍の傘(Umbrella)がラッセル諸島より到達しうる最大距離よりも、更に135哩拡張されて、以後の進攻をいよいよ急速ならしめた。かくて南太平洋のソロモン群島方面の日本軍の前線が次々に突破されている間に、はるか北太平洋のアリューシャン方面では、日本軍の最北端の拠点アッツ島の一角が崩れ落ちたのであった。このアッツ島の攻略戦は実に太平作戦争最大の悲歌(Elegy)の一つで、日本人にとっては、いまだに忘れがたい悲壮な思い出であらう。今日より顧みればアッツ島血戦の特徴は、その後に来たる太平作戦線の日本軍の各島嶼守備隊の悲惨な運命の前兆として、戦闘そのものの残酷性よりもむしろ人命を紙屑のように無視した、大本管の無慈悲な作戦そのものの残酷性にあった。この『悪夢の中の悪夢』のような怖しい北洋の悲劇の真相を明らかにしよう。
1942年6月日本軍によって占領されたアリューシャン列島の3島はキスカ、アダク、アッツであった。この中で最西端のアッツ島は同秋に一時放棄されてその守備隊はキスカ島へ移動した。外観より判断すればこれはアメリカ軍がアッツ島へ進出して強固な陣地を造る、キスカ島の日本軍を包囲するチャンスであったらう。しかしアメリカ軍司令部は当時、強固な陣地を造るだけの兵力を持たなかったので、日本軍の不在を利用しなかった。しかしこの決定は結局、アメリカ軍にとっては賢明であったろう。この冬の間に日本軍は再びアッツ島に舞い戻って来たが、アダク島の小部隊は撤収した。日本軍が軍隊の再配置を行っている間に、アメリカ軍もまた列島線に沿って西方へ展開していた。
日米両軍とも相手の行動を十分に知らなかったのは、この全地域が一年の90%の間、物凄い濃霧に掩われ、残余の期間はウィリウォー(台風に近い威力をもった暴風の意)に鞭打たれていたからだ。アメリカ軍は1942年8月末、アリューシャン列島中のアダク及びアッカ両島を占領して飛行基地を設定したので、日米両軍の距離は狭ばめられたが、それでも1943年初頭の戦局ではこの距離はいまだ大きすぎた。かくて北洋の長い夜が訪れて、軍隊の行動をほとんど完全に探知されないように隠蔽した。1月の陰鬱な日に、アメリカ軍の主要な西方移動が行われたのであった。それはアラスカ・スカウト部隊の1ヶ中隊がキスカ島東方僅か75哩のアムチトカ島に上陸して、後続の工兵部隊のために偵察したのだ。この偵察は軽便に行軍し、かつ孤島で生活する特別の能力を持ったものを選抜したものだが、この荒涼たる不毛の地に暮すことは容易な業ではなかった。これはローレンス・カストナー大佐の指揮する奇襲部隊(Comandoes)であって、通称『カストナーの殺人部隊』 (Cut Throat) と呼ばれた強者ぞろいであった。しかしアムチトカ島では殺すべき相手の日本軍は見当らず、ついで1月12日に後続の空軍基地建設部隊が上陸して来た。そして早くも2月には飛行場が完成した。このアメリカ軍の迅速なる建設作業は日本軍の貧弱なる作業と比較されるべきである。すなわち日本軍はキスカ及びアッツ両島の岩地に数ヶ月もかかって、やっと数条の短い滑走路を切り刻んだのみであって、僅かに数機の軽飛行機を離陸させる以上には決して使い物にはならなかった。これに反してアムチカト飛行場に堂々と中型爆撃機及び重爆撃機を多数飛ばせることが出来たのであった。2月中に第11航空隊はここよりの9回の爆撃を敢行して、キスカ島上の濃霧を通して1000トンの爆弾を役下した。そして一機も矢わなかったことは、物凄い悪天候の冒険飛行として最も注目すべきことであった。これを皮切りとして3月に入るや、平均一日一回以上の爆撃が続行され、同月15日には一日6回の爆撃が行われた。これに対し日本軍の報復空襲はまるで問題にならず、日本軍最高司令部は当時、アラスカ方面に対する東進作戦について全くなんの意図ももっていなかったように思われた。しかし日本軍が執拗で、その保持する両島を放棄することは明らかに考えていなかった。かくて4月中アッツ、キスカ両島の空襲のテンポは大いに高まり、いよいよ最高潮に達した。これがアッツ島血戦の前夜の状況であるが、アメリカ側は1943年初にトマス・カシヤ・キンケード少将を北太平洋艦隊司令長官に任命した。そして荒れ狂う北洋の海陸空より大挙反攻作戦の準備を整えたのに反して、日本側は全く無為無能で孤島の守備軍はろくに補給を受けず、ことに3月26日のコマンドルスキー海戦以後は全く日本艦船の連絡交通は杜絶したので、戦わずともすでに絶望の境地に置き去りにされたのであった。アメリカ軍の偵察機の報告によれぱアッツ島に到着した最後の日本輸送船は3月10日であった。さて、このアッツ島攻略戦だけでも、日本人に知られない詳細なる全貌を叙述すれば数10ページを要するので、私は残念ながらその要点のみを摘記するにとどめる。ただアッツ島上陸戦の前奏曲そして烈風と濃霧と激浪の北洋上に展開されたコマンドルスキー海戦において、アメリカ側のチャールス・H・マックモリス少将指揮の古ぼけた旧式重巡洋艦『ソルト・レーク・シティー』、旧式軽巡艦『リッチモンド』並びに旧式駆逐艦『モナガン』及び『デール』、新式駆逐艦『ベイリー』及び『コクラン』2隻、合計6隻よりなる弱力の機動部隊が、日本側の『那智』級重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦7隻、合計11隻よりなる強力な護送艦隊と交戦して、午前8時37分より正午子過ぎまで太平洋海戦史上最も猛烈な砲撃戦の結果、ついに日本艦隊を輸送船もろともに混乱敗走させた事実は、日米両海軍戦闘力について深甚なる注意を喚起する。
(一) アメリカ軍最高司令部が攻撃の第一目標としてアッツ島を選定したのは、次の3大理由に基づくものであるとキャント氏は説明している。
(1)アッツ島の日本軍守備隊は、キスカ島よりも少い。その総数は約2500名で、最初シカゴフ港に主力をおいたがその後、投錨地が狭く岩が多いため、数哩西方の広くて便利なホルツ湾に揚陸地を移動した。
(2)アッツ島の攻略は、キスカ島を包囲して孤立させる。
(3)アッツ島に飛行揚を獲得すれば、北部千島列島を偵察及び爆撃圏内に置くことになる。
(二)最悪の天候条件を別として、アメリカ軍のアッツ島攻略戦はなぜ、とくに困難であり、かつ犠牲が大きかったのであるか? 日本軍の守備隊は大きなものではなく、また主要な固定陣地もなかった。それはただ、散発的に効果のない空軍掩護を受けたのみで海軍の支援は全くなかった。それにもかかわらず攻略戦の困難と犠牲は、主としてアメリカ軍最高司令部の上層部将校の弁解の余地なき判断の誤解に基づくものである、とキャント氏は批判している。それによればアラスカ・アリューシャン方面にあるアメリカ軍はカストナー大佐の『殺人部隊』のような奇襲部隊用の少数の偵察部隊とアラスカ防備司令部の正規軍の2部隊であって、これはいづれも極寒用の装備と訓諭とを受けていた。しかるに1942年12月アメリカ軍最高司令部はアリュシャン攻略戦の第一目標に対して、当時アメリカ本国のカリフォルニア州サン・ルウィス・オビスピ付近の砂漠で訓練中の正規軍の第7師団を起用したのであった。すなはち北アフリカ作戦に参加するため熱帯戦闘訓練を積んでいた精鋭部隊を、にわかに戦局の急展開に応じて極東戦線に振向けたのであるから無理があったのは当然である。この緊急命令を受けるや第7師団は直ちに北緯36度半の位置にあるモントレー付近のフォート・オードに移駐して寒帯戦闘訓練を開始したが、しかし北緯53度にあるアッツ島の気候地勢に備えるには甚だ不足であった。第7師団は4月24目サンフラシスコ出発の直前に、初めて高さ高さ36センチ総皮紐編上げ型の新式長靴と、『アラスカ野戦用上衣』と呼ばれる外面は布地で内側を毛布のように厚い羊毛で裏打ちした襟の極めて低い頭巾なしの防寒衣を支給された。ところがこれらの軍装は、長年極寒地の訓練を受けていたアラスカ方面の現地部隊には珍しい新型であって、いづれも現地の気候、風土の条件に適さなかった。例えばアラスカ防備軍は陸海軍ともに長年の経験に基づいて独特の軍装を工夫していたが、4月30日コールド湾に到着した第7師団の兵隊の装備した『アラスカ野戦用上衣』を初めて見て、その不適当なのに驚いた。またアラスカ方面の海軍では、ゴム底で上部が皮製の『シューパック』と呼ぷ防寒用靴と、大きな頭巾のついた『パルカ』を支給していた。
(三)要するにアッツ島攻略戦でアメリカ軍の遭遇した困難と犠牲の最大原因が、日本軍の死物狂いの抵抗にあらずして、まず第一にアメリカ軍の防寒用服装の不備で、その次にはツンドラ地帯のため、重火器その他近代兵器の移動困難と攻撃陣地の構築の不便などにあることが明らかにされているのは、日本人にとってはまことに悲惨な事実である。しかもアメリカ軍はアッツで攻略戦の犠牲と教訓とを十分に生かして、その後に太平洋全戦線にわたり快速調の大反攻戦を最も合理昨に進めたの対して、日本軍は惨烈極まるアッツ島血戦の教訓を少しも学ぷこともく、2年後の硫黄島ならびに沖縄島の血戦に至るまで最も非合理的作戦を墨守して、自らの原始的な出血狂乱戦術を繰返し敗北したのは、今日より冷静に顧みてただ単に日米両国の軍事力の相違のみによるものではなかろう。 
アッツ島血戦の真相

 

アッツ島血戦がその後に来たるタラワ島、ケゼリン島、レイテ島、グァム島、サイパン島、硫黄島、沖縄島各攻略戦と全然同様の『玉砕型』の戦闘の原型である事実より、アメリカ太平洋戦史研究上の最も興味ある課題の一つとして、アッツ島血戦における日米両軍の線祝の真相を少し詳しく調査してみよう。まづ最初に、日本側の記録として1943年(昭和18年)5月30日17時付の大本営発表は次のとおり簡単であった。
「 (1)アッツ島守備部隊は5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対して血戦継続中のところ、5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全カを挙げて熾烈なる攻撃を敢行せり。其後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、之に先立ち悉(ことごと)く自決せり。我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。
(2)キスカ島はこれを確保しあり。 」
ところが、アメリカ側の詳細なる詳細なる戦況記録によると、アッツ島の攻略戦の経緯が次の通りに要約されるのは注目すべきである。
(1)アメリカ軍はウォルター・ブラウン少将指揮の第7師団で、上陸作戦の直接指揮は第17歩兵連隊長エドワード・P・アール大佐が当った。また上陸部隊の輸送及び掩護のためにフランシス・W・ロックウェル少将指揮の護衛艦隊が参加したが、これは旗艦『べンシルバニア』以下戦艦、巡洋艦、駆逐艦多数よりなる有力艦隊であった。
(2)アメリカ軍の上陸は5月7日に予定されていたが、悪天候のため輸送船団が5月4日までアラスカのコールド湾に立往生していたために一日延ばされた。ところがこの大輸送船団及び艦隊は日本軍の偵察機に発見されて、アッツ及びキスカ両島の日本軍は警戒した。しかし5月8日アッツ島周辺のスープのような霧は全く視野が利かないので、大船団は北方に出航してベーリング海に入り天候の回復を待った。日本軍は次第に徹夜警戒をゆるめ5月11日、アメリカ軍がアッツ島に再び切迫した時までに、守備隊は平常警備に復帰していた。そこを突如、アメリカ艦隊の戦艦『ペンシルバニア』『ニューメキシコ』『アイダホ』『ネバダ』4隻の巨艦が一斉砲撃を浴びせたのであった。
(3)上陸時間――作戦符号の『Hアワー』は5月11日午前7時40分と決定されていたが、アメリカ軍の第一部隊がマサカー湾の海辺に到達したのは、午後4時20分であった。この海辺では日本軍の反撃は全くなかったが、最大の困難は変幻極まりない濃霧の中で上陸計画地点に各ボートを着けることであった。
(4)アメリカ軍の上陸戦略は二重包囲作戦をとり、アール大佐指揮の主力(第17歩兵連隊の第2、第3大隊及び第32歩兵連隊第2大隊と105ミリ砲の3ヶ砲兵中隊)のマサカー湾上陸と相前後して、アルバート・V・ハートル中佐指揮の別働隊(第17歩兵連隊の第一大隊)がホルツ湾の西側の入江の北端の『赤い浜』(Red Beech)に上陸した。この部隊は南下し、一方主力はマサカー峡谷を北上して両部隊は36時間中に連絡合流する予定で、日本軍を島の東部の半島と釘付けにして撃滅する計画であった。元来、このアッツ島域の7/8はホルツ湾・マサカー湾線の西方に在り、そこは全く無人境であった。しかしホルツ湾地区の日本軍をこの無人境に逃がさないようにするために、ウィリアム・ウィロビー指揮の少数の補助部隊(第7スカウト部隊の一ヶ小隊及び第7偵察部隊より成る臨時編成大隊)がハートル中佐の担当した『赤い浜』の西方のオースチン峡湾に上陸し、さらにこの偵察部隊より分遣された一ヶ部隊は主力の南方上陸の側面を掩護し、かつアール部隊長に東部の岬付近の日本軍の配備状況を通報するため、マナカー湾東方のアレキセイ岬に上陸する計画であった。
(5)かくて南方に上陸した主力の2ヶ大隊の中で、第3歩兵大隊はマサカー湾の左岸の『黄色い浜』(Yerrow Beach)に上陸してマサカー峡谷の底部を前進し、第2歩兵大隊は右岸の『青い浜』(Blue Beech)に上陸して同峡谷の北東方の壁をつくる『豚の背』(Pig Back)のように切立った山稜を前進することになった。
第1日の夕刻、アメリカ軍の前進は単調ではあったが急速に進んだ。しかしやがて歩兵隊は重い足を引きずって歩くツンドラ地帯がまるで水を吸った海綿のように靴を水浸しにすることを発見した。また砲兵隊はその重い火砲装備が寒帯食物の草根よりなるツンドラ地帯の地表を破って落ちこみ、ただその下の真黒い矮小食物の中に奇怪な水泡をブクブクと立てるのみであることを知った。彼らは固い土地を見つけ次第、そこに大砲を据えつけて、上陸後一時間に日本軍の臼砲の位置を測定して最初の砲撃を行った。一方、歩兵隊は一哩また一哩と全く抵抗を受けることなく峡谷の奥深く前進を続けて、夜営の陣地をつくった。ところがアメリカ軍の装備の欠点がますます明瞭になって来た。すなわちツンドラ地帯に塹壕を掘れば、たちまち半分まで水没しとなり、また霧と雨のために湿度は全く飽和状態に達して、問題の長靴や『アラスカ野戦用上衣』を柳の灌木類の切株に架けて乾燥しようとしても、それは水没しのままだった。また水漬け同然の地面は海辺より揚陸した野戦食糧の輸送を遅らせるばかりであった。かくて北洋の夜のとばりが迫るころ、前進は停止されたが、日本軍はマサカー渓谷を取巻く岩山の嶺の割れ目や洞穴の中よりアメリカ兵の咽喉部を掻き切ろうと狙っていたのであった。ただ1ヶ小隊より成るアメリカ軍の偵察隊は北東部に侵入しようとして撃退されたが、戦死した日本軍の一将校の死体のボケットより作戦要図が発見され、日本軍は主力をシカゴフ港凋辺の主陣地に後退させて、ここで防戦する意図が判明したのであった。
かくて5月12日早朝、アメリカ軍は峡谷周辺の高地より射ち出す日本軍の砲火によって、釘づけにされ、歴史的なアッツ島血戦の火蓋が切られた。海辺の揚陸地点は混乱を呈して補給物資の輸送はますます坊害され、また上陸各地点の司令部間の通信連絡は不良で、ことに前進部隊の指揮地点とアール部隊本部との通信は全く杜絶してしまった。そしてアール大佐は大胆にも自ら斥候一名を伴って状況調査のため前進したところが、数時間後に死体となって発見されたのであった。そして斥候も瀕死の重傷を蒙り虫の息で倒れていた。同大佐は部下の将兵の信頼が厚かったので、最初はその戦死を部隊に知らせないように秘密にされたが、かえって流言蜚語を煽り、むしろその戦死の凶報と同様に悪影響を部隊に及ぼしたのであった。そして同大佐の後任には第7師団長ブラウン少将の参謀長ウェイン・の・チンメルマン大佐が自から就いたのであった。それから6日間、惨めな昼と夜が続いて、南方上陸軍の主力は渓谷の底部で前進不能に陥った。しかも前線より後方の野戦救護所へ後送される死傷者の数は、激増するぱかりで、戦局は全く進展しなかった。しかし注目すべきとは日本軍の砲火で負傷したアメリカ兵よりも装備の欠点より凍傷でやられたアメリカ兵の方がはるかに多かった。アメリカ軍が峡谷の底部に在り、日本軍がその上方の高地にいるかぎりは、戦局の進展は不可能であるとともに、犠牲は甚大であることは明白であった。5月14日になって、この事実が司令部によって認められたようで、第3歩兵大隊ははじめて両側面の山稜の友軍の掩護を受けて峡谷の底部より攻撃を繰返したが再び失敗に帰した。その損害は余りに甚大なため、新任の部隊指揮官チンメルマン大佐を止むなく同部隊を後方に休養のために移して、第32歩兵隊の第2大隊と交替させたのであった。
15、16両日にこの新鋭部隊にとって2回の攻撃が敢行されたが、前回と同様に撃退された。海岸沖に碇泊中のアメリカ艦隊の巨砲も日本軍の野砲及び臼砲の陣地を発見することが出来なかったし、空軍の支援も実行不能であることが判った。例えば戦局膠着の第4日目にアメリカ軍の『ワイルドキャット』戦闘爆撃機2機は護送用航空母艦より飛来して、アメリカ上陸軍の前方の狭い峠の日本軍陣地を精密爆撃しようと試みたが、峻嶮な山岳と暗澹たる天地の間にあたかも箱詰めされたごとく操縦の自由を失い数分間の中に空中衝突して火焔に包まれてて墜落した。アメリカ軍の司令部では善後策に腐心して、5月14日ブラウン少将はアダク島に駐屯中のアラス防備司令部に属する部隊より成る最後の予備軍の出動救援を求めた。アメリカ掩護艦隊司令官ロックウエル少将もこれに同意したで、第4歩兵連隊の第1大隊は5月17日アダク島より出発して翌18日マサカー湾に上陸した。しかしこの時までにすでに当面の責任者である第7師団長ブラウン少将はその職を罷免された。ユージェヌ・M・ランドルム少将が新司令官に任命され、その相談相手としてアリューシャンの状況と寒帯戦闘に熟知したアラスカ防備司令官のスチュアート大佐及びローレンス・カストナー大佐がそれぞれ、参謀長並びに副参謀長に選抜され、全作戦を一新して捲土重来を期したのであった。そしてランドルム新司令官は全軍に対して峡谷より出て側面の山嶺へ移動するように命令した。アメリカ軍としては、これは実に苦い教訓であって、陸軍の将軍が戦闘の真最中に海軍または海兵隊の上級司令官によって交替されたのは、これが最初の例であった。しかしアメリカ軍はこの思い切った司令官及び主任参謀の一斉更迭を断行して、全く面目を更め合理的な猛攻撃を再開した。
結局アッツ島血戦はアメリカ軍に対して苦い良薬を与えて、以後の各島嶼(とうしょ)作戦に最も有利な経験と教訓を教えたのに反して、日本軍は絶望的な死相を確かめたにすぎなかった。かくて膠着状態にあった戦局は、5月16日ハートル中佐指揮の北方上陸軍がホルツ湾の西側の入江を見下す山嶺を占領したために決定的に一変した。それは日本軍司令官山崎保世大佐がこのために彼の最右翼が危険に曝らされることを認めて、戦線を短縮して守備隊をホルツ湾の東側の入江を見下す高地へ撤収させたからであった。彼は部下に日本軍常習の自殺的抵抗を命令する代りに、地形の有利な点まで後退させてアメリカ軍からより高価な通行税を徴収する心算であった。しかしこれはかえってチンメルマン大佐指揮の南方上陸軍に前進を可能とさせた。そしてこの上陸軍の主力は5月17日夕刻、それまで一週間も立往生していたジャーミン峠を無事に突破して、同夜深更過ぎに峠を越えた次の峡谷で、ホルツ湾より南下したハートル中佐指揮の北方上陸軍と劇的な連絡を遂げた。それは最初の作戦計画に基づくと36時間で達成されるべきはずであったが、実際には6日半の日数を要したのであった。(この時までに北方上陸軍は第32歩兵連隊の第3大隊及び砲兵2ヶ大隊が増援されて、フランク・L・クーリン大佐が新たに指揮を取った。) 南北両軍の連絡が成るや、両軍の攻撃方向は東方に転じて、クレベシー峠に集中された。すでに日本軍の相当の大部分はアメリカ軍の猛砲撃のため『シェル・ショック』(砲撃または激戦の衝動で精神異状をきたす痴呆症)の一種に苦しんでいた。それでアメリカ軍が日本軍の陣地に切迫するや、日本兵は狭い一人用塹壕や狙撃抗の中に隠れて気犯いじみた喚声を揚げたり、または拳骨で地面を叩いて狂態を示したのであった。彼らは捕虜になることを承知しなかったが、さりとていくらも自殺する機会があっても、一向に自殺しなかった。そして大多数の場合は、彼等がついに捕虜になろうをするときに、アメリカ軍の火器の前にノコノコ接近して殺されたのであった。あるアメリカ兵はこれを評して『たしかに、われわれは沢山捕虜を捕まえたよ!ただし奴らはあまりに早く冷たくなるんだ』と表現したものだ。
孤立無援の日本軍の死相は深刻になった。アッツ島守備隊に届い唯一の救援は、5月22日北部千島列島より飛来した、2隊の日本機群であった。1隊は雷撃機より成りマサカー湾沖でアメリカ砲艦『チャールストン』及び駆逐艦『フェルプス』を攻撃したが失敗した。 他の一隊は水平爆撃機16機より成っていたが、アムチトカ島より飛び立った〈『ライトニング』戦闘機隊に妨害されて爆弾を海中に投じて遁走し、しかもその9機を撃墜されたと公表された。この後間もなく南方上陸軍がシガゴフ渓谷に突入するや、アメリカ軍司令部は地上軍の直接かつ緊密な掩護のため、重爆撃機(B24『リベレイター』)を使用することに決定した。これはキャント氏の説明によると東西戦線を通じて最初の試みであって、これより後日に南伊カッシーノ戦線及びノルマンディー上陸戦にも適用されて、つねに恐るべき効果を発揮した。その方法は色彩の布片を張った板をアメリカの最前線の地上に掲げて標識とし、また爆撃中に射撃手の手引となるように発煙弾を発射するのであった。かくて5月22日より28日までアッツ島の戦闘はお決まりの型を繰り返した。すなわち最大限まで砲兵の準備砲撃を利用してから、アメリカ軍の全力約1万2千名が峻嶮な山嶺と頑強な抵抗を突破して前進するのであった。(この兵力の中で恐らく約半数が直接戦闘に参加した。) そこでアメリカ軍は日本軍と殆んど同等の条件で決戦を交へたのであったが、兵カの増大と火力の圧倒的な優勢がものをいったのであった。28日夕刻までに生残った日本軍のすベては、部隊にはぐれた狙撃兵を除いてシカゴフ港に面したシカゴフ峡谷の入口の主陣地周辺に閉じ込められ、西と西南と南の三方より激しい圧迫を加えられた。
アメリカ軍司令官ランドラム少将は29日早朝を期して総攻撃を敢行することに決定した。ところがアメリカ軍司令部がこの重大決定をしている時に、日本軍司令官も同様の決意をしていたのであった。キャント氏の説明を要約すると、当時、山崎大佐は約1000名の部隊を率いていたが、その中の300名は負傷していた。多くの日本軍の指揮官はこのような場合には、日本兵の生命と引換にアメリカ兵の生命を強要するため、現状を死守するのが通例であったが、山崎大佐はあまりに策略と奇想に富んでいた。彼はこの戦闘段階において、アメリカ軍が全面的展開を遂げて攻撃態勢にあることを正しく判断したので、斥候の報告によりアメリカ軍の右翼の手薄な地点を衝いて、戦線のはるか後方の砲兵陣地を奇襲する計画を企てた。それはあまりに大胆なもので、ばかばかしい位に狂喜なものであった。実際に日本軍を見くびることはよくなかったが、しかしこの場合に彼の計画がもし成功したとすれば、それは信じられない殊勲であったであろう。それはただ、偶発的なチャンスのみを狙った計画であった。山崎は重症者には自殺を命令し、軽傷者にはいかなる武器でも使用できるものを取って攻撃に参加することを命じた。この反撃の進展に応じて、戦線の後方のアメリカ軍の救護所を兇暴に襲撃して混乱させ、その隙に砲兵陣地へ殺到する計画であった。日本軍の反撃開始点よりアメリカ軍の砲兵陣地まで、8哩の距離があった。
山崎は彼の部隊に対して、5月29日午前3時進発しアメリカ軍の戦線を突破して、途中戦闘のため停止することなく一挙にアメリカ軍の砲兵陣地を占領し、その大砲の砲口をマサカー湾の海辺に集結するアメリカ軍へ向けるように命令した。この反撃はその戦闘の初期には山崎が期待した以上の相当の成功を収めた。すなわち第32歩兵連隊のB中隊は日本兵の喊声をあげて殺到する一団に襲われたとき、ちょうどシカゴフ峡谷の底部の位置より後方の大隊炊事場まで後退しつつあった。それがいかに不意打ちであったかということは、彼らがこの朝なにも予期せず温い食事を取りに守備位置を離れて大隊炊事場へ赴いた事実が示している。全く日本軍の反撃は予期もされなかった。たちまち中隊は混乱の底へ投げこまれた。日本軍の進撃した前線の他の多数のアメリカ部隊も同様であった。救護所も野戦病院も蹂躙されてアメリカ軍の負傷兵は医師や看護兵たち共ども惨殺された。かくて血に狂った日本軍は、アメリカ軍の野営地域に非常警報が発せられたときには、すでに師団工兵隊ならびに第50工兵連隊の陣地を目掛けてなだれ込みつつあった。山崎の計画の効果を評価するにあたり重要なことは、このときまで彼の部隊が、アメリカ軍の砲兵陣地に辿り着くために強行軍を命じられた8哩の行程の5哩以上を踏破していたことである。まさか歩兵として戦闘せねぱならないとは夢にも思わなかったアメリカ軍の工兵隊は、手当たり次第の小さな武器を手にして非常線を張ったが、直ちに最も接近した戦闘に巻き込まれた。勤務兵や料理人までこの死闘に加わった。しかし陰鬱な暁光が射し始めたころに、日本軍の反撃が工兵隊の非常線に対して力尽きたことが明らかとなった。
孤立して離れ離れになった日本兵の一団が一つ二つ、アメリカ軍の曲射砲陣地に辿り着いたが、いずれも砲口をアメリカ軍に向ける目的を果たせない中に倒れていった。この気狂いじみた日本軍の奇襲を食い止めた最大の功績は工兵隊にあった。この29日のまる一日と30日朝にわたり潰乱した日本軍の残兵が、戦線のはるか後方で掃滅された。30日の午後にはシカゴフ陣地は微弱な抵抗の後に占領された。そしてアッツ島攻略戦は6月2日正式に終了した。数百名の日本兵は手榴弾を頭部や胸部に打ち当てて自殺を遂げたのであった。かくて北洋の孤島に凄惨な血戦の暮は閉じらたのであるが、日米両軍の戦果は果して如何? 日本軍が『玉砕』によって、尨大(ぼうだい)なアメリカ軍に対して莫大な人的並ぴに物的損害を与えたという大本営の発表と、それに対する日本人の『輝かしい玉砕の戦果』の錯覚は、アッツ島より硫黄島に至る幾多の血戦の反復のたびごとに強化されたが、冷厳なる戦争の現実は玉砕戦術こそ常に人的ならびに物的損害の莫大な、拙劣たる敗北戦法であることを立証したのである。
大本営の発表を盲信させられた日本人にとっては実に意外千万であるが、キャント氏はアメリカ側の正確な資料に基づいてアッツ島血戦の戦果を次の通り報じている。要するに日米両軍の損害は、まるで大本営の発表の逆が真であったのだ。アッツ島の無益な防戦で、日本軍は2300名が戦死した。僅か27名が捕虜となった。アメリカ軍は12000名の中で3000名の死傷者を出したが、その大部分は負傷(1135名)または防寒用服装の不備による『足部湿性壊疸』(トレンチ・フート)及ぴ凍傷であって、戦死及び行方不明は僅かに400名であった。2300名対400名(6対1)――これがアッツ島血戦における日米両軍の掛値のないバランス・シートであった。そしてそれはソロモン群島より東京まで、少しも変動せずに持ち越されたのである。  
ギルバート諸島の攻略戦

 

1943年夏、アメリカ第14海兵隊が南太平洋でニュージョージア島の日本軍の要衝ムンダを占領する以前、そして一方では北洋でキスカ島の奪還のために遠征軍が装備されつつあり、また南部ではブーゲンビル島の上陸作戦の計画が進行中のときに、アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は日本に対する攻撃は南太平洋からすると同時に、中部太平洋からも開始されねばならないという幕僚の進言を承認したのであった。そしてこの中部太平洋の攻撃開始点(ベイカー島の基地建設後)は、国際日付変更線西方約400哩にある赤道を越えて蛇のごとく横たわる16の環状瑞瑚礁より成るギルバート諸島であった。アメリカ海軍の鬼才レイモンド・エイムズ・スプルーアンス中将は、太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将の参謀長兼副司令長官の地位を解かれて、新たに中部太平洋艦隊司令長官に任命され、南北太平洋の数千哩を距てて両翼の攻撃が展開している間に、ギルバート諸島の侵入作戦の計画が進行した。このギルバート諸島は軍事的目標としてあまり知られていなかった。それは1942年1月1日ごろに、日本軍が侵入してここに居座ったのだ。しかし2月1日までにアメリカ航空母艦『ヨーククウン』(バルゼー大将の最初の空母奇襲部隊の一部)より飛んだ偵察機は、その日攻撃すべきギルバート諸島中の唯一の環礁であるマキン島になんらの沿岸防備を認めなかった。ただし、日本軍の侵入直後に撮影された偵察写真が、1943年の夏に役に立たたかったのはもちろんである。その後、ギルバート諸島は平穏であったが、1942年8月17日アメリカ潜水艦『ノーティラス』及び『アルゴーナウト』2隻は、突如マキン島に出現してエバンス・F・カールソン中佐指揮の下に第2海兵奇襲大隊の戦闘隊を上陸させた。
そして日本軍の守備隊300名を事実上全滅させて、若干の死傷者を伴って退去したのであった。このときはマキン島が軍事的目標であったが、他の環礁は踏査されなかった。それから2ヶ月後、巡洋艦『ポートランド』及び『ジュノー』は南太平洋へ航行の途中、ギルバート諸島の日本軍に対して砲撃演習を行うことを決めた。そして、マーロン・S・ティスデール少将指揮の下に両艦は10月15日南東より諸島内に進入して『ポートランド』は8インチ砲火9門でマイアナ、アペママ、タラワの中央環礁を砲撃し、『ジュノー』はキングスミル群島の南部環礁を同様に砲撃した。あまり手応えはなかったが、ただタラワ島の西南端のペティオ礁の西方で、日本の船舶が礁湖の中を忙しそうに出入していた。しかしティスデール少将はそのまま見すごして去ったのであった。その後ギルバート諸島は、アメリカ陸軍の第7航空隊がフナフチ島より飛来して爆撃を開始するまで置き去りにされていた。 次いでベイカー島より攻撃が接近し、海軍第137爆撃隊及び第3写真偵察隊が陸軍機と協力して、精密な写真偵察による最大限の情報蒐集に全力を挙げた。また航空母艦も1943年8月15日には攻撃を加えて若干の成果を加えた。それによると日本軍はタラワ環礁のペティオ礁をギルバート諸島防衛線の核心と化していたのであった。すなわちそこには8インチ砲を8門儲備えた砲台と、5.5インチの口径まで含んだ多数の各種高射砲と、多数の防舎と戦車壕と夥しい小防禦点が構築されていた。しかしその総数は不明であり、また地下の施設もいかに築かれているか空中偵察では不明であった。それにベティオ礁の自然的要塞は恐るべきものであったが、これも偵察だけではほとんど判らなかった。しかもタラワ環礁の存在は、1841年アメリカ海軍のジョン・ウィルクス大尉(後に中佐)の訪問以来、全く海洋学上の研究より除外されていたのであった。そして彼の作製した海図が102年後にいまだ使用されていたのだ。この間に珊瑚蟲は大いに活動して、ウィルークス大尉の海図をはなはだ不正確なものにしてしまった。キャント氏の記するところによれば、これまでに太平洋戦争で闘われて来たあらゆる島嶼(とうしょ)の地図には欠点があったが、しかし概して戦争遂行上に重大な支障はなかった。しかるにタラワ島の攻略戦ではこれが恐ろしく祟(たた)ったのであった。ことにタラワ島の地勢よりも重大であったのはその潮の干満であった。一般に中部太平洋では、潮の干満はあまり烈しくなくて、大体その差は60センチ以下である。しかるにペティオ礁への通路にあたるタラワ島の礁湖の内側の礁脈(海面下に横たわる珊瑚礁脈)上の水深は春季の満潮時でさえも決して160センチを越えることはなかった。小潮のときには30センチ以下になった。そして南東の強風が珊瑚礁上の海水を吹払うときには、水深はますます浅くなり、平底のヒギンス型上陸用舟艇を浮べることさえ無理であった。タラワ島の血戦は、健忘症の日本人にはもはや忘れさられているであろう。当時すでに日本軍部は戦局の不利に焦燥して、陸海軍互いに猜疑的確執を露呈し、陸軍側は陸軍魂を宣伝するため、『アッツ島の玉砕』をあまりに日本中に昂揚しすぎたので、かえって海軍側ではその後に起った『タラワ島為の玉砕』で海軍魂を宣伝する機会を失したのであった。従って『アッツ島の勇士』は巷間の流行歌にまで讃えられながら、『タラワ島の勇士』は空しく異郷に忘れられた観があった。しかし近代戦史上より批判すると、タラワ島の攻略は太平洋上の巨大な環状珊瑚島の要塞をめぐる最も劇的な空前の水陸両用攻略戦であって、キャント氏はとくに『恐るぺきタラワ』(Terrible Tarawa)と題する一章をもうけて約25ページにわたり、その作戦の意義と戦闘状況を詳説している位である。日本軍はタラク島でいかに玉砕したか? アメりカはいかなる教訓を学んだか? 私は悪夢のような記録をひもといて、その概要を報告する義務があると思う。 
タラワ島上陸作戦

 

『恐るぺぎタラワ』〈Terrible Tarawa)と呼ぱれたギルバート諸島の要衝であるタラワ島の攻略戦はアメリカ軍にとって甚大なる犠牲と深刻な教訓とを与えたが、しかしそれは皮肉にもアッツ島血戦と同様に日本軍の功績によるものではなく、むしろアメリカ側の作戦の欠点――とくに戦史上に比類なき巨大な環状珊瑚礁より構成された奇怪な要塞島に対する水陸両様作戦の困難によるよるものであった。そしてアッツ島血戦のアメリカ軍の損害が防寒用服装の不備と、寒帯戦闘の訓練不足にあったように、タラワ島血戦のアメリカ軍の損害が環礁の地勢、ならびに潮の干満の調査偵察の不備と上陸用舟艇の操作欠点にあったことは注目される。しかし、いづれにしてもタラワ島の血戦は日本人が忘れようとしてもアメリカ人にとっては太平洋戦争の全過程を通じて最も忘れがたき激烈な死闘であった。キャント氏の詳細な戦況記録によって、アメリカ軍の作戦の全貌をつぎに要約しよう。なお念のために付記するが、タラワ島というのは正確にはタラーア環礁(アトール)と称し、ベティオ、バイリキ、エイタそのほか多数の有名無名の大小珊瑚礁より成り、延々とした礁脈を周囲に廻らして、その内側に広い礁湖を造っている。
(一) ギルバート諸島攻略戦の作戦計画には二つの方策が考えられた。一つは陸軍側の意見で、まづ最初に防備の手薄な小島を占領して、ここに強カな大砲を据え付けて防備の強固な主要目標の島を攻撃することを主張した。これに対して海兵隊側の意見は、主要目標のタラワ島に直接上陸作戦を主張したのであった。この二つの見解の相違は、陸軍側は戦略(Strategy)に富みながら戦術(Statics)に欠けているのに対し、海浜隊側は戦略に欠けながら戦術に長じていることを、はっきり例証したものであるといわれた。例えば南太平洋戦線で陸軍側では、レンドバ島の近接砲兵陣地の使用によってムンダ(ニュージョージア島の日本軍基地)の攻略戦の損害を軽減したことを力説するのに反して、海兵隊側ではムンダの攻略に5週間以上も要したことに反発したものだ。しかし両者の言い分はいずれも真実であり、決して互いに排外的なものではないのであった。
(ニ) かくて最高司令部では、ギルバート島攻略の作戦を慎重に練った結果、戦闘指揮に細部については、直接作戦にたづさわる各師団司令官に委ねるべきことに決定した。即ちマキン島攻略に関しては陸軍の第27師団長ラルフ・C・スミス少将に、またタラワ島攻略に関しては第2海兵師団のジュリアン・スミス少将に全権を委ねられたのであった。とくにこの大任を帯びた後者の参謀長には、ツラギ及びガダルカナル両島の攻略戦で勇名を馳せたメリット・A・エドスン大佐が選ばれ、作戦主任将校にはバビッド・シェ−プ中佐が任命された。主力の海兵師団はガダルカナル島攻略戦の勇士揃いで、当時ニュージーランドに駐屯して訓練し、ウエリントン市のウインザー・ホテルに司令部があった。
(三) 上陸作戦の計画に当り重要な問題は、海面下にかくれた珊瑚礁脈であった。それはもし干潮のため水深が浅ければヒギンズ型上陸用舟艇の使用が出来なくなるので、作戦は大失敗に帰する惧れがあったからだ。これについて師団水陸両用装甲車大隊の指揮官ヘンリー・C・ドリュース少佐は、ニュージーランドの海辺でヒギンス型舟艇その他水陸両用車の実験演習を重ねた結果、初めて実戦に使用することに決定したのであった。ただしそれまでにこれらの舟艇を使用したのは、エズピリ・サント島のような波止場の不十分な基地で船舶より積荷をおろして運ぶためだけに限られていた。
(四) 1943年11月1日、海兵師団はウエリントンを出発して、一路タラワ島に向った。途中、油槽船団は旧式戦艦 (パール・ハーバーで損傷した戦艦3隻を含む)及び巡洋艦、駆逐艦多数よりなる強力な護衛艦隊を加えてアメリカ軍の占領中のある島に立寄り、ここで上陸作戦の予行演習を行ったが、大成功を収めた。ただしこの海辺ではヒギンス型舟艇の使用に十分な海水があったのだ。同師団の兵隊は目的地はウェーク島であるとばかり思いこんでいたが、11月14日護送艦隊のハリー・ヒル海軍少将が『各兵員に作戦計画の概要を知らせよ』との命令を出したところ、これは各司令官によって快く十分に行われた。
(五) 輸送船団はジグザグのコースを進み、国際日付変更線を越えて前進したり後進したりしたので、乗員の大部分はしばしば今日は何日であるかを見失うことがあった。上陸作戦開始のDデーは11月20日と指定されたが、これさえも当てにならなかった。それはちょうどパール・ハーバー攻撃の日時が、戦闘の起った場所の地方時間で表現されるべきであったのと同様であった。即ちタラワ島上陸作戦開戦の日時を『西経日付』をもって11月20日と誤用したのが、あまりに一般化してしまったので、正しい『東経日付』の後にカッコして示さねばならなかった。
(六) 輸送船上の兵隊が初めて行先を知った頃には、既に同方面は陸軍第7航空隊およぴ海軍機の予備的爆撃が開始されていた。そして侵攻開始の10日前より爆撃はギルバート諸島およびマーシャル群島全域に分散されたが、その理由は二つあった。一つは攻撃地点に対する日本軍の増援を阻止するため、付近のあらゆる島嶼の日本軍、とくに航空力を破砕するためであった。他の一つは侵攻目標を特に選抜して日本軍に正確な予告を与えることを避けるためであった。従ってタラワ島の日本軍が特別の警戒をはじめたのは、Dデーの僅か4日前であった。それから2日間フナフチ島の陸軍『リベレーター』爆撃機が猛爆を加へ、さらにDデーの二日前にはアルフレッド・E・モントゴメリー少将およびバン・H・ラグスデール少将の指揮する航空母艦群より猛爆が重ねられた。Dデーの3日前に第7航空隊の『リベレーター』爆撃機はタラワ島の中心であるぺティオ礁上の低空を飛んで、爆撃ならびに銃撃を行ったが、日本機の反撃もなくまた高射砲火も微弱で全機異状なかった。
(七) この『微弱な高射砲火』はその後3日間、いつも控え目に繰り返されたし、航空母艦のパイロットは地上に日本軍の姿をみなかったし、空中より眺めた環礁はまるで荒廃したようであった。これらの当てにならない印象の噂は輸送船上の攻撃部隊の耳にも達したが、長い炎熱下の航海に苦しみ抜いた将兵は一刻も早く上陸戦闘を熱望し、とくに将校のなかには余りに楽観的なものがあった。しかし参謀長エドスン大佐は強固な防禦を破壊するための準備的爆撃の効力に対して、過大な信頼をかけない少数の一人であった。一方、ヒル海軍少将は次のようなメッセージを回覧した。――『わが意図は島を破壊するに非ず、また島を打毀すにあらず。諸士よ、我々は島を抹殺しようとするものである』 これに対してキャント氏は次のように批判している。――全くタラワ島は抹殺すべきものであった。しかしながらそれはある人達が考えたような生易しい、腕を延ばした程度の爆撃によって、出来るものではなかった。 
タラワ島の戦慄

 

かくて11月21日、日曜日、午前3時45分、アメリカ軍を満載した輸送船団はタラワ島の西側の、珊瑚礁の海へ通じる入口の沖合に停泊した。午前5時ごろ、日本軍の灯火信号が回答を要求したが応じなかったので、タラワ島守備隊司令官柴崎恵次少将は直ちに戦闘措置を命じた。当時のタラワ島の防禦陣はシンガポール要塞より日本軍が撤去して運んできたといわれる英国ビッカース製の8インチ砲8門が最長距雛砲であって、これはベティオ礁に2門ずつ4基の砲座に据え付けられていた。一つは礁上の北西隅に、一つは南西隅に、一つは桟橋の基地付近の北浜の中間に、一つは東隅の突出部にあった。この中で桟橋付近の砲座は航空母艦『シェナンゴー』の攻撃機によって千ポンド爆弾の直撃のために既に破壊されていたといわれるが、他の3砲座は上陸作戦開始のDデーが到来し、戦闘開始Hアワーが近づいたときにいまだ有効であった。午前5時7分、その砲座の一つは砲門を開いた。第一弾は輸送船の付近に落下した。次いで他の砲門も火を吐いて輸送船団の停止している海域に雨のように降りはじめた。そこでは既に多数のヒギンス型舟艇が群がり、人員および兵器を積込みつつあった。タラワ島攻略戦の最初の死傷者は、海中に落下した至近弾のため巨大な水煙の山を築き上げて、多数の舟艇を吹き飛ばしたことによるものであった。午前5時12分、旗艦『メリーランド』がまづ反撃の砲門を開き、次いで他の戦艦2隻も巨砲の火を噴いた。日本軍の大砲は20分間で沈黙したが、この予定外の砲撃は午前5時42分まで継続された。航空母艦の攻撃機が到着する予定であったが、なかなか現われなかった。その代り、日本軍の大砲は再び砲撃をはじめて輸送船は唯、命中弾或は至近弾に挾撃されるばかりであった。
午前6時48分、輸送船団に対して砲撃射程外に退避するように命令された。従って既に海上にあった上陸用舟艇は全力を尽して追従しなければならなかった。戦闘開始のHアワーは午前8時30分と定められていたが、これは延期されねばならなかった。午前6時、戦艦群は日本軍の頑強な沿岸砲台に対して猛撃を再開したが、6時13分航空母艦の最初の攻撃機隊が飛来したので、砲撃を停止した。そして空中より9分間で全爆弾を投下し終ると再び艦砲射撃が行われた。日本軍の守備する海辺より駆逐艦は1哩以内、戦艦は3哩以内に位置して殆ど水平砲撃を重ねたのであった。その結果、砲弾がその弾道が低すぎて、日本軍の鋼鉄の砲塔で覆われた砲台のような固い円形の外面より跳ね返りやすかった。むしろ遠距離砲撃の方が正確度は減じても、砲弾が殆ど垂直に落下するので貫通力は遥かかに大きく、跳ね返る率は少なかったであらう。これもその後の苦戦の原因となった。午前7時、掃海艇が煙幕を張るために礁湖の中へ進入したが、たちまち日本軍の猛烈な砲火を浴びて、しかも都合の悪いことには、ペティオ礁には南東方より強い風が吹いていて、煙幕を張ればかえって友軍の攻撃部隊の邪魔をするばかりであった。そのため機動部隊の司令官は煙幕を張る計画を止めて上陸作戦を変更した。日本軍の砲火が暖慢になり、洋上遠く群がっていた上陸用舟艇は出発点についた。午前8時20分ヒル少将は旗艦『メリーランド』上より『第1回の舟艇部隊は15分後に出発する』と信号を発した。かくてちょうど8時30分、ウィリアム・ディーン・ホーキンス中尉の指揮する偵察兵および狙撃兵1ヶ小隊の分乗した第1番目の上陸用舟艇に進発した。その任務はベティオ礁の北岸の中間より礁脈の端へ突出した420メートルの桟橋を占領するにあった。そこにはガソリン集積場と倉庫があった。8時30分、まだホーキンス中尉の舟艇が突進中に旗艦より『Hアワー(上陸戦闘開始詩間)は午前9時とする』と信号があった。キャント氏の説明によれば、このHアワーの延期変更のために空軍の掩護協力が破綻したのか、あるいは航空母艦が他の理由で飛行機を間に合うように出発させることが出来なかったかいまだ明らかでないが、ただ一つ明確なことは、これらの上陸攻撃隊が予定計画の空軍の掩護を全く受けなかった事実である。ホーキンス中尉の舟艇は午前8時55分に桟橋の突端に到達し、小隊の一部は傾斜面を占拠した。桟橋のココナツの丸太と珊瑚岩の割れ目には日本軍の狙撃銃座が沢山あり、また難破した日本船の上部を利用して多数の銃座が造られてあったので、攻撃隊は火焔放射器を用いて虱潰しに掃蕩せねばならなかった。既にガソリン集積場は炎々と燃え上がり、弾雨の中を32名の攻撃隊が桟橋伝いと海中のを突進して海辺に辿り着いた頃、接続部隊は『アムトラック』(水陸両用トラックの意)、または『アリゲーター』(平底の鰐の形をした舟艇の意)と種々の名称で知られた水陸両用車に分乗して殺到しつつあった。
これに対応して日本軍の防戦も全力を発揮してきた。その防備は既に述べた5.5インチならびに8インチの巨砲のほかに、多数の臼砲、口径5インチまでの各種重機関銃、25ミリおよび37ミリ速射砲、70ミリ野砲、75ミリ山岳砲、75ミリ空陸両用速射砲、80ミリ舟艇攻撃砲、127ミリ2連水陸両用砲などあらゆる火砲を備えて火を吐いた。上陸地点はベティオ礁上の北岸の中央部を『赤い浜』(レッドビーチ)と称して、これを西方より第1、第2、第3の3区域に分けて、第2海兵隊の第3大隊と第2大隊及び第8海兵隊の第2大隊が分担して攻撃に当った。午前9特10分より17分の間に、この3大隊は比較的少ない死傷者を出しただけで、目指す海辺に到着したが、意外にもこの『赤い浜』は幅が僅か10メートル、しかも多くの場所ではそれより狭く、島の主要部分より1.2メートルもある岸壁で距てられ、かつココナツの丸太で遮られていた。攻撃隊は日本軍の狙撃銃と臼砲の猛射を浴びてバタリバタリと仆れ、この岸壁を測量しようとする者は、機関銃の十字火で薙ぎ倒された。かくて水陸両用車が海辺で立往生いている間に、日本軍の37ミリまたは40ミリ速射砲は第4回目の攻撃隊を満載した後続のヒギンス型舟艇に砲火を集中していた。午前9時25分『赤い浜』の指揮官の報告によれば、右翼の第1地区に向った舟艇群はすべて海冲の珊瑚礁脈に阻まれ、乗員は猛烈な弾雨の中に海中を徒渉しなければならなかった。精密な数字は不明であるが、タラワ島攻略戦の戦死者の半数はこの戦闘段階で蒙ったらしい。しかも煙幕の使用を不可能にした強い南東の風は海中の礁脈上の海水を吹き払ったために、ヒギンス型舟艇は海辺より半哩を沖合でひどく坐礁して了った。そして日本軍の火砲陣を直接攻撃すべく予定されていた航空母艦機の掩護攻撃は、この絶好の時期を逸したのであった。これが『恐るべきタラワ』のアメリカ軍の苦戦の真相であった。
キャント氏の描写を次に要約する。
日本軍の臼砲または中型砲の砲弾がアメリカ軍の上陸用舟艇に命中して、20名以上の乗員の中で僅か2〜3名を残して全滅された実例が幾つもあった。死傷者が総員の25%の高率に達した実例はさらに多かった。また重い装備をつけて、日本軍の自動火器の壊滅的猛射を冒して、首まで達する海中を徒渉中に仆れた死傷者は遥かに多かった。しかも攻撃隊の上陸戦闘の進展に伴って、海辺の敵陣に対する艦砲射撃は殆んど全く中止せねばならなかった。水陸両用装甲車大隊長ドリュース少佐も、彼の指揮する水陸両用車の中で戦死を遂げた。また海兵隊第2連隊第2大隊長ハーバート・R・アミー中佐も『赤い浜』第2地区に這り着こうとして浅瀬の海中で仆れた。かくて第1回目の攻撃隊を海辺へ運んだ大型水陸両用車は既に夥しい負傷兵を満載して沖合の輸送船に引返しつつあった。上陸用舟艇が礁脈を突破出来ないので、これらの水陸両用車は渡し船の役割を強要されたのであった。空前の激戦は続いたが、午前10時上陸軍の作戦主任ダビット・シュープ中佐も上陸して桟橋付近に臨時司令部を設置、アメリカ軍の攻撃部隊は続々殺到して『赤い浜』を占領し、さらに島内心飛行場(名ぱかりの滑走路)へ向って橋頭堡を拡大した。そして午後早々には中型戦車を揚陸することが出来なかったことで、午後3時『赤い浜』第1区の大隊長は無電でシュープ中佐に対して、いまだ海上の上陸用舟艇の中にあり、海辺上陸戦闘中の部隊と連絡がとれないと報告している程であった。これに対してタラワ島上陸軍司令官ジュリアン・スミス少将は、この大隊長に対して『いかなる犠牲を払っても上陸し、部隊の指揮を掌握し、攻撃を続行せよ』と厳命した。激戦の中に日が暮れて、スミス司令官は作戦主任シュープ中佐に対し陣地を強化して日本軍の夜襲に備えることを命じた。当時いまだ最右翼の第2海兵隊第3大隊より全く報告に接せず、ただ『赤い浜』第2地区で同連隊の第1、第2両大隊が130メートルの深さで陣地を確保していること、また司令部3地区に上陸した第8連隊の第3大隊は、深さ30メートルの地点を辛じて占めていることだけが判明していた。要するに両連隊とも海辺に分散して、多数の兵士は岩壁の下に釘付けにされ、島内へ侵入できなかったのだ。この上陸第一夜の状況こそ危機一発であった。もし日本軍が断乎たる、各兵協力の十分な反撃を敢行したならば、アメリカ軍を礁湖の中へ押返へしたであろう。しかし日本軍にはこのような反撃を決行する結集力が明瞭に欠けていた。それは日本軍の各守備陣地はいまだ持ちこたえていたが、地上の通信連絡は破壊されていたからだ。夜を通して火災は炎々として燃え続け、赤々と照された桟橋と海辺には絶間ない銃火を冒してアメリカ軍の上陸部隊が、弾薬、食糧、飲料水その他の補給品を運んでいた。礁湖のどこからともなく謎の射撃が続いたが、これは2隻の日本の難破船の船体に潜んだ狙撃兵と機関銃兵が狙い射ちしているものと思われた。しかし『タイム』特派員ロバート・シャーロッドの報告によれば、日本兵は海中に放棄されたアメリカ軍の戦車や水陸両用車に泳ぎ着いて、その中から狙撃していた。いずれにしてもアメリカ海兵隊にとってベティオ礁こそ本当の地獄であった。
かくてタラワ島の恐怖の一夜は明けて、上陸第2日の11月22日を迎えたが、依然として激闘は続き、『赤い浜』第2地区の背面にある飛行場の奪取戦は激烈を極めた。アメリカ軍は飲料水と食糧と弾薬の補給困難に苦しんだが、この日午後より後続部隊の到着によって戦況は漸次好転し、タラワ島血戦は上陸後約30時間を転機として、アメリカ軍に有利な形勢に変ったのであった。第3日の23日払暁、増援の第6海兵連隊の2ヶ大隊が自動銃及び火焔放射器を携えてベティオ礁西岸の『緑の浜』(グリーン・ビーチ)に上陸し、また多数の戦車も陸揚げされるに及んで、もはや大勢は決した。殊に日本軍の退路を断つためにベティオ礁東方に隣接するバイリキ礁にも、第6海兵連隊の第2大隊が上陸占領したので、孤立無援の日本軍は全く袋の鼠同然となった。同夜11時より翌24日午前4時にわたり、日本軍はアメリカ軍の陣地を目掛けて、狂信的な『バンザイ突撃』を数回にわたり敢行した。第1回は自動銃と手榴弾の火を吐きながら死物狂いで第6海兵連隊のA、B両中隊の前面に殺到して来た。第2回には血に狂った日本兵は中隊長のノーマン・K・トーマス中尉の本部の塹壕に侵入して格闘の上、ビストル台尻で殺された。かくて日本軍の反撃はいよいよ気狂い染みて最後の『ハンザイ攻撃』には、全員褌(ふんどし)一つの真裸で日本刀または短刀を握って殺到してきたが、かえって接戦では、海兵隊の方が強かった。そして24日朝、大隊陣地前面には約300名の日本兵の死体が数えられた。午前8時新手の第6海兵隊の第3大隊が上陸して、日本軍の敗残兵の掃討を進めた。日本兵の残存したものは多かったが、いづれも疲れ果てて戦闘力を失っていた。同大隊の通り過ぎたある地区では475名の死体を発見し14名の捕虜を捕えた。午後1時12分、上陸軍司令官ジュリアン・スミス少将はタラワ島の中心であるべティオ礁の占領を公表した。それはホーキンス中尉指揮の第1回偵察攻撃隊上陸後76時間12分を経ていた。星条旗が奇怪な焼野原と化した珊瑚島の上に翻った。世界注目のタラワ島攻略戦はこれで終わったのである。またタラワ島の北方120哩に在るマキン島(環礁)の攻略戦は僅か300名の日本守備隊と同数の朝鮮人労働者に対して、猛烈な艦砲射撃と航空母艦機の爆撃による準備攻撃が十分行われたので、アメリカ軍の上陸占領はタラワ島より遥かに容易であった。しかし日本軍は地下陣地に隠れて執拗に頑張り最後の23日夜半、酒を酌交して『バンザイ突撃』を行ったが、アメリカ側ではこれを気狂い染みた『酒戦闘』と呼んで、日本兵はアメリカ軍の銃火の前に無残にも殲滅されたことを報じた。24日午前11時マキン島上陸軍司令官ホーランド・スミス少将は同島の占領を公表したのであった。
日本の大本営は一切の戦況を秘密にしていたが1ヶ月後の12月20日午後3時15分次のとおり発表したのであった。
「 タラワ島並びにマキン島守備の帝国海軍陸戦隊は、11月21日以来3000の寡兵をもって5万余の敵上陸軍の進撃、熾烈執拗なる敵機の銃爆撃並びに艦砲射撃に抗し連日奮戦、我に数倍する大損害を与えつつ敵の有力なる機動艦隊を誘引して友軍の海空戦に至大の寄与をなし、11月25日最後の突撃を敢行、全員玉砕せり。指揮官は海軍少将柴崎恵次なり。なお両島に於いて守備部隊に終始協力奮戦した軍属1500名も亦全員玉砕せり。 」
しかしながらキャント氏の説明するところによれぱ、アッツ島の玉砕を同様に、タラワ、マキン両島の玉砕でも日米両軍の損害は全く大本営発表と逆であって、日本軍は孤立無援の環礁に無慈悲な作戦の犠牲となったが、アメリカ軍の戦死者は日本軍の数分の一にすぎなかった。玉砕作戦とは最も卑劣にして且残酷なる戦術である、とは世界戦史上の真理である。タラワ島攻略戦の精密な死傷者総数は明らかではないが、海兵隊の死傷者数は将校および士官兵の戦死および行方不明984名で負傷2072名であった。この他、海軍医療隊の将校2名、兵士27名が戦死し、また上陸月舟艇の舵手及び砲手と航空母艦機の飛行士等の戦死者はこの2〜3倍に達するであらうから、戦死者数は総計1100名と見られる。その後、タラワ島のブアリキ礁に潜んでいた200名の残敵掃蕩で32名の海兵が戦死した。 
マーシャル群島侵攻

 

連合国統合参謀本部では、ギルバート諸島の攻略戦を実施する以前より、既にマーシャル群島の侵攻作戦を決定していた。そしてこの作戦の一般的命令は、ワシントンにあるアメリカ海軍作戦部長キング大将よりパールハーバーにある太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将に移された。キング大将の冪僚によって計画された作戦試案によれば、マーシャル群島の侵攻はまず東マーシャル群島、即ちラダック(別名サンライズ)諸島より順次、島伝いにはじめることを準備した。なるほど日本側ではこのラダック諸島中のウォッエ、マロェラップ、ミリ各島を十分に要塞化し、さらに西マーシャル群島すなはちラリック(別名サンセット)諸島に及んでいた。更に北端はロンジェラップ島、南端はヤルート島に至り、日本軍のマーシヤル防禦線が形成されていたのである。しかしニミッツ大将の太平洋艦隊司令部ではこの試案に反して、マーシャル群島の外廓をなす前記の諸島を素通りして一挙に内方の奥深く、クェゼリンおよびエニウエトック両島を衝く、空前の大規模の蛙跳び作戦を主張したのであった。それはいわゆる『東京特急』の速度を早めるためと、この両島の日本軍の大基地がタラワ島また東マーシャル群島の諸島の海辺陣地のごとく強固に完備されていないとみられたからであった。しかしそれは非常な冒険であり、クェゼリン島の上陸軍は北方はウエーク島より、西北方はエニウエトク及びウジェラン両島より、また西南方はカロリン群島より、南方はナウル島より、そして東方のあらゆる素通りした諸島より飛来すべき日本空軍の攻撃に曝される危接にあった。
唯この危険を防ぐには、前もってこれらの諸島を爆撃によって無害にしないとならなかったが、ニミッツ大将の空軍参謀とこの新作戦の幕僚ラォーレスト・シャーマン少将は必ず可能であることを同大将に保証した。 かくてニミッツ大将はクェゼリン島よりマーシャル群島侵攻を開始する新作戦を承認したのであった。まず南のナウル島を一挙にノック・アウトするため『バンカー・ヒル』および『モンティレー』2空母を含む混成機動部隊が攻撃に当ると同時に、ウィリス・A・リール少将指揮の下に3万5千トン級の戦艦『ノース・カロライナ』『ワシントン』『サウス・ダコタ』『マサチューセッツ』『インディアナ』『アラバマ』の6隻が、太平洋上のこの孤島を『撃沈』するために、一斉に遠巻きにして16インチ砲弾を各200発以上を射ち込んだ。
ナウル島は沈まなかったが、もはや回復することはできなかった。タラワ島占領後、パールハーバーへ帰投することになった空母艦隊は、行きがけの駄賃にクェゼリンおよぴウオッゼ両島に痛打を浴びせることになり、チャールス・A・ポーノール少将指揮の機動部隊はアルフレッド・E・モントーゴメリー少将指揮の空母集団を伴い、12月4日両島を奇襲して猛烈な爆撃を加えたが、ちょうどクェゼリン島には環礁の南端に日本軍の増援部隊と軍需品を輸送して積降したばかりの大輸送船団約12隻が碇泊し、また付近には軽巡洋鑑2隻と油槽船1隻が碇泊していたので、血祭に上げられた。その後6週間、マーシャル群島の準備爆撃はアメリカの基地空軍によって徹底的に行われ、とくにウィリス・H・ヘール少将指揮の陸軍第7航空隊が全力を挙げて、同期間中に1750トンの爆弾を投下した。そのためマーシャル群島に散在する多数の日本軍の飛行場は、いずれも20%ないし80%の使用不能や損害を蒙った。かくて1944年(昭和19年)1月5日、マーシャル群島の主目標に対する一日がかりの猛爆撃が行われたので、日本軍の守備隊も何かが近ずきつつあるのを察知したが、しかしどこからくるのか精密には知らなかった。キャント氏の説明によれば、このマーシャル群島侵攻に割当てられたアメリカ上陸軍は、はなはだ厖大な規模のものであるため、クェゼリン島の周囲の種々の地点に集結した後、それぞれ異なる速力をもって目的地へ到着するように派遣された。それはアリューシャン群島より来たものもあり、米本国の太平洋岸から来たのもあり、ハワイより来たのもあり、エリス諸島より来たのもあり、マーシャル群島よりもっと南方の島々より来たのもあった。この大遠征軍の総指揮はレイモンド・A・スプルーアンス海軍中将がとり、その下にマーク・A・ミッチャー少将が艦隊を指揮し空母『ヨークタウン』に司令官旗を掲げた。彼の下にはさらに4人の少将が配置され、それぞれ空母機動部隊を一つづつ指揮した。クェゼリンおよびエニウエトク両島はいづれも巨大なる環礁であるが、アメリカ上陸軍はタラワ島上陸作戦の教訓を十分に生かして、水陸両用部隊の指揮編成に万全を期したのは注目に値する。即ちアメリカ軍は蛙跳び作戦のスピードアップに伴い、一つの新しい上陸作戦毎に新しい速度と新しい教訓を学びとって、日本本土の心臓である東京を目指して殺到しつつあったとき、太平洋上の各島嶼の至るところに、あたかも島流しの俊寛(しゅんかん)部隊を置去りにして、小刻みの玉砕と敗戦の悲しい教訓に目を閉じ、頬被りを続けた日本軍部が、実力の絶対的劣弱とはいえ、余りにも国民大衆を欺いて恥なき呪われた行状を示したものであった。即ちキャント氏の指摘するように、日本軍部は戦争の前途に全くなんらの勝算も、あるいは成果もなくして、ただ徒らに、絶望的な死闘を繰り返して自らの出血を増大し、敗北のときを稼いでいた。日本人にとってクエゼリン島血戦といっても、既に忘れられた悪夢の中のささやかな断片に過ぎないが、しかし太平洋戦史上からみると、この上陸戦はタラワ島上陸戦に匹敵するほどの重要た戦術的意義があった。(実際に太平洋上における上陸作戦はアッツ、タラワ、クエゼリン、サイパン、硫黄各島とも世界戦史上未曾有の、各島各様の特異な戦闘形態を示したものであった。) 何故ならばクエゼリン島は世界最大の環礁であって、太平洋上に延々230哩にわたる狭い断続的なリボン状の周辺をつくり、正に微細な珊瑚蟲が築き上げた巨大な記念碑の偉観を呈していた。そしてこの大環礁の長さは、その内側に抱えた礁湖を測量しても実に80哩もあり、一つの『陸地の集団』と他のそれとは、50哩も隔たっている位に特異な地理状勢を示していた。それで上陸軍はこのクエゼリン大環礁の攻略ために南北二つの大集団に分けて、リッチモンド・ケリー・ターナー海軍少将が両集団を指揮して空前の大規模な水陸両用作戦を実行することになった。そして彼は自も南方軍を率いて大環礁の中心であるクエゼリン島攻撃の陣頭に立った。また北方軍は大環礁北端の要衝であるルオットおよびナムール両島の攻略を目指して、リチャード・L・コノリー少将が指揮した。かくて1月30日未明より、ルオット、ナムール、クエゼリン3島に対する海空呼応の大砲爆撃が開始され、48時間にわたり継続された。これには新に『メリーランド』『テネシー』『ペンシルバニア』『コロラド』『ノース・カロライナ』『ワシントン』『アイダホ』『ニューメキシコ』『ミシシッーピー』『サウス・ダコタ』『マサチューセッツ』『インデアナ』『アラバマ』『ニュージャージー』『アイオワ』の新旧戦艦15隻が参加し、この中『ニュージャージー』および『アイオワ』2隻は空母集団の掩護に当った。そして遠征艦隊司令長官スプルーアンスは旗艦『ニュージャージ』より采配を揮った。又彼の靡下の4つの機動部隊に配属された大型空母は『サラトガ』『エンタープライズ』『エセックス』『ヨークタウン』『バンカーヒル』5隻、また軽空母は『プリンストン』『カウペンズ』2隻以外は不詳であるが、15隻の戦艦に匹敵する10数隻の戦闘用空母が動員されたものとみられ、これに付随して護送用空母『コレヒドール』『サンガモン』『スマニー』『チェナンゴ』『ナッソー』他多数、また巡洋艦『パルチモア』『ポストン』『ウィチタ』『ニュー・オルリーンズ』『インデアナポリス』『ルイスビル』『サンフランシスコ』『ポートランド』『ミネアポリス』他、多数が参加し、実に今大戦開始以来最大の近代的戦闘艦隊を繰出したのであった。そして48時間にわたる上陸準備の砲爆撃で、ルオット、ナムール両島の2平方哩の陸地に2500トン、またクェゼリン島の同じくらいの陸地に2500トンの砲弾と爆弾が投じれたののち、2月1日未明に上陸攻撃が開始されたのであった。クェゼリン島に対する上陸攻撃部隊はアッツ島攻略戦の勇士たる陸軍第7師団でチャールス・H・コーレット少将が司令官であった。そしてまづ上陸の第一目標はクェゼリン島の北西方に点在する4つの小さい珊瑚島で、大洋と礁湖とを区切るギア水道に面したニニ及びギア両島、ならびに南水道に面したエニラベガンおよびエヌブジ両島であった。この日未明、漆黒の闇は深く雨が降り続けて、巨大な大環礁を目指して無数の水陸両用舟艇とゴーム・ボートが攻撃隊を満載してまるで蟻のごとく群がり殺到する光景は奇怪壮絶であった。かくて日の出前に4つの小島(例へばギア島は長さ800メートル幅400メートル)はアメリカ軍の手に委ねられ、数10名の日本兵が殺されて、または捕虜となった。
そして海上より大環礁の内部の礁湖に通じる各水道は確保されて、以後の主要作戦行動に便した。また北方のルオット、ナムール両島の上陸攻撃には海兵第4師団が当った。上陸作戦の戦況は、第1日の2月1日の日没までに北方軍(海兵師団)はルオットおよびナムール両島の側面の5つの小島を占領し、また南方軍(陸軍)はクェゼリン島側面の4つの小島を占領して、翌2日よりいよいよ主要目標であるルオット、ナムール、クエゼリン3島の上陸攻撃が行われた。作戦上、最も注目すべきことはエヌブジ島に早くも強力な師団砲兵陣地が設定され、これより上陸地点に対する巨砲の据置砲撃が行われたことである。地下に構築した陣地に依って抵抗した日本軍は、狂信的なまたは絶望的な夜襲斬込みにも拘わらず、甚大なる近代的戦術の前に空しく玉砕するほかはなかった。『タラワの恐怖』に懲りたアメリカ軍は徹底的な準備砲爆撃を行い、かつ将兵の生命を保護するために無謀な上陸突撃を慎んだので、クエゼリン環礁の完全占領には4日間を要したが、損害ははなはだ少なかった。
即ちキャント氏の記録によれば、クェゼリン島におけるアメリカ陸軍第7師団の損害は戦死177名、負傷712名に対して、日本軍の戦死は司令官秋山少将以下約5000名に達した。これは日米両軍の死傷者比率が28対1を示しており、タラワ島上陸戦における同比率5対1に比較するとアメリカ軍の圧倒的勝利と作戦の改善進歩を物語るものであると言われた。また大環礁北端のルオット、ナムール両島攻略において、海浜第4師団の損害は戦死129名、行方不明65名、負傷436名に達したが、一方日本軍の損害は司令官山田少将以下戦死3479名、捕虜91名を数えた。日本兵の死体は多くは弾雨の中に四分五裂して、満足な形骸を備えたものは少なかったが、しかし従来の南太平洋戦線で戦死者の1%平均であった日本軍の捕虜の比率が、3%に激増したのは注目された。かくてクエゼリン全環礁の征服即ちマーシャル群島侵攻に要したアメリカ軍の犠牲は陸軍および海兵隊を合わせて戦死および行方明不明僅かに356名に対して日本軍の戦死は実に8500名におよび日米軍の損害比率は24対1を示している。これに関して歴史的な水陸両用作戦の実施責作者であるリッチモンド・ターナー少将は次のように述べている。『恐らく我々は、この上陸戦のために余りに多くの兵員と、余りに多くの艦船をもったかもしれない。しかし私はこの作戦の遂行にあたり、そのような方法を選んだのである。それは我々をして多数の生命を救ったのだ!』このアメリカ軍のマーシャル侵攻作戦の大成功に対して、悲しいかな日本の大本営発表はまたしても、『孤島の守備隊』を見殺しにして『玉砕の光栄』を謳歌したのであった。それはいわば伸びすぎた生命線によって、自らの首をじりじりと絞め殺されたようなものであった。
「 大本営発表【1944年(昭和19年)2月25日16時】 クエゼリン島ならびにルオット島を守備せし約4500名の帝国陸海軍部隊は、1月30日以降来襲する敵大機動部隊の熾烈なる砲爆撃下これと激戦を交え、2月1日敵約2ヶ師団の上陸を見るや之を邀撃(ようげき)し、勇戦奮闘、敵に多大の損害を与えた後2月6日最後の突撃を敢行、全員壮烈なる戦死を遂げたり。ルオット島守備部隊指揮官は海軍少将山田道行にして、クエゼリン島守備部隊指揮官は海軍少将秋山門造なり。なお両島に於いて軍属約2000名もまた守備部隊に協力奮戦し、全員其の運命を共にせり。 」 
太平洋制覇・トラック島破壊

 

ギルバート諸島よりマーシャル諸島へ尨大なる海、陸、空の複合的戦闘力を推進したアメリカ軍は、いよいよ急ピッチで敗北の暗影の濃い日本軍を圧迫しつつ、広茫たる太平洋の支配権を掌握するに至った。それまでミクロネシア全域にわたる無数の島嶼に航空基地を確保して『沈まざる航空母艦』と無敵帝国艦隊とにより太平洋の征覇を呼号していた日本軍が、なぜアメリカ軍の大反攻の前に脆くも制海権を奪回されて絶望的な防禦態勢に陥ったか、これをキャント氏は戦略的に次のとおり辛辣に批判している。
(一) 日本軍の誇示するように開戦以来2年間、日本軍は太平洋の制海権を握って、アメリカ戦闘艦隊は赤道の北方、また国際日付変更線の西方の広大なる海域には近寄ることが出来なかった。それは日本軍が無数の『沈まざる航空母艦』である島嶼の基地航空力を駆使できたからで、この海域に危険を冒して突入したのは、ただ高速力の空母機動部隊がヒット・エンド・ランの奇襲を行ったのみであった。
(二) 従って、アメリカでも日本軍の太平洋支配権を奪取するには、陸上基地の強大な航空カによる以外は不可能であるとの意見が有力に行われ、米本土の西部海岸の基地より太平洋を一翔びに横断することの出来る超爆撃機の大空中艦隊の建造案が唱導された。それと同時に航空母艦は時代遅れの間に合わせ物して、廃棄を堤唱されたものである。恐らくこの意見は、日本がアメリカと同様の技術的熟練と産業的潜在力を持っていたならば正しかったであらう。但し連合軍統合参謀本部ではこの点に関して日本の実カを決して過大評価していなかった。そしてこの意見には耳をかさず、多数の航空母艦建造の大計画と空母戦闘用の航空機の大量生産に馬カをかけたのであった。
(三) また日本軍も産業力の点では日本が二流国であるから、航空消耗戦では到底アメリカと競争できないことを、ソロモン群島およびニューギニア両戦線で知ったのであった。即ち日本軍は戦闘機を戦況に間に合うように急速に補充することが全く出来なかったのだ。それに日本軍は守勢に立った場合、頼りとする基地航空カの配置の適当でないことを、タラワ及びクエゼリン両島で露呈したのであった。従って日本軍の誇示した、『沈まざる航空母艦』の鎖(chain)威力は、それが相互に独立自活することが必要であった。この理論は健全であったが、しかし貧乏国がこの理論を適用しようと企てるときには、それは虚弱なものになることを日本軍は発見した。
(四) ギルパート、マーシャル両群島失陥後の日本軍とアメリカ軍との戦闘態勢は皮肉にも次のような対照を示した。
【日本軍】――『沈まない航空母艦』は無限に補給されているが、航空機の補給は甚だしく不足した。それに艦隊は甚だ時代遅れの旧式で均衡(バランス)が取れていない。
【アメリカ軍】―― 戦闘地域に『沈まない航空母艦』は一つも持たないが、無数の航空母艦の甲板から飛び立つ航空機の補給は殆ど無限のようで、かつまた艦隊は世界最新、最重装備、最高速力の戦艦陣を造っている。
(五) かくてアメリカ軍は日本軍の戦略上の致命的欠点に見抜いて、クエゼリンおよびルオット両島占領後、直ちにニミッツ元帥は現地に赴き、遠征軍司令長官スプルーアンス中将及び水陸両用作戦指揮官ターナー少将と謀議の結果、2ヶ月後に遂行する作戦計画であったエニウェトク環礁上陸作戦を矢継ぎ早やに決行した。そしていわゆる内南洋のカロリンおよびマリアナ両群島の日本軍の干渉を不能にさせるため、太平洋艦隊の主力で編成した第5艦隊を急遽繰り出して、この両群島を攻撃させることに決定した。
(六) 強大なる第5艦隊は2月第1週に、マジェロ環礁の大きな礁湖の中に新設された根拠地に集結して補給および弾薬糧食の補給を終ると、再び急いで出発した。その攻撃目標は極秘にされたが、スプルーアンス中将が総指揮をとり、その下にマーク・A・ミッチャー少将があらゆる機動航空カを指揮して第58機動部隊を編成した。この第58機動部隊こそ、以降、日本の降伏まで1年半にわたり日本軍打倒の恐るべき猛威を揮ったものである。この強カ無比の航空機動部隊は3集団に分かれ、各集団はジョン・W・リービス、アルフレッド・E・モントゴメリー、フレデリック・G・シャーマン3少将の指揮下に3隻宛の新鋭航空母艦を含んでいた。
ミッチャー少将指揮の第58機動部隊こそ、アメリカ太平洋戦史を飾る最もスマートで、最も強大でかつ最も機敏な最新式航空艦隊の花形であった。そしてその初陣の攻撃目標は日本の生命線と頼む内南洋(日本統治領)の要塞トラック島であった。1944年2月4日リベレーター写真偵察機2機は高度6400メートルの上空よりトラック島を偵察して、日本軍の配備ならぴに艦船の出入り状況を写真に収めたが、この精密な偵察写真に基いて、ニミッツ大将はトラック島の急襲を決意したものといわれる。2月17日早暁、ミッチャー司令官の旗艦『ヨークタウン』に率いられた第58機動部隊の新鋭空母集団は、トラック島北東方100哩の攻撃開始地域に到達した。その中には『エセックス』『エンタープライズ』『バンカー・ヒル』『イントリピッド』『ベロー・ウッド』 などがあった。午前6時35分、いまだ漆黒の闇が海上を鎖ざしていたが、各空母は風に向って方向を転じ、戦闘機発進の姿勢をとり、午前6時49分『ヘルキャット』戦闘機は出発を開始して僅か数分間に80機が空中に浮かび、編隊を組むと猛烈な速力でトラック島目掛けて殺到した。午前7時14分、トラック島のラジオ放送は中断され、空襲警報が島内を驚愕させた。日本軍の哨戒機より通報を受けたか、あるいはレーダーによってアメリカ空軍の襲来を探知したかどうかは不明であるが、7特50分トラック島の上空で戦闘が開始されたとき、日本軍の零式戦闘機の相当数が空中に舞上っていた。『ヘルキャット』戦闘機隊はエドガー・E・ステビンス中佐の指揮により、これらの日本機に襲いかかった。それは激烈な戦闘であったが、しかし日本機ははなはだ多数でありながら、その性能並びに戦術は著しく劣悪化していた。この当時には零型戦闘機も改良されて自動漏止装置油槽(self sealinggas tank)のような安全装置を備えていたが、しかし『ヘルキャット』戦闘機の50ミリ砲弾の一発の命中で忽ち火を噴いて墜落し、全くこの最新式グラマン機は零式戦闘機の10倍の滅力があった。そしてこの第一回の空襲で日本機は空中で127機の中約3/4を撃墜され、また地上で77機を破壊された。これに反してアメリカ機の損失はなはだ僅少で、しかもそのパイロットはすべて救助された。
この戦闘機隊の攻撃後、1時澗ばかりたってから『ドーントレス』および『へルダイバー』急降爆撃機隊と『アベンジャー』雷撃機隊が、トラック島を襲撃して地上軍事施設ならびに海上艦船に猛爆撃を加えた。10時45分、スプルーアンス中将は攻撃隊指揮官より『日本巡洋艦および駆逐艦6隻が遁走中』という無電報告を受けたが、それより早く既に空母『ヨークタウン』の攻撃機は、これを洋上に捕捉して撃沈破した。次いでスプルーアンス中将は4万5千トンの『ニュージャージー』及び『アイオア』の両戦艦と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を率いて、30ノットの高速力で遁走中の日本艦隊を追撃して絶滅したのであった。さらにこの夜バン・メーソン大尉指揮の雷撃機12機は夜間攻撃用のレーダー装置をつけてトラック島の冒険的夜襲を敢行し、48発の500ポンド時限爆弾を投下し日本の輸送船8隻を撃沈し5隻を大破する戦果を収めた。同夜、トラック島の日本軍は狼狽してカロリン群島の日本軍基地に飛行機の増援補充を求めたが、要するに『沈まない航空母艦』は独立自活する能力を持たなければ、全く無力であることを説明したのであった。即ちトラック島の日本軍は少くともアメリカ空母艦隊の攻撃に対抗するためには、700機以上の航空機を備えていなければならなかったのだ。ところがトラック島の日本基地航空力は、第1回の攻撃で儚(はかな)くも全滅してしまった。かくて翌18日朝、全く無傷の8隻の空母より大挙出発したアメリカ軍の攻撃機は再びトラック島の上空に殺到したが、日本機は唯の1機も舞上って反撃するものはなかった。これによって前日の日本機の損失204機のほかに、さらに地上で50機が破壊されたものと見積られた。また日本艦船の撃沈は合計23隻に上り、この内訳は軽巡2隻、駆逐艦3隻、弾薬補給船1隻、油槽船2隻、砲艦2隻、貨物船8隻、艦船種未詳5隻であった。その後、海軍側では日本船の撃沈6隻、大破11隻を追加したので、トラック島における日本艦船の損失は総計40隻に達したが、アメリカ軍の損害は僅かに19機を喪ったのみであった。このトラック島に対する第58機動部隊の奇襲の成功は、次のような重大な戦略的意義を有するもので、いよいよアメリカ軍は太平洋の支配権を日本軍より奪回して、日本本土攻撃の決定的段階に突入することになったとキャント氏は説明している。日本海軍の根拠地であったトラック環礁。日本の委任統治だった関係で、島々には日本名が付けられていた。この環礁には東西南北に四つの船舶の出入りする水道があった。しかし一回の空襲で徹底的に破壊され、日本海軍はここを見捨てるしかなかった。
(一) この作戦によって海上航空力すなはち空母航空力は、もし十分な航空母艦と十分な搭載航空便と十分な戦艦および掩護艦隊を伴う十分に強力なものであれば、日本軍の守備圏内の西太平洋のいかなる地点へも自由に威力を揮うことができることを示唆した。
(二) トラック島がこのように片付けられるならば、マリアナ群島も同様に処理しうるであらうと推定された。
(三) 従ってスプルーアンス中将はトラック島攻撃に成功するや息もつかせずミッチャー少将指揮の第58機動艦隊にさらに前進を命じたのであった。
さてアメリカ機動部隊のトラック島攻撃に関する日本大本営の発表は次の二つであるが、意外にも自ら日本側の大損害を計上しているのは、いかにその奇襲的戦果が大きかったかを示すもので、『嘘で固めた日本大本営発表としては珍しい正直さを示した』とキャント氏は皮肉っているが、しかしアメリカ側の損害は相変らず嘘で固めてあった。
「 大本営発表【昭和19年2月18日16時】 2月17日朝来、敵に有力なる機動部隊を以てトラック諸島に反覆空襲し来たり、同方面の帝国陸海軍部隊は之を進撃激戦中なり。
大本営発表【昭和19年2月21日16時】 トラック諸島に来襲した敵機動部隊は同方配帝国陸海軍の奮戦に依り之を撃退した。本戦闘に於て敵巡洋艦2隻(内1隻戦艦なるやも知れず)撃沈、航空母艦1隻及軍艦(艦種未詳)1隻撃破、飛行機54機以上を撃墜したが、我方も亦巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船13隻、飛行機120機を失った他、地上施設に若干の損害があった。 」 
呪われたサイパン島

 

日本の心臓を目指す『東京特急』の次の目的地はマリアナ群島の中心のサイパン島であった。それは東京より僅か1450哩の海上に横たわっていた。トラック島奇襲の勝利の勢に乗じたミッチャー少将指揮の第58機動部隊は、大胆にもトラック島よりサイパン島まで700哩の洋上を一路北上して、2月23日サイパン島攻撃を企図した。しかし前日の22日午後2時、日本軍の哨戒機に発見されたので直ちに戦闘配置についた。同夜11時日本軍の雷撃機隊は暗黒の洋上に閃光弾を放ちつつ機動部隊を目がけて波状攻撃を加えた。さすがにアメリカ空母集団も日本雷撃機の狂信的な突込み体当りには混乱させられたようであるが、キャント氏の記録によると事実上アメリカ艦隊は1隻も撃沈破されていない。これに反して日本雷撃機は翌朝までに14機も撃墜されていることが算えられた。そして夜が明けるや否や、雨雲が海上僅か300メートルに低く垂れこめた悪天候を冒して、アメリカ機は一斉に空母より出発して、超低空飛行でサイパン島及びテニアン島飛行場を空襲し、日本機を空中で29機撃墜し、また地上で87機も破壊した。また3隻の貨物船を撃沈破し、7隻の小型舟艇を大破した。かくて多数のアメリカ機は空母より終日、反覆攻撃を続行して、サイパン、テニアン、グァム3島の飛行場、弾薬庫、ガソリン貯蔵所、水上機基地などに大損害を与えたが、意外にも日本軍の反撃は驚くほど微弱であった。それは絶好の『沈まざる航空母艦』を徒らに擁しながら、航空力が殆ど皆無で手も足も出なかったのである。このマリアナ群島空襲の戦果は、日本機の損失135機に対してアメリカ機の損失僅か6機であった。続いて神出鬼没の第58機動部隊は洋上補給行うや直ちに西進して、3月30日未明西カロリン諸島の日本海軍基地パラオ島を襲撃したのであった。もっともこの前夜日本軍の哨戒機は機動部隊の来襲を探知したので、未明にお決まりの雷撃機の先制攻撃を行ったが不成功に終った。しかしパラオ島は空襲警報を発して、夜明けとともにアメリカ攻撃隊が殺到したときには、上空には日本機30機が待ち構えていた。
しかし彼らは夥しいアメリカ攻撃隊の前には絶望的に少数のため、忽ち10機を撃墜されて四散した。アメリカ攻撃隊に次いで多数の急降下爆撃機と雷撃機が襲来して、全島に火の雨を降らせ、逃げ遅れた日本駆逐艦3隻も撃沈した。もっとも日本艦隊の主力は一両日前に危険を感じて狼狽してパラオ島より出発したが、意外にも置き去りにされた連合艦隊司令長官古賀峯一元帥以下暮僚は、命からがら特別仕立の大型機2機に分乗してはるか比島のミンダナオを目指して遁走中、濃雲のため山中に激突して墜落し名誉の戦死を遂げたのであった。これはキャント氏の記録にはないが、古賀元帥の死が今日に至るまで杳(よう)として真相を公表できないほど、儚(はかな)いものであったのは驚くべきであろう。殊に生き残った元帥の幕僚達がミンダナオ山中のゲリラ部隊に生捕りにされた顛末に至っては、アメリカ記者のぺンを俟(ま)たずとも日本人の手で暴露せねばならないであらう。しかるに当時、日本軍部はこの醜悪なる事実を隠蔽して、ようやく5月5日に至り大本営が『連合艦隊司令長官古賀峯一大将は本年3月前線に於いて飛行機に搭乗、全般作戦指導中殉職せり』と奇怪な発表を行い、また天皇は真相を知るや知らずや『その偉功を嘉せられ元帥府に列せられ特に元帥の称号を賜い、功一級に叙し金鵜勲章を授けられ旭日桐花大綬章を授けられ正三位に叙せらる』というに至っては、全く無知同然の国民をよくも愚弄したものといえるであらう。この第58機動部隊の西カロリン諸島の奇襲は3日間にわたったが、その戦果よりも日本軍部に与えた心理的効果は深刻であった。成程内地の一般国民は『儼(おごそか)たり内南洋(日本の委託統治の南洋)』とか『我に絶対の勝算、陸海一体の神武精神』といったような大本営報道部の欺瞞宣伝に目を眩(くら)まされてされていたが、しかし前線の日本軍は狂信的な抗戦も空しく、敗戦の死相が日増しに濃くなった。そして日本人の頼みの綱である無敵帝国艦隊は既に広茫たる太平洋上に安住の港なく、ラバウルよりパラオヘ、パラオより日本近海へと体裁よく逃げまわっていたのだ。3月31日、パラオ島攻撃の第2日に、アメリカ空母の多数の攻撃隊はフィリッピン基地より飛来した日本戦闘機40機以上を上空で全滅させた上、補助艦艇および貨物船(油槽船5隻を含む)22隻を撃沈し、16隻を撃破した。また2日間わたる航空戦果は日本機114機を撃墜し、36機を地上で確実に大破し、さらに49機に損害を与えた。これに対しアメリカ側の損失は25機にすぎず、しかも搭乗員は18名を除いてすべて海軍の手で救助された。4月1日の第3日の攻撃は、パラオ島の北東方325哩の日本軍の重要な通信基地ヤップ島に向けられ、建設中の飛行場ならびに軍用無電局および海底電信所を爆破炎上した。日本軍の基地建設能力は貧弱で、同島には高射砲さえないようで、かつアメリカ機の大攻撃に対して日本機はただ1機も応戦するものがなかった。また同日、多数のアメリカ戦闘機および爆撃機の別動隊は、パラオ島東方675哩でヤップ島の南東方にあるウォレアイ環礁を急襲して飛行場にあった零型戦闘機10機および双発爆撃機2機を破壊し、無電局、貯油所、弾薬庫、輸送船を爆破した。しかし日本軍は全く応戦力なく蹂躙にまかせるばかりであった。かくて、第58機動部隊は日本の生命線たる内南洋を縦横無塵に暴れ廻って、一旦補給基地に帰るや息つくいとまもなく4月13日再び出港して、4月22日のマッカーサー元帥のホーランディア海陸作戦掩護の重大任務に当った。それはアメリカの太平洋作戦がいよいよ急速に進展して、遂にニミッツ元帥がパールハーバーで采配を揮う太平洋水域作戦と、マッカーサー元帥が豪州よりニューギニアにわたって采配を揮う西南太平洋作戦とが表裏一体となり、従来ニミッツ元帥靡下の水陸両用作戦に協力するためにのみ使用されていた第58機動部隊が、マッカーサー元帥靡下の上陸作戦に協力使用されるに至ったことは、画期的な戦略的意義があるとキャント氏は強調している。すなわちミッチャー少将は新たに『レキシトン』を旗艦として同機動部隊の空母部隊を強化し、4月21日より23日にわたりニューギニア北岸のホーランディア地区(ホーランディア、サイクロップス、センタニ各地)をケニー中将指揮の陸軍基地航空部隊と呼応急襲し、数百トンの爆弾を投下し、さらに数万発の50ミリ砲弾を発射して、同方面の制空および制海権を完全に奪取して、マッカーサー元帥靡下の大軍の上陸に成功させたのであった。しかし第58機動部隊はこの任務を果すや、直に東方に転進し、洋上補給を行った後、4月30日未明大胆不敵にもトラック島を急襲した。前回の攻撃以来、同島の日本軍は内地より戦闘機および爆撃機200機を補充していたが、ミッチャー少将は同島南西方75哩の地点より、多数の戦闘機隊を進発させて同島の地上軍事施設を攻撃し、応戦した日本機60機を撃墜した上、地上の60機を大破し、さらに全島を火の海と化した。キャント氏の記録によればこの第一日の攻撃で『ヨークタウン』の空母集団のみでも、延べ227回も編隊出撃して110トンの爆弾を投下し、日本軍は唯、高射砲火で絶望的に応戦するばかりであった。かくて2日間にわたるトラック島攻撃を終えた第58機動部隊は、帰航のついでにトラック島東方440哩のポナペ島に砲爆撃を加え、3ヶ月間にわたる空前の海空機動作戦を完了した。ミッチャー少将の卓抜なる企図と第58機動部隊の戦闘力は、航空母艦を中心に構成された超近代的の海上機動航空カを以てすれば、日本軍支配下の如何なる海上にも自由に出没して、その制海および制空権を意のままに奪い取るととが可能であることを証明したのであった。実際に同機動部隊は僅か3ヶ月間にマーシャル群島よりフイリッピン海域に及ぶ数百万平方哩の膨大な太平洋を支配したのである。そしてミッチャー少将は抜群の功績により中将に昇進するとともに、いよいよ大規模なマリアナ群島攻略戦が迅速に企てられた。このアメリカ軍の最新戦略たる強力な空母航空力をキャント氏は『翼を持った海軍カ』(Winget Sea Power)または『海を行く航空カ』(Sea Going Air Power)と呼んでいるのは面白い表現である。かくて呪われたサイパン島の運命は既に決した。そして太平洋戦争の勝敗もまた早くも決まったのである。ただそれを悟らないのは『元寇(げんこう)の奇蹟』(鎌倉時代に蒙古が九州に攻めて来た時、嵐が起こって蒙古軍が敗退した古事)を妄信した日本軍部と、その巧妙な天皇利用の必勝宣伝に踊らされた日本国民ぱかりであった。 
サイパン島の悲運

 

日本の敗北の『命取り』となったサイパン島はくどいようであるが、初めから悲運と死相に取り付かれていた。サイパン、テニアン、グァム諸島より成るマリアナ群島は、最初マゼランによって1521年に発見されて『三角帆の島』(Islands of thelatten sails)と命名されたが、その後海賊の棲家となって『盗賊の島』(Islands of thieves)と呼ばれたのであった。1668年以来スペイン領となっていたが、1899年に至りドイツはアメリカ・スペイン戦争の結果アメリカ領となったグァム島を除いて、全諸島をスペインより買収し開発に努めた。しかるに第一次世界大戦で1914年に日本軍によって占領され、1919年より1935年日本の国際連盟脱退まで日本の委任統治下におかれた。しかし日本は連盟脱退後もこのマリアナ群島をはじめ旧ドイツ領有の南洋諸島を完全占拠して、太平洋武力侵略の前進基地と化し、とくにサイパン島を要塞化して戦備に汲々と努めたのであった。かくて、太平洋上の昔の『盗賊の島』は新しい『国際的盗賊』たる日本軍の頑丈な棲家となっていたのだ――とキャント氏は喝破している。そして原著は第15章を『盗賊の島』と題してサイパン島を叙述しているのは、日本人の読者には余りに痛烈な皮肉であらう。ところで勝算満々たるニミッツ元帥はサイパン島攻略の戦略的目的を次のように判断して大規模な上陸戦を計画したのであった。 
(一) サイパン、テニアン両島は日本本土沿岸とくに日本の心臓である東京より1300哩ないし1500哩の圈内にあり、当時まさに就役しようとしていた『超空の要塞』B29にとって絶好の攻撃基地となるものである。
(二) ことに南部マリアナ諸島の攻略は、日本本土と南方諸島との航空ならびに海上の直接連絡を遮断して、1944年初頭における日本軍の南方の最も重要な根拠地であるトラックおよびパラオ両島の要塞を、全く孤立無力化するものである。 
(三) マッカーサー元帥のフィリピン島奪回作戦を待たなくても、サイパン島攻略によって日本本土に対する太平洋上の大突撃路が開かれ、アメリカ軍の全面的勝利と日本軍の完全敗北を急速に促進するであろう。
(四) サイパン、テニアン、グァム各島の占領によって、日本海軍の虎や子の残存艦隊は全く太平洋上より閉め出され、太平洋全域にわたる制海権と制空権とは完全にアメリカ軍の手中に帰するであろう。
要するに今日より顧みて、サイパン島の攻略戦こそアメリカ軍にとっては、東条大将はじめ日本国民の考えていたより遥かに重大な意義をもつものであった。そしてその結果は果してニミッツ元帥が周到に企図した通りであった。これをいいかえれば東条大将を持った日本国民と、ニミッツ元帥を持ったアメリカ国民との運命は、余りに悲痛な対照を示したのだ。アメリカ軍によるマリアナ諸島の日本軍備状況の偵察写真は、この年の2月23日、第58機動部隊の攻撃当時の空中撮影によってはじめて準備され、ついで4月18日陸軍第7航空隊の『リベレーター』爆撃隊のサイパン、テニアン両島空襲によって詳細な偵察写真が撮影された。かくて5月19、20両日にはサイパン島の北東方700哩の南鳥島(マーカス)島が第5艦隊の新機動部隊によって爆撃され、同月23日にはウェーク島も空襲され、6月に入るやサイパン島攻略を目指す大がかりな準備爆撃が、近接する太平洋上の各島嶼の日本軍基地に対して激化した。これにはマッカーサー元帥靡下の陸軍基地航空力も動員されて、ソロモン群島、アドミラルティー諸島、エミラワ、ホーランディア各基地より大挙して、カロリン諸島の要衝トラック、ヤップ、パラオ各島が反復爆撃された。その間にサイパン島上陸作戦のためにスプルーアンス司令長官指揮の第5艦隊に出動命令が下り、ミッチャー中将指揮の第58機動部隊はその攻撃の急先鋒をうけたまわり、6月11日はやくもマリアナ群島海域に出現して大空襲を敢行した。この日の戦果はサイパン、テニアン、ロタ、グァム各島の日本軍基地の上空または地上で、日本機124機撃破したが、アメリカ機の損失は僅か11機であった。翌12日の空襲では残存の日本機16機が撃墜され、貨物船10数隻が撃沈破された。13日より同機動部隊の高速戦艦多数は空母集団より離れてサイパン、テニアン両島の西海岸に16インチ巨砲陣をならべて7時間にわたり猛烈な一斉砲撃を行い、同時に快速の掃海艇隊は上陸戦に備えて沿岸一帯の機雷掃討を行った。さらに15日朝よりパール・ハーバー生き残りの旧式戦艦多数がサイパン、テニアン両島沖に現れて大砲爆を開始し、また上陸掩護用の護送用空母多数が続々到着して戦機は熟したが、既に戦わずしてサイパン島の死命は制せられた観があった。歴史的なサイパン島攻略戦の水陸両用部隊の輸送船団の指揮も含めて、すぺてリッチモンド・ターナー海軍中将(マーシャル群島作戦ののち少将より昇進した)が総指揮をとり、その下にホーランド・M・スミス陸軍中将が第5上陸軍を指揮した。 その編成はトーマス・E・ワトソン少将指揮の第2海兵師団とハリー・シュミッド少将指揮の陸軍第27師団をもって攻撃部隊とし、別に予備部隊としてラルフ・スミス少将指揮の第2海兵師団を当た。またグァム島攻略戦の準備も完了し、サイパン島攻略戦の数日後に行われることに決定した。一方サイパン島の72平方マイルに及ぶ、ごつごつした岩だらけの地勢は日本軍の堅固な地下要塞を構築するのに適していたが、実際には日本軍は29年間にわたる占領中に要塞工事は遅々として進まず、アメリカ軍の侵攻前の数ヶ月にはじめて狼狽して、昼夜兼行の防禦工事に狂奔したのであった。地勢上、アメリカ軍の上陸予想地点は島の西海岸の北端と推定され、日本軍はここに主要陣地を集中した。そしてその兵勢は約2万と推測された。これに対してアメリカ軍のサイパン島攻略作戦は、上陸地点として日本軍が予想した西海岸の北端を避けて、珊瑚礁脈が北端よりもいっそう西方に拡がっているために、上陸が困難にみえる角海岸の南部地区選定して、日本軍の意表を衝いたのである。この上陸地点は南北2区に分けて、北浜はちょうど島都ガラパンとチャラン・カノアの二つの町の中間にある角海岸の長さ1350メートルの海辺で、これにはダイ海兵師団に割当てられた。また南浜はチャラン・カノアの町をふくむ南方の砂糖山地域におよぶ角海岸の南部1350メートルの海浜で、これには第4海兵師団が当った。アメリカ軍の上陸戦開始の時刻は、6月15日午前8時40分と決定していた。そして実際にこの作戦計画より僅か11分遅れて、最初の上陸部隊はサイパン島の角海岸に到着したのであった。続いて第2、第3の上陸部隊も同様に比較的楽に上陸して予定の海浜地区を確保したが、突如それまで鳴りをひそめていた日本軍は、遮蔽陣地より野砲および臼砲の猛烈な集中砲火を浴びせかけたので、第4以降の上陸部隊はたちまち上陸用舟艇のまま立往生して死傷者が続出し、また海浜地区に無事に上陸していた上陸部隊の頭上にも、日本軍の十字砲火が火の雨を降らせ甚大な被害を蒙った。かくて上陸開始後10時間の中に第6海兵連隊(第4海兵師団)の第2大隊のごどきは、4人の大隊長が負傷のため交替したのであった。もっとも第1日に上陸部隊は相当の進出を見せたが、1メートル進むごとに払う犠牲は莫大であった。夜はふけても日本軍の砲火は激烈でアメリカ軍の前進部隊はかえって危険なため後退した。そしてこの戦術後退を利用して、沖合のアメリカ艦隊は海岸奥地の日本軍砲兵陣地に猛烈な艦砲射撃を加えた。第2日の6月16日、上陸部隊は日本軍の死物狂いの砲火と抵抗とを排して進出し、正午ごろには南北両上陸地区の橋頭堡の中間地帯の日本軍は一掃されて、第2及び第4海兵師団の上陸部隊の連絡がなり、戦況ははなはだ好転した。しかし危険は決して去らず、上陸部隊は日本軍の逆襲によって水辺に撃退される心配はなかったが、しかし死傷者の比率が甚大なため、非常処置を講じないと海兵師団は消耗戦により重大危機に陥るものとみられたので、ターナー総指揮官とスミス中将は緊急協議のうえ、直ちに予備軍の陸軍第27師団を繰出したのであった。第3日の17日正午、第27師団は上陸地区の南端に上陸したが、既に第4海兵師団の先駆隊は島内深く快速に進出し、その一部は島の南東角のアスリート飛行場付近に達していた。第27師団の任務は、このアスリー飛行場を占領し、さらに島の南東部のナッタン岬を確保するにあった。ところで第5日目の19日、サイパン島沖合の第58機動部隊に対して突如、日本空軍が大挙して襲来した。その目的はアメリカ艦隊を撃破して上陸軍を孤立させてサイパン島の日本軍の危機を救うにあった。もちろんこの大戦闘は陸地より望見することはできなかったが、翌20日、日米両艦隊の大海戦が行われ、アメリカ空母集団の海軍機数百機は全力を挙げて日本艦隊を撃破し、遂にアメリカ艦隊のためにフイリッピン海域を安全にすると同時に、南マリアナ諸島攻略戦の成功を確保した。このマリアナ群島沖の日米艦隊の大海空戦は、劣勢を一挙に挽回しようと焦って乾坤一擲(けんこんいってき)の攻勢に出た日本連合艦隊の主力が、アメリカ空軍のために無残にも敗退した歴史的意義を有するもので、キャント氏はとくに『新スタイルのジェトランド海戦』と題する一章を設けて詳説しているところである。6月12日ハルマヘラ沖を警戒中のアメリカ潜水艦より、戦艦4隻、航空母艦6隻以上、巡洋艦8隻、駆逐艦8隻よりなる日本艦隊が北上中との報告がアメリカ軍司令部に達したので、第5艦隊司令長官スプルーアンスおよび第58機動部隊司令官ミッチャー両中将は、この日本艦隊撃滅の秘策を練った。そして19日午前9時30分、日米両艦隊は遂に遭遇し、まず日本艦隊の航空母艦9隻(大型5隻および中型4隻と推定)の航空力約600機は日本独特の先制攻撃を企てアメリカ艦隊目掛けて襲来してきた。これに対して第58機動部隊の空母集団は直ちに全航空力をあげて邀撃(ようげき)し、午前10時40分より3時間にわたり空前の洋上の大空中戦が開始された。しかし日本機は40機ないし75機ずつの数編隊をつくりその機数ははなはだ多かったが、パイロットの技量ならぴに航空機の性能ともにアメリカ空軍にはなはだ劣り、ことにその攻撃力は奇妙なくらいに非効果的であった。これらの日本海軍の空母乗組パィロットは18ヶ月もかかって、このような洋上の空中戦のために猛訓練されてきたものであったが、しかし人員数ばかり厖大ながらその実力は全く悲惨なくらいに無能であった。たとえば日本の攻撃機は全く攻勢的でなく、また爆撃機の掩護も殆んどしなかった――とキャン卜氏はマリアナ群島沖の大空中戦および大海戦における日本海軍の致命的敗因を辛辣に指摘しているのは注目される。要するに日本海軍自慢のいわゆる予科練パイロットも無敵海軍も、海空一体の近代的立体戦では、全くアメリカ海軍の前に手も足も出ず、徒にミッチャー中将指揮の老練な『翼をもった海軍力』に、またしても名をなさしめたのであった。かくて第58機動部隊を目掛けて殺到した日本機の大群も、アメリカ戦闘機の空中哨戒網を突破したものははなはだ僅少であって、日本機の編隊はバタバ夕火を噴いて10機、15機と一団となって撃墜され、アメリカ艦隊には被害がなかった。そして空中戦は午後1時16分まで約3時間も続いたが、その戦闘はキャント氏の表現をかりれぱ『甚だしく単調なもの』で襲来した日本機総数500機以上のうちで、撃墜404機さらに100機以上は海中に不時着して沈没したものと算定された。また日本機のうちでアメリカ戦闘機の哨戒網を突破して、アメリカ艦隊の頭上に到達したものは僅か18機にすぎず、しかもこの中で12機は高射砲のため撃墜された。これに対してアメリカ機の損失はたった27機で、しかもこの中の9機の搭乗員は無事に救助された。海洋航空戦において、かくも短時間に、かくも強大な航空力が、かくも得るところなく潰滅した実例は世界戦史上に比類なきものと言われる。そして日本海軍航空力の神髄(しんずい)は僅か数時間の中に泡沫のごとく消え失せてしまった。日本の空母艦隊は全く取り返えしのつかない大失敗を犯し、各空母甲板には僅少の哨戒機を残すのみであった。従って日本艦隊のホープであった空母群は全く無用の廃船と化し、アメリカ軍は大空中戦の勝利に引き続いて大海戦の勝利を追及したのである。ここにサイパン島の重ね々々の悲運があった。それを不幸にも日本国民は全然知らなかった。 
日本艦隊の潰走

 

日本空軍を全滅させた第58機動部隊は、遁走中の日本艦隊を捕促してこれを殲滅するため、空母『レキシントン』および『エンタープライズ』の長距離偵察機が全力をあげて西方海上を捜索したが、19日夜までに発見することができないで空しく帰投した。もっとも快速の同機動部隊が西方へ追撃して空母より空中攻撃をしたならば、敗戦の日本艦隊は完全に捕捉されたであろうが、第5艦隊司令長官スプルーアンス中将はこれを聞き入れなかった。それはサイパン島に上陸中のアメリカ軍を置去りにして、万一、日本基地航空力の襲来にさらす危険があったのみならず、第58機動部隊の各空母は重油および爆弾が欠乏していたからであった。翌20日早朝よりアメリカ空母機は西方海上の偵察捜索に努めた結果、午後3時半になって『エンタープライズ』乗組のロバート・ネルソン大尉機よりサイパン島西方700哩ルソン島東方700マイルの海上に、日本艦隊を発見したとの報告があった。そして海上一面に漂う油は、日本艦隊が洋上で給油中に発見されて狼狽して遁走中なることを示した。既に日没まで2時間をあますのみであり、かつ航程400哩の困難な冒険的海洋飛行であったが、ミッチャー中将以下各空母指軍官は、この千歳一遇のチャンスを逃すなとばかり、月のない暗夜の洋上の帰還を覚悟して、午後4時大挙して数百の攻撃機隊を出発させた。そして最初のアメリカ機編隊が獲物を発見し襲いかかったのは午後6時30分で、既に広大なる洋上には夕闇がたれこめていた。猛烈な雷撃と爆撃が夜気を壮絶に彩ったが、戦果は不明であった。例えば同じ攻撃機隊の搭乗員でありながら日本艦隊の空母数を6隻とも8隻とも報告し、また戦艦についても異論があった。ただ一つ各報告に一致したのは、日本の各空母の甲板上に全く機影を見ないか、或は僅少の機影を見たのみで、日本艦隊の掩護哨戒には僅か零式戦闘機が30機ないし40機が当っているのみであったが、この中確実に26機が撃墜された。このアメリカ空軍の大追撃に対して日本連合艦隊の主力は、ただ高射砲火を盲目撃ちにしながら鬼気迫る洋上を右往左往して逃げ廻るばかりであった。アメリカ第24雷撃機隊は空母『早鷹』の中央部に魚雷3発命中させて撃沈させたのみならず、各攻撃機隊の日本艦隊にそれぞれ重大損害を与えたことが報告されたが、しかし夜陰のため、戦果は確認されなかった。かくてアメリカ空軍はガソリン欠乏のため潰走する日本艦隊に止(とど)めを刺せなかったが、一方的勝利の凱歌をかかげながら、黒闇の洋上を遥か遠く第58機動隊の空母群を目指して、再び決死的な帰還飛行についたのであった。この珍しい冒険的壮挙はジョセフ・プライアン中佐著『闇黒の彼方の爆撃行』(1945年刊)に詳述されているが、この夜、旗艦『レキシントン』の飛行甲板上で漆黒の空と海とを睨んで、歴史的な夜間洋上空襲の成否を気遣っていたミッチャー中将は、断然戦闘海域の厳重な灯火管制令を破って各空母に点灯を命じて、空っぽのガソリンタンクに命懸けの帰還をあせる数百機の攻撃機群を温かく迎えたのであった。もし当夜、日本の有力なる潜水艦隊または夜間攻撃群が、この闇夜の洋上に忽然と不夜城のごとく煌々(こうこう)と輝いた第58機動部隊の大艦隊を奇襲したならば、驚くべき戦局の変化をしていたかもしれないと、キヤント氏はミッチャー中将の大胆不敵な決断を評している。とにかく日本軍はもはや陸海空ともに、手も足も出ないような窮状にあったために、アメリカ軍にあらゆる戦略上の幸運が独り占めにされたのであった。そしてまるで闇黒の空より大粒の雨の降るように、おびただしいアメリカ攻撃機は各空母の甲板上に折り重って殺到し、転倒しまた付近の海上に不時着した。そして沈没した機体の乗組員を救肋するため探照灯の中を駆逐艦が活動した。かくてこの闇夜の爆撃行でアメリカ機の損失は95機(日本艦隊を攻撃中の損害と帰投の機体破壊および沈没を含む)におよんだが、大部分の人命は救助されて死者は僅かパイロット33名および搭乗員37名にとどまった。日本艦隊の損害は、物質的にも精神的にも実に莫大であった。それは闇夜の戦果不明のためのみならず、最初より第5艦隊司令長官スプルーアンス中将はサイパン島攻略戦の重大使命を痛感して、むしろ日本艦隊の追い打ちにあせるミッチャー中将を制したので、この19、20両日にわたる大海空戦の戦果をはなはだ過小評価したくらいであった。しかし、この大海戦(日本ではマリアナ沖海戦と称し、アメリカでは第2フイリッピン海戦とよんでいる)は、あたかも前大戦のジュトランド海戦と同様に、勝ったアメリカ側ではいかに莫大たる損害を日本艦隊に与えたか、当時は不明であったが、その後次第に大勝利の程度が判明してきたのだ。すなわち、ミッチャー中将指揮の第18機動部隊はサイパン島攻略に牽制されたために、潰走する日本艦隊を余力をあげて殲滅することには成功しなかったが、しかし、日本海軍の機動航空力を全滅することに大成功した。そしてそれは空母航空力を喪失した近代的大艦隊の末路を宣告したも同様であった。かくて、その後アメリカ軍の日本本土攻撃に対して、もはや日本の空母機動部隊は、決して再び脅威となることはなく、サイパン島より直接に東京に至る海上は、全くアメリカ海軍の支配するところとなった。それは前大戦でジェトランド海戦の勝利により、ドイツ本土に直接通じる海上をイギリス海軍が支配したのと、全く同様であった。太平洋戦争における『新スタイルのジェトランド海戦』とキャント氏が呼んでいる由縁である。アメリカ側の記録によれば、この6月19、20両日の海空戦の日本艦隊は制式空母『大鳳』『翔鶴』『早鷹』3隻を撃沈され、また積載航空機をほとんど全部失って艦体にも相当損害をこうむって潰走した空母『瑞鶴』『瑞鳳』『千代田』『千歳』4隻も、それより4ヶ月後の10月25日ルソン島沖で再びミッチャー中将指揮の第58機動部隊に見舞われて、ことごとく撃沈されたのは奇しき宿命であった。かくて開戦の翌春――1942年6月4日および、5日ミッドウェー島沖ではやくも空母『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』4隻をアメリカ空軍のため撃沈されて、暗い影に呪われていた日本海軍の制式空母15隻の大半は既に1944年秋までに潰滅してしまったわけである。なおマリアナ沖に撃沈された『大鳳』は、アメリカ潜水艦『アルバコア』により、また『翔鶴』は同じく潜水艦『キャバラ』により魚雷攻撃を受けたものであるが、第58機動部隊の航空力により積戦機を全滅させられて潰走する途中を待伏せて、潜水艦によって止(とど)めを剌したアメリカ海軍の周密な総合的作戦は、その後レイテ島の大海戦にも発揮されて、常に大成功を収めたのであった。ところが太平洋戦争におけるジュトランド海戦と呼ぱれるくらいに重大な意義のあるこの大海空戦について、日本の大本営は6月23日15時30分、次のような驚くべき発表を行った。それは日本国民の狂信的希望である無敵艦隊の幻影を壊すまいとする軍部の思いやりにしては、余りに出鱈目過ぎるではないか!太平洋戦争を通じてこの大本営発表は『最大の嘘』の一つであった。
「 わが連合艦隊の一部は6月19日マリアナ諸島西方海面において、3群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行い爾後、戦闘は翌20日に及びその間に敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を沈破、敵機100機以上を撃墜するも決定的打撃を与えるに至らず、わが方航空母艦1隻、油槽船2隻及び飛行機50機を失えり。 」
決定的打撃を与えるに至らずとは、アメリカ側の発表を大本営が逆に先制発表しているのは、全く珍無類のインチキではないか。悲しいかな!  
サイパン島の最後

 

かくてサイパン島は、日本本土より孤立無援の悲運に陥ったのである。遥か南洋の海のかなたより、SOSを呼び続けるサイパン島の日本軍と在留邦人は、頼みの綱の連合艦隊のあっけない潰走と海軍航空力の壊滅によって、もはや東条大将の豪語した太平洋の防塞にもなりえないくらいに無力になってしまった。一方、ミッチャー中将指揮の第58機動部隊の赫々たる勝利に士気ますます盛んなサイパン島上陸のアメリカ軍は、6月20日はやくもアスリート飛行場を占領して、これを同月12日同飛行場上空で戦死した空母攻撃隊長ロバート・H・イスレー中佐の記念のためイスレー飛行場と命名した。そして第2および第4海兵師団と陸軍第27師団の各部隊は、互いに入り交わって競争的に島の奥地に進出した。そして上陸開始後10日にして、左翼軍はサイパン島都ガラパンの町の南部に達し、6月25日はR・M・トムプキンス中佐の指揮する第2海兵連隊の第1大隊は、島の最高峰のタポーチョ山(海抜466メートル)を攻撃して頂上付近の陣地を確保した。またその間に第4海兵師団は島の南東部のマジシェンヌ湾を扼する北岸のカグマン半島の日本軍を激破して占領した。タポーチョ山以北は島が狭くくぴれて上陸軍の3師団が並進することができないので、海兵師団はタポーチョ山の占領ならびにガラバンの町の残敵掃蕩に当り、陸軍第27師団が西北岸へむかって突進した。全島は日本軍の地下陣地であたかも密蜂の巣の如き形状をなし、日本軍は狭い道の曲折を利用して、至るところ機関銃座と3インチ戦車砲を備えて抵抗した。また多数の重砲は岩窟の中に据え付けて軌道で隠現出没させ、数発発射するごとに再び岩窟の奥深く引っ込んだため、アメリカ軍はスチンソン偵察機またはL5S型機のような軽飛行機で日本軍の砲兵陣地を探して、アメリカ軍陣地に無電報告をするのに骨を折った。これらの偵察機はもちろん、新設のイスレー飛行場より盛んに話動を開始したものだ。6月26日タポーチョ山の一角のポケット地区に残存した日本軍は猛烈な逆襲を行い、また翌27日島の南端のナフタン岬でも残存の日本軍が反撃してアメリカ軍の守備線を突破した。しかし7月4日、ガラバンの町はアメリカ軍によって完全占領された。人口一万を擁した町は全く廃墟と化して僅かに数軒の建物が残っているばかりであった。それはもはや、サイパン島攻略戦が長くは続かないことを示していた。これは日本軍の司令官斉藤義次中将も中部太平洋方面最高司令官南雲忠一中将も覚悟していたとみえて、7月7日払暁を期して日本軍は最後の総突撃を敢行すべき計画を立てた。ところがこの命令書は6日午前3時にアメリカ軍の手に獲得されたので、日本軍の突撃の予定された島の西岸に既に強力な砲兵陣地を張っていたアメリカ軍の砲兵隊は、6日の夜間日本軍の出現すべき地域に一斉掩護砲撃を浴せるぺきであった。しかるに当時の第27師団が日本軍の突撃に対する配備は不十分であったのはいまだに理由が公表されていない。かくて7日の暁闇を衝いて、日本軍は喚声をあげながらアメリカ軍の陣地へ殺到した。その総数は1500人とも3000人とも、また5000人ともいろいろ報告されている。日本兵は小銃や自動火器を携えていたが、後続部隊はただ日本刀や箒の柄にしばりつけた銃剣を持つだけであった。この突撃のためアメリカ軍の最左翼の第105歩兵連隊の陣地は突破されて混乱し、海中の珊瑚礁脈へ泳いて逃げたものもあった。野戦救護所も蹂躙されて多数の負傷兵は殺され、全く1年前アッツ島の日本軍の最後の突撃と似ていた。日本兵は殺したアメリカ兵の武器を拾って突撃を続けた。そして日本軍は1.5キロないし2キロ前進してアメリカ軍の砲兵陣地も危機に瀕したが、ようやく砲兵陣地の砲火を集中して喰い止めたのであった。ウィリアム・L・クルーチ少佐の指揮する砲兵大隊は、前夜運んだばかりの150ミリ曲射砲数門を、日本兵の突進してくる大群目掛けて水平射撃して、たちまちその大半を撃滅した。信管を4/10秒に切ってあったので、砲弾は砲口の僅か45メートル直前で爆発し凄惨な修羅場を呈した。このとき、既に日本軍の突撃は疲労と消耗のために鈍った。そして夜の明けるころに日本軍の戦意は喪失し、これに反して、アメリカ軍の武器と増援が優勢となった。かくて日本軍はたちまち前進した全距離を押し返されて、アメリカ軍は日本兵の死体の散乱した血腥い土地を再び取り戻したのであった。この逆襲が失敗するや、南雲および斉藤両中将は自殺した。ところが斎藤中将は元気が不十分なため、この突撃に参加することができなかったが、しかし自分の手で潔く自殺することさえできたかったので、彼の幕僚の手で殺してもらわねばならなかった。また多数の日本将校はある程度の儀式によって自殺を遂げ、さらに多数の下士官兵は手榴弾を胸や頭に打つけて自決したのであった。しからば問題のサイパン島の在留邦人の悲劇の真相はどうか? 当時日本の新聞、雑誌、ラジオは軍部の命令に踊って悲壮な婦女子の最後を煽情的に報じたが、これについてキャント氏の報告の大様を紹介する。
(一) サイパン島の一般在留民の自殺に関す誇張されたニュース物語がアメリカに盛んに流布されたために、返って日本軍部はこれをもって日本国民の一死報国の精神の証拠として意気揚々と宣伝に努めたのであった。しかしながら一般在留民で自発的に死んだ者は、最初に報道されたよりも遥かに少数である。大体、サイパン島の一般在留民の総数は2万5千人と数えられ、この中の5千人は日本内地より来たものであった。この人達の間に自殺の比率が最も高かった。それでも5千人の中で半数よりもはなはだ多数のものが生き残ったのであった。人口の大部分を占める沖縄人の間にも多数の死者があったし、またチャモロ人、朝鮮人、カナカ人の間にも死んだものがあった。しかしこれらの死者の大部分は日本兵によって殺されたか、あるいはアメリカ軍の戦闘行動の避けがたい結果によるものであった。
(二) 7月9日、日本軍の残存部隊は島の北端のポケット地帯に追い込まれて、ここにサイパン島の日本軍の組織的抵抗は終止したと公表された。しかし残敵掃蕩は引続いて行われ、ある海兵連隊は7月11、12両日に岩窟に立て籠もる日本兵711人を壊滅したと報告された。かくて大規模な掃蕩戦は数週間も続行したが、全島より敗残の日本兵を狩り出すには一年もかかった。
(三) サイパン島攻略戦のアメリカ軍の損害は死者3426名、負傷者13099九名である。これに対して日本軍の死者および捕虜は合計29747名に達した。野戦医療施設の行届いたアメリカ軍では、いかなる戦線でも負傷者は手厚く看護されて安全に後送療養されるので、実際の人員損害は主として死者について、見るべきであらう。しからば激烈なサイパン島でもアメリカ軍の死者約3400名に対して日本軍の死者および捕虜約2万9700名は余りに悲惨な対照ではあるまいか? サイパン島の陥落は7月18日午後5時の大本営発表で次の通り、はじめて公表されたが、それは相変わらず軍部に都合のよいように敗北の真相を隠蔽するため、ことさらに守備部隊の玉砕を神秘化して、日本人の必勝の聖なる夢を繋ぎとめようとする魂胆であった。アメリカ側の正確なサイパン戦果と比較検討すると、アッツ島の玉砕以来、常に軍部が成算なき戦争にいかに日本人の生命を濫費したか慄然たらざるをえない。
「 7月18日午後5時の大本営発表 
(一) サイパン島の我が部隊は7月7日早朝より全力を挙げて最後の攻撃を敢行、所在の敵を蹂躙しその一部はタポーチョ山付近まで突進し勇戦力闘、敵に多大の損害を与え16日までに全員壮烈なる戦死を遂げたものと認める。同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将斉藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして、同方面の最高指揮官南雲忠一また同島に於て戦死せり。
(二) サイパン島の在留邦人は絡始軍に協力し、およそ戦い得るものは敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共にするものの如し。 」
戦争は残酷である。しかしサイパン島在留2万の同胞男女の非戦闘員があらゆる辛酸をなめたあげく、アメリカ軍の保護抑留を受けているにもかかわらず、勝手に『敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共に』させてしまったことは、世界に比類なき日本軍部の狂信的惨酷性を遺憾なく発揮したものであった。敗戦を常に玉砕の美名で偽り『神州護持』とか『悲憤一億』とか口先きだけの空虚なかけ声で国民を叱咤した東条英機大将も、サイパン失陥(しっかん)によって7月18日内閣総辞職して(20日発表)2年9ヶ月にわたる恥多き首相の地位を喪ったことは、いよいよ日本にとって戦局の収拾できない暗湛たる形相を露呈したものであった。東条大将が18日『緊急なる戦局を顧みて』と題する置き土産の首相談の一節に
「 ――正に帝国は考古の重大局面に立つに至ったのである。しかして今こそ敵を撃滅して勝を決するの絶好の機会である。この時に当り皇国護持のため、我々の進むべき道は唯一つである。心中一片の妄想なく眼中一介の死生なく、幾多の戦友ならびに同胞の鮮血によって得たる戦訓を生かし全力を挙げて速やかに敵を撃砕し勝利を獲得するばかりである――  」
とあるのは当時の戦局をかえりみて、日本国民を愚弄したものであった。何故なら東条大将はじめ日本の陸海軍部は誰一人、戦争の前途に対して合理的な成算がなかったからである。そしてサイパン島を基地として、『超空の要塞』B29の日本本土の大爆撃が開始され、全国が惨憺たる焦土と化して、天皇はじめ日本人がすべて敗北を覚悟した。降伏直前においてさえ軍部指導者は『死中に活を求めよ。日本人一千万人を殺すつもりなら必ず勝てる』と狂態を呈したことは、今日より回想しても戦慄と憎悪を禁じえないのである。 
テニアン・グアム両島玉砕

 

サイパン島攻略後、アメリカ軍は息もつかずに直ちに7月21日、グァム島攻略戦を開始し、さらに3日後にはテニアン島の上陸作戦を始めた。とくにテニアン島の比較的平らな地形は、B29の日本本土爆撃用の長さ2550メートルの大滑走路を6本も十分に建設できる戦略的価値があった。テニアン島の日本軍守備隊は9000人と見積もられたが、島の標高は全体としてサイパンおよびグァム両島よりも遥かに低いにもかかわらず、嶮しい断崖で囲まれた台地となっているので、要害堅固であった。精密な空中偵察の結果、テニアン島の北西岸のはなはだ小さい二つの海辺が上陸地点に指定された。その北寄りの浜は幅60メートル、南寄の浜は幅120メートルの狭いものであったが、日本軍の防備の比較的手薄と、サイパン島南岸のアメリカ砲兵陣地の掩護射撃ならびにサイパン島より上陸用舟艇の短距離往復の便宜があった。上陸作戦の総指揮官はハリー・W・ヒル海軍少将で、上陸軍はサイパン島攻略に勇名を馳せた戦歴の第2および第4海兵師団が再び参加し、7月24日午前7時40分上陸攻撃を開始した。クリフトン・B・ケーツ少将指揮の第4海兵師団が先鋒をうけたまわり、最初のマートン・J・パチェルダー大佐指揮の第25海兵連隊とフランリン・A・ハート大佐指揮の第24海兵連隊がLSTおよびLSD等の各種上陸用舟艇をつらねて、大挙二つの狭い上陸地点へ殺到した。いづれもサイパン島より集結出発したもので、太平洋戦線で最初の大規模な海浜から海浜への島伝い作戦と、キャント氏は評している。テニアン島の日本軍は南部方面に陣を固めて防備していたので、アメリカ軍の北岸上陸は全く奇襲的成功を収めた。そしてその夜から日本軍は必死の猛砲撃をはじめ、ことに25日午前2時半、日本軍の指揮官は周囲2250メートルにわたるアメリカ軍の上陸地点に対して強行軍で逆襲を開始した。しかし日本軍は余りに部隊を広く分散したために、どの地点でもアメリカ軍の守備線を突破することができず、夜明ごろには全く失敗して、逆にアメリカ軍が攻勢にでて、たちまち数百人の日本兵を倒した。このアメリカ軍の上陸地点の周辺のみで日本兵の死体が1241も算えられた。25日には後続の第2海兵師団が上陸用舟艇の代りに、堂々と輸送船に乗ってサイパン海峡を隔てて僅か2哩半のサイパン島に最も近いウシ岬の付近で上陸し、島の東岸を急速に南下した。かくて第2および第4両海兵師団は、島の東西両岸に沿って一日2哩ないし3哩の速度で南進し、7月28日にはテニアン島最高のラッソー山(標高170メートル)を第4海兵師団が占領した。島都テニアン町周辺の日本軍の守備陣地も、アメリカ軍の大進撃の前には威力も示さず、7月31日陥落し、8月1日アメリカ軍の2個師団は島の南岸にて連絡した。ところでサイパン島と同様、このテニアン島でも一般在留人の混乱状態を呈した。まず最初に多数の日本人男女が投降した。恐らくテニアン島在留民の最大多数は降伏を希望したことは明らかであった。しかるに日本軍は彼等がアメリカ軍に降伏することを望まなかった。そのため狂気の日本兵が在留民を多数縄で縛り、爆薬または小銃火器で殺した実例がいくつも記録されている――とキャント氏が、同胞殺戮の日本軍の暴状を報じているのは注目される。テニアン島攻略戦のアメリカ軍の人員損害は死者および行方不明314名、負傷者1515名であった。これに対して日本軍の損害は死者6939名、また捕虜ははなはだ多く、守備隊全員の投降もあって合計7500名に及んだのであった。さてグァム島攻略戦は、サイパン島およびテニアン島攻略戦とは別個の作戦計画に基いて、リチャード・L・コノリー海軍少将がターナー中将の代理として総指揮をとり、ローイ・S・ガイガー少将が上陸軍を指揮した。それはアレン・H・タ−ネイジ少将指揮の第3海兵師団とレミュエル・P・シーファード代将指揮の第1特設海兵旅団とアンドリュース・D・ブルース少将指揮の陸軍第77師団(『自由の女神』師団とよばれている)より編成された強力なものであった。ことに特設海兵旅団はマキン、ツラギ、ガダルカナル、ニュージョージア、ブーゲンビルなどの歴戦の豪勇部隊より選抜した猛者ぞろいでアメリカ領土のグァム島奪回の意気に燃え立っていた。まず第5艦隊の猛烈な準備砲撃――とくにその空母群より編成された第58機動部隊が、6月23日より北部マリアナ群島のぺイガン島ならびに火山列島を海空より攻撃し、7月4日には硫黄島ならびに小笠原群島の父島および母島襲してグァム島孤立化の作戦が進められた。かくて7月5日よりグァム島に対する上陸準備のため猛烈な艦砲射撃と爆撃が開始され、大飛行揚はじめ日本軍の防備陣地を徹底的に破壊した。すなわち、上陸開始のDデーと決められた7月21日朝までに、1万トン以上の砲弾がアメリカ戦艦群の巨砲よりグァム島にそそぎこまれた。長さ30哩、幅8哩のこの島はそれまでに攻略した他の中部太平洋の諸島より遥かに大きいため、アメリカ軍の攻撃準備も大規模に企てられた。日本軍はアメリカの上陸地点を中央西岸のポート・アープラと予想したとみえて、同方面に沿岸防備の大砲陣地を集中していたが、アメリカ軍司令部はこの予想を裏切り、ポート・アープラの北方ならぴに南方のはなれた二つの浜辺を上陸地点に選定した。そして21日午前8時30分を期して第3海兵師団は北方の、島都アガーニャ付近のアデラップ岬より900メートル南方に延ぴたアッサン岬の海辺に突撃し、また特設第1海兵旅団および陸軍第77師団は、南方のアガート部落より3千メートルのバンギー岬に至る海辺に殺到したのであった。しかし日本軍の防備陣地は既にサイパン島の場合と同様に、アメリカ軍の海空よりの猛砲爆撃よって無力化していたので、アメリカ軍の一斉上陸を阻止することはできなかった。そして南北両地点にアメリカ軍は予定時間(H時間と呼ぶ)の数分以内に首尾よく上陸したのであった。もちろん、日本軍の多数の臼砲は、アメリカ軍の上陸用舟艇ならびに上陸地点に砲火を浴びせたが、アメリカ軍は続々殺到して海頭堡を確保した。ただし地勢は日本軍に有利で、高い崖の上より海岸沿いの狭い道に集結するアメリカ軍へ盛んに砲火を浴せていたが、E・R・スモーク中佐指揮の第21海兵連隊の第2大隊は、勇敢に海岸より半哩奥の断崖とその後方の150メートルの嶺を上陸第1日の午後には早くも占領して戦果を拡大した。もっともこの第一夜から日本軍は逆襲に転じて、5日間にわたるこの嶺の争奪戦闘が展開した。日本軍は22〜23両日の夜にわたり臼砲および野砲の掩護射撃の下に死物狂いの夜襲とバンザイ突撃をくり返した上、25日夜には大挙してアメリカ軍の守備線を突破し人員に大損害を与えた。たとえぱ同夜10時、日本軍の主力はM・C・ウィリアム中佐指揮の第1海兵大隊の正面に『バンザイ』と叫びつつ殺到して混乱状態に陥れ、同大隊は戦線に僅か250人を残すのみとなった。しかし夜の明けるころ、アメリカ軍は再び陣地を回復した。そして戦線には日本軍の第18歩兵連隊の将兵の死体が500ないし700も遺棄されていた。この激戦の行われた150メートルの高地を『バンザイ嶺』と命名された。その後、戦局はアメリカ軍の有利に好転して、とくに左翼の第3海兵師団のフォンテ地方の高地を占領して日本軍の脅威を除去し、また特設海兵旅団はオロテ半島の基部を切断して日本軍陣地を孤立させ、アメリカ軍の前進を早めた。南方の要衝たるアリファン山の争奪戦も激烈を極めて日米両軍の戦車が接戦を演じたが、遂に2年半ぶりで山頂に星条旗が翻った。そして7月31日島都アガーニャがアメリカ軍に占領されたが、しかしかって絵のように美しい人口1万2千の南海の町は全く瓦礫と焼木の塊と化してしまった。日本軍は島の南半を放棄して、島の1/3にあたる北部に立て籠もり抵抗を続けた。しかし日本軍の退却により収容中の3千人のチャモロ人が解放された。8月3日より北部のサンタ・クローザ山地区に追いつめられた日本軍に対して、アメリカ軍の総攻撃が開始され同月10日に日本軍の組織的抵抗は終止と公表された。かくてグァム島攻略戦は終ったが、日本軍の死者は10971名で捕虜は86名であった。これは最初グァム島の日本軍守備隊の兵力2万と見積られたのが、過大評価のようにおもえるが、その後グァム北部の山岳地帯の残敵掃討は12ヶ月間も続行された。そしてその後11月中旬までは日本軍の死者は17283名に増大し、また捕虜も463名に増加したことは注目される。グァム島では、日本軍による強制による一般在留民の『集団自殺』はなかった。ただ日本軍の占領中に虐待された原住民のチャロモ人は、アメリカ市民権はないが立派なアメリカ国民としてアメリカ軍の手によって自由に解放され、変らざるの忠誠を示したのであった。かくて日本本土の直接攻撃の大基地としてマリアナ諸島の要衝サイパン、テニアン、グァム3島はアメリカ軍の手に帰して急速に多数の飛行場や大軍港や大軍需品貯蔵所その他厖大なる軍事施設が整えられた。また日本本土に至る内南洋の各島嶼チェーンは全くアメリカ海空軍の強大なる砲爆撃によって無カ化され、ここにソロモン諸島より東京までの道は自由に開かれたのであった。それはキャント氏の表現をかりれば、アメリカの『太平洋の大勝利』の道であり、日本にとっては降伏への道であった。 
降伏への道・硫黄島玉砕

 

太平洋戦争はついに最終段階に入り、アメリカの戦闘力は量的にも質的にも加速度的に増大しつつあったのに反し、日本の戦闘カはただ『本土要塞』に400万の陸軍を勢揃いさせて、量的には一応虚勢を張りながら、質的には全く加速度的に転落するばかりであった。ことにアメリカ軍がマリアナ諸島を占領するや、たちまちサイパン、テニアン、グァム3島を厖大なる攻撃基地と化して、巨大な東京爆撃用の『超空の要塞』B29を千機以上も連続使用できる大飛行場を僅かの短時日でスピード建設し、また従来は数隻の貨物船しか碇泊できなかったグァム島の貧弱な港ポート・アープラをアメリカ海軍は議会の協賛もえないで戦時緊急令に基いてバール・ハーバーに匹敵する大軍港化の工事を瞬く間に実現するなど、たくましい軍事的潜在力を縦横自在に発揮したのは驚くベきものであった。それは『太平洋の大勝利』の著者ギルバート・キャント氏のいわゆる世界一の強カなる『海空陸軍の複合的戦闘力』とあいまって、狭小なる本土要塞に旧式の武器と貧弱なる防備によって立て龍る日本軍を、一挙にテクニカル・ノックアクトするのに絶対的の威力を示して余りあるものであった。一方、日本軍部は必敗の死相に取付かれながらも、口先では必勝の信念を説いて空虚な『バンザイ精神』と無力な『竹槍訓練』に七千万国民を駆立てて、唯いたずらに降伏への道を悲惨に血腥く染めたのは、実に世界戦争史上千載に醜怪な汚名を残したというぺきであろう。南マリアナ諸島攻略こそ日本本土要塞に対する総突撃のため、中部太平洋戦線における最後のステップであって、いまやアメリカ大攻撃基地と日本本土の心臓部である東京との間には僅かに火山、小笠原、伊豆の3諸島が点在するのみであった。もはやサイパン、テニアン、グァム3島の占領によって、アメリカ軍は日本の死命を完全に制したも同然であったが、しかしニミッツ総司令官は、アメリカ軍の東京攻撃をより堅実にするために、この中間の片々たる一島嶼の攻略を企てた。それが硫黄島であった。そして太平洋戦争の終幕を飾るにさわしく、それは最後の大激戦であって、キャント氏も「地獄の土地』と名付けているように、アメリカ軍にとってIWOJIMAの名前は忘れられないものになった。
1944年11月末に、南マリアナ諸島の陸軍航空基地は完成してB29の東京地区爆撃が可能となった。しかし南マリアナ諸島より東京まで直線往復3千哩の渡洋爆撃は、実際飛行には4千哩近くの航程となるため、爆撃積載量を10トンより3トンに減少し、かつまた敢闘機の掩護を受けられないために、7千メートルないし9千メートルの越高度飛行をしなければならず、そのためにガソリン消費量が過大になった。従って日本本土の大爆撃を効果的に実施するため、ワシントンの連合国統合参謀本部は12月、にわかにニミッツ総司令部に対して硫黄島の攻略を命令したのであった。硫黄島の攻略命令は余りに遅すぎたので、これを遂行するには、アメリカ軍は恐るべき犠牲をはじめから覚悟せねばならなかった。硫黄島は1891年以来日本に占領され、少くとも1937年より要塞工事が行われてきたが、しかし1944年6月サイバン政略戦当時には、まだ、難攻不落の要塞には遥かに遠いものであった。もしグァム島占領直後に急速に硫黄島の攻略戦を行ったならば、それは1945年2月に遂行したよりも遥かに少い犠牲で成功したであろう。しかし連合国統合参謀本部の硫黄島作戦決定の遅延を責めてもしかたがない。何故ならぱ――たとえ同作戦決定が早期に行われたとしても、当時アメリカ太平洋艦隊の主力と新鋭の陸軍兵力は全部フィリッピン作戦に従事していたので、硫黄島の攻略戦は待たねぱならなかった――とキャント氏もアメリカ軍の作戦の真相を記している。一方、日本軍はこの期間を利用して硫黄島の泥縄的の防備に狂奔し、1944年6月アメリカ軍のサイパン島侵攻の直後に小笠原、火山諸島方面指揮官として『老練にして深謀ある』栗林唯道中将を任命して同島に送った。キャント氏もまた栗林中将を『要塞構築の天才で、島の地形を一目見ただけで防備の大要を会得した』と讃めているのは珍しい。要するに切迫するアメリカ軍の攻防の中で、同中将が少しも狼狽せず、長さ8キロ幅4.8キロ(最も広い部分)で面積僅か8平方マイルの太平洋上のチリのような小島を、全力を尽して周密に要塞化した戦術的力量は、アメリカ軍も敵ながらあっぱれと折紙を付けたのであった。しかしいかに栗林中将が秘策と妙智をこらしても、圧倒的なアメリカ軍の侵攻の前には、ただ玉砕する他に道はなかった。ただアメリカ軍の上陸開始後何日間陣地を持ちこたえて、かつまたどれほどの損害をアメリカ軍に与えるかが問題であった。アメリカ軍は1945年2月19日を硫黄島攻略戦のDデー(上陸作戦開始日)と決めた。そして2月中旬までに陸軍第7および第20航空隊は総動員で同島を連爆撃して5800トンの爆弾を投下し、またアメリカ艦隊は数千発の砲弾を射込んでいた。かくていよいよ上陸作戦の日が迫るや、2月16日には第5艦隊の一部よりなる掩護艦隊(主力はスプルーアンス司令長官指揮の下に第58機動部隊とともに、日本本土沿岸攻撃に出動中であった)としてW・H・ブランディ少将指揮の旧式戦艦『アイダホ』『テネシー』『ネバダ』『テキサス』『ニューヨーク』『アルカンソー』6隻が硫黄島をぐるりと取巻いて巨砲を射ちまくった。そして多数の空母と巡洋艦まで参加して、19日の上陸開始の朝までに海空より硫黄島に徹底的な砲爆撃を加えたので、アメリカの海兵隊勇士も『もはや島には日本兵が一人も生き残っているとは見えない』と思ったくらいであった。かくてアメリカ水陸両用作戦の最大構成といわれるリッチモンド・ターナー中将総指揮の下に、800隻の船舶を連ねて硫黄島の上陸作戦が行われた。上陸軍の総指揮官はホーランド・スミス中将があたり、第4および第5海兵師団が主力となって、第3海兵師団が補充に当てられた。硫黄島の激戦については、ターナー中将も『硫黄島こそ世界中で最も厳重に要塞化され、かつ最も巧妙に防備された島である』と驚嘆したように、日本軍の火砲力がアメリカ軍司令部の最初の予測を遥かに裏切った。とくに蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下陣地の火砲のために悩まされたスミス中将は『わが部隊は地獄の土地の上に一面に広まって、隠れた日本兵の火砲を追い回わしている』と息巻いた。最初は5日間で占領する予定であったアメリカ軍司令部の作戦計画は狂った。そして上陸第1日の夕方までに死者及び行方不明者が続出し、後送された負傷者は1700人に達した。それでもアメリカ軍は強引に第1日の日没までに4万人の兵力を島の南岸の3.2キロにわたるフタツネ海浜の4地区(緑の浜、赤い浜、黄色い浜、青い浜と称す)に上陸させて『地獄の土地』を前進した。昼夜わかたぬ死闘が続き、上陸3日間でアメリカ軍の死傷者は5400名に及んだ。ことに第1および第2両飛行場の争奪戦と摺鉢山の激戦は壮烈で、数10台のアメリカ軍の戦車が日本軍の地雷に爆破され、また日本軍の地下陣地のロケット砲でアメリカ軍は散々に苦戦した。かくて猛烈な砲爆撃に耐えた地下の日本軍を殲滅するために、アメリカ軍は最新式の火焔放射器とバズーカ砲(強力なロケット砲の一種)を大量に使用して、『地獄の土地』を1インチづつ奪取したのであった。また3月6日には、上陸以来最大の集中砲撃を行い、4万5千発の砲弾が射込まれたが、それでもアメリカ軍は僅か100メートル前進したのみであった。かくて悪戦苦闘のあげく、アメリカ軍が上陸してから25日後に硫黄島の占領が公表されたのであった。しかし地下の鼠の 穴に潜んだ日本兵の掃蕩は、その後数週間も続行された。 キャント氏の記録を参考にして硫黄島攻略戦の損害を紹介すると次の通りである。
(一) 2月21日硫黄島海岸沖で護送船用空母『ビスマーク・シー』が、日本機に撃沈され死傷者300人を出した。
(二) 2万人の日本軍守備隊に対してあらゆる種類の砲弾4万トン消耗した。これは日本兵1人について2トンの爆薬を消耗した割合となる。
(三) アメリカ軍の死者および行方不明4630名、負傷者19983名に達した。もっともこれに対して、日本軍は栗林中将以下2万人が全滅したのである。このアメリカ軍の莫大な人的損害(それでも死者は日本軍の1/4以下である)については、当時アメリカ国内でも『かかる莫大な犠牲を払って硫黄島を攻略する必要があったか?他により安易な攻略方法はなかったか』とやかましい問題となったが、硫黄島攻略の軍事的必要性は、
(一) 日本軍のレーダーおよび飛行場の除去
(二) アメリカ軍のレーダーおよび日本本土攻撃用の前進航空基地の設定
であり、この重要地点を攻略するために損害の少ない方法とは、毒ガスの使用以外は誰も考えることが出来なかった。そして例え毒ガスを使用したとしても、地下の日本軍のかくれた無数の洞窟を探し当てて、その中に的確に毒独ガス弾を射ち込むことははなはだ困難であり、却って多数の毒ガス弾の当りそこなった爆発のため、戦場一帯の窪地に猛烈な毒ガスが充満して、アメリカ軍の行動を阻害し、かつ数万のアメリカ兵は防毒マスクと防毒用衣の重荷のために、戦闘に最大の支障をきたしたであろう。しかも、もしアメリカ軍がたとえ軍事上の利益のためとはいえ、毒ガスを使用したならば、日本軍は連合国側の捕虜ならびに拘留民間人に対して、より恐るべき報復手段をとったであろうのみならず、アメリカ国内ならびに連合国側の強烈な道徳的非難を巻き起したであろう――とキャント氏もこれを指摘して、素人の軽率なる安易な戦術論を戒めているのは、特に注目に値するであろう。「またアメリカ人にとって栗林中将(誰も知らない洞窟の中で死んだ)こそ、永久に有害なる天才として忘れられない。しかし彼の天才の事実は見落としてはならない。他のいかなる要因にも増して、丘の黒い火山灰の上に、そしてフタツネ浜の北東端を見下す崖の上に悲惨な純白の行列を造っているアメリカ海兵隊の墓地を充満させたものであった。」と、この攻略戦を顧みているのは印象深い。いずれにしてもアメリカ軍が硫黄島で払った代価は決して安くはなかったが、しかし硫黄島の占領によって、日本本土に対するB29の大編隊による戦略的爆撃が本格化されて、日本の降伏への道をはなはだ短縮した価値は大きいものがあった。 
日本の敗北・沖縄陥落

 

硫黄島の占領以後、沖縄島の攻略戦より日本本土への総攻撃へと、急速調で展開するアメリカ海空陸軍の複合的戦闘力の圧倒的な威容は、いかにも世界戦史に比類なき太平洋戦争のフイナーレに相応しく、まことに劇的なものであるが、しかしここに紹介するのは敗戦の跡は7千万の日本人にとって余りも傷ましく、かつ生々しいものであるから、私は唯その中より、日本人の立揚より注目すべきことの未知の諸事実を、次に列挙して参考に供するに留めたいと思う。
(一) 沖縄島ならびにその防備の日本軍の状況などに関して、攻略戦実施前まで連合国情報は情けないほど、不十分かつ不正確であったと、キャント氏は指摘している。たとえば43万5千人の住民の生態は動物より幾分ましに描かれているに過ぎず、また全島に毒蛇がはびこり、日本軍の防備は東岸および南岸に固められ、守備隊の兵が5万ない7万5千という情報であった。また島内の飛行場の数させも明確ではなかった。この情報の欠乏は日本のような警察国家(ポリス・ステート)との戦争に避けられない弱点であって、日本がいかに厳重に沖縄島のような海外領土を外国人に門戸閉鎖していたかの証拠である。
(二) 沖縄島を孤立させるため、アメリカ空軍は四つの指揮系統の空軍を総出動させた。第一は第58機動部隊の空母群の海軍攻撃機、第二はマリアナ基地の陸軍第20航空隊のB29、第三はルソン島基地の陸軍第5航空隊の爆撃機、第四は中国の多数の分散基地ののクレーア・L・シェンノート少将指揮の陸軍第14航空隊の爆撃機である。硫黄島を基地とする第7戦闘機隊司令部は、1945年4月中旬まで本州に対する長距離戦闘機攻撃の準備ができなかったので、これらの爆撃出動には第5艦隊の空母集団に属する戦闘機計1200機がつねに参加したのであった。
(三) 沖縄島攻略戦にはスプルーアンス中将指揮の第5艦隊のものに、英国艦隊の第57機動部隊が参加して一層強化された。それは戦檻『ギングジョージ5世』および27万5千トン級空母『インデファティガブル』『インドミタブル』『ビクトリアス』『イラストリアス』4隻より構成された強力なものであった。
(四) 沖縄島上陸作戦の指揮は再びリッチモンド・ケリー・ターナー海軍少将が当り、まず西方の慶良間(けらま)列島攻撃が企てられた。これは沖縄島攻略を容易にする一方、飛行艇および水上機基地として東シナ海より朝鮮海峡にいたる偵察を万全にする目的であった。慶良間列島の上陸作戦には、日本軍の兵力不明のため、アンドリュー・D・ブルース少将指揮の第77師団(自由の女神師団)の全力を使用し、3月26日朝まず阿加島に上陸し、次いで急速に慶良間島、座間味島、渡嘉敷島ほか敷島を占領した。しかしこれらの島の日本軍守備隊は、朝鮮人部隊を含めて総数僅か800名にすぎず、その抵抗は問題にならなかった。 従ってニミッツ総司令官の『――列島は占領されたり』という言葉は誤った印象を与えやすかった。しかしアメリカ人は楽々と慶良間島に上陸したものの、はじめて琉球諸島の住民に接して、彼らの先入観の間違いを痛感した。それは琉球人は身体は小さいが、日本人よりむしろ中国人に近似しており、また日本の排外宣伝を盲信して『白色の野蛮人』のアメリカ兵を怖れて200人も自殺した。いずれも子供たちを殺してから両親が自殺し、渡嘉敷島のみでも150人の自殺者を数えた。
(五) 自殺好きの日本軍は、フイリッピン戦でリンガエン湾に使用して失敗したにもかかわらず、沖縄島戦で再び爆薬装置の体当り用特攻艇を大規模に使用して、アメリカ軍艦艇を奇襲する計画を立てたが、実行する機会は殆どなかった。そして慶良間列島の小さな島々の洞窟には、爆薬を満載した小型のモーターボートが300隻も隠されていたのを発見し、拿捕された。
(六) 連合国側は既にシシリー島およびノルマンディ海岸で、2回の大規模な上陸侵攻作戦を実施していたが、しかし沖縄島進攻上陸作戦の計画は、戦史上より最大の困難かつ複雑なものであった。それは作戦基地より上陸地点に至るまでの前例なき遠隔の距離であった。何故ならば、補給は距離に正比例するのではなく、距離が2倍になれば補給は5、6倍に増大するからである。
(七) 沖縄島上陸軍は新編成の第10軍で、シモン・ボリバー・バックナー中将が指揮に当った。それはローイ・S・ガイガー少将指揮の第3海兵上陸軍(第1、第2、第6海兵師団より構成)とジョン・R・ホッジ少将指揮の陸軍第24上陸軍(第7、第27、第77、第96師団より構成)よりなり、このほかに陸軍第81師団が補充として総兵力8ヶ師団におよび、1400隻の艦船舶が使用された。
(八) 沖縄島攻略戦のDデー(上陸開始日)は1945年4月1日と決定されたが、アメリカ軍の間ではLデーまたはLOVEデーと呼ばれた。これは当時、硫黄島上陸作戦のDデーと同時に二つの作戦が計画されていたので、混同を避けるためであった。
(九) 沖縄島の日本軍司令官は、アメリカ軍の侵攻のまえに、島の北方の2/3(3500人の日本軍が抵抗したのを除いて)と南方中央地区とを全く放棄して、全兵力の97%を南部の半島の那覇、首里、中城の線に集結した。この兵力移動はDデーの1週間前に行われ、16歳より60歳までの一般住民男子をすべて使役して、大砲、弾薬、貯蔵品まで運搬させた。従って4月1日朝アメリカ軍が沖縄島西岸の残波(ざんば)岬の南方3マイルの海浜に上陸した時には、日本軍の歩哨の姿さえ海浜には見られず、高さ3メートルより4.5メートルの暗礁を乗り越えて渡礁したアメリカ兵は、全く狐につままれた感があった。何故ならば、もし日本軍がこの絶好の地形を利用して自動火器、地雷、臼砲などで応戦したなら、アメリカ軍に甚大な損害を与えたからである。上陸第1日にアメリカ海兵隊の死者は事故と病気で僅か2名にすぎず、また6時間も前進して発見した日本兵の死体はたった14人であった。
(十) 日本軍の作戦はアメリカ軍の主力を奥地に引入れ、その補給のために集結している厖大なアメリカ艦船を、好機をつかんで一挙に撃滅しようと狙っていたが、それはレイテ湾の惨敗で試験済みの戦略の反復にすぎなかった。ただしレイテ湾の惨敗で艦隊力を喪失した日本軍は、こんどは唯一の武器として航空力――とくにカミカゼ(神風)特攻隊をたよるばかりであった。上陸後の最初の5日間に日本機は少数でたびたび来襲したが、合計65機が撃墜された。4月6日正午すぎ、日本軍の500機の大編隊が来襲したが、その大部分は沖縄島東北部で第58機動部隊の快速の攻撃機のため邀撃(ようげき)されて245機機が撃墜され、かろうじてアメリカ艦船の上空に到達した200機ぱかりも空母戦闘機のため55機以上を撃墜され、また高射砲火にて61機を撃墜された。かくて日本機で基地に生還したものは全体の約20%で100機内外にすぎなかった。しかし目標点に達した日本機は、数字的には少数であっても軍事的には無意味ではなかった。神風機の攻撃でアメリカ艦隊は1隻また1隻と命中損害を蒙り、第5艦隊は酷しい試練をなめた。翌7日は日本の182機が来襲したが、その55機は空母戦闘機で撃墜され、35機は高射砲で撃墜された。しかし体当り攻撃の成功率ははなはだ少なく、あるアメリカ海軍士官は『もう数日間このような日が続いたなら、日本空軍にはもはや1機も残らないであろう』と快哉を叫んだくらいだった。
(十一) 沖縄島攻略戦には最初60日説が行われ、ついで3ヶ月説が行われた。日本軍の主要陣地の攻防戦は一時膠着状態を呈したが、アメリカ軍司令官バックナー中将は上陸後30日に全戦線を視察の上、戦況が計画通り進捗中であることを確認して『アメリカ兵の生命は進撃を焦って犠牲に供するには、余りに貴重である』と声明したのは注目される。
(十二) 5月3日深夜、600人の日本軍決死隊が上陸用舟艇で、アメリカ軍前線の背後に逆上陸し、他の方面にも大逆襲を企てたが、3000人の死体を残して失敗した。
(十三) 沖縄島戦に日本軍は神風機、体当り魚雷艇、親子飛行機、飛行爆弾などの新兵器を繰出したが、科学力の発達したアメリカ軍専門家の目より見ると、体当りの魚雷艇は単なる『自殺ボート』(suicide boat)にすぎず、また『眼のあるV一号』と日本で宣伝された『搭乗員を有するロッケト弾』神雷特攻隊も、アメリカ軍の間では『馬鹿爆弾』(baka bomb)と呼ばれて馬鹿にされていた。
(十四) 6月10日、アメリカ軍は日本軍の死守する最後の陣地に対して全線にわたり総攻撃を開始したが、バックナー司令官は日本軍司令官牛島満中将に『名誉ある降伏』を勧告した。牛島中将はこれを無視したが少数の下士官兵が投降した。しかし6月18日バックナー司令官は前線司令部におもむき総攻撃視察中、日本軍の砲弾が炸裂して戦死した。これは南北戦争以来、戦場で総司令官が指揮中に戦死した最初の例であった。後任はガイガー少将が中将に昇進して、第10軍の司令官代理に任命された。
(十五) 6月21日午後1時、沖縄島の日本軍の組織的抵抗は終止したと公表された。攻略戦に要した日数は、最初のアメリカ軍司令部の70日計画に対して、実際には82日であった。アメリカ軍の損害は死者6900名、負傷者29598名に達し、太平洋戦争の全戦闘を通じて最大の死傷者数であった。アメリカ艦隊は掩護砲撃のため3万5千トンの大型砲弾(口径5インチ以上)を費やし、またダーギン少将指揮の護送用空母集団のみで、延3万5千回以上出撃した。上陸軍の各種火砲は6万6千トンの弾丸を撃ち尽くした。
(十六) 確かに沖縄島攻略戦はアメリカ陸軍に対して、最大の損害と消耗を与えたのみならず、アメリカ海軍の蒙った損害も甚大であった。(ガダルカナル島攻略戦がこれに次ぐものであろう。) すなわち駆逐艦をふくむ艦船35隻が沈没し、299隻が損傷した。第5艦隊の人員被害は、3月18日東京攻撃より6月20日までに、死者および行方不明者4907名、負傷者4824名に達した。かくて中部琉球諸島攻略戦に要した陸軍、海兵隊、海軍の死傷者(行方不明を含む)総計は46319名に及んでいる。
(十七) これに対して日本軍は沖縄島で117000名の死者および捕虜を出した。これはアメリカ軍の損害(負傷者を含む)46319名に対して5対2の比率である。もし死者のみで比較すればこの比率は遥かにアメリカ軍に有利となるであろう。要するに、11万7千と4万6千という日米両軍の数学よりみれば、日本本土決戦の最後の牙城である沖縄島戦も、また日本軍のテクニカル・ノックアウトであった。
硫黄島と沖縄島の陥落によって、日本の敗北はもはや時期の問題となり、軍部の威圧にもかかわらず天皇以下日本の政府、重臣、官僚も愕然として降状への道を急いだのである。アメリカ空軍の日本本土の絨毯爆撃、アメリカ艦隊の本州沿岸砲撃、原子爆弾、ソ連参戦――と日本降伏前後の状況については、ここにアメリカ記者キャント氏の説明を借りなくとも、7千万の日本人の今なお記憶するところであろう。そして8月14日、日本政府は連合国の要求するポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、翌15日正午、天皇は日本国民に降伏をラジオで告げたのであった。1945年9月2日の東京湾頭アメリカ第3艦隊旗艦『ミズーリ』号上にて歴史的な日本降伏の調印が行わわれた。それは唯単に一つの戦争を終結したものではなくて、実に人類の闘争における一つの世紀を終えたものであった。私はここに筆を置くに当り忘れ難いのは、私が1941年12月7日(アメリカ時間)日米開戦の歴史的な日に、遥かアメリカ首都ワシントンにあって、日本軍のパール・ハーパー奇襲攻撃のニュースをNBCのラジオ放送で聞いた衝動である。そして数日後にデラウェア河畔のフィラデルフィア抑留所に収容中に『ニューヨーク・タイムス』紙上の広告面に大きく掲載された次の言葉を、今なお私は心痛くも忘れられないのである。
「 山本提督はワシントンで城下の盟いをして、ポートマック沖で日本艦隊の観艦式を行うと豪語している。それならば、我々は東京で城下の誓いをして、東京湾頭でアメリカ艦隊の観艦式を行うであろう! 」 
 
太平洋戦争――誰が悪かったのか

 

 
T 太平洋戦争の評価と反省

 

1 国民は一体なにを学んだか
我々日本人同胞三百二十万人の尊い生命を奪い、さらに数千万の老若男女大衆に、耐えがたいような犠牲と、苦痛と破壊をあたえた太平洋戦争が終ってから、多くの歳月が流れた。そして、敗戦のいまわしい洗礼をうけて、廃墟と混乱のドン底から、ようやく再生した民主日本と、危うくも生き残った国民大衆は、あらゆる困難と辛苦をたくましく突破して、めざましい復興と繁栄を取戻して、今日を迎えたのであった。
(注、この戦没者三百十万という数字は、昭和四十年八万十五日の終戦記念日の追悼式に政府が発表した数字であり、その内訳は昭和十二年七月七日の盧溝橋事件〈日中戦争〉から太平洋戦争の敗戦まで、八年余にわたる大戦災による戦死、戦病死した軍人、軍属、準軍属二百三十万人と、外地で死亡した民間人三十万人と、内地の戦災死亡者五十万人を合計したものである。しかし、軍人、軍属の戦没者にたいして、恩給や叙勲の特典が復活実施されているのに反して、民間人の犠牲者と遺族が無視されている現状は、平和日本の建前から不合理ではないだろうか?)
これはまことに、現代総力戦時代の敗戦国としては、じつに、まれにみる幸運な国家再建であり、確かに欧米のマスコミが賞めてくれたように『奇蹟の復興』である。そのかわり現在、我々一億の日本人の大半は、おそらく太平洋戦争の血みどろな悲痛も、おそろしい悪夢も、すでに忘れてしまって、ただ目前の商売繁盛と、身辺の幸福を願いもとめているだけではなかろうか? とくに、戦後に生まれ育ったような若い世代の人々は、太平洋戦争の敗戦のおかげで、『進駐軍』という名の外国占領軍隊の下であたえられた『平和』と『自由』を、腹いっぱいにむさぼり食って、ぬくぬくと気楽に成長したので、まったく戦争の教訓も、敗戦の実感も学ばない、享楽的なレジャー族と化したのではなかろうか? それはムリもない。彼らは、日本国民の義務教育とされている小学校でも、中学校でも、けっして、太平洋戦争について、正確な知識も、公正な理解もあたえられていなかったからだ。そして、今日でさえも、日本の大新聞は、文部省の反動的な教科書検定方針をめぐり、太平洋戦争の史実と認識についての激しい論争を報道しつづけているのである。これは、奇怪千万なことではないか! なるほど、我々日本人にとって太平洋戦争は、途方もない無謀な『負け戦さ』であり、それは国家としても、国民としても、また、天皇一家としても、けっして内外に向けて自慢になることではない。しかし、絶対天皇制の下で軍国日本が、まるで『清水の舞台より飛び降りる』(東条大将の有名な言葉)ような大決断で、大戦争へ突入した事実は、すでに現代世界史上に、永久に刻みこまれているので、たとえ、戦後日本の文部省がいくら国家的体面上、体裁が悪いからといって、『真珠湾攻撃から東京湾頭の降伏調印まで』の、厳然たる三年八ヵ月間の史実を勝手に歪(ゆが)めたり、都合よくゴマ化したりすることは許されない。太平洋戦争の真相を知らないのは日本人ばかりなり――ということであってはならないのだ。なぜ、文部省は、いわゆる官製、検定の現在の小、中学校用歴史教科書に、太平洋戦争の開戦から敗戦までの、正しい史実と意義を、正々堂々と記述させて、戦争をまったく知らない若い世代に、この貴重な『民族の遺産』を、素直に理解させることをおそれたり、妨げたりしているのであろうか? おそらく、これらの文部官僚と、一部の、いわゆる御用歴史学者の胆(はら)の中では、戦前、戦中と相通ずる、『絶対天皇制護持』の封建的な偏見と、独善的な超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)にもとづく『皇国史観』を、いまだ強く温存して、日教組を中心にした左翼的、革新的勢力に、あくまで対抗しようと努力しているのであろう。私は、自由、公正な戦史家として、太平洋戦争を第二次世界大戦の視野から調査、研究しているが.このような文部官僚と日教組の対立、抗争のために、太平洋戦争の真実を、それぞれの政治的立場を守るために、勝手に歪曲したり、変造したりして、日本の次代をになうべき若い青少年大衆にたいし、誤った戦争認識をあたえたり、あるいは敗戦無視を教えたりすることには大いに反対する。なぜなら、そのような姑息(こそく)な、近視眼的な太平洋戦争観こそ、かえってこの戦争の貴重な教訓を忘れて、平和な民主日本を、再びつぎの戦争へ、知らず知らずのうちに巻きこみ、引きずりこむ危険がきわめて大きいからである。英国の世界的軍事評論家リデル・パートがつねに強調しているように、『平和を欲するならば、戦争を理解することである』という警句は、けっして欧米諸国にかぎらず、日本の場合にも、ピタリと当てはまるだろう。すなわち、私たち日本人が、我々の子孫代々のために、あらゆる努力を惜しまず、平和を守りぬく覚悟であるならば、まず、なによりも、太平洋戦争の、もろもろの苦い教訓を正確に知り、戦争の起因と責任までも、厳正に理解することが必要である。
では一体、太平洋戦争の貴重な教訓とはなんであろうか? それはまず第一に、太平洋戦争の起因を、正しく突きとめて反省することである。もちろん、その起因は、直接の近因から間接の遠因まで、複雑な要因をふくんでいるのは、当然である。しかも太平洋戦争のような、世界的規模の現代総力戦では、日本の立場が、敵国の米国、英国、オランダと真っ向から対立し、たがいに敵視し、憎悪しあったことは当然である。だからといって、日本の開戦理由がすべて正当であるという独善的な考え方は、結果論として、戦勝国なる連合国側の『大義名分』が百パーセント正しかった、と現在もなお認めるのと同様に、反省不足であり、時代錯誤であろう。
すなわち、太平洋戦争は、軍国日本の超国家主義者一派が主張したような、神がかりの『八紘一宇のための聖戦』(皇道日本を全世界に宣布するための正義破邪の戦い)ではなかった代わりに、また米英側で声明したような『世界を征服しようと努めている、野蛮で野獣(やじゅう)的な軍隊に対する共同闘争』(一九四二年一月一日、連合国共同宣言)でもなかった。これを言いかえると、古今東西を通じて、戦争は人間の狂気がもたらす、国家間の大量殺戮である点には変わりがないが、たがいに敵国の侵略性と残酷性を憎みながら、みずから『侵略』と『残酷』を犯して平然たるのが通例である。もちろん、勝者は有利であり、敗者は不利ではあるが、後世の史家の判断は、正しく評価するものだ。結局、公正に史実を検討して、太平洋戦争は、中国にたいしては、確かに『侵略戦争』であったが、いわゆる、米英蘭三国にたいしては、『自存自衛のための先制攻撃による予防戦争(大本営発表)』であったと、強調できないこともないだろう。だが、いずれにせよ、日本は真珠湾奇襲による開戦の責任を負うことは明白である――というのが私の見解である。戦争の起因、目的と、戦争の決断および遂行とを混同してはならない。 
2 太平洋戦争への大きな疑問

 

戦後、わが国で発表、または刊行された太平洋戦争にかんする戦史、戦記、評論、読物類は、新聞、雑誌、単行本を通じて、じっに数万点以上にたっしていると思われるが、それを大別すると、つぎの三つにわけられる。
「 (一) 軍国日本の『侵略戦争』と、はっきり認めるもの。(これは、米英ソ、中国はじめ連合国側の第二次大戦史観にもとづいたものであり、したがって、敗戦後の連合軍占頷下に、日本で発表された、太平洋戦争の記事、刊行物の主流をなすものである。 しかし、日本の独立後から今日まで、軍国日本の破滅と、絶対天皇制の終止を歓迎する革新的、民主主義的立場から、太平洋戦争の侵略性を認めて反省する向きが多い)
(二) 国際情勢の変転と日米関係の変化(軍事、政治、経済上の緊密な協力関係)によって、近年は太平洋戦争の解釈もおのずから一変し、戦前、戦中と同じような『皇国史観』を復活して、程度の差こそあれ、日本の正当性と戦没勇士の栄光化を認めるもの。(これは、日米安保体制の維持、強化を熱望する日本の保守政治勢力と、米国政府筋の見えない圧力から、この数年来、とくに太平洋戦争の正邪を、真剣に論議することを避けて、たがいに、『日米双方の誤解にもとづく不幸な過去の出来ごとであった』というふうに軽く受けながし、公正な戦史の調査、究明を黙殺する傾向が目立つようだ)
(三) 戦争の起因、目的、責任などはすべて関知せず、ただ他人事(ひとごと)のように、太平洋戦争のすさまじい戦闘経過のみを、小説や、ニュース映画や劇映画、テレビドラマで面白く再現して、数千万の若い世代のために、いわゆる戦争物の通俗的な『スリル』と『ヒロイズム』を提供するもの。 」
このような、三者三様のカテゴリーのちがった日本人の戦争観の中に、いまや太平洋戦争の偉大な教訓はひそかに葬られ、忘れられようとしているのである。これまで、わが国の旧軍人の手で、またジャーナリストの手で、あるいは大学の歴史学者の手で、太平洋戦争の開戦から敗戦までの戦闘経過と戦争指導については、十分に書きつくされてきた。したがって、真珠湾奇襲も、シンガポール攻略、ミッドウェー海戦も、またガダルカナル島争奪戦も、アッツ島、タラワ島、サイパン島、硫黄島の死闘も、マリアナ沖とレイテ両大海戦も、最後の沖縄大決戦も、すべて、その流血と玉砕の詳細は広く知れわたっている。かくて人類最初の米軍機による、原子爆弾の広島、長崎への投下と、ソ連軍の対日参戦、満州進撃によって、日本帝国は、あえなくも崩潰して、太平洋戦争は悲壮な敗戦の幕を下ろした。太平洋戦争の作戦経過の史実は、戦前、戦中、戦後の三世代に、よく知れわたっているように思われるが、意外にも、長年にわたり故意に、あるいは軽率にも頬被(ほおかぶ)りして忘れかけていた、幾多の重大な事実が残っている。しかもそれは、いずれも太平洋戦争史のいわば首尾一貫した背骨をなすものであり、米英流の表現を借りれば、日本の『世界的戦略』(グローバル・ストラテジー)の正体とゆくえである。まず、米英の戦史家たちは、『日本の軍部も政府も、ただ戦争を開始する準備、決断と、シンガポール、フィリピン、蘭印諸島(現在のインドネシア)の南方地域を攻略する作戦計画を立ててはいたが、それから以降は一体どうするのか、明確で合理的な、世界戦略方針を持ち合わせていなかった』と、いかにも日本流の、大マカな腹芸的な考え方で、現代総力戦に挑んだ無謀な点を、痛烈に指摘している。これに対して、旧日本陸、海軍の最高責任者たち(すでにその大半は亡くなってしまった)は、ほとんど良心的に反論したものはなく、また戦後の日本政府も国民大衆も、『太平洋戦争の真相調査』については、ほとんど無関心であったようだ。すなわち、太平洋戦争の悪夢のような約四年間を通じて、最大の疑問の一つは、『はたして日本はいかなる勝算があって、開戦に踏み切ったのか?』という点であったが、これは当時の戦争指導者のだれからも、明確な回答を得ないままである。そして、戦後の歴代の日本政府は、太平洋戦争をめぐるこれらの重要な根本問題を、いかにも厄介物あつかいにして、とくに天皇の道義的責任問題のむしかえしを恐れ、醜い古傷の跡を、強いてかくすように努めてきたように思われる。それだから、憲法調査会には、多くの歳月と数億円の費用(これも、国民の負担した税金だ)を喜んで浪費しながら、官民協力の権威ある太平洋戦争調査会の方は、いくらたっても、けっして実現しないし、また、今後も日米協力、親善関係に悪い影響をあたえないようにという、よけいな政治的配慮から、到底実現しそうもない。それは、日本国民へ戦争危機感を吹きこんで、日米軍事協力を強化するためには、太平洋戦争の冷静な研究調査は、かえって日本国民の反戦、平和感情を高めて、有害無益であるからだろう。 
3 神がかり『皇国史観』の正体

 

さて本書では、これまでの戦史の形式をやぶり、まず、これらの重要問題――とくにいまだに解明されない、軍国日本の開戦当時の立場と、その戦争観=聖戦イデオロギーについて、分析、検討したい。そして、日本軍部には、チャーチルやルーズベルト、スターリン、ドゴールが、つねに討議し、論争し、協調してきたような、米英流の合理的な『世界的戦略』というものは欠けていた代わりに。まったく対外的(ヒトラーにもムッソリーニにもわからぬ)にも、対内的(日本国民大衆に実際には全然、共鳴されず、理解もされず)にも、けっして通用しないような独善的な『皇国的戦争観』によって、いわゆる、大東亜戦争政策なる大綱をつくり上げて、『皇道日本』による、八紘一宇(はちこういちう)的な世界制覇を夢想していたわけを知りたいのである。では、いったい、軍国日本の『大戦略』(グランド・ストラテジー)であった『皇国的戦争観』とは、どんなものであろうか? それは皮肉にも、文部省の歴史教科書検定問題で、非難のマトになっている、戦前、戦中の反動的な御用学者による、『皇国史観』から生まれた聖戦イデオロギーなのだ。したがって、この神がかりの、『皇国史観』の正体を知れば、それにもとづく軍国日本の狂信的な戦争理念の根源と影響力も明らかにされるわけだ。
この軍国日本の神がかりの理想像(ビジョン)であった、『皇国史観』について、自由民主化の、今日の若い世代の人々に説明、納得させることは、きわめてむずかしい。それは太平洋戦争敗戦前まで、天皇が『現御神』(あきつみかみ=この世に姿を現わしている神の意味)と呼ばれて、いわゆる紫雲につつまれて神格化され、我々国民大衆は、天皇のいる宮城前を通るたびに、電車の中でさえ、脱帽、敬礼を要求された、狂信的時代の日本史観であるからだ。戦時中、文部省は軍部と呼応して日本国民に対し、この極端に超国家的な皇国精神を鼓吹(こすい)するために、いわゆる国民教育の根本指針として、天皇のために徹底的な『滅私奉公』と『七生報国』を強要した『国史概説』(菊判、上下二巻、各四百八十頁、昭和十八年八月、内閣印刷局発行)という大冊の本を数十万部も編集、刊行して、全国の小、中学校、高校、大学教育者へ広く配布した。
これがいわゆる『皇国史観』の決定版であり、軍国精神総動員の教典であったと同時に、また、学徒総動員や、神風特攻隊のための推進力となったものである。つぎに掲げるのは、『国史概説』(結論――わが国体)の内容である。(以下、原文のまま)
「 『大日本帝国は万世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が万古不易の国体である。しかしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心、聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これすなわち我が国体の精華である。国史は各時代に於いて、常に推移変遷の諸相を呈するにも拘らず、それらを一貫して肇国の精神を顕現している。国史の神髄はこの精神によって貫ぬかれたる大なる生命であり、国史の成跡は、国体を核心とする国家発展の姿である。かくの如くして、宏遠なる太古に肇まり、不易の国体を中心として、撓(たわ)むことなき生命を創造発展せしめつつある国家は、世界広しと雖(いえど)も独り我が国あるのみである。他の国にあっては、建国の精神は必しも明確ならず、しかもそれは革命や衰亡によってしばしば中断消滅し、国家の生命は終焉して新たに異なる歴史が発生する。したがって建国の精神が、古今を通じて不変に継続するが如きことはない。すなわち、外国は個人の集団を以て国を形成し、君主は智・徳・武等を標準として、それらの力の優れたるものが位につき、これを失へば位を追われることがあり、或は民衆が主権者となり、多数の力によって政治が行われる。(中略) 我が国家はこれと異なる。天皇は皇祖皇宗を祭らせられ、これと御一体にあらせられて神ながらに御代治しめし、宏大無辺なる聖徳を具へさせられ、国土国民の生成発展の本源にまします。国民は天皇の聖徳を仰ぎ、淳美なる良俗に啓培せられ、神皇一体、君民一致の国家を形成している。不動の国体を基幹として日に新たなる創造が展開されるのであって革命はあり得ない。国家の進展が特に顕著なるときには、いわゆる維新の鴻業が行はれるが、それは同時に復古であり、したがって復古的維新ともいうべきものであって、国体を特に著しく発揚せしめる政治改革である』 」
そのつぎに『国民性』と題して、生きた神である天皇の命令}下、日本国民が生命をいさぎよく捧げて、戦場へ赴くことを大いに称揚している。
「 『すでに述べた如く、天皇は御親ら皇祖皇宗の神霊及び諸神を祭らせられ、神を祭り給う大御心を以て民を治しめし、国民もまた神々を崇め祭り皇室を宗家と仰ぎ、祖孫一体となって、現御神にまします天皇に帰一し奉る。これすなわち古今を通じてかわらざる我が国家生活であると共に、更に郷土の生活には必ず氏神があって国民は聚落の融合一体を実現する。これらに見られる国民の敬神の念は、実に国民性の基礎をなすものである。かかる敬神の念は、我が国にあっては特に報本反始の誠を致す国民精神として顕現する。この精神がすなわち忠孝の徳の根源となり、また天地万物に対する敬虔感謝や愛護の心ともなるのである。神に仕へる心は、また身心一切の穢(けがれ)を去り、純一無雑の心意に帰する清明心であって、これは古来まことの精神として特に尚(とうと)ばれている』 」
それは今日の時点より考えると、まことに難解、複雑な、神がかりの独善、尊大な、『万邦に冠たる天孫民族の国民思想』とみなすほかはないが、しかし、このような文部省制定の『皇国史観』から、いわゆる『神兵の聖戦』というような『皇国的戦争観』が生まれたのは当然であった。それは、ヒトラーの狂信したナチズムを光栄化した哲学者のアレフレッド・ローゼンバーグ(悪名乱い『二十世紀の神話』の著者、戦後の一九四六年十月、ニュールンベルクの戦犯裁判で絞首刑を宣告、執行された)の場合とはちがうが、しかし、『支那事変』以来の日本の侵略戦争を正当化し、さらに光栄化するために、この『皇国的戦争観』が、いかに忠勇な日本軍将兵を激励し、奮起させるのに役立つたか、はかり知れないであろう。私は日本の戦史家として、太平洋戦争中の決戦下で、このような日本独特の天皇制国家における、忠君愛国の国民精神と、一死報国の軍隊精神の長所、美点をよく理解するものである。が、しかし、その短所と欠点も明らかに認めざるを得ない。それについては、太平洋戦争の各作戦段階にしたがって、十分に究明するつもりでいるが、ただ一つここにはっきりと指摘しておきたいことは、天皇自身が終戦直後に、みずから建国以来、二千六百年にわたる神秘的な神格を公然と否定して、いわゆる『人間宣言』をした事実である。したがって、戦後だいぶたった今日、文部省の一部に、もし、まだ独善的な、非民主的な『皇国史観』を、ひそかに信奉する絶対天皇主義者がいて、小、中学校用歴史教科書の中の、太平洋戦争の記述について、公正な史実をことさらに歪め、開戦の原因や敗戦の理由をゴマ化すような干渉、検定をこころみるようなことがあったら、かえって彼らの口ぐせにする『承詔必謹』の鉄則に反して、それこそ天皇の大御心に背く、不忠の臣となるわけだ。この天皇の『人間宣言』は、いわば『平和憲法』と抱き合わせの形で、戦後の民主日本の再建に、二大支柱とされたものであるが、近年どういうわけか、一般の戦争記録書などにもまったく再録されず、意外なくらい、その原文に接したものが少ないようである。とくに、読者諸君の中でも若い世代は、それを知らないのではなかろうかと思って、つぎに、その勅語(ちょくご=天皇のお言葉)の一節(昭和二十一年一月一日の勅語)を紹介しておく。
「 『――惟(おも)フニ、長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ渕ニ沈淪(ちんろん)セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風激ク長ジテ道義ノ念頗(すこぶ)ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。然レドモ朕(ちん)ハ爾等(なんじ)国民卜共ニ在リ。常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕卜爾等国民トノ間ノ紐帯(じゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼卜敬愛ニ依リテ結バレ、単ナル神話卜伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且ツ日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとず)クモノニ非ズ』 (以下略) 」 
U 太平洋戦争の神話と迷信

 

1 公正な評価と責任のゆくえ
『歴史は自分の国においてのみ、立派に書くができる』とは、十八世紀のフランスの大思想家ボルテールの言葉である。確かに古今東西を通じて、『言論と思想の自由』がみとめられていない国では、真実の歴史を書くことは許されなかった。したがって、国王または皇帝のような、絶対権力者に対する民衆の反抗や、闘争の歴史が、当時、つねに抹殺されたり、歪曲されたりして、正しく伝えられないのは当然であった。それはなにも、中世の欧州の絶対君主国家だけにかぎらず現代でも、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンたちの全体主義独裁国における、いわゆる『一党専制政治』と『言論抑圧』と『思想統制』の、暗い思い出がまだ生なましい。わが軍国日本でも、満州事変――日中戦争(支那事変)――太平洋戦争の暗雲の十五年間に、歴史の真相がいかに国民大衆の眼から掩い隠され、真実がつつまれていたかは(早耳の新聞記者たちにたいしても)、――敗戦後はじめて『言論と思想の自由』を獲得(じつは戦勝の連合軍からあたえられ、助長されたのだ!)した我々日本人の、身にしみて痛感したところである。戦争の歴史もまた同様である。とくに独裁、専制国では、戦争中、国家の緊急非常時という美名のもとに、国民の戦意昂揚と、決戦体制を最大限に強化するため、『言論』も『思想』も、すべて国家へ奉仕して戦力化されるもの以外は、すべて弾圧され抹殺された。我々日本人もまた戦時中は、いわゆる『依(よ)らしむべし、知らしむべからず』の政府、軍部の強硬方針の下に、『言論の自由』どころか、国民大衆の心の糧ともいうべき『報道の自由』まで抑圧されたまま、ついに痛ましい敗戦の日を迎えたのである。たとえば、太平洋戦争の開戦後わずか六ヵ月で日本軍が主導権をうしない、敗勢の重大転機をむかえた昭和十七年六月五日と六日の、ミッドウェー決戦の致命的な大敗北についても、大本営は、日本艦隊の大勝利と発表、報道して、国民大衆をだまし、大いに喜ばせたものである。それは、ただ軍部の威信を保つために。
なるほど、軍国日本は、開戦前から独、伊の枢軸国と盟邦関係を結んではいたが、その国柄と独裁政権の成り立ちもちがうので、ヒトラー独裁のナチス・ドイツや、ムッソリーニ独裁のファシスト・イタリアと、軍国日本を、同列に論ずることは日本人の立場から、不穏当でムリな点がある。ここに、満州事変――日中戦争――太平洋戦争という十五年間の、いわゆる『昭和戦乱』の責任問題をめぐり、天皇、政府、軍部の三者三様のデリケートな論争点があるが、公正に、かつ良心的に触れてゆくつもりである。たとえば、第二次大戦の起因について、米、英、仏、ソ各国の戦史では、ヒトラーとムッソリーニという、野蛮な独裁者兄弟こそ、『最大、最悪の戦争犯罪者』と断定している。
また、敗戦国側でも、戦後にドイツ共和国(東西両ドイツとともに)とイタリア共和国では、『戦争は狂信的な独裁者が善良な国民大衆をだましたり、暴力でおどかしたりして、計画し放火したものである』と、すべての戦争責任(開戦責任も敗戦責任も)を、ヒトラーとムッソリーニ両人に、それぞれ押しつけることによって、きわめて明確に割り切っていた。要するに、戦後の独、伊の国民大衆は、ただ、ヒトラーと彼のナチ党を、またムッソリーニと彼のファシスト党を、それぞれ極悪非道の悪玉あつかいにして、あらゆる怒りと憎悪を、この独裁者の上に吐きかけることによって、万事、重苦しい胸のなかを晴らしたものだ。したがって、戦後に、独、伊両国では、その建国の歴史を別に書き変える必要などは毛頭なく、ただ現代史のごく一部分、すなわちヒトラー独裁政権時代の、わずかに歪められた史実を訂正して、その誤った解釈を変更するだけで、すべてこと足りたわけだ。ところが幸か不幸か、敗戦の結果、軍国日本の場合には、そう簡単に都合よく、昭和史の一部だけを是正して、日本とつなぎ合わせることはできなかった。すなわち、軍国日本の精神的中核をなした、ふるめかしい『絶対天皇制』や、厳(いか)めしい神がかりの『皇国史観』を、ただ敗戦の結果によって、また、戦後の米英流の民主日本に、うまく適合するように、自由自在に改廃するわけにはゆかなかった。すなわち、危険な日本の神国思想を打破し、日本の歴史を根本的に書きなおすような、空前の民主化作業を必要としたのだ。だから、ヒトラーやムッソリーニのような野心的独裁者を排除するように、軍国日本の戦争責任者としての、東条首相(陸軍大将)以下、いわゆるA級戦犯の政府、軍部の要人だけを、いくら悪者あつかいにして憎み、恨んでも、太平洋戦争の起因はけっして究明されず、また公正に評価されないのは当然である。そこに太平洋戦争の特異な本質と、評価のむずかしさがあるのだ。独、伊両国の場合は、いったい、だれが悪かったのか、その解答も解釈も、すこぶる簡単明瞭である。しかし、軍国日本の場合には、いったい、だれが悪かったのか? その真相は、きわめて複雑怪奇であり、またその実情は、アイマイにはぐらかされて、今日、かえって、ますます黒い霧におおわれたまま、現在の教科書論争の深刻な原因をつくったのである。 
2 東条首相は“大悪人”か!

 

確かに、敗戦直後の日本では`東条英機大将が最大の悪者あつかいにされた。しかし、彼が、東京裁判でA級戦犯第一号として絞首刑を宣告、執行された後味は、我々日本人にとって晴れぱれとした、さわやかなものではなかったようだ。なぜなら、『東条は、六百万のユダヤ人を虐殺したヒトラーほど、悪いやつではなかった』と、一般に思われたからだ。また、ナチス・ドイツでは、だれでも、『ハイル・ヒトラー!』(ヒトラー万歳)という挨拶が強制されて、戦場でも銃後でも、厳重に励行されたが、軍国日本では、だれひとり、『東条大将万歳!』と叫んで、死んだ兵士はいなかったからだ。軍国日本では、日本国民は、すべて天皇の命令で戦場へ駆り立てられて、『天皇陛下万歳!』と叫んで玉砕していった、冷厳な事実を忘れてはならぬ。とくに、『勝者の裁判』とよばれた東京裁判の市ヶ谷法廷で、見るからにやつれ果てて、みすぼらしい東条被告(当時六十四歳)が、直立不動の姿勢で、米国の検事のするどい訊問、追及にたいして、
「 『私の経験した間には、天皇は、御前会議でも、ほとんどご発言なさったことはありません。日本国民として、私は陛下が裁判にかけられるのを見るにしのびません。一九四一年十二月の開戦と、真珠湾攻撃に関して、私が起訴され、裁判にかけられる責任を持つものである点は妥当なことです。しかし、私は、陛下が裁判されるということは、考えるにしのびません。私自身ばかりでなく、日本国民すべて、天皇陛下が裁判にかけられるとしたら悲しむでしょう。私は主として、国務大臣の観点から責任を負うべきものであります。――統帥の観点からなら、参謀総長および軍令部総長に責任があります。他の閣僚も責任がありますが、私よりも責任の程度は少ないと思います。(中略) 戦争の避けられなかった原因は、統帥権の独立、その他いろいろありますが、いま自分が弁明しようとすることは、臣下として、自分と陸、海軍統帥部長が、陛下に対する輔弼(ほひつ)の責任を果たさなかったという点であります。天皇陛下には、絶対に責任がありません』 」
と、大ミエを切ったとき、彼の失墜した人気は、右翼、保守主義者たちの間でにわかに盛りかえした。確かに、太平洋戦争の憎むべき張本人と、米英ではみなされた東条大将も、私が戦時中に交換船で帰国後、朝日新聞記者(前ニューヨーク特派員)として、再三、親しく面接したが、けっして狂気の大悪人というような印象を受けなかったくらいである。太平洋戦争では、軍国日本にはヒトラーもムッソリーニもいなかった、という平凡な結論に達する。
「 『あの顔の青白い神経質な、軍人としては、むしろ小心な律義者のようにみえた人物が、なぜ軍国日本の興亡と、一億玉砕の暴挙を賭した大戦争にあたり、平和念願の天皇の切々たる「大御心」(神格化された天皇の心境)に添わない、無謀な開戦の決断に踏み切ったのであろうか?しかも彼は、戦後の東京裁判法廷で、「独裁者東条大将」として被告席にならんで、旧敵国の代表と、日本国民大衆の面前で生き恥をさらしながら、その内心では、東条は国民にたいしては、逆賊といわれるかも知れないが、陛下をお守りすることだけは、命がけでやり通す覚悟である。 自分が自殺し損ねてこうして生きているのも、ただ一点そのことのためだ』(東条被告弁護人、元逓信院総裁塩原時三郎氏の手記による) 」
と、ひそかに誓っていた。こうなると、軍国日本の戦犯追及問題はきわめて困難で、いわゆる戦争責任が行方不明になりやすい。戦後の東西ドイツでは、いずれも連合国の手による、ニュールンベルク裁判とはまったく別個に、両ドイツ政府が、戦時中のナチス犯罪に対する厳正な摘発、裁判を、長年にわたり根気よく続行し、さすがは権利と責任と法律観念の強い、ドイツの国民性の合理主義を発揮したものだと、私は戦史家として大いに感嘆させられたものだ。これにたいして戦後の民主日本では、めざましい経済的復興と物質的繁栄のかげに、太平洋戦争の起因究明も、責任追及もすでに忘れられてしまって、むしろ戦争の過去の古傷や悪夢を、戦後派の有力な政治家や財界人までもが最近、ウヤムヤに葬り去ろうとする傾向が目立ってきた。また、日本人の国民性の一つといわれる健忘症のせいか、戦犯として刑死した東条大将の、戦争内閣の有力メンバーだった、岸信介(当時、商工大臣=現安倍首相の祖父)と賀屋興宣(かやおきのり=当時、大蔵大臣)両氏が、戦後もわが政界で依然として健在で、保守勢力(自民党中心)の長老として、権勢をふるっていたのは、まことに戦後の独、伊両国には見られない現象である。それを、別に怪しまない日本人独特の政治的センスは、けっして健忘症のせいばかりではあるまい。私のように、太平洋戦争をあくまで第二次世界大戦の一部であるとみなして、ヒトラーとムッソリーニ両独裁政権下の独、伊両国が戦った、欧州戦争と同時に並行、関連させて、パノラマ的に総合、比較、検討する立場からみると、たとえてみれば、ヒトラー内閣の商工相や、ムッソリーニ内閣の蔵相が、戦後まで元気よく生き残って、しかも、新しい民主政権の首相や閣僚に返り咲いたり、再び時めくようなことは、到底信じられないことである。ここにも太平洋戦争を、欧州戦争と同一の普遍的な戦史的レベルから、公正に評価することの特殊な障害と困難があると思う。もっとも、日本人の淡白な国民性から、日本人同士が戦後に、たがいに戦争責任をなすりつけ合ったり、あばき立てて争うことは、あまり好ましくないようであった。しかも太平洋戦争には、いかに軍部独裁とはいえ、ヒトラーのような狂信的な残虐行為――たとえば六百万のユダヤ人大虐殺や、占領地域における敵性市民男女にたいする、大規模な集団的テロ行為などは、さすがに日本軍の性質には合わなかったとみえて、幸いにも模倣されなかった。それだけに、我々日本人は一般に、識者も、大衆も、戦争にたいする罪悪感が少なく、したがって、連合軍総司令部(GHQ)から、とくに命令されたり、要求されないかぎりは、戦後の国民的反省も、自己批判もたりないで終ってしまったのではなかろうか?
たとえば、終戦直後から東京裁判の判決(昭和二十三年十一月)の下るまでの約三年間、天皇の戦争責任問題は、当時の幣原(しではら)内閣にとっては、国民大衆の食糧不足や、戦災復興の緊急問題よりも重大視され、天皇制の廃止はないとしても、天皇の退位は、相当にその可能性があるものとして心配された。しかし、その当時でさえ、いわゆる民主化されたはずの戦後の日本の各新聞は、やはり天皇制を論評することを、戦前同様に『畏(おそ)れ多い』ものとして極力、これを敬遠したため、かえってGHQから、『天皇制についてもっと自由に論議、報道して世論を起こすべし』と、新しい戦後の『主権在民』のあり方について、指示と指導を受けたものであった。このような点にも、太平洋戦争の公正な責任論争が、早くから日本では不評判に終わり、時の流れによって、いつのまにか、戦争責任が行方不明になっても、国民大衆がほとんど怪しまない理由があるのではなかろうか? しかし、私がかっての日、歴史的な日米開戦を新聞特派員として、敵国(当時)の首都ワシントンで迎えてから戦後の今日まで、じつに長い間、太平洋戦争をふくむ第二次大戦の真相と経過と結末を、日本の自由、公正な戦史家として丹念に調査、検討してきた結論は、まさにつぎの通りである。
「 『軍国日本は、武力戦で敗れて無条件降伏をした。のみならず、思想戦でも徹底的に敗れ去った。したがって、軍国主義を打破された日本は、戦後に急速に政治、経済制度の民主化には成功した。だが、いわゆる「国体の精華」である、八紘一宇の皇国史観と、皇尊絶対の民族精神をひとたび粉砕されたら、その思想的空白状態を、新しい民主主義の精神でみたすには、数十年の長い歳月と、忍耐づよい国民的努力を要するであろう。なぜなら、制度の改革はやさしいが、国民精神の改変はきわめてむずかしいからである。しかも、軍国日本の象徴であった天皇が敗戦の結果、みずから民主日本の象徴(シンボル)に変身したことを認めて、これまでの神話と、伝説にもとづいたところの神格を否定し、「人間宣言」の歴史的な詔勅を発した(昭和二十一年一月一日)からには、天皇はもはや、再び、もとの神性にもどることはできない。――これは将来の天室制のあり方について、大きな希望と深い矛盾をもたらすであろう』 」 
3 開戦の決断をめぐる天皇の立場

 

むかしから戦争の勝敗は、いわば『時の運』であるから、軍国日本が、たとえ米英相手の大戦争で武運つたなく敗北したとて、けっして卑下したり、卑屈になるにはおよばない。ドイツ民族は、二十世紀の前半に、二回も世界大戦をみずから起こして、無残にも敗北しながら、またもや戦前にまさるすばらしい復興ぶりをみせて、そのたくましい民族的エネルギーを発揮しているではないか。日本も太平洋戦争で敗れたりとはいえ、米、英、蘭、中国、(終戦直前にソ連)を相手に、三年半以上もよくぞ堂々と戦い抜いたではないか。しかも、インド、ビルマ、マレー、インドネシアなど東亜の白人植民地は、すべて日本軍の手で解放し、独立させたではないか――と、太平洋戦争を日本に有利に過大評価する旧軍人も少なくない。確かに、このような戦争観にも一理はあり、とくに東京裁判で、『満州事変以来、過去十五年にわたる日本の行動は侵略戦争なり』と、日本が一方的に烙印(らくいん)をおされたことには強い不満と異議をとなえる人々も多いであろう。しかし、このような戦争観の致命的な欠点は、太平洋戦争をただ武力戦として解釈して、その戦争の結果である勝敗だけにこだわっていることである。なぜなら、現代総力戦の究極的な目的は、けっして単なる武力的勝利ではなくて、じつは百七十年前に、プロシアの偉大な戦争哲学者カール・フォン・クラウゼビッツ将軍が、『戦争は他の手段による政治の延長である』と、いみじくも喝破(かっぱ)したように、政治的目的を達成することであるからだ。だから軍国日本は、たとえ武力戦では不運にも敗れても、もし、思想戦にはあくまで屈服せずに、その政治的主体性を確保していたならば、我々日本人は、いわば『負けるが勝ち』と称しても、かならずしも単なる負け惜しみではなかったであろう。その代わり、敗戦後、日本はけっして戦勝国たる米国の安易な援助、救済を受けず、天皇以下、政府も全国民もすべて『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』の苦労を重ねて、戦後の祖国復興はもっとおくれたであろうが、かえって、物心両面のバランスのとれた堅実な再建が実現したことであろう。そして、今日のような、日本のはなばなしい経済復興のカゲに、日本人の精神的空白と思想的迷いが生ずるような、国民的不幸をもたらすことはけっしてなかったであろう。私は日本人である以上は、長い長い民族の歴史が生みはぐくんできた、いわゆる神話と伝説にもとづいた『皇国史観』を、けっして、バカらしいものだとは思わない。しかし、戦前、戦中の軍国時代を通じてあまりに誇張され、あまりに独善的に国民大衆に押しつけられた、行きすぎた思想統制が、皮肉にも、かえって敗戦後の日本人の思想的混乱と、国民精神の喪失をまねいた重大な原因になったと信ずる。それはまさしく、『過ぎたるは及ばざるにしかず』という感がふかい。たとえば、米英的民主主義(デモクラシー)を全面的に否定した文部省制定の『皇国史観』を、敗戦後、日本政府みずから、たちまちホゴ紙のごとく放棄して、占領軍の命令のままに、国民教育制度を根本的に改変し、さらに民主主義を鼓吹、普及するために、日本の歴史の書き変え作業まで、意のままに追従してきた文部省官僚が、いまや、再び保守反動の逆コースにのり、歴史教科書の検定騒動を起こしつつあることは、なんとしても醜悪な不手ぎわではないか? くどいようであるが、私は戦史家として、太平洋戦争における軍国日本の敗北、降伏は、その武力戦の敗北による物的損失よりも、その思想戦の敗北による精神的損失の方がはるかに重大であり、しかも現在から遠い将来にわたり、我々の子孫代々にまで深甚な影響をおよぼすであろう、と心配している。なぜなら、国家の物的損害は、早急に経済力によって回復されるが、国民のうしなわれた民族精神は、けっして容易に取りもどすことができないからだ。我々日本人は、一般に、つごうの悪いことは忘れやすく、また、にがい教訓を学び、きびしい忠言に耳をかすことを好まないようだ。しかし、太平洋戦争の開戦から敗戦までの暗い真相を、できるだけ率直に、なるべく相異する見解も公正に取り上げて、国民教育のため、歴史教科書に収載することは民主主義の教育上、もっとも望ましいことである。たとえば、昭和四十一年度用の中学、高校歴史教科書にたいする文部省検定では、満州事変――日中戦争(支那事変)――太平洋戦争の記述、説明について、つぎのような逆コース的方針が、明白に実施されたと新聞報道されて反響をよんだことがある。
「 (一)『皇国史観』(絶対天皇制と一君万民を国体の精華とみなす)の復活と、十五年戦争の正当化と光栄化。
(二)太平洋戦争の肯定と米、英、蘭、中国(ABCD)の、対日包囲陣の日本圧迫を戦争原因とみなす。
(三)天皇神話の重視。
(四)戦後の新憲法の平和尊重と戦争放棄の精神、規定に対する逆行。
(五)戦争観の国家統制の危険。
(六)日本人の立場で愛国的に書くことの強調。
(七)検定から検閲へ。 」
この新検定歴史教科書の実例をみると、『戦争の暗い面を強調しすぎるからいもっと明るい面を出すように』とにいう文部省側の指示によって、これまで、長らく使用された広島の原爆キノコ雲の歴史的写真や、広島のいたましい廃墟の実況写真が、多くの教科書から自発的(?)に削除され、その代わりに、『遺児をはげます東条首相』の写真が新しく登場した。また、旧版で使われた『勤労動員の女学生の群れ』とか、『配給を受けるモンペ姿の家庭の主婦たち』とか、『強制疎開で、家財を運び出す住民たち』といったような、決戦下の国民生活の光景写真まで、遠慮して、いっせいに姿を消したといわれる。これでは、いわゆる反戦的な左翼学者たらずとも、中正穏健な歴史学者たちが、みんな怒るのもムリはないだろう。なぜなら、戦争というものは、古今東西を通じて、つねに残酷であり、きわめて非人道的な暗いものであるからだ。とくに世界史上、人類最初の原爆被災国民として、日本人の平和護持の悲願を、次代の国民へ強くアピールするために、各教科書は、太平洋戦争をもっと大きく真剣に取り上げて、戦争の暗い場面と、残酷な正体を十分に知らせ、しかも平易に説明、反省すべきであると思う。そして、軍国日本が敗戦によってはじめて巨大な軍備を放棄して丸腰になり、これまで『菊のカーテン』の奥にかくれて、『現御神』とおがみ奉られていた天皇か、みずからその非近代的な神格を否定して『人間宣言』を行ない、主権者たる国民大衆のまえに、おごそかに、日本の民主化と、平和保持の決意を誓ったことも、ぜひ教科書にのせて、後世のために明記せねばならない、と私は信ずる。またもう一つ重大な点は、戦後はじめて東京裁判、その他で公表された、極秘の記録や貴重な手記(元内大臣木戸幸一供述書および『木戸日記』、元首相近衛文麿著『平和への努力』、元侍従武官長本庄繁陸軍大将の覚書、元国務相、情報局総裁下村海南博士著『終戦秘史』その他)によって、開戦前に天皇は平和を求めて大いに気をもんでいたが、その大元帥たる統帥大権を発動して、断固として太平洋戦争を押しとどめることができなかった真相を、はっきりと教科書に記入すべきである。それは軍国日本にとって、けっして都合の悪いことではなくて、むしろ天皇自身にとって、名誉ある平和への切望と、戦争回避の努力を、日本の現代史上に永く銘記するものだ、と私は思う。太平洋戦争の開戦決断をめぐり、天皇の立場はきわめて微妙であり、またその責任は重大であった。前記の信頼すべき記録・資料によると、天皇は二・二六事件と支那事変以来、これまで、言行不一致とウソの多い軍部(陸軍をさす)にも統帥部にも、再三、不信の念を表明し、いつも戦争反対と、対米英協調と、平和愛好の態度をとってはいたが、ただひとり、皇居の奥深く苦慮するばかりで、はなはだ遠慮がちであったようだ。結局、神格化された絶対天皇の大権はかえって形式化し制約されて、消極的なものになり、国家百年の大計のために、戦争を主張する強大な軍部と右翼、国家主義勢力の前には、天皇個人は意外にもきわめて孤独で微力な、気の毒なロボット的存在になっていた――というのが、内外の歴史家の定説である。せめて天皇が開戦直前、昭和十六年九月六日の御前会議の席上で、戦争決意の重大決定が行なわれたとき、列席した政府、統帥部の最高責任者たちのまえで、『四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世に、などあだ波の立ちさわぐらん』という明治天皇の御製を朗読して、平和愛好の意思表示をしたのが、悲しい最後の抵抗であった――ともいわれている。要するに、天皇自身の善意と、性格の弱さ(東京裁判のキーナン首席検事の言葉)と、軍部と側近が手をむすんだ主戦論の重圧が、ついに、孤独な天皇の、平和への悲願を裏切って、はじめから勝算のすくない戦争へ、軍国日本の突入を勅許したというわけである。それにつけても、太平洋戦争の実体を正しく直視するために、すでに我々日本国民が、忘れかけようとしている、『悪夢のような古証文』のごとき宣戦の詔書(Y-5)を、あらためて読みなおしてみよう。それは前述の『皇国史観』の、神がかりの発想と、むずかしい美辞麗句の羅列で、今日の若い世代には到底理解できそうもないが、軍国日本の対米英蘭開戦の理由と、目的とを明らかにしている点では、やはり太平洋戦争にかんする日本側の、もっとも重要な歴史的ドキュメントの一つである。 
4 勝算なき戦いへの契機

 

今日の時点から太平洋戦争の起因、経過、敗因をきびしく検討することは、当時の政府・軍部の主要な戦争指導者にたいして、彼らの人知れぬ心痛を無視した、いわゆる、「後(あと)ヂエ」の結果論議におちいり、日本人として不公平である、という意見を旧軍人から聞くが、私は一日本の戦史家として、けっしてこのような意見を無視するものではない。開戦直前の和戦の決定する御前会議にせよ、政府と軍内部の深刻なジレンマについては、戦後はじめて発表された、大本営と陸軍統帥部の極秘記録によって、いまでは日本人の間に、よく理解されており、私もその運命的な開戦の決断が、決してなまやさしいものではなかったと認識している。だが、いかに祖国日本のためによかれかし、と確信して、太平洋戦争の重大決断と戦争準備に精根をつくしたにせよ、敗戦の結果がもたらした、果てしなき犠牲と、物心両面の重大な損失については、責任を負わねばならぬと思う。戦時中に、その要職にあった旧軍人たちは、天皇に対してもまた、国民に対しても、戦争の指導、判断の重大な錯誤について、『われ誤てり』と、いさぎよくカブトを脱いで、沈黙を守ることこそ、『さすがは日本武士道の典型』と、戦後も国民のひそかな敬仰と同情を集めたことであろう。私は日本人として、終戦直後に重大責任を感じて自決した阿南陸相、大西中将、本庄大将、田中静壱(しずいち)大将、杉山元帥、吉本貞一中将その他の軍人にたいして、今日なお深い哀悼(あいとう)と共感を禁じえない。そういう意味から、太平洋戦争の神話や伝統を打破して、その歴史的意義と、日本人の子孫代々に伝える偉大な遺産として、公正に評価するためには、今日こそまさに、内外のあらゆる権威ある、貴重なドキュメント資料が出そろった絶好の機会であるといえよう。太平洋戦争の開戦に先立ち、はたして軍国日本の指導者たちは、『日本はかならず勝つ』と天皇のまえで、また神に誓って、はっきりと明言することができたであろうか? また、もし天皇自身が戦後に、しきりに伝えられた(とくに東京裁判で、東条首相が“天皇に責任なし”と熱弁をふるったように)ごとく、戦争反対と平和愛好の熱意があったならば、なぜ、神格化された天皇の、無限大の絶対大権を発動(終戦の聖断のように)して、軍内部の強硬主戦派を断固として押さえつけ、あくまで開戦を回避することができなかったか。このような重大な疑問は、今日のいわゆる、「後ヂエ」から発せられたものである。したがって、開戦直前の緊迫した国内の雰囲気を正しく理解しなければ、我々が、軽率に天皇の優柔不断を怪しむことは失礼である。だが一方、当時の陸海軍最高首脳部が和戦の決断にたいする自己責任を恐れて、陸軍側では、『これは海軍の決意ひとつである』といえば、海軍側は、『それは海軍が独自に決定すべきことでなく、すべて総理(近衛公)に一任したし』と応じて深刻に対立するしまつだった。これは、当時の統帥部が、米英を相手に、けっして即戦即決の勝算がなかったことを物語っているものである。とくに山本五十六元帥は、陸軍の独走による日独伊軍事同盟に強く反対して、日米開戦を極力、回避しようと努力した人であった。しかし、陸軍側より、『海軍の決意いかん』と、ふくみのある申入れを受けた以上は、もはや国家の運命を、戦争によって打開するよりほかに、海軍軍人としては、まったく策なし、と覚悟したのであろう。
「 『それは、是非やれといわれれば、はじめの半年か、一年間は、大いにあばれてご覧に入れる。しかし、二年、三年となれば、まったく確信がもてない。三国条約が成立したのは致しかたないが、かくなりし上は、日米戦争を回避するよう極力、ご努力を願いたい』 」
と、山本元帥は、奇しくも開戦一年三ヵ月前の、日独伊三国同盟調印直後に、当時の近衛首相に申入れていた。また、開戦直前の、十一月一日の大本営政府連絡会議の席上で、当時の海軍軍令部総長・永野修身大将は、
「 『いま戦争をやらずに、三年後にやるよりも、いまやって三年後の状態を考えると、いまやる方が戦争はやりやすいといえる。 それは、必要な地盤が取ってあるからだ。(いつ戦争をしたら勝てるか――という質問にたいして)、それはいまだ! 戦機は後には来ない!』 」
と、語気も強く発言している。また、同席した陸軍参謀総長・杉山大将も、
「 『戦機はいまなり。陸軍作戦は、海軍の海上交通確保とともに、占領地確保に自信あり』 」
と、開戦必至を主張した。だが、東郷茂徳(しげのり)外相は、ただひとり、
「 『数年もさきの戦争のことは不明なるにつき、決心しかねるが、このさい、あくまで自重して戦争を回避し、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)すべきである』 」
と、堂々と反対した。要するに軍国日本は、『長期戦になることは、止むをえないが、しかし、持久不敗の態勢を確立して勝機をつかむ』という、いわば『神国不敗』の迷信を信じて、昭和十六年十二月八日、パールハーバー奇襲による、対米、英、蘭開戦に踏み切ったわけである。それは、アメリカの著名な戦史家サミュエル・モリソン博士の言葉によれば、『日本は敗戦の第一歩を踏み出した』のであったといえよう。 
V 太平洋戦争の前夜

 

1 昭和十六年の国内情勢
昭和十六年(一九四一年)は日米開戦の年だ。それは、すでに半世紀近くもむかしのことであるから、戦後に育った若い世代の人々が、いくら当時の日本の大新聞の古い切り抜き記事や、縮刷版を手がかりにして、この開戦の年の実相と、ムードを知ろうとこころみても、おそらく、無益な骨折りに終わるであろう。なぜなら、その当時の軍国日本は、すでに戦時体制をますます強化して、国民精神総動員が政治、経済、社会の各方面から、市町村の各家庭にまで徹底的に実施されていたから、もはや対米英戦争はいつ起こるかも予測できないほど、政府と軍部は緊迫感にみなぎっていたからだ。いやしくも、反戦的な言動や平和愛好の気分は、五年越しの『支那事変』(日中戦争)の完全遂行のために危険、有害であるとみなされて、今日では到底想像もできないような、厳重な『思想、言論統制』と『新聞検閲』が励行されていたから、まさに日本国民たるものは、すべて絶対的神聖な天皇の有難い『御稜威(みいつ)』(天皇の威光と仁徳)の下に、欣然と『一億総決起』の大覚悟と勇猛心が要請されていた。それで毎日の新聞は、中央紙も、地方紙も、いっせい、一律に軍部の主戦論と、国粋右翼の好戦主義を強く反映し、内閣情報局の監督と指導による、反米英調の強烈な軍国的色彩がおどろくほど目立ってきた。いわゆる、皇国史観にもとづいた米英撃滅の思想的攻勢か、全国の新聞論説にも、雑誌記事にも、恐ろしい威力をふるっていたものであり、いかにも国民大衆が熱狂し、軍部を支持していたような錯覚をあたえやすい。しかし、これは、あくまで新聞論調や記事面の表面に現われた強がり現象であって、一般大衆のまったく知らない日本政府の奥座敷では、軍部(とくに海軍側)の自重派をまじえて、天皇自身の穏健な希望(日本の皇室が明治、大正、昭和三代を通じて親米英的な伝統が強かったことは、昭和軍部強硬派の反米英主義と皮肉な対照を示していた)にそって、ひそかに戦争回避と危機打開のため、最後の努力が、大いに行なわれたものであった。その一つの努力が、野村吉三郎海軍大将の駐米大使任命であった。それは、いかに軍部の強硬派といえども、世界一の富強を誇る米、英両国を相手にして、日本が独力で戦争を起こしてかならず勝つという自信と成算を持つものは、だれもいなかったからであろう。軍部も内閣情報局長も、口先では、国民大衆の前で、いかに『米英撃滅』の大言壮語を勇ましくブッてみても、五年越しの『支那事変』さえ、軍部の思う通りには到底片づかず、ますますドロ沼化して、長期消耗戦の悪あがきを露呈しつつあった当時だけに、軍首脳部の本音はむしろ、第二次大戦初期の、独伊両軍の圧倒的勝利の余勢に便乗して、米英のいわゆるアングロ・アメリカン世界支配体勢の打破をめざした和戦両様のかまえで、『支那事変』の収拾について、重慶政権(蒋介石主席)支持、援助から、手を引かせるように、米英ブラッフ(強がりを誇示しておどかす)をこころみたのだろう。軍部とは、かならずしも折り合いのよくなかった枢軸派の松岡洋右(ようすけ)外相のねらいも、またそのあたりにあったようだ。その意味から、昭和十六年一月二十三日、横浜出帆の鎌倉丸で、野村新駐米大使が波高き太平洋を渡り、はるばる赴任の途についたとき、軍部のひそかな期待は、複雑で切実なものがあった。とくに海軍側では、かがやかしい経歴を持つ海軍の長老が、素人外交に利用されたあげく、最悪の事態に、万一おちいった場合は、全責任を負わされるおそれがあるため、野村大将個人に傷がつかないように心配する向きが多かったようだ。それだけに全海軍の希望をこめて、戦争回避のため、ぜひとも野村大使の使命達成を願望する空気が部内に高まっていたようである。しかし、陸軍側の少壮幕僚のなかには、
「 『いまさら、親米派の海軍大将を駐米大使に任命して、ワシントン政府と外交交渉をしてみたところで、日本の弱腰をただ見すかされるだけで、かえって、支那事変の完遂に有害な影響をあたえ、また国民士気にも反戦、和平の悪影響をおよぼす。もはや、日米交渉はけっして期待されず、ただ開戦準備の時をかせぐのみ……』 」
と、豪語する連中も少なくなかった。要するに、日、独、伊三国軍事同盟にもとづいて、日本はおそかれ早かれ、第二次大戦に突入して、米英と対決して東亜百年の禍根を断ち、聖戦の大使命を実現すべきである―― というのが、彼らの革新的主張であった。平和外交を職分とする外務省の若手外交官のなかにさえ、当時このような革新派、あるいは枢軸派と呼ばれた強硬分子がいたことを忘れてはなるまい。彼らは軍部の主張に同調して、従来の米英追従政策の打破を要望していた。このような陸、海軍間の矛盾した対米交渉の根本的認識について、当時の第二次近衛内閣は、いわば捨て身の決断力に欠けていたので、つねに優柔不断で軍部の独走を押さえ切れず、また閣内でも、近衛首相と松岡外相の反目、対立など日にあまるものがあった。そのせいか、野村大使がワシントンへ赴任する直前に、同じ海軍出身で、海軍兵学校で三期後輩に当たる前首相・米内光政(よないみつまさ)大将を訪ねたとき、米内大将は、
「 『あなたが、この大任を受諾されたことは、感謝にたえません。ただし、現下の国内情勢は憂慮すべきものがあり、自分としては、あなたが渡米中に、二階に上がって梯子を取り上げられるような事態に立ちいたることを心配しています』 」
と、野村大使の手を固く握って語ったといわれる。確かに野村大使が、戦争回避の重大使命をおびて赴任したとき、日本国内は政情が険悪で、波はすでに高く、風雲は急を告げて、その前途は、けっして明るいものではなかった。陸軍の横車を身にしみて痛感していた米内前首相の忠言は、結局、その後の日米会談の進行につれて、果然、的中することになり、野村大使の努力にまず、日本国内から水をさされるような憂き目を見たのだ。
(注、米内光政海軍大将は明治十三年、岩手県生まれ。明治三十四年、海兵卒。佐世保鎮守府長官、連合艦隊司令長官、海相、軍事参議官を歴任した。海軍部内の清廉硬骨な反枢軸派の重鎮で戦争反対、回避の主張を堅持し、宮中方面の信望も厚かった。昭和十五年一月に米内内閣の首班となったが、汪精衛政権成立をめぐり、支那事変の処理について陸軍側と折り合い悪く、そのために彼のめざした親米英外交は行き詰まり、内外の難局に直面したまま政治力不足により、同年七月、あえなく総辞職した。その直後に、いわゆる軍部の総意に便乗した第二次近衛内閣が出現した) 
2 野村大使の米国上陸第一歩

 

この当時、私は朝日新聞ニューヨーク特派員として、野村大使よりも数ヵ月早く太平洋を渡り、その途中で平和的な美しいハワイの真珠湾軍港を視察し、またハワイ地方と米本土西岸のサンフランシスコ、ロサンジェルス両市方面の在米邦人一世、二世の状況を現地調査して、いわゆる、日米危機の実態を、太平洋の向こう側から熱心に観察していた。そして、野村大使の横浜出発が、予定よりもだいぶおくれて手間どっていた間に、私は隣邦のメキシコへ足をのばして、首都メキシコ・シチーで、カマチョ新大統領の右腕として知られたパディーヤ外相と特別会見して、その記事を本社へ打電していた。歌と踊りの、メキシコの異国情緒を、たっぷり楽しみながら、私が数日間を仕事と闘牛見物などでいそがしくすごしていたとき、本社から『野村大使、本日出発した』という電報をホテルで受け取って、にわかに緊張したし、また大いに元気づいた。それは、『もしも野村大使が出発を取り止めたら、日米関係は、戦争の心配があるが、もし出発したら、日米会談は有望で戦争の危機は避けられる』というのが、その当時の十数万の、在米邦人の一致した希望的観測であったからだ。私は、数日後にメキシコに別れを惜しんで、飛行機でメキシコ・シチーよりロサンジェルス経由で、サンフランシスコに舞いもどり、野村大使を迎える仕度をととのえた。それは野村大使一行に、ただ一人の日本人記者として特別参加し、同じ特別急行列車でシカゴ経由、ワシントンまで同行するためであった。それは、日米開戦の年のはじめの、私にとっては、永久に忘れられない思い出のひとつとなった。(当時、サンフランシスコには、日本の大新聞社も特派員を常駐させず、地元の邦字紙の記者を通信員として特約し、何かあるたびに臨時ニュースを打電させた) それで、東京の本社から派遣された正式の新聞特派員として、はるばる米国に赴任した野村大使を、サンフランシスコ港に出迎えて、長文の会見記事を綴って、打電、報道したのは、私だけであった。それは、太平洋戦争の前夜に関する、貴重な歴史的記録の一つとして、たいへん興味ぶかいものであるから、つぎにその一部分を私の手許のメモと、当時の東京朝日新聞の紙面より転載して紹介しよう。私が戦後の今日でもまだ生々しく記憶している点は、その当時には日米戦争の恐怖と懸念は、米国では現実的なものではなくて、『いくら日米関係が悪化してもまさか戦争にはなるまい』と米国人は、誰でも常識的に楽観していたようだ。すなわち、昭和十六年初頭の時点では、物資の不足した日本国内では、きびしい戦時体制下に、物情が騒然としていたが、さすがは世界一の富強をほこる米国では万事、ゆったりとしてコセコセせず、とくに米国の西岸最大の港都として、長年、日米貿易の繁栄に依存していたサンフランシスコ市の各界有力者と市民大衆は、衷心より『太平洋の平和』を願望して、野村大使の着任を明るい表情で歓迎したものだった。また米海軍も、この遠来の提督大使を親しい儀礼をもって迎えた。
昭和十六年二月六日、サンフランシスコにて―― 太平洋の危機に重き使命を帯びて赴任する新駐米大使野村吉三郎大将は、二月六日午前九時入港の鎌倉丸で、多数の在留邦人の感激的出迎えを受けながら、元気よくサンフランシスコに上陸第一歩を印した。この朝、未明に、アメリカ駆逐艦『キング』『ローレンス』二隻が港外三十五マイルの沖合いに野村大使を迎えて敬意を表し、やがて金門湾(ゴールデン・ゲート)の入口に近づくとプレディシオの要塞から、殷々(いんいん)たる十九発の礼砲が発射され、劇的光景を呈した。
前夜来の濃霧は名残りなく晴れて、サンサンたる陽光が青き空と海に輝き、いかにも新大使を歓迎するようだ。私も薄暗いうちから、日本郵船会社の埠頭に出掛けてみると、各新聞社の米人記者とカメラマン、それにニュース映画の連中がじつに六、七十人もすでに詰めかけてたいへんな騒ぎだ。そこへ河崎総領事代理をはじめ、百名以上の在留邦人官民代表が集まったので、大きな二隻のランチも、超満員だ。『過去五十年、日本から多くの大使が来たが、こんな盛大な出迎えを受げたものはない』とは、在留同胞の古老の感激した話である。午前八時に検疫が終わると、米人記者団を先頭に、一同は鎌倉丸になだれのように乗り込んだが、巨体の野村大使はグレーの背広服にくっろいだようすで、二コニコ笑いながら、みんなと愛想よく握手を交わし、少しも長い船旅の疲れを見せない。この数日来の冬の荒天で、海はだいぶ荒れて、顧問役の司行り若杉公使など、すっかり弱っていたが、野村大使は、さすが海軍で鍛えた提督大使らしく元気よく、ただちに記者団の包囲の中で、悠然と煙草をくゆらせながら、まず別項の声明書を発表した後、自由質問にうつった。米人記者のヤンキー流の不遠慮な質問は、『アドミラル、日米関係は絶望だと思うがどうか?』と詰め寄れば、野村大使は相変わらず童顔をほころばせて、通訳もぬきにして、少しなまりの強い流暢な英語で、『私は日米関係の前途に大きな希望を持っている。その希望を抱いて、これからワシントンに赴くのだ』と、なかなか素人放れのした名大使ぶりだ。
「 問『提督は、ルーズベルト大統領を知っておられるか?』
答『私が、一九一五年(大正四年)のはじめより一九一八年(大正七年)の秋まで、ワシントンで海軍武官をしていたとき、ルーズベルト氏は海軍次官であったから、よく知っている。このサンフランシスコには、一九二九年(昭和四年)に、練習艦隊司令官として来たので懐かしい』
問『日米戦争について意見は?』
答『私は日米間の戦争など、いまだかって考えたこともない。いま私の考えていることは、ワシントンに赴いて日米関係を改善することだ。戦争など、到底考えられないことだよ』
問『では、日米関係の改善は可能なりや? それならば、その理由は?』
答『日米関係を改善することは、私の信念である。それは理由などを超越した断固たる信念である。私はこの信念を持って太平洋を越え、いまからワシントンへ向かうのだ』
問『日本国民の対米感情は?』
答『わが国民は全体からみて、日米両国の友好親善を望んでいるよ』
問『シンガポールは、東亜新秩序の中に含まれるや?』
答『そんなバカなことはあるまい。現に、シンガポールは英国の海軍根拠地ではないか! 蘭印(オランダ領インド諸島)についても、いまわが国は堂々と、通商使節を派遣して交渉している。目的は、ただ貿易の増進にほかならぬ』 」
かくて、米人記者団の包囲線を、みごとに突破した野村大使は、今度は新聞カメラ班と、ニュース映画陣の二重包囲を受けたが、悠々たる態度で、たくさんのマイクの前で英語のスピーチを二分間ばかりやってのけて人気を博した。さすが人なつっこいヤンキー連は、だれも野村さんを『大使(アムバセダー)』とか『閣下(エクセレンシー)』とは呼ばず、きわめて親しそうに『提督』と敬称ぬきで呼んでいたのは面白い。 (中略) 上陸後、午後から野村大使は答礼の意味で、陸軍司令官デ・ウイット中将、海軍管区司令官ヘップバーン少将、サンフランシスコ市長ロッシー氏らを訪問して歓談した。また同夜、市内の日本人倶楽部で在留邦人団体合同主催の大歓迎会が開かれる。 (後略) 
3 評判がよかった提督大使

 

さすがに米国は、『新聞と言論の自由』を、なによりも尊重する民主主義の国だけあって、たとえワシントン政府が、いかに刻々悪化する欧州戦局と国際情勢について、反日独伊枢軸の政策を強調しても、『太平洋の平和』を熱望する米国西岸地方、とくにサンフランシスコ、ロサンジェルス方面の新聞論調と世論は、意外なくらい日本にたいして友好的であり、とくに野村大使の赴任を、『平和の使節来たる』と呼んで大いに歓迎した事実を、私は日本人記者として、現地で目のあたりにして忘れることかできない。それで当時の私の打電した記事を、もう少しつぎに引用して読者諸君の参考に供したい。それは後述するように、ヒトラー憎悪とナチス打倒と、反枢軸熱に燃え立つ戦時的色彩の強烈な、首都ワシントンの雰囲気と新聞論調とは、まったく『これでも同じ米国の新聞であろうか?』とおどろくほど、相反して不思議な対照を示していたからだ。しかし、よく考えてみると、当時の軍国日本のような厳重な新聞、言論統制と暗い検閲で規正された新聞界とはちがって、ルーズベルト大統領の対英ソ軍事援助反対、参戦反対、徴兵反対と、なんでも自由に堂々と政府を非難、攻撃できたアメリカ新聞界なればこそ、広い国内で東部と西部で、米国民の対日観がいろいろ異なっていたのは当然であったろう。
「 野村大使、大いに笑う――米紙鳴物入りの歓迎振り (当時の東京朝日新聞の見出しによる)
昭和十六年二月七日、サンフランシスコにて――二月六日、米国に上陸第一歩を印した新駐米大使野村吉三郎大将は、その堂々たる米人にひけを取らぬ体格と、人なつこい鷹揚な態度が非常に好感をあたえたとみえて、サンフランシスコの各新聞は、いっせいに大使の写真を、驚くほど大きく第一面に掲げ、いずれも二百行ないし三百行の長文の会見記事を、記者の署名入りで派手に掲載している。
まず、六日付夕刊では、『コール・ブレティン』紙が、第一面の三分の一ほどのズバ抜けて大きな写真をのせて、その大見出しは、「新しき日本の使節、サンフランシスコで歓迎さる。彼は平和を予見す、日米関係は決して望みなきにあらず、いな有望なり」とあった。
また、有力なスクリップス・ハワード系(全米チェーン)の『サンフランシスコ・ニュース』紙は、野村大使の大クローズ・アップ写真の見出しに、『私は偉大なる希望を抱く』と記して、大使の人物と経歴を詳細に紹介している。
つぎに七日付の朝刊では、『サンフランシスコ・クロニクル』紙が、非常に友好的な筆致で、『日本の使節野村提督、平和の希望を抱いて着任す』と大見出しの下に、つぎのように論じている。
『野村提督は偉大なるアメリカの友である。そのすばらしい体格は六フィート豊かで、体重は百九十ポンドである。六日午後、第四軍司令官ジョン・デ・ウィッ卜中将の案内で、野村大使はプレシディオ兵営を視察し、歩兵第三十連隊を閲兵せり』
また、『サンフランシスコ・エキザミナー』紙は、野村大使がキワドイ質問をたくみにそらしてゆくのを、皮肉まじりで、『野村提督は、みずから外交の素人と称しているが、なかなかどうして立派な外交官ぶりである。
なにを訊ねても、肝心なところは豪快にハッハッハッと哄笑してゴマ化してしまう』と、大々的に書き立てている。 」
サンフランシスコの新聞界では、日本人でこんなに大きく書き立てられたのは、じつに一九二一年(大正十年)のワシントンの軍縮会議に出席するため渡米した日本代表(日本全権徳川家達公、加藤友三郎海軍大将)一行以来はじめてのことである、といっている。また、七日午後には、サンフランシスコ第一の社交クラブであるボヘミアン・クラブで、米国西岸一流の有力者と名士を網羅した、商工会議所と、外国貿易協会共同主催の野村大使歓迎午餐会が盛大に開かれた。出席者は商工会議所会頭パース氏。市長ロッシー氏、陸軍司令官デ・ウィッ卜中将、海軍司令官へップバーン少将以下百数十名で、いずれも野村大使の平和使命達成を祈って乾杯した。とくに、パース氏は一同を代表して、
「 『サンフランシスコの繁栄は太平洋の平和にあり、我々は評論家連中のいわゆる、「すでに手遅れだ」という言葉を信じない。なぜならば我々は今ここに、閣下のごとき日米親善に努力する偉大な、理解のある友を見出すからである』 」
と歓迎の辞を述べた。これに応えて大使は力強い口調で、
「 『いま貴下は、サンフランシスコの繁栄は太平洋の平和にありと述べられたが、太平洋の平和は、ただサンフランシスコの繁栄の重要な要素であるのみならず、日米両国の繁栄の重要な要素である。さらに我々は実際に、全人類の平和を守護する義務がある。この狂瀾怒濤時代において、平和達成は日米両国民の非常な努力に待つのみであるが、我々はここに、微力を尽くして努力する覚悟である』 」
と述べて、満場の喝采を博した。このように野村大使は、米国上陸第一歩のサンフランシスコ市では、予想外に日米関係者多数から熱烈な歓迎をうけて大いに感動したようすであり、それらの歓迎会に同席した私もまったく肩身の広い思いがして、『日米関係はまだまだ大丈夫である』という楽観的気分がわき上がった。ところが、太平洋岸のサンフランシスコから、はるか数千マイルもはなれた東部地方、とくに首都ワシントンの空気はガラリと一変していた。私は野村大使一行とともに、最新式流線型特急に同車してシカゴ経由、ワシントン入りをして冷厳な現実に驚いた。それはサンフランシスコの熱烈な歓迎が、シカゴ(列車乗り換えのため途中下車して、ホテルでしばらく休憩したが、インタビューにやって来た米人記者はわずか数名だった)では無関心に変わり、さらにワシントンでは、冷やかな敵意に変ったのだ! この太平洋戦争直前の歴史的な一年間の、米国の政治的気候と社会的雰囲気については、これまで日本側の戦史、戦記類には一切、取り上げられていないようであるから、その当時の私の古い手記から、つぎの一節を引用、紹介しておきたい。これは日米戦争への道の、ささやかな歴史の指標となるものだ。
「 『蒼茫たる太平洋を一望に眺める港都サンフランシスコ市のノップ・ヒルの丘の上に聳える古めかしいフェアモント・ホテルの同じ五階に、私は野村大使一行と部屋をわかち、またモダン高層建築のマータ・ホプキンス・ホテルの夜会に、あるいは古風なボヘミアン・クラブの歓迎宴に、私もまた招かれて出席して、いかにも力強く頼もしい六十三歳の老提督大使の巨姿と人気に深く印象づけられた。二月八日夕、サンフランシスコ対岸のオークランド発の流線型特急「サンフランシスコ市」号は、太平洋の平和の希望をのせて東へ発進したが、町深きロッキー山麓のオグデン(ユタ州)でもシャイアン(ワイオミング州)でも、途中の停車駅には、かならず多数の在留邦人代表が家族を連れて、遠方よりはるばる駆けつけて出迎え、早暁や深夜にもかかわらず、野村大使に心尽くしの花束や握りずしや、果物を贈って、同胞の涙ぐましい熱誠を捧げたのであった。老大使もまた、寝る間を惜しむように、特急列車の停まるごとに服装を正して駅頭に降り立って、わずか数分間の停車の合間に、在米同胞の意気と覚悟を励まして、「日米関係はかならず好転するように全力を尽くしますから、みなさんは心配せずに、生業に精励してください」と感激をこめて応えたのであった。二月十一日、紀元節の朝、野村大使一行と共に私はワシントンに到着したが、さすがにヒトラー打倒のため、対英ソ軍事援助に懸命な米国の首都には、独伊枢軸国と結んだ軍国日本に対する冷やかな敵意が満ちていた。早朝の駅頭に出迎えたのは日本大使館幹部と、在留邦人商社代表たちとワシントン駐在の独、伊両国大使のみで、米国務省から儀典課の役人一名が姿を見せたが、新聞記者はまったく野村大使の着任を黙殺したように来なかった。太平洋沿岸地方の日米間の平和を願望する雰囲気は、ここには少しも感じられなかった。それは東亜の新秩序をめざす日本の生死を賭した闘争に対し、米国全権帝国主義の露骨な挑戦の相貌であった』 」
はたせるかな、野村大使のかがやかしい使命は、じつは暗い険悪な道であり、日米交渉は予想以上に当初から難航を覚悟せねばならなかった。その理由は、いろいろ複雑多様ではあったが、最大の難関は、すでに深刻なドロ沼化した『支那事変』(日中戦争)の処理に関する、日米両国の立場の根本的対立と、日本の政府対軍部の不統一(とくに近衛首相、松岡外相、東条陸相の三者三様の思惑と権力争いと責任回避)であった。かくてワシントン着任以来、野村大使の個人的信用と、努力と善意が、いかに涙ぐましいものであっても、米国側ではまったく強硬で譲歩する気配がなく、しかも交渉方針をめぐり、松岡外相と野村大使の間には、しだいに感情的なミゾが深まり、日米交渉の前途には、時日がたつにつれて、暗い影がただよってきたのだ。それは、いかに旧友のルーズベルト大統領の信用が厚くとも、野村個人の力では到底破れない厚い、非情な壁であった。では、野村大使は、はたして日米交渉について、本当に成算があったのであろうか? また、日米関係が刻々と悪化していた昭和十六年(一九四一年)はじめに、彼はなぜ軍人大使として、この至難な大任を引受けて渡米したのであろうか? かって野村大使が、大正四年(一九一五年)一月、在米日本大使館付海軍武官(海軍大佐)としてワシントンに着任した当時、ルーズベルト大統領は、少壮の海軍次官であったので親しく交際していたが、それ以来この両人は一体、どのような友情を持続していたのであろうか? 歴史的な日米交渉において、ルーズベルト大統領は、野村大使をいかに評価して扱っていたか? これらの日米交渉をめぐる幾多のナゾと、奇怪な軍事、外交の内幕こそ、まさに日米開戦前夜の軍国日本の秘めた矛盾と、苦悶を深刻に象徴するものであった。なお、日米開戦の年――昭和十六年の重大な歴史的意義については、つぎに掲げる一覧表を、ぜひ精読していただきたい。
昭和十六年の主なできごと――
1月 8日 陸軍が『戦陣訓』を示達す
1月11日 新聞紙等掲載制限令を公布実施す。
1月16日 全国の青少年団体を統合して、大日本青少年団結成式を挙行す。
1月28日 支那事変臨時軍事費累計百七十四億五千万円と議会で発表す。
3月 1日 教育の戦時体制化をめざして国民学校令公布。(従来の尋常小学校を、国民学校へ切り換えた)
3月 8日 野村吉三郎駐米大使がワシントンで、ハル米国務長官と日米交渉を開始す。
3月11日 米国政府は、画期的な武器貸与法を成立実施す。
3月12日 松岡洋右外相は、ソ連、独、伊三国訪問のため出発、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニと重要会談を行なう。
4月 1日 東京、大阪で米の通帳配給制実施、また生活必需物資統制令公布。
4月 6日 欧州戦線でドイツ軍がギリシア、ユーゴスラビア両国へ侵入す。
4月13日 日ソ中立条約成立。満州国と外蒙の領土保全と不可侵を日ソ両国が声明。
4月16日 野村大使とハル米国務長官の間で日米了解案が成立す。
4月20日 米国、カナダ協定成立す。
4月22日 松岡外相が欧州より帰国し、日米交渉の了解案に反対す。
4月23日 ギリシア、対独降伏。(ユーゴスラビアは四月十七日に対独降伏)
5月 6日 スターリンがソ連首相(人民委員会議長)に就任す。(それまではソ連共産党中央委員書記長)
5月10日 独副総統ルドルフ・ヘスが和平交渉のためひそかに英国へ単独飛行して、英官憲に逮捕さる。チャーチル英首相は彼を相手にせず、ヒトラーは面目を失して激怒し、ヘスを狂人とみなす。 
5月10日 国防保安法施行。
5月12日 松岡外相は日米了解案の日本側修正案にもとづく交渉開始を野村大使に訓令す。
5月27日 ルーズベルト米大統領は、無制限国家非常事態を宣言す。
6月 6日 日蘭会談決裂す。(十八日に打切り声明)
6月12日 日ソ通商協定、貿易協定成立す。
6月20日 ハル米国務長官が野村大使へ覚書(日本修正案に対する米国対案)を手交す。
6月22日 独ソ開戦(独軍が対ソ総攻撃、侵入)、英国はソ連支持を声明す。米国も二十四日にソ連支持を声明。
6月23日 南京政権主席汪精衛が来日、近衛首相と会見す。支那事変解決につき討議の上、共同声明を発表す。
7月 2日 ソ連政府は対日政策が松岡外相の訪ソ当時と変わらずと声明す。しかし、同日御前会議で、『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』をひそかに決定す。(松岡外相は対ソ開戦を主張す)
7月 7日 『関特演』(対ソ戦を想定した関東軍特別大演習)の動員令下る。これにより関東軍の総兵力は倍加して約七十万、馬匹約十四万、飛行機約六百機と記録されている。
7月16日 閣内不統一を理由に、第二次近衛内閣総辞職す。ただし近衛は、対ソ開戦と、独伊枢軸外交強化を主張する松岡外相を追放した上、七月十八日に大命再降下を受けて第三次近衛内閣成立す。
7月21日 日・仏印共同防衛協定成立し、二十八日、日本軍は南部仏印(サイゴン地区)に進駐す。
7月25日 米、英両国は日本軍の南部仏印進駐に対する報復措置として、日本の在外資産の凍結令を発布、対日経済断交す。
8月 1日 米国は対日石油輸出を完全停止す。
8月14日 ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の洋上会談により、『大西洋憲章』を発表、対独伊戦争目的、ナチス打倒、戦後の平和世界建設など八項目の米英共同宣言を行なう。(米国の対独参戦は、もはや時間の問題とみなされた)
8月28日 野村大使はルーズベルト米大統領に会見して、日米首脳会談を提唱した近衛メッセージを手交す。
9月 2日  政界の戦時体制化に即応して、翼賛議員同盟結成、三百二十六議員が参加す。
9月 6日 御前会議で対米英蘭戦争を辞せずとする『第一次帝国国策遂行要領』を決定す。
9月15日 米穀(べいこく=穀物)国家管理実施要綱を発表。
10月15日 赤色スパイ団首領ドイツ新聞記者リヒアルト・ソルゲ、元朝日新聞記者、近衛首相側近の尾崎秀実ら一味が一斉検挙さる。同日、ソ連政府はモスクワよりクイビシェフヘ移転す。
10月16日 第三次近衛内閣辞職。
10月18日 東条英機内閣成立、現役軍人が首相と陸相を兼任した軍部独裁体制が出現す。
11月 5日 御前会議で対米英蘭戦争を決意した『第二次帝国国策遂行要領』を決定す。(ただし、日米交渉が十二月一日零時までに成功すれば、武力発動を中止す)
11月 6日 野村大使と協力して最後の日米交渉に当たるため、来栖(くるす)三郎大使が東京発、香港よりパンアメリカン旅客機で渡米す。
11月10日 チャーチル英首相は日米が開戦すれば、英国も即時参戦すると演説す。
11月16日 第七十七回臨時帝国議会召集。
11月17日 ワシントンで米、英、蘭、中国四ヵ国会議開催。
11月20日 日米公式会談開始、野村、来栖両大使出席す。
11月22日 国民勤労報国協力令が公布施行さる。
11月26日 ハル米国務長官は野村、来栖両大使へ米国政府の対日回答――いわゆるハル・ノートを手交す(日本側提案の甲、乙両案とも拒否さる)。同日、米軍部はハワイ現地の陸海軍司令官に戦争警告を発す。
11月26日 南千島列島エトロフ島ヒトカップ湾に集結中のハワイ攻撃機動部隊(正規空母六隻基幹、指揮官南雲(なぐも)忠一中将=第一航空艦隊司令長官)は出港、オアフ島めざして進航す。  
12月 1日 日米会談はついに最終段階に到達し、御前会議でついに対米英開戦を決定す。
12月 8日 (米国時間では十二月七日、日曜日)日本軍はハワイ真珠湾軍港を奇襲攻撃、またマレー半島に上陸、米英両国に対して宣戦布告の詔勅下る。かくて太平洋戦争の火蓋が切られた。  
W 日米会談かくて決裂す

 

1 野村吉三郎大将未公開手記
いま私の手元には、泥史的な日米会談に関する、当時の駐米大使野村吉三郎大将の貴重な手記がある。これは、昭和三十五年十一月に、私が監修者として関係していた、日本テレビの連続ドキュメンタリー番組「日本の年輪――風雪二十年」(全百十一回)の一篇として、「日米会談」取材のために、テレビ・カメラ班数名を同行して、東京・日本橋にあるビクター本社の社長室で、野村老(当時八十三歳)と会談、録音したとき、几帳面な野村老(当時ビクター社長)が、みずから便箋数枚にメモ的に手記して、私に手渡してくれたものである。野村大将は、終戦直後に、『米国に使して――日米交渉の回顧』(昭和二十一年七月、岩波書店刊)と題する大冊の記録を刊行して、その当時のいきさつを、くわしく述べているが、しかし、戦後十五年もたっているので、その考え方も、回想の内容も、変わってきたことは当然であろう。その意味から、この私の手元に残された手記こそ、いまは亡き野村大将の、おそらく絶筆として、きわめて貴重な価値があり、興味ぶかいものであると信ずるので、ここにはじめて紹介、発表するしだいである。
「 (1)米国赴任当時(昭和十六年二月)
『私は、駐米大使の就任を一応、辞退しましたが、それは、日本が新たに日独軍事同盟を結ばんとしており、いわゆるイタリアを加えての三国同盟は、それ以前の平沼内閣で論議された防共協定を強化した三国同盟とは性質を異にし、米国の英国等援助のための参戦を阻止せんとする、すなわち戦争を制限せんとするものである。これは対米、対英関係を極端に悪化するは必至と考え、かかる国際情況をつくり上げては、自分は日米間の妥協を遂行する十分の自信なしと認めたからである。海軍の当局者は。日米戦争は避けねばならぬ、と考えていて、私がルーズベルトと個人的親善関係にあるのを好材料として、出馬をうながし、松岡外相もまた、熱心に私を推すので、とうとう就任いたしました。松岡氏との話の間では、あるいは日米戦争はアーマゲドン(世界最終の決戦場)であるとか申し、また、「君も、もはや湊川に行って然るべき時ではないか」とも言い、さらに日米戦争を避けたいが、あるいは避け得ず、私に楠木正成の役割を演ぜよとも言ったわけである。私は、けっして楽観はしていなかったが、米国の軍備情況より見て、米国も二正面戦争を避けるよう努力するであろうから、ここに活路を見出せるかも知れないと思っていた』
(2)日米交渉有望(昭和十六年三月−五月)
『ピショッブ・ウォルシュと神父ドラウト(昭和十五年十二月にひそかに来日して、近衛首相、松岡外相とも会見し、日米妥協工作に努力す)は、日米戦争は愚だと考えていた。私も同じ考えで、ギブ・アンド・テイクの常道をもって、平和の方へ方針を確定すべしだと考え、これはわが国の国利民福の上からも当然の途だと確信していた。私は、第一次大戦の間、約四年間、海軍武官として米国の国力を熟知し、また米国の歴史と、その国民性とを熟知している。私としては当然のことであり、開戦のまぎわまで、いかなる協定も戦争よりましだ、戦争は、両国間の問題を解決し得ないと、両人も申していた。私と通じる米人は、よくこれを承知しており、国務長官ハル氏の著書にも、私が平和を維持するため終始一貫、誠実をもって努力したことで「クレジッ卜」をあたえると書いている。また、評論家のデヴィッド・ローレンスなども、同様の批評を、しばしば、くりかえしている。そこでこのメリノール教派(米国のカトリック教の有力な教派)の二人の宗教家と、日本から出張した井川忠雄(元大蔵省官吏)、岩畔豪雄(当時、陸軍省軍事課長、陸軍大佐で野村大使を補佐するため特派された)の両人とが作成した平和の案を見て、大使館の公使、参事官、陸海軍の武官を加えて慎重に審議した上にて、一日、ハル長官と会見し、東京へ回訓を求めた次第である』
(3)日米交渉難航(昭和十六年六月〜十月)
『瀬踏(せぶみ)的の話は太平洋の平和を維持するための話であり、それには支那問題はつきものである。支那問題となると、撤兵問題が大問題となってくる。はじめは、防共(共産の文字は、米側にはばかって地下工作とす)、駐兵は認めねばならぬぐらいの気分であったか、先方は、だんだんと硬化してきた。そこで日本は、仏印のサイゴンまで進出したとき、経済断交となった。油が来なくなるとなれば、日本としては大問題である。このころ、近衛首相は大決心をもってルーズベルト大統領との会見を申し込んだ。当時、チャーチルと大西洋で艦上会談をやり、大酉洋憲章を作成して帰ってきたばかりのルーズベルトは、即刻八月十七日(月)に私を呼んで警告をなし、近衛との会見には、大なる色気を示した。しかし、予備会議で成案を得てから、両者会見では批准をすることを申し出て、交渉は頓挫(とんざ)をきたした』
(4)日米交渉決裂(昭和十六年十一月〜十二月)
『そのころ、私も会談が行きづまれば、しばらく中止し、私は帰朝を命ぜられてよかろうと、いちじは考えた。私は、元駐日米国大使だった米人の友人を訪問して(この人は日米戦うべからずとの信者であったが)、私は、いちじ話を中止して、世界の形勢をも見つつ、若干のときをへてから、話を再開するのも、一方法であろう。米国は民主国であるから、突然日本にたいしては戦争はしない。日本もまた、米国にたいし戦争をはじめないと思う、と私はかたった。戦後に、同氏より、「あの君の言葉は忘れない」と申して来た手紙があります。しかし、十二月七日(米国時間)に、ついに戦争がはじまった。当日、私は、午後一時に国務長官に、最後的公文を交付すべく命ぜられた。電文の翻訳、タイプ清書がおくれ、国務省に到着したのが、午後一時四十分であり、ハル長官に会ったのは、午後二時二十分であった。ハル氏は当時、すでに真珠湾攻撃の実情を知っていて、また私の持参した公文をすでに傍受、暗号解読していたらしい。私は、その公文をよく読むひまもなく持参したくらいで、真珠湾攻撃はまだ知らなかった。ハルの著者には、「野村は泰然自若としていた」と書いてあり、その後に、当時の心境を、私に問い合わせにきた新聞記者もあった。いま私は、日米親善が、太平洋の平和を保ち、日本の経済発展に、もっとも重要な基盤であると確信している。中立政策などは、過去の経験に学んでも、絶対にとり得ざるものと信ずる』 」
また、日米交渉の当時、野村大使の下で一等書記官として勤めていた私の旧友の奥村勝蔵君(戦後に外務次官、スイス大使を歴任す)は、昭和三十九年五月八日に、八十七歳で死去した野村老の追悼文の一節で、つぎのように述べていた。これもかくれた史実の断片だ。『野村さんが、近衛内閣から、駐米大使の話をはじめて持ちかけられたのは昭和十五年の夏である。松岡外相は、文字どおり三顧の礼をつくしたが、野村さんは、頑強に断わりつづけた。当時の政府の方針の下では、日米交渉はできない、とみていたからだ。ところがある日、まったく突然、これを引受けてしまった。「陛下に御心配をおかけするようなことになっては……」という声が耳にはいったからである。日本海海戦に初陣を飾った海軍大将である。まさかの時には、勝敗にかまわず、戦(いくさ)に出ねばならなかったのだ』 
2 米英討つべしの徳富蘇峰(とくとみそほう)

 

戦前と戦時をつうじて、軍国日本の国家主義的な言論の大指導者として、きわめて大きな勢力を張り、また多数の論策で国民大衆をあおりたてて、いわゆる、『米英撃滅』とか、『一億総決起』へ拍車をかけていたのは、言論報国会会長徳富蘇峰翁であった。彼は、明治、大正、昭和の三代にわたる言論人の最長老であり、その烈々たる皇室中心主義と大東亜政策は、まことに軍国調の強烈なものだった。そして、国家主義陣営の大御所として名声を高めていた。近衛内閣が、昭和十六年一月、海軍部内の米国通として知られる野村吉三郎大将を駐米大使に起用して特派したころには、すでに徳富翁の『米英討つべし』という熱弁が、日本全国にこだまするようにひびきわたっていて、もはや、時期おくれの感じさえある日米交渉の前途には、その第一歩から、すでに暗い影がただよっていた。では、米英排撃をめざした、当時の国家主義思想と論策とは、いったいどのようなものであったか? その見本として蘇峰翁の、いわゆる、『憂国の大文字』を、つぎに紹介しよう。これは、今日の若い世代の人々には、まったく理解しがたい奇怪千万な印象をあたえることだろう。
「 敗北思想――
『およそ、必勝にもっとも大切なるは、戦闘意志の熾烈(しれつ)なることである。戦争においては、いかなる場合においても、もっとも避くべきことは生(なま)ぬるいことである。ことに戦闘に対する生ぬるい根性は、一膜を隔てたる敗北思想にほかならない。世の中には、いずれ遠からず講和の時節も来るであろう。その場合には米英とも握手せねばならぬ。その時節到来をいまから準備して、必要もなきに彼らの感情を刺激するやら、彼らをして、わが国に対して怨恨を抱かしむることは、なるべく控え目にするがよしという者があるが、語を換えて言えば、どうせ喧嘩の仲直りをするから、叩くにもなるべく怪我をさせぬごとく叩けという話であって、すなわち、これは品を変えたる立派な敗北思想と言わねばならぬ。
元来、米英のわれに対する敵意は、我らが想像するほどなまやさしきものではない。彼らは、病院船と知りつつ、ことさらこれに向かって魚雷を発し、爆弾を落としたではないか。彼らはなんら戦争にゆかりのなき、わが在留国民をあたかも敵国の捕虜同様、いな、それ以上に残酷に取り扱い、ほとんどわが同胞をして死に至らしめんとし、しかも死する以上の苦痛を舐(な)めしめたではないか。現に米日親善使節と標榜して、わが国に在留したるクルー(開戦前まで日本に十年間駐在していたジョセフ・Cクルー米国大使)のごときも、いまは抗敵思想、抗日思想の宣揚を御用第一として、全国を行脚しつつ宣伝して回っているではないか。 クルー曰(いわ)く、「強大なる敵日本を打倒するには、ただ日本の軍事力のみでなく、歴史的なる日本人の民族的精神と伝統を抹殺するところまで行かねばならぬ」と。また曰く、「我らは日本の軍隊さえ殲滅すれば、日本の脅威を除去し得るがごとく速断すべきものではない。日本の脅威の抜本的除去は、日本の軍隊を絶滅したる上、歴史的なる日本の精神、伝統まで抉(えぐ)り出してしまわぬうちは、日本に勝つたということはできない」と。
これは、クルー一人の意見ではない。ルーズベルトが日本人を世界より葬り去れと言ったことは、かならずしも、単に大言壮語とのみみなすべきではない。彼らはまさしくあくまで日本を憎んでいる。また恐れている。かかる場合において、我らが彼らにたいして、何を酬ゆべきかということは多言を要しない。我らは我らの生存を擁護するために、我らを滅絶せんとする敵に向かって、一大打撃を加うるは、これは我らの祖国と祖先とに対する一大任務である』 (以下省略) 」
「 自由主義の一掃――
『わが国においては、共産主義か猛獣毒蛇よりも憎むべきことをみな知っている。しかし、自由主義がさらに恐るべきものであることには、ほとんど注意する者は少ない。されど自由主義はお玉杓子(たまじゃくし)のごとく、共産主義は蛙のごときものである。自由主義は毛虫のごとく、共産主義は蝶のごときものである。おおむね共産主義は自由主義が行き詰まったところに出できたるものであって、自由主義を歩行する者が、その関門に行き当たり、その一関を排しきたるところに、共産主義は出できたるものである。されば共産主義を杜絶せんとせば、まず自由主義に警戒を加えねばならぬ。わが国が共産主義のもっとも流行したるときは、他方において自由主義のもっとも流行したるときであった。明治末期より大正の上期を回想すれば、我らはじつに、今日でも戦慄を禁ずるあたわざるものがある。我らは単に東亜よりアングロ・サクソン人を退却せしむるばかりでなく、アングロ・サクソン人が植えつけたる自由主義を一掃せねばならぬ。自由主義、すなわち、アングロ・サクソン思想である。この思想が存在する間は久しからずして、再びアングロ・サクソン人が頭首をもたげきたることは疑いを容れない。王陽明(一四七二年〜一五二八年、支那の明代の有名な儒者、役の知行合一の説は陽明学としてわが国にも栄え、中江藤樹、熊沢蕃山などを出した)は、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と言うたが、敵の軍隊や飛行機や、戦車や魚雷やは、みなこれ山中の賊である。しかも自由主義は、すなわち心中の賊である。この賊を退治せざる以上は、東亜は決して新秩序を樹立することは出来ない』(徳富蘇峰著『必勝国民読本』)  」 
3 日本人とドイツ人

 

これが、いわゆる決戦下の、軍国日本の国民思想の中核をなす考え方であったが、このような偏狭、独善、狂気のような皇国イデオロギーは、すでに、満州事変から日中戦争(支那事変)にかけて、軍国日本の新聞、言論界を、強大な軍部の圧力を利用して、しめつけるように、刻々と圧倒しつつあったのだ。戦後の自由、民主主義の今日から回想すると、これは、まことに奇怪な、軍国主義的な思想の悪夢というほかない。だが、戦時中は、日本中の新聞も、雑誌も、すべてこのような決戦思想と、聖戦史観で埋めつくされて、『一死報国』とか、『一億玉砕』とかいった、人間性をまったく無視した、神がかりの超国家主義が、日本国民大衆を、まるでガンジガラメに重苦しく押さえつけていたのである。結局、軍国日本は、武力戦にも完全に敗れたが、思想戦にもまた見苦しく敗れ去り、いわば百八十度の思想転換と、完全な西欧デモクラシーによる洗脳を行なったわけだ。このような敗戦の重大な結果を、いったい開戦前に、日本政府と軍首脳部の中で、だれが、はたして予想したであろうか? ここに、結果論ではあるが、太平洋戦争の奇妙な誤算と、大義名分上の深刻な矛盾があることを忘れてはならない。我々日本人にとっては、忌まわしい敗戦の結果をもたらした太平洋戦争の正体と真相を、このような武力戦と並行した思想戦の観点から再検討することは(これまであまりに黙殺されてきただけに)、大いに意義があると信ずる。西ドイツでは、老練なジャーナリストのヘルマン・アイヒの著書『気味の悪いドイツ人』が大評判になったが、これは『愛されないドイツ人』と題した英語版まで出て、欧米で大論争をまぎ起こした。それは、二回の敗戦をなめたドイツ人がいっこうに、精神も根性も考え方も変わっていない点を強調した、自己反省と弁解の本であり、『我々ドイツ人は神を恐れるが、それ以外は世界中でなにも恐れるものなし』と、国会で豪語したプロシアの鉄血宰相ビスマルクの言葉が、つねにドイツ民族の精神の中に生きていて、それが世界中からドイツ人が嫌われ、憎まれ、孤立している理由である――と説いている。これに反して、我々日本人の場合は、ただ一回の敗戦の結果、しかも同一の天皇制が、形式を変えて残ったのに、幸か不幸か、日本精神も、国粋主義も、考え方も、あまりに一変し、急変してしまったのは、いったい、どういうわけなのであろうか? 皮肉にも、そのせいか、戦前にあれほど好戦国民として憎まれた日本人が、いまや世界中から『愛される日本人』として、大歓迎をうけている。そして、米英の代表的新聞は、こぞって今日の民主日本における平和愛好と、反戦感情の強さに驚いているようだ。敗戦によって、魂から思想まで、すっかり一変したらしい日本人と、敗戦によって精神も根性もいっこうに変わらないドイツ人と、はたしてどちらが幸福なのであろうか? 
4 天皇制は衣がえして残った

 

世界の注目を集めた東京裁判の判決が終った昭和二十三年十一月、大任を果たした裁判長ウイリアム・ウェップ卿(オーストラリア代表判事)は、つぎのような感想を、内外の新聞記者団にもらした。それは、彼が豪州人であるという立場から、米、英、ソ三大国の圧力に、かならずしも左右されないで、独自の厳正公平な発言をすることができたからである。日本占領行政の政策的目的から、天皇擁護を強調した米国側と対立した彼の、いわゆる少数意見は、終戦直後の天皇制存廃にかんする、内外の悪夢のような世論を反映するものとして、忘れてはなるまい。
「 『天皇の権威は、天皇が戦争を終結したとき、疑問の余地のないまでに立証された。それと同じように開戦にあたって天皇の演じた顕著な役割が、検察側から指摘されたが、それと同時に検察側は、天皇を起訴しないことを明らかにしたのである。私は天皇が開戦にさいして果たした役割にもかかわらず、その裁判を免除されたという事実は、本裁判の被告らの刑を決するにあたって、当然に考慮されなければならないと思う。天皇が平和を望んだという証拠はあるが、立憲君主制下の日本の元首として、天皇は、政府、その他からの好戦的勧告を、自己の意思に反してかも知れないが、とにかく受入れたのである。戦争開始には、天皇の権威が必要であり、もし天皇が、戦争を欲しなかったのであるならば、天皇は当然、その権威を保留すべきであった。天皇がつねに、周囲の進言にもとづいて行動しなければならなかった、という意見は証拠に反するが、またかりにそうだとしても、天皇の責任を軽減するものではない。私は、天皇が処刑されるべきであったというのではない。これは私の管轄外である。天皇が裁判を免除されたことは、疑いもなく、すべての連合国の最善の利益にもとづいて決定されたものである』 」
いっぽう、マッカーサー元帥の極秘の命令により、天皇の戦争免責、無罪論について、東京裁判の法廷で最大の努力をつづけて成功した米国側主席検察官マ元帥の最高法律顧問キーナン検事は、この判決をめぐるウェップ裁判長の談話にたいして、
「 『ウェップ裁判長は、天皇が、かならず補佐者の意見を受入れなければならなかった、ということについては証拠不十分だと思っているが、天皇が平和論者であったことは、証拠によって証明されている。その事実に、ウェップ裁判長は触れていない。もし検察側が責任ありと考えたならば、天皇は被告席に座っていたであろう』 」
と、ただちに強い語調で反駁したものだ。また、キーナン検事は、その歴史的な任務を首尾よく遂行して帰米する直前に、東京裁判の最大のヤマであり、世界注目の最大焦点であった天皇問題について重要談話を発表したが、それによると、つぎのような新しい事実が確認されて、その当時、大きな反響をまきおこした。
「 (一) 天皇制廃止を主張したソ連のスターリン首相も、結局、天皇不起訴に同意した。
(二) 最初、キーナン検事は、天皇を証人として、東京裁判法廷に召喚するつもりであった。
(三) もし天皇自身が法廷に召喚されれば、天皇にとって有利な証拠をまったく無視して、自分一人で全責任を負う決心である、とマッカーサー元帥に天皇が告げていた。
(マ元帥は、この天皇の言葉を重視して、天皇の不起訴はもちろん、不召喚をもひそかに指示したらしい) 」
この赤ら顔のデップリ肥ったキーナン検事は、日本占領中の米軍の威光をカサにきた首席検察官として時めいて、傲慢な態度を示していたので、一般に日本では、あまり評判がよくなかったようであるが、ただ天皇制支持の一点だけは、日米両国のために彼の大手柄であったようだ。彼は帰米直前に、宮中方面といわゆる生残りの重臣たちから、ひそかに深甚な感謝の意を示達されたそうであるが、彼の発表した談話の要旨は、つぎの通りであった。それは、『かくて天皇は退位もせずに居残った』という感慨が深いものだった。
「 『――天皇は、東条英機とともに戦犯容疑者として裁かれなかった。これは、戦勝諸国が政治的理由から、天皇に免罪の特典をあたえることに意見の一致をみたからである。証拠の点からみても、天皇を起訴する理由はなかった。しかし、天皇を裁判から除外したのは、連合国の政治的決定であって、この点については、ソ連のスターリン首相も、しぶしぶながら同意をあたえた。この決定は、政治的であり、検察当局のあずかり知るところではなかったが、いずれにせよ、私は首席検察官として、天皇を戦犯として起訴するだけの証拠はないと考えた。証拠の示すところによれば、天皇は、我々西欧的な考え方からすれば意志の弱い人物であった。しかし、天皇が終始、平和を望んでいたということは、はっきり証明されている。私個人としては、天皇自身の立場を説明するだけでもよいから、証人として出廷させたい、と思っていた。しかし、日本と同じように国王を戴く英国側から、そういうことは忍び難いとの反対があった。マ元帥の考えも、どちらかといえば、この英国の見解に近いものであったが、おそらくこれには、占領行政上の考慮があったものと思う。マ元帥が、私に語ったところによれば、もし天皇が証人として出廷させられたならば、天皇自身は、我々が証拠によって見出した、彼にとって有利な事実をすべて無視し、日本政府のとった行動について、みずから全責任を引受ける決心があったという。すなわち、証拠によって天皇は立憲国の元首であり、法律上また職責上、かならず側近者の補佐にもとづいて行動しなければならなかったことが証明されているが、それにもかかわらず天皇は、もし出廷させられたとしたら、このようなことを自己の弁解に用いるようなことは一切しなかったであろう』 」 
5 無条件降伏方式の大失敗

 

結局、軍国日本は太平洋戦争に敗北して、米英はじめ連合国側に無条件降伏をしたが、幸運にも連合国の主勢力たる米国側の政治的理由――とくに天皇の日本国民にたいする権威を、巧みに利用する占領行政の便宜上から、絶対天皇制は、いわゆる『位(くらい)すれども治(おさ)めず』とする民主的な象徴天皇制と衣がえをして戦後に残ったわけである。もしも米英側で、天皇制(いかなる形式にせよ)の存続を暗黙に認めて日本軍の降伏を要求していたならば、おそらく太平洋戦争は、広島、長崎両市への非人道的な原爆攻撃の大惨害をもたらす一年前(昭和十九年七月十八日、サイパン島失陥の責任を負い東条内閣が総辞職した時間をさす)か、おそくもレイテ大海戦(昭和十九年十月二十三日〜二十六日)で、わが連合艦隊が壮烈に全滅した直後か、あるいは沖繩大決戦(昭和二十年四月一日〜六月二十一日)の終了までに、降伏交渉は成立したことであろう。そうすれば、人命をあまりに軽視した特攻隊の悲劇も、B29による日本本土の残酷な焦土化もみないで、和平が実現したであろう。現在、米英の歴史家の間でも、ルーズベルトが、まず提唱して、チャーチルがこれに同調した、いわゆる『無条件降伏方式』の大戦略が、いかにドイツ国内の大規模な反ナチス抵抗運動(とくに一九四四年七月二十日の軍・民協力のヒトラー暗殺陰謀事件以後)を失望させて、無用の流血、抗戦をさらに、一年間も続行させたかについて反省、再検討を余儀なくされている。軍国日本の無用の抗戦も、やはり天皇制日本の打倒をめざした『カイロ宣言』(一九四三年十一月二十七日、カイロでルーズベルト、チャーチル、蒋介石が署名、声明す)がわざわいして、天皇制護持のみを、絶対の悲願として叫んだ狂信的な日本軍を徹底抗戦へと、ムリに追いつめて、日本軍にも日本国民にも、連合軍と同じように、莫大な犠牲者を続出させたわけだ。要するに、太平洋戦争にかぎらず、すべて戦争というものは、昔も今も、つねに開戦から終戦まで、敵味方ともに、誤算と矛盾の連続というべきであろう。いま、日米開戦の真相を追い、その内幕をさぐりながら、私は、公正で自由な戦史家として、やはり、この平凡な戦争の教訓をみとめないわけにはいかないのだ。確かに、軍国日本には、軍部の独善、独走をたしなめたり、抑制する勇気と実力と遠大な見識を備えた大政治家が、まったく欠けていたけれども、米、英、ソ三大国の三巨頭――ルーズベルトも、チャーチルもスターリンも、太平洋戦争をふくめた第二次大戦の遂行と処理については、やはり、後世の史家に、その真価を問われるような誤算とヘマをおかしていた。すなわち記録によれば、ルーズベルト大統領は、悪名高いヤルタ会談より帰米後まもなく、一九四五年(昭和二十年)四月十二日に急逝(当時六十三歳)する直前に、すでにソ連の独走によるヤルタ協定無視と冷戦の兆(きざし)を認めて心痛し、スターリンの不信を責める覚悟を、ひそかにかためていた模様である。また、第二次大戦の前半期に、孤軍奮闘中の英国の重大危機を奇蹟的に救った英雄的政治家チャーチルでさえも、この大戦こそ『不必要な戦争である』といみじくも喝破したのみならず、戦後の冷戦をむかえていち早く、『我々は戦争には勝ったが、平和に破れた』と長嘆息したものだ。またソ連では、『大祖国戦争の勝利の大指導者』として崇拝された独裁者スターリンも、その死後には、忠実な弟子のようなフルシチョフの手で、無残にも偶像の地位から引きずり下ろされて、ソ連大衆の前に、その狂乱した晩年の正体をばくろされる始末――。まことに、第二次大戦は、太平洋戦争をふくめて、敗戦国の指導者にとっても、勝利国の指導者にとっても、誤算と矛盾にみちた悔い多き戦争であった!  
X 真珠湾奇襲をめぐる黒い霧

 

1 真珠湾奇襲の意義と再評価
太平洋戦争は真珠湾で始り、東京湾で終ったといわれている。それは一九四一年(昭和十六年)十二月七日、日曜日(ハワイ時間)の朝七時五十五分、日本海軍の強力な空母機動部隊(指揮官南雲忠一中将、大型空母六隻基幹)が、ハワイの主島であるオアフ島の米太平洋艦隊基地、真珠湾軍港を、突然、大奇襲攻撃して太平洋戦争の火ぶたをきり、それから血戦死闘をかさねること三年八ヵ月後の一九四五年(昭和二十年)九月二日、日曜日(日本時間)の午前九時、東京湾内外に集結した米大艦隊の旗艦『ミズーリ』の甲板上で、日本政府および大本営各代表(重光葵外相と参謀総長梅津美治郎大将)が、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の前で『天皇および政府の命により、かつ天皇および政府の名において』降伏文書に署名して、血みどろな太平洋戦争の幕を閉じたことを意味しているのだ。おもえば開戦前から、軍国日本が世界一の富強を誇る米英両国を相手に戦っても、勝ち目は、ぜんぜんなかった。ただ日本の軍部は当時、まったくドロ沼化してぬきさしならぬ最悪状態に陥っていた支那事変(日中戦争)を、武力で打開するただ一つの、死にものぐるいの最後の方策として、いわゆる『米英撃滅』の聖戦へ、天佑神助を念じて突入したわけである。したがって、それは戦後の結果論から合理的にいえば、まことに無謀きわまる開戦決断ではあった。しかし、再三にわたる御前会議で、平和念願の天皇自身さえズルズルと戦争への道へ引きずられていったのであるから、軍国日本の悲壮な宿命として、我々国民大衆は、あきらめなければなるまい。だが、大本営が計画を立て、天皇が正式に裁可した対米、英、蘭戦争の開戦理由が、昭和十六年十二月八日付の詔書の中にいみじくも明示されたとおり、
「 『東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努カハ悉ク水泡ニ帰シ、帝国ノ存立モマタ危殆ニ瀕セリ、事スデニ此ニ至ル、帝国ハ今ヤ自存自衛ノタメ決然起ッテ一切ノ障害ヲ破砕スルノ外ナキナリ』 」
ということを、一応認めるとしても、はたして戦端を開く手段として、真珠湾奇襲が最善の策であったかどうかについては、当時、大本営の内部にさえ強い異論があったくらいであるから、戦後に米英戦史家の間で、論争の的になったのは当然である。そして、日本人にとっては、まったく耳の痛い批判だが、有力な歴史家の見解はすべて、真珠湾奇襲が戦術上では、一時的の成功をおさめたとはいえ、戦略上からも、政略上からも、バカげた大失敗であったと、痛烈にコキ下ろしている事実は、けっして負けおしみの結果論として、黙殺することはできないだろう。もちろん、開戦劈頭の真珠湾奇襲をふくめて太平洋戦争の全貌と、真相の正しい評価ということは、旧交戦各国の異なる国民感情や、国際情勢のめまぐるしい複雑怪奇な変転によって、ますます困難になっているか、さりとて日本人にとっては、『忌わしい負け戦さ』であった太平洋戦争の実相を、もはや忘れたり、あるいは知らないままですましてしまうことは、二百六十万分同胞犠牲者に対しても、申し訳ないことではないか! その意味から、私は真珠湾奇襲の諸問題を、権威ある内外の最新資料にもとづいて、徹底的に究明して、いまだに世界的論争の的になっている、いわゆる、『真珠湾の黒い霧』の正体をできるだけ明らかにしてみたいと思う。要するに、実際、太平洋戦争の発端となった真珠湾奇襲こそ、軍国目本の敗北の第一歩であり、また、『ミズーリ号への道』の起点になることを公正に認識するならば、真珠湾奇襲の歴史的意義と功罪と、再評価は太平洋戦史上で、いちばん重大な問題であると信ずる。私の長年の親友で、太平洋戦争中に米国著名の軍事記者であったロバート・シャーロッド君(太平洋戦記三部作『タラワ』『サイパン』『硫黄島』の著者、米国の雑誌王カーチス出版社副社長)は、真珠湾奇襲の歴史的意義を、米国側の観点から、つぎのように論断しているが、それは、多数の米英歴史家の共通した評価を要約したものとして、注目すべきであろう。
「 『日本軍の真珠湾攻撃は、歴史上で一国が他国にくわえた、もっとも効果的な痛撃の一つであった。軍事上から見ると、それは、じつに完全な奇襲であり、まったく赫々(かくかく)たる大成功であった。しかし、全般的な戦略としては、それは正気のさたではなかった。すなわち、わずか二時間のうちに、山本五十六元帥(当時、海軍大将)麾下の日本海軍機の数波の編隊は、それまで和戦両論が争い、世論が分裂していたアメリカ合衆国を首尾よく一致団結させてしまった。そして、全世界の鉄鋼生産の半分を独占する人口一億四千万(当時)の、アメリカ全国民の強烈な戦意と怒りを、日本に対して圧倒的に投げつけさせるにいたった。かくて軍国日本にとって、太平洋戦争の最悪の錯誤は、じつにこの開戦のときにあったのだ』 」
もちろん、日本人の立場から、このようなドライな真珠湾奇襲論にたいしては、いろいろ異議もあるであろうが、それは、後でゆっくり取り上げて検討することにして、まずつぎに、いわゆる『真珠湾の黒い霧』のナソについて、その主要なものを列挙して、読者のみなさんの研究討議の課題として提供しよう。どうか、よく考えてみていただきたい。それについては、これから、じゅんじゅんに追及、検討するつもりである。
(1)戦前からすでに、日本側の暗号電報を自由に傍受、解読して、日本軍の軍事行動を明らかに察知していた米国政府および軍部首脳が、なぜ十二月七日(米国時間、日本では十二月八日に当たる)に、あのように油断して、大惨害をこうむったのであろうか? (これが米国内の反ルーズベルト派の政治家や軍人や、歴史学者や言論人たちが、戦後にとなえた、“ルーズベルト陰謀説”の論点である)
(2)開戦の前夜――すなわち、米国時間で十二月六日――(土曜日)の夜から翌七日の朝にかけて、米軍首脳のマーシャル陸軍参謀総長と、スターク海軍作戦部長の行動には、わざと日本側の開戦行動にかんする緊急な重要情報を見ないふり、知らぬフリをする不審な点が多かった。それはなぜか? (それはルーズベルト大統領から、なにか極秘に重大な指示があったような疑惑を起こさせるに足るものだった)
(3)日本政府から、ワシントン駐在の野村吉三郎大使を通じて、開戦直前――正確には真珠湾攻撃実施の三十分前――の十二月七日午後一時に米国政府へ手交すべき『日米交渉打ち切り通告』(事実上の最後通牒)は、なぜ別表の示すように一時間二十分ちおくれて、日本が『だまし討ち』とか『犯罪的攻撃』とか『裏切り奇襲』という屈辱的な汚名を着せられたのであろうか? (真珠湾奇襲を論ずる場合、日米間の時差と日付変更の点がよく混同され、誤解されやすいので、私は興味ぶかい開戦の歴史的事実にかんする一覧表を作成したから、よく御覧をねがいたい)
●日本機動部隊のハワイ真珠湾攻撃時刻と日米交渉打ち切り通告提出時刻(予定と実際)比較表
場所     通告予定時  攻撃予定時  実際の通告時 実際の攻撃時
      1941/12/7(日曜日)
ワシントン  pm1:00    pm1:30    pm2:20    pm1:25  (米国東部標準時)
ホノルル   am7:30    am8:00    am8:50    am7:55  (ハワイ時間)
      1941/12/8(月曜日)
東京     am3:00    am3:30    am4:20    am3:25  (日本時間) 
2 戦史家モリソン博士の正論

 

●真珠湾攻撃でのアメリカの人的損失
   戦死、行方不明、戦傷死   戦傷
海軍    2,008         710
海兵隊    109          69
陸軍     218         364
一般市民    68          35
合計    2,403        1,178
〈備考〉この真珠湾攻撃による米軍死傷者の内訳、数字は戦後の一九四七年に米海軍省医務局が補正発表したものであり、また、同年に米陸軍参謀本部次長事務局報告によるものであるが、戦時中の発表数字よりだいぶ減少している。その後、一九五五年に刊行された米海軍省戦史部編『第二次大戦アメリカ海軍年表』によると、戦死=(海軍)二、〇〇四名(海兵隊) 一〇八名(陸軍)二二二名、戦傷=(海軍)九二一名(海兵隊)七五名(陸軍)三六〇名と多少の増減を記録している。
米国の歴史学者で、ベストセラーの名著『オックスフォード版アメリカ国民史』その他、数十冊の一般歴史書と、米海軍省の準公刊戦史とみなされる『第二次大戦におけるアメリカ海軍作戦史』(全十五巻)の編著者として、世界的名声の高い戦史家サミュエル・E・モリソン博士(退役米海軍少将、ハーバード大学名誉教授)は、開戦直後にハーバード大学時代より親交のあった故ルーズベルト大統領へ進言して、厖大な『海軍作戦史』の編修計画を立てて、その全責任を引受けただけに、ルーズベルト支持派であることは当然である。モリソン博士はさすがに、古今東西の歴史に精通した大歴史家にふさもしく、太平洋戦争の背景と原因を精密に調査、検討した結果、米国側にいくつも誤算と油断があった事実をみとめながらも、真珠湾奇襲はあくまで、日本側の一方的な『だまし討ち』であったと、つぎのような結論を下した。
「 『――朝の十時には、戦い(真珠湾攻撃をさす)はすでに終っていた。いちばんしんがりの敵機群は、オアフ島(ハワイ群島の主島、首府ホノルルと真珠湾軍港がある)北部の上空で集合してその母艦ヘそれぞれ帰航した。近代史上で、戦争が一方の側による、かくも殲滅的な勝利によって開始されたことは、いまだかってなかった。そしてまた人類史上で、緒戦の勝利者が、その計画しただまし討ち払たいして、最終局に、かくも高価な代償(日本の惨敗、本土荒廃、海外の全領土喪失、無条件降伏をさす)を支払ったことも決してなかった。しかし、日本軍の飛行機パイロットたちが、はたして、正しい攻撃目標にたいしてむけられたかどうかは、日本側の観点より見てさえも、相当に議論の余地がある。すなわち、彼らは、米艦隊の戦艦部隊を撃滅し、所在の機動航空兵力を抹殺したが、真珠湾軍港の恒久的な諸施設(海軍工廠、大ドック、燃料貯蔵地区をさす)を無視した。そのなかには、あまり甚大な損害をこうむらなかった諸艦艇の修理のために、おどろくほど迅速な作業をすることができる修理工場もふくまれていた。さらに彼らは、動力施設や容量一杯に充満していた、莫大な液体燃料用の「油槽地帯」を、攻撃することさえしなかった。これは、当時の米アジア艦隊司令長官トーマス・H・パート海軍大将の意見にもあるように、もしそれを損失したならば、米太平洋艦隊のこうむった損害より以上に、米軍の太平洋反攻を遅延させたであろう。かくてアメリカ合衆国海軍は、このただ一回のだまし討ちで、それ以前の二つの戦争、すなわち米西戦争と第一次世界大戦において、対敵戦闘のために失った兵員の約三倍を、わずか二時間でいっきょに喪失したのである。真珠湾攻撃による米軍、および一般市民の死傷者は、右表の通りであった』 」
また、モリソン博士は、『アメリカ陸、海、空軍が真珠湾で不意打ちをくわされたのは一体、だれの責任であるか?』という重大な問題について、一九四八年に、すでに戦史家の厳正な立場から、つぎのように述べている点は注目されるだろう。
「 『真珠湾問題を考究するものは、だれでも一定の基本的要因に留意せねばならない。まず第一に、航空母艦による航空攻撃は、あらゆる形式の攻撃中で、もっとも予知するのが困難なものである。なぜなら、たとえ大艦隊といえども、広大な大洋上では、はなはだ小さい一つの点にすぎないものであるからだ。米海軍の空母部隊は、第二次大戦中に、しばしば奇襲の成功をみることができた。たとえば、ハルゼー=ド・リットル東京空襲(昭和十七年四月十八日)は、その空母部隊が日本本土に近い洋上で日本海軍の監視艇に発見、通報されていながら、日本軍当局にとってはまったく奇襲であった。また、ハルゼー、ブラウン、シャーマン、ポウノール諸提督は、開戦後の二年間に、日本軍占領下の島々にたいして、相ついで奇襲を敢行した。さらに大戦後半の一九四四年(昭和十九年)から一九四五年にわたる間、ハルゼー提督(当時、米第三艦隊司令官)の沖縄、フィリピン、仏領インドシナ各地にたいするめざましい大空襲は、だんぜん、その不意打ちに成功した。また、一九四四年十月、ルソン島沖でミッチャー提督の指揮する米空母機動部隊と、小沢治三郎中将の指揮した日本空母機動部隊より、それぞれ発進した偵察機群は、朝から晩まで互いに必死で索敵飛行を続行しながら、ついに何物も発見することができなかった。したがって、アメリカ太平洋艦隊か、宣戦布告もなければ、また、外交関係の断絶さえもなくて、まったく対敵状態にはなかった時点にあって、日本軍のハワイ攻撃機動部隊の接近を探知しなかったことは、別に驚くには当たらないのである。しかしながら、アメリカ太平洋艦隊は、その可能性にたいしては、準備をすべきであったろう。この準備を怠ったことこそ、責任を査問する要点である』 」
要するに、モリソン博士の論点は、戦時中でも、航空母艦(複数)を基幹とした、高速機動部隊による神出鬼没のような、洋上からの航空攻撃は、一般的に予知、警戒が困難であり、いわゆる敵の奇襲を防ぐことが容易ではない。いわんや、ワシントンで、日米会談がまだ続行している時点では、真珠湾奇襲のような、『だまし討ち』を、到底予想することは、至難である。ただ万一の可能性に対処することは当然であったから、米軍側に誤算と油断の責任はあるが、しかし、ルーズベルト大統領が、日本軍の奇襲を挑発、予知していたという陰謀説はナンセンスである――というわけである。 
3 事実は小説よりも奇なり

 

戦史家モリソン博士は、真珠湾奇襲をめぐる米国政府と軍部の、意外な誤算と、油断の諸事実をつぎのように、いろいろ指摘しているが、それは、まったく古い表現ではあるが、『事実は小説よりも奇なり』と、いうほかはない。それは、まことにウソのような話ではあるが、開戦直前までルーズベルト大統領以下、政府と軍部首脳は、もちろん、ハワイ現地の陸海軍責任者までか、日本の戦力を過小評価して、南方侵略をめざす日本軍にはハワイ攻撃の余力は到底ない、と独善的に判断していたのだ。しかも半年前には、ハワイ奇襲の恐怖感が一部にはまだ残っていたが、ワシントンの日米交渉がいよいよ行きづまって、日米対決の危機がついに深刻化した秋ごろには、かえってハワイの安全感が高まり、『日本軍はタイ国、マレー、シンガポール、フィリピン、蘭領東インド方面へ進攻する恐れがあるから、とてもハワイへ攻めてくることはできない』という考え方が、支配的になったのは、じつに不思議な心理作用であった。
「 (1)開戦の年、すなわち一九四一年(昭和十六年)の前半の八ヵ月間には、ワシントンとハワイの米陸、海軍統帥部は真珠湾にたいする、敵の航空攻撃の危険について、多大の関心をはらっていたが、その年の八月以後は、この可能性が、最高責任の地位にあったすべての軍人、または文官の頭の中から、うすらいでしまったようにみえた。このことは、米陸、海軍を通じて最優秀の知謀者の一人であった、海軍諜報部長ウィルキンソン少将さえも、それに同調していたことを自認していた。すなわち、日米対決の危機が増大するにつれて、意外にもハワイの危機はうすらぎ、忘れられていったのだ。
(2)米海軍作戦部長ハロルド・スターク大将は、同年四月一日付で、全海軍管区司令官にたいして、とくに各週末(土曜日、日曜日)の時期には、敵襲にたいする警戒を厳重にすべきことを警告した。また、ノックス海軍長官とスチムソン陸軍長官も、ワシントンにいるマーシャル陸軍参謀総長とスターク海軍作戦部長も、ハワイにいるショート陸軍中将とキンメル海軍大将にたいして、それぞれ、たびたび通信連絡が交わされて、『真珠湾をめぐる敵の航空攻撃の危険にかんして起こる可能性』のある、すべての様相を詳細に検討していた。
(3)ハワイ駐屯の米陸軍航空部隊司令官マーチン准将と、米海軍航空部隊司令官ベリンジャー少将の両人は、同年三月三十一日付で、陸海軍合同機密報告をして、そのなかで、『オアフ島にたいするもっとも起こりそうな、そして、もっとも危険な攻撃形式は、航空母艦より発進した航空攻撃であろう』と述べたうえ、さらに、『もしそこで、夜明け時に発進したならば、完全な奇襲をこうむる公算が多い』と指摘した。かくて、八月二十日には、マーチン准将は、ショート陸軍司令官にたいして、『日本軍の航空母艦部隊が、もっともオアフ島に接近してくる公算の多いのは北西方からであろう』と進言した。
(4)同年の五月二十六日に発令された米海軍基本戦争計画(戦争計画第四十六号、または「レインボー」第五号と呼ばれた)は、真珠湾軍港内の米艦隊にたいする奇襲攻撃の公算を、明白に予見していた。また、キンメル大将が七月二十一日付で布告した、太平洋艦隊自身の作戦計画では、敵の開戦劈頭の行動は、『おそらく、ウェーク島、ミッドウェー島、またはその他の米国外辺の領土にたいする空襲あるいは直接攻撃』となるだろうと述べていた。
(5)だが、これらのあらゆる適切な判断と、決心と警告にもかかわらず、危機感は同年八月以降には、責任の地位にある陸、海軍軍人の胸中から消え去ったように思われた。『私個人としては、まさか、日本軍が思い切ってわが方に攻撃をくわえてこようとは信じられない』と、スターク海軍作戦部長みずからが、十月十七日付で、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将あてに、手紙を書き送っていた。
(6)また、キンメル司令長官の幕僚の戦争計画主務参謀マックモリス大佐は、十二月最初の三日間に開かれた作戦会議の席上で、『真珠湾に対する空中からの攻撃は決してないであろう』とキンメル海軍大将とショート陸軍中将に告げた。
(7)要するに、『根本的な災厄は、日本軍がいったい、なにをなすことができるか、また、なにをなそうとしていたかについて、わが海軍が正しく評価することに失敗したことであった』と、戦後に米海軍作戦部長アーネスト・キング元帥が語ったのが、真珠湾奇襲の一面の真相であろう。また開戦前に、日本軍が同時に二つ以上の大海軍作戦、もしくは水陸両用作戦を敢行することができると信じた米海軍士官は、ほとんどいなかった。また、同年四月の米、英、蘭三ヵ国軍事会議で米海軍のパーネル大佐とともに、その公算を検討した英国と、オランダの両海軍士官たちも同じように、日本海軍の多正面作戦の能力を信じたものはいなかった。
(8)キンメル司令長官の幕僚の戦争計画次席参謀マーフィー大佐は、戦時中の一九四四年(昭和十九年)に非公開でひそかに開かれたパート査問委員会(開戦当時の米アジア艦隊司令長官パート大将を委員長とした真珠湾攻撃に関する海軍軍法会議に相当するもの)で、『不意打ちの航空攻撃』にかんして、つぎのように供述したが、それは真珠湾奇襲にたいするハワイ現地の米海軍幕僚の真実の声であったろう。『私は、かくのごとき攻撃が行なわれようとは、夢にも思いませんでした。私は日本軍にとって、真珠湾において米軍を攻撃するのはぜんぜん、バカげたことであろうと、考えていました。私は日本軍が、おそらくタイ国とマレー半島へ、さらに、ことによったら蘭領東インド(蘭印=現在のインドネシア)の進攻は可能であると考えていました。しかし、日本軍が、真珠湾を攻撃しようとは思いませんでした。なぜなら私は、自分の見解にもとづいて、日本軍がそうすることの必要があるとは考えなかったからです……。我々は、補助艦艇の増強、各艦船の施設、とくに高射砲の改善など、米太平洋艦隊が具体的に強化される時期までは、日本艦隊と対決するために西太平洋に出動することができるとは信じていませんでした。私は、我々が劣勢な艦隊をもって西太平洋に出動せんと企てることは、自殺行為であろうと考えていました』
(9)一方、アメリカ国務省では、日本政府の部内には米国を怒らせて米国民を団結させ、日米戦争に導くような、無制限の侵略行為を回避するのに十分な、政治的才覚があるものと想像していた。 」 
4 ハルゼー元帥の真珠湾批判

 

太平洋戦争を通じて、米海軍で『猛牛』の勇名をとどろかせたウィリアム・F・ハルゼー海軍元帥は、開戦当時は米太平洋艦隊司令官キンメル大将の部下で、空母機動部隊の指揮官(第三艦隊司令官)として海軍中将の地位にあった。したがって、開戦直前の太平洋艦隊の動向と、ハワイ方面の配備、警戒状況については有力な現地の証言者である。その彼は、真珠湾奇襲の全責任をハワイ方面の米海、陸軍両最高司令官、すなわちキンメル元海軍大将とショート元陸軍中将のみに負わせることは不当であるとして、つぎのように正々堂々と主張していることは注目される。ただし、彼のこの発言は、戦後の一九五三年九月に、キンメル元太平洋艦隊司令長官を弁護して、故ルーズベルト大統領の戦争挑発政策をはげしく非難攻撃した、ロバート・シオボールド海軍少将の論争の書『真珠湾の審判』(中野五郎訳、昭和二十九年、講談社刊)の序文として寄せられたものであって、やはり戦時中は、硬骨漢の彼も、米国の世論統一と国家安全保障のために、沈黙をよぎなくされていたのだ。したがって、言論の自由の米国でも戦時中には、いわゆる『国賊』とか『卑怯者』の汚名をきせられて、まったく発言の自由を抑圧され、黙々とくらしていた当時の旧上官キンメル元大将のために、彼が職を賭して正論を吐いたわけではない。結局、程度の大差こそあれ、『自由の国』を誇る米国でさえも、戦時中は、軍国日本と同様に政府の戦争政策や、真珠湾惨敗の責任を批判することは禁止されていたわけだ。
「 『あの当時、私はアメリカ太平洋艦隊の三人の上級司令官の中の一人として、キンメル司令長官の麾下にぞくしていた。私は、彼が入手したあらゆる情報をつねに欠かさず、私に知らせていてくれたものと、今日でも信じている。それにもかかわらず、あの適切な「魔法(マジック)情報」(ワシントンの米軍首脳部が傍受解読していた日本の外交暗号電報の隠語呼称)は一通たりとも、確かに私は、読んだおぼえがないのだ。我々が入手していた軍事諜報はすべて、日本軍び攻撃がフィリピンか、マレーまたは蘭印など、南方地域へ指向されることを、明示したものばかりであった。なるほど真珠湾が日本軍の攻撃目標になるかも知れないということは一応、考慮されていて、けっして度外視されたわけではなかったけれども、我々の入手できた、たくさんの証拠はみんな、真珠湾以外の方向に攻撃の公算が多いことを指摘していたのである。もし我々が、「魔法情報」の中ではっきりと示されていた通り、日本が真珠湾内の米国艦隊の正確な位置と行動をつかむために、いかにたんねんな調査をつづけていたかを知っていたならば、真珠湾攻撃の現実的な確実性にそなえて、我々の全神経をこれに集中して対処していただろう、ということは火を見るよりも明らかである。そうすれば、私の指揮下の機動部隊を開戦直前の十一月下旬から十二月初旬にかけて、ウェーク島へ軍用機輸送のために出動させることには、私は極力、反対したことであろう。いやむしろ私は、そんな反対こそ、まったく不必要だったろうと確信している。なぜなら、もしもキンメル元大将が、当時、この情報を入手していたならば、あのような艦隊行動を命ずるはずがなかったからだ。当時、私の艦隊は航空母艦「エンタープライズ」を旗艦としていた。これは、その当時に太平洋方面に就役中の、米空母二隻中の一隻であった。他の一隻は、「レキシントン」で、ニュートン海軍少将の指揮下の別の檐動部隊にぞくしていた。また別にもう一隻の空母「サラトガ」が、太平洋艦隊に所属してはいたが、あいにく、その当時には米本国西岸のドックに入り、定期の点検修理中であった。
我々は、長距離偵察機がみじめなほど不足していた。当時、ハワイ方面に配置されていた米陸軍機で利用できたものは、ただ、B18双発中型爆撃機だけであった。しかし、この機種は速力がのろくて、航続距離もみじかく、到底洋上偵察飛行には適さなかった。また、米海軍のPBY飛行艇(通称「カタリーナ号」)も、機数が不足していた。この図体のバカでかい偵察機は、いわば海の駄馬で、ガッシリしてはいるが、旧式で速力ものろく、もし広い洋上を三百六十度の全方向にわたり、連続的に索的飛行を実施させるならば、ただ不足した機材と、乗員をクタクタに疲れきらすばかりであったろう。そのうえ、我々をさらに苦しめた困難は、このPBY飛行艇の乗員の大多数を、大西洋方面の戦線へ出動させるために訓練せよ、という本省からの命令であった。このような事情と、空母「ヨークタウン」が米本土東海岸へ移動、配置についたためとによって、我々のすでに手薄な人的、物的戦力は、いっそうはなはだしく、弱体化していたわけだ。しかしながら、もしも我々が、重大な「魔法情報」を以前から知らされていたならば、当然、三百六十度の全方向にわたる洋上索敵飛行の実施を命令していたであろうし、また、そのためにはどんな無理をしても、機材と乗員がその損耗と疲労の極点に達するまで、この洋上索敵飛行をつづけて強行していたことだろう。私はつねにキンメル元海軍大将とショート元陸軍中将について、つぎのように考えてきたものである。――この優秀な二人の軍人は、自分の力では絶対に自由にならぬ、ある目的のために犠牲の山羊として、狼群の前に放り出されたようなものである。この両軍人は戦備の点でも、情報の点でも、ただ、あたえられただけのものによって、行動せねばならなかったのだ。この二人こそ、わがアメリカの、偉大な軍人の殉教者である』 」 
Y 真珠湾論争への審判

 

1 奇襲とだまし討ちの相違
『兵は詭道なり』とは、二千五百年前の有名な孫子の兵法のなかの名句である。それは、戦争の本質が、相手のウラをかいてだますことを、いみじくも喝破したものであり、また、現代の戦術として、奇襲(サプライズ・アタック)の重要性が古今東西に相通じることを教えている。『攻撃戦争の最強の武器の一つは、奇襲攻撃である』とは、十九世紀はじめ(約百七十年前)のプロシアの偉大な戦争理論家カール・フォン・クラウゼビッツ将軍の『戦争学』の中の警句である。したがって、奇襲は、相手の油断を衝いた戦争の正攻法の一つであって、けっしで卑怯な『犯罪的攻撃』(クリミナル・アタック)と呼ぶことはできないはずである。それは、むしろ戦備を怠って奇襲をこうむり、大損害をうけた国の負け惜しみといわれても仕方がないであろう。ところが、世界戦史上に、すでに堂々と明記されているように、太平洋戦争の火蓋をきった日本軍の真珠湾奇襲は、日本軍独特の卑劣な『だまし討ち』(トレチャラス・アタックまたは、スニーク・アタック)であるという忌(いま)わしい烙印が押されてしまった。しかも、ルーズベルト大統領自身が、十二月八日(米国時間、日本では十二月九日に当たる)の米国議会にたいする有名な対日開戦教書で、つぎのように日本の奇襲を『だまし討ち』であると強調して、挙国一致の米国民の総決起をうながしたのだ。それは、ハワイの現地の米陸海軍当局の油断と怠慢の責任を、いちおうタナ上げして、もっぱら奇襲の重大責任を日本側の軍事的犯罪に押しつけ、たくみに、全米国民大衆の対日敵愾心(てきがいしん)と、復讐心を煽動する宣伝効果を発揮したものだった。
「 『昨日、一九四一年十二月七日(米国時間)――それは、国辱(汚名)の日として永く残るであろう――アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍および空軍のために、突如、しかも用意周到に攻撃された。しかるに合衆国は、日本と平和関係にあり、しかもまた、日本の懇請によって太平洋の平和維持のために、その政府ならびに元首と会談をまだ続行中であった。実際に、日本航空部隊が、オアフ島(ハワイ群島の主島でホノルル市と真珠湾軍港がある)の爆撃を開始してから一時間後に、駐米大使(野村吉三郎大使をさす)は、その同僚 (来栖三郎大使をさす)とつれ立って、国務長官にたいし、最近のアメリカの通牒への公式回答を手交したのであった。この回答には、現在の外交交渉の継続の無益なることを述べていながら、少しも、戦争あるいは武力攻撃の威嚇、または示唆をふくんでいなかった。日本・ハワイ間の距離は、この攻撃が数日前はおろか数週間以前に用意周到に計画されたことが明瞭であることを記録するものであろう。この引きのばし期間中に、日本政府は虚偽の声明と、平和継続の希望表現によって、アメリカ合衆国を、用意周到に欺(あざむ)かんと努めたのであった。昨日、ハワイの攻撃は、アメリカ陸、海軍に甚大な損害をあたえた。はなはだ多数のアメリカ人の生命が失われた。さらに、サンフランシスコとホノルル間の大洋上で、アメリカ船舶が、魚雷攻撃されたと報じられている。昨日、日本政府は、またマレー半島を攻撃した。昨夜、日本軍は香港を攻撃した。昨夜、日本軍はグアム島を攻撃した。昨夜、日本軍はフィリピンを攻撃した。今朝、日本軍はミッドウェー島を攻撃した。日本はかくのごとく太平洋全域にわたり奇襲攻撃を敢行したのである。この昨日の諸事実こそ、みずから事態をもっとも雄弁に物語るものだ。それは、アメリカ国民が、すでに国論を一致させて、国家の存立と安全が、危殆に瀕していることを十分に了解するところである。この計画的侵略を克服するのに、いかに長い年月を要するとも、アメリカ国民は、その正しい力をふるって絶対的な勝利を、勝ちとるであろう。我々が全力をつくして、我々を防衛するのみならず、この種のだまし討ちが、けっして我々を、再び危険ならしめないために戦うということは、私の主張であるばかりではなくて、じつにアメリカ国民および議会の総意であると信ずる。戦闘は開始された。わが国民、わが国土、わが権益が重大脅威にさらされている事実に目をおおうことはできない』(中野五郎訳、ルーズペルト大統領の米国議会にいたする開戦教書より) 」
確かに、大衆政治家として老練なルーズベルト大統領は日本側のいちばん痛いところを衝いて、真珠湾奇襲はワシントンで、まだ日米外交交渉(野村・ハル会談)が継続中に、卑劣にも抜き討ちに行なわれた『だまし討ち』であると、米国内はからは、全世界へ向けて吹聴した。それは、日本側の外交交渉打切りの対米通告が、ハワイ攻撃の、開始時刻の三十分前(ワシントン時間十二月七日の日曜日午後一時に当たる)に、ハル国務長官へ野村大使から手交される予定のところ、意外にもワシントンの日本大使館の首席書記官と、電信官の油断とミスから、長文の暗号電文の翻訳とタイプ清書がたいへんに手間どり、とうとう提出時間を一時間二十分もおくれてしまったからだ。それは、日本にとって、まったく歴史的開戦の日を汚した取返しのつかない最大のミスであり、正々堂々たる奇襲作戦の成功に、おしくも『だまし討ち』とか『犯罪的攻撃』という不名誉な烙印を押されてしまった。すなわち、日本は、武力戦の奇襲には大勝利をおさめながら、宣伝戦には開戦早々から重大な失敗をしたわけだ。 
2 作戦の成否は国際法に優先

 

この日米開戦の前夜、日本側では天皇も、開戦の事前通告の点について、重大な関心をしめし、陸海軍統帥部へ注意されていたし、とくに対米外交の全責任をになっていた東郷茂徳外相(当時五十九歳)は、十二月一日の御前会議で、『対米交渉ついに成立するにいたらず。帝国は、英米蘭にたいし開戦す』という重大議題が、べつに異議もなく、『挙国一致』とか『一死奉公』とか『国難突破』という出席者全員(全閣僚、陸海軍両統帥部総長、両次長、内閣書記官長、陸海軍両軍務局長、枢密院議長)の悲壮な決意の下に決定した以上、国際法にもとづいて、正々堂々たる開戦(または宣戦)通告を、米国政府へ伝達すべきであると確信していた。そして、それが当然、天皇の公明な意向でもあり、また自存自衛のために決起せんとする皇軍の聖戦のあり方であると、彼は外務大臣の重責をひとしおに痛感していたようだ。ところが、東郷外相は、当時、大本営政府連絡会議の主要メンバーでありながら、ハワイ攻撃の作戦計画に関しては、まったくツンボ桟敷におかれており、ただ、『奇襲による開戦』ということだけを漠然と示唆されたのみであった。要するに、陸海軍統帥部は、真珠湾奇襲を成功させるために、『敵を欺くには、味方を欺くにしかず』という古い格言を実行した。つまり、米国側を、日米交渉継続の形でだまして油断させるために、まず、東郷外相と、ワシントン駐在の野村大使まで、天皇の『宣戦の詔勅』の公明正大な趣旨にも矛盾した戦争の奇怪な本質――『目的のためには手段をえらばず』という『勝利の戦略』の正体を暴露(ばくろ)したものであった。戦後はじめて、東京裁判で明らかにされた証言記録によると、その当時に東郷外相は、開戦の手続きについて海軍統帥部と大いに論争し、
「 『正式の宣戦の通告か、少なくとも交渉打切りの通告は、国際信義上、ぜったいに必要である。その通告時刻は、攻撃開始前に充分の時間の余裕があることを要する』 」
と、ヘーグ戦争条約の開戦規定をかたく守るように主張した。このヘーグ戦争条約は、一九〇七年(明治四十年)十月にヘーグ(オランダの行政上の首都)で日本も参加して、調印され、翌年に批准公布されたもので、その第一条は、つぎのとおり宣戦布告について規定し、第一次大戦では、交戦国の双方ともが忠実にこれを守った。ところが、第二次大戦では、皮肉にもナチス・ドイツと軍国日本が、これを破って奇襲によって開戦をしたわけだ。日本の場合、ハワイ攻撃が決行されたのが、現地時間で十二月七日午前七時五十五分であり、それは、日本内地時間では、十二月八日午前三時二十五分にあたった。しかし、大本営が、『帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』と、開戦を正式発表したのが十二月八日午前六時であり、しかも、天皇の歴史的な『宣戦の詔書』が発布されたのは、さらにおくれて、同日の午前十一時四十分であったから、ワシントンの日本大使館の日米交渉打切り通告の提出時刻の遅延問題とはかかわりなく、国際法上から、由緒ある古いヘーグ条約に、二重にも三重にも違反していたわけだ。ヘーグ条約には。『締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件つきの開戦宣言をふくむ最後通牒の形式をもつ明瞭、かつ事前の通告なくして、その相互間に、戦争を開始すべからざることを承認す』とある。ところが、ハワイの真珠湾軍港に大奇襲をかけて、米国太平洋艦隊をいっきょに撃滅せんと決起した海軍統帥部では、あらゆる警戒手段をとって、この空前の作戦計画の発動についての機密保持に努力していた。それは、孫子の兵法の『兵は詭道なり』という極意を徹底的に実行したかわりに、国際法上の義務であるヘーグ条約の宣戦規定を平然と破ることとなった。ただ東郷外相の強硬な直言には多少おれて、正式の宣戦通告のかわりに、対米外交交渉の打切り通告を提出する時刻を、ワシントン時間で、十二月七日午後一時に指定するよう手続きを求めた。しかし、東郷外相には、それからはたして何時間後に攻撃が決行されるかを、全く知らせなかった。このために、東京の外務省とワシントンの日本大使館の間の外交暗号電報の連絡が、緊密に、しかも計画どおりにうまく行なわれなかったのは不運でもあるが、また海軍統帥部が、あまりに秘密主義にこだわりすぎたせいでもあった。実際に、外交交渉打切りの対米通告時刻は、最初、伊藤軍令部次長から、東郷外相にたいして、極秘に、ワシントンで十二月七日午後零時半と指定してきたが、その後さらに三十分くり下げて、午後一時に変更してきた。それは、ハワイ攻撃直前のギリギリでわずか三十分前の猶予しかないものであったから、たとえ通告提出が、本省の指示どおりにおくれないで行なわれたとしても、その通告文の内容は、やはり厳正なヘーグ条約の宣戦規定を破った。しかも相手をだまして油断させる目的の、インチキな公文書であった――という非難が、米国では、とうぜん起こったことであろう。なぜならば、単に日米交渉の打切りは、けっして、日米両国の外交断絶、大使の引揚げを意味せず、いわんや日米開戦へ、ただちに発展するものとは、国際慣例の常識では、到底考えられなかったからだ。  
3 東郷外相の遺書

 

これについて、すでに病死した東郷外相の遺書となった大戦外交手記『時代の一面』(昭和二十七年刊、絶版)の中のつぎの一節は、まことにミステリー的な興味の深い日本側の真珠湾奇襲の秘密の正体を明らかにしたものである。その要旨を引用して、読者の参考に供する。
「 『十二月一日の御前会議の直後の会議で、自分は宣戦通告の問題もあるからと思って、いつから戦闘を開始するつもりかと聞いた。これにたいして杉山参謀総長は、つぎの日曜日ごろだと、あいまいなことを言うので、その態度にますます疑念を抱き、戦闘開始の通告は、通常の手続きによることが適当だと述べた。しかるに永野軍令部総長は、奇襲でやるのだと言った。これに引きつづいて、伊藤軍令部次長から、開戦の効果を大ならしめるため、外交交渉は、戦闘開始まで打ち切らないでおいて欲しい、との申入れがあった。これで統帥部が、さきに急速開戦を主張していたにもかかわらず、御前会議の当日は、はなはだのんきな態度をしめしていた意味がわかった。しかし、自分はいままで海軍が邀撃作戦にて勝つ自信ありと言っていたのに、突然、奇襲をやるのだと言い出したのには、驚くとともに、奇襲をやらなければ、緒戦においても十分な見込みがないことにも解せられて、戦争の前途を心細く感じた。しかし自分は、このやり方は、通常の手続きに反して、はなはだ不当であること、開戦の際に無責任なことをしておくと、わが国の名誉と威信とに関して、はなはだ不得策であること、また、野村大使よりも自由行動に出る前に、交渉を打切りおくことが必要であり、その通告は、ワシントンにおいても行なうことが必要である、との意見上申をも引用して、事前の通告は、国際信義上から絶対に必要であると主張した。自分は、統帥部が開戦決定の後になって奇襲の必要をとなえ、あたかも、これを強要せんとするがごとき態度を示したのに、はなはだしき不満を感じ、他に先約があったから、これを理由として退席せんとした。すると伊藤軍令部次長は、私の席に来て、海軍の苦衷を訴え、もし交渉打切りの通告が、どうしても必要ならば、ワシントンではなく東京において米国大使になすようにしたい、と申出た。自分は、この方法については、ある種の不安を感じたので、その申出を拒絶して、そのまま別れた。しかるに、そのつぎの連絡会議のはじめに、伊藤次長は、ワシントンで交渉打切りの通告をなすことに、海軍軍令部は異存ないと述べ、その通告が、ワシントン時間で十二月七日午後零時半になされるべきことを申出た。自分は、この論争によって海軍側の要求を、国際法の要求する究極的限界にくいとめることに成功したと思った』 」
だが、東郷外相の期待は、すっかり裏切られた。なぜなら彼は、十二月五日に外務省に来訪した伊藤軍令部次長に向かって、『事前通告と攻撃の間隔は、どのくらいの時間が必要か?』と、念のためにたずねたところ、伊藤次長は。『それは作戦の機密であるから申し上げられない』と明答を断わられたからであった。それで東郷外相は内心で、『まさかと思うが、通告と同時に攻撃するのではなかろうか?』という不安と疑念がわいたらしい。 しかも、伊藤次長は、『わが方の通告が在米大使館へあまり早く発信されないように願います』と意味深長な言葉を帰りぎわに残したので、東郷外相は、『私は、指定時間(午後一時に変更)に間違いなく届けられるように発信しなくてはならぬ』とはっきり答えた。責任感の強い東郷外相は、長文の『対米覚書』を十四部に分けて、最高機密度の暗号電報に組んで、最終のわずか四、五行の第十四部をのぞく全文を、十二月六日(ワシントン時間)の午前六時三十分から十時二十分の間に、逐次、発信させた。そして重大な最終部を、七日(ワシントン時間)午前三時と四時に二つの路線で、正確と迅速を期して発信させた。しかし、ワシントンの日本大使館は、東郷外相の緊急訓電を守らず、開戦前日の夕方に着信した十三部までの暗号電報の翻訳とタイプ清書をすませていなかったため、運命の七日午後一時の提出時刻に間に合わなかったのだ。
(注、東条内閣の外相として、開戦の重大責任をになった東郷茂徳(しげのり)は、開戦二年目の昭和十七年九月、米英軍捕虜の取り扱い問題その他について、東条首相と意見が対立したため辞職引退したが、奇しくも敗戦直前の昭和二十年四月に鈴木貫太郎内閣の外相に返り咲いて、終戦促進に大いに尽力した功績は高く評価されている。すなわち彼は、戦争末期に、天皇の和平念願を達成するために、必死の献身的な努力をつづけ、陸海軍統帥部と一部の極右閣僚の『徹底的抗戦』と『本土決戦』と『一億玉砕』を呼号した狂信的な態度にあくまで屈せず対抗し、ポッダム宣言を受諾して一刻も早く終戦を決断、実現すべしと熱烈に主張した。彼は、明治十五年、鹿児島県に生まれ、同四十一年、東京帝大文科卒業、大正元年、外交官試験に合格、その後ドイツ大使館参事官、本省欧米局長、欧亜局長、駐独大使、駐ソ連大使などを歴任した。気骨ある外交官として知られ、開戦の責任を終戦の功績によって大いにつぐなったものとみられたが、昭和二十一年四月に、極東国際軍事裁判所でA級戦犯に指定、起訴された。そして昭和二十三年十一月、禁錮二十年の判決をうけ巣鴨刑務所に拘禁、服役中に胸部疾患が悪化して昭和二十五年七月さびしく死去した。享年六十八歳であった。 彼こそ太平洋戦争史上で開戦=終戦の二つの重大時点に外相としての大きな役割をはたしながら、現在では、一般に忘れられた悲劇的な人物である) 
4 戦争の教訓から

 

昭和四十一年十二月は、太平洋戦争の開戦二十五周年にあたった。まことに歳月のたつのは、水の流れのごとく、早くてはかない。我々日本人にとっては、それはまことに忌わしい悪夢のような思い出ではあるが、すでに戦後の若い世代の数千万の人々にとっては、日米開戦の記念日も、まったく遠いむかしの神話か、伝説のようにしか思われないであろう。それほど今日の日米には、太平洋戦争をすでに忘れた世代と、開戦――敗戦の実感を、全く知らない世代が多くなっている。しかし、『現在は過去の後始末である』という警句は、太平洋戦争の場合にもピタリと当てはまるのだ。すなわち、軍国日本の敗北降伏も、『大日本帝国の崩潰』も、神がかりの絶対天皇制から主権在民の民主日本へ更生したのも、さらに現在の奇蹟的な復興と、経済的繁栄と、愛国心の喪失も、また物質万能主義と、自由享楽と、犯罪激増も、すべて春秋の筆法をかりるならば、十二月八日のもたらしたものであり、したがって太平洋戦争が、今日の一億国民に残した明暗両様の『偉大な遺産』であると言えるだろう。それは、恥ずべきものではなくて、学ぶべきものである。そういう歴史的な意義を、公正に真剣に考えて、じっくりと再検討してみると、十二月八日を、我々日本人は、永久に忘れてはならないことが明らかになってくる。民主日本は、幸か不幸か、日米安保条約の改廃をめぐり、政界も言論界も荒れ模様の警戒信号を示した。しかし、つねに先物買いの日本の政治家連中が、保守、革新の両陣営をとわず、安保問題と自衛隊の増強と国防計画をめぐる大論争に張り切っているとき、まず銘記してもらいたいのは、十二月八日の教訓である。もはや日本人は、ベトナム戦争を対岸の火災のごとく安閑(あんかん)とながめていたようなことが、今後は許されないのと同じように、平和日本の足許に火のついたような切実な国防問題と 軍事計画について、政治家まかせも、制服軍人まかせも許してはならないときが到来した。すなわち国民全体で、めいめい自由で冷静な立場から、民主日本の現在の姿をあらためて直視して、あの悪夢のような十二月八日の教訓を、十分に学びとり、しっかり自分の身につけて、戦争への安易な妥協にも、また俗悪な英雄主義(ヒロイズム)にも、感傷的な新軍国主義(ネオミリタリズム)にも、押しながされないように努力し、自戒しなければならない。第一次世界大戦で、フランス共和国の老宰相クレマンソーは、『戦争は将軍連中にまかせておくには、あまりに重大な仕事である!』と喝破して、みずから戦争最高指導にあたって勝利への道を確保した。しかし彼は、やはり古い観念の戦勝国の絶対権利のみを主張して、敗戦ドイツの永久屈服をめざした不合理、非道なベルサイユ条約体制を、あくまで強要したため、かえって、欧州の混乱情勢と、独裁者ヒトラーの出現をもたらしたのであった。そして、第二次大戦の起因のタネを、不見識にもまいたわけだ。また第一次大戦で、『新しい自由』(ニュー・フリーダム)を提唱して、全世界の共鳴をかちえて、『米国は戦争を終わらせるために参戦する!』と大見栄を切った米国のウィルソン大統領も、やはり、国際連盟の彼の夢を実現するためには、ベルサイユ条約で敗戦ドイツをギセイにして恬然(てんぜん=平気)と恥ずるところがなかった。彼もまた、人道主義の持論をみずからすてて、クレマンソーの報復、懲罰主義に同調し、第二次大戦の起因の責任者に加わった。それゆえ英国の修正主義派の歴史学者として有名なA・J・P・テイラー博士(英国オックスフォード大学教授、BBC放送外交評論家)は、第一次大戦五十周年記念に刊行した最新の『第一次世界大戦史』の結論で、クレマンソーの警句を皮肉って、つぎのように反論をくだしたものだ。『戦争は、将軍連中にまかせておくには、あまりにも重大な仕事ではあるが、さりとて、政治家連中にまかせきりにしておくにも、やはりあまりに重大すぎる仕事であった!』このテイラー教授の警句は、そのままそっくり第二次大戦にもあてはまるものである。すなわち、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭は、第一次大戦の教訓をまったく学ばないで、いわゆる『無条件降伏』の世界戦略を固守したため、大戦後半期にナチス・ドイツも軍国日本も、和平交渉のチャンスを絶対に拒否されて、数百万の人命をムダにギセイにして、流血非惨な地獄的死闘に追い込まれたのであった。しかも、戦勝国の勝利の分け前を、ひそかにヤミ取引したといわれる悪名高いヤルタ会談(昭和二十年二月)で、チャーチル英首相は、『これこそ米英ソ三大国の団結、協力の最高潮である!』と、上機嫌でウォッカ酒の乾杯を重ねながら、それからわずか半年後、原爆投下とソ連参戦による軍国日本の徹底的な敗北と無条件降伏後まもなく、米英対ソ連の『冷戦』(コールド・ウォア)の幕が上がるや、いちはやく、『我々は戦争には勝ったが、戦後の平和には敗れた!』といみじくも嘆息したのである。戦争は終わったが、人類待望の恒久平和は幻滅と化して、また新しい戦争のタネがまかれたわけだ! 
5 十二月八日の歴史的詔勅

 

では一体、何のための七年間にわたる血みどろな第二次大戦であったのか? また、太平洋戦争の大義名分とは? 要するに戦争というものの正体は、たとえ『平和を守る』とか、『自存自衛』とか、『侵略を排除する』とか、『国家の独立』とか、『民族の解放』とか、『集団安全保障』等、いろんな、もっともらしい大義名分のレッテルを貼付ても、実際には、誤算と矛盾と憎悪の生み出した非人道的な、恐るべき無制限の殺し合いの人間残酷ドラマにほかならないのである。それは、戦争専門技術者である制服の将軍連中にも、また『文官支配』(シビリアン・コントロール)を自慢した政治家連中にも、到底理性的に、合理的にコントロールすることができないものである。結局、我々日本人としては、太平洋戦争の真相をできるだけよく知り、深く考えて、十二月八日の教訓をけっして忘れず、いつも左右両派の政治家や新旧の軍人たちが、『国防』という美名の下に、再び戦争の正当化と光栄化を提唱しないように、厳重に監視する必要がある。そこで私は、戦史家の立場より、いわゆる十二月八日の深刻な教訓の実例として、つぎの印象的な歴史的言葉を引用して、国民大衆のための永久不変の座右(ざう=身辺)銘に呈したいと思う。これを忘れたら、日本はかならず近い将来に、つぎの戦争に巻き込まれるだろう、と私は戦史家として予言したい。
「 『天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝(なんじ)有衆ニ示ス、朕(ちん)茲(ここ)ニ米国及ビ英国ニ対シテ戦ヲ宣ス、朕(ちん)ガ陸海将兵ハ全カヲ奮テ交戦ニ従事シ、朕ガ百瞭有司ハ励精職務ヲ奉行シ、朕ガ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総カヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ (中略) 皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ、朕ハ汝(なんじ)有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除(せんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス』(昭和十六年十二月八日の天皇の宣戦詔書より) 」
「 『いま、宣戦の大詔を拝しまして、恐懼(きょうく)感激にたえず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、ただただ宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君もまた、己が身をかえりみず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。凡(およ)そ勝利の要訣は「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等(われら)は未だかって戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて汚さざると共に、栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。かえりみれば我等は、今日まで隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて、安きを惧(おそ)れたものでもありません。ひたすら世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念(こねん)したるに外なりません。しかも敵の挑戦を受け、祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、起たざるを得ないのであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此の一戦に在り。一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉(じゅん)ずるの時は今であります。八紘(はつこう)を宇(う)と為す皇謨の下に、私は、ここに謹んで微衷(びちゅう)を披瀝し、国民とともに、大業翼賛の丹心を誓う次第であります』 (昭和十六年十二月八日、内閣総理大臣東条英機大将のラジオ全国放送『大詔を拝し奉りて』より) 」
(注=絶対天皇制下の軍国日本では、戦後の若い世代には、とても難解な用語が有難そうに広く使用されていた点も忘れてはなるまい。御稜威(みつい)とは、天皇の威光の意味、皇謨(こうぼ)とは、天皇の国家絖治のはかりごとをさし、大業とは帝王の事業、翼賛(よくさん)とは、力を添えて天子を助けることを意味する。また、有名な八紘一宇(はちこういちう)は古代中国の学者、淮南子(えなんし)の地形訓による四方と四隅を意味し、天下=全世界を一つの屋根の下におくという皇道の世界宣布の理想を表現したため、欧米では、軍国日本の世界征服の野望のシンボルとみなされていた。だが、それが悲しい誤解であっだことは敗戦によって証明された)
私は、あらためて読者のみなさんに訴えたい。『敗戦の教訓は、だれにでも、理屈ぬきで黙っていてもよくわかる。しかし、開戦の教訓こそ、じつは本当の戦争の教訓なのだ』と。 
Z 真珠湾奇襲の功罪と遺産

 

1 なぜ太平洋戦争というのか
ここで、太平洋戦争の戦端をひらいた世界戦史上、空前の真珠湾(パールハーバー)奇襲の是非と功罪について、自由公正な々場からその真相と、争点を明らかにするとともに、いわゆる歴史的な真珠湾の大秘密をおおった黒い霧を追いちらせて、いくつもの根本的疑点を迫及し、最新の権威ある調査記録資料にもとづいて、再検討してみたいと思う。それにさきだち、私はこれまでいちおう、解説するつもりでいながら、まだ機会をえなかった太平洋戦争の呼称について、読者のみなさんのために明確に説明しておきたい。昭和十六年十二月八日未明三時半ごろ、(ハワイ現地時間では一九四一年十二月七日、日曜日、午前八時ごろ、ワシントン時間では同日午後一時半ごろ)日本海軍の大空母機動部隊のハワイ真珠湾軍港(米国太平洋艦隊根拠地)にたいする奇襲攻撃で戦端をひらいた日米戦争は、正式には、日本の対米英蘭開戦と呼ぶべきであるが、日本側では、この戦争をとくに『大東亜戦争』と名づけ、連合国側ではこれを一般的に『太平洋戦争』とよんだ。日本側が名づけた『大東亜戦争』(The GreaterAsia War)という呼称は、いわゆる皇国日本を中心とした大東亜共栄圈の建設(東亜の新秩序をさす)という、戦争目的を明らかにしたものであるが、それはけっして、戦時下の日本の新聞、雑誌、ラジオなどマスコミが勝手につけた名称ではなくて、じつに東条首相のお声がかりで、昭和十六年十二月十二日付で内閣情報局より発表された、つぎのような公式声明にもとづくものであった。したがって戦時中は、すべて『大東亜戦争』という公式呼称で統一され、もっと一般的で、子供にもわかりやすい『太平洋戦争』という名称は、敵性表現として禁止されたも同じであった。『今次の対米英戦は、支那事変をも含む大東亜戦と呼称す。大東亜戦争と称するは大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域の大東亜のみに限定する意味に非ず』(原文のまま) しかし、敗戦後、このいかめしい『大東亜戦争』という呼称は、その誇大な戦争目的を喪失した理由からも、きわめて不適当であるため、日本政府も新聞ジャーナリズムも、いっせいに連合国側で正式に採用し、しかも現代史上で世界共通に広く使用されている『太平洋戦争』という名称を、公然ともちいるようになった。ところが、この数年らい、政界や言論界の一部では、いわゆる逆コース的風潮に便乗して、戦後に生長した全国の小、中学、高校生たちに自然になじまれた『太平洋戦争』という国際的名称を排して、ことさら、戦時中の『大東亜戦争』という呼称を使用するむきがある。これは前にのべた内閣情報局発表の趣旨を知らないための誤用であり、それが戦争の地域ではなくて、目的をしめす呼称である以上、敗戦国たる日本ただひとりが使用する、愚劣な、戦前派のノスタルジアといいうべきであろう。一方、連合国側でも、戦時中(とくに開戦後、まもなく)、『この大戦争をなんと呼ぶべきか?』ということが、さかんにジャーナリズムで論議された。いちばん自然で、すなおな名称は、『第二次世界大戦』(The Second World War, The World War U)という総称のもとに、『太平洋戦争』(The Pacific War)と『欧州戦争』(The European War)の二大正面をふくませるものであった。そしてそれが戦時中も戦後も一般化して、今日までは世界戦史上でも国際政治上でも、広く普遍的に使用されている。ただ、ソ連だけが国内むけに、とくに『大祖国戦争』という呼称を長らく使用しているのが例外とみられている。私は日本でも、けっして戦争に敗けたからという卑屈な理由からではなくて、いちばん自然的な、わかりやすい呼称として、『第二次世界大戦』『太平洋戦争』という、広、狭ふたつの名称を自由に並用するのが、もっとも適当であると思う。現在はもちろん、将来にも、全世界共通の大戦争の呼称が、時代のうつり変わりや、各国の国内事情によって、あれこれと特別の意味や、解釈をつけて変更されることは好ましいことではないだろう。ことに今日の日本国民にとっては、ラテン語の『パシフィカス』(平和づくりの意味)から由来した、『平和な大洋』を意味する『パシフィック・オーシャン』(太平洋)という言葉にちなんだ『太平洋戦争』の呼称こそ、じつに『けっして再び戦争をせず』と誓い合い、恒久平和をねがうわが民族の熱望をこめた絶好の、印象的な名称であると信じている。ところで、自由な世論とマスコミ宣伝のさかんな米国では、開戦そうそうから国民士気の昂揚のために、あれこれと戦争呼称の選定が行なわれ、ルーズベルト大統領までが、新聞記者団との会見で、『なにかうまい名称はないかね?』と名案をもとめたものだった。当時、私は朝日新聞ニューヨーク特派員としてすでに抑留されていたが、新聞やラジオで、自由に戦時下の『敵国アメリカ』の社会的な呼吸と、脈搏を記録することができた。その当時の貴重なメモによると、つぎのような名称が、いろいろ提案されて、米国名物のギャラップ世論調査の対象にまでなって、各新聞紙上をにぎわせていた。
『生存の戦争』(生き残り、勝ち残るための戦争、という意味、大統領提案)
『人民の戦争』(カーチン・オーストラリア首相提案)
『世界自由のための戦争』(二十六パーセント)
『自由のための戦争』(十四パーセント)
『自由権の戦争』(十三パーセント)
『反独裁者戦争』(十一パーセント)
『人道のための戦争』(九パーセント)
『デモクラシーの戦争』(八パーセント)
『ルーズベルトの戦争』(皮肉な反ルーズベルト分子の投票)
結局、このようなヤンキーごのみの戦争呼称の名案は、いずれも戦争の進展と激化にともなって影をひそめて、米国でも英国でも、いつのまにか、対日戦争はすべて、『太平洋戦争』という、自然で平凡な呼称に統一されてしまった。我々日本人も、この国際的な呼称をすなおに使用した方がよい、と私は思っている。 
2 奇襲をめぐる感激と悲哀

 

日本海軍随一の米国通であり、しかも日独伊軍事同盟にあくまで反対して、日米開戦を回避するために、海軍次官当時より苦心、努力しつづけてきた山本五十六海軍大将(開戦当時の階級、昭和十八年四月十八日、ソロモン群島のブーゲンビル島南端上空で機上戦死後、元帥に昇進す)が、みずから真珠湾奇襲攻撃計画を提案し、連合艦隊司令長官として軍国日本の興亡を賭(と)して、日米開戦の壮烈な火ぶたを切っておとした歴史的事実は、まことに世界戦史上に永久に記録されるべき、人間悲劇であろう。日本でも米英でも、『山本五十六伝が刊行されて注目されているので、戦後の日本国民にとっては、あまり寝覚めのよくない、真珠湾奇襲大勝の思い出(それはじつに軍国日本の敗北、降伏の第一歩でもあった)が、再びよみがえってきたようだ。それに十二月は、日米開戦を呼びさまされるので、我々日本人は、好むと好まざるとにかかわらず、真珠湾奇襲の『悪夢のような勝利感』を、皮肉にも、まるで砂をかむような索漠たる気持で味わわせられるにちがいない。なぜなら、我々日本人の国民的感情と、幻滅的悲哀をまったく無視して、米国はじめ往年の主要連合国では、あの『真珠湾を忘れるな!』(リメンバー・パールハーバー)の歴史的合言葉を、なまなましくマスコミがよみがえらせて、いろんな戦争記念行事か盛大に行なわれるだろう、と私は戦史家として予想しているからである。幸か不幸か、あの歴史的な十二月八日(日本時間)に、私に、ジャーナリストとして米国に駐在し、内地にはいなかったので、真珠湾奇襲大勝の奇蹟的な吉報に、大元帥たる天皇も機嫌うるわしく、日本中の軍、官、民大衆がいかに狂喜、乱舞して絶大な勝利の感激にひたったか、そのなまなましい姿や、歓声を、自分で見聞して、たしかめることはできなかった。しかし、後で紹介する有名な米英追放、大東亜主義の巨頭であった大川周明博士(戦時中は、満鉄東亜経済調査局最高顧問、法政大学大陸部長、主著『日本二千六百年史』『日本精神研究』『大東亜秩序建設』など)の真珠湾奇襲大勝にちなんだ感動の言葉と、当時の連続ラジオ放送のテキスト記録を読んでみると、確かに日本全国民の『世紀の勝利感』といったものを、いまさらのように切実に痛感させられたものだ。あの純情な芸術家気質で知られた詩人、彫刻家の高村光太郎でさえ、
「 『必死にあり、その時、人きよくして強く、その時、こころ洋々としてゆたかなのは、我ら民族の習(なら)いである』 」
と、米英撃滅の無限の感動をこめた戦争詩をいくつも発表した。戦前、戦後を通じて民衆詩人として愛好された三好達治さえも、『アメリカ太平洋艦隊は全滅せり』と題する、つぎのような長詩を堂々とつくって、勝利の祝杯に酔った。今日から回想すると、まことにハダ寒い悲哀感を覚えるばかりである。それがいわゆる『戦争のむなしさ』といってもよかろう。
「 『ああその恫喝(どうかつ)、ああその示威、ああその経済封鎖、ああそのABCD線、笑うべし、脂肪過多のデモクラシー大統領が、飴よりもなお甘かりけん。昨夜の魂胆のことごとくは、アメリカ太平洋艦隊は全滅せり! 荒天万里の外、激浪天を拍(う)つの間に馳駆(ちく)すべかりし、ああその凡庸提督キンメル麾下の艨艟(もうどう=軍艦)は、一夜熟睡の後、かしこ波しずかな真珠湾内ふかく、舳艫(じくろ)相含みて沈没せり、げにや一朝有事の日、彼らの光栄のさなかにあって、ああその百の巨砲は、ついに彼らの黄金の沈黙をまもりつつ海底に沈み横たわるなり』 」
おそらく私自身も、十二月八日に日本内地にいたら、このような国民的感激を爆発させた戦争詩を、さかんに愛誦していたかも知れない。だが、真珠湾奇襲大勝について、いちばんムッツリして浮かぬ表情のかげに、『ああ日米ついに戦えり、もはや後にはもどれないが、その前途は?』と矛盾した気持で、国民大衆のカラ騒ぎをひそかに注視していたのは、米国のおどろくべき強大な工業生産力をよく承知していた、山本司令長官ではなかったろうか?
それはそれとして、今日の時点で我々日本人は、たいていが真珠湾奇襲大勝のむなしい思い出を、いまではむしろ忘れたいくらいであろうと思われる。それに反して、米、英諸国では現在でも、相変わらず『真珠湾を忘れるな!』の警句が生きていて、一般的な多数の第二次大戦史や、太平洋戦史、戦記本の一部分になっているものをのぞいて、真珠湾奇襲だけを主題にしたノンフィクションの単行本が多く刊行され、いずれも好評を博している。その中には、私が訳述して、日本にはじめてルーズベルト謀略説を、くわしく紹介したロバート・A・シオボールド海軍少将の論争の書『真珠湾の審判』(原題は『真珠湾の最後の秘密』)もあれば、また新しく学問的な立場より、奇襲についての専門研究をまとめた社会科学者ロバータ・ウォールステッター女史の大著『真珠湾その警告と決断』(米国スタンフォード大学出版局、一九六二年刊)のような、良心的な専門書もふくまれている。(しかし、その大半は、興味本位のノンフィクション読物書が占めている) ではいったい、なぜ、米、英国民は真珠湾奇襲に、いまでも、それほど重大な関心なもっているのでふろうか? それは、現在の核ミサイル時代で、いちばん恐ろしい『核奇襲』のあり方と、その予知、抑止、防止のあらゆる対策、方法にかんして、真珠湾奇襲の貴重な教訓から、がめつく学びとるためだ! 我々日本人は、いまさら真珠湾奇襲について、かれこれ論じてもはじまらない、といったわびしい気持が一般に強いが、彼らにとっては、真珠湾奇襲こそ、将来の『核奇襲』の原型(プロトタイプ)として、この両者が、不可分なくらい、かたく結びついているのだ! 実際に、戦略上からも、戦術上からも、通常爆弾によった過去の真珠湾奇襲と、メガトン級の原、水爆弾による将来の『核奇襲』との間に、死傷者数と破壊力のものすごいケタちがいをのぞいては、べつに変わりはないわけである。 
3 奇襲は予知されていたか?

 

終戦後はじめて、米国の新聞、通信の報道によって、日米開戦の前夜ともいうべき重大な日米交渉(野村・ハル会談とも呼ばれた)をめぐり、日本側の最高機密度の外交暗号電報が、すべて米国側に自由に傍受解読されて、日本政府と軍部の手のうちがすっかり見すかされ、また日本の対米英蘭戦争の準備行動までもつつ技けになってした、おどろくべき事実がばくろされて、我々日本人はまさに唖然(あぜん)とし、かつ呆然(ぼうぜん)としたものであった。要するに軍国日本は、武力戦に敗けたのみならず、開戦前の諜報戦にもすでに敗けていたのだ!。それから戦後、米国政府がけっして正式に発表したわけではないが、しかし、米国側の熱心な大勢のジャーナリストや軍事専門家の努力により、この奇怪な暗号諜報戦の真相が、しだいに明るみに出てきた。いまその主要な点をつぎに列挙して、これまで日本では断片的にしか報道、紹介されなかった、いわゆる『マジック』情報の、極秘の正体を総合的に検討してみよう。
「 (1)最新の権威ある記録資料によると、米陸軍通信隊(シグナル・コアズ)諜報部の暗号班主任(文官)ウィリアム・F・フリードマン(戦後の一九五六年に陸軍大佐の階級で退職す)の苦心努力によって、米国側では、開戦の約一年半も以前の一九四〇年八月に、東京(外務省)とワシントン電報を、はじめて完全に解読することに成功した。それまでにも一部分の暗号解読は行なっていたが、暗号電報全文の解読成功は、このときが最初であった。
(2)フリードマンは、この機密度の高い暗号解読の技術と研究にかんしては、世界一の専門家とみとめられていたが、開戦の年(一九四一年)の二月、野村吉三郎大使のワシントン着任いらい、ひんぱんに東京の外務省との間に発、受信された数百通にのぼる極秘の、重大な外交暗号電報の傍受解読のために昼夜、やすみなく没頭した結果、精神過労と、心臓病のために開戦直後に倒れて、戦時中は長らく入院療養していた。しかし、彼のかくれた努力と功績によって、米国側では日米交渉をめぐる日本側の機密暗号電報の内容を自由に知り、きわめて有利な立場にあった。
(3)この偉大な功績によって、フリードマンは、一九五六年に退職したとき、米国議会の承認をへて十万ドル(三千六百万円)の功労金を贈られ、また新制定の『国家安全保障勲章』(NSM)を授与された。
(4)その当時、日本側の、あらゆる種類の外交暗号電報の傍受解読されたものに、米軍諜報部では『マジック』(魔法)という隠語名をつけて、それを極秘の『マジック』情報と呼んでいた。この隠語名の発案者は、当時の海軍諜報部長アンダーソン大佐であった。
(5)陸軍通信隊諜報部(SIS)の主任暗号官フリードマンの最大の功績は、日本側の各種の外交暗号電報のなかで、もっとも機密度の高い『パープル』(紫色)暗号用の精巧な 暗号機械(日本海軍技術研究所が苦心作製した電気モーター式の『九七式欧文印字機』で外務省へ十数台提供していた)を、手製で開戦時までに四台を完成していた事実である。この複雑で精巧な暗号機械にかけて、タイプライター式のキーを打たないかぎり、ぜったいに暗号解読は不可能と、日本側で自信を持っていたのに、彼は、十八ヵ月もかかって、その模造製作に成功した。その四台のなかで、ワシントンに一台、英国ロンドンに一台、フィリピンのキャピテ軍港に一台がそれぞれ配置されたが、かんじんの真珠湾軍港には配置されていなかった。(しかし、記録によると、その五台目は製作中であった)
(6)開戦の年の後半には、この模造された『パープル』暗号機械が大いに活動し、米陸海軍諜報部が、二十四時間交代制(奇数日は海軍担当、偶数日は陸軍担当)で、全米十数ヵ所の電波受信所で特別に傍受した日本外交暗号電報を、片っはしから解読にあたった。
(7)このように米国側では、『マジック』情報をたくさん入手して、日本側の動向と意図を十分に察知しながら、なぜ 十二月七日、日曜日(米国時間)の真珠湾奇襲にあのような 未曾有の油断と、大惨害をさらけ出したのであろうか? (これがルーズベルト謀略説の出所であるが、しかし、これは、反ルーズベルト派の絶好の攻撃材料にはなるが、厳正な太平洋戦史の調査研究によって否認されている)
(8)要するに米軍は、日本側の外交暗号電報を自由に傍受解読していながら、不覚にも、その『マジック』情報の内容を軍首脳部が迅速に、正確に評価、判断することに失敗したのだ。その主原因は、陸海軍諜報部とも、暗号解読作業の要員不足と、その作業プロセスにたいへん手間どり、せっかく重大な、緊急の暗号電報を傍受しながら、その暗号解読と英文翻訳に、じつに一ヵ月以上も要したからであった。 」
まさに、事実は小説よりも奇なり、である。 
4 大川周明の感激と大気炎

 

戦後に育った若い世代の人々は、大川周明博士といってもほとんど知らないであろうが、戦後の東京裁判(昭和二十一年五月〜二十三年十一月)の公判中に、おなじ被告席に着席していた、やつれ果てた東条元首相のハゲ頭を、突然、後方から強くたたいた長身の豪傑風の、A級戦犯の右翼論客といえば、あるいは記憶のある人々もあるだろう。大川博士は、ナチズム(国家社会主義)の理論指導者として、ナチス政治で重きをなしたドイツ哲学者アルフレッド・ローゼンバーグ博士(有名な『二十世紀の神話』の著者、戦後の一九四六年十月、ニュールンベルグ戦犯裁判で絞首刑を宣告、執行された)とならんで、軍国日本の代表的な超国家主義理論家と呼ばれ、A級戦犯に指定されて、スガモ・プリズン入りをしたが、公判中に精神異常をきたして、医師の診断の結果、ついに『発狂』とみとめられて、審理中止をいいわたされた。かくて彼は、あやうく絞首刑をまぬがれて数年間、精神病院に強制収容されていたが、退院後に、じつはみずから『仮病』を使って裁判をまぬがれたと、堂々と声明して、世間をあっとおどろかせた奇怪な人物である。(彼は結局A級戦犯の裁判を逃れて郷里に帰り昭和32年まで生きた。71歳で没) この大川周明博士は、明治四十四年、東京帝国大学文学部卒、法学博士の肩書を持った、大正・昭和時代の国家革新運動の大立者であり、昭和七年五月十五日に首相官邸で、当時の犬養毅首相(政友会総裁、七十七歳)を暗殺した、急進的な海軍青年将校一派(陸軍士官学校生徒、民間行動隊多数をふくむ)の有名な五・一五事件の黒幕的人物として、懲役十五年の判決をうけた、熱血の理論家兼闘士であった。彼は、はやくから日本主義、大東亜主義、反民主主義を強く提唱して、米英勢力の排撃を大いに主張し、大正八年には極右、国家主義結社『猶存社(ゆうぞんしゃ)』を結成して、狂信的な機関紙『雄叫(おたけび)』を発行、つぎのような目的宣言を発表して、活発な理論、実践の両方面にわたる運動を展開していた。彼の親しい仲間には後年、皇軍反乱の二・二六事件の黒幕的首謀者として、銃殺刑を宣告、執行された有名な右翼革命家・北一輝(きたいつき)もふくまれていた。『日本の現状を打破し、日本民族の真精神を発揮し、もって君民同治の革命的大帝国を東亜の天地に建設せん!』このような思想的立場と、行動的背景を持った大川博士が、日米開戦と真珠湾奇襲大勝の歴史的吉報を聞いて、いかに欣喜(きんき)感激したか、想像にかたくないであろう。(したがって、戦後に、彼が東京裁判でA級戦犯に指定されたのもムリはないだろう) 彼はその感激を得意の壮重、雄大な健筆にたくして、当時、つぎのように述べている。
「 『昭和十六年十二月八日は世界史において永遠に記憶せらるべき吉日である。米英両国に対する宣戦の詔勅は、この日をもって渙発(かんぱつ=公布)せられ、日本は勇躍してアングロ・サクソン世界幕府打倒のために起った。しかして最初の一日において、すでに、ほとんどアメリカ太平洋艦隊を撃滅し、同時にフィリピンを襲い、香港を攻め、マレー半島を討ち、雄渾(ゆうこん)無限の規模において皇軍の威武を発揚した。東亜新秩序の破壊を前提とする。東亜旧秩序の破壊とは、東亜における米英勢力の駆逐であり、亜細亜におけるアングロ・サクソン世界幕府支配の打倒である。かくして事物必然の論理として、日本は米英に対して宣戦するに至った。世界史は東西の対立・抗争・統一の歴史である。それゆえに世界の戦争史には、不思議なる秩序と統一がある。人類の歴史的記憶のうち、半ば想像的ではあるが、最初に明確に想起せられたるものは、恐らくトロイ戦争である。しかしてこの戦争は、実に亜細亜(アジア)と欧羅巴(ヨーロッパ)、東洋と西洋との最初の戦争であった。ヘロドトス(歴史学の父と呼ばれた古代ギリシアの史家)は、トロイ戦争をかくの如きものと考えたるがゆえに、その大著「歴史」をこの戦争から書き始めた。そは東洋と西洋との宿命的なる戦争を中心として展開せらるる世界史の序幕であり、爾来(じらい)、戦争の舞台は歴史の進行と共に広大となり、ついに全地球をその舞台とするに至った。いまやスカマンデル荒野の代りに渺茫(びょうぼう)たる太平洋が、またトロイの代りに尨大なる東亜の天地が、大東亜戦争の壮烈なる戦場となっている。しかも大東亜戦争は、依然として相対抗する東西両洋の戦いなることにおいて、トロイ戦争(古代ギリシアの有名な伝説的戦争で、スパルタの大軍十万が十年間にわたりトロイの城を攻囲、ついに占領した)と、その世界史的意義を一にする。あれらは、いま、全身全霊を挙げて、この雄渾なる戦いを戦いつつある。この戦争の勝敗は、まさに世界史の動向と人類の運命とを決着するものである。米英亜細亜(アジア)侵略の跡をたどる者は、彼らの支配がいかなる悲惨を世界にもたらすかを明白に認めるであろう』(原文のまま) 」
かくて長年の苦節、苦闘にきたえ上げられた国家革新運動の大立者大川博士は、西欧文明とアングロ・サクソンの金権資本主義を打倒する『聖戦』の世界史的意義を、全日本国民へ強く訴えるために、真珠湾奇襲大勝の直後の、昭和十六年十二月十四日より二十五日まで、十二回にわたりJOAK(当時の日本放送協会の唯一の全国中継ラジオ放送局)から、『米英東亜侵略史』と題する連続講演ラジオ放送で、得意の熱弁をふるった。いま私の手元にある、当時の大川博士のラジオ放送速記録によると、この注目すべき連続講演放送は、第一日から第六日を『米国東亜侵略史』と題して、
「 『日米戦争こそ、東洋と西洋との対立、抗争の歴史的帰結であり、この日米戦争における日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天(あま)つ日かがやく世界が明けそめねばならぬ。支那事変の完遂は東亜新秩序実現のため、すなわちアジア復興のためである。アジア復興は世界新秩序実現のため、すなわち人類の一層高き生活の実現のためである。世界史はこの日米戦争なくしては、しかして日米戦争における日本の勝利なくしては、けっして新しき段階を上りえないのである。日本とアメリカ合衆国とは、いかにして相戦うにいたったか。太陽(日本)と星(米国)とは、同時にかがやくことはできません! いかにして星は沈み、太陽はのぼる運命になってきたか、その経緯をさぐることが、とりもなおさず、私の講演放送の目的である』 」
と、全国民へむけ大見栄を切った。さすがに彼は、日本有数のアジア通の実践的学者だけに、東条首相以下、政府と軍部要人の紋切り型の、かたくるしい国民への士気激励演説よりも、それははるかに煽動的効果が強烈だったようだ。さらに第七日から第十二日までを『英国東亜侵略史』と題して、いわゆる英国の三百年にわたる東亜侵略、支配の罪業をあばき立てて、米英撃滅のために、ついに日本が決起した世界史的意義を大いに強調した。そして彼は、
「 『大東亜とは日本・シナ・インドの三大国であり、我々日本人の魂こそ三国魂である。すなわち日本精神とは、大和心(やまとごころ)によってシナ精神とインド精神とを総合せる東洋魂である。我らの心のなかにひそむこの三国を具体化し、客観化して、一コの秩序たらしめるための戦いが、大東亜戦である。正しきシナと、よみがえれるインドとが、日本と相むすんで東洋の新秩序を実現するまで、いかに大なる困難があろうとも、我らは戦いぬかねばならない。いと貴きものは、いと高き価をはらわずば、けっしてえられない。おもえば、一九四一という数は、日本にとって因縁不可思議の数である。元寇(げんこう)の難は皇紀一九四一年であり、米英の挑戦は西紀一九四一年である。私は日本の覚悟と努力とによって、米英の運命また蒙古のそれのごとくなるべきことを信じて、この不束(ふつつか)なる講演を終わることにします』 」
と、全十二日間にわたる大講演ラジオ放送を終わった。私はこの当時、米国首都ワシントンですでに、連邦検察局(FBI)の手に逮捕、抑留されていたので、この大川周明博士の歴史的な大熱弁を、内地のラジオ放送で聞くチャンスをいっした。今日、いまは亡き大川博士の名前は、すっかり忘れられ、あるいは、まったく知られずに過去の悪夢のなかへ葬り去られてしまった。しかし、私は、日本の戦史家の立場より、やはり彼こそ、軍国日本を代表した大東亜理念のたくましき提唱者であり、無定見な東条政府や、大本営のいかなる戦争指導者連中よりも、世界史的な戦争観のめずらしい持ち主であったと思っている。戦後、わが国では、すでに長年の間、太平洋戦争をただ軍事、政治、外交の面からのみ論議して、思想戦の点をまったく除外、無視していることは、今日の民主主義日本の国民感情としては、もっともに思われるが、しかし、戦時中の狂信的愛国心の正体と、発想を正しく理解するために、最右翼言論人の長老徳富蘇峰翁と大川周明博士の多数の戦前、戦中の発言、著述記録は、十分に再検討されねばならない、と私は信じている。  
 
北一輝

 

はじめに 
故田中惣五郎氏の著作『日本ファシズムの源流―北一輝の思想と生涯』が刊行されたのは1949年であった。それは最初の北一輝に関する研究書であると共に、その題名が、北についてのその後の一般的イメージを代表するようになった点でも、記憶さるべき著作であった。この北を「日本ファシズムの源流」とする見方は、現在でもある程度常識化しながら流通しているし、それは北をとりあげる場合の基本的観点を示してもいると今でも私は考えている。しかし、そのことは、すでに北の歴史的位置づけが確定されたということを意味してはいない。常識的に言っても、「源流」は必ずしも「主流」であることと同義ではないし、また「源流」と言っただけでは、それが唯一の、あるいは基本的な源流であるのか、複数のもののなかの一つのものという意味なのかも明かではない。
まず、「大政翼賛会」に象徴されるような支配体制のファッショ化の観点からみれば、2・26事件において銃殺されてしまった北が「主流」に位置していたとは言えない。しかしまた、1919年(大正8年)大川周明にむかえられて上海から帰国した北、及び彼が持ち帰った『国家改造案原理大綱』(のち『曰本改造法案大綱』と改題刊行)が、その後のファッショ化を促す大きな衝撃力となったことも否定し難い事実であろう。とすれば、その間には如何なる関連が存在したのであろうか。問題は、体制化した日本ファシズムに対する北の特殊性とは何か、北が日本ファシズムの源流となりえた衝撃力とは何かという二つの観点を中心として解かれねばならないであろう。
たしかに北の思想は、1937年文部省が国民教化をめざして発表した『国体の本義』などの立場からみれば、異端とされざるを得ないような性質を持っていた。その点について、2・26事件直後の1936年5月、将校閲覧用に作成された「調査彙報」第50号は『日本改造法案大綱』を次のように批判している。「要するに著者の根本思想は強烈なる社会民主主義の上に立ち、極端なる機関説を採り、天皇の神聖と我が国体の尊厳を冒涜し奉るものにして、表面尊皇の念を装へるも其内包する思想を検討するとき、彼の所謂国体観は絶対に我が軍人精神と相容れざるのみならず、日本臣民として正視するに忍びざるものと言ふべし1)」と。それは以後の日本ファシズムの主流からする基本的な北一輝批判の観点を代表するものでもあった。2)
   1) 『北一輝著作集』第3巻所収、621〜2ページ、なお、『北一輝著作集』については、以下の如く略記する。
   2) 例えば、1941年4月、司法省刑事局「思想研究資料」特輯第84号として刊行された山本彦助検事の報告書『国家主義国体の理論と政策』も、北について「彼は、不敬不暹思想の抱懐者であって、我国体と,全く相容れざるものである」と述べている。(東洋文化社復刻、1971年)
なるほど北は、すでに早く、1906年(明治39)に自費出版した最初の著作『国体論及び純正社会主義』において、自らの立場を「社会民主主義」と規定し、いわゆる国体論の妄想を打破せんと企てた。そこでは天皇は、帝国議会と共に国家の最高機関を構成する要素として性格づけられていた。そして北は20年後の1926年(大正15)、『日本改造法案大綱』の刊行にあたって、自分の思想は「二十年間嘗て大本根抵の義に於て一点一画の訂正なし」「一貫不惑である1)」と述べ、『国体論及び純正社会主義』の序文をその附録として収録したのであった。2)
   1) 「第3回の公刊頌布に際し告ぐ」、大正15年1月3日付。
   2) 北が、発売禁止のうきめにあった『国体論及び純正社会主義』に後年まで強い執着を持っていたことは満川亀太郎の次の記述からもうがじえる。「しばらくは猶存社に平和なる日が続いた。北君は朝夕の誦経が終ると、15年前の著作たる『国体論及び純正社会主義』に筆を入れるを日課としていた。」(満川亀太郎箸『三国干渉以後』1935年、平凡社)
おそらく北が、満川や大川周明らの招きで上海から帰国した1920年のことであろう。しかしこの時、北がどのような加筆、訂正を行ったか今のところ明かでない。
北が一貫不惑であったかどうかは評価の分れるところであるが、彼の「社会民主主義」が日本ファシズムの主流と異質であったことは疑いないところである。同時にまた、北の「社会民主主義」は、世の一般の社会民主主義とも箸るしく異質であった。従って、北一輝研究は、まずこの異質の内容を明らかにすることから始めねばならなくなる。
研究史の上から言っても、北一輝研究が盛んになったのはこの問題が提起されてからであるが、その場合、問題がファシズム主流からの異質性、とくに国体論=天皇制イデオロギーの批判者という観点を軸として立てられたことが特徴と言えた。そしてそれはファシストとしてのそれまでの北のイメージを180度転換させるような効果をもたらした。 最近の研究動向は、この観点から、北を日本ファシズムの問題から切り離しても通用する独自の思想家ないし革命家として再評価しようとする方向に傾いているように思われるのである。
ところでこの北一輝の新しいイメージを最初に提起したのは、久野収氏の「日本の超国家主義一昭和維新の思想1)」であった。久野氏は、まず北を「昭和の超国家主義の思想的源流2)」と位置づける。そしてこの「超国家主義」は「明治以来の伝統的国家主義」から切れていると同時に、第2次大戦期の支配的思想とも異質だというのでる。つまり氏は、明治の国家主義と、昭和の体制化したファシズム思想とを連続したものと捉え、「超国家主義」をその対極に置こうとしたのであった。
そしてこの「超国家主義」は天皇を伝統のシンボルから変革のシンボルに捉え直すことで伝統的国家主義への反抗を試みたが、2・26事件の失敗によって、結局「明治以来の国家主義に屈伏し、併合された3)」とみるのである。
このような位置づけから言えば、明治の国家主義に対立する点で、「超国家主義」と「民本主義」とは共通の性格を持つことになり、この論文は、北一輝と吉野作造をそうした共通性で捉えた点で、それまでの北一輝のイメージに深刻な衝撃を与えたのであった。氏は明治以後の状況について次のように述べている。「天皇中心のシステムは、だんだんと統合力、求心力をうしない、まだ外部からはみえなくても、内部から解体をはじめた。この時伊藤の作った憲法を読みぬき、読みやぶることによって、伊藤の憲法、すなわち天皇の国民、天皇の日本から、逆に、国民の天皇、国民の日本という結論をひき出し、この結論を新しい統合の原理にしようとする思想家が、二人出現した。主体としての天皇、客体としての国民というルールを逆転し、主体としての国民、客体としての天皇というルールを作ろうというのである。 一人は、吉野作造、他は、北一輝であった。吉野は、議会と政党の責任内閣を基礎として、このルールの実現をくわだて、北は、軍事独裁を通じて、このルールの実現をくわだてた4)」。そして、吉野の民本主義が大衆をとらえずに挫折したとき、代って北の超国家主義が舞台の正面に立ちあらわれたとみる久野氏は、その間に「土着的シンボルの回復」、「社会主義とナショナリズムの結合」といった問題をも示唆したのであった。
   1) 久野収、鶴見俊輔共著『現代日本の思想』所収、岩波書店、1956年。
   2) 同前。
   3) 同前。
   4) 同前。
この久野氏の問題提起は、北一輝研究を大きく発展させることになった。1959年には北の主著を復刻した『北一輝著作集』第1巻・第2巻が刊行され、さらに72年には、その後松本健一氏らによって発掘された北の初期の論文や関係資料を集めた第3巻が続刊された。しかし同時にまた、その後の研究は、久野氏のシェーマを基礎とし、それを増幅するという傾向を持つに至っているように思われる。それは大まかに言えば、一つは氏の言及した「土着」の問題から、土着革命家としての北一輝像をつくろうとする傾向であり、もう一つは明治から第2次大戦期に至る支配的国家主義に対する批判者・反逆者としての北のイメージをさらに引きのばして、北のなかに戦後改革をも透視する進歩的側面を読みとろうとする傾向である。
例えば鵜沢義行氏は、『国家改造案原理大綱』の思想を「天皇ファシズム」と規定しながらも、その「国民ノ天皇」の部分は、戦後の象徴天皇の「過渡的原理」を暗示するものと読み込んでいる1)。また村上一郎氏は北のなかに「天皇制を逆手にとって天皇制を打倒する方向2)」をよみとろうとし、河原宏氏は「土着革命の構想─北一輝が自らに課した課題、したがって彼の思想がかもしだす異様な魅力はかかってこの一点に要約されるであろう3)」と述べる。さらにG.M.ウィルソン氏は北を近代化の推進者だったとして次のように言っている。「北は、社会主義者たちが国民の中のナショナリズムに働きかけて、これを自分たちの支持源とすること、すなわち、国家とそのシンボルたる天皇を、『全国民』の要求に従うものにすることを望んでいた4)」「(北の国内改造案)は明らかに、近代の社会問題に対する一種の福祉国家的な考え方を示している5)」「北は近代化推進者(モダナイザー)であった6)」と。
そして最後に松本健一氏の次の一節を引用しておこう。「北一輝の思想は今日なお生き残っており、国民国家をもつき動かす可能性をさえもっている。……なぜならば,北は明治国家を天皇制国家として把握せずに、近代国家の成立、つまり国民国家として把握したからである。だからこそ8月15日以後のいわゆる『民主憲法』によって、北の国家改造法案のほとんどが実施されるという状態が現出したのである。けれど、北の内在論理としての『超国家主義』は、この国民国家が他の国民国家と相剋し、争い、超国家─世界連邦にまで突き進むと説いており、それこそが北の超国家主義思想だったと思えてならない。つまり超天皇制国家であるのはいうまでもなく、 超国民国家でさえあったということだ(手段は帝国主義戦争であるにせよ)。それゆえに、国民国家の形態を法制度上でいちおう成就した今日でも、北の思想が有効である所以があるのであり、そこに北の怖ろしさがあるのだと思わざるをえない7)」。
   1) 「昭和維新の思想と運動」日本政治学会編『政治思想における抵抗と統合』、若波書店、1963年。
   2) 『北一輝論』三一書房、1970年。
   3) 「超国家主義の思想的形成─北一輝を中心として」、早稲田大学社会科学研究所・プレ・ファシズム研究部会編『日本のファシズム』早稲田大学出版会、1970年。
   4) 『北一輝と日本の近代』、岡本幸治訳、勁草書房、1970年。
   5) 同前。
   6) 同前。
   7) 『北一輝論』、現代評論社、1972年。
北の著作には、それだけをとり出せば、このように読みうる部分がないわけではない。すなわち、これらの北一輝像に共通しているのは、『国体論及び純正社会主義』における国体論批判と、『国家改造案原理大綱』巻1「国民ノ天皇」とを結び、そこを北の思想の本質的部分として高く評価しようとしている点にあるようにみえる。しかし反面でこの評価は、北の国体論批判が、彼の「社会民主主義」の不可欠の一環であることを軽視する結果におちいってはいまいか。すなわち、明治維新で社会民主主義が日本国家の本質となったとみる彼の社会民主主義論は、国体論批判なしには成立しえないのである。従って、橋川文三氏が「奇妙な問題」「わかりにくいところ1)」と指摘したような、彼の言う社会主義・民主主義の特異性と切り離して、国体論批判だけを強調するとすれば、北自身の思想とは「思想系を異にする」―北の用語を借りれば―北一輝像にたどりつくことにならざるをえまい。私には、最近の北一輝研究の動向は、北を日本ファシズムの主流から区別するのに急なあまり、北の社会民主主義がもつ、一般の社会主義・民主主義に対する特異性に十分な分析を加えていないように思われるのである。 しかし、この面こそが北の思想の最も本質的な部分であり、それがまた北を日本ファシズムの源流たらしめる要因となっているのではあるまいか。
   1) 「国家社会主義の発想様式―北一輝、高畠素之を中心に」、日本政治学会編『日本の社会主義』岩波書店、1968年。
この問題もまた久野収氏によって指摘されながら、しかしその後掘り下げられないままに終っているように思われる。1959年「超国家主義の一原型─北一輝の場合1)」を書いて、『国体論及び純正社会主義』を中心に再び北一輝をとりあげた久野氏は、今度は北の社会民主主義のなかに、後年の「ファシズム化」の要因を指摘しておられる。すなわち、ここでは、『国体論』の段階と『改造法案』の段階の北とを区別し、前者で進歩的であった北は、後者ではファシストとして再登場するという見解が示される。その天皇論、国家構造論で進歩的であった北の社会民主主義は、その国家観によってファシストに転化するとして、次のように述べられるのである。
「北の天皇論、国家構造論こそは、……国家目的のための“君民同治”“君民共治”の姿、民主共和をイデーとして認める君民共治の姿を明治憲法のなかに読み抜いた思想だといってよく、この思想こそ明治以後の日本人の進歩的部分の“原哲学”をなす天皇観だといえるであろう。……天皇観、憲法観、国家体制論、社会的理想像において、あれほど進歩であった北が、後年、中国の独立革命での体験を通じ、『法案』によって、ファッシストとして再登場する秘密の一つは、実に彼の国家観にひそんでいたと考えられる2)。」
しかし、北の思想において、天皇観、国家体制論は進歩的で、国家観はファシズムヘ通じるといった分離が可能なのであろうか。氏は北の国家観を分析されたのち、 北の論理からは、「個人のなかに含まれる体制構想的契機、一言でいえば民主(デモクラティック)=自由的契機(リベラル)は落丁しないわけにゆかない3)」と指摘される。しかしこの点は果して北の天皇観、国家体制論と無縁なのであろうか。北の天皇機関論が天皇の特権の内容を検討しようとはせず、またその公民国家論が、公民国家か否かの本質判定にとどまり、それ以上の制度論に深入りしようとしないのは、この「落丁」との関連を除いては理解しえないのではあるまいか。
   1) 『近代日本思想史講産』第4巻所収、筑摩書房、1959年。
   2) 同前。
   3) 同前。
私には現在の北一輝研究の状況は、はなはだ混沌としているようにみえる。そしてそれは北の思想のなかから、何かすぐれた点をとり出そうとする意図が先走ってしまった結果ではないかと思われる。
本稿は、第1に北の思想において、さまざまな要素がどのような関連をもち、どのように内容づけられているか、それはどのような発展方向をもっているのかを追求すること、第2に北の思想が、日本ファシズムの形成に参与する諸グループにどのような影響を与えたのかを明らかすることをめざしている。それが、日本ファシズムの形成過程と性格を解明するために、さらにまた、かつて久野氏が提起された日本の国家主義の問題を検討するためにも、必要にしてかつ有効な作業となりうるのではないかと考えているからである。 
1 帝国主義と国家の必要

 

1883年(明治16)佐渡ヶ島に生れた北は、日清戦争が開始された時12才であった。このことは、彼が戦争そのものと戦後の「臥薪嘗胆」のスローガンによって国家意識が大衆にまで浸透していった時代に、10代を過したことを意味している。またそれは同時に、日清戦争の敗北によって中国に対する列強の植民地侵略が急テンポで進められた時期でもあり、日本の国内でも、「支那分割論」「支那保全論」などといったテーマに世論の関心が向けられていた。このことは北の思想形成の1つの背景と考えておいてよいであろう。
もちろん、それは北が10代において早くも強烈な国家主義者になったという意味ではない。彼は1900年(明治33)に『明星』が創刊されるとすぐさま投稿をはじめる文学青年であったし、また佐渡における自由民権の流を身近かにうけとり、同時に新しくおこってきた社会主義思想にも眼をむけていたことは、すでに田中惣五郎氏(『北一輝』増補版1971年、三一書房)や、松本健一氏(『若き北一輝』、1970年、現代評論社)などによって明らかにされている。そして特に内村鑑三に特別の敬意を払っていたことは、後で述べる「咄、非開戦を言ふ者」のなかの次のような内村についての叙述にもみることができる。
「氏は十字架を指して人道の光を説きぬ、世が尊王忠君を食物にして私慾を働くの時に於て、氏は教育勅語の前に傲然として其の頭を屈せざりき、……実に内村鑑三の四字は過去数年間の吾人に於ては一種の電気力を有したるなり」
このような北の思想的出発点は、政治問題についての最初の論文「人道の大義」(佐渡新聞、明治34・11・21〜29)に掲げられている次のような改革項目からも推測することができる。
「一、天皇は一般民人を親近し拝謁を贈ふを得るの制度となすべし
二、臣民間の階級制度を廃止すべし
三、智識の分配を平等ならしむべきこと
四、議員撰挙法を改正して広義なる普通法となすべし
五、労働組合を組織して資本家利益の壟断を制し及び相互救護するの方法を講ずべし」
それは、自由民権や社会主義の主張を彼なりに整理したものとみることができる。そして、ここではまだ、国体論打破の志向はあらわれていない。「伏して惟みるに天皇は民の父母たり民は其子女に異ならず、是れ我が立国の大本にして万世不易の格言国情の列国に異なる所爰に在り」として、「君臣の疎隔」を除去しようとする論法は、国体論の枠内のものであった。しかし後の北の思想展開との関連で言えば、ここで早くも国内改革と国際的発展を結合する視点がみられることに注意しておく必要があろう。
彼は、さきにあげた諸改革の目的が「現在の散邦裂士を連合し……世界的大政府を建立するの一事」にあるとし、そのために「率先して人道の大義を唱へ以て世界列邦を指導」することが「君子国たる吾日本の以て畢世の任務となすべき所」と述べている。そしてその「順序」として「先づ自国の国力を養成し、文明の基礎を確立し上下相一致し君民相和同して、而る後始めて其志を一世に行ふべきのみ」とするのである。すなわち、国力養成・文明の基礎確立→列国と異る君主国(日本の特殊性)→列邦に対する指導性→世界的大政府として、この「順序」を図式化することが出来る。そして国体論批判は、この「文明の基礎確立」のための試みとして出されてくるのであり、そのことによって日本の特殊性の問題は再検討せざるを得なくなったにちがいない。同時にまた1900年の義和団事件以後ロシアとの対立が激化しつつあるという現実のもとでは、戦争か平和かの問題を通して、列邦に対する指導性を確保 しながら世界的大政府に至る道程についても検討し直すことが必要となったと思われる。
北が最初に国体論批判の声をあげたのは、明治36年6月25、26日にわたって「佐渡新聞」に掲載された「国民対皇室の歴史的観察(所謂国体論の打破)」と題する論説においてであったが、この連載が新聞社の側の自主規制によって2回だけで中止された一週間後には、彼は「日本国の将来と日露開戦」(明治36・7・4〜5)なる論説をもって、再び佐渡新聞に姿をあらわしている。この論説は「政界廓清策と普通選挙」(明治36・8・28〜30)をはさんで、「日本国の将来と日露開戦(再び)」(明治36・9・16〜22)と続き、更に「咄、非開戦を言ふ者」(明治36・10・27〜11・8)において、社会主義者の非戦論への反撃へと発展しているのである。つまりここでは日露開戦を唱えるような国家意識の高揚が国体論批判を生み出しているという点に注意しておきたい。すなわちこの関連がのちの『国体論及び純正社会主義』の基本的骨組みを形成したと考えられるからである。
「国民対皇室の歴史的観察」は次のように書き出される。「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を載く、是れ国体の精華なりといひ、教育の淵源の存する所なりといふ。而して実に国体論なる名の下に殆ど神聖視さる。」そしてこの神聖視される国体論は実は「妄想」にすぎないことを明らかにしようとする。
そしてその意図を彼は次のように述べている。「迷妄虚偽を極めたる国体論といふ妄想の横はりて以て、学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其根源に於て腐敗毒しつゝあることこれなり。吾人が茲に無謀を知って而も其れが打破を敢てする所以の者、只、三千年の歴史に対して黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途とに対して、実に慚愧恐倶に堪へざればなり。」
彼は「事実をして事実を語らしめよ」と言い、日本国民は1000年にわたって皇室を暗黒の底に衝き落してきたというのが歴史的事実ではないかと指摘した。しかしこの論文は新聞社側の自発的掲載中止によって、ほんの序論部分が発表されただけで姿を消したのであったが、 その末尾は「吾人の祖先は渾べて『乱臣』『賊子』なりき。」なる一文で結ばれていた。我々はこの未完の短文から、3年後の『国体論及び純正社会主義』のうち、「例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の殆ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なり」、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」と述べられているような部分の構想がすでに出来あがっていたことを確認することができる。 しかし北の目的は、たんに歴史的事実をもって国体論の妄想にすぎないことを証明することだけではなかった。彼は国体論を排し、「以て我が皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざることを示さんと試む」と述べているが、しかし彼の意図が君主と人民、あるいは国家と国民の一般的関係を解き明かすだけに止まるものでなかったことは、先の引用の「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」という言葉のなかにあらわれているように思われるのである。彼にとっては、国体論の打破はあるべき国家意識を明確にするための第一歩にほかならなかった。そしてその点において、次の日露開戦論につながっていたと言える。
北の日露開戦論は、彼にとっては、日本のあるべき姿の模索という意味をもっていた。「露国に対する開戦、然らずむば日本帝国の滅亡」−北は再論をふくめると8回にわたって連載された「日本国の将来と日露開戦」をこう書き出している。この論説において彼は、まず世界的な帝国主義の潮流を認識し、日本もまた積極的にこの潮流に加わりこれを突き抜けてゆかねばならないと主張する、彼はすでに、かつて主張した世界的大政府の下での世界平和─「天下ハ乃ち泰平にして交戦は祖先の未開を証する話柄となるに至らん」─は、帝国主義の段階を経過することなしには実現しないとの考えに傾いていたと思われる。
彼は、「侵略的意味に解されたる民族的帝国主義は現下世界列強の理想なり」と世界の現状を認識する。そしてこの帝国主義の原動力を「人口の増加」に求めた。「見よ。世界は電気と蒸気とを以て全く縮少せられたり。人口は恐るべき勢を以て増加しつつあり。この増加する人口がこの縮少されたる世界に於て其の利益と権利とを争ふ。帝国主義が多くの場合に於て血と火とを以て主張さるゝ当然のことに属す。」北はこの「人口の増加」を基本におく見方からさらに帝国主義を「人種的競争」と捉えるに至るのである。そして「吾人は実に人種的競争の、砲火に於てか平和に於てか、終に吾人の時代に於て結着の勝敗を見ざるべからざるを想ふ」、とすれば、「来るべき人種的大決戦」に勝ち残るための条件をさぐらねばならなくなる。
すでに国体論を妄想としりぞけていた北は、まず「吾人は不幸にして甚だ優等なる人種に非ざること」を率直に認識せよと言う。日本の独立がおかされなかったといっても、それは「単に四囲の風浪と鎖国政策との為めに穴熊の如き冬眠的状態に於て僅かに」維持されたにすぎず、その結果として「人種の政治的法律的経世的能力無く」、残されたのは「小さき、醜くき、虚弱なる、神経質なる、早熟早老の吾人」にほかならない。さらばと言って、経済的資源があるわけでもなく、欧米帝国主義のように「経済的帝国主義」に立って商工的戦争を行うだけの力もない。「米大陸といひ、西比利亜といひ、濠州といひ、印度といひ、亜弗利加といひ、渾べて皆英米仏独露の列強によって握らるゝ者。彼等が是等豊饒にして広大な領土により、関税の塁を築きて其激甚なる経済的戦争を戦ひつゝあるの時。粟大の島国が奈何ぞ商工に於て立 を得むや」つまり「この島々に籠城して農業立国といひ商工立国といひ早晩の滅亡を察せず」というのである。
では、日本が帝国主義的に発展するための条件は何なのか。北は「三千年間不断の乱世と、戊辰、西南、日清、北清の戦争とを以練磨されたろ戦闘的特性」があるではないかと答える。日本人は「現今の世界に於ては最も能く戦争に長ず」と。彼の結論は戦争しかありえなかった。「吾人は貧と戦闘の運命を荷いて二十世紀の日本に生る」。三国干渉以来の「臥薪嘗胆」のスローガンによる軍備拡張の下で、10代の少年期を過し終えたばりの北にとって、対露戦準備は進捗し、軍事情勢は我に有利と思われた。「実に千歳の一遇なり」、「吾人は言ふ、戦争のみ、戦争を以て帝国主義を主張するにあるのみと。」
北が戦争に期待したのは広大な領土の獲得であった。彼は帝国主義の本来的なあり方は経済的帝国主義だと考えていた。そして日本も帝国主義の列に加わるためには、領土の拡大が先決だというのである。「経済的帝国主義の戦争には領土てふ資本を要す」, 「吾人は残酷なる経済的帝国主義の敗者たるに堪へず。……帝国主義の残酷を免れむとする、或る場合に於ける方法として侵略は止むべからざるに非らずや。……吾人は商工的戦争を為すの前、前駆として必ず先づ傾土の拡張をなさゞるべからず」。彼は対露戦争の勝利によって、「満州・朝鮮、而して西比利亜の東南部」を獲得した日本の将来を夢想する。それによって「来るべき人種的大決戦に於て再び成吉〔思〕汗たり、タメーラーンたる」ことも可能になるであろうと。そしてそれが黄色人種のためにもなるであろうと。「吾人は嘗て清国を打撃して同胞の黄色人種を奴隷の境遇に陥れぬ、然らば吾人は其の罪滅ぼしとして其打撃を進で露に下さゞるべからざるに非ずや。……日本帝国の飛躍、黄色人種運命の挽回、今や三十歳の小児は世界歴史に向って最も壮厳なる頁を綴らむとす。吾人五千万の国民はこの光栄に対して大胆に覚悟する所なかるべからず」。
こうして帝国主義者として立ちあらわれた北も、自らは同時に社会主義者であるとの自覚を捨てることができなかった。
従って、彼の尊敬した内村鑑三をふくめて、社会主義者たちが非戦論の主張を声高く主張しつづけるという現実に直面したとき、改めて社会主義と帝国主義の関係をどう理論づけるかの問題に直面しなければならなかった。そしてその過程で、単純明快な帝国主義の主張を微妙に修正しなければならなくなっていったように思われる。
明治36年10月27日から11月8日まで9回にわたり、佐渡新聞に「咄、非開戦を言ふ者」を連載した北は、まず自らの立場を次のように述べている。「吾人は明白に告白せむ。吾人は社会主義を主張す。社会主義は吾人に於ては渾べての者なり。殆ど宗教なり。……而も同時に、吾人は亦明白に告白せざるべからず。吾人は社会主義を主張するが為めに帝国主義を捨つる能はず。否、吾人は社会主義の為めに断々〔乎〕として帝国主義を主張す。吾人に於ては帝国主義の主張は社会主義の実現の前提なり。吾人にして社会主義を抱かずむば帝国主義は主張せざるべく。吾人が帝国主義を掲げて日露開戦を呼号せる者、基く所実に社会主義の理想に存す」。彼にとっては、帝国主義から人種的大決戦への道は、社会主義をもってしても避けることの出来ない世界史の必然と考えられたのであった。そこで彼は、「帝国主義の敵は社会主義なり、社会主義の敵は帝国主義なり」とする「世界を通じての定論」に挑戦を試みるのである。
非戦論を唱える社会主義者に対する北の批判は、2つの論点に要約することが出来る。すなわち、第1には国家の必要という問題であり、第2は帝国主義における正義という観点である。 まず第1の問題について、北は自らの社会主義を次のように説明する。「吾人の社会主義は…… 無政府主義に非らず。社会主義の実現は団結的権力を恃む。国家の手によりて土地と資本との公有を図る。鉄血によらず筆舌を以て、弾丸によらず投票を以て。─生産と分配との平均、即ち経済的不公平を打破することが是れ吾人の社会主義なり。」この限りでは、北は社会主義の実現のために権力の獲得が必要であることを強調しているにすぎないようにみえる。しかしここから彼の議論は国家一般へと飛躍する。彼の文章は次のようにつづく。「故に社会主義は必ず国家の存在を認む。故に国家の自由は絶対ならざるべからず。故に他の主権の支配の下に置かるべからず。故に国家の独立を要す」と。
ここで「国家の自由」という言葉にどのような内容が含ませられているのか明らかでない。しかしそれがたんに「国家の独立」と等置されているものでないことは、次の一文からも推測される。すなわち彼は、社会主義の目的は「筆舌を以て国家の機関を社会主義の実現に運転せむとするに在り、……投票を以て国家の羅針盤を社会主義の理想に指導せしむとするに在り」とし、「科学的社会主義は機関の破壊と羅針盤の粉砕とを最も恐る。機関の破壊と羅針盤の粉砕とを企てる者は渾べて社会主義の敵なり。無政府党は社会主義の敵なり、国家の機関と国家の羅針盤とは社会主義者の全力を挙げて護らざるべからざる所なり。」というのである。ここでも「国家の機関と羅針盤」とは何を指すのか説明がない。しかしその言わんとする所は、国家は人為的につくりえないものであり、国家の連続的な発展の上にしか社会主義も成り立ちえないという点にあったのではないかと思われる。勿論まだそのような方向が明示されているわけではなく、北自身もまた国家について明確な主張を持ち得ていなかったようにみえる。例えば、前掲引用文のすぐ前には 「固より社会主義の実現されたる状態が、今日の国家なる称呼と全く別物なるは言ふまでもなしと雖も、其の実現の手段として国家の手を煩はさゞるべからざるは亦論ずるの要なし」と書いている。これでは国家が社会主義のための「手段」であるようにみえるのであるが、このような表現は以後は全く使用されなくなっている。また、社会主義の下で国家が全く別物になるということは、社会主義によって国家がつくり変えられるということではなく、国家の発展を促進し進化させるというニュアンスで主張されたものと思われる。この論稿でも「人類が千年二千年の後進化して政府を要せざるに至らば無政府主義は夢想にあらざるべし」と述べているのであり、それはやがて、「国家の進化」という方向に展開されてゆくことになるのであった。
従って、北の言う「国家の独立」とは国家の発展と同義であり、その国家とは現実の明治国家にほかならなかった。彼の社会主義は明治国家の発展上にえがかれていたと言ってよい。そう理解しなければ、「満韓の併呑さるゝの日は、乃ち帝圃の独立の脅かさるるの時なり。帝国の独立の脅かさるゝの時は乃ちスラヴ蛮族の帝国主義に蹂躙さるゝの時なり。」との主張を彼の社会主義や国家についての主張と結び合せて理解することは出来なくなろう。
しかし、国家の独立と発展を肯定するとしても、それはただちに侵略的帝国主義を是認することを意味しはしない。さきには帝国主義を宿命としてうけいれ、「侵略」も止むべからずとした北は、ここで「国家の正義」という観点を引き入れてくる。彼はまず日本の戦争を国際的無産者の階級闘争になぞらえることで、社会主義者を納得させようと思い至ったのであった。「社会主義者なる吾人が日露開戦を呼号するはスラヴ蛮族の帝国主義に対する正当防禦なり。謂はゞ富豪の残酷暴戻に対して発する労働者の応戦と些の異る所なき者なり。」この主張はのちのファシズムに於ける「持てる国」と「持たざる国」の論理につながっていると言えよう。つまり、北はさきには領土拡張によって「持てる国」になることが、帝国主義の商工的戦争に加わるための必須の課題であると説いたのであったが、今度は「持たざる国」の「持てる国」に対する挑戦を正義」の名によって擁護しようとしているのである。従ってここでは、その反面で「持てる国」の帝国主義を不正義として倫理的に断罪することが必要となってくる。そしてそこではさきの人口の増加→商工的戦争を軸とする帝国主義の一般的把握は、正義─不正義という倫理的価値づけによっておしのけられ、社会主義者の任務もこの帝国主義の倫理的価値に対応して異ったものにならねばならないとされるのであった。
彼は「世界の社会主義者が、国民的利益線の膨脹と国権的勢力圏の拡大とを事とする帝国主義に反対することは事実なり」と認める。 そして欧米帝国主義国における社会主義者が自国の帝国主義に反対するのは「大いに理あり」とするのである。すなわち、ロシアの帝国主義はピーター大帝の旧き夢想を追う「血を好む軍人と事を悦ぶ外交家の挑発」によるものであり、アメリカの帝国主義は「富豪資本家の私利私慾を図る」ものにほかならない。またヨーロッパ大陸の帝国主義は「皇帝や政治家の偏侠にして卑小なる名利の心と、旧思想の凝結せる国民の、国家的浮誇と国家的嫉妬の情との為めに、関税の城壁を築き海陸の防備を設け、全欧州をして尚戦争の恐怖より免かる能はざらしむる者」なのであり、社会主義者がこれに反対するのは当然だというのである。
欧米帝国主義をこのように規定した北は、日本帝国主義を次のように対置した。「吾人の帝国主義は国家の当然の権利─正義の主張のみ。外邦の残酷暴戻なる帝国主義の侵略に対して国家の機関と国家の羅針盤とを防禦するのみ。狭隘の国土より溢れ出づる国民をして外邦の残酷暴戻なる帝国主義の脚下に蹂躙せしめず、国家の正義に於て其の権利と自由とを保護するのみ。吾人の帝国主義とは乃ち是れなり」。さきには帝国主義一般の起動力の如くに説かれた「人口の増加」は、ここでは日本帝国主義の特殊性として、その正当化の根拠に転化させられているのである。そしてそれにもまして重要なことは、北における社会主義者は、国家の倫理的価値に従属させられているという問題であろう。彼は「日本に於ける社会主義者は、其の社会主義の為めに断じて帝国主義を執らざるべからず」として、社会主義者に日本帝国主義の正義への従属を求めているのであった。そして更にこの正義」を媒介として社会主義と帝国主義を内的に関連づけようと試みながら次のように書いている。
「社会主義は『国民』の正義の主張なり。帝国主義は『国家』の正義の主張なり。経済的諸侯の貧慾なる帝国主義は、労働過多と生産過多とを以て国民の正義を蹂躙す、社会主義の敵なる所以なり。而も其の経済的諸侯の侵入に対して国家の正義を主張する帝国主義なくば、国民の正義を主張する社会主義は夢想に止まるべし。」
北が「国家の正義」を「国民の正義」に先行するものとして捉えようとしていることは明らかであろう。自ら社会主義者と称する北が、国内における「国民の正義」がすでに完全に実現されていると考えていた筈はないのだから。
以上のような日露戦争前夜の北の言論をみるとき、社会主義者の非戦論に対する批判が彼の思想形成の上で大きな役割を果したと考えることが出来る。彼はそこで提起した問題に固執することによって、その後の思想を展開したといってもよい。問題は社会主義と帝国主義という形で提起されたけれども,その核心は「国家」の問題に他ならなかった。彼は社会主義者として、或いは反国体論者として現実の明治国家を批判したけれども、他方では帝国主義者として、その同じ明治国家の膨脹を擁護した。この間の矛盾を解決するためには、明治国家を本質的に肯定しうるものとして価値づけることが必要であった。彼自身もまた、この問題の解決を自分にとって切実な問題として考えたにちがいない。「咄、非開戦を言ふ者」の末尾を「社会主義と帝国主義とにつきての吾人の態度は、他日巨細に渉りて披瀝すべし」と結んだこ とは、彼のそのような思いをあらわしたものに他ならなかったであろう。彼は、社会主義と帝国主義、国家の正義、明治国家の性格、国体論の反動的役割などの問題を統一的に説かんが為めに、国家論の構築を志したにちがいない。3年後の『国体論及び純正社会主義』はこの課題への彼なりの解答であった。日露戦争のさなか、明治37年夏に上京した彼は、日露講和条約成立の翌月、佐渡新聞に「社会主義の啓蒙運動」(明治38・10・13〜21)を発表、この著作が完成しつつあることを示していた。 
2 社会の進化と個人

 

『国体論及び純正社会主義』は5編16章より構成されているが、その編別は次のようである。
第1編 社会主義の経済的正義(3章)
第2編 社会主義の倫理的理想(1章)
第3編 生物進化論と社会哲学(4章)
第4編 所謂国体論の復古的革命主義(6章)
第5編 社会主義の啓蒙運動(2章)
つまり、第3・4編でこの著作の3分の2近くを占めているのである。このうち第4編は、いわゆる国体論の妄想を打破して明治国家の性格を明らかにしようとするものであり、この著作の中心部分をなすことは言うまでもないが、第3編ではそのための基礎として自らの「進化論」を確立することが意図されているのである。
北は、当時の流行思想ともいえる「進化論」によって、社会主義の問題を解き明かそうと試みたのであった。彼は「進化」を、ただ単に環境への適応による生物の変化としてではなく、より高い価値が実現されてゆく過程として捉えた。従って人類の歴史もまた「進化」として捉えられ、この人類の「進化」を如何にすれば積極的に推進することが出来るかを問うことになるのであった。彼が「社会主義とは人類と言ふ一種属の生物社会の進化を理想として主義を樹つる者なり」というとき、そのようないわば倫理的進化観が前提とされているのであった。
彼は「生存競争」の概念を利用して、社会科学の基礎理論をつくろうと試みた。勿論そのためには、生存競争によって人類が発展することを認めただけでは不十分である。彼は人類社会の発展段階を決定づける基本的な力を生存競争のなかに見出し、社会のあり方が、生存競争のあり方によって規定されていることを明らかにしようとしたのであった。そのためには、生存競争についての彼なりの理論をつくることが必要であった。彼はまず進化の程度に従って生存競争の内容も異ってくると想定した。つまり生存競争の内容そのものも進化するというのである。
彼は「今の生物進化論者は人類の生存競争も獣類の生存競争も其内容に等差無き者」と考え、またその理論は「恰も人類を進化の終局なるかの如き独断の上に組織」されていると批判する。つまり「吾人々類は将来に進化し行くべき神と過去に進化し来れる獣類との中間に位する経過的生物」であることが忘れられているというのである。そして彼は、「進化の階級」1)によって、生存競争の内容が異ってくるという主張を対置した。
   1) 後年の『国家改造案原理大綱』(大正8年)の「結言」のなかに「歴史ハ進歩ス。進歩二階級アリ」という一節があるが、大正12年に『日本改造法案大綱』と改題刊行した際には、この「階級」の語を「階梯」と訂正している。従ってこの例にならえば、「進化の階級」も「進化の階梯」に改められることになったであろう。
すなわち、人類と獣類とは「進化の階級」が異るのであるから、弱肉強食、優勝劣敗などと言っても、強者・優者の内容も異っている、「人類の生存競争は死刑を以て不道徳の者を淘汰しつつある如く其の内容は全く道徳的優者道徳的強者の意義なり」と言うのであった。そしてここから北は、更に積極的に生存競争の内容が進化の階級を決定するという論点を導き出していた。
彼は「食物競争」と「雌雄競争」を「生存競争の二大柱」としているが、そのあり方の変化を通じて、進化はより高い階級へと進んでゆくと考えた。 例えば彼は、「人類」の将来に、「類神人」「神類」というより高い進化の階級を想定するのであるが、そこに至る過程は、食物競争の重圧を排除して雌雄競争を中心とするような、生存競争の内容の変化によって実現されるものと考えていた。それは、生存競争の内容の進化が進化の階級を高めてゆく基本的な力であるという考え方を示すものにほかならないであろう。彼はその過程で更に排泄作用や生殖作用の廃滅という肉体的進化についても述べているが、ここでは彼のそうした空想の後をおう必要はなく、人類進化の終極に「人類」を想定することによって、進化が倫理化され、美化される傾向がより明碓になっていることを指摘しておけば足りるであろう。
さて、一般に生物の生存競争の内容が進化の階級に対応して異り、生存競争の内容の進化が、進化の階級を高める基本的な力であるとすれば、次には、人類の生存競争はどんな内容を持ち、どんな要因によって進化するのかが問われねばならないであろう。北はさきの引用では、人類の生存競争の道徳性を強調しているようにみえるのであるが、しかし彼はまた「道徳的行為とは社会の生存進化の為めに要求せらるゝ社会性の発動なり」とも述べているのであり、問題は結局、生存競争における社会性という点に還元されてくるわけである。北はまずこの問題を「生存競争の単位」という一般的な形で提起していた。彼は再び「今の進化論」の批判から始める。
「吾人は信ず、今の生物進化論は生存競争の単位を定むるに個人主義の独断的先入思想を以てする者なりと。」
すなわち彼は、生存競争を一般的に個々の生物の間の競争と考えるのは誤りであって、生物の進化の程度が進むに従って、生存競争の単位は拡大するというのである。つまり「下等生物の生存競争の単位は最も低き階級の個体即ち個々の生物単独の生存競争なるに高等動物に進むに従ひ其の競争の単位たる個体の階級を高くして社会と言ふ大個体を終局目的とする分子間の相互扶助による生存競争に進化する」と。そして彼は、生存競争に於けるより拡大した単位を、より高級な個体」と考えるのである。従って、行動の単位としての集団を拡大し、その結合を強化することが、進化の「階級」を高める力となるという結論が導かれてくる。
「即ち、相互扶助による高級の個体を単位として生存競争をなす菜食動物は、分立による下級の個体を単位とする肉食動物に打ち勝ちて地球に蔓延せりと言ふことなり。……喰人族の野蛮人も其の喰ふ処の肉は個人間の闘争によりて得るに非ずして、生存競争の単位は少くも戦闘の目的に於て協同せる部落なり。最も協同せざる肉喰動物と雌も生存競争の単位は如何に少くも相互扶助の雌と子とを包合せる聊か高級の個体に於て行はれ、最下等の虫類たる蚯蚓の如きすら土中に冬籠る必要の為めには二三相抱擁するが如き形に於て暖を取るの共同扶助を解すと言ふ。生物の高等なるに従ひて愈々個体の階級を高くし、鳥類獣類の如き高等生物に至りては殆ど全く人類社会に於て見るが如き広大強固なる社会的結合に於てのみ見出され、社会的結合の高き階級の個体を単位として生存競争をなす。而して此の高き階級の個体を単位としての生存競争は其個体の利己心、即ち社会的利己心、更に言ひ換ふれば分子間の相互扶助によりてのみ行われ、個体の最も大きく相互扶助の最も強き生物が最も優勝者として生存競争界に残る。人類の如きは其優勝者中の最も著しき者の例なり」
要するに北は、生存競争の単位としての社会が自らを拡大、強化してゆくことが、人類進化の原動力になると考えたのであった。そしてこれまで結果として実現されてきた進化を意識的に目的として推進することを、自らの社会主義の基本的な立場としたのである。彼は言う。「吾人は社会主義を生物進化論の発見したる種属単位の生存競争、即ち社会の生存進化を目的とする社会単位の生存競争の事実に求むる者なり」と。
しかし、社会の拡大・強化は如何にして実現されるのか。北はこの問題に答えるために社会と個人との一般的関係を明かにしようとする。彼が自らの立場を「純正」社会主義と名づけたのは、この問題の把握についての独自性を自負したからにほかならなかった。
彼はこれまでの思想が、社会か個人かのいずれかに偏っていたと批判する。すなわち「社会の中に個人を溶解する」「偏局的社会主義」や、「思想上に於てのみ思考し得べき原子的個人を終局目的として、社会は単に個人の自由平等の為めに存する機械的作成の者なりと独断せる」「偏局的個人主義」の双方から自らの社会主義を区別しようとするのである。彼はこの両者の止揚をめざして次のように言う。
「社会主義は固より社会の進化を終局目的として偏局的個人主義の如く機械的社会観を以て社会を個人の手段として取扱ふ者に非ず、而しながら社会進化の目的の為めに個人の自由独立を唯一の手段とする点に於て個人主義の基礎を有する者なり」
これまで述べてきたことからも明らかなように、北は「社会主義」を第一義的には「社会」 に重点をおく「主義」として理解していた。しかし同時にこの「社会」は「個人の自由独立」 なくしては発展し得ないと主張するのである。「緒言」でも「社会の部分を成す個人が其権威を認識さるゝなくしては社会民主主義なるものなし。殊に欧米の如く個人主義の理論と革命とを経由せざる日本の如きは、必ず先づ社会民主々義の前提として個人主義の充分なる発展を要す」と述べている。ではこの「個人の自由独立」や「個人の権威」の発展と、生存競争の単位 としての社会の強化・拡大とはどのような関係に立つのであろうか。ここで確認しておかなく てはならないことは、北における「個人の自由独立」は原理的な意味を持つものではないと言 う点である。つまり北にとって基本的なことは、「個人の独立自由」は「社会進化」のための「唯一の手段」だということである。つまり、それは最初から「社会進化の手段」という形に於てしか認識されていないのであった。
そして彼は、社会的な拘束力がいかにして超越的な有機体に転化するのかを説明することなしに、社会は個人を分子とする高次の有機体であると主張するのであった。「人類の如き高等生物も生殖の目的の為めに陰陽の両性に分れたる者なるを以て、是れを男子として或は女子として、又親として、子として、兄弟としてそれぞれ一個体たると共に、中間に空間を隔てたる社会と言ふ一大個体の分子なり」つまり個人も社会も共に一つの「個体」として、同じ次元で扱おうとするのであり、そこで「分子」とは集団の構成員という意味をこえて、一つの有機体の部分という意味を与えられているのである。 そして彼が、個人と社会とを共に「個体」だと主張するのは、個体は「個体としての意識」をもつ、つまり、社会には社会としての意識があることを主張したいがためなのである。
「一個の生物(人類に就きて言へば個人は)−個体として生存競争の単位となり、一種属の生物は(人類につきて言へば社会は)亦一個体として生存競争の単位となる。而して個体には個体としての意識を有す。―個人が一個体として意識する時に於て之を利己心と言ひ個人性と言ひ、社会が一個体として意識する時に於て公共心と言ひ社会性と言ふ。何となれば、個人とは空間を隔てたる社会の分子なるが故に而して社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会とは同じき者なるを以てなり。即ち個体の階級によりて、一個体は個人たる個体としての意識を有すると共に、社会の分子として社会としての個体の意識を有す。更に換言すれば、吾人の意識が個人として働く場合に於て個体の単位を個人に取り、社会として働く場合に於て個体の単位を社会に取る、吾人が利己心と共に公共心を、個人性と共に社会性を有するは此の故なり。―即ち公共心社会性とは社会と言ふ大個体の利己心が社会の分子としての個人に意識せらるゝ場合のことにして、分子たる個人が小個体として意識する場合の利己心も其の小個体が社会の分子たる点に於て社会の利己心なり。 故に利己心利他心と対照して呼ぶが如きは甚だ理由なきことにして寧ろ大我小我と言ふの遙かに適当なるを見る。」
この社会論の中心点は、「社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会とは同じき者」という点にみられる。だがここではまだ社会は、個人の公共心=社会の利己心という形で、つまり個人の意識の一部分にその姿をかいまみせているにすぎず、個人を超える社会の個体性は明らかになってこない。そこで北は、個人の公共心を規定する「道徳」に社会をみ、道徳の展開のなかに、個人と社会、社会進化の動態をつかまうとするのである。
「道徳の本質は本能として存する社会性に在り。而しながら道徳の形を取りて行為となるには先づ最初に外部的強迫力を以て其の時代及び其の地方に適応する形に社会性が作らるることを要す。道徳とは此の形成せられたる社会性のことにして、……地方的道徳時代的道徳として地方を異にし時代を異にする社会によりて形成せられたるものとして始めて行為に現はる。……然るに社会の進化するに従ひて此の外部的強迫力を漸時に内部に移して良心の強迫力となし、惨酷なる刑罰によりて臨まれずとも又無数の神によりて監視されずとも、良心其れ自体の強迫力を無上命令として茲に自律的道徳時代に入る。他律的道徳と自律的道徳とは人の一生に於て小児より大人に至る間に進化する過程なる如く、社会の大なる生涯に於ても其の社会の生長発達に従ひて他律的道徳の時代より自律的道徳の時代に進化する者なり。」
ここで自律的道徳とは、さきの「個人の権威」、「個人の自由独立」に対応するものであることは明らかであろう。すなわち、自律的道徳が進化の過程で形成されたとみることは、自律した個人が歴史のある発展段階ではじめて登場してくるという把握を基礎としているわけである。従って北は、人類の進化を社会の拡大強化と、個人の自律化との二重の構造で捉えることとなるのである。彼はこの構造を、「同化作用」と「分化作用」という用語で説明しようとした。「社会の進化は同化作用と共に分化作用による」と。
彼はまず原始時代に個人意識の発生しない部落を想定する。そしてこの部落が「衝突競争の結果として征服併呑の途によりて同化せられ、而して同化によりて社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競争とな」るというのである。つまり進化の歴史は「同化作用によりて小さき単位の社会たりしものより漸時に其の単位を大社会となし、又分化作用によりて最初には部落若しくは家族団体の如き個人より大なる単位に分化したるものが、更に小さく分化して個人を単位となして愈々精微に分化的競争をなすに至れり」ととらえるのである。
北の社会進化論は、この同化=分化の論理で言えば、自然成長的な同化=社会の拡大によって、個人へと向う分化が生れ、その結果、自律的な個人が形成されることによって初めて、人類は意識的に同化作用を推進し、従って進化の過程を自らの力でおし進めることが出来るようになるということにほかならないであろう。つまり自律的個人の形成は人類史の第一の画期をなすものなのである。
彼がさきにみたように、「個人の自由独立」が社会進化の「唯一の手段」であると述べたのは、このような把握を前提としてのことであった。彼が「個人の自由独立」を強調したことは、一方における個性の自由な発展と他方での道徳への自律的な同化を、矛盾なく展開し得るものと考えたからであり、社会主義はまさにこの矛盾なき展開の道を拓きうると想定したからであった。そして社会主義の実現による未来への進化は次のようにえがかれるのである。 「物質的文明の進化は全社会に平等に普及し、更に平等に普及せる全社会の精神的開発によりて智識芸術は大いに其水平線を高む。経済的結婚と奴隷道徳とは去り、社会の全分子は神の如き独立を得て個性の発展は殆ど絶対の自由となる。自我の要求は其れ自身道徳的意義を有して社会の進化となり、社会I性の発展は非倫理的社会組織と辿徳的義務の衝突なくして不用意の道徳となる。」
つまり北は、 社会主義を「社会性を培養する社会組織」とみ、そこに於てはじめて「次なる行動が凡て道徳的行為」となる「無道徳の世」が実現され、同化=分化の両作用が合体し進化の新しい段階が開けると考えたのであった。そしてこのような進化を目的とする北は、同化と分化の同時的推進を道徳的義務として要求することになるのである。「道徳とは社会性が吾人に社会の分子として社会の生存進化の為めに活動せんことを要求することなり。故に吾人が吾人自身を社会の一分子として(小我を目的としてに非らず)より高くせんと努力することが充分に道徳的行為たると共に、多くは他の分子若しくは将来の分子の為めに、即ち大我の為めに小なる我を没却して行動することをより多く道徳的行為として要求せらろ。」
繰り返して言えば、この「道徳の要求」が、「個人の自由独立」によって達成されると考える点で、北は自らの思想の独自性を主張したのであった。従って外部からの強制は排されねばならなかった。彼が天皇は倫理学説を制定することが出来ないとして教育勅語を否認し、近代国家は「良心の内部的生活に立ち入る能はざる国家」であることを原則とすると主張したのもこの点にかかわっていた。
だがこの個人の独立・権威の強調、従って教育・啓蒙の重視は、あくまで北の理論の一つの 側面にすぎなかった。彼は決して個人の自由・独立を原理として、社会の再組織を考えているわけではなかった。自律的個人の小我は、社会の大我に吸収されることが予定されているのである。しかし社会の大我とは何か。それを道徳として捉えてみても、社会は個人を拘束する力であることが説明できるだけで、個人を超える主体としての社会はあらわれてこない。北がここで用意していたのは「国家人格」の理論であった。それは比喩的に言えば、社会を肉体とし国家を人格とする見方とも言えるもののように思われる。さきに述べた日露戦争前の彼の思想展開をみるとき、彼が進化論で自らの思想を基礎づけようとしたのは、このような社会=肉体、国家=人格の構想を思いついたからではなかったであろうか。
個人の自律化を人類史の第一段階とした北は、次に「国家人格」の顕在化を人類史の第二段階として設定しようとするのであった。 
3 公民国家=社会民主主義論

 

北の理論に於て、社会と国家の関係があいまいであることは、既に多くの論者によって指摘されているところである。例えば神島二郎氏は「彼には、国家と社会との区別がなく、支配機構としての制度観が確立されていない 1)」と述べ、或いは久野収氏は「国家と民族と生活上のゲマインシャフト〈共同体〉をほとんど無差別に混用し、それらをすべて国家という名前で呼ぶ意味論的まちがいをおかしている2)」と批判している。
   1) 『北一輝著作集第1巻』「解説」。
   2) 「超国家主義の一原型」『近代日本思想史講座』4。
なるほど北は国家と社会との関係を一般的な形では何等説明せず、両者を等置するかの如きやり方で、突如として国家の問題を引き入れているという印象をあたえる。例えば「社会主義者は…社会国家の為めに社会国家に対して個人の責任を要求す」、「地理的に限定せられたる社会、即ち国家」、「故に国家其者の否定を公言しつつある社会主義者と称する個人主義者は社会其者の否定に至る自殺論法として取らず」などといったたぐいである。しかし彼の論理の展開をみると、その要となっているのは、国家の問題を如何にして社会進化論のなかに位置づけるかという問題なのである。そしてその両者を結びつける論理として主張されたのが「国家人格実在論」であった。
「国家人格」とは、進化の過程で拡大・強化される社会性そのものを指していると解される。「国家の人格とは吾人が前きに『生物進化論と社会哲学』〈第3篇〉に於て説きたる社会の有機体なることに在り。 即ち空間を隔てたる人類を分子としたる大なる個体と言ふことなり」という言葉もこのように解さなくては意味をなさなくなってくる。彼はまた、国家を擬制的な法人格とみる学説を批判して、「個人主義の仏国革命を以て国家を分解せしと言ふも国家は依然として社会的団結に於て存し破壊せられたるは表皮の腐朽せる者にして国家の骨格は嘗て傷れざりしを見よ」とも述べている。従って、彼の国家と社会とを等置した用語法は、国家が社会性の代表者であることを強調するためのものであったと読めるのである。
ではそのような用語法が何故読者を納得させず、「混用」と批判されるのかと言えば、彼が基礎理論としてきた社会進化論によっては何ら国家の形成が説明されていないからにほかならない。つまり、国家人格によって社会進化と国家との対応関係が示されるだけで、社会進化が何故国家人格を生み出すのかは全く明らかにされていないのである。
このことはおそらく、北が国家の存在を自明のこととして前提してしまっていたことを意味するにちがいない。すでにみたように日露戦争を目前にした彼の関心は、国家の必要を如何にして論証するかという点に向けられていたのであり、そこから出発した彼は、国家を如何に意義づけるかという問題を中心に置き、そのための理論として社会進化論を用意したように思えるのである。従ってそこでは、国家を社会によって内容づけ、社会主義にとってもまた必要不可欠のものとして意義づけることに関心が集中し、国家を社会から区別するという逆の方向は欠落してしまったとみることが出来よう。彼はまた「人格は人格の目的と利益との為めに活動す」とも述べているのであり、従って、国家人格を中核としない社会は、それ自身主体的に活動できないより低次の有機体と考えていたと思われるのである。つまり北の理論では、社会有機体論は国家有機体論としてしか完結しないのであり、言いかえれば、国家人格は社会を有機体として完成させるものとして意義づけられていたのであった。
では、国家人格の問題は、進化論のなかに如何に位置づけられているのか。ここで北は「人格」という言葉を2つの意味で使っている。第1は国家人格と言う場合の人格であり、北はこの言葉で社会の有機体としての統一そのものを指しいるようにみえる。すなわち、国家人格は常に主体的に行動出来るのではなく、社会のなかに潜在的に実在している場合が想定されているからである。第2には、物格に対するものとしての人格という用語があげられる。つまり物格とは他人の所有物としてその処分に服従している客体を指し、これに対して人格とは自己の利益と目的のために活動する権利の主体となるものを指しているのである。
北は人格についてのこの2種の用法を用いて、まず国家人格が現実の権力とは別に実在していると説く。そしてそれが、君主の所有物=物格としての国家から、権利の主体となり主権をもった人格としての国家へと進化するというのである。この説明では、国家人格と国家との関係があいまいであり、それがまたさきの国家と社会の混用という問題につながっていることは明らかであるが、ともかく北の主張したかったのは、国家人格の人格化ということであったと思われる。それは、社会のなかに埋没していた個人が、自由独立な個人として分化してくるのと同様な過程として、国家の進化を考えたものと言いうるであろう。北は次のように説明している。
「国家は始めより社会的団結に於て存在し其の団体員は原始的無意識に於て国家の目的の下に眠りしと雖も…其の社会的団結は進化の過程に於て中世に至るまで、土地と共に君主の所有物となりて茲に国家は法律上の物格となるに至れり。即ち国家は国家白身の目的と利益との為めにする主権体とならずして、君主の利益と目的との為めに結婚相続譲与の如き所有物としての処分に服従したる物格なりき。即ち此の時代に於ては君主が自己の目的と利益との為めに国家を統治せしを以て目的の存する所利益の帰属する所が権利の主体として君主は主権の本体たり。而して国家は統治の客体たりしなり。此の国家の物格なりし時代を『家長国』と言ふ名を以て中世までの国体とすべし。今日は民主国と言ひ君主国と言ふも決して「中世の如く君主の所有物として国土及び国民を相続贈与し若しくは恣に殺傷し得べきに非らず、君主をも国家の一員として包含せるを以て法律上の人格なることは諭なく、従て君主は中世の如く国家の外に立ちて国家を所有する家長にあらず国家の一員として機関たることは明かなり。即ち原始的無意識の如くならず、国家が明確なる意識に於て国家自身の目的と利益との為めに統治するに至りし者にして、目的の存する所利益の帰属する所として国家が主権の本体となりしなり。此れを『公民国家』と名けて現今の国体とすべし。」
北の国家論の骨格は、この引用部分のなかに尽きているように思われる。彼は人格化された国家を「公民国家」と名づけるのであるが、この公民国家の出現は、人類進化の上の一大画期を意味することになるにちがいない。すなわち、自律的な個人の出現を第1の画期とすれば、この公民国家の出現は第2の画期とされねばならないであろう。すでにみたような、自律的個人の公共心の拡大強化が、社会の進化をもたらすという論理だけでは、その強化の度合いから社会の進化を質的に画期づけることは困難であったが、北はそこに国家の物格から人絡への進化という観点を引き込むことによって、主権を獲得し生存進化の目的を有する主体的有機体としての国家=公民国家を設定したのである。そしてそこから、個人の公共心は国家へと焦点をしぼることによって、より明確な進化の担い手たりうるとの観点が導かれてくるのであった。 いわば有機体としての社会の統一そのものを国家人絡と名づけることによって、これまでみたような社会と個人との関係は、そのまま国家と個人の関係におきかえられ、しかもそれは進化にとって一層本質的なものとみなされるに至るのである。すなわち、社会を拡大強化したのが個人の公共心であり、それはまた社会そのものの意識であるとされたのと同様に、公民国家を成立せしめたのは個人の国家意識の発展であり、それはまた国家そのものの意識にほかならないと主張されるのである。彼が人格化した国家を「公民」国家と呼んだのも、このような国家意識の発達した個人を基礎におくことを強調したかったがためであろう。それはまた個人に対する国家の要求へと転化されるのは必然であった。
「実に公民国家の国体には、国家自身が生存進化の目的と理想とを有することを国家の分子が意識するまでに社会の進化なかるべからず。即ち国家の分子が自己を国家の部分として考へ、決して自己其者の利益を終局目的として他の分子を自己の手段として取扱うべからずとするまでの道徳的法律的進化なかるべからず。」
つまり、公民国家に於てはじめて、国家は社会有機体と一致し、従って国家の強化が社会の強化と一致し、国家は進化のための生存競争の単位たるの資格を得るのであり、それ故にまた、国家は進化の名において、個人に対して忠誠を要求し得る立場に立つことになるのである。「国家は生存の目的を有す、国家は進化の理想を有す、而して吾人は凡て上下なく国家の分子なり、国家の分子として国家の生存進化の目的理想のために努力すべき国家の部分たる吾人なり」と。
北は、公民国家が出現した進化の段階では、国家主義者であることが、進化の担い手となる必須の条件であり、社会主義もまた、この公民国家を完成させるためのものでなければならないと考えたのであった。かくして北は、日露戦争前に直面した社会主義と帝国主義の矛盾という問題を、公民国家という基盤の上で解決し得ると自負したにちがいないし、そのことが彼をして『国体論及び純正社会主義』の自費出版に駆り立てたであろうことは想像に難くない。
では北の言う公民国家とは一体どのような内容を持っているのか。彼はまず、君主国か共和国かという分類に反対する。彼は国家を考える基準として「国体」と「政体」を用いるのであるが、彼の「国体」によると、一般に通用している君主国か共和国かという分類は無意味になるというのである。すなわち「国体とは国家の本体と言ふことにして統治権の主体たるか若しくは主権に統治さるる客体たるかの国家本質の決定なり」とするのであり、従って国家が統治権をもつ主権者であるか、或いはまた統治される客体にすぎないかが国体の分れめなのであって、君主が存在するかどうかは二次的な問題にすぎないということになるのである。この前者、国家が統治権の主体である場合が、「公民国家」であることは言うまでもないであろう。つまり、彼にとっては、公民国家か否かを判定することが国体論の最も重要な課題なのであった。
では君主の存在はどういうことになるのかと言えば、君主個人が統治権の主体=主権者である場合にはその国家は公民国家と区別される「家長国家」とされるが、国家が王権をもつ「公民国家」の場合には、君主は存在していてもそれは統治権の所有者ではなく、統治権発動のための制度=「機関」だというのである。北はこの「統治権発動の形式」を「政体」と名づけるのであり、「機関」、とくに最高機関の組織によって政体を分類するのである。彼においては、公民国家における政体は、次のように3分類される。
第1 最高機関を特権ある国家の一員にて組織する政体(農奴解放以後の露西亜及び維新以後23年までの日本の政体の如し)
第2 最高機関を平等の多数と特権ある国家の一員とにて組織する政体(英吉利独乙及び23年以後の日本の政体の如し)
第3 最高機関を平等の多数にて組織する政体(仏蘭西米合衆国の政体の如し〉
ここで「特権ある国家の一員」なる語が君主を指していることは容易に推測されるであろう。そして北は天皇をもこのなかに含ませていた。このことはあとで詳しくみることにするが、この文章で日本に触れている部分の意味は、明治維新から大日本帝国憲法の制定までは最高機関は天皇だけによって、その後は天皇と帝国議会の両者によって組織されているということにほかならない。従って公民国家の政体は、専制君主制、立憲君主制、共和制のいずれの場合もあり得るということになるのである。そして「特権ある国家の一員」の「特権」についてはそれ以上追究せず、ただ国家の必要によるものと理解するだけに止っているのである。そのことは、北にとって公民国家であるか否かが本質的な問題であり、その下の政体の問題は二義的な意味しか持たなかったことを示していると言ってよい。そして、この論理でゆけば、日本は欧米に対する後進国ではなく、欧米とならぶ「公民国家」となる筈であった。北のねらいはこの点にあったのであろう。彼はこれ以上政体の問題に深入りしようとはしなかった。彼が強調しようとしたのは、公民国家に於いては、君主と国民は相対立する階級ではなく、共に国家に対して権利義務を持つ機関なのだという点であった。彼は言う。
「近代の公民国家に於ては…主権の本体は国家にして国家の独立自存の目的の為めに国家の主権を或は君主或は国民が行使するなり。従って君主及び国民の権利義務は階級国家に於けるが如く直接の契約的対立にあらずして国家に対する権利義務なり。果して然らば権利義務の帰属する主体として国家が法律上の人格なることは当然の帰納なるべく、此の人格の生存進化の目的の為めに君主と国民とが国家の機関たることは亦当然の論理的演繹なり。」
従って、さきの「特権ある国家の一員」の「特権」も、国民に対する特権ではなく、「国家の目的の為めに国家に帰属すべき利益として国家の維持する制度」ということになるのである。つまり公民国家に於ては、君主も国民も国家の機関の観点からみれば平等だというのである。彼が「国家の進化は平等観の発展に在り」という時、その平等観とは 国家の一員として平等だとの意識、つまるところ国家意識そのものを指していたと解されるのである。しかもそれは彼の進化論にあっては、国家人格そのものの意識とされるのであるから、国家人格の主体化としての公民国家において最高機関がどのように組織されるかは、その国家人格の「個性」―彼はそのような言葉を用いてはいないが―の問題と考えられていたのではないであろうか。北が、公民国家の3つの政体の間の得失について論じようとしなかったのは、そのような考え方によるものではなかったか。つまり、日本が「公民国家」として欧米国家と肩をならべたとする彼の論から言えば、政体の問題は国家の本質にかかわりない国家の個性の問題とならざるをえないように思われるのである。
ところで、以上のような形で、北が公民国家を人類進化の画期として設定したのは、たんに自らの進化論を完成させるためではなかった。彼のもう1つのねらいはこの公民国家を以て社会主義を基礎づけるという点にあった。彼が「土地及び生産機関の公有と其の公共的経営と言ふことが社会主義の背髄骨なるなり」と述べている限りでは、3年前の「国家の手によりて土地と資本との公有を図る」という社会主義観そのままであるかにみえる。しかしさきには、国家の必要が強調されたのに対して、ここでは社会有機体が最高の所有権者であるとする論点が正面に押し出されてくるのである。「社会主義は社会が社会労働の果実に対して主張する所有権神聖の声なり」つまり彼は富は社会的に形成されたものなのだから本来社会に帰属すべきものだとして、社会のものを社会に返させることを以て社会主義の目的と考えるのである。それは同時に労働者階級による公有を否定することでもあった。
「真に法律の理想によりて円満なる所有権を主張し得るものは、其等個々の発明家にもあらず、其の占有者たる階級の資本家にもあらず、 又その運転を為しつゝある他の階級たる今の労働者にも非ず、只歴史的継続を有する人類の混然たる一体の社会のみ。 機械は歴史の智識的積集の結晶物なり。 機械は死せる祖先の霊魂が宿りて子孫の慈愛のために労働しつゝあるものなり。 …故に若し所有権神聖の理由を以て社会主義に対抗せんとするものあらば、 社会主義は寧ろ社会労働の果実たる資本に対して所有権神聖の名に於て公有を唱ふと言はん。」
社会を最高の所有権者とみるこの社会主義は、国家を社会の人格化とする理論によって国家主義へと転化する。すなわち、社会は国家人格が主体化した公民国家に於てはじめて所有権者たる資格を得たことになるのであり、社会主義は公民国家に於てはじめて実現の基礎的条件を得たとされるのである。従って社会主義は、公民国家の擁護者、その進化の推進者として性格づけられることになる。つまり社会主義の任務は、土地・資本を国家に与えて、公民国家を強化することにほかならなくなるのであった。
同時に北は、さきの平等観の発展=国家意識の浸透を以て民主主義の基礎的条件の成立とも考えていた。彼は公民国家を社会主義と同時に民主主義をも内含するものとして設定したのであった。もちろんそれによって民主主義の意味がそれ相応に変容させられたことは当然であろう。彼は言う。「国民(広義の)凡てが政権者」たるべきことを理想とし国民の如何なる者と雖も国家の部分にして、国家の目的の為め以外に犠牲たらざるべからずとの信念は普及したり。即ち民主主義なり」と。北は国民の政権への参加や普通選挙についても語っている。然し彼が民主主義の基本的条件としたものが、国家意識の普及にあったことはこの引用からも明らかであろう。そして、政権参加の具体的あり方を重視しなかったことは、さきの君主の特権の内容を問おうとしなかったことと表裏をなすものに他ならなかった。
ともあれ、先には偏局的社会主義と偏局的個人主義から自らを区別するために「純正社会主義」を名のった北は、今度は公民国家を基礎とする点で、自らの立場を「社会民主主義」と称したのであった。
「『社会民主主義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして、国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに、国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。」
このような北の社会民主主義から言えば、現実の国家が基本的に公民国家の性格を持つと考えられる場合には、そこにはすでに社会民主主義の要素が存在しているということになり、この要素を強化すると共に主として経済的な面での変革を行うことによって社会主義は実現し得るということになるのである。彼はかつての矛盾―帝国主義者として現実の明治国家の膨脹を積極的に支持しながら、他面では社会主義者として体制の変革を志すという矛盾を、このようなやり方で、つまり明治国家を公民国家と認定することによって解決しようとしたのであった。 
4 国体論批判の性絡と天皇機関論

 

北は公民国家の成立過程を次のように説明する。すなわち、「家長国時代に於ては社会の未だ進化せざるが為めに社会自身の目的と利益とを意識して国家の永久的存在なることを知らず、社会の一分子若しくは少数分子が其等個人としての(社会の一部としてにあらず)利己心を以て行動するより外なく、他の下層分子は其等上層の利己心の下に犠牲として取扱はれ以て社会を維持し来れる者なり。…近代の公民国家に至っては然らず。社会は大に進化して社会其れ自身が生存進化の目的を有することを解し,国家の利益と目的とが全分子に意識せられ,其の国家の意志を表白すと言ふ機関たる分子に於ても社会の一部としての社会的利己心を以て(機関が其自身を個人として意識する場合の個人的利己心にあらず)行動する者なり。」この過程の中心が社会の全分子が国家意識にめざめるという点におかれ、それが公民国家成立のメルクマールとされていることは明かであろう。それは君主や天皇をも含めた「国家の意志を表白すという機関たる分子」においても例外ではなく、彼等もまた個人的利己心ではなく社会的利己心を以て、すなわち国家の進化を目的として行動するに至るとされるのである。そして北は明治維新をこのような公民国家成立の過程そのものとして捉えたのであった。従って公民国家論が彼の理論の中枢に位置するのと対応して、彼の日本の現実への把握は明治維新論をその中軸にすえることになる。そしてそこから国体論批判は論理構成の上からも必然的要請となるのであった。
「維新革命とは国家の全部に国家意識の発展拡張せる民主々義が旧社会の貴族主義に対する打破なり。而してペルリの来航は攘夷の声に於て日本民族が一社会一国家なりと言ふ国家意識を下層の全分子にまで覚醒を拡げたり。恐怖と野蛮の眼に沖合の黒煙を眺めつゝありし彼等は、日本帝国の存在と言ふ社会主義を其の鼓膜より電気の如く頭脳に刺激せられたり。…実に維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点に於て社会主義なり、而してその意識が国家の全分子に明かに道徳法律の理想として拡張したる点に於て民主主義なり。…徳川氏時代に至りての百姓町人は最早奴隷賤民にあらず、土百姓にあらず、亦平民にあらず、維新後忽ちに挙がれる憲法要求の叫声を呑みつゝありし民主的国民なりしなり。」
しかし明治維新を公民国家の成立=社会民主主義革命として捉えるためには、それに見合った天皇観をつくりあげることがどうしても必要であった。天皇を権力と同時に倫理的価値の源泉とするような支配的イデオロギーを肯定しては、明治国家を公民国家だと言うわけにはゆかなくなる。彼の公民国家論でゆけば、明治国家の骨格をなしているのは、天皇への忠誠ではなく、国家への忠誠でなければならない筈であった。しかしこの観点を貫くためには、明治国家における天皇の性格を明らかにすると同時に、彼の言う社会民主主義革命としての明治維新が何故、天皇を政治の中心に押し上げていったのかをも説明しなければならなかった。彼の国体論批判は、今やこのような公民国家論にみ合う天皇観を築くためのものとなっていた。そしてそのためには、明治維新を王政復古とするような見方を打破することが先決であった。
「維新革命の本義は実に民主主義に在り。…維新革命を以て王政復古と言ふことよりして已に野蛮人なり。」「維新革命は家長国の太古へ復古したるものにあらず、家長国の長き進化を継承して公民国家の国体に新たなる展開をなせるものなり。」しかしこの王政復古否定論を成り立たせるためには、明治維新における天皇の地位を尊王イデオロギー以外の要因によって説明しなければならなくなる。北はまず維新以前の天皇を、次のように捉えた。すなわち天皇は神道的信仰の勢力による「神道の羅馬法王」という特殊性を持つとは言え、本質的には幕府諸侯と変らない「家長君主」であったとする。つまり著るしく弱体であったとしても、公卿を臣下とし土地人民の上に絶対の権利を有したことは明らかだと言うのである。そして彼はまた天皇家がともかくも存続し得たのは、「他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閉雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であり、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」と強調するのである。それは言いかえれば、尊王を中心とした国民的運動がおこるような歴史的条件は存在しなかったということになろう。では何故幕末に尊王論がおこるのか。彼は倒幕運動における尊王論を、外圧により革命論をねりあげる時間的余裕がなかったための便宜的なものと評するのであった。彼は尊王倒幕論者について次のように書いている。
「彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く、皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも転覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき、今の忠は血を持って血を洗はんとせる民主主義の仮装なり。彼等は理論に暇あらずして只儒学の王覇の弁と古典の高天ヶ原との仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり。曰く―幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと、而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に対して忠順の義務なしと、而して是れに対抗して皇室は高天ヶ原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。
維新革命は国家間の接触により覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが、未だ国家国民主義(即ち社会民主々義〉の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。」
つまり、尊王論は倒幕革命の理論を早急に、従って既成の理論からつくり出すための「仮定」にすぎず、若し理論的検討の十分な余裕があれば、倒幕論は社会民主主義の方向で、国家の問題を中心として論議されたであろうと言うのである。
このような国体論批判及び維新革命論から言えば、天皇制を生み出したことは、明治維新の必然的結果とは言えなくなる。彼の論理からは、天皇制否定を叫んだ方がより明快であったと思われる。しかし彼はこのぎりぎりのところから、天皇の地位の肯定へと転換してゆくのであった。そこには、明治国家を本質的には肯定的にとらえたいという彼の願望をよみとることができよう。ともあれ、彼はこの転換によって、倒幕運動における尊王論の役割を否定的に捉えることと天皇が維新革命によって家長君主から公民国家の最高機関に変身したことを矛盾なく説明する必要に迫られることになる。
彼は「君主固有の威力」という問題について「固有とは君主の一個人が先天的に肉体の中に有すとのことならば、力と言ひ威力と言ふ者は決して君主の固有に非らず社会と言ふ者の有する団結的権力なり。即ち君主の威力あるかの如く見らるゝは此の団結的権力の背後より君主を推し挙ぐるが為めにして」と述べているのであるから、維新の場合にも、倒幕運動が天皇を「推し挙げた」とみていることは明らかである。では何故倒幕運動は天皇を押し上げることになったのか。尊王論は拒否する北は、天皇は家長君主の地位を脱して国民と共に倒幕運動に参加し、その英雄的指導者となったと主張することで、この問題に答えようとした。
彼は言う。「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も、天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」「現天皇は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき」「現天皇が万世一系中天智とのみ比肩すべき卓越せる大皇帝なることは論なし。常に純然たる詩人たりしものが徳川氏の圧迫を排除せんが為めに、卓励明敏の資質を憂憤の間に遺伝したり。…維新革命の諸英雄を使役して東洋的摸型の堂々たる風耒は誠に東洋的英主を眼前に現はしたり。(吾人は想ふ、今日の尊王忠君の声は現天皇の個人的卓越に対する英雄崇拝を意味すと)」
北が明治天皇に対して何か特別の感情をもっていたことは、後年の北の仏壇に軍服姿の明治天皇像がかざられていたことからも推測することが出来る。ここで述べられている維新の英雄としての明治天皇のイメージには、明治後期に彼が抱いた明治天皇観が投影されていることは疑いもない。しかしまた、いわゆる国体論を拒否した上で、天皇の存在を肯定するためには、このようなやり方以外にありえなかったであろうことも明らかである。この明治天皇英雄論は実証的根拠のない一つのフィクションである。彼は国体論の神話にかえて、維新の英雄という神話をつくったとも言える。彼はこのフィクションを以て、一方で天皇の現存に根拠を与えると共に、他方では天皇を国家の進化という目的以外には行動し得ないものとして限定づけようとしたのであった。つまり天皇はこのフィクションにより、公民国家の強化、すなわち彼の言う社会民主主義の方向を代表しなければならないものとして規定されることになるのであり、一見明治天皇への個人崇拝にすぎないかの如き「維新の英雄」論は、実はいわゆる国体論を拒否して、天皇機関論―と言っても公民国家論にみあう特殊なものであったが―を導き出すという役割を負わされていたのであった。
北は、維新の英雄としての活躍によって、天皇の性格は次のように変化したとする。「現皇帝は維新以前と以後とは法理学上全く別物なり。維新以前は諸侯将軍の君主等と等しく其の範囲内に於ける家長君主たる法理上の地位なりしと雖も、維新以後二十三年までは唯一最高の機関として全日本国の目的と利益との為めに国家の意志を表白する者となれるなり」ここで「国家の意志」とは、あとでみれるように、国家の進化を目的とする社会的勢力のなかにあらわれるとされるのであるから、「最高機関」としての天皇は、そのような社会的勢力を代表すべき者なのだということになる。北は明治維新を明治憲法制定に至る一連の過程とみるのであるが、その憲法制定はこのような形での「最高機関」の働きとして捉えられていた。
「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主々義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にありと。即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす。」つまり彼は明治憲法を明治維新の帰結とみると同時に、「憲法要求の大運動によりて得たる」ものと評価しているのである。そしてこの評価は次のような「欽定憲法」における「欽定」の理解につづいていた。「欽定とは…国家の主権が唯一最高機関を通じて最高機関を変更して特権の一人と平等の多数とを以て組織すべきことを表白したることなりとす。」すなわち、欽定とは、国家の意思を表明する最高機関が天皇だけであったから、天皇が定めるという形式になったということであり、天皇個人が定めたということではない、天皇は国家意思の媒介たるにすぎないというわけである。つまり明治憲法は「憲法要求の大運動」が国家意思を形成し、それが最高機関である天皇を通じて「欽定」という形式で制定されたと把握されているのである。
それは観点を移して言えば、天皇と国民は直接に相対立する存在ではないとする主張に変わる。「約言すれば日本天皇と日本国民との有する権利義務は各自直接に対立する権利義務にあらずして大日本帝国に対する権利義務なり。例せば日本国民が天皇の政権を無視す可からざる義務あるは天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し国民は国家の前に義務を負ふなり。日本天皇が議会の意志を外にして法律命令を発する能はざる義務あるは国民の直接に天皇に要求し得べき権利あるが為めにあらず、要求の権利ある者は国家にして天皇は国家より義務を負ふなり」従って「国民の忠は国家に対するもの」であって天皇そのものに向けらるべきものではない、「『国家の為めに』と言ふ社会主権の公民国家と、『君の為めに』と言ふ君主々権の家長国とは、国体の進化的分類に於て截然たる区別をなす」ということになるのである。北は「爾臣民克く忠に」という「忠」の内容は、「国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと言ふこと」にすぎないと断ずるのであった。それは当時の支配者のスローガンであった「忠君愛国」を切断し、「忠君」ではなくて「愛国」こそが道徳の基本であることを強調するものにほかならなかった。
この論理で言えば、天皇もまた「愛国」という政治道徳によって拘束される存在であり、北は、天皇をも含めた最高機関としての「君主」が個人的利己心で行動するようになれば、公民国家が「事実上の家長国と化し去ることあり」と考えたのであった。「今日の天皇は…国家の特権ある一分子と言ふことにして、外国の君主との結婚によりて国家を割譲する能はず、国家を二三皇子に分割する能はず、国民の所有権を横奪して侵害する能はず、国民の生命を『大御宝』として殴傷破壊する能はず、実に国家に対してのみ権利義務を有する日本国民は天皇の白刃に対して国家より受くべき救済と正当防衛権を有するなり。」
彼は孟子の「一夫紂論」を援用しながら、論理的には国家の利益に反する天皇は打倒の対象となりうることを認める。しかし現実には、「天皇等の徳を樹つることの深厚なりしは…歴史上の事実なりとし、「固より独乙皇帝の如き一匹夫ならば…国家機関たる所の君主に非らざる帝冠の叛逆者として一夫紂論の爆発することはあり得くしと雖も、親ら民主的革命の大首領たりし現天皇は固より歴史以来の事実に照らして日本今後の天皇が高貴なる愛国心を喪失すと推論するが如きは、皇室典範に規定されたる摂政を置くべき狂疾等の場合より外想像の余地なし」としてその現実的可能性を否定したのであった。
このような北の天皇観は、国家の最高機関としての天皇に敬意を払うべきことを説き、天皇打倒の現実の可能性を否定したとは云え、支配的イデオロギーからみれば明らかに異端であった。北はこのような状況の下で大日本帝国憲法そのもののなかから、彼の天皇観、公民国家=社会民主主義論にみあう解釈を引き出し、自らの主張を補強しようと試みるのである。
北はまず憲法第5条と第73条に着目する。 第5条とは「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」との規定であり第73条は憲法改正手続についての規定である。即ち憲法改正案は勅令により帝国議会に付議し、議会は議員総数の3分の2以上が出席し、出席者の3分の2以上の多数を得れば改正の議決をすることが出来るとしたものである。この規定から北は、天皇が行政の長官として、或は陸海軍の統率者として活動する場合には独立の機関であるが、立法についてはたんに機関の一要素であるにすぎないと主張する。「即ち、立法機関は天皇と議会とによりて組織せられ始めて一機関としての段落ある活動を為すことを得」と。そしてこれを根拠に「天皇は統治権を総覧する者に非らず」として、第4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総纜シ此ノ憲法ノ條規二依り之ヲ行フ」」を否定する。つまり立法機関として不完全な天皇が、統治権の総覧者でありえないことは明らかだというのである。
憲法の条文に矛盾のある場合には、「各々其の憲法の精神なりと認むる所、国家の本質なりと考ふる所によりて自由に取捨するを得べく」とする北は、天皇を「神聖」とし、「元首」とする規定をも切り捨てる。すなわち、「神聖」は歴史的に踏襲された形容詞にすぎず、学理上は意味のないものであり、また「元首」は君主を頭とし労働者を手足とするような児戯に類する比喩的有機体論の産物にすぎないとした。
では大日本帝国憲法において、統治権を有する機関は何なのか、まず「『最高機関』とは最高の権限を有する機関のことにして即ち憲法改正の権限を有する機関なり」と定義される。そしてさきの第73条の規定から云って、天皇と議会の合体したものを最高機関とみなすべきだとするのである。「若し此の国家の意志の表白さるる所の者を以て主権者と呼び統治者と名くるならば、天皇は主権者にあらず又議会は統治者に非らず、其等の要素の合体せる機関が主権者にして統治者なりとすべし」と。
このような北の天皇論・憲法論から云えば、いわゆる国体論はそれが単に根拠のない妄想であると云うだけではなく、打倒すべき反革命であり、国民を国家に向ってより強力に集中してゆくために排除しなければならない障害であった。彼は云う。世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず、又過去の日本民族の歴史にても非らず、明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なり」と。復古的革命主義とは反革命と云うに等しい。彼は国体論の内容として君臣一家論や忠孝一致論をとりあげて批判するが、その観点は要するに「所謂国体論の背髄骨は、如何なる民族も必ず一たび或る進化に入れる段階として踏むべき祖先教及び其れに伴ふ家長制度を国家の元始にして又人類の消滅まで継続すべき者なりと言う社会学の迷信なり」という一節につきていた。それは云いかえれば、国体論は折角公民国家にまで進化した日本の国体を、再び家長国家に逆転させようとする反革命だということにほかならないのである。
たしかに北の国体論批判は当時においては極めて強烈であり、官憲をして発禁処分に走らせるに十分であった。しかしそこでの問題関心が明治国家を如何にして根底的に肯定するかという点にあったことは、「伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて、敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり」としてその専制的性絡を指摘しているにも拘らず、憲法論としては天皇大権の大きさにも、議会の権限の弱さにも触れることなく、ただ次の結論で満足していることからも明らかであろう。すなわち、現在の政体は「最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによりて組織せらるる世俗の所謂君民共治の政体なり。故に君主のみ統治者に非らず、国民のみ統治者に非らず、統治者として国家の利益の為めに国家の統治権を運用する者は最高機関なり。是れ法律の示せる現今の国体にして又現今の政体なり。即ち国家に主権ありと言ふを以て社会主義なり、国民(広義の)に政権ありと言ふを以て民主々義なり。
依之観之、社会主義の革命主義なりと云ふを以て国体に抵触すとの非難は理由なし。其の革命主義と名乗る所以の者は経済的方面に於ける家長君主国を根底より打破して国家生命の源泉たる経済的資料を国家の生存進化の目的の為めに国家の権利に於て、国家に帰属すべき利益と為さんとする者なり」と云うのである。
つまり、社会主義は国体と矛盾しないばかりでなく明治国家の本質的な意義を肯定するものなのだという結論を導くことだけが目的であり、北はそれ以上に憲法に執着しようとはしなかったと云える。 云いかえれば、彼の憲法論は、彼の公民国家論にみあう天皇機関論を導くためのものであり、彼はそれ以上に憲法解釈に立入ろうとはしなかった。天皇機関説という呼び方で理解すれば、北は美濃部達吉と共通の立場にあるかの如くみえるけれども、この点で彼は美濃部と決定的に異っていた。彼が憲法解釈学に立ち入らなかったのは「天皇と帝国議会とが最高機関を組織し而もその意志の背馳の場合に於て之を決定すべき規定なきに於ては法文の不備として如何ともする能はざるなり」つまり憲法の解釈権者が指定されていないという見方も関係しているであろう。しかし根本的な問題は、北の理論においては国家意思は常に憲法を越えるものとされている点にある。彼は云う。「国家主権の今日及び今後に於ては、其の手続きを定めたる規定其者と矛盾する他の規定を設くとも、又其の規定されたる手続によらずして憲法の条文と阻格する他の重大なる立法をなすとも、国家主権の発動たる国家の権利にして、国家は其の目的と利益とに応じて国家の機関を或は作成し或は改廃するの完き自由を有す」すなわち主権者としての国家は、憲法によって規定されるものではなくて、憲法を自由に改廃しうる超憲法的存在だというのである。さきにみた国家人格実在論がこの基底に置かれていることは繰返すまでもあるまい。
しかし、憲法をこえる国家は、如何にして自らの意思を発動することになるのか、ここでは、北の進化論が想定した社会そのものの意識にしろ国家人格にしろ、現実には個人の公共心や国家意識の展開としてしか自らをあらわしえなかったのと同様に、超憲法的存在としての国家も、結局具体的な人間の活動によってしか自らの活動をなし為ないことになるのであった。北は次のように書いている。「只、如何なる者が国家の目的と利益とに適合する主権の発動なるかの事実論に至りては、是れ自ら法理論とは別問題にして其の国家の主権を行使すと言ふ地位に在る政権者の意志に過ぎず。即ち事実上政権者の意志が国家の目的と利益との為めに権力を行使するや否やは法理論の与かり知らざる所なり。―是を以ての故に憲法論は強力の決定なりと云ふ。」そしてその「強力」については、「凡ては強力の決定なり。強力とは社会的勢力なり(単純に中世時代の腕力が社会的勢力を集めたることを以て今日の強力を腕力と速断べからず)。社会的勢力は社会の進化に従ひて新陳代謝す」と説明する。また「社会的勢力」については、次のようにも書いている。「国家は決して個人の自由に解散し若しくは組織し得べき機械的作成の者にあらずして、革命とは国家の意思が時代の進化に従ひて社会的勢力と共に進化すと云ふことなり。」「今の社会民主々義者は維新革命の社会民主々義を経済的革命によりて完備ならしめんとする経済的維新革命党なり。革命党の迫害せらるゝは其の社会的勢力を集中せざる間は社会の進化として常態なり」と。
従って彼の社会主義運動のあり方についての論議も、社会主義と国体は矛盾しないという点で憲法論にかかわるだけで、むしろこの強力論を主たる基盤として展開されているといえる。すなわち彼の社会主義運動論は、次のような形で導かれてくるのであった。まず公共心→国家意識がその社会で主導的な勢力=「強力」となるとき、そこに国家人格が顕在化し、その勢力の代表者が政権を握った時、国家人格は公民国家として現実のものとなる、しかし、政権についた代表者は、その社会的勢力から離れて個人的利己心にとらわれ、あるいは進化を更に進めることを忘れた保守反動に転化するのが常である。従って、公民国家が基本的には社会民主主義の方向を持つとは云え、その方向を現実のものとするためには、新な社会的勢力を結集して、眼前の政権担当者を克服しなければならない。このような国家の進化を担うべき社会的勢力=強力をつくりあげてゆくことが、社会主義者の任務なのだと。 
5 社会主義運動論の特徴と矛盾

 

北は明治国家の現実を次の2つの観点から捉えた。彼はまず第1に、明治維新後の権力者は、維新の本質であった社会民主主義の進展を阻害するに至っているとみる。「凡ての進歩的勢力が其の権力を得ると同時に保守的勢力」に転ずるのは「社会進化の原理」だとする北は、倒幕の志士たちも同様の運命をたどったとする。すなわち「彼等藩閥者は維新革命の破壊的方面に於て元勲なりき。而しながら維新革命の建設的本色に至っては民主々義者を圧迫する所の元兇となれり」と。ついで彼は第2に、維新によって政治的家長君主が打倒されたあとに、今度は「秩序的掠奪」によって、土地人民を私有する経済的君主・黄金大名があらわれ、日本は経済的家長国に転じたと論ずるのである。そして保守化した政治勢力は、この黄金大名の力の下にくみ入れられるに至ったとみる。
「凡ての事は天皇の名に於て、国家の主権に於てなさる。而も現実の日本国なるもの天皇主権論の時代にもあらず国家主権論の世にもあらずして、宛として資本家が主権を有するかの如き資本家万能の状態なり。大臣も資本家の後援によりて立ち議員も資本家のしん(臣+頁)使によりて動く。斯くの如くにして国家の機関が国家の意志なりとして表白しつゝある所は、国家の目的、理想の為めに国家が執らんとする意志にあらずして自己若しくは自己の階級の利益のみを意識して意志を表白するを以て事実上は階級国家となれり。」
北の見方から云えば、公民国家が空洞化されて、階級国家、経済的家長国家に転ずるということは、公民国家を成り立たしめた国家意識の担い手である国民が、賃金奴隷や農奴として貧困化することであり、それはとりもなおさず、経済的君主が強大化するのと反比例して国家そのものが弱体化するということであった。「日清戦争に勝ち日露戦争に勝ちて、利益線の膨脹、貿易圏の拡大が無数に存在する経済的家長君主の強大を加ふるとも、其れによりて国民と国家とが強大なりや否やは全く問題を異にす。十六軍団の陸軍と数十万トンの海軍とを以て武装せる巨人が骸骨の如く餓えて、貧民の上には小盗人を働き富豪の前には跪きて租税の投与を哀泣しつゝある醜態をみよ。大日本帝国は今や利益の帰属すべき権利の主体たる人格を剥奪せられて経済的家長君主等の為めに客体として存するに過ぎずなれり。経済的専制君主等は強大なるべし。而しながら大日本帝国は斯くても強大の国家か。」すでに述べたように、国家を強化することを目的とする北の社会主義は、この経済的君主と保守的政治勢力を打倒して、土地・資本の公有をめざすものであった。
北はこの闘争を一応は「階級闘争」と名付ける。「おゝ来るべき第二のの維新革命よ。再び第二の貴族諸侯に対して階級闘争を開始せざるべからず。…一切は階級闘争による。」しかしこの階級闘争は彼の進化論にみあって特殊であった。彼もまた階級闘争のためにまず第1に「団結」を求める。「団結は勢力なり。社会主義勢力は主権なり。」だがこの「団結」は階級的利害を結集して、敵対的階級を打倒しようという発想とは異なっていた。彼は階級闘争の目的は「階級絶滅にあるという。しかしそこで彼が力点を置いているのは、資本階級をも労働者階級をも共に解体して社会主義を実現するという点にあった。
「固より社会主義は当面の救済として又運動の本隊として今の労働者階級に陣営を置くものなりと雖も此れあるが為めに労働者階級を維持する者と解すべからず、階級なき平等の一社会たらしむるのみ。社会主義は社会が終局目的にして利益の帰属する主体なるが故に名あり。現今の階級的対立を維持して掠奪階級の地位を転換せんと考ふる如きは決して社会主義に非らず。」このような考え方が出てくるのは、彼が自らつくりあげた進化論に於ける同化作用と分化作用の論理を、社会主義実現のためにもより基本的なものとみ、階級闘争よりも根底的なものとみていたからにほかならなかった。それは簡単に言えば個人の自律性が強まるにつれて、同化作用も拡大・強化され、それによって社会は進化するとするものであったが、その場合、北は個人の自律性の内容を問題とすることなく、たんに個人の自由や権威が上層から下層へと漸次浸透するという形でしか捉えていないことが特徴的であった。すなわち、「社会の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする模倣による」。「個人の権威が始めは社会の一分子に実現せられたる者より平等観の拡張によりて少数の分子に実現を及ぼし、更に平等観を全社会の分子に拡張せしめて茲に仏蘭西革命となり維新革命となり」などと言った具合である。
それは言いかえれば、個人の分化作用は社会の上層より下層にと下降し、従って同化作用は下層から上層への上昇運動としてあらわれるということになる。北はこの考え方をそのまま階級闘争に持ちこんで次のように述べているのである。「社会民主々義の階級闘争は執て代らんとするの闘争に非らず。否、凡ての階級闘争とは運動の本隊が下層階級に在りと言ふことにして闘争の結果は模倣と同化とによりて下層階級の上層に進化して上層階級の拡張することに在り。即ち下層階級が其れ自身の進化による階級の掃討にして上層階級の地位が転換されて下層となり、若しくは社会の部分中進化せる上層が下層に引き下げらるゝ原始的平等への復古にあらず。」もっとも、「模倣と同化」と言っても、上層階級の何を模倣し、どの部分に同化するのか明らかではない。北としては、下層階級の不自由と貧困が「平等」の基準となるものではないことを強調したかったのであろう。
しかし北がそれ以上に云いたかったことは、この文章で言云えば、下層階級が自らの「階級の掃討」をなさねばならないとする点にあったと思われる。彼は良心は階級的に形成されるとしているのであるから、上層階級の階級的良心を下層階級の階級的良心が「模倣と同化」の対象とすることを期待しているわけではない。むしろこのせまい階級的良心を解体してより普遍的な良心を形成することが同化作用の基本だとみていることは、社会主義の目標を「現今の経済的階級国家を打破して経済上に於ても一国家一社会となし、以て国家社会の利益を道徳的理想とする良心の下に現時の階級的良心を掃討せんことを計る」という形で述べている点からもうかがうことが出来る。従って北における階級闘争とは、下層階級が上層階級の階級的良心を打倒すると共に、自らの階級的良心をも解体して、より普遍的な良心の下で旧上層階級と同化し、上層階級の自由と豊かさをわがものにする過程として捉えられていたと思われるのである。
こうみてくると北の言う「団結」は階級的連帯を軸とするものではなくて、より普遍的な良心の形成を伴うものでなくてはならなくなる。北の場合それが国家意識であり、国家への忠誠であるとされることは、これまで述べて来たことからも明らかであろう。国家意識の強化による階級的良心の掃討―そこから「社会民主々義の運動は純然たる啓蒙運動なり」という命題が生れる。「啓蒙運動は凡べての革命の前に先ちて革命の根底なり。 社会民主々義は其の実現を国民の覚醒に待つ」。 結局のところ、彼の言う社会主義をめざす「啓蒙」とは、下層階級を階級として結集させるのではなく、逆に階級としては解体し、国家意識の明確な国民としての自律性を強化してその線に沿って団結させると言うことにほかならなくなる。従ってまた彼の言う社会主義社会像は、革命運動に於ける階級的連帯に支えられるのではなく、国家への忠誠をちかう個人としての国民に解体された労働者や資本家を、国家が目的合理的に組織するという形で提示されることとなるのであった。
このことを最も端的にあらわしているのは、彼の「社会主義の労働的軍隊」「徴兵的労働組織」という発想であろう。北の社会主義経済についての基本構想は「ツラストの進行を継続」した資本の「大合同」によって、破壊的競争と浪費をなくすということにつきているが、この大合同に「徴兵的労働組織」を対置している点が著るしく特徴的と言える。彼は次のように説明する。「今日の公民国家の軍隊は絶対の専制と無限の奴隷的服従の階級とに組織せられ、其の報酬の如きは往年の主従の如き差ありと雖も、社会主義の労働的軍隊に於ては各個人の自由と独立は充分に保障せられ、権力的命令組織を全く排斥して公共的義務の道徳的活動と他の多くの奨励的動機とによりて労働し、物質的報酬に至っては如何なる軽重の職務も全く同一となること是れなり。即ち約言すれば、社会主義の軍隊的労働組織とは徴兵の手続によりて召集せられたる壮丁より中老に至るまでの国民が、自己の天性に基く職業の撰択と、自由独立の基礎に立つ秩序的大合同の生産方法なりと云ふを得べし」と。
なるほど待遇は画期的に改善され、組織は民主化されたと云えよう。しかし、徴兵という手続きは権力的な上からの動員であり、自由と独立もその枠のなかだけのことにすぎなくなる。従って北の言う社会主義の啓蒙運動とは、このような徴兵に堪え得る愛国心を持った国民をつく出すことにほかならないとも云えよう。そしてこれこそが北の社会主義運動論の軸をなす観点なのであった。
北が「革命とは思想系を全く異にすと云ふことにして流血と否とは問題外なり」と云う時、それはこれまでみてきたような、旧い階級的良心の掃討こそが革命の本質的問題なのだという主張と読める。そしてこのような啓蒙によって形成された団結からどのような形態の連動が生れるかは、その直面した条件にかかわるというのである。彼はこの点については、日本では流血を必要としないと断じ、彼の社会主義運動論は啓蒙運動を基礎とした「法律戦争」論として展開されてゆくことになるのである。「吾人をして露西亜に生れしとせよ、吾人は社会民主々義者の口舌を嘲笑して爆烈弾の主張者たるべし!」と述べた北は、日本の場合には「実に維新革命の理想を実現せんとする経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」とするのである。つまり日本には「法律戦争を戦ふべき法律的形式」が存在しているというのである。「国家内容の革命は国家主権の名の下に一に投票によりて展開す。―『投票』は経済的維新革命の弾丸にして普通選挙権の獲得は弾薬庫の占領なり。」「経済的維新革命は投票の階級闘争を以て黄金貴族の資本と土地とを国家に吸収し事実上の政権独占を打破すべし」と。そしてまた、彼は「社会が今日まで進化し而して階級闘争の優劣を表白するに投票の方法を以てするに至れり」と述べて、このような「投票」による革命が可能となったことは、闘争方法そのものの進化なのだと強調するのであった。
しかし、この法律戦争論をたんに普通選挙さえ獲得されれば第2の維新革命が実現できるのだというように読んでしまっては、北がこれまでつみ上げてきた論理にそぐわなくなるであろう。彼は「一切は生存競争なり、真理の生存競争に打ち勝ちて社会民主々義が全国民の頭脳を占領せる時、茲(ここ)に国家の意志は新たなる社会的勢力を表白して経済的維新革命が法律戦争によりて成就せらるゝの時なり」と述べているのであり、啓蒙運動によって「新たなる社会的勢力」が「強力」となっているという前提があってはじめて、普通選挙による法律戦争の勝利がありうるとの主張と解すべきであろう。そして彼は、現実には日露戦争に於ける国民の団結、とくに満州から帰還してくる兵士たちに、この新しい社会的勢力を見出そうとしていた。
「満州の誠忠質実なる労働者が帰り来る時!―今、彼等は続々として帰りつゝあり、人は彼等の凱旋を迎ふと雖も彼等は凱旋者にあらずして法律戦争を戦はんが為めの進撃軍なり」 「吾人は断言す、普通選挙権の獲得は片々たる数千百人の請願によりて得らるべからず、実に根本的啓蒙運動による全国民の覚醒によりて彼等権力者の一団を威圧して服従せしむることなりと。凡ての権利は強力の決定なり。団結に覚醒せるときに強力生ず。…国民の下層にして団結の強力なることを覚醒せざる間は権利を要求すべき基礎の強力なし。吾人はこの点に於て万国社会党大会の決議に反して日露戦争の効果を天則の名に於て讃美す。国民は団結したり。団結の強力なることは明らかに意識せられたり。 而してしょう(火・章)烟の間に翻へりたる『愛国』の旗は今や法律戦争の進撃軍の陣頭に高く掲げられたり。」
北にとって普通選挙とは、多様な利害の統合のためのものではなく、「愛国」の団結を国家意志に高めるためのものであった。そして彼がそのための啓蒙運動を戦争と徴兵制軍隊に期待していることは、さきの徴兵的労働組織の問題と合せて、北のその後をみるために注目しておかなくてはならないであろう。彼は天皇の軍隊を国民の軍隊と読みかえることでこの論を立てていると思われるが、この読みかえがそのように簡単にゆく問題でなかったことは、のちの青年将校と北との関係のなかにも現れてくる。もちろん北のこの読みかえは、さきの最高機関としての天皇の性格づけを前提としていたにちがいない。そしてその問題はもう一つの別の面でも彼の普通選挙論の暗黙の前提となっていたことであろう。
すなわち北の憲法論から言えば、国家の最高機関は天皇と議会の合体したものとされるのであるから、たんに議会の多数を得たとしても最高機関の一部にくい込んだにすぎない。しかも彼は貴族院の問題に触れていないのだから、普選で制圧することが可能なのは衆議院だけということになる。とすれば、彼の普選=無血革命論は、普選によってその姿をあらわした社会的勢力の意志に他の国家機関が従うということが前提されねばならない。しかし事態がそのように進行するという保証は、制度的には存在せず、社会的勢力の圧倒的強さという点以外には求めえなくなる。ところで、圧倒的な社会的勢力は北の理論から言えば、国家意志を形成することになり、それは超憲法的存在となるはずであった。
こうみてくると、彼の普選中心論は彼の理論から出てくる唯一必然の結論ではないと云わざるをえなくなる。何故なら超憲法的な力が何も普選だけにこだわることはないからである。国家の最高機関を構成する要素のうち最大の力を持つ天皇を動かした方がはるかに効果的であることは明らかであろう。もちろん当時は、後世の我々からは想像し難い程に、普選の効果が過大視されていたことが、北をこのような普選中心論に走らせたのであろうし、またそれは当時としては極めて急進的と云える議論ではあった。しかし北のこれまでつみ上げて来た理論から云えば、後年の天皇を擁したクーデターの方が、より直接的結論であるように思われるのである。
『国家改造案原理大綱』は次の如く述べている。「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終二天皇大権ノ発動を奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動卜見ルヘシ」。そしてそれはまさに、さきに引用した「団結は勢力なり、 社会的勢力は主権なり」という13年前の一文と直結していると云えよう。そこでは普通選挙権はもはや変革の突破口ではなくなり、クーデターの下で、改造体制の一環として上から与えられるものに転化していた。
このように、普選=無血革命論が、北の論理の筋道から云って、基礎薄弱なものであったとすれば、この普選論にみあう形で提示されている世界連邦による世界平和論が、彼の理論体系から完全にはみ出したものになることは必然であった。彼はまずその進化論の見地から、国家を発展させる基本的な力である社会の同化作用が更に拡大すれば世界大の単一社会があらわれると考える。そしてそこに至る中間頃として世界連邦による世界平和という進化の段階を設定しこれを社会主義の当面の目標にしようとするのである。つまり、階級闘争が「投票」で解決されるまでに進化したとする考え方を拡大して、国家競争をも世界連邦の連邦議会に於て解決するように進化させうるというのであった。日露戦争の勝利という状況の下で、北は帝国主義者としての興奮からさめて、帝国主義を克服する問題に眼をむけたとも言える。
「社会主義の世界連邦論は斯の競争の単位を世界の単位に進化せしむると共に、国家競争の内容を連邦議会の議決に進化せしめんとする者なり」、「社会主義の戦争絶滅は世界連邦国の建設によりて期待し、帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざらしむるに至らしむる平和にあり」、「社会主義の世界連邦国は国家人種の分化的発達の上に世界的同化作用を為さんとする者なり」。そして彼は、主体化した国家人格は帝国主義という野蛮な段階から世界連邦の形成へと進化するというのである。「個人が其の権威に覚醒せるとき茲に戦士となりて他の個人の上に自己の権威を加へんとする如く、君主等の所有権の下より脱したる国家は其の実在の人格たる権威に覚醒したる結果、他の国家の権威を無視して自己の其れを其の上に振はんとす。―帝国主義と云ふもの是れなり。天則に不用と誤謬となし。社会主義は国家の権威を主張すべき点に於て明らかに帝国主義の進化を継承す。即ち個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なき如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずしては万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし」。そして日本が帝国主義の野蛮な段階にあることを認めて、次のようにも書いた。「吾人は日本国の貴族的蛮風の自由が更に進化して文明の民主的自由となりて支那朝鮮の自由を蹂躙しつゝあるを断々として止めしめざるべからず」と。
しかしこの世界国家を展望した世界連邦による世界平和論が、理論的難点を持っていることは、おそらく北自身も気づいていたのではないかと思われる。彼は次のように書いていた。「階級的道徳、階級的智識、階級的容貌によりて今日階級闘争の行はれつゝある如く、階級間の隔絶より甚しく同化作用に困難なる今日の国家間に於ては国家的道徳国家的智識国家的容貌の為めに行はるゝ国家競争を避くる能はず」。つまり、 世界連邦から世界国家への進化の推進力となるべき世界的同化作用が、どのような基礎の上に展開されるかについて、北の理論は何の解答も用意していないとうことである。彼は「経済的境遇の甚しき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現と及び世界的言語(例へぱエスペラントの如き)とによりて掃討されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能はず」として、世界連邦と世界的言語が世界的同化作用の基盤であるかのように述べているが、しかしこの説明も、そもそも世界的同化作用を前提としなければ、世界連邦の成立さえもありえないではないか、との疑問に答えることが出来ない。
彼の進化論から云えば、国家競争は「避くる能はず」とか「無視する能はず」といった消極的に容認さるべきものではなく、人類進化のための積極的な力であり、それ故に国民の国家への集中と国家の強化とを強調した筈である。それは国家を通さない個人間の国際的連帯を否定するまでに強烈であった。彼は社会主義者の非戦論を「原子的個人を仮定して直ちに今日の十億万人を打て一丸たらしめんとする如き世界主義なり」としてしりぞけている。つまり北の理論で云えば、個人の側から国家をこえる世界的同化作用が生ずる余地はなくなってしまうのである。残る方法は、国家そのもののなかに世界への方向が内在するという論理を組む以外にはなかった。
北は個人と国家との間に想定した関係をそのまま持ち込んで、国家は世界に対して道徳的義務を負う倫理的制度だと主張しようとする。「国家が個人の分子を包容して一個体たると共に、世界は国家を包容して其の個体の分子となす。故に個人が其れ自身を最善ならしむるは国家及び社会に対する最も高貴なる道徳的義務なる如く、国家は其の包含する分子たる個人と分子として包含せらる世界の為めに国家自身を最善ならしむる道徳的義務を有す。此の義務を果すことによりて国家はルーテルの言へる如く倫理的制度たり。然るに、個人が其の小我を終局目的として国家の利害を害するならば国家の大我より見て犯罪なる如く、 国家にして若し―否!今日の如く世界の大我を忘却し国家の小我を中心として凡ての行動を執りつゝあること帝国主義者の讃美しつゝある如くなるは、実に倫理的制度たるを無視せる国家の犯罪なり」と。
しかし、彼が社会=大我、個人=小我と述べた際には、個人は社会のなかでしか生きられず、 そこから社会を強めようとする意識が生まれるという点を基礎としたのであった。また国家は 国家意識にもとづいた社会的勢力によって規制される筈であった。とすれば、社会と個人との関係をそのままあてはめて、国家=小我、世界=大我とする主張は、彼のこれまでの理論の展開からはづれたものと言わざるを得ない。彼の理論展開からすれば、問題はあくまでも、個人―国家―世界の3段階を切り離すことなく、その進化の筋道を説明しなければならなかったと考えられる。彼は進化を倫理的価値の実現とみるのであるから、帝国主義→世界連邦→世界国家が進化の必然の過程であるということを証明したうえで、国家は世界連邦実現の倫理的義務を負うと主張するのでなければ、彼は自ら設定した論理の手続きを無視するものと評されても致方あるまい。つまり、帝国主義から世界連邦への進化の必然を説くことなく、「社会主義は近代に入りて漸く忠君より覚醒せる愛国心を更に他の国家に拡充せしめて他の国家の自由独立を尊重する所の愛国心なり」などと説くことは、北自身の進化論的見方と相反して いるということなのである。
では北の進化論を世界国家に向っておしすすめてみるとどういうことになるのであろうか。彼が想定した進化の基本的な形は、社会従って国家が拡大し、そのなかでの国民の同化作用と分化作用とが進行する、それによって強化された社会=国家が生存競争のなかで更に自らを拡大してゆくというものであった。従って単一の世界社会=世界国家もこの基本形の進行のはてに設定されねばならなかった筈である。つまり現実の国家を固定しておきながら、その国家をこえる世界的同化作用を考え、世界連邦の実現を説くのではなしに、現実の国家の拡大による同化作用の拡大が世界にまで達するというのが、北の進化論から出てくる結論だったと思われるのである。
ここでもまた、後年の『国家改造案原理大綱』の方が、この結論に忠実なのではないかと思われてくるのである。『原理大綱』は「国家改造ヲ終ルト共二亜細亜連盟ノ義旗ヲ飜シテ真個到来スベキ世界連邦ノ牛耳ヲ把」ることを目的とする。しかしこの亜細亜連盟から世界連邦への道は、『国体論及び純正社会主義』に於ける世界連邦による世界平和論とは本質的に異っている。『原理大綱』の説く展望は次のようなものであった。「現時マテノ国際的戦国時代二亜イテ来ルヘキ可能ナル世界ノ平和ハ必ス世界ノ大小国家ノ上二君臨スル最強ナル国家ノ出現ニヨツテ維持サル丶封建的平和ナラサルベカラズ。…全世界二与ヘラレタル当面ノ問題ハ何ノ国家何ノ民族ガ徳川将軍タリ神聖皇帝タルカノ一事アルノミ」。つまりこの世界連邦は、連邦議会で国家競争を解決するようなものではなく、最強の国家が君臨することを予定したものにほかならなかった。北の云う国家改造が日本をこの最強国家たらしめんとするものであることは云うまでもないが、同化作用もまた─この用語は使われなくなっているが─この過程と共に進展するものとされているのである。例えば、彼は改造国家の教育に於て「英語ヲ廃シテ国際語(エスペラント)ヲ課シ第二国語トス」ることとしたが、その理由として次のように述べている。
「国際語ノ採用ガ特二当面二切迫セル必要アリト言フ積極的理由ハ…日本ハ最モ近キ将来二於テ極東西比利亜濠洲等ヲ其ノ主権下二置クトキ現在ノ欧米各国語ヲ有スル者ノ外二新タニ印度人、支那人、朝鮮人ノ移住ヲ迎フルガ故二殆卜世界凡テノ言語ヲ我ガ新領土内二雑用セシメザルベカラズ。此二対シテ朝鮮二日本語ヲ強制シタル如ク我自ラ不便二苦シム国語ヲ比較的良好ナル国語ヲ有スル欧人二強制スル能ハズ。印度人支那人ノ国語亦決シテ日本語ヨリ劣悪ナリト言フ能ハズ。…言語ノ統一ナクシテ大領土ヲ有スルコトハ只瓦解二至ルマテノ槿花一朝ノ栄ノミ」と。それは大帝国内部に於て、エスペラントによってより広汎な同化作用を推進するということにほかならないであろう。また世界的同化作用については「東西文明 ノ融合トハ日本化シ世界化シタル亜細亜思想ヲ以テ今ノ低級文明国民ヲ啓蒙スルコトニ存ス」と述べているが、これもまた大帝国の建設を前提としていることは言うまでもないであろう。
北が『国体論及び純正社会主義』に於て、一方で、「国家の強化拡大を熱望しその理論的基礎づけに狂奔する強烈な国家主義者としての自己をあらわにしながら、他方、その社会主義運動論の結論として普選=無血革命論、世界連邦=世界平和論を説いたことは、恐らく日露戦争の勝利によって帝国主義国家としての日本の地位が確立したという現実と、日露戦争にあらわれた国民のエネルギーを、彼の云う国家主義としての社会主義の方向に誘導しうるという期待とにもとづいていたことであろう。そしてこの点において変らなかったならば、彼が、その進化論の必然的帰結とは言えない社会主義運動論を維持しつづけるということもありえたかもしれない。
しかし彼は、中国革命という新たな状況のなかに身をおくことによって、中国革命に対応する日本の改造という新たな視点を獲得し、それと共にかつての社会主義運動論を捨て去ってゆくのであった。  
6 『国体論』からの転回

 

『国体論及び純正社会主義』(以下『国体論』と略称)が発売禁止の処分をうけたことは、北のその後の思想的展開を容易にし、また促進する1つの条件となったとも考えられる。この著作で彼が主張した根本的命題は、国家意識の普及と強化によって国家を発展させることが、人類を進化させる原動力となる、というものであった。しかし彼がこの命題をうち立て証明しようとしたのは、そこに止まるためではなく、それを基礎としてその次の問題にとり組むための準備であった筈である。
日露戦争前夜の彼の問題関心に即して言えば、『国体論』は「帝国主義と社会主義」との原理的関連についての彼なりの答えを示したものではあったが、日本帝国主義を欧米帝国主義と区別して「正義」であると価値づけたことの根拠までは提示してはいなかった。それは、この著作において、「公民国家」と性格づけたままで残されている諸国家の特殊性の問題を世界=人類の進化過程のあり方とどう関連づけるのかという点にかかわってくる問題でもあった。そしてその際、普通選挙による無血革命や、世界連邦の連邦議会による世界平和の達成といった『国体論』の結論をそのまま維持するとすれば、日本国家の使命について語るとしても、後年の北とは異なった語り方をしなければならなかったであろうし、後年の如くに語るとしたら、幸徳秋水と共に「余が思想の変化」について述べねばならなかったのではあるまいか。発売禁止処分を北はこのようなわずらわしさから脱れるために利用したように思われるのである。
『国体論』は、自費出版にも拘らず、相当に大きな反響を得た 1)。そしてそのなかから、社会主義者と大陸浪人という二つの手が彼に向って差し出されたのであった。結局のところ、彼は大陸浪人の手の方を握ったのであるが、この選択そのもののなかに、すでに『国体論』以後の問題関心の変化の方向を読みとることが出来る。
   1) 『北一輝著作集』第3巻(1962年4月、みすず書房)には、『国体論及び純正社会主義』に対する書評10編、『純正社会主義の哲学』に対する書評13編が収録されている。
『国体論』が刊行されたのは、1906年(明治39)5月9日であり、5月14日には発売禁止処分に付されたが、北が社会主義者と直接の接触を持ったのはこの直後からであった。堺利彦が使を派して、発禁本を売りさばいてやらうと申出たのがその直接のきっかけと思われるが、彼は社会主義者と接触した模様を叔父本間一松にあてた6月の手紙で、次のように報じている。
「先日浦本の叔父様見送りの帰りに、片山潜氏を訪れ、色々話し侯。大に崇敬の情をこめて歓待せられ、談聊か万国社会党大会の日露戦争否認の決議に及び候へども、氏も何となく自信の動揺せることは認められ侯。しかし多くの議論に於て相違有之候に係らず、社会党が皆一将を得しかの如く歓び迎へられるるには満足罷在候。然れども少々考ふる処も有之、先日『光』に論説の寄稿を願はれ候へど、体よく断はり、全く遊撃隊として存せしめよと申居り候。……咋日より社会党の公判傍聴に赴く。今の処社会党はホンの卵子にて、到底権力者と戦闘するには堪へず候。」
北が、当時の日本社会党の実際上の中央機関誌であった「光」ヘの寄稿を断り、社会主義の本隊に入るのを避けて、自ら「遊撃隊」と位置づけたのは、直接には、『国体論』の分冊再刊に奔走していたことも関係していたかもしれない。彼は、発禁のおそれのない部分から分冊刊刊することを考えており、この手紙も、『純正社会主義の哲学』刊行(7月13日出版)のための金策を依頼したものであった。しかしより根本的には、日露戦争論をはじめ「多くの議論に於て相違有之候」と述べているように、社会主義者との間の思想的な違いを、じかに身をもって確認したためであったと考えられる。そしてその直後から始まった直接行動か議会政策かをめぐる日本社会党内部の論争をみることによって、北は社会主義者たちとの距離を測り、自らの思想を展開する方向を見定めていったのではなかったであろうか。
アメリカから帰国した幸徳秋水が、「世界革命運動の潮流」と題する講演を行い、議会政策以外の「社会的革命の手段方策」として、総同盟罷工=革命的ストライキの問題を提起したのは、北が先の手紙を書いたのと同じ月の月末、6月28日であり、 更にその要旨は7月5日の「光」に掲載された。すでに述べてきたことからも明らかなように、社会主義者たちと根本的に発想を異にする北の「社会民主主義」が、社会主義者たちと交わるのは、社会主義運動の第一着を普通選挙の実現に求めた点だけであったと言ってよい。従って普通選挙論という接点が、社会主義者の側から突き崩されてきたことは、北の側にも、その普通選挙=無血革命論の根拠の再検討を迫る衝撃をもたらしたとみることが出来る。そして彼はそこから、普通選挙=無血革命論─従ってそれを投影したにすぎない世界連邦会議の投票による世界平和という構想をも─思想の変化について語ることなしに捨て去っていったのではなかったであろうか。大陸浪人からのべられた第二の手は、北にこの方向に動き出す大きなきっかけを与えたものと言う ことが出来る。それは「革命評論」のグループであった。
「革命評論」は宮崎滔天、池享吉、和田三郎、萱野長知、平山周、清藤幸七郎らを同人として、1906年(明治39)9月5日付で第1号が発行されている。そしてこの創刊号が北の手許にも送られて来たのは、このグループに好意をよせていた社会主義者たちの紹介によるものだったのであろう。月2回発行、1号のこの小雑誌は、「誰か20世紀を以て世界革命の一期にあらずと云ふ者ぞ、然り現時の文明を鞭って、百尺竿頭一歩を進転せしむるは、正に今時に在り」(「発刊の辞」第1号)として、ロシアと中国の革命運動に関する論評・記事を中心に編集されていった。
この20世紀は世界革命の時代だとする指摘を、北は世界、とくに隣接諸国の革命と日本帝国の発展との関連の問題として受けとめたことであろう。彼は早速弟のヤ吉を革命評論社に派遣する。「16日(9月)……此日森近運平氏及北輝次郎氏の令弟来訪、北氏は殊に令兄の代理としてその著書を恵贈せらる。謹んで謝す。」と「革命評論」第3号(8月5日発行)の「編輯日誌」は記している。第2号の発行は9月20日だから、北は創刊号を読んだだけで弟をさし向けたことになる。北自身の革命論社訪問はその約50日後の11月3日のこととして、第5号(11月10日発行)の「編輯日誌」に記録されている。
「3日、……此日北輝次郎氏来訪、寛談数刻、氏談半にして断水に向ふ、『暗示の進化』なる文を艸せし鳳梨とは雖、断水指し示す、氏即ち鳳梨を見てハアー! アノ方ですかと太だ怪訝の色あり、鳳梨仍て頭を撫して私語して曰く、僕の顔は余程変ってるかナと、聞くもの豈に同情に堪へんや、北氏今回著す所の『純正社会主義の経済学』又発売禁止の厄に逢ひしと、古人曰く口を塞く水を塞くよりも酷だしと、况んや高尚なる理想をや、政府者未だ此の意を解せずと見ゆ。」
文中の「暗示の進化」は第4号(10月20日発行)に掲載されている一文であり、「人間萬事信念に職由せる暗示を以て支配せらる」と書き出し、暗示の基礎となる信念が時代と共に変化することを指摘したものであるが、その中の次の一節が恐らく北の眼をひきつけたのではなかったかと思われる。「然れども世の進運に供ふて此の根底なき暗示は次第に消滅し、太守様と握手し徳川様と膝を交ゆるも『目も潰れず罰も当らず』と云ふ心念を認識すると同時に、萬乗の君は神聖なりと云ふ暗示時代に推移し来れるなり」─この一節は筆者の意図がどうあったにせよ、「萬乗の君は神聖なり」というのも、時代と共に変化する暗示の一つにすぎないとの主張と読める。
この小論ののっている第4号のトップは「暗殺と思想の変遷」と題する評論であるが、「暗殺」の記事が多いというこの雑誌の特徴にも当然北の眼がむけられていたことであろう。2号には「帝王暗殺の時代(歴史的観察)」、3号には「暗殺の露西亜」、さらに1号から「雪雷編(近日発刊)秘密小説虚無党、発売元春陽堂」の広告が連戦され、ゴチック体の「虚無党」の文字が人眼をひいている。北は『国体論』第二分冊としての『純正社会主義の経済学』の出版を準備しながら、「革命評論」のこのような雰囲気に関心を強めて行ったことであろう。そして『純正社会主義の経済学』が発行(11月1日付)後直ちに発売禁止処分となるや、革命評論社をおとずれ、すぐさま同人に加わったとみられる。そしてその日、幸徳秋水に次のように書き送った。
「拝復御見舞奉謝候。今度は如何なる故か別して癇癪も起きず、国体論の未練がサッパリと切れた為め、近来になき霽光風月の心地致し候。何が自己に適するか、自己の任務が何であるかの如き考へも致さず、只自由の感が著しく湧きて、モウ何でもするぞと云ったやうな元気なり。先づ病気を征服して真に奮闘します。」(明治39年11月3日付)
「国体論の未練がサッパリと切れ……只自由の感が著しく湧きて」と北が書いたのは、革命評論社の雰囲気のなかに、『国体論』の思想を、『国体論』の結論とはちがった方向に発展させる可能性の如きものを感じとったからではなかったであろうか。北の来訪を記した次の号、第6号(11月25日発行)には、最近北の執筆と推定されるようになった「自殺と暗殺」(署名は外柔)が掲載された。私もこの推定を支持したい。
この小論は、天皇制のもとでは、自殺にまで至る「煩悶」は、「革命的暗殺」に転ずる可能性のあることを指摘したものであった。「余輩は煩悶の為めに自殺すといふものゝ続々たるに見て、或は暗殺出現の前兆たらさるなきやを恐怖す」と書き出したこの論文は、「煩悶」とは何かについて次のように展開される。即ち「煩悶とは個人が自己の主権によって他の外来的主権に叛逆を企つる内心の革命戦争」なのであり、外的権威に服従して「個人なるものなく、自己なるものなく、自己の自主権によりて社会的思想と歴史的慣習の上に批判せんとする人格」がなければ「煩悶」の起る筈がない。とくに日本に於ては、天皇は「国民の外部的生活を支配する法律上の主権者たるのみの者ならず、実に其主権は思想の上にも学術の上にも道徳宗教美術の上にも無限大に発現するもの」であり、そこでは忠君愛国の道徳があれば足り「煩悶」の生れる余地はない。従って「煩悶」の生ずるのは、外国の事実に心を躍らせて「恣に比較研究をなし、終に等しく自己の主権を以て評価せんとするが故」にほかならないと。そして「爾乱臣賊子の徒は天皇主権の領土を法律の範囲内にのみ縮めて己に思想界の版図に掠奪の叛旗を翻がへし得たりしか」と述べたこの小論は、「あゝ誰か煩悶的自殺者の一転進して革命的暗殺者たるなきを保すべきぞ」という一文で結ばれていた。
そこには「自己の主権」から、いわゆる国体論を復古的革命主義=反革命と批判して弾圧され、暗殺に肯定的な革命評論社に没入していったこの時期の北の心情がにじみ出ているように思われる。そしてそれは、後年「幸徳秋水事件等の外に神蔭しの如く置かれたる冥々の加護1)」について語っているように、日本の社会主義者のなかでは幸徳一派への親近感となってあらわれてもいた。しかし、いわゆる国体論に叛旗をひるがえしたとは言え、明治天皇英雄論によって、日本帝国をその根底において承認した北の思想には、天皇暗殺を志向する何のモメントも存在してはいなかった。彼にとっては、あるべき国家意識の基礎を問うための国体論批判の次には、その国家意識を集中強化するための、あるべき使命感の模索が思想的課題となる筈であった。この課題を北がどの時点でどれ程自覚的に捉えたかは明かではない。しかし、革命評論社に入るとすぐに中国革命同盟会にも入会し、国際主義派孫文を排して国家主義派の宗教仁との結びつきを強め、大陸浪人の生活様式になじむ2)と共にその大アジア主義をうけいれてゆくという北の歩みは、この思想的課題への一つの迫り方を示していることも確かであった。
   1) 『日本改造法案大綱』「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」
   2) 「革命評論」は10号(明治40年3月25日付)までしか出なかった。その後北は翌明治41年夏から黒沢次郎方に寄宿し、大陸浪人とのつき合いを深めてゆく。この間の北の生活を、黒沢次郎・北ヤ吉両氏の談話にもとづいて叙述した田中惣五郎氏は、「北の黒沢時代の仕事といえば、中国の革命党と往来し(たまには日本の革命党とも)、革命資金をうることであり、その資金を流用して、自己も生きてゆくことのくり返しであったといえる。」(『増補北一輝』、1971年1月、三一書房)と評している。
革命評論社以後の北が、次第に黒竜会に近づいて行ったことは、1911年(明治44年)9月、同会が刊行した雑誌「時事月函」の編集にたずさわり、10月に辛亥革命が勃発すると直ちに、黒竜会から中国に派遣されたことからも知られる1)。しかしそのことは、彼が黒竜会の思想に全く同化してしまったと言うことではなかった。たしかに彼は日露戦争を肯定し韓国併合を支持する点では黒竜会と同じ立場に立っていたとみられる。もっとも彼が韓国併合をこの時点でどうみていたかを直接に示す資料はない。しかしのちの『国家改造案原理大綱』で、朝鮮は大国にはさまれているという地理的条件と、内部の「亡国的腐敗」のために亡びたとして、「其ノ亡国タルベキ内外呼応ノ原因ハ統治者ガ日本タラサル時ハ露支両国ノ焉レカナリシハ明白ナリ。……自立シ能ハザル地理的約束ト真個契盟スル能ハサル亡国的腐敗ノ為二日本ハ露国ノ復讐戦二対スル自衛的必要二基キテ独立擁護ノ誓明ヲ取消シタル事ガ真相ナリ。」と述べていることからみると、北は朝鮮には自立する力がないという独断的な朝鮮観で一貫していたように思われる。
そして北は、このような朝鮮にくらべて、中国の場合には、現に彼の身近かに存在する中国の革命運動家たちによって、清朝を頂点とする「亡国的腐敗」が打破されるならば、日本の発展と支え合うような新興国家が形成されるにちがいないとの期待を持ったのではなかったか。そしてそれはまた、社会を拡大することが生存競争の力を強化することになるという彼の進化論が、世界史の発展を大国による小国の同化として捉えていったこととも関連していたことであろう。あとでみるように、彼は朝鮮は日本と同化さるべきものと考えていたが、中国はすぐさま同化の対象とするにはあまりにも大きかった。
彼が、韓国併合に狂奔する黒竜会首脳の活動を傍観しながら、その間中国の革命運動家との交流を深めていったことは、このような朝鮮と中国に対する見方の差にもとづくものとして理解できる。おそらく彼の観点からすれば韓国併合は既定の事実にすぎなかったのに対して、中国革命を支援して新興国家をつくりあげることが出来るかどうかは、日本の将来を左右するほどの決定的問題と映じたにちがいない。そしてこの立場からすれば、中国革命の支援とは、それによって中国における日本の利権を拡大することではなく、中国の亡国的腐敗を打破して新興国家をつくるためのものでなくてはならなかった。この点で彼は革命支援の代償として満州を獲得する等の利権を得ようとした黒龍会2)等の大陸浪人の主流と袂を分たねばならなかった。そしてまたこの点で彼は、中国革命のよき理解者と評されるような一面をも持ち得ることとなった。しかし同時に、彼は決して日本帝国の発展という彼の思想の基本的要求を放棄した訳ではなかった。彼は日本帝国の発展と新興中国の発展とを、日露戦争の肯定の上に構想することで、やがて、「日本ファシズムの源流」と呼ばれる地点に到達することになるのであった。
いわば彼は、革命評論社から黒龍会を経て辛亥革命の内側にはいり得たことで、『国体論』の立場を脱皮すると同時に、既成右翼をもつき抜ける道を見出したといいうるであろう。彼はこの後、自らの立場を積極的に「社会主義」として語ろうとはしなかったし、『国体論』における「社会民主主義」は、『支那革命外史』においては、「国家民族主義」と表現されるに至るのであった。
   1)  黒龍会では、辛亥革命に関する現地からの電信の写しを綴って関係者に配布したようであるが、それには次のような序言が付されている。「支那革命軍ノ武昌ニ蹶起スルヤ、是ヨリ先キ、革命党ノ領袖等、密二内田良平二結托シ、事ヲ拳グルノ日、遙二声援ヲ約スル所アリ。10月17日、領袖者ノー人宋教仁上海ヨリ内田二飛電シ、我当局二向ッテ革命軍ヲ交戦団体卜公認スルノ交渉尽力ヲ依頼シ来ル。内田乃ハチ之ヲ諾シ、同時二従来革命党領袖間二信用アル黒龍会時事月函記者北輝次郎ヲ上海に簡派シ彼地二於ケル一般ノ状勢ヲ視察シ、併セテ革命党ノ為メ二斡旋スル所アラシム。」(西尾陽太郎編「辛亥革命関係資料」福岡ユネスコ協会編『日本近代化と九州』所収、1972年7月刊、平凡社)
なお、西尾氏の紹介されたものは、内田家所蔵の資料であるが、小川平吉文書にも同様の写しが保存されており(小川平吉文書研究会編『小川平吉文書』2、所収、1973年3月、みすず書房)『北一輝著作集』第3巻に収録されているのは、出所は明かにされていないが、ほぼ小川文書と同一の内容のものである。しかし、西尾氏紹介の内田文書には、他の文書にはみられない電信もふくまれているので、ここでは西尾氏編の資料集より引用させて頂くことにした。
2) 内田ら黒龍会主流と北の違いについては次節参照。  
7 辛亥革命への参加

 

北の中国からの第一信は1911年(明治44)10月31日付上海発内田良平宛電報であり、 彼はおそらく10月30日に上海に到着したものと思われる。そしてすぐさま革命派の上海占領工作に参画し、ついで11月8日宗教仁の先行している武昌に向った彼は、12日武昌で宋と会談しすぐ彼等と共に出発、南京を経て、18日には上海に帰っている。彼はこの間、内田良平、清藤幸七郎、葛生修亮等にあてて多くの電信を発しているが、その内容は単なる状況報告や連絡のみではなく、中国革命の根本的性格とそれに対する日本の態度についての意見を主張することに多くの紙面を割いていることが特徴的であった。
彼はまず、朝鮮に対すると同じ姿勢で中国革命に対してはならないと警告する。即ち内田にあてて、「万々一、対朝鮮ノ心得ヲ抱キテハ折角ノ大効業ガ手ノ裏ヲ翻へスヤウ可相成候間、ヨクヨク御体得願上候 1)」と注意をうながし、清藤に対してはより具体的に「君ノ従来ノ支那観ハ根本ヨリ一掃シナケレバナラヌ。又内田氏モ亡国ノ朝鮮人ノ大臣共ヲ遇スル時ヨリモ一留学生ノ値ハ不可量ノ覚悟ヲ以テサレムコトヲ望ム2)」と書き送った。この「留学生」とは中国から日本に留学した青年たちを指している。
   1) 11月10日、北発内田良平宛「武昌行途中、船南京ヲ過ギタル時発シタル書翰」前掲『日本近代化と九州』。
   2) 11月5日、北発清藤幸七郎宛「上海占領行動二関スル情報」。
北はこの中国留学生たちが、日本で学んだ国家民族主義をもって、革命運動の指導的部分を形成しているという点に二重の期待をかけていたと言える。即ち第1には、彼等によって、中国にも亡国的腐敗を一掃する明治維新と同質の革命が実現されるであろうとの期待であり、第2には、彼等が新たな治者階級となった新興中国は、日本帝国のよきパートナーたりうるであろうとみる期待であった。そしてこの二重の期待が実現されるか否かに、日本の将来がかかっているようにみえた。勿論そのためにはやがて、彼の論理のなかで、日本と中国との発展を結びつける可能性を求めねばならなくなってゆくが、当面はとりあえず「日本的」思想をもった青年たちが革命の中心であることを認識し、彼等を新しい治者階級たらしめるよう援助するという課題を、日本の政治的指導者たちに理解させなくてはならなかった。彼はこのような方向の媒介者たることを内田良平ら黒龍会幹部に求めたのであった。さきの清藤宛書翰はこれらの点について次のように書いている。
「直裁簡明ニ単刀直入的ナル革命党ノー般的気風ハ実ニ日本教育ヨリ継承シタモノデアル。……前後ヲ通ジテ幾万ノ留学生即チ四億万漢人ノアラユル為政者階級ノ代表的子弟ニ日本ノ国家主義民族主義ヲ吹込ダカラ排満興漢ノ思想ガ出来タノダ……コレホド明カニ思想的系統ノ示サレテ居ル事例ハ余リ類ガアルマイ。日本ハ革命党ノ父デアル。新国家ノ産婆デアル。日本ノ教育勅語ハ数万全漢民ノ代表者ノ上ニ此ノ大黄国ヲ産ムベキ精液トシテ降リ注ガレタモノデアル1)。」
つまり彼は、第一に日本が中国革命運動に与えた影響は、国家の独立を第一義に考えるという思想的なものである点を強調しようとした。従って、中国革命に対する援助とは、中国の独立を達成させるという点を根本としなければならず、そうでなければ、援助は干渉となり中国側が「排日」の態度をとるのは必然であると考えた。言いかえれば、中国革命を援助するとすれば、日本の対中国政策は一変されねばならない筈であった。
「新シキ大黄国ハ日本卜等シク国権卜民族ノ名ノ下ニ行動スベシ。コノ点ハ明ラカニ排日ヲ意味スルト同時ニ根本的ニ精神的ニ親日デアル。…コノ国権卜民族ノ覚醒ガ来タ而モ日本的ニ来ッタ新興国ニ対シ一点デモ其レニ対スル侮リガ見エタラ最後、日本ハ全四百余州カラボイコットサレルノダ。…革命党、即チ数万ノ日本的頭脳ガ治者階級ヲ形ヅクッテ居ル新支那ニ対シテハ、日本ノ対支那策モー変シナケレバナラヌ─而モ其一変タルヤ、支那ノ革命シツゝアルニ併行シテ革命的一変タルベキハ申スマデモナイ。…毛唐共ノ御先棒ハ北清事件ノ馬鹿ヲシタダケデ沢山デアル2)。」
   1) 11月5日、北発清藤幸七郎宛書翰『日本近代化と九州』
   2) 同前
上海上陸後一週間にして、北がこのような手紙を書いていることは、彼が自ら革命派の立場に立とうとし、その立場からみると革命に対する日本の干渉、あるいは革命の機会をねらった日本の侵略が最も恐るべきものとして映じたことを示しているのであろう。事実、革命の当初から日本政府の内部には、在満権益の確保、居留民の保護を名とした出兵論が存在し、やがて、満蒙の勢力範囲分割を中心とするロシアとの交渉が始められる。(1912年7月8日、第三回日露秘密協約調印)また、清朝援助を最初の方針とした外交当局は、立憲君主制─君主制維持の方向で英国との共同干渉を企図している。そして、この企図が英国の支持を得られずに失敗に帰すると、今度はロシアと共に四国借款国に加入し、袁世凱を通じた中国の国際管理の方向に加わっていった。
この間、民間では川島浪速らが宗社党を支援して満蒙独立を企て、革命派援助の大陸浪人と対立した方向に動いているが、満蒙支配の確立をめざしている点では、革命援助派も異るところがなかった。そしてこれらの動きと共に、軍払下げの武器の売り込みが南北両派に対して活溌となっていった。
このような日本側の動向は、北が想定した中国革命に対するあるべき日本の姿とは全くかけ離れていると言ってよかった。彼は1911年11月から12年3月、つまり革命派がまだ次の局面の主導権を握る可能性を持つと考えられていた時期には、このような中国革命に対する姿勢を修正するための活動を内田良平らに期待して、次のような問題を提起していた。即ち(1)無用の浪人の取締1)(2)孫文が革命運動の中心ではないことについての認識2)、(3)清朝側への武器売込みの禁止3)、(4)中国の共和制支持4)、(5)日英干渉打破のための元老勢力の利用5)、(6)南方中心の講和を促進する政策6)、(7)革命派代表としての宗教仁の訪日を成功させる必要7)、(8)武器商人8)の不信、(9)日米借款による革命政府9)支援、(10)満州独立宣言(川島らの満蒙独立運動を指す)の取消10)、(11)袁世凱の手で六国借款を成立させることに反対11)等々といった問題について、内田良平の注意をうながし、あるいは奔走を求めているのであった。
   1) 「無用ノ浪人輩、特ニ上海香港ノ間ニハ支那ゴロヤ支那不通ガ多ク……折角ノ国交モ、其等ニヨリテ傷ツケラレ申スコトハ明カ」とし、「真ニ今日ノ急務ハ、先ズ浪人共ヲ取締ルコトニ候」と述べている。 同時に渡航の軍人について、「人格ノ傲慢不遜、又ハ主我的ナルハヨロシカラズ、思想ハ軍隊外ニモ通ジテ、非侵略主義ノ人タルヲ要件ト致度侯」と希望しているが、この要件は浪人についても期待されていたことであろう。11月10日(1911年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』。
   2) しかし、この時期には孫文の勢力を排除することを求めていたわけではなかった。北は、孫文が革命に対して無力であると考えており、後に大総統の地位につこうとは全く予想していなかったにちがいない。1911年11月段階では次のように述べている。「孫逸仙ノ如キハ、内地ニハ全クノ無勢力ノ由、聞キテ驚入候。シカシコレハ、貴下等ノ胸中ニ止メテ一人デモ分裂セシメザルコトガ大事ニ存ジ候。」(11月13日、内田良平宛、同前)、「孫君ノ愚ナル、何ゾ甚シキヤト申度候。……徒ラニ米国ノ遠キニ在リテ無用ノ騒ギヲ為シ……自家ハ康有為ト等シク、時代ノ大濤ヨリ役ゲ出サレツゝアルヲ知ラズ」(11月14日、清藤幸七郎宛、同前)
   3) 北は、三井・大倉・高田などが清朝側に武器売込をしていることは革命派にもわかっていることを指摘し、「僕ガ折角日漢ノ関係ヲ円満二シヤウトシテモ、後カラブチ壊シテヤラレテハ何ニモナラヌ。政府モ方針ガ一定シテル位ナラ、ウント腰ヲ据エテ、干渉デモ圧制デモシテハドーダ」(11月18日、内田良平宛、同前)と憤激している。
   4) 12月18日、内田良平宛、同前。
   5) 12月20日、内田良平にあてて、「杉山氏共ニ、山県桂公ニ説キ外務省ヲ圧迫セシメヨ」と要請している。杉山氏は杉山茂丸。
   6) 1月20日(1912年)、内田良平宛、同前。
   7) 1月25日、内田良平宛、「日本ノ優越権ハ彼ヲ成功セシムルコト、彼ヲ歓迎スルコトニアリ」。なお1月4日、2月6日、3月17日の内田宛電信をも参照。
   8) 2月 6日、内田良平宛、同前。
   9) 2月17日、内田良平宛、同前。
   10) 2月19日、内田良平宛、同前。なお同じ日、宋教仁も内田にあてて、「貴国政府ノ責任者ヨリ満州独立ノ宣言ガ決シテ貴国ノ好ムトコロニアラザル事ヲ弊国ノ与論ニ普及スルガ如キ方法ヲ以テ言明セラレンコトヲ希望ス」と打電しており、この宋の希望の実現をはかることを求めたものであった。
   11) 3月13日、内田良平宛、同前。
北は宋教仁の活動の方向が、北自身の想定した中国革命のあり方に最も適合するものと考え、宋教仁を支援することを彼の活動の中心としていた。しかし情勢の進展は次第に彼の期待を打砕いていった。まず清朝側の全権を握った哀世凱のために、11月26日、革命軍は漢陽で一敗地にまみれる。しかし哀世凱もそこで軍をとどめ、以後革命軍との妥協交渉が断続的に継続されるに至った。この間革命派内部では、新政権樹立への動きが活発となってゆくのであるが、そのなかで北が期待した「黄興大元帥、宋教仁総理大臣1)」の線も崩れていった。一時は黎元洪大元帥、黄興副元帥に動くかにみえた各省代表者会議は、12月25日、孫文が上海に帰着すると、圧倒的支持を以て、孫文を臨時大総統に推戴するという北の予期しない事態があらわれた。1912 年1月1日、孫文を臨時大総統、黎元洪を副総統とする南京臨時政府が成立する。
   1) 北は12月1日付、内田良平宛電報で次のように述べている。「黄興大元帥、宋教仁総理大臣、中央政府発表近シ、漢陽失敗ハ(大局ニ)関係ナシ、三人秘密ニヤル。北」(『日本近代化と九州』)
臨時政府樹立によって、袁と革命軍との講和会議は表面上決裂したが、裏面では、清帝退位、共和制実現を条件とした妥協の方向に動いていた。この間講和実現の大勢をみた北は、新中央政府部内での革命派の主導権確保を日本が支援すべきだと考え、宋教仁の訪日促進(実現せず)などを画策したが、日本側の動きは彼の期待とはますます隔絶して行った。満蒙独立運動や第三次日露協約への動きが明確になるのはこの時期であり、日本政府内部にはさまざまな意見があったとは言え、北京の伊集院公使は、袁世凱に共和制反対の圧力を加えつづけ、列強のなかでも孤立しつつあった。また、他方黒龍会などこれまで革命派支援の立場をとってきた大陸浪人のグループは、いわゆる南北妥協そのものに反対の態度を示していた1)。これに対して北は、「革命党ガ根本ノ勢力タルコトヲ確信シテ、袁ニ六ケ月開花ヲ持タセタリトテ何ノ恐ルゝトコロゾ2)」と反論したが、彼等の態度を変えさせることは出来なかった。
日本の支援のもとに革命派の主導権を確保するという北の構想が実現の手がかりをつかめないうちに、「南北妥協」は進行した。1912年2月12日清帝退位の上諭が発せられると孫文は辞任、3月15日袁世凱は北京で臨時大総統の地位をついだ。そしてその直後、四国借款団(英米独仏)は、6千万ポンドの借款を袁政権に与えることと共に、日露両国の借款団参加に異議のないことを申合せた。日本外交は袁世凱支援に追ずいし、やがて展開される革命派弾圧の資金づくりに手を貸していた。袁の地位はもはや6カ月花をもたされたという程度のものではなくなりつつあった。北の構想は全面的に敗北しつつあったと云ってよい。彼を中国に送った大陸浪人たちからも孤立し、活動資金にも欠乏した北の姿を3月末の一電文は次のように伝える。 「北金策ニ窮シ(大局ヲ)誤ルノ恐レアリ。ナホコゝニ置クノ要アリ。金送レバ余コレヲ始末スベシ、ヘンデンS3)」と。これ以後、彼が内田良平らにどのような電信を送ったか明らかでない。 ただ南北妥協に反対して革命派を見限りつつあった内田と、なお宋教仁を支持しつづけた北との距離が次第に拡がりつつあったと推定できるだけである。彼が依拠した宋教仁は、5月革命派を糾合して国民党を組織、翌1913年(大正2)2月の総選挙に大勝したが、その翌月、3月 22日上海で暗殺されて32才の生涯を閉じた。北自身もまた、4月8日、上海領事を通じて日本政府から中国退去を命ぜられたのであった。
   1) 例えば、内田良平等黒龍会幹部は、南北妥協の報を「意外のことゝし」妥協交渉中止を勧告するために、葛生能久を南京に派遣している。(黒龍会編『東亜先覚志士記伝』中巻。1935年3月、同会出版部刊)また、内田らと革命派支援のために有隣会を組織していた小川平吉は、「吾々は万難を排して戦争を遂行し南北統一の実を挙げなければならないと云ふ考へ」から妥協に反対し、2月9日には宋教仁にあてて「袁世凱が時局を左右するに至る事は我々の絶対に反対する所なり。袁に欺かれず断乎として初心を貫徹するよう、孫、黄ニ君にしかと注意を乞ふ。尚ほ君の来朝を待ちて面談す。早々来れ」と打電している。(小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書』)
   2) 2月19日北発内田良平宛、『日本近代化と九州』。
   3) 3月26日、佐藤(惣治カ)発内田良平宛、同前、なおカッコ内は西尾陽太郎氏の推定及び判読。
退去命令によって余儀なく帰国してから、『支那革命党及革命之支那』(のち『支那革命外史』と改題)の執筆にかかる1915年(大正4)秋までの約2年半ばかりの間、北がどのような生活を送ったかについて語る資料は少ない。しかし「支那ノ完全ナル独立ハ、日本ノ絶対的必要1)」という観点からみれば、情勢は悪化する一方であった。北が帰国した同じ月の月末、4月27日には、 五国借款国(さきの六国借款団よりアメリカが脱退)と袁世凱政府との間に、いわゆる「善後借款」が正式調印される。そしてこれに力を得た袁は、国民党に対する弾圧を強化、追いつめられた形の国民党幹部は、七月第二革命と通称される武力闘争に立ちあがるが、たちまちのうちに敗退していった。そしてそのあとには、辛亥革命の成果をとりつぶしてゆく袁世凱独裁化の過程がつづく。
   1)  1月20日(1921年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』。
袁の独裁化過程は、1915年(大正4)後半には、袁自ら皇帝たろうとする帝制樹立工作にまで発展する。しかし袁政権の基礎は彼が思いあがった程強固ではなかった。前年8月に始った第一次世界大戦は、袁政権支援の国際的強調を破産させていた。日英同盟を利用して参戦した日本は、年内に山東省のドイツ権益を占領、ついで翌15年(大正4)1月には、悪名高い「21 カ条要求」をつきつけて袁政権を動揺させるに至る。日本はついに5月7日最後通告を発し、5月9日袁政権はこれをうけいれて、一応交渉は終ったが、このニつの日付が「国恥記念日」として中国民衆の間に記憶されてゆくことは、それだけ袁政権の基盤が失われてゆくことを意味していた。すでに威信を失墜しつつあった袁世凱の帝制工作には、これまで反革命の線で袁と手を握ってきた諸勢力も離反して、1915年12月第三革命に踏み切り、16年6月、袁が失意のうちに没したあとには、軍闘割拠の状況が残されることになるのであった。
北が『支那革命党及革命之支那』を執筆したのは、15年11月から16年5月にかけてであり、彼は袁世凱の帝制樹立工作が強引に遂行されるかにみえた時点に筆を起し、袁死去の前月に書き終ったことになる。それは辛亥革命から離脱した彼が、「世界大戦」という新しい状況のもとで、中国の将来と関連させながら、日本帝国の使命についての新たな構想を獲得し、それによって、日本の対外政策の「革命」を企てはじめたことを意味していた。そしてその場合にも権力中枢に直接に働きかけようとする辛亥革命時の姿勢がそのまま維持されてはいたが、しかしここではもはや、内田らを媒介とする訳にはゆかなくなっていた。
南北妥協を「対日背信1)」とみた内田は、第ニ革命勃発の1913年(大正2)7月には「宗社党ヲシテ満蒙ニ一区域ノ独立国家ヲ建設スル2)」方向を示唆した意見書を山本首相に送り、「満蒙問題の解決について中国革命党の協力を期待した従来の方式を拠棄し、専ら宗社党及び愛親覚羅氏に心を寄せる満蒙諸藩との協力によって満蒙新帝国を建設するという方式に傾斜3)」していた。そして彼は露骨な満州侵略を主張する「対支連合会」を組織し、その活動に力を注いでいた。
   1)  孫文の「満蒙譲渡の公約」が「来るべき革命後の日支関係に対し多大の光明を与へた」と考えた内田にとって、袁世凱との妥協はこの公約への背信とうけられた。『国士内田良平伝』。
   2) 大正2年7月26日付、山本権兵衛宛意見書『小川平吉関係文書』。
   3) 『国士内田良平伝』。
内田はもはや、中国革命に対する認識を全く放棄していた。彼は「現下ニ於ケル支那南北ノ抗争ハ支那人古今ヲ通ジタル政権慾ノ結果ニ出デ侯行動ニ有之、其双方ニ於テ主張卜云ヒ主義卜云ヒ人道卜云ヒ名分卜云フガ如キモノハ倡優一夕ノ粉粧ニモ値ヒセザル底ノ義卜奉存候1)」と述べており、中国の政治情況を民族的利害などという観点を失った泥沼の如きものとして捉えているのであり、従ってそれに対する日本の政策は、「浮動セル支那共和民国ノ噪妄ヲ威圧ス可キ2)」ものでなければならないとしたのであった。
   1) 前掲山本首相宛意見書『小川平吉関係文書』。
   2) 同前。
これに対して北は、中国革命はいまだ継続中であるとの認識を前提としており、従って、中国革命の性絡と行方を見定めることが日本帝国の使命を把握し、対外政策を立案する基礎とされねばならないと考えた。彼は辛亥革命の渦中から内田らに書き送った意見を出発点として中国革命認識を再整理し、今度は内田らの仲介を排して自ら権力中枢に働きかけるために、『支那革命党及革命之支那』を「執筆の傍より印刷しつつ時の権力執行の地位に在る人々に示した」のであった。彼は1921年(大正10)『支那革命外史』と改題刊行に際して付した序文のなかで、この著作の性格について次のように述べていた。即ち「此の書は支那の革命史を目的としたものでないことは論ない。清末革命の前後に亘る理論的解説と革命支那の今後に対する指導的論議である。同時に支那の革命と並行して日本の対支策及び対世界策の革命的一変を討論力説してある。即ち『革命支那』と『革命的対外策』という2個の論題を1個不可分に論述したものである」と。
北は、中国革命に対する認識を整理・再編しつつ、それとの関連のなかで、日本の「変革」の問題を提起しようというのであった。それは、『国体論』とは全く異った視角であると言える。すでにみたように、『国体論』においては、さまざまな問題を持つとは言え、とにもかくにも、「階級闘争」と「啓蒙運動」とが、つまり国内大衆の団結が社会主義の前提に置かれていたのに対して、ここでは、「革命支那」と「革命的対外策」という外からの要請が、彼の関心の基底をなすに至っているのである。そしてさらに「革命支那」との関連において設定された筈の「革命的対外策」が、その関連を失って独走しはじめるという点に、北の思想の決定的転換の鍵があるように思われるのである。ともあれ、彼は、中国革命の認識を媒介として『国体論』の立場から飛躍してゆくことになるのであった。 
8 中国革命認識の特徴

 

『支那革命外史』の序文によれば、北は本書を2回に分けて執筆したという。すなわち前半の第8章「南京政府崩壊の真相」までは1915年(大正4)11月から12月の間に、第9章以下の後半は翌16年4月から5月の間に書き上げたものとされている。内容から言うと、前半は辛亥革命の勃発からいわゆる南北講和によって袁世凱が臨時大総統に就任するまでの過程を中心として、中国革命の基本的性格を明らかにすることに力点がおかれている。後半の方は、以後第三革命の問題にまで触れられてはいるが、その間の政治情勢の変化を検討することよりも、今後の中国革命の展開の方向を展望し、それに対応する日本の対外策のあり方を議論することの方に力点が置かれるようになっている。
ところで3か月の時間をおいて書かれた前半と後半とでは、非常に異った印象をうけることが、刊行当時から注目されていた。例えば吉野作造は、前半は非常に立派な近来の名論だと思って国家学会雑誌で批評しようと思ったが、後半で意見を異にするのでやめたと述べている 1)し、また北自身もこの著作の反響について「初めの支那革命の説明は、皆喜んで了解して呉れました。後半の日本外交革命と謂ふ点になりましたら皆驚いて態度を変へました2)」と語っている。このように前半と後半とが全く異った評価をうけたのは、前半では中国革命を反帝国主義の民族革命として内在的に理解しようとし、日本の干渉にも反対しているのに対して、後半では叙述が進むに従って軍国主義・武断主義の主張が前面に押し出され、革命中国と日本とが手を握って対外戦争にのり出さねばならないと結論されるに至っているからであろう。北自身も、これらの後半の主張は「皮相的デモクラシーの徒の愕き否んだ所の者であった3)」と述べているが、そこには確かにデモクラシーの徒をおどろかせるに足る論理の異様な展開と飛躍とがみられるのである。
   1)  佐渡新聞、大正6年7月28日。
   2) 2.26事件関係憲兵隊調書。
   3) 改題刊行の際の序文。
この飛躍は、北自身にとってもかなりな精神的エネルギーを必要としたのではなかったであろうか。というのは、彼が法華経読誦に専念し始めるのは、前半の執筆を終えて後半にかかる間のことであり、彼はそこに後半執筆の支えを求めたのではなかったかと思われるからである。北自身の述べているところによれば、彼は前半を書き終えた直後の1916年(大正5)1月、「突然信仰の生活に入り1)」「以来法華経読誦に専念し爾来此事のみを自分の生命として1年1年と修業2)」を重ねたという。そしてそれに対応して後半では「如来の使」「救済の為の折伏」「彌陀の利剣」などといった表現が用いられるようになった。それはいわば「仏の宇宙大に満つる大慈悲は道を妨ぐる一切の者を粉砕せずんば止まらず。──観世音首を回らせば則ち夜叉王」といった観念の支えを得て、中国革命が大流血の局面を経なくては完成しないことを予言し、さらには日本と中国の将来に於ける武断主義・軍国主義を主張しようとするものであったように思われるのである。
ともあれ、北は中国革命を支援することに日本の「正義」を見出し、そこに日本の発展を構想する基礎を求めたのであった。そして一度は中国革命派の立場に身を置こうとしたかにみえた北が、彼のいわゆる「革命的大帝国主義」の方向に飛躍してゆくのも、中国革命の将来を「日本国権の拡張と支那の覚醒の両輪的一致策如何」という観点から模索する過程に於てであった。従ってここではまず、『支那革命外史』前半を中心としながら、北の中国革命認識がどのようなものであり、そこでどのような問題が彼を武断主義・軍国主義へと飛躍させる契機となったかを検討しておかなくてはなるまい。
   1)  2.26事件関係憲兵隊調書。
   2) 2.26事件関係憲兵隊調書。
北はまず、中国革命はたんに満州王朝という異民族支配を打倒するに止まるものではなく、列強帝国主義の抑圧を排除して民族の独立を達成することを基本的な課題としており、この基本的な課題の故に、革命は長期にわたる全社会的な規模での変革の過程にならざるを得ないとみていた。この見方からすれば、満州王朝=清朝を打倒した辛亥革命は、全体の中国革命の序幕にすぎないということになるわけであるが、その序幕からしてすでに反帝国主義という課題によって規定されていたというのであった。即ち彼は当時の中国が直面した対外的危機を「支那の憂は北境よりする日露の武力的分割と、英米独仏が清室と結托してする経済的分割の二あるのみにして他無し」と捉え、また財政の崩壊がそれに対応する国内の危機状況を象徴しているとした。つまり清朝の腐敗と列強の圧迫とは相乗的に財政危機を深化させており、その結果清朝の列強依存=列強の財政支配と領土的分割とが相関的に進行しているというわけである。そしてそれはもはや革命によってしか打破しえないまでに深化しているとみる。「清朝の財政が破産し終はれるが故に民国の革命あり」と北は書いている。
このような清朝の腐敗・弱体化の結果生じた民族的危機に対して、中国民衆は国家の独立を求めて起ちあがった、つまり民族的危機に直面して「国家」の意識にめざめた民衆が革命に立ちあがったと北は理解する。「全国土に拡汎せる民族的情操国家的覚醒」は「愛国的革命」を「渇望」していたというのである。従ってそこでの主題は「亡国」から「興国」ヘという点にあった。「革命とは亡国と興国との過渡に架する冒険なる丸木橋」であり、その点で中国革命と明治維新とは同質であると捉えられた。腐敗した徳川幕府と腐敗した清朝とは売国的であるという点で同じであり、「封建国としての日本の固より亡国なりしことは、清国としての支那の亡国なりしと同様なり」と。
それは言いかえれば、中国革命の本質は興国階級と亡国階級との対決であり、漢民族による満州民族の排除という形では捉えられないということでもあった。清朝が打倒されねばならないのは、それが亡国階級の最上部をなしているからであり、従って清朝打倒ののちには、革命はさらに、清朝につかえていた漢人官僚を一掃する方向に深化・拡大しなければ完結しないというのである。何故なら清朝と共に腐敗し弱体化した漢人官僚は「内治外交たゞ強者の勢力に阿附随従する」にすぎない「事大主義者」になり下っており、従って彼等の存在を許す限り、彼等は外国の後援をたのんで革命に対抗するに違いない、つまり北は清朝と漢人官僚を亡国階級という一つの範疇で捉えねばならないというのである。例えば、北は袁世凱を「奸雄」とする一般の見方に反対して、袁はこのような亡国階級の代表的人物でありイギリスの買弁となった事大主義者にすぎないと断じた。そして事大主義を「通有性」とする亡国階級を一掃しなければ、第2第3の袁世凱が出てくることは必然であり、列強の帝国主義的支配を排除することは出来ないとしたのであった。
ところで、この亡国階級=漢人官僚とは、国内的にみれば、封建的支配者にほかならず、従って民族的危機を打開するために亡国階級の打倒をめざした革命は、必然的に封建国家を打倒して近代国家を創出する方向に発展する性格を持つものと考えられた。そしてその点でもまた、中国革命と明治維新は同質であるとされた。北は亡国階級の中核をなす清朝下の漢人官僚とは、「皇帝に対しては単純なる代官」にすぎなかったけれども、人民に対しては「封建的全権能を有する」「中世的統治者」=「其の制令する地域の人民に対する権能に於ては生殺興奪の絶対的自由を有し、軍事財政司法一切の専権を行使すること全く中世的統治者」に他ならず、日本の大名と同質であるとした。北は次のように述べている。
「人種的感情を除却して考ふる時は『排満』は自らにして満人及び満人の中世的統治権の代官たりし凡ての漢人官僚の排斥を包含すること、恰かも『倒幕』が幕府及び幕府を盟主とせ凡ての諸候武士の倒壊を意味せる如し」と。即ち辛亥革命のスローガン・「排満興漢」に即して言えば、「排満」とは「亡国階級の根本的一掃を求むるもの」、「興漢」とは「真の近代的組織有機的統一の国家を建設」することを意味し、従って「排満は興漢の予備運動」に他ならない、そしてこの旧支配層の全体を打倒する「興漢」革命は、清朝を廃止するよりも困難な全社会的規模の変革の過程とならざるを得ず、従って長期にわたる過渡的な局面があらわれるであろうことが予測された。「1911年以後の支那は此の興国魂の或は顕現し或は潜伏する過渡期として察すべし」、つまり清朝滅亡後の袁世凱の独裁も、軍閥の割拠も革命途上の過渡的な現象にすぎず、革命運動の一時的後退・潜伏期として考察しなければならないと北は言うのである。
この見方は、前節でみたような、辛亥革命後中国は政権争奪の泥沼と化したとする内田良平的な見方に較べて、はるかに深く中国の情勢を見抜いていたと言える。そして北がこのような見方をとることが出来たのは、革命運動の指導者の背後にある民衆の「大勢」こそが、革命の動向を左右する基本的な力であると考えていたからにほかならなかった。「革命とは政府と与論とが統治権を交迭することなり」、「革命は戦争に非ず大勢の決定なり」とする彼は、「民衆に普汎せる愛国的覚醒」が「与論」となり「大勢」となったと考える。そして武昌蜂起に呼応して「諸省の挙兵自立する前後通じて僅々月余の日子を要せざりしなり」という革命運動の急速な展開は、「一石の投下が全局に饗応する如き支那現時の劃一的覚醒」を立証するものとみたのであった。
北はこの観点からさらに、辛亥革命が中国民衆の「自ら成せる革命」であり、外国の援助によって成功したものでないことを強調しようとした。そしてこの論点は当然、自らの革命援助を誇示して何らかの利権を得ようとする日本側の態度、とくに彼の身近かな右翼勢力に対する批判ともならねばならなかった。彼は自らの経験にもとづいて、革命の発端において 「不肖を始めとして、所謂支那浪人なるものの全部が微少なる援助だに無かりし事を証明」し、「渡来囂々たりし日本人が殆んど全部……酒間の声援者」にすぎなかったと断じた。また日本からの武器輸出については、革命軍が南京を占領したのは、「日本商館の暴利を貪りたる廃銃廃砲が未だ横浜の税関をも通過せざりし」時ではなかったかと反論 している。
北は日本が中国の革命運動に与えた影響は、思想的な側面に限定して捉えねばならないと主張した。彼はすでにみたように、辛亥革命の渦中からも革命運動における日本留学生の役割の大きさを強調していたが、ここでもまた、中国の革命派が自らの主体性において日本の国家民族主義を学びとったという理解を基本においていた。つまり「支那革命が日本的思想家の事業にして、革命の根本要求が日本と同様なる国家民族主義」であったということは、彼等が決して無条件の親日家であることを意味するものではない、彼等は「同文同種と言い唇歯輔車と言ふが如き腐臭紛々たる親善論に傾聴すべく彼等は遥かに覚醒したり。亡国階級を凌迫 し慣れたる日本の伝習的軽侮感を以て親善ならんには彼等は余りに愛国者」であり、従って日本が中国を脅威した場合に彼等が排日運動に立ちあがるのは当然ではないかと北は言うのである。そして「日本的愛国魂が漸く支那に曙光を露はして彼等革命党となれるに於ては、日本の或る場合の処置に対して排日運動を煽起するは寧ろ歎美すべき覚醒にあらずや」という立場から、21箇条要求に際しての排日運動の激発をも、中国民衆に於ける国家民族主義の発展として捉え、この点を理解しなくては日中両国の握手はありえないことを次のように強調していたのである。
「是れを排日の−小部分たる彼の日貨排斥につきて見るも数年前の辰丸事件に施せし地方的 其れと、今春の日支交渉に対せし全国挙りての其れと、強烈の差等に較ぶべからざる国家的理解あり。袁の亡国階級の治下に於てすら己に然り。日本的精華に錬治されたる革命党の愛国者が統治すべき今後は予じめ想像に堪ふべきにあらずや」、従ってまた、中国革命に 於て「何等か重大の援助ありしかの如き虚構誣妄を流布するは、革命遂行後の両国々交に恐る べき爆弾を埋むるものにあらずや」と。
では辛亥革命は如何にして成功しえたのか。北はここでもまた明治維新と対比しながら、中国の革命派も維新の討幕派と同じ道を歩んだと説く。即ち辛亥革命においても、討幕派が外国の援助を求めることなしに、藩権力を奪取して討幕のための武力をつくりあげたのと同じ過程がくり返されたというのである。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の争に非ず゜。其の藩侯の軍隊を把握せずんぱ倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり。攘夷せんとする外国の浪人より囂々たる助力を受けたることなし。支那が革命さるべきならば革命の途は古今一にして二なし」、「外邦の武器を待たず外人の援助を仰がざる革命の鮮血道」を歩む以外にはない。
「則ち叛逆の剣を統治者其人の腰間より盗まんとする軍隊との聯絡これなり。−革命さるべき同一なる原因の存在は革命の過程に於て同一なる道を行く。実に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西、革命指導者の以て乗ずべしとする所。彼等は全党の心血を茲に傾注したり。」「彼等は其の軍隊との連絡運動に於て大隊長以上に結托せざることを原則としたリ。革命されべき程に堕落せる国に於ては大隊長以上の栄位に在る者は悉く飽食暖衣の徒に して冒険の気慨なきは固よりなり。特に己に斯る栄位を得たるは軍功学識にあらずして一に請托贈賄の賜なるが故に、其の関係上直ちに反覆密告に出づべきは推想し得べし。彼等は又大隊長以下に連絡するに於ても下級士官に働ける手と、兵士を招ぐ手とを互に相聞知せざらしむる ことを規定したり。斯る複雑煩累なる手数を重ねずしては陰謀の漏洩を保つ能はざるほどに道念の頽廃し国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。」
北はここから「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」をくみとり、さらに「古今凡ての革命が軍隊運動による歴史的通則を眼前に立証せられたる者」と 一般化しており、この点はのちの青年将校たちに一定の影響を与えたのであった。
このように軍隊運動を中心として、辛亥革命を「自ら成せる革命」と捉えた北は、中国革命が向うべき方向をも、民衆の「大勢」のなかから読みとろうとした。そしてこの「大勢」が 「統一」と「共和」とを要求しているとみた。北はまず、革命の大勢が「数十萬の書生によって支那の全土に同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解が普汎せられしこと」によって生れたとするのであり、従ってそこから「統一」ヘの要求が拡がるのは必然であると捉えた。彼は歴史の上からも「支那は歴史ありて以来統一せらる。……治者 と民衆の理想が常に統一に存して其の分立し抗争せる時代は統一的覚醒が未だ拡汎せざる所」であり、統一の要求は中国の歴史を一貫しているとみるのであるが、さらにこの要求 は、帝国主義的分割の危機を打破することを目的とした革命運動においては更に、決定的に民衆にまで浸透したと言う。「四境より響く分割に恐'肺する彼等は、省的感情に従ひて各省分割的立法に禍さるるよりも統一の大勢を鞭撻するの遙かに困難少なきを洞見する者なり」と。そして中国の地方的差異が大きいと言っても、その「省的感情は維新前の独立国的統治によりて養はれたる各藩の其れに比すべからざる稀薄なるもの」にすぎず、逆に「各省の頑強なる団結力が其実却て国家的統一の第一歩」となることが強調されているが、そこにもまた藩的結合を基底としながら中央集権国家をつくり出していった明治維新の討幕派の姿が投影されていたことであろう。
北はさらに、この統一への要求は、軍閥として割拠する亡国階級打破の観点からも一層切実なものとならざるを得ないとする。即ち彼は、革命政府が樹立されたとしても、「中世的代官階級は或は都督となり絹紳となりて諸省に残存すべきが故に、自己等を掃滅せんとする新権力者に対しては極力抗争し、恐くは外国の後援を引きて対立を計ること仏蘭西貴族等の如くなるべし」と予測したのであり、 それ故に「武断政策を取りて中世的代官を一掃し各省の乱雑を統一せざるべからず」と強調したのであった。
このように亡国|階級の打倒と結びついて強まってくる統一の要求は、当然に「共和」に結実することになる。「維新革命に於て攘夷鎖港の文字が倒幕の異名詞なりし如くに、共和政の主張は征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号として政体論以上の意義を有したるものなりき」。そして清朝が滅亡したあとの中国には、革命の中軸となしうる伝統的権威は残されていなかったと北はみる。即ち革命派は「国粋的復古主義者も日本的国家民族主義者も、異人種の統治を排除したる後にルヰ16世紀に代ふべきオルレアン公を有せず、徳川 に代ふべき天皇を持たず。為に茲に欧米の一政治的形式を取入れて東洋的消化を経たる共和政体を樹立」せざるをえなかったのだと。そして北は、このような革命の大勢がもつ統 一と共和の要求から、革命後の中国の政治形態は中央集権制と大統領制を二つの柱とするに違いないと考えたのであった。
ところで北が、時の政治指導者たちにこのような中国革命の大勢についての認識を、常に孫文批判とからませつつ提示したのは、日本のとなえる革命援助なるものが「革命の思想的系統 と革命的運動系の大綱」を把握することなく、それと係りない孫文援助に集中してしまっているとみたからであった。彼の言う如く「支那の要求する所は孫君の与へんとする所と 全く別種の者」であるとすれば、孫文を援助することは、 中国革命を妨害することに他ならなくなる。『支那革命外史』前半の叙述は、日本の朝野に「斯る革命に交渉なき別個の思想家を選びて援助したる自己の無知無理解」の反省を求めようとする実践的意図に貫かれていた。
北の孫文に対する批判は、彼が、ナショナリズムを基礎として「自ら成せる革命」として展開されている中国革命を内在的に理解しようとせず、アメリカの独立戦争を範として中国革命を考え、またアメリ力的な政治形態を中国に押しつけようとしているという点であった。北自身の言葉で言えば、「愛国的注意の欠乏、興国的気魄の薄弱」と、「米国的迷想」 とが、孫文と中国革命の本流とを分つ点だと言うことになる。北はまず、孫文がアメリカ独立戦争にならって、常に外国の援助を求めようとするのは、独立戦争と革命の区別を理解せず、 革命に対する援助が常に干渉に転化することを忘れた態度だと批判する。即ち「植民地の経済的政治的興隆によりて旧き本国の支配を要せずして分離せんとする別個の一新国家の創建」の場合には、「旧本国との開戦に於て、本国の敵国たる者に援助せらるることは恥辱にあらずして堂々たる国際間の攻守同盟なり」、 しかし革命はこのような「独立せる地域に拠りて 戦ふ一種の国際戦争」としての独立戦争とは異って、一国内の内乱であリ従って援助 は干渉と同義となると北は言う。「革命とは疑ひなき一国内に於ける内乱にして、正邪孰れが援けらるるにせよ内乱に対して外国の援助とは則ち明白なる干渉なり」と。そして北 はのちにみるように、この点の認識の欠如に孫文が臨時大総統の地位を失うにいたる最大の原 因を求めたのであった。
つぎに国内政治体制の問題については、北は孫文がアメリカ的な連邦制と大統領制を主張し ているとして批判した。北が連邦制に反対したことは、彼が統一を革命の大勢とみ、また列強帝国主義に対抗するための必要から捉えていた以上当然のことであったが、アメリカ的大統領制への反対は、中国の情勢に対する独自の把握と結びついて出されてきた問題にほかならなかった。
北が『支那革命史』前半で孫文を批判しつつ提起した「東洋的共和制」とは、「大総統は米国の責任制と反し自ら政治を為さず内閣をして責を負わしめ単に栄誉の国柱として立つ事と、 米国的連邦に非ずして統一的中央集権制なるべしと云ふ二大原則」の上に立つもので あったが、ここで彼が政治的責任を負はない「栄誉の国柱」としての大総統という範疇を押し出してきたのは、革命の混乱期において革命派の権力を如何にして維持してゆくかという問題 に答えようとしたからであった。彼は「栄誉の国柱」をうち立てることが、「君主制より共和制に激変せんとする支那に於て、仏蘭西の如き反動と革命の反覆を避くべき」唯一の方策とみたのであった。 彼はこの点について次のように書いている。「米国的大総統政治は大総統が責任を負ふものなるを以て、斯く議会と与論に弾劾さるゝに当りては大総統其者の引責辞職に至るべく、即ち国柱の交迭を見ざるべからず。平時ならば或は以て忍ぶべし。漸く覚醒せる各省の心的共通を統一せんとして求めたる心的中心を、今の南北対立の際に突として交迭 し得べくんば始めより孫君を上海の埠頭より逐ふに如かざるに非ずや」と。
北がこのような大総統の政治的無責任制を提起したのは、民族的危機を感じて革命へと昂揚 した民衆の「大勢」がその激しさの反面に、群衆心理としてゆれ動く浮動性を持つとみてとっ たからであり、またこの群衆心理の統御こそが、革命政権の当面する課題とみたからにほかならなかった。彼はまず、「革命の渦中は一切の事理性の判断を許さず」として「大勢 と名くる群衆心理」に注意をうながす。そして「一国の過渡期に於て賤民階級が常に新理想と没交渉なる歴史的通則を忘却」すべからずと一般化して述べている。しかし彼は、アメリカ的大統領制を採用し難い理由として、中国民衆を規制している伝統的な「国民精神」のなかに、アメリカ的な「自由」が欠除していることをあげているのであり、中国民衆 の伝統的な在り方が、革命に際しての群衆心理的動揺を一層大きなものにする要因になってい ると考えていたと思われる。
北は民衆の大勢を性格づけている伝統的在り方を「国民精神」と名づけ、アメリカと対比しながら中国の場合を次のように特徴づけている。即ちアメリカの場合には「自由は彼の歴史を 一貫せる国民精神なり。支那は之に反して全く自由と正反対なる服従の道徳即ち親に服し君に従ふ忠孝を以て家を斎ヘ国を治め来れる者、被治的道念のみ著しく発達せる歴史の下に生活す る国民なり」と対比する。そしてこのアメリカ的な自由とは具体的には「反対の自由、 監督の自由、批評攻撃の自由、交迭して自ら代はるべき自由、則ち反対党の存立し得べき凡ての自由」として理解された。北は中国の歴史のなかにも、眼前に展開されている中国革命の進展のなかにも、 このような「自由」の存在を見出すことはできないとした。「支那の建国にも歴史にも在野党の自由を擁護すべき国民精神の自由を発見し得べからず。……実に自由の建国精神あるが故に独立後嘗て自由を犯すものなかりし米国の事実と、服従の歴史的約束あるを以て革命後忽ち袁の専制を見るに至れる支那の事実とを見よ。」
彼は中国革命がこのような「国民精神」の根本的性格の変化の結果起ったものではなく、清朝を倒した後でも、まだそこに顕著な変化は始っていないと見たのであった。「革命の勃発は……愛国運動によりて火蓋を切りし者なり。民主共和にあらず、又自由平等にあらず」、 「支那の革命は民主共和の空論より起りたるものにあらずして、割亡を救はんとする国民的自衛の本能的発奮なり」といった言葉からは、中国革命が個人の立場を基礎とする自由・平等・民主などの要求からではなく、国家の自立と栄光への渇望から起こったとみる北の認識と、それ故にこそ同感と支援を惜しまなかった北の心情とを読みとることが出来る。つまり北は中国革命における「大勢」を個人の自立性の弱さと国家への渇望の強さという両面で捉えていたと言えよう。そしてその自立性の弱さの故に、この「大勢」は振幅の大きな群集心理的浮動性を持たざるを得ず、従って革命指導者にとって群集心理を如何に統御しうるかが、革命の成否を決する程の重大な課題とされたのであった。北が「栄誉の国柱」、「心的中心」と呼んだものは、言いかえれば「群集心理を統制すべき中枢」としての「新精神の体現者」ということにほかならなかった。
北は辛亥革命が袁世凱の独裁の下に敗退していく過程を、「新精神の体現者」をうち立てることが出来ず、群集心理の統御に失敗した過程として捉えた。北の意見によれば、革命派の最初の失敗は、武昌蜂起が成功したにも拘らず、革命派の政権を組織することなく、亡国階級の一司令官であり、革命軍の俘虜にすぎない黎元洪を表面に押し立てたことであった。「一個の俘虜を都督として全国の耳目を欺ける第一歩の発足点の不幸は、呪いの如く革命運動の展開に附き纏ひたりき」。つまり革命の最初において革命派の権威を打ち立てなかった失敗は、中心的指導者であった黄興の漢陽での敗戦という事情も加わって、群集心理の統制をいちじるしく困難にしたというのである。
北は革命派の第二の失敗は、南京政府臨時大総統として現実の革命と没交渉な孫文を擁立したことにあるとしたが、この間の事態は、群集心理という形で浮動する「大勢」をあるべき方向に導き得なかった指導者たちが、逆に「大勢」のなかにのみ込まれてしまったことを示しているとみた。即ち南京政府設立過程に於いて、宋教仁らは黎元洪を大元帥、黄興を副元帥とする新政府樹立を企てたが、「革命の洶濤に渦き流るゝ群集心理」は、彼らを「俘虜と敗将」とみてこの人事に不満を示し、その上に立つ「英雄」を求めた。そしてその時ようやく、中国同盟会総理孫文がアメリカから欧州を経て日本浪人団の熱狂的声援をうけながら帰国する、「群集心理は倖ひにも嘗て己等の指導者たり党首たりしものを担荷すべき偶像として得たり」というのである。
北は孫文が擁立された根拠を彼が中国同盟会総理の地位にあったことと共に、共和政の首唱者とみられていたことのなかに求めた。「兎に角孫逸仙君は共和制の犯すべからざる首唱者にして同時に権化なりき」、「彼の中華民国史に於ける百代不磨の功績として看過すべからざる事は、彼が此の新建国の始めに於いて支那の将来は必ず共和制ならざるべからずといふ大憲章の精神を宣布したることなりとす」。しかしそれらの根拠もまた、中国革命と孫文との距離を縮めるものではなく、革命政府と孫文との結合は不合理であったと北は断ずる。「二者の接合の不合理なるは俘虜を大元帥となし敗将を副元帥となせるよりも優りて、殆ど悪魔の胴に天使の首を載せたる如し」と。そしてこの不合理は、孫文が外国の干渉への警戒心を持たず、外国の援助を求めたことによってたちまちのうちに暴露されたというのである。具体的には孫文は三井との間に漢治萍借款を進めたことによって彼を偶像としてかつぎあげた筈の群集心理から見離され、南京政府崩壊の原因になったとして、北はこの間の経緯を次のように解説している。
「外国に生まれて国家的執着心を有せず且つ現下の革命運動に局外者たること等しく外国人の如き孫君は該借款を以て目的の為の手段と考へたるべし。而も是れ目的の為の手段に非ずして臨時政府の政費に過ぎざる一手段の為に革命勃発の大目的とせるところを蹂躙する者に非ずや。粤川鉄道借款に反対して四川より起これる革命は、南京に拠れる革命党の首領が漢治萍借款を企つるを寛恕する能はず。満州に於て日露の武力的侵入を扞禦せんとしてさらに英米独仏の経済的侵略を誘引したる者は亡国階級の事なり。中原に於て四国が鉄道を奪取する事を坐視せざりし革命的新興階級は、他の一国が鉄山を占領することを拒斥せずして止む能はず。」「革命連動が彼に何の恩恵を蒙らざりしのみならず革命の理想に対して彼の理想は却て明白なる反逆者なりき」、「彼等は革命の始めに於て四国に向けたる鋒先を今日本に転ぜざるを得ざる恐怖に戦慄すると共に、彼等の泰戴せる偶像を仰ぎ視て実に売国奴の相貌を 持てることに驚愕したり」、そして孫文は「只自己に逆行して波立ち始めたる群衆心理を呆然として眺め」ねばならなかった、と。
つまり北に言わせれば、哀世凱をして「南北統一の役者たらしめしことは孫逸仙君の弁解すべからざる責任なり」ということになる。彼は、孫文が日本の干渉を引き入れるので はないかという恐怖が、中国内部の統一を確保することを緊急の課題として意識させ、大勢は袁世凱による統一をも耐え忍ぶ方向に動かざるをえなかったとする。そしてさらには「被治的道念のみ著るしく発達」した中国民衆は袁世凱の専制をもうけいれてしまったとみるのである。
『文那革命外史』前半は、中国革命に対して「日本人が感謝さるべき何の援助を与へざりしみならず、日本政府は革命の遂行を中途に阻止したる妨害者にあらざりしか」という 痛'限の念によって貫かれている。そしてそこでの北は、日本帝国主義に対する痛烈なる批判者 として立ちあらわれているかにみえる。しかし彼が批判者たりえたのは、革命中国と日本の発 展を「正義」の名に於て結合させようとする欲求によるものであり、日本帝国の拡大を断念したからではなかった。彼が自らに課したのは「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」という問いに答えることであり、 中国革命をたすけるために、日本国権の拡張を思いとどまるということではなかった。しかしこれまでみてきたような形で中国革命を把握するとすれば、その革命の発展に一致する日本の政策は、中国より奪った利権を返還し、不干渉不侵略・反帝国主義の立場をとるという以外になくなる筈である。だが日露戦争を全面的に 肯定した北は、それによって得た在満権益を放棄しようなどとは考えてもいなかった。とすれば両輪的一致策は如何にして可能となるのか、北はこの難問に挑む前に一たん筆を休めた。
彼は『支那革命外史』執筆中断の事情について、いわゆる第三革命の勃発によって、「革命党の諸友悉く動き、故譚人鳳の上京して時の大隅内閣との交渉を試むる等のことあり、為めに筆を中止した」と述べている。勿論そのような外的な事情の介在を否定するつもり はない。しかし同時に中国革命の将来と日本の発展を一致させるために、基礎的な問題の捉え 直しがこの間に行われたことも否定し難いことのように思われる。何故なら、3カ月の中断に書かれた後半においては、群衆心理についての議論も、大総統無責任制の提昌も姿を消し、「東洋的共和政」は全く新しい相貌の下に再登場してくるのであるから。 
9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退

 

「支那自らが自立独行すべき一国家」として存立することが「日本の利益」でもあると主張する北の立場からすれば、日本のあるべき対中国政策は、中国革命に干渉せず、中国革命を阻害するような列強の政策を阻止することを基礎として構想されねばならなかった筈である。従ってそこから日中の「両輪的一致策」を求めるとすれば、列強に日中共同して対決する という局面を想定することが必要であった。そしてさらにこの共同の対決のなかから「日本国権の拡張」を引き出そうとすれば、それに見合った形での革命中国の積極的な対外政策を予定 しなければならなくなる。『支那革命外史』執筆中断の際に北がつきあたっていた問題はおそ らくこの点にかかわるものであったと思われる。
つまり民衆の「大勢」のもつ群衆心理的浮動'性を重視し、それを統御するために「栄誉の国柱」 を立てねばならないといった捉え方では、中国革命のなかに対外行動に立ちあがる強力なエネ ルギーを見出すことは困難にならざるをえない。しかも当時の中国の政治情勢は、袁世凱の帝 制計画は失敗に終ったとは言え、いわゆる第三革命とは旧官僚勢力の内部分裂を示すものにす ぎず、革命運動は完全に停滞してしまっていた。従って対外行動に立ちあがる力は、何よりも まず、革命の停滞を打破しうる力でなくてはならなかった。法華経読誦に専念し始めた北は、 そこにこのような中国革命の原動力についての新たなイメージを得る助けを求めたことであろう。そして執筆を再開した彼は、政治責任を負わない大総統について論ずろ代りに、やがて現われるであろう武断的英豪について語り始める。「革命とは地震によりて地下の金鉱を地上に 揺り出すものなり。支那の地下層に統一的英豪の潜むことは、天と国民の渇望とが証明すべし。 之を人目に触れしむることは地震の後なり」。そしてその英豪に「大殺戮を敢行し得る器」たることを求め、またそれによって「東洋的共和政」論を再編成したのであった。その基礎となっているのは、言うまでもなく中国革命の原動力についての新たな構想にほかならなかった。
中国革命のエネルギーをつかみ直そうとする北の作業は、まず「自由」の問題を再検討する ことから始められた。すでにみたように、彼が中国民衆は自由の意識にめざめていないと指摘 したのは、アメリカとの対比に於いてであり、従ってそこでの「自由」とは、アメリカ的な、 社会秩序の核となる「自由」にほかならなかった。このような秩序形成力をもった自由が中国 民衆の間に欠如しているとの認識は、北は一貫して持ちつづけている。しかし同時に、「社会的解体の意味における自由」という新たな観点を提起し、この意味における自由な らば、中国社会にも存在していると主張し始めるのであった。つまり革命がおこるということは、社会が解体して革命を起す自由が得られたということではないかというわけである。北はこの点について次のように書いている。
「固より革命に当りては旧き統一的権力を批判し否定し打破し得る『思考の自由』と、其の自由思考を実行し得る程度にまで旧専制力の弛頽し了はれる『実行の自由』を要す。是れ社会 的解体の意味に於ける自由なり。従って革命とは自由を得んが為めに来るものに非ずして、自由を与へられたるが故に起るものなりとも考へ得べし」と。勿論それを「自由」の 名で呼んだとしても、 近代的秩序を形成するための「自由」とは異ることは北も認める。「即ち同一なる自由にして未だ新たなる統一的権力を得ざる時期の−例えば腐朽せる旧専制政治の弛緩せる結果として生ずる、脱税し得る自由、法網を免れ得る自由、罪悪を犯して罪する力を見ざる自由、 兵変暴動を起して征討されざる自由、 帝力我に於て何かあらんの自由は、是れ革命前の政治的解体と称すべきものにして近代的意義の自由に非ず」、それはむしろ「野蛮人及び動物の生れながらに有する本能的自由」とも言うべきものであろう、しかし、人間が「物格」として支配されていた中世を脱するためには、一度こうした「本能的自由」の階段を経ることが必要なのだと北は主張するのである。
「先ず天賦人権説によりて人類としての動物的本能より覚醒せざるべからず。耕作用に馴育 したる家畜の鎖を断ちて、曠野に放たれたる猛獣としての人類に覚醒されざるべからず。而し て中世的権力の鎖は腐朽して自ら断たれたり。家畜は檻を出でて猛獣の天賦を現はしたり。… …則ち近代史が自由なき中世史より脱却せんが為めに人類をj寧猛なる破壊に駆る期間を名けて 革命と云ふ」。つまり北は家畜の段階を脱するためにはまず人間としての本能を自由 に発揮しみることが必要だとして、近代をつくり出す力をそのような本能的エネルギーに求めたのであった。そしてそのエネルギーは中世的な権力や秩序を破壊するだけではなく、近代的 な権利主体としての個人をつくり出す力にもなるというのであった。「支那は明らかに人類的生活の権利に覚醒したり。四億萬民が各自権利の主体にして君主と其 の代官とのために存する物格にあらずとの覚醒は、実に中世的君主政治を排除して近代的共和政を樹立し得べき根基にあらずして何ぞ。各入悉く権利主体たる覚醒は切取強盗の中世的権利思想に対抗して、労力の果実に対する所有権の神聖を主張せしむ」と。
しかし猛獣としての破壊と反抗が個人の覚醒と権利の基礎となりうるとしても、その新しい基礎の上に立つ新しい秩序は、社会的解体状況のなかから自生的に形成されるものではないと北は考えた。いわば猛獣には猛獣使いが必要だというわけである。そして彼はこの猛獣使いと しての「専制」権力の問題を提起してくるのであった。彼はまず原理的に言って革命は専制的権力を必要とすると主張した。「凡て革命とは旧き統一即ち威圧の力を失へる専制力が弛緩 して、新たなる統一を求むる意味に於て強大なる権力を有する専制政治を待望する者なり」と。つまり「社会的解体の意味における自由」とは、いわばアナーキーな破壊力と して作用するだけで、新たな建設力とはなりえないとみる北は、この「一切の統制なき本能的自由」を専制権力によって「圧伏」しなければ、破壊の過程がつづくだけで新しい秩序を建設することは出来ないではないかというのである。しかし旧秩序の破壊力として荒れ狂った本能的自由をただ単に圧伏してしまったのでは、革命はそのエネルギーを失って失速・ 墜落するほかはない。そこで革命に必要とされる専制権力は、本能的自由のアナーキーな暴走を抑えると同時に、それを国民の「心的傾向」の改造の方向に導かねばならないと いうことになる。そしてアメリ力がこのような専制権力を必要としなかったのは、アメリカの 独立が本能的自由によって中世を打倒する革命ではなく、「掠奪より免れんとする人類の本能 に従って」「中世的掠奪者を本国に放棄したる近代的人類」による新社会の建設 という例外的な事例にほかならなかったからだとされるのであった。
北がこのような本能的自由という新たな観点をもち出してきたのは、革命の中心に国民の 心的傾向の改造=「国民信念の革命」という問題を位置づけるためであったと言ってよ い。彼は「革命の根本義が伝習的文明の一変、国民の心的改造に存する事」を主 張し始める。つまり社会的解体の結果として露出する本能的自由は、たんに秩序や制度を破壊するだけでなく、その基底にあって民衆を捉えてきた信念や教義をも破壊する点で革命の根底的な力となりうるのであり、同時にまた、専制権力による国民の改造を可能にする条件をつく り出すものでもあるというのであった。「革命とは数百年の自己を放棄せんとする努力なり。 制度に対する自己破壊は即ち国民信念に対する自己否定なり」とする北は、この旧来の信念を自己否定した国民を新たな信念の形成に導いてゆくことが専制権力の任務であり、 それがまた革命の中核となる過程にほかならないとみるのであった。そしてそこから更に、自己否定によって本能的自由のレベルにまで解体された国民は、革命の必要に応じた形で改造す ることが出来るという論理を引き出すに至っているのである。
北の中国革命論は、この論理を踏切板として明らかな逆転をとげる。そしてそれまで中国民衆の「大勢」を基礎として、辛亥革命以来の中国革命の過程を捉えようとしてきた筈の北は、 今度は内に対する武断主義と外に対する軍国主義とを革命の必要として中国革命の未来に押しつけはじめる。内に対する武断主義は、本能的自由をかきたてながら、旧社会を破壊し、革命権力を創出し、国民信念を革命する過程を見通すために、また外に対する軍国主義は、この武断主義を基礎とすると同時に、日本の国権拡張を前提とした「日支同盟」論を引き出してくるために不可欠の観点であった。そしてそのことは北が、中国革命が軍国主義的な国民を作りうるという論理を持ち出すことによってはじめて、それが如何に幻想的であったにもせよ、とにかく日中の両輪的一致策にについて語りうる地点に達したことを意味しているものでもあった。
北はまず中国革命における国民改造の方向を、国民を服従的かつ文弱にしていた儒教文化を排除して、「国家のための国民」をつくり 出すという形で提示した。「支那の文弱による亡運は孔教に在り」とみる北は、孔教の教義もそれにもとずく「文士制度」も共に革命の敵として打倒しなければならないと断じた。即ち「君臣の義を人倫の大本となし政道の根軸とする教義は、其の枝葉と雖も共和国に公許すべからざる異端邪説となれり。平和なる無抵抗主義の信条は、支那の山河が天下の凡てなりと考へし時代にすら多くの価値なき者なり。武断政策によりて各省を統一し、軍国主義を掲げて外敵を撃攘すべき救世済民の英雄を弾劾する結果を導くに至っては寸言の存在をも許す能はず」。そしてまた、このような教義にもとづく文士制度は「治国平天下の論策を職業となし、行政的能力なき者が官を売買するに至りて」中国の衰弱を決定づけたというのである。そして今や革命の進行と共に、この孔教は急速に国民から棄てられつつある、「第一革命に於いて共和制を樹立したること其事が孔教の否認なり、官僚討伐其事が文士階級の一掃なることに於いて亦孔教の終焉なり」、しかしその害毒が一掃されたわけではないと北は言う。『支那革命外史』前半における「群集心理」の問題は、ここでは儒教文化の残存の問題におきかえられてしまっている。
北は、群集心理にかつぎあげられた孫文、というさきのくだりを今度は次のように書き改めてゆく。「孔教に発せる文士制度の害毒は中世的文士の亡ぶると共に今や却て革命的階級の或る部分と国民との心的傾向に宿りて―見よ一たび言論文章の徒に大総統と参議院を委ねたり。是れ答案を英文又は日本文に求めたる形式の変更に過ぎずして依然たる科挙法の精神を継承する者。空虚なる言論を崇敬する文弱なる心的傾向なくんば、誤謬の知識を伝ふるに過ぎざる英語の達人を大総統に迎ふるの理あらんや」。
彼はもはや、群集心理の問題にかかわり合う必要はなかった。群集心理は孔教の害毒を洗い流し国民信念の革命をすすめることによっておのずと姿を消してゆく筈であった。従って革命の停滞を破るべき亡国階級との闘争は、本能的自由をかき立てるような暴力的な形で構想されねばならなかった。彼は内に対する武断主義を奏の始皇帝のイメージを援用しながら語り始める。即ち「教理其者に対する革命家は支那に於いては太古唯一人の奏始皇帝ありしのみ。『書を焚き儒を坑に』せしと伝へらるゝ者、後の反動は是を別個の説明に求めざるべからずと雖も、要するに孔孟の文士教を以てしては禹域の統一断じて望むべからざるを洞見せしが故なり」、「而して凡て国家の統一と国民の自由の為めに将に屠殺さるべき中世的代官等は実に孔孟の文士教を信仰する文士制度の遺類なり。―窩濶台汗と上院の諸汗とは書を焚き儒を坑にすべき大使命の下に立てる者ならざるべからず」。「窩濶台汗と上院の諸汗」とはあとでみるように、中世蒙古史のイメージで、革命中国の専制権力を言い表したものであるが、北はこの権力に「焚書坑儒」の武断主義を求めたのであった。「自由の楽土は専制の流血を以て洗はずんば清浄なる能はず」、「革命は速やかにギロチンを準備せざるべからず」と。
そしてさらに北は、亡国階級の財産を掠奪し没収し、彼等を亡命を許さない敏速さで打倒せよと叫ぶ。一切を力関係に還元しながら北は言う。「租税とは掠奪が法律の美服を着たる者なり。国家の存立のために必要なる物質的資料を徴集せんとして強要する掠奪力の最も強大なる最も組織的なるものが則ち法律なり。国家が平和に存する時租税となり、軍事行動をとる時徴発となり、物資徴収組織を根本的に一変せんとする革命の時に於いて掠奪となる」。「勇敢なる掠奪、大胆なる徴発、一歩の仮借なき没収、斯の如くにして一切の政治的腐敗財政的紊乱を醗酵する罪悪の巣窟は顛覆せられ、茲に始めて新政治組織新財政制度を建設すべき基礎を得べし」と。そしてこの過程で亡国階級の亡命を許すならば、彼らは外国の干渉をひき込むてさきになるであろうと警告したのであった。
亡国階級打倒の過程がこのような形で進行するとすれば、それは「国民の軍事的精神其者を一変すべき信念と制度に対する根本的革命」となる筈であった。そしてそこから、列強と武力で対決する軍国主義も生れてくると北は言うのである。「即ち不肖は革命の支那が一大陸軍国たるべき可能的目的に向って躍進すべしと推断せんと欲す」、「革命の支那が孔教の文士制度と共に其文弱文明を否定して蒙古共和国の軍国主義に急転し得べき事は、実に革命なるが故の真理なり」、「一大陸軍国たる支那の将軍は革命的青年と4憶萬民の泥土中より出ずべし」と。しかも彼は、革命の過程における対外的緊張そのものがこのような外に対する軍国主義を形成する契機となるであろうと予測するのであった。
「革命の支那が武断政策によりて国内を統一し軍国主義に立ちて外邦に当るべしとの以上の推定は、即ち支那と英露との衝突避くべからざるを断決せしむるものなりとす」。北は英・露両国を中国に対する最大の侵略者とみ、中国革命はこの両者との軍事的対決を避けることは出来ないと断じた。「英国にシンガポールと香港とに拠れる経営を放棄せんことを望むは、尚露西亜に西比利亜鉄道の割譲を求むる如き不可能事にして、―即ち国家の存亡を賭して争はざれば能はざる事」であり、「支那の革命」は「革命と同時に対外戦争を敢行せざるべからざる……運命を負へるものなり」と北は言うのである。
北はまず、中国の財政的独立を奪い、自己の利権保持のために亡国階級を支援しているイギリスは、革命が許すことの出来ない侵略者であるとする。「支那が財政的独立を得ることは、直に埃及の如く其れを侵しつつある英国の駆逐を意味す。己に海関税を奪ひ将に塩税を奪はんとする彼は、支那の財政革命と同時に若くは前提として先ず第一に革命政府の許容する能はざる侵略者なり。挨及が英国の主権の下に於て財政の独立を得べしと言ふ愚論無し。支那の革命政府は中世的代官階級の維持に腐心し其維持によりてのみ自己の利権を保持せんとする英国の駆逐を先決問題の一とせざるべからず」、とすれば、中国革命は亡国階級に対するのと同じく、掠奪・没収・徴発の方法を以てイギリスともたたかわねばならないと北は言う。 「英国資本の利払ひを拒絶すべし。主権は絶対なりの原則に従ひて必要の場合彼れの資本其者を収得すべし」と。
このようなイギリスの経済的侵略に対して、ロシアは蒙古の侵略にみられるように領土的侵略を中心にしていると北は言う。そしてこのロシアの侵略を許すことは、たんに蒙古を失うだ けではなく、列強の中国分割を呼びおこすことになるのだと北は言う。「蒙古其者は支那の大を以てすれば数ふるに足らざる如し。而も蒙古に露西亜の北的侵略を導くことは直ちに西蔵に英国の南的経営を迎へ、仏の雲南貴州を求むるあれば英は更に揚子江流域を呑まんとし、露独亦協定して山西陜西の森と山東の海より呼応し、対岸の島国は狼狽して亦ツーロンに上陸すべ し。蒙古一角の喪失は則ち全支那の割亡を結果す。即ち蒙古西蔵は浅薄なる支那学者等の考ふる如き中世史の外藩にあらずして,英露の経略に対抗して支那の存立を決する有機的一部なり」。北は中国革命の求める「統一」とは、漢民族によるいわゆる中国本部だけの統一を意味するものではなく、「支那の国民的理解は共和旗の下に五族を統一する大共和主義」を意味するものと理解する。従って、周辺からの中国分割を認めるということは、 日本を例とすれば、北海道をロシアに九州をイギリスに米仏などに夫々その欲する所を与えて本州だけの明治維新で満足するのと同じではないかと反論しているのである。
しかし、革命中国が英露二正面作戦を遂行することは如何にして可能なのか。ここで北は中国にとっての敵・英露は、日本にとっても敵であるとし、両国が「日支同盟」を以て共同の敵 に立ち向うという局面を想定する。「窩濶台汗の共和軍が英人を駆遂し蒙古討伐を名として対露一戦を断行する時、日本は北の方浦港より黒龍沿海の諸州に進出し、南の方香港を掠し、シ ンガポールを奪ひ……」と彼のイメージは拡がる。そしてそのなかの主要な局面を 日英・中露の対決として構成する。つまり、英露対日中の対決を「日英戦争」と「露支戦争」の組合せを柱として考えようというのである。一方で「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり」、「日英開戦の大策は、今や将に支那革命の展開に伴へる必然の運命となれり」、とみる北は、他方では、「支那の分割か保全かを端的に決定する者一に唯窩濶台汗と其諸汗とが露西亜を撃破 し得るや否やに存す」と言う。つまり彼は日英戦争が日本の発展の必然の道であるのと同様に、「対露一戦」は、中国革命の成否を分つ分岐点になるというのであった。北は「対露一戦」をたんに列強の侵略を打破するために必要な方策としてだけでなく、同時にまた革命を徹底させ、文弱な中国を一大陸軍国に転換させる跳躍台としても想定しているのであった。
「支那は対露一戦を以て山積せる革命的諸案を一挙に解決し得べし」とする北は、国家存亡の危機→挙国一致→民衆の対外戦への蹶起→全社会的変革の実現という図式を画いているのであった。「腐敗堕落して国内の革命的暴動をすら鎮圧する能はざりし都督将軍等の代官階級は逃亡して『泥土の将軍』と『地下層の金鉱』とがゴビ砂漠の陣頭に立つべし。……代 官に購買せられたる『最悪なる人民』の中世的軍隊は四散して、『国家の為めの国民』に覚醍せる至純なる農民の組織せる愛国軍を見るべし」、「不肖は固く信ず、対露一戦の軍費は代官階級の富を没収徴発することによりて得べく、政治的財政的革命亦対露一戦に依りてのみ始めて望むべしと」。従ってまた革命中国の政治権力も、この過程のなかではじめて確立されるということになってくる。北は言う。「徹底的革命後の大総統は断じて露支戦争の凱旋将軍ならざるべからず。兵は4億萬の組織さるべき国民軍あり。資は亡さるべき代官階級の富数十憶萬の山積せるあり。 而して各省乱離の統一、財政基礎の革命、 一大陸軍国の根柱、自らにして成る」と。
このような北の中国革命論は、いわば二つの想定を組合せ、逆転させてゆくという形でつく りあげられていると言える。彼はまず第1には、本能的自由による破壊の局面と、専制的革命権力がそのエネルギーを「国民信念の革命」に誘導する局面とを想定する。そしてそこから軍国主義的国民の形成の可能性を示唆する。しかしこれは革命の基礎過程についての観念的想定 に他ならず、そのなかから中国革命の停滞を打破してゆく現実的契機を引き出すことは出来ない。そこで彼は次に現実の問題として、中国革命と帝国主義列強との対立が激化するという局面を想定する。それは確かに現実の中国情勢に根拠を有するものではあるが、しかし現実の中国情勢をこの列強との対立、とくに英露の中国侵略の問題に局限している点でまた観念的であることを免れがたくなっている。つまりそこではその他の問題は捨象され、例えば国内の革命過程はさきの観念的想定におきかえられてしまう。そして北の中国革命論はこの二つの想定を 次のように組合せることによって構成される。
北はまず第1の想定で示した軍国主義中国の可能性を第2の想定に適用し、中国も英露との対立を戦争という方法で解決することが出来ると主張する。そしてそこから反転して、戦争こそが革命の基礎過程を引き出す現実的契機にほかならないとするのに至るのである。いわば、中国革命の根底に戦争を位置づけるわけである。そしてその戦争を「日英戦争」と「露支戦争」 の複合形態で設定することによって、日中関係を根底的に結びつけようというのであった。従 ってまた、革命中国の権力のあり方=「東洋的共和政」も、今度は基本的にはこの「露支戦争」 との対応から性格づけられてゆくことになるのであった。
北は「東洋的共和政」を、『支那革命外史』前半の場合とは異って、ここでは「中世史蒙古の建国に模範」を求めて構想しようとする。彼は中世蒙古がヨーロッパに向って大征服を敢行した事実に革命中国のイメージを重ね合せ、同時にまた、武将達による専制的共和制という独自の政治形態を引き出してくるのであった。「実に成吉,思汗と云ひ、窩濶台汗と云 ひ、忽必烈汗と云ひ、君位を世襲継承せし君主に非ずして『クリルタイ』と名くる大会議によ りて選挙されしシーザーなり。而してシーザーの羅馬よりも遙かに自由に遙かに統一して更に遙かに多く征服したり。…革命の支那は自由と統一との覚醒によりて将に最も光輝ありし共和政的中世史の其れを採りて窩濶台汗を求めんとす」、「而も剣を横へて神前に集まれる数百の諸汗が大総統を選出して是れを大汗となす者、古代羅馬に比すべからざる大共和国 にあらずや」。
北は「東洋的共和政」を、窩濶台汗としての終身大総統と軍事的革命指導者の集団としての 「クリルタイ」を中核とし、議会主義を排除する形で構成する。そしてそこでの彼の関心は、 如何にして革命指導者の専制体制を維持し安定させてゆくかという点に向けられており、その点では彼の関心は『支那革命外史』前半から一貫するものであったと言えよう。即ち、終身大総統制の問題についてみても、そこでは「総統一人の責に於てすると将た小数革命家の団集に任を分つと形式は云うの要なし」と述べられているように、大総統個人への権力の集中を求めていのるではなく、安定した政治的権威の確立のための方策が模索されているのであり、それ故に大総統の「終身制」が主張されているのであった。
また議会主義を排除するのも、革命期の議会は必ず反革命の拠点となり、革命権力の安定を 脅すものとなるとの観点からであった。革命が国民の心的改造を目的とするとすれば、その中途に於て国民の意思を問うことは、「投票の覚醒なき国民の法律的無効なる投票」を求めるという自己矛盾におちいるというのであった。北は「革命の或る期間に於て反動的勢力が必ず議会と与論とに拠りて復活を死活的に抗争すべしとの事実」を強調しつつ、革命中国の政治体制を次のように画き出していた。「中華民国大総統とは所謂投票神聖論者の期待する如き翻訳的議会より選挙さるゝものにあらず」、「是れ革命後に於ては統一者其人のみが国民の自由を代表し、而して議会又は与論に拠るものゝ多くが反動的意志を表白する者なればなり。固より大総統は革命の元勲等によりて補佐せらるべし。而も彼等は投票の覚醒なき国民の法理的無効なる投票によりて議会に来るものに非ず。旧権力階級を打破せる勲功と力 とによりて自身が自身を選出すべき者、断じて世の所謂人民の選挙に非ず゜。即ち適切に云へば、彼等は新国家の新統治階級を組織すべき『上院』の人なり。真に国民の自由意志を代表する 『下院』は、下院を組織すべき国民を陰蔽せる今の中世的階級を一掃屠殺したる後ならざるべからず」、「東洋的共和政は大総統と上院にて足れり」と。 そして北が自ら構想した中国共和政を「東洋的」を名づけたのも、この点に大きくかかわっていたと思われる。 彼は中国に向って「断じて投票萬能のドグマに立脚する非科学的非実行的なる白人共和政の輸入に禍さるゝ勿れ」と警告しているのであった。
北の中国革命論は、以上みてきたように、「露支戦争」ヘの展望を基底におき、「窩濶台汗」 を呼び求める声で終っている。彼は『支那革命外史』を、「不肖は窩濶台汗たるべき英雄を尋ねて鮮血のコーランを授けん」という−節で結んでいる。そして北は、このあるべ き中国革命と結合するために日本の対外政策の「革命的一変」を説くのであるが、その問題は節を改めて検討することとし、ここでは、以上のような「東洋的共和政」論を構想する過程で、 彼の国体論批判に一定の修正が加えられている点に眼をむけておきたい。
すでに述べたように北は『支那革命外史』前半においては、中国革命における共和制の要求を、一方では「征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号」として積極的に解すると同時に、他方では「徳川に代ふべき天皇を持たず」と消極的に理由づけていた。これに対して『外史』後半になると、この消極的な側面に議論の中心がおかれるようになり、その反面で日本の天皇制の価値が強く意識されるようになってくるのである。北自身後年この点について次のように述べている。「支那自身の漢民族中に、君主と仰ぐべき者がないために、大統領が度々起きたり倒れたり、又は袁世凱が皇帝となろうとしても1つも国内の建設が出来ないので、万民塗炭の苦しみを続け居るを見、痛切に皇統連綿の日本に生れた有難さを理論や言葉でなく、 腹のどん底に泌み渡る様に感じました1)」。この陳述は官憲に対するものではあるが、しかし『支那革命外史』の叙述のなかからも彼のこのような天皇制に対する意識の変化を読みとることが出来る。辛亥革命敗退の決定的な原因の1つを、革命派が政治的権威を打立てるのに失敗したことにあるとみた北は、革命政権安定の問題は大きな関心を払い 「終身大統領制」を提議するに至るのであるが、この思考の過程で彼は、革命派が革命の渦中で伝統的権威を利用できればそれにこしたことはないと考え始めたように思われるのである。
   1) 二・二六事件関係憲兵隊調書
北は「東洋的共和政」を論ずるにあたって、明治維新で確立した天皇制を「東洋的君主政」 としてその対極におき、フランス革命を君主政と共和政との間を動揺した「変態化の革命」としてその中間に位置づけるという対比を用いた。そしてそこでは、革命は必ずしも伝統的権威を打倒することをめざすものではないという認識が前提とされていた。例えば彼 は、フランス革命についてこの観点から次のように述べている。「見よ。バスチールの破壊さるる時と雖も、軍隊の威嚇に対してミラボーが議会の神聖を叫びし時と雖も、飢民乱入してチュレリー宮殿の階上に鮮血の鎗が閃きし時と雖も、仏蘭西国民は帝王に対する忠順を失はざりき。彼等は古来貴族の横暴に対して抗争すべく常に王権の擁護を得たる歴史的感謝を持てるものなりき。彼等は不幸にしてルヰ16世なる売国奴を与へられしが為めに、当初の方針を持続する能はざりしのみ」と。つまりフランス国民は「革命の統一的中心を王室に仰」いでいたにも拘らず、亡命貴族の先導する列強の反革命軍に皇帝が内応するという事態がおこったため帝制打倒に向はざるを得なくなったのだというのである。
そして彼は、このように統一的権力の中心を「王室」に求めて得られず、更に「『革命政府』に求め『公安委員会』に求め終に『奈翁』に求めて漸く安んずるを得」るというように「左廻右転」したフランス革命を革命の模範とすることは出来ないとする。言いかえれば、 革命の最初から統一的権力の中心を見定め、一貫してその実現に邁進するのが革命の望ましい姿だというわけである。そしてその点で明治維新は模範に足ると北は言う。「是に反して日本の皇室は約1千年の長き貴族階級に対する痛恨の涙を呑みて被治的存続を忍びしもの。而して明治大皇帝は生れながらなる奈翁なりき」、「最初より萬世一系の奈翁に指揮せられたる維新革命は革命の理想的模範たるものに非ずや」と。
では中国革命の場合はどうなるのか。中国には革命に利用し得る伝統的権威は存在していないとみる北は、最初から一貫して共和政を目標とし、そのなかから政治的権威を生み出すための一貫した努力を中国革命に求めるのであった。「『東洋的君主政』は2千5百年の信仰を統一 して国民の自由を擁護せし明治大皇帝あり。『東洋的共和政』とは神前に戈を列ねて集まれる諸汗より選挙されし窩濶台汗が明白に終身大総統たりし如く、天の命を享けし元首に統治せらるゝ共和政体なりとす。近代支那と近代日本との相異は終身皇帝と万世大総統との差のみ。連綿の系統なき支那は日本に学びて皇帝を尋ぬることを要せず」。いわば彼は、統一的権力の中心を創り出す一貫性において、明治維新を学ぶべき模範として、フランス革命を学ぶべからざる悪例として提示したのであった。
ところで、このような対比が、すでに皇統連綿たる天皇の価値を前提としていることは明らかであろう。北は万世一系について、連綿の系統について、更にはまた国民の信仰的中心としての天皇について語り始める。即ち「万世一系の皇室が頼朝の中世的貴族政治より以来700年政権圏外に駆除せられ、単に国民の信仰的中心として国民の間に存したこと」は維新革命における天佑であったとされ、また明治維新は、「維新の民主的革命は一天子の下に赤子の統一に在りき」と規定しなおされるのであった。『国体論及び純正社会主義』におけると同一の、「民主的革命」の用語が使われていても、その内容は全く異質のものとなりつつあった。かつての『国体論』に於て北は、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」 と断じ、皇統連綿たることを以て明治国家における天皇の地位を基礎づけることは、 維新革命に対する明らかな反革命であると斥けた筈である。そこでの彼は、維新革命によって天皇の性格が幕府・諸侯と同質な家長君主から公民国家の最高機関へと質的に変化したという点を力説し、維新の民主的性格について、「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主主義に似たりと雖も、天皇も国民も国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」と述べていたことはすでにみた通りである。
しかし今や北は、国家意識にめざめ、国民と共に闘った維新の英雄という天皇観を捨てて、国民の信仰的中心として伝統的権威を保持していたが故に本能的自由の乱舞する討幕運動を統御 し専制者たりえたという側面から天皇を捉えようとするのであった。「然らば維新革命を見よ。 王覇を弁じ得る『思考の自由』と覇を倒して王を奉ずべしとする『実行の自由』とが、其の階級間に歯されざるほどの最下級武士によりて現われ、而して封建制の旧権力が是れを弾圧せんとして却て白昼大臣の頭を切り取られたる程度にまで腐朽せし社会的解体なりき。所謂勤王無頼漢と称せられし切取強盗の本能的自由を恣にすることを得て幕府を倒したるもの、維新革命は自由を与へられたるが故に来れるものなり。而も明治大皇帝の革命政府は……明白に統一 的専制の必要を掲げたり。而して革命の目的は一天子の権力下に一切の統制なき本能的自由を 圧伏することに在りとして、秋霜烈日の専制を23年間に互りて断行したり」。ここに述べられている天皇のイメージは、伝統的権威の上に立った「窩濶台汗」とみることも出来るであろう。
ともあれ、北が『国体論及び純正社会主義』の柱をなした強烈な国体論批判を大きく後退させていることは明らかであろう。彼はこの10年後(大正15年1月)、『日本改造法案大綱』に寄せ た序文、「第3回の公刊頒布に際して告ぐ」の中で「『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で1千頁ほどのものであり且つ20年前の禁止本である故に、一読を希望することは誠に無理であるが、其機会を有せらるる諸子は「国体の解説」の部分だけの理解を願ひたい」と述べているが、それは公民国家論の部分だけを理解して欲しいということであり、もはやかつての国体論批判から離脱していることを告げる言葉とも読める。
この北の天皇観の変化のなかには、おそらくは混迷をつづける中国情勢を見通そうとする執念と、維新の英雄をついだ病弱な天皇に対する思念とが二重写しに投影されていたことであろう。彼はもはや個人としての、或いは機関としての天皇よりも、国民を統合し得る伝統的権威 としての、いわば制度としての天皇により強い関心を寄せるに至っていたのではあるまいか。 天皇大権の発動により天皇を奉ずるクーデターの構想は、『国体論及び純正社会主義』から直接にではなくて、このような天皇観の変化を媒介として生み出されてくるように私には思われるのである。そしてその上に、『支那革命外史』における日本対外政策の「革命的一変」のイ メージを重ね合せた時、北はすでに「日本改造法案」の骨格をつくりうる地点に達していたのではなかったであろうか。 
10 亜細亜モンロー主義

 

北の云う対外政策の「革命的一変」とは、中国革命の達成を支援することを「正義」とし、その「正義」を基礎として日本民族の新たな使命を構想すること、そしてそれを対外政策の中核に据えるということにほかならなかった。そしてそのため彼は、一方では前節でみたように、日本の膨脹と適合できる形に中国革命の将来を想定したのであったが、他方ではそれに対応した、「正義」に立脚した日本の対外政策を構築しなければならなかった。
彼はそこでの原則的立場を「日本民族の対外行動は挙手投歩唯正義と強力とあるのみ」と述べる。 正義はそれを遂行する強力と不可分のものとして捉えられていた。そしてここでの「強力」とは、極東に於ける日本の軍事的優位を前提とするものであった。北は日露戦争の勝利のあとでは、中国をめぐる国際関係に於ては、日本が圧倒的な軍事力を有すると信じていた。「支那を奪はんと欲せば須らく1個師団の陸兵と3隻の巡洋艦を以てすべし」、「日本が其の陸軍と海軍とを有して、誠実に而して勇敢に全亜細亜の保護者を任じて毅立せば千百の不割譲条約ありと雖も反古に等し」といった言葉からは、北が日本は極東において自ら望む方向に軍事行動を起し、勝利することが出来ると考えていた、あるいは少くともこの想定を対外政策論の前提としていたことを読みとることが出来る。従って「正義」とは、この力をどのような方向に行使し、あるいはどのような方向に行使してはならないかを決定する基準となるものであった。北はまず「支那保全主義」のなかに、対外政策における「正義」の基礎を求めようとした。
と云っても「支那保全主義」は言葉としては決して北の発明になるものではなかった。というよりもむしろ、当時、対中国問題を論ずる場合の1つの基準として、一般に通用していた考え方であったと云う方が正しいであろう。「支那保全主義」が対中国政策論議のなかに登場してきたのは、すでに古く日清戦争直後に、列強の中国からの利権奪取が露骨な形で進行し、遂に領土的分割に至るかと考えられた時からであった。ここでの「保全」とは、列強の領土的中国分割によって日本の大陸発展の道が閉ざされることを防ごうとする発想から生れたものであり、従って「支那保全主義」は、一般的には、中国の領土的分割に反対しながら、中国に対する経済的進出や利権の獲得を果そうとするものであった。それ故、日露戦争もまた、ロシアの満州領有=中国の領土的分割に反対する保全主義の戦いと意識される場合が多く、北自身も「日露戦争は支那全部の保全的正義の為めに戦われたるもの」と述べているのであった。
北はこのような当時一般に通用していた「支那保全主義」を捉え、それを彼なりに純化することによって、対外政策論の出発点を築こうとしたのであった。彼はまず「人道的要求から迸発せる保全主義」と述べているように、保全主義は列強の錯綜する利権奪取競争をかいくぐって自らの利権や勢力をのばすためのものではなく、文字通り中国の独立と自立的発展を保全するためのものでなければならないと主張した。それはまさに、当時一般に通用していた保全主義が、領土的分割を否定しながら、勢力範囲・優越権の設定や利権の獲得を肯定していたことへの批判であった。彼は云う、「由来正義に根拠する日本の支那保全主義と利権の保持に汲々たる英国の資本的侵略政策とは、仮令露西亜の分割的勢力に対抗せし期間外見上相似なるかの如きも根本精神に於て全く氷炭相容れざるものなり」、「特に況んや優越権の如きは保全主義の本義に撞着する一個の侵略として許容すべき限りのものに非ず」と。
そして更に「支那保全」は中国自身の自立なくしては成立しえないものであることを強調した。「人道的要求より迸発せる保全主義は支那其者の自立によりて真の実現を見るべく、国家を白人の競売に附しつつありし亡国階級を存在せしめて期待すべきものにあらず」、つまり「日本が誠実に支那の保全の為めに支那の復活を望」むことが「支那保全主義」の基本的態度でなければならないというのである。それはまさに中国革命が「自ら成せる革命」として発展しつつあるとみた中国革命認識と表裏をなすものであった。
しかし、このように中国の自立的発展を望み、不侵略・不干渉の保全主義を貫くとすれば、当然、これまで中国から奪取した既得権益についてどう考えるのかという問題につきあたらざるを得ない。とくに焦点は在満権益の問題であった。しかし北はここではこうした論理の筋道を断ち切り、態度を一変して次のように叫ぶ。「不肖を以て南満州を獲得したることを非議するものとなす勿れ」と。北も一応は「形式に於て」と留保をつけながら、日露戦争の結果が保全主義に反していることを認める。そしてその上で次のような反論を試みている。即ち日露戦争が「終に南北満州の分割を結果して戦前の保全主義を形式に於て損傷したることは、当時の清国が既に露国に割譲し更に加るに日露戦争に参加せざりし権利放棄として露西亜の領有より譲渡せられたる者」だというのである。しかし清国がロシアに満州を割譲したというのは事実ではないし、また彼が在満権益を正当化する論拠とする「権利拠棄」にしても、それが日本の強制の結果であることを北自身も認めているのである。「又日露戦争に支那の参加せんことを申込みしに係らず日本は之を拒絶し、支那亦日本に拒絶せられたるが故に茫然として傍観したり」、とすれば、「権利放棄」という理由づけには問題がおこってくる筈である。しかし北はこの問題にかえることなく、すぐつづけて「是れ両国の将来が同盟を以て露国の東進に対抗すべき運命に立てること」を示すものだ、という具合に問題をはぐらかしてしまった。
ここでは明らかに北の保全主義は一貫していない。日露戦争を保全的正義のための戦いとみることは、ロシアの満州領有の意図を打破することが戦争目的であったということであり、すでに満州がロシアの領土になっていたということになれば、日露戦争は直接には「支那保全」にかかわらない日本とロシアの間の領土争いだということにならざるを得ない。しかも彼は、遼東租借地を除けば鉄道・鉱山の利権と鉄道守備兵の駐兵権を得ているにすぎない―従って明らかに中国の主権下にある南満州を日本の領土として論じているのである。北にとってもこの保全主義の矛盾は気になる所であったのであろう。「不肖等は日本の国家的正義に訴へて南満州領有の法理を考ふるに露西亜より得たる南樺太と同一なりと断ずる者なり」と述べたのに続けて、「明確なる法理に基く南満州主権の了解は今後日支に取りて重大なる必要なり」と付記しているのであった。
しかし北はこれ以上この問題に深入りしようとはしなかった。彼の問題関心は、「既往は追ふべからず」として、将来に於ける日中の握手を、保全主義の「正義」の上に如何に実現してゆくのかという点に向けられていたからであった。満州問題にしても、日本の支配権を今後どのように運用してゆくのかという点に関心の中心がおかれ、保全主義はまさにその運用の点で強調されることになるのであった。即ち上述のようにして日露戦争による「南満州領有」を「支那保全主義」から切り離して擁護した北は、その後の事態については次のような形で保全主義の立場から批判するに至るのである。
「不肖は日露戦争によりて露西亜より奪へる南満州を以て日本の正義を疑ふものにあらず。只正義の発動は一張し一弛す。日本が露西亜より其れを奪ひし時に緊張したる国家的正義は南満州を占拠すると共に崩然として跡なく、支那を露西亜の侵略より防護せんが為めの占有にあらずして全く北満州に拠れる其れと相携へて支那を脅かさんとする南満州に一変したり。日露戦争の南満州占有は支那保全主義の為めの城壁としてなりき。日露協約に至りての同一なる其れは露西亜の分割政策に協力し助勢する所の前営となれり。」
ここには明らかに保全主義の転換がみられる。まず最初に、利権や勢力範囲を否定する保全主義によって自らの立場を「正義」とした北は、ついで保全主義の「ための」利権や地位の要求を肯定する方向へと一転してゆくのであった。そしてこの転換の鍵になるのが満州においてすでに権益を確保しているという現実であった。南満州を中国侵略の基地とせず、ロシアに対する城壁とするならば、保全主義の上に立った満州領有についての日中の了解が成立するであろうというのが北の想定であった。すでにみたような、中国革命において「露支戦争」を必然とするという主張が、満州領有を正当化し更にその拡張・強化を要求するために不可欠のものになることはもはや云うまでもあるまい。
そして北はこの論理を更に、中国の周辺全部に城壁をめぐらすための侵略主義へと拡大してゆくことになるのであった。もしも事態がこのように進展するならば、満州支配には新たな根拠が与えられ、在満権益についての歴史的疑惑などは一挙に吹き飛んでしまう筈であった。彼は云う。「日本の保全主義を徹底せしむべく更に北満州を奪ひて支那の北境に万里延々の長城を築き、好機一閃黒竜沿海の一帯を掩有して彼が東進の根拠を覆へし、以て朝鮮と日本海とに一敵なからしめん」、「而して南満州は日本の血を以て露西亜より得たる所。未解決のままに2個の主権を存立せしむることは断じて両国親善の所以に非ず。北満に至っては英の妨ぐるなくんば日露戦争当時既に獲得すべかりし者。大戦の意義に照して終に露西亜より奪はずんば止まず。−是れ支那の為めに絶対的保全の城廓を築くものに非ずや」と。そして北は更に満州支配の代りに、21カ条要求によって得た内蒙古に関する権利を返還することで、「対露日支同盟」は完成すると夢想した。「内蒙古の権利は露支戦争を援助すべき一条件として『満蒙交換』の協定によりて対露日支同盟の条件たるべし。支那は外蒙古と共に内蒙古を得べし。日本は南満州と共に北満州を得べし。内外蒙古は支那存立の絶対的必要なり。彼が日本の後援によりて内外蒙古を得ることは西蔵を維持し支那全部を保全し得る保障を得る者にして南満の一角と較量し得べき者に非らず」。
北が中国革命完成の国際的局面として、「露支戦争」と「日英戦争」の組合せによる露英両国勢力の打破を唱えたことはすでにみたが、彼にとっては日本の対英開戦もまた、こうした「支那保全主義」の必然的結論にほかならなかった。「不肖は支那保全主義と日英同盟とが絶対的に両立する能はざることを信ずるものなり。而して支那の革命によりて支那自らの力を以て領土の保全を主張せんとする日は、当然に両立せざる日英同盟は日本及び支那の一撃により破却さるべきことを信ずるものなり」とする彼は、「日本の対英露策に取りて独逸が支那保全主義の為に唯一同盟国たるべきことを思考だもせず」に、日英同盟を利用してイギリス側に参戦してしまった政治指導者を痛烈に批判した。彼にとっては、第一次世界大戦は、「露支戦争」と「日英戦争」を組合せて中国革命を完成させると共に、南北にわたる「支那保全」の万里の城廓を築きあげるための絶好の機会とみえていたのであった。彼は云う。「日本が真に保全主義を唱ふるならば北露と南英との領土を奪ひて四百余州を抱く雄大なる箍を外交方針とすべかりしなり」と。
中国大陸全体を抱きかかえる「箍」とは、たしかに雄大な構想と云うべきであろう。しかしそれはもはや「支那保全主義」の枠からはみ出していると云わざるをえない。北はさきの文章につづけて「軍人と国論とが侵略主義を高調するは興国の正気にして妄りに抑圧すべきものに非ず。要は向うべき所に放つに在り」と書いている。それは彼の「支那保全主義」が、侵略主義そのものに対する原理的批判を意味するものではなく、たんに侵略の方向を規制し、侵略を正当化する根拠を提供するためのものにほかならなかったことを示している。『支那革命外史』においても叙述が後半に進むに従って、中国状勢にかかわりなく、日本が本来実現すべきものとしての領土拡張の要求が次第に前面に押し出されてくる。例えば彼は云う。「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり。英国がスエズ以東に威権を振ふことが東洋の英国を自負する日本と両立すべからざる覇権の衝突なることは明白なり。…則ち南亜細亜より英国を駆逐せんとする日英戦争は支那の如何に関せず、今の『小日本』が『大日本』として覇権を確立すべき領士を英国の持てる者に奪はずんば行く所なきを以てなり」と。
この主張は、云いかえれば、中国革命の反英的性格を認識することによって、日本民族はイギリスとの覇権争奪戦が必然であることにめざめ、この戦いに蹶起せよというに等しい。更にまた『支那革命外史』の末尾の部分で、北が「諸公何ぞ支那の革命が伊勢大廟の神風なることを悟らざるや」と書いているのも同じ文脈で読める。つまり彼は、中国革命は、日本民族を自らの使命にめざめさせるために、天が与えたチャンスなのだと云いたかったのではなかったか。
結局のところ、北が「支那保全主義」を対外政策論の出発点に据えたのは、それが日本の対外行動のすべてを律する根本原則であると考えたからではなかった。彼が試みたのは「保全主義」という「正義」の立場から中国革命をみるとき、日本民族の使命がどのようなものとして映し出されるかを問うことにほかならなかった。そして彼は、中国革命は日本に対して「白人投資の執達吏か東亜の盟主か」の選択を迫っているとみた。勿論そこには、「黄白人種競争の決勝点」として対露開戦を主張した人種意識・国家の強化を人類進化の道だと考える進化論・日露戦争の勝利に至る日本の対外発展の根本的な肯定などが前提されていることはもはや云うまでもあるまい。そして彼が、この選択に於て「東亜の盟主」の道を選んだこともまた。
北は「支那及び他の黄人の独立自彊を保護指導すべき亜細亜の盟主」たることが「日本の天啓的使命」であると説き始める。「天啓的」とは何かについて彼は多くを語ってはいない。しかし「亜細亜の自覚史に東天の曙光たるべき天啓的使命」と書き、また「日清戦争は日本が天佑によりて列強の分割より免かるゝと共に、黄人諸国の盟主たるべき覇位争奪の墺普戦争なり」と述べているところからみれば、日本がアジアで最初に民族意識に基く独立国家を形成したこと、日清戦争の勝利によって、アジア諸国の中で最強の軍事力をもつことを実証したこと、という2つの点から「天啓的使命」を基礎づけているように思われる。
日本が国家的独立の先駆者たることを以てアジアの指導者となし、日清戦争の勝利者たることを以て、欧米列強と抗争するアジアの保護者として位置づけるというこの使命観は、八紘一宇・大東亜共栄圏という怒号の時代を経験した我々にとっては、ひどく平凡なものにみえるかもしれない。しかしそれは西洋文明のあとを追いつづけてきた明治の風潮を逆転させるということであり、やはり辛亥革命と世界大戦という状況の変化なしにはなしえなかったことに違いない。辛亥革命にあたっては、革命派に接した多くの日本人が、その客観的内実がどうあったにもせよ、主観的にははじめて他のアジア人に対して指導的相談役的地位にあると感じることができたのであり、また第一次大戦はヨーロッパの弱体化を実感することをはじめて可能にしたものと云えた。北はこうした新しい感覚を明確な使命観として打出した点で、確かに先駆的であった。すでに辛亥革命の渦中にあって、革命が日本から学んだ国家民族主義によって指導されていると論じた北は、また第一次大戦という未曽有の大戦乱のさなかに於て、はやくも大英世界帝国解体の可能性について論じはじめたのであった。日英同盟を破棄しドイツと結んでイギリスを攻めるべきであったとする北は、「日独の海軍は大西洋と太平洋に彼の海軍を分割せしめ、本国の降伏は独逸によりて、本国其者に値する印度の独立は日本によりて実現せらるべし」と述べて、はるかのちの、太平洋戦争期の政治指導者たちを想起させる。
「支那保全主義」から出発し、「白人投資の執達吏」であることを拒否して「東亜の盟主」たることを選んだ北は、自らの立場を「亜細亜モンロー主義」と名づけた。そしてこの立場が確立されるに至るや、「支那保全主義」がその一側面として吸収されてゆくことは必然であった。「支那保全主義」は次のように云いかえられねばならなかった。「革命的(中国)新興階級の親日主義は日本の左顧右盻せる保全主義が亜細亜モンロー主義の天啓的使命によりて正義化したる後始めて至純至誠なる信頼に表現すべし」と。それは、「支那保全主義」を基盤として生み出された筈の使命観が、亜細亜モンロー主義に到達すると同時に、逆に亜細亜モンロー主義が「支那保全主義」を従属化してゆく転換点を示すものとして読めないであろうか。
亜細亜モンロー主義とは、『支那革命外史』に於ては、革命中国との 「日支同盟」によって、イギリスとロシアの勢力を駆逐することを目的とするものとして提示され、そのための方策が論議されるに至っている。そしてそこでは、亜細亜モンロー主義の成否こそが−中国革命が必然的に戦争によらなければ完成しないという想定を前提としながら−中国の将来を決定するものとされる。「支那保全主義」をもふくめてすべての問題は、亜細亜モンロー主義実現のための戦略に従属させられ、押しのけられていった。
保全主義で否定された筈の利権獲得が、今度はモンロー主義の名によって正当化される。「亜細亜の安全の為めに支那と共に日本の擁護せざるべからざる経済的利権の存するあらば、至誠一貫堂々として支那と共に之を協るべし。 そしてこの観方からすれば、さきには孫文の愛国心の欠除を示し失脚の原因とされた漢治萍問題も、次のような形で再登場することとなる。即ち「漢治萍が白人国の分割を予想したる債権の下に置かるることが日本及び支那の危機なりとせば、誠実聰明なる両国の協定は支那の進で求むる所なるべし」、つまりモンロー主義実現のための利権は中国が進んで提供するであろうというのであった。彼は更に漢治萍による一大兵器製造会社を夢みながら「日支の軍事同盟に依る軍器の共通は支那の側より進んで漢治萍の解決を求めざるを得ず」とさえ書いているのであった。
日中合弁の兵器廠とは、かの悪名高い21カ条要求の第5号にふくまれていたものではなかったか。北は遂に21カ条要求でさえも、亜細亜モンロー主義→「曰支同盟」の基盤としてならば、中国は喜んで応じたであろうとまで考えるに至るのであった。彼は次のように云う。文中の「曰支交渉案」が21カ条要求を指していることは云うまでもない。「彼の恥ずべき恫喝と譎詐とを闘はしめたる日支交渉案の如き、北、満蒙は日露大戦の正義に返ることによりて解決すべく、南、漢治萍の鉄は啻に日本の軍器独立に必要なるのみならず支那の存亡の為に支那の進んで共同経営を求むべきは論なし。日本第一の噴飯すべき外交家加藤氏の如く英国に致されて『第五項案』を保留するに及ばず、又或る種の陸軍系政客の如く漢治萍解決の為めに周特使を迎えて逆臣の纂奪を日本皇帝の名に於て承認せんとする国民道徳の指弾を受くるにも及ばず。−漢治萍其他の鉄炭を基礎とせる大々的クルップ会社を組織し、三分して其一を支那政府に、他の一を日本政府に、余の一を日支両国民の民有とせば両国軍事同盟の礎石茲に於て動かず」。そして彼は更に次のようにつづける。「あゝ日支両国を永遠に結合する日支官民の一大軍器製造会社よ。営利は不肖の知る所に非ず。唯軍器の製造は国権の拡張を意味す」と。
一大合弁兵器廠が、「国権の拡張」であり両国「永遠」のきづなであるということは、「亜細亜の盟主」による中国植民地化でなくて何であろうか。排日運動に対してさえ、国家民族主義の高まりとして同感を惜しまなかった彼の中国革命認識は、一体何処に消えたのであろうか。そして更に、合弁兵器廠と共に「日支同盟」を支えるもう一つの柱として、「日米経済同盟」による大鉄道網建設について語り始める時、北が語っているのは植民地経営論以外の何物でもなくなっている。列強の中国分割に反対して門戸開放を唱え、日露戦争に於ては日本を支援したアメリカが、「露支戦争及び日本の西比利亜侵略に対して再び有力なる同盟的立場に立ち得」るであろうと考える北は、日米経済同盟の身勝手な幻想にふけるのであった。日米間には「彼(アメリカ)の弱点は支那の投資に於て日本の保証なくんば元利一切の不安なることにして、日本の弱点は彼の投資により支那の開発さるゝなくんば日本の富強なる能はざる利害の一致」があり、アメリカ資本は日本の保障があれば、中国に続々と投資されるであろうというのが北の想定であり、革命政権が没収した外国既設鉄道の上にこの米国資本を加えて、「軍隊輸送を基本とせる設計」によって大鉄道網を建設するならば、中国統一の基礎条件となるであろうと云うのであった。
「実に支那の統一者は袁孫に非ず譚黄に非ずして一に唯鉄道なり。支那の郡県制度は鉄道によりて統一せられ、支那の『産業革命』は鉄道によりて中世的経済生活を近代に飛躍せしむべし。鉄道は支那の主権者なり。…四百余州の郡県に連れる蒙古西蔵が軍隊輸送本位の鉄道に統一さるゝに至りて、支那は内地の為の軍隊浪費を要せざるべし。是れ日支軍器製造会社と共に支那が統一的有機的一国たる根本基礎にあらずや」。
『支那革命外史』前半においては、「同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解」という中国民衆の「大勢」の中に、中国統一の基礎を見出そうとした同じ著者が、わずか3か月の中断の後に書きあげた後半の末尾では、同じ問題について、アメリカ資本による軍隊本位の鉄道建設という全く異った答えを提示することは如何にして可能だったのであろうか。我々はもはや、北の亜細亜モンロー主義が不干渉・不侵略の「支那保全主義」の規制を全く断ち切って暴走し始めたことを確認しなくてはなるまい。「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」という北の最初の設問に即して云えば、「支那の覚醒」=中国革命に感応することによって生み出された筈の「天啓的使命」観が、中国革命をふり切って、「日本国権の拡張」のみを追求する「片輪的」方向に走り始めたということでもあろう。それは別の問題で云えば、中国革命の対外戦争への必然的発展という想定を媒介として生み出しされた積極的開戦論が、その媒介項を切り捨ててゆくことにほかならなかった。とすれば、『支那革命外史』の末尾は、すでに『国家改造案原理大綱』の「開戦ノ積極的権利」に接続していたと云いうるであろう。 
11 改造法案への契機

 

『支那革命外史』を書き終えた北は、すぐさま、中国への渡航を企てた。直接の目的は譚人鳳のもっていた10万円の不渡公債をつかって、資金をつくることにあったとされているが、天津で領事館警察に抑留され送還されてしまった。しかし1916年(大正5)6月には上海に渡り、妻すず子と共に同志長田実の経営する医院の2階で居候生活をはじめた。そしてこの生活が、19年(大正8)12月、大川周明の訪問にこたえて帰国の途につくまで続いている。
北が再度中国に渡ったのは、資金関係の問題を別にすれば、中国を反英・反露の方向に動かすことを意図したものであったであろう。しかしすでに軍閥割拠の時代にはいっていた中国情勢のなかで、宋教仁という盟友と黒竜会という後援者とを共に失ってしまっている北は、中国側に働きかける手だてをつくり出すことが出来なかった。彼に出来ることとしては、日本の為政者や同志に対して自らの意見を送りつけること位しかなかった。のちに「6年(大正)2月11日、神武建国の其日に於て、不肯北一輝なればこそ断乎として支那の対独断交に参加すべき理由なきを彼等に指示し」と書いているところからみると、北はこの時、中国の参戦に反対する意見書を日本の有力者に送ったものと思われる。しかし同年8月、中国は彼の意に反してドイツ・オーストリアに宣戦を布告した。この間、3月にはロシア2月革命によって彼が当面の敵としたツァーリズムが倒れた。4月にはアメリカも聯合国側に立って参戦している。『支那革命外史』に於ける、「希くは諸公の活眼達識能く一転独米と結んで英露を撃破し以て抑塞せる国力の向ふ所を南北に分ちて恣に放たしむることなきか」という北の訴えが実現する可能性は完全に消滅してしまっていた。11月にはレーニンのソビエト政府が出現する。
翌1918年(大正7)1月、ウィルソンの14か条の平和原則が発表されると、その影響は民族自決権を中心として中国にも広まり、11月には「独逸の対抗力なき全敗と云ふ意外なる結果」を以て第一次大戦は終った。19年(大正8)1月、ヴェルサイユ宮殿でウイルソンの14か条を中心として講和会議が開かれると、そこでの討議はたんなる戦争の後始末ではなく、「世界改造」をめざすものとしてうけとられた。講和会議からの報告に中野正剛は「世界改造の巷より」と名づけ、馬場恒吾は「改造の叫び」と題した。「改造」が新しい流行語となったことは、講和会議のさなかの、19年4月、雑誌「改造」の創刊に象徴されていると云ってよい。しかしこの「改造」の潮流は、民族自決・デモクラシー・平和主義という、北の思想とは異質の方向をめざして流れ始め、彼の周囲にも日本帝国主義に反対する中国民衆の運動が大衆的な盛り上りを示し始めてきた。5・4運動の波は6月に入ると上海で最高の高揚を示した。北は長田医院の2階から、「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を「投函して帰れる岩田富美夫君が雲霞怒涛の如き排日の群衆に包囲されて居る」のを空しく眺めねばならなかった。
『支那革命外史』の末尾において、すでに中国革命と思想的に離れてしまっていた北は、この過程においてその距離を実感として捉えたに違いない1)。「眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤して居る者が、悉く10年の涙痕血史を共にせる刎頸の同志其人々である大矛盾」は、北の思考を祖国日本の対外政策の問題へとかり立てるものであった。自らの眼の前に盛上る排日運動を、「英米相和する時巴里に於て日本全権の被告扱となり、支那に於ては全部に亙る排日熱の昂騰となる」として、外からの影響の結果と捉える北の認識から云えば、あるべき中国革命を発展させるためには、この外からの影響を断ち切ることが必要であり、そのためには、日本の対外政策の変革を求めることが緊急の課題となる筈であった。
   1) 上海時代の北の中国情勢に対する意見を直接に示す資料は今のところまだ紹介されていない。しかし北が満川亀太郎にあてて自らの意見を書き送っていたことは確認することができる。満川は北からの手紙を二つの会合で公開している。その一つは、1918年(大正7)11月22日の老壮会第4回例会であり、この会合で「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や」を論議した際、満川は「右問題に関する在支那北輝次郎氏の来翰を披露」した。(「老壮会の記」「大日本」大正8年4月号」もう一つは、ヴェルサイユ会議に対応するため、佐藤鋼次郎中将を発起人として結成された国民外交会の席上であり、満川は次のように回想している。「私は当時久し振りに、北一輝氏が上海から私に宛てて送って来た対支時局観を謄写刷りとし、或る日のこの会合に配布したことがあったが、松田源治氏が最も卓見として共鳴していたことを今猶記憶している」(『三国干渉以後』、1935年9月、平凡社)。この二つの会合で示された北の手紙が同じものだったのか、違うものだったのかわからないが、北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」で「拝啓、過日の書簡を広く示され誠に感謝します」と書いているのは、これらのことを指しているものと思われる。しかしそれにつづけて「支那の事終に実行時代に入りましたので、今後は鮮血の筆が小生の拙文に代て御報告申すであろうと信じます」と述べている背後に、どのような情勢認議があったかは、今のところ推測することが出来ない。
なお、満川と北の関係については、あとで改めてとりあげることにしたい。
と云っても、北はこうした激変する国際情勢のなかで、改めて日本の対外政策のあり方を再検討しようとしたわけではなかった。後年、「私の根本思想を申しますれば、この『支那革命外史』に書いてある日本の国策を遂行させる時代を見たいと謂ふ事が唯一の念願でありまして」 1)と述べているように、すでにこの時、日米経済同盟と対英一戦、つまりアメリカと手を握って、イギリスを倒すことを以て、北は確固不動のあるべき国策と考えるに至っていた。従って問題はそのために何を為すべきかであった。そしてこの観点からみれば、アメリカ参戦後の北の関心が「今後日本の方針は如何にして英米を引裂くことに成功すべきかに在り」2)という点に集中してゆくのは必然であった。北がヴェルサイユ条約が調印された1919年(大正8)6月28日、満川亀太郎に書き送った「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」もこの点に関する論議にほかならなかった。
   1) 2・26事件関係憲兵隊調書。
   2) 「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」のなかに、昨年(大正7年)満川に送った手紙の一節とし て引用されている。
北はここで、まず「柄にも無き世界改造といふ大望に逆上」した「口舌の雄」してウィルソンの理想主義を否定し、ついで「日米両国の完全なる提契あらば、疲弊せる英仏伊を屈服せしむる易々たるものであった」にも拘らず、この提契をなしえなかった両国外交を批判する。それは勿論アメリカの野心を中国からそらせて、イギリスの植民地に向わせ、「英国を分割すべき共同目的」に導いてゆくという観点からなされた批判であったが、その根底には人類進化の現段階では、あらゆる強国は「世界ノ大小国家ノ上ニ君臨スル最強国家」をめざして領土拡張に狂奔するものだとする彼特有の進化論が前提されていることに注意しておかなくてはなるまい。そして彼はこの見地から「日本は米国に向て亜弗利加の独領占有を約束し、米国は日本に向て赤道以南の南洋独領を約束する。……国際聯盟か亜弗利加独領かと云ふ二つを提出した時、ウヰルソンと雖も後者を取るは自明の理である」とみるのであるが、この同じ見方は、相手を食わなければこちらが食われるという形で、北の危機感を極度に増幅させる結果を招くことにもなるのであった。
「講和会議に於ける英米の提携−現時の支那に於ける英米提携の排日運動−を大きくする時は−英米同盟の日本叩き漬ぶしという元冠来の恐怖を推論することが出来ます」という北の言葉からは、このような形で増幅された危機感を読みとることが出来る。そしてこの危機感が、北に改造法案を書かせる一つの契機となったことを彼は『国家改造案原理大綱』末尾の一節に次のような形で書き記している。即ち「日本ハ米独其ノ他ヲ糾合シテ世界大戦ノ真個決論ヲ英国二対シテ求ムベシ…米国ノ恐怖タル日本移民。日本ノ脅威タル比利賓ノ米領。対支投資二於ケル日米ノ紛争。一見両立スベカラザルカノ如キ此等ガ其実如何二日米両国ヲ同盟的提携二導クベキ天ノ計ラヒナルカノ如キ妙諦ハ今ノ大臣連レヤ政党領袖輩ノ関知シ得ベキ限リニ非ラズ。一ニ只此ノ根本的改造後二出現スヘキ偉器二侍ツ者ナリ」と。そしてまた同じ問題を、のちにはこう語ってもいる。「私は改造案を書きました時、既に日本の改造は日本の対外政策遂行上…止むを得ざる結果として国内改造に帰着するものと断じて、前半の国内改造意見よりも後半の対外策に付いて力説詳論した訳であります」1)。
   1) 2・26事件関係警視庁聴書。
勿論この危機感だけだったならば、北は改造法案を書くまでには至らなかったであろう。彼を決定的に改造法案の方向に踏み切らせた第二の契機は、「日本危し」とする国内情勢に対する危機感にほかならなかった。1918〜19年には、改造をとなえるさまざまな団体が生まれ、それらは全体として云えば、デモクラシーや社会主義の方向を指向しつつあった 1)。いわば「改造思潮」は左への潮流として滔々として流れ始めるかにみえた。北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送ったちょうど1年前、1918年(大正7)7月から9月にかけて、米騒動が日本全国をゆるがせていた。米騒動は大衆運動発展の画期をつくり出し、1917年から急激な盛り上りをみせ始めた労働争議は、19年に至って一つのピークにまで達した。
   1) こうした状況については、伊藤隆「日本『革新』派の成立」(「歴史と人物」昭和47年12月号、中央公論社)参照。
これらの情報を北が、どの程度、どのような形で受けとったかは明らかではない。しかし 5・4運動のうずまく上海に在った北は、排日・反帝の大衆運動の実感によってより鋭敏とな った感覚を以て、日本の情勢をうけとめたのではなかったであろうか。後に北は次のように回想している。「其の当時(大正8年)」は、日本国内に於ても、頻々として『ストライキ』が起り、米騒動が起り、大川周明が上海に私を迎へに来た時には、東京の全新聞は悉く発行不可能の『ストライキ』であると云ふ様な状態、世界の革命風潮が、日本をふきまくっている最中でありました」 1)。それは一般的には「ロシア革命あり、自由主義、共産主義の勃興時代」。2)として捉えられる。そしてその上に現実に全国的規模で米騒動がおこっているのであり、つい前年の出来事としてまだ強烈な残像を残しているドイツの革命による敗戦という事態が、日本の未来のものとして感じられてくるのであった。それは右翼や軍人の間に、程度の差こそあれ広く存在した感覚であったと思われるが、チャンスがあればすぐにでも大英帝国解体のための戦いを起したいと考えている北にとっては、特別に痛切な、決定的な危機感をひきおこし、改造法案作成の決定的な契機となったのであるまいか。官憲に対するものとは云え、次の述懐からは当時の北の心情が読みとれるように思われるのである。「私は必ず世界の第二大戦が起るものと信じまして、夫れには日本が戦争中、ロシアの如き国内の崩壊又はドイツの如き5カ年間の戦勝を続けながら最後に内部崩壊に依り敗戦国となった実例を見まして、日本は是等の轍を踏んではならない。即ち免がれざる世界第二大戦の以前に於て国内の合理的改造を為す事を急務と考へ、『国家改造案原理大綱』と題するものを書きました。之れは大正8年8月の事であります」3)。
   1) 2・26事件関係憲兵隊調書。
   2) 同上。
   3) 2・26事件関係警視庁調書。
北はまさに、最初の総力戦としての第一次世界大戦を踏まえながら、デモクラシー、さらには社会主義革命へと流れるかにみえる「改造思潮」と対決することを決意したのであった。のちの言葉を借りれば、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造」1)を実現することこそが「革命的大帝国主義」に至る唯一の道と信じたのであった。そして北がこの点で先駆者たりえたのは、亜細亜モンロー主義の「天啓的使命」観をうち立て、イギリスを主敵とする世界戦略を構想していたからにほかならなかったであろう。
   1) 2・26事件関係憲兵隊調書。 
12 国家改造の進化論的発想

 

1919年(大正8)6月、北は、「21カ条を取消せ」「青島を還せ」という中国民衆の排日の叫びを身近かに聞きながら、断食による精神統一を企てた。満川亀太郎にあてて「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送ったのは、この断食中のことであった。そして長田医師と譚人鳳の勧告で断食をやめると、今度は「身体の衰弱もまだ恢復しきらない中に、改造法案の執筆に着手した」1)。当時北の生活を世話していた長田医師は、官憲の弾圧を憂慮し、執筆に際しては「何事も皇室中心主義でなければならぬと言ふことをくれぐれも注意し、書き上げた原稿は一々自分が目を通すと固く言い渡したのである」2)と回想しているが、やがて書きあげられた『国家改造案原理大綱』3)には、この忠告によって北が筆を曲げたと考えられる部分は見当らない。例えば武家政治時代の天皇が「国民信仰ノ伝統的中心」であったとするような、『国体論』においてはみられなかった天皇の理解にしても、すでに『支那革命外史』において示されていたものであり4)、『改造法案』で新たに打出されたというものではなかった。
   1)、2) 長田実「北一輝を語る」、田中惣五郎『北一輝・増補版』(1971年、三一書:房)。
   3) この著作は、1923年(大正12)改造社より刊行されるにあたって、『日本改造法案大綱』と改題され、内容にも若干の修正が加えられたが、以下、この修正を問題にする場合を除いては、『改造法案』と略称することとする。
   4) 本稿(2)、人文学報38号
北はのちに『改造法案』執筆の意図について、 「日本帝国を大軍営の如き組織となすべしと謂う精神を以て記載した」 1)と述べているが、 なるほど彼にとっての「国家改造」とは、直接には、すでに『支那革命外史』で主張した対英・対露戦争を遂行できる国家体制をつくりあげることを指向するものであったことは明らかである。しかし彼はたんに、戦争遂行のためだけを目的とする国家の再組織を要求したのではなかった。若しそうだとすれば、「国家改造」ではなく「国家総動員」を主張することで、こと足りた筈である。もちろん「総動員」のためにも改造は必要であろう。しかしその観点から言えば、後述するような、国語のエスペラントヘの移行などという論点が生れることはありえなかったであろうし、また私有財産限度以内での個人の消費の自由などという主張は真向うから否定されてしまっていたにちがいない。
   1) 2.26事件関係憲兵隊調書
いまのところ、『支那革命外史』から『改造法案』に至る北の思考の過程を資料的にあとづけることはできない。しかし、この両著を比較してみると、次のような過程を推測することができる。まず北は、『外史』において「支那保全」のための積極的方策として打出した対英・対露戦争の主張を、今度は「支那保全」と切り離して、日本独自の課題として正面から捉え直そうと考えるに至った。すでにみたように彼は『外史』においてすでにこの方向に一歩を踏み出しているのであり、 この転換は、中国革命進展の具体的見通しを失いつつあった北にとって、避けがたいものとなったと考えられる。しかしこの戦争論の転換のためには、「支那保全」にかわる新たな意義づけが必要となり、そこから戦争そのものを、世界史の発展との関連で意義づけようとする観点が生れる。さらにこの間、米騒動の衝撃によって、彼は、戦争による国家の拡大と、それを支える国内体制のあり方との関連という問題に眼をむけざるをえなくなったに違いない。そしてこうした内外の問題を統一的に解決する方法を模索した北は、かつて『国体論』で展開した彼独特の進化論にたちかえり、理論的基礎の再確立を企てるにいたったと考えられるのである。もっとも、北は『改造法案』においては、彼の進化論そのものを直接には展開していない。しかしこの『法案』の骨組みはまさに彼の進化論によってしかときほぐしてゆくことのできない構造をもっているのであり、従って『改造法案』の理解のためには、まず彼の進化論展開の方向を探ることから始めねばならないであろう。
この『法案』における進化論的発想は、世界史の発展についての次のような把握のなかに、最も端的な形で示されていた。北はまず、世界の現状を「国際的戦国時代」と捉える。そしてこの「現時マデノ国際的戦国時代二亜イテ来ルヘキ可能ナル世界ノ平和ハ必ス世界ノ大小国家ノ上二君臨スル最強ナル国家ノ出現ニヨリテ維持サルル封建的平和ナラザルベカラズ」というのである。この「封建的平和」が全世界的な規模での幕藩体制といったイメージでとらえられていることは、「全世界二与へラレタル当面ノ問題ハ何ノ国家何ノ民族ガ徳川将軍タリ神聖皇帝タルカノー事アルノミ。日本民族ハ主権ノ原始的意義統治権ノ上ノ最高ノ統治権ガ国際的二復活シテ各国ヲ統治スル最高ノ国家ノ出現ヲ悟得スベシ」という叙述からうかがうことができよう。つまり最高国家の権力によって、他の国家の権力が制限され規制されるという幕府=大名的な関係が「封建的平和」として想定されているのである。
しかし彼がこうした形で世界史の発展方向を提示しようとしたのは、単なる予測の試みではなかった。彼がここで、人類進化の段階を問題にしようとしていることは、封建的平和につづく次の一節で明らかとなる。すなわち,「国境ヲ撤去シタル世界ノ平和ヲ考フル各種ノ主義ハ其ノ理想ノ設定二於テ是レヲ可能ナラシムル幾多ノ根本的條件則チ人類ガ更二重大ナル科学的発明卜神性的躍進トヲ得タル後ナルベキコトヲ無視シタル者」と彼は言う。つまり彼はここで、第一には、人類はその進化の結果、国境のない単一の世界社会に到達すると主張しているのであるが、しかし第二には、そのためには「封建的平和」という過渡的段階を経過することがどうしても必要であり、国際的戦国時代という現段階で直ちに、「国境ヲ撤去シタル世界ノ平和」を唱えることを非現実的幻想として排撃しているのである。
つまり北は、「封建的平和」を、そのもとで、人類が進化し国家的・民族的対立が次第に解消してゆくような、人類進化の一つの発展段階として設定したのであった。従ってこの論理でゆけば、封建的平和をもたらすべき最強国家とは、たんに最強・最大の軍事力・経済力を持つばかりでなく、現在の国家にはみられないような「進化の推進力」を有するものでなければならないということになる。もしそうでなければ、国際的戦国時代→最強国家のもとでの封建的平和→国境を撤去した世界単一社会という進化の図式そのものが成り立たなくなってしまう。 つまり最強・最高国家の本質はこの「進化の推進力」の内包という点に求められることになるわけであるが、しかし「進化の推進力」とは何かといった問題は、『改造法案』では全く論じられていない。さきにみたように、「国境ヲ撤去シタル世界ノ平和」についても、たんに「重大ナル科学的発明卜神性的躍進トヲ得タル後」と述べて、自らの進化論発想を示唆しているにすぎない。しかし、ここで北が、かつての『国体論』で展開した進化論を基礎としながら、人類進化の道程をかつてとはちがった形で捉えなおそうとしているのは明らかであろう。
ところで『国体論』における北の社会進化論は、進化の基本構造を生存競争の単位としての社会の拡大に求め、拡大した社会の成員間における同化作用と、意識主体の部落→家族→個人への分化及び「個人の自由独立」の強化という分化作用との相乗効果のなかから、次の進化をすすめるためのより大きな生存競争の力が生れるとするものであった。すなわち、分化し自律化した個人の公共心、国家意識の強化が国家社会を拡大し、そのもとでの同化作用の拡大と個人の社会性の強化とが、次の進化の推進力となる、つまり国家社会の拡大が進化の各段階のくぎりとなるというのが北の論理の特徴であった。
しかし北は、すでに指摘したように1)、『国体論』においてはこの進化論を国家社会と個人との関係にとどめて、 国家間の関係については、 世界連邦議会での投票による世界平和の可能性を追求しようとしていた。そしてそこでは世界平和について語り得たとしても、彼の進化論の立場から言って世界的な同化作用の基礎をどこに求めるべきかという問題を解明できないままに終っていたのであった。『国体論』から『改造法案』ヘの転回への論理的な基軸は、この世界連邦議会による世界平和の可能性という構想を放棄して、同化=分化を軸とする彼独特の進化論を、世界史のレベルまで貫徹させてゆくことにあったとみることができる。そしてそれは、かつての『国体論』では補足的にしか触れられていなかった「国家競争」の問題を正面に引き出しながら世界連邦構想を再検討するという形で進められていったと思われるのである。従ってわれわれもここでもう一度、この問題に立ちかえってみなくてはならない。
   1) 本稿(1)、人文学報36号
『国体論』における北の世界連邦構想は、次の2つの問題関心から生み出されたものであった。すなわち第一には、人類進化の終局において国家的対立を解消させるためには、過渡的な国家関係をどのように設定することが必要なのかという問題であり、第二にはそのことと関連させながら、現実に支配的な力をふるっている帝国主義を、進化論的にどう批判するのかという問題であった。
北はまず、生存競争の単位の拡大とともに競争方法そのものも進化するという考え方を前提としながら第一の問題については、次のように述べていた。「社会主義の世界連邦論は斯の競争の単位を世界の単位に進化せしむると共に、国家競争の内容を連邦議会の議決に進化せしめんとする者なり。階級闘争が始めに競争を決定すべき政治機関なかりしが為めに常に反乱と暗殺の方法にて行われ来りしもの、今日内容の進化して競争の決定を投票に訴ふるに至りたる如く、現今の国家競争が等しく未だ競争を決定すべき政治機関なきが為めに今尚外交の隠謀譎詐と砲火の殺戮の方法に於て行はるゝものを、今後は階級競争の其れの如く投票により決せんが為めに世界連邦論あるなり」と。そしてこの世界連邦のもとで「更に一段の進化によりて連邦間の競争は全く絶滅して人類一国の黄金郷に至」るというのが北の想定であった。すなわち北はこの時期には、階級闘争の議会主義的解決と対応させながら、国家間の闘争をも平和的に解決するという方向に人類は進化すると考えていたのであり、従ってまた国家関係を平和的に規制する機関としての世界連邦論に関心を向けたのであった。
しかし彼は、世界連邦への道が容易に進展すると考えていたわけではなかった。『国体論』 の末尾近くには次のような一節がみられる。「社会主義は階級競争と共に国家競争の絶滅すべきを理想としつつあるものなり。而しながら現実の国家として物質的保護の平等と精神的開発の普及となきを以て、社会主義の名に於て階級闘争が戦はれつつある如く、経済的境遇の甚しき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現と及び世界的言語(例えばエスペラントの如き)とにより掃蕩されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能はず。著しく卓越せる者に非らざるよりは階級的真善美より超越する能はざる如く、国外の人種民族に接すること少なく又外国の言語思想を解せざる一般の国民に取りては国家的道徳智識容貌の外に出づる能はざるなり。即ち個人の世界に対する関係は階級と国家とを通じてならざるべからず。階級闘争が階級的隔絶に依る如く、 国家競争は實にこの国家的対立に原因するなり。」
北はここでは、世界的同化作用を阻害する要因として「経済的境遇の甚しき相違」と「精神的生活の絶大なる変異」とをあげ、世界連邦と世界的言語がこの阻害要因を掃蕩することを期待する。しかしその反面では、一般国民が個人として国家をこえて交流することを不可能とみ、またこの国家間の経済的、精神的条件の相異から「国家的対立」が生ずるとしているのであり、その点から言えば、世界連邦や世界的言語の成立のきめ手を見出すことさえも困難になる筈であった。
ではこのような難点を知りながら、北は何故、世界連邦構想に固執しようとしたのであろうか。ここで我々は彼の帝国主義批判の問題に眼をむけなければならなくなる。つまり、『国体論』においては、帝国主義は人類進化を阻害するという側面から捉えられているのであり、従って北が自らの進化論に忠実であろうとすれば、いかに難点の多いものであったにしても世界連邦構想を打出して、帝国主義否認の原則的立場を堅持しなくてはならなかったと考えられるのである。かつての彼は帝国主義を次のように批判していたのであった。「帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざるに至らしむる平和にあり。……今日までに行はれたる国家競争が征服併呑の形に於て社会を進化せしめたる―即ち社会学者の所謂同化作用によりて個体の階級を高めて今日までの大国家に進化せしめたるは固より事実なり。故に吾人は帝国主義を以て歴史上社会進化の最も力ありし道程たることを強烈に認識す。而しながら同化作用と共に分化作用あり。外部的強迫力によりて同化するより外なかりし国家競争の進化は他の進化たる分化作用によりて其の同化作用を阻害せられ、又外部よりの同化作用を強迫さるることの為めに分化作用を圧迫せられて社会の進化に於て誠に遅々たりき。─社会主義の世界連邦国は国家人種の分化的発達の上に世界的同化作用を為さんとする者なり。故に自国の独立を脅かす者を排除すると共に、他の国家の上に自家の同化作用を強力によりて行はんとする侵略を許容せず。」と。
ここで北は、帝国主義を他民族に対する征服・抑圧の点で捉え、それが他民族をとり込むことによって同化作用を拡大したことを認めながらも、同時に、そこでは他民族に対する「抑圧」が、同化作用と分化作用との相乗的展開を阻害することになると批判しているのである。彼はこの点について具体的には説明していないが、そこには、階級闘争論において展開した論理が前提されていたとみることができる。すでにふれたように1)北は『国体論』において、階級闘争の効果は「模倣と同化とによりて下層階級の上層に進化して上層階級の拡張することに在り」と述べているのであり、同化・分化の観点から言えば、闘争による生活条件の向上が下層階級の分化をうながし、そこから上層へ同化しようとするエネルギーが生れる、という形で階級闘争を捉えていたと言うことができよう。
   1) 本稿(1)、人文学報、36号
つまりそこには、生活条件の向上が個人生活の充実をもたらすとともに(=分化的発達)、階級意識は消滅に向い同化作用が強化されるという図式が用意されているのであり、同化作用の基盤としては分化的発達が、さらにその分化的発達を生み出す条件としては生活条件の向上が想定されているわけである。従ってこの図式から言えば、帝国主義は同化作用の枠組を拡大するだけで、それを動かす原動力としての、下層階級=被支配民族の生活条件の向上を阻止している点で批判されなければならないこととなる。つまりさきの引用に示されている帝国主義の批判は、次のように言いかえることができよう。すなわち、帝国主義の支配は、その「抑圧」に対する被支配民族の抵抗によって同化作用の展開を阻害されるとともに、被支配民族の生活条件の向上=その「分化的発達」をはばみ、彼等の支配民族に向っての上昇=下からの同化作用のエネルギーを失わせるものにほかならないと。
従って『国体論』における北の「世界連邦論」は、こうした帝国主義の弊害を除去するために、征服と抑圧による同化という方向を否定して、まず「国家人種の分化的発達」を先行させ、その上で「世界的同化作用」の実現をはかろうとするものであったと言えよう。北を世界連邦論の方向につき動かしていった決定的な契機は、このような進化論的帝国主義批判にあったと考えられるのである。
しかし同時に、このような進化論にもとずく帝国主義批判にとっては、民族の国家的独立という問題は、第二義的な意味しかもっていなかったことに眼をむけておく必要があろう。
たしかに北はその世界連邦論においては、さきに引用したように、「自国の独立を脅かす者を排除すると共に、他の国家の上に自家の同化作用を強力によりて行はんとする侵略を許容せず」と主張していた。しかしすでにみてきたような彼の文脈から言えば、ここでの「独立」の擁護は、国家、民族の分化的発達を促すための1つの手段・政策の主張にほかならなかったとみるべきであろう。生活条件の向上を同化作用の推進力とみる彼の進化論から言えば、民族の国家的独立は、帝国主義に抵抗し生活条件の維持・向上をはかるという役割を与えられたとしても、やがては同化作用の拡大とともに、世界社会のなかに融解してゆくべきものである筈であった。つまりかつての「民族の国家的独立」の主張は、彼の進化論上の要請を満しうる他の手段方法が見出されれば、それによって代置されることが可能であるような、帝国主義批判のあり方に附随した命題にすぎなかったと言える。言いかえれば、『国体論』における世界連邦構想は、これまでみてきたような、特殊な進化論的帝国主義批判によって支えられているのであり、この支柱がとりはらわれれば直ちに崩壊せざるをえない性格のものなのであった。
といっても、『改造法案』における北が、帝国主義の全面的肯定に逆転したというのではない。彼は帝国主義に対する批判的観点を維持しながらも、同時に帝国主義的膨張力を再評価しようとする方向に転じていったのであった。この転換はまず、帝国主義の平和的解消という構想を非現実的なものとしてしりぞけ、帝国主義を打倒する現実的な力を模索するという形で始められたことであろう。つまり彼の帝国主義批判は、現に世界の強国という形で存在している帝国主義の支配体制を、どのような方法で、どのような現実的な力によって解体してゆくのかという新たな問題を中心として展開されることになるのであった。 そしてその現実的な力とは、彼の論理から言えば、現に存在する特定の国家の軍事力に求めるほかはなかった。彼は自国・日本をこの特定の国家たらしめんとするに至るのである。  
平和的な方向から軍事的な方向へのこの発想の転換によって、世界連邦構想はたちまちのうちに消滅し、かわって「国際的戦国時代」という現状把握が登場することになるのであった。『支那革命外史』において「支那保全」のために主張された対英・対露戦争は、この新たな観点から言えば、既成帝国主義を攻撃する人類進化のための戦いとして意義づけられることになる筈であった。
しかしこの構想を成り立たせるためには、帝国主義を攻撃し解体する特定の国家が、人類進化の担い手たりうる国家であることが必要となる。それが従来の帝国主義と同質の国家にすぎないならば、たんに帝国主義相互間の戦争がくり返されるにとどまり、進化のための新たな段階への展望は閉ざされざるをえない。ここで北は、そのなかで異民族が同化してゆけるような国家のあり方を構想することによって、この論理的要請に応えようとしたのであった。北における「国家改造」とは、まさにこうした進化の担い手たりうる国家をつくりあげるということにほかならなかった。
彼は『改造法案』の末尾に「改造セラレタル合理的国家が国際的正義ヲ叫ブトキ之レニ対抗シ得ベキ一学説ナシ」と書いているが、この「合理的」とは、彼が想定した進化の過程を促進する力を持つものといった意味に解することが出来よう。そして人類の進化を神に至る倫理的な過程として捉えている彼の立場から言えば、この「合理的国家」が武力によって次々と他民族を自己の内部にとり込んで来ることは、倫理的行為として全面的に肯定されることになる筈であった。 
13 国内改造の基本構想

 

北の『改造法案』が、この時期に流行した改造論議のなかで特異な地位を占めているのは、国内組織の改造によって対外的膨張のための正義が獲得されると主張し、2つの問題を分ちがたく関連したものとして提示したことによっている。そしてそれは、第一次大戦後の状況を、国民精神の弛緩として捉えていた国家主義者たちにとって、国家的使命感を再建する方向を示唆するものとしてうけとられたのであった。
では北は、如何にして内外問題を統一する視点をつくり出したのであろうか。それは根本的には、国家社会と個人との間に想定した進化のあり方をそのまま拡大させて、世界史の問題まで一貫してとらえようとする方法にもとずいているのであるが、『改造法案』に即して言えば、より直接的に、国家関係をも国内社会をも同時に裁き得る「正義」を提示することによって、統一的視点を基礎ずけようとしたのであった。
彼は自らの「正義」を次のように規定する。「正義トハ利己卜利己トノ間ヲ劃定セントスル者。国家内ノ階級争闘ガ此ノ劃定線ノ正義二反シタルガ為ニ争ハルル如ク国際間ノ開戦ガ正義ナル場合ハ現状ノ不義ナル劃定線ヲ変改シテ正義ニ劃定セントスル者ナリ」と。では「利己卜利己トノ間」は如何に劃定せらるべきなのか。彼は「英国ハ全世界二誇ル大富豪ニシテ露国ハ地球北半ノ大地主ナリ。散粟ノ島嶼ヲ劃定線トシテ国際間二於ケル無産者ノ地位ニアル日本ハ正義ノ名二於テ彼等ノ独占ヨリ奪取スル開戦ノ権利ナキヤ」とつづける。つまり土地・資源や経済的利益を独占して、他民族の生活向上の道を阻害することが「不義」だということになる。そこでは、かつては自国の同化作用を他国に強制することを非難する形で展開されていた帝国主義批判が、物質的・経済的利益の独占への非難、国際的大富豪・大地主批判におきかえられているのをみることができる。そしてこの転換によって、革命後のロシアをも敵視することが可能になっていた。「支那ヲ併呑シ朝鮮ヲ領有セントシタルツアールノ利己ガ當時ノ状態二於テ不義ナリシ如ク、廣漠不毛ノ西比利亜ヲ独占シテ他ノ利己ヲ無視セントスルナラバ、レニン政府ノ状態亦正義二非ズ」と。
『改造法案』の第一の特徴は、この「不義」の現状を打破するために、国家は「開戦ノ積極的権利」を有すると主張した点にあった。そしてその基礎になっているのは、前節で引用したような、「経済的境遇の甚しき相違」を克服しなければ世界的同化作用は進展しないという考え方にほかならなかった。しかし彼はここで、諸民族の経済的条件の平等を主張しているわけではなかった。彼は「開戦ノ積極的権利」を3種に分け、第一には自己防衛のための開戦、第二には「不義ノ強カニ抑圧サルル他ノ国家又ハ民族ノ為二」する開戦をあげたあと、第三の場合について次のように述べている。「国家ハ又国家自身ノ発達ノ結果他二不法ノ大領土ヲ独占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スル者二対シテ戦争ヲ開始スルノ権利ヲ有ス」と。
ここで北が「国家自身ノ発達ノ結果」と言うのは、国家の対外的膨張力の充実した場合を想定していたと考えられるのであり、彼は曰本については、急激な人口増加をもって積極的開戦を正当化する根拠にしようとしていた。すなわち彼は『改造法案』緒言において「我曰本亦五十年間ニ二倍セル人口増加率ニヨリテ百年後少クモ二億四五千万人ヲ養フヘキ大領土ヲ餘儀ナクセラル」と述べ、また「開戦ノ積極的権利」の註においては「如何ナル豊作ヲ以テストモ日本ハ数年ノ後二於テ食フベキ土地ヲ有セズ。国内ノ分配ヨリモ国際間ノ分配ヲ決セザレバ日本ノ社会問題ハ永久ニ解決サレザルナリ」と主張していた。そして「当面ノ現実問題トシテ濠州又ハ極東西比利亞ヲ取得センガタメニ其ノ領有者ニ向テ開戦スルハ国家ノ権利ナリ」というのである。言いかえれば資源不足のためその民族的活力を十分に発揮しえなくなった国家は、他の国家の遊休(あるいは十分に活用していない)資源を奪うことができるという論理である。そして彼はそのような国家を「国際的無産者」と表現する。「国際的無産者タル日本ガ力ノ組織的結合タル陸海軍ヲ充実シ、更ニ戦争開始ニ訴テ国際的劃定線ノ不正義ヲ匡スコト亦無條件ニ是認セラルベシ」と。
北の言う「正義」とは結局のところ、分配的正義とでも言うべきものであり、彼が人類の進化を阻害すると考えているような経済状態を是正することを指している。従ってこの論理から言えば、「国際的無産者」であるというだけで、開戦の積極的権利が生ずることになる。しかしただそれだけのことでは、国際的無産者と有産者との交代がくり返されるだけで、世界史の新しい段階は生れようがない。また「国際的無産者」といっても、 その内部に分配的「不正義」をかかえていたとしたら、戦争の勝利はその「不正義」をより拡大する結果となる筈である。それ故、この「正義」を世界史のなかに貫徹するためには、国家改造によって自国の内部であらかじめ「正義」が実現されていなくてはならないということになる。 そう考えてくると、さきの「国家自身ノ発達ノ結果」という言葉は、国内で正義を実現するまでに発達した国家を指しているとも読めるのである。
とすれば、第三種の「開戦の積極的権利」は、改造実現後の国際的無産者だけに認められる特殊の権利ということになる。つまり、 国際的無産者である日本は、国家的改造さえ行えば、開戦の権利を自由に行使しうる特殊の国家になりうるのだという点に彼の主張の眼目があったと考えられるのである。彼は第一次大戦時のドイツについて、「英領分配ノ合理的要求」も「中世組織ノカイゼル政府」が行えば「不義」のものとなると評し、つづけて「従テ今ノ軍閥卜財閥ノ日本ガ此ノ要求ヲ掲グルナラバ独己ノ轍ヲ踏ムベク改造セラレタル合理的国家ガ国際的正義ヲ叫ブトキ之レニ対抗シ得ベキ一学説ナシ」と述べているのであった。
前節でみたような進化論的発想のうえに、「正義」についてのこのような観点を加えてみると、北の言う「国家的改造」は、次の3つの要請を同時に満すものでなければならないことになる。すなわち、第1には国内における分配的正義の実現であり、第2には対外戦争を遂行し「国際的戦国時代」をのり切るための軍事力の強化であり、第3には、異民族間の同化作用が進展する基盤をつくりあげることであった。
彼はまず改造さるべき国内状況を、大資本家・大地主が「経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル」「経済的封建制」と捉える。この点は、「経済的貴族」「黄金大名」が「国家を手段の如く取扱」っているとし、彼等の「資本と土地とを国家に吸収し事実上の政権独占を打破すべし」という『国体論』での主張と変っていない。 すなわち、「現時大資本家大地主等ノ富ハ其実社会共同ノ進歩卜共同ノ生産ニヨル富ガ悪制度ノ為メニ彼等少数者ニ蓄積セラレタル者」であるから、社会に返還させるのは当然だと言うわけである。しかし彼は、少数者への富の集中を排除するために、私有財産制そのものを廃棄することには反対であった。 彼の進化論が、結局は国家に集中されることを予定していたとしても、ともかくも「個人の自由独立」を進化の一つの原動力とみなしていたことはすでに述べたところであるが、彼はこの「自由独立」の基礎を私有財産に求めていたのであった。「個人ノ自由ナル活動、又ハ享楽ハ之レヲ其私有財産ニ求メザルベカラズ」とする彼は、画一的平等の考え方にも反対し「貧富ヲ無視シタル劃一的平等ヲ考フルコトハ誠ニ社会万能説ニ出発スルモノニシテ・・・・・・人ハ物質的享楽又ハ物質的活動其者ニ就キテ劃一的ナル能ハザ」るものだと主張するのであった。
こうした私有財産制擁護の立場から言って、北の改造方針は、富の少数者への集中を結果する経済機構そのものの改変を打出すことは出来なかった。彼は私有に限度を設けることで、黄金大名の解体と私有制度堅持という2つの目的を満足させようとする。つまり経済機構には手をつけず、そこから蓄積されてくる富が一定の限度をこえた場合だけ,その超過部分を国家に納付させようというわけであった。彼はこの限度を、個人財産・土地・資本という3つの側面で具体的金額によって規定している。もっともその金額は、最初の『国家改造案原理大綱』と1923年(大正12)刊行の『日本改造法案』とでは異っているが、その相異をもふくめて彼の主張する私有限度額を一括して表示してみると次のようになる。
           『国家改造案原理大綱』     『日本改造法案』
私有財産限度   国家一人につき 300万円   国民一家につき 100万円
私有地限度     国民一家につき 時価3万円 同右 時価10万円
私人生産業制度   1千万円             1千万円
要するに、『日本改造法案』と改題刊行するにあたって、私有財産限度をひき下げ私有地限度を引き上げているわけであるが、その根拠は明らかではない。しかし1冊の参考書もなく書き上げたという彼の言葉1)からみても、日本経済の現状分析を基礎にした数字だとは考えられないのであり、従ってその改訂も、私人生産業限度を基準とした場合に、他の限度があまりに均衡を失しているという程度の考えにもとずいたものにすぎなかったのではなかろうか。
   1) 「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」
『改造法案』の示す国家改造政策の根底をなしているのは、この私有財産限度をこえる部分を無償で国家に納付させるという点であった。すなわち土地・資本については個人或は一家の私有財産限度以内でも納付させられる場合がありうるから、この場合には国家が三分利付公債をもって賠償することにして、私有財産限度を無償納付の基準とする方針を貫こうとしていた。 彼はこの方針を皇室にもあてはめ、「天皇ハ親ラ範ヲ示シテ皇室所有ノ土地山林株券等ヲ国家二下附」し、代りに国庫から「年額三千万円」の皇室費を支出することを主張している。
結局のところ北が画く国家改造の構想は、このような有償・無償で徴集した財産・土地・資本の運用あるいは再配分によって、一方で国家を富強にすると共に、他方では国民の生活条件を、私有財産の強化を軸として向上させてゆくことを基本とするものであった。そしてその基礎となっているのは「大資本ノ国家的統一」という考え方であった。北の経済観は大規模経営の優位という観点に立っており、彼は一定規模以上の経営は国家、それ以下のものは私人というように、経営規模によって国家と私人の領域を分け、 両者を並存させることを主張している。すなわち、「積極的ニ見ルトキ大資本ノ国家的統一ニヨル国家経営ハ米国ノツラスト独逸ノカルテルヲ更ニ合理的ニシテ国家ガ其主体タル者ナリ。ツラスト、カルテルガ分立的競争ヨリ遙カニ有理ナル実証ト理論トニヨリテ国家的生産ノ将来ヲ推定スベシ」とする北 は、銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省により、国家自らが大規模経営を行うことを予定する。そして反面、「私人生産業以下ノ支線鉄道ハ之ヲ私人経営ニ開放スベシ」、「塩煙草ノ専売制ハ之ヲ廃止シ国家生産ト私人生産トノ併立スル原則ニヨリテ私人生産限度以下ノ生産ヲ私人ニ開放シテ公私一律ニ課税ス」と規定するなど、 国家経営と私人経営の領域とを明確に区分するための再編成をも要求していた。
北はさらにこの原則を農林部門にも拡大し、「大森林又は大資本ヲ要スヘキ未開墾地又ハ大農法ヲ利トスル土地ハ之ヲ国有トシ国家自ラ其経営ニ当ルヘシ」と規定した。しかしここで注意しておきたいのは、北が土地所有権については私有財産制擁護の立場から原理的に支持しようとはしていなかった点である。彼はここでは土地国有論にも一理あることを認め、土地問題の解決については画一的な原則はないと主張する。「社会主義的議論ノ多クガ大地主ノ土地兼併ヲ移シテ国家其者ヲ一大地主トシテ国民ハ国家所有ノ土地ヲ借耕スル平等ノ小作人タルヘシト言フハ原理トシテハ非難ナシ。之ニ反対シテ露西亜ノ革命的思想家ノ多クハ国民平等ノ土地分配ヲ主張シテ又別個ノ理論ヲ土地民有制ニ築ク者多シ。併シ乍ラ斯ル物質的生活ノ問題ハ或劃一ノ原則ヲ想定シテ凡テヲ演繹スヘキニ非ス。若シ原則トイフ者アラハ只国家ノ保護ニヨリテノミ各人ノ土地所有権ヲ享受セシムルカ故ニ最高ノ所有者タル国家ガ国有トモ民有トモ決定シ得へシト言フコト是ノミ。……則チニ者ノ敦レカヲ決シ得ル国家ハ其国情ノ如何ヲ考へテ最善ノ処分ヲナセハ可ナリトス。」そして日本が「小農法ノ国情」にあるとする北は、土地問題も資本、企業経営の場合になぞらえて処理しようとする。
彼はまず都市の住宅地と農地とを区別する。そして農地については「農業者ノ土地ハ資本卜等シク其経済生活ノ基本タルヲ以テ資本ガ限度以内ニ於テ各人ノ所有権ヲ認メラルル如ク土地亦其限度内ニ於テ確実ナル所有権ヲ設定サルルコトハ国民的人権ナリ」として、農地を資本と同様に扱うことを主張した。しかし都市の住宅地については、私有を認めず、「都市ノ土地ハ凡テ之ヲ市有トス」と規定する。彼はその理由として、都市の地価が騰貴するのは土地「所有者ノ労力ニ原因スル者ニ非スシテ大部分都市ノ発達ニ依ル」ものであり、従って地価騰貴の利益を宅地所有者に与えることはできないと述べている。つまり彼は、都市居住者は市に借地料を支払い、地価の騰貴は借地料の騰貴となって市財政をうるおすという事態を想定しているわけである。
北が土地問題をこのような形でしか考えなかったということは、他の側面からみれば、地主・小作関係解消のための根本的対策を用意していないということを意味してもいた。彼も「熱心ナル音楽家ガ借用ノ楽器ニテ満足セサル如ク勤勉ナル農夫ハ借用地ヲ耕シテ其勤勉ヲ持続シ得ル者ニ非ス」として、自作農化が望ましい方向であることを認め、「皇室下附ノ土地及私有地限度超過者ヨリ納付シタル土地ヲ分割シテ土地ヲ有セサル農業者ニ給付シ年賦金ヲ以テ其所有タラシム」という対策を用意した。しかし彼はそれ以上積極的に地主・小作関係に介入することは考えていなかった。彼は言う。「凡テニ平等ナラサル個々人ハ其経済的能力享楽及経済的運命ニ於テモ劃一的ナラサルカ故ニ小地主卜小作人ノ存在スルコトハ神意トモイフヘク、且社会ノ存立及発達ノ為メ二必然的ニ経由シツツアル過程ナリ」と。
北がこのように小作問題を重要視しなかったことについては、当時労働運動が急激な発展を示していたのにくらべて、農民運動の発展がおくれていたという事情も影響しているかもしれない。しかしより根本的には、国家発展の基軸を、工業生産の拡大とそれを支えるような資本主義的経済活動の全面的展開に求めていることを関連しているように思われるのである。
例えば彼は改造後の国家による大規模経営の発展を極めて楽観的に捉え,「生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆卜消費的各省及ヒ下掲国民ノ生活保障ノ支出ニ應スルヲ得ヘシ。従テ基本的租税以外各種ノ悪税ハ悉ク廃止スヘシ」などと述べている。そしてこの発展は「工業ノトラスト的カルテル的組織ハ資本乏シク列強ヨリ後レタル日本ニハ特ニ急務ナリ。又今回ノ大戦ニ於テ暴露セラレタル如ク曰本ハ自営自給スル能ハサル幾多ノエ業アリ」との指摘からもうかがわれるように、工業の拡大強化を中心とするものと考えられていたのであった。
北の国家改造の目的の1つが、このような強力な工業力によって、軍事力の強化を基礎づけようとすることにあったことは明らかであるが、彼の私有財産制擁護もまた、こうした国家企業の発展を支えるような企業活動、さらにはその基底となる活発な経済活動が私的所有なしには展開しえないとの認識によって性格づけられていた。彼は私人生産業の存在を認める理由の1つとして、「国民自由ノ人権ハ生産的活動ノ自由二於テ表ハレタル者ニツキテ特二保護助長スヘキ者ナリ」と述べているが、このことは彼が、改造後の経済発展を、結局のところ巨大な国家企業を中心とした資本主義的経済関係の全面的展開として促えていたことを示すものと考えられるのである。そして私的所有の擁護にもこうした経済発展の図式との関連によって強弱がつけられていたのではなかったであろうか。彼が都市住宅地の私有制を否定したのは、資本制生産との関連がうすいと判断したからであり、地主・小作関係にさしたる関心を示さなかったのは、それが資本主義的生産関係からはずれたものと考えたからであるように思われるのである。
このことは更に、小作保護策を何1つとりあげなかった北が、労働者保護については多くの頁を割いていることからも裏書きされる。彼の労働政策は、労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制という3の観点から成り立っていた。まず彼は、「人生ハ労働ノミニヨリテ生クル者二非ズ。又個人ノ天才ハ労働ノ餘暇ヲ以テ発揮シ得へキ者ニアラズ」とし、「国民二徴兵制ノ如ク労働強制ヲ課」すことに反対する。そしてそれと対応する形で、「労働賃銀ハ自由契約」という原則を立てる。この点については「自由契約トセル所以ハ国民ノ自由ヲ凡テニ通セル原則トシテ国家ノ干渉ヲ背理ナリト認ムルニ依ル。等シク労働者ト言フモ各人ノ能率二差等アリ。特二将来日本領土内二居住シ又ハ国民権ヲ取得スル者多キ時国家ガー々ノ異民族ニツキ其ノ能率卜賃銀トニ干渉シ得へキニ非ズ」と説明されているが、その根底には次のような自由観が前提されているのであった。すなわち彼は「国民ハ平等ナルト共二自由ナリ。自由トハ則チ差別ノ義ナリ。国民ガ平等二国家的保障ヲ得ルコトハ益々国民ノ自由ヲ伸張シテ其ノ差別的能力ヲ発揮セシムル者ナリ」と述べているのであり、自由を個々人の能力・条件のちがいを通じて実現さるべきものと捉えていたことは明らかであろう。
彼は国家改造後には、このような各人の能力に応じた賃金が自由契約で実現されると考えており、「現今二於テハ資本制度ノ圧迫ノ下二労働者ハ自由契約ノ名ノ下二全然自由ヲ拘束セラレタル賃金契約ヲナシツツアルモ改造後ノ労働者ハ真個其ノ自由ヲ保持シテ些ノ損傷ナカルベキハ論ナシ」と断じているが、その根拠は明らかにされていない。彼は労働市場の問題には全く言及していないが弱者保護政策及び、労働者の権利の強化によって、おのずから労働市場での地位も改善されると楽観的に考えていたのではあるまいか。
労働者の権利としては15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制を基礎とし、その上で純益配当の護得・労働者代表の経営計画及び決算への干与などを認めようとしている。つまり労働時間は国家企業、私企業を通じて一律に8時間制とし、さらに日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。利益配当は私企業の場合には、純益の2分の1を労働者側に配分し、国家企業の場合には、それに代るべき半期毎の給付を行うというのである。利益配当の考え方は、「労働者ノ月給又ハ日給ハ企業家ノ年俸卜等シク作業中ノ生活費」であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だというものであった。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失をかえりみずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとされ、経営参加についても、「事業ノ経営収支決算二干与スル代ワニ衆議院ヲ通シテ国家ノ全生産二発言スベシ」という間接的な形態が考えられていた。
北は労働者を「力役又ハ智能ヲ以テ公私ノ生産業二雇傭セラルル者」と規定し「軍人官吏教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものだと主張した。すなわち「農業労働者ハ農期繁忙中労働時間ノ延長二応シテ賃銀二加算スベシ」とし、経営計画及収支決算への干与についても「農業労働者卜地主トノ間亦レニ同ジ」と規定している。しかし、この小作人よりも農業労働者の方をより重く保護するという北の考え方は、農業人口が全人口の過半を占め、そのなかで小作経営が圧倒的な比重をもっているという当時の日本の状況にそぐわないものであった。小作争議が激発しつつあった改題刊行時には、彼もその点を考慮したのであろう、労働者がその雇傭される企業の株主たりうる権利を設定すると共に「借地農業者ノ擁護」について次のような規定を追加した。すなわち「私有地限度内ノ小地主二対シテ土地ヲ借耕スル小作人ヲ擁護スル為メ二、国家ハ別個国民人権ノ基本二立テル法律ヲ制定スベシ」というのであるが、この場合も「小地主対小作人ノ間ヲ規定シテ一切ノ横暴脅威ヲ抜除スベキ細則ヲ要ス」と註しているように、むしろ農村における秩序維持の観点が、優位していたと思われるのである。そこには小作権・争議権といった考え方を見出すことは出来ない。
これに対し北は、労働者に対しては改造完成までの間には労働争議を「国民ノ自衛権」として容認しようとする立場にたっている。すなわち「同盟罷工ハエ場閉鎖ト共二此ノ立法二至ルヘキ過程ノ階級闘争時代ノ現象ナリ。永久的二認メラルヘキ労働者ノ特権二非ルト共ニー躍此改造組織ヲ確定シタル国家二取リテハ断然禁止スベキ者ナリ。但シ此ノ改造ヲ行ハスシテ而モ徒二同盟罷工ヲ禁圧セントスルハ大多数国民ノ自衛権ヲ蹂躙スル重大ナル暴虐ナリ」というわけであり、過渡的権利としてではあれ労働者の争議権を認めようとしていた。もちろんそれは労働運動の擁護を意味しているわけではなく、争議当事者は労働省の裁決に服さねばならないとされる。ただその場合には「此裁決ハ生産的各省私人生産者及ヒ労働者ノー律二服従スベキ者ナリ」とし、私企業ばかりでなく国家企業の経営者である各省もまた、一律に労働省の裁決に服さねばならないとした点は、この『改造法案』の特色ということが出来よう。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように、労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとされていた。
ともあれ、北の『改造法案』は、資本=労働関係を中軸とし、これに国家統制を加えるという形で、国家改造後の国民的秩序を構想していた点で、農本主義者の改造思想と決定的に相違していたといいうるであろう。つまり、北の国家改造思想の基本的性格は、彼の主観では社会主義と考えられたとしても、資本主義の諸原則を肯定したうえで、国家権力による統制・資本の国家への集中をはかろうとするものであり、国家資本主義への方向をめざすにほかならなかったと考えられるのである。
こうした北の資本主義的立場はまた、国民生活の改造における個人主義の主張をともなってあらわれており、この点でも右翼的思想家のなかでは特異であった。それは当時の社会秩序の根幹とされていた家父長的諸制度を否定しようとするものにほかならなかったが、しかし彼はすべての伝統的価値を排除しようとしたわけではなく、その個人主義と伝統の部分的擁護とのからみ合いは、『改造法案』の読者に一種異様な印象を与えたことと思われるのである。
この点は同法案における婦人問題の扱い方に最も端的にあらわれていた。彼はまず「婦人ノ労働ハ男子卜共二自由ニシテ平等ナリ」と宣言し、男女同一の国民教育(裁縫料理育児等の女子だけの特殊課目の廃止)、「婦人ノ分科的労働ヲ侮蔑スル言動」や男子の姦通の処罰やなどを唱える。更に改題刑行の際には、「平等分配ノ遺産相続制」の規定を追加し、「現代日本ニノミ存スル長子相続制ハ家長的中世期ノ腐屍ノミ」と家父長制反対の立場を明確にする。そして彼はここで「合理的改造案ガ必ズ近代的個人主義ヲ一基調トスルコトヲ知ルベシ」と強調したのであった。しかしその反面、彼は「但シ改造後ノ大方針トシテ国家ハ終二婦人二労働ヲ負荷セシメザル国是ヲ決定シテ施設スベシ」と述べ、また「女子ハ参政権ヲ有セズ」と規定する。そしてこの両者を結んでいるのは、個人主義への指向と曰本的伝統としての「良妻賢母主義」とを両立させようとする試みであったと言える。
北は「良妻賢母主義」を日本のよき伝統として捉え、次のように言う。「欧州ノ中世史二於ケル騎士ガ婦人ヲ崇拝シ其春顧ヲ全フスルヲ士ノ礼トセルニ反シ日本中世史ノ武士ハ婦人ノ人格ヲ彼ト同一程度二尊重シツツ婦人ノ側ヨリ男子ヲ崇拝シ男子ノ春顧ヲ全フスルヲ婦道トスルノ礼二発達シ来レリ。コノ全然正反対ナル発達ハ社会生活ノ凡テニ於ケル分科的発達トナリテ近代史二連ナリ、彼二於テ婦人参政運動トナレル者我二於テ良妻賢母主義トナレリ」と。つまり「近代的個人主義」をうけいれるかにみえた北は、ここでは「直譯ノ醜ハ特二婦人参政権問題二見ル」として欧米文化の導入を峻拒するに至るのであり、「国民ノ母国民ノ妻タル権利ヲ完全ナラシムル制度ノ改造ヲナサバ日本ノ婦人問題ハ凡テ解決セラル」と断ずるのであった。  
このように、婦人を政治と労働の分野から切り離しておきたいとする志向は、当時の男性に一般的であったと思われる次のような女性観にもとずくものであった。「婦人ハ家庭ノ光ニシテ人生ノ花ナリ。……特二社会的婦人ノ天地トシテ、音楽美術文芸教育学術等ノ広漠タル未墾地アリ。 婦人ガ男子卜等シキ牛馬ノ労働二服スベキ者ナラバ天ハ彼ノ心身ヲ優美繊弱二作ラズ」。そして彼はこのような女性像の社会的実現のために、女性に扶養の義務を負わせないような制度をつくるべきだと考えた。つまりそのような場合には国家がその負担を肩代りするというのであり、改造による「莫大ナル国庫収入」はそれを可能にするというのであった。
北は国家が荷うべきこの種の負担を次のように規定した。
(1) 児童の権利として国家から養育・教育をうける場合。
   (イ) 「満15歳未満ノ父母又ハ父ナキ児童」
   (ロ) 「父生存シテ而モ父二遺棄セラレタル児童」
(2) 国家が扶養の義務を負う場合
   (イ) 「貧困ニシテ実男子又養男子ナキ60歳以上ノ男女」
   (ロ) 「父又ハ男子ナクシテ貧困且ツ労働二堪へザル不具廃疾」
これらの場合を通ずる原則が「婦人ハ自己一人以上ヲ生活セシムル労働力ナ」しとするものであることは明らかであり、保護者あるいは扶養者としての男子を欠く場合に限られているわけである。それは逆に言えば男性は保護・扶養の責任をまぬがれることが出来ないということであり(例えば子を遺棄した父親は国家から養育・教育費の賠償を請求されることになる)、それを裏付けているのはさきの女性観と表裏をなす伝統的男性観だというのであった。北は「養老年金法案」の如きものを排して「実男子又ハ養男子二貧困ナル老親ヲ扶養セシムルハ欧米ノ悪個人主義卜雲泥ノ差アル者」と強調している。要するに彼は、女性の人格的尊重を説き、家父長制に反対したとは言え、養育・教育・扶養を荷う国民の基本的な生活単位を男子の血縁を軸とする家族に求めていたということができる。
そして更に、家族問題におけるこのような欧米の生活文化への拒絶反応は、教育の分野へと拡大されてゆくことになる。北はまず国民は5歳から15歳まで(改題刊行の際に6歳より16歳に改める)10年間の一貫した「国民教育」を受ける権利をもつと規定する。 そしてそれは国民の権利であるから「無月謝・教科書給付・中食ノ学校支辨」で「日本精華二基ク世界的常識ヲ養成」するものでなければならないとされる。彼がこの「日本精華」を全体としてどう捉えていたかは判然としないが、教育面では次のような提唱となってあらわれていた。
○ 英語ヲ廃シテ国際語(エスペラント)ヲ課シ第二国語トス。
○ 体育ハ男女一律二丹田・鍛治ヨリ結果スル心身ノ充実具足ニー変ス。
○ 従テ従来ノ機械的直譯的運動及兵式訓練ヲ廃止ス。
○ 男女ノ遊戯ハ撃剣柔道大弓薙刀鎖鎌等ヲ個人的又ハ団体的二興味付ケタル者トシ従来ノ直譯的遊戯ヲ廃止ス。
一見すると曰本の伝統的武術の修得を要求しているようにみえるが、彼はこれらはあくまで遊戯であり「精神的価値等ヲ挙ゲテ遊戯ノ本旨ヲ傷クベカラズ。コハ生徒ノ自由二一任スベシ。現今ノ武器ノ前二立チテ此等二尚武的価値ヲ求ムルニ及バズ」と註記しているのであり、ここでの彼の主張の主眼が直譯的形式的教育、更にその根底となる欧米文化の排撃におかれていたことは明らかであろう。彼は最初、英語教育の廃止について、たんに「現代日本ノ進歩二於テ英語国民ガ世界的知識ノ供給者ニアラス又日本ハ英語ヲ強制セラルル英領印度人二非レバナリ」と述べるに止っていたが、『日本改造法案』ヘの改題・刑行にあたつては、それにつづけて、次のような文章を追加しているのであり、それはこの際に行われた修正のうち、最も長文にわたるものであったと言える。  
彼はまず「英語ガ日本人ノ思想二与ヘツツアル害毒ハ英国人ガ支那人ヲ亡国民タラシメタル阿片輸入卜同ジ」と断じ、英語をもって輸入された害毒として、キリスト教・デモクラシー・平和主義非軍国主義などを列挙する。そして「言語ハ直チニ思想トナリ思想ハ直チニ支配トナル」のであるから、「国民教育二於テ英語ヲ全廃スベキハ勿論、特殊ノ必要ナル専攻者ヲ除キテ全国ヨリ英語ヲ駆逐スルコトハ、国家改造ガ国民精神ノ復活的躍動タル根本義二於テ特二急務ナリトス」として、英語文化をより激烈な調子で攻撃するに至っているのであった。
彼はここで、英語文化に代って、日本帝国の膨張に呼応する新たな世界文化の形成について夢想していたに違いない。例えば彼は丹田本位の体育に関して「印度二起リタル亜細亜文明ハ世界ヨリ封鎖セラレタル日本ヲ選ヒテ天ノ保存セラレタル者」と述べている。それは直接には、丹田本位とヨガとの関連を想定していたものであったであろう。しかしその根底で彼は、仏教文明を亜細亜思想の精髄とみ、その伝統が日本文化のなかにうけつがれていると捉えていたのであった。『改造法案』結言において彼は言う。「印度文明ノ西シタル小乗的思想ガ西洋ノ宗教哲学トナリ、印度其ノ者二跡ヲ絶チ、経過シタル支那亦只形骸ヲ存シテ独り東海ノ粟島二大乗的宝蔵ヲ密封シタル者。茲二日本化シ更二近代化シ世界化シテ来ルベキー大戦後二全世界ヲ照ラス時、往年ノ『ルネサンス』何ゾ比スルヲ得ベキ、東西文明ノ融合トハ日本化シ世界化シタル亜細亜思想ヲ以テ今ノ低級文明国民ヲ啓蒙スルコトニ存ス」と。  
つまり北の主観から言えば、彼はたんに文化的伝統の維持を求めたのではなく、曰本文化のなかに密封されている筈のアジア文明を全面的に開花させることによって、新しい世界文明をつくりあげることが出来るという図式を画いたということになるのであった。そして彼は第二国語に採用しようとするエスペラントが、英語文化の排撃と同時に、この新しい文明の担い手たる役割を果すことを期待していたのであった。それは逆に言えば、日本語はそのような役割を果しえない程劣悪だということでもあった。  
「国民全部ノ大苦悩ハ日本ノ言語文字ノ甚タシク劣悪ナルコトニアリ。……言語ノ組織其者ガ思想ノ配列表現二於テ悉ク心理的法則二背反セルコトハ英語ヲ訳シ漢文ヲ読ムニ凡テ日本文ガ転倒シテ配列セラレタルヲ発見スベシ」、とすればこのような「我自ラ不便ニ苦シム国語」を将来拡張した領土内の諸民族に押しつけるわけにはゆかないと北は言う。そしてそこから、合理的組織をもち簡明正確で短曰月ノ修得可能なエスペラントを異民族間の公用語とせよという北の主張が生れる。もしこのことが実現されるならば、劣悪なる曰本語は自然淘汰され「50年ノ後ニハ国民全部ガ自ラ国際語ヲ第一国語トシテ使用スルニ至ルベク、今日ノ日本語ハ特殊ノ研究者二取リテ梵語ラテン語ノ取扱ヲ受」けるに至るだろうと彼は考えるのであった。  
この主張は『古事記』以来の日本語の流れのなかに特殊曰本的なものを求めようとするいわゆる「日本主義者」たちとは決定的に対立するものであったが、おそらくは多くの場合現実性のない妄想として読みとばされてしまったことであろう。しかし北は「言語ノ統一ナクシテ大領土ヲ有スルコトハ只瓦解二至ルマテノ華花一朝ノ栄ノミ」という消極的理由からだけではなく、彼の進化論が想定した世界的同化作用を基礎づけるためにも、この国際語の採用・国語の変革を必須の条件と考えていたと思われるのである。言いかえれば北は、日本語によって保存されているアジア思想を、国際語によって近代化・世界化することを構想していたのであった。
そしてこのような分配的正義と大工業の同時的実現、伝統文化の維持発展と国際語による世界化という二つ基軸によって構成されている国内改造政策を、いかにして実現し、世界に向って拡大してゆくのかということは、政治の任務として北は捉えるのであった。 
14 クーデターの思想

 

北の『改造法案』が当時の国家主義者たちに大きな衝撃を与えたのは、いうまでもなく、「天皇大権によるクーデター」という問題を直截に提起したからにほかならなかった。
北が、『国体論』で展開した議会主義的な社会主義運動論を、辛亥革命とのかかわりのなかですでに棄て去っていたであろうことは、『支那革命外史』における「武断主義」ヘの傾斜のなかからも十分にうかがうことができる。そして北が、中国革命に対応する日本対外政策の「革命的一変」の主張からさらに進んで、それにみあう国家体制全般の変革=国家改造を、昌え始めるとともに、この「武断主義」は「クーデター」論へと結実してゆくことになるのであった。そしてまた『改造法案』の北は、当時の現実の議会を、かつての『国体論』の場合とは逆に、変革のための手段とはなえりず、むしろ敵の掌中にあり、クーデターにより奪取しなければならない敵の城郭と捉え直してくるのであった。
もともと『国体論』における北の議会主義とは、議会に多様な利害の調整と統合の機能を求めようとする本来の議会主義とは異質のものであった。北が議会制度に期待したのは、この制度を通じて国家意識を強化し統合することであった。すでにみたように(本稿(1)参照)、『国体論』では日露戦争からの凱旋兵士が社会主義の担い手に見立てられているのであり、北の議会主義は、日露戦争における「愛国」的団結を、普選の実施によって国家意思にまで高めうるという想定のもとに立てられてたものとも云えた。しかしこうした戦勝気分のなかでの身勝手な 想定が、実は幻想でしかなかったことはすぐさま北にも明らかになったことであろう。
日露戦争後の国内政治の推移を北がどう捉えていたかは明らかではない。しかしそれが北の期待に沿うものではなかったことは確かであろう。大正初頭の政局をゆるがした護憲運動は、軍国主義を批判し、2個師団増設に反対するものであったし、また第1次大戦後、成金景気のなかで、平和主義・自由主義・個人主義の風潮が高まっていったことも繰返すまでもないところであろう。北はこうした状況を国家意識が上下から解体してゆく危機であり、選挙→議会という活動方法によってはこの危機は打開できないと捉えたのであった。
『改造法案』緒言は次のように書き出されている。「今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難二臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安二襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス」。つまり彼は、私利私欲のために権力を利用する支配層と、国家を離れ、むしろ国家を破壊する方向するに走ろうとする国民との双方に、危機を深化させる要因を見出していたのであった。彼が「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バント」する国民について語るとき、彼の脳裡には、第1次大戦におけるロシアやドイツの、革命連動による「内部崩壊」の姿が画かれていたことであろう(本稿(3)参照)。しかし、国家意識の強化こそ人類進化の方策だと考える北にとって、危機は革命迎動の勃発というロシアやドイツの状況よりもはるか手前の段階で捉えられねばならなかった。
彼は危機の本質について次のように述べる。「経済的組織ヨリ見ルトキ現時ノ国家ハ統一国家二非ズシテ経済的戦国時代クリ経済的封建制タラントス。……国家ハ嘗テ家ノ子郎党又ハ武士等ノ私兵ヲ養ヒテ攻戦討伐セシ時代ヨリ現時ノ統一二至リシ如ク、国家ノ内容タル経済的統一ヲナサンガ為二経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル今ノ経済的封建制ヲ廃止シ得ベシ」。これは国民の側の問題として云いかえてみれば、経済的封建制→金権政治による国民の「私兵化」として状況を捉えることにほかならないであろう。そしてこの国民の「私兵化」状況のもとでは、普通選挙を実施しても、議会を辺ずる国家改造の道はありえないというのであった。
1923年(大正12)の『改造法案』改題刊行に際して書き加えた1)国家改造議会についての註において、北は「現時ノ資本万能官僚専制ノ間二普通選挙ノミヲ行フモ選出サルヽ議員ノ多数又ハ少数ハ改造二反対スル者及反対スル者ヨリ選挙賀ヲ得ダル当選者」にほかならないと断じているし、また二・二六事件の軍法会議法廷においては、憲法の3年間停止を主張した理由について、「戒厳令下に於て時局事態を収拾せられるに際し、不忠なるものが憲法に依り貴衆両議会を中心に、天皇の実施せられる国家改造の大権を阻止するを防止する為、論じてあるものであります」2)と述べたといわれる。
   1) この部分は23年の刊本では伏字となっているが<何行削除>と書かれている行数からみて、この刊行の際に書き加えられたものと推定することができる。
   2) 林茂他編『二・二六事件秘録(三)』〈小学館、1971年)
北は、改造過程における議会の排除については、この程度のことしか述べていない。しかし彼はもはや、それがたとえ小数であるにしても、どうしても「私兵化」状況を反映してしまうような選挙→議会の方向に国民の不満を組織しようとは考えなくなっていたことは明らかであった。「由来投票政治ハ数ニ絶対価値ヲ附シテ質ガ其以上ニ価値ヲ認メラレルベキ者ナルヲ無視シタル旧時代ノ制度ヲ伝統的ニ維持セルニ過ギズ」と北が云う時、それは彼が、「経済的諸侯」とその「私兵」の拠点と化した議会、というイメージを更に一般化し、議会制度を、たんに現状を数量的にしか反映しえず、従ってそこから新しい「質」を生み出すことのできないものと評価したことを意味していたことであろう。「経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」という『国体論』の観点から云えば、それは明かに180度の転換であったが、しかしそこで変化したのは、北の議会制度観であるよりもむしろ、彼の国民の現状についての認識であったという方が適切なように思われる。つまり、日露戦争直後の北は、国民のなかに望ましい「質」が順調に発展してゆくとみたのであり、それ故にその発展を量的にまとめあげ、国家意思へと媒介してゆく普選=議会制度に期待をかけたのであった。しかし第1次大戦になるとこの彼が発展を期待した「質」が逆に崩壊の道を歩んでいるとみられるのであり、従って、それを前提として成立しいていた彼の議会主義も、もはや無用のものとして棄てられていったとみることができよう。
北の唱える国家改造とは、なによりもまずこの崩壊に瀕した「質」を、かつて彼が期待した以上の強さに再建することをめざすものと云えた。そして彼は『改造法案』においてはこの「質」を端的に「国家主義」として提示したのであった。同書の「結言」は次のように云う。「マルクスの如キハ独乙ニ生レタリ雖モ国家ナク社会ヲノミ有スル猶太人ナルガ故ニ其ノ主義ヲ先ツ国家ナキ社会ノ上ニ築キシト雖モ、我ガ日本ニ於イテ社会的組織トシテ求ムル時一ニ唯国家ノミナルヲ見ルベシ。社会主義ハ日本ニ於イテ国家主義其ノ者トナル」と。『国体論』における「社会主義」をここで思い切って「国家主義」に書きかえたのは、世界的大帝国へと向う彼の目標の膨張に相応ずるものだったことは明らかであろう 1)。そして彼が国家改造によってうち立てようとしたのは、この目標への軍事的過程を担いうる軍国的国民組織にほかならなかった。前にもふれたように彼は『改造法案』を「日本帝国を大軍営の如き組織となすべしと謂う精神を以て記載した」2)のであった。では彼はこの「大軍営」に至る「国家主義」を如何にして再建強化しようというのであろうか。
   1) しかし北は、23年の改題刊行にあたってこの部分を削除してしまっている。その理由は明らかではないが、第1には、この社会主義=国家主義の主張が、自らの理論の特異な印象をうすめることをおそれたのではないか、第2には、国家なきユダヤ社会という問題を出すことによって、読者を改めて国家と社会の関連という問題に立ち戻らせることを避けようとしたのではないか、といった臆測をめぐらすことも可能であろう。
   2) 2・26事件憲兵隊調書
結論から云えば、北はここでまず「天皇」を持ち出し、そこから国家改造の政治方策を組みあげていった。しかし彼は状況認識だけから云えば、反対の結論を引き出すことも可能であったはずである。すなわちさきにあげた「政権軍権財権ヲ私セル者」が「只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持」しているという認識からすれば、彼等を「龍袖」にかくし「其不義ヲ維持」せしめている「天皇」をも、彼等の支配の根柱として追及し、その打倒を唱える方が素直な結論というべきものであろう。 あるいはまた、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動ト 見ルベシ。其ノ進歩的ナル者二就キテ見ルモ国民ノ団集其者二現ハル、コトアリ。奈翁レニンノ如キ政権者ニヨリテ現ハル、コトアリ」という彼のクーデターの定義から云えば「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ」うるならば、クーデターは天皇の権威なしに正当化されうるはずであった。しかし北は逆に「天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義」を叫び始めるのであった。
北のこの天皇論を支えているのは、歴史的に形成された国民精神を中核に据えることなしには、国家主義を確立することは出来ないとする論理であり、彼は日本において