平将門神社

平将門平将門死す将門記承平天慶の乱江戸川柳天神信仰・・・
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雑学の世界・補考

■平将門

平将門 (將門)
平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。
生涯
生年について
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、延喜3年(903年)とする。室町後期成立の一巻本『応仁記』(宮内庁書陵部蔵)には「将門平親王」が己酉の歳の生まれと記されており、これによれば寛平元年(889年)である。元慶8年(884年)頃とする説もある。
生い立ちと平氏一族の争い
父の平良将は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊田・猿島両郡であったと考えられている。将門は地方より15 - 16歳のころ平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった(日本外史や神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』の見方がある)。この後将門は東下する。この東下の際、叔父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている。ただし、この戦は後の蚕飼川の戦い(子飼渡の合戦とも)がモデルで、妙見神を讃えるために創作されたもので実在しなかったという説もある。
以後「平将門の乱」へつながる騒擾(そうじょう)がおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない。
〇長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていたため争いが始まった、という説。
〇常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘、或いは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説(『将門記』などによる)。
〇源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説。
〇「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている(将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将とは違うことから)。
承平5年(935年)2月に将門は源護の子・扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にした。そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際に伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙(たいじ)するが、この軍も将門に撃破され、良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放置できず国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国(栃木県)の国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。
同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり公雅や公連とされている)の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。
この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。
平将門の乱
この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明が庇護(ひご)を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野に出兵、事前にこれを察知した守藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。
〇新皇将門による諸国の除目と素性
下野守:平将頼(将門弟)
上野守:多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
上総介:興世王(武蔵権守)
安房守:文屋好立(上兵)
相模守:平将文(将門弟)
伊豆守:平将武(将門弟)
下総守:平将為(将門弟)
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない。
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷に帰ることなく討伐軍長官として出立したという。
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を“浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて2月1日を期して出撃した。将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始するも、元来老練な軍略に長じた秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となる。将門自ら陣頭に立って奮戦したために貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。
この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けるために幸島郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門らにより世が治まらないことを嘆いたという。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。
2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門である。
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。

王城を下総国の亭南(猿島郡石井という説がある)と定め、檥橋を京の山崎、相馬郡の大井の津を大津になぞらえて、左右大臣・納言・参議など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、坂東に京に模した国家を樹立しようとしたとされている。
評価の変遷
歴史学者の川尻秋生は中世の貴族の日記に将門の名が現れるピークが大きく二つあり、一つは12世紀後半の源平争乱期、もう一つが14世紀前半の南北朝の動乱期だとしている。いずれも大きな戦乱が起きた際にその先例として将門の名が挙げられており、中央の貴族にはいわばトラウマの様な形で将門の乱が伝承されていたとしている。 またこれとは別に中世以降、将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により平新皇として受け入れられ、将門伝説が伝承されていったと考えられる。将門伝説は千葉一族の分布する場所に多く見られる。 また当時の史料から東国の民衆は疲弊していたことが伺えるが、その原因について環境史研究の成果から、異常気象などの天災ではなく欲にかられた為政者が起こした人災であったと考えられている。そうした背景から反権力闘争を起こした将門は東国の民衆から支持を得ていたという説がある。 これらから必然的に将門の評価は東西で相反するものになる。
近世になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。その多くが将門を誇張し怨霊として描いており、滝夜叉姫の伝説などが生まれた。将門を日本三大怨霊の一つとするのもこの頃からと考えられる。
明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたり史蹟が破壊されたりした。その結果多くの史料が失われたが、一方で民衆の信仰は厚く、排斥を徹底させることはできなかった。 また、これらの排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる。
戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う。
一方で社会には大河ドラマで取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語』により将門=怨霊のイメージが定着した。
従前の将門研究は文献史料を中心とし歴史学と日本文学史が大きな潮流であったが、史料の少なさからこれらには限界が見られ、今後は考古学や在地社会研究との協業作業が期待される。
伝説
将門伝説の研究者である郷土史家の村上春樹は将門伝説を以下のように分類している。
1.冥界伝説(地獄に堕ちた将門の伝説)
2.調伏伝説
3.祭祀伝説(将門を祀った神社)
4.王城伝説(将門が建設した都の伝説)
5.首の伝説
6.鉄身伝説(将門はこめかみにだけ弱点があると言う伝説)
7.七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)
8.東西呼応の伝説
9.将門一族の伝説
10.追討者の伝説
調伏伝説
千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。
このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、将門が主人公であった1976年(昭和51年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。
尚、これらはあくまで民間伝承であり、神田明神側が出版した本では両方を参拝すると祟りが起こるということはないと明確に否定している。
現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされる祠も祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。
首の伝説
「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれるようにして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。
言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て
将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて。
と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。
また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。
御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。
昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。
将門一族の伝説
遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。
「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、坂東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した源頼朝を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。
系譜
先祖
桓武天皇の曾孫高望王が、寛平元年(889年)平姓を賜わり平高望となる。昌泰元年(898年)に上総介に任じらる。当時の国司は任国へ赴任しない遥任国司であることが常であったが、高望は一族を連れて東下した。そのころ東国では騒乱が多発しており、高望一族には東国鎮撫が期待されていたと考えられる。高望の子らは土豪と血縁関係を結び、後の坂東平氏となる。
父母
〇父:平良持 平高望の三男。従四位下 鎮守府将軍。尊卑文脈などの史料は良将とする。墓は常総市蔵持に伝承が残る。
〇母:一部の系譜には縣犬養春枝の娘と記載される。縣犬養氏は土豪だと言われ、万葉集にみえる縣犬養浄人(奈良時代に下総少目を務める)の末裔とする説もあるが、これらには確証はない。茨城県取手市には縣犬養春枝の屋敷跡との伝承が残る。

将門の婚姻関係については確たる史料がなく、将門記の堀越渡しの合戦にて『将門の妻は夫を去って留められ、怨み少なからず、その身生きながら魂は死するが如し』などと記されるのみである。この妻が誰であるのかについては諸説ある。
〇平良兼の娘 - 『将門略記』に良兼と将門は『舅甥の仲』と書かれている事から、娘が将門に嫁いでいたとする説。これを補足する説として、堀越渡しの合戦で妻が奪われた(原文:妻子同共討取)のは妻が将門の元にいる事を意味し、当時の婚姻制度(通い婚)にそぐわず、将門は妻を良兼の反対を押し切り連れ去っていたとする説や、その後に『然る間、妾(妻の意)の舎弟ら、謀を成し九月十日をもって豊田郡に環り向かわしむ』とあることから、舎弟とは妻の兄弟でなおかつ妻を開放できる立場にあった者、つまり良兼の息子であったとする説がある。
〇君の御前 - 将門の妻は平真樹の娘であるという伝承が茨城県桜川市に伝わる。この伝承によると、将門記の堀越渡しの合戦にて開放された妾(良兼の娘)と討取られた妻は別人で、討取られた妻こそが君の御前であるとする。亡くなった妻を弔ったのが茨城県桜川市大国玉にある后神社(新皇の妻という意味で后)であるという。 また異なる説として、これを逆とする(討取られた君の御前が愛妾で、妻は良兼の娘)とする説もある。
将門の側室(愛妾)について伝承が数多く伝わるが、伝説あるいは創作の域を出ない。
〇桔梗の前 - 桔梗姫ともいう。伝承地により内容が異なるが、『将門の寵姫のなかでもとりわけ寵愛が深かったが、俵藤太秀郷に内通して将門の秘密を伝えた故に将門は討たれ、自身も悲劇的な最期を遂げる』というのが大筋である。また、関連する伝説として桔梗忌避伝承も多い。
〇小宰相 - 香取郡佐原領内の長者牧野庄司の娘で、将門がこの地に逗留した際に目に留まり竹袋の城に囲われたと伝わる(千葉県香取市)。小宰相の名は御伽草子『俵藤太物語』にも見えるが、こちらでは桔梗の前との共通点が多い。
〇御代の前 - 京人の管野某の妻で、管野が将門調伏を志すと共に東下し、将門の妾として大野の城に入り、内情を夫に知らしめたと伝わる(千葉県市川市・御代院伝)。
〇車の前 - 乱の後に千葉県柏市大井に遁れて、将門の菩提を弔ったと伝わる(千葉県柏市大井)。また『相馬系図』によると中村庄司の娘が乱が起こったとき懐妊しており、将門は伯父中村才治に命じて在所の大井に疎開させたとあり、『千葉県東葛飾郡誌』はこの娘が車の前であるとしている。
〇和歌の前 - 茨城県結城市に将門の愛妾で和歌の前の墓が伝わる。和歌が巧みで、将門が下野国府を攻めた際に玉村の某との婚礼を襲い略奪され、この地の綾戸城に囲われたと伝わる(茨城県結城市)。
〇苅萱姫(さくらひめ) - 茨城県美浦村には国香の家臣であった大須賀内記の娘で、将門の死後に身籠っていた信太小太郎文国を生んだと伝わる。文国が育ったとされる信太郡(茨城県稲敷郡美浦村大字信太)は大須賀氏の領地である。

『扶桑略記』の天徳四年(960年)10月2日条に『将門の息子が入京したとの噂がたち、検非違使らが探索をした』との記載がある。そのような息子が実在していたのかは定かではないが、将門の死後20年経ってもなお、朝廷には将門末裔への警戒心があったことが推測できる。
千葉氏は将門の娘・如春尼、相馬氏は息子・将国の子孫であると家系図などで伝わる。また『源平闘諍録』には将門の叔父・平良文は将門の養子になったとも伝わる。ただしこれらの伝承は、千葉一族が脆弱な在地支配や一族の結束を強化するために将門を家系に取り込んだものとし、12世紀〜13世紀ごろに成立した創作とする研究がある。
〇平良門 - 将門の長男とされる人物。良門は将門の復讐を果たすべく挙兵するという話が歌舞伎などで知られているが、そのような事件は史料には残っておらず近世の創作とされる。 また良門の子には蔵念という僧がいたという伝承がある(『今昔物語集』)。
〇平将国 - 将門の次男と伝わる人物で、乱ののちに信太郡に逃れて信太氏を名乗ったとされる。相馬家には将国の子孫・信田師国が相馬師常を養子に迎え、相馬家となったと伝わる(『相馬当家系図』など)。 なお、将国の子とされる信太小太郎文国は幸若舞の信田のモデルとされる。
〇五月姫 - 将門の娘とされる伝説上の人物で、妖術使いとして浄瑠璃などで描かれる。茨城県つくば市には滝夜叉姫の墓と伝わる石板がある。
〇如春尼 - 将門の次女とされる人物。千葉氏などの系図には平忠頼に嫁ぎ、平忠常や平将恒を生んだとされるが、詳細は不明。
〇如蔵尼 - 将門の三女とされる人物。将門の死後、奥州の恵日寺に逃れ寺の傍らに庵を結んだとされる。国王神社は如蔵尼が将門の三十三回忌に創建したと伝わる。  
将門の兄弟
平将為
平安時代中期の武将。平良将の子で平将門の弟。「相馬五郎」と称す。『尊卑分脈』では末弟で将武の弟であるが、『常陸大掾譜』では将武の兄としている。将門私授下総守。
将門が「新皇」を僭称すると下総守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月14日、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、次々と一族郎党は討たれた。
平将頼
平安時代中期の武将。名は将貞とも。平良将の子で平将門の弟。「御厨三郎」と称す。『尊卑分脈』では四男、『相馬系図』では長子の将持がない為に三男である。子に将兼があるとされる。将門私授下野守。
将門が「新皇」を僭称して関東を席巻すると下野守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、後日将頼も相模国にて討たれた。
『将門記』によると、将門の弟達のなかではこの将頼だけが「朝臣」の称号を持っているため、国衙において何かしらの官位を持っていたと思われるが詳細は不明。
平将平
平安時代中期の武将。平良将の子で平将門の弟。豊田郡大葦原に居を構えていた事から「大葦原四郎」と称す。『尊卑分脈』では五男、『相馬系図』では長子の将持がない為に四男である。将門私授上野介。
兄の将門の新皇即位について伊和員経らと共にこれを諌めたが、聞き入れられなかった。それが原因であるのか、『相馬系図』では新皇将門によって上野介に任ぜられているが、『将門記』などの書物では上野国は上野守に任ぜられた多治経明の任国となっていて将平の名はない。
天慶3年(940年)2月、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、将平は追捕を免れようと埼玉県秩父郡の城峯山中に潜伏したと伝えられ、同地の皆野町にある円福寺に墓が祀られている。
将門記​ / 将平の諫言
「夫レ帝王ノ業ハ、智ヲ以テ競フベキニ非ズ。復タ力ヲ以テ争フベキニ非ズ。昔ヨリ今ニ至ルマデ、天ヲ経トシ地ヲ緯トスルノ君、業ヲ纂ギ基ヲ承クルノ王、此レ尤モ蒼天ノ与フル所ナリ。何ゾ慥ニ権議セザラム。恐ラクハ物ノ譏リ後代ニアラムカ。努力云々」 (「だいたい帝王の業というものは、人智によって競い求むべきものではなく、また力ずくで争いとるべきものではありません。昔から今に至るまで、天下をみずから治め整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべてこれ天が与えたところであって、外から軽々しくはかり議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の譏りを招くことに違いありません。ぜひ思いとどまりください。」 )
平将文
・・・「私どもの先祖と将門との間に格別の関係があった為に、他では手に入らないような資料が残っており、私が世に出さなければ永久に消え失せてしまう事をおそれたのである。私どもの一家は現存記録をたどりうる限りにおいても、49代まえまでさかのぼることのできる、いわば東国の豪族の末裔である。・・・・土着の古さにおいては将門の先祖などを遙かにしのぐ重みを持っていたらしく「天慶の乱」では、将門を鼓舞激励し、彼の決起に力を貸したらしい形跡もある。・・・・将門を推理するに役立つ「門外不出」の資料も、今なをかなり保存されている。・・・・」
山崎氏の妻方の家系というのは染谷氏で、その実家の近くには染谷川という古戦場もあり、山崎氏自身猿島に近い埼玉県北葛飾郡庄和町に住んでいて、少年の頃から将門の由緒になじみがふかいという。
私は「平将門と武蔵武芝」のサイトで豊嶋氏の祖の将恒は将門の娘と村岡二郎忠頼の間に生まれたのであろうと推理した。これはあくまでも名前の「将」からの推理で確信のあるものではなかったが、山崎氏はそのことを次のように書いている。
第二の将門といわれる平忠常の父の村岡二郎は、将門の女を娶っていた関係もあって、父の五郎将文と共に、将門を裏面から助けたが、将門の没後も無事であり、将門の旧領の大半(千葉・相馬)を受け継いだ。
ただ、山崎氏は忠頼の父を将文と書いているが、村岡五郎平良文というのが通説である。もし将文という呼び名が山崎家の記憶、あるいは文書の中にあるとする と、前にも述べたように、良文が将門の養子になったという説に符合し、私の系図を書き換える必要に迫られるが、実際には良文の方が将門より10何歳か年上 のはずである。
そして『将門記』に登場する平将文は、新皇宣言の後に行われた除目で相模守になった将文がいる。彼は将門の4番目の弟として位置づけられている人物である。
しかし村岡という地名は相模國鎌倉にもあり、村岡の名の起こりの最有力といわれているから、あながちこの説を否定はできない。 ・・・
平将武
平安時代中期の武将。平良将の子で平将門の弟。「相馬六郎」と称す。『尊卑分脈』では七男で将為の兄であるが、『常陸大掾譜』では将為の弟となっている。将門私授伊豆守。
『本朝世紀』の「天慶元年(938年)11月3日の条」によると、駿河・伊豆・甲斐・相模の四ヶ国に将武の追捕令が発せられており、将門が乱をおこす以前から伊豆・相模辺りを拠点に猛威を奮っていたとみられている。
将門が「新皇」を僭称すると伊豆守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月14日、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、将武も討たれ同年3月7日甲斐国飛駅は「将武誅殺」を朝廷に報告した。
平将種
『師守記』に、天慶3年4月12日に将門の弟の「将種」なる者が舅の陸奥権介伴有梁と共に謀反を企てたとあり、この「将種」は諸系図を見てもその名は無く、ゆえに「将種」は「将為」であるともいわれる。
平将広
『筥根山縁起』には「将広」と、諸系図にある人物以外にもいたともいわれる。  
平将門系図
桓武天皇─葛原親王┬高棟
              └高見王─高望┬国香 (常陸大掾)
                        │ ├─────┬貞盛 (左馬介・常陸掾)
                        │ 源護の女   └繁盛
                        ├良兼 (下総介)
                        │ ├─────┬公雅
                        │ 源護の女   ├公連 (下総権少掾)
                        │          └女 (良子:将門の妻)
                        ├良持(鎮守府将軍)      │
                        │ ├─────┬将門 (瀧口小次郎)
                        │ 女        ├将頼 (御厨三郎)
                        │          ├将平 (大葦原四郎)
                        │          ├将文
                        ├良正       ├将武
                        │ │        ├将為
                        │ 源護の女   └将種
                        ├良文(村岡五郎)
                        │ ├─────┬忠頼
                        │ 女        └忠光   
                        └─女
                           ├──────藤原為憲
                         藤原清経 
 
平将門公 年表 
天平2年 730 
   神田明神、武蔵国豊島郡芝崎村(現・大手町の将門塚、一説に韓田)に創建。
貞観5年 863 
   関連事項 5月20日神泉苑で御霊会を行い、祟道天皇・伊予新王・藤原吉子・藤原
   仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂の霊を祭る。
延喜3年 903 
   平将門公、誕生。
   2月25日 菅原道真公、没(59)。
延長9年 931 
   将門公、女論により叔父平良兼と対立。
   また、将門公、亡父良持の遺領のことにより良兼と戦うとも。
承平5年 935
   2月2日 将門公、常陸の野本付近で源扶などに要撃される。(記)
   2月4日 将門公、源護の本拠を襲ってこれを焼く。
      源護の子扶・隆・繁ら討たれ、叔父国香も焼死する。
      子貞盛、変を聞き急ぎ京より帰国するも、将門公との争いを避ける。
   10月21日 叔父良正、源氏との因縁により兵を集め将門公を攻める。
      将門公、新治郡川曲村においてこれを破る。
承平6年 936
   6月27日 良兼、水守で良正・貞盛と合流し、下野国境で将門公と対戦。将門公こ
      れを撃破し、下野国府に追い詰めるも囲みを解いて良兼を遁れさせる。
   10月17日 将門公、召喚の官符びより急遽上洛し検非違使庁において裁かれる。
承平7年 937
   4月7日 将門公、朱雀天皇元服の恩赦により罪を許される。
   8月6日 良兼、兵を発し常陸・下総の境子飼の渡しに将門公を攻める。
      将門公敗退し良兼ら豊田郡栗栖院常羽の御厩を焼く。
   9月23日 将門公、弓袋山に良兼を攻めるも勝敗決せず(一説)。
   12月14日 良兼、将門公の駈使丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探らせ
      夜討をかける。将門、奮戦してこれを退ける。
天慶元年 938
   2月29日 貞盛、山道よりひそかに上洛を企てる。将門公、これを信濃国小県群の国
      分寺付近に追撃する。貞盛、辛うじて遁れ上京して将門公の非行を訴える。
   2月 武蔵国庁において、権主興世王・介源経基と足立郡司武蔵武芝が対立する。
   5月22日地震や兵革の慎みにより天慶と改元。
天慶2年 939
   2月12日 太政大臣藤原忠平、貞盛の訴えにより将門公を召喚しようとする。
   3月3日 将門公、武蔵国庁の紛争調停のため出兵する。興世王と武芝を和解させ
      るが、径基これを疑い上洛して将門公ら謀叛の由を朝廷に密告する。このた
      め政府は、四、九、二十二日に伊勢神宮をはじめ諸社社寺に祈祷し奉幣する。
   4月17日 出羽国から俘因の反乱のことが奏上される。
   5月2日 将門公、常陸など五ヶ国の解文を添えて謀叛無実の由を忠平に言上する。
   5月 諸国の善状により将門公のため功課あるべき由、宮中に議せられる。
   6月21日 変乱のト占があり、東海・東山などの諸国で神仏に祈らせる。
      また同日、相模・武蔵・上野などに群盗追補の官符が下る。
   6月 良兼、病床に臥し剃髪して卒去する。
   6月 貞盛、将門公追補の官符を得て帰国するも将門公の勢威強く沈吟する。
   6月 興世王、新司百済貞連と和せず出奔して下総国に寄宿する。
   6月 常陸国の住人藤原玄明、濫悪を事として長官藤原維幾の制止を聞かず。
      将門公これを庇護し維幾と対立。
   7月5日 京都朝廷、権律師義海に東国の兵乱を平定するための修法をさせる。
   11月21日 将門公、玄明の追補令の撤回を求めて常陸国府に出兵。
      交戦してこれを焼き長官維幾らを捕らえ、印鎰を奪う。
   12月11日 将門公、下野国府を襲って印鎰を奪い長官藤原弘雅らを官堵に追う。
   12月15日 将門公、上野国府を攻略し印鎰を奪い長官藤原弘雅らを追放する。
   12月19日 一巫女、八幡大菩薩の使と称して将門公を皇位に即けんと告げる。
      将門公、新皇と自称する。
   12月26日 藤原純友の士卒、摂津国において藤原子高らをおそう。
   12月29日 将門公謀叛の報が入り、また純友の事件もあって殿上で対策が検討さ
      れる。
   12月 将門公、書を私君忠平に送り心緒を陳べる。
   12月 将門公の弟将平・内堅伊和員経ら、将門公を諌止するもこれを聞かず。
   12月 将門公、除目をおこない東国の国司を任命しついで王城建設の議を発する。
   12月 将門公、武蔵・相模を巡検し印鎰を領掌する。また天位に預るの書状を朝廷
      に送る。
天慶3年 940
   1月3日 七段修法が始められる・同日、宮城の四方の諸門に矢倉を構築する。
   1月6日 東西の兵乱により吾畿七道の諸神に各位一階を授けて祈念する。
   1月7日 東西兵乱を祈申させるため、伊勢神宮に使者を遣わしたが触穢により幣物
      奉らず。21日に改めて幣帛使を派遣する。
   1月 将門公、吉田郡蒜間の江の辺において貞盛・源扶の妻を捕える。
      将門、これを本土に放免する。将門公、軍を解き諸国の兵を帰休させる。
      のこるところの手兵千人にたらず。貞盛、このことを聞き下野押領使藤原秀郷
      と四千余の兵を率い将門を攻めようとする。
   2月1日 将門公、貞盛らの軍勢を防ぐため下野に出兵するが副将藤原玄茂らの軽
      拳により敗北する。秀郷らこれを川口村に追撃する。
      将門公、奮戦するも及ばずして敗退し幸島郡の弘江に遁れる。
   2月13日 貞盛・秀郷ら、兵を倍にして下総の境に進出、将門公の舎宅を焼く。
   2月14日 平将門公、北山に陣して平貞盛の軍と交戦。激戦ののち神鏑に射られ戦
      死する。
   2月 将門公の兄将頼および玄茂ら、相模国において殺害される。
      興世王、上総国において誅殺される。坂上遂高・藤原玄明ら、みな常陸国にお
      いて斬られる。
   4月25日 将門公の御首、藤原秀郷により京都に届けられ東市に梟首。
      その後、将門公の首、所縁の者たちにより神田明神の傍に埋葬される。
   6月 将門公、中有之使により冥界の消息を伝えるとの巷説が流布する。
   6月 『将門記』成立。
天慶4年 941
   6月20日 藤原純友、橘遠保により射殺される。
天徳4年 960
   10月2日将門公の男入京の噂があり検非違使と満仲らが警固。
天禄3年 972
   2月14日将門公の娘・如蔵尼により国王神社(茨城県岩井市)創建。
承徳3年 1099
   1月25日『将門記』真福寺宝生院において書写(真福寺本・大須本)。
建久3年 1192
   7月12日源頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府開府。
徳治2年 1307
   真教上人、将門公の霊を化導し蓮阿弥陀仏の法号を授け板碑を建立する。
   この時、将門公の墳墓の傍らに芝崎道場日輪寺開基。
延慶2年 1309
   真教上人、将門公の御霊を日輪寺の傍らにある神田明神に合祀。 
 
平将門と東京
千年くらい前の事、平安時代の中期、関東武士の平将門は、京都の朝廷(天皇)の圧政に反旗を翻し、関東に独立国家を築こうと戦を仕掛け、京都まで攻め入った。世に言う「平将門の乱」である。
将門は戦術に長けていたが、戦場でも武士としての礼節を重んずる武将であったが、朝廷側にその隙を突かれ、志半ばで弓矢に倒れてしまう。反逆者として首を切られ、京都でさらし首にされた将門の首は、腐る事もなく、胴と離されているのに三ヶ月も呻き続け、その首は自らの意思で江戸に飛んで行き、今の東京の大手町一丁目に落ちたという。そこに誰かが、首だけになって江戸に帰ってきた将門を弔って、小さな首塚を作った。
そこから、首塚信仰が始まり、首塚の隣に将門公を祀った神田明神が出来た。
その後、将門の兜が戻り、江戸の地に兜神社が建ち、次は鎧神社だなんだと、半ば史実があやふやになるが、築土神社、水稲荷神社、鳥越神社などが建ち、神田明神と首塚を含めた7つの社ができた。
江戸時代
時は流れて、関ヶ原の合戦に勝利し、天下統一を果たした三河(愛知県)の武将、徳川家康が江戸に幕府を開いた。当時の江戸は、河が多く、水に恵まれた土地ではあったが、毎年氾濫して辺りは沼だらけの荒れ地だった。そんな土地に幕府を開くなどと、当時、征夷大将軍の位を授かった折に家康は、朝廷に笑われたと言う。
だが家康は、大規模な治水工事などをして、発展する土地に開拓した。そして、江戸の街を霊的な守りで固めるべく、将門の霊力を借りるべく、7つの社を、将門公が信仰していた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に配置した。
家康は、将門公が作ろうとしていた江戸の都をリスペクトして、江戸幕府を開いたのである。そして更に遺言を残し、自らを日本の守護神として駿河国久能山(静岡県)に墓を作り、東照宮の柱として祀らせ、江戸の鬼門の方角に当たる日光に東照宮の本山を作らせ分祀した。江戸には寛永寺と増上寺を作り、神仏一体の守りを固めた。
かくして江戸は物理的な都市計画だけでなく、霊的な防衛機能を備えた都市となり、江戸の街は栄え、日本の歴史上、最も長い平和な時代になったのである。
明治時代
そして、江戸幕府は倒れ、明治維新が起こった。明治政府は江戸を東京に改め、京都の朝廷を東京に移設した。朝廷に反逆した逆賊である将門に、東京を守らせる訳には行かず、霊的な防護を見直す事となった。将門公を朝敵である為、天皇の治世になれば、将門の霊は怨霊となってしまう。そのため、九段坂に東京招魂社をを創設。現在の靖国神社である。
通常、守りの神社は鬼門に向けて鳥居を立てるが、靖国神社は東向きである。本殿から鳥居を結ぶ直線の先には、将門公を祀る神田明神がある。つまり靖国神社は、将門公の怨霊から、皇居を守るために建てられたのである。問題は将門公と戦わせる為のその祀神。最初は幕末維新の犠牲者が合祀され、その後も戦没者などが次々と合祀された。靖国神社の鳥居は神明系だが、神明の神は祀られておらず、国のために戦って死んだ国民が、靖國神社の柱に合祀され、将門公の怨霊に対する盾として使役されているのだ。そして明治政府は靖国神社を中心に、霊園を作り、死者を使った霊的防衛要塞を築いたのである。
明治政府は靖国神社が完成すると、神田明神の将門を祀神の座から降格させ、神田明神内に将門神社を作り、そこに封印してしまった。更に明治政府が将門の結界を弱める計画は、神社だけでなく、更に鉄の結界を用いて、北斗七星をズタズタに分断したのだ。その結界とは、山手線である。
長期の計画で、鉄の輪による結界の分断で、将門の力を弱めようとした。更に中央総武線で、八王子の天皇陵から首塚までを結んで、天皇の霊力を流す鉄の結界を敷き、首塚を北斗七星の結界から独立させた。
緑の線が山手線。赤の中心が靖國神社。
あと一区間で山手線の鉄の輪が完成するという大正12年、ついに将門公の怒りが爆発した。関東大震災である 。死者10万人を超える大災害は将門公の怨念がもたらしたと言われている。この災害により、山手線の工事は、大幅に遅れ、多くの建物が倒壊したが、将門の首塚は残った。
そして、震災復興計画で、首塚を整地して、大蔵省の庁舎を建て直す事が決まり、大正14年に山手線が完成すると、程なく現職の大蔵大臣が体調不良で入院。3ヶ月後には死んでしまった。その後も大蔵省と工事関係者14人が不審な死を遂げた。
これにより大蔵省の建設計画は中止となり、首塚を建て直し、神田明神から宮司を読んで、将門の鎮魂をしたのだが、正15年。大正天皇が47歳の若さで崩御。政府は天皇を将門から守りきれなかった。
戦後、焼け野原になった東京は、GHQにより首塚を整地して、駐車場にしようとしたが、ブルドーザーが横転し、GHQが政府関係者に説明を求めたが、将門やら祟りやら、古墳やら言っても分かって貰えなかったが「古の時代の大酋長の墓だ」と説明し、GHQを納得させた逸話が残っている。また、築土神社は空襲で焼失し、靖国神社の鳥居の目の前に移設され、北斗七星の形は崩されてしまった。
そして、昭和の末期、昭和59年。神田大明神の祀神に将門公を戻した。昭和天皇たっての希望であったと言われている。  
 
将門の名誉回復
左遷された菅原道真は、死後20年を経て右大臣に復されるとともに正二位を追贈され、名誉が回復された。西南戦争で決起した西郷隆盛は朝敵となったが、12年後の大日本帝国憲法発布に伴って正三位を追贈され、汚名が雪がれた。では、逆賊とされた平将門の場合はどうなのだろうか。
常総市蔵持の蔵持公民館近くに「平将門公赦免供養之碑」がある。「蔵持建長銘板碑」として市指定文化財(考古資料)となっている。石材は黒雲母片岩である。
三つの碑が並んでいる。右から「平将門公赦免菩提供養之碑」、「平将門公菩提供養之碑」、「鎮守府将軍平良持公菩提供養之碑」である。赦免とは罪を許すことだし、慰霊が公に行われるのは名誉が回復されたことを意味する。詳しいことを常総市・常総市教育委員会の説明板で読んでみよう。
「この碑は以前、これより東南方、八〇〇メートルの地、西に富士ヶ嶺、東に筑波の霊峰を望む鬼怒川河畔の御子埋台地(平将門公一族墳墓之地)引手山の一廓にあったが、昭和五年河川堤防改修の際、建設省並びに蔵持地区の人々によって大切に移設されたもので、往古はその数四基を数えたが建長六年の建碑が旧縁によって新石下妙見寺から西福寺へと移されたため今は三基が現存しているものである。右端の碑は、鎌倉幕府第五代執権北条時頼公が民生安定の一助として、この国の先霊を慰めんものと志し、若宮戸龍心寺境内に豊田四郎将軍の供養塔を寄進したのに続き、将門公の祭祀なおままならざることを聞き及び、同年自ら執奏勅免を得て下総守護千葉氏第15代胤宗公をして供養なさしめたものと云われ、建長五年十一月四日の建碑がこれである。中央にアン(無我)・サ(観音)・サク(勢至)の梵字を配し、婆婆の災禍を遠離せしめ、清浄涅槃の極楽に往生させるものと云う。中央の碑は、所縁の類講これを欣喜し、結願成就を唱えて正面に大キリク(阿弥陀)を配し建立しに建長六年二月十四日の碑(西福寺在)に続いて大勧進供養を行ったもので建長七年二月十四日の建碑。左端の碑は、建長八年五月二十四日父良持将軍を供養したものと云われ、このほか兄将弘公のものもあったと伝えられている。この碑の前は、古くから乗打禁止とされ、必ず下馬して怪我のないように祈る風習があり荒ぶる神として畏敬されていた。地区の人々はこの碑を別名不動石、阿弥陀石と称して崇め、毎年二月十四日の命日にはキッカブ祭りを行ない白膠木(ぬるで)の木で作った刀、槍その他を供えてその慰霊を慰めて来た。」
これらの碑が元あったという「平将門公一族墳墓之地」については別途紹介する。碑の移設が昭和5年なら河川堤防改修の所管は内務省だったはずだ。西福寺に移された碑については後述する。
右端の碑は、建長5年(1253)に執権北条時頼が朝廷の許しを得て、供養を千葉氏に行わせたものという。ただし、建長5年当時の千葉氏当主は頼胤である。
中央の碑には建長7年(1255)2月14日の日付がある。2月14日はバレンタインデーではなく平将門の命日である。赤木宗徳『新編将門地誌』(筑波書林)に引用されている飯島六石『結城郡郷土史』によると、この碑には、「赦将軍太郎進阿弥陀仏□□守護□□□」と刻まれているという。天慶3年(940)から315年を経て将門は赦免されたのだ。
左端の碑は、建長8年(1256)に鎮守府将軍平良持、すなわち将門の父を供養したものだという。これらの碑の前は乗打(のりうち)禁止、つまり馬や駕籠に乗ったまま通り過ぎることはタブーとされていた。
将門を追悼する「キッカブ祭」について、村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(公孫樹舎)は次のように説明する。
平将門の命日、二月十四日を祭祀日と定めて、白膠木で作った刀剣、槍などを霊前に供える。平将門の戦死は、白膠木の切り株に躓いたため、矢で射られたことに由来するという。
それは気の毒だ。武運つたなく討死したのであって、逆賊ゆえに必然的に討滅されたわけではない。
あともう一つ、建長6年(1254)の碑は西福寺にあるという。さっそく訪れてみよう。
常総市新石下の壽廣山観音院西福寺の門前に「平将門公菩提供養之碑」がある。「西福寺の建長銘板碑」として市指定文化財(考古資料)となっている。石材はやはり黒雲母片岩である。
この碑について、常総市・常総市教育委員会の説明板は、建長五年の勅免について述べた後、次のように言う。
「建長六年将門公の命日は二月十四日に、このことに歓喜した縁者伴類多数の講中が、豊田、小田(四代時知)両氏の助力を得て、建碑供養を行ったものであるという。」
やはり蔵持の板碑と同類だと分かる。豊田氏や小田氏など関東の武者にとって、将門は顕彰すべき先駆者だったのだろう。
ただ、面白いことに、この板碑には次のような後日談がある。出典は『平将門伝説ハンドブック』である。
「縄かけ炎石 御子埋の碑一基は、平将門の崇敬した妙見菩薩を祀る妙見寺に移された。その後、妙見寺が廃され、現在は、西福寺に建てられている。かって、江戸の旗本が縄をかけ、持ち去ろうとした時、炎を吐いたというので、恐れて逃げたという話を伝えている。」
説明板によれば、このオカルトチックな話は天保年間の出来事だという。また、この石に縄をかけると病が治るとも言われているようだ。
以上紹介した4基の碑がもとあった場所がここである。
常総市蔵持に「平親王将門公一族墳墓之地」がある。
この辺りは「みこのめ」と呼ばれ、かつては御子埋、今では神子女と書き表す。地名の由来について、日本の伝説37『茨城の伝説』(角川書店)を読んでみよう。
「天慶三年(九四〇)に将門が北山で戦死すると、その死体をすぐにここへ運んできて、埋葬したといわれている。ここには良持と兄の将弘も埋葬されていたという。御子埋は良持の子という意味だそうだ。」
なるほど、やはりここは平将門公と父と兄の埋葬地、「一族墳墓之地」だったというわけか。この地の説明板(常総市・常総市観光協会設置)で、もう一度おさらいしておこう。
「この地及び西方一帯の丘りょう引手山と云い、台地全体を俗称して御子埋と云う。この地点には古くから雲母片岩質の巨石板碑群があり、碑は「馬降り石」と呼ばれ前を通るときは必ず下馬して怪我のないように祈る風習があった。又、御子埋に接する引手山の一廓は乗打すると落馬すると恐れられ、手綱を引いて通り過ぎなければならないと畏敬されていた。この地はそもそも平将門公の父従四位下鎮守府将軍平良持公並びに兄将軍太郎将弘公等の墳墓の地であったが、天慶三年二月十四日将門公石井の地に戦死するに及び豊田の郎党主君の遺骸を葦毛の馬に乗せて秘かに遁れ来たり、泣く泣く兄父の墓側に葬り悲しかりし当時の有様を語り伝えたのが、謎の御子埋物語であるという。貞盛、公連等の豊田に対する掃討は残虐を極め、その供養も思うにまかせぬこと三百十余年。時に鎌倉幕府五代執権北条時頼公ありてこの事を聞かれ給い祖志を同じくする身の不遇を憐れみ、自ら執奏して勅免を受け、下総守護職千葉氏第十五代胤宗公に命じて一大法要を営ません、建長五年十一月四日の建碑これなりと伝う。これより連年将門公所縁の類講らによる建碑供養の大勧進が行われ、良持、将弘両公の菩提に及ぶ、蔵持部落では、この勅免供養の碑を不動石或いは古不動様と呼び慣わし、例年二月十四日将門公の命日を祭祀日と定め「キッカブまつり」を行って一族の遺霊を慰めて来た。今に現存する古碑は四基で、一基は新石下の寿広山観音院西福寺に、三基は蔵持の阿弥陀、観音両堂の傍らに安置されている。」
将門の名誉回復は、三百年の時を経て建長年間に執権北条時頼によって行われた。めでたしめでたしと終ればよいのだが、そうでもない。吉川英治の傑作『平の将門』の終わりに次のような注目すべき記述がある。
「江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。」
朝廷の許しが得られたのが寛永3年(1626)である。とすれば686年ぶりに冤罪が解かれたのか。しかし、話はこれで終わらない。明治7年に教部省の指示により、逆賊将門は神田明神の祭神から外されることとなった。
現在はだいこく様、えびす様と並んで将門が主祭神として祀られている。ただし、これは昭和59年(1984)のことである。とすれば1044年ぶりに名誉が回復されたということだ。
なにせ、逆賊の中でも「新皇」と皇位を僭称した者は将門だけである。それだけ罪が重いということか。いやいや、将門公を英雄視する関東の武士団や江戸っ子たちにとっては、勅免など関係なかった。新しき世を創ろうとしただけであって、悪事など何もしでかしていないのだから。  
 
■平将門死す  

 

猛将・平将門を射抜いた神鏑(しんてき) 
一時、絶大な武力を誇った「平将門」は、いずくからともなく飛んできた「一本の矢」に倒れた。その矢が乗ってきた風こそが、春の風だと言うのだが…。
将門のコメカミを射ぬいたという矢は、「将門記」によれば「神鏑(しんてき)」と表現されている。将門は「目に見えない神鏑」に当たり、「地に滅んだ」とされ、それは「天罰」だとも書かれている。
天が起こした一陣の風、それは春の訪れを告げるという「春一番」ではなかったのか、ということだ。その風が吹くや、「馬は風飛のような歩みを忘れ、人は李老のような戦術を失ってしまった」のである。
「将門記」による「将門の最期」の場面では、丁寧に「風」の状態が記されている。
戦いの序盤においては、将門が「風上(順風)」にあり、敵方である藤原秀郷・平貞盛は「風下(咲下)」にあった。轟々と吹き荒れる強風は、両軍の「盾」を軽々と吹き飛ばしてしまったため、両軍ともに「盾を捨てて合戦した」ほどである。木々の枝は風に鳴り、地鳴りとともに砂埃が舞い上がる。
対峙したばかりの両軍には、明らかな戦力差があった。将門400に対して、秀郷・貞盛はおよそ3,000(将門の7倍以上)。将門の軍勢は先の合戦において大敗し、将門はその敗走の途上にあったのである。
それでも将門の軍勢の精強さは比類ない。「賊軍(将門)は雲の上の雷のようであり、官軍は厠(便所)の底の虫のようだ」。加えて、強烈な追い風(順風)が将門に味方したのである。官軍は瞬く間にその数を減らし、3,000もいたはずの兵が、いつの間にやら300にまで激減してしまっていた。
自らの強さに酔う将門。まさか、この後の惨事を知りようもない。
その時である。悠々と本陣へ帰還しようとしていた将門の背後から、とんでもない突風が吹きつけたのは。今までの風が急反転。風上は風下に変わり、そして、その風が一本の矢(神鏑)を乗せてきた。将門には「六人の影武者」がいるとされ、将門本人を特定するのは至難の業とされていた。ところが、その神鏑は「白い息」を吐くという本物の将門を知っていた(影武者は藁人形と言われており、吐く息は白くならない)。
それでも、将門の全身は「鉄」のように固く、矢も刀も受け付けないはずだった。しかし、なぜか「コメカミ」だけは「生身」であった。神鏑は、将門唯一の生身の部分であるコメカミを正解すぎるほどに射抜くことになる。
まさかの討ち死。以後、首を刎ねられ、都に晒し首とされた将門は、切り離された胴体を求めて怨霊と化すことになる。※その祟り(たたり)を鎮めるために、「胴体」は神田明神(「かんだ」は身体に通ず)に、「首」は将門塚(首塚)や御首神社などに祀られている。その周辺で奇怪な死が起こるたびに、「将門のタタリ」は現代でも取り沙汰される。
春の嵐は予断がならない。平将門ほどの歴戦の猛者とて、そうであった。春一番が様々な悪事を引き起こすのは、将門のタタリの一つなのでもあろうか。
平将門を襲った風は、急にその方向を真逆に変えたのだというが…。風向きというのは、一日の合戦の最中にそれほど大きく変わるものなのであろうか。
気象予報士によれば、それは十分にあり得ることなのだという。寒気と暖気の境をコロコロと転がりながら右(東)へ移動する低気圧は、南(下)からの風を日本列島にもたらすものの、その前線が過ぎてしまえば、今度は真逆の北(上)から寒風が吹き降ろす。いわゆる、春一番のあとの「寒の戻り」を誘う風である。前線の移動スピードが早ければ、風が逆転することに1時間もかからないのだそうだ。
将門最期の戦は、そんな気まぐれな春の風に翻弄されたことになる。その序盤では「春一番」に助けられ、そして終盤、「寒の戻り」によって逆転させられてしまったのである。
暦をめくれば、今は立春(2月4日)と春分(3月20日)の間にあり、まさに春一番の吹く季節。春夏秋冬、4つに分けられる季節は、「二至(冬至・夏至)」と「二分(春分・秋分)」を各季節の「中心」と定め、その各季節の境として「四立(立春・立夏・立秋・立冬」を設けてある。すなわち、立春と春分に挟まれた今(3月6日)は、寒さのピーク(立春)を過ぎ、春がそのピーク(春分)に向かわんとしている時なのである。
中国の五行思想によれば、この季節は「風」と関連が深く、人間の「怒」を乱すとも言われている。「努」を起こすのは「自律神経(交感神経・副交感神経)」の乱れとされ、その自律神経を司るのは「肝臓」である。春のもたらす春一番が「風邪(ふうじゃ)」を暴れさせ、それが人の感情を揺さぶり、肝臓をも弱らせるとのことだ。
春の風は、大地を吹き抜けるばかりでなく、人の感情をも逆撫でにするということか。それは、冬のもつ「陰の力」と春のもたらす「陽の力」がせめぎ合うためでもあると説明される。※そのせめぎ合いは、シベリアの寒気と南太平洋の暖気の如し。
春の陽は暖かさを導く一方で、「乾燥」をも招く。陰の気が「鎮静」と「潤い」を人に与えるのに対して、陽の気は「興奮」と「乾燥」をもたらす。このバランスが崩れた時に、「風邪(ふうじゃ)」は暴れ、人はそれに翻弄される。
今は陰の気が尽きようとする季節。風邪(ふうじゃ)に害されぬためには、残り少なくなった「陰の気」を大切にすることが肝要である。「秋冬養陰」とも言われるように、この寒い季節に「陰の気」を養うことで、「衛気(えき)」と呼ばれる身体を守るバリアが強められ、風邪(ふうじゃ)を寄せ付けなくさせるのだという。
春という希望の到来は、まことに好ましい。しかし、その希望のもたらす「負の側面」もあることにも目を向けるべきである。急激な変化は、過剰な風(春一番)を巻き起こし、そして、再び寒気をも招き込む(寒の戻り)。一方、寒さという好ましからざる事態にも、「正の側面」があることも認識すべきである。人間にはこの時期にしか養えない「気(衛気)」もあるのである。
我々の時代は今、季節が変わるように、変化を迎えようとしているのかもしれない。 
 
平将門死す   茨城県坂東市
平将門―清盛・頼朝に先駆けた関東の英雄―
平将門は平安時代中期の武将。一族の領地争いから国府焼き討ちに発展、やがて関東を席巻して新皇(しんのう)を名乗り、京の朝廷をまねて文武百官を任命、王城建設を議すに至ります。しかし従兄弟である平貞盛(生没年不詳)と藤原秀郷(生没年不詳) の連合軍と幸嶋郡北山(さしまぐんきたやま・現茨城県坂東市付近)の合戦 に敗れ、天慶3年(940)2月14日志半ばに戦死します。
将門の祖父、高望王(たかもちおう、生没年不詳)は、桓武天皇の曾孫にあたり、臣籍に降下して平(たいら)の姓を賜ります。寛平元年(889)のことで、後に平清盛(1118〜81)らが活躍する桓武平氏がここに誕生します。当時は藤原氏が朝廷の高位高官を独占し、皇族といえども官職に就くことは容易ではありませんでした。高望は、いまだ未開の土地が広がっていた東国に平氏一門の未来を賭け、上総国の太守(たいしゅ)となって任国に下ったのです。かれの子供たち、国香(くにか、?〜935)や良兼(よしかね、?〜939) )も常陸国・下総国の要職に就き土着していきました。
将門の父、良将(生没年不詳:良持ともある)は鎮守府将軍に任じられるほど、武勇に優れた武将でしたが、子供たちが一人前になる前に早世してしまいます。この良将の遺領をめぐる一族の争いが「平将門の乱」の発端になったといわれています。
乱の経緯や背景は、事件後あまり時をおかずに書かれたといわれる『将門記(しょうもんき)』で知ることが出来ます。また、『九条殿記(くじょうどのき)』や『扶桑略記(ふそうりゃくき)』といった朝廷側の記録にも記述が見られ、ほぼ同時期の天慶2年(939)に西国で起きた「藤原純友の乱」とともに、京の都を震撼させた大きな事件であったことが読み取れます。
貴族たちが、華やかな王朝文化を謳歌していた頃、 武士や農民を従えて坂東8カ国の独立を目指して戦った男、平将門。その想いは坂東武者に受け継がれ、250年の時を経て、源頼朝(1147〜99)による鎌倉幕府の成立となって結実するのです。
将門伝説と相馬氏
朝廷や公家から見ると大悪人の代名詞のような平将門ですが、武士たちにとっては武家社会への扉に手をかけた先駆者であり、崇拝すべき対象でした。特に将門の正当な後継者として名乗りを上げたのが、平氏の流れを汲む千葉氏とその支族である相馬氏です。
中世の柏市を含む旧相馬郡(現在の千葉県北部から茨城県南部)を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承はよく知られていますが、そのもとになったのは将門が相馬郡に都を建設したという伝承です。
『将門記』には、「将門が下総国の亭南(ていなん・比定地については諸説あり)に王城を建設した」とする記述があります。その後に編さんされた『保元物語(ほうげんものがたり)』・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』・『太平記(たいへいき)』などでは「将門が下総国相馬郡に都を建設し、自ら平親王(へいしんのう)と名のった」と記述され、「下総国の亭南」がいつのまにか「下総国相馬郡」に変わっています。 このような相馬郡と将門との関係は、相馬郡を支配した相馬氏と将門との関係に発展していきます。
相馬氏の初代相馬師常(もろつね・1143〜1205) は千葉常胤(ちばつねたね 1118〜1201) の二男です。この相馬家の本家である千葉氏と将門との結びつきでは、『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』のなかで千葉氏の先祖である平良文(たいらのよしぶみ)が、甥である将門の養子になったと記述されているのです。その後、千葉氏の一族として相馬御厨(そうまのみくりや・前述の相馬郡とほぼ同じ範囲と推定)を支配した相馬氏が誕生し、将門の子孫としての相馬氏という位置づけが完成します。
その一方で、将門の直系の子孫が相馬氏であるという伝承も存在しました。将門の死後、その子孫は逃れて常陸国信太郡(しだぐん・茨城県土浦市周辺)に移り信太氏を名のりますが、その後、相馬郡にもどって相馬氏を名のります。ところが、数代か後の相馬師国(もろくに)に後継ぎが無かったため、千葉常胤の二男師常を養子に迎えたというものです。この内容は、中世に生まれた「幸若舞(こうわかまい)」の一つで、将門の孫である文国と姉千手姫(せんじゅひめ)の貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)である『信太』にもみられます。中世、下総国相馬郡を支配した相馬氏は、鎌倉時代末期、その一部が陸奥国行方郡(なめかたぐん・福島県南相馬市)に移住し、下総相馬氏と奥州相馬氏に分かれます。将門の子孫が相馬氏であるという伝承は、江戸時代の少し前には下総相馬氏に存在していたようです。 元和8年(1622)の「御家伝書」には、将門が関東地方を占領して相馬郡に都を建てたこと、将門が戦死した後、その子孫が相馬師常を養子に迎えたことなどが記載されていました。
こうして成立した伝承が下総相馬氏に取り込まれ、将門の子孫と称するばかりか、福島県南相馬市や相馬市で行われる相馬野馬追いもまた将門以来の行事と位置づけられていくのです。
ふるさと・かしわの将門伝承
柏市域は古代から大部分が相馬郡に属し、中世には相馬氏が支配した地でもありますので、旧沼南町の布瀬(ふぜ)・岩井・藤ヶ谷・大井のほか、布施(ふせ)・花野井・松ヶ崎など市内各所に将門伝説が数多く残っています。各地に残る伝説を紹介してみましょう。
布瀬
高野館(こうややかた)  俗称、高野御殿と呼ばれ、地元では将門の館跡と伝えられてきました。この遺構は室町時代に築かれた柏市域でも最大級の城郭と推定されています。
親王将門宮  布瀬地区の江口家は農業や医業に携った旧家で、将門明神を氏神としています。明和元年(1764)、結縁寺(現印西市)の弘慶(こうけい)和尚によって勧請(かんじょう)されました。
岩井
将門神社  将門を祭神とする神社。流れ造りの小型の宮殿ですが、全体に彫りの深い彫刻で飾られ、「放れ駒」など将門ゆかりの図柄も見られます。社殿の中には7枚の棟札が納められており、正徳4年(1714)に拝殿が建設されるなど、この頃から急速に社域が整備されていったことが記録されています。
地蔵尊縁起  将門神社に隣接する龍光院には、将門の娘如蔵尼(にょぞうに)が父の菩提を弔ったという地蔵菩薩が祀られています。その縁起については安永3年(1774)に彫られた版木によって知ることができます。また、岩井村では将門信仰が残るだけでなく、将門を裏切った愛妾桔梗御前(ききょうごぜん)を疎んで桔梗を植えず、また将門の調伏(ちょうぶく)を祈った成田山には詣でないという風習もあります。
藤ヶ谷
不動明王と将門の供養塔  現在、柏市内で相馬姓が一番多いのはこの藤ヶ谷地区です。他の地区にも見られるように成田山の不動尊には参拝せず、自分たちの不動明王を信仰してきました。毎年、13軒ほどで将門の命日とされる2月14日と初不動に近い日を選び、相馬氏ゆかりの持法院で供養会をおこなっています。近年、境内に供養塔も造立されました。
大井
車の前五輪塔(くるまのまえごりんとう)  大井地区には「車の前五輪塔」と呼ばれる、柏市周辺では最大の五輪塔が造立されています。伝承では平将門が戦死したのち、愛妾の「車の前」がこの地に隠れ、尼となって妙見堂を建てて将門の菩提を弔ったとされます。お堂はすでに古くから失われていますが、井堀地(いぼろち)の人びとは将門の縁日とされる2月21日には、「妙見講」のお篭りを行ってきました。五輪塔の全高は160cm、年記などはみられませんが、将門を祖と仰ぐ下総相馬氏一族の墓塔として、南北朝から室町初期ごろに造立されたのではないかと考えられます。
鏡の井戸  福満寺の境内には、「車の前」が顔を映したという「鏡の井戸」も現存しています。
坂巻若狭守(さかまきわかさのかみ)  福満寺の聖観音像は将門の重臣、坂巻若狭守の守本尊とされ、近くの塚は「若狭塚」と呼ばれています。
布施
弁天絵馬と紅龍伝説  東海寺の伝承によれば、将門は布施弁天の岩窟に住む紅龍と良将との間に生まれたとされ、宝永5年(1708)3月に秀調(しゅうちょう)和尚によって書かれた『大弁財天由来記』にも将門関係の記事が詳しく記述されています。布施村から「七里の渡し」を隔てた守谷(茨城県守谷市)は相馬氏の一族 が本拠とした場所であり、これに関連するものかもしれません。この絵馬は将門が弁天様に戦勝を祈願しているところです。武将は着物の図柄から後北条氏とする説もありますが、東海寺では将門と伝えられています。
花野井
将門の甲冑  幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、河鍋暁斎(かわなべぎょうさい、1831〜89)は、花野井の古寺を訪れ、寺宝として伝わっていた将門の甲冑を描いています。暁斎の優れた写生力を示すものですが、現在、現物は確認されていません。
松ヶ崎
松ヶ崎不動尊の将門合戦絵馬  松ヶ崎城跡の台地南側の中段に、かつて不動明王を祀るお堂が建っていました。この付近は葛飾・相馬・印旛の郡境が接しており、「三郡境の不動様」として人々の信仰を集め、堂内には数多くの絵馬が奉納されていました。この「将門合戦絵馬」もその内の一枚で、右手の槍を突いている武者が、将門を討ち取ったとされる藤原秀郷(「下がり藤」は秀郷の家紋)です。残念ながらこの不動堂は、近年火災によって焼失し、絵馬も失われてしまいました。
相馬郡大井郷と大井津
将門の事件を描いた『将門記』には、将門が「下総国の亭南(ていなん)」に「王城」を建設したこと、大井津を京の大津になぞらえられたことが記載されていますが、この大井津は市内の大井ではないか、と考えられています。
将門の乱が起こった平安時代の中ごろに編さんされた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によれば、このころ相馬郡には、大井・相馬・布佐・小溝・意部(おふ)・余戸(あまりべ)の六郷があり、柏市の大井地区はこの中の大井郷のあった場所とされています。
地区内の大井東山遺跡からは多くの住居址や寺跡が確認され、特異な遺物としては奈良三彩釉陶器(ならさんさいゆうとうき)の小壷も出土しています。三彩陶器は、奈良平城京や国府などの役所跡や寺院跡から発見されることが多く、庶民の生活用具ではありません。
奈良正倉院の宝物からも、大井郷の名を確認することができます。「天平17年(745)に相馬郡大井郷の矢作部麻呂が麻布一反を納めた」と布袋に墨書きがあり、この頃の大井郷には矢作部(やはぎべ)を姓とする人々が住んでいました。
手賀沼南岸には幾筋もの谷津が複雑に入りこみ、中世以前から村や水田が発達していたと考えられますが、中でも大津川は最大級の谷津であり、これに臨む大井は交通の要衝として、重要な役割を果たしていたと考えらてれます。
ちなみに大津川という名称は近代に付けられたと考えられ、「大津ケ丘団地」もこの将門伝承によって名付けられました。
将門伝説の広がりー三大怨霊のひとりとしてー
平将門に関する伝説は、関東地方を中心に全国で1500以上に及ぶといわれています。「庶民の味方」・「朝廷への反逆者」そして「恐るべき怨霊」。時代によって様々な評価を受けながら、将門伝説は伝えられてきました。そのうちのいくつかを紹介します。
神田明神
江戸時代、神田明神(東京都千代田区)は庶民に人気のあった平将門を祭る神社、江戸の惣鎮守として大いに栄えました。ところが明治時代になると、天皇に弓を引いた逆賊を祭る神社として新政府から敵視され、祭神から除くように圧力を受けたりもしました。しかし、氏子たちの努力により受難の時期を乗り越えた神田明神は、祭礼の多くの人々が集まる名社として今日に至っています。
将門塚
菅原道真(すがわらのみちざね・845〜903)や崇徳上皇(すとくじょうこう・1119〜64)とともに、将門が祟り神として恐れ敬われるようになったのは、この将門塚(首塚・東京都千代田区) )に大きく由来します。大正から戦後にかけてここを整地して建物を建てようとしたところ、不審な事故によって死者が続出し、将門の祟りではないかと騒がれたのです。大手町のビルに挟まれた将門塚には、今でもお線香やお花を手向ける人が絶えません。
国王神社
茨城県坂東市の国王神社は、平将門最期の地とされる「石井の営所」の近くに鎮座し、平将門を祭神とする神社です。将門の娘如蔵尼が、この地に庵を建てたのが始まりとされ、父の供養のために刻んだ「平将門像」(茨城県指定文化財)を御神体としています。
山川不動
茨城県結城市にある大栄寺は「山川のお不動さん」として近郷近在の人々から信仰を集めてきました。この不動明王像には、将門が京都から持ち帰り、守り本尊にしたという伝承が残っており、毎月28日の縁日には大勢の参拝者で賑わいます。

平清盛の太政大臣就任(仁安2年・1167)や、源頼朝の征夷大将軍就任(建久3年・1192)より、200年以上も前に登場した平将門。彼の戦いは古代律令国家を解体し、封建国家を目指すにはあまりにも未熟なものでしたが、来るべき武家政権の誕生を予見させ、中世へと歴史が動く第一歩となるものでした。そして、今なお語り継がれる伝説や信仰は、重い年貢に苦しめられてきた農民たちが、「権力者へ反旗を掲げた庶民の味方」という将門像つくり上げ、千年以上にわたって持ち続けてきたことを示しているのです。  

■将門記 

 

将門記(しょうもんき)
    平安鎌倉の物語3・将門記
平将門の乱とは
平安時代中期、日本から「独立」を果たそうとした男がいました。平将門です。将門の地盤である東国では、民衆が朝廷から派遣される国司の暴政に苦しんでいました。地方の豪族をまとめ武装した将門は、各地の国司を次々と追放、ついに朝廷に対して、歴史上例をみない方法で東国独立政権樹立を宣言します。天皇に対抗し、自らが「新皇」に即位したのです。武力だけでなく、将門は象徴権力として、八幡大菩薩を主神にして天皇霊に対抗。さらに、当時朝廷が「祟り」として最も恐れていました「菅原道真の怨霊」を即位の儀式に召還し、朝廷を牽制します。東国の民衆も新しい王としての将門が、天皇に匹敵する権威を持つことに結束を高めていきます。単なる反乱を超えた将門の、新国家樹立による挑戦に朝廷は追いつめられます。朝廷は、全国の寺社に将門調伏の祈祷を命令。さらに前代未聞の秘策をだし、将門政権をつぶそうと、なりふり構わない攻勢をしかけます。この平将門の反乱こそ、律令体制を揺るがし、貴族社会から武家社会へ移行する大きな歴史的転換点となりました。
真福寺本『将門記』のこと
『将門記』は「将門の乱」の詳細を知るためのほぼ唯一の史料です。乱の経緯や情景など詳しく描写されていますが、故事や比喩を多用する「軍記文学・軍記物」のさきがけとしても位置づけられています。もちろん「将門の乱」以後に書かれたようですが、成立年代には諸説があります。また、作者は不明です。現存する写本は数点ありますが、真福寺本(大須観音宝生院蔵・重要文化財)は最も古い写本の一つで、承徳3年(1099)書写の奥書があります。なお、常設展示はされておらず、実物の閲覧は難しいようです。
真福寺本『将門記』を所有する「大須観音宝生院」
正式名を北野山真福寺宝生院といい、南北朝時代に今の岐阜県羽島市に創建されましたが、慶長17年(1612)に現在の場所(名古屋市中区大須2−21−47)に移転しました。地元の人たちからは「大須の観音さん」として親しまれています。日本最古の古事記写本(国宝)や将門記(重要文化財)をはじめ、和漢の古文書約15,000点を収蔵する真福寺文庫(大須文庫)もあります。
『真福寺本楊守敬本将門記新解』 村上春樹著
平将門の一代記「将門記」の真福寺本及び楊守敬本を底本とした注釈書。訓読文、注解、口語訳、解説から構成。各地に伝わる将門伝説の源を知る上でも地域の歴史を知る上でも貴重な一冊です。
真福寺本「将門記」に記された人物評など
○ 将門の人柄を評した言葉
「侘人(わびびと)を済(たすけ)て気を述(の)ぶ。たよりなきものを顧みて力を託(つ) く。」
○常陸国を占領したあと将門が腹心に語った言葉(意訳)
「今すぐ東国諸国の国の印と倉の鍵をすべて奪い、 国司を都に追い返そう。そして東国を我らの手で治め、民を味方につけるのだ。」
○将門の軍勢の勢いを表す言葉(意訳)
「それぞれ竜のような駿馬にまたがり、雲霞のごときおびただしい従兵を従え、万里の山をおもこえ、十万の軍にも打ち勝とうという勢いであった。」
○朱雀天皇が将門の反乱に対し祈った言葉(意訳)
「今、平将門なる者が兵を挙げ、悪行をほしいままにし、国主の位を奪おうと企んでいます。どうかこの難儀をお払い下さい。」
○朝廷側が将門の反乱に対し加持祈祷で対応した時の様子を示した言葉(意訳)
「山々の阿闍梨(あじゃり)は、悪魔を祓い邪悪を滅ぼす法を修め、諸社の神官達は、悪鬼(あっき)を直ちに滅ぼすための式神を祭った。」
○将門が朝廷に向けて出した書状の内容(意訳)
「昔から武芸に優れた者が天下を征する例は、多くの歴史書に見られるところであります。日本の半分を領有する天運がないとはいえますまい。」
○平貞盛が兵を集めた時の様子を示す言葉(意訳)
「群衆を甘言でもってさそい、その配下の兵は倍になった。」
○将門の最期を描いた言葉(意訳)
「馬が、風の様に飛ぶ歩みを忘れた時、新皇に、神の射放った鏑矢(かぶらや)が突き刺さった。この時、新皇は、一人惨めに滅び去ったのである。」
○将門の悲劇を評した言葉(意訳)
「その悲しみは、開かんとするめでたき花がその直前に萎(しお)るるがごとく、今にも光り輝かんする月が思いがけず雲間に隠るるが如し」  原文は、以下の通りです。
「哀哉新皇敗徳之悲滅身之歎譬 若欲開之嘉禾早萎将耀之桂月兼隠」  
 
将門伝説  
平将門の乱の歴史性  
「更級日記」にのみ登場した武芝伝説は、武蔵武芝が生きた同時代の平将門伝説という大きな物語のひとつでもある。大きな物語の中の小さな物語である。もし、菅原孝標女がたけしば寺跡で小さな物語を聞いたのなら、平将門の乱の記憶と共に、それは足立郡のなかに伝承されたものであっただろう。平将門の乱についてはたくさんの先行研究や歴史小説が描かれている。大きな物語にはたくさんの人々が注目する。ここでは武蔵武芝との関連の中で、平将門について論を組み立てた。そのひとつは水の道との関連である。  
将門の支配した下総国豊田郡・猿島郡一体は鬼怒川(もともとは毛の川であったろう。下野国、つまり毛の国から流れてきた川)や渡良瀬川に挟まれた低湿地であり、開発の遅れた地域であった。飯沼、菅生沼、鵠戸沼などたくさんの湖沼が乱流地帯であることを物語っている。広大であっても、そこは生産力の弱い地域であったろう。ここが父良持、あるいは母方から受け継いだ領地であった。「将門の所領は藤原氏に寄進されていたと見なすことが出来る。つまり豊田郡、猿島郡に開いた私営田を摂関家に寄進して,国衙支配から逃れようとしたのである。」(「将門記」1965年展望大岡昇平)ここから藤原忠平との関係が生まれていたと思われる。「将門記」では私の君と藤原忠平を呼んでいる。開発の遅れた地域であったからこそ、舎宅を営み、私営田の開発に意欲的であったろう。  
父良持は鎮守府将軍であり、桓武平氏という軍事貴族の一員であった。良持は将門を初め子どもたちに将のつく名前をつけている。これは自分が将軍であったことによる、という見解もある。この良持は、関東北部にたくさんの同族を持っている。国香、良兼、良正、良文などが土着して勢力を競っていた。この兄弟の父・高望王が889年寛平1頃に上総介となって下向したことから桓武平氏の歴史が始まる。父の死後、都から帰った平将門はこの血族間の争いに明け暮れることとなった。一族間の争いから隣国武蔵国内の争いに介入した武蔵武芝の事件は、将門が次の段階に入ったことを示す。この動きは新たな東国独立王国の自立への道につながっていた。このようなストーリーで平将門の乱の説明が始まるのは一般的である。  
なぜ、武蔵国への介入を平将門が行ったのか。突然の行動とも思われるが、ここは水運、陸運の要地であり、関東全体を抑えるには必須の地域であった。そして、平将門が支配する猿島郡・豊田郡に隣接したのが武蔵国足立郡である。東国独立王国をこの時点では、意図していたのではないとおもわれるが、それでも新たな布石を打つつもりはあったであろう。新たな布石は、当たり過ぎた。東国支配の要に立ち入ってしまったというだけではなく、源経基という人間の飛躍を用意してしまった。この点はまた後述するとして、坂東を一括で見る広域行政の要であることを強調したい。すでに、東海道への武蔵国編入について次のような目的を持って行われたという見解が出されている。この物資等の補給をもって平将門の父・良持も鎮守府将軍として水沢の地に赴いたのであった。佐々木虔一はいう。「『坂東諸国』を一つの広域行政区として再編制するために、注目されたのが武蔵国である。武蔵国は『坂東諸国』のほぼ中央に位置し、この地域の交通上の要地に当たること、また、国内を南北に多摩川・入間川(荒川)・利根川などの大河川が流れ、海に注ぐなど、水上・海上交通の便もよいことなどがその特色である。武蔵国のこの特色を生かして、『坂東諸国』を一つの広域行政区に編成するために行った措置が、771年の武蔵国の東山道から東海道への編入だったのである。」 
将門の支配地が、生産力の弱い地帯であると先に述べたが、富を生むのは農業生産だけではない。乱流による地形形成は自然堤防や舌状地を作る。ここは馬を飼うのに適した地形である。兵部省の官牧「大結馬牧」が置かれていた。馬の生産は強大な軍事力を形成する。また、この地形は一方からの風の通りを作り、製鉄に必要な炉の風送りを可能にする。小規模の製鉄炉が東国各地に広がる。将門の支配地入沼排水路に沿った尾崎で製鉄遺跡が発見されている。このような視点はつぎつぎに出されてきている。  
ここで新たな視点として紹介したいのは水運との関係である。承平・天慶の乱と西の藤原純友の乱と一括されるため、水軍(海賊)を基盤とする藤原純友と対比されて騎馬軍団が注目されてきた。だが、官道を押さえるのみならず、水の道を押さえることも重要なことである。大規模なもの、重いものは水運が必須である。米の運送も水運を主としたものと考える。「寛平6年(894)7月16日の太政官符では、上総・越後等の国解によると、『調物の進上は、駄を以って本となす、官米の運漕は、船を以って宗となす』とあり、上総国からも、官米の輸送が船を利用して行われていた可能性が窺えるのである。」(「古代東国社会と交通」)水運の使えるところは「船を以って宗となす」は合理的である。  
注目する論文を鈴木哲雄が発表している。  
葛飾区郷土と天文の博物館が開催している「地域史研究講座」シリーズの講座報告である。行われたのは1995年平成7年1月29日。その中で、鈴木哲雄の発表した特論「古代葛飾郡と荘園の形成」がすばらしい。関東には内海が二つあったのだという。ひとつは利根川=内海(古東京湾)、もうひとつは鬼怒川=内海(香取海)である。以下はその抜粋である。  
「古代から中世にかけての関東には、二つの内海がありました。ひとつは先にお話しした利根川=内海(古東京湾)地域の内海です。もう一つが千葉県の北部から茨城県にかけてかつて広がっていた内海です。現在は千葉県側に印旛沼や手賀沼が、茨城県側に霞ヶ浦や北浦がありますが、これらの湖は連なって大きな内海を構成していたと推定されています。私は後者の内海世界を鬼怒川=内海(香取海)地域と呼んでいます。平将門の乱はこの内海(香取海)世界で展開されました。」「しかし『将門記』には、舟も出てきますし、川の支配や渡しなどをめぐる争いもでてきます。将門の乱は、坂東の海のひとつである内海(香取海)世界で行ったのですから、鬼怒川などの河川や内海における船、水上交通、そういったものをめぐる戦いであったと見ることもできるのです。将門は内海(香取海)を征服したのち、下野国(栃木県)の国府(国の役所)を占拠します。下野国府の西の方は太日川(オオイガワ、フトイガワ)が流れていました。太日川は、現在の渡良瀬川から江戸川にかけてを流路とした河川で、その西側を利根川が流れています。下野国府の位置は、ちょうど鬼怒川=内海(香取海)と利根川=内海(古東京湾)地域との接点にあたるわけです。将門は、鬼怒川=内海(香取海)地域を征服したあと、東山道に属する下野・上野両国を占拠し、そして新皇(新天皇)を名乗りました。さらに利根川=内海(古東京湾)地域に軍隊を進め、武蔵国府から相模国府までをいっきに征服し、関東全域の支配圏を確保します。」  
この鬼怒川=内海(香取海)のひとつの拠点として霞ヶ浦の奥に常陸国府があった。現在の石岡市である。939天慶2年、11月21日、常陸国府の軍勢を破り、将門は常陸国府を焼き払った。これにより、国賊となった将門は関東八カ国の支配を目論んで各国府を落としていく。こうして12月19日には上野国府において「新皇」に即位する。  
「将門が内海世界の一番奥まった場所に都=王城を設置したことは確かだと思います。将門の都は内海に面した都であり京都と対比されています。」  
「『将門記』では、鬼怒川や小貝川の渡しである子飼の渡し、堀越の渡しなどがでてきまして、これらの渡しは、将門の乱での重要な戦場となっています。将門の乱の前半は、こうした鬼怒川=内海(香取海)地域の交通支配をめぐって戦乱がおこなわれたとみることもできるのです。地域の交通を支配する者が、地域自体を支配します。」  
「このとき将門は、関東を東西に結ぶ東山道、東海道などの陸の官道と、利根川・太日川・鬼怒川・那珂川などの関東を南北に結ぶ水の道と、そして東西南北の水陸交通を地域的に一本化させえる二つの内海(古東京湾・香取海)の交通を掌握したと考えられるのです。」(「古代末期の葛飾郡」熊野正也編1997年5月崙書房)  
新しい将門の世界が、新しい視点での東国の地図が、ここにはある。二つの海から平将門の乱をアプローチしたことによって、水と陸とを同じ視点で見ることができるようになった。関東を一つに押えるための新たな発想である。古代人から見た地域の再発見により、交易・軍事を考える場合の多様な発想が可能となった。私営田、そして荘園化という重要な要素とともに、物流が大きな富を生み出し、文化を広げる。古代の2つの海を制して、東国独立国家の樹立に走った平将門を捉えることができる。  
将門と道真  
平将門は上野国府を手中に収めた。都に最も近い国府である。ここで東国独立国家の樹立が宣言された。そのきっかけまことに不思議な事柄に触発されている。「将門記」にはこのような記述がある。「時ニ昌伎アリ、云ヘラク、八幡大菩薩ノ使ヒゾトクチバシル、『朕ガ位ヲ蔭子平将門ニ授ケ奉ル。其ノ位記ハ左大臣二位菅原朝臣ノ霊魂表スラク、右八幡大菩薩八萬ノ軍ヲ起シ朕ガ位ヲ授ケ奉ラム。今須ラク卅ニ相ノ音楽ヲ持テ早ク之ヲ迎ヘ奉ズルベシ』ト」神がかりした昌伎を介して、将門を新皇とせよとのお告げが八幡大菩薩によって告げられたのである。八幡神は豊後宇佐にある宇佐八幡である。お告げをする神として有名である。道鏡と和気清麻呂の話は知られている通りである。位記を書くのは都に降りた怨霊の菅原道真である。位記とは叙位の文書である。だが、位を授けるのは天皇なので、天皇の位には叙位はない。「爰ニ将門ハ項ヲ捧ゲテ再拝ス。」と続けて記されている。この後には興世王などへの除目がおこなわれ、新皇による東国政権が樹立された。  
菅原道真が流配地大宰府で亡くなった903年延喜3に平将門が生まれたという説がある。この説を昌伎が知っていたかは分からないが、「将門記」の作者は知っていたのであろう。  
大岡昇平は「菅原道真が流謫地大宰府で死んだのは延喜3年、その年将門が生まれたという説があることは前に書いた。その年は全国的に旱魃あり、疫病が流行した。7年、政敵藤原時平が急死し、8年、清涼殿に落雷あり、藤原菅根が雷死した。これらはすべて道真の怨霊の仕業と信ぜられた。宇佐八幡は和気清麿が受けた神託以来、皇室の信仰厚く、男山に勧請されている。道真が雷神として全国に流行するに及び、宇佐八幡の神人達がその霊験を全国に説いて廻った。この神託は興世王や藤原玄明の演出の疑いは十分にあるが、地方の巫女が巷説や俗信に基づいて霊感を口走ったとしてもおかしくない。」(「将門記」)と状況を読んでいる。興世王など都に育った受領階層が持ち込んだことも考えられる。それより早く民衆の中で伝播していくものであろう。都ばかりでなく、「宇佐八幡の神人たち」によって東国にも菅原道真の怨霊騒ぎが持ち込まれたとの確証はない。伝えられていった可能性はある。  
幸田露伴も「平将門」で「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を籍りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闇梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らば、一時賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。」 
この見解は通常の範囲である。だが、「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。」という独特の言い方がいい。菅原氏は東国にあって人的にも身近な存在ではなかったか。怨霊の家系・菅原氏の一族も道真の左遷に伴って地方へ追いやられ、後に許されて都に戻るという出来事が起っている。道真の子の大学頭高視(土佐介)、式部大丞景行(駿河権介)、右衛門尉景茂(飛騨権掾)、文章得業生淳茂(播磨)も都から遠ざけられていた(「政治要略」)。が、906年延喜6には許されるところとなって都に戻る。大学頭高視(土佐介)につながるのが嫡流、孝標である。この中で、菅原景行はいち早く東国に向った。菅原氏の所領が東国にあったからだともいわれている。  
「将門は、幼少より、坂東太郎利根川や小貝川、鬼怒川付近の山野を駆け巡り心身を鍛え、常盤真壁郡羽鳥に住した菅原道真の子・景行に師事して学問を修め、文武両道に優れていた事が認められ,宮中近衛府の北面衛士として勤務する事12年、承平元(931年)、母より将弘が病死し領内周辺が伯父達の非違道に依って脅かされる事を知り」(「宍塚の自然と歴史の会20015斗蒔便り2001・12より抜粋」佐野邦一翁古老が語る宍塚の歴史<41>)と伝承では菅原景行が平将門の幼年時代に学問の師匠をしていたことになっている。別の伝承では将門の弟将平の師となっているようである。この菅原景行は909年延喜9に下総守となったとも記されている(7.11見紀略/1137)。また、929延長7には菅原道真三男景行(常陸介54歳)が大生郷天満宮(茨城県水海道市大生郷町)を祀ったといわれている。この年は平将門が京より戻る前年に当たる。海音寺潮五郎の「将門記」にも菅原景行は登場している。このような伝承がある程度史実に基づいているならば、道真の怨霊が、やがて将門の怨霊へと受け継がれていった東国での根は深い、と思われる。怨霊に仮託した人々の願いがそこに見られる。  
首を都に晒された将門は宙を飛んで東国へと戻ってきた。怨霊となった将門は、道真のように摂関政治の思惑の中で御霊に祭り上げられることもなく、怨霊のままに東国の守護神と化した。 
 
『将門記』 将平の諫言  
『将門記』は、将門が建国した独立国家の輪郭について、次のように述べている。
「武蔵権守(ごんのかみ)興世王は時の主宰者であった。その指示により玄茂(はるもち)らは新皇の宣旨と称して、かってに諸国の除目(じもく)を発令した、下野守には弟の平朝臣将頼(まさより)、上野守には常羽御厩(いくはのみまや)の別当多治経明(たぢのつねあきら)、常陸介には藤原玄茂、上総介には武蔵権守興世王、安房守には文室好立(ぶんやのよしたて)、相模守には平将文(まさふみ 弟七郎)、伊豆守には平将武(まさたけ 弟六郎)、下総守には平将為(まさたり 弟五郎)をそれぞれ任命した」 
除目とは、官職を任命する政務のことをいう。諸国の守や介に就任したメンバーを見てみよう。
平将頼 将門の弟三郎、御厨三郎とも呼ばれた。兄将門とともに行動し、独立国家建国にかかわる。敗北したのちも、陸奥で反乱を起こしたとされる。
多治経明 常羽御厩の別当、多治比氏の末裔とされる。将門軍の副将軍。独立後は上野地方で活動する。
藤原玄茂 常陸掾、藤原玄明の血縁者とされる。将門による常陸攻略に加わった。霞ケ浦湖賊の末裔か。将門の側近として活動する。
興世王 武蔵権守、将門の参謀役として独立と建国をけしかける。独立後は上総地方で活動する。
文室好立 「蝦夷征伐」に当たった文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)の末裔とされ、将門軍に上兵として加わる。独立後は安房地方で活動する。
平将文 将門の弟七郎、相馬七郎と呼ばれた。兄将門とともに坂東独立のために戦い、独立後は相模地方で活動する。
平将武 将門の弟六郎、相馬六郎と呼ばれた。兄将門とともに坂東独立のために戦い、独立後は伊豆地方で活動する。
平将為 将門の弟五郎、相馬五郎と呼ばれた。兄将門とともに坂東独立のために戦い、独立後は下総地方で活動する。
しかし、彼らには、戦争、抗争の経験はあるけれど、政治や行政をまともに司った経験がほとんどない。しかもすべて将門のお気に入りのイエスマンである。
弟の将平は安倍氏の意向を受けて将門に忠告したが受け入れられず
弟の将平(まさひら)は、大葦原四郎ともいわれ、将門に従って戦ったが、「力をもって争うべきにあらず」と諌言(かんげん)を呈したためか、坂東の守には起用されなかった。彼は「新皇宣言」の直後、将門に対して、次のように述べている。
「そもそも帝王の業というのは、人智によって競い求むべきものではありません。また、力ずくで争いとるべきものでもありません。昔より今に至るまで、自ら天下を治め整えた君主も、祖先から皇基や帝業を受け継いだ王も、すべてこれは天の与えたところです。外から軽々しく、はかり議することができましょうか。おそらくは、後世の人々の誹(そし)りを招くこと間違いありません。ぜひとも思いとどまって下さい」
これは弟として新皇に対して述べることとしては、かなり踏み込んだ言葉である。彼は安倍氏の意向にそって発言したと考えられる。これは辰子姫が「荒覇吐神のお告げとは和睦にして事をなせる神なり。新皇は神をしていわれなきことであり、故にこれは改めよ」と述べたことと内容がほぼ同じである。しかし、将門は「どうして力を持って征服しないでおられようぞ」とこれを一蹴する。
将平は、将門、将頼とともに、幼いころ陸奥で安倍氏の教えを受け、それ以降、将門と安倍氏のパイプ役を果たしていたのではないか。おそらく独立戦争に勝利してからも、坂東にやってきていた辰子姫から安倍氏の意向を聞いていただろう。安倍氏にとっては、将平の意見が取り入れられず、彼が重要な役職からはずされたことも、不信をもつ要因になっただろう。
「北鑑 第十四巻」では、将門の乱の敗北後、「将平は将文とともに、奥州相馬に逃亡し、姓を相馬と名乗り、安倍頻良(ただよし)の下臣として、地域の豪族となった」と述べられている。 
 
■承平天慶の乱

 

承平天慶の乱
(じょうへいてんぎょうのらん) 平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。
瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。
なお、この反乱は一般に承平・天慶の両元号の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。実際にこれが「反乱行為」と見なされるのは、天慶2年に将門・純友が相次いで起こした国司襲撃以後のことである。従って、この乱を「天慶の乱」と呼ぶことには問題はないものの、単に「承平の乱」と呼んだ場合には事実関係との齟齬を生む可能性があることに留意する必要がある 。
平将門の乱
平氏一族の私闘
桓武天皇の曾孫・高望王は平姓を賜って臣籍に下り、都では将来への展望もないため、上総介となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた田堵負名、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図ったとも考えられている。高望の子らは武芸の家の者(武士)として坂東の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着した。ただし、この時代の発生期の武士の所領は、後世、身分地位の確立した武士の安定した権利を有する所領と異なり、毎年国衙との間で公田の一部を、経営請負の契約を結ぶ形で保持するという不安定な性格のものであった。つまり、彼らがにらみを効かせている一般の田堵負名富豪層と同じ経済基盤の上に自らの軍事力を維持しなければならず、また一般の富豪層と同様に受領の搾取に脅かされる側面も持っていた。
高望の子のひとり平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子の将門は京に上って朝廷に中級官人として出仕し、同時に官人としての地位を有利にするために摂関家藤原忠平の従者ともなっていた。良将が早世したため将門が帰郷すると、父の所領の多くが伯父の国香、良兼に横領されてしまっていたといわれ、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培った。
延長9年(931年)ごろから将門は「女論」によって伯父・良兼と不和になったとされる。「女論」の詳細は『将門記』に欠落があって不明だが、前常陸大掾源護の娘、もしくは良兼の娘を巡る争いであったと考えられている。源護には三人の娘があり、それぞれ国香、良兼、良正に嫁いでいる。この源護の三人の娘の誰かを将門が妻に望んだが叶わなかったためという説、または、良兼の娘を将門が妻にし、その女を源護の三人の息子(源扶、源隆、源繁)が横恋慕したという説がある。
承平5年(935年)2月、源扶、源隆、源繁の三兄弟は常陸国野本に陣をしいて将門を待ち伏せ、合戦となった。将門は源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払い、三兄弟を討ち取った。更に将門は伯父の平国香の館の常陸国石田にも火をかけ、国香をも討ち取ってしまった。
国香の長子の平貞盛は京に上って出仕して左馬允になっていたが、父の死を知り帰郷する。貞盛は復讐よりも京で官人としての昇進を望み、将門との和睦を望んでいたとされる。
一方、三人の息子を将門に討たれた源護の恨みは深く、婿の平良正に訴えた。良正は本拠の常陸国水守で兵を集めて将門の本拠豊田へ向かってくり出した。将門もこれに応じて出陣。10月21日、鬼怒川沿いの新治郷川曲で合戦となった。結果は、将門が大勝し、豊田に凱旋した。
良正は兄の平良兼に助勢を訴え、良兼はこれを承諾した。現任の上総介だった良兼は貞盛を説得して味方に引き入れ、承平6年(936年)6月大軍を動員して館を出発、水守で良正、貞盛と合流した。連合軍は下野国に入り、南下して豊田を攻める体勢をとった。将門は100騎を率いて出陣。下野国と下総国の国境で連合軍は将門軍の先手に攻めかかるが、意外な抵抗にあい一旦退却しようとしたところに将門の本隊が到着して突撃してきた。連合軍は総崩れになり、下野国国府へ逃げ込んだ。将門は国府を包囲するが、西の一面を空けて良兼らを逃げさせた。将門は自らの正当性を国衙側に認めさせて豊田へ引き揚げた。
同年9月、源護の訴えにより朝廷からの召喚命令が護、将門、平真樹へ届いた。将門はただちに上京して検非違使庁で尋問を受ける。朝廷はこれを微罪とし、翌承平7年(937年)4月に恩赦が出され、将門は東国へ帰った。
同年8月、良兼はまたも軍を起こして、下総国と常陸国の境の子飼(小貝・蚕養(こかい))の渡しに押し寄せた。良兼は高望王と将門の父の良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せた。将門軍は士気喪失して退却、勝ちに乗じた良兼軍は豊田に侵入して火を放った。将門は兵を集めて良兼に復仇戦を挑むが大敗してしまう。良兼軍は再度豊田に侵入して略奪狼藉の限りをつくし、将門の妻子も捕らえられてしまった。9月、またも良兼は兵を繰り出したが、将門はこれを迎撃して打ち勝った。良兼は筑波山に逃げ込む。
将門は元主人の藤原忠平に良兼の暴状を訴え、同年12月、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられた。将門は兵を集めて本拠を豊田から要害のよい石井へ移した。良兼は内通者から情報を得て、石井の館に夜襲をしかけるが将門軍は奮闘し撃退される。この敗戦の後、良兼の勢力は衰え、天慶2年(939年)6月良兼は失意のうちに病没した。
承平8年(938年)2月、身の置き所のなくなった平貞盛は東山道をへて京へ上ろうと出立するが、朝廷に告訴されることを恐れた将門は100騎を率いてこれを追撃、信濃国千曲川で追いついて合戦となり、貞盛側の多くが討たれるも、貞盛は身ひとつで逃亡に成功。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、将門への召喚状が出された。6月、貞盛は東国へ帰国すると常陸介藤原維幾に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。貞盛は陸奥国へ逃れようとするが、将門側に追いまわされ、以後、東国を流浪することを余儀なくされる。
さらなる争い
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、どういう経緯か不明だが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は逃げ出してしまった。
京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を訴える。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月、関東5カ国の国府の証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。
この頃、武蔵権守となった興世王は正式に受領として赴任してきた武蔵守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになり、また、常陸国の住人の藤原玄明が将門に頼ってきた。この玄明はやはり受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪して国衙から追捕令が出されていた。常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。
対立が高じて合戦になり、同年11月、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした。将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との「私闘」であったが、この事件により不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。
新皇と称す
興世王の進言に従い将門は軍を進め、同年12月、下野国、上野国の国府を占領、独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。さらに巫女の宣託があったとして将門は新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。
この時将門が任命した関東諸国の国司は、以下の通りである。
下野守 平将頼
上野守 多治経明
常陸介 藤原玄茂
上総介 興世王
安房守 文屋好立
相模守 平将文
伊豆守 平将武
下総守 平将為
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない。
追討
将門謀反の報はただちに京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕した。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には先に将門謀反の密告をした源経基が賞されて従五位下に叙された。1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入った。将門の手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて、2月1日に出陣する。貞盛と秀郷は藤原玄茂率いる将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃して来た。合戦になるが、将門軍の勢いはふるわず、退却した。
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず、僅か兵400を率いて陣をしいた。貞盛と秀郷の軍に藤原為憲も加わり、翌2月14日、連合軍と将門の合戦がはじまった。南風が吹き荒れ(春一番)、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風になると(寒の戻り)、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。
将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。残党が掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺される。将門の首は京にもたらされ梟首とされた。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下にそれぞれ叙爵された。
藤原純友の乱
承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。
しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格は異なることが指摘されている。純友が武力と説得によって鎮圧した海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層である。彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。
また、純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったという事実に注目されている。純友はこの元名の代行として現地に派遣されて運京租税の任にあたるうちに富豪層出身の舎人ら海賊勢力と関係を結んだとされている。
天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。朝廷は天慶3年(940年)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。
2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪っている。この頃、京の各所で放火が頻発し、小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告している。朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れて宮廷の14門に兵を配備して2月22日には藤原慶幸が山城の入り口である山崎に派遣して警備を強化するが、26日には山崎が謎の放火によって焼き払われた。なお、この一連の事件と純友との関係について純友軍の幹部に前山城掾藤原三辰がいる事や先の藤原子高襲撃事件などから、実は純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけてのいわゆる「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しており、京への直接的脅威と言う点では、極めて深刻な状況であったのではとする見方もある。
2月25日、将門討滅の報告が京にもたらされる。この報に動揺したのか、純友は日振島に船を返した。その影響か6月には大宰府から解状と高麗からの牒が無事に届けられ、7月には左大臣藤原仲平が呉越に対して使者を派遣している。
だが、東国の将門が滅亡したことにより、兵力の西国への集中が可能となったため、朝廷は純友討伐に積極的になった。5月に将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、6月に藤原文元を藤原子高襲撃犯と断定して追討令が出された。これは将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が純友を挑発して彼に対して文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの二者択一を迫るものであった。
8月、純友は400艘で出撃して伊予国、讃岐国を襲って放火。備前国、備後国の兵船100余艘を焼いた。更に長門国を襲撃して官物を略奪した。10月、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れている。11月、周防国の鋳銭司を襲い焼いている。12月、土佐国幡多郡を襲撃。
天慶4年(941年)2月、純友軍の幹部藤原恒利が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の藤原純乗は、柳川に侵攻するが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中で没した。
比叡山上の共同謀議伝説
京で朝廷に中級官人として出仕していた青年時代の平将門と藤原純友は、或る日、比叡山に登り平安京を見下ろした。二人はともに乱を起こして都を奪い、将門は桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原氏だから関白になろうと約束したとする伝説が世に知られている。また、比叡山上には、この伝説にちなんだ「将門岩」も存在し、そこには将門の無念の形相が浮かび出るという伝承までがなされている。
当時の公卿の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議がかなり疑われていたようである。
実際には、両者の共同謀議の痕跡はなく、むしろ自らの地位向上を目指しているうちに武装蜂起に追い込まれてしまった色合いが強い。二つの乱はたまたま同時期に起こり、東国で将門が叛乱を起こし、純友は西国で蜂起に至ったと考えられる。
その一方で、将門に襲撃されて国司の印を奪われて逃げ出した上野介藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)にあたる人物である。このため、先行した将門の動きが尚範の親族であった純友に何らかの心理的影響を与えた可能性までは否定できないという考えもある。
意義
二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。
これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。
また、鎌倉時代には源実朝が「将門合戦絵」を描かせたり、神田明神が江戸幕府によって「江戸総鎮守」とされたりするなど、武家政権が将門を東国武家政権の先駆けとして強い親近感を抱いていることも特徴的である。
その一方で、二つの乱とほぼ同時期に全国各地で「反乱」と呼ぶべき事件が発生していた。『日本紀略』や藤原忠平の日記の抜粋である『貞信公記抄』によれば、939年(天慶2年)春以後出羽国では俘囚の反乱(天慶の乱 (出羽国))が断続的に続き、8月には尾張国では国守藤原共理が殺害され、翌940年(天慶3年)1月には駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾を起こしている。将門や純友の動きもこうした動きの一環であり、当時の朝廷の統治機構に与えた打撃もわずかであった(将門が新皇を名乗ってから滅亡まで2ヶ月間しかなく、純友は海賊行為に終始して地域に割拠することはなかった)ことから、反乱としての実質的な規模は限定的なものであったとする指摘もある。  
 
武蔵武芝 (むさしのたけしば) / 承平天慶の乱の遠因
平安時代中期の豪族。承平天慶の乱の遠因をつくったことで知られる。
武蔵氏(姓は直)は出雲氏族に属する天孫系氏族で、武蔵国造家として代々足立郡司を務める一方で、氷川神社を祀っていた。武芝の系統は元々丈部氏(姓は直)を称したが、神護景雲元年(767年)に藤原仲麻呂の乱で功労があった不破麻呂が一族と共に武蔵宿禰に改姓した。
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代(在庁官人の職名の一つ)を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。
将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている。これを国司による処分と見るか、将門に連座して討ち取られたものと見るかについて見解が分かれている。
人物​
『将門記』では名郡司と評されている。長年公務に精勤し、良い評判があり謗られるようなことはなかった。郡内の統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、民衆の家には遍く蓄えがあったという。

武蔵国足立郡の郡司。「将門記」にも将門側の重要人物として登場する。都から赴任してきた国司の興世王、源経基らから無理難題を押し付けられ、平将門公に調停を依頼した。
「国司(こくし)」は都から派遣された貴族で、その下の「郡司(ぐんじ)」は古くからその地を支配する豪族が多かった。武蔵武芝も先祖代々、武蔵国足立郡の郡司を務めていた。竹芝への人々の信頼は厚く、新しく国司となった興世王らが民家を襲って略奪するなどの暴挙を諫めようとしたが対立し、戦になろうとした。これを将門公は鮮やかに調停したのであった。このことにより将門の評判はさらに高まり、朝廷に不満を持つ人々が、将門の下に続々と集まってくるようになったのであった。
興世王と武芝が和解した後、これに不満を持った源経基は都に戻り、将門達が謀反を企てていると朝廷に訴えた。この時は源経基の訴えは認められなかったが、「天慶の乱(平将門の乱)」の遠因となったエピソードである。
その後の武芝の消息は不明。「将門記」では、「氷川神社」の祭祀権を失ったとしている。
竹芝伝説​
菅原孝標女が武蔵国で聞いたとして『更級日記』に登場する「たけしば」寺の伝説は、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説がある。
竹芝寺   さいたま市大宮区高鼻町
昔、竹芝から都に上り、火たきの衛士となった男があった。その男が皇女を背負って、東国へ下り、竹芝の里で幸せな日を過ごした。この皇女が産んだ子が武蔵武芝と伝えている。皇女が没した後、男は、剃髪して竹芝の家を寺とし、その菩提を弔った。この竹芝寺が氷川神社参道の西側辺りにあったのではないかという。
系譜​
氷川神社の社伝・系図によれば、武芝の子孫は野与氏を称し、氷川神社の祭祀は武芝の娘と武蔵介・菅原正好の子である菅原正範が受け継ぎ、その子孫が代々社務を務めたという。『西角井系図』では、武芝の娘は秩父氏の祖・秩父将恒の妻となり、武宗の娘は平元宗に嫁ぎ、基永(野与党の祖)・頼任(村山党の祖)を儲けたとされる。  
 
承平の乱
当事者1:平将門
当事者2:平良兼
当事者3:平貞盛・藤原秀郷
時代:平安時代
年代:935年(承平5年)2月〜940年(天慶3年)2月13日
要約:平将門が所領問題から叔父の平国香を殺害。初めは同族の内紛であったが将門は新皇を名乗り国家に反逆するも、藤原秀郷らに破れる。
内容:
そもそも平将門の乱は、当初は決して国家に対する叛乱を目的としたものでは無かった。常陸・上総に勢力を持っていた平将門と、その一族で将門の叔父に当たる下総介平良兼との間の対立、その原因は所領についての縺れとか、女性問題の不和とも言われているが、何れにしてもこのような一族の「私闘」が乱の発端であった。
将門が起こした軍事行動で最初のものは、935年(承平5年)の前常陸大掾源護との合戦であった。護は良兼や良兼の兄の平国香の息子平貞盛と姻戚関係にあったことから、良兼と源護は合戦で国香に味方し、一族の将門を相手にすることとなった。この合戦で護は惨敗し三人の息子を失い、強力な味方であった国香も戦死したのであった。その際将門のとった二つの行動が国家への反逆を意図していないことを示す。
まず第一に、将門が北上して良兼らの軍勢を下野国の国府に追い込んで包囲したとき、将門はわざわざ退路を開いて良兼らを逃れさせた。当時良兼は下総介という国司であったので、将門も殺害することをためらったものと見られる。第二に、この合戦に関して朝廷から召還命令が将門の元に届くと、この命令に従い上京し朝廷に対して弁明を行っている。ここまでは、将門に何ら国家に反逆の意図は伺われない。
承平8年(938)2月武蔵権守興世王・介源経基が武蔵国足立郡の郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)と抗争したため、将門が調停の労をとった。しかし調停工作のさなか、突如武芝の軍勢が経基の陣を包囲したため、経基は、将門と興世王が武芝と組んで自分を討とうとしたと思いこみ、翌年3月京に上って将門と興世王が謀反を起こしたと報告した。(この事件に今後の将門の行動を暗示するものが入っている。彼が地域の調停者となり調停と土豪の間に入っている。彼は朝廷の配下として行動していない)
将門の軍事行動の性格が一変するのは、以下の事件後である。常陸国の土豪、藤原玄明(はるあき)が、国司の無道を訴えて将門に助けを求めたのが契機となった。将門は玄明をかくまい、彼の常陸国府にたいする抵抗を援助する動きを示した。天慶二年(939)11月、将門は常陸国府を襲撃して、支配の象徴の印鑰を奪い取り周辺で略奪の限りを尽くした。この勝利で大いに意気のあがった将門は、続いて下野・上野両国の国府を占領する。こうして当初の将門の意図はどうあれ、ここに彼の行動は国司の横暴に対する軍事的な抵抗として関東一円を席巻し、政治的な叛乱という性格を明確にした。
12月15日次々と国司を追放して上野国府に入った将門は、そこで八幡大菩薩の使いと称する遊女の神託に従って「新皇」の位についた。京の朱雀天皇に対して「新しく位についた天皇」の意味であった。将門は朝廷の制度をそのまま模倣し、下総国に王城の建設を計画する一方、左右大臣・納言・参議以下文武百官を置き、太政官の官印の寸法まで定めた。こうして東国において小規模な古代国家が構想されたのである。
天慶3年(940)2月13日、将門の従兄弟平貞盛と下野国押領使藤原秀郷は四千の兵を率いて将門の虚を突いて攻勢にでた。その時将門は軍勢を帰休させており、手勢は僅か四百ほどに過ぎなかった。彼は下総の幸島郡に陣をしいて決戦を挑み善戦したが、陣頭にたっていた将門は流れ矢に当たって戦死した。将門の戦死の知らせは12月25日京にもたらされ、翌年4月25日秀郷により将門の首が進上され、京の東市にさらされた。
将門が目指したのは中世的な新しい権力の構築ではなく、関東にミニ王国を建国することにあった。また彼は常時八千人を動員できたと言うが、それは伴類と呼ばれる農民で、緊密な主従関係に基づく武士団ではない。よって、この事件は中世を予感させるものではなく、律令国家崩壊を予感させるものである。 
 
平将門「承平の乱」はなぜ起きたのか?
世街道を外れたエリートが、伯父や義父と「争族」を繰り広げた理由
平将門といえば、東京・大手町の超高層ビル群の合間にある首塚≠フ存在がよく知られているが、平安時代、中央政界きっての有力者と主従関係を結んでいた彼は、まぎれもなく屈指のエリートだった。にもかかわらず、のちに一族間で血で血を洗う「争族」を繰り広げ、無位無官のまま生涯を終えたのはなぜなのか。『平将門と天慶の乱』著者・乃至政彦氏による論考。
平将門と承平の乱
このたび上梓した新刊は『平将門と天慶の乱』(4月10日ごろ発売)というタイトルだが、本稿ではその「天慶の乱」より前の「承平の乱」前夜を見てもらいたい。
平将門が関わった争乱は、私闘である前期≠フ「承平の乱」と、朝廷への謀反である後期≠フ「天慶の乱」に大別される。
承平の乱は、通説では将門の私闘と見られているが、よく見返してみると、単なる利害や怨恨の問題から起こった争乱ではない。
これは、ローカルルールですべてを押し切ろうとする地方豪族たちの無法ぶりに業を煮やした将門が、敢然と立ち向かった結果として生じた戦いなのである。
ここでは将門がなぜ戦いの道を選んだのかを見ていこう。
エリート武官だった平将門
少年期の平将門は京都にあって、摂家の藤原忠平に名簿を提出し、密接な主従契約を結んでいた。忠平は藤原氏の長者である。当時は公卿(三位以上の貴族)のほぼ70%を藤原氏が独占しており、その長者である忠平は政界きっての有力者だった。若き日の将門は、願ってもない出世街道を歩んでいたのである。
この時期の将門をより掘り下げてみよう。中世の文献では「将門は検非違使の職を望んだ」と伝えられているが、事実ではない。
なぜなら、この時代の検非違使は、中世と比べて大きな権限がなく、ときには清掃役まで担わされる一役人に過ぎなかったからである。将門は桓武平氏として臣籍降下した高望王の孫であった。そんな高貴な身分なのに、あえて日の当たりにくい仕事を志望することは考えにくい。
では、将門はなんの職に就いていたのか。
これは、このときの藤原忠平が蔵人所別当だったことに加え、系図類に将門の異名が「滝口小次郎」と伝わっていることから、朝廷直属の「滝口武士」だったと推定できる。
滝口武士とは天皇の親衛隊である。もちろんこの役を務めるには、それなりの出自を備えていなければならない。
将門の父・良持(良将とも)は従四位下という高位にあり、その「蔭子」である将門もまた20歳を超えると自動的に官位を受ける身にあった。
このように少年期の将門は、京都で屈指のエリートコースを歩んでいたのだ。しかしそれがなぜか出世街道を外れて、無位無官のまま、坂東へ帰国することとなってしまう。
無位無官のまま帰郷する将門
将門が在京していたころ、従兄弟の平貞盛もまた京都にあった。
承平の乱が勃発したとき、貞盛が努めて将門の事情を理解しようとする描写が『将門記』にあり、ここから在京時のふたりが親しく交わっていたことを推察できる。
若き日の貞盛がだれに仕えていたかは不明だが、彼は「左馬允」に任じられていた。貞盛の弟・繁盛が忠平の次男・九条師輔に仕えていたことも後年の一次史料に残されている。すると、貞盛もまた将門同様、滝口武士として精勤していたのではないだろうか。
しかし貞盛が順調に出世していたのに対し、将門はいつのまにか京都を離れ、坂東の下総国へと帰郷していた。将門は「蔭子」であるから、忠平のもとで普通に過ごしていれば、20歳を超えれば、従七位下に叙位される予定であったのに、なんの官位も受けていない。なにか深刻な事情があって京都を離れざるを得なかったのだろう。
では、将門が出世街道を捨てて帰国することになった理由とはなんであろうか。
「田畠」と「女論」
史料を見渡すと、その理由を探る手がかりが残されている。
帰郷の理由は、領土問題にあったようだ。将門の父が亡くなった年は不明だが、承平某年、将門はおじの平国香と平良兼を相手取り、「田畠」と「女論」が原因で争ったと記されているからである(『今昔物語集』『将門略記』)。
前者の「田畠」は亡父の遺領、後者の「女論」は縁談の問題であるというのが近年の通説で、わたしもその通りだと思っている。
ただし、研究者たちはその具体的詳細を不明としている。小説やドラマは国香と良兼が亡き良持の田畠を横領したように描くことが多い。勧善懲悪ものの物語としては、その方がわかりやすいから、こうした設定が好まれる。
しかし、国香たちは坂東屈指の豪族である。良兼にいたっては鎮守府将軍を務めたこともある。それがたかが田畠の問題で、人望を損なうような振る舞いをするだろうか。
そもそもこの時代の坂東は、まだ未開拓の地がたくさんあるフロンティアである。人手を集めて切り開けば、田畠ぐらいならいくらでも手に入っただろう。それなのに、大きな貫禄を期待される彼らが20歳前の甥を相手にそんな大人気ないことをするとは思えない。
では、国香と良兼は、なぜ将門と対立したのだろうか。
この謎を解く鍵は、昭和の発掘調査で明らかにされている。詳細は『平将門と天慶の乱』に記したので、ここでは簡単に述べるが、良持の「田畠」には馬産地や牧場、製鉄所などの重要な軍事施設が立ち並んでいたのである。
将門が出世コースを捨てた理由
将門が国香や良兼と対立した理由は次のようなものだろう。
将門は父の死により、帰国を決断した。亡父の遺領が普通の「田畠」だけなら、おじや弟たちに経営を委ねてもよかっただろう。しかし、そこには屈指の軍事施設がひしめき合っていた。これを人任せにはできない。将門は出世の道を諦めてでも帰郷しなければならなくなった。
国香と良兼にすれば、在京生活が長く、坂東の作法をよく学んでいない若い甥に、良持の遺領を委ねるのは心配でならなかった。ムスカにラピュタを与えるより危険だと思ったのだ。
こうした相続問題は、中世武士ならまず間違いなく二派にわかれての御家騒動が起こる案件だった。こうして将門はおじたちと対立し、やがて孤立していくこととなる。ここに、将門vs.国香&良兼の対立が顕在化していったのである。
実父より夫を選んだ将門の妻
しかも、これに「女論」の問題まで合わさった。
女論というのは、縁談の問題である。将門は良兼の娘と結婚している。『将門記』によると、将門の妻は彼の邸宅に住んでいた。
豪族の妻が夫の邸宅に住むのは、実はとても珍しい話であった。なぜなら当時は婿取り婚≠ェ普通で、妻は夫の邸宅ではなく、実家の邸宅に住むのが当たり前だったからである。
女論の中身をより具体的に見るならば、将門が良兼の合意を得ずに、彼女を自分の邸宅に連れ帰ったのだと考えられる。
こうして、良兼と将門は「合戦」したという。この女論に際して、両者は手荒な武力闘争を辞さなかったのだ。その後、良兼の娘は実父・良兼よりも、将門への「懐恋」の想いが強かったことが、『将門記』に記されている。おそらく良兼は将門を懐柔するため、娘との縁談を持ちかけたのだろう。
だが、将門はこれを逆手にとり、彼女を自邸へ引き連れたのだ。将門の妻もまた自ら望んで父より夫を選んだのだろう。
野本合戦と承平の乱勃発
こうして将門は「田畠」と「女論」の問題で、おじたち相手に、我を貫いた。この一件は周囲にも知れわたったが、あえて関わろうとする者は現れなかった。おじたちもこれ以上の関与を控えようとした。
だが、さまざまな嫌がらせが繰り返されたようである。将門のストレスは次第に高まっていった。
それは坂東嵯峨源氏一族の挑発で、頂点に達することとなる。
国香や良兼と親しい彼らは、明らかに反将門派の立場にあった。それが将門と対峙するとき、事もあろうに国司方の一族である特権を濫用して、官軍の旗や鐘を装備してきたのだ。官軍兵器の私用は違法である。これを黙って受け入れては、将門自身が群盗として蔑まされる。だが、ここで応戦すれば、おじたちとの全面戦争が待っている。
このため、将門は一瞬ばかり進退に迷った。しかし、ひとたび決断すると、その動きは迅速だった。
将門はかつての「滝口武士」である。朝廷の法に背く非法を許すわけにはいかない。風を背にするなり、敵の兵たちを次々と射殺しはじめた。将門は弓矢の名人で、配下の武装も坂東随一だった。あっという間に勝負はついた。これが野本合戦ならびに承平の乱の幕開けである。 
 
「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」将門の乱
天慶二年に平将門の乱が勃発した。関東で起こった内乱。下総・常陸の一族間の私闘を繰り返する中、平将門が常陸の国を焼き払って、次々に勢力を広げ下野・上野まで国府を襲い国司を追い払い、自ら新星と称し、坂東各地の受領を任命するまでに至った。
その後勃発する純友の乱と合わせ「承平・天慶の乱」と言う。
関東の承平の乱が収拾に向かっていた頃、西国では不穏な動きが出てきた。
瀬戸内海では海賊の被害が多発し、従七位伊予堟藤原純友は海賊の討伐に当っていた。所が承平六年頃(936)には伊予の日振島を拠点に千艘を組織する海賊の頭目になっていた。
純友が説得し、鎮圧した海賊は朝廷の人員整理で職を失った富豪層出身の舎人たちが多くを占め、税収の既得権を主張し通行税なる物を徴収していたようである。
純友の配下は海賊鎮圧後も、瀬内海地域に土着させられ、武功勲功認定で失地回復を狙っていた者が、受領たちの自分たちより高い身分に武功を横取りされたりして快くは思っていなかった。
赴任する中央の受領の搾取の対象に成ったりし、任国の受領支配に不満を持つ者ばかりであった。
純友に関していえば父の従兄の藤原元名が承平二年から五年にかけ伊予守であったという。
天慶二年(939)純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅に襲撃させた。
それも残虐な鼻を削り捕え、妻を奪い、子らを殺したと言う。
この事件に朝廷は驚愕し、共鳴するかのように将門が謀反を起こしたのかと恐れた。
朝廷は天慶三年(940)小野好古を山陽道の追補使、次官に源経基を任じた。
朝廷は東国の将門の乱に兵力を集中させていたので、取り敢えず純友を懐柔を図り従五位を授けたが、純友には歯止めがきかなかった。
その内純友の情報が次々増幅されて京にもたらされた。
純友が淡路島の兵器庫を襲撃し襲っていると言う知らせが都の届き、京の各地に放火が相次ぎ、小野好古は「純友は船に乗り都に上りつつある」という報告を受けて朝廷は京へ襲撃をするのではないかと、宮廷の十四の門に兵を配備、藤原慶幸が山城の入り口に派遣し都への警護を固めた。
この一連の放火と純友の関係は定かではないが京では疑心暗鬼に陥っていたことは確かだ。
折しも将門の討伐が完了されたと言う報告が届き、この知らせに動揺したのか純友は日振島に船を返した。
これは将門の討伐が落着し、その兵を西国の純友討伐に差し向けられることが可能になったからである。
東国からの、兵が召還され兵が帰京するや朝廷は純友討伐に積極的になり、藤原文元・子高襲撃犯として追討の令が出された。
朝廷も東西同時の事変に困惑したが、将門の事変を解決した自信の勢いで純友討伐に集中することが出来る様になった。
一方純友は四百艘で出撃し、伊予国、讃岐国を襲い放火。備前國、備後国の兵船百艘を焼いた。そこから長門国を襲撃って、官物を掠奪した。
二カ月後大宰府と追討の兵が純友軍と戦い、これに純友軍が敗れ、周防国も襲われている。さらに土佐国幡多郡も襲撃をした。
天慶四年(941)純友軍の幹部の藤原恒利が朝廷軍に降り、それを期に朝廷軍は純友軍の本拠地日振(ひぶり)島を攻めてこれを破った。
純友軍は西に敗走、大宰府に入り占領する。純友の弟の藤原純乗は九州は柳川を攻め、大宰府権師の橘公頼の軍に浦池で敗れた。
一方朝廷側は小野好古率いる官軍が九州に到着し、官軍は陸路から、海路から攻めた。純友は大宰府を焼き、博多湾で迎え戦った。
純友軍はこの戦いで大敗し、八百艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れるが翌月には警固使橘遠保に捕えられ、その後獄死したと伝えられている。

この頃相応する様に将門と純友が中央に不満を持って反旗を簸(ひ)るが下については、地方に活路を見いだそうとするもの、都から下級役職として赴任させられたものが、赴任先の富豪受領者や国衙との軋轢に、また赴任先の地方の官僚脱落者らの不満を吸収し勢力を増大させて一気に都の対する対抗勢力になった。
また地方の治世に手薄で支配の及びにくい不備を突かれた型となって表れて事変が噴出したようである。
双方の事変は赴任先の親族が少なからず関わり、将門の場合関東に活路を見いだした土着した親族の者との支配構造に争うが周辺を巻き込んでいった感があって、事態が大きくなるにつれ中央に対抗勢力に変化していった。
また純友の事変は、取り締まる者が、捕えられる側にまさに下剋上の世界である。何れにせよ地方の不満勢力を吸収し朝廷の対抗勢力になって行ったようである。
とりわけ掾が土着した役人との利権争いに、鎮圧に差し向けられた官人や兵らの鎮圧後、御用済みで放置、行き場を失った浪人が純友に活路を求めて集団化し海賊に変化した。時代に阻害された者の吹き溜まりの様なものだった。
またこう言った動きは「もののふ」武士の台頭となって領地を持って国主になっていた基になったのかも知れない。
平将門(?〜940)平安の武士、桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)の孫。鎮守府将軍平良将の子。身内の女を廻る争うで、叔父国香を討つ、坂東で新星の王朝を打ち立て、関東の諸国を除目し領地を与える。当初不満を持つ土着の豪族の反目を吸収しつつ勢力を拡大して行った。
興世王(?〜940)平安期の地方官『将門記』によると武蔵国権守の時に、同国足立郡司の武蔵武芝と対立し、平将門との調停で和解した。新任国守百済貞連と対立して将門の下に身を寄せる、将門の常陸国府の襲撃後、坂東各国襲撃を促し将門新星即位後の受領除目で上総介となった。
受領は本来は国司の交替に際し、後任の国司から職務の引き継ぎがあって、完了した証明書を受け取ることで「受領」とされて来た。国司が遙任の時は介、権守が受領となった。また留守所が成立し受領は常駐せず、目代を派遣して代行させるのが一般的である。また家司が受領を代行することもある。 
 
■江戸川柳  

 

江戸川柳
平将門 −敢えて逆賊となった正義漢
将門は朕の不徳とへらず口
将門と言えば、坂東武者に生まれながら、京都の天皇政権に反抗し、自ら新しい政府を樹立して、東国の独立を計った天下の逆賊、謀反人ということになっている。しかし、だからと言って、許すべからざる悪人かと言うと、そう簡単には決められないようである。関東に新しい政府を創ったことが悪いとすると、鎌倉幕府も、徳川氏も、同様の謀反人と呼ばなければならない訳で、その関係からか、幕府はしきりに将門の弁護に努めている。殊に三代将軍・家光は、わざわざ将門のために、京都に勅免を申請し、その名誉の回復を計ると共に、江戸の大社、神田明神の祭神として尊崇し、その祭礼は毎年上覧に供されるとの特典を与え、赤坂の山王社と共に、天下祭りとして公認するという所まで優遇してくれたから、江戸ツ子にしてみれば、逆賊どころか、
「将門ってなァ、俺たちの親分みてえなものよ。」
てな気分で見ていたような所がある。
一体将門のどこが悪かったのかと、その気になって調べてみると、歴史的にもいろいろわからない所が出てきて、現代では、海音寺潮五郎とか、真山青果とか、将門ぴいきの作家も沢山居て、将門逆賊説は次第に影を消しそうな傾向にあるようだが、さて真相はどうだつたのか、暫らく考えてみたい。
相馬小次郎、平ノ将門。家系を辿れば、桓武天皇の曽孫・高望王から出た下野権ノ守、平ノ良将の次男である。
通説によれば、若くして京に上り、貞信公・藤原忠平に仕えていたが、当時伊予ノ橡をしていた藤原純友と相識り、共に比叡山に登って京の街を俯瞰しながら、天下討滅の大陰謀を思いたつたという事になっている。
将門の友は遠方より来たる
純友というのは、瀬戸内海の海賊の首領、一時は朝廷に運ばれる貢ぎ物を積んだ船は、こごとく抑留、劫略して、京都政府を震撼一せしめた梟雄である。将門の「天慶の乱」に対して、これを「承平の乱」と並び称しているが、両者の間に何らかの合意・連携があったという証拠は、どこにも無いようである。
ただ伝説としては、二人を繋ぎ合わせないとどうも話が面白くならないのだ。
じゃじゃ馬に友が出来たで事になり
叡山で見下ろす時分塚が鳴り
この塚というのは、坂上田村麻呂の将軍塚、天下危急の際には、自然と鳴動すると言われるものだけに、地元の比叡山での陰謀ともなれば、さぞかし喧しかったに違いない。
下を見ておごりの出たは比叡山
あの屋根が紫震殿だと伊予ノ橡
「俺は伊予の日振島で事をおこすから、お前は関東で、思い切リ暴れて見ろ。」
などと言つたかどうかは知らないが、日本を二つに分けて、東西で謀反を起こそうなんて話は、たとえ夢物語でもちょつと壮快だから、江戸ツ子は自分たちの溜欽を下げるためにも、何となく応援をしたがっている感じがしないでもない。
土手から星を見下ろして謀反なり
「その気持ち、わかるなァ。」と言った所であろうか。
将門の反逆と呼ばれるものは、実際は一門の所領争いに端を発した地域的紛争に過ぎなかつたものが、地方官の無能と、中央の無策によって、大きく拡がってしまったものであることは、今日ではほぼ定説である。
摂関政治の確立による中央の腐敗と、それを利用して、地方からの収奪に専念する国司の暴政に愛想をつかした地方豪族の一部が、「京都なんか糞くらえだ。反逆児・将門こそ、我等の新しい主君たるべきだ。」などとおだて上げ、人の良い将門が、ついその気になったのが、この「天慶の乱」である。
「将門記」によれば、天慶三年(939)12月、将門が上野の國府を攻め落とし、味方の土豪達と祝宴を張っている所へ、一人の倡妓(遊女)が現われ、八幡大菩薩の使いと称し、
「朕の位を、蔭子平ノ将門に授け奉る。」
と叫び、将門か礼拝してこれを受けた。その瞬間に将門政権は誕生したのだと言う。
実は将門はこれより先、伯父の平ノ国香を始めとする一族との所領争いを通じて、その抜群の勇猛さと、淡泊で男らしい度量の広さから、次第に近隣の土豪達の信頼を集めていたのだ。それはやがて必然的に、中央から派遣され、貧欲な収奪を事とする國司との対立を深めて行ったのである。
武蔵の豪族・竹芝を援けて、國守・六孫王経基と衝突し、遂にこれを追放したのを手始めに、その後は、関東一円の土豪層の先頭に立って、各地の國司との対立抗争を繰リ返し、要求実現のためには、武力の行使も敢えて辞さなかつたのだから、これは明らかに政治的反逆であリ、新しい政権樹立の野望がなかつたとは言い難いであろう。
ただこの段階で、形骸化した京都の貴族政治をそのまま関東に移し替えると言うのでは、少々お手軽過ぎて、みっともないのではないかと、川柳子も心配したのであろう。
住めぱ都とは将門が言い始め
相馬公卿おっこちそうな雲の上
詳細は不明ながら、将門はその後、新しい王城を石井に定め、各地の地方官なども任命して、政府としての体裁を整えたと言うのだが、いずれを見ても山家育ちの田舎者が、慣れぬ形の衣冠束帯で、威儀を正したりするのを見れば、これはやはり茶番以外の何者でもなかったであろう。
参内をしろと國香を責めるなり
何が勅使だと國香腹をたて
勿講國香は、これより大部前に討ち死にしているのだが、心ある者の目から見れば、とんだ恥さらしと映ったことは確かである。
相馬公卿小松菜なども引きに出る
からたちと桃で相馬の紫虚殿
将門の本拠地が、常陸の猿島などと言う地にあつたことも不運だつたかも知れないし、家の紋所が"繋ぎ馬"という変ったものだったことも、からかわれる原因になっているようである。
人の真似する猿島のえせ公卿
敷島を真似て猿島ごほりなリ
下聡の内裏紋からしてが下卑
さんざんであるが、この新政権、成立後僅かニケ月で、平ノ貞盛と藤原秀郷の連合軍によって焼き討ちされ、将門はあえなく戦死したと言うのだから、現実はもっと残酷だったと言うべきであろう。
親王面でもあるめェと藤太言ひ
だだし江戸っ子は、決して将門を見捨てたりはしなかったようである。大手町に残る首塚でも、また神田明神、築土八幡とか、北新宿の鎧神社等、将門由縁の神社・史蹟の多くを見るにつけ、彼等が将門を「我等の祖先」と考え、その武勇と侠気を讃える気風は、色濃く残っているように思われるのだ。
将門の怨みを引き継いで行く娘、滝夜叉姫の伝説などにしても、その現れの一つかとも思うが、今は少しく視点を換えて、将門を倒した相手方の、藤原秀郷について考えてみることにしたい。
藤原秀郷 −英雄の功績と褒美との関係?
七巻きと七変化とを藤太射る
陸奥の鎮守府将軍にして東北の覇者。平泉の中尊寺や光堂の建立で名高い、奥州藤原氏の始祖…などとくだくだ言っているよりも、お伽草紙の「俵藤太物語」の主人公と言った方が早い。伝説的英雄を倒すには、倒す側も又、伝説的な勇者でなければならないとする好例の一つである。秀郷の家系を尋ねると、藤原北家の中でも、左大臣魚名の末商で、下野の國司に任命されたのが、そのまま土着した裔である。本人も下野の橡から、押領使に任じられているが、若い頃には上官に反抗して、罪せられたこともあり、中々一筋縄では行かない人物だつたことは確かである。
そんな秀郷が例の任官運動のため、京の堂上方の邸に勤仕して、久方ぶりに故郷に還えろうとした下向道、近江の琵琶潮、瀬田の長橋にさしかかると、橋の真ん中に巨大な蛇がドデンと横たわっていたと言うのである。諸人怖じけをふるって、誰一人近付く者もなく、遠巻きにして騒いでいるのを見ると、そこは当代無双の勇士、ちっともためらわず進み出て、ノッシノッシと大蛇の背中を踏みつけて、橋を渡ってしまった。所がその途端に、大蛇の姿ぱ忽然と消え失せ、今度は美しい姫君となって、
「貴方のようなお方をお待ちして居りました。勇士と見込んで、是非ともお願いが・・・」
ということになるのである。
長いものに巻かれぬは藤太なり
弓取りに乙姫たのむ瀬田の橋
この女性、実は竹生島の水底に棲む竜神の娘で、その語る所によれば、近ごろ三上山に巨大な百足(むかで)の化物が出現、竜宮は今や危急存亡の瀬戸際、誰か勇者の助力を得て、この敵を倒したいと、思い付いたのが肝試しの大蛇の趣向、幸い貴方のような豪傑に巡り会えたからは、是非にも私どものために、一臂のお力添えを…と頼まれては、英雄・豪傑と言われるような人種は、とても断ったり出来るものではない。
「いでや、身どもの弓勢の程を御覧ぜよ」
と無闇にはりきって乗り出した。所が相手の百足というのが、何しろ三上山を七巻き半するという大変な代物、表面の皮が鉄の板ほども固くなっていて、いくら失を打ちこんでも、カーンと弾き返してしまう。
「南無三、こは一大事・・・」
と思つたが、そこは豪傑、咄嵯の間に頭を働かせると、次の矢の鏃に、口中の唾液をたっぷりと塗り付けて、
「これなら、どうじや。」
と打ち込むと、案の定、目と目の真ん中に深々とつきさって、これが教命傷となったと言う。つばきにそんな科学的効能があろうとは、ファーブルも知らなかった世紀の発見であった。
三上山まではその日に死にきれず
秀郷に帯を解かれし三上山 
秀郷の武勇に感動した竜宮では、早速最初の姫君をお礼の使者として、三つの宝物を彼の許に送って来た。
一、いくら裁っても、尽きることのない巻絹 2巻
一、いくら出しても、尽きることなく米の出てくる俵 1俵
一、いくら食べても、後から後から料理の出てくる赤銅の鍋   1個
何となくグリム童話を思わせる内容である。この不思議な俵のおかげで、俵藤太と呼ぶに至つたと言うのだが、これは間違い。本当は、彼の一族の根拠地が、近江國、栗太郡田原の荘にあったためで、逆にこの名前から、俵の伝説が生まれたらしい。真相というものは、何時でもつまらないものである。
所で、話にはまだ続きがある。竜宮の姫君は、此等の贈り物をした上で、
「永年の宿敵を倒して頂き、一門眷属の喜び、これに過ぎるものなく、是非一度竜宮にお招き申したく、何率お闘き入れを・・・」
という次第で、美女の案内に従って竜宮への探訪旅行が行なわれる。但しお伽草紙による竜宮の描写は至極平凡でつまらない。
藤太様御入りと海月門を開け
珍しさ竜宮米を藤太食い
浦島は無事かと藤太たずねられ
さんざん御馳走になった上に、今回も又新しい贈り物として、黄金の札をおどした鎧、黄金作りの太刀のほかに、むかし舐園精舎の霊域で鳴らされた鐘を、そのまま写した釣鐘を土産にくれたと言うから丁寧である。 
竜宮は何ぞか土産くれる所 
これは種々御丁寧なと俵藤太 
お伽草紙では、藤太もさすがにもて余し、
「此れ程の重き品々、いかに運ぶべき?」
と文句を言っているが、竜王は、
「左様なことは、全て当方の手で、」
とか何とか、適当に誤魔化している。 
海坊主持ちにしやれと藤太言い 
水際で藤太土産に大こまり 
竜宮の使いの者たちが帰ってしまった後、さてどうやつて引っ張り上げたか知らないが、この吊り鐘、結局は三井の園城寺に奉納され、一撞き毎に諸行無常の理を、人々の心に響かせていると、お伽草紙は説いている。 
一景は竜宮にまで響いてる 
越後屋の寺へ秀郷鐘をあげ 
三井寺と聞くと、直ぐに越後屋の寺と考えるのは、江戸ツ子の酒落か、それとも無知か、はっきりとはしないが、とにかく越後屋を上回るほどの金があり、武器があり、その上に力もあるとすれば、天下に名を上げる為にぱ、あとはチャンスだけだつた訳で、それが「天慶の乱」であり、犠牲になった将門には、大変気の毒な次第だったという訳なのである。 
「俵藤太物語」によれば、秀郷も一時は将門に加担して、関東独立の夢を描いたこともあつたらしい。下野の押領使として、関東の情勢をつぶさに観望していた駅だから、その位のことはあっても当然であろう。しかし、一度相馬に将門を訪ねてみて、ガッカリしたのだという。彼が将門の邸に案内を申し入れた時、将門は大喜びをしたらしい。かねてから、武勇の誉れ高い秀郷との協カを切望していたからである。折から風昌上ガりか何かで、髪を梳っていたのに、それを結びもあえず、片手に握つたまま、しかも白い下着のままで、中門まで駆け出して迎え入れたと言う。我々現代人の目から見れば、誠に気取りの無い爽やかな態度で、男同志胸襟を開いて語るにふさわしい性格と見えるのだが、秀郷には、どうにも軽々しいと映ったらしい。 更に、一緒に食事をすることになつた時、将門はしきりに飯粒をこぼし、しかもそれを、自分で拾って口に入れたというのである。
秀郷は、"その粗野にして、品のないことは、到底天下を取る器にあらず、又共に語るに足る人物ではない。"と見抜いて、協力を断念したと言う。 
将門は愛想すぎて見限られ 
めし時や髪を結う時藤太来る 
秀郷は頭見い見いあいさつし 
こうした話を読んでいると、どうも秀郷の貴族趣味が鼻につく感じだが、その秀郷、さて将門を見限ったものの、今度はどうしたら将門が倒せるかと調べてみると、これが又、実に大変な仕事だという事が解つて来た。何しろ将門という男、戦場では常に6人の影武者と言うか、影そのもののような存在に囲まれ、しかも全身これ鉄で覆われ、何処にも矢の立つ所の無い、不死身の怪物だと言うのである。どうしたらよいか迷つた末に、将門の屋形に住む小宰相の局という女に言い寄り、彼女の口から将門の秘密を聞き出すことに成功する。即ち6人の影と言っても、自分から動くのは将門自身しかないこと、全身鉄で出来ているようでも、こめかみだけは唯一の弱点として残されていると言うのである。日本でもアキレスの腱はあったのである。 
運の尽き俵に米を見つけられ 
ぐるをやめにしてこめかみをねらう也 
生き馬の目を秀郷は抜いた人 
かくして天慶3年(940)2月14日、秀郷と平ノ貞盛の違合軍に急襲された将門は、奮戦の末、38歳を一期に討ち死にをする。これに組した一味徒党も、それぞれに悲惨な末路を辿る中に、秀郷は一人、かねての望み通り鎮守府将軍に任ぜられ、平泉の繁栄に向かって、栄光の礎を築いていった訳だが、かくて万事めでたしめでたしとばかりは行かなかったようである。将門の首は、その後京に送られ、刑場に晒されたのだが、一月を経ても色を変えず、時々歯を噛み鳴らして怒りの形相を示し、人々を震え上がらせたとか、藤六という男が、
将門は こめかみよりぞ 射られけり
俵藤太が はかりごとして
と狂歌を詠むと、ニヤリと笑って、それからは死人の色に変わったという話が、古く「平治物語」に出ている。これは、俵藤太伝説の成立の古さを示すも一のではあるが、同時に将門の怨霊説話の普及の広さをも語るものと言えるであろう。  
江戸ツ子の"将門びいき"は前にも書いたことだが、関東一円の民衆による"将門崇拝"は、更に広く、且つ根深いものがあるらしく、茨城県岩井市の「国王神社」をはじめ、沢山の将門遺蹟、また岩井市の延命院その他に見られる、密かに将門に模した石像などを祀る「隠れ将門」の伝承など、調べてみれば数え切れない程あると言われているのに対して、俵藤太については、そうした現象は殆ど見ら九ないのは、如何にも残念である。 歴史に対する民衆の眼の奥深さと言うものを、今更のように感じさせる好例と言えるかも知れない。  
 
天神信仰
日本における天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。
藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、すぐに、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀った。その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(御霊信仰も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府には先に醍醐天皇の勅命により藤原仲平によって建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮で崇奉された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮天神」の勅号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この頃に描かれた『天神縁起』によれば、この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神、皇族ほか歴代幕府・戦国大名などの武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。
元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神さま、天神さんなどとよばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮、天満神社、天神社、菅原神社、北野天神社、北野神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。
発祥の地
北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮では「総本社」、太宰府天満宮では「総本宮」と呼称し、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。ただし「日本三大天神」などと称する場合には、太宰府天満宮を外して北野天満宮を残す例がある。
各地の天神信仰
福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛軸)を飾る。福井の一部地域では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、富山藩や加賀藩(石川県)など前田氏の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家は菅原氏の出を称しており、その領内には天神社・天満宮が他地域に比べて大変多い。前田家の家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、先祖が菅原氏であるためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」(加賀梅鉢)と呼ばれている。
天神信仰と数字
菅原道真を主祭神としている神社では、道真の誕生日が6月25日、命日が2月25日で、ともに25日であったことから、毎月25日を例祭としていることが多い。江戸時代でも毎月25日は天神様の縁日であり、とくに旧暦1月25日を「始め天神」、12月25日を「終い天神」とよんで参詣したが、これは新暦に移行した現在でもそう呼ばれている。また菅公聖蹟二十五拝・洛陽天満宮二十五社順拝・江戸二十五天神のように特定の25社を巡礼する風習も存在する。
天神信仰と牛
菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。  
 
■怨霊伝説

 

平将門と怨霊伝説
平将門といえば、祟りや怨念の話を思い浮かべる。現代日本の中心地である千代田区に至っても、将門公の祟り話しが伝えられるほどで、千代田区大手町にある将門の首塚が、京都から飛んできた将門の首を祭ったところである−という言い伝えが一般的であろう。そして、将門の霊を祀った神社が神田明神である(昔は大手町付近に位置したという)。
では、なぜ掛川に首塚なのか。残念ながら記録がないため、この十九首塚が将門の塚で あるという定かな証拠はない。ただ、昭和31年、塚保存のために、五輪塔建立にあたって塚の一部を掘り返した際、長さ20センチの「刀子(とうす)」と呼ばれる小刀と、手のひら大の土器片が出土し、1200年位前のものと鑑定された。この塚の時代を示資料は他になく、塚の主について確かなことはわからない。
十九首塚伝説の形成
将門は、平良持(たいらよしもち)の子で、京に上り摂政藤原忠平に臣従して検非違使(けんびいし・警察等)就任を希望したが受け入れられず、関東に帰って悶々とした日を送る。時が熟すのは承平5年(935)、平氏一族の内紛を契機に将門は関東武士の信望をあつめ、常陸、下野(しもつけ)、上野(こうづけ)、武蔵、相模など関東一円を占拠し、自ら新皇と称して公然と国に背くようになったという。
しかし、反逆者であるはずの将門は、その討伐直後からすでに英雄視されていたようだ。将門に関する歴史的記述は『将門記(しょうもんき)』しかなく作者は不明だが、天慶3年6月脱稿とあり、乱の直後に書かれたものである。『将門記』からは、前編にわたって将門が英雄的存在であったことが伺われ、少なくとも初期伝承から将門が英雄視されていたことがわかる。そして、江戸時代になると将門を祀る神社は徳川家に養護され、大正時代になっても庁舎を移転させるほどの影響力をもち、今に至るまでその伝説を形成しつづけてきた。
この十九首塚伝説は、いくさ語りの民間伝承と戦死者供養の民間信仰を、村人が代々口伝したものと見受けられるが、将門の怨霊は登場しない。どちらかといえば、秀郷の武将魂を讃えた話のようにも見える。渡邊昭五氏によると、秀郷が英雄視されたのは中世以降のことで、藤原秀郷の鬼退治や百足退治の伝説が伝えられ、さらに彼の子孫によって『俵藤田物語』(*)などの絵巻に語られて武勇話が誇示されるようになったというから、それ以降の伝承なのかもしれない。 *俵藤太=藤原秀郷
将門と七つの魂
将門の本拠地は、現在の千葉県成田山だった。そのため、成田山周辺の集落や将門神社がある栃木群馬など、北関東を中心に広範囲にわたって将門伝説が伝えられている。
将門伝説には「七つ」が多く出てくる。千葉県木間ヶ瀬村や飯塚村の七本桜、七影武者の土人形をつくってお供えするお祭り(同地)、千葉県亥鼻城跡の七ツ塚(七天王塚)、東京都奥多摩の七ツ石山など、すべて将門の影武者や妖術の伝説が伝えられている。その中でも興味深いのは、秀郷が将門を討ちとったとき、刀傷から七つの魂が飛び散り、各地へ飛来したという言い伝えである。江戸時代になって、これを芝居仕立てに脚色し読み物にしたのが、
山東京伝の黄表紙『時代世話二挺鼓』だろう。将門が、妖術を使って七つの分身を見せ、対抗して秀郷が覗鏡で八重の姿を見せるなどの見せ場が描かれており、そのクライマックス、将門が斬られるシーンでは、打ち落とされた将門の首から七つの魂が飛び散る。七は将門伝説以前から妙見に伝わる数字であったことから、秩父妙見宮と将門伝説の関係を説く書物もあり興味深い。
この十九首塚隣の東光寺には、成田山不動堂のほこらがある。これは明治10年に将門縁りの東光寺が、本山の心勝寺より不動明王の霊を移して祭ったもので、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可された。 
 

 

 
 

 

 
■将門の関係者 

 

藤原秀郷
平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。
出自
藤原北家魚名流が通説とされる。太田亮などによる下野国史生郷の土豪・鳥取氏いう説もあり、古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓を名乗ったとする説もあるが定かではない。また秀郷の祖父藤原豊沢と藤原魚名の孫藤原藤成とが親子として繋がらないとし、居住地、祭祀の傾向からも実際には毛野末流と見る説もある。
俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原荘(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。
経歴
生年は不詳とされるが、「田原族譜」によると寛平3年(891年)とされる。いずれにせよ、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。
秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。
天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この時、秀郷は宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。また、この時に秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。
複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。 この功により同年3月、従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。
将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなる。没年は「田原族譜」によると正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳で亡くなったとされるが、「系図纂要」によると天徳2年2月17日(958年3月10日)に亡くなったとされる。
百足退治伝説
「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。
琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した。
諸本
俵藤太の百足退治の説話の初出は『太平記』十五巻といわれる。しかし『俵藤太物語』の古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある。御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった。
大蛇の化身と竜宮
御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する。ところが太平記では、大蛇は小男の姿でまみえて早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると藤太が退治するという展開になっている。
百足
百足は太平記では三上山でなく比良山を棲み処とする。百足が襲ってきたとき、それは松明が二、三千本も連なって動いているかのようだと形容されているが、三上山を七巻半する長さだったという記述が、『近江輿地志略』(1723年)にみえる。
唾をつけた矢を放つとき、御伽草子では、八幡神に祈念しており、射止めた後も百足を「ずたずたに切り捨て」た、とある。
財宝
俵藤太物語では竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札(こがねざね)の鎧や太刀を授かる。
時代が下ると、褒美の品目も十種に増える。そして太刀にも「遅来矢(ちくし)」という号し、赤堀家重代の宝刀となったという記述が『和漢三才図会』(1712年)や『東海道名所図会』(1797年)にみえる。
鎧が「避来矢(ひらいし)」号し、下野国の佐野家に伝わったという異文が『氏郷記』(1713年以前)にみつかり、異綴りだが「平石(ひらいし)」と「室丸(むろまる)」の2領が竜宮の贈物だったという、新井白石『本朝軍器考』(1709年)の記述となかば合致する。
鍋には「小早鍋」、俵には「首結俵」という呼称があった(『氏郷記』)とする記載もみえる。
伊勢神宮には、秀郷が所有したと伝わる刀剣が二振り奉納されている。ひとつは百足退治に際して龍神から送られたという伝来のある毛抜形太刀 (伊勢)で、赤堀家重代の宝刀だったものが複数の手を渡り伊勢に所蔵されることになったと説明される。もうひとつは「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で、8世紀の刀工、神息の作と伝わるが、14世紀頃の刀剣と鑑定されている。このほか滋賀県竹生島にも秀郷奉納と伝わる毛抜形太刀 (宝厳寺)が存在する。
将門
御伽草子「俵藤太物語」の下巻では、平将門討伐が描かれる。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。
原話
鎌倉初期(1200年頃)成立の『古事談』に俵藤太の百足退治と類似した粟津冠者(あわづかんじゃ)の説話があり、これが原話でないかと考えられている。粟津冠者という剛の者が、鐘を鋳る鉄を求めて出雲に向かうと暴風に見舞われ、漕ぎつけた謎の小童に拾われ海底の龍宮に連れていかれる、そして宿敵を射殺してくれと嘆願され、敵の大蛇が眷属をひきつれてやってきたところを仕留め、褒美に得た鐘はめぐりめぐって三井寺に収められた、というあらすじである。
また、百足は鉄の鉱脈を表わし、「射る」ことは「鋳る」ことに通じるという若尾五雄の考察もある。
土地伝説
秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。また、類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼・百目鬼を討ったとされる。
信夫郡飯坂
福島市の飯坂温泉にも俵藤太の伝承がある。福島市飯坂は信夫佐藤氏の本拠地であり、藤原秀郷の子千常を始祖とすると言われる。奥州藤原氏の一族であり、吾妻鏡では、藤原秀衡が勇敢な武将として、近親者である佐藤継信・忠信を、義経を守らせるため、付き従わせている。 内容としては、女に姿を変えた大蛇の依頼で、俵藤太が大百足を退治し、佐波来湯の北隣りに新たに沸き出た泉(藤太湯)で、洗い清め癒したという話である。
後裔氏族
秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。
下野国  佐野氏 / 足利氏 (藤原氏) / 小山氏 / 長沼氏 / 皆川氏 / 薬師寺氏 / 田沼氏 / 下野小野寺氏 / 榎本氏
武蔵国  比企氏 / 吉見氏(小山氏支流)
常陸国  那珂氏 / 安島氏 / 小野崎氏 / 小貫氏 / 内桶氏 / 茅根氏 / 根本氏 / 助川氏 / 川野辺氏 / 佐藤氏 / 水谷氏 / 江戸氏 / 綿引氏
下総国  結城氏 / 下河辺氏 / 伊藤氏
上野国  赤堀氏 / 岩櫃斎藤氏 / 桐生氏 / 佐貫氏 / 大胡氏 / 山上氏 / 園田氏
相模国  山内首藤氏(首藤氏→山内氏) / 波多野氏(秦野氏) / 沼田氏
また京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。
紀伊  佐藤氏 / 尾藤氏 / 伊賀氏 / 湯浅氏
近江  近藤氏 / 蒲生氏 / 今井氏
伊勢  伊藤氏
信濃  大石氏
陸奥  奥州藤原氏
その他  内藤氏 / 佐藤氏 / 大友氏 / 少弐氏 / 龍造寺氏 / 立花氏 / 武藤氏 / 平井氏 / 筑紫氏 / 田村氏 / 大屋氏 / 長沼氏 / 長谷川氏 / 末次氏 / 大平氏等々
秀郷を祀る神社
唐沢山神社(旧別格官幣社)(栃木県佐野市)
鵜森神社(三重県四日市市)
秀郷稲荷(東京都府中市高安寺(伝藤原秀郷居館)内)
雲住寺と龍王宮秀郷社(滋賀県大津市) 
 
如蔵尼
(にょぞうに、生没年不詳) 平安時代の女性。平将門の娘(三女)とされる。 地蔵菩薩に深く帰依し、地蔵尼(じぞうに)とも呼ばれた。
平将門には幾人かの娘がいたと伝わるが、なかでも如蔵尼は説話や伝説の中で非常に有名で、『今昔物語集』や『元亨釈書』などに記されており、概略は以下のようになる。
「如蔵尼は将門の三女で大変美しかったが、結婚を求められても断り続けていた。父将門が謀反し敗れ、一族に誅罰が及んだので、奥州に遁れ恵日寺の傍らに庵を結び独りで暮らした。ある日病気で死ぬと地獄に落ちるが、地蔵菩薩の助けにより蘇生した。地蔵菩薩の大慈大悲を受けた女は地蔵に深く帰依し、法名も如蔵尼と改め、専心に地蔵を持した。齢80余りで入滅した(『元亨釈書』)。」
『今昔物語集』の巻17の29にある説話では、ほぼ同じストーリーでありながら、如蔵尼は将行(将門の誤記か?)の三女とされており、奥州に遁れる顛末の記載が無いなど、将門との繋がりが薄れている。
生涯
前項にあるように如蔵尼は将門の三女として記されることが多いが異説もある。『尊卑文脈脱漏』は『元亨釈書』を引用し、『桓武平氏系図』も将門の娘と記すが、茨城県結城市の小谷家に伝わる系図では長子が如蔵尼となっている。また『相馬系図』・『諸家系図纂』では将門の弟・将頼の娘としている。俗名は不明だが、滝夜叉姫と伝える伝承がある(後述)。
また、将門の子・平良門を育てたとの伝承もある。
茨城県坂東市の国王神社には将門の三十三回忌にあたり如蔵尼が刻したとする将門の神像が現存し、同様に如蔵尼自刻の将門像は福島県相馬市中村の国王神社、同小高の国王神社にも伝わる。
福島県いわき市の恵日寺には如蔵尼のものと伝わる地蔵菩薩像があったが、戦禍で失われた。また、千葉県柏市の龍光院にも如蔵尼が一族の菩提を弔い納めたとする地蔵菩薩像が伝わる。
福島県磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺のいずれにも墓が伝わっている。
滝夜叉姫 1
滝夜叉姫は近世に成立した復讐譚で有名であるが、如蔵尼とのつながりを示す伝説もある。福島県磐梯町の恵日寺にある如蔵尼の墓碑には『滝夜叉姫が将門の死後に再興を図ったが失敗し出家した』と記されている。福島県いわき市の恵日寺周辺にはタケヤサ姫を慕って共に逃れた者の子孫と伝わる旧家がある。
また、秋田県仙北市にも将門の娘・滝夜叉姫が逃れてきたという伝承があるが、こちらでは出家をしておらず子を成して村祖となったと伝わる。集落にある中生保内神社には滝夜叉姫持参の地蔵菩薩像があり、如蔵尼伝説と通い合うものが認められる。
滝夜叉姫 2
平将門の娘とされる伝説上の妖術使い。本来の名は五月姫(さつきひめ)という。
天慶の乱にて父将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされるが、生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目には貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、五月姫は妖術を授けられた。貴船神社の荒神は「丑の刻参り」の呪詛神として有名であり、貴船山に丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨した神とも伝えられる。貴船神社は、『栄花物語』や『お伽草子』、能「鉄輪」、宇治の橋姫の伝承などで取り上げられている。
荒御霊のお告げに従って滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総国へ戻り、相馬の城にて夜叉丸や蜘蛛丸ら手下を集め、朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝夜叉姫成敗の勅命を大宅中将光圀(通称太郎)と山城光成に下し、激闘の末に陰陽の術を持って滝夜叉姫を成敗した。死の間際、滝夜叉姫は改心して平将門のもとに昇天したという。 なお、坂上田村麻呂が鈴鹿山にて、大鬼人の犬神丸の手下である鬼人に夜叉丸という者がいる。夜叉丸は改心し、田村麻呂の家臣になっている。この夜叉丸との関係は不明。
伝説では妖術使いとされるが、実際は尼寺に逃げ尼として生涯を遂げている。将門の娘、五月姫こと瀧夜盛姫の墓は、現在の茨城県つくば市松塚、東福寺から西へ200メートル離れた畑の中に小さな塚がある。以前は西福寺に尼として出家して夜叉と呼ばれているが、地元では瀧夜盛姫と呼ばれ、今でも線香が手向けられている。東福寺境内の栄幼稚園入り口には、瀧夜盛姫の石棺に使われていた大きな一枚石が数枚置かれており、以前は小川の橋げたとして使われていた。
瀧夜叉姫 3
瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)は平将門の第三女と言われています。如蔵尼(にょぞうに)と同一人物であるという伝承もあれば別人とする説もあり、彼女を巡る伝説には様々なバリエーションがあります。
如蔵尼の項でも書きましたが、如蔵尼の墓と伝えられるものが福島県の2つの恵日寺(えにちじ)に残されています。福島県耶麻郡磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺(四倉町玉山字南作1)です。前者に残る伝説によると、将門滅亡後に、三女の滝夜叉姫がこの地に逃れ、庵をむすびました。ここには如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があるそうです。後者には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が建っているそうです。両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉としているようです。
ところで、秋田県の田沢湖のそばにある田沢町にも瀧夜叉姫の伝説が残っています。
実際にかの地を訪問された悪路王様のお話から、かの地に残る伝説の概要を引用させていただきますと、
「将門の一族は乱の後、離散し奥州に逃げ延びました。滝夜叉姫は五人の家来に守られ中生保内(なかおぼない)に住むようになり、村の祖になったと伝えられています。滝夜叉姫を埋葬したという姫塚が現在も残り、江戸時代には「村祖姫塚」の石碑も建っていました。また、姫が守り本尊として持参した延命地蔵尊は中生保内神社に奉られ今なお崇敬されています。」
「場所ですが、国道341号線を北上し、田沢湖駅方面へ曲がって行けば意外とあっさり見つかります。「姫塚公園」という名でかなり目立ちましたので。そのまま、奥へ走っていけば中生保内神社もあります。残念ながら延命地蔵尊は判りませんでした。」
ということです。悪路王様、貴重なお話をお伺いできて、心から感謝をいたしております♪どうもありがとうございました。
上記の田沢町の伝説では、瀧夜叉姫はかの地で5人の子を産み、それぞれが村祖となったと伝えられていて、瀧夜叉姫の出家や彼女を如蔵尼と結びつける伝承はありません。
さて、瀧夜叉姫伝説が劇的な復讐物語に変貌したのは、どうやら江戸時代に入ってからのようです。関東の英雄・将門の霊力をもって江戸の鬼門を守るという徳川家康(あるいは天海)の配慮により、江戸時代には意図的に将門の地位が上げられ、また庶民の間の人気も沸騰したわけなのですが、瀧夜叉の変貌も(あくまで想像なのですが)その辺りの事情と関連があるのかもしれません。復讐譚において瀧夜叉姫と絡んで登場するのが将門の息子とされる良門(よしかど)ですが、彼女または彼が登場する物語には以下のようなものがあります。
・「善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)」(山東京伝/文化4年(1807年)刊)
・「将門山瀧夜叉姫物語」(文化7年(1810年)に刊行された京伝の「親敵うとふ之俤」を改題して明治19年に再刊されたもの。)
・「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」(近松門左衛門/享保9年(1724年)刊)
などなど。ちなみに「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」に登場する将門の娘は「小蝶」という名で「瀧夜叉」ではありません。どの作品にも共通するのは、将門の娘が妖術使いに変身していること。京伝の瀧夜叉はなんと蝦蟇憑きだったりします。
近松門左衛門の「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」が上演されて以来、将門の娘を巡る復讐譚が浄瑠璃や歌舞伎でしばしば取り上げられるようになったそうです。ちょっと気になったのが「吾妻花相馬内裡(あづまのはなそうまのだいり)」という顔見世狂言の筋立てです。将門の娘の俤姫(おもかげひめ)が安倍晴明に恋をしたけれど、渡辺綱(わたなべのつな)の手に掛かって殺され、その怨念が良門に組して復讐するというお話です。晴明に綱とくれば、怨霊・魑魅魍魎(ちみもうりょう)・鬼のてんこもり。これは受けたでしょうね!
将門・瀧夜叉姫関係の物語や戯曲のいくつかは「平将門資料集」に載っていますので、興味をお持ちの方はご参考になさってください。「俵藤太物語・下」「けいせい懸物語(かかりものがたり)」「暫(しばらく)」「忍夜恋曲者(しのぶよるこいはくせもの)」「昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)」が掲載されています。  
 

 

 
■青森県

 

入内観音堂・白山神社   青森市入内字駒田
津軽三十三霊場第24番札所。
本尊は慈覚大師作とも伝えられる聖観世音菩薩像。
小金山神社社記によりますと坂上田村麻呂が白山権現を祀って、天慶年間に平将門の孫の信田小太郎が再興し、観音堂を建立したと伝えます。
慶長5年には津軽為信が入内山華福寺として再建し、寺禄130石を与えましたが荒廃し、寛永18年に住民により観音堂が再建されたといいます。
貞享3年には浦町組、油川組、後潟組、横内組で再建し、4か組の鎮守となりました。
享和3年寺社領分限帳に正観音堂が見え、末社として白山宮と薬師堂が記されています。
現在の堂宇は昭和20年代に焼失した後、昭和34年に再建と伝えます。
観音堂の裏手を上っていくと薬師如来と阿弥陀如来を祀る小堂があります。
更に上ったところに鳥居がありました。
こちらが白山神社。
小金山神社の社記によりますと、坂上田村麻呂が白山権現を祀り、天慶年間(938-947)平将門の孫である信田小太郎が再建し、白山権現社と観音堂を建てたと伝えます。
八十一隣姫は菊理姫で白山神社の御祭神。
かなり重厚なドアが設置されていましたが開けっ放しで御神体(菊理姫像?仏像と違って御神体=御祭神・神像とは限りませんが…)丸見えでしたよ。
菅江真澄が『津軽の奥』にて「年を経た木立ちが茂りあっているなかに、二つ三つばかりの鳥居が並んでいるので、はいって詣でた。ここでも、大同のころに建てたといういわれを語っていた。坂をあがった左方に、ちいさな祠があり、くくりひめをあがめまつるという。この祠の内に朽ちた木像があった。また薬師仏の堂がある。銀杏の落葉をふみ、坂をくだってゆく左側の木々の間に、慶長としるした五輪塔があった。苔がふかく、誰がたてたものとも知られなかった。…(中略)…このみちのおくにたくさんある神社のなかで、その名がもっとも高く知られた黄金山の神を祭ったのはこの森であっただろうが、中昔のころ、宮を堂につくりかえてここに観音をすえたのであろう。」と記しています。
また、『すみかの山』にて「乳内(入内)について、かの円仁がつくられたという観世音の堂に詣でた。四百年のむかしは、白山のみやしろといって、山に八十一隣姫をまつったところであるが、いまはこの神を地主の神として、観世音菩薩を槻木館の主人隅田の小太郎という人が堂を建てておさめられたのだという。ここをこがね山の神社かと、かねてから推測していたが、あやまりだったので、そのことはしるさない。」と記しています。
入内観音堂 2
集落からは少しばかり離れた杉林の中にあり、日光は遮られて仄暗かった。杉林は巨木が多く、中でも小金山神社の参道には二本の巨大な杉が聳え立ち驚かせる。まず左手に観音堂があり、右手に小金山神社の社殿がある。少し山を登ると薬師如来と阿弥陀如来を祀った小堂があり、その上には白山神社がある。
806〜810年に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷の首長・大獄丸を討ち取り、その首を埋めた上に観世音を祀ったのが始まりとされる。
938〜947年、平将門の孫の信田小太郎が家臣の謀反に遭い、難を逃れてこの地に辿り着き、白山権現社と観音堂を建立した。
1596〜1616年、津軽為信が観音堂を再建。華福寺の寺格を与えられるも、住職がいない為、更に火事に遭い荒廃してしまう。
1641年に村人達によって観音堂が再建される。
明治の大悪法・神仏分離令によって観音堂に神体が祀られ、小金山神社になる。
明治の中期には、村人によって守られた観音像が再び祀られる。
昭和初期には小金山神社の社殿が別個で建てられ、神体はそちらに移る。
昭和20年に堂宇が家事に遭うも、再建され現在に至る。
観音堂内に入って拝む事が出来たが、本尊は見ることが出来なかった。本尊は聖観世音菩薩像で、慈覚大師作とされている。
最後に入内観音堂のご詠歌 〜おしなべて 貴く賤しき 者までも ここに歩みを 運ぶなりけり〜 
「中里八幡宮」 龍神様   北津軽郡中泊町
義経伝説が残る宮野沢の白旗神社からの帰り道、「深郷田」という集落を通りました。旧中里町全体にいえることですが、この地域もまた縄文時代からの文化が花開いたところで、縄文前期の土器(※深郷田式土器と命名されている)から晩期の亀ヶ岡式土器に至るまで多くの遺物が発見されており、長期間に渡って古代集落が形成されていたことが分かっています。なかでも一本松遺跡は「深郷田館」とも呼ばれ、空壕を巡らせた跡も見つかっており、整然と区画された集落が、古代から中世にかけて存在していたとされています。そんな歴史をもつ深郷田の集落に鎮座しているのが中里八幡宮です。
実は私は、深郷田を「ふこうだ」と読むということは知りませんでした。この中里八幡宮は、以前は集落名から「深郷田八幡宮」と称していたようです。
その縁起については、
「御祭神:譽田別尊  往昔中里村袴腰岳に鎮座ありしを天正二年現社地へ遷せりと伝へらる。 天正七年再建して中里、 深郷田、 宮野沢三ケ村の産土神となる。 社宝の八幡宮と書せし額面は神祗伯資延王の眞筆と伝へらる。 明治六年四月郷社に列格せられ、 同四十年一月十五日神饌幣帛料供進指定神社に列せらる。」
とあります。昔、袴腰岳の山頂に祀られていた八幡神が、白旗神社を経て、この社に落ち着いたという伝承があり、以来、地域の産土社として人々の崇敬を集めてきた由緒ある神社です。村の一地域の「深郷田八幡宮」から、村全体を示す「中里八幡宮」へと社名が変わったのも、そうしたより広い地域の人々により、信仰されてきたからなのでしょう。
私が訪ねたときは、一組のご夫婦が境内を掃除しているところでした。私が、拝殿の中を覗き込んでいると(鍵がかかっていたので)、ご主人が鍵を開け、拝殿の中を案内してくれました。どうやら、このご夫婦は氏子の代表の方だったらしいです。ご主人は、拝殿の中を見せながら、前述したこの神社の歴史について、誇らしげに語ってくれました。境内の神馬や狛犬なども、名のある石工の作品なのだそうです。
拝殿の中には、いかにも八幡様らしく、お使いの鳩が描かれた幕が張られています。この神社には、青森県の著名人が数多く参拝に訪れたらしく、長年に渡って青森県知事を務めた竹内俊吉氏の「中里八幡宮を讃えて」と題する歌額中里八幡宮を讃えても掲げられていました。
『荒海の北の守りにつかいせし 白鳩さまの御名ぞかぐわし』
拝殿、本殿ほか
一の鳥居のそばには地蔵堂があります。中には「奥津軽」を感じさせる十字前掛けをしたお地蔵様が二体。境内は小高い丘の上にありますが、社殿の周りには末社や石碑がいくつかありました。猿田彦碑(庚申塔)は文化5 年(1808)、二十三夜塔は元治2 年(1865)に建立されたもののようです。
二の鳥居の隣にもうひとつ赤い鳥居がありましたが、その奥には聖徳太子碑が立っていました。どうして聖徳太子の碑がここにあるのか不思議です。
参道のと中には「山大神之碑」と刻まれた石碑があり、そこには山ノ神のお堂があります。中に入ってみると、入口付近に御神輿が置かれていました。お祭り用のものなのでしょうか。
地蔵堂、石碑、山神堂
山神堂と聖徳太子碑にはさまれた所にも建物がありますが、ここは薬師様を祀っているお堂です。
中に入って拝み、外へ出たとき、掃除をしていたご夫婦の奥様が、「龍神様を見ましたか。今、お出でになってるんですよ。」と、声をかけてくれました。
私は、最初、何のことか分からなかったのですが、奥様の「ろうそく!」という言葉で、「あっ」と気がつき、もう一度お堂の中へ入りました。
「龍神様」というのは、祭壇のろうそくから溶け出したろうが、あたかも龍の姿のように固まる現象なのです。以前、青森市の大星神社を訪ねたとき、その写真を見たことを思い出しました。
この不思議な「龍神様」は、人々の信心深さを愛でるために現れ、瑞兆のしるしともされています。
薬師堂の中にある燭台のひとつをよく見てみると、確かに、ろうそくの芯から流れ出たろうが、時計回りに半円を描いて、ろうそくの中央に結びついていました。
その少し幅のある螺旋状の形は正に龍。うろこのある体つき、細い首、三角形の頭、上に伸びた角、ヒゲ・・・びっくりさせられます。
このような形は、ろうそくの大きさ・太さ・材質や、芯の長さや傾き具合、炎の強さ、あるいは空気の流れなど、様々な要因によって出来るのでしょうが、やはり、一種の神秘的な現象には違いなく、拝む人にとっては貴重な宗教的体験なのだと思います。
教えてくれた奥様の一言。ー 「龍神様が来ているので、きっと神様も喜んでると思う。」 ー その通りです。 
袴形池   つがる市車力町
その形が袴に似ていることから「袴形池(はかまがたいけ)」と呼ばれるようになったということですが、牛潟池と同様、水深が3mほどで、冬場はワカサギ釣り客で賑わう農業用溜池です。牛潟池と袴形池に挟まれた地域が旧車力村の中心です。現在は車力町となり、つがる市役所の支所が置かれていますが、ここに大山祇神社が鎮座しています。
車力町大山祇神社。その由緒については、「御祭神:大山祇尊 初開享保六年 (一七二一) 氏子中より建立とあり、 七里長浜の砂岩木山の嵐を防ぐ屏風山の植林を鎮護する目的で建立したと伝えられる。 青森県神社庁」とありますが、この神社もまた、木造筒木坂の山神社同様、屏風山の守り神として大山祇神を祀る社のようです。
牛潟池と同じく、この池にも平将門の伝説があります。
「袴形の池というのがあり、池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた。側仕えをしていた都から来た女が、この池で自分の袴を洗おうとした。ところが、どうしたことか袴は向こう岸に流れ、それを取ろうとした女も池に落ちて死んでしまった。そこで「袴潟」といい、また、池の形が袴に似ているので、「袴形」ともいう。『青森の伝説』より」
「池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた」とありますが、大山祇神社の近くには、かつて「柾子館(まさこだて)」という城(館)が築かれていました。
この城は、弘元二年(1332)頃、鎌倉幕府の武将である柾子弾正という人物が、京からこの地に入部して居館とした城だといわれています。「正子どの」というのはこの柾子弾正のことなのかも知れませんが、それが平将門に置きかわっているようです(もちろん、伝説ですが)。
余談ですが、「車力(しゃりき)」という地名の由来は、「砂力(サリキ)」からきたという説や、アイヌ語の「サルキ(草原の湿地帯)」を語源とするという説がありますが、その他に、前述の柾子弾正が「京都から牛車に乗って来た」ことに因むという話も残されているようです。 
蓬田城(よもぎだじょう)   東津軽郡蓬田村
大きく大館と小館に分けられる。大館は、蓬田川の北、10万m2の広大な面積を有している。東西600m南北300m。水田に囲まれ、周囲より一段高い、杉木立に覆われた場所である。八幡宮・弁天堂が残っている。北と南東に堀が残り、北側の堀は長さ約300m・幅15〜0m・深さ3m、南東側の堀は長さ50m・幅2m・深さ50cmほどである。館周辺は縄文時代の遺跡でもあり、現在も縄文土器や土師器が出土し、昭和47年の発掘調査の際も、陶磁器が出土してる。小館は東西150m南北150m。周囲を水田に囲まれ、比高2-3mほどの場所にあり、中央の幅5m、深さ3mほどの堀により東西に分けられている。この堀は北の阿弥陀川の水を引いている。擦文土器も発見され、昭和46.47年に早稲田大学文学部考古学研究室の発掘により竪穴住居跡や井戸が発見された。築城当初は小館のみであったのが、南北朝時代から室町時代に大館が築城され、そちらに移ったと思われる。
歴史
嘉禎4年(暦仁元年・1238年)に安東盛季の弟の潮潟通貞が築城したとされる。安東氏を南部氏が駆逐すると、奥瀬氏が入城し、奥瀬建助などの名が伝わっている。奥瀬氏が退去すると、文明年間に平将門より8代目の相馬則政が入城し、蓬田越前と名乗った。その後、油川城などと共に大浦為信に対抗していたようである。「一統志」に「天正七年津軽三郡大方大浦為信の手に属しけれども、外ヶ浜筋平均未だ成らず。油川、高田、荒川、蓬田、横内の者ども召に応ぜざりしかば、油川を追落さるべしとて天正十三年三月彼の表へ手遣あり云々」との記述から、油川城落城と同時、またはその後蓬田城も大浦氏の支配下にはいり、蓬田氏は南部に逃れたようである。これにより廃城となった。
蓬田城と相馬氏
浪岡、北畠の領地は外ヶ浜に及んで、その外様館主は今別の平杢之助と蓬田館主の蓬田太三郎とがある。平杢之助の娘は北畠具運の室となって婚家となり、それが機縁となり今別八幡宮が造営された。浪岡氏の勢い盛んなる時代には、浪岡城は津軽の牙城で当時の繁昌ぶりを浪岡名所旧跡考に左の如く書かれている。
家老には赤松隼人、沼山備中、和田五郎左衛門又源常の館には源常顕忠、東方軽井沢には軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵 林、北方大釈迦の館には奥井万助、西北原子館には原子平内兵衛、西方杉銀の館には吉町弥左衛門、南方本宮館には本宮源内等の股 肱屈指の武士を置いて四方を堅め非常を戒む。
又幕僚の館主豪族は溝城の館には水木某、久井名館には佐々木某、兼平館には兼平美作守、高杉館には高杉七郎左衛門吉村、乳井 館に乳井伊豆、今渕館に平杢之助俊忠、蓬田館に蓬田太三郎、藤崎館に藤崎源蕃、金木の館に金木弾正忠、高田の館に土岐大和之介 則基、水木在家に水木兵部尉あり又城の四隅には祇園、八幡、加茂、春日の四社ありて恰も山 城の平安城を擬したり。
とある。実に蓬田太三郎は外ヶ浜の備えで北畠氏の有力な武将であった。
然らば蓬田城主がいつごろから蓬田大館城に居住したか不明であるが、相馬家の後胤で現在弘前市田町に住んでいる相馬利忠氏が所持している相馬家の系図によると、子孫の利忠と同名の相馬利忠の三男佐伝四郎則一が外ヶ浜に住居せりと書かれてある。同系図に年号を付していないのでいつごろから移り住むようになったか明らかでない。また同系図に佐伝四郎則一の孫相馬越前則政が文明四年に津軽外ヶ浜に住居し、是から相馬両家に分るとある。両家が別れた理由は十余年前の康正二年に一族の利満といかなることが原因であるか不明であるが、論争し、のち和談し利満の弟利重に女が嫁している。この論争が原因して越前則政が津軽へ来て則一のあとをうけ居住したもののようである。いずれにしても五百年以前から相馬越前が蓬田大館に住むようになったのである。
然らば相馬家が蓬田へ移り住む前にどこに居住したか同系図によって調べると、相馬家の祖先は平親王将門から八代の後胤相馬備中守利陳は筑前国舟原郡に居城、平治二年三月死去している。相馬家は武勇をもって名があった家と見えて、平治の乱に相馬備中守利陳と子の利里、利則両人が討死している。弟の利勝は手柄があって三千町の御加増になった。兄利陳が死亡したので弟の利勝が家を嗣いだ。時あたかも源平合戦の酣であったので、利勝の子の利行が寿永三年一ノ谷合戦で討死したが、嫡男利春、次男利吉が矢嶋、壇之浦で軍功があった。しかし元暦二年三月十六日平氏滅亡とともに相馬家は中央に活躍する機会を失った。しかし利春の子利信は建保元年の和田義盛の合戦に加わり千町の加増あって、のち討死した。
相馬市之進利信の三男である利久が如何なる事情あったか、正嘉二年筑前国舟原郡から南部常慎寺駒ヶ峯に移住した。 父相馬市之進利信が和田義盛の乱に加わり討死したことを儚んで陸奥国南部常慎寺駒ヶ峯(福岡)に移住したものか、また平氏の荘園が浄法寺地方にあったと中道等氏が云っておられるから、南部に平氏の一族が多数住んでいたので、同族を頼って移ってきたのか判明しない。
利久の孫、相馬民部之亮利盛は駒ヶ峯を領知しているところから考えると、利久が浄法寺へ移ったとき駒ヶ峯の領地をすでに占めていたのであろう。このことについて故森林助氏は東奥日報紙上(昭和五年八月十三日)に「外ヶ浜の史蹟蓬田城主相馬家に就て」という論文を発表された。
利陳は筑前国舟原郡を知行した居城がある。平治二年三月八日死去、男子二人、利里、利則何れも討死した。されば利陳の弟利勝 が継ぎ、同じ備中守と称す。平治合戦に手柄があったため三千町を加増されたとあるから平家方であったろう。前記二人討死とある のも平治の乱に戦死したと思われる。
利勝の子筑前守利行それから子利春、利信を経て利方に至る。以上この利方が書いたもので萃押がある。この系図が一巻、別にこ の系図を写し更に利方の弟利久から書きつづけたものが一巻ある。利久は利信の三男で正嘉二年(北条時頼執権時代)奥州に下り南 部浄慎寺駒ヶ峯に居住した。南部津軽地方の相馬氏の先祖となる訳だ。利久の嫡男利忠は父と不快の事があり、三子利盛父の後を相 続し、駒ヶ峯を占領した。
とある。森氏も如何なる理由で九州から奥州まで下ったか書いていない。系図には勿論ない。利久の嫡男相馬筑前利高の同系図によると、この佐伝四郎則一が外ヶ浜蓬田に初めて住居したことが書かれてある。ところが系図に駒ヶ峯を領していた相馬民部之亮利盛の嫡男利雄と利忠の嫡男利高と争いごとがあって遂に利雄が死んだ。これらの同族争いが原因して三男佐伝四郎則一が蓬田に居を移したのではあるまいか。
蓬田に移った佐伝四郎則一の三孫に相馬筑前則実、その子に越前則政、則之、則清があり、則実の嫡男が則政が文明四年則一の家領を継いで、これから相馬家は浄法寺駒ヶ峯と蓬田と両家に分かれたのである。これまでの系図は南部に住んでいた平盛重が認め、小五郎に渡したものである。しかして同系図には則一以後、天正十三年蓬田を退散した蓬田越前までのことが記されていない。この間の事情を森林助氏は左の如くかいている。
佐伝四郎則一の弟則喜の子を筑前守則実という。その子に越前則政、則之、則清の三人がある。則政「文明四年(足利義政時代) 津軽外ヶ浜ニ居住ナリ」と系図に書いてある。
文明四年はかの応仁の乱が起こってから六年目で、その翌五年には山名宗全と細川勝之両将が何れも病死した(同九年乱は終わる)。
かように乱世の時である。当時この外ヶ浜地方は下国安東氏の領地であった。これより先き十余年前康正二年則政は一族利満と論 争したが、後和談し利満の弟利重にその女を嫁すと系図利満の条にある。これ等一族闘争の結果則政は外ヶ浜に移住したものか、恐らくは則一の家領を承けたものであろう。(系図に則一の弟則喜の子則実を則一の三孫と書いてある)
とある。しかしてこの系図は南部に住んでいた盛重が認めて小五郎に与えたものだから、文明四年津軽に住した則政の子孫のことを書いていないと森林助氏が書き、さらに天正十三年蓬田から退散した越前と則政との数代は不明である。記されぬのは当然であるが、津軽にとりては遺憾この上もないと書いてある。
蓬田越前と相馬大作
蓬田越前が落城してから南部下斗米村に住居していたから、文政年間下斗米村相馬大作なるものが津軽侯を狙撃したのは、祖先の仇を報ゆるためにした行為であるといった史家が多かった。このことに関し青海山人(西田源蔵氏)が昭和五年七月二十八日の東奥日報に外ヶ浜の史蹟、蓬田の城址の論文の中に左の如く論じ相馬大作が蓬田越前の後裔でないと発表している。
県史編纂の中道さんも矢張り相馬大作は蓬田越前の末孫だとか言われたのを聞いて、坂本種一村長と坂本義徹さんが二戸郡の福岡 まで実地調査に出かけた。処が下斗米村の大作の後はいたって微禄しており、そこの主人は何も語る所はないが別家の何某へ聞けばよく解るだろうというので、そこへ向かった。
この家は相当の構で白髯の主人が出て応対した。そこで相馬氏は蓬田越前の後胤であろうとの事を聞いて尋ねてきた旨を語ると、 彼は沸然として色をなし、憚りながら名誉ある相馬大作の家は為信ごときに追い落とされる弱虫の蓬田越前などの子孫ではござらぬと剣もホロロの挨拶であったので閉口して帰った相な。
と書かれてある。そこで下斗米氏の系図を岩手県二戸郡福岡町下斗米与八郎編纂で大正十一年二月二十五日発行の「下斗米大作実伝」による掲載されているのをあげると左の如くである。
以上は下斗米家の系図であって、相馬家も下斗米家も遠祖は平将門である。しかし両家を比較して祖先は同じ将門であるが、後裔は全然相違し、両家は血のつながりが同一でないから、相馬大作は蓬田越前の後裔でないことが知ることができる。念のため大作の人となりをうかがってみると左の如く説明されている。
下斗米大作は、陸奥福岡の人、姓は下斗米、名は将真字は子誠、秀之進と称す。
号は形水、通称大作、盛岡藩士なり。幼名は来助藩籍を脱して中山門蔵又小一郎と云い、後に相馬大作と称す。
父は宗平衛、母は一族下斗米右兵治の姉なり。三男二女あり、長女リス、長男平九郎、次女ミワ、次男秀之進、三男竜之介。
其家系平の将門の裔相馬小次郎師胤より出づ、師胤八世の孫光胤の四男参河守胤茂の子小四郎胤成、延文中初めて南部氏へ陸奥下 斗米村に百石を食む。 
 

 

 
■岩手県

 

胆沢(いさわ)城跡 1   奥州市水沢
延暦21年(802)、坂上田村麻呂によって造営された。 大和朝廷は、東北の土地を支配するため、出羽柵・秋田柵・多賀城・胆沢城など22の城柵を築いた。 胆沢城はその一つである。城というが、国衙政庁の建物配置である。最近の発掘調査で、軍事基地よりも国衙である ことが分かった。朝廷は、鎮守府将軍を任命した。大同3年(808)以降、その鎮守府将軍が赴任する場所でもある。 鎮守府将軍の役目は、移民などの警固、蝦夷の討伐、動向監視などであった。
征夷大将軍坂上田村麻呂
38年戦争で、坂上田村麻呂(758〜811)は、延暦10年(791)に大伴弟麻呂が征東大使 (征夷大将軍という説もある)になって蝦夷征討に行った時に、征東副使で活躍した。
その活躍が認められ、延暦16年(797)に征夷大将軍になった。征夷大将軍とは、蝦夷を征討する総大将という意味である。 律令に定められていない、令外の官である。
延暦20年(801)2月、田村麻呂は、桓武天皇から蝦夷討伐の命を受け、節刀の「黒漆太刀」を賜った。節刀とは、天皇が出陣する 将軍に特別に授ける刀で、同年10月、任務が終了すると天皇に返した。その刀「黒漆太刀」は現存している。
延暦20年(801)途中鎌倉で、戦勝を祈願し巽神社を勧進した。 そして伊治城を拠点に、蝦夷と対峙した。
翌延暦21年(802)1月9日、胆沢城をつくるために、田村麻呂は、出発した。築城が始まって2か月半ほど経った4月15日、 蝦夷の首長・大墓公阿弖流為と盤具公母礼が500余人を連れて投降した。度重なる官軍との戦いで、疲弊していた。
田村麻呂は、 降伏した2人を京に連れて帰る。8月13日、2人は河内国杜山で斬首される。 蝦夷は大打撃を受け、以後しばらくは、大きな反乱はなかった。
外郭の北門の近くに「伊澤郡鎮守府八幡宮」があり、吾妻鏡文治5年(1189)9月21日条に、「源頼朝が瑞垣を寄付した。 この神社は、田村麻呂将軍が、東夷の時、勧請し崇敬した霊廟である。・・・」とある。
鎮守府が多賀城から胆沢城へ
大同3年(808)、多賀城から鎮守府が分離、胆沢城へ移された。(国府は多賀城に残された) それから10世紀半ばまで、約150年間ほどその役割を果たした。
鎮守府将軍平良文
天慶2年(939)4月17日から翌年5月まで、平良文は、奥羽でおこった反乱を鎮圧するため 陸奥守・鎮守府将軍任じられ、乱を鎮圧して胆沢城にとどまったという。 ちょうどこの間、天慶2年(939)6月から翌年2月まで平将門の乱がおこる。
鎮守府将軍源頼義と前九年の役
万寿5年(1028)以降鎮守府将軍が任命されない期間があった。その間安倍氏が鎮守府・胆沢城の実権を握った。安倍忠良(頼良の父)が陸奥権守であった。 安倍頼良は陸奥奥六郡(岩手、志波、稗貫、和賀、江刺、胆沢)の郡司であり、蝦夷の長であった。
永承6年(1051)陸奥守藤原登任は貢納物を納めず、労役も果たさない安倍頼良を鬼切部(鳴子温泉鬼首)に攻めるが敗れる。 前九年の役の前哨戦となった。
驚いた朝廷は同年源頼義を陸奥守に、天喜元年(1053)鎮守府将軍に任命した。ここに25年間不在であった鎮守府将軍が任命された。 安倍頼良を討つため、源頼義は多賀城から鎮守府・胆沢城に着任した。
しかし安倍頼良は、前年の永承7年(1052)の藤原彰子の病気平癒の大赦によって、罪を許された。 喜んだ安倍頼良は、名を頼時と改めた。しかしこれで終わったわけではない。
天喜4年(1056)源頼義の陸奥守の任期が終わり、鎮守府胆沢城から国府多賀城へ還る途中、 阿久利川において源頼義に随行していた藤原光貞、 元貞らが何者かに襲われ、人馬が殺傷されるという、いわゆる阿久利川事件が起き、前九年の役が始まる。
胆沢城 2
陸奥国胆沢郡(現在の岩手県奥州市水沢)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
文献上の初見は『日本紀略』にあり、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じた。
新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。
9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。
815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。これ以前には他国から派遣された鎮兵500人が常駐していた。初めから500人だったか、別の改正を経て500人になったのかは不明である。
9世紀後半になると、その権威は形骸化していった。  
鎮守府八幡宮   奥州市水沢
旧社格は県社。『吾妻鏡』に源頼朝が胆沢郡鎮守府に鎮座する八幡宮に参詣した事が記されている。征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷の為に下向した時に勧進され、田村麻呂の弓箭や鞭などが宝蔵に納められていると創建の由来を記している。これは平安京に八幡宮が勧進される以前に、田村麻呂により鎌倉方が崇敬する八幡神が胆沢郡の鎮守府に勧進されていた事に驚いて記述した。大正11年(1922年)に県社に列した。
御祭神
八幡大神
應神天皇(誉田別尊)
神功皇后(息長帯姫命)
市杵島姫命
由緒
当宮の御神は国家を鎮護し学問産業経済を盛んにし、災難を消滅させ人の一生を守り給う八幡大神と申し御神体は最霊石という霊石です。御祭神は應神天皇(誉田別尊)神功皇后(息長帯姫命)市杵島姫命の三柱の神に坐します。
延暦20年(801年)桓武天皇 坂上田村麻呂をして東奥鎮撫のとき当地に胆沢城を築き、鎮守府を置き、城の北東の地に豊前国(大分県)宇佐八幡神の神霊を勧請し、神宮寺の安国寺とともに鎮守府八幡宮と号し東北開拓経営の守護神となられました。
弘仁元年(810年)国家の崇敬厚く、嵯峨天皇より宸筆の八幡宮寳印をたまわりました。
嘉祥3年(850年)当宮別当職円仁(慈覚大師)は宮と宮附属の安国寺にて最勝王経を講じ、修正会、修二会、放生会、八講等の諸祭をおこない、これを恒例としました。
天慶3年(941年)藤原秀郷は平将門征討のおり、当宮に神領ならび神剣を奉納し戦勝を祈願しました。
康平5年(1063年)源頼義また源義家は鎮守府将軍として当宮に戦勝を祈願しました。
治承元年(1177年)奥州平泉藤原氏は当宮を尊崇し十六羅漢像をはじめ社殿の造営、広大な神領、数多くの神宝を奉納し厚く崇敬しました。
文治5年(1189年)源頼朝は殊に欽仰し当宮を第ニ殿と号し全神事ことごとく鎌倉幕府の御願とし、陸奥出羽両国の所済物(税)をもって盛儀諸祭を執行しこれを恒例としました。中世には奥州伊澤八幡宮とも称され奥州総奉行の葛西氏や葛西氏の重臣、柏山氏の崇敬をうけました。建武3年(1336年)北畠顕家は鎮守府将軍として祈願参拝しました。
延元2年(1337年)南北朝騒乱の兵火に遇い壮麗を極めた社殿群や多数の神宝什物はことごとく廃塵に帰しました。
貞和4年(1348年)北朝奥州探題吉良貞家は胆沢、江刺、和賀、気仙、斯波の五郡の棟別銭をもって南北朝騒乱期に焼失した社殿群を新に造営再建しました。
明徳元年(1390年)天台宗我等山安国寺を修験道に改めました。
天正19年(1591年)豊臣秀吉も厚く崇敬し浅野弾正長政をして社殿の造営と多数の境内社の修造をおこない広大な境内地の神領を安堵しました。
寛永6年(1629年) / 寛文2年(1662年) / 貞享2年(1685年) / 元禄7年(1694年) / 宝永6年(1709年) / 享保2年(1717年) 江戸時代には仙台藩伊達氏の厚い保護を受け仙台藩筆頭の八幡神として崇敬せられ、藩費をもって社殿の造営修復をしました。
寛永14年(1637年)伊達政宗の正室愛姫は慶長洪水のため決潰した社地の修造と社殿を現在地に遷座しました。
文化8年(1811年)藩主、藩士、仙台城以北奥七郡四〇六ヶ村の大肝入、肝入、検断、村々の総勧化(寄付)をもって現社殿を造営しました。当宮は奥州街道沿いに鎮座することもあって、街道を往く幕府巡見使や仙台藩主、盛岡藩主さらに幕末には函館奉行所へ赴任する幕府役人を始め近藤重蔵など歴史に名を残している者が多数参詣しています。
明治9年(1876年)明治天皇は東北御巡幸のみぎり、右大臣岩倉具視、宮内卿徳大寺實則、内閣顧問木戸孝允を遣わして御代拝あらせられました。
大正11年(1922年)県社に列しました。
数ある神宝のなかで特に嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などがあります。江戸時代の紀行家菅江真澄も当宮を参詣し最霊石や宝剣と鏑矢を拝し、その絵を残しています。 
呑香稲荷神社 大作神社 九戸政実神社   二戸市福岡
呑香稲荷神社(とんこういなり) / 大作神社 / 九戸政実神社(くのへまさざね)
3つの神社が境内に一緒にあります。南部氏の幼君の疱瘡が、枕元に立った「稲荷大明神なり」と告げる白衣白髪の老人のおかげで平癒したことから、 呑香稲荷大明神というそうです。
鳥居が立派です。この呑香稲荷さんという名前はよく聞きます。お祭りが盛んなところですよね。
「槻蔭舎(きいんしゃ)(会輔社学舎) / 安政5(1858)年、萩の小倉謙作(鯤堂)(こんどう)が当地を訪れた際、和漢学の講学を目的として、呑香稲荷神社祠官小保内孫陸(まごりく)と設立したのが会輔社である。さらに万延元(1860)年水戸の吉田房五郎(弗堂)(ぶつどう)が福岡を訪ねた際、社規を創り役員を指名、会輔社としての組織を整えた。社長を小保内孫陸、岩館民称とし、小保内定身(さだみ)、田中舘禮之助が主としてその経営に当たった。槻蔭舎は孫陸の茶室で、会輔社の講義はここで行われたのである。会輔社の名前の由来は「君子曰以文会友以友輔仁」という論語の一節である。明治11(1878)年、定身を中心とする会輔社社員は私学校である会輔社学校を設立し、近代社会学を必修科目にとりいれた。その活動は当地において青少年の育成に甚大な影響をもたらしたことはいうまでもなく、後年県下に先んじて福岡中学校の設立を見るに至ったのも、教育、政治、産業の各分野にわたって幾多の偉人を輩出したのも、その礎をここ会輔社にみることができる。」
鳥居をくぐってさ〜上がりましょう。一休みしたい気分を抑えての紫陽花が綺麗です。お社も立派です!ここはお殿さまが必ずお参りするところだったようです。「稲荷社」とあります。
呑香稲荷から右横を向きますと「大作神社」が奥にありました。白い建物は稲荷文庫です。大作神社のお堂です。幕末に津軽公襲撃未遂事件を起こした相馬大作を祭った大作神社だそうです。その脇には小さい祠がありました。こちらは崖の方にあった祠です。屋根とか壊れそうですね。「北白川宮成久王殿下御参拝記念碑」だそうです。明治天皇の第7皇女周宮房子内親王と結婚した人らしいです。
こちらが「九戸政実神社」です。ちょうど貸してもらった本がこの九戸政実のことから始まります。ここに行った後で読んでますが、すごく本が楽しいものになりました。南部家と争った人で反逆罪としてすべて血筋を無くされた人なのでここに神社があるわけないのです。
「九戸政実神社 / 九戸誠実が斬首された三の迫(宮城県栗駒町)の九戸神社から分霊して九戸城二ノの丸跡にも同神社が建立されましたが、老朽化等に伴い平成13年にこの場所に移築新築されました。」
隣に安養寺があったのですがこことつながっているのでしょうか。九戸城の「松の丸跡」から境内へ続く急な石段だそうです。
稲荷神社の左横に伏見稲荷のような鳥居がたくさんあるのが見えました。この鳥居が気持ち悪いという人がいますが私は大好きなのです。その先に何があるのか知りたい人なのです。当然お稲荷さまでお狐さんがたくさんおりました。
「稲荷文庫(いなりぶんこ) / 文久2年(1862)、呑香(とんこう)稲荷神社境内に設置された盛岡藩最初の私設図書館です。書籍購入のため、稲荷無尽講(むじんこう)を立て、その費用に充てたそうです。稲荷文庫は、二戸地方の人材育成と地域の振興を目指した会輔社の活動の一環として開かれ、会輔社の社員やその子どもたちに図書を貸し出しましたが、次第に周囲の村々の人々も利用するようになりました。蔵書は和漢書数千巻と称され、利用者は馬を仕立て、遠くは秋田県鹿角地方にまで及んだと云われています。」
「六角御輿(ろっかくみこし) / 呑香(とんこう)稲荷神社は社伝によると、延歴20年(801)または承和年間(834〜)の頃、出羽国の大物忌(おおものいみ)神社を勧請(かんじょう)したのが始まりと云われ、天和二年(1682)、小保内源左衛門が霊夢により現在の地に遷座したと伝えられています。藩政時代は盛岡藩の祈願所となり、例祭は千石格式で数十名の武士が前後を警護し、神輿渡御(みこしとぎょ)(お出かけ)が行われていました。この神輿は宝暦13年(1763)、第34代藩主南部利雄(としかつ)公が寄進したと云われ、形状的にも珍しく貴重なものです。」
呑香稲荷神社は、「とんこういなりじんじゃ」」地元では「どんこう」と濁音で呼ばれたり、単純に「いなりさん」とも呼ばれてるそうです。 
雫石御所 1   岩手郡雫石町
雫石城(しずくいし-じょう)は、岩手県岩手郡雫石町字古館の標高200mにある丘城で、比高は10mと、周辺より少し高い所にあります。別名としては、古くは滴石城と書き、雫石御所・八幡館とも呼ばれました。
最初の築城は不詳ですが、鎌倉時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます。平衡盛(たいらのひらもり)は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました。更に、その子・戸沢兼盛は、1206年に南部氏から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、出羽・小山田城を築きました。ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は門屋城から戻ることはありませんでした。
南北朝時代になると、滴石城も改修されたか、新築されたかで、今の場所にあると言う事になり、雫石・戸沢氏が治めたようです。その後、南朝の武将である北畠顕信が、1346年〜1351年頃、4年間程度、滴石に滞在して周辺の豪族に支援を募り、指揮したことから、雫石御所と呼ばれる所以となりました。やがて、出羽の戸沢氏宗家は、1423年に角館城を築城して勢力を拡大します。
戦国時代の1532年に、戸沢氏は城主の配置換えをおこなった記録があり、滴石城には手塚左衛門尉が入っています。この頃の雫石・戸沢氏の家臣団は手塚氏、長山氏、木村氏、田口氏、舘市(高橋)氏、用の沢氏、橋場氏が知られています。
その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である石川城主・石川高信によって攻撃を受けたようです。1540年、雫石城には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました。戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました。
現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした。その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです。南部領となった滴石を、高水寺城の斯波詮高が攻撃したようで、一度は、石川高信に撃退されますが諦めず、1546年に次男・斯波詮真(しば-あきざね)が入って雫石詮貞(しずくいし-あきさだ)と称し3000貫文にて「斯波・雫石御所」を開きました。この頃、雫石に改名しています。
また、遠野の陸奥・横田城主・阿曾沼氏の一族である綾織広信(綾織越前広信)が、雫石御所を頼って逃れて来たとも、軍師として迎えられたとも言われています。綾織越前は滝沢の地に、灌漑用堰を1586年頃に完成させています。
しかし、南部信直の代になると、1584年〜1586年まで何度も雫石城が攻撃を受けて、周辺を徐々に失います。1586年、雫石御所の3代目・雫石久詮(しずくいし-ひさあき)は、繋舘市城主・高橋出雲を三戸城に送って、和平交渉をしましたが高橋出雲は捕縛され、また南部勢に攻撃されました。ついに、雫石久詮は「よしゃれ」の故事(後述)を残し、雫石城を捨てて戸沢氏の家臣・手塚左京に譲ると、陸奥・高水寺城に逃れたと言います。その手塚氏も繋舘市城に退却したため、雫石城に残ったのは百姓ばかりだったとされ、雫石城は落城しました。高橋出雲は許されて釈放され、手塚左京は仙北角館に落ち伸びたと言います。
1591年になると、南部信直は雫石城に八日町太郎兵衛を入れました。しかし、1592年、豊臣秀吉の一領主一城の方針にて、雫石城は破却されています。ただし、江戸時代には雫石代官所が置かれたようです。
薬研堀(やげんぼり)の跡などがあるそうですが、街道沿いは宅地化されており、遺構はほとんど残っていません。
雫石町の祝いの席では必ず「よしゃれ」が唄い踊られてきました。これは、雫石城には水の手として、葛根田川上流から地下水路を使って用水を敷いていたそうです。そして、この水路が南部勢に発見されないよう、茶屋を設けて、美人の女将に見張らせていたと言います。南部勢は隠密を使って水源を察し、ついに茶屋に目を付けて、女将に水路の秘密を聞き出そうとしましたが、見破られてしまったという話が、歌詞になっています。その後、踊りが付けられて、民俗芸能・雫石よしゃれになった次第です。
奥州斯波氏(しばし)・雫石御所跡 2
奥州斯波氏は斯波郡高水寺 に居を置き「斯波御所」を称し、天文年間には雫石盆地にも進出、雫石御所を構えたとされる。
さて、斯波氏の祖は足利泰氏の長男足利家氏である。家氏は長男ではあったが、足利氏の家督は北条得宗家を母とする弟頼氏が継ぐ。しかし、幼少の足利氏当主がその後続いたため、家氏は足利一門の代表として、関東御家人として活躍、足利尾張家と言われ 、名族としての基礎を築いた。家氏は陸奥国斯波郡を領有したことにより、この系統は後に斯波氏を称するにいたる。家氏の曾孫が足利尊氏と同年の足利尾張守高経で、南北朝期に活躍した。高経の長男家長は陸奥守、奥州総奉行として南軍と奥州や関東で対決し活躍するも、若くして鎌倉杉本城の戦いで戦死する。17才で没した家長には妻子がなかったとされ、父高経は詮経を養子として斯波郡を領有させ、やがてこの系統は高水寺城を居城とし、斯波氏宗家(武衛家)とは別に、奥州の地に在って、将軍の一門・「斯波御所」と称され戦国末期まで栄えた。斯波御所の歴代の事績は十分にわかっていないが、天文14年経詮の代に南部氏が戸沢氏を追い出し占領していた雫石を攻略し、弟詮貞を配して雫石御所を称したとされている。
雫石御所(雫石城)は、戸沢氏の雫石城を大幅に改築したとする見解が有力で、雫石盆地のほぼ中央、雫石川の左岸(北側)の段丘に築かれた。段丘は低地から10mぐらいの高さがあり、城は濠で段丘を切り、東端に東郭、次に主郭、二の郭、三の郭と西に連なる。郭と郭の間には今でも深さ3〜4mの濠跡を見出すことができる。城の北側は、現在急峻な杉林となっている。縄張りは、出自は不明な点があるが、遠野綾部の出で斯波御所臣となった綾部越前広信の手によるものとされている。広信は土木工事が得意であったのか、土樋堰をつくり、城内に引水したとされる。
主郭は東西、南北それぞれ70〜80mあり、現在は八幡宮となっている。各郭を縦断するように生活道路が走っており、主郭まで車で乗り入れることもできる。また主郭跡の八幡宮の南側旧国道に車を停めて行くことも容易である。JRの雫石駅からも歩いて5分程度である。西側の現在の永昌寺境内などには家臣団の屋敷地もあったとされるが、その跡ははっきりしていない。
雫石御所は、残念ながらそう長くは続かなかった。詮貞、詮貴、久詮と続き、久詮の代にあたる天正14年南部氏によって滅亡に追い込まれた。  
陣ヶ岡/蜂神社   紫波郡紫波町宮手陣ヶ岡
陣ヶ岡は標高136m、南北になだらかな丘陵である。周囲には他の高台などはなく、この陣ヶ岡だけが独立している。その地形故に、この地は虚実取り混ぜさまざまな戦いの場面で何度も攻め手が陣を敷いている。特に古代から中世にかけては錚々たる武人が名を連ねており、戦国時代末期までその絢爛たる歴史を織りなしている。現在、当地に掲げられている案内板にあるものを並べてみると
蝦夷討伐のため、日本武尊が宿営。この地で妻の美夜受比売(宮簀姫)が産気付いて皇子が生まれるが、結局3日目に亡くなったので墓を築いた。これが当地にある王子森古墳とされる。
斉明天皇5年(659年)、蝦夷討伐に赴いた阿倍比羅夫が宿営。
天応元年(781年)、蝦夷討伐に赴いた道嶋嶋足が宿営。
延暦20年(801年)より蝦夷征討に赴いた坂上田村麻呂が宿営。
康平5年(1062年)、前九年の役の終戦時に、源頼義・義家親子が本陣として宿営。その後、後三年の役の時期にかけて数々の遺構を残す。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐のために出陣した源頼朝が本陣として宿営。
天正16年(1588年)、南部信直が高水寺城の斯波氏を攻める時に本陣とした。
天正19年(1591年)、九戸政実の乱を鎮圧するために出陣した蒲生氏郷が宿営したとされる。
これで多くの武将が関係する地であるが、とりわけ深いゆかりのあるのが源頼義・義家父子である。まずこの地を“陣ヶ岡”と呼ぶようになったのは、この父子が本陣を構えたことから始まるとされる。この地に野営した折、月明かりに照らされた源氏の“日月の旗”が金色に輝いて堤に映えたのを見て、源義家が勝利の吉兆として大いに士気を揚げた故事にちなんで造営された「月の輪形」がある。さらに源義家が大江匡房から伝授された“八門遁甲”の兵法を実践して極めたとされる陣形の跡とされるものが残されている。
そして頼義・義家がこの地に建立したのが、陣ヶ岡の中心に置かれた蜂神社である。これは大和の春日大社にある三日月堂より勧請されたと伝えられている。その一方で、敵の安倍貞任を攻略する時に藪の中の蜂の大群に悩まされていた義家が、逆に夜のうちに蜂の巣を袋に詰めて、翌朝それを敵陣に投げ込んで敵を混乱させて散々に討ち果たしたため、蜂を祀る神社を建立したという伝説も残されている。
前九年の役の終戦時にこの地が本陣であったことから、この地には気味の悪いものも残されている。戦いに勝利した頼義・義家父子はここで首実検をおこなった。その時に敵の首領である安倍貞任の首級を晒し置いた場所が今もなお残されている。しかもこの場所は、義家の直系の子孫である源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした際に、その最後の当主である藤原泰衡の首級を晒すためにも使われているのである(陣ヶ岡のそばにはこの泰衡の首を洗った井戸も残されている)。
現在は史跡公園として管理されているが、とにかくあらゆる時代の様々な遺構が紹介されており、その賑やかさは並みではない。 
むかで姫の墓   岩手県盛岡市名須川町
南部利直の正室・於武の方は先祖がむかで退治した時に使った矢の根を持参してきたが、その亡くなった時に、遺体の下にむかでを連想させる模様が現れた。むかでの祟りを恐れた利直は、むかで除けの堀をめぐらせた墓を作るように命じた(むかでは水が苦手なため)。だが、その墓へ行くための橋を堀に架けたのだが、一夜にして破壊されてしまった。そして何度も付け替えようとするのだが、むかでが現れてそれを破壊した。墓から大小のむかでが這い出てくるし、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたという。そこで於武の方を“むかで姫”、その墓を“むかで姫の墓”と名付けたという。
この於武の方は蒲生氏郷の養妹、つまり先祖は近江国でむかで退治をした俵藤太(藤原秀郷)である。このむかで姫の伝説は、まさにこの俵藤太の伝説が発端となって広まったものであることは間違いないだろう。 
 

 

 
■秋田県

 

滝夜叉姫   仙北市(旧・仙北郡田沢湖町) 
滝夜叉姫 1
瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)は平将門(たいらのまさかど)の第三女と言われています。如蔵尼(にょぞうに)と同一人物であるという伝承もあれば別人とする説もあり、彼女を巡る伝説には様々なバリエーションがあります。
如蔵尼の項でも書きましたが、如蔵尼の墓と伝えられるものが福島県の2つの恵日寺(えにちじ)に残されています。福島県耶麻郡磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺(四倉町玉山字南作1)です。前者に残る伝説によると、将門滅亡後に、三女の滝夜叉姫がこの地に逃れ、庵をむすびました。ここには如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があるそうです。後者には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が建っているそうです。両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉としているようです。
ところで、秋田県の田沢湖のそばにある田沢町にも瀧夜叉姫の伝説が残っています。
「将門の一族は乱の後、離散し奥州に逃げ延びました。滝夜叉姫は五人の家来に守られ中生保内(なかおぼない)に住むようになり、村の祖になったと伝えられています。滝夜叉姫を埋葬したという姫塚が現在も残り、江戸時代には「村祖姫塚」の石碑も建っていました。また、姫が守り本尊として持参した延命地蔵尊は中生保内神社に奉られ今なお崇敬されています。」
「場所ですが、国道341号線を北上し、田沢湖駅方面へ曲がって行けば意外とあっさり見つかります。「姫塚公園」という名でかなり目立ちましたので。そのまま、奥へ走っていけば中生保内神社もあります。残念ながら延命地蔵尊は判りませんでした。」ということです。
上記の田沢町の伝説では、瀧夜叉姫はかの地で5人の子を産み、それぞれが村祖となったと伝えられていて、瀧夜叉姫の出家や彼女を如蔵尼と結びつける伝承はありません。
さて、瀧夜叉姫伝説が劇的な復讐物語に変貌したのは、どうやら江戸時代に入ってからのようです。関東の英雄・将門の霊力をもって江戸の鬼門を守るという徳川家康(あるいは天海)の配慮により、江戸時代には意図的に将門の地位が上げられ、また庶民の間の人気も沸騰したわけなのですが、瀧夜叉の変貌も(あくまで想像なのですが)その辺りの事情と関連があるのかもしれません。復讐譚において瀧夜叉姫と絡んで登場するのが将門の息子とされる良門(よしかど)ですが、彼女または彼が登場する物語には以下のようなものがあります。
•「善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)」(山東京伝/文化4年(1807年)刊)
•「将門山瀧夜叉姫物語」(文化7年(1810年)に刊行された京伝の「親敵うとふ之俤」を改題して明治19年に再刊されたもの。)
•「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」(近松門左衛門/享保9年(1724年)刊)
などなど。ちなみに「関八州繋馬」に登場する将門の娘は「小蝶」という名で「瀧夜叉」ではありません。どの作品にも共通するのは、将門の娘が妖術使いに変身していること。京伝の瀧夜叉はなんと蝦蟇憑きだったりします。
近松門左衛門の「関八州繋馬」が上演されて以来、将門の娘を巡る復讐譚が浄瑠璃や歌舞伎でしばしば取り上げられるようになったそうです。ちょっと気になったのが「吾妻花相馬内裡(あづまのはなそうまのだいり)」という顔見世狂言の筋立てです。将門の娘の俤姫(おもかげひめ)が安倍晴明に恋をしたけれど、渡辺綱(わたなべのつな)の手に掛かって殺され、その怨念が良門に組して復讐するというお話です。
滝夜叉姫 2
平将門の娘とされる伝説上の妖術使い。本来の名は五月姫(さつきひめ)という。
天慶の乱にて父将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされるが、生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目には貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、五月姫は妖術を授けられた。貴船神社の荒神は「丑の刻参り」の呪詛神として有名であり、貴船山に丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨した神とも伝えられる。貴船神社は、『栄花物語』や『お伽草子』、能「鉄輪」、宇治の橋姫の伝承などで取り上げられている。
荒御霊のお告げに従って滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総国へ戻り、相馬の城にて夜叉丸や蜘蛛丸ら手下を集め、朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝夜叉姫成敗の勅命を大宅中将光圀(通称太郎)と山城光成に下し、激闘の末に陰陽の術を持って滝夜叉姫を成敗した。死の間際、滝夜叉姫は改心して平将門のもとに昇天したという。 なお、坂上田村麻呂が鈴鹿山にて、大鬼人の犬神丸の手下である鬼人に夜叉丸という者がいる。夜叉丸は改心し、田村麻呂の家臣になっている。この夜叉丸との関係は不明。
伝説では妖術使いとされるが、実際は尼寺に逃げ尼として生涯を遂げている。将門の娘、五月姫こと瀧夜盛姫の墓は、現在の茨城県つくば市松塚、東福寺から西へ200m離れた畑の中に小さな塚がある。以前は西福寺に尼として出家して夜叉と呼ばれているが、地元では瀧夜盛姫と呼ばれ、今でも線香が手向けられている。東福寺境内の栄幼稚園入り口には、瀧夜盛姫の石棺に使われていた大きな一枚石が数枚置かれており、以前は小川の橋げたとして使われていた。
滝夜叉姫 3
本名は五月姫。平将門の遺児として近世の小説・戯曲などに登場する人物。
史実上は天慶の乱で一族が滅んだため尼として余生を過ごしたと言われるが、一部の伝承では父や一族郎党を殺した源氏への恨みを晴らすべく、貴船神社で丑の刻参りを行った末に荒神の加護を得て呪術師となったとされる。様々な呪術や妖術を駆使して源家への復讐を企てる弟・良門を助けたが、最期は朝廷の遣わした陰陽師との戦いに敗れ、昇天した。
歌舞伎や浮世絵など、後世の文学作品にも脚色された形で登場する。特に水木しげるが描いた妖怪「がしゃどくろ」の絵は、歌川国芳の浮世絵「相馬の古内裏(滝夜叉姫が巨大な骸骨の妖怪を召喚する絵)」をモチーフに描かれている事で有名。
滝夜叉姫 4
平将門の遺児とされ、父の遺志を継ぎ謀反を画策する美貌の女性。史実にはないが、『前太平記』に名前が見える娘が『久留里記』や『元亨釈書』にある如蔵尼の記述を通して脚色されていったものと考えられている。太平記の世界で主要人物として扱われるようになったのは、山東京伝作『善知鳥安方忠義伝』に取り上げられてからのことである。
『善知鳥安方忠義伝』 を経た滝夜叉姫は、はじめは如月尼として仏道に励むが、蝦蟇の精霊肉芝仙から巻きを吹き込まれ、弟とともに謀反を企み妖術で仲間を集め、相馬の古内裏に巣くうようになる。しかしその陰謀は大宅太郎光国により打ち砕かれ、自害して果てるという結末をたどるが、このような脚色が行われる以前の滝夜叉姫は徳行の人でありその改変のギャップというところにもキャラクター造型の大胆さが見られる。また、蝦蟇の仙人から妖力を吹き込まれる女性というのは、宗元画のモチーフに見られる題材で、天竺徳兵衛韓噺の世界に影響を受けた際、絵と歌舞伎の世界が結びついたものと思われる。
将門の娘は他の作品にも描かれ、「小蝶」(関八州繋馬:かんはっしゅうつなぎうま)、「梅園」(楪姿見曽我:ゆずりはすがたみそが)などの名前で登場してくる。須永朝彦はこのような他の作品における将門の息女像も、少なからず滝夜叉姫の造型に関わってきていると指摘している。
浮世絵の画題として滝夜叉姫が扱われる場合は、頭にろうそくを付け、口に松明を加え、胸に鏡を掛けたスタイルというのもよく見られるが、これは他の妖術を使う女性像(例えば橋姫)が加味された形ではないだろうか。これは善塔正志も指摘している事で、様々な要素がかみ合って出来上がっているのが滝夜叉姫であるといえそうである。さらに、蝦蟇蛙といっしょに描かれるものなども見られるが、先に述べたように、滝夜叉姫の造型には宗元画の影響もある。よってこのようなモチーフの取り方はある種の原点回帰のようであるといってもよいのではないだろうか。
滝夜叉姫 5
桓武天皇の血を引く平将門の娘、百合姫は叔父の国香を殺し、筑波山に岩屋を築き手下を集めて女盗賊となり、名を滝夜叉姫と改めて悪事の限りを尽くしていた。
卜部六郎季武勤番中の源家宝刀庫より、宝刀「髭切丸」を妖術をもって盗み出す。そのため主君頼光公の怒りをかい、浪々の身となった卜部季武は、碓井太郎貞光の助成を被り、共に宝刀探索の為、諸国遍歴の旅に出る。
一方、卜部季武の妻、姫松も主人の身を案じ信州筑波山筑波権現様へ参拝するが、下降の途中滝夜叉姫のはかりごとにより、岩屋へと連れ去られる。谷間更深堂にて滝夜叉姫の手下により辛き目に遭っている妻姫松を、卜部季武は救い出し宝刀の在りかを知る。
卜部季武、碓井貞光両名は、筑波山の岩屋へと乗り込み、数々の妖術、二つの太刀を使う滝夜叉姫を激闘の末、倒し源家の宝刀「髭切丸」を奪い返すという物語です。
平将門の娘・滝夜叉姫の妖術伝説 6
父の首塚伝説や怨霊伝説の陰に隠れた感じではありますが、平将門の娘である五月姫、通称・滝夜叉姫も、とても魅力的な伝説の人物です。
五月姫は元々、武術にも富んで、父と共に参戦したとされています。天慶の乱が平定されて父が討たれた後も生き残った姫は、貴船神社で行を積んで妖術を身に着け、荒御霊のお告げによって滝夜叉姫と名乗ったとされます。
その後一度手下を率いて朝廷転覆の乱を起こしましたが、朝廷が派遣した妖術使いの大宅中将光圀と山城光成を相手に激闘の末に敗れ、果てたとも言われます。しかし実際はこの後も生き延び、朝廷転覆の願いはならなかったものの茨城で尼として多くの信者を集めたということです。
これだけ個性的で魅力的でもある滝夜叉姫こと五月姫なのに、後世において語られることが少な過ぎると思うのです。そこにも何かしら、意図的なものを感じずにいられないのは、私だけでしょうか?
滝夜叉姫が父の遺志を引き継いで、自らの乱に失敗した後も父の考えを伝承して行ったことは、知られるところです。平将門の人気が引き継がれたのは、彼女の尽力が大きかったといえるでしょう。
ただ滝夜叉姫自身が多くの信者、追従者を伴ったのには、父の思いだけでなく、彼女自身の行動にもそれなりのカリスマ性があったことは間違いありません。その要因は、妖術だけだったのでしょうか?
見ていくと、坂上田村麻呂が「蝦夷征伐」をしたのが8世紀末でして、平将門による天慶の乱が10世紀。彼の目的である「東日本朝廷復活」がそこで失敗したとしても、完全にその朝廷が消滅して朝廷が西日本に統一されたのが12世紀とされています。これは遅いというか、平将門の没後にまだ200年ほど、粘ったことになります。
そこに滝夜叉姫が絡んでいたということは、ないのでしょうか。将門が見込んだ、有能な娘です。妖術というのはやや飛躍を感じるものの、こうした表現が飛び出す場合、何かしらそれ以外の飛びぬけた才能を覆い隠すための処置である場合が多いです。
関東での活動はもう無理となった滝夜叉姫ですが、東北との交流はまだ可能だったかもしれません。彼女が茨城以北、東北に対して影響を及ぼし、東日本朝廷の存続に尽力していたと見るのは、むしろ自然なものだと思います。ただそれを表に出すことは、東日本朝廷の存在をより浮き彫りにすることになります。
平将門の乱の真相と同様に、滝夜叉姫の行動とそのキャラクターについても、出来る限りぼかして劇画的な処置でごまかす必要があったのかと思います。
姫塚 秋田県田沢湖町
平安時代、朱雀天皇のころ天慶の乱(939)に敗れた平将門(50代桓武天皇の子孫)の一族は、奥州に逃れて離散し、仏門に入る者、世を忍んで深山にひそむ者、あるいは行方知れずとなった者がいたといわれている。昭和初期まで雑木林の中に墳墓と思われる大きな塚があり、江戸時代の作という「村祖姫塚」の石碑が建っていた。現在、将門一族興亡の歴史は、その様相を止めてはいないが、滝夜叉姫を埋葬したという姫塚は、豪族の墳墓であるといわれ、姫塚付近一帯には堂の前、卵塔野、地蔵長根の称をもって名残を止め、正に往昔の繁栄を物語っている。姫が守り本尊として持参した延命地蔵尊は、中生保内神社に奉じられ、この地域一円の鎮守として今も崇敬されている。また、姫一族の古宅地といわれる周辺には、田掻地蔵、下場落し、地蔵流しなどのの民話ものこっている。   
中生保内神社 (なかおぼないじんじゃ)   仙北市田沢湖生保内
通称:中生保内の地蔵さん
御祭神 大山祇神(おおやまづみのかみ)/火産巣毘神(ほむすびのかみ)/高御産巣毘神(たかみむすびのかみ)/天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)/神御産巣毘神(かみむすびのかみ)/受母智神(うけもちのかみ)
当社は大山祇神社と愛宕神社の合併した神社である。大山祇神社は、往古より山神として、神徳特に篤く、霊験また顕著である。
その一例を挙げると、ある時古老が、神徳があるならば、東南の小高い所に柴を生じ給えと、杉の枝を挿したところ、その杉の木が大木となり十数里遠くからも見えたと言う。そういうことで、その付近の字を「十里木」と称している。
又愛宕神社は、昔延命地蔵尊と申し、村祖瀧夜叉姫(第50代桓武天皇5代の孫平将門の娘)が、父将門の東国に於て平貞盛下野押領使藤原秀郷に滅ぼされた時、難を逃れて奥羽に来、この地に居住することになる。その時所持していた守本尊を祀ったもので、神徳誠に篤いものがある。(現在姫塚がある)
その一例を挙げると、昔神社の前は深い水田で、毎年若者等は、仕事をするのに難儀をしていたが、ある時一人の童子がやって来て農耕の手伝いを始めた。それは大人も及ばないほど上手であった。昼となり田圃から上って来たところ、童子に多数の蛭が吸付き血を吸っている。悪い虫どもよ、口を焼いてやると言ったところ蛭は皆離れてしまったという。童子は泥足のまま社殿に入って行ったので見てみると、ご神体に一面泥がついている。この神、この里を万世まで守り賜うご神徳であると伏し拝んだのである。
現在この地区の蛭は人に吸付かないと言う。
明治44年秋田県知事の許可を受け、山神社、愛宕神社を合併、昭和3年呼称を中生保内神社と改め今日に至る。  
照楽寺   仙北郡美郷町六郷
照楽寺は正式には「法望山照楽寺」号する真宗大谷派の寺院です。開基は法秀坊兼綱で、先祖は平将門といわれています。平将門が使ったといわれる陣幕があり、秋田県指定有形文化財となっています。  
 

 

 
■宮城県

 

比丘尼坂   仙台市宮城野区
比丘尼坂の通りは、仙台市宮城野区内、仙台市交通局東仙台営業所前から岩切街道に接続する(今市地区に至る)細い坂道の通りです。
芭蕉の50年後、「続奥細道蝶の遊」を著した俳人北華が「塩釜へは、…原町、あんない、びくに坂、今市…」と道筋を記載しています。芭蕉一行もこのルートを通ったと思われます。現在の道が当時のものと同じかは不明です。仙台中心地、国分町を出立し現在の国道45号線に沿う旧道を東進、JR仙石線陸前原ノ町駅付近・坂下交差点の手前で北上、(今は坂下交差点→ガス局の通りで中断されてしまったがこれを横切ってNHKラジオ放送局に至るルート)ガス局前を利府街道をまた東に進み、途中JR東北本線・東仙台駅に近い「案内地区」を通り、交通局営業所前から坂道に入ります。
比丘尼坂の由来
平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。 この甘酒は「美人のうわさ高かった」比丘尼の名と共にのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどと共に塩竃街道の名物となったようです。
比丘尼坂、平将門の妹が作った甘酒
「比丘尼坂」は仙台市中心部から利府街道を東へ進み東仙台を越えたあたりを北東に入って西友燕沢店や仙台市営バス東仙台営業所の横を進んだ場所にあります。東仙台営業所の裏側の道路を北へ入って行きます。道路が上り坂になってきました。ここが「比丘尼坂」ですが住宅街の中の普通の坂道ですね。坂道は東へカーブしています。その曲がり角に辻標がありました。「燕沢」と「比丘尼坂」と書かれています。比丘尼とは出家して仏門に入った女性のことで尼僧とも言いますが、坂道の名前になった伝説が残されています。天慶三年に平将門が反乱を起こして滅ぼされた時、将門の妹が奥州に逃げてきて尼さんになってここに住みました。
尼さんになった将門の妹は茶屋を開き旅人に甘酒を売って生活したそうです。その甘酒が美味しいと評判になり、尼さんが亡くなった後も「比丘尼坂の甘酒」として受け継がれて塩釜街道の名物として明治時代まで甘酒屋が続いたそうです。
燕沢の「蒙古の碑」を見に来た時に訪れた善応寺には、尼さんを祀った「比丘尼塚」があります。「比丘尼塚」は明治四年に村の人たちが建てたもので昭和になってから善応寺に移されました。燕沢には元寇の時に敗れた蒙古兵が逃げてきたという伝説がありますが、平将門の妹が逃げてきたという伝説もあるんですね。伝説が本当かどうかは判りませんが、時の権力者に負けた人が当時の国の果ての奥州まで逃げてくるということは実際にあっても不思議ではないのかなと思いました。  
西光寺   仙台市宮城野区福室
西光寺の山門。西光寺は臨済宗で、有名な松島瑞巌寺の末寺に当たるのだとか。瑞巌寺はもともと天台宗で、伊達政宗が仙台に城を構えた時に臨済宗に変わっていますので、この西光寺も元々は天台宗だったのかもしれません。
山門の向かって右側にあるのがこの桜の木。季節的に終わりかけなのと、先日の暴風で花が散ったのとで色褪せていました。2週間前に岩切城見学した時には桜の季節から程遠かったのが、すでに盛りを過ぎていたんですね…さて本題。この中央の板碑が南朝の皇子の墓なのだそうです。
高さは1mほど。かなり摩耗しているため碑文は読めませんが、なぜ摩耗しているのかというと、この石を削って煎じて飲むと結核?に効くという言い伝えがあったからなのだとか。石にそんな力があるはずもないのですが、江戸時代には大真面目に語られていたのでしょう。
西光寺の開山は正平元年(1346)。南北朝の争いはこの仙台でも激しく続いており、仙台市北西部の泉区実沢(さねざわ)で南朝側山村宮の皇子が戦死、そこで西光寺の和尚が墓を建てて冥福を祈ったのだそうです。なおこの板碑は平将門の墓という説もあるそうです。
山門から見た西光寺の本堂。そこには真っ赤な花をつけた椿の木が。境内にある六地蔵。六地蔵というと京都の六地蔵駅を思い浮かべる方は大勢いらっしゃいますが、六地蔵そのものは全国にあります。例えば笠地蔵の物語も六地蔵でした。本堂前にある樹齢350のあらかし。そして鐘楼。
この皇子、名前は伝わっていないため、当時の元号から正平親王と名付けられました。山村宮が南朝の系譜のどこに位置するのか不明で、おそらく後醍醐天皇から見て孫にあたるのでしょうが、すると大塔宮護良親王の皇子である可能性が一番高いような気はします。北畠一族と護良親王は親しい間柄であり、幼少の山村宮を親房・顕信などが養育して奥羽の旗頭にしようとしたと考えて不自然はありません。そして南朝の柱石である北畠一族に守られ宮城野で活躍していたのでしょう。 
清水寺   栗原市栗駒岩ケ崎
山号 音羽山延通院 宗派 真言宗智山派
大同2年(807)、坂上田村麻呂が奥州侵攻のため、この地に滞陣したとき霊夢をみて将軍の守り本尊として兜に埋めてあった閻浮檀金と言われる金銅仏(5.5センチ)の聖観世音像を観請し開山したと伝えられており、初崎大悲閣と称し、東北地方ではまれにみる名刹霊場となっています。
本堂の東側にある千寿ヶ池を中心とした大庭園は松と広葉樹の自然林に囲まれ、春にはツバキや十数種のサツキが咲き乱れ、秋には千寿ヶ池が真っ赤に染まるほど紅葉します。

大同2年(807)、坂上田村麻呂の奥州進攻のため、この地に滞陣したとき霊夢をみて将軍の守り本尊として兜に埋めてあった閻浮壇金の金銅仏(5.5cm)の聖観音像を勧請し、東北ではまれにみる名刹霊場となっています。本尊聖観音菩薩は秘仏で、33年毎に開帳されます。
貞応年間(1222〜1223)三迫森館主弥平兵エ師門その夫人と共に観音を信仰し、莫大な寄進をおこない京都清水寺に模して壮麗な堂塔を建立し、隆盛を極めたが、寛政6年春野火により全山焼失した。今に残る庭園は往時を偲ぶことができます。
寛永2年(1625)藩祖政宗公が参詣された記録も残っています。
京都清水寺を模した浄土庭園は、莫大な寄進をなした夫人の名にちなんで「千寿園」と名づけられています。
『中世里谷森館城主の平師門が寄進したという浄土庭園。師門の夫人「千寿の前」にちなみ、千寿の池、千寿の松の名を残し、県内に聞こえた名園である。』

岩ケ崎村では、元和年間藩主政宗の五男宗綱が鶴丸城に入り、以後の領主は寛永頃六男宗信、その後、石母田大膳・田村宗良・古内主膳・茂庭大蔵と続き、元禄7年中村日向が3000石を給され領主となり明治に至ります。栗駒山麓の当地は古くより馬産地として栄え、栗駒山の駒形の残雪は神馬のこもる所と信じられ駒形根神社が祀られました。天正19年藩直営となり桜馬場に上・下馬場が設けられ藩主の御用馬などもここで競売されました。桜馬場は東西300間・南北17間の広場で両側の土手に桜が植えられていたと伝えます。鎮守は熊野神社、寺は坂上田村麻呂勧請、寛永2年に藩祖政宗の参詣があったと伝える真言宗智山派音羽山延通院清水寺、伊達宗綱城主のとき政宗中興開山といわれ桃山式建築の山門を持つ浄土宗名越派摂取山円鏡寺、城主中村家の菩提寺曹洞宗明峰派旗本山館山寺、伊達宗信・石母田大膳・古内主膳・茂庭大蔵の墓がある曹洞宗太源派熊野山黄金寺、天保飢饉の供養碑のある曹洞宗太源派月峰山洞松院などがあります。 
小松寺跡   大崎市
小松観音堂   宮城県大崎市田尻北小松
「千手観音坐像及両脇待立像」のある所在地は大崎市田尻小松地内にあり、 所有者は「お薬師様文化財保存会」です。この3体仏像は本来、近世以前に繁栄した小松寺に伝わったものですが、寺が明治時代の廃仏毀釈の頃に廃れたため、現在の場所に通称「小松観音堂」を建てて、そこに安置されていました。平成23年3月11日発生の東日本大震災で被害を受け、被災ミュージアム再興事業で修復され、現在大崎市松山ふるさと歴史館で開かれている特別展「震災と文化財」(4/4〜5/17)において展示されています。特別展終了後も継続展示される予定です。
木造千観音座像、12神将   宮城県大崎市田尻北小松
今日は地元、田尻の至宝をご紹介します。宝の中の宝です。ただ今、東京の国立博物館で修復、調査中の木造千手観音座像と12神将のご紹介です。何故ここ田尻小松の小さな御堂でこの仏像が集落の中で守られていたのか、不思議な仏像です。
平安時代末期頃に造られたとされる千手観音です。平泉の藤原氏が隆盛だったころの仏像とも言われていますが、ただ今詳細を調査中です。美しい仏像です。
小松観音堂、入口に千手観音と書かれています。明治初期に廃寺となった小松寺を受けつでいる、と言われています。このような仏像がここに最近までここにあったのです。頭部は11面観音。不動明王立像、毘沙門天像の三尊がこの中に祀られていたのです。
御堂の正面 小さな田舎の御堂なのですが、ところが中に入っていたのは現在、宮城県指定の文化財、千手観音ですが、今は国で調査中。小松寺は「今昔物語」「日本往生極楽紀」に記載されている「新田郡小松寺」と同様なものと考えられているそうです。
ここが観音様の台座の台。この台の上に台座があり、その上にさらに観音様が座っているのでした。この仏像、1000年も前からこの地域の方々が守って今に至るのです。よくぞ守り通したものです。最近までそのとんでもない貴重なもの、ごく身近に守られていたのです。
もう1つの大事な御堂です。薬師如来と12神将の仏像。こちらは千手観音ほどは古くはないようですが、12神が揃っています。隠れた大変な宝がここにあるのです。
小松観音堂に伝来した3躰の像
歴史館までの道 ふるさと歴史館は松山町の施設として1989年に設立され、2006年に周辺の市、町が合併して大崎市となるにともない、大崎市松山ふるさと歴史館となった。旧松山町は町の中心部が東北本線の松山町駅から離れており、これを補う交通手段として、かつて馬車ならぬ「人車」が運行されていた。その当時は馬を飼うよりも人を雇う方が安上がりだったためとのこと。歴史館はこの人車の展示、また地元出身のフランク永井に関する展示室などがある。東日本大震災後、小松観音堂に安置されてきた千手観音像、脇侍像がこの歴史館に寄託され、展示されている。
仏像のいわれ 大崎市内、歴史館のある松山地区より10キロくらい北の田尻地区(旧田尻町)というところにある小松観音堂に伝わった仏像である。小松観音堂は、『今昔物語集』など平安時代の史料に「陸奥国小松寺」として登場する古寺の後身と思われる。天台宗で、のちに真言宗に転じたという。近代に廃され、仏像は田尻の薬師堂の隣に観音堂をつくり、安置したという。ここに平安時代から鎌倉時代にかけてつくられた千手観音像と不動、毘沙門像が安置されていた。
千手観音像は比較的珍しい坐像で、像高は1m弱。寄木造、彫眼。かつての写真をみると、傷みがかなり進んでおり、像の印象も洗練さを欠き、室町時代頃の仏像と考えられていた。修復によって面目を一新し、現在では平安時代後・末期の作とされている。京都・峰定寺の千手観音像に雰囲気が似て、都ぶりな造形から奥州藤原氏関係の造像ではないかと推測される。上品で落ち着いた仏像である。この時代によく見られる丸まるとした顔とせず、ほおは自然なふくらみである。目は切れ長で、二重まぶた。みごとな天冠台をつけ、鼻の下や口は小さめにまとめる。面白いのは後頭部の髪で、少し垂れている。ケースの側面から見える。頭頂部で結い上げているのだから、後頭部の髪は全体的には下から上へと引っ張られているはずだが、一方で下へも垂れるヘアスタイルとなっている。なで肩で体は細く、さらに胴で絞っている。脚部は自然な感じで、衣のひだは深くないが、比較的大きな線の間に小さな線をはさんで変化をつけている。
脇に不動明王、毘沙門天の2像が立つ。天台宗でまま見られる組み合わせであるが、中尊とは作風が異なり、素朴な雰囲気がある。若干後の時代に補われたものか。ほぼ直立する不動明王像と体にひねりを加えた毘沙門天像、静と動の対比が面白い。 
磯良神社   宮城県大崎市岩出山上間山赤新田 
(いそらじんじゃ)
地元では「おかっぱ様」と呼ばれる。資料などでも磯良神社ではなく「カッパ明神」の方が通る(あるいは「田子谷磯良神社」の名称も流布している)。県道に面したところに鳥居があるので分かりやすいが、周辺には人家は全く見当たらない。神社以外にはほとんど何もない。
昔、平泉の豪族・藤原秀郷(氏子の伝承による)の馬屋に虎吉という名の者が仕えていた。ある時ふとしたことでその正体が河童であることが分かってしまった。そこで暇をもらって主家を離れることにした。虎吉を可愛がっていた秀郷は、その時に持仏の十一面観音を与えたという。
虎吉は各地を巡って田子谷の沼まで辿り着くと、そこを気に入って終の棲家とすることとした。その後、虎吉は多くの子供を授かり、子河童たちがこの沼のほとりで相撲を取ったりして遊んでいる姿がよく見かけられたという。
小さいながらよく整備された社であるが、何と言ってもその横にある沼が印象的である。周囲に人家がないだけ、その神秘な光景は本当に河童が住んでいるのではないかと思ってしまうほどであった。 
蓑首城跡 坂元神社   亘理郡山元町
室町時代、蓑首山に築城された坂元城(坂元要害、坂本城)。その敷地内には、鎮守の神として勧請された元妙見宮が祀られていました。明治に入り、城としては廃城されましたが、その後、明治42年に周辺の村社等と合祀され、坂元神社となり、現在に至ります。境内は桜の名所としても知られ、春には祭りが執り行われます。また、夏には巫女舞や子どもみこし、神楽や太鼓などが奉納される夏祭りでも賑わいます。

主祭神 天御中主神
由緒 本社は正親町天皇、天正2年(1574)3月23日相馬盛胤の一族亘理美濃守の臣、坂元参河が蓑首城本丸に勧請したといわれ、元妙見宮と称した。別当は真言宗金蔵寺、坂元参河が遠田郡桶谷に移封された後も、城主となった後藤、黒木、津田、大條と数人替りしが、皆鎮守の神として厚く崇め祀った。明治2年4月北辰神社と改称した。明治42年3月、村社神明社(寛文創祀)村社愛宕神社(寛永9創祀)をはじめ他の村社と無格社を合祀して坂元神社と改めて、村社に列せられた。昭和8年12月、供進社に指定された。本殿は天正年中の造営で荘麗な建築である。拝殿は大正8年被合祀した神社の境内の樹木を伐採して造営した。境内地は杉うっそうとして極めて神々し、明治44年旧城主伊達宗亮氏村民の請を容れて旧城域755坪を寄進された。更に大正2年桜樹百本の奉納があり旧城域に配植したので公園の如く春は花、夏は翠りと風景頗る良き神域となった。

坂元神社 坂元神社は坂元三河が築いた蓑首城跡に建てられた神社で、明治2年に妙見宮が北辰神社となり、明治42年に神明社外八神を合祀し坂元神社となりました。現社殿はかつて本丸があった場所に建てられています。現在、城跡は公園として整備されており、坂元神社の社殿の周りをはじめ桜の木が多数植えられています。例年4月中旬〜下旬にかけて花が一斉に咲き桜の名所として地元の人たちに親しまれています。
蓑首城 蓑首城(蓑首館)は蓑首山の上にある山城で、武石重宗の家臣である坂元三河が元亀3年(1572)に築いたものです。台状台地を幅約10m余り深さ約7〜8mの濠で切断した江戸時代初期のものとみられています。古城録によれば 「東西三十三間(約60m)南北50間(約90m)回字形で、すこぶる要害の城地」 と記載されており、空濠に今なお往時の面影をとどめています。この城(館)には、伊達家の家臣大條氏(4000石)、第八代宗綱から第十七第宗亮にいたる十代のあいだ居城となっていました。城跡は山元町の文化財に指定されています。  
 

 

 
■山形県

 

錦戸薬師堂(にしきどやくしどう) 赤崩   米沢市
別名「コロリ薬師」薬師像は関根普門院に安置
今月は、コロリ薬師あるいは「澄心の泉」で有名な、米沢市赤崩(あかくずれ)の石木戸にある、錦戸薬師堂を訪ねてみました。西城戸薬師あるいは石木戸薬師とも書かれることがあります。
赤崩を通る市道脇の参道口に「澄心の泉」があり、そこから杉木立の中の、非常に急な石段を登ること約15分、切り立った岩に囲まれて小さなお堂が建っています。黒く塗られた柱に白い象を形どった木鼻きばな(貫や肘木の先に付けた装飾彫刻)が印象的です。正面に懸けてある鰐口は、天保13年(1842)小松村宮地の氏子中(うじこちゅう)が奉納したものでした。
江戸時代は別当の成就(じょうじゅいん=山上村・普門院末寺)が管理していましたが、成就院は明治初期に廃寺となり、関根の普門院が管理することとなりました。戦後は、盗難防止のため薬師像は普門院内に移され、5月8日と9月8日の例大祭の前夜、氏子たちが御輿に乗せて地区を練り歩き、この薬師堂へ安置します。
錦戸薬師堂の由来は、江戸時代の地誌書をみると、本尊の薬師像は俵藤太(藤原秀郷)が 平将門の乱を鎮めた戦功により、奈良薬師寺から遷座し守本尊としたもので、その後子孫の奥州藤原氏に伝わり、藤原秀衡の長男西城戸国衡(藤原泰衡の異母兄)の守本尊となったものと云われています。
文治5年(1189)、源頼朝が藤原泰衡を攻めた奥州合戦の際、奥州藤原軍は阿津賀志山(あつか しやま=福島県国見町)に三重の堀を築き、西城戸国衡を総大将にして守りましたが、頼朝の率いる大軍に敗れました。国衡は供の僧に守本尊の薬師像を託し、僧は出羽国に逃れて、この赤崩の地に草庵を結び、山腹に薬師堂を建て薬師像を安置したと伝えられています。 また、秀衡の六男頼衡が吾妻山を越えこの地に安置したとも伝わっています。
薬師如来はその名のごとく、人びとの病を救い癒す如来ですが、いつの頃からか、この錦戸薬師に祈願すると、苦しみ無く往生できるとの評判が立ちました。この仏教でいう「臨終正念」ともいうべき霊験により「コロリ薬師」とも呼ばれ、福島県を中心に各地から参拝者が訪れています。
また、錦戸薬師堂の参道口に湧き出る「澄心の泉」も、これを飲むと同じく「臨終正念」の効用があると言われ、泉を汲みに来る人が今も絶えません。

米沢の赤崩に普門院が管理する「コロリ薬師」がある。錦堂(錦戸)薬師堂ともいう。ここの「澄心の泉」「瑠璃光の清水」と呼ばれる霊泉は「臨終正念」ということで、飲むと「ころり」と苦しまずに亡くなるという水とされる。ミネラル豊富な霊泉とあって、ペットボトルやポリタンクで水を汲みに来る方が多い。横には「この水を商売に利用したら子々孫々七代に祟りがある」と書いてある。
錦堂の由来は大ムカデ退治や平将門討伐を行なった俵藤太こと藤原秀郷が戦勝に際し、下野国(栃木県)薬師寺から遷座、守本尊にしたのが始まりという。それを藤原秀郷の子孫にあたる奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の六男錦戸太郎頼衡が1188年に兄、藤原泰衡が源頼朝に征伐された時、輿に奉安して伊達領から吾妻山鳥越を経由して、ここに祭るようになったとされる。異説として奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の長男西木戸(錦戸)太郎国衡が阿津賀志山の戦い(福島県国見町)で源頼朝に敗れ、守本尊の薬師像を僧に託し、僧がこの地に庵を結んだともいう。
普門院 山形県米沢市
普門院は仁寿3年(853年)英慶法印が人々の治安と平穏を祈る為に創立されました。現在の場所にお寺が建てられたのは、米沢が伊達家の城下町だったころ、約450年前です。その後、焼失し現在の建物は寛政8年(1796年)に再建されました。明治時代になるまで米沢から板谷峠を通り福島をぬけていく道が江戸に通じる唯一の街道だったので、お殿様が参勤交代で江戸に行く時に休憩する場所として普門院が使われていました。
普門院が再建された寛政8年(1796年)その頃細井平洲という学者が江戸から米沢に向かっていました。その細井平洲を上杉鷹山が普門院にご案内し休憩をとって労を慰められたという逸話が残っています。
今も普門院にはご接待に使われたお部屋と道具が残されております。また、平洲先生が記念に植えられた椿の花も毎年春になると、赤い花を咲かせます。
このことから、文部省は昭和十年に普門院を国指定の史蹟として後世に伝えられるようにして以来、普門院のある関根は敬師の郷(さと)として世に広く知られるようになりました。
境内にはその時の様子を書いた平洲先生の手紙の一節が、「一字一涙の碑」に刻まれています。
普門院とコロリ薬師様
普門院のご本堂の正面には大日如来様が祀られ、右奥には弘法大師様、左奥には興教大師様そして正面左側にコロリ薬師様が小さな厨子の中に祀られています。
この薬師如来像は、用明天皇とその皇子聖徳太子が一刀三礼しての作といわれ平安末期に藤原3代(清衡〜基衡〜秀衡)として平泉を中心に奥州一円に勢力を伸ばしていた奥州藤原氏に伝わり、秀衡の長男西城戸国衡の守り本尊となりました。
文治5年(1189年)源頼朝の奥州征伐に対し、藤原氏は国衡を総大将として阿津加賀志山(福島県国見町)に見栄の堀を築き陣を構えたが敗れ、4代泰衡でその栄華の幕を閉じました。
薬師如来像は、秀衡の六男頼衡が兜に奉安して吾妻山鳥越を経て、赤崩の地に守り伝えられ、「錦戸薬師堂」に安置され長い間信仰されてきました。薬師如来は本来、病苦などから生命あるすべてのものを救う仏。右手は施無畏印を結び左手には薬壺を持つ姿で表されております。いつの頃からか定かではありませんが、このお薬師様を信仰されお参りをされた方が死ぬ時に苦しまなかったことから話が広がり、いつのまにか「コロリ薬師」と呼ばれるようになりました。また病気や怪我だけでなく、生きていく上での不安や焦燥感などをとりのぞき、落ち着いた心を取り戻せます。
現在、普門院に祀られている薬師様は、厄除開運、無病息災や安楽死などを願う大勢の人たちに篤く信仰されております。 日々の健康に感謝し、悲しみや苦しみの中にあっても必ず一筋の光明があるということを教えてくださっています。 参拝することに特別の決まりや儀式はありません。心をこめて手をあわせるだけです。
お参りすることで、亡くなられた方が安らかに眠ることができます。 コロリ薬師のご祈願についてはご相談下さい。  
羽黒山五重塔   鶴岡市羽黒町手向
主祭神 大国主命
社格等 出羽神社末社
別名 羽黒山五重塔
山形県鶴岡市羽黒町手向(とうげ)の羽黒山にある室町時代建立の五重塔。
山形県にある山岳修験の道場である月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山という。このうち羽黒山には三山の神を祀る三神合祭殿があり、そこへ至る参道の途中、木立の中にこの五重塔が建つ。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉「爺杉」がある。 東北地方では最古の塔といわれ、昭和41年(1966年)に国宝に指定された。塔の所有者は出羽三山神社(月山神社出羽神社湯殿山神社)である。
平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
塔は総高約29.2m、塔身高(相輪を除く)は22.2m。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。
明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。
近世までは塔内に聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を安置していたが、神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「千憑社(ちよりしゃ)」となっている。
出羽三山神社 
山形県鶴岡市羽黒町
御由緒
日本の原郷
出羽三山-羽黒山(標高414M)月山(標高1984M)湯殿山(標高1500M)-は「出羽国」を東西に分ける出羽丘陵の主要部を占める山岳である。太古の大昔は火山爆発を繰り返す“怒れる山”であった。
_____時が経ち、再び静寂を取り戻した頃、山には草が生え、樹木が生い茂り小鳥や獣がもどってきた。その時、麓の里人たちはそこに深い不思議な“神秘”を感じた。「あの山こそ、我が父母や祖先の霊魂が宿るお山だ・・・」 「我らの生命の糧を司る山の神、海の神が鎮まっているお山に違いない・・・」
_____それから更に時を刻んだ推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所____。蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。今を去ること、千四百年前の御事である。出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。やがて、御開祖・蜂子皇子の御修行の道は「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」として結実し、千四百年後の今日まで“羽黒山伏”の形をとって、「秋の峰入り(みねいり)」(峰中ぶちゅう)に代表される厳しい修行道が連綿と続いている。
_____以後、お山の内外を問わず、全国六十六州のうち東三十三ヶ国の民衆はもとより皇室、歴代の武将の篤き崇敬に与り、いつしか本邦屈指の「霊山・霊場」としてその地位を築き、四季を通じ登拝者の絶えることがない。
そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”であった。加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験(ぎしたけいん)・蘇り(よみがえり)」をはたす山でもある。すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として栄えてきたお山である。
出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということであろう。古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきた。
今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕している。まさに、これこそ今日の出羽三山神社の大きな特色といってよい。歴史をふり返って見ると、鎌倉時代には羽黒山をして、「八宗兼学の山」と称し、全国各地から修行僧が競って入山し、各宗を実践修得していった。
何故に「八宗兼学の山」であり、諸々の宗教・宗派がこれ程複雑に習合したのか_____。それこそ、出羽三山の大神、神々、そして御開祖・蜂子皇子の“御心(みこころ)”が成したものであろう。信ずる者来たれり、出羽三山の大神は何人にも等しく御神徳を授ける、偉大にして永久(とわ)に有りがたい神々である、との民衆の“確信”があったからに他ならない。人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない。出羽三山の神々は寛大である_____。
信仰心は、まず、“信ずること”に始まる。自分の邪念・邪心をむなしくして、「神」を信ずること、それが信仰世界に入る第一歩である。敬神崇祖(けいしんすいそ)_____。神を敬い、祖先を崇めること、この一語に尽きる。出羽三山の神々に仕える者は、千四百年間一貫してこの根本精神を以て大神に御奉仕致し、かつ登拝者・信者の方々に等しく接し、教化に勤めてきた。
出羽三山神社となった明治以降もお山は繁栄御神威の発揚が図られている。今日では東三十三ヶ国からの信者にとどまらず、全国の津々浦々から、四季を通じて登拝者の絶えることがない。そして、最近では、日本はおろか外国からもお山においでになられる方も目立って多くなってきている。まさに“国際化”である。これも、太古から綿々と受け継がれてきた山麓の宿坊・羽黒山伏の全国に向けた弛まぬ“布教・教化活動”あるいは、出羽三山神社の御神威の“発揚”があったからに他ならない。
出羽三山の信仰は、いつの時代にも、親から子へ、子から孫へと伝えられる「親子相伝のお山」として著名であるばかりでなく、成人儀礼として男子十五歳になると、「初山駈け」をしなければならないという風習が各地にあって、今も健在である。
特に関東方面では古くから、出羽三山に登拝することを「奥参り」と称して重要な“人生儀礼”の一つとして位置づけ、登拝した者は一般の人とは違う存在(神となることを約束された者)として崇められた。また、西に位置するお伊勢様を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称した。つまり「伊勢参宮」は「陽」、出羽三山を拝することは「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあった。
今日、出羽三山のお山が、「日本の原郷・・・・」「日本人の心のふる里・・・」 といわれる所以は、類ない千四百年という歴史だけによるものではなく、“時空”を越えて一貫して顕わされてきた三山の大神の御神威・御神徳、合わせて御開祖・蜂子皇子の“衆生済度(しゅじょうさいと)”の御精神、皇室の御繁栄と民衆の息災を願う御心の「御仁愛」にあることを、私たちは今一度、識るべきであろう。
出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地
出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
*伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。
蜂子皇子
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。
出羽三山の沿革
出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。
羽黒山・出羽神社
羽黒山大鳥居
南北朝の末期から羽黒山に勢力を得た大泉庄の地頭武藤氏は、政氏の代に羽黒山の別当を称し、子孫にその職を継いだ。政氏は長慶天皇文中元年羽黒山に五重塔(国宝)を再建、その居城大宝寺(鶴岡)に鳥居を建立させ羽黒山一の鳥居としたが、今はなく只鳥居町の名を残している。今の一の鳥居は鶴岡から羽黒橋を渡り、坦々たる庄内平野を横切って、羽黒街道が羽黒丘陵にかかる景勝の地に高さ22.5mの両部の大鳥居がある。昭和4年山形市吉岡鉄太郎の奉納。
宿坊と魔除けの引綱
門前町手向(とうげ)は、一村総修験で、江戸時代には336坊が軒を連ねた。今に冠木門(かぶきもん)を構え、注連を張った宿坊があり、霞場や檀那場を支配して、道者の宿泊や山案内をする。又、軒に太い綱をつるしているのを見かけるが、これは松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えられている。
随神門(ずいしんもん)
随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り、随身像を祀り随神門と名付けた。
末社羽黒山天地金神社
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。
祓川と須賀の滝(はらいがわ・すがのたき)
随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。又、一般的には神域とは随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。
五重塔
羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。
山頂鳥居附近
参道の石段の尽きるところ朱の鳥居がある。もと江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったが戦争で供出された跡に庄内の生徒や学童の寄付によって建立されたものである。鳥居の手前の坂を十五童坂といい、坂の左に、一山の貫主の住んだ執行寺跡、右に本社のかぎを取り扱った鍮取(かいどり)役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在った。また能除太子が登上の折、休息された場所とか、昇天のとき召されたのがこの場所にあったと伝えられる能除太子御挫石(おまし)がある。
蜂子皇子御尊影(左が金剛童子、右が除魔童子)
出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、御墓は羽黒山頂バス停より御本殿への参道途中にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。
蜂子神社(並んだ左側は「厳島神社」)
表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。
三神合祭殿(さんじんごうさいでん)
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年〜47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成12年、国の重要文化財に指定される。
三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>
羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。
三神合祭殿内部
三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。

月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。
内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命、大己貴命、少彦名命を祀る。本社は大同2年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長10年、最上義光の修造を始め、明和5年に再造、29年を経た寛政8年炎上、文化2年再建されたが、同8年またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年1818年完成した。これが現在の本社である。
出羽三山神社参集殿
地上2階、地下1階総床面積2,179m2入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に見事完工された。
鏡池
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。
鐘楼と建治の大鐘
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
東照社
寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請のねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあった。
千佛堂(外観)
二百数十軀の仏像仏具を安置する建物として平成29年7月に竣工。参集殿と霊祭殿を結ぶ役割も担う。当社崇敬会長の庄内藩酒井家台18代御当主酒井忠久氏よりご揮毫頂いた社額が掲げられ、天井には画家加藤雪窓揮毫の天井画竜頭が飾られている。
千佛堂(内観)
出羽三山は明治維新まで神仏を権現として崇める修験道の御山で、羽黒山は「羽黒山寂光寺」と称し、一山は仏教で奉仕していた。千佛堂に安置する250数躰の仏像の多くは、境内にあった諸堂や寺院に祀られていたと伝えられるものである。明治の神仏分離で出羽三山が神社となり、夥しい数の仏像仏具が山を下り散逸する中、酒田市に住む佐藤泰太良翁は私財を投じて蒐集し、宅地に安置堂を建立し奉拝した。昭和49年、子孫の佐藤完司氏は百年近く護り続けてきたこれらの全てを当社に奉納された。
霊祭殿
出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和58年に再建されたものである。
供養塔
羽黒山には破尺堂境外墓地を始め、御本坊平、南谷と歴代別当供養所があるが霊祭殿脇供養所は篤信者の供養碑も多く、霊祭殿建立と共に整備され一般参拝の方々の御供養が絶えない。
末社
出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。写真の末社は左から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社。
末社健角身神社
羽黒山の末社で、もと行者堂といって役行者を祀る。足の弱い者が下駄を供え、健脚を祈る風習がある。
天宥社
羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。入口の燈篭は天宥法印の墓地のある東京都新島村より昭和63年6月7日に奉献されたものである。
峰中籠堂
明治までは秋の峰の二の宿であったが、現在は全てこの峰中籠堂を拠点に行を行う。
吹越神社
吹越は羽黒派古修験道の根本道場である。吹越神社は三山の開祖・蜂子皇子を祀る。昭和62年6月改築される。  
荒沢寺(こうたくじ)   鶴岡市羽黒町手向
山形県鶴岡市にある寺院で羽黒山修験本宗の本山である。山号は羽黒山で、正善院が本坊である。本尊は大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩。
この寺は、崇峻天皇の皇子蜂子皇子(能除太子)によって開かれたと伝えられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)に対する山岳信仰・修験道の寺として古くから信仰されてきた。もとは真言宗を中心とする寺院であったが、江戸時代に入ると天台宗に属することとなった。
明治初年の神仏分離に伴い延暦寺の末寺となり、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、島津伝道が独立して羽黒山修験本宗の本山となった。
羽黒山修験本宗
羽黒派修験は、真言宗当山派、天台宗本山派の2派に収斂していった修験道2派のいずれにも属さず、古くからの修験道と、土着の月山の祖霊信仰が結びついた独自の修験である。
その中で、荒沢寺の修験道は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏の、世界を形成している十界を体験する「十界行」を厳密に行うことが、出羽三山神社と比した特徴である。十界行とは、行者が死に、死の世界で、山内の各行場での修行を通じて十界の苦しみを体験し、現世へと転生する行である。出羽三山神社の行は仏式ではなく神式であり、行を通じて死後の追体験を行うのは同じだが、その内容は古来からの修験と比べて簡略化されたものである。

荒沢寺の境内は羽黒山登山口の近くにある。由来は、崇峻天皇の代(587年)聖徳太子の従兄、蜂子皇子の草創と伝え、羽黒山の奥ノ院として女人禁制の聖域であった。皇子は、能除照見大菩薩と称され、南都諸大寺の法門に帰依し、法名を弘海と号した。諸国修行の途にあって怪鳥に案内され、羽黒山に登り、出羽三山を開いたという。その後、白鳳年間に役行者小角が入峯、大同元年には弘法大師が掛錫されたことを伝えている。

山形県鶴岡(つるおか)市羽黒(はぐろ)町にある羽黒山修験本宗(しゅげんほんしゅう)本山。羽黒山正善院(しょうぜんいん)と号する。本尊は大日如来(だいにちにょらい)・阿弥陀(あみだ)如来・観音菩薩(かんのんぼさつ)。中世までは天台・真言・禅の三宗兼学の修験道場で、当寺は羽黒山一山の奥の院であった。1189年(文治5)源頼朝(よりとも)が藤原泰衡(やすひら)征討のおり、羽黒山に戦勝を祈願し、その報礼として社殿を造営、山麓(さんろく)に黄金堂(こがねどう)(国の重要文化財)を建立、1596年(慶長1)に直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)、甘粕備後守景継(あまかすびんごのかみかげつぐ)が修築。1641年(寛永18)全山は天台宗に統一されたが、1946年(昭和21)独立して羽黒山修験本宗本山となる。寺宝には仁王像(伝運慶(うんけい)作)、本堂、庫裡(くり)など多数を蔵している。 
善寳寺 (旧・龍華寺)   鶴岡市下川
妙達
(みょうたつ、生没年未詳)は、平安時代中期の天台宗の僧。出羽国(現在の山形県)鶴岡の龍華寺(善寶寺の前身)を天慶から天暦年間(938年-957年)頃に開山したとされる法華経の行者。「今昔物語集」などに955年(天暦9年)、閻魔大王から衆生を救うことを勧められ、死後7日目に蘇ったという伝承が残る。
僧妙達蘇生注記(そうみょうたつそせいちゅうき)
出羽の国の田川郡にある龍華寺に住む妙達という天台宗の僧の著述であるとされる。その死亡後に閻魔の王宮を訪ねて、知人達の死後の様子を見聞きしてから閻魔王に許されて7日後に生き返ったという内容の10世紀中ごろに成立した蘇生譚である。ここに登場する寺院名はこの当時から存在していた現在の善宝寺とされ、そのころの東国における仏教の状況を示している。
妙達と出羽国田川郡
出羽国(羽前国)田川郡は、現在の山形県東田川郡・鶴岡市および酒田市の一部(概ね最上川以南)にあたる。多川郡、田河郡と表記されることもあった。7世紀に越国に接する蝦夷の住む土地に柵が設けられ、磐船・渟足の2郡の分割により越後国が成立すると、その北方に勢力が拡大され、和銅元(708)年に出羽郡が設置され、出羽柵(山形県庄内地方)が築造された。和銅5年に出羽国に昇格し、陸奥国から置賜郡と最上郡が加えられて国の体制が整った。さらに、東国・北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させ、柵戸や公民を中心とした郡制施行地を拡大され、延喜年間(901〜923年)までに出羽郡南部から田川郡が分立したとされる。
妙達。生没年未詳。平安時代中期の法華経の山岳修験者・僧侶(天台宗?)。出羽国鶴岡の龍華寺(現在、曹洞宗・龍澤山善寶寺の前身)を天慶・天暦年間(938〜957年)に草庵を結び、開山したとされる。妙達山(越後との国境田川郡の南の山)の山頂から海側に少し下った斜面の窪地にあった表面が平な自然石の上で、法華経を読誦し、坐禅を専らにしていたという。妙達の坐禅石は現在に残る。妙達山の北方に鳥海山が聳え、貞観13(871)年に噴火記録があり、大物忌神として祀られていたが、朝廷でも詔をもって従二位まで叙位され、大物忌神(火山)を鎮めるために、法華経読誦が捧げられたという。天暦9(955)年に妙達は妙達山に篭り、五穀を断ち、法華経読誦の祈祷の行をしながら入定したという。妙達の草庵・龍華寺は龍華三会に関係して、弥勒が下生して衆生を救う弥勒信仰となり、善寶寺の弥勒石仏としてのこる。自著『僧妙達蘇生注記』では、死後に閻魔の王宮で地獄の人々の様子を見聞きし、勧善誡悪によって衆生を救うこと、都卒天上生こ橋渡しを約束させられ、7日後に生き返ったという。『今昔物語集』などでは、閻魔大王、必ず極楽に生まれ変われるように語って聞かせるよう約束させられたとし、浄土信仰の定着過程が伺える。
縁起
平安時代中期の天台宗の僧、善寳寺開基龍華妙達上人は、出羽国(現在の山形県)の庄内平野の南の山に天暦五年(九五一)の秋、龍華寺という草庵を開き、もっぱら『法華経』を読誦していたと伝えられる。
天暦九年(九五五)に五穀断ちをして、入定修行に入り、七日後にこの世に蘇ったといわれている。入定後、妙達上人は閻魔王の都に召されて、「汝は『法華経』をよく読み、煩悩なし。速やかに帰るべし」と云われ、この世に帰された。
妙達上人は帰る前に父母に会いたいと申し上げると、「父母は地獄にあり苦しんでいる。父母の罪を抜くために功徳を積みなさい」と、閻魔王は言い、さらに人間の死後の様々な様子を見せてくれた。功徳を積んだ者は兜率天に生まれ、罪を作りし者は地獄にあり、さらには大蛇、九頭竜に生まれて苦しんでいるものもある。
地獄の苦しみの人々を兜率天に渡す誓願をおこせと閻魔王は申し渡したという。
ある時、妙達上人の所に、龍が現れた。故あって龍の身となった。『法華経』の功徳を受けたいという。龍は妙達上人の『法華経』読誦を聞き、願い叶い、妙達山の麓にある池に身を隠したといわれる。この池が「貝喰の池」で、その龍は「龍神様」であった。
その後、延慶二年(一三〇九)に總持寺二祖、善寳寺開祖の峨山韶碩禅師は妙達山に巡錫し、妙達上人の坐禅石に坐禅をしていると龍神様が現れたという。
禅師が「三帰戒」を授けると貝喰池に消えたと伝えられている。
峨山禅師より七代後の善寳寺開山太年浄椿禅師は文安三年(一四四七)龍華寺を復興して伽藍建立をはたし、龍澤山と号し、善寳寺と改められた。その受戒会に再度、龍神様が現れ戒脈伝授を願う。
「我は八大龍王の一人なり。ともなえるは第三の龍女なり。さきに妙達上人の甘露の妙典の功徳を受け、更に峨山禅師に参じて戒を受け、ここに太年禅師には授戒で血脈を授けられ、不退転の法楽を得たり。我眷属を率いて尽未来際、この御山を守護せらん。我に祈請するものあらば、必ず心願成就せしめん」と言い終わるや迅雷烈風天地震動、貝喰の池に身を蔵した。
太年禅師は龍王殿を建立し、奥の院の貝喰の池には龍神堂を建立し、龍神様をお祀りし、今日に至る。
龍華庵(りゅうげあん)
棟梁:剣持嘉右衛門籐吉 / 二棟梁:奥山富五郎 / 三棟梁:齋藤善六・本間末吉
善寳寺の前身である龍華寺の本堂であり、善寳寺の歴史を紐解くに重要な建物であります。昔はこの場所から北北東2キロほど隔てた場所にあり、現在は西郷小学校の敷地となっております。その地名を「龍花崎」(りゅうげざき)と呼んでいたそうです。現在の建物内外の彫刻と建造は明治13年(1880年)に善寳寺お抱えの棟梁「剣持藤吉」の作であります。明治12年以前の龍華庵は、五重塔から案内所の間の敷地に建てられていたそうです。現在は五百羅漢像修復のための、作業所として利用されており修復の様子を見ることができます。
総門(そうもん)
棟梁:剣持嘉右衛門籐吉
安政3年(1856年)に再建された十二支を主体とする細やかな彫刻の総門。総ケヤキ造り。この優れた彫刻は棟梁の剣持藤吉30歳頃の気迫の込められた作。特に獅子の造形と迫力は一見の価値あり。戦時中に十二支の酉(とり)が盗まれ、一支欠けています。辰は龍の姿では彫刻されていませんので、よくよく探してみてください。
山門(さんもん)
棟梁:剣持嘉右衛門籐吉(兄) / 脇棟梁:奥山富五郎(弟)
文久2年(1862年)再建。慶応3年(1867年)5月27日に上棟式を挙行した記録があります。構造は複雑で彫刻は至妙なる総ケヤキ造り、銅板葺きの楼門です。門内部両脇には右に「毘沙門天」左に「韋駄天」が門を護ります。一般にお寺の門には仁王像が安置されることが多いのですが、廃仏毀釈の折、善寳寺に避難してきたこの両尊天像を安置したと言われております。山門正面円柱の唐獅子は棟梁の嘉右衛門の作であるのに対し、後方の獅子は棟梁の弟富五郎の作であり、兄弟で技を競い合って力作したものであります。山門二階楼上内部には秘仏である十六羅漢像が安置されておりますが、一般への公開はしておりません。梁間に架かっている額縁には善寳寺の山号である「龍澤山」と書かれており、これは江戸時代活躍した鶴岡出身の能筆の名僧「不幼老卵(ふようろうらん)」が書いたものであります。遠くから見ると小さく、門に近づけば近づくほど鳳凰が羽を広げるかのように壮麗に見えると言われます。
五重塔(ごじゅうのとう)
棟梁:奥山富五郎・高橋兼吉・山本佐兵衛
明治26年(1893年)建立。材料は総ケヤキ造り、屋根は銅板葺き、高さ38mの大塔は「魚鱗一切之供養塔」(ぎょりんいっさいのくようとう)として、海の生き物達の供養塔として漁師をはじめ海に関わる人々の願いと祈りを受けて建立されました。内部には仏の5つの智慧を表す五智如来が祀られます。正面:釈迦如来 東方:阿閦(あしゅく)如来 西方:阿弥陀如来 南方:宝勝如来 中央:大日如来(芯柱円柱がそれを表す)善寳寺には昔から夜になると音を発する「夜啼き石」という不思議な石があったが、それを塔建立の際に礎石として中央に納めたといわれ、それ以降石が啼くことはなくなったと言われます。建立から一年余り後明治27年に起きたマグニチュード7.0の直下型地震である酒田地震大火の際にも、また先の3.11東日本大震災の際にもヒビ割れ一つなく建っておりました。大日如来を表す芯柱は塔中央に上から下へ分胴のように吊るされており、振子の役割として免震構造になっており、大地震からもお護りいただいております。塔の側面には十二支が3体×4面に彫刻されており、自分の干支を見つけて、その方角から手を合わせるとよいと言われます。総門と同じく、辰年だけは龍の姿で彫られてはおりませんので、そちらも探してみてください。
五百羅漢堂(ごひゃくらかんどう)
棟梁:本間勘蔵 (彫刻は剣持嘉右衛門)
安政2年(1855年)建立。531体もの羅漢像は顔の作り・表情も、着物の模様のデザインからポーズまで一つとして同じものはなく、衣の模様やデザインに至るまで同じものはありません。北前船で財を成した商人達の寄進によって建てられた、北前船西回り航路の繁栄を感じさせる貴重な文化的遺産です。「亡き人の面影しのぶ五百羅漢」と詠われるように、かつて写真のない時代には亡くなった人に似た顔を五百体の中から見つけて、そこに手を合わせたと言われます。正面は釈迦三尊、十大弟子が祀られ、柱上には風神雷神、左右台座上には東西南北を守護する四天王が安置されしております。現在東北芸術工科大学様の協力の下、五百羅漢像の修復に取り組んでおり、一体一体丁寧に修復作業を進めております。
龍王殿(りゅうおうでん)
棟梁:本間勘蔵(再建)
開山の太年清椿大和尚が室町時代後期文安3年(1443年)に守護神の龍神様を祀るために創立したと言われ、天保4年(1833年)に再建された権現造りの荘厳な伽藍です。屋根は現在銅板葺きとなっておりますが、かつては茅葺(かやぶき)屋根であり、その形は波のうねりを表し日本古来からの茅葺技術の粋を集中したものであったといわれます。この龍王殿は龍の王が棲むといわれる竜宮城を模して造られ、彫刻には滝登りをして龍に変化しようとする鯉や、波しぶきが彫られており、龍と海との繋がりを表しているといわれます。建物内部右手には善寳寺の歴代住職の位牌堂、中央の菊の御紋の奥には有栖川宮家様の御霊牌所となっており、左手の金色の扉の中には善寳寺龍道大龍王、戒道大龍女の二龍神が奉安されております。2016年には善寳寺開基龍華妙達上人様の生誕1150年を記念してこの黄金の扉がご開帳され、史上初めて龍神様のご尊体が一般に公開され沢山の方々より手を合わせて頂きました。 
 

 

 
■福島県

 

相馬神社   相馬市中村字北町
明治12年 相馬氏の始祖『師常(もろつね)』公を御祭神とし、中村城(馬陵城)本丸跡に創建されました。
師常公は、保延五年(1139年)に、千葉常胤の次子として生まれ、相馬中務太夫師國の家を継ぎました。
相馬氏は、『平将門』公の末裔であり、代々下総の相馬郡一帯を領していましたが、文治五年(1189年)源頼朝の将である父常胤に従って平泉攻めに加わり、軍功をあげたので恩賞として八幡大菩薩の旗一旗と相馬地方を賜りました。
師常公は、常胤の子七人の中でも特にすぐれ頼朝の信望も厚く、『鎌倉四天王』の一人に数えられていました。また、信仰心の厚い人であったので、死後鎌倉の人々には『相馬天皇』として祀られ、今もなお御崇敬されております。
常胤は、長男には千葉地方を継がせ、師常には流山地方と相馬地方を与えました。師常公から数えて六代目『重胤』公のとき、上杉影勝に通じ関ヶ原の役に参加しなかったことで、一時城地を没収されましたが『徳川家康』はその子『利胤』を召し出して六万石の本領を安堵し、明治維新まで続きました。
境内には、桜の名所馬陵城(4月中旬頃)や19代『忠胤』公が植えたものと伝えられる、樹齢四百年といわれる『藤』(相馬市指定天然記念物・昭和54年7月指定)があり、花期(5月中旬頃)には参拝者の目を楽しませております。 
恵日寺 1   耶麻郡磐梯町
元々は、塔頭たつちゅう (わき寺) として建立。元禄15(1702)年、戦乱により焼失した現/本堂が再築。明治37(1904)年、復興され恵日寺と称す。廐岳山、真言宗豊山派。山門は、平将門が寄進したと伝えられる。将門自身も慧日寺に帰依していたと伝えられ、乱で討ち死にした後は、娘/滝夜叉姫が身を寄せている。徳一大師創建時の本尊は薬師如来像だが現存していない。猪苗代三十三観音の番外四番。
慧日寺跡
会津仏教文化の発展の地。磐梯山、真言宗。平安初期の大同2(807)年、奈良東大寺/法相宗の高僧/徳一大師が、五薬師の1つとして開創した。開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のもの。6万m2にも及ぶ跡地の一部は、国指定の史跡。最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている。その後、源平合戦で平家方に付いたため一時衰退したが、室町時代には復興し、越後方面と黒川方面 (会津若松市) へ分岐する要衝の地であった門前町も大いに栄えた。天正17(1589年、伊達政宗公の会津侵攻の際、金堂を残して全てが焼失・破壊された。その金堂も寛永3(1626)年に焼失し、明治の廃仏毀釈によって廃寺となる。慧日寺についての資料や国指定重要文化財などは、「磐梯山恵日寺資料館」で保存され、公開もされている。復興された現在の寺は、恵日寺と称している。
恵日寺 2   耶麻郡磐梯町
(えにちじ) 福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の仏教寺院。かつては慧日寺(えにちじ)と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となった。平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。
平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。
その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。  
将門の三女 滝夜叉姫と如蔵尼
恵日寺・滝夜叉姫の伝説   福島県いわき市四倉町 
四倉町の玉山にある甚光山恵日寺に行ってきました。ここの山門の天井には、険しい表情の大きな龍が2匹描かれていて、かの「左甚五郎」作と伝えられています。また、「平将門の三女・法名 如増尼、滝夜叉姫終焉の地」となっていて、如増尼になった滝夜叉姫が、晩年を静かに暮らしたお寺となっています。
滝夜叉姫は、平家の平将門の三女で、歌舞伎の演目「陰陽師 滝夜叉姫」や、様々な作品のモデルになった伝説の妖術使いのお姫様です。…ちなみに、京都の貴船神社でローソクを灯し「丑の刻参り」のもとになったのも彼女です。 ( 妖術を手に入れた滝夜叉姫は、その後 相馬にむかい夜叉丸や蜘蛛丸らの手下を集めて父の敵を討とうとするが・・・。)
妖怪などの話しではありますが、実際に各地に様々な跡や言い伝えがあり、平将門然り現実味もあります。
井戸の中を覗いたら、水がたっぷりありました。この井戸は、滝夜叉姫(如増尼)が水鏡としても使ったといわれています。
裏山にある お墓にも行き、お参りをしてきました。滝夜叉姫(如増尼)のお墓は、会津の恵日寺にもあり、分骨説や様々な説がありますが、緑豊かな松や鮮やかな紫陽花…ツツジ.. 色取り取りの花々が植えられて、綺麗に整えられたお墓をみると、地元の人に 今も大切にされている姫の様子が窺えました。
恵日寺・如蔵尼の伝説   福島県耶麻郡磐梯町 
如蔵尼は平将門の3番目の娘と言われています。彼女に関する説話は、今昔物語(巻第17の第29)、元亨釈書(巻第18 願雑3 尼女)、地蔵菩薩三国霊験記 の中に収められています。
元亨釈書、地蔵菩薩三国霊験記では如蔵尼は平将門の第三女とされていますが、今昔物語では平将行の第三女とされています。また今昔物語では他の2書と違って、将門の滅亡後奥州に落ちて来たというくだりが省かれてしまっていますが、物語の概略は3冊ともほぼ同様だそうです。以下に今昔物語の該当記事のあらすじをご紹介します。
昔、陸奥の国に徳一という高僧が創建した恵日寺という寺がありました。その寺の傍らに庵を結んで、平将行の第三女であるというひとりの尼が信仰の日々を送っておりました。たいそう美しく心のやさしい女性でしたので、出家する前はたくさんの男性から求婚されましたが、彼女はそれに全く興味を持たず独身を通しているうちに、ある日病にかかりはかなくなってしまいました。死後、彼女は冥途の閻魔庁に行き、その庭で多くの罪人たちが生前の悪行のために罰を受けて苦しむのを見ました。彼女は耐えがたいほど恐ろしく思いましたが、その中に錫杖を携えた小さな僧を見つけ、思わず経文を唱えました。実はその小さな僧は地蔵菩薩で、彼女の生前に罪のないことを知っており、閻魔王に彼女を現世に戻すよう命じました。別れ際に地蔵菩薩は彼女に経文と極楽往生するための要句を教えてくれました。蘇生した彼女は出家して如蔵尼と名乗り、ただひたすらに地蔵菩薩を信仰しました。その信仰のゆえに彼女は地蔵尼とも呼ばれました。如蔵尼はその後80歳余りまで生き、大往生を遂げました。
これが今昔物語に収められた如蔵尼にまつわる地蔵菩薩の霊験譚です。ところで如蔵尼の墓と伝えられるものが福島県の恵日寺(えにちじ)に残されているそうです。福島県には恵日寺が2つあり、片方は福島県耶麻郡磐梯町に、もう片方は福島県いわき市四倉町玉山字南作1にあります。前者は大同2年(807年)に徳一大師によって開かれました。この寺の山門は平将門による寄進だと言われ、将門自身も恵日寺に帰依していたと伝えられています。将門滅亡後、三女の滝夜叉姫がこの地に逃れ、庵をむすんだという伝説もあります。恵日寺では瀧夜叉と如蔵尼を同一人としているようです。ここには如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があるそうです。後者には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が建っているそうです。私自身はまだどちらのお寺も訪れたことがありませんので、写真でしか見たことがありませんが、ぜひ一度行ってみたいと思っています♪
さて、如蔵尼が三女というからには、じゃあ、長女と次女はどうしたよ?と思いませんか?長女については今まで読んだどの文献にもそれらしい伝説を見かけたことがないので、長女にまつわる話は残っていないのかもしれませんが、次女についてはやはり如蔵尼とよく似た伝説が残っています。将門滅亡後、第二女の春姫は現在の千葉県沼南町岩井付近に落ちて来て出家し、如春尼と名乗って隠れ住んだのだそうです。千葉県沼南町岩井には将門神社があり、この境内にある地蔵は如春尼が父・将門と一族の菩提を弔うために作ったものだといわれています。千葉県沼南町岩井付近には将門の城のひとつがあったという言い伝えもあるそうです。  
いわき市の恵日寺・磐梯町の恵日寺 伝承
いわき市の恵日寺   福島県いわき市四倉町 
この寺が有名なのは左甚五郎が作ったといわれる茅葺の山門があること、太平洋戦争の時サイパン島で玉砕した磐城中学校(現在の磐城高校)出身の海軍大将・高木武雄の墓があること、更に滝夜叉姫の供養碑があることだそうです。早速、その左甚五郎作の山門が出迎えています。恵日寺山門の前には滝夜叉姫終焉の地と書かれた柱と、恵日寺について書かれた案内板があります。
『恵日寺 大同元年(806)年徳一大師が奥州へ来たとき、和州岡本の宮にならってお堂を建て直し仏教を広める拠点として再興し、天慶3年、平将門の三女滝夜叉姫が恵日寺に逃れ地蔵菩薩を信仰し、名を如蔵尼と改め一族の冥福を祈り、この地を終焉の地としました。』(案内板説明文)
滝夜叉姫は平将門の娘とされる伝説上の妖術使いで、本来の名前は五月姫というそうです。天慶の乱で平将門は討たれ、一族郎党滅ぼされるが生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船神社に丑三つ時に参り、満願に貴船神社の荒御霊の声が聞こえ妖術を受けたといわれています。その後、滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総の国へ戻り、相馬の城にて、夜叉丸、蜘蛛丸ら手下を集め朝廷転覆の反乱を起こしたのですが、滝夜叉姫成敗の勅命を受けた大宅中将光圀と激闘の末、陰陽の術を持って滝夜叉姫は成敗されたそうです。そして死の間際、滝夜叉姫は改心し平将門のもとに昇天したというプロフィールがどうやら一般的に伝承されているようです。
一方、如蔵尼という名のプロフィールを調べると実に興味深い伝承がうかがえます。平将門の三女は非常に心優しい徳の高い女性で詩歌管弦に通じ、清らかで美しい姫君であったそうです。そしてたくさんの男性から求婚されたにもかかわらず結婚もせず独身を通したのでした。そんな日々の中で父、将門が討たれ一族郎党追討の難を避けるため恵日寺に庵を結んで信仰の日々を送っていましたが、ある日病にかかりはかなく世を去っていきました。死後、冥途の閻魔庁にいき、その場所で多くの罪人達が生前の悪行のために罰を受けて苦しんでいるのを見て恐ろしい思いをしたのですが、その中に錫杖を持った僧を見つけ経文を唱えると、地蔵菩薩であるその僧は姫の生前に罪のないことを見抜き、閻魔大王に姫を現世に戻すよう命じたのでした。閻魔大王の了承を得て姫は俗界に戻ることとなり、その際、地蔵菩薩は姫に経文と極楽往生するための要句を教えてくれたそうです。蘇生した姫は出家して如蔵尼と名乗り、ひたすら地蔵菩薩を信仰し80余歳で大往生を遂げたといわれています。
これは恵日寺に伝わる如蔵尼伝説からのプロフィールですが、この恵日寺とは同じ福島県でも耶麻郡磐梯町にある恵日寺のことで、こちらの恵日寺も807年徳一大師によって開かれ、こちらの恵日寺の山門は平将門の寄進といわれているそうです。
180度違うプロフィールと2つの恵日寺では、結局、両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉として、この妖術使いの滝夜叉姫と心優しい如蔵尼は同一人物で、磐梯町の恵日寺では如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があり、いわき市の恵日寺には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が残っているということで八方丸く収まっているようです。元祖と本家の醜い争いが無いだけ良しとしますが、何となく釈然としないのは一般ピープルでしょう。そこでもう一度そのプロフィールのバックボーンを調べると何となく納得できるような解釈が浮かび上がってきました。そもそも滝夜叉姫の伝説はどうやら物語として伝わっているものらしいことが分りました。
滝夜叉姫は江戸時代、歌川国芳の錦絵に描かれたり小説や戯曲に多く登場しており、特に有名なのが1806年、山東京伝作の書いた「善知鳥安方忠義伝」という物語のようです。これは平将門没後の後日談として、将門の子良将と滝夜叉姫が妖術をもって父の医師を果たそうと暗躍する物語読本で、3編15巻にまとめられているのです。そして将門の三女が滝夜叉姫と初出したのもこの読本だそうです。そしてこの山東京伝作の「善知鳥安方忠義伝」を宝田寿助が脚色した「善知鳥相馬旧殿安方忠義伝」が歌舞伎として上演され、読本と歌舞伎によって滝夜叉の性格が確立したそうです。このように将門の遺児たちが親の無念を晴らさんとして立ちあがる、という伝説が史実を離れて民間に生まれたのは極々当然のことですので、あくまで滝夜叉姫はフィクションの世界と割り切った方が理解しやすいといえます。そして、そのモデルが伝承の如蔵尼で、明らかに超人的な性格に書き換えられた(如蔵尼の伝説も若干その帰来はあるのですが)と考えるべきでしょうね。ある意味ではフィクションとノンフィクション(伝承をノンフィクションと位置づけるかどうかは別として)の二つのプロフィールを持った滝夜叉姫ということと勝手に理解しておきましょう。
滝夜叉姫については以上ですが、前述した如蔵尼伝説はあくまで磐梯町の恵日寺の伝承なので、一応いわき市の恵日寺周辺の伝承も掲載しておきましょう、片手落ちにならないように。こちらの伝承は、まさに滝夜叉と如蔵尼をミックスしたような伝承です。
『滝夜叉姫は父の影響で、波乱万丈の人生を送った人である。いわゆる「承平・天慶の乱」(931〜940)を起こした、平将門の三女として生まれた。父将門は剛勇の野生児であった。領地の問題で、叔父たち一門の不当な圧迫を受け耐えられず、叔父・平国香と戦い、国香を戦死させてしまった。その後、将門は下総国猿島に御所を立て、関八州を我が物にして、自ら「新星」と称した人物である。朝廷は見過ごすわけにはいかず、4000人の兵を差し向け、関東一円で激しい戦いが繰り広げられた。利根川を挟んでの戦いで、将門は流れ矢が当たって戦死してしまった。将門の館に火が放たれて、真っ赤な炎に包まれ焼け落ちる中、滝姫と兄の良門はひそかに逃げ出した。地蔵菩薩像を背負った滝姫と良門は、相馬に落ち延びた。そして、故郷を追われ両親を殺された滝姫は、恨みと憎しみから、鬼神のごとき女夜叉に変貌していったという。時が過ぎて、兄と妹は旗を揚げたが、勝ち目はなく良門は戦死。白馬に乗った滝姫が、逃げ延びた先が四倉町玉山の恵日寺だったのである。滝夜叉姫は寺の傍らに庵を結び、長い髪を剃り落とし、尼になった。仏門に入った姫は仏につかえ、特に肌身はなさず持ってきた地蔵菩薩を深く信仰した。また、寺の裏にある井戸水に自分の顔を映して、明鏡止水の心境になっていたという。後に地元の人々は、この井戸を「滝夜叉姫の鏡井戸」といい、また滝夜叉姫を「地蔵の尼君」とか「地蔵尼」と呼んで敬うようになったと伝えられている。地蔵尼は80歳を過ぎてなくなった。』(「いわきふるさと散歩」)
左甚五郎といえば伝説の大工で、日光東照宮の眠り猫で一躍有名人となった人です。意外と埼玉県に甚五郎作の作品は多く、秩父神社の「つなぎの龍」や妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市)、国昌寺(さいたま市)、安楽寺(比企郡吉見町)などがあるそうです。その甚五郎作の茅葺の山門が…、と見れば瓦葺の山門でした。建て直されたのでしょうかね。瓦屋根以外は結構古そうで、それなりに凝った技術が見られますが、それが甚五郎作といえるのかどうか良く分りません。
磐梯町の恵日寺   福島県耶麻郡磐梯町 
『恵日寺開創1300年 大門屋根社寺瓦葺替改修復記念碑 当山は奈良時代和銅2年(709)三論宗の慈慧法師聖徳太子の教法を広める為奈良より下向し、此の地に堂宇を建て慈豊山慧日寺と号し開創され平安時代大同元年(806)徳一大師奥州に仏教布教の拠点として中興される。天慶3年(940)平将門公三女瀧姫(瀧夜叉姫)当山に逃れ、仏門に帰依し如蔵尼と改め地蔵菩薩を信仰され終焉の地となる。以来明徳年間隆恵比丘尼まで尼寺として栄え、明徳3年(1392)鎌倉観修寺の甚恵上人隆恵比丘尼より寺の由緒を諭され喜悦を開き、中興第一世の祖となり、山号を甚光山と改め法燈高く岡本談林となり明治維新まで多くの学僧を輩出した。室町時代岩城公の庇護篤く、天文3年(1534)相馬顕胤が岩城重隆を攻めた折、岩城公の依頼により当山住職仲裁和睦をなす。江戸時代に移り磐城平藩主の祈願寺となり、元和5年(1619)城主内藤政長公領内の材木・人馬・入用に任せ、本堂・庫裏・諸仏堂造営寄進され、七堂伽藍の甍が並び門葉集合して寺門の隆盛を極めたと伝えられる。今に残るこの岡本の大門は当時内藤公が寄進され左甚五郎の作と伝えられ地域の人々から現在も大門と呼称され親しまれている。字・名の大門前は当山の大門を指しているのである。慶安3年(1650)幕府より御朱印25石を賜り末寺63ヶ寺を擁した格式高い大本寺であったが明治維新後俄かに零落、しかしながら明治6年(1873)6月15日玉山小学校恵日寺に開校される。昭和20年(1945)7月28日戦災に遭遇し大伽藍・庫裏・宝物殿・書仏像惜しくも一瞬にして灰燼に帰す。僅かに戦災より免れた大門のみが蒼古として昔日の面影を残し当山の威容を保っている。時代の変遷時流の推移量り難く、寺門の隆衰また逃れられず、開創以来1200有余年の夢、煙と共に眠りの中に没せり、法燈衰微の一途を辿りしも昭和38年(1963)本堂再建し萬古の眠りを覚ます、法燈恵命を点じて寺の興隆を見るに至る。更に檀信徒の総力を得て先師祖先を祀る位牌堂の建設を始め諸事業を起こし境内の整備調い、平成6年(1994)福島88ヶ所霊場第76番札所となる。平成13年(2001)大門屋根社寺瓦葺改修復工事に着手、順調に進捗し同年11月3日上棟落成慶讃大法会を修す。時恰も当山は平成21年(2009)開創1300年にあたる記念すべき年を目前にして戦災以来の浄業完成されたことは、檀家一同の喜びであり、仰ぎ願わくは本尊に誓願し郷土の平穏と当山の興隆発展檀信徒の諸願成就されんことを祈念し、ここに当山の沿革と大門の由来を記し永く後世に伝えんとする所以である。平成15年11月3日』(記念碑碑文)
開創1300年といえば平城京遷都、あのせんと君≠フ奈良と同じということで、瀧夜叉姫だけでなく寺院自体も紆余曲折ながらトンでもな歴史を誇っていたのです。そしてその象徴が山門ならぬ「大門」ということで、貴重な建造物であることを認識させられました。「大門」を抜けて参道の石段を上がると本堂のある境内です。恵日寺瀧夜叉姫の供養碑石段を上がりきったすぐ左手に石碑があります。はっきりと刻まれた文字を読むことができませんが、下の方には供養塔と刻まれているのが見て取れますので、これが瀧夜叉姫の供養碑かもしれませんね、文字が見えにくいというのもそれっぽいですし。
反対側には歌碑が2つあります。恵日寺歌碑左側には「如蔵尼瀧姫」と刻まれており、「興津城にかわる社や 国神の 永遠にまもらめ 天地の和を」とあり、右側には 「如蔵尼小野小町」と刻まれていて、「山里の五十路の坂を 越えぬれ 刈穂の庵は こころなこみ」とあります。
恵日寺本堂正面に本堂があります。昭和38年の再建ですから本堂としてはかなり新しいほうでしょう。
ここには県指定の文化財である「木造阿弥陀如来立像」が安置されているそうです。これは寄木作りの漆箔像で、火焔様の舟形光背を負っているのですが、光背の一部は破損しているそうです。文永元年(一二六四)に作られた仏像で在銘では、いわき市内最古の仏像なのだそうです。正一位岡本稲荷大明神本堂の左側には「正一位岡本稲荷大明神」の掲額がある鳥居がいくつも並んでいます。正一位岡本稲荷大明神鳥居の先には何もなくそこから石段をあがった上に社らしきものがありますが、これが本殿なのでしょうか。
こうして滝夜叉姫終焉の恵日寺の境内の散策を終え、最後の目的である滝夜叉姫の墓が裏山にあるとのことで、言われたとおりに進むと左側にありました、滝夜叉姫の墓です。滝夜叉姫の墓は生垣に囲まれ、中央に煉瓦のような小道があり整然としています。後ろの右側にはシダレザクラが、そして左側には名前がわからないのですがピンクのサクラのような木が植えられています。シダレザクラはもう終ってしまっていましたが、左側のサクラのような木は満開で実に綺麗に咲いています。滝夜叉姫の墓その手前には小道に覆いかぶさるように奇妙な形の松が植えられています。
滝夜叉姫の墓そしてその先の中央に土饅頭の形になっているのが滝夜叉姫の墓です。土饅頭の前には線香受けが、そして左側には「瀧夜叉姫の墓 法名 如蔵尼」と刻まれている石碑があります。そして土饅頭の後ろ側には「嗚呼瀧夜叉姫之墓」と刻まれた石柱が建てられています。線香の跡や、花が添えられた跡があり、綺麗に清掃・整理されているので、近所の方たちが常にお参りしているのではないでしょうかね。質素だけれど華麗、まさに滝夜叉姫に相応しい墓ではないでしょうか。
春のサクラの名所のようですが、滝夜叉姫伝説と共に非常に興味深い恵日寺でした。 
出雲神社 1   喜多方市
御祭神は大國主命(オオクニヌシノミコト)、邇邇藝命(ニニギノミコト)。社格は郷社。
社伝によると、第六十一代・朱雀天皇の時代、天慶年間(938〜946年)に平将門公滅亡後の残党が当地に逃れ辿り着き、この地を切り拓き、農地の開拓をおこなった。時が流れて第六十六代・一條天皇の時代、正暦年間(990〜995年)に陰陽師・安倍晴明が当地に下向。「この地は将来繁栄する地相をしている。国土開墾の神、すなわち出雲大社に坐す大國主命を奉斎し、この地の鎮守とするべきだ。」と勧めた。東北には意外と安倍晴明の下向の伝説があって、福島市の福島稲荷神社 にも同じような伝承が残っている。
多くの人からの崇敬を集め、その御神徳を尊び『総社神社』と称した。明治四年に『出雲神社』と社号を改め、現在に至っている。
出雲神社 2
福島県喜多方市寺南に鎮座する出雲神社は大国主命を祭神とする神社である。大山祗神(オオヤマツミノカミ)と埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ)の2柱を祭神とした総社神社であったが、明治4年(1871年)に出雲神社と改称し、祭神を大国主命とした。
社伝によれば、創建は正歴年間(990年〜995年)に安倍晴明が「国土開墾の神」として当地に大国主命を奉斎したことによるという。
境内には「自由民権運動発祥之地」の碑がある。
出雲大社に祀られる大国主大神を分祀した神社は、氷川神社などあるが、出雲神社はそれほど多くはないようだ。私が初めて出会った出雲神社でもある。境内には2本の枝垂れ桜も植えられており、土蔵造りの蔵もあった。また、鳥居の向かいにある4軒長屋の店舗は歴史が感じられ情緒のあるものだ。

「『新編会津風土記』には総社神社とあり、大山祗神(オオヤマツミノカミ)・埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ) の2柱を祭神としているが、明治4年に出雲神社と改称、祭神も大国主神(オオクニヌシノカミ)とした。社伝によれば、この地を開いたのは、天慶年間(938〜946)にここまで逃れてきた平将門の残党で、 神社は正歴年間(990〜995)に安倍晴明が「国土開墾の神」として当地に大国主命を奉斎したことによるという。境内には、天正の頃に中田付(現・喜多方市岩月町)より移した市神石が祀られている。」としてゐる。
「社伝によると、安倍清明が当国に下向し 「この地は将来繁栄する地相である。国土開墾の神、出雲の神を総鎮守とすべし。」と勧めたとある。・・・、祭神は『大国主命、邇邇芸命 (ニニギノミコト)」としてゐる。  
天恩皇徳寺   白河市大工町
天恩皇徳寺は、大同年中(806〜10)法相宗の高僧、勝道によって創建された勝道寺でした。しかし、平安時代末期に三十三間堂などの建立とともに再興され、名前を「大白山天恩皇徳時」と改めました。現在の場所に移ったのは、丹波氏の時代とされています。
境内には、数々の歴史的有名人の墓、慰霊碑があり、会津地方の有名な民謡「会津磐梯山」に登場する小原庄助のお墓もあります。呑兵衛の庄助らしく、徳利の上にお猪口が蓋をしている形を模したユニークなお墓になっています。戒名は、「米汁呑了信士」。

大同年中(806年〜810年)、現在の寺小路のあたりに、法相衆の僧だった勝道が建てた勝道寺が前身であると伝えられています。平安末期に三十三間堂をもつ寺院として再興され、「大白山天恩皇徳寺」と名前を変えました。現在の地に移ったのは、徳川幕府により移封されこの地にやってきた丹羽氏の時代とされています。白河口の戦いで戦死した新選組隊士 菊地央の墓や、民謡「会津磐梯山」の囃子ことばで名高い小原庄助のモデルと言われる会津塗師久五郎(安政5年6月10日没)の墓があります。  
小高城跡   南相馬市
福島県南相馬市小高区(令制国下:陸奥国行方郡小高)にあった日本の城(平山城)。別名「紅梅山浮船城」。
南北朝時代に、北畠顕家率いる南朝の軍勢に対応する為に建設され、建武政府下の1336年に攻められ一度陥落している。翌年1337年に城を奪還してからは、第16代当主相馬義胤が本城を牛越城や中村城に移転するまで、約260年間に亘って相馬氏の居城であった。
城の北東から伸びる比高10mほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。このように三面を水域と湿地で囲まれていたため、浮船城と呼ばれていたという。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。
大手は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。城の一部に土塁跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。
城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言い難い。防御力の低さを補う為に、付近の丘陵に複数の出城があったといわれており、この城地の狭さゆえであると思われる。
相馬氏が小高を本拠地にした要因は、南隣の岩城氏(本拠地:四倉、飯野平)を牽制する目的であった。ところが、北隣の伊達氏(本拠地:米沢、岩出山)との抗争が激化すると、相馬氏は中村に城代を置いて伊達氏と睨み合った。
1600年の関ヶ原の戦いでは、相馬氏は佐竹氏(本拠地:常陸太田、水戸)に与した為に、関ヶ原の結果として領地を没収された。しかし、伊達政宗が相馬義胤を擁護して徳川幕府を説得した為に、相馬義胤は旧領である浜通り夜ノ森以北への復帰を果たし、1611年には本拠地を城代所在地であった中村城に完全移転して、中村藩を立てた。この本拠地移転も、この小高城の狭さゆえであると思われる。
現在は本丸跡の平場に相馬氏の守護神である天之御中主神を祀る相馬小高神社が建っており、相馬野馬追祭りの時に、裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する「野馬懸け」の場所として知られている。
なお、茨城県行方市麻生にも同名の「小高城跡」が存在するが、こちらは行方宗幹の子太郎定幹によって築かれた。
相馬小高神社   南相馬市
御祭神 天之御中主命あめのみなかぬしのみこと
相馬小高神社は、中世の奥州相馬氏の居城であった小高城跡にあります。小高城は、奥州相馬氏が下総国から移った鎌倉時代の終わりころから江戸時代の初めまでの約280年間、奥州相馬氏の居城でありました。奥州相馬氏はこの城を拠点として、南北朝の動乱や伊達氏との抗争を繰り広げました。小高城は中世の城としては小規模なものですが、土塁などが現在もよく残っており、その姿から、別名を「紅梅山浮舟城」と呼ばれ、住民に親しまれています。
江戸時代になり、相馬氏が中村城(相馬氏)に移ったあとも妙見が祭られており、明治時代に小高神社、戦後に相馬小高神社と改称しました。現在は、国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」の3日目の野馬懸の祭場地として広く知られており、その江戸時代の様子は、相馬小高神社に奉納されている県指定有形文化財「相馬野馬追額」などからうかがえます。
神社境内には、雷神社・奥の院・天満宮・棚機たなはた神社なども多数祀られ、初詣には多くの参拝者で賑わうとともに、桜の名所としても有名です。
大悲山(だいひさ)の石仏
南相馬市小高区泉沢にある薬師堂石仏・阿弥陀堂石仏・観音堂石仏は「大悲山の石仏」と呼ばれ親しまれています。仏像の様式から、製作時期は平安時代前期と推定され、1千年以上も前にこの地で比類なき仏教文化が花開いたことを示す貴重な歴史遺産であることから、昭和5年に国史跡に指定されました。東北地方で最大・最古の石仏群であることから、栃木県宇都宮市大谷磨崖仏おおやまがいぶつ、大分県おおいたけん臼杵市臼杵磨崖仏うすきまがいぶつと並んで日本三大磨崖仏にほんさんだいまがいぶつに数えられ、日本有数の石窟寺院と評価されるにもかかわらず、この石仏を作った人達や歴史的背景は詳しくわかっておらず、未だ謎の多い石仏群です。
薬師堂石仏
薬師堂石仏は大悲山の石仏の中で最も保存状態が良く、凝灰質砂岩ぎょうかいしつさがんを刳くり抜いた間口15m、高さ5.5mの岩窟がんくつの壁面に、浮彫うきぼりで4体の如来像と2体の菩薩像を、線刻で2体の菩薩像と飛天を彫り出しています。首が太く、肩が張り、胸幅の広い、量感のあるどっしりした如来坐像の姿は、平安時代前期の特徴を備えています。
観音堂石仏
観音堂石仏は、この石仏群の本尊であったとされる十一面千手観音坐像で、保存は良くないものの、高さ9mを測る日本最大級の石仏です。厚肉あつにくに彫り出されたたくさんの手のうち2本を頭上に挙げて化仏をささげ持つ独特のポーズは、京都の清水寺の本尊である十一面観音像と共通することから、「清水型」と呼ばれています。観音像の左右両翼には、薄肉彫うすにくぼりで数多くの化仏が刻まれています。この磨崖仏は、元禄期に奥州中村城主相馬昌胤によって奥相三拾三所観音が定められ、その中の第二十七番札所にもなっています。
阿弥陀堂石仏
阿弥陀堂石仏は形も明らかでないほどに剥落はくらくが激しく、現在は仏像と思われる芯の部を残すのみで、阿弥陀仏が刻まれていたと伝えられています。
大悲山の大杉
大悲山にある大杉は、薬師堂石仏の前庭石段そばにあり、目通り8.4m、高さ45mを測る県内有数の大木です。樹齢は、千年に及ぶものと推定され、薬師堂石仏が作られたころに、育ち始めた木であると考えられます。福島県の天然記念物に指定されています。
相馬太田神社   南相馬市
福島県南相馬市原町区中太田に立地する神社。相馬三妙見社の一つ。太田神社とも呼ばれている。御祭神は天之御中主大神である。
承平年中(931年 - 937年)に相馬氏の遠祖・平将門が下総国猿島郡守屋城に妙見社を創建したことに始まる。
平将門から十二代にあたる相馬師常が源頼朝の軍に従い、奥州藤原氏との合戦での功績により奥州行方郡の地を賜り、同族の千葉氏から相馬を継ぎ、奥州相馬の初代となった。
その後、元亨3年(1321年)4月22日、下総国守谷城より相馬孫五郎重胤公が御国換えの際、この地へ移り住み、氏神妙見尊を奉じて宮祠を創建して祀った。
相馬家は妙見信仰の信望者で、藩主が篤く信仰していた鎮守・妙見を下総から持参し、敷地内に鎮座させた。その妙見堂が相馬太田神社の由来とされている。
この神社は中村藩相馬氏の氏神として代々崇拝されてきた。  
日鷲神社   南相馬市
(ひわしじんじゃ) 福島県南相馬市小高区にある神社である。旧社格は村社。
天日鷲命を祀る。 「奥相志」によれば、天日鷲命、金鳶命(天加奈止美命)、天長白羽神を祀るという。
祭神の天日鷲命は、天孫降臨の際、瓊瓊杵尊に供奉した三十二柱のうちの一柱で、天太玉命に付き従う神である。その御姿は手には弓矢兵杖を帯び大鷲に乗り、先駆けとなって天降ると伝わる。そのため、天日鷲命は弓矢の神であり、戦の際は大鷲として顕現し軍を先導すると信仰された。
日鷲神社は、往古は下総国豊田郡沼森村に大形神社という名前で鎮座しており、平将門が下総国にいた際も篤く信仰し「鷲宮は神代より弓矢の神で、鷲は猛々しい鳥である。我が軍が敵国に攻め入れば、天日鷲命は大鷲の姿で現れて旗を導くだろう。我が軍に大利をあらしむれば、我が子孫は永く天日鷲命を守護神と致す」と祈願したという。関東地方を平定した後、平将門は天日鷲命の加護への報賽として社殿造営や神田の寄進、酉の神事を行った。
文治年間、源頼朝は下総国の「鷲宮(わしのみや)」を崇敬し、神田や神馬を寄進し開運を祈願した。相馬氏初代当主の相馬師常は治承4年(1180年)より源頼朝に従い、しばしば軍功を上げたという。文治5年(1189年)9月に奥州合戦に参戦した際、遠祖である平将門にならい鷲宮で戦勝祈願を行ったところ、大いに勲功があった。相馬師常は源頼朝より褒賞として行方郡を賜り、凱旋後は鷲宮を修繕してより篤く崇敬するようになったという。
日鷲神社は、元亨3年(1323年)頃、陸奥相馬家当主である相馬重胤が下総国(現在の千葉県北部)から行方郡へ移った際勧請され原町区太田に祀られた。相馬重胤の遠祖である千葉氏が崇敬する妙見社(現在の南相馬市の相馬太田神社)・上太田の塩竈神社もこの時期に相馬の地へ勧請され、日鷲神社は武神・天日鷲命を祀る神社として崇敬を集めていたという。貞治3年(1364年)に現在の鎮座地である小高区女場へと遷座した。勧請された当時は「鷲宮(わしのみや)」と呼ばれていたが、諸般の情勢(明治政府は皇祖神以外に「宮」の呼称を禁じた)から明治5年(1872年)に現在の社名である「日鷲神社」へ改称した。
日鷲神社には「酉の市神事」という神事があり、神社から小さな細杷(こまざらい、熊手)をいただいて幸運を祈るものである。細杷は「意のごとく家財・金銀財宝や山海の獲物をかき集める」という意味で授与され、今でも商家にその習慣が残っている。また、霜月(11月)初めての酉の日に行われる神事に早芋頭(はたいもがしら)を商ったという。早芋頭を買うことは、戦時において敵の首を捕ることにならうという。  
相馬中村城跡   相馬市中村
福島県相馬市中村(令制国下:陸奥国宇多郡中村)にあった日本の城。単に中村城とも言うが、他の「中村城」と区別する際には、相馬中村城や陸奥中村城という。戦国時代から江戸時代にかけての大名・相馬氏の居城の一つであり、江戸時代には藩主相馬氏の中村藩の藩庁であった。馬陵城(ばりょうじょう)という別名を持つ。
縄張りは梯郭式の平山城である。
西の阿武隈山地から伸びる比高15m程の小丘陵に築かれた城である。南面に流れる宇多川を天然の外堀とし、この水を引いて北面・東面に水堀が配される。尾根続きの西面は、堀切と切岸で防御されている。北面に水堀を中心とした地形的障碍を多く用い、仮想敵である伊達氏を意識した構えとなっている。戦時には堀を切って城の北側500m余りを一面の沼沢地にすることができたとも言われる。場所としては宇多川の渡河点を制圧する意味合いを持っている。
歴史 1
中村城の歴史は古く、相馬氏が居城を移す前からも城館として利用されていました。古くは、延暦20年(801)坂上田村麻呂の東夷征伐のとき利用したとされ、中世には、源頼朝が奥州平定の帰途、ここの館に宿営したと伝えられています。
南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。
中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森以北に権勢を振るい、1563年(永禄6年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いから11年後の1611年(慶長16年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石の政府となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手(からめて)門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年(寛文10年)には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。以後、これを指針として歴代藩主は天守を再建しなかった。
1868年(明治元年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。そして、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃城となった。
歴史 2
中村城の歴史は古く、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。
南北朝時代の延元二年(1337年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。
中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森(冨岡町)以北に権勢を振るい、永禄六年(1563年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と対峙していた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いから11年後の慶長十六年(1611年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は相馬中村藩6万石の中心となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、寛文十年(1670年)には落雷により天守を焼失したが、時の四代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は行われなかった。以後、これに倣い歴代藩主は天守を再建しなかった。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。そして、明治四年(1871年)の廃藩置県により廃城となった。
明治十三年(1878年)に相馬氏の祖・相馬師常を祀って相馬神社が本丸跡中央に建立された。  
相馬神社 1   相馬市中村
明治12年 相馬氏の始祖『師常(もろつね)』公を御祭神とし、中村城(馬陵城)本丸跡に創建されました。
師常公は、保延五年(1139年)に、千葉常胤の次子として生まれ、相馬中務太夫師國の家を継ぎました。
相馬氏は、『平将門』公の末裔であり、代々下総の相馬郡一帯を領していましたが、文治五年(1189年)源頼朝の将である父常胤に従って平泉攻めに加わり、軍功をあげたので恩賞として八幡大菩薩の旗一旗と相馬地方を賜りました。
師常公は、常胤の子七人の中でも特にすぐれ頼朝の信望も厚く、『鎌倉四天王』の一人に数えられていました。また、信仰心の厚い人であったので、死後鎌倉の人々には『相馬天皇』として祀られ、今もなお御崇敬されております。
常胤は、長男には千葉地方を継がせ、師常には流山地方と相馬地方を与えました。師常公から数えて六代目『重胤』公のとき、上杉影勝に通じ関ヶ原の役に参加しなかったことで、一時城地を没収されましたが『徳川家康』はその子『利胤』を召し出して六万石の本領を安堵し、明治維新まで続きました。
境内には、桜の名所馬陵城(4月中旬頃)や19代『忠胤』公が植えたものと伝えられる、樹齢四百年といわれる『藤』(相馬市指定天然記念物・昭和54年7月指定)があり、花期(5月中旬頃)には参拝者の目を楽しませております。
相馬神社 2   相馬市中村
相馬中村城跡に奉られた福島県相馬市にある神社。旧社格は県社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。祭神として妙見菩薩こと天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と相馬氏の氏神である平将門が勧請されている。
相馬家の始祖師常を祭神として明治13年(1880年)に建立された。馬陵公園(中村城址)には相馬家の氏神としての妙見中村神社と相馬神社の2社がある。妙見中村神社は相馬中村神社ともよばれるため相馬神社と混同されるが別物である。相馬家は相馬中村藩領内に居城した原町、小高にもそれぞれ妙見太田神社と妙見小高神社を建立したものが現在も残っており、一般的には中村神社、太田神社、小高神社と表現される。  
相馬中村神社 1   相馬市中村
福島県相馬市中村に立地する神社。別名は妙見中村神社(みょうけんなかむらじんじゃ)だが、中村神社と省略されることもある。祭神は天之御中主神(妙見菩薩)。相馬野馬追の出陣式はここで行われる。
相馬中村神社の起源は、相馬氏の始祖である平将門が承平年間(931年〜937年)に下総国猿島郡に妙見社を建立したことに始まるといわれる。相馬氏の相馬郡下向に伴い建立された。戦国時代の16世紀後半には、中村城が相馬氏の北の居城となり、相馬盛胤や相馬隆胤などが中村城主となった。
1600年の関ヶ原の戦いの結果として相馬氏は改易されたが、1611年に旧領への復帰を果たして中村藩を立てた。この時、中村藩の初代藩主となった相馬利胤(相馬氏第17代当主)が、1611年に中村城内の南西に相馬氏の守護社である妙見社を建立したのが、現在の相馬中村神社の起源である。
現在の社殿は寛永20年(1643年)に中村藩2代藩主相馬義胤(相馬氏第18代当主)により建立され、国の重要文化財に指定されている。
明治時代に入って廃仏毀釈により本尊の妙見菩薩が廃棄され、相馬中村神社と改称した。また、中村城本丸跡には、戊辰戦争後の1880年に建立された相馬神社がある。
宮司は初代田代信盛から始まって、代々田代家が世襲して29代を数える。
相馬中村神社 2
相馬神社の始まりは、社伝によれば今から一千余年前の承平年間(931〜937年)相馬家の先祖、平の将門が下総の国猿島郡という所に妙見社を創建して戦勝を祈願、併せて国家安泰、国民諸行の繁栄を祈念したことに始まり、後孫師常公が、下総の相馬郡に社殿を建てたと伝えた後、元亨三年(1323年)になって、師常より六世の孫相馬孫五郎重胤公が、鎌倉から初めて奥州行方郡に移ると同時に妙見祠を大田に移し、正慶元年(1332年)小高に築城して移るとき神社も移されました。さらに慶長十六年(1611年)相馬利胤公が相馬中村に城を移したとき妙見神社も中村城内へ移されました。これが現在の相馬中村神社です。相馬中村神社は、相馬家代々の氏神として崇敬されてきたばかりでなく、相馬地方の総鎮守として中村城郭内の西にある小高い丘に建っています。
現在の本社建築本殿・幣殿・拝殿は、寛永20年(1643)、18代藩主相馬義胤によって建立され、相馬地方の代表的な古建築として国の重要文化財に指定されています。用材として欅をふんだんに使った権現造りで、本殿及び拝殿正面の蟇股と呼ばれる部材は神社由緒を象徴するように馬の彫刻が施されています。現在建物は白木造りの様相を呈していますが、本殿は本来、木部全体に漆塗りされておりました。建立後三百五十年という歳月により建物は真の姿を隠しておりますが、内部に施された漆塗り、彩色はよく残り当時の装飾美を今に伝えています。現在の社殿は、ほぼ20年ごとに都合10回の修理を重ねており、また、平成29年から大修理が行われ、屋根も創建当時のこけら葺に改修されました。 
国王社本殿   相馬市中村
国王社は、相馬中村神社境内にあります。この神社は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)と相馬氏の祖と伝えられる平将門をあわせて祭っています。
相馬氏が行方郡(なめかたぐん=現在の小高町・原町市・鹿島町・飯舘村)に移ってきた時、小高村都迫(今の入迫)に建立され、相馬氏の祖神として信仰されました。
1694年(元禄7)、藩主相馬昌胤が現在の地に移しました。 
沼の主の話
茨城出島 / 若松長者
若松長者:牛渡の台地(今の牛渡小学校のところ)に若松長者といわれる富豪が住んでいた。広い土地と多くのめし使いをつかっていた。一人の美しい娘がいて幸せなくらしをしていた。あるとき病気にかかり、医者や薬と手を尽くしたがききめがない。占にみてもらったところ、牛の年の、牛の日の、牛の刻、に生まれた女の生き血を飲ませればなおる≠ニ、いわれた。長者の召使いに一人それにあたる女がいた。そこでその女に宿下がりをさせ、その途中殺すこととした。見事殺す事ができ、生き血をのませたら、たちどころに病気がなおった。そこに宿下がりから召使いが帰って来た。不思議なことだ。長者が守本尊のあみださまをみたら、召使いをきりつけたと思われるところに刀のきずがあった。あみださまが身代わりになったのだ。それから長者の家は没落し、長者は都へ行ったといわれる。『霞ヶ浦の民俗』

相変わらずよく分からない。おそらくは「原因不明の病にかかった娘と牛に関する何か」の話があり、これが下って「身代わり本尊」の話に組込まれたのだろうと思う。全体を通して解題するのは難しいので、この「原因不明の病い」と「牛」というコードの共通する話を見てみよう。
そういった話が陸奥にあるのだ。それは陸奥伊達郡・福島県伊達市の半田沼に伝わるヌシの話。この話には重要なヒントがたくさん語られている。
福島 / 半田沼の主
半田沼の主
伊達郡森江野村に、塚野目という武士の一人娘で早百合という美しい娘がいた。この娘が病気になり、「半田沼の水がのみたい」とくり返す。半田沼とは昔の銀山・半田山の山腹にある古沼のことだ。沼の水を娘に飲ませると病は治った。その後も病になるたびに半田沼の水を飲ませると娘は良くなるのだった。しかしある日娘は姿を消す。皆で探すと半田沼の岸の松に着物がかかっていた。沼底を探させた水もぐりは奇怪な体験をする。沼に潜ると機織る音が聞え、底には立派な屋敷があった。奥の間には早百合がおり、一人で機を織っていた。早百合は沼の主に見込まれ妻となったのでもう戻れない、と言う。水もぐりがふすまを細く開けて次の間を見ると大きな赤牛が寝ているのだった。『日本の民話』
註 魔の沼の主、赤牛とは、文治の頃源義経が平泉に秀衡を頼りにこの山をこえた時、金銀を背負った一頭の牛が、にわかに驚き狂い、沼の中に落ち込みました。これが沼の主になったといい伝えられています。後年、日照りがつづくと、農民は沼のほとりで雨乞いをします。 いまでも「早百合どの」と、沼のほとりから、水底によびかけると、必らず雨がふってくるといわれております。

娘は半田沼の水を飲むことにより回復する。しかし、これは通常の「回復」ではない。徐々に沼の主の赤牛と同族に変化して行っていることを示していると思う。すなわち、赤牛に見込まれた時点で人として暮らすのに不都合な体質(病い)となってしまい、以降沼の水を飲みヌシの眷属化が進むことで回復「したように見える」状態がしばらく続いた、ということだ。
これは直ちに「出島牛渡の若松長者の娘もそうだったのではないか」と思わせる。若松長者の娘の原因不明の病いとは何らかのヌシに見込まれた状態だった。牛の年の、牛の日の、牛の刻、に生まれた女の生き血を飲ませればなおる≠ニいう占の異様な託宣とは、そのヌシの眷属化することで生きながらえることはできるだろう、という話だったのではないか。守り本尊の話に組込まれる前には、長者の娘は回復するもののやがて霞ヶ浦にとびこんでしまい、長者家は没落した、という話だったのではないか。
次に半田沼の赤牛の出自。初めから牛がヌシだったわけではないことが註に語られている。義経の連れた牛が沼にとびこんでヌシとなっている。そして雨乞いが関係している。
これは牛を供儀とする雨乞いの習俗が半田沼にあったのではないか、と思わせる。供儀とされたものがヌシ化する例はまま見られる。そして、これも出島牛渡に大きく響く。牛渡には牛を弔ったという牛塚があることは「霞ヶ浦を渡る牛の話」に述べた。同時に、鹿島神宮へ赴く国司が船上牛を連れていた、という類型があることも述べた。何故国司は牛を連れていたのか。私はここが大変気になっているのだ。
霞ヶ浦出島の先は「三叉沖」と呼ばれる。私はここは古代から現代に至るまで一種の「魔の海域」とされてきただろうと考えている。いや、考えているというよりそう聞いたのだ。出島の岸で釣りをされていた方に聞いたのだが、その方は船釣りもされるそうで霞ヶ浦に船を出すこともあるのだけれど、三叉沖というのは危険だそうな。
特に「筑波おろし」という北西風が強く吹く冬から春先は、高浜入りからの波と、土浦入りからの波が三叉沖でぶつかり大きな三角波ができやすいのだそうな。そして、これは各種伝承とも合致する。
「国分寺の鐘」という話で石岡の常陸国分寺から鐘を盗み出した大力の大泥棒(弁慶とも言う)は、船に鐘を積んで高浜入りから三叉沖へと進んだが、三叉沖でにわかに嵐が起り、これを鐘の祟りと畏れた泥棒は鐘を三叉沖に沈めた。
また、稲敷市の浮島に「姫宮神社」が鎮座するが、ここは佐竹氏に攻め滅ぼされんとしたこの地の一族の姫君を弔ったのが創始と伝わる。その際、囲いを脱した姫君は小舟で霞ヶ浦に逃げ出したが、三叉沖にさしかかったところ大風に見舞われあえなく転覆し、水底に沈んだという。
おそらく霞ヶ浦のヌシの神威は三叉沖に現れる、とされてきたのだ。だから、国司は牛を船上連れていたのではないか。三叉沖で嵐が起ったら供儀として牛を沈める、そういうことだったのではないか。
このように比べて見ていくと、「若松長者」の話がもともとは「半田沼の主」のような話だったのではないかと思えてくる。その次に重要な点として、今度は赤牛に見込まれた塚野目の娘がヌシ化している節があるという問題がある(名の「早百合」と、水神への人身御供譚の典型に見る「小夜・佐用姫」との類似がそれを暗示している)が、あるいは霞ヶ浦周辺にも出没する「大蛇の化身の美少女」がそうであるのかもしれない。
この点は現状「牛渡」に直結する話を見つけていないのでさて置くが、いずれにしても雨乞いか嵐鎮めかの違いはあるが、「牛の供儀」というキーワードを半田沼から拝借して来ることは、出島牛渡を中心とする「霞ヶ浦を渡る牛」の話を読み解くためのひとつの視点となるだろう。同時に「若松長者」の話を「霞ヶ浦を渡る牛」の話へ接続するためのコードはそれしかないだろうとも考えている。
つまり、出島牛渡を巡る牛の話はあるいは「霞ヶ浦のヌシ」の話に直結するかもしれない、ということだ。今回はその一点を指摘して幕とするが、実はここには途方もない大きな話が関連して来る可能性がある。以下蛇足としてそのアウトラインを紹介しておこう。
桔梗姫の話
先の半田沼の西北西10キロほどのところには現在ダム湖の「茂庭っ湖」があるが、かつてはここのあたりに「菅沼」という沼があったそうな。そこに大蛇伝説がある。
菅沼の大蛇
伊達郡茂庭村布入に、菅沼という大沼があり大蛇がいた。村人は三年に一度大蛇を祭り、美少女をお供えとしてしていた。ある年茂庭村が少女を出す番になったが、村には年頃の娘がいなかった。仕方なくお金を出し合ってよそから少女を買いお供えとしようと決まり、文五郎という者が旅に出た。冬から春へと各地を回っても蛇の贄に娘を売ろうという者はなかったが、ついに那須野の猟師の娘が主君のため、人を助けるためなら、と申し出た。猟師の主君(斉藤)実良が父の一周忌でも法要の金がなく困っていたのだ。娘と文五郎が去った後、猟師が主君実良に事の次第を話すと、実良は驚き、直ちに菅沼の大蛇を討つべく家来を連れて沼へ向った。
茂庭村では実良の蛇退治の申し出に驚き喜ぶが、大蛇の仕返しを恐れて話がまとまらなかった。すると稲束稲荷に一頭の白狐が現れ、白羽の矢二本を実良の前に置いた。人々は神さまも味方であると喜び、実良は大蛇退治に向った。娘を沼岸に供え、祭りを行うと辺りは暗闇に覆われ、大雨がふり、沼から大蛇が半身を現した。すると二羽の白鳥が沼の上を飛び回り、雨が止み、雲霧が晴れて光が射した。時を逃がさず実良が矢を射ると、見事に大蛇の急所である舌を貫き、大蛇は水底に沈んだ。

この話では大蛇は実良に討たれ沈んでるが、類話では半死半生で「半田沼へと逃げようとした」というものがある。その逃走の過程で不動尊に引導を渡されたという蓮華滝という滝も茂庭にはある。なぜ、半田沼へと逃げようとしたのか。
この大蛇はもともと半田沼におり、沼が手狭となったので菅沼へと移ってきた、という伝説を持っている。半田沼へ帰ろうとしたわけだ。そして、この伝説ではこの大蛇は「桔梗姫」の事だとされているのだ。
平将門の妾(妻・娘とも)である桔梗姫が敵将である藤原秀郷(俵藤太)に心を寄せてしまう。そして、ついには桔梗姫は秀郷に将門の秘密(影武者のこと、弱点の事)を漏らしてしまい、将門は秀郷に討ち取られる。後、利用されていたと知った桔梗姫は半狂乱になり秀郷を追うが……という話がある。類話異系は甚だ多いので、ここは大雑把に。
これが福島ではこの桔梗姫はそもそも秀郷が瀬田の唐橋で出会った蛇の化身である美女(に頼まれて秀郷は大ムカデを倒す)と秀郷との間にできた娘であったというのだ。桔梗姫は父と知らず秀郷に恋してしまったわけだ。秀郷に裏切られた桔梗姫は半狂乱になって秀郷を追ううちに、水面に映る自分の姿が大蛇になっていることに気がつく。そして身を投げたのが福島の半田沼で、後に半田沼が小さかったので茂庭の菅沼に移ったのだという。
将門最期の地は現在の坂東市岩井。その知らせを聞いた桔梗姫は取手市大日塚ではそこから身を投げたと伝わっている。この舞台は霞ヶ浦出島からは南西に30キロほどのところだ。
こういった連絡が霞ヶ浦周辺と半田沼・菅沼にはある。出島と半田沼の話を比べて見たのは、単に「似ている」からだけではなく、おそらくは中世の将門伝説・奥州藤原氏の伝説を東山道沿いに語り伝えた人々の動きがあるのじゃないか、という点も関係する。  
「大蛇退治」伝説   福島市飯坂町茂庭
茂庭には「大蛇退治」の伝説が残っており、伝説にまつわる地名や史跡が、今に伝わっています。大蛇は、茂庭沢の菅沼というところにすんでいて、水害を起こして村々を襲うものとして恐れられていました。このため、近隣の村々から人身御供を選んで捧げていたということです。
建久3年(1192)、人身御供をされる娘を救うために下野国(しもつけのくに)よりやってきた斎藤実良(さいとうさねよし)が、神の御加護によって授かった矢で大蛇を退治したと言われています。このとき村人の願いによってこの地にとどまった斎藤実良が、名を改め以後十三代にわたってこの地を治める茂庭公の初代となったということです。
大蛇の体は三つに切り離し、首を川下の田畑に、尾を中ほどの梨平に、胴を川上の名郷に埋葬し、それぞれの場所に、田畑の御嶽神社、名号の御嶽神社、梨平神社を建てました。首、胴、尾の順としなかったのは、順に並べれば生き返って再び害を及ぼすかもしれないと怖れたためだったといわれています。
大蛇の胴を埋めた御嶽神社 / 大蛇の尾を埋めた梨平神社 / 大蛇の首を埋めた御嶽神社
梨平神社、摺上川ダムの建設により水没する梨平地区の人たちが、この地に社殿を建立し、大蛇の尾を埋め祈った。御嶽神社をはじめ、茂庭公の氏神であった稲荷神社や諸々の祭神を合祀し、梨平神社としました。
茂庭の大蛇伝説
厄(わざわい)の始まりは平安時代中期、恋焦がれる男に騙された事により幼い頃から自分を可愛がってくれた主、平将門を討ち取られた女性(桔梗の前)はその怨念から大蛇と化しこの地の菅沼に住みつくき、災いを放ち村人を苦しめるようになる。
時を経た鎌倉時代の頃、ある武将(周防殿)が天より降りた神童(日本武尊が白鳥大明神に姿を変えたもの)から授かった矢で大蛇を退治し、苦しむ村人を助けようと進んで人身御供となり白岩に篭った娘(白菊)を救うまでに至った物語。  
稲荷神社   福島市飯坂町東湯野
通称  北向明神
ご祭神 倉稲魂神  
古館跡(清水館)   伊達市月舘町
館跡は、四方が開放され、町内は勿論、掛田の茶臼山、蔵王、霊山の一部まで見晴せる絶景の地であります。
椿館の支城 古館跡(清水館)
電々公杜の西側の山、出夫山の山頂附近がかつて「清水館」と称され、今は古館=ふんだてと呼ばれている館跡です。登り口にはいまも古い井戸が残っており、古くからの清水といわれて、ごく最近まで使用されておりました。館の名と結びついて伝わっています。
館主は、福島椿館主の岩城政氏の臣、八巻某と伝えられています。また、当所を佐藤民部の居た所と推定している(信達二郡村誌)ものもあります。かつては、広瀬川がすぐ下を流れ、天然の要害だったものとみられます。  
勝善神社   双葉郡大熊町野上観音山
勝善神社   いわき市平山崎矢田川  
勝善神社   白河市表郷社田字白旗
奉納馬絵幕・社田勝善神社御神馬像
表郷地域、社田前山地区にある高萩勝善神社と、社田白旗地区にある社田勝善神社のふたつの神社に伝わる、地域の馬産信仰を反映する資料群である。
奉納された絵馬・馬の写真や幕、馬屋の祈祷関係・講関係文書を中心に、神社社殿や泉、石造物や神馬像などが指定されている。
勝善神社には、源義経が関山で戦勝祈願を行っている間に愛馬が死んでしまったが、泉(駒形の泉)に馬が映っていたので、そこに祠を建て勝善神社とし、愛馬を祀ったという伝承があり、承安4年(1174)に現在の表郷社田字前山に遷座し、神殿、神馬舎、鳥居、石段等を建立したという。 
桔梗姫   伊達郡桑折町
昔、藤原の俵藤太秀郷という豪勇無双の武士がおり、瀬田の唐橋のたもとに棲む大蛇の化身の美女に頼まれ、三上山の大百足を退治した。秀郷と美女は一夜の契りを結び、美女は桔梗姫となる娘を産んだ。桔梗姫は自分の出自を知ることなく、後に平将門の妾となった。
将門は破竹の勢いで天下を伺っていたが、朝廷はこの征討に秀郷を向わせた。しかし、将門は常に影武者を置いており、本物の見分けがつかなかった。そこで秀郷は身を偽り、将門の家来となることでその秘密を探ろうとした。
こうして桔梗姫と秀郷は出会い、桔梗姫は秀郷が自分の父であることも知らずに心を惹かれてしまう。姫が秀郷に名をたずねると「私は半田の半七です」と秀郷は答えたという。そして、ついに桔梗姫は将門の秘密を秀郷に教えてしまった。
秘密を聞き出した秀郷は将門のもとを去り、敵将として将門を討ち果たすことになった。一方、桔梗姫は秀郷を恋慕すること止み難く、半田を訪ねて半七なる人を探し歩いた。しかしそのような人がいるわけもなく、尋ねる村人も戸を閉めて会ってくれなくなる。
喉が痛みだしたので、姫は半田沼へ降り水をすくおうとした。すると、水に映る自分の姿が大蛇となっていることに気がつく。姫はもはや自分は魔神に変わった、と思い、半田沼は小さかったので、山ひとつ向こうにある菅沼へ行き、ヌシとなった。

類話ではまず半田沼に棲み、手狭になったので後に菅沼に移ったともある。この点は中々重要で、菅沼には「菅沼の大蛇」という伝説があるのだが、この大蛇が討たれる折にもといた半田沼へ逃げようとする。「菅沼の大蛇」もまた桔梗であるのだ。さて、この話そのものは、いろいろな要素が結びついて出来ているものであり、これを解題するのはまだずっと先の課題となる。ここでは、桔梗が「将門の母」と語られる伝(「桔梗前弁天」)に対し、愛妾であり蛇となる桔梗という筋を見るために引いた。 
国玉神社   双葉郡浪江町
浪江駅から北西1q。かつては「国王神社」と称していて、将門を祭神にしていました。将門の娘・如蔵尼が下総から遷座したともいわれていますが、創建は不明です。この社の社殿は、明治まで「准胝観音」のもので、国王神社は観音堂に安置されて将門を祀っていたといわれていて、明治以降、「国玉神社」と称して今に至っているとのことでした。
准胝観音
現在の国玉神社本殿の左手の、小さな祠の中に将門を祀っているといわれています。格子戸の間から覗いてみると、小さな観音像が見られます。将門の娘・如蔵尼がこの観音像を背負ってきて、将門を祀ったと伝えられています。
国玉神社   相馬市坪田  
御鍋神社 1   岩瀬郡天栄村
古老口碑に曰く平親王将門が戦に敗れその一族が秘かに奥州の清原氏を頼るべく此の地点迄逃れ来たしが警戒厳重を極め桔梗の前は逆境にも拘らず無事安産将門の一子を産みたり一族大いに喜びこれを同伴山亦山の難強軍を続けたるも女性の足には堪られず、一族の足手まといになるを恐れ桔梗ケ原(現会津に地名在す)に於て自害せり、一族桔梗の前の遺言により九郎を守護して現在の平九郎谷に至るが然これ以上の逃避は困難であることを悟り現在の御鍋平に住み秘かに再起を夢み本神社を祀りたるはこの頃ならんか然れども再々の不可抗力の悪天候に見舞われ木の実すらなく食糧欠乏三々五々各地に分散移住したりと云ふ現地には御鍋平と云ふ平坦地ありて矢尻石食器の破片等出土せり。伝説に女性の守護神として崇敬され遠方より詣でる人が今に続き二岐温泉と共に盛んなり。
御鍋神社 2
今から約1,000年前、平安時代の中頃、戦いに敗れた平将門の妻、桔梗姫とその一族郎党が追っ手を逃れ、密かにこの地に隠れ住んだと伝えられる。桔梗姫は将門の子を産んだが、残党狩りが厳しく姫ら一行は鍋のみを残し、姿を消したとされている。この鍋をご神体として祀って以来、御鍋神社と呼ばれるようになった。
なお、社前のサワラの木は樹高約42m、胸高周囲約3.8mで、平成12年に林野庁が国内100ヶ所の巨木、名木を選んだ「森の巨人たち100選」に選出されている。二岐温泉が近い。
御鍋神社 3
・・・時は平安時代中期、平将門が戦いに敗れ、密かに逃れて来たその妻桔梗姫と一族がこの地に隠れ住んでいたという言い伝えがあります。桔梗姫は後に将門の息子平九郎(家臣との説もあり)を出産しますが、前途を悲観して自害してしまいます。残された一族は再起を祈願し、朝延から賜った鍋(鼎)を御神体にして神社を祭りました。それが御鍋神社の起源です。境内には、神社を見守るかのように樹齢500年の二本のヒバ(県緑の文化財指定)が空をさえぎり、鳥居の役目をしています・・・
祭神は平将門、妻ではなく通説では愛妾である桔梗姫、そして子供と云われる永井平九郎の三人。併しながらこの桔梗については千差万別の言い伝えがあり、将門の弱点を相対する藤原秀郷に教えてしまったとも云われている。
教えたことについては脅された、うっかり喋ったという説や、内応者として将門の側室になったという説があり、更に御鍋神社の言い伝えでは自害となっているが、裏切りを知った将門に首を切られた、茨城県北相馬郡藤代町、現取手市の旭御殿で将門の死を知って入水した、協力した秀郷に口封じのため殺害されたなどなど、平九郎の存在も含め真偽の程は定かじゃない。
現在、将門を祀る神田明神の明神祭では桔梗紋の家は参加が禁止され、将門を信仰する人々からは桔梗の花、柄、色などなどが忌み嫌われている。余談だが昭和51年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」では森昌子が桔梗を演じており、今まで述べきた事柄と正反対の姿で描かれている。
他の言い伝えでは、合戦に敗れた将門の一党がこの地で再起を夢み、野戦用の鍋を御神体として祀ったとも云われるが、先の桔梗姫同様、イギリスの歴史学者E.H.カーが述べるように「歴史とは現在と過去との尽きることを知らぬ対話」の格言通り、歴史の探求とは一向に尽きることがない‥とか言いながら、この鍋はどうみても鍋じゃなくて釜だと思うのは愚生だけだろうか。 
二岐山 (ふたまたやま) 1   岩瀬郡天栄村
那須連峰の北側に位置し、シャクナゲの群生地となっている頂上からは、飯豊連峰をはじめ磐梯山、猪苗代湖、那須高原が眺望でき、真下に羽鳥湖を望む。昔、大男がこの山をまたいだ際に股間を山頂にぶつけたために、山頂だけ2つ割れてしまったという伝説がある。山頂からは360度の大パノラマを楽しむことができる山です。
二岐山 2
江戸時代に出版された谷文晁の『日本名山図会』にも載った古くからの名山である。特異な双耳峰の姿は、すぐに覚えられる存在である。二岐山は、東岳と西岳又は男岳と女岳と呼ばれ親しまれている。急な登り下りが連続する中級向けの山であるが、山頂からは360度の展望が満喫できる。山麓の二岐温泉は、川底が源泉といわれる古くからの名湯である。
二岐温泉から荒れた林道を進み鍋がご神体の御鍋神社の先に登山口がある。八丁坂と呼ばれる急坂が待っている。ここはアスナロやミズナラの樹林帯である。上部に登るにつれて見事なブナ林に変わる。ブナ平の先から次第に急な登りとなる。かん木を抜けると山頂の男岳である。山頂には三角点があって、360度の展望が広がっている。那須連峰、小白森山、大白森山、小野岳や大戸岳などが眺められる。ここから女岳を経由して地獄坂と呼ばれる急坂をトラロープに掴まって降りる。あとは林道を二岐温泉目指して下る。
二岐山 3
奥羽山脈の南部に位置し、福島県岩瀬郡天栄村と南会津郡下郷町とにまたがる第四紀火山である。標高1,544.3m。二等三角点「二岐山」設置。大川羽鳥県立自然公園に指定されている。
安山岩からなる成層火山、溶岩ドームである。火山活動の時期は14万〜9万年前。北北西方向に流れた溶岩流地形(岩山溶岩)が明瞭に残っている。三角点のあるピーク男岳の北西約0.5kmにもう一つのピーク女岳(標高1,504m)が並び、双子のような特徴的な山容をしている。
山中はブナ、アスナロの原生林が残り、「福島県の鳥」キビタキ、オオルリなどが生息している。  
大雷神社(だいらいじんじゃ)   石川郡玉川村
福島県石川郡玉川村に鎮座。御祭神は疱瘡神(ほうそうのかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)など雷神八柱。社格は村社に列格。
天慶年間(940年頃)、平将門の末弟・将為が高御城に居た際、平家一門の守護神である『火雷天神』を阿武隈川付近の雷河原に勧請したのがはじまり。その後670年間祀られていたものの、慶長十四年(1610年)の秋、阿武隈川の大洪水で社殿および神主宅が流失。翌年の慶長十五年に現在の鎮座地である小高の地に遷座する。
江戸時代には『雷神宮』の称号を許可されていた。
しかしその後、明治に入ると神仏分離令が公布される。これにより、別当寺院であった真言宗般若寺が廃寺となり、当社は『火雷神社』と改称。その後、明治二十一年に『大雷神社』に改称。小高・中・蒜生の総鎮守として崇敬された。
その後、“小高の雷神様”として電力会社や福島空港、航空会社など様々な企業からも崇敬されているとのこと。
玉川村は福島空港のある村なわけですが、その村に疱瘡神や雷神を御祭神とする神社があるというのは興味深いですよね。空の玄関である空港から疫病が入らないように玉川村を選んだのではないかというような偶然の一致……!しかも福島空港の看板の文字色は赤で、空港内には体に真っ赤なラインの入ったウルトラマンの像まであるという……!「疱瘡神は赤色を苦手とする」という言い伝えがあるわけで、これは完全に玉川村に疫病が入るのを防ぐための鉄壁のガードですよ……!
疱瘡神社とかは境内末社とかでよくお見かけするんですが、主祭神として疱瘡神を祀っている神社は県内では珍しい気がします。医薬関係の神さまで少彦名命などに置き換えられているんでしょうかね。
そしてもう片方の御祭神の『大雷神など雷神八柱』というのは、古事記の中でカグツチを産んで死んでしまったイザナミが黄泉の国で体に生じさせた八柱の雷神のことかなと。イザナミは死後に黄泉の国に来たイザナギに、「見るなよ!絶対見るなよ!」と念押ししたものの、イザナギはお約束を破ってイザナミの姿を見てしまうんですね。その時、イザナミの体には蛆がたかり、さらには
頭:大雷神 / 胸:火雷神 / 腹:黒雷神 / 陰部:裂雷神 / 左手:若雷神 / 右手:土雷神 / 左足:鳴雷神 / 右足:伏雷神
という八柱の雷神を生じさせていたんですね。これを見たイザナギは恐れおののいて逃げ出してしまうわけです。
するとイザナミは激おこ。ヨモツシコメという黄泉の国の鬼女にイザナギを追わせるわけですが、イザナギは撃退してしまいます。すると今度は体に生じさせていた八柱の雷神に黄泉の軍勢を率いさせてイザナギを追いかけるわけです。結局イザナギは逃げ切って、黄泉比良坂の大岩を隔ててイザナミとの決別宣言をするんですな。
高御(たかみ)城址
「大雷神社」の看板があり、この左の道に入ると目の前の樹木の茂った森が「高御城址」です。竹林を登ってみると、藪の中に城址らしいものが見当たります。この城は、天慶年間、将門の末弟・将為が居城としていました。
高御城址の北東の高台に「大雷神社」があります。将門の末弟・将為が、阿武隈川畔(泉郷駅西方の阿武隈川雷川原)に火雷天神(平氏の守護神)を勧請しました。慶長のころ、当社は大洪水のため社殿が流失し、現在のこの地に遷宮されたといわれています。「小高の雷神さま」として、多くの人たちに崇敬を集めています。一説に、天慶の乱ののち、将為らは当地に遁れ、さらに奥州を目指し三春方面に逃げたともいわれています。『師守記』に《将門の弟将種が陸奥に遁れた》との記述が見え、これが将為に付会されたともいわれています。  
 

 

 
■栃木県

 

■足利市
足利市
『支体埋葬(支解分葬)』
東京都内では、神田明神が将門の「首」、鳥越神社が「手」、築土神社が「足」を祀っているといわれています。このように、死体が生き返ったり、怨霊を荒れさせない(祟らない)ようにと願って、死体を分解して埋葬することを「支体埋葬(または支解分葬とも)」といいます。成田山と同じように、将門調伏の寺として足利市小俣町の鶏足寺があります。鶏足寺と将門の結びつきは、その周辺にも将門の「支体埋葬」の伝承があることからも窺われます。鶏足寺は世尊寺といっていたのを、秀郷に切られた将門の首が、空を飛んでこの寺の屋根にさしかかったところを、三本足の鶏が地に蹴落としたことから、寺号を鶏足寺に改めたのだといいます。これらは、将門を討滅した側の将門慰霊鎮魂ともいわれますが、その伝承が鶏足寺周辺に集中しているということは、鶏足寺が将門調伏において重要な役割を果たしたということなのでしょう。群馬県太田市只上は将門の寵妃桔梗の前の出生地といわれていますが、この只上神社はかって胴筒の宮と呼ばれ、将門の胴体を埋めたところといわれています。同じく、足利市五十部町の大手神社は将門滅亡のときにその手が飛んできたところといい、同市大前町の大原神社はその腹が落ちたところといいます。これらを纏めてみると、次のようになります。
『首が飛ぶ』=鶏足寺(足利市小俣町)
『足』=子の権現(足利市樺崎町)
『手』=大手神社(足利市五十部町)
『腹』=大原神社(足利市大前町)
『胴』=只上神社(群馬県太田市只上)
また、成田山新勝寺と鶏足寺を結ぶ直線上に、将門が政治・経済・軍事の本拠地とした石井の営所跡といわれる島広山(しまひろやま)があります。新勝寺と鶏足寺から挟み撃ちにするように霊的攻撃を加えたということになりますが、この場合は、将門は岩井(石井)にいたことになります。さらに、鶏足寺からの西北30度線上に将門が生まれたという豊田館比定地の一つである結城郡石下町向石下の将門公苑があります。
大手神社   足利市五十部町
足利競馬場の北側にあります。天慶年間、秀郷が将門追討祈願のために建立したといわれ、将門が敗死したときにその手が飛んできたのを祀ったという伝承があります。境内の案内板には、次のように記されていました。《祭神は天の岩戸開きの神話で有名な天手力男命で、人間の手の神様として尊信し、手を病む者または手の上達を願う者の祈願神であり、手の型を描いた絵馬を奉納する人が多い。ところが、また別にいつの頃からか、その祭神は平将門であるとして、その将門が藤原秀郷に殺害されたのは、桔梗姫が秀郷に将門の居場所を指さして教えたからだと伝えられ、その後、大手神社の敵は桔梗姫であるということから、この神社のある新屋敷町では、桔梗のすべてをきらい、たとえば着物の柄にいたるまで使用しない習慣があるといわれている。》
大原神社   足利市大前町
神社は、山城国(京都府)乙訓郡の大原野神社の四柱の大神を勧請したのが起源といわれ、平将門の腹が飛んできたという伝説があり、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰があるとのことでした。このことは、境内の神楽殿の説明板に詳しく記されていました。
子の権現   足利市樺崎町字堤谷
将門が滅びたとき、その股(足)が飛来してきて、それを祀ったといわれています。子の権現は足の神様だということで、祠の横には草鞋が多く吊るしてありました。
地蔵院   足利市百頭町
地蔵院は、東武線福居駅の南に位置します。地蔵院の北50mのところにある墓地の中央にある古い五輪塔は、当時この地方の権力者であった御厨太郎のお墓だと伝えられています。この御厨太郎は、将門の弟・御厨三郎のことを指しているといいます。一字も文字が無いのは、当人を憚って文字を入れなかったといいます。
八雲神社   足利市緑町
この神社は、両毛線沿いの足利公園に並んであります。境内の案内板由緒には、次のように記されていました。 《佐野唐沢山城主、下野守藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより、貞観年間(859-876)に創建したと伝えられています。また「栃木県神社誌」によれば、清和天皇の貞観11年(869)、右大臣藤原基経が、当緑町に上社、5丁目に下社を勅願所として創建したといわれています。平将門の乱に平定祈願成就により、足利、梁田両郡の総鎮守となり、牛頭天王と呼ばれ広く崇敬を集め、朝廷や国府からの参拝も行われたと伝えられます。》
無量院   足利市葉鹿町
無量院は天慶年間(938〜946)のころ、将門を調伏した定海上人によって開かれました。境内のカヤは雌木で門の前の一段高くもりあがったところに立っています。根元は一段と太くなり、根張りが発達している様子がよくわかります。
鶏足寺   足利市小俣町字町屋
1,100年以上も昔、定恵上人によって開創された名刹で、真言密教の大本山です。初めは世尊寺といいましたが、天慶の乱(939〜940)の際、平将門を調伏したところから勅命により鶏足寺と改めたといわれます。『鶏足寺の伝説』 平将門が朝廷に背き乱を起こしたのが天慶2年のこと。翌年、藤原秀郷が天皇の命によって将門と戦います。このとき世尊寺の常祐法印は秀郷の勝利を祈願し、法力で将門を倒すように命じられ、土でつくった平将門の首を供えて連日連夜祈り続けました。ところが8日目、法印はとうとう眠ってしまいました。すると夢の中で、3本足の鶏が血まみれの平将門の首を踏みつけているではありませんか。法印が鶏の笑い声でハッと目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が3つ、はっきりと付いていました。そして、17日目の満月の日、秀郷が平将門を討ち取りました。世尊寺は、このことから「鶏足寺」と改めました。なお、この地に将門を調伏した常祐法印の塚といわれる「入定塚」があるというのですが、確認できませんでした。  
遍照寺   足利市福富町
天慶年間、将門調伏の祈祷を行ったという。  
三宝院   足利市通七
境内に藤原秀郷の末裔の藤原行国に係る「藤原行国の石塔」があります。
 
大手神社 1   足利市五十部町
『手の力を強くしたい』『字が上手に書けるように』『手先の技術があがるように』『手の病気が治りますように』…この神社は手の神様です。そして、願い事が叶ったらお礼として『手首』や『手形』の絵馬を納めます。
大手神社の伝説 / 天慶の乱(てんぎょうのらん、939年〜940年)で、平将門(たいらのまさかど)が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に討ち取られた時、五体がバラバラになって各地に墜落しました。その時落ちてきた『手』をまつったのが大手神社だといわれています。将門に関する伝説は、ほかにも小俣町の『鶏足寺(けいそくじ)』、大前町の『大原神社(おおはらじんじゃ)』、樺崎町の『子の権現(ねのごんげん)』などがあります。
御祭神 天手力男命(アマノタヂカラオノミコト) /  天手力男命は、天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸を力づくで開けた神様です。
大手神社 2 
手の病一切と学芸上達
この神社の祭神は、天の岩戸開きの神話で有名な天手力男命(あめのたじからおのみこと)です。その故事から人々は人間の神として尊信して、手の力、手の技術向上の神様としてお参りする人が多いのだそうです。ところが、いつの頃からか、祭神は平将門(たいらのまさかど)であるといわれるようになりました。天慶の乱(てんぎょうのらん、939年〜940年)で、平将門が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に討ち取られた時、五体がバラバラになって各地に墜落し、落ちてきた平将門の手を祀ったのが大手神社だといわれているからです。
なぜ祭神だといわれる人が2人いるのでしょう。郷土三重見聞録によると、平将門は庶民のために朝廷に謀反を起こした武士であったので、庶民は自分たちのために殺されたと考え、大手神社に祀ったが、朝廷の目を誤魔化すために平将門を祭神とせず、天手力男命を表面的な祭神としたのだと考えられているのだそうです。足利市には大手神社の他にも、足が埋まっているという伝説がある樺崎町の「子の権現」、また、腹が降ってきたという伝説がある大前町の「大原神社」があります。足利市は室町幕府を作った足利氏発祥の地ですが、平氏である平将門の伝説がいくつもあるなんて不思議だと思いました。
 
大原神社 1   足利市大前町
御祭神 天兒屋根命・経津主命・武甕槌命・比女神
旧郷社
由緒
本社は人皇第十二代景行天皇御代日本武尊が東征帰路、台山(本社後方の大地)に登り、前方の豊に稔る田野を見渡され国家鎮護の為に、山城国(京都)大原野神社を勧請して建てられ、中世以降本社は坂西各村の総鎮守として栄えた。大原神社は、山城国(京都府)乙訓郡の大原野神社の四柱の大神を勧請したのが起源といわれ、平将門の腹が飛んできたという伝説があり、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰がある。
大原神社 2  
案内によると「景行天皇の御代、日本武尊が東征の帰路、この社の後方の台地に登り、前方の豊かに稔る田野を見渡し、国家鎮護のために山城国(京都)大原野神社を勧請したのが始まりといいます。中世以降は坂西各村の総鎮守として栄えました。」とあり、又、市教育委員会によると「この社には上記の起源の他に、平将門のお腹が飛んできたという伝説が残り、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰がある。」と記されています。
山城国(京都)大原野神社の御祭神とは建御賀豆智命、伊波比主命(經津主命)、天之子八根命、比淘蜷_の四柱で、桓武天皇による長岡京遷都に際し、藤原氏縁の女人により春日社より山城の地に勧請されたのだそうです。
又、この他に足利市には、将門の手が落ちた伝説がある「大手神社」。将門の弟の御厨太郎が深く関係しているといわれる「御厨神社」。足が埋まっている伝説がある「子の権現」など将門に関係する伝説が沢山あるようです。
 
子の権現   足利市樺崎町
「子の権現 (ねのごんげん)」 平将門が滅びた時、将門公の股(あるいは足)が飛来してきて、それを祀ったという伝説がある。
 
地蔵院の五輪塔   足利市百頭町
空輪(くうりん)はかなり欠けてしまっていますが、そのほかの部分は残りもよく鎌倉時代の特徴をよく示しています。種子はなく、銘記も不明ですが、おおむね原形をとどめている鎌倉時代の五輪塔として貴重です。この五輪塔は当時、この地方の権力者であった御厨太郎 (将門の弟) のお墓と伝えられています。
 
 足利市緑町
八雲神社   足利市緑町
足利総鎮守 總社 八雲神社
總社八雲神社は、日本武尊命が東征の途次、出雲大社の御祭神を勧請したのが創建と伝えられています。
貞観11年(869年)に清和天皇が東国第一勅願所と定め、京都の八坂神社、愛知の津島神社の三神社に勅願所と定め、疫病退散、国家安泰を祈らせました。
寛仁3年(1019年)後一条天皇は、天王神事に勅使中御門大納言を派遣して以来、毎年例幣使を派遣されました。また下野天王惣社と定め、足利天王八雲榊大社と命名されました。
元禄8年(1695年)に社殿が改築され、牛頭天王を祀る神社として信仰を集めました。
明治10年、渡良瀬の氾濫を避けるため、近くの天神社の境内に遷座し、明治22年に社殿の改築がなされました。
平成元年、天皇御即位記念として10年の歳月を掛け改築されましたが、平成24年12月9日の未明に心ない者の所業により焼失してしまいました。
八雲神社再建にあたり、伊勢神宮(三重県)の式年遷宮年(平成25年・第62回)のおり、「天照大神弟神の月讀尊荒御魂宮」の本殿・幣殿一式との一部を譲与するという、大変なご縁をいただきました。御社をそのまま譲り受け、移築されることは極めて稀なことで、新たに月読荒御魂宮が合祀されました。
そして、平成29年12月9日、10日の2日間、焼失から5年を経過して、復元された新社殿の竣工式が行われました。

869年(貞観11年)清和天皇が東国第一祈願所として創建する。京都の八坂神社、愛知の津島神社の三神社に勅願所と定め、疫病退散、国家安泰を祈らせた。主祭神は須佐之男命(厄除・八方除)
939年(天慶2年)清承平天慶の乱。「平将門の乱」下野の押領使藤原秀郷が将門討伐のため、八雲神社に戦勝祈願し、将門を討ち取る。
1019年(寛仁2年)足利厨子天神(学問の神様 菅原道真公を祀る)。藤原姓足利二代家綱が後一条天皇の許しを得て、菅原道真公の霊をこの東国の地に初めて分祀される。寛仁2年11月25日に勅使として中御門大納言が下向し、治承3年(1179年)まで、毎年例幣使が参内された。足利厨子天神は東京の湯島天神の本宮であり、足利から湯島に御分霊が届けられた。
1051年(永承6年)/1083年(永保3年)平安時代後期の前九年の役(1051年)、後三年の役(1083年)に源頼義・源義家が八雲神社に戦勝を祈願する。
1084年(応徳元年)足利氏の祖、源義国が足利郡・梁田郡六十六郷(百六十三神社)の総鎮守と定める。足利荘に下向の際に当神社に御太刀を寄進する。
1695年(元禄8年)牛頭天王神鏡 社殿改築のおり、地中より大量に奈良・平安時代の古銭が出土する。時の領主 本庄因旛守藤原宗資は吉祥と喜び、古銭から五つの神鏡を鋳造させる。伊勢大神宮・鹿島大神宮・京都若宮八幡宮・江戸護国寺に奉献し、残る一つが東国第一祈願所の八雲神社に伝わり、日本五鏡と称されている。
1877年(明治10年)渡良瀬川が頻繁に氾濫するため、現在地に移転。
2017年(平成29年)伊勢神宮(三重県)の式年遷宮年(平成25年・第62回)のおり、「天照大神弟神の月讀尊荒御魂宮」の本殿・幣殿一式との一部を譲り受け、移築された。
 
 足利市通五
足利市の八雲神社
足利市内に現存する八雲神社は以下の5社である。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市緑町1-3776に鎮座。八雲神社 (足利市緑町)で述べる。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市大門通2379-2に鎮座。八雲神社 (足利市大門通)で述べる。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市通5-2816に鎮座。八雲神社 (足利市通)で述べる。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市田中町193に鎮座。
八雲神社(やくもじんじゃ) - 足利市五十部町130に鎮座。同市緑町の八雲神社から分祀により創建。
八雲神社   足利市緑町
主祭神 素盞嗚男命
社格等 村社
創建 貞観11年(869年)か
本殿の様式 流造銅板葺
八雲神社(やぐもじんじゃ)は、栃木県足利市緑町にある神社。素盞嗚男命を主祭神とし、大己貴命、少彦名命、火具土命を配祀している。
社伝によると、貞観11年(869年)に清和天皇の勅定により素盞嗚男命他二神を祀ったのが始まりという。一方で、日本武尊が東征の際に出雲大社を勧請したという伝承もある。平将門の乱の際には藤原秀郷が戦勝祈願し、前九年の役および後三年の役の際には源頼義と源義家が戦勝祈願している。秀郷は将門討伐後に当社に神馬と太刀を寄進した他、足利郡と新田郡を神領として寄進している。
また、寛仁3年(1019年)から治承3年(1179年)まで当社に例幣使が派遣された。応徳元年(1084年)には源義国によって足利郡と梁田郡の総鎮守とされている。
1877年(明治10年)、天神社境内に社殿を移転した。以前の鎮座地は渡良瀬川の氾濫に遭うため、高台の天神社境内に移転したのである。
2012年(平成24年)12月9日午前3時25分頃、出火し社殿を全焼した。
2015年(平成27年)2月20日、八雲神社は内宮別宮の月讀荒御魂宮から式年遷宮の古材を譲り受け社殿を再建することを発表した。
2017年(平成29年)12月9日、社殿の再建に伴う神事が行われた。月讀尊が新たに合祀された。
神鏡
当社には直径55センチ、重さ18.7キロの「牛頭天王の神鏡」が伝わっている。元禄8年(1695年)、社殿改築の際に奈良、平安時代の古銭が出土。この地の領主の本庄宗資は古銭から5つの神鏡を鋳造させ、そのうち4つを皇大神宮、鹿島神宮、若宮八幡宮社、護国寺に奉献した。残る1つが当社に伝わる神鏡であり足利市指定文化財であるが、平成24年の火災により焼失している。
八雲神社   足利市大門通
主祭神 素盞嗚男命、奇稲田姫命
社格等 村社
創建 宝永2年(1705年)
本殿の様式 権現造銅板葺
八雲神社(やぐもじんじゃ)は、栃木県足利市大門通にある神社。素盞嗚男命、奇稲田姫命を祀る。旧社格は村社。
宝永2年(1705年)に創建と伝えられる。文久3年(1863年)、火災のため社殿が焼失するが、翌年再建される。昭和4年(1929年)、同市通2丁目に社殿を造営。同42年(1967年)、社殿を大門通に移転した。
八雲神社   足利市通五
主祭神 素盞嗚男命
社格等 郷社
創建 貞観年間
本殿の様式 流造銅板葺
八雲神社(やぐもじんじゃ)は、栃木県足利市通にある神社。素盞嗚男命を祀る。旧社格は郷社。
社伝によると、貞観年間(859年−877年)に藤原村雄が津島神社を勧請したのが始まりという。天保14年(1843年)、本殿を改築。大正14年(1925年)、拝殿を新築した。平成14年(2002年)には社務所を改築している。
 
鹿倉山無量院蓮華寺   足利市葉鹿町
天慶三年(940)に定海上人により創建
円仁上人、室町時代中頃に現在地の西の山裾に本堂を再興
円「上人、寛永十六年(1639)に現在地に本堂を再建
貞尊上人、享保年間(1716〜1735)に山内を整備
宗旨宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀三尊(阿弥陀如来と脇侍の観世音菩薩・勢至菩薩)
無量院の板碑 
鎌倉時代後期〜南北朝時代 無量院の堂の改築に伴って出土したものです。もともと境内に建っていたものが、何らかの理由で一ヶ所にまとめられて出土したものと考えられます。このように多くの板碑がまとまって出土することは珍しく、年代も鎌倉時代後期から室町時代にかけてのものが継続してあります。近くに鶏足寺(けいそくじ)があり、無量院は鶏足寺の隠居寺であったとの伝承もあることから、鶏足寺関連の僧や武将の供養塔の可能性が高く、葉鹿町周辺の豪族や有力農民に関するものと考えられます。
無量院のカヤ
高さ 25.0m 目通り 3.89m カヤの大木で、樹齢約430年と推定され、門の前の一段盛り上がった所に立っています。根元は一段と太くなり、根張りが発達している様子がよくわかります。幹は根本から少し反るように立ち上がって直立し、枝は幹の中ほどから四方に伸びています。雌木でよく実を結び、根元の周りにはたくさんの若芽も出ます。由緒ある寺院に生長し、長い年月を人々に親しまれてきた木です。
 
鶏足寺 1   足利市小俣町
鶏足寺(けいそくじ)は、1100年以上も昔、定恵上人によって開創された名刹で、真言密教の大本山です。初めは世尊寺(せそんじ)といいましたが、天慶の乱(939年から940年まで)の際、平将門を調伏したところから勅命により鶏足寺(けいそくじ)と改めました。
鶏足寺の伝説
平将門が朝廷に背き乱を起こしたのが天慶2年のことです。翌年、藤原秀郷が天皇の命によって将門と戦います。このとき、世尊寺の法印は秀郷の勝利を祈願し、法力で将門を倒すように命じられ、土でつくった将門の首を供えて連日連夜祈り続けました。ところが8日目、法印はとうとう眠ってしまいました。すると夢の中で、3本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけているではありませんか。法印が鶏の笑い声でハッと目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が3つ、はっきりと付いていました。そして、17日目の満月の日、秀郷が将門を討ち取りました。世尊寺は、このことから『鶏足寺』となりました。
石尊山梵天揚げ
旧盆の8月14日、早朝に行われます。住職の護摩供養・安全祈願ののち、白装束の若者達によって、午前4時、ホラ貝を合図に15mのお柱と千体余りの梵天を標高486mの石尊山に担ぎ揚げます。そして石尊宮に奉納し、お柱についている梵天を若者が登り競って、弊串等を抜き取ります。
鶏足寺 2
仏手山金剛王院鶏足寺 縁起
始まりは「鳴山」から生まれた一尊の石仏
その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。
数百年後の大同四年(809年)、平安時代の初期に「鳴山」は歴史の表舞台に現れます。奈良東大寺の定恵(じょうえ)上人が、「鳴山」より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。
仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められました。境域を大きく広げ、釈迦堂を始めとした八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられたたことで、お寺の構えが整いました。
平将門の乱と「鶏足寺」の誕生
天慶二年(939年・平安時代初期)、下総国(千葉県北部)で勢力を拡大していた平将門が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・藤原秀郷は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。秀郷の乞いを受けた世尊寺の常裕法印(定宥とも)は、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。
五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。
満願の日、さすがに疲れ果てた法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。
やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだらなどが朝廷から下賜されました。
仏陀の福音を現代、そして未来へ伝える
寛元元年(1243年・鎌倉時代中期)、後嵯峨天皇から宣旨がくだり、鶏足寺は皇子誕生のご祈祷を仰せつかり、五大明王の絵像(栃木県指定文化財)と大刀力王丸(国重要文化財)が下賜されました。そのご祈祷の霊験により、皇子さま(後深草天皇)がお生まれになりました。
弘長三年(1263年)に、足利泰氏(智光寺殿)の発願で、父義氏(鑁阿寺開基義兼の子)菩提のため、梵鐘(国重要文化財)がつくられました。
文永六年(1269年)、下野薬師寺長老慈猛(じみょう)上人がこの寺に迎えられました。それまでは天台・真言兼帯のお寺であった鶏足寺は、この時から真言宗となり、高野山から伝わった真言宗慈猛流の全国総本山として密法専修の道場となりました。全盛時は、山内に二十四院・四十八僧房を持ち、全国に三百六十余の末寺があったと伝えられています。
天文二十二年(1553年・室町時代後期)、戦国時代の騒乱の中で鶏足寺は兵火にかかり、勅使門を除く寺の堂舎はすべて焼失しました。現在の本堂は江戸時代中期の正徳三年(1713年)に建立、護摩堂(五大尊堂)は享保十七年(1732年)に建立されたものです。
それから現在まで、激しい時代の移り変わりにあいながらも、開創千二百年の法燈は絶えることなく、今に、済生利人の法幢を高くかかげて、仏陀の福音をつたえております。
鶏足寺 3
仏手山鶏足寺は栃木県足利市小俣町に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。鶏足寺の創建は平安時代初期の大同4年(809)、東大寺(奈良県奈良市雑司町)の定恵上人が開山したのが始まりと伝えられています。当初は正頂山(標高:259m)の中腹(寺の窪)にありましたが仁寿元年(851)には慈覚大師円仁(3代天台座主、比叡山延暦寺の高僧)が現在地に境内を移し多くの堂宇を建立するなど尽力を尽くし天台宗の寺院として整備しました。天慶2年(939)の平将門の乱の際、藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が戦勝祈願の為、当寺の法印と図り、将門の土人形を依り代として法力を施したところ明朝に土人形には鶏の足跡が3つ付けられていました。数日後、秀郷が見事に念願成就した為、鶏の足跡が吉兆と悟り世尊寺一乗坊から鶏足寺に改称し、さらに、この功により天皇の勅願寺となり紺紙金泥両界曼荼羅図などを賜っています。
鎌倉時代の文永年間(1264〜1275年)に下野薬師寺の慈猛上人を招き再興、その際、真言宗に改宗すると慈猛流の総本山として寺運は隆盛し最盛期には山内に24院、48僧房、全国に310余の末寺を擁し室町時代には鑁阿寺とともに鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の別当となりました。天文12年(1553)に上杉謙信の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し一時衰退しましたが天正19年(1591)に徳川家康によって再建されています。現在の鶏足寺勅使門は切妻、こけら葺き、一間一戸、四脚門形式、上杉謙信の兵火以前に建てられた唯一建物で正和年間(1312〜1316年)に建てられた(伝)鎌倉時代末期の古建築物として貴重なことから昭和45年(1970)に足利市重要文化財に指定されています。
鶏足寺の寺宝である「鶏足寺印」は平安時代に製作されたもので鋳銅製、高さ7.5cm、縦5.5cm、横5.5cm、1行2字(鶏足寺印)、古式を伝える印として貴重なことから昭和30年(1955)に国指定重要文化財に指定されています。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式。鶏足寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。不動尊堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入り、間口3間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造板張り。足利坂東三十三観音霊場:第7番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:有難や 鶏の足跡 標にと 踏み分け登る 補陀落の山)。山号:仏手山。院号:金剛王院。宗派:真言宗豊山派。本尊:釈迦如来。
 
遍照寺の宝塔   足利市福富町
総高 363cm 江戸時代 
本堂東側に建っています。三段に積み上げた方形状台石の上に、反花座(かえりばな)、敷茄子、蓮華座、基礎、蓮華座、塔身(とうしん)、笠(かさ)、露盤を重ね、相輪を立てています。塔身の四面には金剛界四仏の種子を刻み、基礎には胎蔵界(たいぞうかい)四仏の種子を押型彫りしてあります。反花座には、「宝篋印塔」「維時天明丁未冬遍照寺勝恵謹誌」の陰刻銘があります。天明7年(1787)の造立であることがわかり、歴史的価値が高いものです。
 
三宝院   足利市通七
御本尊 阿弥陀如来
宗派・教義 浄土宗
供養山清水寺。中世に足利氏の帰依をうけた寺。延応元年(1239)舜智によって開創されたという。その後、数回の火災にあったが、嘉永五年(1852)勇勤のときに再建した。歴代住職の中には汲誉重山のように法然の旧跡を訪ねて四国に赴き、永禄年間(1558—1570)に塩飽しあく島に来迎寺を中興し、天正一六年(1588)宇足津(香川県綾歌郡宇多津町)の浄泉寺を開山した者もいた。
京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山醍醐寺の子院。永久三年(1115)、醍醐寺一四世勝覚により創建された。本院は、醍醐寺五門跡(三宝院・報恩院・理性院・金剛王院・無量寿院)の中でも、室町時代以降、歴代院主が醍醐寺座主となることが通例となっており、中心的性格を有していることが知られる。応仁・文明の乱で伽藍の興廃著しかったが、八〇世座主義演は、豊臣秀吉の信頼厚く、その支援により、観楼(醍醐の花見)に際して伽藍が復興された。桃山文化の粋を集めた唐門と表書院は国宝に指定されている。また、快慶作の本尊弥勒菩薩像は国重要文化財指定。この義演の筆になる写本群の中から、大正六年(1917)に『法然上人伝記』(『醍醐本』)が発見され、そこに説かれる事項の固有性から古態を示す法然伝として重要視されている。

境内には足利市指定文化財「藤原行国の石塔」と通常非公開の「絹本著色 白衣観音図(田崎草雲筆)」があります。藤原行国は藤原秀郷の末裔で、天喜2年(1054)足利両崖山に居城した足利大夫藤原成行の弟行房の子です。行国は、成綱が早世し幼くして家督を継いだ家綱が成長するまで、成行の後の足利郡司を務めたと考えられています。
藤原行国の石塔(ふじわらゆきくにのせきとう)
総高 140.0cm   平安時代(水輪)
2段の台石、基礎石、地輪(ちりん)、水輪(すいりん)、火輪(かりん)と小型の空風輪(くうふうりん)を積み重ねています。
水輪は唯一凝灰岩製で他のものより古く、それ以外は安山岩製です。地輪には正面に「正善寺殿」、左側面に「大治元丙午七月二十七日」、右側面に「足利五郎太藤原行国」の銘記が陰刻してあり、大治元年(1126)7月27日に没した藤原行国(ゆきくに)の墓塔であることがわかります。
行国は藤原秀郷(ひでさと)の末裔で、天喜2年(1054)足利両崖山(りょうがいさん)に居城した足利大夫藤原成行(しげゆき)の弟 行房(ゆきふさ)の子です。
「正善寺殿」は寺伝にいう三宝院の草創である正善庵または正善寺を菩提寺とした行国の贈り名です。
以上のことから、藤姓足利氏の足跡および三宝院の発祥を知る上からも貴重な資料です。
また、水輪だけとはいえ、後補の銘記から平安時代後期と推定される五輪塔の一部が現存することも貴重です。
■佐野市
佐野市
富俵山神社   旧葛生町柿平
藤原秀郷(俵藤太)が瀬田の唐橋で百足を退治して、竜神から贈られた米の俵は、後になって、秀郷の家来達が逆さにした時、中から小さな柁が現われ、それからもう米は出なくなってしまったといわれています。その時の柁と俵が、この神社の御神体だといわれています。なお、秀郷は佐野市の唐沢山神社に祀つられています。
今宮神社   旧葛生町仙波
神社は、天慶二年(939)、藤原秀郷が将門追討のために建立したといわれています。
阿土(アド)山城址   旧葛生町仙波
金蔵院の裏手の山が「アド山」です。この山は、「阿土山城址」でもあります。天慶年間、安戸太郎純門が居住していて、天慶の乱のとき将門方に属したといわれています。
箱石神社   旧葛生町豊代
天慶二年(939)、藤原秀郷が将門追討のために建立したといわれています。
願成寺   旧葛生町鉢木
藤原秀郷の開基で秀郷の母を弔うために建立したといわれています。また、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世の墓があります。
安蘇沢神社跡   旧葛生町山菅
葛生駅から秋山川に架かる天神橋を渡ると「葛生原人記念碑」があります。その左手の道に入ると「安蘇沢道場」の石碑があります。この碑の裏手に「安蘇沢神社」があったと思われます。この社は今は更地ですが、藤原秀郷が悪夢によって建立したといわれています。
御榊山神社   旧田沼町多田
神社は、藤原秀郷が安芸の厳島神社から分霊を勧請したと伝えられています。
加茂別雷神社   旧田沼町多田
神社は、天慶年間に秀郷が再建したといわれています。
加茂別雷神社   旧田沼町山越
加茂別雷神社は多田と山越の二箇所にあります。山越にあるこの神社も、天慶年間に秀郷が再建したといわれています。
本光寺   旧田沼町山越
秀郷の居館は、この寺付近の山越の地(田沼本宿)にあったといわれています。曽祖父・藤成が下野介として関東に下った頃の館は、佐野市の佐野城(城山公園)でしたが、祖父・豊沢の頃にこの地に移ったと思われます。
一瓶塚稲荷神社   旧田沼町田沼
神社は、秀郷が勧請した関東五社稲荷の一社で、将門征伐の成就を祈ったといわれています。
興聖寺   旧田沼町吉水
寺に、秀郷夫妻の位牌があるといわれています。もと清水城があったところです。
秀郷の墓(秀郷公墳墓)   旧田沼町新吉水
吉水駅の西方200mに「秀郷の墓」があります。この地の円墳(東明寺古墳)を秀郷の墓として崇めて、手厚く祀られています。往古この地に東明寺という寺があって、廃寺後墓石を積んで塚とし、さらに墓碑の台石を祠の敷石にして「田原八幡」として祀ったといいます。この地の「田原」は、俵藤太の「俵」に通じます。秀郷の没年は、「正歴二年(991)九月」となっています。
田原八幡神社   旧田沼町新吉水
秀郷公墳墓の隣に小さな祠があります。祭神は秀郷。もとは秀郷公墳墓の上にあったのですが、こちらに遷されたといいます。
根古屋神社(根古屋城址)   旧田沼町栃本
栃本小学校の南500mに「根古屋神社」があります。もとは唐沢山にあった神社が、ここに遷されました。この地に根古屋城があり、秀郷が城内にこの社を建立したといいます。
避来矢の鎧   旧田沼町栃本
秀郷が将門と戦ったとき、鎧に一本の矢も当たらず勝利を得た。そこでこの鎧を「避来矢の鎧」と称したという。この鎧はかつてこの地の「平石権現」の御神体でしたが、今は唐沢山神社にあるといいます。
唐沢山神社   旧田沼町・佐野市境界
唐沢山の山頂付近に「唐沢山神社」があります。この神社は、秀郷の本拠地・唐沢山山頂に建ち秀郷の霊を祀るといいます。栃本の地から「避来矢の鎧」を遷し重宝して保存されているといいます。唐沢山城址の本丸跡に建っています。
唐沢山城址   旧田沼町・佐野市境界
天慶三年、秀郷が築城しました。なお、秀郷以降六代にわたる居城といわれていますが、後の佐野氏が要害城として代々居城としたといいます。物見台からの眺めがよかったです。
蓬莱山神社   佐野市作原町
神社は藤原秀郷が創建したといわれ、神社から川を挟んで西方にある「西蓬莱山」(岩山)は、唐沢山城の隠れ城だと『田沼町誌』に記されています。ここの紅葉は素晴らしく、その時期には多くの観光客が見えるといいます。
蓬山城址   佐野市作原町
蓬山への登山道を登ります。山頂には二つの祠があり、「蓬山城址」の新しい説明板がありました。説明板には、『この城は唐沢山城の北の守りとして、秀郷が築城し秀郷の弟・永郷らが居住した』とありました。またの名を「忍城」ともいいます。
三騎神社   佐野市船越町
天慶五年(942)秀郷の創建といわれています。
上宮神社   佐野市船越町
天慶4年(941)創建の古社で、秀郷が勧請したといわれており、橘豊日命(聖徳太子の父である用明天皇のことです)をお祀りしています。聖徳太子を祀っている太子殿もあり、通称、太子様ともいわれています。
千騎返り   旧田沼町出流原
出流原弁天池の裏手の後山(磯山)付近を「千騎返り」といいます。秀郷が敵に千騎の兵を指し向けましたが、山中で道が険しく引き返すことになったので、こう呼ばれるようになったといわれています。
沼鉾神社   佐野市赤見町
秀郷が再建したといわれています。
雀宮神社   佐野市堀米町
秀郷が朱雀天皇を深く尊崇して、創建したといわれています。
佐野八幡宮   佐野市堀米町
平将門の乱を平定し、下野守に任じられた藤原秀郷が、山城の国の男山八幡宮を勧進したと伝えられます。秀郷の子孫である佐野氏が、鬼門封じの神社として崇敬しました。
小梥(こまつ)神社   佐野市奈良淵町
浅間山の南麓に「小梥(こまつ)神社」が位置しており、浅間山の登山口でもあります。この神社は、天慶九年(946)に秀郷の創建と伝えられています。
浅間山の火祭り   佐野市奈良淵町
浅間山の火祭り(7月中の土曜日)は、秀郷が唐沢山に城を築き、この付近一帯に藤原氏一族が住みつき、彼らの勢力を誇示するために山頂で火を焚いたのが起こりだといわれ、以後、村人は火を焚き悪病を追い払ったと伝えられています。浅間山頂へその年に取れた小麦かやを背負い上げ、神事を行ったのちに火を付けます。山頂に浅間神社の小祠があり、佐野市街地の眺めがいいです。
露垂根(つゆしね)神社   佐野市富士町
唐沢山南麓に「露垂根(つゆしね)神社」があり、唐沢山神社への入口の大鳥居のすぐ右側にある神社です。この神社は、天慶5年(942)に秀郷が安芸国厳島大明神を勧請、市杵島姫命(いちきしまひめみこと)を唐沢山に御祀りし、代々佐野城主が再建立・修復してきました。本殿三壁には中国故事に由来する「竹林の七賢」のみごとな彩色装飾彫刻が施されており、通称「明神様」と呼ばれ親しまれています。
関東五社稲荷神社   佐野市大栗町
創建は天慶5年(942)で、秀郷が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したといいます。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになりました。田沼町に鎮座する有名な一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものといいます。
光徳寺   佐野市犬伏下町
秀郷の娘・富士姫が家臣の柏崎光徳に命を救われ、秀郷が厚く光徳を遇した。これがもとで、家臣たちは光徳を妬みこととなり、光徳は身を隠して富士姫は自殺して果てた。秀郷は姫の菩提を弔い、この寺を創建したと伝えられています。境内のびゃくしんは、光徳お手植えの神木といいます。
佐野城址   佐野市若松町
佐野駅のすぐ北側の「城山公園」が「佐野城址」です。佐野城は、別名「春日岡城」ともいわれ、延暦元年(782)、秀郷の祖父・藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。藤成は、延暦9年(790)標高60mの小高い丘に城館を建てたのが始まりで、周囲にはこの小山以外全く丘がなく、立地条件の極めてよい場所でした。秀郷も一時期、居館としていました。
佐野家の伝承   佐野市
佐野家の伝承によれば、秀郷は白羽の矢を用いていたといわれ、佐野家では白羽の矢を宝物としていたといわれています。
惣宗寺(佐野厄除け大師)   佐野市金井上町
春日岡(かすがおか)とよばれ、多くの人から親しまれている寺。朱雀天皇の天慶七年(944)3月、奈良の僧・宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺 (かすがお かやまてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)という。藤原秀郷が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡 (現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇 に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれています。
鹿島神社   佐野市赤坂町
惣宗寺(佐野厄除け大師)の南すぐに「鹿島神社」があります。天慶六年(943)、秀郷が鹿島大社をこの地に勧請したと伝えられています。
赤城神社   佐野市植下町
この神社は、植野小学校の少し南にあります。秀郷が将門征伐を祈願し、大任を果たすことができたので、この社を再建したといいます。
八幡宮・道場塚 佐野市上羽田町
この神社は両毛線富田駅の南東約2.2km、上羽田町に鎮座しています。由緒によると平将門征伐のためこの地にきた秀郷が、戦勝祈願のため宇佐八幡宮を勧請したことに始まります。天慶5年(942)、秀郷が境内に兵器を埋め塚(道場塚古墳)を作り、社殿を建て、唐沢城の裏鬼門鎮護の社としました。神橋を渡ると鳥居の横には見上げるばかりの古木(ケヤキ)が茂っています。
大鹿神社   佐野市船津川町
秀郷が武蔵守に任じた際、一社を建立したのがこの社の始まりだと伝えられています。
浅田神社(天命神社) 佐野市馬門町
入口の石碑や鳥居にある名称と違うのですが(鳥居の文字は天命総社)浅田神社と呼ばれています。秀郷が将門を討った功により武蔵守となり、深く感謝してこの社を修復したと伝えられています。
藤田神社   佐野市越名町
浅田神社(天命神社)から北東500m。案内によると、天慶年中(938〜947)藤原秀衡公が勧請したと伝えられています。江戸時代初期までは藤太大明神とも称されていました。  
佐野城   佐野市若松町
下野国安蘇郡佐野(現在の栃木県佐野市若松町)に築かれた日本の城(平山城)である。別名春日岡城・春日城・姥城(うばがじょう)。
佐野氏は元々佐野の北部にある唐沢山城を拠点としていた。佐野氏は北条氏から養子を迎えていたため、小田原征伐の際には滅亡の危機を迎えた。だが、一族の佐野房綱が豊臣秀吉に仕えていたため、役後に房綱が当主に就くことで断絶を免れた。その後、房綱は豊臣氏近臣である富田氏から信吉を養子に迎えて家の安泰を図った。豊臣政権側も同城を江戸城の徳川家康を牽制するために活用しようと図った。ところが、関ヶ原の戦いによって徳川政権が成立したことによって佐野氏を継いでいた佐野信吉の立場は微妙となった。
1602年(慶長7年)佐野氏は徳川家康の意向を受けて、上杉謙信の攻撃をもしのいだ山城の唐沢山城を廃して麓に新規に佐野城を築城した。唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されている。理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定される。
佐野城は春日岡にあった惣宗寺の跡地に新しい佐野氏の本拠地に相応しい近世城郭として築城され、築城途中の1607年(慶長12年)には城主である佐野信吉も唐沢山城から佐野城に移転して城下町も整備されたが、整備半ばの1614年(慶長19年)に突如佐野氏が改易されたために、わずか14年で廃城となった。
城の形式は連郭式の平山城で、東西約370m・南北約500mの規模を有する、城跡としては曲輪の跡や堀切・土塁などが残されている。外堀(水堀)は区画整理等により消滅した。南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と並び、各部分は堀切によって仕切られている。最も高い本丸の標高は約56mである。
1988年(昭和63年)から1998年(平成10年)にかけて佐野市による発掘調査が行われ、現在は佐野城山公園となっている。また、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られている。

佐野城跡は、市指定史跡の平山城です。南側から三の丸・二の丸・本丸・北出丸が直線的に配置された連郭式で、別名を春日岡城、春日城、姥ケ城とも言います。現在は、市指定の名勝「城山公園」として市民の憩いの場となっています。
この地は古くから旭丘といい、藤原秀郷の曽祖父の下野守藤成が延暦9年(790)に城を築いたのが始まりとされます。天慶3年(940)に秀郷が平将門討伐を祈願して春日岡山惣宗寺を建立したと伝えられます。諸説ありますが、慶長7年(1614)、佐野信吉によって、唐沢山城から佐野城への築城を開始したとされます。それに伴い、惣宗寺は現在の場所に移りました。
史料「下野一国」によると、城の規模は東西約360メートル、南北約580メートルと記されています。また広大な外堀を廻らせていた様子も記されており、このことは現況ではほとんど確認できませんが、字「外堀」という地名も残っています。
かつては未完成のまま廃城となったと考えられてきた佐野城跡ですが、近年の発掘調査で、城内から礎石建物、石垣虎口、石畳などの遺構が確認され、瓦も多量に出土していることから、完成された城郭であったと考えられています。また佐野城の築城とともに、碁盤の目状の整然とした城下町づくりも始められており、それが400年後の今日の町並みに受け継がれているのです。

佐野城は「関ケ原の戦い」後に佐野信吉が唐沢山城を廃して山麓に新たに築いた城です。唐沢山城の廃止理由としては、信吉が豊臣家縁故であったため徳川家に配慮したため、江戸近郊の山城が禁令されていたため、あるいは江戸に火災が発生した際にいち早くかけつけた信吉に対し徳川家康が「唐沢山城から江戸城を見下ろすのは何事か」と一喝したためなど、いくつかの説があります。現在は佐野城山公園となっており、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られており、その山門は佐野城の城門を移築したものと伝わっています。
惣宗寺   佐野市春日岡山
栃木県佐野市にある天台宗の寺院である。山号は「春日岡山」、寺号は詳しくは「春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(かすがおかやま てんぼうりんいん そうしゅうかんじ)」と称する。一般には佐野厄除け大師の通称で知られる。年末年始には関東地方を中心にテレビCMが多く放送されるため広く知られている。
開基(創立者)は藤原秀郷、開山(初代住職)は宥尊である。青柳大師、川越大師と共に先代住職が「三大師」を提唱。以後定着し「関東の三大師」の一つに数えられることが多く、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わう。「関東の三大師」には上記3寺のほか歴史などを見る限り複数の寺院が候補にあがっている。
・栃木県足利市-寺岡山元三大師(寺岡山厄除け大師)※惣宗寺本家
・栃木県足利市-足利厄除け大師
歴史
境内にある田中正造の墓天慶7年(944年) - 藤原秀郷が春日岡(今の佐野城址の地)に創建したものと伝わる。
慶長7年(1602年) - 佐野信吉によって現在地に移転する。春日岡に佐野城を築くためであった。
1913年(大正2年)10月12日 - 足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造の本葬を行う。
御本尊
元三大師(良源上人)
由緒と厄除け
佐野厄除け大師惣宗寺は、栃木県佐野市にある関東三大師の一つ、天台宗の寺院です。毎年正月初詣では多くの参拝客で賑わう関東有数の寺院で、また厄除け・方位除けなどが有名で新春には祈願大祭も行われ、毎年多くの厄年の人、厄除け希望の参拝客が訪れます。年末年始になるとTVCMなどで「厄除は佐野厄除け大師、佐野厄除け大師」と流れてきたり、電車の中吊り広告などに出たりと目にすることも多くなる寺院です。
佐野厄除け大師では元三大師(良源)を祀っており、この元三大師が数々の軌跡を起こし厄除にも大きなご利益があるとして、「厄除け大師」として呼ばれ、信仰をあつめており、同寺院の「佐野厄除け大師」としての呼称ともなり、厄除けにご利益のある寺院として有名になりました。
厄除けの仏様 / 元三大師(がんざんだいし)
ご利益
厄除け
元三大師を祀る寺院
佐野厄除け大師(惣宗寺)・川越大師(喜多院)・青柳大師(龍蔵寺)ー関東三大師
深大寺・比叡山元三大師堂など
厄除大師として広く崇められる天台宗中興の祖良源がモデル
元三大師のモデルとなっているのは、良源(りょうげん)という平安時代天台宗中興の祖である高僧で、「厄除大師」など独特の信仰で民衆から広くあがめられました。
命日が正月3日であったため、元三大師と呼ばれるようになります。最近はあまり目にする機会がなくなりましたが、厄除けのお札で角大師、豆大師という厄除け札あります。
この良源上人(=元三大師)おみくじの創始者でもあると言われています。お寺で引けるおみくじが「元三大師みくじ」というタイプのおみくじであるお寺も日本全国に多くあります。
角大師
2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の姿。良源上人が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるといわれています。お札を頂いた家は、一人も疫病にならず、また病気に罹っていた人々も、ほどなく全快して、恐ろしい疫病も、たちまちに消え失せたといわれています。このお札を角大師と称えて、毎年、新しい札を戸口に貼ると、疫病はもとより、総ての厄災を除き、また、盗賊その他、邪悪の心を持つ者は、その戸口から出入り出来きないといわれ、広くひろまりました。
豆大師
33体の豆粒のような大師像で描かれた姿。元三大師(良源上人)は観音菩薩の化身とも言われており、観音はあらゆる衆生を救うために33の姿に化身するという「法華経」の説に基づいて33体の大師像を表したとされています。
鹿島神社   佐野市赤坂町
赤坂鹿島神社は、藤原秀郷公が鹿島神宮を勧請して天慶六年(943)天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に奉祀、佐野安房守基綱が佐野春日山に遷座したといいます。寛永4年(1627)当地に遷座、明治5年村社に列格しています。

祭神 健御雷命
相殿 大日孁貴命、伊弉那美命、豊受姫命
境内社 八坂神社、機織神社、秋葉神社、三峯神社
由緒 天慶6年(943)平将門征伐の勅命に鹿島大神に戦勝祈願した俵藤太(後の藤原)秀郷公は、勝利を治めた後、佐野の庄・天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に田原家の軍守神として鹿島本宮より奉遷し、その後春日山に移遷しました。江戸時代に入り、慶長7年(1602)、秀郷の末裔・佐野信吉公により春日山築城時に、天明郷三海に遷座されました。その後寛永4年(1627)、現在地に遷座され、今日に至ります。以後、この社を中心として繊維産業が隆盛となり、赤坂町の発展に繋がりました。寛文11年(1671)本社が再建され、享保3年(1718)正一位鹿島大明神と称するようになり、明治5年に現社名に改称され、旧村社となりました。
赤城神社   佐野市植下町
植下赤城神社は、豊城入彦命の孫、彦狭島王が任国毛野国に帰国の途中、景行天皇55年(4世紀)春日穴咋邑で薨去、彦狭島王を祀り奉斎したといいます。平将門討伐に際しては藤原秀郷が当社に祈願、当社を再建する際に上野赤城神社を合祀したことから赤城大明神と号して、上野赤城神社に比して当社を下の宮と称したといいます。明治9年村社に列格、明治42年大字植野字南馬場町八幡宮など8社を合祀しています。
祭神 彦狭島王命、日本武尊
相殿 武甕槌命、国常立命、譽田別命、市杵島姫命、大日孁貴命、素戔嗚命、菅原道真公、稲倉魂命、猿田彦命、豊斟淳命
境内社 白幡八幡宮、神明宮、厳島神社、織姫神社

植下赤城神社は、群馬県前橋市富士見町の赤城神社を分霊した神社です。由緒については不詳ですが、藤原秀郷が平将門を討ち、この地に御凱陣の武具を祝納されたと言い伝えられます。また、日本武尊東征の帰途、この地に一夜宿泊されたとの伝説があります。
富俵山神社   佐野市柿平町
創建は分かりませんが、明治40年4月に鹿島神社、湯谷温泉神社、八坂神社を合祀しました。主祭神 は大名持命、事代主命、田心姫命 、配神は武甕槌神、少彦名命、素戔嗚尊、月読命、軻遇槌命です。

合祀記念碑。温泉神社と八坂大神、黒岩山神、甲子大神、愛宕大神、三日月神社を明治四十三年に合祀したようだ。御祭神は大名持命と事代主命、田心姫命の三柱で、配祀神は武甕槌命と少彦名命、素盞嗚尊、月読尊、軻遇槌命であるとのこと。温泉神社之碑。祭神は少名彦那命と武甕槌之命の二柱であり、往古は温泉が湧いていたので湯谷権現と称す。
今宮神社   佐野市仙波町
天慶2年(1947)藤原秀郷公が平将門を討伐の時、祖神に祈誓の為勧請したのが始まりといいます。主祭神は天児屋根命、配神は素盞嗚尊、大鷦鷯尊、彦火瓊々杵命、大名持命、通称権現様です。
豊代城跡、阿土山城跡 1
豊代城跡(とよしろじょうせき)は豊代町に残る城館跡で、別名佐野源左衛門常世館跡と呼ばれ、東西約110メートル、南北約150メートルにわたって、高さ1.5〜2メートルの土塁が今も残ります。こうした城館跡は一辺50〜100メートルの規模が一般的です。本城跡は規模の大きなものです。現在、城跡内にある正雲寺公民館には常世とその母の位牌および、薬師如来と地蔵尊が安置されています。また、北西には常世の守り神といわれる矢越神社がまつられています。
豊代城跡の北方に位置する阿土山城跡(あどやまじょうせき)は、仙波町に残る堅固な山城です。標高371メートルの山頂からは、仙波や会沢、葛生方面ばかりでなく、唐沢山も望めます。本城跡は、建永元年(1206)安戸氏が築城したとされ、永禄2年(1559)以後佐野氏が使用し、慶長3年(1598)には天徳寺宝衍(ほうえん)が居城したとも伝えられています。山頂に続く尾根などに大きな堀切が数カ所で認められ、石積みも残されています。
この両城跡は、仙波川と秋山川の合流地点付近に立地しますが、周辺は栃木北部方面と、足尾方面への分岐点になる場所でもあります。両城跡とも、こうした水利や交通における要衝の地をおさえる役目を果たした、佐野における北方拠点の城といえるでしょう。
正雲寺城跡、阿土山城跡 2
正雲寺城跡(豊代城跡、佐野源左衛門常世館跡)、阿土山城跡
正雲寺城跡は、別名豊代城跡、佐野源左衛門常世館跡と呼ばれ、東西約110m、南北約150mに亘って、高さ1.5〜2mの土塁が今も残ります。こうした城館跡は一辺50〜100mの規模が一般的ですから、規模の大きな城館だったと考えられます。現在、城趾内にある正雲寺公民館には常世とその母の位牌及び、薬師如来と地蔵尊が安置されています。また、北西には常世の守り神といわれる矢越神社がまつられています。
阿土山城跡は、正雲寺城跡の北方に位置し、山頂に続く尾根等に複数の大きな堀切や、石積みが残される堅固な山城です。標高371mの山頂からは、仙波や会沢、葛生方面ばかりでなく、唐沢山も望めます。築城は、建永元年(1206)安戸氏によるとされ、永禄2年(1559)以後佐野氏が使用し、慶長3年(1598)には天徳寺宝衍(ほうえん)が阿土山に居住したとも伝えられています。
この両城跡は、仙波川と秋山川の合流地点付近に立地しますが、周辺は栃木北部方面と、足尾方面への分岐点になる場所でもあります。両城跡とも、こうした水利や交通における要衝の地をおさえる役目を果たした、佐野における北方拠点の城といえるでしょう。
豊代城、阿土山城 3
佐野源左衛門常世の館
南流する秋山川左岸の段丘上に豊代城は位置する。東西113メートル、南北259メートルの規模をもつ中世の館跡である。現在、館跡の大部分は畑地になっているが、周囲には上辺2メートル、下辺5メートル、高さ1.5〜2メートルの土塁がのこされている。館跡の西側には、佐野源左衛門常世の守り神と伝えられる矢越犬神がまつられている。
また、東南側には、常世とその母の位牌、そして守り本尊の薬師如来と地蔵尊を安置する実相院があったという。現在、位牌は館跡内にある正雲寺公民館に保存されている。佐野源左衛門は、謡曲「鉢本」の登場人物として知られている。謡曲では、鎌倉幕府の執権だった北条時頼が諸国を行脚している途中、大雪のために源左衛門の屋敷に二夜の宿を求めた。このとき、源左衛門は大切に育てた鉢の水を焚いて、時頼をもてなす。零落した身の上ながらも、幕府への変わらぬ忠誠心を時頼に語った源左衛門は、のちに幕府の召集に応じて鎌倉へと馳せ参じ、時頼から恩賞を与えられたという。
佐野源左衛門の実在については諸説あるけれども、一般的には上野国佐野(群馬県高崎市)の武士とされており、じつは豊代城と直接の関係はない。とはいえ、この館跡が所在する豊代か、中世では佐野荘(佐野市)に属しており、特に豊代を含む秋山川上流一帯が上佐野とよばれていたことと、謡曲「鉢木」の流布が、この地と佐野源左衛門とを結びつけたとみられる。たしかに豊代城は、佐野荘を支配した佐野氏の有力一族である仁佐野氏の居館だったと考えられ、周辺には中世佐野氏に関連する史跡が濃密に分布している。規模の点でも、佐野惣領家の居館とされる清水城(興聖寺城)を凌駕し、佐野荘内にのこる館跡としては最大である。
常世の墓と菩提寺
佐野源左衛門常世の墓と伝えられるのは、館跡の南に隣接する同市鉢木町の梅秀山願成寺(臨済宗)境内の石塔である。三基の墓塔のうち、向って左側の板碑は、常世の母の供養塔とされる。上部と右半分を欠損しているが、高さ86センチ、幅61センチの比較的大型の板碑である。石材は緑泥片岩で、右脇侍とみられる勢至菩薩の種字がのこり、かつては阿弥陀三尊を刻んだ板碑だったとみられる。正和四年(1315)の年号をもつ。
中央の宝篋印塔は、常世の墓碑とされる。相輪と塔身を欠くが、それでも高さ約150センチを測る。安山岩製で、大型の塔である。向って右側の宝塔は、常世の妹の墓碑とされる。凝灰岩製で欠損部分が多く、わずかに塔身の一部と笠部がのこるのみだが、類例からすると一三世紀後半頃のものと考えられる。願成寺の前身は、延寿山安心院蓮華坊(天台宗)と称しており、佐野氏の先祖藤原秀郷の開基で、秀郷の母の廟所だったという。それを建長年間(1249〜56)に常世が臨済宗に改宗させて、佐野氏代々の菩提寺にしたとされる。
詰めの城・阿土山城
佐野荘を南流する秋山川と荘内を南北に貫く街道とを押さえる豊代の地は、まさに水陸交通の要衝であり、上佐野の重要拠点たった。しかしながら、豊代城自体は平城であり、さしたる要害の地に占地しているわけではない。このため、戦乱の時代を迎えると、非常のさいに立てこもる要害、いわゆる詰めの城が必要になってくる。豊代城の詰めの城の役割をはたしたのが、豊代城の北東約一 ・五キロに位置する阿土山城だったとみられる。
アド山は、標高371メートル、比高約210メートルで、「阿土山」「安戸山」などの字があてられている。阿土山城は、天慶年間(九三八〜九四七)に安戸太郎純門の築城と伝えられるが、確証はない。その後、長嶋(上佐野とも)、青木氏などの城主をへて、戦国時代末期には佐野氏の一門天徳寺宝衍が数年間居住したのち、廃城となったとされる。
山麓西側には、清滝山金蔵院聖法寺(真言宗)がある。佐野氏代々の祈願所で、慶長年間(1596〜1615)には天徳寺宝衍が隠棲したとの伝えもある。阿上山城の廃城の時期は、このに天徳寺宝衍の在か四囲にあたるのかもしれない。現在、アド山に登るには、金蔵院前から西側の尾根筋を登るのが一般的であり、がっての登城ルートもやはり西側からだったと考えられる。現に、登城ルートには三つの堀切と石垣の遺構がみられる。山頂の主郭部の面積は狭く、
阿上山城はあくまで非常のさいの要害だった。
総鎮守今宮神社
阿土山城の山麓を流れる仙波川を、北西に約ニキロほどさかのぼっか仙波地区には、佐野荘の総鎮守だった今宮神社がある。今宮神社の祭神は天津児屋根命で、藤原秀郷が平将門征討のために天慶三年(940)に勧請したと伝えられる。社殿自体は江戸時代の再建になるが、がっての荘厳な雰囲気をいまにとどめている。
往時は、佐野荘の総鎮守として、佐野氏をけじめ、一族・家臣や荘内の住民たちの崇敬を集めていた。注目されるのは、今宮神社から北に約ニキロをへだてて出流山千手院満願寺(真言宗)があることで、満願寺は勝道上人が天平神護三年(767)に開山したという。勝道は、山岳信仰の霊場日光山を開いたことでも知られ、奇しくも勝道の開山とされる満願寺と日光山中禅寺はともに坂東三三札所でもあった。 
坂東三三札所の成立は一三世紀前半ごろとされており、すでにそのころには一七番札所の満願寺と一八番札所の日光山は観音信仰の巡礼路で結ばれていた。そして、一六番札所である上野水沢寺(群馬県渋川市)から満願寺に到着する直前に、佐野荘内の豊代城、阿上山城、今宮神社の付近を通過したのである。つまり、豊代城が所在する上佐野は、鎌倉時代以来の交通の要衝であり、かつ、宗教的にも重要な場所だった。豊代城は、その上佐野を支配する拠点の役割を果たしていたといえる。
箱石神社   佐野市豊代町 (旧・安蘇郡葛生町豊代中沢)
主祭神 大国主命 
配神 高龗神、伊弉那岐命、事代主命、市杵島姫命、大綿津見命
天慶二年(939)に平将門を破った藤原秀郷によって創建され、天正元年(1,573)に佐野宗綱により改修。明治五年(1,872)に常盤村村社となり、その後、神社合祀令により明治四十二年(1,909)十月十六日に八龍神社と保呂羽神社、白山神社、厳島神社、八幡神社を合祀した。
願成寺   佐野市鉢木町
梅秀山願成寺 臨済宗建長寺派 本尊/釈迦如来像
願成寺は。宝亀年間(770年)大僧都智開法印の開山で、大同年間(806年)河原の西のほとりに創建され、天台宗に属していました。天慶年間(938年)藤原秀郷公、山本の里松の内の上に寺を建て、延寿山安入院蓮華坊とも称した。故に秀郷公を開基としています。
永徳年間(1381年)となり。古天禅師中興開山となり、天台宗より臨済宗に改宗、梅秀山と称した。弘治2年(1556年)民家より発した火災の為、諸堂炎上に遇う。慶長6年(1601年)ようやく再興となるが、寛政7年(1795年)には失火により七堂伽藍その他、古文書・古記録をはじめ幾多の得難き宝物が消失した。
嘉永3年(1850年)本堂再興の工を起こし、嘉永4年竣工大正4年(1915年)二十一世義棟和尚、本堂改装、翌5年入仏式修行。
鉢の木物語
吹雪の夜一夜の宿をと常世の軒下に立った旅僧(執権北条時頼)を親切に迎え入れて、暖をとらせるが途中で焚き木が無くなり、そのとき常世は立派な盆栽を惜しげも無くくべて暖をとったという下りの物語の主人公佐野源左衛門常世の菩提寺として有名です。
安蘇澤神社   佐野市山菅町 (旧・安蘇郡田沼町大字山菅)
主祭神 別雷神
配神 高龗神[たかおかみのかみ]、大宮売命、水波乃女命
下野国の在庁長官であった藤原秀郷(根古谷唐澤城主田原藤太)が霊夢により武運長久、領土安穏祈願のため勧請。天明七年1787社殿を建築。山菅鎮守として尊崇されてきた。秀郷が勧請した多数の神社のひとつ。
御榊山神社   佐野市多田町
永享6年(1434)に創建され、宗像三女神の一柱である市杵島姫が御祭神です。市杵島姫は美人のほまれ高く、弁天様に見たてられている神様で、海上交通、戦の神であるとともに、その御神徳により子供の守護神と仰がれています。又この神社は、厳島神社の御祭神を祀っている為、昔は厳島大明神と云われていたのでしょう、今でも通称明神様と呼ばれているようです。
賀茂別雷神社   佐野市多田町
通称 雷電様(らいでんさま)
旧社格 村社
主祭神 賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
配神 禰禰杵尊(ににぎのみこと)/賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)/玉依姫命(たまよりひめのみこと)
境内神社 産泰神社(さんたい)、機姫神社(おりひめ)、八坂神社(やさか)、秋葉神社(あきば)、寒沢神社(さぶさわさん)、太守神社(たいしゅ)、浅間神社(せんげん)、夕日森天満宮(ゆうひもり天満宮)
由緒
当神社の御祭神は「賀茂別雷の神」と申します。京都の上賀茂の地に「ちはやぶる わけつち山に宮居して、天下ること神代よりさき」と読まれ、遠い昔より、山の神、農業の神として奉られて、落雷除け、嵐除け、五穀成就、天下泰平の神として崇敬されてまいりました。
当神社は天智八年(669)、「雷の神を祀れば、此の土地は富貴安静ならむ」との神宣により、菊沢山の中腹に社殿を建て、大神を奉り祭事を行ってまいりました。
その広大なる御神徳により正徳五年(1715)、宗源宣旨により正一位の神階を賜りました。
現在の本殿は宝暦十一年(1761)の建築で、堂の彫刻は上州館林の住人斉藤甚平、甚八、両人の作で、竹林の七賢人、菊の花、竜など、めでたい物がたくさんございます。
その後、氏子の念願により、明治四十三年現地に遷座し、家内安全、落雷除け、交通安全などの祈願を行い、毎年4月15日には大祭を斎行して、元文四年(1739)新造の御輿の氏子内巡幸を行っておりました。神棚祭、氏神祭、地鎮祭、上棟祭、車のお祓いなども致しております。
境内神社について
産泰神社(拝殿左隣) ご婦人の守護神として古い昔から信仰厚く、妊婦多数の念願により文化十二年(1815)社殿を建て大神を奉斎いたしました。安産、子育ての神として崇敬され、安産祈願、家内繁栄、子孫長久など、祈願の信仰者がたくさん参拝されており、その御神徳は広大無辺でございます。命名や選名のご相談も承っております。
八坂神社(拝殿手前左、道具小屋隣の石宮) 厄除けの神として須佐之男命を奉斎し、毎年7月15日に御輿の巡幸をして、祭事を行っております。
浅間神社(拝殿右側のサヤの内、右端の石宮) 無病息災の神として木花咲耶姫命を奉斎し、毎年8月21日に火祭りを行い、祭事を行っております。
寒沢山神社(拝殿右側のサヤの内、左側の大きい石宮) 山の守護神として大山祇命を奉斎し、毎年11月第3日曜日に勤労感謝の祭事を行っております。
そのほか 稲荷神社、夕日森天満宮、機姫神社、秋葉神社、太守神社、愛宕神社、古峯神社など、数社奉られております。
大明山本光寺   佐野市
本尊 釈迦如来 宗旨宗派 曹洞宗
当寺は、文亀二年(1502)佐野家の菩提寺として創建されまして以来、畏れ多くも第百四代後柏原天皇から勅願寺の詔を賜り徳川第三代将軍家光公からは御朱印地を拝領し、檀家各位の御援助・御協力の下に、住持の代わること四十五世、四百八十年近くになります。・・・
一瓶塚稲荷神社   佐野市田沼町
旧郷社
御祭神 豊受姫大神 猿田彦大神 大宮能賣大神 久々能智大神 草野姫大神
本殿は、延宝三年(1675)、寛政三年(1791)の火災後に再建され、現本殿は寛政十年(1798)の再建で佐野市指定文化財。境内右手にある西宮神社も本殿再建の頃の建物で佐野市指定文化財らしい。

通称は、田沼稲荷神社。
社伝によると、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が、天慶五年(942)、相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神を詣で関八州管領の地に四社を勧請し関東稲荷社と称した一社。その四社とは、武蔵国鴉森、武蔵国王子、上野国新禞院と下野国富士村。
その後、文治二年(1186)五月十五日、秀郷の裔佐野荘司讃岐守成俊が唐沢城再興の際、田沼の地に一丘を築き、下野国富士村の稲荷大明神を勧請したのが当社。佐野荘百数十郷の総社として崇敬された古社。
当社が一瓶塚と称するのは、近郷近在の人々は競って瓶に土を入れてこの地に運び、塚を築いたのでこの塚を一瓶塚、この塚の上に稲荷の祠を建立したためだと言われている。
上記の相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神は、松ケ岡八幡宮とも称された鶴岡八幡宮の地にあった丸山稲荷社のことだと思うが、確認はしていない。
また、同時に勧請された武蔵国鴉森は、現烏森神社、武蔵国王子は、現王子稲荷だと思うが、上野国新禞院はどこだろう。群馬県太田市の冠稲荷社だろうか。
当社の元社である下野国富士村の稲荷社は、大栗鎮座の関東五社稲荷神社とされているらしいが大栗と富士は別の地なのではないかと思う。
また、佐野市の資料によると、関東五社稲荷神社の五社は関東五社稲荷が勧請された時に、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の四社も勧請されたので関東五社稲荷と称するようになったとある。その説が正しければ、この狭い地域に関東五社稲荷と大栗稲荷の二社が存在することになり違和感。
『栃木県神社誌』には、天慶五年壬寅五月十五日遷座ゆえに五社と称するとある。
当地の詳細な郷土史などを参照しているわけではないので正確なことは判らないが、富士村の稲荷社が田沼へ遷座された時に大栗に関東五社稲荷神社が分祀されたということではないだろうか。あくまでも雑感的私見だけど。
ちなみに『明治神社誌料』によると、一瓶塚稲荷神社は『下野国志』には山城稲荷明神(伏見稲荷か?)からの勧請とあり、また、藤原鎌足が創建した社を、武蔵、上野、下野に遷座したという伝説もあり三ケ国惣社と称されたとも。
社殿の脇の境内社には、以下の名前が記されていた。月読宮、淡島神社、天満宮、染殿神社、市廛神社、太子神社、八坂神社、浅間神社、雷電神社。『平成祭データ』には、末社として以下の名が載っている。一部は境外にあるのかもしれないが、確認していない。西宮神社、八幡宮、織姫神社、旅料飲三業稲荷、八坂神社、神明宮、笹森稲荷神社、愛宕神社。
興聖寺城   佐野市吉水町
遺構 土塁、堀 / 形式 平城 / 築城者 佐野国綱 / 築城年代 安貞2年
興聖寺城は、佐野氏の本城唐沢山城の南麓の平野部に築かれ、位置的に見ても重要な支城であったと考えられる。資料によれば、興聖寺城は現在の興聖寺境内となっている地に本丸が置かれ、北二の丸・南二の丸・三の丸と配し、それぞれの曲輪を堀で囲み、更に城域全体を外堀で囲んだ縄張りであったとか。現在では、曲輪・堀のほとんどが住宅地や水田となって消滅しているが、本丸にある興聖寺の周囲には、土塁と空堀が今もよく残されていた。
興聖寺城は、別名清水城と呼ばれ、安貞2年に佐野国綱が一族の岩崎義基の為に築いたと云われている。永正年間に岩崎重長は三好岩崎に移り、大永元年より佐野季綱の居城となった。 しかし、季綱は興聖寺城を長く居城とせず、家臣の沼田・中江川・河田・天沼・清水・今宮らが交代で城番を務めた。 その後、城代として山田若狭守が在城し、佐野氏改易と共に廃城となったと考えられてる。
藤原秀郷公墳墓   佐野市新吉水町
藤原秀郷は平貞盛と協力し、天慶3年(940年)に乱を起こした平将門を討ちとり、戦功により従四位下に叙せられ、武蔵、下野の国守に任ぜられました。
秀郷公は天暦2年(991年)に没し、東明寺に葬られたといわれていますが、廃寺となり英宝2年(1705年)地元有志が田原八幡を建てました。
東明寺古墳や東明が丘とも呼ばれています。
根古屋神社   佐野市
石の鳥居には「正一位 避来矢大明神」と刻まれた額が掛かっていた。唐澤山神社の避来矢山に根古屋神社跡があったから、山の上から移転した神社なのだろうか。主祭神が藤原氏の祖神である天児屋根命(アメノコヤネノミコト)でもあるし、藤原秀郷公に縁のある神社であることは間違いないだろう。
要谷山城跡、根古屋館跡、鰻山城跡
要谷山城跡(ようがいさんじょうせき)、根古屋館跡(ねごややかたあと)、鰻山城跡(うなぎやまじょうせき)
要谷山城跡は飛駒町に残る標高約400メートルの山城です。山頂付近は東西約16メートル、南北約17メートルの規模で主郭を設け、主郭の周囲には曲輪が配置されています。また、現在も主郭の周囲で石垣が認められます。当城は、天文元年(1532)の頃、佐野越後守義照が居城したともみられます。その後、足利長尾氏方の小曽根筑前守によって落城したといわれています。
そして、要谷山の北西山麓の館跡が根古屋館跡で、東西約43メートル、南北約37メートルの規模で曲輪があります。当館は要谷山城が落城した後に焼失したといわれています。この山頂付近の主郭と山麓の館跡が一体となって残っていることは他にあまり例がなく貴重な城跡です。
鰻山城跡は、戸奈良町に残る平山城で、東側には旗川が流れています。当城は、東西約31メートル、南北約56メートルの規模の主郭を設けています。築城については鎌倉時代に佐野実綱の子戸奈良五郎宗綱が築いたといわれ、その後、宝治元年(1247)廃城となったといわれています。現在は主郭のところに石碑が建てられています。一族が築いた城として佐野氏と関係の深い城跡といえるでしょう。
小野城   佐野市飛駒町
天正年間初頭に佐野氏に属していた小野兵部小輔高吉が、足利長尾氏に備えるため唐沢山城の支城として築いたといわれています。しかし1584年(天正12年)、高吉は弟とともに長尾顕長の家臣・小曾根筑前に謀殺され、その後は小曾根氏が城主となりました。現在城址は「根古屋森林公園」として整備されており、本丸跡は「要谷山展望広場」となっています。遺構としては切岸と堀切などを確認することができます。
唐沢山城   佐野市富士町、栃本町
日本の城。所在地は栃木県佐野市富士町、栃本町。別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。 「関東一の山城」と称される。城跡は国の史跡に指定されている。2017年には続日本100名城(114番)に選定された。
関東七名城の一つ。佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。続日本100名城に選ばれた。
現在は栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座する。杉郭跡には栃木県唐沢青年の家が建てられたが、平成19年(2007年)3月31日閉所した。遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、土橋、近世に復元された井戸などが残っている。
歴史・沿革
築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。
平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。
以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。
室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。
唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。
明治16年(1883年)有志により本丸跡に唐沢山神社が建立された。
昭和30年(1965年)栃木県立自然公園開設。昭和38年(1963年)栃木県唐沢青年自然の家開所。
平成26年(2014年)3月18日、城跡が国の史跡に指定された。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(114番)に選定された。
藤原秀郷と唐沢山城跡
唐沢山の上には、藤原秀郷公をまつる唐澤山神社が鎮座しています。秀郷は平安時代、平将門の乱の平定に功績をあげたことで知られていますが、その一方で「俵藤太」の通称で「百足退治」の伝説をはじめとして、多くの物語や絵巻物に取り上げられ、親しまれている人物です。
唐沢山城の築城は、秀郷によってなされたという伝承もその一つです。しかしながら、信頼できる史料に見える秀郷に関する記録は、断片的なものであり、築城に関するものは確認することができません。また、これまでに実施されている発掘調査成果などによっても、築造年代は、早くても15世紀ごろではないかと考えられています。国指定史跡化のためには、唐沢山城跡の歴史的価値を明らかにすることが必要になってきます。
その一方、秀郷の系譜である佐野氏や唐沢山城に伝わる、伝説や伝承も大切にしていきたいものです。
唐沢山神社   佐野市富士町
栃木県佐野市の唐沢山山頂にある神社。藤原秀郷を祀る。旧社格は別格官幣社。
祭神の藤原秀郷は俵藤太(田原藤太)の別名でも知られ、下野国押領使として唐沢山に唐沢山城を築城し、秀郷の子孫の佐野氏が居城した。秀郷は平将門の乱を鎮圧して鎮守府将軍となったことから忠皇の臣とされ、秀郷の後裔や佐野氏の旧臣らが中心となって秀郷を祀る神社の創建が始められ、明治16年(1883年)、唐沢山城の本丸跡地に創建・鎮座された。明治23年(1890年)に別格官幣社に列格した。
当社より西2kmの佐野市新吉水町にある秀郷の墓所は、飛地境内となっている。
蓬莱山神社   佐野市作原町
田沼町史には唐沢山の隠れ城だといわれているような、所謂、深山幽谷にひっそりと建立されているようです。ここ旧田沼町の蓬莱山は日本三蓬莱の一つといわれ、約1,200年前、日光二荒山開山の勝道上人が開いたとされています。御祭神は市杵島姫命です。
蓬山城跡   佐野市作原町
大戸川と小戸川の合流し旗川となる西の標高約385m(比高約140m)の尾根の南端蓬山山頂に位置する。登って行くと主郭(広さ60坪)があり、石積があり、南北に2ヶ所、石積の祠がある。南西側に碑、説明板が建てられている。北西側尾根に堀切がある。現存する城跡の規模、形状などから唐沢山城北方の守りとして戦国時代に築城され、佐野家滅亡と共に廃城となったと思われる。
三騎神社   佐野市船越町
主祭神は天児屋根命だが、配祀神として瀬織津姫命が祀られている。栃木県内で瀬織津姫命を祀っている神社は岩舟町の荷渡神社とこの三騎神社のみであるとのことだが、何故この二ヶ所のみなのだろうか。ちなみに、瀬織津姫命を祀る神社は大概近くに川が流れているものだが、こちらも例に洩れず、すぐ南側に旗川が流れている。
天慶五年(942)に藤原秀郷公によって創建され、天正十八年(1,590)に船越六郎なる人物によって再建されたのだそうだ。
上宮神社   佐野市船越町
天慶4年(941)創建の古社で、橘豊日命(聖徳太子の父である用明天皇のことです)をお祀りしています。聖徳太子を祀っている太子殿もあり、通称、太子様とも云われているようです。桜の古木が境内にいっそうの彩りを添えているように見えます。
沼鉾神社   佐野市赤見町
神社の創立は、文武天皇二年(698)六月十五日勧請したと伝えられ、藤原秀郷公が元慶九年(946)に御本殿及び拝殿等を再建したといわれております。その後、正治二年(1200)に御本殿、拝殿を修理し、元和元年(1615)に御本殿の改築が行われております。享保年間に至り拝殿は、火災に会い消失しておりましたが、天保十一年(1831)正月十九日に新築されました。この度、御本殿、拝殿共老朽化甚しく、改修の必要にせまられ、氏子、崇敬者相計り、社殿の改修、社務所の新築をすることに決定し、社殿改修は、昭和五十八年(1983)七月二十五日仮遷宮並びに改修報告祭を執行、同年十二月二十五日修了、社務所の新築は昭和五十八年起工式を行ない、同五十九年三月二十九日工事を修了いたしました。追加工事として、水屋並びに神楽殿、末社の整備を行ない、ここに総べての工事を完了することができましたので一二○○年を記念し奉祝祭を執行いたしました。
千騎返り   佐野市出流原町(旧・田沼町出流原)
出流原弁天池の裏手の後山(磯山)付近を「千騎返り」といいます。秀郷が敵に千騎の兵を指し向けましたが、山中で道が険しく引き返すことになったので、こう呼ばれるようになったといわれています。
「うるし千ばい・朱千ばい」   佐野市出流原町
出流原弁天池には、とても冷たく、すんだきれいな清水がわき出しています。その中には、大きなひごいやにしきごいが元気に泳いでいます。この池をいだいているのが、磯山という石灰の出る山です。その山の東側を後山といいます。この後山に、今もとけない宝さがしのなぞが残っています。
     うるし千ばい 朱千ばい
     くわ千ばい 黄金千ばい
     朝日に映す 夕日かがやく゛
     雀の三おどり半の 下にある
と、いう歌が、昔から村人の間に伝わっています。これがそのなぞの文句です。この歌は、このあたりきっての大金持ち、朝日長者が宝をかくした場所をとく「かぎ」と伝えられています。その長者の家のあとは、いまは何も残っていませんが、昔は、お城のような広い家で、高いへいに囲まれた中に、大きな家があり、まわりにはたくさんのくらがあって白いかべが日にかがやいていたといいます。いっぽう、駒場の円城院山には夕日長者が住んでいて、朝日長者に負けないほどの大金持ちであったといいます。
朝日長者には子どもがありませんでした。子どもがほしい長者夫婦は「どうか子どもをおさずけくださいますように・・・・・」と弁天様に一心においのりをしました。
ある晩のことです。長者は不思議な夢をみました。それは、月のとてもきれいな晩に月見をしているときです。急に磯山の上がまぶしいほどに光ると、たくさんの鳥がとんで来たのです。その中の大きな鳥、それはつるでしたが、そのせなかにかわいいお姫様がのっていました。
長者は、うれしくなってお姫様と手をとっておどりました。そのうち、長者は夢から覚めると、不思議な夢だったので妻に話しました。
「これは、不思議なこともあるもの、わたしも同じ夢をみました。」と、妻も不思議な思いでいっぱいでした。そして、二人はなおも、子どもがさずかることをいのり続けるのでした。しばらくすると、本当に子どもがさずかりました。それはかわいいかわいい女の子でした。長者は喜んでつる姫と名づけました。
そして、だいじにだいじに育てていきました。ところが、ある日、長者は、尾須仙人という白いかみをした老人に連られ、女神のところへ連れていかれました。それは、夢とも現実ともつかないでき事でしたが、もどって来ても、その時言われた不老長寿の薬(年をとらず長生きする薬)をつる姫に飲ませることだけはわすれませんでした。
長者は、家に帰るとさっそくその薬をつる姫に飲ませました。すると、まだおさなかった姫は、たちまち、十七、八才の美しい娘になってしまいました。
姫は、毎日を山で遊ぶことを、この上もない楽しみにしていました。ところがある日、遊びに出た姫は、山から帰ってきませんでした。長者は心配し、山をくまなくさがし八方に人を走らせてさがしたのですが、ついに手がかりがありませんでした。
長者夫婦は、あれほどかわいがっていた姫がいなくなったことで、生きる望みもうしなってしまいました。すると、ある夜、長者のねている枕もとに神様があらわれました。
「お前の姫は、水の中で鯉となって、うかび上がることはないであろう。だが、今までの宝物を人々にあたえ、無一文になって毎日神様や仏様においのりをささげれば、姫は竜の神様になって天に上るであろう。」と、いわれ、夢から覚めました。
そこで、長者は、姫かわいさのあまり、うるし千ばい 朱千ばい くわ千ばい 黄金千ばい を後山の千騎返りにうずめました。
解説
この種の話は、富豪の栄枯衰退を語る話で、長者伝説とよばれ全国各地に分布しています。栃木県下にも、たくさん分布し、小山市、日光市のものなどが知られています。話の中に登場する朝日長者は、この種の話に好んで用いられる名で、中世の日光山の縁起伝説にもその名が見えています。
本文は、栃木県連合教育会編「下野伝説集『うるし千ばい・朱千ばい』」を参考にしました。この話は、伝承者によって、朝日長者に匹敵するこの地方の大金持ち夕日長者のむすこが、鶴姫に恋いをしたとか、朝日長者と夕日長者が、黄金埋蔵の歌のなぞを解くために争ったとか、後世、領主井伊掃部頭の乗馬が後山にまぎれこんだ時、ひずめに朱をつけて帰ったという話もあります。
また、旧家の馬が「千騎返り」に迷い込み足に朱をつけてきたといいます。その家にはその朱で塗りあげた漆器が残っているともいわれています。朝日長者と夕日長者の競い合いは、「鯉が久保」の話を参照して下さい。
雀宮神社   佐野市堀米町
藤原秀郷公が朱雀天皇を尊崇して創建したものであるらしい。
浅間神社・浅間の火祭り    佐野市奈良淵町 
高さ192mの浅間山の山頂にある浅間神社のお祭りで、地元では「浅間さんお焚き上げ」とも言われています。
祭りの日の夕方、地元の人たちが山頂の神社に参拝し、無病息災、五穀豊穣を祈願し、その年にとれた150束の小麦わら(地元ではカヤと呼ぶ)に火をともす「点火の儀」が行われます。そして、訪れた人たちが、手に手に持った松明にその火をもらい山を下ります。
遠く浅間山を望むと、山頂までの参道は、火の橋のごとく暗闇に浮き出て、その美しさを醸し出します。
およそ1,000年の歴史を持つという伝えがあるこの火祭りは、藤原秀郷が唐沢山に城を築き、この付近一帯に藤原氏一族が住みつき、彼らの威勢を示すために山上で火を焚いたのがおこりだといわれ、以後村人は、火を焚き悪病を追い払ったといいます。
露垂根神社   佐野市富士町
御祭神 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
創建・建立 天慶5年(942年)
由来  藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐澤山に勧請。大永時に笠松山の中腹に奉移し、慶長時に現在の所に遷座された。明治5年、露垂根大明神を露垂根神社と改称した。
関東五社稲荷神社   佐野市大栗町
創建は天慶5年(942)で、藤原秀郷公が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したと云います。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになりました。田沼町に鎮座する有名な一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものと云います。降って明治6年に社号を関東五社稲荷神社と改称し、現在に至りました。
光徳寺   佐野市犬伏下町
本尊 阿弥陀如来像 宗派 浄土宗
境内には天満宮があり、師弟関係にあった菅原道真公を祀り、恩師を偲び光徳寺の守り神としています。開祖柏崎高徳のお手植えである「びゃくしん」の木は樹齢800年を超えており、佐野市の文化財に指定されております。加賀の千代尼(1703- 1775)が詠んだ「今日こずは 人のもとめに 初さくら」の俳は、桜の木が多かった当時の光徳寺の様子を詠んだ物で、千代尼の直筆の掛け軸が保管され、境内にも石碑が建てられています。
唐沢城主 田原藤太秀郷の家臣、柏崎高徳が建立。柏崎高徳は菅原道真(844年〜903年)の師弟でもある。
宝暦10年(1760年)旧本堂再建。
平成5年 老朽化の進んだ旧本堂を再建しました。
平成18年 庫裏・客殿を新築。
上羽田八幡宮   佐野市上羽田町
承平6年(936年)田原藤太秀郷、朝敵将門を討つべき命を承けて当郷まで出馬なりしが名にし負う強敵なればとて宇佐八幡宮を奉じ戦勝を祈る。その擁護により遂に賊を平らげて唐沢城を築きたり。
天慶5年当境内に兵器を埋め塚を造りて宮殿を建て、以て裏鬼門鎮護となり即ち現本社の後方小高き処道場塚といいて鎮護なりしを後、元禄8年宮殿再建の際現在の処へ遷座したるものにして刀剣類朽ち錆びて寸断となれるもの地底より発見したことあり。
大鹿神社   佐野市船津川町
藤原秀郷公が武蔵守に任じられた際に建立したと伝えられている。佐野市には秀郷公が創建したと伝えられる神社が多く見受けられるのが、神仏への信仰心が篤いということか。
御祭神は武甕槌命で、天慶三年(940)に藤原秀郷公が従四位下下野武蔵守に叙位された時に天命郷の春日岡山に建てられたが、永正六年(1509)に現在地に遷座し、大鹿神社と称したとのこと。宝永年間(1704〜1711)に本社を再建、正一位に授けられて隆盛したが天明六年(1786)と慶應二年(1866)に火災を被っているそうだ。
浅田神社   佐野市馬門町
社号標石には「下毛野国 天命総社」とあり、また鳥居の額にも天命総社と書かれている。
鳥居をくぐって右手側に八坂神社。左手側に粟嶋神社。参道右手側に仙元神社。参道左手側には御嶽山神社と嶽普明大神。その左奥に阿留摩耶大権現。拝殿額には天命惣社浅田大神とあるが、御祭神はどなた様だろう? 景行天皇五十六年(126年)に勧請されたもので、古くは天命総社や阿曾大神宮とも称していたそうだ。阿曾はこの辺りが以前は安蘇郡だったからか。
御祭神は大己貴命と事代主命、豊城命の三柱で、蝦夷征伐に向かう日本武尊がこちらに神籬を建て(630年のことであるらしい)、後、その址に神社を建てて天命郷の総鎮守となったのだとか。また、現在の社殿は1854年(嘉永六年〜七年)に建てられたものだそうだ。
藤田神社   佐野市越名町
天慶年中(938〜947)藤原秀衡公が勧請してと伝えられています。江戸時代初期までは藤太大明神とも称されていました。  
■鹿沼市
押原神社   鹿沼市上殿町
祭神は大物主命相殿天照皇大神素盞嗚命少名彦名命日本武尊誉田別命なり。
本社は人皇第五十一代平城天皇 の御字大同四年(八〇九)九月十九日の創建にて押原宗丸 の勧請なり。往古は押原の郷六十六村と稱せしが當郷疫痛に罹りて死する者多し 押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す或夜の夢に大神告げたまはく我れを斉祀すれば疫痛熄むべしと忽ち覚む是に於て清浄の地を択び臣杉の下に霊祠を建て大物主命を奉斉す。疫病忽ち熄み年穀大に稔れり。かくて押原郷の惣鎮守押原杉本大明神と尊栄して宏壮の社殿を建築せり。それより神殿村と稱へたるが後上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬れるか。
本社は黒川円波守房朝崇敬の社なり。後天慶二年(一〇一五)平将門 反叛の時平貞盛 藤原秀郷 等が本社に戦勝を祈り速に追討して戦勝せしを以て本社に弓箭鏡剣等を奉納せり。爾来社賓たりしが惜しい哉第九十二代伏見天皇 の正應五年(一ニ九二)八月回祿の災いに罹り社殿悉く烏有に帰した。寛正四年(一四六三)九月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。當明神は井戸を掘ることを嫌ひ給ひ貞享五年(一六八八)三月廿一日神祇官領長上ト部兼連に請うて神位宗源宣旨を以て正一位を賜はり居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと云伝ふ。明治二年四月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに云ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて神社辺迄土地を所有し神社の祭典には仝家よりの参拝を待ちて後行へしとか口碑に残れり。
押原郷の部落を記せば
鹿沼神殿 田野。栃久保福岡玉田小代小倉 **伸
長畑。板荷下遠部。笹原田。下*深岩富岡。古賀志。小林岩*
手岡。板橋。大澤。八日市。柳戸。出道**。黄和田島。石耶田。小池。山口。片倉。根室。飯山。大波。大桑水*。十々六。大空ヲドロ澤。土澤。薄井澤。芹沼。森友。武子。見野**。大芦。柏尾。花園。日向*呂。千渡。荒針。飯田。南摩。栗野。酒野谷。村井。被山。奈良部。深津。*所。西鹿沼。花岡。引田。久我。
昭和四十八年九月十六日 吉日
鹿沼市上殿町八五四番地
古澤義雄 寄進
鹿沼市上奈良部町九番地
宇賀神廣作 謹書

祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)、相殿(あいどの:二つ以上の神を祀ること)天照皇大神(あまてらすすめおかみ:天照大神と同じ)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、少名彦名命(すくなひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)なり。本社は人皇第51代平城天皇 の御宇(ぎょ・う:帝王が天下を治めている期間)大同4年(809)9月19日の創建にて押原宗丸の勧請なり。
往古は押原の郷66村と稱せし(称する)が當(当)郷疫癘(えきれい:疫病のこと))に罹りて(かかりて)死する者多し、押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す、或夜(あるよ)の夢に大神告げたまはく、我れを斉祀すれば疫癘(えきれい)熄む(やむ:止む)べしと忽ち(たちまち)覚む(さむ:覚めること)是に於て(ここにおいて)清浄の地を択び(えらび)臣杉(おみすぎ?)の下に霊祠を建て大物主命を奉斉す。疫病忽ち熄み(たちまちやみ)年穀(ねんこく?一年の穀物?)大に稔れり(実った)。
かくて押原郷の惣鎮守、押原杉本大明神と尊栄して宏壮(こうそう:広大でりっぱなこと)の社殿を建築せり。それより神殿村と稱へたるが後、上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬れるか(あやまられるか:間違われる)。本社は黒川丹波守房朝崇敬の社なり。後天慶2年(1015)平将門 反叛(はんはん:謀反する)の時、平貞盛、藤原秀郷等が本社に戦勝を祈り速(すみやか)に追討して戦勝せしを以て、本社に弓箭鏡剣(弓・矢・鏡・剣)等を奉納せり。爾来、社賓たりしが惜しい哉、第92代伏見天皇 の正應5年(1292)8月回祿(かいろく:火事)の災いに罹り(かかり)社殿悉く烏有(ことごとくけう)に帰した。寛正4年(1463)9月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。當明神は井戸を掘ることを嫌ひ給ひ貞享5年(1688)3月21日神祇官領長上ト部兼連に請うて神位宗源宣旨を以て正一位を賜はり、居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと云伝ふ。明治2年4月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに云ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて神社辺迄土地を所有し神社の祭典には仝家よりの参拝を待ちて、後行(こうこう:あとから行くこと)へしとか口碑に残れり。
日吉神社   鹿沼市下南摩町
日吉神社は、伝承によると天慶3年(940)に藤原秀郷が平将門を討伐するにあたり、近江日枝神社・日吉大社(滋賀県大津市坂本)を勧請した7社のうちの一つといわれており、江戸時代には、油田村・西沢村・下南摩村(新田村)の産土神として祀られました。
この神像群は24躯の神像と仏像から成り、一部には弘治3年(1557)、元亀3年(1572)、慶長13年(1608)などの墨書銘が確認されています。虫害や鼠害による欠損、光背・台座の亡失など保存状態は良好とは言い切れませんが、日枝山王信仰に係る24躯の神仏が一括して所在することに加えて、猿を象るなど造形にも優れ、また記載年代から壬生氏との関連も推測されるなど、地域の貴重な資料として文化財に指定されました。
日吉神社   鹿沼市池ノ森
鳥居の額束に「□□二癸巳□建立八月吉日」と刻まれている。こちらの神社は寛正二年(1461)に宇都宮明綱から池ノ森に村を拓くよう命じられた瓦井左京が、池ノ森村開発に着手すると時を同じくして日吉神社を勧請し村の鎮守と伝えられているのだそうだ。1461年より後で「二癸巳」となるのは天文二年(1533)、承応二年(1653)、安永二年(1773)の三つだが、額束の文字と形が似ているのは安永かな。
主祭神 大山咋神、大日孁貴命、素盞嗚尊 当社の創立は、寛正二(1461)年一一月一五日。元文二(1737)年、正一位山王権現と号し、慶応二(1866)年九月、正一位都賀日吉神社と改称した。明治三九(1906)年、神饌幣帛料供進社に指定される。現在は氏子数も多く、池の森を守護する社として崇敬され、賑やかな例大祭が行なわれている。
日吉神社   鹿沼市日吉町
神社は標高328.2mの岩山ハイキングコースの登山口に鎮座しています。創建は下野守・武蔵守・鎮守府将軍の役を兼任し、唐沢山(現在の佐野市)に城を築き、善政を施した藤原秀郷が勧請したといわれていますので、平安時代中期と思われます。入口に「正一位 山王大権現」、「御祭神 大山咋神」の石柱が見えます。
天保5年(1834)生まれの狛犬。阿は角を付け、吽には頭頂部に穴があります。
日枝神社   鹿沼市板荷
御祭神 大山咋神
アンバ様は板荷の大杉神社(日枝神社)のことで、悪疫退散、地域内の安全の神、また水神として地元の信仰を集めています。祭りでは神社を出発した神輿が地域内を練り歩き、大天狗・小天狗が獅子を引き連れて家々を訪れ、悪魔払いと春の事触(ことぶれ)を行います。天狗が先導する神輿のあとには屋台が続き、その場で大杉囃子を様々に演じ分けて、祭りを盛り上げて歩きます。アンバ様は、板荷の大杉神社(日枝神社)のことで、「アンバ」とは大杉神社本社のある茨城県稲敷郡「阿波」の地名に由来しています。
■小山市
白鳥八幡宮   小山市白鳥
神社は天文3年(1534)に部屋村と白鳥村の境を流れる巴波川に寒い冬の深夜、ホカイ(漢字では「外居」、「行器」と書き、木製の丸い容器の事。木材を薄く加工し、其れを曲げて仕上げる事で強度を増したものですが、重さが軽い容器なので行楽の弁当箱、旅行・携行食器として使われました。秋田県で有名な「まげわっぱ」を思い出して頂けたら、想像できると思います。)に入ったご神体が流れ着き、創建された模様です。八幡宮なので、御祭神は誉田別命と思われます。
白鳥八幡宮の古式祭礼といわれる、頭屋制の名残りがうかがえる貴重な祭りが有名なようです。これは近くを流れる巴波川で深夜の若水汲みから始まり、その水で赤飯を炊き神への供物とします。その後供物を持った行列は当番組の宿から八幡宮へと向かい神事の後、鳥居に吊るされた鬼の面を的に弓矢を射る。これは鬼、すなわち悪霊が村に入るのを防ごうとする行事です。日の出を合図に、供物の行列が祭りの当番宿を出発するので「日の出祭り」とも云われています。
中久喜城   小山市中久喜
別名:中岫城、亀城、岩壺城
築城年 平安時代末期 築城者・城主 小山氏
久寿二(1155)年に小山政光が、先祖藤原秀郷が天慶の乱平定時に平将門調伏のために牛頭天王を祀った地に築城したという。永徳元(1381)年、小山義政が二度目の挙兵で鎌倉府・足利氏満軍に破れ、中久喜城付近の北山万年寺で隠居して「永賢」と号したという。その後、義政は祗園城を自焼して三度目の挙兵をしたが、上都賀で自刃した。
戦国末期の天正年間には、祗園城主・小山秀綱とその実弟の結城城主・結城晴朝が北条氏方と反北条氏方に分かれて抗争を繰り返した。これを見かねた佐竹義重・多賀谷重経が仲介となり、二人を北山の地で会見させて和談し、それを記念して北山の地を「中久喜」に改めたという。また、天正九(1581)年の北条氏照書状、天正十二(1584)年の結城晴朝書状などにより、中久喜城周辺が北条勢力と反北条勢力の「半手」であったことがわかるという。天正十四(1586)年に北条氏政らが祗園城に入った際には、反北条勢力は結城城・中久喜城で備えを固めていた。
天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏が滅ぶと、結城晴朝は家康次男の秀康を養子に迎えて結城城を明け渡し、自らは中久喜城に隠居した。慶長八(1603)年の結城秀康の越前転封に伴い廃城。

小山氏の属城。近くには結城と小山を結ぶ街道があり、もともとはこの街道を監視し、小山領と結城領を繋ぐ「繋ぎの城」だったと思われます。
しかし中久喜城が大きくクローズアップされるのは、むしろ結城氏から見た「境目の城」としての役割にありました。天正年間には祗園城が北条氏に占領され、祗園城は北条氏照の北関東攻略基地となります。これに脅威を抱いたのが結城城主の結城晴朝。晴朝は小山秀綱の実弟にあたりますが、北条と上杉の間を行ったり来たり、生き残りのためならば兄の居城をも攻撃するという、形振り構わぬ露骨な「生き残り策」を演じた人物です。北条に祗園城を奪われた兄・秀綱も、さすがにこの弟を頼る気はしなかったようで、結城領を通り越して佐竹氏に庇護を求めています。
で晴朝、いよいよ北条氏がお隣の祗園城に陣取るに至って、「これはマジでヤバイ」と思ったか、ここからは反北条勢力に乗り換え、宇都宮国綱から養子まで取って、北条氏に警戒にあたります。その最前線となったのがこの中久喜城でした。そして天正十八(1590)年、北条氏が滅び、それに連座して実家の小山氏も滅んでしまうと、晴朝は養子に豊臣家に養子入りしていた家康次男の秀康を養子に迎え、自分はこの中久喜城に隠居します。宇都宮氏の養子は「返品」、そして実家との「境目の城」であったこの中久喜城で隠居・・・図太い神経してますよ、この人。
須賀神社(すがじんじゃ)   小山市宮本町
旧社格は郷社。祭神 素盞嗚命(牛頭天王)/大己貴命/誉田別命(八幡神)。
この神社は社伝によれば、940年(天慶3年)藤原秀郷が現在の小山市中久喜に創建したのに始まるとされ、現在地に移ったのは平治年間(1159年 – 1160年)とされる。中世には小山氏の崇敬が篤く、小山城の守護神とされた。元は小山城内にあったとされるが、江戸時代初期、小山藩藩主となった本田正純によって現在地に移転されたという。
小山城の別名である祇園城の名はこの神社(祇園社)に由来している。小山市全域、野木町、国分寺地区、下石橋、小田林地区などを含む、小山六十六郷の総鎮守であった。1605年には小山城主本多正純より計50石を寄進され、のちに15石の朱印地を認められた。
参道は旧日光街道に面した通りから始まっているが、現在は道路によって分断されている。境内には小山氏やその祖である藤原秀郷の顕彰碑がある。また、天狗党に属した昌木春雄はこの神社の神職の次男であり、彼の顕彰碑も立てられている。社殿の南側には七ツ石がある。この七ツ石は本来祇園城にあった石であるとのことで、小山の伝説に登場するもの。また、参道脇にある石鳥居は1653年に造立されたもので小山市では最も古いものであり、県内でも二番目に古い鳥居である。
小山城   小山市城山町(下野国都賀郡小山)
日本の城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。地元では主に祇園城と呼ばれている。城跡は、祇園城跡の名称で中久喜城跡、鷲城跡とともに小山氏城跡として、国の史跡に指定されている。
小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。
小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。
その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点となっている。
小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。
明治時代には第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建てられたが、現存してはおらず、発掘調査で礎石と思われるものが確認された。
別名である祇園城は小山氏の守護神である祇園社(現須賀神社)からとったものである。
興法寺(こうぼうじ)   小山市本郷町
天台宗の寺院である。
849年慈覚大師円仁によって一宇が建立され、妙楽院と号したのが始まりと伝えられる古刹である。
940年に藤原秀郷が祇園城を築城すると城内に移転し、徳王山妙楽院興法寺と号したともいわれる。その後は小山氏の祈願所となった。
江戸時代には幕府から9石の寺領が認められた。また、境内には戊辰戦争時の流れ弾の痕が残る石造り地蔵像がある。
現聲寺(現声寺)   小山市宮本町
天慶年間(940年頃)藤原秀郷公の開基で、当時は法相宗に属していました。永仁5(1297)年、時宗二祖他阿真教上人がこの地を巡錫した時より、時宗寺院(小山道場)となりました。
網戸神社   小山市網戸
式内社 下野國寒川郡 胸形神社
旧無格社
御祭神 田心姫命
配祀 大山祇神 天兒屋根命
創建年代は未詳。筑前の宗像(むなかた)神社からの勧請と伝えられ、式内・胸形(むなかた)神社の論社となっている。社名の読みは、資料によっては、「アジト」「アミト」などがあった。地名の網戸は、「アジト」と読む。
境内には、大き目の境内社が、稲荷と八坂の二つ。小さな祠には、奥瀬、皇宮、北向天満宮。その他にも幾つかの石祠が並んでいる。
「稚児が池」伝説   小山市乙女
乙女の北のはずれに、稚児が池と呼ばれる、約1.5メートル四方のくぼ地があった。かつては、熊野権現の境内で、神聖な池だったが、いつのころか社殿は朽ち果て、池も埋められてしまった。
あるとき、村人がこのくぼ地に鍬を入れたところ、たちまち倒れてしまった。別の人が同じことをしたら、失神してしまった。それから、ここを耕して畑にしようとする人はいなくなって、いつまでも空き地として残ったという。稚児が池の名前の由来については、
藤原秀郷の奥方が男子を出産した際に赤子を洗ったという説と、この池のほとりで毎年一人の稚児を生け贄にしたという説がある。
間々田八幡宮   小山市間々田
主祭神 誉田別命 息長帯姫命 
社格等 旧村社
創建  729年〜749年(天平年間)
創建は天平年間(729年〜749年)と伝えられる。
939年(天慶2年)、平将門討伐の為、藤原秀郷が戦勝を祈願。乱を平定したのち、このご神徳への恩返しとして神田を奉納した。以降、この一帯は飯田(まんまだ)と呼ばれるようになったという。
1189年(文治5年)には、奥州藤原氏討伐に向かう源頼朝が参拝。境内に松を植える。この松は「頼朝手植えの松」として氏子に守られてきたが、1905年(明治39年)に枯死した。
江戸時代には朝廷より日光に遣わされた例幣使が道中必ず参拝する習わしとなっていたという。
安房神社   小山市粟宮
祭神 天太玉命(あめのふとだまのみこと) 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
社格等 式内社(小) 旧郷社
社伝によれば崇神天皇代の創建であり、仁徳天皇代に再建されたと言われる。『延喜式』には「阿房神社」として記されている。
939年、藤原秀郷が平将門討伐に際して戦勝を祈願し、社領を寄進したとも伝えられる。中世には粟宮と呼ばれ、小山氏・佐野氏・結城氏・古河公方などの崇敬を受けた。
鷲神社   小山市外城
鷲城跡に鎮座する鷲神社。
史跡 鷲城跡
康暦二年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏十代の義政は、三次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康暦三年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局破れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城の二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。

『主祭神 大己貴命 天慶年間(938〜47)の創立。藤原秀郷が東国下向の折、武蔵国鷲宮明神に将門討伐を祈願し、その後、下野に下向し、下野国小山に鷲宮明神を勧請したのが、当社の創建であると伝えられている。その後、近郷近在の人々より子児の風邪・百日咳を治すなど、病気平癒の御神徳から信仰され、例祭日には卵の授与と奉納があって、殊に賑わっている。明治五年村社となる』
栃木県神社誌には上のように記されている、武蔵国太田荘の鷲宮神社から小山義政がこの城に勧請し、それにちなんで鷲城と名付けたともあるので、早くとも小山義政が父氏政の後を継ぎ下野守護職となった文和四年(1335。南朝の元号では正平十年)以降。応安五年(1372。南朝の元号で文中元年)頃の築城であろうと書かれているところもあったので、こちらの鷲神社の創立もそのあたりになるのではないだろうか。ちなみに武蔵国太田荘は藤原秀郷の後裔である太田氏の本拠地で、小山氏はその太田氏から派生した一族であることから、鷲宮神社との縁があったのだろう。
鷲城(わしじょう)   小山市外城
下野国小山荘にあった日本の城。城跡は、中久喜城跡、祇園城跡とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されている。
築城年代は不明。小山氏は、鎌倉時代以来下野国の守護に任じられ、中世を通じて下野国最大の豪族であった。
鷲城は中久喜城、祇園城とならび、小山氏の主要な居城であるとともに、1380年(康暦2年/天授6年)から1383年(永徳2年/弘和2年)にかけて起こった小山義政の乱において本城としての役割を果たした。乱における小山方の拠点として文献資料に記されたのは、鷲城のほか、岩壺城(中久喜城)、新々城、祇園城、宿城がある。
今日、櫓台、土塁、堀の痕跡が残っている。本丸には名の由来となった鷲神社がある。外城は宅地化され、地名となっている。小山総合公園が隣接している。
東箭神社(とうや)   小山市大字南小林
南北朝時代に、小山氏が祖先である藤原秀郷公から伝わったという箭を奉納して戦勝祈願をした事から東箭神社と呼ばれるようになったと言うことだが、すると創建は更に古いことになるのだろう。だが、由緒沿革や御祭神は不明。

東箭神社本殿 小規模な一間社流造の本殿で、屋根は木羽葺き、高欄付きの縁をまわして両側奥に脇障子を立て、前面に向拝を設ける。建物本体は文化九年(一八一二)に建設されたことが現存する棟札によって知られるが、この本殿の大きな特徴は、二十年ほど後に付け加えられたと考えられる豊富な装飾彫刻にある。
すなわち、胴羽目と脇障子には中国の故事を題材にした透し彫彫刻がはめ込まれるほか、木鼻の象や唐獅子、向拝虹梁上の龍などが丸彫彫刻となり、欄間、妻飾、手鋏、縁下小壁にも花鳥や波、魚、亀などをあしらった透し彫彫刻が施されている。いずれも欅材を素木のまま用いており、精巧で生き生きとした表現は、県内各地のこの時期の神社建築の中でも水準を越えた質を誇っている。
なお、胴羽目彫刻の作者は、背面に刻まれた銘によって、下野随一の彫物大工集団として知られた磯邊一族の名工「後藤周次正秀」であることが確認できる。
大川島神社   小山市大川島
藤原秀郷が平将門討伐の際に創建し、中世には惣大権現と呼ばれ、小山市西部、大平町などを領域とした中泉庄の総社として厚く崇敬されてきたそうです。此処は元総社だけあり今もって社地は広いのですが、右半分がゲートボール場になり、この日もお暑い中地域の方達が練習に励んでいらっしゃいました。又、此処には江戸期の狛犬が居たり社殿の彫刻が凄かったりと充分堪能させてもらいました。

主祭神 大己貴命 
配神 高龗神[たかおかみのかみ] 他の配神に伊邪那岐命、伊邪那美命、火産靈命、木花咲耶姫命
神社の南を走る道路は実は「日光例幣使街道」である。群馬高崎の倉賀野宿を起点とし、大川島の先を北上して小山宿、壬生宿、鹿沼宿と抜けて現在も残るもうひとつの杉並木の日光西街道・例幣使街道につながる。有名な方の杉並木・日光街道とは今市で合流する。
そうした歴史を背景に、ここの明神鳥居は「元禄四年」1691と320年前の古いものである。
藤原秀郷の勧請で天慶三年940に小山庄、中泉庄、西御庄の惣社とし、「惣権現」と称したが、江戸末期に「惣神社」、明治元年に「大川島神社」と改称。
「宝永六年1709」再建の本殿。手水石はもっと古く、水道施設で見えにくいが「寛文九己酉歳1669」と読める。
本殿 権現造石葺 拝殿 入母屋流造瓦葺
河原田神社   小山市下河原田
 
等覚院   小山市上石塚
安産の御利益がある「お腹ごもり」観音は、33年に1度、ご開帳されます。
摩利支天塚古墳   小山市大字飯塚
栃木県小山市大字飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。栃木県では第3位の規模の古墳で、5世紀末(古墳時代中期)の築造とされる。
栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。古墳は前方部を南西に向ける。墳丘は自然の微高地を利用して築かれており、墳丘上には円筒埴輪が列をなして存在している。築造時期については、古墳の形状や出土埴輪から5世紀末とされる。
本古墳の北方には同じく大規模古墳である琵琶塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった。
古墳域は1978年(昭和53年)7月21日に国の史跡に指定され、2002年(平成14年)9月20日に史跡範囲が追加指定された。
長栄寺   小山市小薬
慈母観音像が静に佇むお寺です。市指定有形文化財(華籠)を保有しています。
八幡宮   小山市下生井(しもなまい)
旧地名 下生井字妙見
主祭神 譽田別命 境内社 愛宕神社・水神社
思川と巴波川に挟まれた広大な田園地帯にある大きな杜に鎮座。いずれの河川もすぐ南で渡良瀬川に合流する。
天慶四年941山城国男山八幡宮より御分霊を勧請して創建。
社号標が「料指定」と見えてしまうが、この「料」とは「神饌幣帛料」の料。
寛政八年1796鳥居左手に昭和六年1931八幡宮参道記念碑。その左の丸い石は「力石」と呼ばれ、文政十一戊子1828。「三十二〆目」は重量か。
大正四年1915社号標。文化三年1806狛犬。文政十天1827手水石。
拝殿内に「八幡神宮」額、左手に板絵。
■宇都宮市
日吉神社   宇都宮市古賀志町
主祭神:大山咋命 境内社:磯部神社・粟津神社・中殿神社・八幡神社・祓殿神社・猿田彦神社・愛宕神社・稲荷神社
大谷街道・城山西小学校の東、大谷街道沿いに正徳四年1714の古賀志石製鳥居が堂々たる風情で立っている。比叡山の坂本山王を勧請し長治元年1104に創建。江戸時代には山王大権現と称したが維新に際して日吉神社に改称した。鳥居脇の由緒書きにある祭神は日偏になっているが大山咋命で『下野神社沿革誌』に合致する。『栃木県神社誌』昭和39年版の大山祇命は誤植か。
『古事記』によれば大山津見神の娘の神大市比賣かむおほいちひめが須佐之男命との間に大年神を生む。大年神が天知迦流美豆比賣あめちかるみづひめを娶って大山咋おおやまくひ神を生む。つまり大山祇おおやまつみ神(日本書紀の表記)の孫が大山咋神、別名山末之大主神である。『古事記』では続けて「此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」とあり、そこから日枝神社と松尾神社の祭神として祀られる。戦前まで日吉は[ひえ]と読んでいた。[ひよし神社]にかわった社もあるが、[ひえ神社]のままの社も多い。『栃木県神社誌』の読みは、ここは[ひえ神社]。

御祭神 大山咋命 / 長治元年(1104)宇都宮城主・宗綱の時代に、比叡山の坂本山王を古賀志山麓の高古屋に勧請し、その後、天正元年(1573)宇都宮と壬生氏の合戦により社殿が焼失したので、現在地に遷座されたと言われています。境内には古賀志の地名の由来の伝説を持つ「古い樫の木」があり、現拝殿は大正時代に校庭にあった観音堂を移築したものです。 
宇都宮二荒山神社   宇都宮市馬場通り
主祭神 豊城入彦命
社格等 式内社(名神大)論社/下野国一宮/旧国幣中社/別表神社
創建  (伝)仁徳天皇41年
(うつのみやふたあらやまじんじゃ、-ふたらやまじんじゃ) 式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ巴(菊に三つ巴)」。正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。
宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座する。
東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮氏が知られる。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の明治10年(1877年)の再建。
文化財として、国認定の重要美術品である三十八間星兜、鉄製狛犬などを有している。

宇都宮二荒山神社は、百貨店などが建ち並ぶ中心地の、標高約135mの神明山山頂に鎮座しています。
これまで何度も火災にあい古い史料のほとんどが消失していますが、社記には今から約1600年前に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられた時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祭神として祀ったのが始まりとされています。後の承和5年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。
延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大」とあり、宇都宮の二荒山神社が下野國一之宮といわれています。現在は通称「二荒さん」と呼ばれています。
今宮神社   宇都宮市新里町
主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命)
平安時代、平将門の乱を討伐した藤原秀郷の四男、藤原千種がこの郷に土着し、正歴3年(992)日光二荒山神社より御祭神を勧請し、今宮神社を創建した。
百目鬼(どうめき)通り   宇都宮市
百目鬼通りは、県庁前通りの一本南に位置します。通りの長さは150メートルほど。皆さんは、この百目鬼通りの名前の由来をご存じですか。宇都宮の民話などでは、いくつか逸話が残されています。平安時代、宇都宮で百匹の鬼の頭目である「百目鬼」が藤原秀郷によって退治されました。その400年後、当時塙田にあった本願寺の住職智徳上人が熱心に説教をしていると、その説教に毎日姿を見せる美しい女性がいました。その正体はあの「百目鬼」で、昔の威力を取り戻そうと、ここで流した血を吸い取るために来ていたのです。しかし、上人の説教を聞くうちに改心し、角を折り、爪をささげた、というものです。
また、地元には別な言い伝えもあります。昔、この近辺は八幡山と二荒山の山間で、山にはたくさんの山賊が潜んでいました。山賊たちの目が月夜に光る鬼の目のように見えたのでしょう。百の光る鬼の目から、この辺りを「百目鬼」と呼ぶようになったというものです。
終戦後は、この通りが官公庁やビジネス街に近接していたことから、居酒屋などが軒を連ねるようになり、勤め帰りの人々でかなりのにぎわいを見せていました。当時は私も数軒の常連として足しげく通ったものです。しかし、現在は店が減って跡地は駐車場となり景色は変わってしまいましたが、また当時のように赤提灯が復活し、にぎわいを見せる百目鬼通りになってほしいと願っています。
「百目鬼」の名が残っているのは今ではこの通りと自治会だけですが、とても愛着がありますね。百目鬼という伝説的な地名は知名度があり、みこしも有名です。中心市街地にお越しの際は、ぜひ、この百目鬼通りに立ち寄って、伝説に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
「百目鬼」伝説
今から千年も昔、平将門という武将が、時の朝廷に反旗を翻して、下総国猿島(現在の茨城県の猿島)において、自らを新天皇と名乗って即位しようとしたことがある。しかし無理は通らないもので、将門は朝廷から派遣されてきた藤原藤太秀郷らの尽力によって、討ち滅ぼされてしまった。この藤原藤太秀郷は、若い頃は、たいそうな乱暴者であったが、近江において大百足(おおむかで)を退治して一躍名を馳せた豪傑で、その腕力を期待されて、東国の平将門の乱に派遣されたのである。その秀郷が、下野国(現在の宇都宮市大曾あたり)に差し掛かった時、突然白髪の老人が現れて、秀郷にこう言ったそうだ。
「そなたは、万民のために、悪鬼を退治されにきたと聞く。大曾村にその悪鬼があらわれる。そこでしばし待たれよ」
秀郷が、その場所まで行くと、ただならぬ雲行きとなり、風が吹いて、その百目鬼という悪鬼が現れたのであった。身の丈は3mばかり。手には百もの目を持って、すごんだが、すでに大百足を退治した秀郷にとっては、物の数ではなかった。さっと弓を引いて、矢を放つと、百目鬼の心の臓に突き刺さって、苦しみながら逃げていった。秀郷の部下達は、その後を追って、明神山の辺りまで行ったが、百目鬼は最後の力を振り絞って、体から火炎を吐き、近づくことが出来ない有様となった。
そこに本願寺の智徳上人という僧侶がやってきて、法力をもって、「汝、我が法力により得度せよ」と呪文を唱えると、百目鬼から発していた炎は消えて、人の姿となって、死んでいった。以来土地の人々は、その地を百目鬼と呼ぶようになったというのである。
平将門首塚   宇都宮市下ヶ橋町
京都で晒し首になっていた平将門公の首が自らの胴体を求めて故郷である坂東に飛び立ち、力尽きて落ちた場所が首塚だと言い伝えられています。将門公の首塚だといわれる史蹟は京都から関東地方にかけて十数箇所はあるのですが、 最も北に位置するのがこちらの首塚となります。ここは将門公の首級を埋葬した場所ではなく、将門公の縁者によって建てられた供養塔なのですがなぜか「首塚」と言い習わされてきた。

平の将門将門は高望王の孫で、父良持は下総国豊田郡に館を構え、鎮守府将軍にもなった。将門の支配する下総三郡の外側には、彼の叔父たちが勢力をはっていた。年若い将門は亡父の遺領のことや結婚問題で争いが起り、一族同士の烈しい戦いが数年も続いた。天慶二年、将門は常陸へ攻め入り、更に上野を落し関東の大半を掌握した。興世王らは将門に称号を贈って「新皇」といった。天慶三年、朝廷は征討軍を発したが、平貞盛が下野の藤原秀郷の協力を得て、下総の岩井で戦って将門を誅した。彼の死後には彼を慕い彼を憐れむ者が多く、関東一円には塚や遺跡が多い。ここにある将門の首塚の碑は、縁故の者がこの地に遁れ、将門の怨霊を弔うために建てた首供養碑である。
高龗(たかお)神社   宇都宮市上戸祭町
主祭神 高龗神
栃木街道(桜通り)が日光杉並木に入る手前の西。環状線の南。開発されて田畑は消えた町の中の神社。50年前は田園地帯だった。平成18年刊の『栃木県神社誌』では[おかみ]字の高龗神社となっている。沿革誌も高龗神社で記録。本殿額は「高尾神社」になってしまった。他に社名を示すものは見当たらない。
左手に狛犬が16体保存してある。
「高地蔵大菩薩供養塔」「妙吉安産子育高地蔵尊」が境内左手に。
古い石塔が築山の上に。「至徳四丁卯八月x日」と読める。北朝の嘉慶元年に至徳が重なっていれば1387年なので県内の高お神社の中では読み取れる年代としては、調査済みのところでは最古の石塔になる。「聖金剛佛子 妙言貞禅」も読み取れる。
境内社に水波乃女命の水神社、素戔嗚命の八坂神社、大山祇命の湯殿神社
高龗神社   宇都宮市下戸祭町
主祭神 高龗神 
宇都宮市の中心部、県庁の西、中央署の北西となり。入口の鳥居額は風化が激しく読みにくいが、「高龗山神社」口3つ付いているようだ。「山」が付くのはここが始めて。拝殿の奉納額は「雨+罒+龍」で高龗神社、山なし。
「戸祭産石土碑 明治二十一年三月 藤田安義撰并書」の中ほどに「高龗神」の文字(赤点部)、口なし。
「天保十五甲辰十一月吉日」1844の二の鳥居。「安政三丙辰年四月吉日」1856の男體山石燈籠。明治九年の御神燈。大正六年の狛犬。明治三十三年十一月吉祥日の藤田素堂書の「拝殿新築献納奉名」碑。「大正五年七月五日」の笠石塔など。拝殿左奥に石鳥居付きの石祠群が5基。赤い小鳥居があるのが伊邪那岐命の三峰神社。その右が順に大国主命の大杉神社、須佐之男命の八坂神社。左右両端は不明。
一の鳥居に向かって左手はずれに境外社として高龗神を祀る「龍神社」がある。大正二年5月6日に稲荷神社を合祀している。由緒沿革によれば天慶三年940宇都宮城築城の際に創立。字宮前に鎮座していたが、明治維新で字戸祭が二分したため、明治6年9月29日に現在の鎮座地中城に遷座したとある。現在の社殿は昭和56年のもの。沿革誌の祭神表記から高龗は[タカオ]と呼んでいたことが分かる。栃木県内では「高淤加美」「高於加美」の表記の方が多い。高龗加美は珍しい。
高龗神社   宇都宮市芦沼町
当社は、応仁元年(一四六七)に創建され、「高龗神」を御祭神とする。
鬼怒川右岸広がる水田地帯にあり、早魃時には、雨祈を、増水時には洪水除けを行い、秋の豊かな実りを願って祀られた。
樹齢500年以上と伝えられる杉が3本茂り、静寂の中に崇高な神威をより一層高めている。
菅原神社   宇都宮市天神
祭神 菅原道真、大日孁貴命(おおひるめむちのかみ)
天喜年間(1053〜1058)当時陸奥守であった源頼義がその子義家と共に、当時奥州に城を構え朝敵となっていた安倍貞任(あべのさだとう)を攻めましたが、なかなか平定することが出来ません。その時、近江国(現滋賀県)石山寺の座主で、後に宇都宮座主(宇都宮家の祖)となった宗円(粟田関白道兼の三代孫)が朝敵調伏祈祷をし、この本尊が大谷多気山の不動明王といわれています。
その宗円の力によって貞任を討ち当地方を平定したという、その功により下野国守護職に任ぜられ宇都宮に居城を築きました。その折、城の四方に天満天神をまつり、文武両運の長久を祈願したといわれ、その東方に当たる社がこの神社です。
元禄元年(1688)には、城主奥平美作守昌幸が社殿、鳥居の造営、そして嘉永2年(1849・徳川家慶(いえよし))戸田家に至る160余年の間には、11回にわたって社殿の造営修復が行われ、当時の棟札が現存されています。
一条三丁目の天満宮が宇都宮城の西の守護神に対して、こちらは東の守護神。
天満宮   宇都宮市一条
祭神 菅原道真
天神二丁目の菅原神社が宇都宮城の東の守護神に対して、こちらは西の守護神。  
宇都宮城(亀ヶ岡城) 1   宇都宮市本丸町
城郭 輪郭梯郭複合式平城
築城 平安時代末期、藤原秀郷または藤原宗円
廃城 1868年
主な城主 長宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
歴史
宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、前九年の役(1051〜62年)に際し、藤原宗円(宇都宮氏の祖)は源頼義・義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当神社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。康平六年(1063年)藤原宗円によって宇都宮城が築城された。
以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。
戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠された。天正十八年(1590年)の小田原征伐ののち秀吉による宇都宮仕置が行なわれたが、このときに宇都宮城は安堵された。
しかし慶長二年(1597年)秀吉による突然の改易により、二十二代宇都宮国綱は廃された。
直後、浅野長政が入り、慶長三年(1598年)には蒲生秀行が18万石で入った。その後大河内氏、奥平氏と続いた。
元和五年(1619年)本多正純が入り、宇都宮城と城下の改修を行い現在の宇都宮の礎を作った。天守は造らず、二重二階の清明櫓で政務を行ったが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和八年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。
その後奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が入れ替わった。江戸後期安永四年戸田忠寛が入り、以降戸田氏7代が6〜7万石で治め幕末を迎えた。
慶応四年(1868年)四月戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は城下の町並(3千戸のうち2千戸が焼失)ともども焼失した(宇都宮戦争)。
宇都宮城 2
栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。別名、亀ヶ岡城(かめがおかじょう)。
平安時代に藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めである。近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城であった。本多正純の頃には天守があったといわれているが、清明台櫓を事実上の天守としていた。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用された。
明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていないが、本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されている。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある。
現在確認できる遺構
〇 埼玉県川口市本町の錫杖寺に明治41年に宇都宮城の門のを解体、移設再建されたと伝わる山門が現存。
〇 栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わる。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。
〇 今小路門が明治時代に城郭一帯が民間払い下げになった際に移築されたと伝わる門が宇都宮市北部の民家に現存。
〇 三の丸跡の土塁上に旭町の大いちょうが当時の位置のままで現存する。
歴史
古代・中世
築城年代は平安時代に遡る。藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。もともと宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
近世
戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した(なお、当時の宇都宮氏は後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に拠点を移していた)。宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。
江戸時代
慶長6年(1601年)12月28日には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。
さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。こうして正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進した。この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。
正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め、幕末を迎える。
近代
宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。宇都宮城には一時大鳥圭介ら旧幕府軍が入るが、直ぐに河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら率いる新政府軍(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)に奪還され、宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡された。後、大津港に抑留されていた藩主戸田忠友も帰還。これ以降、宇都宮城は東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯、宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として下野国内から白河、会津と転戦する。前藩主の戸田忠恕は同年5月27日(1968年7月16日)に宇都宮に帰城するが間もなく他界した。旧暦(同年6月)、宇都宮城内には下総野鎮撫府が古河から移転してきた。また、1871年に真岡天領が廃され真岡県が出来ると、鍋島道太郎が真岡知県事に選任され、陣屋を真岡から宇都宮城内に移した。同年、城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯することとなった。この部隊はその後の1874年に東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に名称を変える。そして1884年にこの部隊が下総国佐倉に移駐となると、宇都宮城内は静かになり、やがて明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなって、城内には御本丸公園が整備され、市民の憩いの場として様々な催しが行われたという。一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、城郭の面影は徐々に消えていった。また濠は西館濠、地蔵濠などの内堀が戦後まで残され、鯉の養殖や蓮の栽培がされていたと言われる。
戦後、日本政府による戦災復興都市計画の策定に伴い、昭和21年(1946年)10月9日には宇都宮市も戦災都市に指定され、城跡の遺構は撤去され市街地へと生まれ変わった。昭和30年代(1955年 - 1964年)頃までは現在の東武宇都宮百貨店近辺にも大きな水濠が残存していた。しかし衛生上の事情を理由に、1972年(昭和47年)までにすべて埋め立てられた。
復元
宇都宮城本丸の一部が外観復元され、宇都宮城址公園として2007年(平成19年)3月25日に開園、一般公開された。復元されたのは本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓、および土塀で、土塁内部は宇都宮城に関する資料を展示している。復元された櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられている。復元に使用された木材は、土塀の柱と梁が青森産のヒバ材なのを除けば、栃木県内産の桧・杉・松が用いられている。土塁の構造体に限っては鉄筋コンクリート造である。都市防災公園を兼ねることから、本丸跡は芝生が広がるのみで、復元物はない。
清明台の内部に入ることはできるが、通常2階部分に上がることはできない。史実に忠実に復元したため、階段が急で踏み面が小さく、建築基準法を満たしていないことが理由である。
歴代城主
平安時代中期から後期に築城されたとされる宇都宮城は、代々藤原宗円を祖とする下野宇都宮氏一族の拠点として受け継がれたといわれる。なお、戦国期には一時、塩谷氏や壬生綱房などの壬生氏一族、皆川俊宗に占拠された時期があったが、以下の一覧にはこれを含めていない。
藤原宗円(康平6年 − ) / 八田宗綱 / 宇都宮朝綱 / 宇都宮成綱 / 宇都宮頼綱 / 宇都宮泰綱 / 宇都宮景綱 / 宇都宮貞綱 / 宇都宮公綱 / 宇都宮氏綱 / 宇都宮基綱 / 宇都宮満綱 / 宇都宮持綱 / 宇都宮等綱 / 宇都宮明綱 / 宇都宮正綱 / 宇都宮成綱(文明9年 − 永正13年) / 宇都宮忠綱(永正13年 − 大永3年) / 宇都宮興綱(大永3年 − 天文5年) / 宇都宮尚綱(天文5年 − 同18年) / 宇都宮広綱(弘治3年 − 天正4年) / 宇都宮国綱(天正4年 − 慶長2年) / 浅野長政(慶長2年 − 同3年) / 蒲生秀行(慶長3年 – 同6年) / 大河内秀綱(慶長6年 – 同7年) / 奥平家昌(慶長7年 – 同19年) / 奥平忠昌(元和元年 – 同5年) / 本多正純(元和5年 – 同8年) / 奥平忠昌(元和8年 – 寛文8年) / 奥平昌能(寛文8年 – 同9年) / 松平忠弘(寛文9年 − 天和元年) / 本多忠平(天和元年 − 貞享2年) / 奥平昌章(貞享2年 − 元禄8年) / 奥平昌成(元禄8年 – 同10年) / 阿部正邦(元禄10年 − 宝永7年) / 戸田忠真(宝永7年 −享保14年) / 戸田忠余(享保14年 − 延享3年) / 戸田忠盈(延享3年 − 寛延2年) / 松平忠祇(寛延2年 − 宝暦12年) / 松平忠恕(宝暦12年 − 安永4年) / 戸田忠寛(安永4年 − 寛政10年) / 戸田忠翰(寛政10年 − 文化8年) / 戸田忠延(文化8年 − 文政6年) / 戸田忠温(文政6年 - 嘉永4年) / 戸田忠明(嘉永4年 - 安政3年) / 戸田忠恕(安政3年 - 慶応4年) / 戸田忠友(慶応4年 - 明治4年)
■栃木市
藤岡城   栃木市藤岡町大字藤岡
別名 花岡館、中泉城
形態 平城
承平2年(932年)平将門によって築かれた花岡館がその前身と云われる。
寛仁2年(1018年)足利成行が再建して中泉城と称し、一族の佐貫太郎重光を置いた。 後に足利俊綱の三男忠行が城主となり、房行、房綱と代々続いた。
その後、藤姓足利氏の一族が城主となって藤岡氏を称し代々続いたが、天正5年(1577年)藤岡佐渡守清房のとき、唐沢山城主佐野宗綱との争いに敗れて自刃した。藤岡氏の後は家老の茂呂弾正久重が城主となったが、天正18年(1590年)小田原北条氏と運命をともにして廃城となった。

藤岡城は東武日光線藤岡駅の北西側一帯に築かれていたという。 台地の西端にある三所神社付近が本丸で、そこから東に二の丸、三の丸があったようであるが、現在は宅地や田畑などになって遺構はほとんど残っていないという。
藤岡神社   栃木市藤岡町藤岡
主祭神  天照大御神
配神  別天つ神 / 神代七代 / 月読命 / 建速須佐之男命 / 思金神 / 伊斯許理度売命 / 玉祖命 / 天児屋命 / 布刀玉命 / 天宇受売命 / 天手力男神
由緒沿革
天慶三年(940)の創立にして天正五年(1577)四月本殿拝殿とも焼失につき同十八年(1590)社殿再建の上藤岡鎮守と崇む。
その后元禄七年(1694)本殿建替、正徳二年(1712)吉田家より正一位の神位の許可あり。文正中紫岡神社と改め明治八年(1875)藤岡神社と改称す。
昭和五十六年(1981)一月、富士山本宮浅間神社、秋葉山本宮秋葉神社、伏見稲荷大社、諏訪大社、出雲大社、日光東照宮総本社の承認を得て常宝殿に奉祭す

主祭神 大日孁貴命
配神 伊弉冊命、月読命、天児屋根命、天宇受売命
天慶三年(940)九月相馬次郎将門滅亡の折、武蔵権頭興世の家臣六名、讃岐太郎竜蔵慈福入道円深、潜竜斉繁桂、頼秀坂法光、賢坊正喜、円蔵法歓喜、常陸の戦場より敗北し、一旦本国の平方へと帰ったが、高瀬船にて坂東川を逆上し、同十九日、藤岡へと帰り着き藤かつらのつるをたよりに上陸、荒れ果てた城を眺めつつ今の八幡宮境内にて自害、やがて八幡宮内に葬られ六所大明神として奉祀されたとも、また寛仁戌午年(1018)三月、常陸国筑波山より遷座せし神とも伝う。天正五年(1577)四月、兵火にかかり焼失、同十八年(1590)再建、元禄七年(1694)堂宇を立替、正徳二年(1712)吉田家より正一位の神位を受く。文政四年(1821)紫岡神社と神号の告文、明治五年(1878)村社、翌六年(1879)境内一町五段五畝三歩、同八年(1875)藤岡神社と改め祭神も表記の六神とした。境内神社に稲荷神社、東照宮
慈福院   栃木市藤岡町藤岡 (下都賀郡藤岡町藤岡)
真言宗豊山派
承平2年、将門がこの地に浄楽寺を建立し、やがて廃寺となった後に再建されて「慈福院」と号するようになったという。境内の薬師堂に祀られている薬師像は、将門の守り本尊だといわれている。
大前神社   栃木市藤岡町大前字磯城宮
式内社 下野國都賀郡 大前神社
旧郷社
御祭神 於褒婀娜武知命(おおあなむちのみこと) 
配神 神日本磐余彦火々出見命
豊城命 / 大穴持命 / 大名持命 / 大己貴命 / 於褒那武知命 神日本磐餘彦火々出命

創立年代は不詳。祭神は、於褒婀娜武知命(大己貴命)。下野国にはもう一つ大前神社があり、そちらも大己貴命。当社は、磯城宮と号していたそうで、祭神も豊城命(豊城入彦命=崇神天皇の皇子)とする説がある。豊城命は、下毛野君の祖とされており、豊城入彦命にまつわる伝承も多い。当社周辺には、「タタラ」跡が残っているらしい。社名の読みは、本来は「オオサキ」なのだが、近年以降は、「オオマエ」と読まれている。
小南城   栃木市藤岡町都賀字館
形式  平山城
築城者 飯塚氏か
築城  文治5年
栃木市、旧藤岡町の西部、都賀字館に所在します。東北自動車道佐野藤岡インターの南側、願成寺がある場所一帯になります。現在は主要部は墓地となり改変されており、その他は宅地及び水田となっております。願成寺山に主要部を設け、東側に曲輪を連ねる連郭式の縄張りで、規模は東西約400m、南北約100mになります。本郭は墓地となり改変されておりますが、本郭内部は三段に削平され、北側には土塁が見られます。南側には東西に100mにわたって空堀が見られます。本郭の東側が二ノ郭と思われ、東側には堀跡と思われる水田が見られます。さらにその東側が三ノ郭と思われ、三ノ郭は二段構成で、西側には土塁が見られます。南側は旧河川を利用した堀が見られ、北側に虎口が設けられております。
「栃木県の中世城館跡」によれば当城は文治5年に飯塚頼氏なるものが築城したと言われており、源頼朝の勢力下で、文明2年まで存続していたようです。
大神神社(おおみわじんじゃ)   栃木市惣社町
式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社。古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。松尾芭蕉『奥の細道』に登場する境内の「室の八嶋」が知られている。
祭神
主祭神 倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと) 大物主命を指す。大神神社(奈良県桜井市)からの分霊。
配祀神 木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと) / 瓊々杵命 (ににぎのみこと) - 木花咲耶姫命の夫神 / 大山祇命 (おおやまつみのみこと) - 木花咲耶姫命の父 / 彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと) - 木花咲耶姫命の子。火遠理命に同じ
歴史
創建
社伝では、崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、当時から広く名を知られた室の八嶋(むろのやしま、室の八島とも記す)に、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
概史
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。
春日神社   栃木市大久保町
承平六年(936年)九月下野押領使、藤原秀郷の創設である。後、寿永元年(1182年)風災にかかり、大破した。その時、宝物、文書、みな失ってしまった。その後、年月を経て応永三十三年(1426年)九月佐野越前守師綱が再建したが、天正年中、火災のため、ことごとく焼失した。慶長二年(1597年)「村長」十氏が再建した。現在の本殿がこれである。明治五年(1872年)十二月、十一ヶ村の郷社となり同八年六月拝殿を造営し、十年七月小区に分別するに至り郷社号を止めた。明治四十年四月指定村社となる。昭和四十一年(1966年)九月、台風二十六号による社木倒伏により、神殿及び拝殿倒潰する。改築の後、昭和四十二年二月遷宮し、部落民の崇敬の中心となっている。
布袋岡城   栃木市都賀町深沢字要害山
布袋岡(ほていがおか)城は、大柿花山という花木園の東側の尾根一帯に築かれている。
山頂部から西側は上記の花木園の敷地内となっているが、城らしい遺構が見られるのは、山頂部ではなく、むしろそこから東側に長く延びている幅広の斜面上である。というわけで、登城するためには大柿花山から入り込むよりも、東側に展開している尾根に取り付いた方が早い。
というわけで、東側に突き出した、北から1本目と1本目の尾根の間の畑になっている谷戸を進んでいって、池を過ぎた辺りから左手(南側)の尾根に取り付いてみることにした。急峻な斜面だが高さは10mまではないのですぐに登れる。するといきなり大規模な横堀の所に出て、すでにここが城域であることがはっきりした。横堀の規模は大きく、期待が持てそうな気分になる。
城の最大の特徴は、山頂部ではなく、山麓に向かう斜面の途中に城の主要部を置いているという点である。鳥瞰図を見てもらえば分かる通り、城の主郭にあたるのは山の中腹にある1郭であると思われる。この郭を中心として、尾根の両脇には横堀を段階的に掘り、山麓部にかけて、城塁や堀切、土塁などによって区画された大規模な郭を段階的に配置している。山の斜面を利用して築かれた城にしては、かなり大規模な城郭である。
通常ならば山頂部が主郭となるべきであり、実際に山頂の尾根の北端辺りに「布袋山城本丸跡」と描かれた案内板が木にくくりつけられていた。しかし、山頂部は細尾根しかないので、ここに郭を営むのはあきらめたようである。代わりに東側の幅広の尾根に段階的に郭を造成するという手法を用いている。したがって、頂上部は郭ではなく、城塁といった機能で見ていった方がよい。
山頂から1郭までの間には段々の小郭がいくつも築かれている。頂上付近は斜面も急峻なので、大規模な郭を造成することは叶わなかったのであろう。通路はジグザグとして折り曲げられており、途中数箇所に、虎口状の切れが見られる。
城のある尾根の両脇には横堀が掘られているが、山頂から山麓まで一直線に延びているのではなく、途中で、小郭の平場となって分断され、また途中から横堀状になるといった変則的な構造をしている。これは一直線に堀底を通過できないようにするためであろうか。
上記の通り、主郭というべき郭は図の1であり、30m×60mほどのまとまった広さがある。その両脇には土塁が盛られ、側面部は高さ7mほどの急峻な切岸となっている。南北の城塁下には腰曲輪が築かれて防御を固めている。南側は斜面がやや緩やかだったのか、腰曲輪はさらに下に一段築かれている。1郭の東側には堀切が入れられているが、これがまた半端なもので、南側の部分と北側の部分とは接続しておらず、間に微妙な段差で区画された部分がある。
1郭の虎口と思われるものは南西側の付け根部分にあるが、その他にも、東側の正面と、北東端辺りにもある。しかし、これには後世の改変もあるだろう。本来の虎口はやはり南西側のものであったと思う。東側のものは本来の登城道であったかどうかはっきりしないが、現在、地形が不分明になっている2の北側部分が、もっとしっかりとした区画のものであったなら、馬出し状の機能を認めてもよいかもしれない。また、1郭の北東端辺りに高さ1mほどの土壇が置かれている。この土壇の上部は窪んており、狼煙台のようにも見えるものであるが、狼煙台を置くには場所が半端すぎる。城の守護神として祠でも置いていた所であろうか。
1郭の南側には2,3といった平場が形成されているが、さらにその先には4,5といった、椎茸畑になっている広大な平場がある。これらの郭を合わせると、全体としてはかなりの面積となり、相当数の軍勢を駐屯させることも可能である。宇都宮氏に備えて、大軍を収容して備えることを意識していたのであろう。4郭と5郭との間は堀切状の通路となっており、5郭の側には土塁も盛られている。また、この間の切り通し通路は、5郭の側面部から台地下に続いているようである。こうしてみると、5郭もわりと独立性の高い郭であったことが分かる。
この先にも平場は段々に続いているようであるが、ここから先は民家の敷地となっているようなので立ち入りは遠慮しておいた。山麓部から見ると、一番山麓に近い大きなお宅のある区画も、いかにも居館跡のように見えるのだが、どこまで城域であったのか、きちんと掌握はしていない。
布袋岡城は、山頂から山麓にかけて山の斜面上に延々と郭を配置するという独特の構造のものである。宇都宮氏に備えて皆川氏が築いた城であるだけに、東側の防御のみを重視した城郭であった、といえるかもしれない。山頂部は物見台、あるいは狼煙台といった程度のものであった。
布袋岡城は、もともとは藤原秀郷が築いた城であったという。藤原秀郷といえば、平安時代の天慶年間に平将門を討伐したことで有名な人物であるから、そうとう古い時代の築城ということになる。
城を現在見られるような構造にしたのは皆川氏であると言われる。16世紀前半の永正年間のことであったという。この位置は、皆川氏の支配領域の東端に当たっており、東方の宇都宮氏を意識した境目の城であった。皆川氏は家臣の柏倉兵部左衛門をこの城に入れて、宇都宮氏に備えさせていたという。
布袋岡城落城の記事は『皆川正中録』という記録に載っている。これによれば、天正16年(1588)、佐竹氏の支援を受けた宇都宮国綱は、北条方の皆川氏を圧倒すべく、1万5千もの軍勢を率いて、西に進軍してきた。宇都宮勢が、鹿沼市磯城と西方城に陣を置くと、皆川勢は鹿沼の諏訪山城まで進出し対峙した。しかし、宇都宮勢の猛攻によって諏訪山城は落城、皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却した。皆川広照は、布袋岡城に兵を籠め、鉄砲・弓を揃えて籠城し、「ここで討死の覚悟」と思いを決め、宇都宮勢を待った。宇都宮勢の勢いは激しく、大手や搦め手からどんどん攻め込まれてしまい、城の維持は難しくなった。そこで広照は、城を捨てて皆川城に向かって退却した。
この城攻めによって、城は炎上し、落城したという。布袋岡城は、それ以後廃城となったものと思われる。1郭の上辺りの平坦地からは、現在でも炭化した焼き米が出土するそうで、炎上して落城したという伝承を裏付けている。
三毳山(みかもやま)   佐野市・栃木市
栃木県にある山。安蘇山(あそさん)とも呼ばれる。関東平野の北端に位置し、南北約3.5 kmにわたって連なる細長い山である。最高峰は青竜ヶ岳と呼ばれ、標高は229 mである。
〇 かつて西側山麓には安蘇沼があり、藤岡のみかほの崎から古くは岩舟の古江(元 安蘇郡古江)付近まで伸びていたもよう。
〇 万葉集や歌人などによって歌に詠まれてきた東山道の橋立・美加保ノ関の内側の湖は安蘇沼であったが、京都の天橋立の内海は阿蘇海である。
〇 下野風土記には、阿蘇川原並美加保乃関とある。
〇 西側と東側山麓には白山神社があったようだが、現在の名称は変更されているもよう。
〇 南東側山麓に古道「東山道」の跡と推定されている道がある。また、この道筋に古代の関所があったとされる。
〇 平将門を描いた将門記に描かれている、多治経明および坂上遂高らが押領使および藤原秀郷と対陣した「高山之頂」は安蘇山(三毳山)を指すとの説があり、手前の低い山が、美可母(美加毛)ノ山、美加保ノ山とされる。
村檜神社(村桧神社、むらひじんじゃ)    栃木市
旧社格は式内社。
主祭神 誉田別命
創建  (伝)646年(大化2年)
社伝によれば大化2年(646年)、熊野大神と日枝大神を迎えて祀ったという。 大同2年(807年)、合祀した皆川村小野口の八幡宮の祭神「誉田別命」を当社の主祭神として迎えた。また、清和天皇の代(858年 - 876年)、皆川村八幡沢に勧請した八幡大神を光孝天皇の代(884年 - 887年)に合祀した 。 天慶2年(939年)、平将門を討伐する藤原秀郷がここで戦勝祈願したと伝える。 中世以降、下野小野寺氏や唐沢山城の城主や佐野氏からも信仰を得た。 江戸時代には栃木宿が置かれた栃木町の商人からも帰依された。
日枝神社   栃木市大平町下皆川
天長二年(825)に慈覚大師(円仁)によって創建。往時は日吉山山王大権現と称していたのだそうだ。また、後に勝道上人が日光山本宮を建てたとも伝えられているとのこと。御祭神は大山咋命。
下皆川将門霊神古墳   栃木市大平町下皆川
古墳時代中期初頭の構築と考えられ、羨道(石室や玄室と外部とを結ぶ通路部分)は下皆川マガキ第一号古墳に次ぐ長さです。平将門の墓であるという伝説もあります。
小規模な可愛らしい円墳ですが、石室の長さが6mもあるそうです。さらに石段を上っていくと神社が祀られています。
清水寺   栃木市大平町西山田
天台宗の寺院です。清水寺の創建は奈良時代の天平元年(739)に名僧として知られる行基菩薩が自ら十一面千手観音像(現在の像は胎内銘により1265年作と判明しています。)を彫り込み開山したと伝えられています。大同年間(806〜810年)には下野国の国司が堂宇の造営が行われ、天慶10年(947)には藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が無事に将門平定出来た事に感謝し堂宇の造営、治承4年(1180)には兵火で境内が大きな被害を受けています。
十一面千手観音像は別称「滝の観音」と呼ばれ周囲の信仰の対象となり下野板東三十三観音霊場第二十六番札所に選ばれ、昭和53年(1978)に栃木県指定重要文化財に指定されています。脇侍である勝軍地蔵と毘沙門天立像は元禄9年(1696)に制作されたもので栃木県内に数少ない江戸時代の仏像とし貴重なものとして大平町指定有形文化財に指定されています。
清水寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、梁間4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ。清水寺観音堂は宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、正面左右の開口部は花頭窓、外壁は板張、弁柄色で着色されています。下野板東三十三観音霊場第二十六番札所。東国花の寺栃木4番。宗派:天台宗。本尊:阿弥陀如来坐像。
晃石神社   栃木市平井町
この神社は、太平山神社の西2km程の晃石山頂近くに鎮座しております。山頂近くにあり、広い道路も無いこの場所に良く建てたと思う程の立派な社殿が建っています。
晃石(てるいし)神社は遠い昔、山岳信仰によって建てられました。当時、鏡石(神石)があって、日夜恍々と輝いたことにより、綾都比之神と称されて山田の里人に崇めうやまわれることとなりました。
天慶2年(825)8月1日、左大臣藤原冬嗣公より社額を賜り従五位下に叙せられました。
天慶の乱の折、藤原秀クが必勝を祈願して勝利したので、その霊験に感謝し天慶10年(947)社を再建し寄進しました。
兵火や山火事により何度か焼失しましたが、今の建物は文政8年(1825)に再建されたものと言われています。本殿は欅材権現造柿葺で装飾彫刻は当地富田の磯辺凡龍斎信秀の作です。
金剛峯山如意輪寺   栃木市大平町
本尊 如意輪観世音菩薩
宗派 真言宗豊山派
金剛峯山如意輪寺は、正式には金剛峯山東泉坊稱徳院如意輪寺といいます。金剛峯山如意輪寺は、東武日光線「新大平下駅」の近くにあり、かつては、日光例幣使街道富田宿の脇本陣だったとのことです。
天慶元年、藤原秀郷が皆川村に「摩尼珠山釈迦尊寺」(旧称)を建立し、英親王の御霊に将門調伏を祈り、真弓と蔵井の庄園を寄付し開基したと伝える。
諏訪神社   栃木市大平町蔵井
主祭神 建御名方命
創立は不詳。「大平町誌」には、藤原秀郷が平将門調伏のために信濃の諏訪神を勧請したとあるが、坂上田村麻呂の伝説も残る。明治三六年(1903)、字西元の羽黒神社・字永東田の永東神社・字山ノ下の井臺神社を、同四二年(1909)、字西元の愛宕神社を合祀。大正一○年(1921)に社殿を造営した。配神として少彦名命・櫛御気野命を祀り、境内社に大杉神社・愛宕神社がある。
諏訪神社   栃木市大平町真弓
当社は、藤原秀郷が平将門の反乱平定の折、信州諏訪大明神に戦勝祈願をなし、天慶3年(940)神助により勝利し判官代に任ぜられたことにより、磯山の山上に祭神を歓請したのを創始とする。神社の鎮守する磯山は、海抜51mの県下最小の山と言われ、山上に天狗岩、御竜岩、亀ノ子岩の奇岩があり、天狗岩には「天狗の足跡(あしあと)」といわれる足形の凹がある。天狗岩からは太平、晃石の両山が望まれ、社殿前からは筑波山の勇姿と朝日の出を拝むことができる。
八坂神社   栃木市大平町真弓榎本
主祭神 健速素盞鳴命
藤原秀郷が平将門追討の際、山城国愛宕郡八坂郷の祇園社へ戦勝を祈願。神助により平定したことから、承平六(936)年に、この地に勧請したのが当社の始まりである。天正八(1580)年、疫病流行の折、神輿を作って巡行したところ、疫病が治まったという。元は祇園牛頭天王といったが、明治初年、八坂神社と改称した。

承平六年(936)山城国八坂より勧請されたと伝わる。天正八年(1580)疫病流行を御輿渡御によって鎮圧したので、西御庄榎本二五郷の総鎮守となった。別説によると、藤原秀郷は平将門追討の大願がかなったので、小山、結城、榎本の三ヶ所に祇園三社を祀った(940年頃)のが、この神社の始まりといわれている。
西水代八坂神社(にしみずしろやさかじんじゃ)   栃木市大平町西水代
主祭神 素盞嗚命
西水代の鎮守。正式名は単に「八坂神社」であるが大平地域内には複数の八坂神社があるため(榎本八坂神社・富田八坂神社など)地名を冠して呼ばれることが多い。旧社格は村社。
940年(天慶3年)に藤原秀郷が平将門討伐に際し戦勝祈願のため下野国都賀郡児玉郷祇園原(現在の栃木市大平町西水代祇園原、もとの西水代村祇園原)に勧請、1581年(天正9年)に現在地に遷祠、1711年(正徳元年)に京都の神祇官より「天王清」の社号を賜る。1868年(明治元年)に「八坂神社」と改称、1906年(明治39年)、社殿を改築し、大鳥居を建立、1909年(明治42年)に西水代内の諏訪神社他4社を合祀する。
八雲神社   烏山市
烏山市街地の中央に鎮座する八雲神社は、元からこの場所にあったものではありませんでした。那須資胤が牛頭天王に祈願するにあたり、大桶村から勧請したと言われています。場所も今のお仮殿の置かれるところで、名称も「牛頭天王社」と呼ばれていました。
牛頭天王とは元はインドの祇園精舎ぎおんしょうじゃの守護神といわれており、素戔嗚尊すさのおのみことと同一神とされ、また薬師如来の化身であると言われています。疫病よけの神様として日本全国の各地で祭られており、京都の祇園祭で有名な八坂神社もこの神様を祀っています。古くは山あげ祭もお天王さん、天王祭などと呼ばれ、天王建もこれに由来します。明治3年(1870年)、名称を八雲神社、祭神を素戔嗚尊に、そして大正3年(1914年)に社有地拡張のため現在の場所に遷座されました。
当初は信仰も祭典もありませんでしたが、その後神を敬うという思想が流れ始め、町の中央に位置し、薬師さまと同じように病気の神様と言う所から信仰が盛り上がってきました。永禄6年(1560年)には勧請祭礼が初めて行われたようですが、詳しい記録は残っていません。それから約80年後の正保元年(1644年)に、鍜冶町、元町・田町(元田町)、荒町(金井町)、赤坂町(泉町)、仲町の5町が初めて仲町十文字で祭礼を行ったと伝えられています。
寛文6年(1666年)、堀美作守親昌ほりみまさかのかみちかまさは神殿を新築奉納し、人々は烏山特産の和紙を用いて「山」を作り、踊り場を開設して奉納し、元文3年あたりから山あげの特徴と言える「所作狂言(歌舞伎)」が披露され、踊りが最高潮に達すると化生(神通力を有する者)が現れ観衆を沸かせました。これが「山」に降臨された八雲大神と神を奉迎した氏子等崇敬者が輪番に奉納された「山あげ」の芝居を鑑賞し共に喜びあう姿であり、本来の姿と言えます。
神社の祭は夏だけではありません。通常における神社の三例祭とは、祈年祭きねんさい(春祭)、例大祭(夏祭)、新嘗祭にいなめさい(秋祭)を言い、1年間の五穀豊穣を祈願するお祭りのことです。
祈年祭はその年の五穀豊穣などを祈願し、例大祭では収穫前に天災除けを、新嘗祭では春の祈願を聞き入れてくださった大神様への感謝と喜びを伝えます。烏山の八雲神社はこの例大祭が特化して「山あげ祭」として大々的に行われているのです。その他にも追儺祭ついなさい(節分)等の行事があり、これらはすべて当番町の若衆達が取り仕切ります。
嶽山箒根神社
嶽山箒根神社高清水(遙拝殿)
嶽山箒根神社高清水(遙拝殿)(たけさんほうきねじんじゃたかしみずようはいでん)
創建は大同元年(806)とされているが、定かではない。神社の縁起によると、宇都野(那須塩原市)町井沢より雲が龍のごとくたち昇り、光輝きながら霧雨崎へ渡って行ったのを見て、高清水大権現と崇めて祠を建て、高清水神社としたという。
その後、嶽山箒根神社の別当として本社(奥の院)祭礼の時には、近在の農民たちが豊作を祝い、「長百姓は本社並びに熊野社の前に座し、組頭は日光山神社の前に座り」、祭典を行なってきた。寛政2年(1790)に再建され、その後大正5年(1916)、本社(奥の院)と合併し、嶽山箒根神社の遥拝殿となった。
嶽山箒根神社奥の院(本殿)
崇神天皇の御代、東国に派遣された豊城入彦命が、当山を掃根山と名付けたといわれています。神社の創建時期は不明ですが、元慶元年(877)に従五位下の位階を授けられています。
その後、社殿は鳩ヶ森城主の祈願所となりましたが、天文12年(1543)大田原城主に敗れ、以降大田原城主の祈願所となりました。
現在の社殿は、文久2年(1862)に新たに建立されたもので、熊野神社は天明4年(1784)、日光山神社は宝暦3年(1753)に再建されました。大正5年(1916)宇都野の高清水神社を合祀し、箒根神社を村社嶽山箒根神社と改称しました。
日枝神社   日光市野口
日枝神社拝殿新造記念之碑
抑、当社は、今を去る千百余年前、嘉祥元年(848)七月五日、慈覚大師円仁が下野の守護神として此の地、野口平岡に山王権現を祀るに始まる。中世、当社は、近郷七ヶ村の総鎮守として、神威あまねく奉仕の僧坊二十余が立並び遠近の氏子相集って繁栄を極めたが、戦国の世、豊臣、北条両氏の騒乱に際し、当社は、僧坊ともども悉く灰燼に帰したと伝えられる。正徳年中、氏子挙って現社殿を奉斎し以後今日に及んだ。偶、昭和四十九年日光宇都宮道路の開設によりその補償金の一部を基金として氏子一同浄財を寄せ、ここに境内の整備を行い拝殿を新築したのでこれを識して記念とする。

円仁はここ下野国岩船の生まれと言われており(壬生町と言う説もあるようです)、東北、北海道にもその足跡を残している位ですから、故郷のこの地に円仁の開山による天台の寺院があっても何ら不思議ではありません。しかし円仁の帰国は承和14年。嘉祥元年と同じ848年。チョット早すぎる気がします。伝説なのでしょうか。現在地図をみるかぎり寺院は無く、恐らく明治の初め、本殿裏に石仏を残し、廃寺となったと思われます。
日枝神社本殿
日枝神社(旧称生岡山王社)は、嘉祥元年(848)慈覚大師の建立と伝えられる。江戸時代には、日光山王七社の一つに数えられ又、近郷八ヶ村(野口・所野・和泉・瀬尾・瀬川・小百・平ヶ崎・吉沢)の総鎮守とも称された古社である。現在の社殿は一間社流造で、棟札から貞享元年(1684)の建造とある。外部の塗装や飾金具は後世の修理をうけてあり、又屋根は元来茅葺であったものを近年改修したものである。向拝の挙鼻、蟇股の彫刻などに江戸時代の特徴がよく現れている。規模は小さいが、日光の古社にふさわしい社殿である。
高霞神社   今市市猪倉
建立940年(天慶3年)。平将門が落としたごはんをひろって食べたところと伝えられています。その故事からでこの地名の飯喰粒(いのくら)→猪倉の名が付いたという伝説があります。
湯西川温泉   日光市湯西川
壇ノ浦の合戦に敗れ逃れてきた平家落人が、河原に湧き出る温泉を見つけ傷を癒したと伝えられる歴史の古い温泉です。温泉地名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに旅館や民家が立ち並びます。湯量豊かな温泉を楽しむのはもちろんのこと、川魚や山の幸、野鳥・鹿・熊・山椒魚の珍味など四季を感じる地元料理を心ゆくまで堪能できます。味噌べら等を囲炉裏でじっくり焼いて頂く落人料理も有名です。また、1月下旬〜3月上旬のかまくら祭では、沢口河川敷に約800ものミニかまくらが作られ、夜には中にローソクのあかりが灯り、幻想的な風景が広がります。
野木神社   下都賀郡野木町
旧社格は郷社。応神天皇の皇太子である莵道稚郎子命を主祭神とし、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、宗像三女神を配祀する。
仁徳天皇の時代、奈良別王が下野国造として下毛野国に赴任したとき、莵道稚郎子命の遺骸を奉じて当地に祀ったのに始まると伝える。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。弘安年間(鎌倉時代)に配祭の五神が祀られた。
下野国寒川郡七郷の総鎮守とされ、江戸時代には古河藩主土井氏の崇敬を受けて古河藩の鎮守・祈願所とされた。明治5年に郷社に列した。
祭事
12月2〜4日には、寒川郡七郷を神霊が巡行する祭事が行われる。竹竿の先に提灯をつけて火を灯し、これを互いにぶつけて火を消し合うという祭で、一般には提灯もみ祭りと呼ばれている。建仁年間に始まったものと伝えられ、元々は神霊の巡行の際に、神霊を少しでも自分の村に迎えようと、それぞれの村の若者たちが裸で激しくもみ合ったことに由来するとされている。後にこれが提灯をぶつけ合う祭に変化した。
信仰
境内には、田村麻呂の手植えと伝えられるイチョウの木(推定樹齢1200年)が現存する。出産した女性が、乳の出が良くなるようにと願って、白布に米ぬかを入れて乳房を模したものをこのイチョウに奉納するという民間信仰がある。陸軍大将乃木希典が、姓と同じ読みであることから特別な神社と考え、何度か当社に参拝し、陣羽織などを奉納している。なお、乃木希典を祭神とする乃木神社との直接の関連はない。
長栄寺   真岡市二宮町
長栄寺は、嘉承3年(850)慈覚大師により創建されたと伝えられています。武将名門の信仰篤く、藤原秀郷も平将門征討の祈りに武運先勝を祈ったとされ、以来、祈願所として伝わります。その後、久下田城主水谷蟠龍斎正村が当寺の観音を信仰し、その孫の水谷伊勢守勝隆が寛永9年(1632年)に観音堂、大日堂、楼門、本堂、庫裏を再建しました。現在では楼門のみが残っています。
楼門は寛永9年に再建された当時のもので三間一戸、入母屋、瓦葺き、2層目には高欄を廻しています。長栄寺楼門は江戸時代初期の貴重な建物として昭和42年(1967)に真岡市(旧二宮町)指定有形文化財に指定されています。又、同様に寛永9年(1632)に再建された観音堂(千手堂:本尊千手観音、寄棟、茅葺、桁行5間、梁間5間、現在は銅板に葺き替えられています。)があり文化財指定されていましたが平成10年(1998)に月山寺(茨城県桜川市)に移築されています。
木幡神社   矢板市木幡
(1) 木幡神社の始まりと坂上田村麻呂
8世紀の末、桓武天皇は政治を引きしめようとして、延暦 13(794)年、 都を京都に移しました。こののち平安時代とよばれるようになりました。 坂上田村麻呂(758〜811)が征夷大将軍に任命され、東北地方に兵を出して蝦夷 えみし を討ち、朝廷の勢力を北上川の中流域までのばしました。 下野国は蝦夷と接するところで、大和朝廷の権威が行き渡っていました。
木幡神社の由緒によると、坂上田村麻呂はこの地峯村で宿陣し、「功あらば一祠を建立せん」と日ごろ崇敬していた山城国許波多 こはた 神社(現京都府宇治 市)に向かって戦勝を祈願しました。延暦14(795)年、戦に勝っての帰り 道、ここに社を勧請したのが始まりとされています。 祭神は許波多神社と同じ天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。
※祭神は正式には正哉吾勝勝速日天忍穂耳命で天照大神の子(神話時代の神)
※坂上田村麻呂を顕彰する寺社が日本全国に分布している。東北地方で 53か所(高橋 崇・坂上田村麻呂・新稿版より)あるという。
※東北の雄、阿弖流あてる為いと母礼の降伏は、延暦21(802)年のことである。
(2) 平安・鎌倉武士による崇敬
10世紀の前半、下総の豪族平将門が乱をおこし、関東地方を抑えていまし たが、下野の武士藤原秀郷らによってようやく鎮められました。秀郷は将門 を討つ際に木幡神社に祈願したといわれています。 さらに、中央の藤原氏が衰え始めた 11 世紀の後半には、中央政府に対す る反発や一族の内部争いから、前後2回にわたって乱をおこしました。(前 九年の役 1051〜62、後三年の役 1083〜87)これにより、東国の武士を率 いた源義家らによってしずめられました。その結果、関東地方の武士団と源 氏の結びつきが強まりました。
源頼義・義家親子は、陸奥の阿倍貞任 あべのさだとう を討つ際、木幡神社に祈願したと伝 えられています。下野の国は戦力を整えて出発する前線基地であったといえ ます。
(3) 塩谷しおのや氏の氏神としての塩谷惣社そうじゃ大明神
平安時代の末頃、下野国の塩谷地方を治めたのは源義家の孫頼純 よりずみ です。 その後、宇都宮から養子として迎えられた塩谷朝業 ともなり が川崎城を築き宇都宮 一族の北の守りを固めたといわれています。 鎌倉時代から戦国時代の400年間にわたって、塩谷地方を支配する塩谷氏 の惣社・鎮守の森として厚く尊ばれました。 鎌倉時代の御家人で歌人でもあった塩谷朝業の「信生法師集」には木幡神 社と考えてもよいと思われる歌が残されています。
氏のやしろ(社)によみて奉り
あわれみよわれもあらしになりぬべしははちりはてしもりの木のもと
(4) 県内最古の神社建築と国の重要文化財「楼門・本殿」
木幡神社の楼門と本殿は、栃木県最古の神社建築で国の重要文化財に指定 されています。昭和35 年から36年(1960〜1961)にかけて、大規模な解 体修理が行われました。(雨もりの期間が長く腐食破損が進み、東西に傾斜していることなどが分かった。)建物の特徴から室町時代中頃の建造物とい うことがはっきりしましたが、棟札・墨書は発見されませんでした。
室町時代の中頃は、正系が絶えたあと家名を再興した塩谷孝綱(宇都宮氏 17代成綱の子)の時代です。孝綱は永正11(1514)年に薬師如来立像(市 指定文化財・現川崎反町薬師堂)を寄進しました。また、子の由綱は父の死 から 3 年経った天文 18(1549)年に御前原城内にお堂を建て地蔵を祭りま した。現在、「はしか地蔵」と呼ばれ人々の信仰を受けています。このように信心深い武将であり、塩谷家の再興と塩谷惣社である木幡神社の再建に力 を注いだのではないかと思われます。
(5) 木幡社日光大明神へ 江戸時代
天正 18(1590)年、塩谷氏の滅亡により豊臣秀吉に社領を没収され、一 時衰えたものの徳川時代に入って日光二荒山の祭神を合祀しました。 三代将軍家光の時代、慶安元(1648)年、当村内に御朱印地2 百石が寄進 されました。 日光山輪王寺の支配下のもと、「木幡社日光大明神」と称して神仏混合と なり、楼門には仁王像が安置されました。
小野寺氏
出羽国において勢力を誇った豪族である。本姓は藤原氏とされるが守部氏ともいう。家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。かなり早い時期から多くの分流を生み出し、東北地方を中心に広く分布した。それらの諸家の中でも出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏の家系がもっとも有名であり、本項では主にそれについて述べる。
小野寺氏は平安時代後半に下野国都賀郡小野寺(現・栃木市岩舟町小野寺)を「一所懸命」の地としていたのが始まりと言われている。文治5年(1189年)の奥州合戦よる戦功でに出羽雄勝郡などの地頭職を得た。通綱は将軍源頼朝の信任厚く、以降も歴代将軍に近侍している。その為、各地の所領には庶流の子弟を代官として派遣し、惣領は鎌倉に常駐し出仕していたと見られる。南北朝時代に、惣領家も狭小な本領から広大な所領である出羽雄勝郡稲庭に移住したと見られる。小野寺氏は当初南朝方として活躍したようであるが、後に室町幕府に降る。足利将軍と鎌倉公方の和睦により、陸奥、出羽は鎌倉府の管轄となり、小野寺氏も鎌倉府に出仕する。しかし、鎌倉公方の支配に反発した他の有力国人と同じく、室町幕府の京都御扶持衆となり、鎌倉府に対抗した。また、歴代当主は将軍より偏諱を賜っている。
この後、小野寺氏は勢力を拡大し、各地に庶子家が分立する。しかし、この時期の小野寺氏の系譜については、史料的裏付けがとれず、不詳な点が多い。
戦国時代に入ると、小野寺氏13代にあたる景道のときに、雄勝郡をはじめ平鹿郡、仙北郡の仙北三郡から由利郡・河辺郡・最上郡にまで勢力を広げる有力な大身となり、「雄勝屋形」と称されて最盛期を迎えた。
景道の子・義道の代になると、戸沢氏、本堂氏、六郷氏など仙北諸将が離反し、天正18年(1590年)の奥州仕置時には5万4,000石余に換算できる横手城主であったが、奥州仕置で所領3分の1を削られた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成、上杉景勝らの西軍に味方したため、慶長6年(1601年)には改易されたうえ、石見津和野に預けられた。ここに戦国大名としての小野寺氏は滅んだ。
義道とその子孫は津和野藩主坂崎氏、のち亀井氏家臣となって幕末を迎えた。 また、義道の末弟陳道は陸奥南部藩に仕えた。義道の次男保道は横手に残っていたが、かつての家臣筋である出羽新庄藩戸沢氏に知行400石の客分の重臣として、のちに名字を山内氏と改め幕末まで続いた。さらに、赤穂浪士の一人小野寺秀和も義道の子孫と言われている。
唐の御所横穴(からのごしょよこあな)    那須郡那珂川町
和見・北向田から小口に至る西尾根に横穴墓群が散在しています。その中でも著名なものが、唐の御所です。
横穴はほぼ真南に向いて開口し、内部は横穴式石室と同様に玄室や玄門、羨道などがあります。玄室の長さは2.75m、中央での幅が2.34m、高さは奥壁前縁で1.9mで、玄室全体があたかも一戸の住宅を思わせるような構造です。天井は中央に棟木をつくり出し、左右に切妻の屋根に似せた勾配を持たせ、玄門の外側に戸をはめ込むための彫り込みが施してあり、精巧な点では全国的にみても屈指の例です。
周辺には、遠見穴、姫穴などの名称で呼ばれる横穴墓があります。

将門滅亡の後、将門の女がこの地に移って出家した三島城主・小高将良を頼って来て、古墳の中で男の子を出産したが、世を憚って唐土帝王の后が讒言によって遠く流されたと言いふらした。それで、この横穴が「唐の御所」と呼ばれるようになった。 また、将良を頼ってきたのは三女の如蔵尼で、彼女が身ごもった女を引き取ったという伝説もある。そして生まれた男子は、将軍太郎良門で、彼は十六歳のとき、この地を逃れ出て、父の報復を謀ったともいわれている。  
御前岩(おんまえいわ・ごぜんいわ)   那須郡那珂川町大山田下郷
武茂川沿いにある女陰の形をした自然石・奇岩である。
元禄5年徳川光圀が領内検分の折、御前岩を見て「これは誠に天下の奇岩じゃ」と驚き「かかるものを衆目にさらすことは、よろしからず」と土地の役人に命じ、御前岩の対岸に竹を植えさせた。この竹を腰巻竹と言い、現在でも武茂川沿いの国道461号から御前岩が直接見えないように遮っている。御前岩の上には小さな祠があり、そこには木や石で作った男根が奉納されており、子宝・安産・婦人病・五穀豊穣・商売繁盛・健康長寿に御利益があるといわれている。
また、かつては御前岩の中程の穴から霊水がしたたり落ち、月に一度月経のように変化して赤く濁ったといわれている。しかし、同町大内地区のサイマラ淵に御前岩と対となる男根の形をした「オンマラ様」と呼ばれる石があったが、明治時代末期にこの石が崩れて淵に沈んでしまって以降は、御前岩の霊水に変化は見られなくなってしまったそうである。
那須温泉神社   那須郡那須町大字湯本
ご由緒
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く、奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。従って神位次第に高まり、貞観11年(869年)に従四位上を授けられた。後世那須余一(与一)宗隆西海に扇の的を射るに当たり、当温泉神社を祈願し名声を轟かして、那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)6月19日正一位に叙せられた。現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。
ご祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
那須の余一と温泉神社
那須余一(与一)は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れました。十一番、十あまり一で余一と命名されました。(後に与一に改名)
源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦いました。
有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わりました。
温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されています。『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わしました。その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しました。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。
余一は不幸にして24歳の短命で世を去りましたが、那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至りました。
百目鬼川   芳賀郡益子町
益子町を流れる「百目鬼川(どうめきがわ)」の名前の由来
以下の資料を確認しましたが、益子の百目鬼川についての記述は確認できませんでした。
〇 『日本歴史地名大系 9』(平凡社)
地名として、宇都宮の「百目鬼」、黒磯の「百目木」の項はありますが、百目鬼川の項はありませんでした。なお、「益子町」の解説の中に、百目鬼川の名前の記載のみあります。
〇 『角川日本地名大辞典 9』(「角川日本地名大辞典」)
「地名編」には、百目鬼川の項がありませんでした。「地誌編」の「益子町」の部分に、百目鬼川の名前の記載のみあります。
〇 『ましこの民話伝説とれきし』(益子町郷土理解教育研究会)
「鬼のつめ」という話が掲載されていますが、「小貝川」沿いとあります。
〇 『しもつけの伝説 4集』(栃木県連合教育会)
宇都宮の「百目鬼ものがたり」は掲載されています。
〇 『下野伝説集』1〜6(栃木県連合教育会文化部)
第3巻に、上記『ましこの民話伝説とれきし』にある「鬼のつめ」が掲載されています。
〇 『下野傳説集 あの山この里』(栃木県女子師範学校附属小学校)
上都賀郡永野村(現・鹿沼市)の「百目鬼塚」が掲載されています。
〇 『益子地誌集』(益子町史編さん委員会)
明治18年の「地誌編輯材料取調書」の部分には、百目鬼川の名前は記載がありませんでした。(小貝川、大羽川のみ)
〇 『日本の地名 60の謎の地名を追って』(河出書房新社)
「廿六木(とどろき)/百笑(どめき)/百々女鬼(どどめき)/土泥(とどろ)/堂々(どうどう)」という項があり、そこに、「右はいずれも、水の音によって付いた地名である。すなわちトドロキ、ドヨメキ、ドドメキ、ドウドウなどの言葉が地名化されたのである。」とあり、例として「百目木(どめき/どうめき)」「道目木(どうめき)」「百成(どうめき)」などが挙げられています。  
岩舟町
御門神社   岩舟町静
昭和初期までは「将門神社」と呼ばれ、将門を氏神としており、また「将門明神」とも称したといいます。地元の方たちは将門にゆかりある子孫で、大正末期の頃まで敵将の藤原秀郷を祭る唐沢山神社には、絶対に礼拝しなかったといわれています。よくよく見てみますと、この社の灯明塔には「将門宮」と刻まれていました。また、秀郷が創建したという説があり、佐野氏の旧記によると「秀郷の第三子、第四子が病死し、将門霊の祟りとされたので、当国の茂呂御門に将門権現を建てた。」と記されているといいます(『新撰佐倉風土記』より)。ちょうどこの地は、将門と秀郷の勢力圏の共存関係があったのではないかと思われます。
御門の地   岩舟町静
この御門の地では、桔梗の花が咲かず、白馬も飼わず、また、地元の方たちは将門にゆかりある子孫で、大正末期の頃まで敵将の藤原秀郷を祭る唐沢山神社には礼拝しなかったといいます。
三毳山   岩舟町小野寺
三毳山(みかもやま)は関東平野の北端・栃木県佐野市郊外にこんもり盛り上がった丘陵です。標高わずか229m、山と呼ぶにはあまりにも低い。しかし、万葉の昔から人々に親しまれてきた山です。万葉集に詠まれた次の一首はロマンの響きを持って現代人を魅惑します。
下毛野(しもつけの) 三毳の山の 小楢(こなら)のす  
ま麗し児ろは(まぐわしころは) 誰(だ)が笥(け)か持たむ (よみひとしらず)
歌意は「下野の国の三毳山に茂る小楢の木のように可愛らしい娘は、いったい誰の食器を持つ(お嫁さんになる意)のだろう。私のお嫁さんになるに決まっている」です。技巧や装飾のない実に素朴で素直な歌です。「のす」、「児ろ」の東言葉が土のにおいを醸し出しています。調べてみると、三毳山一帯は県立自然公園として大規模な公園整備が進んでいるようですが、稜線上は雑木林の尾根道が残されています。また、三毳山北面は関東随一のカタクリの群生地でもあります。
この山の東側(岩舟町)が将門の所領で、西側(佐野市)が秀郷の所領といいます。また、秀郷来襲の報により将門軍の者がこの山に登って様子を見たといわれています。天慶三年二月、貞盛・秀郷軍を迎撃するため、将門は自ら先陣にたって下野に入っていきました。しかし敵の所在が分からず、後陣を率いていた藤原玄茂・多治経明らが、敵情を察知して実否を確かめるため、「高山の頂に登りて遥かに北方を見れば・・・・」云々と『将門記』にあります。この高山が三毳山だといわれています。たしかにこの山に登って見てみると、北の方角に秀郷軍を発見しました。その様子では、敵の数は四千余りのようであったといいます。
村檜神社   岩舟町小野寺
秀郷が唐沢山に居城を構えたとき、当地はその鬼門にあたるため、城中鎮護の社として再建しました。秀郷は、出陣に臨んでは必ずこの社に祈願したといわれ、いまも残る大理石の上に立って、武将たちに作戦を指示したと伝えられています。将門を討ったのち、御神徳の賜物として弓矢を奉納したともいわれています。また、隣接の大慈寺は慈覚大師の開基で、小野小町にゆかりのある古刹です。
小野寺合戦地   岩舟町小野寺
秀郷軍が攻めてきたとき、将門軍の後陣がこれを察知して襲いかかりましたが、老練な秀郷に反撃されて敗北してしまいました。将門の属将・藤原玄茂らが三毳山で物見をしたおり、北方のここ小野寺盆地は、西方に唐沢山を控えて大小の谷間が複雑に入り乱れているところです。そこに、秀郷軍四千余りの軍勢を見とめた藤原玄茂・多治経明らは、将門に連絡もせず血気に任せて猪突猛進しましたが、逆に秀郷の術中に陥ってしまい部隊は支離滅裂となり、「在せる者は少く、遂に亡ぶる者は多し」という始末で、将兵の数は半数に減ってしまい、結局将門軍の滅亡を早める原因となってしまったといいます。  
御門神社   下都賀郡岩舟町静 
平将門の拠点であった御門に、将門を奉斎。将門は律令政府に対する反逆者ではあったが、当地においては馬宿が将門の拠点であったことなどから、むしろ身近な英雄であった。将門討伐の命を受けた平貞盛によって天慶二年一二月に討たれた時、将門の御魂に対し人々は深い同情と恐れを抱き、鎮祭した。  
 

 

 
■群馬県

 

■邑楽郡
一峯神社(いちみねじんじゃ) 1   邑楽郡板倉町大字海老瀬
権現沼の南側に位置しています。天慶三年(940)、藤原秀郷が平将門を討つため、この地に道場を構え「将門調伏」の祈願修行を行ったと伝えられています。境内には一峯神社貝塚があり、タコツボ型貝塚と呼ばれる縄文時代の貝塚であるといわれ、また、昭和24年には付近から男女の人骨が発掘されており、古代よりこの神社を中心としたこの台地での生活がなされていたことが立証されています。神社創建は奈良時代と伝えられますが、それ以前にも、古代よりここで祭祀が行われていたとも考えられます。
一峯神社 2 
天平宝宇8年(764)3月28日、日光開山の勝道上人が二荒権現を勧請し峯權現社(みねごんげんしゃ)としたとされています。その後、この地の領主であった藤原魚名(ふじわらのうおな)により藤原氏の祖先神である天津児屋根命(あめのこやねのみこと)が奉斎され一峯神社と改称されました。弘仁5年(814)には弘法大師が勝道上人の遺跡地を巡錫(じゅんしゃく)の折この地を訪ね真言道場を設けたとされ、現在も弘法大師と伝えられる石仏塔があります。天慶年中(946)には藤原秀郷が当地に道城を築いて将門調伏の祈願を行ったとされています。
社叢(しゃそう)
当初は植栽されたものですが社寺林として長い間伐採が行われず、遷移によって地域に適した本来の自然植生に発達しました。平地林として一地域に照葉樹林が集中して生有しており、里山の少ない町内における貴重な林を形成しています。神社の西側には北関東としては極めて珍しいリュウキュウチクが群生しています。また、林の木の実も豊富なため、多くの野鳥も見られます。
一峯貝塚
海老瀬(藤岡)台地の先端部分(標高22メートル)に位置する、径が1〜2メートルの地点貝塚です。主となるヤマトシジミの他にハイガイなどの貝類や、縄文時代早期(茅山式)の土器が見つかっています。縄文海進時のもので、当時、海が近くまできていたことが考えられます。 
西丘神社 1   邑楽郡板倉町西岡
東武線藤岡駅から西方2に「西丘神社」があります。もとは「赤城神社」と称されていて、秀郷の勧請によるものと伝えられています。今は「西丘神社」に合祀されています。境内には「赤城塚古墳」があり、「三角縁神獣鏡」が出土されています。  
西丘神社 2
羣馬縣管下上野國邑楽郡西岡村字赤城塚一五五二 郷社 赤城神社->西丘神社
祭神 大穴牟遅神 豊木入日子命
相殿 高木神 磐裂神 大日孁命 保食命 大雷命 菅原道真公 倉稲魂命 水波能賣命 木花佐久夜比賣命 猿田彦命
由緒 社傳ニ曰上野神名帳ニ子赤城明神トアルハ當社ナリ、故ニ太古ヨリノ鎮座ニシテ社ヲ子赤ノ森ト云ヒ字ヲ赤城塚ト云フ、明治五年壬申郷社ニ列ス
明治四十年十二月二十八日許可、本社境内末社水神社、浅間神社及赤城塚無格社神明宮、仝境内末社一社、仝村大字西岡新田字悪途村村社雷電神社、仝境内末社二社、字田崎無格社稲荷神社ヲ合併、郷社西丘神社ト改称
境内末社 五社
道祖神社 祭神 八衢神 由緒 文明七年七月創立
水神社  祭神 弥都波能賣神 由緒 明和八卯年九月創立
       明治四十年十二月廿八日許可本社へ合併
湯殿神社 祭神 大山津見神 由緒 元治元申年八月創立
浅間神社 祭神 木花佐久夜比賣命 由緒 嘉永二酉年四月創立
       明治四十年十二月廿八日許可本社へ合併
琴平神社 祭神 崇徳天皇 由緒 文政七年七月創立

西丘神社(旧赤城神社) 旧郷社 西岡・新田・(西谷田全域)
所在 板倉町大字西岡字赤城塚一五五二番地
祭神 大穴牟遅神 豊城入彦命 高木神 磐裂神 大日孁命 保食命 火雷命 菅原道真公 倉稲魂命 弥都波能売命 木花佐久耶毘売命 猿田彦命
神紋 三つ巴
宝物 三角縁仏獣鏡(群馬県指定重要文化財)
神事と芸能 古代太々神楽 一二座(神楽殿あり)
祭礼日 四月四日(春祭) 十一月二十五日(秋祭)
由緒沿革 創建不詳であるが天慶七年三月藤原秀郷の勧請と伝えられ、延宝四年三月館林宰相徳川綱吉が社殿を再建するため、社地を地形するため南面にある赤城塚古墳の墳丘部を削土した折、石室より三角縁仏獣鏡(三世紀)一面・直刀と剣の破片が出土した。現在は収蔵庫に保存されている。明治五年郷社に列せられ、同四十年十二月二十八日、字赤城塚神明宮・水神宮・浅間神社・字山崎稲荷神社・字新田雷電宮・猿田彦神社・字前原佐田神社・愛宕神社・金毘羅権現・瑜迦大権現・天神宮等を合祀して「西丘神社」と改称し現在にいたっている。現在の氏子は西岡と西岡新田である。

石段左側の石燈籠には「寛政九丁巳年十二月」、右側の石燈籠には「嘉永七甲寅年八月吉日」と刻まれている。寛政九年十二月は1798年で嘉永七年は1854年。右側の石燈籠建立の願主として醫王山十五世法印光範の名が刻まれているので、西丘神社の400m程北にある真言宗豊山派醫王山南光院が嘗ての別当寺だったのだろうか。

三角縁仏獣鏡 指定 昭和三十八年九月四日
西丘神社に保存されているこの鏡は延宝年間(一六七三‐一六八〇)に境内赤城塚古墳から農夫の手により発掘された。出土品として他に剱、直刀の破片がある。
三角縁仏獣鏡は直径二十二・〇八センチメートル。縁の断面は三角形で、内側に二重の波紋帯を挟む鋸歯紋帯がある。さらにその内側には鳥獣紋帯があり、鈕をめぐり主な紋様帯がある。図にあるように主紋帯には三体の仏像が表現されている。仏像が描かれている鏡は現在全国で五種八面しかなくこの鏡と同じものは他にない。
仏像の一体は蓮華座に結跏趺座し、瓔珞を首にかけ、頭光と髭がある。両肩には火焔とみられる突起があり、禅定印を結んでいる。
また、左手に蓮華を持ち、髭のある菩薩風の立像も表現されている。
三角縁仏獣鏡は三世紀に中国の魏で製作されその後、日本に伝わったものと考えられている。魏で製作されたものとするなら中国に伝来した仏教思想の影響、あるいは中国における民間宗教道教等との関係、さらに日中の関係を考察するうえで貴重な資料である。 
鞍掛山   邑楽郡千代田町赤岩字後天神原
秀郷が馬の鞍を掛けて、休んだところだと伝えられています。今は工業団地になっています。
舞木城址 1   邑楽郡千代田町舞木
秀郷生誕地
光済寺の北西近くに「舞木城址(秀郷生誕地)」があります。この城は、承平年間(931〜937)、藤原秀郷が築城したと伝えられています。600年間にわたり、藤原氏と藤原一族の居城でした。藤原氏は藤原鎌足を祖とする名門で、東北の雄・藤原秀衡は秀郷の子孫にあたります。城址公園の中央に「藤原秀郷公生誕の地」(この説は?)の大きな石碑があり、その手前の説明板には、舞木と館林の繋がりを浮き彫りにした伝説が説明してありました。《大袋城主・赤井照光が大袋城から舞木城への年賀の道すがら子狐を助け、その小狐が導きによって館林城(当時は尾曳城)を築いた、伝えられています。(『館林盛衰記』より)》
舞木城 2
遺構 なし 形式 平城 築城者 藤原秀郷 築城年代 承平年間
舞木城は、藤原秀郷が承平年間に築城したと伝えられ、その後その子孫が享禄年間まで秀郷の子孫が居城したという。 また、館林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって館林城を築いたと記されている。 この頃の城主は俵秀賢とその子五郎秀覧であった。
舞木城は、現在住宅地の一角にある小公園の案内板と藤原秀郷生誕之地と刻まれた石碑が建てられているだけ。資料にあった堀跡を探してみたがそれらしき地形はあったが、それが堀跡と確認はできなかった。 尚、城郭大系には小学校付近と記載されているが、この小学校は昭和44年に移転している。  
■太田市
八幡川原   太田市只上
鹿島橋から上流あたりを「八幡川原」といい、この八幡は近くにある「只上(八幡)神社」から名づけられています。川原はニセアカシアの林で、林の中に「大林神社」と書かれた小さな祠があり、近くにキツネノカミソリ(ヒガンバナ科)が咲いていました。藤原秀郷がこの川原で、将門を討伐したと伝えられています。この戦いの際、将門は秀郷の次男・藤原次郎(桐生氏の祖)に、蘇鉄の蔭から矢を射られ、天に舞い上がりばらばらになって、胴体は只上神社に、手は栃木県足利市の大手神社に、腹は大原神社に、足は鶏足寺に落ち、それぞれの地で葬られたといわれています。
 
只上神社 1   太田市只上
鹿島橋南詰から西すぐのところに「只上神社」があります。将門の乱ののち、秀郷が将門の首級を下野小俣(現在の足利市)の鶏足寺に送る途中、この地・只上(ただかり)にさしかかると、将門の首が怨霊となって奇声を発した。その後、この地に不思議なことが次々と起こったため、将門の胴体をここに埋め一祠を建てて「胴筒の宮」と呼んだといわれています。これが只上神社の前身だとのことでした。
只上神社 2
拝殿。拝殿の扉の上に掲げられた由緒書き。これを見ると、こちらの神社は元々は品陀和氣命を祀っていたが明治十年に鹿島神社から建御雷神を合祀、明治四十四年に諏訪神社(建御名方神)、日吉神社(大穴牟遅神、大山昨神)、赤城神社(豊城入日子命、石筒男命、石筒女命)、菅原神社(菅原道真公)、竈神社(火産霊神)、大山祇社(大山祇命)と他三社(大物主命と天皃屋根命と・・・誰?)を合併したとのこと。
拝殿左側に並ぶ末社群。左から葛城社、水神宮、稲荷社、雷電社、熊野社、神明社、厳島社。本殿裏に並ぶ末社群。左から二つ目が猿田彦大神、その右がおそらくは稲荷社。右奥は水天宮。
ちなみに只上町は平将門公の愛妾でありながら藤原秀郷公に内通した(もともと秀郷公の妹であるとか秀郷公に騙されたとの説もあり)とされる桔梗姫の出身地であるとか、只上神社に将門公の胴体を祀ったと言う伝説も残っているそうなのだが、桔梗姫は千葉県の生まれであるとする説もあるし、足利や太田には将門公伝説が少なくないのでそう言ったものの一つなんだろう。
桔梗の前   太田市只上
将門の侍女・桔梗の前(この地では秀郷の妹とされています)は、誰明(只上)村の出身で、将門を裏切り秀郷に内通した。このため、将門が滅びたが、乱ののち、桔梗の前は口をふさぐために秀郷によって殺害されたとも、また、この地に災いが続いたので、人々は桔梗の前を忌み嫌うようになったとも伝えられています。
心王寺   太田市只上
秀郷の命を受けて、慈正上人が将門の調伏の祈祷を行ったといわれています。また、別説として、この寺では将門及びその兄弟、従者の霊を供養して、その菩提を弔ったとも伝えられています。この寺にあります「心王寺由来」の書かれた石碑には、将門は一族を引き連れて渡良瀬川を渡り只上に居して、佐野の秀郷と一戦を図り射殺されたと記されています。さらに、平将頼が近隣の寺社に祀られていましたが、明治になって祭神を変えたと付け加えてありました。
伊勢神社 1   太田市内ヶ島町
秀郷が将門を討つため、宇都宮の二荒山神社に参詣し戦勝祈願をして発進しました。上野国に入り、この地の伊勢神社に立ち寄って参拝しました。その時、秀郷が空木の弓で、竹の矢を射ると、はるか武蔵国まで飛んだとといわれ、これが「伊勢神社の弓引き祭り」の始まりで現在まで続いています。  
伊勢神社 2
鎮守の森もないので、目立たず、ひっそりとした感じです。鳥居を潜ると、すぐ右側には「乳いちょう」があります。乳の出ない女性が、乳が出るように願をかける銀杏の老木がそのように呼ばれたり、あるいはそれに関する伝説が残っていたりします。参道は短いながら真っすぐで、正面い社殿があります。この伊勢神社には、藤原秀郷の伝説があります。
秀郷が平将門を討つため、宇都宮の二荒山神社に参詣し戦勝祈願をしました。その後に上野国(現在の群馬県)に入り、この伊勢神社に立ち寄って参拝しました。伊勢神社で秀郷が参拝を終えると、空木の弓で、竹の矢を射りました。その矢は何と、はるか遠い武蔵国まで飛んだとといわれています。このことから、「伊勢神社の弓引き祭り」とし、現在まで続いているそうです。 
■桐生市
法楽寺 1   桐生市広沢町
寺の正面に簡素に山門があって、その奥に立派な本堂が堂々と聳えています。この寺は天慶年間、将門調伏のため朱雀天皇の御願により建立されたといいます。また、昔、八幡太郎源義家が奥州の安部貞任を討ったお礼として、寺の前に舞台を作り法楽を舞ったといい、そのことに因んで八幡山法楽寺と名づけたといいます。
賀茂神社   桐生市広沢町
法楽寺のすぐ西に「賀茂神社」があります。崇神天皇の時代に、上野・下野国の建国神とされる豊城入彦命が、賀茂神を勧請して東国鎮護のために創建したものといわれています。延喜式内上野十二社のひとつで、奥州平定に向かう源義家が戦勝祈願のために舞を奉納したとも伝えられ、諸武将の崇敬を得て栄えたとされる。老樹の茂る境内には、流造の本殿のほか拝殿・神楽殿などがあります。広沢という地名と賀茂神社のセットは、なんとなく京都を思い出します。本殿の右手に、古い石灯籠があります。また、「句碑の道」を登っていくと、賀茂山(155.8m)と手臼山(188.5m)に登ることができます。さらに、賀茂神社の神籠石(かわごいし)にも寄ってみました。以前、菅塩峠を越えて太田市菅塩へと歩いた(当時道標なし)のですが、今は藪に覆われていて歩かれていないようでした。
法楽寺 2
八幡山法楽寺 真言宗豊山派
寺伝では、天喜五年(1057)八幡太郎義家は朝廷の命に隋わぬ奥州の安部貞任と宗任を討つため、当寺に立ち寄り戦勝祈願をした。
康平元年(1058)三月、戦勝のお礼のため賀茂神社と当寺の前に舞台を造営して、法楽の舞を奏上した。
後にお供の周東刑部左衛門が当地に残り、八幡太郎義家の命によって戦没者の慰霊のため、当寺を立て替えて山号を八幡太郎にちなみ八幡山とし、寺号は法楽の舞を奏上したことから法楽寺と名付けた。
山田郡史によると足利市小俣の鶏足寺の末寺になる。 
赤城の百足鳥居   桐生市新里町板橋
鳥居は、赤城山へ登る東南麓の参道としてこの地に建てられたようです。天明2年(1782)のことで、新里村・粕川村・宮城村・赤掘町のおよそ5千人もの人々の願いにより設置されて、鳥居の島木(しまぎ)には、1.3mの百足が陽刻(ようこく)されています。そして、この周辺の人々は神の使いである百足を殺すことはなかった、と伝えられています。この百足の陽刻は、藤原秀郷によって刻み付けられたと伝えられています。ただ、伝承と設置された時代が違いますね。
赤城山の百足伝説
大昔『赤城山の神(百足に化身)と日光男体山の神(大蛇に化身)が戦場ケ原で戦い、傷ついた百足が赤城山に帰り、その血で山が真っ赤に染まり、以来「赤き山」と呼ばれるようになった』という伝説があります。神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山(なんたいさん)の神と、上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題で戦いました。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足。赤城山の神は、男体山の神の助太刀の岩代国(群馬県)の弓の名手、猿丸の射た矢で右目を射抜かれ、戦いは男体山の神の勝利に終わりました。この戦いがあったところが「戦場ヶ原」。大百足の流した血がたまったのが「赤沼」。勝負が付いたのが「菖蒲ヶ浜」。勝利を祝ったのが「歌ヶ浜」と呼ばれるようになったといわれています。
この猿丸と一緒に磐次磐三郎兄弟が登場するのですが、この兄弟も弓の名手で別の説では、この兄弟が大百足の左目を射たというようにいわれています。この兄弟は、マタギ(東北地方の狩猟の民)の祖とされているそうです。磐次磐三郎についても様々な説があり、名前の漢字も「磐司磐三郎」「磐司万三郎」「万事万三郎」とその地域によって表現が違ってくるようです。狩猟(住居)をしていた場所は日光山麓という説、仙台という説、山寺(立石寺)に移り住んだとかいろいろな説があるようです。一部では、狩猟の他に山賊まがいのことをしていたとする説もあります。それぞれいろいろな説がありますが、弓の名手でマタギの祖ということは共通しているようです。
ついでなので参考に、日光ではなないですがこの争いの伝説の関連で「群馬県老神温泉伝説」というのがあります。戦場ヶ原と比較してみるとおもしろいです。
神の化身である大蛇と大百足が上記の伝説と全く逆になります。男体山の神が大百足で赤城山の神が大蛇となります。戦いは赤城山の神、大蛇が弓で射抜かれ何とか赤城山の麓まで逃げ帰ります。しかし、男体山の神、大百足の軍勢が後を追ってすぐそこまで迫ってきています。「ちきしょう」と矢を地面に突き刺すと、不思議なことにそこから湯がわき出てきました。傷を湯に浸してみると、これまた不思議で傷はたちどころに治ってしまいました。傷の治った赤城の神は、追いかけてきた男体山の神の軍勢を見事追い返しました。それからというもの、傷ついた神が敵を追い返す力の基となった温泉と言うことで誰言うことなくいつの間にかこの地を「追神」と呼ぶようになったそうです。月日が流れ、若かった赤城山の神も年老いてゆき、いつしか「追神」の名も「老神」と呼ばれるようになりました。神の傷おも治すこの湯は、万病に良いとして多くの人々に愛されました。このありがたい湯を湧き出させてくれた赤城山の神に感謝して、毎年5月7・8日の赤城神社祭典の両日に張りぼての蛇を担ぎ歩くという、現在の「老神温泉大蛇祭」の原型のようなことが行われるようになり、その後変化しつつ今日に至ったとされています。
ところでムカデは鉱山の守護神とされていますが、理由は鉱脈がムカデの形に似ているからのようです。中国の古文書にはムカデには『鉱脈を掘り当てる能力があるから鉱脈探しに山に入る時には竹筒にムカデを入れて行け』とも書いてあるようです。実際に大昔の赤城山には鉱脈があったらしいのです。同じく中国の古文書ですが、ある民族は山に登るときに、蛇除けのためにムカデを青竹の筒の中に入れて持っている、と記されているようです。これから察するところ、ムカデと蛇は敵同士だったようです。こんな話が日本にも伝わって琵琶湖のムカデ退治とか、赤城山対二荒山(どちらも蛇がムカデの退治を頼んでいる)の話ができたのでしょう。
「山上の多重塔」桐生市新里町山上
山上の多重塔は、通称、形式上では塔婆・石造三層塔といわれます。塔身の三層の部分は一石で造りだされています。高さは1.85mで、下層は幅48cmで垂直に立ち上がり、中層と上層は「八」の字状に造られています。それぞれの塔身の四面は朱が塗られ、45 の 文字が刻まれています。読み方は、上層から右廻りに中層・下層と読みます。そして、墓壇と基礎ならびに笠石は塔身の朱を強調ずるように墨が塗られているのが分がります。刻字の内容は、「朝廷や衆生(しゅじょう)などのため、小師の道輪が法華経を安置する塔を建てた。これで、無間(むげん・八大地獄のうちの阿鼻地獄)の苦難より救われ、安楽を得て彼岸(悟りの境地)へ行ける」というものです。延暦20年(801)7月17日に建てられたこの供養塔は、平安時代初期の地方における仏教文化史上、重要な石造物のため全国的に知られています。
山上城址 1   桐生市新里町山上
鎌倉時代、藤原秀郷の流れをくむ山上五郎高綱によって築城された自然を要塞とした並郭構造の丘城です。戦国時代末期に、武田勝頼に攻められ廃城となりました。現在では、城跡のなだらかな傾斜を生かした公園として整備されています。
「武井廃寺塔跡」桐生市新里町武井
円錐状(えんすいじょう)の加工石は塔の心礎である、という見解から、ここは古代の寺院があった跡とされ、「武井廃寺塔跡」(たけいはいじとうあと)として昭和16年に国指定史跡になりました。しかし、ここは武井字松原峯の標高210mの丘陵性台地の尾根上にあり、かなり傾斜地であることや、寺院の土台を支えた礎石も全く発見されていないのです。このような理由で、寺院の塔跡と断定することが長い間疑問視されてきました。昭和44年の調査で、八角形三段の石積の墳丘が発見されたことがきっかけとなり、現在は奈良時代の火葬墳墓との見解が強く支持されています。円錐台形状の安山岩の加工石は、下位の直径は123cm、そこから17.5cmの高さで造りだし、上面の直径は105cmになります。そして、中央には直径43cm、深さ44cmの丸底状の穴がほられています。この穴の中に納骨したのでしょう。
「中塚古墳」桐生市新里町武井
武井廃寺跡を東に行くと中塚古墳が見えます。斜面に沿って築造され、南面に石室が開口しています。被葬者の集団は東側か南東に生活していたのではないか(元宿という地名が残っています)。はるか山の上に雄大な古墳がそびえ、領民が見上げるように築造されているように思えます。近くの武井廃寺を考えると、仏教文化の裏付けが理解できます。
上毛三碑のひとつ「山の上の碑」に、新川臣の子・斯多多弥(したたみ)は大胡氏の祖とあります。山の上の碑は、高崎の南西の山名町にあります。その地の豪族と、新里町の豪族が姻戚関係にあったのか。7世紀後半になると帰化した豪族も土着し友好関係にあったのだろうか。古墳石室の工事方法からみて、同じ部族だったのかもしれません。  
山上城跡 2
山上城は、鎌倉時代に藤原秀郷の子孫、山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められたのち廃城となりました。この城跡は群馬県の指定史跡となっています。
城の構造は並郭構造で、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでおり、川や谷などの自然を要害とした丘城と言われています。
城下町の名残として元町・鍛冶屋などの地名が残っています。 
桐生大炊介手植の柳   桐生市東 
(きりゅうおおいのすけてうえのやなぎ)
桐生市東七丁目の公園の真ん中にある柳の大木である。樹齢は約400年、根元回りは5mを超す。(平成25年4月、強風により根元付近より折れたとの報がある)
桐生一帯を治めていた桐生氏は、藤原秀郷流の足利氏の支流とされる(室町幕府を開いた足利氏は源氏の支流)。室町時代から歴史の表舞台に登場するようになる小領主で、関東で対立する古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の間を行き来しながら、所領を拡大させた一族である。
永正13年(1516年)、当主であった桐生重綱は愛馬の浄土黒に乗って、この辺りに鷹狩りに訪れた。そしてその最中に思わぬ事故に遭遇する。愛馬の浄土黒がいきなり倒れたのである。乗っていた重綱も地面に叩きつけられ、その時の傷が元で亡くなってしまう。
重綱の子の助綱は、浄土黒が倒れた場所にその遺骸を埋め、その上に柳を植えた。それがこの“大炊介手植の柳”である。なお浄土黒が突然死に至ったのは、ダイバ(頽馬)神の仕業であるとされている。 
■赤城山
赤城山大沼   富士見村
赤城姫の伝説(大沼と小鳥ヶ島)
高野辺大将家成は、御殿での口論がもとで都を追われ上毛野国にやってきます。家成には、たいへん美しい姫がおりました。名を赤城姫と淵名姫といい、その美しさと素直さは誰もが憧れていました。家成一家は仲睦じく幸せに暮らしていました。しかし、姫たちの母は病に倒れ、この世を去ってしまいます。家成は残された子供たちを不憫に思い、新しい母親を迎えます。側室の柱御前との間に二人の子供が生まれます。しかし、この二人は姫たちとは似ても似つかぬ姿をしておりました。柱御前は家成の二人の姫への愛情と、姫たちの美しさに嫉妬し、時あらば二人を亡きものにと考えておりました。
そんなある日のこと、都よりの使者が一通の手紙を携えて家成を尋ねてまいります。それは、「家成の罪を許し、上毛野国の国司に任ずる」というものでした。家成は国司任官のため、大勢の従者を連れて都に向かいます。すると柱御前はこの時とばかり、二人の姫の館を襲い淵名姫を殺してしまいます。しかし、赤城姫は追ってを振り切り赤城の山へたどりつきます。
この知らせを聞いた家成は上毛野に兵を向け、柱御前を捕らえて、赤城山へ姫を求めて大沼の辺りに参ります。すると、大沼の東岸より一羽の鴨が泳いできます。翼を広げたその背には、赤城姫と淵名姫の姿がありました。二人の姫は赤城大明神に召されて、赤城の神様になったのです。また二人の姫を乗せた鴨は大沼の東に戻り、小鳥ヶ島になりました。以来、赤城の神様にお願いした女性の願い事は、必ずかなえられ、この神様にお願いすると美人の娘が授かると伝えられています。
赤堀道元の娘
赤城山麓赤堀の豪族、赤堀道元の娘は幼い時から赤城山にあこがれていました。十六歳のある日,お供の者を連れて赤城山に出掛けるのです。途中、月田村で一休みしたところ馬が倒れてしまい、かごに乗り換えて出発します。この時、鞍を掛けさた岩を鞍掛岩といいます。そして、赤城山の小沼に到着すると突然、入水し龍になったのです。その後、赤堀家では娘の命日に赤飯を、重箱に入れ沼に供えるのです。すると重箱は波に誘われて湖に沈み、やがて空になって返されるが、その中には龍の鱗が一枚入っていると伝えられています。
この「赤堀道元」は、藤原秀郷の子孫だといわれています。秀郷は、近江の勢多の唐橋で大蛇(龍)を助けて百足を退治しています。そこから、大蛇との因縁を生じ、その子孫にも蛇と関わる血が流れているようです。  
■前橋市
赤城神社 1   前橋市(旧宮城村)三夜沢町
赤城神社は、全国に約300余の分社を持つ赤城神社の総本社です。古代、東国を開拓した神々、農耕を司る山の神霊を尊祟する自然信仰の対象として赤城山を祭ったのが始まりで、『延喜式神名帳』(えんぎしきしんめいちょう)に上野国三大神社の一つとして挙げられる古社です。以降、東国経営にあたった上野毛氏の創祀以来、国司、武将たちの崇敬を集めてきました。中世になり、赤城神社が上野国の二宮とされ、神宮寺も営まれていました。ここ三夜沢にある赤城神社は里宮で、赤城山上の大沼のほとりに本宮、地蔵嶽に別宮があります。境内には樹齢1,000年を超える3本の「たわら杉」(後述)をはじめ樹木が鬱蒼と茂り、静謐な空気が漂います。
赤城神社 2
式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。
正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢赤城神社(みよさわ-)」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。
群馬県中部に位置する赤城山の南側の山腹に鎮座する。明治時代以前は東西2宮であったが、明治時代以後は1宮となった。参道は一の鳥居で南の大胡方面、東の苗ヶ島方面、西の市ノ関方面の3方向に分かれている。大胡方面に続く道には江戸時代に植えられた松並木が現存する。
本殿と中門は県指定重要文化財に指定されている。本殿を南へ500m(メートル)ほど下った参道沿いには惣門があり、同じく県指定重要文化財に指定されている。また、拝殿と中門の間、中門のすぐ正面には、群馬県指定天然記念物の「たわら杉」がある。そのほか、境内には明治3年(1870年)3月に建てられた「神代文字の碑」もあり、復古神道の遺物として市指定重要文化財とされている。
祭神 豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと) / 大己貴命 (おおなむちのみこと)
歴史
創建
創建は不詳。神社の由緒によれば、上代に豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
当社から約1.3km登った地には「櫃石」と呼ばれる磐座を中心とした祭祀跡が残っており、古代祭祀の様子がうかがわれる。
平安時代
『続日本後紀』では承和6年(839年)に従五位下、『日本三代実録』では貞観9年-16年(867年-874年)に神位昇叙、元慶4年(880年)従四位上に叙せられた記事が載る。長元9年(1028年)頃には正一位に叙せられたとされる。その後、中世には上野国二宮となったという。ただしこれらに記述される赤城神を指す神社には論社があり、三夜沢赤城神社を指しているのかには議論がある(「赤城神社#歴史」を参照)。
14世紀の説話集『神道集』には、赤城山火口湖の小沼と大沼、そして中央火口丘の地蔵岳を神格化している。小沼神に虚空蔵菩薩、大沼神に千手観音があてられ、地蔵岳は地蔵菩薩とされている。このうち地蔵は後から加わったものである。赤城神社・西宮に伝わる記録『年代記』によれば、西宮に虚空蔵と千手観音を祀り、東宮に地蔵を祀っていたという。
『宮城村誌』によれば、三夜沢の赤城神社は、六国史などにみられる官社・赤城神とは異なるという。はじめは東宮が、地蔵岳の信仰隆盛に伴って13世紀末から14世紀初ごろ「赤城神社」として成立したといい、その後、神仏習合の形で「元三夜沢」の地にあった社が、東宮の隣に新たに遷座してきた。これが西宮で、貞和元年(1345年)頃と推測されている。元三夜沢の社は二宮赤城神社の山宮であったともいわれる。
西宮が新たに移ってから、三夜沢赤城神社は東西2宮併存することとなった。ただし以前から三夜沢にあった東宮のほうが勢力が強かったという。
戦国時代の書状には、神社の名称にはほぼ全てに「三夜沢」が冠され、赤城神の本社と認めていないという指摘がある。ただし、天正4年(1576年)、二宮町鎮座の二宮赤城神社が南方氏によって破却されるなど、「赤城神社」を称する神社の中で三夜沢の赤城神社・東宮に匹敵する神社は無く、赤城神の本社といわれていったと見られている。
江戸時代
慶長17年(1612年)2月20日、大前田村(現 前橋市大前田町)の住人の寄進により参道に松並木が植えられた。
宝暦12年(1762年)東宮が正一位に叙され、次いで明和2年(1765年)西宮も正一位に叙された。
寛政12年(1800年)、大洞赤城神社が「本宮」「本社」の名称を使用しているとして、三夜沢赤城神社は大洞赤城神社別当・寿延寺に対し訴訟を起こした。享和2年(1802年)には三夜沢側は幕府の寺社奉行へ訴えたが、国許で解決すべしと下げ渡されている。訴訟は長期にわたり、文言使用を合議で決めるという和議が成ったのは文化13年(1816年)であった。
明治以降
明治2年(1869年)、廃仏毀釈により、東宮の竜赤寺と西宮の神光寺という2つの神宮寺が廃寺となった。その後、東西2宮であった三夜沢赤城神社は合併して1宮となった。既に享和2年(1802年)の訴状では1宮の体裁をとっていたが、明治初年に正式に1宮と定められた。ただし神社側に合併の記録が無く、正確な合併時期などは不詳。西宮跡には建築物は建てられず、東宮跡に現社殿(現存するのは本殿と中門)を建築した。明治2年(1869年)11月25日にこの社の上棟祝が行われた記録が残る。1894年(明治27年)、拝殿を焼失、のち再建した。
近代社格制度では、初め郷社でのちに県社に昇格した。1935年(昭和10年)に国幣社への昇格運動が起こり、1944年(昭和19年)には国幣中社の内示が出たが、その手続中に終戦を迎え、GHQの指令により社格制度が廃止されたことで、結局県社のままであった。
1998年(平成10年)5月3日、千葉県から旅行に来た当時48歳の主婦が突如失踪する事件が発生。警察の懸命な捜査にも関わらず、現在でも行方は分かっていない。
境内
社殿
本殿は、正面三間・側面二間、切妻造平入の神明造で銅板葺。千木は内削ぎで、8本の鰹木をあげる。中門とともに明治2年の造営と伝えられる。造営当時の神仏分離と復古神道の影響が見られるものであり、中門とともに群馬県の有形文化財に指定されている。
本殿内には、神座として祀られる宮殿がある。扉裏の墨書には「源成繁寄納」とあり、新田金山城主・由良成繁の奉納とされる。木造宝形造、板葺で、高さは117p。粽(ちまき)付の柱、桟唐戸など全体的に禅宗様を用い、室町時代の特徴をよく示すものとして群馬県の有形文化財に指定されている。
中門は、本殿前に立つ四脚門で、切妻造銅板葺。本殿と同じく明治2年の造営とされ、ともに群馬県の有形文化財に指定されている。
社殿周辺
「俵杉(たわらスギ)」は、中門南側とその西隣に立つ3本のスギの大木の名称。本殿前の2本は左右一対で並ぶ。名前の由来として、藤原秀郷(俵藤太)が平将門討伐のため上野国府に向かう途中、献木として植えたと伝えられる。群馬県の天然記念物に指定。同様の伝説は一之宮貫前神社の「藤太杉」にも伝わっていることから、中世の武将による秀郷への憧れが示唆される。境内には他にも多くのスギの大木が立っている。
また「神代文字碑」として漢字が伝わる以前に存在したといわれる神代文字(じんだいもじ)の碑が残る。復古神道の遺物として明治3年3月に建碑された。碑文は平田鐵胤(平田篤胤の養子)、神文は延胤(鐵胤の子)による撰文。神文「マナヒトコロノナレルコヱヨシ」は対馬の阿比留家に伝わる阿比留文字で書かれている。
そのほか、境内東方約200m、櫃石への道の途中に所在する市の天然記念物「三夜澤のブナ」や市指定重要文化財の宝塔(赤城塔)がある。
赤城山中
「櫃石(ひついし)」と呼ばれる巨石が立つ祭祀遺跡が、境内から赤城山中を約1.3km登った地(位置)に所在する。大きさは長径4.7m、短径2.7m、高さ2.8m、周囲12.2m。周辺からは多くの祭祀物が見つかっており、群馬県の史跡に指定されている。
参道
惣門から国道353号まで続く参道には多くの松が植えられ、松並木として残されている。『赤城神社年代記』によると、慶長17年(1612年)大前田村(現 前橋市大前田町)の彦兵衛の寄進により参道に約1200本の松が植えられたといい、いずれも樹齢400年に及ぶ。また松とともに約3万株のヤマツツジも植えられており、春には名所として知られる。
惣門は、江戸時代(年代不明)の造営とされる高麗門。境内から南に450mほど下った地(位置)に所在する。『赤城神社年代記』には宝暦元年(1751年)の造営の記載があるが、それ以前の古材も一部に見られる。群馬県内には近世前期の高麗門は少なく、貴重なものとして群馬県の有形文化財に指定されている。
関係地
元三夜沢 (前橋市粕川町室沢字御殿)
当地に遷座する以前の西宮の旧社地とされる。礎石と推定されるものも発見され、遺物から平安時代の遺跡と推定される。
宇通遺跡 (うつういせき) (前橋市粕川町中之沢)
粕川上流、山林内にある遺跡。1965年(昭和40年)の山林火事で発見された。調査は部分的で全容は明らかではないが、礎石建物が確認され神仏習合時代の寺の遺構と見られている。赤城神社の旧鎮座地の可能性のほか、山上多重塔(桐生市、延暦20年(801年)造営の供養塔)との関係性が指摘されている。 
赤城神社たわら杉   前橋市(旧宮城村)三夜沢町
赤城神社の境内には杉の大木が多数ありますが、なかでも目を引くのが拝殿の後ろの中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。たわら杉は、藤原秀郷(俵藤太)が将門討伐において上野国にくる途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものと伝えられています。「たわら」の字は、田原藤太から「田原」とも、また「俵」とも記されます。境内の案内板には次のようにあります。
赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロなどもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通り周5.1m、6.1m、4.7m、根元周6.0m、9.6m、5.6mとなっており、樹高は各々約60mです。これら三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将ですが、その実像はあまりわかっていません。一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄として描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカデと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴しています。
「赤城神社神代文字の碑」前橋市(旧宮城村)三夜沢町
赤城神社境内に残る石碑です。復古神道の遺物とされ、日本に漢字が伝わる以前に、日本独自の文字が存在したとするもので、石碑上段に神代文字が刻まれています。説明板に、次のように書いてあります。
一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあつたといわれ、現在はっきりしているものだけでも数種類にもなります。この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神学日文伝」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鍾胤が、上部の神文については、鏑胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。
「赤城神社惣門」前橋市(旧宮城村)三夜沢町
三夜沢赤城神社本殿より南500mほどの参道沿いにある高麗門です。『赤城神社年代記』によりますと、その建築年代は宝暦元年(1751)と記されるものの、一部にそれ以前の古材を使ったものと推測されます。ここから、赤城神社参道松並木を下っていきます。
大胡城址   前橋市(旧大胡町)河原浜町
藤原秀郷のながれをくむ大胡太郎重俊が、大胡に城を構え足利氏に属しました。城址に、次の案内板があります。
城址は南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。城主は、大胡氏および牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18年(1890)徳川家康の関東入部により牧野氏は大胡藩2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。元和2年(1616)に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代に城代が置かれたが、寛延2年(1749)姫路へ転封し廃城となった。
藤原秀郷軍の首塚・胴塚   前橋市(旧粕川村)粕川町深津
藤原秀郷が近くの赤堀町にある毒島(ぶすじま)城に籠城し、敵に攻められます。城が落ちそうになったとき、秀郷が勢多の唐橋で助けた大蛇が救援に来てくれて、助かることができたといいます。ですが、この戦いで多くの死者が出て、それらの首を葬ったのが「首塚」、胴を葬ったのが「胴塚」だといいます。
「大室公園」前橋市西大室町
群馬には古墳が多く、かつては約1万基の古墳があったといわれています。6世紀初め、武蔵国造をめぐる争いで東国に大事件が勃発します。国造の座を争って一方が大和朝廷に、もう一方が上毛野氏に応援を求め、結局朝廷に応援を求めた方が勝利したという結末でした。この話は「日本書紀」に書かれていますが、上毛野軍と朝廷軍の間で戦があったのか、はっきりしたことはわかりません。ただ、当時の上毛野氏は朝廷に対抗できる勢力であったということはできます。この争いで、敗者側となってしまった上毛野氏は勢力範囲が大分狭くなってしまったようで、その後の古墳の造営状況からみて、勢力の中心が現在の太田市から前橋市大室付近に移ったようです。この地・大室では、7世紀にかけて造られた大型前方後円墳が密集しています。その大室古墳群の、「前二子」「中二子」「後二子」の3つの重要な古墳を中心に整備されたのが大室公園です。
総社神社   前橋市元総社町
将門のころの上野国総社は、現在の総社神社の北西800mのところにある「宮鍋神社」のところにありました。俗に「明神さま」と呼ばれる今の総社神社は、後世に建立されたもので、上野国十四郡の各神社549社の祭神を迎祀して書かれています神名帳一巻を御神体としています。境内に大きな「蒼海(おうみ)城址」の地図があります。この神社も蒼海城址の中のようです。
上野国   
ここは昔、毛の国と呼ばれた。越の国、豊の国などのように、上古には一字で国を表した地域がある。大宝年間頃から、国名は二字ということになったのだが、それまでは、毛の国を上下に分けて上毛野、下毛野と呼ばれていた。それぞれ「かみつけの」、「しもつけの」と読む。群馬県と栃木県を結ぶJR線を両毛線という所以である。
崇神天皇の48年(紀元前50)、皇子の豊城入彦とよきいりひこ命に命じ東国を平定させた。皇子の子孫が上毛野国造、下毛野国造になったという。
古代には「車評」くるまこおりが置かれた。クルマとは「玄馬」をいうといわれ、騎馬を得意とする渡来人が移住していたらしい。群馬という地名の由来であろう。
弘仁2年(811)、上野国はそれまでの上国から大国に改められ、天長3年(826)上総、常陸とともに親王を以て太守に任ずるという、いわゆる親王任国になった。
上野国府跡(宮鍋神社) 1   前橋市元総社町
上野国の国府がどこにあったかは、未だに確証がない。しかし、ここ宮鍋神社は、かってこの地を治めた長尾氏が築いた蒼海城(あおみじょう)の跡とされ、蒼海城は上野の国府跡に建てられたという記録があるので、この地を上野国府跡に推定する学者が多い。
この宮鍋神社一帯から、多数の古瓦が出土している。さらに、元総社遺蹟、寺田遺蹟などから瓦や墨書土器が出土、元総社小学校の校庭からは大型の掘立建物跡も発見された。こうした考古の発見と、上野国交代実録帳(1030年)の記録をもとに、宮鍋神社付近を国庁とし、東西に八町、南に八町の国府域が想定されている。
宮鍋神社 2
御祭神 経津主命・金山昆古神・金山昆賣神
創立年 不詳
人皇十代崇神天皇の第一皇子豊城入命(豊城入彦命?)が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。
その後、九十六代後醍醐天皇のとき、元弘の乱で北条氏が滅び建武中興の世となりました。
足利直義は戦功により関八州とそれに付属する伊豆、甲斐、越後の国の行政権を与えられ、天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入部しました。
家臣「長尾佐衛門尉景忠」は上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給わりました。忠房は国府を城郭化し蒼海城と称し、宮之辺の地より総社神社を現在地へ移したようです。神社裏の貞和五年(1349)の宝塔も長尾氏一族の建立したものであろうと群馬県人名大辞典に書かれています。長享二年(1488)九月二十八日、僧の万里集九が角淵(玉村)より白井へ向かう途中、国分寺跡あたりから見た展望を日記に「隔一村馬上望拝上野之総社」(一村を隔てて馬上より上野総社を拝す)とあります。また。古総社(現宮鍋神社)の前を通過する折に「数株老樹斧屠残」(数株の老樹に斧の傷跡を残す)とあり、これらの日記から察するに永禄九年(1566) 頃、武田軍と長尾軍の合戦により焼失した惣社神社は、宮之辺の地ではなく現在地であろうと思います。
次に宮鍋は宮之辺が変化したのではなく、惣社神社移転の跡地の東傍らの屋敷(2041、2042番地)に鋳物を業とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆賣神を合祀して「宮鍋神社」と称したのであろうと思います。鍋という字は、他県の鋳物師の氏神には数多く使われている様です。前記二屋敷跡より多数の鋳物屑が発見されております。
明治三十年十月に木造鳥居の建立記録が殿小路町にあり、大正八年四月十六日総社神社に合併されましたが、昭和六年十二月一日県の指示により、再び宮之辺の地に移転となりました。
当社は今なお「宮鍋様」と称して、殿小路町、粟島町の崇敬の社であります。

教育委員会の説明にも上野国府はこの宮鍋様の辺りにあったと推測されている・・・・とあり確定されていないようです。しかし、ここは、嘗てこの地を治めた長尾氏が築いた蒼海城の跡とされ、蒼海城は上野の国府跡に建てられたという記録もあり、この辺りを上野国府跡と考える人は多いようです。
平将門の乱
天慶2年(939)11月、常陸国の国府を攻めて朝廷へ反旗を翻した平将門は、12月に下野国の国府を占領、勢いに乗って12月18日には、ここ上野国府に入った。当時の上野介藤原尚範は無抵抗で、政庁を明け渡し印鎰(いんやく)を献じた。将門はここで上野総社の巫女の神託を受け、新皇と称する。
今昔物語に、この時の記事が見える。
それより上野国に遷うつる。即ち介藤原尚範たかのりが印鑰いんやくを奪ひて、使を付けて京に追いのぼせつ。其の後、将門、府を領して庁に入る。陣を固めて諸国の除目じもくを行ふ。その時ひとりの人有りて、くちばしりて、「八幡大菩薩の御使い也」と名乗って曰く、「朕が位を蔭子おんし平将門に授く。速すみやかに音楽を以て、此これを迎え奉る可べし」と。将門此を聞きて再拝す。況いわんや若干そこばくの軍いくさ、皆喜び合へり。ここに将門自ら表を製して新皇と云う。即ち公家こうけに此の由を奏す。
上野国総社
上野国の総社は、国府跡とちがって立派な社である。上野国14郡549社を合祀する。主祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)というから下総の香取神宮と同じだ。
安閑天皇元年(532)、上毛野君小熊王はこの宮の社殿を改築し、蒼海あおみ明神と称えたという。のちに上野国十四郡の549社を勧請合祀し、総社明神とした。
この宮に伝わる上野国神明帳は、県の重要文化財である。
上野国分寺跡
上野国分寺は前橋市総社町にある。国府跡からは北西に当たる。
上野国分寺は750年頃には完成していたらしい。国分寺としては最も古い時代のものだ。
国分寺跡は大正15年(1926)に国の史跡に指定され、のち土地の公有化が進み、昭和55年(1980)から発掘調査が実施され、保存と整備が進められている。東西220m、南北235mの広大な敷地の周囲は築垣で囲まれていた。
妙見社
この社は神社だが、同じ境内に妙見寺という寺がある。珍しいことだ。奈良時代の始め和銅7年(714)に、上野国の大掾たいじょう忠明が妙見社に参詣、夜半に不思議な光に目覚めて、付近を探すと首が白く目が赤い亀を見つけた。何かの瑞祥であると時の元正天皇に献上した。天皇は即位したばかりで、これに喜び同年九月二日をもって霊亀と改元した。
平将門が天慶2年(939)12月、常陸、下野に続き上野の国府を攻略し、神託を受けて新皇と称したのが、ここ妙見社だったという説がある。
貫前ぬきさき神社(上野一ノ宮)
上野国一ノ宮の貫前神社は、経津主ふつぬし神と姫大神を祀る。経津主神は大国主命に国譲りを迫った天津神で、物部氏の祖先神と伝わる。一方の姫大神は御名は不詳だが、この地に養蚕や機織りを広めた女神とされる。
この女神はまた諏訪大神の建御名方たけみなかた神の恋人だとも云われている。ということは、この宮は複雑である。もともと、建御名方神は大国主命の子の内で、国譲りに最後まで抵抗し、経津主神に追われて諏訪まで逃げていったと伝えられている。その恋人である姫大神が、敵役の経津主神と同殿に祀られているのは、どういうことなのであろうか。
本殿の千木が平削ぎなので、元々この宮は、地元の姫大神を祀っていたのではないかと考えられる。二神同座の貫前の宮は、出雲族と物部族の葛藤があった痕跡かもしれない。
延喜式では名神大社に列する。  
宮鍋神社・上野国府跡   前橋市元総社町
総社神社の北西800m、4、5本の高い樹木の森のあるところです。小さな境内に上野国総社の碑、国府政庁推定復元図などがあり、後世の蒼海城本城のあったところでもあります。『将門記』によれば、《天慶二年(939)十二月十五日、下野国から上野国に入った将門は国府を占領すると、同十九日、上野介藤原尚範を京へ放逐、「国衙の四門の陣を固め、且つ諸国の徐目(今でいう認証式)を放ち」、みずから名づけて新皇と称した。》とあります。当時の国府は、この地の上野国総社のあった今の「宮鍋神社」があるところではないかとの説があります。将門は、ここで上野総社の巫女の神託を受け、新皇を称したと思われます。
■伊勢崎市
毒島城址   伊勢崎市(旧赤堀町)赤堀今井町
赤堀城からは北西1.5kmの距離で、水田地帯の中にある比高15mほどの島のような丘が城址です。南方を除く周囲は丘であり、城のある丘はこれらの丘に囲まれた湾状の水田地帯(東西500m、南北400m)の中に孤立した島です。当時、周囲は沼地であり文字通り島であったと思われます。島の西の入口に巨岩があり、馬蹄の跡のようなくぼみがあって、「上杉謙信の馬の蹄の跡」といわれています。虎口は西南中央のみで、桐生氏の家臣、毒島勘解由長綱が城主であったといい、後に桐生市広沢の寄居に移ったといいます。虎口にあたる入り口に説明板があり、次のように記されていました。
三浦謙庭が毒島城を攻めたとき、周囲の沼には1匹の大蛇が住みついており、寄せ手を苦しめました。そこで三浦謙庭は7つの石臼で毒を作り、それを沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれずに西に逃げてしまい、毒島城は落城したと伝えられています。
宝珠寺・田原藤太秀郷の墓 1   伊勢崎市(旧赤堀町)赤堀今井町
寺の入り口には、「田原藤太秀郷の墓」の看板が出ています。天慶二年(939)、藤太秀郷の開基といわれ墓もあり、位牌もあったと伝えられています。墓地には、藤原秀郷(苔むした五輪塔、秀郷の三男千国が供養のため造立)、赤堀道玄、小菅又八郎それぞれの墓があります。赤堀氏の祖先は、藤原秀郷と伝えられています。
「赤城山の小沼に結びつく竜女伝説」
赤堀地区には赤城山の小沼に結びつく竜女伝説がいくつもあります。その一つは昔、赤堀郷の長者道玄の16歳になる一人娘が、赤城山に参拝に行き、小沼のほとりで水中にひきこまれ、沼の主の龍神になってしまったという。悲嘆に暮れた父は小沼に赤飯を供養として流すと、翌日には空になった重箱だけが水面にもどるという。それから16娘が小沼を通るときには、引き込まれないように身代わりとして鏡を投げ入れたといいます。
他には、徳川家康の旗本、小菅又三郎の妻で赤堀道完(=道元、道玄)の娘が、赤城明神に参拝に行くと小沼の辺ですざましい数のむかでが現れ、内室を沼の中に引き入れてしまった。その後、沼の主・竜蛇の姿になって現れたといわれています。
宝珠寺 2
宝珠寺の創建は平安時代の天慶2年(939)、藤原秀郷(田原藤太秀郷:平将門追討の戦功により上野、武蔵の国司となる。)が平将門の乱鎮圧の戦勝祈願として開いたのが始まりと伝えられています。その際、本尊となる観世音菩薩を安置し、数多くの修験者達が祈祷を繰り返すと境内から紫雲が棚引き、願いを叶えるという如意宝珠の雨が降り注いだ為、秀郷は吉兆と悟り勝利を確信、翌年には見事念願成就し将門を討ち取っています。その後、当地域は赤堀城の城主、赤堀氏(藤原秀郷の子孫だとされる)が支配し、秀郷と縁がある宝珠寺も庇護されたと思われます。天正年間(1573〜1592年)には赤堀入道藤繁により堂宇の再建や境内の整備が行われ、揚山永橋大和尚(前橋長昌寺5世)を招いて中興開山し、曹洞宗に改宗、慶長5年(1600)頃には概ね完成しています。
宝珠寺旧本堂は宝永6年(1707)に再建されたもので寄棟、鉄板葺、平入、桁行8間(現在は入母屋、銅板葺)、廃藩置県が執行されるまでは寺子屋として開放され今井学校の校舎が完成されるまで校舎として利用されていました。境内には赤堀道玄、小菅又八郎の墓の他、秀郷の子孫(3男田原千国とも)が秀郷の供養の為に鎌倉時代に建立したと伝わる五輪塔(凝灰岩製、総高167cm)があり平成6年(1994)に伊勢崎市指定史跡に指定されています。伝承によるとこの五輪塔には白蛇が棲んでいて信仰の対象になっていました。ある日突然雷が落ちて以来白蛇の姿が見えなくなりましtが、信仰は変わらず祈願すれば念願成就し、五輪塔に生えた苔は熱を下げる事に御利益があると信じられていたそうです。山門(切妻、桟瓦葺、一間一戸)は安政5年(1853)に再建されたもので宝珠寺境内では最古の建物で当時の様子を今に伝えています。宗派:曹洞宗。本尊:聖観世音菩薩(延宝3年:1675年、京都出身の仏師、康祐法橋の作)。  
赤堀城址 1   伊勢崎市(旧赤堀町)赤堀今井町
周辺には田原藤太藤原秀郷の末裔が多いですが、赤堀城の赤堀氏もそうです。藤原姓足利忠綱の弟・泰綱の玄孫・教綱が赤堀氏を称しました。赤堀氏は金山の横瀬由良氏と結びついて居していました。城は東西170m、南北350mほどで、東と西に川があり、堀の役目をはたしています。本郭は一辺が80mほどの正方形の形状をしています。県道脇の細道から城域に入ると、本郭は畑地になってしまっていますが、高い土塁に囲まれています。北側の住宅に抜けるところが虎口になっていて、食い違いになっています。城址の説明板には、次に記載がありました。
赤堀城は別名今井城とも言われ、粕川とその支流の鏑木川との自然地形を利用した箇所に築かれ、東西170m、南北350mの範囲を占める。一辺約80mの本丸を中心とした部分には、土居、堀、戸口があり、他にも二の丸、城域の外側には一小郭があったと考えられ、赤城山南麓に特徴的な本丸を囲郭式とした並郭城である。赤堀城は藤原秀郷の末裔とされる赤堀氏の居城で、赤堀下野守親綱の時に由良氏の幕下となり、その子影秀までは赤堀城に在城した。その後、後北条氏幕下の小菅氏が在城したが、天正18年後北条氏滅亡と共に赤堀城も廃城となった。赤堀城跡は赤堀氏の活動の記録は少なく、不明な点が多い。そのため、赤堀城跡は当時の赤堀氏の動向を知る重要な文化財である。 
赤堀城 2
別名 今井城 / 形態 平城
城主 赤堀氏、小菅摂津守
築城年代は定かではないが観応・正平(1350年)頃に赤堀直秀によって築かれたと云われる。 赤堀氏は上野国佐位郡赤堀発祥で藤原秀郷の末裔という
享徳4年(1455年)赤堀時綱は古河公方に属し関東管領上杉氏方と戦った。 その後、上杉謙信に従っていたが謙信死後は小田原北条氏に従った。
現在本丸部分が畑となっているものの、土塁と虎口が残っている。  
■利根郡
宝川温泉 1   利根郡水上町藤原
日本武尊が東国征伐の折り病に伏せってしまい困っていると、遙か下界より白い鷹の飛び立つのを見つけ、その地に立ち寄ってみると温泉が湧いておりそのお湯に浸かって病を癒した、とされているのがここ「宝川温泉」です。また、平将門の乱で敗れた将門一門が住みついたといわれる落人の里でもあります。「宝川」とは、文字どおり宝がとれる川の意味で、昭和の初めまで銅山として採掘が行われていました。古くは江戸の昔から、掘られていたといわれています。
宝川温泉 2
民話の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の折り、当地に寄り武尊山(ほたかやま)に上りました。病に伏せって困っていると、遙か下界より、白い鷹の飛び立つのを見つけ、その地に赴いてみると温泉が湧いていました。そのお湯に浸かったところ病が治り、旅を続けることができたと伝えられています。そのため宝川温泉はその昔、『白鷹の湯』(はくたかのゆ)と呼ばれていました。
宝川温泉がいつ頃から温泉として利用されていたかは、今のところはっきりした史実や遺跡は発見されていません。しかし近くで縄文人の遺跡が発見されており、その時代から利用されていたのではないかと考えられます。草津温泉などでも縄文の遺跡が発見されていますが、その地形や標高などから考えると、決して古代人にとって住み良い場所ではなかったと思われます。実際遺跡が発見されている事実から、古代人にとって温泉が非常に重要な役割を果たしていたのだと考えられています。お湯を沸かす技術はとても難しく、まして全身を温めることは、温泉を除いては不可能だったのではないでしょうか。現代人と同じように、温泉は病を治す有効な手段であり、貴重なものだったと考えられます。猿が学習によって温泉に浸かっている温泉地もありますが、その姿が古代人のそれに重なって見えます。
宝川温泉の名前は、旅館を分けて流れる一級河川宝川に由来しています。宝川とは文字通り、宝がとれる川の意味で、昭和の初めまで銅山として採掘が行われていました。古くは江戸の昔から、掘られていたと思われます。
宝川温泉が現在のかたちになったのは大正時代で、そのころに湯治場としての宿泊施設が作られています。しかし当時は交通の便が悪く、水上から徒歩でこの地を訪れていた。当時の産業は林業しかなく、材木を引き出すトロッコが唯一の交通手段でした。現在のように発展したのは、昭和20年代後半から始まる一連のダム工事によって道路が建設され電気が通るようになってからです。昭和30年に約2年の大工事により、現在の本館が造られ温泉旅館としての形が整い、次々と施設が作られていくようになりました。 
■高崎市
上野国分尼寺跡   高崎市群馬町東国分
「上野国分尼寺跡」入り口の道標があります。この辺りの畑で発掘調査が行われ、瓦の欠片などが出土したということで、道端には瓦の欠片を沢山見ることができます。まだ南側を現在調査中とのことでした。いずれ復元されることでしょう。
上野国分寺薬師堂   高崎市群馬町東国分
現在の上野国分寺を訪ねてみました。薬師堂と墓地があるだけでした。
上野国分僧寺跡   高崎市群馬町東国分
伽藍配置図を見ると、南大門、中門、金堂、講堂が南北一直線に並んでいて、配置は東大寺方式で、750年頃には完成していたといわれ、国分寺としては最も古い時代のもの。金堂跡と礎石と、七重塔の基壇を見ることができます。築垣が復元されていて、南側にあるガイダンス施設では復元された七重塔を見ることができます。
妙見社(尊)   高崎市群馬町引間   
妙見寺と併設。花園妙見尊というのは、昔この辺りを花園村といっていたからだといわれています。将門が天慶二年(939)、常陸、下野に続いて上野の国府を攻略して、神託を受けて新皇と称したのが、この妙見社だったという説があります。また、染谷川の戦いで将門と戦った平良文が勝つことできたのは、この妙見尊の霊威あるものとして、良文はのちに秩父と千葉へ勧請して厚く信仰したといわれています。
妙見寺(みょうけんじ)   高崎市引間町 
別称 七星山息災寺、羊妙見 天台宗寺院 山号は三鈷山、院号は吉祥院。本尊は釈迦如来。
この寺の創建年代等については不詳であるが、714年(和銅7年)またはその翌年の715年(霊亀元年)上野国大掾藤原忠明の開基により創建されたと伝えられる。
「花園星神記」によれば、忠明がこの寺へ来て宿泊し、夜半目覚めてあたりを見渡すと、乾の方角に光明が立ち上っていた。不思議に思って侍臣を遣わせ調べると、冷水町の小祝池からとわかり、水底を探らせたところ、目が赤く首の白い珍しい亀を得た。これを時の帝に献じたところ喜ばれ、元号が霊亀に改められたという。
797年(延暦16年)に成立した「続日本紀」にも「妙見寺」に関する記載があることから、古くからある寺院と考えられている。古くは「七星山息災寺」と号し、妙見菩薩を祀る寺として信仰されてきた。羊妙見とも呼ばれ、多胡碑の「羊」との関連を指摘する向きもある。
平将門の乱では、染谷川の戦いで苦境に追い込まれた平良文が不思議な声を聞き、導かれてついて行ったところ当寺にたどり着いた。そこで僧から七星剣を渡され、以来妙見菩薩の加護を受けるようになった。良文と関係の深い秩父神社、千葉神社の妙見は当寺から勧請されたものである。
江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられている。  
染谷川合戦場跡   高崎市群馬町引間〜前橋市元総社町
妙見社の前に染谷川が流れています。『新編武蔵風土記稿』の秩父妙見社の項で伝えられている合戦場。合戦の詳しい内容は、染谷川の西の国府村(現在の引間か?)側に良文軍、東の元総社側に将門軍が対峙し、激しい戦いが始まりました。午前中は日光を受けて良文側の矢が当たらず、将門軍の矢は百発百中で良文軍は全滅に瀕しました。そこで、良文が妙見菩薩に助力を祈願したところ、妙見のお姿が良文の甲の前立に現じて蒼然たる光を放しました。その光に将門軍は目がくらみ、矢が当たらなくなって、惨敗して立ち退くことになったといいます。でも、戦った時期が天慶年間、国香はこの時期はすでに野本合戦で死亡していて、この戦いがこの時期にあったとは思えません。
一方、地元の口碑や妙見信仰での伝承では、承平元年(931)、将門・良文連合軍と国香軍が上野国府のすぐ近く、上野国花園村(群馬町)の染谷川で戦いをくりひろげたといわれています。結果として将門・良文は敗れ、わずか七騎で逃れてきたところを妙見菩薩に助けられたという逸話があります(『妙見縁起絵巻』)。この「染谷川」は現在では川幅わずか2mほどの小川であり、この戦い自体も実際にあったかどうか疑問視されています。将門と国香の常陸国蚕飼(子飼)川の戦いをアレンジした伝承ともいわれています。
■北群馬郡榛東村
常将神社   榛東(しんとう)村山子田
柳沢寺の北隣にある神社。平常将の伝説を起源とする神社で、以前はここから少し離れた小字神田(柳沢寺の南側?)にあり、現在の位置に移ったのは元禄年間(1700年前後)だといいます。神社の前には、ほのかに門前町の雰囲気がただよいます。
柳沢寺 1   北群馬郡榛東村山子田 
常将神社から南西方面へと向かうと「柳沢寺」(りゅうたくじ)があります。南北朝時代に作られたという説話集「神道集」には、この寺の縁起が書かれています。それによると、平安初期のころ最澄が群馬県地方を巡教したおり、船尾山に妙見院息災寺という寺を建立した。その寺はその後200年以上にわたって栄えたようだ。1079年ごろ「平常将」という豪族がその息災寺に願掛けして子供、相満(そうま、地名の相馬はこの名からか?)君を授かった。願掛けのときに約束にしたがって、常将は子供が5歳になったとき学問をさせるために寺に修行に出した。ところが榛名山に住む天狗が相満君をさらってしまう。それを聞いた常将は、息災寺の僧が相満君を妬んで殺したと思い込み寺を襲撃した。寺が焼け落ちるとき天狗が現われ、常将は若君が天狗にさらわれたことを知り、寺を焼き打ちした自分を恥じて自害してしまう。柳沢寺は常将の奥方が、息災寺を再興するために建立したのが始まりだといいます。
息災寺が焼け落ちるときに、矢につがえて放たれたとされる観音像が「矢落ち観音」です。平常将は上総地方の実在の豪族で、初めて千葉姓を名乗った人物。北関東の天台の古刹には、こんな雰囲気の境内の寺がいくつかあります。案外、船尾記に登場する息災寺は柳沢寺そのものかも知れません。
また将門伝説では、将門がこの寺に襲来してこの寺に火を放ちました。すると大力の男が寺の千巻経を背負って、南原というところの窪地に運んだといい、その地は千ヶ窪という地名になったといいます。
柳沢寺 2   
天台宗 船尾山柳沢寺
この寺の成立について最も古い記録は、今より800余年前に成立した「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」という、一章の記載です。更に、200年経過した中世末に「船尾山縁起」が成立しました。
そこには、この寺の縁起として、次のような伝説が書かれています。
平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間の事です。天台宗宗祖傳教大師の東国巡行のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って榛名山中の船尾の峰に"妙見院息災寺"という巨刹を創建し、大師を請じて開山しました。本尊に千手観音をお祀りし、子授け観音として有名になりました。その後、子供に恵まれない事を憂いていた千葉常将という武将が霊験あらたかといわれた船尾山の観音様に願を掛けたところ、一子相満若が産まれました。常将は喜び、子供を船尾山に預け養育しました。やがて相満は立派な若者に成長しましたが、ある時榛名山に住む天狗が相満に恋慕し、祭礼の日にさらってしまいました。
父、常将は、寺側が立派な若君を手放すのを惜しんで隠したものとして怒り、手勢を連れて、寺に抗議に押し掛けました。寺側との行き違いから争いとなり、全山焼失してしまったそうです。その後、天狗が現れ、子供を預かった事を伝えたので、常将は思い違いから寺を焼いた事を悔いて、郎党と共に自害しました。
常将の妻は、夫や一族を弔うため、現在の柳沢寺の地に寺を再建しました。それから後を追って、池に身を投げて死んだと言う事です。この地を大悲天女の池と言い、奥方を祀ったのが思川弁財天であり、常将と一族を祀ったのが、常将神社となりました。
神道集の説話と船尾山縁起のそれとは違っていますが、昔榛名山中に大寺院があり、それが消失したと言う土着の古伝説を基盤とし、榛名東麓の農村社会と関係の深い相馬岳信仰と結びついて語り伝えられたこの伝説の中には、小地名の起源説話が多く目に付き、地方農村への唱導文芸の流入事情などが伺えて興味深いものがあります。
天台宗に所属し、延暦寺の直末の寺として中世には学僧も多く出現したといいます。戦国時代末には北条、上杉、武田の争覇の戦場となり、全ての堂宇を焼失しました。江戸時代に入ると天海僧正、高崎城主・安藤右京進などの尽力により"朱印地三十石"を賜り再建に着手、貞享元禄に至り諸堂の修復を見ました。
現在は境内地約3万平方米。戦後すぐ参道の巨木の並木も伐られましたが、まだ残る杉木立はその中に散在する諸堂に色を添えています。諸堂並びに庫裡は大正元年〜7年にかけて大修理がなされ、茅葺きより瓦葺きに改められましたが破損著しく、昭和55年より2年に渡って大修理がなされました。  
相馬ヶ原   榛東村広馬場(ひろばば)
地名の「相馬ヶ原」(旧相馬村)は、先に出た平常将の子・相満(そうま)からきているとか、将門の育った相馬郡からだとかいろいろな説があります。榛名山の最高峰が相馬山(別名・黒髪山)といって、山頂に相馬大権現(黒髪神社)が祀られていて将門の権現石像があります。
染谷川   榛東村広馬場
染谷川の下流に「花園妙見寺」(現高崎市・旧群馬町引間)があり、その周辺で将門と平良文とが戦ったという「染谷川古戦場跡」があります。
黒髪神社   榛東村広馬場
将門は美しい黒髪をしていたので相馬山の別名を黒髪山といいます。相馬山は山岳信仰の霊山として、古くから厚く信仰されていました。しかし険阻なため、老人、婦女子には登拝は困難なため、里宮としてここに上野祠(黒髪神社)が建てられました。
「宿稲荷神社」榛東村広馬場字宿
在原業平もしくは箕郷城主長野氏ゆかりの神社で、藤原貞業なる者が京都伏見から勧請したものだといいます。社殿の見事な彫り物は、すばらしいです。
「箕輪城址」高崎市(旧箕郷町)東明屋
箕輪城は大永6年(1526)、長野業尚(ながのなりひさ)によって築かれた丘城です。長野氏は在原業平の子孫を称しています。普通武家は源氏あるいは平氏を称することが多いのですが、わざわざ歌人である在原業平の子孫を称するのはなぜでしょう。もしそうだとしたら、長野氏は上杉家の家臣として室町時代初期、上杉氏が上州の守護大名になるとともにこちらに移ってきたと考えられます。
また、長野氏の家臣に上泉信綱(かみいずみのぶつな)という人がいます。剣聖と謳われた剣法の達人で、長野氏滅亡後は新陰流という流派を生み出します。高名な塚原卜伝は彼の弟子です。この人は当初、大胡(おおご、現在の群馬県勢多郡大胡町)にあって大胡信綱と称していましたが、その後上泉(現在の前橋市上泉町)に移って、上泉信綱と名乗りました。ですから、上杉氏の家臣が長野村で地名をとって長野氏を名乗った可能性もありえます。あるいは、長野氏は元々この地の豪族だったのかもしれません。しかし、そうだとすると、先程も書いたように、わざわざ歌人在原業平の子孫を称する理由がわからなくなります。 
相馬山   榛名山榛東村
山頂には小さな小屋(相馬神社)があり、信者らしき人が、祀ってあるものを拝んでいました。遠望すると、雲取山の手前に御荷鉾連山が見え、富士山の手前には甲武信など秩父連山がひとかたまりになっています。目をずっと左に転じると、妙義山の向こうに荒船山。山頂の西の端に行ってみると浅間山、鼻曲山、浅間隠山、掃部岳、谷川岳、小野子山と、見慣れた山が並んでいます。山頂は狭く、先客が多くて腰をおろす場所がありません。小屋(神社)の右に三体の石像があり、真ん中の石像が将門像(相馬または黒髪明神像)と伝えられています。なお、地元では山頂の石像を「相馬大権現」と呼んでいますので、この呼称では「将門」に間違いないことでしょう。また、黒髪明神と呼ばれているのは将門が美しい黒髪をしていたので、相馬山の別名を「黒髪山」ともいい、相馬明神を「黒髪明神」と称したといいます。  
榛名山と東麓の史跡   北群馬郡榛東(しんとう)村 
榛東村は、群馬県のほぼ中央、村名のとおり榛名山の東麓にある村で、村全体が北西から南東に向かって傾斜しています。榛名山は、かつては富士山に良く似た円錐形の標高約2,500mもある成層火山でしたが、約22万5千年前に山頂部で大爆発があり、その後数回の火山活動で中央火口丘の榛名富士を中心とする日本唯一の四重式の複式火山となりました。写真は、前橋市内の利根川に架かる南部大橋から見た榛名山の全景ですが、山頂部のピークは、右から水沢山、二ツ岳、相馬山、榛名富士、鷹ノ巣山、三ツ峰山、音羽山、鐘撞山、天狗山、種山です。
全景写真で先の尖った一番高く見えるピークが「相馬山」(そうまさん、標高1,411m)で、外輪山の東外縁に位置し、西外縁の「掃部ヶ岳」(かもんがだけ、標高1,449m)に次ぐ標高を誇り、その急峻な形状から日本のマッターホルンとも呼ばれています。前橋市内から伊香保経由で約35km、1時間の広大なカルデラ(火山活動でできた凹地)内の登山口から約1時間20分ほどで登頂できますが、山頂付近は鎖や梯子を使う急登となっています。写真は、カルデラ内から見た夕陽に映える相馬山です。
相馬山は別名「黒髪(くろかみ)山」とも呼ばれ、山頂部は「黒髪山神社」となっています。神社の名称は雷を意味する「くらおかみ」に由来し、実りの雨を約束する雷雲の湧き起こる相馬山を神として祀ったものと言われています。写真は、榛東村広馬場の「黒髪山神社」ですが、境内には「右相馬山登山道」と刻まれた道標があります。これは、険しい相馬山の山宮を老人や婦女子が参詣することが難しかったため、明治20年に里宮として建てられたものです。
相馬山は約2万1千年前の火山活動でできたものですが、その後間も無く大規模な山体崩壊が発生し、岩屑雪崩が南東斜面を流れ下って山麓に堆積し「相馬原」(そうまがはら)が形成されました。相馬原にはかつて陸軍の演習場があり、現在は陸上自衛隊相馬原駐屯地と相馬原演習場があります。高崎市、渋川市、榛東村にまたがる山頂部は榛東村の最高標高点となっており、東から南にかけての関東平野方向の眺めは抜群で、南の奥秩父の山並みの上には富士山が見えました。写真は、眼下に広がる相馬原です。
榛東村長岡の「茅野(かやの)遺跡」は、今から約2,500〜3,000年前の縄文時代後期から晩期にかけての住居、墓、水辺の作業場などのムラの跡で、国の史跡に指定されています。遺跡からは土器、石器などの日常の道具や土偶、石剣などの祭祀道具に加え、577点にも及ぶ大量の土製耳飾りが出土し、これらの出土品は国の重要文化財に指定され「榛東村耳飾り館」(榛東村山子田)に展示されています。写真左側が茅野遺跡で、発掘後は茅野公園として保存されています。
榛東村山子田の「船尾山柳沢寺」(ふなおやまりゅうたくじ)は、800年以上の歴史を有する古刹で、寺伝によると、平安時代初期に榛名山中の船尾山(吉岡町の船尾滝付近)に建立され、その後現在の地に移され戦国時代には荒廃しますが、江戸時代初期に天海僧正などの尽力により再建されたそうです。写真は、江戸時代中期に創建された「仁王門」と近年建てられた五重塔です。
榛東村を含むこの辺りは、かつて「桃井(もものい)荘」が形成され、鎌倉時代から南北朝時代にかけて下野国の足利源氏の一族が桃井氏を称して治めており、榛東村の村名も昭和34年までは「桃井村」となっていました。写真は桃井氏の居城があった「桃井城址」(榛東村山子田)ですが、隣の吉岡町上野田にも桃井氏の居館であった「桃井館」(とうせいかん)があり、これらは別城一郭(べつじょういっかく、二対で一つの城)と考えられています。
榛東村は関東随一のぶどうの郷としても知られ、夏から秋にかけて約30軒の観光ぶどう園が賑わいます。 
■多野郡
駿河大明神   多野郡神流町神ヶ原字間物
集落の入り口に、「駿河大明神」の小さな祠があり説明板があります。これによると、将門の妾・駿河姫(御前)が石間(城峰山)城の陥落後、将門が関東平定を祈った叶山丸岩へ祈願しようと、下僕を従え志賀坂峠を越え、この地・間物に逃れてきました。姫と下僕二人は、落人生活をするうち互いに慰め合い身分の許されない関係に陥ります。下僕は恐れ多いということで、局所に蕗の葉をあてがってするまねをしましたが、ついに本当になってしまいました。自責の念に駆られ二人は自害、村人は二人をこの社に祀り、二人が互いに慰め合ったということで須流真似(するまね=洒落か)大明神を建てて、御前を偲んで立派な男根を祀るようになったと伝えられています。こんなことから、この地の蕗の葉はどれも穴が開いているといいます。
また、間物集落ではぬるでの木で男根の形を作り、「おんまらさま」と呼んで注連縄の真ん中に吊るす習慣があります。さらに気がついたのですが、この間物集落には強矢(すねや)姓が多いのは、将門落人伝説となにか関係があるように思われますが、如何でしょうか。
野栗神社   多野郡上野村新羽字野栗
多野郡の奥地・神流(かんな)川流域に、野栗神社が多く分布しています。この野栗神社には将門の弟・平将平の御子を祀り、駿河明神には将平の奥方(または将門の妾)の駿河御前を祀る、と伝えられています。
神流川   多野郡
将門が石間(城峰山)に潜伏中、その一丈余の髪の毛がこの川に流れ、追っ手の秀郷に所在を知られて滅ぼされることとなった。このように、一名「髪流れ川」ともいわれた伝説があります。今でも秘境で、徳川中期に上流から椀が流れてきたことから初めて知られた部落もあったという。将門の恨みで、この一帯には秀郷の紋所である桔梗が一本も生えないと伝えられています。秀郷の紋所と桔梗の関係はこの地方だけのようです。
乙父の相馬家   多野郡上野村乙父
この家は将門の後裔で、家紋は将門の紋・九曜です。この地に逃れたとき、門松としてツガマツを飾り、以後、その風習を続けているといいます。
楢原の黒沢家   多野郡上野村楢原
将門の流れを継ぎ相馬と名乗っていましたが、弘治二年(1556)、黒沢に改めたといいます。楢原集落には、旧黒沢家住宅が残されています。
杖植峠(おそう峠)の伝説   多野郡神流町持倉
将門に寺を焼き討ちにされて逃れた僧の一団が、奥多野の万場の山奥へ分け入り杖植(つえたて)峠を越えようとしました。飢えと寒さの中、やっと山陰に人家を見つけ一夜の宿を乞うたところ、大勢を泊めることはできないと断られ、しかたなく山道を登っていきました。やがて春となった峠道に、その僧たちが赤い石と化して転がっているのが発見されました。そしてこの峠を「おそう(和尚)峠」と呼んだ、と伝えられています。
■富岡市
一ノ宮貫前神社 1   富岡市一の宮
(いちのみやぬきさきじんじゃ)
創建は社伝によると、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方で、荒船山に発する鏑川流域の蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが安閑天皇の元年(531)といわれています。神社は一般的には参道を上った位置に本殿があるのですが、この神社の場合は参道を下った低地に本殿が位置しています。将門がこの社に詣でて武運を祈ったといいます。
一之宮貫前神社 2
式内社(名神大社)、上野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。当社は物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。
境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。
祭神は以下の2柱。
経津主神 (ふつぬしのかみ) / 葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している。
姫大神 (ひめおおかみ) / 祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされているほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。
創建
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部君姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(535年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。
概史
現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。
宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる。
『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる。
中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる。
江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。
抜鉾神社と貫前神社
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。
2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。
1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。 
藤太杉 1   富岡市一の宮 貫前神社
貫前神社の境内(本殿後ろ)に、藤原秀郷が将門討伐の折に戦勝祈願をして、この杉を植樹したと伝えられています。  
藤太杉 2
幹周 7.3m 樹高 23m 樹齢  伝承1200年
上野国一宮の貫前神社。長い石段を登り終え鳥居をくぐると眼下に本殿が広がる。今度は石段を下って本殿にたどり着くという珍しい作りの神社である。本殿の裏には広大な境内林が広がり、その中に樹齢約1200年という御神木、藤太杉がある。平将門討伐の折に藤原太郎秀郷が植えたと伝えられ、名前の由来もここからきているとされる。

藤原秀郷が将門討伐の際、自身の年齢と同じ36本を植えた中の一つとされ、立派な杉は他にもありました。  
■藤岡市
鬼石神社 1   藤岡市(旧鬼石町)鬼石字宮本
(おにしじんじゃ)
鬼石伝説について、『鬼石町誌』には次のようにあります。上野国志御荷鉾山の條に「土人相伝、往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の為に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落ちる地を鬼石といふ。」
つまり、昔、御荷鉾山に悪事をはたらく鬼が住んでいて、人々に危害を加えていた。人々が困り果てていたとき、偶然立ち寄った弘法大師に人々が助けを求めた。弘法大師が護摩を焚いたところ、鬼はたまらなくなって近くにあった大きな石を放り投げて逃げていった。その石が落ちたところを「鬼石」というようになった。また、御荷鉾には「投石峠」という峠もあり、そこから石を投げたともいわれています。そしてその投げられた石は、その名も“鬼石”とよばれ、現在の「鬼石神社」の御神体として祀られ、建物の横の方からその姿(鬼石)を覗くことができます。この神社は、将門の霊あるいはその公達を祀り、将門の甲冑像を御神体としていたといわれています。また、以前は「鬼石大明神」といわれ、社殿の鬼石の下に将門の首を埋めたとも伝えられていて、古くは将門のゆかりのある社であったといいます。
鬼石神社 2
旧郷社 御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
群馬県藤岡市(旧鬼石町)にある。八高線の群馬藤岡駅の南11Kmほどの鬼石に鎮座。埼玉県との県境である神流川の西側、鬼石町の中央部西側に境内がある。
境内入口は462号線に面して東向き。参道の階段の途中に「鬼石神社」と刻まれた社号標がある。その脇の石碑には、第61回伊勢神宮式年遷宮の際に当地・鬼石の三波石が皇大神宮大御前石階の改修に用いられたとある。階段を上ると赤い鳥居。参道を進むと左手に手水舎があり、右手に神楽殿、正面に瓦葺入母屋造の拝殿がある。拝殿後方に、垣に囲まれて銅板葺流造の本殿。本殿の床下に社号のもととなった鬼石がある。
創祀年代は不詳。江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
当社には石棒二点、凹み石一点が保管されており、神体石である本殿床下の鬼石を、『日本の神々』では自然崇拝に基づく石神で、いわゆる「神籠石」であろうとして祭祀の起源は縄文時代にまで遡れるのではないかと記している。
当社に関して、江戸時代の文献に以下の記述がある。
御荷鉾(みかぼ)山(標高1246m)の頂に鬼が住み、村人に害をなしていたが、弘法大師に調伏され、巨石を投げて逃げ去った。その巨石が落ちたところが鬼石で、その石が今も村中にある。
また、大同の頃、御荷鉾山に伊勢国鈴鹿山の鬼神の子孫である二鬼が住み里人を大いに悩ませていた。修行の途中立ち寄った弘法大師が阿毘遮廬の護摩を焚かれたところ、鬼たちはいたく感じ、石と化した。その石が遥かに飛んで神流川のあたりに留まった。その地を鬼石村と号し、その精霊を祀って鬼石大明神とした。
また、鬼石大明神は平親王(将門か?)の公達を祀ると言い伝えられ、当地は平将門の宮女の潜居の地であるとも伝えられているらしい。  
尾之窪城址 1   藤岡市三波川大沢(旧鬼石町)
この城は、天慶年間、平貞盛が将門を追討するために、築いた砦だと伝えられています。付近には、勝負台とか勝どき丘などの地名も残っています。
尾之窪城 2    
天慶年間、平貞盛が将門を追討するために築いたという。
三波川(さんばがわ)   藤岡市三波川
群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。
流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
流域の歴史
古墳時代 神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれる。
平安時代 三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残る。
江戸時代 1656年(明暦2年):三波川村および近隣の譲原村、武蔵国渡瀬村に潜伏する隠れキリシタンが捕らえられる。 
平滑の魔峰   藤岡市(旧鬼石町)三波川字平滑
この地の「魔峰」というところで、将門と国香(将門の叔父)とが戦ったところだと伝えられています。   
大内平   藤岡市(旧鬼石町)三波川字大内平
平滑から近いところに「大内平」があります。ここで平国香の愛馬が、井戸に飛び込んで死んだという。そのため、この地では井戸を掘ることを禁じられたといいます。
雨降山・姥神様   藤岡市(旧鬼石町)雨降山
赤い鳥居を潜って雨降山登山道を登ります。約一時間で雨降山東峰、琴平神社奥の院があります。雨降山(1013m)の山頂から、すぐ近くに東御荷鉾山(1246m)の鉾のような山様が見え、天気が良くて遠くに白く雪を冠にした浅間山が手に取るように見えます。この山に平国香(将門の叔父)の奥方が、侍女二人を連れて隠れ住んだといいます。この山の姥穴に住んでいたので、このことから姥神を祀り姥神様と呼ばれたそうです。この姥穴は、雨降山東峰にある琴平神社奥の院あたりだと思われますが確認できませんでした。
神戸の地   藤岡市(旧鬼石町)坂原字神戸
将門の一類が、この地に住んでいたと伝えられています。
鏡の森   藤岡市(旧鬼石町)坂原
城峰山から桔梗の前の鏡が投げられ、それが落ちた場所を「鏡の森」といいます。ここに祠を建ててその鏡を祀っていましたが、落雷により焼け落ちてしまったと伝えられています。また、このあたりには、桔梗の花が咲かないといいます。この鏡の森がどこなのか確認できませんでしたが、たぶん神戸の地ではないかと思われます。
下山城址(または譲原城址?)   藤岡市(旧鬼石町)譲原
平貞盛がこの地を通り、都に上がろうとしました。将門がこれを追ってこの地が要害の地であることを知って、万一を慮り築城しました。のちに、藤原秀郷の討伐によって落城したといいます。
新井家にある桔梗の鏡   藤岡市(旧鬼石町)譲原
この新井家は代々坂原に住んでいて、鏡の森の祠に桔梗の鏡を祀り大切に護ってきたといいます。この祠は落雷により焼け落ちてしまいましたが、御神体の桔梗の鏡は当家に現存していると伝えられています。この桔梗の鏡は、直径11.5pで花鳥八稜鏡といって、平安時代の作だといいます。
子王山城址 1   藤岡市下日野
子王山(こおうやま)で、すぐに「二千階段」が始まり丸太の階段の急登が応えます。約四百段(反対側の階段を入れて二千です)で山頂(550m)、山全体が城址です。有料の望遠鏡があるほど、北関東の展望が素晴らしいところです。先週登った雨降山や御荷鉾山など、西上州の山々がよく見えます。この山城は、将門の臣・柴崎兵部景保が築いたと伝えられています。天慶三年(940)、将門がこの城に篭もり、藤原秀郷・平貞盛軍と戦ったといいます。またこの山には、将門の埋蔵金伝説があります。将門の臣であった柴崎兵部景保が、子王山の山頂に築いた城址に金千貫を埋めたといわれています。言い伝えに、「朝日が当たり、夕陽が遅くまで照らしている場所に金千貫漆千貫」とあります。
子王山(こおうやま)城 2
別称 皇鳳山城、喜平次の城  分類 山城  築城者 多胡政兼ないし柴橋景家か 遺構 曲輪跡、土塁、堀跡
説明板によれば、平将門の家臣柴橋兵部景家によって築かれたとある。他方、『日本城郭大系』には、天慶の乱の際、多胡政兼が築いたとある。天慶の乱は将門が惹き起こしたものであるが、政兼が将門方・朝廷方のいずれであったのかは明らかでない。そもそも、政兼や景家といった人物が実在したかも定かでなく、平将門の時代に築かれたとするのは伝承に過ぎない。現地説明板によれば、天文二十一年(1552)に長尾景虎(後の上杉謙信)が平井城を奪回した際に、景虎の甥の長尾喜平次顕景(後の上杉景勝)がこの城に入ったため、「喜平次の城」と呼ばれるようになったとある。しかし、顕景は弘治元年(1555)生まれであるため、天文二十一年には城に入り得ない。また、天文二十一年は上杉憲政が北条氏によって平井城を逐われた年であり、景虎が関東へ進出するのは、永禄三年(1560)以降のことである。このほかに、子王山城について伝承などはみられず、廃城時期等は不明である。

子王山は、鮎川に臨む標高550mの半独立峰で、皇鳳山とも書きます(読みは同じ)。周辺の山々のなかでも屈指の標高をもち、山上からは遠く筑波山と思しき山まで望むことができました。
子王山へは、西麓から「二千階段」と呼ばれる聞くだけで疲れてしまいそうな登山路がありますが、南東の椚山集落からなら比高差100mほどですむ道があるので、こちらを推奨します。ただ、私が訪れた時には、西麓の鮎川方面から椚山へ登る道が工事中で通行不可だったため、東の三名川沿いの道から登らなければなりません。
子王山城は、山頂の主郭を中心に、2〜3段の帯曲輪を巡らした縄張りをもっています。帯曲輪の一画に、朱塗りの小さな神社があります。主郭の西には、堀切を挟んでやや広い出丸があります。現地説明板ではこれを二の丸としています(説明板もここに設置されています)。この曲輪は現在展望台となっていて、平井金山城や山名城など、周辺を代表する山城をすら眼下に一望のもとに収めることができます。
椚山方面から登る遊歩道は、主郭に向けてほぼ一直線に伸びているのですが、残念なことに途中の帯曲輪を分断してしまっているようです。帯曲輪に至る手前で、注意深く覗くと藪の中を西手に進む旧道があり、先の神社の下を通って二の丸の堀切下に到達します。おそらく、こちらが当時の登城路であったものと思われます。
説明板にある、天文二十一年に上杉景勝が入城したという伝承は、先述の通りそもそもあり得ないことですが、「喜平次の城」という別称が伝わっているのであれば、その由来についてはいくつか仮説が立てられるかとおもいます。まず、喜平次が景勝を指すのであれば、景勝の初陣とされる永禄九年(1566)から謙信が死去し御館の乱が勃発した天正六年(1578)の間のことと考えられます。子王山城の役目は一にも二にも物見だったでしょうから、景勝がこの城に長居するようなことはまず考えられませんが、何らかの理由でちょっと立ち寄るくらいのことはあったかもしれません。
もう1つは、「天文二十一年」にこの城で何かがあったという点が正しいとして、景勝と別の「喜平次」という名の城主が存在したと考えることもできるかと思います。この場合、「喜平次」は上杉憲政か北条氏康の家臣で、北条氏が平井城を奪取した際に子王山城も攻め落としたと解釈することができるものと考えられます。
いずれにせよ、今に残る遺構からは、平将門云々はともかく戦国時代までは使用されていたことは、明らかであるといえます。 
柴崎家   藤岡市下日野
柴崎家は、柴崎兵部景保の後胤で将門の一族といわれ、紀州からやってきたといいます。さらに下ると鮎川に出ます。少し下ると「蛇喰(じゃばみ)渓谷」があります。「大蛇が岩を噛み砕いて流れをせき止めた」という伝説が伝えられています。渓谷の紅葉は、今が一番のようです。
不動嶽の戦い   藤岡市上日野
将門がこの地の多胡春好(多胡氏は北隣の吉井町が本拠地)を頼り、不動嶽の麓に立て篭もり、源経基と戦いましたが利あらず、下総に引き上げたといいます。この不動嶽がどの山なのか確認できませんでした。たぶん御荷鉾山のことではないかと思われます。
将門の遺児   藤岡市上日野
将門の乱のころ、多胡三郎能武という者が、将門の子の良門と娘を奉じて奥州の地に隠匿したといいます。
将門の宮女   藤岡市上日野
御荷鉾山の麓には、将門の宮女が潜居したところがあると伝えられています。
染谷川   藤岡市緑埜(みどりの)
この川の近くで、将門が合戦したといいます。たぶん竹沼貯水池から流れ出る川かと思われます。
玉村町の龍の玉伝説(玉村の由来)
昔、天慶年間(938〜46)、沼田のんだ(今の柴八斗島の総称、西は沼之上今の五料に対する処)の庄の地頭に美しい娘がいたが、錦野の里(今の玉村を中心とした滝川・上陽の一部・芝根等の総称)の若者と相思相愛の仲になった。彼女の美貌が、将門の権に媚びる土豪の目にとまり、彼女を将門の待妾に送ろうと企まれた。親の地頭はそれとさとり、娘をひそかに若者の許に走らせた。すると土豪の追手が、大勢錦野の中を流れる矢川のほとりでこれを捕らえようとした。娘は進退きまわり、矢川の急流に身を躍られて自らの命を断った。この時、急を救おうとかけつけた若者も後を追って同じ矢川に身を投げて死んだ。
その後、この川の流れに二つの光る碧玉がしばしば漂うのが見えた。村人は考えた。この娘はきっと「龍人」の変化で、玉は「龍人のあぎとにある玉精であろう」 と、そこで二人の霊を慰めようと玉を「近戸大明神」に祀った。後、矢川は年々の洪水で川幅が広がり明神は移り、利根川の大洪水で龍神が現れ、碧玉の1つを奪って行った。残る一つは今の「満福寺」に奉ってある。龍の玉のために出来た村から玉村と呼ぶようになったとされている。
満福寺   玉村町福島
この寺に、玉村伝説の碧玉の1つが祀ってあるといいます。近戸大明神や矢川がどこなのかは未確認。寺の裏手に利根川が流れています。  
多胡碑   吉井町大字池
多胡碑は、和銅4年( 711)、県西部の片岡・緑野・甘良の三郡から300戸を割いて、多胡郡を設置した旨の弁官符を刻んだ古石碑です。石碑は台石・碑身・笠石で構成され、碑身は高さ1.27m、幅0.6mの花崗岩質砂岩で、6列に80文字が刻まれています。碑は観音堂風の覆屋に収められています。宮城県の「多賀城碑」、栃木県の「那須国造碑」と共に日本三古碑の一つとされ、特別史跡に指定されています。
多胡館跡は、吉井町内最古の館跡。多胡丘陵の平坦地に築造され、東西110m、南北110mの広さ。西北・東北隅・東南に土塁、堀跡が残る。南面中央に正門・北面やや東寄りに裏門跡が認められます。永治・康治(1141〜1144)の頃、源為義の二男義賢(よしたか)(多胡先生(せんじょう)、木曽義仲の父)は、都より下って多胡館に居を構えたが、久寿2年(1155)大蔵館(埼玉県嵐山町)で討たれた。その後多胡氏が居館しますが、戦国の世、西上州は三つ巴の戦の地となり、多胡館も放棄されました。
辛科神社   吉井町神保
辛科神社のあたりの郷名は、昔は「韓科郷(からしなごう)」といいました。また、この地域の郡名は、より古い時代には「甘楽郡(からぐん)」といい、奈良時代初めの711年に甘楽郡から分かれて「多胡郡(たごぐん)」になりました。「甘楽郡」の「甘楽」も、韓または伽羅と同義です。「多胡郡」の「胡」は、本来の字義は「中国の西方の異民族」ですが、日本においては「西の大陸から来た人」を意味します。つまり、「多胡郡」というのは「渡来人が多く住む郡」という意味になります。辛科神社は、多胡郡の建郡直前の大宝年間(701〜704年)に創建され、711年の建郡によって、多胡郡の総鎮守社になったと伝えられます。  
南小太郎山   群馬県南西部  
(みなみこたろうやま、みなみこたろうさん)
群馬県南西部、多野郡神流町にある、登山者の人影も少ない山。東方向に伸びる御僧尾根は、75人の僧侶が雪山遭難して無くなったという伝説の残る場所で、尾根上にある石は、凍死した僧の化身という言い伝えがある。
御僧峠(おそうとうげ) 将門に寺を焼かれた僧の一団が、杖植峠を越えようとした。寒さと飢えに襲われた一団は、一軒家を見つけ一夜の宿を乞うが、こんなに大勢は泊められないと断られた。僧たちは仕方なく、暗い山道に向かって行った。冬が去った峠道には、僧たちが化した赤い石が転々と転がっていた。
杖植峠(つえたてとうげ)   群馬県多野郡神流町平原/甘楽郡下仁田町青倉    
 

 

 
■茨城県

 

■坂東市
國王神社 1   坂東市岩井
由緒
國王神社は、平将門公・終焉の地に静かに佇む古社です。将門公の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが國王神社の創建であり、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)を御神体に戴いております。
創建と歴史
天慶三年(940)二月十四日、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構えた平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。将門公の四百騎は、三千騎の敵軍に対して追い風を得て、当初敵を圧倒します。しかし、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。地元の言い伝えによれば、首を取られた将門公の身体は馬に乗せられ、のちに國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのでした。
月日は流れ、将門公の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきました。奥州・慧日寺に逃れていた、将門公の三女・如蔵尼です。奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、ある日悪夢を得て急いで下総に帰郷し、村人に父の最期の地を尋ねました。熾烈な残党狩りの記憶があった村人たちでしたが、尼僧が将門公の縁者だと分かると、将門公が辿り着いた最期の地・現在の國王神社の場所に案内したのでした。
如蔵尼は、この場所で傍らの林の中より怪木を見つけ、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。  
國王神社(国王神社) 2   
御祭神   平将門命
社格等   村社
例大祭   2月14日
所在地   茨城県坂東市岩井951
由緒
祭神は平将門である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(940)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心にのこる英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。
本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。
歴史
平将門終焉の地・國王神社
茨城県坂東市岩井に鎮座する神社。旧社格は村社で、旧岩井村の鎮守。平将門終焉の地とされる場所に鎮座し、平将門命を御祭神とする。古くは「国王大明神」や「将門大明神」と称され崇敬を集めた。現在は正式には旧字体の「國王神社」と記す。鬱蒼とした境内には、茅葺屋根の社殿が現存しており、茨城県指定有形文化財となっている。
新皇を自称し朝敵となった平将門
社伝によると、天禄三年(972)に創建と伝わる。平将門の三女・如蔵尼が、将門終焉の地に将門を祀ったのが始まりとされる。
「平将門(たいらのまさかど)  平安時代中期の関東の豪族・桓武天皇の五世子孫。下総国・常陸国で伯父の平国香・平良兼ら一族と将門との争いが発生し、一族の争いが、やがては関東諸国を巻き込む争いへ発展する事になり「平将門の乱」が勃発。争いの延長でやむを得ず将門は国府を襲撃して印綬を没収、関東一円を手中に収め京の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇(しんのう)」を自称し、独自に岩井(現・茨城県坂東市)に政庁を置いて東国(坂東)の独立を標榜した。朝廷は将門を朝敵とみなし討伐軍を結成、天慶三年(940)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで、飛んできた矢が将門の額に命中し討死。」
「将門の首は平安京へ運ばれ、晒し首にされた。獄門(晒し首)を歴史上で確認できる最も古く確実な例が将門である。」
将門の首については、死後も様々な伝承が残されている。 将門の首は京都の七条河原に晒されたが、何ヶ月経ても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったとも云われ、更に将門の晒し首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、これが各地に残る将門の首塚。特に代表的で将門の祟りでも知られるのが「将門塚」(千代田区大手町)で、当社と同様に将門を祀る「神田明神」と関わりも深い。
将門の三女が33回忌で将門終焉の地に創建
天慶三年(940)、平将門が討死。将門の三女・如蔵尼は、難を逃れて陸奥国「恵日寺」付近に住み出家したと云う。
「如蔵尼(にょぞうに)   平将門の三女と伝えられる尼僧。将門の死後、陸奥国「恵日寺」(現・福島県磐梯町)付近に隠棲。地蔵菩薩に救われた事で、出家して如蔵と名乗り地蔵菩薩を信仰し続けたため、人々からは地蔵尼君と呼ばれた。」
天禄三年(972)、霊夢を見た如蔵尼は、将門の33回忌にあたるこの年に陸奥国から下総国に帰郷。将門終焉の地に戻った如蔵尼は、付近の山林で霊木を見つけて将門の像を刻んだと云う。父・将門の命日である2月14日、祠を建立し将門の像を安置し、これが当社の始まりとされる。「国王大明神」「将門大明神」などと称されて以後、地域からの信仰を集め続けた。
「将門は地域の英雄   朝敵として討たれた将門であったが、将門が拠点とした岩井(現・茨城県坂東市)では、地域の英雄として崇敬を集め続けたと云う。関東(東国)では将門を英雄視する地域も多く、これは朝廷から重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として、将門を英雄視したのものとみられる。」
徳川家光より朱印地を賜る・幕府からの崇敬
慶安元年(1648年)、第三代将軍・徳川家光より朱印地10石を賜る。
「朱印地(しゅいんち)   幕府より寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。」
幕府から庇護された原因として、平将門を祀る「神田明神」が江戸総鎮守とされた事が挙げられる。
「「神田明神」は江戸城の鬼門守護として幕府によって遷座。江戸設計の多くを指導した天海の主導によるもので、天海は将門公の御霊に江戸を守護させていたとみられている。」
朝廷に歯向かった将門を江戸総鎮守に据える事で、江戸の幕政に朝廷を関与させない決意の現れだったのではなかろうか。そのため、将門終焉の地である当社も幕府より庇護されたのであろう。
「古来、朝敵とされていた将門であるが、第三代将軍・徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が、幕府から将門について色々と聞かされた結果、「将門は朝敵に非ず」との奏上を行っており、この事からも徳川幕府において将門公の御霊が大変重要な役割を担っていた事が窺える。」
元文四年(1739)、将門の死後800年にあたるとして正一位の神位を賜る。
江戸時代初期に現存する拝殿や本殿を造営
万治二年(1659)、火災によって社殿や文献などを焼失。
天和三年(1675)、本殿を造営。この本殿が現存しており、茨城県指定文化財となっている。
延宝三年(1675)、拝殿を造営。こちらも茨城県指定文化財となっている。
「但し、様式的にはもっと時代が下がると推測されていて、再建棟札が残る文化十四年(1817)が妥当だとみられている。」
以後も岩井村鎮守の一社として崇敬を集めた。
明治以降の歩みと平将門評価の変遷
明治になり神仏分離。当社は村社に列した。明治七年(1874)、「神田明神」へ明治天皇の行幸が決定。明治政府が天皇が参拝する神社に朝敵である平将門が祀られている事を問題視したため、将門公は「神田明神」の御祭神から外されてしまう。こうした影響を受けてか、戦後まで当社の御祭神も公式には大己貴命を祀る形となった。
「但し、平将門を祀ると云う由緒は隠される事もなく、『平将門故績考』など多くの書籍では「国王大神」「國王大明神社」として将門を祀る神社として紹介を受けている。」
明治二十二年(1889)、市制町村制によって岩井村・辺田村・鵠戸村が合併し岩井村が成立。明治三十三年(1900)、町制を施行し、岩井町となった。当社は岩井町鎮守の一社として崇敬を集めた。明治四十年(1907)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。岩井町や岩井といった地名も見る事ができ、当地周辺は上岩井と呼ばれていた。
明治四十年(1907)出版の織田完之著『平将門故績考』には当社について詳しく記されている。
「國王大神」として記されていて「将門戦没の故蹟なり」とある。現存する拝殿や本殿、木像の神像についても詳しく記載。更に将門が所持していた笏、鬼神丸と称する太刀などが神宝として納められていた。
「織田完之(おだかんし)   日本の農政家・歴史学者。明治期の印旛沼干拓に尽力した人物。平将門の研究者としても名高く、『国宝将門記伝』『平将門故蹟考』などの著作がある。明治に再び朝敵とされた将門であったが、その復権に織田完之の著作が果たした功績は大きい。」
明治四十一年(1908)、近隣の守神社・疱瘡神社・浅間神社を合祀。
「現在は一部が境内社となっている。」
戦後になり平将門命が御祭神に復活。現在は大己貴命は祭神から外れている。
昭和四十七年(1972)、市制施行で岩井市が成立。同年、岩井市成立を記念して「岩井将門まつり」が開催され、現在も続く。
昭和五十一年(1976)、平将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映。「神田明神」の御祭神に将門が復活し、当社にも放映記念として狛犬が奉納。
境内案内
平将門の史跡が多い坂東市岩井・陸の孤島
当社が鎮座する坂東市は「陸の孤島」とも揶揄される地。全国的にも珍しく市内に鉄道が通っていない事が挙げられる。
「当社への道のりも、公共交通機関を利用する場合は、愛宕駅(千葉県野田市)や守谷駅(茨城県守谷市)よりバスで30分前後の岩井局前バス停で下車、さらにそこからも徒歩である程度歩く事となり、かなり交通の便が悪い場所。そのため自家用車などの参詣を推奨。」
そうした坂東市であるが、当社を含む岩井地域(旧岩井市)は、平将門ゆかりの地として知られる。当社だけでなく、将門に由来する史跡が数多く残るため、当社を含め色々と巡るのをお薦めしたい。
緑溢れる鬱蒼とした境内
当社は県道20号線沿いに鎮座。表参道は県道からやや西へ入った先に南向きで整備。緑に囲まれた鬱蒼とした一画。社頭には「國王神社」の社号碑。正面に鳥居が建つ。鳥居は木造の両部鳥居。鳥居を潜ると緑溢れる境内。撮影は正月三が日のものなので、葉が落ちている木々も多いが、以前春先に参拝した時はもっと緑が深く鬱蒼とした境内であった。普段は無人の神社であるが、氏子崇敬者が定期的に維持管理をしており、以前も地域のお婆さんが清掃している姿を見る事ができ、色々とお話を聞かせて下さった事を覚えている。境内には手水舎はない。古い水盤は残っているものの使用不可なため、そのまま参拝へ向かう。
県指定文化財の茅葺社殿・九曜紋
参道の正面に圧巻の社殿。とにかく特徴的なのが屋根。今もなお茅葺屋根の社殿として現存。葺き替えや維持が大変な茅葺を今も維持しているのが素晴らしい。拝殿は延宝三年(1675)造営と伝わるものの、棟札に記された文化十四年(1817)造営が妥当と推測されている。入母屋造で重厚感のある拝殿。拝殿内には多くの奉納額や将門公の神像の写真、絵画などが奉納されている。本殿は天和三年(1683)に造営とされる。茅葺屋根の流造で、幣殿によって拝殿と接続。細かいものではないものの一部に彫刻が施されている。
拝殿・本殿共に茨城県の県指定文化財。
社殿には至るところに九曜紋。当社の社紋でもあり、平将門が信仰した妙見信仰との繋がりも深い紋。妙見信仰を篤く信仰した将門は九曜紋を使用したと云われている。さらに県指定文化財となっているのが、当社の神像である平将門木像。(非公開) 制作年代は不詳なものの、室町時代の作と推測されている。
狛犬・境内社の妙見社・庚申塔・供養塔
拝殿の前に一対の狛犬。かなり年季が入っているように見えるが戦後奉納の狛犬。昭和五十一年(1976)奉納の狛犬で、同年に平将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映された事を記念して奉納されたもの。台座にNHK『風と雲と虹と』放映記念と記されている。社殿の左手に境内社。妙見社は将門が篤く信仰した妙見信仰によるもの。
「妙見信仰(みょうけんしんこう)   北極星(北辰)を神格化した妙見菩薩に対する信仰。神仏分離後は妙見菩薩と同一と見なされている天御中主神を御祭神とする。将門の一族である平良文の子孫・千葉氏の氏神とされた「千葉神社」などが知られる。」
妙見社の隣に庚申塔。下部に三猿、その上に庚申信仰の本尊・青面金剛の姿が彫られている。さらに浅間大神(浅間神社)。浅間神社は明治四十一年(1908)に合祀されたもの。その隣に守神社。こちらも明治四十一年(1908)に合祀。中の碑には守大明神とあり、将門の子孫と伝えられる室町期の猿島郡司・平守明を祀る。境内の一画に供養塔。平将門を始めとした祖先の供養塔。平将門、平家先祖代々、桓武平氏の霊を供養するために建立。
坂東市の秋の風物詩・岩井将門まつり
当社の例大祭は平将門の命日である2月14日。氏子の間では平将門の命日が2月14日なことから、十四日講という供養行事が代々行われてきたと云う。例大祭とは別に坂東市全体が盛り上がる行事がある。それが11月第2日曜に開催される「岩井将門まつり」。
「岩井将門まつり   昭和四十七年(1972)、岩井市(現・坂東市)の市政施行を記念して開催された祭りで、郷土の英雄である平将門の勇姿を現代に蘇らそうという祭り。毎年11月第2日曜に開催。当社で戦勝祈願を行い、境内を総勢100人の武者が行進して参拝。その後、武者行列が市内を練り歩き、同じく将門公を祀る「神田明神」や将門塚保存会の協力の元、「神田明神将門太鼓」や「神田ばやし」等が披露される。」

平将門終焉の地に、将門の三女によって創建された当社。普段は無人社ではあるが、平将門公を崇敬する人にとっては大変重要な神社であり、崇敬者も多い。立地的に公共交通機関での移動はかなり不便で、自家用車がないと移動が大変な場所に鎮座しているのだが、坂東市(特に旧岩井市内)には、将門に関する史跡が数多く残されているので、当社と共に一緒に巡るのがよいと思う。朝敵とされ討伐された将門であるが、関東圏では一部で英雄視する事も多く、特に江戸時代に幕府が崇敬をしてからはそうした傾向が顕著になったとみられる。しかし明治維新後は再び逆臣とされ祭神を隠されたりと、時代と共に評価が変わり揺れ動いた。そうした中でも地域から大切にされ、今も茅葺社殿が残るのは素晴らしいと思う。魅力の多い神社なので、もう少し色々施策をしたら参拝者もぐっと増えるポテンシャルがあるだけに、平時は閑散としていて参拝する度にどこか惜しい気持ちになってしまうが、素晴らしい境内や歴史を持つ神社であるのは間違いない。 
坂東市 1
将門公
平将門伝説は、北は北海道から西は広島県まで分布し、中でも将門の支配下にあった関東地方に多く残っています。他にも伝承などを加えると、その多彩さに圧倒されます。今から1100年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが将門であったと伝えられています。将門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近かにして敗れてしまいました。将門伝説には、その夢の実現を見ずに散った悲劇性と庶民の願望が、今日まで語り継がれています。
深井地蔵尊と将門妻子受難
結城・坂東線と猿島・常総線が交差する沓掛信号を左折して猿島庁舎方面に向かい、沓掛台地から西仁連川沿いに出るところに大きなカーブがあります。そのカーブの途中の市道を右に入り西仁連川に架かる地蔵橋を渡った左側に深井地蔵尊が祀られています。この堂は、外見だけを見るとありふれた堂に見えますが、平将門の妻子が惨殺された悲劇の場所でもあると考えられます。良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣しますが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却します。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになります。  良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。妻子受難の場所には、諸説があります。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われ、この間の大きな入谷津を総称したと考えられます。深井の地蔵尊の創建は古く、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、この地蔵尊ではないだろうかといわれています。
将門と山崎
県道高崎・坂東線と猿島・常総線が交差する内野山小学校前を沓掛小学校に向かうと、山崎地区があります。同地区には、京都の小路を偲ばせる地名が小字となっています。旧猿島町史資料の『事績簿』によると、『平将門、当地の天然の風致に富めるを愛し、時々駿馬を馳せ来たり。沓を樹に懸けて憩いたるの故を以て沓懸の地名が起こり、沓懸と書きしが、更に沓掛と改書せりと。また将門、都に擬して喜野小路・平形小路・柏畑小路の名称を付けたるなり。現時小字として存す。』とあります。  将門の生涯を叙述した『将門記』によると、坂東8カ国を支配下に治めた将門は、新たに諸国の国司を任命して東国独立国家を開府しました。その上で王城(皇居)を下総国の亭南に定め、さらに文武百官を任命しました。ここに記された王城の立地は諸説ありますが、石井営所の付近と考えられます。京都を見本に「うき橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」と協議され、山崎地区が比定されていたことを『事績簿』は物語っています。この地が将門と深い関係にあったことは確かなようです。また、内野山には古代の製鉄遺跡があり、将門と鉄との相関性が指摘されています。
内野山の松崎天神社
内野山の舌状台地が根元から開削されて、西仁連川が貫流したのは昭和初期のことです。この開削工事によって、西仁連川の東側に取り残された台地上に鎮座するのが松崎天神社です。土手道から坂を登ると、境内入り口に木造両部鳥居があり、参道を進むと社殿の前に出ます。境内の木間越しに飯沼耕地を眺めると、三千町歩の美田が一望できる景勝地に驚かされます。境内にある「村社天満神社碑」によると、平将門没後の天慶8年(945)9月、菅原道真公の子息、景行・兼茂・茂景がこの地に立ち寄り、三方を水に囲まれた舌状台地が湖上の島を思わせ、老松と月影を映すという風光明媚な景色を賞しました。  この台地に、菅原氏の遠祖にあたる「天穂日命」を祀り、併せて道真公を祀って天神社としたことが誌されています。飯沼耕地は、「将門記」に広河の江という名で記され、大蛇が棲む秘境とあり、また周辺には7天神社が鎮座していたとされています。その天神社由来については、『神社縁起書』に詳しく記述され、菅原景行の治績に関係あるとされました。当社を腰掛け天神と称し、景行が将門の開拓思想を受け継ぎ、飯沼の開発構想を練ったことによるといわれています。常陸国の介であっ景行は、介の任期が終えた後、この地にとどまり、対岸の大生郷に学問所を開きました。将門の弟将平も通って修学したとも伝えられています。
弓田の不動尊(弓田のポックリ不動)
主要地方道結城・坂東線を沓掛方面に向かうと、県道高崎・坂東線との交差信号があり、その信号を越して約50mほど進み、小道を左折して道なりに歩くと、右側に「弓田のポックリ不動」で知られた明王山慈光寺が現われます。昔は、弓田を湯田と称しました。湯田とは、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味で、豊穣な土地を指した地名であることからも、早い時期に集落が拓けていたと思われます。寺伝によると、奈良時代の天平18年(746)に、僧行基の高弟がすべての悪魔を退散させ、世の中を平和にする衆摩降伏・真理円融の道場として創建され、不動明王が祀られました。平安中期、平将門が政治、経済、軍事の拠点を岩井営所に移すと、当寺を鬼門除けの本尊として仰ぎ、また守り本尊として深く信仰したと伝えられています。門前から約200mほど西方に、弓田香取神社の杜があり、この杜は律令時代に兵営の守護神として創祀されたと伝えられ、承平3年(939)2月に将門が参拝したといわれています。さらに、この弓田香取神社と慈光寺との間を兵庫屋敷(兵器の倉庫跡)と称し、道路を隔てて談議所(軍談所)と呼び、奈良時代からの軍事基地であったようです。その後を引き継ぎ活用した将門は、軍事拠点と位置づけ、神仏の加護を祈っていたことを物語っています。
国王神社と将門座像
岩井市街から結城街道を沓掛に向かう左側に、杉木立におおわれて国王神社があります。古風な木造両部鳥居をくぐり、参道を進むとその奥まったところに茅葺き屋根の社殿が現われます。常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられます。祭神は平将門命です。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、将門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました。御神体の像は、寄木造座像で高さ2尺8寸の衣冠束帯姿で、右手に笏を持っています。像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎっている印象を受けます。彫刻で注目されるのは、本殿向拝に用いる蟇股のつなぎ馬です。江戸期の将門芝居につなぎ馬の紋所が描かれるのは、この彫刻に由来するようです。将門軍の最大の武器は馬と鉄といわれ、騎馬合戦を最も得意としていました。しかし、乱は終わり、平和な時世には騎馬は不用と馬をつなぎ置き、再び合戦に用いない証明として彫られたものと伝えています。なお、社殿と将門座像は、県の重要文化財に指定されています。
延命寺の薬師如来
国王神社の交差点を渡り、島広山台地を東に向かうと、四周を田んぼに囲まれた森が現われます。ここが将門ゆかりの寺として知られた延命寺です。延命寺は医王山金剛院と称し、真言宗豊山派に属している古刹で、別称として「島の薬師」と呼び親しまれてきました。赤松宗旦の『下総旧事考』によると、「相馬氏の創建、文安2年(1445)僧安成の開く所なり。京都の東寺に属す。寺領20石」とあり、もとは国王神社の隣に寺域を構えていましたが、享保年間(1716〜36)に飯塚氏に神職を譲って、住職は自ら寺域を現在地に移しました。山門は四脚門の形式で、室町時代の建築様式を遺した茅葺切妻造り、近郊に比類のない造形美を示し、大旦那であった相馬氏の将門に寄せる思いに誇りが感じられます。山門を抜けて石造太鼓橋を渡ると、その先に寝殿造りを模した朱塗りの薬師堂があります。この堂内の厨子殿に奉安する薬師如来像は、将門の守り本尊と称する持護仏で、将門の死後に祀られたものと伝えられています。また、縁起書によると行基の作とあり、高野山の霊木で刻まれた尊像と記され、4月8日の縁日には、広大な境内が参詣人で身動きできないほどの賑わいであったようです。将門の子孫であった相馬氏が、将門ゆかりの寺院や神社の大旦那として尽力したことは、火災を免れた山門の威容、水車の軒丸瓦に九曜紋が用いられていることからもうかがえます。
九重の桜
石井の井戸跡から南へ向かって進むと、台地が東に突き出した田んぼに面して小さな森が見えます。この森が九重の桜史跡です。史跡には、碑とその伝承由来を誌した副碑が建っています。碑文によると、九重の桜は、京都御所の紫宸殿前にある桜を根分けして移植したものと伝えられています。九重というのは皇居、または王宮を表す言葉といい、中国の王城の門を幾重にも造ったことから生まれたと記されています。紫宸殿とは、内裏の正殿にあたり「南殿」または「前殿」とも称しました。もとは日常の政務を行うところであったが、後に正殿をめぐる華やかな儀式や行事の中心的な場となります。東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿で執り行われ、その恩赦によって将門の帰国が許されました。南庭の左近の桜を株分けして、将門ゆかりの地に移植されたという伝承には、恩赦への感謝の情がくみとれます。
いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな
歌人伊勢大輔の歌は、源氏物語の「花宴」を連想させます。八重桜とは八重咲きの里桜のことで、別名は牡丹桜といいます。桜の中では開花が最も遅く、それゆえに愛惜の心が揺らぐことから、願いを託した桜として<九重>の造語が生まれたものと考えられます。
石井の井戸
石井営所跡を離れて延命寺に向かう途中、右手の田んぼの中に突き出た緑園が<石井の井戸>跡です。この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに居を構えて以来、人々が移り住んだと思われます。奈良時代には、石井郷という行政区域になっていました。平安時代に書かれた『将門記』には、将門の本拠となる石井営所として記述されています。その主人公の将門と石井の井戸との関わりについては、「国王神社縁起演書」に詳しく記されています。『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。
久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり
と唱じると姿を消してしまった。将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』とあります。また別説としては、<星見の井>や<将門産湯の井>などの諸説があります。いつの世も、人々の定住に欠かせない水の大切さを物語っているといえます。
島広山・石井営所跡
岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が集結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。
高声寺
浄土宗の藤田山道場院高声寺は、中心市街地から常総市三妻に向かい、バイパス交差点を越えた左側にあります。この寺の開山は、唱阿性真です。性真は武蔵野国藤田郷の藤田(花園)城主民部少輔利貞の子息で、始め天台宗を学び、後に浄土宗を学び、浄土宗第3祖鎌倉光明寺の良忠上人の弟子となります。高声寺の伝説として、開山がたまたまこの地を通ったとき、しきりに眠気を催して、仕方なくうとうととうたた寝をしていたところ、将門が夢に出てきて「自分に罪はないのだ。」と訴え、将門をざん訴するものがあったから、ついに京都から謀反人扱いにされて残念でならない、と嘆くのを夢見て、性真は哀れに思い、その霊を慰めようと寺を建てました。すると夜毎「ええ、おお」と気合をかける高い声が聞こえたので、寺名を「高声寺」と名付けたと伝えられています。正応元年(1288)8月に藤田山高声寺は、中根の地に開山され、20世貞誉上人が貞享元年(1684)に現在の地に移したものです。その後、浄土宗藤田派の本山となり、将軍家智華寺として歴代将軍葬儀に参列し、徳川時代には270余寺を末寺としていました。境内には、鐘楼、山門、開山堂、地蔵堂などがあり、ともに江戸中期の建造です。なかでも四脚門は、正徳5年(1715)の建立で、南禅様式の貴重なものとして、常総市の弘経寺の山門とともに注目されています。
富士見の馬場
市街の四ツ家から岩井第一小学校に向かって進むと、右側に小さな緑地があり、ここを「富士見の馬場跡」と称しています。この地を基点に北へ700m、幅22mの直線路があり、道の両側に松並木が続いていたと語り継がれています。今から1100年前の書物『延喜式』によると、諸国の牛馬牧として39牧の名称が記録され、そのうちの18牧が兵部省管轄の官牧でした。下総国には馬牧4、牛牧1が数えられました。平将門の領内には大結牧と長洲牧があったことから、将門は官牧の牧司を兼ねていたのではないかといわれています。『将門記』には、百騎を超える騎馬隊を組織し、合戦の場で効果的に用いている場面が描かれています。当時は、ほとんどが自然の状態で飼育された野馬でしたので、人が乗り、使役のためには調教する馬場と厩が必要でした。富士見の馬場は、調教を目的に開設され、やがて将門によって軍馬の調練の場として活用されたことは<野馬追い>行事の継承を通して想像することができます。鎌倉時代は、猿島地方も戦乱の中に組み込まれました。豪族たちはもちろんのこと、その旗下にあった農民たちも、戦場に出陣するために馬を飼い、そして馬を求める馬市が立ち、その取引の場所となったのが、富士見の馬場であったことも伝えられています。
平将門文学碑
八坂神社前の長谷八幡線を北へ向かうと、左側に岩井公民館があり、その前庭駐車場の東端に平将門文学碑があります。この碑は、平将門生誕1100年を記念して、平成14年11月、市民の総意が実って建立されました。碑文の文字は、書家・平勢雨邨氏の揮毫です。『将門記』によると、将門軍の兵たちが敵将の平貞盛の妻と源扶の妻たちを捕らえたという報告を受けた将門は、先の合戦で自分の妻子が捕らえられ殺されているにもかかわらず、「女性の流浪者は、その本籍地に身柄を帰すのが法令の慣例である。また、身寄りのない老人や子どもに恵みを与えるのは、昔の帝王たちがつねに行ってきたよい手本なのだ。」といい、将門は衣服を与え、和歌を詠んで添える場面が描かれています。碑文には、この時の和歌が二行に分けて彫られました。
よそにても風の便りに吾そ 問ふ枝離れたる花の宿りを
(遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のあかりを尋ね求めることができます。同じように人々のうわさによって、散る花のように夫のものを離れて寄る辺ないあなたを案じています。)
天慶2年から3年にかけて関東地方一帯で活躍した平将門は、歴史上に名高く残っています。将門といえば、荒武者のように世間では考えられがちですが、自筆による伊勢神宮の奉納文を読むと、その達筆さとともに、すぐれた教養人であったことが察せられます。文学碑は、戦乱の中にあって権力と勇猛さだけでない、将門の心の優しさ、人間性を如実に物語っています。
平将門公之像
市道長谷八幡線に面した雑木林の中に、総合文化ホール「ベルフォーレ」があります。この施設は、音楽ホール・アトリウム・図書館からなる複合文化施設で、平成6年3月に完成しました。その完成記念事業の一つとして、前庭広場に平将門公の騎馬像が建立され、将門の里の象徴的なブロンズ像として親しまれています。この像は、彫刻家一色邦彦氏の作です。一色氏は土浦市に生まれ、東京藝術大学を卒業すると、新制作協会に所属し、1966年には高村光太郎賞を受賞しました。以来、著名な彫刻家として活躍されています。平将門は、石井営所を本拠として、古代社会から中世社会への扉を開く役割を担った武将として知られています。青年の時に京都に上り、朝廷の官人として勤めました。関東に帰ると、叔父たちとの間に所有地などが原因で争いが起こりました。やがて一族間の争いは、各地の国庁との戦いに発展し、将門は関東8カ国を支配下におさめ、関東独立国家建設の夢を目指しました。その夢を求める将門を表現し、完成されたのが「平将門公之像」です。このブロンズ像を見ると、将門は折立烏帽子を被り、狩衣姿に太刀を差し、黒鹿毛の駒に乗った勇姿という印象を受けます。駒の背に粛然と身を任せ、北に向かって駒を進める姿には、自分の支配地に辿り着いたという安堵な雰囲気と、その躍動的な駒の姿態、遠く筑波の双峰を追う将門の敏捷な眸の中に、強い意志が感じ取られます。
西念寺
辺田三叉路を野田方面に100mほど行くと、左側の森の中に西念寺が見えます。西念寺は、もと天台宗の聖徳寺といわれていました。 親鸞の弟子、関東24輩の第7番西念は、武蔵野国野田村(現在のさいたま市)に道場を建て、生涯を布教につとめ、108歳で往生したと伝えられています。野田の道場は、長命寺と名付けられました。その長命寺は、建武の兵乱で焼けてしまい、当時の住職は西念の出身地である信州に移ったので、寺の宝物は、血縁のあった辺田の聖徳寺に納められ、江戸時代初期に開基を西念とし、寺号も西念寺と改められました。西念寺には、県指定文化財の木造阿弥陀如来座像、市指定文化財の来迎図板碑などがあります。また、境内には、親鸞が猿島地方の教化の折に植えられた「親鸞お手植えの松」がありましたが、現在の松はその二世となります。その松の近くに鐘楼があり、ここに釣られていた鐘には「泣き鐘」伝説があります。『その昔、平将門の率いる兵卒集団が、この寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響きわたり、兵卒たちは、気味悪がって士気が上がらない。将門は腹を立てて、寺へ返した。』と伝えられています。
延命院と胴塚
延命院は菅生沼を臨む東側台地にあります。広い境内を多くの桜の木が占めていて、春には見事な彩りを添えます。将門の胴塚で知られる延命院は、新義真言宗に属し、神田山如意輪寺延命院といい、また篠越山延命院観音寺ともいいます。本尊は延命地蔵菩薩です。天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています。境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称しています。将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたといわれています。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。
坂東市 2
茨城県の南西部に位置し、利根川の別名、坂東太郎を冠するように、利根川に接している。 岩井市と猿島郡猿島町が2005(平成17)年3月22日、合併し誕生した。 人口は54、087人(2015年国勢調査)、面積は123.18平方km。
旧岩井市は、1955(昭和30)年3月1日、猿島郡岩井町と飯島村、弓馬田村、神大実村、七郷村、中川村、長須村、七重村が合併し岩井町となり、 1972(昭和47)年4月1日に市制施行した。合併前の人口は43、421人(2000年国勢調査)、面積は90.72平方km。
旧猿島町は、1956(昭和31)年4月1日、猿島郡沓掛町と富里村が合併、富里町となり、同日改称して猿島町となった。 なお、沓掛町は1954(昭和29)年に沓掛村が町制施行、富里村は1955(昭和30)年に逆井山村と生子菅村が合併し誕生している。 合併前の人口は15、252人(2000年国勢調査)、面積は37.46平方km。
平将門がその本拠を置いたのが旧岩井市内とされ、現在も関係する遺構も数多く残る。
国王神社   坂東市岩井
祭神は平将門。将門公戦死後、母とともに奥州に逃れていた3女の如蔵尼が、父の戦死の地に庵を建て、父の霊を弔ったのがはじまり。 父の33回忌に当たる天禄3年、父の像を彫り、それを祠におさめたことから、現在の神社になったとされる。現在の本殿と拝殿は、1683(天和3)年に造営改築の記録があることから、江戸初期のものとされている。 本殿と拝殿は寄木造平将門像とともに、茨城県指定文化財になっている。
平将門公之像   坂東市岩井
坂東市総合文化ホール「ベルフォーレ」前にある銅像。平将門公が目指した関東独立国家建設の夢。その夢を求める将門公を表現したという。 像は、駒に乗り、折立烏帽子を被り、狩衣姿に太刀を差した勇姿で、北に向って駒を進めている。躍動的な像となっている。像の作者は、土浦市出身の彫刻家一色邦彦氏。1966(昭和41)年には高村光太郎賞を受賞するなど、著名な彫刻家として活躍している。
将門公胴塚   坂東市神田山
菅生沼の東側の台地にある延命院の本堂の裏におおきなカヤの木があり、その根元に胴塚がある。戦死した将門公の首は京へ送られ、残った胴体をひそかに葬ったのが、胴塚とされている。この地は、相馬御厨の神領なのであばかれることはなかったという。 なお、胴塚周辺にある「南無阿弥陀仏」の碑は、東京都の「将門塚保存会」からの寄贈。「大威徳将門明王」の碑は、延命院・倉持照最住職の寄進。 顕彰碑は岩井市民(当時)の浄財による。なお、地名の神田山(かどやま)は、体(からだ)がなまったものとされる。
延命院   坂東市神田山
神田山如意輪寺延命院。篠越山延命院観音寺。神田山。将門山。新義真言宗。本尊は延命地蔵菩薩。平将門公の胴塚があることで知られる(上記参照)。 開基は京都・東寺の僧・宗助で、中興は来正。 観音堂は1701(宝永7)年、関宿藩主・牧野成春公の助力により建立。祀られているのは聖観世音菩薩で伝教大師の作と伝わる。 なお、延命院は境内に菅生沼七福神の毘沙門天を祀っている。
延命院毘沙門天
延命院を入ってすぐ右側、観音堂の反対側に将門山毘沙門天と刻まれた石柱とともに堂がある。 武神として勝負事に御利益があるとされる。
延命寺   坂東市岩井
医王山金剛院といい、別名島の薬師。真言宗豊山派の古刹。島広山石井営所の鬼門除けとして建立された。 940(天慶3)年、石井営所一帯を焼かれた時、同寺も被害にあったが、薬師如来像は移し隠され、その後世の中が静まるのを待って現在地に再建された。 1445(文安2)年、将門公の子孫である守谷城主・相馬氏が大檀那となって本堂、薬師堂、山門を建てたが、その後、山門を残し焼失。 薬師堂は有慶上人によって再建されたが、再び焼失。現在の薬師堂は仮堂である。 堂内の厨子殿にある薬師如来像は、将門公の守り本尊と称する持護仏と伝えられている。 縁起書によると行基の作とあり、高野山の霊木で刻まれた尊像と記されている。
島広山石井営所跡
国王神社近くにある。将門公が関東を制圧したときの政治、経済、軍事の拠点。当時周辺には、館や倉庫が立ち並んでいたと見られる。 現在は、明治時代に立てられた石碑があるのみ。
坂東市岩井1603。
九重の桜   坂東市岩井
京都御所紫宸殿前の桜を株分けし、平将門公ゆかりのこの地に植えられたたものと伝えられる。 京で取り調べを受けていた将門公が、東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿(御所)で執り行われ、その恩赦によって帰国が許された。 室町時代、この地方を治めていた将門公の後裔である平守明が、その恩赦に感謝して御所の桜を株分けし植えたとされる。 もと10数株あったという。現在の桜はその後植えなおされたものと考えられ、八重桜が植えられている。 なお、九重は「王宮」「皇居」を意味する。中国で王宮の扉を九重に造ったことからきているとされる。
石井の井戸   坂東市岩井
石井営所跡近くにある将門公ゆかりの井戸。 伝説では、将門公が営所の地を探しているうち、不思議な翁が現れ、かたわらの大石を持ち上げ、力いっぱい大地に打ち込むとそこからこんこんと水が湧き出したとされる。 翁はいつの間にか消え去っていたという。
富士見の馬場   坂東市岩井
平将門公ゆかりの地。将門公が軍馬の調練を行ったところとされる。富士山がきれいに見える場所だったことからこの名がついたという。 この地を基点に北へ220m、幅22mの松並木の馬場が続いていたと伝わる。
一言神社    坂東市岩井
平将門公ゆかりの神社。石井の井戸の翁を祀った神社。石井の井戸からすぐ近くにある。
深井地蔵尊    坂東市沓掛
平将門公妻子受難の地とされる。安産、子育てに御利益があるとして近隣の信仰を集めている。
西念寺(さいねんじ)   坂東市辺田
極楽寺聴衆院西念寺。真宗大谷派。親鸞聖人の法弟・西念が野田(千葉県野田市)に長命寺として建立した。正応年間(1288〜93年)に西念寺と改められた。 現在の西念寺の場所には、西念の弟・円盛が住職を務める天台宗の聖徳寺があった。その後円盛は、親鸞聖人の教えを受け信証と名を改めている。 建武年間(1334〜38年)、南北朝の争いによる兵火で野田の西念寺が焼けたため、寺の宝物などを聖徳寺に移し、名を西念寺に改めた。二十四輩第7番寺。 「鳴き鐘」の伝説が残る。昔、平将門の軍がこの寺の鐘を持ち出し、陣鐘にしたところ、その鐘は「辺田村恋し、辺田村恋し」と響き渡り、兵士たちの士気が上がらず、 将門は怒って寺に鐘を返したと伝わる。
高聲寺(こうせいじ)   坂東市岩井
藤田山道場院高聲寺(高声寺)。浄土宗。開山は唱阿性真。 伝説では、性真がこの地を訪れた時、強い眠気を催し、うとうとしていると平将門公が夢に出てきて「自分に罪は無い」、「謀反人にされて残念でならない」、と嘆くため、その霊を慰めようと寺を建立したとされる。 1288(正応元)年、開山。1684(貞享元)年に現在地に移る。浄土宗藤田派の本山。 江戸時代には将軍家智華寺として歴代将軍の葬儀に参列、270余寺を末寺としていたという。 本堂は2000(平成12)年の建立。鐘楼、山門、開山堂、地蔵堂は江戸時代の建立。 山門は南禅様式の四脚門で1715(正徳5)年の建立。
慈光寺 1   坂東市弓田
明王山慈光寺。弓田不動尊。天台宗の寺。弓田のポックリ不動として広く信仰されている。 746(天平18)年、行基菩薩の高弟が衆魔降伏、真理融通の道場として建立。当時は法相宗だった。 平将門公が石井に営所を構えた際、鬼門除けの本尊として深く信仰したとされる。 その後、兵火で堂宇のほとんどが焼けたが、不動明王の尊像と阿弥陀堂だけが焼け残った。 このため、不動明王を阿弥陀堂に仮安置したところ「不動尊を信仰すれば、阿弥陀尊にまでその願いが届き、殊に臨終の際はポックリと眠るように大往生できる」とされ、信仰が広まった。 現在では「運を開き、厄を払い、福をすること、何事もポックリと心願成就する不動尊」として信仰されている。
慈光寺 2
「弓田のポックリ不動」で知られた明王山慈光寺。昔は、弓田を湯田と称しました。湯田とは、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味で、豊穣な土地を指した地名であることからも、早い時期に集落が拓けていたと思われます。
寺伝によると、奈良時代の天平18年(746)に、僧行基の高弟がすべての悪魔を退散させ、世の中を平和にする衆摩降伏・真理円融の道場として創建され、不動明王が祀られました。平安中期、平将門が政治、経済、軍事の拠点を岩井営所に移すと、当寺を鬼門除けの本尊として仰ぎ、また守り本尊として深く信仰したと伝えられています。
門前から約200mほど西方に、弓田香取神社の杜があり、この杜は律令時代に兵営の守護神として創祀されたと伝えられ、承平3年(939)2月に将門が参拝したといわれています。さらに、この弓田香取神社と慈光寺との間を兵庫屋敷(兵器の倉庫跡)と称し、道路を隔てて談議所(軍談所)と呼び、奈良時代からの軍事基地であったようです。その後を引き継ぎ活用した将門は、軍事拠点と位置づけ、神仏の加護を祈っていたことを物語っています。
慈光寺 3
明王山知恩院慈光寺(みょうおうさん ちおんいん じこうじ) 
寺伝によれば、天平18年(746年)に行基菩薩の高弟が創建し、悪魔降伏のため不動明王を本尊とした。元は法相宗で「知恩院」と称したが、鎌倉時代初期に天台宗に改宗し、「慈光寺」と称した。戦国時代には諸堂が戦火に遭ったが、不動明王像は自らイチョウの大木に避難して無事だったという。不動明王像が安置されている不動堂は、元は阿弥陀堂で、この不動尊を拝むと、その願いが阿弥陀仏に届き、臨終に際して苦しまずにポックリと逝けるとして「ポックリ不動尊」として信仰を集めているという。「北関東三十六不動尊霊場」の第35番札所。
松崎天神社    坂東市内野山
内野山天神社。内野山の高台にある。945(天慶8)年、菅原道真公の3人の息子、景行、兼茂、茂景がこの地を訪れた際、 三方を水に囲まれ、風光明媚な景色のこの地に、天穂日命と道真公を祀り、天神社とした。 常陸介でもあった景行が、この神社で平将門公の開拓思想を受け継ぎ、飯沼の開発構想を練ったとされる。
長谷寺   坂東市長谷
補陀洛山極楽院長谷寺。長谷観音。本尊は十一面観世音菩薩。大和国、長谷寺の末木をもって彫られたという。 真言宗智山派。800(延暦19)年、坂上田村麻呂が奥州征伐の際、この地に観音像を安置し戦勝を祈願したとされる。 現在の観音堂は元禄時代に建立したとされる。猿島阪東観音霊場第33番札所で結願所。 境内に弘法大師堂、聖徳太子堂がある。
沓掛香取神社   坂東市沓掛
祭神は経津主大神、軻遇突智大神。創立年代不詳。社伝では、経津主命の傍系孫・美計奴都加佐命が神籬(ひもろぎ=神を迎える臨時の台)を立て、 祖神を奉斎したのが始りと伝えられている。 940(天慶2)年、平将門が近くに館を新築した際、同社の社殿を再建し、一本の杉の木を植え御神木とした。 また1428(正長元)年、結城氏朝公が社殿を修復し刀剣(来國行作)を献納したという。 江戸時代には、8台将軍・徳川吉宗が近隣の開墾をした際、本殿を奉納した。 本殿は一間社流造りで、全体に精巧な彫刻が散りばめられた豪華なもの。茨城県の重要文化財に指定されている。
弓田香取神社(ゆだかとりじんじゃ)   坂東市弓田
もともと神社近くに兵庫屋敷(兵器倉庫)があり、その守護神として祀られたとされる。 939(承平3)年には、平将門公が参拝したとされる。

創建時期は不明だが、この辺りに律令時代から兵営(古代の軍団?)があり、その守護神として祀られたものという(祭神:経津主命)。承平3年(933年)には平将門も参拝したという。また、当神社と、約300m東にある「慈光寺」(通称「弓田のポックリ不動尊」)との間は「兵庫屋敷」(武器庫)と呼ばれており、平将門は、「承平天慶の乱」を起こすのに律令以来の軍団や武器庫を自らの為に利用したらしいという。なお、近くには「談義所」という小字のほか、駒跿(こまはね)、馬立(またて)などといった地名があって、いかにも軍事的な意味がありそうだが、「弓田(ゆだ)」というのは、元は「湯田」で、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味だそうである。 
八坂神社   坂東市岩井
歴史
詳細は不明な部分が多いですが、延長2(西暦924)年に神社が創建されたと記録されます。天慶3(940)年に記されたという『将門記』には石井営所と石井之宿が登場することから、さかのぼること約1100年前には、この地が伊波為(いわい)と呼び石井と書き、将門の営所があった宿場町であったことが分かります。
八坂神社は石井郷が成立の頃から産土神・守護神として信仰されていたと思われます。 かつて「牛頭天王」と呼ばれていたことから、現在も「天王様」と呼ばれることも多く、また神社の正面地区は「天王前」という区名とされていることからも厚い信仰を窺うことが出来ます。
元文5(1740)年の古文書では「牛頭天王は下猿島郡の総社にして」といわれるほど広く信仰され、例祭当日は「天王様だ、祇園だ」と騒ぎ、下猿島郡全域の村々が賑わったということです。
八坂神社と岩井の発展
八坂神社は祇園祭が行われる現在の町の中心部からは遠く離れた地に鎮座していますが、それはなぜでしょうか。
古代の石井は第一に将門の本拠地であり、将門縁の馬牧の中心であり、宿駅でした。 この当時は上岩井(現在の国王神社周辺)を中心に栄えていました。現在の中心となっている岩井の町方はその起源を鎌倉時代前期にさかのぼりますが、三町、すなわち本町・仲町・新町は上岩井に近い本町から造成され次第に南下してゆき、新町の造成は延宝(1673〜81)時代のことでした。新町が造成されたころ、岩井の地には多くの上方商人が訪れ、土着しました。一説によると、商人たちは京都八坂神社の祭礼の華やかさを岩井にももたらそうと八坂神社を勧請する努力をし、現在の八坂神社となったのではないかともされています。
八坂神社となる以前は香取神社であったという話もありますが、前身となる神社がお祀りされており後に八坂神社となったため、現在の町方とは離れているのではないかという説は根拠として説得力があります。 いずれにせよ八坂神社創建当時は現在の町方は存在しておらず、町方が生まれた鎌倉時代前期から新町が造成された五百年の間に八坂神社となったというのが有力なようです。
八坂神社の鎮座地
では、八坂神社及びその前身となった神社はなぜこの地に鎮座したのでしょうか。 かつて神社の西側(現在の長須地区)方面には鵠戸沼(長須沼)という大きな湖が広がっていました。下総旧事孝より「源を寺久、上出島に発し、東は鵠戸、長谷、西は若林、長須等の村々に回環した一里、横十横ばかりの小湖也。」とありますように流れ、鵠戸沼は小山に至り、最後は利根川へと流れ落ちました。
神社創建の頃、長州村は平将門が牧司を兼ねていたという長州馬牧として栄えました。馬の調教をしていた富士見の馬場は現在の市街地方面にあるため八坂神社付近は交通量の多い主要道路であったと思われます。長須から町方方面を見ると、湖の向こうに巨木の繁茂した小高い丘が浮かび、水面に影を落としていたといいます。 その神秘的な丘は神域として相応しく、現在の八坂神社の社地となったと伝わります。鵠戸沼を船で渡り神社を参拝した、牛頭天王は眺望絶佳な丘であるといった話も伝わります。
かつての社地は現在よりも四反以上広かったとされ上述したように巨樹が立ち並び、日中も猶暗い有様であったといいいます。安政3(1857)年9月の台風では境内の檜や杉の木が37本も吹き折れ、倒れたために処分したと記録が残り、その様子を窺うことが出来ます。鵠戸沼は昭和30年に干拓工事が完全終了し、現在の岩井の風景は記録と様変わりしました。かつての鵠戸沼の風景を想起してみてはいかがでしょうか。
八坂神社に伝わるお話
「かつて連日連夜大雨が降り続き、沼川が氾濫する大水害が起きました。誰もが皆「神様がお怒りになったのだ」と考え、天を仰ぎ神様に祈りました。ようやく空が晴れ上がり、水も引きはじめ、大地もよみがえりつつありました。人々は太陽の光を浴びようと、大喜びで外へと飛び出し、走り回ります。すると、小高い丘に立派な神輿が流れ着いていることに気づき、人々が集まりました。湖に続く入江の山林にさん然と輝くその神輿は、まさに天からの恵みでした。村の長老はその場に祠をつくり、神様をお祀りすることを決めました。」
これが現在の八坂神社の起源ともされています。 このお話は八坂神社の由緒や、かつての鎮座地、地形についてを教えてくれます。
八坂神社の神様「素戔嗚尊」
「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」はイザナギとイザナミの二柱の神が神生みの際に生れ坐したとされます。天照大神・月読命と同時に生まれたことから併せて三貴子と並び称されます。
天上の神々が暮らす高天原では乱暴を働き、混乱をもたらす神として描かれる素戔嗚尊ですが、葦原中国(日本国)に降りると勇ましい英雄として活躍いたします。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を討伐し、人々を苦しみから救ったというお話は現在も多くの方々に知られております。
大蛇を祓い裂く勇猛な神は尊び敬われ、全国に広く守り神としてお祀りされる素戔嗚尊は、岩井の地においても疫病や厄を退け幸福をもたらす神として崇敬されます。
櫛稲田姫命と結ばれ出雲の須賀の地に鎮まった素戔嗚尊は大国主命を生み、家族を愛し協力して国作りに励まれたことから縁結び・夫婦円満の御神徳をもたらす神としても信仰されます。
「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
これは素戔嗚尊が詠んだとされる日本で初めての三十一字の和歌です。古今和歌集の歌人「紀貫之」らは素戔嗚尊を「歌聖」と仰いで崇敬しました。
素戔嗚尊は我が子が治める国に船が必要だとして自らの体毛を用いて植樹を行いました。そして杉と楠は船材に、檜は宮材に、槇は棺材にと木の種類ごとに用途を定めました。
鎮守の森という言葉もあるように、神社と森林は密接に結びついて安らぎをもたらします。素戔嗚尊は文化的な神様としても崇敬されています
境内社
愛宕神社 
明治時代に政府に提出された神社明細書によると、創建は八坂神社と同じく延長二年とされています。火産霊命(ほむすびのみこと)をお祀りしており、伏火防火の神様として地域の皆様に親しまれております。かつては本町地区にお祀りされていましたが、合祀され現在は八坂神社境内に鎮座しています。
八幡神社
同じく創建は延長二年とされています。応神天皇をお祀りし、古くから八坂神社の境内社として崇敬されてきました。武運長久・必勝・立身出世をもたらす神様として、かつて八坂神社例大祭において競馬神事が催されていた頃には、多くの人々が地域の振興と勝利を祈願したとのことです。
なお現在の愛宕神社・八幡神社の両社殿は大正十四年、御神輿新調と同時に修繕されたと記録されています。 
延命院と胴塚    坂東市神田山
延命院は菅生沼を臨む東側台地にあります。広い境内を多くの桜の木が占めていて、春には見事な彩りを添えます。
将門の胴塚で知られる延命院は、新義真言宗に属し、神田山如意輪寺延命院といい、また篠越山延命院観音寺ともいいます。本尊は延命地蔵菩薩です。
天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。
現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています。境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称しています。
将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたといわれています。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。
その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。 
延命院   坂東市神田山
平将門の首は京都へ送られ、数々の伝説を残して、現在は東京の大手町の首塚にあるとされる。しかし将門の胴体は、戦没地とされる場所からそれほど遠くない場所に埋められているとされる。それが延命院にある胴塚である。
延命院の創建については不明な点もあるが、将門がこの地を支配した時期には伽藍が建てられたという。そしてそこに弟の将頼らが首なき胴体を運んできて埋めたという伝承になっている。
延命院の山号は“神田山”であるが、それは将門の“身体”を埋めた場所だから名が付いたという説がある。だが実際には、この付近一帯は相馬御厨として伊勢神宮へ寄進された荘園であることから“神田”とされたと思われる。また伊勢神宮ゆかりの土地であったために、墳墓は荒らされずに残されたとも言われる。
現在、胴塚は古墳として文化財指定を受けており、また塚の上から生えた榧の木は天然記念物となっている。そして東京にある将門塚(首塚)保存会より贈られた「南無阿弥陀仏」の刻まれた石塔婆が建っている。  
北山稲荷大明神   坂東市辺田
天慶3年(940年)2月14日。新皇を名乗り、関東一円を支配下に置いた平将門が討ち死にする。藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、誰が放ったか判らない矢が額(或いはこめかみ)に当たり落命したという。この将門最期の地となるのが北山古戦場である。
この古戦場の有力な比定地が北山稲荷神社である。すぐそばを幹線道路が走り、24時間営業のコンビニエンスストアが隣接しているにもかかわらず、神社の中は手入れされていない草木が延び放題となっていて、全く時空から隔絶されたかのような印象がある。ある種の「魔所」である。
この稲荷神社が将門最期の地と考えられるようになったのは、昭和50年(1975年)にこの場所から1枚の板碑が発見されたためである。この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)、源頼信であることが記されていたのである。長元4年は、平将門の乱以降で最も激しい内戦が関東で繰り広げられた平忠常の乱を、頼信が鎮圧した年であり、信憑性はそれなりに考えられるところである。

平将門の終えんの地「國王神社」。しかし、将門戦死の地が、「北山稲荷大明神」と呼ばれる場所。住宅街の裏側に、ひっそり静まり返った一本のけもの道が伸びていますが、この先に将門が亡くなったとされる聖地があります。
「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、将門が最後に陣を張った場所が「辛島郡(猿島郡)之北山」と記されています。北山の場所は定かではないのですが、有力な一つがこの場所。石の鳥居が建ち、その奥に小さな祠があります。樹木が鬱蒼と生い茂り、薄気味悪い場所。古い小さな祠の隣には、「鎮魂 平将門公之碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。  
深井地蔵   坂東市沓掛
ちょっとした集落でなら特に珍しくもないような地蔵堂であるが、その由緒を紐解くと、平将門の伝承にまつわるものであることが分かる。
平将門が関東で乱を起こす遠因となったのは叔父の平良兼との「女論」であったとされる。つまり女性を巡る争いである。一説では、源護の娘を将門が妻に所望したが良兼に奪われてしまったとも、あるいは良兼の娘を将門が妻にしたところ源護の3人の息子が横恋慕して襲ったのだとも言われる。いずれにせよ、将門と良兼はお互いに敵とみなして干戈を交えたのである。
承平7年(937年)8月、平良兼は子飼(小貝)の渡しに進駐した。一方の将門は脚気で戦意もなく、連れていた妻子は万一に備えて船に乗せて隠れさせた。ほどなく良兼の軍は引き揚げたので、妻子は岸に戻ろうとした。しかしまだあたりに残っていた良兼軍の一部がそれを発見、妻子は“討ち取られ”たのである。
この将門妻子受難の地に建てられたのが深井地蔵である。つまり殺された将門妻子の冥福を祈って造られたのが、この地蔵であるとされる。今では安産子育てにご利益があるとされ、月ごとの縁日には多くの参詣があるという。
深井地蔵尊と将門妻子受難
結城・坂東線と猿島・常総線が交差する沓掛信号を左折して猿島庁舎方面に向かい、沓掛台地から西仁連川沿いに出るところに大きなカーブがあります。そのカーブの途中の市道を右に入り西仁連川に架かる地蔵橋を渡った左側に深井地蔵尊が祀られています。
この堂は、外見だけを見るとありふれた堂に見えますが、平将門の妻子が惨殺された悲劇の場所でもあると考えられます。
良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣しますが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却します。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになります。
良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。
妻子受難の場所には、諸説があります。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われ、この間の大きな入谷津を総称したと考えられます。
深井の地蔵尊の創建は古く、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、この地蔵尊ではないだろうかといわれています。 
■常総市
西福寺 炎石 (さいふくじ ほむらいし)   常総市新石下
西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。
この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。
建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。
この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。  
下総国亭(庁)跡   常総市国生
下総国亭(庁)跡(しもふさこくちょうあと)。
伝承によれば、鬼怒川右岸(西岸)の台地には北総地区最初の開拓地で、古くから集落や古墳などが造られた。桓武天皇の孫である高望王は、寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望と名乗り、昌泰元年(898年)に上総介に任じられて坂東に下向した。このとき、長男・国香、次男・良兼、三男・良将(良持と表記する記録もある。)を伴って任地に赴き、息子らは上総国、下総国、常陸国などに土着して関東における高望王流桓武平氏の勢力を広げていった。そして、現・常総市国生は、平良将が居館を築いて政務を行ったところという。そもそも「国生」という地名は、元は「こっちょう」と読み(現在は「こっしょう」)、「国庁」が訛ったものであるとされる。「国庁」というのを文字通り下総国府の官衙とする説もあるが、通説では、下総国府は奈良・平安時代を通じて現・千葉県市川市国府台にあったとされるので、ここでは地方で国の政務を行う役所(国の出先事務所)という意味だろうと思われる。
さて、平良将の子がかの有名な平将門で、伝説では、将門は国生の居館で生まれたという。将門の乱を描いた軍記物語である「将門記」(成立:鎌倉時代?)には、将門が「新皇」を自称して、下総国の「亭南」に王城(皇居)を定めたという記述がある。「亭南」がどこを指すのかということについては諸説あって、茨城県坂東市・同守谷市・千葉県柏市などがそれぞれ市のHP等で将門の王城の所在地であるとの説を紹介している。一般には、将門の王城の所在地は現・坂東市岩井付近とされており、そこは現・常総市国生の「下総国亭(庁)跡」の石碑の場所から南西約10kmのところに当たる。
とはいえ、発掘調査によって建物の礎石など居館の遺跡が発見されたわけではなく、あくまでも伝承であって、石碑のある場所に居館があったということでもないようだ。 
栗栖院常羽御厨(常羽御厨兵馬調練之馬場跡)   常総市
常羽御厨(いくはのみうまや)は、平良持・将門2代に渡る牧場である。元々この付近には官牧であった古牧(現・古間木)と大牧(現・大間木)があり、古牧が手狭となったため移転した大牧の馬見所が、この馬場であったと言われている。東西に飯沼の入江を控え、南北に大路が貫通して両牧場に通じる要地で、馬場の北端を花立と称し、検査調練の際の出発点であったとされる。937年、子飼の渡しの合戦で将門軍を破った良兼は、将門の本拠地豊田郡を蹂躙し、常羽御厨など多数の人家舎宅を焼き払った。これは、将門の兵馬調練場として軍事上の重要拠点であった為に狙われたものと言われている。
現在は、馬場地区にある交差点の脇に、「常羽御厨兵馬調練之馬場跡」と刻まれた石碑と解説板が建っているだけである。尚、西方の入江に接した白山(城山)の地に、将門の陣頭で上野守に任命された常羽御厨の別当多治経明の居館があったと伝えられている。 
日枝神社本殿(ひえじんじゃほんでん)   常総市菅生町
承平元(931)年の創建と伝えられ、大山昨命(おおやまくひのかみ)を主祭神とする。神社縁起には、平将門が当社を尊崇して妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を刻納したとされ、久しく妙見神社と呼ばれたという。戦国期に菅生城主菅生越前守胤貞が社を本城のある古谷に鎮斎するが、永禄2(1559)年に落城の後、別当木崎山天台座主阿闍梨賢證を奉り中郷の地に遷宮し、当地の総鎮守として信仰を集めたという。明治維新後は再び社号を日枝神社に改めている。
明治5(1872)年に再建されたもので、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、瓦葺であるが、傍軒(そばのき)大きいことから当初は木羽葺(こばぶき)であったものと推察される。当代きっての名工と謳われた後藤縫之助の手による豊富な彫刻群が特色で、「瓢箪(ひょうたん)から駒」、「神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐」などが飾られるほか、木鼻(きばな)の像や獅子など、その腕の冴えを見せている。桁行2.65メートル、梁間2.25メートル。 
菅生城址(すがおじょうし)   常総市菅生町
菅生城は築城、廃城の時期や城主として文献に表れる菅生越前守胤貞の出自など明らかになっていないこともあるが、永禄3(1560)年の横瀬能登守永氏らとの合戦や、天正5(1577)年の多賀谷氏の侵攻の様子が後世の文献等に記されており、室町時代から戦国時代にかけての情勢が部分的に遺されている。
城址については、土地改良事業に伴う発掘調査によって堀跡、土塁、土橋等の城跡に関連する遺構が確認されている。特に畝掘と呼ばれる北条氏の城に多く見られる堀の形状が確認されたことは、小田原の北条氏や守谷の相馬氏がこの城と関係していた可能性を示している。
土地改良事業から除外された本丸部については、現状のまま保存が図られており、一定の範囲で現状が良好に保存されている少ない城跡である。 
一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)   常総市大塚戸町
一言明神(ひとことみょうじん)ともいう。正月3が日には例年15万人の参拝客が訪れる、茨城県西地域有数の初詣スポットである。 旧社格は村社。
祭神
祭神は一言主大神(別名・事代主神、俗に恵美須神とも)。福の神としてのほか、商売・災禍・農作・縁結び・平和の神といわれ、たった一言の願い事であっても聞き入れてもらえるという。一生に一度だけご利益を得られるという信仰もあり、非常時に家族が神社を訪れて祈願するという。千葉・東京方面に多くの信者を持つ。神職は宮司1人、禰宜1人、権禰宜4人、非常勤の神主1人の計7人である。このほか常勤の修繕係1人とシルバー人材センターから雇用された清掃員2人がいる。
境内社
『茨城県神社写真帳』には、天満神社(菅原道真)、白山神社(木花咲耶姫命)、香取神社(經津主命)、稲荷神社(保食命)の4社が記されている。現在、香取神社と稲荷神社は香取社・稲荷社合社になっている。
現在の境内社は、大黒社(大国主命)、香取社・稲荷社(宇迦之御魂大神、経津主大神)、縁結社、合社(三峯神社を始めとする13社)の4社である。
合社の13社は、明治42年3月、旧菅生村に鎮座していた下記の神社(いずれも旧無格社)を合併したものである。三峯神社(日本武尊)、愛宕神社(軻遇突智命)、八幡神社(誉田別尊)、三王神社(大山祇命)、妙見神社(月読命)、天神社(菅原道真)、道祖神社(猿田彦命)、別雷神社(別雷命)、八坂神社(速須佐之男命)、大日孁貴神社(大日孁貴命)、白髪神社(猿田彦命)、浅間神社(木花咲耶姫命)、厳島神社(市杵島姫命)。
歴史
大同4年11月13日(809年12月23日)(平安時代) - 創建。大和国葛上郡、葛城一言主神社(現・奈良県御所市)より一言主神を迎える。創建の地は現社地の西方であり、怪光とともに雪中からタケノコが生え、三岐の竹になったという伝承がある。このため、「三竹山一言主神社」の異名を持つ。
長禄3年4月(1459年)(室町時代) - 荒廃していた社殿を、平将門の子孫で下総国の守谷城城主であった相馬弾正胤広が再建。
天文19年(1550年)(戦国時代) - 兵乱で拝殿が損壊。永禄年間には半焼。
万治2年(1659年)(江戸時代) - この頃より、葛城流からくり綱火(大塚戸の綱火、後述)が始まる。
元禄13年正月13日(1700年3月3日)(江戸時代) - 本殿を大規模修理(棟札あり)。
慶応3年(1867年)(江戸時代末期) - 拝殿が一般からの寄進により再建。
明治維新の後、神仏分離令により一言主神社を管轄していた善光寺が廃寺となり、当時の僧が初代神官となる。近代社格制度では村社に列する。
1909年(明治42年)3月、神社整理により大塚戸に祀られている13社を合併。
1970年(昭和45年) - 本殿の屋根を茅葺から銅板葺(檜皮葺風)に更新。 
大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)   常総市大生郷町
御祭神 菅原道真公
社格等 村社
社伝によりますと、菅原道真公の三男景行公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜三年(903)二月二十五日に亡くなられました。
景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介として常陸国にやってきました景行公は、延長四年(926)に現在の真壁町羽鳥に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(929)当時飯沼湖畔に浮かぶ島を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神ともいわれています。(頒布のリーフレットより)
歴史
日本三大天神にも数えられる御廟天神
茨城県常総市大生郷町に鎮座する神社。旧社格は村社で、大生郷村(後に合併し菅原村)の鎮守で、飯沼周辺三十一ケ村の総鎮守。菅原道真公の三男・景行が創建し、菅公の遺骨が納められている事から「御廟天神」とも呼ばれる。遺骨を御神体とし遺族によって祀られたのは当宮のみである事から、「太宰府天満宮」「北野天満宮」と共に日本三大天神にも数えられる事がある。境内の裏手が神苑として整備され「菅原道真公御廟所」が置かれている。
菅原道真公の遺骨を祀り創建
社伝によると、延長七年(929)に創建とされる。菅原道真の三男・菅原景行が、道真の遺骨を祀り創建したと伝わる。延喜三年(903)、菅原道真が太宰府にて逝去。
「晩年に道真を見舞った三男の景行は、道真自ら自分の姿を描き与えられ「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と遺言を伝えたと云う。」
景行は遺言通り、遺骨を持ち諸国を巡ること20数年。延長四年(926)、常陸国の筑波山の北側(現在の茨城県桜川市真壁町羽鳥周辺)に塚を築き、その地方の豪族と共に、一時的に道真の遺骨を納めた。
延長七年(929)、当地にあった飯沼湖畔に浮かぶ島を遺言の地として、社殿を造営。道真の遺骨を遷し祀る事にした。これが当宮であるとされる。
「菅原景行(すがわらかげゆき)は、菅原道真の三男。当地や坂東一帯にゆかりとされる地が多く、東国に生活拠点を置いたとされている。平将門は幼年時代に景行を学問の師として学んだといった伝承も残っており、『将門記』にも登場する。」
以後、飯沼周辺の鎮守として崇敬を集めた。
「この他、大正期の史料には、性信上人(親鸞に帰依した親鸞二十四輩の筆頭)が「報恩寺」を建立し、この性信によって勧請されたという伝承も残る。」
下妻城主多賀谷氏によって再建
天正四年(1576)、下妻城主多賀谷氏と後北条氏との間で戦が発生。この兵火によって社殿が焼失。
天正十年(1582)、多賀谷氏により社殿が再建。兵火によって社殿を焼失された罪滅ぼしに鎧太刀と共に三十六歌仙絵を奉納。
「「紙本著色 三十六歌仙絵」は、室町時代作とされ、現在は茨城県指定有形文化財となっている。」
「多賀谷氏は他に「大宝八幡宮」(現・茨城県下妻)の再建を行ったりと、周辺の寺社の御由緒によく名を見かける事ができる。」
徳川将軍家と寛永寺による社殿修復
江戸時代に入ると、慶長九年(1605)、伊奈忠次より黒印地三十石を拝受。
「伊奈忠次(いなただつぐ)は、家康に重宝された武将・大名。家康によって関東代官頭に任命され、関八州(関東)の幕府直轄領約30万石を管轄し、以後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。」
「黒印地(こくいんち)とは、大名が寺社などに黒印状を発行し領地を安堵した土地。」
慶安元年(1648)、徳川将軍家の朱印地に改められる。徳川将軍家によって庇護され、徳川将軍家の菩提寺である上野「寛永寺」と深い繋がりを持つようになる。
正徳四年(1714)、「寛永寺」により社殿の修復される。その後も「寛永寺」が修復や寄進を行っている。
飯沼新田開発の祈願所となり周辺の総鎮守に
享保九年(1724)、飯沼新田開発の祈願所となる。
「飯沼(いいぬま)は、当地周辺にあった大きな湖沼。八代将軍・徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環として、飯沼新田開発が近隣の村々によって開始され、一帯は水田地帯と開発されていく。」
享保十三年(1728)、飯沼新田開発が終わると祈願所であった当宮は、飯沼新田開発に携わった飯沼周辺31ヶ村の総鎮守とされた。
各村に当宮の分社が造営され崇敬を集めたと云う。
明治以降の歩み・古写真で見る当宮
明治になり神仏分離。当社は村社に列した。明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、大生郷村・大生郷新田・伊左衛門新田・笹塚新田・五郎兵衛新田・横曾根新田が合併して菅原村が成立。
「菅原村の地名由来は、地域一帯の総鎮守であった当宮(御祭神・菅原道真)による。」
明治四十年(1907)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
当社の鎮座地は今も昔も変わらない。地域一帯の村が合併し当宮が地名の由来となった「菅原村」の文字を見る事ができ、「大生郷(おおのごう)」という地名も見る事ができる。こうした地域一帯の鎮守を担った。
明治四十二年(1909)、「稲荷社」「大國社」を合祀。
明治四十三年(1910)、「厳島神社」を合祀。
「いずれも菅原村に鎮座していた神社で、当時の合祀政策の元に当社に合祀された。」
上の古写真は、大正二年(1913)に常総鉄道株式会社より出版された『常総鉄道名勝案内』から当宮の写真。茅葺屋根の立派な社殿だった事が窺える。これが江戸時代に「寛永寺」が修復した社殿であろう。
大正八年(1919)、火災によって社殿が焼失。社宝や古文書なども多くが失われた。
昭和四年(1929)、社殿が再建。
上の古写真は、昭和十六年(1941)に「いはらき新聞」より出版された『茨城県神社写真帳』から当社の写真。黒潰れと低解像度で分かりにくいとは思うが、先程の古写真の社殿とは姿がかなり違い、火災によって焼失後に再建された社殿なのが分かる。
戦後になり境内整備が進む。
昭和三十年(1955)、拝殿が再建。これが現在の拝殿となっている。
平成十四年(2002)、菅公御神忌千百年祭を斎行。神苑の整備が行われ、見事な神苑が一部完成している。 
平将門赦免供養之碑   常総市蔵持
平将門公赦免菩提供養之碑(たいらのまさかどこうしゃめんぼだいくようのひ)。
県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約850mのところで右折(西へ)して狭い道に入る。約100m進むと、「蔵持公民館」の前にある。公民館に駐車スペースあり。
「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長5〜7年(1253〜1255年)銘の板碑は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が民政安定のために当地の先霊を慰めるべく豊田四郎将基(伊勢平氏の祖・平貞盛の4世の孫。鎮守府副将軍となり、豊田郷を領した。)の供養碑を建てた。このとき、平将門公の祭祀がきちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得、下総国守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門公を赦免し霊を供養する板碑の建立を命じたものとされる。これらの板碑は、元々は神子女字引手山(前項の「六所塚古墳」の東側、鬼怒川右岸の台地)にあったが、洪水により埋まっていたものが昭和5年の河川改修工事で掘り出されたものという。「神子女(みこめ)」という変わった地名は元々「御子埋」であって、平将門公一族の墳墓の地を称したと伝えられている(現在、「平親王将門公一族墳墓之地」という石碑が建てられている。)。
掘り出された板碑は4基あったが、3基は蔵持の「観音堂・阿弥陀堂」脇に、1基は新石毛にあった「妙見寺」境内に安置されたが、「妙見寺」が廃寺になったので「壽廣山 観音院 西福寺」に移設された(いずれも常総市指定文化財)。蔵持の板碑は「不動石」・「阿弥陀石」と呼ばれて、それ自体が信仰の対象となっており、「西福寺」の板碑も、江戸時代に運び出そうとしたところ夜中に火炎を噴出したため「炎石」という別名がある。また、この板碑を縄で縛ると病気が快癒するともいう。
これらの板碑は、平将門公が東国で人気を集めていたことの証拠であろうが、それにしても赦免を受けるまで300年以上かかったとは・・・。 
六所塚(ろくしょづか)   常総市蔵持
六所塚は、六十六塚といわれ、かつては85基の古墳が確認された、鬼怒川右岸の神子女(みこのめ)古墳群内に所在する。一説には、平将門もしくは将門の父良将が埋葬されているともいわれるが、詳細は定かではない。墳丘は、前方後円墳で全長70mを測り、群内で最大の規模を誇る。神子女古墳群に現存する古墳は、開発などにより20数基が確認されるのみとなっており、一部は削平されているものの、古墳群内では唯一の前方後円墳であり、良好な状態で保存が図られており、大変貴重な文化財である。 
■守谷市
守谷藩   守谷市 
下総国相馬郡守屋(現在の茨城県守谷市)に存在した藩。藩庁は守谷城。下総相馬藩とも呼ばれる。
守谷の地名の起こりは、景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときにこの地を通り、うっそうたる森林が果てしなく広がっているのを見て嘆賞し、「森なる哉(かな)」と言ったのが漢訳して音読され「森哉(もりや)」となったという説がある。また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き砦ということから「守屋」となったという説もある。
藩史
徳川家康の家臣として甲斐国巨摩郡切石1万石を領していた菅沼定政は、小田原征伐後に家康が関東に移されると、北条軍に加わって改易された下総相馬氏の旧領である相馬郡に移されることとなった。これが守谷藩の起源である。文禄2年(1593年)、立藩と同時に母方の菅沼姓から本来の土岐への復姓が認められた。慶長2年(1597年)3月に定政は死去し、跡を次男の土岐定義が継いだ。定義は元和3年(1617年)に摂津国高槻藩に加増移封となったため、守谷藩は一時幕府直轄領となり、岡登甚右衛門と浅井八右衛門が代官となった。土岐定義は高槻で没し、その子土岐頼行が継いだが、12歳であったため減封となり、3年後に再び守谷城に戻った。やがて土岐頼行は元和4年(1618年)に山城守の受領名を受け、2万5千石に加増されて寛永4年(1627年)、出羽上山に移された。再び守谷は幕府直轄となり伊丹播磨守の代官支配の後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が信州松本から13万石で佐倉城に入った時に佐倉藩領になった。正盛の三男正俊は1万3000石給与で守谷領を継いだが、守谷城には入城しなかった。天和元年(1681年)、最後の城主酒井忠挙が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみたが、その後に関宿藩久世家の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して、周辺の農村と全く同じような環境となった。
歴代守谷城主
土岐家 / 堀田家 / 酒井家
守谷城
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした 。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。
現在守谷城碑の立っているあたり、現在地名馬場二本松に大手門があった。その先左側25軒に重臣25名の屋敷を設けた。現在守谷小学校があるのは第4郭で、その先第5郭の先に清水門があり本郭への入り口となる。第2郭が奥館で、第3郭に家老井上九左衛門の屋敷があった。面積30万平方mの大きな城であった。現在、城址はほとんどが住宅地になっているが、一部が守谷城址公園となって整備されている。城址の南に小さい沼があり、その東にある船着場という碑が名残である。旧294号街道(水戸街道と日光街道を結ぶ日光東照宮への脇往還であった)沿いに典型的な武家屋敷(間口が狭く、奥に長く一区画500坪単位)集落の区割りが見られる。八坂神社を現在地に移し、愛宕神社には九左衛門が寄進した鰐口が残っている 。愛宕神社付近は足軽町、新屋敷の地名であった。城址から約1.5km東南の取手市との境に乙子(おとご)という地名があるが、ここに守谷城の落とし口すなわち落口(おとご)があった。
地勢的には利根川、鬼怒川、小貝川に面する海上交通貿易、脇往還としての陸上交通の要所であり、同時に北方勢力に対し江戸を守る要衝となっている。
土岐家・酒井家が去った後、守谷城は空城となったが、土岐家の整備した近代的城下町が残り、脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。  
守谷市
七騎塚しちきづか
平将門たいらのまさかどには七人もの影武者かげむしゃがいたといわれており、守谷の海禅寺かいぜんじには、平将門と七人の影武者の供養くようのために建てられた塔とうがあります。
御霊山ごりょうやま  
天慶てんぎょう年間、平将門たいらのまさかどは七人の影武者かげむしゃをたてて、敵の目をくらまし勝利をあげていましたが、とうとう討うたれてしまいました。当時の住民たちは影武者をかわいそうに思い、現在の大木の丘の上にまとめてお墓をつくりました。そうして、御霊山と呼ばれるようになったそうです。
鈴塚すずか  
平将門たいらのまさかどは関東で、藤原純友ふじわらのすみともは瀬戸せと内ない海かいで乱を起こしました。この二つをまとめて承平じょうへい天慶てんぎょうの乱といいます。この二つの乱はほぼ同時期に起きたので、二人が手を組んでいたという話があります。平将門が兵を挙げる前に、藤原純友ははるばる将門の元を訪れたそうです。そして大鈴を埋めて塚をつくり、おたがいに戦の勝利を祈ったといわれています。
寅薬師とらやくし如来にょらい  
平将門たいらのまさかどが太公望たいこうぼう(中国古代王朝の周の政治家呂尚りょしょうの別名)の用いた「虎とらの巻まき」を夢のお告げで手に入れました。そこで、王城の寅とらの方(東北東かやや北)に御堂みどうを建てて、寅薬師をまつりました。現在、正安寺しょうあんじに寅薬師如来があります。
赤法花あかぼっけ  
平将門たいらのまさかどが城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁かべが、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。
板戸井いたどい  
承平じょうへい、天慶てんぎょう(931年から946年)のころ、平将門たいらのまさかどが東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万が一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っています。その一つがこの地の井戸といわれており、そこから板戸井という地名が付けられたと伝えられます。
隠穴かくしあな  承平じょうへい年間、平将門たいらのまさかどが守谷に城を建てたとき、万が一の場合に備え、本城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしたそうです。その抜け穴の出口を落おとし口ぐちといいました。それが乙口おとぐちに変わり、さらにそれがなまって乙子おとごに変化し、地名となったそうです。
興世王おきよおうの分城
天慶てんぎょう元年(938年)平将門たいらのまさかどは高野に興世王の分城を建て、今城いまんじょと名づけたそうです。今城とは、今いま造つくられた城という意味で、高野城のことをいい、この地域の人々は昔から今城と呼んでいます。
海禅寺かいぜんじ
海禅寺に伝わる「海禅寺縁起かいぜんじえんぎ」(守谷の領主、堀田正俊ほったまさとしが寄進きしんしたもの)によると、平将門が紀州きしゅうの高野山にまねて建てたということです。
平将門城址たいらのまさかどじょうし(守谷城址もりやじょうし)
平台山という丘の上に、平将門が建てたといわれています。周りは沼で、古城沼こじょうぬまと呼ばれていました。守谷は、平将門の王城の地とされ、守谷城が相馬そうまの御所ごしょと長い間語られてきました。しかし、実際は相馬氏代々の居城であったとされています。現在、公園となっていますが、土塁跡どるいあとなどに面影おもかげを残しています。
妙見八幡社みょうけんはちまんしゃ  
平将門たいらのまさかどが霊夢れいむを見て、城中の妙見郭みょうけんくるわに移しまつったそうです。
河獺弁天かわうそべんてん  
平将門たいらのまさかどが鬼門きもん避よけにまつったそうです。鬼門とは、陰陽道おんみょうどうで邪悪じゃあくな鬼が出入りするとして嫌きらわれていた方角で、北東を指します。人々はさまざまな工夫をして、鬼が出入りしないように鬼門を封ふうじていました。
長龍寺ちょうりゅうじ  
平将門たいらのまさかどが守谷城主の時、建てたそうです。平将門の位牌いはいが伝えられており、「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門ちょうりゅうじでんとくいれんざんだいぜんじょうもん」とあります。
将門まさかど並木  
守谷から北上する松並木の街道のことで、内裏だいり道や、将門並木と呼ばれています。
愛宕あたご神社  
平将門たいらのまさかどは、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権をたてようとしました。そのとき守谷にも京都と同じような都をつくろうとして、京都の愛宕神社に似せて建てたそうです。愛宕という地名もそこから名づけられたと言われています。
永泉寺えいせんじ  
平将門たいらのまさかどのほろんだ後、その家族や生き残った者たちが将門や影武者かげむしゃの土偶どぐうをこの地にまつったのに始まる寺だそうです。
西林寺さいりんじ  
妙見八幡社みょうけんはちまんしゃが守谷城中よりうつされたといわれています。西林寺の住職じゅうしょく義鳳ぎほうと親しかった小林一茶こばやしいっさが詠よんだ俳句の中に、平将門たいらのまさかどに関するものがあります。「梅さくや平親王の御月夜」(我春集 文化8年)
海禅寺縁起(かいぜんじえんぎ)
この縁起は寛文(かんぶん)年間(1661年から1672年)、守谷一万石の領主となった堀田備中守正俊(ほったびちゅうのかみまさとし)が寄進したものです。この縁起によれば、将門は延長8年(930年)に京都から相馬御厨(みくりや)の下司(徴税役)となって帰り、承平(じょうへい)元年(931年)父良将の供養のために紀州の高野になぞらえて地名を高野と名付け、海禅寺を建立したとあります。なお、これを寄進した堀田正俊は、天和(てんな)元年(1681年)1月に大老職に任ぜられましたが、貞享(じょうきょう)元年(1684年)8月、政治上の意見を異にする従弟の若年寄稲葉正休のため、江戸城中で殺されてしまいました。
沼崎山畧縁起(ぬまさきさんりゃくえんぎ)
沼崎山畧縁起は、永泉寺の歴史を伝える古文書です。縦26cm横276cmの軸仕立てで、近世後期の作と推測されます。この縁起には、永泉寺は平将門の古跡であり、将門が天慶(てんぎょう)の乱(939年から940年)に負けたおり、自分に似せて作った土偶(どぐう)を安置し、堂宇を建てて代々これを守ってきたことが記されています。守谷町史には、これより前の延暦元年(782年)の創建とありますが、これは天慶の乱以後に再建されたと考えられます。
守谷城址
この城は平将門の居城だったという伝承がありますが、実は相馬氏の城でした。源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子師常(もろつね)が相馬氏を継ぎ、ここに築城したという説が有力視されていますが、史料がなく断言することはできません。城は古城沼(守谷沼)に突き出た台地上に築かれ、本郭(ほんかく)を中心に二郭(にかく)、三郭(さんかく)をもって構成されています。その要害堅固たることは、中世期における城郭としてはまれにみるものです。 
海禅寺   守谷市高野 
海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うために建てた寺である。また本尊は、将門の娘・妙蔵尼の持仏であったとも伝わる。その後、将門の子孫を名乗る下総相馬氏の菩提寺となるが、戦国時代後期以降の相馬氏の衰退と転封によって荒廃する。江戸時代に入って領主の堀田氏が再興、奥州相馬氏も参勤交代の折りに立ち寄ったという。
海禅寺の境内には、8基の石塔が整然と並んでいる。これが平将門と七騎武者の墓である。一番右端の大きな石塔が平将門の墓といわれ、中央部に「平親王塔」と刻まれている。そして残りの石塔は平将門の7人の影武者の墓とされている。寺伝では、承平7年(937年)に京から帰国した将門を待ち伏せていた平良兼と平貞盛に襲撃された時に、身代わりに討ち死にした家臣7名であるという。将門本人の墓と称されるものは数多いが、家臣の墓は珍しいものである。  
赤法花(あかぼっけ)   守谷市
茨城県守谷市の大字。旧北相馬郡赤法花村。当用漢字が定められる前は赤法華と表記された。
守谷市東部に位置する。地域の北部を首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス、千葉県道・茨城県道46号野田牛久線が通り、小貝川を隔てたつくばみらい市との間に常総橋があることから、守谷市の北東側の玄関口となっている。緑の色濃い地域で、幹線道路から外れると森林など手付かずの自然が残されている。小貝川堤防より低い対岸とは対照的に、地域内は全体的に堤防よりも標高の高い場所に位置する。
東は小貝川を挟んでつくばみらい市青木(一部小貝川西岸)・長渡呂、西は松並、南は同地、北はつくばみらい市筒戸と接している。
小貝川 - 地域の東端を流れる一級河川。赤法花を含む中流部では下総国と常陸国の境にもなっていた川で、両国より一字を取った「常総橋」が当地からつくばみらい市青木にかけて架けられている。現在の常総端の十数メートル下流にはかつて渡船場が設けられ、対岸の筑波郡青木村とを結んでいた。
歴史
当地域は、全域がかつて下総国相馬郡赤法華村となっていた。守谷藩領を経て1642年(寛永19年)に佐倉藩領となり、1664年(寛文4年)に堀田正俊領、2年後の1666年(寛文6年)に幕府領となる。幕府領時代の「元禄郷帳」によると石高が45石余り、割付年貢が15石余り、小物成永が7貫余りであった。1747年(延享4年)には田安領となったが、同年の今仕置書によると人倫の道に重きを置き、鉄砲、キリシタン(切支丹)の取り締まり、人身売買の禁止、田畑譲渡及び移住の制限、博奕等風俗に関する規制など百姓の行為を制限し、民衆に対する教化的条目を巻頭に掲げていた。また、年貢米に関して七ヵ条の項目を設けていた。「天保郷帳」、「旧高簿」によると47石余り、「旧高旧領取調帳」によると、幕末(田安領)には42石2斗4升であった。常総橋が架けられる前は、江戸より常陸国笠間へ至る笠間街道が通っていた。また、赤法花村で作成された「差上申鉄砲証文之事」において、1867年(慶応3年)11月に田畑を荒らす猪や鹿を退治するための鉄砲の借用及び使用について書かれており、幕末には鹿や猪が村内に存在した。
幕末には下総野鎮撫府を経て、下総知事県の管轄となる。「染谷家文書」によると1868年(明治元年)の村高は45石余り、割付年貢4石余り、小物成永7貫余りであった。1869年(明治2年)には葛飾県、1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1878年(明治11年)の郡区町村制で大区小区の区分けは廃止され、同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡赤法花村となる。また、1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の守谷町、小山村と合併し、赤法花は守谷町の大字となる。守谷町となった2年後の1891年(明治24年)の戸数は15戸、人口は91人で、その他に厩が10棟、船が4隻存在した。2002年(平成14年)2月2日の守谷市の市制施行により、守谷市の大字として現在に至る。
地名の由来
承平年間に、平将門が守谷城を築いた際、場内より見る当地域が唐土の赤壁に似ていたことから「赤法花(赤法華)」としたと伝えられる。  
お化け石(成田不動明王の石碑)   守谷市高野
高野のおばけ石
昭和50年7月、高野中坪地区にある成田山不動明王の石碑に「人の顔が写っている」と近所の小学生たちの間で噂が広がった。噂が噂を呼び、やがてテレビ局や週刊誌等のマスコミに取り上げられ、守谷は一躍世間の脚光を浴びることとなりました。一時は、全国から見物客が押し掛け、付近の空き地はにわか駐車場に、そして、道は大渋滞に陥りました。当時、石碑に人の顔が写っているのを確認したという人たちの証言では、「平将門様の亡霊だ」「亡くなったおじいちゃんの姿」「白い着物を着た女の人と子供の姿が見える」「石碑の下の方には猫がいる」等、様々で見る人によって眼に映るものがあったようです。
石碑近くに建つ海禅寺は平将門ゆかりの寺。成田のお不動様は将門を調伏するためにはるばる京の都から関東までやってきた将門にとってはいわば仇。事実、成田のお不動様に戦勝祈願した藤原秀郷によって将門は殺された訳で、この石碑に顔が現れたのはその怨念によるものだなどといわれたものでした。 
■筑西市
一向寺 小栗助重供養碑   筑西市小栗
(いっこうじ おぐりすけしげくようひ)
説経節で有名な『小栗判官』であるが、実は完全な創作ではなく、実在の人物がモデルとなっている。それが常陸国に所領を持っていた小栗助重である。
小栗氏は、平将門に繋がる大掾氏の支族として源平の合戦にも名を残している。そして時代が下って室町時代になると、鎌倉公方の支配地である関東に所領を持ちながら、京都の幕府と直接主従関係を結ぶ“京都御扶持衆”となる。そのためか助重の父・満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で鎌倉公方に反旗を翻すが、結局は敗北。この時に所領の大半を取り上げられたために応永29年(1422年)に再び戦火を交えるが、今度は鎌倉公方・足利持氏に直接攻められ、最終的に満重は自刃する。これによって一時期小栗氏は所領を失うことになり、息子の助重は流浪の身となったとされる(一説では、満重は自刃せずに常陸を脱出し、相模に逃れて『小栗判官』のモデルとなるとも)。
ところが、永享の乱で足利持氏が自害、さらにその遺児を擁立して起こった結城合戦が永享12年(1440年)に始まる。この時に武功を立てた小栗助重が再び旧領を取り戻すことになる。父の死からおよそ20年ぶりの復帰であった。
こうして京都側と鎌倉側の権力争いが続くが、その中で小栗氏はさらに翻弄される。享徳3年(1455年)に始まった享徳の乱で反鎌倉公方であった助重の居城・小栗城は足利成氏によって攻め落とされてしまう。これによって小栗氏は再び所領を失い、京都御扶持衆の有力武将の中でいち早く歴史の表舞台から消えてしまったのである。
かつて小栗氏が知行していた筑西市小栗の地にある一向寺には、小栗助重の墓とされる供養碑がある。だがそは後世に建立されたものであり、その後の助重は『小栗判官』の物語に匹敵するとも言うべき人生を歩む。所領を失った助重は出家すると、京都の相国寺の門を叩く。そしてそこで画僧・周文の水墨画を学び、やがて足利将軍家の御用絵師にまで上り詰めるのである。大徳寺にある重要文化財「芦雁図」を描き、門下に狩野派の祖・狩野正信を持つ、小栗宗湛その人である。 
東睿山金剛壽院千妙寺   筑西市黒子
開創 834年
開基 慈覚大師円仁
本尊 釈迦如来
東睿山金剛壽院千妙寺は、慈覚大師円仁(794〜864)開基の天台宗寺院です。
淳和天皇の勅許により承和元年(834)、筑波山麓の上野(現明野町赤浜)に創建し、承和寺と称したと伝えられています。その後、平将門の乱により堂宇は焼失してしまいました。
時は下って、亮守が観応二年(1351)に黒子に地を定め、崇光天皇の勅命により再興しました。寺院を建立するに当り、亮守は千部の妙典(妙法蓮華経)を小石に書写し、浄域の中心に埋納したことから、寺号を千妙寺と称するようになりました。
亮守は、台密三昧流の法流を汲んでいましたから、それ以後、三昧流の灌頂道場として隆盛し、室町時代から戦国時代にかけて、末寺・門徒寺院700以上を数えるほどでした。
山号の東睿山は、慶長十八年(1613)後水尾天皇の勅号により授けられたと言われています。
京都の曼殊院・青蓮院 両門跡寺院とも三昧流を通じて密接な関係がありました。
また、古河公方足利氏・多賀谷氏・宇都宮氏などの戦国武将の祈願寺として信仰され、さらには、天正十八年(1590)に豊臣秀吉から下馬札を賜わり、慶長九年(1604)には二代将軍徳川秀忠から寺領百石が安堵されています。
総本堂(本尊釈迦如来)は、天正十一年(1583)十四世亮信の代に建立し、落慶法要が執り行われたと記されていますが、その後数回に及ぶ火災により焼失しました。現代の総本堂は元文三年(1738)に再建されましたが、老朽化が著しく、平成21年7月から四ケ年間かけて文化財的価値を尊重して大修理を行い、平成25年復元落慶することができました。(現在筑西市指定有形文化財)
千妙寺は歴史が示す通り寺宝三千六百点を所有し、しばらくの間、県立歴史館に寄託していましたが、平成27年3月に千妙寺内に展示室・収蔵庫を建設し閲覧に供しています。
※伝法灌頂道場 / 密教の「法」=根本の教えを授け、阿闍梨の位を授ける重大な儀式。比叡山延暦寺と千妙寺だけに伝えられる貴重な宗教行事と言われる。  
下館城   筑西市甲
天慶3年(940年)藤原秀郷が築いたのが始まりとされる。 藤原秀郷は平将門がおこした承平天慶の乱を討伐するために、上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)を築いたという。
文明10年(1478年)頃に結城氏家臣水谷伊勢守勝氏が下館城を築き代々の居城となる。 豊臣秀吉による小田原征伐の後は主家結城氏から独立した大名として取り立てられ三万一千石の所領を安堵された。関ヶ原合戦では東軍に属して佐竹氏に対抗し、所領を安堵される。
寛永7年(1630年)  所領の高直しにより四万七千石となる。
寛永16年(1639年)  水谷勝隆の時、備中国成羽へ五万石で転封。水戸藩主徳川頼房の長男松平頼重が五万石で入封。
寛永19年(1642年)  松平頼重は讃岐国高松へ十二万石で転封。 一時天領となる。
寛文3年(1663年)  三河国西尾より増山正弥が二万石で入封。
元禄15年(1702年)  増山正弥は伊勢国長島へ転封。丹波国亀山より井上正岑が五万石で入封。城地が狭く不便であった為に僅か一ヶ月で笠間へ移る。
元禄16年(1703年) 武蔵国より黒田直邦が一万五千石で入封。
享保17年(1732年) 黒田直邦は上野国沼田へ転封。伊勢国神戸より石川総茂が二万石で入封。以後石川氏が続いて明治に至る。
城は五行川西岸の平地に築かれており、下館小学校付近が二の丸、その北にある八幡神社付近が本丸であった。現在は市街地に没して遺構はほぼ失われたが、本丸跡にある八幡神社に案内板と石碑が建てられている。
形態 平城 城主 水谷氏、松平頼重、増山正弥、井上正岑、黒田直邦、石川氏 
田中稲荷神社本殿    筑西市甲地内
本殿は、文久3年(1863)4月に再建したもので、総欅一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、土台上の腰まわりから彫刻が施され、上屋で覆われているので保存状態が良好です。
通称田中稲荷大明神と呼ばれ、古くから田中村の惣社として尊崇され、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で耕作豊饒・作物の虫よけ、火防の守護神です。もとは田中村の中央(現在の稲荷町の稲荷神社)のところに鎮座していましたが、安政4年(1857)正月19日、火災により本殿・拝殿を焼失したため、文久3年に田中稲荷の別当である田中山宝蔵院の境内(現在地)に遷宮し、本殿拝殿を建立しました。
将門の夢の中に稲魂姫命が現れ、反逆を責めて改心しなければ家を滅ぼすと告げた。将門は近臣と諮ってこの社を修復したとか。  
金井薬師堂   筑西市(旧下館市金井町)
大橋のたもとにある三峰神社の左側に、薬師如来を祀った小さな薬師堂があります。この御堂に、藤原秀郷が金銅の十二神将を奉納したと伝えられています。ただし、実際には平貞盛が奉納したのだといわれています。  
新治廃寺跡(附上野原瓦窯跡)   筑西市久地楽〜古郡地内
奈良時代、律令制のもとで常陸国新治郡に造られた寺院跡で、古くから4基の土壇跡(どだんあと)と多くの古瓦の出土が知られていました。
昭和14年(1939)からの発掘調査によって、金堂の東西にそれぞれ塔を配置し、東塔〜金堂〜西塔が一直線上に並ぶ特異な伽藍(がらん)配置をもつことが明らかとなりました。金堂跡の礎石には、すべてに柱座を造り出し、東塔跡の基壇上には塔心礎も見ることができます。
出土した古瓦の豊富さとともに文字瓦も見られ、奈良時代の東国への仏教文化の伝播(でんぱ)を知る遺跡です。  
関本神社   筑西市関本
関本神社は筑西市の旧関城町にある関本に鎮座しています。駐車場、というか駐車スペースは鳥居の前にあります。この日はおまつりの屋台が並んだため、公民館などが臨時駐車場となっていました。
社伝によると関本神社の創建は桓武天皇の御代(781-806年)。山城国伏見稲荷を勧請して創建しましたが、鬼怒川の水害を避けるためにこの地に遷しました。残念ながらわかっているのはこれだけ。。
ご祭神は保食うけもち神、大日霊貴おおひるめむち命、武甕槌たけみかづち命です。本社の伏見稲荷と少し名称が違っているのが気になるところ。
大日霊貴命は天照大神です。県内でご祭神とする神社は多くありませんが、同市内の内外大神宮でも祀られているので関係が気になります。そういえばそちらにも神楽がありました。 
■つくば市
水守営所跡   つくば市
茨城県つくば市の旧筑波町に、将門記に出てくる水守(みもり)の営所跡があります。将門の叔父平良正の居館であったとも平国香の営所であったともいわれているそうです。伝説ですから、その真偽はわかりませんが、現在の遺稿は戦国期以降のようです。場所としては小高くて、敵を迎え撃つには格好の場所でしょうが。 
佐都ヶ岩屋古墳   つくば市平沢
ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推定される。現存するのは4基のみであるが、その中の1基、この佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん:平沢1号墳)は、筑波山南麓の7世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓をいえる。
本古墳は、おおよそ南北25m、東西35m、高さ7mの方墳で、南側に巨大な板石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は、石室内部が前室と後室に分かれる複室構造で、さらに全国でもめずらしい平面T字形である。築造された時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ばから後半頃と考えられる。
6世紀以前、首長の墓は前方後円墳と基本としていたが、6世紀末頃からは大型の円墳や方墳へと変わり、8世紀までには古墳そのものの築造が終わりを迎える。この古墳終末までの時期を古墳時代終末期という。そして、このような全国的な古墳築造の変遷は、中央集権的な国家制度の整備や仏教の普及に連動するものと考えられている。古墳時代終末期に築造され、時代的特徴と規模を備えた本古墳の存在は、中央において着々と進む国家体制づくりを受け入れ、その変化に対応していった、この地域の人々の動向を伝えるものである。
かつてこの地一帯は、筑波国造が治めていたと考えられる。そして、国・郡(評)・里という地方制度が成立した際、各地の国造が郡司(評督)となったといわれる。古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡を見下ろす位置に築造された本古墳の被葬者と、筑波国造・筑波郡司との関係も注目される。
なお、平将門の娘、瀧夜叉姫が、ここに隠れ住んだとの伝説もある。 
鹿島神社  つくば市若栗
祭神 武甕槌神
創建は天慶2年(939)です。平将門が常陸国府(石岡)を攻め新皇を名乗り関東に独立国家建設を目指しました。(平将門の乱) その際、戦勝祈願のため社領を寄進し創建されたと伝えられています。 また、将門は、天慶8年(939)にも若栗の鹿島神社と念向寺に3百石を寄進しています。  
智光山念向寺   つくば市若葉
宗派 時宗
念向寺を中心として筑波茎崎霊園が広がっている。境内にある大銀杏は茨城の名木・巨樹の100選に選ばれた樹齢300年といわれる。 
月読神社   つくば市樋の沢
945(天慶8)年の創建と伝えられている神社。平将門の護持仏であった勢至菩薩が本尊。別名「三夜様」と呼ばれる。
月待ちの講「二十三夜様」が行われる。二十三夜様は子どもの神様で、子どもの出来ない人が信心すれば子宝に恵まれると伝えられる。また、農業の神様としても信仰されている。間宮海峡発見で有名な間宮林蔵が生まれたのも、この月読神社のご利益があったからと伝えられている。
境内裏には樹齢700年を超え幹回りは6mを超える御神木のシイの木が立つ。 
八幡神社   つくば市上広岡
944年(天慶7年)府中(現石岡市)の常陸大堟平貞盛と平将門合戦に府中側が苦戦したところ 夢のお告げで「当広岡城主守護神八幡大神に祈願せと」とあり戦勝祈願して勝利をおさめたという。 また、古来祭りの際白鳩放鳥の儀式があり、高く飛べば豊作と五穀豊穣を祈願したと伝えられています。  
金田官衙遺跡(こんだかんがいせき)   つくば市金田字吹上
つくば市金田・東岡地内に所在する金田官衙遺跡は、筑波山の南方約15km、筑波研究学園都市の中心部から北東方約2kmのつくば市金田及び東岡地内にあります。筑波山麓付近から霞ヶ浦に向けて広がる桜川流域の沖積低地を東側に望む標高25〜27mの台地上に位置します。当遺跡は、奈良・平安時代(8世紀前葉から9世紀中葉)に営まれた古代常陸国河内郡の郡衙関連遺跡で、指定面積は95、872.98uです。
遺跡は、発掘調査により確認された遺構の内容から、次の3遺跡に細分されます。
1 正倉院(金田西坪B遺跡) / 幅約3m、深さ約1.3mの溝で区画された東西約110m、南北約310mの範囲に、礎石建物跡や総柱の掘立柱建物跡が確認されています。かつて周辺から、炭化米が出土したという記録があります。
2 官衙地区(金田西遺跡) / 4群に分かれて品字状やL字状に配置された約100棟もの掘立柱建物跡や礎石建物跡、井戸跡、柵列等が確認されています。
3 仏教関係施設(九重東岡廃寺跡) / 基壇建物跡や四面庇の特殊な建物跡が確認され、多数の瓦が出土しています。
当遺跡は、正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡が一括して把握できるという点で貴重な遺跡です。郡庁、館等について、明確な建物配置を示すものではないものの、それらを包括すると考えられる官衙地区を構成しており、郡衙の実態を解明する上で重要な遺跡です。

このあたりは「長者屋敷」といわれ、将門が常陸攻めの時に、雷雨にあい難儀していた際に、ここの長者が将門の軍勢すべてに蓑笠を提供してくれた。将門は、この長者のあまりの豪勢振りに、この勢力を恐れ、その屋敷を全て焼いてしまったという。 
金田城(こんだじょう)   つくば市金田字館山
鎌倉時代初期、小田氏が小田城を築いた頃に造られ、室町時代から戦国時代を過ごしてきた小田幕下(城主沼尻又五郎)の城で、15代氏治が佐竹に滅ぼされるとき、ここも落城して廃城となった。
現在確認できる曲輪は一つのみである。台地続きに副郭または外郭が設けられていたのかもしれないが、現在確認できない。 
東福寺   つくば市松塚
真言宗豊山派 山城国醍醐光台院末寺
御深草天皇の建長四年三月 忍性菩薩の創立である。平将門の娘尼蔵尼の生涯持念した聖徳太子御作と伝える安産、子育ての延命地蔵尊を安置する。作蔵山延命院東福寺と称する。
東福寺楼門は慧海僧正の造営である。二階建築で下に仁王像が安置してある。この仁王は明治初年の神仏分離の時、坂東二五番筑波護持院大御堂の解体に際して、東福寺住職慧海僧正が護持院住職を兼ねていたのでその縁故によって東福寺に移した。仁王は筑波町沼田から桜川を筏(いかだ)につんで流し、流れついた所が松塚岸である。そのようなことから流れ仁王というようになった。 
春日神社   つくば市上郷
祭神 武甕槌命
上郷地区の上原に鎮座しています。境内の碑文によると 創建は承平元年(931)に平高望の子、平良文が東国鎮守府将軍に任ぜられて下向の折り、藤原春信これに随従する。春信、豊田城の東北にあたる台豊田上郷に鬼門除けとして、奈良の春日神社の分霊を勧請した。以来春信の子孫代々社祠となり、のち岡田氏に改称し奉斎して現在に至る。江戸時代は御朱印二石を賜り朱印状はすべて現存するとある。社殿は江戸時代の宝暦6年(1756)に大修復をし、さらに現在の社殿は平成11年(1999)に落慶したものです。
境内には「雨乞石」と呼ばれる板碑があります。筑波地方算出の雲母片岩製(高さ138cm、厚さ15cm)で「日天月天」、「八龍神」と七言の詩偈(しげ)が刻まれています。日天月天、八龍神は雨にかかわる神仏で、往時は旱魃の時に雨乞いの為、農民がこの板碑をかついで小貝川に入水したと伝えられています。神殿、本殿さらに境内の石祠まで朱色で印象的です。  
八幡神社   つくば市吉沼
祭神 誉田別命(応神天皇)
小貝川の東側にある吉沼地区の西端に鎮座しています。創建は平安時代後期、寛治元年(1087)源義家が後三年の役で征奧の際、旅宿した跡に 誉田別命を祀り創建されたと伝えられています。江戸時代の寛文3年(1663)に吉沼村が仙台伊達氏の常陸飛地となり、神社も隆盛します。現在の本殿は貞享2年(1685)に建造されたもので一間社流造、茅葺です。覆屋は慶応3年(1867)に建てられた本格的な覆屋建築として貴重な遺構で 平成2年(1990)に本殿・覆屋が茨城県有形文化財指定となっています。
拝殿前の狛犬は親子です。境内社として山神社と大杉神社が祀られています。 また、境内には多くの石碑が建てられており、既に昨年の東日本大震災復興記念碑も建てられていました。  
一ノ矢八坂神社(いちのややさかじんじゃ)   つくば市玉取
近代社格制度に基づく旧社格は郷社であった。ニンニク祭りと通称される、祇園祭を催行する。
清和天皇の治世、貞観元年(859年)に創建されたとされる。この説では、山城国愛宕郡(現・京都市)の八坂神社から勧請されたとする。ただし『大穂町史』では、確証があるのは神社に残る宝鏡の制作年代から南北朝時代までであり、それ以前に存在したかどうかについては「なんともいいがたい」としている。天慶年間(938年 - 947年)には藤原秀郷が参拝に訪れ、平将門討伐のための戦勝祈願として矢を納めたと伝えられる。
小田氏が権勢を誇っていた頃には、同氏の崇敬を受け「玉取の里御花園」と呼ばれ、同氏がたびたび来遊したほか、弓矢の奉納を受けている。そのため小田城の落城に伴い、天正年間(1573年 - 1593年)に兵火に遭い、社殿を焼失した。(神社のある玉取村は小田城への侵攻路上にあった。)また常陸国にありながら下総国に勢力を持った結城氏の崇敬をも集め、同氏の寄進状の中に八坂神社の祠官とみられる「六郎大夫」の名が見られる。
その後、地域住民によって文禄年間(1593年 - 1596年)に社殿が再建され、玉取藩主の堀通周が延宝4年4月(グレゴリオ暦:1676年5月)に本殿の造営を行った。また堀利寿が宝永8年3月(グレゴリオ暦:1711年4月)に拝殿を造営した。江戸時代の一ノ矢八坂神社は一般に天王社と呼ばれ、別当の天台宗薬王院の支配下に置かれていた時期があり、禰宜ではなく半僧半俗の別当職が祭祀を行っていた。享保年間(1716年 - 1736年)の届書によれば、境内地の面積は2、552坪(≒8436m2)で、馬草場・御手洗(池)・御旅所林・天王免田畑を所有し、税を免除されていた。また祭礼に集う人々を目当てに茶店が建ち、周辺に門前町(鳥居前町)が形成された。こうして町が発達したことから一ノ矢の村人30人は玉取村からの分離独立を企図して分村願を提出するに至ったが、評定所は分村を認めず一ノ矢は玉取村に残留した。
明治時代になると、近代社格制度に基づき郷社に列せられた。1994年(平成6年)時点の境内地の面積は3、746坪(≒12、383m2)、社有地は5反5畝12歩(≒5、494m2)であった。
一ノ矢の地名伝説
社名であり鎮座地周辺の地名でもある「一ノ矢」には、次のような地名の由来に関する伝説がある。
「昔、この地域に飛来したカラスが農作物を荒らし、村人は困っていた。そこでカラスを退治しようと弓の名人が集められた。その場所を「天矢場」(てんやば)という。弓の名人はカラスに矢を放ち、1つ目の矢でカラスを射落としたところを「一ノ矢」、2つ目の矢でカラスを射落としたところを「二ノ矢」と呼ぶようになり、それぞれ天王を祀った。射落としたカラスは6本足で玉を持っていたため、以来この村の名は玉取村となった。」
一方、社伝では微妙に伝説の内容が異なっている。
「昔、3本足のカラスがこの地域に飛来した。弓の名人である友永は後に「天矢場」と呼ばれる地に櫓を建て、カラスに向けて矢を放った。1つ目の矢と2つ目の矢は射損じたが、3つ目の矢でカラスを射落とした。それぞれの矢が落ちたところには一ノ矢、二ノ矢、三ノ矢の地名が付いた。射落としたカラスは玉を持っていたため、以来この村の名は玉取村となった。カラスは「たまつかの坂」の塚に埋めたが、夜に亡霊となってウシの姿で現れたため、ある晩に友永が退治した。カラスが持っていた玉は筑波山権現に奉納した。」
信仰・祭礼
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、除災厄病・海上安全のご利益があるとして信仰されてきた。このため海から離れた内陸部に鎮座するものの、漁業関係者の参拝も多い。茨城県における牛頭天王信仰(祇園信仰)の中心であり、一ノ矢八坂神社の天王様(ニンニク祭り)が終わらないうちはほかの神社で天王様(祇園祭)はしないと言われており、当社の祭りの後から旧暦6月の月末までの間に茨城県の多くの神社で天王様(祇園祭)が行われる。一方で、地元・玉取地区の産土神としての信仰もある。1990年(平成2年)の朝日新聞による取材によれば、当時の参拝者は元からの地域住民よりも筑波研究学園都市にある研究所の職員や大学教員が多かったといい、大学院生が結婚式を挙げることもあった。
御朱印の授与は行っておらず、参拝者が各自授与所の前に掲げているQRコードを読み取って保存するという形式を採っている。
祭礼としては下記のニンニク祭りのほか、元旦祭、節分祭、五六祭(5月6日)、九六祭(9月6日)、新穀感謝祭(12月21日)がある。  
■石岡市
金刀比羅神社   石岡市国府
当神社は長い歴史の過程の中で、「森の神社」としての歴史、「平氏ゆかりの神社」としての伝統、そして「こんぴら信仰に由来する神社」として多様な側面を持っています。
森の神社
『常陸国風土記』によると、常陸国成立以前の太古には新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の六国に分立していたといいます。 当地方は茨城国といい、霞ヶ浦水運の要衝地にあって、当時の大和国から見て東の海を隔てた東国(あずまのくに)の開拓の中心地として最も早くから開けたところでもあります。当神社の古称である「森」「森木」「守木」は神社・神木・神垣の意をあらわし、古代神木祭祀の時代からの由緒ある神域であったことを伝えています。
平氏ゆかりの神社
平安時代中頃に、桓武天皇の曾孫である平高望(たいらのたかもち)王から国香(くにか)・貞盛(さだもり)らが常陸大掾(ひたちのだいじょう)という官職を得て国府に着任して以来、そのまま土着して勢力基盤を築き上げると、平氏ゆかりの神社として森の祭祀が継承されるようになりました。森は「大森太明神」と尊称され、歴代の平氏の子女が祭主となって神役に勤仕していたと伝えられます。 また森には、森の祭祀に従事する平氏の御殿「森木殿」があり、神仏混淆であったその時代には森木寺や八大寺という寺院が付属していました。 天正18年(1590)、戦乱と兵火の中に巻き込まれて、森は壊滅し、六百有余年の長期間にわたって当地を支配していた常陸平氏も滅亡しました。その後、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興されております。
こんぴら信仰に由来する神社
江戸時代になると、平村(現在の石岡市中心部)の鎮守として府中藩主松平家の信仰は殊のほか厚く、当神社に手厚い庇護と多大の崇敬を寄せられました。またその頃には、大物主神は仏教の守護神である宮毘羅(くびら)大将と同一神であり、現世で最も霊験あらたかな神様であると考える「こんぴら信仰」が全国に伝播拡大しました。当神社も「金毘羅大権現」として信仰を集めるようになっていました。文政10年(1827)に、あらためて讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の御分霊を勧請し、こんぴら信仰のよりどころとなって多くの人々の参詣を集めて今日に至っています。
香取神社の歴史
香取神社は、古くは茨城古国府や石岡外城があったとされる石岡市内の茨城カンドリの地に鎮座していたと伝えられています。鎌倉時代に石岡外城が築かれると、軍神として祭られました。その頃は森木殿の知行社でもありました。戦国時代末期の天正年間に森木の天王除地に遷座されたと伝えられます。天王除地は現在の金刀比羅神社境内の南側幅2間半。社殿の大きさは1間四方だったといいます。江戸時代には府中平村の天王祭の神輿の逗留する御旅所になっていました。明治39年(1906)に金刀比羅神社と合併し、御祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)は金刀比羅神社本殿に合祀されました。香取神社跡地には、現在、仁平稲荷神社が鎮座しています。  
常陸國總社宮   石岡市総社
常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)は、茨城県石岡市総社にある神社。常陸国総社で、旧社格は県社。社名には新字体の「常陸国総社宮」の表記も用いられるほか、別称として「總社~社(そうしゃじんじゃ)」とも称される。石岡の産土神であり、地域住民からは「明神さま」とも呼ばれている。
古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの常陸国の総社にあたる。
当社は石岡の中心市街地を抱く丘陵の縁辺に鎮座し、西から南にかけて恋瀬川の低地を望み、社地は旧常陸国衙に隣接する。氏子は1994年(平成6年)時点で約2、500戸で、各町ごとに氏子会が組織されている。
毎年9月に催行される例祭「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」とも称され、関東三大祭りの1つに数えられる。
祭神 
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) / 大國主尊 (おおくにぬしのみこと) / 素戔嗚尊 (すさのおのみこと) / 瓊々杵尊 (ににぎのみこと) / 大宮比賣尊 (おおみやひめのみこと) / 布留大~ (ふるのおおみかみ)
寛政3年(1791年)の『総社神宮祭礼評議』では、祭神は大己貴命(おほなむちのみこと:大国主尊に同じ)であり、「七体の木像にて、内六体は怪敷(あやしき)形」であるとしている。
歴史
社伝によれば、奈良時代の天平年間(729年 - 749年)の創建とされる。ただし『石岡市史 下巻』では、総社の制度が確立したのが平安時代末期であることから疑問を呈している。
当初の社名は「国府の宮」であったが、延喜年間(901年 - 923年)に天神地祇(てんしんちぎ)の6柱の神が祀られるようになって「六所の宮」となり、さらに「総社」(古代の読みは「そうじゃ」)に名を改めた。また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年 - 947年)に大掾氏(平詮国)が常陸府中(石岡)に築城した際に鎮守のために現社地に遷したという。神主は代々清原氏が世襲していた。
少なくとも治承3年5月(ユリウス暦:1179年6月)に「造営注文案」が出され、宮域の整備がなされたものと推定されている。造営には吉田神社や筑波山神社などの常陸国内諸社や郷が鎌倉時代末期まで決まっていたが、14世紀初頭になると、代々その任を担ってきた地頭らが造営を拒否し、神社側は鎌倉幕府に提訴、幕府は造営負担を命じるとともに地頭らに造営の先例の有無を記載した請文の提出を要請した。この時の請文が「総社宮文書」として6通ほど残されているが、いずれも「造営の先例はない」としている。これは社寺保護政策を強めていた幕府に対する関東御家人の反発の潮流の1つに位置付けられる。また総社に対する権威の否定、国衙機能の変質・解体として見ることも可能である。さらに鎌倉時代末期には、大掾氏の一族が社地の田畑について知行権を行使していた。
中世には国司代による奉幣の祭祀が3月3日と7月16日に行われていた。また、少なくとも戦国時代まで常陸国内の神事を執行・主導する立場にあり、仏事に対しても関与できるほどの権力を有していた。そして、7名の総社供僧と呼ばれる仏教僧も神社に奉仕していた。

永享12年5月(ユリウス暦:1440年5月)には太田道灌が奥州へ向かうにあたって武運を祈るため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、以下のような短歌を詠んだ。
「曙の露は置くかも神垣や 榊葉白き夏の夜の月」
道灌の子孫である太田資宗は先祖・道灌の寄進した軍配に感激し、軍配を納める金の梨地の筥(はこ)を作り、その蓋に由緒を書いて寛文8年4月(グレゴリオ暦:1668年5月)に神社へ奉納した。
江戸時代には、本殿に加え、幣殿・拝殿・神宮寺を有し、末社として高房明神と稲荷明神を管轄していた。寛永4年(1627年)、常陸府中藩主の皆川隆庸が現在の社殿を再建する。この年に江戸幕府によって社領を25石と定められた。その後、松平信定が天和3年(1683年)に拝殿を修築、1886年(明治19年)6月に氏子らで拝殿神門の修築と本殿を銅の瓦葺に変更した。
明治維新後、近代社格制度では始めは郷社に列したが、1900年(明治33年)9月に県社に昇格した。これを記念して石岡町民は寄付を集めて神社の基金を作り、三条実美に社殿奉額の社号の筆を依頼した。1978年(昭和53年)、総社神社周辺域に新町名「総社」が設定され、一丁目と二丁目がおかれ、神社は総社二丁目となった。この時、地名としての「総社」の読みは「そうしゃ」とすることが会議で決定された。
2005年(平成17年)4月14日、本殿が石岡市指定有形文化財(建造物)となった。  
星の宮   石岡市星の宮
祭神 天香々背男命
由緒は奈良時代の天平年間「府中三光の宮」のひとつとして建てられた。国府の地割は正南北の方位に造られ、国府の北に「星の宮」を祀り、南に「日天様」と「月天様」を祀った。
「星の宮」と国衙を結ぶと、正南北の線上になり、国衙から見て「北極星」の位置に建てられたといわれ、北極星信仰のあらわれである。
当時は国府在庁の官吏が祭祀を行っていたが、後に香丸町の氏神とされ、毎年祭事が行われていた。現在は常陸國總社宮に合祀されており、当時の場所にはない。 
青木稲荷神社   石岡市府中
祭神 倉稲魂命
青木稲荷神社の由緒は、宝沢院という寺院の隅にあったと伝えられる。慶長年間(1596〜1614)、領主六郷氏により国家安全・五穀豊穣・武運長久の為に深く信仰されていた。文政年間(1818〜1829)に宝沢院は廃寺となり青木稲荷神社だけが残った。再建は弘化2年(1845)。青木町の名は、府中六木の一つ「大木」に由来し、寛永2年(1625)、水帳に「大木」「おふき」の呼称が記されている。 
常光院   石岡市国府
常光院は来迎山常光院極楽寺と号し、51cmの阿弥陀如来像を本尊とする天台宗の寺である。本尊の御前立に、地蔵大菩薩不動明王尊を安置している。
伝承によれば、後朱雀天皇(在位1036〜1045)の御代、外城大学清治の創建。また「常陸大掾国香(〜935)の祈願所として、倉奈利良明開基」という記録もあり、11世紀初めまでに開山されたと推察できる。
また、境内には農具万能の考案者、鈴木万能の墓がある。彼が万能を製作していたという杉並の「アツバイ」の地には、彼の業績を顕彰して「万能塚」が建てられている。 
浄瑠璃山龍光院   石岡市総社
宗派 天台宗
常陸国府(現在の石岡小学校)の西に建立されています。
創建は不詳ですが、天慶2年(939)、平将門が常陸国府を攻めた時に焼失しましたが、将門鎮圧の最大の功労者である平貞盛が再建されたといわれています。平貞盛は父高望王の子国香が将門に殺されたことで京から常陸国(茨城県)に戻り天慶3年(940)に下野国(栃木県)の豪族藤原秀郷を味方につけ 将門を滅ぼしました。平家黄金期へつながる伊勢平氏の祖、平維衡の父です。  
春林山平福寺   石岡市国府
石岡市国府の6号国道そばにある春林山平福寺は、平安時代中期の武将で常陸平氏や伊勢平氏の祖といわれる平国香(くにか)により約1000年前に建立された。
如意輪観世音菩薩を本尊とし、かつては真言律宗だったが常陸大掾氏滅亡後は曹洞宗(禅宗)として今日まで続いている。
「国香は平家一族の基盤を固めた努力の人。平福寺という名には家族や次世代の幸せや福を願う気持ちが込められています」と曽根田宏道住職。
国香は桓武天皇のひ孫・平高望(たかもち)の長男で将門の叔父にあたる。筑波山西麓の旧真壁郡東石田(現筑西市)を本拠地とし、常陸国国府の官職「大掾」を受け継いだ。
長男・貞盛は鎮守府将軍となり、貞盛の4男・維衡は伊勢国に地盤を築いた伊勢平氏の祖、その後は正度、正衡、正盛、後の平氏政権を支えた武力と財力を誇った忠盛、そしてその長男・清盛が武士で初めて太政大臣となって政治の実権を握り、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる最盛期を迎えた。
一方、常陸大掾は国香の次男・繁盛が継承し、勢力を強めた詮国(あきくに)が築城した府中城を拠点に平氏一族による中世の常陸国(現石岡市)支配が約700年間続き、佐竹義宣の侵略で1590年(天正18)に滅亡した。
平福寺は常陸大掾氏の菩提寺として知られ、大掾氏代々が眠る「常陸大掾氏墓所」(市指定史跡)には五つの石を積み重ねた五輪塔14基が林立し、本堂前には高さ3.2mの巨大な「常陸大掾氏碑」がある。 
茨木童子   石岡市
石岡市村上染谷村 
龍神山には、茨城童子が住んでいた。童子は夜、里に出て人をさらって巾着に入れ、それを食べていた。しかし西国から征伐しにやって来る者があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので鬼越山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していった。(『茨城の民俗』31号 1992年)
石岡市 
酒呑童子の眷属である茨木童子が現れた。鹿島の武甕槌命がこれを追い払った所が、いまの鬼越山である。(『茨城の民俗』11号 1972年)
石岡市
茨城童子という鬼が居て、里の人をさらっていった。人々は不安だったが西から強い鬼が退治してくれるという噂が立った。これを聞いた童子は逃げ去っていった。その時山を飛び越えて行ったという。(『茨城の民俗』6号 1967年)  
茨木童子伝承
新潟県
新潟県栃尾市 引:「弥三郎婆」(谷川 健一)、『栃尾市史・史料集民俗編』他
栃尾市軽井沢地区は、全55戸のうち茨木性を名乗る家が34戸に上る。現在の茨木清水と呼ばれる所で酒呑童子と茨木童子が相撲を取った、茨木童子がこの村を切り開いたといわれる。その子孫の家がある。また茨木性の家では萱葺きであれば破風を作るとその家では不良が出るので作ってはいけないという。
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
新潟県栃尾市 引:谷川健一「弥三郎婆」、『栃尾市史・史料集民俗編』他
栃尾市一之貝地区では、節分にちなむ言い伝えで、「この日渡辺性は酒呑童子の腕を取ったので鬼は怖くない。茨木性は茨木童子の子孫なのでこの両性は豆まきをしなくても良い」というのがある。
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
新潟県中頚城郡吉川町
尾神の鎮守様の横の岩屋には、昔、茨城童子が住んでいた。茨城童子の足跡と、33体の仏様が残っている。
(「新潟県中頚城郡吉川町源」『民俗採訪』昭和31年度号 國學院大學民俗学研究会 1957年)
茨城県
茨城県石岡市村上染谷村 
龍神山には、茨城童子が住んでいた。童子は夜、里に出て人をさらって巾着に入れ、それを食べていた。しかし西国から征伐しにやって来る者があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので鬼越山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していった。
(嶋田尚「茨城の石に関する一考察」『茨城の民俗』31号 茨城民俗学の会 1992年)
茨城県石岡市 
酒呑童子の眷属である茨木童子が現れた。鹿島の武甕槌命がこれを追い払った所が、いまの鬼越山である。
(今泉義文「史蹟と伝説が描く竜神山周辺」『茨城の民俗』11号 1972年)
茨城県石岡市
茨城童子という鬼が居て、里の人をさらっていった。人々は不安だったが西から強い鬼が退治してくれるという噂が立った。これを聞いた童子は逃げ去っていった。その時山を飛び越えて行ったという。
(今井義文「石岡市地方」『茨城の民俗』6号 茨城民俗学の会 1967年)
京都府
京都府福知山市 
山に茨木童子が住んでいた。その洞窟もある。酒呑童子の出城だったという。茨木童子は平将門の子であったとも伝えられている。
(宮本正章「「大江山伝説」成立考」『近畿民俗』48号 近畿民俗学会 1969年)
大阪府
大阪府茨木市茨木町 話:古老
床屋が拾った子は牙や角をもつ異貌であったが、利発で心優しく皆に愛されていた。ところが、ふとしたことから人の血を欲するようになる。自分の鬼たる形相に気付いた後は家を出て森に棲み、人を捕らえては血肉を食うようになり、後世に茨木童子と呼ばれた。
(日垣明貫「茨木町に残る伝説「茨木童子」の遺蹟」『郷土研究上方』上方郷土研究会 3巻29号 1933年)
大阪府茨木市 引:『摂津名所図会』、『摂陽研説』
大阪府茨木町には茨木童子が育ったとされる家の後が残っているが、それによると、茨木童子は川邊郡留松村の土民の子であったが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって強盛であること成人以上であったので、一族はこれを怖れて島下群茨木村の辺りに捨てたのだという。この子は酒天童子に拾われて養育され、その賊徒となって大江山の巌窟を守り、巌窟のあった地名を以って茨木童子と号したのだ。
(日垣明貫「茨木町に残る伝説「茨木童子」の遺蹟」『郷土研究上方』上方郷土研究会 3巻29号 1933年)
大阪府茨木市 
ある髪結商の夫婦は榎の木の下に捨てられている赤ん坊を拾った。眼光鋭く牙が2本もある人間離れした異形の赤ん坊であったが、夫婦は慈しみ育てた。ところがちょっとしたことからおかしな噂が広まり、童子は家を出た。これが後の茨木童子だという。
(澱江畔人 「上方伝説行脚(三)」『郷土研究上方』上方郷土研究会 1巻5号 1931年)
大阪府茨木市新庄町
大阪府三島郡茨木町新庄町に、羅生門の鬼、茨木童子出生伝説がある。
(山田隆夫「破風を開けぬ家」『旅と伝説』10巻5号 三元社 1937年)
兵庫県
『實録傅記』
丹波国大江山に酒呑童子という鬼がいた。その由来。国上村に佐渡隼人という人がいた。子供がないので戸隠山に請願し、男子が生まれたので外道丸と名づけた。7才から国上寺にはいったが、17歳には美人だったので婦人にもてて、国上の山中へ入り酒を飲んでいた。人々は酒呑童子といった。外道丸は信州戸隠山へ飛び入り、里人を貪り食ったが、村人が戸隠大権現に祈念し大江山に飛び去った。召使の中に茨木もいた。茨木は邪心でついに鬼となりその家の破風より飛び出し、14、5年前から大江山に住んでいた。酒呑童子と茨木は争い、酒呑童子が勝った
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
記載なし
※地名記載はないが、内容的には京都の事と思われる。
『實録傅記』
正暦3年3月26日に大江山に登る。鉄門があり、酒田公時が打ち破る。都から持参した銘酒を鬼に飲ませる。酒呑童子は肴に人間の腕を取り出す。酒呑鬼は17、8歳に見える美男であった。酔って奥の一間に入り、正体を顕して寝入る。丈は9尺8寸もある。各々声をかけ目を覚まし、一言王の怨みと言い首を打った。その頭は天に飛び上り、頼光の頭に食いつく。渡辺綱は茨羅鬼の部屋に入る。茨羅鬼は綱の姿になる。大勢押しかけたがどちらが本物かわからない。頼光が都の綱には額に痣があるといい、急に眉間の上に痣の出たほうを退治した。外の鬼も撫で
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
『實録傅記』
都王城西の方、羅聖門で渡辺綱が茨羅鬼と出会い、茨羅鬼の左腕を切り取った。茨羅木はどこかに飛び去った。都に腕を送ったが、その腕は7日7夜の間5指が開閉したという。
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)

羅城門に住みつく。茨木童子についての話あり。
(百井塘雨 「笈埃随筆」『日本随筆大成第2期』12巻 吉川弘文館1974年) 
竜神山の鬼(茨城童子)   石岡市
竜神山は昔からこの地方の信仰を集めてきた。八郷地区と石岡市内の境にあり、山の向こうとこちら側では長い間気候も異なって、それぞれ別々の気候に変化をあたえてきた。昔は頂上が1つの山であったが、民間の採石業者に売却され、すっかりその姿が変ってきてしまった。今ではかえって竜神の名の通り、石岡の市内の方からみると右が頭で左が胴体である竜の形に見える。頭の側の杉の木が竜のヒゲのようにも見える。しかし、これも近年は首の部分(元の山の頂のあった付近)の採石が進み、2つの山と思えるような姿に変ってきてしまった。山の前後の気候の変化を感じさせないくらいに風も通過してしまい天の恵みの雨などにも影響が出ているようである。川から流れ出る川である山王川も柏原公園の池に注がれ、石岡駅横を通って霞ヶ浦に注いでいるが、昔のようなきれいな川は望めなくなってしまったのであろうか。信仰を深めてきた山であり、昔のままの姿を残して欲しいものである。
この竜神山には、大昔から竜神の夫婦が住んでおり、竜神様のおかげでふもとの井戸も枯れることがなく、旱天(日照り)が続くと、人々は雨乞いの祈りを竜神にささげ、腰にさげた竹筒に井戸の水を汲み、休まず村へ帰ったという。もし途中で休むと、休んだ所に雨が降ってしまうと信じられてきた。
この竜神山には、竜神夫婦以外に「茨城童子」という鬼が住んでいた。童子は、丹波の大江山の酒呑童子の兄弟分と言われ、さらった人間を入れる大きな巾着袋をさげ、石の根締めで紐をくくり、夜ごと里人をさらっては食べたという。このため、人々は童子を恐れ、子供などは「茨城童子」と聞いただけで泣きやむほどであった。
また、そのとき、童子が腰に下げていた巾着袋の根締め石も、邪魔になって投げ出してしまった。それがはるか茨城の万福寺の西に落ち、畑の中にめり込んでしまった。これが茨城に残る巾着石である。
他にも、西国から征伐しにやって来る者(強い者)があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので三角山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していったとの話もある。この名から三角山は「鬼越山」と呼ばれるようになった。

どこにも、鬼がふもとの人をさらっていく話が多く残っているが、この茨城童子については、大阪の茨木に茨木童子の話が伝わっていて興味深い。こちらの話は有名で、酒呑童子の家来であり、京都の羅生門で 渡辺綱 わたなべのつな に片腕を切り取られ、のちに綱の伯母に化けてその片腕を奪い返したという話は歌舞伎の演目にもあり有名である。また、童子の出生地は摂津の国水尾村(茨木近く)説、尼崎の富松説もあるが、越後(新潟県)の栃尾(長岡)という話もあり、栃尾の軽井沢に茨木童子を祭る祠がある。新潟でもこの話は伝わっていて、私も昔、新潟の長岡で祖母に良く聞かされた。酒呑童子についても越後出生説と伊吹山出生説とがある。  
岡田稲荷神社(おかだいなりじんじゃ)   石岡市貝地
祭神 宇賀御魂神
国道6号線の貝地交差点から南の丘陵地に建立されています。 この地は石岡城(外城)跡で神社の前に案内看板があります。
「建保2年(1214)常陸大掾(ひたちだいじょう)を継承して、常陸国衛において政務をとっていた大掾資幹(すけもと)は 鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、この地に居館をかまえた。これが石岡城の起こりといわれる。 その後、大掾氏の拠点として城郭が整備され「税務文書(さいしょもんじょ)」には、南北朝動乱期の 大掾高幹(たかもと)の居城として「府中石岡城」の名前が書かれている。
高幹の子詮国(あきくに)の代には、大掾氏は常陸国衛を拡張して府中城(現在の石岡小学校内)を築き 本城をそこに移したため、石岡城は「外城」と呼ばれたという。近世後期に書かれた地誌類には、大掾氏が府中城に移ったあとの「外城」の城主として 石岡某・札掛兵部之助・田島大学などの名前があり、天正18年(1590)の大掾氏滅亡とともに 外城も廃城となっている。現在は、かっての城主であった札掛氏を祀る札掛神社と堀・土塁の一部を残すのみである。」
札掛神社は天正18年に佐竹氏によって滅んだ大掾浄幹を弔い建てられたものです。稲荷神社はもとは外城の鬼門除として祭られ、館宮稲荷大明神ともいわれ、天保6年(1835)に岡田稲荷神社と改められ 城主札掛氏の一類である岡田家が祠守(しもり)をしています。  
正上内権現神社(しょうじょううちごんげん)   石岡市正上内
正上内
正上内という名前が出てくるのは平将門が1000名位の兵で3000人もいた国府の兵をやっつけ、常陸国府を奪い取った事件の時である。もう1000年以上も前の大事件です。
将門が事件を起こすきっかけにもなった「藤原玄明(はるあき)」「藤原玄茂(ふじわらはるもち)」たちの一族の住んでいたのではないかと言われるこの正上内にある「権現神社」を見てみたかったのである。
将門記でも大悪人のように書かれている藤原玄明とはどんな人物だったのか。
正上内は石岡から笠間へ向かう旧355線、笠間街道(笠間では江戸街道とよぶ)を石岡から県道7号線の下をくぐるところから先にある。
権現神社は県営アパートの少し先の355号線が坂を下った所から左に少し入ったところにありました。訪れる人はほとんどいないらしく、手入れはされていましたが、足跡はなく、私が歩いた跡だけが残りました。神社もそれほど大きくは無く、各地の部落に残されたというような普通の神社です。
前に書いた佐竹義政の首塚のある大矢橋は目と鼻の先です。
正上内の名前の由来は常陸少掾(しょうじょう)が住んでいたところという意味でついた地名だと言われています。常陸の国衙(現石岡小学校の敷地)には常陸大掾(だいじょう)が住んでいました。
掾(じょう)というのは役職で介の下の位ですが、段々と年代が進むと、常陸介は都にいてやってこなくなりますから、実質上の県知事のようなトップの役職になっていきます。そして世襲のようになり名前まで「大掾氏」と呼ばれるようになっていったのです。
将門が常陸国衙を奪ったとき、ここ常陸国衙にはたくさんの絹が保管されていたといいます。当時は大変貴重であった絹布が1万5千もあったと伝えられています。 
不動院   石岡市若宮
寺号は明王山虚空蔵寺不動院。宗派は真言宗、本尊は不動明王(行基の作と伝えられる)である。
寺宝には15世紀、了伝が徳川家康の他界の諷経に参加して下賜された「妙法蓮華経」八巻や常陸府中の山口次郎衛門の寄進した後光明天皇の書簡である宸翰がある。
また、密教独自の法具のひとつで、県指定文化財の宝塔鈴や、市指定文化財の木造不動明王及び二童子立像、木造阿弥陀如来坐像もある。 
加波山神社(かばさんじんじゃ)   石岡市大塚 加波山山頂
筑波山などとともに連峰を形成する加波山に対する加波山信仰に基づく神社だった。旧社格は郷社。加波山山頂からやや北に隔たった尾根筋に本殿が鎮座し、更にその北方に拝殿がある。また東西の両山麓にそれぞれ遥拝殿としての里宮がある。鎮座地には近接して加波山本宮と親宮も鎮座、この両宮を併せて加波山権現と総称され、両宮に対して中宮(ちゅうぐう)(加波山神社中宮・加波山中宮)を称し、一に中天宮(ちゅうてんぐう)とも称す。
祭神 国常立尊 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
明治初年(19世紀後葉)までは文殊院(もんじゅいん)という宮寺一体の真言宗寺院で、加波山東麓の石岡市北東周辺に旧来の信仰圏を有する常陸国有数の修験道の霊場でもあった。
社伝に、景行天皇の時代に日本武尊が現在の東北地方を平定するに際して加波山に登拝、神託により天御中主神、日の神、月の神の3神を祀り、社殿を建てたのが創祀で、延暦20年(800年)には征夷大将軍、坂上田村麻呂も東北地方平定に際して当神社へ戦勝を祈願し、大同元年(806年)に社殿を寄進したといい、当地へ訪れた弘法大師によって「加波山大権現」と号されたとも、仁寿2年(852年)乃至は3年の創祀であるともいう。また、加波山権現は貞観17年(876年)に従五位下を授けられた国史見在社の常陸国三枝祇神に比定されているが、「三枝神社」と識された棟札が残されている事から、3宮中の特に当神社がそれであるとする説もある。
加波山権現は現在、当神社と本宮、親宮の3神社に分かれ、遅くとも近世にはこの形態であったが、社説に依ればこれは和歌山県熊野三山の祭神が勧請されて本宮・親宮の2宮が新たに創建されたためであるという。また、一山支配ではなく三山鼎立の現象が現れたのは或いは加波山が筑波山の枝峰である事から筑波山神社の下でその地位も低く、独自の信仰を展開するまでに至らなかったためと見られ、事実信仰内容も略共通するのであるが、とまれ近世以降は文殊院を別当とする宮寺一体の形態を採り、大塚村(現石岡市大塚)に祀られていた神社仏閣の殆どの別当職を兼帯するとともに同村の滅罪寺(葬儀を行う寺)として宗教的中心ともされ、併せて古くから加波山を修行場とした修験者(山伏)を宮に所属させて呪術や加持祈祷を行う「山先達(やませんだつ)」として組織化していた。また幕府から朱印地5石を与えられていたが、文化頃(19世紀初め)に本社再建のための講が結成されており、これは維持経営のための財源確保を目的とするものと思われるが、この頃を契機として山先達の宗教行為を媒介として周辺部落に神輿を巡幸させたり(現おみこし渡御祭の起源)、寛政(18世紀末)頃迄に山中の修行霊場を「禅定場(ぜんじょうば)」として整備するとともに登拝を促す組織として禅定講(ぜんじょうこう)を結成させたりする等の積極的な布教活動を展開し、それが地方的にせよ嵐除や殖産といった広範な信仰を獲得する要因となったと思われる。
明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると一旦神社となったが、これを廻って訴訟が起こったため、翌2年5月に改めて取極めを行って神社と寺院(現文殊院)を分離し、同6年(1873年)に郷社列格、社名を「加波山神社」とし、同11年(1878年)に参拝者の便宜を図って東麓の大塚村(現・石岡市大塚)に拝殿を建立(八郷拝殿)。平成16年(2004年)には西麓の真壁町(現・桜川市)に箱根大天狗山神社の資金提供で新たな里宮(真壁拝殿)を建立した。  
■土浦市
宍塚般若寺と結界石   土浦市宍塚
宍塚般若寺
土浦市宍塚の竜王山般若寺は、桜川下涜の南岸、宍塚丘陵北麓の標高五m程の微高地上に立地する。現在真言宗豊山派であるが、鐘楼に残る鎌倉時代梵鐘の銘文や二基の結界石などより、常陸における西大寺流真言律宗の拠点であったことが判明している。
境内釈迦堂には木造釈迦如来像が安置され、その制作年代は鎌倉末期〜南北朝期と推定されている。
土浦市教育委員会によって昭和61年に確認調査が行われ、中世の溝・土壌、中世瓦を含む瓦溜、削平された古墳の周溝と埴輪などが検出された。中世の遺物では「寺五重塔瓦也」の裏文字を型押しした平瓦や巴紋軒丸瓦・数種の軒平瓦、内耳土鍋、瓦質壷、かわらけなどの概要が報告されている。このほかの出土品をみると、貿易陶磁器では青白磁梅瓶・竜泉窯青磁鏑達弁文碗・砧青磁花生・香炉、褐粕四耳壷、天目茶碗、鉄粕茶人、国産陶器では瀬戸鉄粕牡丹文瓶子灰粕水滴・四耳壷・瓶子、常滑摺鉢・婆・壷、美濃瀬戸(灰粕卸皿・盤・鉢・平碗・香炉・仏華瓶・瓶子、天目茶碗)在地土器では内耳鍋・かわらけ・灯明皿・壷・嚢・摺鉢、火鉢、金属製品では若〜破片、溶解青銅塊などが出土している。一三世紀前半代の常滑甕も見られるが、陶磁器は一三世紀後半〜一四世紀前半と一五世紀前半のものを主体とし、室町期に退転したと推定される。同様な陶磁器組成は、大栄町大慈恩寺でもうかがえる。
忍性の行実を記す『性公大徳譜』には「寺院結界七十九」「殺生禁断六十三」とあり、『本朝高僧伝』にも「度者二七四十人、寺院結界七九箇所、伽藍修営八三所、仏塔建立二十区、大蔵経納所十四戒、架橋一八九所‥」と記す。筑波山南麓に残された「大界外相」右、「不殺生界」石には忍性止住期と重なるものが多く、字体もー致する点から忍性が主催した結界の標石と考えられている。建長五年(一二五三)の七月二九日にまず宍塚般若寺が結界され、ついで九月一一日に三村山極楽寺で殺生を禁断、さらに九月二九日に新治東城寺(釈迦院もしくは地蔵院)で結界したことが知られる。
ここでいう「結界」とは、神社仏閣などを俗界と画し聖域とすることをさすが、特に律宗や禅宗など戒律を重んじる宗派の寺院で一定の区画を限定し、その区域内で僧侶が住み説戒に勤めることをいう。
戒律仏教における僧侶の結界には大きく大界、戒場、小界の三種類があり、最も基本的な「大界」とは、範囲が大きく通常結界する伽藍の区域を示し、外相はその外側を表わしている。これは僧侶たちが一緒に住し一緒に布薩の儀式をなすために限った領域を示す。
布薩とは、半月ごとに僧侶が集って戒経を説き、半月間の自己の行為を懺悔し戒を守ることを誓いあう儀式で、「大界」内の僧侶全員が布薩への参加を義務付けられている。よって大界結界は律院化を契機に行なわれる (松尾 一九九二)。
なおインドでは布薩を十五日 (白月)と三十日 (黒月) に、日本では十四・十五日と二十九・三十日に行なった。般若寺・東城寺の「大界外相」石がともに二十九日と刻むのはそのためらしい(井坂 一九九一)。山城速成就院の結界儀礼の主催は、事実上の次期西大寺長老選出の意義を持っていたとの指摘があり、忍性が下向間もない常陸で頻に結界儀礼を行なったことは、東国における律宗教壇の指導者としての地位を示している。また布薩の実施は同心する僧侶たちの寺院への参集を促し、そこはしばしぼ教学の場となり、同学たちの絆は横の連帯をつくりだした。西大寺流の関東布教の初期に実施された寺院結界は、広範な人脈形成に大きな役割を果たしたと考えられる。
般若寺は遺品や発掘の所見からも寺容が整ったのは鎌倉前期以降と推定され、それは建長五年(一二五三)七月二十九日の大界結界以降のことであろう。
鐘楼にある古鐘は高さ約一〇〇p、径約六〇pで、古く『集古十種』に拓影が収録された。銘文によれば、建治元年 (一二七五)八月の制作で、大工は棟梁物部氏のもとで鎌倉大仏鋳造に参加した鋳物師丹治久友である。丹治氏は物部氏とともに鎌倉時代を代表する鋳物師で、北条政権下で公工的な位置に在った。丹治久友と併記された大工千門重延は地方鋳物師と推定され共同鋳造がうかがえる。有力鋳物師といえども、鋳物生産が定着していない地域で独自に梵鐘のような大型鋳物の出吹きを行なうのは、要員や材料の手配などが困難であり、地方の鋳物師集団の協力のもとに出吹きにあたったとみられる(五十川 一九九二)。鎌倉大仏の鋳造工が般若寺梵鐘の鋳造に参画しているのは、忍性が鎌倉大仏寺の別当に就任したことと関係するようである。
般若寺の東側に鎮守社として鹿島社を祀っており、忍性ら律僧の鹿島崇拝をうかがわせる(菊池 一九八六)。
般若寺五重塔と佐野子の河岸
般若寺では「般若寺五重塔瓦也」の裏文字を型押しした平瓦や、三村山系の軒平瓦が出土しており、鎌倉後期頃には瓦葺の五重塔があったと推定される。『性公大徳譜』弘安元年(一二七八)条には忍性が真壁椎尾山薬王院に宝塔を造営した記事があり、尼寺三村塔供養(一二八二?)とあわせ、桜川流域の律院では鎌倉時代後期に塔の建設が相次いでおり、これらは一連の動きと考えられる。しかし正応四年(一二九一)年に忍性・春海らが落慶供養した金沢称名寺塔でさえ三重塔にとどまり、造営のため広域な勧進も行われており、当時の檀越(だんおち・施主)が問題となる。宍塚の地は、中世には信太荘の荘域に含まれ、鎌倉末期には、叡尊に戒を授けられた北条政村の一族の所領であり、五重塔の造営は、北条氏の強力な後援の産物とも考えられる。
また内海に注ぐ河川と五重塔の整える律院という関係は、広島児福山市芦田川流域の旧西大寺末寺、草津常福寺(明王院)を髣髴とさせる。常福寺五重塔は貞和四年(一三四八)に民衆と弥勤菩薩との結縁を願い、沙門頼秀が一文勧進の小資を募って建立したもので、門前町である草戸千軒町とのかかわりが想定されている。また当地備後国長和荘の地頭は北条氏と関係の深い長井氏であった(志田原一九九一)。
では同じく川べりに五重塔が聾える般若寺の近くには、草戸千軒町のような町場はなかったのだろうか。
般若寺の1km弱東北、桜川支流の備前川の傍らに、佐野子共同墓地がある。墓地の中央の高まりに総高二六五Cmを測る佐野子五輪塔がそびえており、南北朝から室町時代頃のものと推定される。巨大な五輪塔を取り巻いて小型五輪塔・墓碑がびっしりと塚を覆い、「ザンマイ」と呼ばれている。周囲の石塔には室町朝に遡るものも含まれるが、多くは一六世紀以降のもので、まさに関西地方の惣墓の風景を思わせる。
般若寺境内にもよく似た形で二回りほど小さい五輪塔が移築されており、両者の関係が推定される。ここはいまでこそ水田の中となっているが、東方に鹿島社の両があることも含め宍塚から虫掛への渡しの途上にあたり、江戸期の佐野子河岸は隣の飯田河岸と並んで水運の要衝でもある。五輪塔は桜川の中世河岸に営まれた記念碑的な塔と思われる。隣接する徴高地上には、古墳〜平安時代の土器にまじって、中世陶磁器がみられ、一三世紀以降の瀬戸・常滑陶器の破片などが散布している。北側にも塚や中世石塔・近世石仏が残り、近世に瓦葺の堂があったと考えられる。付近に散布する中近世陶磁器には蔵骨器のほか、この「場」の消費生活にかかわるものが含まれているようだ。
更に東方の粕毛(かすげ)阿弥陀堂には南北朝頃の丈六阿弥陀如来立像や御正體がある。佐野子墓地・柏毛の堂は永禄八年(一五六五)開基になる佐野子満蔵寺が管理していたが、それ以前は般若寺によって管理された、「無縁」の空間だったのではないだろうか。
般若寺開基伝承の成立
竜王山般若寺は天暦元年(九四七)に平将門の次男将氏の娘安寿姫が開基したと伝える。
ところで般若寺と同様な開基伝承は、般若寺の北西約二・五kmに所在する松塚東福寺にも伝わる。東福寺は建長四年(一二五二) 三月忍性の開創と伝え伝忍性作の阿弥陀如来像を残し(『野沢血脈図』)、また一説では鎌倉極楽寺の乗海が建長年間中に開基したとも伝える。寺伝には疑問があるが、西大寺流の律寺で極楽寺末寺であった可能性が指摘されている。東福寺は南北朝末期の戦火で焼けて現在地に移ったと伝えるが、そこには以前から平将門の娘滝夜盛(叉)姫如蔵尼の念持仏延命地蔵尊を本尊とする東福尼寺があり(「聖徳太子御正作延命地蔵尊略縁起」)、境内の古墳を如蔵尼の墓と伝えていた。古墳は削平され消滅したが、現在も巨大な石室材と尼塚の字名が残されている。境内には一四世紀〜一六世紀頃の五輪塔が密集しており、如蔵尼墓とされる古墳を核に形成された三味と考えられる。
般若寺も、境内付近にはかつて龍王山という前方後円墳があった。寺が現在地に占地した契機は、これと無関係ではないようで、古墳を安寿姫の墳墓に仮託し、宗教的な核としていた可能性がある。
なお安寿姫・滝夜盛(叉)姫如蔵尼伝承は、もともと十二世紀に成立した 『今昔物語集』に将門の子孫として登場する如蔵尼の伝承を原形とする。
将門討伐後に奥州に過れた第三女は、恵日寺の傍に庵をたてて住んでいたが、病死して閣魔の庁に行く。しかし地蔵菩薩の弁護で蘇り、出家して如蔵と号した。以後一心に地蔵を念じ、人々から「地蔵尼君」と尊ばれて、歳八十を過ぎて端坐入滅したという。
平氏系図には如蔵尼を記すものもあるが、将門との関係は娘・姪など一定せず、実在は疑わしく、地蔵信仰などとからめて創造された人物と考えられる。
こうした伝承は民衆の素朴な歴史観に訴える点で、教化の先頭に立ち勧進を実行する説教師たちによっておおいに語られる価値を有していた。考古学的な所見からみて、これらの寺院の創建が古代に遡る可能性は乏しく、中世にこれらの寺院の造営に関与した律宗の勧進聖たちが、地元の古伝承を巧みに再編成したものと見るべきであろう。
般若寺の僧侶と造営活動
『西大寺光明真言結縁過去帳』は、西大寺有縁の僧侶が没して後、光明真言会に結縁した際に記名され、律僧の没年の目安が得られる好資料である。西大寺四代長老良澄(一三三一)と五代長老覚津(一三四〇)の間に「実道房 常陸般若寺」「如一房 同寺」「来園房同寺」と常陸般若寺の僧三名が続けて記載され、歴代長老であったと考えられる。
般若寺の建治元年(一二七五)銘梵鐘に見える「大勧進源海」は西大寺叡尊弟子の交名にみえる常陸国人の實道房源海で、般若寺の事実上の開山と推定されている。
源海は当時新治村東城寺にいた無住房通暁 (一二二六〜一三一二)の師で、忍性とともに常陸に下向したと推定される。無住の『雑談集』に「二十九歳、実道坊上人二止観閲之。」「常州二実道房ノ上人卜申シ天台ノ学生ノ止観ノ講ノ時、源海ガ止観講ジ侍ル」とあり、律天台兼学の僧であることがわかる。無住が止観の講義を聞いたのは忍性が般若寺を結界して間もない一二五五年頃のことで、結界後間もなく止観の講義を始めたらしい。般若寺は大界結界以後、布薩(ふさつとは、仏教において、僧伽(僧団)に所属する出家修行者(比丘・比丘尼)達が、月2回、新月と満月の日(15日・30日)に集まり、具足戒(波羅提木叉)の戒本を読み上げ、抵触していないか確認、反省・懺悔する儀式)に際して各地の僧衆が集合したのを利用し、さまざまな行事が行なわれたはずで、その一環として源海も止観を講じたものであろう。
また金沢文庫古文書3581に、「志々塚」(=般若寺)の止観と見えるのも、おそらく源海によって講じられたもので、「思いもかけていなかった用件がでてきて、三月ころ、志々塚にでかけることとなりました。止観があるとかで、宝光房は連れていこうと、近頃、おっしゃっておられましたが、御学問、御精進のこと、本当によろこばしいことです。ところで、『止観』の五巻がそちらにあります。ついでのおりにでも」とある。
この書簡は、称名寺長老の妙性房審海(一二二七〜三〇四)が 『大乗起信論科文』 の書写に用いた紙背文である。宝光(法光)房了禅は一二八二年までに没しており、審海が忍性の推挙で称名寺に入った文永四年(一二六七)から間もない頃の手紙と推定され、宍塚般若寺に有縁の僧から出されたものである。この僧は、審海が般若寺に出かける折には、補佐役の了禅も一緒につれてくるよう求めている。東国の律寺では天台学を修める人が多かったようだ (金沢文庫一九九四)。審海・了禅は下野薬師寺・三村山・般若寺・鹿島神宮二屏総半島を頻繁に往来しており、称名寺に近い六浦から船に乗れば、乗り換えなしで簡単に土浦までこれたらしい。
一三世紀後半の般若寺は関東各地から律僧を迎え止観を行なうだけの寺容を整えていたことは疑いない。五重塔の造営も建治元年(一二七五)の梵鐘の施入、弘安五年 (一二八二)と伝える釈迦像の造立と近い時期と思われる。こうした造営事業を推進した源海もまた、学僧にして大勧進という二面性をそなえる律僧であった。
境内の西方には源海の墓塔と推定される五輪塔が現存しており、高さ一九三p、水輪はやや偏平で臼形に近いタマネギ形で火輪は勾配ゆるやかで軒口は薄く、軒反りも緩い。台座には反花座・各面二窓の框座(かまちざ)を備え、格狭間(かくはざま)の茨(いばら)が省略され退化した型式を示している。
三村山五輪塔と同様、これも西大寺叡尊弟子の墓に採用された大型五輪塔のひとつで、本体高は五尺六寸で称名寺開山の審海の墓塔とほぼ同規模である。
源海に師事した無住は嘉禄二年(一二二六)生まれで、師の源海はそれより年上と考えられる。源海が 『過去帳』に結縁(けちえん・仏道に入る縁を結ぶこと。仏道に帰依(きえ)すること)した一三三〇〜四〇年頃に没したとすると、百歳余の年齢に達し不自然である。よって結線は回忌供養に伴うもので、五輪塔は回忌供養塔と推定される。
二世長老と推定される如一房智祥は叡尊の弟子で河内出身である。金沢文庫古文書宍〇四の氏名未詳書状は、前林戒光寺の圓勸房の死去(一二八五頃)直前頃の書簡で、仏典の貸与に関する記述の中で如一房の名も見える。「裏書律系譜」の第十三表によれば鎌倉覚園寺開山の道照房心慧(=智海、一三〇六没)−本理房智源−如一房智祥という「智」を通字とする血脈が記され、北京律學園寺に連なる僧であったと考えられる。
三世長老と推定される乗圓房道海は叡尊の弟子で大和出身と考えられる。金沢文庫古文書六皇は延慶二年(一三〇九)以前に出された和泉国守護安東助泰の書状で、乗円御房を推薦する内容がある。道海は永仁五年(一二九七)に武蔵安養寺で金剛界・胎蔵界の秘法を伝授されている。また嘉暦四年(一三二九)に弟子の光海に秘法の伝授を行っている。この文書の真には「康永元年(一三四二)卯月廿一日以此正本」と光海署名の書き込みがあり、このころ没したらしい。
また 『金沢文庫古文書』 には正安三(一三〇一)二廿四に宍塚般若寺で雲忠 (五一歳)に秘法を伝授したことを示す二通の文書がある。他の文書が示す法脈からみて雲忠は乗圓房道海の兄弟子にあたると考えられる。
律宗と結界石
中世の結界石の分布は全国的にも限られ、奈良盆地南西部と筑波山麓に集中する。現在でも寺の門前に「不許章酒入山門」と刻んだ碑がみられるが、これも結界石の一種である。「大界外相」石とは比丘の行動範囲(有場大界)を限定(結界)する標石で、大界結界は羯摩師(かつまし)・唱相師・答法師の三師が立ち会い唱相記を記しながら行われる(大森 一九七七)ことから、常陸下向時の忍性一行は少なくとも律義に通じた三人以上の西大寺僧で構成されていたと考えられ、蓮順房頼玄、隆信房定舜とともに実道房源海も候補となるだろう。
般若寺境内に筑波山雲母片岩製の二基の結界石があり、表面にはともに「大界外相」の刻銘がある。うち土浦市立博物館に移された一基は高さ一〇八p、中央の幅六〇p、厚さ一三pで、県の文化財に指定されており、裏面に「建長五年(一二五三)発丑七月二十九日」の日付がある。般若寺結界石二基は、すでに松平定信編『集古十種』に拓影が採録されているが、誤って大和般若寺のものとされていた。他の例から推して当初は四〜五基で構成されていたうちの二基と考えられ、他の結界石の発見が期待される。
新治東城寺は徳一の伝承があり、最澄高弟の最仙の開基を伝える。創建当初は経塚群のある堂平に薬師堂があったと伝え、本堂内に秘仏として祀られる十一世紀中頃の薬師三尊はその旧本尊らしい(茨城県 一九八一)。忍性常陸下向の頃、この寺で修業中であった無住通暁の『沙石集』『雑談集』には、東城寺に関する記事がいくつかある。結界石は本堂境内より西方の山裾が本来の所在地である。「大界外相」石は字名を残す釈迦院周辺に四基現存するほか、東城寺境内に移築された一基に「建長五年突丑九月二十九日」銘があり、字体の類似から忍性による結界に伴うものと推定される。これらの結界石は、最も大型で紀年銘のあるものが領域の入り口に立てられ、他はそれぞれ四隅を画していたと推定されている(高井 一九七六)。付近の斜面には中小五輪塔の群在がみられ、地蔵院と通称する点からも東城寺の墓寺としての役割も考えられる。
竹林寺は、奈良盆地の西方、生駒山麓の小高い丘の上にある寺院で、行基菩薩の墓廟として名高い。天福二年 (二三四) 六月二十四日に竹林寺僧恵恩によって行基の遺骨が発掘されたが、若き日の忍性もその場に立ち会ったと推定される。行基舎利の発見は南都仏教界に大きな衝撃を与え、行基が大仏勧進に協力した関係から東大寺では円照らによって度々行基菩薩舎利供養が行われた。円照は一時竹林寺に住み、寂滅が再興した寺観を整備し、凝然も再三竹林寺に身を寄せ、『竹林寺略録』一巻を撰述した。
生駒市郷土資料館には「大界外相」「大界南西角標」「大界東南角標」 の三基が展示され、竹林寺旧城東北隅には 「大界東北角標」石が現存する。本来寺域の四隅と山門の計五カ所に結界標識があったと推定され、これらの発見位置からみて、結界は行基墓を中心として厳密に設定されていたことがわかる。山門付近でみつかったものは、正面に「大界外相」「勧進沙門人西」背面に「生駒之霊峯十方如来圃化道場也 圏俄国之囲囲可致一礼菟域之懐 □□之徳篤示一等□□□建支提□」とあり、「建支提」とは行基墓上の宝塔をさし、往来する男女に行基墓への敬礼を求めている。
結界石を造立した入西の名は嘉元二年(一言四)銘の無量寺五輪塔地輪にみえ、有里輿融寺の行基顕彰碑も彼の造立と推定されているが、嘉元三年(一三〇五)の『竹林寺略録』 にもその名が記されている。この『竹林寺略録』には「結作大界、定四方標畔、鮎約浄地為市洞庫宇」とあることから、忍性没後の嘉元三年 (三宝)頃の結界石と考えられる。この時結界を行なったのは唐招提寺出身で室生寺の中興開山である律僧の空智房忍空である(伊藤一九九四、生駒市教育委員会一九空ハ)
室生寺では花崗岩製で項部山形・二段切り込みで「大界外相」とバン種子を刻む大界外相碑と、切り込みのない「大界東北…」石など計四基の存在が判明し、本来山門と四隅の五基と推定される (仲  一九九五)。
寺の創建は宝亀八年(七七七)に遡り、鑑真に戒をうけた興福寺僧賢景の開山で、二世修円は徳一の師とする伝承もある。文永九年(三七二) 以降頃に空智房忍空が中興開山となり、乾元二年(一三〇三)・文保元年(三三)に伝法灌項を行うなど復興しており、竹林寺結界石との類似からも、室生寺結界石は忍空の遺品とみられる(伊藤 一九九四)。室生寺五輪塔も、西大寺様式の形態と内容を示し忍空の墓塔と見るのが妥当であろう。
室生寺周辺の十輪寺・無山山寺・小倉観音寺にも結界石の存在が知られる。
以上奈良県下の結界石は、いずれも筑波山麓のものより新しいが、竹林寺では行基墓の荘厳、室生寺でも戒律道場という性格がうかがえた。なお大阪府南河内郡太子町叡福寺の聖徳太子墓では、古墳の墳丘の裾をめぐり、外向きに密接して並んだ鎌倉期(文永〜弘安頃)の板碑列が環状にとりまき、更にその下段にも近世の板碑列がめぐり二段の垣をなしている。これは聖徳太子を如意輪観音の化身とする信仰に基づき営まれた結界石の一種とされ(田岡 一九七〇)、古墳そのものを結界しており、竹林寺行基墓を囲む結界石と同様な意味を持つものであろう。称名寺結界図の分析では、結界内には墓塔・骨堂を設けないことが指摘されていたが(桧尾 一九九二)、古代の聖人や祖師の墓はこの限りではなく、むしろ中核に位置している (伊藤 一九九四、生駒市教育委員会一九九大)。
東国に数多くある律宗寺院の中でも、中世の結界石が見られるのは筑波山麓に限られる。関西地方の中世結界石が、古代仏教の祖師・聖人と密接に関わっていることからすると、筑波山麓についても、持戒僧徳一ゆかりの地であることと無縁ではあるまい。 
土浦城   土浦市
常陸国新治郡(現:茨城県土浦市)にあった日本の城。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。
平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429年から1441年)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。戦国時代に入り永正13年(1516年)、若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時、信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城を奪回するが永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐したが、天正13年(1583年)、ついに小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は後北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。
関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封した。その後松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封した。以後、城主は西尾家・朽木家と代わり、寛文9年(1669年)、土屋数直が4万5千石で入封した。土屋家は、天和2年(1682年)、子の政直のとき天和2年(1682年)駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び6万5千石で入封した。その後、3度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋家が11代、約200年間世襲して明治維新に至った。
歴史
室町時代以前
平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かではない。
室町時代から安土桃山時代
文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429年から1441年)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉三郎が築いたのが初めてである。 永正13年(1516年)に小田氏の部将・菅谷勝貞が若泉五郎右衛門を滅ぼし、その家臣(菅谷某または信太範貞)が城に入った。後、菅谷氏が勝貞、政貞、範政の三代にわたって土浦城を守った。戦国時代に佐竹氏が勢力を広げると、佐竹によって本拠の小田城を追われた小田守治が入城した。
戦国時代が終わると、土浦は結城城の結城秀康のものになり、小田氏はその家臣になった。代わって多賀谷村広が城代を務める。慶長6年(1601年)に秀康が越前国に転封になると、藤井松平氏の松平信一が土浦城に入った。信一と子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。
昭和61年(1986年)の発掘調査で、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明した。対応する文献が発見されていないので時期や原因を知ることは今のところできない。
江戸時代
元和3年(1617年)に松平信吉が上野国の高崎に転じると、土浦には西尾忠永が入った。忠永の子忠照は元和6年(1620年)から7年かけて西櫓と東櫓を作らせ、元和8年(1622年)には本丸の正門を櫓門に改めた。これにより本丸は水堀と柵つきの土塁、三つの櫓で守られるようになった。
慶安2年(1649年)に西尾忠照は駿河国の田中に移った。かわって朽木稙綱が城主となり、明暦2年(1656年)に櫓門を現在ある形の太鼓櫓門に改築した。万治元年(1658年)に、英庫と焔硝倉を建造した。万治元年、搦め手門、外記門を瓦葺きにした。朽木種昌の代に、土塁上の塀をすべて瓦葺に改めた。
寛文9年(1669年)に土屋数直が入った。土屋家は元来武田家の家臣で、武田家の滅亡後家康に仕え、数直の代に大名になった。後述の松平信興の時代を除いて、これ以後江戸時代を通じて土浦城の主は土屋家であった。延宝6年(1678年)に二の丸に米倉が建てられた。
松平信興時代の貞享2年(1684年)には大改修が実施され、松平家臣・山本菅助(4代、晴方)が奉行を務めた。菅助晴方は戦国期の甲斐武田家の家臣山本菅助(勘助)の子孫で、大手口・搦手口は武田流の築城術により普請している。
天和2年(1682年)から貞享4年(1687年)までは、松平信興が城主であった。信興は貞享2年(1685年)に兵庫口と不破口を作り、門を建てた。また、本丸の霞門を改築し、翌年にかけて水戸口の虎口を改良して二重丸馬出虎口とした。
近現代
廃藩置県の2年後、1873年(明治6年)1月に、太政官符令第84号で土浦城は廃止された。本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われた。本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊された。二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
1884年(明治17年)に火災で本丸御殿が失われた。このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去された。11月に郡役所の建物が御殿跡に建てられた。1899年(明治32年)に本丸と二の丸南側が亀城公園になった。
1949年(昭和24年)、キティ台風の被害を受けた西櫓は、1950年(昭和25年)、復元するという条件つきで解体された。解体時の復元予定は長く実現しなかったが、1992年(平成4年)に保管されていた部材を用いて復元された。
1998年(平成10年)には東櫓が土浦市立博物館の付属展示館として復元された。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響を受け、太鼓櫓門、東櫓、西櫓とすべての建造物が破損した。とくに東櫓、西櫓は白壁の欠落など大きく破損し、東櫓展示館も閉館を余儀なくされた。
2012年(平成24年)6月22日までに、櫓門、東櫓、西櫓、土塀などの修復工事が終了。同30日から順次、一般公開が再開された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(113番)に選定された。  
虫掛神社   土浦市虫掛町
創立年代不詳。言い伝えによれば、天慶の乱の折、平兼盛敗走してこの社の薮にかくれて危難を免れたという。旧記に宝暦6年再建とある。明治15年4月村社に列格。大正元年12月、字内稲荷神社、同境内社を合併して、鵜宮を現社名に改称した。大正2年3月27日(第164号)供進指定。昭和27年8月15日宗教法人設立。安産の神として崇敬され、鏡餅を奉納して祈願する。
兼盛は平良兼、平繁盛(平国香の二男)ではないかと考えられている。
ご祭神 神武天皇の父で鵜萱草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)  
龍王山般若寺   土浦市宍塚町
真言宗豊山派
寺伝によれば、平安時代の天暦元年(974)平将門の次女安寿姫(如蔵尼)により尼寺として宍塚の台地に創建され、平安末期に現在地に移されたという。鎌倉時代には、北条執権の保護を受け、特に忍性菩薩が三村山に来住したため、律宗寺院として栄えたという。戦国時代になると戦火によって堂塔を失ったが、江戸時代に、地元出身の三島検校が江戸護国寺の観音堂を移築して寄進している。
銅鐘は、建治元年(1275)僧源海が大勧進となり、鎌倉大仏の鋳造にかかわった丹治久友、千門重延が鋳造したことが確かめられ 在銘古鐘として全国的に知られています。境内にはその他、建長5年(1253)の建立時期が刻まれた「結界石」や「石造五輪塔」「六地蔵石造灯篭」など多くの文化財があります。
結界石とは、寺院等の清浄な区域を標示するための標石で、特に戒律の厳しい律宗では、特定の行法に当たって必ず 区域を限定するために建立したものです。  
愛宕神社   土浦市下高津
江戸時代は愛宕権現と呼ばれていた。旧社格は村社。
旧水戸街道(現在の国道354号旧道)沿いにある神社で、桜川右岸の台地斜面に鎮座する。かつては霞ヶ浦を一望できる風光明媚な場所で、愛宕神社の御神燈が灯台の機能を果たしていたという。
参道は旧水戸街道がある東向きに面し、手すり付きの階段が付いているが、裏手の常福寺から直接入ることもできる。社殿のすぐ裏手まで駐車場や墓地が迫っている。愛宕神社の参拝者用駐車場は旧水戸街道の道向かいにあり、その隣には享保18年(1733年)建立の「下高津の道標」(土浦市指定史跡)がある。
江戸時代、下高津村の鎮守であるとともに、土浦城の表鬼門の守護とされた。桜川にかかる銭亀橋の先にある大町交差点の付近に、土浦城高津口(南門)が位置していた。
祭神 軻遇突知命 / 神体は軻遇突知命の本地仏の勝軍地蔵である。火伏せの神として信仰されている。神社整理等による合併の有無は不明である。
由緒
創建は天慶年間(938-947年)、平貞盛が戦勝祈願のために軻遇突知命の神霊を勧請したという。
戦国時代、土浦城主となった菅谷伊豫守勝貞が崇敬し、祭礼を行った。
江戸時代、寛文9年(1669年)に土屋数直が土浦城主になると、愛宕神社を表鬼門の守護とするために奉斎し、社殿等を改築したという。土屋数直の奉斎を延宝7年(1679年)とする資料がある。
元禄12年(1699年)に社殿が焼失し、文化8年(1811年)に現存の社殿を再建した。大棟には土屋氏の家紋である三ツ石紋が配されている。
明治15年(1882年)4月、村社に列格した。  
■稲敷市
逢善寺   稲敷市小野
新利根地区小野に建つ「逢善寺」は小野の観音様として古くから親しまれており、茨城景観百選の一つにも数えられ県の有形文化財にも指定されている江戸後期の代表的仏閣建築です。
逢善寺の歴史をひもとくと、今から千年以上むかしの平安時代の天長3年(828)、逢善道人が千手観音を本尊として寺院を創立。淳和天皇の勅願寺として発展しました。正徳3年(1713)には天台宗の関東八檀林の一つに定められ、僧侶養成のための学問所として栄えました。
その間、逢善寺は2度の火災に遭い、現在の本堂は天保13年(1842)に再建されたもの。昭和56年から7年かけての修復工事が行われ、銅板葺きの重厚なつくりに当時の繁栄ぶりを感じられます。また、本堂の天井には寺内出身の日本画家、松本楓湖による天女が華麗に舞う絵「飛天の図」を見ることが出来ます。
この他、境内には県指定の文化財として、仁王門、書院・庫裡、彫刻の木造金剛力士立像、工芸品の五鈷鈴と五鈷杵、経文の妙法蓮華経など沢山の文化財があります。 
浮島城   稲敷郡桜川村浮島
承平年中(931〜938)平将門の与党、武蔵権守興世王が館を築いて清遊したと伝えられる。しかし、その没後、天暦年中(956)物部信太連の裔、浮島太郎安広が修築して居城とし、後裔相次いだが、元亀、天正の頃(1570〜1590)その末裔漢島弾正が佐竹に滅ぼされ廃城になったと伝えられる。尚、その間に保元の乱に敗れた源義広(為義の3男)が20余年に亘り浮島に潜居した(1156〜1180)と史実に見えるので、浮島氏の庇護の下にあったのではないかとも思われる。義広は信太三郎先生と号し、鎌倉を討つべく挙兵したが頼朝に敗れ木曽義仲に投じたと云われている。

字岡の内の台地(標高20m)全体と言われているが、これといった確証はない。利根川図誌に「人見の塚」が城跡の一角にありと記せるも現認不能である。ただ、浮島内に人見氏が4家ある。また、昭和初期まで字仲郷の城跡寄りの地点に「鞍かけの松」という松の大木があったが枯死した。その辺りが馬出口ではないかと推定されるが、干拓造成のため土取り(切土)されたので現況からは不明である。現在台地上は畑地として耕作されており、何らの遺構も見られない。  
高田神社   稲敷市高田
高田岡にある高田神社は、承平年間(931〜937)に、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野大社の分霊を勧請し、平将門の乱の平定を祈願するために創建されたものと伝えられています。その時、13人の供僧もこの地に来住しています。祭神は伊邪奈岐命など8柱です。
南北朝の時代には、延元3年(1338)9月の北畠親房の神宮寺籠城の際、神官などが南朝方に味方し、神領が北朝方に没収されてしまいました。
享保18年(1733)に再建された社殿は、平成2年に焼失しましたが、平成9年に再建され現在に至っています。
約140mの参道の両側に立ち並ぶ杉の巨木は壮観です。その杉並木により光が遮られ昼でも薄暗い参道を抜けると、突然、荘厳な社殿が光のなかに現れます。厳粛な気分にさせられる瞬間です。
また、高田神社を含めたその周辺は、自然林と人工林が織りなす植生と、数種のアゲハ類が生息するその豊かな自然環境により、県の自然環境保全地域に指定されています。  
実穀古墳群   稲敷郡阿見町
当古墳群は、かつて実穀集落の西北の小字寺子付近に、7基の円墳から成っていましたが、平成7年に県教育財団により4基が発掘調査され、現在3基が残されています。1号墳は、直径23メートル、高さ3 .6 メートルで、墳頂(ふんちょう)に石塔台石が埋まっています。2号墳は、直径18 .5 メートル、高さ4 .5 メートルで、墳頂には天満宮がまつられており、また樹高20〜30 メートル、目通り4メートルの桜の大木が繁茂しています。3号墳は直径14 メートル、高さ2メートルでピラミッド型をなしています。
発掘調査された以外の円墳4基のうち、4号墳の主体部は墳頂部に設けられた粘土槨(ねんどかく)で二人の埋葬跡があり、副葬品として直刀5本、鉄族、刀子、ガラス玉等が出土し、古墳時代後期の豪族の生活をしのばせます。他に、古墳時代中期の6つの住居址、6号墳の墳丘裾部から五輪塔(十数基)が出土していて、全体として旧石器時代から中世までの複合遺跡と判定されました。
現在残る1号墳、2号墳のあたりは、平安時代の豪族平将門の伯父国香(くにか)の墓であるという伝説が残されています。
1号墳頂に埋もれた石塔台石(五輪塔の地輪か)といい、最近の発掘で出土した五輪塔群といい、この遺跡は、実穀の古代ばかりでなく、中世その他をも物語る貴重な遺跡です。  
阿彌神社(あみじんじゃ、阿弥神社)   稲敷郡阿見町竹来(旧信太郡竹来村)
明治初期までは旧信太郡の二の宮として「二の宮明神(二宮明神)」を称した。また、相殿二柱と合わせて、別説には室崎神社(阿見町大室)及び十握神社(阿見町廻戸)の2社と合わせて、「竹来三社」とも呼ばれていた。阿見町中郷にある同名の阿彌神社とともに、延喜式神名帳の常陸国信太郡二座の一社(小社)「阿彌神社」の論社(式内社)である。近代社格制度における社格は旧県社。
主祭神 健御雷之男命 / 配神 経津主命、天兒屋根命
神体は円鏡である。普都神話に由緒を求める来歴上、主祭神を普都大神とする説もある。
由緒
創建
創建の年代は不詳であるが、
『明治神社誌料』は「創立年代詳ならず、伝説に拠れば元明天皇和銅年間なりと云ふ」(708-715年)としている。
『茨城県神社写真帳』は「創立不詳」としている。
『新撰名勝地誌』は「蓋し和銅の頃なるべしといへり」としている。
境内にある「阿弥神社樹叢(竹来)」(阿見町教育委員会)の案内板では「推古天皇15年(607年)」としている。
常陸国風土記の記述
竹来(たかく)は、常陸国風土記の信太郡の条にある「高来里(高来の里)」の遺称地である。高来の里について語られる旧事(普都神話)の大略は、以下の通りである。
「天地の権輿(けんよ)、草木が言葉を語っていた時、普都大神という名の神が天から降臨した。大神は葦原の中つ国を巡り、山河の荒ぶる神(荒梗)を平定した。言向け(化道)を成し遂げた大神は、天に帰らんと思し召し、やがて(即時)、身にまとった器杖(いつのつえ)、甲、矛、楯、剣、玉珪をことごとく脱いで、この地に留め置き、即ち白雲に乗って、蒼天に還り昇った。以下之を略す。」
この記事によれば、高来は普都大神の登天の聖地である。明治神社誌料は「神代の霊地」と表現している。古語の「来(く)」には「行く」の意義があり、日本国邑志稿は「高来」を「高行」の意であるとしている(大日本地名辞書)。新編常陸国誌は「高天原より降来れる意より出でたるなり」としつつも、「但別に義あるべし」と注釈している。また、郡郷考に「按其村中楯ぬき山と云ふもあり」とあり、普都大神が楯を脱いだことに由来する地名ではないかとしている。この「楯脱山」は、社殿の裏手にある丘陵のこととされている。同じ地名は楯縫神社の社地にもある。
常陸国風土記には、普都神話にまつわる社の存在は示唆されていないが、「已下之略」により略された可能性もある。
竹来を「高来里」の遺称地とすることには、新編常陸国誌以来、現代に至るまで一般に異論はない。ただし、大日本地名辞書はこの通説を否定する独自説を立て、その関連で式内の阿彌神社を中郷阿彌神社に比定している。
普都大神
普都大神は、「ふつ」の音の類似性から、経津主(ふつぬし)神と同一神格とされることがある。
新編常陸国誌は「普都大神とは、経津主大神を申したるか、又は武甕槌命の神を申せしか、詳かならねど」と、二柱のいずれかであろうとした上で、「古事記に、健御雷之男神、亦健布都神、亦名豊布都神とありて、建御雷神を建布都神とも申したれば、普都大神はこの神の如くにも聞ゆ、然るに日本紀には、経津主神と武甕槌命と、各々別神にして、経津主は大将の如く、武甕槌は副将の如くにも見ゆれば、いづれの神とも定めては云がたし」としている。
標柱古風土記は「普都大神」の部分に経津主神の注をつけ、延喜式神名帳に記載がある信太郡二座は、ともに普都神話に基づいて祀られたものであろうとしている。
大日本地名辞書は「風土記に拠れば、高来神とは、普都大神、即香取大神の一名なり」としている。実際には、普都大神を香取大神の一名とする明らかな記述はないため、音の類似性に基づく推断と考えられる。
楯縫神社は、境内案内板で自社の祭神を「普都主大神」又は「普都主命」と表記している。
いずれの資料も、普都大神を祀る社という点は一致している。新編常陸国誌、神祇誌料及び稲敷郡郷土史は、単に「普都大神を祀る」とだけ記している。その素性については経津主神とも武甕槌神(健布都神)ともされており、音の類似性から離れて豊城入彦命とする別説もある。ただし、当社が古くから健御雷之男命を祀る鹿島社であったという傍証がいくつかある。
阿彌神社が楯縫神社から祭神の行幸を受ける古式祭を、楯縫神社においては「鹿島神事」と称していた。
土浦市中村西根にある応永2年(1395年)創祀の分社は、武甕槌命を祀る鹿島神社である。同社を含め、稲敷郡周辺には「二宮鹿島神社」を称する社がいくつか存在した。
阿見町掛馬に、大同年間(806-810年)の創建と伝えられる鹿島古女子(こなご)神社があり、鹿島御子神を祀っている。鹿島御子神は竹来阿彌神社の子孫とされ、当社がある西北西向きに祀られている。
「竹来三社」の括りにおいては、当社は武甕槌大神を祀る鹿島神宮に相当する位置づけだった。ただし、この点については、郡郷考に別の解釈も可能となる記述がある。
室崎神社の社伝では、貞観4年(864年)又は仁和3年(887年)、竹来阿彌神社の相殿三柱のうち、天兒屋根命を神託により大室に分祀したとしている。茨城県神社写真帳では、廻戸(はさまど)の十握神社への経津主神の分祀もまた、同時期に行われたものとしている。この神託による分祀を、普都信仰から鹿島信仰への変化とみることもできる。
竹来三社
郡郷考に「高来祠」の記述として「相殿三神にて竹来三社と称す」とあり、古くは三柱を祀ることから「竹来三社」の称があった。
新編常陸国誌及び明治神社誌料には、この称についての言及はない。
大日本地名辞書は「郡郷考云」として言及している。
茨城県神社写真帳には「其合祀する二神は貞観2年(或云仁和3年)各々人に憑(よ)り廻戸の邑及び大室の邑に祀らる。この二社と当社と合せて竹来の三社といふ」とある。
茨城県神社写真帳の記述は、「竹来三社」を高来祠の別称とする郡郷考の記述と異なり、大室社と廻戸社を合わせた三社の総称と解するものになっている。
郡郷考には「又一年村中雷といふ地の荒榛を開墾するとて宮居の趾の礎石厳存せるを見て其事を罷(やめ)たりと云ふ雷の名に拠は武甕槌天兒屋根の二神とも後に配祭せしにや」ともあり、村内の「雷」という荒蕪地に神社の礎石が発見されたことから、普都大神(経津主神)は当社に、健御雷之男命はその「雷」の地に、天兒屋根命はまた別の地に祀られていたのではないかとしている。高来祠のほかに2つの社があり、これを合祀して相殿三柱になったとすれば、「竹来三社」の別称もごく自然なものになる。
竹来三社の総称は、常陸国風土記の香島郡の条にある「香島之大神」(天之大神社、坂戸社、沼尾社)に類似した構図であり、少なくとも神託による分祀以後においては、当社は「天之大神社」(鹿島神宮)に相当する位置づけだった。当社と室崎神社を結ぶと、延長線上に廻戸城址の台地があり、十握神社(明治期に中郷阿彌神社に合併後、単立社として現存)に至る。この三社は、社殿の向きに至るまで整然とした配置になっている。「香島之大神」の認識は延喜式神名帳の頃には後退し、中世以降は東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)の括りが優勢になる。古来の「香島之大神」の三柱を(春日神としてではなく)鹿島神として祀る社は、茨城県内では竹来阿彌神社のほか、柏田神社(牛久市柏田町)、高浜神社(石岡市高浜)、樅山神社(鉾田市樅山)等にしか残っていない。
三村竹来社との関係
常陸總社文書の最古の記録にあたる治承3年5月(1179年)付けの「常陸国惣社造営注文案」(社殿等注文書)に、「竈殿一宇三間」の造営役として「三村竹来社」の名がある。三村とは、一般に上代筑波郡三村郷に比定されるつくば市小田付近の古称とされている。同じく常陸總社文書の文保2年5月4日(1318年)の小田貞宗請文に「筑波社三村郷分、全無造営之例候」とあり、「三村竹来社」の名は消えている。
最初の社殿等注文書に列記されている「筑波社、吉田社、佐都社、静都社、稲田社、大国玉社」は、管内分社ではなく本宮を指すため、「三村竹来社」は常陸国を代表する式内諸社に並称される大社の扱いとなっている。ただし、三村竹来社とは、本宮竹来社が別にあることを前提とした呼称であるから、この社だけは分社であったと考えられる。この大社については、今日後継社といえる社はなく、周辺に「たかく」に通じる地名もない。鎌倉時代の三村郷には三村山清冷院極楽寺という有力な寺院があったが、現在は痕跡もまばらにしか残っていない。この寺院群に「三村竹来社」が含まれていた可能性がある。
常陸總社文書は、少なくとも同時期には「竹来社」または「竹来神」という括りが存在したことを示している。これを「二の宮明神」よりも古い呼称として(阿彌神社ではなく)「竹来社」があったという事実を証する文献資料と捉えることもできる。
近世以後
近世においては、信太郡域で楯縫神社に次ぐ格式の社として「二の宮明神」を称し、信太郡西半の45ヶ村の総社となった。永和元年(1375年)の信太庄上条寺社供僧等言上状(円密院文書)には、既に「就中(なかんずく)、木原、竹来、両社者庄内第一之惣廟也」(標柱古風土記)とある。この2社は、普都神話の聖地として、延喜式神名帳の信太郡二座の比定社(式内社)として、信太郡における一宮二宮として、さらに近代社格制度における旧県社として、二社一対的ともいえる来歴を持っている。
元禄4年2月(1691年)本殿造立の棟札が現存している。三間社流造の本殿は、阿見町域では最古の建造物である。
宝暦6年(1756年)、後に神楽殿となる神宮寺が造立された。
江戸時代に中郷阿彌神社、立の腰熊野権現(後に中郷阿彌神社に合併)と式内の阿彌神社を巡って論争を行った。明治神社誌料は「当社明細帳を始め、二十八社考、神祇志料又は特選神名帳等の如きは当社を以て式の信太郡阿彌神社とす、然るに郡郷考、式社考等之れと見解を異にし、式社考、地名辞書の如き阿見村の阿見神社を以て式の阿彌神社とせり、由て記して後考を俟つ」としている。なお、竹来と阿見は、ともに和名類聚抄の高来郷と阿彌郷に由来する古い地名であり、かつ、明治の町村制においても竹来村(後に舟島村)と阿見村で分かれた程度には文化圏を異にする地域だった。
明治6年10月(1873年)、信太郡一宮の楯縫神社とともに近代社格制度において県社に列格し、竹来を中心とした8ヶ村の鎮守となった。また、この時に社名を阿彌神社に改称した。社名碑に「懸社延喜式内二宮阿彌神社」、鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に「縣社阿彌神社」とある。旧県社は茨城県内においては16社(内務大臣指定護国神社を含めると17社)しかなく、常陸国の式内小社としては信太郡二社のみが列格している。両社は他の地域の旧県社に比べると知名度は低く、観光地としての要素は絶無に近い。その来歴に相応しい重厚な樹叢及び社殿を擁しつつも、現代に至るまで静謐な空間を保存し続けている。
昭和52年(1977年)、樹叢が阿見町指定天然記念物となる。
昭和57年(1982年)、社地が茨城県指定緑地環境保全地域(20、阿弥)となる。
本殿の裏には巨木が立っている。樹叢に対し、裏手の竹林は荒れていることがある。社地は霞ヶ浦に向いた舌状台地にあり、社殿の周辺から伸びる小道はいずれも急速な下りになっている。社殿裏の奥部(字花ノ井)は中世の竹来館跡であり、西方に縄文中期の根田貝塚(竹来貝塚)、南方の竹来中学校一帯を含む地域には竹来遺跡がある。  
大須賀館   稲敷郡美浦村大須賀津 来迎院
言い伝えによると、平将門は文巻川の合戦で討死にする直前に、身ごもっていた妾の苅萱(さくら)姫を逃がし、姫は実父大須賀内記国友のもとへ逃れそこで男児を生み、その子は後に青野主殿守守胤を名ったという。その大須賀内記国友の在所が大須賀館であったようだ。美浦村大須賀津のその場所には現在来迎院(元亀2(1571)年建立の天台宗の寺)がある。 
西福寺   稲敷郡美浦村
延歴年間坂上田村麿が東征に際し安置していた護身仏が寛平の頃の洪水で流され、承平2年将門が小貝川でこれを拾い上げ西福寺に祀ったと伝わる。  
楯縫神社   稲敷郡美浦村信太
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)。同村内の同名の神社と区別して、通称は信太郡惣社楯縫神社、又は信太楯縫神社。場所は茨城県稲敷郡美浦村信太1830番地。
社伝によれば、第12代景行天皇の御代(71〜130年?)に創建、霊亀元年(715年)再建という。主祭神は経津主命。常陸国信太郡の式内社「楯縫神社」の論社とされるが、一般に、同じ美浦村郷中に鎮座する「(一宮)楯縫神社」(前項)が比定されており、式内社を紹介する本やウェブサイト等でも触れられていないことが殆ど。ただし、その鎮座する地名でもわかるように、この辺りが古代「信太郡」の中心部であったらしく、「信太郡家(郡衙)」の想定地でもあるとのこと。よって、当神社が式内社「楯縫神社」の後身であっても良く、あるいは、古代に地元の有力者(豪族)によって郡家の守護神として勧請されたということも考えられる。 
大宮神社   稲敷郡美浦村土浦
大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。 
弁天塚古墳   稲敷郡美浦村大塚字弁天
弁天塚古墳は常陸国風土記に記されている黒坂命墳墓と伝承されている。土浦出身の国学者色川三中の書いた「黒坂命墳墓考」によると、弘化4年(1847)に墳上より石棺が出土し、中から甲冑、剣、鏡などが出土したとある。  
■八千代町
哀れ君御前   八千代町舟戸・六軒
将門を攻める秀郷・貞盛 舟戸から平塚、六軒と広がる水田は、もとは満々と水をたたえる飯沼と言う名の広大な沼でした。その飯沼がまだ「広河の江(ひろかわのえ)」と呼ばれていた遠い昔のことです。
承平7年(937)、叔父良兼たちのしつような嫌がらせや挑発に耐えかねた将門は、ついに出陣し、いくたびかの戦いに勝利しました。しかし、この時は違っていました。川曲(かわわ、現在の野爪あたり)の戦いをはじめ、それまでは勝利していた将門でしたが、子飼の渡(千代川村鯨付近)で良兼たちの連合軍に彼は手痛い敗北を期しました。加えて突然脚気をわずらい、将門は意識がもうろうとし、歩くことさえままなりません。わずかな家来と家族を引き連れて、将門は船を使って広河の江のほとり、芦津江(あしつえ、現在の芦ケ谷舟戸)まで逃れてきました。「手っぴら谷津」とも呼ばれ、五方向に放射状に入りくんだ入江は、それまでも将門がたびたび身を隠した場所でもありました。また手っぴら谷津のひとつには将門の寵愛する女が住んでおり、そこは「山の神」(奥さんや女房の別称)と呼ばれていました。この女房を頼って将門と正妻「君御前」、そして幼い子どもたちは舟戸まで逃れ、「諏訪神社」のお社に身を隠しました。しかし、せまり来る良兼軍をさけるため、やがて君御前と子どもたちは八艘の船に乗り込み、諏訪神社を離れました。同時に山の神と呼ばれた愛妾も山深く逃れました。そこが今もお白木様の祀られている神山集落です。山の神が逃れた山「神の山」から、そんな地名が残ったのだろうと言われています。
さて船に乗り込んだ君御前たちは、敵から遠ざかるため、さらに沼を北上しました。その辺が「陸間」(ろっかん)、現在の六軒付近でした。幾日かがそうして過ぎました。常に愛しい妻子を遠からず見守っていた将門でしたが、芦の茂みにうっかり妻子の姿を見失ってしまいました。そして、あれほど岸に近寄ってはならないと言い含めていたのにも関わらず、君御前たちは岸辺に船を寄せてしまったのです。それを良兼の軍勢が見逃すはずがありません。すぐに君御前と子どもたちは船から引きずり出されました。そして執拗に将門の居場所を問いつめられましたが、君御前は頑としてこれを受け入れません。かたわらでは幼い子どもたちが恐怖におびえて泣き叫んでいました。ついに将門の居場所を白状させることをあきらめた兵士たちは、君御前と子どもたちを処刑することにしました。切り殺される直前、君御前は幼い我が子をかき抱き、恩名の君御前祠そっと手をあわせて祈りました。
「将門様、短い月日でしたが私は幸せでした。菊姫たちとともにあの世に旅立ちます。」
こうして無惨にも君御前と子どもたちは、叔父良兼の兵士によって惨殺されました。急を聞いて将門が駆けつけたのはそれからしばらく経ってのことでした。冷たいむくろと化した妻子を腕に抱き、彼は狂ったように泣き叫び、まるで気がふれてしまったようでした。
その後君御前と娘、菊姫の死を哀れんだ村人は、この場所に塚を作りました。それが昔、三和町恩名の飯沼べりにあった「君御前塚」です。そして悲惨な最期をとげた君御前を哀れんで、村人はここを「女」と名付けました。しかし、後にこれは現在も使われている「恩名」に書き換えられました。そうしたのは、悲しいことに逆賊として征伐された将門の巻き添えを避けるためでした。
いずれにしても、君御前と菊姫たちはここに葬られましたが、昭和40年代、土地改良事業のため塚は切り崩されてしまいました。当時この場所を管轄した業者によれば、掘り起こした塚の中には大小さまざまな刀や副葬品が埋葬されていたと言うことです。そして塚のいただきに祀られていた「君御前」の小さな祠も、同じ恩名地区の別の観音堂に移されました。観音堂の片隅にある古ぼけた灰色の祠には今でも「君御前」と朱墨で書かれた古ぼけたお札が奉ってあります。 
変装の鏡が池   八千代町菅ノ谷
むかし、新井の北西、九下田の川村と境を接するあたりには10アールほどの「鏡が池」と呼ばれる池がありました。周囲を老杉がおおい、昼なお暗い池を訪れる村人はほとんどおりませんでした。緑色の水をたたえた池は底なしのように深く、大蛇が住んでいるとさえうわさされていました。さて、承平天慶の乱で叔父の国香、源護の息子らに襲われた将門は、ようやくのことでこの鏡が池のほとりまで逃れてきました。しかし、森のまわりは敵がいまだ取り囲んでおり、たやすいことでは脱出できそうにありません。そこで将門は一計を案じました。将門にはいつも七人の影武者が付き従っていましたが、それぞれに命じて馬から池のほとりに降りさせました。そして鏡のように凪いだ池にめいめい自分の姿を映しださせ、それぞれを将門そっくりに変装させたのです。
まもなく味方でも全く見分けがつかないくらいに似た、七人の影武者ができあがりました。それを確かめると将門は再び馬にまたがり、敵が待ち受ける森の外へ飛び出しました。国香や護の子どもたちには誰が本物の将門か分かりません。そうこうしているうちに将門は無事自分の領地へ戻ることができました。
鏡が池にはこの他にも不思議な伝説が言い伝えられています。ある時ひとりの男が夕暮れ近い七つ(午後5時)すぎ、この池のほとりを通り過ぎようとしました。すると突然一陣の疾風が森を吹き抜けました。何事だと思い池の端で足を止めた男は、何気なく池をのぞきました。すると湖面には青白い月明かりに照らし出された大きな剣が一振り、白々と映っているではありませんか。それを目にした男は「ぎゃー」という叫び声をあげると、一目散に逃げ帰ったと言うことです。
またある時、やはりひとりの女がこの池のそばを通りがかりました。すでに鏡が池の不気味なうわさは耳にしていましたので、足早に通り過ぎようとしたところ、つい何気なく池の水面をのぞいてしまったのです。すると湖面にはなんと大きな鏡が映し出されていました。びっくり仰天した女はその場で腰を抜かし、へなへなと座り込んでしまいました。
こんな不思議な言い伝えが残っている鏡が池には、大正時代まで東岸に土塚がありました。その塚の頂には見ざる・聞かざる・言わざるの三猿の碑が建っていたそうですが、いつのまにかその塚もなくなり、砂利取り場や水田へと姿を変えました。そして今では辺り一帯は広々としたゴルフ場になっています。  
栗山観音の梵鐘   八千代町栗山
栗山観音の大手門 栗山観音・佛性寺のある場所には、遠い昔将門の家来であった別当・多治経明(たじ)つねあきが治めていた栗栖院常羽御厩(くるすいんいくはのみまや)がありました。ここは将門の力の源であった軍馬の飼育をしていました。承平七年(937)8月6日、都から帰郷して謹慎していた将門を伯父の良兼・良正の大軍が襲いかかりました。旅の疲れと突然脚気をわずらった将門はことごとく戦に負け、妻子とともに芦津江(今の芦ケ谷舟戸)へと逃れたのです。芦津江の諏訪神社に身を隠した将門一行は栗栖院の方角を見つめました。夜目にもはっきりと空が赤黒く燃えています。残忍な良兼の軍勢は民家を焼き払い、人々を殺戮しました。挙げ句の果てには観音堂にも火をかけたのです。幸い本尊の観音菩薩は家来の横島という者が岩井の長谷に移しましたが、寺はことごとく焼き払われました。そして強欲な軍勢は観音堂の梵鐘に目をつけました。彼らは鐘を船に積んで持ち帰ろうとしたのです。さて栗栖院は飯沼の谷津に面しており、船の往来が自由に行き来できました。やがて鐘を積み込んだ船が鎌田谷津と呼ばれる沼の最も深いあたりにさしかかった時、ふいに梵鐘が「ぐおーん」と音をあげました。乗り合わせた兵士たちは突然の鐘音に顔を見合わせました。「へんな音を出すのは誰だ」と一同いぶかりましたが、誰も心当たりはありません。それどころか梵鐘はいよいよ激しい大音声をあげます。それは耳をつんざくばかりのすさまじい音でした。兵士たちは「助けてくれー」と口々に叫びましたが、深い谷津の真ん中では飛び込もうにも飛び込めません。やがて梵鐘は雷鳴のような音を上げ、それと同時に船はどーんという響きを上げて、鎌田谷津の中ほどで転覆してしまいました。「ぎゃー」という叫び声だけが空しく水面に消えました。
それから何百年もの年月が過ぎました。いくたびもの兵火をくぐりぬけ、菩薩像はつつがなく護られました。永禄9年(1566)多賀谷政経の長男重経は、この不思議な霊験に感服して観音堂を再建しました。奇怪な事件が起こり始めたのはその頃のことです。梵鐘が沈んだ鎌田谷津から毎晩のように火の玉が浮かび出て、栗山観音の境内に入り込むとふっと消えていきました。多くの村人もこの鬼火を目撃し、不吉なできごとに皆おびえました。そして沼に沈んだ梵鐘の怨念であろうとそのたたりを怖れたのです。そこで栗山観音の住職は観音菩薩に祈りを捧げ、梵鐘の供養のため大法要をとりおこないました。その甲斐あってそれからは鬼火も現れなくなったと言うことです。
城山に近い鎌田谷津は今では広々とした美田に変わっています。しかし、今もその広い水田のどこかに栗栖院の梵鐘は埋まっているのかも知れません。 
■古河市
日月神社   古河市東牛谷
祭神   大日靈貴命、月読命
境内神社 厳島神社、稲荷神社
由緒沿革
天慶の乱鎮定の勅命を奉じた下野国住俵藤太藤原秀郷、諸将と熟議をこらし軍を進めここに本陣を定め錦の御旗をたてて天神地祇をまつって戦勝を祈願したところ、神明のお加護をたまわり、遂に平将門誅伐の大任を果たすことができた。これを記念し錦の御旗の日月をとって社名として創建した。
明治になって村社に列格、明治四十年六月厳島神社を合併。 
五十塚古墳群   古河市東山田
五十塚古墳群(いそづかこふんぐん)は、古河市東山田のKDDI八俣送信所敷地内にあります。昔は円墳十数基・前方後円墳2基がありましたが、現在は円墳2基、前方後円墳1基が残っています。
五十塚は、「八十塚(やそつか)」、「磯塚(いそつか)」とも呼ばれたそうです。50あるいは80基もの古墳群、石の多い水辺・磯にある古墳という意味あいでしょう。
ここにはどんな人が埋葬されているのでしょうか? 古墳がある八俣(やまた)という地名が、ヒントになるかもしれません。
八俣は平安期にさかのぼる古い地名です。八俣郷(八侯郷)には、現在の山田、東山田、北山田、谷貝が含まれます。そして、百済国(朝鮮半島南西部)からの渡来人氏族のなかに「八俣部」があることから、当地との関連が想定されています(『地理志料』)。
事実なら、古墳の主は渡来人かもしれませんね。発掘調査や専門家による分析がさらに進めば明確になるでしょう。
この古墳は飯沼に面する台地の縁に築かれました。飯沼は南北に細長く、南端で鬼怒川と今の利根川下流との合流部につながりました。江戸期の享保年間、新田開発のため干拓されましたが、古墳が築かれた頃には、水辺で暮らす人々が集まり、漁業もさかんで、舟の往来も頻繁だったことでしょう。こうした人々の首長が葬られているとも考えられます。
飯沼の周囲には、塚山古墳・秋葉神社古墳(どちらも八千代町)他、多くの古墳があります。時代は下りますが、坂東市逆井の逆井城も、飯沼のほとりでした。五十塚古墳群の背景については、飯沼をめぐる歴史全体を俯瞰しながら、考えたいと思います。
ところで、古代の地名「八俣」は、のちに「山田」と書かれるようになり、江戸期には山田村(大山田村)、東山田村、北山田村が定着します。このために山田は「やまだ」ではなく、「やまた」と呼ばれます。
明治22年(1889)、この地域の村々が合併したとき、古代の地名「八俣」が復活。そして昭和15年(1939)、八俣村東山田に送信所の建設が始まりました。
八俣と山田、どちらも「ヤマタ」と呼び、地名が地域の歴史を掘りおこす手掛かりとなっています。 
高野八幡宮   古河市高野
こちらの神社では平将門公の首を祀っている。将門公の首が飛んで来たとか、南向きの社殿が一晩で藤原秀郷公の領地がある北の方向を向いたなどと言う伝説が残っていると言うことだが、将門公の首はあっちこっちに飛んで行くねぇ。ここからそう遠くも無い幸手市の浄誓寺にも将門公の首塚があるし。 
■桜川市
御門御墓   桜川市大国玉三門
(みかどおはか)
平将門の供養塔とされる4基の五輪塔がある。造られたのは鎌倉時代初期。土地に残る伝承では、かつてこの地に将門の居館があり、将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために造られたとされる。“御門御墓”という名称は、将門が乱を起こした際に“新皇”と称したところから付けられたものであり、さらに“三門”という地名もそこから派生した物であると言えるだろう。
この辺りは、平将門の乱の頃、平真樹(たいらのまさき)の治める土地であった。将門の妻であった“君の御前”の父であり、将門の同盟者である。当時の風習では通い婚が通例であり、おそらく足繁く通う将門のために館が設けられていたものと推測できる。
この付近には君の御前を祀る后神社があるが、この4基の五輪塔はちょうどその神社と向かいあう形で置かれている。これもこの五輪塔が将門にまつわる伝承を持つものであるとする証左とされている。 
真壁町羽鳥道   桜川市真壁町
万葉の里・羽鳥
「将門記」によると、承平7年(937年)に平将門が攻め入った場所を、服織(はたおり、はとり)の宿、としている。これが現在の羽鳥地区である。羽鳥には、真壁と筑波山の男体山を結ぶ羽鳥道があり、古くは修経者の山岳修行の道であったが、江戸時代後期から一般庶民に広まった社寺参詣の信仰道となった。道沿いには当時の面影を偲ばせる野仏や石碑などが数多く残っている。また、羽鳥には、春と秋に万葉びとが集まり歌を詠み交わして踊る「かがい」の伝承地があり、万葉の里・羽鳥の奥深さを語っている。
羽鳥天神塚古墳
菅原の道真の遺骨の一部を、三男の景行が埋蔵した伝説がある古墳。筑波山を借景に千年の歴史を今に伝える。
歌姫(うたづめ)明神
羽鳥集落の西側の小高い丘にありこの地で「かがい」が行われたという伝承が残る。  
妙法寺   桜川市本郷
即身仏のある寺として有名です。江戸時代、舜義上人がこの寺に入り、1686年2月に入寂したと伝えられています。 
熊野神社   桜川市真壁町酒寄
酒寄は昔、熊野保といって紀伊熊野神社の社領であったという。熊野神社は酒寄の集落の奥、こんもりと木々に覆われた丘の上に鎮座。社地までは70段ほどの急な石段をのぼらねばならない。この神社は鈴の替わりに梵鐘があり、軒先の木鼻などの彫刻もしっかり作られている。
御祭神 伊弉册命
由緒 創立は江戸時代といわれているが詳らかでない。 
椎尾山薬王院   桜川市真壁町椎尾
筑波山中腹にある静かなお寺の椎尾山薬王院(しいおさんやくおういん)は1200年の歴史があり、県指定文化財天然記念物であるスダジイ(椎の木)の巨木群生地でもあります。
境内には名大工桜井一門の手による三重塔(県指定文化財)や仁王門(市指定文化財)などが建造され、古来より病気平癒の霊場で知られています。
境内にある重さ約1トンの大きな梵鐘はどなたでも打つことができます。この梵鐘は真壁町の伝統ある小田部鋳造で造られたものです。
境内には樹齢300年〜500年といわれるスダジイなどが群生し「椎尾山薬王院の樹叢(じゅそう)」として県の天然記念物に指定されています。 
五大力堂と池亀村   桜川市
竜神山の東麓、池亀集落にある五大力堂は、元慶二年に岩井の地で殺された平将門の残党藤原玄明らか立てこもったと伝えられ、堂内にある五大力像は、日乗上人の手によって五体の尊像が刻まれ、逆賊追の一大修法を行ったと伝えられる。
しかし、現在残っている五大像は、それから二百三十余年後の治承二年に彫り直されたものではないかと言われ、胎内の銘文には「奉造立五大力菩薩五躰・・・治承二年○○空天作」と記されていると言われ、治承四年には、都で似仁王の令旨により源頼政が挙兵した宇治の乱があり、相次いで源頼朝、木曽義仲も挙兵、ようやく全盛を極めた平氏一門に陰りが出始めた時代の作であった。
また、一体の像には「○歌の歌」が記されていたと言われ、芳原修二氏の調査によれば、一夜の恋の契りを切なく歌ったものだそうである。
この五大力堂は、現在お堂が修復され、道路も細い苔むしたものから広く舗装されたものに変わり、静けさだけが昔のまま残る山寺である。
五大力堂の東にある集落の鎮守香取神社。この神社の東北に谷川が流れ、この近くに藤原玄明の墓の言われ、平親王様とも呼ばれる多宝塔がある。
そばには玄明の梅と言われる老梅が歴史の重さを伝えている。
その昔、平安時代の中期、平将門を岩井の地で倒した平貞盛と藤原秀郷は、将門軍でも随一の武将であった藤原玄明を追って筑波・加波を越え、竜神山のふもとにある池亀の地にたどり着いたが、決死の玄明軍を攻めあぐね、法力にすがろうとして作られたのが五大力像である。
その後、日乗上人による賊徒調伏の大修法が郊を奏したが、篠つく大雨となって玄明軍の陣地を襲い天命を悟った一行は、この一の谷を最期の決戦場として華々しく討ち死にしたと伝えられる。さらに、五大力像の胎内に記されていた「○歌の歌」や玄明合戦の絵馬を見るにつけ、東国の山野に一大旋風を巻き起こした一世の英雄、平将門とその伴類、藤原玄明一行の怨念が偲ばれる。
それから約二百年後、源頼朝が平貞盛の子孫である清盛追討の旗上げをして、平氏を西海に滅ぼし、鎌倉幕府を開いたことによって東国武人としての将門の念願も果たされたものと思われる。

五大力堂は平安時代、平将門の乱の際、俵藤汰藤原秀郷が霊像5体を安置して将門討伐を祈ったが、討伐後は将門の善心を知り霊を慰めたたと言われています。国を守護する大力のある【金剛吼】 【龍王吼】 【無畏十力吼】 【雷電吼】 【無量力吼】の五大力像は檜財の寄木造りとなっている。 
池亀城   桜川市(旧岩瀬町)池亀
桜川市(旧岩瀬町)の北東端、池亀地区にある。岩瀬駅からは北東6qの地点である。北に栃木県との境となる標高519.6mの高峯があり、その南に延びる尾根末端に五大力堂がある。その五大力堂のある尾根の400m南の尾根の末端部が城である。その岡の北側以外の3方が池亀の集落であり、集落が根小屋であったと思われる。岡の城域は南側が畑になっているが、南北300m、東西最大100mほどある。
池亀の集落南西にポツンと城址の標識があり、ここより北500mの山中と書いてあるが、これじゃさっぱり分らない。道を聞くと東側の公民館の裏だよとのこと。その公民館の裏山、東から見ると城っぽい感じなのである。比高は10m程度に過ぎない。公民館の裏には横堀7が見れる。その上は畑なのであるが、段々状になっている。肝心の城は?と思い、畑5にいる人に聞く。「おお、城山け?俺んちの山だよ。」ってことで案内していただく。その方の名は菊池さん、案内していただき北に行くと、堀4があり、土橋がある。
これは遺構ではなく、トロッコ道なのだという。しかし、堀っぽい。その先に曲輪U、北に土塁があり、堀3がある。
この堀は曲輪T(1)の南と西2を覆っている。その北の曲輪Tが城山と呼ばれている。南北35m、東西20m。周囲からは高さが3,4mある。東側は腰曲輪になっている。北側に土壇がある。その北が堀である。ここが城の北端である。
ここを北に行くと五大力堂である。余湖さんも指摘しているように城山という曲輪は北側は堀1本しかない。ここは本郭ではない。城の北を守る曲輪であろう。
本郭は菊池さんの畑である曲輪Vであろう。その南側は段差6になっており、堀があったのかもしれない。さらに南にも段差のある畑が続く。この畑も全て曲輪(W、X)なのであろう。
笠間氏に従った武将に池亀氏の名が見えるが、どのような者であるか分らない。おそらくこの地の土豪だったかもしれない。
なお、この城、300m×100mほどと広く、4つの曲輪があったと推定される大きなものである。住民の避難施設という感じもするが、避難施設にしては里に近い場所にありすぎる。やはり、池亀氏の居館があり、米倉が南側に存在していたのではないだろうか。
1曲輪T内部、北に土壇がある。 2曲輪Tの西側の堀、かなり埋まっている。 3曲輪T南側の堀
4曲輪U、V間のこの溝はトロッコ道というが。 5曲輪V、ここが本郭であろう。 6曲輪V南側の切岸
7曲輪V東の横堀 北にある五大力堂 五大力堂菩薩。かなり変わった像である。
この像、かなり変わった表情である。歴史は凄いが、文化財には指定されていないようである。文化財的には少し価値が劣るのか?  
羽黒山城と棟峰城   桜川市(旧岩瀬町)羽黒
国道50号線を岩瀬市街から羽黒を抜けて笠間方面に走ると正面に大きな山がある。この標高245mの山の山頂一帯に展開するのが巨大山城、羽黒山城である。麓からの比高は170mある。この山は北側が一旦低くなり、また高くなる。この北側の山が標高263mの棟峰山(ぐしみね)であり、山上に羽黒山城の出城である棟峰城がある。 
写真は西側から見た羽黒山(左)と棟峰山である。両城とも頂上部に築かれている。羽黒山上には二所神社があり、神社への参道が西側の山麓から延びる。これがかつての登城道、大手道であったらしい。普通はこの道を行くが、勘違いをして1本北の山道を登ってしまった。結構整備された道と聞いていたのだが、倒木ばかりで所々道が消えている不安に思いながらそれでも先に進むこと30分。20m四方の平坦地に出る。
後で分かったことであるが、ここが羽黒山と棟峰山の間の鞍部(標高230m)であった。(この空間は2つの城の中継地でもあり、麓からの登り道の終点でもある重要な場所であり、柵などがあったであろう。)
羽黒山城がこの左手にあると思い、100mほど、高度で30mほど登る。堀切があり、高さ10m位ある切岸が行く手を阻む。岩が剥き出しの急傾斜の切岸を登ると平坦な場所がある。ここが本郭であるが狭い。途中に浅い堀切がある。40mほど先に二重堀切がある。堀切の西側に腰曲輪がある。
堀切を越え、北側の平坦地を行くが何もない。「おかしい。」ここで間違えたことに気付く、でも今見たのは、小さいけれど明らかに城である。「そうかこれが棟峰城か」ということで道を戻る。(その前にばっちり簡易測量したが・・。このような小さい城は測量しやすくてありがたい。)左がその縄張図である。
南側の堀切を本郭側から見下ろす。 二重堀切外側の堀。 二重堀切本郭側。
鞍部まで戻り、西方向に向かうが、道がない。枝を掻き分けて100mほど進むと、話に聞いた東の端にあるという大堀切に出た。堀切というより尾根を分断する大横堀である。
深さは10m、幅は20mはある。長さは80m位か?南側は竪堀が下る。土橋を通り、堀を越え、曲輪6上に上がると、土塁が堀側にある。土塁の西側は20mに渡り平坦になっている。その西は緩やかな登りである。一面の笹竹の中の小道を進むと途中から下りになる。100mほど進むと、浅い堀があり、そこを抜けるとまた堀があり、前面に高さ4mほどの切岸がある。
この部分は二重堀切のようになっている。(堀切というよりU字型の横堀に近い。)ここからが主郭部である。切岸の上が曲輪5である。堀に面し前面に高さ2m位の土塁を持ち、西側は一段高くなっている。40m×30mの広さがある。
この西が本郭であり、曲輪5からは土塁上まで6mほどの高さがある。本郭の内部は意外に小さい。直径30m程度か。周囲は高さ2.5mの土塁がある。その土塁も内側が石で補強されている。
虎口は西と南に開いているが、南側の虎口は出たら急斜面である。ここが曲輪5への通路であったようであるが崩落している可能性がある。西側の虎口こそが正式な口である。出ると5mほど下から曲輪2が段々状に展開する。曲輪は20mほど西側に突き出し、5mの落差を以って、曲輪3につながる。その間は堀状になっているが、曲輪3への虎口も兼ねていたようである。また、南側を参道が下っているが、これは本来は帯曲輪も兼ねていたのであろう。曲輪3は30m四方の曲輪であり、3方を高さ3mの土塁で囲まれる。内部はやぶ状態である。西側は深さ6mの堀を経て曲輪4に繋がる。曲輪4は北西に曲がりながら延びる70m×30mの広さをもつが、若干傾斜している。その先端は土塁で囲まれ、下に土塁を持つ堀がある。(土塁で遮蔽された通路というべきか?)このが城の西の外れである。城域は北から見ると「へ」の形をしており、全長は400mに及ぶ直線連郭式である。
羽黒山と棟峰山間の鞍部の平坦地。 曲輪6北の土塁上から見た大堀。深さは10mあるが藪でスケールが分からない。 曲輪6北端の平坦な窪地。右に堀に面した土塁がある。
曲輪5北側の切岸と堀。 本郭内部。周囲は土塁に囲まれるが直径30mほどと狭い。 本郭の土塁は内側が石垣で補強されている。
本郭西側の虎口を曲輪2から見る。 曲輪3、4間の堀。藪がひどい。 曲輪3の虎口は堀を兼ねる。
尾根城でもあるが尾根上の幅があるため、結構広いスペースが取れ、かなりの人数を収納できる。城全体の規模に比べ本郭はいかにも小さい。ここが始めに築かれたオリジナルな部分であろう。非常に古風でもある。
戦国時代に土塁を高く積んだが、地形上、これ以上拡張は不可能であったのであろう。他の曲輪は戦国期に拡張された部分であろう。この城は鎌倉時代に羽黒氏によって築かれたというが、当時は本郭の部分のみの臨時の砦だったのではないだろうか?南北朝時代の「中郡城」説もあるが、この城のことではないだろうか?他にも候補地はあるが、消去法で消していくとこの城のみが残ってしまう。
戦国時代は笠間氏の城として橋本城とともに益子氏との抗争の最前線に位置するが、やはり兵力以上に巨大すぎる。ここも住民避難用の城ではなかったかと思う。特に曲輪6の巨大さと郭内の単純さは多くの人間を収納する以外考えられない。曲輪6背後の大堀も心配性の領民の力が作り上げたものであろう。 
櫻川磯部稲村神社   桜川市磯部
天照皇大神、木花佐久耶姫命、天手力雄命などの諸神を祀る神社です。
景行天皇の時代に東国平安の分霊を移して祀ったという伝説もあります。
代々藩主の崇拝を受けたほか、徳川光圀の参詣も受けました。
木造の狛犬は県の文化財に指定されています。
この神社は、その参道や神社が鎮座する丘の斜面に多くの山桜が見られ、桜の名所として広く知られてきました。
ここの山桜は東北地方に産する白山桜で、淡紅色の花ばかりでなく芽ぶきの時期の赤芽も見事で、学術的にも貴重な存在とされています。
そばにある磯部桜川公園を含んだ周辺一帯は国の「名勝」に指定されており、また、神社及び公園にある桜が国の天然記念物に指定されています。
この地は、古来より桜の名所として知られていたことから、江戸時代には歴代将軍により隅田川堤、玉川上水など江戸の花見の名所を作る際に植樹されました。
水戸市内を流れる桜川は、かの水戸光圀公が当地の桜を気に入り、桜の苗木を数百本移植したことを機に桜川と命名したものと伝えられています。
謡曲「桜川」
謡曲「桜川」は桜の名勝地として名高い磯部一帯が舞台です。室町時代の1438年に櫻川磯部稲村神社の神主磯部祐行(いそべすけゆき)が、当時の関東菅領((かんとうかんれい)実際は鎌倉公方(かまくらくぼう))であった足利持氏(あしかがもちうじ)に、花見噺「櫻児物語」(さくらこものがたり)一巻を献上しました。その物語を目にした第六代将軍足利義教(あしかがよしのり)が、世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」です。常陸と下総の国司になった平将門の子、桜子の若の物語で、母子の愛情物語として描かれています。
〜あらすじ〜
九州の日向国(宮崎県)桜の馬場の西に、母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。その家の子・桜子は、東国の人商人にわが身を売り、お金と手紙を母に渡してくれとたのみ国を立ちます。その手紙を読んだ母は、嘆き悲しみ、子の行方を捜す旅に出ます。それから3年、遠く常陸国(茨城県)で桜子は磯部寺に弟子入りしていました。春も盛りの桜の季節、桜子は住職と共に花見に出かけます。丁度その頃、桜川のほとりには、長い旅路の末、狂女となった桜子の母親がたどり着いていました。桜川に散る花びらをすくって、狂った有様を見せる女がいることを聞いた住職が女を呼び出して訳を聞くと、九州からはるばる我が子を探しに来たことを語りました。桜を信仰するいわれ、我が子の名が桜子であることなどを語り、想いを募らせて狂乱の極みとなっていたのです。住職は、連れている桜子を引き合わせます。二人は嬉し涙にくれ、母は正気に戻り、連れ立って国に帰ります。後に母も出家して、仏の恵みを得たことから、親子の道は本当に有難いという教訓が語られます。  
犬田神社   桜川市犬田
古くは経津主神と武甕槌神、気吹戸主神の三柱を祀り香取神社と称していたが、八幡神社を合祀して犬田神社と改称したとのことである。また奥州討伐に向かう源義家が当神社に立ち寄ったとの言い伝えもあるそうなので、永保三年(1083)には既にあったと言うことになるのだろう。後述する御神木の案内板には源義家が立ち寄ったのは1090年(寛治四年)と記されているが、後三年の役は1083年から1087年(寛治元年)までの間なので、1090年に立ち寄ると言うことは無いと思うのだがどうなのだろう。
御神木「欅」
御神木「欅」は、樹齢約一二〇〇年と伝えられる。一〇九〇年、源義家公征奥の途中当社に祈願、その折、この欅を眺めて「幾代をか経りし欅の三の椏に、みつの湛の久しかるべし」と歌を詠ぜられた。また明治中期の記録によれば、「樹高約三十米、中途から三枝になって洞あり、水をたたへ『御手洗』と呼ぶ。日干天祈雨の際、この水を汲みだすと験必ずあり。」と里人に崇められた。(以上社伝、県神社史による)しかし、積年の風雨に耐えて超古木となるも近年樹勢俄かに衰え、平成八年春頃完全に枯れ果ててしまい、茲に崇敬者一同相諮り根元より二米を保存し、上屋にて覆い、御神木「欅」の歴史を未来永劫後世に伝承するものである。 
二所神社   桜川市西小塙羽黒山
祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと)
羽黒神社は朱雀天皇御代平定盛、平将門討伐に多大なご加護を奉謝して奉祀したと伝えられる。八幡宮は欽明天皇御代里人が奉祀、明治6年4月両社を合併して二所神社となった。  
鹿島神社   桜川市真壁町上谷貝
応保2年(1162)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神として創建されたと伝えられる古社です。天正年間(1573〜92)の棟札によれば、真壁17代城主安藝守久幹・18代城主氏幹父子が深く尊崇し、大破していた社殿を再興したということです。
現社殿は、装飾彫刻からして、江戸時代中期・元禄年間(1688〜1704)の再建とみられています。
建築様式は、優美な一間社流造で、重厚な茅葺屋根に特徴があります。 
大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)   桜川市
祭神 大国主命
愛称は明神さま。旧名は鹿島大明神(鹿島明神)。式内社(常陸国真壁郡、小社)。旧社格は郷社。旧字体で大國玉神社とも表記する。
創建は不詳。社伝では養老年間(717-724年)の創建としている。一説に天長年中(824-834年)ともいわれる。
六国史及び延喜式神名帳に記載がある古社である。
続日本後紀 / 巻六。仁明天皇の代、承和4年(837年)3月、新治郡佐志能神とともに「眞壁郡大國玉神」として「並預官社。以比年特有靈驗也」(霊験甚だ大であったために官社に預る)とある。巻十五。同12年(846年)、「奉授常陸國无位大國玉神從五位下」(従五位下を授けられた)。
日本三代実録 / 巻五。清和天皇の代、貞観3年(861年)9月、「授常陸國從五位下主玉神從五位上」(従五位上に昇叙)。歴史書のうち、唯一日本三代実録は神名を「主玉神」としているが、この神が大國玉神と同一神であるかははっきりしない。茨城県内には「主玉神」の比定社を称する神社は3社存在するため(鉾田市の主石神社、桜川市の鴨大神御子神主玉神社)、日本三代実録の見在社としては論社である。
延喜式神名帳 / 延喜5年(927年)、常陸国真壁郡小一座「大國玉神社」(常陸国28社の一つ)。
元禄12年11月(1699年)、水戸光圀公、四神の幡、日月の幡鉾を奉納。
明治6年4月(1872年)、郷社列格。
平成4年10月(1992年)、社殿改修。
古い地誌には名所「大国玉七井」として「宮前の井、久々津井、庚申前井、后の井、福泉甑井、福泉米井、福泉酒井」の紹介がある。  
后神社   桜川市大国玉(木崎)
祭神 須勢理毘売命 君の御前
御神体 木造女人像
后神社の御神体の五衣垂髪の女人木像は国王神社の将門像と対をなすかも?
桜川市大国玉地区の大国玉神社の主宰者は、この地方に勢力を得た平真樹で、その娘が将門の妻「君の御前」です。将門公が新皇を自称したので君の御前が后ということになるのでしょう。
幕末に后神社のご神体は、反逆の将「将門の妻」などではなく、大国主命の后「須勢理毘売命」ではないかと水戸藩士青山延光が断定し、木崎の地より移し大国玉神社に合祀したようですが、この年、村に疫病が発生、木崎全戸に及んだため、村人は将門さまの祟りと恐れ、后神社を元に戻し霊を鎮めたところ、疫病はたちどころに絶え、村に平和が戻ったといいます。
大国玉神社は男体宮と女体宮による二社一対だったが、明治の初めには男体宮だけになってしまったともあるのは、合祀したが后神社を元に戻したからなのかもしれませんね。
木崎の地名は后からのようで、将門薬師堂のある平の地名は平氏開発荘園から。中丸木には将門公の出城があったとの伝説も。御門御墓のある三門地区は、帝から御門そして三門になったようです。 
五所駒瀧神社   桜川市真壁町山尾
五所駒瀧神社(ごしょこまがたきじんじゃ)は 社伝によれば、平安時代末期に鹿島神宮の御祭神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の分霊を祀り、真壁氏の氏神として創建されたと言われています。
真壁祇園祭は文化庁より、記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財に選択された、400年の歴史ある祭りです。毎年7月23日から26日まで4日間、町内をあげて盛大に行われます。また、8月31日はかったて祭りが開催されます。五穀豊穣を祈願するお祭りです。 
真壁城(まかべじょう)   桜川市真壁町古城
常陸国真壁郡、現在の茨城県桜川市真壁町古城にあった戦国時代の日本の城(平城)。大掾氏の一族である真壁氏が代々支配した。国の史跡。
真壁駅跡の東に位置し、加波山系の足尾山西麓にある台地上に築かれた連郭式の平城である。また、古代の真壁郡家が存在したとも言われ、真壁郡の中心地に位置していた。
中央の本丸を同心円状に囲む二ノ丸があるほか、二ノ丸の東側に三の郭(中城)・四の郭(外郭)が続き、外郭南東端には鹿島神社が祭られている。
築城は承安2年(1172年)と伝わる。大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、郡家の場所に築城した。以来真壁氏の居城として続いた。
文献上で真壁城が初出するのは興国2年(1341年)12月で、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえ、南朝方の城であった。のち北朝方に立場を変え、真壁氏は地頭職を有している。応永30年(1423年)、真壁慶幹のとき小栗満重の乱に小栗方で参加したため足利持氏軍によって落城したが、その後の混乱の中で慶幹の従兄弟・朝幹が真壁に復権した。
17代久幹のときに次男義幹が柿岡城に分家し、18代氏幹に至って甥の柿岡城主房幹(義幹の子)に家督を譲ったため、真壁城は真壁本家の城ではなくなった。その後、慶長7年(1602年)佐竹氏の秋田転封の際、佐竹氏の家臣団化していた真壁氏も出羽角館へ移住し、真壁城は空城となった。そののち慶長11年(1606年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、同16年(1611年)に長政の跡を継いで真壁城に浅野長重が入城した。元和8年(1622年)、浅野長重は加増され、真壁は領有し続けるものの常陸笠間城へ移動となり、真壁城は廃城となった。
城門のうち薬医門が各々一棟、楽法寺黒門(旧大和村、伝大手門)・個人宅表門(旧協和町)として移築され現存している。縄張りは本丸以東は良好に残るが、二の丸の西側以西はほぼ市街地化し消滅している。本来は真壁町古城地区が城域の西半分に当たる。古城地区の西に大手前の地名が残っており、同地近辺が大手だったと伝わっている。本丸跡には旧真壁町立体育館があり、二の丸跡には体育館建設での残土が盛られているなど中枢部の保存状態は良くない(二の丸には櫓台のような高所があるが、残土の山で遺構ではない)。
1934年(昭和9年)以来、本丸の一部が茨城県指定史跡となっていたが、1994年(平成6年)10月28日に国の史跡に指定された。
1997年(平成9年)以降発掘調査が続けられており、成果に基づき外曲輪の土塁や壕が復元されている。また中城の発掘調査では、水路や池を伴う大規模な庭園の遺構と共に、茶室や能舞台と思われる建物群の痕跡が検出され、その規模は茨城県内でも最大級と見られている。  
雨引千勝神社(あまびきちかつじんじゃ)   桜川市本木
創建は大同2年(807)9月29日、千勝民部大輔藤原国定が鹿島より勧請
元弘3年(1333)、楠木正成は代参を立てて武運長久の祈願をしたところ、霊験があり鎌倉幕府を滅ぼす事が出来たので、本殿修理し菊水の彫刻を奉献した
正保3年(1646)、火災により社殿焼失
元禄9年(1696)時点での社領は3石
江戸期には笠間藩主・牧野氏により崇敬され、代々事ある毎に武運長久を祈願したとされます。
明治6年(1873)、今まで千勝大明神と称していたが雨引千勝神社に改称
また、同年に村社列格
御祭神は猿田彦命
この常陸国西部、南朝方の城が数多くありましてここより南の真壁には真壁城があり、南朝方の関東六城の1つとされます。関東六城は、常陸国関城(筑西市)・常陸国大宝城(下妻市)・常陸国伊佐城(筑西市)・常陸国中郡城(桜川市)・下野国西明寺城(益子町)となります。
また、建武3年(1336)に楠木正成は常陸国瓜連(那珂市)を領地として与えられており、正成の弟ともされる楠木正家が代官として派遣されたそうです。そこで瓜連城を築き北朝方であった佐竹氏と1年余り戦ったとされます。この事から、南朝の勢力圏であった真壁地区と常陸に下向していた楠木氏が繋がり、由緒にある武運長久を願い菊水紋のくだりが信憑性が増すのではないかと?
千勝民部大輔が鹿島から勧請と由緒がありますが、常陸国ですと鹿島=鹿島神宮なのですが…こちらの御祭神は猿田彦命、鹿島神宮は武甕槌命と違います。鹿島神宮には合祀もされておらず摂末社にも猿田彦命を祀る神社は無し…ですが、境内の由緒看板には道案内の神として猿田彦命が紹介されています。
鹿島地区で道案内の神を祀る神社といえば、神栖市に鎮座している東国三社の1つである息栖神社、こちらは岐神を御祭神としています。この岐神、道の神として塩土老翁神や猿田彦神と同じものとされる事もあります。
という訳で断定はできませんが息栖神社から勧請した可能性は大いにあるのではないでしょうか? 
■笠間市
羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)   笠間市上郷
祭神は木花咲耶姫命。常陸国茨城郡の式内小社で、旧社格は郷社。
古くは羽梨山の中腹に鎮座していた。 天智天皇3年(664年)、桜の多い羽梨山の中腹に木花咲耶姫命を祀る祠を建立したこととをきっかけに、「花白山神社」と呼ばれるようになった。
延暦22年(803年)には坂上田村麻呂が陸奥征討の戦勝祈願し、社殿を寄進した。
平将門の乱では、平貞盛が弓矢、砂金を奉納し、平将門征伐の戦勝祈願をした。
平安時代には源頼義、源義家が矛、太刀、鎧、神馬を奉納した。神馬の鐙のみ現存する。 鎌倉時代には鎌倉から移り住んだ宍戸家政が社殿を建て替える。
天正11年(1542年)には兵火により羽梨山の中腹の社殿が焼失し、現在の鎮座地となる山麓の熊野権現に合祀された。寛文8年(1668年)には社殿が新造された。 元禄16年(1703年)には現在の明神石鳥居、延享4年(1747年)には現在の社殿を建立した。
明治時代の神仏分離令により、別当寺の普賢院の管理から離れる。  
稲田神社(いなだじんじゃ、稻田神社)   笠間市稲田
式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
主祭神 奇稲田姫命 (くしいなだひめのみこと) 合祀神 布都主神、菅原道真公、大山咋命、大日孁貴命、未詳1座 5柱とも、明治6年(1873年)に合祀。
創建
創建は不詳。『稲田姫宮神社縁起』(江戸時代)によると、当地の邑長武持の家童が稲田好井の水を汲もうとすると、泉の傍らに女性が現れた。家童の知らせで武持が尋ねると「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」と答え、姫の父母の宮・夫婦の宮を建て、好井の水で稲を作り祀るよう神託を下したという。当社の北西300メートルの稲田山中腹には本宮(奥の院)が鎮座するが、本宮の祠左手には巨石が突き出ており、この磐座が稲田姫の降臨地と伝わっている。
また、当社は新治国造が奉斎した神社と考えられている。新治国造は律令制以前に新治郡地域を治めたとされる国造で、『先代旧事本紀』「国造本紀」新治国造条には美都呂岐命の子の比奈羅布命を初代国造とする旨の記載がある。美都呂岐命(弥都侶伎命)は天穂日命の八世孫で出雲国造と同祖にあるが、当社周辺には式内社として佐志能神社・鴨大神御子神主玉神社・大国玉神社があり、いずれも出雲系の神々を祀ることから文献との関係が指摘される。
概史
六国史等の正史には当社に関する記載はない。平安時代中期の『延喜式』神名帳には常陸国新治郡に「稲田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
鎌倉時代初期、領主の笠間時朝は藤原光俊・泰綱ら8人を招いて当社で奉納歌会を催しており、『新和歌集』(宇都宮新和歌集)にその歌の記載がある。
室町時代末期に兵火により社殿を焼失、慶長7年(1602年)に伊奈忠次が当地を検地した際に本殿等が再建された。寛文8年(1668年)には藩主の井上正利が除地4石を与えた。元禄7年(1694年)には徳川光圀が当社に参詣し、古社の衰微する様子を嘆き、縁起等を奉納した(社宝の四神旗は元禄11年(1698年)の奉納)。社殿は弘化2年(1845年)に焼失し、嘉永元年(1848年)再建されている。
明治に入り、近代社格制度では県社に列した。  
■鹿嶋市
鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)   鹿嶋市宮中
式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる。
社名
神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記』では「香島」と記載される。風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であり、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。
「神の住所」すなわち「カスミ」とする説
建借間命(たけかしまのみこと)から「カシマ」を取ったとする説 建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』に記述が見える人物。
「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説 『肥前国風土記』に「杵島(きしま)」の由来として見える記述に基づくもの。
なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。
祭神
祭神は次の1柱。
武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ/たけみかづちのおおかみ) 『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される。別名を「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」。
上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる。タケミカヅチの出自について、『古事記』では、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が火之迦具土神(軻遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神とする(日本書紀ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという。その後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた。ただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない。
一方、『常陸国風土記』では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない。
「高天の原より降(くだ)り来(きた)りし大神、名(みな)を香島天の大神と称(まを)す。天にてはすなはち日の香島の宮と号(なづ)け、地(つち)にてはすなはち豊香島の宮と名づく。 『常陸国風土記』」
神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』(807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)までさかのぼるという説がある。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある。
神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/韴霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という歌が知られる。一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある。以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある。
鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。
鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
〇 神郡 鹿島・香取両神宮ではそれぞれ常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた(令集解や延喜式に記載)。神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったとされる。
〇 鹿島香取使(かしまかとりづかい) 両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、または略して鹿島香取使の派遣があった。伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であった。
〇 「神宮」の呼称 『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と表記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった。
また、藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、『常陸国風土記』によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。また『大鏡』(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、位置)はその出生地と伝えられる。藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたが、天児屋根命の父を建御雷神とする説があり、それに従えば建御雷神は中臣氏の上祖となる。
その後、中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」・「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。
歴史
創建・伝承
創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年)の目安)では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。
一方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする。その後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつ)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという。さらに第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる。
飛鳥時代
『常陸国風土記』には鹿島社に多くの神戸、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が設置されたことが見える。また風土記では、大化5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す。以上の背景としては大化の改新後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている。
このような朝廷との結びつきには、中臣氏の存在が背景にあったと指摘される。中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神であった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている。実際、史料には鹿島郡司や社の神職に中臣姓の人物が多く存在する。そして、大化の改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという。中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない(「考証」節参照)。
鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、後世の『日本三代実録』や『延喜式』神名帳に記される、陸奥国内の多くの鹿島神の苗裔神(御子神)の存在が指摘される(「鹿島苗裔神」節参照)。その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上し、その過程で各開拓地で祀られ、最終的に今の宮城県石巻市付近まで影響力を及ぼしたとされる。
奈良時代
奈良時代には、史書に多数の神戸の記事が載る(「社領」節参照)。またこの時代、鹿島社は藤原氏から氏神として特に崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい、鹿島から武甕槌神(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された。これら4柱のうち特に鹿島神が主神で、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られている。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)の藤原良継の病の際には「氏神」の鹿島社に対して正三位の神階が奉叙されている。
平安時代
平安時代以降の神階としては、承和3年(836年)に正二位勲一等、承和6年(839年)に従一位勲一等の記事が見える。嘉祥3年(850年)には、春日社の建御賀豆智命は正一位に達した(勧請元の鹿島社も同時に叙せられたという見方もある)。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では常陸国鹿島郡に「鹿島神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列したほか、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。なお、神名帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、大神宮(伊勢神宮)・香取神宮と鹿島神宮の三社のみであった。また、常陸国内では一宮に位置づけられるようになっていった。
鎌倉時代から江戸時代
鹿島神宮は武神を祀るため、中世の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた。源頼朝から多くの社領が寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く確認される。その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行われており、頼朝により武家の鹿島氏(常陸大掾氏一族)が惣追捕使に任命されて神宮経営に入り込んだことを発端として、藤原氏の影響下からは離れていった。室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという。
江戸時代には江戸幕府からの崇敬を受け、慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営された。元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された。
明治以降
明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
昭和43年(1968年)には、明治維新後百年の記念として茨城県笠間市産の御影石を用いて大鳥居(二の鳥居)が建て替えられた。昭和61年(1986年)には、境内が国の史跡に指定された。
平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により、石造の大鳥居(二の鳥居)と御手洗池の鳥居が倒壊し、境内の石灯籠64基も崩れたほか、本殿の千木も被害を受け、被害総額は1億700万円に上った。その後、境内の杉を用いて大鳥居が再建され、平成26年(2014年)6月に竣工祭が執り行われている。
なお平成23年度には、境内北西辺の祈祷殿・社務所の建て替えに伴い、境内で初めての大規模な発掘調査が実施された。この時には奈良時代に遡る鍛冶関連を始めとする遺構・遺物のほか、時代ごとに幾度も整地がなされた様子が認められた。
境内
神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)。
境内の広さは約70ヘクタールである。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されている。樹叢には約800種の植物が生育しており、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林になる。
社殿
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので、幕府棟梁の鈴木長次の手による。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある。このため社殿は北面するが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる。
本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている。元和5年(1619年)の造営までは、現在の奥宮の社殿が本殿として使用されていた。本殿は北面するが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって参拝者とは相対せず東を向くといい(下図参照)、出雲大社本殿との関連が指摘される(ただし神主らの参入形式の本殿では上代の宮殿にならい正面から見て横向きに建物を使う例が多い)。『鹿島宮社例伝記』によると、本殿は古くは普段開かれない「不開御殿(あかずのごてん)」と記され、毎年1月7日にのみ物忌によって戸が開かれ幣を交換されたという。この本殿の背後には杉の巨木の神木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれる。そのさらに後方、玉垣を介した位置には「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる直径80センチメートルほどの石があり、神宮創祀の地とも伝えられている。
石の間は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は幣殿に接続する。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている。幣殿は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する。拝殿は桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と異なり漆や極彩色がなく、白木のままの簡素な意匠である。これら本殿・石の間・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
拝殿の右前方には南面して仮殿(かりどの)が建てられている。仮殿は「権殿」とも記され、本殿造営の際に一時的に神霊を安置するために使用される社殿である。この仮殿は、元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁の鈴木長次の手によって建てられたものである。構造は桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。仮殿であるため比較的簡素な作りであるが、一部には漆彩色が施されている。なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年(1951年)に現在の位置に定まった。この仮殿は国の重要文化財に指定されている。
境内の参道には西面して楼門があるが、この楼門は「日本三大楼門」の1つに数えられる。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主の徳川頼房の命による造営のもので、棟梁は越前大工の坂上吉正。構造は三間一戸(扉口は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は銅板葺であるが元は檜皮葺であったという。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である。扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になる。楼門左右の回廊は楼門と同時の作であるが、のちに札所が増設されている。この楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財に指定されている。
境内入り口にある大鳥居は、4本の杉を用い、高さが10.2メートル、幅が14.6メートルの大きさである。元々は笠間市産の御影石を用いた石鳥居であったが、平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により根元から倒壊した。これを受けて、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建され、記録が残る1664年から数えて11度目の建て替えとなった。大鳥居は、2本の円柱の上に丸太状の笠木を載せ、貫のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、この形式は「鹿島鳥居」と称されている。用いられた杉の樹齢は、左右の柱が約500年、笠木が約600年、貫が約250年である。柱の土台部分にあたる亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した鳥居の石が用いられている。
要石
要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型。
かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという。過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある。
なお、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる。この要石は「鹿島七不思議」の1つに数えられている。
鹿島神宮と地震に関しては、建久9年(1198年)の「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる。
「ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿島の神の あらん限りは」
また康元元年(1256年)に藤原光俊(葉室光俊)が神宮を訪れた際、要石を「石の御座(みまし)」として、次の歌を歌っている。
「尋ねかね 今日見つるかな 千劔破(ちはやぶる) 深山(みやま)の奥の 石のみましを」
御手洗池
御手洗池(みたらしいけ)は、神宮境内の東方に位置する神池。潔斎(禊)の地。古くは西の一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている。
池には南崖からの湧水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「鹿島七不思議」の1つに数えられている。
鹿園
境内には鹿園があり、神使(神の使い)の30数頭の日本鹿が飼育されている。
『古事記』によると、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされる。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされることに基づき、神宮では鹿を使いとするという。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」に変化したことについても、神使の鹿に由来するといわれる。春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿島神宮の発祥とされている。この鹿島立の様子は、春日曼荼羅の「鹿島立神影図」でも知られる。
参道
鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基があったが、現在は東西南の3基である。西の一の鳥居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鰐川の中にある(位置)。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため、神宮の門前町もこちらの西方側に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている。現在の鳥居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整備により水上から陸上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである。この鳥居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大規模なもので水上鳥居としては日本最大級である。御船祭の際にはここから御座船が出発する。
東の一の鳥居は太平洋に面する明石の浜にある(位置)。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという。
そのほか、南の一の鳥居は古くは神栖市日川にあったが、現在では息栖神社の一の鳥居が代用されている(位置)。北の一の鳥居は神戸原にあったものの久しく失われていたが、平成29年(2017年)に戸隠神社(鹿嶋市浜津賀)前に新たに建てられている。  
鹿島城   鹿嶋市城山
別名 吉岡城  城郭構造 連郭式平山城  
築城主 鹿島政幹  築城年 伝治承年間
常陸平氏の鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校が立地している。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。  
■下妻市
子飼の渡し古戦場   下妻市
子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされる。 
将門が建設しようとした理想郷   下妻市鬼怒
関八州を戦乱に巻き込み、不遜にも「新皇」を僭称した平将門も、実は農民の理想郷を建設しようとしていたのだ、という話をしよう。
下妻市鬼怒(きぬ)の千代川公民館前に「平将門公鎌輪(かまわ)之宿址碑」がある。
このあたりには将門の史跡が多いが、この地は将門の本拠地の一つとして重要である。「建碑由来記」を読んでみよう。
「桓武帝五代の孫、平将門公は鎮守府将軍良将公を父として、坂東の地に生れ、若くして、太政大臣藤原忠平公に仕え、京に在ること十二年、都の腐敗を目の辺りにして、もだし難く、兵を忘れ、自ら汗して原野を拓きつつ、衆庶と共に平和に生きようと発念、相馬御厨より豊田郡に移り、ここ鎌輪(鎌庭)を本郷と定めた。この地は、常総の沃野に連なる八十余町、毛野(鬼怒)の豊かな流れが。三方を囲んで理想郷実現の格好の地であった。しかし、同族等に幾度か挑戦され、鎌輪に在ること七年にして、やむなく石井(岩井)に移り、悲運に仆れた。千有余年の今日、公の真姿が理解され、賛仰の声と変り、私達は郷土の誇り高い歴史をかみしめている。幸いゆかりの地の一隅に、村民憩いの緑地公園が造成されるので一同あい議り、ここに記念の碑を建てる。」
昭和51年といえば、『風と雲と虹と』が放映され将門の再評価が進んでいた。8月9日に碑の除幕式が行われ、翌日に将門公供養盆踊大会が開かれた。この碑も将門ブームに合わせて建てられたのだろう。
近くに旧千代川村役場(現下妻市役所千代川庁舎)があるが、このあたりの地名「鬼怒」は、昭和53年に役場が移転される以前は「廃川敷(はいせんじき)」と呼ばれていた。
結城郡千代川村は昭和30年から平成17年まで存在した。マンホールの蓋には村の鳥ひばり、村の花さくら、村の木けやきがレリーフされている。中心のデザインは村章である。
この辺りを航空写真で見ると、今も川の流れていた痕跡を確認できる。鬼怒川が今の流れになったのは昭和10年のことである。それまで「鎌庭(かまにわ)」という地域は三方を川で囲まれていた。由来碑の言うように「毛野(鬼怒)の豊かな流れが三方を囲んで理想郷実現の格好の地であった」のだ。
ただ考えてみると、碑のある場所は川が流れていたわけだから、「鎌輪之宿址」そのものではないはずだ。鎌輪(かまわ)は現在の鎌庭(かまにわ)と考えられる。同地内を探してみよう。
下妻市鎌庭に香取神社が鎮座している。
この神社は天文二年正月十五日に下総一宮香取神社から分祀されたという。社前に鎌輪の宿に関する説明板があるので読んでみよう。
「平将門公鎌輪之宿址案内 平安時代中期(九四〇年)に描かれた将門記に、「四月二十九日豊田郡鎌輪之宿に還る」とあるのはこの地である。当時、鬼怒川は水量豊かに流れて三方を囲み、八十町歩の平坦な野場は肥沃で、都の腐敗をいとい、農民の苦しみを看るに忍びず、相馬御厨下司職を捨て大地を開いて自ら生きようとした公には最適の地であった。しかし、叔父達の執拗な攻撃にあい、やむなく石井(岩井)の地に移り、悲運の最期を遂げるが、此処こそ平将門本願の地であった。苛酷をきわめた残党狩りに、人は去り、舎屋は焼かれ、千年の歳月はその遺跡を埋没してしまったが、公が本館の所在は、古老の伝承によると「大字鎌庭字館野(新宿地内)」である。市民の皆さんをはじめ、公の大志を慕って訪ね来る方々のために、史書に従い伝承を参考にして案内します。」
建碑由来記とよく似た内容だが、こちらにしか書かれていない情報もある。鎌輪の宿が実際にあったのは「大字鎌庭字館野(新宿地内)」だという。鎌庭地区の中央部らしい。ただし、この香取神社の辺りだという説もあるそうだ。
若き将門は京に上って藤原忠平に仕え、12年間過ごした後に相馬御厨の下司職を得て東下する。その後、「農民の苦しみを看るに忍びず」「大地を開いて自ら生きようと」して、鎌輪(鎌庭)の地に理想郷を建設しようとした。しかし、親族との争いが拡大する中で、やむを得ず石井(いわい)の地に営所を築いて移ることとなるのであった。
ただし一次史料『将門記』では、「鎌輪」は一度登場するのみである。相馬御厨の下司になったことも出てこないので、理想郷を建設しようとした話も本当やらどうやら。ともあれ確かな「鎌輪」の記述を確かめておこう。
「廿九日を以て豊田郡鎌輪の宿に還る。長官詔使を一家に住まわしめ、愍労(みんろう)を加うと雖も、寝食は穏かならず。時に武蔵権守興世王は、竊かに将門に議(はか)って云わく。案内を検するに、一国を討つと雖も公の責めは軽からず、同じくは坂東を虜掠して暫く気色を聞かむ、と。」
常陸国府を滅ぼした将門は、天慶2年(939)11月29日、豊田郡の鎌輪の宿に帰った。宿に常陸介の藤原維幾と詔使を住まわせていたわったが、二人とも穏やかに寝食をとれなかった。そんな折、武蔵権守の興世王は、将門にひそかに話を持ちかけた。「現状から考えますと、常陸一国を奪い取ったのですから、朝廷からの処罰は軽いはずがありません。どうせなら、関東全域を手に入れて様子をうかがってはいかがでしょう」
この提案に将門は「将門が念(おも)う所は、啻(ただ)に斯而已(これのみ)」(おれの考えも、まさにそのとおりだ)と応じた。そして、12月11日に下野国、15日に上野国と、北関東を席巻し、「新皇」に即位することとなるのである。
そうなると鎌輪の宿は、関東略取の謀反を将門と興世王とが共同謀議した場所とみることができよう。新皇への道はここから始まったのだ。いや謀反のような罪深いものではなく、鎌輪の理想郷を関八州へ広げようとした革命であったと見ることもできるだろう。 
子飼の渡し古戦場   下妻市
子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされ、橋の西の袂に標柱が建っているが、日に焼けてしまって解説文の文字を読むことができない。せめて解説板だけは直して欲しいところである。 
千勝神社   下妻市坂井   
茨城県下妻市坂井の旧社
現に茨城県下妻市大字坂井・・・もとの真壁郡大宝村大字坂井・・・に鎮座する千勝神社は、明治維新まで世間一般に千勝大明神と呼ばれ、明治以降は千勝神社、通俗には単に千勝さまと云はれ、祭神も千勝大神と云いならはしているが、本躰は猿田彦命なのである。而もその創始は極めて古く、今より千四百年前に祭られたと伝えられて居る。千勝院内陣秘書の一として草創伝記の一巻が今も保存されて居るが、腐蝕して一寸読み難いけれど、大様左の如く判じられる。
武烈天皇壬午の歳、仲陽初三日、筑波山に雲斂(おさま)り、漁舟[ぎょせん]水に随ひて網せし時、忽然として波上がり、鶏鳴[けいめい]湖上にかまびすし、漁夫等之を窺うに、赭顔にして頭髪逆立ちたる御神、右手に鉾刄、左手に赤白絲を持ち、白鶏に乗りて来り、洲皐一島に登り立ちて宣はく[のたまわく]、みなみな邪道に墜ちて国危し、宜しく祝言歌舞、天地人合躰して王道を興せよと、雲霞の中に其影を没せり。一人の耆漁あり、おのずから祝言祭式に通暁[つうぎょう]することを得、土民を導きて其一島を営補し、始めて三極の祭礼を行ひしが、耆漁たまたま杖を下して一井を穿つや、清水滾々[こんこん]として湧き出で、之を口にすればよく飢を医し万病悉く治平す、かるが故に、世挙つて幸井島と号し、湖辺を開きて水田となすに及び、人家簷を並ぶるに至れり、是を以て土俗春秋に祭奠[さいてん]し年穀[ねんこく]を祈る。
こゝに湖といふのは大昔の鳥羽湖(とばのうみ)のことで、常陸風土記に筑波郡四十里、在騰波江(トバノエ)、長二千九百歩、広一千五百歩、東筑波郡、南毛野河、云々。また、万葉集の筑波山の歌に
新治の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺(ね)の よけくを見れば 長きけに  おもいつみこし 憂はやみぬ
とあるその湖である。又、その頃の毛野河といふのは、源を下野国に発し、南下するに随ひ、東西の二流にわかれ、後に、その西流をきぬ川・・・・・衣(きぬ)、絹(きぬ)、鬼怒(きぬ)などの字をあてた・・・・東の一流をこかい川・・・・子飼(こかい)、蚕飼(こかい)、更に降つて小貝(こかい)と書かれた・・・・と呼ばれたが、その東流は筑波山の西麓に至つて一大潴水[ちょすい]をなし、江海の観を呈したものであらう。現在の地域からいふと、小貝川の両岸に沿ふた一帯の低地がその址(あと)で、西のほうは黒子村の南部から騰波江村、大宝村両村の東辺、高道祖村[たかさいむら]の北部から上野村、鳥羽村にかけて、小貝川の東方にあたる広汎な区域がそれである。
さて、その神様は最初どの辺にまつられたかといふに、下総国に属した結城郡総上村東古沢の小名高地原と称する所で、糸繰川の小貝川に合流する地点、即ち小貝川の西岸、筑波郡の高道祖村に対して居る所である。
今の鎮座地大字坂井は、元来常陸と下総との国境に在つた所から、境、堺とも書き、鎌倉時代以降は、概して境郷または幸井郷と記されてあり、草創伝記に幸井島と見えて居るのも、必ずしもこじつけではない。将門記や足利末葉の下妻古図にも明かに幸井郷と記されてある。
所が、今から千百八十年ばかり前、称徳天皇の神護景雲年間、常陸の郡界を旧川に随つて・・・・旧川とは糸繰川のこと・・・・改修された時、川流が神社にあたる所から、神社を幸井郷の北部に遷されたといふのである。その地点現在は畑地となつて居り、お大日(だいにち)と呼ばれるが、そのお大日の辺から南方へかけての一帯の地域を小名境町と称している。つまり神社の門前に当たるので、門前町としての称呼が生れたものであらう。
そのお大日に一基の板碑があつた。近年坂井部落内の墓地に付属する念仏堂に移されてあるが、碑面には大日如来の像を刻し、下方に正平十年云々の文字が見える所から察するに、この板碑は南朝に関係しての供養塔であらう。
斯の如く神社は常陸国境の高地原から後にいふ境町に遷されたのであるが、それから数百年を経た鎌倉時代、約七百四十年前の建保の初年、親鸞聖人が上野国から常陸国へ移住され、下妻に接した小島といふ所(今は無いが三月寺というのがそれ)に於て、三年の間説法を試みられた際、裏方の恵信尼が、千勝の社頭[しゃとう]に佗居されたといふ事実もある。京都の本派本願寺の宝庫から発見された恵信尼文書に依つて公表された所の、親鸞聖人研究第四十五輯[しゅう]を見ると「さて下妻と申候ところに境の郷と申すところにそうらひしとき、夢を見てそうらひしやうは、堂供養おぼへて東向に御堂は立ちて候に、神楽とおぼへて、御堂の前には、立ち明かりの西に、御堂の前に鳥居のやうなる云々」と、いはゆる恵信尼の御夢想なるものが掲げられて居る。
わが国に渡来した仏教が非常な勢でひろまるにつれ、神をまつる所、いはゆる神宮寺を建つるといふならはしとなり、鎌倉時代以降は一層盛んに、国々の大きい社では何れも神宮寺を設け、住職は別当と称して社務を司り、社僧をして神明に奉仕せしめられた。
わが神社も、足利時代、・・・・・・・・・・思ふに、千勝大明神の称号は、この頃から用いられたものであらう。 
源護陣営   下妻市大串
承平5(935)年2月から天慶3(940)年2月にかけての承平の乱は平将門と平良兼、平国香、前大掾源護との戦いによって幕が切って落とされた。この戦いで護は3人の息子を失い、強力な味方である国香も戦死した。この源護陣営がいつの頃どのような規模で経営されていたのかなど、詳細は不明。  
大宝八幡宮   下妻市大宝
大宝元年(701年)、藤原時忠公が筑紫(つくし)の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりです。天台宗の古い経文の奥書に「治承三年(1179年)己亥七月二十二日の未時書了於常陸州下津間八幡宮書了兼智」とあるため、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかります。平将門公も戦勝祈願のために度々参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられています。 「吾妻鏡(あづまかがみ)」に下妻宮(しもつまのみや)としるされ、文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建されました。
御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと) …第十五代応神(おうじん)天皇(八幡様)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと) …第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと) …神功(じんぐう)皇后(仲哀天皇の皇后)
八幡大神様は、その御代に治山治水・学問・漁猟・商工・土木建築・交通運輸・縫製・紡績、その他あらゆる殖産興業の途や、衣食住等人間生活の根源を開発指導された文化の生みの親神であると同時に、武の道をつかさどる神としても世に名高く、まさに一切生業の守護神であられます。
御霊験はいよいよあらたかにましまし、大宝の御名に示されるように、財運招福の願い、厄除、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産等の諸願を託す人が多く、日々の生活に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、その御神徳は広大にして無辺であります。
歴史
1 八幡宮の創建と白鳳奈良時代の様子
大宝八幡宮は、白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(七〇一)、藤原時忠が、常陸国河内郡へ下向の時、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという。東国平定のための鎮護の神として、八幡宮を勧請したのである。宇佐八幡宮は、莵狭津彦命を祖とする宇佐諸石が、欽明天皇二十九年(五六八)に八幡神を勧請したのに始まるという。八幡神とは、応神天皇を主座とし、文武の神として尊崇されており、八幡宮の祭神として祀られる。
当時の河内郡が現在のどこを特定しているかは不詳であるが、慶安元年(一六四八)七月十七日付の家光公の御朱印状には、常陸国河内郡下妻八幡宮領同郡大宝村云々とあり、江戸時代には、下妻、大宝は河内郡に含まれていたことになる。下妻、大宝あたりは古代には新治郡に含まれており、時代によって河内郡、新治郡、真壁郡などと呼ばれていた。
古事記(七一二)に、日本武尊が東征の時、足柄峠を越えて、甲斐(山梨県)に出、甲府市東方の酒折の宮に御座所を構えた時、次のように歌っている。「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と。これにたいして、火焼きの老人は、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と、歌をついだので、日本武尊は老人を誉めて、東国の国造にしたという。このことから、既に、常陸国の新治、筑波が史書に登場しており、東国の討伐支配が行われていたことが判る。この新治、筑波は、新治郷と筑波郷ともいわれ、筑波の西北一帯を指している。従って、東国平定の鎮護の神として、当地に八幡宮を勧請しても不自然ではないのである。また、万葉集巻第九に、「筑波山に登る歌一首 短歌を併せたり」という雑歌があり「筑波嶺に登りて見れば…新治の鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ…」とあり、筑波山頂から西の方を眺望した鳥羽の淡海(大宝沼を含む)が詠まれており、当時は、下妻市から関城、明野町にかけては、満々と水を湛えた広大な湖沼があったことが判る。この歌は、養老三年(七一九)常陸国の国守として藤原宇合(うまかい・鎌足の孫)が赴任しており、前後して国府の主帳として赴任してきた高橋虫麿が、国司の財政監査のため大和からきた検税使大伴卿を筑波に案内した時に詠んだものといわれるから、七二〇年頃の作と推定される。大宝八幡宮が創建された頃の当地の情景を伝える歌でもある。なお、高橋虫麿は万葉集の歌人でもあり、宇合の下で常陸国風土記の編纂に参加している。
祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后であり、「大宝」という名称は、創建時の年号の「大宝」に由来し、大宝という年号は、三月に対馬の国から金が献上されたので文武天皇が「大宝」と改元したといわれる。それまでは年号で呼んだり、年号をつけずに持統、天武など天皇の御名で呼んだりしていたが、これ以後は年号で呼ぶことが定着している。さて、年号は、タイホウと読むが、大宝八幡宮は、訛ってダイホウと呼ばれている。千古の歴史を秘めた大変目出度く、由緒のある名称である。 仲哀天皇は、日本武尊の皇子であり、応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の皇子で、日本武尊の孫にあたる。日本武尊(小碓命・倭建命)は、古事記の記載によれば、熊夷征伐や東国征伐で知られている神話の伝説的英雄である。
また、大宝元年八月には大宝律令が制定され、律令社会の始まりとなった年でもあり、天平時代の幕開けという、歴史的にも画期的な時期であり、大宝八幡宮は、その後日本の歴史、文化とともに壱千参百年を閲し、その間、何度か火災で社殿等も焼失しているが、その都度再建され、中断することなく連綿として現在に至っている。なお「大宝八幡宮往代記写」によると、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)が大宝二年に、江(騰波の江)の古沢黒島の近くに出た怪しい青火を鎮めたことに始まり「舟守」の社として信仰を集めたともいう。この役小角は、妖言をなし世をまどわすとして、文武二年(六九九)、伊豆島に流がされたが、大宝元年(七〇一)一月に赦免されている。いずれにしても「大宝」という呼称から徴しても大宝元年頃の創建と考えられる。大宝八幡宮に関する奈良時代の記録や史料は見当らず、社伝の言い伝えだけであり、奈良時代の八幡宮についての由緒については詳らかではない。
2 平安時代から鎌倉時代の様子
平安時代の康平五年(一〇六二)、源義家が、安部貞任を討って凱旋した時(前九年の役)、自ら神社に詣で祀田若干を奉り、戦功を賽(祈願成就のお礼)したという。
なお、下妻市二本紀には、前九年の役で義家らに敗れた安部宗任を祭神とする宗任神社がある。その神社の東約一・五キロ離れた、千代川村宗道の地にも宗任を祭神とする宗任神社がある。社伝によれば、天仁二年(一一〇九)奥州鳥海山麓をあとに、神命を奉じ南下した宗任の旧家臣二十余名が、幾多の苦難を踏み越え、下総滑田郷、松岡郷(下妻市内の二本紀あたり)を経て、この地に神示により宗任神社を創建したという。ちなみに、義家に敗れた宗任自身は、康平七年(一〇六四)伊予に流され、三年後には太宰府に移されている。義家が戦功を賽したという大宝八幡宮の近くに、義家に敗れた宗任(安部貞任の弟)を祭神とする神社が、旧家臣団により創建されたとは、実に不思議な因縁である。
「大宝八幡宮之景」によると、文治五年(一一八九)には、源頼朝が、奥羽の藤原泰衡を討ち、平定した九月十八日に寵臣下河辺荘司行平に命じ、摂社若宮八幡宮を勧請し、常陸大掾の支流多気弘幹(下妻荘の下司下妻四郎広幹を指す)をして両社に奉仕させた。この折頼朝は、太刀一振を奉納したという。しかし、弘幹は己れの非徳却って神明を汚さんことを恐れ、常陸国吉田第三宮の神宮寺を勧請し、弘幹の一族常陸国吉田郡の住人石川四郎家幹の一族のなかに第三宮の神宮寺、すなわち、水戸薬王院の別当職 (神宮寺の長、寺全体の事務を司る)を務めていたものがいたので、その人物に大宝八幡宮の別当職を兼ねさせた、とあるが、「大宝八幡宮往代記写」によると、承久の乱(承久三年・一二二一)に際して、都から来た久仁親王が天台宗の学匠に仏教を学び、宝治二年(一二四八)に出家して賢了院と称し、初代の別当になったという。その後、徳治三年(一三〇八)三月九日付で、大仏宗宣(北条系で、下妻荘の地頭)から別当職の補任状(ぶにんじょう・辞令にあたるもの)を受けた源成(吉田薬王院の別当・成珎)が大宝八幡宮に乗り込み、賢了院系別当と争いが起こるが、その後石川家幹の子孫が大宝八幡宮の別当になっていたことも事実であり、薬王院系の別当も何人かは、大宝八幡宮の別当を兼ねていたのである。
史料でも鎌倉時代の後期には、大仏(北条)宗宣(後の十一代鎌倉執権)が、下妻荘の地頭職として、八幡宮別当職の補任権を握っていたことが判る。さて、「八幡宮之景」の説と、「往代記写」の記録とでは別当職を置いた時期が異なっているが、ここは後者の説のほうが信憑性がある。そして、賢了院が初代別当になってからは次第に社領の境内に寺院が建立されていった。後年、旧八月九日、「お墓前祭」といって、初代別当久仁親王の墓前祭が行われていることから徴しても、宝治二年に別当が置かれたとみるべきであろう。
「常州下妻大宝八ケ寺絵図面」には、賢了院、円蔵院、日輪院、円寿院、安楽院、放光院、龍松院、教学院の八寺院が、参道から八幡宮にかけての東側一帯に整然と配置されている。この八ケ寺のあった位置は、南は、現在の大宝小学校から北は保育園に至る広大な一郭である。この他に、寺院関係の弥陀堂、護摩堂、鐘楼などが、社殿の東側と八ケ寺との間に建っており、参道西側には、若宮八幡宮の前に観音堂、虚空蔵なども建っており、絵図面には神仏習合の構成と規模の大きさなどが表示されている。これらの寺院建造物等は、明治の初め、神仏分離のためすべて廃仏棄釈されたが、江戸時代末に飛騨の匠により建造されたという護摩堂だけが遺っており、今は祖霊殿として扱われている。 なお、神宮寺とは、別当寺とも呼び、神仏習合の象徴で、神社に付属して置かれた寺院であるが、明治維新後の神仏分離により、独立したり、廃絶されたりしている。大宝八幡宮の場合は寺院が分離廃絶されたが、今も八幡宮に残る御朱印箱には、常州下妻大宝寺と書かれているし、大宝寺八幡宮と書かれた文箱や文献資料などもあり、往時を偲ばせる。
水海道市豊岡の元三大師安楽寺も、大生郷天満宮の神宮寺として延長七年(九二九)菅原道真の遺児下総守菅原景行が創建したものであったが、現在は夫々独立している。大町の円福寺も、初めは八千代町今里の香取宮の神宮寺として同所に建立されていたが、元亀二年 (一五七一)北条氏政が下妻を攻めた時に兵火で焼失したので、多賀谷政経が大町に移転建立したといわれる。なお、この香取宮も文治五年(一一八九)、源頼朝が奥州討伐の折に創建したものといわれている。
平安時代の常陸国は、桓武天皇系の常陸大掾平氏の一族が土着して筑波一帯を支配していた。平将門の乱も一族内の領地争いに端を発しており、承平五年(九三五)将門と国香が戦った場所は、八幡宮の近辺の大串や明野町の東石田あたりが中心であったから、常陸平氏が八幡宮に関与していたことは十分に考量できる。社伝では、平将門が参籠したり、常陸平氏系の下妻広幹が八幡宮の管理運営に当たっていることなどからも推定できよう。
神宝としては、十一世紀末から十二世紀頃に鋳造されたという唐式鏡と呼ばれる鏡がある。「瑞花双鳳八稜鏡」である。径十一・二センチメートル、白銅鋳製。昭和四十年二月県指定文化財となっている。大宝八幡宮の神宝としてまことに相応しいものである。
3 室町時代から江戸時代の様子
「八幡宮之景」に、「元亀・天正(一五七〇〜九一)の頃、多賀谷修理大夫重経は、戦う毎に勝を祈り感応の著しきを以て小烏刀及び青雲刀を献じ、子孫の安康を祈る因襲、俗(習わし)を為し、崇信神徳に浴する者、毎々に刀剣を捧げ之を社殿に懸け、連綴恰も簾の如し」とあり、このようにこぞって刀剣を奉納したので、大宝八幡宮は「剣八幡宮」とまで呼ばれたという。この頃は、小田原北条氏が常陸への勢力拡大を謀り、度々、多賀谷氏を攻撃しており、両者は熾烈な戦いをしていたのである。だからこそ大宝八幡宮に必勝祈願をしては、刀剣などを奉献していたのである。
「八幡宮之景」は重経だけが刀剣を献上したようになっているが、別の資料をみると三代家植も太刀一振を奉納しているが、この太刀は、享徳三年(一四五四)初代氏家が上杉憲忠を討ったときの太刀で、名は「青雲」、銘は信房という。氏家が憲忠の首級を挙げた勲功もあり、この年、古河公方成氏により、恩賞として下妻荘及び関郡の地の領有を安堵され、それ以後下妻多賀谷氏がこの地を本拠として、大宝八幡宮を信仰、保護し、勢力を拡大して行くのである。六代政経は鎧一領と太刀「雉子尾」・「三刃切」の二振を奉納している。七代重経は佩刀の太刀、流鏑馬の神事を奉納している。このように歴代の当主は何か事あると刀剣等を八幡宮に奉納していたのである。
次に、天正五年(一五七七)、多賀谷尊経(重経)は、二年前に全焼した社寺の再建をしている。本殿は三間社流造という形式で、その後何度か修理や屋根替えが行われ、明治四十二年には解体修理、昭和四十年に屋根替えが行われて現在に至っている。この本殿が明治三十九年(一九〇六)四月、国の重要文化財に指定されたものである。現存する再建当時の棟札墨書銘や擬宝珠刻銘により多賀谷尊経と特定されてはいるが、再建された天正五年の多賀谷の当主は七代重経であり、前年六代政経死去の跡を継いだばかりで、まだ弱冠十九歳だった。なお、尊経は天正七年頃重経と改名しており、七代重経のことである。
余談になるが、重経は、天正八年(一五八〇)には、北条氏照、氏直らの軍勢を飯沼、弓田両城から撤退させ、下猿島に攻め入り、これを傘下に収め、その戦勝感謝のため、兵火により焼失していた大生郷天満宮を再建、鎧、歌仙図、鏡天神図等を奉納した。また、やはり戦火で焼失した元三大師安楽寺も現在地に移し、再建したという。
現在、八幡宮には嘉慶元年(一三八七)に鋳造された銅の梵鐘が遺っているが、この梵鐘は、数奇な運命を辿った南北朝時代の貴重な工芸品である。最初は埼玉県岩槻市の平林寺にあったが、まず慶雲寺に移された後、康正二年(一四五六)には下総猿島郡の星智寺のものとなった。そして、天正八年(一五八〇)多賀谷重経が猿島を傘下に収めた時に持ち帰り、大宝八幡宮に奉納したものという。戦国時代の波乱と興亡の象徴のようである。
飯沼城は猿島町の逆井城のことで、宝徳二年(一四五〇)小山義政の子常宗が逆井城を築き城主となり、逆井尾張守常宗と称した。この逆井尾張守と同人と推定される人物が、梵鐘の碑文の第三区に奉行として刻銘されており、星智寺に梵鐘を移したときに関与したものと推定される。しかし、この小山系逆井氏は、天文五年(一五三六)に滅亡し、天正の頃は小田原北条氏が、この城を拠点の一つとして飯沼を挟んで多賀谷氏と争っていたのである。そして天正八年、多賀谷重経により撤退させられ、北条氏は猿島を失っている。
慶安元年(一六四八)七月十七日、徳川家光から百十五石の朱印状を受けている。下妻の他の寺社の領地は、五石から十石程度だから大宝が如何に別格視されていたかが判る。寛政七年(一七九五)には、光格天皇から、大宝八幡宮の額字及び御紋付紫幕を下賜されている。
4 大宝城と下妻荘を支配した武将達
次に、「大宝八幡宮之景」には、所在地の大宝村と大宝城、そして下妻荘の支配者についても記載されており、大宝八幡宮とも関連するので解説をしておく。「大宝村は、其の初め大掾維幹の二子為幹が後、下妻清氏地頭たりし後、大掾直幹の二子下妻四郎悪権守地頭たりしが、」とあり、清氏や悪権守広幹は大宝村も含んだ下妻荘の下妻(一説には下津間とある)を名乗り、「下妻氏」が誕生している。大掾とは、常陸大掾を指し、常陸の地方官の意であり、平国香の子孫が、代々大掾を世襲して大掾氏と名乗っていたのである。この大掾氏一族が、つくばを中心に勢力を拡大したのである。平将門は国香の甥にあたり、将門の乱は、将門と伯父国香らとの、いわば一族内の領地争いが発端であり、国香は、承平五年(九三五)将門と戦って戦死している。将門もまた、天慶三年(九四〇)国香の子貞盛や藤原氏郷らに猿島郡北山(岩井市)で討たれたという。
参考までに平国香系の常陸平氏(大掾氏)の系図を紹介し、人間関係を整理しておく。常陸平氏の祖は繁盛の子の維幹で、常陸国水守、多気を中心とする筑波地方に勢力を拡大していった。致幹(多気氏祖)は、本拠地多気(つくば市北条)を中心とした筑波西・南麓を、政幹(豊田氏祖)は、下総国豊田を、重家(小栗氏祖)は、小栗を、広幹(下妻氏)は、下妻を、忠幹(東条氏祖)は、信太郡の東条を、長幹(真壁氏祖)は、筑波北麓の真壁などの諸地域を支配し、その居住地を苗字として名乗った。常陸平氏一族の名のほとんどに「幹」(モトと読む)という氏祖維幹以来の一字が用いられているが、これは別の苗字を名乗っても、当時は「通字」により一族を表示する習慣があったからである。
また、「八幡宮之景」には大宝城についても次のように記載し、下妻に関わる常陸平系下妻氏と小山系下妻氏の興亡について記している。「大宝村は、其の初め大掾維幹の二子為幹が後下妻清氏地頭たりし後大掾直幹の二子下妻四郎悪権守地頭たりしが北条義時の為に建久四年に亡び」とあり、常陸平氏の子孫が下妻氏を名乗ったことが判る。なお「北条義時の為に建久四年に滅び」とあるのは誤りで、史実では、小田(つくば市)の八田四郎知家が、広幹を源頼朝に讒した結果、頼朝の命により、知家が広幹を斬首している。かくして建久四年(一一九三)常陸平系の下妻氏は一代で滅亡し、かわって小山左衛門朝政が其の地を頼朝から賜った。しかし「吾妻鏡」によると、既に前年の建久三年に小山朝政を「常陸国村田下庄 下妻宮等」つまり、下妻荘の地頭に補任していたのである。この「下妻宮」とは、大宝八幡宮のことである。知家はまた、小田の隣邑の広幹の兄、多気義幹をも頼朝に讒し、所領を没収、追放している。しかし、所領については義幹の一族、馬場資幹が頼朝から賜り、大掾本家を相続している。
次に、「それより(広幹滅亡後)下妻四郎長政地頭にて、其の孫修理亮政泰に至り延元(一三三六)より八幡宮側の城に拠りて勤王し、興国(一三四〇)に至り春日中将顕時を助けて興良親王を奉じ、関宗祐と応援して、大宝湖の東西にて賊軍を押禦せしこと前後六年の艱苦を尽くし、其の四年両城共に陥りたる」とあるが、四郎長政は頼朝から下妻荘と八幡宮領を賜った小山朝政の孫で、下妻氏を名乗った。この長政の子が下妻政泰であり、孫ではない。「其の四年」とは、興国四年(一三四三)で、十一月十二日、両城は北朝方の高師冬らの攻撃により落城、関宗祐、下妻政泰共に戦死した。かくして、またも下妻氏は断絶してしまう。大宝城は南朝方の拠点となっていたので、北朝方と攻防のかぎりを尽くしていた。
この下妻政泰を悼んで、昭和六年「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑、昭和十八年「下妻政泰公碑」が建立されている。この大宝城は、今はすっかり消滅し、城跡としての面影も殆んどみられないが、今の八幡宮境内地を含む台地一帯が、昭和九年五月、大宝城跡として、国の史跡に指定されている。次に小山系下妻氏の系図と八田氏、そして下妻多賀谷氏の系譜を掲げる。
下妻多賀谷氏は、埼玉県騎西町を本貫とする武将であり、結城家の宿老であったが、氏家が、享徳三年(一四五四)、管領上杉憲忠を討首した勲功により、古河公方成氏から下妻荘及び関郡の地(三十三郷)を安堵され、下妻多賀谷氏の初代となった。氏家は、寛正三年(一四六二)には下妻城を完成し、家植を城主とした。それ以後多賀谷氏は勢力を拡大し、結城家を圧した。七代重経の代には、北は、下館から、南は、牛久市の辺りまでその領域を拡げたが、慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の戦の折、石田三成方に加担したことにより、戦後処理の結果、重経は、所領を没収されて下妻追放の身となり、下妻多賀谷氏は滅亡してしまう。慶長六年(一六〇一)二月十七日であった。まだ四十四歳の時で、その後、重経は秋田、江戸などを放浪し、実子茂光が彦根藩に仕官していたので彦根に移り住み、失意と無念のうちに元和四年(一六一八)十一月九日死去、六十一歳であった。太田多賀谷の三経は、結城秀康(徳川家康の次男で、豊臣秀吉に人質として差し出されていたが、天正十八年、結城晴朝の養嗣子となった)に従い徳川方に加担したので、秀康が越前北庄に、結城十万石から六十八万石に加増転封されたのに従って越前に移り、三万石の柿原城主となったが、慶長十二年(一六〇七)七月二十一日、三十歳の若さで死去している。
一方、下妻の多賀谷宣家は、所領を没収されたあとは佐竹家にもどり、佐竹義宣(宣家の兄)が慶長七年(一六〇二)七月、常陸五十四万石から出羽久保田(秋田市)二十万石に減封された時、従って出羽に入り、慶長十六年(一六一一)には、檜山領(能代市)一万石に配置された。そして寛永五年(一六二八)には亀田城主となり、寛文十二年(一六七二)八月二十七日、八十九歳で天寿を全うしている。かくして下妻多賀谷氏の一族は、各地に四散してしまった。しかし、現在下妻多賀谷氏の流れをくむ多賀谷裕惟氏が、多賀谷家の当主として東京都内に住んでいる。そこで、今回の大宝八幡宮御鎮座壱千参百年祭奉賛会の結成にあたっては、顧問に推戴している。
5 「大宝八幡宮之景」に描かれた当時の情景
明治三十七年(一九〇四)に製版、印刷された「大宝八幡宮之景」の俯瞰図には、克明に八幡宮の配置や当時の情景が描かれている。その俯瞰図には、明治に入って廃仏棄釈された大宝八ケ寺の建造物は、既に姿を消し、別の建造物が描かれている。先ず、正面(南側)の三の鳥居を入り、二の鳥居を過ぎると一の鳥居があり、そこを潜ると参道両側には桜並木があり、正面に拝殿、そしてその奥に本殿がある。拝殿の左側には摂社若宮八幡宮があり、右側には社務所がある。本殿右に黒鳥神社、その右後方に祈祷殿がある。この祈祷殿は、神仏分離されるまでは護摩堂として、江戸時代末に建立されたが、何故かこの建物だけが棄釈されずに残っていたのである。更に、社殿の両側には小祠の末社も数多くあり、神楽殿、額殿、神馬舎、水舎も描かれている。額殿は、現在は破棄され、その跡地に神楽殿が移築されている。社務所の東側には、社司宅があり、その先には駐在所がある。参道の右側一帯には旅館が立ち並ぶ。一の鳥居前を右に曲がると大宝村役場があり、坂を下ると鳥居があり、一般道路に出る。この東の鳥居口を「搦手口」、南の三の鳥居口を「大手口」と呼んでいるのは、かつて大宝八幡宮が、大宝城の中にあったことの名残りである。
そして八幡宮の西の方一帯には、鳥羽の淡海(大宝沼)が描かれ、湖面には、帆掛け船まで描かれている。遠方の景色には富士山と日光山まで配置されている。しかしながら時流と地元の要請で、まもなく「鳥羽の淡海」(大宝沼)は、四年後の明治四十一年から耕地整理が始まり、大正五年には、大宝沼耕地整理を完成している。更に、大正十二年(一九二三)には干拓工事に着手し、昭和の初めにほぼ竣工している。今は田圃が整備され、かつて舟を浮かべた水面は、秋ともなれば黄金の稲穂がたわわに波を打っている。なお、明治八年(一八七五)、大宝小学校が放光院の跡に開校されているが、この図には記載されていない。役場や駐在所は今は跡形もないが、古老はよく覚えている。境内に描かれていた旅館も今は消滅してしまった。そして境内の周囲は鬱蒼とした檜の森に囲まれており、まさに鎮守の森の観を呈しており、「大宝八幡宮之景」は、およそ百年前の八幡宮の荘重な偉容と盛況を彷彿とさせる。なお、神仏分離後の明治の初めには、大宝八幡宮は県社に格付けされている。そしてこの頃には、八幡宮のある大宝村は、江戸時代初期の河内郡ではなく真壁郡に変っており、昭和二十九年(一九五四)四月、当時の下妻町に合併、同六月、町村合併で下妻市となり現在に至っている。
6 現在の大宝八幡宮
   (1) 社殿(本社と境内社)と建造物
大宝元年(七〇一)に創建された、本社「大宝八幡宮」は、祭神として応神天皇(誉田別命)、仲哀天皇(足仲彦命)、神功皇后(気長足姫命)の三柱を奉斎している。祭神は弓矢の神、即ち武の神として古来より尊崇されている。古くは平安時代の平将門ら常陸平氏、八幡太郎源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、南北朝時代の下妻政泰、そして戦国時代の下妻城主多賀谷氏などの武将が、こぞって参詣し、武運長久・必勝などの祈願をしている。時は流れ、今は財運招福、厄除け、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産の祈願所として信仰崇敬されている。例祭は四月十五・十六日と九月十五・十六日に斎行している。
現在の本殿は、天正五年(一五七七)、時の下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建したもので、明治三十九年四月、国の「重要文化財」に指定されている。本殿の前には拝殿がある。この拝殿は、明治初期に建造された木造瓦葺きの重厚な造りである。後に拝殿としての機能性を配慮した銅葺き廂が取り付けられた。境内には本社の他に摂社、末社など数多くの勧請された神社が、境内社として合祀されている。摂社とは、本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祀った社で、格式は末社より上位にある。末社(枝宮ともいう)とは、本社に付属する小さい神社のことである。そして本社の境内に祀られている神社を境内社と呼んでいる。
摂社としては、文治五年(一一八九)、源頼朝が下河辺行平に命じて勧請させたという「若宮八幡宮」がある。祭神は、仁徳天皇(大鷦鷯命)で、応神天皇の第四皇子である。難波に都した最初の天皇で、人民の貧しさを思いやって租税を免除したという聖帝伝承がある。若宮八幡宮の建物は茅葺きで損傷も出ていたので、現在は保護するための覆い屋が作られ、本殿の西側に鎮座している。また、「黒鳥神社」も摂社として、本殿の東側に鎮座している。祭神は大国主命と少彦名命で、本社が創建される前に当地の地主の神として祀られていた神である。大国主命は、神代の頃の出雲国の主神で、素戔鳴尊の子とも六世の孫ともいう。今は縁結びの神としても知られる出雲大社の主神として祀られている。国作りの神、医薬の神といわれる。なお素戔鳴尊は、天照大神の弟にあたる。狂暴で、天の岩屋戸の変を起し、根の国に流され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。天叢雲剣は、「草薙剣」の別称で、三種の神器の一つである。日本武尊が、東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからこの名がつき、後、熱田神宮に祀ったという。 
末社としては、小祠ながらも、先ず、本殿の東側奥に二荒神社(祭神は事代主命、俗に恵美須様とも称えられ、漁猟航海の神、また商売繁盛の神として崇められている。出雲の大国主命の子)、稲荷神社(祭神は倉稲魂命、食物の神、稲の神)、松尾神社(祭神は大山咋命、比叡山の守護神、酒造の神)、鷲神社(祭神は天日鷲命)、熊野神社(祭神は伊邪那岐命、国固めの神、結婚の神)の五社が祀られてある。
そして拝殿すぐ右手には、祓戸神社(祭神は瀬織津姫、速秋津姫、気吹戸主、速佐須良姫の四神で、祓の所を主宰する神)がある。次に、拝殿前参道の西側には、奥の方から雷神社(祭神は別雷神、雷電を起こす神。鬼のような姿をして虎の皮のふんどしをまとい、太鼓を輪形に連ねて負い、手には、ばちをもつ姿態で具象化され親しまれている)、白鳥神社(祭神は日本武尊、大宝八幡宮の祭神応神天皇の祖父にあたり、神話の伝説的英雄として知られる)、大宝天満宮(祭神は菅原道真、学問の神)の三社が並び、神門の近くに押手神社(祭神は押手神、印鑑を司る神)が一社だけ離れて祀られている。
参道東側には、春日神社(祭神は武甕槌命と経津主命、武の神と航海の神)、神明神社(祭神は天照大神と豊受姫命。天照大神は日の神、皇祖神であり、伊勢の皇大神宮の内宮に祀られ、皇室並びに国民崇敬の中心とされている。伊邪那岐命の娘で高天原の主神である。豊受姫命は、豊受大神のことで、食物を司る神として伊勢神宮の外宮の祭神として祀られている)、水神社(祭神は水波能女命、水の神)、愛宕神社(祭神は火産霊命、防火の守護神)、道祖神社(祭神は猿田彦命、天孫降臨の際先導に立ち道案内をした神で、道路の悪霊を防いで行人を守護する神、つまり道祖神として祀られている。今は地鎮の神、疫祓の神、縁結びの神ともいわれる)、浅間神社(祭神は木花開耶姫命、安産の神)、開都神社(祭神は遠秋津姫命)、八坂神社(祭神は素戔鳴尊、厄除けの神)の八社が一列に並んで祀られている。
社殿や末社の他に、建造物としては、祖霊殿(旧大宝寺護摩堂であったが、廃仏棄釈の折にも偶々破棄されずに残ったもので、現在は歴代の別当や宮司とともに神葬家の御霊が祀られている)が、本殿東側に重厚な佇まいを見せている。江戸時代末頃に飛騨の匠によって建造されたという。なお大宝寺八幡宮は、明治元年(一八六八)神仏分離令が出されたのを機に、いわゆる大宝八ケ寺は廃絶され、「大宝八幡宮」神社だけとなり、明治四年には県社として格付けされた。従って、現在は大宝寺の遺構としては、護摩堂だけが、明治には祈祷殿として、そして今は祖霊殿として遺っているだけである。明治の初めに寺院等が、廃仏棄釈された時の残骸の石塔や墓石の一部が、最近まで、境内の裏の方に野積みされ、土や草に埋もれていたが、かつては大宝寺として隆昌していた往時の遺物であったことに心を痛めた山内宮司が、発掘整理し、改めてお祓いをし、慰霊祈祷をしている。
一の鳥居を入ると、朱塗の円柱が目立つ壮大な神門がある。これは昭和天皇御在位六十年を記念して、昭和六十年に建立されたものである。神門を潜ると、左方に歴史資料館と神楽殿がある。歴史資料館には、県指定文化財の「銅製梵鐘」、「瑞花双鳳八稜鏡」、江戸時代に大宝沼から発掘されたという「丸木舟」が格納されている。
その他かつて武将達から奉納されたという刀剣、甲冑類などや考古学的資料の出土遺品など貴重な品々が格納されている。そして資料館の一部は神輿格納庫として使用されている。神楽殿は、かつて本殿の東、社務所の裏にあったが、境内の整備にあたって現在地に移築され、今も祭事の折には、ここで十二座神楽などの奉納が行われている。
拝殿の西側、若宮八幡宮の手前には、神馬舎があり、拝殿東手前には水舎がある。水舎の北東、拝殿の東側には社務所と宮司宅がある。社務所は昭和五十七年、栃木県藤岡町在住の崇敬者井岡ツネ、井岡重雄によって奉献されたものである。社務所入り口の右手には神札等の授与所があり、入り口を入って左奥には客殿も兼ねた奥社務所がある。社殿のある境内神域参道入り口には、銅版化粧を施した大鳥居(一の鳥居)が聳えている。この他表参道(南口)には、二の鳥居、三の鳥居もあり、深遠な神苑の風情を醸している。東参道側の入り口にも鳥居が一基建立されている。
   (2) 神域
東に筑波の山なみを眺め、西北には日光連山を望む大宝の舌状台地に位置する大宝八幡宮は、かつては大宝沼だった穀倉地帯の中にあって、鬱蒼とした木立の森に包まれ、檜の古木や大杉、大王松、銀杏などの大樹が現存する荘厳な神域である。南口三の鳥居と二の鳥居の間は、檜を主に杉その他の木々が天高く、鬱蒼と繁っている。二の鳥居の左手前には、昔この地に大宝城があり、南北朝時代の古戦場だったので、昭和九年、「大宝城跡」として国の史跡に指定されたことを標示する角柱が建っている。右手前には杉の巨木が立っており、思わず見上げてしまうほどである。
一の鳥居の左手前には「なべや」、右手奥には「えびすや」という茶屋があり、参拝客の一服、憩いの場になっている。昔から団子が名物として知られている。四月と九月の例祭はいうまでもなく、春には桜、秋には菊祭りが行われ、多くの人出で賑わう。
神門を入ると参道両側には、崇敬者から奉献された狛犬が列をなして据えられ、拝殿前には、ひときわ大きな狛犬が一対左右に対座している。拝殿軒先には、これまた多くの崇敬者から奉献された吊り灯籠が眩いほどに連なっている。神楽殿の近くには、国歌に歌われている「さざれ石」が台座に乗せて祀られている。
社務所の南には御神木の大銀杏が亭々とあたりを睥睨するかのように聳えている。本殿と社務所の間には、幹周りが二メートル以上はある大王松がすっくと天に伸びている。本殿の裏に廻ると、檜の木立で昼なお暗いほどである。その中に特に太い直幹の一対の檜があり、しかも「連理の根」を成しているので、これを御神木「夫婦檜」と称している。そして御神木には、注連縄が締められている。この檜の木立に囲まれて「贈正四位下妻政泰忠死之地」と刻字された碑と「下妻政泰公碑」が建立されている。碑文には、南北朝時代の南朝の忠臣下妻政泰の事績が記されている。この檜の木立を進み、境内奥に出ると神苑があり、かつての大宝沼の一帯を眺望できる閑静な佇まいであり、訪れる人に安らぎをもたらしている。
   (3) 大宝マチの由来
大宝八幡宮の春・秋の例祭は、近郷近在では「ダイホーマチ」とか、更に訛って「デーホーマジ」と、親しんで呼ばれている。例祭は関東でも屈指の大祭の一つともいわれ、娯楽のなかった時代、昭和の頃までは、近郷近在の人たちにとっては最大の楽しみだった。小学校も臨時休校か早仕舞いになった。参道や境内には、家財道具から農機具、日用必需品の出店や露店の屋台が並び、サーカス、芝居、活動写真、見世物の小屋がかかって、境内は歩くこともできないほどの人出で賑わった。この年二回の「大宝マチ」の期間は、同時にそれぞれ市日として大市も開かれていた。むかし多賀谷氏が大宝八幡宮を深く信仰し、祭礼の八月十五日に領民を社頭に会し、流鏑馬の神事を催した際、領民が、作った物を並べて開いた市(いち)に由来するという。この地方では、祭りをマチと呼び、その際に開かれる市もまたマチと呼んでいた。要するに大宝マチというのは、大宝八幡宮の祭りと社前で開催される市とを意味していたのであるが、現在は時代も変わり、娯楽も商品流通も様変わりしてしまい、往時の市としての機能は自然消滅し、本来の大宝八幡宮の例祭だけを今も大宝マチと呼んでいる。
   (4) 主な年中祭事
社伝によれば、大正時代には、追儺式(旧正月四日)、陪従祭(旧二月初卯の日と十一月初卯の日に斎行。源頼朝が、鎌倉の鶴岡八幡宮に諸侯を陪従させて、参拝した故事にならって始めたものという)、お墓前祭(初代別当久仁法親王の墓前祭)、新嘗祭(十一月二十三日)など多くの祭事もあったが、現在、大宝八幡宮で斎行されている祭事は、次のとおりである。
※ タバンカ祭とは、夜七時から始まる松明祭のことで、全国でも当宮でしか見られない珍しい火祭りである。その起源は、応安三年(一三七〇)大宝寺別当坊の賢了院が出火した際に、畳と鍋ぶたを使って火を消し止めたという故事を戯曲化したのに始まる。
   奇祭神事「タバンカ祭」の概要
当宮の祭事の中でも特色のあるもので、九月十二日と十四日の二夜斎行される。日も暮れ、七時の太鼓の音によって祭りが幕を開ける。この祭りは別名「冬瓜まつり」とも呼ばれ、冬瓜(とうがん)を神前に献ずるが、祝詞奏上の後、御神前に巴型に並べられた畳の中央の鍋ぶたの上の素焼きの盃に御飯と冬瓜を一つずつ盛り付け、玉串拝礼の後、太鼓の音に乗って祭りの所役である白装束の氏子青年七名が、畳や鍋ぶたごとカワラケを拝殿前にほうり投げる。カワラケを拾った人は病気をしないといわれ、参詣の人々が競って拾い合う。次に拝殿前に備えられた二本の大松明(麦わら製)に点火し、勢いよく燃え上がる火を囲んで畳や鍋ぶたを力一杯石畳に叩きつける。この時に発するバタンバタンという音からタバンカの名が起こったという。この御神火で火を点けた松明を一束ずつ両手に持った所役二名が、振り回しながらかけまわる。それを四名の畳(一畳の四分の一)、一名の鍋ぶた所役が交互に火の粉を浴びながら追い掛けたり、逆に追われて逃げ回る。時として参詣の人が追われたりもする。これが終わり、畳、鍋ぶた所役は炎を上げて燃え盛る御神火を囲み、バタンバタンという音を響かせて叩きつけ、消火に努める様を演ずる。松明が燃えつき、祭りが終わるまでの約一時間は、社伝の八幡太鼓の音が鳴り響き、勇壮さをひき立てる。この松明の灯りをもって十二日には、境内末社、十四日には、本社と若宮八幡宮の御幣が新しくされる。
   特色ある「一つもの神事」の概要
奇祭「タバンカ祭」とともに、特色ある神事として、地元の伝承に基づいたという「一つもの神事」があり、九月十五日の例大祭の夜に、現在も行われている。一つ目のわら人形を馬に乗せ、注連たすきをかけた青年が、社殿を三周、手綱は世話人が取る。そして人形を大宝沼に流して終わる。昔、青龍権現に若い娘を人身御供(ひとみごくう)にする風習があった。ある時若い娘の代わりに一つ目のわら人形を作って差し出したら、恐ろしがって以後人身御供の要求は無くなった、という伝承による。近年は馬の代わりに青年が一つ目のわら人形を奉じ持って運んだが、今年からはまた本物の馬を使用して行えるよう準備している。「一つもの」の伝説については、次のように語り継がれている。「むかしむかし大宝沼に大きな白蛇が住んでいました。秋になると、白蛇が大宝近郊の家の屋根に白羽の矢を立てます。するとその家では、娘を白蛇に差し上げなければなりません。差し出さなければ、白蛇の怒りにふれ、大嵐大洪水が起こり、農作物が穫れなくなります。そこで、近郊の人々が集まって考えた末、一つ目のわら人形を作って白蛇に差し出しました。それを見た白蛇は、びっくりして大宝沼から姿を消してしまいました。その後は村々に豊かな稔りが続きました。」里人たちは、それを記念して旧八月十五日の夜に「一つもの神事」として行ったという。なお、白蛇の霊を祀った「青龍権現社」が、八幡宮境内に安置されている。 
■つくばみらい市
普門山禅福寺   つくばみらい市
「平将門故蹟考」に、北相馬郡筒戸村禪福寺の傍らに古き石の卒都婆あり文字なし相馬氏の墓標なりと傳ふ将門の母なりや否尚考ふへし又同寺に安置せる十一面観世音等身の木像は平将門渇仰する所なりと云えり寺領十三石八斗余の朱印ありたり(漢字を一部簡略)とあります。
現在、つくばみらい市となっていますが、元筑波郡谷和原村筒戸で、その又元は北相馬郡小絹村筒戸です。もっと前は、「守谷町の相馬領内にあった」ようです。
「禅福寺縁起」に「人皇六十一代朱雀院御宇相馬小十郎将門平親王承平元辛卯年成建立」とあるように931年、平将門が建立したと云われているようです。「相馬小十郎」は「相馬小次郎」の誤りだと思うのですが、参照した本の誤植か、「縁起」の誤りか、定かではありません。「将門傳説」には、同縁起を引いて「相馬小次郎」としています。
ともあれ、平将門と何らかの因縁のあるお寺でしょう。もう一つ、創立は上にあるように承平元年(931年)とされていますが、開山は貞和元年(1345年)と、かなり時が隔たっています。
本堂は新しく、コンクリート造です。近寄ってみると写真4のように紋は九曜星です。大きな丸の周囲に8つの丸が描かれる九曜紋は、羅喉星(らごうせい、大日如来)、土曜星(どようせい、千手観音)、水曜星(すいようせい、勢至菩薩)、金曜星(きんようせい、虚空蔵菩薩)、日曜星(にちようせい、不動明王)、火曜星(かようせい、八幡大菩薩)、計都星(けいとせい、地蔵菩薩)、月曜星(げつようせい、普賢菩薩)、木曜星(もくようせい、文殊菩薩)を表していると云います。
元々は曼荼羅を簡略化したようで、天地四方の守護仏神信仰と、星を崇拝する妙見信仰との関わりから多くの武士に用いられた紋だと云います。板東市(旧岩井市)にある国王神社でも同じ紋で、北極星(妙見菩薩)を加えて十曜星のところ、北極星は天帝であるからおそれおおいとして九曜にしたと云われているそうです(「関東中心平将門伝説の旅」)。
今のような意味での家紋かどうかはわかりませんが、将門の紋は「繋ぎ駒」であるとされ、ときに九曜星とともに語られます。いずれにせよ、妙見信仰周辺の伝説で、将門を祖先とするとされている相馬氏や千葉氏などにもこの九曜星紋(十から七まで含む)をもつ武将が多くいます。
そして、この紋が分布する地域の範囲と将門伝説分布範囲とは重なるところが多いとも云われています(「将門傳説」)。
将門がなぜ妙見信仰するようになったかは、「禅福寺縁起」のほか「源平闘諍録」にも見え千葉氏が伝承してきたといいますが、小さな子供が将門の合戦での窮地を救い(渡河地点の浅瀬を教えてくれたり、敵の矢を拾ってくれたり、将門が疲れると代わって射てくれたり、なかなか細々と働きます)名をたずねると妙見大菩薩であるといい、十一面観音の垂迹であると名乗ったという話です。以後、将門は信仰を深くするが、のちに妙見さんの方は、将門が奢ったとして離れていくのがあらすじです。
禅福寺には十一面観世音等身の木像があると云うことも、かなり強い将門伝説となる何かがあったことを想像させます。 
妙見八幡神社   つくばみらい市(元筑波郡谷和原村)筒戸
平良文建立と伝えられており、祭神は、妙見と八幡でなく妙見八幡大菩薩という独立した神として祀られています。御尊像は妙見様のようです。  
■取手市
桔梗塚(ききょうづか)   取手市米ノ井
関東鉄道常総線の稲戸井駅の間近、国道294号線沿いのバス停に生け垣で囲まれた場所がある。中を覗くと数多くの石塔が並んでいる。これが取手市にある桔梗塚である。
桔梗塚に葬られているのは、平将門の愛妾・桔梗御前とされる。ただしこの桔梗御前の存在は伝説上のものであって、史実としては不明な点が多い。むしろ桔梗御前に関する伝説は関東各地にあって、それぞれ独自の設定で語られていると言うべきである。最大公約数的な設定としては、平将門の愛妾であり、将門最大の秘密である“こめかみ”に関する情報を敵方に漏らしてしまったために死を迎えたとなるが、それすらも多少の異説があるともされる。
取手の桔梗御前の伝承は、この塚のそばにある竜禅寺に伝わるものである。桔梗御前は大須賀庄司武彦の娘とされ、将門の間には3人の子供がいたという。さらに薙刀の名手とされる。だが、戦勝祈願をした帰り道、この地で敵将の藤原秀郷に討ち果たされたのである。その後、この地は桔梗ヶ原と言われるようになり、このあたりに生える桔梗は花をつけないと言われている。
あるいは、図らずも将門の秘密であった“こめかみが動く者が本物の将門であって、他は影武者である”ことを敵方に漏らしてしまい、口封じのために藤原秀郷に討たれたともされる。いずれにせよ、この地が桔梗御前終焉の地ということになる。
ちなみに、桔梗の花が咲かないという伝説は、漢方薬として桔梗の根が使われることから、根が大きく育つように花が咲く前に摘み取ってしまうからだという説がある。 
親王山延命寺 1   取手市岡
延命寺のご本尊は、延命地蔵菩薩です。その昔、親王・平将門とその一門を供養する為に、この地に安置されました。鳥羽上皇の政務時代、紀州根来の地に覚鑁上人がいました。保安元年(1120)、覚鑁(かくばん)上人の夢枕に、錫杖を振り慣らした地蔵が「我を奉り、供養すれば将門とその一門を救済する」とお告げがあり、覚鑁上人はその地蔵を探すため下総国へ出向きました。地蔵は岡村にて発見し、覚鑁上人は一塚の上に地蔵を置き、一寺を建立されました。お寺は「親王山地蔵院延命密寺」と号し、庵主・覚如を初代山主に定めたのが延命寺の始まりといわれています。

台地の北側にある延命寺は、将門が信仰していた地蔵尊のお告げによって創建された、と伝えられています。山号は「親王山」。桓武天皇の血を引く家に生まれ、最後は自ら「新王」の位について敗れた将門にふさわしい山号です。
この寺の境内には「駒形様」と呼ばれる塚があります。将門が戦死したときに乗っていた馬を埋めたところと伝えられ、風邪をひいたときなどにお参りするとすぐ治るといわれて、信仰されてきたそうです。 
親王山延命寺 2
親王山地蔵院延命寺は茨城県取手市岡に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。延命寺の創建は、紀州根来にいたある僧が、霊夢で平将門が信仰していた地蔵尊が現れ当人が将門の縁者で将門縁の地に地蔵尊を祀ってほしいとの御告げがありこの地に創建されたと伝えられています。山号は将門が自ら「新王」を名乗った事に起因すると云われています。
延命寺の周囲には将門の史跡も多く、将門の墳墓と伝わる大日山古墳(茨城県指定史跡)や仏島山古墳(取手市指定史跡)、愛妾桔梗が住んだという朝日御殿跡などがあります。境内裏には将門の愛馬が埋められた塚があり「駒形様」と呼ばれ信仰の対象になっています。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が貴重な事から昭和53年(1978)に取手市指定有形文化財に指定されています。山号:親王山。真言宗豊山派。本尊:延命地蔵菩薩。 
竜禅寺三仏堂   取手市米ノ井
正面三間、側面三間で左右と背面に裳階(もこし)が付いています。三方に裳階が付く形式の建物は、他に例を見ません。屋根は寄棟造りで茅葺きです。内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には禅宗様の須弥壇が置かれ、三仏堂の名称の由来ともなった釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三体の仏像が安置されています。
昭和60年(1985)1月から61年10月にかけて解体修理が行なわれ、創建当初の姿に復原されました。この時に、永禄12年(1569)の墨書のある木札が発見され、この年代には三仏堂が建立されていたことが裏付けられ、さらに建物の様式などから16世紀前半の建立と推定されます。

竜禅寺(りゅうぜんじ)は茨城県南部、利根川にほど近い場所にある天台宗の寺です。釈迦(しゃか)、阿弥陀(あみだ)、弥勒(みろく)の三仏をまつっていることから「三仏堂」(さんぶつどう)の名が付くこのお堂は室町時代後期の建築であろうと言われ、堂内からは永禄12年(1569年)と記された木札が見つかっています。建造当時の部材が今でも良い状態で残されているということです。正面以外の屋根の下には、建物を取り囲むように細長い屋根付きの構造物がありますが、これを裳階(もこし)と言い、このように建物の三方にあるのは珍しいと言うことです。中国風の禅宗様と和様が混ざった様式、と言うことですが、どこにその特徴が見られるのかは、正直よくわかりません。 
高井城   取手市下高井字馬場
形態 平山城
築城年代は定かではない。
千葉氏の庶流である相馬氏の所領であり、その後、相馬氏の一族とみられる高井氏が居城としていたようである。相馬氏は古河公方に従っていたが、やがて小田原北条氏に従うようになり、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると、相馬氏もまた没落、高井氏も運命をともにしたと考えられている。
高井城は低湿地帯の台地の北端に築かれている。現在は主郭部が高井城址公園として整備されている。
主郭は広く土塁が巡って南に虎口を開く。虎口の先に案内板があり、そこから西へ伸びた道路に沿って空堀が残る。空堀の南の空き地には端に土塁があり曲輪であることがわかる。

長治元年(1104)に将門の後裔・信太小次郎重国が、常陸信太郡から来てこの城を築き相馬家を称し、天正年間(1573〜91)にその子孫が高井氏を称したという。  
■水戸市
愛宕館   水戸市   
(新治郡玉里村下玉里字平・愛宕神社周辺)
愛宕山古墳(頂上に愛宕神社が祭られている)を中心として館があったと伝えられている。南北朝時代延元元(1336)年、北朝方の佐竹義春軍と南朝方の春日顕国・楠正家(瓜連城主)が交戦した大枝(大井戸)の戦いの主戦場となり、愛宕神社も兵火に焼かれたと言う。
玉里村南端近くの愛宕神社周辺が館跡らしい。周囲は畑や墓地、そして正面には愛宕山古墳がある。古墳の頂上はたいして広くないのでここは郭としてよりも狼火台や物見台として使われたと思われる。
愛宕神社   水戸市愛宕山頂
[天慶元年に、常陸大掾平国香が京都の愛宕山から勧請せしもの。はじめ府中に置かれしも、のち長和三年大掾貞幹この地に移すという。]「茨城県市町村総覧」
平国香といえばご存じのように、承平5年(935年)に将門と戦って戦死した人です。川尻秋生先生の「戦争の日本史4 平将門の乱」に、「和漢合図抜粋」からとして[承平五年二月二日、常州石田館において、常陸大掾平国香、相馬小次郎将門と合戦す。時に国香討たれ畢(おわり)ぬ。]とあります。後々将門との因縁浅からぬ平貞盛の父です。
愛宕山古墳   水戸市愛宕町
那珂川を見下ろす台地上に立地し、那珂川流域における最大規模を有する前方後円墳です。墳丘全長は137m、後円部径78m。同全高10m余、前方部幅73m、同全高9mを測る典型的な中期古墳の様相を呈しています。かつて後円墳頂及び裾部において大形の円筒埴輪が発見され、3〜4列に及ぶ埴輪列が存したといわれています。考古学・古代史研究上重要な意義を持ち、地域社会の支配者として君臨した首長の墳墓であることが考えられます。古墳の営造年代は、5世紀前半におかれるものと思われます。 
中根寺   水戸市加倉井町
加倉井にあり、その創立は後堀河朝元仁中(1224年)、今を距てたること約800年前に文寛律師により開山され、行基菩薩の作と伝われている延命地蔵菩薩を本尊(別名意見地蔵)としている真言宗豊山派の古刹である。  
東光寺薬師堂及び厨子   水戸市大場町
年代 江戸時代
この堂は宝形造で、細部様式は禅宗様を基本としています。蟇股(かえるまた)の背面に、享保5(1720)年の墨書があり、建築年代を知ることができます。
堂内の厨子については、様式から鎌倉時代頃の制作とも思われますが、調査により、天正7(1579)年に再建されたものであることが判明しています。この厨子内には、当寺の本尊である木造薬師如来坐像が安置されています。 
■結城市
結城廃寺跡附結城八幡瓦窯跡   結城市上山川字古屋敷乙ほか
結城廃寺跡は、上山川・矢畑地内、鬼怒川の右岸台地上に八世紀前半の奈良時代のはじめに建てられ、室町時代の中頃まで、約700年間続いた大きな寺院の跡です。現在、その面影は残されていませんが、「結城寺北」や「結城寺前」などの地名が、かつてこの地に結城寺があったことを物語っています。
発掘調査により、回廊跡の内側から西に金堂跡、東に塔跡が見つかり、「法起寺式伽藍配置」とよばれる建物の配置であることが判りました。さらに、数多くのせん仏や、五弁の蓮華文が描かれた塔心礎の舎利孔石蓋、たる先瓦など、貴重な遺物が数多く出土しています。これらの出土品から、非常に畿内色が強い寺院であることが窺えます。
また、「法成寺」とへら書きされた文字瓦があり、『将門記』にある結城郡法城寺にあたる可能性が高いことも指摘されています。
結城八幡瓦窯跡は結城廃寺跡北東500mにあり、奈良時代の結城廃寺の屋根に使う瓦を生産した登窯の跡で、これまでの調査で4基の窯跡が見つかっています。 
山川不動尊(大栄寺)   結城市山川新宿
京都の東寺にあったものを、平将門が守本尊として関東に持ち帰ったもので、弘法大師の作と云われている。毎月28日の縁日では、多くの出店と人出で賑わう。
山川不動尊とは、真言宗豊山派 明王山不動院大栄寺が正式な名前で大栄寺の本尊が山川不動尊(不動明王坐像)。平将門公の守り本尊、不動明王坐像は収蔵庫の方に保管されています。弘法大師作で京都の東寺より将門公が持ち帰ったものということです。
このお不動様をもって綾戸城にひそんでいた将門公の家臣・坂田蔵人時幸は、敵の軍勢の前に苦境にたたされ山川沼に逃れて一心にお不動様に祈ると突然の暴風雨に敵も見方も沼に沈んでしまったということです。その後、お不動様が漁師の網にかかり引き上げられ仮に安置されていて、その後大栄寺に祀られたと言うことです。 
結城寺   結城市山川新宿
西暦681年祚蓮律師(それんりっし)により開山と伝えられています。新義真言宗清浄蓮華山結城寺(しんぎしんごんしゅうしょうじょうれんげさんゆうきじ)と号します。
結城寺の歴史は、奈良時代に上山川で建立され、古代から中世にかけて関東地方有数の大寺院としてしられ十世紀前半の「平門記」にあらわれる「結城郡法城寺(法成寺)とされています。鎌倉時代には、結城氏、山川氏の援助を受け栄えましたが、室町時代の結城合戦(西暦1441年)で上杉方の攻撃で、炎上焼失したと伝えられています。
焼失後は、西暦1565年頃に、結城氏の一族山川綾戸城主、山川氏重らによって山川新宿に結城寺として再興されました。 
結城諏訪神社 1   結城市上山川
諏訪神社は茨城県西、栃木県との県境に位置する結城市上山川に 鎮座し ております。創建は天慶三年(940年)この地方において平将門が反乱を起こした事に始まります。
毎年4月3日の神武祭(神武天皇の命日)の時には太々神楽が奉納されます。諏訪神社の太々神楽は茨城県内でも珍しい無形民俗文化財に指定されており毎年多くの方が参拝に訪れます。
御祭神 建御名方命 / 事代主命 / 八坂刀女命
御神徳 藤原秀郷(俵藤太)が平将門討伐の為 創建し、祈願を果たした事から、勝負事・諸難突破として信仰を集めている。
御由緒 創建は天慶三年(940年)、当時新皇を名乗り関東独立の反乱を起こした平将門に対して、藤原秀郷に将門を討つべしとの宣旨が下った。そこで将門打倒の戦勝祈願のために、信濃諏訪大社よ り諏訪大明神を勧請した事が始まりである。 秀郷は当地に陣を張り、敵地の方角へ向けて鏑矢を放ち戦勝を願った。同年2月14日の戦で将門は討ち死にし、乱は鎮圧された。反乱鎮圧の功績により下総、下野両国の守護職となった秀郷は諏訪大明神に戦勝を謝して所持の鏑矢を奉納し、神田等を数多く寄進した。  
結城諏訪神社 2   
上山川諏訪神社とも。通称は諏訪神社。
旧下総国結城の城下町であった結城市に位置する。結城氏の祖とされる藤原秀郷が造営したとされる。 毎年4月3日に行われる祭事において奉納される太々神楽(だいだいかぐら)は茨城県指定文化財(無形民俗文化財)に指定されている。
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) / 八坂刀売神(やさかとめのかみ)-- 建御名方神の妃神。
940年(天慶3年)に藤原秀郷が朱雀天皇に平将門の討伐を命じられた(平将門の乱)際に、諏訪明神に戦勝祈願を行った。 戦勝後、勝利を感謝した秀郷が祈願をした地に諏訪神社を造営したとされる。 後に秀郷の末裔である小山氏、結城氏、山川氏などによって祀られた。なかでも山川綾戸城を居城とする山川氏では歴代の鎮守神として祀られた。
本殿
本殿は室町時代に再建された高さ5.4メートルの木造神社流造の建物で、上山川諏訪神社本殿とも呼ばれる。1737年(元文2年)にも改修された記録が残っている。1974年(昭和49年)12月27日に結城市指定文化財に指定された。
鉄鏃
鉄鏃(てつぞく)は創建時に藤原秀郷が奉納したとされる鉄製の鏃(やじり)。神社造営の由来ともなった戦勝祈願で弓引きを行った際に使用したと伝えられている。1974年(昭和49年)12月27日に結城市指定文化財に指定された。
上山川諏訪神社太々神楽
上山川諏訪神社太々神楽(かみやまかわすわじんじゃだいだいかぐら)は十二座の舞から構成されている神楽であり、毎年4月3日に行われる例祭において、神楽殿で奉納されている。 はっきりとした起源は不明だが、神楽面の裏面に「安永九年播州求之」と墨書が残されており、江戸時代中期に神楽が始まったと考えられている。 この太々神楽は出雲系神楽といわれており、他の神社における太々神楽とも演目の共通点が見られるが、他の太々神楽との大きな差異としては、七座、十二座では餅や菓子が撒かれるという点がある。 また、明治時代より半世襲的な伝承形態をとっている点、専業の神楽師として他の神社から神楽舞の依頼を受ける点なども上山川諏訪神社太々神楽の特徴である。 
鷲神社(わしじんじゃ)   結城市粕礼
粕礼の鷲神社天日鷲命を祭神としており、天慶年間には、藤原秀郷が平将門征伐の戦勝祈願のため、武州太田の鷲大明神を分社創建されたものと伝えられている。元亀年間には、山川讃岐守景貞が造営し、山川庄の総社としている。
祭神は天日鷲命で、非常に長い歴史を誇る神社。939年、平将門征伐の際、藤原秀郷が戦勝祈願のため、武州太田の鷲大明神を分社し創建したと伝えられている。1570年には山川庄の惣社となり、本殿、拝殿、神楽殿が造営された。
鷲明神と七色の沼   結城郡八千代町
山川沼の東北になる粕礼。天日鷲命を祀る鷲明神には、山川沼の大蛇が臍の宮あたりに落としたという尻尾が今も蔵されている。忌部の祖が安房から坂東へ進み、穀木(ゆうき)を植えていったので結城というという。この鷲明神にあった池には、また不思議な言い伝えがある。
昔、酉の日のこと。あるおばあさんが鷲明神に参ると、池の水が瑠璃色に光り、少しずつ色を変えて群青色に染まった。さらも朱色や橙色と、水の色が変わることに驚いたおばあさんは、村の人にこれを知らせた。ところが、後日押し寄せた村の人たちには、全く池の色に変化は見られないのだった。
池の色が七色に変わるなどあるものか、と嘘吐き呼ばわりされて、おばあさんは腹が立ち、来る日も来る日も鷲明神に通ってじーっと池をのぞき続けた。すると、また酉の日に池の水は七色に変わるのだった。すぐにおばあさんは村の衆を連れて来て、この様を見せ、目の当たりにした皆もこの不思議を知ったという。
簀の子橋と臍の宮   結城郡八千代町
昔、山川沼に大蛇の主がおり、のんびりと不自由なく暮らしていた。ところが、沼が干拓されるという話を聞き、離れなければならなくなった。大蛇はあちらこちらと新しい住みかを探し回るも見つからず、毎晩くたくたになって山川沼に帰ってくるのだった。
そんなある晩、村の男が沼のほとりを通ると、見慣れぬ橋があった。ちょうどよい場所に橋ができてありがたい、と男は渡って帰ったが、翌朝行ってみると橋などなかった。周り一面には大蛇のものと思われる大きな鱗が落ちており、男は仰天した。今そこに簀の子橋という橋があるが、「すのこ」とは「うろこ」が訛った言葉だと土地では伝えられている。
また、鬼怒川が大洪水になったとき、たまたまそちらに出かけていた大蛇の主が、その流れにもみくちゃにされて疲れ果てて帰ってきたこともある。大蛇は簀の子橋に鎌首を乗せて眠り込んでしまい、その体は臍まで一、二キロメートルもあったという。この時大蛇の臍のあった所が、臍の宮という名で呼ばれることになった。
ところで簀の子の橋には次のような話もある。この橋の上を葬列が通ると明神様(頭を乗せていた大蛇)が怒って祟るというので、山川沼周辺の村では葬列は簀の子橋を通さず、難儀な迂回をしていた。そこにひとりの法師が通りかかり、橋のたもとで右往左往している葬列を見て不思議に思い訳を尋ねた。
村人が事情を話すと、法師は考え、次のように話した。大蛇が祟るというのなら、首を乗せていた簀の子橋に触れないようにすればよい、筵などを橋に敷き詰め、その上を歩けばよいだろう、と。村人たちはそのようにし、以降これを聞いた近隣の村々の人たちも倣うようになった。今では、筵の代わりに藁を敷きつめて簀の子橋の上を渡るようになったという。
大日向神社の大蛇   群馬県甘楽郡南牧村
大日向神社の御神体は、諏訪湖の大蛇の尻尾だという。尻尾を拾ってきて御神体と祀った。神社周辺は雨沢というが、この地区は不思議と跡取りの男の子が生まれない。生まれても死んでしまい、婿取りのところが多い。
それは、大蛇の尻尾が御神体だから、家の系統が切れるのだ、という。また、大日向神社を拝むと、片目が小さくなるともいう。自分もそうだが、この村にはそういう人が多い。これには次のような話がある。御神体の大蛇の尻尾に、たまたま目玉ができたのだという。神様となったから。
石垣が崩れたので修理しようとして、大きなかなてこを差し込み、ひとつの石をこじったところ、その下に大蛇がいて、一方の目をつぶしてしまった。そのために大日向の人は片目が小さいと。そういう言い伝えがある。
底見ずの池   千葉県柏市
船戸代官所に近い、うっそうとした不動明王の森に、水がれを知らない池があり、村人は底見ずの池と呼んでいた。昔、二人の村人が夜遅くに近くを通ったところ、池のほうから音がし、ぼうっと光るものが見える。
怖々と池に近づいてみると、驚いたことに、金色の鱗を輝かせた大蛇が戯れており、池の水も七色に変わりきらめいていたのであった。この話はすぐ評判になったが、大蛇は印旛沼の主が底見ずの池の主を見初めて通ってきたのだ、などと言われた。
今はもう池もないが、道路脇に、蛇が巻き付いた姿を刻んだ石が立てられている。明治のころには、目や鱗に金箔が塗られていて、これが水に映って子供心に怖かったものだ、という。 
山川綾戸城跡   結城市山川新宿
山川綾戸城跡山川氏の居城として山川不動尊付近に築城される。天慶の乱の時には、平将門が砦を構えたという説もある。城は平城で堀、土塁及び山川沼に囲まれていた。

山川綾戸城は山川晴重の居城として知られています。「関ケ原の戦い」後の1601年(慶長6年)、山川氏は結城秀康の越前移封に伴って移り、一時期天領となりましたが、その後は松平定綱、水野忠元が入封して下総山川藩の藩庁として使用されました。水野氏の転封後、再度天領となり、幕末まで代官が置かれていました。現地の遺構はほぼ消失していますが、三の丸の土塁や堀の一部を確認することができ、案内板が建てられています。

山川綾戸城は、もともとは結城城の支城として築かれたものであると思われる。平将門の築城伝説もあるが、平将門関連の他の城と同様にそれは伝説の域を出るものではない。寛元元年(1243)に、結城朝光の3男五郎(大夫判官)重光が父からこの地を譲られて山川荘地頭となり、山川綾戸城に入城したというのが実質的な城の始まりであったろう。その後も代々結城城の有力な支城として用いられてきたと考えられるが、大阪の陣の後、結城氏が越前に移ると、当地の結城氏もそれに従っていった。
しかしそれで廃城になったわけではなく、その後も綾戸城は近世初期までは城として用いられ、伊東備前守、松平越中守、水野監物、太田備中守と城主はめまぐるしく替わったが、寛永16年(1639)に太田氏が遠州掛川に転封した後には廃城となった。後に正徳元年(1711)、鳥居伊賀守が壬生藩主となり山川を領した際には、この城跡に代官役所を設けたので御陣屋とよばれていたという。この御陣屋は幕末まで続いたが、明治維新後に廃止されることとなる。
また、城址の北西500mほどの所に水野家の歴代の墓所がある。その中に水野忠邦の墓もあるのだが、天保の改革で有名な水野忠邦の墓がここにあるというのも意外な気がする。水野忠邦は肥前唐津や遠州浜松の藩主だったからである。水野氏が山川3万5千石の大名となっていたのは江戸時代のごく初期の頃のことであるが、水野氏はそのことを栄誉と感じ、国替えになった後も当地に万松寺を建立して菩提寺としていたという。そのため墓所がここにあるというわけである。万松寺は1855年の火災によって焼失してしまったが、墓所だけがポツンと畑の中に残されているのであった。 
結城城   結城市結城
室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。
小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。
その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった
文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。
小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。
廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。
元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。
戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。  
■龍ヶ崎市
安楽寺   龍ヶ崎市川原代町
安楽寺は茨城県龍ケ崎市川原代町に境内を構えている天台宗の寺院です。安楽寺の創建は平安時代に平国香の子貞盛が開いたと伝えられる寺院で、境内は承平5年(935)に平将門と国香が戦った藤代川合戦の古戦場だった推測されています。安楽寺の境内周辺には平国香の墓碑とも供養塔とも云われる宝筐印塔があり興味深いところです。天正16年(1588)には多賀谷政経と岡見宗治が合戦となり、敗れた岡見宗治は安楽寺に逃れ、裏門から舟に乗り落ち延びたと伝えられ、安楽寺も兵火により多くの堂宇や寺宝、記録などが焼失しています。
安楽寺の寺宝である鰐口は南北朝時代の制作され文和2年(1353)に大勧進沙門が賢海法印(天台宗の高僧)が安楽寺に来住されたのを記念して納めたもので、詳細が左右に彫銘に記されています(右「総州相馬郡河原代安楽寺鰐口也・天台堅者賢海法印住之砌」・左「文和二年癸己六月十九日大勧進沙門榮金」)。安楽寺鰐口は昭和33年(1958)に茨城県指定重要文化財に指定されています。山号:恵雲山。院号:蓮華院。宗派:天台宗。 
星宮神社   龍ヶ崎市若柴町
若柴町の金竜寺の近くに、星宮神社(ほしのみやじんじゃ)はあります。星宮というロマンチックな名にはこんな由来があります。
「この社の祭神天御中主大神は、天地が創造されたときに、最初に高天原に現れた造化三神の元首で、高天原即ち天の真中に座し、神徳あまねく、宇宙主宰、無始無終、全知全能の創造主である。天の真中とは北斗七星(北極星)と考えられ、星宮神社の所以である。延長2年(924年)、肥後の国八代郡八代の神社から分霊勧請して祀った」(社伝)。
また、「土浦城主・常陸大掾平貞盛が、この神の信仰厚く、天慶3年(940年)に社伝拝殿を建立し、寄進した」とも伝えられています。
現在の社殿は、江戸時代に全氏子によって再建され、平成元年に社殿の修理、拝殿の改築がなされています。 
■結城郡八千代町
御所神社   結城郡八千代町
御所神社は、平将門を御祭神として祀る神社で、将門の館跡(仁江戸の館)であったとの伝承があるらしい。「桔梗の前」という愛妾を住まわせていたと伝えられている様だ。しかし将門の居館として『将門記』に記載されているのは、鎌輪の宿と石井営所なので、実際に仁江戸に館があったのかは不明。居館ではなく、将門によって郷村統治の為の陣屋が置かれた可能性もあるだろう。また一説には堀田道光と言う人の居館であったともされるが、堀田氏の事績も不明である。いずれにしても「御所」の名が示す通り、将門伝説を語り伝える地の一つであることは間違いない。 
尾崎前山遺跡製鉄炉跡地   結城郡八千代町尾崎
尾崎前山遺跡製鉄炉跡地(おさきまえやまいせきせいてつろあとち)
尾崎前山遺跡は、昭和53年(1978)から55年にかけて発掘調査され、斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場、作業場などの施設が発見された。
また台地上からは竪穴住居跡や鍛冶工房跡も発見された。
当初、製鉄炉は住居跡や工房跡と同時期の平安時代(9世紀頃)に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後、調査事例の増加に伴って研究が進展し、尾崎前山遺跡の製鉄炉跡は8世紀にさかのぼる箱型の炉であった可能性が指摘されている。 
鏡が池   結城郡八千代町菅ノ谷
むかし、新井の北西、九下田の川村と境を接するあたりには10アールほどの「鏡が池」と呼ばれる池がありました。周囲を老杉がおおい、昼なお暗い池を訪れる村人はほとんどおりませんでした。緑色の水をたたえた池は底なしのように深く、大蛇が住んでいるとさえうわさされていました。さて、承平天慶の乱で叔父の国香、源護の息子らに襲われた将門は、ようやくのことでこの鏡が池のほとりまで逃れてきました。しかし、森のまわりは敵がいまだ取り囲んでおり、たやすいことでは脱出できそうにありません。そこで将門は一計を案じました。将門にはいつも七人の影武者が付き従っていましたが、それぞれに命じて馬から池のほとりに降りさせました。そして鏡のように凪いだ池にめいめい自分の姿を映しださせ、それぞれを将門そっくりに変装させたのです。
まもなく味方でも全く見分けがつかないくらいに似た、七人の影武者ができあがりました。それを確かめると将門は再び馬にまたがり、敵が待ち受ける森の外へ飛び出しました。国香や護の子どもたちには誰が本物の将門か分かりません。そうこうしているうちに将門は無事自分の領地へ戻ることができました。
鏡が池にはこの他にも不思議な伝説が言い伝えられています。ある時ひとりの男が夕暮れ近い七つ(午後5時)すぎ、この池のほとりを通り過ぎようとしました。すると突然一陣の疾風が森を吹き抜けました。何事だと思い池の端で足を止めた男は、何気なく池をのぞきました。すると湖面には青白い月明かりに照らし出された大きな剣が一振り、白々と映っているではありませんか。それを目にした男は「ぎゃー」という叫び声をあげると、一目散に逃げ帰ったと言うことです。
またある時、やはりひとりの女がこの池のそばを通りがかりました。すでに鏡が池の不気味なうわさは耳にしていましたので、足早に通り過ぎようとしたところ、つい何気なく池の水面をのぞいてしまったのです。すると湖面にはなんと大きな鏡が映し出されていました。びっくり仰天した女はその場で腰を抜かし、へなへなと座り込んでしまいました。
こんな不思議な言い伝えが残っている鏡が池には、大正時代まで東岸に土塚がありました。その塚の頂には見ざる・聞かざる・言わざるの三猿の碑が建っていたそうですが、いつのまにかその塚もなくなり、砂利取り場や水田へと姿を変えました。そして今では辺り一帯は広々としたゴルフ場になっています。 
鹿嶋神社   結城郡八千代町野爪
鹿嶋神社は、平安時代大同元年(806年)に藤原音麿によって建立され、その後兵乱や災害の度に再建されてきた。現在の本殿は、室町時代永享年間(1429年〜1440年)の様式を基本とし、江戸時代天明3年(1783年)に当時の様式を取り入れて完成されたものである。
様式は一間社流造で、切妻芦茅葺(現在は銅板葺)、桁行・梁間・向拝各1間(東西6.9m、南北4.6m)高欄と脇障子附回縁のある総欅造の建造物である。 
舘澤天満宮   八千代町新地
「舘澤天満宮建築記念之碑
鎮座地  八千代町大字新地小字舘澤508八番地
祭神  菅原道眞公
由緒沿革 創立(1100年前頃) 高望王第五世の孫、平良文という位の高い方が、この地方を治める。後に村岡与五郎と改名。天慶二年(939)、陸奥守となり、鎮守府将軍を兼ねていた時に、澤の上に城郭をつくり舘澤といって、多勢の人々が出入りするようになった。その当時、崇拝されていた、菅原道眞公を祀ってた舘澤天満宮と稱して信仰させた。また、皮膚病の神として信仰され、山椒の樹を奉納する風習がある。
合祀 明治四十六年六月、鹿島、香取両神社合祀とする。」 
医王山善福院   猿島郡境町横塚
第五番札所 真言宗豊山派
ご詠歌 横塚と 聞けどすぐなる 道野辺(みちのべ)の 草木もなびく 法(のり)の御庭(みにわ)に
見はるかすというほど広々と視界が開ける長井戸沼干拓地の西側、宮戸川に架かる橋のほとりに善福寺がある。以前、善福寺はもっと沼寄りにあったが、長井戸沼土地改良事業が進むに従い、現在地に落ちついたという。
ご本尊は阿弥陀如来で、開山は平安時代の承平(承平1年・931年)のころ、と伝えられている。
第五札所の聖観音菩薩は漆箔が施され、あたたかい眼差し、優しくほほえまれるご尊顔は、今にも私たちに語りかけくださるような観音さまである。
境内に寛保三年(1743)と銘を刻む宝筐印塔が造立されている。この塔は亡くなられた方の菩提を弔うため「宝筐印陀羅尼」という経文を納めるものである。この塔にも竹筒に経文が納められている、と伝えられていた。それまで道路端に建っていた塔を、現在の所に移すために解体した折、いい伝え通りその経文があった、という。
山号の医王は病気を治して下さる薬師如来のことで、本堂に観音さまと並んで祀られている。当寺の薬師さまは六十年目の寅とら年どしの四月の初寅はつとらの日に開帳する、という秘仏で、その仕し来きりは地域の方々によってかたくなに守られている。  
石田館(平国香居館跡)   真壁郡明野町東石田
『新編常陸国誌』には「真壁郡東石田村矢田と、筑波郡大島村糸川との間にあり、東西大約三町、南北二町許、土塁断続して各所に存す、其大島村に属する地は、陸田にして、本村の部は水田たり、北方残隍あり、(中略)承平中平國香之に居る、五年乙未二月、平将門来り攻め、國香自殺して館廃す、といえり」と書かれている。
平国香の居館があった場所で、国香が野本合戦で将門に追い詰められて自殺した所といわれている。 
女の館   下館市
女方(おざかた)の女の館に住む桔梗の前を使い将門の影武者の秘密を知った藤原秀郷が、女方の地で将門を討つ物語。  
八坂神社   かすみがうら市西成井
祭神 須佐之男命 (素戔嗚尊)
939(天慶2)年の創建とされる。 毎年7月21日以降の土日曜日に行われる同神社の祇園祭には、「西成井のひょっとこ」として親しまれている かすみがうら市無形民俗文化財「成井囃子」が奉納される。 
平良兼館   真壁郡真壁町羽鳥字北坪
竜崖城とも。この城は十世紀、平将門の叔父にあたる平良兼の館と伝わっています。『将門記』には良兼の館が羽鳥にあったと記されており、その館がここで取り上げる山の上の城とされているのです。(中略)このように見てくると、この城は十世紀の館跡ではないことが分かってきます。造られた時期は、戦国盛期以降、それも関ヶ原合戦時点に、水戸方面と真壁地域を結ぶ戦略路を確保し、また真壁地域のどこへでも軍勢を押し出せるように、纏まった兵力が在陣する城だった可能性が考えられます。 
御出子城(おんでしじょう)   筑波郡谷和原村筒戸字御出子
この城は守谷の相馬領内にあって、相馬氏の城である。「将門はこの地の女性を寵愛し、一子をもうけて若松と名づく。立派な風采をしていたので「御出子」といった。これが地名になって「御出子」というようになった」という伝承が残っている。天正年間(1573〜1591)に相馬小三郎親胤が城を造り、御出子城といった。
「御出子の台地全体を昔から御出子城と言っている」と説明してくれた御出子在住の老人もいる。

将門とこの地の女性(車御前?土豪・中村庄司の娘)との子どもで、「若松」と名づけたという。その子は立派な風采をしていたので、将門の叔父の良文が「あぁ、御出子」といい、これが地名になったという伝承が残る。  
黒前神社   日立市十王町黒坂
竪破山(たつわれさん) / 久慈・多賀両郡の間にそびえる標高658mの山で、北の花園山、南の神峰山に連なり「花園花貫県立自然公園」に含まれます。慶長3年(1598)徳川氏が天下をとるまでは、常陸地方は佐竹氏が領有しており、830年頃から布教した仏教の山岳信仰の霊場のひとつでした。山内には、それら修験僧の墓が現存しています。この山は、大昔から「神の山」として崇められ山の名を「角枯山(つのかれやま)」といい、黒坂命が凱旋途中に病により亡くなった地であり、八幡太郎源義家が奥州征伐へ向かう時、戦勝祈願をした地という伝説を残しています。また、常陸国風土記では、黒坂命が土賊(洞窟を住処とする凶暴な者で罪もない人々を殺すなど悪行を重ねていた)を、野に生えていた茨棘(いばら〜とげのある低木で作った柵)で塞ぎ退治したことから「いばらき」の地名を残したと言われ、信仰と伝説の山とされています。登山道に点在する巨岩奇石は、水戸光圀翁により「三滝七奇石」としてその名がつけられています。登山道850m地点からは、ブナ原生林が育成するなど貴重な自然を残す山でもあります。
八幡太郎義家が、陸奥の蝦夷の乱を鎮めるため、竪破山に登り戦勝祈願した折り、大石の前庭に陣を引いて野宿した。義家は深い眠りの中で「黒坂命」と出合い、目が覚めると、一振りの黄金づくりの刀があった。その刀を振り下ろすと大石は、びしっびしっと不気味な音を発し真っ二つに割れた。一説にはこのことにより、「竪破」の名が起こったともされている。大きさは7m×6m、周囲約20m。
隠居した水戸光圀翁がこの山に登った折、「最も奇なり」と感銘し石の名をつける以前は「磐座(いわくら)」と言って、神の宿る石として、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上ることはできませんでした。
甲石並十二神将由来 / 甲石(かぶといし)はもと竪破和光(たつわれわこう)石という。この石の中に薬師如来がいて幾筋かの破れ目から知恵の光を出して参詣者の健康に力をあたえるといって病気平癒の為信仰され、近年は受験者が希望校に合格できるといって参詣する人もいます。正面の窟内には薬師如来の守護神の十二神将が祀られています。 
正宗寺(しょうじゅうじ)   常陸太田市増井町
正宗寺 萬秀山正法院と号する寺院で、延長元(923)年に平将門の父良将が創建。
創建当初は勝楽寺と号し、律宗で奉仕されていました。その後、貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を、暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き、同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。
勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えたが、正宗寺は佐竹氏の菩提所として、関東十刹の一つに挙げられるまでに繁栄。徳川の時代にも朱印100石を受け、12の末寺を有するまでになりました。境内は約5,300平方メートル、堂宇は本堂、庫裏、総門などを備えていたが、天保9(1838)年に総門の一部を残して焼失。現在の庫裏と本堂は、それぞれ天保10(1839)年と明治3(1870)年に再建されたものです。
寺伝では慈覚大師の作とあるが、様式から鎌倉時代に建造されたものとみられます。本尊の木造十一面観音菩薩坐像をはじめ、多くの寺宝が茨城県や常陸太田市の文化財に指定されており、境内には佐竹氏代々の墓と伝えられる宝篋印塔や、「助さん」のモデルとされる佐々宗淳の墓があります。  
 

 

 
■埼玉県

 

■入間市
三輪神社   入間市中神
祭神 大物主櫛甕玉命
相殿 宇賀彦命・宇賀姫命
境内社 神明神社・愛宕神社
三輪神社は、入間市中神にある三輪神社です。三輪神社の創建年代等は不詳ながら、かつて当地に翁と媼が住んでおり、琵琶を弾いていたことから、村人が彼らを国津神と唱え、当地を中神村と現社地辺りを比和野と呼ぶようになったといいます。藤原秀郷が承平6年(936)に当地を訪れた際に、比和大明神と称して社殿を建立、以後当地の領主より崇敬を受け、万治3年(1660)には三輪大明神を相殿に勧請し、社号を三輪大明神と改めたといいます。
三輪神社の由緒 1
(中神村) 三輪明神社
新久・根岸・中神三村の惣鎮守なり、往古は琵琶明神と唱へしが、萬治年中吉田家より命じて、今の如く改めし由、その所以はしらず、神司の説に當社は宇賀彦・宇賀姫の二神を合殿とし、琵琶明神とはいへりと、縁起に往昔老翁婆常に此地に来り、相共に琵琶を弾ぜしかば、村民共に是を國津神と呼べり、因て此村名を得たる由、又朱雀院の御宇承平六年鎮守府将軍秀郷、田獵の折から此地を過り、琵琶の音を聞、その所に至て見れば白髭の翁なり、秀郷怪みて問ひしに、吾等は宇賀彦・宇賀姫なり、豊熟を祈り民の安堵を護れるなりと云ひし故、秀郷新に此一宇を建立せりと云り、此社傳は取べき事に非れども、姑く其傳るままを記せり、神職枝久保近江慶安の頃より世々神職たりと云。
愛宕社
村内豊泉寺の持。
三輪神社の由緒 2
三輪神社 入間市中神三四五(中神字坂上)
桂荘一一ヵ村は、加治丘陵の南麓を流れる桂川(現霞川)に沿うように集落が分布し、これらを結ぶ通りは根通りと呼ばれ、川越と青梅を結ぶ御嶽道であった。
当地は、この旧桂荘の中央にあり、南北に細長く、北は丘陵となり、中程には集落、南には茶畑が広がる。さらに南の陸軍飛行場跡には開墾地として戦後他所から移り住む者が多かった。
当地には、古代、幾百歳という翁と媼が住んでおり、琵琶を弾いていたことから、村人がこれを敬い、国津神と唱えた。故に当地を中神村と呼び、現社地辺りを比和野というようになった。
その後、承平六年九月藤原秀郷が、この地に狩を催した折、琵琶の音を聞き、人を遣わし探させたところ、翁と媼であった。秀郷の問いに、翁は「宇賀彦宇賀姫也五穀守護としてここに遊べり」と答えた。これより当地に社を祀り、比和大明神と唱えたという。また、建久年中には金子十郎家忠の信仰が厚く、当社に武運長久を祈願した。文明四年、東国の大干ばつに際し、足利将軍源義政により住民に米銭が施された。この時、大破した当社は代官により補修された。次いで正保・慶安のころ、当社祠官枝窪家四代右京大夫藤原忠国は、当社の荒廃を憂え、時の県守の神保四郎右衛橘政利に計り、助成を受け、更に、新久・根岸・中神の三ヵ村の氏子二五名からも寄進を募り、万治二年二月に再興なった。翌三年二月、大和国三輪大明神を相殿に勧請し、社号を三輪大明神と改めた。現在、主祭神は大物主櫛甕玉命で、宇賀彦命・宇賀姫命を配祀する。
本殿裏にある朱塗りの社には神明神社と愛宕神社が祀られているが、これらは昔、中神の北にある共有林にあった愛宕神社と、その境内石宮であった神明神社を、大正元年の本殿新造に伴い、旧本殿を後方に下げて、この中に合祀した。また、現在、本殿は東を向いて建っているが、旧本殿は富士山を背に東北東を向いていたという。
祀職は、室町後期の枝窪大和守藤原義国を初代とする枝窪家が代々神職を務め、現在一六代目に当たる枝窪邦康が奉仕する。
枝窪家系図によると、初代義国が天文一二年一〇月に明神ノ内宮を納めたことが記されており、現在、本殿には、この時納められたと思われる腐朽した男女の神像を安置している。
また、初代義国が、大和から当地に下る時に守り本尊として持ってきたと伝えられる薬師三尊像が枝窪家邸内の一隅に祀られているが、近年までは同地にあった薬師堂に祀られていたものである。この薬師堂は一二日が縁日とされ、眼病などの平癒祈願の参拝も多かったという。そのころは、当地から青梅まで七つの薬師堂があったことから、七薬師として信仰を受けていた。
■加須市
加須千方神社   加須市中央
社号 千方神社
祭神 興玉命
境内社 八坂社、稲荷社、恵比須大黒神社、浅間
加須千方神社は、加須市中央にある千方神社です。加須千方神社の創建年代等は不詳ながら、藤原秀郷の六男で下野鎮守府将軍だった修理太夫千方を祀り、江戸期には加須村の鎮守社となっていました。明治5年村社に列格、明治7年稲荷・浅間・諏訪・八坂社を合祀、大正2年に千方社を千方神社に改称しています。
加須千方神社の由緒 1
(加須村)
千方社 村の鎮守なり、大聖院の持、下同じ、
諏訪二社 浅間社 稲荷社 八幡社 牛頭天王社
加須千方神社の由緒 2
千方神社 加須市中央二-五-二七(加須市字康良居)
千方神社の名は、その祭神である修理太夫千方(藤原秀郷の六男で鎮守府将軍。社伝によれば、この地方で仁政を行った功績を讃えて祀ったものという。)に由来するが、現在祭神は興玉命となっている。かつては千方社と称し、大聖院の持ちであったが、神仏分離によりその管掌を離れ、明治五年に村社となり、同七年には稲荷社・浅間社・諏訪社・八坂社を合祀している。大正二年五月二日に社名を現行の千方神社に改め、同年一〇月より着工した社殿改築工事も、同七年一一月に完成し、盛大に遷宮式が挙行された。
境内は加須駅近くの市街地にあり、一二九〇坪と広いことから、数年前から公園化が進められており、ベンチ・東屋・水飲み場なども設置され、市民の憩いの場となっている。
また、その一角には、昭和三一年市指定文化財となった「石敢當」と刻まれた石碑がある。石敢當は中国の習俗の伝播とされ、日本では、沖縄・九州地方に多く見られるが、関東地方では極めて珍しいものである。一般に石敢當は、道の突き当たりや、辻の一角に魔除けとして立てられるものであるが、当地においては、加須町の青縞取り引きの市の守護神として、文化一四年、当地の碩学穂積恭が五十市の村部の世話人と共に建立したものである。古くは加須本通りの北側に祀られていたが、昭和二九年当社境内に移された。
加須千方神社の由緒 3
当神社の創建年月日は明らかでない。社伝によれば下野鎮守府将軍修理太夫千方を祀ったと伝えられている。『風土記』によれば加須村の鎮守で、大聖院持ちとされている。
明治五年(一八七二)五月、神仏分離に伴う社格の制度化によって村社に列し、同七年中には、稲荷・浅間・諏訪・八坂(旧称牛頭天王社を改称したもの)の無格社を合祀している。大正二年(一九一三)五月二日には、千方社を千方神社に改称している。同年十月九日には、本殿・拝殿の改築許可を得て建築に着手、大正七年十一月二十九日には全設備の完成により盛大な遷宮式を挙行した。下って昭和六年(一九三一)九月十六日には、神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
■川越市
古尾谷八幡神社   川越市古谷本郷
社号 八幡神社  (旧県社)
祭神 品陀和気命・息長帯姫命・比売神
境内社 稲荷神社
古尾谷八幡神社は、川越市古谷本郷にある八幡神社です。古尾谷八幡神社は、慈覚大師が天長年間に巡錫した際灌頂院を創建、再訪の際に石清水八幡宮の分霊を祀り、貞観4年(863)当社を創建したといいます。源頼朝や、当地領主古尾谷氏など武家の崇敬を集め、天正19年(1591)には社領50石の御朱印状を拝領、古尾谷庄の総鎮守だったといいます。明治4年郷社に列格、大正4年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社を合祀、昭和4年県社に列格したといいます。
古尾谷八幡神社の由緒 1
(古谷本郷)八幡社
天正十九年社領五十石の御朱印を別當灌頂院に蔵せり、古尾谷庄に屬せる本郷上村・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高嶋・八ツ嶋・大久保・古市場・澁井十三村の惣鎮守なり、拝殿幣殿内陣皆銅瓦をもて作れり、神體は坐像束帶にして笏を持せり、本地佛は銕盤内に三尊の彌陀を鋳出せり、其さまいと古色なり、當社は元暦元年源頼朝勧請し玉へるよし、別當灌頂院に蔵せる元文の頃當院學頭眞純が書ける記録に、五十六代清和天皇貞観四年に八幡宇佐より移男山及至同朝に八幡與諏訪明神勧請武州古尾谷寛永十九壬午迄七百九十一年永禄六年に氏政氏康父子出馬此時大宮七社同古尾谷佐々目の兩八幡並水判土の堂を焼右八幡社頭勧請及焼失之略者依廣海記録中令筆記者者也とあり、もとより取べきことのみに非ざれども姑く其儘を記せり、さはあれ天正十九年の御朱印に寄進八幡宮武蔵國入間郡古尾谷内五十石如先規令寄附訖云々とあれば、先代より附せし地もありていと舊き鎮座なることはしるべし。
神寳
太刀一腰。中筑後守が所持の品なりといへば、この人の歿後にここへ納めしものなるべし、兼光の銘あり、真鍮をもてすべてのつくりをなせり、其さま天正年間の物ならんか、今は金具も大に破損し、古の形を失へり。
短刀。銘は兼景たり。
蚫貝。貝の中に天照太神の文字見ゆ、當社の寳物とす、傳を詳にせず。
楼門。爰に鐘をかく、正保年間の銘文にて少しく事歴にわたりたれば姑く左にのす(銘文省略)
末社。
辨天社、天満宮社、天照太神宮、春日、住吉、加茂、熊野、諏訪、鹿島、愛宕、稲荷、辨天、富士、第六天、天満宮、氷川、三島、伊豆権現、箱根、山王若宮、摩多羅神、新脛明神等二十一社合殿。其外東照宮をも御合殿として中に安じ奉。
太神宮 山王社 三峯社 元宮八幡宮 社家。押田多門。
古尾谷八幡神社の由緒 2
古尾谷八幡神社 川越市古谷本郷一四〇(古谷本郷字八幡脇)
当社は古尾谷荘一三カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。
社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。
元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。
正平七年に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を“瀬登の太刀”と名付け長男信秀に奉献させた。
下って永禄四年に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正五年二月資信は当社を再建した。
次いで天正一八年豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は五十石の社領を安堵される。
天保四年、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄一一年には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保七年、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。
明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治四年には川越県第五区の郷社、同五年には入間県の郷社となり、昭和四年には県社に昇格した。
大正四年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。
灌頂院   川越市古谷本郷
山号 寳聚山 院号 灌頂院 寺号 東漸寺
宗派 天台宗  本尊 阿弥陀如来像
天台宗寺院の灌頂院は、寳聚山東漸寺と号します。灌頂院は、天長年間(824-834)に慈覚大師が創建、鎌倉時代には源頼朝より寺領50石の寄附を受けていたといいます。天正19年(1591)には古尾谷八幡神社の別当寺として、50石の御朱印状を拝領、塔頭6ヶ寺、数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院です。
灌頂院の縁起
(古谷本郷)八幡社別當灌頂院
天台宗、上野國世良田長楽寺の末寳聚山東漸寺と號す、開山は聾義法印とのみ記しあり、境内の墓所に清海法印、延徳三年六月廿九日とえりたる碑あるは、世代の中なるべければ、當寺の開基の舊きこともしるべし、本尊彌陀を安す、往古鎌倉の時代は五十石の寄附のよし、天正十九年の御朱印を蔵せり、その文を左にのす(文省略)
塔頭
観音院。本尊と同じく寳聚山と號す、本尊千手観音恵心の作、立像三尺なるを安ず。
氷川天王相社。浅間社。堤上にあり、堤下にも下宮とて小社あり。
般若院。
寳塔院。本尊馬頭観音境内に正和五年十一月見ゆる碑あり、又外に断碑もあり。
神宮寺。本尊薬師、此堂の側にさしわたし十間許の塚あり、塚上に古松雑木生ひ茂れり、林塚と云、此邊に康正四年十一月と云石碑も見えたり。
大蔵寺。當寺は八幡の供所を兼、本尊は彌陀を安ず、ここにも天文など彫たる断碑あり、外にも断碑數片見ゆ、文字は見えず、當寺を村内にては大同寺と唱へ、大同年中の草創なりといへど、もとより信ずべきことにはあらず。
本行院。
以上六院の内、大蔵寺・神宮寺を除の外、残る四寺皆灌頂院の役僧なるものきたりすめるなり。
■鴻巣市
大野神社   鴻巣市大間
大野神社記
当社は元来氷川神社で祭神は須左之男命大國主命(大巳貴命)の二神でありました。第六十一代朱雀天皇(923−952)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。当時は梅本坊別当後本習院となり慶安5年享保6年天保9年と社殿の改修が行われたと伝えられております。
明治6年4月村社、明治8年拝殿建立、明治37年9月5日境内(現2500坪)が社地となりました。
明治40年5月8日大間地内の無格者”天満社、淺間社、八幡社、稲荷社、諏訪社”を合祀祭、7月18日大字北中野地内の無格者”津門社、天満社、須賀社、三峰社”を合祀、大間の(大)と中野の(野)をとって大野神社と社名を定め、明治41年4月記念の合祀祭が行われました。
明治44年1月7日神饌幣きん帛供進社に指定され神格神威益々高まり、敬神の心は深まり地区住民のみなさんの心のより所となりました。
大野神社 御由緒
御遠縁起(歴史)
「風土記稿」大間村の頃に 「氷川杜 村の鎮守なり、別当を本習院と云」 と載るように、当社は元来氷川神社と称していました。 それを大野神社と改称したのは、明治40年7月18日のことで、 同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものでありました。 この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔(こうえい)で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する 社記「大間氷川神縁起」に詳しく、 その要点をまとめると次のようになります。
当社は、天慶元年(938年)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕(つかう)が大巳貴命の託宣によってこの地に社(やしろ)を造営したことに始まるもので、長元3年(1030年)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったといいます。
また、神力によって、天永元年(1110年)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(1257年〜1259年)の干ばつには雨を降らせ、延元2年(1337年)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃しました。
社記の記述はここまでですが、その後、村の再興と供に神社も再建されたようであり、「明細帳」には天保年中(1830年から1844年)及び明治5年には社殿が老朽化したため、再建が行われました。  
伝源経基館跡(でんみなもとのつねもとやかたあと)   鴻巣市大間字原
埼玉県鴻巣市に築かれていた武家館。通称・城山(箕田城、大間城と呼ばれる事もある)。平安時代中期に源経基が武蔵介として坂東に赴いた時に館としたと伝えられる。
東西約95m、南北約85m、高さは東側が高く約22mの城郭跡。西側を除く三方に土塁と空堀をめぐらし、西側は荒川の湿地帯として当時は城郭の際まで水があったと思われる。
1987年(昭和62年)、1995年から1996年(平成7、8年)に発掘調査が行われ、平成9年以降も調査を続行した。掘立柱建物跡の一部が発見されたが作られた時期を示す出土品は発見されず、平安時代の源経基館跡とするには問題が多く確定するには至っていない。
最終的な城作りは防衛重視に作られており室町から戦国期の、もっと規模の大きな城の一部であるとの説もあるが、周りからはそのような事を示す遺跡は発見されていない。
平成6年8月に土地の所有者から史跡公園として保存することを条件に9割近くが市に寄贈された。保存状態は良く今後の史跡整備事業と発掘調査が望まれる。
歴史
ここがいつ頃から伝源経基館跡と呼ばれるようになったかは不明だが、江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』(巻150足立郡之十六・大間村)による所が大きい。
『将門記』には足立郡司判官代の武蔵武芝と争った時に『源経基が妻子を連れ比企郡狹服山(ひきぐんさふくやま・さやきやま)に登っている』と記述があり、これを元にここが経基館跡であると考えられた。狹服山の所在地は古くから議論されてきた。比企郡は誤りで入間郡狭山であるとか、比企郡松山あたりだとか、あるいは大里郡三尻村少間山(さやまやま)などと推測されるも今だかつて確定はしていない。
■さいたま市
東浦和明神社   さいたま市緑区東浦和
社号 明神社  祭神 平将門公 境内社 神明社、稲荷社2社
東浦和明神社は、さいたま市緑区東浦和にある神社です。東浦和明神社の創建年代等は不詳ながら、(平将門の末裔に当たる)奥州相馬氏が祀った相馬の相馬小高神社(福島県相馬郡小高町鎮座)の分霊を勧請して創建、神明社と称していたものの、いつの頃からか明神社と称するようになったといいます。武蔵野線の開通に伴い、境内地に神明社と二社の稲荷社が昭和41年遷座しました。
東浦和明神社の由緒 1
(井沼方村)
稲荷社  神明社  熊野社  阿彌陀堂  地蔵堂  薬師堂
以上六宇村民の持、地蔵、薬師の二堂は今廢す。
東浦和明神社の由緒 2
明神社 浦和市井沼方三九〇(井沼方字馬堤)
平安中期の武将である平将門は相馬小次郎とも称した。下総を本拠として関東各地に勢力を伸張し、中央派遣の国司を次々に追放して一族を国司に任命し、自ら新皇と称して関東の自立を図った。『将門記』によると、将門は侠気に富む人物であり、皇胤の自覚をもちながら武芸によって身を立てようとしたつわものであったという。このような将門の行動は関東の民衆に大きな影響を与え、将門を英雄として仰ぐ気風は時とともに強まり、死後の霊魂説話や子孫説話も作られていった。
当社は平将門公を祀り、その創建は将門にかかわる伝説に基づいている。ある時、将門の家来が戦に敗れて落ち延び、この地の国谷家にしばらくの間かくまわれた。このような縁で、後に、将門の末裔に当たる奥州相馬氏が祀った相馬の相馬小高神社(福島県相馬郡小高町鎮座)から分霊を当地に勧請したという。
『明細帳』には「往古ハ神明社ト唱ヘシガ、イツノ頃カ明神社と改称ス」と載せられている。明治初年には無格社とされた。
昭和四十一年の武蔵野線開通に伴い、境内地に神明社と二社の稲荷社が移され、本殿も一〇メートルほど南東の現在地に引き移された。また、昭和六〇年に鳥居を再建し、同六十二年には本殿を再建し、更に翌六十三年には境内の神明社と二社の稲荷社を再建、本殿の覆屋を新築した。
■幸手市
八幡神社   幸手市木立
八幡様は鎌倉幕府を開いた源氏がその氏神として信仰したため、中世以降は戦の神として意識されました。この八幡神社も、永承六〜康平五年(1051〜62)の前九年の役の折に勧請されたと伝えられています。
境内には伊勢神宮参拝などの記念碑が三基、庚申塔が四基、さらに祠などがあります。これらの庚申塔のうち青面金剛を刻んだものに、「元禄壬申五年(1692)」と記されています。庚申塔は市内に約三○○基が現存しますが、その中でも初期の造立のものの一つです。
浄誓寺 1   幸手市神明内
浄土真宗東本願寺派 通光山浄誓寺
浄誓寺と将門の首塚
幸手市神明内一四六九
通光山浄誓寺と称し、浄土真宗の寺で、本尊は阿彌陀如来です。
境内に高さ三m程の塚があり、頂に風化した五輪塔が立っています。ここに、天慶三年(940)の天慶の乱で、平貞盛・藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死にした平将門の首が埋められたと伝えられており、市指定史跡となっています。
付近にも、将門の血が赤く木を染めたことからつけられた、赤木という地名もあり、将門に関するいわれが多く残っています。

この血の付いた木は何日経っても血の赤が褪せず、そればかりか衣冠束帯を纏った人が夜な夜な現れては付近を徘徊したことから、この木を御神体として将門公を祀り、赤木明神と称したと言う伝説も残っている。
浄誓寺 2
関東に覇を唱えた平将門であるが、その後人々がいかに慕っていたかを知る一つの目安に、将門に関する墓や塚が複数残されている点が挙げられるだろう。東京の大手町にある首塚が最も有名であるが、幸手市にも将門の首塚が存在する。
伝説によると、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手であり、ここで敗れて討ち死にしたのだという。そして首が埋められた場所が現在の首塚であるとされる。さらに一説によると、埋められた首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったとも言われている。
この浄誓寺の近くには、将門の血で染められた木があったことから“赤木”と付けられた地名など、将門にちなんだ伝承が残されている。
浄誓寺 3 
「平将門の首塚」の歴史
大字神明内の浄誓寺の本堂裏手には、高さ3メートルほどの塚が築かれています。これが市指定文化財(史跡)の「将門の首塚」です。
平将門は、10世紀前半(平安時代中期)にいわゆる「平将門の乱」を起こした人物です。この塚は、戦死した将門の首を愛馬がくわえてここに運び、村人か家来が埋めたものといわれ、その伝承を物語るかのように古い五輪塔が塚上に安置されています。
この塚の歴史を示す資料として、江戸時代の元禄16年(1703年)に、大名の水野隠岐守勝長の家老・水野織部が著わした『結城使行 全』(茨城県結城市発行)があります。
そこには、以下のように書かれています。
「ここ(上高野村)から一里(約4キロメートル)ほど東北の「しへ打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」(木立村のこと)と書くという」
この資料は、有名な赤穂浪士の討入りの翌年に書かれたものです。つまり、今から300年前、すでに将門の墓の情報が世間に知られていた事実を確認できるのです。
平安時代に生きた平将門と、幸手との具体的な関わりを示す史実は伝わっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に所属していました。いわば、同じ郡内で活躍した人物が将門であったということです。
一千年以上も前のことになりますが、「将門の首塚」から草深い平安時代の幸手の姿を想像してみてはいかがでしょう。  
宝聖寺   幸手市平須賀
大鱗山明王院宝聖寺 本尊 大日如来 真言宗豊山派
宝聖寺は1350年に総州葛飾郡現在地に光明山法身房として創建されました。1354年には法身山宝聖寺と改め、当時は76か寺の本山として栄えたようです。
1432年に山号を大鱗山と改め、これにより現在の大鱗山宝聖寺となりました。1520年に田宮の城主一色宮内少輔満兼の庶子宥位和尚が当時の住職となり、現存する1525年の直末帳(じきまつちょう)によると123か寺を統括したことが記録されています。江戸時代には御朱印十三石を賜ったようです。
熊野権現社   幸手市北
熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもある。もとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったという。
この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されている。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いている。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっている。
また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものである。
地名の由来
当社の創建は天正年間(1573〜92)と伝えられ、古くは熊野権現社と号した。順礼伝説の起こりである享和2年(1802)の大洪水により古記録等も流失し、現在の社殿は文政8年(1825)に再興されたものである。
「村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名起れりと云う」とあり、村内の権現三社を合祀した古い神社から「権現堂村」という名になったことが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」権現堂村の項に記されています。
■草加市
柿木女體神社   草加市柿木町
社号 女體神社  祭神 伊弉冉尊  旧村社
境内社 水神社、八幡社、小松社、稲荷社
柿木女體神社は、草加市柿木町にある女體神社です。柿木女體神社は、天正3年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされた城主豊田治親の夫人と子供が当地に土着、日頃信仰していた筑波の女体神社を当地に創祀したといいます。江戸時代には柿木村の鎮守社となっており、明治4年村社に列格していました。
柿木女體神社の由緒 1
(柿木村)女體社
村の鎮守なり、東漸院の持
末社。稲荷、龍王、八幡。
柿木女體神社の由緒 2
当社は、伊弉冉尊を祀り、柿木の鎮守として人々に厚く敬われてきた。
柿木は、中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承では、この土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。
豊田氏は、平将門の伯父国香を祖とし、下総国豊田荘の地頭を務め、のち石毛に本城を構えた。しかし、天正三年(一五七五)城主豊田治親が恒例の雷電神社参の時、下妻の多賀谷氏の侵略にあい、治親は討たれ本城も陥ちてしまった。
残された婦人と遺子は急変により石毛を捨て縁をたよってここ柿木まで落ちのび、この地を永世の地と定めたというのである。
豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。それによって分霊をこの地に勧請し創建されたのが当社であるといい、社殿も北方、筑波山に向けて建てられている。
柿木女體神社の由緒 3
女体神社 柿木町1732柿木字上手
柿木町の東を南流する中川(古利根川)は、近世以前は利根川本流で、武蔵国と下総国の境界をなしていた。同川河道に沿って自然堤防が発達し、その上を江戸下妻道が走る。
当社は、この江戸下妻道沿いに鎮座しており、近くの中川沿いには音店河岸跡がある。口碑によれば、木曾義仲を討伐のために豊田城から豊田某が差し遣わされ、その帰途に当地に土着した。その縁で、天正三年(一五七五)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされると、城主豊田治親の夫人と子供は従者を伴って当地に落ち延びて土着した。この豊田氏は、筑波の女体神社を信仰していたので筑波山の方角に向けて、女体社をこの地に祀ったという。
享保十九年(一七三四)には、神祇管領吉田家から正一位の神位に叙せられた。この時に拝受した「正一位女体権現幣帛」が本殿に奉安されている。
『風土記稿』柿木村の項には「女体社村の鎮守なり、東漸院の持、末社稲荷竜王八幡」と記されている。これに見える別当の真言宗東漸院は、下総国葛飾郡名都借村清滝院の末寺で、草創の年代は不明であるが、開山の定範が永正十三年(一五一六)四月十二日に弟子の良秀に与えた印信が残されている。神仏分離を経て、明治四年に村社となった。
■秩父市
岩崎神社 (いわさきじんじゃ)   秩父市吉田阿熊字松葉
当社は、城峰山にたてこもった平将門を滅ぼした藤原秀郷が、伊豆の三島神社を勧請したことに始まるといわれ、その社名については、秀郷が城峰山を射た矢が落ちた場所を意味する「矢崎(やさき)」が転訛して「岩崎」になったと伝えられています。氏子は明神様≠ニ呼びます。
御祭神 大山祇命・木花咲耶姫命・岩長姫命
女部田城   秩父市上吉田
女部田城は、かおる鉱泉の西側にそびえている比高180mほどの山稜上に築かれている。鋭くとがった山容で、いかにも城山らしい雰囲気がある。合角ダムから見ると、東側にそびえている山稜となる。
城に登るためには、南側の沢沿いの道を進んで行くのがよいと思う。地形図を見ると城の周囲の下部は岩場となっており登攀が難しそうだ。安全に城に行くためには沢沿いの道を進んで、いったん背後の尾根に出るしかないのである。
沢沿いの道の入口はこの地点である。ここから大波見集会所の上を通ってどんどん奥に進んで行くと、道は墓地の所で突き当たる。車はこの場所に停めておくことが可能である。
ここから墓地の右手を上がって行き、沢沿いに進んで行けば、何となく道が付けられている。とはいえ、あちこち崩落してしまっているようで、途中に道なき急斜面歩きを強いられる箇所もある。注意深く進んで行った方がよい。
こうしてひたすら沢沿いに歩いて行くと、ついに尾根下の部分に到達することができた。正面には最後の急斜面がそびえているが、注意深く登って行けば、尾根に到達することができる。
Aは、平場状の地形になっているので、「これがもう郭なのだろうか」と一瞬思ってしまったのだが、そうではなかった。Aの場所は、ちょっと削平すれば簡単に郭を造成できる地形でありながら削平はされておらず、尾根続きの側に堀切や切岸などの造作も見られない。ここは城外のようである。
Aを進んで行くと岩があり、その先が窪んだ地形になっていた。岩盤を利用した堀切のようである。さらにその先にも岩盤を利用した窪んだ地形があり、こちらも堀切である。ということで、尾根基部の側は二重堀切によって区画されている。ちなみにイノシシと遭遇したのはこの二重堀切のところである。それにしても四つ足の獣って、よくこんな急斜面を駆け下りていくことができるものだ。人間には無理である。
堀切から上がって行ったところが3郭であるが、あまり広い郭ではない。3郭から正面には1郭の城塁が見えていた。岩盤があちこちにむき出している険しい斜面である。これをよじ登って行く。
登って行ったところが、1郭であり、ここはしっかりと削平されていて、面積もそこそこ広い。この城の中心部は、1郭と、その先の尾根先端部にある2郭との2郭構造のものである。通常は先端部を1郭とすべきであると思うが、先端部は低い地形になっており、1郭との間に堀切などの障壁も構成されていない。ということからすると1の方が優位な郭であると考えられ、主郭は1であると見るべきである。
2郭もきれいに削平されており、建造物を幾棟も建てられるようなスペースがある。この先端近くには祠が祭られていた。
祠から先は比較的緩やかな尾根が続いていたので、この祠まで来るための参道が、北東側の尾根伝いにあるのかもしれない。だとしたら、その道を通って登ってくるのが一番簡単であるということになる。
女部田城は、小規模な山城であり、登るのもけっこう大変な城であるが、北条氏の史料にも登場してくる城ということなので、一度は訪れてみてもよい城である。
城峰山・石間城址   秩父市吉田石間
伝説 1
将門軍とともに城峰山に立て籠もった愛妾・桔梗の前は藤原秀郷の妹だった。桔梗の前は将門を裏切って、秀郷に将門の急所はこめかみだと密告した。秀郷軍は城峰山を包囲し、秀郷は将門のこめかみを射抜いた。将門は死ぬ間際に、「桔梗死ね、桔梗絶えろ」と叫んだ。以来、城峰山には桔梗の花は咲かなくなった。秩父小唄の一節に、「秋の七草、薄紫の 花の桔梗がなあ、そらしょ、なぜ足らぬ、城峰昔の物語、なあそれやれこの、そーらしょい」
伝説 2
将門は城峰山から山麓の太田部の豪族・新井氏のもとに逃げ込んだ。新井氏の娘の桔梗姫は琴や舞で将門をもてなした。噂を聞いた平貞盛は新井氏の館を取り囲んだ。桔梗姫は抜け道を使って将門を裏山の岩窟に隠した。貞盛は姫に将門の行方を問いただしたが、白状せず、「将門様はすでに万場(群馬県)に落ち延びました」と偽った。これを聞いた貞盛軍は一斉に万場の方へ去って行った。桔梗姫は貞盛軍からひどい仕打ちを受けたので、病に臥せってしまった。そして将門の看病むなしく姫は亡くなってしまった。以来、城峰山やそのあたりには桔梗の花は咲かなくなったという。
石間城址 1   
城峯山という山の名前は昔から気になっていた。城のある峰だから山城があったと考えるのは当然で資料を読み漁るのだが、平将門の弟御厨三郎将頼が築いたという伝承を載せているだけのものが多かった。遺構のない伝承だけの城ということで納得し記憶は薄れていった。
それからどれぐらいの歳月が流れただろうか。自分の友人が皆野町史を手掛かりに石間城には遺構が存在することを確認した。どうしても遺構を見たくなり初詣を兼ねて城峯山へ登った。町営バスを使い西門平停留所から城峯山の登山道を登る。鉄塔の建つ地点で朝食を取りつつ地図を見るとまだ半分ぐらいだった。こういうときにGPSがあると心強い。現在地と目標までの距離がわかると自分を勇気づけられる。鐘掛城で一服してから城峯山へと向かう。遠くに感じたが案外近かった。城峯山から見下ろす風景は最高だった。四方を遮るものがない風景は爽快だった。
石間城へと向かう途中で城峯神社に立ち寄り安全を祈願してから登った。細い尾根と岩場が続き落ちたら怪我どころか滑落死の危険があるので慎重に歩いた。堀切を越えてひと休みしたときに足が震えているのがよくわかった。へばりつくようにして天狗の物見岩に登り見渡す風景はこれ以上ないぐらい神々しい眺めだった。
石間城址 2
この「石間城」は阿賀地方第二の規模を持つ要害であるが、その現況は藪椿の群生に襲われて現況をカメラで捕らえる事は難しくなっている。現在では誰も登る人がいないのか、道筋を掴む事すら難しい。
それでも、古城址狂の執念か、狂気か、果敢にアタックしてみたが、重要な地域は藪椿の防御でその実態を説明する事が出来なかった。「残念!」
この城は、「道の駅・阿賀の里」の西側にある「石間館」の要害で、会津蘆名氏の重臣・小田切氏の要害として知られている。「越後の虎・上杉謙信」配下の猛将と知られる、大見安田氏と、菅名氏の領地と接しており、会津と越後領との境界を守る使命を任された重要な要塞群として機能していたものと思われる。
それにしても、「東蒲原郡史」はその遺構を見事に描いており、山城を熟知された方の作品であろう。この城への挑戦には、もう少し下調べをしてからの再挑戦が必要である。
石間城址 3
石間館跡のあるこの地域は、東に「上の沢川」、西に「下の沢川」の深い渓流に守られ、南側前面には大河・「阿賀野川」が流れる要害の地にある。石間集落の北側の丘上の、通称・「上城」と呼ばれる地域にあり、「磐越道」やその取付け道によって大分破壊されているが、学校跡地と言われる地域が主郭と思われ、西側の宅地との段差によってそれが想像できる。主郭の南側下には、広い付属曲輪跡が杉林の中にあり、西側にあった城戸口と思われる土塁は現在埋め立てられて駐車場となっている。更に麓から登って来る道の上には、犬走り状の腰曲輪の中に浅くなった横堀跡が認められ、麓方面から攻めて来る敵に対しての狙撃陣地としても機能していたのであろうか?
国道49号線脇にある、「道の駅・阿賀の里」の施設から見える北側の山に、この館の要害・「石間城跡」がある。三浦和田氏一族・佐原十郎義運の子孫、会津蘆名氏の重臣・小田切氏の居館で、阿賀地区で第二の規模を持つ「石間城」やその支城群を随えている。
石間城址 4
各地に将門伝説は残っていますが、ここ吉田町の城峰山の山頂付近にも残っています。それが、石間城です。下野 の藤原秀郷に追われた平将門が、ここ石間城に立てこもって戦ったが遂に落城、将門は城の裏にある岩穴に隠れて いた所を捕らえられたと言います。しかしその後、あちらこちらで将門そっくりの影武者が七人捕らえられました 。そこで秀郷は、将門の侍女である桔梗姫を捕らえて、『八人の首をはねる事もあるまい。』と問い詰めた所桔梗 姫が、『食事をする時、こめかみが一番良く動くのが、上様でございます。』と秀郷に教えたと言う。とうとう本 物の将門が見つかり、首をはねられる時に将門は、『桔梗あれども花咲くな。』と言い残したと言います。その事 からか、城峰山では桔梗の花が咲かないそうです。桔梗姫は後を追って亡くなったと言うのに。なお、お屋敷場と 言う所からは以前、刀片、鏡、釜などが見つかったと言います。頂上の展望台からは、関東平野が一望でき、近く には城峰神社があります。
城峰山
平将門伝説と一等三角点で知られる秩父・城峰山に行く。秩父鉄道皆野駅〜西門平〜鐘掛城跡〜石間峠〜城峰山〜城峰神社〜石間峠〜西門平〜皆野
西門平から小1時間で鐘掛城跡にでる。北側の景観が得られるとガイドブックにあったが、何も見えない。少し過ぎる所が開けている。20分ほど歩くと石間峠、峠まで車が通っている。少しのぼって城峰山頂。
360度の山並みが楽しめる。近くの山では、両神山、武甲山はくっきり。雲取山は雲に隠れている。城峰山山頂で食事休憩の後、城峰神社を尋ねる。ここは平将門を破った藤原秀郷の奉納した寺と伝えられる。
城峰神社から車道を歩き、石間峠に戻り、来た道を戻って西門平に到着。
城峯神社
城峯山頂(標高1,037メートル)のほど近くにあります。平将門伝説によると、城峯山は関東が一望できるこの地に城を築いたことから、その名前がついたといわれています。藤原秀郷が平将門を討ったのちに、城峯神社を建立したとされていますが、それよりも古くからお犬様がまつられており、火災、盗難、病気の守り神として信仰されています。
城峯神社   秩父市吉田石間
参道を抜けると城峯神社がある。
城峯神社は日本武尊が東征の折、山頂に大山祇命を祀ったのが始まりと伝えられている。明治維新まで、柚木氏邸内に社殿が設けられていたが、明治5年入間県のとき、現在の位置に遷宮され郷社に列せられた、そうだ。
もし、この地域に城峯神社参道のブログに書いたチンケなキャンプ場がなければ、本当に霊験あらたかな深い山中に鎮座する1000年前、平安時代の神社といえる神社である。
ところで社伝によれば、平安時代に反乱を起こした平将門(まさかど)とそ一党は、藤原の官軍に追われ、下総の国、今の千葉県に落ちのびたあと、秩父の山奥にある城峯山に城を築き、そこに立てこもったとされる。
その後、官軍、藤原秀郷(ひでさと)が城峯山にあった城を包囲、激戦の末、将門とその一族はこの地で討ち死にしたという。
そこで滅びた平将門と一族を鎮めるために、城峯神社がつくられたと言い伝えられている。
もっぱら、史書によれば平将門は下総の国(現在の千葉県)で討ち死にしたとされており、将門自身が秩父のこの地まで来たかどうかは不明だ。しかし、平将門の一族や縁者が秩父の地まで落ちのび、追って来た藤原官軍に滅ぼされたという記録があるというから、あながち神社の創建にまつわる話はいい加減なものではないようだ。
さらに以下のような伝説、秘話もある。

関八州を平定し、その後下総の野に敗れ、この山に城を築き、名を幡武山石間城と名付け、それまで石間ケ岳といっていたこの山に城ができると、里人も城峯山と呼ぶようになりました。そこで下野田(栃木県)の豪族、藤原秀郷が兵を引き連れ、今の吉田小学校の高台に陣を張り、にらみ合いになる。このころ、将門の愛妻、桔梗はときどき城を抜けて、いずれかに姿を消すのを知り、将門は桔梗が秀郷に内通したものと思い違い怒って桔梗を斬りすてました。無実の罪で斬られた桔梗の亡霊は落城後も消えず、秋の草花はかずかず咲くが、桔梗の花だけは今も見ることができません。
「秋の七草うすむらさきの花の桔梗がなぜたりぬ城峯昔の物語」(秩父小唄)

城峯神社の社の前には、2匹(頭)の狛犬がいる。しかし、どう見ても、ワン、犬ではない。池田は当初、コン、狐ではないかと言ったが、後で調べて見たら狛犬は、日本武尊にちなむ 山犬型の狛犬ならぬ狛狼(オオカミ)だそうである。ひょっとしたら、大神との語呂合わせでオオカミとなったのでは? などと思いを巡らす。
確かによく見ると、犬と言うより狼である! 狛狼はおそらく全国規模でもそれほど多くなく希有なものではないかと思う。
どうも椋神社の狛犬が城峯神社のオオカミと似ているので調べて見ると、椋神社の狛犬もオオカミだった。秩父にはオオカミを狛犬としているところがたくさんあるようなので、次回は秩父のオオカミ巡りをしてみたい。
一方、オオカミの石像の後ろに、下の写真にある猫の石像がひっそりと置かれていた。何と、誰がかけたのか、可愛らしいあぶちゃん(前掛け)をしているではないか。残念ながら、長い尻尾は途中で折れている。
それにしても、オオカミはまだしも、ネコにとって秩父の山奥の山頂近くは、寒すぎて可哀想ではないか(笑い)。下は台座を含めた写真である。
このネコについて池田が調べたところ以下のブログに行き着いた。
「目立たぬが特別の存在 / 城峯神社へは反対側の尾根を下る。こちらは日当たりのよい雑木林となっている。神社の奥社から天狗岩を往復してから神社へ。伝説の「将門隠れ岩」はうっかりパスしてしまった。鳥居前は平坦な広場で、左手に神楽殿やキャンプ場がある。神社の狛犬は強面の三峰系狼だ。狛犬のそばにあるものと思っていた猫の石像だが、付近を探しても見当たらず少しとまどう。社殿に戻ってみると、その左手前に目立たぬように鎮座していた。思ったより小さく紫の前垂れをかけており、特別な存在のようである。狛猫ではなく「お猫さま」 この置き場所が何となくしっくりこない、しかし特別扱いのような猫の石像のルーツとは? この猫、もとは城峯神社の別当寺だった長伝寺(旧吉田村石間)にいらっしゃった。長伝寺には平将門の守り本尊の十一面観音が安置されていて、その眷属である「お猫さま」を貸し出していたという(養蚕地帯なのでやはり鼠除けか)。長伝寺の十一面観音は明治元年に光明寺(旧吉田村沢戸)の観音堂に移された。廃寺となったためなのか、明治2(1869)年には「お猫さま」も城峯神社に安置された。それが今に伝わる狛猫だということになる。どおりで、ほかの狛犬と比べて小ぶりだ。貸し出すために人が担ぎ上げて移動できる程度の重量にしたのだろう。当初から猫の石像はひとつだったから、神社にあるからといって狛猫ではない。往時のように「お猫さま」と呼ぶべきなのだ。」
下は神楽殿。相当の時代物である。ぜひ、一度、池田の盟友でもある鵜澤久さんにこの舞台で能かお神楽をやってもらたいものだ。グーグルで検索していたら、この舞台で能が行われているところの写真もあった。
ところで、時代考証すれば、城峯神社に関わる藤原秀郷や平将門は、以下の紹介にあるように、平安時代中期に活躍した歴史的人物である。
となれば、城峯神社やそれにまつわる伝説は1000年以上の歴史があり、建築物の規模や華麗さは別として、宇治の平等院や平泉の中尊寺などとともに、関東における歴史上きわめて希有な存在であるものと思える。 とりわけ埼玉県内にあって、重要な存在といえるものであろう。 
その意味でも、安易に境内の隣にキャンプ場を設置したことは痛恨の極みと言わざるを得ない。
「藤原秀郷   平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒の家系も多い。秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮二荒山神社で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。」
「平将門   平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。」
「平将門の乱    10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉、あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は、935年(承平5)以来、常陸西部に館をもつ一族の平国香、平貞盛、良兼、良正らと合戦を繰り返していたが、939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い、国守藤原維幾らを捕らえた。この直接の原因としては、将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説と、国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説とが、ともに《将門記》にみえる。」
今回は行かなかったが、城峯神社近くには、将門の隠れ岩がある。まさに、平将門が追ってから逃れた場所なのだが、これが何と垂直に切り立った岩山の上にあり、下の看板にあるように、この隠れ岩への登頂は自己責任で! とある。実際、切り立った岩山を18mほどロッククライミングで登ったところに隠れ岩があるのだが、首の骨を折った青山としては、自重するしかない(笑い)。
「平将門の首塚   東京都千代田区にある平将門の首塚。平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。」  
大達原稲荷神社   秩父市大達原
この神社、かつては「将門八幡社」と呼ばれていたそうで、御祭神として平将門公が祀られているのです。
神社の由緒書き / 大達原の稲荷神社・・・将門(まさかど)八幡といって平将門没落の際、そのむすめが落ちのびてここに寺をつくり、又将門の霊を神としてまつった。その守り神として二社はまつられたが、結局庶民信仰のお稲荷さまが、いつのまにかおさかりを見るやうになり、四月二十日の例祭に各地からのお詣りが多い。・・・とのこと。
「新編武蔵風土記稿」には・・・往古、平将門この辺に行営ありて、連妃の居給いし所なるよし。その後武器を埋めて塚を築き・・・と記述があるそうです。
由緒書きにもあるように、かつてこの地に「円通寺」という寺がありました。
廃寺となって今は現存してませんが、承平二年(932)に将門公がこの地に「大達山円通寺」を創建したと言われています。天慶年中、将門公は大滝の城に差し向かい、武運を願って守り本尊の地蔵尊と、自ら刻んだ自身の甲冑像を、大悲の左右に納め一心に祈りを捧げたそうです。その甲斐があって、数度の勝利を収めることができたと伝えられています。
また一説には、天延二年(974)、将門の娘・如蔵尼が大滝村に来て一宇を建てて円通寺と名付け、父・将門の像を刻したともいわれています。
かつて観音堂には将門公の守り本尊である十一面観音と、将門公の甲冑像があったといわれています。将門公の甲冑像は現在の大陽寺にあり、畠山重忠像と呼ばれているとか…。
かつて円通寺の境内には「鎧塚」と呼ばれる塚があり、将門公の鎧、太刀、長刀を納めていたと伝えられていました。また、将門公の形像を納め、四十九人の妃を祀った「四十九前の宮」もあったといわれているのです。さらに将門公の愛妾・桔梗の前がこの地に逃れて来たとされ、屋敷があったという説もあるのです!
大血川(おおちがわ)   秩父市を流れる荒川支流
奥秩父山塊の一つである白岩山付近に源を発する。大血川渓流観光釣場などがある。流路延長は8.5キロメートルで、内埼玉県管理区間としての長さは5.4キロメートルである。また、彩の国クールスポット100選に選ばれている。荒川との合流点付近には石灰岩の鉱床がある。
伝承
「大血川」という名前の由来については平将門伝説に因むもので、2つの説がある。 一つは承平天慶の乱により平将門が討死した際に、大陽寺に隠れ住んでいた平将門の妻、桔梗と従者99人が川の源流付近で集団で自害したという説で、また、平将門が討死した際に自害ではなく、救いを求めて大陽寺に逃げ込む際に途中の大日向で追っ手の源経基らの襲撃に会い、打ち首にされたという説もある。いずれにせよその流血で川が七日七晩染まったことから大血川と呼ばれるようになったというものである。桔梗と従者99人を祀った九十九神社が大血川の傍らに建立されている。また、桔梗たちの墓といわれている桔梗塚も大血川地区の集落に残されている。
もう一つは自害ではなく、桔梗らは無事に大陽寺にたどり着き、そこで平和に暮らしたという説で、近傍にある川がまるで大蛇(おろち)のように見えたたことから「おろち川」と呼ばれ、そのおろち川が訛化して大血川となったというものである。なお、大血川には大蛇に関わる畠山重忠の出生伝説があり大陽寺で寺の大師と諏訪湖に棲む大蛇の化身である女性の間に生まれた嬰児を不浄に思い、近くの大血川に流した伝承が残されている。川に流された嬰児は現在の深谷市の畠山に流れ着き、そこで畠山庄司重能に拾われ、畠山重忠として育てられたと言われている。
九十九神社   秩父市
九十九(きゅうじゅうきゅう)神社は自害した平将門公の后・桔梗姫と侍女など99名の霊を祀る神社です。
下を流れる川が血で真っ赤になったと伝えられ、大血川となったと伝えられています。
圓通寺   秩父市荒川白久
自由山円通寺と称し、曹洞宗の寺院である。室町時代中期以前は清泉寺(秩父市下吉田)の末寺として、以後は広見寺(秩父市下宮地)の末寺となった。本尊は地蔵菩薩である。
シダレ桜が「エドヒガン」科で、上田野清雲寺の県天然記念物の桜の子を移し植えたものといわれる。開花は他の桜にさきがけて咲き、笠鉾のようにシダレた姿は優雅である。樹令約二百年、樹高十メートル、目通りの周囲が約二.五メートルほどである。
地蔵堂の地蔵尊は、将門が戦場に赴く際に、常に従者に背負わせて、身辺に安置していたと語り継がれてきたという。
若御子神社(わかみこ)   秩父市荒川上田野  
埼玉県秩父郡荒川村の山里に鎮座する古社です。創立は聖武天皇の御代、天平年間(730年代)ころに若御子山の頂に神武天皇が祀斎されたことが始まりと伝えられています。「若御子」の名の由来は祭神・神武天皇の別呼称、「若御毛沼命」からきているのではと言われています。
祭神にあやかって武将たちの尊崇が厚く、古くは藤原秀郷が平将門の乱の平定を祈願したと伝えられ、鎌倉幕府を開いた源頼朝や足利将軍義晴も参拝したと伝えられます。戦国時代、武田軍の兵火によって社殿と社宝は失われ、慶長年間に本殿が再建されました。
秩父地方に点在する狼神社と同様に、若御子神社の前にも狼型の狛犬が鎮座しています。残念ながら、祭神の神武天皇と狼の関係は詳らかではありません。
祭神 神武天皇
塚八幡社・大達原稲荷神社
1 将門と妃の居住地で、後に武器を埋めて塚を築き祠を建てたという。
2 将門没落の際、その娘が落ち延びて来て、将門の霊を神として祀った。
大達原の稲荷神社
同じ上舎(うわや)の中に八幡社稲荷社三宝荒神社三社が並びまつられている。
将門(まさかど)八幡といって、平将門没落の際、そのむすめが落ちのびてここに寺をつくり将門の霊を神としてまつった。その守り神として他の二社はまつられたが、結局庶民信仰のお稲荷さまが、いつのまにかおさかりを見るやうになり、四月二十日の例祭には各地からのお詣りが多い。当日演じられる、白久神楽は三峰神楽の原形といわれる。
恒持神社   秩父市
恒持神社は平家の祖・高望王の弟・恒望王が武蔵権守に補せられ、ここに官舎を置いたのが始まりだそうです。祭神は水の神。
秩父神社   秩父市
式内社、武蔵国四宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。秩父地方の総鎮守である。三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社。12月の例祭「秩父夜祭」で知られる。
荒川の河岸段丘上に広がる秩父市街地の中心部に鎮座している。崇神天皇の時代、初代の知知夫国造である知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が、祖神の八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったことに始まる。
武州六大明神に四宮として数えられ、武蔵総社六所宮の大國魂神社(東京都府中市)にも祀られている。大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)では、当社の神輿も巡行される。中世には妙見信仰と習合し、その後「秩父大宮妙見宮」として栄えた。江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、社殿には左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施された。
毎年12月に行われる例祭「秩父夜祭」は、ユネスコ無形文化遺産に登録されており、京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭及び日本三大美祭に数えられ、多くの観光客が訪れる。
祭神
八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと)
知知夫彦命 (ちちぶひこのみこと) - 八意思兼命の十世孫で、初代知々夫国造
天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) - 鎌倉時代に合祀
秩父宮雍仁親王 - 昭和天皇の弟。昭和28年に合祀
元々の祭神は八意思兼命と知知夫彦命ということになるが、これには諸説あり、八意思兼命・知知夫彦命のほか、思兼命の御子の天下春命、大己貴命、単に地方名を冠して「秩父大神」とする説などがある。
天之御中主神は明治の神仏分離のときに改められたもので、それ以前の神仏習合時代には妙見菩薩であった。鎌倉時代に近くに祀られていたものを合祀したものであるが、こちらの方が有名となり、江戸時代までは「秩父大宮妙見宮」と呼ばれていた。
歴史
当社の社殿と参道の南側延長線上に武甲山(時代によって武光山、秩父嶽、妙見山などとよばれる)があり、元々は武甲山を神奈備として遥拝する聖地であったと考えられている。
創建
『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、八意思金命の十世孫の知知夫彦命は崇神天皇(第10代天皇)の時代に初代知々夫国造に任命され、「大神を拝祠」したという。この「大神」は知知夫彦命の祖である八意思兼命をさすと考えられ、秩父神社ではこれをもって神社の創建としている。さらに允恭天皇年間に知知夫彦命の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれる。地域名の「秩父」の名を冠するが、「知知夫」から「秩父」に変わった時期は明らかではない。なお、「秩父」の初見は708年である。
古代から近世
律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していったものと思われる。これに代わって登場するのが妙見社である。
社記および『風土記稿』によれば、天慶年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。以来良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが秩父の妙見社の創成である。
その後良文は下総国に居を移した。下総での子孫が建立した千葉神社の祭神も妙見菩薩である。秩父に土着した子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。
鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀し、秩父三十四箇所の旧15番札所・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在で当社を管理した。以降神仏分離まで「妙見宮」として栄え、延喜式に記載の本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった。
江戸時代の絵図では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。神宮司社は式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、江戸中期の儒者である斉藤鶴磯は「武蔵野話」の中で、この神宮司社について「この神祇は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家を貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」と評している。
近代以降
明治の神仏分離により、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻した。鳥居の扁額では「知知夫神社」と表記されている。頒布されている護符などに現在も妙見信仰が遺されている。
1884年(明治17年)の秩父事件では、困民党軍が境内に集結した。
全国の一宮やそれに準ずる神社の祭神を祀る天神地祇社が摂末社にある関係で、全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」から、2006年に「知知夫国新一の宮」に認定された。 
定林寺   秩父市桜木町
山号 実正山 寺号 定林寺  宗派 曹洞宗
曹洞宗寺院の定林寺は、実正山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第17番観音で著名です。定林寺の創建年代等は不詳ながら、壬生の良門の家臣林太郎定元が主君の無道を諫めたところ、逆に追放されてしまい流浪、林太郎定元夫妻は当地で亡くり、孤児となった嬰児を養った沙門空照が哀れに思い、林太郎定元夫妻の菩提を弔うために一宇を建立、定林寺と号し、林寺と通称されるようになったといいます。
定林寺の縁起 1
(大宮郷)十七番觀音
秩父卅四番札所の内なり、宮地にあり、堂南向三間四面、本尊十一面觀音、木立像長一尺六寸、運慶作、此寺草創を尋るに、往古壬生の良門とて、東國に聞ふる剛強なる無慈の人あり、殺害せらるゝ者多く、臣民之を嘆きしに、家臣林太郎定元屡之を諫れども聴ず、流浪の後定元夫妻ともに没し、僅三歳の嬰兒孤となるを、沙門空照愍みて撫育し、因縁を聞きて良門感ずるの餘り、定元夫妻が菩提のため、彼塚の邊宮地の里に一宇を立て、定元が姓名を以て定林寺と號す、觀音の靈像は、後年大士の告によりて安置す、世俗林寺と云は、定元が姓氏なるを以ての故なり、詠歌に曰、あらましを思ひ定めし林寺、かね聞あへず夢そ覺ける、
別當定林寺 實正山と號す、除地一段三畝十四歩、園田筑前觸下諏訪社人丹生兵部持 札堂。千手觀音を安ず、諏訪社。神職丹生兵部
定林寺の縁起 2
市指定史跡 札所十七番 実正山定林寺
この札所は四間四面の簡素で均斉のとれた堂です。内陣は古風な阿弥陀堂のように念仏廻廊が回っています。
本尊は十一面観世音立像で、像高五五糎の寄木造り、願主武州国郡法印元暁の銘があり、文禄二年癸丑三月二十三日開眼の墨書があります。
梵鐘は、日本百番観音霊場の本尊とご詠歌を鋳出した珍しいもので、工芸品として昭和三十九年三月県指定の文化財になっております。
又、安政、明治の徳行家、井上如常の父青岳の描いた狩野風な絵の掲額もあります。
縁起には、壬生の良門の忠臣林太郎定元は、主の無道を諌めかえって家財を没収され、当地に来て没しました。その遺子空然はこの地に養われ成人の後、父の菩提のため当寺を建立したとあります。
昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定
比丘尼城   秩父市吉田石間
秩父の城館探訪の途中で友人が鋭利に尖がった山を指差して比丘尼城だということを教えてくれた。太陽も傾きかけて山城へ登るには遅い時間だった。ただ、時間がどうこうよりも山容を見てとても登れないと思った。山頂付近に人を寄せつけないような岩肌が露出している。おそらく技巧を凝らしたような遺構はないと直感した。
歴史は曖昧で平将門が隠れ住んだとか、婦人や女官たちが逃げ込んだという伝承が残る。城峯山にある石間城にいた尼僧がここで見張りを務めたという話もあり、それが比丘尼城の名前の由来なのだろう。石間城が落ちたときに比丘尼城へ逃れようとした落人たちが崖から落ちて死んだという悲しい話も伝わる。落城悲話に水を差すつもりはさらにないが、この城は戦乱の世に乱取りを避けるために村人たちが逃げ込む場所として築かれたのだろう。
自分が周りに比丘尼城を踏破した人が3人もいる。だから登って登れないこともないのだろうが、一歩間違えたら死ぬので自分は行けずにいるし、年齢を重ねすぎたこともあって登ることはないと思う。
椋神社(むくじんじゃ)   秩父市下吉田
御祭神は猿田彦大神・武甕槌命・天児屋根命・経津主命・比売神・応神天皇・外二十五柱。
「延喜式内 椋神社由緒記」 由緒
人皇十二代景行天皇御宇 日本武尊東夷征伐のとき 伊久良と言う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと言う 神殿は和銅三年芦田宿禰の孫造立すと言う 多治比真人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起元なり 清和天皇貞観十三年武蔵国従五位下椋神社に従五位上を授けらる 醍醐天皇延喜年間神名帳に記載せられ国幣の小社に列す 社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す 日本武尊五代の裔丹治家儀五代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と言う即ち六段田是なり その後、畠山重忠 太刀一口を献ず今遺存して神宝となす ・・・ 以下略 ・・・
椋神社の近くの吉田小学校がある所が鶴ヶ窪台地で、城峯山の平将門公を討伐するために、藤原秀郷がこの台地に城柵を構えたと言われています。
椋神社は明治時代の初めまで神田明神と関わりがあったそうです。慶長年間、椋神社の神主が江戸神田明神の鍵番を徳川家康より仰せつかり、以後、九月十五日の祭礼には必ず出府したそうです。

ここから城峯山が正面に見えますけど、平将門が城峯山に籠った際、藤原秀郷がこの地に陣を張ったと言われています。秀郷がこちらの神社で戦勝祈願したとも言われています。
境内に、『藤原秀郷霊神』という小さい祠があります。藤原秀郷の霊を祀っていると伝えられています。言われないと気付かないような小さい祠ですが…。
子(ね)の神の滝   秩父市  
子の神の滝は、秩父盆地にある滝としては規模も大きく、高さ・幅ともに約13mあります。滝頭はおよそ1500万年前(新生代第三紀中新生)の古秩父湾の海底に推積した砂質泥岩(子ノ神砂岩層)が露出しているものです。この場所は海棲貝類化石などが多く発掘されることで古くから知られています。
聖神社(ひじりじんじゃ)   秩父市黒谷
秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える簑山から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされる。旧村社。
祭神
金山彦命、国常立尊、大日孁貴尊(天照大神)、神日本磐余彦命(神武天皇)の4柱に元明金命(げんめいかがねのみこと。元明天皇)を合祀する。
なお、境内石碑には『…当社はこの歴史的由緒ある「自然銅を主神」として祀り、更に金山彦命、元明金命を合祀し…』たとある。
和同開珎ゆかりの神社ということから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろうという参拝者も多い。
由緒
第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年正月11日に郡司を通じて朝廷に献上、喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させた、その発見地は当神社周辺であると伝える。
社伝によれば、当地では自然銅の発見を祈念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀った。
銅の献上を受けた朝廷も銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣、共に盛大な祝典を挙げた後の和銅元年2月13日に清浄な地であると現社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊(以下、自然銅を「和銅」と記す)を内陣に安置し金山彦命と国常立尊、大日孁貴尊、神日本磐余彦命の4柱を神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めたのが創祀で、後に元明天皇を元明金命として合祀し「父母惣社」と称したという。
なお、『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を怖れて寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管され、昭和28年(1953年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭により神社の宝蔵庫に移還されたが、現存される和銅は2塊のみである。
なお、和銅の献上を記録する『続日本紀』等は産出地について秩父郡のみで具体的な地名を記さないため、その地点が当地であったとは限らず地質学上は秩父盆地一帯にかけてその可能性があったと言える。
だが、当神社周辺に和銅の選鉱場や製錬所跡があり(市指定史跡黒谷銅製錬所阯)、平坦部には埋没した鉱石の破片が散乱、また「銅洗沢」や「銅洗掘(どうでんぼう)」、三宅麻呂等勅使が滞在したと伝わる「殿地(どんぢ)」等の銅山経営に因む地名も残るため、一帯が和銅採掘の重要拠点であった事は確実視されており、和銅採掘遺跡として埼玉県旧跡に指定されている。
因みに、近世初頭に降ると推定されるが、祝山に連なる金山の中腹には8本の鉱坑も存している。
ところで、神社の西方を流れる荒川の対岸、大字寺尾の飯塚、招木(まねき)の一帯に、比較的大規模な円墳の周囲に小規模のものを配する形の群集墳があり、現在124基が確認されているが開墾前は200基を越えると推定され盆地内では最大規模の古墳群を形成している(県指定史跡飯塚・招木古墳群)。
築造年代は古墳時代の最終末期(7世紀末から8世紀初頭)と見なされるが、被葬者と和銅の発見・発掘とを関連づける説もあり、更にその主体を渡来系氏族であったと捉える説も出されており、荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀も出土している(後述)。
なお、当社から国道140号線を1kmほど進むと、秩父地方最大の切石古墳である埼玉県指定史跡の円墳大塚古墳があり、養老6年に当社内陣へ納められた御神体栗板彫刻の裏面によると、当時この古墳地周辺は黒谷郷大浜村であった可能性がある。 古墳上の祠には金山彦命も祀られている。 また、大塚古墳からほど近い”むくげ公園”内にはより古い古墳と推定される稲穂山古墳もあり、埋葬者と和銅との関連性も大変興味深い。
更に、鎮座地和銅山の主峰簑山には、初代の知々夫国造に因む故事があり、その命は美濃国南宮大社境内に居住していたとの伝もある事から、南宮大社が古来鉱山・冶金の神として信仰を集めている事や「美濃(みの)」と「簑(みの)」との照応が注目される。
708年の創建より、数回の新築・改築が行われたと記録されている。

元和9年(1623年)に、甲州より神道流人である弾正と勘解由の2人が当地へ参ったおり、聖明神社の社番に頼み置く。
文化元年(1804年)に、寺社奉行の直支配社として御免許を受ける。
昭和11年(1936年)に、社務所が完成し神饌幣帛料供進神社に指定される。
昭和28年(1953年)に、三笠宮崇仁親王が参拝し社前に松を手植え、翌29年に勢津子秩父宮妃が参拝。
平成20年1月11日には、和銅奉献1300年を祝う「和銅祭」が斎行された(1300年前の1月11日が「和銅」改元の日であることから)。
なお、黒谷の上郷には当神社と祭神を同じくして和銅年間に創建されたと伝える上社が鎮座し、姉社とも呼ばれる中社も現存する。
秩父郡三澤村(現 秩父郡皆野町三沢)には明治40年まで無格社 聖神社が鎮座をしていた。
大陽寺   秩父市大滝
神々の里、三峰のさらにその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった時代は鎌倉時代末期から南北朝時代にむかう動乱の世、当山開山仏国国師は後嵯峨天皇の第三皇子として京の都に生をうけられた。
当時の京の都は鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いがにわかに激しさを増してきている時代であった。
そうした争いを避けるかのように16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行の地を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。
そこには、京の都や鎌倉を舞台にくりひろげられる激しい政権争いとは全く無縁の世界がひろがっていた。
遠くには清流の音、厳しい冬を通り越して芽吹く木々、それらが育む鳥たちのさえずり。夜には満天の星たちが遥か数万光年の宇宙の時を刻む。誰に見られる為でもなく淡々と、しかし威厳に満ちた大自然。
ここでは、人間の世界にいることさえ、忘れてしまいそうな光景が広がっていたに違いない。
黙々と座禅を続ける国師の姿は、山賊や猟師たちには天狗に映ったのだろうか。その後、天狗が住むと恐れられた渓谷は江戸時代には空前の山岳信仰の波に乗り、繁栄することになる。
渓声即是黄長舌。山色豈非清浄心。
けいせいすなわちこれこうちょうぜつ さんしょくあにしょうじょうしんあらざらんや
二十一世紀の今、国師の言葉は七百年の時代を超えてよみがえる。

本尊は釈迦如来であり、大陽寺の阿閦如来は秩父十三仏霊場のひとつでもある。阿閦如来は密教では金剛界曼茶羅の四仏の一人として重要な地位を占めている。
尊名の阿閦とは、サンスクリットのアクショーブヤの音写語で、揺るぎない・動じないなどの意味である。漢訳では無動仏・不動仏などと翻訳されている。ともすれば何につけ、すぐに諦め、長続きしない私たち。阿閦如来に祈るときにはその功徳によって、私たちが何事にも揺るぎない心と、怒りを離れた安楽な世界を得られるようにとお祈りをする。人々のもつ罪業を消滅する阿閦如来と心をひとつにしつつ。
■羽生市
避来矢神社(ひらいし)   羽生市上村君
神社は、今泉館林線を北上、道路から左に少し入った上村君地区にあります。嘉永4年の狛犬が迎えてくれました。阿は顔の部分が剥落しており痛々しいです。本殿の後ろには、石が祀られていました。神社に伝わる獅子舞は、市の文化財に指定されています。神社の名前が珍しいですが、栃木県佐野市の唐沢神社に重文の「避来矢の鎧(金具のみ)」が伝わっていて、同じ名前なので関係があるのかもしれません。
御祭神 藤原秀郷公
上村君村の鎮守社で、伝承によると天文年中(1532〜1554)に下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝し奉斎したのが創祀ということです。現在も本殿の裏側に祀られている「甲石」がその石と言われ、かつては「飛来石神社」と言っていましたが、享保11年(1726)神祗伯・吉田家へ神位を申請したおり「避来矢神社」と改称しました。館林城主・松平左近将監公もこの「甲石」を見に来たと伝えられています。
火山の噴火時ならいざ知らず、何もないのに石が飛んできたのも奇っ怪な出来事ですが、天文年中(1532〜1554)に下野栃木村から大きな「石」が飛んできたのと、遥か昔の英雄である藤原秀郷公とを関係づけた伝承が面白いですね。本家の佐野市の唐沢神社には鎧が残り、こちらには甲(石)が飛んできたわけですね〜。それだけ秀郷公人気が強かったわけなのでしょうか?
又、市文化財に指定されているささらの起源は、元亀・天正の頃(1570〜1591)、羽生城救援に出陣した上杉謙信が、 将兵の士気を鼓舞するため上野国よりささら舞師を招き、この社に奉納したのが起源、という伝承があるそうです。  
小松神社   羽生市小松
祭神 伊弉諾命、伊弉冉命、小松大明神(小松内府、平重盛公)
景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
■飯能市
征矢神社   飯能市征矢町
祭神 高皇産霊尊、日本武尊、誉田別尊、大日孁貴尊、応神天皇、素戔嗚尊、稲田姫尊、猿田彦尊、倉稲魂命、大宮ノ売命、大物主神
征矢神社は、飯能市征矢町にある神社です。征矢神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東夷征伐のために下向した際、当地に千束の征矢を備えて戦勝祈願を行ったことに由来、その後天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経が、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられるといいます。江戸期には祖矢社と称し、矢颪・前ケ貫・岩淵三ケ村の鎮守社として祀られ、明治5年村社に列格、明治41年神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社の9社を合祀したといいます。
征矢神社の由緒 1
(前ヶ貫村)祖矢社
矢下風・前ヶ貫・岩淵三村の鎮守なり、岩淵村観喜寺持。
征矢神社の由緒 2
征矢神社 飯能市前ケ貫一六六(前ケ貫字砂ノ宮)
大字前ケ貫の字砂の宮に鎮座し、高皇産霊尊・日本武尊・誉田別尊の三神を祀る。一間社流造りの本殿を持ち、内陣には当社創建にかかわるとされる二筋の矢が納められている。
鎮座地の地名及び当社の別名を砂の宮というのは、昔は入間川が現在よりも西を流れており、当社の辺りはその河川敷で砂原となっていたことに由来し、現在でも当社周辺を掘ると砂が出てくる。
社伝によれば、日本武尊が東夷征伐のために下向した時、この地に千束の征矢を備えて戦勝祈願を行ったことに起源する社であるという。その後、天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経は、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられる。
明治五年、神格制定に際し、古くから矢颪・前ケ貫・岩淵の三ヵ村の鎮守であり、また古社であることから村社となり、同四一年三月に前ケ貫字ヤハタの神明社・八幡神社・矢颪字前原の八坂神社・稲荷大神社・八幡大神社・字滝沢の多岐座波神社、字奥平の日吉神社・字中矢下の琴平神社、字秋津の秋津神社を合祀した。
祀職は、神仏分離までは、岩淵の真言宗福寿院観喜寺が別当を務めていたが、明治以降、神職は度々代わり、昭和五三年より宮原義雄が宮司となり、現在に至っている。
征矢神社の由緒 3
創建年月日は、不詳であるが、明細帳や神社誌によれば、古老の伝聞として、景行天皇の皇子、日本武尊が、東夷征伐のため下向の折、この地に千束の征矢を飾って、戦勝の祈願があり、その後に相馬の平将門追討のため下向した六孫王経基は、この旧跡を追懐して、日本武尊と誉田別尊を合祀したと記す。明治5年村社に列した。同41年3月10日次の9社を合祀した。
神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社
飯能市の将門伝説
天覧山
平将門がここの山頂に布陣して、平秀郷軍と戦いました。そのおり、七日七夜、血の雨が降り続いたと伝えられています。
天覧山能仁寺   飯能市飯能
飯能市矢颪・征矢(そや)町・矢の根(川寺内)
平将門が矢颪の山より藤原秀郷の軍に向けて矢を放ち、一本はここに落ち「征矢神社」として祀られました。一本は川寺(矢の根)に落ち、祀ったのが「射宮祠」(大光寺内・川寺)と伝えられているそうです。
征矢神社 飯能市征矢町
浄心寺   飯能市矢颪
円泉寺妙見堂   飯能市平松
妙見堂の妙見菩薩は、将門公配下の家臣が当地に隠れ住み、代々自宅に祀っていましたが、今から180年前にこの場所に祀りました。ご本尊「妙見菩薩」(みょうけんぼさつ)は二代目になっています。
竹寺(たけでら)   飯能市南  
天台宗寺院。正式名称は医王山薬寿院 八王寺(いおうざんやくじゅいん はちおうじ)。神仏習合の寺として知られている。 武蔵野三十三観音霊場第33番札所。本尊は牛頭天王(本地仏は薬師如来)。
天安元年(857年)に円仁(慈覚大師)が東国巡礼の際、病人が多いのを憐み、この地に道場を造り、大護摩の秘法を修したのが開山とされる。
本尊は牛頭天王、本地仏は薬師如来としているが明治維新の神仏分離から免れ、神仏習合の寺となっている。
■深谷市
鹿島神社   深谷市下手計
創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
歴史
当社の創建については、二つの経緯が考えられる。
まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かつて鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろ航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
第二は、かつて隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森、内ヶ島・田中(現在、伊勢方の小字)などの村々には、「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞和二年(1363)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えたとあることから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、当社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
江戸期、当社が近在の村々に点在する鹿島社に比べて、隆盛を極めたのは、別当常学院の活動によるものである。常学院は「風土記稿」に、埼玉郡酒巻村酒巻寺配下の当山派修験と載る。同院の本尊は不動明王で、後世、手計不動と呼ばれ、庶民に崇敬されるようになった。
常学院が当社の信仰を広めるため、庶人に配布した文政十二年(1829)の縁起には、次のように載せられている。
源頼朝が平家追討のため、鹿島神宮に祈願した折、社殿鳴動し、にわかにわき出た黒雲が、すさまじい勢いで西へ飛び去った。驚いた神宮の社人は、その後を追って西進し、ここぞと思う所に神木を植え、この奇瑞を鎌倉へ注進した。更に、源氏は兵乱の際、ここに本陣を置き、井戸を掘って軍勢の飲み水を得、軍神である鹿島・八幡の二神を祀った。
下って、寛政年間(1789-1801)に至り、かの神木が鳴動し、調べると神木の洞に塵芥蛇蛻で埋まった井戸があった。これは神慮によるものであるとし、井戸を清めて神井とした。このころ、近隣の里人の間に、この神井の水は神の加護がある神水であるから、病に悩めるものは、これを受け、あるいはその神水で身を清め、神に祈願すると霊験があるという信仰が起こった。このため、当社では神水を薬湯とし、境内に浴湯舎を設けて参詣者を招いた。神水で湯浴すれば「人々俗念を脱去し、誠敬を凝し祈念せば、其冥応疑あるべからず」と説いている。
神仏分離後、常学院は根岸姓を名乗って神職となり、要三・朗良と二代を経て、現在、根岸芳雄と根岸香代美の両名が奉仕している。
信仰
境内にある欅の老樹は、幹周りが一○メートル余りもある巨木で、古くから神木として崇められている。縁起によると、源氏が平家追討祈願を行った際、鹿島神宮社人により植えられたゆかりある神木である。江戸期、庶人に配布した「武蔵国下手計村鹿嶋神社並神井浴舎之図」には、大きく枝葉を張り出した欅の巨木がそびえ、その威容に参詣者が驚いている光景が描かれている。また、この時期、庶人が当社の井戸水を御利益のある神水として受けたのも、鹿島の神の依り給う神木の根元から湧く水であったからにほかならない。残念なことは、明治四十年に樹木の一部が、枯損したため、幹半ばから切らざるを得なかったことである。しかし、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がり、往時の威容を彷彿とさせる。
年間の行事は、元旦祭、二月十一日の祈年祭、四月八日の入学児童祈願祭、四月十日の春祭り(例祭)、十一月十五日の秋祭り、十一月二十三日の新嘗祭・大祓式がある。
元旦祭は、総代と各廓の自治会長が参列して祭典が行われる。この日、自治会長は廓を代表して「年頭」と呼ばれる餅を当社神前と地内の真言宗妙光寺に奉納するのが習いである。
春祭りと秋祭りは、当社が村社に指定される明治四十年以前は「お九日」と呼ばれ、三月と九月の十九日が祭日であった。古くは甲冑を着した武者数人が、この祭りに参加するのが例であったと伝える。また、昭和初期までは大塚島と岡新田から交替で神楽師を招いていた。
氏子
氏子区域は大字下手計で、氏子数は三○○戸である。
総代は、川端・宿・壁谷戸・新田・明戸の五つの廓(村組)から一名ずつ選出され、この中から互選で総代長と会計を決めている。任期は、総代長と会計が四年、他の総代は二年である。また、年番は、廓ごとに二名ずつおり、一年交替で当社の祭りや廓行事の諸準備に当たっている。
氏子の間で行われている行事に、末社八坂神社の八坂祭がある。八坂神社は享和元年(1801)の創建で、以来、毎年七月二十五日の八坂祭には、悪病除けのため威勢よく神輿渡御が行われている。
当初、この神輿渡御は川端・壁谷戸の二廓のみであったが、明治二年から下手計全域をくまなく回り、当社を発した神輿は廓ごとに次々と受け継がれた。また、明治四十年ごろまでは、褌一つの若衆が沿道の人々から水を掛けられながら、渡御した。更に、当社に戻り、神輿を守護する四天王と呼ばれる者が社に納めようとすると、必ずこれを奪回、再び担ぎ始める物たちが現れ、夜更けまで歓声が鎮守の杜にこだましていたという。神輿は激しく担がれるためか、文化元年(1804)、天宝十年(1839)、慶応四年(1868)と三度新調されている。なお、壁谷戸廓では、明治三十八年に建造した屋台を曳行し、これに乗る廓の者が囃子を演奏してにぎやかした。
現在の八坂祭は、大きな餅ときゅうりを神前に供え、村内安全祈願・除病祈願を行った後、神輿は、当番廓の者が神輿を威勢よく担ぎ出し、神威を発揚する。
生品神社   深谷市高島
生品神社と言うことはこちらの御祭神は大己貴命だろうと思うのだが、平将門の弟である御厨三郎将頼、もしくは将門の子が祀られているとの記述もあれば新田町の生品神社(おそらく現在の太田市新田市野井町の生品神社と思われる。こちらの御祭神は大己貴命)から勧請されたとの記述も見つかる。主祭神が大己貴命で、将門の血縁者が合祀されていると見ればいいだろうか。
■本庄市
大寄諏訪神社   本庄市西五十子
御祭神 建御名方主命 旧村社
埼玉県本庄市にある大寄諏訪神社に参拝しました。大寄(おおより)諏訪神社は、本庄市の本庄総合公園のすぐそばにあります。本庄総合公園の駐車場を利用します。
大寄諏訪神社は、御朱印があるはずなので、宮司さんのお宅へ問い合わせるとなんと宮司さんが亡くなったそうで、御朱印は無理とのことでした。残念です。
由緒は、社伝によると天慶二年(939)常陸国(茨城県)を占拠した平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で、信州諏訪の地から出陣した大祝貞継(おおはふりさだつぐ)が五十子に陣をかまえ、この地に諏訪大社のご分霊をお祀りしたことによる。平将門の乱後、下野・武蔵国の国府の長官となった藤原秀郷は神社の社殿を整え、新田を寄進し、大寄諏訪神社と奉称した。・・・  
若雷神社古墳(わかいかずち)   本庄市東五十子
本庄東高校付属中学校の東で、増国寺との間にあります。埼玉遺跡マップ」には円墳がマークされていたが、2011年更新された「文化財マップ」にはマークが無い。周辺が東五十子古墳群に包括されています。神社は円形の土盛の上に鎮座している。土盛の形と向きから神社が鎮座する典型的な円墳。古墳後期だから横穴石室が有りそうだが未調査で詳細不明。藤原季利が平将門討伐祈願、成就後再建したとの伝聞があるからかなり古くから鎮座していたようだ。
日本書紀 巻第一神代上 第五段 「イザナギの命がカグツチを切りてその一段はこれ雷神(いかずちの神)となる」「消された覇王」小椋樋一葉 著 ではスサノオはイカズチで、その子ワケイカズチはニギハヤヒであり皇祖と述べています。京都加茂神社のご祭神の別雷命は玉依姫の子供。別けは子供を意味する。稚児の稚を書いてわけと読む神社もあります。若雷は別雷のことです。横浜市港北区に若雷(わからい)神社があります。
増国寺   本庄市
東京から国道17号線を北上し、本庄市に入るとすぐに五十子陣城址があります。少し進んで鵜森という信号で左折しました。その日は、小雪がちらつく寒い日であったので、道を尋ねる人にも会わず、私はいつものように勘を働かせて、とある旧家で増国寺を尋ねました。幸いにもその家は、増国寺の檀家副総代であったので、おかみさんが快く道を教えてくれました。そこから100メートルもいくと、曹洞宗の雷雲山増国寺がありました。ここが、太田道灌の盟友松陰西堂終焉の地です。庫裏を訪ねると、住職が松陰の墓所と墓誌へ案内してくれました。
道灌の時代の関東の戦乱について、「太田道灌状」(1480年)と同様に史料的価値が高いといわれているものに「松陰私語」(1509年)があります。上野の長楽寺(太田市)の陣僧松蔭は、享徳の乱(1454年)の渦中にあって活躍し、後に回想録「松陰私語」五巻を書きました。「太田道灌状」には、武蔵、下総、相模の動乱が多く記されているのに対して「松陰私語」には、上野、下野、武蔵の出来事が多く記されています。儒教の五常(仁義礼智信)にちなみ五部構成となっているものの、第三部は目録を残して本文は欠落しています。
「松陰私語」の中に、「道灌は金山へ越すべき日限を相定め、肴十駄を両度越す事」と題する面白い挿話が記されています。1478年(文明10年)7月、太田道灌が別府陣(熊谷市)にいたとき、松蔭が岩松家の家宰であった横瀬国重と相談し、道灌に招待状と雪花(花束)を送りました。道灌は返礼として書状を送り、更に表敬訪問の日に合わせて肴十駄を二度にわたって送りました。
道灌は金山城を訪問して横瀬国重と陣僧松陰とに会い、三日間金山城に滞在し、書道、歌道、兵書などについて語り合いました。太田道灌と松陰はおそらくは足利学校の同窓生であったから、二人はこの広大な山城を視察しながら、以心伝心の含蓄深い対話をつづけたと思われます。道灌は金山城を視察して「近比明城」(近年の名城)と賞賛しました。
松陰は、1438年(永享10年)生まれで、新田松陰軒とも称しているので、新田岩松家の出自と思われるものの詳細は不明です。おそらくは、武家の二、三男に生まれ、優秀であったので跡目争いを起こさないように、新田家の先祖累代の墓がある長楽寺(太田市)に入れられ、後に足利学校で学び、岩松家の陣僧になって戦の指揮をしたと思われます。
「続武将感状記」(1716年)には、面白い、松陰の略伝が記されています。その一部にいわく「(松陰は)忍辱の衣を脱ぎて、折伏の鎧を着し、慈悲の袈裟を捲きて、降魔の保呂をひるがえす事、諸凡僧の見識に及ぶべきにあらねども、今まで仏寺に住して安眠し、仏餉(ぶっしょう)を食して抱腹せし恩を思うが故に、告げ奉ると言いて、寺より馬に乗りて立ち出で、直ちに敵と寄り合いて首をとる、これより終に寺に帰らず」と。
難攻不落の金山城(太田市)を縄張りして70余日で完成し、貴重な記録「松陰私語」を残した松陰は、複雑で難しい時代と場所で、不思議な存在感を発揮しました。僧と武士という二役で、五十子合戦を見つづけた松陰は、長楽寺を引退したあと五十子の増国寺(本庄市)に住み、「松陰私語」(別名・五十子記)を執筆し、八十余歳で歿したと思われます。増国寺の松陰の墓は卵塔で、その位牌には「前惣特当寺中興開山新田松陰西堂禅師」と記されています。卵塔とは、主に禅宗寺院で住職の墓としてつくられた卵型の仏塔です。松陰の墓前に立つと、仏の教えと軍事作戦が松陰の中でどのようにリンクしたのか、聞いてみたい気がしてきます。
増国寺は本庄市東五十子の五十子陣跡の近傍にあり、寺の由緒によると、1466年扇谷上杉顕房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。まさしく増国寺は、五十子合戦の真っただ中にある寺でした。
■深谷市
島護産泰神社 1   深谷市岡
御祭神 瓊瓊杵尊  木花咲夜姫命
(しまもりさんたいじんじゃ) 社挌  旧郷社 旧榛沢郡総鎮守
「御本殿外宇幣殿拝殿屋根葺替回廊大改修築記念碑」で島護産泰神社の由来をこう記述している。
島護産泰神社御由緒は別に、昇格記念碑並に水舎神楽殿改築記念碑其他諸々の記録で明らかであるが尚一部由来を記す。
当社は北武蔵有蹟の社で、景行天皇御宇日本武尊により祭祀され、桓武天皇延暦年間(782-806)坂上田村麻呂将軍祈願参拝された古い社である旧榛沢郡総鎮守でありながら延喜式内神名帳にも登載漏れなり。伝うるに当時榛沢群全域に一社もないのは、正に調査もれによるものであって納得ゆかず古来よりの神異神話神助古文書に存在しておる。
産泰講並に底抜柄杓奉納起因の儀も建武年間(1334-1338)以前既に奉納の実あり其の意は、御祭神の御神徳古事歴により当社に安産祈願せば不思議にも難みなく毎年数千本の柄杓の奉納ありこれが文久辛酉年(1861)、仁孝天皇皇女和宮殿下将軍徳川家茂公に御降下遊さるるにあたり当社前を御通過あらせらるるや殿下には畏くも鳥居前社標榛沢群総鎮守安産守護神とある文字を御覧遊され卒然御籠を停め御翠簾をあげさせられ容を正し祭神木之花咲夜姫命を遙拝あらせたと言う。
また社殿は往古より有形的の建物あり種々変遷し慶安年間(1648-1651)焼失以後数度建改築したも極く最近嘉永安政(1848-1859)に亘り、更に改築現今に至り然るに百二十有余年の建物で破損夥しく今回、氏子総意協議誠教致福の精神頗旺盛で改修築委員を組織氏子内工匠全員奉仕約八百万円工事費で竣工の運びとなり是が趣肯石碑に刻し後世に伝えんとす。   昭和五十六年四月十日
武蔵国榛沢郡には式内社が存在しない。何故時の朝廷が認めなかったかは不明だが、榛沢郡には各郡のように有力な社が元々存在しなかったのか、それとも時の朝廷が榛沢郡の式内社の存在を偶々見落としたのか、または故意的に抹殺したのか。榛沢郡の総鎮守と言われる島護産泰神社の参拝中このような疑念が広がった。

旧岡部町に鎮座する島護産泰神社は旧称「島護明神」と言われていて、天慶年間、平将門が東国一帯を押領した際に、その征討軍として源経基が征伐のため当地で駐屯して、当社に平定の祈願をしたという伝承もあり、歴史はかなり古いようだ。
島護産泰神社 2
当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。
当社を島護("とうご"等とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。
島護産泰神社 3
景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の途中に、当所で皇運の隆昌を祈願されたという。
旧称「島護明神」。社地の東北は低地地帯で、たびたび利根川の水難を被った。この地方は、南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬の四瀬八島に分れ、これらの住民たちにより、当社を諸島の守護神として信仰したことにより、「島護」の名がついた。また榛沢郡の総鎮守という。  天明三年(1783)の信州の浅間山の噴火、利根川の氾濫のときに、当地方で災難を免れることができたのは、当社の霊験によるものといわれた。
文久元年(1861)年の辛酉の年、皇女和宮殿下の御降嫁の折り、中山道に面した鳥居前の社標に「榛沢郡総鎮守安産守護神」とある文字を御覧になって、篭を停め御翠簾をあげさせ、容を正して御遥拝されたので、村民は遥かに御宮を拝して、慈しみに感じ入り、弥さらに奉斎の念を深からしめたという。
また安産の信仰から、周辺地域からも多くの参拝があるという。
■三郷市
番匠免神明神社   三郷市番匠免  
社号 神明神社  祭神 大日孁貴尊(別名天照皇大神)
相殿 宇賀能魂命  境内社 稲荷社
番匠免神明神社は、三郷市番匠免にある神社です。番匠免神明神社は、延元元年(1336)の春に創建したといいます。明治6年村社に列格、明治40年には村内の稲荷社を合祀したといいます。
番匠免神明神社の由緒 1
(番匠免村)
神明社 村の鎮守なり、迎攝院持、下同 稲荷社 庚申社
村持、享保十一年の起立と云
番匠免神明神社の由緒 2
神明神社
神明神社は、延元元年(1336)の春勧請し、明治四十年稲荷神社を合祀した。祭神は、大日孁貴尊(別名天照皇大神)で宇賀能魂命が合祀されている。
祭礼は、元旦祭、例祭(御備社祭、一月二十日)、月次祭(毎月一日)、夏祭(大般若祭、七月七日前後の日曜日)、秋祭(お日待十月十五日)である。
例祭は、氏子一同の安全、天下泰平、五穀豊穣、開運等諸願成就を祈願する祭礼である。
夏祭は、僧侶が神社で大般若をめくりながら読経し、終ると大般若を六個の箱に納めて天秤で担いで町内を練り歩いて各戸を回る。玄関にて箱をトントンと六回置いて次に回り、当番の家では、その箱の一つに乗ったり、結んである縄などをちぎったりして五穀豊穣、無病息災を祈願している。
秋祭は、豊作等に感謝する祭礼で、昔は宵宮から村中の人々が集まり、語り合いながら朝日の出るまで宴が行われた。
なお、神明神社は、平将門(九四〇年没)が守り神として長く信仰した神社として知られている。
番匠免神明神社の由緒 3
当社は、中川左岸の自然堤防上に広がる農業地域である番匠免に鎮座する。番匠とは大工の古称であ一り、地名の由来については、『風土記稿』にあるよ十に、当地が番匠の免田(税を免除された田)であったことによるとする説と、古くは「番匠面」とも書いたことから、当地に優れた面を作る番匠がいたことによるとする説がある。
村の開発の年代は定かでないが、比較的古く、室町時代の文書に既にその名が見えるはか、地内には多数の板碑が存し、その最古のものは天授三年(一三七七)の年紀を持つ。
当社の創建の年代もまた不明で、その由緒を伝える史料は今のところ見つかっていない。しかし、古くから番匠免の鎮守として祀られているとの口碑があり、『風土記稿』にも「神明社、村の鎮守なり、迎攝院持」と記されている。神明造りの本殿内に、祭神大日孁貴命の本地仏として雨宝童子像が納められているのは、こうした神仏習合のころの名残である。明治になると迎攝院の管理を離れ、明治六年、村社となった。更に、同四十年二月五月には地内の稲荷社を合祀した。
この稲荷杜は、通称を篠田稲荷といい、宝暦二年(一七五二)に篠田又兵衛ほか二名が和泉国(大阪府)泉北郡信太村信太森(篠田森)に鎮座する葛薬稲荷から分霊を受けて祀ったもので、諸般の事情から大正十三年、当社から旧地に戻り現在に至っている。
■小鹿野町
十二御前神社   秩父郡小鹿野町小鹿野字春日町
十二御前神社の由来
十二御前神社は、平将門の妃十二御前を祀った神社です。
将門は「新皇」と称して関東八か国の自立を宣言しましたが、九四〇年に敗北してしまいます。(承平天慶の乱)
戦いに敗れた将門の残党の中に、十二御前を中心とする一団がありました。彼らは秀郷軍の追撃をうけ、峠をこえて正永寺の西側まで落ちのびてきます。しかし、ここで遂に力つきて勝負が決しました。(勝負沢)
人々は戦死者をあわれみ、団子を供えて手厚く葬りました。(団子坂)
十二御前は自害して果て、その首を洗ったという井戸が小学校の西側の土手にありましたが、今はわかりません。他に、十二御前を十二人の妃とする説等もあります。
小鹿神社(おしかじんじゃ)   秩父郡小鹿野町小鹿野
※ 本来はおかのじんじゃもしくはおがのじんじゃと読む
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、斎主神(いわいぬしのみこと)、比売神(ひめがみ)
創建 詳細不明 社格等 旧郷社
小鹿野町(おがのまち)は、埼玉県の北西部に位置し、秩父盆地のほぼ中央に市街地を形成しています。町域の西側は日本百名山の両神山を中心とした秩父多摩甲斐国立公園や日本の滝百選に選ばれた丸神の滝のある県自然環境保全地域、県立両神自然公園、名峰二子山を擁する県立西秩父自然公園などの豊かな自然に恵まれた地域である。
小鹿野町の歴史は古く、約千年以上前の平安時代中期に編さんされた『和名抄』に記されている「巨香郷(こかのごう・おかのごう)」が小鹿野の始まりといわれています。
町制施行も県内では川越に次いで古く、中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展してきました。当時の繁栄を物語る資料として、小鹿野春まつりで曳廻される屋台・笠鉾などがあります。
また、小鹿野といえば歌舞伎のまちとして知られています。役者から裏方まで全て住民が行うのも全国でも珍しく、地芝居として小鹿野歌舞伎は高い評価を受けております。
小鹿神社(おしかじんじゃ)は、創建については諸説あり、古代から「巨香郷(おかのごう)」に座す神として祀られていたのが、後世に小鹿神社になったという説。武蔵七党の丹党に属する小鹿野氏が祀る社であったとする説。平安時代前期の天慶二年(939年)の「天慶(てんぎょう)の乱」(関東と瀬戸内海で起きた平将門の乱と藤原純友の乱の総称)で武功を立てた武蔵守となった藤原秀郷公が当地に来たときに氏神の春日の大神を祀ったのが起源である等の三説があります。いずれの説も神社と地域文化のかかわりを考えた上で興味深い。
鎮座地については、口碑によると、はじめは東部の荒川支流である赤平川の左岸の河岸段丘上で、春日町の東寄りに当たる地に「明神」という小名があり(現春日町内)この地に鎮座していました。次いで少し離れた春日町の諏訪(小名)に遷宮、明治四十三年(1910年)の赤平川の洪水等により境内崩壊のため腰之根地区の現在地へ遷宮したと伝えられています。この地は古くから諏訪神社(下社)が鎮座していましたが、『新編武蔵風土記』には既に字諏訪に鎮座していた諏訪神社の社名はなく「小鹿明神」とのみ記載されていることから諏訪神社はこの遷座に伴い諏訪神社及び境内社三社を当社に合祀され「小鹿神社」と改称されました。その後、明治四十五年(1912年)には宇美屋の新井神社をはじめ五社を合祀しました。
小鹿神社は、旧小鹿野の総鎮守であり、明治五年(1872年)には村社に列し、明治十六年(1883年)には西秩父十八ヶ町村の鎮守となり郷社に昇格した。
現在の小鹿神社本殿は合祀された諏訪神社(上社)の社殿で、棟札には江戸時代中期の安永四年(1775年)の建築と記されています。なお、内陣には往古諏訪信仰とかかわりを持っていたと考えられる石棒が納められています。また、建物の規模や様式は小鹿神社旧本殿とほぼ同じです。
毎年四月第三土曜日とその前日に行われる「小鹿野春祭り」は小鹿神社の例大祭で、その歴史は江戸時代初期まで遡ります。 江戸時代はじめの寛永年間(1624-1644)に書かれたといわれる旧家の文書によると、現在の小鹿神社が鎮座するところと、今の町役場庁舎裏の小鹿神社元宮(旧本殿)との間で神輿渡御が祭礼の日に行われていたとあります。
こうした由来から、現在でも祭りの流れを受け継ぎ、小鹿神社と元宮の間を屋台・笠鉾が行き来します。屋台の上で上演される「小鹿野歌舞伎」は、およそ二百年の歴史を持ちます。初代坂東彦五郎が江戸歌舞伎をこの地に伝えたのが始まりとされ、お祭りでは屋台に芸座(上手に義太夫、下手に三味線・太鼓が入る)・花道を街道の幅いっぱいに張り出して演じられます。 昭和五十年(1975年)に県無形民俗文化財に指定されました。
当社のある小鹿野町は、近年、両神山麓花の郷では日本有数の規模を誇るダリア園、尾ノ内渓谷で氷柱といった新しい観光スポットがでてきています。 平成二十三年(2011年)九月には、小鹿野町を含む秩父地域が「ジオパーク秩父」として認定されました。そんな小鹿野町のキャッチコピーは「花と歌舞伎と名水のまち おがの」です。
鷲窟山観音院   小鹿野町
埼玉県小鹿野町、観音山という山の中腹に鎮座する、秩父札所31番「鷲窟山(しゅうくつさん)観音院」。まず目に飛び込んでくるのが、背の高い木々のなかにある山門です。山門には2体の仁王が鎮座しています。
こちらの仁王は“石造り”となり、その大きさは1丈3尺(約3.9m)。台座を入れると4mを超える規模です。石造りの仁王としては、日本一の大きさなんです! 仁王像は金網で保護されていますが、足元から覗けるようになっていますので、ぜひとも眺めてみましょう。
山門をくぐってからは、石段を上っていくことになります。石段の数は296段。般若心経“276字”と普回向(ふえこう)“20字”の合計で、296段になっているそうです。かなり急な石段なので、歩きやすい靴で来訪されるといいでしょう。足腰に不安のある方は、杖を借りることもできます。
秩父34霊場のなかでもっとも険しい難所に建つお寺とされる、「札所31番観音院」。296段の急な石段を登り切り、ご本堂にたどり着いたときは感動もひとしおです。ご本尊は、奈良時代の僧・行基(668-749年)の作とされる聖観音像がお祀りされています。
■神川町
城峯神社(じょうみねじんじゃ) 1   児玉郡神川町矢納
ご祭神 大山祗命(おおやまつみのみこと)
社伝によれば、景行天皇の四十一年、日本武尊東征の折、この山の非凡なのを見て登り、自ら山嶺に矢を納めて大山祗命を祭り、はるか大和国の畝傍山にある神武天皇稜を拝して賊徒平定を奉告した。尊が矢を納めたので「矢奈布」と呼び、後に矢納に改めたといい、また尊は高峰の頂に霊時(祭場)を設け「加美屋満」と名付けたが、これがのちに「神山」と称するようになったという。天慶三年(940)平将門の弟将平が当山に矢納城を築いて反旗を翻した時、藤原秀郷は勅令を奉じて討伐に向かい、賊徒平定を祈願し、乱が治まって後、厚く祭祀を行い、「城峰」の社号を付し、山頂に城峰奥宮を創立した。
城峯神社 2   児玉郡神川町矢納
城峯神社は、県立西秩父自然公園の主峰・城峯山頂(標高1,037m)のほど近くにあります。平将門伝説によると、城峯山は関東が一望できるこの地に城を築いたことから、その名前がついたといわれています。藤原秀郷が平将門を討ったのちに、城峯神社を建立したとされていますが、それよりも古くからお犬様がまつられており、火災、盗難、病気の守り神として信仰されています。
城峯神社から15分ほど歩くと、城峯山頂にある展望台があります。城峯神社までは車で行くことができるので、15分ほどで登山気分を味わうことができます。山頂までの道は比較的歩きやすく感じますが、急な登りもあるので、注意が必要です(歩く際には歩きやすい靴でお願いします)。晴れた日は、360度パノラマからの展望台から、さまざまな山々が見られるのですが、今回は残念ながら見ることができませんでした。
平将門にゆかりがあるスポット「将門かくれ岩」があります。
左右2本の鎖を約18m登ります。傾斜がかなり急なので、「上級者、経験者以外は危険です」の警告看板がありました。観光客の方も、「左の鎖までは登れても、右は急すぎて危険だから諦めた」と話していました。経験者の方も、「一昨年は登れたけど、今日は怖く感じるからやめておく」と話していたので、登る際には準備と覚悟が必要です。
城峯神社で、趣の異なる3種類の狛犬を見ることができました。山門のそばに置かれている狛犬です。獅子のような姿をしています。本殿へ向かう石段を登った先にある狛犬です。口元が鋭いのが特徴的です。本殿左手にある狛犬です。耳が小さく、まるで猫のような姿をしています。彫られている文字を読むと、「天保」と読めるので、江戸時代に設置されたもののようです。
大和武尊が弓矢を収めた由来により矢納の地名となる。

城峰(じょうみね)神社   祭神 大山祇命
埼玉の城峯山北山麓、神泉村の東神山に鎮座する郷社です。社伝によれば、景行天皇の皇子・日本武尊が東征したおり、山頂に矢を納めて東夷平定を祈願し、大山祇命を祀ったことが開創とされています。
平安時代、平将門の乱のあと、将門の弟・平将平が城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられます。無事、乱を平定した秀郷はねんごろに祭祀を行い、城峯の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになりました。
この神社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、社殿の前には日本武尊にちなむ山犬型の狛犬が控えています。また神社の分与する御守札は大口真神つまり狼であり、すべての災難を消除するとされています。毎年この御眷属を借りかえる風習が続き、この借りかえを行う人々の信仰組織を講中といいます。
一方、城峯神社の前の城峯公園には、桜並木がありますが、冬に開花する冬桜として有名です。開花の季節には冬桜祭があり、近在から多くの人々がお花見に集まります。  
城峰山(ようみねさん)   児玉郡神川町矢納  
一等三角点のある山として知られている。『武蔵通志(山岳篇)』には安房(あふさ)山と書かれている。山頂直下の城峰神社は日本武尊と藤原秀郷を祭る大きな社殿だ。付近には平将門の弟、勝平に関する伝説が残されている。山頂には展望台があり、360度の大展望だ。江戸期の地誌にも山頂からの展望が詳しく描かれている。城峰山へは南面の石間(いさま)川奥の半納(はんのう)から登る。小沢沿いから杉木立の参道を登り、キャンプ場を左へ進むと城峰神社で、山頂に達する。山頂の東に車道があり、駐車場から往復する人も多い。 下山路は東へ車道を横断して門平へ下る。門平には将門伝説があり、集落内の神社には将門の大きな絵馬が奉納されている。半納から山頂を経由し、門平まで約5時間。

城峯山(じょうみねさん)は、埼玉県秩父市、秩父郡皆野町と児玉郡神川町の境界にある標高1,037.7mの山である。しばしば「城峰山」とも書かれるが、国土地理院発行の地形図では城峯山と表記されている。山頂には一等三角点と電波塔があり、この電波塔の下部が展望台となっている。この展望台からは360°全方位見渡すことができ、ハイキングの本などでも「眺望のよい山」として紹介されることが多い。 平将門がこの山に立てこもったとき、愛妾の桔梗が敵方に密通したと疑い、将門は桔梗を斬り捨てた。そのため、今でも城峯山にはキキョウの花が咲かないのだという。 と言ったような伝説が残されている。また、山頂下には追われた将門が隠れたと伝えられる岩がある。
城峰神社   
神山の中腹に社殿、頂上に奥宮が祀られています。日本武尊が東征の折、風光明媚な神山に登り、矢を納めて大山?命を祀ったと伝えられています。矢納の地名はこれに由来するといわれています。  
父不見山(ててみえずやま)   埼玉・群馬県境
埼玉県と群馬県の県境に位置する山。詩人・随筆家の尾崎喜八の『神流川紀行』の「父不見御荷鉾も見えず神奈川星ばかりなる万場の泊り」という一首のおかげで有名になった山。 山名には諸説があり、戦死した平将門の子が父を慕って嘆いたことから「父不見山」となったという説、寺僧が我が子を捨てて逃げた際に後を追った子供がこの山で見失ったからという説、北側に流れる神流川を挟んで住んでいた武将の妻子が戦に出た父の帰りを眺めていた方向にあった山という説などがある。 山頂には「三角天」と彫られた丸石が鎮座する。平成12年に発生した山火事で多くの樹林が焼け、現在は展望が開ける山となっている。  
■越生町
黒山熊野神社   入間郡越生町黒山
社号 熊野神社  祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
黒山熊野神社は、入間郡越生町黒山にある神社です。黒山熊野神社は、箱根権現社の別当だった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が、応永年間(1394-1428)本山派修験の大寺山本坊を開山する際に勧請、祭神は一説には平将門だったともいいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より社領三石の御朱印状を拝領、明治5年村社となり、社号を熊野神社に改めたといいます。明治40年には同大字内にあった字清水の八雲神社、字東の愛宕神社、字東の榛名神社、字原の神明神社の四社を合祀しています。
黒山熊野神社の由緒 1
(黒山村) 熊野社
慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、當社は西戸村山本坊の進退する處なり、按に堂山村最勝寺に蔵せる、大般若経の奥書に、應永廿四年五月十九日、武州入西郡吾那越生郷、新熊野常住執筆良觀と記し、及同年六月廿日武蔵國吾那小山一乗坊新熊野など記せしもあり、當社は元より山本坊の預る所なれば、自ら別社なるべけれど、又此越生の内に小山と號する所も、今其地なければ彼新熊野と云もの、當社のことなるも知べからず。
神楽堂。 本地堂。薬師の像を安ず、春日の作なりと云。
天王社 是も山本坊の内 金毘羅社 愛宕社 山祇明神社 百姓持
黒山熊野神社の由緒 2
熊野神社<越生町黒山六七四(黒山字北ケ谷戸)>
当地は、越辺川の上流、秩父山地の山間の地に位置する。黒山の地名は、地内の一帯に古生層の黒っぽい岩石が露出していることに由来する。中世の文書には既にその名が見えるが、開村は更に古いと伝えられる。
当社は、応永年間(一三九四-一四二八)、箱根権現社の別当であった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が当地に移り、本山派修験の大寺であった山本坊を開山するにあたって勧請した社で、熊野大権現と称し、この時、不動堂・赤堂・長命寺と共に建立されたと伝えられる。しかし、棟札によれば応永五年二月の造営で、「将軍将門宮」となっている。更に、氏子の口碑にも平将門を祀るとも伝えるため、当初は平将門が祭神であったことがうかがわれる。
慶安元年には三石の朱印地を社領として賜っている。明治五年の社格制定にあたっては、村社となり、社号を従来の熊野大権現から現行の熊野神社に改めた。更に、同四〇年には同大字内にあった字清水の八雲神社、字東の愛宕神社、字東の榛名神社、字原の神明神社の四社を合祀している。
主祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命である。
なお、昭和六〇年一一月六日不審火により社殿が焼失している。
■杉戸町
永福寺   杉戸町高野
真言宗豊山派の寺院。山号は龍燈山。本尊は阿弥陀如来。すぎと七福神の寿老人。
創建の経緯については定かでない。伝承によれば、天平勝宝5年(753年)、行基により開基。かつては阿弥陀寺と呼ばれたという。寺の中興については、次のような伝承がある。武蔵権守興世王の妾といわれる妙喜尼は、天慶3年(940年)、承平天慶の乱の首謀者として興世王が討たれるに及び、自ら寺に火をつけて焼死し寺も焼け落ちた。天慶5年、平将門が京に滞在している時に生まれた子といわれる抜山優婆塞が、東国に下り父の戦場で死者の菩提を弔って、高野の地に来た時、土の中から光り、行基作と伝わる阿弥陀寺の本尊であった阿弥陀仏の木像を発見し、再興したという。
その後いつの頃か長福密寺と改名されたが、江戸幕府6代将軍徳川家宣が子息に長福(のちの徳川家継)と名づけ、それに遠慮して永福寺と名乗るようになったという。ただし、寺に伝わる『永福寺伝燈記』には、宝暦9年(1759年)、僧弁隆が住持となる前は長福寺と称していたとあり、徳川家継(1709年生まれ)とは時代が合わない。
目沼古墳群(めぬまこふんぐん)   杉戸町目沼
千葉県と埼玉県を流れる江戸川の西、下総台地の北西端、標高10メートルに立地する。かつて、前方後円墳3基を含む70基余の古墳が所在し、その数の多いことから地元の人々は「九十九塚」と呼んでいた。しかし現在所在が確認されている古墳は20基、そのうち墳丘の残る古墳は目沼3号墳、浅間塚古墳(10号墳)、17号墳の3基のみである。
目沼2号
墳 推定全長43メートルの前方後円墳。1807年(文化4年)に地主の助右衛門によって石棺が掘り出された。この石棺は代官の命により再び埋め戻され、そのことを記した石碑が建立されている。昭和元年に石室が取り壊された際に大刀片が出土している。
目沼9号
墳 径24.6メートル・高さ3.5メートルの円墳。主体部は木炭槨で、長さ4.65メートル・幅1.1メートル。副葬品は大刀1、鉄鏃23、刀子1、ちょう子1、三鈴杏葉3、素環雲珠1、土師器出土。6世紀前半の築造。出土品は昭和63年2月26日付けで県指定有形文化財に指定された。
浅間塚古墳(目沼10号墳)
現存する墳丘は直径28メートル・高さ2メートルで円墳のような形をしているが、1991年(平成3年)の発掘調査で、全長46メートル以上・後円部径30.4メートル・高さ5メートルの前方後円墳であることが判明した。周溝から出土した円筒埴輪・形象埴輪(人物・馬・家)から、6世紀前半の築造とみられる。また、東側くびれ部から6世紀前半の円筒埴輪棺が発掘された。1991年(平成3年)12月27日付けで杉戸町の史跡に指定された。
■寄居町
宗像神社   寄居町藤田
社号 宗像神社  祭神 多紀理比売命・狭依比売命、多岐津比売命
境内社 長男神社・丹生神社・罔象神社、二柱神社、稲荷大神、菅原神社、琴平神社、高根・浅間神社合殿、八坂神社、厳島神社
宗像神社は、寄居町藤田にある神社です。宗像神社は大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を勧請して創建したといいます。
宗像神社の由緒
宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を移し祀ったものです。
宗像大社は文永弘安の役(蒙古来襲)など北九州の護りや海上の安全に神威を輝かしていました。
この地に御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、人々の崇敬を篤くしました。
藤田五郎政行が花園城主(平安時代)として北武蔵一帯を治めるにあたり、ここを祈願所とし、北条氏もまた祈願所にしていました。
春祭は4月3日、秋の例祭は11月3日で、当日は江戸時代から伝わる山車7台を引き揃え、神幸の祭事がにぎやかに行われます。
なお、拝殿には寄居町出身の名彫刻家、後藤功祐の彫った市神様社殿があり、町の指定文化財として保存されています。
祭神は、天照大神の御子である多紀理比売命・狭依比売命、多岐津比売命です。
極楽寺   寄居町藤田
山号 象頭山  院号 聖天院  寺号 極楽寺
真言宗豊山派  本尊 歓喜天(聖天)
真言宗豊山派寺院の極楽寺は、象頭山聖天院と号します。極楽寺は、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守として象ヶ鼻に創建したといいます。応永年間、中興の祖秀永が新義真言に改め、聖天院及び六院を別当宗務、北条氏邦は鉢形城の鎮守とした他、江戸幕府から寺領20石の朱印状を拝領していたといいます。明治維新の神仏分離に伴い、上宮は国有地となり当地へ移転、下宮は宗像神社となったといいます。当寺の弁財天・毘沙門天は、武州寄居七福神の弁財天・毘沙門天となっています。
極楽寺の縁起 1
極楽寺
真言宗の寺で、象頭山聖天院極楽寺と称し、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、この地の荒川岸壁の岩頭の一角が大海を渡る巨象の姿を思わせることを奇とし、霊地と定めて自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守としたことが開山の初めと伝えられています。
聖天(歓喜天)は象面人身双体の天部仏尊で、民衆には和合福徳豊饒を、為政者には鎮護国家の法力を授けるものとして信仰されています。当聖天は多く武家棟梁の尊信を集めたといわれ、中世期には源経基、源義家、秩父十郎武綱らが、藤田郷一円十二ヵ村を寄進してその総鎮守とし、六院を建立したと伝えられる。近世では北条氏邦が鉢形城の鎮守とし、徳川将軍家は代々朱印地20石を寄進して政道と民心の安泰を願いました。
当寺は古くは聖天信仰を通じて古義真言を広めたが、応永年間、中興の祖秀永が新義真言を究め、教義格式を整えて聖天院及び六院を別当宗務し、法燈を輝かせました。歴史の変遷を経、聖天院も明治末年に大師ゆかりの「象が鼻」より現在地に遷座されるに至ったが、附近の「六供」の地名などに、聖天の法にいう「六供六坊」を擁した往昔が推測されます。
極楽寺の縁起 2
(古寄居村・寄居新組村・新寄居村)聖天宮
荒川の涯象ヶ鼻と云所にあり、此所新寄居に属す、社を或は上ノ宮とも呼ぶ、傳に云光明皇后霊夢に由り刻ませ賜ふ共、又は弘法大師の作とも云、秘佛にしてみることを許さず、これ藤田郷の総鎮守なししが、今は寄居三村の鎮守とす、弘法大師の勧請にて、天長三年の棟札ある由なれど、是も社内に秘して見ることを得ず、此邊荒川の幅凡三百間程砂利の間を屈曲して幾條にも流れ、水勢獅オく、左右の岸は絶壁峙ち、仰見れば秩父郡釜伏山高く聳え、男衾郡折原鉢形の山々連れる様、尤景勝の地なり、又社より一階低き所に社あり、此を下ノ宮と云、或は上ノ宮を男体とし、下ノ宮を女体とすると、此上下の宮に彼是伝説あれど、永享の文書既に上下の別あれば、奮くより二社ありしこと知らる、天正十八年の乱に社廃せしかば、御入国の翌年社領二十石の御朱印を賜へり、奮社の故を以てなり、境内に天狗腰掛松・相生松・連理の杉等あり。
別当極楽寺
新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末、象頭山聖天院正乗坊と云、文書によれば古乗円坊と唱へしことしらる、法流開山秀永応永二十四年二月十三日示寂、鎌倉管領の始までは、法親王の法弟にて、秘密の道場たりしに、兵乱の後一たび衰廃し、天正年中聖範弟子実廣といへるもの住職せし頃、今の堂宇再興せしとなり、本尊阿弥陀。
(花押文書省略)
本地堂。
元は上宮の傍にありしが、元禄年中境内に引移せり、本地十一面観音は行基の作なり、外に役小角の像を安ず、腹内に応永廿三年秀永造立と有り。
弁天社、天満宮、稲荷社二。
極楽寺の縁起 3
創建は、弘仁十年(平安時代、千百七十年前)弘法大師が当地像ヶ鼻に歓喜天(聖天)を勧請されたのに始まる。下って当聖天は源氏の武将の信仰を集め源義家は七面伽藍、六供六坊を建立し、聖天宮は像ヶ鼻に上社、現宗像神社の地に下社が祀られた。明治の宗教改革廃仏毀釈により象ヶ鼻は国有地となり上社は現境内地へ移転、下社は宗像神社となった。聖天の祭礼は宗像神社の祭礼となり、今も聖天の双股大根の絞をつけた山車が数台ある。明治政府は神道を盛り立て多くの寺院を取壊したが、日露戦争ではさすがに寺院にも戦勝祈願し当聖天には戦利品の大砲と砲弾を寺内陸軍大臣の戦利兵器奉納書を副えて奉納した。又内務省より保存資金が下附された。
聖天は本地十一面観音で、当山の尊像は新編武蔵風土記稿では行基作としている。江戸時代には当聖天は江戸市民にも広く信仰され今も玉垣等にその名残りをとどめる。
聖天は厚く信仰する善男善女には他の神仏が見はなす事でもかなえて下さると言われ、殊に商売繁昌、厄除、縁結、学業成就の御利厄がある。毘沙門天、弁財天は聖天とは特に密接な関係にあり聖天下社には弁財天が合祀されていた。又毘沙門天もお祀りされていたことが伺える。ここに毘沙門天、弁財天を復活勧請し聖天を中心として檀信徒の海運厄災を請願う次第です。
花園城跡   寄居町大字末野字城山
花園城跡 県選定重要遺跡、町旧跡(きゅうせき)。猪俣(いのまた)党の土豪である藤田氏の居城と伝えられ、藤田氏は後に山内上杉氏の重臣として活躍しています。二重の竪堀(たてぼり)を特徴とする山城で、一部に石積みが残っています。後北条氏時代は、鉢形城の支城として、秩父谷への街道を押さえる機能を果たしていたと思われます。  
安楽寺   比企郡吉見町
岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。毎年6月18日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、この日は古くから「厄除け団子」が売られている。現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなる。
安楽寺本堂
岩殿山安楽寺は板東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。「吉見観音縁起」によると今から約1200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩がこの地を霊地とし、観世音菩薩の像を彫って岩崖に納めたことにその創始を見ることができる。延暦の代、奥州征伐のとき、この地に立寄った坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となり、その後、源平の合戦で名高い源範頼みなもとののりよりが吉見庄を領するに及び、本堂・三重塔を建立したが北条氏との戦いですべて消失した。 現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再