平将門神社

平将門平将門死す将門記承平天慶の乱江戸川柳天神信仰・・・
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雑学の世界・補考

■平将門

平将門 (將門)
平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。
生涯
生年について
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、延喜3年(903年)とする。室町後期成立の一巻本『応仁記』(宮内庁書陵部蔵)には「将門平親王」が己酉の歳の生まれと記されており、これによれば寛平元年(889年)である。元慶8年(884年)頃とする説もある。
生い立ちと平氏一族の争い
父の平良将は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊田・猿島両郡であったと考えられている。将門は地方より15 - 16歳のころ平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった(日本外史や神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』の見方がある)。この後将門は東下する。この東下の際、叔父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている。ただし、この戦は後の蚕飼川の戦い(子飼渡の合戦とも)がモデルで、妙見神を讃えるために創作されたもので実在しなかったという説もある。
以後「平将門の乱」へつながる騒擾(そうじょう)がおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない。
〇長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていたため争いが始まった、という説。
〇常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘、或いは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説(『将門記』などによる)。
〇源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説。
〇「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている(将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将とは違うことから)。
承平5年(935年)2月に将門は源護の子・扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にした。そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際に伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙(たいじ)するが、この軍も将門に撃破され、良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放置できず国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国(栃木県)の国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。
同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり公雅や公連とされている)の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。
この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。
平将門の乱
この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明が庇護(ひご)を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野に出兵、事前にこれを察知した守藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。
〇新皇将門による諸国の除目と素性
下野守:平将頼(将門弟)
上野守:多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
上総介:興世王(武蔵権守)
安房守:文屋好立(上兵)
相模守:平将文(将門弟)
伊豆守:平将武(将門弟)
下総守:平将為(将門弟)
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない。
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷に帰ることなく討伐軍長官として出立したという。
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を“浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて2月1日を期して出撃した。将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始するも、元来老練な軍略に長じた秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となる。将門自ら陣頭に立って奮戦したために貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。
この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けるために幸島郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門らにより世が治まらないことを嘆いたという。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。
2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門である。
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。

王城を下総国の亭南(猿島郡石井という説がある)と定め、檥橋を京の山崎、相馬郡の大井の津を大津になぞらえて、左右大臣・納言・参議など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、坂東に京に模した国家を樹立しようとしたとされている。
評価の変遷
歴史学者の川尻秋生は中世の貴族の日記に将門の名が現れるピークが大きく二つあり、一つは12世紀後半の源平争乱期、もう一つが14世紀前半の南北朝の動乱期だとしている。いずれも大きな戦乱が起きた際にその先例として将門の名が挙げられており、中央の貴族にはいわばトラウマの様な形で将門の乱が伝承されていたとしている。 またこれとは別に中世以降、将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により平新皇として受け入れられ、将門伝説が伝承されていったと考えられる。将門伝説は千葉一族の分布する場所に多く見られる。 また当時の史料から東国の民衆は疲弊していたことが伺えるが、その原因について環境史研究の成果から、異常気象などの天災ではなく欲にかられた為政者が起こした人災であったと考えられている。そうした背景から反権力闘争を起こした将門は東国の民衆から支持を得ていたという説がある。 これらから必然的に将門の評価は東西で相反するものになる。
近世になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。その多くが将門を誇張し怨霊として描いており、滝夜叉姫の伝説などが生まれた。将門を日本三大怨霊の一つとするのもこの頃からと考えられる。
明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたり史蹟が破壊されたりした。その結果多くの史料が失われたが、一方で民衆の信仰は厚く、排斥を徹底させることはできなかった。 また、これらの排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる。
戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う。
一方で社会には大河ドラマで取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語』により将門=怨霊のイメージが定着した。
従前の将門研究は文献史料を中心とし歴史学と日本文学史が大きな潮流であったが、史料の少なさからこれらには限界が見られ、今後は考古学や在地社会研究との協業作業が期待される。
伝説
将門伝説の研究者である郷土史家の村上春樹は将門伝説を以下のように分類している。
1.冥界伝説(地獄に堕ちた将門の伝説)
2.調伏伝説
3.祭祀伝説(将門を祀った神社)
4.王城伝説(将門が建設した都の伝説)
5.首の伝説
6.鉄身伝説(将門はこめかみにだけ弱点があると言う伝説)
7.七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)
8.東西呼応の伝説
9.将門一族の伝説
10.追討者の伝説
調伏伝説
千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。
このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、将門が主人公であった1976年(昭和51年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。
尚、これらはあくまで民間伝承であり、神田明神側が出版した本では両方を参拝すると祟りが起こるということはないと明確に否定している。
現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされる祠も祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。
首の伝説
「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれるようにして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。
言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て
将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて。
と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。
また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。
御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。
昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。
将門一族の伝説
遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。
「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、坂東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した源頼朝を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。
系譜
先祖
桓武天皇の曾孫高望王が、寛平元年(889年)平姓を賜わり平高望となる。昌泰元年(898年)に上総介に任じらる。当時の国司は任国へ赴任しない遥任国司であることが常であったが、高望は一族を連れて東下した。そのころ東国では騒乱が多発しており、高望一族には東国鎮撫が期待されていたと考えられる。高望の子らは土豪と血縁関係を結び、後の坂東平氏となる。
父母
〇父:平良持 平高望の三男。従四位下 鎮守府将軍。尊卑文脈などの史料は良将とする。墓は常総市蔵持に伝承が残る。
〇母:一部の系譜には縣犬養春枝の娘と記載される。縣犬養氏は土豪だと言われ、万葉集にみえる縣犬養浄人(奈良時代に下総少目を務める)の末裔とする説もあるが、これらには確証はない。茨城県取手市には縣犬養春枝の屋敷跡との伝承が残る。

将門の婚姻関係については確たる史料がなく、将門記の堀越渡しの合戦にて『将門の妻は夫を去って留められ、怨み少なからず、その身生きながら魂は死するが如し』などと記されるのみである。この妻が誰であるのかについては諸説ある。
〇平良兼の娘 - 『将門略記』に良兼と将門は『舅甥の仲』と書かれている事から、娘が将門に嫁いでいたとする説。これを補足する説として、堀越渡しの合戦で妻が奪われた(原文:妻子同共討取)のは妻が将門の元にいる事を意味し、当時の婚姻制度(通い婚)にそぐわず、将門は妻を良兼の反対を押し切り連れ去っていたとする説や、その後に『然る間、妾(妻の意)の舎弟ら、謀を成し九月十日をもって豊田郡に環り向かわしむ』とあることから、舎弟とは妻の兄弟でなおかつ妻を開放できる立場にあった者、つまり良兼の息子であったとする説がある。
〇君の御前 - 将門の妻は平真樹の娘であるという伝承が茨城県桜川市に伝わる。この伝承によると、将門記の堀越渡しの合戦にて開放された妾(良兼の娘)と討取られた妻は別人で、討取られた妻こそが君の御前であるとする。亡くなった妻を弔ったのが茨城県桜川市大国玉にある后神社(新皇の妻という意味で后)であるという。 また異なる説として、これを逆とする(討取られた君の御前が愛妾で、妻は良兼の娘)とする説もある。
将門の側室(愛妾)について伝承が数多く伝わるが、伝説あるいは創作の域を出ない。
〇桔梗の前 - 桔梗姫ともいう。伝承地により内容が異なるが、『将門の寵姫のなかでもとりわけ寵愛が深かったが、俵藤太秀郷に内通して将門の秘密を伝えた故に将門は討たれ、自身も悲劇的な最期を遂げる』というのが大筋である。また、関連する伝説として桔梗忌避伝承も多い。
〇小宰相 - 香取郡佐原領内の長者牧野庄司の娘で、将門がこの地に逗留した際に目に留まり竹袋の城に囲われたと伝わる(千葉県香取市)。小宰相の名は御伽草子『俵藤太物語』にも見えるが、こちらでは桔梗の前との共通点が多い。
〇御代の前 - 京人の管野某の妻で、管野が将門調伏を志すと共に東下し、将門の妾として大野の城に入り、内情を夫に知らしめたと伝わる(千葉県市川市・御代院伝)。
〇車の前 - 乱の後に千葉県柏市大井に遁れて、将門の菩提を弔ったと伝わる(千葉県柏市大井)。また『相馬系図』によると中村庄司の娘が乱が起こったとき懐妊しており、将門は伯父中村才治に命じて在所の大井に疎開させたとあり、『千葉県東葛飾郡誌』はこの娘が車の前であるとしている。
〇和歌の前 - 茨城県結城市に将門の愛妾で和歌の前の墓が伝わる。和歌が巧みで、将門が下野国府を攻めた際に玉村の某との婚礼を襲い略奪され、この地の綾戸城に囲われたと伝わる(茨城県結城市)。
〇苅萱姫(さくらひめ) - 茨城県美浦村には国香の家臣であった大須賀内記の娘で、将門の死後に身籠っていた信太小太郎文国を生んだと伝わる。文国が育ったとされる信太郡(茨城県稲敷郡美浦村大字信太)は大須賀氏の領地である。

『扶桑略記』の天徳四年(960年)10月2日条に『将門の息子が入京したとの噂がたち、検非違使らが探索をした』との記載がある。そのような息子が実在していたのかは定かではないが、将門の死後20年経ってもなお、朝廷には将門末裔への警戒心があったことが推測できる。
千葉氏は将門の娘・如春尼、相馬氏は息子・将国の子孫であると家系図などで伝わる。また『源平闘諍録』には将門の叔父・平良文は将門の養子になったとも伝わる。ただしこれらの伝承は、千葉一族が脆弱な在地支配や一族の結束を強化するために将門を家系に取り込んだものとし、12世紀〜13世紀ごろに成立した創作とする研究がある。
〇平良門 - 将門の長男とされる人物。良門は将門の復讐を果たすべく挙兵するという話が歌舞伎などで知られているが、そのような事件は史料には残っておらず近世の創作とされる。 また良門の子には蔵念という僧がいたという伝承がある(『今昔物語集』)。
〇平将国 - 将門の次男と伝わる人物で、乱ののちに信太郡に逃れて信太氏を名乗ったとされる。相馬家には将国の子孫・信田師国が相馬師常を養子に迎え、相馬家となったと伝わる(『相馬当家系図』など)。 なお、将国の子とされる信太小太郎文国は幸若舞の信田のモデルとされる。
〇五月姫 - 将門の娘とされる伝説上の人物で、妖術使いとして浄瑠璃などで描かれる。茨城県つくば市には滝夜叉姫の墓と伝わる石板がある。
〇如春尼 - 将門の次女とされる人物。千葉氏などの系図には平忠頼に嫁ぎ、平忠常や平将恒を生んだとされるが、詳細は不明。
〇如蔵尼 - 将門の三女とされる人物。将門の死後、奥州の恵日寺に逃れ寺の傍らに庵を結んだとされる。国王神社は如蔵尼が将門の三十三回忌に創建したと伝わる。  
将門の兄弟
平将為
平安時代中期の武将。平良将の子で平将門の弟。「相馬五郎」と称す。『尊卑分脈』では末弟で将武の弟であるが、『常陸大掾譜』では将武の兄としている。将門私授下総守。
将門が「新皇」を僭称すると下総守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月14日、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、次々と一族郎党は討たれた。
平将頼
平安時代中期の武将。名は将貞とも。平良将の子で平将門の弟。「御厨三郎」と称す。『尊卑分脈』では四男、『相馬系図』では長子の将持がない為に三男である。子に将兼があるとされる。将門私授下野守。
将門が「新皇」を僭称して関東を席巻すると下野守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、後日将頼も相模国にて討たれた。
『将門記』によると、将門の弟達のなかではこの将頼だけが「朝臣」の称号を持っているため、国衙において何かしらの官位を持っていたと思われるが詳細は不明。
平将平
平安時代中期の武将。平良将の子で平将門の弟。豊田郡大葦原に居を構えていた事から「大葦原四郎」と称す。『尊卑分脈』では五男、『相馬系図』では長子の将持がない為に四男である。将門私授上野介。
兄の将門の新皇即位について伊和員経らと共にこれを諌めたが、聞き入れられなかった。それが原因であるのか、『相馬系図』では新皇将門によって上野介に任ぜられているが、『将門記』などの書物では上野国は上野守に任ぜられた多治経明の任国となっていて将平の名はない。
天慶3年(940年)2月、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、将平は追捕を免れようと埼玉県秩父郡の城峯山中に潜伏したと伝えられ、同地の皆野町にある円福寺に墓が祀られている。
将門記​ / 将平の諫言
「夫レ帝王ノ業ハ、智ヲ以テ競フベキニ非ズ。復タ力ヲ以テ争フベキニ非ズ。昔ヨリ今ニ至ルマデ、天ヲ経トシ地ヲ緯トスルノ君、業ヲ纂ギ基ヲ承クルノ王、此レ尤モ蒼天ノ与フル所ナリ。何ゾ慥ニ権議セザラム。恐ラクハ物ノ譏リ後代ニアラムカ。努力云々」 (「だいたい帝王の業というものは、人智によって競い求むべきものではなく、また力ずくで争いとるべきものではありません。昔から今に至るまで、天下をみずから治め整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべてこれ天が与えたところであって、外から軽々しくはかり議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の譏りを招くことに違いありません。ぜひ思いとどまりください。」 )
平将文
・・・「私どもの先祖と将門との間に格別の関係があった為に、他では手に入らないような資料が残っており、私が世に出さなければ永久に消え失せてしまう事をおそれたのである。私どもの一家は現存記録をたどりうる限りにおいても、49代まえまでさかのぼることのできる、いわば東国の豪族の末裔である。・・・・土着の古さにおいては将門の先祖などを遙かにしのぐ重みを持っていたらしく「天慶の乱」では、将門を鼓舞激励し、彼の決起に力を貸したらしい形跡もある。・・・・将門を推理するに役立つ「門外不出」の資料も、今なをかなり保存されている。・・・・」
山崎氏の妻方の家系というのは染谷氏で、その実家の近くには染谷川という古戦場もあり、山崎氏自身猿島に近い埼玉県北葛飾郡庄和町に住んでいて、少年の頃から将門の由緒になじみがふかいという。
私は「平将門と武蔵武芝」のサイトで豊嶋氏の祖の将恒は将門の娘と村岡二郎忠頼の間に生まれたのであろうと推理した。これはあくまでも名前の「将」からの推理で確信のあるものではなかったが、山崎氏はそのことを次のように書いている。
第二の将門といわれる平忠常の父の村岡二郎は、将門の女を娶っていた関係もあって、父の五郎将文と共に、将門を裏面から助けたが、将門の没後も無事であり、将門の旧領の大半(千葉・相馬)を受け継いだ。
ただ、山崎氏は忠頼の父を将文と書いているが、村岡五郎平良文というのが通説である。もし将文という呼び名が山崎家の記憶、あるいは文書の中にあるとする と、前にも述べたように、良文が将門の養子になったという説に符合し、私の系図を書き換える必要に迫られるが、実際には良文の方が将門より10何歳か年上 のはずである。
そして『将門記』に登場する平将文は、新皇宣言の後に行われた除目で相模守になった将文がいる。彼は将門の4番目の弟として位置づけられている人物である。
しかし村岡という地名は相模國鎌倉にもあり、村岡の名の起こりの最有力といわれているから、あながちこの説を否定はできない。 ・・・
平将武
平安時代中期の武将。平良将の子で平将門の弟。「相馬六郎」と称す。『尊卑分脈』では七男で将為の兄であるが、『常陸大掾譜』では将為の弟となっている。将門私授伊豆守。
『本朝世紀』の「天慶元年(938年)11月3日の条」によると、駿河・伊豆・甲斐・相模の四ヶ国に将武の追捕令が発せられており、将門が乱をおこす以前から伊豆・相模辺りを拠点に猛威を奮っていたとみられている。
将門が「新皇」を僭称すると伊豆守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月14日、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、将武も討たれ同年3月7日甲斐国飛駅は「将武誅殺」を朝廷に報告した。
平将種
『師守記』に、天慶3年4月12日に将門の弟の「将種」なる者が舅の陸奥権介伴有梁と共に謀反を企てたとあり、この「将種」は諸系図を見てもその名は無く、ゆえに「将種」は「将為」であるともいわれる。
平将広
『筥根山縁起』には「将広」と、諸系図にある人物以外にもいたともいわれる。  
平将門系図
桓武天皇─葛原親王┬高棟
              └高見王─高望┬国香 (常陸大掾)
                        │ ├─────┬貞盛 (左馬介・常陸掾)
                        │ 源護の女   └繁盛
                        ├良兼 (下総介)
                        │ ├─────┬公雅
                        │ 源護の女   ├公連 (下総権少掾)
                        │          └女 (良子:将門の妻)
                        ├良持(鎮守府将軍)      │
                        │ ├─────┬将門 (瀧口小次郎)
                        │ 女        ├将頼 (御厨三郎)
                        │          ├将平 (大葦原四郎)
                        │          ├将文
                        ├良正       ├将武
                        │ │        ├将為
                        │ 源護の女   └将種
                        ├良文(村岡五郎)
                        │ ├─────┬忠頼
                        │ 女        └忠光   
                        └─女
                           ├──────藤原為憲
                         藤原清経 
 
平将門公 年表 
天平2年 730 
   神田明神、武蔵国豊島郡芝崎村(現・大手町の将門塚、一説に韓田)に創建。
貞観5年 863 
   関連事項 5月20日神泉苑で御霊会を行い、祟道天皇・伊予新王・藤原吉子・藤原
   仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂の霊を祭る。
延喜3年 903 
   平将門公、誕生。
   2月25日 菅原道真公、没(59)。
延長9年 931 
   将門公、女論により叔父平良兼と対立。
   また、将門公、亡父良持の遺領のことにより良兼と戦うとも。
承平5年 935
   2月2日 将門公、常陸の野本付近で源扶などに要撃される。(記)
   2月4日 将門公、源護の本拠を襲ってこれを焼く。
      源護の子扶・隆・繁ら討たれ、叔父国香も焼死する。
      子貞盛、変を聞き急ぎ京より帰国するも、将門公との争いを避ける。
   10月21日 叔父良正、源氏との因縁により兵を集め将門公を攻める。
      将門公、新治郡川曲村においてこれを破る。
承平6年 936
   6月27日 良兼、水守で良正・貞盛と合流し、下野国境で将門公と対戦。将門公こ
      れを撃破し、下野国府に追い詰めるも囲みを解いて良兼を遁れさせる。
   10月17日 将門公、召喚の官符びより急遽上洛し検非違使庁において裁かれる。
承平7年 937
   4月7日 将門公、朱雀天皇元服の恩赦により罪を許される。
   8月6日 良兼、兵を発し常陸・下総の境子飼の渡しに将門公を攻める。
      将門公敗退し良兼ら豊田郡栗栖院常羽の御厩を焼く。
   9月23日 将門公、弓袋山に良兼を攻めるも勝敗決せず(一説)。
   12月14日 良兼、将門公の駈使丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探らせ
      夜討をかける。将門、奮戦してこれを退ける。
天慶元年 938
   2月29日 貞盛、山道よりひそかに上洛を企てる。将門公、これを信濃国小県群の国
      分寺付近に追撃する。貞盛、辛うじて遁れ上京して将門公の非行を訴える。
   2月 武蔵国庁において、権主興世王・介源経基と足立郡司武蔵武芝が対立する。
   5月22日地震や兵革の慎みにより天慶と改元。
天慶2年 939
   2月12日 太政大臣藤原忠平、貞盛の訴えにより将門公を召喚しようとする。
   3月3日 将門公、武蔵国庁の紛争調停のため出兵する。興世王と武芝を和解させ
      るが、径基これを疑い上洛して将門公ら謀叛の由を朝廷に密告する。このた
      め政府は、四、九、二十二日に伊勢神宮をはじめ諸社社寺に祈祷し奉幣する。
   4月17日 出羽国から俘因の反乱のことが奏上される。
   5月2日 将門公、常陸など五ヶ国の解文を添えて謀叛無実の由を忠平に言上する。
   5月 諸国の善状により将門公のため功課あるべき由、宮中に議せられる。
   6月21日 変乱のト占があり、東海・東山などの諸国で神仏に祈らせる。
      また同日、相模・武蔵・上野などに群盗追補の官符が下る。
   6月 良兼、病床に臥し剃髪して卒去する。
   6月 貞盛、将門公追補の官符を得て帰国するも将門公の勢威強く沈吟する。
   6月 興世王、新司百済貞連と和せず出奔して下総国に寄宿する。
   6月 常陸国の住人藤原玄明、濫悪を事として長官藤原維幾の制止を聞かず。
      将門公これを庇護し維幾と対立。
   7月5日 京都朝廷、権律師義海に東国の兵乱を平定するための修法をさせる。
   11月21日 将門公、玄明の追補令の撤回を求めて常陸国府に出兵。
      交戦してこれを焼き長官維幾らを捕らえ、印鎰を奪う。
   12月11日 将門公、下野国府を襲って印鎰を奪い長官藤原弘雅らを官堵に追う。
   12月15日 将門公、上野国府を攻略し印鎰を奪い長官藤原弘雅らを追放する。
   12月19日 一巫女、八幡大菩薩の使と称して将門公を皇位に即けんと告げる。
      将門公、新皇と自称する。
   12月26日 藤原純友の士卒、摂津国において藤原子高らをおそう。
   12月29日 将門公謀叛の報が入り、また純友の事件もあって殿上で対策が検討さ
      れる。
   12月 将門公、書を私君忠平に送り心緒を陳べる。
   12月 将門公の弟将平・内堅伊和員経ら、将門公を諌止するもこれを聞かず。
   12月 将門公、除目をおこない東国の国司を任命しついで王城建設の議を発する。
   12月 将門公、武蔵・相模を巡検し印鎰を領掌する。また天位に預るの書状を朝廷
      に送る。
天慶3年 940
   1月3日 七段修法が始められる・同日、宮城の四方の諸門に矢倉を構築する。
   1月6日 東西の兵乱により吾畿七道の諸神に各位一階を授けて祈念する。
   1月7日 東西兵乱を祈申させるため、伊勢神宮に使者を遣わしたが触穢により幣物
      奉らず。21日に改めて幣帛使を派遣する。
   1月 将門公、吉田郡蒜間の江の辺において貞盛・源扶の妻を捕える。
      将門、これを本土に放免する。将門公、軍を解き諸国の兵を帰休させる。
      のこるところの手兵千人にたらず。貞盛、このことを聞き下野押領使藤原秀郷
      と四千余の兵を率い将門を攻めようとする。
   2月1日 将門公、貞盛らの軍勢を防ぐため下野に出兵するが副将藤原玄茂らの軽
      拳により敗北する。秀郷らこれを川口村に追撃する。
      将門公、奮戦するも及ばずして敗退し幸島郡の弘江に遁れる。
   2月13日 貞盛・秀郷ら、兵を倍にして下総の境に進出、将門公の舎宅を焼く。
   2月14日 平将門公、北山に陣して平貞盛の軍と交戦。激戦ののち神鏑に射られ戦
      死する。
   2月 将門公の兄将頼および玄茂ら、相模国において殺害される。
      興世王、上総国において誅殺される。坂上遂高・藤原玄明ら、みな常陸国にお
      いて斬られる。
   4月25日 将門公の御首、藤原秀郷により京都に届けられ東市に梟首。
      その後、将門公の首、所縁の者たちにより神田明神の傍に埋葬される。
   6月 将門公、中有之使により冥界の消息を伝えるとの巷説が流布する。
   6月 『将門記』成立。
天慶4年 941
   6月20日 藤原純友、橘遠保により射殺される。
天徳4年 960
   10月2日将門公の男入京の噂があり検非違使と満仲らが警固。
天禄3年 972
   2月14日将門公の娘・如蔵尼により国王神社(茨城県岩井市)創建。
承徳3年 1099
   1月25日『将門記』真福寺宝生院において書写(真福寺本・大須本)。
建久3年 1192
   7月12日源頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府開府。
徳治2年 1307
   真教上人、将門公の霊を化導し蓮阿弥陀仏の法号を授け板碑を建立する。
   この時、将門公の墳墓の傍らに芝崎道場日輪寺開基。
延慶2年 1309
   真教上人、将門公の御霊を日輪寺の傍らにある神田明神に合祀。 
 
平将門と東京
千年くらい前の事、平安時代の中期、関東武士の平将門は、京都の朝廷(天皇)の圧政に反旗を翻し、関東に独立国家を築こうと戦を仕掛け、京都まで攻め入った。世に言う「平将門の乱」である。
将門は戦術に長けていたが、戦場でも武士としての礼節を重んずる武将であったが、朝廷側にその隙を突かれ、志半ばで弓矢に倒れてしまう。反逆者として首を切られ、京都でさらし首にされた将門の首は、腐る事もなく、胴と離されているのに三ヶ月も呻き続け、その首は自らの意思で江戸に飛んで行き、今の東京の大手町一丁目に落ちたという。そこに誰かが、首だけになって江戸に帰ってきた将門を弔って、小さな首塚を作った。
そこから、首塚信仰が始まり、首塚の隣に将門公を祀った神田明神が出来た。
その後、将門の兜が戻り、江戸の地に兜神社が建ち、次は鎧神社だなんだと、半ば史実があやふやになるが、築土神社、水稲荷神社、鳥越神社などが建ち、神田明神と首塚を含めた7つの社ができた。
江戸時代
時は流れて、関ヶ原の合戦に勝利し、天下統一を果たした三河(愛知県)の武将、徳川家康が江戸に幕府を開いた。当時の江戸は、河が多く、水に恵まれた土地ではあったが、毎年氾濫して辺りは沼だらけの荒れ地だった。そんな土地に幕府を開くなどと、当時、征夷大将軍の位を授かった折に家康は、朝廷に笑われたと言う。
だが家康は、大規模な治水工事などをして、発展する土地に開拓した。そして、江戸の街を霊的な守りで固めるべく、将門の霊力を借りるべく、7つの社を、将門公が信仰していた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に配置した。
家康は、将門公が作ろうとしていた江戸の都をリスペクトして、江戸幕府を開いたのである。そして更に遺言を残し、自らを日本の守護神として駿河国久能山(静岡県)に墓を作り、東照宮の柱として祀らせ、江戸の鬼門の方角に当たる日光に東照宮の本山を作らせ分祀した。江戸には寛永寺と増上寺を作り、神仏一体の守りを固めた。
かくして江戸は物理的な都市計画だけでなく、霊的な防衛機能を備えた都市となり、江戸の街は栄え、日本の歴史上、最も長い平和な時代になったのである。
明治時代
そして、江戸幕府は倒れ、明治維新が起こった。明治政府は江戸を東京に改め、京都の朝廷を東京に移設した。朝廷に反逆した逆賊である将門に、東京を守らせる訳には行かず、霊的な防護を見直す事となった。将門公を朝敵である為、天皇の治世になれば、将門の霊は怨霊となってしまう。そのため、九段坂に東京招魂社をを創設。現在の靖国神社である。
通常、守りの神社は鬼門に向けて鳥居を立てるが、靖国神社は東向きである。本殿から鳥居を結ぶ直線の先には、将門公を祀る神田明神がある。つまり靖国神社は、将門公の怨霊から、皇居を守るために建てられたのである。問題は将門公と戦わせる為のその祀神。最初は幕末維新の犠牲者が合祀され、その後も戦没者などが次々と合祀された。靖国神社の鳥居は神明系だが、神明の神は祀られておらず、国のために戦って死んだ国民が、靖國神社の柱に合祀され、将門公の怨霊に対する盾として使役されているのだ。そして明治政府は靖国神社を中心に、霊園を作り、死者を使った霊的防衛要塞を築いたのである。
明治政府は靖国神社が完成すると、神田明神の将門を祀神の座から降格させ、神田明神内に将門神社を作り、そこに封印してしまった。更に明治政府が将門の結界を弱める計画は、神社だけでなく、更に鉄の結界を用いて、北斗七星をズタズタに分断したのだ。その結界とは、山手線である。
長期の計画で、鉄の輪による結界の分断で、将門の力を弱めようとした。更に中央総武線で、八王子の天皇陵から首塚までを結んで、天皇の霊力を流す鉄の結界を敷き、首塚を北斗七星の結界から独立させた。
緑の線が山手線。赤の中心が靖國神社。
あと一区間で山手線の鉄の輪が完成するという大正12年、ついに将門公の怒りが爆発した。関東大震災である 。死者10万人を超える大災害は将門公の怨念がもたらしたと言われている。この災害により、山手線の工事は、大幅に遅れ、多くの建物が倒壊したが、将門の首塚は残った。
そして、震災復興計画で、首塚を整地して、大蔵省の庁舎を建て直す事が決まり、大正14年に山手線が完成すると、程なく現職の大蔵大臣が体調不良で入院。3ヶ月後には死んでしまった。その後も大蔵省と工事関係者14人が不審な死を遂げた。
これにより大蔵省の建設計画は中止となり、首塚を建て直し、神田明神から宮司を読んで、将門の鎮魂をしたのだが、正15年。大正天皇が47歳の若さで崩御。政府は天皇を将門から守りきれなかった。
戦後、焼け野原になった東京は、GHQにより首塚を整地して、駐車場にしようとしたが、ブルドーザーが横転し、GHQが政府関係者に説明を求めたが、将門やら祟りやら、古墳やら言っても分かって貰えなかったが「古の時代の大酋長の墓だ」と説明し、GHQを納得させた逸話が残っている。また、築土神社は空襲で焼失し、靖国神社の鳥居の目の前に移設され、北斗七星の形は崩されてしまった。
そして、昭和の末期、昭和59年。神田大明神の祀神に将門公を戻した。昭和天皇たっての希望であったと言われている。  
 
将門の名誉回復
左遷された菅原道真は、死後20年を経て右大臣に復されるとともに正二位を追贈され、名誉が回復された。西南戦争で決起した西郷隆盛は朝敵となったが、12年後の大日本帝国憲法発布に伴って正三位を追贈され、汚名が雪がれた。では、逆賊とされた平将門の場合はどうなのだろうか。
常総市蔵持の蔵持公民館近くに「平将門公赦免供養之碑」がある。「蔵持建長銘板碑」として市指定文化財(考古資料)となっている。石材は黒雲母片岩である。
三つの碑が並んでいる。右から「平将門公赦免菩提供養之碑」、「平将門公菩提供養之碑」、「鎮守府将軍平良持公菩提供養之碑」である。赦免とは罪を許すことだし、慰霊が公に行われるのは名誉が回復されたことを意味する。詳しいことを常総市・常総市教育委員会の説明板で読んでみよう。
「この碑は以前、これより東南方、八〇〇メートルの地、西に富士ヶ嶺、東に筑波の霊峰を望む鬼怒川河畔の御子埋台地(平将門公一族墳墓之地)引手山の一廓にあったが、昭和五年河川堤防改修の際、建設省並びに蔵持地区の人々によって大切に移設されたもので、往古はその数四基を数えたが建長六年の建碑が旧縁によって新石下妙見寺から西福寺へと移されたため今は三基が現存しているものである。右端の碑は、鎌倉幕府第五代執権北条時頼公が民生安定の一助として、この国の先霊を慰めんものと志し、若宮戸龍心寺境内に豊田四郎将軍の供養塔を寄進したのに続き、将門公の祭祀なおままならざることを聞き及び、同年自ら執奏勅免を得て下総守護千葉氏第15代胤宗公をして供養なさしめたものと云われ、建長五年十一月四日の建碑がこれである。中央にアン(無我)・サ(観音)・サク(勢至)の梵字を配し、婆婆の災禍を遠離せしめ、清浄涅槃の極楽に往生させるものと云う。中央の碑は、所縁の類講これを欣喜し、結願成就を唱えて正面に大キリク(阿弥陀)を配し建立しに建長六年二月十四日の碑(西福寺在)に続いて大勧進供養を行ったもので建長七年二月十四日の建碑。左端の碑は、建長八年五月二十四日父良持将軍を供養したものと云われ、このほか兄将弘公のものもあったと伝えられている。この碑の前は、古くから乗打禁止とされ、必ず下馬して怪我のないように祈る風習があり荒ぶる神として畏敬されていた。地区の人々はこの碑を別名不動石、阿弥陀石と称して崇め、毎年二月十四日の命日にはキッカブ祭りを行ない白膠木(ぬるで)の木で作った刀、槍その他を供えてその慰霊を慰めて来た。」
これらの碑が元あったという「平将門公一族墳墓之地」については別途紹介する。碑の移設が昭和5年なら河川堤防改修の所管は内務省だったはずだ。西福寺に移された碑については後述する。
右端の碑は、建長5年(1253)に執権北条時頼が朝廷の許しを得て、供養を千葉氏に行わせたものという。ただし、建長5年当時の千葉氏当主は頼胤である。
中央の碑には建長7年(1255)2月14日の日付がある。2月14日はバレンタインデーではなく平将門の命日である。赤木宗徳『新編将門地誌』(筑波書林)に引用されている飯島六石『結城郡郷土史』によると、この碑には、「赦将軍太郎進阿弥陀仏□□守護□□□」と刻まれているという。天慶3年(940)から315年を経て将門は赦免されたのだ。
左端の碑は、建長8年(1256)に鎮守府将軍平良持、すなわち将門の父を供養したものだという。これらの碑の前は乗打(のりうち)禁止、つまり馬や駕籠に乗ったまま通り過ぎることはタブーとされていた。
将門を追悼する「キッカブ祭」について、村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(公孫樹舎)は次のように説明する。
平将門の命日、二月十四日を祭祀日と定めて、白膠木で作った刀剣、槍などを霊前に供える。平将門の戦死は、白膠木の切り株に躓いたため、矢で射られたことに由来するという。
それは気の毒だ。武運つたなく討死したのであって、逆賊ゆえに必然的に討滅されたわけではない。
あともう一つ、建長6年(1254)の碑は西福寺にあるという。さっそく訪れてみよう。
常総市新石下の壽廣山観音院西福寺の門前に「平将門公菩提供養之碑」がある。「西福寺の建長銘板碑」として市指定文化財(考古資料)となっている。石材はやはり黒雲母片岩である。
この碑について、常総市・常総市教育委員会の説明板は、建長五年の勅免について述べた後、次のように言う。
「建長六年将門公の命日は二月十四日に、このことに歓喜した縁者伴類多数の講中が、豊田、小田(四代時知)両氏の助力を得て、建碑供養を行ったものであるという。」
やはり蔵持の板碑と同類だと分かる。豊田氏や小田氏など関東の武者にとって、将門は顕彰すべき先駆者だったのだろう。
ただ、面白いことに、この板碑には次のような後日談がある。出典は『平将門伝説ハンドブック』である。
「縄かけ炎石 御子埋の碑一基は、平将門の崇敬した妙見菩薩を祀る妙見寺に移された。その後、妙見寺が廃され、現在は、西福寺に建てられている。かって、江戸の旗本が縄をかけ、持ち去ろうとした時、炎を吐いたというので、恐れて逃げたという話を伝えている。」
説明板によれば、このオカルトチックな話は天保年間の出来事だという。また、この石に縄をかけると病が治るとも言われているようだ。
以上紹介した4基の碑がもとあった場所がここである。
常総市蔵持に「平親王将門公一族墳墓之地」がある。
この辺りは「みこのめ」と呼ばれ、かつては御子埋、今では神子女と書き表す。地名の由来について、日本の伝説37『茨城の伝説』(角川書店)を読んでみよう。
「天慶三年(九四〇)に将門が北山で戦死すると、その死体をすぐにここへ運んできて、埋葬したといわれている。ここには良持と兄の将弘も埋葬されていたという。御子埋は良持の子という意味だそうだ。」
なるほど、やはりここは平将門公と父と兄の埋葬地、「一族墳墓之地」だったというわけか。この地の説明板(常総市・常総市観光協会設置)で、もう一度おさらいしておこう。
「この地及び西方一帯の丘りょう引手山と云い、台地全体を俗称して御子埋と云う。この地点には古くから雲母片岩質の巨石板碑群があり、碑は「馬降り石」と呼ばれ前を通るときは必ず下馬して怪我のないように祈る風習があった。又、御子埋に接する引手山の一廓は乗打すると落馬すると恐れられ、手綱を引いて通り過ぎなければならないと畏敬されていた。この地はそもそも平将門公の父従四位下鎮守府将軍平良持公並びに兄将軍太郎将弘公等の墳墓の地であったが、天慶三年二月十四日将門公石井の地に戦死するに及び豊田の郎党主君の遺骸を葦毛の馬に乗せて秘かに遁れ来たり、泣く泣く兄父の墓側に葬り悲しかりし当時の有様を語り伝えたのが、謎の御子埋物語であるという。貞盛、公連等の豊田に対する掃討は残虐を極め、その供養も思うにまかせぬこと三百十余年。時に鎌倉幕府五代執権北条時頼公ありてこの事を聞かれ給い祖志を同じくする身の不遇を憐れみ、自ら執奏して勅免を受け、下総守護職千葉氏第十五代胤宗公に命じて一大法要を営ません、建長五年十一月四日の建碑これなりと伝う。これより連年将門公所縁の類講らによる建碑供養の大勧進が行われ、良持、将弘両公の菩提に及ぶ、蔵持部落では、この勅免供養の碑を不動石或いは古不動様と呼び慣わし、例年二月十四日将門公の命日を祭祀日と定め「キッカブまつり」を行って一族の遺霊を慰めて来た。今に現存する古碑は四基で、一基は新石下の寿広山観音院西福寺に、三基は蔵持の阿弥陀、観音両堂の傍らに安置されている。」
将門の名誉回復は、三百年の時を経て建長年間に執権北条時頼によって行われた。めでたしめでたしと終ればよいのだが、そうでもない。吉川英治の傑作『平の将門』の終わりに次のような注目すべき記述がある。
「江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。」
朝廷の許しが得られたのが寛永3年(1626)である。とすれば686年ぶりに冤罪が解かれたのか。しかし、話はこれで終わらない。明治7年に教部省の指示により、逆賊将門は神田明神の祭神から外されることとなった。
現在はだいこく様、えびす様と並んで将門が主祭神として祀られている。ただし、これは昭和59年(1984)のことである。とすれば1044年ぶりに名誉が回復されたということだ。
なにせ、逆賊の中でも「新皇」と皇位を僭称した者は将門だけである。それだけ罪が重いということか。いやいや、将門公を英雄視する関東の武士団や江戸っ子たちにとっては、勅免など関係なかった。新しき世を創ろうとしただけであって、悪事など何もしでかしていないのだから。  
 
■平将門死す  

 

猛将・平将門を射抜いた神鏑(しんてき) 
一時、絶大な武力を誇った「平将門」は、いずくからともなく飛んできた「一本の矢」に倒れた。その矢が乗ってきた風こそが、春の風だと言うのだが…。
将門のコメカミを射ぬいたという矢は、「将門記」によれば「神鏑(しんてき)」と表現されている。将門は「目に見えない神鏑」に当たり、「地に滅んだ」とされ、それは「天罰」だとも書かれている。
天が起こした一陣の風、それは春の訪れを告げるという「春一番」ではなかったのか、ということだ。その風が吹くや、「馬は風飛のような歩みを忘れ、人は李老のような戦術を失ってしまった」のである。
「将門記」による「将門の最期」の場面では、丁寧に「風」の状態が記されている。
戦いの序盤においては、将門が「風上(順風)」にあり、敵方である藤原秀郷・平貞盛は「風下(咲下)」にあった。轟々と吹き荒れる強風は、両軍の「盾」を軽々と吹き飛ばしてしまったため、両軍ともに「盾を捨てて合戦した」ほどである。木々の枝は風に鳴り、地鳴りとともに砂埃が舞い上がる。
対峙したばかりの両軍には、明らかな戦力差があった。将門400に対して、秀郷・貞盛はおよそ3,000(将門の7倍以上)。将門の軍勢は先の合戦において大敗し、将門はその敗走の途上にあったのである。
それでも将門の軍勢の精強さは比類ない。「賊軍(将門)は雲の上の雷のようであり、官軍は厠(便所)の底の虫のようだ」。加えて、強烈な追い風(順風)が将門に味方したのである。官軍は瞬く間にその数を減らし、3,000もいたはずの兵が、いつの間にやら300にまで激減してしまっていた。
自らの強さに酔う将門。まさか、この後の惨事を知りようもない。
その時である。悠々と本陣へ帰還しようとしていた将門の背後から、とんでもない突風が吹きつけたのは。今までの風が急反転。風上は風下に変わり、そして、その風が一本の矢(神鏑)を乗せてきた。将門には「六人の影武者」がいるとされ、将門本人を特定するのは至難の業とされていた。ところが、その神鏑は「白い息」を吐くという本物の将門を知っていた(影武者は藁人形と言われており、吐く息は白くならない)。
それでも、将門の全身は「鉄」のように固く、矢も刀も受け付けないはずだった。しかし、なぜか「コメカミ」だけは「生身」であった。神鏑は、将門唯一の生身の部分であるコメカミを正解すぎるほどに射抜くことになる。
まさかの討ち死。以後、首を刎ねられ、都に晒し首とされた将門は、切り離された胴体を求めて怨霊と化すことになる。※その祟り(たたり)を鎮めるために、「胴体」は神田明神(「かんだ」は身体に通ず)に、「首」は将門塚(首塚)や御首神社などに祀られている。その周辺で奇怪な死が起こるたびに、「将門のタタリ」は現代でも取り沙汰される。
春の嵐は予断がならない。平将門ほどの歴戦の猛者とて、そうであった。春一番が様々な悪事を引き起こすのは、将門のタタリの一つなのでもあろうか。
平将門を襲った風は、急にその方向を真逆に変えたのだというが…。風向きというのは、一日の合戦の最中にそれほど大きく変わるものなのであろうか。
気象予報士によれば、それは十分にあり得ることなのだという。寒気と暖気の境をコロコロと転がりながら右(東)へ移動する低気圧は、南(下)からの風を日本列島にもたらすものの、その前線が過ぎてしまえば、今度は真逆の北(上)から寒風が吹き降ろす。いわゆる、春一番のあとの「寒の戻り」を誘う風である。前線の移動スピードが早ければ、風が逆転することに1時間もかからないのだそうだ。
将門最期の戦は、そんな気まぐれな春の風に翻弄されたことになる。その序盤では「春一番」に助けられ、そして終盤、「寒の戻り」によって逆転させられてしまったのである。
暦をめくれば、今は立春(2月4日)と春分(3月20日)の間にあり、まさに春一番の吹く季節。春夏秋冬、4つに分けられる季節は、「二至(冬至・夏至)」と「二分(春分・秋分)」を各季節の「中心」と定め、その各季節の境として「四立(立春・立夏・立秋・立冬」を設けてある。すなわち、立春と春分に挟まれた今(3月6日)は、寒さのピーク(立春)を過ぎ、春がそのピーク(春分)に向かわんとしている時なのである。
中国の五行思想によれば、この季節は「風」と関連が深く、人間の「怒」を乱すとも言われている。「努」を起こすのは「自律神経(交感神経・副交感神経)」の乱れとされ、その自律神経を司るのは「肝臓」である。春のもたらす春一番が「風邪(ふうじゃ)」を暴れさせ、それが人の感情を揺さぶり、肝臓をも弱らせるとのことだ。
春の風は、大地を吹き抜けるばかりでなく、人の感情をも逆撫でにするということか。それは、冬のもつ「陰の力」と春のもたらす「陽の力」がせめぎ合うためでもあると説明される。※そのせめぎ合いは、シベリアの寒気と南太平洋の暖気の如し。
春の陽は暖かさを導く一方で、「乾燥」をも招く。陰の気が「鎮静」と「潤い」を人に与えるのに対して、陽の気は「興奮」と「乾燥」をもたらす。このバランスが崩れた時に、「風邪(ふうじゃ)」は暴れ、人はそれに翻弄される。
今は陰の気が尽きようとする季節。風邪(ふうじゃ)に害されぬためには、残り少なくなった「陰の気」を大切にすることが肝要である。「秋冬養陰」とも言われるように、この寒い季節に「陰の気」を養うことで、「衛気(えき)」と呼ばれる身体を守るバリアが強められ、風邪(ふうじゃ)を寄せ付けなくさせるのだという。
春という希望の到来は、まことに好ましい。しかし、その希望のもたらす「負の側面」もあることにも目を向けるべきである。急激な変化は、過剰な風(春一番)を巻き起こし、そして、再び寒気をも招き込む(寒の戻り)。一方、寒さという好ましからざる事態にも、「正の側面」があることも認識すべきである。人間にはこの時期にしか養えない「気(衛気)」もあるのである。
我々の時代は今、季節が変わるように、変化を迎えようとしているのかもしれない。 
 
平将門死す   茨城県坂東市
平将門―清盛・頼朝に先駆けた関東の英雄―
平将門は平安時代中期の武将。一族の領地争いから国府焼き討ちに発展、やがて関東を席巻して新皇(しんのう)を名乗り、京の朝廷をまねて文武百官を任命、王城建設を議すに至ります。しかし従兄弟である平貞盛(生没年不詳)と藤原秀郷(生没年不詳) の連合軍と幸嶋郡北山(さしまぐんきたやま・現茨城県坂東市付近)の合戦 に敗れ、天慶3年(940)2月14日志半ばに戦死します。
将門の祖父、高望王(たかもちおう、生没年不詳)は、桓武天皇の曾孫にあたり、臣籍に降下して平(たいら)の姓を賜ります。寛平元年(889)のことで、後に平清盛(1118〜81)らが活躍する桓武平氏がここに誕生します。当時は藤原氏が朝廷の高位高官を独占し、皇族といえども官職に就くことは容易ではありませんでした。高望は、いまだ未開の土地が広がっていた東国に平氏一門の未来を賭け、上総国の太守(たいしゅ)となって任国に下ったのです。かれの子供たち、国香(くにか、?〜935)や良兼(よしかね、?〜939) )も常陸国・下総国の要職に就き土着していきました。
将門の父、良将(生没年不詳:良持ともある)は鎮守府将軍に任じられるほど、武勇に優れた武将でしたが、子供たちが一人前になる前に早世してしまいます。この良将の遺領をめぐる一族の争いが「平将門の乱」の発端になったといわれています。
乱の経緯や背景は、事件後あまり時をおかずに書かれたといわれる『将門記(しょうもんき)』で知ることが出来ます。また、『九条殿記(くじょうどのき)』や『扶桑略記(ふそうりゃくき)』といった朝廷側の記録にも記述が見られ、ほぼ同時期の天慶2年(939)に西国で起きた「藤原純友の乱」とともに、京の都を震撼させた大きな事件であったことが読み取れます。
貴族たちが、華やかな王朝文化を謳歌していた頃、 武士や農民を従えて坂東8カ国の独立を目指して戦った男、平将門。その想いは坂東武者に受け継がれ、250年の時を経て、源頼朝(1147〜99)による鎌倉幕府の成立となって結実するのです。
将門伝説と相馬氏
朝廷や公家から見ると大悪人の代名詞のような平将門ですが、武士たちにとっては武家社会への扉に手をかけた先駆者であり、崇拝すべき対象でした。特に将門の正当な後継者として名乗りを上げたのが、平氏の流れを汲む千葉氏とその支族である相馬氏です。
中世の柏市を含む旧相馬郡(現在の千葉県北部から茨城県南部)を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承はよく知られていますが、そのもとになったのは将門が相馬郡に都を建設したという伝承です。
『将門記』には、「将門が下総国の亭南(ていなん・比定地については諸説あり)に王城を建設した」とする記述があります。その後に編さんされた『保元物語(ほうげんものがたり)』・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』・『太平記(たいへいき)』などでは「将門が下総国相馬郡に都を建設し、自ら平親王(へいしんのう)と名のった」と記述され、「下総国の亭南」がいつのまにか「下総国相馬郡」に変わっています。 このような相馬郡と将門との関係は、相馬郡を支配した相馬氏と将門との関係に発展していきます。
相馬氏の初代相馬師常(もろつね・1143〜1205) は千葉常胤(ちばつねたね 1118〜1201) の二男です。この相馬家の本家である千葉氏と将門との結びつきでは、『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』のなかで千葉氏の先祖である平良文(たいらのよしぶみ)が、甥である将門の養子になったと記述されているのです。その後、千葉氏の一族として相馬御厨(そうまのみくりや・前述の相馬郡とほぼ同じ範囲と推定)を支配した相馬氏が誕生し、将門の子孫としての相馬氏という位置づけが完成します。
その一方で、将門の直系の子孫が相馬氏であるという伝承も存在しました。将門の死後、その子孫は逃れて常陸国信太郡(しだぐん・茨城県土浦市周辺)に移り信太氏を名のりますが、その後、相馬郡にもどって相馬氏を名のります。ところが、数代か後の相馬師国(もろくに)に後継ぎが無かったため、千葉常胤の二男師常を養子に迎えたというものです。この内容は、中世に生まれた「幸若舞(こうわかまい)」の一つで、将門の孫である文国と姉千手姫(せんじゅひめ)の貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)である『信太』にもみられます。中世、下総国相馬郡を支配した相馬氏は、鎌倉時代末期、その一部が陸奥国行方郡(なめかたぐん・福島県南相馬市)に移住し、下総相馬氏と奥州相馬氏に分かれます。将門の子孫が相馬氏であるという伝承は、江戸時代の少し前には下総相馬氏に存在していたようです。 元和8年(1622)の「御家伝書」には、将門が関東地方を占領して相馬郡に都を建てたこと、将門が戦死した後、その子孫が相馬師常を養子に迎えたことなどが記載されていました。
こうして成立した伝承が下総相馬氏に取り込まれ、将門の子孫と称するばかりか、福島県南相馬市や相馬市で行われる相馬野馬追いもまた将門以来の行事と位置づけられていくのです。
ふるさと・かしわの将門伝承
柏市域は古代から大部分が相馬郡に属し、中世には相馬氏が支配した地でもありますので、旧沼南町の布瀬(ふぜ)・岩井・藤ヶ谷・大井のほか、布施(ふせ)・花野井・松ヶ崎など市内各所に将門伝説が数多く残っています。各地に残る伝説を紹介してみましょう。
布瀬
高野館(こうややかた)  俗称、高野御殿と呼ばれ、地元では将門の館跡と伝えられてきました。この遺構は室町時代に築かれた柏市域でも最大級の城郭と推定されています。
親王将門宮  布瀬地区の江口家は農業や医業に携った旧家で、将門明神を氏神としています。明和元年(1764)、結縁寺(現印西市)の弘慶(こうけい)和尚によって勧請(かんじょう)されました。
岩井
将門神社  将門を祭神とする神社。流れ造りの小型の宮殿ですが、全体に彫りの深い彫刻で飾られ、「放れ駒」など将門ゆかりの図柄も見られます。社殿の中には7枚の棟札が納められており、正徳4年(1714)に拝殿が建設されるなど、この頃から急速に社域が整備されていったことが記録されています。
地蔵尊縁起  将門神社に隣接する龍光院には、将門の娘如蔵尼(にょぞうに)が父の菩提を弔ったという地蔵菩薩が祀られています。その縁起については安永3年(1774)に彫られた版木によって知ることができます。また、岩井村では将門信仰が残るだけでなく、将門を裏切った愛妾桔梗御前(ききょうごぜん)を疎んで桔梗を植えず、また将門の調伏(ちょうぶく)を祈った成田山には詣でないという風習もあります。
藤ヶ谷
不動明王と将門の供養塔  現在、柏市内で相馬姓が一番多いのはこの藤ヶ谷地区です。他の地区にも見られるように成田山の不動尊には参拝せず、自分たちの不動明王を信仰してきました。毎年、13軒ほどで将門の命日とされる2月14日と初不動に近い日を選び、相馬氏ゆかりの持法院で供養会をおこなっています。近年、境内に供養塔も造立されました。
大井
車の前五輪塔(くるまのまえごりんとう)  大井地区には「車の前五輪塔」と呼ばれる、柏市周辺では最大の五輪塔が造立されています。伝承では平将門が戦死したのち、愛妾の「車の前」がこの地に隠れ、尼となって妙見堂を建てて将門の菩提を弔ったとされます。お堂はすでに古くから失われていますが、井堀地(いぼろち)の人びとは将門の縁日とされる2月21日には、「妙見講」のお篭りを行ってきました。五輪塔の全高は160cm、年記などはみられませんが、将門を祖と仰ぐ下総相馬氏一族の墓塔として、南北朝から室町初期ごろに造立されたのではないかと考えられます。
鏡の井戸  福満寺の境内には、「車の前」が顔を映したという「鏡の井戸」も現存しています。
坂巻若狭守(さかまきわかさのかみ)  福満寺の聖観音像は将門の重臣、坂巻若狭守の守本尊とされ、近くの塚は「若狭塚」と呼ばれています。
布施
弁天絵馬と紅龍伝説  東海寺の伝承によれば、将門は布施弁天の岩窟に住む紅龍と良将との間に生まれたとされ、宝永5年(1708)3月に秀調(しゅうちょう)和尚によって書かれた『大弁財天由来記』にも将門関係の記事が詳しく記述されています。布施村から「七里の渡し」を隔てた守谷(茨城県守谷市)は相馬氏の一族 が本拠とした場所であり、これに関連するものかもしれません。この絵馬は将門が弁天様に戦勝を祈願しているところです。武将は着物の図柄から後北条氏とする説もありますが、東海寺では将門と伝えられています。
花野井
将門の甲冑  幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、河鍋暁斎(かわなべぎょうさい、1831〜89)は、花野井の古寺を訪れ、寺宝として伝わっていた将門の甲冑を描いています。暁斎の優れた写生力を示すものですが、現在、現物は確認されていません。
松ヶ崎
松ヶ崎不動尊の将門合戦絵馬  松ヶ崎城跡の台地南側の中段に、かつて不動明王を祀るお堂が建っていました。この付近は葛飾・相馬・印旛の郡境が接しており、「三郡境の不動様」として人々の信仰を集め、堂内には数多くの絵馬が奉納されていました。この「将門合戦絵馬」もその内の一枚で、右手の槍を突いている武者が、将門を討ち取ったとされる藤原秀郷(「下がり藤」は秀郷の家紋)です。残念ながらこの不動堂は、近年火災によって焼失し、絵馬も失われてしまいました。
相馬郡大井郷と大井津
将門の事件を描いた『将門記』には、将門が「下総国の亭南(ていなん)」に「王城」を建設したこと、大井津を京の大津になぞらえられたことが記載されていますが、この大井津は市内の大井ではないか、と考えられています。
将門の乱が起こった平安時代の中ごろに編さんされた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によれば、このころ相馬郡には、大井・相馬・布佐・小溝・意部(おふ)・余戸(あまりべ)の六郷があり、柏市の大井地区はこの中の大井郷のあった場所とされています。
地区内の大井東山遺跡からは多くの住居址や寺跡が確認され、特異な遺物としては奈良三彩釉陶器(ならさんさいゆうとうき)の小壷も出土しています。三彩陶器は、奈良平城京や国府などの役所跡や寺院跡から発見されることが多く、庶民の生活用具ではありません。
奈良正倉院の宝物からも、大井郷の名を確認することができます。「天平17年(745)に相馬郡大井郷の矢作部麻呂が麻布一反を納めた」と布袋に墨書きがあり、この頃の大井郷には矢作部(やはぎべ)を姓とする人々が住んでいました。
手賀沼南岸には幾筋もの谷津が複雑に入りこみ、中世以前から村や水田が発達していたと考えられますが、中でも大津川は最大級の谷津であり、これに臨む大井は交通の要衝として、重要な役割を果たしていたと考えらてれます。
ちなみに大津川という名称は近代に付けられたと考えられ、「大津ケ丘団地」もこの将門伝承によって名付けられました。
将門伝説の広がりー三大怨霊のひとりとしてー
平将門に関する伝説は、関東地方を中心に全国で1500以上に及ぶといわれています。「庶民の味方」・「朝廷への反逆者」そして「恐るべき怨霊」。時代によって様々な評価を受けながら、将門伝説は伝えられてきました。そのうちのいくつかを紹介します。
神田明神
江戸時代、神田明神(東京都千代田区)は庶民に人気のあった平将門を祭る神社、江戸の惣鎮守として大いに栄えました。ところが明治時代になると、天皇に弓を引いた逆賊を祭る神社として新政府から敵視され、祭神から除くように圧力を受けたりもしました。しかし、氏子たちの努力により受難の時期を乗り越えた神田明神は、祭礼の多くの人々が集まる名社として今日に至っています。
将門塚
菅原道真(すがわらのみちざね・845〜903)や崇徳上皇(すとくじょうこう・1119〜64)とともに、将門が祟り神として恐れ敬われるようになったのは、この将門塚(首塚・東京都千代田区) )に大きく由来します。大正から戦後にかけてここを整地して建物を建てようとしたところ、不審な事故によって死者が続出し、将門の祟りではないかと騒がれたのです。大手町のビルに挟まれた将門塚には、今でもお線香やお花を手向ける人が絶えません。
国王神社
茨城県坂東市の国王神社は、平将門最期の地とされる「石井の営所」の近くに鎮座し、平将門を祭神とする神社です。将門の娘如蔵尼が、この地に庵を建てたのが始まりとされ、父の供養のために刻んだ「平将門像」(茨城県指定文化財)を御神体としています。
山川不動
茨城県結城市にある大栄寺は「山川のお不動さん」として近郷近在の人々から信仰を集めてきました。この不動明王像には、将門が京都から持ち帰り、守り本尊にしたという伝承が残っており、毎月28日の縁日には大勢の参拝者で賑わいます。

平清盛の太政大臣就任(仁安2年・1167)や、源頼朝の征夷大将軍就任(建久3年・1192)より、200年以上も前に登場した平将門。彼の戦いは古代律令国家を解体し、封建国家を目指すにはあまりにも未熟なものでしたが、来るべき武家政権の誕生を予見させ、中世へと歴史が動く第一歩となるものでした。そして、今なお語り継がれる伝説や信仰は、重い年貢に苦しめられてきた農民たちが、「権力者へ反旗を掲げた庶民の味方」という将門像つくり上げ、千年以上にわたって持ち続けてきたことを示しているのです。  

■将門記 

 

将門記(しょうもんき)
    平安鎌倉の物語3・将門記
平将門の乱とは
平安時代中期、日本から「独立」を果たそうとした男がいました。平将門です。将門の地盤である東国では、民衆が朝廷から派遣される国司の暴政に苦しんでいました。地方の豪族をまとめ武装した将門は、各地の国司を次々と追放、ついに朝廷に対して、歴史上例をみない方法で東国独立政権樹立を宣言します。天皇に対抗し、自らが「新皇」に即位したのです。武力だけでなく、将門は象徴権力として、八幡大菩薩を主神にして天皇霊に対抗。さらに、当時朝廷が「祟り」として最も恐れていました「菅原道真の怨霊」を即位の儀式に召還し、朝廷を牽制します。東国の民衆も新しい王としての将門が、天皇に匹敵する権威を持つことに結束を高めていきます。単なる反乱を超えた将門の、新国家樹立による挑戦に朝廷は追いつめられます。朝廷は、全国の寺社に将門調伏の祈祷を命令。さらに前代未聞の秘策をだし、将門政権をつぶそうと、なりふり構わない攻勢をしかけます。この平将門の反乱こそ、律令体制を揺るがし、貴族社会から武家社会へ移行する大きな歴史的転換点となりました。
真福寺本『将門記』のこと
『将門記』は「将門の乱」の詳細を知るためのほぼ唯一の史料です。乱の経緯や情景など詳しく描写されていますが、故事や比喩を多用する「軍記文学・軍記物」のさきがけとしても位置づけられています。もちろん「将門の乱」以後に書かれたようですが、成立年代には諸説があります。また、作者は不明です。現存する写本は数点ありますが、真福寺本(大須観音宝生院蔵・重要文化財)は最も古い写本の一つで、承徳3年(1099)書写の奥書があります。なお、常設展示はされておらず、実物の閲覧は難しいようです。
真福寺本『将門記』を所有する「大須観音宝生院」
正式名を北野山真福寺宝生院といい、南北朝時代に今の岐阜県羽島市に創建されましたが、慶長17年(1612)に現在の場所(名古屋市中区大須2−21−47)に移転しました。地元の人たちからは「大須の観音さん」として親しまれています。日本最古の古事記写本(国宝)や将門記(重要文化財)をはじめ、和漢の古文書約15,000点を収蔵する真福寺文庫(大須文庫)もあります。
『真福寺本楊守敬本将門記新解』 村上春樹著
平将門の一代記「将門記」の真福寺本及び楊守敬本を底本とした注釈書。訓読文、注解、口語訳、解説から構成。各地に伝わる将門伝説の源を知る上でも地域の歴史を知る上でも貴重な一冊です。
真福寺本「将門記」に記された人物評など
○ 将門の人柄を評した言葉
「侘人(わびびと)を済(たすけ)て気を述(の)ぶ。たよりなきものを顧みて力を託(つ) く。」
○常陸国を占領したあと将門が腹心に語った言葉(意訳)
「今すぐ東国諸国の国の印と倉の鍵をすべて奪い、 国司を都に追い返そう。そして東国を我らの手で治め、民を味方につけるのだ。」
○将門の軍勢の勢いを表す言葉(意訳)
「それぞれ竜のような駿馬にまたがり、雲霞のごときおびただしい従兵を従え、万里の山をおもこえ、十万の軍にも打ち勝とうという勢いであった。」
○朱雀天皇が将門の反乱に対し祈った言葉(意訳)
「今、平将門なる者が兵を挙げ、悪行をほしいままにし、国主の位を奪おうと企んでいます。どうかこの難儀をお払い下さい。」
○朝廷側が将門の反乱に対し加持祈祷で対応した時の様子を示した言葉(意訳)
「山々の阿闍梨(あじゃり)は、悪魔を祓い邪悪を滅ぼす法を修め、諸社の神官達は、悪鬼(あっき)を直ちに滅ぼすための式神を祭った。」
○将門が朝廷に向けて出した書状の内容(意訳)
「昔から武芸に優れた者が天下を征する例は、多くの歴史書に見られるところであります。日本の半分を領有する天運がないとはいえますまい。」
○平貞盛が兵を集めた時の様子を示す言葉(意訳)
「群衆を甘言でもってさそい、その配下の兵は倍になった。」
○将門の最期を描いた言葉(意訳)
「馬が、風の様に飛ぶ歩みを忘れた時、新皇に、神の射放った鏑矢(かぶらや)が突き刺さった。この時、新皇は、一人惨めに滅び去ったのである。」
○将門の悲劇を評した言葉(意訳)
「その悲しみは、開かんとするめでたき花がその直前に萎(しお)るるがごとく、今にも光り輝かんする月が思いがけず雲間に隠るるが如し」  原文は、以下の通りです。
「哀哉新皇敗徳之悲滅身之歎譬 若欲開之嘉禾早萎将耀之桂月兼隠」  
 
将門伝説  
平将門の乱の歴史性  
「更級日記」にのみ登場した武芝伝説は、武蔵武芝が生きた同時代の平将門伝説という大きな物語のひとつでもある。大きな物語の中の小さな物語である。もし、菅原孝標女がたけしば寺跡で小さな物語を聞いたのなら、平将門の乱の記憶と共に、それは足立郡のなかに伝承されたものであっただろう。平将門の乱についてはたくさんの先行研究や歴史小説が描かれている。大きな物語にはたくさんの人々が注目する。ここでは武蔵武芝との関連の中で、平将門について論を組み立てた。そのひとつは水の道との関連である。  
将門の支配した下総国豊田郡・猿島郡一体は鬼怒川(もともとは毛の川であったろう。下野国、つまり毛の国から流れてきた川)や渡良瀬川に挟まれた低湿地であり、開発の遅れた地域であった。飯沼、菅生沼、鵠戸沼などたくさんの湖沼が乱流地帯であることを物語っている。広大であっても、そこは生産力の弱い地域であったろう。ここが父良持、あるいは母方から受け継いだ領地であった。「将門の所領は藤原氏に寄進されていたと見なすことが出来る。つまり豊田郡、猿島郡に開いた私営田を摂関家に寄進して,国衙支配から逃れようとしたのである。」(「将門記」1965年展望大岡昇平)ここから藤原忠平との関係が生まれていたと思われる。「将門記」では私の君と藤原忠平を呼んでいる。開発の遅れた地域であったからこそ、舎宅を営み、私営田の開発に意欲的であったろう。  
父良持は鎮守府将軍であり、桓武平氏という軍事貴族の一員であった。良持は将門を初め子どもたちに将のつく名前をつけている。これは自分が将軍であったことによる、という見解もある。この良持は、関東北部にたくさんの同族を持っている。国香、良兼、良正、良文などが土着して勢力を競っていた。この兄弟の父・高望王が889年寛平1頃に上総介となって下向したことから桓武平氏の歴史が始まる。父の死後、都から帰った平将門はこの血族間の争いに明け暮れることとなった。一族間の争いから隣国武蔵国内の争いに介入した武蔵武芝の事件は、将門が次の段階に入ったことを示す。この動きは新たな東国独立王国の自立への道につながっていた。このようなストーリーで平将門の乱の説明が始まるのは一般的である。  
なぜ、武蔵国への介入を平将門が行ったのか。突然の行動とも思われるが、ここは水運、陸運の要地であり、関東全体を抑えるには必須の地域であった。そして、平将門が支配する猿島郡・豊田郡に隣接したのが武蔵国足立郡である。東国独立王国をこの時点では、意図していたのではないとおもわれるが、それでも新たな布石を打つつもりはあったであろう。新たな布石は、当たり過ぎた。東国支配の要に立ち入ってしまったというだけではなく、源経基という人間の飛躍を用意してしまった。この点はまた後述するとして、坂東を一括で見る広域行政の要であることを強調したい。すでに、東海道への武蔵国編入について次のような目的を持って行われたという見解が出されている。この物資等の補給をもって平将門の父・良持も鎮守府将軍として水沢の地に赴いたのであった。佐々木虔一はいう。「『坂東諸国』を一つの広域行政区として再編制するために、注目されたのが武蔵国である。武蔵国は『坂東諸国』のほぼ中央に位置し、この地域の交通上の要地に当たること、また、国内を南北に多摩川・入間川(荒川)・利根川などの大河川が流れ、海に注ぐなど、水上・海上交通の便もよいことなどがその特色である。武蔵国のこの特色を生かして、『坂東諸国』を一つの広域行政区に編成するために行った措置が、771年の武蔵国の東山道から東海道への編入だったのである。」 
将門の支配地が、生産力の弱い地帯であると先に述べたが、富を生むのは農業生産だけではない。乱流による地形形成は自然堤防や舌状地を作る。ここは馬を飼うのに適した地形である。兵部省の官牧「大結馬牧」が置かれていた。馬の生産は強大な軍事力を形成する。また、この地形は一方からの風の通りを作り、製鉄に必要な炉の風送りを可能にする。小規模の製鉄炉が東国各地に広がる。将門の支配地入沼排水路に沿った尾崎で製鉄遺跡が発見されている。このような視点はつぎつぎに出されてきている。  
ここで新たな視点として紹介したいのは水運との関係である。承平・天慶の乱と西の藤原純友の乱と一括されるため、水軍(海賊)を基盤とする藤原純友と対比されて騎馬軍団が注目されてきた。だが、官道を押さえるのみならず、水の道を押さえることも重要なことである。大規模なもの、重いものは水運が必須である。米の運送も水運を主としたものと考える。「寛平6年(894)7月16日の太政官符では、上総・越後等の国解によると、『調物の進上は、駄を以って本となす、官米の運漕は、船を以って宗となす』とあり、上総国からも、官米の輸送が船を利用して行われていた可能性が窺えるのである。」(「古代東国社会と交通」)水運の使えるところは「船を以って宗となす」は合理的である。  
注目する論文を鈴木哲雄が発表している。  
葛飾区郷土と天文の博物館が開催している「地域史研究講座」シリーズの講座報告である。行われたのは1995年平成7年1月29日。その中で、鈴木哲雄の発表した特論「古代葛飾郡と荘園の形成」がすばらしい。関東には内海が二つあったのだという。ひとつは利根川=内海(古東京湾)、もうひとつは鬼怒川=内海(香取海)である。以下はその抜粋である。  
「古代から中世にかけての関東には、二つの内海がありました。ひとつは先にお話しした利根川=内海(古東京湾)地域の内海です。もう一つが千葉県の北部から茨城県にかけてかつて広がっていた内海です。現在は千葉県側に印旛沼や手賀沼が、茨城県側に霞ヶ浦や北浦がありますが、これらの湖は連なって大きな内海を構成していたと推定されています。私は後者の内海世界を鬼怒川=内海(香取海)地域と呼んでいます。平将門の乱はこの内海(香取海)世界で展開されました。」「しかし『将門記』には、舟も出てきますし、川の支配や渡しなどをめぐる争いもでてきます。将門の乱は、坂東の海のひとつである内海(香取海)世界で行ったのですから、鬼怒川などの河川や内海における船、水上交通、そういったものをめぐる戦いであったと見ることもできるのです。将門は内海(香取海)を征服したのち、下野国(栃木県)の国府(国の役所)を占拠します。下野国府の西の方は太日川(オオイガワ、フトイガワ)が流れていました。太日川は、現在の渡良瀬川から江戸川にかけてを流路とした河川で、その西側を利根川が流れています。下野国府の位置は、ちょうど鬼怒川=内海(香取海)と利根川=内海(古東京湾)地域との接点にあたるわけです。将門は、鬼怒川=内海(香取海)地域を征服したあと、東山道に属する下野・上野両国を占拠し、そして新皇(新天皇)を名乗りました。さらに利根川=内海(古東京湾)地域に軍隊を進め、武蔵国府から相模国府までをいっきに征服し、関東全域の支配圏を確保します。」  
この鬼怒川=内海(香取海)のひとつの拠点として霞ヶ浦の奥に常陸国府があった。現在の石岡市である。939天慶2年、11月21日、常陸国府の軍勢を破り、将門は常陸国府を焼き払った。これにより、国賊となった将門は関東八カ国の支配を目論んで各国府を落としていく。こうして12月19日には上野国府において「新皇」に即位する。  
「将門が内海世界の一番奥まった場所に都=王城を設置したことは確かだと思います。将門の都は内海に面した都であり京都と対比されています。」  
「『将門記』では、鬼怒川や小貝川の渡しである子飼の渡し、堀越の渡しなどがでてきまして、これらの渡しは、将門の乱での重要な戦場となっています。将門の乱の前半は、こうした鬼怒川=内海(香取海)地域の交通支配をめぐって戦乱がおこなわれたとみることもできるのです。地域の交通を支配する者が、地域自体を支配します。」  
「このとき将門は、関東を東西に結ぶ東山道、東海道などの陸の官道と、利根川・太日川・鬼怒川・那珂川などの関東を南北に結ぶ水の道と、そして東西南北の水陸交通を地域的に一本化させえる二つの内海(古東京湾・香取海)の交通を掌握したと考えられるのです。」(「古代末期の葛飾郡」熊野正也編1997年5月崙書房)  
新しい将門の世界が、新しい視点での東国の地図が、ここにはある。二つの海から平将門の乱をアプローチしたことによって、水と陸とを同じ視点で見ることができるようになった。関東を一つに押えるための新たな発想である。古代人から見た地域の再発見により、交易・軍事を考える場合の多様な発想が可能となった。私営田、そして荘園化という重要な要素とともに、物流が大きな富を生み出し、文化を広げる。古代の2つの海を制して、東国独立国家の樹立に走った平将門を捉えることができる。  
将門と道真  
平将門は上野国府を手中に収めた。都に最も近い国府である。ここで東国独立国家の樹立が宣言された。そのきっかけまことに不思議な事柄に触発されている。「将門記」にはこのような記述がある。「時ニ昌伎アリ、云ヘラク、八幡大菩薩ノ使ヒゾトクチバシル、『朕ガ位ヲ蔭子平将門ニ授ケ奉ル。其ノ位記ハ左大臣二位菅原朝臣ノ霊魂表スラク、右八幡大菩薩八萬ノ軍ヲ起シ朕ガ位ヲ授ケ奉ラム。今須ラク卅ニ相ノ音楽ヲ持テ早ク之ヲ迎ヘ奉ズルベシ』ト」神がかりした昌伎を介して、将門を新皇とせよとのお告げが八幡大菩薩によって告げられたのである。八幡神は豊後宇佐にある宇佐八幡である。お告げをする神として有名である。道鏡と和気清麻呂の話は知られている通りである。位記を書くのは都に降りた怨霊の菅原道真である。位記とは叙位の文書である。だが、位を授けるのは天皇なので、天皇の位には叙位はない。「爰ニ将門ハ項ヲ捧ゲテ再拝ス。」と続けて記されている。この後には興世王などへの除目がおこなわれ、新皇による東国政権が樹立された。  
菅原道真が流配地大宰府で亡くなった903年延喜3に平将門が生まれたという説がある。この説を昌伎が知っていたかは分からないが、「将門記」の作者は知っていたのであろう。  
大岡昇平は「菅原道真が流謫地大宰府で死んだのは延喜3年、その年将門が生まれたという説があることは前に書いた。その年は全国的に旱魃あり、疫病が流行した。7年、政敵藤原時平が急死し、8年、清涼殿に落雷あり、藤原菅根が雷死した。これらはすべて道真の怨霊の仕業と信ぜられた。宇佐八幡は和気清麿が受けた神託以来、皇室の信仰厚く、男山に勧請されている。道真が雷神として全国に流行するに及び、宇佐八幡の神人達がその霊験を全国に説いて廻った。この神託は興世王や藤原玄明の演出の疑いは十分にあるが、地方の巫女が巷説や俗信に基づいて霊感を口走ったとしてもおかしくない。」(「将門記」)と状況を読んでいる。興世王など都に育った受領階層が持ち込んだことも考えられる。それより早く民衆の中で伝播していくものであろう。都ばかりでなく、「宇佐八幡の神人たち」によって東国にも菅原道真の怨霊騒ぎが持ち込まれたとの確証はない。伝えられていった可能性はある。  
幸田露伴も「平将門」で「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を籍りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闇梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らば、一時賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。」 
この見解は通常の範囲である。だが、「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。」という独特の言い方がいい。菅原氏は東国にあって人的にも身近な存在ではなかったか。怨霊の家系・菅原氏の一族も道真の左遷に伴って地方へ追いやられ、後に許されて都に戻るという出来事が起っている。道真の子の大学頭高視(土佐介)、式部大丞景行(駿河権介)、右衛門尉景茂(飛騨権掾)、文章得業生淳茂(播磨)も都から遠ざけられていた(「政治要略」)。が、906年延喜6には許されるところとなって都に戻る。大学頭高視(土佐介)につながるのが嫡流、孝標である。この中で、菅原景行はいち早く東国に向った。菅原氏の所領が東国にあったからだともいわれている。  
「将門は、幼少より、坂東太郎利根川や小貝川、鬼怒川付近の山野を駆け巡り心身を鍛え、常盤真壁郡羽鳥に住した菅原道真の子・景行に師事して学問を修め、文武両道に優れていた事が認められ,宮中近衛府の北面衛士として勤務する事12年、承平元(931年)、母より将弘が病死し領内周辺が伯父達の非違道に依って脅かされる事を知り」(「宍塚の自然と歴史の会20015斗蒔便り2001・12より抜粋」佐野邦一翁古老が語る宍塚の歴史<41>)と伝承では菅原景行が平将門の幼年時代に学問の師匠をしていたことになっている。別の伝承では将門の弟将平の師となっているようである。この菅原景行は909年延喜9に下総守となったとも記されている(7.11見紀略/1137)。また、929延長7には菅原道真三男景行(常陸介54歳)が大生郷天満宮(茨城県水海道市大生郷町)を祀ったといわれている。この年は平将門が京より戻る前年に当たる。海音寺潮五郎の「将門記」にも菅原景行は登場している。このような伝承がある程度史実に基づいているならば、道真の怨霊が、やがて将門の怨霊へと受け継がれていった東国での根は深い、と思われる。怨霊に仮託した人々の願いがそこに見られる。  
首を都に晒された将門は宙を飛んで東国へと戻ってきた。怨霊となった将門は、道真のように摂関政治の思惑の中で御霊に祭り上げられることもなく、怨霊のままに東国の守護神と化した。 
 
『将門記』 将平の諫言  
『将門記』は、将門が建国した独立国家の輪郭について、次のように述べている。
「武蔵権守(ごんのかみ)興世王は時の主宰者であった。その指示により玄茂(はるもち)らは新皇の宣旨と称して、かってに諸国の除目(じもく)を発令した、下野守には弟の平朝臣将頼(まさより)、上野守には常羽御厩(いくはのみまや)の別当多治経明(たぢのつねあきら)、常陸介には藤原玄茂、上総介には武蔵権守興世王、安房守には文室好立(ぶんやのよしたて)、相模守には平将文(まさふみ 弟七郎)、伊豆守には平将武(まさたけ 弟六郎)、下総守には平将為(まさたり 弟五郎)をそれぞれ任命した」 
除目とは、官職を任命する政務のことをいう。諸国の守や介に就任したメンバーを見てみよう。
平将頼 将門の弟三郎、御厨三郎とも呼ばれた。兄将門とともに行動し、独立国家建国にかかわる。敗北したのちも、陸奥で反乱を起こしたとされる。
多治経明 常羽御厩の別当、多治比氏の末裔とされる。将門軍の副将軍。独立後は上野地方で活動する。
藤原玄茂 常陸掾、藤原玄明の血縁者とされる。将門による常陸攻略に加わった。霞ケ浦湖賊の末裔か。将門の側近として活動する。
興世王 武蔵権守、将門の参謀役として独立と建国をけしかける。独立後は上総地方で活動する。
文室好立 「蝦夷征伐」に当たった文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)の末裔とされ、将門軍に上兵として加わる。独立後は安房地方で活動する。
平将文 将門の弟七郎、相馬七郎と呼ばれた。兄将門とともに坂東独立のために戦い、独立後は相模地方で活動する。
平将武 将門の弟六郎、相馬六郎と呼ばれた。兄将門とともに坂東独立のために戦い、独立後は伊豆地方で活動する。
平将為 将門の弟五郎、相馬五郎と呼ばれた。兄将門とともに坂東独立のために戦い、独立後は下総地方で活動する。
しかし、彼らには、戦争、抗争の経験はあるけれど、政治や行政をまともに司った経験がほとんどない。しかもすべて将門のお気に入りのイエスマンである。
弟の将平は安倍氏の意向を受けて将門に忠告したが受け入れられず
弟の将平(まさひら)は、大葦原四郎ともいわれ、将門に従って戦ったが、「力をもって争うべきにあらず」と諌言(かんげん)を呈したためか、坂東の守には起用されなかった。彼は「新皇宣言」の直後、将門に対して、次のように述べている。
「そもそも帝王の業というのは、人智によって競い求むべきものではありません。また、力ずくで争いとるべきものでもありません。昔より今に至るまで、自ら天下を治め整えた君主も、祖先から皇基や帝業を受け継いだ王も、すべてこれは天の与えたところです。外から軽々しく、はかり議することができましょうか。おそらくは、後世の人々の誹(そし)りを招くこと間違いありません。ぜひとも思いとどまって下さい」
これは弟として新皇に対して述べることとしては、かなり踏み込んだ言葉である。彼は安倍氏の意向にそって発言したと考えられる。これは辰子姫が「荒覇吐神のお告げとは和睦にして事をなせる神なり。新皇は神をしていわれなきことであり、故にこれは改めよ」と述べたことと内容がほぼ同じである。しかし、将門は「どうして力を持って征服しないでおられようぞ」とこれを一蹴する。
将平は、将門、将頼とともに、幼いころ陸奥で安倍氏の教えを受け、それ以降、将門と安倍氏のパイプ役を果たしていたのではないか。おそらく独立戦争に勝利してからも、坂東にやってきていた辰子姫から安倍氏の意向を聞いていただろう。安倍氏にとっては、将平の意見が取り入れられず、彼が重要な役職からはずされたことも、不信をもつ要因になっただろう。
「北鑑 第十四巻」では、将門の乱の敗北後、「将平は将文とともに、奥州相馬に逃亡し、姓を相馬と名乗り、安倍頻良(ただよし)の下臣として、地域の豪族となった」と述べられている。 
 
■承平天慶の乱

 

承平天慶の乱
(じょうへいてんぎょうのらん) 平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。
瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。
なお、この反乱は一般に承平・天慶の両元号の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。実際にこれが「反乱行為」と見なされるのは、天慶2年に将門・純友が相次いで起こした国司襲撃以後のことである。従って、この乱を「天慶の乱」と呼ぶことには問題はないものの、単に「承平の乱」と呼んだ場合には事実関係との齟齬を生む可能性があることに留意する必要がある 。
平将門の乱
平氏一族の私闘
桓武天皇の曾孫・高望王は平姓を賜って臣籍に下り、都では将来への展望もないため、上総介となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた田堵負名、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図ったとも考えられている。高望の子らは武芸の家の者(武士)として坂東の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着した。ただし、この時代の発生期の武士の所領は、後世、身分地位の確立した武士の安定した権利を有する所領と異なり、毎年国衙との間で公田の一部を、経営請負の契約を結ぶ形で保持するという不安定な性格のものであった。つまり、彼らがにらみを効かせている一般の田堵負名富豪層と同じ経済基盤の上に自らの軍事力を維持しなければならず、また一般の富豪層と同様に受領の搾取に脅かされる側面も持っていた。
高望の子のひとり平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子の将門は京に上って朝廷に中級官人として出仕し、同時に官人としての地位を有利にするために摂関家藤原忠平の従者ともなっていた。良将が早世したため将門が帰郷すると、父の所領の多くが伯父の国香、良兼に横領されてしまっていたといわれ、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培った。
延長9年(931年)ごろから将門は「女論」によって伯父・良兼と不和になったとされる。「女論」の詳細は『将門記』に欠落があって不明だが、前常陸大掾源護の娘、もしくは良兼の娘を巡る争いであったと考えられている。源護には三人の娘があり、それぞれ国香、良兼、良正に嫁いでいる。この源護の三人の娘の誰かを将門が妻に望んだが叶わなかったためという説、または、良兼の娘を将門が妻にし、その女を源護の三人の息子(源扶、源隆、源繁)が横恋慕したという説がある。
承平5年(935年)2月、源扶、源隆、源繁の三兄弟は常陸国野本に陣をしいて将門を待ち伏せ、合戦となった。将門は源三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払い、三兄弟を討ち取った。更に将門は伯父の平国香の館の常陸国石田にも火をかけ、国香をも討ち取ってしまった。
国香の長子の平貞盛は京に上って出仕して左馬允になっていたが、父の死を知り帰郷する。貞盛は復讐よりも京で官人としての昇進を望み、将門との和睦を望んでいたとされる。
一方、三人の息子を将門に討たれた源護の恨みは深く、婿の平良正に訴えた。良正は本拠の常陸国水守で兵を集めて将門の本拠豊田へ向かってくり出した。将門もこれに応じて出陣。10月21日、鬼怒川沿いの新治郷川曲で合戦となった。結果は、将門が大勝し、豊田に凱旋した。
良正は兄の平良兼に助勢を訴え、良兼はこれを承諾した。現任の上総介だった良兼は貞盛を説得して味方に引き入れ、承平6年(936年)6月大軍を動員して館を出発、水守で良正、貞盛と合流した。連合軍は下野国に入り、南下して豊田を攻める体勢をとった。将門は100騎を率いて出陣。下野国と下総国の国境で連合軍は将門軍の先手に攻めかかるが、意外な抵抗にあい一旦退却しようとしたところに将門の本隊が到着して突撃してきた。連合軍は総崩れになり、下野国国府へ逃げ込んだ。将門は国府を包囲するが、西の一面を空けて良兼らを逃げさせた。将門は自らの正当性を国衙側に認めさせて豊田へ引き揚げた。
同年9月、源護の訴えにより朝廷からの召喚命令が護、将門、平真樹へ届いた。将門はただちに上京して検非違使庁で尋問を受ける。朝廷はこれを微罪とし、翌承平7年(937年)4月に恩赦が出され、将門は東国へ帰った。
同年8月、良兼はまたも軍を起こして、下総国と常陸国の境の子飼(小貝・蚕養(こかい))の渡しに押し寄せた。良兼は高望王と将門の父の良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せた。将門軍は士気喪失して退却、勝ちに乗じた良兼軍は豊田に侵入して火を放った。将門は兵を集めて良兼に復仇戦を挑むが大敗してしまう。良兼軍は再度豊田に侵入して略奪狼藉の限りをつくし、将門の妻子も捕らえられてしまった。9月、またも良兼は兵を繰り出したが、将門はこれを迎撃して打ち勝った。良兼は筑波山に逃げ込む。
将門は元主人の藤原忠平に良兼の暴状を訴え、同年12月、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられた。将門は兵を集めて本拠を豊田から要害のよい石井へ移した。良兼は内通者から情報を得て、石井の館に夜襲をしかけるが将門軍は奮闘し撃退される。この敗戦の後、良兼の勢力は衰え、天慶2年(939年)6月良兼は失意のうちに病没した。
承平8年(938年)2月、身の置き所のなくなった平貞盛は東山道をへて京へ上ろうと出立するが、朝廷に告訴されることを恐れた将門は100騎を率いてこれを追撃、信濃国千曲川で追いついて合戦となり、貞盛側の多くが討たれるも、貞盛は身ひとつで逃亡に成功。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、将門への召喚状が出された。6月、貞盛は東国へ帰国すると常陸介藤原維幾に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。貞盛は陸奥国へ逃れようとするが、将門側に追いまわされ、以後、東国を流浪することを余儀なくされる。
さらなる争い
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、どういう経緯か不明だが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は逃げ出してしまった。
京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を訴える。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月、関東5カ国の国府の証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。
この頃、武蔵権守となった興世王は正式に受領として赴任してきた武蔵守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになり、また、常陸国の住人の藤原玄明が将門に頼ってきた。この玄明はやはり受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪して国衙から追捕令が出されていた。常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。
対立が高じて合戦になり、同年11月、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした。将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との「私闘」であったが、この事件により不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。
新皇と称す
興世王の進言に従い将門は軍を進め、同年12月、下野国、上野国の国府を占領、独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。さらに巫女の宣託があったとして将門は新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。
この時将門が任命した関東諸国の国司は、以下の通りである。
下野守 平将頼
上野守 多治経明
常陸介 藤原玄茂
上総介 興世王
安房守 文屋好立
相模守 平将文
伊豆守 平将武
下総守 平将為
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない。
追討
将門謀反の報はただちに京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕した。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には先に将門謀反の密告をした源経基が賞されて従五位下に叙された。1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入った。将門の手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて、2月1日に出陣する。貞盛と秀郷は藤原玄茂率いる将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃して来た。合戦になるが、将門軍の勢いはふるわず、退却した。
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず、僅か兵400を率いて陣をしいた。貞盛と秀郷の軍に藤原為憲も加わり、翌2月14日、連合軍と将門の合戦がはじまった。南風が吹き荒れ(春一番)、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風になると(寒の戻り)、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。
将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。残党が掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺される。将門の首は京にもたらされ梟首とされた。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下にそれぞれ叙爵された。
藤原純友の乱
承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。
しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格は異なることが指摘されている。純友が武力と説得によって鎮圧した海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層である。彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。
また、純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったという事実に注目されている。純友はこの元名の代行として現地に派遣されて運京租税の任にあたるうちに富豪層出身の舎人ら海賊勢力と関係を結んだとされている。
天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。朝廷は天慶3年(940年)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。
2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪っている。この頃、京の各所で放火が頻発し、小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告している。朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れて宮廷の14門に兵を配備して2月22日には藤原慶幸が山城の入り口である山崎に派遣して警備を強化するが、26日には山崎が謎の放火によって焼き払われた。なお、この一連の事件と純友との関係について純友軍の幹部に前山城掾藤原三辰がいる事や先の藤原子高襲撃事件などから、実は純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけてのいわゆる「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しており、京への直接的脅威と言う点では、極めて深刻な状況であったのではとする見方もある。
2月25日、将門討滅の報告が京にもたらされる。この報に動揺したのか、純友は日振島に船を返した。その影響か6月には大宰府から解状と高麗からの牒が無事に届けられ、7月には左大臣藤原仲平が呉越に対して使者を派遣している。
だが、東国の将門が滅亡したことにより、兵力の西国への集中が可能となったため、朝廷は純友討伐に積極的になった。5月に将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、6月に藤原文元を藤原子高襲撃犯と断定して追討令が出された。これは将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が純友を挑発して彼に対して文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの二者択一を迫るものであった。
8月、純友は400艘で出撃して伊予国、讃岐国を襲って放火。備前国、備後国の兵船100余艘を焼いた。更に長門国を襲撃して官物を略奪した。10月、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れている。11月、周防国の鋳銭司を襲い焼いている。12月、土佐国幡多郡を襲撃。
天慶4年(941年)2月、純友軍の幹部藤原恒利が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の藤原純乗は、柳川に侵攻するが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中で没した。
比叡山上の共同謀議伝説
京で朝廷に中級官人として出仕していた青年時代の平将門と藤原純友は、或る日、比叡山に登り平安京を見下ろした。二人はともに乱を起こして都を奪い、将門は桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原氏だから関白になろうと約束したとする伝説が世に知られている。また、比叡山上には、この伝説にちなんだ「将門岩」も存在し、そこには将門の無念の形相が浮かび出るという伝承までがなされている。
当時の公卿の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議がかなり疑われていたようである。
実際には、両者の共同謀議の痕跡はなく、むしろ自らの地位向上を目指しているうちに武装蜂起に追い込まれてしまった色合いが強い。二つの乱はたまたま同時期に起こり、東国で将門が叛乱を起こし、純友は西国で蜂起に至ったと考えられる。
その一方で、将門に襲撃されて国司の印を奪われて逃げ出した上野介藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)にあたる人物である。このため、先行した将門の動きが尚範の親族であった純友に何らかの心理的影響を与えた可能性までは否定できないという考えもある。
意義
二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。
これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。
また、鎌倉時代には源実朝が「将門合戦絵」を描かせたり、神田明神が江戸幕府によって「江戸総鎮守」とされたりするなど、武家政権が将門を東国武家政権の先駆けとして強い親近感を抱いていることも特徴的である。
その一方で、二つの乱とほぼ同時期に全国各地で「反乱」と呼ぶべき事件が発生していた。『日本紀略』や藤原忠平の日記の抜粋である『貞信公記抄』によれば、939年(天慶2年)春以後出羽国では俘囚の反乱(天慶の乱 (出羽国))が断続的に続き、8月には尾張国では国守藤原共理が殺害され、翌940年(天慶3年)1月には駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾を起こしている。将門や純友の動きもこうした動きの一環であり、当時の朝廷の統治機構に与えた打撃もわずかであった(将門が新皇を名乗ってから滅亡まで2ヶ月間しかなく、純友は海賊行為に終始して地域に割拠することはなかった)ことから、反乱としての実質的な規模は限定的なものであったとする指摘もある。  
 
武蔵武芝 (むさしのたけしば) / 承平天慶の乱の遠因
平安時代中期の豪族。承平天慶の乱の遠因をつくったことで知られる。
武蔵氏(姓は直)は出雲氏族に属する天孫系氏族で、武蔵国造家として代々足立郡司を務める一方で、氷川神社を祀っていた。武芝の系統は元々丈部氏(姓は直)を称したが、神護景雲元年(767年)に藤原仲麻呂の乱で功労があった不破麻呂が一族と共に武蔵宿禰に改姓した。
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代(在庁官人の職名の一つ)を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。
将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている。これを国司による処分と見るか、将門に連座して討ち取られたものと見るかについて見解が分かれている。
人物​
『将門記』では名郡司と評されている。長年公務に精勤し、良い評判があり謗られるようなことはなかった。郡内の統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、民衆の家には遍く蓄えがあったという。

武蔵国足立郡の郡司。「将門記」にも将門側の重要人物として登場する。都から赴任してきた国司の興世王、源経基らから無理難題を押し付けられ、平将門公に調停を依頼した。
「国司(こくし)」は都から派遣された貴族で、その下の「郡司(ぐんじ)」は古くからその地を支配する豪族が多かった。武蔵武芝も先祖代々、武蔵国足立郡の郡司を務めていた。竹芝への人々の信頼は厚く、新しく国司となった興世王らが民家を襲って略奪するなどの暴挙を諫めようとしたが対立し、戦になろうとした。これを将門公は鮮やかに調停したのであった。このことにより将門の評判はさらに高まり、朝廷に不満を持つ人々が、将門の下に続々と集まってくるようになったのであった。
興世王と武芝が和解した後、これに不満を持った源経基は都に戻り、将門達が謀反を企てていると朝廷に訴えた。この時は源経基の訴えは認められなかったが、「天慶の乱(平将門の乱)」の遠因となったエピソードである。
その後の武芝の消息は不明。「将門記」では、「氷川神社」の祭祀権を失ったとしている。
竹芝伝説​
菅原孝標女が武蔵国で聞いたとして『更級日記』に登場する「たけしば」寺の伝説は、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説がある。
竹芝寺   さいたま市大宮区高鼻町
昔、竹芝から都に上り、火たきの衛士となった男があった。その男が皇女を背負って、東国へ下り、竹芝の里で幸せな日を過ごした。この皇女が産んだ子が武蔵武芝と伝えている。皇女が没した後、男は、剃髪して竹芝の家を寺とし、その菩提を弔った。この竹芝寺が氷川神社参道の西側辺りにあったのではないかという。
系譜​
氷川神社の社伝・系図によれば、武芝の子孫は野与氏を称し、氷川神社の祭祀は武芝の娘と武蔵介・菅原正好の子である菅原正範が受け継ぎ、その子孫が代々社務を務めたという。『西角井系図』では、武芝の娘は秩父氏の祖・秩父将恒の妻となり、武宗の娘は平元宗に嫁ぎ、基永(野与党の祖)・頼任(村山党の祖)を儲けたとされる。  
 
承平の乱
当事者1:平将門
当事者2:平良兼
当事者3:平貞盛・藤原秀郷
時代:平安時代
年代:935年(承平5年)2月〜940年(天慶3年)2月13日
要約:平将門が所領問題から叔父の平国香を殺害。初めは同族の内紛であったが将門は新皇を名乗り国家に反逆するも、藤原秀郷らに破れる。
内容:
そもそも平将門の乱は、当初は決して国家に対する叛乱を目的としたものでは無かった。常陸・上総に勢力を持っていた平将門と、その一族で将門の叔父に当たる下総介平良兼との間の対立、その原因は所領についての縺れとか、女性問題の不和とも言われているが、何れにしてもこのような一族の「私闘」が乱の発端であった。
将門が起こした軍事行動で最初のものは、935年(承平5年)の前常陸大掾源護との合戦であった。護は良兼や良兼の兄の平国香の息子平貞盛と姻戚関係にあったことから、良兼と源護は合戦で国香に味方し、一族の将門を相手にすることとなった。この合戦で護は惨敗し三人の息子を失い、強力な味方であった国香も戦死したのであった。その際将門のとった二つの行動が国家への反逆を意図していないことを示す。
まず第一に、将門が北上して良兼らの軍勢を下野国の国府に追い込んで包囲したとき、将門はわざわざ退路を開いて良兼らを逃れさせた。当時良兼は下総介という国司であったので、将門も殺害することをためらったものと見られる。第二に、この合戦に関して朝廷から召還命令が将門の元に届くと、この命令に従い上京し朝廷に対して弁明を行っている。ここまでは、将門に何ら国家に反逆の意図は伺われない。
承平8年(938)2月武蔵権守興世王・介源経基が武蔵国足立郡の郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)と抗争したため、将門が調停の労をとった。しかし調停工作のさなか、突如武芝の軍勢が経基の陣を包囲したため、経基は、将門と興世王が武芝と組んで自分を討とうとしたと思いこみ、翌年3月京に上って将門と興世王が謀反を起こしたと報告した。(この事件に今後の将門の行動を暗示するものが入っている。彼が地域の調停者となり調停と土豪の間に入っている。彼は朝廷の配下として行動していない)
将門の軍事行動の性格が一変するのは、以下の事件後である。常陸国の土豪、藤原玄明(はるあき)が、国司の無道を訴えて将門に助けを求めたのが契機となった。将門は玄明をかくまい、彼の常陸国府にたいする抵抗を援助する動きを示した。天慶二年(939)11月、将門は常陸国府を襲撃して、支配の象徴の印鑰を奪い取り周辺で略奪の限りを尽くした。この勝利で大いに意気のあがった将門は、続いて下野・上野両国の国府を占領する。こうして当初の将門の意図はどうあれ、ここに彼の行動は国司の横暴に対する軍事的な抵抗として関東一円を席巻し、政治的な叛乱という性格を明確にした。
12月15日次々と国司を追放して上野国府に入った将門は、そこで八幡大菩薩の使いと称する遊女の神託に従って「新皇」の位についた。京の朱雀天皇に対して「新しく位についた天皇」の意味であった。将門は朝廷の制度をそのまま模倣し、下総国に王城の建設を計画する一方、左右大臣・納言・参議以下文武百官を置き、太政官の官印の寸法まで定めた。こうして東国において小規模な古代国家が構想されたのである。
天慶3年(940)2月13日、将門の従兄弟平貞盛と下野国押領使藤原秀郷は四千の兵を率いて将門の虚を突いて攻勢にでた。その時将門は軍勢を帰休させており、手勢は僅か四百ほどに過ぎなかった。彼は下総の幸島郡に陣をしいて決戦を挑み善戦したが、陣頭にたっていた将門は流れ矢に当たって戦死した。将門の戦死の知らせは12月25日京にもたらされ、翌年4月25日秀郷により将門の首が進上され、京の東市にさらされた。
将門が目指したのは中世的な新しい権力の構築ではなく、関東にミニ王国を建国することにあった。また彼は常時八千人を動員できたと言うが、それは伴類と呼ばれる農民で、緊密な主従関係に基づく武士団ではない。よって、この事件は中世を予感させるものではなく、律令国家崩壊を予感させるものである。 
 
平将門「承平の乱」はなぜ起きたのか?
世街道を外れたエリートが、伯父や義父と「争族」を繰り広げた理由
平将門といえば、東京・大手町の超高層ビル群の合間にある首塚≠フ存在がよく知られているが、平安時代、中央政界きっての有力者と主従関係を結んでいた彼は、まぎれもなく屈指のエリートだった。にもかかわらず、のちに一族間で血で血を洗う「争族」を繰り広げ、無位無官のまま生涯を終えたのはなぜなのか。『平将門と天慶の乱』著者・乃至政彦氏による論考。
平将門と承平の乱
このたび上梓した新刊は『平将門と天慶の乱』(4月10日ごろ発売)というタイトルだが、本稿ではその「天慶の乱」より前の「承平の乱」前夜を見てもらいたい。
平将門が関わった争乱は、私闘である前期≠フ「承平の乱」と、朝廷への謀反である後期≠フ「天慶の乱」に大別される。
承平の乱は、通説では将門の私闘と見られているが、よく見返してみると、単なる利害や怨恨の問題から起こった争乱ではない。
これは、ローカルルールですべてを押し切ろうとする地方豪族たちの無法ぶりに業を煮やした将門が、敢然と立ち向かった結果として生じた戦いなのである。
ここでは将門がなぜ戦いの道を選んだのかを見ていこう。
エリート武官だった平将門
少年期の平将門は京都にあって、摂家の藤原忠平に名簿を提出し、密接な主従契約を結んでいた。忠平は藤原氏の長者である。当時は公卿(三位以上の貴族)のほぼ70%を藤原氏が独占しており、その長者である忠平は政界きっての有力者だった。若き日の将門は、願ってもない出世街道を歩んでいたのである。
この時期の将門をより掘り下げてみよう。中世の文献では「将門は検非違使の職を望んだ」と伝えられているが、事実ではない。
なぜなら、この時代の検非違使は、中世と比べて大きな権限がなく、ときには清掃役まで担わされる一役人に過ぎなかったからである。将門は桓武平氏として臣籍降下した高望王の孫であった。そんな高貴な身分なのに、あえて日の当たりにくい仕事を志望することは考えにくい。
では、将門はなんの職に就いていたのか。
これは、このときの藤原忠平が蔵人所別当だったことに加え、系図類に将門の異名が「滝口小次郎」と伝わっていることから、朝廷直属の「滝口武士」だったと推定できる。
滝口武士とは天皇の親衛隊である。もちろんこの役を務めるには、それなりの出自を備えていなければならない。
将門の父・良持(良将とも)は従四位下という高位にあり、その「蔭子」である将門もまた20歳を超えると自動的に官位を受ける身にあった。
このように少年期の将門は、京都で屈指のエリートコースを歩んでいたのだ。しかしそれがなぜか出世街道を外れて、無位無官のまま、坂東へ帰国することとなってしまう。
無位無官のまま帰郷する将門
将門が在京していたころ、従兄弟の平貞盛もまた京都にあった。
承平の乱が勃発したとき、貞盛が努めて将門の事情を理解しようとする描写が『将門記』にあり、ここから在京時のふたりが親しく交わっていたことを推察できる。
若き日の貞盛がだれに仕えていたかは不明だが、彼は「左馬允」に任じられていた。貞盛の弟・繁盛が忠平の次男・九条師輔に仕えていたことも後年の一次史料に残されている。すると、貞盛もまた将門同様、滝口武士として精勤していたのではないだろうか。
しかし貞盛が順調に出世していたのに対し、将門はいつのまにか京都を離れ、坂東の下総国へと帰郷していた。将門は「蔭子」であるから、忠平のもとで普通に過ごしていれば、20歳を超えれば、従七位下に叙位される予定であったのに、なんの官位も受けていない。なにか深刻な事情があって京都を離れざるを得なかったのだろう。
では、将門が出世街道を捨てて帰国することになった理由とはなんであろうか。
「田畠」と「女論」
史料を見渡すと、その理由を探る手がかりが残されている。
帰郷の理由は、領土問題にあったようだ。将門の父が亡くなった年は不明だが、承平某年、将門はおじの平国香と平良兼を相手取り、「田畠」と「女論」が原因で争ったと記されているからである(『今昔物語集』『将門略記』)。
前者の「田畠」は亡父の遺領、後者の「女論」は縁談の問題であるというのが近年の通説で、わたしもその通りだと思っている。
ただし、研究者たちはその具体的詳細を不明としている。小説やドラマは国香と良兼が亡き良持の田畠を横領したように描くことが多い。勧善懲悪ものの物語としては、その方がわかりやすいから、こうした設定が好まれる。
しかし、国香たちは坂東屈指の豪族である。良兼にいたっては鎮守府将軍を務めたこともある。それがたかが田畠の問題で、人望を損なうような振る舞いをするだろうか。
そもそもこの時代の坂東は、まだ未開拓の地がたくさんあるフロンティアである。人手を集めて切り開けば、田畠ぐらいならいくらでも手に入っただろう。それなのに、大きな貫禄を期待される彼らが20歳前の甥を相手にそんな大人気ないことをするとは思えない。
では、国香と良兼は、なぜ将門と対立したのだろうか。
この謎を解く鍵は、昭和の発掘調査で明らかにされている。詳細は『平将門と天慶の乱』に記したので、ここでは簡単に述べるが、良持の「田畠」には馬産地や牧場、製鉄所などの重要な軍事施設が立ち並んでいたのである。
将門が出世コースを捨てた理由
将門が国香や良兼と対立した理由は次のようなものだろう。
将門は父の死により、帰国を決断した。亡父の遺領が普通の「田畠」だけなら、おじや弟たちに経営を委ねてもよかっただろう。しかし、そこには屈指の軍事施設がひしめき合っていた。これを人任せにはできない。将門は出世の道を諦めてでも帰郷しなければならなくなった。
国香と良兼にすれば、在京生活が長く、坂東の作法をよく学んでいない若い甥に、良持の遺領を委ねるのは心配でならなかった。ムスカにラピュタを与えるより危険だと思ったのだ。
こうした相続問題は、中世武士ならまず間違いなく二派にわかれての御家騒動が起こる案件だった。こうして将門はおじたちと対立し、やがて孤立していくこととなる。ここに、将門vs.国香&良兼の対立が顕在化していったのである。
実父より夫を選んだ将門の妻
しかも、これに「女論」の問題まで合わさった。
女論というのは、縁談の問題である。将門は良兼の娘と結婚している。『将門記』によると、将門の妻は彼の邸宅に住んでいた。
豪族の妻が夫の邸宅に住むのは、実はとても珍しい話であった。なぜなら当時は婿取り婚≠ェ普通で、妻は夫の邸宅ではなく、実家の邸宅に住むのが当たり前だったからである。
女論の中身をより具体的に見るならば、将門が良兼の合意を得ずに、彼女を自分の邸宅に連れ帰ったのだと考えられる。
こうして、良兼と将門は「合戦」したという。この女論に際して、両者は手荒な武力闘争を辞さなかったのだ。その後、良兼の娘は実父・良兼よりも、将門への「懐恋」の想いが強かったことが、『将門記』に記されている。おそらく良兼は将門を懐柔するため、娘との縁談を持ちかけたのだろう。
だが、将門はこれを逆手にとり、彼女を自邸へ引き連れたのだ。将門の妻もまた自ら望んで父より夫を選んだのだろう。
野本合戦と承平の乱勃発
こうして将門は「田畠」と「女論」の問題で、おじたち相手に、我を貫いた。この一件は周囲にも知れわたったが、あえて関わろうとする者は現れなかった。おじたちもこれ以上の関与を控えようとした。
だが、さまざまな嫌がらせが繰り返されたようである。将門のストレスは次第に高まっていった。
それは坂東嵯峨源氏一族の挑発で、頂点に達することとなる。
国香や良兼と親しい彼らは、明らかに反将門派の立場にあった。それが将門と対峙するとき、事もあろうに国司方の一族である特権を濫用して、官軍の旗や鐘を装備してきたのだ。官軍兵器の私用は違法である。これを黙って受け入れては、将門自身が群盗として蔑まされる。だが、ここで応戦すれば、おじたちとの全面戦争が待っている。
このため、将門は一瞬ばかり進退に迷った。しかし、ひとたび決断すると、その動きは迅速だった。
将門はかつての「滝口武士」である。朝廷の法に背く非法を許すわけにはいかない。風を背にするなり、敵の兵たちを次々と射殺しはじめた。将門は弓矢の名人で、配下の武装も坂東随一だった。あっという間に勝負はついた。これが野本合戦ならびに承平の乱の幕開けである。 
 
「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」将門の乱
天慶二年に平将門の乱が勃発した。関東で起こった内乱。下総・常陸の一族間の私闘を繰り返する中、平将門が常陸の国を焼き払って、次々に勢力を広げ下野・上野まで国府を襲い国司を追い払い、自ら新星と称し、坂東各地の受領を任命するまでに至った。
その後勃発する純友の乱と合わせ「承平・天慶の乱」と言う。
関東の承平の乱が収拾に向かっていた頃、西国では不穏な動きが出てきた。
瀬戸内海では海賊の被害が多発し、従七位伊予堟藤原純友は海賊の討伐に当っていた。所が承平六年頃(936)には伊予の日振島を拠点に千艘を組織する海賊の頭目になっていた。
純友が説得し、鎮圧した海賊は朝廷の人員整理で職を失った富豪層出身の舎人たちが多くを占め、税収の既得権を主張し通行税なる物を徴収していたようである。
純友の配下は海賊鎮圧後も、瀬内海地域に土着させられ、武功勲功認定で失地回復を狙っていた者が、受領たちの自分たちより高い身分に武功を横取りされたりして快くは思っていなかった。
赴任する中央の受領の搾取の対象に成ったりし、任国の受領支配に不満を持つ者ばかりであった。
純友に関していえば父の従兄の藤原元名が承平二年から五年にかけ伊予守であったという。
天慶二年(939)純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅に襲撃させた。
それも残虐な鼻を削り捕え、妻を奪い、子らを殺したと言う。
この事件に朝廷は驚愕し、共鳴するかのように将門が謀反を起こしたのかと恐れた。
朝廷は天慶三年(940)小野好古を山陽道の追補使、次官に源経基を任じた。
朝廷は東国の将門の乱に兵力を集中させていたので、取り敢えず純友を懐柔を図り従五位を授けたが、純友には歯止めがきかなかった。
その内純友の情報が次々増幅されて京にもたらされた。
純友が淡路島の兵器庫を襲撃し襲っていると言う知らせが都の届き、京の各地に放火が相次ぎ、小野好古は「純友は船に乗り都に上りつつある」という報告を受けて朝廷は京へ襲撃をするのではないかと、宮廷の十四の門に兵を配備、藤原慶幸が山城の入り口に派遣し都への警護を固めた。
この一連の放火と純友の関係は定かではないが京では疑心暗鬼に陥っていたことは確かだ。
折しも将門の討伐が完了されたと言う報告が届き、この知らせに動揺したのか純友は日振島に船を返した。
これは将門の討伐が落着し、その兵を西国の純友討伐に差し向けられることが可能になったからである。
東国からの、兵が召還され兵が帰京するや朝廷は純友討伐に積極的になり、藤原文元・子高襲撃犯として追討の令が出された。
朝廷も東西同時の事変に困惑したが、将門の事変を解決した自信の勢いで純友討伐に集中することが出来る様になった。
一方純友は四百艘で出撃し、伊予国、讃岐国を襲い放火。備前國、備後国の兵船百艘を焼いた。そこから長門国を襲撃って、官物を掠奪した。
二カ月後大宰府と追討の兵が純友軍と戦い、これに純友軍が敗れ、周防国も襲われている。さらに土佐国幡多郡も襲撃をした。
天慶四年(941)純友軍の幹部の藤原恒利が朝廷軍に降り、それを期に朝廷軍は純友軍の本拠地日振(ひぶり)島を攻めてこれを破った。
純友軍は西に敗走、大宰府に入り占領する。純友の弟の藤原純乗は九州は柳川を攻め、大宰府権師の橘公頼の軍に浦池で敗れた。
一方朝廷側は小野好古率いる官軍が九州に到着し、官軍は陸路から、海路から攻めた。純友は大宰府を焼き、博多湾で迎え戦った。
純友軍はこの戦いで大敗し、八百艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れるが翌月には警固使橘遠保に捕えられ、その後獄死したと伝えられている。

この頃相応する様に将門と純友が中央に不満を持って反旗を簸(ひ)るが下については、地方に活路を見いだそうとするもの、都から下級役職として赴任させられたものが、赴任先の富豪受領者や国衙との軋轢に、また赴任先の地方の官僚脱落者らの不満を吸収し勢力を増大させて一気に都の対する対抗勢力になった。
また地方の治世に手薄で支配の及びにくい不備を突かれた型となって表れて事変が噴出したようである。
双方の事変は赴任先の親族が少なからず関わり、将門の場合関東に活路を見いだした土着した親族の者との支配構造に争うが周辺を巻き込んでいった感があって、事態が大きくなるにつれ中央に対抗勢力に変化していった。
また純友の事変は、取り締まる者が、捕えられる側にまさに下剋上の世界である。何れにせよ地方の不満勢力を吸収し朝廷の対抗勢力になって行ったようである。
とりわけ掾が土着した役人との利権争いに、鎮圧に差し向けられた官人や兵らの鎮圧後、御用済みで放置、行き場を失った浪人が純友に活路を求めて集団化し海賊に変化した。時代に阻害された者の吹き溜まりの様なものだった。
またこう言った動きは「もののふ」武士の台頭となって領地を持って国主になっていた基になったのかも知れない。
平将門(?〜940)平安の武士、桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)の孫。鎮守府将軍平良将の子。身内の女を廻る争うで、叔父国香を討つ、坂東で新星の王朝を打ち立て、関東の諸国を除目し領地を与える。当初不満を持つ土着の豪族の反目を吸収しつつ勢力を拡大して行った。
興世王(?〜940)平安期の地方官『将門記』によると武蔵国権守の時に、同国足立郡司の武蔵武芝と対立し、平将門との調停で和解した。新任国守百済貞連と対立して将門の下に身を寄せる、将門の常陸国府の襲撃後、坂東各国襲撃を促し将門新星即位後の受領除目で上総介となった。
受領は本来は国司の交替に際し、後任の国司から職務の引き継ぎがあって、完了した証明書を受け取ることで「受領」とされて来た。国司が遙任の時は介、権守が受領となった。また留守所が成立し受領は常駐せず、目代を派遣して代行させるのが一般的である。また家司が受領を代行することもある。 
 
■江戸川柳  

 

江戸川柳
平将門 −敢えて逆賊となった正義漢
将門は朕の不徳とへらず口
将門と言えば、坂東武者に生まれながら、京都の天皇政権に反抗し、自ら新しい政府を樹立して、東国の独立を計った天下の逆賊、謀反人ということになっている。しかし、だからと言って、許すべからざる悪人かと言うと、そう簡単には決められないようである。関東に新しい政府を創ったことが悪いとすると、鎌倉幕府も、徳川氏も、同様の謀反人と呼ばなければならない訳で、その関係からか、幕府はしきりに将門の弁護に努めている。殊に三代将軍・家光は、わざわざ将門のために、京都に勅免を申請し、その名誉の回復を計ると共に、江戸の大社、神田明神の祭神として尊崇し、その祭礼は毎年上覧に供されるとの特典を与え、赤坂の山王社と共に、天下祭りとして公認するという所まで優遇してくれたから、江戸ツ子にしてみれば、逆賊どころか、
「将門ってなァ、俺たちの親分みてえなものよ。」
てな気分で見ていたような所がある。
一体将門のどこが悪かったのかと、その気になって調べてみると、歴史的にもいろいろわからない所が出てきて、現代では、海音寺潮五郎とか、真山青果とか、将門ぴいきの作家も沢山居て、将門逆賊説は次第に影を消しそうな傾向にあるようだが、さて真相はどうだつたのか、暫らく考えてみたい。
相馬小次郎、平ノ将門。家系を辿れば、桓武天皇の曽孫・高望王から出た下野権ノ守、平ノ良将の次男である。
通説によれば、若くして京に上り、貞信公・藤原忠平に仕えていたが、当時伊予ノ橡をしていた藤原純友と相識り、共に比叡山に登って京の街を俯瞰しながら、天下討滅の大陰謀を思いたつたという事になっている。
将門の友は遠方より来たる
純友というのは、瀬戸内海の海賊の首領、一時は朝廷に運ばれる貢ぎ物を積んだ船は、こごとく抑留、劫略して、京都政府を震撼一せしめた梟雄である。将門の「天慶の乱」に対して、これを「承平の乱」と並び称しているが、両者の間に何らかの合意・連携があったという証拠は、どこにも無いようである。
ただ伝説としては、二人を繋ぎ合わせないとどうも話が面白くならないのだ。
じゃじゃ馬に友が出来たで事になり
叡山で見下ろす時分塚が鳴り
この塚というのは、坂上田村麻呂の将軍塚、天下危急の際には、自然と鳴動すると言われるものだけに、地元の比叡山での陰謀ともなれば、さぞかし喧しかったに違いない。
下を見ておごりの出たは比叡山
あの屋根が紫震殿だと伊予ノ橡
「俺は伊予の日振島で事をおこすから、お前は関東で、思い切リ暴れて見ろ。」
などと言つたかどうかは知らないが、日本を二つに分けて、東西で謀反を起こそうなんて話は、たとえ夢物語でもちょつと壮快だから、江戸ツ子は自分たちの溜欽を下げるためにも、何となく応援をしたがっている感じがしないでもない。
土手から星を見下ろして謀反なり
「その気持ち、わかるなァ。」と言った所であろうか。
将門の反逆と呼ばれるものは、実際は一門の所領争いに端を発した地域的紛争に過ぎなかつたものが、地方官の無能と、中央の無策によって、大きく拡がってしまったものであることは、今日ではほぼ定説である。
摂関政治の確立による中央の腐敗と、それを利用して、地方からの収奪に専念する国司の暴政に愛想をつかした地方豪族の一部が、「京都なんか糞くらえだ。反逆児・将門こそ、我等の新しい主君たるべきだ。」などとおだて上げ、人の良い将門が、ついその気になったのが、この「天慶の乱」である。
「将門記」によれば、天慶三年(939)12月、将門が上野の國府を攻め落とし、味方の土豪達と祝宴を張っている所へ、一人の倡妓(遊女)が現われ、八幡大菩薩の使いと称し、
「朕の位を、蔭子平ノ将門に授け奉る。」
と叫び、将門か礼拝してこれを受けた。その瞬間に将門政権は誕生したのだと言う。
実は将門はこれより先、伯父の平ノ国香を始めとする一族との所領争いを通じて、その抜群の勇猛さと、淡泊で男らしい度量の広さから、次第に近隣の土豪達の信頼を集めていたのだ。それはやがて必然的に、中央から派遣され、貧欲な収奪を事とする國司との対立を深めて行ったのである。
武蔵の豪族・竹芝を援けて、國守・六孫王経基と衝突し、遂にこれを追放したのを手始めに、その後は、関東一円の土豪層の先頭に立って、各地の國司との対立抗争を繰リ返し、要求実現のためには、武力の行使も敢えて辞さなかつたのだから、これは明らかに政治的反逆であリ、新しい政権樹立の野望がなかつたとは言い難いであろう。
ただこの段階で、形骸化した京都の貴族政治をそのまま関東に移し替えると言うのでは、少々お手軽過ぎて、みっともないのではないかと、川柳子も心配したのであろう。
住めぱ都とは将門が言い始め
相馬公卿おっこちそうな雲の上
詳細は不明ながら、将門はその後、新しい王城を石井に定め、各地の地方官なども任命して、政府としての体裁を整えたと言うのだが、いずれを見ても山家育ちの田舎者が、慣れぬ形の衣冠束帯で、威儀を正したりするのを見れば、これはやはり茶番以外の何者でもなかったであろう。
参内をしろと國香を責めるなり
何が勅使だと國香腹をたて
勿講國香は、これより大部前に討ち死にしているのだが、心ある者の目から見れば、とんだ恥さらしと映ったことは確かである。
相馬公卿小松菜なども引きに出る
からたちと桃で相馬の紫虚殿
将門の本拠地が、常陸の猿島などと言う地にあつたことも不運だつたかも知れないし、家の紋所が"繋ぎ馬"という変ったものだったことも、からかわれる原因になっているようである。
人の真似する猿島のえせ公卿
敷島を真似て猿島ごほりなリ
下聡の内裏紋からしてが下卑
さんざんであるが、この新政権、成立後僅かニケ月で、平ノ貞盛と藤原秀郷の連合軍によって焼き討ちされ、将門はあえなく戦死したと言うのだから、現実はもっと残酷だったと言うべきであろう。
親王面でもあるめェと藤太言ひ
だだし江戸っ子は、決して将門を見捨てたりはしなかったようである。大手町に残る首塚でも、また神田明神、築土八幡とか、北新宿の鎧神社等、将門由縁の神社・史蹟の多くを見るにつけ、彼等が将門を「我等の祖先」と考え、その武勇と侠気を讃える気風は、色濃く残っているように思われるのだ。
将門の怨みを引き継いで行く娘、滝夜叉姫の伝説などにしても、その現れの一つかとも思うが、今は少しく視点を換えて、将門を倒した相手方の、藤原秀郷について考えてみることにしたい。
藤原秀郷 −英雄の功績と褒美との関係?
七巻きと七変化とを藤太射る
陸奥の鎮守府将軍にして東北の覇者。平泉の中尊寺や光堂の建立で名高い、奥州藤原氏の始祖…などとくだくだ言っているよりも、お伽草紙の「俵藤太物語」の主人公と言った方が早い。伝説的英雄を倒すには、倒す側も又、伝説的な勇者でなければならないとする好例の一つである。秀郷の家系を尋ねると、藤原北家の中でも、左大臣魚名の末商で、下野の國司に任命されたのが、そのまま土着した裔である。本人も下野の橡から、押領使に任じられているが、若い頃には上官に反抗して、罪せられたこともあり、中々一筋縄では行かない人物だつたことは確かである。
そんな秀郷が例の任官運動のため、京の堂上方の邸に勤仕して、久方ぶりに故郷に還えろうとした下向道、近江の琵琶潮、瀬田の長橋にさしかかると、橋の真ん中に巨大な蛇がドデンと横たわっていたと言うのである。諸人怖じけをふるって、誰一人近付く者もなく、遠巻きにして騒いでいるのを見ると、そこは当代無双の勇士、ちっともためらわず進み出て、ノッシノッシと大蛇の背中を踏みつけて、橋を渡ってしまった。所がその途端に、大蛇の姿ぱ忽然と消え失せ、今度は美しい姫君となって、
「貴方のようなお方をお待ちして居りました。勇士と見込んで、是非ともお願いが・・・」
ということになるのである。
長いものに巻かれぬは藤太なり
弓取りに乙姫たのむ瀬田の橋
この女性、実は竹生島の水底に棲む竜神の娘で、その語る所によれば、近ごろ三上山に巨大な百足(むかで)の化物が出現、竜宮は今や危急存亡の瀬戸際、誰か勇者の助力を得て、この敵を倒したいと、思い付いたのが肝試しの大蛇の趣向、幸い貴方のような豪傑に巡り会えたからは、是非にも私どものために、一臂のお力添えを…と頼まれては、英雄・豪傑と言われるような人種は、とても断ったり出来るものではない。
「いでや、身どもの弓勢の程を御覧ぜよ」
と無闇にはりきって乗り出した。所が相手の百足というのが、何しろ三上山を七巻き半するという大変な代物、表面の皮が鉄の板ほども固くなっていて、いくら失を打ちこんでも、カーンと弾き返してしまう。
「南無三、こは一大事・・・」
と思つたが、そこは豪傑、咄嵯の間に頭を働かせると、次の矢の鏃に、口中の唾液をたっぷりと塗り付けて、
「これなら、どうじや。」
と打ち込むと、案の定、目と目の真ん中に深々とつきさって、これが教命傷となったと言う。つばきにそんな科学的効能があろうとは、ファーブルも知らなかった世紀の発見であった。
三上山まではその日に死にきれず
秀郷に帯を解かれし三上山 
秀郷の武勇に感動した竜宮では、早速最初の姫君をお礼の使者として、三つの宝物を彼の許に送って来た。
一、いくら裁っても、尽きることのない巻絹 2巻
一、いくら出しても、尽きることなく米の出てくる俵 1俵
一、いくら食べても、後から後から料理の出てくる赤銅の鍋   1個
何となくグリム童話を思わせる内容である。この不思議な俵のおかげで、俵藤太と呼ぶに至つたと言うのだが、これは間違い。本当は、彼の一族の根拠地が、近江國、栗太郡田原の荘にあったためで、逆にこの名前から、俵の伝説が生まれたらしい。真相というものは、何時でもつまらないものである。
所で、話にはまだ続きがある。竜宮の姫君は、此等の贈り物をした上で、
「永年の宿敵を倒して頂き、一門眷属の喜び、これに過ぎるものなく、是非一度竜宮にお招き申したく、何率お闘き入れを・・・」
という次第で、美女の案内に従って竜宮への探訪旅行が行なわれる。但しお伽草紙による竜宮の描写は至極平凡でつまらない。
藤太様御入りと海月門を開け
珍しさ竜宮米を藤太食い
浦島は無事かと藤太たずねられ
さんざん御馳走になった上に、今回も又新しい贈り物として、黄金の札をおどした鎧、黄金作りの太刀のほかに、むかし舐園精舎の霊域で鳴らされた鐘を、そのまま写した釣鐘を土産にくれたと言うから丁寧である。 
竜宮は何ぞか土産くれる所 
これは種々御丁寧なと俵藤太 
お伽草紙では、藤太もさすがにもて余し、
「此れ程の重き品々、いかに運ぶべき?」
と文句を言っているが、竜王は、
「左様なことは、全て当方の手で、」
とか何とか、適当に誤魔化している。 
海坊主持ちにしやれと藤太言い 
水際で藤太土産に大こまり 
竜宮の使いの者たちが帰ってしまった後、さてどうやつて引っ張り上げたか知らないが、この吊り鐘、結局は三井の園城寺に奉納され、一撞き毎に諸行無常の理を、人々の心に響かせていると、お伽草紙は説いている。 
一景は竜宮にまで響いてる 
越後屋の寺へ秀郷鐘をあげ 
三井寺と聞くと、直ぐに越後屋の寺と考えるのは、江戸ツ子の酒落か、それとも無知か、はっきりとはしないが、とにかく越後屋を上回るほどの金があり、武器があり、その上に力もあるとすれば、天下に名を上げる為にぱ、あとはチャンスだけだつた訳で、それが「天慶の乱」であり、犠牲になった将門には、大変気の毒な次第だったという訳なのである。 
「俵藤太物語」によれば、秀郷も一時は将門に加担して、関東独立の夢を描いたこともあつたらしい。下野の押領使として、関東の情勢をつぶさに観望していた駅だから、その位のことはあっても当然であろう。しかし、一度相馬に将門を訪ねてみて、ガッカリしたのだという。彼が将門の邸に案内を申し入れた時、将門は大喜びをしたらしい。かねてから、武勇の誉れ高い秀郷との協カを切望していたからである。折から風昌上ガりか何かで、髪を梳っていたのに、それを結びもあえず、片手に握つたまま、しかも白い下着のままで、中門まで駆け出して迎え入れたと言う。我々現代人の目から見れば、誠に気取りの無い爽やかな態度で、男同志胸襟を開いて語るにふさわしい性格と見えるのだが、秀郷には、どうにも軽々しいと映ったらしい。 更に、一緒に食事をすることになつた時、将門はしきりに飯粒をこぼし、しかもそれを、自分で拾って口に入れたというのである。
秀郷は、"その粗野にして、品のないことは、到底天下を取る器にあらず、又共に語るに足る人物ではない。"と見抜いて、協力を断念したと言う。 
将門は愛想すぎて見限られ 
めし時や髪を結う時藤太来る 
秀郷は頭見い見いあいさつし 
こうした話を読んでいると、どうも秀郷の貴族趣味が鼻につく感じだが、その秀郷、さて将門を見限ったものの、今度はどうしたら将門が倒せるかと調べてみると、これが又、実に大変な仕事だという事が解つて来た。何しろ将門という男、戦場では常に6人の影武者と言うか、影そのもののような存在に囲まれ、しかも全身これ鉄で覆われ、何処にも矢の立つ所の無い、不死身の怪物だと言うのである。どうしたらよいか迷つた末に、将門の屋形に住む小宰相の局という女に言い寄り、彼女の口から将門の秘密を聞き出すことに成功する。即ち6人の影と言っても、自分から動くのは将門自身しかないこと、全身鉄で出来ているようでも、こめかみだけは唯一の弱点として残されていると言うのである。日本でもアキレスの腱はあったのである。 
運の尽き俵に米を見つけられ 
ぐるをやめにしてこめかみをねらう也 
生き馬の目を秀郷は抜いた人 
かくして天慶3年(940)2月14日、秀郷と平ノ貞盛の違合軍に急襲された将門は、奮戦の末、38歳を一期に討ち死にをする。これに組した一味徒党も、それぞれに悲惨な末路を辿る中に、秀郷は一人、かねての望み通り鎮守府将軍に任ぜられ、平泉の繁栄に向かって、栄光の礎を築いていった訳だが、かくて万事めでたしめでたしとばかりは行かなかったようである。将門の首は、その後京に送られ、刑場に晒されたのだが、一月を経ても色を変えず、時々歯を噛み鳴らして怒りの形相を示し、人々を震え上がらせたとか、藤六という男が、
将門は こめかみよりぞ 射られけり
俵藤太が はかりごとして
と狂歌を詠むと、ニヤリと笑って、それからは死人の色に変わったという話が、古く「平治物語」に出ている。これは、俵藤太伝説の成立の古さを示すも一のではあるが、同時に将門の怨霊説話の普及の広さをも語るものと言えるであろう。  
江戸ツ子の"将門びいき"は前にも書いたことだが、関東一円の民衆による"将門崇拝"は、更に広く、且つ根深いものがあるらしく、茨城県岩井市の「国王神社」をはじめ、沢山の将門遺蹟、また岩井市の延命院その他に見られる、密かに将門に模した石像などを祀る「隠れ将門」の伝承など、調べてみれば数え切れない程あると言われているのに対して、俵藤太については、そうした現象は殆ど見ら九ないのは、如何にも残念である。 歴史に対する民衆の眼の奥深さと言うものを、今更のように感じさせる好例と言えるかも知れない。  
 
天神信仰
日本における天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。
藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、すぐに、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀った。その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(御霊信仰も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府には先に醍醐天皇の勅命により藤原仲平によって建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮で崇奉された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮天神」の勅号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この頃に描かれた『天神縁起』によれば、この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神、皇族ほか歴代幕府・戦国大名などの武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。
元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神さま、天神さんなどとよばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮、天満神社、天神社、菅原神社、北野天神社、北野神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。
発祥の地
北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮では「総本社」、太宰府天満宮では「総本宮」と呼称し、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。ただし「日本三大天神」などと称する場合には、太宰府天満宮を外して北野天満宮を残す例がある。
各地の天神信仰
福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛軸)を飾る。福井の一部地域では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、富山藩や加賀藩(石川県)など前田氏の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家は菅原氏の出を称しており、その領内には天神社・天満宮が他地域に比べて大変多い。前田家の家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、先祖が菅原氏であるためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」(加賀梅鉢)と呼ばれている。
天神信仰と数字
菅原道真を主祭神としている神社では、道真の誕生日が6月25日、命日が2月25日で、ともに25日であったことから、毎月25日を例祭としていることが多い。江戸時代でも毎月25日は天神様の縁日であり、とくに旧暦1月25日を「始め天神」、12月25日を「終い天神」とよんで参詣したが、これは新暦に移行した現在でもそう呼ばれている。また菅公聖蹟二十五拝・洛陽天満宮二十五社順拝・江戸二十五天神のように特定の25社を巡礼する風習も存在する。
天神信仰と牛
菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。  
 
■怨霊伝説

 

平将門と怨霊伝説
平将門といえば、祟りや怨念の話を思い浮かべる。現代日本の中心地である千代田区に至っても、将門公の祟り話しが伝えられるほどで、千代田区大手町にある将門の首塚が、京都から飛んできた将門の首を祭ったところである−という言い伝えが一般的であろう。そして、将門の霊を祀った神社が神田明神である(昔は大手町付近に位置したという)。
では、なぜ掛川に首塚なのか。残念ながら記録がないため、この十九首塚が将門の塚で あるという定かな証拠はない。ただ、昭和31年、塚保存のために、五輪塔建立にあたって塚の一部を掘り返した際、長さ20センチの「刀子(とうす)」と呼ばれる小刀と、手のひら大の土器片が出土し、1200年位前のものと鑑定された。この塚の時代を示資料は他になく、塚の主について確かなことはわからない。
十九首塚伝説の形成
将門は、平良持(たいらよしもち)の子で、京に上り摂政藤原忠平に臣従して検非違使(けんびいし・警察等)就任を希望したが受け入れられず、関東に帰って悶々とした日を送る。時が熟すのは承平5年(935)、平氏一族の内紛を契機に将門は関東武士の信望をあつめ、常陸、下野(しもつけ)、上野(こうづけ)、武蔵、相模など関東一円を占拠し、自ら新皇と称して公然と国に背くようになったという。
しかし、反逆者であるはずの将門は、その討伐直後からすでに英雄視されていたようだ。将門に関する歴史的記述は『将門記(しょうもんき)』しかなく作者は不明だが、天慶3年6月脱稿とあり、乱の直後に書かれたものである。『将門記』からは、前編にわたって将門が英雄的存在であったことが伺われ、少なくとも初期伝承から将門が英雄視されていたことがわかる。そして、江戸時代になると将門を祀る神社は徳川家に養護され、大正時代になっても庁舎を移転させるほどの影響力をもち、今に至るまでその伝説を形成しつづけてきた。
この十九首塚伝説は、いくさ語りの民間伝承と戦死者供養の民間信仰を、村人が代々口伝したものと見受けられるが、将門の怨霊は登場しない。どちらかといえば、秀郷の武将魂を讃えた話のようにも見える。渡邊昭五氏によると、秀郷が英雄視されたのは中世以降のことで、藤原秀郷の鬼退治や百足退治の伝説が伝えられ、さらに彼の子孫によって『俵藤田物語』(*)などの絵巻に語られて武勇話が誇示されるようになったというから、それ以降の伝承なのかもしれない。 *俵藤太=藤原秀郷
将門と七つの魂
将門の本拠地は、現在の千葉県成田山だった。そのため、成田山周辺の集落や将門神社がある栃木群馬など、北関東を中心に広範囲にわたって将門伝説が伝えられている。
将門伝説には「七つ」が多く出てくる。千葉県木間ヶ瀬村や飯塚村の七本桜、七影武者の土人形をつくってお供えするお祭り(同地)、千葉県亥鼻城跡の七ツ塚(七天王塚)、東京都奥多摩の七ツ石山など、すべて将門の影武者や妖術の伝説が伝えられている。その中でも興味深いのは、秀郷が将門を討ちとったとき、刀傷から七つの魂が飛び散り、各地へ飛来したという言い伝えである。江戸時代になって、これを芝居仕立てに脚色し読み物にしたのが、
山東京伝の黄表紙『時代世話二挺鼓』だろう。将門が、妖術を使って七つの分身を見せ、対抗して秀郷が覗鏡で八重の姿を見せるなどの見せ場が描かれており、そのクライマックス、将門が斬られるシーンでは、打ち落とされた将門の首から七つの魂が飛び散る。七は将門伝説以前から妙見に伝わる数字であったことから、秩父妙見宮と将門伝説の関係を説く書物もあり興味深い。
この十九首塚隣の東光寺には、成田山不動堂のほこらがある。これは明治10年に将門縁りの東光寺が、本山の心勝寺より不動明王の霊を移して祭ったもので、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可された。 
 

 

 
 

 

 
■将門の関係者 

 

藤原秀郷
平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。
出自
藤原北家魚名流が通説とされる。太田亮などによる下野国史生郷の土豪・鳥取氏いう説もあり、古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓を名乗ったとする説もあるが定かではない。また秀郷の祖父藤原豊沢と藤原魚名の孫藤原藤成とが親子として繋がらないとし、居住地、祭祀の傾向からも実際には毛野末流と見る説もある。
俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原荘(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。
経歴
生年は不詳とされるが、「田原族譜」によると寛平3年(891年)とされる。いずれにせよ、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。
秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。
天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この時、秀郷は宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。また、この時に秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。
複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。 この功により同年3月、従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。
将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなる。没年は「田原族譜」によると正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳で亡くなったとされるが、「系図纂要」によると天徳2年2月17日(958年3月10日)に亡くなったとされる。
百足退治伝説
「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。
琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した。
諸本
俵藤太の百足退治の説話の初出は『太平記』十五巻といわれる。しかし『俵藤太物語』の古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある。御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった。
大蛇の化身と竜宮
御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する。ところが太平記では、大蛇は小男の姿でまみえて早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると藤太が退治するという展開になっている。
百足
百足は太平記では三上山でなく比良山を棲み処とする。百足が襲ってきたとき、それは松明が二、三千本も連なって動いているかのようだと形容されているが、三上山を七巻半する長さだったという記述が、『近江輿地志略』(1723年)にみえる。
唾をつけた矢を放つとき、御伽草子では、八幡神に祈念しており、射止めた後も百足を「ずたずたに切り捨て」た、とある。
財宝
俵藤太物語では竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札(こがねざね)の鎧や太刀を授かる。
時代が下ると、褒美の品目も十種に増える。そして太刀にも「遅来矢(ちくし)」という号し、赤堀家重代の宝刀となったという記述が『和漢三才図会』(1712年)や『東海道名所図会』(1797年)にみえる。
鎧が「避来矢(ひらいし)」号し、下野国の佐野家に伝わったという異文が『氏郷記』(1713年以前)にみつかり、異綴りだが「平石(ひらいし)」と「室丸(むろまる)」の2領が竜宮の贈物だったという、新井白石『本朝軍器考』(1709年)の記述となかば合致する。
鍋には「小早鍋」、俵には「首結俵」という呼称があった(『氏郷記』)とする記載もみえる。
伊勢神宮には、秀郷が所有したと伝わる刀剣が二振り奉納されている。ひとつは百足退治に際して龍神から送られたという伝来のある毛抜形太刀 (伊勢)で、赤堀家重代の宝刀だったものが複数の手を渡り伊勢に所蔵されることになったと説明される。もうひとつは「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で、8世紀の刀工、神息の作と伝わるが、14世紀頃の刀剣と鑑定されている。このほか滋賀県竹生島にも秀郷奉納と伝わる毛抜形太刀 (宝厳寺)が存在する。
将門
御伽草子「俵藤太物語」の下巻では、平将門討伐が描かれる。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。
原話
鎌倉初期(1200年頃)成立の『古事談』に俵藤太の百足退治と類似した粟津冠者(あわづかんじゃ)の説話があり、これが原話でないかと考えられている。粟津冠者という剛の者が、鐘を鋳る鉄を求めて出雲に向かうと暴風に見舞われ、漕ぎつけた謎の小童に拾われ海底の龍宮に連れていかれる、そして宿敵を射殺してくれと嘆願され、敵の大蛇が眷属をひきつれてやってきたところを仕留め、褒美に得た鐘はめぐりめぐって三井寺に収められた、というあらすじである。
また、百足は鉄の鉱脈を表わし、「射る」ことは「鋳る」ことに通じるという若尾五雄の考察もある。
土地伝説
秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。また、類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼・百目鬼を討ったとされる。
信夫郡飯坂
福島市の飯坂温泉にも俵藤太の伝承がある。福島市飯坂は信夫佐藤氏の本拠地であり、藤原秀郷の子千常を始祖とすると言われる。奥州藤原氏の一族であり、吾妻鏡では、藤原秀衡が勇敢な武将として、近親者である佐藤継信・忠信を、義経を守らせるため、付き従わせている。 内容としては、女に姿を変えた大蛇の依頼で、俵藤太が大百足を退治し、佐波来湯の北隣りに新たに沸き出た泉(藤太湯)で、洗い清め癒したという話である。
後裔氏族
秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。
下野国  佐野氏 / 足利氏 (藤原氏) / 小山氏 / 長沼氏 / 皆川氏 / 薬師寺氏 / 田沼氏 / 下野小野寺氏 / 榎本氏
武蔵国  比企氏 / 吉見氏(小山氏支流)
常陸国  那珂氏 / 安島氏 / 小野崎氏 / 小貫氏 / 内桶氏 / 茅根氏 / 根本氏 / 助川氏 / 川野辺氏 / 佐藤氏 / 水谷氏 / 江戸氏 / 綿引氏
下総国  結城氏 / 下河辺氏 / 伊藤氏
上野国  赤堀氏 / 岩櫃斎藤氏 / 桐生氏 / 佐貫氏 / 大胡氏 / 山上氏 / 園田氏
相模国  山内首藤氏(首藤氏→山内氏) / 波多野氏(秦野氏) / 沼田氏
また京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。
紀伊  佐藤氏 / 尾藤氏 / 伊賀氏 / 湯浅氏
近江  近藤氏 / 蒲生氏 / 今井氏
伊勢  伊藤氏
信濃  大石氏
陸奥  奥州藤原氏
その他  内藤氏 / 佐藤氏 / 大友氏 / 少弐氏 / 龍造寺氏 / 立花氏 / 武藤氏 / 平井氏 / 筑紫氏 / 田村氏 / 大屋氏 / 長沼氏 / 長谷川氏 / 末次氏 / 大平氏等々
秀郷を祀る神社
唐沢山神社(旧別格官幣社)(栃木県佐野市)
鵜森神社(三重県四日市市)
秀郷稲荷(東京都府中市高安寺(伝藤原秀郷居館)内)
雲住寺と龍王宮秀郷社(滋賀県大津市) 
 
如蔵尼
(にょぞうに、生没年不詳) 平安時代の女性。平将門の娘(三女)とされる。 地蔵菩薩に深く帰依し、地蔵尼(じぞうに)とも呼ばれた。
平将門には幾人かの娘がいたと伝わるが、なかでも如蔵尼は説話や伝説の中で非常に有名で、『今昔物語集』や『元亨釈書』などに記されており、概略は以下のようになる。
「如蔵尼は将門の三女で大変美しかったが、結婚を求められても断り続けていた。父将門が謀反し敗れ、一族に誅罰が及んだので、奥州に遁れ恵日寺の傍らに庵を結び独りで暮らした。ある日病気で死ぬと地獄に落ちるが、地蔵菩薩の助けにより蘇生した。地蔵菩薩の大慈大悲を受けた女は地蔵に深く帰依し、法名も如蔵尼と改め、専心に地蔵を持した。齢80余りで入滅した(『元亨釈書』)。」
『今昔物語集』の巻17の29にある説話では、ほぼ同じストーリーでありながら、如蔵尼は将行(将門の誤記か?)の三女とされており、奥州に遁れる顛末の記載が無いなど、将門との繋がりが薄れている。
生涯
前項にあるように如蔵尼は将門の三女として記されることが多いが異説もある。『尊卑文脈脱漏』は『元亨釈書』を引用し、『桓武平氏系図』も将門の娘と記すが、茨城県結城市の小谷家に伝わる系図では長子が如蔵尼となっている。また『相馬系図』・『諸家系図纂』では将門の弟・将頼の娘としている。俗名は不明だが、滝夜叉姫と伝える伝承がある(後述)。
また、将門の子・平良門を育てたとの伝承もある。
茨城県坂東市の国王神社には将門の三十三回忌にあたり如蔵尼が刻したとする将門の神像が現存し、同様に如蔵尼自刻の将門像は福島県相馬市中村の国王神社、同小高の国王神社にも伝わる。
福島県いわき市の恵日寺には如蔵尼のものと伝わる地蔵菩薩像があったが、戦禍で失われた。また、千葉県柏市の龍光院にも如蔵尼が一族の菩提を弔い納めたとする地蔵菩薩像が伝わる。
福島県磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺のいずれにも墓が伝わっている。
滝夜叉姫 1
滝夜叉姫は近世に成立した復讐譚で有名であるが、如蔵尼とのつながりを示す伝説もある。福島県磐梯町の恵日寺にある如蔵尼の墓碑には『滝夜叉姫が将門の死後に再興を図ったが失敗し出家した』と記されている。福島県いわき市の恵日寺周辺にはタケヤサ姫を慕って共に逃れた者の子孫と伝わる旧家がある。
また、秋田県仙北市にも将門の娘・滝夜叉姫が逃れてきたという伝承があるが、こちらでは出家をしておらず子を成して村祖となったと伝わる。集落にある中生保内神社には滝夜叉姫持参の地蔵菩薩像があり、如蔵尼伝説と通い合うものが認められる。
滝夜叉姫 2
平将門の娘とされる伝説上の妖術使い。本来の名は五月姫(さつきひめ)という。
天慶の乱にて父将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされるが、生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目には貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、五月姫は妖術を授けられた。貴船神社の荒神は「丑の刻参り」の呪詛神として有名であり、貴船山に丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨した神とも伝えられる。貴船神社は、『栄花物語』や『お伽草子』、能「鉄輪」、宇治の橋姫の伝承などで取り上げられている。
荒御霊のお告げに従って滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総国へ戻り、相馬の城にて夜叉丸や蜘蛛丸ら手下を集め、朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝夜叉姫成敗の勅命を大宅中将光圀(通称太郎)と山城光成に下し、激闘の末に陰陽の術を持って滝夜叉姫を成敗した。死の間際、滝夜叉姫は改心して平将門のもとに昇天したという。 なお、坂上田村麻呂が鈴鹿山にて、大鬼人の犬神丸の手下である鬼人に夜叉丸という者がいる。夜叉丸は改心し、田村麻呂の家臣になっている。この夜叉丸との関係は不明。
伝説では妖術使いとされるが、実際は尼寺に逃げ尼として生涯を遂げている。将門の娘、五月姫こと瀧夜盛姫の墓は、現在の茨城県つくば市松塚、東福寺から西へ200メートル離れた畑の中に小さな塚がある。以前は西福寺に尼として出家して夜叉と呼ばれているが、地元では瀧夜盛姫と呼ばれ、今でも線香が手向けられている。東福寺境内の栄幼稚園入り口には、瀧夜盛姫の石棺に使われていた大きな一枚石が数枚置かれており、以前は小川の橋げたとして使われていた。
瀧夜叉姫 3
瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)は平将門の第三女と言われています。如蔵尼(にょぞうに)と同一人物であるという伝承もあれば別人とする説もあり、彼女を巡る伝説には様々なバリエーションがあります。
如蔵尼の項でも書きましたが、如蔵尼の墓と伝えられるものが福島県の2つの恵日寺(えにちじ)に残されています。福島県耶麻郡磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺(四倉町玉山字南作1)です。前者に残る伝説によると、将門滅亡後に、三女の滝夜叉姫がこの地に逃れ、庵をむすびました。ここには如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があるそうです。後者には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が建っているそうです。両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉としているようです。
ところで、秋田県の田沢湖のそばにある田沢町にも瀧夜叉姫の伝説が残っています。
実際にかの地を訪問された悪路王様のお話から、かの地に残る伝説の概要を引用させていただきますと、
「将門の一族は乱の後、離散し奥州に逃げ延びました。滝夜叉姫は五人の家来に守られ中生保内(なかおぼない)に住むようになり、村の祖になったと伝えられています。滝夜叉姫を埋葬したという姫塚が現在も残り、江戸時代には「村祖姫塚」の石碑も建っていました。また、姫が守り本尊として持参した延命地蔵尊は中生保内神社に奉られ今なお崇敬されています。」
「場所ですが、国道341号線を北上し、田沢湖駅方面へ曲がって行けば意外とあっさり見つかります。「姫塚公園」という名でかなり目立ちましたので。そのまま、奥へ走っていけば中生保内神社もあります。残念ながら延命地蔵尊は判りませんでした。」
ということです。悪路王様、貴重なお話をお伺いできて、心から感謝をいたしております♪どうもありがとうございました。
上記の田沢町の伝説では、瀧夜叉姫はかの地で5人の子を産み、それぞれが村祖となったと伝えられていて、瀧夜叉姫の出家や彼女を如蔵尼と結びつける伝承はありません。
さて、瀧夜叉姫伝説が劇的な復讐物語に変貌したのは、どうやら江戸時代に入ってからのようです。関東の英雄・将門の霊力をもって江戸の鬼門を守るという徳川家康(あるいは天海)の配慮により、江戸時代には意図的に将門の地位が上げられ、また庶民の間の人気も沸騰したわけなのですが、瀧夜叉の変貌も(あくまで想像なのですが)その辺りの事情と関連があるのかもしれません。復讐譚において瀧夜叉姫と絡んで登場するのが将門の息子とされる良門(よしかど)ですが、彼女または彼が登場する物語には以下のようなものがあります。
・「善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)」(山東京伝/文化4年(1807年)刊)
・「将門山瀧夜叉姫物語」(文化7年(1810年)に刊行された京伝の「親敵うとふ之俤」を改題して明治19年に再刊されたもの。)
・「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」(近松門左衛門/享保9年(1724年)刊)
などなど。ちなみに「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」に登場する将門の娘は「小蝶」という名で「瀧夜叉」ではありません。どの作品にも共通するのは、将門の娘が妖術使いに変身していること。京伝の瀧夜叉はなんと蝦蟇憑きだったりします。
近松門左衛門の「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」が上演されて以来、将門の娘を巡る復讐譚が浄瑠璃や歌舞伎でしばしば取り上げられるようになったそうです。ちょっと気になったのが「吾妻花相馬内裡(あづまのはなそうまのだいり)」という顔見世狂言の筋立てです。将門の娘の俤姫(おもかげひめ)が安倍晴明に恋をしたけれど、渡辺綱(わたなべのつな)の手に掛かって殺され、その怨念が良門に組して復讐するというお話です。晴明に綱とくれば、怨霊・魑魅魍魎(ちみもうりょう)・鬼のてんこもり。これは受けたでしょうね!
将門・瀧夜叉姫関係の物語や戯曲のいくつかは「平将門資料集」に載っていますので、興味をお持ちの方はご参考になさってください。「俵藤太物語・下」「けいせい懸物語(かかりものがたり)」「暫(しばらく)」「忍夜恋曲者(しのぶよるこいはくせもの)」「昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)」が掲載されています。  
 

 

 
■青森県

 

入内観音堂・白山神社   青森市入内字駒田
津軽三十三霊場第24番札所。
本尊は慈覚大師作とも伝えられる聖観世音菩薩像。
小金山神社社記によりますと坂上田村麻呂が白山権現を祀って、天慶年間に平将門の孫の信田小太郎が再興し、観音堂を建立したと伝えます。
慶長5年には津軽為信が入内山華福寺として再建し、寺禄130石を与えましたが荒廃し、寛永18年に住民により観音堂が再建されたといいます。
貞享3年には浦町組、油川組、後潟組、横内組で再建し、4か組の鎮守となりました。
享和3年寺社領分限帳に正観音堂が見え、末社として白山宮と薬師堂が記されています。
現在の堂宇は昭和20年代に焼失した後、昭和34年に再建と伝えます。
観音堂の裏手を上っていくと薬師如来と阿弥陀如来を祀る小堂があります。
更に上ったところに鳥居がありました。
こちらが白山神社。
小金山神社の社記によりますと、坂上田村麻呂が白山権現を祀り、天慶年間(938-947)平将門の孫である信田小太郎が再建し、白山権現社と観音堂を建てたと伝えます。
八十一隣姫は菊理姫で白山神社の御祭神。
かなり重厚なドアが設置されていましたが開けっ放しで御神体(菊理姫像?仏像と違って御神体=御祭神・神像とは限りませんが…)丸見えでしたよ。
菅江真澄が『津軽の奥』にて「年を経た木立ちが茂りあっているなかに、二つ三つばかりの鳥居が並んでいるので、はいって詣でた。ここでも、大同のころに建てたといういわれを語っていた。坂をあがった左方に、ちいさな祠があり、くくりひめをあがめまつるという。この祠の内に朽ちた木像があった。また薬師仏の堂がある。銀杏の落葉をふみ、坂をくだってゆく左側の木々の間に、慶長としるした五輪塔があった。苔がふかく、誰がたてたものとも知られなかった。…(中略)…このみちのおくにたくさんある神社のなかで、その名がもっとも高く知られた黄金山の神を祭ったのはこの森であっただろうが、中昔のころ、宮を堂につくりかえてここに観音をすえたのであろう。」と記しています。
また、『すみかの山』にて「乳内(入内)について、かの円仁がつくられたという観世音の堂に詣でた。四百年のむかしは、白山のみやしろといって、山に八十一隣姫をまつったところであるが、いまはこの神を地主の神として、観世音菩薩を槻木館の主人隅田の小太郎という人が堂を建てておさめられたのだという。ここをこがね山の神社かと、かねてから推測していたが、あやまりだったので、そのことはしるさない。」と記しています。
入内観音堂 2
集落からは少しばかり離れた杉林の中にあり、日光は遮られて仄暗かった。杉林は巨木が多く、中でも小金山神社の参道には二本の巨大な杉が聳え立ち驚かせる。まず左手に観音堂があり、右手に小金山神社の社殿がある。少し山を登ると薬師如来と阿弥陀如来を祀った小堂があり、その上には白山神社がある。
806〜810年に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷の首長・大獄丸を討ち取り、その首を埋めた上に観世音を祀ったのが始まりとされる。
938〜947年、平将門の孫の信田小太郎が家臣の謀反に遭い、難を逃れてこの地に辿り着き、白山権現社と観音堂を建立した。
1596〜1616年、津軽為信が観音堂を再建。華福寺の寺格を与えられるも、住職がいない為、更に火事に遭い荒廃してしまう。
1641年に村人達によって観音堂が再建される。
明治の大悪法・神仏分離令によって観音堂に神体が祀られ、小金山神社になる。
明治の中期には、村人によって守られた観音像が再び祀られる。
昭和初期には小金山神社の社殿が別個で建てられ、神体はそちらに移る。
昭和20年に堂宇が家事に遭うも、再建され現在に至る。
観音堂内に入って拝む事が出来たが、本尊は見ることが出来なかった。本尊は聖観世音菩薩像で、慈覚大師作とされている。
最後に入内観音堂のご詠歌 〜おしなべて 貴く賤しき 者までも ここに歩みを 運ぶなりけり〜 
「中里八幡宮」 龍神様   北津軽郡中泊町
義経伝説が残る宮野沢の白旗神社からの帰り道、「深郷田」という集落を通りました。旧中里町全体にいえることですが、この地域もまた縄文時代からの文化が花開いたところで、縄文前期の土器(※深郷田式土器と命名されている)から晩期の亀ヶ岡式土器に至るまで多くの遺物が発見されており、長期間に渡って古代集落が形成されていたことが分かっています。なかでも一本松遺跡は「深郷田館」とも呼ばれ、空壕を巡らせた跡も見つかっており、整然と区画された集落が、古代から中世にかけて存在していたとされています。そんな歴史をもつ深郷田の集落に鎮座しているのが中里八幡宮です。
実は私は、深郷田を「ふこうだ」と読むということは知りませんでした。この中里八幡宮は、以前は集落名から「深郷田八幡宮」と称していたようです。
その縁起については、
「御祭神:譽田別尊  往昔中里村袴腰岳に鎮座ありしを天正二年現社地へ遷せりと伝へらる。 天正七年再建して中里、 深郷田、 宮野沢三ケ村の産土神となる。 社宝の八幡宮と書せし額面は神祗伯資延王の眞筆と伝へらる。 明治六年四月郷社に列格せられ、 同四十年一月十五日神饌幣帛料供進指定神社に列せらる。」
とあります。昔、袴腰岳の山頂に祀られていた八幡神が、白旗神社を経て、この社に落ち着いたという伝承があり、以来、地域の産土社として人々の崇敬を集めてきた由緒ある神社です。村の一地域の「深郷田八幡宮」から、村全体を示す「中里八幡宮」へと社名が変わったのも、そうしたより広い地域の人々により、信仰されてきたからなのでしょう。
私が訪ねたときは、一組のご夫婦が境内を掃除しているところでした。私が、拝殿の中を覗き込んでいると(鍵がかかっていたので)、ご主人が鍵を開け、拝殿の中を案内してくれました。どうやら、このご夫婦は氏子の代表の方だったらしいです。ご主人は、拝殿の中を見せながら、前述したこの神社の歴史について、誇らしげに語ってくれました。境内の神馬や狛犬なども、名のある石工の作品なのだそうです。
拝殿の中には、いかにも八幡様らしく、お使いの鳩が描かれた幕が張られています。この神社には、青森県の著名人が数多く参拝に訪れたらしく、長年に渡って青森県知事を務めた竹内俊吉氏の「中里八幡宮を讃えて」と題する歌額中里八幡宮を讃えても掲げられていました。
『荒海の北の守りにつかいせし 白鳩さまの御名ぞかぐわし』
拝殿、本殿ほか
一の鳥居のそばには地蔵堂があります。中には「奥津軽」を感じさせる十字前掛けをしたお地蔵様が二体。境内は小高い丘の上にありますが、社殿の周りには末社や石碑がいくつかありました。猿田彦碑(庚申塔)は文化5 年(1808)、二十三夜塔は元治2 年(1865)に建立されたもののようです。
二の鳥居の隣にもうひとつ赤い鳥居がありましたが、その奥には聖徳太子碑が立っていました。どうして聖徳太子の碑がここにあるのか不思議です。
参道のと中には「山大神之碑」と刻まれた石碑があり、そこには山ノ神のお堂があります。中に入ってみると、入口付近に御神輿が置かれていました。お祭り用のものなのでしょうか。
地蔵堂、石碑、山神堂
山神堂と聖徳太子碑にはさまれた所にも建物がありますが、ここは薬師様を祀っているお堂です。
中に入って拝み、外へ出たとき、掃除をしていたご夫婦の奥様が、「龍神様を見ましたか。今、お出でになってるんですよ。」と、声をかけてくれました。
私は、最初、何のことか分からなかったのですが、奥様の「ろうそく!」という言葉で、「あっ」と気がつき、もう一度お堂の中へ入りました。
「龍神様」というのは、祭壇のろうそくから溶け出したろうが、あたかも龍の姿のように固まる現象なのです。以前、青森市の大星神社を訪ねたとき、その写真を見たことを思い出しました。
この不思議な「龍神様」は、人々の信心深さを愛でるために現れ、瑞兆のしるしともされています。
薬師堂の中にある燭台のひとつをよく見てみると、確かに、ろうそくの芯から流れ出たろうが、時計回りに半円を描いて、ろうそくの中央に結びついていました。
その少し幅のある螺旋状の形は正に龍。うろこのある体つき、細い首、三角形の頭、上に伸びた角、ヒゲ・・・びっくりさせられます。
このような形は、ろうそくの大きさ・太さ・材質や、芯の長さや傾き具合、炎の強さ、あるいは空気の流れなど、様々な要因によって出来るのでしょうが、やはり、一種の神秘的な現象には違いなく、拝む人にとっては貴重な宗教的体験なのだと思います。
教えてくれた奥様の一言。ー 「龍神様が来ているので、きっと神様も喜んでると思う。」 ー その通りです。 
袴形池   つがる市車力町
その形が袴に似ていることから「袴形池(はかまがたいけ)」と呼ばれるようになったということですが、牛潟池と同様、水深が3mほどで、冬場はワカサギ釣り客で賑わう農業用溜池です。牛潟池と袴形池に挟まれた地域が旧車力村の中心です。現在は車力町となり、つがる市役所の支所が置かれていますが、ここに大山祇神社が鎮座しています。
車力町大山祇神社。その由緒については、「御祭神:大山祇尊 初開享保六年 (一七二一) 氏子中より建立とあり、 七里長浜の砂岩木山の嵐を防ぐ屏風山の植林を鎮護する目的で建立したと伝えられる。 青森県神社庁」とありますが、この神社もまた、木造筒木坂の山神社同様、屏風山の守り神として大山祇神を祀る社のようです。
牛潟池と同じく、この池にも平将門の伝説があります。
「袴形の池というのがあり、池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた。側仕えをしていた都から来た女が、この池で自分の袴を洗おうとした。ところが、どうしたことか袴は向こう岸に流れ、それを取ろうとした女も池に落ちて死んでしまった。そこで「袴潟」といい、また、池の形が袴に似ているので、「袴形」ともいう。『青森の伝説』より」
「池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた」とありますが、大山祇神社の近くには、かつて「柾子館(まさこだて)」という城(館)が築かれていました。
この城は、弘元二年(1332)頃、鎌倉幕府の武将である柾子弾正という人物が、京からこの地に入部して居館とした城だといわれています。「正子どの」というのはこの柾子弾正のことなのかも知れませんが、それが平将門に置きかわっているようです(もちろん、伝説ですが)。
余談ですが、「車力(しゃりき)」という地名の由来は、「砂力(サリキ)」からきたという説や、アイヌ語の「サルキ(草原の湿地帯)」を語源とするという説がありますが、その他に、前述の柾子弾正が「京都から牛車に乗って来た」ことに因むという話も残されているようです。 
蓬田城(よもぎだじょう)   東津軽郡蓬田村
大きく大館と小館に分けられる。大館は、蓬田川の北、10万m2の広大な面積を有している。東西600m南北300m。水田に囲まれ、周囲より一段高い、杉木立に覆われた場所である。八幡宮・弁天堂が残っている。北と南東に堀が残り、北側の堀は長さ約300m・幅15〜0m・深さ3m、南東側の堀は長さ50m・幅2m・深さ50cmほどである。館周辺は縄文時代の遺跡でもあり、現在も縄文土器や土師器が出土し、昭和47年の発掘調査の際も、陶磁器が出土してる。小館は東西150m南北150m。周囲を水田に囲まれ、比高2-3mほどの場所にあり、中央の幅5m、深さ3mほどの堀により東西に分けられている。この堀は北の阿弥陀川の水を引いている。擦文土器も発見され、昭和46.47年に早稲田大学文学部考古学研究室の発掘により竪穴住居跡や井戸が発見された。築城当初は小館のみであったのが、南北朝時代から室町時代に大館が築城され、そちらに移ったと思われる。
歴史
嘉禎4年(暦仁元年・1238年)に安東盛季の弟の潮潟通貞が築城したとされる。安東氏を南部氏が駆逐すると、奥瀬氏が入城し、奥瀬建助などの名が伝わっている。奥瀬氏が退去すると、文明年間に平将門より8代目の相馬則政が入城し、蓬田越前と名乗った。その後、油川城などと共に大浦為信に対抗していたようである。「一統志」に「天正七年津軽三郡大方大浦為信の手に属しけれども、外ヶ浜筋平均未だ成らず。油川、高田、荒川、蓬田、横内の者ども召に応ぜざりしかば、油川を追落さるべしとて天正十三年三月彼の表へ手遣あり云々」との記述から、油川城落城と同時、またはその後蓬田城も大浦氏の支配下にはいり、蓬田氏は南部に逃れたようである。これにより廃城となった。
蓬田城と相馬氏
浪岡、北畠の領地は外ヶ浜に及んで、その外様館主は今別の平杢之助と蓬田館主の蓬田太三郎とがある。平杢之助の娘は北畠具運の室となって婚家となり、それが機縁となり今別八幡宮が造営された。浪岡氏の勢い盛んなる時代には、浪岡城は津軽の牙城で当時の繁昌ぶりを浪岡名所旧跡考に左の如く書かれている。
家老には赤松隼人、沼山備中、和田五郎左衛門又源常の館には源常顕忠、東方軽井沢には軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵 林、北方大釈迦の館には奥井万助、西北原子館には原子平内兵衛、西方杉銀の館には吉町弥左衛門、南方本宮館には本宮源内等の股 肱屈指の武士を置いて四方を堅め非常を戒む。
又幕僚の館主豪族は溝城の館には水木某、久井名館には佐々木某、兼平館には兼平美作守、高杉館には高杉七郎左衛門吉村、乳井 館に乳井伊豆、今渕館に平杢之助俊忠、蓬田館に蓬田太三郎、藤崎館に藤崎源蕃、金木の館に金木弾正忠、高田の館に土岐大和之介 則基、水木在家に水木兵部尉あり又城の四隅には祇園、八幡、加茂、春日の四社ありて恰も山 城の平安城を擬したり。
とある。実に蓬田太三郎は外ヶ浜の備えで北畠氏の有力な武将であった。
然らば蓬田城主がいつごろから蓬田大館城に居住したか不明であるが、相馬家の後胤で現在弘前市田町に住んでいる相馬利忠氏が所持している相馬家の系図によると、子孫の利忠と同名の相馬利忠の三男佐伝四郎則一が外ヶ浜に住居せりと書かれてある。同系図に年号を付していないのでいつごろから移り住むようになったか明らかでない。また同系図に佐伝四郎則一の孫相馬越前則政が文明四年に津軽外ヶ浜に住居し、是から相馬両家に分るとある。両家が別れた理由は十余年前の康正二年に一族の利満といかなることが原因であるか不明であるが、論争し、のち和談し利満の弟利重に女が嫁している。この論争が原因して越前則政が津軽へ来て則一のあとをうけ居住したもののようである。いずれにしても五百年以前から相馬越前が蓬田大館に住むようになったのである。
然らば相馬家が蓬田へ移り住む前にどこに居住したか同系図によって調べると、相馬家の祖先は平親王将門から八代の後胤相馬備中守利陳は筑前国舟原郡に居城、平治二年三月死去している。相馬家は武勇をもって名があった家と見えて、平治の乱に相馬備中守利陳と子の利里、利則両人が討死している。弟の利勝は手柄があって三千町の御加増になった。兄利陳が死亡したので弟の利勝が家を嗣いだ。時あたかも源平合戦の酣であったので、利勝の子の利行が寿永三年一ノ谷合戦で討死したが、嫡男利春、次男利吉が矢嶋、壇之浦で軍功があった。しかし元暦二年三月十六日平氏滅亡とともに相馬家は中央に活躍する機会を失った。しかし利春の子利信は建保元年の和田義盛の合戦に加わり千町の加増あって、のち討死した。
相馬市之進利信の三男である利久が如何なる事情あったか、正嘉二年筑前国舟原郡から南部常慎寺駒ヶ峯に移住した。 父相馬市之進利信が和田義盛の乱に加わり討死したことを儚んで陸奥国南部常慎寺駒ヶ峯(福岡)に移住したものか、また平氏の荘園が浄法寺地方にあったと中道等氏が云っておられるから、南部に平氏の一族が多数住んでいたので、同族を頼って移ってきたのか判明しない。
利久の孫、相馬民部之亮利盛は駒ヶ峯を領知しているところから考えると、利久が浄法寺へ移ったとき駒ヶ峯の領地をすでに占めていたのであろう。このことについて故森林助氏は東奥日報紙上(昭和五年八月十三日)に「外ヶ浜の史蹟蓬田城主相馬家に就て」という論文を発表された。
利陳は筑前国舟原郡を知行した居城がある。平治二年三月八日死去、男子二人、利里、利則何れも討死した。されば利陳の弟利勝 が継ぎ、同じ備中守と称す。平治合戦に手柄があったため三千町を加増されたとあるから平家方であったろう。前記二人討死とある のも平治の乱に戦死したと思われる。
利勝の子筑前守利行それから子利春、利信を経て利方に至る。以上この利方が書いたもので萃押がある。この系図が一巻、別にこ の系図を写し更に利方の弟利久から書きつづけたものが一巻ある。利久は利信の三男で正嘉二年(北条時頼執権時代)奥州に下り南 部浄慎寺駒ヶ峯に居住した。南部津軽地方の相馬氏の先祖となる訳だ。利久の嫡男利忠は父と不快の事があり、三子利盛父の後を相 続し、駒ヶ峯を占領した。
とある。森氏も如何なる理由で九州から奥州まで下ったか書いていない。系図には勿論ない。利久の嫡男相馬筑前利高の同系図によると、この佐伝四郎則一が外ヶ浜蓬田に初めて住居したことが書かれてある。ところが系図に駒ヶ峯を領していた相馬民部之亮利盛の嫡男利雄と利忠の嫡男利高と争いごとがあって遂に利雄が死んだ。これらの同族争いが原因して三男佐伝四郎則一が蓬田に居を移したのではあるまいか。
蓬田に移った佐伝四郎則一の三孫に相馬筑前則実、その子に越前則政、則之、則清があり、則実の嫡男が則政が文明四年則一の家領を継いで、これから相馬家は浄法寺駒ヶ峯と蓬田と両家に分かれたのである。これまでの系図は南部に住んでいた平盛重が認め、小五郎に渡したものである。しかして同系図には則一以後、天正十三年蓬田を退散した蓬田越前までのことが記されていない。この間の事情を森林助氏は左の如くかいている。
佐伝四郎則一の弟則喜の子を筑前守則実という。その子に越前則政、則之、則清の三人がある。則政「文明四年(足利義政時代) 津軽外ヶ浜ニ居住ナリ」と系図に書いてある。
文明四年はかの応仁の乱が起こってから六年目で、その翌五年には山名宗全と細川勝之両将が何れも病死した(同九年乱は終わる)。
かように乱世の時である。当時この外ヶ浜地方は下国安東氏の領地であった。これより先き十余年前康正二年則政は一族利満と論 争したが、後和談し利満の弟利重にその女を嫁すと系図利満の条にある。これ等一族闘争の結果則政は外ヶ浜に移住したものか、恐らくは則一の家領を承けたものであろう。(系図に則一の弟則喜の子則実を則一の三孫と書いてある)
とある。しかしてこの系図は南部に住んでいた盛重が認めて小五郎に与えたものだから、文明四年津軽に住した則政の子孫のことを書いていないと森林助氏が書き、さらに天正十三年蓬田から退散した越前と則政との数代は不明である。記されぬのは当然であるが、津軽にとりては遺憾この上もないと書いてある。
蓬田越前と相馬大作
蓬田越前が落城してから南部下斗米村に住居していたから、文政年間下斗米村相馬大作なるものが津軽侯を狙撃したのは、祖先の仇を報ゆるためにした行為であるといった史家が多かった。このことに関し青海山人(西田源蔵氏)が昭和五年七月二十八日の東奥日報に外ヶ浜の史蹟、蓬田の城址の論文の中に左の如く論じ相馬大作が蓬田越前の後裔でないと発表している。
県史編纂の中道さんも矢張り相馬大作は蓬田越前の末孫だとか言われたのを聞いて、坂本種一村長と坂本義徹さんが二戸郡の福岡 まで実地調査に出かけた。処が下斗米村の大作の後はいたって微禄しており、そこの主人は何も語る所はないが別家の何某へ聞けばよく解るだろうというので、そこへ向かった。
この家は相当の構で白髯の主人が出て応対した。そこで相馬氏は蓬田越前の後胤であろうとの事を聞いて尋ねてきた旨を語ると、 彼は沸然として色をなし、憚りながら名誉ある相馬大作の家は為信ごときに追い落とされる弱虫の蓬田越前などの子孫ではござらぬと剣もホロロの挨拶であったので閉口して帰った相な。
と書かれてある。そこで下斗米氏の系図を岩手県二戸郡福岡町下斗米与八郎編纂で大正十一年二月二十五日発行の「下斗米大作実伝」による掲載されているのをあげると左の如くである。
以上は下斗米家の系図であって、相馬家も下斗米家も遠祖は平将門である。しかし両家を比較して祖先は同じ将門であるが、後裔は全然相違し、両家は血のつながりが同一でないから、相馬大作は蓬田越前の後裔でないことが知ることができる。念のため大作の人となりをうかがってみると左の如く説明されている。
下斗米大作は、陸奥福岡の人、姓は下斗米、名は将真字は子誠、秀之進と称す。
号は形水、通称大作、盛岡藩士なり。幼名は来助藩籍を脱して中山門蔵又小一郎と云い、後に相馬大作と称す。
父は宗平衛、母は一族下斗米右兵治の姉なり。三男二女あり、長女リス、長男平九郎、次女ミワ、次男秀之進、三男竜之介。
其家系平の将門の裔相馬小次郎師胤より出づ、師胤八世の孫光胤の四男参河守胤茂の子小四郎胤成、延文中初めて南部氏へ陸奥下 斗米村に百石を食む。 
 

 

 
■岩手県

 

胆沢(いさわ)城跡 1   奥州市水沢
延暦21年(802)、坂上田村麻呂によって造営された。 大和朝廷は、東北の土地を支配するため、出羽柵・秋田柵・多賀城・胆沢城など22の城柵を築いた。 胆沢城はその一つである。城というが、国衙政庁の建物配置である。最近の発掘調査で、軍事基地よりも国衙である ことが分かった。朝廷は、鎮守府将軍を任命した。大同3年(808)以降、その鎮守府将軍が赴任する場所でもある。 鎮守府将軍の役目は、移民などの警固、蝦夷の討伐、動向監視などであった。
征夷大将軍坂上田村麻呂
38年戦争で、坂上田村麻呂(758〜811)は、延暦10年(791)に大伴弟麻呂が征東大使 (征夷大将軍という説もある)になって蝦夷征討に行った時に、征東副使で活躍した。
その活躍が認められ、延暦16年(797)に征夷大将軍になった。征夷大将軍とは、蝦夷を征討する総大将という意味である。 律令に定められていない、令外の官である。
延暦20年(801)2月、田村麻呂は、桓武天皇から蝦夷討伐の命を受け、節刀の「黒漆太刀」を賜った。節刀とは、天皇が出陣する 将軍に特別に授ける刀で、同年10月、任務が終了すると天皇に返した。その刀「黒漆太刀」は現存している。
延暦20年(801)途中鎌倉で、戦勝を祈願し巽神社を勧進した。 そして伊治城を拠点に、蝦夷と対峙した。
翌延暦21年(802)1月9日、胆沢城をつくるために、田村麻呂は、出発した。築城が始まって2か月半ほど経った4月15日、 蝦夷の首長・大墓公阿弖流為と盤具公母礼が500余人を連れて投降した。度重なる官軍との戦いで、疲弊していた。
田村麻呂は、 降伏した2人を京に連れて帰る。8月13日、2人は河内国杜山で斬首される。 蝦夷は大打撃を受け、以後しばらくは、大きな反乱はなかった。
外郭の北門の近くに「伊澤郡鎮守府八幡宮」があり、吾妻鏡文治5年(1189)9月21日条に、「源頼朝が瑞垣を寄付した。 この神社は、田村麻呂将軍が、東夷の時、勧請し崇敬した霊廟である。・・・」とある。
鎮守府が多賀城から胆沢城へ
大同3年(808)、多賀城から鎮守府が分離、胆沢城へ移された。(国府は多賀城に残された) それから10世紀半ばまで、約150年間ほどその役割を果たした。
鎮守府将軍平良文
天慶2年(939)4月17日から翌年5月まで、平良文は、奥羽でおこった反乱を鎮圧するため 陸奥守・鎮守府将軍任じられ、乱を鎮圧して胆沢城にとどまったという。 ちょうどこの間、天慶2年(939)6月から翌年2月まで平将門の乱がおこる。
鎮守府将軍源頼義と前九年の役
万寿5年(1028)以降鎮守府将軍が任命されない期間があった。その間安倍氏が鎮守府・胆沢城の実権を握った。安倍忠良(頼良の父)が陸奥権守であった。 安倍頼良は陸奥奥六郡(岩手、志波、稗貫、和賀、江刺、胆沢)の郡司であり、蝦夷の長であった。
永承6年(1051)陸奥守藤原登任は貢納物を納めず、労役も果たさない安倍頼良を鬼切部(鳴子温泉鬼首)に攻めるが敗れる。 前九年の役の前哨戦となった。
驚いた朝廷は同年源頼義を陸奥守に、天喜元年(1053)鎮守府将軍に任命した。ここに25年間不在であった鎮守府将軍が任命された。 安倍頼良を討つため、源頼義は多賀城から鎮守府・胆沢城に着任した。
しかし安倍頼良は、前年の永承7年(1052)の藤原彰子の病気平癒の大赦によって、罪を許された。 喜んだ安倍頼良は、名を頼時と改めた。しかしこれで終わったわけではない。
天喜4年(1056)源頼義の陸奥守の任期が終わり、鎮守府胆沢城から国府多賀城へ還る途中、 阿久利川において源頼義に随行していた藤原光貞、 元貞らが何者かに襲われ、人馬が殺傷されるという、いわゆる阿久利川事件が起き、前九年の役が始まる。
胆沢城 2
陸奥国胆沢郡(現在の岩手県奥州市水沢)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
文献上の初見は『日本紀略』にあり、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じた。
新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。
9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。
815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。これ以前には他国から派遣された鎮兵500人が常駐していた。初めから500人だったか、別の改正を経て500人になったのかは不明である。
9世紀後半になると、その権威は形骸化していった。  
鎮守府八幡宮   奥州市水沢
旧社格は県社。『吾妻鏡』に源頼朝が胆沢郡鎮守府に鎮座する八幡宮に参詣した事が記されている。征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷の為に下向した時に勧進され、田村麻呂の弓箭や鞭などが宝蔵に納められていると創建の由来を記している。これは平安京に八幡宮が勧進される以前に、田村麻呂により鎌倉方が崇敬する八幡神が胆沢郡の鎮守府に勧進されていた事に驚いて記述した。大正11年(1922年)に県社に列した。
御祭神
八幡大神
應神天皇(誉田別尊)
神功皇后(息長帯姫命)
市杵島姫命
由緒
当宮の御神は国家を鎮護し学問産業経済を盛んにし、災難を消滅させ人の一生を守り給う八幡大神と申し御神体は最霊石という霊石です。御祭神は應神天皇(誉田別尊)神功皇后(息長帯姫命)市杵島姫命の三柱の神に坐します。
延暦20年(801年)桓武天皇 坂上田村麻呂をして東奥鎮撫のとき当地に胆沢城を築き、鎮守府を置き、城の北東の地に豊前国(大分県)宇佐八幡神の神霊を勧請し、神宮寺の安国寺とともに鎮守府八幡宮と号し東北開拓経営の守護神となられました。
弘仁元年(810年)国家の崇敬厚く、嵯峨天皇より宸筆の八幡宮寳印をたまわりました。
嘉祥3年(850年)当宮別当職円仁(慈覚大師)は宮と宮附属の安国寺にて最勝王経を講じ、修正会、修二会、放生会、八講等の諸祭をおこない、これを恒例としました。
天慶3年(941年)藤原秀郷は平将門征討のおり、当宮に神領ならび神剣を奉納し戦勝を祈願しました。
康平5年(1063年)源頼義また源義家は鎮守府将軍として当宮に戦勝を祈願しました。
治承元年(1177年)奥州平泉藤原氏は当宮を尊崇し十六羅漢像をはじめ社殿の造営、広大な神領、数多くの神宝を奉納し厚く崇敬しました。
文治5年(1189年)源頼朝は殊に欽仰し当宮を第ニ殿と号し全神事ことごとく鎌倉幕府の御願とし、陸奥出羽両国の所済物(税)をもって盛儀諸祭を執行しこれを恒例としました。中世には奥州伊澤八幡宮とも称され奥州総奉行の葛西氏や葛西氏の重臣、柏山氏の崇敬をうけました。建武3年(1336年)北畠顕家は鎮守府将軍として祈願参拝しました。
延元2年(1337年)南北朝騒乱の兵火に遇い壮麗を極めた社殿群や多数の神宝什物はことごとく廃塵に帰しました。
貞和4年(1348年)北朝奥州探題吉良貞家は胆沢、江刺、和賀、気仙、斯波の五郡の棟別銭をもって南北朝騒乱期に焼失した社殿群を新に造営再建しました。
明徳元年(1390年)天台宗我等山安国寺を修験道に改めました。
天正19年(1591年)豊臣秀吉も厚く崇敬し浅野弾正長政をして社殿の造営と多数の境内社の修造をおこない広大な境内地の神領を安堵しました。
寛永6年(1629年) / 寛文2年(1662年) / 貞享2年(1685年) / 元禄7年(1694年) / 宝永6年(1709年) / 享保2年(1717年) 江戸時代には仙台藩伊達氏の厚い保護を受け仙台藩筆頭の八幡神として崇敬せられ、藩費をもって社殿の造営修復をしました。
寛永14年(1637年)伊達政宗の正室愛姫は慶長洪水のため決潰した社地の修造と社殿を現在地に遷座しました。
文化8年(1811年)藩主、藩士、仙台城以北奥七郡四〇六ヶ村の大肝入、肝入、検断、村々の総勧化(寄付)をもって現社殿を造営しました。当宮は奥州街道沿いに鎮座することもあって、街道を往く幕府巡見使や仙台藩主、盛岡藩主さらに幕末には函館奉行所へ赴任する幕府役人を始め近藤重蔵など歴史に名を残している者が多数参詣しています。
明治9年(1876年)明治天皇は東北御巡幸のみぎり、右大臣岩倉具視、宮内卿徳大寺實則、内閣顧問木戸孝允を遣わして御代拝あらせられました。
大正11年(1922年)県社に列しました。
数ある神宝のなかで特に嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などがあります。江戸時代の紀行家菅江真澄も当宮を参詣し最霊石や宝剣と鏑矢を拝し、その絵を残しています。 
呑香稲荷神社 大作神社 九戸政実神社   二戸市福岡
呑香稲荷神社(とんこういなり) / 大作神社 / 九戸政実神社(くのへまさざね)
3つの神社が境内に一緒にあります。南部氏の幼君の疱瘡が、枕元に立った「稲荷大明神なり」と告げる白衣白髪の老人のおかげで平癒したことから、 呑香稲荷大明神というそうです。
鳥居が立派です。この呑香稲荷さんという名前はよく聞きます。お祭りが盛んなところですよね。
「槻蔭舎(きいんしゃ)(会輔社学舎) / 安政5(1858)年、萩の小倉謙作(鯤堂)(こんどう)が当地を訪れた際、和漢学の講学を目的として、呑香稲荷神社祠官小保内孫陸(まごりく)と設立したのが会輔社である。さらに万延元(1860)年水戸の吉田房五郎(弗堂)(ぶつどう)が福岡を訪ねた際、社規を創り役員を指名、会輔社としての組織を整えた。社長を小保内孫陸、岩館民称とし、小保内定身(さだみ)、田中舘禮之助が主としてその経営に当たった。槻蔭舎は孫陸の茶室で、会輔社の講義はここで行われたのである。会輔社の名前の由来は「君子曰以文会友以友輔仁」という論語の一節である。明治11(1878)年、定身を中心とする会輔社社員は私学校である会輔社学校を設立し、近代社会学を必修科目にとりいれた。その活動は当地において青少年の育成に甚大な影響をもたらしたことはいうまでもなく、後年県下に先んじて福岡中学校の設立を見るに至ったのも、教育、政治、産業の各分野にわたって幾多の偉人を輩出したのも、その礎をここ会輔社にみることができる。」
鳥居をくぐってさ〜上がりましょう。一休みしたい気分を抑えての紫陽花が綺麗です。お社も立派です!ここはお殿さまが必ずお参りするところだったようです。「稲荷社」とあります。
呑香稲荷から右横を向きますと「大作神社」が奥にありました。白い建物は稲荷文庫です。大作神社のお堂です。幕末に津軽公襲撃未遂事件を起こした相馬大作を祭った大作神社だそうです。その脇には小さい祠がありました。こちらは崖の方にあった祠です。屋根とか壊れそうですね。「北白川宮成久王殿下御参拝記念碑」だそうです。明治天皇の第7皇女周宮房子内親王と結婚した人らしいです。
こちらが「九戸政実神社」です。ちょうど貸してもらった本がこの九戸政実のことから始まります。ここに行った後で読んでますが、すごく本が楽しいものになりました。南部家と争った人で反逆罪としてすべて血筋を無くされた人なのでここに神社があるわけないのです。
「九戸政実神社 / 九戸誠実が斬首された三の迫(宮城県栗駒町)の九戸神社から分霊して九戸城二ノの丸跡にも同神社が建立されましたが、老朽化等に伴い平成13年にこの場所に移築新築されました。」
隣に安養寺があったのですがこことつながっているのでしょうか。九戸城の「松の丸跡」から境内へ続く急な石段だそうです。
稲荷神社の左横に伏見稲荷のような鳥居がたくさんあるのが見えました。この鳥居が気持ち悪いという人がいますが私は大好きなのです。その先に何があるのか知りたい人なのです。当然お稲荷さまでお狐さんがたくさんおりました。
「稲荷文庫(いなりぶんこ) / 文久2年(1862)、呑香(とんこう)稲荷神社境内に設置された盛岡藩最初の私設図書館です。書籍購入のため、稲荷無尽講(むじんこう)を立て、その費用に充てたそうです。稲荷文庫は、二戸地方の人材育成と地域の振興を目指した会輔社の活動の一環として開かれ、会輔社の社員やその子どもたちに図書を貸し出しましたが、次第に周囲の村々の人々も利用するようになりました。蔵書は和漢書数千巻と称され、利用者は馬を仕立て、遠くは秋田県鹿角地方にまで及んだと云われています。」
「六角御輿(ろっかくみこし) / 呑香(とんこう)稲荷神社は社伝によると、延歴20年(801)または承和年間(834〜)の頃、出羽国の大物忌(おおものいみ)神社を勧請(かんじょう)したのが始まりと云われ、天和二年(1682)、小保内源左衛門が霊夢により現在の地に遷座したと伝えられています。藩政時代は盛岡藩の祈願所となり、例祭は千石格式で数十名の武士が前後を警護し、神輿渡御(みこしとぎょ)(お出かけ)が行われていました。この神輿は宝暦13年(1763)、第34代藩主南部利雄(としかつ)公が寄進したと云われ、形状的にも珍しく貴重なものです。」
呑香稲荷神社は、「とんこういなりじんじゃ」」地元では「どんこう」と濁音で呼ばれたり、単純に「いなりさん」とも呼ばれてるそうです。 
雫石御所 1   岩手郡雫石町
雫石城(しずくいし-じょう)は、岩手県岩手郡雫石町字古館の標高200mにある丘城で、比高は10mと、周辺より少し高い所にあります。別名としては、古くは滴石城と書き、雫石御所・八幡館とも呼ばれました。
最初の築城は不詳ですが、鎌倉時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます。平衡盛(たいらのひらもり)は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました。更に、その子・戸沢兼盛は、1206年に南部氏から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、出羽・小山田城を築きました。ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は門屋城から戻ることはありませんでした。
南北朝時代になると、滴石城も改修されたか、新築されたかで、今の場所にあると言う事になり、雫石・戸沢氏が治めたようです。その後、南朝の武将である北畠顕信が、1346年〜1351年頃、4年間程度、滴石に滞在して周辺の豪族に支援を募り、指揮したことから、雫石御所と呼ばれる所以となりました。やがて、出羽の戸沢氏宗家は、1423年に角館城を築城して勢力を拡大します。
戦国時代の1532年に、戸沢氏は城主の配置換えをおこなった記録があり、滴石城には手塚左衛門尉が入っています。この頃の雫石・戸沢氏の家臣団は手塚氏、長山氏、木村氏、田口氏、舘市(高橋)氏、用の沢氏、橋場氏が知られています。
その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である石川城主・石川高信によって攻撃を受けたようです。1540年、雫石城には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました。戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました。
現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした。その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです。南部領となった滴石を、高水寺城の斯波詮高が攻撃したようで、一度は、石川高信に撃退されますが諦めず、1546年に次男・斯波詮真(しば-あきざね)が入って雫石詮貞(しずくいし-あきさだ)と称し3000貫文にて「斯波・雫石御所」を開きました。この頃、雫石に改名しています。
また、遠野の陸奥・横田城主・阿曾沼氏の一族である綾織広信(綾織越前広信)が、雫石御所を頼って逃れて来たとも、軍師として迎えられたとも言われています。綾織越前は滝沢の地に、灌漑用堰を1586年頃に完成させています。
しかし、南部信直の代になると、1584年〜1586年まで何度も雫石城が攻撃を受けて、周辺を徐々に失います。1586年、雫石御所の3代目・雫石久詮(しずくいし-ひさあき)は、繋舘市城主・高橋出雲を三戸城に送って、和平交渉をしましたが高橋出雲は捕縛され、また南部勢に攻撃されました。ついに、雫石久詮は「よしゃれ」の故事(後述)を残し、雫石城を捨てて戸沢氏の家臣・手塚左京に譲ると、陸奥・高水寺城に逃れたと言います。その手塚氏も繋舘市城に退却したため、雫石城に残ったのは百姓ばかりだったとされ、雫石城は落城しました。高橋出雲は許されて釈放され、手塚左京は仙北角館に落ち伸びたと言います。
1591年になると、南部信直は雫石城に八日町太郎兵衛を入れました。しかし、1592年、豊臣秀吉の一領主一城の方針にて、雫石城は破却されています。ただし、江戸時代には雫石代官所が置かれたようです。
薬研堀(やげんぼり)の跡などがあるそうですが、街道沿いは宅地化されており、遺構はほとんど残っていません。
雫石町の祝いの席では必ず「よしゃれ」が唄い踊られてきました。これは、雫石城には水の手として、葛根田川上流から地下水路を使って用水を敷いていたそうです。そして、この水路が南部勢に発見されないよう、茶屋を設けて、美人の女将に見張らせていたと言います。南部勢は隠密を使って水源を察し、ついに茶屋に目を付けて、女将に水路の秘密を聞き出そうとしましたが、見破られてしまったという話が、歌詞になっています。その後、踊りが付けられて、民俗芸能・雫石よしゃれになった次第です。
奥州斯波氏(しばし)・雫石御所跡 2
奥州斯波氏は斯波郡高水寺 に居を置き「斯波御所」を称し、天文年間には雫石盆地にも進出、雫石御所を構えたとされる。
さて、斯波氏の祖は足利泰氏の長男足利家氏である。家氏は長男ではあったが、足利氏の家督は北条得宗家を母とする弟頼氏が継ぐ。しかし、幼少の足利氏当主がその後続いたため、家氏は足利一門の代表として、関東御家人として活躍、足利尾張家と言われ 、名族としての基礎を築いた。家氏は陸奥国斯波郡を領有したことにより、この系統は後に斯波氏を称するにいたる。家氏の曾孫が足利尊氏と同年の足利尾張守高経で、南北朝期に活躍した。高経の長男家長は陸奥守、奥州総奉行として南軍と奥州や関東で対決し活躍するも、若くして鎌倉杉本城の戦いで戦死する。17才で没した家長には妻子がなかったとされ、父高経は詮経を養子として斯波郡を領有させ、やがてこの系統は高水寺城を居城とし、斯波氏宗家(武衛家)とは別に、奥州の地に在って、将軍の一門・「斯波御所」と称され戦国末期まで栄えた。斯波御所の歴代の事績は十分にわかっていないが、天文14年経詮の代に南部氏が戸沢氏を追い出し占領していた雫石を攻略し、弟詮貞を配して雫石御所を称したとされている。
雫石御所(雫石城)は、戸沢氏の雫石城を大幅に改築したとする見解が有力で、雫石盆地のほぼ中央、雫石川の左岸(北側)の段丘に築かれた。段丘は低地から10mぐらいの高さがあり、城は濠で段丘を切り、東端に東郭、次に主郭、二の郭、三の郭と西に連なる。郭と郭の間には今でも深さ3〜4mの濠跡を見出すことができる。城の北側は、現在急峻な杉林となっている。縄張りは、出自は不明な点があるが、遠野綾部の出で斯波御所臣となった綾部越前広信の手によるものとされている。広信は土木工事が得意であったのか、土樋堰をつくり、城内に引水したとされる。
主郭は東西、南北それぞれ70〜80mあり、現在は八幡宮となっている。各郭を縦断するように生活道路が走っており、主郭まで車で乗り入れることもできる。また主郭跡の八幡宮の南側旧国道に車を停めて行くことも容易である。JRの雫石駅からも歩いて5分程度である。西側の現在の永昌寺境内などには家臣団の屋敷地もあったとされるが、その跡ははっきりしていない。
雫石御所は、残念ながらそう長くは続かなかった。詮貞、詮貴、久詮と続き、久詮の代にあたる天正14年南部氏によって滅亡に追い込まれた。  
陣ヶ岡/蜂神社   紫波郡紫波町宮手陣ヶ岡
陣ヶ岡は標高136m、南北になだらかな丘陵である。周囲には他の高台などはなく、この陣ヶ岡だけが独立している。その地形故に、この地は虚実取り混ぜさまざまな戦いの場面で何度も攻め手が陣を敷いている。特に古代から中世にかけては錚々たる武人が名を連ねており、戦国時代末期までその絢爛たる歴史を織りなしている。現在、当地に掲げられている案内板にあるものを並べてみると
蝦夷討伐のため、日本武尊が宿営。この地で妻の美夜受比売(宮簀姫)が産気付いて皇子が生まれるが、結局3日目に亡くなったので墓を築いた。これが当地にある王子森古墳とされる。
斉明天皇5年(659年)、蝦夷討伐に赴いた阿倍比羅夫が宿営。
天応元年(781年)、蝦夷討伐に赴いた道嶋嶋足が宿営。
延暦20年(801年)より蝦夷征討に赴いた坂上田村麻呂が宿営。
康平5年(1062年)、前九年の役の終戦時に、源頼義・義家親子が本陣として宿営。その後、後三年の役の時期にかけて数々の遺構を残す。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐のために出陣した源頼朝が本陣として宿営。
天正16年(1588年)、南部信直が高水寺城の斯波氏を攻める時に本陣とした。
天正19年(1591年)、九戸政実の乱を鎮圧するために出陣した蒲生氏郷が宿営したとされる。
これで多くの武将が関係する地であるが、とりわけ深いゆかりのあるのが源頼義・義家父子である。まずこの地を“陣ヶ岡”と呼ぶようになったのは、この父子が本陣を構えたことから始まるとされる。この地に野営した折、月明かりに照らされた源氏の“日月の旗”が金色に輝いて堤に映えたのを見て、源義家が勝利の吉兆として大いに士気を揚げた故事にちなんで造営された「月の輪形」がある。さらに源義家が大江匡房から伝授された“八門遁甲”の兵法を実践して極めたとされる陣形の跡とされるものが残されている。
そして頼義・義家がこの地に建立したのが、陣ヶ岡の中心に置かれた蜂神社である。これは大和の春日大社にある三日月堂より勧請されたと伝えられている。その一方で、敵の安倍貞任を攻略する時に藪の中の蜂の大群に悩まされていた義家が、逆に夜のうちに蜂の巣を袋に詰めて、翌朝それを敵陣に投げ込んで敵を混乱させて散々に討ち果たしたため、蜂を祀る神社を建立したという伝説も残されている。
前九年の役の終戦時にこの地が本陣であったことから、この地には気味の悪いものも残されている。戦いに勝利した頼義・義家父子はここで首実検をおこなった。その時に敵の首領である安倍貞任の首級を晒し置いた場所が今もなお残されている。しかもこの場所は、義家の直系の子孫である源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした際に、その最後の当主である藤原泰衡の首級を晒すためにも使われているのである(陣ヶ岡のそばにはこの泰衡の首を洗った井戸も残されている)。
現在は史跡公園として管理されているが、とにかくあらゆる時代の様々な遺構が紹介されており、その賑やかさは並みではない。 
むかで姫の墓   岩手県盛岡市名須川町
南部利直の正室・於武の方は先祖がむかで退治した時に使った矢の根を持参してきたが、その亡くなった時に、遺体の下にむかでを連想させる模様が現れた。むかでの祟りを恐れた利直は、むかで除けの堀をめぐらせた墓を作るように命じた(むかでは水が苦手なため)。だが、その墓へ行くための橋を堀に架けたのだが、一夜にして破壊されてしまった。そして何度も付け替えようとするのだが、むかでが現れてそれを破壊した。墓から大小のむかでが這い出てくるし、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたという。そこで於武の方を“むかで姫”、その墓を“むかで姫の墓”と名付けたという。
この於武の方は蒲生氏郷の養妹、つまり先祖は近江国でむかで退治をした俵藤太(藤原秀郷)である。このむかで姫の伝説は、まさにこの俵藤太の伝説が発端となって広まったものであることは間違いないだろう。 
 

 

 
■秋田県

 

滝夜叉姫   仙北市(旧・仙北郡田沢湖町) 
滝夜叉姫 1
瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)は平将門(たいらのまさかど)の第三女と言われています。如蔵尼(にょぞうに)と同一人物であるという伝承もあれば別人とする説もあり、彼女を巡る伝説には様々なバリエーションがあります。
如蔵尼の項でも書きましたが、如蔵尼の墓と伝えられるものが福島県の2つの恵日寺(えにちじ)に残されています。福島県耶麻郡磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺(四倉町玉山字南作1)です。前者に残る伝説によると、将門滅亡後に、三女の滝夜叉姫がこの地に逃れ、庵をむすびました。ここには如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があるそうです。後者には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が建っているそうです。両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉としているようです。
ところで、秋田県の田沢湖のそばにある田沢町にも瀧夜叉姫の伝説が残っています。
「将門の一族は乱の後、離散し奥州に逃げ延びました。滝夜叉姫は五人の家来に守られ中生保内(なかおぼない)に住むようになり、村の祖になったと伝えられています。滝夜叉姫を埋葬したという姫塚が現在も残り、江戸時代には「村祖姫塚」の石碑も建っていました。また、姫が守り本尊として持参した延命地蔵尊は中生保内神社に奉られ今なお崇敬されています。」
「場所ですが、国道341号線を北上し、田沢湖駅方面へ曲がって行けば意外とあっさり見つかります。「姫塚公園」という名でかなり目立ちましたので。そのまま、奥へ走っていけば中生保内神社もあります。残念ながら延命地蔵尊は判りませんでした。」ということです。
上記の田沢町の伝説では、瀧夜叉姫はかの地で5人の子を産み、それぞれが村祖となったと伝えられていて、瀧夜叉姫の出家や彼女を如蔵尼と結びつける伝承はありません。
さて、瀧夜叉姫伝説が劇的な復讐物語に変貌したのは、どうやら江戸時代に入ってからのようです。関東の英雄・将門の霊力をもって江戸の鬼門を守るという徳川家康(あるいは天海)の配慮により、江戸時代には意図的に将門の地位が上げられ、また庶民の間の人気も沸騰したわけなのですが、瀧夜叉の変貌も(あくまで想像なのですが)その辺りの事情と関連があるのかもしれません。復讐譚において瀧夜叉姫と絡んで登場するのが将門の息子とされる良門(よしかど)ですが、彼女または彼が登場する物語には以下のようなものがあります。
•「善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)」(山東京伝/文化4年(1807年)刊)
•「将門山瀧夜叉姫物語」(文化7年(1810年)に刊行された京伝の「親敵うとふ之俤」を改題して明治19年に再刊されたもの。)
•「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」(近松門左衛門/享保9年(1724年)刊)
などなど。ちなみに「関八州繋馬」に登場する将門の娘は「小蝶」という名で「瀧夜叉」ではありません。どの作品にも共通するのは、将門の娘が妖術使いに変身していること。京伝の瀧夜叉はなんと蝦蟇憑きだったりします。
近松門左衛門の「関八州繋馬」が上演されて以来、将門の娘を巡る復讐譚が浄瑠璃や歌舞伎でしばしば取り上げられるようになったそうです。ちょっと気になったのが「吾妻花相馬内裡(あづまのはなそうまのだいり)」という顔見世狂言の筋立てです。将門の娘の俤姫(おもかげひめ)が安倍晴明に恋をしたけれど、渡辺綱(わたなべのつな)の手に掛かって殺され、その怨念が良門に組して復讐するというお話です。
滝夜叉姫 2
平将門の娘とされる伝説上の妖術使い。本来の名は五月姫(さつきひめ)という。
天慶の乱にて父将門が討たれ、一族郎党は滅ぼされるが、生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目には貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、五月姫は妖術を授けられた。貴船神社の荒神は「丑の刻参り」の呪詛神として有名であり、貴船山に丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨した神とも伝えられる。貴船神社は、『栄花物語』や『お伽草子』、能「鉄輪」、宇治の橋姫の伝承などで取り上げられている。
荒御霊のお告げに従って滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総国へ戻り、相馬の城にて夜叉丸や蜘蛛丸ら手下を集め、朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝夜叉姫成敗の勅命を大宅中将光圀(通称太郎)と山城光成に下し、激闘の末に陰陽の術を持って滝夜叉姫を成敗した。死の間際、滝夜叉姫は改心して平将門のもとに昇天したという。 なお、坂上田村麻呂が鈴鹿山にて、大鬼人の犬神丸の手下である鬼人に夜叉丸という者がいる。夜叉丸は改心し、田村麻呂の家臣になっている。この夜叉丸との関係は不明。
伝説では妖術使いとされるが、実際は尼寺に逃げ尼として生涯を遂げている。将門の娘、五月姫こと瀧夜盛姫の墓は、現在の茨城県つくば市松塚、東福寺から西へ200m離れた畑の中に小さな塚がある。以前は西福寺に尼として出家して夜叉と呼ばれているが、地元では瀧夜盛姫と呼ばれ、今でも線香が手向けられている。東福寺境内の栄幼稚園入り口には、瀧夜盛姫の石棺に使われていた大きな一枚石が数枚置かれており、以前は小川の橋げたとして使われていた。
滝夜叉姫 3
本名は五月姫。平将門の遺児として近世の小説・戯曲などに登場する人物。
史実上は天慶の乱で一族が滅んだため尼として余生を過ごしたと言われるが、一部の伝承では父や一族郎党を殺した源氏への恨みを晴らすべく、貴船神社で丑の刻参りを行った末に荒神の加護を得て呪術師となったとされる。様々な呪術や妖術を駆使して源家への復讐を企てる弟・良門を助けたが、最期は朝廷の遣わした陰陽師との戦いに敗れ、昇天した。
歌舞伎や浮世絵など、後世の文学作品にも脚色された形で登場する。特に水木しげるが描いた妖怪「がしゃどくろ」の絵は、歌川国芳の浮世絵「相馬の古内裏(滝夜叉姫が巨大な骸骨の妖怪を召喚する絵)」をモチーフに描かれている事で有名。
滝夜叉姫 4
平将門の遺児とされ、父の遺志を継ぎ謀反を画策する美貌の女性。史実にはないが、『前太平記』に名前が見える娘が『久留里記』や『元亨釈書』にある如蔵尼の記述を通して脚色されていったものと考えられている。太平記の世界で主要人物として扱われるようになったのは、山東京伝作『善知鳥安方忠義伝』に取り上げられてからのことである。
『善知鳥安方忠義伝』 を経た滝夜叉姫は、はじめは如月尼として仏道に励むが、蝦蟇の精霊肉芝仙から巻きを吹き込まれ、弟とともに謀反を企み妖術で仲間を集め、相馬の古内裏に巣くうようになる。しかしその陰謀は大宅太郎光国により打ち砕かれ、自害して果てるという結末をたどるが、このような脚色が行われる以前の滝夜叉姫は徳行の人でありその改変のギャップというところにもキャラクター造型の大胆さが見られる。また、蝦蟇の仙人から妖力を吹き込まれる女性というのは、宗元画のモチーフに見られる題材で、天竺徳兵衛韓噺の世界に影響を受けた際、絵と歌舞伎の世界が結びついたものと思われる。
将門の娘は他の作品にも描かれ、「小蝶」(関八州繋馬:かんはっしゅうつなぎうま)、「梅園」(楪姿見曽我:ゆずりはすがたみそが)などの名前で登場してくる。須永朝彦はこのような他の作品における将門の息女像も、少なからず滝夜叉姫の造型に関わってきていると指摘している。
浮世絵の画題として滝夜叉姫が扱われる場合は、頭にろうそくを付け、口に松明を加え、胸に鏡を掛けたスタイルというのもよく見られるが、これは他の妖術を使う女性像(例えば橋姫)が加味された形ではないだろうか。これは善塔正志も指摘している事で、様々な要素がかみ合って出来上がっているのが滝夜叉姫であるといえそうである。さらに、蝦蟇蛙といっしょに描かれるものなども見られるが、先に述べたように、滝夜叉姫の造型には宗元画の影響もある。よってこのようなモチーフの取り方はある種の原点回帰のようであるといってもよいのではないだろうか。
滝夜叉姫 5
桓武天皇の血を引く平将門の娘、百合姫は叔父の国香を殺し、筑波山に岩屋を築き手下を集めて女盗賊となり、名を滝夜叉姫と改めて悪事の限りを尽くしていた。
卜部六郎季武勤番中の源家宝刀庫より、宝刀「髭切丸」を妖術をもって盗み出す。そのため主君頼光公の怒りをかい、浪々の身となった卜部季武は、碓井太郎貞光の助成を被り、共に宝刀探索の為、諸国遍歴の旅に出る。
一方、卜部季武の妻、姫松も主人の身を案じ信州筑波山筑波権現様へ参拝するが、下降の途中滝夜叉姫のはかりごとにより、岩屋へと連れ去られる。谷間更深堂にて滝夜叉姫の手下により辛き目に遭っている妻姫松を、卜部季武は救い出し宝刀の在りかを知る。
卜部季武、碓井貞光両名は、筑波山の岩屋へと乗り込み、数々の妖術、二つの太刀を使う滝夜叉姫を激闘の末、倒し源家の宝刀「髭切丸」を奪い返すという物語です。
平将門の娘・滝夜叉姫の妖術伝説 6
父の首塚伝説や怨霊伝説の陰に隠れた感じではありますが、平将門の娘である五月姫、通称・滝夜叉姫も、とても魅力的な伝説の人物です。
五月姫は元々、武術にも富んで、父と共に参戦したとされています。天慶の乱が平定されて父が討たれた後も生き残った姫は、貴船神社で行を積んで妖術を身に着け、荒御霊のお告げによって滝夜叉姫と名乗ったとされます。
その後一度手下を率いて朝廷転覆の乱を起こしましたが、朝廷が派遣した妖術使いの大宅中将光圀と山城光成を相手に激闘の末に敗れ、果てたとも言われます。しかし実際はこの後も生き延び、朝廷転覆の願いはならなかったものの茨城で尼として多くの信者を集めたということです。
これだけ個性的で魅力的でもある滝夜叉姫こと五月姫なのに、後世において語られることが少な過ぎると思うのです。そこにも何かしら、意図的なものを感じずにいられないのは、私だけでしょうか?
滝夜叉姫が父の遺志を引き継いで、自らの乱に失敗した後も父の考えを伝承して行ったことは、知られるところです。平将門の人気が引き継がれたのは、彼女の尽力が大きかったといえるでしょう。
ただ滝夜叉姫自身が多くの信者、追従者を伴ったのには、父の思いだけでなく、彼女自身の行動にもそれなりのカリスマ性があったことは間違いありません。その要因は、妖術だけだったのでしょうか?
見ていくと、坂上田村麻呂が「蝦夷征伐」をしたのが8世紀末でして、平将門による天慶の乱が10世紀。彼の目的である「東日本朝廷復活」がそこで失敗したとしても、完全にその朝廷が消滅して朝廷が西日本に統一されたのが12世紀とされています。これは遅いというか、平将門の没後にまだ200年ほど、粘ったことになります。
そこに滝夜叉姫が絡んでいたということは、ないのでしょうか。将門が見込んだ、有能な娘です。妖術というのはやや飛躍を感じるものの、こうした表現が飛び出す場合、何かしらそれ以外の飛びぬけた才能を覆い隠すための処置である場合が多いです。
関東での活動はもう無理となった滝夜叉姫ですが、東北との交流はまだ可能だったかもしれません。彼女が茨城以北、東北に対して影響を及ぼし、東日本朝廷の存続に尽力していたと見るのは、むしろ自然なものだと思います。ただそれを表に出すことは、東日本朝廷の存在をより浮き彫りにすることになります。
平将門の乱の真相と同様に、滝夜叉姫の行動とそのキャラクターについても、出来る限りぼかして劇画的な処置でごまかす必要があったのかと思います。
姫塚 秋田県田沢湖町
平安時代、朱雀天皇のころ天慶の乱(939)に敗れた平将門(50代桓武天皇の子孫)の一族は、奥州に逃れて離散し、仏門に入る者、世を忍んで深山にひそむ者、あるいは行方知れずとなった者がいたといわれている。昭和初期まで雑木林の中に墳墓と思われる大きな塚があり、江戸時代の作という「村祖姫塚」の石碑が建っていた。現在、将門一族興亡の歴史は、その様相を止めてはいないが、滝夜叉姫を埋葬したという姫塚は、豪族の墳墓であるといわれ、姫塚付近一帯には堂の前、卵塔野、地蔵長根の称をもって名残を止め、正に往昔の繁栄を物語っている。姫が守り本尊として持参した延命地蔵尊は、中生保内神社に奉じられ、この地域一円の鎮守として今も崇敬されている。また、姫一族の古宅地といわれる周辺には、田掻地蔵、下場落し、地蔵流しなどのの民話ものこっている。   
中生保内神社 (なかおぼないじんじゃ)   仙北市田沢湖生保内
通称:中生保内の地蔵さん
御祭神 大山祇神(おおやまづみのかみ)/火産巣毘神(ほむすびのかみ)/高御産巣毘神(たかみむすびのかみ)/天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)/神御産巣毘神(かみむすびのかみ)/受母智神(うけもちのかみ)
当社は大山祇神社と愛宕神社の合併した神社である。大山祇神社は、往古より山神として、神徳特に篤く、霊験また顕著である。
その一例を挙げると、ある時古老が、神徳があるならば、東南の小高い所に柴を生じ給えと、杉の枝を挿したところ、その杉の木が大木となり十数里遠くからも見えたと言う。そういうことで、その付近の字を「十里木」と称している。
又愛宕神社は、昔延命地蔵尊と申し、村祖瀧夜叉姫(第50代桓武天皇5代の孫平将門の娘)が、父将門の東国に於て平貞盛下野押領使藤原秀郷に滅ぼされた時、難を逃れて奥羽に来、この地に居住することになる。その時所持していた守本尊を祀ったもので、神徳誠に篤いものがある。(現在姫塚がある)
その一例を挙げると、昔神社の前は深い水田で、毎年若者等は、仕事をするのに難儀をしていたが、ある時一人の童子がやって来て農耕の手伝いを始めた。それは大人も及ばないほど上手であった。昼となり田圃から上って来たところ、童子に多数の蛭が吸付き血を吸っている。悪い虫どもよ、口を焼いてやると言ったところ蛭は皆離れてしまったという。童子は泥足のまま社殿に入って行ったので見てみると、ご神体に一面泥がついている。この神、この里を万世まで守り賜うご神徳であると伏し拝んだのである。
現在この地区の蛭は人に吸付かないと言う。
明治44年秋田県知事の許可を受け、山神社、愛宕神社を合併、昭和3年呼称を中生保内神社と改め今日に至る。  
照楽寺   仙北郡美郷町六郷
照楽寺は正式には「法望山照楽寺」号する真宗大谷派の寺院です。開基は法秀坊兼綱で、先祖は平将門といわれています。平将門が使ったといわれる陣幕があり、秋田県指定有形文化財となっています。  
 

 

 
■宮城県

 

比丘尼坂   仙台市宮城野区
比丘尼坂の通りは、仙台市宮城野区内、仙台市交通局東仙台営業所前から岩切街道に接続する(今市地区に至る)細い坂道の通りです。
芭蕉の50年後、「続奥細道蝶の遊」を著した俳人北華が「塩釜へは、…原町、あんない、びくに坂、今市…」と道筋を記載しています。芭蕉一行もこのルートを通ったと思われます。現在の道が当時のものと同じかは不明です。仙台中心地、国分町を出立し現在の国道45号線に沿う旧道を東進、JR仙石線陸前原ノ町駅付近・坂下交差点の手前で北上、(今は坂下交差点→ガス局の通りで中断されてしまったがこれを横切ってNHKラジオ放送局に至るルート)ガス局前を利府街道をまた東に進み、途中JR東北本線・東仙台駅に近い「案内地区」を通り、交通局営業所前から坂道に入ります。
比丘尼坂の由来
平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。 この甘酒は「美人のうわさ高かった」比丘尼の名と共にのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどと共に塩竃街道の名物となったようです。
比丘尼坂、平将門の妹が作った甘酒
「比丘尼坂」は仙台市中心部から利府街道を東へ進み東仙台を越えたあたりを北東に入って西友燕沢店や仙台市営バス東仙台営業所の横を進んだ場所にあります。東仙台営業所の裏側の道路を北へ入って行きます。道路が上り坂になってきました。ここが「比丘尼坂」ですが住宅街の中の普通の坂道ですね。坂道は東へカーブしています。その曲がり角に辻標がありました。「燕沢」と「比丘尼坂」と書かれています。比丘尼とは出家して仏門に入った女性のことで尼僧とも言いますが、坂道の名前になった伝説が残されています。天慶三年に平将門が反乱を起こして滅ぼされた時、将門の妹が奥州に逃げてきて尼さんになってここに住みました。
尼さんになった将門の妹は茶屋を開き旅人に甘酒を売って生活したそうです。その甘酒が美味しいと評判になり、尼さんが亡くなった後も「比丘尼坂の甘酒」として受け継がれて塩釜街道の名物として明治時代まで甘酒屋が続いたそうです。
燕沢の「蒙古の碑」を見に来た時に訪れた善応寺には、尼さんを祀った「比丘尼塚」があります。「比丘尼塚」は明治四年に村の人たちが建てたもので昭和になってから善応寺に移されました。燕沢には元寇の時に敗れた蒙古兵が逃げてきたという伝説がありますが、平将門の妹が逃げてきたという伝説もあるんですね。伝説が本当かどうかは判りませんが、時の権力者に負けた人が当時の国の果ての奥州まで逃げてくるということは実際にあっても不思議ではないのかなと思いました。  
西光寺   仙台市宮城野区福室
西光寺の山門。西光寺は臨済宗で、有名な松島瑞巌寺の末寺に当たるのだとか。瑞巌寺はもともと天台宗で、伊達政宗が仙台に城を構えた時に臨済宗に変わっていますので、この西光寺も元々は天台宗だったのかもしれません。
山門の向かって右側にあるのがこの桜の木。季節的に終わりかけなのと、先日の暴風で花が散ったのとで色褪せていました。2週間前に岩切城見学した時には桜の季節から程遠かったのが、すでに盛りを過ぎていたんですね…さて本題。この中央の板碑が南朝の皇子の墓なのだそうです。
高さは1mほど。かなり摩耗しているため碑文は読めませんが、なぜ摩耗しているのかというと、この石を削って煎じて飲むと結核?に効くという言い伝えがあったからなのだとか。石にそんな力があるはずもないのですが、江戸時代には大真面目に語られていたのでしょう。
西光寺の開山は正平元年(1346)。南北朝の争いはこの仙台でも激しく続いており、仙台市北西部の泉区実沢(さねざわ)で南朝側山村宮の皇子が戦死、そこで西光寺の和尚が墓を建てて冥福を祈ったのだそうです。なおこの板碑は平将門の墓という説もあるそうです。
山門から見た西光寺の本堂。そこには真っ赤な花をつけた椿の木が。境内にある六地蔵。六地蔵というと京都の六地蔵駅を思い浮かべる方は大勢いらっしゃいますが、六地蔵そのものは全国にあります。例えば笠地蔵の物語も六地蔵でした。本堂前にある樹齢350のあらかし。そして鐘楼。
この皇子、名前は伝わっていないため、当時の元号から正平親王と名付けられました。山村宮が南朝の系譜のどこに位置するのか不明で、おそらく後醍醐天皇から見て孫にあたるのでしょうが、すると大塔宮護良親王の皇子である可能性が一番高いような気はします。北畠一族と護良親王は親しい間柄であり、幼少の山村宮を親房・顕信などが養育して奥羽の旗頭にしようとしたと考えて不自然はありません。そして南朝の柱石である北畠一族に守られ宮城野で活躍していたのでしょう。 
清水寺   栗原市栗駒岩ケ崎
山号 音羽山延通院 宗派 真言宗智山派
大同2年(807)、坂上田村麻呂が奥州侵攻のため、この地に滞陣したとき霊夢をみて将軍の守り本尊として兜に埋めてあった閻浮檀金と言われる金銅仏(5.5センチ)の聖観世音像を観請し開山したと伝えられており、初崎大悲閣と称し、東北地方ではまれにみる名刹霊場となっています。
本堂の東側にある千寿ヶ池を中心とした大庭園は松と広葉樹の自然林に囲まれ、春にはツバキや十数種のサツキが咲き乱れ、秋には千寿ヶ池が真っ赤に染まるほど紅葉します。

大同2年(807)、坂上田村麻呂の奥州進攻のため、この地に滞陣したとき霊夢をみて将軍の守り本尊として兜に埋めてあった閻浮壇金の金銅仏(5.5cm)の聖観音像を勧請し、東北ではまれにみる名刹霊場となっています。本尊聖観音菩薩は秘仏で、33年毎に開帳されます。
貞応年間(1222〜1223)三迫森館主弥平兵エ師門その夫人と共に観音を信仰し、莫大な寄進をおこない京都清水寺に模して壮麗な堂塔を建立し、隆盛を極めたが、寛政6年春野火により全山焼失した。今に残る庭園は往時を偲ぶことができます。
寛永2年(1625)藩祖政宗公が参詣された記録も残っています。
京都清水寺を模した浄土庭園は、莫大な寄進をなした夫人の名にちなんで「千寿園」と名づけられています。
『中世里谷森館城主の平師門が寄進したという浄土庭園。師門の夫人「千寿の前」にちなみ、千寿の池、千寿の松の名を残し、県内に聞こえた名園である。』

岩ケ崎村では、元和年間藩主政宗の五男宗綱が鶴丸城に入り、以後の領主は寛永頃六男宗信、その後、石母田大膳・田村宗良・古内主膳・茂庭大蔵と続き、元禄7年中村日向が3000石を給され領主となり明治に至ります。栗駒山麓の当地は古くより馬産地として栄え、栗駒山の駒形の残雪は神馬のこもる所と信じられ駒形根神社が祀られました。天正19年藩直営となり桜馬場に上・下馬場が設けられ藩主の御用馬などもここで競売されました。桜馬場は東西300間・南北17間の広場で両側の土手に桜が植えられていたと伝えます。鎮守は熊野神社、寺は坂上田村麻呂勧請、寛永2年に藩祖政宗の参詣があったと伝える真言宗智山派音羽山延通院清水寺、伊達宗綱城主のとき政宗中興開山といわれ桃山式建築の山門を持つ浄土宗名越派摂取山円鏡寺、城主中村家の菩提寺曹洞宗明峰派旗本山館山寺、伊達宗信・石母田大膳・古内主膳・茂庭大蔵の墓がある曹洞宗太源派熊野山黄金寺、天保飢饉の供養碑のある曹洞宗太源派月峰山洞松院などがあります。 
小松寺跡   大崎市
小松観音堂   宮城県大崎市田尻北小松
「千手観音坐像及両脇待立像」のある所在地は大崎市田尻小松地内にあり、 所有者は「お薬師様文化財保存会」です。この3体仏像は本来、近世以前に繁栄した小松寺に伝わったものですが、寺が明治時代の廃仏毀釈の頃に廃れたため、現在の場所に通称「小松観音堂」を建てて、そこに安置されていました。平成23年3月11日発生の東日本大震災で被害を受け、被災ミュージアム再興事業で修復され、現在大崎市松山ふるさと歴史館で開かれている特別展「震災と文化財」(4/4〜5/17)において展示されています。特別展終了後も継続展示される予定です。
木造千観音座像、12神将   宮城県大崎市田尻北小松
今日は地元、田尻の至宝をご紹介します。宝の中の宝です。ただ今、東京の国立博物館で修復、調査中の木造千手観音座像と12神将のご紹介です。何故ここ田尻小松の小さな御堂でこの仏像が集落の中で守られていたのか、不思議な仏像です。
平安時代末期頃に造られたとされる千手観音です。平泉の藤原氏が隆盛だったころの仏像とも言われていますが、ただ今詳細を調査中です。美しい仏像です。
小松観音堂、入口に千手観音と書かれています。明治初期に廃寺となった小松寺を受けつでいる、と言われています。このような仏像がここに最近までここにあったのです。頭部は11面観音。不動明王立像、毘沙門天像の三尊がこの中に祀られていたのです。
御堂の正面 小さな田舎の御堂なのですが、ところが中に入っていたのは現在、宮城県指定の文化財、千手観音ですが、今は国で調査中。小松寺は「今昔物語」「日本往生極楽紀」に記載されている「新田郡小松寺」と同様なものと考えられているそうです。
ここが観音様の台座の台。この台の上に台座があり、その上にさらに観音様が座っているのでした。この仏像、1000年も前からこの地域の方々が守って今に至るのです。よくぞ守り通したものです。最近までそのとんでもない貴重なもの、ごく身近に守られていたのです。
もう1つの大事な御堂です。薬師如来と12神将の仏像。こちらは千手観音ほどは古くはないようですが、12神が揃っています。隠れた大変な宝がここにあるのです。
小松観音堂に伝来した3躰の像
歴史館までの道 ふるさと歴史館は松山町の施設として1989年に設立され、2006年に周辺の市、町が合併して大崎市となるにともない、大崎市松山ふるさと歴史館となった。旧松山町は町の中心部が東北本線の松山町駅から離れており、これを補う交通手段として、かつて馬車ならぬ「人車」が運行されていた。その当時は馬を飼うよりも人を雇う方が安上がりだったためとのこと。歴史館はこの人車の展示、また地元出身のフランク永井に関する展示室などがある。東日本大震災後、小松観音堂に安置されてきた千手観音像、脇侍像がこの歴史館に寄託され、展示されている。
仏像のいわれ 大崎市内、歴史館のある松山地区より10キロくらい北の田尻地区(旧田尻町)というところにある小松観音堂に伝わった仏像である。小松観音堂は、『今昔物語集』など平安時代の史料に「陸奥国小松寺」として登場する古寺の後身と思われる。天台宗で、のちに真言宗に転じたという。近代に廃され、仏像は田尻の薬師堂の隣に観音堂をつくり、安置したという。ここに平安時代から鎌倉時代にかけてつくられた千手観音像と不動、毘沙門像が安置されていた。
千手観音像は比較的珍しい坐像で、像高は1m弱。寄木造、彫眼。かつての写真をみると、傷みがかなり進んでおり、像の印象も洗練さを欠き、室町時代頃の仏像と考えられていた。修復によって面目を一新し、現在では平安時代後・末期の作とされている。京都・峰定寺の千手観音像に雰囲気が似て、都ぶりな造形から奥州藤原氏関係の造像ではないかと推測される。上品で落ち着いた仏像である。この時代によく見られる丸まるとした顔とせず、ほおは自然なふくらみである。目は切れ長で、二重まぶた。みごとな天冠台をつけ、鼻の下や口は小さめにまとめる。面白いのは後頭部の髪で、少し垂れている。ケースの側面から見える。頭頂部で結い上げているのだから、後頭部の髪は全体的には下から上へと引っ張られているはずだが、一方で下へも垂れるヘアスタイルとなっている。なで肩で体は細く、さらに胴で絞っている。脚部は自然な感じで、衣のひだは深くないが、比較的大きな線の間に小さな線をはさんで変化をつけている。
脇に不動明王、毘沙門天の2像が立つ。天台宗でまま見られる組み合わせであるが、中尊とは作風が異なり、素朴な雰囲気がある。若干後の時代に補われたものか。ほぼ直立する不動明王像と体にひねりを加えた毘沙門天像、静と動の対比が面白い。 
磯良神社   宮城県大崎市岩出山上間山赤新田 
(いそらじんじゃ)
地元では「おかっぱ様」と呼ばれる。資料などでも磯良神社ではなく「カッパ明神」の方が通る(あるいは「田子谷磯良神社」の名称も流布している)。県道に面したところに鳥居があるので分かりやすいが、周辺には人家は全く見当たらない。神社以外にはほとんど何もない。
昔、平泉の豪族・藤原秀郷(氏子の伝承による)の馬屋に虎吉という名の者が仕えていた。ある時ふとしたことでその正体が河童であることが分かってしまった。そこで暇をもらって主家を離れることにした。虎吉を可愛がっていた秀郷は、その時に持仏の十一面観音を与えたという。
虎吉は各地を巡って田子谷の沼まで辿り着くと、そこを気に入って終の棲家とすることとした。その後、虎吉は多くの子供を授かり、子河童たちがこの沼のほとりで相撲を取ったりして遊んでいる姿がよく見かけられたという。
小さいながらよく整備された社であるが、何と言ってもその横にある沼が印象的である。周囲に人家がないだけ、その神秘な光景は本当に河童が住んでいるのではないかと思ってしまうほどであった。 
蓑首城跡 坂元神社   亘理郡山元町
室町時代、蓑首山に築城された坂元城(坂元要害、坂本城)。その敷地内には、鎮守の神として勧請された元妙見宮が祀られていました。明治に入り、城としては廃城されましたが、その後、明治42年に周辺の村社等と合祀され、坂元神社となり、現在に至ります。境内は桜の名所としても知られ、春には祭りが執り行われます。また、夏には巫女舞や子どもみこし、神楽や太鼓などが奉納される夏祭りでも賑わいます。

主祭神 天御中主神
由緒 本社は正親町天皇、天正2年(1574)3月23日相馬盛胤の一族亘理美濃守の臣、坂元参河が蓑首城本丸に勧請したといわれ、元妙見宮と称した。別当は真言宗金蔵寺、坂元参河が遠田郡桶谷に移封された後も、城主となった後藤、黒木、津田、大條と数人替りしが、皆鎮守の神として厚く崇め祀った。明治2年4月北辰神社と改称した。明治42年3月、村社神明社(寛文創祀)村社愛宕神社(寛永9創祀)をはじめ他の村社と無格社を合祀して坂元神社と改めて、村社に列せられた。昭和8年12月、供進社に指定された。本殿は天正年中の造営で荘麗な建築である。拝殿は大正8年被合祀した神社の境内の樹木を伐採して造営した。境内地は杉うっそうとして極めて神々し、明治44年旧城主伊達宗亮氏村民の請を容れて旧城域755坪を寄進された。更に大正2年桜樹百本の奉納があり旧城域に配植したので公園の如く春は花、夏は翠りと風景頗る良き神域となった。

坂元神社 坂元神社は坂元三河が築いた蓑首城跡に建てられた神社で、明治2年に妙見宮が北辰神社となり、明治42年に神明社外八神を合祀し坂元神社となりました。現社殿はかつて本丸があった場所に建てられています。現在、城跡は公園として整備されており、坂元神社の社殿の周りをはじめ桜の木が多数植えられています。例年4月中旬〜下旬にかけて花が一斉に咲き桜の名所として地元の人たちに親しまれています。
蓑首城 蓑首城(蓑首館)は蓑首山の上にある山城で、武石重宗の家臣である坂元三河が元亀3年(1572)に築いたものです。台状台地を幅約10m余り深さ約7〜8mの濠で切断した江戸時代初期のものとみられています。古城録によれば 「東西三十三間(約60m)南北50間(約90m)回字形で、すこぶる要害の城地」 と記載されており、空濠に今なお往時の面影をとどめています。この城(館)には、伊達家の家臣大條氏(4000石)、第八代宗綱から第十七第宗亮にいたる十代のあいだ居城となっていました。城跡は山元町の文化財に指定されています。  
 

 

 
■山形県

 

錦戸薬師堂(にしきどやくしどう) 赤崩   米沢市
別名「コロリ薬師」薬師像は関根普門院に安置
今月は、コロリ薬師あるいは「澄心の泉」で有名な、米沢市赤崩(あかくずれ)の石木戸にある、錦戸薬師堂を訪ねてみました。西城戸薬師あるいは石木戸薬師とも書かれることがあります。
赤崩を通る市道脇の参道口に「澄心の泉」があり、そこから杉木立の中の、非常に急な石段を登ること約15分、切り立った岩に囲まれて小さなお堂が建っています。黒く塗られた柱に白い象を形どった木鼻きばな(貫や肘木の先に付けた装飾彫刻)が印象的です。正面に懸けてある鰐口は、天保13年(1842)小松村宮地の氏子中(うじこちゅう)が奉納したものでした。
江戸時代は別当の成就(じょうじゅいん=山上村・普門院末寺)が管理していましたが、成就院は明治初期に廃寺となり、関根の普門院が管理することとなりました。戦後は、盗難防止のため薬師像は普門院内に移され、5月8日と9月8日の例大祭の前夜、氏子たちが御輿に乗せて地区を練り歩き、この薬師堂へ安置します。
錦戸薬師堂の由来は、江戸時代の地誌書をみると、本尊の薬師像は俵藤太(藤原秀郷)が 平将門の乱を鎮めた戦功により、奈良薬師寺から遷座し守本尊としたもので、その後子孫の奥州藤原氏に伝わり、藤原秀衡の長男西城戸国衡(藤原泰衡の異母兄)の守本尊となったものと云われています。
文治5年(1189)、源頼朝が藤原泰衡を攻めた奥州合戦の際、奥州藤原軍は阿津賀志山(あつか しやま=福島県国見町)に三重の堀を築き、西城戸国衡を総大将にして守りましたが、頼朝の率いる大軍に敗れました。国衡は供の僧に守本尊の薬師像を託し、僧は出羽国に逃れて、この赤崩の地に草庵を結び、山腹に薬師堂を建て薬師像を安置したと伝えられています。 また、秀衡の六男頼衡が吾妻山を越えこの地に安置したとも伝わっています。
薬師如来はその名のごとく、人びとの病を救い癒す如来ですが、いつの頃からか、この錦戸薬師に祈願すると、苦しみ無く往生できるとの評判が立ちました。この仏教でいう「臨終正念」ともいうべき霊験により「コロリ薬師」とも呼ばれ、福島県を中心に各地から参拝者が訪れています。
また、錦戸薬師堂の参道口に湧き出る「澄心の泉」も、これを飲むと同じく「臨終正念」の効用があると言われ、泉を汲みに来る人が今も絶えません。

米沢の赤崩に普門院が管理する「コロリ薬師」がある。錦堂(錦戸)薬師堂ともいう。ここの「澄心の泉」「瑠璃光の清水」と呼ばれる霊泉は「臨終正念」ということで、飲むと「ころり」と苦しまずに亡くなるという水とされる。ミネラル豊富な霊泉とあって、ペットボトルやポリタンクで水を汲みに来る方が多い。横には「この水を商売に利用したら子々孫々七代に祟りがある」と書いてある。
錦堂の由来は大ムカデ退治や平将門討伐を行なった俵藤太こと藤原秀郷が戦勝に際し、下野国(栃木県)薬師寺から遷座、守本尊にしたのが始まりという。それを藤原秀郷の子孫にあたる奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の六男錦戸太郎頼衡が1188年に兄、藤原泰衡が源頼朝に征伐された時、輿に奉安して伊達領から吾妻山鳥越を経由して、ここに祭るようになったとされる。異説として奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の長男西木戸(錦戸)太郎国衡が阿津賀志山の戦い(福島県国見町)で源頼朝に敗れ、守本尊の薬師像を僧に託し、僧がこの地に庵を結んだともいう。
普門院 山形県米沢市
普門院は仁寿3年(853年)英慶法印が人々の治安と平穏を祈る為に創立されました。現在の場所にお寺が建てられたのは、米沢が伊達家の城下町だったころ、約450年前です。その後、焼失し現在の建物は寛政8年(1796年)に再建されました。明治時代になるまで米沢から板谷峠を通り福島をぬけていく道が江戸に通じる唯一の街道だったので、お殿様が参勤交代で江戸に行く時に休憩する場所として普門院が使われていました。
普門院が再建された寛政8年(1796年)その頃細井平洲という学者が江戸から米沢に向かっていました。その細井平洲を上杉鷹山が普門院にご案内し休憩をとって労を慰められたという逸話が残っています。
今も普門院にはご接待に使われたお部屋と道具が残されております。また、平洲先生が記念に植えられた椿の花も毎年春になると、赤い花を咲かせます。
このことから、文部省は昭和十年に普門院を国指定の史蹟として後世に伝えられるようにして以来、普門院のある関根は敬師の郷(さと)として世に広く知られるようになりました。
境内にはその時の様子を書いた平洲先生の手紙の一節が、「一字一涙の碑」に刻まれています。
普門院とコロリ薬師様
普門院のご本堂の正面には大日如来様が祀られ、右奥には弘法大師様、左奥には興教大師様そして正面左側にコロリ薬師様が小さな厨子の中に祀られています。
この薬師如来像は、用明天皇とその皇子聖徳太子が一刀三礼しての作といわれ平安末期に藤原3代(清衡〜基衡〜秀衡)として平泉を中心に奥州一円に勢力を伸ばしていた奥州藤原氏に伝わり、秀衡の長男西城戸国衡の守り本尊となりました。
文治5年(1189年)源頼朝の奥州征伐に対し、藤原氏は国衡を総大将として阿津加賀志山(福島県国見町)に見栄の堀を築き陣を構えたが敗れ、4代泰衡でその栄華の幕を閉じました。
薬師如来像は、秀衡の六男頼衡が兜に奉安して吾妻山鳥越を経て、赤崩の地に守り伝えられ、「錦戸薬師堂」に安置され長い間信仰されてきました。薬師如来は本来、病苦などから生命あるすべてのものを救う仏。右手は施無畏印を結び左手には薬壺を持つ姿で表されております。いつの頃からか定かではありませんが、このお薬師様を信仰されお参りをされた方が死ぬ時に苦しまなかったことから話が広がり、いつのまにか「コロリ薬師」と呼ばれるようになりました。また病気や怪我だけでなく、生きていく上での不安や焦燥感などをとりのぞき、落ち着いた心を取り戻せます。
現在、普門院に祀られている薬師様は、厄除開運、無病息災や安楽死などを願う大勢の人たちに篤く信仰されております。 日々の健康に感謝し、悲しみや苦しみの中にあっても必ず一筋の光明があるということを教えてくださっています。 参拝することに特別の決まりや儀式はありません。心をこめて手をあわせるだけです。
お参りすることで、亡くなられた方が安らかに眠ることができます。 コロリ薬師のご祈願についてはご相談下さい。  
羽黒山五重塔   鶴岡市羽黒町手向
主祭神 大国主命
社格等 出羽神社末社
別名 羽黒山五重塔
山形県鶴岡市羽黒町手向(とうげ)の羽黒山にある室町時代建立の五重塔。
山形県にある山岳修験の道場である月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山という。このうち羽黒山には三山の神を祀る三神合祭殿があり、そこへ至る参道の途中、木立の中にこの五重塔が建つ。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉「爺杉」がある。 東北地方では最古の塔といわれ、昭和41年(1966年)に国宝に指定された。塔の所有者は出羽三山神社(月山神社出羽神社湯殿山神社)である。
平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
塔は総高約29.2m、塔身高(相輪を除く)は22.2m。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。
明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。
近世までは塔内に聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を安置していたが、神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「千憑社(ちよりしゃ)」となっている。
出羽三山神社 
山形県鶴岡市羽黒町
御由緒
日本の原郷
出羽三山-羽黒山(標高414M)月山(標高1984M)湯殿山(標高1500M)-は「出羽国」を東西に分ける出羽丘陵の主要部を占める山岳である。太古の大昔は火山爆発を繰り返す“怒れる山”であった。
_____時が経ち、再び静寂を取り戻した頃、山には草が生え、樹木が生い茂り小鳥や獣がもどってきた。その時、麓の里人たちはそこに深い不思議な“神秘”を感じた。「あの山こそ、我が父母や祖先の霊魂が宿るお山だ・・・」 「我らの生命の糧を司る山の神、海の神が鎮まっているお山に違いない・・・」
_____それから更に時を刻んだ推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所____。蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。今を去ること、千四百年前の御事である。出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。やがて、御開祖・蜂子皇子の御修行の道は「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」として結実し、千四百年後の今日まで“羽黒山伏”の形をとって、「秋の峰入り(みねいり)」(峰中ぶちゅう)に代表される厳しい修行道が連綿と続いている。
_____以後、お山の内外を問わず、全国六十六州のうち東三十三ヶ国の民衆はもとより皇室、歴代の武将の篤き崇敬に与り、いつしか本邦屈指の「霊山・霊場」としてその地位を築き、四季を通じ登拝者の絶えることがない。
そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”であった。加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験(ぎしたけいん)・蘇り(よみがえり)」をはたす山でもある。すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として栄えてきたお山である。
出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということであろう。古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきた。
今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕している。まさに、これこそ今日の出羽三山神社の大きな特色といってよい。歴史をふり返って見ると、鎌倉時代には羽黒山をして、「八宗兼学の山」と称し、全国各地から修行僧が競って入山し、各宗を実践修得していった。
何故に「八宗兼学の山」であり、諸々の宗教・宗派がこれ程複雑に習合したのか_____。それこそ、出羽三山の大神、神々、そして御開祖・蜂子皇子の“御心(みこころ)”が成したものであろう。信ずる者来たれり、出羽三山の大神は何人にも等しく御神徳を授ける、偉大にして永久(とわ)に有りがたい神々である、との民衆の“確信”があったからに他ならない。人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない。出羽三山の神々は寛大である_____。
信仰心は、まず、“信ずること”に始まる。自分の邪念・邪心をむなしくして、「神」を信ずること、それが信仰世界に入る第一歩である。敬神崇祖(けいしんすいそ)_____。神を敬い、祖先を崇めること、この一語に尽きる。出羽三山の神々に仕える者は、千四百年間一貫してこの根本精神を以て大神に御奉仕致し、かつ登拝者・信者の方々に等しく接し、教化に勤めてきた。
出羽三山神社となった明治以降もお山は繁栄御神威の発揚が図られている。今日では東三十三ヶ国からの信者にとどまらず、全国の津々浦々から、四季を通じて登拝者の絶えることがない。そして、最近では、日本はおろか外国からもお山においでになられる方も目立って多くなってきている。まさに“国際化”である。これも、太古から綿々と受け継がれてきた山麓の宿坊・羽黒山伏の全国に向けた弛まぬ“布教・教化活動”あるいは、出羽三山神社の御神威の“発揚”があったからに他ならない。
出羽三山の信仰は、いつの時代にも、親から子へ、子から孫へと伝えられる「親子相伝のお山」として著名であるばかりでなく、成人儀礼として男子十五歳になると、「初山駈け」をしなければならないという風習が各地にあって、今も健在である。
特に関東方面では古くから、出羽三山に登拝することを「奥参り」と称して重要な“人生儀礼”の一つとして位置づけ、登拝した者は一般の人とは違う存在(神となることを約束された者)として崇められた。また、西に位置するお伊勢様を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称した。つまり「伊勢参宮」は「陽」、出羽三山を拝することは「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあった。
今日、出羽三山のお山が、「日本の原郷・・・・」「日本人の心のふる里・・・」 といわれる所以は、類ない千四百年という歴史だけによるものではなく、“時空”を越えて一貫して顕わされてきた三山の大神の御神威・御神徳、合わせて御開祖・蜂子皇子の“衆生済度(しゅじょうさいと)”の御精神、皇室の御繁栄と民衆の息災を願う御心の「御仁愛」にあることを、私たちは今一度、識るべきであろう。
出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地
出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
*伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。
蜂子皇子
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。
出羽三山の沿革
出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。
羽黒山・出羽神社
羽黒山大鳥居
南北朝の末期から羽黒山に勢力を得た大泉庄の地頭武藤氏は、政氏の代に羽黒山の別当を称し、子孫にその職を継いだ。政氏は長慶天皇文中元年羽黒山に五重塔(国宝)を再建、その居城大宝寺(鶴岡)に鳥居を建立させ羽黒山一の鳥居としたが、今はなく只鳥居町の名を残している。今の一の鳥居は鶴岡から羽黒橋を渡り、坦々たる庄内平野を横切って、羽黒街道が羽黒丘陵にかかる景勝の地に高さ22.5mの両部の大鳥居がある。昭和4年山形市吉岡鉄太郎の奉納。
宿坊と魔除けの引綱
門前町手向(とうげ)は、一村総修験で、江戸時代には336坊が軒を連ねた。今に冠木門(かぶきもん)を構え、注連を張った宿坊があり、霞場や檀那場を支配して、道者の宿泊や山案内をする。又、軒に太い綱をつるしているのを見かけるが、これは松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えられている。
随神門(ずいしんもん)
随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り、随身像を祀り随神門と名付けた。
末社羽黒山天地金神社
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。
祓川と須賀の滝(はらいがわ・すがのたき)
随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。又、一般的には神域とは随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。
五重塔
羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。
山頂鳥居附近
参道の石段の尽きるところ朱の鳥居がある。もと江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったが戦争で供出された跡に庄内の生徒や学童の寄付によって建立されたものである。鳥居の手前の坂を十五童坂といい、坂の左に、一山の貫主の住んだ執行寺跡、右に本社のかぎを取り扱った鍮取(かいどり)役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在った。また能除太子が登上の折、休息された場所とか、昇天のとき召されたのがこの場所にあったと伝えられる能除太子御挫石(おまし)がある。
蜂子皇子御尊影(左が金剛童子、右が除魔童子)
出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、御墓は羽黒山頂バス停より御本殿への参道途中にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。
蜂子神社(並んだ左側は「厳島神社」)
表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。
三神合祭殿(さんじんごうさいでん)
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年〜47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成12年、国の重要文化財に指定される。
三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>
羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。
三神合祭殿内部
三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。

月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。
内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命、大己貴命、少彦名命を祀る。本社は大同2年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長10年、最上義光の修造を始め、明和5年に再造、29年を経た寛政8年炎上、文化2年再建されたが、同8年またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年1818年完成した。これが現在の本社である。
出羽三山神社参集殿
地上2階、地下1階総床面積2,179m2入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に見事完工された。
鏡池
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。
鐘楼と建治の大鐘
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
東照社
寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請のねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあった。
千佛堂(外観)
二百数十軀の仏像仏具を安置する建物として平成29年7月に竣工。参集殿と霊祭殿を結ぶ役割も担う。当社崇敬会長の庄内藩酒井家台18代御当主酒井忠久氏よりご揮毫頂いた社額が掲げられ、天井には画家加藤雪窓揮毫の天井画竜頭が飾られている。
千佛堂(内観)
出羽三山は明治維新まで神仏を権現として崇める修験道の御山で、羽黒山は「羽黒山寂光寺」と称し、一山は仏教で奉仕していた。千佛堂に安置する250数躰の仏像の多くは、境内にあった諸堂や寺院に祀られていたと伝えられるものである。明治の神仏分離で出羽三山が神社となり、夥しい数の仏像仏具が山を下り散逸する中、酒田市に住む佐藤泰太良翁は私財を投じて蒐集し、宅地に安置堂を建立し奉拝した。昭和49年、子孫の佐藤完司氏は百年近く護り続けてきたこれらの全てを当社に奉納された。
霊祭殿
出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和58年に再建されたものである。
供養塔
羽黒山には破尺堂境外墓地を始め、御本坊平、南谷と歴代別当供養所があるが霊祭殿脇供養所は篤信者の供養碑も多く、霊祭殿建立と共に整備され一般参拝の方々の御供養が絶えない。
末社
出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。写真の末社は左から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社。
末社健角身神社
羽黒山の末社で、もと行者堂といって役行者を祀る。足の弱い者が下駄を供え、健脚を祈る風習がある。
天宥社
羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。入口の燈篭は天宥法印の墓地のある東京都新島村より昭和63年6月7日に奉献されたものである。
峰中籠堂
明治までは秋の峰の二の宿であったが、現在は全てこの峰中籠堂を拠点に行を行う。
吹越神社
吹越は羽黒派古修験道の根本道場である。吹越神社は三山の開祖・蜂子皇子を祀る。昭和62年6月改築される。  
荒沢寺(こうたくじ)   鶴岡市羽黒町手向
山形県鶴岡市にある寺院で羽黒山修験本宗の本山である。山号は羽黒山で、正善院が本坊である。本尊は大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩。
この寺は、崇峻天皇の皇子蜂子皇子(能除太子)によって開かれたと伝えられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)に対する山岳信仰・修験道の寺として古くから信仰されてきた。もとは真言宗を中心とする寺院であったが、江戸時代に入ると天台宗に属することとなった。
明治初年の神仏分離に伴い延暦寺の末寺となり、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、島津伝道が独立して羽黒山修験本宗の本山となった。
羽黒山修験本宗
羽黒派修験は、真言宗当山派、天台宗本山派の2派に収斂していった修験道2派のいずれにも属さず、古くからの修験道と、土着の月山の祖霊信仰が結びついた独自の修験である。
その中で、荒沢寺の修験道は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏の、世界を形成している十界を体験する「十界行」を厳密に行うことが、出羽三山神社と比した特徴である。十界行とは、行者が死に、死の世界で、山内の各行場での修行を通じて十界の苦しみを体験し、現世へと転生する行である。出羽三山神社の行は仏式ではなく神式であり、行を通じて死後の追体験を行うのは同じだが、その内容は古来からの修験と比べて簡略化されたものである。

荒沢寺の境内は羽黒山登山口の近くにある。由来は、崇峻天皇の代(587年)聖徳太子の従兄、蜂子皇子の草創と伝え、羽黒山の奥ノ院として女人禁制の聖域であった。皇子は、能除照見大菩薩と称され、南都諸大寺の法門に帰依し、法名を弘海と号した。諸国修行の途にあって怪鳥に案内され、羽黒山に登り、出羽三山を開いたという。その後、白鳳年間に役行者小角が入峯、大同元年には弘法大師が掛錫されたことを伝えている。

山形県鶴岡(つるおか)市羽黒(はぐろ)町にある羽黒山修験本宗(しゅげんほんしゅう)本山。羽黒山正善院(しょうぜんいん)と号する。本尊は大日如来(だいにちにょらい)・阿弥陀(あみだ)如来・観音菩薩(かんのんぼさつ)。中世までは天台・真言・禅の三宗兼学の修験道場で、当寺は羽黒山一山の奥の院であった。1189年(文治5)源頼朝(よりとも)が藤原泰衡(やすひら)征討のおり、羽黒山に戦勝を祈願し、その報礼として社殿を造営、山麓(さんろく)に黄金堂(こがねどう)(国の重要文化財)を建立、1596年(慶長1)に直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)、甘粕備後守景継(あまかすびんごのかみかげつぐ)が修築。1641年(寛永18)全山は天台宗に統一されたが、1946年(昭和21)独立して羽黒山修験本宗本山となる。寺宝には仁王像(伝運慶(うんけい)作)、本堂、庫裡(くり)など多数を蔵している。 
善寳寺 (旧・龍華寺)   鶴岡市下川
妙達
(みょうたつ、生没年未詳)は、平安時代中期の天台宗の僧。出羽国(現在の山形県)鶴岡の龍華寺(善寶寺の前身)を天慶から天暦年間(938年-957年)頃に開山したとされる法華経の行者。「今昔物語集」などに955年(天暦9年)、閻魔大王から衆生を救うことを勧められ、死後7日目に蘇ったという伝承が残る。
僧妙達蘇生注記(そうみょうたつそせいちゅうき)
出羽の国の田川郡にある龍華寺に住む妙達という天台宗の僧の著述であるとされる。その死亡後に閻魔の王宮を訪ねて、知人達の死後の様子を見聞きしてから閻魔王に許されて7日後に生き返ったという内容の10世紀中ごろに成立した蘇生譚である。ここに登場する寺院名はこの当時から存在していた現在の善宝寺とされ、そのころの東国における仏教の状況を示している。
妙達と出羽国田川郡
出羽国(羽前国)田川郡は、現在の山形県東田川郡・鶴岡市および酒田市の一部(概ね最上川以南)にあたる。多川郡、田河郡と表記されることもあった。7世紀に越国に接する蝦夷の住む土地に柵が設けられ、磐船・渟足の2郡の分割により越後国が成立すると、その北方に勢力が拡大され、和銅元(708)年に出羽郡が設置され、出羽柵(山形県庄内地方)が築造された。和銅5年に出羽国に昇格し、陸奥国から置賜郡と最上郡が加えられて国の体制が整った。さらに、東国・北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させ、柵戸や公民を中心とした郡制施行地を拡大され、延喜年間(901〜923年)までに出羽郡南部から田川郡が分立したとされる。
妙達。生没年未詳。平安時代中期の法華経の山岳修験者・僧侶(天台宗?)。出羽国鶴岡の龍華寺(現在、曹洞宗・龍澤山善寶寺の前身)を天慶・天暦年間(938〜957年)に草庵を結び、開山したとされる。妙達山(越後との国境田川郡の南の山)の山頂から海側に少し下った斜面の窪地にあった表面が平な自然石の上で、法華経を読誦し、坐禅を専らにしていたという。妙達の坐禅石は現在に残る。妙達山の北方に鳥海山が聳え、貞観13(871)年に噴火記録があり、大物忌神として祀られていたが、朝廷でも詔をもって従二位まで叙位され、大物忌神(火山)を鎮めるために、法華経読誦が捧げられたという。天暦9(955)年に妙達は妙達山に篭り、五穀を断ち、法華経読誦の祈祷の行をしながら入定したという。妙達の草庵・龍華寺は龍華三会に関係して、弥勒が下生して衆生を救う弥勒信仰となり、善寶寺の弥勒石仏としてのこる。自著『僧妙達蘇生注記』では、死後に閻魔の王宮で地獄の人々の様子を見聞きし、勧善誡悪によって衆生を救うこと、都卒天上生こ橋渡しを約束させられ、7日後に生き返ったという。『今昔物語集』などでは、閻魔大王、必ず極楽に生まれ変われるように語って聞かせるよう約束させられたとし、浄土信仰の定着過程が伺える。
縁起
平安時代中期の天台宗の僧、善寳寺開基龍華妙達上人は、出羽国(現在の山形県)の庄内平野の南の山に天暦五年(九五一)の秋、龍華寺という草庵を開き、もっぱら『法華経』を読誦していたと伝えられる。
天暦九年(九五五)に五穀断ちをして、入定修行に入り、七日後にこの世に蘇ったといわれている。入定後、妙達上人は閻魔王の都に召されて、「汝は『法華経』をよく読み、煩悩なし。速やかに帰るべし」と云われ、この世に帰された。
妙達上人は帰る前に父母に会いたいと申し上げると、「父母は地獄にあり苦しんでいる。父母の罪を抜くために功徳を積みなさい」と、閻魔王は言い、さらに人間の死後の様々な様子を見せてくれた。功徳を積んだ者は兜率天に生まれ、罪を作りし者は地獄にあり、さらには大蛇、九頭竜に生まれて苦しんでいるものもある。
地獄の苦しみの人々を兜率天に渡す誓願をおこせと閻魔王は申し渡したという。
ある時、妙達上人の所に、龍が現れた。故あって龍の身となった。『法華経』の功徳を受けたいという。龍は妙達上人の『法華経』読誦を聞き、願い叶い、妙達山の麓にある池に身を隠したといわれる。この池が「貝喰の池」で、その龍は「龍神様」であった。
その後、延慶二年(一三〇九)に總持寺二祖、善寳寺開祖の峨山韶碩禅師は妙達山に巡錫し、妙達上人の坐禅石に坐禅をしていると龍神様が現れたという。
禅師が「三帰戒」を授けると貝喰池に消えたと伝えられている。
峨山禅師より七代後の善寳寺開山太年浄椿禅師は文安三年(一四四七)龍華寺を復興して伽藍建立をはたし、龍澤山と号し、善寳寺と改められた。その受戒会に再度、龍神様が現れ戒脈伝授を願う。
「我は八大龍王の一人なり。ともなえるは第三の龍女なり。さきに妙達上人の甘露の妙典の功徳を受け、更に峨山禅師に参じて戒を受け、ここに太年禅師には授戒で血脈を授けられ、不退転の法楽を得たり。我眷属を率いて尽未来際、この御山を守護せらん。我に祈請するものあらば、必ず心願成就せしめん」と言い終わるや迅雷烈風天地震動、貝喰の池に身を蔵した。
太年禅師は龍王殿を建立し、奥の院の貝喰の池には龍神堂を建立し、龍神様をお祀りし、今日に至る。
龍華庵(りゅうげあん)
棟梁:剣持嘉右衛門籐吉 / 二棟梁:奥山富五郎 / 三棟梁:齋藤善六・本間末吉
善寳寺の前身である龍華寺の本堂であり、善寳寺の歴史を紐解くに重要な建物であります。昔はこの場所から北北東2キロほど隔てた場所にあり、現在は西郷小学校の敷地となっております。その地名を「龍花崎」(りゅうげざき)と呼んでいたそうです。現在の建物内外の彫刻と建造は明治13年(1880年)に善寳寺お抱えの棟梁「剣持藤吉」の作であります。明治12年以前の龍華庵は、五重塔から案内所の間の敷地に建てられていたそうです。現在は五百羅漢像修復のための、作業所として利用されており修復の様子を見ることができます。
総門(そうもん)
棟梁:剣持嘉右衛門籐吉
安政3年(1856年)に再建された十二支を主体とする細やかな彫刻の総門。総ケヤキ造り。この優れた彫刻は棟梁の剣持藤吉30歳頃の気迫の込められた作。特に獅子の造形と迫力は一見の価値あり。戦時中に十二支の酉(とり)が盗まれ、一支欠けています。辰は龍の姿では彫刻されていませんので、よくよく探してみてください。
山門(さんもん)
棟梁:剣持嘉右衛門籐吉(兄) / 脇棟梁:奥山富五郎(弟)
文久2年(1862年)再建。慶応3年(1867年)5月27日に上棟式を挙行した記録があります。構造は複雑で彫刻は至妙なる総ケヤキ造り、銅板葺きの楼門です。門内部両脇には右に「毘沙門天」左に「韋駄天」が門を護ります。一般にお寺の門には仁王像が安置されることが多いのですが、廃仏毀釈の折、善寳寺に避難してきたこの両尊天像を安置したと言われております。山門正面円柱の唐獅子は棟梁の嘉右衛門の作であるのに対し、後方の獅子は棟梁の弟富五郎の作であり、兄弟で技を競い合って力作したものであります。山門二階楼上内部には秘仏である十六羅漢像が安置されておりますが、一般への公開はしておりません。梁間に架かっている額縁には善寳寺の山号である「龍澤山」と書かれており、これは江戸時代活躍した鶴岡出身の能筆の名僧「不幼老卵(ふようろうらん)」が書いたものであります。遠くから見ると小さく、門に近づけば近づくほど鳳凰が羽を広げるかのように壮麗に見えると言われます。
五重塔(ごじゅうのとう)
棟梁:奥山富五郎・高橋兼吉・山本佐兵衛
明治26年(1893年)建立。材料は総ケヤキ造り、屋根は銅板葺き、高さ38mの大塔は「魚鱗一切之供養塔」(ぎょりんいっさいのくようとう)として、海の生き物達の供養塔として漁師をはじめ海に関わる人々の願いと祈りを受けて建立されました。内部には仏の5つの智慧を表す五智如来が祀られます。正面:釈迦如来 東方:阿閦(あしゅく)如来 西方:阿弥陀如来 南方:宝勝如来 中央:大日如来(芯柱円柱がそれを表す)善寳寺には昔から夜になると音を発する「夜啼き石」という不思議な石があったが、それを塔建立の際に礎石として中央に納めたといわれ、それ以降石が啼くことはなくなったと言われます。建立から一年余り後明治27年に起きたマグニチュード7.0の直下型地震である酒田地震大火の際にも、また先の3.11東日本大震災の際にもヒビ割れ一つなく建っておりました。大日如来を表す芯柱は塔中央に上から下へ分胴のように吊るされており、振子の役割として免震構造になっており、大地震からもお護りいただいております。塔の側面には十二支が3体×4面に彫刻されており、自分の干支を見つけて、その方角から手を合わせるとよいと言われます。総門と同じく、辰年だけは龍の姿で彫られてはおりませんので、そちらも探してみてください。
五百羅漢堂(ごひゃくらかんどう)
棟梁:本間勘蔵 (彫刻は剣持嘉右衛門)
安政2年(1855年)建立。531体もの羅漢像は顔の作り・表情も、着物の模様のデザインからポーズまで一つとして同じものはなく、衣の模様やデザインに至るまで同じものはありません。北前船で財を成した商人達の寄進によって建てられた、北前船西回り航路の繁栄を感じさせる貴重な文化的遺産です。「亡き人の面影しのぶ五百羅漢」と詠われるように、かつて写真のない時代には亡くなった人に似た顔を五百体の中から見つけて、そこに手を合わせたと言われます。正面は釈迦三尊、十大弟子が祀られ、柱上には風神雷神、左右台座上には東西南北を守護する四天王が安置されしております。現在東北芸術工科大学様の協力の下、五百羅漢像の修復に取り組んでおり、一体一体丁寧に修復作業を進めております。
龍王殿(りゅうおうでん)
棟梁:本間勘蔵(再建)
開山の太年清椿大和尚が室町時代後期文安3年(1443年)に守護神の龍神様を祀るために創立したと言われ、天保4年(1833年)に再建された権現造りの荘厳な伽藍です。屋根は現在銅板葺きとなっておりますが、かつては茅葺(かやぶき)屋根であり、その形は波のうねりを表し日本古来からの茅葺技術の粋を集中したものであったといわれます。この龍王殿は龍の王が棲むといわれる竜宮城を模して造られ、彫刻には滝登りをして龍に変化しようとする鯉や、波しぶきが彫られており、龍と海との繋がりを表しているといわれます。建物内部右手には善寳寺の歴代住職の位牌堂、中央の菊の御紋の奥には有栖川宮家様の御霊牌所となっており、左手の金色の扉の中には善寳寺龍道大龍王、戒道大龍女の二龍神が奉安されております。2016年には善寳寺開基龍華妙達上人様の生誕1150年を記念してこの黄金の扉がご開帳され、史上初めて龍神様のご尊体が一般に公開され沢山の方々より手を合わせて頂きました。 
 

 

 
■福島県

 

相馬神社   相馬市中村字北町
明治12年 相馬氏の始祖『師常(もろつね)』公を御祭神とし、中村城(馬陵城)本丸跡に創建されました。
師常公は、保延五年(1139年)に、千葉常胤の次子として生まれ、相馬中務太夫師國の家を継ぎました。
相馬氏は、『平将門』公の末裔であり、代々下総の相馬郡一帯を領していましたが、文治五年(1189年)源頼朝の将である父常胤に従って平泉攻めに加わり、軍功をあげたので恩賞として八幡大菩薩の旗一旗と相馬地方を賜りました。
師常公は、常胤の子七人の中でも特にすぐれ頼朝の信望も厚く、『鎌倉四天王』の一人に数えられていました。また、信仰心の厚い人であったので、死後鎌倉の人々には『相馬天皇』として祀られ、今もなお御崇敬されております。
常胤は、長男には千葉地方を継がせ、師常には流山地方と相馬地方を与えました。師常公から数えて六代目『重胤』公のとき、上杉影勝に通じ関ヶ原の役に参加しなかったことで、一時城地を没収されましたが『徳川家康』はその子『利胤』を召し出して六万石の本領を安堵し、明治維新まで続きました。
境内には、桜の名所馬陵城(4月中旬頃)や19代『忠胤』公が植えたものと伝えられる、樹齢四百年といわれる『藤』(相馬市指定天然記念物・昭和54年7月指定)があり、花期(5月中旬頃)には参拝者の目を楽しませております。 
恵日寺 1   耶麻郡磐梯町
元々は、塔頭たつちゅう (わき寺) として建立。元禄15(1702)年、戦乱により焼失した現/本堂が再築。明治37(1904)年、復興され恵日寺と称す。廐岳山、真言宗豊山派。山門は、平将門が寄進したと伝えられる。将門自身も慧日寺に帰依していたと伝えられ、乱で討ち死にした後は、娘/滝夜叉姫が身を寄せている。徳一大師創建時の本尊は薬師如来像だが現存していない。猪苗代三十三観音の番外四番。
慧日寺跡
会津仏教文化の発展の地。磐梯山、真言宗。平安初期の大同2(807)年、奈良東大寺/法相宗の高僧/徳一大師が、五薬師の1つとして開創した。開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のもの。6万m2にも及ぶ跡地の一部は、国指定の史跡。最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられている。その後、源平合戦で平家方に付いたため一時衰退したが、室町時代には復興し、越後方面と黒川方面 (会津若松市) へ分岐する要衝の地であった門前町も大いに栄えた。天正17(1589年、伊達政宗公の会津侵攻の際、金堂を残して全てが焼失・破壊された。その金堂も寛永3(1626)年に焼失し、明治の廃仏毀釈によって廃寺となる。慧日寺についての資料や国指定重要文化財などは、「磐梯山恵日寺資料館」で保存され、公開もされている。復興された現在の寺は、恵日寺と称している。
恵日寺 2   耶麻郡磐梯町
(えにちじ) 福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の仏教寺院。かつては慧日寺(えにちじ)と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となった。平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。
平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。
その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。  
将門の三女 滝夜叉姫と如蔵尼
恵日寺・滝夜叉姫の伝説   福島県いわき市四倉町 
四倉町の玉山にある甚光山恵日寺に行ってきました。ここの山門の天井には、険しい表情の大きな龍が2匹描かれていて、かの「左甚五郎」作と伝えられています。また、「平将門の三女・法名 如増尼、滝夜叉姫終焉の地」となっていて、如増尼になった滝夜叉姫が、晩年を静かに暮らしたお寺となっています。
滝夜叉姫は、平家の平将門の三女で、歌舞伎の演目「陰陽師 滝夜叉姫」や、様々な作品のモデルになった伝説の妖術使いのお姫様です。…ちなみに、京都の貴船神社でローソクを灯し「丑の刻参り」のもとになったのも彼女です。 ( 妖術を手に入れた滝夜叉姫は、その後 相馬にむかい夜叉丸や蜘蛛丸らの手下を集めて父の敵を討とうとするが・・・。)
妖怪などの話しではありますが、実際に各地に様々な跡や言い伝えがあり、平将門然り現実味もあります。
井戸の中を覗いたら、水がたっぷりありました。この井戸は、滝夜叉姫(如増尼)が水鏡としても使ったといわれています。
裏山にある お墓にも行き、お参りをしてきました。滝夜叉姫(如増尼)のお墓は、会津の恵日寺にもあり、分骨説や様々な説がありますが、緑豊かな松や鮮やかな紫陽花…ツツジ.. 色取り取りの花々が植えられて、綺麗に整えられたお墓をみると、地元の人に 今も大切にされている姫の様子が窺えました。
恵日寺・如蔵尼の伝説   福島県耶麻郡磐梯町 
如蔵尼は平将門の3番目の娘と言われています。彼女に関する説話は、今昔物語(巻第17の第29)、元亨釈書(巻第18 願雑3 尼女)、地蔵菩薩三国霊験記 の中に収められています。
元亨釈書、地蔵菩薩三国霊験記では如蔵尼は平将門の第三女とされていますが、今昔物語では平将行の第三女とされています。また今昔物語では他の2書と違って、将門の滅亡後奥州に落ちて来たというくだりが省かれてしまっていますが、物語の概略は3冊ともほぼ同様だそうです。以下に今昔物語の該当記事のあらすじをご紹介します。
昔、陸奥の国に徳一という高僧が創建した恵日寺という寺がありました。その寺の傍らに庵を結んで、平将行の第三女であるというひとりの尼が信仰の日々を送っておりました。たいそう美しく心のやさしい女性でしたので、出家する前はたくさんの男性から求婚されましたが、彼女はそれに全く興味を持たず独身を通しているうちに、ある日病にかかりはかなくなってしまいました。死後、彼女は冥途の閻魔庁に行き、その庭で多くの罪人たちが生前の悪行のために罰を受けて苦しむのを見ました。彼女は耐えがたいほど恐ろしく思いましたが、その中に錫杖を携えた小さな僧を見つけ、思わず経文を唱えました。実はその小さな僧は地蔵菩薩で、彼女の生前に罪のないことを知っており、閻魔王に彼女を現世に戻すよう命じました。別れ際に地蔵菩薩は彼女に経文と極楽往生するための要句を教えてくれました。蘇生した彼女は出家して如蔵尼と名乗り、ただひたすらに地蔵菩薩を信仰しました。その信仰のゆえに彼女は地蔵尼とも呼ばれました。如蔵尼はその後80歳余りまで生き、大往生を遂げました。
これが今昔物語に収められた如蔵尼にまつわる地蔵菩薩の霊験譚です。ところで如蔵尼の墓と伝えられるものが福島県の恵日寺(えにちじ)に残されているそうです。福島県には恵日寺が2つあり、片方は福島県耶麻郡磐梯町に、もう片方は福島県いわき市四倉町玉山字南作1にあります。前者は大同2年(807年)に徳一大師によって開かれました。この寺の山門は平将門による寄進だと言われ、将門自身も恵日寺に帰依していたと伝えられています。将門滅亡後、三女の滝夜叉姫がこの地に逃れ、庵をむすんだという伝説もあります。恵日寺では瀧夜叉と如蔵尼を同一人としているようです。ここには如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があるそうです。後者には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が建っているそうです。私自身はまだどちらのお寺も訪れたことがありませんので、写真でしか見たことがありませんが、ぜひ一度行ってみたいと思っています♪
さて、如蔵尼が三女というからには、じゃあ、長女と次女はどうしたよ?と思いませんか?長女については今まで読んだどの文献にもそれらしい伝説を見かけたことがないので、長女にまつわる話は残っていないのかもしれませんが、次女についてはやはり如蔵尼とよく似た伝説が残っています。将門滅亡後、第二女の春姫は現在の千葉県沼南町岩井付近に落ちて来て出家し、如春尼と名乗って隠れ住んだのだそうです。千葉県沼南町岩井には将門神社があり、この境内にある地蔵は如春尼が父・将門と一族の菩提を弔うために作ったものだといわれています。千葉県沼南町岩井付近には将門の城のひとつがあったという言い伝えもあるそうです。  
いわき市の恵日寺・磐梯町の恵日寺 伝承
いわき市の恵日寺   福島県いわき市四倉町 
この寺が有名なのは左甚五郎が作ったといわれる茅葺の山門があること、太平洋戦争の時サイパン島で玉砕した磐城中学校(現在の磐城高校)出身の海軍大将・高木武雄の墓があること、更に滝夜叉姫の供養碑があることだそうです。早速、その左甚五郎作の山門が出迎えています。恵日寺山門の前には滝夜叉姫終焉の地と書かれた柱と、恵日寺について書かれた案内板があります。
『恵日寺 大同元年(806)年徳一大師が奥州へ来たとき、和州岡本の宮にならってお堂を建て直し仏教を広める拠点として再興し、天慶3年、平将門の三女滝夜叉姫が恵日寺に逃れ地蔵菩薩を信仰し、名を如蔵尼と改め一族の冥福を祈り、この地を終焉の地としました。』(案内板説明文)
滝夜叉姫は平将門の娘とされる伝説上の妖術使いで、本来の名前は五月姫というそうです。天慶の乱で平将門は討たれ、一族郎党滅ぼされるが生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船神社に丑三つ時に参り、満願に貴船神社の荒御霊の声が聞こえ妖術を受けたといわれています。その後、滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総の国へ戻り、相馬の城にて、夜叉丸、蜘蛛丸ら手下を集め朝廷転覆の反乱を起こしたのですが、滝夜叉姫成敗の勅命を受けた大宅中将光圀と激闘の末、陰陽の術を持って滝夜叉姫は成敗されたそうです。そして死の間際、滝夜叉姫は改心し平将門のもとに昇天したというプロフィールがどうやら一般的に伝承されているようです。
一方、如蔵尼という名のプロフィールを調べると実に興味深い伝承がうかがえます。平将門の三女は非常に心優しい徳の高い女性で詩歌管弦に通じ、清らかで美しい姫君であったそうです。そしてたくさんの男性から求婚されたにもかかわらず結婚もせず独身を通したのでした。そんな日々の中で父、将門が討たれ一族郎党追討の難を避けるため恵日寺に庵を結んで信仰の日々を送っていましたが、ある日病にかかりはかなく世を去っていきました。死後、冥途の閻魔庁にいき、その場所で多くの罪人達が生前の悪行のために罰を受けて苦しんでいるのを見て恐ろしい思いをしたのですが、その中に錫杖を持った僧を見つけ経文を唱えると、地蔵菩薩であるその僧は姫の生前に罪のないことを見抜き、閻魔大王に姫を現世に戻すよう命じたのでした。閻魔大王の了承を得て姫は俗界に戻ることとなり、その際、地蔵菩薩は姫に経文と極楽往生するための要句を教えてくれたそうです。蘇生した姫は出家して如蔵尼と名乗り、ひたすら地蔵菩薩を信仰し80余歳で大往生を遂げたといわれています。
これは恵日寺に伝わる如蔵尼伝説からのプロフィールですが、この恵日寺とは同じ福島県でも耶麻郡磐梯町にある恵日寺のことで、こちらの恵日寺も807年徳一大師によって開かれ、こちらの恵日寺の山門は平将門の寄進といわれているそうです。
180度違うプロフィールと2つの恵日寺では、結局、両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉として、この妖術使いの滝夜叉姫と心優しい如蔵尼は同一人物で、磐梯町の恵日寺では如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があり、いわき市の恵日寺には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が残っているということで八方丸く収まっているようです。元祖と本家の醜い争いが無いだけ良しとしますが、何となく釈然としないのは一般ピープルでしょう。そこでもう一度そのプロフィールのバックボーンを調べると何となく納得できるような解釈が浮かび上がってきました。そもそも滝夜叉姫の伝説はどうやら物語として伝わっているものらしいことが分りました。
滝夜叉姫は江戸時代、歌川国芳の錦絵に描かれたり小説や戯曲に多く登場しており、特に有名なのが1806年、山東京伝作の書いた「善知鳥安方忠義伝」という物語のようです。これは平将門没後の後日談として、将門の子良将と滝夜叉姫が妖術をもって父の医師を果たそうと暗躍する物語読本で、3編15巻にまとめられているのです。そして将門の三女が滝夜叉姫と初出したのもこの読本だそうです。そしてこの山東京伝作の「善知鳥安方忠義伝」を宝田寿助が脚色した「善知鳥相馬旧殿安方忠義伝」が歌舞伎として上演され、読本と歌舞伎によって滝夜叉の性格が確立したそうです。このように将門の遺児たちが親の無念を晴らさんとして立ちあがる、という伝説が史実を離れて民間に生まれたのは極々当然のことですので、あくまで滝夜叉姫はフィクションの世界と割り切った方が理解しやすいといえます。そして、そのモデルが伝承の如蔵尼で、明らかに超人的な性格に書き換えられた(如蔵尼の伝説も若干その帰来はあるのですが)と考えるべきでしょうね。ある意味ではフィクションとノンフィクション(伝承をノンフィクションと位置づけるかどうかは別として)の二つのプロフィールを持った滝夜叉姫ということと勝手に理解しておきましょう。
滝夜叉姫については以上ですが、前述した如蔵尼伝説はあくまで磐梯町の恵日寺の伝承なので、一応いわき市の恵日寺周辺の伝承も掲載しておきましょう、片手落ちにならないように。こちらの伝承は、まさに滝夜叉と如蔵尼をミックスしたような伝承です。
『滝夜叉姫は父の影響で、波乱万丈の人生を送った人である。いわゆる「承平・天慶の乱」(931〜940)を起こした、平将門の三女として生まれた。父将門は剛勇の野生児であった。領地の問題で、叔父たち一門の不当な圧迫を受け耐えられず、叔父・平国香と戦い、国香を戦死させてしまった。その後、将門は下総国猿島に御所を立て、関八州を我が物にして、自ら「新星」と称した人物である。朝廷は見過ごすわけにはいかず、4000人の兵を差し向け、関東一円で激しい戦いが繰り広げられた。利根川を挟んでの戦いで、将門は流れ矢が当たって戦死してしまった。将門の館に火が放たれて、真っ赤な炎に包まれ焼け落ちる中、滝姫と兄の良門はひそかに逃げ出した。地蔵菩薩像を背負った滝姫と良門は、相馬に落ち延びた。そして、故郷を追われ両親を殺された滝姫は、恨みと憎しみから、鬼神のごとき女夜叉に変貌していったという。時が過ぎて、兄と妹は旗を揚げたが、勝ち目はなく良門は戦死。白馬に乗った滝姫が、逃げ延びた先が四倉町玉山の恵日寺だったのである。滝夜叉姫は寺の傍らに庵を結び、長い髪を剃り落とし、尼になった。仏門に入った姫は仏につかえ、特に肌身はなさず持ってきた地蔵菩薩を深く信仰した。また、寺の裏にある井戸水に自分の顔を映して、明鏡止水の心境になっていたという。後に地元の人々は、この井戸を「滝夜叉姫の鏡井戸」といい、また滝夜叉姫を「地蔵の尼君」とか「地蔵尼」と呼んで敬うようになったと伝えられている。地蔵尼は80歳を過ぎてなくなった。』(「いわきふるさと散歩」)
左甚五郎といえば伝説の大工で、日光東照宮の眠り猫で一躍有名人となった人です。意外と埼玉県に甚五郎作の作品は多く、秩父神社の「つなぎの龍」や妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市)、国昌寺(さいたま市)、安楽寺(比企郡吉見町)などがあるそうです。その甚五郎作の茅葺の山門が…、と見れば瓦葺の山門でした。建て直されたのでしょうかね。瓦屋根以外は結構古そうで、それなりに凝った技術が見られますが、それが甚五郎作といえるのかどうか良く分りません。
磐梯町の恵日寺   福島県耶麻郡磐梯町 
『恵日寺開創1300年 大門屋根社寺瓦葺替改修復記念碑 当山は奈良時代和銅2年(709)三論宗の慈慧法師聖徳太子の教法を広める為奈良より下向し、此の地に堂宇を建て慈豊山慧日寺と号し開創され平安時代大同元年(806)徳一大師奥州に仏教布教の拠点として中興される。天慶3年(940)平将門公三女瀧姫(瀧夜叉姫)当山に逃れ、仏門に帰依し如蔵尼と改め地蔵菩薩を信仰され終焉の地となる。以来明徳年間隆恵比丘尼まで尼寺として栄え、明徳3年(1392)鎌倉観修寺の甚恵上人隆恵比丘尼より寺の由緒を諭され喜悦を開き、中興第一世の祖となり、山号を甚光山と改め法燈高く岡本談林となり明治維新まで多くの学僧を輩出した。室町時代岩城公の庇護篤く、天文3年(1534)相馬顕胤が岩城重隆を攻めた折、岩城公の依頼により当山住職仲裁和睦をなす。江戸時代に移り磐城平藩主の祈願寺となり、元和5年(1619)城主内藤政長公領内の材木・人馬・入用に任せ、本堂・庫裏・諸仏堂造営寄進され、七堂伽藍の甍が並び門葉集合して寺門の隆盛を極めたと伝えられる。今に残るこの岡本の大門は当時内藤公が寄進され左甚五郎の作と伝えられ地域の人々から現在も大門と呼称され親しまれている。字・名の大門前は当山の大門を指しているのである。慶安3年(1650)幕府より御朱印25石を賜り末寺63ヶ寺を擁した格式高い大本寺であったが明治維新後俄かに零落、しかしながら明治6年(1873)6月15日玉山小学校恵日寺に開校される。昭和20年(1945)7月28日戦災に遭遇し大伽藍・庫裏・宝物殿・書仏像惜しくも一瞬にして灰燼に帰す。僅かに戦災より免れた大門のみが蒼古として昔日の面影を残し当山の威容を保っている。時代の変遷時流の推移量り難く、寺門の隆衰また逃れられず、開創以来1200有余年の夢、煙と共に眠りの中に没せり、法燈衰微の一途を辿りしも昭和38年(1963)本堂再建し萬古の眠りを覚ます、法燈恵命を点じて寺の興隆を見るに至る。更に檀信徒の総力を得て先師祖先を祀る位牌堂の建設を始め諸事業を起こし境内の整備調い、平成6年(1994)福島88ヶ所霊場第76番札所となる。平成13年(2001)大門屋根社寺瓦葺改修復工事に着手、順調に進捗し同年11月3日上棟落成慶讃大法会を修す。時恰も当山は平成21年(2009)開創1300年にあたる記念すべき年を目前にして戦災以来の浄業完成されたことは、檀家一同の喜びであり、仰ぎ願わくは本尊に誓願し郷土の平穏と当山の興隆発展檀信徒の諸願成就されんことを祈念し、ここに当山の沿革と大門の由来を記し永く後世に伝えんとする所以である。平成15年11月3日』(記念碑碑文)
開創1300年といえば平城京遷都、あのせんと君≠フ奈良と同じということで、瀧夜叉姫だけでなく寺院自体も紆余曲折ながらトンでもな歴史を誇っていたのです。そしてその象徴が山門ならぬ「大門」ということで、貴重な建造物であることを認識させられました。「大門」を抜けて参道の石段を上がると本堂のある境内です。恵日寺瀧夜叉姫の供養碑石段を上がりきったすぐ左手に石碑があります。はっきりと刻まれた文字を読むことができませんが、下の方には供養塔と刻まれているのが見て取れますので、これが瀧夜叉姫の供養碑かもしれませんね、文字が見えにくいというのもそれっぽいですし。
反対側には歌碑が2つあります。恵日寺歌碑左側には「如蔵尼瀧姫」と刻まれており、「興津城にかわる社や 国神の 永遠にまもらめ 天地の和を」とあり、右側には 「如蔵尼小野小町」と刻まれていて、「山里の五十路の坂を 越えぬれ 刈穂の庵は こころなこみ」とあります。
恵日寺本堂正面に本堂があります。昭和38年の再建ですから本堂としてはかなり新しいほうでしょう。
ここには県指定の文化財である「木造阿弥陀如来立像」が安置されているそうです。これは寄木作りの漆箔像で、火焔様の舟形光背を負っているのですが、光背の一部は破損しているそうです。文永元年(一二六四)に作られた仏像で在銘では、いわき市内最古の仏像なのだそうです。正一位岡本稲荷大明神本堂の左側には「正一位岡本稲荷大明神」の掲額がある鳥居がいくつも並んでいます。正一位岡本稲荷大明神鳥居の先には何もなくそこから石段をあがった上に社らしきものがありますが、これが本殿なのでしょうか。
こうして滝夜叉姫終焉の恵日寺の境内の散策を終え、最後の目的である滝夜叉姫の墓が裏山にあるとのことで、言われたとおりに進むと左側にありました、滝夜叉姫の墓です。滝夜叉姫の墓は生垣に囲まれ、中央に煉瓦のような小道があり整然としています。後ろの右側にはシダレザクラが、そして左側には名前がわからないのですがピンクのサクラのような木が植えられています。シダレザクラはもう終ってしまっていましたが、左側のサクラのような木は満開で実に綺麗に咲いています。滝夜叉姫の墓その手前には小道に覆いかぶさるように奇妙な形の松が植えられています。
滝夜叉姫の墓そしてその先の中央に土饅頭の形になっているのが滝夜叉姫の墓です。土饅頭の前には線香受けが、そして左側には「瀧夜叉姫の墓 法名 如蔵尼」と刻まれている石碑があります。そして土饅頭の後ろ側には「嗚呼瀧夜叉姫之墓」と刻まれた石柱が建てられています。線香の跡や、花が添えられた跡があり、綺麗に清掃・整理されているので、近所の方たちが常にお参りしているのではないでしょうかね。質素だけれど華麗、まさに滝夜叉姫に相応しい墓ではないでしょうか。
春のサクラの名所のようですが、滝夜叉姫伝説と共に非常に興味深い恵日寺でした。 
出雲神社 1   喜多方市
御祭神は大國主命(オオクニヌシノミコト)、邇邇藝命(ニニギノミコト)。社格は郷社。
社伝によると、第六十一代・朱雀天皇の時代、天慶年間(938〜946年)に平将門公滅亡後の残党が当地に逃れ辿り着き、この地を切り拓き、農地の開拓をおこなった。時が流れて第六十六代・一條天皇の時代、正暦年間(990〜995年)に陰陽師・安倍晴明が当地に下向。「この地は将来繁栄する地相をしている。国土開墾の神、すなわち出雲大社に坐す大國主命を奉斎し、この地の鎮守とするべきだ。」と勧めた。東北には意外と安倍晴明の下向の伝説があって、福島市の福島稲荷神社 にも同じような伝承が残っている。
多くの人からの崇敬を集め、その御神徳を尊び『総社神社』と称した。明治四年に『出雲神社』と社号を改め、現在に至っている。
出雲神社 2
福島県喜多方市寺南に鎮座する出雲神社は大国主命を祭神とする神社である。大山祗神(オオヤマツミノカミ)と埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ)の2柱を祭神とした総社神社であったが、明治4年(1871年)に出雲神社と改称し、祭神を大国主命とした。
社伝によれば、創建は正歴年間(990年〜995年)に安倍晴明が「国土開墾の神」として当地に大国主命を奉斎したことによるという。
境内には「自由民権運動発祥之地」の碑がある。
出雲大社に祀られる大国主大神を分祀した神社は、氷川神社などあるが、出雲神社はそれほど多くはないようだ。私が初めて出会った出雲神社でもある。境内には2本の枝垂れ桜も植えられており、土蔵造りの蔵もあった。また、鳥居の向かいにある4軒長屋の店舗は歴史が感じられ情緒のあるものだ。

「『新編会津風土記』には総社神社とあり、大山祗神(オオヤマツミノカミ)・埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ) の2柱を祭神としているが、明治4年に出雲神社と改称、祭神も大国主神(オオクニヌシノカミ)とした。社伝によれば、この地を開いたのは、天慶年間(938〜946)にここまで逃れてきた平将門の残党で、 神社は正歴年間(990〜995)に安倍晴明が「国土開墾の神」として当地に大国主命を奉斎したことによるという。境内には、天正の頃に中田付(現・喜多方市岩月町)より移した市神石が祀られている。」としてゐる。
「社伝によると、安倍清明が当国に下向し 「この地は将来繁栄する地相である。国土開墾の神、出雲の神を総鎮守とすべし。」と勧めたとある。・・・、祭神は『大国主命、邇邇芸命 (ニニギノミコト)」としてゐる。  
天恩皇徳寺   白河市大工町
天恩皇徳寺は、大同年中(806〜10)法相宗の高僧、勝道によって創建された勝道寺でした。しかし、平安時代末期に三十三間堂などの建立とともに再興され、名前を「大白山天恩皇徳時」と改めました。現在の場所に移ったのは、丹波氏の時代とされています。
境内には、数々の歴史的有名人の墓、慰霊碑があり、会津地方の有名な民謡「会津磐梯山」に登場する小原庄助のお墓もあります。呑兵衛の庄助らしく、徳利の上にお猪口が蓋をしている形を模したユニークなお墓になっています。戒名は、「米汁呑了信士」。

大同年中(806年〜810年)、現在の寺小路のあたりに、法相衆の僧だった勝道が建てた勝道寺が前身であると伝えられています。平安末期に三十三間堂をもつ寺院として再興され、「大白山天恩皇徳寺」と名前を変えました。現在の地に移ったのは、徳川幕府により移封されこの地にやってきた丹羽氏の時代とされています。白河口の戦いで戦死した新選組隊士 菊地央の墓や、民謡「会津磐梯山」の囃子ことばで名高い小原庄助のモデルと言われる会津塗師久五郎(安政5年6月10日没)の墓があります。  
小高城跡   南相馬市
福島県南相馬市小高区(令制国下:陸奥国行方郡小高)にあった日本の城(平山城)。別名「紅梅山浮船城」。
南北朝時代に、北畠顕家率いる南朝の軍勢に対応する為に建設され、建武政府下の1336年に攻められ一度陥落している。翌年1337年に城を奪還してからは、第16代当主相馬義胤が本城を牛越城や中村城に移転するまで、約260年間に亘って相馬氏の居城であった。
城の北東から伸びる比高10mほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。このように三面を水域と湿地で囲まれていたため、浮船城と呼ばれていたという。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。
大手は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。城の一部に土塁跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。
城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言い難い。防御力の低さを補う為に、付近の丘陵に複数の出城があったといわれており、この城地の狭さゆえであると思われる。
相馬氏が小高を本拠地にした要因は、南隣の岩城氏(本拠地:四倉、飯野平)を牽制する目的であった。ところが、北隣の伊達氏(本拠地:米沢、岩出山)との抗争が激化すると、相馬氏は中村に城代を置いて伊達氏と睨み合った。
1600年の関ヶ原の戦いでは、相馬氏は佐竹氏(本拠地:常陸太田、水戸)に与した為に、関ヶ原の結果として領地を没収された。しかし、伊達政宗が相馬義胤を擁護して徳川幕府を説得した為に、相馬義胤は旧領である浜通り夜ノ森以北への復帰を果たし、1611年には本拠地を城代所在地であった中村城に完全移転して、中村藩を立てた。この本拠地移転も、この小高城の狭さゆえであると思われる。
現在は本丸跡の平場に相馬氏の守護神である天之御中主神を祀る相馬小高神社が建っており、相馬野馬追祭りの時に、裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する「野馬懸け」の場所として知られている。
なお、茨城県行方市麻生にも同名の「小高城跡」が存在するが、こちらは行方宗幹の子太郎定幹によって築かれた。
相馬小高神社   南相馬市
御祭神 天之御中主命あめのみなかぬしのみこと
相馬小高神社は、中世の奥州相馬氏の居城であった小高城跡にあります。小高城は、奥州相馬氏が下総国から移った鎌倉時代の終わりころから江戸時代の初めまでの約280年間、奥州相馬氏の居城でありました。奥州相馬氏はこの城を拠点として、南北朝の動乱や伊達氏との抗争を繰り広げました。小高城は中世の城としては小規模なものですが、土塁などが現在もよく残っており、その姿から、別名を「紅梅山浮舟城」と呼ばれ、住民に親しまれています。
江戸時代になり、相馬氏が中村城(相馬氏)に移ったあとも妙見が祭られており、明治時代に小高神社、戦後に相馬小高神社と改称しました。現在は、国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」の3日目の野馬懸の祭場地として広く知られており、その江戸時代の様子は、相馬小高神社に奉納されている県指定有形文化財「相馬野馬追額」などからうかがえます。
神社境内には、雷神社・奥の院・天満宮・棚機たなはた神社なども多数祀られ、初詣には多くの参拝者で賑わうとともに、桜の名所としても有名です。
大悲山(だいひさ)の石仏
南相馬市小高区泉沢にある薬師堂石仏・阿弥陀堂石仏・観音堂石仏は「大悲山の石仏」と呼ばれ親しまれています。仏像の様式から、製作時期は平安時代前期と推定され、1千年以上も前にこの地で比類なき仏教文化が花開いたことを示す貴重な歴史遺産であることから、昭和5年に国史跡に指定されました。東北地方で最大・最古の石仏群であることから、栃木県宇都宮市大谷磨崖仏おおやまがいぶつ、大分県おおいたけん臼杵市臼杵磨崖仏うすきまがいぶつと並んで日本三大磨崖仏にほんさんだいまがいぶつに数えられ、日本有数の石窟寺院と評価されるにもかかわらず、この石仏を作った人達や歴史的背景は詳しくわかっておらず、未だ謎の多い石仏群です。
薬師堂石仏
薬師堂石仏は大悲山の石仏の中で最も保存状態が良く、凝灰質砂岩ぎょうかいしつさがんを刳くり抜いた間口15m、高さ5.5mの岩窟がんくつの壁面に、浮彫うきぼりで4体の如来像と2体の菩薩像を、線刻で2体の菩薩像と飛天を彫り出しています。首が太く、肩が張り、胸幅の広い、量感のあるどっしりした如来坐像の姿は、平安時代前期の特徴を備えています。
観音堂石仏
観音堂石仏は、この石仏群の本尊であったとされる十一面千手観音坐像で、保存は良くないものの、高さ9mを測る日本最大級の石仏です。厚肉あつにくに彫り出されたたくさんの手のうち2本を頭上に挙げて化仏をささげ持つ独特のポーズは、京都の清水寺の本尊である十一面観音像と共通することから、「清水型」と呼ばれています。観音像の左右両翼には、薄肉彫うすにくぼりで数多くの化仏が刻まれています。この磨崖仏は、元禄期に奥州中村城主相馬昌胤によって奥相三拾三所観音が定められ、その中の第二十七番札所にもなっています。
阿弥陀堂石仏
阿弥陀堂石仏は形も明らかでないほどに剥落はくらくが激しく、現在は仏像と思われる芯の部を残すのみで、阿弥陀仏が刻まれていたと伝えられています。
大悲山の大杉
大悲山にある大杉は、薬師堂石仏の前庭石段そばにあり、目通り8.4m、高さ45mを測る県内有数の大木です。樹齢は、千年に及ぶものと推定され、薬師堂石仏が作られたころに、育ち始めた木であると考えられます。福島県の天然記念物に指定されています。
相馬太田神社   南相馬市
福島県南相馬市原町区中太田に立地する神社。相馬三妙見社の一つ。太田神社とも呼ばれている。御祭神は天之御中主大神である。
承平年中(931年 - 937年)に相馬氏の遠祖・平将門が下総国猿島郡守屋城に妙見社を創建したことに始まる。
平将門から十二代にあたる相馬師常が源頼朝の軍に従い、奥州藤原氏との合戦での功績により奥州行方郡の地を賜り、同族の千葉氏から相馬を継ぎ、奥州相馬の初代となった。
その後、元亨3年(1321年)4月22日、下総国守谷城より相馬孫五郎重胤公が御国換えの際、この地へ移り住み、氏神妙見尊を奉じて宮祠を創建して祀った。
相馬家は妙見信仰の信望者で、藩主が篤く信仰していた鎮守・妙見を下総から持参し、敷地内に鎮座させた。その妙見堂が相馬太田神社の由来とされている。
この神社は中村藩相馬氏の氏神として代々崇拝されてきた。  
日鷲神社   南相馬市
(ひわしじんじゃ) 福島県南相馬市小高区にある神社である。旧社格は村社。
天日鷲命を祀る。 「奥相志」によれば、天日鷲命、金鳶命(天加奈止美命)、天長白羽神を祀るという。
祭神の天日鷲命は、天孫降臨の際、瓊瓊杵尊に供奉した三十二柱のうちの一柱で、天太玉命に付き従う神である。その御姿は手には弓矢兵杖を帯び大鷲に乗り、先駆けとなって天降ると伝わる。そのため、天日鷲命は弓矢の神であり、戦の際は大鷲として顕現し軍を先導すると信仰された。
日鷲神社は、往古は下総国豊田郡沼森村に大形神社という名前で鎮座しており、平将門が下総国にいた際も篤く信仰し「鷲宮は神代より弓矢の神で、鷲は猛々しい鳥である。我が軍が敵国に攻め入れば、天日鷲命は大鷲の姿で現れて旗を導くだろう。我が軍に大利をあらしむれば、我が子孫は永く天日鷲命を守護神と致す」と祈願したという。関東地方を平定した後、平将門は天日鷲命の加護への報賽として社殿造営や神田の寄進、酉の神事を行った。
文治年間、源頼朝は下総国の「鷲宮(わしのみや)」を崇敬し、神田や神馬を寄進し開運を祈願した。相馬氏初代当主の相馬師常は治承4年(1180年)より源頼朝に従い、しばしば軍功を上げたという。文治5年(1189年)9月に奥州合戦に参戦した際、遠祖である平将門にならい鷲宮で戦勝祈願を行ったところ、大いに勲功があった。相馬師常は源頼朝より褒賞として行方郡を賜り、凱旋後は鷲宮を修繕してより篤く崇敬するようになったという。
日鷲神社は、元亨3年(1323年)頃、陸奥相馬家当主である相馬重胤が下総国(現在の千葉県北部)から行方郡へ移った際勧請され原町区太田に祀られた。相馬重胤の遠祖である千葉氏が崇敬する妙見社(現在の南相馬市の相馬太田神社)・上太田の塩竈神社もこの時期に相馬の地へ勧請され、日鷲神社は武神・天日鷲命を祀る神社として崇敬を集めていたという。貞治3年(1364年)に現在の鎮座地である小高区女場へと遷座した。勧請された当時は「鷲宮(わしのみや)」と呼ばれていたが、諸般の情勢(明治政府は皇祖神以外に「宮」の呼称を禁じた)から明治5年(1872年)に現在の社名である「日鷲神社」へ改称した。
日鷲神社には「酉の市神事」という神事があり、神社から小さな細杷(こまざらい、熊手)をいただいて幸運を祈るものである。細杷は「意のごとく家財・金銀財宝や山海の獲物をかき集める」という意味で授与され、今でも商家にその習慣が残っている。また、霜月(11月)初めての酉の日に行われる神事に早芋頭(はたいもがしら)を商ったという。早芋頭を買うことは、戦時において敵の首を捕ることにならうという。  
相馬中村城跡   相馬市中村
福島県相馬市中村(令制国下:陸奥国宇多郡中村)にあった日本の城。単に中村城とも言うが、他の「中村城」と区別する際には、相馬中村城や陸奥中村城という。戦国時代から江戸時代にかけての大名・相馬氏の居城の一つであり、江戸時代には藩主相馬氏の中村藩の藩庁であった。馬陵城(ばりょうじょう)という別名を持つ。
縄張りは梯郭式の平山城である。
西の阿武隈山地から伸びる比高15m程の小丘陵に築かれた城である。南面に流れる宇多川を天然の外堀とし、この水を引いて北面・東面に水堀が配される。尾根続きの西面は、堀切と切岸で防御されている。北面に水堀を中心とした地形的障碍を多く用い、仮想敵である伊達氏を意識した構えとなっている。戦時には堀を切って城の北側500m余りを一面の沼沢地にすることができたとも言われる。場所としては宇多川の渡河点を制圧する意味合いを持っている。
歴史 1
中村城の歴史は古く、相馬氏が居城を移す前からも城館として利用されていました。古くは、延暦20年(801)坂上田村麻呂の東夷征伐のとき利用したとされ、中世には、源頼朝が奥州平定の帰途、ここの館に宿営したと伝えられています。
南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。
中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森以北に権勢を振るい、1563年(永禄6年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いから11年後の1611年(慶長16年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石の政府となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手(からめて)門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年(寛文10年)には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。以後、これを指針として歴代藩主は天守を再建しなかった。
1868年(明治元年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。そして、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃城となった。
歴史 2
中村城の歴史は古く、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。
南北朝時代の延元二年(1337年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。
中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森(冨岡町)以北に権勢を振るい、永禄六年(1563年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と対峙していた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いから11年後の慶長十六年(1611年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は相馬中村藩6万石の中心となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、寛文十年(1670年)には落雷により天守を焼失したが、時の四代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は行われなかった。以後、これに倣い歴代藩主は天守を再建しなかった。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。そして、明治四年(1871年)の廃藩置県により廃城となった。
明治十三年(1878年)に相馬氏の祖・相馬師常を祀って相馬神社が本丸跡中央に建立された。  
相馬神社 1   相馬市中村
明治12年 相馬氏の始祖『師常(もろつね)』公を御祭神とし、中村城(馬陵城)本丸跡に創建されました。
師常公は、保延五年(1139年)に、千葉常胤の次子として生まれ、相馬中務太夫師國の家を継ぎました。
相馬氏は、『平将門』公の末裔であり、代々下総の相馬郡一帯を領していましたが、文治五年(1189年)源頼朝の将である父常胤に従って平泉攻めに加わり、軍功をあげたので恩賞として八幡大菩薩の旗一旗と相馬地方を賜りました。
師常公は、常胤の子七人の中でも特にすぐれ頼朝の信望も厚く、『鎌倉四天王』の一人に数えられていました。また、信仰心の厚い人であったので、死後鎌倉の人々には『相馬天皇』として祀られ、今もなお御崇敬されております。
常胤は、長男には千葉地方を継がせ、師常には流山地方と相馬地方を与えました。師常公から数えて六代目『重胤』公のとき、上杉影勝に通じ関ヶ原の役に参加しなかったことで、一時城地を没収されましたが『徳川家康』はその子『利胤』を召し出して六万石の本領を安堵し、明治維新まで続きました。
境内には、桜の名所馬陵城(4月中旬頃)や19代『忠胤』公が植えたものと伝えられる、樹齢四百年といわれる『藤』(相馬市指定天然記念物・昭和54年7月指定)があり、花期(5月中旬頃)には参拝者の目を楽しませております。
相馬神社 2   相馬市中村
相馬中村城跡に奉られた福島県相馬市にある神社。旧社格は県社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。祭神として妙見菩薩こと天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と相馬氏の氏神である平将門が勧請されている。
相馬家の始祖師常を祭神として明治13年(1880年)に建立された。馬陵公園(中村城址)には相馬家の氏神としての妙見中村神社と相馬神社の2社がある。妙見中村神社は相馬中村神社ともよばれるため相馬神社と混同されるが別物である。相馬家は相馬中村藩領内に居城した原町、小高にもそれぞれ妙見太田神社と妙見小高神社を建立したものが現在も残っており、一般的には中村神社、太田神社、小高神社と表現される。  
相馬中村神社 1   相馬市中村
福島県相馬市中村に立地する神社。別名は妙見中村神社(みょうけんなかむらじんじゃ)だが、中村神社と省略されることもある。祭神は天之御中主神(妙見菩薩)。相馬野馬追の出陣式はここで行われる。
相馬中村神社の起源は、相馬氏の始祖である平将門が承平年間(931年〜937年)に下総国猿島郡に妙見社を建立したことに始まるといわれる。相馬氏の相馬郡下向に伴い建立された。戦国時代の16世紀後半には、中村城が相馬氏の北の居城となり、相馬盛胤や相馬隆胤などが中村城主となった。
1600年の関ヶ原の戦いの結果として相馬氏は改易されたが、1611年に旧領への復帰を果たして中村藩を立てた。この時、中村藩の初代藩主となった相馬利胤(相馬氏第17代当主)が、1611年に中村城内の南西に相馬氏の守護社である妙見社を建立したのが、現在の相馬中村神社の起源である。
現在の社殿は寛永20年(1643年)に中村藩2代藩主相馬義胤(相馬氏第18代当主)により建立され、国の重要文化財に指定されている。
明治時代に入って廃仏毀釈により本尊の妙見菩薩が廃棄され、相馬中村神社と改称した。また、中村城本丸跡には、戊辰戦争後の1880年に建立された相馬神社がある。
宮司は初代田代信盛から始まって、代々田代家が世襲して29代を数える。
相馬中村神社 2
相馬神社の始まりは、社伝によれば今から一千余年前の承平年間(931〜937年)相馬家の先祖、平の将門が下総の国猿島郡という所に妙見社を創建して戦勝を祈願、併せて国家安泰、国民諸行の繁栄を祈念したことに始まり、後孫師常公が、下総の相馬郡に社殿を建てたと伝えた後、元亨三年(1323年)になって、師常より六世の孫相馬孫五郎重胤公が、鎌倉から初めて奥州行方郡に移ると同時に妙見祠を大田に移し、正慶元年(1332年)小高に築城して移るとき神社も移されました。さらに慶長十六年(1611年)相馬利胤公が相馬中村に城を移したとき妙見神社も中村城内へ移されました。これが現在の相馬中村神社です。相馬中村神社は、相馬家代々の氏神として崇敬されてきたばかりでなく、相馬地方の総鎮守として中村城郭内の西にある小高い丘に建っています。
現在の本社建築本殿・幣殿・拝殿は、寛永20年(1643)、18代藩主相馬義胤によって建立され、相馬地方の代表的な古建築として国の重要文化財に指定されています。用材として欅をふんだんに使った権現造りで、本殿及び拝殿正面の蟇股と呼ばれる部材は神社由緒を象徴するように馬の彫刻が施されています。現在建物は白木造りの様相を呈していますが、本殿は本来、木部全体に漆塗りされておりました。建立後三百五十年という歳月により建物は真の姿を隠しておりますが、内部に施された漆塗り、彩色はよく残り当時の装飾美を今に伝えています。現在の社殿は、ほぼ20年ごとに都合10回の修理を重ねており、また、平成29年から大修理が行われ、屋根も創建当時のこけら葺に改修されました。 
国王社本殿   相馬市中村
国王社は、相馬中村神社境内にあります。この神社は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)と相馬氏の祖と伝えられる平将門をあわせて祭っています。
相馬氏が行方郡(なめかたぐん=現在の小高町・原町市・鹿島町・飯舘村)に移ってきた時、小高村都迫(今の入迫)に建立され、相馬氏の祖神として信仰されました。
1694年(元禄7)、藩主相馬昌胤が現在の地に移しました。 
沼の主の話
茨城出島 / 若松長者
若松長者:牛渡の台地(今の牛渡小学校のところ)に若松長者といわれる富豪が住んでいた。広い土地と多くのめし使いをつかっていた。一人の美しい娘がいて幸せなくらしをしていた。あるとき病気にかかり、医者や薬と手を尽くしたがききめがない。占にみてもらったところ、牛の年の、牛の日の、牛の刻、に生まれた女の生き血を飲ませればなおる≠ニ、いわれた。長者の召使いに一人それにあたる女がいた。そこでその女に宿下がりをさせ、その途中殺すこととした。見事殺す事ができ、生き血をのませたら、たちどころに病気がなおった。そこに宿下がりから召使いが帰って来た。不思議なことだ。長者が守本尊のあみださまをみたら、召使いをきりつけたと思われるところに刀のきずがあった。あみださまが身代わりになったのだ。それから長者の家は没落し、長者は都へ行ったといわれる。『霞ヶ浦の民俗』

相変わらずよく分からない。おそらくは「原因不明の病にかかった娘と牛に関する何か」の話があり、これが下って「身代わり本尊」の話に組込まれたのだろうと思う。全体を通して解題するのは難しいので、この「原因不明の病い」と「牛」というコードの共通する話を見てみよう。
そういった話が陸奥にあるのだ。それは陸奥伊達郡・福島県伊達市の半田沼に伝わるヌシの話。この話には重要なヒントがたくさん語られている。
福島 / 半田沼の主
半田沼の主
伊達郡森江野村に、塚野目という武士の一人娘で早百合という美しい娘がいた。この娘が病気になり、「半田沼の水がのみたい」とくり返す。半田沼とは昔の銀山・半田山の山腹にある古沼のことだ。沼の水を娘に飲ませると病は治った。その後も病になるたびに半田沼の水を飲ませると娘は良くなるのだった。しかしある日娘は姿を消す。皆で探すと半田沼の岸の松に着物がかかっていた。沼底を探させた水もぐりは奇怪な体験をする。沼に潜ると機織る音が聞え、底には立派な屋敷があった。奥の間には早百合がおり、一人で機を織っていた。早百合は沼の主に見込まれ妻となったのでもう戻れない、と言う。水もぐりがふすまを細く開けて次の間を見ると大きな赤牛が寝ているのだった。『日本の民話』
註 魔の沼の主、赤牛とは、文治の頃源義経が平泉に秀衡を頼りにこの山をこえた時、金銀を背負った一頭の牛が、にわかに驚き狂い、沼の中に落ち込みました。これが沼の主になったといい伝えられています。後年、日照りがつづくと、農民は沼のほとりで雨乞いをします。 いまでも「早百合どの」と、沼のほとりから、水底によびかけると、必らず雨がふってくるといわれております。

娘は半田沼の水を飲むことにより回復する。しかし、これは通常の「回復」ではない。徐々に沼の主の赤牛と同族に変化して行っていることを示していると思う。すなわち、赤牛に見込まれた時点で人として暮らすのに不都合な体質(病い)となってしまい、以降沼の水を飲みヌシの眷属化が進むことで回復「したように見える」状態がしばらく続いた、ということだ。
これは直ちに「出島牛渡の若松長者の娘もそうだったのではないか」と思わせる。若松長者の娘の原因不明の病いとは何らかのヌシに見込まれた状態だった。牛の年の、牛の日の、牛の刻、に生まれた女の生き血を飲ませればなおる≠ニいう占の異様な託宣とは、そのヌシの眷属化することで生きながらえることはできるだろう、という話だったのではないか。守り本尊の話に組込まれる前には、長者の娘は回復するもののやがて霞ヶ浦にとびこんでしまい、長者家は没落した、という話だったのではないか。
次に半田沼の赤牛の出自。初めから牛がヌシだったわけではないことが註に語られている。義経の連れた牛が沼にとびこんでヌシとなっている。そして雨乞いが関係している。
これは牛を供儀とする雨乞いの習俗が半田沼にあったのではないか、と思わせる。供儀とされたものがヌシ化する例はまま見られる。そして、これも出島牛渡に大きく響く。牛渡には牛を弔ったという牛塚があることは「霞ヶ浦を渡る牛の話」に述べた。同時に、鹿島神宮へ赴く国司が船上牛を連れていた、という類型があることも述べた。何故国司は牛を連れていたのか。私はここが大変気になっているのだ。
霞ヶ浦出島の先は「三叉沖」と呼ばれる。私はここは古代から現代に至るまで一種の「魔の海域」とされてきただろうと考えている。いや、考えているというよりそう聞いたのだ。出島の岸で釣りをされていた方に聞いたのだが、その方は船釣りもされるそうで霞ヶ浦に船を出すこともあるのだけれど、三叉沖というのは危険だそうな。
特に「筑波おろし」という北西風が強く吹く冬から春先は、高浜入りからの波と、土浦入りからの波が三叉沖でぶつかり大きな三角波ができやすいのだそうな。そして、これは各種伝承とも合致する。
「国分寺の鐘」という話で石岡の常陸国分寺から鐘を盗み出した大力の大泥棒(弁慶とも言う)は、船に鐘を積んで高浜入りから三叉沖へと進んだが、三叉沖でにわかに嵐が起り、これを鐘の祟りと畏れた泥棒は鐘を三叉沖に沈めた。
また、稲敷市の浮島に「姫宮神社」が鎮座するが、ここは佐竹氏に攻め滅ぼされんとしたこの地の一族の姫君を弔ったのが創始と伝わる。その際、囲いを脱した姫君は小舟で霞ヶ浦に逃げ出したが、三叉沖にさしかかったところ大風に見舞われあえなく転覆し、水底に沈んだという。
おそらく霞ヶ浦のヌシの神威は三叉沖に現れる、とされてきたのだ。だから、国司は牛を船上連れていたのではないか。三叉沖で嵐が起ったら供儀として牛を沈める、そういうことだったのではないか。
このように比べて見ていくと、「若松長者」の話がもともとは「半田沼の主」のような話だったのではないかと思えてくる。その次に重要な点として、今度は赤牛に見込まれた塚野目の娘がヌシ化している節があるという問題がある(名の「早百合」と、水神への人身御供譚の典型に見る「小夜・佐用姫」との類似がそれを暗示している)が、あるいは霞ヶ浦周辺にも出没する「大蛇の化身の美少女」がそうであるのかもしれない。
この点は現状「牛渡」に直結する話を見つけていないのでさて置くが、いずれにしても雨乞いか嵐鎮めかの違いはあるが、「牛の供儀」というキーワードを半田沼から拝借して来ることは、出島牛渡を中心とする「霞ヶ浦を渡る牛」の話を読み解くためのひとつの視点となるだろう。同時に「若松長者」の話を「霞ヶ浦を渡る牛」の話へ接続するためのコードはそれしかないだろうとも考えている。
つまり、出島牛渡を巡る牛の話はあるいは「霞ヶ浦のヌシ」の話に直結するかもしれない、ということだ。今回はその一点を指摘して幕とするが、実はここには途方もない大きな話が関連して来る可能性がある。以下蛇足としてそのアウトラインを紹介しておこう。
桔梗姫の話
先の半田沼の西北西10キロほどのところには現在ダム湖の「茂庭っ湖」があるが、かつてはここのあたりに「菅沼」という沼があったそうな。そこに大蛇伝説がある。
菅沼の大蛇
伊達郡茂庭村布入に、菅沼という大沼があり大蛇がいた。村人は三年に一度大蛇を祭り、美少女をお供えとしてしていた。ある年茂庭村が少女を出す番になったが、村には年頃の娘がいなかった。仕方なくお金を出し合ってよそから少女を買いお供えとしようと決まり、文五郎という者が旅に出た。冬から春へと各地を回っても蛇の贄に娘を売ろうという者はなかったが、ついに那須野の猟師の娘が主君のため、人を助けるためなら、と申し出た。猟師の主君(斉藤)実良が父の一周忌でも法要の金がなく困っていたのだ。娘と文五郎が去った後、猟師が主君実良に事の次第を話すと、実良は驚き、直ちに菅沼の大蛇を討つべく家来を連れて沼へ向った。
茂庭村では実良の蛇退治の申し出に驚き喜ぶが、大蛇の仕返しを恐れて話がまとまらなかった。すると稲束稲荷に一頭の白狐が現れ、白羽の矢二本を実良の前に置いた。人々は神さまも味方であると喜び、実良は大蛇退治に向った。娘を沼岸に供え、祭りを行うと辺りは暗闇に覆われ、大雨がふり、沼から大蛇が半身を現した。すると二羽の白鳥が沼の上を飛び回り、雨が止み、雲霧が晴れて光が射した。時を逃がさず実良が矢を射ると、見事に大蛇の急所である舌を貫き、大蛇は水底に沈んだ。

この話では大蛇は実良に討たれ沈んでるが、類話では半死半生で「半田沼へと逃げようとした」というものがある。その逃走の過程で不動尊に引導を渡されたという蓮華滝という滝も茂庭にはある。なぜ、半田沼へと逃げようとしたのか。
この大蛇はもともと半田沼におり、沼が手狭となったので菅沼へと移ってきた、という伝説を持っている。半田沼へ帰ろうとしたわけだ。そして、この伝説ではこの大蛇は「桔梗姫」の事だとされているのだ。
平将門の妾(妻・娘とも)である桔梗姫が敵将である藤原秀郷(俵藤太)に心を寄せてしまう。そして、ついには桔梗姫は秀郷に将門の秘密(影武者のこと、弱点の事)を漏らしてしまい、将門は秀郷に討ち取られる。後、利用されていたと知った桔梗姫は半狂乱になり秀郷を追うが……という話がある。類話異系は甚だ多いので、ここは大雑把に。
これが福島ではこの桔梗姫はそもそも秀郷が瀬田の唐橋で出会った蛇の化身である美女(に頼まれて秀郷は大ムカデを倒す)と秀郷との間にできた娘であったというのだ。桔梗姫は父と知らず秀郷に恋してしまったわけだ。秀郷に裏切られた桔梗姫は半狂乱になって秀郷を追ううちに、水面に映る自分の姿が大蛇になっていることに気がつく。そして身を投げたのが福島の半田沼で、後に半田沼が小さかったので茂庭の菅沼に移ったのだという。
将門最期の地は現在の坂東市岩井。その知らせを聞いた桔梗姫は取手市大日塚ではそこから身を投げたと伝わっている。この舞台は霞ヶ浦出島からは南西に30キロほどのところだ。
こういった連絡が霞ヶ浦周辺と半田沼・菅沼にはある。出島と半田沼の話を比べて見たのは、単に「似ている」からだけではなく、おそらくは中世の将門伝説・奥州藤原氏の伝説を東山道沿いに語り伝えた人々の動きがあるのじゃないか、という点も関係する。  
「大蛇退治」伝説   福島市飯坂町茂庭
茂庭には「大蛇退治」の伝説が残っており、伝説にまつわる地名や史跡が、今に伝わっています。大蛇は、茂庭沢の菅沼というところにすんでいて、水害を起こして村々を襲うものとして恐れられていました。このため、近隣の村々から人身御供を選んで捧げていたということです。
建久3年(1192)、人身御供をされる娘を救うために下野国(しもつけのくに)よりやってきた斎藤実良(さいとうさねよし)が、神の御加護によって授かった矢で大蛇を退治したと言われています。このとき村人の願いによってこの地にとどまった斎藤実良が、名を改め以後十三代にわたってこの地を治める茂庭公の初代となったということです。
大蛇の体は三つに切り離し、首を川下の田畑に、尾を中ほどの梨平に、胴を川上の名郷に埋葬し、それぞれの場所に、田畑の御嶽神社、名号の御嶽神社、梨平神社を建てました。首、胴、尾の順としなかったのは、順に並べれば生き返って再び害を及ぼすかもしれないと怖れたためだったといわれています。
大蛇の胴を埋めた御嶽神社 / 大蛇の尾を埋めた梨平神社 / 大蛇の首を埋めた御嶽神社
梨平神社、摺上川ダムの建設により水没する梨平地区の人たちが、この地に社殿を建立し、大蛇の尾を埋め祈った。御嶽神社をはじめ、茂庭公の氏神であった稲荷神社や諸々の祭神を合祀し、梨平神社としました。
茂庭の大蛇伝説
厄(わざわい)の始まりは平安時代中期、恋焦がれる男に騙された事により幼い頃から自分を可愛がってくれた主、平将門を討ち取られた女性(桔梗の前)はその怨念から大蛇と化しこの地の菅沼に住みつくき、災いを放ち村人を苦しめるようになる。
時を経た鎌倉時代の頃、ある武将(周防殿)が天より降りた神童(日本武尊が白鳥大明神に姿を変えたもの)から授かった矢で大蛇を退治し、苦しむ村人を助けようと進んで人身御供となり白岩に篭った娘(白菊)を救うまでに至った物語。  
稲荷神社   福島市飯坂町東湯野
通称  北向明神
ご祭神 倉稲魂神  
古館跡(清水館)   伊達市月舘町
館跡は、四方が開放され、町内は勿論、掛田の茶臼山、蔵王、霊山の一部まで見晴せる絶景の地であります。
椿館の支城 古館跡(清水館)
電々公杜の西側の山、出夫山の山頂附近がかつて「清水館」と称され、今は古館=ふんだてと呼ばれている館跡です。登り口にはいまも古い井戸が残っており、古くからの清水といわれて、ごく最近まで使用されておりました。館の名と結びついて伝わっています。
館主は、福島椿館主の岩城政氏の臣、八巻某と伝えられています。また、当所を佐藤民部の居た所と推定している(信達二郡村誌)ものもあります。かつては、広瀬川がすぐ下を流れ、天然の要害だったものとみられます。  
勝善神社   双葉郡大熊町野上観音山
勝善神社   いわき市平山崎矢田川  
勝善神社   白河市表郷社田字白旗
奉納馬絵幕・社田勝善神社御神馬像
表郷地域、社田前山地区にある高萩勝善神社と、社田白旗地区にある社田勝善神社のふたつの神社に伝わる、地域の馬産信仰を反映する資料群である。
奉納された絵馬・馬の写真や幕、馬屋の祈祷関係・講関係文書を中心に、神社社殿や泉、石造物や神馬像などが指定されている。
勝善神社には、源義経が関山で戦勝祈願を行っている間に愛馬が死んでしまったが、泉(駒形の泉)に馬が映っていたので、そこに祠を建て勝善神社とし、愛馬を祀ったという伝承があり、承安4年(1174)に現在の表郷社田字前山に遷座し、神殿、神馬舎、鳥居、石段等を建立したという。 
桔梗姫   伊達郡桑折町
昔、藤原の俵藤太秀郷という豪勇無双の武士がおり、瀬田の唐橋のたもとに棲む大蛇の化身の美女に頼まれ、三上山の大百足を退治した。秀郷と美女は一夜の契りを結び、美女は桔梗姫となる娘を産んだ。桔梗姫は自分の出自を知ることなく、後に平将門の妾となった。
将門は破竹の勢いで天下を伺っていたが、朝廷はこの征討に秀郷を向わせた。しかし、将門は常に影武者を置いており、本物の見分けがつかなかった。そこで秀郷は身を偽り、将門の家来となることでその秘密を探ろうとした。
こうして桔梗姫と秀郷は出会い、桔梗姫は秀郷が自分の父であることも知らずに心を惹かれてしまう。姫が秀郷に名をたずねると「私は半田の半七です」と秀郷は答えたという。そして、ついに桔梗姫は将門の秘密を秀郷に教えてしまった。
秘密を聞き出した秀郷は将門のもとを去り、敵将として将門を討ち果たすことになった。一方、桔梗姫は秀郷を恋慕すること止み難く、半田を訪ねて半七なる人を探し歩いた。しかしそのような人がいるわけもなく、尋ねる村人も戸を閉めて会ってくれなくなる。
喉が痛みだしたので、姫は半田沼へ降り水をすくおうとした。すると、水に映る自分の姿が大蛇となっていることに気がつく。姫はもはや自分は魔神に変わった、と思い、半田沼は小さかったので、山ひとつ向こうにある菅沼へ行き、ヌシとなった。

類話ではまず半田沼に棲み、手狭になったので後に菅沼に移ったともある。この点は中々重要で、菅沼には「菅沼の大蛇」という伝説があるのだが、この大蛇が討たれる折にもといた半田沼へ逃げようとする。「菅沼の大蛇」もまた桔梗であるのだ。さて、この話そのものは、いろいろな要素が結びついて出来ているものであり、これを解題するのはまだずっと先の課題となる。ここでは、桔梗が「将門の母」と語られる伝(「桔梗前弁天」)に対し、愛妾であり蛇となる桔梗という筋を見るために引いた。 
国玉神社   双葉郡浪江町
浪江駅から北西1q。かつては「国王神社」と称していて、将門を祭神にしていました。将門の娘・如蔵尼が下総から遷座したともいわれていますが、創建は不明です。この社の社殿は、明治まで「准胝観音」のもので、国王神社は観音堂に安置されて将門を祀っていたといわれていて、明治以降、「国玉神社」と称して今に至っているとのことでした。
准胝観音
現在の国玉神社本殿の左手の、小さな祠の中に将門を祀っているといわれています。格子戸の間から覗いてみると、小さな観音像が見られます。将門の娘・如蔵尼がこの観音像を背負ってきて、将門を祀ったと伝えられています。
国玉神社   相馬市坪田  
御鍋神社 1   岩瀬郡天栄村
古老口碑に曰く平親王将門が戦に敗れその一族が秘かに奥州の清原氏を頼るべく此の地点迄逃れ来たしが警戒厳重を極め桔梗の前は逆境にも拘らず無事安産将門の一子を産みたり一族大いに喜びこれを同伴山亦山の難強軍を続けたるも女性の足には堪られず、一族の足手まといになるを恐れ桔梗ケ原(現会津に地名在す)に於て自害せり、一族桔梗の前の遺言により九郎を守護して現在の平九郎谷に至るが然これ以上の逃避は困難であることを悟り現在の御鍋平に住み秘かに再起を夢み本神社を祀りたるはこの頃ならんか然れども再々の不可抗力の悪天候に見舞われ木の実すらなく食糧欠乏三々五々各地に分散移住したりと云ふ現地には御鍋平と云ふ平坦地ありて矢尻石食器の破片等出土せり。伝説に女性の守護神として崇敬され遠方より詣でる人が今に続き二岐温泉と共に盛んなり。
御鍋神社 2
今から約1,000年前、平安時代の中頃、戦いに敗れた平将門の妻、桔梗姫とその一族郎党が追っ手を逃れ、密かにこの地に隠れ住んだと伝えられる。桔梗姫は将門の子を産んだが、残党狩りが厳しく姫ら一行は鍋のみを残し、姿を消したとされている。この鍋をご神体として祀って以来、御鍋神社と呼ばれるようになった。
なお、社前のサワラの木は樹高約42m、胸高周囲約3.8mで、平成12年に林野庁が国内100ヶ所の巨木、名木を選んだ「森の巨人たち100選」に選出されている。二岐温泉が近い。
御鍋神社 3
・・・時は平安時代中期、平将門が戦いに敗れ、密かに逃れて来たその妻桔梗姫と一族がこの地に隠れ住んでいたという言い伝えがあります。桔梗姫は後に将門の息子平九郎(家臣との説もあり)を出産しますが、前途を悲観して自害してしまいます。残された一族は再起を祈願し、朝延から賜った鍋(鼎)を御神体にして神社を祭りました。それが御鍋神社の起源です。境内には、神社を見守るかのように樹齢500年の二本のヒバ(県緑の文化財指定)が空をさえぎり、鳥居の役目をしています・・・
祭神は平将門、妻ではなく通説では愛妾である桔梗姫、そして子供と云われる永井平九郎の三人。併しながらこの桔梗については千差万別の言い伝えがあり、将門の弱点を相対する藤原秀郷に教えてしまったとも云われている。
教えたことについては脅された、うっかり喋ったという説や、内応者として将門の側室になったという説があり、更に御鍋神社の言い伝えでは自害となっているが、裏切りを知った将門に首を切られた、茨城県北相馬郡藤代町、現取手市の旭御殿で将門の死を知って入水した、協力した秀郷に口封じのため殺害されたなどなど、平九郎の存在も含め真偽の程は定かじゃない。
現在、将門を祀る神田明神の明神祭では桔梗紋の家は参加が禁止され、将門を信仰する人々からは桔梗の花、柄、色などなどが忌み嫌われている。余談だが昭和51年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」では森昌子が桔梗を演じており、今まで述べきた事柄と正反対の姿で描かれている。
他の言い伝えでは、合戦に敗れた将門の一党がこの地で再起を夢み、野戦用の鍋を御神体として祀ったとも云われるが、先の桔梗姫同様、イギリスの歴史学者E.H.カーが述べるように「歴史とは現在と過去との尽きることを知らぬ対話」の格言通り、歴史の探求とは一向に尽きることがない‥とか言いながら、この鍋はどうみても鍋じゃなくて釜だと思うのは愚生だけだろうか。 
二岐山 (ふたまたやま) 1   岩瀬郡天栄村
那須連峰の北側に位置し、シャクナゲの群生地となっている頂上からは、飯豊連峰をはじめ磐梯山、猪苗代湖、那須高原が眺望でき、真下に羽鳥湖を望む。昔、大男がこの山をまたいだ際に股間を山頂にぶつけたために、山頂だけ2つ割れてしまったという伝説がある。山頂からは360度の大パノラマを楽しむことができる山です。
二岐山 2
江戸時代に出版された谷文晁の『日本名山図会』にも載った古くからの名山である。特異な双耳峰の姿は、すぐに覚えられる存在である。二岐山は、東岳と西岳又は男岳と女岳と呼ばれ親しまれている。急な登り下りが連続する中級向けの山であるが、山頂からは360度の展望が満喫できる。山麓の二岐温泉は、川底が源泉といわれる古くからの名湯である。
二岐温泉から荒れた林道を進み鍋がご神体の御鍋神社の先に登山口がある。八丁坂と呼ばれる急坂が待っている。ここはアスナロやミズナラの樹林帯である。上部に登るにつれて見事なブナ林に変わる。ブナ平の先から次第に急な登りとなる。かん木を抜けると山頂の男岳である。山頂には三角点があって、360度の展望が広がっている。那須連峰、小白森山、大白森山、小野岳や大戸岳などが眺められる。ここから女岳を経由して地獄坂と呼ばれる急坂をトラロープに掴まって降りる。あとは林道を二岐温泉目指して下る。
二岐山 3
奥羽山脈の南部に位置し、福島県岩瀬郡天栄村と南会津郡下郷町とにまたがる第四紀火山である。標高1,544.3m。二等三角点「二岐山」設置。大川羽鳥県立自然公園に指定されている。
安山岩からなる成層火山、溶岩ドームである。火山活動の時期は14万〜9万年前。北北西方向に流れた溶岩流地形(岩山溶岩)が明瞭に残っている。三角点のあるピーク男岳の北西約0.5kmにもう一つのピーク女岳(標高1,504m)が並び、双子のような特徴的な山容をしている。
山中はブナ、アスナロの原生林が残り、「福島県の鳥」キビタキ、オオルリなどが生息している。  
大雷神社(だいらいじんじゃ)   石川郡玉川村
福島県石川郡玉川村に鎮座。御祭神は疱瘡神(ほうそうのかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)など雷神八柱。社格は村社に列格。
天慶年間(940年頃)、平将門の末弟・将為が高御城に居た際、平家一門の守護神である『火雷天神』を阿武隈川付近の雷河原に勧請したのがはじまり。その後670年間祀られていたものの、慶長十四年(1610年)の秋、阿武隈川の大洪水で社殿および神主宅が流失。翌年の慶長十五年に現在の鎮座地である小高の地に遷座する。
江戸時代には『雷神宮』の称号を許可されていた。
しかしその後、明治に入ると神仏分離令が公布される。これにより、別当寺院であった真言宗般若寺が廃寺となり、当社は『火雷神社』と改称。その後、明治二十一年に『大雷神社』に改称。小高・中・蒜生の総鎮守として崇敬された。
その後、“小高の雷神様”として電力会社や福島空港、航空会社など様々な企業からも崇敬されているとのこと。
玉川村は福島空港のある村なわけですが、その村に疱瘡神や雷神を御祭神とする神社があるというのは興味深いですよね。空の玄関である空港から疫病が入らないように玉川村を選んだのではないかというような偶然の一致……!しかも福島空港の看板の文字色は赤で、空港内には体に真っ赤なラインの入ったウルトラマンの像まであるという……!「疱瘡神は赤色を苦手とする」という言い伝えがあるわけで、これは完全に玉川村に疫病が入るのを防ぐための鉄壁のガードですよ……!
疱瘡神社とかは境内末社とかでよくお見かけするんですが、主祭神として疱瘡神を祀っている神社は県内では珍しい気がします。医薬関係の神さまで少彦名命などに置き換えられているんでしょうかね。
そしてもう片方の御祭神の『大雷神など雷神八柱』というのは、古事記の中でカグツチを産んで死んでしまったイザナミが黄泉の国で体に生じさせた八柱の雷神のことかなと。イザナミは死後に黄泉の国に来たイザナギに、「見るなよ!絶対見るなよ!」と念押ししたものの、イザナギはお約束を破ってイザナミの姿を見てしまうんですね。その時、イザナミの体には蛆がたかり、さらには
頭:大雷神 / 胸:火雷神 / 腹:黒雷神 / 陰部:裂雷神 / 左手:若雷神 / 右手:土雷神 / 左足:鳴雷神 / 右足:伏雷神
という八柱の雷神を生じさせていたんですね。これを見たイザナギは恐れおののいて逃げ出してしまうわけです。
するとイザナミは激おこ。ヨモツシコメという黄泉の国の鬼女にイザナギを追わせるわけですが、イザナギは撃退してしまいます。すると今度は体に生じさせていた八柱の雷神に黄泉の軍勢を率いさせてイザナギを追いかけるわけです。結局イザナギは逃げ切って、黄泉比良坂の大岩を隔ててイザナミとの決別宣言をするんですな。
高御(たかみ)城址
「大雷神社」の看板があり、この左の道に入ると目の前の樹木の茂った森が「高御城址」です。竹林を登ってみると、藪の中に城址らしいものが見当たります。この城は、天慶年間、将門の末弟・将為が居城としていました。
高御城址の北東の高台に「大雷神社」があります。将門の末弟・将為が、阿武隈川畔(泉郷駅西方の阿武隈川雷川原)に火雷天神(平氏の守護神)を勧請しました。慶長のころ、当社は大洪水のため社殿が流失し、現在のこの地に遷宮されたといわれています。「小高の雷神さま」として、多くの人たちに崇敬を集めています。一説に、天慶の乱ののち、将為らは当地に遁れ、さらに奥州を目指し三春方面に逃げたともいわれています。『師守記』に《将門の弟将種が陸奥に遁れた》との記述が見え、これが将為に付会されたともいわれています。  
 

 

 
■栃木県

 

■足利市
足利市
『支体埋葬(支解分葬)』
東京都内では、神田明神が将門の「首」、鳥越神社が「手」、築土神社が「足」を祀っているといわれています。このように、死体が生き返ったり、怨霊を荒れさせない(祟らない)ようにと願って、死体を分解して埋葬することを「支体埋葬(または支解分葬とも)」といいます。成田山と同じように、将門調伏の寺として足利市小俣町の鶏足寺があります。鶏足寺と将門の結びつきは、その周辺にも将門の「支体埋葬」の伝承があることからも窺われます。鶏足寺は世尊寺といっていたのを、秀郷に切られた将門の首が、空を飛んでこの寺の屋根にさしかかったところを、三本足の鶏が地に蹴落としたことから、寺号を鶏足寺に改めたのだといいます。これらは、将門を討滅した側の将門慰霊鎮魂ともいわれますが、その伝承が鶏足寺周辺に集中しているということは、鶏足寺が将門調伏において重要な役割を果たしたということなのでしょう。群馬県太田市只上は将門の寵妃桔梗の前の出生地といわれていますが、この只上神社はかって胴筒の宮と呼ばれ、将門の胴体を埋めたところといわれています。同じく、足利市五十部町の大手神社は将門滅亡のときにその手が飛んできたところといい、同市大前町の大原神社はその腹が落ちたところといいます。これらを纏めてみると、次のようになります。
『首が飛ぶ』=鶏足寺(足利市小俣町)
『足』=子の権現(足利市樺崎町)
『手』=大手神社(足利市五十部町)
『腹』=大原神社(足利市大前町)
『胴』=只上神社(群馬県太田市只上)
また、成田山新勝寺と鶏足寺を結ぶ直線上に、将門が政治・経済・軍事の本拠地とした石井の営所跡といわれる島広山(しまひろやま)があります。新勝寺と鶏足寺から挟み撃ちにするように霊的攻撃を加えたということになりますが、この場合は、将門は岩井(石井)にいたことになります。さらに、鶏足寺からの西北30度線上に将門が生まれたという豊田館比定地の一つである結城郡石下町向石下の将門公苑があります。
大手神社   足利市五十部町
足利競馬場の北側にあります。天慶年間、秀郷が将門追討祈願のために建立したといわれ、将門が敗死したときにその手が飛んできたのを祀ったという伝承があります。境内の案内板には、次のように記されていました。《祭神は天の岩戸開きの神話で有名な天手力男命で、人間の手の神様として尊信し、手を病む者または手の上達を願う者の祈願神であり、手の型を描いた絵馬を奉納する人が多い。ところが、また別にいつの頃からか、その祭神は平将門であるとして、その将門が藤原秀郷に殺害されたのは、桔梗姫が秀郷に将門の居場所を指さして教えたからだと伝えられ、その後、大手神社の敵は桔梗姫であるということから、この神社のある新屋敷町では、桔梗のすべてをきらい、たとえば着物の柄にいたるまで使用しない習慣があるといわれている。》
大原神社   足利市大前町
神社は、山城国(京都府)乙訓郡の大原野神社の四柱の大神を勧請したのが起源といわれ、平将門の腹が飛んできたという伝説があり、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰があるとのことでした。このことは、境内の神楽殿の説明板に詳しく記されていました。
子の権現   足利市樺崎町字堤谷
将門が滅びたとき、その股(足)が飛来してきて、それを祀ったといわれています。子の権現は足の神様だということで、祠の横には草鞋が多く吊るしてありました。
地蔵院   足利市百頭町
地蔵院は、東武線福居駅の南に位置します。地蔵院の北50mのところにある墓地の中央にある古い五輪塔は、当時この地方の権力者であった御厨太郎のお墓だと伝えられています。この御厨太郎は、将門の弟・御厨三郎のことを指しているといいます。一字も文字が無いのは、当人を憚って文字を入れなかったといいます。
八雲神社   足利市緑町
この神社は、両毛線沿いの足利公園に並んであります。境内の案内板由緒には、次のように記されていました。 《佐野唐沢山城主、下野守藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより、貞観年間(859-876)に創建したと伝えられています。また「栃木県神社誌」によれば、清和天皇の貞観11年(869)、右大臣藤原基経が、当緑町に上社、5丁目に下社を勅願所として創建したといわれています。平将門の乱に平定祈願成就により、足利、梁田両郡の総鎮守となり、牛頭天王と呼ばれ広く崇敬を集め、朝廷や国府からの参拝も行われたと伝えられます。》
無量院   足利市葉鹿町
無量院は天慶年間(938〜946)のころ、将門を調伏した定海上人によって開かれました。境内のカヤは雌木で門の前の一段高くもりあがったところに立っています。根元は一段と太くなり、根張りが発達している様子がよくわかります。
鶏足寺   足利市小俣町字町屋
1,100年以上も昔、定恵上人によって開創された名刹で、真言密教の大本山です。初めは世尊寺といいましたが、天慶の乱(939〜940)の際、平将門を調伏したところから勅命により鶏足寺と改めたといわれます。『鶏足寺の伝説』 平将門が朝廷に背き乱を起こしたのが天慶2年のこと。翌年、藤原秀郷が天皇の命によって将門と戦います。このとき世尊寺の常祐法印は秀郷の勝利を祈願し、法力で将門を倒すように命じられ、土でつくった平将門の首を供えて連日連夜祈り続けました。ところが8日目、法印はとうとう眠ってしまいました。すると夢の中で、3本足の鶏が血まみれの平将門の首を踏みつけているではありませんか。法印が鶏の笑い声でハッと目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が3つ、はっきりと付いていました。そして、17日目の満月の日、秀郷が平将門を討ち取りました。世尊寺は、このことから「鶏足寺」と改めました。なお、この地に将門を調伏した常祐法印の塚といわれる「入定塚」があるというのですが、確認できませんでした。  
遍照寺   足利市福富町
天慶年間、将門調伏の祈祷を行ったという。  
三宝院   足利市通七
境内に藤原秀郷の末裔の藤原行国に係る「藤原行国の石塔」があります。
 
大手神社 1   足利市五十部町
『手の力を強くしたい』『字が上手に書けるように』『手先の技術があがるように』『手の病気が治りますように』…この神社は手の神様です。そして、願い事が叶ったらお礼として『手首』や『手形』の絵馬を納めます。
大手神社の伝説 / 天慶の乱(てんぎょうのらん、939年〜940年)で、平将門(たいらのまさかど)が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に討ち取られた時、五体がバラバラになって各地に墜落しました。その時落ちてきた『手』をまつったのが大手神社だといわれています。将門に関する伝説は、ほかにも小俣町の『鶏足寺(けいそくじ)』、大前町の『大原神社(おおはらじんじゃ)』、樺崎町の『子の権現(ねのごんげん)』などがあります。
御祭神 天手力男命(アマノタヂカラオノミコト) /  天手力男命は、天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸を力づくで開けた神様です。
大手神社 2 
手の病一切と学芸上達
この神社の祭神は、天の岩戸開きの神話で有名な天手力男命(あめのたじからおのみこと)です。その故事から人々は人間の神として尊信して、手の力、手の技術向上の神様としてお参りする人が多いのだそうです。ところが、いつの頃からか、祭神は平将門(たいらのまさかど)であるといわれるようになりました。天慶の乱(てんぎょうのらん、939年〜940年)で、平将門が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に討ち取られた時、五体がバラバラになって各地に墜落し、落ちてきた平将門の手を祀ったのが大手神社だといわれているからです。
なぜ祭神だといわれる人が2人いるのでしょう。郷土三重見聞録によると、平将門は庶民のために朝廷に謀反を起こした武士であったので、庶民は自分たちのために殺されたと考え、大手神社に祀ったが、朝廷の目を誤魔化すために平将門を祭神とせず、天手力男命を表面的な祭神としたのだと考えられているのだそうです。足利市には大手神社の他にも、足が埋まっているという伝説がある樺崎町の「子の権現」、また、腹が降ってきたという伝説がある大前町の「大原神社」があります。足利市は室町幕府を作った足利氏発祥の地ですが、平氏である平将門の伝説がいくつもあるなんて不思議だと思いました。
 
大原神社 1   足利市大前町
御祭神 天兒屋根命・経津主命・武甕槌命・比女神
旧郷社
由緒
本社は人皇第十二代景行天皇御代日本武尊が東征帰路、台山(本社後方の大地)に登り、前方の豊に稔る田野を見渡され国家鎮護の為に、山城国(京都)大原野神社を勧請して建てられ、中世以降本社は坂西各村の総鎮守として栄えた。大原神社は、山城国(京都府)乙訓郡の大原野神社の四柱の大神を勧請したのが起源といわれ、平将門の腹が飛んできたという伝説があり、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰がある。
大原神社 2  
案内によると「景行天皇の御代、日本武尊が東征の帰路、この社の後方の台地に登り、前方の豊かに稔る田野を見渡し、国家鎮護のために山城国(京都)大原野神社を勧請したのが始まりといいます。中世以降は坂西各村の総鎮守として栄えました。」とあり、又、市教育委員会によると「この社には上記の起源の他に、平将門のお腹が飛んできたという伝説が残り、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰がある。」と記されています。
山城国(京都)大原野神社の御祭神とは建御賀豆智命、伊波比主命(經津主命)、天之子八根命、比淘蜷_の四柱で、桓武天皇による長岡京遷都に際し、藤原氏縁の女人により春日社より山城の地に勧請されたのだそうです。
又、この他に足利市には、将門の手が落ちた伝説がある「大手神社」。将門の弟の御厨太郎が深く関係しているといわれる「御厨神社」。足が埋まっている伝説がある「子の権現」など将門に関係する伝説が沢山あるようです。
 
子の権現   足利市樺崎町
「子の権現 (ねのごんげん)」 平将門が滅びた時、将門公の股(あるいは足)が飛来してきて、それを祀ったという伝説がある。
 
地蔵院の五輪塔   足利市百頭町
空輪(くうりん)はかなり欠けてしまっていますが、そのほかの部分は残りもよく鎌倉時代の特徴をよく示しています。種子はなく、銘記も不明ですが、おおむね原形をとどめている鎌倉時代の五輪塔として貴重です。この五輪塔は当時、この地方の権力者であった御厨太郎 (将門の弟) のお墓と伝えられています。
 
 足利市緑町
八雲神社   足利市緑町
足利総鎮守 總社 八雲神社
總社八雲神社は、日本武尊命が東征の途次、出雲大社の御祭神を勧請したのが創建と伝えられています。
貞観11年(869年)に清和天皇が東国第一勅願所と定め、京都の八坂神社、愛知の津島神社の三神社に勅願所と定め、疫病退散、国家安泰を祈らせました。
寛仁3年(1019年)後一条天皇は、天王神事に勅使中御門大納言を派遣して以来、毎年例幣使を派遣されました。また下野天王惣社と定め、足利天王八雲榊大社と命名されました。
元禄8年(1695年)に社殿が改築され、牛頭天王を祀る神社として信仰を集めました。
明治10年、渡良瀬の氾濫を避けるため、近くの天神社の境内に遷座し、明治22年に社殿の改築がなされました。
平成元年、天皇御即位記念として10年の歳月を掛け改築されましたが、平成24年12月9日の未明に心ない者の所業により焼失してしまいました。
八雲神社再建にあたり、伊勢神宮(三重県)の式年遷宮年(平成25年・第62回)のおり、「天照大神弟神の月讀尊荒御魂宮」の本殿・幣殿一式との一部を譲与するという、大変なご縁をいただきました。御社をそのまま譲り受け、移築されることは極めて稀なことで、新たに月読荒御魂宮が合祀されました。
そして、平成29年12月9日、10日の2日間、焼失から5年を経過して、復元された新社殿の竣工式が行われました。

869年(貞観11年)清和天皇が東国第一祈願所として創建する。京都の八坂神社、愛知の津島神社の三神社に勅願所と定め、疫病退散、国家安泰を祈らせた。主祭神は須佐之男命(厄除・八方除)
939年(天慶2年)清承平天慶の乱。「平将門の乱」下野の押領使藤原秀郷が将門討伐のため、八雲神社に戦勝祈願し、将門を討ち取る。
1019年(寛仁2年)足利厨子天神(学問の神様 菅原道真公を祀る)。藤原姓足利二代家綱が後一条天皇の許しを得て、菅原道真公の霊をこの東国の地に初めて分祀される。寛仁2年11月25日に勅使として中御門大納言が下向し、治承3年(1179年)まで、毎年例幣使が参内された。足利厨子天神は東京の湯島天神の本宮であり、足利から湯島に御分霊が届けられた。
1051年(永承6年)/1083年(永保3年)平安時代後期の前九年の役(1051年)、後三年の役(1083年)に源頼義・源義家が八雲神社に戦勝を祈願する。
1084年(応徳元年)足利氏の祖、源義国が足利郡・梁田郡六十六郷(百六十三神社)の総鎮守と定める。足利荘に下向の際に当神社に御太刀を寄進する。
1695年(元禄8年)牛頭天王神鏡 社殿改築のおり、地中より大量に奈良・平安時代の古銭が出土する。時の領主 本庄因旛守藤原宗資は吉祥と喜び、古銭から五つの神鏡を鋳造させる。伊勢大神宮・鹿島大神宮・京都若宮八幡宮・江戸護国寺に奉献し、残る一つが東国第一祈願所の八雲神社に伝わり、日本五鏡と称されている。
1877年(明治10年)渡良瀬川が頻繁に氾濫するため、現在地に移転。
2017年(平成29年)伊勢神宮(三重県)の式年遷宮年(平成25年・第62回)のおり、「天照大神弟神の月讀尊荒御魂宮」の本殿・幣殿一式との一部を譲り受け、移築された。
 
 足利市通五
足利市の八雲神社
足利市内に現存する八雲神社は以下の5社である。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市緑町1-3776に鎮座。八雲神社 (足利市緑町)で述べる。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市大門通2379-2に鎮座。八雲神社 (足利市大門通)で述べる。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市通5-2816に鎮座。八雲神社 (足利市通)で述べる。
八雲神社(やぐもじんじゃ) - 足利市田中町193に鎮座。
八雲神社(やくもじんじゃ) - 足利市五十部町130に鎮座。同市緑町の八雲神社から分祀により創建。
八雲神社   足利市緑町
主祭神 素盞嗚男命
社格等 村社
創建 貞観11年(869年)か
本殿の様式 流造銅板葺
八雲神社(やぐもじんじゃ)は、栃木県足利市緑町にある神社。素盞嗚男命を主祭神とし、大己貴命、少彦名命、火具土命を配祀している。
社伝によると、貞観11年(869年)に清和天皇の勅定により素盞嗚男命他二神を祀ったのが始まりという。一方で、日本武尊が東征の際に出雲大社を勧請したという伝承もある。平将門の乱の際には藤原秀郷が戦勝祈願し、前九年の役および後三年の役の際には源頼義と源義家が戦勝祈願している。秀郷は将門討伐後に当社に神馬と太刀を寄進した他、足利郡と新田郡を神領として寄進している。
また、寛仁3年(1019年)から治承3年(1179年)まで当社に例幣使が派遣された。応徳元年(1084年)には源義国によって足利郡と梁田郡の総鎮守とされている。
1877年(明治10年)、天神社境内に社殿を移転した。以前の鎮座地は渡良瀬川の氾濫に遭うため、高台の天神社境内に移転したのである。
2012年(平成24年)12月9日午前3時25分頃、出火し社殿を全焼した。
2015年(平成27年)2月20日、八雲神社は内宮別宮の月讀荒御魂宮から式年遷宮の古材を譲り受け社殿を再建することを発表した。
2017年(平成29年)12月9日、社殿の再建に伴う神事が行われた。月讀尊が新たに合祀された。
神鏡
当社には直径55センチ、重さ18.7キロの「牛頭天王の神鏡」が伝わっている。元禄8年(1695年)、社殿改築の際に奈良、平安時代の古銭が出土。この地の領主の本庄宗資は古銭から5つの神鏡を鋳造させ、そのうち4つを皇大神宮、鹿島神宮、若宮八幡宮社、護国寺に奉献した。残る1つが当社に伝わる神鏡であり足利市指定文化財であるが、平成24年の火災により焼失している。
八雲神社   足利市大門通
主祭神 素盞嗚男命、奇稲田姫命
社格等 村社
創建 宝永2年(1705年)
本殿の様式 権現造銅板葺
八雲神社(やぐもじんじゃ)は、栃木県足利市大門通にある神社。素盞嗚男命、奇稲田姫命を祀る。旧社格は村社。
宝永2年(1705年)に創建と伝えられる。文久3年(1863年)、火災のため社殿が焼失するが、翌年再建される。昭和4年(1929年)、同市通2丁目に社殿を造営。同42年(1967年)、社殿を大門通に移転した。
八雲神社   足利市通五
主祭神 素盞嗚男命
社格等 郷社
創建 貞観年間
本殿の様式 流造銅板葺
八雲神社(やぐもじんじゃ)は、栃木県足利市通にある神社。素盞嗚男命を祀る。旧社格は郷社。
社伝によると、貞観年間(859年−877年)に藤原村雄が津島神社を勧請したのが始まりという。天保14年(1843年)、本殿を改築。大正14年(1925年)、拝殿を新築した。平成14年(2002年)には社務所を改築している。
 
鹿倉山無量院蓮華寺   足利市葉鹿町
天慶三年(940)に定海上人により創建
円仁上人、室町時代中頃に現在地の西の山裾に本堂を再興
円「上人、寛永十六年(1639)に現在地に本堂を再建
貞尊上人、享保年間(1716〜1735)に山内を整備
宗旨宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀三尊(阿弥陀如来と脇侍の観世音菩薩・勢至菩薩)
無量院の板碑 
鎌倉時代後期〜南北朝時代 無量院の堂の改築に伴って出土したものです。もともと境内に建っていたものが、何らかの理由で一ヶ所にまとめられて出土したものと考えられます。このように多くの板碑がまとまって出土することは珍しく、年代も鎌倉時代後期から室町時代にかけてのものが継続してあります。近くに鶏足寺(けいそくじ)があり、無量院は鶏足寺の隠居寺であったとの伝承もあることから、鶏足寺関連の僧や武将の供養塔の可能性が高く、葉鹿町周辺の豪族や有力農民に関するものと考えられます。
無量院のカヤ
高さ 25.0m 目通り 3.89m カヤの大木で、樹齢約430年と推定され、門の前の一段盛り上がった所に立っています。根元は一段と太くなり、根張りが発達している様子がよくわかります。幹は根本から少し反るように立ち上がって直立し、枝は幹の中ほどから四方に伸びています。雌木でよく実を結び、根元の周りにはたくさんの若芽も出ます。由緒ある寺院に生長し、長い年月を人々に親しまれてきた木です。
 
鶏足寺 1   足利市小俣町
鶏足寺(けいそくじ)は、1100年以上も昔、定恵上人によって開創された名刹で、真言密教の大本山です。初めは世尊寺(せそんじ)といいましたが、天慶の乱(939年から940年まで)の際、平将門を調伏したところから勅命により鶏足寺(けいそくじ)と改めました。
鶏足寺の伝説
平将門が朝廷に背き乱を起こしたのが天慶2年のことです。翌年、藤原秀郷が天皇の命によって将門と戦います。このとき、世尊寺の法印は秀郷の勝利を祈願し、法力で将門を倒すように命じられ、土でつくった将門の首を供えて連日連夜祈り続けました。ところが8日目、法印はとうとう眠ってしまいました。すると夢の中で、3本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけているではありませんか。法印が鶏の笑い声でハッと目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が3つ、はっきりと付いていました。そして、17日目の満月の日、秀郷が将門を討ち取りました。世尊寺は、このことから『鶏足寺』となりました。
石尊山梵天揚げ
旧盆の8月14日、早朝に行われます。住職の護摩供養・安全祈願ののち、白装束の若者達によって、午前4時、ホラ貝を合図に15mのお柱と千体余りの梵天を標高486mの石尊山に担ぎ揚げます。そして石尊宮に奉納し、お柱についている梵天を若者が登り競って、弊串等を抜き取ります。
鶏足寺 2
仏手山金剛王院鶏足寺 縁起
始まりは「鳴山」から生まれた一尊の石仏
その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。
数百年後の大同四年(809年)、平安時代の初期に「鳴山」は歴史の表舞台に現れます。奈良東大寺の定恵(じょうえ)上人が、「鳴山」より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。
仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められました。境域を大きく広げ、釈迦堂を始めとした八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられたたことで、お寺の構えが整いました。
平将門の乱と「鶏足寺」の誕生
天慶二年(939年・平安時代初期)、下総国(千葉県北部)で勢力を拡大していた平将門が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・藤原秀郷は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。秀郷の乞いを受けた世尊寺の常裕法印(定宥とも)は、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。
五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。
満願の日、さすがに疲れ果てた法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。
やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだらなどが朝廷から下賜されました。
仏陀の福音を現代、そして未来へ伝える
寛元元年(1243年・鎌倉時代中期)、後嵯峨天皇から宣旨がくだり、鶏足寺は皇子誕生のご祈祷を仰せつかり、五大明王の絵像(栃木県指定文化財)と大刀力王丸(国重要文化財)が下賜されました。そのご祈祷の霊験により、皇子さま(後深草天皇)がお生まれになりました。
弘長三年(1263年)に、足利泰氏(智光寺殿)の発願で、父義氏(鑁阿寺開基義兼の子)菩提のため、梵鐘(国重要文化財)がつくられました。
文永六年(1269年)、下野薬師寺長老慈猛(じみょう)上人がこの寺に迎えられました。それまでは天台・真言兼帯のお寺であった鶏足寺は、この時から真言宗となり、高野山から伝わった真言宗慈猛流の全国総本山として密法専修の道場となりました。全盛時は、山内に二十四院・四十八僧房を持ち、全国に三百六十余の末寺があったと伝えられています。
天文二十二年(1553年・室町時代後期)、戦国時代の騒乱の中で鶏足寺は兵火にかかり、勅使門を除く寺の堂舎はすべて焼失しました。現在の本堂は江戸時代中期の正徳三年(1713年)に建立、護摩堂(五大尊堂)は享保十七年(1732年)に建立されたものです。
それから現在まで、激しい時代の移り変わりにあいながらも、開創千二百年の法燈は絶えることなく、今に、済生利人の法幢を高くかかげて、仏陀の福音をつたえております。
鶏足寺 3
仏手山鶏足寺は栃木県足利市小俣町に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。鶏足寺の創建は平安時代初期の大同4年(809)、東大寺(奈良県奈良市雑司町)の定恵上人が開山したのが始まりと伝えられています。当初は正頂山(標高:259m)の中腹(寺の窪)にありましたが仁寿元年(851)には慈覚大師円仁(3代天台座主、比叡山延暦寺の高僧)が現在地に境内を移し多くの堂宇を建立するなど尽力を尽くし天台宗の寺院として整備しました。天慶2年(939)の平将門の乱の際、藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が戦勝祈願の為、当寺の法印と図り、将門の土人形を依り代として法力を施したところ明朝に土人形には鶏の足跡が3つ付けられていました。数日後、秀郷が見事に念願成就した為、鶏の足跡が吉兆と悟り世尊寺一乗坊から鶏足寺に改称し、さらに、この功により天皇の勅願寺となり紺紙金泥両界曼荼羅図などを賜っています。
鎌倉時代の文永年間(1264〜1275年)に下野薬師寺の慈猛上人を招き再興、その際、真言宗に改宗すると慈猛流の総本山として寺運は隆盛し最盛期には山内に24院、48僧房、全国に310余の末寺を擁し室町時代には鑁阿寺とともに鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の別当となりました。天文12年(1553)に上杉謙信の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し一時衰退しましたが天正19年(1591)に徳川家康によって再建されています。現在の鶏足寺勅使門は切妻、こけら葺き、一間一戸、四脚門形式、上杉謙信の兵火以前に建てられた唯一建物で正和年間(1312〜1316年)に建てられた(伝)鎌倉時代末期の古建築物として貴重なことから昭和45年(1970)に足利市重要文化財に指定されています。
鶏足寺の寺宝である「鶏足寺印」は平安時代に製作されたもので鋳銅製、高さ7.5cm、縦5.5cm、横5.5cm、1行2字(鶏足寺印)、古式を伝える印として貴重なことから昭和30年(1955)に国指定重要文化財に指定されています。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式。鶏足寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。不動尊堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入り、間口3間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造板張り。足利坂東三十三観音霊場:第7番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:有難や 鶏の足跡 標にと 踏み分け登る 補陀落の山)。山号:仏手山。院号:金剛王院。宗派:真言宗豊山派。本尊:釈迦如来。
 
遍照寺の宝塔   足利市福富町
総高 363cm 江戸時代 
本堂東側に建っています。三段に積み上げた方形状台石の上に、反花座(かえりばな)、敷茄子、蓮華座、基礎、蓮華座、塔身(とうしん)、笠(かさ)、露盤を重ね、相輪を立てています。塔身の四面には金剛界四仏の種子を刻み、基礎には胎蔵界(たいぞうかい)四仏の種子を押型彫りしてあります。反花座には、「宝篋印塔」「維時天明丁未冬遍照寺勝恵謹誌」の陰刻銘があります。天明7年(1787)の造立であることがわかり、歴史的価値が高いものです。
 
三宝院   足利市通七
御本尊 阿弥陀如来
宗派・教義 浄土宗
供養山清水寺。中世に足利氏の帰依をうけた寺。延応元年(1239)舜智によって開創されたという。その後、数回の火災にあったが、嘉永五年(1852)勇勤のときに再建した。歴代住職の中には汲誉重山のように法然の旧跡を訪ねて四国に赴き、永禄年間(1558—1570)に塩飽しあく島に来迎寺を中興し、天正一六年(1588)宇足津(香川県綾歌郡宇多津町)の浄泉寺を開山した者もいた。
京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山醍醐寺の子院。永久三年(1115)、醍醐寺一四世勝覚により創建された。本院は、醍醐寺五門跡(三宝院・報恩院・理性院・金剛王院・無量寿院)の中でも、室町時代以降、歴代院主が醍醐寺座主となることが通例となっており、中心的性格を有していることが知られる。応仁・文明の乱で伽藍の興廃著しかったが、八〇世座主義演は、豊臣秀吉の信頼厚く、その支援により、観楼(醍醐の花見)に際して伽藍が復興された。桃山文化の粋を集めた唐門と表書院は国宝に指定されている。また、快慶作の本尊弥勒菩薩像は国重要文化財指定。この義演の筆になる写本群の中から、大正六年(1917)に『法然上人伝記』(『醍醐本』)が発見され、そこに説かれる事項の固有性から古態を示す法然伝として重要視されている。

境内には足利市指定文化財「藤原行国の石塔」と通常非公開の「絹本著色 白衣観音図(田崎草雲筆)」があります。藤原行国は藤原秀郷の末裔で、天喜2年(1054)足利両崖山に居城した足利大夫藤原成行の弟行房の子です。行国は、成綱が早世し幼くして家督を継いだ家綱が成長するまで、成行の後の足利郡司を務めたと考えられています。
藤原行国の石塔(ふじわらゆきくにのせきとう)
総高 140.0cm   平安時代(水輪)
2段の台石、基礎石、地輪(ちりん)、水輪(すいりん)、火輪(かりん)と小型の空風輪(くうふうりん)を積み重ねています。
水輪は唯一凝灰岩製で他のものより古く、それ以外は安山岩製です。地輪には正面に「正善寺殿」、左側面に「大治元丙午七月二十七日」、右側面に「足利五郎太藤原行国」の銘記が陰刻してあり、大治元年(1126)7月27日に没した藤原行国(ゆきくに)の墓塔であることがわかります。
行国は藤原秀郷(ひでさと)の末裔で、天喜2年(1054)足利両崖山(りょうがいさん)に居城した足利大夫藤原成行(しげゆき)の弟 行房(ゆきふさ)の子です。
「正善寺殿」は寺伝にいう三宝院の草創である正善庵または正善寺を菩提寺とした行国の贈り名です。
以上のことから、藤姓足利氏の足跡および三宝院の発祥を知る上からも貴重な資料です。
また、水輪だけとはいえ、後補の銘記から平安時代後期と推定される五輪塔の一部が現存することも貴重です。
■佐野市
佐野市
富俵山神社   旧葛生町柿平
藤原秀郷(俵藤太)が瀬田の唐橋で百足を退治して、竜神から贈られた米の俵は、後になって、秀郷の家来達が逆さにした時、中から小さな柁が現われ、それからもう米は出なくなってしまったといわれています。その時の柁と俵が、この神社の御神体だといわれています。なお、秀郷は佐野市の唐沢山神社に祀つられています。
今宮神社   旧葛生町仙波
神社は、天慶二年(939)、藤原秀郷が将門追討のために建立したといわれています。
阿土(アド)山城址   旧葛生町仙波
金蔵院の裏手の山が「アド山」です。この山は、「阿土山城址」でもあります。天慶年間、安戸太郎純門が居住していて、天慶の乱のとき将門方に属したといわれています。
箱石神社   旧葛生町豊代
天慶二年(939)、藤原秀郷が将門追討のために建立したといわれています。
願成寺   旧葛生町鉢木
藤原秀郷の開基で秀郷の母を弔うために建立したといわれています。また、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世の墓があります。
安蘇沢神社跡   旧葛生町山菅
葛生駅から秋山川に架かる天神橋を渡ると「葛生原人記念碑」があります。その左手の道に入ると「安蘇沢道場」の石碑があります。この碑の裏手に「安蘇沢神社」があったと思われます。この社は今は更地ですが、藤原秀郷が悪夢によって建立したといわれています。
御榊山神社   旧田沼町多田
神社は、藤原秀郷が安芸の厳島神社から分霊を勧請したと伝えられています。
加茂別雷神社   旧田沼町多田
神社は、天慶年間に秀郷が再建したといわれています。
加茂別雷神社   旧田沼町山越
加茂別雷神社は多田と山越の二箇所にあります。山越にあるこの神社も、天慶年間に秀郷が再建したといわれています。
本光寺   旧田沼町山越
秀郷の居館は、この寺付近の山越の地(田沼本宿)にあったといわれています。曽祖父・藤成が下野介として関東に下った頃の館は、佐野市の佐野城(城山公園)でしたが、祖父・豊沢の頃にこの地に移ったと思われます。
一瓶塚稲荷神社   旧田沼町田沼
神社は、秀郷が勧請した関東五社稲荷の一社で、将門征伐の成就を祈ったといわれています。
興聖寺   旧田沼町吉水
寺に、秀郷夫妻の位牌があるといわれています。もと清水城があったところです。
秀郷の墓(秀郷公墳墓)   旧田沼町新吉水
吉水駅の西方200mに「秀郷の墓」があります。この地の円墳(東明寺古墳)を秀郷の墓として崇めて、手厚く祀られています。往古この地に東明寺という寺があって、廃寺後墓石を積んで塚とし、さらに墓碑の台石を祠の敷石にして「田原八幡」として祀ったといいます。この地の「田原」は、俵藤太の「俵」に通じます。秀郷の没年は、「正歴二年(991)九月」となっています。
田原八幡神社   旧田沼町新吉水
秀郷公墳墓の隣に小さな祠があります。祭神は秀郷。もとは秀郷公墳墓の上にあったのですが、こちらに遷されたといいます。
根古屋神社(根古屋城址)   旧田沼町栃本
栃本小学校の南500mに「根古屋神社」があります。もとは唐沢山にあった神社が、ここに遷されました。この地に根古屋城があり、秀郷が城内にこの社を建立したといいます。
避来矢の鎧   旧田沼町栃本
秀郷が将門と戦ったとき、鎧に一本の矢も当たらず勝利を得た。そこでこの鎧を「避来矢の鎧」と称したという。この鎧はかつてこの地の「平石権現」の御神体でしたが、今は唐沢山神社にあるといいます。
唐沢山神社   旧田沼町・佐野市境界
唐沢山の山頂付近に「唐沢山神社」があります。この神社は、秀郷の本拠地・唐沢山山頂に建ち秀郷の霊を祀るといいます。栃本の地から「避来矢の鎧」を遷し重宝して保存されているといいます。唐沢山城址の本丸跡に建っています。
唐沢山城址   旧田沼町・佐野市境界
天慶三年、秀郷が築城しました。なお、秀郷以降六代にわたる居城といわれていますが、後の佐野氏が要害城として代々居城としたといいます。物見台からの眺めがよかったです。
蓬莱山神社   佐野市作原町
神社は藤原秀郷が創建したといわれ、神社から川を挟んで西方にある「西蓬莱山」(岩山)は、唐沢山城の隠れ城だと『田沼町誌』に記されています。ここの紅葉は素晴らしく、その時期には多くの観光客が見えるといいます。
蓬山城址   佐野市作原町
蓬山への登山道を登ります。山頂には二つの祠があり、「蓬山城址」の新しい説明板がありました。説明板には、『この城は唐沢山城の北の守りとして、秀郷が築城し秀郷の弟・永郷らが居住した』とありました。またの名を「忍城」ともいいます。
三騎神社   佐野市船越町
天慶五年(942)秀郷の創建といわれています。
上宮神社   佐野市船越町
天慶4年(941)創建の古社で、秀郷が勧請したといわれており、橘豊日命(聖徳太子の父である用明天皇のことです)をお祀りしています。聖徳太子を祀っている太子殿もあり、通称、太子様ともいわれています。
千騎返り   旧田沼町出流原
出流原弁天池の裏手の後山(磯山)付近を「千騎返り」といいます。秀郷が敵に千騎の兵を指し向けましたが、山中で道が険しく引き返すことになったので、こう呼ばれるようになったといわれています。
沼鉾神社   佐野市赤見町
秀郷が再建したといわれています。
雀宮神社   佐野市堀米町
秀郷が朱雀天皇を深く尊崇して、創建したといわれています。
佐野八幡宮   佐野市堀米町
平将門の乱を平定し、下野守に任じられた藤原秀郷が、山城の国の男山八幡宮を勧進したと伝えられます。秀郷の子孫である佐野氏が、鬼門封じの神社として崇敬しました。
小梥(こまつ)神社   佐野市奈良淵町
浅間山の南麓に「小梥(こまつ)神社」が位置しており、浅間山の登山口でもあります。この神社は、天慶九年(946)に秀郷の創建と伝えられています。
浅間山の火祭り   佐野市奈良淵町
浅間山の火祭り(7月中の土曜日)は、秀郷が唐沢山に城を築き、この付近一帯に藤原氏一族が住みつき、彼らの勢力を誇示するために山頂で火を焚いたのが起こりだといわれ、以後、村人は火を焚き悪病を追い払ったと伝えられています。浅間山頂へその年に取れた小麦かやを背負い上げ、神事を行ったのちに火を付けます。山頂に浅間神社の小祠があり、佐野市街地の眺めがいいです。
露垂根(つゆしね)神社   佐野市富士町
唐沢山南麓に「露垂根(つゆしね)神社」があり、唐沢山神社への入口の大鳥居のすぐ右側にある神社です。この神社は、天慶5年(942)に秀郷が安芸国厳島大明神を勧請、市杵島姫命(いちきしまひめみこと)を唐沢山に御祀りし、代々佐野城主が再建立・修復してきました。本殿三壁には中国故事に由来する「竹林の七賢」のみごとな彩色装飾彫刻が施されており、通称「明神様」と呼ばれ親しまれています。
関東五社稲荷神社   佐野市大栗町
創建は天慶5年(942)で、秀郷が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したといいます。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになりました。田沼町に鎮座する有名な一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものといいます。
光徳寺   佐野市犬伏下町
秀郷の娘・富士姫が家臣の柏崎光徳に命を救われ、秀郷が厚く光徳を遇した。これがもとで、家臣たちは光徳を妬みこととなり、光徳は身を隠して富士姫は自殺して果てた。秀郷は姫の菩提を弔い、この寺を創建したと伝えられています。境内のびゃくしんは、光徳お手植えの神木といいます。
佐野城址   佐野市若松町
佐野駅のすぐ北側の「城山公園」が「佐野城址」です。佐野城は、別名「春日岡城」ともいわれ、延暦元年(782)、秀郷の祖父・藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。藤成は、延暦9年(790)標高60mの小高い丘に城館を建てたのが始まりで、周囲にはこの小山以外全く丘がなく、立地条件の極めてよい場所でした。秀郷も一時期、居館としていました。
佐野家の伝承   佐野市
佐野家の伝承によれば、秀郷は白羽の矢を用いていたといわれ、佐野家では白羽の矢を宝物としていたといわれています。
惣宗寺(佐野厄除け大師)   佐野市金井上町
春日岡(かすがおか)とよばれ、多くの人から親しまれている寺。朱雀天皇の天慶七年(944)3月、奈良の僧・宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺 (かすがお かやまてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)という。藤原秀郷が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡 (現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇 に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれています。
鹿島神社   佐野市赤坂町
惣宗寺(佐野厄除け大師)の南すぐに「鹿島神社」があります。天慶六年(943)、秀郷が鹿島大社をこの地に勧請したと伝えられています。
赤城神社   佐野市植下町
この神社は、植野小学校の少し南にあります。秀郷が将門征伐を祈願し、大任を果たすことができたので、この社を再建したといいます。
八幡宮・道場塚 佐野市上羽田町
この神社は両毛線富田駅の南東約2.2km、上羽田町に鎮座しています。由緒によると平将門征伐のためこの地にきた秀郷が、戦勝祈願のため宇佐八幡宮を勧請したことに始まります。天慶5年(942)、秀郷が境内に兵器を埋め塚(道場塚古墳)を作り、社殿を建て、唐沢城の裏鬼門鎮護の社としました。神橋を渡ると鳥居の横には見上げるばかりの古木(ケヤキ)が茂っています。
大鹿神社   佐野市船津川町
秀郷が武蔵守に任じた際、一社を建立したのがこの社の始まりだと伝えられています。
浅田神社(天命神社) 佐野市馬門町
入口の石碑や鳥居にある名称と違うのですが(鳥居の文字は天命総社)浅田神社と呼ばれています。秀郷が将門を討った功により武蔵守となり、深く感謝してこの社を修復したと伝えられています。
藤田神社   佐野市越名町
浅田神社(天命神社)から北東500m。案内によると、天慶年中(938〜947)藤原秀衡公が勧請したと伝えられています。江戸時代初期までは藤太大明神とも称されていました。  
佐野城   佐野市若松町
下野国安蘇郡佐野(現在の栃木県佐野市若松町)に築かれた日本の城(平山城)である。別名春日岡城・春日城・姥城(うばがじょう)。
佐野氏は元々佐野の北部にある唐沢山城を拠点としていた。佐野氏は北条氏から養子を迎えていたため、小田原征伐の際には滅亡の危機を迎えた。だが、一族の佐野房綱が豊臣秀吉に仕えていたため、役後に房綱が当主に就くことで断絶を免れた。その後、房綱は豊臣氏近臣である富田氏から信吉を養子に迎えて家の安泰を図った。豊臣政権側も同城を江戸城の徳川家康を牽制するために活用しようと図った。ところが、関ヶ原の戦いによって徳川政権が成立したことによって佐野氏を継いでいた佐野信吉の立場は微妙となった。
1602年(慶長7年)佐野氏は徳川家康の意向を受けて、上杉謙信の攻撃をもしのいだ山城の唐沢山城を廃して麓に新規に佐野城を築城した。唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されている。理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定される。
佐野城は春日岡にあった惣宗寺の跡地に新しい佐野氏の本拠地に相応しい近世城郭として築城され、築城途中の1607年(慶長12年)には城主である佐野信吉も唐沢山城から佐野城に移転して城下町も整備されたが、整備半ばの1614年(慶長19年)に突如佐野氏が改易されたために、わずか14年で廃城となった。
城の形式は連郭式の平山城で、東西約370m・南北約500mの規模を有する、城跡としては曲輪の跡や堀切・土塁などが残されている。外堀(水堀)は区画整理等により消滅した。南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と並び、各部分は堀切によって仕切られている。最も高い本丸の標高は約56mである。
1988年(昭和63年)から1998年(平成10年)にかけて佐野市による発掘調査が行われ、現在は佐野城山公園となっている。また、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られている。

佐野城跡は、市指定史跡の平山城です。南側から三の丸・二の丸・本丸・北出丸が直線的に配置された連郭式で、別名を春日岡城、春日城、姥ケ城とも言います。現在は、市指定の名勝「城山公園」として市民の憩いの場となっています。
この地は古くから旭丘といい、藤原秀郷の曽祖父の下野守藤成が延暦9年(790)に城を築いたのが始まりとされます。天慶3年(940)に秀郷が平将門討伐を祈願して春日岡山惣宗寺を建立したと伝えられます。諸説ありますが、慶長7年(1614)、佐野信吉によって、唐沢山城から佐野城への築城を開始したとされます。それに伴い、惣宗寺は現在の場所に移りました。
史料「下野一国」によると、城の規模は東西約360メートル、南北約580メートルと記されています。また広大な外堀を廻らせていた様子も記されており、このことは現況ではほとんど確認できませんが、字「外堀」という地名も残っています。
かつては未完成のまま廃城となったと考えられてきた佐野城跡ですが、近年の発掘調査で、城内から礎石建物、石垣虎口、石畳などの遺構が確認され、瓦も多量に出土していることから、完成された城郭であったと考えられています。また佐野城の築城とともに、碁盤の目状の整然とした城下町づくりも始められており、それが400年後の今日の町並みに受け継がれているのです。

佐野城は「関ケ原の戦い」後に佐野信吉が唐沢山城を廃して山麓に新たに築いた城です。唐沢山城の廃止理由としては、信吉が豊臣家縁故であったため徳川家に配慮したため、江戸近郊の山城が禁令されていたため、あるいは江戸に火災が発生した際にいち早くかけつけた信吉に対し徳川家康が「唐沢山城から江戸城を見下ろすのは何事か」と一喝したためなど、いくつかの説があります。現在は佐野城山公園となっており、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られており、その山門は佐野城の城門を移築したものと伝わっています。
惣宗寺   佐野市春日岡山
栃木県佐野市にある天台宗の寺院である。山号は「春日岡山」、寺号は詳しくは「春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(かすがおかやま てんぼうりんいん そうしゅうかんじ)」と称する。一般には佐野厄除け大師の通称で知られる。年末年始には関東地方を中心にテレビCMが多く放送されるため広く知られている。
開基(創立者)は藤原秀郷、開山(初代住職)は宥尊である。青柳大師、川越大師と共に先代住職が「三大師」を提唱。以後定着し「関東の三大師」の一つに数えられることが多く、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わう。「関東の三大師」には上記3寺のほか歴史などを見る限り複数の寺院が候補にあがっている。
・栃木県足利市-寺岡山元三大師(寺岡山厄除け大師)※惣宗寺本家
・栃木県足利市-足利厄除け大師
歴史
境内にある田中正造の墓天慶7年(944年) - 藤原秀郷が春日岡(今の佐野城址の地)に創建したものと伝わる。
慶長7年(1602年) - 佐野信吉によって現在地に移転する。春日岡に佐野城を築くためであった。
1913年(大正2年)10月12日 - 足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造の本葬を行う。
御本尊
元三大師(良源上人)
由緒と厄除け
佐野厄除け大師惣宗寺は、栃木県佐野市にある関東三大師の一つ、天台宗の寺院です。毎年正月初詣では多くの参拝客で賑わう関東有数の寺院で、また厄除け・方位除けなどが有名で新春には祈願大祭も行われ、毎年多くの厄年の人、厄除け希望の参拝客が訪れます。年末年始になるとTVCMなどで「厄除は佐野厄除け大師、佐野厄除け大師」と流れてきたり、電車の中吊り広告などに出たりと目にすることも多くなる寺院です。
佐野厄除け大師では元三大師(良源)を祀っており、この元三大師が数々の軌跡を起こし厄除にも大きなご利益があるとして、「厄除け大師」として呼ばれ、信仰をあつめており、同寺院の「佐野厄除け大師」としての呼称ともなり、厄除けにご利益のある寺院として有名になりました。
厄除けの仏様 / 元三大師(がんざんだいし)
ご利益
厄除け
元三大師を祀る寺院
佐野厄除け大師(惣宗寺)・川越大師(喜多院)・青柳大師(龍蔵寺)ー関東三大師
深大寺・比叡山元三大師堂など
厄除大師として広く崇められる天台宗中興の祖良源がモデル
元三大師のモデルとなっているのは、良源(りょうげん)という平安時代天台宗中興の祖である高僧で、「厄除大師」など独特の信仰で民衆から広くあがめられました。
命日が正月3日であったため、元三大師と呼ばれるようになります。最近はあまり目にする機会がなくなりましたが、厄除けのお札で角大師、豆大師という厄除け札あります。
この良源上人(=元三大師)おみくじの創始者でもあると言われています。お寺で引けるおみくじが「元三大師みくじ」というタイプのおみくじであるお寺も日本全国に多くあります。
角大師
2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の姿。良源上人が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるといわれています。お札を頂いた家は、一人も疫病にならず、また病気に罹っていた人々も、ほどなく全快して、恐ろしい疫病も、たちまちに消え失せたといわれています。このお札を角大師と称えて、毎年、新しい札を戸口に貼ると、疫病はもとより、総ての厄災を除き、また、盗賊その他、邪悪の心を持つ者は、その戸口から出入り出来きないといわれ、広くひろまりました。
豆大師
33体の豆粒のような大師像で描かれた姿。元三大師(良源上人)は観音菩薩の化身とも言われており、観音はあらゆる衆生を救うために33の姿に化身するという「法華経」の説に基づいて33体の大師像を表したとされています。
鹿島神社   佐野市赤坂町
赤坂鹿島神社は、藤原秀郷公が鹿島神宮を勧請して天慶六年(943)天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に奉祀、佐野安房守基綱が佐野春日山に遷座したといいます。寛永4年(1627)当地に遷座、明治5年村社に列格しています。

祭神 健御雷命
相殿 大日孁貴命、伊弉那美命、豊受姫命
境内社 八坂神社、機織神社、秋葉神社、三峯神社
由緒 天慶6年(943)平将門征伐の勅命に鹿島大神に戦勝祈願した俵藤太(後の藤原)秀郷公は、勝利を治めた後、佐野の庄・天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に田原家の軍守神として鹿島本宮より奉遷し、その後春日山に移遷しました。江戸時代に入り、慶長7年(1602)、秀郷の末裔・佐野信吉公により春日山築城時に、天明郷三海に遷座されました。その後寛永4年(1627)、現在地に遷座され、今日に至ります。以後、この社を中心として繊維産業が隆盛となり、赤坂町の発展に繋がりました。寛文11年(1671)本社が再建され、享保3年(1718)正一位鹿島大明神と称するようになり、明治5年に現社名に改称され、旧村社となりました。
赤城神社   佐野市植下町
植下赤城神社は、豊城入彦命の孫、彦狭島王が任国毛野国に帰国の途中、景行天皇55年(4世紀)春日穴咋邑で薨去、彦狭島王を祀り奉斎したといいます。平将門討伐に際しては藤原秀郷が当社に祈願、当社を再建する際に上野赤城神社を合祀したことから赤城大明神と号して、上野赤城神社に比して当社を下の宮と称したといいます。明治9年村社に列格、明治42年大字植野字南馬場町八幡宮など8社を合祀しています。
祭神 彦狭島王命、日本武尊
相殿 武甕槌命、国常立命、譽田別命、市杵島姫命、大日孁貴命、素戔嗚命、菅原道真公、稲倉魂命、猿田彦命、豊斟淳命
境内社 白幡八幡宮、神明宮、厳島神社、織姫神社

植下赤城神社は、群馬県前橋市富士見町の赤城神社を分霊した神社です。由緒については不詳ですが、藤原秀郷が平将門を討ち、この地に御凱陣の武具を祝納されたと言い伝えられます。また、日本武尊東征の帰途、この地に一夜宿泊されたとの伝説があります。
富俵山神社   佐野市柿平町
創建は分かりませんが、明治40年4月に鹿島神社、湯谷温泉神社、八坂神社を合祀しました。主祭神 は大名持命、事代主命、田心姫命 、配神は武甕槌神、少彦名命、素戔嗚尊、月読命、軻遇槌命です。

合祀記念碑。温泉神社と八坂大神、黒岩山神、甲子大神、愛宕大神、三日月神社を明治四十三年に合祀したようだ。御祭神は大名持命と事代主命、田心姫命の三柱で、配祀神は武甕槌命と少彦名命、素盞嗚尊、月読尊、軻遇槌命であるとのこと。温泉神社之碑。祭神は少名彦那命と武甕槌之命の二柱であり、往古は温泉が湧いていたので湯谷権現と称す。
今宮神社   佐野市仙波町
天慶2年(1947)藤原秀郷公が平将門を討伐の時、祖神に祈誓の為勧請したのが始まりといいます。主祭神は天児屋根命、配神は素盞嗚尊、大鷦鷯尊、彦火瓊々杵命、大名持命、通称権現様です。
豊代城跡、阿土山城跡 1
豊代城跡(とよしろじょうせき)は豊代町に残る城館跡で、別名佐野源左衛門常世館跡と呼ばれ、東西約110メートル、南北約150メートルにわたって、高さ1.5〜2メートルの土塁が今も残ります。こうした城館跡は一辺50〜100メートルの規模が一般的です。本城跡は規模の大きなものです。現在、城跡内にある正雲寺公民館には常世とその母の位牌および、薬師如来と地蔵尊が安置されています。また、北西には常世の守り神といわれる矢越神社がまつられています。
豊代城跡の北方に位置する阿土山城跡(あどやまじょうせき)は、仙波町に残る堅固な山城です。標高371メートルの山頂からは、仙波や会沢、葛生方面ばかりでなく、唐沢山も望めます。本城跡は、建永元年(1206)安戸氏が築城したとされ、永禄2年(1559)以後佐野氏が使用し、慶長3年(1598)には天徳寺宝衍(ほうえん)が居城したとも伝えられています。山頂に続く尾根などに大きな堀切が数カ所で認められ、石積みも残されています。
この両城跡は、仙波川と秋山川の合流地点付近に立地しますが、周辺は栃木北部方面と、足尾方面への分岐点になる場所でもあります。両城跡とも、こうした水利や交通における要衝の地をおさえる役目を果たした、佐野における北方拠点の城といえるでしょう。
正雲寺城跡、阿土山城跡 2
正雲寺城跡(豊代城跡、佐野源左衛門常世館跡)、阿土山城跡
正雲寺城跡は、別名豊代城跡、佐野源左衛門常世館跡と呼ばれ、東西約110m、南北約150mに亘って、高さ1.5〜2mの土塁が今も残ります。こうした城館跡は一辺50〜100mの規模が一般的ですから、規模の大きな城館だったと考えられます。現在、城趾内にある正雲寺公民館には常世とその母の位牌及び、薬師如来と地蔵尊が安置されています。また、北西には常世の守り神といわれる矢越神社がまつられています。
阿土山城跡は、正雲寺城跡の北方に位置し、山頂に続く尾根等に複数の大きな堀切や、石積みが残される堅固な山城です。標高371mの山頂からは、仙波や会沢、葛生方面ばかりでなく、唐沢山も望めます。築城は、建永元年(1206)安戸氏によるとされ、永禄2年(1559)以後佐野氏が使用し、慶長3年(1598)には天徳寺宝衍(ほうえん)が阿土山に居住したとも伝えられています。
この両城跡は、仙波川と秋山川の合流地点付近に立地しますが、周辺は栃木北部方面と、足尾方面への分岐点になる場所でもあります。両城跡とも、こうした水利や交通における要衝の地をおさえる役目を果たした、佐野における北方拠点の城といえるでしょう。
豊代城、阿土山城 3
佐野源左衛門常世の館
南流する秋山川左岸の段丘上に豊代城は位置する。東西113メートル、南北259メートルの規模をもつ中世の館跡である。現在、館跡の大部分は畑地になっているが、周囲には上辺2メートル、下辺5メートル、高さ1.5〜2メートルの土塁がのこされている。館跡の西側には、佐野源左衛門常世の守り神と伝えられる矢越犬神がまつられている。
また、東南側には、常世とその母の位牌、そして守り本尊の薬師如来と地蔵尊を安置する実相院があったという。現在、位牌は館跡内にある正雲寺公民館に保存されている。佐野源左衛門は、謡曲「鉢本」の登場人物として知られている。謡曲では、鎌倉幕府の執権だった北条時頼が諸国を行脚している途中、大雪のために源左衛門の屋敷に二夜の宿を求めた。このとき、源左衛門は大切に育てた鉢の水を焚いて、時頼をもてなす。零落した身の上ながらも、幕府への変わらぬ忠誠心を時頼に語った源左衛門は、のちに幕府の召集に応じて鎌倉へと馳せ参じ、時頼から恩賞を与えられたという。
佐野源左衛門の実在については諸説あるけれども、一般的には上野国佐野(群馬県高崎市)の武士とされており、じつは豊代城と直接の関係はない。とはいえ、この館跡が所在する豊代か、中世では佐野荘(佐野市)に属しており、特に豊代を含む秋山川上流一帯が上佐野とよばれていたことと、謡曲「鉢木」の流布が、この地と佐野源左衛門とを結びつけたとみられる。たしかに豊代城は、佐野荘を支配した佐野氏の有力一族である仁佐野氏の居館だったと考えられ、周辺には中世佐野氏に関連する史跡が濃密に分布している。規模の点でも、佐野惣領家の居館とされる清水城(興聖寺城)を凌駕し、佐野荘内にのこる館跡としては最大である。
常世の墓と菩提寺
佐野源左衛門常世の墓と伝えられるのは、館跡の南に隣接する同市鉢木町の梅秀山願成寺(臨済宗)境内の石塔である。三基の墓塔のうち、向って左側の板碑は、常世の母の供養塔とされる。上部と右半分を欠損しているが、高さ86センチ、幅61センチの比較的大型の板碑である。石材は緑泥片岩で、右脇侍とみられる勢至菩薩の種字がのこり、かつては阿弥陀三尊を刻んだ板碑だったとみられる。正和四年(1315)の年号をもつ。
中央の宝篋印塔は、常世の墓碑とされる。相輪と塔身を欠くが、それでも高さ約150センチを測る。安山岩製で、大型の塔である。向って右側の宝塔は、常世の妹の墓碑とされる。凝灰岩製で欠損部分が多く、わずかに塔身の一部と笠部がのこるのみだが、類例からすると一三世紀後半頃のものと考えられる。願成寺の前身は、延寿山安心院蓮華坊(天台宗)と称しており、佐野氏の先祖藤原秀郷の開基で、秀郷の母の廟所だったという。それを建長年間(1249〜56)に常世が臨済宗に改宗させて、佐野氏代々の菩提寺にしたとされる。
詰めの城・阿土山城
佐野荘を南流する秋山川と荘内を南北に貫く街道とを押さえる豊代の地は、まさに水陸交通の要衝であり、上佐野の重要拠点たった。しかしながら、豊代城自体は平城であり、さしたる要害の地に占地しているわけではない。このため、戦乱の時代を迎えると、非常のさいに立てこもる要害、いわゆる詰めの城が必要になってくる。豊代城の詰めの城の役割をはたしたのが、豊代城の北東約一 ・五キロに位置する阿土山城だったとみられる。
アド山は、標高371メートル、比高約210メートルで、「阿土山」「安戸山」などの字があてられている。阿土山城は、天慶年間(九三八〜九四七)に安戸太郎純門の築城と伝えられるが、確証はない。その後、長嶋(上佐野とも)、青木氏などの城主をへて、戦国時代末期には佐野氏の一門天徳寺宝衍が数年間居住したのち、廃城となったとされる。
山麓西側には、清滝山金蔵院聖法寺(真言宗)がある。佐野氏代々の祈願所で、慶長年間(1596〜1615)には天徳寺宝衍が隠棲したとの伝えもある。阿上山城の廃城の時期は、このに天徳寺宝衍の在か四囲にあたるのかもしれない。現在、アド山に登るには、金蔵院前から西側の尾根筋を登るのが一般的であり、がっての登城ルートもやはり西側からだったと考えられる。現に、登城ルートには三つの堀切と石垣の遺構がみられる。山頂の主郭部の面積は狭く、
阿上山城はあくまで非常のさいの要害だった。
総鎮守今宮神社
阿土山城の山麓を流れる仙波川を、北西に約ニキロほどさかのぼっか仙波地区には、佐野荘の総鎮守だった今宮神社がある。今宮神社の祭神は天津児屋根命で、藤原秀郷が平将門征討のために天慶三年(940)に勧請したと伝えられる。社殿自体は江戸時代の再建になるが、がっての荘厳な雰囲気をいまにとどめている。
往時は、佐野荘の総鎮守として、佐野氏をけじめ、一族・家臣や荘内の住民たちの崇敬を集めていた。注目されるのは、今宮神社から北に約ニキロをへだてて出流山千手院満願寺(真言宗)があることで、満願寺は勝道上人が天平神護三年(767)に開山したという。勝道は、山岳信仰の霊場日光山を開いたことでも知られ、奇しくも勝道の開山とされる満願寺と日光山中禅寺はともに坂東三三札所でもあった。 
坂東三三札所の成立は一三世紀前半ごろとされており、すでにそのころには一七番札所の満願寺と一八番札所の日光山は観音信仰の巡礼路で結ばれていた。そして、一六番札所である上野水沢寺(群馬県渋川市)から満願寺に到着する直前に、佐野荘内の豊代城、阿上山城、今宮神社の付近を通過したのである。つまり、豊代城が所在する上佐野は、鎌倉時代以来の交通の要衝であり、かつ、宗教的にも重要な場所だった。豊代城は、その上佐野を支配する拠点の役割を果たしていたといえる。
箱石神社   佐野市豊代町 (旧・安蘇郡葛生町豊代中沢)
主祭神 大国主命 
配神 高龗神、伊弉那岐命、事代主命、市杵島姫命、大綿津見命
天慶二年(939)に平将門を破った藤原秀郷によって創建され、天正元年(1,573)に佐野宗綱により改修。明治五年(1,872)に常盤村村社となり、その後、神社合祀令により明治四十二年(1,909)十月十六日に八龍神社と保呂羽神社、白山神社、厳島神社、八幡神社を合祀した。
願成寺   佐野市鉢木町
梅秀山願成寺 臨済宗建長寺派 本尊/釈迦如来像
願成寺は。宝亀年間(770年)大僧都智開法印の開山で、大同年間(806年)河原の西のほとりに創建され、天台宗に属していました。天慶年間(938年)藤原秀郷公、山本の里松の内の上に寺を建て、延寿山安入院蓮華坊とも称した。故に秀郷公を開基としています。
永徳年間(1381年)となり。古天禅師中興開山となり、天台宗より臨済宗に改宗、梅秀山と称した。弘治2年(1556年)民家より発した火災の為、諸堂炎上に遇う。慶長6年(1601年)ようやく再興となるが、寛政7年(1795年)には失火により七堂伽藍その他、古文書・古記録をはじめ幾多の得難き宝物が消失した。
嘉永3年(1850年)本堂再興の工を起こし、嘉永4年竣工大正4年(1915年)二十一世義棟和尚、本堂改装、翌5年入仏式修行。
鉢の木物語
吹雪の夜一夜の宿をと常世の軒下に立った旅僧(執権北条時頼)を親切に迎え入れて、暖をとらせるが途中で焚き木が無くなり、そのとき常世は立派な盆栽を惜しげも無くくべて暖をとったという下りの物語の主人公佐野源左衛門常世の菩提寺として有名です。
安蘇澤神社   佐野市山菅町 (旧・安蘇郡田沼町大字山菅)
主祭神 別雷神
配神 高龗神[たかおかみのかみ]、大宮売命、水波乃女命
下野国の在庁長官であった藤原秀郷(根古谷唐澤城主田原藤太)が霊夢により武運長久、領土安穏祈願のため勧請。天明七年1787社殿を建築。山菅鎮守として尊崇されてきた。秀郷が勧請した多数の神社のひとつ。
御榊山神社   佐野市多田町
永享6年(1434)に創建され、宗像三女神の一柱である市杵島姫が御祭神です。市杵島姫は美人のほまれ高く、弁天様に見たてられている神様で、海上交通、戦の神であるとともに、その御神徳により子供の守護神と仰がれています。又この神社は、厳島神社の御祭神を祀っている為、昔は厳島大明神と云われていたのでしょう、今でも通称明神様と呼ばれているようです。
賀茂別雷神社   佐野市多田町
通称 雷電様(らいでんさま)
旧社格 村社
主祭神 賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
配神 禰禰杵尊(ににぎのみこと)/賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)/玉依姫命(たまよりひめのみこと)
境内神社 産泰神社(さんたい)、機姫神社(おりひめ)、八坂神社(やさか)、秋葉神社(あきば)、寒沢神社(さぶさわさん)、太守神社(たいしゅ)、浅間神社(せんげん)、夕日森天満宮(ゆうひもり天満宮)
由緒
当神社の御祭神は「賀茂別雷の神」と申します。京都の上賀茂の地に「ちはやぶる わけつち山に宮居して、天下ること神代よりさき」と読まれ、遠い昔より、山の神、農業の神として奉られて、落雷除け、嵐除け、五穀成就、天下泰平の神として崇敬されてまいりました。
当神社は天智八年(669)、「雷の神を祀れば、此の土地は富貴安静ならむ」との神宣により、菊沢山の中腹に社殿を建て、大神を奉り祭事を行ってまいりました。
その広大なる御神徳により正徳五年(1715)、宗源宣旨により正一位の神階を賜りました。
現在の本殿は宝暦十一年(1761)の建築で、堂の彫刻は上州館林の住人斉藤甚平、甚八、両人の作で、竹林の七賢人、菊の花、竜など、めでたい物がたくさんございます。
その後、氏子の念願により、明治四十三年現地に遷座し、家内安全、落雷除け、交通安全などの祈願を行い、毎年4月15日には大祭を斎行して、元文四年(1739)新造の御輿の氏子内巡幸を行っておりました。神棚祭、氏神祭、地鎮祭、上棟祭、車のお祓いなども致しております。
境内神社について
産泰神社(拝殿左隣) ご婦人の守護神として古い昔から信仰厚く、妊婦多数の念願により文化十二年(1815)社殿を建て大神を奉斎いたしました。安産、子育ての神として崇敬され、安産祈願、家内繁栄、子孫長久など、祈願の信仰者がたくさん参拝されており、その御神徳は広大無辺でございます。命名や選名のご相談も承っております。
八坂神社(拝殿手前左、道具小屋隣の石宮) 厄除けの神として須佐之男命を奉斎し、毎年7月15日に御輿の巡幸をして、祭事を行っております。
浅間神社(拝殿右側のサヤの内、右端の石宮) 無病息災の神として木花咲耶姫命を奉斎し、毎年8月21日に火祭りを行い、祭事を行っております。
寒沢山神社(拝殿右側のサヤの内、左側の大きい石宮) 山の守護神として大山祇命を奉斎し、毎年11月第3日曜日に勤労感謝の祭事を行っております。
そのほか 稲荷神社、夕日森天満宮、機姫神社、秋葉神社、太守神社、愛宕神社、古峯神社など、数社奉られております。
大明山本光寺   佐野市
本尊 釈迦如来 宗旨宗派 曹洞宗
当寺は、文亀二年(1502)佐野家の菩提寺として創建されまして以来、畏れ多くも第百四代後柏原天皇から勅願寺の詔を賜り徳川第三代将軍家光公からは御朱印地を拝領し、檀家各位の御援助・御協力の下に、住持の代わること四十五世、四百八十年近くになります。・・・
一瓶塚稲荷神社   佐野市田沼町
旧郷社
御祭神 豊受姫大神 猿田彦大神 大宮能賣大神 久々能智大神 草野姫大神
本殿は、延宝三年(1675)、寛政三年(1791)の火災後に再建され、現本殿は寛政十年(1798)の再建で佐野市指定文化財。境内右手にある西宮神社も本殿再建の頃の建物で佐野市指定文化財らしい。

通称は、田沼稲荷神社。
社伝によると、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が、天慶五年(942)、相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神を詣で関八州管領の地に四社を勧請し関東稲荷社と称した一社。その四社とは、武蔵国鴉森、武蔵国王子、上野国新禞院と下野国富士村。
その後、文治二年(1186)五月十五日、秀郷の裔佐野荘司讃岐守成俊が唐沢城再興の際、田沼の地に一丘を築き、下野国富士村の稲荷大明神を勧請したのが当社。佐野荘百数十郷の総社として崇敬された古社。
当社が一瓶塚と称するのは、近郷近在の人々は競って瓶に土を入れてこの地に運び、塚を築いたのでこの塚を一瓶塚、この塚の上に稲荷の祠を建立したためだと言われている。
上記の相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神は、松ケ岡八幡宮とも称された鶴岡八幡宮の地にあった丸山稲荷社のことだと思うが、確認はしていない。
また、同時に勧請された武蔵国鴉森は、現烏森神社、武蔵国王子は、現王子稲荷だと思うが、上野国新禞院はどこだろう。群馬県太田市の冠稲荷社だろうか。
当社の元社である下野国富士村の稲荷社は、大栗鎮座の関東五社稲荷神社とされているらしいが大栗と富士は別の地なのではないかと思う。
また、佐野市の資料によると、関東五社稲荷神社の五社は関東五社稲荷が勧請された時に、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の四社も勧請されたので関東五社稲荷と称するようになったとある。その説が正しければ、この狭い地域に関東五社稲荷と大栗稲荷の二社が存在することになり違和感。
『栃木県神社誌』には、天慶五年壬寅五月十五日遷座ゆえに五社と称するとある。
当地の詳細な郷土史などを参照しているわけではないので正確なことは判らないが、富士村の稲荷社が田沼へ遷座された時に大栗に関東五社稲荷神社が分祀されたということではないだろうか。あくまでも雑感的私見だけど。
ちなみに『明治神社誌料』によると、一瓶塚稲荷神社は『下野国志』には山城稲荷明神(伏見稲荷か?)からの勧請とあり、また、藤原鎌足が創建した社を、武蔵、上野、下野に遷座したという伝説もあり三ケ国惣社と称されたとも。
社殿の脇の境内社には、以下の名前が記されていた。月読宮、淡島神社、天満宮、染殿神社、市廛神社、太子神社、八坂神社、浅間神社、雷電神社。『平成祭データ』には、末社として以下の名が載っている。一部は境外にあるのかもしれないが、確認していない。西宮神社、八幡宮、織姫神社、旅料飲三業稲荷、八坂神社、神明宮、笹森稲荷神社、愛宕神社。
興聖寺城   佐野市吉水町
遺構 土塁、堀 / 形式 平城 / 築城者 佐野国綱 / 築城年代 安貞2年
興聖寺城は、佐野氏の本城唐沢山城の南麓の平野部に築かれ、位置的に見ても重要な支城であったと考えられる。資料によれば、興聖寺城は現在の興聖寺境内となっている地に本丸が置かれ、北二の丸・南二の丸・三の丸と配し、それぞれの曲輪を堀で囲み、更に城域全体を外堀で囲んだ縄張りであったとか。現在では、曲輪・堀のほとんどが住宅地や水田となって消滅しているが、本丸にある興聖寺の周囲には、土塁と空堀が今もよく残されていた。
興聖寺城は、別名清水城と呼ばれ、安貞2年に佐野国綱が一族の岩崎義基の為に築いたと云われている。永正年間に岩崎重長は三好岩崎に移り、大永元年より佐野季綱の居城となった。 しかし、季綱は興聖寺城を長く居城とせず、家臣の沼田・中江川・河田・天沼・清水・今宮らが交代で城番を務めた。 その後、城代として山田若狭守が在城し、佐野氏改易と共に廃城となったと考えられてる。
藤原秀郷公墳墓   佐野市新吉水町
藤原秀郷は平貞盛と協力し、天慶3年(940年)に乱を起こした平将門を討ちとり、戦功により従四位下に叙せられ、武蔵、下野の国守に任ぜられました。
秀郷公は天暦2年(991年)に没し、東明寺に葬られたといわれていますが、廃寺となり英宝2年(1705年)地元有志が田原八幡を建てました。
東明寺古墳や東明が丘とも呼ばれています。
根古屋神社   佐野市
石の鳥居には「正一位 避来矢大明神」と刻まれた額が掛かっていた。唐澤山神社の避来矢山に根古屋神社跡があったから、山の上から移転した神社なのだろうか。主祭神が藤原氏の祖神である天児屋根命(アメノコヤネノミコト)でもあるし、藤原秀郷公に縁のある神社であることは間違いないだろう。
要谷山城跡、根古屋館跡、鰻山城跡
要谷山城跡(ようがいさんじょうせき)、根古屋館跡(ねごややかたあと)、鰻山城跡(うなぎやまじょうせき)
要谷山城跡は飛駒町に残る標高約400メートルの山城です。山頂付近は東西約16メートル、南北約17メートルの規模で主郭を設け、主郭の周囲には曲輪が配置されています。また、現在も主郭の周囲で石垣が認められます。当城は、天文元年(1532)の頃、佐野越後守義照が居城したともみられます。その後、足利長尾氏方の小曽根筑前守によって落城したといわれています。
そして、要谷山の北西山麓の館跡が根古屋館跡で、東西約43メートル、南北約37メートルの規模で曲輪があります。当館は要谷山城が落城した後に焼失したといわれています。この山頂付近の主郭と山麓の館跡が一体となって残っていることは他にあまり例がなく貴重な城跡です。
鰻山城跡は、戸奈良町に残る平山城で、東側には旗川が流れています。当城は、東西約31メートル、南北約56メートルの規模の主郭を設けています。築城については鎌倉時代に佐野実綱の子戸奈良五郎宗綱が築いたといわれ、その後、宝治元年(1247)廃城となったといわれています。現在は主郭のところに石碑が建てられています。一族が築いた城として佐野氏と関係の深い城跡といえるでしょう。
小野城   佐野市飛駒町
天正年間初頭に佐野氏に属していた小野兵部小輔高吉が、足利長尾氏に備えるため唐沢山城の支城として築いたといわれています。しかし1584年(天正12年)、高吉は弟とともに長尾顕長の家臣・小曾根筑前に謀殺され、その後は小曾根氏が城主となりました。現在城址は「根古屋森林公園」として整備されており、本丸跡は「要谷山展望広場」となっています。遺構としては切岸と堀切などを確認することができます。
唐沢山城   佐野市富士町、栃本町
日本の城。所在地は栃木県佐野市富士町、栃本町。別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。 「関東一の山城」と称される。城跡は国の史跡に指定されている。2017年には続日本100名城(114番)に選定された。
関東七名城の一つ。佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。続日本100名城に選ばれた。
現在は栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座する。杉郭跡には栃木県唐沢青年の家が建てられたが、平成19年(2007年)3月31日閉所した。遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、土橋、近世に復元された井戸などが残っている。
歴史・沿革
築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。
平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。
以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。
室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。
唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。
明治16年(1883年)有志により本丸跡に唐沢山神社が建立された。
昭和30年(1965年)栃木県立自然公園開設。昭和38年(1963年)栃木県唐沢青年自然の家開所。
平成26年(2014年)3月18日、城跡が国の史跡に指定された。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(114番)に選定された。
藤原秀郷と唐沢山城跡
唐沢山の上には、藤原秀郷公をまつる唐澤山神社が鎮座しています。秀郷は平安時代、平将門の乱の平定に功績をあげたことで知られていますが、その一方で「俵藤太」の通称で「百足退治」の伝説をはじめとして、多くの物語や絵巻物に取り上げられ、親しまれている人物です。
唐沢山城の築城は、秀郷によってなされたという伝承もその一つです。しかしながら、信頼できる史料に見える秀郷に関する記録は、断片的なものであり、築城に関するものは確認することができません。また、これまでに実施されている発掘調査成果などによっても、築造年代は、早くても15世紀ごろではないかと考えられています。国指定史跡化のためには、唐沢山城跡の歴史的価値を明らかにすることが必要になってきます。
その一方、秀郷の系譜である佐野氏や唐沢山城に伝わる、伝説や伝承も大切にしていきたいものです。
唐沢山神社   佐野市富士町
栃木県佐野市の唐沢山山頂にある神社。藤原秀郷を祀る。旧社格は別格官幣社。
祭神の藤原秀郷は俵藤太(田原藤太)の別名でも知られ、下野国押領使として唐沢山に唐沢山城を築城し、秀郷の子孫の佐野氏が居城した。秀郷は平将門の乱を鎮圧して鎮守府将軍となったことから忠皇の臣とされ、秀郷の後裔や佐野氏の旧臣らが中心となって秀郷を祀る神社の創建が始められ、明治16年(1883年)、唐沢山城の本丸跡地に創建・鎮座された。明治23年(1890年)に別格官幣社に列格した。
当社より西2kmの佐野市新吉水町にある秀郷の墓所は、飛地境内となっている。
蓬莱山神社   佐野市作原町
田沼町史には唐沢山の隠れ城だといわれているような、所謂、深山幽谷にひっそりと建立されているようです。ここ旧田沼町の蓬莱山は日本三蓬莱の一つといわれ、約1,200年前、日光二荒山開山の勝道上人が開いたとされています。御祭神は市杵島姫命です。
蓬山城跡   佐野市作原町
大戸川と小戸川の合流し旗川となる西の標高約385m(比高約140m)の尾根の南端蓬山山頂に位置する。登って行くと主郭(広さ60坪)があり、石積があり、南北に2ヶ所、石積の祠がある。南西側に碑、説明板が建てられている。北西側尾根に堀切がある。現存する城跡の規模、形状などから唐沢山城北方の守りとして戦国時代に築城され、佐野家滅亡と共に廃城となったと思われる。
三騎神社   佐野市船越町
主祭神は天児屋根命だが、配祀神として瀬織津姫命が祀られている。栃木県内で瀬織津姫命を祀っている神社は岩舟町の荷渡神社とこの三騎神社のみであるとのことだが、何故この二ヶ所のみなのだろうか。ちなみに、瀬織津姫命を祀る神社は大概近くに川が流れているものだが、こちらも例に洩れず、すぐ南側に旗川が流れている。
天慶五年(942)に藤原秀郷公によって創建され、天正十八年(1,590)に船越六郎なる人物によって再建されたのだそうだ。
上宮神社   佐野市船越町
天慶4年(941)創建の古社で、橘豊日命(聖徳太子の父である用明天皇のことです)をお祀りしています。聖徳太子を祀っている太子殿もあり、通称、太子様とも云われているようです。桜の古木が境内にいっそうの彩りを添えているように見えます。
沼鉾神社   佐野市赤見町
神社の創立は、文武天皇二年(698)六月十五日勧請したと伝えられ、藤原秀郷公が元慶九年(946)に御本殿及び拝殿等を再建したといわれております。その後、正治二年(1200)に御本殿、拝殿を修理し、元和元年(1615)に御本殿の改築が行われております。享保年間に至り拝殿は、火災に会い消失しておりましたが、天保十一年(1831)正月十九日に新築されました。この度、御本殿、拝殿共老朽化甚しく、改修の必要にせまられ、氏子、崇敬者相計り、社殿の改修、社務所の新築をすることに決定し、社殿改修は、昭和五十八年(1983)七月二十五日仮遷宮並びに改修報告祭を執行、同年十二月二十五日修了、社務所の新築は昭和五十八年起工式を行ない、同五十九年三月二十九日工事を修了いたしました。追加工事として、水屋並びに神楽殿、末社の整備を行ない、ここに総べての工事を完了することができましたので一二○○年を記念し奉祝祭を執行いたしました。
千騎返り   佐野市出流原町(旧・田沼町出流原)
出流原弁天池の裏手の後山(磯山)付近を「千騎返り」といいます。秀郷が敵に千騎の兵を指し向けましたが、山中で道が険しく引き返すことになったので、こう呼ばれるようになったといわれています。
「うるし千ばい・朱千ばい」   佐野市出流原町
出流原弁天池には、とても冷たく、すんだきれいな清水がわき出しています。その中には、大きなひごいやにしきごいが元気に泳いでいます。この池をいだいているのが、磯山という石灰の出る山です。その山の東側を後山といいます。この後山に、今もとけない宝さがしのなぞが残っています。
     うるし千ばい 朱千ばい
     くわ千ばい 黄金千ばい
     朝日に映す 夕日かがやく゛
     雀の三おどり半の 下にある
と、いう歌が、昔から村人の間に伝わっています。これがそのなぞの文句です。この歌は、このあたりきっての大金持ち、朝日長者が宝をかくした場所をとく「かぎ」と伝えられています。その長者の家のあとは、いまは何も残っていませんが、昔は、お城のような広い家で、高いへいに囲まれた中に、大きな家があり、まわりにはたくさんのくらがあって白いかべが日にかがやいていたといいます。いっぽう、駒場の円城院山には夕日長者が住んでいて、朝日長者に負けないほどの大金持ちであったといいます。
朝日長者には子どもがありませんでした。子どもがほしい長者夫婦は「どうか子どもをおさずけくださいますように・・・・・」と弁天様に一心においのりをしました。
ある晩のことです。長者は不思議な夢をみました。それは、月のとてもきれいな晩に月見をしているときです。急に磯山の上がまぶしいほどに光ると、たくさんの鳥がとんで来たのです。その中の大きな鳥、それはつるでしたが、そのせなかにかわいいお姫様がのっていました。
長者は、うれしくなってお姫様と手をとっておどりました。そのうち、長者は夢から覚めると、不思議な夢だったので妻に話しました。
「これは、不思議なこともあるもの、わたしも同じ夢をみました。」と、妻も不思議な思いでいっぱいでした。そして、二人はなおも、子どもがさずかることをいのり続けるのでした。しばらくすると、本当に子どもがさずかりました。それはかわいいかわいい女の子でした。長者は喜んでつる姫と名づけました。
そして、だいじにだいじに育てていきました。ところが、ある日、長者は、尾須仙人という白いかみをした老人に連られ、女神のところへ連れていかれました。それは、夢とも現実ともつかないでき事でしたが、もどって来ても、その時言われた不老長寿の薬(年をとらず長生きする薬)をつる姫に飲ませることだけはわすれませんでした。
長者は、家に帰るとさっそくその薬をつる姫に飲ませました。すると、まだおさなかった姫は、たちまち、十七、八才の美しい娘になってしまいました。
姫は、毎日を山で遊ぶことを、この上もない楽しみにしていました。ところがある日、遊びに出た姫は、山から帰ってきませんでした。長者は心配し、山をくまなくさがし八方に人を走らせてさがしたのですが、ついに手がかりがありませんでした。
長者夫婦は、あれほどかわいがっていた姫がいなくなったことで、生きる望みもうしなってしまいました。すると、ある夜、長者のねている枕もとに神様があらわれました。
「お前の姫は、水の中で鯉となって、うかび上がることはないであろう。だが、今までの宝物を人々にあたえ、無一文になって毎日神様や仏様においのりをささげれば、姫は竜の神様になって天に上るであろう。」と、いわれ、夢から覚めました。
そこで、長者は、姫かわいさのあまり、うるし千ばい 朱千ばい くわ千ばい 黄金千ばい を後山の千騎返りにうずめました。
解説
この種の話は、富豪の栄枯衰退を語る話で、長者伝説とよばれ全国各地に分布しています。栃木県下にも、たくさん分布し、小山市、日光市のものなどが知られています。話の中に登場する朝日長者は、この種の話に好んで用いられる名で、中世の日光山の縁起伝説にもその名が見えています。
本文は、栃木県連合教育会編「下野伝説集『うるし千ばい・朱千ばい』」を参考にしました。この話は、伝承者によって、朝日長者に匹敵するこの地方の大金持ち夕日長者のむすこが、鶴姫に恋いをしたとか、朝日長者と夕日長者が、黄金埋蔵の歌のなぞを解くために争ったとか、後世、領主井伊掃部頭の乗馬が後山にまぎれこんだ時、ひずめに朱をつけて帰ったという話もあります。
また、旧家の馬が「千騎返り」に迷い込み足に朱をつけてきたといいます。その家にはその朱で塗りあげた漆器が残っているともいわれています。朝日長者と夕日長者の競い合いは、「鯉が久保」の話を参照して下さい。
雀宮神社   佐野市堀米町
藤原秀郷公が朱雀天皇を尊崇して創建したものであるらしい。
浅間神社・浅間の火祭り    佐野市奈良淵町 
高さ192mの浅間山の山頂にある浅間神社のお祭りで、地元では「浅間さんお焚き上げ」とも言われています。
祭りの日の夕方、地元の人たちが山頂の神社に参拝し、無病息災、五穀豊穣を祈願し、その年にとれた150束の小麦わら(地元ではカヤと呼ぶ)に火をともす「点火の儀」が行われます。そして、訪れた人たちが、手に手に持った松明にその火をもらい山を下ります。
遠く浅間山を望むと、山頂までの参道は、火の橋のごとく暗闇に浮き出て、その美しさを醸し出します。
およそ1,000年の歴史を持つという伝えがあるこの火祭りは、藤原秀郷が唐沢山に城を築き、この付近一帯に藤原氏一族が住みつき、彼らの威勢を示すために山上で火を焚いたのがおこりだといわれ、以後村人は、火を焚き悪病を追い払ったといいます。
露垂根神社   佐野市富士町
御祭神 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
創建・建立 天慶5年(942年)
由来  藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐澤山に勧請。大永時に笠松山の中腹に奉移し、慶長時に現在の所に遷座された。明治5年、露垂根大明神を露垂根神社と改称した。
関東五社稲荷神社   佐野市大栗町
創建は天慶5年(942)で、藤原秀郷公が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したと云います。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになりました。田沼町に鎮座する有名な一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものと云います。降って明治6年に社号を関東五社稲荷神社と改称し、現在に至りました。
光徳寺   佐野市犬伏下町
本尊 阿弥陀如来像 宗派 浄土宗
境内には天満宮があり、師弟関係にあった菅原道真公を祀り、恩師を偲び光徳寺の守り神としています。開祖柏崎高徳のお手植えである「びゃくしん」の木は樹齢800年を超えており、佐野市の文化財に指定されております。加賀の千代尼(1703- 1775)が詠んだ「今日こずは 人のもとめに 初さくら」の俳は、桜の木が多かった当時の光徳寺の様子を詠んだ物で、千代尼の直筆の掛け軸が保管され、境内にも石碑が建てられています。
唐沢城主 田原藤太秀郷の家臣、柏崎高徳が建立。柏崎高徳は菅原道真(844年〜903年)の師弟でもある。
宝暦10年(1760年)旧本堂再建。
平成5年 老朽化の進んだ旧本堂を再建しました。
平成18年 庫裏・客殿を新築。
上羽田八幡宮   佐野市上羽田町
承平6年(936年)田原藤太秀郷、朝敵将門を討つべき命を承けて当郷まで出馬なりしが名にし負う強敵なればとて宇佐八幡宮を奉じ戦勝を祈る。その擁護により遂に賊を平らげて唐沢城を築きたり。
天慶5年当境内に兵器を埋め塚を造りて宮殿を建て、以て裏鬼門鎮護となり即ち現本社の後方小高き処道場塚といいて鎮護なりしを後、元禄8年宮殿再建の際現在の処へ遷座したるものにして刀剣類朽ち錆びて寸断となれるもの地底より発見したことあり。
大鹿神社   佐野市船津川町
藤原秀郷公が武蔵守に任じられた際に建立したと伝えられている。佐野市には秀郷公が創建したと伝えられる神社が多く見受けられるのが、神仏への信仰心が篤いということか。
御祭神は武甕槌命で、天慶三年(940)に藤原秀郷公が従四位下下野武蔵守に叙位された時に天命郷の春日岡山に建てられたが、永正六年(1509)に現在地に遷座し、大鹿神社と称したとのこと。宝永年間(1704〜1711)に本社を再建、正一位に授けられて隆盛したが天明六年(1786)と慶應二年(1866)に火災を被っているそうだ。
浅田神社   佐野市馬門町
社号標石には「下毛野国 天命総社」とあり、また鳥居の額にも天命総社と書かれている。
鳥居をくぐって右手側に八坂神社。左手側に粟嶋神社。参道右手側に仙元神社。参道左手側には御嶽山神社と嶽普明大神。その左奥に阿留摩耶大権現。拝殿額には天命惣社浅田大神とあるが、御祭神はどなた様だろう? 景行天皇五十六年(126年)に勧請されたもので、古くは天命総社や阿曾大神宮とも称していたそうだ。阿曾はこの辺りが以前は安蘇郡だったからか。
御祭神は大己貴命と事代主命、豊城命の三柱で、蝦夷征伐に向かう日本武尊がこちらに神籬を建て(630年のことであるらしい)、後、その址に神社を建てて天命郷の総鎮守となったのだとか。また、現在の社殿は1854年(嘉永六年〜七年)に建てられたものだそうだ。
藤田神社   佐野市越名町
天慶年中(938〜947)藤原秀衡公が勧請してと伝えられています。江戸時代初期までは藤太大明神とも称されていました。  
■鹿沼市
押原神社   鹿沼市上殿町
祭神は大物主命相殿天照皇大神素盞嗚命少名彦名命日本武尊誉田別命なり。
本社は人皇第五十一代平城天皇 の御字大同四年(八〇九)九月十九日の創建にて押原宗丸 の勧請なり。往古は押原の郷六十六村と稱せしが當郷疫痛に罹りて死する者多し 押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す或夜の夢に大神告げたまはく我れを斉祀すれば疫痛熄むべしと忽ち覚む是に於て清浄の地を択び臣杉の下に霊祠を建て大物主命を奉斉す。疫病忽ち熄み年穀大に稔れり。かくて押原郷の惣鎮守押原杉本大明神と尊栄して宏壮の社殿を建築せり。それより神殿村と稱へたるが後上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬れるか。
本社は黒川円波守房朝崇敬の社なり。後天慶二年(一〇一五)平将門 反叛の時平貞盛 藤原秀郷 等が本社に戦勝を祈り速に追討して戦勝せしを以て本社に弓箭鏡剣等を奉納せり。爾来社賓たりしが惜しい哉第九十二代伏見天皇 の正應五年(一ニ九二)八月回祿の災いに罹り社殿悉く烏有に帰した。寛正四年(一四六三)九月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。當明神は井戸を掘ることを嫌ひ給ひ貞享五年(一六八八)三月廿一日神祇官領長上ト部兼連に請うて神位宗源宣旨を以て正一位を賜はり居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと云伝ふ。明治二年四月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに云ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて神社辺迄土地を所有し神社の祭典には仝家よりの参拝を待ちて後行へしとか口碑に残れり。
押原郷の部落を記せば
鹿沼神殿 田野。栃久保福岡玉田小代小倉 **伸
長畑。板荷下遠部。笹原田。下*深岩富岡。古賀志。小林岩*
手岡。板橋。大澤。八日市。柳戸。出道**。黄和田島。石耶田。小池。山口。片倉。根室。飯山。大波。大桑水*。十々六。大空ヲドロ澤。土澤。薄井澤。芹沼。森友。武子。見野**。大芦。柏尾。花園。日向*呂。千渡。荒針。飯田。南摩。栗野。酒野谷。村井。被山。奈良部。深津。*所。西鹿沼。花岡。引田。久我。
昭和四十八年九月十六日 吉日
鹿沼市上殿町八五四番地
古澤義雄 寄進
鹿沼市上奈良部町九番地
宇賀神廣作 謹書

祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)、相殿(あいどの:二つ以上の神を祀ること)天照皇大神(あまてらすすめおかみ:天照大神と同じ)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、少名彦名命(すくなひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)なり。本社は人皇第51代平城天皇 の御宇(ぎょ・う:帝王が天下を治めている期間)大同4年(809)9月19日の創建にて押原宗丸の勧請なり。
往古は押原の郷66村と稱せし(称する)が當(当)郷疫癘(えきれい:疫病のこと))に罹りて(かかりて)死する者多し、押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す、或夜(あるよ)の夢に大神告げたまはく、我れを斉祀すれば疫癘(えきれい)熄む(やむ:止む)べしと忽ち(たちまち)覚む(さむ:覚めること)是に於て(ここにおいて)清浄の地を択び(えらび)臣杉(おみすぎ?)の下に霊祠を建て大物主命を奉斉す。疫病忽ち熄み(たちまちやみ)年穀(ねんこく?一年の穀物?)大に稔れり(実った)。
かくて押原郷の惣鎮守、押原杉本大明神と尊栄して宏壮(こうそう:広大でりっぱなこと)の社殿を建築せり。それより神殿村と稱へたるが後、上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬れるか(あやまられるか:間違われる)。本社は黒川丹波守房朝崇敬の社なり。後天慶2年(1015)平将門 反叛(はんはん:謀反する)の時、平貞盛、藤原秀郷等が本社に戦勝を祈り速(すみやか)に追討して戦勝せしを以て、本社に弓箭鏡剣(弓・矢・鏡・剣)等を奉納せり。爾来、社賓たりしが惜しい哉、第92代伏見天皇 の正應5年(1292)8月回祿(かいろく:火事)の災いに罹り(かかり)社殿悉く烏有(ことごとくけう)に帰した。寛正4年(1463)9月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。當明神は井戸を掘ることを嫌ひ給ひ貞享5年(1688)3月21日神祇官領長上ト部兼連に請うて神位宗源宣旨を以て正一位を賜はり、居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと云伝ふ。明治2年4月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに云ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて神社辺迄土地を所有し神社の祭典には仝家よりの参拝を待ちて、後行(こうこう:あとから行くこと)へしとか口碑に残れり。
日吉神社   鹿沼市下南摩町
日吉神社は、伝承によると天慶3年(940)に藤原秀郷が平将門を討伐するにあたり、近江日枝神社・日吉大社(滋賀県大津市坂本)を勧請した7社のうちの一つといわれており、江戸時代には、油田村・西沢村・下南摩村(新田村)の産土神として祀られました。
この神像群は24躯の神像と仏像から成り、一部には弘治3年(1557)、元亀3年(1572)、慶長13年(1608)などの墨書銘が確認されています。虫害や鼠害による欠損、光背・台座の亡失など保存状態は良好とは言い切れませんが、日枝山王信仰に係る24躯の神仏が一括して所在することに加えて、猿を象るなど造形にも優れ、また記載年代から壬生氏との関連も推測されるなど、地域の貴重な資料として文化財に指定されました。
日吉神社   鹿沼市池ノ森
鳥居の額束に「□□二癸巳□建立八月吉日」と刻まれている。こちらの神社は寛正二年(1461)に宇都宮明綱から池ノ森に村を拓くよう命じられた瓦井左京が、池ノ森村開発に着手すると時を同じくして日吉神社を勧請し村の鎮守と伝えられているのだそうだ。1461年より後で「二癸巳」となるのは天文二年(1533)、承応二年(1653)、安永二年(1773)の三つだが、額束の文字と形が似ているのは安永かな。
主祭神 大山咋神、大日孁貴命、素盞嗚尊 当社の創立は、寛正二(1461)年一一月一五日。元文二(1737)年、正一位山王権現と号し、慶応二(1866)年九月、正一位都賀日吉神社と改称した。明治三九(1906)年、神饌幣帛料供進社に指定される。現在は氏子数も多く、池の森を守護する社として崇敬され、賑やかな例大祭が行なわれている。
日吉神社   鹿沼市日吉町
神社は標高328.2mの岩山ハイキングコースの登山口に鎮座しています。創建は下野守・武蔵守・鎮守府将軍の役を兼任し、唐沢山(現在の佐野市)に城を築き、善政を施した藤原秀郷が勧請したといわれていますので、平安時代中期と思われます。入口に「正一位 山王大権現」、「御祭神 大山咋神」の石柱が見えます。
天保5年(1834)生まれの狛犬。阿は角を付け、吽には頭頂部に穴があります。
日枝神社   鹿沼市板荷
御祭神 大山咋神
アンバ様は板荷の大杉神社(日枝神社)のことで、悪疫退散、地域内の安全の神、また水神として地元の信仰を集めています。祭りでは神社を出発した神輿が地域内を練り歩き、大天狗・小天狗が獅子を引き連れて家々を訪れ、悪魔払いと春の事触(ことぶれ)を行います。天狗が先導する神輿のあとには屋台が続き、その場で大杉囃子を様々に演じ分けて、祭りを盛り上げて歩きます。アンバ様は、板荷の大杉神社(日枝神社)のことで、「アンバ」とは大杉神社本社のある茨城県稲敷郡「阿波」の地名に由来しています。
■小山市
白鳥八幡宮   小山市白鳥
神社は天文3年(1534)に部屋村と白鳥村の境を流れる巴波川に寒い冬の深夜、ホカイ(漢字では「外居」、「行器」と書き、木製の丸い容器の事。木材を薄く加工し、其れを曲げて仕上げる事で強度を増したものですが、重さが軽い容器なので行楽の弁当箱、旅行・携行食器として使われました。秋田県で有名な「まげわっぱ」を思い出して頂けたら、想像できると思います。)に入ったご神体が流れ着き、創建された模様です。八幡宮なので、御祭神は誉田別命と思われます。
白鳥八幡宮の古式祭礼といわれる、頭屋制の名残りがうかがえる貴重な祭りが有名なようです。これは近くを流れる巴波川で深夜の若水汲みから始まり、その水で赤飯を炊き神への供物とします。その後供物を持った行列は当番組の宿から八幡宮へと向かい神事の後、鳥居に吊るされた鬼の面を的に弓矢を射る。これは鬼、すなわち悪霊が村に入るのを防ごうとする行事です。日の出を合図に、供物の行列が祭りの当番宿を出発するので「日の出祭り」とも云われています。
中久喜城   小山市中久喜
別名:中岫城、亀城、岩壺城
築城年 平安時代末期 築城者・城主 小山氏
久寿二(1155)年に小山政光が、先祖藤原秀郷が天慶の乱平定時に平将門調伏のために牛頭天王を祀った地に築城したという。永徳元(1381)年、小山義政が二度目の挙兵で鎌倉府・足利氏満軍に破れ、中久喜城付近の北山万年寺で隠居して「永賢」と号したという。その後、義政は祗園城を自焼して三度目の挙兵をしたが、上都賀で自刃した。
戦国末期の天正年間には、祗園城主・小山秀綱とその実弟の結城城主・結城晴朝が北条氏方と反北条氏方に分かれて抗争を繰り返した。これを見かねた佐竹義重・多賀谷重経が仲介となり、二人を北山の地で会見させて和談し、それを記念して北山の地を「中久喜」に改めたという。また、天正九(1581)年の北条氏照書状、天正十二(1584)年の結城晴朝書状などにより、中久喜城周辺が北条勢力と反北条勢力の「半手」であったことがわかるという。天正十四(1586)年に北条氏政らが祗園城に入った際には、反北条勢力は結城城・中久喜城で備えを固めていた。
天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏が滅ぶと、結城晴朝は家康次男の秀康を養子に迎えて結城城を明け渡し、自らは中久喜城に隠居した。慶長八(1603)年の結城秀康の越前転封に伴い廃城。

小山氏の属城。近くには結城と小山を結ぶ街道があり、もともとはこの街道を監視し、小山領と結城領を繋ぐ「繋ぎの城」だったと思われます。
しかし中久喜城が大きくクローズアップされるのは、むしろ結城氏から見た「境目の城」としての役割にありました。天正年間には祗園城が北条氏に占領され、祗園城は北条氏照の北関東攻略基地となります。これに脅威を抱いたのが結城城主の結城晴朝。晴朝は小山秀綱の実弟にあたりますが、北条と上杉の間を行ったり来たり、生き残りのためならば兄の居城をも攻撃するという、形振り構わぬ露骨な「生き残り策」を演じた人物です。北条に祗園城を奪われた兄・秀綱も、さすがにこの弟を頼る気はしなかったようで、結城領を通り越して佐竹氏に庇護を求めています。
で晴朝、いよいよ北条氏がお隣の祗園城に陣取るに至って、「これはマジでヤバイ」と思ったか、ここからは反北条勢力に乗り換え、宇都宮国綱から養子まで取って、北条氏に警戒にあたります。その最前線となったのがこの中久喜城でした。そして天正十八(1590)年、北条氏が滅び、それに連座して実家の小山氏も滅んでしまうと、晴朝は養子に豊臣家に養子入りしていた家康次男の秀康を養子に迎え、自分はこの中久喜城に隠居します。宇都宮氏の養子は「返品」、そして実家との「境目の城」であったこの中久喜城で隠居・・・図太い神経してますよ、この人。
須賀神社(すがじんじゃ)   小山市宮本町
旧社格は郷社。祭神 素盞嗚命(牛頭天王)/大己貴命/誉田別命(八幡神)。
この神社は社伝によれば、940年(天慶3年)藤原秀郷が現在の小山市中久喜に創建したのに始まるとされ、現在地に移ったのは平治年間(1159年 – 1160年)とされる。中世には小山氏の崇敬が篤く、小山城の守護神とされた。元は小山城内にあったとされるが、江戸時代初期、小山藩藩主となった本田正純によって現在地に移転されたという。
小山城の別名である祇園城の名はこの神社(祇園社)に由来している。小山市全域、野木町、国分寺地区、下石橋、小田林地区などを含む、小山六十六郷の総鎮守であった。1605年には小山城主本多正純より計50石を寄進され、のちに15石の朱印地を認められた。
参道は旧日光街道に面した通りから始まっているが、現在は道路によって分断されている。境内には小山氏やその祖である藤原秀郷の顕彰碑がある。また、天狗党に属した昌木春雄はこの神社の神職の次男であり、彼の顕彰碑も立てられている。社殿の南側には七ツ石がある。この七ツ石は本来祇園城にあった石であるとのことで、小山の伝説に登場するもの。また、参道脇にある石鳥居は1653年に造立されたもので小山市では最も古いものであり、県内でも二番目に古い鳥居である。
小山城   小山市城山町(下野国都賀郡小山)
日本の城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。地元では主に祇園城と呼ばれている。城跡は、祇園城跡の名称で中久喜城跡、鷲城跡とともに小山氏城跡として、国の史跡に指定されている。
小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。
小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。
その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点となっている。
小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。
明治時代には第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建てられたが、現存してはおらず、発掘調査で礎石と思われるものが確認された。
別名である祇園城は小山氏の守護神である祇園社(現須賀神社)からとったものである。
興法寺(こうぼうじ)   小山市本郷町
天台宗の寺院である。
849年慈覚大師円仁によって一宇が建立され、妙楽院と号したのが始まりと伝えられる古刹である。
940年に藤原秀郷が祇園城を築城すると城内に移転し、徳王山妙楽院興法寺と号したともいわれる。その後は小山氏の祈願所となった。
江戸時代には幕府から9石の寺領が認められた。また、境内には戊辰戦争時の流れ弾の痕が残る石造り地蔵像がある。
現聲寺(現声寺)   小山市宮本町
天慶年間(940年頃)藤原秀郷公の開基で、当時は法相宗に属していました。永仁5(1297)年、時宗二祖他阿真教上人がこの地を巡錫した時より、時宗寺院(小山道場)となりました。
網戸神社   小山市網戸
式内社 下野國寒川郡 胸形神社
旧無格社
御祭神 田心姫命
配祀 大山祇神 天兒屋根命
創建年代は未詳。筑前の宗像(むなかた)神社からの勧請と伝えられ、式内・胸形(むなかた)神社の論社となっている。社名の読みは、資料によっては、「アジト」「アミト」などがあった。地名の網戸は、「アジト」と読む。
境内には、大き目の境内社が、稲荷と八坂の二つ。小さな祠には、奥瀬、皇宮、北向天満宮。その他にも幾つかの石祠が並んでいる。
「稚児が池」伝説   小山市乙女
乙女の北のはずれに、稚児が池と呼ばれる、約1.5メートル四方のくぼ地があった。かつては、熊野権現の境内で、神聖な池だったが、いつのころか社殿は朽ち果て、池も埋められてしまった。
あるとき、村人がこのくぼ地に鍬を入れたところ、たちまち倒れてしまった。別の人が同じことをしたら、失神してしまった。それから、ここを耕して畑にしようとする人はいなくなって、いつまでも空き地として残ったという。稚児が池の名前の由来については、
藤原秀郷の奥方が男子を出産した際に赤子を洗ったという説と、この池のほとりで毎年一人の稚児を生け贄にしたという説がある。
間々田八幡宮   小山市間々田
主祭神 誉田別命 息長帯姫命 
社格等 旧村社
創建  729年〜749年(天平年間)
創建は天平年間(729年〜749年)と伝えられる。
939年(天慶2年)、平将門討伐の為、藤原秀郷が戦勝を祈願。乱を平定したのち、このご神徳への恩返しとして神田を奉納した。以降、この一帯は飯田(まんまだ)と呼ばれるようになったという。
1189年(文治5年)には、奥州藤原氏討伐に向かう源頼朝が参拝。境内に松を植える。この松は「頼朝手植えの松」として氏子に守られてきたが、1905年(明治39年)に枯死した。
江戸時代には朝廷より日光に遣わされた例幣使が道中必ず参拝する習わしとなっていたという。
安房神社   小山市粟宮
祭神 天太玉命(あめのふとだまのみこと) 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
社格等 式内社(小) 旧郷社
社伝によれば崇神天皇代の創建であり、仁徳天皇代に再建されたと言われる。『延喜式』には「阿房神社」として記されている。
939年、藤原秀郷が平将門討伐に際して戦勝を祈願し、社領を寄進したとも伝えられる。中世には粟宮と呼ばれ、小山氏・佐野氏・結城氏・古河公方などの崇敬を受けた。
鷲神社   小山市外城
鷲城跡に鎮座する鷲神社。
史跡 鷲城跡
康暦二年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏十代の義政は、三次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康暦三年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局破れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城の二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。

『主祭神 大己貴命 天慶年間(938〜47)の創立。藤原秀郷が東国下向の折、武蔵国鷲宮明神に将門討伐を祈願し、その後、下野に下向し、下野国小山に鷲宮明神を勧請したのが、当社の創建であると伝えられている。その後、近郷近在の人々より子児の風邪・百日咳を治すなど、病気平癒の御神徳から信仰され、例祭日には卵の授与と奉納があって、殊に賑わっている。明治五年村社となる』
栃木県神社誌には上のように記されている、武蔵国太田荘の鷲宮神社から小山義政がこの城に勧請し、それにちなんで鷲城と名付けたともあるので、早くとも小山義政が父氏政の後を継ぎ下野守護職となった文和四年(1335。南朝の元号では正平十年)以降。応安五年(1372。南朝の元号で文中元年)頃の築城であろうと書かれているところもあったので、こちらの鷲神社の創立もそのあたりになるのではないだろうか。ちなみに武蔵国太田荘は藤原秀郷の後裔である太田氏の本拠地で、小山氏はその太田氏から派生した一族であることから、鷲宮神社との縁があったのだろう。
鷲城(わしじょう)   小山市外城
下野国小山荘にあった日本の城。城跡は、中久喜城跡、祇園城跡とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されている。
築城年代は不明。小山氏は、鎌倉時代以来下野国の守護に任じられ、中世を通じて下野国最大の豪族であった。
鷲城は中久喜城、祇園城とならび、小山氏の主要な居城であるとともに、1380年(康暦2年/天授6年)から1383年(永徳2年/弘和2年)にかけて起こった小山義政の乱において本城としての役割を果たした。乱における小山方の拠点として文献資料に記されたのは、鷲城のほか、岩壺城(中久喜城)、新々城、祇園城、宿城がある。
今日、櫓台、土塁、堀の痕跡が残っている。本丸には名の由来となった鷲神社がある。外城は宅地化され、地名となっている。小山総合公園が隣接している。
東箭神社(とうや)   小山市大字南小林
南北朝時代に、小山氏が祖先である藤原秀郷公から伝わったという箭を奉納して戦勝祈願をした事から東箭神社と呼ばれるようになったと言うことだが、すると創建は更に古いことになるのだろう。だが、由緒沿革や御祭神は不明。

東箭神社本殿 小規模な一間社流造の本殿で、屋根は木羽葺き、高欄付きの縁をまわして両側奥に脇障子を立て、前面に向拝を設ける。建物本体は文化九年(一八一二)に建設されたことが現存する棟札によって知られるが、この本殿の大きな特徴は、二十年ほど後に付け加えられたと考えられる豊富な装飾彫刻にある。
すなわち、胴羽目と脇障子には中国の故事を題材にした透し彫彫刻がはめ込まれるほか、木鼻の象や唐獅子、向拝虹梁上の龍などが丸彫彫刻となり、欄間、妻飾、手鋏、縁下小壁にも花鳥や波、魚、亀などをあしらった透し彫彫刻が施されている。いずれも欅材を素木のまま用いており、精巧で生き生きとした表現は、県内各地のこの時期の神社建築の中でも水準を越えた質を誇っている。
なお、胴羽目彫刻の作者は、背面に刻まれた銘によって、下野随一の彫物大工集団として知られた磯邊一族の名工「後藤周次正秀」であることが確認できる。
大川島神社   小山市大川島
藤原秀郷が平将門討伐の際に創建し、中世には惣大権現と呼ばれ、小山市西部、大平町などを領域とした中泉庄の総社として厚く崇敬されてきたそうです。此処は元総社だけあり今もって社地は広いのですが、右半分がゲートボール場になり、この日もお暑い中地域の方達が練習に励んでいらっしゃいました。又、此処には江戸期の狛犬が居たり社殿の彫刻が凄かったりと充分堪能させてもらいました。

主祭神 大己貴命 
配神 高龗神[たかおかみのかみ] 他の配神に伊邪那岐命、伊邪那美命、火産靈命、木花咲耶姫命
神社の南を走る道路は実は「日光例幣使街道」である。群馬高崎の倉賀野宿を起点とし、大川島の先を北上して小山宿、壬生宿、鹿沼宿と抜けて現在も残るもうひとつの杉並木の日光西街道・例幣使街道につながる。有名な方の杉並木・日光街道とは今市で合流する。
そうした歴史を背景に、ここの明神鳥居は「元禄四年」1691と320年前の古いものである。
藤原秀郷の勧請で天慶三年940に小山庄、中泉庄、西御庄の惣社とし、「惣権現」と称したが、江戸末期に「惣神社」、明治元年に「大川島神社」と改称。
「宝永六年1709」再建の本殿。手水石はもっと古く、水道施設で見えにくいが「寛文九己酉歳1669」と読める。
本殿 権現造石葺 拝殿 入母屋流造瓦葺
河原田神社   小山市下河原田
 
等覚院   小山市上石塚
安産の御利益がある「お腹ごもり」観音は、33年に1度、ご開帳されます。
摩利支天塚古墳   小山市大字飯塚
栃木県小山市大字飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。栃木県では第3位の規模の古墳で、5世紀末(古墳時代中期)の築造とされる。
栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。古墳は前方部を南西に向ける。墳丘は自然の微高地を利用して築かれており、墳丘上には円筒埴輪が列をなして存在している。築造時期については、古墳の形状や出土埴輪から5世紀末とされる。
本古墳の北方には同じく大規模古墳である琵琶塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった。
古墳域は1978年(昭和53年)7月21日に国の史跡に指定され、2002年(平成14年)9月20日に史跡範囲が追加指定された。
長栄寺   小山市小薬
慈母観音像が静に佇むお寺です。市指定有形文化財(華籠)を保有しています。
八幡宮   小山市下生井(しもなまい)
旧地名 下生井字妙見
主祭神 譽田別命 境内社 愛宕神社・水神社
思川と巴波川に挟まれた広大な田園地帯にある大きな杜に鎮座。いずれの河川もすぐ南で渡良瀬川に合流する。
天慶四年941山城国男山八幡宮より御分霊を勧請して創建。
社号標が「料指定」と見えてしまうが、この「料」とは「神饌幣帛料」の料。
寛政八年1796鳥居左手に昭和六年1931八幡宮参道記念碑。その左の丸い石は「力石」と呼ばれ、文政十一戊子1828。「三十二〆目」は重量か。
大正四年1915社号標。文化三年1806狛犬。文政十天1827手水石。
拝殿内に「八幡神宮」額、左手に板絵。
■宇都宮市
日吉神社   宇都宮市古賀志町
主祭神:大山咋命 境内社:磯部神社・粟津神社・中殿神社・八幡神社・祓殿神社・猿田彦神社・愛宕神社・稲荷神社
大谷街道・城山西小学校の東、大谷街道沿いに正徳四年1714の古賀志石製鳥居が堂々たる風情で立っている。比叡山の坂本山王を勧請し長治元年1104に創建。江戸時代には山王大権現と称したが維新に際して日吉神社に改称した。鳥居脇の由緒書きにある祭神は日偏になっているが大山咋命で『下野神社沿革誌』に合致する。『栃木県神社誌』昭和39年版の大山祇命は誤植か。
『古事記』によれば大山津見神の娘の神大市比賣かむおほいちひめが須佐之男命との間に大年神を生む。大年神が天知迦流美豆比賣あめちかるみづひめを娶って大山咋おおやまくひ神を生む。つまり大山祇おおやまつみ神(日本書紀の表記)の孫が大山咋神、別名山末之大主神である。『古事記』では続けて「此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」とあり、そこから日枝神社と松尾神社の祭神として祀られる。戦前まで日吉は[ひえ]と読んでいた。[ひよし神社]にかわった社もあるが、[ひえ神社]のままの社も多い。『栃木県神社誌』の読みは、ここは[ひえ神社]。

御祭神 大山咋命 / 長治元年(1104)宇都宮城主・宗綱の時代に、比叡山の坂本山王を古賀志山麓の高古屋に勧請し、その後、天正元年(1573)宇都宮と壬生氏の合戦により社殿が焼失したので、現在地に遷座されたと言われています。境内には古賀志の地名の由来の伝説を持つ「古い樫の木」があり、現拝殿は大正時代に校庭にあった観音堂を移築したものです。 
宇都宮二荒山神社   宇都宮市馬場通り
主祭神 豊城入彦命
社格等 式内社(名神大)論社/下野国一宮/旧国幣中社/別表神社
創建  (伝)仁徳天皇41年
(うつのみやふたあらやまじんじゃ、-ふたらやまじんじゃ) 式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ巴(菊に三つ巴)」。正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。
宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座する。
東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮氏が知られる。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の明治10年(1877年)の再建。
文化財として、国認定の重要美術品である三十八間星兜、鉄製狛犬などを有している。

宇都宮二荒山神社は、百貨店などが建ち並ぶ中心地の、標高約135mの神明山山頂に鎮座しています。
これまで何度も火災にあい古い史料のほとんどが消失していますが、社記には今から約1600年前に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられた時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祭神として祀ったのが始まりとされています。後の承和5年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。
延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大」とあり、宇都宮の二荒山神社が下野國一之宮といわれています。現在は通称「二荒さん」と呼ばれています。
今宮神社   宇都宮市新里町
主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命)
平安時代、平将門の乱を討伐した藤原秀郷の四男、藤原千種がこの郷に土着し、正歴3年(992)日光二荒山神社より御祭神を勧請し、今宮神社を創建した。
百目鬼(どうめき)通り   宇都宮市
百目鬼通りは、県庁前通りの一本南に位置します。通りの長さは150メートルほど。皆さんは、この百目鬼通りの名前の由来をご存じですか。宇都宮の民話などでは、いくつか逸話が残されています。平安時代、宇都宮で百匹の鬼の頭目である「百目鬼」が藤原秀郷によって退治されました。その400年後、当時塙田にあった本願寺の住職智徳上人が熱心に説教をしていると、その説教に毎日姿を見せる美しい女性がいました。その正体はあの「百目鬼」で、昔の威力を取り戻そうと、ここで流した血を吸い取るために来ていたのです。しかし、上人の説教を聞くうちに改心し、角を折り、爪をささげた、というものです。
また、地元には別な言い伝えもあります。昔、この近辺は八幡山と二荒山の山間で、山にはたくさんの山賊が潜んでいました。山賊たちの目が月夜に光る鬼の目のように見えたのでしょう。百の光る鬼の目から、この辺りを「百目鬼」と呼ぶようになったというものです。
終戦後は、この通りが官公庁やビジネス街に近接していたことから、居酒屋などが軒を連ねるようになり、勤め帰りの人々でかなりのにぎわいを見せていました。当時は私も数軒の常連として足しげく通ったものです。しかし、現在は店が減って跡地は駐車場となり景色は変わってしまいましたが、また当時のように赤提灯が復活し、にぎわいを見せる百目鬼通りになってほしいと願っています。
「百目鬼」の名が残っているのは今ではこの通りと自治会だけですが、とても愛着がありますね。百目鬼という伝説的な地名は知名度があり、みこしも有名です。中心市街地にお越しの際は、ぜひ、この百目鬼通りに立ち寄って、伝説に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
「百目鬼」伝説
今から千年も昔、平将門という武将が、時の朝廷に反旗を翻して、下総国猿島(現在の茨城県の猿島)において、自らを新天皇と名乗って即位しようとしたことがある。しかし無理は通らないもので、将門は朝廷から派遣されてきた藤原藤太秀郷らの尽力によって、討ち滅ぼされてしまった。この藤原藤太秀郷は、若い頃は、たいそうな乱暴者であったが、近江において大百足(おおむかで)を退治して一躍名を馳せた豪傑で、その腕力を期待されて、東国の平将門の乱に派遣されたのである。その秀郷が、下野国(現在の宇都宮市大曾あたり)に差し掛かった時、突然白髪の老人が現れて、秀郷にこう言ったそうだ。
「そなたは、万民のために、悪鬼を退治されにきたと聞く。大曾村にその悪鬼があらわれる。そこでしばし待たれよ」
秀郷が、その場所まで行くと、ただならぬ雲行きとなり、風が吹いて、その百目鬼という悪鬼が現れたのであった。身の丈は3mばかり。手には百もの目を持って、すごんだが、すでに大百足を退治した秀郷にとっては、物の数ではなかった。さっと弓を引いて、矢を放つと、百目鬼の心の臓に突き刺さって、苦しみながら逃げていった。秀郷の部下達は、その後を追って、明神山の辺りまで行ったが、百目鬼は最後の力を振り絞って、体から火炎を吐き、近づくことが出来ない有様となった。
そこに本願寺の智徳上人という僧侶がやってきて、法力をもって、「汝、我が法力により得度せよ」と呪文を唱えると、百目鬼から発していた炎は消えて、人の姿となって、死んでいった。以来土地の人々は、その地を百目鬼と呼ぶようになったというのである。
平将門首塚   宇都宮市下ヶ橋町
京都で晒し首になっていた平将門公の首が自らの胴体を求めて故郷である坂東に飛び立ち、力尽きて落ちた場所が首塚だと言い伝えられています。将門公の首塚だといわれる史蹟は京都から関東地方にかけて十数箇所はあるのですが、 最も北に位置するのがこちらの首塚となります。ここは将門公の首級を埋葬した場所ではなく、将門公の縁者によって建てられた供養塔なのですがなぜか「首塚」と言い習わされてきた。

平の将門将門は高望王の孫で、父良持は下総国豊田郡に館を構え、鎮守府将軍にもなった。将門の支配する下総三郡の外側には、彼の叔父たちが勢力をはっていた。年若い将門は亡父の遺領のことや結婚問題で争いが起り、一族同士の烈しい戦いが数年も続いた。天慶二年、将門は常陸へ攻め入り、更に上野を落し関東の大半を掌握した。興世王らは将門に称号を贈って「新皇」といった。天慶三年、朝廷は征討軍を発したが、平貞盛が下野の藤原秀郷の協力を得て、下総の岩井で戦って将門を誅した。彼の死後には彼を慕い彼を憐れむ者が多く、関東一円には塚や遺跡が多い。ここにある将門の首塚の碑は、縁故の者がこの地に遁れ、将門の怨霊を弔うために建てた首供養碑である。
高龗(たかお)神社   宇都宮市上戸祭町
主祭神 高龗神
栃木街道(桜通り)が日光杉並木に入る手前の西。環状線の南。開発されて田畑は消えた町の中の神社。50年前は田園地帯だった。平成18年刊の『栃木県神社誌』では[おかみ]字の高龗神社となっている。沿革誌も高龗神社で記録。本殿額は「高尾神社」になってしまった。他に社名を示すものは見当たらない。
左手に狛犬が16体保存してある。
「高地蔵大菩薩供養塔」「妙吉安産子育高地蔵尊」が境内左手に。
古い石塔が築山の上に。「至徳四丁卯八月x日」と読める。北朝の嘉慶元年に至徳が重なっていれば1387年なので県内の高お神社の中では読み取れる年代としては、調査済みのところでは最古の石塔になる。「聖金剛佛子 妙言貞禅」も読み取れる。
境内社に水波乃女命の水神社、素戔嗚命の八坂神社、大山祇命の湯殿神社
高龗神社   宇都宮市下戸祭町
主祭神 高龗神 
宇都宮市の中心部、県庁の西、中央署の北西となり。入口の鳥居額は風化が激しく読みにくいが、「高龗山神社」口3つ付いているようだ。「山」が付くのはここが始めて。拝殿の奉納額は「雨+罒+龍」で高龗神社、山なし。
「戸祭産石土碑 明治二十一年三月 藤田安義撰并書」の中ほどに「高龗神」の文字(赤点部)、口なし。
「天保十五甲辰十一月吉日」1844の二の鳥居。「安政三丙辰年四月吉日」1856の男體山石燈籠。明治九年の御神燈。大正六年の狛犬。明治三十三年十一月吉祥日の藤田素堂書の「拝殿新築献納奉名」碑。「大正五年七月五日」の笠石塔など。拝殿左奥に石鳥居付きの石祠群が5基。赤い小鳥居があるのが伊邪那岐命の三峰神社。その右が順に大国主命の大杉神社、須佐之男命の八坂神社。左右両端は不明。
一の鳥居に向かって左手はずれに境外社として高龗神を祀る「龍神社」がある。大正二年5月6日に稲荷神社を合祀している。由緒沿革によれば天慶三年940宇都宮城築城の際に創立。字宮前に鎮座していたが、明治維新で字戸祭が二分したため、明治6年9月29日に現在の鎮座地中城に遷座したとある。現在の社殿は昭和56年のもの。沿革誌の祭神表記から高龗は[タカオ]と呼んでいたことが分かる。栃木県内では「高淤加美」「高於加美」の表記の方が多い。高龗加美は珍しい。
高龗神社   宇都宮市芦沼町
当社は、応仁元年(一四六七)に創建され、「高龗神」を御祭神とする。
鬼怒川右岸広がる水田地帯にあり、早魃時には、雨祈を、増水時には洪水除けを行い、秋の豊かな実りを願って祀られた。
樹齢500年以上と伝えられる杉が3本茂り、静寂の中に崇高な神威をより一層高めている。
菅原神社   宇都宮市天神
祭神 菅原道真、大日孁貴命(おおひるめむちのかみ)
天喜年間(1053〜1058)当時陸奥守であった源頼義がその子義家と共に、当時奥州に城を構え朝敵となっていた安倍貞任(あべのさだとう)を攻めましたが、なかなか平定することが出来ません。その時、近江国(現滋賀県)石山寺の座主で、後に宇都宮座主(宇都宮家の祖)となった宗円(粟田関白道兼の三代孫)が朝敵調伏祈祷をし、この本尊が大谷多気山の不動明王といわれています。
その宗円の力によって貞任を討ち当地方を平定したという、その功により下野国守護職に任ぜられ宇都宮に居城を築きました。その折、城の四方に天満天神をまつり、文武両運の長久を祈願したといわれ、その東方に当たる社がこの神社です。
元禄元年(1688)には、城主奥平美作守昌幸が社殿、鳥居の造営、そして嘉永2年(1849・徳川家慶(いえよし))戸田家に至る160余年の間には、11回にわたって社殿の造営修復が行われ、当時の棟札が現存されています。
一条三丁目の天満宮が宇都宮城の西の守護神に対して、こちらは東の守護神。
天満宮   宇都宮市一条
祭神 菅原道真
天神二丁目の菅原神社が宇都宮城の東の守護神に対して、こちらは西の守護神。  
宇都宮城(亀ヶ岡城) 1   宇都宮市本丸町
城郭 輪郭梯郭複合式平城
築城 平安時代末期、藤原秀郷または藤原宗円
廃城 1868年
主な城主 長宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
歴史
宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、前九年の役(1051〜62年)に際し、藤原宗円(宇都宮氏の祖)は源頼義・義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当神社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。康平六年(1063年)藤原宗円によって宇都宮城が築城された。
以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。
戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠された。天正十八年(1590年)の小田原征伐ののち秀吉による宇都宮仕置が行なわれたが、このときに宇都宮城は安堵された。
しかし慶長二年(1597年)秀吉による突然の改易により、二十二代宇都宮国綱は廃された。
直後、浅野長政が入り、慶長三年(1598年)には蒲生秀行が18万石で入った。その後大河内氏、奥平氏と続いた。
元和五年(1619年)本多正純が入り、宇都宮城と城下の改修を行い現在の宇都宮の礎を作った。天守は造らず、二重二階の清明櫓で政務を行ったが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和八年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。
その後奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が入れ替わった。江戸後期安永四年戸田忠寛が入り、以降戸田氏7代が6〜7万石で治め幕末を迎えた。
慶応四年(1868年)四月戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は城下の町並(3千戸のうち2千戸が焼失)ともども焼失した(宇都宮戦争)。
宇都宮城 2
栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。別名、亀ヶ岡城(かめがおかじょう)。
平安時代に藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めである。近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城であった。本多正純の頃には天守があったといわれているが、清明台櫓を事実上の天守としていた。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に将軍の宿泊施設として利用された。
明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていないが、本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されている。今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある。
現在確認できる遺構
〇 埼玉県川口市本町の錫杖寺に明治41年に宇都宮城の門のを解体、移設再建されたと伝わる山門が現存。
〇 栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門は明治時代に宇都宮城の門を宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に萬松寺の山門として再移築されたと伝わる。現存する門は草屋根を近年瓦葺き屋根の門に改修されたもの。
〇 今小路門が明治時代に城郭一帯が民間払い下げになった際に移築されたと伝わる門が宇都宮市北部の民家に現存。
〇 三の丸跡の土塁上に旭町の大いちょうが当時の位置のままで現存する。
歴史
古代・中世
築城年代は平安時代に遡る。藤原秀郷もしくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。もともと宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
近世
戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原征伐に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した(なお、当時の宇都宮氏は後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に拠点を移していた)。宇都宮氏は秀吉から所領を安堵され居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易された。宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。
江戸時代
慶長6年(1601年)12月28日には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。
さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。こうして正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進した。この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。宇都宮城改修に際し、正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。
正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め、幕末を迎える。
近代
宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。宇都宮城には一時大鳥圭介ら旧幕府軍が入るが、直ぐに河田佐久馬、伊地知正治、大山弥助、野津七次、有馬藤太ら率いる新政府軍(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)に奪還され、宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡された。後、大津港に抑留されていた藩主戸田忠友も帰還。これ以降、宇都宮城は東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯、宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として下野国内から白河、会津と転戦する。前藩主の戸田忠恕は同年5月27日(1968年7月16日)に宇都宮に帰城するが間もなく他界した。旧暦(同年6月)、宇都宮城内には下総野鎮撫府が古河から移転してきた。また、1871年に真岡天領が廃され真岡県が出来ると、鍋島道太郎が真岡知県事に選任され、陣屋を真岡から宇都宮城内に移した。同年、城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯することとなった。この部隊はその後の1874年に東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に名称を変える。そして1884年にこの部隊が下総国佐倉に移駐となると、宇都宮城内は静かになり、やがて明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなって、城内には御本丸公園が整備され、市民の憩いの場として様々な催しが行われたという。一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、城郭の面影は徐々に消えていった。また濠は西館濠、地蔵濠などの内堀が戦後まで残され、鯉の養殖や蓮の栽培がされていたと言われる。
戦後、日本政府による戦災復興都市計画の策定に伴い、昭和21年(1946年)10月9日には宇都宮市も戦災都市に指定され、城跡の遺構は撤去され市街地へと生まれ変わった。昭和30年代(1955年 - 1964年)頃までは現在の東武宇都宮百貨店近辺にも大きな水濠が残存していた。しかし衛生上の事情を理由に、1972年(昭和47年)までにすべて埋め立てられた。
復元
宇都宮城本丸の一部が外観復元され、宇都宮城址公園として2007年(平成19年)3月25日に開園、一般公開された。復元されたのは本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓、および土塀で、土塁内部は宇都宮城に関する資料を展示している。復元された櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられている。復元に使用された木材は、土塀の柱と梁が青森産のヒバ材なのを除けば、栃木県内産の桧・杉・松が用いられている。土塁の構造体に限っては鉄筋コンクリート造である。都市防災公園を兼ねることから、本丸跡は芝生が広がるのみで、復元物はない。
清明台の内部に入ることはできるが、通常2階部分に上がることはできない。史実に忠実に復元したため、階段が急で踏み面が小さく、建築基準法を満たしていないことが理由である。
歴代城主
平安時代中期から後期に築城されたとされる宇都宮城は、代々藤原宗円を祖とする下野宇都宮氏一族の拠点として受け継がれたといわれる。なお、戦国期には一時、塩谷氏や壬生綱房などの壬生氏一族、皆川俊宗に占拠された時期があったが、以下の一覧にはこれを含めていない。
藤原宗円(康平6年 − ) / 八田宗綱 / 宇都宮朝綱 / 宇都宮成綱 / 宇都宮頼綱 / 宇都宮泰綱 / 宇都宮景綱 / 宇都宮貞綱 / 宇都宮公綱 / 宇都宮氏綱 / 宇都宮基綱 / 宇都宮満綱 / 宇都宮持綱 / 宇都宮等綱 / 宇都宮明綱 / 宇都宮正綱 / 宇都宮成綱(文明9年 − 永正13年) / 宇都宮忠綱(永正13年 − 大永3年) / 宇都宮興綱(大永3年 − 天文5年) / 宇都宮尚綱(天文5年 − 同18年) / 宇都宮広綱(弘治3年 − 天正4年) / 宇都宮国綱(天正4年 − 慶長2年) / 浅野長政(慶長2年 − 同3年) / 蒲生秀行(慶長3年 – 同6年) / 大河内秀綱(慶長6年 – 同7年) / 奥平家昌(慶長7年 – 同19年) / 奥平忠昌(元和元年 – 同5年) / 本多正純(元和5年 – 同8年) / 奥平忠昌(元和8年 – 寛文8年) / 奥平昌能(寛文8年 – 同9年) / 松平忠弘(寛文9年 − 天和元年) / 本多忠平(天和元年 − 貞享2年) / 奥平昌章(貞享2年 − 元禄8年) / 奥平昌成(元禄8年 – 同10年) / 阿部正邦(元禄10年 − 宝永7年) / 戸田忠真(宝永7年 −享保14年) / 戸田忠余(享保14年 − 延享3年) / 戸田忠盈(延享3年 − 寛延2年) / 松平忠祇(寛延2年 − 宝暦12年) / 松平忠恕(宝暦12年 − 安永4年) / 戸田忠寛(安永4年 − 寛政10年) / 戸田忠翰(寛政10年 − 文化8年) / 戸田忠延(文化8年 − 文政6年) / 戸田忠温(文政6年 - 嘉永4年) / 戸田忠明(嘉永4年 - 安政3年) / 戸田忠恕(安政3年 - 慶応4年) / 戸田忠友(慶応4年 - 明治4年)
■栃木市
藤岡城   栃木市藤岡町大字藤岡
別名 花岡館、中泉城
形態 平城
承平2年(932年)平将門によって築かれた花岡館がその前身と云われる。
寛仁2年(1018年)足利成行が再建して中泉城と称し、一族の佐貫太郎重光を置いた。 後に足利俊綱の三男忠行が城主となり、房行、房綱と代々続いた。
その後、藤姓足利氏の一族が城主となって藤岡氏を称し代々続いたが、天正5年(1577年)藤岡佐渡守清房のとき、唐沢山城主佐野宗綱との争いに敗れて自刃した。藤岡氏の後は家老の茂呂弾正久重が城主となったが、天正18年(1590年)小田原北条氏と運命をともにして廃城となった。

藤岡城は東武日光線藤岡駅の北西側一帯に築かれていたという。 台地の西端にある三所神社付近が本丸で、そこから東に二の丸、三の丸があったようであるが、現在は宅地や田畑などになって遺構はほとんど残っていないという。
藤岡神社   栃木市藤岡町藤岡
主祭神  天照大御神
配神  別天つ神 / 神代七代 / 月読命 / 建速須佐之男命 / 思金神 / 伊斯許理度売命 / 玉祖命 / 天児屋命 / 布刀玉命 / 天宇受売命 / 天手力男神
由緒沿革
天慶三年(940)の創立にして天正五年(1577)四月本殿拝殿とも焼失につき同十八年(1590)社殿再建の上藤岡鎮守と崇む。
その后元禄七年(1694)本殿建替、正徳二年(1712)吉田家より正一位の神位の許可あり。文正中紫岡神社と改め明治八年(1875)藤岡神社と改称す。
昭和五十六年(1981)一月、富士山本宮浅間神社、秋葉山本宮秋葉神社、伏見稲荷大社、諏訪大社、出雲大社、日光東照宮総本社の承認を得て常宝殿に奉祭す

主祭神 大日孁貴命
配神 伊弉冊命、月読命、天児屋根命、天宇受売命
天慶三年(940)九月相馬次郎将門滅亡の折、武蔵権頭興世の家臣六名、讃岐太郎竜蔵慈福入道円深、潜竜斉繁桂、頼秀坂法光、賢坊正喜、円蔵法歓喜、常陸の戦場より敗北し、一旦本国の平方へと帰ったが、高瀬船にて坂東川を逆上し、同十九日、藤岡へと帰り着き藤かつらのつるをたよりに上陸、荒れ果てた城を眺めつつ今の八幡宮境内にて自害、やがて八幡宮内に葬られ六所大明神として奉祀されたとも、また寛仁戌午年(1018)三月、常陸国筑波山より遷座せし神とも伝う。天正五年(1577)四月、兵火にかかり焼失、同十八年(1590)再建、元禄七年(1694)堂宇を立替、正徳二年(1712)吉田家より正一位の神位を受く。文政四年(1821)紫岡神社と神号の告文、明治五年(1878)村社、翌六年(1879)境内一町五段五畝三歩、同八年(1875)藤岡神社と改め祭神も表記の六神とした。境内神社に稲荷神社、東照宮
慈福院   栃木市藤岡町藤岡 (下都賀郡藤岡町藤岡)
真言宗豊山派
承平2年、将門がこの地に浄楽寺を建立し、やがて廃寺となった後に再建されて「慈福院」と号するようになったという。境内の薬師堂に祀られている薬師像は、将門の守り本尊だといわれている。
大前神社   栃木市藤岡町大前字磯城宮
式内社 下野國都賀郡 大前神社
旧郷社
御祭神 於褒婀娜武知命(おおあなむちのみこと) 
配神 神日本磐余彦火々出見命
豊城命 / 大穴持命 / 大名持命 / 大己貴命 / 於褒那武知命 神日本磐餘彦火々出命

創立年代は不詳。祭神は、於褒婀娜武知命(大己貴命)。下野国にはもう一つ大前神社があり、そちらも大己貴命。当社は、磯城宮と号していたそうで、祭神も豊城命(豊城入彦命=崇神天皇の皇子)とする説がある。豊城命は、下毛野君の祖とされており、豊城入彦命にまつわる伝承も多い。当社周辺には、「タタラ」跡が残っているらしい。社名の読みは、本来は「オオサキ」なのだが、近年以降は、「オオマエ」と読まれている。
小南城   栃木市藤岡町都賀字館
形式  平山城
築城者 飯塚氏か
築城  文治5年
栃木市、旧藤岡町の西部、都賀字館に所在します。東北自動車道佐野藤岡インターの南側、願成寺がある場所一帯になります。現在は主要部は墓地となり改変されており、その他は宅地及び水田となっております。願成寺山に主要部を設け、東側に曲輪を連ねる連郭式の縄張りで、規模は東西約400m、南北約100mになります。本郭は墓地となり改変されておりますが、本郭内部は三段に削平され、北側には土塁が見られます。南側には東西に100mにわたって空堀が見られます。本郭の東側が二ノ郭と思われ、東側には堀跡と思われる水田が見られます。さらにその東側が三ノ郭と思われ、三ノ郭は二段構成で、西側には土塁が見られます。南側は旧河川を利用した堀が見られ、北側に虎口が設けられております。
「栃木県の中世城館跡」によれば当城は文治5年に飯塚頼氏なるものが築城したと言われており、源頼朝の勢力下で、文明2年まで存続していたようです。
大神神社(おおみわじんじゃ)   栃木市惣社町
式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社。古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。松尾芭蕉『奥の細道』に登場する境内の「室の八嶋」が知られている。
祭神
主祭神 倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと) 大物主命を指す。大神神社(奈良県桜井市)からの分霊。
配祀神 木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと) / 瓊々杵命 (ににぎのみこと) - 木花咲耶姫命の夫神 / 大山祇命 (おおやまつみのみこと) - 木花咲耶姫命の父 / 彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと) - 木花咲耶姫命の子。火遠理命に同じ
歴史
創建
社伝では、崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、当時から広く名を知られた室の八嶋(むろのやしま、室の八島とも記す)に、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
概史
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。
春日神社   栃木市大久保町
承平六年(936年)九月下野押領使、藤原秀郷の創設である。後、寿永元年(1182年)風災にかかり、大破した。その時、宝物、文書、みな失ってしまった。その後、年月を経て応永三十三年(1426年)九月佐野越前守師綱が再建したが、天正年中、火災のため、ことごとく焼失した。慶長二年(1597年)「村長」十氏が再建した。現在の本殿がこれである。明治五年(1872年)十二月、十一ヶ村の郷社となり同八年六月拝殿を造営し、十年七月小区に分別するに至り郷社号を止めた。明治四十年四月指定村社となる。昭和四十一年(1966年)九月、台風二十六号による社木倒伏により、神殿及び拝殿倒潰する。改築の後、昭和四十二年二月遷宮し、部落民の崇敬の中心となっている。
布袋岡城   栃木市都賀町深沢字要害山
布袋岡(ほていがおか)城は、大柿花山という花木園の東側の尾根一帯に築かれている。
山頂部から西側は上記の花木園の敷地内となっているが、城らしい遺構が見られるのは、山頂部ではなく、むしろそこから東側に長く延びている幅広の斜面上である。というわけで、登城するためには大柿花山から入り込むよりも、東側に展開している尾根に取り付いた方が早い。
というわけで、東側に突き出した、北から1本目と1本目の尾根の間の畑になっている谷戸を進んでいって、池を過ぎた辺りから左手(南側)の尾根に取り付いてみることにした。急峻な斜面だが高さは10mまではないのですぐに登れる。するといきなり大規模な横堀の所に出て、すでにここが城域であることがはっきりした。横堀の規模は大きく、期待が持てそうな気分になる。
城の最大の特徴は、山頂部ではなく、山麓に向かう斜面の途中に城の主要部を置いているという点である。鳥瞰図を見てもらえば分かる通り、城の主郭にあたるのは山の中腹にある1郭であると思われる。この郭を中心として、尾根の両脇には横堀を段階的に掘り、山麓部にかけて、城塁や堀切、土塁などによって区画された大規模な郭を段階的に配置している。山の斜面を利用して築かれた城にしては、かなり大規模な城郭である。
通常ならば山頂部が主郭となるべきであり、実際に山頂の尾根の北端辺りに「布袋山城本丸跡」と描かれた案内板が木にくくりつけられていた。しかし、山頂部は細尾根しかないので、ここに郭を営むのはあきらめたようである。代わりに東側の幅広の尾根に段階的に郭を造成するという手法を用いている。したがって、頂上部は郭ではなく、城塁といった機能で見ていった方がよい。
山頂から1郭までの間には段々の小郭がいくつも築かれている。頂上付近は斜面も急峻なので、大規模な郭を造成することは叶わなかったのであろう。通路はジグザグとして折り曲げられており、途中数箇所に、虎口状の切れが見られる。
城のある尾根の両脇には横堀が掘られているが、山頂から山麓まで一直線に延びているのではなく、途中で、小郭の平場となって分断され、また途中から横堀状になるといった変則的な構造をしている。これは一直線に堀底を通過できないようにするためであろうか。
上記の通り、主郭というべき郭は図の1であり、30m×60mほどのまとまった広さがある。その両脇には土塁が盛られ、側面部は高さ7mほどの急峻な切岸となっている。南北の城塁下には腰曲輪が築かれて防御を固めている。南側は斜面がやや緩やかだったのか、腰曲輪はさらに下に一段築かれている。1郭の東側には堀切が入れられているが、これがまた半端なもので、南側の部分と北側の部分とは接続しておらず、間に微妙な段差で区画された部分がある。
1郭の虎口と思われるものは南西側の付け根部分にあるが、その他にも、東側の正面と、北東端辺りにもある。しかし、これには後世の改変もあるだろう。本来の虎口はやはり南西側のものであったと思う。東側のものは本来の登城道であったかどうかはっきりしないが、現在、地形が不分明になっている2の北側部分が、もっとしっかりとした区画のものであったなら、馬出し状の機能を認めてもよいかもしれない。また、1郭の北東端辺りに高さ1mほどの土壇が置かれている。この土壇の上部は窪んており、狼煙台のようにも見えるものであるが、狼煙台を置くには場所が半端すぎる。城の守護神として祠でも置いていた所であろうか。
1郭の南側には2,3といった平場が形成されているが、さらにその先には4,5といった、椎茸畑になっている広大な平場がある。これらの郭を合わせると、全体としてはかなりの面積となり、相当数の軍勢を駐屯させることも可能である。宇都宮氏に備えて、大軍を収容して備えることを意識していたのであろう。4郭と5郭との間は堀切状の通路となっており、5郭の側には土塁も盛られている。また、この間の切り通し通路は、5郭の側面部から台地下に続いているようである。こうしてみると、5郭もわりと独立性の高い郭であったことが分かる。
この先にも平場は段々に続いているようであるが、ここから先は民家の敷地となっているようなので立ち入りは遠慮しておいた。山麓部から見ると、一番山麓に近い大きなお宅のある区画も、いかにも居館跡のように見えるのだが、どこまで城域であったのか、きちんと掌握はしていない。
布袋岡城は、山頂から山麓にかけて山の斜面上に延々と郭を配置するという独特の構造のものである。宇都宮氏に備えて皆川氏が築いた城であるだけに、東側の防御のみを重視した城郭であった、といえるかもしれない。山頂部は物見台、あるいは狼煙台といった程度のものであった。
布袋岡城は、もともとは藤原秀郷が築いた城であったという。藤原秀郷といえば、平安時代の天慶年間に平将門を討伐したことで有名な人物であるから、そうとう古い時代の築城ということになる。
城を現在見られるような構造にしたのは皆川氏であると言われる。16世紀前半の永正年間のことであったという。この位置は、皆川氏の支配領域の東端に当たっており、東方の宇都宮氏を意識した境目の城であった。皆川氏は家臣の柏倉兵部左衛門をこの城に入れて、宇都宮氏に備えさせていたという。
布袋岡城落城の記事は『皆川正中録』という記録に載っている。これによれば、天正16年(1588)、佐竹氏の支援を受けた宇都宮国綱は、北条方の皆川氏を圧倒すべく、1万5千もの軍勢を率いて、西に進軍してきた。宇都宮勢が、鹿沼市磯城と西方城に陣を置くと、皆川勢は鹿沼の諏訪山城まで進出し対峙した。しかし、宇都宮勢の猛攻によって諏訪山城は落城、皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却した。皆川広照は、布袋岡城に兵を籠め、鉄砲・弓を揃えて籠城し、「ここで討死の覚悟」と思いを決め、宇都宮勢を待った。宇都宮勢の勢いは激しく、大手や搦め手からどんどん攻め込まれてしまい、城の維持は難しくなった。そこで広照は、城を捨てて皆川城に向かって退却した。
この城攻めによって、城は炎上し、落城したという。布袋岡城は、それ以後廃城となったものと思われる。1郭の上辺りの平坦地からは、現在でも炭化した焼き米が出土するそうで、炎上して落城したという伝承を裏付けている。
三毳山(みかもやま)   佐野市・栃木市
栃木県にある山。安蘇山(あそさん)とも呼ばれる。関東平野の北端に位置し、南北約3.5 kmにわたって連なる細長い山である。最高峰は青竜ヶ岳と呼ばれ、標高は229 mである。
〇 かつて西側山麓には安蘇沼があり、藤岡のみかほの崎から古くは岩舟の古江(元 安蘇郡古江)付近まで伸びていたもよう。
〇 万葉集や歌人などによって歌に詠まれてきた東山道の橋立・美加保ノ関の内側の湖は安蘇沼であったが、京都の天橋立の内海は阿蘇海である。
〇 下野風土記には、阿蘇川原並美加保乃関とある。
〇 西側と東側山麓には白山神社があったようだが、現在の名称は変更されているもよう。
〇 南東側山麓に古道「東山道」の跡と推定されている道がある。また、この道筋に古代の関所があったとされる。
〇 平将門を描いた将門記に描かれている、多治経明および坂上遂高らが押領使および藤原秀郷と対陣した「高山之頂」は安蘇山(三毳山)を指すとの説があり、手前の低い山が、美可母(美加毛)ノ山、美加保ノ山とされる。
村檜神社(村桧神社、むらひじんじゃ)    栃木市
旧社格は式内社。
主祭神 誉田別命
創建  (伝)646年(大化2年)
社伝によれば大化2年(646年)、熊野大神と日枝大神を迎えて祀ったという。 大同2年(807年)、合祀した皆川村小野口の八幡宮の祭神「誉田別命」を当社の主祭神として迎えた。また、清和天皇の代(858年 - 876年)、皆川村八幡沢に勧請した八幡大神を光孝天皇の代(884年 - 887年)に合祀した 。 天慶2年(939年)、平将門を討伐する藤原秀郷がここで戦勝祈願したと伝える。 中世以降、下野小野寺氏や唐沢山城の城主や佐野氏からも信仰を得た。 江戸時代には栃木宿が置かれた栃木町の商人からも帰依された。
日枝神社   栃木市大平町下皆川
天長二年(825)に慈覚大師(円仁)によって創建。往時は日吉山山王大権現と称していたのだそうだ。また、後に勝道上人が日光山本宮を建てたとも伝えられているとのこと。御祭神は大山咋命。
下皆川将門霊神古墳   栃木市大平町下皆川
古墳時代中期初頭の構築と考えられ、羨道(石室や玄室と外部とを結ぶ通路部分)は下皆川マガキ第一号古墳に次ぐ長さです。平将門の墓であるという伝説もあります。
小規模な可愛らしい円墳ですが、石室の長さが6mもあるそうです。さらに石段を上っていくと神社が祀られています。
清水寺   栃木市大平町西山田
天台宗の寺院です。清水寺の創建は奈良時代の天平元年(739)に名僧として知られる行基菩薩が自ら十一面千手観音像(現在の像は胎内銘により1265年作と判明しています。)を彫り込み開山したと伝えられています。大同年間(806〜810年)には下野国の国司が堂宇の造営が行われ、天慶10年(947)には藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が無事に将門平定出来た事に感謝し堂宇の造営、治承4年(1180)には兵火で境内が大きな被害を受けています。
十一面千手観音像は別称「滝の観音」と呼ばれ周囲の信仰の対象となり下野板東三十三観音霊場第二十六番札所に選ばれ、昭和53年(1978)に栃木県指定重要文化財に指定されています。脇侍である勝軍地蔵と毘沙門天立像は元禄9年(1696)に制作されたもので栃木県内に数少ない江戸時代の仏像とし貴重なものとして大平町指定有形文化財に指定されています。
清水寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、梁間4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ。清水寺観音堂は宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、正面左右の開口部は花頭窓、外壁は板張、弁柄色で着色されています。下野板東三十三観音霊場第二十六番札所。東国花の寺栃木4番。宗派:天台宗。本尊:阿弥陀如来坐像。
晃石神社   栃木市平井町
この神社は、太平山神社の西2km程の晃石山頂近くに鎮座しております。山頂近くにあり、広い道路も無いこの場所に良く建てたと思う程の立派な社殿が建っています。
晃石(てるいし)神社は遠い昔、山岳信仰によって建てられました。当時、鏡石(神石)があって、日夜恍々と輝いたことにより、綾都比之神と称されて山田の里人に崇めうやまわれることとなりました。
天慶2年(825)8月1日、左大臣藤原冬嗣公より社額を賜り従五位下に叙せられました。
天慶の乱の折、藤原秀クが必勝を祈願して勝利したので、その霊験に感謝し天慶10年(947)社を再建し寄進しました。
兵火や山火事により何度か焼失しましたが、今の建物は文政8年(1825)に再建されたものと言われています。本殿は欅材権現造柿葺で装飾彫刻は当地富田の磯辺凡龍斎信秀の作です。
金剛峯山如意輪寺   栃木市大平町
本尊 如意輪観世音菩薩
宗派 真言宗豊山派
金剛峯山如意輪寺は、正式には金剛峯山東泉坊稱徳院如意輪寺といいます。金剛峯山如意輪寺は、東武日光線「新大平下駅」の近くにあり、かつては、日光例幣使街道富田宿の脇本陣だったとのことです。
天慶元年、藤原秀郷が皆川村に「摩尼珠山釈迦尊寺」(旧称)を建立し、英親王の御霊に将門調伏を祈り、真弓と蔵井の庄園を寄付し開基したと伝える。
諏訪神社   栃木市大平町蔵井
主祭神 建御名方命
創立は不詳。「大平町誌」には、藤原秀郷が平将門調伏のために信濃の諏訪神を勧請したとあるが、坂上田村麻呂の伝説も残る。明治三六年(1903)、字西元の羽黒神社・字永東田の永東神社・字山ノ下の井臺神社を、同四二年(1909)、字西元の愛宕神社を合祀。大正一○年(1921)に社殿を造営した。配神として少彦名命・櫛御気野命を祀り、境内社に大杉神社・愛宕神社がある。
諏訪神社   栃木市大平町真弓
当社は、藤原秀郷が平将門の反乱平定の折、信州諏訪大明神に戦勝祈願をなし、天慶3年(940)神助により勝利し判官代に任ぜられたことにより、磯山の山上に祭神を歓請したのを創始とする。神社の鎮守する磯山は、海抜51mの県下最小の山と言われ、山上に天狗岩、御竜岩、亀ノ子岩の奇岩があり、天狗岩には「天狗の足跡(あしあと)」といわれる足形の凹がある。天狗岩からは太平、晃石の両山が望まれ、社殿前からは筑波山の勇姿と朝日の出を拝むことができる。
八坂神社   栃木市大平町真弓榎本
主祭神 健速素盞鳴命
藤原秀郷が平将門追討の際、山城国愛宕郡八坂郷の祇園社へ戦勝を祈願。神助により平定したことから、承平六(936)年に、この地に勧請したのが当社の始まりである。天正八(1580)年、疫病流行の折、神輿を作って巡行したところ、疫病が治まったという。元は祇園牛頭天王といったが、明治初年、八坂神社と改称した。

承平六年(936)山城国八坂より勧請されたと伝わる。天正八年(1580)疫病流行を御輿渡御によって鎮圧したので、西御庄榎本二五郷の総鎮守となった。別説によると、藤原秀郷は平将門追討の大願がかなったので、小山、結城、榎本の三ヶ所に祇園三社を祀った(940年頃)のが、この神社の始まりといわれている。
西水代八坂神社(にしみずしろやさかじんじゃ)   栃木市大平町西水代
主祭神 素盞嗚命
西水代の鎮守。正式名は単に「八坂神社」であるが大平地域内には複数の八坂神社があるため(榎本八坂神社・富田八坂神社など)地名を冠して呼ばれることが多い。旧社格は村社。
940年(天慶3年)に藤原秀郷が平将門討伐に際し戦勝祈願のため下野国都賀郡児玉郷祇園原(現在の栃木市大平町西水代祇園原、もとの西水代村祇園原)に勧請、1581年(天正9年)に現在地に遷祠、1711年(正徳元年)に京都の神祇官より「天王清」の社号を賜る。1868年(明治元年)に「八坂神社」と改称、1906年(明治39年)、社殿を改築し、大鳥居を建立、1909年(明治42年)に西水代内の諏訪神社他4社を合祀する。
八雲神社   烏山市
烏山市街地の中央に鎮座する八雲神社は、元からこの場所にあったものではありませんでした。那須資胤が牛頭天王に祈願するにあたり、大桶村から勧請したと言われています。場所も今のお仮殿の置かれるところで、名称も「牛頭天王社」と呼ばれていました。
牛頭天王とは元はインドの祇園精舎ぎおんしょうじゃの守護神といわれており、素戔嗚尊すさのおのみことと同一神とされ、また薬師如来の化身であると言われています。疫病よけの神様として日本全国の各地で祭られており、京都の祇園祭で有名な八坂神社もこの神様を祀っています。古くは山あげ祭もお天王さん、天王祭などと呼ばれ、天王建もこれに由来します。明治3年(1870年)、名称を八雲神社、祭神を素戔嗚尊に、そして大正3年(1914年)に社有地拡張のため現在の場所に遷座されました。
当初は信仰も祭典もありませんでしたが、その後神を敬うという思想が流れ始め、町の中央に位置し、薬師さまと同じように病気の神様と言う所から信仰が盛り上がってきました。永禄6年(1560年)には勧請祭礼が初めて行われたようですが、詳しい記録は残っていません。それから約80年後の正保元年(1644年)に、鍜冶町、元町・田町(元田町)、荒町(金井町)、赤坂町(泉町)、仲町の5町が初めて仲町十文字で祭礼を行ったと伝えられています。
寛文6年(1666年)、堀美作守親昌ほりみまさかのかみちかまさは神殿を新築奉納し、人々は烏山特産の和紙を用いて「山」を作り、踊り場を開設して奉納し、元文3年あたりから山あげの特徴と言える「所作狂言(歌舞伎)」が披露され、踊りが最高潮に達すると化生(神通力を有する者)が現れ観衆を沸かせました。これが「山」に降臨された八雲大神と神を奉迎した氏子等崇敬者が輪番に奉納された「山あげ」の芝居を鑑賞し共に喜びあう姿であり、本来の姿と言えます。
神社の祭は夏だけではありません。通常における神社の三例祭とは、祈年祭きねんさい(春祭)、例大祭(夏祭)、新嘗祭にいなめさい(秋祭)を言い、1年間の五穀豊穣を祈願するお祭りのことです。
祈年祭はその年の五穀豊穣などを祈願し、例大祭では収穫前に天災除けを、新嘗祭では春の祈願を聞き入れてくださった大神様への感謝と喜びを伝えます。烏山の八雲神社はこの例大祭が特化して「山あげ祭」として大々的に行われているのです。その他にも追儺祭ついなさい(節分)等の行事があり、これらはすべて当番町の若衆達が取り仕切ります。
嶽山箒根神社
嶽山箒根神社高清水(遙拝殿)
嶽山箒根神社高清水(遙拝殿)(たけさんほうきねじんじゃたかしみずようはいでん)
創建は大同元年(806)とされているが、定かではない。神社の縁起によると、宇都野(那須塩原市)町井沢より雲が龍のごとくたち昇り、光輝きながら霧雨崎へ渡って行ったのを見て、高清水大権現と崇めて祠を建て、高清水神社としたという。
その後、嶽山箒根神社の別当として本社(奥の院)祭礼の時には、近在の農民たちが豊作を祝い、「長百姓は本社並びに熊野社の前に座し、組頭は日光山神社の前に座り」、祭典を行なってきた。寛政2年(1790)に再建され、その後大正5年(1916)、本社(奥の院)と合併し、嶽山箒根神社の遥拝殿となった。
嶽山箒根神社奥の院(本殿)
崇神天皇の御代、東国に派遣された豊城入彦命が、当山を掃根山と名付けたといわれています。神社の創建時期は不明ですが、元慶元年(877)に従五位下の位階を授けられています。
その後、社殿は鳩ヶ森城主の祈願所となりましたが、天文12年(1543)大田原城主に敗れ、以降大田原城主の祈願所となりました。
現在の社殿は、文久2年(1862)に新たに建立されたもので、熊野神社は天明4年(1784)、日光山神社は宝暦3年(1753)に再建されました。大正5年(1916)宇都野の高清水神社を合祀し、箒根神社を村社嶽山箒根神社と改称しました。
日枝神社   日光市野口
日枝神社拝殿新造記念之碑
抑、当社は、今を去る千百余年前、嘉祥元年(848)七月五日、慈覚大師円仁が下野の守護神として此の地、野口平岡に山王権現を祀るに始まる。中世、当社は、近郷七ヶ村の総鎮守として、神威あまねく奉仕の僧坊二十余が立並び遠近の氏子相集って繁栄を極めたが、戦国の世、豊臣、北条両氏の騒乱に際し、当社は、僧坊ともども悉く灰燼に帰したと伝えられる。正徳年中、氏子挙って現社殿を奉斎し以後今日に及んだ。偶、昭和四十九年日光宇都宮道路の開設によりその補償金の一部を基金として氏子一同浄財を寄せ、ここに境内の整備を行い拝殿を新築したのでこれを識して記念とする。

円仁はここ下野国岩船の生まれと言われており(壬生町と言う説もあるようです)、東北、北海道にもその足跡を残している位ですから、故郷のこの地に円仁の開山による天台の寺院があっても何ら不思議ではありません。しかし円仁の帰国は承和14年。嘉祥元年と同じ848年。チョット早すぎる気がします。伝説なのでしょうか。現在地図をみるかぎり寺院は無く、恐らく明治の初め、本殿裏に石仏を残し、廃寺となったと思われます。
日枝神社本殿
日枝神社(旧称生岡山王社)は、嘉祥元年(848)慈覚大師の建立と伝えられる。江戸時代には、日光山王七社の一つに数えられ又、近郷八ヶ村(野口・所野・和泉・瀬尾・瀬川・小百・平ヶ崎・吉沢)の総鎮守とも称された古社である。現在の社殿は一間社流造で、棟札から貞享元年(1684)の建造とある。外部の塗装や飾金具は後世の修理をうけてあり、又屋根は元来茅葺であったものを近年改修したものである。向拝の挙鼻、蟇股の彫刻などに江戸時代の特徴がよく現れている。規模は小さいが、日光の古社にふさわしい社殿である。
高霞神社   今市市猪倉
建立940年(天慶3年)。平将門が落としたごはんをひろって食べたところと伝えられています。その故事からでこの地名の飯喰粒(いのくら)→猪倉の名が付いたという伝説があります。
湯西川温泉   日光市湯西川
壇ノ浦の合戦に敗れ逃れてきた平家落人が、河原に湧き出る温泉を見つけ傷を癒したと伝えられる歴史の古い温泉です。温泉地名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに旅館や民家が立ち並びます。湯量豊かな温泉を楽しむのはもちろんのこと、川魚や山の幸、野鳥・鹿・熊・山椒魚の珍味など四季を感じる地元料理を心ゆくまで堪能できます。味噌べら等を囲炉裏でじっくり焼いて頂く落人料理も有名です。また、1月下旬〜3月上旬のかまくら祭では、沢口河川敷に約800ものミニかまくらが作られ、夜には中にローソクのあかりが灯り、幻想的な風景が広がります。
野木神社   下都賀郡野木町
旧社格は郷社。応神天皇の皇太子である莵道稚郎子命を主祭神とし、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、宗像三女神を配祀する。
仁徳天皇の時代、奈良別王が下野国造として下毛野国に赴任したとき、莵道稚郎子命の遺骸を奉じて当地に祀ったのに始まると伝える。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。弘安年間(鎌倉時代)に配祭の五神が祀られた。
下野国寒川郡七郷の総鎮守とされ、江戸時代には古河藩主土井氏の崇敬を受けて古河藩の鎮守・祈願所とされた。明治5年に郷社に列した。
祭事
12月2〜4日には、寒川郡七郷を神霊が巡行する祭事が行われる。竹竿の先に提灯をつけて火を灯し、これを互いにぶつけて火を消し合うという祭で、一般には提灯もみ祭りと呼ばれている。建仁年間に始まったものと伝えられ、元々は神霊の巡行の際に、神霊を少しでも自分の村に迎えようと、それぞれの村の若者たちが裸で激しくもみ合ったことに由来するとされている。後にこれが提灯をぶつけ合う祭に変化した。
信仰
境内には、田村麻呂の手植えと伝えられるイチョウの木(推定樹齢1200年)が現存する。出産した女性が、乳の出が良くなるようにと願って、白布に米ぬかを入れて乳房を模したものをこのイチョウに奉納するという民間信仰がある。陸軍大将乃木希典が、姓と同じ読みであることから特別な神社と考え、何度か当社に参拝し、陣羽織などを奉納している。なお、乃木希典を祭神とする乃木神社との直接の関連はない。
長栄寺   真岡市二宮町
長栄寺は、嘉承3年(850)慈覚大師により創建されたと伝えられています。武将名門の信仰篤く、藤原秀郷も平将門征討の祈りに武運先勝を祈ったとされ、以来、祈願所として伝わります。その後、久下田城主水谷蟠龍斎正村が当寺の観音を信仰し、その孫の水谷伊勢守勝隆が寛永9年(1632年)に観音堂、大日堂、楼門、本堂、庫裏を再建しました。現在では楼門のみが残っています。
楼門は寛永9年に再建された当時のもので三間一戸、入母屋、瓦葺き、2層目には高欄を廻しています。長栄寺楼門は江戸時代初期の貴重な建物として昭和42年(1967)に真岡市(旧二宮町)指定有形文化財に指定されています。又、同様に寛永9年(1632)に再建された観音堂(千手堂:本尊千手観音、寄棟、茅葺、桁行5間、梁間5間、現在は銅板に葺き替えられています。)があり文化財指定されていましたが平成10年(1998)に月山寺(茨城県桜川市)に移築されています。
木幡神社   矢板市木幡
(1) 木幡神社の始まりと坂上田村麻呂
8世紀の末、桓武天皇は政治を引きしめようとして、延暦 13(794)年、 都を京都に移しました。こののち平安時代とよばれるようになりました。 坂上田村麻呂(758〜811)が征夷大将軍に任命され、東北地方に兵を出して蝦夷 えみし を討ち、朝廷の勢力を北上川の中流域までのばしました。 下野国は蝦夷と接するところで、大和朝廷の権威が行き渡っていました。
木幡神社の由緒によると、坂上田村麻呂はこの地峯村で宿陣し、「功あらば一祠を建立せん」と日ごろ崇敬していた山城国許波多 こはた 神社(現京都府宇治 市)に向かって戦勝を祈願しました。延暦14(795)年、戦に勝っての帰り 道、ここに社を勧請したのが始まりとされています。 祭神は許波多神社と同じ天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。
※祭神は正式には正哉吾勝勝速日天忍穂耳命で天照大神の子(神話時代の神)
※坂上田村麻呂を顕彰する寺社が日本全国に分布している。東北地方で 53か所(高橋 崇・坂上田村麻呂・新稿版より)あるという。
※東北の雄、阿弖流あてる為いと母礼の降伏は、延暦21(802)年のことである。
(2) 平安・鎌倉武士による崇敬
10世紀の前半、下総の豪族平将門が乱をおこし、関東地方を抑えていまし たが、下野の武士藤原秀郷らによってようやく鎮められました。秀郷は将門 を討つ際に木幡神社に祈願したといわれています。 さらに、中央の藤原氏が衰え始めた 11 世紀の後半には、中央政府に対す る反発や一族の内部争いから、前後2回にわたって乱をおこしました。(前 九年の役 1051〜62、後三年の役 1083〜87)これにより、東国の武士を率 いた源義家らによってしずめられました。その結果、関東地方の武士団と源 氏の結びつきが強まりました。
源頼義・義家親子は、陸奥の阿倍貞任 あべのさだとう を討つ際、木幡神社に祈願したと伝 えられています。下野の国は戦力を整えて出発する前線基地であったといえ ます。
(3) 塩谷しおのや氏の氏神としての塩谷惣社そうじゃ大明神
平安時代の末頃、下野国の塩谷地方を治めたのは源義家の孫頼純 よりずみ です。 その後、宇都宮から養子として迎えられた塩谷朝業 ともなり が川崎城を築き宇都宮 一族の北の守りを固めたといわれています。 鎌倉時代から戦国時代の400年間にわたって、塩谷地方を支配する塩谷氏 の惣社・鎮守の森として厚く尊ばれました。 鎌倉時代の御家人で歌人でもあった塩谷朝業の「信生法師集」には木幡神 社と考えてもよいと思われる歌が残されています。
氏のやしろ(社)によみて奉り
あわれみよわれもあらしになりぬべしははちりはてしもりの木のもと
(4) 県内最古の神社建築と国の重要文化財「楼門・本殿」
木幡神社の楼門と本殿は、栃木県最古の神社建築で国の重要文化財に指定 されています。昭和35 年から36年(1960〜1961)にかけて、大規模な解 体修理が行われました。(雨もりの期間が長く腐食破損が進み、東西に傾斜していることなどが分かった。)建物の特徴から室町時代中頃の建造物とい うことがはっきりしましたが、棟札・墨書は発見されませんでした。
室町時代の中頃は、正系が絶えたあと家名を再興した塩谷孝綱(宇都宮氏 17代成綱の子)の時代です。孝綱は永正11(1514)年に薬師如来立像(市 指定文化財・現川崎反町薬師堂)を寄進しました。また、子の由綱は父の死 から 3 年経った天文 18(1549)年に御前原城内にお堂を建て地蔵を祭りま した。現在、「はしか地蔵」と呼ばれ人々の信仰を受けています。このように信心深い武将であり、塩谷家の再興と塩谷惣社である木幡神社の再建に力 を注いだのではないかと思われます。
(5) 木幡社日光大明神へ 江戸時代
天正 18(1590)年、塩谷氏の滅亡により豊臣秀吉に社領を没収され、一 時衰えたものの徳川時代に入って日光二荒山の祭神を合祀しました。 三代将軍家光の時代、慶安元(1648)年、当村内に御朱印地2 百石が寄進 されました。 日光山輪王寺の支配下のもと、「木幡社日光大明神」と称して神仏混合と なり、楼門には仁王像が安置されました。
小野寺氏
出羽国において勢力を誇った豪族である。本姓は藤原氏とされるが守部氏ともいう。家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。かなり早い時期から多くの分流を生み出し、東北地方を中心に広く分布した。それらの諸家の中でも出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏の家系がもっとも有名であり、本項では主にそれについて述べる。
小野寺氏は平安時代後半に下野国都賀郡小野寺(現・栃木市岩舟町小野寺)を「一所懸命」の地としていたのが始まりと言われている。文治5年(1189年)の奥州合戦よる戦功でに出羽雄勝郡などの地頭職を得た。通綱は将軍源頼朝の信任厚く、以降も歴代将軍に近侍している。その為、各地の所領には庶流の子弟を代官として派遣し、惣領は鎌倉に常駐し出仕していたと見られる。南北朝時代に、惣領家も狭小な本領から広大な所領である出羽雄勝郡稲庭に移住したと見られる。小野寺氏は当初南朝方として活躍したようであるが、後に室町幕府に降る。足利将軍と鎌倉公方の和睦により、陸奥、出羽は鎌倉府の管轄となり、小野寺氏も鎌倉府に出仕する。しかし、鎌倉公方の支配に反発した他の有力国人と同じく、室町幕府の京都御扶持衆となり、鎌倉府に対抗した。また、歴代当主は将軍より偏諱を賜っている。
この後、小野寺氏は勢力を拡大し、各地に庶子家が分立する。しかし、この時期の小野寺氏の系譜については、史料的裏付けがとれず、不詳な点が多い。
戦国時代に入ると、小野寺氏13代にあたる景道のときに、雄勝郡をはじめ平鹿郡、仙北郡の仙北三郡から由利郡・河辺郡・最上郡にまで勢力を広げる有力な大身となり、「雄勝屋形」と称されて最盛期を迎えた。
景道の子・義道の代になると、戸沢氏、本堂氏、六郷氏など仙北諸将が離反し、天正18年(1590年)の奥州仕置時には5万4,000石余に換算できる横手城主であったが、奥州仕置で所領3分の1を削られた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成、上杉景勝らの西軍に味方したため、慶長6年(1601年)には改易されたうえ、石見津和野に預けられた。ここに戦国大名としての小野寺氏は滅んだ。
義道とその子孫は津和野藩主坂崎氏、のち亀井氏家臣となって幕末を迎えた。 また、義道の末弟陳道は陸奥南部藩に仕えた。義道の次男保道は横手に残っていたが、かつての家臣筋である出羽新庄藩戸沢氏に知行400石の客分の重臣として、のちに名字を山内氏と改め幕末まで続いた。さらに、赤穂浪士の一人小野寺秀和も義道の子孫と言われている。
唐の御所横穴(からのごしょよこあな)    那須郡那珂川町
和見・北向田から小口に至る西尾根に横穴墓群が散在しています。その中でも著名なものが、唐の御所です。
横穴はほぼ真南に向いて開口し、内部は横穴式石室と同様に玄室や玄門、羨道などがあります。玄室の長さは2.75m、中央での幅が2.34m、高さは奥壁前縁で1.9mで、玄室全体があたかも一戸の住宅を思わせるような構造です。天井は中央に棟木をつくり出し、左右に切妻の屋根に似せた勾配を持たせ、玄門の外側に戸をはめ込むための彫り込みが施してあり、精巧な点では全国的にみても屈指の例です。
周辺には、遠見穴、姫穴などの名称で呼ばれる横穴墓があります。

将門滅亡の後、将門の女がこの地に移って出家した三島城主・小高将良を頼って来て、古墳の中で男の子を出産したが、世を憚って唐土帝王の后が讒言によって遠く流されたと言いふらした。それで、この横穴が「唐の御所」と呼ばれるようになった。 また、将良を頼ってきたのは三女の如蔵尼で、彼女が身ごもった女を引き取ったという伝説もある。そして生まれた男子は、将軍太郎良門で、彼は十六歳のとき、この地を逃れ出て、父の報復を謀ったともいわれている。  
御前岩(おんまえいわ・ごぜんいわ)   那須郡那珂川町大山田下郷
武茂川沿いにある女陰の形をした自然石・奇岩である。
元禄5年徳川光圀が領内検分の折、御前岩を見て「これは誠に天下の奇岩じゃ」と驚き「かかるものを衆目にさらすことは、よろしからず」と土地の役人に命じ、御前岩の対岸に竹を植えさせた。この竹を腰巻竹と言い、現在でも武茂川沿いの国道461号から御前岩が直接見えないように遮っている。御前岩の上には小さな祠があり、そこには木や石で作った男根が奉納されており、子宝・安産・婦人病・五穀豊穣・商売繁盛・健康長寿に御利益があるといわれている。
また、かつては御前岩の中程の穴から霊水がしたたり落ち、月に一度月経のように変化して赤く濁ったといわれている。しかし、同町大内地区のサイマラ淵に御前岩と対となる男根の形をした「オンマラ様」と呼ばれる石があったが、明治時代末期にこの石が崩れて淵に沈んでしまって以降は、御前岩の霊水に変化は見られなくなってしまったそうである。
那須温泉神社   那須郡那須町大字湯本
ご由緒
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く、奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。従って神位次第に高まり、貞観11年(869年)に従四位上を授けられた。後世那須余一(与一)宗隆西海に扇の的を射るに当たり、当温泉神社を祈願し名声を轟かして、那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)6月19日正一位に叙せられた。現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。
ご祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)
那須の余一と温泉神社
那須余一(与一)は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れました。十一番、十あまり一で余一と命名されました。(後に与一に改名)
源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦いました。
有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わりました。
温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されています。『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わしました。その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しました。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。
余一は不幸にして24歳の短命で世を去りましたが、那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至りました。
百目鬼川   芳賀郡益子町
益子町を流れる「百目鬼川(どうめきがわ)」の名前の由来
以下の資料を確認しましたが、益子の百目鬼川についての記述は確認できませんでした。
〇 『日本歴史地名大系 9』(平凡社)
地名として、宇都宮の「百目鬼」、黒磯の「百目木」の項はありますが、百目鬼川の項はありませんでした。なお、「益子町」の解説の中に、百目鬼川の名前の記載のみあります。
〇 『角川日本地名大辞典 9』(「角川日本地名大辞典」)
「地名編」には、百目鬼川の項がありませんでした。「地誌編」の「益子町」の部分に、百目鬼川の名前の記載のみあります。
〇 『ましこの民話伝説とれきし』(益子町郷土理解教育研究会)
「鬼のつめ」という話が掲載されていますが、「小貝川」沿いとあります。
〇 『しもつけの伝説 4集』(栃木県連合教育会)
宇都宮の「百目鬼ものがたり」は掲載されています。
〇 『下野伝説集』1〜6(栃木県連合教育会文化部)
第3巻に、上記『ましこの民話伝説とれきし』にある「鬼のつめ」が掲載されています。
〇 『下野傳説集 あの山この里』(栃木県女子師範学校附属小学校)
上都賀郡永野村(現・鹿沼市)の「百目鬼塚」が掲載されています。
〇 『益子地誌集』(益子町史編さん委員会)
明治18年の「地誌編輯材料取調書」の部分には、百目鬼川の名前は記載がありませんでした。(小貝川、大羽川のみ)
〇 『日本の地名 60の謎の地名を追って』(河出書房新社)
「廿六木(とどろき)/百笑(どめき)/百々女鬼(どどめき)/土泥(とどろ)/堂々(どうどう)」という項があり、そこに、「右はいずれも、水の音によって付いた地名である。すなわちトドロキ、ドヨメキ、ドドメキ、ドウドウなどの言葉が地名化されたのである。」とあり、例として「百目木(どめき/どうめき)」「道目木(どうめき)」「百成(どうめき)」などが挙げられています。  
岩舟町
御門神社   岩舟町静
昭和初期までは「将門神社」と呼ばれ、将門を氏神としており、また「将門明神」とも称したといいます。地元の方たちは将門にゆかりある子孫で、大正末期の頃まで敵将の藤原秀郷を祭る唐沢山神社には、絶対に礼拝しなかったといわれています。よくよく見てみますと、この社の灯明塔には「将門宮」と刻まれていました。また、秀郷が創建したという説があり、佐野氏の旧記によると「秀郷の第三子、第四子が病死し、将門霊の祟りとされたので、当国の茂呂御門に将門権現を建てた。」と記されているといいます(『新撰佐倉風土記』より)。ちょうどこの地は、将門と秀郷の勢力圏の共存関係があったのではないかと思われます。
御門の地   岩舟町静
この御門の地では、桔梗の花が咲かず、白馬も飼わず、また、地元の方たちは将門にゆかりある子孫で、大正末期の頃まで敵将の藤原秀郷を祭る唐沢山神社には礼拝しなかったといいます。
三毳山   岩舟町小野寺
三毳山(みかもやま)は関東平野の北端・栃木県佐野市郊外にこんもり盛り上がった丘陵です。標高わずか229m、山と呼ぶにはあまりにも低い。しかし、万葉の昔から人々に親しまれてきた山です。万葉集に詠まれた次の一首はロマンの響きを持って現代人を魅惑します。
下毛野(しもつけの) 三毳の山の 小楢(こなら)のす  
ま麗し児ろは(まぐわしころは) 誰(だ)が笥(け)か持たむ (よみひとしらず)
歌意は「下野の国の三毳山に茂る小楢の木のように可愛らしい娘は、いったい誰の食器を持つ(お嫁さんになる意)のだろう。私のお嫁さんになるに決まっている」です。技巧や装飾のない実に素朴で素直な歌です。「のす」、「児ろ」の東言葉が土のにおいを醸し出しています。調べてみると、三毳山一帯は県立自然公園として大規模な公園整備が進んでいるようですが、稜線上は雑木林の尾根道が残されています。また、三毳山北面は関東随一のカタクリの群生地でもあります。
この山の東側(岩舟町)が将門の所領で、西側(佐野市)が秀郷の所領といいます。また、秀郷来襲の報により将門軍の者がこの山に登って様子を見たといわれています。天慶三年二月、貞盛・秀郷軍を迎撃するため、将門は自ら先陣にたって下野に入っていきました。しかし敵の所在が分からず、後陣を率いていた藤原玄茂・多治経明らが、敵情を察知して実否を確かめるため、「高山の頂に登りて遥かに北方を見れば・・・・」云々と『将門記』にあります。この高山が三毳山だといわれています。たしかにこの山に登って見てみると、北の方角に秀郷軍を発見しました。その様子では、敵の数は四千余りのようであったといいます。
村檜神社   岩舟町小野寺
秀郷が唐沢山に居城を構えたとき、当地はその鬼門にあたるため、城中鎮護の社として再建しました。秀郷は、出陣に臨んでは必ずこの社に祈願したといわれ、いまも残る大理石の上に立って、武将たちに作戦を指示したと伝えられています。将門を討ったのち、御神徳の賜物として弓矢を奉納したともいわれています。また、隣接の大慈寺は慈覚大師の開基で、小野小町にゆかりのある古刹です。
小野寺合戦地   岩舟町小野寺
秀郷軍が攻めてきたとき、将門軍の後陣がこれを察知して襲いかかりましたが、老練な秀郷に反撃されて敗北してしまいました。将門の属将・藤原玄茂らが三毳山で物見をしたおり、北方のここ小野寺盆地は、西方に唐沢山を控えて大小の谷間が複雑に入り乱れているところです。そこに、秀郷軍四千余りの軍勢を見とめた藤原玄茂・多治経明らは、将門に連絡もせず血気に任せて猪突猛進しましたが、逆に秀郷の術中に陥ってしまい部隊は支離滅裂となり、「在せる者は少く、遂に亡ぶる者は多し」という始末で、将兵の数は半数に減ってしまい、結局将門軍の滅亡を早める原因となってしまったといいます。  
御門神社   下都賀郡岩舟町静 
平将門の拠点であった御門に、将門を奉斎。将門は律令政府に対する反逆者ではあったが、当地においては馬宿が将門の拠点であったことなどから、むしろ身近な英雄であった。将門討伐の命を受けた平貞盛によって天慶二年一二月に討たれた時、将門の御魂に対し人々は深い同情と恐れを抱き、鎮祭した。  
 

 

 
■群馬県

 

■邑楽郡
一峯神社(いちみねじんじゃ) 1   邑楽郡板倉町大字海老瀬
権現沼の南側に位置しています。天慶三年(940)、藤原秀郷が平将門を討つため、この地に道場を構え「将門調伏」の祈願修行を行ったと伝えられています。境内には一峯神社貝塚があり、タコツボ型貝塚と呼ばれる縄文時代の貝塚であるといわれ、また、昭和24年には付近から男女の人骨が発掘されており、古代よりこの神社を中心としたこの台地での生活がなされていたことが立証されています。神社創建は奈良時代と伝えられますが、それ以前にも、古代よりここで祭祀が行われていたとも考えられます。
一峯神社 2 
天平宝宇8年(764)3月28日、日光開山の勝道上人が二荒権現を勧請し峯權現社(みねごんげんしゃ)としたとされています。その後、この地の領主であった藤原魚名(ふじわらのうおな)により藤原氏の祖先神である天津児屋根命(あめのこやねのみこと)が奉斎され一峯神社と改称されました。弘仁5年(814)には弘法大師が勝道上人の遺跡地を巡錫(じゅんしゃく)の折この地を訪ね真言道場を設けたとされ、現在も弘法大師と伝えられる石仏塔があります。天慶年中(946)には藤原秀郷が当地に道城を築いて将門調伏の祈願を行ったとされています。
社叢(しゃそう)
当初は植栽されたものですが社寺林として長い間伐採が行われず、遷移によって地域に適した本来の自然植生に発達しました。平地林として一地域に照葉樹林が集中して生有しており、里山の少ない町内における貴重な林を形成しています。神社の西側には北関東としては極めて珍しいリュウキュウチクが群生しています。また、林の木の実も豊富なため、多くの野鳥も見られます。
一峯貝塚
海老瀬(藤岡)台地の先端部分(標高22メートル)に位置する、径が1〜2メートルの地点貝塚です。主となるヤマトシジミの他にハイガイなどの貝類や、縄文時代早期(茅山式)の土器が見つかっています。縄文海進時のもので、当時、海が近くまできていたことが考えられます。 
西丘神社 1   邑楽郡板倉町西岡
東武線藤岡駅から西方2に「西丘神社」があります。もとは「赤城神社」と称されていて、秀郷の勧請によるものと伝えられています。今は「西丘神社」に合祀されています。境内には「赤城塚古墳」があり、「三角縁神獣鏡」が出土されています。  
西丘神社 2
羣馬縣管下上野國邑楽郡西岡村字赤城塚一五五二 郷社 赤城神社->西丘神社
祭神 大穴牟遅神 豊木入日子命
相殿 高木神 磐裂神 大日孁命 保食命 大雷命 菅原道真公 倉稲魂命 水波能賣命 木花佐久夜比賣命 猿田彦命
由緒 社傳ニ曰上野神名帳ニ子赤城明神トアルハ當社ナリ、故ニ太古ヨリノ鎮座ニシテ社ヲ子赤ノ森ト云ヒ字ヲ赤城塚ト云フ、明治五年壬申郷社ニ列ス
明治四十年十二月二十八日許可、本社境内末社水神社、浅間神社及赤城塚無格社神明宮、仝境内末社一社、仝村大字西岡新田字悪途村村社雷電神社、仝境内末社二社、字田崎無格社稲荷神社ヲ合併、郷社西丘神社ト改称
境内末社 五社
道祖神社 祭神 八衢神 由緒 文明七年七月創立
水神社  祭神 弥都波能賣神 由緒 明和八卯年九月創立
       明治四十年十二月廿八日許可本社へ合併
湯殿神社 祭神 大山津見神 由緒 元治元申年八月創立
浅間神社 祭神 木花佐久夜比賣命 由緒 嘉永二酉年四月創立
       明治四十年十二月廿八日許可本社へ合併
琴平神社 祭神 崇徳天皇 由緒 文政七年七月創立

西丘神社(旧赤城神社) 旧郷社 西岡・新田・(西谷田全域)
所在 板倉町大字西岡字赤城塚一五五二番地
祭神 大穴牟遅神 豊城入彦命 高木神 磐裂神 大日孁命 保食命 火雷命 菅原道真公 倉稲魂命 弥都波能売命 木花佐久耶毘売命 猿田彦命
神紋 三つ巴
宝物 三角縁仏獣鏡(群馬県指定重要文化財)
神事と芸能 古代太々神楽 一二座(神楽殿あり)
祭礼日 四月四日(春祭) 十一月二十五日(秋祭)
由緒沿革 創建不詳であるが天慶七年三月藤原秀郷の勧請と伝えられ、延宝四年三月館林宰相徳川綱吉が社殿を再建するため、社地を地形するため南面にある赤城塚古墳の墳丘部を削土した折、石室より三角縁仏獣鏡(三世紀)一面・直刀と剣の破片が出土した。現在は収蔵庫に保存されている。明治五年郷社に列せられ、同四十年十二月二十八日、字赤城塚神明宮・水神宮・浅間神社・字山崎稲荷神社・字新田雷電宮・猿田彦神社・字前原佐田神社・愛宕神社・金毘羅権現・瑜迦大権現・天神宮等を合祀して「西丘神社」と改称し現在にいたっている。現在の氏子は西岡と西岡新田である。

石段左側の石燈籠には「寛政九丁巳年十二月」、右側の石燈籠には「嘉永七甲寅年八月吉日」と刻まれている。寛政九年十二月は1798年で嘉永七年は1854年。右側の石燈籠建立の願主として醫王山十五世法印光範の名が刻まれているので、西丘神社の400m程北にある真言宗豊山派醫王山南光院が嘗ての別当寺だったのだろうか。

三角縁仏獣鏡 指定 昭和三十八年九月四日
西丘神社に保存されているこの鏡は延宝年間(一六七三‐一六八〇)に境内赤城塚古墳から農夫の手により発掘された。出土品として他に剱、直刀の破片がある。
三角縁仏獣鏡は直径二十二・〇八センチメートル。縁の断面は三角形で、内側に二重の波紋帯を挟む鋸歯紋帯がある。さらにその内側には鳥獣紋帯があり、鈕をめぐり主な紋様帯がある。図にあるように主紋帯には三体の仏像が表現されている。仏像が描かれている鏡は現在全国で五種八面しかなくこの鏡と同じものは他にない。
仏像の一体は蓮華座に結跏趺座し、瓔珞を首にかけ、頭光と髭がある。両肩には火焔とみられる突起があり、禅定印を結んでいる。
また、左手に蓮華を持ち、髭のある菩薩風の立像も表現されている。
三角縁仏獣鏡は三世紀に中国の魏で製作されその後、日本に伝わったものと考えられている。魏で製作されたものとするなら中国に伝来した仏教思想の影響、あるいは中国における民間宗教道教等との関係、さらに日中の関係を考察するうえで貴重な資料である。 
鞍掛山   邑楽郡千代田町赤岩字後天神原
秀郷が馬の鞍を掛けて、休んだところだと伝えられています。今は工業団地になっています。
舞木城址 1   邑楽郡千代田町舞木
秀郷生誕地
光済寺の北西近くに「舞木城址(秀郷生誕地)」があります。この城は、承平年間(931〜937)、藤原秀郷が築城したと伝えられています。600年間にわたり、藤原氏と藤原一族の居城でした。藤原氏は藤原鎌足を祖とする名門で、東北の雄・藤原秀衡は秀郷の子孫にあたります。城址公園の中央に「藤原秀郷公生誕の地」(この説は?)の大きな石碑があり、その手前の説明板には、舞木と館林の繋がりを浮き彫りにした伝説が説明してありました。《大袋城主・赤井照光が大袋城から舞木城への年賀の道すがら子狐を助け、その小狐が導きによって館林城(当時は尾曳城)を築いた、伝えられています。(『館林盛衰記』より)》
舞木城 2
遺構 なし 形式 平城 築城者 藤原秀郷 築城年代 承平年間
舞木城は、藤原秀郷が承平年間に築城したと伝えられ、その後その子孫が享禄年間まで秀郷の子孫が居城したという。 また、館林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって館林城を築いたと記されている。 この頃の城主は俵秀賢とその子五郎秀覧であった。
舞木城は、現在住宅地の一角にある小公園の案内板と藤原秀郷生誕之地と刻まれた石碑が建てられているだけ。資料にあった堀跡を探してみたがそれらしき地形はあったが、それが堀跡と確認はできなかった。 尚、城郭大系には小学校付近と記載されているが、この小学校は昭和44年に移転している。  
■太田市
八幡川原   太田市只上
鹿島橋から上流あたりを「八幡川原」といい、この八幡は近くにある「只上(八幡)神社」から名づけられています。川原はニセアカシアの林で、林の中に「大林神社」と書かれた小さな祠があり、近くにキツネノカミソリ(ヒガンバナ科)が咲いていました。藤原秀郷がこの川原で、将門を討伐したと伝えられています。この戦いの際、将門は秀郷の次男・藤原次郎(桐生氏の祖)に、蘇鉄の蔭から矢を射られ、天に舞い上がりばらばらになって、胴体は只上神社に、手は栃木県足利市の大手神社に、腹は大原神社に、足は鶏足寺に落ち、それぞれの地で葬られたといわれています。
 
只上神社 1   太田市只上
鹿島橋南詰から西すぐのところに「只上神社」があります。将門の乱ののち、秀郷が将門の首級を下野小俣(現在の足利市)の鶏足寺に送る途中、この地・只上(ただかり)にさしかかると、将門の首が怨霊となって奇声を発した。その後、この地に不思議なことが次々と起こったため、将門の胴体をここに埋め一祠を建てて「胴筒の宮」と呼んだといわれています。これが只上神社の前身だとのことでした。
只上神社 2
拝殿。拝殿の扉の上に掲げられた由緒書き。これを見ると、こちらの神社は元々は品陀和氣命を祀っていたが明治十年に鹿島神社から建御雷神を合祀、明治四十四年に諏訪神社(建御名方神)、日吉神社(大穴牟遅神、大山昨神)、赤城神社(豊城入日子命、石筒男命、石筒女命)、菅原神社(菅原道真公)、竈神社(火産霊神)、大山祇社(大山祇命)と他三社(大物主命と天皃屋根命と・・・誰?)を合併したとのこと。
拝殿左側に並ぶ末社群。左から葛城社、水神宮、稲荷社、雷電社、熊野社、神明社、厳島社。本殿裏に並ぶ末社群。左から二つ目が猿田彦大神、その右がおそらくは稲荷社。右奥は水天宮。
ちなみに只上町は平将門公の愛妾でありながら藤原秀郷公に内通した(もともと秀郷公の妹であるとか秀郷公に騙されたとの説もあり)とされる桔梗姫の出身地であるとか、只上神社に将門公の胴体を祀ったと言う伝説も残っているそうなのだが、桔梗姫は千葉県の生まれであるとする説もあるし、足利や太田には将門公伝説が少なくないのでそう言ったものの一つなんだろう。
桔梗の前   太田市只上
将門の侍女・桔梗の前(この地では秀郷の妹とされています)は、誰明(只上)村の出身で、将門を裏切り秀郷に内通した。このため、将門が滅びたが、乱ののち、桔梗の前は口をふさぐために秀郷によって殺害されたとも、また、この地に災いが続いたので、人々は桔梗の前を忌み嫌うようになったとも伝えられています。
心王寺   太田市只上
秀郷の命を受けて、慈正上人が将門の調伏の祈祷を行ったといわれています。また、別説として、この寺では将門及びその兄弟、従者の霊を供養して、その菩提を弔ったとも伝えられています。この寺にあります「心王寺由来」の書かれた石碑には、将門は一族を引き連れて渡良瀬川を渡り只上に居して、佐野の秀郷と一戦を図り射殺されたと記されています。さらに、平将頼が近隣の寺社に祀られていましたが、明治になって祭神を変えたと付け加えてありました。
伊勢神社 1   太田市内ヶ島町
秀郷が将門を討つため、宇都宮の二荒山神社に参詣し戦勝祈願をして発進しました。上野国に入り、この地の伊勢神社に立ち寄って参拝しました。その時、秀郷が空木の弓で、竹の矢を射ると、はるか武蔵国まで飛んだとといわれ、これが「伊勢神社の弓引き祭り」の始まりで現在まで続いています。  
伊勢神社 2
鎮守の森もないので、目立たず、ひっそりとした感じです。鳥居を潜ると、すぐ右側には「乳いちょう」があります。乳の出ない女性が、乳が出るように願をかける銀杏の老木がそのように呼ばれたり、あるいはそれに関する伝説が残っていたりします。参道は短いながら真っすぐで、正面い社殿があります。この伊勢神社には、藤原秀郷の伝説があります。
秀郷が平将門を討つため、宇都宮の二荒山神社に参詣し戦勝祈願をしました。その後に上野国(現在の群馬県)に入り、この伊勢神社に立ち寄って参拝しました。伊勢神社で秀郷が参拝を終えると、空木の弓で、竹の矢を射りました。その矢は何と、はるか遠い武蔵国まで飛んだとといわれています。このことから、「伊勢神社の弓引き祭り」とし、現在まで続いているそうです。 
■桐生市
法楽寺 1   桐生市広沢町
寺の正面に簡素に山門があって、その奥に立派な本堂が堂々と聳えています。この寺は天慶年間、将門調伏のため朱雀天皇の御願により建立されたといいます。また、昔、八幡太郎源義家が奥州の安部貞任を討ったお礼として、寺の前に舞台を作り法楽を舞ったといい、そのことに因んで八幡山法楽寺と名づけたといいます。
賀茂神社   桐生市広沢町
法楽寺のすぐ西に「賀茂神社」があります。崇神天皇の時代に、上野・下野国の建国神とされる豊城入彦命が、賀茂神を勧請して東国鎮護のために創建したものといわれています。延喜式内上野十二社のひとつで、奥州平定に向かう源義家が戦勝祈願のために舞を奉納したとも伝えられ、諸武将の崇敬を得て栄えたとされる。老樹の茂る境内には、流造の本殿のほか拝殿・神楽殿などがあります。広沢という地名と賀茂神社のセットは、なんとなく京都を思い出します。本殿の右手に、古い石灯籠があります。また、「句碑の道」を登っていくと、賀茂山(155.8m)と手臼山(188.5m)に登ることができます。さらに、賀茂神社の神籠石(かわごいし)にも寄ってみました。以前、菅塩峠を越えて太田市菅塩へと歩いた(当時道標なし)のですが、今は藪に覆われていて歩かれていないようでした。
法楽寺 2
八幡山法楽寺 真言宗豊山派
寺伝では、天喜五年(1057)八幡太郎義家は朝廷の命に隋わぬ奥州の安部貞任と宗任を討つため、当寺に立ち寄り戦勝祈願をした。
康平元年(1058)三月、戦勝のお礼のため賀茂神社と当寺の前に舞台を造営して、法楽の舞を奏上した。
後にお供の周東刑部左衛門が当地に残り、八幡太郎義家の命によって戦没者の慰霊のため、当寺を立て替えて山号を八幡太郎にちなみ八幡山とし、寺号は法楽の舞を奏上したことから法楽寺と名付けた。
山田郡史によると足利市小俣の鶏足寺の末寺になる。 
赤城の百足鳥居   桐生市新里町板橋
鳥居は、赤城山へ登る東南麓の参道としてこの地に建てられたようです。天明2年(1782)のことで、新里村・粕川村・宮城村・赤掘町のおよそ5千人もの人々の願いにより設置されて、鳥居の島木(しまぎ)には、1.3mの百足が陽刻(ようこく)されています。そして、この周辺の人々は神の使いである百足を殺すことはなかった、と伝えられています。この百足の陽刻は、藤原秀郷によって刻み付けられたと伝えられています。ただ、伝承と設置された時代が違いますね。
赤城山の百足伝説
大昔『赤城山の神(百足に化身)と日光男体山の神(大蛇に化身)が戦場ケ原で戦い、傷ついた百足が赤城山に帰り、その血で山が真っ赤に染まり、以来「赤き山」と呼ばれるようになった』という伝説があります。神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山(なんたいさん)の神と、上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題で戦いました。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足。赤城山の神は、男体山の神の助太刀の岩代国(群馬県)の弓の名手、猿丸の射た矢で右目を射抜かれ、戦いは男体山の神の勝利に終わりました。この戦いがあったところが「戦場ヶ原」。大百足の流した血がたまったのが「赤沼」。勝負が付いたのが「菖蒲ヶ浜」。勝利を祝ったのが「歌ヶ浜」と呼ばれるようになったといわれています。
この猿丸と一緒に磐次磐三郎兄弟が登場するのですが、この兄弟も弓の名手で別の説では、この兄弟が大百足の左目を射たというようにいわれています。この兄弟は、マタギ(東北地方の狩猟の民)の祖とされているそうです。磐次磐三郎についても様々な説があり、名前の漢字も「磐司磐三郎」「磐司万三郎」「万事万三郎」とその地域によって表現が違ってくるようです。狩猟(住居)をしていた場所は日光山麓という説、仙台という説、山寺(立石寺)に移り住んだとかいろいろな説があるようです。一部では、狩猟の他に山賊まがいのことをしていたとする説もあります。それぞれいろいろな説がありますが、弓の名手でマタギの祖ということは共通しているようです。
ついでなので参考に、日光ではなないですがこの争いの伝説の関連で「群馬県老神温泉伝説」というのがあります。戦場ヶ原と比較してみるとおもしろいです。
神の化身である大蛇と大百足が上記の伝説と全く逆になります。男体山の神が大百足で赤城山の神が大蛇となります。戦いは赤城山の神、大蛇が弓で射抜かれ何とか赤城山の麓まで逃げ帰ります。しかし、男体山の神、大百足の軍勢が後を追ってすぐそこまで迫ってきています。「ちきしょう」と矢を地面に突き刺すと、不思議なことにそこから湯がわき出てきました。傷を湯に浸してみると、これまた不思議で傷はたちどころに治ってしまいました。傷の治った赤城の神は、追いかけてきた男体山の神の軍勢を見事追い返しました。それからというもの、傷ついた神が敵を追い返す力の基となった温泉と言うことで誰言うことなくいつの間にかこの地を「追神」と呼ぶようになったそうです。月日が流れ、若かった赤城山の神も年老いてゆき、いつしか「追神」の名も「老神」と呼ばれるようになりました。神の傷おも治すこの湯は、万病に良いとして多くの人々に愛されました。このありがたい湯を湧き出させてくれた赤城山の神に感謝して、毎年5月7・8日の赤城神社祭典の両日に張りぼての蛇を担ぎ歩くという、現在の「老神温泉大蛇祭」の原型のようなことが行われるようになり、その後変化しつつ今日に至ったとされています。
ところでムカデは鉱山の守護神とされていますが、理由は鉱脈がムカデの形に似ているからのようです。中国の古文書にはムカデには『鉱脈を掘り当てる能力があるから鉱脈探しに山に入る時には竹筒にムカデを入れて行け』とも書いてあるようです。実際に大昔の赤城山には鉱脈があったらしいのです。同じく中国の古文書ですが、ある民族は山に登るときに、蛇除けのためにムカデを青竹の筒の中に入れて持っている、と記されているようです。これから察するところ、ムカデと蛇は敵同士だったようです。こんな話が日本にも伝わって琵琶湖のムカデ退治とか、赤城山対二荒山(どちらも蛇がムカデの退治を頼んでいる)の話ができたのでしょう。
「山上の多重塔」桐生市新里町山上
山上の多重塔は、通称、形式上では塔婆・石造三層塔といわれます。塔身の三層の部分は一石で造りだされています。高さは1.85mで、下層は幅48cmで垂直に立ち上がり、中層と上層は「八」の字状に造られています。それぞれの塔身の四面は朱が塗られ、45 の 文字が刻まれています。読み方は、上層から右廻りに中層・下層と読みます。そして、墓壇と基礎ならびに笠石は塔身の朱を強調ずるように墨が塗られているのが分がります。刻字の内容は、「朝廷や衆生(しゅじょう)などのため、小師の道輪が法華経を安置する塔を建てた。これで、無間(むげん・八大地獄のうちの阿鼻地獄)の苦難より救われ、安楽を得て彼岸(悟りの境地)へ行ける」というものです。延暦20年(801)7月17日に建てられたこの供養塔は、平安時代初期の地方における仏教文化史上、重要な石造物のため全国的に知られています。
山上城址 1   桐生市新里町山上
鎌倉時代、藤原秀郷の流れをくむ山上五郎高綱によって築城された自然を要塞とした並郭構造の丘城です。戦国時代末期に、武田勝頼に攻められ廃城となりました。現在では、城跡のなだらかな傾斜を生かした公園として整備されています。
「武井廃寺塔跡」桐生市新里町武井
円錐状(えんすいじょう)の加工石は塔の心礎である、という見解から、ここは古代の寺院があった跡とされ、「武井廃寺塔跡」(たけいはいじとうあと)として昭和16年に国指定史跡になりました。しかし、ここは武井字松原峯の標高210mの丘陵性台地の尾根上にあり、かなり傾斜地であることや、寺院の土台を支えた礎石も全く発見されていないのです。このような理由で、寺院の塔跡と断定することが長い間疑問視されてきました。昭和44年の調査で、八角形三段の石積の墳丘が発見されたことがきっかけとなり、現在は奈良時代の火葬墳墓との見解が強く支持されています。円錐台形状の安山岩の加工石は、下位の直径は123cm、そこから17.5cmの高さで造りだし、上面の直径は105cmになります。そして、中央には直径43cm、深さ44cmの丸底状の穴がほられています。この穴の中に納骨したのでしょう。
「中塚古墳」桐生市新里町武井
武井廃寺跡を東に行くと中塚古墳が見えます。斜面に沿って築造され、南面に石室が開口しています。被葬者の集団は東側か南東に生活していたのではないか(元宿という地名が残っています)。はるか山の上に雄大な古墳がそびえ、領民が見上げるように築造されているように思えます。近くの武井廃寺を考えると、仏教文化の裏付けが理解できます。
上毛三碑のひとつ「山の上の碑」に、新川臣の子・斯多多弥(したたみ)は大胡氏の祖とあります。山の上の碑は、高崎の南西の山名町にあります。その地の豪族と、新里町の豪族が姻戚関係にあったのか。7世紀後半になると帰化した豪族も土着し友好関係にあったのだろうか。古墳石室の工事方法からみて、同じ部族だったのかもしれません。  
山上城跡 2
山上城は、鎌倉時代に藤原秀郷の子孫、山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められたのち廃城となりました。この城跡は群馬県の指定史跡となっています。
城の構造は並郭構造で、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでおり、川や谷などの自然を要害とした丘城と言われています。
城下町の名残として元町・鍛冶屋などの地名が残っています。 
桐生大炊介手植の柳   桐生市東 
(きりゅうおおいのすけてうえのやなぎ)
桐生市東七丁目の公園の真ん中にある柳の大木である。樹齢は約400年、根元回りは5mを超す。(平成25年4月、強風により根元付近より折れたとの報がある)
桐生一帯を治めていた桐生氏は、藤原秀郷流の足利氏の支流とされる(室町幕府を開いた足利氏は源氏の支流)。室町時代から歴史の表舞台に登場するようになる小領主で、関東で対立する古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の間を行き来しながら、所領を拡大させた一族である。
永正13年(1516年)、当主であった桐生重綱は愛馬の浄土黒に乗って、この辺りに鷹狩りに訪れた。そしてその最中に思わぬ事故に遭遇する。愛馬の浄土黒がいきなり倒れたのである。乗っていた重綱も地面に叩きつけられ、その時の傷が元で亡くなってしまう。
重綱の子の助綱は、浄土黒が倒れた場所にその遺骸を埋め、その上に柳を植えた。それがこの“大炊介手植の柳”である。なお浄土黒が突然死に至ったのは、ダイバ(頽馬)神の仕業であるとされている。 
■赤城山
赤城山大沼   富士見村
赤城姫の伝説(大沼と小鳥ヶ島)
高野辺大将家成は、御殿での口論がもとで都を追われ上毛野国にやってきます。家成には、たいへん美しい姫がおりました。名を赤城姫と淵名姫といい、その美しさと素直さは誰もが憧れていました。家成一家は仲睦じく幸せに暮らしていました。しかし、姫たちの母は病に倒れ、この世を去ってしまいます。家成は残された子供たちを不憫に思い、新しい母親を迎えます。側室の柱御前との間に二人の子供が生まれます。しかし、この二人は姫たちとは似ても似つかぬ姿をしておりました。柱御前は家成の二人の姫への愛情と、姫たちの美しさに嫉妬し、時あらば二人を亡きものにと考えておりました。
そんなある日のこと、都よりの使者が一通の手紙を携えて家成を尋ねてまいります。それは、「家成の罪を許し、上毛野国の国司に任ずる」というものでした。家成は国司任官のため、大勢の従者を連れて都に向かいます。すると柱御前はこの時とばかり、二人の姫の館を襲い淵名姫を殺してしまいます。しかし、赤城姫は追ってを振り切り赤城の山へたどりつきます。
この知らせを聞いた家成は上毛野に兵を向け、柱御前を捕らえて、赤城山へ姫を求めて大沼の辺りに参ります。すると、大沼の東岸より一羽の鴨が泳いできます。翼を広げたその背には、赤城姫と淵名姫の姿がありました。二人の姫は赤城大明神に召されて、赤城の神様になったのです。また二人の姫を乗せた鴨は大沼の東に戻り、小鳥ヶ島になりました。以来、赤城の神様にお願いした女性の願い事は、必ずかなえられ、この神様にお願いすると美人の娘が授かると伝えられています。
赤堀道元の娘
赤城山麓赤堀の豪族、赤堀道元の娘は幼い時から赤城山にあこがれていました。十六歳のある日,お供の者を連れて赤城山に出掛けるのです。途中、月田村で一休みしたところ馬が倒れてしまい、かごに乗り換えて出発します。この時、鞍を掛けさた岩を鞍掛岩といいます。そして、赤城山の小沼に到着すると突然、入水し龍になったのです。その後、赤堀家では娘の命日に赤飯を、重箱に入れ沼に供えるのです。すると重箱は波に誘われて湖に沈み、やがて空になって返されるが、その中には龍の鱗が一枚入っていると伝えられています。
この「赤堀道元」は、藤原秀郷の子孫だといわれています。秀郷は、近江の勢多の唐橋で大蛇(龍)を助けて百足を退治しています。そこから、大蛇との因縁を生じ、その子孫にも蛇と関わる血が流れているようです。  
■前橋市
赤城神社 1   前橋市(旧宮城村)三夜沢町
赤城神社は、全国に約300余の分社を持つ赤城神社の総本社です。古代、東国を開拓した神々、農耕を司る山の神霊を尊祟する自然信仰の対象として赤城山を祭ったのが始まりで、『延喜式神名帳』(えんぎしきしんめいちょう)に上野国三大神社の一つとして挙げられる古社です。以降、東国経営にあたった上野毛氏の創祀以来、国司、武将たちの崇敬を集めてきました。中世になり、赤城神社が上野国の二宮とされ、神宮寺も営まれていました。ここ三夜沢にある赤城神社は里宮で、赤城山上の大沼のほとりに本宮、地蔵嶽に別宮があります。境内には樹齢1,000年を超える3本の「たわら杉」(後述)をはじめ樹木が鬱蒼と茂り、静謐な空気が漂います。
赤城神社 2
式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。
正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢赤城神社(みよさわ-)」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。
群馬県中部に位置する赤城山の南側の山腹に鎮座する。明治時代以前は東西2宮であったが、明治時代以後は1宮となった。参道は一の鳥居で南の大胡方面、東の苗ヶ島方面、西の市ノ関方面の3方向に分かれている。大胡方面に続く道には江戸時代に植えられた松並木が現存する。
本殿と中門は県指定重要文化財に指定されている。本殿を南へ500m(メートル)ほど下った参道沿いには惣門があり、同じく県指定重要文化財に指定されている。また、拝殿と中門の間、中門のすぐ正面には、群馬県指定天然記念物の「たわら杉」がある。そのほか、境内には明治3年(1870年)3月に建てられた「神代文字の碑」もあり、復古神道の遺物として市指定重要文化財とされている。
祭神 豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと) / 大己貴命 (おおなむちのみこと)
歴史
創建
創建は不詳。神社の由緒によれば、上代に豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
当社から約1.3km登った地には「櫃石」と呼ばれる磐座を中心とした祭祀跡が残っており、古代祭祀の様子がうかがわれる。
平安時代
『続日本後紀』では承和6年(839年)に従五位下、『日本三代実録』では貞観9年-16年(867年-874年)に神位昇叙、元慶4年(880年)従四位上に叙せられた記事が載る。長元9年(1028年)頃には正一位に叙せられたとされる。その後、中世には上野国二宮となったという。ただしこれらに記述される赤城神を指す神社には論社があり、三夜沢赤城神社を指しているのかには議論がある(「赤城神社#歴史」を参照)。
14世紀の説話集『神道集』には、赤城山火口湖の小沼と大沼、そして中央火口丘の地蔵岳を神格化している。小沼神に虚空蔵菩薩、大沼神に千手観音があてられ、地蔵岳は地蔵菩薩とされている。このうち地蔵は後から加わったものである。赤城神社・西宮に伝わる記録『年代記』によれば、西宮に虚空蔵と千手観音を祀り、東宮に地蔵を祀っていたという。
『宮城村誌』によれば、三夜沢の赤城神社は、六国史などにみられる官社・赤城神とは異なるという。はじめは東宮が、地蔵岳の信仰隆盛に伴って13世紀末から14世紀初ごろ「赤城神社」として成立したといい、その後、神仏習合の形で「元三夜沢」の地にあった社が、東宮の隣に新たに遷座してきた。これが西宮で、貞和元年(1345年)頃と推測されている。元三夜沢の社は二宮赤城神社の山宮であったともいわれる。
西宮が新たに移ってから、三夜沢赤城神社は東西2宮併存することとなった。ただし以前から三夜沢にあった東宮のほうが勢力が強かったという。
戦国時代の書状には、神社の名称にはほぼ全てに「三夜沢」が冠され、赤城神の本社と認めていないという指摘がある。ただし、天正4年(1576年)、二宮町鎮座の二宮赤城神社が南方氏によって破却されるなど、「赤城神社」を称する神社の中で三夜沢の赤城神社・東宮に匹敵する神社は無く、赤城神の本社といわれていったと見られている。
江戸時代
慶長17年(1612年)2月20日、大前田村(現 前橋市大前田町)の住人の寄進により参道に松並木が植えられた。
宝暦12年(1762年)東宮が正一位に叙され、次いで明和2年(1765年)西宮も正一位に叙された。
寛政12年(1800年)、大洞赤城神社が「本宮」「本社」の名称を使用しているとして、三夜沢赤城神社は大洞赤城神社別当・寿延寺に対し訴訟を起こした。享和2年(1802年)には三夜沢側は幕府の寺社奉行へ訴えたが、国許で解決すべしと下げ渡されている。訴訟は長期にわたり、文言使用を合議で決めるという和議が成ったのは文化13年(1816年)であった。
明治以降
明治2年(1869年)、廃仏毀釈により、東宮の竜赤寺と西宮の神光寺という2つの神宮寺が廃寺となった。その後、東西2宮であった三夜沢赤城神社は合併して1宮となった。既に享和2年(1802年)の訴状では1宮の体裁をとっていたが、明治初年に正式に1宮と定められた。ただし神社側に合併の記録が無く、正確な合併時期などは不詳。西宮跡には建築物は建てられず、東宮跡に現社殿(現存するのは本殿と中門)を建築した。明治2年(1869年)11月25日にこの社の上棟祝が行われた記録が残る。1894年(明治27年)、拝殿を焼失、のち再建した。
近代社格制度では、初め郷社でのちに県社に昇格した。1935年(昭和10年)に国幣社への昇格運動が起こり、1944年(昭和19年)には国幣中社の内示が出たが、その手続中に終戦を迎え、GHQの指令により社格制度が廃止されたことで、結局県社のままであった。
1998年(平成10年)5月3日、千葉県から旅行に来た当時48歳の主婦が突如失踪する事件が発生。警察の懸命な捜査にも関わらず、現在でも行方は分かっていない。
境内
社殿
本殿は、正面三間・側面二間、切妻造平入の神明造で銅板葺。千木は内削ぎで、8本の鰹木をあげる。中門とともに明治2年の造営と伝えられる。造営当時の神仏分離と復古神道の影響が見られるものであり、中門とともに群馬県の有形文化財に指定されている。
本殿内には、神座として祀られる宮殿がある。扉裏の墨書には「源成繁寄納」とあり、新田金山城主・由良成繁の奉納とされる。木造宝形造、板葺で、高さは117p。粽(ちまき)付の柱、桟唐戸など全体的に禅宗様を用い、室町時代の特徴をよく示すものとして群馬県の有形文化財に指定されている。
中門は、本殿前に立つ四脚門で、切妻造銅板葺。本殿と同じく明治2年の造営とされ、ともに群馬県の有形文化財に指定されている。
社殿周辺
「俵杉(たわらスギ)」は、中門南側とその西隣に立つ3本のスギの大木の名称。本殿前の2本は左右一対で並ぶ。名前の由来として、藤原秀郷(俵藤太)が平将門討伐のため上野国府に向かう途中、献木として植えたと伝えられる。群馬県の天然記念物に指定。同様の伝説は一之宮貫前神社の「藤太杉」にも伝わっていることから、中世の武将による秀郷への憧れが示唆される。境内には他にも多くのスギの大木が立っている。
また「神代文字碑」として漢字が伝わる以前に存在したといわれる神代文字(じんだいもじ)の碑が残る。復古神道の遺物として明治3年3月に建碑された。碑文は平田鐵胤(平田篤胤の養子)、神文は延胤(鐵胤の子)による撰文。神文「マナヒトコロノナレルコヱヨシ」は対馬の阿比留家に伝わる阿比留文字で書かれている。
そのほか、境内東方約200m、櫃石への道の途中に所在する市の天然記念物「三夜澤のブナ」や市指定重要文化財の宝塔(赤城塔)がある。
赤城山中
「櫃石(ひついし)」と呼ばれる巨石が立つ祭祀遺跡が、境内から赤城山中を約1.3km登った地(位置)に所在する。大きさは長径4.7m、短径2.7m、高さ2.8m、周囲12.2m。周辺からは多くの祭祀物が見つかっており、群馬県の史跡に指定されている。
参道
惣門から国道353号まで続く参道には多くの松が植えられ、松並木として残されている。『赤城神社年代記』によると、慶長17年(1612年)大前田村(現 前橋市大前田町)の彦兵衛の寄進により参道に約1200本の松が植えられたといい、いずれも樹齢400年に及ぶ。また松とともに約3万株のヤマツツジも植えられており、春には名所として知られる。
惣門は、江戸時代(年代不明)の造営とされる高麗門。境内から南に450mほど下った地(位置)に所在する。『赤城神社年代記』には宝暦元年(1751年)の造営の記載があるが、それ以前の古材も一部に見られる。群馬県内には近世前期の高麗門は少なく、貴重なものとして群馬県の有形文化財に指定されている。
関係地
元三夜沢 (前橋市粕川町室沢字御殿)
当地に遷座する以前の西宮の旧社地とされる。礎石と推定されるものも発見され、遺物から平安時代の遺跡と推定される。
宇通遺跡 (うつういせき) (前橋市粕川町中之沢)
粕川上流、山林内にある遺跡。1965年(昭和40年)の山林火事で発見された。調査は部分的で全容は明らかではないが、礎石建物が確認され神仏習合時代の寺の遺構と見られている。赤城神社の旧鎮座地の可能性のほか、山上多重塔(桐生市、延暦20年(801年)造営の供養塔)との関係性が指摘されている。 
赤城神社たわら杉   前橋市(旧宮城村)三夜沢町
赤城神社の境内には杉の大木が多数ありますが、なかでも目を引くのが拝殿の後ろの中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。たわら杉は、藤原秀郷(俵藤太)が将門討伐において上野国にくる途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものと伝えられています。「たわら」の字は、田原藤太から「田原」とも、また「俵」とも記されます。境内の案内板には次のようにあります。
赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロなどもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通り周5.1m、6.1m、4.7m、根元周6.0m、9.6m、5.6mとなっており、樹高は各々約60mです。これら三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将ですが、その実像はあまりわかっていません。一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄として描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカデと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴しています。
「赤城神社神代文字の碑」前橋市(旧宮城村)三夜沢町
赤城神社境内に残る石碑です。復古神道の遺物とされ、日本に漢字が伝わる以前に、日本独自の文字が存在したとするもので、石碑上段に神代文字が刻まれています。説明板に、次のように書いてあります。
一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあつたといわれ、現在はっきりしているものだけでも数種類にもなります。この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神学日文伝」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鍾胤が、上部の神文については、鏑胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。
「赤城神社惣門」前橋市(旧宮城村)三夜沢町
三夜沢赤城神社本殿より南500mほどの参道沿いにある高麗門です。『赤城神社年代記』によりますと、その建築年代は宝暦元年(1751)と記されるものの、一部にそれ以前の古材を使ったものと推測されます。ここから、赤城神社参道松並木を下っていきます。
大胡城址   前橋市(旧大胡町)河原浜町
藤原秀郷のながれをくむ大胡太郎重俊が、大胡に城を構え足利氏に属しました。城址に、次の案内板があります。
城址は南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。城主は、大胡氏および牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18年(1890)徳川家康の関東入部により牧野氏は大胡藩2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。元和2年(1616)に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代に城代が置かれたが、寛延2年(1749)姫路へ転封し廃城となった。
藤原秀郷軍の首塚・胴塚   前橋市(旧粕川村)粕川町深津
藤原秀郷が近くの赤堀町にある毒島(ぶすじま)城に籠城し、敵に攻められます。城が落ちそうになったとき、秀郷が勢多の唐橋で助けた大蛇が救援に来てくれて、助かることができたといいます。ですが、この戦いで多くの死者が出て、それらの首を葬ったのが「首塚」、胴を葬ったのが「胴塚」だといいます。
「大室公園」前橋市西大室町
群馬には古墳が多く、かつては約1万基の古墳があったといわれています。6世紀初め、武蔵国造をめぐる争いで東国に大事件が勃発します。国造の座を争って一方が大和朝廷に、もう一方が上毛野氏に応援を求め、結局朝廷に応援を求めた方が勝利したという結末でした。この話は「日本書紀」に書かれていますが、上毛野軍と朝廷軍の間で戦があったのか、はっきりしたことはわかりません。ただ、当時の上毛野氏は朝廷に対抗できる勢力であったということはできます。この争いで、敗者側となってしまった上毛野氏は勢力範囲が大分狭くなってしまったようで、その後の古墳の造営状況からみて、勢力の中心が現在の太田市から前橋市大室付近に移ったようです。この地・大室では、7世紀にかけて造られた大型前方後円墳が密集しています。その大室古墳群の、「前二子」「中二子」「後二子」の3つの重要な古墳を中心に整備されたのが大室公園です。
総社神社   前橋市元総社町
将門のころの上野国総社は、現在の総社神社の北西800mのところにある「宮鍋神社」のところにありました。俗に「明神さま」と呼ばれる今の総社神社は、後世に建立されたもので、上野国十四郡の各神社549社の祭神を迎祀して書かれています神名帳一巻を御神体としています。境内に大きな「蒼海(おうみ)城址」の地図があります。この神社も蒼海城址の中のようです。
上野国   
ここは昔、毛の国と呼ばれた。越の国、豊の国などのように、上古には一字で国を表した地域がある。大宝年間頃から、国名は二字ということになったのだが、それまでは、毛の国を上下に分けて上毛野、下毛野と呼ばれていた。それぞれ「かみつけの」、「しもつけの」と読む。群馬県と栃木県を結ぶJR線を両毛線という所以である。
崇神天皇の48年(紀元前50)、皇子の豊城入彦とよきいりひこ命に命じ東国を平定させた。皇子の子孫が上毛野国造、下毛野国造になったという。
古代には「車評」くるまこおりが置かれた。クルマとは「玄馬」をいうといわれ、騎馬を得意とする渡来人が移住していたらしい。群馬という地名の由来であろう。
弘仁2年(811)、上野国はそれまでの上国から大国に改められ、天長3年(826)上総、常陸とともに親王を以て太守に任ずるという、いわゆる親王任国になった。
上野国府跡(宮鍋神社) 1   前橋市元総社町
上野国の国府がどこにあったかは、未だに確証がない。しかし、ここ宮鍋神社は、かってこの地を治めた長尾氏が築いた蒼海城(あおみじょう)の跡とされ、蒼海城は上野の国府跡に建てられたという記録があるので、この地を上野国府跡に推定する学者が多い。
この宮鍋神社一帯から、多数の古瓦が出土している。さらに、元総社遺蹟、寺田遺蹟などから瓦や墨書土器が出土、元総社小学校の校庭からは大型の掘立建物跡も発見された。こうした考古の発見と、上野国交代実録帳(1030年)の記録をもとに、宮鍋神社付近を国庁とし、東西に八町、南に八町の国府域が想定されている。
宮鍋神社 2
御祭神 経津主命・金山昆古神・金山昆賣神
創立年 不詳
人皇十代崇神天皇の第一皇子豊城入命(豊城入彦命?)が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。
その後、九十六代後醍醐天皇のとき、元弘の乱で北条氏が滅び建武中興の世となりました。
足利直義は戦功により関八州とそれに付属する伊豆、甲斐、越後の国の行政権を与えられ、天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入部しました。
家臣「長尾佐衛門尉景忠」は上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給わりました。忠房は国府を城郭化し蒼海城と称し、宮之辺の地より総社神社を現在地へ移したようです。神社裏の貞和五年(1349)の宝塔も長尾氏一族の建立したものであろうと群馬県人名大辞典に書かれています。長享二年(1488)九月二十八日、僧の万里集九が角淵(玉村)より白井へ向かう途中、国分寺跡あたりから見た展望を日記に「隔一村馬上望拝上野之総社」(一村を隔てて馬上より上野総社を拝す)とあります。また。古総社(現宮鍋神社)の前を通過する折に「数株老樹斧屠残」(数株の老樹に斧の傷跡を残す)とあり、これらの日記から察するに永禄九年(1566) 頃、武田軍と長尾軍の合戦により焼失した惣社神社は、宮之辺の地ではなく現在地であろうと思います。
次に宮鍋は宮之辺が変化したのではなく、惣社神社移転の跡地の東傍らの屋敷(2041、2042番地)に鋳物を業とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆賣神を合祀して「宮鍋神社」と称したのであろうと思います。鍋という字は、他県の鋳物師の氏神には数多く使われている様です。前記二屋敷跡より多数の鋳物屑が発見されております。
明治三十年十月に木造鳥居の建立記録が殿小路町にあり、大正八年四月十六日総社神社に合併されましたが、昭和六年十二月一日県の指示により、再び宮之辺の地に移転となりました。
当社は今なお「宮鍋様」と称して、殿小路町、粟島町の崇敬の社であります。

教育委員会の説明にも上野国府はこの宮鍋様の辺りにあったと推測されている・・・・とあり確定されていないようです。しかし、ここは、嘗てこの地を治めた長尾氏が築いた蒼海城の跡とされ、蒼海城は上野の国府跡に建てられたという記録もあり、この辺りを上野国府跡と考える人は多いようです。
平将門の乱
天慶2年(939)11月、常陸国の国府を攻めて朝廷へ反旗を翻した平将門は、12月に下野国の国府を占領、勢いに乗って12月18日には、ここ上野国府に入った。当時の上野介藤原尚範は無抵抗で、政庁を明け渡し印鎰(いんやく)を献じた。将門はここで上野総社の巫女の神託を受け、新皇と称する。
今昔物語に、この時の記事が見える。
それより上野国に遷うつる。即ち介藤原尚範たかのりが印鑰いんやくを奪ひて、使を付けて京に追いのぼせつ。其の後、将門、府を領して庁に入る。陣を固めて諸国の除目じもくを行ふ。その時ひとりの人有りて、くちばしりて、「八幡大菩薩の御使い也」と名乗って曰く、「朕が位を蔭子おんし平将門に授く。速すみやかに音楽を以て、此これを迎え奉る可べし」と。将門此を聞きて再拝す。況いわんや若干そこばくの軍いくさ、皆喜び合へり。ここに将門自ら表を製して新皇と云う。即ち公家こうけに此の由を奏す。
上野国総社
上野国の総社は、国府跡とちがって立派な社である。上野国14郡549社を合祀する。主祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)というから下総の香取神宮と同じだ。
安閑天皇元年(532)、上毛野君小熊王はこの宮の社殿を改築し、蒼海あおみ明神と称えたという。のちに上野国十四郡の549社を勧請合祀し、総社明神とした。
この宮に伝わる上野国神明帳は、県の重要文化財である。
上野国分寺跡
上野国分寺は前橋市総社町にある。国府跡からは北西に当たる。
上野国分寺は750年頃には完成していたらしい。国分寺としては最も古い時代のものだ。
国分寺跡は大正15年(1926)に国の史跡に指定され、のち土地の公有化が進み、昭和55年(1980)から発掘調査が実施され、保存と整備が進められている。東西220m、南北235mの広大な敷地の周囲は築垣で囲まれていた。
妙見社
この社は神社だが、同じ境内に妙見寺という寺がある。珍しいことだ。奈良時代の始め和銅7年(714)に、上野国の大掾たいじょう忠明が妙見社に参詣、夜半に不思議な光に目覚めて、付近を探すと首が白く目が赤い亀を見つけた。何かの瑞祥であると時の元正天皇に献上した。天皇は即位したばかりで、これに喜び同年九月二日をもって霊亀と改元した。
平将門が天慶2年(939)12月、常陸、下野に続き上野の国府を攻略し、神託を受けて新皇と称したのが、ここ妙見社だったという説がある。
貫前ぬきさき神社(上野一ノ宮)
上野国一ノ宮の貫前神社は、経津主ふつぬし神と姫大神を祀る。経津主神は大国主命に国譲りを迫った天津神で、物部氏の祖先神と伝わる。一方の姫大神は御名は不詳だが、この地に養蚕や機織りを広めた女神とされる。
この女神はまた諏訪大神の建御名方たけみなかた神の恋人だとも云われている。ということは、この宮は複雑である。もともと、建御名方神は大国主命の子の内で、国譲りに最後まで抵抗し、経津主神に追われて諏訪まで逃げていったと伝えられている。その恋人である姫大神が、敵役の経津主神と同殿に祀られているのは、どういうことなのであろうか。
本殿の千木が平削ぎなので、元々この宮は、地元の姫大神を祀っていたのではないかと考えられる。二神同座の貫前の宮は、出雲族と物部族の葛藤があった痕跡かもしれない。
延喜式では名神大社に列する。  
宮鍋神社・上野国府跡   前橋市元総社町
総社神社の北西800m、4、5本の高い樹木の森のあるところです。小さな境内に上野国総社の碑、国府政庁推定復元図などがあり、後世の蒼海城本城のあったところでもあります。『将門記』によれば、《天慶二年(939)十二月十五日、下野国から上野国に入った将門は国府を占領すると、同十九日、上野介藤原尚範を京へ放逐、「国衙の四門の陣を固め、且つ諸国の徐目(今でいう認証式)を放ち」、みずから名づけて新皇と称した。》とあります。当時の国府は、この地の上野国総社のあった今の「宮鍋神社」があるところではないかとの説があります。将門は、ここで上野総社の巫女の神託を受け、新皇を称したと思われます。
■伊勢崎市
毒島城址   伊勢崎市(旧赤堀町)赤堀今井町
赤堀城からは北西1.5kmの距離で、水田地帯の中にある比高15mほどの島のような丘が城址です。南方を除く周囲は丘であり、城のある丘はこれらの丘に囲まれた湾状の水田地帯(東西500m、南北400m)の中に孤立した島です。当時、周囲は沼地であり文字通り島であったと思われます。島の西の入口に巨岩があり、馬蹄の跡のようなくぼみがあって、「上杉謙信の馬の蹄の跡」といわれています。虎口は西南中央のみで、桐生氏の家臣、毒島勘解由長綱が城主であったといい、後に桐生市広沢の寄居に移ったといいます。虎口にあたる入り口に説明板があり、次のように記されていました。
三浦謙庭が毒島城を攻めたとき、周囲の沼には1匹の大蛇が住みついており、寄せ手を苦しめました。そこで三浦謙庭は7つの石臼で毒を作り、それを沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれずに西に逃げてしまい、毒島城は落城したと伝えられています。
宝珠寺・田原藤太秀郷の墓 1   伊勢崎市(旧赤堀町)赤堀今井町
寺の入り口には、「田原藤太秀郷の墓」の看板が出ています。天慶二年(939)、藤太秀郷の開基といわれ墓もあり、位牌もあったと伝えられています。墓地には、藤原秀郷(苔むした五輪塔、秀郷の三男千国が供養のため造立)、赤堀道玄、小菅又八郎それぞれの墓があります。赤堀氏の祖先は、藤原秀郷と伝えられています。
「赤城山の小沼に結びつく竜女伝説」
赤堀地区には赤城山の小沼に結びつく竜女伝説がいくつもあります。その一つは昔、赤堀郷の長者道玄の16歳になる一人娘が、赤城山に参拝に行き、小沼のほとりで水中にひきこまれ、沼の主の龍神になってしまったという。悲嘆に暮れた父は小沼に赤飯を供養として流すと、翌日には空になった重箱だけが水面にもどるという。それから16娘が小沼を通るときには、引き込まれないように身代わりとして鏡を投げ入れたといいます。
他には、徳川家康の旗本、小菅又三郎の妻で赤堀道完(=道元、道玄)の娘が、赤城明神に参拝に行くと小沼の辺ですざましい数のむかでが現れ、内室を沼の中に引き入れてしまった。その後、沼の主・竜蛇の姿になって現れたといわれています。
宝珠寺 2
宝珠寺の創建は平安時代の天慶2年(939)、藤原秀郷(田原藤太秀郷:平将門追討の戦功により上野、武蔵の国司となる。)が平将門の乱鎮圧の戦勝祈願として開いたのが始まりと伝えられています。その際、本尊となる観世音菩薩を安置し、数多くの修験者達が祈祷を繰り返すと境内から紫雲が棚引き、願いを叶えるという如意宝珠の雨が降り注いだ為、秀郷は吉兆と悟り勝利を確信、翌年には見事念願成就し将門を討ち取っています。その後、当地域は赤堀城の城主、赤堀氏(藤原秀郷の子孫だとされる)が支配し、秀郷と縁がある宝珠寺も庇護されたと思われます。天正年間(1573〜1592年)には赤堀入道藤繁により堂宇の再建や境内の整備が行われ、揚山永橋大和尚(前橋長昌寺5世)を招いて中興開山し、曹洞宗に改宗、慶長5年(1600)頃には概ね完成しています。
宝珠寺旧本堂は宝永6年(1707)に再建されたもので寄棟、鉄板葺、平入、桁行8間(現在は入母屋、銅板葺)、廃藩置県が執行されるまでは寺子屋として開放され今井学校の校舎が完成されるまで校舎として利用されていました。境内には赤堀道玄、小菅又八郎の墓の他、秀郷の子孫(3男田原千国とも)が秀郷の供養の為に鎌倉時代に建立したと伝わる五輪塔(凝灰岩製、総高167cm)があり平成6年(1994)に伊勢崎市指定史跡に指定されています。伝承によるとこの五輪塔には白蛇が棲んでいて信仰の対象になっていました。ある日突然雷が落ちて以来白蛇の姿が見えなくなりましtが、信仰は変わらず祈願すれば念願成就し、五輪塔に生えた苔は熱を下げる事に御利益があると信じられていたそうです。山門(切妻、桟瓦葺、一間一戸)は安政5年(1853)に再建されたもので宝珠寺境内では最古の建物で当時の様子を今に伝えています。宗派:曹洞宗。本尊:聖観世音菩薩(延宝3年:1675年、京都出身の仏師、康祐法橋の作)。  
赤堀城址 1   伊勢崎市(旧赤堀町)赤堀今井町
周辺には田原藤太藤原秀郷の末裔が多いですが、赤堀城の赤堀氏もそうです。藤原姓足利忠綱の弟・泰綱の玄孫・教綱が赤堀氏を称しました。赤堀氏は金山の横瀬由良氏と結びついて居していました。城は東西170m、南北350mほどで、東と西に川があり、堀の役目をはたしています。本郭は一辺が80mほどの正方形の形状をしています。県道脇の細道から城域に入ると、本郭は畑地になってしまっていますが、高い土塁に囲まれています。北側の住宅に抜けるところが虎口になっていて、食い違いになっています。城址の説明板には、次に記載がありました。
赤堀城は別名今井城とも言われ、粕川とその支流の鏑木川との自然地形を利用した箇所に築かれ、東西170m、南北350mの範囲を占める。一辺約80mの本丸を中心とした部分には、土居、堀、戸口があり、他にも二の丸、城域の外側には一小郭があったと考えられ、赤城山南麓に特徴的な本丸を囲郭式とした並郭城である。赤堀城は藤原秀郷の末裔とされる赤堀氏の居城で、赤堀下野守親綱の時に由良氏の幕下となり、その子影秀までは赤堀城に在城した。その後、後北条氏幕下の小菅氏が在城したが、天正18年後北条氏滅亡と共に赤堀城も廃城となった。赤堀城跡は赤堀氏の活動の記録は少なく、不明な点が多い。そのため、赤堀城跡は当時の赤堀氏の動向を知る重要な文化財である。 
赤堀城 2
別名 今井城 / 形態 平城
城主 赤堀氏、小菅摂津守
築城年代は定かではないが観応・正平(1350年)頃に赤堀直秀によって築かれたと云われる。 赤堀氏は上野国佐位郡赤堀発祥で藤原秀郷の末裔という
享徳4年(1455年)赤堀時綱は古河公方に属し関東管領上杉氏方と戦った。 その後、上杉謙信に従っていたが謙信死後は小田原北条氏に従った。
現在本丸部分が畑となっているものの、土塁と虎口が残っている。  
■利根郡
宝川温泉 1   利根郡水上町藤原
日本武尊が東国征伐の折り病に伏せってしまい困っていると、遙か下界より白い鷹の飛び立つのを見つけ、その地に立ち寄ってみると温泉が湧いておりそのお湯に浸かって病を癒した、とされているのがここ「宝川温泉」です。また、平将門の乱で敗れた将門一門が住みついたといわれる落人の里でもあります。「宝川」とは、文字どおり宝がとれる川の意味で、昭和の初めまで銅山として採掘が行われていました。古くは江戸の昔から、掘られていたといわれています。
宝川温泉 2
民話の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の折り、当地に寄り武尊山(ほたかやま)に上りました。病に伏せって困っていると、遙か下界より、白い鷹の飛び立つのを見つけ、その地に赴いてみると温泉が湧いていました。そのお湯に浸かったところ病が治り、旅を続けることができたと伝えられています。そのため宝川温泉はその昔、『白鷹の湯』(はくたかのゆ)と呼ばれていました。
宝川温泉がいつ頃から温泉として利用されていたかは、今のところはっきりした史実や遺跡は発見されていません。しかし近くで縄文人の遺跡が発見されており、その時代から利用されていたのではないかと考えられます。草津温泉などでも縄文の遺跡が発見されていますが、その地形や標高などから考えると、決して古代人にとって住み良い場所ではなかったと思われます。実際遺跡が発見されている事実から、古代人にとって温泉が非常に重要な役割を果たしていたのだと考えられています。お湯を沸かす技術はとても難しく、まして全身を温めることは、温泉を除いては不可能だったのではないでしょうか。現代人と同じように、温泉は病を治す有効な手段であり、貴重なものだったと考えられます。猿が学習によって温泉に浸かっている温泉地もありますが、その姿が古代人のそれに重なって見えます。
宝川温泉の名前は、旅館を分けて流れる一級河川宝川に由来しています。宝川とは文字通り、宝がとれる川の意味で、昭和の初めまで銅山として採掘が行われていました。古くは江戸の昔から、掘られていたと思われます。
宝川温泉が現在のかたちになったのは大正時代で、そのころに湯治場としての宿泊施設が作られています。しかし当時は交通の便が悪く、水上から徒歩でこの地を訪れていた。当時の産業は林業しかなく、材木を引き出すトロッコが唯一の交通手段でした。現在のように発展したのは、昭和20年代後半から始まる一連のダム工事によって道路が建設され電気が通るようになってからです。昭和30年に約2年の大工事により、現在の本館が造られ温泉旅館としての形が整い、次々と施設が作られていくようになりました。 
■高崎市
上野国分尼寺跡   高崎市群馬町東国分
「上野国分尼寺跡」入り口の道標があります。この辺りの畑で発掘調査が行われ、瓦の欠片などが出土したということで、道端には瓦の欠片を沢山見ることができます。まだ南側を現在調査中とのことでした。いずれ復元されることでしょう。
上野国分寺薬師堂   高崎市群馬町東国分
現在の上野国分寺を訪ねてみました。薬師堂と墓地があるだけでした。
上野国分僧寺跡   高崎市群馬町東国分
伽藍配置図を見ると、南大門、中門、金堂、講堂が南北一直線に並んでいて、配置は東大寺方式で、750年頃には完成していたといわれ、国分寺としては最も古い時代のもの。金堂跡と礎石と、七重塔の基壇を見ることができます。築垣が復元されていて、南側にあるガイダンス施設では復元された七重塔を見ることができます。
妙見社(尊)   高崎市群馬町引間   
妙見寺と併設。花園妙見尊というのは、昔この辺りを花園村といっていたからだといわれています。将門が天慶二年(939)、常陸、下野に続いて上野の国府を攻略して、神託を受けて新皇と称したのが、この妙見社だったという説があります。また、染谷川の戦いで将門と戦った平良文が勝つことできたのは、この妙見尊の霊威あるものとして、良文はのちに秩父と千葉へ勧請して厚く信仰したといわれています。
妙見寺(みょうけんじ)   高崎市引間町 
別称 七星山息災寺、羊妙見 天台宗寺院 山号は三鈷山、院号は吉祥院。本尊は釈迦如来。
この寺の創建年代等については不詳であるが、714年(和銅7年)またはその翌年の715年(霊亀元年)上野国大掾藤原忠明の開基により創建されたと伝えられる。
「花園星神記」によれば、忠明がこの寺へ来て宿泊し、夜半目覚めてあたりを見渡すと、乾の方角に光明が立ち上っていた。不思議に思って侍臣を遣わせ調べると、冷水町の小祝池からとわかり、水底を探らせたところ、目が赤く首の白い珍しい亀を得た。これを時の帝に献じたところ喜ばれ、元号が霊亀に改められたという。
797年(延暦16年)に成立した「続日本紀」にも「妙見寺」に関する記載があることから、古くからある寺院と考えられている。古くは「七星山息災寺」と号し、妙見菩薩を祀る寺として信仰されてきた。羊妙見とも呼ばれ、多胡碑の「羊」との関連を指摘する向きもある。
平将門の乱では、染谷川の戦いで苦境に追い込まれた平良文が不思議な声を聞き、導かれてついて行ったところ当寺にたどり着いた。そこで僧から七星剣を渡され、以来妙見菩薩の加護を受けるようになった。良文と関係の深い秩父神社、千葉神社の妙見は当寺から勧請されたものである。
江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられている。  
染谷川合戦場跡   高崎市群馬町引間〜前橋市元総社町
妙見社の前に染谷川が流れています。『新編武蔵風土記稿』の秩父妙見社の項で伝えられている合戦場。合戦の詳しい内容は、染谷川の西の国府村(現在の引間か?)側に良文軍、東の元総社側に将門軍が対峙し、激しい戦いが始まりました。午前中は日光を受けて良文側の矢が当たらず、将門軍の矢は百発百中で良文軍は全滅に瀕しました。そこで、良文が妙見菩薩に助力を祈願したところ、妙見のお姿が良文の甲の前立に現じて蒼然たる光を放しました。その光に将門軍は目がくらみ、矢が当たらなくなって、惨敗して立ち退くことになったといいます。でも、戦った時期が天慶年間、国香はこの時期はすでに野本合戦で死亡していて、この戦いがこの時期にあったとは思えません。
一方、地元の口碑や妙見信仰での伝承では、承平元年(931)、将門・良文連合軍と国香軍が上野国府のすぐ近く、上野国花園村(群馬町)の染谷川で戦いをくりひろげたといわれています。結果として将門・良文は敗れ、わずか七騎で逃れてきたところを妙見菩薩に助けられたという逸話があります(『妙見縁起絵巻』)。この「染谷川」は現在では川幅わずか2mほどの小川であり、この戦い自体も実際にあったかどうか疑問視されています。将門と国香の常陸国蚕飼(子飼)川の戦いをアレンジした伝承ともいわれています。
■北群馬郡榛東村
常将神社   榛東(しんとう)村山子田
柳沢寺の北隣にある神社。平常将の伝説を起源とする神社で、以前はここから少し離れた小字神田(柳沢寺の南側?)にあり、現在の位置に移ったのは元禄年間(1700年前後)だといいます。神社の前には、ほのかに門前町の雰囲気がただよいます。
柳沢寺 1   北群馬郡榛東村山子田 
常将神社から南西方面へと向かうと「柳沢寺」(りゅうたくじ)があります。南北朝時代に作られたという説話集「神道集」には、この寺の縁起が書かれています。それによると、平安初期のころ最澄が群馬県地方を巡教したおり、船尾山に妙見院息災寺という寺を建立した。その寺はその後200年以上にわたって栄えたようだ。1079年ごろ「平常将」という豪族がその息災寺に願掛けして子供、相満(そうま、地名の相馬はこの名からか?)君を授かった。願掛けのときに約束にしたがって、常将は子供が5歳になったとき学問をさせるために寺に修行に出した。ところが榛名山に住む天狗が相満君をさらってしまう。それを聞いた常将は、息災寺の僧が相満君を妬んで殺したと思い込み寺を襲撃した。寺が焼け落ちるとき天狗が現われ、常将は若君が天狗にさらわれたことを知り、寺を焼き打ちした自分を恥じて自害してしまう。柳沢寺は常将の奥方が、息災寺を再興するために建立したのが始まりだといいます。
息災寺が焼け落ちるときに、矢につがえて放たれたとされる観音像が「矢落ち観音」です。平常将は上総地方の実在の豪族で、初めて千葉姓を名乗った人物。北関東の天台の古刹には、こんな雰囲気の境内の寺がいくつかあります。案外、船尾記に登場する息災寺は柳沢寺そのものかも知れません。
また将門伝説では、将門がこの寺に襲来してこの寺に火を放ちました。すると大力の男が寺の千巻経を背負って、南原というところの窪地に運んだといい、その地は千ヶ窪という地名になったといいます。
柳沢寺 2   
天台宗 船尾山柳沢寺
この寺の成立について最も古い記録は、今より800余年前に成立した「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」という、一章の記載です。更に、200年経過した中世末に「船尾山縁起」が成立しました。
そこには、この寺の縁起として、次のような伝説が書かれています。
平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間の事です。天台宗宗祖傳教大師の東国巡行のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って榛名山中の船尾の峰に"妙見院息災寺"という巨刹を創建し、大師を請じて開山しました。本尊に千手観音をお祀りし、子授け観音として有名になりました。その後、子供に恵まれない事を憂いていた千葉常将という武将が霊験あらたかといわれた船尾山の観音様に願を掛けたところ、一子相満若が産まれました。常将は喜び、子供を船尾山に預け養育しました。やがて相満は立派な若者に成長しましたが、ある時榛名山に住む天狗が相満に恋慕し、祭礼の日にさらってしまいました。
父、常将は、寺側が立派な若君を手放すのを惜しんで隠したものとして怒り、手勢を連れて、寺に抗議に押し掛けました。寺側との行き違いから争いとなり、全山焼失してしまったそうです。その後、天狗が現れ、子供を預かった事を伝えたので、常将は思い違いから寺を焼いた事を悔いて、郎党と共に自害しました。
常将の妻は、夫や一族を弔うため、現在の柳沢寺の地に寺を再建しました。それから後を追って、池に身を投げて死んだと言う事です。この地を大悲天女の池と言い、奥方を祀ったのが思川弁財天であり、常将と一族を祀ったのが、常将神社となりました。
神道集の説話と船尾山縁起のそれとは違っていますが、昔榛名山中に大寺院があり、それが消失したと言う土着の古伝説を基盤とし、榛名東麓の農村社会と関係の深い相馬岳信仰と結びついて語り伝えられたこの伝説の中には、小地名の起源説話が多く目に付き、地方農村への唱導文芸の流入事情などが伺えて興味深いものがあります。
天台宗に所属し、延暦寺の直末の寺として中世には学僧も多く出現したといいます。戦国時代末には北条、上杉、武田の争覇の戦場となり、全ての堂宇を焼失しました。江戸時代に入ると天海僧正、高崎城主・安藤右京進などの尽力により"朱印地三十石"を賜り再建に着手、貞享元禄に至り諸堂の修復を見ました。
現在は境内地約3万平方米。戦後すぐ参道の巨木の並木も伐られましたが、まだ残る杉木立はその中に散在する諸堂に色を添えています。諸堂並びに庫裡は大正元年〜7年にかけて大修理がなされ、茅葺きより瓦葺きに改められましたが破損著しく、昭和55年より2年に渡って大修理がなされました。  
相馬ヶ原   榛東村広馬場(ひろばば)
地名の「相馬ヶ原」(旧相馬村)は、先に出た平常将の子・相満(そうま)からきているとか、将門の育った相馬郡からだとかいろいろな説があります。榛名山の最高峰が相馬山(別名・黒髪山)といって、山頂に相馬大権現(黒髪神社)が祀られていて将門の権現石像があります。
染谷川   榛東村広馬場
染谷川の下流に「花園妙見寺」(現高崎市・旧群馬町引間)があり、その周辺で将門と平良文とが戦ったという「染谷川古戦場跡」があります。
黒髪神社   榛東村広馬場
将門は美しい黒髪をしていたので相馬山の別名を黒髪山といいます。相馬山は山岳信仰の霊山として、古くから厚く信仰されていました。しかし険阻なため、老人、婦女子には登拝は困難なため、里宮としてここに上野祠(黒髪神社)が建てられました。
「宿稲荷神社」榛東村広馬場字宿
在原業平もしくは箕郷城主長野氏ゆかりの神社で、藤原貞業なる者が京都伏見から勧請したものだといいます。社殿の見事な彫り物は、すばらしいです。
「箕輪城址」高崎市(旧箕郷町)東明屋
箕輪城は大永6年(1526)、長野業尚(ながのなりひさ)によって築かれた丘城です。長野氏は在原業平の子孫を称しています。普通武家は源氏あるいは平氏を称することが多いのですが、わざわざ歌人である在原業平の子孫を称するのはなぜでしょう。もしそうだとしたら、長野氏は上杉家の家臣として室町時代初期、上杉氏が上州の守護大名になるとともにこちらに移ってきたと考えられます。
また、長野氏の家臣に上泉信綱(かみいずみのぶつな)という人がいます。剣聖と謳われた剣法の達人で、長野氏滅亡後は新陰流という流派を生み出します。高名な塚原卜伝は彼の弟子です。この人は当初、大胡(おおご、現在の群馬県勢多郡大胡町)にあって大胡信綱と称していましたが、その後上泉(現在の前橋市上泉町)に移って、上泉信綱と名乗りました。ですから、上杉氏の家臣が長野村で地名をとって長野氏を名乗った可能性もありえます。あるいは、長野氏は元々この地の豪族だったのかもしれません。しかし、そうだとすると、先程も書いたように、わざわざ歌人在原業平の子孫を称する理由がわからなくなります。 
相馬山   榛名山榛東村
山頂には小さな小屋(相馬神社)があり、信者らしき人が、祀ってあるものを拝んでいました。遠望すると、雲取山の手前に御荷鉾連山が見え、富士山の手前には甲武信など秩父連山がひとかたまりになっています。目をずっと左に転じると、妙義山の向こうに荒船山。山頂の西の端に行ってみると浅間山、鼻曲山、浅間隠山、掃部岳、谷川岳、小野子山と、見慣れた山が並んでいます。山頂は狭く、先客が多くて腰をおろす場所がありません。小屋(神社)の右に三体の石像があり、真ん中の石像が将門像(相馬または黒髪明神像)と伝えられています。なお、地元では山頂の石像を「相馬大権現」と呼んでいますので、この呼称では「将門」に間違いないことでしょう。また、黒髪明神と呼ばれているのは将門が美しい黒髪をしていたので、相馬山の別名を「黒髪山」ともいい、相馬明神を「黒髪明神」と称したといいます。  
榛名山と東麓の史跡   北群馬郡榛東(しんとう)村 
榛東村は、群馬県のほぼ中央、村名のとおり榛名山の東麓にある村で、村全体が北西から南東に向かって傾斜しています。榛名山は、かつては富士山に良く似た円錐形の標高約2,500mもある成層火山でしたが、約22万5千年前に山頂部で大爆発があり、その後数回の火山活動で中央火口丘の榛名富士を中心とする日本唯一の四重式の複式火山となりました。写真は、前橋市内の利根川に架かる南部大橋から見た榛名山の全景ですが、山頂部のピークは、右から水沢山、二ツ岳、相馬山、榛名富士、鷹ノ巣山、三ツ峰山、音羽山、鐘撞山、天狗山、種山です。
全景写真で先の尖った一番高く見えるピークが「相馬山」(そうまさん、標高1,411m)で、外輪山の東外縁に位置し、西外縁の「掃部ヶ岳」(かもんがだけ、標高1,449m)に次ぐ標高を誇り、その急峻な形状から日本のマッターホルンとも呼ばれています。前橋市内から伊香保経由で約35km、1時間の広大なカルデラ(火山活動でできた凹地)内の登山口から約1時間20分ほどで登頂できますが、山頂付近は鎖や梯子を使う急登となっています。写真は、カルデラ内から見た夕陽に映える相馬山です。
相馬山は別名「黒髪(くろかみ)山」とも呼ばれ、山頂部は「黒髪山神社」となっています。神社の名称は雷を意味する「くらおかみ」に由来し、実りの雨を約束する雷雲の湧き起こる相馬山を神として祀ったものと言われています。写真は、榛東村広馬場の「黒髪山神社」ですが、境内には「右相馬山登山道」と刻まれた道標があります。これは、険しい相馬山の山宮を老人や婦女子が参詣することが難しかったため、明治20年に里宮として建てられたものです。
相馬山は約2万1千年前の火山活動でできたものですが、その後間も無く大規模な山体崩壊が発生し、岩屑雪崩が南東斜面を流れ下って山麓に堆積し「相馬原」(そうまがはら)が形成されました。相馬原にはかつて陸軍の演習場があり、現在は陸上自衛隊相馬原駐屯地と相馬原演習場があります。高崎市、渋川市、榛東村にまたがる山頂部は榛東村の最高標高点となっており、東から南にかけての関東平野方向の眺めは抜群で、南の奥秩父の山並みの上には富士山が見えました。写真は、眼下に広がる相馬原です。
榛東村長岡の「茅野(かやの)遺跡」は、今から約2,500〜3,000年前の縄文時代後期から晩期にかけての住居、墓、水辺の作業場などのムラの跡で、国の史跡に指定されています。遺跡からは土器、石器などの日常の道具や土偶、石剣などの祭祀道具に加え、577点にも及ぶ大量の土製耳飾りが出土し、これらの出土品は国の重要文化財に指定され「榛東村耳飾り館」(榛東村山子田)に展示されています。写真左側が茅野遺跡で、発掘後は茅野公園として保存されています。
榛東村山子田の「船尾山柳沢寺」(ふなおやまりゅうたくじ)は、800年以上の歴史を有する古刹で、寺伝によると、平安時代初期に榛名山中の船尾山(吉岡町の船尾滝付近)に建立され、その後現在の地に移され戦国時代には荒廃しますが、江戸時代初期に天海僧正などの尽力により再建されたそうです。写真は、江戸時代中期に創建された「仁王門」と近年建てられた五重塔です。
榛東村を含むこの辺りは、かつて「桃井(もものい)荘」が形成され、鎌倉時代から南北朝時代にかけて下野国の足利源氏の一族が桃井氏を称して治めており、榛東村の村名も昭和34年までは「桃井村」となっていました。写真は桃井氏の居城があった「桃井城址」(榛東村山子田)ですが、隣の吉岡町上野田にも桃井氏の居館であった「桃井館」(とうせいかん)があり、これらは別城一郭(べつじょういっかく、二対で一つの城)と考えられています。
榛東村は関東随一のぶどうの郷としても知られ、夏から秋にかけて約30軒の観光ぶどう園が賑わいます。 
■多野郡
駿河大明神   多野郡神流町神ヶ原字間物
集落の入り口に、「駿河大明神」の小さな祠があり説明板があります。これによると、将門の妾・駿河姫(御前)が石間(城峰山)城の陥落後、将門が関東平定を祈った叶山丸岩へ祈願しようと、下僕を従え志賀坂峠を越え、この地・間物に逃れてきました。姫と下僕二人は、落人生活をするうち互いに慰め合い身分の許されない関係に陥ります。下僕は恐れ多いということで、局所に蕗の葉をあてがってするまねをしましたが、ついに本当になってしまいました。自責の念に駆られ二人は自害、村人は二人をこの社に祀り、二人が互いに慰め合ったということで須流真似(するまね=洒落か)大明神を建てて、御前を偲んで立派な男根を祀るようになったと伝えられています。こんなことから、この地の蕗の葉はどれも穴が開いているといいます。
また、間物集落ではぬるでの木で男根の形を作り、「おんまらさま」と呼んで注連縄の真ん中に吊るす習慣があります。さらに気がついたのですが、この間物集落には強矢(すねや)姓が多いのは、将門落人伝説となにか関係があるように思われますが、如何でしょうか。
野栗神社   多野郡上野村新羽字野栗
多野郡の奥地・神流(かんな)川流域に、野栗神社が多く分布しています。この野栗神社には将門の弟・平将平の御子を祀り、駿河明神には将平の奥方(または将門の妾)の駿河御前を祀る、と伝えられています。
神流川   多野郡
将門が石間(城峰山)に潜伏中、その一丈余の髪の毛がこの川に流れ、追っ手の秀郷に所在を知られて滅ぼされることとなった。このように、一名「髪流れ川」ともいわれた伝説があります。今でも秘境で、徳川中期に上流から椀が流れてきたことから初めて知られた部落もあったという。将門の恨みで、この一帯には秀郷の紋所である桔梗が一本も生えないと伝えられています。秀郷の紋所と桔梗の関係はこの地方だけのようです。
乙父の相馬家   多野郡上野村乙父
この家は将門の後裔で、家紋は将門の紋・九曜です。この地に逃れたとき、門松としてツガマツを飾り、以後、その風習を続けているといいます。
楢原の黒沢家   多野郡上野村楢原
将門の流れを継ぎ相馬と名乗っていましたが、弘治二年(1556)、黒沢に改めたといいます。楢原集落には、旧黒沢家住宅が残されています。
杖植峠(おそう峠)の伝説   多野郡神流町持倉
将門に寺を焼き討ちにされて逃れた僧の一団が、奥多野の万場の山奥へ分け入り杖植(つえたて)峠を越えようとしました。飢えと寒さの中、やっと山陰に人家を見つけ一夜の宿を乞うたところ、大勢を泊めることはできないと断られ、しかたなく山道を登っていきました。やがて春となった峠道に、その僧たちが赤い石と化して転がっているのが発見されました。そしてこの峠を「おそう(和尚)峠」と呼んだ、と伝えられています。
■富岡市
一ノ宮貫前神社 1   富岡市一の宮
(いちのみやぬきさきじんじゃ)
創建は社伝によると、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方で、荒船山に発する鏑川流域の蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが安閑天皇の元年(531)といわれています。神社は一般的には参道を上った位置に本殿があるのですが、この神社の場合は参道を下った低地に本殿が位置しています。将門がこの社に詣でて武運を祈ったといいます。
一之宮貫前神社 2
式内社(名神大社)、上野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。当社は物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。
境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。
祭神は以下の2柱。
経津主神 (ふつぬしのかみ) / 葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している。
姫大神 (ひめおおかみ) / 祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされているほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。
創建
社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部君姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(535年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。
概史
現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。
宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる。
『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる。
中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる。
江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。
抜鉾神社と貫前神社
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。
2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。
1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。 
藤太杉 1   富岡市一の宮 貫前神社
貫前神社の境内(本殿後ろ)に、藤原秀郷が将門討伐の折に戦勝祈願をして、この杉を植樹したと伝えられています。  
藤太杉 2
幹周 7.3m 樹高 23m 樹齢  伝承1200年
上野国一宮の貫前神社。長い石段を登り終え鳥居をくぐると眼下に本殿が広がる。今度は石段を下って本殿にたどり着くという珍しい作りの神社である。本殿の裏には広大な境内林が広がり、その中に樹齢約1200年という御神木、藤太杉がある。平将門討伐の折に藤原太郎秀郷が植えたと伝えられ、名前の由来もここからきているとされる。

藤原秀郷が将門討伐の際、自身の年齢と同じ36本を植えた中の一つとされ、立派な杉は他にもありました。  
■藤岡市
鬼石神社 1   藤岡市(旧鬼石町)鬼石字宮本
(おにしじんじゃ)
鬼石伝説について、『鬼石町誌』には次のようにあります。上野国志御荷鉾山の條に「土人相伝、往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の為に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落ちる地を鬼石といふ。」
つまり、昔、御荷鉾山に悪事をはたらく鬼が住んでいて、人々に危害を加えていた。人々が困り果てていたとき、偶然立ち寄った弘法大師に人々が助けを求めた。弘法大師が護摩を焚いたところ、鬼はたまらなくなって近くにあった大きな石を放り投げて逃げていった。その石が落ちたところを「鬼石」というようになった。また、御荷鉾には「投石峠」という峠もあり、そこから石を投げたともいわれています。そしてその投げられた石は、その名も“鬼石”とよばれ、現在の「鬼石神社」の御神体として祀られ、建物の横の方からその姿(鬼石)を覗くことができます。この神社は、将門の霊あるいはその公達を祀り、将門の甲冑像を御神体としていたといわれています。また、以前は「鬼石大明神」といわれ、社殿の鬼石の下に将門の首を埋めたとも伝えられていて、古くは将門のゆかりのある社であったといいます。
鬼石神社 2
旧郷社 御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
群馬県藤岡市(旧鬼石町)にある。八高線の群馬藤岡駅の南11Kmほどの鬼石に鎮座。埼玉県との県境である神流川の西側、鬼石町の中央部西側に境内がある。
境内入口は462号線に面して東向き。参道の階段の途中に「鬼石神社」と刻まれた社号標がある。その脇の石碑には、第61回伊勢神宮式年遷宮の際に当地・鬼石の三波石が皇大神宮大御前石階の改修に用いられたとある。階段を上ると赤い鳥居。参道を進むと左手に手水舎があり、右手に神楽殿、正面に瓦葺入母屋造の拝殿がある。拝殿後方に、垣に囲まれて銅板葺流造の本殿。本殿の床下に社号のもととなった鬼石がある。
創祀年代は不詳。江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
当社には石棒二点、凹み石一点が保管されており、神体石である本殿床下の鬼石を、『日本の神々』では自然崇拝に基づく石神で、いわゆる「神籠石」であろうとして祭祀の起源は縄文時代にまで遡れるのではないかと記している。
当社に関して、江戸時代の文献に以下の記述がある。
御荷鉾(みかぼ)山(標高1246m)の頂に鬼が住み、村人に害をなしていたが、弘法大師に調伏され、巨石を投げて逃げ去った。その巨石が落ちたところが鬼石で、その石が今も村中にある。
また、大同の頃、御荷鉾山に伊勢国鈴鹿山の鬼神の子孫である二鬼が住み里人を大いに悩ませていた。修行の途中立ち寄った弘法大師が阿毘遮廬の護摩を焚かれたところ、鬼たちはいたく感じ、石と化した。その石が遥かに飛んで神流川のあたりに留まった。その地を鬼石村と号し、その精霊を祀って鬼石大明神とした。
また、鬼石大明神は平親王(将門か?)の公達を祀ると言い伝えられ、当地は平将門の宮女の潜居の地であるとも伝えられているらしい。  
尾之窪城址 1   藤岡市三波川大沢(旧鬼石町)
この城は、天慶年間、平貞盛が将門を追討するために、築いた砦だと伝えられています。付近には、勝負台とか勝どき丘などの地名も残っています。
尾之窪城 2    
天慶年間、平貞盛が将門を追討するために築いたという。
三波川(さんばがわ)   藤岡市三波川
群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。
流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
流域の歴史
古墳時代 神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれる。
平安時代 三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残る。
江戸時代 1656年(明暦2年):三波川村および近隣の譲原村、武蔵国渡瀬村に潜伏する隠れキリシタンが捕らえられる。 
平滑の魔峰   藤岡市(旧鬼石町)三波川字平滑
この地の「魔峰」というところで、将門と国香(将門の叔父)とが戦ったところだと伝えられています。   
大内平   藤岡市(旧鬼石町)三波川字大内平
平滑から近いところに「大内平」があります。ここで平国香の愛馬が、井戸に飛び込んで死んだという。そのため、この地では井戸を掘ることを禁じられたといいます。
雨降山・姥神様   藤岡市(旧鬼石町)雨降山
赤い鳥居を潜って雨降山登山道を登ります。約一時間で雨降山東峰、琴平神社奥の院があります。雨降山(1013m)の山頂から、すぐ近くに東御荷鉾山(1246m)の鉾のような山様が見え、天気が良くて遠くに白く雪を冠にした浅間山が手に取るように見えます。この山に平国香(将門の叔父)の奥方が、侍女二人を連れて隠れ住んだといいます。この山の姥穴に住んでいたので、このことから姥神を祀り姥神様と呼ばれたそうです。この姥穴は、雨降山東峰にある琴平神社奥の院あたりだと思われますが確認できませんでした。
神戸の地   藤岡市(旧鬼石町)坂原字神戸
将門の一類が、この地に住んでいたと伝えられています。
鏡の森   藤岡市(旧鬼石町)坂原
城峰山から桔梗の前の鏡が投げられ、それが落ちた場所を「鏡の森」といいます。ここに祠を建ててその鏡を祀っていましたが、落雷により焼け落ちてしまったと伝えられています。また、このあたりには、桔梗の花が咲かないといいます。この鏡の森がどこなのか確認できませんでしたが、たぶん神戸の地ではないかと思われます。
下山城址(または譲原城址?)   藤岡市(旧鬼石町)譲原
平貞盛がこの地を通り、都に上がろうとしました。将門がこれを追ってこの地が要害の地であることを知って、万一を慮り築城しました。のちに、藤原秀郷の討伐によって落城したといいます。
新井家にある桔梗の鏡   藤岡市(旧鬼石町)譲原
この新井家は代々坂原に住んでいて、鏡の森の祠に桔梗の鏡を祀り大切に護ってきたといいます。この祠は落雷により焼け落ちてしまいましたが、御神体の桔梗の鏡は当家に現存していると伝えられています。この桔梗の鏡は、直径11.5pで花鳥八稜鏡といって、平安時代の作だといいます。
子王山城址 1   藤岡市下日野
子王山(こおうやま)で、すぐに「二千階段」が始まり丸太の階段の急登が応えます。約四百段(反対側の階段を入れて二千です)で山頂(550m)、山全体が城址です。有料の望遠鏡があるほど、北関東の展望が素晴らしいところです。先週登った雨降山や御荷鉾山など、西上州の山々がよく見えます。この山城は、将門の臣・柴崎兵部景保が築いたと伝えられています。天慶三年(940)、将門がこの城に篭もり、藤原秀郷・平貞盛軍と戦ったといいます。またこの山には、将門の埋蔵金伝説があります。将門の臣であった柴崎兵部景保が、子王山の山頂に築いた城址に金千貫を埋めたといわれています。言い伝えに、「朝日が当たり、夕陽が遅くまで照らしている場所に金千貫漆千貫」とあります。
子王山(こおうやま)城 2
別称 皇鳳山城、喜平次の城  分類 山城  築城者 多胡政兼ないし柴橋景家か 遺構 曲輪跡、土塁、堀跡
説明板によれば、平将門の家臣柴橋兵部景家によって築かれたとある。他方、『日本城郭大系』には、天慶の乱の際、多胡政兼が築いたとある。天慶の乱は将門が惹き起こしたものであるが、政兼が将門方・朝廷方のいずれであったのかは明らかでない。そもそも、政兼や景家といった人物が実在したかも定かでなく、平将門の時代に築かれたとするのは伝承に過ぎない。現地説明板によれば、天文二十一年(1552)に長尾景虎(後の上杉謙信)が平井城を奪回した際に、景虎の甥の長尾喜平次顕景(後の上杉景勝)がこの城に入ったため、「喜平次の城」と呼ばれるようになったとある。しかし、顕景は弘治元年(1555)生まれであるため、天文二十一年には城に入り得ない。また、天文二十一年は上杉憲政が北条氏によって平井城を逐われた年であり、景虎が関東へ進出するのは、永禄三年(1560)以降のことである。このほかに、子王山城について伝承などはみられず、廃城時期等は不明である。

子王山は、鮎川に臨む標高550mの半独立峰で、皇鳳山とも書きます(読みは同じ)。周辺の山々のなかでも屈指の標高をもち、山上からは遠く筑波山と思しき山まで望むことができました。
子王山へは、西麓から「二千階段」と呼ばれる聞くだけで疲れてしまいそうな登山路がありますが、南東の椚山集落からなら比高差100mほどですむ道があるので、こちらを推奨します。ただ、私が訪れた時には、西麓の鮎川方面から椚山へ登る道が工事中で通行不可だったため、東の三名川沿いの道から登らなければなりません。
子王山城は、山頂の主郭を中心に、2〜3段の帯曲輪を巡らした縄張りをもっています。帯曲輪の一画に、朱塗りの小さな神社があります。主郭の西には、堀切を挟んでやや広い出丸があります。現地説明板ではこれを二の丸としています(説明板もここに設置されています)。この曲輪は現在展望台となっていて、平井金山城や山名城など、周辺を代表する山城をすら眼下に一望のもとに収めることができます。
椚山方面から登る遊歩道は、主郭に向けてほぼ一直線に伸びているのですが、残念なことに途中の帯曲輪を分断してしまっているようです。帯曲輪に至る手前で、注意深く覗くと藪の中を西手に進む旧道があり、先の神社の下を通って二の丸の堀切下に到達します。おそらく、こちらが当時の登城路であったものと思われます。
説明板にある、天文二十一年に上杉景勝が入城したという伝承は、先述の通りそもそもあり得ないことですが、「喜平次の城」という別称が伝わっているのであれば、その由来についてはいくつか仮説が立てられるかとおもいます。まず、喜平次が景勝を指すのであれば、景勝の初陣とされる永禄九年(1566)から謙信が死去し御館の乱が勃発した天正六年(1578)の間のことと考えられます。子王山城の役目は一にも二にも物見だったでしょうから、景勝がこの城に長居するようなことはまず考えられませんが、何らかの理由でちょっと立ち寄るくらいのことはあったかもしれません。
もう1つは、「天文二十一年」にこの城で何かがあったという点が正しいとして、景勝と別の「喜平次」という名の城主が存在したと考えることもできるかと思います。この場合、「喜平次」は上杉憲政か北条氏康の家臣で、北条氏が平井城を奪取した際に子王山城も攻め落としたと解釈することができるものと考えられます。
いずれにせよ、今に残る遺構からは、平将門云々はともかく戦国時代までは使用されていたことは、明らかであるといえます。 
柴崎家   藤岡市下日野
柴崎家は、柴崎兵部景保の後胤で将門の一族といわれ、紀州からやってきたといいます。さらに下ると鮎川に出ます。少し下ると「蛇喰(じゃばみ)渓谷」があります。「大蛇が岩を噛み砕いて流れをせき止めた」という伝説が伝えられています。渓谷の紅葉は、今が一番のようです。
不動嶽の戦い   藤岡市上日野
将門がこの地の多胡春好(多胡氏は北隣の吉井町が本拠地)を頼り、不動嶽の麓に立て篭もり、源経基と戦いましたが利あらず、下総に引き上げたといいます。この不動嶽がどの山なのか確認できませんでした。たぶん御荷鉾山のことではないかと思われます。
将門の遺児   藤岡市上日野
将門の乱のころ、多胡三郎能武という者が、将門の子の良門と娘を奉じて奥州の地に隠匿したといいます。
将門の宮女   藤岡市上日野
御荷鉾山の麓には、将門の宮女が潜居したところがあると伝えられています。
染谷川   藤岡市緑埜(みどりの)
この川の近くで、将門が合戦したといいます。たぶん竹沼貯水池から流れ出る川かと思われます。
玉村町の龍の玉伝説(玉村の由来)
昔、天慶年間(938〜46)、沼田のんだ(今の柴八斗島の総称、西は沼之上今の五料に対する処)の庄の地頭に美しい娘がいたが、錦野の里(今の玉村を中心とした滝川・上陽の一部・芝根等の総称)の若者と相思相愛の仲になった。彼女の美貌が、将門の権に媚びる土豪の目にとまり、彼女を将門の待妾に送ろうと企まれた。親の地頭はそれとさとり、娘をひそかに若者の許に走らせた。すると土豪の追手が、大勢錦野の中を流れる矢川のほとりでこれを捕らえようとした。娘は進退きまわり、矢川の急流に身を躍られて自らの命を断った。この時、急を救おうとかけつけた若者も後を追って同じ矢川に身を投げて死んだ。
その後、この川の流れに二つの光る碧玉がしばしば漂うのが見えた。村人は考えた。この娘はきっと「龍人」の変化で、玉は「龍人のあぎとにある玉精であろう」 と、そこで二人の霊を慰めようと玉を「近戸大明神」に祀った。後、矢川は年々の洪水で川幅が広がり明神は移り、利根川の大洪水で龍神が現れ、碧玉の1つを奪って行った。残る一つは今の「満福寺」に奉ってある。龍の玉のために出来た村から玉村と呼ぶようになったとされている。
満福寺   玉村町福島
この寺に、玉村伝説の碧玉の1つが祀ってあるといいます。近戸大明神や矢川がどこなのかは未確認。寺の裏手に利根川が流れています。  
多胡碑   吉井町大字池
多胡碑は、和銅4年( 711)、県西部の片岡・緑野・甘良の三郡から300戸を割いて、多胡郡を設置した旨の弁官符を刻んだ古石碑です。石碑は台石・碑身・笠石で構成され、碑身は高さ1.27m、幅0.6mの花崗岩質砂岩で、6列に80文字が刻まれています。碑は観音堂風の覆屋に収められています。宮城県の「多賀城碑」、栃木県の「那須国造碑」と共に日本三古碑の一つとされ、特別史跡に指定されています。
多胡館跡は、吉井町内最古の館跡。多胡丘陵の平坦地に築造され、東西110m、南北110mの広さ。西北・東北隅・東南に土塁、堀跡が残る。南面中央に正門・北面やや東寄りに裏門跡が認められます。永治・康治(1141〜1144)の頃、源為義の二男義賢(よしたか)(多胡先生(せんじょう)、木曽義仲の父)は、都より下って多胡館に居を構えたが、久寿2年(1155)大蔵館(埼玉県嵐山町)で討たれた。その後多胡氏が居館しますが、戦国の世、西上州は三つ巴の戦の地となり、多胡館も放棄されました。
辛科神社   吉井町神保
辛科神社のあたりの郷名は、昔は「韓科郷(からしなごう)」といいました。また、この地域の郡名は、より古い時代には「甘楽郡(からぐん)」といい、奈良時代初めの711年に甘楽郡から分かれて「多胡郡(たごぐん)」になりました。「甘楽郡」の「甘楽」も、韓または伽羅と同義です。「多胡郡」の「胡」は、本来の字義は「中国の西方の異民族」ですが、日本においては「西の大陸から来た人」を意味します。つまり、「多胡郡」というのは「渡来人が多く住む郡」という意味になります。辛科神社は、多胡郡の建郡直前の大宝年間(701〜704年)に創建され、711年の建郡によって、多胡郡の総鎮守社になったと伝えられます。  
南小太郎山   群馬県南西部  
(みなみこたろうやま、みなみこたろうさん)
群馬県南西部、多野郡神流町にある、登山者の人影も少ない山。東方向に伸びる御僧尾根は、75人の僧侶が雪山遭難して無くなったという伝説の残る場所で、尾根上にある石は、凍死した僧の化身という言い伝えがある。
御僧峠(おそうとうげ) 将門に寺を焼かれた僧の一団が、杖植峠を越えようとした。寒さと飢えに襲われた一団は、一軒家を見つけ一夜の宿を乞うが、こんなに大勢は泊められないと断られた。僧たちは仕方なく、暗い山道に向かって行った。冬が去った峠道には、僧たちが化した赤い石が転々と転がっていた。
杖植峠(つえたてとうげ)   群馬県多野郡神流町平原/甘楽郡下仁田町青倉    
 

 

 
■茨城県

 

■坂東市
國王神社 1   坂東市岩井
由緒
國王神社は、平将門公・終焉の地に静かに佇む古社です。将門公の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが國王神社の創建であり、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)を御神体に戴いております。
創建と歴史
天慶三年(940)二月十四日、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構えた平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。将門公の四百騎は、三千騎の敵軍に対して追い風を得て、当初敵を圧倒します。しかし、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。地元の言い伝えによれば、首を取られた将門公の身体は馬に乗せられ、のちに國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのでした。
月日は流れ、将門公の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきました。奥州・慧日寺に逃れていた、将門公の三女・如蔵尼です。奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、ある日悪夢を得て急いで下総に帰郷し、村人に父の最期の地を尋ねました。熾烈な残党狩りの記憶があった村人たちでしたが、尼僧が将門公の縁者だと分かると、将門公が辿り着いた最期の地・現在の國王神社の場所に案内したのでした。
如蔵尼は、この場所で傍らの林の中より怪木を見つけ、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。  
國王神社(国王神社) 2   
御祭神   平将門命
社格等   村社
例大祭   2月14日
所在地   茨城県坂東市岩井951
由緒
祭神は平将門である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(940)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心にのこる英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。
本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。
歴史
平将門終焉の地・國王神社
茨城県坂東市岩井に鎮座する神社。旧社格は村社で、旧岩井村の鎮守。平将門終焉の地とされる場所に鎮座し、平将門命を御祭神とする。古くは「国王大明神」や「将門大明神」と称され崇敬を集めた。現在は正式には旧字体の「國王神社」と記す。鬱蒼とした境内には、茅葺屋根の社殿が現存しており、茨城県指定有形文化財となっている。
新皇を自称し朝敵となった平将門
社伝によると、天禄三年(972)に創建と伝わる。平将門の三女・如蔵尼が、将門終焉の地に将門を祀ったのが始まりとされる。
「平将門(たいらのまさかど)  平安時代中期の関東の豪族・桓武天皇の五世子孫。下総国・常陸国で伯父の平国香・平良兼ら一族と将門との争いが発生し、一族の争いが、やがては関東諸国を巻き込む争いへ発展する事になり「平将門の乱」が勃発。争いの延長でやむを得ず将門は国府を襲撃して印綬を没収、関東一円を手中に収め京の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇(しんのう)」を自称し、独自に岩井(現・茨城県坂東市)に政庁を置いて東国(坂東)の独立を標榜した。朝廷は将門を朝敵とみなし討伐軍を結成、天慶三年(940)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで、飛んできた矢が将門の額に命中し討死。」
「将門の首は平安京へ運ばれ、晒し首にされた。獄門(晒し首)を歴史上で確認できる最も古く確実な例が将門である。」
将門の首については、死後も様々な伝承が残されている。 将門の首は京都の七条河原に晒されたが、何ヶ月経ても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったとも云われ、更に将門の晒し首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、これが各地に残る将門の首塚。特に代表的で将門の祟りでも知られるのが「将門塚」(千代田区大手町)で、当社と同様に将門を祀る「神田明神」と関わりも深い。
将門の三女が33回忌で将門終焉の地に創建
天慶三年(940)、平将門が討死。将門の三女・如蔵尼は、難を逃れて陸奥国「恵日寺」付近に住み出家したと云う。
「如蔵尼(にょぞうに)   平将門の三女と伝えられる尼僧。将門の死後、陸奥国「恵日寺」(現・福島県磐梯町)付近に隠棲。地蔵菩薩に救われた事で、出家して如蔵と名乗り地蔵菩薩を信仰し続けたため、人々からは地蔵尼君と呼ばれた。」
天禄三年(972)、霊夢を見た如蔵尼は、将門の33回忌にあたるこの年に陸奥国から下総国に帰郷。将門終焉の地に戻った如蔵尼は、付近の山林で霊木を見つけて将門の像を刻んだと云う。父・将門の命日である2月14日、祠を建立し将門の像を安置し、これが当社の始まりとされる。「国王大明神」「将門大明神」などと称されて以後、地域からの信仰を集め続けた。
「将門は地域の英雄   朝敵として討たれた将門であったが、将門が拠点とした岩井(現・茨城県坂東市)では、地域の英雄として崇敬を集め続けたと云う。関東(東国)では将門を英雄視する地域も多く、これは朝廷から重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として、将門を英雄視したのものとみられる。」
徳川家光より朱印地を賜る・幕府からの崇敬
慶安元年(1648年)、第三代将軍・徳川家光より朱印地10石を賜る。
「朱印地(しゅいんち)   幕府より寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。」
幕府から庇護された原因として、平将門を祀る「神田明神」が江戸総鎮守とされた事が挙げられる。
「「神田明神」は江戸城の鬼門守護として幕府によって遷座。江戸設計の多くを指導した天海の主導によるもので、天海は将門公の御霊に江戸を守護させていたとみられている。」
朝廷に歯向かった将門を江戸総鎮守に据える事で、江戸の幕政に朝廷を関与させない決意の現れだったのではなかろうか。そのため、将門終焉の地である当社も幕府より庇護されたのであろう。
「古来、朝敵とされていた将門であるが、第三代将軍・徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が、幕府から将門について色々と聞かされた結果、「将門は朝敵に非ず」との奏上を行っており、この事からも徳川幕府において将門公の御霊が大変重要な役割を担っていた事が窺える。」
元文四年(1739)、将門の死後800年にあたるとして正一位の神位を賜る。
江戸時代初期に現存する拝殿や本殿を造営
万治二年(1659)、火災によって社殿や文献などを焼失。
天和三年(1675)、本殿を造営。この本殿が現存しており、茨城県指定文化財となっている。
延宝三年(1675)、拝殿を造営。こちらも茨城県指定文化財となっている。
「但し、様式的にはもっと時代が下がると推測されていて、再建棟札が残る文化十四年(1817)が妥当だとみられている。」
以後も岩井村鎮守の一社として崇敬を集めた。
明治以降の歩みと平将門評価の変遷
明治になり神仏分離。当社は村社に列した。明治七年(1874)、「神田明神」へ明治天皇の行幸が決定。明治政府が天皇が参拝する神社に朝敵である平将門が祀られている事を問題視したため、将門公は「神田明神」の御祭神から外されてしまう。こうした影響を受けてか、戦後まで当社の御祭神も公式には大己貴命を祀る形となった。
「但し、平将門を祀ると云う由緒は隠される事もなく、『平将門故績考』など多くの書籍では「国王大神」「國王大明神社」として将門を祀る神社として紹介を受けている。」
明治二十二年(1889)、市制町村制によって岩井村・辺田村・鵠戸村が合併し岩井村が成立。明治三十三年(1900)、町制を施行し、岩井町となった。当社は岩井町鎮守の一社として崇敬を集めた。明治四十年(1907)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。岩井町や岩井といった地名も見る事ができ、当地周辺は上岩井と呼ばれていた。
明治四十年(1907)出版の織田完之著『平将門故績考』には当社について詳しく記されている。
「國王大神」として記されていて「将門戦没の故蹟なり」とある。現存する拝殿や本殿、木像の神像についても詳しく記載。更に将門が所持していた笏、鬼神丸と称する太刀などが神宝として納められていた。
「織田完之(おだかんし)   日本の農政家・歴史学者。明治期の印旛沼干拓に尽力した人物。平将門の研究者としても名高く、『国宝将門記伝』『平将門故蹟考』などの著作がある。明治に再び朝敵とされた将門であったが、その復権に織田完之の著作が果たした功績は大きい。」
明治四十一年(1908)、近隣の守神社・疱瘡神社・浅間神社を合祀。
「現在は一部が境内社となっている。」
戦後になり平将門命が御祭神に復活。現在は大己貴命は祭神から外れている。
昭和四十七年(1972)、市制施行で岩井市が成立。同年、岩井市成立を記念して「岩井将門まつり」が開催され、現在も続く。
昭和五十一年(1976)、平将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映。「神田明神」の御祭神に将門が復活し、当社にも放映記念として狛犬が奉納。
境内案内
平将門の史跡が多い坂東市岩井・陸の孤島
当社が鎮座する坂東市は「陸の孤島」とも揶揄される地。全国的にも珍しく市内に鉄道が通っていない事が挙げられる。
「当社への道のりも、公共交通機関を利用する場合は、愛宕駅(千葉県野田市)や守谷駅(茨城県守谷市)よりバスで30分前後の岩井局前バス停で下車、さらにそこからも徒歩である程度歩く事となり、かなり交通の便が悪い場所。そのため自家用車などの参詣を推奨。」
そうした坂東市であるが、当社を含む岩井地域(旧岩井市)は、平将門ゆかりの地として知られる。当社だけでなく、将門に由来する史跡が数多く残るため、当社を含め色々と巡るのをお薦めしたい。
緑溢れる鬱蒼とした境内
当社は県道20号線沿いに鎮座。表参道は県道からやや西へ入った先に南向きで整備。緑に囲まれた鬱蒼とした一画。社頭には「國王神社」の社号碑。正面に鳥居が建つ。鳥居は木造の両部鳥居。鳥居を潜ると緑溢れる境内。撮影は正月三が日のものなので、葉が落ちている木々も多いが、以前春先に参拝した時はもっと緑が深く鬱蒼とした境内であった。普段は無人の神社であるが、氏子崇敬者が定期的に維持管理をしており、以前も地域のお婆さんが清掃している姿を見る事ができ、色々とお話を聞かせて下さった事を覚えている。境内には手水舎はない。古い水盤は残っているものの使用不可なため、そのまま参拝へ向かう。
県指定文化財の茅葺社殿・九曜紋
参道の正面に圧巻の社殿。とにかく特徴的なのが屋根。今もなお茅葺屋根の社殿として現存。葺き替えや維持が大変な茅葺を今も維持しているのが素晴らしい。拝殿は延宝三年(1675)造営と伝わるものの、棟札に記された文化十四年(1817)造営が妥当と推測されている。入母屋造で重厚感のある拝殿。拝殿内には多くの奉納額や将門公の神像の写真、絵画などが奉納されている。本殿は天和三年(1683)に造営とされる。茅葺屋根の流造で、幣殿によって拝殿と接続。細かいものではないものの一部に彫刻が施されている。
拝殿・本殿共に茨城県の県指定文化財。
社殿には至るところに九曜紋。当社の社紋でもあり、平将門が信仰した妙見信仰との繋がりも深い紋。妙見信仰を篤く信仰した将門は九曜紋を使用したと云われている。さらに県指定文化財となっているのが、当社の神像である平将門木像。(非公開) 制作年代は不詳なものの、室町時代の作と推測されている。
狛犬・境内社の妙見社・庚申塔・供養塔
拝殿の前に一対の狛犬。かなり年季が入っているように見えるが戦後奉納の狛犬。昭和五十一年(1976)奉納の狛犬で、同年に平将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映された事を記念して奉納されたもの。台座にNHK『風と雲と虹と』放映記念と記されている。社殿の左手に境内社。妙見社は将門が篤く信仰した妙見信仰によるもの。
「妙見信仰(みょうけんしんこう)   北極星(北辰)を神格化した妙見菩薩に対する信仰。神仏分離後は妙見菩薩と同一と見なされている天御中主神を御祭神とする。将門の一族である平良文の子孫・千葉氏の氏神とされた「千葉神社」などが知られる。」
妙見社の隣に庚申塔。下部に三猿、その上に庚申信仰の本尊・青面金剛の姿が彫られている。さらに浅間大神(浅間神社)。浅間神社は明治四十一年(1908)に合祀されたもの。その隣に守神社。こちらも明治四十一年(1908)に合祀。中の碑には守大明神とあり、将門の子孫と伝えられる室町期の猿島郡司・平守明を祀る。境内の一画に供養塔。平将門を始めとした祖先の供養塔。平将門、平家先祖代々、桓武平氏の霊を供養するために建立。
坂東市の秋の風物詩・岩井将門まつり
当社の例大祭は平将門の命日である2月14日。氏子の間では平将門の命日が2月14日なことから、十四日講という供養行事が代々行われてきたと云う。例大祭とは別に坂東市全体が盛り上がる行事がある。それが11月第2日曜に開催される「岩井将門まつり」。
「岩井将門まつり   昭和四十七年(1972)、岩井市(現・坂東市)の市政施行を記念して開催された祭りで、郷土の英雄である平将門の勇姿を現代に蘇らそうという祭り。毎年11月第2日曜に開催。当社で戦勝祈願を行い、境内を総勢100人の武者が行進して参拝。その後、武者行列が市内を練り歩き、同じく将門公を祀る「神田明神」や将門塚保存会の協力の元、「神田明神将門太鼓」や「神田ばやし」等が披露される。」

平将門終焉の地に、将門の三女によって創建された当社。普段は無人社ではあるが、平将門公を崇敬する人にとっては大変重要な神社であり、崇敬者も多い。立地的に公共交通機関での移動はかなり不便で、自家用車がないと移動が大変な場所に鎮座しているのだが、坂東市(特に旧岩井市内)には、将門に関する史跡が数多く残されているので、当社と共に一緒に巡るのがよいと思う。朝敵とされ討伐された将門であるが、関東圏では一部で英雄視する事も多く、特に江戸時代に幕府が崇敬をしてからはそうした傾向が顕著になったとみられる。しかし明治維新後は再び逆臣とされ祭神を隠されたりと、時代と共に評価が変わり揺れ動いた。そうした中でも地域から大切にされ、今も茅葺社殿が残るのは素晴らしいと思う。魅力の多い神社なので、もう少し色々施策をしたら参拝者もぐっと増えるポテンシャルがあるだけに、平時は閑散としていて参拝する度にどこか惜しい気持ちになってしまうが、素晴らしい境内や歴史を持つ神社であるのは間違いない。 
坂東市 1
将門公
平将門伝説は、北は北海道から西は広島県まで分布し、中でも将門の支配下にあった関東地方に多く残っています。他にも伝承などを加えると、その多彩さに圧倒されます。今から1100年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが将門であったと伝えられています。将門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近かにして敗れてしまいました。将門伝説には、その夢の実現を見ずに散った悲劇性と庶民の願望が、今日まで語り継がれています。
深井地蔵尊と将門妻子受難
結城・坂東線と猿島・常総線が交差する沓掛信号を左折して猿島庁舎方面に向かい、沓掛台地から西仁連川沿いに出るところに大きなカーブがあります。そのカーブの途中の市道を右に入り西仁連川に架かる地蔵橋を渡った左側に深井地蔵尊が祀られています。この堂は、外見だけを見るとありふれた堂に見えますが、平将門の妻子が惨殺された悲劇の場所でもあると考えられます。良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣しますが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却します。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになります。  良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。妻子受難の場所には、諸説があります。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われ、この間の大きな入谷津を総称したと考えられます。深井の地蔵尊の創建は古く、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、この地蔵尊ではないだろうかといわれています。
将門と山崎
県道高崎・坂東線と猿島・常総線が交差する内野山小学校前を沓掛小学校に向かうと、山崎地区があります。同地区には、京都の小路を偲ばせる地名が小字となっています。旧猿島町史資料の『事績簿』によると、『平将門、当地の天然の風致に富めるを愛し、時々駿馬を馳せ来たり。沓を樹に懸けて憩いたるの故を以て沓懸の地名が起こり、沓懸と書きしが、更に沓掛と改書せりと。また将門、都に擬して喜野小路・平形小路・柏畑小路の名称を付けたるなり。現時小字として存す。』とあります。  将門の生涯を叙述した『将門記』によると、坂東8カ国を支配下に治めた将門は、新たに諸国の国司を任命して東国独立国家を開府しました。その上で王城(皇居)を下総国の亭南に定め、さらに文武百官を任命しました。ここに記された王城の立地は諸説ありますが、石井営所の付近と考えられます。京都を見本に「うき橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」と協議され、山崎地区が比定されていたことを『事績簿』は物語っています。この地が将門と深い関係にあったことは確かなようです。また、内野山には古代の製鉄遺跡があり、将門と鉄との相関性が指摘されています。
内野山の松崎天神社
内野山の舌状台地が根元から開削されて、西仁連川が貫流したのは昭和初期のことです。この開削工事によって、西仁連川の東側に取り残された台地上に鎮座するのが松崎天神社です。土手道から坂を登ると、境内入り口に木造両部鳥居があり、参道を進むと社殿の前に出ます。境内の木間越しに飯沼耕地を眺めると、三千町歩の美田が一望できる景勝地に驚かされます。境内にある「村社天満神社碑」によると、平将門没後の天慶8年(945)9月、菅原道真公の子息、景行・兼茂・茂景がこの地に立ち寄り、三方を水に囲まれた舌状台地が湖上の島を思わせ、老松と月影を映すという風光明媚な景色を賞しました。  この台地に、菅原氏の遠祖にあたる「天穂日命」を祀り、併せて道真公を祀って天神社としたことが誌されています。飯沼耕地は、「将門記」に広河の江という名で記され、大蛇が棲む秘境とあり、また周辺には7天神社が鎮座していたとされています。その天神社由来については、『神社縁起書』に詳しく記述され、菅原景行の治績に関係あるとされました。当社を腰掛け天神と称し、景行が将門の開拓思想を受け継ぎ、飯沼の開発構想を練ったことによるといわれています。常陸国の介であっ景行は、介の任期が終えた後、この地にとどまり、対岸の大生郷に学問所を開きました。将門の弟将平も通って修学したとも伝えられています。
弓田の不動尊(弓田のポックリ不動)
主要地方道結城・坂東線を沓掛方面に向かうと、県道高崎・坂東線との交差信号があり、その信号を越して約50mほど進み、小道を左折して道なりに歩くと、右側に「弓田のポックリ不動」で知られた明王山慈光寺が現われます。昔は、弓田を湯田と称しました。湯田とは、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味で、豊穣な土地を指した地名であることからも、早い時期に集落が拓けていたと思われます。寺伝によると、奈良時代の天平18年(746)に、僧行基の高弟がすべての悪魔を退散させ、世の中を平和にする衆摩降伏・真理円融の道場として創建され、不動明王が祀られました。平安中期、平将門が政治、経済、軍事の拠点を岩井営所に移すと、当寺を鬼門除けの本尊として仰ぎ、また守り本尊として深く信仰したと伝えられています。門前から約200mほど西方に、弓田香取神社の杜があり、この杜は律令時代に兵営の守護神として創祀されたと伝えられ、承平3年(939)2月に将門が参拝したといわれています。さらに、この弓田香取神社と慈光寺との間を兵庫屋敷(兵器の倉庫跡)と称し、道路を隔てて談議所(軍談所)と呼び、奈良時代からの軍事基地であったようです。その後を引き継ぎ活用した将門は、軍事拠点と位置づけ、神仏の加護を祈っていたことを物語っています。
国王神社と将門座像
岩井市街から結城街道を沓掛に向かう左側に、杉木立におおわれて国王神社があります。古風な木造両部鳥居をくぐり、参道を進むとその奥まったところに茅葺き屋根の社殿が現われます。常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられます。祭神は平将門命です。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、将門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました。御神体の像は、寄木造座像で高さ2尺8寸の衣冠束帯姿で、右手に笏を持っています。像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎっている印象を受けます。彫刻で注目されるのは、本殿向拝に用いる蟇股のつなぎ馬です。江戸期の将門芝居につなぎ馬の紋所が描かれるのは、この彫刻に由来するようです。将門軍の最大の武器は馬と鉄といわれ、騎馬合戦を最も得意としていました。しかし、乱は終わり、平和な時世には騎馬は不用と馬をつなぎ置き、再び合戦に用いない証明として彫られたものと伝えています。なお、社殿と将門座像は、県の重要文化財に指定されています。
延命寺の薬師如来
国王神社の交差点を渡り、島広山台地を東に向かうと、四周を田んぼに囲まれた森が現われます。ここが将門ゆかりの寺として知られた延命寺です。延命寺は医王山金剛院と称し、真言宗豊山派に属している古刹で、別称として「島の薬師」と呼び親しまれてきました。赤松宗旦の『下総旧事考』によると、「相馬氏の創建、文安2年(1445)僧安成の開く所なり。京都の東寺に属す。寺領20石」とあり、もとは国王神社の隣に寺域を構えていましたが、享保年間(1716〜36)に飯塚氏に神職を譲って、住職は自ら寺域を現在地に移しました。山門は四脚門の形式で、室町時代の建築様式を遺した茅葺切妻造り、近郊に比類のない造形美を示し、大旦那であった相馬氏の将門に寄せる思いに誇りが感じられます。山門を抜けて石造太鼓橋を渡ると、その先に寝殿造りを模した朱塗りの薬師堂があります。この堂内の厨子殿に奉安する薬師如来像は、将門の守り本尊と称する持護仏で、将門の死後に祀られたものと伝えられています。また、縁起書によると行基の作とあり、高野山の霊木で刻まれた尊像と記され、4月8日の縁日には、広大な境内が参詣人で身動きできないほどの賑わいであったようです。将門の子孫であった相馬氏が、将門ゆかりの寺院や神社の大旦那として尽力したことは、火災を免れた山門の威容、水車の軒丸瓦に九曜紋が用いられていることからもうかがえます。
九重の桜
石井の井戸跡から南へ向かって進むと、台地が東に突き出した田んぼに面して小さな森が見えます。この森が九重の桜史跡です。史跡には、碑とその伝承由来を誌した副碑が建っています。碑文によると、九重の桜は、京都御所の紫宸殿前にある桜を根分けして移植したものと伝えられています。九重というのは皇居、または王宮を表す言葉といい、中国の王城の門を幾重にも造ったことから生まれたと記されています。紫宸殿とは、内裏の正殿にあたり「南殿」または「前殿」とも称しました。もとは日常の政務を行うところであったが、後に正殿をめぐる華やかな儀式や行事の中心的な場となります。東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿で執り行われ、その恩赦によって将門の帰国が許されました。南庭の左近の桜を株分けして、将門ゆかりの地に移植されたという伝承には、恩赦への感謝の情がくみとれます。
いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな
歌人伊勢大輔の歌は、源氏物語の「花宴」を連想させます。八重桜とは八重咲きの里桜のことで、別名は牡丹桜といいます。桜の中では開花が最も遅く、それゆえに愛惜の心が揺らぐことから、願いを託した桜として<九重>の造語が生まれたものと考えられます。
石井の井戸
石井営所跡を離れて延命寺に向かう途中、右手の田んぼの中に突き出た緑園が<石井の井戸>跡です。この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに居を構えて以来、人々が移り住んだと思われます。奈良時代には、石井郷という行政区域になっていました。平安時代に書かれた『将門記』には、将門の本拠となる石井営所として記述されています。その主人公の将門と石井の井戸との関わりについては、「国王神社縁起演書」に詳しく記されています。『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。
久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり
と唱じると姿を消してしまった。将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』とあります。また別説としては、<星見の井>や<将門産湯の井>などの諸説があります。いつの世も、人々の定住に欠かせない水の大切さを物語っているといえます。
島広山・石井営所跡
岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が集結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。
高声寺
浄土宗の藤田山道場院高声寺は、中心市街地から常総市三妻に向かい、バイパス交差点を越えた左側にあります。この寺の開山は、唱阿性真です。性真は武蔵野国藤田郷の藤田(花園)城主民部少輔利貞の子息で、始め天台宗を学び、後に浄土宗を学び、浄土宗第3祖鎌倉光明寺の良忠上人の弟子となります。高声寺の伝説として、開山がたまたまこの地を通ったとき、しきりに眠気を催して、仕方なくうとうととうたた寝をしていたところ、将門が夢に出てきて「自分に罪はないのだ。」と訴え、将門をざん訴するものがあったから、ついに京都から謀反人扱いにされて残念でならない、と嘆くのを夢見て、性真は哀れに思い、その霊を慰めようと寺を建てました。すると夜毎「ええ、おお」と気合をかける高い声が聞こえたので、寺名を「高声寺」と名付けたと伝えられています。正応元年(1288)8月に藤田山高声寺は、中根の地に開山され、20世貞誉上人が貞享元年(1684)に現在の地に移したものです。その後、浄土宗藤田派の本山となり、将軍家智華寺として歴代将軍葬儀に参列し、徳川時代には270余寺を末寺としていました。境内には、鐘楼、山門、開山堂、地蔵堂などがあり、ともに江戸中期の建造です。なかでも四脚門は、正徳5年(1715)の建立で、南禅様式の貴重なものとして、常総市の弘経寺の山門とともに注目されています。
富士見の馬場
市街の四ツ家から岩井第一小学校に向かって進むと、右側に小さな緑地があり、ここを「富士見の馬場跡」と称しています。この地を基点に北へ700m、幅22mの直線路があり、道の両側に松並木が続いていたと語り継がれています。今から1100年前の書物『延喜式』によると、諸国の牛馬牧として39牧の名称が記録され、そのうちの18牧が兵部省管轄の官牧でした。下総国には馬牧4、牛牧1が数えられました。平将門の領内には大結牧と長洲牧があったことから、将門は官牧の牧司を兼ねていたのではないかといわれています。『将門記』には、百騎を超える騎馬隊を組織し、合戦の場で効果的に用いている場面が描かれています。当時は、ほとんどが自然の状態で飼育された野馬でしたので、人が乗り、使役のためには調教する馬場と厩が必要でした。富士見の馬場は、調教を目的に開設され、やがて将門によって軍馬の調練の場として活用されたことは<野馬追い>行事の継承を通して想像することができます。鎌倉時代は、猿島地方も戦乱の中に組み込まれました。豪族たちはもちろんのこと、その旗下にあった農民たちも、戦場に出陣するために馬を飼い、そして馬を求める馬市が立ち、その取引の場所となったのが、富士見の馬場であったことも伝えられています。
平将門文学碑
八坂神社前の長谷八幡線を北へ向かうと、左側に岩井公民館があり、その前庭駐車場の東端に平将門文学碑があります。この碑は、平将門生誕1100年を記念して、平成14年11月、市民の総意が実って建立されました。碑文の文字は、書家・平勢雨邨氏の揮毫です。『将門記』によると、将門軍の兵たちが敵将の平貞盛の妻と源扶の妻たちを捕らえたという報告を受けた将門は、先の合戦で自分の妻子が捕らえられ殺されているにもかかわらず、「女性の流浪者は、その本籍地に身柄を帰すのが法令の慣例である。また、身寄りのない老人や子どもに恵みを与えるのは、昔の帝王たちがつねに行ってきたよい手本なのだ。」といい、将門は衣服を与え、和歌を詠んで添える場面が描かれています。碑文には、この時の和歌が二行に分けて彫られました。
よそにても風の便りに吾そ 問ふ枝離れたる花の宿りを
(遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のあかりを尋ね求めることができます。同じように人々のうわさによって、散る花のように夫のものを離れて寄る辺ないあなたを案じています。)
天慶2年から3年にかけて関東地方一帯で活躍した平将門は、歴史上に名高く残っています。将門といえば、荒武者のように世間では考えられがちですが、自筆による伊勢神宮の奉納文を読むと、その達筆さとともに、すぐれた教養人であったことが察せられます。文学碑は、戦乱の中にあって権力と勇猛さだけでない、将門の心の優しさ、人間性を如実に物語っています。
平将門公之像
市道長谷八幡線に面した雑木林の中に、総合文化ホール「ベルフォーレ」があります。この施設は、音楽ホール・アトリウム・図書館からなる複合文化施設で、平成6年3月に完成しました。その完成記念事業の一つとして、前庭広場に平将門公の騎馬像が建立され、将門の里の象徴的なブロンズ像として親しまれています。この像は、彫刻家一色邦彦氏の作です。一色氏は土浦市に生まれ、東京藝術大学を卒業すると、新制作協会に所属し、1966年には高村光太郎賞を受賞しました。以来、著名な彫刻家として活躍されています。平将門は、石井営所を本拠として、古代社会から中世社会への扉を開く役割を担った武将として知られています。青年の時に京都に上り、朝廷の官人として勤めました。関東に帰ると、叔父たちとの間に所有地などが原因で争いが起こりました。やがて一族間の争いは、各地の国庁との戦いに発展し、将門は関東8カ国を支配下におさめ、関東独立国家建設の夢を目指しました。その夢を求める将門を表現し、完成されたのが「平将門公之像」です。このブロンズ像を見ると、将門は折立烏帽子を被り、狩衣姿に太刀を差し、黒鹿毛の駒に乗った勇姿という印象を受けます。駒の背に粛然と身を任せ、北に向かって駒を進める姿には、自分の支配地に辿り着いたという安堵な雰囲気と、その躍動的な駒の姿態、遠く筑波の双峰を追う将門の敏捷な眸の中に、強い意志が感じ取られます。
西念寺
辺田三叉路を野田方面に100mほど行くと、左側の森の中に西念寺が見えます。西念寺は、もと天台宗の聖徳寺といわれていました。 親鸞の弟子、関東24輩の第7番西念は、武蔵野国野田村(現在のさいたま市)に道場を建て、生涯を布教につとめ、108歳で往生したと伝えられています。野田の道場は、長命寺と名付けられました。その長命寺は、建武の兵乱で焼けてしまい、当時の住職は西念の出身地である信州に移ったので、寺の宝物は、血縁のあった辺田の聖徳寺に納められ、江戸時代初期に開基を西念とし、寺号も西念寺と改められました。西念寺には、県指定文化財の木造阿弥陀如来座像、市指定文化財の来迎図板碑などがあります。また、境内には、親鸞が猿島地方の教化の折に植えられた「親鸞お手植えの松」がありましたが、現在の松はその二世となります。その松の近くに鐘楼があり、ここに釣られていた鐘には「泣き鐘」伝説があります。『その昔、平将門の率いる兵卒集団が、この寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響きわたり、兵卒たちは、気味悪がって士気が上がらない。将門は腹を立てて、寺へ返した。』と伝えられています。
延命院と胴塚
延命院は菅生沼を臨む東側台地にあります。広い境内を多くの桜の木が占めていて、春には見事な彩りを添えます。将門の胴塚で知られる延命院は、新義真言宗に属し、神田山如意輪寺延命院といい、また篠越山延命院観音寺ともいいます。本尊は延命地蔵菩薩です。天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています。境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称しています。将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたといわれています。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。
坂東市 2
茨城県の南西部に位置し、利根川の別名、坂東太郎を冠するように、利根川に接している。 岩井市と猿島郡猿島町が2005(平成17)年3月22日、合併し誕生した。 人口は54、087人(2015年国勢調査)、面積は123.18平方km。
旧岩井市は、1955(昭和30)年3月1日、猿島郡岩井町と飯島村、弓馬田村、神大実村、七郷村、中川村、長須村、七重村が合併し岩井町となり、 1972(昭和47)年4月1日に市制施行した。合併前の人口は43、421人(2000年国勢調査)、面積は90.72平方km。
旧猿島町は、1956(昭和31)年4月1日、猿島郡沓掛町と富里村が合併、富里町となり、同日改称して猿島町となった。 なお、沓掛町は1954(昭和29)年に沓掛村が町制施行、富里村は1955(昭和30)年に逆井山村と生子菅村が合併し誕生している。 合併前の人口は15、252人(2000年国勢調査)、面積は37.46平方km。
平将門がその本拠を置いたのが旧岩井市内とされ、現在も関係する遺構も数多く残る。
国王神社   坂東市岩井
祭神は平将門。将門公戦死後、母とともに奥州に逃れていた3女の如蔵尼が、父の戦死の地に庵を建て、父の霊を弔ったのがはじまり。 父の33回忌に当たる天禄3年、父の像を彫り、それを祠におさめたことから、現在の神社になったとされる。現在の本殿と拝殿は、1683(天和3)年に造営改築の記録があることから、江戸初期のものとされている。 本殿と拝殿は寄木造平将門像とともに、茨城県指定文化財になっている。
平将門公之像   坂東市岩井
坂東市総合文化ホール「ベルフォーレ」前にある銅像。平将門公が目指した関東独立国家建設の夢。その夢を求める将門公を表現したという。 像は、駒に乗り、折立烏帽子を被り、狩衣姿に太刀を差した勇姿で、北に向って駒を進めている。躍動的な像となっている。像の作者は、土浦市出身の彫刻家一色邦彦氏。1966(昭和41)年には高村光太郎賞を受賞するなど、著名な彫刻家として活躍している。
将門公胴塚   坂東市神田山
菅生沼の東側の台地にある延命院の本堂の裏におおきなカヤの木があり、その根元に胴塚がある。戦死した将門公の首は京へ送られ、残った胴体をひそかに葬ったのが、胴塚とされている。この地は、相馬御厨の神領なのであばかれることはなかったという。 なお、胴塚周辺にある「南無阿弥陀仏」の碑は、東京都の「将門塚保存会」からの寄贈。「大威徳将門明王」の碑は、延命院・倉持照最住職の寄進。 顕彰碑は岩井市民(当時)の浄財による。なお、地名の神田山(かどやま)は、体(からだ)がなまったものとされる。
延命院   坂東市神田山
神田山如意輪寺延命院。篠越山延命院観音寺。神田山。将門山。新義真言宗。本尊は延命地蔵菩薩。平将門公の胴塚があることで知られる(上記参照)。 開基は京都・東寺の僧・宗助で、中興は来正。 観音堂は1701(宝永7)年、関宿藩主・牧野成春公の助力により建立。祀られているのは聖観世音菩薩で伝教大師の作と伝わる。 なお、延命院は境内に菅生沼七福神の毘沙門天を祀っている。
延命院毘沙門天
延命院を入ってすぐ右側、観音堂の反対側に将門山毘沙門天と刻まれた石柱とともに堂がある。 武神として勝負事に御利益があるとされる。
延命寺   坂東市岩井
医王山金剛院といい、別名島の薬師。真言宗豊山派の古刹。島広山石井営所の鬼門除けとして建立された。 940(天慶3)年、石井営所一帯を焼かれた時、同寺も被害にあったが、薬師如来像は移し隠され、その後世の中が静まるのを待って現在地に再建された。 1445(文安2)年、将門公の子孫である守谷城主・相馬氏が大檀那となって本堂、薬師堂、山門を建てたが、その後、山門を残し焼失。 薬師堂は有慶上人によって再建されたが、再び焼失。現在の薬師堂は仮堂である。 堂内の厨子殿にある薬師如来像は、将門公の守り本尊と称する持護仏と伝えられている。 縁起書によると行基の作とあり、高野山の霊木で刻まれた尊像と記されている。
島広山石井営所跡
国王神社近くにある。将門公が関東を制圧したときの政治、経済、軍事の拠点。当時周辺には、館や倉庫が立ち並んでいたと見られる。 現在は、明治時代に立てられた石碑があるのみ。
坂東市岩井1603。
九重の桜   坂東市岩井
京都御所紫宸殿前の桜を株分けし、平将門公ゆかりのこの地に植えられたたものと伝えられる。 京で取り調べを受けていた将門公が、東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿(御所)で執り行われ、その恩赦によって帰国が許された。 室町時代、この地方を治めていた将門公の後裔である平守明が、その恩赦に感謝して御所の桜を株分けし植えたとされる。 もと10数株あったという。現在の桜はその後植えなおされたものと考えられ、八重桜が植えられている。 なお、九重は「王宮」「皇居」を意味する。中国で王宮の扉を九重に造ったことからきているとされる。
石井の井戸   坂東市岩井
石井営所跡近くにある将門公ゆかりの井戸。 伝説では、将門公が営所の地を探しているうち、不思議な翁が現れ、かたわらの大石を持ち上げ、力いっぱい大地に打ち込むとそこからこんこんと水が湧き出したとされる。 翁はいつの間にか消え去っていたという。
富士見の馬場   坂東市岩井
平将門公ゆかりの地。将門公が軍馬の調練を行ったところとされる。富士山がきれいに見える場所だったことからこの名がついたという。 この地を基点に北へ220m、幅22mの松並木の馬場が続いていたと伝わる。
一言神社    坂東市岩井
平将門公ゆかりの神社。石井の井戸の翁を祀った神社。石井の井戸からすぐ近くにある。
深井地蔵尊    坂東市沓掛
平将門公妻子受難の地とされる。安産、子育てに御利益があるとして近隣の信仰を集めている。
西念寺(さいねんじ)   坂東市辺田
極楽寺聴衆院西念寺。真宗大谷派。親鸞聖人の法弟・西念が野田(千葉県野田市)に長命寺として建立した。正応年間(1288〜93年)に西念寺と改められた。 現在の西念寺の場所には、西念の弟・円盛が住職を務める天台宗の聖徳寺があった。その後円盛は、親鸞聖人の教えを受け信証と名を改めている。 建武年間(1334〜38年)、南北朝の争いによる兵火で野田の西念寺が焼けたため、寺の宝物などを聖徳寺に移し、名を西念寺に改めた。二十四輩第7番寺。 「鳴き鐘」の伝説が残る。昔、平将門の軍がこの寺の鐘を持ち出し、陣鐘にしたところ、その鐘は「辺田村恋し、辺田村恋し」と響き渡り、兵士たちの士気が上がらず、 将門は怒って寺に鐘を返したと伝わる。
高聲寺(こうせいじ)   坂東市岩井
藤田山道場院高聲寺(高声寺)。浄土宗。開山は唱阿性真。 伝説では、性真がこの地を訪れた時、強い眠気を催し、うとうとしていると平将門公が夢に出てきて「自分に罪は無い」、「謀反人にされて残念でならない」、と嘆くため、その霊を慰めようと寺を建立したとされる。 1288(正応元)年、開山。1684(貞享元)年に現在地に移る。浄土宗藤田派の本山。 江戸時代には将軍家智華寺として歴代将軍の葬儀に参列、270余寺を末寺としていたという。 本堂は2000(平成12)年の建立。鐘楼、山門、開山堂、地蔵堂は江戸時代の建立。 山門は南禅様式の四脚門で1715(正徳5)年の建立。
慈光寺 1   坂東市弓田
明王山慈光寺。弓田不動尊。天台宗の寺。弓田のポックリ不動として広く信仰されている。 746(天平18)年、行基菩薩の高弟が衆魔降伏、真理融通の道場として建立。当時は法相宗だった。 平将門公が石井に営所を構えた際、鬼門除けの本尊として深く信仰したとされる。 その後、兵火で堂宇のほとんどが焼けたが、不動明王の尊像と阿弥陀堂だけが焼け残った。 このため、不動明王を阿弥陀堂に仮安置したところ「不動尊を信仰すれば、阿弥陀尊にまでその願いが届き、殊に臨終の際はポックリと眠るように大往生できる」とされ、信仰が広まった。 現在では「運を開き、厄を払い、福をすること、何事もポックリと心願成就する不動尊」として信仰されている。
慈光寺 2
「弓田のポックリ不動」で知られた明王山慈光寺。昔は、弓田を湯田と称しました。湯田とは、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味で、豊穣な土地を指した地名であることからも、早い時期に集落が拓けていたと思われます。
寺伝によると、奈良時代の天平18年(746)に、僧行基の高弟がすべての悪魔を退散させ、世の中を平和にする衆摩降伏・真理円融の道場として創建され、不動明王が祀られました。平安中期、平将門が政治、経済、軍事の拠点を岩井営所に移すと、当寺を鬼門除けの本尊として仰ぎ、また守り本尊として深く信仰したと伝えられています。
門前から約200mほど西方に、弓田香取神社の杜があり、この杜は律令時代に兵営の守護神として創祀されたと伝えられ、承平3年(939)2月に将門が参拝したといわれています。さらに、この弓田香取神社と慈光寺との間を兵庫屋敷(兵器の倉庫跡)と称し、道路を隔てて談議所(軍談所)と呼び、奈良時代からの軍事基地であったようです。その後を引き継ぎ活用した将門は、軍事拠点と位置づけ、神仏の加護を祈っていたことを物語っています。
慈光寺 3
明王山知恩院慈光寺(みょうおうさん ちおんいん じこうじ) 
寺伝によれば、天平18年(746年)に行基菩薩の高弟が創建し、悪魔降伏のため不動明王を本尊とした。元は法相宗で「知恩院」と称したが、鎌倉時代初期に天台宗に改宗し、「慈光寺」と称した。戦国時代には諸堂が戦火に遭ったが、不動明王像は自らイチョウの大木に避難して無事だったという。不動明王像が安置されている不動堂は、元は阿弥陀堂で、この不動尊を拝むと、その願いが阿弥陀仏に届き、臨終に際して苦しまずにポックリと逝けるとして「ポックリ不動尊」として信仰を集めているという。「北関東三十六不動尊霊場」の第35番札所。
松崎天神社    坂東市内野山
内野山天神社。内野山の高台にある。945(天慶8)年、菅原道真公の3人の息子、景行、兼茂、茂景がこの地を訪れた際、 三方を水に囲まれ、風光明媚な景色のこの地に、天穂日命と道真公を祀り、天神社とした。 常陸介でもあった景行が、この神社で平将門公の開拓思想を受け継ぎ、飯沼の開発構想を練ったとされる。
長谷寺   坂東市長谷
補陀洛山極楽院長谷寺。長谷観音。本尊は十一面観世音菩薩。大和国、長谷寺の末木をもって彫られたという。 真言宗智山派。800(延暦19)年、坂上田村麻呂が奥州征伐の際、この地に観音像を安置し戦勝を祈願したとされる。 現在の観音堂は元禄時代に建立したとされる。猿島阪東観音霊場第33番札所で結願所。 境内に弘法大師堂、聖徳太子堂がある。
沓掛香取神社   坂東市沓掛
祭神は経津主大神、軻遇突智大神。創立年代不詳。社伝では、経津主命の傍系孫・美計奴都加佐命が神籬(ひもろぎ=神を迎える臨時の台)を立て、 祖神を奉斎したのが始りと伝えられている。 940(天慶2)年、平将門が近くに館を新築した際、同社の社殿を再建し、一本の杉の木を植え御神木とした。 また1428(正長元)年、結城氏朝公が社殿を修復し刀剣(来國行作)を献納したという。 江戸時代には、8台将軍・徳川吉宗が近隣の開墾をした際、本殿を奉納した。 本殿は一間社流造りで、全体に精巧な彫刻が散りばめられた豪華なもの。茨城県の重要文化財に指定されている。
弓田香取神社(ゆだかとりじんじゃ)   坂東市弓田
もともと神社近くに兵庫屋敷(兵器倉庫)があり、その守護神として祀られたとされる。 939(承平3)年には、平将門公が参拝したとされる。

創建時期は不明だが、この辺りに律令時代から兵営(古代の軍団?)があり、その守護神として祀られたものという(祭神:経津主命)。承平3年(933年)には平将門も参拝したという。また、当神社と、約300m東にある「慈光寺」(通称「弓田のポックリ不動尊」)との間は「兵庫屋敷」(武器庫)と呼ばれており、平将門は、「承平天慶の乱」を起こすのに律令以来の軍団や武器庫を自らの為に利用したらしいという。なお、近くには「談義所」という小字のほか、駒跿(こまはね)、馬立(またて)などといった地名があって、いかにも軍事的な意味がありそうだが、「弓田(ゆだ)」というのは、元は「湯田」で、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味だそうである。 
八坂神社   坂東市岩井
歴史
詳細は不明な部分が多いですが、延長2(西暦924)年に神社が創建されたと記録されます。天慶3(940)年に記されたという『将門記』には石井営所と石井之宿が登場することから、さかのぼること約1100年前には、この地が伊波為(いわい)と呼び石井と書き、将門の営所があった宿場町であったことが分かります。
八坂神社は石井郷が成立の頃から産土神・守護神として信仰されていたと思われます。 かつて「牛頭天王」と呼ばれていたことから、現在も「天王様」と呼ばれることも多く、また神社の正面地区は「天王前」という区名とされていることからも厚い信仰を窺うことが出来ます。
元文5(1740)年の古文書では「牛頭天王は下猿島郡の総社にして」といわれるほど広く信仰され、例祭当日は「天王様だ、祇園だ」と騒ぎ、下猿島郡全域の村々が賑わったということです。
八坂神社と岩井の発展
八坂神社は祇園祭が行われる現在の町の中心部からは遠く離れた地に鎮座していますが、それはなぜでしょうか。
古代の石井は第一に将門の本拠地であり、将門縁の馬牧の中心であり、宿駅でした。 この当時は上岩井(現在の国王神社周辺)を中心に栄えていました。現在の中心となっている岩井の町方はその起源を鎌倉時代前期にさかのぼりますが、三町、すなわち本町・仲町・新町は上岩井に近い本町から造成され次第に南下してゆき、新町の造成は延宝(1673〜81)時代のことでした。新町が造成されたころ、岩井の地には多くの上方商人が訪れ、土着しました。一説によると、商人たちは京都八坂神社の祭礼の華やかさを岩井にももたらそうと八坂神社を勧請する努力をし、現在の八坂神社となったのではないかともされています。
八坂神社となる以前は香取神社であったという話もありますが、前身となる神社がお祀りされており後に八坂神社となったため、現在の町方とは離れているのではないかという説は根拠として説得力があります。 いずれにせよ八坂神社創建当時は現在の町方は存在しておらず、町方が生まれた鎌倉時代前期から新町が造成された五百年の間に八坂神社となったというのが有力なようです。
八坂神社の鎮座地
では、八坂神社及びその前身となった神社はなぜこの地に鎮座したのでしょうか。 かつて神社の西側(現在の長須地区)方面には鵠戸沼(長須沼)という大きな湖が広がっていました。下総旧事孝より「源を寺久、上出島に発し、東は鵠戸、長谷、西は若林、長須等の村々に回環した一里、横十横ばかりの小湖也。」とありますように流れ、鵠戸沼は小山に至り、最後は利根川へと流れ落ちました。
神社創建の頃、長州村は平将門が牧司を兼ねていたという長州馬牧として栄えました。馬の調教をしていた富士見の馬場は現在の市街地方面にあるため八坂神社付近は交通量の多い主要道路であったと思われます。長須から町方方面を見ると、湖の向こうに巨木の繁茂した小高い丘が浮かび、水面に影を落としていたといいます。 その神秘的な丘は神域として相応しく、現在の八坂神社の社地となったと伝わります。鵠戸沼を船で渡り神社を参拝した、牛頭天王は眺望絶佳な丘であるといった話も伝わります。
かつての社地は現在よりも四反以上広かったとされ上述したように巨樹が立ち並び、日中も猶暗い有様であったといいいます。安政3(1857)年9月の台風では境内の檜や杉の木が37本も吹き折れ、倒れたために処分したと記録が残り、その様子を窺うことが出来ます。鵠戸沼は昭和30年に干拓工事が完全終了し、現在の岩井の風景は記録と様変わりしました。かつての鵠戸沼の風景を想起してみてはいかがでしょうか。
八坂神社に伝わるお話
「かつて連日連夜大雨が降り続き、沼川が氾濫する大水害が起きました。誰もが皆「神様がお怒りになったのだ」と考え、天を仰ぎ神様に祈りました。ようやく空が晴れ上がり、水も引きはじめ、大地もよみがえりつつありました。人々は太陽の光を浴びようと、大喜びで外へと飛び出し、走り回ります。すると、小高い丘に立派な神輿が流れ着いていることに気づき、人々が集まりました。湖に続く入江の山林にさん然と輝くその神輿は、まさに天からの恵みでした。村の長老はその場に祠をつくり、神様をお祀りすることを決めました。」
これが現在の八坂神社の起源ともされています。 このお話は八坂神社の由緒や、かつての鎮座地、地形についてを教えてくれます。
八坂神社の神様「素戔嗚尊」
「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」はイザナギとイザナミの二柱の神が神生みの際に生れ坐したとされます。天照大神・月読命と同時に生まれたことから併せて三貴子と並び称されます。
天上の神々が暮らす高天原では乱暴を働き、混乱をもたらす神として描かれる素戔嗚尊ですが、葦原中国(日本国)に降りると勇ましい英雄として活躍いたします。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を討伐し、人々を苦しみから救ったというお話は現在も多くの方々に知られております。
大蛇を祓い裂く勇猛な神は尊び敬われ、全国に広く守り神としてお祀りされる素戔嗚尊は、岩井の地においても疫病や厄を退け幸福をもたらす神として崇敬されます。
櫛稲田姫命と結ばれ出雲の須賀の地に鎮まった素戔嗚尊は大国主命を生み、家族を愛し協力して国作りに励まれたことから縁結び・夫婦円満の御神徳をもたらす神としても信仰されます。
「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
これは素戔嗚尊が詠んだとされる日本で初めての三十一字の和歌です。古今和歌集の歌人「紀貫之」らは素戔嗚尊を「歌聖」と仰いで崇敬しました。
素戔嗚尊は我が子が治める国に船が必要だとして自らの体毛を用いて植樹を行いました。そして杉と楠は船材に、檜は宮材に、槇は棺材にと木の種類ごとに用途を定めました。
鎮守の森という言葉もあるように、神社と森林は密接に結びついて安らぎをもたらします。素戔嗚尊は文化的な神様としても崇敬されています
境内社
愛宕神社 
明治時代に政府に提出された神社明細書によると、創建は八坂神社と同じく延長二年とされています。火産霊命(ほむすびのみこと)をお祀りしており、伏火防火の神様として地域の皆様に親しまれております。かつては本町地区にお祀りされていましたが、合祀され現在は八坂神社境内に鎮座しています。
八幡神社
同じく創建は延長二年とされています。応神天皇をお祀りし、古くから八坂神社の境内社として崇敬されてきました。武運長久・必勝・立身出世をもたらす神様として、かつて八坂神社例大祭において競馬神事が催されていた頃には、多くの人々が地域の振興と勝利を祈願したとのことです。
なお現在の愛宕神社・八幡神社の両社殿は大正十四年、御神輿新調と同時に修繕されたと記録されています。 
延命院と胴塚    坂東市神田山
延命院は菅生沼を臨む東側台地にあります。広い境内を多くの桜の木が占めていて、春には見事な彩りを添えます。
将門の胴塚で知られる延命院は、新義真言宗に属し、神田山如意輪寺延命院といい、また篠越山延命院観音寺ともいいます。本尊は延命地蔵菩薩です。
天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。
現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています。境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称しています。
将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたといわれています。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。
その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。 
延命院   坂東市神田山
平将門の首は京都へ送られ、数々の伝説を残して、現在は東京の大手町の首塚にあるとされる。しかし将門の胴体は、戦没地とされる場所からそれほど遠くない場所に埋められているとされる。それが延命院にある胴塚である。
延命院の創建については不明な点もあるが、将門がこの地を支配した時期には伽藍が建てられたという。そしてそこに弟の将頼らが首なき胴体を運んできて埋めたという伝承になっている。
延命院の山号は“神田山”であるが、それは将門の“身体”を埋めた場所だから名が付いたという説がある。だが実際には、この付近一帯は相馬御厨として伊勢神宮へ寄進された荘園であることから“神田”とされたと思われる。また伊勢神宮ゆかりの土地であったために、墳墓は荒らされずに残されたとも言われる。
現在、胴塚は古墳として文化財指定を受けており、また塚の上から生えた榧の木は天然記念物となっている。そして東京にある将門塚(首塚)保存会より贈られた「南無阿弥陀仏」の刻まれた石塔婆が建っている。  
北山稲荷大明神   坂東市辺田
天慶3年(940年)2月14日。新皇を名乗り、関東一円を支配下に置いた平将門が討ち死にする。藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、誰が放ったか判らない矢が額(或いはこめかみ)に当たり落命したという。この将門最期の地となるのが北山古戦場である。
この古戦場の有力な比定地が北山稲荷神社である。すぐそばを幹線道路が走り、24時間営業のコンビニエンスストアが隣接しているにもかかわらず、神社の中は手入れされていない草木が延び放題となっていて、全く時空から隔絶されたかのような印象がある。ある種の「魔所」である。
この稲荷神社が将門最期の地と考えられるようになったのは、昭和50年(1975年)にこの場所から1枚の板碑が発見されたためである。この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)、源頼信であることが記されていたのである。長元4年は、平将門の乱以降で最も激しい内戦が関東で繰り広げられた平忠常の乱を、頼信が鎮圧した年であり、信憑性はそれなりに考えられるところである。

平将門の終えんの地「國王神社」。しかし、将門戦死の地が、「北山稲荷大明神」と呼ばれる場所。住宅街の裏側に、ひっそり静まり返った一本のけもの道が伸びていますが、この先に将門が亡くなったとされる聖地があります。
「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、将門が最後に陣を張った場所が「辛島郡(猿島郡)之北山」と記されています。北山の場所は定かではないのですが、有力な一つがこの場所。石の鳥居が建ち、その奥に小さな祠があります。樹木が鬱蒼と生い茂り、薄気味悪い場所。古い小さな祠の隣には、「鎮魂 平将門公之碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。  
深井地蔵   坂東市沓掛
ちょっとした集落でなら特に珍しくもないような地蔵堂であるが、その由緒を紐解くと、平将門の伝承にまつわるものであることが分かる。
平将門が関東で乱を起こす遠因となったのは叔父の平良兼との「女論」であったとされる。つまり女性を巡る争いである。一説では、源護の娘を将門が妻に所望したが良兼に奪われてしまったとも、あるいは良兼の娘を将門が妻にしたところ源護の3人の息子が横恋慕して襲ったのだとも言われる。いずれにせよ、将門と良兼はお互いに敵とみなして干戈を交えたのである。
承平7年(937年)8月、平良兼は子飼(小貝)の渡しに進駐した。一方の将門は脚気で戦意もなく、連れていた妻子は万一に備えて船に乗せて隠れさせた。ほどなく良兼の軍は引き揚げたので、妻子は岸に戻ろうとした。しかしまだあたりに残っていた良兼軍の一部がそれを発見、妻子は“討ち取られ”たのである。
この将門妻子受難の地に建てられたのが深井地蔵である。つまり殺された将門妻子の冥福を祈って造られたのが、この地蔵であるとされる。今では安産子育てにご利益があるとされ、月ごとの縁日には多くの参詣があるという。
深井地蔵尊と将門妻子受難
結城・坂東線と猿島・常総線が交差する沓掛信号を左折して猿島庁舎方面に向かい、沓掛台地から西仁連川沿いに出るところに大きなカーブがあります。そのカーブの途中の市道を右に入り西仁連川に架かる地蔵橋を渡った左側に深井地蔵尊が祀られています。
この堂は、外見だけを見るとありふれた堂に見えますが、平将門の妻子が惨殺された悲劇の場所でもあると考えられます。
良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣しますが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却します。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになります。
良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。
妻子受難の場所には、諸説があります。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われ、この間の大きな入谷津を総称したと考えられます。
深井の地蔵尊の創建は古く、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、この地蔵尊ではないだろうかといわれています。 
■常総市
西福寺 炎石 (さいふくじ ほむらいし)   常総市新石下
西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。
この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。
建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。
この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。  
下総国亭(庁)跡   常総市国生
下総国亭(庁)跡(しもふさこくちょうあと)。
伝承によれば、鬼怒川右岸(西岸)の台地には北総地区最初の開拓地で、古くから集落や古墳などが造られた。桓武天皇の孫である高望王は、寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望と名乗り、昌泰元年(898年)に上総介に任じられて坂東に下向した。このとき、長男・国香、次男・良兼、三男・良将(良持と表記する記録もある。)を伴って任地に赴き、息子らは上総国、下総国、常陸国などに土着して関東における高望王流桓武平氏の勢力を広げていった。そして、現・常総市国生は、平良将が居館を築いて政務を行ったところという。そもそも「国生」という地名は、元は「こっちょう」と読み(現在は「こっしょう」)、「国庁」が訛ったものであるとされる。「国庁」というのを文字通り下総国府の官衙とする説もあるが、通説では、下総国府は奈良・平安時代を通じて現・千葉県市川市国府台にあったとされるので、ここでは地方で国の政務を行う役所(国の出先事務所)という意味だろうと思われる。
さて、平良将の子がかの有名な平将門で、伝説では、将門は国生の居館で生まれたという。将門の乱を描いた軍記物語である「将門記」(成立:鎌倉時代?)には、将門が「新皇」を自称して、下総国の「亭南」に王城(皇居)を定めたという記述がある。「亭南」がどこを指すのかということについては諸説あって、茨城県坂東市・同守谷市・千葉県柏市などがそれぞれ市のHP等で将門の王城の所在地であるとの説を紹介している。一般には、将門の王城の所在地は現・坂東市岩井付近とされており、そこは現・常総市国生の「下総国亭(庁)跡」の石碑の場所から南西約10kmのところに当たる。
とはいえ、発掘調査によって建物の礎石など居館の遺跡が発見されたわけではなく、あくまでも伝承であって、石碑のある場所に居館があったということでもないようだ。 
栗栖院常羽御厨(常羽御厨兵馬調練之馬場跡)   常総市
常羽御厨(いくはのみうまや)は、平良持・将門2代に渡る牧場である。元々この付近には官牧であった古牧(現・古間木)と大牧(現・大間木)があり、古牧が手狭となったため移転した大牧の馬見所が、この馬場であったと言われている。東西に飯沼の入江を控え、南北に大路が貫通して両牧場に通じる要地で、馬場の北端を花立と称し、検査調練の際の出発点であったとされる。937年、子飼の渡しの合戦で将門軍を破った良兼は、将門の本拠地豊田郡を蹂躙し、常羽御厨など多数の人家舎宅を焼き払った。これは、将門の兵馬調練場として軍事上の重要拠点であった為に狙われたものと言われている。
現在は、馬場地区にある交差点の脇に、「常羽御厨兵馬調練之馬場跡」と刻まれた石碑と解説板が建っているだけである。尚、西方の入江に接した白山(城山)の地に、将門の陣頭で上野守に任命された常羽御厨の別当多治経明の居館があったと伝えられている。 
日枝神社本殿(ひえじんじゃほんでん)   常総市菅生町
承平元(931)年の創建と伝えられ、大山昨命(おおやまくひのかみ)を主祭神とする。神社縁起には、平将門が当社を尊崇して妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を刻納したとされ、久しく妙見神社と呼ばれたという。戦国期に菅生城主菅生越前守胤貞が社を本城のある古谷に鎮斎するが、永禄2(1559)年に落城の後、別当木崎山天台座主阿闍梨賢證を奉り中郷の地に遷宮し、当地の総鎮守として信仰を集めたという。明治維新後は再び社号を日枝神社に改めている。
明治5(1872)年に再建されたもので、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、瓦葺であるが、傍軒(そばのき)大きいことから当初は木羽葺(こばぶき)であったものと推察される。当代きっての名工と謳われた後藤縫之助の手による豊富な彫刻群が特色で、「瓢箪(ひょうたん)から駒」、「神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐」などが飾られるほか、木鼻(きばな)の像や獅子など、その腕の冴えを見せている。桁行2.65メートル、梁間2.25メートル。 
菅生城址(すがおじょうし)   常総市菅生町
菅生城は築城、廃城の時期や城主として文献に表れる菅生越前守胤貞の出自など明らかになっていないこともあるが、永禄3(1560)年の横瀬能登守永氏らとの合戦や、天正5(1577)年の多賀谷氏の侵攻の様子が後世の文献等に記されており、室町時代から戦国時代にかけての情勢が部分的に遺されている。
城址については、土地改良事業に伴う発掘調査によって堀跡、土塁、土橋等の城跡に関連する遺構が確認されている。特に畝掘と呼ばれる北条氏の城に多く見られる堀の形状が確認されたことは、小田原の北条氏や守谷の相馬氏がこの城と関係していた可能性を示している。
土地改良事業から除外された本丸部については、現状のまま保存が図られており、一定の範囲で現状が良好に保存されている少ない城跡である。 
一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)   常総市大塚戸町
一言明神(ひとことみょうじん)ともいう。正月3が日には例年15万人の参拝客が訪れる、茨城県西地域有数の初詣スポットである。 旧社格は村社。
祭神
祭神は一言主大神(別名・事代主神、俗に恵美須神とも)。福の神としてのほか、商売・災禍・農作・縁結び・平和の神といわれ、たった一言の願い事であっても聞き入れてもらえるという。一生に一度だけご利益を得られるという信仰もあり、非常時に家族が神社を訪れて祈願するという。千葉・東京方面に多くの信者を持つ。神職は宮司1人、禰宜1人、権禰宜4人、非常勤の神主1人の計7人である。このほか常勤の修繕係1人とシルバー人材センターから雇用された清掃員2人がいる。
境内社
『茨城県神社写真帳』には、天満神社(菅原道真)、白山神社(木花咲耶姫命)、香取神社(經津主命)、稲荷神社(保食命)の4社が記されている。現在、香取神社と稲荷神社は香取社・稲荷社合社になっている。
現在の境内社は、大黒社(大国主命)、香取社・稲荷社(宇迦之御魂大神、経津主大神)、縁結社、合社(三峯神社を始めとする13社)の4社である。
合社の13社は、明治42年3月、旧菅生村に鎮座していた下記の神社(いずれも旧無格社)を合併したものである。三峯神社(日本武尊)、愛宕神社(軻遇突智命)、八幡神社(誉田別尊)、三王神社(大山祇命)、妙見神社(月読命)、天神社(菅原道真)、道祖神社(猿田彦命)、別雷神社(別雷命)、八坂神社(速須佐之男命)、大日孁貴神社(大日孁貴命)、白髪神社(猿田彦命)、浅間神社(木花咲耶姫命)、厳島神社(市杵島姫命)。
歴史
大同4年11月13日(809年12月23日)(平安時代) - 創建。大和国葛上郡、葛城一言主神社(現・奈良県御所市)より一言主神を迎える。創建の地は現社地の西方であり、怪光とともに雪中からタケノコが生え、三岐の竹になったという伝承がある。このため、「三竹山一言主神社」の異名を持つ。
長禄3年4月(1459年)(室町時代) - 荒廃していた社殿を、平将門の子孫で下総国の守谷城城主であった相馬弾正胤広が再建。
天文19年(1550年)(戦国時代) - 兵乱で拝殿が損壊。永禄年間には半焼。
万治2年(1659年)(江戸時代) - この頃より、葛城流からくり綱火(大塚戸の綱火、後述)が始まる。
元禄13年正月13日(1700年3月3日)(江戸時代) - 本殿を大規模修理(棟札あり)。
慶応3年(1867年)(江戸時代末期) - 拝殿が一般からの寄進により再建。
明治維新の後、神仏分離令により一言主神社を管轄していた善光寺が廃寺となり、当時の僧が初代神官となる。近代社格制度では村社に列する。
1909年(明治42年)3月、神社整理により大塚戸に祀られている13社を合併。
1970年(昭和45年) - 本殿の屋根を茅葺から銅板葺(檜皮葺風)に更新。 
大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)   常総市大生郷町
御祭神 菅原道真公
社格等 村社
社伝によりますと、菅原道真公の三男景行公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜三年(903)二月二十五日に亡くなられました。
景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介として常陸国にやってきました景行公は、延長四年(926)に現在の真壁町羽鳥に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(929)当時飯沼湖畔に浮かぶ島を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神ともいわれています。(頒布のリーフレットより)
歴史
日本三大天神にも数えられる御廟天神
茨城県常総市大生郷町に鎮座する神社。旧社格は村社で、大生郷村(後に合併し菅原村)の鎮守で、飯沼周辺三十一ケ村の総鎮守。菅原道真公の三男・景行が創建し、菅公の遺骨が納められている事から「御廟天神」とも呼ばれる。遺骨を御神体とし遺族によって祀られたのは当宮のみである事から、「太宰府天満宮」「北野天満宮」と共に日本三大天神にも数えられる事がある。境内の裏手が神苑として整備され「菅原道真公御廟所」が置かれている。
菅原道真公の遺骨を祀り創建
社伝によると、延長七年(929)に創建とされる。菅原道真の三男・菅原景行が、道真の遺骨を祀り創建したと伝わる。延喜三年(903)、菅原道真が太宰府にて逝去。
「晩年に道真を見舞った三男の景行は、道真自ら自分の姿を描き与えられ「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と遺言を伝えたと云う。」
景行は遺言通り、遺骨を持ち諸国を巡ること20数年。延長四年(926)、常陸国の筑波山の北側(現在の茨城県桜川市真壁町羽鳥周辺)に塚を築き、その地方の豪族と共に、一時的に道真の遺骨を納めた。
延長七年(929)、当地にあった飯沼湖畔に浮かぶ島を遺言の地として、社殿を造営。道真の遺骨を遷し祀る事にした。これが当宮であるとされる。
「菅原景行(すがわらかげゆき)は、菅原道真の三男。当地や坂東一帯にゆかりとされる地が多く、東国に生活拠点を置いたとされている。平将門は幼年時代に景行を学問の師として学んだといった伝承も残っており、『将門記』にも登場する。」
以後、飯沼周辺の鎮守として崇敬を集めた。
「この他、大正期の史料には、性信上人(親鸞に帰依した親鸞二十四輩の筆頭)が「報恩寺」を建立し、この性信によって勧請されたという伝承も残る。」
下妻城主多賀谷氏によって再建
天正四年(1576)、下妻城主多賀谷氏と後北条氏との間で戦が発生。この兵火によって社殿が焼失。
天正十年(1582)、多賀谷氏により社殿が再建。兵火によって社殿を焼失された罪滅ぼしに鎧太刀と共に三十六歌仙絵を奉納。
「「紙本著色 三十六歌仙絵」は、室町時代作とされ、現在は茨城県指定有形文化財となっている。」
「多賀谷氏は他に「大宝八幡宮」(現・茨城県下妻)の再建を行ったりと、周辺の寺社の御由緒によく名を見かける事ができる。」
徳川将軍家と寛永寺による社殿修復
江戸時代に入ると、慶長九年(1605)、伊奈忠次より黒印地三十石を拝受。
「伊奈忠次(いなただつぐ)は、家康に重宝された武将・大名。家康によって関東代官頭に任命され、関八州(関東)の幕府直轄領約30万石を管轄し、以後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。」
「黒印地(こくいんち)とは、大名が寺社などに黒印状を発行し領地を安堵した土地。」
慶安元年(1648)、徳川将軍家の朱印地に改められる。徳川将軍家によって庇護され、徳川将軍家の菩提寺である上野「寛永寺」と深い繋がりを持つようになる。
正徳四年(1714)、「寛永寺」により社殿の修復される。その後も「寛永寺」が修復や寄進を行っている。
飯沼新田開発の祈願所となり周辺の総鎮守に
享保九年(1724)、飯沼新田開発の祈願所となる。
「飯沼(いいぬま)は、当地周辺にあった大きな湖沼。八代将軍・徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環として、飯沼新田開発が近隣の村々によって開始され、一帯は水田地帯と開発されていく。」
享保十三年(1728)、飯沼新田開発が終わると祈願所であった当宮は、飯沼新田開発に携わった飯沼周辺31ヶ村の総鎮守とされた。
各村に当宮の分社が造営され崇敬を集めたと云う。
明治以降の歩み・古写真で見る当宮
明治になり神仏分離。当社は村社に列した。明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、大生郷村・大生郷新田・伊左衛門新田・笹塚新田・五郎兵衛新田・横曾根新田が合併して菅原村が成立。
「菅原村の地名由来は、地域一帯の総鎮守であった当宮(御祭神・菅原道真)による。」
明治四十年(1907)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
当社の鎮座地は今も昔も変わらない。地域一帯の村が合併し当宮が地名の由来となった「菅原村」の文字を見る事ができ、「大生郷(おおのごう)」という地名も見る事ができる。こうした地域一帯の鎮守を担った。
明治四十二年(1909)、「稲荷社」「大國社」を合祀。
明治四十三年(1910)、「厳島神社」を合祀。
「いずれも菅原村に鎮座していた神社で、当時の合祀政策の元に当社に合祀された。」
上の古写真は、大正二年(1913)に常総鉄道株式会社より出版された『常総鉄道名勝案内』から当宮の写真。茅葺屋根の立派な社殿だった事が窺える。これが江戸時代に「寛永寺」が修復した社殿であろう。
大正八年(1919)、火災によって社殿が焼失。社宝や古文書なども多くが失われた。
昭和四年(1929)、社殿が再建。
上の古写真は、昭和十六年(1941)に「いはらき新聞」より出版された『茨城県神社写真帳』から当社の写真。黒潰れと低解像度で分かりにくいとは思うが、先程の古写真の社殿とは姿がかなり違い、火災によって焼失後に再建された社殿なのが分かる。
戦後になり境内整備が進む。
昭和三十年(1955)、拝殿が再建。これが現在の拝殿となっている。
平成十四年(2002)、菅公御神忌千百年祭を斎行。神苑の整備が行われ、見事な神苑が一部完成している。 
平将門赦免供養之碑   常総市蔵持
平将門公赦免菩提供養之碑(たいらのまさかどこうしゃめんぼだいくようのひ)。
県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約850mのところで右折(西へ)して狭い道に入る。約100m進むと、「蔵持公民館」の前にある。公民館に駐車スペースあり。
「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長5〜7年(1253〜1255年)銘の板碑は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が民政安定のために当地の先霊を慰めるべく豊田四郎将基(伊勢平氏の祖・平貞盛の4世の孫。鎮守府副将軍となり、豊田郷を領した。)の供養碑を建てた。このとき、平将門公の祭祀がきちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得、下総国守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門公を赦免し霊を供養する板碑の建立を命じたものとされる。これらの板碑は、元々は神子女字引手山(前項の「六所塚古墳」の東側、鬼怒川右岸の台地)にあったが、洪水により埋まっていたものが昭和5年の河川改修工事で掘り出されたものという。「神子女(みこめ)」という変わった地名は元々「御子埋」であって、平将門公一族の墳墓の地を称したと伝えられている(現在、「平親王将門公一族墳墓之地」という石碑が建てられている。)。
掘り出された板碑は4基あったが、3基は蔵持の「観音堂・阿弥陀堂」脇に、1基は新石毛にあった「妙見寺」境内に安置されたが、「妙見寺」が廃寺になったので「壽廣山 観音院 西福寺」に移設された(いずれも常総市指定文化財)。蔵持の板碑は「不動石」・「阿弥陀石」と呼ばれて、それ自体が信仰の対象となっており、「西福寺」の板碑も、江戸時代に運び出そうとしたところ夜中に火炎を噴出したため「炎石」という別名がある。また、この板碑を縄で縛ると病気が快癒するともいう。
これらの板碑は、平将門公が東国で人気を集めていたことの証拠であろうが、それにしても赦免を受けるまで300年以上かかったとは・・・。 
六所塚(ろくしょづか)   常総市蔵持
六所塚は、六十六塚といわれ、かつては85基の古墳が確認された、鬼怒川右岸の神子女(みこのめ)古墳群内に所在する。一説には、平将門もしくは将門の父良将が埋葬されているともいわれるが、詳細は定かではない。墳丘は、前方後円墳で全長70mを測り、群内で最大の規模を誇る。神子女古墳群に現存する古墳は、開発などにより20数基が確認されるのみとなっており、一部は削平されているものの、古墳群内では唯一の前方後円墳であり、良好な状態で保存が図られており、大変貴重な文化財である。 
■守谷市
守谷藩   守谷市 
下総国相馬郡守屋(現在の茨城県守谷市)に存在した藩。藩庁は守谷城。下総相馬藩とも呼ばれる。
守谷の地名の起こりは、景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときにこの地を通り、うっそうたる森林が果てしなく広がっているのを見て嘆賞し、「森なる哉(かな)」と言ったのが漢訳して音読され「森哉(もりや)」となったという説がある。また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き砦ということから「守屋」となったという説もある。
藩史
徳川家康の家臣として甲斐国巨摩郡切石1万石を領していた菅沼定政は、小田原征伐後に家康が関東に移されると、北条軍に加わって改易された下総相馬氏の旧領である相馬郡に移されることとなった。これが守谷藩の起源である。文禄2年(1593年)、立藩と同時に母方の菅沼姓から本来の土岐への復姓が認められた。慶長2年(1597年)3月に定政は死去し、跡を次男の土岐定義が継いだ。定義は元和3年(1617年)に摂津国高槻藩に加増移封となったため、守谷藩は一時幕府直轄領となり、岡登甚右衛門と浅井八右衛門が代官となった。土岐定義は高槻で没し、その子土岐頼行が継いだが、12歳であったため減封となり、3年後に再び守谷城に戻った。やがて土岐頼行は元和4年(1618年)に山城守の受領名を受け、2万5千石に加増されて寛永4年(1627年)、出羽上山に移された。再び守谷は幕府直轄となり伊丹播磨守の代官支配の後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が信州松本から13万石で佐倉城に入った時に佐倉藩領になった。正盛の三男正俊は1万3000石給与で守谷領を継いだが、守谷城には入城しなかった。天和元年(1681年)、最後の城主酒井忠挙が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみたが、その後に関宿藩久世家の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して、周辺の農村と全く同じような環境となった。
歴代守谷城主
土岐家 / 堀田家 / 酒井家
守谷城
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした 。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。
現在守谷城碑の立っているあたり、現在地名馬場二本松に大手門があった。その先左側25軒に重臣25名の屋敷を設けた。現在守谷小学校があるのは第4郭で、その先第5郭の先に清水門があり本郭への入り口となる。第2郭が奥館で、第3郭に家老井上九左衛門の屋敷があった。面積30万平方mの大きな城であった。現在、城址はほとんどが住宅地になっているが、一部が守谷城址公園となって整備されている。城址の南に小さい沼があり、その東にある船着場という碑が名残である。旧294号街道(水戸街道と日光街道を結ぶ日光東照宮への脇往還であった)沿いに典型的な武家屋敷(間口が狭く、奥に長く一区画500坪単位)集落の区割りが見られる。八坂神社を現在地に移し、愛宕神社には九左衛門が寄進した鰐口が残っている 。愛宕神社付近は足軽町、新屋敷の地名であった。城址から約1.5km東南の取手市との境に乙子(おとご)という地名があるが、ここに守谷城の落とし口すなわち落口(おとご)があった。
地勢的には利根川、鬼怒川、小貝川に面する海上交通貿易、脇往還としての陸上交通の要所であり、同時に北方勢力に対し江戸を守る要衝となっている。
土岐家・酒井家が去った後、守谷城は空城となったが、土岐家の整備した近代的城下町が残り、脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。  
守谷市
七騎塚しちきづか
平将門たいらのまさかどには七人もの影武者かげむしゃがいたといわれており、守谷の海禅寺かいぜんじには、平将門と七人の影武者の供養くようのために建てられた塔とうがあります。
御霊山ごりょうやま  
天慶てんぎょう年間、平将門たいらのまさかどは七人の影武者かげむしゃをたてて、敵の目をくらまし勝利をあげていましたが、とうとう討うたれてしまいました。当時の住民たちは影武者をかわいそうに思い、現在の大木の丘の上にまとめてお墓をつくりました。そうして、御霊山と呼ばれるようになったそうです。
鈴塚すずか  
平将門たいらのまさかどは関東で、藤原純友ふじわらのすみともは瀬戸せと内ない海かいで乱を起こしました。この二つをまとめて承平じょうへい天慶てんぎょうの乱といいます。この二つの乱はほぼ同時期に起きたので、二人が手を組んでいたという話があります。平将門が兵を挙げる前に、藤原純友ははるばる将門の元を訪れたそうです。そして大鈴を埋めて塚をつくり、おたがいに戦の勝利を祈ったといわれています。
寅薬師とらやくし如来にょらい  
平将門たいらのまさかどが太公望たいこうぼう(中国古代王朝の周の政治家呂尚りょしょうの別名)の用いた「虎とらの巻まき」を夢のお告げで手に入れました。そこで、王城の寅とらの方(東北東かやや北)に御堂みどうを建てて、寅薬師をまつりました。現在、正安寺しょうあんじに寅薬師如来があります。
赤法花あかぼっけ  
平将門たいらのまさかどが城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁かべが、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。
板戸井いたどい  
承平じょうへい、天慶てんぎょう(931年から946年)のころ、平将門たいらのまさかどが東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万が一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っています。その一つがこの地の井戸といわれており、そこから板戸井という地名が付けられたと伝えられます。
隠穴かくしあな  承平じょうへい年間、平将門たいらのまさかどが守谷に城を建てたとき、万が一の場合に備え、本城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしたそうです。その抜け穴の出口を落おとし口ぐちといいました。それが乙口おとぐちに変わり、さらにそれがなまって乙子おとごに変化し、地名となったそうです。
興世王おきよおうの分城
天慶てんぎょう元年(938年)平将門たいらのまさかどは高野に興世王の分城を建て、今城いまんじょと名づけたそうです。今城とは、今いま造つくられた城という意味で、高野城のことをいい、この地域の人々は昔から今城と呼んでいます。
海禅寺かいぜんじ
海禅寺に伝わる「海禅寺縁起かいぜんじえんぎ」(守谷の領主、堀田正俊ほったまさとしが寄進きしんしたもの)によると、平将門が紀州きしゅうの高野山にまねて建てたということです。
平将門城址たいらのまさかどじょうし(守谷城址もりやじょうし)
平台山という丘の上に、平将門が建てたといわれています。周りは沼で、古城沼こじょうぬまと呼ばれていました。守谷は、平将門の王城の地とされ、守谷城が相馬そうまの御所ごしょと長い間語られてきました。しかし、実際は相馬氏代々の居城であったとされています。現在、公園となっていますが、土塁跡どるいあとなどに面影おもかげを残しています。
妙見八幡社みょうけんはちまんしゃ  
平将門たいらのまさかどが霊夢れいむを見て、城中の妙見郭みょうけんくるわに移しまつったそうです。
河獺弁天かわうそべんてん  
平将門たいらのまさかどが鬼門きもん避よけにまつったそうです。鬼門とは、陰陽道おんみょうどうで邪悪じゃあくな鬼が出入りするとして嫌きらわれていた方角で、北東を指します。人々はさまざまな工夫をして、鬼が出入りしないように鬼門を封ふうじていました。
長龍寺ちょうりゅうじ  
平将門たいらのまさかどが守谷城主の時、建てたそうです。平将門の位牌いはいが伝えられており、「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門ちょうりゅうじでんとくいれんざんだいぜんじょうもん」とあります。
将門まさかど並木  
守谷から北上する松並木の街道のことで、内裏だいり道や、将門並木と呼ばれています。
愛宕あたご神社  
平将門たいらのまさかどは、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権をたてようとしました。そのとき守谷にも京都と同じような都をつくろうとして、京都の愛宕神社に似せて建てたそうです。愛宕という地名もそこから名づけられたと言われています。
永泉寺えいせんじ  
平将門たいらのまさかどのほろんだ後、その家族や生き残った者たちが将門や影武者かげむしゃの土偶どぐうをこの地にまつったのに始まる寺だそうです。
西林寺さいりんじ  
妙見八幡社みょうけんはちまんしゃが守谷城中よりうつされたといわれています。西林寺の住職じゅうしょく義鳳ぎほうと親しかった小林一茶こばやしいっさが詠よんだ俳句の中に、平将門たいらのまさかどに関するものがあります。「梅さくや平親王の御月夜」(我春集 文化8年)
海禅寺縁起(かいぜんじえんぎ)
この縁起は寛文(かんぶん)年間(1661年から1672年)、守谷一万石の領主となった堀田備中守正俊(ほったびちゅうのかみまさとし)が寄進したものです。この縁起によれば、将門は延長8年(930年)に京都から相馬御厨(みくりや)の下司(徴税役)となって帰り、承平(じょうへい)元年(931年)父良将の供養のために紀州の高野になぞらえて地名を高野と名付け、海禅寺を建立したとあります。なお、これを寄進した堀田正俊は、天和(てんな)元年(1681年)1月に大老職に任ぜられましたが、貞享(じょうきょう)元年(1684年)8月、政治上の意見を異にする従弟の若年寄稲葉正休のため、江戸城中で殺されてしまいました。
沼崎山畧縁起(ぬまさきさんりゃくえんぎ)
沼崎山畧縁起は、永泉寺の歴史を伝える古文書です。縦26cm横276cmの軸仕立てで、近世後期の作と推測されます。この縁起には、永泉寺は平将門の古跡であり、将門が天慶(てんぎょう)の乱(939年から940年)に負けたおり、自分に似せて作った土偶(どぐう)を安置し、堂宇を建てて代々これを守ってきたことが記されています。守谷町史には、これより前の延暦元年(782年)の創建とありますが、これは天慶の乱以後に再建されたと考えられます。
守谷城址
この城は平将門の居城だったという伝承がありますが、実は相馬氏の城でした。源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子師常(もろつね)が相馬氏を継ぎ、ここに築城したという説が有力視されていますが、史料がなく断言することはできません。城は古城沼(守谷沼)に突き出た台地上に築かれ、本郭(ほんかく)を中心に二郭(にかく)、三郭(さんかく)をもって構成されています。その要害堅固たることは、中世期における城郭としてはまれにみるものです。 
海禅寺   守谷市高野 
海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うために建てた寺である。また本尊は、将門の娘・妙蔵尼の持仏であったとも伝わる。その後、将門の子孫を名乗る下総相馬氏の菩提寺となるが、戦国時代後期以降の相馬氏の衰退と転封によって荒廃する。江戸時代に入って領主の堀田氏が再興、奥州相馬氏も参勤交代の折りに立ち寄ったという。
海禅寺の境内には、8基の石塔が整然と並んでいる。これが平将門と七騎武者の墓である。一番右端の大きな石塔が平将門の墓といわれ、中央部に「平親王塔」と刻まれている。そして残りの石塔は平将門の7人の影武者の墓とされている。寺伝では、承平7年(937年)に京から帰国した将門を待ち伏せていた平良兼と平貞盛に襲撃された時に、身代わりに討ち死にした家臣7名であるという。将門本人の墓と称されるものは数多いが、家臣の墓は珍しいものである。  
赤法花(あかぼっけ)   守谷市
茨城県守谷市の大字。旧北相馬郡赤法花村。当用漢字が定められる前は赤法華と表記された。
守谷市東部に位置する。地域の北部を首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス、千葉県道・茨城県道46号野田牛久線が通り、小貝川を隔てたつくばみらい市との間に常総橋があることから、守谷市の北東側の玄関口となっている。緑の色濃い地域で、幹線道路から外れると森林など手付かずの自然が残されている。小貝川堤防より低い対岸とは対照的に、地域内は全体的に堤防よりも標高の高い場所に位置する。
東は小貝川を挟んでつくばみらい市青木(一部小貝川西岸)・長渡呂、西は松並、南は同地、北はつくばみらい市筒戸と接している。
小貝川 - 地域の東端を流れる一級河川。赤法花を含む中流部では下総国と常陸国の境にもなっていた川で、両国より一字を取った「常総橋」が当地からつくばみらい市青木にかけて架けられている。現在の常総端の十数メートル下流にはかつて渡船場が設けられ、対岸の筑波郡青木村とを結んでいた。
歴史
当地域は、全域がかつて下総国相馬郡赤法華村となっていた。守谷藩領を経て1642年(寛永19年)に佐倉藩領となり、1664年(寛文4年)に堀田正俊領、2年後の1666年(寛文6年)に幕府領となる。幕府領時代の「元禄郷帳」によると石高が45石余り、割付年貢が15石余り、小物成永が7貫余りであった。1747年(延享4年)には田安領となったが、同年の今仕置書によると人倫の道に重きを置き、鉄砲、キリシタン(切支丹)の取り締まり、人身売買の禁止、田畑譲渡及び移住の制限、博奕等風俗に関する規制など百姓の行為を制限し、民衆に対する教化的条目を巻頭に掲げていた。また、年貢米に関して七ヵ条の項目を設けていた。「天保郷帳」、「旧高簿」によると47石余り、「旧高旧領取調帳」によると、幕末(田安領)には42石2斗4升であった。常総橋が架けられる前は、江戸より常陸国笠間へ至る笠間街道が通っていた。また、赤法花村で作成された「差上申鉄砲証文之事」において、1867年(慶応3年)11月に田畑を荒らす猪や鹿を退治するための鉄砲の借用及び使用について書かれており、幕末には鹿や猪が村内に存在した。
幕末には下総野鎮撫府を経て、下総知事県の管轄となる。「染谷家文書」によると1868年(明治元年)の村高は45石余り、割付年貢4石余り、小物成永7貫余りであった。1869年(明治2年)には葛飾県、1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1878年(明治11年)の郡区町村制で大区小区の区分けは廃止され、同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡赤法花村となる。また、1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の守谷町、小山村と合併し、赤法花は守谷町の大字となる。守谷町となった2年後の1891年(明治24年)の戸数は15戸、人口は91人で、その他に厩が10棟、船が4隻存在した。2002年(平成14年)2月2日の守谷市の市制施行により、守谷市の大字として現在に至る。
地名の由来
承平年間に、平将門が守谷城を築いた際、場内より見る当地域が唐土の赤壁に似ていたことから「赤法花(赤法華)」としたと伝えられる。  
お化け石(成田不動明王の石碑)   守谷市高野
高野のおばけ石
昭和50年7月、高野中坪地区にある成田山不動明王の石碑に「人の顔が写っている」と近所の小学生たちの間で噂が広がった。噂が噂を呼び、やがてテレビ局や週刊誌等のマスコミに取り上げられ、守谷は一躍世間の脚光を浴びることとなりました。一時は、全国から見物客が押し掛け、付近の空き地はにわか駐車場に、そして、道は大渋滞に陥りました。当時、石碑に人の顔が写っているのを確認したという人たちの証言では、「平将門様の亡霊だ」「亡くなったおじいちゃんの姿」「白い着物を着た女の人と子供の姿が見える」「石碑の下の方には猫がいる」等、様々で見る人によって眼に映るものがあったようです。
石碑近くに建つ海禅寺は平将門ゆかりの寺。成田のお不動様は将門を調伏するためにはるばる京の都から関東までやってきた将門にとってはいわば仇。事実、成田のお不動様に戦勝祈願した藤原秀郷によって将門は殺された訳で、この石碑に顔が現れたのはその怨念によるものだなどといわれたものでした。 
■筑西市
一向寺 小栗助重供養碑   筑西市小栗
(いっこうじ おぐりすけしげくようひ)
説経節で有名な『小栗判官』であるが、実は完全な創作ではなく、実在の人物がモデルとなっている。それが常陸国に所領を持っていた小栗助重である。
小栗氏は、平将門に繋がる大掾氏の支族として源平の合戦にも名を残している。そして時代が下って室町時代になると、鎌倉公方の支配地である関東に所領を持ちながら、京都の幕府と直接主従関係を結ぶ“京都御扶持衆”となる。そのためか助重の父・満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で鎌倉公方に反旗を翻すが、結局は敗北。この時に所領の大半を取り上げられたために応永29年(1422年)に再び戦火を交えるが、今度は鎌倉公方・足利持氏に直接攻められ、最終的に満重は自刃する。これによって一時期小栗氏は所領を失うことになり、息子の助重は流浪の身となったとされる(一説では、満重は自刃せずに常陸を脱出し、相模に逃れて『小栗判官』のモデルとなるとも)。
ところが、永享の乱で足利持氏が自害、さらにその遺児を擁立して起こった結城合戦が永享12年(1440年)に始まる。この時に武功を立てた小栗助重が再び旧領を取り戻すことになる。父の死からおよそ20年ぶりの復帰であった。
こうして京都側と鎌倉側の権力争いが続くが、その中で小栗氏はさらに翻弄される。享徳3年(1455年)に始まった享徳の乱で反鎌倉公方であった助重の居城・小栗城は足利成氏によって攻め落とされてしまう。これによって小栗氏は再び所領を失い、京都御扶持衆の有力武将の中でいち早く歴史の表舞台から消えてしまったのである。
かつて小栗氏が知行していた筑西市小栗の地にある一向寺には、小栗助重の墓とされる供養碑がある。だがそは後世に建立されたものであり、その後の助重は『小栗判官』の物語に匹敵するとも言うべき人生を歩む。所領を失った助重は出家すると、京都の相国寺の門を叩く。そしてそこで画僧・周文の水墨画を学び、やがて足利将軍家の御用絵師にまで上り詰めるのである。大徳寺にある重要文化財「芦雁図」を描き、門下に狩野派の祖・狩野正信を持つ、小栗宗湛その人である。 
東睿山金剛壽院千妙寺   筑西市黒子
開創 834年
開基 慈覚大師円仁
本尊 釈迦如来
東睿山金剛壽院千妙寺は、慈覚大師円仁(794〜864)開基の天台宗寺院です。
淳和天皇の勅許により承和元年(834)、筑波山麓の上野(現明野町赤浜)に創建し、承和寺と称したと伝えられています。その後、平将門の乱により堂宇は焼失してしまいました。
時は下って、亮守が観応二年(1351)に黒子に地を定め、崇光天皇の勅命により再興しました。寺院を建立するに当り、亮守は千部の妙典(妙法蓮華経)を小石に書写し、浄域の中心に埋納したことから、寺号を千妙寺と称するようになりました。
亮守は、台密三昧流の法流を汲んでいましたから、それ以後、三昧流の灌頂道場として隆盛し、室町時代から戦国時代にかけて、末寺・門徒寺院700以上を数えるほどでした。
山号の東睿山は、慶長十八年(1613)後水尾天皇の勅号により授けられたと言われています。
京都の曼殊院・青蓮院 両門跡寺院とも三昧流を通じて密接な関係がありました。
また、古河公方足利氏・多賀谷氏・宇都宮氏などの戦国武将の祈願寺として信仰され、さらには、天正十八年(1590)に豊臣秀吉から下馬札を賜わり、慶長九年(1604)には二代将軍徳川秀忠から寺領百石が安堵されています。
総本堂(本尊釈迦如来)は、天正十一年(1583)十四世亮信の代に建立し、落慶法要が執り行われたと記されていますが、その後数回に及ぶ火災により焼失しました。現代の総本堂は元文三年(1738)に再建されましたが、老朽化が著しく、平成21年7月から四ケ年間かけて文化財的価値を尊重して大修理を行い、平成25年復元落慶することができました。(現在筑西市指定有形文化財)
千妙寺は歴史が示す通り寺宝三千六百点を所有し、しばらくの間、県立歴史館に寄託していましたが、平成27年3月に千妙寺内に展示室・収蔵庫を建設し閲覧に供しています。
※伝法灌頂道場 / 密教の「法」=根本の教えを授け、阿闍梨の位を授ける重大な儀式。比叡山延暦寺と千妙寺だけに伝えられる貴重な宗教行事と言われる。  
下館城   筑西市甲
天慶3年(940年)藤原秀郷が築いたのが始まりとされる。 藤原秀郷は平将門がおこした承平天慶の乱を討伐するために、上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)を築いたという。
文明10年(1478年)頃に結城氏家臣水谷伊勢守勝氏が下館城を築き代々の居城となる。 豊臣秀吉による小田原征伐の後は主家結城氏から独立した大名として取り立てられ三万一千石の所領を安堵された。関ヶ原合戦では東軍に属して佐竹氏に対抗し、所領を安堵される。
寛永7年(1630年)  所領の高直しにより四万七千石となる。
寛永16年(1639年)  水谷勝隆の時、備中国成羽へ五万石で転封。水戸藩主徳川頼房の長男松平頼重が五万石で入封。
寛永19年(1642年)  松平頼重は讃岐国高松へ十二万石で転封。 一時天領となる。
寛文3年(1663年)  三河国西尾より増山正弥が二万石で入封。
元禄15年(1702年)  増山正弥は伊勢国長島へ転封。丹波国亀山より井上正岑が五万石で入封。城地が狭く不便であった為に僅か一ヶ月で笠間へ移る。
元禄16年(1703年) 武蔵国より黒田直邦が一万五千石で入封。
享保17年(1732年) 黒田直邦は上野国沼田へ転封。伊勢国神戸より石川総茂が二万石で入封。以後石川氏が続いて明治に至る。
城は五行川西岸の平地に築かれており、下館小学校付近が二の丸、その北にある八幡神社付近が本丸であった。現在は市街地に没して遺構はほぼ失われたが、本丸跡にある八幡神社に案内板と石碑が建てられている。
形態 平城 城主 水谷氏、松平頼重、増山正弥、井上正岑、黒田直邦、石川氏 
田中稲荷神社本殿    筑西市甲地内
本殿は、文久3年(1863)4月に再建したもので、総欅一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、土台上の腰まわりから彫刻が施され、上屋で覆われているので保存状態が良好です。
通称田中稲荷大明神と呼ばれ、古くから田中村の惣社として尊崇され、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で耕作豊饒・作物の虫よけ、火防の守護神です。もとは田中村の中央(現在の稲荷町の稲荷神社)のところに鎮座していましたが、安政4年(1857)正月19日、火災により本殿・拝殿を焼失したため、文久3年に田中稲荷の別当である田中山宝蔵院の境内(現在地)に遷宮し、本殿拝殿を建立しました。
将門の夢の中に稲魂姫命が現れ、反逆を責めて改心しなければ家を滅ぼすと告げた。将門は近臣と諮ってこの社を修復したとか。  
金井薬師堂   筑西市(旧下館市金井町)
大橋のたもとにある三峰神社の左側に、薬師如来を祀った小さな薬師堂があります。この御堂に、藤原秀郷が金銅の十二神将を奉納したと伝えられています。ただし、実際には平貞盛が奉納したのだといわれています。  
新治廃寺跡(附上野原瓦窯跡)   筑西市久地楽〜古郡地内
奈良時代、律令制のもとで常陸国新治郡に造られた寺院跡で、古くから4基の土壇跡(どだんあと)と多くの古瓦の出土が知られていました。
昭和14年(1939)からの発掘調査によって、金堂の東西にそれぞれ塔を配置し、東塔〜金堂〜西塔が一直線上に並ぶ特異な伽藍(がらん)配置をもつことが明らかとなりました。金堂跡の礎石には、すべてに柱座を造り出し、東塔跡の基壇上には塔心礎も見ることができます。
出土した古瓦の豊富さとともに文字瓦も見られ、奈良時代の東国への仏教文化の伝播(でんぱ)を知る遺跡です。  
関本神社   筑西市関本
関本神社は筑西市の旧関城町にある関本に鎮座しています。駐車場、というか駐車スペースは鳥居の前にあります。この日はおまつりの屋台が並んだため、公民館などが臨時駐車場となっていました。
社伝によると関本神社の創建は桓武天皇の御代(781-806年)。山城国伏見稲荷を勧請して創建しましたが、鬼怒川の水害を避けるためにこの地に遷しました。残念ながらわかっているのはこれだけ。。
ご祭神は保食うけもち神、大日霊貴おおひるめむち命、武甕槌たけみかづち命です。本社の伏見稲荷と少し名称が違っているのが気になるところ。
大日霊貴命は天照大神です。県内でご祭神とする神社は多くありませんが、同市内の内外大神宮でも祀られているので関係が気になります。そういえばそちらにも神楽がありました。 
■つくば市
水守営所跡   つくば市
茨城県つくば市の旧筑波町に、将門記に出てくる水守(みもり)の営所跡があります。将門の叔父平良正の居館であったとも平国香の営所であったともいわれているそうです。伝説ですから、その真偽はわかりませんが、現在の遺稿は戦国期以降のようです。場所としては小高くて、敵を迎え撃つには格好の場所でしょうが。 
佐都ヶ岩屋古墳   つくば市平沢
ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推定される。現存するのは4基のみであるが、その中の1基、この佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん:平沢1号墳)は、筑波山南麓の7世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓をいえる。
本古墳は、おおよそ南北25m、東西35m、高さ7mの方墳で、南側に巨大な板石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は、石室内部が前室と後室に分かれる複室構造で、さらに全国でもめずらしい平面T字形である。築造された時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ばから後半頃と考えられる。
6世紀以前、首長の墓は前方後円墳と基本としていたが、6世紀末頃からは大型の円墳や方墳へと変わり、8世紀までには古墳そのものの築造が終わりを迎える。この古墳終末までの時期を古墳時代終末期という。そして、このような全国的な古墳築造の変遷は、中央集権的な国家制度の整備や仏教の普及に連動するものと考えられている。古墳時代終末期に築造され、時代的特徴と規模を備えた本古墳の存在は、中央において着々と進む国家体制づくりを受け入れ、その変化に対応していった、この地域の人々の動向を伝えるものである。
かつてこの地一帯は、筑波国造が治めていたと考えられる。そして、国・郡(評)・里という地方制度が成立した際、各地の国造が郡司(評督)となったといわれる。古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡を見下ろす位置に築造された本古墳の被葬者と、筑波国造・筑波郡司との関係も注目される。
なお、平将門の娘、瀧夜叉姫が、ここに隠れ住んだとの伝説もある。 
鹿島神社  つくば市若栗
祭神 武甕槌神
創建は天慶2年(939)です。平将門が常陸国府(石岡)を攻め新皇を名乗り関東に独立国家建設を目指しました。(平将門の乱) その際、戦勝祈願のため社領を寄進し創建されたと伝えられています。 また、将門は、天慶8年(939)にも若栗の鹿島神社と念向寺に3百石を寄進しています。  
智光山念向寺   つくば市若葉
宗派 時宗
念向寺を中心として筑波茎崎霊園が広がっている。境内にある大銀杏は茨城の名木・巨樹の100選に選ばれた樹齢300年といわれる。 
月読神社   つくば市樋の沢
945(天慶8)年の創建と伝えられている神社。平将門の護持仏であった勢至菩薩が本尊。別名「三夜様」と呼ばれる。
月待ちの講「二十三夜様」が行われる。二十三夜様は子どもの神様で、子どもの出来ない人が信心すれば子宝に恵まれると伝えられる。また、農業の神様としても信仰されている。間宮海峡発見で有名な間宮林蔵が生まれたのも、この月読神社のご利益があったからと伝えられている。
境内裏には樹齢700年を超え幹回りは6mを超える御神木のシイの木が立つ。 
八幡神社   つくば市上広岡
944年(天慶7年)府中(現石岡市)の常陸大堟平貞盛と平将門合戦に府中側が苦戦したところ 夢のお告げで「当広岡城主守護神八幡大神に祈願せと」とあり戦勝祈願して勝利をおさめたという。 また、古来祭りの際白鳩放鳥の儀式があり、高く飛べば豊作と五穀豊穣を祈願したと伝えられています。  
金田官衙遺跡(こんだかんがいせき)   つくば市金田字吹上
つくば市金田・東岡地内に所在する金田官衙遺跡は、筑波山の南方約15km、筑波研究学園都市の中心部から北東方約2kmのつくば市金田及び東岡地内にあります。筑波山麓付近から霞ヶ浦に向けて広がる桜川流域の沖積低地を東側に望む標高25〜27mの台地上に位置します。当遺跡は、奈良・平安時代(8世紀前葉から9世紀中葉)に営まれた古代常陸国河内郡の郡衙関連遺跡で、指定面積は95、872.98uです。
遺跡は、発掘調査により確認された遺構の内容から、次の3遺跡に細分されます。
1 正倉院(金田西坪B遺跡) / 幅約3m、深さ約1.3mの溝で区画された東西約110m、南北約310mの範囲に、礎石建物跡や総柱の掘立柱建物跡が確認されています。かつて周辺から、炭化米が出土したという記録があります。
2 官衙地区(金田西遺跡) / 4群に分かれて品字状やL字状に配置された約100棟もの掘立柱建物跡や礎石建物跡、井戸跡、柵列等が確認されています。
3 仏教関係施設(九重東岡廃寺跡) / 基壇建物跡や四面庇の特殊な建物跡が確認され、多数の瓦が出土しています。
当遺跡は、正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡が一括して把握できるという点で貴重な遺跡です。郡庁、館等について、明確な建物配置を示すものではないものの、それらを包括すると考えられる官衙地区を構成しており、郡衙の実態を解明する上で重要な遺跡です。

このあたりは「長者屋敷」といわれ、将門が常陸攻めの時に、雷雨にあい難儀していた際に、ここの長者が将門の軍勢すべてに蓑笠を提供してくれた。将門は、この長者のあまりの豪勢振りに、この勢力を恐れ、その屋敷を全て焼いてしまったという。 
金田城(こんだじょう)   つくば市金田字館山
鎌倉時代初期、小田氏が小田城を築いた頃に造られ、室町時代から戦国時代を過ごしてきた小田幕下(城主沼尻又五郎)の城で、15代氏治が佐竹に滅ぼされるとき、ここも落城して廃城となった。
現在確認できる曲輪は一つのみである。台地続きに副郭または外郭が設けられていたのかもしれないが、現在確認できない。 
東福寺   つくば市松塚
真言宗豊山派 山城国醍醐光台院末寺
御深草天皇の建長四年三月 忍性菩薩の創立である。平将門の娘尼蔵尼の生涯持念した聖徳太子御作と伝える安産、子育ての延命地蔵尊を安置する。作蔵山延命院東福寺と称する。
東福寺楼門は慧海僧正の造営である。二階建築で下に仁王像が安置してある。この仁王は明治初年の神仏分離の時、坂東二五番筑波護持院大御堂の解体に際して、東福寺住職慧海僧正が護持院住職を兼ねていたのでその縁故によって東福寺に移した。仁王は筑波町沼田から桜川を筏(いかだ)につんで流し、流れついた所が松塚岸である。そのようなことから流れ仁王というようになった。 
春日神社   つくば市上郷
祭神 武甕槌命
上郷地区の上原に鎮座しています。境内の碑文によると 創建は承平元年(931)に平高望の子、平良文が東国鎮守府将軍に任ぜられて下向の折り、藤原春信これに随従する。春信、豊田城の東北にあたる台豊田上郷に鬼門除けとして、奈良の春日神社の分霊を勧請した。以来春信の子孫代々社祠となり、のち岡田氏に改称し奉斎して現在に至る。江戸時代は御朱印二石を賜り朱印状はすべて現存するとある。社殿は江戸時代の宝暦6年(1756)に大修復をし、さらに現在の社殿は平成11年(1999)に落慶したものです。
境内には「雨乞石」と呼ばれる板碑があります。筑波地方算出の雲母片岩製(高さ138cm、厚さ15cm)で「日天月天」、「八龍神」と七言の詩偈(しげ)が刻まれています。日天月天、八龍神は雨にかかわる神仏で、往時は旱魃の時に雨乞いの為、農民がこの板碑をかついで小貝川に入水したと伝えられています。神殿、本殿さらに境内の石祠まで朱色で印象的です。  
八幡神社   つくば市吉沼
祭神 誉田別命(応神天皇)
小貝川の東側にある吉沼地区の西端に鎮座しています。創建は平安時代後期、寛治元年(1087)源義家が後三年の役で征奧の際、旅宿した跡に 誉田別命を祀り創建されたと伝えられています。江戸時代の寛文3年(1663)に吉沼村が仙台伊達氏の常陸飛地となり、神社も隆盛します。現在の本殿は貞享2年(1685)に建造されたもので一間社流造、茅葺です。覆屋は慶応3年(1867)に建てられた本格的な覆屋建築として貴重な遺構で 平成2年(1990)に本殿・覆屋が茨城県有形文化財指定となっています。
拝殿前の狛犬は親子です。境内社として山神社と大杉神社が祀られています。 また、境内には多くの石碑が建てられており、既に昨年の東日本大震災復興記念碑も建てられていました。  
一ノ矢八坂神社(いちのややさかじんじゃ)   つくば市玉取
近代社格制度に基づく旧社格は郷社であった。ニンニク祭りと通称される、祇園祭を催行する。
清和天皇の治世、貞観元年(859年)に創建されたとされる。この説では、山城国愛宕郡(現・京都市)の八坂神社から勧請されたとする。ただし『大穂町史』では、確証があるのは神社に残る宝鏡の制作年代から南北朝時代までであり、それ以前に存在したかどうかについては「なんともいいがたい」としている。天慶年間(938年 - 947年)には藤原秀郷が参拝に訪れ、平将門討伐のための戦勝祈願として矢を納めたと伝えられる。
小田氏が権勢を誇っていた頃には、同氏の崇敬を受け「玉取の里御花園」と呼ばれ、同氏がたびたび来遊したほか、弓矢の奉納を受けている。そのため小田城の落城に伴い、天正年間(1573年 - 1593年)に兵火に遭い、社殿を焼失した。(神社のある玉取村は小田城への侵攻路上にあった。)また常陸国にありながら下総国に勢力を持った結城氏の崇敬をも集め、同氏の寄進状の中に八坂神社の祠官とみられる「六郎大夫」の名が見られる。
その後、地域住民によって文禄年間(1593年 - 1596年)に社殿が再建され、玉取藩主の堀通周が延宝4年4月(グレゴリオ暦:1676年5月)に本殿の造営を行った。また堀利寿が宝永8年3月(グレゴリオ暦:1711年4月)に拝殿を造営した。江戸時代の一ノ矢八坂神社は一般に天王社と呼ばれ、別当の天台宗薬王院の支配下に置かれていた時期があり、禰宜ではなく半僧半俗の別当職が祭祀を行っていた。享保年間(1716年 - 1736年)の届書によれば、境内地の面積は2、552坪(≒8436m2)で、馬草場・御手洗(池)・御旅所林・天王免田畑を所有し、税を免除されていた。また祭礼に集う人々を目当てに茶店が建ち、周辺に門前町(鳥居前町)が形成された。こうして町が発達したことから一ノ矢の村人30人は玉取村からの分離独立を企図して分村願を提出するに至ったが、評定所は分村を認めず一ノ矢は玉取村に残留した。
明治時代になると、近代社格制度に基づき郷社に列せられた。1994年(平成6年)時点の境内地の面積は3、746坪(≒12、383m2)、社有地は5反5畝12歩(≒5、494m2)であった。
一ノ矢の地名伝説
社名であり鎮座地周辺の地名でもある「一ノ矢」には、次のような地名の由来に関する伝説がある。
「昔、この地域に飛来したカラスが農作物を荒らし、村人は困っていた。そこでカラスを退治しようと弓の名人が集められた。その場所を「天矢場」(てんやば)という。弓の名人はカラスに矢を放ち、1つ目の矢でカラスを射落としたところを「一ノ矢」、2つ目の矢でカラスを射落としたところを「二ノ矢」と呼ぶようになり、それぞれ天王を祀った。射落としたカラスは6本足で玉を持っていたため、以来この村の名は玉取村となった。」
一方、社伝では微妙に伝説の内容が異なっている。
「昔、3本足のカラスがこの地域に飛来した。弓の名人である友永は後に「天矢場」と呼ばれる地に櫓を建て、カラスに向けて矢を放った。1つ目の矢と2つ目の矢は射損じたが、3つ目の矢でカラスを射落とした。それぞれの矢が落ちたところには一ノ矢、二ノ矢、三ノ矢の地名が付いた。射落としたカラスは玉を持っていたため、以来この村の名は玉取村となった。カラスは「たまつかの坂」の塚に埋めたが、夜に亡霊となってウシの姿で現れたため、ある晩に友永が退治した。カラスが持っていた玉は筑波山権現に奉納した。」
信仰・祭礼
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、除災厄病・海上安全のご利益があるとして信仰されてきた。このため海から離れた内陸部に鎮座するものの、漁業関係者の参拝も多い。茨城県における牛頭天王信仰(祇園信仰)の中心であり、一ノ矢八坂神社の天王様(ニンニク祭り)が終わらないうちはほかの神社で天王様(祇園祭)はしないと言われており、当社の祭りの後から旧暦6月の月末までの間に茨城県の多くの神社で天王様(祇園祭)が行われる。一方で、地元・玉取地区の産土神としての信仰もある。1990年(平成2年)の朝日新聞による取材によれば、当時の参拝者は元からの地域住民よりも筑波研究学園都市にある研究所の職員や大学教員が多かったといい、大学院生が結婚式を挙げることもあった。
御朱印の授与は行っておらず、参拝者が各自授与所の前に掲げているQRコードを読み取って保存するという形式を採っている。
祭礼としては下記のニンニク祭りのほか、元旦祭、節分祭、五六祭(5月6日)、九六祭(9月6日)、新穀感謝祭(12月21日)がある。  
■石岡市
金刀比羅神社   石岡市国府
当神社は長い歴史の過程の中で、「森の神社」としての歴史、「平氏ゆかりの神社」としての伝統、そして「こんぴら信仰に由来する神社」として多様な側面を持っています。
森の神社
『常陸国風土記』によると、常陸国成立以前の太古には新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の六国に分立していたといいます。 当地方は茨城国といい、霞ヶ浦水運の要衝地にあって、当時の大和国から見て東の海を隔てた東国(あずまのくに)の開拓の中心地として最も早くから開けたところでもあります。当神社の古称である「森」「森木」「守木」は神社・神木・神垣の意をあらわし、古代神木祭祀の時代からの由緒ある神域であったことを伝えています。
平氏ゆかりの神社
平安時代中頃に、桓武天皇の曾孫である平高望(たいらのたかもち)王から国香(くにか)・貞盛(さだもり)らが常陸大掾(ひたちのだいじょう)という官職を得て国府に着任して以来、そのまま土着して勢力基盤を築き上げると、平氏ゆかりの神社として森の祭祀が継承されるようになりました。森は「大森太明神」と尊称され、歴代の平氏の子女が祭主となって神役に勤仕していたと伝えられます。 また森には、森の祭祀に従事する平氏の御殿「森木殿」があり、神仏混淆であったその時代には森木寺や八大寺という寺院が付属していました。 天正18年(1590)、戦乱と兵火の中に巻き込まれて、森は壊滅し、六百有余年の長期間にわたって当地を支配していた常陸平氏も滅亡しました。その後、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興されております。
こんぴら信仰に由来する神社
江戸時代になると、平村(現在の石岡市中心部)の鎮守として府中藩主松平家の信仰は殊のほか厚く、当神社に手厚い庇護と多大の崇敬を寄せられました。またその頃には、大物主神は仏教の守護神である宮毘羅(くびら)大将と同一神であり、現世で最も霊験あらたかな神様であると考える「こんぴら信仰」が全国に伝播拡大しました。当神社も「金毘羅大権現」として信仰を集めるようになっていました。文政10年(1827)に、あらためて讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の御分霊を勧請し、こんぴら信仰のよりどころとなって多くの人々の参詣を集めて今日に至っています。
香取神社の歴史
香取神社は、古くは茨城古国府や石岡外城があったとされる石岡市内の茨城カンドリの地に鎮座していたと伝えられています。鎌倉時代に石岡外城が築かれると、軍神として祭られました。その頃は森木殿の知行社でもありました。戦国時代末期の天正年間に森木の天王除地に遷座されたと伝えられます。天王除地は現在の金刀比羅神社境内の南側幅2間半。社殿の大きさは1間四方だったといいます。江戸時代には府中平村の天王祭の神輿の逗留する御旅所になっていました。明治39年(1906)に金刀比羅神社と合併し、御祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)は金刀比羅神社本殿に合祀されました。香取神社跡地には、現在、仁平稲荷神社が鎮座しています。  
常陸國總社宮   石岡市総社
常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)は、茨城県石岡市総社にある神社。常陸国総社で、旧社格は県社。社名には新字体の「常陸国総社宮」の表記も用いられるほか、別称として「總社~社(そうしゃじんじゃ)」とも称される。石岡の産土神であり、地域住民からは「明神さま」とも呼ばれている。
古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの常陸国の総社にあたる。
当社は石岡の中心市街地を抱く丘陵の縁辺に鎮座し、西から南にかけて恋瀬川の低地を望み、社地は旧常陸国衙に隣接する。氏子は1994年(平成6年)時点で約2、500戸で、各町ごとに氏子会が組織されている。
毎年9月に催行される例祭「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」とも称され、関東三大祭りの1つに数えられる。
祭神 
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) / 大國主尊 (おおくにぬしのみこと) / 素戔嗚尊 (すさのおのみこと) / 瓊々杵尊 (ににぎのみこと) / 大宮比賣尊 (おおみやひめのみこと) / 布留大~ (ふるのおおみかみ)
寛政3年(1791年)の『総社神宮祭礼評議』では、祭神は大己貴命(おほなむちのみこと:大国主尊に同じ)であり、「七体の木像にて、内六体は怪敷(あやしき)形」であるとしている。
歴史
社伝によれば、奈良時代の天平年間(729年 - 749年)の創建とされる。ただし『石岡市史 下巻』では、総社の制度が確立したのが平安時代末期であることから疑問を呈している。
当初の社名は「国府の宮」であったが、延喜年間(901年 - 923年)に天神地祇(てんしんちぎ)の6柱の神が祀られるようになって「六所の宮」となり、さらに「総社」(古代の読みは「そうじゃ」)に名を改めた。また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年 - 947年)に大掾氏(平詮国)が常陸府中(石岡)に築城した際に鎮守のために現社地に遷したという。神主は代々清原氏が世襲していた。
少なくとも治承3年5月(ユリウス暦:1179年6月)に「造営注文案」が出され、宮域の整備がなされたものと推定されている。造営には吉田神社や筑波山神社などの常陸国内諸社や郷が鎌倉時代末期まで決まっていたが、14世紀初頭になると、代々その任を担ってきた地頭らが造営を拒否し、神社側は鎌倉幕府に提訴、幕府は造営負担を命じるとともに地頭らに造営の先例の有無を記載した請文の提出を要請した。この時の請文が「総社宮文書」として6通ほど残されているが、いずれも「造営の先例はない」としている。これは社寺保護政策を強めていた幕府に対する関東御家人の反発の潮流の1つに位置付けられる。また総社に対する権威の否定、国衙機能の変質・解体として見ることも可能である。さらに鎌倉時代末期には、大掾氏の一族が社地の田畑について知行権を行使していた。
中世には国司代による奉幣の祭祀が3月3日と7月16日に行われていた。また、少なくとも戦国時代まで常陸国内の神事を執行・主導する立場にあり、仏事に対しても関与できるほどの権力を有していた。そして、7名の総社供僧と呼ばれる仏教僧も神社に奉仕していた。

永享12年5月(ユリウス暦:1440年5月)には太田道灌が奥州へ向かうにあたって武運を祈るため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、以下のような短歌を詠んだ。
「曙の露は置くかも神垣や 榊葉白き夏の夜の月」
道灌の子孫である太田資宗は先祖・道灌の寄進した軍配に感激し、軍配を納める金の梨地の筥(はこ)を作り、その蓋に由緒を書いて寛文8年4月(グレゴリオ暦:1668年5月)に神社へ奉納した。
江戸時代には、本殿に加え、幣殿・拝殿・神宮寺を有し、末社として高房明神と稲荷明神を管轄していた。寛永4年(1627年)、常陸府中藩主の皆川隆庸が現在の社殿を再建する。この年に江戸幕府によって社領を25石と定められた。その後、松平信定が天和3年(1683年)に拝殿を修築、1886年(明治19年)6月に氏子らで拝殿神門の修築と本殿を銅の瓦葺に変更した。
明治維新後、近代社格制度では始めは郷社に列したが、1900年(明治33年)9月に県社に昇格した。これを記念して石岡町民は寄付を集めて神社の基金を作り、三条実美に社殿奉額の社号の筆を依頼した。1978年(昭和53年)、総社神社周辺域に新町名「総社」が設定され、一丁目と二丁目がおかれ、神社は総社二丁目となった。この時、地名としての「総社」の読みは「そうしゃ」とすることが会議で決定された。
2005年(平成17年)4月14日、本殿が石岡市指定有形文化財(建造物)となった。  
星の宮   石岡市星の宮
祭神 天香々背男命
由緒は奈良時代の天平年間「府中三光の宮」のひとつとして建てられた。国府の地割は正南北の方位に造られ、国府の北に「星の宮」を祀り、南に「日天様」と「月天様」を祀った。
「星の宮」と国衙を結ぶと、正南北の線上になり、国衙から見て「北極星」の位置に建てられたといわれ、北極星信仰のあらわれである。
当時は国府在庁の官吏が祭祀を行っていたが、後に香丸町の氏神とされ、毎年祭事が行われていた。現在は常陸國總社宮に合祀されており、当時の場所にはない。 
青木稲荷神社   石岡市府中
祭神 倉稲魂命
青木稲荷神社の由緒は、宝沢院という寺院の隅にあったと伝えられる。慶長年間(1596〜1614)、領主六郷氏により国家安全・五穀豊穣・武運長久の為に深く信仰されていた。文政年間(1818〜1829)に宝沢院は廃寺となり青木稲荷神社だけが残った。再建は弘化2年(1845)。青木町の名は、府中六木の一つ「大木」に由来し、寛永2年(1625)、水帳に「大木」「おふき」の呼称が記されている。 
常光院   石岡市国府
常光院は来迎山常光院極楽寺と号し、51cmの阿弥陀如来像を本尊とする天台宗の寺である。本尊の御前立に、地蔵大菩薩不動明王尊を安置している。
伝承によれば、後朱雀天皇(在位1036〜1045)の御代、外城大学清治の創建。また「常陸大掾国香(〜935)の祈願所として、倉奈利良明開基」という記録もあり、11世紀初めまでに開山されたと推察できる。
また、境内には農具万能の考案者、鈴木万能の墓がある。彼が万能を製作していたという杉並の「アツバイ」の地には、彼の業績を顕彰して「万能塚」が建てられている。 
浄瑠璃山龍光院   石岡市総社
宗派 天台宗
常陸国府(現在の石岡小学校)の西に建立されています。
創建は不詳ですが、天慶2年(939)、平将門が常陸国府を攻めた時に焼失しましたが、将門鎮圧の最大の功労者である平貞盛が再建されたといわれています。平貞盛は父高望王の子国香が将門に殺されたことで京から常陸国(茨城県)に戻り天慶3年(940)に下野国(栃木県)の豪族藤原秀郷を味方につけ 将門を滅ぼしました。平家黄金期へつながる伊勢平氏の祖、平維衡の父です。  
春林山平福寺   石岡市国府
石岡市国府の6号国道そばにある春林山平福寺は、平安時代中期の武将で常陸平氏や伊勢平氏の祖といわれる平国香(くにか)により約1000年前に建立された。
如意輪観世音菩薩を本尊とし、かつては真言律宗だったが常陸大掾氏滅亡後は曹洞宗(禅宗)として今日まで続いている。
「国香は平家一族の基盤を固めた努力の人。平福寺という名には家族や次世代の幸せや福を願う気持ちが込められています」と曽根田宏道住職。
国香は桓武天皇のひ孫・平高望(たかもち)の長男で将門の叔父にあたる。筑波山西麓の旧真壁郡東石田(現筑西市)を本拠地とし、常陸国国府の官職「大掾」を受け継いだ。
長男・貞盛は鎮守府将軍となり、貞盛の4男・維衡は伊勢国に地盤を築いた伊勢平氏の祖、その後は正度、正衡、正盛、後の平氏政権を支えた武力と財力を誇った忠盛、そしてその長男・清盛が武士で初めて太政大臣となって政治の実権を握り、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる最盛期を迎えた。
一方、常陸大掾は国香の次男・繁盛が継承し、勢力を強めた詮国(あきくに)が築城した府中城を拠点に平氏一族による中世の常陸国(現石岡市)支配が約700年間続き、佐竹義宣の侵略で1590年(天正18)に滅亡した。
平福寺は常陸大掾氏の菩提寺として知られ、大掾氏代々が眠る「常陸大掾氏墓所」(市指定史跡)には五つの石を積み重ねた五輪塔14基が林立し、本堂前には高さ3.2mの巨大な「常陸大掾氏碑」がある。 
茨木童子   石岡市
石岡市村上染谷村 
龍神山には、茨城童子が住んでいた。童子は夜、里に出て人をさらって巾着に入れ、それを食べていた。しかし西国から征伐しにやって来る者があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので鬼越山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していった。(『茨城の民俗』31号 1992年)
石岡市 
酒呑童子の眷属である茨木童子が現れた。鹿島の武甕槌命がこれを追い払った所が、いまの鬼越山である。(『茨城の民俗』11号 1972年)
石岡市
茨城童子という鬼が居て、里の人をさらっていった。人々は不安だったが西から強い鬼が退治してくれるという噂が立った。これを聞いた童子は逃げ去っていった。その時山を飛び越えて行ったという。(『茨城の民俗』6号 1967年)  
茨木童子伝承
新潟県
新潟県栃尾市 引:「弥三郎婆」(谷川 健一)、『栃尾市史・史料集民俗編』他
栃尾市軽井沢地区は、全55戸のうち茨木性を名乗る家が34戸に上る。現在の茨木清水と呼ばれる所で酒呑童子と茨木童子が相撲を取った、茨木童子がこの村を切り開いたといわれる。その子孫の家がある。また茨木性の家では萱葺きであれば破風を作るとその家では不良が出るので作ってはいけないという。
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
新潟県栃尾市 引:谷川健一「弥三郎婆」、『栃尾市史・史料集民俗編』他
栃尾市一之貝地区では、節分にちなむ言い伝えで、「この日渡辺性は酒呑童子の腕を取ったので鬼は怖くない。茨木性は茨木童子の子孫なのでこの両性は豆まきをしなくても良い」というのがある。
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
新潟県中頚城郡吉川町
尾神の鎮守様の横の岩屋には、昔、茨城童子が住んでいた。茨城童子の足跡と、33体の仏様が残っている。
(「新潟県中頚城郡吉川町源」『民俗採訪』昭和31年度号 國學院大學民俗学研究会 1957年)
茨城県
茨城県石岡市村上染谷村 
龍神山には、茨城童子が住んでいた。童子は夜、里に出て人をさらって巾着に入れ、それを食べていた。しかし西国から征伐しにやって来る者があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので鬼越山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していった。
(嶋田尚「茨城の石に関する一考察」『茨城の民俗』31号 茨城民俗学の会 1992年)
茨城県石岡市 
酒呑童子の眷属である茨木童子が現れた。鹿島の武甕槌命がこれを追い払った所が、いまの鬼越山である。
(今泉義文「史蹟と伝説が描く竜神山周辺」『茨城の民俗』11号 1972年)
茨城県石岡市
茨城童子という鬼が居て、里の人をさらっていった。人々は不安だったが西から強い鬼が退治してくれるという噂が立った。これを聞いた童子は逃げ去っていった。その時山を飛び越えて行ったという。
(今井義文「石岡市地方」『茨城の民俗』6号 茨城民俗学の会 1967年)
京都府
京都府福知山市 
山に茨木童子が住んでいた。その洞窟もある。酒呑童子の出城だったという。茨木童子は平将門の子であったとも伝えられている。
(宮本正章「「大江山伝説」成立考」『近畿民俗』48号 近畿民俗学会 1969年)
大阪府
大阪府茨木市茨木町 話:古老
床屋が拾った子は牙や角をもつ異貌であったが、利発で心優しく皆に愛されていた。ところが、ふとしたことから人の血を欲するようになる。自分の鬼たる形相に気付いた後は家を出て森に棲み、人を捕らえては血肉を食うようになり、後世に茨木童子と呼ばれた。
(日垣明貫「茨木町に残る伝説「茨木童子」の遺蹟」『郷土研究上方』上方郷土研究会 3巻29号 1933年)
大阪府茨木市 引:『摂津名所図会』、『摂陽研説』
大阪府茨木町には茨木童子が育ったとされる家の後が残っているが、それによると、茨木童子は川邊郡留松村の土民の子であったが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって強盛であること成人以上であったので、一族はこれを怖れて島下群茨木村の辺りに捨てたのだという。この子は酒天童子に拾われて養育され、その賊徒となって大江山の巌窟を守り、巌窟のあった地名を以って茨木童子と号したのだ。
(日垣明貫「茨木町に残る伝説「茨木童子」の遺蹟」『郷土研究上方』上方郷土研究会 3巻29号 1933年)
大阪府茨木市 
ある髪結商の夫婦は榎の木の下に捨てられている赤ん坊を拾った。眼光鋭く牙が2本もある人間離れした異形の赤ん坊であったが、夫婦は慈しみ育てた。ところがちょっとしたことからおかしな噂が広まり、童子は家を出た。これが後の茨木童子だという。
(澱江畔人 「上方伝説行脚(三)」『郷土研究上方』上方郷土研究会 1巻5号 1931年)
大阪府茨木市新庄町
大阪府三島郡茨木町新庄町に、羅生門の鬼、茨木童子出生伝説がある。
(山田隆夫「破風を開けぬ家」『旅と伝説』10巻5号 三元社 1937年)
兵庫県
『實録傅記』
丹波国大江山に酒呑童子という鬼がいた。その由来。国上村に佐渡隼人という人がいた。子供がないので戸隠山に請願し、男子が生まれたので外道丸と名づけた。7才から国上寺にはいったが、17歳には美人だったので婦人にもてて、国上の山中へ入り酒を飲んでいた。人々は酒呑童子といった。外道丸は信州戸隠山へ飛び入り、里人を貪り食ったが、村人が戸隠大権現に祈念し大江山に飛び去った。召使の中に茨木もいた。茨木は邪心でついに鬼となりその家の破風より飛び出し、14、5年前から大江山に住んでいた。酒呑童子と茨木は争い、酒呑童子が勝った
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
記載なし
※地名記載はないが、内容的には京都の事と思われる。
『實録傅記』
正暦3年3月26日に大江山に登る。鉄門があり、酒田公時が打ち破る。都から持参した銘酒を鬼に飲ませる。酒呑童子は肴に人間の腕を取り出す。酒呑鬼は17、8歳に見える美男であった。酔って奥の一間に入り、正体を顕して寝入る。丈は9尺8寸もある。各々声をかけ目を覚まし、一言王の怨みと言い首を打った。その頭は天に飛び上り、頼光の頭に食いつく。渡辺綱は茨羅鬼の部屋に入る。茨羅鬼は綱の姿になる。大勢押しかけたがどちらが本物かわからない。頼光が都の綱には額に痣があるといい、急に眉間の上に痣の出たほうを退治した。外の鬼も撫で
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)
『實録傅記』
都王城西の方、羅聖門で渡辺綱が茨羅鬼と出会い、茨羅鬼の左腕を切り取った。茨羅木はどこかに飛び去った。都に腕を送ったが、その腕は7日7夜の間5指が開閉したという。
(徳田和夫「越後の酒呑童子」『伝承文学研究』51号 伝承文学研究会 2001年)

羅城門に住みつく。茨木童子についての話あり。
(百井塘雨 「笈埃随筆」『日本随筆大成第2期』12巻 吉川弘文館1974年) 
竜神山の鬼(茨城童子)   石岡市
竜神山は昔からこの地方の信仰を集めてきた。八郷地区と石岡市内の境にあり、山の向こうとこちら側では長い間気候も異なって、それぞれ別々の気候に変化をあたえてきた。昔は頂上が1つの山であったが、民間の採石業者に売却され、すっかりその姿が変ってきてしまった。今ではかえって竜神の名の通り、石岡の市内の方からみると右が頭で左が胴体である竜の形に見える。頭の側の杉の木が竜のヒゲのようにも見える。しかし、これも近年は首の部分(元の山の頂のあった付近)の採石が進み、2つの山と思えるような姿に変ってきてしまった。山の前後の気候の変化を感じさせないくらいに風も通過してしまい天の恵みの雨などにも影響が出ているようである。川から流れ出る川である山王川も柏原公園の池に注がれ、石岡駅横を通って霞ヶ浦に注いでいるが、昔のようなきれいな川は望めなくなってしまったのであろうか。信仰を深めてきた山であり、昔のままの姿を残して欲しいものである。
この竜神山には、大昔から竜神の夫婦が住んでおり、竜神様のおかげでふもとの井戸も枯れることがなく、旱天(日照り)が続くと、人々は雨乞いの祈りを竜神にささげ、腰にさげた竹筒に井戸の水を汲み、休まず村へ帰ったという。もし途中で休むと、休んだ所に雨が降ってしまうと信じられてきた。
この竜神山には、竜神夫婦以外に「茨城童子」という鬼が住んでいた。童子は、丹波の大江山の酒呑童子の兄弟分と言われ、さらった人間を入れる大きな巾着袋をさげ、石の根締めで紐をくくり、夜ごと里人をさらっては食べたという。このため、人々は童子を恐れ、子供などは「茨城童子」と聞いただけで泣きやむほどであった。
また、そのとき、童子が腰に下げていた巾着袋の根締め石も、邪魔になって投げ出してしまった。それがはるか茨城の万福寺の西に落ち、畑の中にめり込んでしまった。これが茨城に残る巾着石である。
他にも、西国から征伐しにやって来る者(強い者)があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので三角山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していったとの話もある。この名から三角山は「鬼越山」と呼ばれるようになった。

どこにも、鬼がふもとの人をさらっていく話が多く残っているが、この茨城童子については、大阪の茨木に茨木童子の話が伝わっていて興味深い。こちらの話は有名で、酒呑童子の家来であり、京都の羅生門で 渡辺綱 わたなべのつな に片腕を切り取られ、のちに綱の伯母に化けてその片腕を奪い返したという話は歌舞伎の演目にもあり有名である。また、童子の出生地は摂津の国水尾村(茨木近く)説、尼崎の富松説もあるが、越後(新潟県)の栃尾(長岡)という話もあり、栃尾の軽井沢に茨木童子を祭る祠がある。新潟でもこの話は伝わっていて、私も昔、新潟の長岡で祖母に良く聞かされた。酒呑童子についても越後出生説と伊吹山出生説とがある。  
岡田稲荷神社(おかだいなりじんじゃ)   石岡市貝地
祭神 宇賀御魂神
国道6号線の貝地交差点から南の丘陵地に建立されています。 この地は石岡城(外城)跡で神社の前に案内看板があります。
「建保2年(1214)常陸大掾(ひたちだいじょう)を継承して、常陸国衛において政務をとっていた大掾資幹(すけもと)は 鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、この地に居館をかまえた。これが石岡城の起こりといわれる。 その後、大掾氏の拠点として城郭が整備され「税務文書(さいしょもんじょ)」には、南北朝動乱期の 大掾高幹(たかもと)の居城として「府中石岡城」の名前が書かれている。
高幹の子詮国(あきくに)の代には、大掾氏は常陸国衛を拡張して府中城(現在の石岡小学校内)を築き 本城をそこに移したため、石岡城は「外城」と呼ばれたという。近世後期に書かれた地誌類には、大掾氏が府中城に移ったあとの「外城」の城主として 石岡某・札掛兵部之助・田島大学などの名前があり、天正18年(1590)の大掾氏滅亡とともに 外城も廃城となっている。現在は、かっての城主であった札掛氏を祀る札掛神社と堀・土塁の一部を残すのみである。」
札掛神社は天正18年に佐竹氏によって滅んだ大掾浄幹を弔い建てられたものです。稲荷神社はもとは外城の鬼門除として祭られ、館宮稲荷大明神ともいわれ、天保6年(1835)に岡田稲荷神社と改められ 城主札掛氏の一類である岡田家が祠守(しもり)をしています。  
正上内権現神社(しょうじょううちごんげん)   石岡市正上内
正上内
正上内という名前が出てくるのは平将門が1000名位の兵で3000人もいた国府の兵をやっつけ、常陸国府を奪い取った事件の時である。もう1000年以上も前の大事件です。
将門が事件を起こすきっかけにもなった「藤原玄明(はるあき)」「藤原玄茂(ふじわらはるもち)」たちの一族の住んでいたのではないかと言われるこの正上内にある「権現神社」を見てみたかったのである。
将門記でも大悪人のように書かれている藤原玄明とはどんな人物だったのか。
正上内は石岡から笠間へ向かう旧355線、笠間街道(笠間では江戸街道とよぶ)を石岡から県道7号線の下をくぐるところから先にある。
権現神社は県営アパートの少し先の355号線が坂を下った所から左に少し入ったところにありました。訪れる人はほとんどいないらしく、手入れはされていましたが、足跡はなく、私が歩いた跡だけが残りました。神社もそれほど大きくは無く、各地の部落に残されたというような普通の神社です。
前に書いた佐竹義政の首塚のある大矢橋は目と鼻の先です。
正上内の名前の由来は常陸少掾(しょうじょう)が住んでいたところという意味でついた地名だと言われています。常陸の国衙(現石岡小学校の敷地)には常陸大掾(だいじょう)が住んでいました。
掾(じょう)というのは役職で介の下の位ですが、段々と年代が進むと、常陸介は都にいてやってこなくなりますから、実質上の県知事のようなトップの役職になっていきます。そして世襲のようになり名前まで「大掾氏」と呼ばれるようになっていったのです。
将門が常陸国衙を奪ったとき、ここ常陸国衙にはたくさんの絹が保管されていたといいます。当時は大変貴重であった絹布が1万5千もあったと伝えられています。 
不動院   石岡市若宮
寺号は明王山虚空蔵寺不動院。宗派は真言宗、本尊は不動明王(行基の作と伝えられる)である。
寺宝には15世紀、了伝が徳川家康の他界の諷経に参加して下賜された「妙法蓮華経」八巻や常陸府中の山口次郎衛門の寄進した後光明天皇の書簡である宸翰がある。
また、密教独自の法具のひとつで、県指定文化財の宝塔鈴や、市指定文化財の木造不動明王及び二童子立像、木造阿弥陀如来坐像もある。 
加波山神社(かばさんじんじゃ)   石岡市大塚 加波山山頂
筑波山などとともに連峰を形成する加波山に対する加波山信仰に基づく神社だった。旧社格は郷社。加波山山頂からやや北に隔たった尾根筋に本殿が鎮座し、更にその北方に拝殿がある。また東西の両山麓にそれぞれ遥拝殿としての里宮がある。鎮座地には近接して加波山本宮と親宮も鎮座、この両宮を併せて加波山権現と総称され、両宮に対して中宮(ちゅうぐう)(加波山神社中宮・加波山中宮)を称し、一に中天宮(ちゅうてんぐう)とも称す。
祭神 国常立尊 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
明治初年(19世紀後葉)までは文殊院(もんじゅいん)という宮寺一体の真言宗寺院で、加波山東麓の石岡市北東周辺に旧来の信仰圏を有する常陸国有数の修験道の霊場でもあった。
社伝に、景行天皇の時代に日本武尊が現在の東北地方を平定するに際して加波山に登拝、神託により天御中主神、日の神、月の神の3神を祀り、社殿を建てたのが創祀で、延暦20年(800年)には征夷大将軍、坂上田村麻呂も東北地方平定に際して当神社へ戦勝を祈願し、大同元年(806年)に社殿を寄進したといい、当地へ訪れた弘法大師によって「加波山大権現」と号されたとも、仁寿2年(852年)乃至は3年の創祀であるともいう。また、加波山権現は貞観17年(876年)に従五位下を授けられた国史見在社の常陸国三枝祇神に比定されているが、「三枝神社」と識された棟札が残されている事から、3宮中の特に当神社がそれであるとする説もある。
加波山権現は現在、当神社と本宮、親宮の3神社に分かれ、遅くとも近世にはこの形態であったが、社説に依ればこれは和歌山県熊野三山の祭神が勧請されて本宮・親宮の2宮が新たに創建されたためであるという。また、一山支配ではなく三山鼎立の現象が現れたのは或いは加波山が筑波山の枝峰である事から筑波山神社の下でその地位も低く、独自の信仰を展開するまでに至らなかったためと見られ、事実信仰内容も略共通するのであるが、とまれ近世以降は文殊院を別当とする宮寺一体の形態を採り、大塚村(現石岡市大塚)に祀られていた神社仏閣の殆どの別当職を兼帯するとともに同村の滅罪寺(葬儀を行う寺)として宗教的中心ともされ、併せて古くから加波山を修行場とした修験者(山伏)を宮に所属させて呪術や加持祈祷を行う「山先達(やませんだつ)」として組織化していた。また幕府から朱印地5石を与えられていたが、文化頃(19世紀初め)に本社再建のための講が結成されており、これは維持経営のための財源確保を目的とするものと思われるが、この頃を契機として山先達の宗教行為を媒介として周辺部落に神輿を巡幸させたり(現おみこし渡御祭の起源)、寛政(18世紀末)頃迄に山中の修行霊場を「禅定場(ぜんじょうば)」として整備するとともに登拝を促す組織として禅定講(ぜんじょうこう)を結成させたりする等の積極的な布教活動を展開し、それが地方的にせよ嵐除や殖産といった広範な信仰を獲得する要因となったと思われる。
明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると一旦神社となったが、これを廻って訴訟が起こったため、翌2年5月に改めて取極めを行って神社と寺院(現文殊院)を分離し、同6年(1873年)に郷社列格、社名を「加波山神社」とし、同11年(1878年)に参拝者の便宜を図って東麓の大塚村(現・石岡市大塚)に拝殿を建立(八郷拝殿)。平成16年(2004年)には西麓の真壁町(現・桜川市)に箱根大天狗山神社の資金提供で新たな里宮(真壁拝殿)を建立した。  
■土浦市
宍塚般若寺と結界石   土浦市宍塚
宍塚般若寺
土浦市宍塚の竜王山般若寺は、桜川下涜の南岸、宍塚丘陵北麓の標高五m程の微高地上に立地する。現在真言宗豊山派であるが、鐘楼に残る鎌倉時代梵鐘の銘文や二基の結界石などより、常陸における西大寺流真言律宗の拠点であったことが判明している。
境内釈迦堂には木造釈迦如来像が安置され、その制作年代は鎌倉末期〜南北朝期と推定されている。
土浦市教育委員会によって昭和61年に確認調査が行われ、中世の溝・土壌、中世瓦を含む瓦溜、削平された古墳の周溝と埴輪などが検出された。中世の遺物では「寺五重塔瓦也」の裏文字を型押しした平瓦や巴紋軒丸瓦・数種の軒平瓦、内耳土鍋、瓦質壷、かわらけなどの概要が報告されている。このほかの出土品をみると、貿易陶磁器では青白磁梅瓶・竜泉窯青磁鏑達弁文碗・砧青磁花生・香炉、褐粕四耳壷、天目茶碗、鉄粕茶人、国産陶器では瀬戸鉄粕牡丹文瓶子灰粕水滴・四耳壷・瓶子、常滑摺鉢・婆・壷、美濃瀬戸(灰粕卸皿・盤・鉢・平碗・香炉・仏華瓶・瓶子、天目茶碗)在地土器では内耳鍋・かわらけ・灯明皿・壷・嚢・摺鉢、火鉢、金属製品では若〜破片、溶解青銅塊などが出土している。一三世紀前半代の常滑甕も見られるが、陶磁器は一三世紀後半〜一四世紀前半と一五世紀前半のものを主体とし、室町期に退転したと推定される。同様な陶磁器組成は、大栄町大慈恩寺でもうかがえる。
忍性の行実を記す『性公大徳譜』には「寺院結界七十九」「殺生禁断六十三」とあり、『本朝高僧伝』にも「度者二七四十人、寺院結界七九箇所、伽藍修営八三所、仏塔建立二十区、大蔵経納所十四戒、架橋一八九所‥」と記す。筑波山南麓に残された「大界外相」右、「不殺生界」石には忍性止住期と重なるものが多く、字体もー致する点から忍性が主催した結界の標石と考えられている。建長五年(一二五三)の七月二九日にまず宍塚般若寺が結界され、ついで九月一一日に三村山極楽寺で殺生を禁断、さらに九月二九日に新治東城寺(釈迦院もしくは地蔵院)で結界したことが知られる。
ここでいう「結界」とは、神社仏閣などを俗界と画し聖域とすることをさすが、特に律宗や禅宗など戒律を重んじる宗派の寺院で一定の区画を限定し、その区域内で僧侶が住み説戒に勤めることをいう。
戒律仏教における僧侶の結界には大きく大界、戒場、小界の三種類があり、最も基本的な「大界」とは、範囲が大きく通常結界する伽藍の区域を示し、外相はその外側を表わしている。これは僧侶たちが一緒に住し一緒に布薩の儀式をなすために限った領域を示す。
布薩とは、半月ごとに僧侶が集って戒経を説き、半月間の自己の行為を懺悔し戒を守ることを誓いあう儀式で、「大界」内の僧侶全員が布薩への参加を義務付けられている。よって大界結界は律院化を契機に行なわれる (松尾 一九九二)。
なおインドでは布薩を十五日 (白月)と三十日 (黒月) に、日本では十四・十五日と二十九・三十日に行なった。般若寺・東城寺の「大界外相」石がともに二十九日と刻むのはそのためらしい(井坂 一九九一)。山城速成就院の結界儀礼の主催は、事実上の次期西大寺長老選出の意義を持っていたとの指摘があり、忍性が下向間もない常陸で頻に結界儀礼を行なったことは、東国における律宗教壇の指導者としての地位を示している。また布薩の実施は同心する僧侶たちの寺院への参集を促し、そこはしばしぼ教学の場となり、同学たちの絆は横の連帯をつくりだした。西大寺流の関東布教の初期に実施された寺院結界は、広範な人脈形成に大きな役割を果たしたと考えられる。
般若寺は遺品や発掘の所見からも寺容が整ったのは鎌倉前期以降と推定され、それは建長五年(一二五三)七月二十九日の大界結界以降のことであろう。
鐘楼にある古鐘は高さ約一〇〇p、径約六〇pで、古く『集古十種』に拓影が収録された。銘文によれば、建治元年 (一二七五)八月の制作で、大工は棟梁物部氏のもとで鎌倉大仏鋳造に参加した鋳物師丹治久友である。丹治氏は物部氏とともに鎌倉時代を代表する鋳物師で、北条政権下で公工的な位置に在った。丹治久友と併記された大工千門重延は地方鋳物師と推定され共同鋳造がうかがえる。有力鋳物師といえども、鋳物生産が定着していない地域で独自に梵鐘のような大型鋳物の出吹きを行なうのは、要員や材料の手配などが困難であり、地方の鋳物師集団の協力のもとに出吹きにあたったとみられる(五十川 一九九二)。鎌倉大仏の鋳造工が般若寺梵鐘の鋳造に参画しているのは、忍性が鎌倉大仏寺の別当に就任したことと関係するようである。
般若寺の東側に鎮守社として鹿島社を祀っており、忍性ら律僧の鹿島崇拝をうかがわせる(菊池 一九八六)。
般若寺五重塔と佐野子の河岸
般若寺では「般若寺五重塔瓦也」の裏文字を型押しした平瓦や、三村山系の軒平瓦が出土しており、鎌倉後期頃には瓦葺の五重塔があったと推定される。『性公大徳譜』弘安元年(一二七八)条には忍性が真壁椎尾山薬王院に宝塔を造営した記事があり、尼寺三村塔供養(一二八二?)とあわせ、桜川流域の律院では鎌倉時代後期に塔の建設が相次いでおり、これらは一連の動きと考えられる。しかし正応四年(一二九一)年に忍性・春海らが落慶供養した金沢称名寺塔でさえ三重塔にとどまり、造営のため広域な勧進も行われており、当時の檀越(だんおち・施主)が問題となる。宍塚の地は、中世には信太荘の荘域に含まれ、鎌倉末期には、叡尊に戒を授けられた北条政村の一族の所領であり、五重塔の造営は、北条氏の強力な後援の産物とも考えられる。
また内海に注ぐ河川と五重塔の整える律院という関係は、広島児福山市芦田川流域の旧西大寺末寺、草津常福寺(明王院)を髣髴とさせる。常福寺五重塔は貞和四年(一三四八)に民衆と弥勤菩薩との結縁を願い、沙門頼秀が一文勧進の小資を募って建立したもので、門前町である草戸千軒町とのかかわりが想定されている。また当地備後国長和荘の地頭は北条氏と関係の深い長井氏であった(志田原一九九一)。
では同じく川べりに五重塔が聾える般若寺の近くには、草戸千軒町のような町場はなかったのだろうか。
般若寺の1km弱東北、桜川支流の備前川の傍らに、佐野子共同墓地がある。墓地の中央の高まりに総高二六五Cmを測る佐野子五輪塔がそびえており、南北朝から室町時代頃のものと推定される。巨大な五輪塔を取り巻いて小型五輪塔・墓碑がびっしりと塚を覆い、「ザンマイ」と呼ばれている。周囲の石塔には室町朝に遡るものも含まれるが、多くは一六世紀以降のもので、まさに関西地方の惣墓の風景を思わせる。
般若寺境内にもよく似た形で二回りほど小さい五輪塔が移築されており、両者の関係が推定される。ここはいまでこそ水田の中となっているが、東方に鹿島社の両があることも含め宍塚から虫掛への渡しの途上にあたり、江戸期の佐野子河岸は隣の飯田河岸と並んで水運の要衝でもある。五輪塔は桜川の中世河岸に営まれた記念碑的な塔と思われる。隣接する徴高地上には、古墳〜平安時代の土器にまじって、中世陶磁器がみられ、一三世紀以降の瀬戸・常滑陶器の破片などが散布している。北側にも塚や中世石塔・近世石仏が残り、近世に瓦葺の堂があったと考えられる。付近に散布する中近世陶磁器には蔵骨器のほか、この「場」の消費生活にかかわるものが含まれているようだ。
更に東方の粕毛(かすげ)阿弥陀堂には南北朝頃の丈六阿弥陀如来立像や御正體がある。佐野子墓地・柏毛の堂は永禄八年(一五六五)開基になる佐野子満蔵寺が管理していたが、それ以前は般若寺によって管理された、「無縁」の空間だったのではないだろうか。
般若寺開基伝承の成立
竜王山般若寺は天暦元年(九四七)に平将門の次男将氏の娘安寿姫が開基したと伝える。
ところで般若寺と同様な開基伝承は、般若寺の北西約二・五kmに所在する松塚東福寺にも伝わる。東福寺は建長四年(一二五二) 三月忍性の開創と伝え伝忍性作の阿弥陀如来像を残し(『野沢血脈図』)、また一説では鎌倉極楽寺の乗海が建長年間中に開基したとも伝える。寺伝には疑問があるが、西大寺流の律寺で極楽寺末寺であった可能性が指摘されている。東福寺は南北朝末期の戦火で焼けて現在地に移ったと伝えるが、そこには以前から平将門の娘滝夜盛(叉)姫如蔵尼の念持仏延命地蔵尊を本尊とする東福尼寺があり(「聖徳太子御正作延命地蔵尊略縁起」)、境内の古墳を如蔵尼の墓と伝えていた。古墳は削平され消滅したが、現在も巨大な石室材と尼塚の字名が残されている。境内には一四世紀〜一六世紀頃の五輪塔が密集しており、如蔵尼墓とされる古墳を核に形成された三味と考えられる。
般若寺も、境内付近にはかつて龍王山という前方後円墳があった。寺が現在地に占地した契機は、これと無関係ではないようで、古墳を安寿姫の墳墓に仮託し、宗教的な核としていた可能性がある。
なお安寿姫・滝夜盛(叉)姫如蔵尼伝承は、もともと十二世紀に成立した 『今昔物語集』に将門の子孫として登場する如蔵尼の伝承を原形とする。
将門討伐後に奥州に過れた第三女は、恵日寺の傍に庵をたてて住んでいたが、病死して閣魔の庁に行く。しかし地蔵菩薩の弁護で蘇り、出家して如蔵と号した。以後一心に地蔵を念じ、人々から「地蔵尼君」と尊ばれて、歳八十を過ぎて端坐入滅したという。
平氏系図には如蔵尼を記すものもあるが、将門との関係は娘・姪など一定せず、実在は疑わしく、地蔵信仰などとからめて創造された人物と考えられる。
こうした伝承は民衆の素朴な歴史観に訴える点で、教化の先頭に立ち勧進を実行する説教師たちによっておおいに語られる価値を有していた。考古学的な所見からみて、これらの寺院の創建が古代に遡る可能性は乏しく、中世にこれらの寺院の造営に関与した律宗の勧進聖たちが、地元の古伝承を巧みに再編成したものと見るべきであろう。
般若寺の僧侶と造営活動
『西大寺光明真言結縁過去帳』は、西大寺有縁の僧侶が没して後、光明真言会に結縁した際に記名され、律僧の没年の目安が得られる好資料である。西大寺四代長老良澄(一三三一)と五代長老覚津(一三四〇)の間に「実道房 常陸般若寺」「如一房 同寺」「来園房同寺」と常陸般若寺の僧三名が続けて記載され、歴代長老であったと考えられる。
般若寺の建治元年(一二七五)銘梵鐘に見える「大勧進源海」は西大寺叡尊弟子の交名にみえる常陸国人の實道房源海で、般若寺の事実上の開山と推定されている。
源海は当時新治村東城寺にいた無住房通暁 (一二二六〜一三一二)の師で、忍性とともに常陸に下向したと推定される。無住の『雑談集』に「二十九歳、実道坊上人二止観閲之。」「常州二実道房ノ上人卜申シ天台ノ学生ノ止観ノ講ノ時、源海ガ止観講ジ侍ル」とあり、律天台兼学の僧であることがわかる。無住が止観の講義を聞いたのは忍性が般若寺を結界して間もない一二五五年頃のことで、結界後間もなく止観の講義を始めたらしい。般若寺は大界結界以後、布薩(ふさつとは、仏教において、僧伽(僧団)に所属する出家修行者(比丘・比丘尼)達が、月2回、新月と満月の日(15日・30日)に集まり、具足戒(波羅提木叉)の戒本を読み上げ、抵触していないか確認、反省・懺悔する儀式)に際して各地の僧衆が集合したのを利用し、さまざまな行事が行なわれたはずで、その一環として源海も止観を講じたものであろう。
また金沢文庫古文書3581に、「志々塚」(=般若寺)の止観と見えるのも、おそらく源海によって講じられたもので、「思いもかけていなかった用件がでてきて、三月ころ、志々塚にでかけることとなりました。止観があるとかで、宝光房は連れていこうと、近頃、おっしゃっておられましたが、御学問、御精進のこと、本当によろこばしいことです。ところで、『止観』の五巻がそちらにあります。ついでのおりにでも」とある。
この書簡は、称名寺長老の妙性房審海(一二二七〜三〇四)が 『大乗起信論科文』 の書写に用いた紙背文である。宝光(法光)房了禅は一二八二年までに没しており、審海が忍性の推挙で称名寺に入った文永四年(一二六七)から間もない頃の手紙と推定され、宍塚般若寺に有縁の僧から出されたものである。この僧は、審海が般若寺に出かける折には、補佐役の了禅も一緒につれてくるよう求めている。東国の律寺では天台学を修める人が多かったようだ (金沢文庫一九九四)。審海・了禅は下野薬師寺・三村山・般若寺・鹿島神宮二屏総半島を頻繁に往来しており、称名寺に近い六浦から船に乗れば、乗り換えなしで簡単に土浦までこれたらしい。
一三世紀後半の般若寺は関東各地から律僧を迎え止観を行なうだけの寺容を整えていたことは疑いない。五重塔の造営も建治元年(一二七五)の梵鐘の施入、弘安五年 (一二八二)と伝える釈迦像の造立と近い時期と思われる。こうした造営事業を推進した源海もまた、学僧にして大勧進という二面性をそなえる律僧であった。
境内の西方には源海の墓塔と推定される五輪塔が現存しており、高さ一九三p、水輪はやや偏平で臼形に近いタマネギ形で火輪は勾配ゆるやかで軒口は薄く、軒反りも緩い。台座には反花座・各面二窓の框座(かまちざ)を備え、格狭間(かくはざま)の茨(いばら)が省略され退化した型式を示している。
三村山五輪塔と同様、これも西大寺叡尊弟子の墓に採用された大型五輪塔のひとつで、本体高は五尺六寸で称名寺開山の審海の墓塔とほぼ同規模である。
源海に師事した無住は嘉禄二年(一二二六)生まれで、師の源海はそれより年上と考えられる。源海が 『過去帳』に結縁(けちえん・仏道に入る縁を結ぶこと。仏道に帰依(きえ)すること)した一三三〇〜四〇年頃に没したとすると、百歳余の年齢に達し不自然である。よって結線は回忌供養に伴うもので、五輪塔は回忌供養塔と推定される。
二世長老と推定される如一房智祥は叡尊の弟子で河内出身である。金沢文庫古文書宍〇四の氏名未詳書状は、前林戒光寺の圓勸房の死去(一二八五頃)直前頃の書簡で、仏典の貸与に関する記述の中で如一房の名も見える。「裏書律系譜」の第十三表によれば鎌倉覚園寺開山の道照房心慧(=智海、一三〇六没)−本理房智源−如一房智祥という「智」を通字とする血脈が記され、北京律學園寺に連なる僧であったと考えられる。
三世長老と推定される乗圓房道海は叡尊の弟子で大和出身と考えられる。金沢文庫古文書六皇は延慶二年(一三〇九)以前に出された和泉国守護安東助泰の書状で、乗円御房を推薦する内容がある。道海は永仁五年(一二九七)に武蔵安養寺で金剛界・胎蔵界の秘法を伝授されている。また嘉暦四年(一三二九)に弟子の光海に秘法の伝授を行っている。この文書の真には「康永元年(一三四二)卯月廿一日以此正本」と光海署名の書き込みがあり、このころ没したらしい。
また 『金沢文庫古文書』 には正安三(一三〇一)二廿四に宍塚般若寺で雲忠 (五一歳)に秘法を伝授したことを示す二通の文書がある。他の文書が示す法脈からみて雲忠は乗圓房道海の兄弟子にあたると考えられる。
律宗と結界石
中世の結界石の分布は全国的にも限られ、奈良盆地南西部と筑波山麓に集中する。現在でも寺の門前に「不許章酒入山門」と刻んだ碑がみられるが、これも結界石の一種である。「大界外相」石とは比丘の行動範囲(有場大界)を限定(結界)する標石で、大界結界は羯摩師(かつまし)・唱相師・答法師の三師が立ち会い唱相記を記しながら行われる(大森 一九七七)ことから、常陸下向時の忍性一行は少なくとも律義に通じた三人以上の西大寺僧で構成されていたと考えられ、蓮順房頼玄、隆信房定舜とともに実道房源海も候補となるだろう。
般若寺境内に筑波山雲母片岩製の二基の結界石があり、表面にはともに「大界外相」の刻銘がある。うち土浦市立博物館に移された一基は高さ一〇八p、中央の幅六〇p、厚さ一三pで、県の文化財に指定されており、裏面に「建長五年(一二五三)発丑七月二十九日」の日付がある。般若寺結界石二基は、すでに松平定信編『集古十種』に拓影が採録されているが、誤って大和般若寺のものとされていた。他の例から推して当初は四〜五基で構成されていたうちの二基と考えられ、他の結界石の発見が期待される。
新治東城寺は徳一の伝承があり、最澄高弟の最仙の開基を伝える。創建当初は経塚群のある堂平に薬師堂があったと伝え、本堂内に秘仏として祀られる十一世紀中頃の薬師三尊はその旧本尊らしい(茨城県 一九八一)。忍性常陸下向の頃、この寺で修業中であった無住通暁の『沙石集』『雑談集』には、東城寺に関する記事がいくつかある。結界石は本堂境内より西方の山裾が本来の所在地である。「大界外相」石は字名を残す釈迦院周辺に四基現存するほか、東城寺境内に移築された一基に「建長五年突丑九月二十九日」銘があり、字体の類似から忍性による結界に伴うものと推定される。これらの結界石は、最も大型で紀年銘のあるものが領域の入り口に立てられ、他はそれぞれ四隅を画していたと推定されている(高井 一九七六)。付近の斜面には中小五輪塔の群在がみられ、地蔵院と通称する点からも東城寺の墓寺としての役割も考えられる。
竹林寺は、奈良盆地の西方、生駒山麓の小高い丘の上にある寺院で、行基菩薩の墓廟として名高い。天福二年 (二三四) 六月二十四日に竹林寺僧恵恩によって行基の遺骨が発掘されたが、若き日の忍性もその場に立ち会ったと推定される。行基舎利の発見は南都仏教界に大きな衝撃を与え、行基が大仏勧進に協力した関係から東大寺では円照らによって度々行基菩薩舎利供養が行われた。円照は一時竹林寺に住み、寂滅が再興した寺観を整備し、凝然も再三竹林寺に身を寄せ、『竹林寺略録』一巻を撰述した。
生駒市郷土資料館には「大界外相」「大界南西角標」「大界東南角標」 の三基が展示され、竹林寺旧城東北隅には 「大界東北角標」石が現存する。本来寺域の四隅と山門の計五カ所に結界標識があったと推定され、これらの発見位置からみて、結界は行基墓を中心として厳密に設定されていたことがわかる。山門付近でみつかったものは、正面に「大界外相」「勧進沙門人西」背面に「生駒之霊峯十方如来圃化道場也 圏俄国之囲囲可致一礼菟域之懐 □□之徳篤示一等□□□建支提□」とあり、「建支提」とは行基墓上の宝塔をさし、往来する男女に行基墓への敬礼を求めている。
結界石を造立した入西の名は嘉元二年(一言四)銘の無量寺五輪塔地輪にみえ、有里輿融寺の行基顕彰碑も彼の造立と推定されているが、嘉元三年(一三〇五)の『竹林寺略録』 にもその名が記されている。この『竹林寺略録』には「結作大界、定四方標畔、鮎約浄地為市洞庫宇」とあることから、忍性没後の嘉元三年 (三宝)頃の結界石と考えられる。この時結界を行なったのは唐招提寺出身で室生寺の中興開山である律僧の空智房忍空である(伊藤一九九四、生駒市教育委員会一九空ハ)
室生寺では花崗岩製で項部山形・二段切り込みで「大界外相」とバン種子を刻む大界外相碑と、切り込みのない「大界東北…」石など計四基の存在が判明し、本来山門と四隅の五基と推定される (仲  一九九五)。
寺の創建は宝亀八年(七七七)に遡り、鑑真に戒をうけた興福寺僧賢景の開山で、二世修円は徳一の師とする伝承もある。文永九年(三七二) 以降頃に空智房忍空が中興開山となり、乾元二年(一三〇三)・文保元年(三三)に伝法灌項を行うなど復興しており、竹林寺結界石との類似からも、室生寺結界石は忍空の遺品とみられる(伊藤 一九九四)。室生寺五輪塔も、西大寺様式の形態と内容を示し忍空の墓塔と見るのが妥当であろう。
室生寺周辺の十輪寺・無山山寺・小倉観音寺にも結界石の存在が知られる。
以上奈良県下の結界石は、いずれも筑波山麓のものより新しいが、竹林寺では行基墓の荘厳、室生寺でも戒律道場という性格がうかがえた。なお大阪府南河内郡太子町叡福寺の聖徳太子墓では、古墳の墳丘の裾をめぐり、外向きに密接して並んだ鎌倉期(文永〜弘安頃)の板碑列が環状にとりまき、更にその下段にも近世の板碑列がめぐり二段の垣をなしている。これは聖徳太子を如意輪観音の化身とする信仰に基づき営まれた結界石の一種とされ(田岡 一九七〇)、古墳そのものを結界しており、竹林寺行基墓を囲む結界石と同様な意味を持つものであろう。称名寺結界図の分析では、結界内には墓塔・骨堂を設けないことが指摘されていたが(桧尾 一九九二)、古代の聖人や祖師の墓はこの限りではなく、むしろ中核に位置している (伊藤 一九九四、生駒市教育委員会一九九大)。
東国に数多くある律宗寺院の中でも、中世の結界石が見られるのは筑波山麓に限られる。関西地方の中世結界石が、古代仏教の祖師・聖人と密接に関わっていることからすると、筑波山麓についても、持戒僧徳一ゆかりの地であることと無縁ではあるまい。 
土浦城   土浦市
常陸国新治郡(現:茨城県土浦市)にあった日本の城。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。
平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429年から1441年)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。戦国時代に入り永正13年(1516年)、若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時、信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城を奪回するが永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐したが、天正13年(1583年)、ついに小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は後北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。
関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封した。その後松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封した。以後、城主は西尾家・朽木家と代わり、寛文9年(1669年)、土屋数直が4万5千石で入封した。土屋家は、天和2年(1682年)、子の政直のとき天和2年(1682年)駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び6万5千石で入封した。その後、3度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋家が11代、約200年間世襲して明治維新に至った。
歴史
室町時代以前
平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かではない。
室町時代から安土桃山時代
文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429年から1441年)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉三郎が築いたのが初めてである。 永正13年(1516年)に小田氏の部将・菅谷勝貞が若泉五郎右衛門を滅ぼし、その家臣(菅谷某または信太範貞)が城に入った。後、菅谷氏が勝貞、政貞、範政の三代にわたって土浦城を守った。戦国時代に佐竹氏が勢力を広げると、佐竹によって本拠の小田城を追われた小田守治が入城した。
戦国時代が終わると、土浦は結城城の結城秀康のものになり、小田氏はその家臣になった。代わって多賀谷村広が城代を務める。慶長6年(1601年)に秀康が越前国に転封になると、藤井松平氏の松平信一が土浦城に入った。信一と子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。
昭和61年(1986年)の発掘調査で、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明した。対応する文献が発見されていないので時期や原因を知ることは今のところできない。
江戸時代
元和3年(1617年)に松平信吉が上野国の高崎に転じると、土浦には西尾忠永が入った。忠永の子忠照は元和6年(1620年)から7年かけて西櫓と東櫓を作らせ、元和8年(1622年)には本丸の正門を櫓門に改めた。これにより本丸は水堀と柵つきの土塁、三つの櫓で守られるようになった。
慶安2年(1649年)に西尾忠照は駿河国の田中に移った。かわって朽木稙綱が城主となり、明暦2年(1656年)に櫓門を現在ある形の太鼓櫓門に改築した。万治元年(1658年)に、英庫と焔硝倉を建造した。万治元年、搦め手門、外記門を瓦葺きにした。朽木種昌の代に、土塁上の塀をすべて瓦葺に改めた。
寛文9年(1669年)に土屋数直が入った。土屋家は元来武田家の家臣で、武田家の滅亡後家康に仕え、数直の代に大名になった。後述の松平信興の時代を除いて、これ以後江戸時代を通じて土浦城の主は土屋家であった。延宝6年(1678年)に二の丸に米倉が建てられた。
松平信興時代の貞享2年(1684年)には大改修が実施され、松平家臣・山本菅助(4代、晴方)が奉行を務めた。菅助晴方は戦国期の甲斐武田家の家臣山本菅助(勘助)の子孫で、大手口・搦手口は武田流の築城術により普請している。
天和2年(1682年)から貞享4年(1687年)までは、松平信興が城主であった。信興は貞享2年(1685年)に兵庫口と不破口を作り、門を建てた。また、本丸の霞門を改築し、翌年にかけて水戸口の虎口を改良して二重丸馬出虎口とした。
近現代
廃藩置県の2年後、1873年(明治6年)1月に、太政官符令第84号で土浦城は廃止された。本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われた。本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊された。二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
1884年(明治17年)に火災で本丸御殿が失われた。このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去された。11月に郡役所の建物が御殿跡に建てられた。1899年(明治32年)に本丸と二の丸南側が亀城公園になった。
1949年(昭和24年)、キティ台風の被害を受けた西櫓は、1950年(昭和25年)、復元するという条件つきで解体された。解体時の復元予定は長く実現しなかったが、1992年(平成4年)に保管されていた部材を用いて復元された。
1998年(平成10年)には東櫓が土浦市立博物館の付属展示館として復元された。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響を受け、太鼓櫓門、東櫓、西櫓とすべての建造物が破損した。とくに東櫓、西櫓は白壁の欠落など大きく破損し、東櫓展示館も閉館を余儀なくされた。
2012年(平成24年)6月22日までに、櫓門、東櫓、西櫓、土塀などの修復工事が終了。同30日から順次、一般公開が再開された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(113番)に選定された。  
虫掛神社   土浦市虫掛町
創立年代不詳。言い伝えによれば、天慶の乱の折、平兼盛敗走してこの社の薮にかくれて危難を免れたという。旧記に宝暦6年再建とある。明治15年4月村社に列格。大正元年12月、字内稲荷神社、同境内社を合併して、鵜宮を現社名に改称した。大正2年3月27日(第164号)供進指定。昭和27年8月15日宗教法人設立。安産の神として崇敬され、鏡餅を奉納して祈願する。
兼盛は平良兼、平繁盛(平国香の二男)ではないかと考えられている。
ご祭神 神武天皇の父で鵜萱草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)  
龍王山般若寺   土浦市宍塚町
真言宗豊山派
寺伝によれば、平安時代の天暦元年(974)平将門の次女安寿姫(如蔵尼)により尼寺として宍塚の台地に創建され、平安末期に現在地に移されたという。鎌倉時代には、北条執権の保護を受け、特に忍性菩薩が三村山に来住したため、律宗寺院として栄えたという。戦国時代になると戦火によって堂塔を失ったが、江戸時代に、地元出身の三島検校が江戸護国寺の観音堂を移築して寄進している。
銅鐘は、建治元年(1275)僧源海が大勧進となり、鎌倉大仏の鋳造にかかわった丹治久友、千門重延が鋳造したことが確かめられ 在銘古鐘として全国的に知られています。境内にはその他、建長5年(1253)の建立時期が刻まれた「結界石」や「石造五輪塔」「六地蔵石造灯篭」など多くの文化財があります。
結界石とは、寺院等の清浄な区域を標示するための標石で、特に戒律の厳しい律宗では、特定の行法に当たって必ず 区域を限定するために建立したものです。  
愛宕神社   土浦市下高津
江戸時代は愛宕権現と呼ばれていた。旧社格は村社。
旧水戸街道(現在の国道354号旧道)沿いにある神社で、桜川右岸の台地斜面に鎮座する。かつては霞ヶ浦を一望できる風光明媚な場所で、愛宕神社の御神燈が灯台の機能を果たしていたという。
参道は旧水戸街道がある東向きに面し、手すり付きの階段が付いているが、裏手の常福寺から直接入ることもできる。社殿のすぐ裏手まで駐車場や墓地が迫っている。愛宕神社の参拝者用駐車場は旧水戸街道の道向かいにあり、その隣には享保18年(1733年)建立の「下高津の道標」(土浦市指定史跡)がある。
江戸時代、下高津村の鎮守であるとともに、土浦城の表鬼門の守護とされた。桜川にかかる銭亀橋の先にある大町交差点の付近に、土浦城高津口(南門)が位置していた。
祭神 軻遇突知命 / 神体は軻遇突知命の本地仏の勝軍地蔵である。火伏せの神として信仰されている。神社整理等による合併の有無は不明である。
由緒
創建は天慶年間(938-947年)、平貞盛が戦勝祈願のために軻遇突知命の神霊を勧請したという。
戦国時代、土浦城主となった菅谷伊豫守勝貞が崇敬し、祭礼を行った。
江戸時代、寛文9年(1669年)に土屋数直が土浦城主になると、愛宕神社を表鬼門の守護とするために奉斎し、社殿等を改築したという。土屋数直の奉斎を延宝7年(1679年)とする資料がある。
元禄12年(1699年)に社殿が焼失し、文化8年(1811年)に現存の社殿を再建した。大棟には土屋氏の家紋である三ツ石紋が配されている。
明治15年(1882年)4月、村社に列格した。  
■稲敷市
逢善寺   稲敷市小野
新利根地区小野に建つ「逢善寺」は小野の観音様として古くから親しまれており、茨城景観百選の一つにも数えられ県の有形文化財にも指定されている江戸後期の代表的仏閣建築です。
逢善寺の歴史をひもとくと、今から千年以上むかしの平安時代の天長3年(828)、逢善道人が千手観音を本尊として寺院を創立。淳和天皇の勅願寺として発展しました。正徳3年(1713)には天台宗の関東八檀林の一つに定められ、僧侶養成のための学問所として栄えました。
その間、逢善寺は2度の火災に遭い、現在の本堂は天保13年(1842)に再建されたもの。昭和56年から7年かけての修復工事が行われ、銅板葺きの重厚なつくりに当時の繁栄ぶりを感じられます。また、本堂の天井には寺内出身の日本画家、松本楓湖による天女が華麗に舞う絵「飛天の図」を見ることが出来ます。
この他、境内には県指定の文化財として、仁王門、書院・庫裡、彫刻の木造金剛力士立像、工芸品の五鈷鈴と五鈷杵、経文の妙法蓮華経など沢山の文化財があります。 
浮島城   稲敷郡桜川村浮島
承平年中(931〜938)平将門の与党、武蔵権守興世王が館を築いて清遊したと伝えられる。しかし、その没後、天暦年中(956)物部信太連の裔、浮島太郎安広が修築して居城とし、後裔相次いだが、元亀、天正の頃(1570〜1590)その末裔漢島弾正が佐竹に滅ぼされ廃城になったと伝えられる。尚、その間に保元の乱に敗れた源義広(為義の3男)が20余年に亘り浮島に潜居した(1156〜1180)と史実に見えるので、浮島氏の庇護の下にあったのではないかとも思われる。義広は信太三郎先生と号し、鎌倉を討つべく挙兵したが頼朝に敗れ木曽義仲に投じたと云われている。

字岡の内の台地(標高20m)全体と言われているが、これといった確証はない。利根川図誌に「人見の塚」が城跡の一角にありと記せるも現認不能である。ただ、浮島内に人見氏が4家ある。また、昭和初期まで字仲郷の城跡寄りの地点に「鞍かけの松」という松の大木があったが枯死した。その辺りが馬出口ではないかと推定されるが、干拓造成のため土取り(切土)されたので現況からは不明である。現在台地上は畑地として耕作されており、何らの遺構も見られない。  
高田神社   稲敷市高田
高田岡にある高田神社は、承平年間(931〜937)に、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野大社の分霊を勧請し、平将門の乱の平定を祈願するために創建されたものと伝えられています。その時、13人の供僧もこの地に来住しています。祭神は伊邪奈岐命など8柱です。
南北朝の時代には、延元3年(1338)9月の北畠親房の神宮寺籠城の際、神官などが南朝方に味方し、神領が北朝方に没収されてしまいました。
享保18年(1733)に再建された社殿は、平成2年に焼失しましたが、平成9年に再建され現在に至っています。
約140mの参道の両側に立ち並ぶ杉の巨木は壮観です。その杉並木により光が遮られ昼でも薄暗い参道を抜けると、突然、荘厳な社殿が光のなかに現れます。厳粛な気分にさせられる瞬間です。
また、高田神社を含めたその周辺は、自然林と人工林が織りなす植生と、数種のアゲハ類が生息するその豊かな自然環境により、県の自然環境保全地域に指定されています。  
実穀古墳群   稲敷郡阿見町
当古墳群は、かつて実穀集落の西北の小字寺子付近に、7基の円墳から成っていましたが、平成7年に県教育財団により4基が発掘調査され、現在3基が残されています。1号墳は、直径23メートル、高さ3 .6 メートルで、墳頂(ふんちょう)に石塔台石が埋まっています。2号墳は、直径18 .5 メートル、高さ4 .5 メートルで、墳頂には天満宮がまつられており、また樹高20〜30 メートル、目通り4メートルの桜の大木が繁茂しています。3号墳は直径14 メートル、高さ2メートルでピラミッド型をなしています。
発掘調査された以外の円墳4基のうち、4号墳の主体部は墳頂部に設けられた粘土槨(ねんどかく)で二人の埋葬跡があり、副葬品として直刀5本、鉄族、刀子、ガラス玉等が出土し、古墳時代後期の豪族の生活をしのばせます。他に、古墳時代中期の6つの住居址、6号墳の墳丘裾部から五輪塔(十数基)が出土していて、全体として旧石器時代から中世までの複合遺跡と判定されました。
現在残る1号墳、2号墳のあたりは、平安時代の豪族平将門の伯父国香(くにか)の墓であるという伝説が残されています。
1号墳頂に埋もれた石塔台石(五輪塔の地輪か)といい、最近の発掘で出土した五輪塔群といい、この遺跡は、実穀の古代ばかりでなく、中世その他をも物語る貴重な遺跡です。  
阿彌神社(あみじんじゃ、阿弥神社)   稲敷郡阿見町竹来(旧信太郡竹来村)
明治初期までは旧信太郡の二の宮として「二の宮明神(二宮明神)」を称した。また、相殿二柱と合わせて、別説には室崎神社(阿見町大室)及び十握神社(阿見町廻戸)の2社と合わせて、「竹来三社」とも呼ばれていた。阿見町中郷にある同名の阿彌神社とともに、延喜式神名帳の常陸国信太郡二座の一社(小社)「阿彌神社」の論社(式内社)である。近代社格制度における社格は旧県社。
主祭神 健御雷之男命 / 配神 経津主命、天兒屋根命
神体は円鏡である。普都神話に由緒を求める来歴上、主祭神を普都大神とする説もある。
由緒
創建
創建の年代は不詳であるが、
『明治神社誌料』は「創立年代詳ならず、伝説に拠れば元明天皇和銅年間なりと云ふ」(708-715年)としている。
『茨城県神社写真帳』は「創立不詳」としている。
『新撰名勝地誌』は「蓋し和銅の頃なるべしといへり」としている。
境内にある「阿弥神社樹叢(竹来)」(阿見町教育委員会)の案内板では「推古天皇15年(607年)」としている。
常陸国風土記の記述
竹来(たかく)は、常陸国風土記の信太郡の条にある「高来里(高来の里)」の遺称地である。高来の里について語られる旧事(普都神話)の大略は、以下の通りである。
「天地の権輿(けんよ)、草木が言葉を語っていた時、普都大神という名の神が天から降臨した。大神は葦原の中つ国を巡り、山河の荒ぶる神(荒梗)を平定した。言向け(化道)を成し遂げた大神は、天に帰らんと思し召し、やがて(即時)、身にまとった器杖(いつのつえ)、甲、矛、楯、剣、玉珪をことごとく脱いで、この地に留め置き、即ち白雲に乗って、蒼天に還り昇った。以下之を略す。」
この記事によれば、高来は普都大神の登天の聖地である。明治神社誌料は「神代の霊地」と表現している。古語の「来(く)」には「行く」の意義があり、日本国邑志稿は「高来」を「高行」の意であるとしている(大日本地名辞書)。新編常陸国誌は「高天原より降来れる意より出でたるなり」としつつも、「但別に義あるべし」と注釈している。また、郡郷考に「按其村中楯ぬき山と云ふもあり」とあり、普都大神が楯を脱いだことに由来する地名ではないかとしている。この「楯脱山」は、社殿の裏手にある丘陵のこととされている。同じ地名は楯縫神社の社地にもある。
常陸国風土記には、普都神話にまつわる社の存在は示唆されていないが、「已下之略」により略された可能性もある。
竹来を「高来里」の遺称地とすることには、新編常陸国誌以来、現代に至るまで一般に異論はない。ただし、大日本地名辞書はこの通説を否定する独自説を立て、その関連で式内の阿彌神社を中郷阿彌神社に比定している。
普都大神
普都大神は、「ふつ」の音の類似性から、経津主(ふつぬし)神と同一神格とされることがある。
新編常陸国誌は「普都大神とは、経津主大神を申したるか、又は武甕槌命の神を申せしか、詳かならねど」と、二柱のいずれかであろうとした上で、「古事記に、健御雷之男神、亦健布都神、亦名豊布都神とありて、建御雷神を建布都神とも申したれば、普都大神はこの神の如くにも聞ゆ、然るに日本紀には、経津主神と武甕槌命と、各々別神にして、経津主は大将の如く、武甕槌は副将の如くにも見ゆれば、いづれの神とも定めては云がたし」としている。
標柱古風土記は「普都大神」の部分に経津主神の注をつけ、延喜式神名帳に記載がある信太郡二座は、ともに普都神話に基づいて祀られたものであろうとしている。
大日本地名辞書は「風土記に拠れば、高来神とは、普都大神、即香取大神の一名なり」としている。実際には、普都大神を香取大神の一名とする明らかな記述はないため、音の類似性に基づく推断と考えられる。
楯縫神社は、境内案内板で自社の祭神を「普都主大神」又は「普都主命」と表記している。
いずれの資料も、普都大神を祀る社という点は一致している。新編常陸国誌、神祇誌料及び稲敷郡郷土史は、単に「普都大神を祀る」とだけ記している。その素性については経津主神とも武甕槌神(健布都神)ともされており、音の類似性から離れて豊城入彦命とする別説もある。ただし、当社が古くから健御雷之男命を祀る鹿島社であったという傍証がいくつかある。
阿彌神社が楯縫神社から祭神の行幸を受ける古式祭を、楯縫神社においては「鹿島神事」と称していた。
土浦市中村西根にある応永2年(1395年)創祀の分社は、武甕槌命を祀る鹿島神社である。同社を含め、稲敷郡周辺には「二宮鹿島神社」を称する社がいくつか存在した。
阿見町掛馬に、大同年間(806-810年)の創建と伝えられる鹿島古女子(こなご)神社があり、鹿島御子神を祀っている。鹿島御子神は竹来阿彌神社の子孫とされ、当社がある西北西向きに祀られている。
「竹来三社」の括りにおいては、当社は武甕槌大神を祀る鹿島神宮に相当する位置づけだった。ただし、この点については、郡郷考に別の解釈も可能となる記述がある。
室崎神社の社伝では、貞観4年(864年)又は仁和3年(887年)、竹来阿彌神社の相殿三柱のうち、天兒屋根命を神託により大室に分祀したとしている。茨城県神社写真帳では、廻戸(はさまど)の十握神社への経津主神の分祀もまた、同時期に行われたものとしている。この神託による分祀を、普都信仰から鹿島信仰への変化とみることもできる。
竹来三社
郡郷考に「高来祠」の記述として「相殿三神にて竹来三社と称す」とあり、古くは三柱を祀ることから「竹来三社」の称があった。
新編常陸国誌及び明治神社誌料には、この称についての言及はない。
大日本地名辞書は「郡郷考云」として言及している。
茨城県神社写真帳には「其合祀する二神は貞観2年(或云仁和3年)各々人に憑(よ)り廻戸の邑及び大室の邑に祀らる。この二社と当社と合せて竹来の三社といふ」とある。
茨城県神社写真帳の記述は、「竹来三社」を高来祠の別称とする郡郷考の記述と異なり、大室社と廻戸社を合わせた三社の総称と解するものになっている。
郡郷考には「又一年村中雷といふ地の荒榛を開墾するとて宮居の趾の礎石厳存せるを見て其事を罷(やめ)たりと云ふ雷の名に拠は武甕槌天兒屋根の二神とも後に配祭せしにや」ともあり、村内の「雷」という荒蕪地に神社の礎石が発見されたことから、普都大神(経津主神)は当社に、健御雷之男命はその「雷」の地に、天兒屋根命はまた別の地に祀られていたのではないかとしている。高来祠のほかに2つの社があり、これを合祀して相殿三柱になったとすれば、「竹来三社」の別称もごく自然なものになる。
竹来三社の総称は、常陸国風土記の香島郡の条にある「香島之大神」(天之大神社、坂戸社、沼尾社)に類似した構図であり、少なくとも神託による分祀以後においては、当社は「天之大神社」(鹿島神宮)に相当する位置づけだった。当社と室崎神社を結ぶと、延長線上に廻戸城址の台地があり、十握神社(明治期に中郷阿彌神社に合併後、単立社として現存)に至る。この三社は、社殿の向きに至るまで整然とした配置になっている。「香島之大神」の認識は延喜式神名帳の頃には後退し、中世以降は東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)の括りが優勢になる。古来の「香島之大神」の三柱を(春日神としてではなく)鹿島神として祀る社は、茨城県内では竹来阿彌神社のほか、柏田神社(牛久市柏田町)、高浜神社(石岡市高浜)、樅山神社(鉾田市樅山)等にしか残っていない。
三村竹来社との関係
常陸總社文書の最古の記録にあたる治承3年5月(1179年)付けの「常陸国惣社造営注文案」(社殿等注文書)に、「竈殿一宇三間」の造営役として「三村竹来社」の名がある。三村とは、一般に上代筑波郡三村郷に比定されるつくば市小田付近の古称とされている。同じく常陸總社文書の文保2年5月4日(1318年)の小田貞宗請文に「筑波社三村郷分、全無造営之例候」とあり、「三村竹来社」の名は消えている。
最初の社殿等注文書に列記されている「筑波社、吉田社、佐都社、静都社、稲田社、大国玉社」は、管内分社ではなく本宮を指すため、「三村竹来社」は常陸国を代表する式内諸社に並称される大社の扱いとなっている。ただし、三村竹来社とは、本宮竹来社が別にあることを前提とした呼称であるから、この社だけは分社であったと考えられる。この大社については、今日後継社といえる社はなく、周辺に「たかく」に通じる地名もない。鎌倉時代の三村郷には三村山清冷院極楽寺という有力な寺院があったが、現在は痕跡もまばらにしか残っていない。この寺院群に「三村竹来社」が含まれていた可能性がある。
常陸總社文書は、少なくとも同時期には「竹来社」または「竹来神」という括りが存在したことを示している。これを「二の宮明神」よりも古い呼称として(阿彌神社ではなく)「竹来社」があったという事実を証する文献資料と捉えることもできる。
近世以後
近世においては、信太郡域で楯縫神社に次ぐ格式の社として「二の宮明神」を称し、信太郡西半の45ヶ村の総社となった。永和元年(1375年)の信太庄上条寺社供僧等言上状(円密院文書)には、既に「就中(なかんずく)、木原、竹来、両社者庄内第一之惣廟也」(標柱古風土記)とある。この2社は、普都神話の聖地として、延喜式神名帳の信太郡二座の比定社(式内社)として、信太郡における一宮二宮として、さらに近代社格制度における旧県社として、二社一対的ともいえる来歴を持っている。
元禄4年2月(1691年)本殿造立の棟札が現存している。三間社流造の本殿は、阿見町域では最古の建造物である。
宝暦6年(1756年)、後に神楽殿となる神宮寺が造立された。
江戸時代に中郷阿彌神社、立の腰熊野権現(後に中郷阿彌神社に合併)と式内の阿彌神社を巡って論争を行った。明治神社誌料は「当社明細帳を始め、二十八社考、神祇志料又は特選神名帳等の如きは当社を以て式の信太郡阿彌神社とす、然るに郡郷考、式社考等之れと見解を異にし、式社考、地名辞書の如き阿見村の阿見神社を以て式の阿彌神社とせり、由て記して後考を俟つ」としている。なお、竹来と阿見は、ともに和名類聚抄の高来郷と阿彌郷に由来する古い地名であり、かつ、明治の町村制においても竹来村(後に舟島村)と阿見村で分かれた程度には文化圏を異にする地域だった。
明治6年10月(1873年)、信太郡一宮の楯縫神社とともに近代社格制度において県社に列格し、竹来を中心とした8ヶ村の鎮守となった。また、この時に社名を阿彌神社に改称した。社名碑に「懸社延喜式内二宮阿彌神社」、鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に「縣社阿彌神社」とある。旧県社は茨城県内においては16社(内務大臣指定護国神社を含めると17社)しかなく、常陸国の式内小社としては信太郡二社のみが列格している。両社は他の地域の旧県社に比べると知名度は低く、観光地としての要素は絶無に近い。その来歴に相応しい重厚な樹叢及び社殿を擁しつつも、現代に至るまで静謐な空間を保存し続けている。
昭和52年(1977年)、樹叢が阿見町指定天然記念物となる。
昭和57年(1982年)、社地が茨城県指定緑地環境保全地域(20、阿弥)となる。
本殿の裏には巨木が立っている。樹叢に対し、裏手の竹林は荒れていることがある。社地は霞ヶ浦に向いた舌状台地にあり、社殿の周辺から伸びる小道はいずれも急速な下りになっている。社殿裏の奥部(字花ノ井)は中世の竹来館跡であり、西方に縄文中期の根田貝塚(竹来貝塚)、南方の竹来中学校一帯を含む地域には竹来遺跡がある。  
大須賀館   稲敷郡美浦村大須賀津 来迎院
言い伝えによると、平将門は文巻川の合戦で討死にする直前に、身ごもっていた妾の苅萱(さくら)姫を逃がし、姫は実父大須賀内記国友のもとへ逃れそこで男児を生み、その子は後に青野主殿守守胤を名ったという。その大須賀内記国友の在所が大須賀館であったようだ。美浦村大須賀津のその場所には現在来迎院(元亀2(1571)年建立の天台宗の寺)がある。 
西福寺   稲敷郡美浦村
延歴年間坂上田村麿が東征に際し安置していた護身仏が寛平の頃の洪水で流され、承平2年将門が小貝川でこれを拾い上げ西福寺に祀ったと伝わる。  
楯縫神社   稲敷郡美浦村信太
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)。同村内の同名の神社と区別して、通称は信太郡惣社楯縫神社、又は信太楯縫神社。場所は茨城県稲敷郡美浦村信太1830番地。
社伝によれば、第12代景行天皇の御代(71〜130年?)に創建、霊亀元年(715年)再建という。主祭神は経津主命。常陸国信太郡の式内社「楯縫神社」の論社とされるが、一般に、同じ美浦村郷中に鎮座する「(一宮)楯縫神社」(前項)が比定されており、式内社を紹介する本やウェブサイト等でも触れられていないことが殆ど。ただし、その鎮座する地名でもわかるように、この辺りが古代「信太郡」の中心部であったらしく、「信太郡家(郡衙)」の想定地でもあるとのこと。よって、当神社が式内社「楯縫神社」の後身であっても良く、あるいは、古代に地元の有力者(豪族)によって郡家の守護神として勧請されたということも考えられる。 
大宮神社   稲敷郡美浦村土浦
大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。 
弁天塚古墳   稲敷郡美浦村大塚字弁天
弁天塚古墳は常陸国風土記に記されている黒坂命墳墓と伝承されている。土浦出身の国学者色川三中の書いた「黒坂命墳墓考」によると、弘化4年(1847)に墳上より石棺が出土し、中から甲冑、剣、鏡などが出土したとある。  
■八千代町
哀れ君御前   八千代町舟戸・六軒
将門を攻める秀郷・貞盛 舟戸から平塚、六軒と広がる水田は、もとは満々と水をたたえる飯沼と言う名の広大な沼でした。その飯沼がまだ「広河の江(ひろかわのえ)」と呼ばれていた遠い昔のことです。
承平7年(937)、叔父良兼たちのしつような嫌がらせや挑発に耐えかねた将門は、ついに出陣し、いくたびかの戦いに勝利しました。しかし、この時は違っていました。川曲(かわわ、現在の野爪あたり)の戦いをはじめ、それまでは勝利していた将門でしたが、子飼の渡(千代川村鯨付近)で良兼たちの連合軍に彼は手痛い敗北を期しました。加えて突然脚気をわずらい、将門は意識がもうろうとし、歩くことさえままなりません。わずかな家来と家族を引き連れて、将門は船を使って広河の江のほとり、芦津江(あしつえ、現在の芦ケ谷舟戸)まで逃れてきました。「手っぴら谷津」とも呼ばれ、五方向に放射状に入りくんだ入江は、それまでも将門がたびたび身を隠した場所でもありました。また手っぴら谷津のひとつには将門の寵愛する女が住んでおり、そこは「山の神」(奥さんや女房の別称)と呼ばれていました。この女房を頼って将門と正妻「君御前」、そして幼い子どもたちは舟戸まで逃れ、「諏訪神社」のお社に身を隠しました。しかし、せまり来る良兼軍をさけるため、やがて君御前と子どもたちは八艘の船に乗り込み、諏訪神社を離れました。同時に山の神と呼ばれた愛妾も山深く逃れました。そこが今もお白木様の祀られている神山集落です。山の神が逃れた山「神の山」から、そんな地名が残ったのだろうと言われています。
さて船に乗り込んだ君御前たちは、敵から遠ざかるため、さらに沼を北上しました。その辺が「陸間」(ろっかん)、現在の六軒付近でした。幾日かがそうして過ぎました。常に愛しい妻子を遠からず見守っていた将門でしたが、芦の茂みにうっかり妻子の姿を見失ってしまいました。そして、あれほど岸に近寄ってはならないと言い含めていたのにも関わらず、君御前たちは岸辺に船を寄せてしまったのです。それを良兼の軍勢が見逃すはずがありません。すぐに君御前と子どもたちは船から引きずり出されました。そして執拗に将門の居場所を問いつめられましたが、君御前は頑としてこれを受け入れません。かたわらでは幼い子どもたちが恐怖におびえて泣き叫んでいました。ついに将門の居場所を白状させることをあきらめた兵士たちは、君御前と子どもたちを処刑することにしました。切り殺される直前、君御前は幼い我が子をかき抱き、恩名の君御前祠そっと手をあわせて祈りました。
「将門様、短い月日でしたが私は幸せでした。菊姫たちとともにあの世に旅立ちます。」
こうして無惨にも君御前と子どもたちは、叔父良兼の兵士によって惨殺されました。急を聞いて将門が駆けつけたのはそれからしばらく経ってのことでした。冷たいむくろと化した妻子を腕に抱き、彼は狂ったように泣き叫び、まるで気がふれてしまったようでした。
その後君御前と娘、菊姫の死を哀れんだ村人は、この場所に塚を作りました。それが昔、三和町恩名の飯沼べりにあった「君御前塚」です。そして悲惨な最期をとげた君御前を哀れんで、村人はここを「女」と名付けました。しかし、後にこれは現在も使われている「恩名」に書き換えられました。そうしたのは、悲しいことに逆賊として征伐された将門の巻き添えを避けるためでした。
いずれにしても、君御前と菊姫たちはここに葬られましたが、昭和40年代、土地改良事業のため塚は切り崩されてしまいました。当時この場所を管轄した業者によれば、掘り起こした塚の中には大小さまざまな刀や副葬品が埋葬されていたと言うことです。そして塚のいただきに祀られていた「君御前」の小さな祠も、同じ恩名地区の別の観音堂に移されました。観音堂の片隅にある古ぼけた灰色の祠には今でも「君御前」と朱墨で書かれた古ぼけたお札が奉ってあります。 
変装の鏡が池   八千代町菅ノ谷
むかし、新井の北西、九下田の川村と境を接するあたりには10アールほどの「鏡が池」と呼ばれる池がありました。周囲を老杉がおおい、昼なお暗い池を訪れる村人はほとんどおりませんでした。緑色の水をたたえた池は底なしのように深く、大蛇が住んでいるとさえうわさされていました。さて、承平天慶の乱で叔父の国香、源護の息子らに襲われた将門は、ようやくのことでこの鏡が池のほとりまで逃れてきました。しかし、森のまわりは敵がいまだ取り囲んでおり、たやすいことでは脱出できそうにありません。そこで将門は一計を案じました。将門にはいつも七人の影武者が付き従っていましたが、それぞれに命じて馬から池のほとりに降りさせました。そして鏡のように凪いだ池にめいめい自分の姿を映しださせ、それぞれを将門そっくりに変装させたのです。
まもなく味方でも全く見分けがつかないくらいに似た、七人の影武者ができあがりました。それを確かめると将門は再び馬にまたがり、敵が待ち受ける森の外へ飛び出しました。国香や護の子どもたちには誰が本物の将門か分かりません。そうこうしているうちに将門は無事自分の領地へ戻ることができました。
鏡が池にはこの他にも不思議な伝説が言い伝えられています。ある時ひとりの男が夕暮れ近い七つ(午後5時)すぎ、この池のほとりを通り過ぎようとしました。すると突然一陣の疾風が森を吹き抜けました。何事だと思い池の端で足を止めた男は、何気なく池をのぞきました。すると湖面には青白い月明かりに照らし出された大きな剣が一振り、白々と映っているではありませんか。それを目にした男は「ぎゃー」という叫び声をあげると、一目散に逃げ帰ったと言うことです。
またある時、やはりひとりの女がこの池のそばを通りがかりました。すでに鏡が池の不気味なうわさは耳にしていましたので、足早に通り過ぎようとしたところ、つい何気なく池の水面をのぞいてしまったのです。すると湖面にはなんと大きな鏡が映し出されていました。びっくり仰天した女はその場で腰を抜かし、へなへなと座り込んでしまいました。
こんな不思議な言い伝えが残っている鏡が池には、大正時代まで東岸に土塚がありました。その塚の頂には見ざる・聞かざる・言わざるの三猿の碑が建っていたそうですが、いつのまにかその塚もなくなり、砂利取り場や水田へと姿を変えました。そして今では辺り一帯は広々としたゴルフ場になっています。  
栗山観音の梵鐘   八千代町栗山
栗山観音の大手門 栗山観音・佛性寺のある場所には、遠い昔将門の家来であった別当・多治経明(たじ)つねあきが治めていた栗栖院常羽御厩(くるすいんいくはのみまや)がありました。ここは将門の力の源であった軍馬の飼育をしていました。承平七年(937)8月6日、都から帰郷して謹慎していた将門を伯父の良兼・良正の大軍が襲いかかりました。旅の疲れと突然脚気をわずらった将門はことごとく戦に負け、妻子とともに芦津江(今の芦ケ谷舟戸)へと逃れたのです。芦津江の諏訪神社に身を隠した将門一行は栗栖院の方角を見つめました。夜目にもはっきりと空が赤黒く燃えています。残忍な良兼の軍勢は民家を焼き払い、人々を殺戮しました。挙げ句の果てには観音堂にも火をかけたのです。幸い本尊の観音菩薩は家来の横島という者が岩井の長谷に移しましたが、寺はことごとく焼き払われました。そして強欲な軍勢は観音堂の梵鐘に目をつけました。彼らは鐘を船に積んで持ち帰ろうとしたのです。さて栗栖院は飯沼の谷津に面しており、船の往来が自由に行き来できました。やがて鐘を積み込んだ船が鎌田谷津と呼ばれる沼の最も深いあたりにさしかかった時、ふいに梵鐘が「ぐおーん」と音をあげました。乗り合わせた兵士たちは突然の鐘音に顔を見合わせました。「へんな音を出すのは誰だ」と一同いぶかりましたが、誰も心当たりはありません。それどころか梵鐘はいよいよ激しい大音声をあげます。それは耳をつんざくばかりのすさまじい音でした。兵士たちは「助けてくれー」と口々に叫びましたが、深い谷津の真ん中では飛び込もうにも飛び込めません。やがて梵鐘は雷鳴のような音を上げ、それと同時に船はどーんという響きを上げて、鎌田谷津の中ほどで転覆してしまいました。「ぎゃー」という叫び声だけが空しく水面に消えました。
それから何百年もの年月が過ぎました。いくたびもの兵火をくぐりぬけ、菩薩像はつつがなく護られました。永禄9年(1566)多賀谷政経の長男重経は、この不思議な霊験に感服して観音堂を再建しました。奇怪な事件が起こり始めたのはその頃のことです。梵鐘が沈んだ鎌田谷津から毎晩のように火の玉が浮かび出て、栗山観音の境内に入り込むとふっと消えていきました。多くの村人もこの鬼火を目撃し、不吉なできごとに皆おびえました。そして沼に沈んだ梵鐘の怨念であろうとそのたたりを怖れたのです。そこで栗山観音の住職は観音菩薩に祈りを捧げ、梵鐘の供養のため大法要をとりおこないました。その甲斐あってそれからは鬼火も現れなくなったと言うことです。
城山に近い鎌田谷津は今では広々とした美田に変わっています。しかし、今もその広い水田のどこかに栗栖院の梵鐘は埋まっているのかも知れません。 
■古河市
日月神社   古河市東牛谷
祭神   大日靈貴命、月読命
境内神社 厳島神社、稲荷神社
由緒沿革
天慶の乱鎮定の勅命を奉じた下野国住俵藤太藤原秀郷、諸将と熟議をこらし軍を進めここに本陣を定め錦の御旗をたてて天神地祇をまつって戦勝を祈願したところ、神明のお加護をたまわり、遂に平将門誅伐の大任を果たすことができた。これを記念し錦の御旗の日月をとって社名として創建した。
明治になって村社に列格、明治四十年六月厳島神社を合併。 
五十塚古墳群   古河市東山田
五十塚古墳群(いそづかこふんぐん)は、古河市東山田のKDDI八俣送信所敷地内にあります。昔は円墳十数基・前方後円墳2基がありましたが、現在は円墳2基、前方後円墳1基が残っています。
五十塚は、「八十塚(やそつか)」、「磯塚(いそつか)」とも呼ばれたそうです。50あるいは80基もの古墳群、石の多い水辺・磯にある古墳という意味あいでしょう。
ここにはどんな人が埋葬されているのでしょうか? 古墳がある八俣(やまた)という地名が、ヒントになるかもしれません。
八俣は平安期にさかのぼる古い地名です。八俣郷(八侯郷)には、現在の山田、東山田、北山田、谷貝が含まれます。そして、百済国(朝鮮半島南西部)からの渡来人氏族のなかに「八俣部」があることから、当地との関連が想定されています(『地理志料』)。
事実なら、古墳の主は渡来人かもしれませんね。発掘調査や専門家による分析がさらに進めば明確になるでしょう。
この古墳は飯沼に面する台地の縁に築かれました。飯沼は南北に細長く、南端で鬼怒川と今の利根川下流との合流部につながりました。江戸期の享保年間、新田開発のため干拓されましたが、古墳が築かれた頃には、水辺で暮らす人々が集まり、漁業もさかんで、舟の往来も頻繁だったことでしょう。こうした人々の首長が葬られているとも考えられます。
飯沼の周囲には、塚山古墳・秋葉神社古墳(どちらも八千代町)他、多くの古墳があります。時代は下りますが、坂東市逆井の逆井城も、飯沼のほとりでした。五十塚古墳群の背景については、飯沼をめぐる歴史全体を俯瞰しながら、考えたいと思います。
ところで、古代の地名「八俣」は、のちに「山田」と書かれるようになり、江戸期には山田村(大山田村)、東山田村、北山田村が定着します。このために山田は「やまだ」ではなく、「やまた」と呼ばれます。
明治22年(1889)、この地域の村々が合併したとき、古代の地名「八俣」が復活。そして昭和15年(1939)、八俣村東山田に送信所の建設が始まりました。
八俣と山田、どちらも「ヤマタ」と呼び、地名が地域の歴史を掘りおこす手掛かりとなっています。 
高野八幡宮   古河市高野
こちらの神社では平将門公の首を祀っている。将門公の首が飛んで来たとか、南向きの社殿が一晩で藤原秀郷公の領地がある北の方向を向いたなどと言う伝説が残っていると言うことだが、将門公の首はあっちこっちに飛んで行くねぇ。ここからそう遠くも無い幸手市の浄誓寺にも将門公の首塚があるし。 
■桜川市
御門御墓   桜川市大国玉三門
(みかどおはか)
平将門の供養塔とされる4基の五輪塔がある。造られたのは鎌倉時代初期。土地に残る伝承では、かつてこの地に将門の居館があり、将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために造られたとされる。“御門御墓”という名称は、将門が乱を起こした際に“新皇”と称したところから付けられたものであり、さらに“三門”という地名もそこから派生した物であると言えるだろう。
この辺りは、平将門の乱の頃、平真樹(たいらのまさき)の治める土地であった。将門の妻であった“君の御前”の父であり、将門の同盟者である。当時の風習では通い婚が通例であり、おそらく足繁く通う将門のために館が設けられていたものと推測できる。
この付近には君の御前を祀る后神社があるが、この4基の五輪塔はちょうどその神社と向かいあう形で置かれている。これもこの五輪塔が将門にまつわる伝承を持つものであるとする証左とされている。 
真壁町羽鳥道   桜川市真壁町
万葉の里・羽鳥
「将門記」によると、承平7年(937年)に平将門が攻め入った場所を、服織(はたおり、はとり)の宿、としている。これが現在の羽鳥地区である。羽鳥には、真壁と筑波山の男体山を結ぶ羽鳥道があり、古くは修経者の山岳修行の道であったが、江戸時代後期から一般庶民に広まった社寺参詣の信仰道となった。道沿いには当時の面影を偲ばせる野仏や石碑などが数多く残っている。また、羽鳥には、春と秋に万葉びとが集まり歌を詠み交わして踊る「かがい」の伝承地があり、万葉の里・羽鳥の奥深さを語っている。
羽鳥天神塚古墳
菅原の道真の遺骨の一部を、三男の景行が埋蔵した伝説がある古墳。筑波山を借景に千年の歴史を今に伝える。
歌姫(うたづめ)明神
羽鳥集落の西側の小高い丘にありこの地で「かがい」が行われたという伝承が残る。  
妙法寺   桜川市本郷
即身仏のある寺として有名です。江戸時代、舜義上人がこの寺に入り、1686年2月に入寂したと伝えられています。 
熊野神社   桜川市真壁町酒寄
酒寄は昔、熊野保といって紀伊熊野神社の社領であったという。熊野神社は酒寄の集落の奥、こんもりと木々に覆われた丘の上に鎮座。社地までは70段ほどの急な石段をのぼらねばならない。この神社は鈴の替わりに梵鐘があり、軒先の木鼻などの彫刻もしっかり作られている。
御祭神 伊弉册命
由緒 創立は江戸時代といわれているが詳らかでない。 
椎尾山薬王院   桜川市真壁町椎尾
筑波山中腹にある静かなお寺の椎尾山薬王院(しいおさんやくおういん)は1200年の歴史があり、県指定文化財天然記念物であるスダジイ(椎の木)の巨木群生地でもあります。
境内には名大工桜井一門の手による三重塔(県指定文化財)や仁王門(市指定文化財)などが建造され、古来より病気平癒の霊場で知られています。
境内にある重さ約1トンの大きな梵鐘はどなたでも打つことができます。この梵鐘は真壁町の伝統ある小田部鋳造で造られたものです。
境内には樹齢300年〜500年といわれるスダジイなどが群生し「椎尾山薬王院の樹叢(じゅそう)」として県の天然記念物に指定されています。 
五大力堂と池亀村   桜川市
竜神山の東麓、池亀集落にある五大力堂は、元慶二年に岩井の地で殺された平将門の残党藤原玄明らか立てこもったと伝えられ、堂内にある五大力像は、日乗上人の手によって五体の尊像が刻まれ、逆賊追の一大修法を行ったと伝えられる。
しかし、現在残っている五大像は、それから二百三十余年後の治承二年に彫り直されたものではないかと言われ、胎内の銘文には「奉造立五大力菩薩五躰・・・治承二年○○空天作」と記されていると言われ、治承四年には、都で似仁王の令旨により源頼政が挙兵した宇治の乱があり、相次いで源頼朝、木曽義仲も挙兵、ようやく全盛を極めた平氏一門に陰りが出始めた時代の作であった。
また、一体の像には「○歌の歌」が記されていたと言われ、芳原修二氏の調査によれば、一夜の恋の契りを切なく歌ったものだそうである。
この五大力堂は、現在お堂が修復され、道路も細い苔むしたものから広く舗装されたものに変わり、静けさだけが昔のまま残る山寺である。
五大力堂の東にある集落の鎮守香取神社。この神社の東北に谷川が流れ、この近くに藤原玄明の墓の言われ、平親王様とも呼ばれる多宝塔がある。
そばには玄明の梅と言われる老梅が歴史の重さを伝えている。
その昔、平安時代の中期、平将門を岩井の地で倒した平貞盛と藤原秀郷は、将門軍でも随一の武将であった藤原玄明を追って筑波・加波を越え、竜神山のふもとにある池亀の地にたどり着いたが、決死の玄明軍を攻めあぐね、法力にすがろうとして作られたのが五大力像である。
その後、日乗上人による賊徒調伏の大修法が郊を奏したが、篠つく大雨となって玄明軍の陣地を襲い天命を悟った一行は、この一の谷を最期の決戦場として華々しく討ち死にしたと伝えられる。さらに、五大力像の胎内に記されていた「○歌の歌」や玄明合戦の絵馬を見るにつけ、東国の山野に一大旋風を巻き起こした一世の英雄、平将門とその伴類、藤原玄明一行の怨念が偲ばれる。
それから約二百年後、源頼朝が平貞盛の子孫である清盛追討の旗上げをして、平氏を西海に滅ぼし、鎌倉幕府を開いたことによって東国武人としての将門の念願も果たされたものと思われる。

五大力堂は平安時代、平将門の乱の際、俵藤汰藤原秀郷が霊像5体を安置して将門討伐を祈ったが、討伐後は将門の善心を知り霊を慰めたたと言われています。国を守護する大力のある【金剛吼】 【龍王吼】 【無畏十力吼】 【雷電吼】 【無量力吼】の五大力像は檜財の寄木造りとなっている。 
池亀城   桜川市(旧岩瀬町)池亀
桜川市(旧岩瀬町)の北東端、池亀地区にある。岩瀬駅からは北東6qの地点である。北に栃木県との境となる標高519.6mの高峯があり、その南に延びる尾根末端に五大力堂がある。その五大力堂のある尾根の400m南の尾根の末端部が城である。その岡の北側以外の3方が池亀の集落であり、集落が根小屋であったと思われる。岡の城域は南側が畑になっているが、南北300m、東西最大100mほどある。
池亀の集落南西にポツンと城址の標識があり、ここより北500mの山中と書いてあるが、これじゃさっぱり分らない。道を聞くと東側の公民館の裏だよとのこと。その公民館の裏山、東から見ると城っぽい感じなのである。比高は10m程度に過ぎない。公民館の裏には横堀7が見れる。その上は畑なのであるが、段々状になっている。肝心の城は?と思い、畑5にいる人に聞く。「おお、城山け?俺んちの山だよ。」ってことで案内していただく。その方の名は菊池さん、案内していただき北に行くと、堀4があり、土橋がある。
これは遺構ではなく、トロッコ道なのだという。しかし、堀っぽい。その先に曲輪U、北に土塁があり、堀3がある。
この堀は曲輪T(1)の南と西2を覆っている。その北の曲輪Tが城山と呼ばれている。南北35m、東西20m。周囲からは高さが3,4mある。東側は腰曲輪になっている。北側に土壇がある。その北が堀である。ここが城の北端である。
ここを北に行くと五大力堂である。余湖さんも指摘しているように城山という曲輪は北側は堀1本しかない。ここは本郭ではない。城の北を守る曲輪であろう。
本郭は菊池さんの畑である曲輪Vであろう。その南側は段差6になっており、堀があったのかもしれない。さらに南にも段差のある畑が続く。この畑も全て曲輪(W、X)なのであろう。
笠間氏に従った武将に池亀氏の名が見えるが、どのような者であるか分らない。おそらくこの地の土豪だったかもしれない。
なお、この城、300m×100mほどと広く、4つの曲輪があったと推定される大きなものである。住民の避難施設という感じもするが、避難施設にしては里に近い場所にありすぎる。やはり、池亀氏の居館があり、米倉が南側に存在していたのではないだろうか。
1曲輪T内部、北に土壇がある。 2曲輪Tの西側の堀、かなり埋まっている。 3曲輪T南側の堀
4曲輪U、V間のこの溝はトロッコ道というが。 5曲輪V、ここが本郭であろう。 6曲輪V南側の切岸
7曲輪V東の横堀 北にある五大力堂 五大力堂菩薩。かなり変わった像である。
この像、かなり変わった表情である。歴史は凄いが、文化財には指定されていないようである。文化財的には少し価値が劣るのか?  
羽黒山城と棟峰城   桜川市(旧岩瀬町)羽黒
国道50号線を岩瀬市街から羽黒を抜けて笠間方面に走ると正面に大きな山がある。この標高245mの山の山頂一帯に展開するのが巨大山城、羽黒山城である。麓からの比高は170mある。この山は北側が一旦低くなり、また高くなる。この北側の山が標高263mの棟峰山(ぐしみね)であり、山上に羽黒山城の出城である棟峰城がある。 
写真は西側から見た羽黒山(左)と棟峰山である。両城とも頂上部に築かれている。羽黒山上には二所神社があり、神社への参道が西側の山麓から延びる。これがかつての登城道、大手道であったらしい。普通はこの道を行くが、勘違いをして1本北の山道を登ってしまった。結構整備された道と聞いていたのだが、倒木ばかりで所々道が消えている不安に思いながらそれでも先に進むこと30分。20m四方の平坦地に出る。
後で分かったことであるが、ここが羽黒山と棟峰山の間の鞍部(標高230m)であった。(この空間は2つの城の中継地でもあり、麓からの登り道の終点でもある重要な場所であり、柵などがあったであろう。)
羽黒山城がこの左手にあると思い、100mほど、高度で30mほど登る。堀切があり、高さ10m位ある切岸が行く手を阻む。岩が剥き出しの急傾斜の切岸を登ると平坦な場所がある。ここが本郭であるが狭い。途中に浅い堀切がある。40mほど先に二重堀切がある。堀切の西側に腰曲輪がある。
堀切を越え、北側の平坦地を行くが何もない。「おかしい。」ここで間違えたことに気付く、でも今見たのは、小さいけれど明らかに城である。「そうかこれが棟峰城か」ということで道を戻る。(その前にばっちり簡易測量したが・・。このような小さい城は測量しやすくてありがたい。)左がその縄張図である。
南側の堀切を本郭側から見下ろす。 二重堀切外側の堀。 二重堀切本郭側。
鞍部まで戻り、西方向に向かうが、道がない。枝を掻き分けて100mほど進むと、話に聞いた東の端にあるという大堀切に出た。堀切というより尾根を分断する大横堀である。
深さは10m、幅は20mはある。長さは80m位か?南側は竪堀が下る。土橋を通り、堀を越え、曲輪6上に上がると、土塁が堀側にある。土塁の西側は20mに渡り平坦になっている。その西は緩やかな登りである。一面の笹竹の中の小道を進むと途中から下りになる。100mほど進むと、浅い堀があり、そこを抜けるとまた堀があり、前面に高さ4mほどの切岸がある。
この部分は二重堀切のようになっている。(堀切というよりU字型の横堀に近い。)ここからが主郭部である。切岸の上が曲輪5である。堀に面し前面に高さ2m位の土塁を持ち、西側は一段高くなっている。40m×30mの広さがある。
この西が本郭であり、曲輪5からは土塁上まで6mほどの高さがある。本郭の内部は意外に小さい。直径30m程度か。周囲は高さ2.5mの土塁がある。その土塁も内側が石で補強されている。
虎口は西と南に開いているが、南側の虎口は出たら急斜面である。ここが曲輪5への通路であったようであるが崩落している可能性がある。西側の虎口こそが正式な口である。出ると5mほど下から曲輪2が段々状に展開する。曲輪は20mほど西側に突き出し、5mの落差を以って、曲輪3につながる。その間は堀状になっているが、曲輪3への虎口も兼ねていたようである。また、南側を参道が下っているが、これは本来は帯曲輪も兼ねていたのであろう。曲輪3は30m四方の曲輪であり、3方を高さ3mの土塁で囲まれる。内部はやぶ状態である。西側は深さ6mの堀を経て曲輪4に繋がる。曲輪4は北西に曲がりながら延びる70m×30mの広さをもつが、若干傾斜している。その先端は土塁で囲まれ、下に土塁を持つ堀がある。(土塁で遮蔽された通路というべきか?)このが城の西の外れである。城域は北から見ると「へ」の形をしており、全長は400mに及ぶ直線連郭式である。
羽黒山と棟峰山間の鞍部の平坦地。 曲輪6北の土塁上から見た大堀。深さは10mあるが藪でスケールが分からない。 曲輪6北端の平坦な窪地。右に堀に面した土塁がある。
曲輪5北側の切岸と堀。 本郭内部。周囲は土塁に囲まれるが直径30mほどと狭い。 本郭の土塁は内側が石垣で補強されている。
本郭西側の虎口を曲輪2から見る。 曲輪3、4間の堀。藪がひどい。 曲輪3の虎口は堀を兼ねる。
尾根城でもあるが尾根上の幅があるため、結構広いスペースが取れ、かなりの人数を収納できる。城全体の規模に比べ本郭はいかにも小さい。ここが始めに築かれたオリジナルな部分であろう。非常に古風でもある。
戦国時代に土塁を高く積んだが、地形上、これ以上拡張は不可能であったのであろう。他の曲輪は戦国期に拡張された部分であろう。この城は鎌倉時代に羽黒氏によって築かれたというが、当時は本郭の部分のみの臨時の砦だったのではないだろうか?南北朝時代の「中郡城」説もあるが、この城のことではないだろうか?他にも候補地はあるが、消去法で消していくとこの城のみが残ってしまう。
戦国時代は笠間氏の城として橋本城とともに益子氏との抗争の最前線に位置するが、やはり兵力以上に巨大すぎる。ここも住民避難用の城ではなかったかと思う。特に曲輪6の巨大さと郭内の単純さは多くの人間を収納する以外考えられない。曲輪6背後の大堀も心配性の領民の力が作り上げたものであろう。 
櫻川磯部稲村神社   桜川市磯部
天照皇大神、木花佐久耶姫命、天手力雄命などの諸神を祀る神社です。
景行天皇の時代に東国平安の分霊を移して祀ったという伝説もあります。
代々藩主の崇拝を受けたほか、徳川光圀の参詣も受けました。
木造の狛犬は県の文化財に指定されています。
この神社は、その参道や神社が鎮座する丘の斜面に多くの山桜が見られ、桜の名所として広く知られてきました。
ここの山桜は東北地方に産する白山桜で、淡紅色の花ばかりでなく芽ぶきの時期の赤芽も見事で、学術的にも貴重な存在とされています。
そばにある磯部桜川公園を含んだ周辺一帯は国の「名勝」に指定されており、また、神社及び公園にある桜が国の天然記念物に指定されています。
この地は、古来より桜の名所として知られていたことから、江戸時代には歴代将軍により隅田川堤、玉川上水など江戸の花見の名所を作る際に植樹されました。
水戸市内を流れる桜川は、かの水戸光圀公が当地の桜を気に入り、桜の苗木を数百本移植したことを機に桜川と命名したものと伝えられています。
謡曲「桜川」
謡曲「桜川」は桜の名勝地として名高い磯部一帯が舞台です。室町時代の1438年に櫻川磯部稲村神社の神主磯部祐行(いそべすけゆき)が、当時の関東菅領((かんとうかんれい)実際は鎌倉公方(かまくらくぼう))であった足利持氏(あしかがもちうじ)に、花見噺「櫻児物語」(さくらこものがたり)一巻を献上しました。その物語を目にした第六代将軍足利義教(あしかがよしのり)が、世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」です。常陸と下総の国司になった平将門の子、桜子の若の物語で、母子の愛情物語として描かれています。
〜あらすじ〜
九州の日向国(宮崎県)桜の馬場の西に、母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。その家の子・桜子は、東国の人商人にわが身を売り、お金と手紙を母に渡してくれとたのみ国を立ちます。その手紙を読んだ母は、嘆き悲しみ、子の行方を捜す旅に出ます。それから3年、遠く常陸国(茨城県)で桜子は磯部寺に弟子入りしていました。春も盛りの桜の季節、桜子は住職と共に花見に出かけます。丁度その頃、桜川のほとりには、長い旅路の末、狂女となった桜子の母親がたどり着いていました。桜川に散る花びらをすくって、狂った有様を見せる女がいることを聞いた住職が女を呼び出して訳を聞くと、九州からはるばる我が子を探しに来たことを語りました。桜を信仰するいわれ、我が子の名が桜子であることなどを語り、想いを募らせて狂乱の極みとなっていたのです。住職は、連れている桜子を引き合わせます。二人は嬉し涙にくれ、母は正気に戻り、連れ立って国に帰ります。後に母も出家して、仏の恵みを得たことから、親子の道は本当に有難いという教訓が語られます。  
犬田神社   桜川市犬田
古くは経津主神と武甕槌神、気吹戸主神の三柱を祀り香取神社と称していたが、八幡神社を合祀して犬田神社と改称したとのことである。また奥州討伐に向かう源義家が当神社に立ち寄ったとの言い伝えもあるそうなので、永保三年(1083)には既にあったと言うことになるのだろう。後述する御神木の案内板には源義家が立ち寄ったのは1090年(寛治四年)と記されているが、後三年の役は1083年から1087年(寛治元年)までの間なので、1090年に立ち寄ると言うことは無いと思うのだがどうなのだろう。
御神木「欅」
御神木「欅」は、樹齢約一二〇〇年と伝えられる。一〇九〇年、源義家公征奥の途中当社に祈願、その折、この欅を眺めて「幾代をか経りし欅の三の椏に、みつの湛の久しかるべし」と歌を詠ぜられた。また明治中期の記録によれば、「樹高約三十米、中途から三枝になって洞あり、水をたたへ『御手洗』と呼ぶ。日干天祈雨の際、この水を汲みだすと験必ずあり。」と里人に崇められた。(以上社伝、県神社史による)しかし、積年の風雨に耐えて超古木となるも近年樹勢俄かに衰え、平成八年春頃完全に枯れ果ててしまい、茲に崇敬者一同相諮り根元より二米を保存し、上屋にて覆い、御神木「欅」の歴史を未来永劫後世に伝承するものである。 
二所神社   桜川市西小塙羽黒山
祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと)
羽黒神社は朱雀天皇御代平定盛、平将門討伐に多大なご加護を奉謝して奉祀したと伝えられる。八幡宮は欽明天皇御代里人が奉祀、明治6年4月両社を合併して二所神社となった。  
鹿島神社   桜川市真壁町上谷貝
応保2年(1162)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神として創建されたと伝えられる古社です。天正年間(1573〜92)の棟札によれば、真壁17代城主安藝守久幹・18代城主氏幹父子が深く尊崇し、大破していた社殿を再興したということです。
現社殿は、装飾彫刻からして、江戸時代中期・元禄年間(1688〜1704)の再建とみられています。
建築様式は、優美な一間社流造で、重厚な茅葺屋根に特徴があります。 
大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)   桜川市
祭神 大国主命
愛称は明神さま。旧名は鹿島大明神(鹿島明神)。式内社(常陸国真壁郡、小社)。旧社格は郷社。旧字体で大國玉神社とも表記する。
創建は不詳。社伝では養老年間(717-724年)の創建としている。一説に天長年中(824-834年)ともいわれる。
六国史及び延喜式神名帳に記載がある古社である。
続日本後紀 / 巻六。仁明天皇の代、承和4年(837年)3月、新治郡佐志能神とともに「眞壁郡大國玉神」として「並預官社。以比年特有靈驗也」(霊験甚だ大であったために官社に預る)とある。巻十五。同12年(846年)、「奉授常陸國无位大國玉神從五位下」(従五位下を授けられた)。
日本三代実録 / 巻五。清和天皇の代、貞観3年(861年)9月、「授常陸國從五位下主玉神從五位上」(従五位上に昇叙)。歴史書のうち、唯一日本三代実録は神名を「主玉神」としているが、この神が大國玉神と同一神であるかははっきりしない。茨城県内には「主玉神」の比定社を称する神社は3社存在するため(鉾田市の主石神社、桜川市の鴨大神御子神主玉神社)、日本三代実録の見在社としては論社である。
延喜式神名帳 / 延喜5年(927年)、常陸国真壁郡小一座「大國玉神社」(常陸国28社の一つ)。
元禄12年11月(1699年)、水戸光圀公、四神の幡、日月の幡鉾を奉納。
明治6年4月(1872年)、郷社列格。
平成4年10月(1992年)、社殿改修。
古い地誌には名所「大国玉七井」として「宮前の井、久々津井、庚申前井、后の井、福泉甑井、福泉米井、福泉酒井」の紹介がある。  
后神社   桜川市大国玉(木崎)
祭神 須勢理毘売命 君の御前
御神体 木造女人像
后神社の御神体の五衣垂髪の女人木像は国王神社の将門像と対をなすかも?
桜川市大国玉地区の大国玉神社の主宰者は、この地方に勢力を得た平真樹で、その娘が将門の妻「君の御前」です。将門公が新皇を自称したので君の御前が后ということになるのでしょう。
幕末に后神社のご神体は、反逆の将「将門の妻」などではなく、大国主命の后「須勢理毘売命」ではないかと水戸藩士青山延光が断定し、木崎の地より移し大国玉神社に合祀したようですが、この年、村に疫病が発生、木崎全戸に及んだため、村人は将門さまの祟りと恐れ、后神社を元に戻し霊を鎮めたところ、疫病はたちどころに絶え、村に平和が戻ったといいます。
大国玉神社は男体宮と女体宮による二社一対だったが、明治の初めには男体宮だけになってしまったともあるのは、合祀したが后神社を元に戻したからなのかもしれませんね。
木崎の地名は后からのようで、将門薬師堂のある平の地名は平氏開発荘園から。中丸木には将門公の出城があったとの伝説も。御門御墓のある三門地区は、帝から御門そして三門になったようです。 
五所駒瀧神社   桜川市真壁町山尾
五所駒瀧神社(ごしょこまがたきじんじゃ)は 社伝によれば、平安時代末期に鹿島神宮の御祭神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の分霊を祀り、真壁氏の氏神として創建されたと言われています。
真壁祇園祭は文化庁より、記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財に選択された、400年の歴史ある祭りです。毎年7月23日から26日まで4日間、町内をあげて盛大に行われます。また、8月31日はかったて祭りが開催されます。五穀豊穣を祈願するお祭りです。 
真壁城(まかべじょう)   桜川市真壁町古城
常陸国真壁郡、現在の茨城県桜川市真壁町古城にあった戦国時代の日本の城(平城)。大掾氏の一族である真壁氏が代々支配した。国の史跡。
真壁駅跡の東に位置し、加波山系の足尾山西麓にある台地上に築かれた連郭式の平城である。また、古代の真壁郡家が存在したとも言われ、真壁郡の中心地に位置していた。
中央の本丸を同心円状に囲む二ノ丸があるほか、二ノ丸の東側に三の郭(中城)・四の郭(外郭)が続き、外郭南東端には鹿島神社が祭られている。
築城は承安2年(1172年)と伝わる。大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、郡家の場所に築城した。以来真壁氏の居城として続いた。
文献上で真壁城が初出するのは興国2年(1341年)12月で、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえ、南朝方の城であった。のち北朝方に立場を変え、真壁氏は地頭職を有している。応永30年(1423年)、真壁慶幹のとき小栗満重の乱に小栗方で参加したため足利持氏軍によって落城したが、その後の混乱の中で慶幹の従兄弟・朝幹が真壁に復権した。
17代久幹のときに次男義幹が柿岡城に分家し、18代氏幹に至って甥の柿岡城主房幹(義幹の子)に家督を譲ったため、真壁城は真壁本家の城ではなくなった。その後、慶長7年(1602年)佐竹氏の秋田転封の際、佐竹氏の家臣団化していた真壁氏も出羽角館へ移住し、真壁城は空城となった。そののち慶長11年(1606年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、同16年(1611年)に長政の跡を継いで真壁城に浅野長重が入城した。元和8年(1622年)、浅野長重は加増され、真壁は領有し続けるものの常陸笠間城へ移動となり、真壁城は廃城となった。
城門のうち薬医門が各々一棟、楽法寺黒門(旧大和村、伝大手門)・個人宅表門(旧協和町)として移築され現存している。縄張りは本丸以東は良好に残るが、二の丸の西側以西はほぼ市街地化し消滅している。本来は真壁町古城地区が城域の西半分に当たる。古城地区の西に大手前の地名が残っており、同地近辺が大手だったと伝わっている。本丸跡には旧真壁町立体育館があり、二の丸跡には体育館建設での残土が盛られているなど中枢部の保存状態は良くない(二の丸には櫓台のような高所があるが、残土の山で遺構ではない)。
1934年(昭和9年)以来、本丸の一部が茨城県指定史跡となっていたが、1994年(平成6年)10月28日に国の史跡に指定された。
1997年(平成9年)以降発掘調査が続けられており、成果に基づき外曲輪の土塁や壕が復元されている。また中城の発掘調査では、水路や池を伴う大規模な庭園の遺構と共に、茶室や能舞台と思われる建物群の痕跡が検出され、その規模は茨城県内でも最大級と見られている。  
雨引千勝神社(あまびきちかつじんじゃ)   桜川市本木
創建は大同2年(807)9月29日、千勝民部大輔藤原国定が鹿島より勧請
元弘3年(1333)、楠木正成は代参を立てて武運長久の祈願をしたところ、霊験があり鎌倉幕府を滅ぼす事が出来たので、本殿修理し菊水の彫刻を奉献した
正保3年(1646)、火災により社殿焼失
元禄9年(1696)時点での社領は3石
江戸期には笠間藩主・牧野氏により崇敬され、代々事ある毎に武運長久を祈願したとされます。
明治6年(1873)、今まで千勝大明神と称していたが雨引千勝神社に改称
また、同年に村社列格
御祭神は猿田彦命
この常陸国西部、南朝方の城が数多くありましてここより南の真壁には真壁城があり、南朝方の関東六城の1つとされます。関東六城は、常陸国関城(筑西市)・常陸国大宝城(下妻市)・常陸国伊佐城(筑西市)・常陸国中郡城(桜川市)・下野国西明寺城(益子町)となります。
また、建武3年(1336)に楠木正成は常陸国瓜連(那珂市)を領地として与えられており、正成の弟ともされる楠木正家が代官として派遣されたそうです。そこで瓜連城を築き北朝方であった佐竹氏と1年余り戦ったとされます。この事から、南朝の勢力圏であった真壁地区と常陸に下向していた楠木氏が繋がり、由緒にある武運長久を願い菊水紋のくだりが信憑性が増すのではないかと?
千勝民部大輔が鹿島から勧請と由緒がありますが、常陸国ですと鹿島=鹿島神宮なのですが…こちらの御祭神は猿田彦命、鹿島神宮は武甕槌命と違います。鹿島神宮には合祀もされておらず摂末社にも猿田彦命を祀る神社は無し…ですが、境内の由緒看板には道案内の神として猿田彦命が紹介されています。
鹿島地区で道案内の神を祀る神社といえば、神栖市に鎮座している東国三社の1つである息栖神社、こちらは岐神を御祭神としています。この岐神、道の神として塩土老翁神や猿田彦神と同じものとされる事もあります。
という訳で断定はできませんが息栖神社から勧請した可能性は大いにあるのではないでしょうか? 
■笠間市
羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)   笠間市上郷
祭神は木花咲耶姫命。常陸国茨城郡の式内小社で、旧社格は郷社。
古くは羽梨山の中腹に鎮座していた。 天智天皇3年(664年)、桜の多い羽梨山の中腹に木花咲耶姫命を祀る祠を建立したこととをきっかけに、「花白山神社」と呼ばれるようになった。
延暦22年(803年)には坂上田村麻呂が陸奥征討の戦勝祈願し、社殿を寄進した。
平将門の乱では、平貞盛が弓矢、砂金を奉納し、平将門征伐の戦勝祈願をした。
平安時代には源頼義、源義家が矛、太刀、鎧、神馬を奉納した。神馬の鐙のみ現存する。 鎌倉時代には鎌倉から移り住んだ宍戸家政が社殿を建て替える。
天正11年(1542年)には兵火により羽梨山の中腹の社殿が焼失し、現在の鎮座地となる山麓の熊野権現に合祀された。寛文8年(1668年)には社殿が新造された。 元禄16年(1703年)には現在の明神石鳥居、延享4年(1747年)には現在の社殿を建立した。
明治時代の神仏分離令により、別当寺の普賢院の管理から離れる。  
稲田神社(いなだじんじゃ、稻田神社)   笠間市稲田
式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
主祭神 奇稲田姫命 (くしいなだひめのみこと) 合祀神 布都主神、菅原道真公、大山咋命、大日孁貴命、未詳1座 5柱とも、明治6年(1873年)に合祀。
創建
創建は不詳。『稲田姫宮神社縁起』(江戸時代)によると、当地の邑長武持の家童が稲田好井の水を汲もうとすると、泉の傍らに女性が現れた。家童の知らせで武持が尋ねると「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」と答え、姫の父母の宮・夫婦の宮を建て、好井の水で稲を作り祀るよう神託を下したという。当社の北西300メートルの稲田山中腹には本宮(奥の院)が鎮座するが、本宮の祠左手には巨石が突き出ており、この磐座が稲田姫の降臨地と伝わっている。
また、当社は新治国造が奉斎した神社と考えられている。新治国造は律令制以前に新治郡地域を治めたとされる国造で、『先代旧事本紀』「国造本紀」新治国造条には美都呂岐命の子の比奈羅布命を初代国造とする旨の記載がある。美都呂岐命(弥都侶伎命)は天穂日命の八世孫で出雲国造と同祖にあるが、当社周辺には式内社として佐志能神社・鴨大神御子神主玉神社・大国玉神社があり、いずれも出雲系の神々を祀ることから文献との関係が指摘される。
概史
六国史等の正史には当社に関する記載はない。平安時代中期の『延喜式』神名帳には常陸国新治郡に「稲田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
鎌倉時代初期、領主の笠間時朝は藤原光俊・泰綱ら8人を招いて当社で奉納歌会を催しており、『新和歌集』(宇都宮新和歌集)にその歌の記載がある。
室町時代末期に兵火により社殿を焼失、慶長7年(1602年)に伊奈忠次が当地を検地した際に本殿等が再建された。寛文8年(1668年)には藩主の井上正利が除地4石を与えた。元禄7年(1694年)には徳川光圀が当社に参詣し、古社の衰微する様子を嘆き、縁起等を奉納した(社宝の四神旗は元禄11年(1698年)の奉納)。社殿は弘化2年(1845年)に焼失し、嘉永元年(1848年)再建されている。
明治に入り、近代社格制度では県社に列した。  
■鹿嶋市
鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)   鹿嶋市宮中
式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる。
社名
神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記』では「香島」と記載される。風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)であり、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。
「神の住所」すなわち「カスミ」とする説
建借間命(たけかしまのみこと)から「カシマ」を取ったとする説 建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』に記述が見える人物。
「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説 『肥前国風土記』に「杵島(きしま)」の由来として見える記述に基づくもの。
なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。
祭神
祭神は次の1柱。
武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ/たけみかづちのおおかみ) 『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される。別名を「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」。
上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる。タケミカヅチの出自について、『古事記』では、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が火之迦具土神(軻遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神とする(日本書紀ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという。その後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた。ただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない。
一方、『常陸国風土記』では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない。
「高天の原より降(くだ)り来(きた)りし大神、名(みな)を香島天の大神と称(まを)す。天にてはすなはち日の香島の宮と号(なづ)け、地(つち)にてはすなはち豊香島の宮と名づく。 『常陸国風土記』」
神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』(807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)までさかのぼるという説がある。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある。
神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/韴霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という歌が知られる。一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある。以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある。
鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。
鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
〇 神郡 鹿島・香取両神宮ではそれぞれ常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた(令集解や延喜式に記載)。神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったとされる。
〇 鹿島香取使(かしまかとりづかい) 両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、または略して鹿島香取使の派遣があった。伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であった。
〇 「神宮」の呼称 『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と表記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった。
また、藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、『常陸国風土記』によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。また『大鏡』(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、位置)はその出生地と伝えられる。藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたが、天児屋根命の父を建御雷神とする説があり、それに従えば建御雷神は中臣氏の上祖となる。
その後、中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」・「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。
歴史
創建・伝承
創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年)の目安)では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。
一方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする。その後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつ)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという。さらに第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる。
飛鳥時代
『常陸国風土記』には鹿島社に多くの神戸、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が設置されたことが見える。また風土記では、大化5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す。以上の背景としては大化の改新後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている。
このような朝廷との結びつきには、中臣氏の存在が背景にあったと指摘される。中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神であった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている。実際、史料には鹿島郡司や社の神職に中臣姓の人物が多く存在する。そして、大化の改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという。中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない(「考証」節参照)。
鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、後世の『日本三代実録』や『延喜式』神名帳に記される、陸奥国内の多くの鹿島神の苗裔神(御子神)の存在が指摘される(「鹿島苗裔神」節参照)。その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上し、その過程で各開拓地で祀られ、最終的に今の宮城県石巻市付近まで影響力を及ぼしたとされる。
奈良時代
奈良時代には、史書に多数の神戸の記事が載る(「社領」節参照)。またこの時代、鹿島社は藤原氏から氏神として特に崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい、鹿島から武甕槌神(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された。これら4柱のうち特に鹿島神が主神で、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られている。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)の藤原良継の病の際には「氏神」の鹿島社に対して正三位の神階が奉叙されている。
平安時代
平安時代以降の神階としては、承和3年(836年)に正二位勲一等、承和6年(839年)に従一位勲一等の記事が見える。嘉祥3年(850年)には、春日社の建御賀豆智命は正一位に達した(勧請元の鹿島社も同時に叙せられたという見方もある)。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では常陸国鹿島郡に「鹿島神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列したほか、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。なお、神名帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、大神宮(伊勢神宮)・香取神宮と鹿島神宮の三社のみであった。また、常陸国内では一宮に位置づけられるようになっていった。
鎌倉時代から江戸時代
鹿島神宮は武神を祀るため、中世の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた。源頼朝から多くの社領が寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く確認される。その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行われており、頼朝により武家の鹿島氏(常陸大掾氏一族)が惣追捕使に任命されて神宮経営に入り込んだことを発端として、藤原氏の影響下からは離れていった。室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという。
江戸時代には江戸幕府からの崇敬を受け、慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営された。元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された。
明治以降
明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
昭和43年(1968年)には、明治維新後百年の記念として茨城県笠間市産の御影石を用いて大鳥居(二の鳥居)が建て替えられた。昭和61年(1986年)には、境内が国の史跡に指定された。
平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により、石造の大鳥居(二の鳥居)と御手洗池の鳥居が倒壊し、境内の石灯籠64基も崩れたほか、本殿の千木も被害を受け、被害総額は1億700万円に上った。その後、境内の杉を用いて大鳥居が再建され、平成26年(2014年)6月に竣工祭が執り行われている。
なお平成23年度には、境内北西辺の祈祷殿・社務所の建て替えに伴い、境内で初めての大規模な発掘調査が実施された。この時には奈良時代に遡る鍛冶関連を始めとする遺構・遺物のほか、時代ごとに幾度も整地がなされた様子が認められた。
境内
神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)。
境内の広さは約70ヘクタールである。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されている。樹叢には約800種の植物が生育しており、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林になる。
社殿
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので、幕府棟梁の鈴木長次の手による。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある。このため社殿は北面するが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる。
本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている。元和5年(1619年)の造営までは、現在の奥宮の社殿が本殿として使用されていた。本殿は北面するが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって参拝者とは相対せず東を向くといい(下図参照)、出雲大社本殿との関連が指摘される(ただし神主らの参入形式の本殿では上代の宮殿にならい正面から見て横向きに建物を使う例が多い)。『鹿島宮社例伝記』によると、本殿は古くは普段開かれない「不開御殿(あかずのごてん)」と記され、毎年1月7日にのみ物忌によって戸が開かれ幣を交換されたという。この本殿の背後には杉の巨木の神木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれる。そのさらに後方、玉垣を介した位置には「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる直径80センチメートルほどの石があり、神宮創祀の地とも伝えられている。
石の間は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は幣殿に接続する。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている。幣殿は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する。拝殿は桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と異なり漆や極彩色がなく、白木のままの簡素な意匠である。これら本殿・石の間・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
拝殿の右前方には南面して仮殿(かりどの)が建てられている。仮殿は「権殿」とも記され、本殿造営の際に一時的に神霊を安置するために使用される社殿である。この仮殿は、元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁の鈴木長次の手によって建てられたものである。構造は桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。仮殿であるため比較的簡素な作りであるが、一部には漆彩色が施されている。なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年(1951年)に現在の位置に定まった。この仮殿は国の重要文化財に指定されている。
境内の参道には西面して楼門があるが、この楼門は「日本三大楼門」の1つに数えられる。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主の徳川頼房の命による造営のもので、棟梁は越前大工の坂上吉正。構造は三間一戸(扉口は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は銅板葺であるが元は檜皮葺であったという。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である。扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になる。楼門左右の回廊は楼門と同時の作であるが、のちに札所が増設されている。この楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財に指定されている。
境内入り口にある大鳥居は、4本の杉を用い、高さが10.2メートル、幅が14.6メートルの大きさである。元々は笠間市産の御影石を用いた石鳥居であったが、平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により根元から倒壊した。これを受けて、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建され、記録が残る1664年から数えて11度目の建て替えとなった。大鳥居は、2本の円柱の上に丸太状の笠木を載せ、貫のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、この形式は「鹿島鳥居」と称されている。用いられた杉の樹齢は、左右の柱が約500年、笠木が約600年、貫が約250年である。柱の土台部分にあたる亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した鳥居の石が用いられている。
要石
要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型。
かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという。過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある。
なお、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる。この要石は「鹿島七不思議」の1つに数えられている。
鹿島神宮と地震に関しては、建久9年(1198年)の「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる。
「ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿島の神の あらん限りは」
また康元元年(1256年)に藤原光俊(葉室光俊)が神宮を訪れた際、要石を「石の御座(みまし)」として、次の歌を歌っている。
「尋ねかね 今日見つるかな 千劔破(ちはやぶる) 深山(みやま)の奥の 石のみましを」
御手洗池
御手洗池(みたらしいけ)は、神宮境内の東方に位置する神池。潔斎(禊)の地。古くは西の一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている。
池には南崖からの湧水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「鹿島七不思議」の1つに数えられている。
鹿園
境内には鹿園があり、神使(神の使い)の30数頭の日本鹿が飼育されている。
『古事記』によると、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされる。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされることに基づき、神宮では鹿を使いとするという。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」に変化したことについても、神使の鹿に由来するといわれる。春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿島神宮の発祥とされている。この鹿島立の様子は、春日曼荼羅の「鹿島立神影図」でも知られる。
参道
鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基があったが、現在は東西南の3基である。西の一の鳥居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鰐川の中にある(位置)。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため、神宮の門前町もこちらの西方側に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている。現在の鳥居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整備により水上から陸上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである。この鳥居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大規模なもので水上鳥居としては日本最大級である。御船祭の際にはここから御座船が出発する。
東の一の鳥居は太平洋に面する明石の浜にある(位置)。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという。
そのほか、南の一の鳥居は古くは神栖市日川にあったが、現在では息栖神社の一の鳥居が代用されている(位置)。北の一の鳥居は神戸原にあったものの久しく失われていたが、平成29年(2017年)に戸隠神社(鹿嶋市浜津賀)前に新たに建てられている。  
鹿島城   鹿嶋市城山
別名 吉岡城  城郭構造 連郭式平山城  
築城主 鹿島政幹  築城年 伝治承年間
常陸平氏の鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校が立地している。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。  
■下妻市
子飼の渡し古戦場   下妻市
子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされる。 
将門が建設しようとした理想郷   下妻市鬼怒
関八州を戦乱に巻き込み、不遜にも「新皇」を僭称した平将門も、実は農民の理想郷を建設しようとしていたのだ、という話をしよう。
下妻市鬼怒(きぬ)の千代川公民館前に「平将門公鎌輪(かまわ)之宿址碑」がある。
このあたりには将門の史跡が多いが、この地は将門の本拠地の一つとして重要である。「建碑由来記」を読んでみよう。
「桓武帝五代の孫、平将門公は鎮守府将軍良将公を父として、坂東の地に生れ、若くして、太政大臣藤原忠平公に仕え、京に在ること十二年、都の腐敗を目の辺りにして、もだし難く、兵を忘れ、自ら汗して原野を拓きつつ、衆庶と共に平和に生きようと発念、相馬御厨より豊田郡に移り、ここ鎌輪(鎌庭)を本郷と定めた。この地は、常総の沃野に連なる八十余町、毛野(鬼怒)の豊かな流れが。三方を囲んで理想郷実現の格好の地であった。しかし、同族等に幾度か挑戦され、鎌輪に在ること七年にして、やむなく石井(岩井)に移り、悲運に仆れた。千有余年の今日、公の真姿が理解され、賛仰の声と変り、私達は郷土の誇り高い歴史をかみしめている。幸いゆかりの地の一隅に、村民憩いの緑地公園が造成されるので一同あい議り、ここに記念の碑を建てる。」
昭和51年といえば、『風と雲と虹と』が放映され将門の再評価が進んでいた。8月9日に碑の除幕式が行われ、翌日に将門公供養盆踊大会が開かれた。この碑も将門ブームに合わせて建てられたのだろう。
近くに旧千代川村役場(現下妻市役所千代川庁舎)があるが、このあたりの地名「鬼怒」は、昭和53年に役場が移転される以前は「廃川敷(はいせんじき)」と呼ばれていた。
結城郡千代川村は昭和30年から平成17年まで存在した。マンホールの蓋には村の鳥ひばり、村の花さくら、村の木けやきがレリーフされている。中心のデザインは村章である。
この辺りを航空写真で見ると、今も川の流れていた痕跡を確認できる。鬼怒川が今の流れになったのは昭和10年のことである。それまで「鎌庭(かまにわ)」という地域は三方を川で囲まれていた。由来碑の言うように「毛野(鬼怒)の豊かな流れが三方を囲んで理想郷実現の格好の地であった」のだ。
ただ考えてみると、碑のある場所は川が流れていたわけだから、「鎌輪之宿址」そのものではないはずだ。鎌輪(かまわ)は現在の鎌庭(かまにわ)と考えられる。同地内を探してみよう。
下妻市鎌庭に香取神社が鎮座している。
この神社は天文二年正月十五日に下総一宮香取神社から分祀されたという。社前に鎌輪の宿に関する説明板があるので読んでみよう。
「平将門公鎌輪之宿址案内 平安時代中期(九四〇年)に描かれた将門記に、「四月二十九日豊田郡鎌輪之宿に還る」とあるのはこの地である。当時、鬼怒川は水量豊かに流れて三方を囲み、八十町歩の平坦な野場は肥沃で、都の腐敗をいとい、農民の苦しみを看るに忍びず、相馬御厨下司職を捨て大地を開いて自ら生きようとした公には最適の地であった。しかし、叔父達の執拗な攻撃にあい、やむなく石井(岩井)の地に移り、悲運の最期を遂げるが、此処こそ平将門本願の地であった。苛酷をきわめた残党狩りに、人は去り、舎屋は焼かれ、千年の歳月はその遺跡を埋没してしまったが、公が本館の所在は、古老の伝承によると「大字鎌庭字館野(新宿地内)」である。市民の皆さんをはじめ、公の大志を慕って訪ね来る方々のために、史書に従い伝承を参考にして案内します。」
建碑由来記とよく似た内容だが、こちらにしか書かれていない情報もある。鎌輪の宿が実際にあったのは「大字鎌庭字館野(新宿地内)」だという。鎌庭地区の中央部らしい。ただし、この香取神社の辺りだという説もあるそうだ。
若き将門は京に上って藤原忠平に仕え、12年間過ごした後に相馬御厨の下司職を得て東下する。その後、「農民の苦しみを看るに忍びず」「大地を開いて自ら生きようと」して、鎌輪(鎌庭)の地に理想郷を建設しようとした。しかし、親族との争いが拡大する中で、やむを得ず石井(いわい)の地に営所を築いて移ることとなるのであった。
ただし一次史料『将門記』では、「鎌輪」は一度登場するのみである。相馬御厨の下司になったことも出てこないので、理想郷を建設しようとした話も本当やらどうやら。ともあれ確かな「鎌輪」の記述を確かめておこう。
「廿九日を以て豊田郡鎌輪の宿に還る。長官詔使を一家に住まわしめ、愍労(みんろう)を加うと雖も、寝食は穏かならず。時に武蔵権守興世王は、竊かに将門に議(はか)って云わく。案内を検するに、一国を討つと雖も公の責めは軽からず、同じくは坂東を虜掠して暫く気色を聞かむ、と。」
常陸国府を滅ぼした将門は、天慶2年(939)11月29日、豊田郡の鎌輪の宿に帰った。宿に常陸介の藤原維幾と詔使を住まわせていたわったが、二人とも穏やかに寝食をとれなかった。そんな折、武蔵権守の興世王は、将門にひそかに話を持ちかけた。「現状から考えますと、常陸一国を奪い取ったのですから、朝廷からの処罰は軽いはずがありません。どうせなら、関東全域を手に入れて様子をうかがってはいかがでしょう」
この提案に将門は「将門が念(おも)う所は、啻(ただ)に斯而已(これのみ)」(おれの考えも、まさにそのとおりだ)と応じた。そして、12月11日に下野国、15日に上野国と、北関東を席巻し、「新皇」に即位することとなるのである。
そうなると鎌輪の宿は、関東略取の謀反を将門と興世王とが共同謀議した場所とみることができよう。新皇への道はここから始まったのだ。いや謀反のような罪深いものではなく、鎌輪の理想郷を関八州へ広げようとした革命であったと見ることもできるだろう。 
子飼の渡し古戦場   下妻市
子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされ、橋の西の袂に標柱が建っているが、日に焼けてしまって解説文の文字を読むことができない。せめて解説板だけは直して欲しいところである。 
千勝神社   下妻市坂井   
茨城県下妻市坂井の旧社
現に茨城県下妻市大字坂井・・・もとの真壁郡大宝村大字坂井・・・に鎮座する千勝神社は、明治維新まで世間一般に千勝大明神と呼ばれ、明治以降は千勝神社、通俗には単に千勝さまと云はれ、祭神も千勝大神と云いならはしているが、本躰は猿田彦命なのである。而もその創始は極めて古く、今より千四百年前に祭られたと伝えられて居る。千勝院内陣秘書の一として草創伝記の一巻が今も保存されて居るが、腐蝕して一寸読み難いけれど、大様左の如く判じられる。
武烈天皇壬午の歳、仲陽初三日、筑波山に雲斂(おさま)り、漁舟[ぎょせん]水に随ひて網せし時、忽然として波上がり、鶏鳴[けいめい]湖上にかまびすし、漁夫等之を窺うに、赭顔にして頭髪逆立ちたる御神、右手に鉾刄、左手に赤白絲を持ち、白鶏に乗りて来り、洲皐一島に登り立ちて宣はく[のたまわく]、みなみな邪道に墜ちて国危し、宜しく祝言歌舞、天地人合躰して王道を興せよと、雲霞の中に其影を没せり。一人の耆漁あり、おのずから祝言祭式に通暁[つうぎょう]することを得、土民を導きて其一島を営補し、始めて三極の祭礼を行ひしが、耆漁たまたま杖を下して一井を穿つや、清水滾々[こんこん]として湧き出で、之を口にすればよく飢を医し万病悉く治平す、かるが故に、世挙つて幸井島と号し、湖辺を開きて水田となすに及び、人家簷を並ぶるに至れり、是を以て土俗春秋に祭奠[さいてん]し年穀[ねんこく]を祈る。
こゝに湖といふのは大昔の鳥羽湖(とばのうみ)のことで、常陸風土記に筑波郡四十里、在騰波江(トバノエ)、長二千九百歩、広一千五百歩、東筑波郡、南毛野河、云々。また、万葉集の筑波山の歌に
新治の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺(ね)の よけくを見れば 長きけに  おもいつみこし 憂はやみぬ
とあるその湖である。又、その頃の毛野河といふのは、源を下野国に発し、南下するに随ひ、東西の二流にわかれ、後に、その西流をきぬ川・・・・・衣(きぬ)、絹(きぬ)、鬼怒(きぬ)などの字をあてた・・・・東の一流をこかい川・・・・子飼(こかい)、蚕飼(こかい)、更に降つて小貝(こかい)と書かれた・・・・と呼ばれたが、その東流は筑波山の西麓に至つて一大潴水[ちょすい]をなし、江海の観を呈したものであらう。現在の地域からいふと、小貝川の両岸に沿ふた一帯の低地がその址(あと)で、西のほうは黒子村の南部から騰波江村、大宝村両村の東辺、高道祖村[たかさいむら]の北部から上野村、鳥羽村にかけて、小貝川の東方にあたる広汎な区域がそれである。
さて、その神様は最初どの辺にまつられたかといふに、下総国に属した結城郡総上村東古沢の小名高地原と称する所で、糸繰川の小貝川に合流する地点、即ち小貝川の西岸、筑波郡の高道祖村に対して居る所である。
今の鎮座地大字坂井は、元来常陸と下総との国境に在つた所から、境、堺とも書き、鎌倉時代以降は、概して境郷または幸井郷と記されてあり、草創伝記に幸井島と見えて居るのも、必ずしもこじつけではない。将門記や足利末葉の下妻古図にも明かに幸井郷と記されてある。
所が、今から千百八十年ばかり前、称徳天皇の神護景雲年間、常陸の郡界を旧川に随つて・・・・旧川とは糸繰川のこと・・・・改修された時、川流が神社にあたる所から、神社を幸井郷の北部に遷されたといふのである。その地点現在は畑地となつて居り、お大日(だいにち)と呼ばれるが、そのお大日の辺から南方へかけての一帯の地域を小名境町と称している。つまり神社の門前に当たるので、門前町としての称呼が生れたものであらう。
そのお大日に一基の板碑があつた。近年坂井部落内の墓地に付属する念仏堂に移されてあるが、碑面には大日如来の像を刻し、下方に正平十年云々の文字が見える所から察するに、この板碑は南朝に関係しての供養塔であらう。
斯の如く神社は常陸国境の高地原から後にいふ境町に遷されたのであるが、それから数百年を経た鎌倉時代、約七百四十年前の建保の初年、親鸞聖人が上野国から常陸国へ移住され、下妻に接した小島といふ所(今は無いが三月寺というのがそれ)に於て、三年の間説法を試みられた際、裏方の恵信尼が、千勝の社頭[しゃとう]に佗居されたといふ事実もある。京都の本派本願寺の宝庫から発見された恵信尼文書に依つて公表された所の、親鸞聖人研究第四十五輯[しゅう]を見ると「さて下妻と申候ところに境の郷と申すところにそうらひしとき、夢を見てそうらひしやうは、堂供養おぼへて東向に御堂は立ちて候に、神楽とおぼへて、御堂の前には、立ち明かりの西に、御堂の前に鳥居のやうなる云々」と、いはゆる恵信尼の御夢想なるものが掲げられて居る。
わが国に渡来した仏教が非常な勢でひろまるにつれ、神をまつる所、いはゆる神宮寺を建つるといふならはしとなり、鎌倉時代以降は一層盛んに、国々の大きい社では何れも神宮寺を設け、住職は別当と称して社務を司り、社僧をして神明に奉仕せしめられた。
わが神社も、足利時代、・・・・・・・・・・思ふに、千勝大明神の称号は、この頃から用いられたものであらう。 
源護陣営   下妻市大串
承平5(935)年2月から天慶3(940)年2月にかけての承平の乱は平将門と平良兼、平国香、前大掾源護との戦いによって幕が切って落とされた。この戦いで護は3人の息子を失い、強力な味方である国香も戦死した。この源護陣営がいつの頃どのような規模で経営されていたのかなど、詳細は不明。  
大宝八幡宮   下妻市大宝
大宝元年(701年)、藤原時忠公が筑紫(つくし)の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりです。天台宗の古い経文の奥書に「治承三年(1179年)己亥七月二十二日の未時書了於常陸州下津間八幡宮書了兼智」とあるため、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかります。平将門公も戦勝祈願のために度々参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられています。 「吾妻鏡(あづまかがみ)」に下妻宮(しもつまのみや)としるされ、文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建されました。
御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと) …第十五代応神(おうじん)天皇(八幡様)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと) …第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと) …神功(じんぐう)皇后(仲哀天皇の皇后)
八幡大神様は、その御代に治山治水・学問・漁猟・商工・土木建築・交通運輸・縫製・紡績、その他あらゆる殖産興業の途や、衣食住等人間生活の根源を開発指導された文化の生みの親神であると同時に、武の道をつかさどる神としても世に名高く、まさに一切生業の守護神であられます。
御霊験はいよいよあらたかにましまし、大宝の御名に示されるように、財運招福の願い、厄除、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産等の諸願を託す人が多く、日々の生活に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、その御神徳は広大にして無辺であります。
歴史
1 八幡宮の創建と白鳳奈良時代の様子
大宝八幡宮は、白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(七〇一)、藤原時忠が、常陸国河内郡へ下向の時、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという。東国平定のための鎮護の神として、八幡宮を勧請したのである。宇佐八幡宮は、莵狭津彦命を祖とする宇佐諸石が、欽明天皇二十九年(五六八)に八幡神を勧請したのに始まるという。八幡神とは、応神天皇を主座とし、文武の神として尊崇されており、八幡宮の祭神として祀られる。
当時の河内郡が現在のどこを特定しているかは不詳であるが、慶安元年(一六四八)七月十七日付の家光公の御朱印状には、常陸国河内郡下妻八幡宮領同郡大宝村云々とあり、江戸時代には、下妻、大宝は河内郡に含まれていたことになる。下妻、大宝あたりは古代には新治郡に含まれており、時代によって河内郡、新治郡、真壁郡などと呼ばれていた。
古事記(七一二)に、日本武尊が東征の時、足柄峠を越えて、甲斐(山梨県)に出、甲府市東方の酒折の宮に御座所を構えた時、次のように歌っている。「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と。これにたいして、火焼きの老人は、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と、歌をついだので、日本武尊は老人を誉めて、東国の国造にしたという。このことから、既に、常陸国の新治、筑波が史書に登場しており、東国の討伐支配が行われていたことが判る。この新治、筑波は、新治郷と筑波郷ともいわれ、筑波の西北一帯を指している。従って、東国平定の鎮護の神として、当地に八幡宮を勧請しても不自然ではないのである。また、万葉集巻第九に、「筑波山に登る歌一首 短歌を併せたり」という雑歌があり「筑波嶺に登りて見れば…新治の鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ…」とあり、筑波山頂から西の方を眺望した鳥羽の淡海(大宝沼を含む)が詠まれており、当時は、下妻市から関城、明野町にかけては、満々と水を湛えた広大な湖沼があったことが判る。この歌は、養老三年(七一九)常陸国の国守として藤原宇合(うまかい・鎌足の孫)が赴任しており、前後して国府の主帳として赴任してきた高橋虫麿が、国司の財政監査のため大和からきた検税使大伴卿を筑波に案内した時に詠んだものといわれるから、七二〇年頃の作と推定される。大宝八幡宮が創建された頃の当地の情景を伝える歌でもある。なお、高橋虫麿は万葉集の歌人でもあり、宇合の下で常陸国風土記の編纂に参加している。
祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后であり、「大宝」という名称は、創建時の年号の「大宝」に由来し、大宝という年号は、三月に対馬の国から金が献上されたので文武天皇が「大宝」と改元したといわれる。それまでは年号で呼んだり、年号をつけずに持統、天武など天皇の御名で呼んだりしていたが、これ以後は年号で呼ぶことが定着している。さて、年号は、タイホウと読むが、大宝八幡宮は、訛ってダイホウと呼ばれている。千古の歴史を秘めた大変目出度く、由緒のある名称である。 仲哀天皇は、日本武尊の皇子であり、応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の皇子で、日本武尊の孫にあたる。日本武尊(小碓命・倭建命)は、古事記の記載によれば、熊夷征伐や東国征伐で知られている神話の伝説的英雄である。
また、大宝元年八月には大宝律令が制定され、律令社会の始まりとなった年でもあり、天平時代の幕開けという、歴史的にも画期的な時期であり、大宝八幡宮は、その後日本の歴史、文化とともに壱千参百年を閲し、その間、何度か火災で社殿等も焼失しているが、その都度再建され、中断することなく連綿として現在に至っている。なお「大宝八幡宮往代記写」によると、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)が大宝二年に、江(騰波の江)の古沢黒島の近くに出た怪しい青火を鎮めたことに始まり「舟守」の社として信仰を集めたともいう。この役小角は、妖言をなし世をまどわすとして、文武二年(六九九)、伊豆島に流がされたが、大宝元年(七〇一)一月に赦免されている。いずれにしても「大宝」という呼称から徴しても大宝元年頃の創建と考えられる。大宝八幡宮に関する奈良時代の記録や史料は見当らず、社伝の言い伝えだけであり、奈良時代の八幡宮についての由緒については詳らかではない。
2 平安時代から鎌倉時代の様子
平安時代の康平五年(一〇六二)、源義家が、安部貞任を討って凱旋した時(前九年の役)、自ら神社に詣で祀田若干を奉り、戦功を賽(祈願成就のお礼)したという。
なお、下妻市二本紀には、前九年の役で義家らに敗れた安部宗任を祭神とする宗任神社がある。その神社の東約一・五キロ離れた、千代川村宗道の地にも宗任を祭神とする宗任神社がある。社伝によれば、天仁二年(一一〇九)奥州鳥海山麓をあとに、神命を奉じ南下した宗任の旧家臣二十余名が、幾多の苦難を踏み越え、下総滑田郷、松岡郷(下妻市内の二本紀あたり)を経て、この地に神示により宗任神社を創建したという。ちなみに、義家に敗れた宗任自身は、康平七年(一〇六四)伊予に流され、三年後には太宰府に移されている。義家が戦功を賽したという大宝八幡宮の近くに、義家に敗れた宗任(安部貞任の弟)を祭神とする神社が、旧家臣団により創建されたとは、実に不思議な因縁である。
「大宝八幡宮之景」によると、文治五年(一一八九)には、源頼朝が、奥羽の藤原泰衡を討ち、平定した九月十八日に寵臣下河辺荘司行平に命じ、摂社若宮八幡宮を勧請し、常陸大掾の支流多気弘幹(下妻荘の下司下妻四郎広幹を指す)をして両社に奉仕させた。この折頼朝は、太刀一振を奉納したという。しかし、弘幹は己れの非徳却って神明を汚さんことを恐れ、常陸国吉田第三宮の神宮寺を勧請し、弘幹の一族常陸国吉田郡の住人石川四郎家幹の一族のなかに第三宮の神宮寺、すなわち、水戸薬王院の別当職 (神宮寺の長、寺全体の事務を司る)を務めていたものがいたので、その人物に大宝八幡宮の別当職を兼ねさせた、とあるが、「大宝八幡宮往代記写」によると、承久の乱(承久三年・一二二一)に際して、都から来た久仁親王が天台宗の学匠に仏教を学び、宝治二年(一二四八)に出家して賢了院と称し、初代の別当になったという。その後、徳治三年(一三〇八)三月九日付で、大仏宗宣(北条系で、下妻荘の地頭)から別当職の補任状(ぶにんじょう・辞令にあたるもの)を受けた源成(吉田薬王院の別当・成珎)が大宝八幡宮に乗り込み、賢了院系別当と争いが起こるが、その後石川家幹の子孫が大宝八幡宮の別当になっていたことも事実であり、薬王院系の別当も何人かは、大宝八幡宮の別当を兼ねていたのである。
史料でも鎌倉時代の後期には、大仏(北条)宗宣(後の十一代鎌倉執権)が、下妻荘の地頭職として、八幡宮別当職の補任権を握っていたことが判る。さて、「八幡宮之景」の説と、「往代記写」の記録とでは別当職を置いた時期が異なっているが、ここは後者の説のほうが信憑性がある。そして、賢了院が初代別当になってからは次第に社領の境内に寺院が建立されていった。後年、旧八月九日、「お墓前祭」といって、初代別当久仁親王の墓前祭が行われていることから徴しても、宝治二年に別当が置かれたとみるべきであろう。
「常州下妻大宝八ケ寺絵図面」には、賢了院、円蔵院、日輪院、円寿院、安楽院、放光院、龍松院、教学院の八寺院が、参道から八幡宮にかけての東側一帯に整然と配置されている。この八ケ寺のあった位置は、南は、現在の大宝小学校から北は保育園に至る広大な一郭である。この他に、寺院関係の弥陀堂、護摩堂、鐘楼などが、社殿の東側と八ケ寺との間に建っており、参道西側には、若宮八幡宮の前に観音堂、虚空蔵なども建っており、絵図面には神仏習合の構成と規模の大きさなどが表示されている。これらの寺院建造物等は、明治の初め、神仏分離のためすべて廃仏棄釈されたが、江戸時代末に飛騨の匠により建造されたという護摩堂だけが遺っており、今は祖霊殿として扱われている。 なお、神宮寺とは、別当寺とも呼び、神仏習合の象徴で、神社に付属して置かれた寺院であるが、明治維新後の神仏分離により、独立したり、廃絶されたりしている。大宝八幡宮の場合は寺院が分離廃絶されたが、今も八幡宮に残る御朱印箱には、常州下妻大宝寺と書かれているし、大宝寺八幡宮と書かれた文箱や文献資料などもあり、往時を偲ばせる。
水海道市豊岡の元三大師安楽寺も、大生郷天満宮の神宮寺として延長七年(九二九)菅原道真の遺児下総守菅原景行が創建したものであったが、現在は夫々独立している。大町の円福寺も、初めは八千代町今里の香取宮の神宮寺として同所に建立されていたが、元亀二年 (一五七一)北条氏政が下妻を攻めた時に兵火で焼失したので、多賀谷政経が大町に移転建立したといわれる。なお、この香取宮も文治五年(一一八九)、源頼朝が奥州討伐の折に創建したものといわれている。
平安時代の常陸国は、桓武天皇系の常陸大掾平氏の一族が土着して筑波一帯を支配していた。平将門の乱も一族内の領地争いに端を発しており、承平五年(九三五)将門と国香が戦った場所は、八幡宮の近辺の大串や明野町の東石田あたりが中心であったから、常陸平氏が八幡宮に関与していたことは十分に考量できる。社伝では、平将門が参籠したり、常陸平氏系の下妻広幹が八幡宮の管理運営に当たっていることなどからも推定できよう。
神宝としては、十一世紀末から十二世紀頃に鋳造されたという唐式鏡と呼ばれる鏡がある。「瑞花双鳳八稜鏡」である。径十一・二センチメートル、白銅鋳製。昭和四十年二月県指定文化財となっている。大宝八幡宮の神宝としてまことに相応しいものである。
3 室町時代から江戸時代の様子
「八幡宮之景」に、「元亀・天正(一五七〇〜九一)の頃、多賀谷修理大夫重経は、戦う毎に勝を祈り感応の著しきを以て小烏刀及び青雲刀を献じ、子孫の安康を祈る因襲、俗(習わし)を為し、崇信神徳に浴する者、毎々に刀剣を捧げ之を社殿に懸け、連綴恰も簾の如し」とあり、このようにこぞって刀剣を奉納したので、大宝八幡宮は「剣八幡宮」とまで呼ばれたという。この頃は、小田原北条氏が常陸への勢力拡大を謀り、度々、多賀谷氏を攻撃しており、両者は熾烈な戦いをしていたのである。だからこそ大宝八幡宮に必勝祈願をしては、刀剣などを奉献していたのである。
「八幡宮之景」は重経だけが刀剣を献上したようになっているが、別の資料をみると三代家植も太刀一振を奉納しているが、この太刀は、享徳三年(一四五四)初代氏家が上杉憲忠を討ったときの太刀で、名は「青雲」、銘は信房という。氏家が憲忠の首級を挙げた勲功もあり、この年、古河公方成氏により、恩賞として下妻荘及び関郡の地の領有を安堵され、それ以後下妻多賀谷氏がこの地を本拠として、大宝八幡宮を信仰、保護し、勢力を拡大して行くのである。六代政経は鎧一領と太刀「雉子尾」・「三刃切」の二振を奉納している。七代重経は佩刀の太刀、流鏑馬の神事を奉納している。このように歴代の当主は何か事あると刀剣等を八幡宮に奉納していたのである。
次に、天正五年(一五七七)、多賀谷尊経(重経)は、二年前に全焼した社寺の再建をしている。本殿は三間社流造という形式で、その後何度か修理や屋根替えが行われ、明治四十二年には解体修理、昭和四十年に屋根替えが行われて現在に至っている。この本殿が明治三十九年(一九〇六)四月、国の重要文化財に指定されたものである。現存する再建当時の棟札墨書銘や擬宝珠刻銘により多賀谷尊経と特定されてはいるが、再建された天正五年の多賀谷の当主は七代重経であり、前年六代政経死去の跡を継いだばかりで、まだ弱冠十九歳だった。なお、尊経は天正七年頃重経と改名しており、七代重経のことである。
余談になるが、重経は、天正八年(一五八〇)には、北条氏照、氏直らの軍勢を飯沼、弓田両城から撤退させ、下猿島に攻め入り、これを傘下に収め、その戦勝感謝のため、兵火により焼失していた大生郷天満宮を再建、鎧、歌仙図、鏡天神図等を奉納した。また、やはり戦火で焼失した元三大師安楽寺も現在地に移し、再建したという。
現在、八幡宮には嘉慶元年(一三八七)に鋳造された銅の梵鐘が遺っているが、この梵鐘は、数奇な運命を辿った南北朝時代の貴重な工芸品である。最初は埼玉県岩槻市の平林寺にあったが、まず慶雲寺に移された後、康正二年(一四五六)には下総猿島郡の星智寺のものとなった。そして、天正八年(一五八〇)多賀谷重経が猿島を傘下に収めた時に持ち帰り、大宝八幡宮に奉納したものという。戦国時代の波乱と興亡の象徴のようである。
飯沼城は猿島町の逆井城のことで、宝徳二年(一四五〇)小山義政の子常宗が逆井城を築き城主となり、逆井尾張守常宗と称した。この逆井尾張守と同人と推定される人物が、梵鐘の碑文の第三区に奉行として刻銘されており、星智寺に梵鐘を移したときに関与したものと推定される。しかし、この小山系逆井氏は、天文五年(一五三六)に滅亡し、天正の頃は小田原北条氏が、この城を拠点の一つとして飯沼を挟んで多賀谷氏と争っていたのである。そして天正八年、多賀谷重経により撤退させられ、北条氏は猿島を失っている。
慶安元年(一六四八)七月十七日、徳川家光から百十五石の朱印状を受けている。下妻の他の寺社の領地は、五石から十石程度だから大宝が如何に別格視されていたかが判る。寛政七年(一七九五)には、光格天皇から、大宝八幡宮の額字及び御紋付紫幕を下賜されている。
4 大宝城と下妻荘を支配した武将達
次に、「大宝八幡宮之景」には、所在地の大宝村と大宝城、そして下妻荘の支配者についても記載されており、大宝八幡宮とも関連するので解説をしておく。「大宝村は、其の初め大掾維幹の二子為幹が後、下妻清氏地頭たりし後、大掾直幹の二子下妻四郎悪権守地頭たりしが、」とあり、清氏や悪権守広幹は大宝村も含んだ下妻荘の下妻(一説には下津間とある)を名乗り、「下妻氏」が誕生している。大掾とは、常陸大掾を指し、常陸の地方官の意であり、平国香の子孫が、代々大掾を世襲して大掾氏と名乗っていたのである。この大掾氏一族が、つくばを中心に勢力を拡大したのである。平将門は国香の甥にあたり、将門の乱は、将門と伯父国香らとの、いわば一族内の領地争いが発端であり、国香は、承平五年(九三五)将門と戦って戦死している。将門もまた、天慶三年(九四〇)国香の子貞盛や藤原氏郷らに猿島郡北山(岩井市)で討たれたという。
参考までに平国香系の常陸平氏(大掾氏)の系図を紹介し、人間関係を整理しておく。常陸平氏の祖は繁盛の子の維幹で、常陸国水守、多気を中心とする筑波地方に勢力を拡大していった。致幹(多気氏祖)は、本拠地多気(つくば市北条)を中心とした筑波西・南麓を、政幹(豊田氏祖)は、下総国豊田を、重家(小栗氏祖)は、小栗を、広幹(下妻氏)は、下妻を、忠幹(東条氏祖)は、信太郡の東条を、長幹(真壁氏祖)は、筑波北麓の真壁などの諸地域を支配し、その居住地を苗字として名乗った。常陸平氏一族の名のほとんどに「幹」(モトと読む)という氏祖維幹以来の一字が用いられているが、これは別の苗字を名乗っても、当時は「通字」により一族を表示する習慣があったからである。
また、「八幡宮之景」には大宝城についても次のように記載し、下妻に関わる常陸平系下妻氏と小山系下妻氏の興亡について記している。「大宝村は、其の初め大掾維幹の二子為幹が後下妻清氏地頭たりし後大掾直幹の二子下妻四郎悪権守地頭たりしが北条義時の為に建久四年に亡び」とあり、常陸平氏の子孫が下妻氏を名乗ったことが判る。なお「北条義時の為に建久四年に滅び」とあるのは誤りで、史実では、小田(つくば市)の八田四郎知家が、広幹を源頼朝に讒した結果、頼朝の命により、知家が広幹を斬首している。かくして建久四年(一一九三)常陸平系の下妻氏は一代で滅亡し、かわって小山左衛門朝政が其の地を頼朝から賜った。しかし「吾妻鏡」によると、既に前年の建久三年に小山朝政を「常陸国村田下庄 下妻宮等」つまり、下妻荘の地頭に補任していたのである。この「下妻宮」とは、大宝八幡宮のことである。知家はまた、小田の隣邑の広幹の兄、多気義幹をも頼朝に讒し、所領を没収、追放している。しかし、所領については義幹の一族、馬場資幹が頼朝から賜り、大掾本家を相続している。
次に、「それより(広幹滅亡後)下妻四郎長政地頭にて、其の孫修理亮政泰に至り延元(一三三六)より八幡宮側の城に拠りて勤王し、興国(一三四〇)に至り春日中将顕時を助けて興良親王を奉じ、関宗祐と応援して、大宝湖の東西にて賊軍を押禦せしこと前後六年の艱苦を尽くし、其の四年両城共に陥りたる」とあるが、四郎長政は頼朝から下妻荘と八幡宮領を賜った小山朝政の孫で、下妻氏を名乗った。この長政の子が下妻政泰であり、孫ではない。「其の四年」とは、興国四年(一三四三)で、十一月十二日、両城は北朝方の高師冬らの攻撃により落城、関宗祐、下妻政泰共に戦死した。かくして、またも下妻氏は断絶してしまう。大宝城は南朝方の拠点となっていたので、北朝方と攻防のかぎりを尽くしていた。
この下妻政泰を悼んで、昭和六年「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑、昭和十八年「下妻政泰公碑」が建立されている。この大宝城は、今はすっかり消滅し、城跡としての面影も殆んどみられないが、今の八幡宮境内地を含む台地一帯が、昭和九年五月、大宝城跡として、国の史跡に指定されている。次に小山系下妻氏の系図と八田氏、そして下妻多賀谷氏の系譜を掲げる。
下妻多賀谷氏は、埼玉県騎西町を本貫とする武将であり、結城家の宿老であったが、氏家が、享徳三年(一四五四)、管領上杉憲忠を討首した勲功により、古河公方成氏から下妻荘及び関郡の地(三十三郷)を安堵され、下妻多賀谷氏の初代となった。氏家は、寛正三年(一四六二)には下妻城を完成し、家植を城主とした。それ以後多賀谷氏は勢力を拡大し、結城家を圧した。七代重経の代には、北は、下館から、南は、牛久市の辺りまでその領域を拡げたが、慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の戦の折、石田三成方に加担したことにより、戦後処理の結果、重経は、所領を没収されて下妻追放の身となり、下妻多賀谷氏は滅亡してしまう。慶長六年(一六〇一)二月十七日であった。まだ四十四歳の時で、その後、重経は秋田、江戸などを放浪し、実子茂光が彦根藩に仕官していたので彦根に移り住み、失意と無念のうちに元和四年(一六一八)十一月九日死去、六十一歳であった。太田多賀谷の三経は、結城秀康(徳川家康の次男で、豊臣秀吉に人質として差し出されていたが、天正十八年、結城晴朝の養嗣子となった)に従い徳川方に加担したので、秀康が越前北庄に、結城十万石から六十八万石に加増転封されたのに従って越前に移り、三万石の柿原城主となったが、慶長十二年(一六〇七)七月二十一日、三十歳の若さで死去している。
一方、下妻の多賀谷宣家は、所領を没収されたあとは佐竹家にもどり、佐竹義宣(宣家の兄)が慶長七年(一六〇二)七月、常陸五十四万石から出羽久保田(秋田市)二十万石に減封された時、従って出羽に入り、慶長十六年(一六一一)には、檜山領(能代市)一万石に配置された。そして寛永五年(一六二八)には亀田城主となり、寛文十二年(一六七二)八月二十七日、八十九歳で天寿を全うしている。かくして下妻多賀谷氏の一族は、各地に四散してしまった。しかし、現在下妻多賀谷氏の流れをくむ多賀谷裕惟氏が、多賀谷家の当主として東京都内に住んでいる。そこで、今回の大宝八幡宮御鎮座壱千参百年祭奉賛会の結成にあたっては、顧問に推戴している。
5 「大宝八幡宮之景」に描かれた当時の情景
明治三十七年(一九〇四)に製版、印刷された「大宝八幡宮之景」の俯瞰図には、克明に八幡宮の配置や当時の情景が描かれている。その俯瞰図には、明治に入って廃仏棄釈された大宝八ケ寺の建造物は、既に姿を消し、別の建造物が描かれている。先ず、正面(南側)の三の鳥居を入り、二の鳥居を過ぎると一の鳥居があり、そこを潜ると参道両側には桜並木があり、正面に拝殿、そしてその奥に本殿がある。拝殿の左側には摂社若宮八幡宮があり、右側には社務所がある。本殿右に黒鳥神社、その右後方に祈祷殿がある。この祈祷殿は、神仏分離されるまでは護摩堂として、江戸時代末に建立されたが、何故かこの建物だけが棄釈されずに残っていたのである。更に、社殿の両側には小祠の末社も数多くあり、神楽殿、額殿、神馬舎、水舎も描かれている。額殿は、現在は破棄され、その跡地に神楽殿が移築されている。社務所の東側には、社司宅があり、その先には駐在所がある。参道の右側一帯には旅館が立ち並ぶ。一の鳥居前を右に曲がると大宝村役場があり、坂を下ると鳥居があり、一般道路に出る。この東の鳥居口を「搦手口」、南の三の鳥居口を「大手口」と呼んでいるのは、かつて大宝八幡宮が、大宝城の中にあったことの名残りである。
そして八幡宮の西の方一帯には、鳥羽の淡海(大宝沼)が描かれ、湖面には、帆掛け船まで描かれている。遠方の景色には富士山と日光山まで配置されている。しかしながら時流と地元の要請で、まもなく「鳥羽の淡海」(大宝沼)は、四年後の明治四十一年から耕地整理が始まり、大正五年には、大宝沼耕地整理を完成している。更に、大正十二年(一九二三)には干拓工事に着手し、昭和の初めにほぼ竣工している。今は田圃が整備され、かつて舟を浮かべた水面は、秋ともなれば黄金の稲穂がたわわに波を打っている。なお、明治八年(一八七五)、大宝小学校が放光院の跡に開校されているが、この図には記載されていない。役場や駐在所は今は跡形もないが、古老はよく覚えている。境内に描かれていた旅館も今は消滅してしまった。そして境内の周囲は鬱蒼とした檜の森に囲まれており、まさに鎮守の森の観を呈しており、「大宝八幡宮之景」は、およそ百年前の八幡宮の荘重な偉容と盛況を彷彿とさせる。なお、神仏分離後の明治の初めには、大宝八幡宮は県社に格付けされている。そしてこの頃には、八幡宮のある大宝村は、江戸時代初期の河内郡ではなく真壁郡に変っており、昭和二十九年(一九五四)四月、当時の下妻町に合併、同六月、町村合併で下妻市となり現在に至っている。
6 現在の大宝八幡宮
   (1) 社殿(本社と境内社)と建造物
大宝元年(七〇一)に創建された、本社「大宝八幡宮」は、祭神として応神天皇(誉田別命)、仲哀天皇(足仲彦命)、神功皇后(気長足姫命)の三柱を奉斎している。祭神は弓矢の神、即ち武の神として古来より尊崇されている。古くは平安時代の平将門ら常陸平氏、八幡太郎源義家、鎌倉幕府を開いた源頼朝、南北朝時代の下妻政泰、そして戦国時代の下妻城主多賀谷氏などの武将が、こぞって参詣し、武運長久・必勝などの祈願をしている。時は流れ、今は財運招福、厄除け、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産の祈願所として信仰崇敬されている。例祭は四月十五・十六日と九月十五・十六日に斎行している。
現在の本殿は、天正五年(一五七七)、時の下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建したもので、明治三十九年四月、国の「重要文化財」に指定されている。本殿の前には拝殿がある。この拝殿は、明治初期に建造された木造瓦葺きの重厚な造りである。後に拝殿としての機能性を配慮した銅葺き廂が取り付けられた。境内には本社の他に摂社、末社など数多くの勧請された神社が、境内社として合祀されている。摂社とは、本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祀った社で、格式は末社より上位にある。末社(枝宮ともいう)とは、本社に付属する小さい神社のことである。そして本社の境内に祀られている神社を境内社と呼んでいる。
摂社としては、文治五年(一一八九)、源頼朝が下河辺行平に命じて勧請させたという「若宮八幡宮」がある。祭神は、仁徳天皇(大鷦鷯命)で、応神天皇の第四皇子である。難波に都した最初の天皇で、人民の貧しさを思いやって租税を免除したという聖帝伝承がある。若宮八幡宮の建物は茅葺きで損傷も出ていたので、現在は保護するための覆い屋が作られ、本殿の西側に鎮座している。また、「黒鳥神社」も摂社として、本殿の東側に鎮座している。祭神は大国主命と少彦名命で、本社が創建される前に当地の地主の神として祀られていた神である。大国主命は、神代の頃の出雲国の主神で、素戔鳴尊の子とも六世の孫ともいう。今は縁結びの神としても知られる出雲大社の主神として祀られている。国作りの神、医薬の神といわれる。なお素戔鳴尊は、天照大神の弟にあたる。狂暴で、天の岩屋戸の変を起し、根の国に流され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。天叢雲剣は、「草薙剣」の別称で、三種の神器の一つである。日本武尊が、東征の折、これで草を薙ぎ払ったところからこの名がつき、後、熱田神宮に祀ったという。 
末社としては、小祠ながらも、先ず、本殿の東側奥に二荒神社(祭神は事代主命、俗に恵美須様とも称えられ、漁猟航海の神、また商売繁盛の神として崇められている。出雲の大国主命の子)、稲荷神社(祭神は倉稲魂命、食物の神、稲の神)、松尾神社(祭神は大山咋命、比叡山の守護神、酒造の神)、鷲神社(祭神は天日鷲命)、熊野神社(祭神は伊邪那岐命、国固めの神、結婚の神)の五社が祀られてある。
そして拝殿すぐ右手には、祓戸神社(祭神は瀬織津姫、速秋津姫、気吹戸主、速佐須良姫の四神で、祓の所を主宰する神)がある。次に、拝殿前参道の西側には、奥の方から雷神社(祭神は別雷神、雷電を起こす神。鬼のような姿をして虎の皮のふんどしをまとい、太鼓を輪形に連ねて負い、手には、ばちをもつ姿態で具象化され親しまれている)、白鳥神社(祭神は日本武尊、大宝八幡宮の祭神応神天皇の祖父にあたり、神話の伝説的英雄として知られる)、大宝天満宮(祭神は菅原道真、学問の神)の三社が並び、神門の近くに押手神社(祭神は押手神、印鑑を司る神)が一社だけ離れて祀られている。
参道東側には、春日神社(祭神は武甕槌命と経津主命、武の神と航海の神)、神明神社(祭神は天照大神と豊受姫命。天照大神は日の神、皇祖神であり、伊勢の皇大神宮の内宮に祀られ、皇室並びに国民崇敬の中心とされている。伊邪那岐命の娘で高天原の主神である。豊受姫命は、豊受大神のことで、食物を司る神として伊勢神宮の外宮の祭神として祀られている)、水神社(祭神は水波能女命、水の神)、愛宕神社(祭神は火産霊命、防火の守護神)、道祖神社(祭神は猿田彦命、天孫降臨の際先導に立ち道案内をした神で、道路の悪霊を防いで行人を守護する神、つまり道祖神として祀られている。今は地鎮の神、疫祓の神、縁結びの神ともいわれる)、浅間神社(祭神は木花開耶姫命、安産の神)、開都神社(祭神は遠秋津姫命)、八坂神社(祭神は素戔鳴尊、厄除けの神)の八社が一列に並んで祀られている。
社殿や末社の他に、建造物としては、祖霊殿(旧大宝寺護摩堂であったが、廃仏棄釈の折にも偶々破棄されずに残ったもので、現在は歴代の別当や宮司とともに神葬家の御霊が祀られている)が、本殿東側に重厚な佇まいを見せている。江戸時代末頃に飛騨の匠によって建造されたという。なお大宝寺八幡宮は、明治元年(一八六八)神仏分離令が出されたのを機に、いわゆる大宝八ケ寺は廃絶され、「大宝八幡宮」神社だけとなり、明治四年には県社として格付けされた。従って、現在は大宝寺の遺構としては、護摩堂だけが、明治には祈祷殿として、そして今は祖霊殿として遺っているだけである。明治の初めに寺院等が、廃仏棄釈された時の残骸の石塔や墓石の一部が、最近まで、境内の裏の方に野積みされ、土や草に埋もれていたが、かつては大宝寺として隆昌していた往時の遺物であったことに心を痛めた山内宮司が、発掘整理し、改めてお祓いをし、慰霊祈祷をしている。
一の鳥居を入ると、朱塗の円柱が目立つ壮大な神門がある。これは昭和天皇御在位六十年を記念して、昭和六十年に建立されたものである。神門を潜ると、左方に歴史資料館と神楽殿がある。歴史資料館には、県指定文化財の「銅製梵鐘」、「瑞花双鳳八稜鏡」、江戸時代に大宝沼から発掘されたという「丸木舟」が格納されている。
その他かつて武将達から奉納されたという刀剣、甲冑類などや考古学的資料の出土遺品など貴重な品々が格納されている。そして資料館の一部は神輿格納庫として使用されている。神楽殿は、かつて本殿の東、社務所の裏にあったが、境内の整備にあたって現在地に移築され、今も祭事の折には、ここで十二座神楽などの奉納が行われている。
拝殿の西側、若宮八幡宮の手前には、神馬舎があり、拝殿東手前には水舎がある。水舎の北東、拝殿の東側には社務所と宮司宅がある。社務所は昭和五十七年、栃木県藤岡町在住の崇敬者井岡ツネ、井岡重雄によって奉献されたものである。社務所入り口の右手には神札等の授与所があり、入り口を入って左奥には客殿も兼ねた奥社務所がある。社殿のある境内神域参道入り口には、銅版化粧を施した大鳥居(一の鳥居)が聳えている。この他表参道(南口)には、二の鳥居、三の鳥居もあり、深遠な神苑の風情を醸している。東参道側の入り口にも鳥居が一基建立されている。
   (2) 神域
東に筑波の山なみを眺め、西北には日光連山を望む大宝の舌状台地に位置する大宝八幡宮は、かつては大宝沼だった穀倉地帯の中にあって、鬱蒼とした木立の森に包まれ、檜の古木や大杉、大王松、銀杏などの大樹が現存する荘厳な神域である。南口三の鳥居と二の鳥居の間は、檜を主に杉その他の木々が天高く、鬱蒼と繁っている。二の鳥居の左手前には、昔この地に大宝城があり、南北朝時代の古戦場だったので、昭和九年、「大宝城跡」として国の史跡に指定されたことを標示する角柱が建っている。右手前には杉の巨木が立っており、思わず見上げてしまうほどである。
一の鳥居の左手前には「なべや」、右手奥には「えびすや」という茶屋があり、参拝客の一服、憩いの場になっている。昔から団子が名物として知られている。四月と九月の例祭はいうまでもなく、春には桜、秋には菊祭りが行われ、多くの人出で賑わう。
神門を入ると参道両側には、崇敬者から奉献された狛犬が列をなして据えられ、拝殿前には、ひときわ大きな狛犬が一対左右に対座している。拝殿軒先には、これまた多くの崇敬者から奉献された吊り灯籠が眩いほどに連なっている。神楽殿の近くには、国歌に歌われている「さざれ石」が台座に乗せて祀られている。
社務所の南には御神木の大銀杏が亭々とあたりを睥睨するかのように聳えている。本殿と社務所の間には、幹周りが二メートル以上はある大王松がすっくと天に伸びている。本殿の裏に廻ると、檜の木立で昼なお暗いほどである。その中に特に太い直幹の一対の檜があり、しかも「連理の根」を成しているので、これを御神木「夫婦檜」と称している。そして御神木には、注連縄が締められている。この檜の木立に囲まれて「贈正四位下妻政泰忠死之地」と刻字された碑と「下妻政泰公碑」が建立されている。碑文には、南北朝時代の南朝の忠臣下妻政泰の事績が記されている。この檜の木立を進み、境内奥に出ると神苑があり、かつての大宝沼の一帯を眺望できる閑静な佇まいであり、訪れる人に安らぎをもたらしている。
   (3) 大宝マチの由来
大宝八幡宮の春・秋の例祭は、近郷近在では「ダイホーマチ」とか、更に訛って「デーホーマジ」と、親しんで呼ばれている。例祭は関東でも屈指の大祭の一つともいわれ、娯楽のなかった時代、昭和の頃までは、近郷近在の人たちにとっては最大の楽しみだった。小学校も臨時休校か早仕舞いになった。参道や境内には、家財道具から農機具、日用必需品の出店や露店の屋台が並び、サーカス、芝居、活動写真、見世物の小屋がかかって、境内は歩くこともできないほどの人出で賑わった。この年二回の「大宝マチ」の期間は、同時にそれぞれ市日として大市も開かれていた。むかし多賀谷氏が大宝八幡宮を深く信仰し、祭礼の八月十五日に領民を社頭に会し、流鏑馬の神事を催した際、領民が、作った物を並べて開いた市(いち)に由来するという。この地方では、祭りをマチと呼び、その際に開かれる市もまたマチと呼んでいた。要するに大宝マチというのは、大宝八幡宮の祭りと社前で開催される市とを意味していたのであるが、現在は時代も変わり、娯楽も商品流通も様変わりしてしまい、往時の市としての機能は自然消滅し、本来の大宝八幡宮の例祭だけを今も大宝マチと呼んでいる。
   (4) 主な年中祭事
社伝によれば、大正時代には、追儺式(旧正月四日)、陪従祭(旧二月初卯の日と十一月初卯の日に斎行。源頼朝が、鎌倉の鶴岡八幡宮に諸侯を陪従させて、参拝した故事にならって始めたものという)、お墓前祭(初代別当久仁法親王の墓前祭)、新嘗祭(十一月二十三日)など多くの祭事もあったが、現在、大宝八幡宮で斎行されている祭事は、次のとおりである。
※ タバンカ祭とは、夜七時から始まる松明祭のことで、全国でも当宮でしか見られない珍しい火祭りである。その起源は、応安三年(一三七〇)大宝寺別当坊の賢了院が出火した際に、畳と鍋ぶたを使って火を消し止めたという故事を戯曲化したのに始まる。
   奇祭神事「タバンカ祭」の概要
当宮の祭事の中でも特色のあるもので、九月十二日と十四日の二夜斎行される。日も暮れ、七時の太鼓の音によって祭りが幕を開ける。この祭りは別名「冬瓜まつり」とも呼ばれ、冬瓜(とうがん)を神前に献ずるが、祝詞奏上の後、御神前に巴型に並べられた畳の中央の鍋ぶたの上の素焼きの盃に御飯と冬瓜を一つずつ盛り付け、玉串拝礼の後、太鼓の音に乗って祭りの所役である白装束の氏子青年七名が、畳や鍋ぶたごとカワラケを拝殿前にほうり投げる。カワラケを拾った人は病気をしないといわれ、参詣の人々が競って拾い合う。次に拝殿前に備えられた二本の大松明(麦わら製)に点火し、勢いよく燃え上がる火を囲んで畳や鍋ぶたを力一杯石畳に叩きつける。この時に発するバタンバタンという音からタバンカの名が起こったという。この御神火で火を点けた松明を一束ずつ両手に持った所役二名が、振り回しながらかけまわる。それを四名の畳(一畳の四分の一)、一名の鍋ぶた所役が交互に火の粉を浴びながら追い掛けたり、逆に追われて逃げ回る。時として参詣の人が追われたりもする。これが終わり、畳、鍋ぶた所役は炎を上げて燃え盛る御神火を囲み、バタンバタンという音を響かせて叩きつけ、消火に努める様を演ずる。松明が燃えつき、祭りが終わるまでの約一時間は、社伝の八幡太鼓の音が鳴り響き、勇壮さをひき立てる。この松明の灯りをもって十二日には、境内末社、十四日には、本社と若宮八幡宮の御幣が新しくされる。
   特色ある「一つもの神事」の概要
奇祭「タバンカ祭」とともに、特色ある神事として、地元の伝承に基づいたという「一つもの神事」があり、九月十五日の例大祭の夜に、現在も行われている。一つ目のわら人形を馬に乗せ、注連たすきをかけた青年が、社殿を三周、手綱は世話人が取る。そして人形を大宝沼に流して終わる。昔、青龍権現に若い娘を人身御供(ひとみごくう)にする風習があった。ある時若い娘の代わりに一つ目のわら人形を作って差し出したら、恐ろしがって以後人身御供の要求は無くなった、という伝承による。近年は馬の代わりに青年が一つ目のわら人形を奉じ持って運んだが、今年からはまた本物の馬を使用して行えるよう準備している。「一つもの」の伝説については、次のように語り継がれている。「むかしむかし大宝沼に大きな白蛇が住んでいました。秋になると、白蛇が大宝近郊の家の屋根に白羽の矢を立てます。するとその家では、娘を白蛇に差し上げなければなりません。差し出さなければ、白蛇の怒りにふれ、大嵐大洪水が起こり、農作物が穫れなくなります。そこで、近郊の人々が集まって考えた末、一つ目のわら人形を作って白蛇に差し出しました。それを見た白蛇は、びっくりして大宝沼から姿を消してしまいました。その後は村々に豊かな稔りが続きました。」里人たちは、それを記念して旧八月十五日の夜に「一つもの神事」として行ったという。なお、白蛇の霊を祀った「青龍権現社」が、八幡宮境内に安置されている。 
■つくばみらい市
普門山禅福寺   つくばみらい市
「平将門故蹟考」に、北相馬郡筒戸村禪福寺の傍らに古き石の卒都婆あり文字なし相馬氏の墓標なりと傳ふ将門の母なりや否尚考ふへし又同寺に安置せる十一面観世音等身の木像は平将門渇仰する所なりと云えり寺領十三石八斗余の朱印ありたり(漢字を一部簡略)とあります。
現在、つくばみらい市となっていますが、元筑波郡谷和原村筒戸で、その又元は北相馬郡小絹村筒戸です。もっと前は、「守谷町の相馬領内にあった」ようです。
「禅福寺縁起」に「人皇六十一代朱雀院御宇相馬小十郎将門平親王承平元辛卯年成建立」とあるように931年、平将門が建立したと云われているようです。「相馬小十郎」は「相馬小次郎」の誤りだと思うのですが、参照した本の誤植か、「縁起」の誤りか、定かではありません。「将門傳説」には、同縁起を引いて「相馬小次郎」としています。
ともあれ、平将門と何らかの因縁のあるお寺でしょう。もう一つ、創立は上にあるように承平元年(931年)とされていますが、開山は貞和元年(1345年)と、かなり時が隔たっています。
本堂は新しく、コンクリート造です。近寄ってみると写真4のように紋は九曜星です。大きな丸の周囲に8つの丸が描かれる九曜紋は、羅喉星(らごうせい、大日如来)、土曜星(どようせい、千手観音)、水曜星(すいようせい、勢至菩薩)、金曜星(きんようせい、虚空蔵菩薩)、日曜星(にちようせい、不動明王)、火曜星(かようせい、八幡大菩薩)、計都星(けいとせい、地蔵菩薩)、月曜星(げつようせい、普賢菩薩)、木曜星(もくようせい、文殊菩薩)を表していると云います。
元々は曼荼羅を簡略化したようで、天地四方の守護仏神信仰と、星を崇拝する妙見信仰との関わりから多くの武士に用いられた紋だと云います。板東市(旧岩井市)にある国王神社でも同じ紋で、北極星(妙見菩薩)を加えて十曜星のところ、北極星は天帝であるからおそれおおいとして九曜にしたと云われているそうです(「関東中心平将門伝説の旅」)。
今のような意味での家紋かどうかはわかりませんが、将門の紋は「繋ぎ駒」であるとされ、ときに九曜星とともに語られます。いずれにせよ、妙見信仰周辺の伝説で、将門を祖先とするとされている相馬氏や千葉氏などにもこの九曜星紋(十から七まで含む)をもつ武将が多くいます。
そして、この紋が分布する地域の範囲と将門伝説分布範囲とは重なるところが多いとも云われています(「将門傳説」)。
将門がなぜ妙見信仰するようになったかは、「禅福寺縁起」のほか「源平闘諍録」にも見え千葉氏が伝承してきたといいますが、小さな子供が将門の合戦での窮地を救い(渡河地点の浅瀬を教えてくれたり、敵の矢を拾ってくれたり、将門が疲れると代わって射てくれたり、なかなか細々と働きます)名をたずねると妙見大菩薩であるといい、十一面観音の垂迹であると名乗ったという話です。以後、将門は信仰を深くするが、のちに妙見さんの方は、将門が奢ったとして離れていくのがあらすじです。
禅福寺には十一面観世音等身の木像があると云うことも、かなり強い将門伝説となる何かがあったことを想像させます。 
妙見八幡神社   つくばみらい市(元筑波郡谷和原村)筒戸
平良文建立と伝えられており、祭神は、妙見と八幡でなく妙見八幡大菩薩という独立した神として祀られています。御尊像は妙見様のようです。  
■取手市
桔梗塚(ききょうづか)   取手市米ノ井
関東鉄道常総線の稲戸井駅の間近、国道294号線沿いのバス停に生け垣で囲まれた場所がある。中を覗くと数多くの石塔が並んでいる。これが取手市にある桔梗塚である。
桔梗塚に葬られているのは、平将門の愛妾・桔梗御前とされる。ただしこの桔梗御前の存在は伝説上のものであって、史実としては不明な点が多い。むしろ桔梗御前に関する伝説は関東各地にあって、それぞれ独自の設定で語られていると言うべきである。最大公約数的な設定としては、平将門の愛妾であり、将門最大の秘密である“こめかみ”に関する情報を敵方に漏らしてしまったために死を迎えたとなるが、それすらも多少の異説があるともされる。
取手の桔梗御前の伝承は、この塚のそばにある竜禅寺に伝わるものである。桔梗御前は大須賀庄司武彦の娘とされ、将門の間には3人の子供がいたという。さらに薙刀の名手とされる。だが、戦勝祈願をした帰り道、この地で敵将の藤原秀郷に討ち果たされたのである。その後、この地は桔梗ヶ原と言われるようになり、このあたりに生える桔梗は花をつけないと言われている。
あるいは、図らずも将門の秘密であった“こめかみが動く者が本物の将門であって、他は影武者である”ことを敵方に漏らしてしまい、口封じのために藤原秀郷に討たれたともされる。いずれにせよ、この地が桔梗御前終焉の地ということになる。
ちなみに、桔梗の花が咲かないという伝説は、漢方薬として桔梗の根が使われることから、根が大きく育つように花が咲く前に摘み取ってしまうからだという説がある。 
親王山延命寺 1   取手市岡
延命寺のご本尊は、延命地蔵菩薩です。その昔、親王・平将門とその一門を供養する為に、この地に安置されました。鳥羽上皇の政務時代、紀州根来の地に覚鑁上人がいました。保安元年(1120)、覚鑁(かくばん)上人の夢枕に、錫杖を振り慣らした地蔵が「我を奉り、供養すれば将門とその一門を救済する」とお告げがあり、覚鑁上人はその地蔵を探すため下総国へ出向きました。地蔵は岡村にて発見し、覚鑁上人は一塚の上に地蔵を置き、一寺を建立されました。お寺は「親王山地蔵院延命密寺」と号し、庵主・覚如を初代山主に定めたのが延命寺の始まりといわれています。

台地の北側にある延命寺は、将門が信仰していた地蔵尊のお告げによって創建された、と伝えられています。山号は「親王山」。桓武天皇の血を引く家に生まれ、最後は自ら「新王」の位について敗れた将門にふさわしい山号です。
この寺の境内には「駒形様」と呼ばれる塚があります。将門が戦死したときに乗っていた馬を埋めたところと伝えられ、風邪をひいたときなどにお参りするとすぐ治るといわれて、信仰されてきたそうです。 
親王山延命寺 2
親王山地蔵院延命寺は茨城県取手市岡に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。延命寺の創建は、紀州根来にいたある僧が、霊夢で平将門が信仰していた地蔵尊が現れ当人が将門の縁者で将門縁の地に地蔵尊を祀ってほしいとの御告げがありこの地に創建されたと伝えられています。山号は将門が自ら「新王」を名乗った事に起因すると云われています。
延命寺の周囲には将門の史跡も多く、将門の墳墓と伝わる大日山古墳(茨城県指定史跡)や仏島山古墳(取手市指定史跡)、愛妾桔梗が住んだという朝日御殿跡などがあります。境内裏には将門の愛馬が埋められた塚があり「駒形様」と呼ばれ信仰の対象になっています。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が貴重な事から昭和53年(1978)に取手市指定有形文化財に指定されています。山号:親王山。真言宗豊山派。本尊:延命地蔵菩薩。 
竜禅寺三仏堂   取手市米ノ井
正面三間、側面三間で左右と背面に裳階(もこし)が付いています。三方に裳階が付く形式の建物は、他に例を見ません。屋根は寄棟造りで茅葺きです。内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には禅宗様の須弥壇が置かれ、三仏堂の名称の由来ともなった釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三体の仏像が安置されています。
昭和60年(1985)1月から61年10月にかけて解体修理が行なわれ、創建当初の姿に復原されました。この時に、永禄12年(1569)の墨書のある木札が発見され、この年代には三仏堂が建立されていたことが裏付けられ、さらに建物の様式などから16世紀前半の建立と推定されます。

竜禅寺(りゅうぜんじ)は茨城県南部、利根川にほど近い場所にある天台宗の寺です。釈迦(しゃか)、阿弥陀(あみだ)、弥勒(みろく)の三仏をまつっていることから「三仏堂」(さんぶつどう)の名が付くこのお堂は室町時代後期の建築であろうと言われ、堂内からは永禄12年(1569年)と記された木札が見つかっています。建造当時の部材が今でも良い状態で残されているということです。正面以外の屋根の下には、建物を取り囲むように細長い屋根付きの構造物がありますが、これを裳階(もこし)と言い、このように建物の三方にあるのは珍しいと言うことです。中国風の禅宗様と和様が混ざった様式、と言うことですが、どこにその特徴が見られるのかは、正直よくわかりません。 
高井城   取手市下高井字馬場
形態 平山城
築城年代は定かではない。
千葉氏の庶流である相馬氏の所領であり、その後、相馬氏の一族とみられる高井氏が居城としていたようである。相馬氏は古河公方に従っていたが、やがて小田原北条氏に従うようになり、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると、相馬氏もまた没落、高井氏も運命をともにしたと考えられている。
高井城は低湿地帯の台地の北端に築かれている。現在は主郭部が高井城址公園として整備されている。
主郭は広く土塁が巡って南に虎口を開く。虎口の先に案内板があり、そこから西へ伸びた道路に沿って空堀が残る。空堀の南の空き地には端に土塁があり曲輪であることがわかる。

長治元年(1104)に将門の後裔・信太小次郎重国が、常陸信太郡から来てこの城を築き相馬家を称し、天正年間(1573〜91)にその子孫が高井氏を称したという。  
■水戸市
愛宕館   水戸市   
(新治郡玉里村下玉里字平・愛宕神社周辺)
愛宕山古墳(頂上に愛宕神社が祭られている)を中心として館があったと伝えられている。南北朝時代延元元(1336)年、北朝方の佐竹義春軍と南朝方の春日顕国・楠正家(瓜連城主)が交戦した大枝(大井戸)の戦いの主戦場となり、愛宕神社も兵火に焼かれたと言う。
玉里村南端近くの愛宕神社周辺が館跡らしい。周囲は畑や墓地、そして正面には愛宕山古墳がある。古墳の頂上はたいして広くないのでここは郭としてよりも狼火台や物見台として使われたと思われる。
愛宕神社   水戸市愛宕山頂
[天慶元年に、常陸大掾平国香が京都の愛宕山から勧請せしもの。はじめ府中に置かれしも、のち長和三年大掾貞幹この地に移すという。]「茨城県市町村総覧」
平国香といえばご存じのように、承平5年(935年)に将門と戦って戦死した人です。川尻秋生先生の「戦争の日本史4 平将門の乱」に、「和漢合図抜粋」からとして[承平五年二月二日、常州石田館において、常陸大掾平国香、相馬小次郎将門と合戦す。時に国香討たれ畢(おわり)ぬ。]とあります。後々将門との因縁浅からぬ平貞盛の父です。
愛宕山古墳   水戸市愛宕町
那珂川を見下ろす台地上に立地し、那珂川流域における最大規模を有する前方後円墳です。墳丘全長は137m、後円部径78m。同全高10m余、前方部幅73m、同全高9mを測る典型的な中期古墳の様相を呈しています。かつて後円墳頂及び裾部において大形の円筒埴輪が発見され、3〜4列に及ぶ埴輪列が存したといわれています。考古学・古代史研究上重要な意義を持ち、地域社会の支配者として君臨した首長の墳墓であることが考えられます。古墳の営造年代は、5世紀前半におかれるものと思われます。 
中根寺   水戸市加倉井町
加倉井にあり、その創立は後堀河朝元仁中(1224年)、今を距てたること約800年前に文寛律師により開山され、行基菩薩の作と伝われている延命地蔵菩薩を本尊(別名意見地蔵)としている真言宗豊山派の古刹である。  
東光寺薬師堂及び厨子   水戸市大場町
年代 江戸時代
この堂は宝形造で、細部様式は禅宗様を基本としています。蟇股(かえるまた)の背面に、享保5(1720)年の墨書があり、建築年代を知ることができます。
堂内の厨子については、様式から鎌倉時代頃の制作とも思われますが、調査により、天正7(1579)年に再建されたものであることが判明しています。この厨子内には、当寺の本尊である木造薬師如来坐像が安置されています。 
■結城市
結城廃寺跡附結城八幡瓦窯跡   結城市上山川字古屋敷乙ほか
結城廃寺跡は、上山川・矢畑地内、鬼怒川の右岸台地上に八世紀前半の奈良時代のはじめに建てられ、室町時代の中頃まで、約700年間続いた大きな寺院の跡です。現在、その面影は残されていませんが、「結城寺北」や「結城寺前」などの地名が、かつてこの地に結城寺があったことを物語っています。
発掘調査により、回廊跡の内側から西に金堂跡、東に塔跡が見つかり、「法起寺式伽藍配置」とよばれる建物の配置であることが判りました。さらに、数多くのせん仏や、五弁の蓮華文が描かれた塔心礎の舎利孔石蓋、たる先瓦など、貴重な遺物が数多く出土しています。これらの出土品から、非常に畿内色が強い寺院であることが窺えます。
また、「法成寺」とへら書きされた文字瓦があり、『将門記』にある結城郡法城寺にあたる可能性が高いことも指摘されています。
結城八幡瓦窯跡は結城廃寺跡北東500mにあり、奈良時代の結城廃寺の屋根に使う瓦を生産した登窯の跡で、これまでの調査で4基の窯跡が見つかっています。 
山川不動尊(大栄寺)   結城市山川新宿
京都の東寺にあったものを、平将門が守本尊として関東に持ち帰ったもので、弘法大師の作と云われている。毎月28日の縁日では、多くの出店と人出で賑わう。
山川不動尊とは、真言宗豊山派 明王山不動院大栄寺が正式な名前で大栄寺の本尊が山川不動尊(不動明王坐像)。平将門公の守り本尊、不動明王坐像は収蔵庫の方に保管されています。弘法大師作で京都の東寺より将門公が持ち帰ったものということです。
このお不動様をもって綾戸城にひそんでいた将門公の家臣・坂田蔵人時幸は、敵の軍勢の前に苦境にたたされ山川沼に逃れて一心にお不動様に祈ると突然の暴風雨に敵も見方も沼に沈んでしまったということです。その後、お不動様が漁師の網にかかり引き上げられ仮に安置されていて、その後大栄寺に祀られたと言うことです。 
結城寺   結城市山川新宿
西暦681年祚蓮律師(それんりっし)により開山と伝えられています。新義真言宗清浄蓮華山結城寺(しんぎしんごんしゅうしょうじょうれんげさんゆうきじ)と号します。
結城寺の歴史は、奈良時代に上山川で建立され、古代から中世にかけて関東地方有数の大寺院としてしられ十世紀前半の「平門記」にあらわれる「結城郡法城寺(法成寺)とされています。鎌倉時代には、結城氏、山川氏の援助を受け栄えましたが、室町時代の結城合戦(西暦1441年)で上杉方の攻撃で、炎上焼失したと伝えられています。
焼失後は、西暦1565年頃に、結城氏の一族山川綾戸城主、山川氏重らによって山川新宿に結城寺として再興されました。 
結城諏訪神社 1   結城市上山川
諏訪神社は茨城県西、栃木県との県境に位置する結城市上山川に 鎮座し ております。創建は天慶三年(940年)この地方において平将門が反乱を起こした事に始まります。
毎年4月3日の神武祭(神武天皇の命日)の時には太々神楽が奉納されます。諏訪神社の太々神楽は茨城県内でも珍しい無形民俗文化財に指定されており毎年多くの方が参拝に訪れます。
御祭神 建御名方命 / 事代主命 / 八坂刀女命
御神徳 藤原秀郷(俵藤太)が平将門討伐の為 創建し、祈願を果たした事から、勝負事・諸難突破として信仰を集めている。
御由緒 創建は天慶三年(940年)、当時新皇を名乗り関東独立の反乱を起こした平将門に対して、藤原秀郷に将門を討つべしとの宣旨が下った。そこで将門打倒の戦勝祈願のために、信濃諏訪大社よ り諏訪大明神を勧請した事が始まりである。 秀郷は当地に陣を張り、敵地の方角へ向けて鏑矢を放ち戦勝を願った。同年2月14日の戦で将門は討ち死にし、乱は鎮圧された。反乱鎮圧の功績により下総、下野両国の守護職となった秀郷は諏訪大明神に戦勝を謝して所持の鏑矢を奉納し、神田等を数多く寄進した。  
結城諏訪神社 2   
上山川諏訪神社とも。通称は諏訪神社。
旧下総国結城の城下町であった結城市に位置する。結城氏の祖とされる藤原秀郷が造営したとされる。 毎年4月3日に行われる祭事において奉納される太々神楽(だいだいかぐら)は茨城県指定文化財(無形民俗文化財)に指定されている。
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) / 八坂刀売神(やさかとめのかみ)-- 建御名方神の妃神。
940年(天慶3年)に藤原秀郷が朱雀天皇に平将門の討伐を命じられた(平将門の乱)際に、諏訪明神に戦勝祈願を行った。 戦勝後、勝利を感謝した秀郷が祈願をした地に諏訪神社を造営したとされる。 後に秀郷の末裔である小山氏、結城氏、山川氏などによって祀られた。なかでも山川綾戸城を居城とする山川氏では歴代の鎮守神として祀られた。
本殿
本殿は室町時代に再建された高さ5.4メートルの木造神社流造の建物で、上山川諏訪神社本殿とも呼ばれる。1737年(元文2年)にも改修された記録が残っている。1974年(昭和49年)12月27日に結城市指定文化財に指定された。
鉄鏃
鉄鏃(てつぞく)は創建時に藤原秀郷が奉納したとされる鉄製の鏃(やじり)。神社造営の由来ともなった戦勝祈願で弓引きを行った際に使用したと伝えられている。1974年(昭和49年)12月27日に結城市指定文化財に指定された。
上山川諏訪神社太々神楽
上山川諏訪神社太々神楽(かみやまかわすわじんじゃだいだいかぐら)は十二座の舞から構成されている神楽であり、毎年4月3日に行われる例祭において、神楽殿で奉納されている。 はっきりとした起源は不明だが、神楽面の裏面に「安永九年播州求之」と墨書が残されており、江戸時代中期に神楽が始まったと考えられている。 この太々神楽は出雲系神楽といわれており、他の神社における太々神楽とも演目の共通点が見られるが、他の太々神楽との大きな差異としては、七座、十二座では餅や菓子が撒かれるという点がある。 また、明治時代より半世襲的な伝承形態をとっている点、専業の神楽師として他の神社から神楽舞の依頼を受ける点なども上山川諏訪神社太々神楽の特徴である。 
鷲神社(わしじんじゃ)   結城市粕礼
粕礼の鷲神社天日鷲命を祭神としており、天慶年間には、藤原秀郷が平将門征伐の戦勝祈願のため、武州太田の鷲大明神を分社創建されたものと伝えられている。元亀年間には、山川讃岐守景貞が造営し、山川庄の総社としている。
祭神は天日鷲命で、非常に長い歴史を誇る神社。939年、平将門征伐の際、藤原秀郷が戦勝祈願のため、武州太田の鷲大明神を分社し創建したと伝えられている。1570年には山川庄の惣社となり、本殿、拝殿、神楽殿が造営された。
鷲明神と七色の沼   結城郡八千代町
山川沼の東北になる粕礼。天日鷲命を祀る鷲明神には、山川沼の大蛇が臍の宮あたりに落としたという尻尾が今も蔵されている。忌部の祖が安房から坂東へ進み、穀木(ゆうき)を植えていったので結城というという。この鷲明神にあった池には、また不思議な言い伝えがある。
昔、酉の日のこと。あるおばあさんが鷲明神に参ると、池の水が瑠璃色に光り、少しずつ色を変えて群青色に染まった。さらも朱色や橙色と、水の色が変わることに驚いたおばあさんは、村の人にこれを知らせた。ところが、後日押し寄せた村の人たちには、全く池の色に変化は見られないのだった。
池の色が七色に変わるなどあるものか、と嘘吐き呼ばわりされて、おばあさんは腹が立ち、来る日も来る日も鷲明神に通ってじーっと池をのぞき続けた。すると、また酉の日に池の水は七色に変わるのだった。すぐにおばあさんは村の衆を連れて来て、この様を見せ、目の当たりにした皆もこの不思議を知ったという。
簀の子橋と臍の宮   結城郡八千代町
昔、山川沼に大蛇の主がおり、のんびりと不自由なく暮らしていた。ところが、沼が干拓されるという話を聞き、離れなければならなくなった。大蛇はあちらこちらと新しい住みかを探し回るも見つからず、毎晩くたくたになって山川沼に帰ってくるのだった。
そんなある晩、村の男が沼のほとりを通ると、見慣れぬ橋があった。ちょうどよい場所に橋ができてありがたい、と男は渡って帰ったが、翌朝行ってみると橋などなかった。周り一面には大蛇のものと思われる大きな鱗が落ちており、男は仰天した。今そこに簀の子橋という橋があるが、「すのこ」とは「うろこ」が訛った言葉だと土地では伝えられている。
また、鬼怒川が大洪水になったとき、たまたまそちらに出かけていた大蛇の主が、その流れにもみくちゃにされて疲れ果てて帰ってきたこともある。大蛇は簀の子橋に鎌首を乗せて眠り込んでしまい、その体は臍まで一、二キロメートルもあったという。この時大蛇の臍のあった所が、臍の宮という名で呼ばれることになった。
ところで簀の子の橋には次のような話もある。この橋の上を葬列が通ると明神様(頭を乗せていた大蛇)が怒って祟るというので、山川沼周辺の村では葬列は簀の子橋を通さず、難儀な迂回をしていた。そこにひとりの法師が通りかかり、橋のたもとで右往左往している葬列を見て不思議に思い訳を尋ねた。
村人が事情を話すと、法師は考え、次のように話した。大蛇が祟るというのなら、首を乗せていた簀の子橋に触れないようにすればよい、筵などを橋に敷き詰め、その上を歩けばよいだろう、と。村人たちはそのようにし、以降これを聞いた近隣の村々の人たちも倣うようになった。今では、筵の代わりに藁を敷きつめて簀の子橋の上を渡るようになったという。
大日向神社の大蛇   群馬県甘楽郡南牧村
大日向神社の御神体は、諏訪湖の大蛇の尻尾だという。尻尾を拾ってきて御神体と祀った。神社周辺は雨沢というが、この地区は不思議と跡取りの男の子が生まれない。生まれても死んでしまい、婿取りのところが多い。
それは、大蛇の尻尾が御神体だから、家の系統が切れるのだ、という。また、大日向神社を拝むと、片目が小さくなるともいう。自分もそうだが、この村にはそういう人が多い。これには次のような話がある。御神体の大蛇の尻尾に、たまたま目玉ができたのだという。神様となったから。
石垣が崩れたので修理しようとして、大きなかなてこを差し込み、ひとつの石をこじったところ、その下に大蛇がいて、一方の目をつぶしてしまった。そのために大日向の人は片目が小さいと。そういう言い伝えがある。
底見ずの池   千葉県柏市
船戸代官所に近い、うっそうとした不動明王の森に、水がれを知らない池があり、村人は底見ずの池と呼んでいた。昔、二人の村人が夜遅くに近くを通ったところ、池のほうから音がし、ぼうっと光るものが見える。
怖々と池に近づいてみると、驚いたことに、金色の鱗を輝かせた大蛇が戯れており、池の水も七色に変わりきらめいていたのであった。この話はすぐ評判になったが、大蛇は印旛沼の主が底見ずの池の主を見初めて通ってきたのだ、などと言われた。
今はもう池もないが、道路脇に、蛇が巻き付いた姿を刻んだ石が立てられている。明治のころには、目や鱗に金箔が塗られていて、これが水に映って子供心に怖かったものだ、という。 
山川綾戸城跡   結城市山川新宿
山川綾戸城跡山川氏の居城として山川不動尊付近に築城される。天慶の乱の時には、平将門が砦を構えたという説もある。城は平城で堀、土塁及び山川沼に囲まれていた。

山川綾戸城は山川晴重の居城として知られています。「関ケ原の戦い」後の1601年(慶長6年)、山川氏は結城秀康の越前移封に伴って移り、一時期天領となりましたが、その後は松平定綱、水野忠元が入封して下総山川藩の藩庁として使用されました。水野氏の転封後、再度天領となり、幕末まで代官が置かれていました。現地の遺構はほぼ消失していますが、三の丸の土塁や堀の一部を確認することができ、案内板が建てられています。

山川綾戸城は、もともとは結城城の支城として築かれたものであると思われる。平将門の築城伝説もあるが、平将門関連の他の城と同様にそれは伝説の域を出るものではない。寛元元年(1243)に、結城朝光の3男五郎(大夫判官)重光が父からこの地を譲られて山川荘地頭となり、山川綾戸城に入城したというのが実質的な城の始まりであったろう。その後も代々結城城の有力な支城として用いられてきたと考えられるが、大阪の陣の後、結城氏が越前に移ると、当地の結城氏もそれに従っていった。
しかしそれで廃城になったわけではなく、その後も綾戸城は近世初期までは城として用いられ、伊東備前守、松平越中守、水野監物、太田備中守と城主はめまぐるしく替わったが、寛永16年(1639)に太田氏が遠州掛川に転封した後には廃城となった。後に正徳元年(1711)、鳥居伊賀守が壬生藩主となり山川を領した際には、この城跡に代官役所を設けたので御陣屋とよばれていたという。この御陣屋は幕末まで続いたが、明治維新後に廃止されることとなる。
また、城址の北西500mほどの所に水野家の歴代の墓所がある。その中に水野忠邦の墓もあるのだが、天保の改革で有名な水野忠邦の墓がここにあるというのも意外な気がする。水野忠邦は肥前唐津や遠州浜松の藩主だったからである。水野氏が山川3万5千石の大名となっていたのは江戸時代のごく初期の頃のことであるが、水野氏はそのことを栄誉と感じ、国替えになった後も当地に万松寺を建立して菩提寺としていたという。そのため墓所がここにあるというわけである。万松寺は1855年の火災によって焼失してしまったが、墓所だけがポツンと畑の中に残されているのであった。 
結城城   結城市結城
室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。
小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。
その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった
文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。
小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。
廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。
元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。
戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。  
■龍ヶ崎市
安楽寺   龍ヶ崎市川原代町
安楽寺は茨城県龍ケ崎市川原代町に境内を構えている天台宗の寺院です。安楽寺の創建は平安時代に平国香の子貞盛が開いたと伝えられる寺院で、境内は承平5年(935)に平将門と国香が戦った藤代川合戦の古戦場だった推測されています。安楽寺の境内周辺には平国香の墓碑とも供養塔とも云われる宝筐印塔があり興味深いところです。天正16年(1588)には多賀谷政経と岡見宗治が合戦となり、敗れた岡見宗治は安楽寺に逃れ、裏門から舟に乗り落ち延びたと伝えられ、安楽寺も兵火により多くの堂宇や寺宝、記録などが焼失しています。
安楽寺の寺宝である鰐口は南北朝時代の制作され文和2年(1353)に大勧進沙門が賢海法印(天台宗の高僧)が安楽寺に来住されたのを記念して納めたもので、詳細が左右に彫銘に記されています(右「総州相馬郡河原代安楽寺鰐口也・天台堅者賢海法印住之砌」・左「文和二年癸己六月十九日大勧進沙門榮金」)。安楽寺鰐口は昭和33年(1958)に茨城県指定重要文化財に指定されています。山号:恵雲山。院号:蓮華院。宗派:天台宗。 
星宮神社   龍ヶ崎市若柴町
若柴町の金竜寺の近くに、星宮神社(ほしのみやじんじゃ)はあります。星宮というロマンチックな名にはこんな由来があります。
「この社の祭神天御中主大神は、天地が創造されたときに、最初に高天原に現れた造化三神の元首で、高天原即ち天の真中に座し、神徳あまねく、宇宙主宰、無始無終、全知全能の創造主である。天の真中とは北斗七星(北極星)と考えられ、星宮神社の所以である。延長2年(924年)、肥後の国八代郡八代の神社から分霊勧請して祀った」(社伝)。
また、「土浦城主・常陸大掾平貞盛が、この神の信仰厚く、天慶3年(940年)に社伝拝殿を建立し、寄進した」とも伝えられています。
現在の社殿は、江戸時代に全氏子によって再建され、平成元年に社殿の修理、拝殿の改築がなされています。 
■結城郡八千代町
御所神社   結城郡八千代町
御所神社は、平将門を御祭神として祀る神社で、将門の館跡(仁江戸の館)であったとの伝承があるらしい。「桔梗の前」という愛妾を住まわせていたと伝えられている様だ。しかし将門の居館として『将門記』に記載されているのは、鎌輪の宿と石井営所なので、実際に仁江戸に館があったのかは不明。居館ではなく、将門によって郷村統治の為の陣屋が置かれた可能性もあるだろう。また一説には堀田道光と言う人の居館であったともされるが、堀田氏の事績も不明である。いずれにしても「御所」の名が示す通り、将門伝説を語り伝える地の一つであることは間違いない。 
尾崎前山遺跡製鉄炉跡地   結城郡八千代町尾崎
尾崎前山遺跡製鉄炉跡地(おさきまえやまいせきせいてつろあとち)
尾崎前山遺跡は、昭和53年(1978)から55年にかけて発掘調査され、斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場、作業場などの施設が発見された。
また台地上からは竪穴住居跡や鍛冶工房跡も発見された。
当初、製鉄炉は住居跡や工房跡と同時期の平安時代(9世紀頃)に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後、調査事例の増加に伴って研究が進展し、尾崎前山遺跡の製鉄炉跡は8世紀にさかのぼる箱型の炉であった可能性が指摘されている。 
鏡が池   結城郡八千代町菅ノ谷
むかし、新井の北西、九下田の川村と境を接するあたりには10アールほどの「鏡が池」と呼ばれる池がありました。周囲を老杉がおおい、昼なお暗い池を訪れる村人はほとんどおりませんでした。緑色の水をたたえた池は底なしのように深く、大蛇が住んでいるとさえうわさされていました。さて、承平天慶の乱で叔父の国香、源護の息子らに襲われた将門は、ようやくのことでこの鏡が池のほとりまで逃れてきました。しかし、森のまわりは敵がいまだ取り囲んでおり、たやすいことでは脱出できそうにありません。そこで将門は一計を案じました。将門にはいつも七人の影武者が付き従っていましたが、それぞれに命じて馬から池のほとりに降りさせました。そして鏡のように凪いだ池にめいめい自分の姿を映しださせ、それぞれを将門そっくりに変装させたのです。
まもなく味方でも全く見分けがつかないくらいに似た、七人の影武者ができあがりました。それを確かめると将門は再び馬にまたがり、敵が待ち受ける森の外へ飛び出しました。国香や護の子どもたちには誰が本物の将門か分かりません。そうこうしているうちに将門は無事自分の領地へ戻ることができました。
鏡が池にはこの他にも不思議な伝説が言い伝えられています。ある時ひとりの男が夕暮れ近い七つ(午後5時)すぎ、この池のほとりを通り過ぎようとしました。すると突然一陣の疾風が森を吹き抜けました。何事だと思い池の端で足を止めた男は、何気なく池をのぞきました。すると湖面には青白い月明かりに照らし出された大きな剣が一振り、白々と映っているではありませんか。それを目にした男は「ぎゃー」という叫び声をあげると、一目散に逃げ帰ったと言うことです。
またある時、やはりひとりの女がこの池のそばを通りがかりました。すでに鏡が池の不気味なうわさは耳にしていましたので、足早に通り過ぎようとしたところ、つい何気なく池の水面をのぞいてしまったのです。すると湖面にはなんと大きな鏡が映し出されていました。びっくり仰天した女はその場で腰を抜かし、へなへなと座り込んでしまいました。
こんな不思議な言い伝えが残っている鏡が池には、大正時代まで東岸に土塚がありました。その塚の頂には見ざる・聞かざる・言わざるの三猿の碑が建っていたそうですが、いつのまにかその塚もなくなり、砂利取り場や水田へと姿を変えました。そして今では辺り一帯は広々としたゴルフ場になっています。 
鹿嶋神社   結城郡八千代町野爪
鹿嶋神社は、平安時代大同元年(806年)に藤原音麿によって建立され、その後兵乱や災害の度に再建されてきた。現在の本殿は、室町時代永享年間(1429年〜1440年)の様式を基本とし、江戸時代天明3年(1783年)に当時の様式を取り入れて完成されたものである。
様式は一間社流造で、切妻芦茅葺(現在は銅板葺)、桁行・梁間・向拝各1間(東西6.9m、南北4.6m)高欄と脇障子附回縁のある総欅造の建造物である。 
舘澤天満宮   八千代町新地
「舘澤天満宮建築記念之碑
鎮座地  八千代町大字新地小字舘澤508八番地
祭神  菅原道眞公
由緒沿革 創立(1100年前頃) 高望王第五世の孫、平良文という位の高い方が、この地方を治める。後に村岡与五郎と改名。天慶二年(939)、陸奥守となり、鎮守府将軍を兼ねていた時に、澤の上に城郭をつくり舘澤といって、多勢の人々が出入りするようになった。その当時、崇拝されていた、菅原道眞公を祀ってた舘澤天満宮と稱して信仰させた。また、皮膚病の神として信仰され、山椒の樹を奉納する風習がある。
合祀 明治四十六年六月、鹿島、香取両神社合祀とする。」 
医王山善福院   猿島郡境町横塚
第五番札所 真言宗豊山派
ご詠歌 横塚と 聞けどすぐなる 道野辺(みちのべ)の 草木もなびく 法(のり)の御庭(みにわ)に
見はるかすというほど広々と視界が開ける長井戸沼干拓地の西側、宮戸川に架かる橋のほとりに善福寺がある。以前、善福寺はもっと沼寄りにあったが、長井戸沼土地改良事業が進むに従い、現在地に落ちついたという。
ご本尊は阿弥陀如来で、開山は平安時代の承平(承平1年・931年)のころ、と伝えられている。
第五札所の聖観音菩薩は漆箔が施され、あたたかい眼差し、優しくほほえまれるご尊顔は、今にも私たちに語りかけくださるような観音さまである。
境内に寛保三年(1743)と銘を刻む宝筐印塔が造立されている。この塔は亡くなられた方の菩提を弔うため「宝筐印陀羅尼」という経文を納めるものである。この塔にも竹筒に経文が納められている、と伝えられていた。それまで道路端に建っていた塔を、現在の所に移すために解体した折、いい伝え通りその経文があった、という。
山号の医王は病気を治して下さる薬師如来のことで、本堂に観音さまと並んで祀られている。当寺の薬師さまは六十年目の寅とら年どしの四月の初寅はつとらの日に開帳する、という秘仏で、その仕し来きりは地域の方々によってかたくなに守られている。  
石田館(平国香居館跡)   真壁郡明野町東石田
『新編常陸国誌』には「真壁郡東石田村矢田と、筑波郡大島村糸川との間にあり、東西大約三町、南北二町許、土塁断続して各所に存す、其大島村に属する地は、陸田にして、本村の部は水田たり、北方残隍あり、(中略)承平中平國香之に居る、五年乙未二月、平将門来り攻め、國香自殺して館廃す、といえり」と書かれている。
平国香の居館があった場所で、国香が野本合戦で将門に追い詰められて自殺した所といわれている。 
女の館   下館市
女方(おざかた)の女の館に住む桔梗の前を使い将門の影武者の秘密を知った藤原秀郷が、女方の地で将門を討つ物語。  
八坂神社   かすみがうら市西成井
祭神 須佐之男命 (素戔嗚尊)
939(天慶2)年の創建とされる。 毎年7月21日以降の土日曜日に行われる同神社の祇園祭には、「西成井のひょっとこ」として親しまれている かすみがうら市無形民俗文化財「成井囃子」が奉納される。 
平良兼館   真壁郡真壁町羽鳥字北坪
竜崖城とも。この城は十世紀、平将門の叔父にあたる平良兼の館と伝わっています。『将門記』には良兼の館が羽鳥にあったと記されており、その館がここで取り上げる山の上の城とされているのです。(中略)このように見てくると、この城は十世紀の館跡ではないことが分かってきます。造られた時期は、戦国盛期以降、それも関ヶ原合戦時点に、水戸方面と真壁地域を結ぶ戦略路を確保し、また真壁地域のどこへでも軍勢を押し出せるように、纏まった兵力が在陣する城だった可能性が考えられます。 
御出子城(おんでしじょう)   筑波郡谷和原村筒戸字御出子
この城は守谷の相馬領内にあって、相馬氏の城である。「将門はこの地の女性を寵愛し、一子をもうけて若松と名づく。立派な風采をしていたので「御出子」といった。これが地名になって「御出子」というようになった」という伝承が残っている。天正年間(1573〜1591)に相馬小三郎親胤が城を造り、御出子城といった。
「御出子の台地全体を昔から御出子城と言っている」と説明してくれた御出子在住の老人もいる。

将門とこの地の女性(車御前?土豪・中村庄司の娘)との子どもで、「若松」と名づけたという。その子は立派な風采をしていたので、将門の叔父の良文が「あぁ、御出子」といい、これが地名になったという伝承が残る。  
黒前神社   日立市十王町黒坂
竪破山(たつわれさん) / 久慈・多賀両郡の間にそびえる標高658mの山で、北の花園山、南の神峰山に連なり「花園花貫県立自然公園」に含まれます。慶長3年(1598)徳川氏が天下をとるまでは、常陸地方は佐竹氏が領有しており、830年頃から布教した仏教の山岳信仰の霊場のひとつでした。山内には、それら修験僧の墓が現存しています。この山は、大昔から「神の山」として崇められ山の名を「角枯山(つのかれやま)」といい、黒坂命が凱旋途中に病により亡くなった地であり、八幡太郎源義家が奥州征伐へ向かう時、戦勝祈願をした地という伝説を残しています。また、常陸国風土記では、黒坂命が土賊(洞窟を住処とする凶暴な者で罪もない人々を殺すなど悪行を重ねていた)を、野に生えていた茨棘(いばら〜とげのある低木で作った柵)で塞ぎ退治したことから「いばらき」の地名を残したと言われ、信仰と伝説の山とされています。登山道に点在する巨岩奇石は、水戸光圀翁により「三滝七奇石」としてその名がつけられています。登山道850m地点からは、ブナ原生林が育成するなど貴重な自然を残す山でもあります。
八幡太郎義家が、陸奥の蝦夷の乱を鎮めるため、竪破山に登り戦勝祈願した折り、大石の前庭に陣を引いて野宿した。義家は深い眠りの中で「黒坂命」と出合い、目が覚めると、一振りの黄金づくりの刀があった。その刀を振り下ろすと大石は、びしっびしっと不気味な音を発し真っ二つに割れた。一説にはこのことにより、「竪破」の名が起こったともされている。大きさは7m×6m、周囲約20m。
隠居した水戸光圀翁がこの山に登った折、「最も奇なり」と感銘し石の名をつける以前は「磐座(いわくら)」と言って、神の宿る石として、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上ることはできませんでした。
甲石並十二神将由来 / 甲石(かぶといし)はもと竪破和光(たつわれわこう)石という。この石の中に薬師如来がいて幾筋かの破れ目から知恵の光を出して参詣者の健康に力をあたえるといって病気平癒の為信仰され、近年は受験者が希望校に合格できるといって参詣する人もいます。正面の窟内には薬師如来の守護神の十二神将が祀られています。 
正宗寺(しょうじゅうじ)   常陸太田市増井町
正宗寺 萬秀山正法院と号する寺院で、延長元(923)年に平将門の父良将が創建。
創建当初は勝楽寺と号し、律宗で奉仕されていました。その後、貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を、暦応4(1341)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き、同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。
勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えたが、正宗寺は佐竹氏の菩提所として、関東十刹の一つに挙げられるまでに繁栄。徳川の時代にも朱印100石を受け、12の末寺を有するまでになりました。境内は約5,300平方メートル、堂宇は本堂、庫裏、総門などを備えていたが、天保9(1838)年に総門の一部を残して焼失。現在の庫裏と本堂は、それぞれ天保10(1839)年と明治3(1870)年に再建されたものです。
寺伝では慈覚大師の作とあるが、様式から鎌倉時代に建造されたものとみられます。本尊の木造十一面観音菩薩坐像をはじめ、多くの寺宝が茨城県や常陸太田市の文化財に指定されており、境内には佐竹氏代々の墓と伝えられる宝篋印塔や、「助さん」のモデルとされる佐々宗淳の墓があります。  
 

 

 
■埼玉県

 

■入間市
三輪神社   入間市中神
祭神 大物主櫛甕玉命
相殿 宇賀彦命・宇賀姫命
境内社 神明神社・愛宕神社
三輪神社は、入間市中神にある三輪神社です。三輪神社の創建年代等は不詳ながら、かつて当地に翁と媼が住んでおり、琵琶を弾いていたことから、村人が彼らを国津神と唱え、当地を中神村と現社地辺りを比和野と呼ぶようになったといいます。藤原秀郷が承平6年(936)に当地を訪れた際に、比和大明神と称して社殿を建立、以後当地の領主より崇敬を受け、万治3年(1660)には三輪大明神を相殿に勧請し、社号を三輪大明神と改めたといいます。
三輪神社の由緒 1
(中神村) 三輪明神社
新久・根岸・中神三村の惣鎮守なり、往古は琵琶明神と唱へしが、萬治年中吉田家より命じて、今の如く改めし由、その所以はしらず、神司の説に當社は宇賀彦・宇賀姫の二神を合殿とし、琵琶明神とはいへりと、縁起に往昔老翁婆常に此地に来り、相共に琵琶を弾ぜしかば、村民共に是を國津神と呼べり、因て此村名を得たる由、又朱雀院の御宇承平六年鎮守府将軍秀郷、田獵の折から此地を過り、琵琶の音を聞、その所に至て見れば白髭の翁なり、秀郷怪みて問ひしに、吾等は宇賀彦・宇賀姫なり、豊熟を祈り民の安堵を護れるなりと云ひし故、秀郷新に此一宇を建立せりと云り、此社傳は取べき事に非れども、姑く其傳るままを記せり、神職枝久保近江慶安の頃より世々神職たりと云。
愛宕社
村内豊泉寺の持。
三輪神社の由緒 2
三輪神社 入間市中神三四五(中神字坂上)
桂荘一一ヵ村は、加治丘陵の南麓を流れる桂川(現霞川)に沿うように集落が分布し、これらを結ぶ通りは根通りと呼ばれ、川越と青梅を結ぶ御嶽道であった。
当地は、この旧桂荘の中央にあり、南北に細長く、北は丘陵となり、中程には集落、南には茶畑が広がる。さらに南の陸軍飛行場跡には開墾地として戦後他所から移り住む者が多かった。
当地には、古代、幾百歳という翁と媼が住んでおり、琵琶を弾いていたことから、村人がこれを敬い、国津神と唱えた。故に当地を中神村と呼び、現社地辺りを比和野というようになった。
その後、承平六年九月藤原秀郷が、この地に狩を催した折、琵琶の音を聞き、人を遣わし探させたところ、翁と媼であった。秀郷の問いに、翁は「宇賀彦宇賀姫也五穀守護としてここに遊べり」と答えた。これより当地に社を祀り、比和大明神と唱えたという。また、建久年中には金子十郎家忠の信仰が厚く、当社に武運長久を祈願した。文明四年、東国の大干ばつに際し、足利将軍源義政により住民に米銭が施された。この時、大破した当社は代官により補修された。次いで正保・慶安のころ、当社祠官枝窪家四代右京大夫藤原忠国は、当社の荒廃を憂え、時の県守の神保四郎右衛橘政利に計り、助成を受け、更に、新久・根岸・中神の三ヵ村の氏子二五名からも寄進を募り、万治二年二月に再興なった。翌三年二月、大和国三輪大明神を相殿に勧請し、社号を三輪大明神と改めた。現在、主祭神は大物主櫛甕玉命で、宇賀彦命・宇賀姫命を配祀する。
本殿裏にある朱塗りの社には神明神社と愛宕神社が祀られているが、これらは昔、中神の北にある共有林にあった愛宕神社と、その境内石宮であった神明神社を、大正元年の本殿新造に伴い、旧本殿を後方に下げて、この中に合祀した。また、現在、本殿は東を向いて建っているが、旧本殿は富士山を背に東北東を向いていたという。
祀職は、室町後期の枝窪大和守藤原義国を初代とする枝窪家が代々神職を務め、現在一六代目に当たる枝窪邦康が奉仕する。
枝窪家系図によると、初代義国が天文一二年一〇月に明神ノ内宮を納めたことが記されており、現在、本殿には、この時納められたと思われる腐朽した男女の神像を安置している。
また、初代義国が、大和から当地に下る時に守り本尊として持ってきたと伝えられる薬師三尊像が枝窪家邸内の一隅に祀られているが、近年までは同地にあった薬師堂に祀られていたものである。この薬師堂は一二日が縁日とされ、眼病などの平癒祈願の参拝も多かったという。そのころは、当地から青梅まで七つの薬師堂があったことから、七薬師として信仰を受けていた。
■加須市
加須千方神社   加須市中央
社号 千方神社
祭神 興玉命
境内社 八坂社、稲荷社、恵比須大黒神社、浅間
加須千方神社は、加須市中央にある千方神社です。加須千方神社の創建年代等は不詳ながら、藤原秀郷の六男で下野鎮守府将軍だった修理太夫千方を祀り、江戸期には加須村の鎮守社となっていました。明治5年村社に列格、明治7年稲荷・浅間・諏訪・八坂社を合祀、大正2年に千方社を千方神社に改称しています。
加須千方神社の由緒 1
(加須村)
千方社 村の鎮守なり、大聖院の持、下同じ、
諏訪二社 浅間社 稲荷社 八幡社 牛頭天王社
加須千方神社の由緒 2
千方神社 加須市中央二-五-二七(加須市字康良居)
千方神社の名は、その祭神である修理太夫千方(藤原秀郷の六男で鎮守府将軍。社伝によれば、この地方で仁政を行った功績を讃えて祀ったものという。)に由来するが、現在祭神は興玉命となっている。かつては千方社と称し、大聖院の持ちであったが、神仏分離によりその管掌を離れ、明治五年に村社となり、同七年には稲荷社・浅間社・諏訪社・八坂社を合祀している。大正二年五月二日に社名を現行の千方神社に改め、同年一〇月より着工した社殿改築工事も、同七年一一月に完成し、盛大に遷宮式が挙行された。
境内は加須駅近くの市街地にあり、一二九〇坪と広いことから、数年前から公園化が進められており、ベンチ・東屋・水飲み場なども設置され、市民の憩いの場となっている。
また、その一角には、昭和三一年市指定文化財となった「石敢當」と刻まれた石碑がある。石敢當は中国の習俗の伝播とされ、日本では、沖縄・九州地方に多く見られるが、関東地方では極めて珍しいものである。一般に石敢當は、道の突き当たりや、辻の一角に魔除けとして立てられるものであるが、当地においては、加須町の青縞取り引きの市の守護神として、文化一四年、当地の碩学穂積恭が五十市の村部の世話人と共に建立したものである。古くは加須本通りの北側に祀られていたが、昭和二九年当社境内に移された。
加須千方神社の由緒 3
当神社の創建年月日は明らかでない。社伝によれば下野鎮守府将軍修理太夫千方を祀ったと伝えられている。『風土記』によれば加須村の鎮守で、大聖院持ちとされている。
明治五年(一八七二)五月、神仏分離に伴う社格の制度化によって村社に列し、同七年中には、稲荷・浅間・諏訪・八坂(旧称牛頭天王社を改称したもの)の無格社を合祀している。大正二年(一九一三)五月二日には、千方社を千方神社に改称している。同年十月九日には、本殿・拝殿の改築許可を得て建築に着手、大正七年十一月二十九日には全設備の完成により盛大な遷宮式を挙行した。下って昭和六年(一九三一)九月十六日には、神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
■川越市
古尾谷八幡神社   川越市古谷本郷
社号 八幡神社  (旧県社)
祭神 品陀和気命・息長帯姫命・比売神
境内社 稲荷神社
古尾谷八幡神社は、川越市古谷本郷にある八幡神社です。古尾谷八幡神社は、慈覚大師が天長年間に巡錫した際灌頂院を創建、再訪の際に石清水八幡宮の分霊を祀り、貞観4年(863)当社を創建したといいます。源頼朝や、当地領主古尾谷氏など武家の崇敬を集め、天正19年(1591)には社領50石の御朱印状を拝領、古尾谷庄の総鎮守だったといいます。明治4年郷社に列格、大正4年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社を合祀、昭和4年県社に列格したといいます。
古尾谷八幡神社の由緒 1
(古谷本郷)八幡社
天正十九年社領五十石の御朱印を別當灌頂院に蔵せり、古尾谷庄に屬せる本郷上村・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高嶋・八ツ嶋・大久保・古市場・澁井十三村の惣鎮守なり、拝殿幣殿内陣皆銅瓦をもて作れり、神體は坐像束帶にして笏を持せり、本地佛は銕盤内に三尊の彌陀を鋳出せり、其さまいと古色なり、當社は元暦元年源頼朝勧請し玉へるよし、別當灌頂院に蔵せる元文の頃當院學頭眞純が書ける記録に、五十六代清和天皇貞観四年に八幡宇佐より移男山及至同朝に八幡與諏訪明神勧請武州古尾谷寛永十九壬午迄七百九十一年永禄六年に氏政氏康父子出馬此時大宮七社同古尾谷佐々目の兩八幡並水判土の堂を焼右八幡社頭勧請及焼失之略者依廣海記録中令筆記者者也とあり、もとより取べきことのみに非ざれども姑く其儘を記せり、さはあれ天正十九年の御朱印に寄進八幡宮武蔵國入間郡古尾谷内五十石如先規令寄附訖云々とあれば、先代より附せし地もありていと舊き鎮座なることはしるべし。
神寳
太刀一腰。中筑後守が所持の品なりといへば、この人の歿後にここへ納めしものなるべし、兼光の銘あり、真鍮をもてすべてのつくりをなせり、其さま天正年間の物ならんか、今は金具も大に破損し、古の形を失へり。
短刀。銘は兼景たり。
蚫貝。貝の中に天照太神の文字見ゆ、當社の寳物とす、傳を詳にせず。
楼門。爰に鐘をかく、正保年間の銘文にて少しく事歴にわたりたれば姑く左にのす(銘文省略)
末社。
辨天社、天満宮社、天照太神宮、春日、住吉、加茂、熊野、諏訪、鹿島、愛宕、稲荷、辨天、富士、第六天、天満宮、氷川、三島、伊豆権現、箱根、山王若宮、摩多羅神、新脛明神等二十一社合殿。其外東照宮をも御合殿として中に安じ奉。
太神宮 山王社 三峯社 元宮八幡宮 社家。押田多門。
古尾谷八幡神社の由緒 2
古尾谷八幡神社 川越市古谷本郷一四〇(古谷本郷字八幡脇)
当社は古尾谷荘一三カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。
社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。
元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。
正平七年に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を“瀬登の太刀”と名付け長男信秀に奉献させた。
下って永禄四年に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正五年二月資信は当社を再建した。
次いで天正一八年豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は五十石の社領を安堵される。
天保四年、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄一一年には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保七年、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。
明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治四年には川越県第五区の郷社、同五年には入間県の郷社となり、昭和四年には県社に昇格した。
大正四年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。
灌頂院   川越市古谷本郷
山号 寳聚山 院号 灌頂院 寺号 東漸寺
宗派 天台宗  本尊 阿弥陀如来像
天台宗寺院の灌頂院は、寳聚山東漸寺と号します。灌頂院は、天長年間(824-834)に慈覚大師が創建、鎌倉時代には源頼朝より寺領50石の寄附を受けていたといいます。天正19年(1591)には古尾谷八幡神社の別当寺として、50石の御朱印状を拝領、塔頭6ヶ寺、数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院です。
灌頂院の縁起
(古谷本郷)八幡社別當灌頂院
天台宗、上野國世良田長楽寺の末寳聚山東漸寺と號す、開山は聾義法印とのみ記しあり、境内の墓所に清海法印、延徳三年六月廿九日とえりたる碑あるは、世代の中なるべければ、當寺の開基の舊きこともしるべし、本尊彌陀を安す、往古鎌倉の時代は五十石の寄附のよし、天正十九年の御朱印を蔵せり、その文を左にのす(文省略)
塔頭
観音院。本尊と同じく寳聚山と號す、本尊千手観音恵心の作、立像三尺なるを安ず。
氷川天王相社。浅間社。堤上にあり、堤下にも下宮とて小社あり。
般若院。
寳塔院。本尊馬頭観音境内に正和五年十一月見ゆる碑あり、又外に断碑もあり。
神宮寺。本尊薬師、此堂の側にさしわたし十間許の塚あり、塚上に古松雑木生ひ茂れり、林塚と云、此邊に康正四年十一月と云石碑も見えたり。
大蔵寺。當寺は八幡の供所を兼、本尊は彌陀を安ず、ここにも天文など彫たる断碑あり、外にも断碑數片見ゆ、文字は見えず、當寺を村内にては大同寺と唱へ、大同年中の草創なりといへど、もとより信ずべきことにはあらず。
本行院。
以上六院の内、大蔵寺・神宮寺を除の外、残る四寺皆灌頂院の役僧なるものきたりすめるなり。
■鴻巣市
大野神社   鴻巣市大間
大野神社記
当社は元来氷川神社で祭神は須左之男命大國主命(大巳貴命)の二神でありました。第六十一代朱雀天皇(923−952)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。当時は梅本坊別当後本習院となり慶安5年享保6年天保9年と社殿の改修が行われたと伝えられております。
明治6年4月村社、明治8年拝殿建立、明治37年9月5日境内(現2500坪)が社地となりました。
明治40年5月8日大間地内の無格者”天満社、淺間社、八幡社、稲荷社、諏訪社”を合祀祭、7月18日大字北中野地内の無格者”津門社、天満社、須賀社、三峰社”を合祀、大間の(大)と中野の(野)をとって大野神社と社名を定め、明治41年4月記念の合祀祭が行われました。
明治44年1月7日神饌幣きん帛供進社に指定され神格神威益々高まり、敬神の心は深まり地区住民のみなさんの心のより所となりました。
大野神社 御由緒
御遠縁起(歴史)
「風土記稿」大間村の頃に 「氷川杜 村の鎮守なり、別当を本習院と云」 と載るように、当社は元来氷川神社と称していました。 それを大野神社と改称したのは、明治40年7月18日のことで、 同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものでありました。 この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔(こうえい)で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する 社記「大間氷川神縁起」に詳しく、 その要点をまとめると次のようになります。
当社は、天慶元年(938年)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕(つかう)が大巳貴命の託宣によってこの地に社(やしろ)を造営したことに始まるもので、長元3年(1030年)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったといいます。
また、神力によって、天永元年(1110年)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(1257年〜1259年)の干ばつには雨を降らせ、延元2年(1337年)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃しました。
社記の記述はここまでですが、その後、村の再興と供に神社も再建されたようであり、「明細帳」には天保年中(1830年から1844年)及び明治5年には社殿が老朽化したため、再建が行われました。  
伝源経基館跡(でんみなもとのつねもとやかたあと)   鴻巣市大間字原
埼玉県鴻巣市に築かれていた武家館。通称・城山(箕田城、大間城と呼ばれる事もある)。平安時代中期に源経基が武蔵介として坂東に赴いた時に館としたと伝えられる。
東西約95m、南北約85m、高さは東側が高く約22mの城郭跡。西側を除く三方に土塁と空堀をめぐらし、西側は荒川の湿地帯として当時は城郭の際まで水があったと思われる。
1987年(昭和62年)、1995年から1996年(平成7、8年)に発掘調査が行われ、平成9年以降も調査を続行した。掘立柱建物跡の一部が発見されたが作られた時期を示す出土品は発見されず、平安時代の源経基館跡とするには問題が多く確定するには至っていない。
最終的な城作りは防衛重視に作られており室町から戦国期の、もっと規模の大きな城の一部であるとの説もあるが、周りからはそのような事を示す遺跡は発見されていない。
平成6年8月に土地の所有者から史跡公園として保存することを条件に9割近くが市に寄贈された。保存状態は良く今後の史跡整備事業と発掘調査が望まれる。
歴史
ここがいつ頃から伝源経基館跡と呼ばれるようになったかは不明だが、江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』(巻150足立郡之十六・大間村)による所が大きい。
『将門記』には足立郡司判官代の武蔵武芝と争った時に『源経基が妻子を連れ比企郡狹服山(ひきぐんさふくやま・さやきやま)に登っている』と記述があり、これを元にここが経基館跡であると考えられた。狹服山の所在地は古くから議論されてきた。比企郡は誤りで入間郡狭山であるとか、比企郡松山あたりだとか、あるいは大里郡三尻村少間山(さやまやま)などと推測されるも今だかつて確定はしていない。
■さいたま市
東浦和明神社   さいたま市緑区東浦和
社号 明神社  祭神 平将門公 境内社 神明社、稲荷社2社
東浦和明神社は、さいたま市緑区東浦和にある神社です。東浦和明神社の創建年代等は不詳ながら、(平将門の末裔に当たる)奥州相馬氏が祀った相馬の相馬小高神社(福島県相馬郡小高町鎮座)の分霊を勧請して創建、神明社と称していたものの、いつの頃からか明神社と称するようになったといいます。武蔵野線の開通に伴い、境内地に神明社と二社の稲荷社が昭和41年遷座しました。
東浦和明神社の由緒 1
(井沼方村)
稲荷社  神明社  熊野社  阿彌陀堂  地蔵堂  薬師堂
以上六宇村民の持、地蔵、薬師の二堂は今廢す。
東浦和明神社の由緒 2
明神社 浦和市井沼方三九〇(井沼方字馬堤)
平安中期の武将である平将門は相馬小次郎とも称した。下総を本拠として関東各地に勢力を伸張し、中央派遣の国司を次々に追放して一族を国司に任命し、自ら新皇と称して関東の自立を図った。『将門記』によると、将門は侠気に富む人物であり、皇胤の自覚をもちながら武芸によって身を立てようとしたつわものであったという。このような将門の行動は関東の民衆に大きな影響を与え、将門を英雄として仰ぐ気風は時とともに強まり、死後の霊魂説話や子孫説話も作られていった。
当社は平将門公を祀り、その創建は将門にかかわる伝説に基づいている。ある時、将門の家来が戦に敗れて落ち延び、この地の国谷家にしばらくの間かくまわれた。このような縁で、後に、将門の末裔に当たる奥州相馬氏が祀った相馬の相馬小高神社(福島県相馬郡小高町鎮座)から分霊を当地に勧請したという。
『明細帳』には「往古ハ神明社ト唱ヘシガ、イツノ頃カ明神社と改称ス」と載せられている。明治初年には無格社とされた。
昭和四十一年の武蔵野線開通に伴い、境内地に神明社と二社の稲荷社が移され、本殿も一〇メートルほど南東の現在地に引き移された。また、昭和六〇年に鳥居を再建し、同六十二年には本殿を再建し、更に翌六十三年には境内の神明社と二社の稲荷社を再建、本殿の覆屋を新築した。
■幸手市
八幡神社   幸手市木立
八幡様は鎌倉幕府を開いた源氏がその氏神として信仰したため、中世以降は戦の神として意識されました。この八幡神社も、永承六〜康平五年(1051〜62)の前九年の役の折に勧請されたと伝えられています。
境内には伊勢神宮参拝などの記念碑が三基、庚申塔が四基、さらに祠などがあります。これらの庚申塔のうち青面金剛を刻んだものに、「元禄壬申五年(1692)」と記されています。庚申塔は市内に約三○○基が現存しますが、その中でも初期の造立のものの一つです。
浄誓寺 1   幸手市神明内
浄土真宗東本願寺派 通光山浄誓寺
浄誓寺と将門の首塚
幸手市神明内一四六九
通光山浄誓寺と称し、浄土真宗の寺で、本尊は阿彌陀如来です。
境内に高さ三m程の塚があり、頂に風化した五輪塔が立っています。ここに、天慶三年(940)の天慶の乱で、平貞盛・藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死にした平将門の首が埋められたと伝えられており、市指定史跡となっています。
付近にも、将門の血が赤く木を染めたことからつけられた、赤木という地名もあり、将門に関するいわれが多く残っています。

この血の付いた木は何日経っても血の赤が褪せず、そればかりか衣冠束帯を纏った人が夜な夜な現れては付近を徘徊したことから、この木を御神体として将門公を祀り、赤木明神と称したと言う伝説も残っている。
浄誓寺 2
関東に覇を唱えた平将門であるが、その後人々がいかに慕っていたかを知る一つの目安に、将門に関する墓や塚が複数残されている点が挙げられるだろう。東京の大手町にある首塚が最も有名であるが、幸手市にも将門の首塚が存在する。
伝説によると、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手であり、ここで敗れて討ち死にしたのだという。そして首が埋められた場所が現在の首塚であるとされる。さらに一説によると、埋められた首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったとも言われている。
この浄誓寺の近くには、将門の血で染められた木があったことから“赤木”と付けられた地名など、将門にちなんだ伝承が残されている。
浄誓寺 3 
「平将門の首塚」の歴史
大字神明内の浄誓寺の本堂裏手には、高さ3メートルほどの塚が築かれています。これが市指定文化財(史跡)の「将門の首塚」です。
平将門は、10世紀前半(平安時代中期)にいわゆる「平将門の乱」を起こした人物です。この塚は、戦死した将門の首を愛馬がくわえてここに運び、村人か家来が埋めたものといわれ、その伝承を物語るかのように古い五輪塔が塚上に安置されています。
この塚の歴史を示す資料として、江戸時代の元禄16年(1703年)に、大名の水野隠岐守勝長の家老・水野織部が著わした『結城使行 全』(茨城県結城市発行)があります。
そこには、以下のように書かれています。
「ここ(上高野村)から一里(約4キロメートル)ほど東北の「しへ打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」(木立村のこと)と書くという」
この資料は、有名な赤穂浪士の討入りの翌年に書かれたものです。つまり、今から300年前、すでに将門の墓の情報が世間に知られていた事実を確認できるのです。
平安時代に生きた平将門と、幸手との具体的な関わりを示す史実は伝わっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に所属していました。いわば、同じ郡内で活躍した人物が将門であったということです。
一千年以上も前のことになりますが、「将門の首塚」から草深い平安時代の幸手の姿を想像してみてはいかがでしょう。  
宝聖寺   幸手市平須賀
大鱗山明王院宝聖寺 本尊 大日如来 真言宗豊山派
宝聖寺は1350年に総州葛飾郡現在地に光明山法身房として創建されました。1354年には法身山宝聖寺と改め、当時は76か寺の本山として栄えたようです。
1432年に山号を大鱗山と改め、これにより現在の大鱗山宝聖寺となりました。1520年に田宮の城主一色宮内少輔満兼の庶子宥位和尚が当時の住職となり、現存する1525年の直末帳(じきまつちょう)によると123か寺を統括したことが記録されています。江戸時代には御朱印十三石を賜ったようです。
熊野権現社   幸手市北
熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもある。もとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったという。
この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されている。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いている。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっている。
また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものである。
地名の由来
当社の創建は天正年間(1573〜92)と伝えられ、古くは熊野権現社と号した。順礼伝説の起こりである享和2年(1802)の大洪水により古記録等も流失し、現在の社殿は文政8年(1825)に再興されたものである。
「村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名起れりと云う」とあり、村内の権現三社を合祀した古い神社から「権現堂村」という名になったことが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」権現堂村の項に記されています。
■草加市
柿木女體神社   草加市柿木町
社号 女體神社  祭神 伊弉冉尊  旧村社
境内社 水神社、八幡社、小松社、稲荷社
柿木女體神社は、草加市柿木町にある女體神社です。柿木女體神社は、天正3年(1575)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされた城主豊田治親の夫人と子供が当地に土着、日頃信仰していた筑波の女体神社を当地に創祀したといいます。江戸時代には柿木村の鎮守社となっており、明治4年村社に列格していました。
柿木女體神社の由緒 1
(柿木村)女體社
村の鎮守なり、東漸院の持
末社。稲荷、龍王、八幡。
柿木女體神社の由緒 2
当社は、伊弉冉尊を祀り、柿木の鎮守として人々に厚く敬われてきた。
柿木は、中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承では、この土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。
豊田氏は、平将門の伯父国香を祖とし、下総国豊田荘の地頭を務め、のち石毛に本城を構えた。しかし、天正三年(一五七五)城主豊田治親が恒例の雷電神社参の時、下妻の多賀谷氏の侵略にあい、治親は討たれ本城も陥ちてしまった。
残された婦人と遺子は急変により石毛を捨て縁をたよってここ柿木まで落ちのび、この地を永世の地と定めたというのである。
豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。それによって分霊をこの地に勧請し創建されたのが当社であるといい、社殿も北方、筑波山に向けて建てられている。
柿木女體神社の由緒 3
女体神社 柿木町1732柿木字上手
柿木町の東を南流する中川(古利根川)は、近世以前は利根川本流で、武蔵国と下総国の境界をなしていた。同川河道に沿って自然堤防が発達し、その上を江戸下妻道が走る。
当社は、この江戸下妻道沿いに鎮座しており、近くの中川沿いには音店河岸跡がある。口碑によれば、木曾義仲を討伐のために豊田城から豊田某が差し遣わされ、その帰途に当地に土着した。その縁で、天正三年(一五七五)に豊田城(茨城県結城郡石下町豊田)が攻め落とされると、城主豊田治親の夫人と子供は従者を伴って当地に落ち延びて土着した。この豊田氏は、筑波の女体神社を信仰していたので筑波山の方角に向けて、女体社をこの地に祀ったという。
享保十九年(一七三四)には、神祇管領吉田家から正一位の神位に叙せられた。この時に拝受した「正一位女体権現幣帛」が本殿に奉安されている。
『風土記稿』柿木村の項には「女体社村の鎮守なり、東漸院の持、末社稲荷竜王八幡」と記されている。これに見える別当の真言宗東漸院は、下総国葛飾郡名都借村清滝院の末寺で、草創の年代は不明であるが、開山の定範が永正十三年(一五一六)四月十二日に弟子の良秀に与えた印信が残されている。神仏分離を経て、明治四年に村社となった。
■秩父市
岩崎神社 (いわさきじんじゃ)   秩父市吉田阿熊字松葉
当社は、城峰山にたてこもった平将門を滅ぼした藤原秀郷が、伊豆の三島神社を勧請したことに始まるといわれ、その社名については、秀郷が城峰山を射た矢が落ちた場所を意味する「矢崎(やさき)」が転訛して「岩崎」になったと伝えられています。氏子は明神様≠ニ呼びます。
御祭神 大山祇命・木花咲耶姫命・岩長姫命
女部田城   秩父市上吉田
女部田城は、かおる鉱泉の西側にそびえている比高180mほどの山稜上に築かれている。鋭くとがった山容で、いかにも城山らしい雰囲気がある。合角ダムから見ると、東側にそびえている山稜となる。
城に登るためには、南側の沢沿いの道を進んで行くのがよいと思う。地形図を見ると城の周囲の下部は岩場となっており登攀が難しそうだ。安全に城に行くためには沢沿いの道を進んで、いったん背後の尾根に出るしかないのである。
沢沿いの道の入口はこの地点である。ここから大波見集会所の上を通ってどんどん奥に進んで行くと、道は墓地の所で突き当たる。車はこの場所に停めておくことが可能である。
ここから墓地の右手を上がって行き、沢沿いに進んで行けば、何となく道が付けられている。とはいえ、あちこち崩落してしまっているようで、途中に道なき急斜面歩きを強いられる箇所もある。注意深く進んで行った方がよい。
こうしてひたすら沢沿いに歩いて行くと、ついに尾根下の部分に到達することができた。正面には最後の急斜面がそびえているが、注意深く登って行けば、尾根に到達することができる。
Aは、平場状の地形になっているので、「これがもう郭なのだろうか」と一瞬思ってしまったのだが、そうではなかった。Aの場所は、ちょっと削平すれば簡単に郭を造成できる地形でありながら削平はされておらず、尾根続きの側に堀切や切岸などの造作も見られない。ここは城外のようである。
Aを進んで行くと岩があり、その先が窪んだ地形になっていた。岩盤を利用した堀切のようである。さらにその先にも岩盤を利用した窪んだ地形があり、こちらも堀切である。ということで、尾根基部の側は二重堀切によって区画されている。ちなみにイノシシと遭遇したのはこの二重堀切のところである。それにしても四つ足の獣って、よくこんな急斜面を駆け下りていくことができるものだ。人間には無理である。
堀切から上がって行ったところが3郭であるが、あまり広い郭ではない。3郭から正面には1郭の城塁が見えていた。岩盤があちこちにむき出している険しい斜面である。これをよじ登って行く。
登って行ったところが、1郭であり、ここはしっかりと削平されていて、面積もそこそこ広い。この城の中心部は、1郭と、その先の尾根先端部にある2郭との2郭構造のものである。通常は先端部を1郭とすべきであると思うが、先端部は低い地形になっており、1郭との間に堀切などの障壁も構成されていない。ということからすると1の方が優位な郭であると考えられ、主郭は1であると見るべきである。
2郭もきれいに削平されており、建造物を幾棟も建てられるようなスペースがある。この先端近くには祠が祭られていた。
祠から先は比較的緩やかな尾根が続いていたので、この祠まで来るための参道が、北東側の尾根伝いにあるのかもしれない。だとしたら、その道を通って登ってくるのが一番簡単であるということになる。
女部田城は、小規模な山城であり、登るのもけっこう大変な城であるが、北条氏の史料にも登場してくる城ということなので、一度は訪れてみてもよい城である。
城峰山・石間城址   秩父市吉田石間
伝説 1
将門軍とともに城峰山に立て籠もった愛妾・桔梗の前は藤原秀郷の妹だった。桔梗の前は将門を裏切って、秀郷に将門の急所はこめかみだと密告した。秀郷軍は城峰山を包囲し、秀郷は将門のこめかみを射抜いた。将門は死ぬ間際に、「桔梗死ね、桔梗絶えろ」と叫んだ。以来、城峰山には桔梗の花は咲かなくなった。秩父小唄の一節に、「秋の七草、薄紫の 花の桔梗がなあ、そらしょ、なぜ足らぬ、城峰昔の物語、なあそれやれこの、そーらしょい」
伝説 2
将門は城峰山から山麓の太田部の豪族・新井氏のもとに逃げ込んだ。新井氏の娘の桔梗姫は琴や舞で将門をもてなした。噂を聞いた平貞盛は新井氏の館を取り囲んだ。桔梗姫は抜け道を使って将門を裏山の岩窟に隠した。貞盛は姫に将門の行方を問いただしたが、白状せず、「将門様はすでに万場(群馬県)に落ち延びました」と偽った。これを聞いた貞盛軍は一斉に万場の方へ去って行った。桔梗姫は貞盛軍からひどい仕打ちを受けたので、病に臥せってしまった。そして将門の看病むなしく姫は亡くなってしまった。以来、城峰山やそのあたりには桔梗の花は咲かなくなったという。
石間城址 1   
城峯山という山の名前は昔から気になっていた。城のある峰だから山城があったと考えるのは当然で資料を読み漁るのだが、平将門の弟御厨三郎将頼が築いたという伝承を載せているだけのものが多かった。遺構のない伝承だけの城ということで納得し記憶は薄れていった。
それからどれぐらいの歳月が流れただろうか。自分の友人が皆野町史を手掛かりに石間城には遺構が存在することを確認した。どうしても遺構を見たくなり初詣を兼ねて城峯山へ登った。町営バスを使い西門平停留所から城峯山の登山道を登る。鉄塔の建つ地点で朝食を取りつつ地図を見るとまだ半分ぐらいだった。こういうときにGPSがあると心強い。現在地と目標までの距離がわかると自分を勇気づけられる。鐘掛城で一服してから城峯山へと向かう。遠くに感じたが案外近かった。城峯山から見下ろす風景は最高だった。四方を遮るものがない風景は爽快だった。
石間城へと向かう途中で城峯神社に立ち寄り安全を祈願してから登った。細い尾根と岩場が続き落ちたら怪我どころか滑落死の危険があるので慎重に歩いた。堀切を越えてひと休みしたときに足が震えているのがよくわかった。へばりつくようにして天狗の物見岩に登り見渡す風景はこれ以上ないぐらい神々しい眺めだった。
石間城址 2
この「石間城」は阿賀地方第二の規模を持つ要害であるが、その現況は藪椿の群生に襲われて現況をカメラで捕らえる事は難しくなっている。現在では誰も登る人がいないのか、道筋を掴む事すら難しい。
それでも、古城址狂の執念か、狂気か、果敢にアタックしてみたが、重要な地域は藪椿の防御でその実態を説明する事が出来なかった。「残念!」
この城は、「道の駅・阿賀の里」の西側にある「石間館」の要害で、会津蘆名氏の重臣・小田切氏の要害として知られている。「越後の虎・上杉謙信」配下の猛将と知られる、大見安田氏と、菅名氏の領地と接しており、会津と越後領との境界を守る使命を任された重要な要塞群として機能していたものと思われる。
それにしても、「東蒲原郡史」はその遺構を見事に描いており、山城を熟知された方の作品であろう。この城への挑戦には、もう少し下調べをしてからの再挑戦が必要である。
石間城址 3
石間館跡のあるこの地域は、東に「上の沢川」、西に「下の沢川」の深い渓流に守られ、南側前面には大河・「阿賀野川」が流れる要害の地にある。石間集落の北側の丘上の、通称・「上城」と呼ばれる地域にあり、「磐越道」やその取付け道によって大分破壊されているが、学校跡地と言われる地域が主郭と思われ、西側の宅地との段差によってそれが想像できる。主郭の南側下には、広い付属曲輪跡が杉林の中にあり、西側にあった城戸口と思われる土塁は現在埋め立てられて駐車場となっている。更に麓から登って来る道の上には、犬走り状の腰曲輪の中に浅くなった横堀跡が認められ、麓方面から攻めて来る敵に対しての狙撃陣地としても機能していたのであろうか?
国道49号線脇にある、「道の駅・阿賀の里」の施設から見える北側の山に、この館の要害・「石間城跡」がある。三浦和田氏一族・佐原十郎義運の子孫、会津蘆名氏の重臣・小田切氏の居館で、阿賀地区で第二の規模を持つ「石間城」やその支城群を随えている。
石間城址 4
各地に将門伝説は残っていますが、ここ吉田町の城峰山の山頂付近にも残っています。それが、石間城です。下野 の藤原秀郷に追われた平将門が、ここ石間城に立てこもって戦ったが遂に落城、将門は城の裏にある岩穴に隠れて いた所を捕らえられたと言います。しかしその後、あちらこちらで将門そっくりの影武者が七人捕らえられました 。そこで秀郷は、将門の侍女である桔梗姫を捕らえて、『八人の首をはねる事もあるまい。』と問い詰めた所桔梗 姫が、『食事をする時、こめかみが一番良く動くのが、上様でございます。』と秀郷に教えたと言う。とうとう本 物の将門が見つかり、首をはねられる時に将門は、『桔梗あれども花咲くな。』と言い残したと言います。その事 からか、城峰山では桔梗の花が咲かないそうです。桔梗姫は後を追って亡くなったと言うのに。なお、お屋敷場と 言う所からは以前、刀片、鏡、釜などが見つかったと言います。頂上の展望台からは、関東平野が一望でき、近く には城峰神社があります。
城峰山
平将門伝説と一等三角点で知られる秩父・城峰山に行く。秩父鉄道皆野駅〜西門平〜鐘掛城跡〜石間峠〜城峰山〜城峰神社〜石間峠〜西門平〜皆野
西門平から小1時間で鐘掛城跡にでる。北側の景観が得られるとガイドブックにあったが、何も見えない。少し過ぎる所が開けている。20分ほど歩くと石間峠、峠まで車が通っている。少しのぼって城峰山頂。
360度の山並みが楽しめる。近くの山では、両神山、武甲山はくっきり。雲取山は雲に隠れている。城峰山山頂で食事休憩の後、城峰神社を尋ねる。ここは平将門を破った藤原秀郷の奉納した寺と伝えられる。
城峰神社から車道を歩き、石間峠に戻り、来た道を戻って西門平に到着。
城峯神社
城峯山頂(標高1,037メートル)のほど近くにあります。平将門伝説によると、城峯山は関東が一望できるこの地に城を築いたことから、その名前がついたといわれています。藤原秀郷が平将門を討ったのちに、城峯神社を建立したとされていますが、それよりも古くからお犬様がまつられており、火災、盗難、病気の守り神として信仰されています。
城峯神社   秩父市吉田石間
参道を抜けると城峯神社がある。
城峯神社は日本武尊が東征の折、山頂に大山祇命を祀ったのが始まりと伝えられている。明治維新まで、柚木氏邸内に社殿が設けられていたが、明治5年入間県のとき、現在の位置に遷宮され郷社に列せられた、そうだ。
もし、この地域に城峯神社参道のブログに書いたチンケなキャンプ場がなければ、本当に霊験あらたかな深い山中に鎮座する1000年前、平安時代の神社といえる神社である。
ところで社伝によれば、平安時代に反乱を起こした平将門(まさかど)とそ一党は、藤原の官軍に追われ、下総の国、今の千葉県に落ちのびたあと、秩父の山奥にある城峯山に城を築き、そこに立てこもったとされる。
その後、官軍、藤原秀郷(ひでさと)が城峯山にあった城を包囲、激戦の末、将門とその一族はこの地で討ち死にしたという。
そこで滅びた平将門と一族を鎮めるために、城峯神社がつくられたと言い伝えられている。
もっぱら、史書によれば平将門は下総の国(現在の千葉県)で討ち死にしたとされており、将門自身が秩父のこの地まで来たかどうかは不明だ。しかし、平将門の一族や縁者が秩父の地まで落ちのび、追って来た藤原官軍に滅ぼされたという記録があるというから、あながち神社の創建にまつわる話はいい加減なものではないようだ。
さらに以下のような伝説、秘話もある。

関八州を平定し、その後下総の野に敗れ、この山に城を築き、名を幡武山石間城と名付け、それまで石間ケ岳といっていたこの山に城ができると、里人も城峯山と呼ぶようになりました。そこで下野田(栃木県)の豪族、藤原秀郷が兵を引き連れ、今の吉田小学校の高台に陣を張り、にらみ合いになる。このころ、将門の愛妻、桔梗はときどき城を抜けて、いずれかに姿を消すのを知り、将門は桔梗が秀郷に内通したものと思い違い怒って桔梗を斬りすてました。無実の罪で斬られた桔梗の亡霊は落城後も消えず、秋の草花はかずかず咲くが、桔梗の花だけは今も見ることができません。
「秋の七草うすむらさきの花の桔梗がなぜたりぬ城峯昔の物語」(秩父小唄)

城峯神社の社の前には、2匹(頭)の狛犬がいる。しかし、どう見ても、ワン、犬ではない。池田は当初、コン、狐ではないかと言ったが、後で調べて見たら狛犬は、日本武尊にちなむ 山犬型の狛犬ならぬ狛狼(オオカミ)だそうである。ひょっとしたら、大神との語呂合わせでオオカミとなったのでは? などと思いを巡らす。
確かによく見ると、犬と言うより狼である! 狛狼はおそらく全国規模でもそれほど多くなく希有なものではないかと思う。
どうも椋神社の狛犬が城峯神社のオオカミと似ているので調べて見ると、椋神社の狛犬もオオカミだった。秩父にはオオカミを狛犬としているところがたくさんあるようなので、次回は秩父のオオカミ巡りをしてみたい。
一方、オオカミの石像の後ろに、下の写真にある猫の石像がひっそりと置かれていた。何と、誰がかけたのか、可愛らしいあぶちゃん(前掛け)をしているではないか。残念ながら、長い尻尾は途中で折れている。
それにしても、オオカミはまだしも、ネコにとって秩父の山奥の山頂近くは、寒すぎて可哀想ではないか(笑い)。下は台座を含めた写真である。
このネコについて池田が調べたところ以下のブログに行き着いた。
「目立たぬが特別の存在 / 城峯神社へは反対側の尾根を下る。こちらは日当たりのよい雑木林となっている。神社の奥社から天狗岩を往復してから神社へ。伝説の「将門隠れ岩」はうっかりパスしてしまった。鳥居前は平坦な広場で、左手に神楽殿やキャンプ場がある。神社の狛犬は強面の三峰系狼だ。狛犬のそばにあるものと思っていた猫の石像だが、付近を探しても見当たらず少しとまどう。社殿に戻ってみると、その左手前に目立たぬように鎮座していた。思ったより小さく紫の前垂れをかけており、特別な存在のようである。狛猫ではなく「お猫さま」 この置き場所が何となくしっくりこない、しかし特別扱いのような猫の石像のルーツとは? この猫、もとは城峯神社の別当寺だった長伝寺(旧吉田村石間)にいらっしゃった。長伝寺には平将門の守り本尊の十一面観音が安置されていて、その眷属である「お猫さま」を貸し出していたという(養蚕地帯なのでやはり鼠除けか)。長伝寺の十一面観音は明治元年に光明寺(旧吉田村沢戸)の観音堂に移された。廃寺となったためなのか、明治2(1869)年には「お猫さま」も城峯神社に安置された。それが今に伝わる狛猫だということになる。どおりで、ほかの狛犬と比べて小ぶりだ。貸し出すために人が担ぎ上げて移動できる程度の重量にしたのだろう。当初から猫の石像はひとつだったから、神社にあるからといって狛猫ではない。往時のように「お猫さま」と呼ぶべきなのだ。」
下は神楽殿。相当の時代物である。ぜひ、一度、池田の盟友でもある鵜澤久さんにこの舞台で能かお神楽をやってもらたいものだ。グーグルで検索していたら、この舞台で能が行われているところの写真もあった。
ところで、時代考証すれば、城峯神社に関わる藤原秀郷や平将門は、以下の紹介にあるように、平安時代中期に活躍した歴史的人物である。
となれば、城峯神社やそれにまつわる伝説は1000年以上の歴史があり、建築物の規模や華麗さは別として、宇治の平等院や平泉の中尊寺などとともに、関東における歴史上きわめて希有な存在であるものと思える。 とりわけ埼玉県内にあって、重要な存在といえるものであろう。 
その意味でも、安易に境内の隣にキャンプ場を設置したことは痛恨の極みと言わざるを得ない。
「藤原秀郷   平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒の家系も多い。秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮二荒山神社で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。」
「平将門   平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。」
「平将門の乱    10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉、あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は、935年(承平5)以来、常陸西部に館をもつ一族の平国香、平貞盛、良兼、良正らと合戦を繰り返していたが、939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い、国守藤原維幾らを捕らえた。この直接の原因としては、将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説と、国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説とが、ともに《将門記》にみえる。」
今回は行かなかったが、城峯神社近くには、将門の隠れ岩がある。まさに、平将門が追ってから逃れた場所なのだが、これが何と垂直に切り立った岩山の上にあり、下の看板にあるように、この隠れ岩への登頂は自己責任で! とある。実際、切り立った岩山を18mほどロッククライミングで登ったところに隠れ岩があるのだが、首の骨を折った青山としては、自重するしかない(笑い)。
「平将門の首塚   東京都千代田区にある平将門の首塚。平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。」  
大達原稲荷神社   秩父市大達原
この神社、かつては「将門八幡社」と呼ばれていたそうで、御祭神として平将門公が祀られているのです。
神社の由緒書き / 大達原の稲荷神社・・・将門(まさかど)八幡といって平将門没落の際、そのむすめが落ちのびてここに寺をつくり、又将門の霊を神としてまつった。その守り神として二社はまつられたが、結局庶民信仰のお稲荷さまが、いつのまにかおさかりを見るやうになり、四月二十日の例祭に各地からのお詣りが多い。・・・とのこと。
「新編武蔵風土記稿」には・・・往古、平将門この辺に行営ありて、連妃の居給いし所なるよし。その後武器を埋めて塚を築き・・・と記述があるそうです。
由緒書きにもあるように、かつてこの地に「円通寺」という寺がありました。
廃寺となって今は現存してませんが、承平二年(932)に将門公がこの地に「大達山円通寺」を創建したと言われています。天慶年中、将門公は大滝の城に差し向かい、武運を願って守り本尊の地蔵尊と、自ら刻んだ自身の甲冑像を、大悲の左右に納め一心に祈りを捧げたそうです。その甲斐があって、数度の勝利を収めることができたと伝えられています。
また一説には、天延二年(974)、将門の娘・如蔵尼が大滝村に来て一宇を建てて円通寺と名付け、父・将門の像を刻したともいわれています。
かつて観音堂には将門公の守り本尊である十一面観音と、将門公の甲冑像があったといわれています。将門公の甲冑像は現在の大陽寺にあり、畠山重忠像と呼ばれているとか…。
かつて円通寺の境内には「鎧塚」と呼ばれる塚があり、将門公の鎧、太刀、長刀を納めていたと伝えられていました。また、将門公の形像を納め、四十九人の妃を祀った「四十九前の宮」もあったといわれているのです。さらに将門公の愛妾・桔梗の前がこの地に逃れて来たとされ、屋敷があったという説もあるのです!
大血川(おおちがわ)   秩父市を流れる荒川支流
奥秩父山塊の一つである白岩山付近に源を発する。大血川渓流観光釣場などがある。流路延長は8.5キロメートルで、内埼玉県管理区間としての長さは5.4キロメートルである。また、彩の国クールスポット100選に選ばれている。荒川との合流点付近には石灰岩の鉱床がある。
伝承
「大血川」という名前の由来については平将門伝説に因むもので、2つの説がある。 一つは承平天慶の乱により平将門が討死した際に、大陽寺に隠れ住んでいた平将門の妻、桔梗と従者99人が川の源流付近で集団で自害したという説で、また、平将門が討死した際に自害ではなく、救いを求めて大陽寺に逃げ込む際に途中の大日向で追っ手の源経基らの襲撃に会い、打ち首にされたという説もある。いずれにせよその流血で川が七日七晩染まったことから大血川と呼ばれるようになったというものである。桔梗と従者99人を祀った九十九神社が大血川の傍らに建立されている。また、桔梗たちの墓といわれている桔梗塚も大血川地区の集落に残されている。
もう一つは自害ではなく、桔梗らは無事に大陽寺にたどり着き、そこで平和に暮らしたという説で、近傍にある川がまるで大蛇(おろち)のように見えたたことから「おろち川」と呼ばれ、そのおろち川が訛化して大血川となったというものである。なお、大血川には大蛇に関わる畠山重忠の出生伝説があり大陽寺で寺の大師と諏訪湖に棲む大蛇の化身である女性の間に生まれた嬰児を不浄に思い、近くの大血川に流した伝承が残されている。川に流された嬰児は現在の深谷市の畠山に流れ着き、そこで畠山庄司重能に拾われ、畠山重忠として育てられたと言われている。
九十九神社   秩父市
九十九(きゅうじゅうきゅう)神社は自害した平将門公の后・桔梗姫と侍女など99名の霊を祀る神社です。
下を流れる川が血で真っ赤になったと伝えられ、大血川となったと伝えられています。
圓通寺   秩父市荒川白久
自由山円通寺と称し、曹洞宗の寺院である。室町時代中期以前は清泉寺(秩父市下吉田)の末寺として、以後は広見寺(秩父市下宮地)の末寺となった。本尊は地蔵菩薩である。
シダレ桜が「エドヒガン」科で、上田野清雲寺の県天然記念物の桜の子を移し植えたものといわれる。開花は他の桜にさきがけて咲き、笠鉾のようにシダレた姿は優雅である。樹令約二百年、樹高十メートル、目通りの周囲が約二.五メートルほどである。
地蔵堂の地蔵尊は、将門が戦場に赴く際に、常に従者に背負わせて、身辺に安置していたと語り継がれてきたという。
若御子神社(わかみこ)   秩父市荒川上田野  
埼玉県秩父郡荒川村の山里に鎮座する古社です。創立は聖武天皇の御代、天平年間(730年代)ころに若御子山の頂に神武天皇が祀斎されたことが始まりと伝えられています。「若御子」の名の由来は祭神・神武天皇の別呼称、「若御毛沼命」からきているのではと言われています。
祭神にあやかって武将たちの尊崇が厚く、古くは藤原秀郷が平将門の乱の平定を祈願したと伝えられ、鎌倉幕府を開いた源頼朝や足利将軍義晴も参拝したと伝えられます。戦国時代、武田軍の兵火によって社殿と社宝は失われ、慶長年間に本殿が再建されました。
秩父地方に点在する狼神社と同様に、若御子神社の前にも狼型の狛犬が鎮座しています。残念ながら、祭神の神武天皇と狼の関係は詳らかではありません。
祭神 神武天皇
塚八幡社・大達原稲荷神社
1 将門と妃の居住地で、後に武器を埋めて塚を築き祠を建てたという。
2 将門没落の際、その娘が落ち延びて来て、将門の霊を神として祀った。
大達原の稲荷神社
同じ上舎(うわや)の中に八幡社稲荷社三宝荒神社三社が並びまつられている。
将門(まさかど)八幡といって、平将門没落の際、そのむすめが落ちのびてここに寺をつくり将門の霊を神としてまつった。その守り神として他の二社はまつられたが、結局庶民信仰のお稲荷さまが、いつのまにかおさかりを見るやうになり、四月二十日の例祭には各地からのお詣りが多い。当日演じられる、白久神楽は三峰神楽の原形といわれる。
恒持神社   秩父市
恒持神社は平家の祖・高望王の弟・恒望王が武蔵権守に補せられ、ここに官舎を置いたのが始まりだそうです。祭神は水の神。
秩父神社   秩父市
式内社、武蔵国四宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。秩父地方の総鎮守である。三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社。12月の例祭「秩父夜祭」で知られる。
荒川の河岸段丘上に広がる秩父市街地の中心部に鎮座している。崇神天皇の時代、初代の知知夫国造である知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が、祖神の八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったことに始まる。
武州六大明神に四宮として数えられ、武蔵総社六所宮の大國魂神社(東京都府中市)にも祀られている。大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)では、当社の神輿も巡行される。中世には妙見信仰と習合し、その後「秩父大宮妙見宮」として栄えた。江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、社殿には左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施された。
毎年12月に行われる例祭「秩父夜祭」は、ユネスコ無形文化遺産に登録されており、京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭及び日本三大美祭に数えられ、多くの観光客が訪れる。
祭神
八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと)
知知夫彦命 (ちちぶひこのみこと) - 八意思兼命の十世孫で、初代知々夫国造
天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) - 鎌倉時代に合祀
秩父宮雍仁親王 - 昭和天皇の弟。昭和28年に合祀
元々の祭神は八意思兼命と知知夫彦命ということになるが、これには諸説あり、八意思兼命・知知夫彦命のほか、思兼命の御子の天下春命、大己貴命、単に地方名を冠して「秩父大神」とする説などがある。
天之御中主神は明治の神仏分離のときに改められたもので、それ以前の神仏習合時代には妙見菩薩であった。鎌倉時代に近くに祀られていたものを合祀したものであるが、こちらの方が有名となり、江戸時代までは「秩父大宮妙見宮」と呼ばれていた。
歴史
当社の社殿と参道の南側延長線上に武甲山(時代によって武光山、秩父嶽、妙見山などとよばれる)があり、元々は武甲山を神奈備として遥拝する聖地であったと考えられている。
創建
『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、八意思金命の十世孫の知知夫彦命は崇神天皇(第10代天皇)の時代に初代知々夫国造に任命され、「大神を拝祠」したという。この「大神」は知知夫彦命の祖である八意思兼命をさすと考えられ、秩父神社ではこれをもって神社の創建としている。さらに允恭天皇年間に知知夫彦命の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれる。地域名の「秩父」の名を冠するが、「知知夫」から「秩父」に変わった時期は明らかではない。なお、「秩父」の初見は708年である。
古代から近世
律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していったものと思われる。これに代わって登場するのが妙見社である。
社記および『風土記稿』によれば、天慶年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。以来良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが秩父の妙見社の創成である。
その後良文は下総国に居を移した。下総での子孫が建立した千葉神社の祭神も妙見菩薩である。秩父に土着した子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。
鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀し、秩父三十四箇所の旧15番札所・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在で当社を管理した。以降神仏分離まで「妙見宮」として栄え、延喜式に記載の本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった。
江戸時代の絵図では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。神宮司社は式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、江戸中期の儒者である斉藤鶴磯は「武蔵野話」の中で、この神宮司社について「この神祇は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家を貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」と評している。
近代以降
明治の神仏分離により、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻した。鳥居の扁額では「知知夫神社」と表記されている。頒布されている護符などに現在も妙見信仰が遺されている。
1884年(明治17年)の秩父事件では、困民党軍が境内に集結した。
全国の一宮やそれに準ずる神社の祭神を祀る天神地祇社が摂末社にある関係で、全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」から、2006年に「知知夫国新一の宮」に認定された。 
定林寺   秩父市桜木町
山号 実正山 寺号 定林寺  宗派 曹洞宗
曹洞宗寺院の定林寺は、実正山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第17番観音で著名です。定林寺の創建年代等は不詳ながら、壬生の良門の家臣林太郎定元が主君の無道を諫めたところ、逆に追放されてしまい流浪、林太郎定元夫妻は当地で亡くり、孤児となった嬰児を養った沙門空照が哀れに思い、林太郎定元夫妻の菩提を弔うために一宇を建立、定林寺と号し、林寺と通称されるようになったといいます。
定林寺の縁起 1
(大宮郷)十七番觀音
秩父卅四番札所の内なり、宮地にあり、堂南向三間四面、本尊十一面觀音、木立像長一尺六寸、運慶作、此寺草創を尋るに、往古壬生の良門とて、東國に聞ふる剛強なる無慈の人あり、殺害せらるゝ者多く、臣民之を嘆きしに、家臣林太郎定元屡之を諫れども聴ず、流浪の後定元夫妻ともに没し、僅三歳の嬰兒孤となるを、沙門空照愍みて撫育し、因縁を聞きて良門感ずるの餘り、定元夫妻が菩提のため、彼塚の邊宮地の里に一宇を立て、定元が姓名を以て定林寺と號す、觀音の靈像は、後年大士の告によりて安置す、世俗林寺と云は、定元が姓氏なるを以ての故なり、詠歌に曰、あらましを思ひ定めし林寺、かね聞あへず夢そ覺ける、
別當定林寺 實正山と號す、除地一段三畝十四歩、園田筑前觸下諏訪社人丹生兵部持 札堂。千手觀音を安ず、諏訪社。神職丹生兵部
定林寺の縁起 2
市指定史跡 札所十七番 実正山定林寺
この札所は四間四面の簡素で均斉のとれた堂です。内陣は古風な阿弥陀堂のように念仏廻廊が回っています。
本尊は十一面観世音立像で、像高五五糎の寄木造り、願主武州国郡法印元暁の銘があり、文禄二年癸丑三月二十三日開眼の墨書があります。
梵鐘は、日本百番観音霊場の本尊とご詠歌を鋳出した珍しいもので、工芸品として昭和三十九年三月県指定の文化財になっております。
又、安政、明治の徳行家、井上如常の父青岳の描いた狩野風な絵の掲額もあります。
縁起には、壬生の良門の忠臣林太郎定元は、主の無道を諌めかえって家財を没収され、当地に来て没しました。その遺子空然はこの地に養われ成人の後、父の菩提のため当寺を建立したとあります。
昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定
比丘尼城   秩父市吉田石間
秩父の城館探訪の途中で友人が鋭利に尖がった山を指差して比丘尼城だということを教えてくれた。太陽も傾きかけて山城へ登るには遅い時間だった。ただ、時間がどうこうよりも山容を見てとても登れないと思った。山頂付近に人を寄せつけないような岩肌が露出している。おそらく技巧を凝らしたような遺構はないと直感した。
歴史は曖昧で平将門が隠れ住んだとか、婦人や女官たちが逃げ込んだという伝承が残る。城峯山にある石間城にいた尼僧がここで見張りを務めたという話もあり、それが比丘尼城の名前の由来なのだろう。石間城が落ちたときに比丘尼城へ逃れようとした落人たちが崖から落ちて死んだという悲しい話も伝わる。落城悲話に水を差すつもりはさらにないが、この城は戦乱の世に乱取りを避けるために村人たちが逃げ込む場所として築かれたのだろう。
自分が周りに比丘尼城を踏破した人が3人もいる。だから登って登れないこともないのだろうが、一歩間違えたら死ぬので自分は行けずにいるし、年齢を重ねすぎたこともあって登ることはないと思う。
椋神社(むくじんじゃ)   秩父市下吉田
御祭神は猿田彦大神・武甕槌命・天児屋根命・経津主命・比売神・応神天皇・外二十五柱。
「延喜式内 椋神社由緒記」 由緒
人皇十二代景行天皇御宇 日本武尊東夷征伐のとき 伊久良と言う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと言う 神殿は和銅三年芦田宿禰の孫造立すと言う 多治比真人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起元なり 清和天皇貞観十三年武蔵国従五位下椋神社に従五位上を授けらる 醍醐天皇延喜年間神名帳に記載せられ国幣の小社に列す 社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す 日本武尊五代の裔丹治家儀五代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と言う即ち六段田是なり その後、畠山重忠 太刀一口を献ず今遺存して神宝となす ・・・ 以下略 ・・・
椋神社の近くの吉田小学校がある所が鶴ヶ窪台地で、城峯山の平将門公を討伐するために、藤原秀郷がこの台地に城柵を構えたと言われています。
椋神社は明治時代の初めまで神田明神と関わりがあったそうです。慶長年間、椋神社の神主が江戸神田明神の鍵番を徳川家康より仰せつかり、以後、九月十五日の祭礼には必ず出府したそうです。

ここから城峯山が正面に見えますけど、平将門が城峯山に籠った際、藤原秀郷がこの地に陣を張ったと言われています。秀郷がこちらの神社で戦勝祈願したとも言われています。
境内に、『藤原秀郷霊神』という小さい祠があります。藤原秀郷の霊を祀っていると伝えられています。言われないと気付かないような小さい祠ですが…。
子(ね)の神の滝   秩父市  
子の神の滝は、秩父盆地にある滝としては規模も大きく、高さ・幅ともに約13mあります。滝頭はおよそ1500万年前(新生代第三紀中新生)の古秩父湾の海底に推積した砂質泥岩(子ノ神砂岩層)が露出しているものです。この場所は海棲貝類化石などが多く発掘されることで古くから知られています。
聖神社(ひじりじんじゃ)   秩父市黒谷
秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える簑山から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされる。旧村社。
祭神
金山彦命、国常立尊、大日孁貴尊(天照大神)、神日本磐余彦命(神武天皇)の4柱に元明金命(げんめいかがねのみこと。元明天皇)を合祀する。
なお、境内石碑には『…当社はこの歴史的由緒ある「自然銅を主神」として祀り、更に金山彦命、元明金命を合祀し…』たとある。
和同開珎ゆかりの神社ということから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろうという参拝者も多い。
由緒
第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年正月11日に郡司を通じて朝廷に献上、喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させた、その発見地は当神社周辺であると伝える。
社伝によれば、当地では自然銅の発見を祈念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀った。
銅の献上を受けた朝廷も銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣、共に盛大な祝典を挙げた後の和銅元年2月13日に清浄な地であると現社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊(以下、自然銅を「和銅」と記す)を内陣に安置し金山彦命と国常立尊、大日孁貴尊、神日本磐余彦命の4柱を神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めたのが創祀で、後に元明天皇を元明金命として合祀し「父母惣社」と称したという。
なお、『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を怖れて寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管され、昭和28年(1953年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭により神社の宝蔵庫に移還されたが、現存される和銅は2塊のみである。
なお、和銅の献上を記録する『続日本紀』等は産出地について秩父郡のみで具体的な地名を記さないため、その地点が当地であったとは限らず地質学上は秩父盆地一帯にかけてその可能性があったと言える。
だが、当神社周辺に和銅の選鉱場や製錬所跡があり(市指定史跡黒谷銅製錬所阯)、平坦部には埋没した鉱石の破片が散乱、また「銅洗沢」や「銅洗掘(どうでんぼう)」、三宅麻呂等勅使が滞在したと伝わる「殿地(どんぢ)」等の銅山経営に因む地名も残るため、一帯が和銅採掘の重要拠点であった事は確実視されており、和銅採掘遺跡として埼玉県旧跡に指定されている。
因みに、近世初頭に降ると推定されるが、祝山に連なる金山の中腹には8本の鉱坑も存している。
ところで、神社の西方を流れる荒川の対岸、大字寺尾の飯塚、招木(まねき)の一帯に、比較的大規模な円墳の周囲に小規模のものを配する形の群集墳があり、現在124基が確認されているが開墾前は200基を越えると推定され盆地内では最大規模の古墳群を形成している(県指定史跡飯塚・招木古墳群)。
築造年代は古墳時代の最終末期(7世紀末から8世紀初頭)と見なされるが、被葬者と和銅の発見・発掘とを関連づける説もあり、更にその主体を渡来系氏族であったと捉える説も出されており、荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀も出土している(後述)。
なお、当社から国道140号線を1kmほど進むと、秩父地方最大の切石古墳である埼玉県指定史跡の円墳大塚古墳があり、養老6年に当社内陣へ納められた御神体栗板彫刻の裏面によると、当時この古墳地周辺は黒谷郷大浜村であった可能性がある。 古墳上の祠には金山彦命も祀られている。 また、大塚古墳からほど近い”むくげ公園”内にはより古い古墳と推定される稲穂山古墳もあり、埋葬者と和銅との関連性も大変興味深い。
更に、鎮座地和銅山の主峰簑山には、初代の知々夫国造に因む故事があり、その命は美濃国南宮大社境内に居住していたとの伝もある事から、南宮大社が古来鉱山・冶金の神として信仰を集めている事や「美濃(みの)」と「簑(みの)」との照応が注目される。
708年の創建より、数回の新築・改築が行われたと記録されている。

元和9年(1623年)に、甲州より神道流人である弾正と勘解由の2人が当地へ参ったおり、聖明神社の社番に頼み置く。
文化元年(1804年)に、寺社奉行の直支配社として御免許を受ける。
昭和11年(1936年)に、社務所が完成し神饌幣帛料供進神社に指定される。
昭和28年(1953年)に、三笠宮崇仁親王が参拝し社前に松を手植え、翌29年に勢津子秩父宮妃が参拝。
平成20年1月11日には、和銅奉献1300年を祝う「和銅祭」が斎行された(1300年前の1月11日が「和銅」改元の日であることから)。
なお、黒谷の上郷には当神社と祭神を同じくして和銅年間に創建されたと伝える上社が鎮座し、姉社とも呼ばれる中社も現存する。
秩父郡三澤村(現 秩父郡皆野町三沢)には明治40年まで無格社 聖神社が鎮座をしていた。
大陽寺   秩父市大滝
神々の里、三峰のさらにその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった時代は鎌倉時代末期から南北朝時代にむかう動乱の世、当山開山仏国国師は後嵯峨天皇の第三皇子として京の都に生をうけられた。
当時の京の都は鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いがにわかに激しさを増してきている時代であった。
そうした争いを避けるかのように16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行の地を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。
そこには、京の都や鎌倉を舞台にくりひろげられる激しい政権争いとは全く無縁の世界がひろがっていた。
遠くには清流の音、厳しい冬を通り越して芽吹く木々、それらが育む鳥たちのさえずり。夜には満天の星たちが遥か数万光年の宇宙の時を刻む。誰に見られる為でもなく淡々と、しかし威厳に満ちた大自然。
ここでは、人間の世界にいることさえ、忘れてしまいそうな光景が広がっていたに違いない。
黙々と座禅を続ける国師の姿は、山賊や猟師たちには天狗に映ったのだろうか。その後、天狗が住むと恐れられた渓谷は江戸時代には空前の山岳信仰の波に乗り、繁栄することになる。
渓声即是黄長舌。山色豈非清浄心。
けいせいすなわちこれこうちょうぜつ さんしょくあにしょうじょうしんあらざらんや
二十一世紀の今、国師の言葉は七百年の時代を超えてよみがえる。

本尊は釈迦如来であり、大陽寺の阿閦如来は秩父十三仏霊場のひとつでもある。阿閦如来は密教では金剛界曼茶羅の四仏の一人として重要な地位を占めている。
尊名の阿閦とは、サンスクリットのアクショーブヤの音写語で、揺るぎない・動じないなどの意味である。漢訳では無動仏・不動仏などと翻訳されている。ともすれば何につけ、すぐに諦め、長続きしない私たち。阿閦如来に祈るときにはその功徳によって、私たちが何事にも揺るぎない心と、怒りを離れた安楽な世界を得られるようにとお祈りをする。人々のもつ罪業を消滅する阿閦如来と心をひとつにしつつ。
■羽生市
避来矢神社(ひらいし)   羽生市上村君
神社は、今泉館林線を北上、道路から左に少し入った上村君地区にあります。嘉永4年の狛犬が迎えてくれました。阿は顔の部分が剥落しており痛々しいです。本殿の後ろには、石が祀られていました。神社に伝わる獅子舞は、市の文化財に指定されています。神社の名前が珍しいですが、栃木県佐野市の唐沢神社に重文の「避来矢の鎧(金具のみ)」が伝わっていて、同じ名前なので関係があるのかもしれません。
御祭神 藤原秀郷公
上村君村の鎮守社で、伝承によると天文年中(1532〜1554)に下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝し奉斎したのが創祀ということです。現在も本殿の裏側に祀られている「甲石」がその石と言われ、かつては「飛来石神社」と言っていましたが、享保11年(1726)神祗伯・吉田家へ神位を申請したおり「避来矢神社」と改称しました。館林城主・松平左近将監公もこの「甲石」を見に来たと伝えられています。
火山の噴火時ならいざ知らず、何もないのに石が飛んできたのも奇っ怪な出来事ですが、天文年中(1532〜1554)に下野栃木村から大きな「石」が飛んできたのと、遥か昔の英雄である藤原秀郷公とを関係づけた伝承が面白いですね。本家の佐野市の唐沢神社には鎧が残り、こちらには甲(石)が飛んできたわけですね〜。それだけ秀郷公人気が強かったわけなのでしょうか?
又、市文化財に指定されているささらの起源は、元亀・天正の頃(1570〜1591)、羽生城救援に出陣した上杉謙信が、 将兵の士気を鼓舞するため上野国よりささら舞師を招き、この社に奉納したのが起源、という伝承があるそうです。  
小松神社   羽生市小松
祭神 伊弉諾命、伊弉冉命、小松大明神(小松内府、平重盛公)
景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
■飯能市
征矢神社   飯能市征矢町
祭神 高皇産霊尊、日本武尊、誉田別尊、大日孁貴尊、応神天皇、素戔嗚尊、稲田姫尊、猿田彦尊、倉稲魂命、大宮ノ売命、大物主神
征矢神社は、飯能市征矢町にある神社です。征矢神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東夷征伐のために下向した際、当地に千束の征矢を備えて戦勝祈願を行ったことに由来、その後天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経が、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられるといいます。江戸期には祖矢社と称し、矢颪・前ケ貫・岩淵三ケ村の鎮守社として祀られ、明治5年村社に列格、明治41年神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社の9社を合祀したといいます。
征矢神社の由緒 1
(前ヶ貫村)祖矢社
矢下風・前ヶ貫・岩淵三村の鎮守なり、岩淵村観喜寺持。
征矢神社の由緒 2
征矢神社 飯能市前ケ貫一六六(前ケ貫字砂ノ宮)
大字前ケ貫の字砂の宮に鎮座し、高皇産霊尊・日本武尊・誉田別尊の三神を祀る。一間社流造りの本殿を持ち、内陣には当社創建にかかわるとされる二筋の矢が納められている。
鎮座地の地名及び当社の別名を砂の宮というのは、昔は入間川が現在よりも西を流れており、当社の辺りはその河川敷で砂原となっていたことに由来し、現在でも当社周辺を掘ると砂が出てくる。
社伝によれば、日本武尊が東夷征伐のために下向した時、この地に千束の征矢を備えて戦勝祈願を行ったことに起源する社であるという。その後、天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経は、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられる。
明治五年、神格制定に際し、古くから矢颪・前ケ貫・岩淵の三ヵ村の鎮守であり、また古社であることから村社となり、同四一年三月に前ケ貫字ヤハタの神明社・八幡神社・矢颪字前原の八坂神社・稲荷大神社・八幡大神社・字滝沢の多岐座波神社、字奥平の日吉神社・字中矢下の琴平神社、字秋津の秋津神社を合祀した。
祀職は、神仏分離までは、岩淵の真言宗福寿院観喜寺が別当を務めていたが、明治以降、神職は度々代わり、昭和五三年より宮原義雄が宮司となり、現在に至っている。
征矢神社の由緒 3
創建年月日は、不詳であるが、明細帳や神社誌によれば、古老の伝聞として、景行天皇の皇子、日本武尊が、東夷征伐のため下向の折、この地に千束の征矢を飾って、戦勝の祈願があり、その後に相馬の平将門追討のため下向した六孫王経基は、この旧跡を追懐して、日本武尊と誉田別尊を合祀したと記す。明治5年村社に列した。同41年3月10日次の9社を合祀した。
神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社
飯能市の将門伝説
天覧山
平将門がここの山頂に布陣して、平秀郷軍と戦いました。そのおり、七日七夜、血の雨が降り続いたと伝えられています。
天覧山能仁寺   飯能市飯能
飯能市矢颪・征矢(そや)町・矢の根(川寺内)
平将門が矢颪の山より藤原秀郷の軍に向けて矢を放ち、一本はここに落ち「征矢神社」として祀られました。一本は川寺(矢の根)に落ち、祀ったのが「射宮祠」(大光寺内・川寺)と伝えられているそうです。
征矢神社 飯能市征矢町
浄心寺   飯能市矢颪
円泉寺妙見堂   飯能市平松
妙見堂の妙見菩薩は、将門公配下の家臣が当地に隠れ住み、代々自宅に祀っていましたが、今から180年前にこの場所に祀りました。ご本尊「妙見菩薩」(みょうけんぼさつ)は二代目になっています。
竹寺(たけでら)   飯能市南  
天台宗寺院。正式名称は医王山薬寿院 八王寺(いおうざんやくじゅいん はちおうじ)。神仏習合の寺として知られている。 武蔵野三十三観音霊場第33番札所。本尊は牛頭天王(本地仏は薬師如来)。
天安元年(857年)に円仁(慈覚大師)が東国巡礼の際、病人が多いのを憐み、この地に道場を造り、大護摩の秘法を修したのが開山とされる。
本尊は牛頭天王、本地仏は薬師如来としているが明治維新の神仏分離から免れ、神仏習合の寺となっている。
■深谷市
鹿島神社   深谷市下手計
創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
歴史
当社の創建については、二つの経緯が考えられる。
まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かつて鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろ航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
第二は、かつて隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森、内ヶ島・田中(現在、伊勢方の小字)などの村々には、「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞和二年(1363)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えたとあることから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、当社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
江戸期、当社が近在の村々に点在する鹿島社に比べて、隆盛を極めたのは、別当常学院の活動によるものである。常学院は「風土記稿」に、埼玉郡酒巻村酒巻寺配下の当山派修験と載る。同院の本尊は不動明王で、後世、手計不動と呼ばれ、庶民に崇敬されるようになった。
常学院が当社の信仰を広めるため、庶人に配布した文政十二年(1829)の縁起には、次のように載せられている。
源頼朝が平家追討のため、鹿島神宮に祈願した折、社殿鳴動し、にわかにわき出た黒雲が、すさまじい勢いで西へ飛び去った。驚いた神宮の社人は、その後を追って西進し、ここぞと思う所に神木を植え、この奇瑞を鎌倉へ注進した。更に、源氏は兵乱の際、ここに本陣を置き、井戸を掘って軍勢の飲み水を得、軍神である鹿島・八幡の二神を祀った。
下って、寛政年間(1789-1801)に至り、かの神木が鳴動し、調べると神木の洞に塵芥蛇蛻で埋まった井戸があった。これは神慮によるものであるとし、井戸を清めて神井とした。このころ、近隣の里人の間に、この神井の水は神の加護がある神水であるから、病に悩めるものは、これを受け、あるいはその神水で身を清め、神に祈願すると霊験があるという信仰が起こった。このため、当社では神水を薬湯とし、境内に浴湯舎を設けて参詣者を招いた。神水で湯浴すれば「人々俗念を脱去し、誠敬を凝し祈念せば、其冥応疑あるべからず」と説いている。
神仏分離後、常学院は根岸姓を名乗って神職となり、要三・朗良と二代を経て、現在、根岸芳雄と根岸香代美の両名が奉仕している。
信仰
境内にある欅の老樹は、幹周りが一○メートル余りもある巨木で、古くから神木として崇められている。縁起によると、源氏が平家追討祈願を行った際、鹿島神宮社人により植えられたゆかりある神木である。江戸期、庶人に配布した「武蔵国下手計村鹿嶋神社並神井浴舎之図」には、大きく枝葉を張り出した欅の巨木がそびえ、その威容に参詣者が驚いている光景が描かれている。また、この時期、庶人が当社の井戸水を御利益のある神水として受けたのも、鹿島の神の依り給う神木の根元から湧く水であったからにほかならない。残念なことは、明治四十年に樹木の一部が、枯損したため、幹半ばから切らざるを得なかったことである。しかし、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がり、往時の威容を彷彿とさせる。
年間の行事は、元旦祭、二月十一日の祈年祭、四月八日の入学児童祈願祭、四月十日の春祭り(例祭)、十一月十五日の秋祭り、十一月二十三日の新嘗祭・大祓式がある。
元旦祭は、総代と各廓の自治会長が参列して祭典が行われる。この日、自治会長は廓を代表して「年頭」と呼ばれる餅を当社神前と地内の真言宗妙光寺に奉納するのが習いである。
春祭りと秋祭りは、当社が村社に指定される明治四十年以前は「お九日」と呼ばれ、三月と九月の十九日が祭日であった。古くは甲冑を着した武者数人が、この祭りに参加するのが例であったと伝える。また、昭和初期までは大塚島と岡新田から交替で神楽師を招いていた。
氏子
氏子区域は大字下手計で、氏子数は三○○戸である。
総代は、川端・宿・壁谷戸・新田・明戸の五つの廓(村組)から一名ずつ選出され、この中から互選で総代長と会計を決めている。任期は、総代長と会計が四年、他の総代は二年である。また、年番は、廓ごとに二名ずつおり、一年交替で当社の祭りや廓行事の諸準備に当たっている。
氏子の間で行われている行事に、末社八坂神社の八坂祭がある。八坂神社は享和元年(1801)の創建で、以来、毎年七月二十五日の八坂祭には、悪病除けのため威勢よく神輿渡御が行われている。
当初、この神輿渡御は川端・壁谷戸の二廓のみであったが、明治二年から下手計全域をくまなく回り、当社を発した神輿は廓ごとに次々と受け継がれた。また、明治四十年ごろまでは、褌一つの若衆が沿道の人々から水を掛けられながら、渡御した。更に、当社に戻り、神輿を守護する四天王と呼ばれる者が社に納めようとすると、必ずこれを奪回、再び担ぎ始める物たちが現れ、夜更けまで歓声が鎮守の杜にこだましていたという。神輿は激しく担がれるためか、文化元年(1804)、天宝十年(1839)、慶応四年(1868)と三度新調されている。なお、壁谷戸廓では、明治三十八年に建造した屋台を曳行し、これに乗る廓の者が囃子を演奏してにぎやかした。
現在の八坂祭は、大きな餅ときゅうりを神前に供え、村内安全祈願・除病祈願を行った後、神輿は、当番廓の者が神輿を威勢よく担ぎ出し、神威を発揚する。
生品神社   深谷市高島
生品神社と言うことはこちらの御祭神は大己貴命だろうと思うのだが、平将門の弟である御厨三郎将頼、もしくは将門の子が祀られているとの記述もあれば新田町の生品神社(おそらく現在の太田市新田市野井町の生品神社と思われる。こちらの御祭神は大己貴命)から勧請されたとの記述も見つかる。主祭神が大己貴命で、将門の血縁者が合祀されていると見ればいいだろうか。
■本庄市
大寄諏訪神社   本庄市西五十子
御祭神 建御名方主命 旧村社
埼玉県本庄市にある大寄諏訪神社に参拝しました。大寄(おおより)諏訪神社は、本庄市の本庄総合公園のすぐそばにあります。本庄総合公園の駐車場を利用します。
大寄諏訪神社は、御朱印があるはずなので、宮司さんのお宅へ問い合わせるとなんと宮司さんが亡くなったそうで、御朱印は無理とのことでした。残念です。
由緒は、社伝によると天慶二年(939)常陸国(茨城県)を占拠した平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で、信州諏訪の地から出陣した大祝貞継(おおはふりさだつぐ)が五十子に陣をかまえ、この地に諏訪大社のご分霊をお祀りしたことによる。平将門の乱後、下野・武蔵国の国府の長官となった藤原秀郷は神社の社殿を整え、新田を寄進し、大寄諏訪神社と奉称した。・・・  
若雷神社古墳(わかいかずち)   本庄市東五十子
本庄東高校付属中学校の東で、増国寺との間にあります。埼玉遺跡マップ」には円墳がマークされていたが、2011年更新された「文化財マップ」にはマークが無い。周辺が東五十子古墳群に包括されています。神社は円形の土盛の上に鎮座している。土盛の形と向きから神社が鎮座する典型的な円墳。古墳後期だから横穴石室が有りそうだが未調査で詳細不明。藤原季利が平将門討伐祈願、成就後再建したとの伝聞があるからかなり古くから鎮座していたようだ。
日本書紀 巻第一神代上 第五段 「イザナギの命がカグツチを切りてその一段はこれ雷神(いかずちの神)となる」「消された覇王」小椋樋一葉 著 ではスサノオはイカズチで、その子ワケイカズチはニギハヤヒであり皇祖と述べています。京都加茂神社のご祭神の別雷命は玉依姫の子供。別けは子供を意味する。稚児の稚を書いてわけと読む神社もあります。若雷は別雷のことです。横浜市港北区に若雷(わからい)神社があります。
増国寺   本庄市
東京から国道17号線を北上し、本庄市に入るとすぐに五十子陣城址があります。少し進んで鵜森という信号で左折しました。その日は、小雪がちらつく寒い日であったので、道を尋ねる人にも会わず、私はいつものように勘を働かせて、とある旧家で増国寺を尋ねました。幸いにもその家は、増国寺の檀家副総代であったので、おかみさんが快く道を教えてくれました。そこから100メートルもいくと、曹洞宗の雷雲山増国寺がありました。ここが、太田道灌の盟友松陰西堂終焉の地です。庫裏を訪ねると、住職が松陰の墓所と墓誌へ案内してくれました。
道灌の時代の関東の戦乱について、「太田道灌状」(1480年)と同様に史料的価値が高いといわれているものに「松陰私語」(1509年)があります。上野の長楽寺(太田市)の陣僧松蔭は、享徳の乱(1454年)の渦中にあって活躍し、後に回想録「松陰私語」五巻を書きました。「太田道灌状」には、武蔵、下総、相模の動乱が多く記されているのに対して「松陰私語」には、上野、下野、武蔵の出来事が多く記されています。儒教の五常(仁義礼智信)にちなみ五部構成となっているものの、第三部は目録を残して本文は欠落しています。
「松陰私語」の中に、「道灌は金山へ越すべき日限を相定め、肴十駄を両度越す事」と題する面白い挿話が記されています。1478年(文明10年)7月、太田道灌が別府陣(熊谷市)にいたとき、松蔭が岩松家の家宰であった横瀬国重と相談し、道灌に招待状と雪花(花束)を送りました。道灌は返礼として書状を送り、更に表敬訪問の日に合わせて肴十駄を二度にわたって送りました。
道灌は金山城を訪問して横瀬国重と陣僧松陰とに会い、三日間金山城に滞在し、書道、歌道、兵書などについて語り合いました。太田道灌と松陰はおそらくは足利学校の同窓生であったから、二人はこの広大な山城を視察しながら、以心伝心の含蓄深い対話をつづけたと思われます。道灌は金山城を視察して「近比明城」(近年の名城)と賞賛しました。
松陰は、1438年(永享10年)生まれで、新田松陰軒とも称しているので、新田岩松家の出自と思われるものの詳細は不明です。おそらくは、武家の二、三男に生まれ、優秀であったので跡目争いを起こさないように、新田家の先祖累代の墓がある長楽寺(太田市)に入れられ、後に足利学校で学び、岩松家の陣僧になって戦の指揮をしたと思われます。
「続武将感状記」(1716年)には、面白い、松陰の略伝が記されています。その一部にいわく「(松陰は)忍辱の衣を脱ぎて、折伏の鎧を着し、慈悲の袈裟を捲きて、降魔の保呂をひるがえす事、諸凡僧の見識に及ぶべきにあらねども、今まで仏寺に住して安眠し、仏餉(ぶっしょう)を食して抱腹せし恩を思うが故に、告げ奉ると言いて、寺より馬に乗りて立ち出で、直ちに敵と寄り合いて首をとる、これより終に寺に帰らず」と。
難攻不落の金山城(太田市)を縄張りして70余日で完成し、貴重な記録「松陰私語」を残した松陰は、複雑で難しい時代と場所で、不思議な存在感を発揮しました。僧と武士という二役で、五十子合戦を見つづけた松陰は、長楽寺を引退したあと五十子の増国寺(本庄市)に住み、「松陰私語」(別名・五十子記)を執筆し、八十余歳で歿したと思われます。増国寺の松陰の墓は卵塔で、その位牌には「前惣特当寺中興開山新田松陰西堂禅師」と記されています。卵塔とは、主に禅宗寺院で住職の墓としてつくられた卵型の仏塔です。松陰の墓前に立つと、仏の教えと軍事作戦が松陰の中でどのようにリンクしたのか、聞いてみたい気がしてきます。
増国寺は本庄市東五十子の五十子陣跡の近傍にあり、寺の由緒によると、1466年扇谷上杉顕房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。まさしく増国寺は、五十子合戦の真っただ中にある寺でした。
■深谷市
島護産泰神社 1   深谷市岡
御祭神 瓊瓊杵尊  木花咲夜姫命
(しまもりさんたいじんじゃ) 社挌  旧郷社 旧榛沢郡総鎮守
「御本殿外宇幣殿拝殿屋根葺替回廊大改修築記念碑」で島護産泰神社の由来をこう記述している。
島護産泰神社御由緒は別に、昇格記念碑並に水舎神楽殿改築記念碑其他諸々の記録で明らかであるが尚一部由来を記す。
当社は北武蔵有蹟の社で、景行天皇御宇日本武尊により祭祀され、桓武天皇延暦年間(782-806)坂上田村麻呂将軍祈願参拝された古い社である旧榛沢郡総鎮守でありながら延喜式内神名帳にも登載漏れなり。伝うるに当時榛沢群全域に一社もないのは、正に調査もれによるものであって納得ゆかず古来よりの神異神話神助古文書に存在しておる。
産泰講並に底抜柄杓奉納起因の儀も建武年間(1334-1338)以前既に奉納の実あり其の意は、御祭神の御神徳古事歴により当社に安産祈願せば不思議にも難みなく毎年数千本の柄杓の奉納ありこれが文久辛酉年(1861)、仁孝天皇皇女和宮殿下将軍徳川家茂公に御降下遊さるるにあたり当社前を御通過あらせらるるや殿下には畏くも鳥居前社標榛沢群総鎮守安産守護神とある文字を御覧遊され卒然御籠を停め御翠簾をあげさせられ容を正し祭神木之花咲夜姫命を遙拝あらせたと言う。
また社殿は往古より有形的の建物あり種々変遷し慶安年間(1648-1651)焼失以後数度建改築したも極く最近嘉永安政(1848-1859)に亘り、更に改築現今に至り然るに百二十有余年の建物で破損夥しく今回、氏子総意協議誠教致福の精神頗旺盛で改修築委員を組織氏子内工匠全員奉仕約八百万円工事費で竣工の運びとなり是が趣肯石碑に刻し後世に伝えんとす。   昭和五十六年四月十日
武蔵国榛沢郡には式内社が存在しない。何故時の朝廷が認めなかったかは不明だが、榛沢郡には各郡のように有力な社が元々存在しなかったのか、それとも時の朝廷が榛沢郡の式内社の存在を偶々見落としたのか、または故意的に抹殺したのか。榛沢郡の総鎮守と言われる島護産泰神社の参拝中このような疑念が広がった。

旧岡部町に鎮座する島護産泰神社は旧称「島護明神」と言われていて、天慶年間、平将門が東国一帯を押領した際に、その征討軍として源経基が征伐のため当地で駐屯して、当社に平定の祈願をしたという伝承もあり、歴史はかなり古いようだ。
島護産泰神社 2
当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。
当社を島護("とうご"等とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。
島護産泰神社 3
景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の途中に、当所で皇運の隆昌を祈願されたという。
旧称「島護明神」。社地の東北は低地地帯で、たびたび利根川の水難を被った。この地方は、南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬の四瀬八島に分れ、これらの住民たちにより、当社を諸島の守護神として信仰したことにより、「島護」の名がついた。また榛沢郡の総鎮守という。  天明三年(1783)の信州の浅間山の噴火、利根川の氾濫のときに、当地方で災難を免れることができたのは、当社の霊験によるものといわれた。
文久元年(1861)年の辛酉の年、皇女和宮殿下の御降嫁の折り、中山道に面した鳥居前の社標に「榛沢郡総鎮守安産守護神」とある文字を御覧になって、篭を停め御翠簾をあげさせ、容を正して御遥拝されたので、村民は遥かに御宮を拝して、慈しみに感じ入り、弥さらに奉斎の念を深からしめたという。
また安産の信仰から、周辺地域からも多くの参拝があるという。
■三郷市
番匠免神明神社   三郷市番匠免  
社号 神明神社  祭神 大日孁貴尊(別名天照皇大神)
相殿 宇賀能魂命  境内社 稲荷社
番匠免神明神社は、三郷市番匠免にある神社です。番匠免神明神社は、延元元年(1336)の春に創建したといいます。明治6年村社に列格、明治40年には村内の稲荷社を合祀したといいます。
番匠免神明神社の由緒 1
(番匠免村)
神明社 村の鎮守なり、迎攝院持、下同 稲荷社 庚申社
村持、享保十一年の起立と云
番匠免神明神社の由緒 2
神明神社
神明神社は、延元元年(1336)の春勧請し、明治四十年稲荷神社を合祀した。祭神は、大日孁貴尊(別名天照皇大神)で宇賀能魂命が合祀されている。
祭礼は、元旦祭、例祭(御備社祭、一月二十日)、月次祭(毎月一日)、夏祭(大般若祭、七月七日前後の日曜日)、秋祭(お日待十月十五日)である。
例祭は、氏子一同の安全、天下泰平、五穀豊穣、開運等諸願成就を祈願する祭礼である。
夏祭は、僧侶が神社で大般若をめくりながら読経し、終ると大般若を六個の箱に納めて天秤で担いで町内を練り歩いて各戸を回る。玄関にて箱をトントンと六回置いて次に回り、当番の家では、その箱の一つに乗ったり、結んである縄などをちぎったりして五穀豊穣、無病息災を祈願している。
秋祭は、豊作等に感謝する祭礼で、昔は宵宮から村中の人々が集まり、語り合いながら朝日の出るまで宴が行われた。
なお、神明神社は、平将門(九四〇年没)が守り神として長く信仰した神社として知られている。
番匠免神明神社の由緒 3
当社は、中川左岸の自然堤防上に広がる農業地域である番匠免に鎮座する。番匠とは大工の古称であ一り、地名の由来については、『風土記稿』にあるよ十に、当地が番匠の免田(税を免除された田)であったことによるとする説と、古くは「番匠面」とも書いたことから、当地に優れた面を作る番匠がいたことによるとする説がある。
村の開発の年代は定かでないが、比較的古く、室町時代の文書に既にその名が見えるはか、地内には多数の板碑が存し、その最古のものは天授三年(一三七七)の年紀を持つ。
当社の創建の年代もまた不明で、その由緒を伝える史料は今のところ見つかっていない。しかし、古くから番匠免の鎮守として祀られているとの口碑があり、『風土記稿』にも「神明社、村の鎮守なり、迎攝院持」と記されている。神明造りの本殿内に、祭神大日孁貴命の本地仏として雨宝童子像が納められているのは、こうした神仏習合のころの名残である。明治になると迎攝院の管理を離れ、明治六年、村社となった。更に、同四十年二月五月には地内の稲荷社を合祀した。
この稲荷杜は、通称を篠田稲荷といい、宝暦二年(一七五二)に篠田又兵衛ほか二名が和泉国(大阪府)泉北郡信太村信太森(篠田森)に鎮座する葛薬稲荷から分霊を受けて祀ったもので、諸般の事情から大正十三年、当社から旧地に戻り現在に至っている。
■小鹿野町
十二御前神社   秩父郡小鹿野町小鹿野字春日町
十二御前神社の由来
十二御前神社は、平将門の妃十二御前を祀った神社です。
将門は「新皇」と称して関東八か国の自立を宣言しましたが、九四〇年に敗北してしまいます。(承平天慶の乱)
戦いに敗れた将門の残党の中に、十二御前を中心とする一団がありました。彼らは秀郷軍の追撃をうけ、峠をこえて正永寺の西側まで落ちのびてきます。しかし、ここで遂に力つきて勝負が決しました。(勝負沢)
人々は戦死者をあわれみ、団子を供えて手厚く葬りました。(団子坂)
十二御前は自害して果て、その首を洗ったという井戸が小学校の西側の土手にありましたが、今はわかりません。他に、十二御前を十二人の妃とする説等もあります。
小鹿神社(おしかじんじゃ)   秩父郡小鹿野町小鹿野
※ 本来はおかのじんじゃもしくはおがのじんじゃと読む
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、斎主神(いわいぬしのみこと)、比売神(ひめがみ)
創建 詳細不明 社格等 旧郷社
小鹿野町(おがのまち)は、埼玉県の北西部に位置し、秩父盆地のほぼ中央に市街地を形成しています。町域の西側は日本百名山の両神山を中心とした秩父多摩甲斐国立公園や日本の滝百選に選ばれた丸神の滝のある県自然環境保全地域、県立両神自然公園、名峰二子山を擁する県立西秩父自然公園などの豊かな自然に恵まれた地域である。
小鹿野町の歴史は古く、約千年以上前の平安時代中期に編さんされた『和名抄』に記されている「巨香郷(こかのごう・おかのごう)」が小鹿野の始まりといわれています。
町制施行も県内では川越に次いで古く、中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展してきました。当時の繁栄を物語る資料として、小鹿野春まつりで曳廻される屋台・笠鉾などがあります。
また、小鹿野といえば歌舞伎のまちとして知られています。役者から裏方まで全て住民が行うのも全国でも珍しく、地芝居として小鹿野歌舞伎は高い評価を受けております。
小鹿神社(おしかじんじゃ)は、創建については諸説あり、古代から「巨香郷(おかのごう)」に座す神として祀られていたのが、後世に小鹿神社になったという説。武蔵七党の丹党に属する小鹿野氏が祀る社であったとする説。平安時代前期の天慶二年(939年)の「天慶(てんぎょう)の乱」(関東と瀬戸内海で起きた平将門の乱と藤原純友の乱の総称)で武功を立てた武蔵守となった藤原秀郷公が当地に来たときに氏神の春日の大神を祀ったのが起源である等の三説があります。いずれの説も神社と地域文化のかかわりを考えた上で興味深い。
鎮座地については、口碑によると、はじめは東部の荒川支流である赤平川の左岸の河岸段丘上で、春日町の東寄りに当たる地に「明神」という小名があり(現春日町内)この地に鎮座していました。次いで少し離れた春日町の諏訪(小名)に遷宮、明治四十三年(1910年)の赤平川の洪水等により境内崩壊のため腰之根地区の現在地へ遷宮したと伝えられています。この地は古くから諏訪神社(下社)が鎮座していましたが、『新編武蔵風土記』には既に字諏訪に鎮座していた諏訪神社の社名はなく「小鹿明神」とのみ記載されていることから諏訪神社はこの遷座に伴い諏訪神社及び境内社三社を当社に合祀され「小鹿神社」と改称されました。その後、明治四十五年(1912年)には宇美屋の新井神社をはじめ五社を合祀しました。
小鹿神社は、旧小鹿野の総鎮守であり、明治五年(1872年)には村社に列し、明治十六年(1883年)には西秩父十八ヶ町村の鎮守となり郷社に昇格した。
現在の小鹿神社本殿は合祀された諏訪神社(上社)の社殿で、棟札には江戸時代中期の安永四年(1775年)の建築と記されています。なお、内陣には往古諏訪信仰とかかわりを持っていたと考えられる石棒が納められています。また、建物の規模や様式は小鹿神社旧本殿とほぼ同じです。
毎年四月第三土曜日とその前日に行われる「小鹿野春祭り」は小鹿神社の例大祭で、その歴史は江戸時代初期まで遡ります。 江戸時代はじめの寛永年間(1624-1644)に書かれたといわれる旧家の文書によると、現在の小鹿神社が鎮座するところと、今の町役場庁舎裏の小鹿神社元宮(旧本殿)との間で神輿渡御が祭礼の日に行われていたとあります。
こうした由来から、現在でも祭りの流れを受け継ぎ、小鹿神社と元宮の間を屋台・笠鉾が行き来します。屋台の上で上演される「小鹿野歌舞伎」は、およそ二百年の歴史を持ちます。初代坂東彦五郎が江戸歌舞伎をこの地に伝えたのが始まりとされ、お祭りでは屋台に芸座(上手に義太夫、下手に三味線・太鼓が入る)・花道を街道の幅いっぱいに張り出して演じられます。 昭和五十年(1975年)に県無形民俗文化財に指定されました。
当社のある小鹿野町は、近年、両神山麓花の郷では日本有数の規模を誇るダリア園、尾ノ内渓谷で氷柱といった新しい観光スポットがでてきています。 平成二十三年(2011年)九月には、小鹿野町を含む秩父地域が「ジオパーク秩父」として認定されました。そんな小鹿野町のキャッチコピーは「花と歌舞伎と名水のまち おがの」です。
鷲窟山観音院   小鹿野町
埼玉県小鹿野町、観音山という山の中腹に鎮座する、秩父札所31番「鷲窟山(しゅうくつさん)観音院」。まず目に飛び込んでくるのが、背の高い木々のなかにある山門です。山門には2体の仁王が鎮座しています。
こちらの仁王は“石造り”となり、その大きさは1丈3尺(約3.9m)。台座を入れると4mを超える規模です。石造りの仁王としては、日本一の大きさなんです! 仁王像は金網で保護されていますが、足元から覗けるようになっていますので、ぜひとも眺めてみましょう。
山門をくぐってからは、石段を上っていくことになります。石段の数は296段。般若心経“276字”と普回向(ふえこう)“20字”の合計で、296段になっているそうです。かなり急な石段なので、歩きやすい靴で来訪されるといいでしょう。足腰に不安のある方は、杖を借りることもできます。
秩父34霊場のなかでもっとも険しい難所に建つお寺とされる、「札所31番観音院」。296段の急な石段を登り切り、ご本堂にたどり着いたときは感動もひとしおです。ご本尊は、奈良時代の僧・行基(668-749年)の作とされる聖観音像がお祀りされています。
■神川町
城峯神社(じょうみねじんじゃ) 1   児玉郡神川町矢納
ご祭神 大山祗命(おおやまつみのみこと)
社伝によれば、景行天皇の四十一年、日本武尊東征の折、この山の非凡なのを見て登り、自ら山嶺に矢を納めて大山祗命を祭り、はるか大和国の畝傍山にある神武天皇稜を拝して賊徒平定を奉告した。尊が矢を納めたので「矢奈布」と呼び、後に矢納に改めたといい、また尊は高峰の頂に霊時(祭場)を設け「加美屋満」と名付けたが、これがのちに「神山」と称するようになったという。天慶三年(940)平将門の弟将平が当山に矢納城を築いて反旗を翻した時、藤原秀郷は勅令を奉じて討伐に向かい、賊徒平定を祈願し、乱が治まって後、厚く祭祀を行い、「城峰」の社号を付し、山頂に城峰奥宮を創立した。
城峯神社 2   児玉郡神川町矢納
城峯神社は、県立西秩父自然公園の主峰・城峯山頂(標高1,037m)のほど近くにあります。平将門伝説によると、城峯山は関東が一望できるこの地に城を築いたことから、その名前がついたといわれています。藤原秀郷が平将門を討ったのちに、城峯神社を建立したとされていますが、それよりも古くからお犬様がまつられており、火災、盗難、病気の守り神として信仰されています。
城峯神社から15分ほど歩くと、城峯山頂にある展望台があります。城峯神社までは車で行くことができるので、15分ほどで登山気分を味わうことができます。山頂までの道は比較的歩きやすく感じますが、急な登りもあるので、注意が必要です(歩く際には歩きやすい靴でお願いします)。晴れた日は、360度パノラマからの展望台から、さまざまな山々が見られるのですが、今回は残念ながら見ることができませんでした。
平将門にゆかりがあるスポット「将門かくれ岩」があります。
左右2本の鎖を約18m登ります。傾斜がかなり急なので、「上級者、経験者以外は危険です」の警告看板がありました。観光客の方も、「左の鎖までは登れても、右は急すぎて危険だから諦めた」と話していました。経験者の方も、「一昨年は登れたけど、今日は怖く感じるからやめておく」と話していたので、登る際には準備と覚悟が必要です。
城峯神社で、趣の異なる3種類の狛犬を見ることができました。山門のそばに置かれている狛犬です。獅子のような姿をしています。本殿へ向かう石段を登った先にある狛犬です。口元が鋭いのが特徴的です。本殿左手にある狛犬です。耳が小さく、まるで猫のような姿をしています。彫られている文字を読むと、「天保」と読めるので、江戸時代に設置されたもののようです。
大和武尊が弓矢を収めた由来により矢納の地名となる。

城峰(じょうみね)神社   祭神 大山祇命
埼玉の城峯山北山麓、神泉村の東神山に鎮座する郷社です。社伝によれば、景行天皇の皇子・日本武尊が東征したおり、山頂に矢を納めて東夷平定を祈願し、大山祇命を祀ったことが開創とされています。
平安時代、平将門の乱のあと、将門の弟・平将平が城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられます。無事、乱を平定した秀郷はねんごろに祭祀を行い、城峯の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになりました。
この神社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、社殿の前には日本武尊にちなむ山犬型の狛犬が控えています。また神社の分与する御守札は大口真神つまり狼であり、すべての災難を消除するとされています。毎年この御眷属を借りかえる風習が続き、この借りかえを行う人々の信仰組織を講中といいます。
一方、城峯神社の前の城峯公園には、桜並木がありますが、冬に開花する冬桜として有名です。開花の季節には冬桜祭があり、近在から多くの人々がお花見に集まります。  
城峰山(ようみねさん)   児玉郡神川町矢納  
一等三角点のある山として知られている。『武蔵通志(山岳篇)』には安房(あふさ)山と書かれている。山頂直下の城峰神社は日本武尊と藤原秀郷を祭る大きな社殿だ。付近には平将門の弟、勝平に関する伝説が残されている。山頂には展望台があり、360度の大展望だ。江戸期の地誌にも山頂からの展望が詳しく描かれている。城峰山へは南面の石間(いさま)川奥の半納(はんのう)から登る。小沢沿いから杉木立の参道を登り、キャンプ場を左へ進むと城峰神社で、山頂に達する。山頂の東に車道があり、駐車場から往復する人も多い。 下山路は東へ車道を横断して門平へ下る。門平には将門伝説があり、集落内の神社には将門の大きな絵馬が奉納されている。半納から山頂を経由し、門平まで約5時間。

城峯山(じょうみねさん)は、埼玉県秩父市、秩父郡皆野町と児玉郡神川町の境界にある標高1,037.7mの山である。しばしば「城峰山」とも書かれるが、国土地理院発行の地形図では城峯山と表記されている。山頂には一等三角点と電波塔があり、この電波塔の下部が展望台となっている。この展望台からは360°全方位見渡すことができ、ハイキングの本などでも「眺望のよい山」として紹介されることが多い。 平将門がこの山に立てこもったとき、愛妾の桔梗が敵方に密通したと疑い、将門は桔梗を斬り捨てた。そのため、今でも城峯山にはキキョウの花が咲かないのだという。 と言ったような伝説が残されている。また、山頂下には追われた将門が隠れたと伝えられる岩がある。
城峰神社   
神山の中腹に社殿、頂上に奥宮が祀られています。日本武尊が東征の折、風光明媚な神山に登り、矢を納めて大山?命を祀ったと伝えられています。矢納の地名はこれに由来するといわれています。  
父不見山(ててみえずやま)   埼玉・群馬県境
埼玉県と群馬県の県境に位置する山。詩人・随筆家の尾崎喜八の『神流川紀行』の「父不見御荷鉾も見えず神奈川星ばかりなる万場の泊り」という一首のおかげで有名になった山。 山名には諸説があり、戦死した平将門の子が父を慕って嘆いたことから「父不見山」となったという説、寺僧が我が子を捨てて逃げた際に後を追った子供がこの山で見失ったからという説、北側に流れる神流川を挟んで住んでいた武将の妻子が戦に出た父の帰りを眺めていた方向にあった山という説などがある。 山頂には「三角天」と彫られた丸石が鎮座する。平成12年に発生した山火事で多くの樹林が焼け、現在は展望が開ける山となっている。  
■越生町
黒山熊野神社   入間郡越生町黒山
社号 熊野神社  祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
黒山熊野神社は、入間郡越生町黒山にある神社です。黒山熊野神社は、箱根権現社の別当だった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が、応永年間(1394-1428)本山派修験の大寺山本坊を開山する際に勧請、祭神は一説には平将門だったともいいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より社領三石の御朱印状を拝領、明治5年村社となり、社号を熊野神社に改めたといいます。明治40年には同大字内にあった字清水の八雲神社、字東の愛宕神社、字東の榛名神社、字原の神明神社の四社を合祀しています。
黒山熊野神社の由緒 1
(黒山村) 熊野社
慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、當社は西戸村山本坊の進退する處なり、按に堂山村最勝寺に蔵せる、大般若経の奥書に、應永廿四年五月十九日、武州入西郡吾那越生郷、新熊野常住執筆良觀と記し、及同年六月廿日武蔵國吾那小山一乗坊新熊野など記せしもあり、當社は元より山本坊の預る所なれば、自ら別社なるべけれど、又此越生の内に小山と號する所も、今其地なければ彼新熊野と云もの、當社のことなるも知べからず。
神楽堂。 本地堂。薬師の像を安ず、春日の作なりと云。
天王社 是も山本坊の内 金毘羅社 愛宕社 山祇明神社 百姓持
黒山熊野神社の由緒 2
熊野神社<越生町黒山六七四(黒山字北ケ谷戸)>
当地は、越辺川の上流、秩父山地の山間の地に位置する。黒山の地名は、地内の一帯に古生層の黒っぽい岩石が露出していることに由来する。中世の文書には既にその名が見えるが、開村は更に古いと伝えられる。
当社は、応永年間(一三九四-一四二八)、箱根権現社の別当であった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が当地に移り、本山派修験の大寺であった山本坊を開山するにあたって勧請した社で、熊野大権現と称し、この時、不動堂・赤堂・長命寺と共に建立されたと伝えられる。しかし、棟札によれば応永五年二月の造営で、「将軍将門宮」となっている。更に、氏子の口碑にも平将門を祀るとも伝えるため、当初は平将門が祭神であったことがうかがわれる。
慶安元年には三石の朱印地を社領として賜っている。明治五年の社格制定にあたっては、村社となり、社号を従来の熊野大権現から現行の熊野神社に改めた。更に、同四〇年には同大字内にあった字清水の八雲神社、字東の愛宕神社、字東の榛名神社、字原の神明神社の四社を合祀している。
主祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命である。
なお、昭和六〇年一一月六日不審火により社殿が焼失している。
■杉戸町
永福寺   杉戸町高野
真言宗豊山派の寺院。山号は龍燈山。本尊は阿弥陀如来。すぎと七福神の寿老人。
創建の経緯については定かでない。伝承によれば、天平勝宝5年(753年)、行基により開基。かつては阿弥陀寺と呼ばれたという。寺の中興については、次のような伝承がある。武蔵権守興世王の妾といわれる妙喜尼は、天慶3年(940年)、承平天慶の乱の首謀者として興世王が討たれるに及び、自ら寺に火をつけて焼死し寺も焼け落ちた。天慶5年、平将門が京に滞在している時に生まれた子といわれる抜山優婆塞が、東国に下り父の戦場で死者の菩提を弔って、高野の地に来た時、土の中から光り、行基作と伝わる阿弥陀寺の本尊であった阿弥陀仏の木像を発見し、再興したという。
その後いつの頃か長福密寺と改名されたが、江戸幕府6代将軍徳川家宣が子息に長福(のちの徳川家継)と名づけ、それに遠慮して永福寺と名乗るようになったという。ただし、寺に伝わる『永福寺伝燈記』には、宝暦9年(1759年)、僧弁隆が住持となる前は長福寺と称していたとあり、徳川家継(1709年生まれ)とは時代が合わない。
目沼古墳群(めぬまこふんぐん)   杉戸町目沼
千葉県と埼玉県を流れる江戸川の西、下総台地の北西端、標高10メートルに立地する。かつて、前方後円墳3基を含む70基余の古墳が所在し、その数の多いことから地元の人々は「九十九塚」と呼んでいた。しかし現在所在が確認されている古墳は20基、そのうち墳丘の残る古墳は目沼3号墳、浅間塚古墳(10号墳)、17号墳の3基のみである。
目沼2号
墳 推定全長43メートルの前方後円墳。1807年(文化4年)に地主の助右衛門によって石棺が掘り出された。この石棺は代官の命により再び埋め戻され、そのことを記した石碑が建立されている。昭和元年に石室が取り壊された際に大刀片が出土している。
目沼9号
墳 径24.6メートル・高さ3.5メートルの円墳。主体部は木炭槨で、長さ4.65メートル・幅1.1メートル。副葬品は大刀1、鉄鏃23、刀子1、ちょう子1、三鈴杏葉3、素環雲珠1、土師器出土。6世紀前半の築造。出土品は昭和63年2月26日付けで県指定有形文化財に指定された。
浅間塚古墳(目沼10号墳)
現存する墳丘は直径28メートル・高さ2メートルで円墳のような形をしているが、1991年(平成3年)の発掘調査で、全長46メートル以上・後円部径30.4メートル・高さ5メートルの前方後円墳であることが判明した。周溝から出土した円筒埴輪・形象埴輪(人物・馬・家)から、6世紀前半の築造とみられる。また、東側くびれ部から6世紀前半の円筒埴輪棺が発掘された。1991年(平成3年)12月27日付けで杉戸町の史跡に指定された。
■寄居町
宗像神社   寄居町藤田
社号 宗像神社  祭神 多紀理比売命・狭依比売命、多岐津比売命
境内社 長男神社・丹生神社・罔象神社、二柱神社、稲荷大神、菅原神社、琴平神社、高根・浅間神社合殿、八坂神社、厳島神社
宗像神社は、寄居町藤田にある神社です。宗像神社は大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を勧請して創建したといいます。
宗像神社の由緒
宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を移し祀ったものです。
宗像大社は文永弘安の役(蒙古来襲)など北九州の護りや海上の安全に神威を輝かしていました。
この地に御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、人々の崇敬を篤くしました。
藤田五郎政行が花園城主(平安時代)として北武蔵一帯を治めるにあたり、ここを祈願所とし、北条氏もまた祈願所にしていました。
春祭は4月3日、秋の例祭は11月3日で、当日は江戸時代から伝わる山車7台を引き揃え、神幸の祭事がにぎやかに行われます。
なお、拝殿には寄居町出身の名彫刻家、後藤功祐の彫った市神様社殿があり、町の指定文化財として保存されています。
祭神は、天照大神の御子である多紀理比売命・狭依比売命、多岐津比売命です。
極楽寺   寄居町藤田
山号 象頭山  院号 聖天院  寺号 極楽寺
真言宗豊山派  本尊 歓喜天(聖天)
真言宗豊山派寺院の極楽寺は、象頭山聖天院と号します。極楽寺は、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守として象ヶ鼻に創建したといいます。応永年間、中興の祖秀永が新義真言に改め、聖天院及び六院を別当宗務、北条氏邦は鉢形城の鎮守とした他、江戸幕府から寺領20石の朱印状を拝領していたといいます。明治維新の神仏分離に伴い、上宮は国有地となり当地へ移転、下宮は宗像神社となったといいます。当寺の弁財天・毘沙門天は、武州寄居七福神の弁財天・毘沙門天となっています。
極楽寺の縁起 1
極楽寺
真言宗の寺で、象頭山聖天院極楽寺と称し、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、この地の荒川岸壁の岩頭の一角が大海を渡る巨象の姿を思わせることを奇とし、霊地と定めて自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守としたことが開山の初めと伝えられています。
聖天(歓喜天)は象面人身双体の天部仏尊で、民衆には和合福徳豊饒を、為政者には鎮護国家の法力を授けるものとして信仰されています。当聖天は多く武家棟梁の尊信を集めたといわれ、中世期には源経基、源義家、秩父十郎武綱らが、藤田郷一円十二ヵ村を寄進してその総鎮守とし、六院を建立したと伝えられる。近世では北条氏邦が鉢形城の鎮守とし、徳川将軍家は代々朱印地20石を寄進して政道と民心の安泰を願いました。
当寺は古くは聖天信仰を通じて古義真言を広めたが、応永年間、中興の祖秀永が新義真言を究め、教義格式を整えて聖天院及び六院を別当宗務し、法燈を輝かせました。歴史の変遷を経、聖天院も明治末年に大師ゆかりの「象が鼻」より現在地に遷座されるに至ったが、附近の「六供」の地名などに、聖天の法にいう「六供六坊」を擁した往昔が推測されます。
極楽寺の縁起 2
(古寄居村・寄居新組村・新寄居村)聖天宮
荒川の涯象ヶ鼻と云所にあり、此所新寄居に属す、社を或は上ノ宮とも呼ぶ、傳に云光明皇后霊夢に由り刻ませ賜ふ共、又は弘法大師の作とも云、秘佛にしてみることを許さず、これ藤田郷の総鎮守なししが、今は寄居三村の鎮守とす、弘法大師の勧請にて、天長三年の棟札ある由なれど、是も社内に秘して見ることを得ず、此邊荒川の幅凡三百間程砂利の間を屈曲して幾條にも流れ、水勢獅オく、左右の岸は絶壁峙ち、仰見れば秩父郡釜伏山高く聳え、男衾郡折原鉢形の山々連れる様、尤景勝の地なり、又社より一階低き所に社あり、此を下ノ宮と云、或は上ノ宮を男体とし、下ノ宮を女体とすると、此上下の宮に彼是伝説あれど、永享の文書既に上下の別あれば、奮くより二社ありしこと知らる、天正十八年の乱に社廃せしかば、御入国の翌年社領二十石の御朱印を賜へり、奮社の故を以てなり、境内に天狗腰掛松・相生松・連理の杉等あり。
別当極楽寺
新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末、象頭山聖天院正乗坊と云、文書によれば古乗円坊と唱へしことしらる、法流開山秀永応永二十四年二月十三日示寂、鎌倉管領の始までは、法親王の法弟にて、秘密の道場たりしに、兵乱の後一たび衰廃し、天正年中聖範弟子実廣といへるもの住職せし頃、今の堂宇再興せしとなり、本尊阿弥陀。
(花押文書省略)
本地堂。
元は上宮の傍にありしが、元禄年中境内に引移せり、本地十一面観音は行基の作なり、外に役小角の像を安ず、腹内に応永廿三年秀永造立と有り。
弁天社、天満宮、稲荷社二。
極楽寺の縁起 3
創建は、弘仁十年(平安時代、千百七十年前)弘法大師が当地像ヶ鼻に歓喜天(聖天)を勧請されたのに始まる。下って当聖天は源氏の武将の信仰を集め源義家は七面伽藍、六供六坊を建立し、聖天宮は像ヶ鼻に上社、現宗像神社の地に下社が祀られた。明治の宗教改革廃仏毀釈により象ヶ鼻は国有地となり上社は現境内地へ移転、下社は宗像神社となった。聖天の祭礼は宗像神社の祭礼となり、今も聖天の双股大根の絞をつけた山車が数台ある。明治政府は神道を盛り立て多くの寺院を取壊したが、日露戦争ではさすがに寺院にも戦勝祈願し当聖天には戦利品の大砲と砲弾を寺内陸軍大臣の戦利兵器奉納書を副えて奉納した。又内務省より保存資金が下附された。
聖天は本地十一面観音で、当山の尊像は新編武蔵風土記稿では行基作としている。江戸時代には当聖天は江戸市民にも広く信仰され今も玉垣等にその名残りをとどめる。
聖天は厚く信仰する善男善女には他の神仏が見はなす事でもかなえて下さると言われ、殊に商売繁昌、厄除、縁結、学業成就の御利厄がある。毘沙門天、弁財天は聖天とは特に密接な関係にあり聖天下社には弁財天が合祀されていた。又毘沙門天もお祀りされていたことが伺える。ここに毘沙門天、弁財天を復活勧請し聖天を中心として檀信徒の海運厄災を請願う次第です。
花園城跡   寄居町大字末野字城山
花園城跡 県選定重要遺跡、町旧跡(きゅうせき)。猪俣(いのまた)党の土豪である藤田氏の居城と伝えられ、藤田氏は後に山内上杉氏の重臣として活躍しています。二重の竪堀(たてぼり)を特徴とする山城で、一部に石積みが残っています。後北条氏時代は、鉢形城の支城として、秩父谷への街道を押さえる機能を果たしていたと思われます。  
安楽寺   比企郡吉見町
岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。毎年6月18日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、この日は古くから「厄除け団子」が売られている。現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなる。
安楽寺本堂
岩殿山安楽寺は板東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。「吉見観音縁起」によると今から約1200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩がこの地を霊地とし、観世音菩薩の像を彫って岩崖に納めたことにその創始を見ることができる。延暦の代、奥州征伐のとき、この地に立寄った坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となり、その後、源平の合戦で名高い源範頼みなもとののりよりが吉見庄を領するに及び、本堂・三重塔を建立したが北条氏との戦いですべて消失した。 現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再建されたものである。その様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に江戸時代前期の様式を保持している。屋根はもと柿葺であったが、大正12年の改修の際に銅瓦棒葺に改められた。
安楽寺三重塔
現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。 総高約24.3m方三間の三重塔では基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられている。屋根は柿葺あったが、現在は銅板葺に改められている。初重の面積は高さに比較して非常に大きく、また各重の面積の縮減も程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせる。
神流川(かんながわ)   群馬県・埼玉県
群馬県および埼玉県を流れる利根川水系烏川の第2次支流である。
群馬県、埼玉県および長野県が境を接する三国山の北麓に源を発し北へ流れ、上野ダムにて堰き止められた奥神流湖から、後に東に流れを転ずる。途中下久保ダムによって堰き止められた神流湖から、群馬県・埼玉県の県境となる。下久保ダム直下の流域は三波石峡と呼ばれ、合流する三波川とともに三波石の産地として知られる。藤岡市のあたりから流れは緩やかになり、埼玉県に入って児玉郡上里町を流れ、同町と群馬県佐波郡玉村町の境界付近で烏川に合流する。
弓立山ー大築山   埼玉県
北武蔵の一隅を占める比企(ひき)、 入間(いるま)の低山には、歴史と伝説にまつわる事跡が数多く遺されている。往時を偲び、幾つかを紡ぎながら歩いてみたい。
弓立山登山口の最寄バス停は桃木(もものき)だが、役場第二庁舎前から歩いても幾らでもない。※1
左前方に、なだらかな弓立山が見える。カーブした滝山橋の手前を左折して旧道に入り、八幡神社の西から登り始める。緩急を繰り返して登ると突然空間が開け、眼の前に巨岩が現れる。都幾川(ときがわ)対岸の女鹿岩(めがいわ)との関わりが伝えられる男鹿岩(おがいわ)である。
昔女鹿岩と男鹿岩に雌雄の龍が住んでいた。毎年7月7日に2匹の龍は都幾川で逢瀬を楽しんだ。村人がこれを見ると災を被ると言われ、この日は仕事を休んで近寄ることを避けた、との伝説がある。辺りは伐り払いされて見晴らしがよく、ひと休みするのに格好の場所だ。
一投足で弓立山の山頂に着く。この山もまた伝説の山である。往古源経基(みなもとのつねもと)が慈光寺一山の境界を定めるため、もと頂上から四方に矢を放った。この蟇目(ひきめ)の神事(しんじ)が行われて以来、山名が臥龍山(がりゅうさん)から弓立山に変わったという。

だが現実は、目を見張るばかりの変貌ぶりである。山頂部一帯はすっかり開発され、パラグライダーの発進場となっている。426・9bの三等三角点(点名・弓立)は辛うじて難を免れたものの、すぐ傍まで境界が迫り今後が懸念される。それと裏腹に展望は開け、頂上の南側からは奥武蔵の山並みが一望できる様になったのは皮肉である。
展望を楽しんで下山にかかる。発進場の脇を下り林道に出たら、ガードレールの手前から右の旧道に入る。民家の西を通り下の林道に出ると、迂回してきた林道との三差路に着く。再び山道に入って進むと日枝神社に通じる林道に合わさる。南に面した大附(おおつき)の集落は、明るく開放的な好ましい雰囲気に包まれている。六万部へは近道もあるが、少し東へ行き、そば道場の手前から広い道を右折する方が分かりやすい。
上殿沢林道に合わさり、右へ少し進んで左の橋を渡る。袂に「西東京幹線383号」の標柱がある。この道は慈光寺の脇参道だった道で、5分ほど進み崩れた丸木橋の所を左折する。道なりに登り最後はヒノキの植林の中を急登すれば稜線上の鉄塔に着く。左に藪を分けて登れば六万部塚である。
頂上には明治41年(1908)建立の「六万部供養塔」と呼ばれる石碑がある。高さ約120センチ、幅約50センチで後ろへ少し傾いている。表題は「六萬部塚銘序」、撰文は当時梅園村村長を務め、文化人としても知られた武内久雄氏である。
碑文には「平安時代、十万部の経典を携えて東国を行脚(あんぎゃ)中の高僧が、この地に塚を築いて六万部のお経を納めた。残りの四万部は秩父の栃谷(とちや)の里に納め、これが四万部寺になった」という趣旨の由来が刻まれている。
近くに「境」と刻まれた自然石が3基、離れ離れにある。これは入間と比企の郡界を示す境石であろうという。

鉄塔に戻り、反対側に下って 広見越(ひろみごえ)に向かう。ここは南北の集落を結ぶ峠で、文化四年(1807)銘の三面六臂の馬頭観音が立っている。南へ尾根通しに進むと、竹藪が現れ広い道に合わさる。大築山へは右折だが、左折するとすぐ明るく開けた台地に着く。南側の展望が広がり休憩によい。背後の柵の中に「山入の庚申塔」と呼ばれる優れた彫りの庚申様が祀られている。
戻って大築山に向かう。歩きやすいしっかりした道で、初めは尾根の南側を巻く。北側に移り、ひと登りした左手が小築山の山頂なので立ち寄ってみよう。標識がある頂上を踏んで西進すれば、先程の道に合わさる。
小コルを過ぎ右に斜上する道に入る。ここはもう大築城跡の一角である。城跡は東西200メートル、南北50メートルほどの規模で、南からの道を合わせ、登り詰めると平らに均(なら)された本郭跡に着く。
「武蔵国郡村誌」に『本山を麦原村にて城山と称し平村にて大築山と云う村の東方にあり東西廿間南北廿間面積四百坪四囲築地の形を存し東方大手前に遺濠あり猶廓の形をなす室の廓と呼むろぶ』と記す場所である。しかし長い間あまり関心を持たれず、地元でも忘れられた存在だったが、昭和43年9月の台風の災害復旧をきっかけに城跡が姿を現わし、再認識されたという。

この城が誰の居城だったか諸説あるが、発掘調査や慈光寺に伝わる記録からみて、天正年間(1573―1592)に、時の松山城主上田朝直(うえだともなお)が、慈光寺を攻める際に築いたという説が有力だという。
城跡の西端から急な踏み跡を南に下り、尾根伝いに行くと猿岩峠に着く。ここは「遠見」と呼ばれ、かつて東南方桂木山の彼方に、新宿の高層ビル群を視認できたほど見通しが良かったが、樹木が伸びて展望は失われた。
猿岩峠から南に下る。林道に出て、やがて「あじさい山公園」に着く。以前は1万5千株ものアジサイが咲き誇り、シーズンには多くの観光客が訪れていたが、近年「アジサイ葉化病」が発生して開花が激減した。現在地元の人達が協力して3年計画で植え替え整備中で、復元が待たれている。
公園の中の遊歩道を通り山上の展望台に登ると、今日歩いた弓立山から小築山、大築山の山並みが眺められる。南へ下る道は、越生(おごせ)と秩父を結び絹織物などを運んだ昔の交易路の一つで、馬頭尊も幾つか遺されている。
戸数わずか数戸の赤坂の山上集落は、日当たりの良い南斜面に開け、さながら桃源郷を思わせる。林道を下り、あじさい街道に出て、しばらく歩いて麦原入口バス停に着く。時間があれば休養村センターに寄るとよい。  
虎ヶ岡城主郭跡   児玉郡美里町円良田
(円良田城(つぶらたじょう))
室町時代に花園城の支城として藤田氏により築かれたとも、戦国時代に北条氏邦の鉢形城の支城として、猪俣小平太範網(のりつな)により築かれたとも云われる。
戦国時代には、鉢形城支城群の一つとして鉢形城への食糧供給の役目を担っており、北条氏の支配下にあった。
天正十八年(1590年)豊臣勢による鉢形城攻撃の際、虎ヶ岡城にも真田昌幸の大軍が差し向けられ、守将矢那瀬大学らが20日間にわたり防戦したが、落城したと云われている。
円福寺   秩父郡皆野町大字皆野
円福寺の本尊は阿弥陀如来で、左脇侍に観音菩薩、右脇侍に勢至菩薩を配してあります。観音菩薩は十一面観音で、像の高さ66cm、台座18.5cmです。如来の台座には、天明元年(1782)の紀年銘があり、勢至菩薩も同時代の作と見ることが出来ます。しかし、十一面観音は形も時代も全く異なり、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した、仏師の1系統である院派(仏師集団)の仏師の作であると思われます。
浦山城跡   皆野町大字金沢字浦山上土
浦山城跡は秩父鉄道皆野駅の北西約6km、「カタクリの里公園」から東にのびる尾根上に立地します。標高は約520〜530mです。発掘調査は採石工事に伴うもので、5月1日から調査を開始しました。現況図を作成した上、現在は郭(くるわ)と想定される平場を中心に遺構の確認作業を行っています。
今回の調査では平安時代の須恵器と炭焼窯跡、戦国時代のかわらけと平場、江戸時代の陶磁器と古銭などが発見されました。平安時代には炭焼き、戦国時代には山城として利用され、江戸時代には浦山が信仰の場であったことが明らかとなりました。
平安時代の炭焼窯跡です。平面形は長方形状で、規模は長さ10m、幅1.5mです。炭焼窯の底には炭化物と焼土が広い範囲で検出されました。平安時代の須恵器が出土しました。平安時代に炭焼窯が営まれた平場は、かわらけの出土によって、城の一部として利用されたことが明らかとなりました。
戦国時代(16世紀後半)のかわらけです。浦山城は、甲斐の武田氏が北武蔵へ侵攻した際、後北条氏が秩父地域の防備のために築城したとされています。
江戸時代(17世紀末から18世紀初頭)の肥前系の皿もしくは碗です。浦山の頂部には、江戸時代の石碑や石燈籠などもみられます。
正丸峠(しょうまるとうげ)   飯能市・秩父郡横瀬町
埼玉県飯能市と同県秩父郡横瀬町の境界にある峠。標高636m。秩父・奥武蔵にある峠の一つである。江戸時代、江戸と秩父と結ぶ道の一つとして秩父札所巡礼などに用いられた「正丸峠」は、現在の「旧正丸峠」である。
かつては峠道が国道299号であったが、1982年(昭和57年)3月の正丸トンネル供用開始とともに国道はトンネルに変更された。西武鉄道西武秩父線も、正丸駅 - 芦ヶ久保駅間の正丸トンネルでこの峠近傍の地下を通過している。
峠道は現在も通年通行可能であり完全舗装されているが、一部狭いところがあり、やや路面が荒れている。センターラインとキャッツアイ(夜間標識用の鋲)が設置されている所もあるが、狭いカーブや路面状況が著しく悪い場合、軽自動車でもこれらをまたがないと通れない部分もある。冬期は積雪等による路面凍結もある。東側は国道299号正丸トンネル正丸側出口(正丸駅付近)、西側は県道53号青梅秩父線に接続する。峠からは奥武蔵の山々を望むことができる。峠には茶店がある。
1980年代後半から90年代後半にかけて横瀬側が2輪のローリング族のメッカとされ事故も多発した。現在でも横瀬側のガードレールなどには当時のローリング族の名前やステッカーが数多く残され、当時の面影が偲ばれる。また、アニメ『頭文字D Second Stage』・ゲーム『頭文字D Special Stage』で、ハチロクレビンに搭乗するドライバー秋山渉のホームコースとして登場しているほか、Arcade Stage Ver.3でも超上級コースとして登場した。峠の茶店では同作品にちなんだステッカーが数種類販売されている。
深夜の峠道は、通年にわたりアライグマやシカなど比較的大型の野生動物が頻繁に路上を行き来している。
なお、本峠から北東へ約1kmのところに旧正丸峠(標高655m)があり、江戸から秩父(大宮郷)に至る道の一つである「吾野通り」を継承する登山道が存在している。
鉢形城跡
鉢形城跡は戦国時代の城跡で国指定史跡になっています。この城跡については多くの専門家の方々がホームページを作成していますので城の遺構などの詳しい解説はそれらを参考されるのも良いと思われます。そこでホームページ作者としては、鎌倉街道との関連と、城主であった北条氏邦という武将について少し説明してみたいと思います。鉢形城は源氏の始祖にあたる源経基が平将門の乱の時に築城したとか、或いは畠山重忠が築城したとも伝えられているようですが、それらは伝説によるところと考えられ、城郭の形式から文明8年(1476)に関東管領山内上杉家の長尾景春が築城したというのが有力な説となっています。
長尾景春は山内上杉家の執事である長尾景信の子でした。主君の上杉顕定が景春の弟の忠景を執事としたことを不服として文明8年に鉢形城に拠って反乱を起こしたのです。景春は古河公方足利成氏と同盟し、山内・扇谷両上杉氏と優勢に戦っていきますが、扇谷上杉氏の執事である太田資長(道灌)に拠点をつぎつぎと落とされていきます。やがて古河公方は同盟を破棄して太田資長に鉢形城攻撃を命じます。文明10年7月に鉢形城は陥落し、景春は秩父へ逃げ延びました。その後鉢形城は上杉顕定が入り上杉家の持ち城となったのでした。鉢形城は管領上杉氏を中心とした北武蔵の重要な拠点であったといえます。鉢形城と鎌倉街道上道の関連についての資料は、ホームページ作者が調べたものの中にはこれといったものは見あたりませんでしたが、地理的にも歴史的にも鉢形城と鎌倉街道上道は関連付けて調べることが重要であると思われるのです。鉢形城が築かれたといわれる文明8年頃の歴史はどのような時代であったのか調べてみました。
この当事、都では管領細川勝元・畠山政長(東軍)、山名持豊・畠山義就(西軍)の対立が激化し応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発しています。将軍の権威は失われ、京の都は焼け野原となり、11年後の文明9年(1477)までこの乱は続いていました。関東では文明3年に古河公方と堀越公方が対立しています。世は正に戦乱の時代です。この頃には相模の鎌倉は政治の中心から離れていました。関東では鎌倉を中心として、街道が各地と繋いでいた時代ではなくなっていたのです。 そう考えると鉢形城と鎌倉街道上道は地理的位置関係から繋がりが無いようにも思われます。ところで鉢形城は寄居町の荒川右岸に何故あるのでしょうか。地形的に荒川と深沢川に挟まれ天然の要害であるからといえばその通りだと思うのですが、あえて鎌倉街道上道との関連を見てゆくと、鎌倉街道上道の最も近いところから2キロほどしか離れていないところにあるわけです。
鉢形城が築城された時代は管領上杉氏が依然、鎌倉街道上道を盛んに利用していた時代と考えられます。ホームページ作者は鉢形城が上道に沿った地に築かれたものと考えたいわけです。支城の用土城や雉岡城は上道沿いにあり、上杉氏の拠点である上野の平井城へとも繋いでいます。また四津山城、杉山城、現在の遺構の菅谷館などは鉢形城と繋がりがあるものと思われます。また、後北条氏の時代にはこれまで利用されていた鎌倉街道で小田原とを繋いでいたと考えられるのです。
下の写真は鉢形城跡の北に流れる荒川です。写真の川の右の崖上が鉢形城の本丸跡になります。写真の風景は「玉淀」と呼ばれる有名な景勝地です。ここで毎年4月の第2日曜日に寄居北条祭りがおこなわれ、鎧兜姿の武者に仮装した人達が大砲の砲声を鳴り響かせています。
河越夜戦後、上杉氏の勢力は衰え小田原北条氏の支配がこの地域にもおよぶようになります。当事この地域を治めていた藤田康邦は後北条氏に服従し、北条氏康の三男の氏邦を養子と迎え、娘の大福御前と結婚させます。天神山城と花園城を氏邦に与え、用土城に入り名前を用土新左衛門と改めたといいます。 氏邦は養子と迎えられたとき、まだ幼少年であったといわれ、根古屋城に在住しその後天神山城へ移転しますが、永禄年間に鉢形城に入城したといわれます。氏邦が入城した時に大規模な改修工事が行われ、現在の遺構の規模になったといわれます。鉢形城の構造は多郭形式の平山城です。西南の旧折原村が大手口で、東の旧鉢形村を搦手として、本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があります。各曲輪は周囲が土塁と空堀に巡らされ独立した造りになっています。大手には寺町、侍屋敷、鉄砲鍛冶などの小路がめぐらされ、城下町が形成されていたといいます。鉢形城は小田原北条氏の北武蔵最大の支城となったのです。天正6年(1578)に沼田城をめぐる事件として氏邦は義弟の重連を毒殺します。重連の弟信吉は氏邦を恨み武田氏、上杉氏に仕えます。
この当時、城の大手口とされる虎口が城の西側にあり、城からみて鎌倉街道上道の反対側で、研究者によっては築城当時の戦国時代には上道は主要路線から外れていたとする説もあるようです。そうすると鎌倉街道上道以外の別路線が当時に存在したことが想定され、「山辺の道」(現在のJR八高線に沿うような道)などが八王子や小田原と連絡した路線であったとする説などです。
天正18年(1590)に秀吉の小田原攻めが始まります。事の発端は北条氏政が、秀吉の上洛要求に応じなかったところに、氏邦の家臣の猪俣範直が沼田領の協定に違反して真田氏の名胡桃を押領したことから秀吉がついに立ち上がったのでした。鉢形城では3千5百人の軍勢で籠城し、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守等5万の大軍に防戦しますが、3ヶ月の戦いの末に落城します。 落城後、氏邦は家臣らと共に前田利家に預けられ金沢へ赴くのでしたが、捕らわれの身でありながらも厚偶されたといいます。一方で夫人の大福御前は正龍寺において、仏門に入っていたのですが、世をはかなんで自殺したと伝えます。 北条氏邦は戦国武将として知名度は低いと思われますが、鉢形城内の将兵を救出するために非難を覚悟で開城に応じた武将として、地元の人達から今でも思い募られているのです。
寄居市内の正龍寺には北条氏邦同夫人の墓と伝える宝篋印塔が藤田康邦同夫人の墓と並んであります。これら4基の宝篋印塔は戦国時代末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を物語るもので、県指定史跡になっています。
 

 

 
■千葉県

 

「千葉」の地名の由来
千葉県は成り立ち上、古くから全国の各地と密接につながっていました。安房の国・上総の国・下総の国はもともと阿波の国(現在の徳島県)の忌部(いんべ)氏が移住してできた歴史があるのです。また九十九里や銚子が紀州の人々によって開拓された事実、そして平安末期から鎌倉期にかけて千葉常胤の活躍によって全国に千葉氏の勢力が広がっていきました。
地名の由来として、
1羽衣伝説に系統を引くもの
2霊石天降伝説に系統を引くもの
3草木の葉の繁茂する様を形容したとする説
この三つの説を並べてみると、羽衣伝説と霊石天降伝説は千葉氏のルーツを崇めて作られた話で、そのまま地名の由来と考えることには無理があります。ただ、羽衣伝説にあった「蓮の花千葉に咲けり」というフレーズは何とも美しく魅力的であります。それでなくとも、千葉市では縄文時代の種子から花を咲かせることに成功したという大賀ハスが多くの人々の注目を集めています。蓮の花やつる草の葉がたくさん繁茂する様子を表現したのが「千葉」だと考えていいでしょう。
明治三八年(一九〇五)に出された『下総国旧事考』では、先ほど紹介した応神天皇の歌を示した後、次のように書かれています。
「葛ハ葉ノ繁キモノナレバ。其枕辞ナリ。下総ノ国千葉郡アルモ。サル意ヲ以テ名付タルカトアリ。按ルニ本州ニ葛飾ノ郡アリ。飾ハ借字。繁ノ義ナルベシ。シカトシゲト通ス。然レバ。千葉郡ヲ建ル時ニ。ソノ発語ヲトリテ。名トセルニヤ。千葉葛飾両郡トモ。取分ケ原野多ク。葛藤ノ繁茂セルヨリ。負ハセシ名ナルベシ。」
ここは重要なので、訳しておきます。
葛(くず)はその葉が茂っているものなので、その枕詞です。下総国の千葉郡もその意味で名づけられたものです。本州に葛飾郡があるが、飾は借り字であり、繁の意味です。「飾(シカ)」と「繁(シゲ)」は相通じるところがあります。したがって、千葉郡を建てる時にその発語を取って名としたのではないでしょうか。千葉葛飾両郡ともとりわけ原野が多く、葛の繁茂していることによってその名をつけたものでしょう。
これは「千葉郡」と「葛飾郡」の共通点を指摘しており、見事な説明になっています。
おそらく今から千数百年前の千葉県は、台地上や海辺のわずかな集落を除けば、一面の原野が続き、そこには葛をはじめとした多くの樹木がたくましく繁っており、その様子から「千葉」という地名が生まれたと考えられます。
そこに千葉氏のルールを彩るための羽衣伝説などが加わり、現在の「千葉」に至っていると考えられます。
その意味では、多くの葉や花が繁る豊かな自然と活力こそが千葉県のイメージにならなくてはならないでしょう。
県庁の前に「羽衣公園」と呼ばれる公園があります。かつて「蓮の花千葉に咲けり」と詠われた「池田」の池のほとりに天女が衣を懸けたという松があったといわれていますが、今は新しい代の松に代わっています。 
■千葉市
大日寺   千葉市稲毛区轟町
阿毘廬山密乗院大日寺 真言宗豊山派
本尊 大日如来(金剛界) / 大日如来は、わが真言宗の至極の教えである曼荼羅の中心に描かれ、諸仏諸菩薩を始めとするあらゆる生命の根源的な存在の仏様です。また、大日如来の智慧と慈悲の光明は、ありとあらゆる場所を照らし、われわれ生ある者を見守ってくださいます。大日寺という名前の由来もこの大日如来にあります。
薬師堂 薬師如来 / 薬師如来は、医王尊とも称され、あらゆる病に対して妙薬を与える病気平癒の仏様として古来信仰されています。当寺の薬師如来は、左手に薬壺を持ち、その周りには、脇侍の日光・月光菩薩と眷属の十二神将を従えています。

真偽のほどは定かではありませんが、『大日寺縁起』によりますと、阿毘廬山密乗院大日寺は第46代孝謙天皇(在位749年〜758年)の勅願を受け、仁生菩薩が757年に開基されたと言われております。
戦前、大日寺は千葉神社の南側、現在の通町公園にあり、昭和20年の千葉大空襲において多大な戦災を受け、現在の地である稲毛区轟町に昭和26年11月に移転しました。この戦災により、大日寺にまつわる歴史を記した貴重な資料は焼失してしまい、戦前の当寺院の詳細を知ることは困難な状況にありますが、『社寺よりみた千葉の歴史』(原著者:和田茂右衛門 編集:千葉市史編纂委員会 千葉市教育委員会発行)の記載によりますと、文献や資料などから、大日寺は1254年に千葉介頼胤によって松戸の馬橋に創建され、1284年に頼胤の子、胤宗によって千葉に移されたという説が有力なようです。
大日寺境内には、千葉常兼から胤将に至る千葉氏16代の墓碑である五輪塔を安置しております。
五輪塔の奥にある多層塔には、「文安二年」(文安期:1444〜1448)の彫銘が見受けられますが、五輪塔の銘文は墓石の劣化が進み、判読は不可能な状況にあります。
しかし、鎌倉時代から室町時代のものだという確認はなされており、昭和35年に千葉市の重要文化財として「史跡千葉家十六代廟所」の指定を受けました。
黒砂神社   千葉市稲毛区黒砂
稲毛区黒砂三丁目に「黒砂神社があります。この神社も稲毛の浅間神社と同じように「コノハナノサクヤヒメ」を祀っています。
ちがうところは、神主さんとか巫女もおらず、ふだんは人けがありません。ただ、ここにはいろいろな種類の樹齢の古木が立ち並び千葉市の保存林として指定されています。
神社の裏には大きな御神木(写真)があります。この木は直径一メートル以上もあって根本から地上五十センチ位のところから不思議にも直径三〜四十センチほどの独立した五本の木が伸びているのです。よく見ると、もう一本生えた形跡があるのです。
御神木について黒砂の歴史に詳しい神社の氏子総代の高橋辰之さんは「これには面白い言い伝えがある」と、次のように語った。
「今から約千年前に平将門が平貞盛に滅ぼされ、その落武者が六人が佐倉往還を経て通りこの黒砂に逃げ定住しました。平将門は天慶三年二月十四日に滅ぼされたと言われています。落武者は中山一郎左衛門隼守、高橋八郎左衛門、渡邊久左衛門、遠藤源左衛門、山本世左衛門、春山與平の六人でした。この人たちが鎮守様として「黒砂神社」を創建したと推測されます。春山與平は一説によると足軽であったと言われ、中山一郎左衛門隼守は当時九千石(現在のお米換算で六億七千万円)の所領をもつ大名に近い人物だった。それで、黒砂神社の御神木は最初はこの六人の落武者の数の六本あったという。ところが、この中の一軒、春山家がどこかに引越して分からなくなったら、一本が枯れ、現在の五本残った。自然というものは実に不思議なものですね」。
今でも黒砂には中山一郎という表札が掲げられた大きな家があります。ちなみに、語る高橋さんは八郎左衛門の分家に当る。
また、黒砂神社の「コノハナノサクヤヒメ」は稲毛のコノハナノサヤヒメ」の姉さんに当り、あまり美人ではないため、妹に嫉妬し先月の話の、海へ突き落とした犯人ではないかと言われ、そのため「黒砂神社は稲毛の浅間神社より人々の参詣が少ない」と、地元の人々は話しています。
七天王塚   千葉市中央区亥鼻 
千葉大学医学部のキャンパス内外にある7つの塚。これが七天王塚である。キャンパス内に5つ、残り2つは敷地に面した道路沿いにある。いずれの塚も牛頭天王を祀っており、しかもかなり大きな木が生えている。そしてこの7つの塚は、上空から見ると北斗七星の形に配置されているとされている。
亥鼻地区は、かつて下総・上総を領有していた千葉氏の本拠地である。千葉氏は平常兼を祖とする房総平氏の一族であり、さらにそれを遡れば平忠常、そしてその母方の祖父として平将門に繋がる。
七天王塚の伝承は、平将門を抜きにしては語れない。七天王塚は北斗七星をかたどっているが、これは将門が信仰していた妙見信仰の象徴である。また祀られている牛頭天王も、妙見信仰に関わる神である。さらにこの塚についても、将門の7人の影武者の墳墓であるという説もある。
このほかにも、七天王塚に葬られているのは千葉氏の7人の兄弟であるとか、千葉氏の居館の鬼門に置かれたものであるとか、墳墓や祭祀的なものであるという説がもっぱらであるが、中には千葉氏居館の土塀の名残であるという説もある。また最新の調査では古墳時代の古墳群の可能性もあると言われる。
平将門に絡むためなのか、この七天王塚にはまことしやかに祟りの噂がある。特に有名なものは「塚の生えている樹木の枝を切り払うと祟る」というもの。さらにこの噂のバリエーションとして、伐採を主張した大学関係者に不幸があったという話まである。祟り系の噂としてはさほどのものではないが、大学医学部の敷地内にいまだに保存されているという事実が、妙な信憑性を生み出している側面があると思われる。 
■我孫子市
鷲神社   我孫子市久寺家
祭神 天日鷲神
久寺家鷲神社は、我孫子市久寺家にある神社です。久寺家鷲神社は、平将門の家臣久寺家豊後大炊左馬助が勧請したと伝えられ、明神社と称していたといいます。大正3年に、下居村附の香取社・上居村附の八坂社・神立台の雷社を合紀、山神・水神・久寺家祖神・石尊大権現・大杉大明神・天満天神・今宮社を遷座したといいます。
由緒
平将門の家臣久寺家豊後大炊左馬助が勧請したと伝えられ、古くは明神社と称した。
旧社殿は元文二年(1737)の建立、現社殿は万延二年(1861)の再建で、明治の「神社明細帳」には「社殿 間口三間 奥行弐間三尺」とみえる。なお、同帳には「無格社、鷲神社」とあって、当時すでに社名が改称されており、のちに無格社を村社と訂正している。
大正三年に、下居村附の香取社、上居村附の八坂社、神立台の雷社を合紀し、山神、水神、久寺家祖神、石尊大権現、大杉大明神、天満天神、今宮社なども境内に集められ、二十三夜さまの石仏一基も移されてきた。
社地は、台地の突端に位置し、南と北は谷津田であったが、今は住宅地となっている。
鳥居は、石造明神鳥居である。
社殿は、拝殿と相の間及び奥の本殿からなる。拝殻は、昭和五十一三年に改築された。入母屋造、向拝付、瓦葺、正面六三七cm、側面五四三cmで、平面の大きさは明治の「神社明細帳」に記された寸法とほぼ同じである。内部は畳敷で、片側に押入と板敷の部分がある。
拝殿から廊下式の相の聞を通ると、本殿がある。
本殿は、方一間、流造、板葺で、身舎の正側面に高欄付の縁をめぐらし、脇障子がある。各部に高肉の彫刻がほどこされているが、身舎側面に波濤と松と鷲をあらわしているのは社名に因んだものと思われる。なお本殿は四注屋根瓦葺の覆屋で保護されていて、保全良好である。
境内の天満天神の祠は、切妻造、向拝付、鉄板葺で、扉の奥に神鏡がある。八坂社の祠は、切妻造、向拝付、瓦葺で、格子扉の奥の段に、露盤宝珠を頂く宝形造の簡素な木造の社が納めてある。
なお、当社には大杉祭礼用の獅子頭及び船神輿が保管されている。
龍崖城 (竜崖城)   我孫子市布佐字谷ツ山
龍崖(りゅうがい)城(千葉県我孫子市布佐字谷ツ山)は、布佐台地から遊離して、当時の常陸川低湿地に孤立した島状の地にある。かつては龍崖(貝)山と呼ばれた標高20mの丘陵であったという。
当城は、布川の豊島氏の支配化にあったと推察されているが不明である。城主・粟巻弾正の妻の入水伝説や水神・龍神にまつわる伝承が残されており、いわゆる水城であった可能性が高いとされる。
伝説として、城主・粟巻弾正に恩のある古戸村の三本足の古狐が、天慶の乱(939)の守谷城の戦いで、城主が戦死したことを知ると、竜崖城の守戦の時に奮戦協力したという(『古戸村十二窓三本足稲荷』『東葛飾郡誌』)。
城址は、昭和四十二年頃に宅地造成(新木団地)されるまで、空堀・土塁などが存在したが、現在では全くその面影を残していない。
滝前不動堂   我孫子市岡発戸
我孫子市岡発戸にある曹洞宗寺院の滝前不動堂は、旧滝前山宝積寺の不動堂です。滝前不動堂の創建年代は不詳ながら、白泉寺開山の竹巌宗嫩和尚が慶長〜元和年代に不動堂を建立、後に滝前山宝積寺と称していたといいます。当地はかつて平高望王が寛平年間(889-898)に空海作の不動尊像を祀った地だといい、その不動尊は中峠不動尊の胎内に納められているといいます。現在、滝前山宝積寺は廃寺となっており、正泉寺が管理しているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所36番です。
滝前不動堂の創建年代は不詳ながら、白泉寺開山の竹巌宗嫩和尚が慶長〜元和年代に不動堂を建立、後に滝前山宝積寺と称していたといいます。当地はかつて平高望王が寛平年間(889-898)に空海作の不動尊像を祀った地だといい、その不動尊は中峠不動尊の胎内に納められているといいます。現在、滝前山宝積寺は廃寺となっており、正泉寺が管理しているといいます。
滝前不動堂縁起
滝不動 岡発戸1271 旧滝前山宝積寺か
曹洞宗 もと白泉寺末 現在正泉寺管理
白泉寺開山の竹巌宗嫩和尚がここに堂宇を営んだのは、慶長〜元和年代と考えられる。境内地は手賀沼を見下す景勝の位置にあり、九世紀にさかのぼる寛平年中に平高望王が空海作の不動尊像をまつったところとの由緒が語られている。
ところで、古代の堂は寛和二年(九八六)に損壊して、不動尊像は中峠一里塚の東に遷され、さらに中峠照明院に引き渡された。そして、いまは中峠不動尊の像の胎内に納められているという。
そのような由緒の故地に白泉寺の末寺が営まれたわけであるが、寺の歴史はつまびらかでない。境内には「滝前山宝積寺、維時寛政十一己未(一七九九)正月吉日」と刻む不動明王の石像があり、滝の石組もつくられているので、宝積寺と称する不動尊信仰の堂庵があったと思われる。そうしたところに、ここを第三十六番土佐の青龍寺写しの霊場とすることになり、やがて大師堂も建てられた。ついで文化十三年(一八一六)には、現在みる不動堂が建立されたのである。
しかし、明治の「寺院明細帳」には、宝積寺あるいは滝不動についての記載がない。当時以前、廃寺となっていたからであろう。今は正泉寺によって境内の保存管理が行われている。
不動堂は、方三間、廻縁及び向拝付、入母屋造、茅葺である。明治二十年代に修理が行われ、昭和五十一年に茅が葺替えられた。堂内の仏像や仏具はすべて撤去されているが、ここに茅葺堂をみるのは貴重な文化財を古来の姿で保存しようとする熱意によるところである。なお、堂前には嘉永三年(一八五〇)粉川市正作の銘のある鰐口が懸っている。
大師堂は、切妻造、向拝付、瓦葺で、近年補修された。堂内安置の石造大師像には、文化四年(一八〇七)の刻銘がある。
大正四年発行の『相馬霊場案内』には「堂の側に小休所がある。此処に参詣する人は、必ず憩ふて茶を呑むを例としてゐる、現時の主人を管井初太郎といひ、仲々の親切もので評判がよい。」と記されていて、往時の大師詣の風情が偲ばれる。
正泉寺   我孫子市湖北台   
我孫子市湖北台にある曹洞宗寺院の正泉寺は、大龍山と号します。正泉寺は、鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)の為に弘長3年(1263)真言宗法性寺と号して創建、君津真如寺の俊峰周鷹(永正3年1506年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。正泉寺七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺を、九世名翁全誉は日秀観音寺を開山するなど、宗門拡大に寄与する本寺格の寺院だったといいます。また、血盆経一部が手賀沼に出現したとの縁起があり、「血盆経」信仰の重要な拠点となっていた他、それが都部という地名の由来ともなったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所73番です。
正泉寺は、鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)の為に弘長3年(1263)真言宗法性寺と号して創建、君津真如寺の俊峰周鷹(永正3年1506年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。正泉寺七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺を、九世名翁全誉は日秀観音寺を開山するなど、宗門拡大に寄与する本寺格の寺院だったといいます。また、血盆経一部が手賀沼に出現したとの縁起があり、「血盆経」信仰の重要な拠点となっていた他、それが都部という地名の由来ともなったといいます。
正泉寺縁起 1
大龍山正泉寺(我孫子)
同郡同上(東葛飾郡舊南相馬郡)大字都部字寺後にあり、境内千九百六十八坪、曹洞宗なり。寺傳に云ふ、康元中(或は弘長三縁癸亥なりと云ふ)北條時頼其の女法性尼の為に之を創建して法性寺と號す、後今の寺號に改めたり、もと真言宗なりしが、應永中今の宗に改めたりと。寛永十八年原善左衛門中興す、本尊地蔵佛は長さ五寸許の木像にして時頼の守護佛なりしと云ふ。
正泉寺縁起 2
正泉寺 湖北台9−12 山号大竜山 曹洞宗 もと君津郡真如寺末
弘長三年(一二六三)鎌倉執権最明寺入道北条時頼の息女法性尼(桐姫)が留庵したとの草創伝説があって、時頼を開基とする。のち、千葉県君津郡富久田の真如寺より俊峰周鷹を迎えて開山とし、曹洞宗寺院となった。俊峰は永正三年(一五〇六)一月十四日寂、以来歴住四十世(あるいは四十一世か)を数える。また、中世末の手賀太守原兵右衛門尉胤次を開基とし、その位牌及び供養塔(石造宝篋印塔)がある。
七世竹巌宗嫩は岡発戸白泉寺の開山、九世名翁全誉は日秀観音寺の開山となっており、十一世徳翁良高はことに声望があって修行僧の参禅するものが多く、寺勢は大いに隆盛した。寺蔵の縁起絵図(4図)には徳翁在住当時の状況に近いと考えられる寺観が描かれており、本堂廊下にかかっている殿鐘は徳翁の撰文になる天和三年(一六八三)の在銘遺品である。
しかし、明和初年(一七六四)に火災があって伽藍の旧観は失われた。その再建に当っては、旧書院を移して本堂とすることになり、およそ十年を経た安永三年(一七七四)に至り、諸像法器伽藍再興入仏供養が行われた。
ついで、安永四年に相馬霊場第七十三番移し、本尊地蔵尊として、讃岐出釈迦寺の土砂を運んで札所を創設した。
文化、文政年代には、光格天皇祈願所とされ、天保十二年(一八四一)には諸堂再建大鐘を期して万人講勧化を施行、翌天保十三年には仁孝天皇の梵鐘御寄進があり、鐘楼門その他の建立をみた。さらに、明治年代以降本堂、地蔵堂の修築が行われるなどして今日に至っている。
なお、当寺には、血盆経一部が手賀沼に出現してとの縁起があって、それが都部という地名の由来であるといわれている。血盆経は遠近の女人の信仰をあつめ、同経、同縁起、同和讃等が相ついで板行されたが、ことに紀州徳川家桂香院による天明三年(一七八三)書写奉納の血盆経、安政四年(一八五七)の「尾州大奥為御祈禱令開板者也」との奥書のある版木などがあって、信仰のさかんであったことが知られる。
明治の「寺院明細帳」には、「本堂間数間口拾三間 奥行六間三尺 庫裡間数間口五間三尺 奥行三間三尺 本玄関間数間口弐間半 奥行弐間」その他の境内仏堂四宇として、「願王堂(地蔵堂)」と「尼御僚(法性比丘尼墳墓)建物間口弐間 奥行弐間 大師堂間口三間 奥行壱間半 不動堂(三日月不動堂か)建物間口五尺 奥行壱間半」をあげ、さらに、「鐘楼門間口壱丈 奥行九尺 浴室間口弐間 奥行弐間 物置間口四間 奥行三間半 木小屋間口五間 奥行三間 東司 間口三間 奥行壱間半」とあって、江戸時代以来の概況を知ることができる。
これらの建物は、その後修築されたり、廃されたりしてきた。そうした中で、鐘楼門は北からの松並木の参道に建てられている。もと正泉寺の境内は手賀沼畔にまで及んでいて参道は南から通じていたが、沼の舟運にかわって街道筋からの参詣が便利になったためであろう。この参道の北限には東西にのびる濠の跡がみられるが、周辺地域は開発がすすみ、ことに南の方には団地ができるなどして、むかしの面影はない。
鍾楼門は、入母屋造、瓦葺の楼門で、扉はなく、自由に通りぬけられる。上階は、柱間正面三間、側面二間であるが、壁も扉もない吹抜けの構造で、天井裏の梁から梵鐘が釣ってある。天保十三年(一八四二)ころの建立で、もと当時の梵鐘があった。しかし、旧梵鐘はさきの戦時中に供出され、いまは昭和四十八年に新鋳された梵鐘に代っている。  
将門神社   我孫子市日秀
日秀将門神社は、我孫子市日秀にある神社です。日秀将門神社の創建年代等は不詳ながら、当地日秀は平将門が幼少のころ過した地で、承平2年(932)には軍用に供したと伝える古式の井戸も掘られており、平将門の三十三回忌に沼南町岩井に将門神社が祀られたのを機として、所縁のある地に将門神社が祀られるようになったといい、当社のその一つだといいます。
社号   将門神社
祭神   平将門公
日秀将門神社の由緒
日秀将門神社の創建年代等は不詳ながら、当地日秀は平将門が幼少のころ過した地で、承平2年(932)には軍用に供したと伝える古式の井戸も掘られており、平将門の三十三回忌に沼南町岩井に将門神社が祀られたのを機として、所縁のある地に将門神社が祀られるようになったといい、当社のその一つだといいます。
「将門神社 (「我孫子市史」より)
日秀では、天慶三年(九四〇)に戦没した平将門の霊が、遺臣たちとともに、明神下から日秀まで手賀沼を騎馬で渡り、沼のほとりの岡で朝日の昇るのを拝したといい伝えている。そして、その伝説の地に一宇を建てて霊をまつり、鎮守としたのが当社のおこりであるという。
平将門(九〇三−九四〇)の三女如蔵尼は父の三十三回忌に当る天録三年(九七二)に、ゆかりの地の岩井に将門の霊を祀った。それが沼南町岩井の将門神社であり、将門の神霊をそれぞれゆかりのある所にまつるようになったはじめであるという。
日秀は、将門が幼少のころ過したところで、神社の東方の低地には、将門が承平二年(九三二)に掘って軍用に供したと伝える古式の井戸の遺跡があって、将門の井戸とよばれている。また、日秀を日出と記した例があるが、それは将門が日の出を拝したところから出た地名ともいい、あるいは将門の遺臣の日出弾正がこの地に隠棲したのがおこりであるともいう。その「日出ひいで」を「日秀ひいで」と書き、「ひびり」に転訛したのであろうという説もある。ともかくも、日秀の地は将門の伝承とかかわりがあって、当社は旧日秀の村人に崇敬されてきた。それとともに、将門調伏の祈願が行われた成田山新勝寺には参詣しないなど、旧来の地元の人びとにはいろいろな禁忌の習俗がある。それが当所だけでなく、他の将門神社をまつる土地にもみられる古来からの習俗として共通する点が注目をひく。
社殿については、明治の「神社明細帳」に「社殿間数間口弐間奥行四間三尺」と記されている。「湖北村誌」の口絵図版にみえるのはそれであろう。屋根は茅葺で、寄棟造の棟が奥行(梁行)方向に長くなっているようにみえ、正面は隅軒の部分をわずかにのこして葺下げ、入口扉の霧除けとしているようである。正面の幅は二間分であるが、中央の柱を立てず、一間分を間口部として格子の引戸を備え、左右は半間分ずつの板壁となっている。
この社殿は老朽し、昭和三十年に石造の社殿に改められた。それが現在の社殿で、切石積の二重基壇を高く築き、石祠を安置する。石祠は、切妻造の正面の屋根を一部葺下げて向拝とし、身舎の床面より一段低い浜床に相当する平板石の面に、石柱の向拝柱をたてている。
鳥居について「湖北村誌」には「今尚木造の華表(鳥居)に七五三縄を張り渡して」とあって、大正時代には木造鳥居であった。それが石造の稲荷鳥居(台輪鳥居)に建て替えられ、柱の根本の部分は根巻になっている。
なお、当社には天保六年(一八三五)に調進された「奉納将門大明神」と染めた幟が伝承されている。」 
■柏市
持法院   柏市藤ヶ谷
源頼朝の側近であった千葉介常胤が鎌倉在館中、夢の知らせにより古梅の霊木を発掘し、仏師運慶に「如意輪観音像」を彫らせ、一宇を建立し安置崇敬されていましたが、その後承久の乱が起ったため、総州相馬郡番場村へ運慶の徒弟である登慶に尊像を送らせ、茅葺き屋根の草堂を営んで藤の花を厨子に飾り安置しました。これより人々はこの地を藤萱村(ふじかやむら)と呼ぶようになったとされています。
貞応二年(1223年)には新たに堂宇を建立し、如意輪観音像と登慶法師にちなんで「登慶山如意輪寺持法院」と号したそうです。
猪ノ山城   柏市猪ノ山・大青田
標高15〜17m。猪ノ山城(いのやま・千葉県柏市猪ノ山・大青田)は、猪ノ山の舌状台地上にあった。かつては堀の跡が残っており、「古城」と呼ばれていたが、具体的な史料は伝わっていない。北に向かい合う三ヶ尾城との関係が伝えられるが、詳細は分からない。
柏市山高野浄化センターの西の雑木林が城跡だが、明治二十三年(1890)に完成した利根運河などの影響もあって、地形がまったく変わっており、遺構も残されていない。  
岩井山龍光院   柏市岩井
龍光院は平将門に深く所縁のあるお寺です。お寺のすぐ横にはとても素晴らしく貴重な彫刻が施されている全国でも珍しい将門神社が隣接しております。将門の三女如蔵尼が父の霊を祀ったのが始まりと言われており、龍光院境内の地蔵堂には、その如蔵尼が将門とその一族を弔って祀ったという地蔵尊があります。
平将門の生誕
平将門は桓武天皇の曾孫として平良将(良持)と犬養春江(取手の豪族)の次男として903年(延喜3)に生誕した。父平良将は高望王の子で桓武天皇の三代後の子である。現在の茨城県守谷を中心として取手、秩父、福島、千葉に所領を有していた。幸田露伴の説によると、将門の生誕した頃は母方の実家で子供を産むことが習わしであった。当然将門も母方の犬養家(取手)に生誕したと思われる。
岩井の言われ
将門が野を駆け巡っているうちに、のどが渇いて困り果てると「水」と一声、東南の方に聞こえて一人の翁が立っていた。やがて傍らの大石を上げて、力一杯地面に打ち込むと妙味の水がわき出した。不思議に思っている内に翁の姿はなく、どこかに消えてしまった。この言い伝えが「一言明神」とあわせ、石井の井戸は「岩井戸の宮」として永く住民に尊ばれた。この地も「岩井戸の宮」として家来や落人が将門をまつり水を大切にして村を護ったのではないだろうか。今も石井養魚場の近くに水神がまつられている。
将門の父、良将と時代背景
将門神社正面743年墾田永年私財法が発せられ貴族や寺院・神社は奴隷や逃亡した農民を使って荘園を増やしていった。朝廷が仏教を保護したため僧侶の勢力も強まり、やがて道鏡のように政権を握る者もいた。このため桓武天皇は都を長岡、794年には平安京に移し政治の立て直しを図っていた。桓武天皇は地方政治を監督するため「勘解由氏」という役人を置き、農民からの兵士化を禁止し、郡司等の子弟から健康な兵士を作り上げた。しかし地方では、墾田永年私財法で公地制が崩壊し、私有地化が進み国司が支配する「荘園」が増大し、10世紀頃より農村にも「名主」といわれる、自分で土地を保有し支配権を握るものまでが台頭してきた。貴族には「荘園」が集まり、中央の貴族は税を納めなくても良い「不輸の権」、国司立ち入りを拒む「不入の権」を有するようになり、国の支配から独立していった。朝廷の力が届かなくなってくると、国司の横暴・山賊・海賊がはびこり、地方政治は乱れた。関東北部・板東はたびたびあった蝦夷の反乱を抑えるべく武士団が派遣されその代表格が藤原氏、源氏、平氏であった。将門の父良将は桓武平氏の流れを持ち、高望王が召喚されて上総の国司となった。その後、良将の代には、彼は鉱物や馬の飼育に丈、また人々を引き寄せるカリスマ性を発揮し、陸奥に拠点を置き出羽・奥羽の征夷を司る鏡守府将軍の要職として力をふるった。板東平氏は10世紀前半には関東全域に住み着き、良将も下総国北部を地盤として未墾の土地を開拓し、広大な私営田を経営し勢力を拡大していた。このため、近隣の一族や豪族と絶えず争っていた。板東北部を制していた良将のカリスマ性は、実は利根川上流の様々な財源(金・銅・鉄)と、馬の飼育によるものであった。
蝦夷・えみし
古代の東北地方全体を陸奥国(みちのくのくに)と言い、奈良時代の和銅五年(七一二)に陸奥国と越後国を割いて出羽国が誕生した。奥羽山脈を境にして、東側を陸奥国に西側を出羽国とした。この地域に住む人を「えみし」と呼び、蝦夷の文字を当てた。「えみし」という言葉は神武天皇記にもあり、大和を平定した時の歌に「えみしは一人で百人にも相当する勇者と人はいうが、手向かいもしなかった」とある。この時は、表音文字で「愛瀰詩」と記され、飛鳥・奈良時代の人名に曽我毛人(そがのえみし)、小野毛人(おののえみし)、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)など毛人をエミシと読んだ。
龍光院に残る地蔵縁起版木版
この版木は古くから龍光院に保存されている。安永3年に制作されたことが版木版に書かれている。
地蔵緑起
抑も下総國相馬郡岩井村龍光院に安置し奉る地蔵大菩薩の由来を尋奉るに垣武天皇五代の孫、前の将軍平良將の男、平将門の女『如蔵尼』此の尊像を安置し奉りて片時も懈りなく信心堅固なりしが、或時病事なして息絶、直に閻魔大王の前に至る時に地蔵菩薩光明を放って奇香馥郁として聴所に来臨し玉わり、其の時冥使皆席を避けて蹲踞す。如地蔵菩薩我を済い給いと紅涙を滴って申しければ菩薩閻玉に告げて宣わく、此の女前生の因縁に依り仮りに女形を稟くと云ども尼となって信心堅固なり一朝息絶へ此れ冥府に来るも寿命未だ尽ず早く娑婆に皈らしむべしと、閻玉謹んで菩薩の仰せを奉じ早速娑婆に皈らしむ菩薩頓頓聴所の門を出て給ふと思いて其の侭薐生せり(委しくは前大平記十八の末に当たり)其の後、如蔵尼は、一族菩堤のため地蔵尊を負へ奉りて下総へ来り徒類一族戦死の跡を尋ね、忍びくて此岩井の郷は父将門出張の処にしてゆかり多ければ此の処に父の霊を祠りて将門大明神と号し亦地蔵堂を建立し尊蔵を安置して信心懈らざりけり。其の後数多くの年代を経て元和二年(西暦一六一六年)三百六十年前地蔵堂の近辺より火災起り一村悉く灰侭となりたり、其の時炎々たる猛火の中より地蔵菩薩光明赫ことして東を指して飛び去り給ふ。然るに不思議にも其の時印旛郡萩原村林代某たるもの同地小林村の堤上にて此の尊像を拾い得て驚首合掌礼拝し家に奉じ皈りて一字を建立し尊像を安置し信心堅固なりしが諸願成就し家内繁昌せりと此の事、萩原村に於いてもえ和の源岩井より飛来りたるものなりと云う伝省を以って同村慶昌寺に便りて尊像の替りを送り元の尊像を迎いて遷座し奉るものなりと云云   安永三 甲午歳元陽 下総國相馬郡岩井   岩井山龍光院 
将門神社 1   柏市
平安時代の中期に活躍した武将・平将門は、朝廷に不満を抱くものの代表として、関東の大将となり「新皇」を名乗り、関東に新しい国家を作った。将門ゆかりの地である下総地域には、時の権力者に反抗し、国司の圧政に苦しめられた民衆が、将門を英雄として崇める将門信仰が受けつがれている。柏市岩井にあるこの「将門神社」もその一つだ。本殿は、それほど大きくはないが、そこに施されている彫刻は、すばらしく必見の価値ありだ。
将門神社・本殿
将門伝説は、将門の本拠地と伝えられる茨城県岩井市や、茨城県守谷・取手、千葉県我孫子・野田・柏に、千年あまりの時を経てもなお語り継がれている。天慶3年(940年)坂東8国を支配し「新皇」を名乗った将門を、朝廷が反逆者として征討を命じた将門の乱は、無念にも敢無く流れ矢によって将門が討死し敗退した。一族縁者郎党は、厳しい残党狩りを逃れ、利根川本流から支流や水郷湖沼沿いに船で必死に逃れ近辺から離れたこれらの地域に身を潜めることとなる。住みついた地域には旧出身地名・出生旧姓を隠し、一族には分かるが朝廷に悟られない名を残したという。また、一族の無念さや裏切り者への怨念は未だに残る。将門を裏切った愛妾桔梗御膳を疎んじて桔梗を絶対に植えず、将門の調伏を祈願した成田不動には詣でない。さらに、将門を滅ぼした平貞盛・藤原秀郷に味方した村落の者とは婚姻しない。
将門大明神
ここ「将門神社」は、将門の三女の如蔵尼が父の霊を収めるべくこの地に祠を祀ったのが始まりで、社殿は安政6年(1859)再建されたものだ。総欅材・寄棟片流造・破風構え神社造で各壁面には精巧な彫刻が施されている。戦いで不本意にも流れ矢に右目を射抜かれ即死した将門に倣い右目が未完成の「隻眼の姫君」や、巧みな騎馬戦術で敵を蹴散らした関東馬の「放駒」を見ることが出来る。
本殿の壁面に施された精巧な彫刻「放駒」
本殿の背面には「放駒」の雄姿が砂煙を巻き上げて、駆け抜ける様子が生き生きと彫られている。さらに、胴羽目・左の「高砂」「鶴亀」や、犬と遊ぶ「金太郎」。また脇障子に彫られた「巨霊人」や「玉巵」は圧巻である。時の過ぎるのも忘れ、見入ってしまう彫刻の数々は、訪れた人の心に深く刻まれることだろう。
岩井山龍光院
将門の三女・如蔵尼ゆかりの「岩井山 龍光院」は、「将門神社」と同じ境内にある。ところがある一説によれば、将門の死後、その次女・春姫がこの地に隠れ住み、名を如春尼に改め、一族の菩提を弔ったともされている。しかし、如春尼については、不明な点も多く詳しいことがはっきり分からないため、「如春尼」と「如蔵尼」とが曖昧になってしまっていると聞く。寺院自体の創建は長亨2年(1488)で、真言宗豊山派の古刹。本尊は不動明王である。ここは、成田不動に地域住民が対抗して創建したのではないかとされている。
地蔵堂
境内には将門三女・如蔵尼が、崇拝した金色の地蔵菩薩像を納めてある小さな祠・地蔵堂がある。将門とその一門の菩提を弔ったものと伝えられている。如蔵尼の名前は地蔵菩薩に関連する名だそうだ。
将門神社 2   柏市
由緒
将門大明神 祭神 平新皇将門
桓武天皇を祖先として父平良将と共に下総の国相馬郡岩井村に住居し、下総の国の開発と共に住民の生活安定に心血をそそぎ信望を集めたり。
父良将は陸奥鎮守将軍と下総介であった。
将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す。
風早村大井将門山に出城を置き、布瀬高野に高野御殿を築き、土塁跡は今も保存されている。
律令制から荘園制への改変過程で、領土問題より上総の国日立の国と爭いを起す。
京都朝廷より将門追討の命を受け藤原秀郷、関東に下る。
田原藤太秀郷戦勝祈願の為、成田に不動明王を祭る。
日立の国主平貞盛と協力して将門公と戦う。
天慶三年二月十四日春一番の突風に遭い戦斗困窮せる時、羽鳴り鋭く飛んで来た鏑矢、右眼を射抜き砂塵の中に落馬す。
時に午後三時、相馬小次郎将門公再び立たず。
之を承平天慶の乱と云う。
第三女の如蔵尼、父将門居住の此の地に祠を立て、その霊を弔う。
社殿は幾度か新築改造されたり。
一、将門大明神拝殿 一宇 正徳二年
二、新造立花表 一宇 享保七年
三、新造立平親王将門宮 一宇 延亨元年
四、新造立花表 一宇 明和三年
五、造立閉植 一宇 寛政二年
六、彩色将門大明神雨屋 一宇 文化三年
七、再建将門大明神 一宇 安政六年 霜月
現在の本殿は江戸末期安政六年の建立にして記念の木札七枚を保存す。
五尺宮社流総檬破風造り屋根は寄棟造り茅葺鉄板で覆ってある。
千葉氏五代常胤、祖先将門公を偲び社殿を復興したとの伝説もある。
基壇の部分に放れ駒や隻眼の人物像がある、放れ駒は九旺星と共に将門公の用いた紋とされている。
茨城県岩井市にある國王神社には共通する伝説がある。
将門神社の社名は日本中唯一にして当社のみ。
区民一同信仰尊敬し霊験あらたかな産土神。
我等の幸を守らせ給へ。

千葉県柏市岩井にある平将門公を祀る神社。この周辺には将門伝説が残る地域が色々と存在する。手賀沼を挟んで我孫子市側にも「将門神社」があり、将門公の縁を感じさせてくれる。
色々と資料を調べるに、将門公の母の出身地が相馬郡。相馬郡は現在の茨城県南西部から、千葉県の我孫子市、柏市の一部になる。そのため将門公も「相馬小次郎」を称していた事もあったという言い伝えがあり、柏市の北部側や我孫子市など手賀沼周辺に、将門伝説が残る地が点在している。平将門の子孫を称する氏族として、下総国相馬郡相馬厨の相馬氏の存在があり、その関係で社殿など建てられたという御由緒となっている。
掲示による御由緒によると、将門の三女如蔵尼がこの地に祠を建てたのが創建とある。この御由緒は茨城県坂東市、将門終焉の地にある「國王神社」と同じ言い伝え。少し前に「國王神社」にも参拝していたので、何とも面白い縁を感じる。この地名の「岩井」というのも、将門公が本拠とした岩井(現・茨城県坂東市)と何らかの関係があるのだろうか。
いずれにせよ古い歴史があるのは確かなようで、社殿の記録としても正徳二年(1712)に将門大明神拝殿と残っている。現在の社殿(本殿)は、安政6年(1859)に再建されたものが現存していると考えられている。幕末のものが残っているだけでも実に素晴らしい。
何より見事なのが社殿の彫刻。素晴らしい彫刻が施されており、これは一見の価値あり。向拝には龍の彫刻。
見るに将門公に関わる彫刻が多く施されているようだ。「放駒」の彫刻は、将門公が紋としていた事もあるし、戦いで不本意にも流れ矢に右目を射抜かれ即死した将門に倣い右目が未完成の「隻眼の姫君」の彫刻、さらに「高砂」「鶴亀」といった彫刻を見る事ができた。他にも興味深い彫刻があり、圧巻の出来。
しかし、残念なのがあまり手入れされていないと思われる事。お社自体がかなり小さく、鳥居の奥の短い参道も岩井青年館の下を通るような形。そして長年放置されているのか、朽ちていく碑や狛犬など。あちこちに蜘蛛の巣が張っており、状態はよいとは言えない。彫刻の素晴らしい社殿も痛みが激しい。
歴史もあり、素晴らしい彫刻の本殿を持つ当社なだけに、もう少し大切にして頂けたらと思ってしまうのだが、こればかりは仕方ないのだろうか。同じ敷地内に位置するお隣の龍光院が実に綺麗に維持されているだけに、その対比で少し寂しい気持ちになってしまう。ちなみに龍光院は一説によれば、将門公の死後、その次女・春姫がこの地に隠れ住み、名を如春尼に改め、一族の菩提を弔ったともされている。
当社への移動方法は車やバイクがオススメ。最寄駅は東我孫子駅になるのだろうが、かなり距離があり、場所もかなり分かりにくい。近くには将門通りと名付けられた小坂も。
小さいながらも歴史を感じさせてくれる神社。特に社殿(本殿)を手が触れれそうな間近で見る事ができるのは貴重。その精巧で素晴らしい彫刻は、将門公を崇敬する方や自分のように色々調べている人にとっては必見。アクセスの不便なこちらまで足を伸ばす価値はあると思う。しかしながら、状態が悪く、あまり手入れされていない感じがするのが難でもあり、今後が心配でもある。現在はあまり崇敬されていないのかな、と寂しい気持ちにもなってしまうが、貴重な神社だと思う。
余談だが、柏市には同じく手賀沼周辺、ここより少し西側の大井一帯にも将門伝説が残る地が多い。「王城の地」なんて呼ばれる場所もあったり、福満寺も将門伝説の残る地。さらに大井交差点一帯には、平将門の影武者「大井七人衆」が住んでいたなんていう伝承がある。坂巻、石原、石戸、吉野、富瀬、久寺家、座間家の七家で、このうち五家が今でも大井で住んでいるという。 
■千葉県西部
小金ヶ原   千葉県西部の台地
…その他戦闘訓練を兼ねた狩りを行う狩場もあって、シカやイノシシなどの大型野獣を棲息させたために、獣害が周囲に及ぶ場合もあった。関東では小金ヶ原(現在の千葉県西部の台地)、西日本では岡山の竜ノ口山(現在の岡山市東部の丘陵)などがその例で、また阿蘇神社や諏訪大社にも祭儀のための狩場があった。…
承平年間、将門は関八州の兵を集め、野馬を敵とみなして、軍事訓練を行った。「相馬野馬追」の起源という。
相馬野馬追(そうまのまおい)
福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である。
馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からなる。これらの神事に関しては1952年、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの1つとして紹介される場合もある。
2010年までは、毎年7月23日から25日までの3日間の日程で神事と祭りが一体となって開催されていたが、2011年からは祭りと神事は日程が分離され、祭りを7月最終週の土曜日、日曜日、月曜日に開幕、神事を24日・25日に日程を固定して実施することが決まった。
歴史
起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている。鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。公的行事としての傾向が強くなったのは、江戸時代の相馬忠胤による軍制改革と、相馬昌胤による祭典化以降と考えられる。
1868年の戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると、1872年に旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り、1878年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である。
相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した。これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷(現在の千葉県流山市)に因んでいる。
戊辰戦争後の祭りおよび神事の初日は、1872年(当初は太田神社のみの小規模な祭礼)以降、旧暦5月の申日に合わせて7月1日、1904年以降、天候不順を回避するために7月11日、1960年以降、さらに梅雨期そのものを避けるために7月17日と変遷してきたが、1966年からは小学校の夏休み開始に合わせて7月23日となっていた。2011年から神事と祭りは日程が分離されることになり、神事は24日・25日に日にち固定で実施し、祭りは7月最終週の土曜日に開幕することになった。 騎馬武者を500余騎を集める行事は現在国内で唯一である。  
■旭市
鏑木古墳群(かぶらきこふんぐん)   旭市鏑木
御前鬼塚古墳(ごぜんきづかこふん)   千葉県旭市鏑木
県道74号線(多古笹本線)から「長熊運動公園」の入口横(西側)を北へ進み、最初の分岐を右(東北)へ進む。県道から約700m。駐車場なし。
式内社「老尾神社」の北東約8kmのところに、下総国で2番目に大きいとされる「御前鬼塚古墳」がある。この古墳は、墳丘全長約105m、後円部径約40m、前方部幅約35mの前方後円墳で、発掘調査が行われていないため詳細不明だが、埴輪等が見つかっていないことから、古墳時代末期(6世紀末頃?)のものとみられている。現地に行ってみると、写真1のとおり雑木に覆われており、全体像が全く掴めない。説明板がなければ、単なる雑木林の小山にしか見えないだろう。
鏑木大神古墳(かぶらきおおかみこふん)   千葉県旭市鏑木
(「鏑木大神(社)」の住所)。県道74号線(多古笹本線)から古城小学校の西側の道路を北へ進み、右へカーヴするところで左側に弘法大師像?が立っている(県道から約500m)辺りの狭い道路に入り、約200m。駐車場なし。
「御前鬼塚古墳」の西、約800mのところに、もっと分かり易い古墳が幾つかある。「鏑木大神」という神社への道路沿いに「泥内古墳」(円墳、径約10m:写真2)、「法王塚古墳」(前方後円墳、墳長約25m、後円部径約15m、前方部幅約9m:写真3)があり、同神社の境内に「鏑木大神古墳」(写真5、6)がある。この古墳は、墳長約38m、後円部径約18m、前方部幅約17mという前方後円墳。神社境内のため手入れもされているようで、きれいな瓢箪形をしていることがわかる。発掘調査等により、周囲に二重の周溝があり、埴輪の破片等が出土したという。このため、「御前鬼塚古墳」より少し早い時期の古墳であるとされる。
鏑木古墳群は、上記のほかにも10数基が確認されており、位置的には「椿海」を見下ろす台地上にあって、九十九里から香取方面に向う交通の要衝であったとみられている(現在も、近くを県道56号線(佐原椿海線)が通っている。)。このようなことから、下海上国造一族の墳墓だろうと考えられている。
因みに、JR総武本線「干潟」駅の南、約2kmにある「八日市場平木遺跡」(現・八日市場特別支援学校付近)からは、古墳時代から平安時代までの集落跡が発見され、特に平安時代の掘立柱建物跡や「郡厨」と記された墨書土器が出土した。この付近に匝瑳郡の郡家があったのではないかと推定されているようである。
玉崎神社(たまさきじんじゃ)   旭市飯岡(下総国海上郡)
下総国二宮(論社)。旧社格は郷社。玉依姫尊を主祭神とし、日本武尊を配祀する。
社伝によると、景行天皇40年の創建とされている。日本武尊が東征の折、相模より上総に渡ろうとして海難に遭った際、弟橘媛が「これは海神の御心に違いない」と言って入水したので、無事上総国に着くことができ、葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉の浦(九十九里浜)に渡ることができた。そこで日本武尊は、その霊異を畏み、海上平安、夷賊鎮定のために、玉の浦の東端「玉ヶ崎」に、海神の娘であり神武天皇の母である玉依姫尊を祀ったと伝えられている。後世「玉ヶ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して「竜王の鎮まり坐す崎」としたためという。
神道集に「玉崎大明神者、此国二宮」「同本地十一面観音」とあり下総国二宮とする説もあり、また永禄期には上総国一宮である玉前神社が戦火を避けて神体を移したとも伝えられている。
中世には、三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神、玉の浦総社玉ヶ崎大明神等と称せられ、武人の崇敬厚く、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤等が参拝し、それぞれ祈願や報賽のために報幣や社殿の造営にかかわったとされる。江戸時代に入ってからは、武人の崇敬はもとより、平田篤胤、平田鐵胤、斉藤彦麿、高田与清、大国隆正のような文人が参詣している。
享保14年(1729年)には、地頭らが祈願したところ神験あらたかで浜は大漁にわいた。そこで、時の神祇官領従二位卜部朝臣兼雄に告げて宗源の宣旨を乞われ、神階正一位を賜った。拝殿内の扁額はその時のもので、将軍徳川吉宗の筆と伝えられている。
明治になって、神社名を「玉崎神社」と改称し、明治19年(1886年)1月18日に「郷社」に列せられ、同39年(1906年)12月25日千葉県より幣帛供進神社に指定される。爾来、星霜を経、本殿は昭和48年(1973年)3月2日に、拝殿は平成17年(2005年)3月29日に県有形文化財に指定され、社宝の古瀬戸狛犬一対は、その形状面貌等特色ある品であることから平成3年(1991年)3月18日、同じく県有形文化財に指定された。  
■市川市
不動院   市川市東菅野
不動院は真言宗の寺院で、本尊不動明王は、天慶2年(939年)、平将門平定のため寛朝僧正が、成田山の明王と同木同作のものをこの地に安置したと伝えられています。開運厄除不動尊・準四国八十八ヶ所霊場。
御代院   市川市菅野
平将門を弔う菅野氏夫妻を祀る小祠
市川市菅野の住宅街にひっそりとたたずむように建てられた御代院と呼ばれる小さな祠があります。天慶の乱で亡くなった平将門とその将兵を生涯弔うためにこの地に留まった菅野夫妻を祀った祠だそうです。春は桜、初夏にはあじさいが咲き、小さな祠御代院を彩ります。
伝えによると、天慶の乱(天慶3年・940)のとき京都の菅野氏が、平将門調伏の志を抱いて、妻と共に関東に下り、この地に居を構えました。
妻の容姿が美しいところから「御代の前」と称して将門の内室になり、将門の出城といわれる大野城に入りました。そして内情を探索して夫に知らせたところから大野の落城を早め、将門調伏に功績をたてたといいます。
その後、夫妻は共に剃髪してこの地に留まり、将門と戦で亡くなった将兵たちのの後生を弔いながら世を去りました。夫妻の死後、里人はその志を哀れんで、墓標をたてて祀ったのが、この御代院ということです。
後世、幾度か墓標が破損しましたが、そのつど里人の力によって建てなおされ、伝承と共に今日まで守り伝えられてきました。
また、いつの頃からか風のときには、御代院から借りた茶碗で薬湯を飲むとご利益があるといい、回復のときに新しいものを添えて返す風習が広まりました。
甲大神社   市川市大和田
武将の甲を祀った伝説の神社
本八幡駅脇の行徳街道を行徳に向かって歩くこと10分。京葉道路の高架線手前に小さな鳥居が重なり合うように立つ神社が目に入ります。甲大神社です。この大和田の地の鎮守の神社。御祭神は誉田別命、つまり応神天皇です。社伝によると、応神天皇の兜を祀るという説や、天皇の母神功皇后の兜甲を祀るという説もある。平将門の兜説。源義家の兜説など多くの言い伝えるのある神社です。江戸名所図会では、「甲の宮」とあり、国府台の合戦で戦った大将の兜を祀った神社で、行徳八幡宮が管理していたとあります。江戸川放水路ができる以前は、この甲大神社のある大和田や隣の稲荷木の地は行徳だったそうですから、行徳八幡宮だったのでしょうか。葛飾記には「兜八幡」という名で紹介しています。現在は葛飾八幡宮の管理りだそうです。古くから武士に篤く信仰されていた神社です。
由来
本神社後祭神は応神天皇をお祀りするとも伝え、また大神の甲を祭るとも伝う。創建は古く人皇第66第一条天皇の永延2年8月8日、当地に鎮座、葛飾八幡宮の摂社にて「注連下」と称し大和田村の氏神たり。古来武将の崇敬熱く、殊に武士たるもの当社前に於て乗打ちすれば、落馬すると云い伝う。里人の信仰ありて奉賓の誠と致すもの尠からず。大正9年7月24日同所山皇後無格社天神社、及同庶無格社山王社合社の件許可せらる。
大野周辺の将門伝承   市川市大野町
野に咲く草花を落ち着いた庭園で
今回の旅のスタートは市川大野駅。まずは、駅前の通りを八幡方面に向かおう。
駅からすぐの高台に三社宮(さんしゃぐう)が建つ。奈良・春日、愛知・熱田、兵庫・野口の3社を祀り、これが名前の由来という。境内には力石が2つ、デンと置かれている。案内板によると、当地の若者たちの体力増強、また力自慢のために使われていたそうだ。
この三社宮を囲むように2つの長屋門が残る。江戸時代後期の建築というが、美しい門構えだ。
歴史を感じる長屋門から300mほど歩くと、木々に囲まれるようにたくさんの馬頭観世音や庚申塔などがある。庚申塔には貞享4年(1687年)、享保3年(1718年)と刻まれているものも。300年あまり前の建立だ。
隣には、昔の風情を漂わせる和菓子屋がある。地元で50年続く峰月堂だ。自家製あんを使った上品な甘さが人気の和菓子は、歩く旅にはありがたい。
峰月堂のある交差点を左折、迎米公民館をさらに左折して万葉植物園に向かおう。ちなみに迎米公民館は昔ながらの木造建築で、かつて大柏小学校の校舎として使われていたものを移築したという。
線路沿いに立地する入園無料の市川市万葉植物園は、万葉集ゆかりの植物を200種あまり集めた和風庭園(9時30分〜16時30分・月曜休園 ※11月〜3月は16時閉園)。真ん中に池があり、静かな佇まいだ。展示されている植物にはそれぞれ説明板があり、その草花の万葉名や詠まれている歌、作者などが記されている。いにしえの時に思いをはせるのもいい。
将門伝説をたどり自然の宝庫へ
跨線橋を渡り、そのまま進むと浄光寺だ。運慶作と伝わる、市指定文化財の乳なし仁王像を安置する。東に見える市立第五中学校の建つ台地は、かつて城山と呼ばれていた。大野城跡だという。いずれも平将門ゆかりの伝説が残る。
浄光寺のホームページには「平安時代末、平将門がこの地に城を築いたときに、その城内に毘沙門天を安置するお堂が創建したのを当寺の起源とする」とある。また大野城は将門が築いた出城であると、地元には伝わっている。
第五中学校グラウンドの北側の台地にある天満天神宮にも将門伝承が残る。案内板には「将門が天慶元年(938年)、京都の天満宮(北野神社)をこの地に勧請したものであると伝える」と説明されている。
充行院、礼林寺の脇を抜け、北に進めば駒形大神社が鎮座する鎮守の森。将門を合祀する神社だ。ご神体は白馬に乗った若武者だそうで、将門とも伝わる。大野には他にも多くの将門伝承が残っている。散策しながら探してみてはいかがだろう。
旅の締めくくりは大町レクリエーションゾーンへ。動物園や自然観察園、バラ園、観賞植物園、民間のフィールドアスレチックコースなど、自然と親しむのに絶好の場所だ。動物園と、少年自然の家にあるプラネタリウム、フィールドアスレチック以外は無料で利用できる。
湧水のある自然観察園には谷津の自然を生かした遊歩道が。一周約2キロの散策路は、四季折々さまざまな表情を見せる。これからのシーズン、バラ園では秋バラが見頃を迎え、また11月下旬には見事な紅葉が楽しめるはずだ。 
八幡の藪知らず   市川市八幡 
“迷宮”の代名詞として使われる八幡の藪知らず(不知八幡森)であるが、国道14号線に面し、市川市役所の斜め向かいにある。まさに都会のど真ん中にあるが、ここだけは全く手つかずの状態で柵に囲われている。ただし大きさは18m四方で、おおよそ100坪ほどの広さしかない。これは近代化に伴って土地開発がおこなわれたためではなく、江戸時代中期には既にこの程度の大きさしかなかったようである。
江戸時代後期には『江戸名所図会』をはじめとした旅行記や名所案内本の中で有名な「禁足地」として取り上げられ、一度入ると出られなくなる、入ると祟りがあるとされている。そしてこの土地が禁足地となったかの理由についても、諸説書かれている。
最も有名な逸話は、徳川光圀が単身この藪へ入り、やっとの思いで帰還したという話。光圀はこの藪の中で数多くの妖怪変化と遭遇し、最後に若い女性(または白髪の老翁とも)が現れて「今回だけは見逃してやろう」と言われて脱出することが出来たという。あるいはからがら出てきた光圀は、土地の者を集めて禁足地にするよう申しつけただけで、中の詳細については全く語らなかったともいう。
これと並んでさかんに登場するのは、平将門にまつわる話。この藪は、将門を討った平貞盛が将門の死門(八門遁甲で言うところの凶相)の地として陣を張っていた場所とも、あるいは将門の首を守った近臣6名が時を経て土人形として朽ち果てた場所であるとも言われる。
さらには、東国へ赴いた日本武尊の陣所であった、馬に乗った里見安房守の亡霊が現れる場所であるとの奇怪な話もある。そして藪の中から機織りの音がしたり、若い女が夜な夜な近所に機織り道具を借りに来るが、翌日返された物には血が付いているという、かなり恐ろしい噂もある。
逆に非常に合理的で現実的な禁足地の理由付けもある。近くにある葛飾八幡宮の旧宮跡である(実際、この藪は現在葛飾八幡宮の土地となっている)。貴人の古墳である。八幡の隣町にあたる行徳の飛び地である(行徳の土地だから、八幡の地区の者は与り知らぬ場所となる)などが、昔から語り継がれている。また近年では、藪の中央が凹んでおり、元々八幡宮の放生池であったために禁足地となったのではないかという説も出ている。
喧噪をよそに、八幡の藪知らずは今もなお禁足地として近隣住民から畏敬の念を払われた存在である。最近造り替えられたばかりであろう、不知森神社の鳥居の真新しさが印象的であった。 
■市原市
姉埼神社   市原市姉崎
祭神 支那斗弁命 (配祀)天児屋根命 日本武尊 大雀命 塞三柱命
社格 旧県社
由緒 元慶元年(977) 正五位上 ― 天慶3年(940)平将門追討祈願 ― 源頼朝が鎌倉への途次に「馬揃」を行う ― 慶長6年(1601) 結城秀康社殿造営 ― 元和4年(1618)領主松平直政社領寄進 ― 明治維新後県社 ― 昭和61年1月火災
日本武尊海上の平穏を祈って風神長戸辺神を祀ると云う。海上国造一族のものと思われる姉崎古墳群中にある。姉崎神社には境内に松ノ木が一本もなく氏子は門松も立てない。かって女神・志那斗弁が夫・志那津彦にたいそう待たされ「マツ身はつらい」と言ったことからという。夫神は市原市の嶋穴神社の志那津彦命といわれる。姉ヶ崎の地名伝承では、姉弟の神様がいて先に姉神が来て、弟神を待ったので「姉前(崎)」となったという。
由緒
一、姉埼神社は、社伝によれば、人皇第12代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ、ここ宮山台においてお妃を偲び、風の神志那斗弁命(シナトベノミコト)を祀ったのが始まりという。
従って、御祭神は志那斗弁命であるが、その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第13代成務天皇5年9月、このあたりを支配していた上海上(カミツウナカミ)の国造の忍立化多比命(オシタテケタヒノミコト)が、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と塞三柱神(サエノミハシラノカミ)を合祀し、又人皇第17代履中天皇4年忍立化多比命五世の孫の忍兼命(オシカネノミコト)が、大雀命(オオササギノミコト)(人皇第16代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。これら祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(877)には神階も正五位上にまで進み、天皇の勅願所ともなった。又、「延喜式神名帳」にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社として有名になった。一、その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振が奉納された。
ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。
さらに関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。なお、元和4年(1618)11月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、蘆屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。明治維新後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。
姉埼神社略記
一、姉埼神社は、千葉県市原市姉崎2270番地の地に鎮座する。JR内房線姉ヶ崎駅で下車して、東方1200mの距離にある。社殿は、宮山台という海抜50mの高台にあり、眼前に東京湾を望める高爽の地である。
一、去る昭和61年、祝融の災にあって、旧建物が失われ、今回新しく建造された神殿は、あたりの景観と相俣って、その偉容を見せ、神威を顕現している。
一、姉埼神社は、社伝によれば、人皇第12代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって、無事上総の地に着かれ、ここ宮山台において、お妃を偲び、風の神志那斗弁命を祀ったのがはじまりという。従って、御祭神は志那斗弁命であるが、その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第13代成務天皇5年9月、このあたりを支配していた上海上の国造の忍立化多比命が、天児屋根命と塞三柱神を合祀し、又人皇第17代履中天皇4年忍立化多比命五世の孫の忍兼命が、大雀命(人皇第16代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。
これら御祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(877)には神階も正五位上にまで進み、天皇の勅願所ともなった。又『延喜式神名帳』にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社として有名になった。
一、その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振りが奉納された。
ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。
更に関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。なお、元和4年(一1618)11月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、藍屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。
明治維薪後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。
一、姉埼神社の御祭事は、正月の元旦祭、2月の節分祭、夏季(7月20日)と秋季(10月20日)の例大祭などである。
この外、古来流鏑馬の神事が行われたが、現在は式典だけが行われている。
一、又特殊神事として、「牛ほめ」の神事があったが、今は中絶されており、いつの日かに復活が望まれる。この「牛ほめ」の神事とは、2月11日に行われたお田植え祭りの神事の中で行われたもので、誠に珍らしい行事である。お田植え祭りは、「お宮の種まき」ともいわれ、当日は早朝拝殿にこもを敷き、牛になぞらえた高麗狗を安置し、鍬形と種形に切った餅を作り、10時ごろから祭典を行い、そのあとで「牛ほめ」の神事があった。
この「牛ほめ」のことばには、「目を見て候えば、銅の鈴を張りたるが如し」とか、「耳を見て候えば、琵琶の葉をならべたるが如し」とか、口・角・背・尾・爪などを次々とほめたという。牛をほめて、農業の振興や五穀農穣・産業の隆昌などを願ったものと思われる。
一、姉埼神社には、境内に松の木が一本もなく、氏子の家のお正月には門松を立てない。これには、特殊な伝承があって、御祭神の志那斗弁命が、かつて夫の神である志那都彦命に大変待たされたので、「待つ身はつらい」といわれたことから、「待つの音通の「松」を忌むようになったというのである。
なお、姉埼神社は縁結びの神といわれ、かつてその象徴として、神社の大鳥居の前に夫婦杉があった。これは二本の杉が、途中で一本の枝によって連結されていた。これに巧みに紙を結びつけると良縁が得られるといわれた。
以上のように、数々の伝承や神事を持つ姉埼神社は、産土の神として、御神徳益々明らかに輝き、御神威が弥々光りを増し、このたび新装成った御神殿に、氏子を初め、万民こぞって崇敬の誠をささげるものである。
松の嫌いな明神さま
姉埼神社は景行天皇40年(110年)11月、日本武尊御東征の時舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗辮命を現在の丘上(太古丘の下は海で岬を形づくっていたと推定される)に祀ったのが創祖といわれる。
当神社の森は古来鬱蒼たる老杉に覆われて、その森厳さと、美しい林相を近郷に誇って来たものであり、氏子農漁民は朝夕この社を仰いで心にやすらぎを得て夫々の生業にいそしみ、又幾年かこの郷土を離れて帰郷した人達は、駅に降り立って心のふるさとである明神の杜に接し、更めて温い故郷の空気に包まれたという感慨を語っている。記録によればこの杉は慶長、寛永慶安年間に苗木が献納され、その数約4,000本とある所から推して、樹令は大体350年〜370年のものが主力であり、この時期に既に成木となっていたもの何本かが御神木を含めて樹令600年〜650年を数えるものと推定される。
明神とは創祀も古く、由緒も正しい神社に対し、中世以降授けられた称号であり、この地区に於て明神といえば当神社を指すものである。尚神佛習合現象のあらわれた11世紀の頃から御祭神に奉られた権現号も又神号の一つである。
当社の境内林に松樹の無い事、又この氏子区域内では正月に松を飾らないことについて、氏子外の方々から奇異の眼を以って見られ又質問される事が屡々ある。
我国には古来言葉に何らかの霊力があるとする言霊(ことだま)の信仰がある。例えば稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神であり、この神は元来五穀と蚕桑を司る神であるが、「いなり」という語から、その場所に固定して成功する「居成り」という信仰に転化し、邸内社として各家の守護神として、又商業の神としてデパートの屋上等に祀られる様になって来たものと思われる。又五星の先負、佛滅、或は数字の四(死)、九(苦)等が慶事の際忌まれる事等我々の日常生活に定着しているものは極めて多い。
姉埼神社の御祭神志那斗辮命は女神であり、夫神は島穴神社の御祭神志那津彦命といわれて居る。その時代狩猟に出立つ夫神を門べで、馬の口輪を執って、その鼻づらを目的地の方に向けて送ったものと思われる。はなむけという語はここから出たのではないかと推察される。大国主命の妃須勢理姫命が旅に出た夫神の帰りを待ち、空閨をかこって歎いた歌に「八千矛の神の命や、我が大国主、汝こそは男にいませば折見る嶋の岬々かき見る磯の岬落ちず若草の妻持たせらめ我はもよ女にしあれば汝除きて男は無し汝除きて夫はなし」
云々という長い歌が古事記に載っているが、この歌の如く当神社の御祭神も又、いつ帰るとも知れぬ夫神を待ちわび、待ちこがれ、「待つは憂きものなり」と歎かれ、「待つ」は「松」に通ずる所から、この郷に於ては古来松を忌むと書かれている。この伝説による風習が遠い祖先から伝承され、この氏子区域内個々の家庭に定着しているもので、約7000坪の境内に一本の松樹を見ない事と合せて、各戸の門口には竹と榊を組み合せた門飾りを立て、来る年毎の新年を祝い、現在に至っているものである。私見として、用材として役立つ松を若木で採取するより、雑木の榊を用いた方が国策にも副うのではないかと考察するので、この様な伝説による特異な民間神事は後世に伝え残して行きたいと思う。冒頭に述べた境内林の杉はここ数年来衰退枯死甚しく、無残な現状であり、この対応策として、植林、境内地の環境整備等今後三ヶ年計画を以て事業実施を行う予定であり、現在その計画を策定中であるが、元の林相に復元する為には少くとも百年単位の長期計画が必要であろう。
島穴神社   市原市島野
祭神 志那都比古尊、日本武尊、倭比売尊
境内社 疱瘡、大六天、八雲、子安・愛宕・淡嶋、浅間、道祖神社、古川神社、日宮神社、十七夜神社
備考 旧県社、延喜式神名帳小社
島穴神社は、市原市島野にある神社です。島穴神社は、景行天皇40年(114)に日本武尊が走水から上総へ航行中に暴風に遭遇、弟橘姫命が入水して暴風を鎮めたことから、弟橘姫命の遺志により当地に志那都比古尊を祀り創建したといいます。陽成天皇8年(884)には正五位上勲五等に神階を授けられ、延喜式神名帳にも海上郡二座(並小)島穴神社と記載されている古社です。その後も将門降伏の勅願や源頼朝からの神田寄附など崇敬を受け、明治4年郷社に、明治12年には県社に列格していました。
島穴神社由緒 1
当宮は「延喜式」所載の上総五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。
今からおよそ千八百年あまり前の景行天皇の四十年(西暦一一四年)日本武尊が東征のみぎり相模国走水より上総国へ航行中にわかに暴風に遇われあやうく船が覆りそうになった時同乗されていた、妃君の弟橘姫命が大和の大和国の風鎮の神龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽しますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、ぶじ上総国へ着くことができたので日本武尊は弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当宮を創祀されたのであります。のち景行天皇が当地へ行幸(一二七年)の折日本武尊、倭比売尊を合祀されました。
また陽成天皇八年(八八四)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治十二年(一八七九)には千葉県の県社に列格されたのであります。
島穴神社由緒 2
島穴神社(島野) 式内社、元慶元年(八七七)五月正五位下となる。明治十二年(一八七九)県社となる。治承四年(一一八〇)八月源頼朝神田三六石を寄進する。天正中北条氏に侵略され村や社を焼き、寄進状も灰となり神田を失い、徳川氏より朱印地を与えられなかった。神社の北三〇〇メートルの水田の中に盛があって約九〇平方メートルの広さでもとの社の址といわれる。深い穴があって清風が吹き出していたことがあってそれが島穴の名の起こりと伝えられている。姉埼神社と祭日を同じくする。島穴(島名)は古代の駅路であった。社号の扁額は松平定信の筆になる。手水石は延享二年(一七四五)六月の造立、大狛犬は文政八年(一八二五)の造立である。
島穴神社由緒 3
東海村大字島野字島穴にあり木更津線五井・姉ヶ崎間殆ど中央左側老樹蒼々たるを見る之なり、人皇十二代景行天皇の四十年十一月皇子日本武尊東征の時御親祭せられし所、姉ヶ埼神社鎮座科那戸邊命の良人志那津比古尊を祭る、風神にして上総五社の一なり、同五十三年天皇御東幸の時現今の相殿日本武尊倭比賣尊を合祀す(三代實録)元慶元年五月十七日(皇紀一五三七年にして陽成天皇御即位の年)丁巳授上総國從五位上勲五等島穴神正五位下類聚國史之と同じく載す(延喜式神名帳)上総國海上郡二座(並小)島穴神社・姉ヶ埼神社と載す又元慶元年五月大旱の時乞雨の勅願あり天慶三年二月(皇紀一六〇〇年)には、将門降伏の勅願在らせられきとぞ、治承四年八月(編者註皇紀一八四〇年にして以仁王平氏と戰て宇治に戰死しョ朝鎌倉に入りし年なり)源ョ朝神田を寄附す(高三十六石神官社入十餘戸)天正(皇紀二二三三−二五五一年)年間北條氏の兵火に罹り神寶社記其の他蕩盡す、左少将源定信上総國富津を固め信向ありて文政六年(編者註皇紀二四八三年にして獨乙人シーボルト氏長崎に来り醫方を講じたる年なり)十一月自筆の扁額を奉納す、爾後年々幣帛を奉らる又神殿修覆料として屡米若干を領主大国忠愛天保十三年(皇紀二五〇二年)壬寅より慶應年間まで年々寄進す嘉永元年(皇紀二五〇八年)正三位千種有功卿及堀川康親卿奉る歌に
四方の海仰げばさそな紅葉にも花にも風はさわらさりけり(千種)
太しくもたてゝ護れる島穴のふた柱こそ世々におこかね(康親)
明治四年辛未十一月二十二日島野外十一ヶ村郷社に定められ、明治十二年十月二十八日縣社に列せらる、・・・
島穴神社由緒 4
神階正五位上勲五等。当宮は『延喜式神名帳』所載の上総五社の内の一社。景行天皇四〇年(一一四)日本武尊が東征の折、相模国走水より上総へ航行中、にわかに暴風に遭われ、危く船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮神龍田の神を遁かに拝み、海中に身を投ぜられると暴風は止み、一行は無事当地へ着くことができた。尊は妃のご祈誓に従いこの地に風鎮の神志那都比古尊を創祀された。のち景行天皇が当地へ行幸(一二七)の折日本武尊、倭比売尊を合祀された。また陽成天皇八年(八八四)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治一二年(一八七九)に県社に列格、今日に至る。松平定信侯奉納の扁額・社紋幕等が奉護されている。
上総国分寺(かずさこくぶんじ)   市原市
真言宗豊山派の寺院。山号は医王山。院号は清浄院。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、上総国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である上総国分寺跡(国の史跡)についても解説する。
養老川北岸の台地上に所在し、北東方には国分尼寺跡が残るほか、周辺には古墳・遺跡や瓦の窯跡が多く確認されている。旧国分寺の跡地に重複して位置し、その法燈を受け継ぐといわれる。
旧国分寺は応永年間(1394年-1427年)頃までの存続は確認されているが、その後は荒廃していた。寺伝では、元禄年間(1688年-1704年)に僧の快応によって再興され、正徳6年(1716年)に現在の薬師堂が落成したと伝える。また、のちに仁王門も設けられた。
境内
薬師堂は、江戸時代の正徳6年(1716年)の建立。堂内の厨子に本尊が安置されている。仁王門は、江戸時代中頃の建立。これら薬師堂・仁王門は市原市指定文化財に指定されている。また仁王門内の金剛力士像は、それぞれ阿形は南北朝時代、吽形は江戸時代の作で、いずれも市原市指定文化財に指定されている。そのほか、境内には「将門塔」と称される応安5年(1372年)建立の宝篋印塔があり、市原市指定文化財に指定されている。
上総国分寺跡
国分寺跡は現在の国分寺と重複している。周囲に谷や古墳があるため寺域は四角形ではない。南北478m、東西は北辺:254m・中央:345m・南辺:299m、面積は139,000m2に及ぶ(武蔵・下野に次ぐ大きさ)。主要な伽藍地は南北219m、東西194mで、大官大寺式の伽藍配置。伽藍は大きく2期の造営時期が確認され、1期目は仮設的意味合いが強い。旧国分寺は応永年間頃まで存続が確認されている。
光徳寺(市東城跡)   市原市中野
山号は経王山といい日蓮宗中本山で、寛正元年(1460年)7月に創建されたと言われています
時は室町時代、八代将軍足利義政の時代です。
開基は岩富、原氏2代の原信濃守、兄の岩富城主(現、千葉県佐倉市岩富)原左衛門尉の外護を受けて建立、開山は本土寺(松戸市)9世妙高院の日意上人だそうです。
元々、この地は平将門伝説が残っており市原市奈良にある奈良の大仏(釈迦如来像)も将門が東大寺を真似てここに都を造ろうとしたと言う伝説があります。そして室町時代になると原信濃守の城と迄の規模はいかないが、市東城があった?…と言われる所で、お寺の至る所に今も土塁で囲まれた跡が残っています。
奈良の大仏(ならのだいぶつ)   市原市奈良字大仏台
市原市奈良字大仏台に建立された釈迦如来像である。
初代は平安時代、承平元年(931年)に建立されたと伝えられる。下総付近で朝廷に対して反乱を起こした平将門が、新皇を名乗りこの地の北方に京を模した自らの都を構えた際、京の南の奈良の東大寺の大仏を模して建立したもので、銅製だったとされる。
江戸時代中期の儒学者中村国香(1710年 - 1769年)が著した『房総志料』によれば、当時の奈良村には銅製の蘆舎那の露仏が存在していた。
「一、市原郡の人語りしは、奈良村といふ所の山中人跡まれなる処に、銅像の高丈餘の蘆舎那の露佛、儼然として叢間に安置す。榛荊を發き拝するに、基砌半は土に陷り、銅上盡青衣を生ず。凡幾星霜を経たりといふ事しらずと。按に、承平中、平将門東百官などいふ事置きし日、南都の銅佛に摹倣せしにや。しかれども、自立の日久しからざれば、精舎を建るに暇なしと見へたり。事實の傳はらざるは、後人其僣竊を惡み、且、國禁をはゞかれるにや。いぶかし。 『房総志料』」
その後何度か作り直され、現在のものは文化元年(1804年)に建立された等身大(像高約1.7m)の石製立像である。
2011年3月の東日本大震災では像が台座から落ちて損壊した。しかし、市と住民が費用を折半して修復されることになり、11月に修復が完了した。
西願寺阿弥陀堂附厨子   市原市平蔵
創建時の阿弥陀堂は、上部は全て金箔塗り、下部は朱塗でまばゆいばかりであったことから、平蔵の光堂と呼ばれています。平蔵城主・平将経が鬼門守護のために建立したといわれています。昭和2年の解体修理時に発見された墨書から、明応4年(1495年)、鎌倉の名人大工・二郎三郎により建立されたことがわかりました。本堂は正面3間、側面3間、茅葺の寄棟造りです。軒回りは二重の扇垂木で、軒の出が深く三手先詰組とともに美しい構成なっています。厨子も堂と同じ様式の創建当時のもので、堂と合わせて国指定重要文化財に指定されています。  
■印西市
山根山不動尊   印西市
旧木下宿(竹袋)の一角に鎮座し、正式には山根山正宝院といい、江戸時代から木下の北向き不動尊として広く人々の信仰を集めてきた。不動尊像は、木彫りで、寄木造りであり、像高が60cm余りで、青みを帯びた黒色であるが、作製年月日や仏師は不明である。
堂宇は、天保7年(1836)の木下の大火で消滅した。その後、明治29年(1896)に再建された4間四方総瓦葺きの木造であったが、平成21年(2009)5月25日午前零時頃、不審火によりすべて焼失した。
境内には10万年前の貝化石の燈籠が2基、3鈷を乗せた墓石の供養塔、講中たちや船頭衆から奉納された石塔類がある。
また、左側の奥に「娘小宰相」と刻まれた平将門の愛妾「桔梗の前」の供養塔が建っている。
これは、明治24年(1891)に時斎(とき)念仏講中が再建したもので、「念心大徳というのは、下総国香取郡佐原領の牧野庄司のこと、剃髪して木下に庵を結び、娘小宰相こと、桔梗の前の菩提を弔った。晩年、資財を投じて庵隣接地を買い受け、堂庵を建て資産とした。享保15年(1730)、当地の時斎念仏衆が、念心の慈善功績を讃えて大法要を行い、石碑を建てた。天保7年(1836)11月の大火によって堂も損壊し、石碑も埋没してしまったが、明治24年に不動尊再建の際に念仏講中によって再建されたのがこの供養塔である。」と刻まれている。
由来
当寺院は山根山正寶院といい、江戸時代から木下の北向き不動尊として広く人々の信仰をあつめてきました。 不動尊像は木彫りで寄木造りの座像です。尊像の高さは60cm 余り、色はやや青みを帯びた黒色で、仏師や作成年月は不詳です。脇侍の矜羯羅(こんから)童子は立像、制托迦(せいたか)童子は座像で、明治22年3月に仏師慶忠によって新 しく作られました。ご縁日は毎月27日で、元日と節分、5月、9月のご縁 日には堂内で護摩修行を行い、家内安全、商売繁盛の祈願が行われました。こ の不動尊の霊験は顕かにして特に戦時中の災厄を免れた例など数多くありま す。堂宇は明治29年に再建されました。4間四方総瓦葺きの木造で、堂内に は阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の各立像、木彫りの青面金剛立像、信者 から奉納されたガラス絵や俳諸額、繭額、護摩壇の天井に描かれた龍の絵と飾 りのついた天蓋など珍しい文化財が数多くありました。平成21年5月25日午前零時頃、不審火によってすべて焼失しま した。境内には10万年前の貝化石の灯籠が2基、3鈷を乗せた墓石の供養塚、講中連や船頭衆 から奉納された石塔類が多く有ります。なかに「娘小宰相」と刻まれた平将門の愛妾「枯硬の前」の供養塔がひっそりと建って います。また、境内の一隅には印西大師7番のお堂があり、春の大師参りで賑わいます。
小宰相の供養碑   印西市木下
牧野庄司(現鹿島市牧野?)の娘・小宰相の話です。将門が見初めて、後に「竹袋城」に迎えて寵愛したとの話もあります。この小宰相が、実は「桔梗の前」だとの説もあるようです。
小宰相の供養碑があるという印西市木下にある「山根山不動尊」を訪ねてみました。
本堂には、文化財などもあったとのことですが、平成21年の不審火によって全て消失してしまったようです。う〜ん、残念。
由来などがかいてありますが、ここの看板には小宰相は桔梗の前だというようなことが書いてあります。
本堂の基礎が残っていますが、その左のほうに見つけました。
確かに「娘小宰相の○」と書いてあります。残念ながら、桔梗の前の文字はありません。この碑は再建されたもののようです。でも崩れてしまっていますね。なんとか保存をお願いしたいです。次は、この山根山不動尊からほど近いところにある「弥陀堂」です。
一見、集会所のようですが、軒下に「弥陀堂」と書かれ消えかかった額が見て取れました。かつてこの地に、小宰相の守り本尊の阿弥陀如来を祀った弥陀堂があったと言われています。
印西市の将門伝承
平将門は、平安時代中期の関東の豪族で平氏の姓を受け られた高望王の三男平良将の子。下総国、常陸国に広がった 平氏一族の抗争から、関東諸国を巻き込む争いと進み、京都 の朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜し たことにより朝敵となる。しかし、即位後わずか2か月足ら ずで藤原秀郷、平貞盛らによって討伐される。(承平天慶の乱) 死後は、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。
その平将門の出城跡と伝えられる「竹袋城址」が印西市の竹袋地区にあります。昔からこの 周辺の住民は城山と呼んでいました。赤松宗旦著「利根川図誌」によると「城の大きさは、お よそ東方から南へ 15,6丁(約 1,700m)、横は2町ないし3町(約 300m)くらいあり井戸は 城から東のほうにある。前は大河谷原、西には手賀浦、後ろは谷と 山つづきである。」という記述があります。これ を現在に地形とあわせても合致することから当 時の様子をうかがうことができます。この記述 にある井戸は、「将門の井戸」と呼ばれ、平将門 伝承の一つとして語り継がれています。さらに、 平将門の愛妾だった小宰相(桔梗の前)に関する伝説も残っており、木下の山根山不動尊には「娘小宰相之霊」と刻まれた供養塔があります。
「印西市民アカデミーだより」で紹介した利根川図志に「平新皇将門城址図」という絵図が掲載されており、現代の地図と比べても遜色ないものである。本城のあった 岩井(茨城県坂東市)から前線基地があった 守谷城(茨城県守谷市)にかけては河川や湖 沼が網の目のように広がり一帯が天然の要 塞のようになっていたことが分かります。 成田山新勝寺は、平将門を調伏するため、 朱雀天皇の密勅を受けた寛朝僧正が京の高 雄山神護寺の空海作の不動明王像を奉じて 東国に下り、下総国公津ヶ原で不動護摩の 儀式を行ったのを開山起源に持つ。
竹袋城   印西市
竹袋城は別名、井ノ内城とも呼ばれ、城址に平将門の井戸があることにちなんだものだということです。平将門の井戸が残されていることから、平将門が出城として築いたものであると言われていますが、それ以上の詳細は不明です。戦国時代後期においては千葉氏一族である臼井原氏の影響下に置かれていたものと推定されています。

井ノ内といふ一家の古書に、この城の事をいへる書あり。写してここに出す。
「延長七巳丑歳、佐倉城主平将門殿、常陸筋合戦の出張城なり。将門、家臣分に河下の香取郡左(佐)原領内牧野郷に長者あり。名を牧野庄司なり。其の娘に小宰相(桔梗の前)有り、そこで将門どの御重く寵によりて此のところの城へ召しよせ置き候。(以下略)・・・」
とあり、将門が出城を築き、牧野郷の長者の娘で、将門の妾、小宰相(桔梗の前)を住まわせたという。
■勝浦市
勝浦城(かつうらじょう)   勝浦市浜勝浦
千葉県夷隅郡勝浦(現在の千葉県勝浦市浜勝浦)に存在した日本の城。
勝浦湾の東南端に突き出た天然の険しい崖の上(八幡岬)に築かれた海城(要害)で、築城経緯・時期などの詳細は不明だが、1521年(大永元年)に真里谷城の城主だった上総武田氏の一族の真里谷信興(真里谷信清?)が安房の里見義堯による北上阻止のために支城として築城されたという説がある。
その後、真里谷武田家の一族の居城となっていたが、真里谷武田家が内紛で勢力を弱めると、後北条氏と里見氏が上総に進出するようになった。
1544年(天文13年)、里見方の正木時茂が大多喜城の真里谷朝信を滅亡させ、朝信の勢力圏を里見氏の傘下に収めたとき、勝浦城も里見方となっている。以後は正木氏の一族の正木時忠が入り、勝浦正木氏と呼ばれるようになった。時忠は後に後北条氏に寝返ったが、里見氏は勝浦城に激しい攻撃を加えこれを取り戻している。正木憲時の乱が起きたとき、正木頼忠(お万の父)は里見義頼に味方したため、憲時の攻撃を受け、一時落城したといわれ、のちに「お万の布晒し」の伝承を生んだ。憲時の乱が鎮圧されると、頼忠は勝浦城主に復帰している。
1590年(天正18年)に徳川家臣の本多忠勝に攻められ落城後廃された。
城が存在した場所は現在、八幡岬公園となっている。
■香取市
観福寺(かんぷくじ)   香取市牧野  
妙光山蓮華院觀n宦@宗旨 新義真言宗
本尊 聖観世音菩薩
創建年 伝・寛平2年(890年)  開基 伝・尊海
寺伝によれば、寛平2年(890年)、尊海僧正の開基という。本尊は平将門の守護仏とされる聖(しょう)観世音菩薩。千葉氏の祈願所として歴代武将の厚い信仰を受け、中世以降佐原の伊能家一族の帰依を受けるようになり、江戸時代には末寺五十三ヶ寺をもつ中本山として厄除大師信仰の中心となって庶民の信仰を一身に集めた。
本堂  - 文化8年(1811年)、鐘眞和尚再建。
大師堂 - 弘法大師像が安置され、川崎大師、西新井大師とともに日本厄除三大師のひとつと称される。文政12年(1829年)、秀珍和尚建立。
観音堂 - 本尊聖観世音菩薩像が安置されている。元禄年間、春海和尚建立。
不動堂 - 身丈5尺、総高8尺の不動明王像を安置。文化15年(1818年)、快恵和尚再建。  
鐘楼
毘沙門堂 - 平成7年(1995年)、量賢和尚建立。  
白井の玉井戸(しらいのたまいど)   香取市白井
「白井の玉井戸」は、伝承によれば、平将門が掘らせた井戸で、将門の子のために築かれた「白井城(白井砦)」の用水であったことから「王井」とも呼ばれた。「白井」という地名も、風雨の前日には、この井戸から白い煙が立ち上ったことに由来するとされる。常陸国の「神の池」と繋がっているとされ、水が涸れたことがないという(「神の池」が現・茨城県神栖市溝口にある「神之池(ごうのいけ)であれば、直線距離で約11km離れている。)。「白井城(白井砦)」自体は中世の城とされるが、所在地すら諸説あって、詳細不明。一説によれば、「白井の玉井戸」の北西約600mのところにある、丘の上の「星宮神社」(香取市白井)の鎮座地がそれであるという。
なお、この辺りには貝塚や古墳が多く、例えば「白井大塚古墳」では石室の天井石などが露出しているし、「大宮台古墳」は平将門の墳墓であるとの伝承も残る。
阿玉台貝塚 良文貝塚 豊玉姫神社
阿玉台貝塚 国指定史跡 縄文時代中期(5500年前〜4700年前)。
標高50m近い丘陵の、30〜40mあたりに貝層があるそうだ。明治27年に発掘調査され、出土土器が「阿玉台式」と呼ばれて遺跡の時代を相対的に決めるモノサシ(編年土器)になっている。なお、貝塚の数が日本一多い千葉県では、他に加曽利貝塚や堀ノ内貝塚からの出土土器も編年土器となっている。
案内板によれば、千葉氏の祖、平良文の墓として伝えられ、墳頂に江戸時代の石碑がある。伝説によれば、平良文は子の忠頼に「今より後、子孫はひょうたん夕顔を割って中を見るべし。中に化身あり」と言い終わってなくなり、後ひょうたん夕顔の中から観世仏を見いだし、人々これを夕顔観世音と称した、という伝説があるそうだ。
見たことのある土器の写真があった。この先の良文貝塚から昭和4年に発掘されたものだ。香炉形顔面付土器という3500年程前の縄文後期の土器。用途については不明な点が多いそうだ。
良文貝塚のすぐ近くに豊玉姫神社がある。
御祭神は豊玉姫尊。神話「海幸山幸」に登場する竜宮城の姫神で、古来より安産子育て、国家鎮護、海上安全、産業発展の神として信仰されてきた。由緒には日本武尊の東征が関わる。「(日本武尊は、)つつが無きをもって上陸の後、総国の旧地たる海上郡編玉郷貝塚網ノ岡に綿津見神の姫神豊玉姫尊をお祀りなされた」と。
樹林寺   香取市五郷内
白華山 臨済宗妙心寺派、千葉氏ゆかりのお寺です。本尊は、秘仏の夕顔観世音菩薩です。
923年に夕顔の実から出現した千手観音様を祀るお寺で、平家の祖廟として、千葉氏の大元の平良文公の念持仏です。
大治年中(1126年)に千葉介(ちばすけ)平常重(たいらのつねしげ)が夢枕のお告げにより、稲荷山の中腹に建立し、この霊仏を安置したのが樹林寺のはじまりです。
その後、常重の孫、森山城主「東胤頼」(とうたねより)が堂宇を再建し、貞和年間(1345年〜)覚源禅師を迎え真言宗から禅宗へ改宗し、開山しています。
江戸時代 元禄15年(1702年)には、五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が夕顔観音の霊験あらたかなるのを聞き、江戸城で百日間のご開帳が行われています。
本堂の前の境内には、「四季桜」と呼ばれる覚源禅師の手植えの桜があります。
光明院阿弥陀堂(こうみょういんあみだどう)   香取市多田
光明院は、山号を八幡山、寺号を西福寺といい、阿弥陀如来を本尊としている。柱などへの墨書や確かな文献がなく創建については不明であるが、寺伝によると、平将門の乱で将門が平貞盛に討たれたことにより、追捕使として駐屯していた上野守多田満仲が、任を終え帰還する際に、この地が摂津国多田荘に類似していたことから「多田」と名付け、将門の供養に一寺と八幡宮を建立したと伝えられる。阿弥陀堂についても、建立は天正6年(1578)と伝えられているが、それを裏付ける棟札などの資料は不明である。
光明院阿弥陀堂は、桁行、梁間とも三間の寄棟造で茅葺の仏堂である。柱は角柱で、上部が丸みをもちながらすぼまる、いわゆるちまきで、前面には、後補と考えられる1間の向拝が付く。四周には縁を廻し、正面中央の扉ははめころしの格子戸、両脇間および側面の前面寄りの2間は引き違いの板戸となっている。組物は禅宗様、中備として大柄な本蟇股を置き、内部は円柱の迎来柱を後退させてその間に桟唐戸を入れた禅宗様の須弥壇を置いている。天井は、格天井で、中央部のみ格子を大きくして鏡天井とする。
幾度かの修理や改変を受けているとはいえ、組物、中備の本蟇股、内部の天井、須弥壇などがよく残されており、全体として建立当時の雄大な姿を伝える。県内にある方三間仏堂としては優作で、その様式などから中世末頃から近世初頭の建立と考えられる。  
■君津市
人見神社   君津市人見
人見神社は、通称「みょうけんさま」と呼ばれ近在の人々から親しまれています。祭神は、天之御中主命・高皇産靈命・神皇産靈命を祀っています。敷地1,139坪の境内には本殿(銅板葺鉄筋コンクリート造)、幣殿(銅板葺)、拝殿(銅板葺)、拝殿(銅板葺)、社務所(瓦葺鉄骨平家造)が建ち並びます。境内神社として日枝神社が祀られています。創建の年代は不詳です。
久留里神社(くるりじんじゃ)   君津市浦田
旧社格は郷社。
祭神 天御中主命・伊邪那美神・天照皇大神・少彦名命・応神天皇などを祀る。
治安元年(1021)、久留里城主上総介平忠常が浦田妙見堂として勧請、別名を細田妙見という。建久3年(1192)7月22日、源頼朝も真鶴より勝山に上陸した時に戦勝祈願し、天下統一後征夷大将軍となるや文覚の弟子頼忠上人を別当としてお礼の祭りを執り行ったことから、7月22日を神社の大祭日としている。
治安年間に創建された当時の場所は、現在地に隣接する場所にあり、細田と称されている。
武田真勝や里見義堯をはじめ、江戸時代には大須賀氏・土屋氏・酒井氏などの領主の信仰も篤く、享保2年(1717)に入封した黒田直純によって久留里城築城の願文が奉納され、以後歴代藩主が崇敬してきた。大正元年9月に日本武尊・市杵島比賣命・木花之開耶比賣命・大己貴命を、同2年6月に伊邪那美神・天照皇大神・少彦名命・應神天皇を、同年9月には菅原道真命を本社に合祀。さらに昭和3年近隣の十社を合祀してその総社となった。
平将門の三男頼胤が細田妙見を参詣の際、「城は浦田山に築き、久しくこの里に留まるべし」との御託宣があったとされ、これが久留里という地名の発祥になったという説もある。
久留里城(くるりじょう)   君津市久留里付近
別名、雨城・霧降城・浦田城とも呼ばれる。
久留里城は室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城(古久留里城)で、以降は信長の子孫である真里谷氏が支配した。戦国時代には真里谷氏は衰え、代わって里見氏の拠る所となり、里見氏によって再構築され(新久留里城)、佐貫城と共に対北条氏の最前線を担った。その後、江戸時代には久留里藩の藩庁として再整備され、酒井氏の加増地となった17世紀末から18世紀半ばを除いて、近世城郭として明治維新まで維持された。
久留里城は現在本丸のある近世城郭部に加え、安住原地区、怒田遺跡および山麓小櫃川河畔の近世居館部の4つの郭群からなる。この内、江戸時代には近世城郭部と近世居館部のみが城域として維持されたが、安住原地区については真里谷氏時代の遺構であり、里見氏時代には既に放棄されていたと考えられている。ただし、安住原地区は里見氏時代も引き続き使用されたと考える向きも多い。
お玉が池
山麓の近世居館部は一部の土塁を除き開発により消滅したが、車道で一部が削られたものの山上の遺構は比較的よく残り、天守台等の近世遺構に加え、堀切や削り残し土塁等の中世里見氏時代の遺構も見られる。また、山上は湧水が豊富で、男井戸・女井戸、お玉が池を始めとする、複数の水源が現在でも水を湛えている。
古久留里城
平将門の三男頼胤が築城したという伝説もあるが定かではない。上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に築城したといわれるのが史実に基づく最初の築城である。 戦国時代には、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じて里見氏がこれを抑えた(里見成義がここを開城させたとも、里見義堯が武田一族であった前城主武田真勝に城を譲らせたともいう)。
久留里城
天文4年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在の城地に久留里城を築いた(ただし、年代に異説あり)。永禄7年(1564年)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落した。その後、再び里見氏が奪還した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず、秀吉の不興を買い安房一国の領有はゆるされたが、上総の所領を没収された。この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城した。忠政は城下町整備に尽力し後の基盤が出来上がった。
その後、江戸時代には久留里藩の藩庁となった。慶長6年(1601年)松平(大須賀)忠政が関ヶ原の戦いの功により3万石加増の上、遠江国横須賀城に転封となった。代わって土屋忠直が2万石で入城した。土屋氏は延宝7年(1679年)改易となり廃藩、一時廃城となった。寛保2年(1742年)上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩した。黒田氏は明治維新まで居城し、明治5年(1872年)廃城令により久留里城の歴史は終わった。
昭和30年(1955年)に城郭跡地の国有地を借り受けて城山公園に整備を行った。昭和54年(1979年)には模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造された。江戸末期に実際に建っていたものは、現存する当時の文献や、礎石の配列状況からして2層2階であったと推定されているが、再建された天守は浜松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なる。模擬天守内は展示物は全国に現存する天守閣のパネル展示くらいで、展望台として利用されている。
神野寺(じんやじ)   君津市鹿野山
鹿野山琳聖院神野寺 本尊 薬師如来・軍荼利明王
真言宗智山派寺院
寺伝によれば、聖徳太子により推古天皇の時代(598年)に創建された関東地方最古の寺と伝えられる。永正年間(1504年 - 1521年)に真言宗の僧弘範により中興されたという。
■佐倉市
鷲神社   佐倉市先崎
御祭神 天日鷲命
鷲神社の開創は「佐倉風土記」によると「承平七年(九三七)七月七日、慈恵僧正、朱雀帝の勅を奉じ、来りて此の神を祭る」とあります。
本殿は天保十五年(一八四四)建立されたもので大工棟梁は立石菊右衛門藤原元隆(八千代市下高野)、柱や本殿四面の彫刻は星野理三郎政一(群馬県勢田)の 手によるもので、大江山鬼退治の伝説を題材としています。建立にあたっては、近隣の八千代市や印旛村などの人々から奉納金を募ったもので、神社に対する信 仰の広がりがうかがえます。
鳥居は、寛文十三年(一六七三)定宥が建立したもので、作者は深川の石屋五郎兵衛です。鳥居の形式は明神式で、石造の鳥居としては市内では比類のない大きなものです。
境内にあるケヤキ(ニレ科)の大樹(樹高十六m 目通り幹周六.三m)は、当社開創と共に植えられたものと考えられ、応永年間(一三九四〜一四二八)の神社の火災により被害を受けた形跡があります。市内においてこのような古木は珍しく、学術上からも貴重な資料といえます。
星神社(臼井妙見社)   佐倉市臼井
佐倉市臼井にある星神社、別名は臼井妙見社。臼井城の鬼門を守る。
臼井氏は千葉氏から分かれ、千葉氏の祖は平氏。千葉氏は妙見菩薩を守り神としている。
妙見とは北極星。そのため千葉氏の家紋は月星。星神社の神紋も同じく月星。
臼井城(うすいじょう)   佐倉市臼井田
永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。
享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。
その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復した。
永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、原胤貞の娘とされる母とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。
永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている(詳細は「臼井城の戦い」参照)。
天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。
戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となった。
室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。
現在は臼井城址公園として整備されている。
将門神社・口ノ宮神社   佐倉市将門町
将門神社 平親王将門大明神
平の小次郎将門は平安の時代坂東の地に桓武六代の帝系として生まれました。
一族の横暴と都で栄華を極める藤原摂関政治のもとに苦しむ民衆のために決起し,瞬く間に坂東一円を治め平親王と名乗りましたが,志半ばにして非業の最期を遂げたと言われています。
死後多くの民衆から坂東の英雄として追慕する声が高まり各地に将門神社が建立されました。
大佐倉の将門神社の創建は定かではありませんが,桓武平氏の同族である本佐倉城主の千葉氏により建立(敷地三百坪)されたと伝えられています。
石の大鳥居は三百五十年前佐倉藩主堀田正信公による奉献されたと記録されています。
奥の宮の桔梗塚は将門の愛妻の桔梗の墓といわれていますが,将門を偲びこの地には桔梗の花は咲かないと言い伝えがあります。
口ノ宮神社 口ノ明神
江戸時代,高い税に苦しむ百姓を救うため将軍に直訴した佐倉惣五郎は義民として映画や芝居になり広く知られています。惣五郎百年忌に際し(二百五十年前)藩主堀田正亮公により口ノ明神に祀られ宝珠院が別当として祭祀を行ない,佐倉藩の保護の下に下総一円の領民に崇敬されてきたといわれます。
大正八年本社拝殿等を失火により消失しましたが,地元大佐倉の氏子世話人有志により惣五郎の命日といわれる九月三日には宮なぎ行事として毎年供養と祭祀が行なわれています。石の大鳥居は佐倉市の指定文化財として観光マップのコースに入っています。大佐倉将門口ノ宮神社再建の碑より。
成田山新勝寺
千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により海路(陸路は日数を要す)下向した寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされる場所に、言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。大河ドラマ「風と雲と虹と」の出演者も、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退をした。同じく、現在の千葉県市川市の大野地区にも、将門公伝説・縁の郷とされ、旧くからの地元住民は、成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こると、裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えないといった言い伝えを、今でも聞くことができる。
八幡神社   佐倉市将門町
佐倉市将門町は、その名のとおり平将門伝説が残る地だ。このあたり一帯は将門山と呼ばれているが、父 良将(良持とも)の本拠地だったという。長い参道のある八幡神社は、まさに良将が居館を構えたとされる場所だそうだが、千年以上も昔の話なので、確たる話ではないようだ。その後将門の叔父 良文の子孫である千葉氏がここに本佐倉城を築いたが、江戸時代初期に廃城となった。名門千葉氏も、源頼朝を支えるなど戦国時代まで活躍するが、豊臣秀吉の小田原攻めの際北条方についたために滅ぼされてしまう。
天女羽衣伝説
平将門公が佐倉の「おもが池」に赴いたとき、一人の天女が羽衣を脱いで遊んでいた。将門公は羽衣を奪い取り、天女を連れ帰って、契りを結んで三人の子どもを産ませました。その後、天女は羽衣を取り戻して天に帰って行ったが、さすがに子を思う情は尽きず、三通の便りを送ってきた。月に星の備わった石に、便りを結び付けて天から降らしたという。

これが「千葉石」なんだそうです。
この石には諸説あり、最も信憑性があると言われているのが「千葉伝考記」に記載されている「寛文十二年(1672) 千葉介平正胤の名で千葉石を奉納した」という記述のようです。石の表面には月と星の模様が浮き出ており、千葉氏の家紋「月星紋」の由来となっています。
■匝瑳(そうさ)市
匝瑳の由来・語源
匝瑳そうさ市は、平成18年、八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生した市です。
匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調 ようちょう (朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。
匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀 しょくにほんこうき 」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事もののべのおごとという人物が、坂東ばんどう(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡さふさごおりとし、小事の子孫が物部匝瑳もののべのそうさ氏を名乗ったと伝えられています。
匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝めぐる”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳あざやか”あるいは“瑳みがく”と読み、あざやかで美しいという意味があります。
飯高神社   匝瑳市
飯高神社拝殿  
建築年代については不明な点が多いが、現在のところ江戸時代後期頃と考えられている。建物は、正面9,5m側面6,85mの入母屋造りで銅板葺きである。正面の龍を模した彫刻は見事であり、他の部分も装飾傾向の強い特徴をもっている。天井には植物を描いた133枚(1枚欠損)の板絵がはめこまれており、構図もしっかりしている。市内において江戸時代の代表的特徴を有し、優れた建造物である。
飯高壇林跡、妙福寺   匝瑳市
飯高壇林跡は、匝瑳市役所の北西約5kmのところ。県道16号線を北へ進むと、案内板に日本最古の大学とあります。周辺に飯高壇林寺、妙福寺、飯高神社、天神社等文化財や巨木もたくさん有りますので、ゆっくり見て回ることにしました。

妙福寺は延慶3年進藤太縦空(しんどうたじゅうくう)が守護神として妙見尊を祀り建立しました。この地域には、妙福寺、飯高神社があり、それを中心にモミが混成したスダジイ林が広がっています。その他タブノキ、ウラジロガシなどを含み良好な社寺林を形成しています。また、北方の天神社もスダジイ林を中心として、モミ、杉、モウソウチクなどを含んでいます。
大浦ごぼう   匝瑳市大浦地区
大浦ごぼうは、匝瑳市大浦地区だけで生産されている直径30cm、長さ1mにも及ぶ巨大ごぼうです。成田山新勝寺だけに毎年奉納されており、全国から参詣に訪れる信徒に出す精進料理の縁起物として使われます。匝瑳市の指定天然記念物になっています。野菜が文化財として指定されるのは珍しいことです。収穫は11月です。
平将門の乱(939年)の折、藤原秀郷がこれを鎮めようと新勝寺に戦勝を祈願したとき、大浦ごぼうが振る舞われ、一戦は勝利を収めたということから「勝ちごぼう」として、新勝寺の精進料理の中で珍重されるようになりました。
■袖ケ浦市
飽富神社(あきとみじんじゃ)   袖ケ浦市飯富
延喜式神名帳 飫富神社 上総国 望陀郡鎮座
現社名 飽富神社
祭神 倉稻魂命 件信友『神名帳考証』天富命 『特選神名牒』『日本地理志料』神八井耳命
社格 旧県社
由緒 綏靖天皇元年4月神八井耳命創祀 ― 元慶元年祈雨勅願 ― 天慶2年平將門の乱で兵乱鎭定の勅願 ― 元慶8年(877)7月15日正五位上 ― 元禄4(1691)再建 ― 明治5年県社
綏靖天皇元年4月、皇兄神八井耳命が創祀という。古代この地区は海であったがその後、土地の隆起や小櫃川の土砂が堆積したりして、この入海は次第に潟となり、芦荻の茂る沼沢地となつていつた。そこへ、古墳時代の終り頃、有力なる首長(飫富氏)を中心とする集団が来つて定住し、この広大なる沼沢地を開墾し、生産力の大きな農地を造出したものと思われる。
由緒
綏靖天皇元年、皇兄神八井耳命が創始したと伝える。『延喜式』の「神名上」に、上総国五座のうち望陀郡一座飫富宮と記載され、明治五年、県社に列せられる。
天慶二年の平将門の乱により坂東の地は荒廃し、朱雀天皇はこれを憂えて、勅使を送り神剣を奉納し兵乱鎮定を祈願した。
例祭は毎年6月初午の日(現在7月24日)に行われ、文政11年以降は氏子八か村が交替で神輿を担ぐ。この祭礼は天延3年、上総国に疫病がはやったとき、時の上総国の国司源頼光によって執り行われたものである。また、千葉県指定無形民俗文化財である「飽富神社の筒粥神事」は毎年1月14日の夜から15日未明にかけて行われている。
飽富神社
社伝によると創建は綏靖2元年で天皇の兄・神八井耳命が創建したと伝えている。祭神の主神は「倉稻魂命」という稲の神、農業神で古くから農民の信仰を集めてきました。例祭は7月24日に行われいます。
現存の社伝は、元禄4(1691)に再建されたもので全体として権現造りになっている。本殿は流れ造りで、拝殿は入母屋造りです。
末社は、古来より75末社と称し神域内に斉き祀る。市正伝記(1680頃)より
本殿後:東之方御末社5社、本殿後:西之方御末社5社。 本殿:東之方御末社20社。 本殿:西之方御末社13社。 亥之方(北北西)御末社9社。 南方御末社3社。 寅之方(東北東)御末社4社。 卯之方(東)御末社2社。 北方御末社10社。 丑之方(北北東)御末社2社。 申之方(西南西)御末社2社。合わせて75社75座。
当社は国家の鎮護、殊に福神五穀成就の神霊故に、社中に源家の大将、鎌倉の右大臣、頼朝公を、白幡権現として勧請し奉つり、又、新田義貞公を新田八幡として勧請し奉つる。(二座共に勧請年月明白ならず)
降りて、元禄年間、飯富村の領主、天野地頭所より、古例に准じ、勧化の儀、お尋ね有り、其節二座の後ろに、ご領主、天野佐京雄良(かつよし)御鎮座木として、父之木(ちちのき)を御植になり、父之木の如く千々に御栄え永く変らぬようにと祈誓し、祝ひ寿ぎ御勧請したる由、申し伝えあり。
御鎮座の父之木、年々相栄え数十本競ひ生し、寛政八年正月には、本株は逞しく成長して三抱程になり、以来、子、孫と成長を続けて、現在の御神木は三代目を数えるなり。
但し、当社にて父之木と申すは、銀杏の木の事で、御神木を植えてより、年暦久しくして、今を遡ること三百年前のことに属す。
飽富神社
祭神 倉稲魂命
この神社は、平安時代初期に編集された「三代実録」という史書や、「延喜式」という法令集の中にすでにその名が記されている式内社で千年以上も前から存在した古社です。
旧称を飫富(おおとみ)神社といい、県内では香取神宮・安房神社など十八社ありますが、君津地方では唯一のもので、歴史的価値の高い神社です。
創建は、社伝によると第二代綏靖天皇元年(BC581)で、天皇の兄「神八井耳命」が創建したと伝えています。祭神の主神は「倉稲魂命」という稲の神、すなわち農業神で、古くから農民の信仰を集めてきました。例大祭は7月24日に行われています。
現存の社殿は、元禄4年(1691)に再建されたもので、全体として権現造りになっている。本殿は流造りで、拝殿は入母屋造りです。
飽富神社の筒粥
伝承地 袖ヶ浦街飯富2863
今日の飽富神社は、式内社の飫富宮にあたり、この神社の筒粥は、隣接する国勝神社の筒粥とともに、毎年1月14日の深夜から15日の未明にかけて行われます。
小河平左衛門家の当主が、13日の夜から14日の未明にかけてひそかに葦を切ってくる。
中山市左衛門家の当主が、いろりの鉤と箸(ともに柳の木を用いる)をととのえ、多田兵庫家の当主が、粥の米と版木を持ってくる。14日の夜には神社のの役員等が75本の葦筒をつくり一定の数にわけてそれぞれ編んで束ねる。
深夜の零時に、数人の若者が裸で水を浴びて身を清め、ヒノキの板ときりで神聖な火を切り出し、この火で粥を煮る。粥に葦筒を入れてかきまぜ、神前での儀式の後にそれらの葦筒を裂いて筒のなかに入った粥の分量で、大麦、小麦、麻衣、早稲、中稲、晩稲、稗、粟、大豆というように、作物の作柄を占います。地元の人々は、その結果を見にくるとともに、牛王串をうけて帰ります。
この神事は、禊が慣行され、旧家の役割が引き継がれるなど、年占いの古いかたちを残しているもので、作物の作柄を占う農耕儀礼のひとつとして本県民の生活文化の特色を残す典型的なものといえます。
■館山市
洲崎神社(すさきじんじゃ/すのさきじんじゃ)   館山市洲崎
式内社(大社)論社で、江戸時代に安房国一宮とされた。旧社格は県社。 御手洗山中腹に鎮座する。
祭神 天比理乃当ス(あまのひりのめのみこと) 安房神社祭神天太玉命の后神で、元の名を「洲ノ神(すさきのかみ)」と称する。
祭神の表記には、文献により以下のように異同がある。
〇 天比理乃当ス  『延喜式』神名帳による。鈴鹿連胤の『神社覈録』、教部省編纂の『特選神名牒』、洲崎神社配布の『参拝の枝折』などはこれに従う。
〇 天比理刀当ス(あめのひりとめのみこと) 神名帳よりも古い成立の『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』による。『洲崎大明神由緒旧記』や『洲宮神社伝記』はこちらに従って祭神名を記載している。
この相違が起こったのは、元来正史にある天比理刀当スと記すべきものを神名帳が誤って「刀」を「乃」と記載した為だとする説がある。
また『金丸家累代鑑』(慶長2年(1597年))に「安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する洲宮后神社は、後に洲宮明神と称し、それを奥殿とし二ノ宮と曰う。また、洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮と曰う」とあることから、洲崎神社と洲宮神社は「洲の神」を祀る2社一体の神社で、洲崎神社が「洲の神」を祀る一宮、洲宮神社が「洲の神」を祀る二宮とされたとする説がある。
創建
大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓した。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとされている。宝暦3年(1753年)に成立した洲崎神社の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃当スが持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが洲崎神社の始まりであるという。
また、『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』には、天富命15代目の子孫である佐賀斯の第2子・色弗が初めて祖神天太玉命の后神を祀ったとの記述がある。『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』では色弗の兄の第4子・加奈万呂が安房神社第22代祠官として勝義と改名し、勝浦崎(洲崎)に仮宮を作って天比理刀当スを祀ったとしている。このことから、色弗が初めて祀った斎場は大和国で、加奈万呂が勝浦崎(洲崎)に仮宮を作った養老4年(720年)7月が洲崎神社の創祀とする説もある。
洲崎神社社伝によれば、養老元年(717年)大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので役小角が7日7夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたのだという。また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀の安房口神社に御神石を1つずつ置いたなど、洲崎神社には修験道の開祖である役小角にまつわる伝承が多くある。これより、洲崎神社が古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたことを物語っているとされる。
平安時代
「安房国 天比理刀盗_」は度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている。
延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では安房国安房郡に「后神天比理乃当ス神社 大 元名洲神」と記載され、天比理乃当ス神社は大社に列格された。洲崎神社はこの天比理乃当ス神社の論社の1つで、もう1つの論社である洲宮神社と、どちらが式内社であるか江戸時代から争うようになる。
永保元年(1081年)神階が最高位の正一位に達した。また、後の弘安4年(1281年)には元寇の役の功により勲二等に叙せられている。
治承4年(1180年)8月、源頼朝は石橋山の戦いに敗れ海路で安房国へ逃れた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月5日の条によれば、安房に逃れた源頼朝は上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、洲崎神社へ参拝して使者が交渉を成功させて無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事に役目を果たし、同年9月12日の条では洲崎神社に神田が寄進された。また、寿永元年(1182年)8月11日の条では、頼朝の妻政子の安産祈願のため、安房国の豪族である安西景益が奉幣使として洲崎神社へ派遣されたことが記されている。以降も関東武家の崇敬を受けた。
また、『吾妻鏡』治承5年(養和元年、1181年)2月10日の条では、安房国洲崎神領で在庁官人らが煩いをなすことを停止させる下知書が洲宮神官宛に下されている。これが洲崎神社と洲宮神社の関わりを記した文書の初見とされる。
江戸時代
文化9年(1812年)、房総沿岸を視察した筆頭老中松平定信が「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代に一宮とされた根拠はこの扁額であるが、「安房一宮 洲崎大明神」となっており、断定できない。これをもって一宮としたのは、昭和13年(1938年)に来房した栃木県の郷土史研究家であり、どの書物にも正式に一宮と記載された歴史はない。『館山市史』では、洲崎神社を一宮としたのは西岬に一宮道があったことによる誤りではないかと述べている。
江戸時代までは別当養老寺が洲崎神社を支配し、これが明治元年(1868年)に神仏分離令が出されるまで続いた。
明治以後
明治5年(1872年)神祇を管轄する教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年(1873年)にこの決定を覆して洲崎神社を式内社とした。ただし、決定の論拠はあまり明白で無いとされる。また、明治6年(1873年)には近代社格制度で県社に列格した。
洲崎神社は海上交通の関所と言うべき位置にあり、昭和15年-16年(1940年-1941年)頃まで沖を通る船に奉賽を納めさせる風習があった。昭和47年(1972年)には御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定天然記念物に指定された。現在は兼務社となり、神職は常駐していない。  
■東金市
東金市
帝立山妙善寺(ていりゅうざん みょうぜんじ)
東金市御門(みかど)というところにあります。地名自体からして親皇を名乗った将門にゆかりを感じさせる地名です。このお寺は、将門が慈母桔梗の前の菩提を弔うために、天慶元年(938年)4月、真言宗の一刹を建立し、京の都より貞観法師を迎え開基したと伝えられます。
*この地域では桔梗の前は平将門の母親と伝えられています。
稲荷神社(将門稲荷)
妙善寺から歩いて約5分ほどのところに稲荷神社(将門稲荷と呼ばれています)があります。祭神は将門とされており、将門の軍が敗れたとき、7人の家来が将門の遺骸を背負ってこの地に逃げ帰り、遺骸をまつって将門稲荷と称したと伝えられています。
厳島神社(桔梗弁天)
稲荷神社から西の方向に歩いて約5分のところに厳島神社(桔梗弁天)という神社があります。ここは、将門の母と伝えられる桔梗の前が、乳汁が不足し困ったところ、関内(せきうち)にある水神社に祈ったところ、その後、乳汁に恵まれ無事に将門を育て上げ、土地の人が桔梗の前を弁財天の再来とあがめてまつられたものと伝えられています。
祭塚(えな塚)
厳島神社(桔梗弁天)から更に西に15分ぐらい歩くと、殿廻(とのまわり)という地区に着きます。この地区公民館手前を右に曲がった先に、祭塚(えな塚)と呼ばれる小さな碑があります。言い伝えでは、平将門の胞衣(えな)を埋めたところとされています。
三枚橋(産前橋)
殿廻の祭塚から北に約10分ぐらい歩いたところに、コンクリートで作られた農業用水に到達します。この水路にかかる橋が、中野の三枚橋(産前橋)です。桔梗の前が平将門を身ごもった際、占い師に「この子は、反逆者になる」と言われ、平良将は、桔梗の前を舟に乗せ海に流したところ、九十九里浜に流れ着き、この地に着きました。そこで将門が生まれたという言い伝えです。この時、将門母子の面倒をみた七郎兵衛という者に、のちに「布留川・ふるかわ」という姓が授けられたと伝えられています。
水神社
中野・三枚橋(産前橋)から歩いて約15分のところに関内地区の水神社があります。ここに、桔梗の前がお参りしたところ、乳の出がよくなり、将門も無事育ったことから地元では妊産婦にご利益があると伝えられています。
以上が平将門めぐりの旅でした。距離にして約3Km。それぞれの場所を見学し、ゆっくり歩いて2時間から3時間です。 将門にゆかりのある土地は全国にたくさんありますが、千葉県東金というところにも、このようなところがありますので、是非おいでいただき、のんびりと散策してみてください。
妙善寺   東金市御門
妙善寺は、天慶元年(938年)に平将門がその慈母桔梗前の菩提を弔うため真言の一刹を建立しました。京より貞観法師を迎え、開基として建立されたといわれています。また、平将門がこの地で生まれ、この地で死んだという伝説も残っています。妙善寺の山号「帝立山」は平将門が桓武天皇五代の孫ということから名がつけられたともいわれています。
田間神社   東金市田間
祭神 天之御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神
創建 伝 承平五年(935年)
伝承では、平安時代の承平五年(935年)、平良兼が田間に第六天宮を建立したのが田間神社の最初とも、戦国時代の永正六年(1509年)、酒井定隆が田間城を築き城内に第六天宮を建立したのが最初とも言われています。  
鹿渡神社(かのと)   東金市田中
東金街道(126号線)と雄蛇ヶ池の中間辺りに鎮座。法光寺の山門を潜ると右側に鳥居が見えるのが鹿渡神社で、東金市に存在する鹿渡神社で最初に建立されたのがこの神社だそうです。
天慶八年(945)に創建された鹿島神宮系統の神社。法光寺が延徳元年(1489)に建てられたので、寺が建つ前からここに存在した神社のようです。
■成田市
成田山新勝寺   成田市成田 
真言宗智山派の仏教寺院で、同派の大本山の一つである。山号は成田山。山号を付して「成田山新勝寺」(なりたさん しんしょうじ)、あるいは山号のみで「成田山」と呼ばれることが多い。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期の天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。
参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、社寺としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、寺院に限れば全国第1位の参拝客数である。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。成田国際空港に近いことから、外国人観光客にも人気がある。
成田山新勝寺の縁起は、平安時代中期、東国で起こった平将門の乱に始まる。朝廷は追討軍を差し向けると同時に将門調伏の祈願を大寺社や密教僧に命じた。天慶2年(939年)、寛朝僧正も朱雀天皇の密勅を受けた。寛朝は、京の高雄山(神護寺)護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて総国へ下ることとし、明くる天慶3年(940年)、難波津から海路で上総国に至り尾垂浜に上陸。陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。ややあって将門は戦死。最期は諸説あるが、寒の戻りの風に乗った一本の流れ矢が将門の額に命中したと伝えられる。これを朱雀天皇は、不動明王の霊験と歓喜した。さらに、寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したという。この時、朱雀天皇から「天国宝剣」を下賜されたとされる。
こうした由来から、平将門を祭神として祀る東京の神田明神や築土神社と、成田山の両方を参拝することを避ける人もいる。
成田山はその後、源頼義、源頼朝、千葉常胤、徳川将軍家や徳川光圀(水戸藩主)といった関東有力武将の崇敬を受けた。
永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座し、伽藍が建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代に入って世情が落ち着くと伽藍が再建・整備され、江戸に近いことから参詣者が増えるとともに、江戸で成田不動の出開帳が度々行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺となったが、塔頭寺院が1896年〈明治29年〉に名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦に至るまで、『成田市史年表』から拾い出すだけでも、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し、武運長久を祈願、お札を身につけている。 第18世住職・荒木照定は1928年(昭和3年)に新更会を設立、『成田町報』などを通じ、地域の民衆に対する日本古来の伝統的思想の教化を積極的に行った。日中戦争が激化していた1938年(昭和13年)には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納している。また、真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円(当時の額)を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。
寺の開基1000年でもある1940年、10年に一度の大開帳は、国家の一大イベントとなる行事である紀元二千六百年記念行事と重なるのを回避し、経済的に不利な状況になることを避けるため、二年前倒しされた。これより2018年の開基1080年を含めて現在まで、大開帳は開山の周年と二年ずれることになる。
本尊として安置されている不動明王及二童子像は、1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定された。鎌倉時代後期(13世紀〜14世紀)の製作とされる。
2007年(平成19年)11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m, 桁行14m, 梁行8m)が完成。
平安時代
大同5年/弘仁元年(810年、平安時代前期) - 弘法大師(空海)が、嵯峨天皇の勅願により、木造不動明王坐像(像高1.32メートル)を敬刻・開眼する/129年後、この像が寛朝僧正の手で下総国にもたらされ、平将門を調伏したうえで新勝寺の本尊となる。
天慶2年(平安時代中期)
1月(939年2月頃) - 寛朝が、朱雀天皇より平将門の乱平定のための将門調伏祈願を旨とする「治乱の護摩を修法せよ」との密勅を賜る。
某月 - 天皇から宝剣を賜り、高雄山(神護寺)護摩堂の不動明王(木造不動明王坐像)を捧持した寛朝が、平安京を発ち、総国へ下向する。
天慶3年(940年)
1月 - 寛朝が、難波津経由の海路で、上総国の尾垂浜(房総半島の海浜で、現在の千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)に上陸。
推定1月24日〜確定2月14日(推定3月5日〜確定3月25日) - 寛朝が、下総国公津ヶ原にて、乱の続いた21日間に亘って将門調伏祈願の不動護摩供を奉修する。
推定2月下旬 - 乱の平定を見届けた寛朝は帰京しようとするも、不動明王像は磐石のごとく微動だにしなかったという。このことが朱雀天皇に伝えられると、天皇は深く感動し、国司に命じて堂宇を建立させ、本尊を不動明王(木造不動明王坐像)とし、神護新勝寺(じんご しんしょうじ)の寺号を下賜したうえで、ここを東国鎮護の霊場として寛朝に開山させた。これをもって新勝寺の開山と見なされている。
康平6年(1063年、平安時代後期) - 源頼義、当寺の本堂を再建。
応永15年(1408年。室町時代中期) - 当地域にて「成田(成田郷)」という地名の初出。
永禄9年前後(1566年前後。室町時代後期、戦国時代後期) - 現在所在地に近い不動塚界隈(現在の成田市並木町界隈)に当寺が遷座され、成田山新勝寺の名が成立する/成田村一七軒党代表の名主が、本尊(不動明王像)を背負って遷したといい、これより、当地にて伽藍が建立されてゆく。
戦国時代 - 長きに亘る戦世にあって、当寺も荒廃し、寂れる。 
成田山開山縁起 
寛朝大僧正 弘法大師空海みずから開眼した不動明王と共に関東の地へ
平安時代、平将門の乱が起こり 不安と混乱に満ちた世の中
939(天慶2)年関東の武将・平将門が新皇と名乗り朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。乱世の中で人びとは、不安と混乱の中で生活していました。
朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正 不動明王の御尊像と共に関東の地へ
寛朝大僧正は、弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発。大坂から船に乗り、房総半島の尾垂ヶ浜に上陸します。
関東を守る霊場として成田山が開山 「新たに勝つ」新勝寺の寺号を賜る
成田の地にて御護摩祈祷を厳修 結願の日に将門の乱が終息
寛朝大僧正は、成田の地に御尊像を奉安し、御護摩を焚いて乱の21日間戦乱が鎮まるようにと祈願します。祈願最後の日、平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れます。
不動明王のお告げにより、成田の地に留まり人びとを救うため、成田山新勝寺が開山
寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げます。ここに成田山新勝寺が開山されたのです。
民衆の絶大な信仰を集める
源頼朝、水戸光圀、二宮尊徳、そして市川團十郎といった多くの著名人が成田山を信仰
歌舞伎役者の市川團十郎丈が成田不動に帰依し成田屋の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったこともあいまって、成田不動は庶民の信仰を集めました。
今の時代に続く「成田山のお不動さま」への信仰
現代においても、十二代目市川團十郎丈や市川海老蔵丈が成田山の不動明王に深く帰依し、昔と変わらず成田屋の屋号を名乗って、伝統芸能である歌舞伎の技を守り続けています。
寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)
寛朝大僧正は、宇多天皇の孫にあたります。916(延喜16)年に敦実親王の第二子として生まれ、11歳の時に出家されました。仁和寺・東大寺・西寺の別当、東寺の長者を歴任され、986(寛和2)年に行基菩薩・慈恵大師良源上人に次いで日本で3人目の、真言宗では初の大僧正になられました。また、寛朝大僧正は声明の第一人者でもありました。声明とは仏典に節をつけて唱え、儀式に用いられる伝統音楽です。
平安時代
810 弘仁元年 弘法大師、嵯峨天皇の勅願により御本尊不動明王を敬刻開眼
939 天慶二年 寛朝大僧正、朱雀天皇より平将門の乱平定の平和祈願の密勅、「天国の宝剣」を賜り高雄山護摩堂の不動明王を捧持して下総に下る
940 天慶三年 成田山開山 寛朝大僧正、平将門の乱(天慶の乱)平定の平和祈願のため成田公津ヶ原にて護摩供を奉修 乱平定後、朱雀天皇より神護新勝寺の寺号を賜り勅願所となる
1063 康平六年 源頼義、本堂を再建
1114 天養元年 この頃、文覚上人、那智の滝にて御本尊不動明王の奇瑞を受ける
1180 治承四年 源頼朝、平家追討を当山に祈願
1188 文治四年 千葉常胤、本堂を再建
天国(あまくに)の宝剣
「天国の宝剣」は、歴代の天皇が常に玉座の側に奉安したといわれる霊剣で、寛朝大僧正(成田山の開祖)が朱雀天皇より授与されて以来、成田山で永く護持されて参りました。「天国」の名は刀工・大原左衛門尉藤原天国(おおはらさえもんのじょうふじわらのあまくに)に由来します。当堂ではそのご分霊を賜り、ご信徒皆様の除災招福を祈念する特別加持をいたしております。
弘法大師空海とのご縁
弘法大師空海は、宝亀5(774)年現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。留学僧として唐(現在の中国)に入国し、青龍寺の恵果和尚より真言密教の教えを授かりました。帰国された後、真言宗を開かれ高野山の開創や東寺での教宣活動のほか、日本初となる庶民のための学校「綜芸院種智院」を創設し、社会活動を積極的に行いました。
成田山の御本尊である不動明王は、真言宗の祖である弘法大師空海が自ら祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。成田山では弘法大師が中国より伝来された真言密教の教えにより、千年以上、御護摩祈祷を続けています。 
祥鳳院(しょうほういん)    成田市土室
山門前の石碑には、「奉 讀誦大乗妙典一千部」と刻まれています。その下に「蘭香自秀庵主」「智照妙○○尼」と記され、最下部には寄進者であろうと思われる「小倉氏」と記されています。
横には「不許葷酒入山門」と刻まれています。これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は入山することを許さないという意味です。同じ曹洞宗のお寺で、成田山の東参道にある永興寺にも同じ文字の石碑がありました。
祥鳳院の山号は竹縣山、曹洞宗のお寺で、ご本尊は薬師如来です。
「寺伝によれば、寛平年間(889〜897)に平良将が密岩を開山として創建した真言宗寺院であったが、1498(明応7)年に助崎城主大須賀信濃守が堂宇を再建し、明堂盛哲を招いて曹洞宗に改宗したとされる。」 
平良将(たいらのよしまさ)は平安時代の武将。桓武平氏の基礎を作った人物で、平将門の父です。江戸時代には幕府から朱印地十石を賜った格式の高いお寺なので、山門の葵の紋の理由はここにあるのでしょう。
八幡神社   成田市芦田
「八幡神社」は天暦八年(954年)の勧請と伝えられています。ご祭神は「誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇」です。
「奉納御寶前」と彫られた手水盤は、天明八年(1788年)と記されています。
シンプルな神明鳥居の脇に「郷社 八幡神社」と記された石柱が立っています。「郷社」とは、それまでの延喜式に代わるものとして明治になってから新たに制定された、近代社格制度による社格の一つで、無格社、村社より上の格を持つ、成田市内でも数少ない神社です。新制度では、官国幣社218社、府社・県社・藩社1148社、郷社3633社、村社44934社、その下に無格社約65万社が並ぶ形になっています。
「甲子需講中」と刻まれたこの石碑は、嘉永六年(1853年)のものです。「甲子講」とは、干支で甲子(きのえね)は60日に一度回ってきますが、この日に人々が集まって大黒様に五穀豊穣を願うものです。庚申塔はどこにでも見られるものですが、甲子塔はあまり見かけません。
「成田の地名と歴史」(平成23年成田市発行)には次のような記述があります。「建仁年間(1201〜04)に千葉一族の和泉城主の大須賀加賀守が武運長久を祈願し、その霊験があったことから社殿を建立したという。」 建立したとされる天暦年間から250年近く経っていますので、これは再建ということでしょう。
大きな美しい屋根が特徴の流れ造りの本殿は、宝永六年(1709年)に再建されました。
「成田市史・近代編史料集一」の芦田村町村誌料の項に、「八幡神社」はこう記載されています。
八幡神社
所在  字臺     坪數  貮百七拾三坪
祭神  應神天皇  
社格  明治五年八幡神社ト稱シ郷社ニ列セラル。
創建年月日  不詳
氏子  芦田村外十貮ヶ村郷社
末社  一座 三峯神社并遥拝所
雑項  本社ハ南向六尺四面、創建不詳。拝殿ハ破損ニ付明治元年中四間ニ三間建立玉垣等アリ。千葉縣大書記官岩佐為春書額面其他額面多数之アリ。境内古松数十本アリ。祭禮ハ陰暦正月十五日、八月十五日、競馬其多参詣人群集セリ。其他御札守等ヲ授ク。
これにより、拝殿は明治元年に再建されたことが分かります。
上記の記述にある競馬とは、祭礼の時に行われたもので、「成田の歴史散歩」に「神社の前の道はまっすぐで、「八幡様の馬場」と称していた。もとは一月十五日の大祭になるとこの馬場で草競馬が行なわれ、多数の見物人で賑わったというが、東和泉城時代の軍馬訓練の名残の可能性もある。」と書かれています。
本殿の右側、林の中に数基の庚申塔(こうしんとう)が見えます。
風雪に晒されて、お顔がはっきりしない青面金剛像が多い中、この金剛様のお顔の憤怒の表情ははっきり分かります。天保二年(1831年)と記されています。こちらは文政二年(1819年)のもので、「青面金剛王」と刻まれています。こちらの金剛様は、六臂の内の二臂が胸の前で合掌しています。
庚申は「かのえさる」の日で、前述した甲子と同じく60日に一度巡ってきます。人間の頭と腹と足には上尸・中尸・下尸という三尸(さんし)の虫が棲んでいて、日頃からその人の悪事を監視しており、庚申の日に眠った人の体内から抜け出し、天に昇って天帝に報告すると信じられてきました。このことから、庚申の夜には三尸虫が天に昇れないように、近隣の人たちが集まって酒盛りなどをして夜明かしすることを庚申待ちと言います。庚申待ちを3年間・18回続けたことを祈念して建立されるのが庚申塔(塚)です。
庚申の本尊は仏教では「青面金剛」または「帝釈天」であり、神道では「猿田彦神」となります。ここは神社の境内ですが、神社の境内に仏教の石仏や板碑があったり、お寺の境内に小さな神社が同居していたりすることは良くあることで、神仏習合が日本人のおおらかな宗教観に根差すものである以上、明治政府による神仏分離令が出されて以降も、何かにつけて神様・仏様とすがる心は変わることがありません。
昌福寺(しょうふくじ)   成田市西大須賀
昌福寺は、永正11年(1514年)に太蓮社良翁上人が開山といわれる浄土宗の寺院です。火災により書物などが焼失しているため由緒については不明です。元文5年(1740年)に十間四面総欅造りで天井に極彩色の百花の絵、内陣欄間に龍などの彫刻を施した現本堂が再建されました。その後、山門、鐘楼堂、僧坊等の伽籃が整備されましたが現在は本堂のみ残っています。また、しもふさ七福神の一神の寿老人が祀られています。   
東勝寺・宗吾霊堂   成田市宗吾
正式名称は鳴鐘山東勝寺。桓武天皇の命を受けて坂上田村麻呂が開基したという伝承が残る古刹である。しかし今では義民・佐倉惣五郎の祀る場所として知られている。
佐倉惣五郎は、嘉永4年(1851年)に上演された歌舞伎『東山桜荘子』によって全国的な知名度を持つに至り、明治なると『佐倉義民伝』と銘打って役名を実名で上演。福沢諭吉などの賞賛を受け、自由民権運動の高まりにも影響があったともされる。江戸時代に起こった数々の農民蜂起によって誕生した“義民”の中の代表格と言っても過言ではない。
佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎。印旛郡公津村の名主であった。当時の公津村は佐倉藩に属していたが、度重なる凶作のために周辺の村は衰退、多くの村人は年貢が払えず逃散する者、果ては餓死する者すらあった。しかし藩は追い打ちを掛けるように様々な税を課して生活を圧迫する。そこで惣五郎らの名主は藩に訴え出るが、にべもなく却下。そこで江戸に上って、老中・久世大和守に訴状を出す。一旦は受理されたものの、他藩への干渉を理由に訴えは退けられた。
かくなる上は将軍への直訴しかないと考えた惣五郎は単身、寛永寺に赴く将軍・徳川家綱に籠訴し、無事に受理される。承応元年(1652年)のことである。窮状を慮った家綱は、佐倉藩藩主である堀田正信に命じて税の免除をおこなわせたのであった。
将軍から失政を咎められたに等しい正信は、翌年、年貢の免除を命ずると共に、惣五郎への処分もおこなった。妻は惣五郎と共に磔、女児を含む4人の子供は全員打ち首というものであった。しかも惣五郎と妻は、目の前で4人の子供が斬首されるのを見届けさせてから磔されたのである。直訴に及ぶ直前に妻を離縁し、子を勘当した惣五郎にとっては無念としか言いようのない処罰であった。
それから間もなくの万治3年(1660年)、堀田正信は突如、幕政批判の書をしたため、江戸から無断で佐倉へ帰るという前代未聞の不祥事を起こしてしまう。その真意は今なお不明であるが、協議の結果、正信は“狂気の作法”として所領没収の上に、実弟に預けられる。そして無断で配所を抜け出して京都へ赴くなどの奇行をおこなった後、延宝8年(1680年)に将軍・家綱死去の報に接し、鋏で喉を突いて自害してしまう。この一連の騒動を人々は「惣五郎の祟り」であると噂したのである。(芝居では、夜な夜な正信の寝所に、磔されたままの姿の惣五郎の怨霊が現れるという場面が設定されている)
堀田家が去って後の佐倉藩は、頻繁に領地替えがおこなわれた。そして延享3年(1746年)、佐倉藩に入封してきたのが堀田正亮であった。正信の実弟の家系ではあるが、堀田家が再び佐倉藩を所領としたのである。
正亮は、惣五郎の百回忌にあたる宝暦2年(1752年)に「宗吾道閑居士」の法号を贈ることで、祖先の非を認め、その遺徳を公にしたのである。その後も、各時代の藩主が石塔を寄進したり、惣五郎の子孫とされる家に供養田を与えるなどの措置をおこなっている。そのためなのか、それまで頻繁に領主の代わった佐倉藩であったが、幕末まで堀田家が代々藩主を勤め上げることとなったのである。
惣五郎については、一揆を蜂起したり、将軍へ訴状を提出したりという行為に関する史料が全く残されておらず、その存在自体が創作ではないかの疑いを持たれた時期があった、しかし戦後になって、児玉幸多による研究で実在がようやく確認されている。現在霊堂のある境内には、惣五郎の御廟がある。この墓のある場所で処刑がおこなわれたとされ、多くの者が参詣に訪れている。
佐倉惣五郎とは、公津村の名主・木内惣五郎の事績に重ね合わせて生み出された、時代の英雄と言うべきなのかもしれない。
堀田正亮
1712-1761。堀田正信の弟の正俊(春日局の養子、大老、後に江戸城内にて刺殺される)の家系。佐倉入封直後に口ノ明神を将門山に建立し、佐倉惣五郎を祀っている。 
■野田市
白山神社   野田市木間ヶ瀬
白山神社は、慶雲2年(705年)の創立です。祭神は、伊邪那美命と伊邪那岐命を祀っています。境内の神社は御嶽神社・大杉神社が祀られています。広い境内の拝殿には大きな絵馬が奉納されています。平将門の御手植の七本桜といわれる桜の木があり、時期には美しい花を咲かせます。
駒形神社    野田市木間ケ瀬
駒形神社は、平将門の馬を祀(まつ)った神社といわれます。また野田 市内には、この他にも将門の伝説が多く残っています。10世紀に起こった平将門の乱と、 その頃の野田市周辺の様子を探ってみましょう。 桓武天皇の子孫で、平姓を名乗った桓武平氏は、関東地方の国司(こくし)や鎮守府(ちん じゅふ)将軍となり、任期を終えた後も関東地方に留まり、勢力を張りました。その一族の 中に生まれた将門は、京都にのぼって藤原忠平(ただひら)に仕えたこともありました。し かし、承平 5 年(935)に土地をめぐる争いから、常陸国筑波郡(ひたちのくにつくばぐん)(茨 城県つくば市)にいた伯父の国香(くにか)を滅ぼし、さらにおじの良正(よしまさ)・良兼(よ しかね)、従兄弟の貞盛(さだもり)らと合戦を交えました。 将門は、武蔵国(むさしのくに)の国司と足立郡司(あだちぐんじ)の争いを仲裁するなどの活 動もしました。しかし、常陸国府に税を納めなかった藤原玄明(はるあき)をかくまったこ とが原因で、天慶 2 年(939)に常陸国府、さらに下野(しもつけ)・上野(こうずけ)(栃木 県・群馬県)の国府(こくふ)を襲撃する事態になりました。その後、将門は「新皇」を名 乗って坂東諸国の国司を任命し、下総国猿島郡石井郷(さしまぐんいわいごう)(茨城県坂東 市ばんどうし)を都と定め、国家からの独立を宣言しました。こうした将門の行動は、反 乱とみなされ、翌年に平貞盛・藤原秀郷(ひでさと)らによって鎮圧されるという結末を迎 えました。 将門は都を定めると同時に、下総国相馬郡大井津(そうまぐんおおいのつ)を重要な船着場 として指定しています。大井津が現在のどこに当たるかは諸説ありますが、野田市域の利 根川沿岸と考えた学者もいました。馬を飼育した牧については、『延喜式(えんぎしき)』 から長洲牧(ながすのまき)の存在が知られています。長洲牧は現在の坂東市長須に当たり、 野田市の対岸に位置しています。利根川は江戸時代の初めまでは東京湾に注いでいて、現 在の利根川の場所には、ゆるやかな流れの河川があったといい、対岸に渡るのも容易であ ったようです。
伝説と史実とは切り離して考えな ければなりません。しかし、野田市 域に多くの将門伝説が残っているの は、その拠点の近くに位置していた ことによるのです
将門伝説の場所(主要なもの)と伝説の内容
駒形神社(木間ケ瀬) / 将門の馬を祀る。
白山神社(木間ケ瀬) / 将門が植えた桜があった。
武者土(木間ケ瀬) / 合戦中に武者人形を作った。
木幡神社(木野崎) / 将門を祀る小祠があった。
長久寺(瀬戸) / 将門が寄進した毘沙門天が ある。
八坂神社(瀬戸) / 将門が崇敬。旧称は山王権 現社。  
■船橋市
伝説平将門の松   船橋市中央卸売市場
広い船橋市中央卸売市場の敷地内に何やら石碑らしきものを遠目に見つけたのですたこらと近寄ってみた。
新発見であるが「鎮魂碑」と「伝説平将門の松」を見つけた。鎮魂碑の由来を読むとこの敷地は戦時中の工場跡地だったのだ。道理で広いはずだ。
この市場は戦時中、電気溶鉱工場だったらしくその時爆発事故がありそれが鎮魂碑となって残っている。また、その隣に「伝説平将門の松」と言われる松があった。はじめはただの普通の木としか見えなかったが近づいて由来を読むと何と「伝説平将門の松」だと言う。
まさかこんなものが船橋市中央卸売市場の構内にあったとは知らなかった。ある意味で閉ざされた卸売市場内にこのような記念碑等があっても大半の一般市民は知ることがないだろう。この船橋市中央卸売市場が昔軍需工場の跡地とは今ではほとんど語られることがない。「伝説平将門の松」と「鎮魂碑」は東ゲートを入った近くにある。
桔梗ノ前   船橋市海神
昔、平将門に桔梗ノ前という美しい愛妾がいた。将門公は朝廷を凌ぐ勢力を持ったが、俵藤太秀郷や平貞盛に敗れ、滅亡することとなった。最後の激戦の最中、将門公は矢傷を受け、桔梗に落ち延びるようにいった。桔梗は別れを惜しみながら、守本尊の正観音像を負い、船橋にやって来た。
数日後、将門の死が伝えられ、桔梗は気が狂わんばかりに悲しんだが、天沼の近くに庵室を建て、将門の弔いに明け暮れる日々を送った。しかし、深い哀愁の思いの去来する中、ついに桔梗は、御前様の前に参りたい、と何かを決心した。
二三日後、正観音像を抱いた桔梗が漁師町に姿を現した。船を雇うと、船橋浦の遠ヶ澪(おちがみお)まで来、そこでざんぶと海に身を投げ、果ててしまった。それから、この遠ヶ澪には、見たこともない大きな鮫が棲むようになった。漁師たちは桔梗ノ前の化身に違いないと信じ、網を入れることを戒めた。

桔梗が鮫となって棲んだのは、より詳しくは遠ヶ澪の「洲蓋(せぶた)」というところだそうで、一名「釜が淵」ともある(この辺「釜」とか「蓋」などが実に多い)。人々を襲ったともあるから、哀愁漂うだけの話だけでなく、この海のヌシの話でもあるだろう。
桔梗はまた俵藤太秀郷と瀬田の竜女との間に生まれた娘だという伝説があったり、父と知らずに秀郷に恋して将門の弱点を漏らしたりという伝説があったりもする(この船橋の伝説にはその筋はないようだが、ただし、天沼は秀郷開基伝の寺があった)。
その最期もいろいろで、福島県伊達郡には将門亡き後、秀郷を慕うあまり大蛇と化した桔梗の棲む半田沼もある。取手市にはその塚上から桔梗が身を投げたという大日塚もある。大日塚からは川に落ちているので、水に入るという点は同じようだ。
そして船橋では鮫になったというのだが、これは大蛇になった、という伝説と同列にあるものと見てよいだろう。桔梗が庵を結んだ天沼(あまぬま)の弁天池と北本町の公論坊池(今は公園)の間を大蛇が行き来していたという伝説もあって、いずれ大蛇の棲み家が舞台の話でもある。将門その人にも「蛇の子」の伝があり、俵藤太は言うに及ばずであれば、ヒロインもやはり竜女の性を持たねばならない。  
■茂原市
八幡神社   茂原市上永吉
この神社は、茂原市の南3km程の辺り、国の天然記念物鶴枝ヒメハルゼミ生息地の隣に鎮座しております。と言うより元々は生息地が社地であったのでしょう。
八幡神社は天慶年間(938〜946)平貞盛が勧請したと伝えられています。
■山武市
成東八幡神社(なるとう)   山武市成東
御祭神 誉田別尊・気長足姫命・比淘蜷_
葛原親王が勧請。人里離れた山の中に鎮座していました。此の辺りでは一番の神社らしく、想像以上に広い境内でした。
平将門提記念碑。延長六戊子年(928)平将門此の地に堤を築く、是れを将門堤と言う。道を将門提と呼んでいるそうです。  
■印旛郡
本佐倉城(もとさくらじょう)   印旛郡酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉
将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地。文明年間(1469年-1486年)の築城で、国の史跡に指定されている。2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(121番)に選定された。
室町時代後期に千葉宗家を倒して家督を奪った馬加氏(まくわりし)は、将軍足利義政の命により千葉実胤と自胤を支援した東常縁に討たれ滅亡した。また太田道灌も実胤・自胤を支援し江戸城を築城するなどした。だが、馬加康胤の子(異説あり)・千葉輔胤は、古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したことで宗家の地位を確保し、文明年間に従来の亥鼻城よりも内陸のこの地に城を築いて本拠地を移した(なお、文明11年(1479年)に太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに追い詰められた輔胤の籠城先が臼井城であったことから、この時点ではまだ本佐倉城は完成していなかったと推定されている)。
その後、9代にわたって戦国大名千葉氏宗家の本拠地となったが、天正18年(1590年)、千葉氏が小田原征伐後に改易されると、徳川氏に接収されて一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置された。 慶長7年(1602年)12月に5万石で松平忠輝が封じられるが、ひと月余後の慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島に移封された。 慶長15年(1610年)、軍事上の必要から同地に封じられた小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれた。
元和元年(1615年)、藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となった。なお、本佐倉の城下町は酒々井宿に移設されて成田街道の宿場町になったと考えられている。
■東庄町
大友城(おおともじょう)   東庄町大友
「香取郡誌」によれば、千葉氏の祖である平良文の居城と伝えられ、940年5月に相模の村岡からこの地に来て築城した。その後、良文は近隣の香取市阿玉台にある平良文館に移り、大友城には平常持、常将、常長、常兼の4代が居城したとされる。
平常兼は、のちに千葉市緑区の大椎城に移ったと伝わるが、明らかではない。
「今昔物語集」には、平忠常の乱で源頼信が忠常を攻めたとき、鹿島神宮から南下して利根川の北岸に至ったところで、「忠常が栖(すみか)は内海に入りたるところに有る也」と記述されている。
この内海を、笹川〜下総橘間の水田地帯ととらえ、忠常の居館もその奥に位置する大友にあったと言われることがある。
青馬城   東庄町青馬字八幡
青馬城は、青馬堰の南、四塚と呼ばれる原野の北側にそびえる比高20mほどの台地上にある。台地上は山林と化しているが土塁などが残っているという。「千葉家臣記」によると、青馬主計の居館であるという。また、地元では青馬弾正の居館であるとも言う。青馬弾正はかつて青葉弾正と言い、青葉城の城主であったが、彼の横笛に誘われてきた竜を退治したことにより、平将門に誉められ、青馬を褒美にもらったので、以降、青馬弾正と称するようになったと言う伝説が地元に残っているが、もちろん史実としては怪しい。
■山武郡
熊野神社   山武郡横芝光町横芝光町宮川
熊野神社は、国道126号線より南の宮内地区の農村地帯にあります。貞観18年(876年)に紀伊熊野本宮より勧請したものと伝えられています。祭神は、伊弉册命・速玉命・事解男命が祀られています。子育て、家内安全の神様として知られています。平将門の乱鎮定を記念して神領十貫目を授かり、十八ヶ村の惣鎮守として厚い信仰を受けています。3月に行われる例祭には江戸時代後期から伝えられている代々神楽が行われます。太鼓、笛の音色に合わせ[天狗]から[七五三縄切]まで12の舞と農作業の安全と五穀豊穣を願い奉納されます。
無量寺(むりょうじ)   山武郡横芝光町屋形
龍寶山正光院無量寺 真言宗智山派 
昌泰元年(898年)に上総介に任じられた高望王が、上総国武射郡に政務所を置き、延喜2年(902年)5月に国家安穏祈願のために建立した来照院が無量寺の前身である。寿永2年(1183年)には源頼朝が阿弥陀堂を造営して来照院月輪寺と号し、また今井四郎兼氏の作になる大日如来を鎌倉より移し如来堂を建立し別当覚院と号したと言われている。
しかし、天正14年(1586年)5月に北条氏の家臣坂田城主井田胤徳が里見氏の侵攻を撃退した栗山川合戦と、天正18年(1590年)3月に豊臣秀吉の小田原征伐に伴う蓮沼合戦の、両戦の兵火に罹り近くに在った四社神社とともに灰尽に帰し、その後元和2年(1616年)8月12日、現在の場所に移して正光院無量寺として開基したものである。
山門近くにひっそりと建つ6体の地蔵尊「無量寺六地蔵」は、元禄11年(1698年)近隣の網主が寄進したもので、古くから女人の信仰を集めたと伝えられている。
四社神社(ししゃじんじゃ)   山武郡横芝光町屋形(上総国武射郡)
旧社格は郷社
建速須佐之男命・別雷命・天児屋根命と菅原道真公を祀る。
寛平元年(889年)臣籍降下した高望王が、昌泰元年(898年)9月上総介に任じられ上総国武射郡に屋形を造営して赴任し、延喜元年9月29日(901年11月12日)にはその屋形の鬼門に当たる所に当社を建立、また延喜2年(902年)5月には寺院を建立したといわれている。天慶2年(939年)承平天慶の乱に際して朝廷軍が戦勝を祈願したときから「四社大明神」と称されていた。
天正14年(1586年)5月には北条氏の臣で坂田城主の井田胤徳が里見勢の侵攻を退けた栗山川合戦、天正18年(1590年)3月には豊臣秀吉の小田原征伐に伴う蓮沼合戦があり、両戦の兵火に罹って、近くにあった無量寺とともに灰尽に帰した。
現存する本殿は、元禄元年(1688年)11月に造営され、宝暦3年(1753年)に改修されたものであるが、村方の他九十九里浦中や江戸の干鰯問屋あるいは造船家にまで寄付を求め、造営と改修の費用を捻出したといわれている。
享保4年(1719年)神祇官卜部兼敬の奉幣があり、もと正一位四社大明神と称したが、明治2年(1869年)に「四社神社」と改号、明治6年(1873年)郷社に列した。
成田山不動尊の上陸記念碑   山武郡横芝光町尾垂浜
成田山不動尊の上陸記念碑は、昭和35年(1960年)に寛朝僧正の聖蹟を顕彰するために碑が建てられました。平将門の乱を調伏するために、寛朝僧正が不動明王像を京の都から船で運び、尾垂ヶ浜に上陸しました。乱は天慶3年(940年)に収まりました。不動明王は成田山新勝寺の本尊となっています。上陸を記念する法要が5月27日営まれます。また、寛朝僧正御遠忌(1000年)、成田山開山(1060年)を記念して波切不動尊像が平成10年(1998年)4月に建立されました。
坂田城   山武郡横芝光町坂田付近
14世紀中頃千葉氏によって築城されたと伝えられている。
なお、平良兼と関連があるとするむきもあるが、良兼の時代の居館は屋形であり、関連性は薄いといえよう。
南東側に九十九里平野から太平洋を望み、北東側は栗山川を挟んで下総国と境を接し、九十九里浜中央から酒々井を経て下総国府へ至る道と、牛久を経て常陸国府へ至る道の分岐点にあり、築城当時付近は要衝の地であったと推定される。
「総州山室譜伝記」によると、坂田城はこの地方の領主だった三谷氏の居城であったが一族で争っていたため山室氏の客将であった井田氏に付け入られることとなり、弘治元年(1555年)閏10月18日、井田友胤に急襲されて三谷氏は滅亡、井田氏に乗っ取られたといわれる。
弘治2年(1556年)に井田友胤の子井田胤徳が修復し里見氏に属した安房正木氏の永禄年間における東下総侵攻を防戦した。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐の際は、城主井田胤徳は小田原城にあって、坂田城にはわずかの留守部隊しかおらず無血開城、廃城となった。
支城に、長倉城、小堤城、浜手城を持ち、小堤城では康正元年(1455年)9月7日に原胤房に追われた千葉胤賢が自刃して果て、千葉氏宗家が滅亡したとされている。
■姉ア市
國史物語   姉ア市
はしがき
一 本書本來の目的は「郷土史物語」として編纂したのですが、又一面には「國史學習帳」としても、使用し得るやう、考慮したつもりです。故に、單に「郷土史物語り」として御讀み下さるも結構、下欄の國史題目並に、要項と連絡をとりつ、「國史學習帳」として、餘白を御利用下さいますならば、猶更結構だと存じます。
二 次に御承知の如く郷土史は單に國史科のみでなく、修身科、國語科などともかなり関係が深ふ御座いますので、其の辺まで、留意して、御利用下さいますならば編纂者たる姉ア校國史研究部は望外の光栄と存じます。昭和七年十二月  日   姉ア尋常高等小學校國史科研究部

平安時代・・・平將門
建市神社   市西村
祭神は武甕槌の命です。市西村大字武士の高峻なる土地に鎮坐ましますので、その昔はよく舟行の目標となつたと傳へられてゐます。今の社殿は餘り大きくはありませんが、昔時の社殿は、かなり結構莊麗、規模宏大であつたと言ふことが附近から出る布目瓦などで推察されます。
奈良大佛   市東村
奈良の大佛と言つても聖武天皇の御鋳造になられた奈良京の大佛のことでは毛頭ないのです。市東村奈良區にある平將門が造られたと言はれてゐる野立の大佛のことです。比の大佛様は高い石の台の上に直立してゐらしやる丈六の佛様です。ほんとうに平親王の造立されたものであるかどうかは未だ疑問とされてゐますが、鑑定によりますと、其の佛背に刻してある
承平元辛卯年奉建立
の文字通り朱雀天皇の御代頃に出來したものらしいさうです。
桔梗前墳墓   市東村
市東村の永吉區に桔梗前墳墓と稱する古塚があります。
桔梗の前とは將門の愛妾の名まへです。
それは或る時の戦でした。何時も強い將門も其の日の戰は非常に激しかつたと見へ將門戦死の報が桔梗の前に注進されました。貞節な桔梗の前は比の注進に接しますと、敵に捕へられて縄目の恥辱を見んよりはと、夫將門に殉じ自刃して果てたのです。
時は初秋の郊桔梗の花があたり一面紫色の美くしくも、やさしい姿を見せてゐました。今や正に自刃せんとする桔梗の前は美くしい口唇を開いて申しました。
「野に咲ける花よ、汝と我とは同じ桔梗ぞ、然るに我は今此所にて果てむとす。汝等は誰が為に花をば開く、希くは我が後生を弔はむ為、秋來る共花をば開かせな。」
と事實附近の桔梗は花を開かないのです。里人は笑はぬ桔梗と申してゐます。 目次へ
平親王山   菊間村
菊間區の北端平親王山と稱する小丘の藪林中に平親王將門の墓と稱するものがあり古碑が建つてゐます。碑文は風雨のために摩滅して讀み得ぬ程ですから、ほんとうに將門の碑でないとしてもかなり古いものだと言ふことがわかります。これについて土地の古老は次のやうに言つてゐます。
昔、平親王、菊間に居城をつくり、北野と稱し(今の北の區)東の方市原村奈良を奈良京に擬し、又平親王山の麓の坂を塔の坂と呼ばせたりして威を張つてゐた。
と當時の
京都   = 奈良京
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菊間北野 = 市原村奈良
斯ふ比較して見る時、何とはなしに興味湧然たるものがあつて、ありし昔の事柄を調査して見たいやうな氣分にそゝられるではありませんか。
平藏城址   平三村
朱雀天皇承平年中紀伊の浪士、土橋平藏平政常なるものが、比の地方へ流浪して來て、今の平三村大字平藏附近の丘陵へ城郭を構へました。
平三の地名も他分比の辺から出てゐるでせう。 
土橋氏は天慶の乱に平將門に興し戰敗れて藏持へと逃げて自刃したと古書に書いてありますから、將門の勢力は比の辺にも及んでゐたのでせう。
菊間古墳群   村田川下流左岸の台地
菊間古墳群は村田川下流左岸の台地上に展開する前方後円墳を中心とした古墳群です。その周辺の村田川下流域から中流域にかけては、北岸の草刈古墳群、南岸の大厩古墳群、潤井戸周辺の古墳群があり、古墳時代の遺跡分布の濃い地域として知られています。
南岸には200基以上にのぼる古墳が知られ、下流域から上流に向けて時期の新しくなる傾向が認められます。北岸ではちはら台遺跡群が大規模に発掘調査されたほか、いくつかの遺跡が調査されており、村田川流域には古墳時代の有力集団が複数存在した可能性が高いと考えられています。
前期(3世紀後半〜4世紀中葉)
近畿地方を中心にして前方後円墳が築かれ始めるのは3世紀後半のことです。菊間古墳群とその周辺にも、国分寺台地区の神門古墳群のような古墳の先駆けが存在したかもしれませんが、当地域で大型の前期古墳として明確なのは菊間新皇塚古墳です。
新皇塚古墳は墳頂中央に埋葬施設のある方墳のような状態で遺存していましたが、調査前に削平を受けた前方後方墳である可能性が強いと見られています。
後方部にあたる方形の墳丘上には細長い粘土槨2基が隣接して築かれており、南北に推定される主軸に対して直行する向きに配置されています。2基とも盗掘等の破壊を免れており、副葬品の伴う割竹形の木棺痕跡が発見されています。 
先に構築されたと見られる南槨には9.8mの木棺痕跡の中に、小型の青銅鏡(珠文鏡)1・鉄製槍先1・大刀1・刀子1・鎌1・ヤリガンナ2・斧1・管玉5・ガラス玉1が検出され、被葬者の頭位を東とすると胸部にあたる位置周辺に赤色顔料が散布されていました。
中期(4世紀後葉〜5世紀代)
古墳時代中期は全国的に前方後円墳が大型化する時期で、各地の最大規模の古墳がこの頃に作られました。
菊間古墳群と周辺では、潤井戸高野前(うるいどこうやんめえ)古墳に中期の大型前方後円墳である可能性があります。姉崎地域に展開する姉崎古墳群中の姉崎二子塚古墳も、中期に属し平野部に立地する全長110mの大型前方後円墳ですので、推定全長90mの高野前古墳に同時期の有力者が葬られていたとしても不思議ではありません。出土品を検討できればより明確に位置づけられるのですが、残念なことに高野前古墳は現存していません。
後期(6世紀)
後期に属する可能性のある古墳は東関山古墳です。現存する東関山古墳の墳丘は周囲から大きく削られて変形・縮小していますが、最近の発掘調査で東関山古墳の本来の墳丘規模を示す痕跡がいくつか確認されました(高橋1995・小川2003・木對2004)。
周辺区域の発掘調査によって明らかになった周溝外周の推定位置を考慮すると、図のような推定全長90mの大型前方後円墳が復元できます。
墓の主
市原市には約1600基の古墳が確認されており、そのうちトップクラスの規模の古墳がこの菊間古墳群周辺と姉崎古墳群に集中していることがわかっています。前方後円墳の時代には、被葬者の事績を記した墓誌を副葬する習慣がなかったため、いくら大規模な古墳であっても測量と発掘調査だけで葬られた人物を特定するのはきわめて困難です。しかし、市内における大古墳の偏った分布状況や現在まで伝わる地名などを合わせて推測すると、菊間古墳群には、関わりがあってしかるべき古代の有力者、「菊麻国造」の名前が浮かび上がります。
ククマのクニノミヤツコ / 文字に記された歴史より昔、いまの市原市にあたる地域には上海上(かみつうなかみ)と菊麻(くくま)のクニがありました。上海上は養老川流域、菊麻を村田川流域に当てるのが定説となっています(この地名と同じ音は8世紀はじめ成立の古事記に記された「玖玖麻毛理比売ククマモリヒメ」という人名にも見らます。ククマがどこかの時点でキクマに変化したのでしょう)。このククマの地には、のちの時代に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる有力者がいました。それは国造本紀(こくぞうほんぎ)という古文献に記された各地の国造の系譜に名前のあることからわかります。菊麻国造は大鹿国直、上海上国造は檜前舎人直(ひのくまとねりのあたい)とされており、国造本紀が編集された7世紀の時点で、各豪族の主張する系譜にある人名が採録されたと考えられています。
(ちなみに、現在千葉県北部にあたる下総(しもうさ)にも海上という地域がありますが、そちらは下海上(しもつうなかみ)と呼ばれました。もともと、総(ふさ)と呼ばれた一つの地域があって、大化の改新(乙巳の変)後に分けられたのが、上総(かみつふさ→かずさ)と下総(しもつふさ→しもうさ)です。同じ総の一地域であるうちは区別するために上つ・下つを海上に付ける必要があったのでしょうが、別の国になったため呼び分ける必要がなくなり、それぞれをたんに海上と呼ぶようになったものと考えられます。また、上・下というのは当時の政治的中心地である畿内から海の道、古東海道沿いに見る遠近をふまえた表現なのでしょう。)
さて、6世紀代に始まったとされる国造制は大化の改新(乙巳の変)によって7世紀半ばに令制の国郡制に切り換えられるまで続きますので、それに伴って菊麻国造は、国造から市原郡の郡領へと変貌することになります。古代市原郡を統括する郡領は国造という首長の変転した姿であり、その国造は前代に地域の権力者がヤマト王権に取り込まれた関係性を体現していたというわけです。つまり、古代をさかのぼった古墳時代には菊間周辺にククマ国造とその祖先たちがいたと想定でき、菊間古墳群は国造に連なる有力者たちの葬られた墓所である可能性が高いと考えられるのです。
まとめ
のちに国造と呼ばれる有力者がこの菊間の地に生み出された背景の一部には、弥生時代以来、水田耕地として利用できる可能性を秘めた地形にめぐまれた影響があったのかもしれません。
6千年前の縄文時代前期、氷河期に深く刻まれた谷に縄文海進の波は押し寄せ、火山灰の積もった軟らかい台地を大きく削りとりました。のちに寒冷化し再び海水面が下がったときに残されていたのは、そびえ立つ海蝕崖と、波食台から海岸へ広がる沖積地と干潟、そして岩石を含まない堆積物で埋まった谷底平野でした。そこに弥生人が農耕を採り入れ、暮らし初めて数百年、統率者から権力者が生まれて代々墓所を営んだのです。
国造・郡領という称号には、地方豪族としての独立的な性格が徐々にそがれ、律令制組織の一部として吸収されていった様子が暗示されています。菊間古墳群は、地域の権力者の出現から中央政権へ埋没する過程の一こまを物語る、重要な遺跡のひとつと言えるでしょう。
印旛沼(いんばぬま)   利根川水系の湖沼
千葉県北部の利根川下流南岸に位置する利根川水系の湖沼である。千葉県立印旛手賀自然公園に属する。
利根川下流右岸、下総台地の中央に位置し、印西市、佐倉市、成田市、八千代市、栄町の4市1町に跨る。もともとは "W" 字型のより大きい沼(面積 25.8平方キロメートル,深さ 1.8メートル,周囲 60キロメートルの規模)であったが、戦後の干拓によって2つの細い水路でつながった北部調節池(北印旛沼)と西部調節池(西印旛沼)に水域が分かれ、面積は半分以下に減少している。しかし、それでも湖沼としては千葉県内最大の面積となる。ちなみに北印旛沼・西印旛沼の両者は、印旛捷水路または中央排水路を介して繋がっている。
沼の南側沿岸には京成本線が走り、佐倉市街地も近い。東側には成田ニュータウンがあり、北西には千葉ニュータウンがある。また、成田スカイアクセスおよび北千葉道路が北印旛沼を横断する。
流域面積は487.18平方キロメートルであり、東京都市圏や成田都市圏に位置するため流域人口は過密で、72.7万人に達する。日本で3番目に流域人口が多く、これは流域面積が広大な琵琶湖(流域面積8240平方キロメートル)や、霞ヶ浦(流域面積2156.7平方キロメートル)に次ぐ。
通常、印旛沼の水は北印旛沼から長門川を下って利根川へ合流する。しかし、印旛沼自身の増水(内水)や利根川洪水(外水)での逆流入が起こるとそれまでの流出方向とは変わり、西印旛沼から印旛放水路(新川・花見川)を伝って東京湾へと排水される。
歴史
印旛沼は、およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が起源で、縄文海進時には地盤沈降により溺れ谷となり香取海(古鬼怒湾)と呼ばれた海の一部であった。奈良時代頃には香取海の海退とともに、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼へ向って流れ込むなどして(三角州の形成が認められる)、次第に出口がせき止められ沼が形成された。
江戸時代に入って、江戸の町を利根川の氾濫による水害から守るため行われた利根川東遷事業によって利根川の下流となり、周辺の村々は水害により大きな被害を受けるようになった。このため沼の水を現在の東京湾へ流すという掘割工事と、あわせて当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって干拓事業(新田開発)が行われた。享保9年(1724年)、平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手したが失敗。次に、天明年間(1781年 - 1789年)老中田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したが天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。
江戸後期には老中水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図され、幕府財政基盤の再建を目標とした改革後半の天保14年(1843年)には勘定奉行の鳥居耀蔵を責任者として沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われた。この工事の背景には水害対策や新田開発や水運航路の開発など経済的な事情のほか、外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、江戸へどのように物資を供給するかという、対外危機への意識の高まりもあった。つまり、那珂湊−利根川−印旛沼−検見川−江戸という新しい水路の建設である。印旛沼の開発は各藩の多大な財政負担により進捗せず、天保の改革も上知令の頓挫による水野の罷免により中止され、印旛沼開発も弘化元年(1844年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。
明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは1960年代末である。
1969年(昭和44年)、水資源公団の開発により、沼中央部に面積 13.9平方キロメートルの中央干拓地が造成され、約26平方キロメートルあった沼の面積は2分の1以下に縮小している。
 

 

 
■東京都

 

■千代田区
   ■神田神社

 

神田神社 1   千代田区外神田
神田神社は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町、将門塚の地)に創建されました。延慶2年(1309)には平将門公が合祀され、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬されました。明治時代には東京・皇城の守護神として准勅祭社・東京府社に定められ、現在では東京十社の一つに定められています。また、神田神社が執り行う神田祭は、日本三大祭・江戸三大祭りのひとつに数えられ、2年に1度行われます。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内の氏子108ヶ町を巡幸し、神輿200基が練り歩きます。
社号   神田神社
祭神   大己貴命(一の宮)、少彦名命(二の宮)、平将門命(三の宮)
摂社   江戸神社(江戸最古の神社)、小舟町八雲神社、大伝馬町八雲神社
末社   魚河岸水神社、末広稲荷神社、浦安稲荷神社、金刀比羅・三宿稲荷神社、籠祖神社
由緒
神田神社は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町、将門塚の地)に創建されました。延慶2年(1309)には平将門公が合祀され、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬されました。明治時代には東京・皇城の守護神として准勅祭社・東京府社に定められています。また、神田神社が執り行う神田祭は、日本三大祭・江戸三大祭りのひとつに数えられ、2年に1度行われます。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内の氏子108ヶ町を巡幸し、神輿200基が練り歩きます。
境内掲示による神田神社の由緒
社伝によると天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町)に創建されました。延慶2年(1309)、東国の英雄で庶民たちに仰がれた平将門公が合祀され、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年の関が原の戦いで、当社では徳川家康公の戦勝祈願をし御守りを授与したところ見事に勝利を得ました。これ以降、家康公の合戦勝利に因み縁起の御守り「勝守(かちまもり)」を授与するようになり、現在でも多くの参拝者に授与しております。江戸幕府が開かれると幕府の深く崇敬するところとなり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座し幕府により社殿が造営されました。江戸時代を通じて江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬されました。
明治時代に入り東京・皇城の守護神として准勅祭社・東京府社に定められ、明治7年(1874)に明治天皇が親しく御参拝になりました。大正時代、関東大震災による社殿焼失後、昭和9年に氏子崇敬者の浄財により、画期的な権現造の鉄骨鉄筋コンクリート・総漆塗の社殿が造営されました。
昭和20年、東京大空襲が神田・日本橋界隈を直撃しましたが、社殿はわずかな損傷のみで戦災を耐えぬき戦災で苦しむ人々に勇気と希望を与えました。
戦後随神門などの建造物が再建され江戸時代にも劣らぬ江戸東京を代表する神社としての景観を整えるにいたりました。さらに平成7年より「平成の御造替事業」として社殿等の塗替・修復及び資料館の造営等が大規模に行われ、平成17年には境内の整備事業が実施され、鳳凰殿や祖霊社などが新たに造営されました。(神田神社境内由緒より)
東京都神社名鑑による神田神社の由緒
天平二年(七三〇)に武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町平将門首塚より皇居の辺)に出雲氏族真神田臣により創建されたという。当初御祭神は出雲氏族の祖神大己貴命一座であったがその後、延慶二年(一三〇九)に至り、時宗二世真数上人が当地に遊行のおり、隣地の日輪寺に滞在し、平将門公の怨霊が人びとを悩ませているのを知り、柏殿に将門公を祀り、難を鎮めたという。明治七年には神縁により、大洗磯前神社より少彦名命を合祀した。この時より平将門命は摂社の神とされた。徳川家康公入城による江戸城内外拡張により、慶長八年(一六〇三)に駿河台に仮遷座し、元和二年(一六一六)に江戸城東北鎮護の神とするにふさわしい現在地に遷座した。かくて江戸城東方の市街地一帯は、当神社の氏子とされ、江戸総鎮守として仰がれるに至った。徳川幕府は将軍代々当社を江戸の地主神として崇敬し、御社殿も幕府直轄で造営、修復が繰り返され、寛文十一年(一六六二)霊元天皇から「神田大明神」の宸筆勅額が下賜された。特に幕府は神田祭を重視し、神輿を警護し江戸城内繰込みをも許された。世間ではこの祭を天下祭、御用祭として称讃した。氏子の町民は神輿、山車を連ねて供奉し、歌舞の附祭を奉仕した。その行装と音曲の賑々しさは神田っ子の意気地を示すにふさわしいものであった。現在もこの祭は氏子一〇八ヵ町の人びとにささえられ、東京の代表的な祭とされている。(東京都神社名鑑より)
摂社、三天王 二の宮 大伝馬町八雲神社の由緒
御祭神 建速須佐之男命
この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。6月5日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して8日に遷輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(1615)頃より行われて、江戸時代には他の天王様と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町1丁目・本町3町名東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。
摂社、三天王 三の宮 小舟町八雲神社の由緒
御祭神:建速須佐之男命
この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町(貞享年間(1684〜)までは小伝馬町お仮屋を有し、神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。 明治以前は公令により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋橋上に神輿を奉安し、祈祷が行われた。
東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られ、その左右に随神が置かれ長さ5丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。
神輿は6月10日に明神境内を発輿して氏子180ヶ町を巡り遷輿するのは13日か14日その間の里程は13里に及んだといわれる。このことから13里天王ともいわれた。
近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。
末社魚河岸水神社の由緒
御祭神:弥都波能売命
日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊島郡芝崎村神田神社境内に鎮座された。 元和年間(1615-)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治24年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には当社の魚河岸水神社遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。 当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し、徳川将軍歴代の上覧に浴し、再三褒章を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。
その後、昭和30年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久2年(1862)当寺そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田祭には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。
末社浦安稲荷神社の由緒
御祭神:宇迦之御魂神
この神社は、往古江戸川平川の河口に近き一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573-)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し、鎌倉町の成立と共にその守護神として勧請されました。寛政9年(1797)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵により、社殿が造営され、爾来、浦安稲荷神社として伝えられています。
その後天保14年(1843)8月、町割改めに際し神田明神社御境内に遷座、さらに明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷5社を合祀し今日に至っている。
末社三宿稲荷神社の由緒
御祭神:宇迦之御魂神
創建の年は不詳。江戸時代より神田三河町2丁目(現内神田1、2丁目の一部で内神田司一会)の守護神として奉斎されていた。その後当社12代神主芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和41年10月7日に再建され、金刀比羅大神と共にご鎮座された。
末社金刀比羅神社の由緒
御祭神:大物主神、金山彦命、天御中主命
天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋2丁目旧両国会)に創建された。江戸時代には神衹伯白川家の配下となり、祭祀が斎行されていたが、明治6年(1873)7月に村社に定められた。
往古は、隅田川往来の船人達の守護神として崇敬され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業、遊芸を職とする人々の篤い信仰を集めている。 昭和41年10月7日、宗教法人を解散して氏神のこの地に社殿を建立し、三宿稲荷大神と共にご鎮座された。
末社末広稲荷神社の由緒
御祭神:宇迦之御魂神
当社御創建の年代は不詳でありますが、元和2年(1616)頃のもので、極めて古い神社であります。昔より、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして崇敬されている。
現社殿は、昭和41年2月28日に東京鰹節類卸商組合の有志により再建された。
末社籠祖神社の縁起
御祭神:猿田彦大神・塩土翁神
籠祖神社は古く寛政7年5月亀井組(現小伝馬町)の籠職及びつづら職の人々斯業の祖神として神田明神境内に鎮座されたのが始まりで商売繁盛招福開運の御利益を願い祖神講を設けて今日迄166年の間絶ゆることなく毎年11月5日に盛大な御祭祀を致しております。 
神田明神 2
神田明神は、730年(天平2年)、出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)が、先祖の大己貴命(おおなむちのみこと)を武蔵国豊島郡芝崎村に祀ったことに始まる。
1309年(延慶2年)には平将門が奉祀された。
戦国期には、太田道灌、北条氏綱をはじめとする多くの武将が崇敬し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康が戦勝祈願を行っている。
1616年(元和2年)、江戸城の表鬼門守護にあたる現在の地に遷座され、江戸総鎮守として尊崇された。
祭神
一ノ宮 大己貴命(おおなむちのみこと・だいこく様)
二ノ宮 少彦名命(すくなひこなのみこと・えびす様)
三ノ宮 平将門命
平将門
平将門は、桓武天皇から5代目の子孫。一族間の争いに勝利し、次第にその勢力を拡げていくが、それが謀叛とみなされてしまう。やがて朱雀天皇に対抗して新皇と称するようになるが、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された(940年(天慶3年)2月14日)。伝説によると、京都で晒された将門の首は、三日後、白光となって舞い上がり、故郷へ向かって飛んで行ったという。その首の飛来地とされるのが、神田明神が創建された武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)だった。恐怖した村人は、塚を築いて埋葬したのだという。その後、天変地異が頻繁に起こり、疫病が流行したことから、将門の祟りと噂されていたが、遊行二祖の他阿(たあ)によって荒れ果てた塚の整備と供養が執り行われ、その霊が神田明神に奉祀されたのだという。明治に入ると謀叛人の将門は祭神から外され、境内摂社に遷されたが、1984年(昭和59年)、本社祭神に復帰している。
神田明神と成田山新勝寺
939年(天慶2年)、平将門の乱が起こると、京都・神護寺の不動明王が下総国へ運ばれ、京都広沢の遍照寺・寛朝僧正を導師として御祈祷がなされたというのだという。成田山新勝寺は、その不動明王が祀られた寺であることから、神田明神の崇敬者が成田山新勝寺を参詣してはいけないと伝えられてきた。
神田明神と洲崎明神
戦国武将・太田道灌は安房国の洲崎明神を江戸の鎮守として勧請したという。軍記『永享記』には「神田の牛頭天王と洲崎大明神は安房洲崎明神と一体」とあって、神田明神のことであるともいわれている。ただ、洲崎明神の祭神:天比理刀当ス(あまのひりのめのみこと)は祀られていない。  
神田明神 3
御神徳
正式名称・神田神社。 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場ー、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。
御祭神
一之宮 大己貴命 (おおなむちのみこと)
だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。
二之宮 少彦名命 (すくなひこなのみこと)
えびす様。商売繁昌の神様。商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。
三之宮 平将門命 (たいらのまさかどのみこと)
まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。
歴史
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。 明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。
大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。
戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。さらに「平成の御造替事業」が行なわれ、社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。平成17年、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められております。 
神田明神 4   
江戸総鎮守 旧府社
御祭神 大己貴命 少彦名命 平將門
東京都千代田区にある。お茶の水駅から聖橋を渡って湯島聖堂の北向かいに鎮座。
皇居の方向、南西に向かって鳥居が立ち、社殿も南西向き。正式名は、神田神社のようだが、やはり神田明神が相応しい。江戸城鬼門守護、江戸総鎮守とよばれる神社なのだ。
天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎の浜(現在の大手町・平将門首塚があるあたり)に、出雲氏、真神田臣によって創建された神社で、当時の祭神は、大己貴命一柱。
延慶2年(1309)、時宗二祖真教上人により将門の霊を合祀。元和2年(1616)、徳川秀忠によって現在地へ遷座し、江戸総鎮守となる。
明治2年(1869)、常陸国大洗磯前神社より少彦名命を勧請し三柱となる。
並べてみると、年号を変えた翌年、2年ばかりだ。偶然か?
興味深いのは、江戸時代になっての遷座。平将門の首塚を残して、社殿のみを移動させている。加門七海の『平将門魔方陣』では、当社は将門縁の北斗七星ラインの構成要素であり、天海による呪的魔方陣ではないかと、記されているが・・・
京都に多い御霊神社の例にならって、江戸城の守護としたとする説が一般的。京都における崇導神社の位置(王城の鬼門)にあるのも面白い。
当社の社殿には、鳥の種類はわからないが、水鳥の彫刻が載せられている。
神紋も、流水巴。怨念を水に流すという意味があるようだが、将門の霊を、水神として祀りなおしているようにも思える。
秋葉原も近いビルの谷間に鳥居が立っている。鳥居の奥に、朱の神門。神門の四方には、四神の金の彫刻が施されている。
神門をくぐった境内は、かなり広い。朱塗りの社殿も美しく、雲のない青空ならば、さぞ美しいだろう。
御由緒書
御社名 神田神社 神田明神
御神号 神田大神 神田大明神
御祭神
大己貴命 おおなむちのみこと 天平二年創建(七三〇年)
少彦名命 すくなひこなのみこと 明治二年合祀(一、八七四年)
平将門命 たいらのまさかどのみこと  延慶二年合祀(一、三〇九年)
御神徳
大己貴命は別の御名を大国主命ともうしあげ少彦名命 と共に国造りをなされた神さまで いまも福徳の神と して 家運隆昌 事業繁栄 医薬の途を教え給い 俗に だいこくさま えびすさま として慕われ 御神徳は まことにあらたかであります 平将門公は 天慶の昔 坂東の民人のために戦い 歿してのちも人々の苦難を 救い災厄を除く守護神として崇められています
御由来
社伝によると 聖武天皇の御代 武蔵国豊島郡芝崎の 浜辺(現在の皇居大手門前)に宮居が定められてより 壱千数百年 その間 鎌倉時代に 時宗二祖真教上人は 平将門公の霊を鎮めて当社に祀り さらに 元和二年 二代将軍徳川秀忠公は 現在地に壮麗な社殿を造営し 遷座のうえ 江戸の総鎮守の神として 代々尊信せら れました また当社の神田祭は日本三大祭りの一つと して氏子百余ヶ町よりねり出す 神輿 山車の行列は 文化文政の頃を頂点として盛儀を極めたのであります
明治七年には 常陸国大洗磯前神社より 少彦名命を 勧請して 同年九月 畏くも 明治天皇の行幸を仰ぎ 社運は弥栄え 今日に至っております

当社は社伝によると聖武天皇の天平二年(七三〇年)の創建という。はじめ武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町将門塚周辺)に宮居が定められた。年移り約二百年後、桓武天皇六代の皇胤なる平将門公が俵藤太に討たれ、その御首は京都に運ばれ東の市に晒された。やがて党類これを奪いかえり塚を築いて葬った所が、当社を離れること百歩の地であったという。次いで延慶二年(一三〇九年)には将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けこの地の守護神にされた。天正十八年(一五九〇年)徳川家康公は三河から江戸に移り幕政の地と定め大規模な城下の造成工事が開始された。そして元和二年(一六一六年)に当社は現在地に遷座し、江戸城の艮鬼門の守護神となり、二代将軍秀忠の命により桃山風の豪華な社殿が築かれた。これより歴代将軍の尊崇厚く、江戸総鎮守として面目を一新した。寛永三年(一六二六年)烏丸大納言光広卿が当社に参拝され、将門公が天慶の乱で朝敵とされたことを八所御霊の例に倣い、国家鎮護の社として勅免の沙汰が下り、神田大明神の勅額を賜った。また明治元年には勅祭社に准ぜられ、同七年には明治天皇が御親拝された。  
神田神社 5  
東京の中心、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内・旧神田市場・築地魚市場、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。  
当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村・現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた・神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。 
その後、天慶の乱で承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発、嘉元年間(1303-1306)に疫病が流行した。将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。 
慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると9月15日神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。 
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。大正12年(1923)未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。 
昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。 
御祭神 
一之宮/大己貴命(おおなむちのみこと)  
だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。れ、国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。  
二之宮/少彦名命(すくなひこなのみこと)  
えびす様。商売繁昌の神様。商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。  
三之宮/平将門命(たいらのまさかどのみこと)  
まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。  
草創の説話  
創建について又その由来については諸説がある。  
天平2年(730)武蔵の国造(当時の地方長官)であった真神田臣が、豊島群芝崎村の地に社を建て、地祇(国神)大己貴命を奉ったとされ、この 社のことを真神田の社といっていたが、後に、これを略して神田神社と言うよなったと言う説。その二は、忌部族(海部族)が、今の房総半島に定住していたが、その人々の守護神、つまりは海神として安房神社に奉られていた神を、八世紀の始めごろ分社して、豊島群芝崎村の地に奉ったのが起源と言う説。  
又、天平2年(730)豊島群芝崎村の神田台(江戸城神田橋御門内、現在の大手町)にその地の人々によって、産土の神・鎮守の神が奉られ、神田の神社と呼ばれた。祭神は大己貴神であった。名の由来は、その地が伊勢神宮の神田であったことに因んでいると言う説。  
「神田とは、国家の公田をその神社に賃貸しした地子田のことをいい、厳密には社領でなかったのであるが、それが後には社領として恒常化したのである。神田は御戸代田とも、神戸田地ともいわれて、神田の民又は、近傍の民をして耕作させた。 神社は大体二割を田租とした。 これを神税ともいった。」 
このように、八世紀頃創建され、近郷の人々の産土の神・鎮守の神として崇められた。また、祭神の大巳貴命は、古事記によれば「海を光して依り来る神」とある。 遷座の地形からみて海の守護神としても崇められたことであろう。祭礼も旧暦9月15日に、天下太平・五穀豊穣又、豊漁や海路の安全を願う秋祭りとして盛大に行われていたという。
日輪寺 1 
日輪寺(台東区西浅草3丁目)が神田明神の前身?で、将門の塚があったという伝説があります。 鎌倉時代、将門の滅亡(天慶3年・940)から三百数十年後の1303年、時宗の真教上人が将門塚を訪れた時、塚は荒廃し、付近の村には疫病が蔓延しており、これが将門の祟りだと恐れられていました。真教上人は将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して塚を修復し、供養したところ疫病がやみ、喜んだ村人たちは上人に近くにある日輪寺に留まってもらうこととしました。真教上人は天台宗だったこの寺を時宗の念仏道場としました。1307年に真教上人は将門の法号を石板に刻み、塚の前に建てました。さらにその翌々年には旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたことが日輪寺の記録にあったそうです。同時に日輪寺も「神田山日輪寺」と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となりました。ところで、当時、首塚・日輪寺・神田明神のあったこの芝崎付近は湿地帯で、対岸の駿河台や本郷とは川で分けられておりました。駿河台あたりは小高い山をなしており、当時から神田山と呼ばれておりました。神田山は「からだやま」、すなわち将門の胴体部分を埋めた山という意味だそうです。その後、神田神社(神田明神)も日輪寺も現在の場所に移転しました。なお、現在、将門の首塚に建てられている石塔婆は、上述の真教上人の建てたものから取った拓本を元に復元したものだそうです。  
日輪寺と芝崎町 2 
「東京府志料」は「日輪寺 神田山ト号ス 時宗相州鎌倉郡藤澤山清浄光末寺 往古ハ芝崎村ニアリ今ノ神田橋ノ内ナリ 故ニ神田道場ト唱フ 天正十九年白銀町ヘ移リ慶長八年今ノ地ヘ再転ス 開山眞教」と記している。清浄光寺は、時宗の開祖一遍上人(別名遊行上人)の寺で、神奈川県藤澤市に現存し遊行寺とも呼ばれている。日輪寺開山の眞教は一遍上人二世であった。 
「新撰東京名所図絵」によると、眞教は嘉永3年(1305)芝崎村に日輪寺を創建し、明暦3年(1657)の江戸大火後、この地に移ったという。日輪寺の現在地移転後には、慶長9年(1603)と、明暦大火後の二説がある。どちらが真説かは不明。旧地の現千代田区大手町に平将門の首塚と伝えるものが現存する。日輪寺は将門とのゆかりが深く、その点でも名高い。昭和40年の住居表示前まで、この付近を浅草芝崎町といったが、その町名は日輪寺に由来している。  
日輪寺 3
今でこそ、大手町にある平将門の首塚は塚の碑だけが残っている状態なのだが、以前はその塚に隣接する形で神社と寺院があった。神社は言うまでもなく[神田明神]である。そして寺院の方は[神田山日輪寺]という。
嘉元3年(1305年)、時宗の真教上人が首塚の地を訪れた時には、塚は荒れ果て、周辺には将門の祟りが原因と言われる疫病が流行っていた。そこで上人は“蓮阿弥陀仏”の法号を与え、塚を修復して供養した。すると疫病は止み、上人もそばにあった日輪寺に留まることとなった。さらに上人は近くの神社を修復し、そこに将門の霊を合祀して神田明神としたのである。まさしくこの真教上人こそが、祟り神であった将門を鎮護の神へと変えた人物なのである。
その後、江戸幕府成立直後、神田明神は江戸の総鎮守社として現在の地に移転し、日輪寺も明暦3年(1657年)に現在の西浅草の地に移転した。神田明神がその後も将門と関係深くあったのに対し、日輪寺の方は本来の時宗の念仏道場として名が広まり、将門との直接の関係は薄れてしまったようである。
しかしこの寺には非常に貴重なものが残されている。真教上人は将門公供養のために“蓮阿弥陀仏”という法号を与えたが、徳治元年(1307年)にその法号の直筆を石塔婆に刻ませたのである(これによって上人は塚を修復し、祟りもおさまったらしい)。この石塔婆が現在もこの寺に置かれているのである。しかも、 現在大手町にある首塚に置かれている石塔婆は、この日輪寺の石塔婆に刻まれた真教上人の書を拓本して作られたのである。首塚のシンボルのオリジナルということで、貴重なものであると言えるだろう。  
平将門 
神田明神は、平将門公を祀る神社としての方が有名である。各時代の文書にも「神田明神は平将門公を祀る神社なり」とあるように将門公は主神と思われているのである。平将門は、承平5年〈935〉堕落し荒廃する京都政権をしり目に、東国の民及びその当時胎動しはじめた兵達に支えられて、いわゆる独立戦争的な戦いをおこした。その当時すでに坂東平野は、水運の便も開け、生産力も大きく、有数の馬の産地であり、その土地に合った独自の文化を持っていたのである。こうした東国は、京都の貴族政権にとっては、ただ遠い国「あずまえびす」の地であり、植民地として蔑視し、搾取の対象としての地としか考えられていなかった。京都で数年を過ごしたといわれる将門は、貴族達の何か欠落した生活、又律令体制の裏面のいやな事を数多く見たにちがいない。将門には我慢のならなかったことであろう。  
「天慶の乱」の蜂起は、わずか5年間という短い期間ではあったが、平将門のことは東国の民の目に武士の目にその心の中に、強く静かに記憶され、かの地の隅々にまで伝わって行くのである。将門は、皇位を狙った逆臣という汚名をきせられたまま、俵藤太によって討たれるのである。時に天慶3年(940)2月14日のことであった。首級は、京都の東の市において晒されるのであるが、何人かによって持ち去られ、豊島群芝崎村・神田の社の境内に手厚く祀られて、慰霊されることになるのである。 これが、有名な「首塚(将門塚)」である。  
将門についての話は、これで終わりにならず、その死後、いわゆる「将門伝説」「将門信仰」として残っていくのである。現在、将門ゆかりの場所は東京の都心部だけを取り上げてみても五ヶ所とは下らない。まして将門の本拠地であった、常陸・下総はもちろん東国(関東一円)には、そのゆかりの場所が、それこそ無数にある。  
江戸・東京に伝わる伝説では、将門の首は京都で晒されるが、ある夜、白く光を放って自ら、東の方に飛び去り、武蔵国豊島群芝崎村の地に落ちた。その音は物凄く、東国一円に轟き渡り、大地は、三日三晩鳴動し続けた。郷の人々は、恐れ慄き、近くの池で首を洗い、塚を築いて手厚く祀り、供養したので、その祟りが鎮まったと言われている。 
天変地異が続いた時、それを一人の人間の祟りと考え、その人間を祀る事で、それを鎮めようとする事が、古くはしばしば行われた。菅公、将門がそれである。この場合、その人々は、決して生前悪人だったのではなく、逆に民衆には、良い人間だったと記憶され、それが不運の中に死んでいったのだと信じられていたのである。前途の様な伝説と共に、神田の社をはじめ関東各地に将門が祀られた事は、将門が、如何に強く関東の人々の記憶の中で、尊敬され、同時に畏れられていたかを物語っていると思われる。 
余談ではあるが、後の江戸時代、神田明神の氏子達は、南天の箸を使わず、また成田山へのお詣りにも行かなかったという。それは俵藤太が、成田山新勝寺に戦勝の祈願をし、将門との戦いに臨んだ上、将門の一命を落とした御神矢が、南天の枝で作られた新勝寺の御神矢だったと言う、言い伝えがある為である。  
神田明神と成田山新勝寺 
この神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない事と云われている。これは当時の朝廷から見て東国(関東)において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。即ち、成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。なお、同じく平将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。平将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。   
平将門の首塚1 
平將門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ(伝承地は各地にあるが、ここでは主に東京都指定旧跡のものを取り上げる)。 
首は平安京まで送られ東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町1-2-1にある首塚である。かつてはマウンドと、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であると考えられる。 
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であった。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった他阿真教が徳治2年(1307)将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。 
首塚そのものは関東大震災によって倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。その後大蔵省が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員の相次ぐ不審死が起こり、将門の祟りが大蔵省内で噂されることとなる。大蔵省内の動揺を抑えるため昭和2年に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。 
将門首塚2 
10世紀、天慶の乱。戦いに敗れた将門公の体は、終焉の地に近い公の菩提寺に埋葬された。現在の茨城県坂東市の延命院である。寺のある地を神田山(かだやま)といい「(将門公の)からだ」が語源と言われている。延命院の境内には拓本から起こした真教上人真筆の石卒塔婆が建てられている。一方首級は京に運ばれ河原にさらされたが、公の無念やるかたなく空を飛んで東国に戻り、武蔵国豊島郡の芝崎に下ったという。思うに有縁の者が願って(あるいは無断に)首を京より持ち帰り、当時は当局の目も届かない芝崎の地に埋め、しばらくして遺体も合わせて埋葬、塚を築いて供養したのであろう。このときにつくられた神社が築土明神(現築土神社・千代田区九段北1丁目)といわれる。社伝によればこの地の井戸で首を洗い上平川村の観音堂で供養、さらに塚を築き祠を建てたという。首桶は秘宝として長く同神社に伝えられたが、関東大震災で焼失。 
築土明神はほどなくして後の江戸城内に移転、江戸城築城に伴い牛込に移り、地主神の築土八幡と社を並べたが第2次大戦で被災したため草創の地に近い九段中坂に移り、世継神社と同じ地に社を新設して現在に至っている。祭神は明治年間にアマツホコニニギノミコトに定め将門公は相殿。  
時代は下って14世紀鎌倉時代の嘉元年間、遊行二世真教上人がこの地を通りがかる。上人は念仏をもって仏教を民衆の中に浸透せしめるという時宗の祖・一遍上人の教えを受け継ぎ諸国を旅していた。この芝崎の地では飢饉、天災などに人々は苦しみ、放置され荒れ果てた公の塚のたたりではと言う者もいた。上人は公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈、ねんごろに供養するとともに村人の願いに応じ近くの寺にとどまることとした。寺を天台宗から時宗の念仏道場に変え(神田山日輪寺)、ここが塚の管理に当たるようになった。徳治2年(1307)に上人は秩父石の板石卒婆を塚の前に建て、2年後の延慶2年(1309)傍らの荒れていた社を修復、公の霊を祀って「神田明神」とした。   
祟り伝説 
築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来たのも頷ける。そのことを最も象徴的に表すのが、第二次世界大戦後に、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、結局、造成計画を取り止めたという事件である。 
結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、そのひと気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、聖域として守られている。 
隣接するビルは塚を見下ろすことのないよう窓は設けていないとか、それらのビルでは塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っているといったことが話題に上ることがあるが、これらは都市伝説の類である。  
神田明神 6 
正式名称は神田神社。元々この神社は平将門首塚のある場所(芝崎村)にあった。当初は大已貴命のみを祀る神社であったが、日輪寺を建立した真教上人が平将門を神として祀り、延慶2年(1309年)に合祀した。平将門という伝説的武将を祀っているために、戦国時代は多くの武将の崇敬を受ける。
江戸城増築の際に幕府が現在の地に移転させた。江戸総鎮守として江戸城の鬼門を守護する役目を果たすためである。
だが明治に入り、平将門は朝敵であり、天皇が参詣するには不敬であるという理由で祭神から外し、代わって少彦名命を勧請する(オオナムチとスクナヒコナという神の組み合わせは、よくあるケースである)。その後、昭和59年(1984年)になって、平将門は摂社であった将門神社から再び本殿の祭神として祀られるようになり、現在に至る。
さてこの[神田(かんだ)]という名の由来であるが、やはり将門の存在が見え隠れする。首塚が築かれたこの地は“身体のない遺骸を祀る山”と いうことで“からだ山”と呼ばれ、それがいつしか“かんだ”という名に転訛したのだという説がある。(ただし漢字から由来を探ると、昔この地が伊勢神宮の “神田”であったために付けられたという。ただし祭神の関係から考えると、少々無理がある部分もある) 
   ■築土神社

 

築土神社 1   千代田区九段北
社号   築土神社(つくどじんじゃ)
旧称   津久戸大明神 江戸明神 田安明神
御由緒  御創建 940年(天慶3年)
御祭神  主神 天津彦火邇々杵尊 相殿 平将門公 菅原道真公
由緒
(1)築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬された。
(2)1552年(天文21年)11月には、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。当時の境内地は極めて広大でその地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となった。然るに1589年(天正17年)徳川家康江戸入城の際、江戸城拡張(二の丸等築造)のため下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616年(元和2年)には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称した。
(3)以後、徳川幕府との関係は親密となり、1654年(承応3年)2月、江戸城二の丸にあった東照宮(徳川家康之霊)の社殿を築土明神境内へ移築。1657年(明暦3年)明暦の大火の際には、幕府より唐金水桶 ・金燈籠 ・銅瓦等の奉納援助金を受けた。1634年(寛永11年)4月に記された『要用雑記』にも、「津久戸は御城内氏神につき、春日殿御取次ぎを以って御上様へ御札御守、差上げ候」「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」と記されている(「春日殿」とは三代将軍家光の乳母で当時の大奥を取り仕切り、築土神社氏子内の江戸城北の丸に屋敷を構えていた)。
(4)徳川幕府終焉後の1874年(明治7年)、氏子の請願により天孫降臨の神 ・天津彦火邇々杵尊を歓請し築土神社と改称。1907年(明治40年)9月には幣帛供進社(村社)に指定された。同地に鎮座すること実に328年の長きに及ぶも、1945年(昭和20年)4月、戦災により社殿 ・社宝その他悉く全焼し、翌1946年(昭和21年)9月、千代田区富士見へ移転。さらに1954年(昭和29年)9月、九段中学校(現・九段中等教育学校)建設のため再び立ち退き余儀なくされ、現在地(九段中坂)にあった世継稲荷神社の敷地内へ移転し新社殿竣工。1990年(平成2年)9月には鎮座1050年記念大祭を斎行した。
(5)1994年(平成6年)5月、社殿老朽化に伴い社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建てのビルが完成(千代田区都市景観賞受賞)。社殿もコンクリート壁の現代的な神社となった(この時、境内にあった末社の木津川天満宮より築土神社の「相殿(あいどの)」に菅原道真公を配祀)。ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことにちなんでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。
祭神
主神 天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
築土神社の「主神(しゅしん)」である天津彦火邇々杵尊は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫にあたる神で、日本国を治めるべく高天原(たかまのはら)から三種の神器(鏡・剣・玉飾)を持って霧島山へ降臨し、天皇系統の礎を築いた(天孫降臨)。
築土神社には明治7年に霧島神宮(鹿児島県姶良郡霧島町)より勧請。これは、それまで当社唯一の祭神であった平将門公が明治政府に冷遇されたため、便宜上、天皇と関わりの深い神を「主神」として祀り上げることで、当時の社格を意識したものと思われる。
相殿 平将門公(たいらのまさかどこう)
築土神社の「相殿神(あいどののかみ)」である平将門公は、桓武天皇第五代の子孫で、幼少より文武両道に優れ朝廷のためにもよく尽くしていた。しかし父・良将が病死するに及んで一族間に内紛が起こりやがて拡大。将門公は東国の下総にて決起し、たちまちにして関東8カ国を平定。自ら「新皇」と称して政治に革新を図るも、天慶3年(940年)2月、平定盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上刃刀に戦って壮絶な戦死をした。時に38歳の生涯であった。
将門公は、死後、東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)の影響もあり、将門公を天皇に反抗した「逆賊」のように評する風潮も一部に見受けられた。そのため、築土神社では便宜上、「天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)」を勧請してこれを「主神(しゅしん)」とし、他方で将門公は「相殿神」とされることとなった。
相殿 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
かつて築土神社境内には、「木津川天満宮」という末社が置かれていた(創始の由来は不明であるが、文政3年(1820年)刊の『天満宮御傳記略』にすでにその存在が確認できる)。菅原道真公はもともとこの「木津川天満宮」の御祭神であったが、1994年の境内工事の際に取り壊され、道真公は築土神社の「相殿(あいどの)」に配祀された。
道真公は承和12年(845年)京都に生まれた。わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し神童と称された。そして元慶元年(877年)33歳で式部少補に任じられ文章博士となり、学者として最高の栄進を続けた。さらに昌泰2年(899年)55歳の時には右大臣、従二位に叙せられるも、延喜元年(901年)急転して大宰府(福岡県)へ左遷。大宰府では窮迫の日々を送り、延喜3年(903年)2月25日、59歳で没した。  
人物由縁
日本武尊(西暦72〜113年)
かつて築土神社境内には、「大鳥神社」という末社があり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀っていた。大鳥神社は、昭和20年戦災で焼失後昭和29年に一旦は再建されたが、1992年(平成4年)5月に再び取り壊され、以後は再建されることなく廃絶された。
日本武尊は西暦72年(景行2年)第十二代影行(けいこう)天皇の第二皇子として生まれた。110年(影行40年)、父である影行天皇より東国征討を命じられ、「草薙(くさなぎ)の剣」を携え東国へ向かう。途中、相模国(現 ・神奈川県)で賊に遭い、草原に誘い込まれて周りを炎で囲まれるも、この「草薙の剣」で草をなぎ払って窮地を脱する。生涯を戦に明け暮れた日本武尊は113年(景行43年)、伊勢能褒野(現 ・三重県鈴鹿郡)で病により命を落とす。なお、「ヤマトタケルノミコト」は、『日本書紀』(720年に完成した全30巻の我が国最古の勅撰の正史)では「日本武尊」と表記されるが、『古事記』(712年に完成した全3巻の我が国最古の書物)では「倭建命」と表記されている。
藤原純友(892〜941年)
藤原純友(ふじわらのすみとも)は892年(寛平4年)筑前守 ・藤原良範の次男として生まれた(出生年については諸説あり)。当時、瀬戸内海を荒らしていた海賊の討伐を朝廷より命じられるも、936年(承平6年)、自ら海賊の親玉となり日振島(愛媛県宇和島市)にて反乱を起こす。各地で官軍を撃破するが次第に追い詰められ、天慶4年(941年)2月藤原国春に破れ九州大宰府に敗走。
その後、日振島に脱出するも、天慶4年(941年)6月20日、伊予国(愛媛県)警護の橘遠保(たちばなのとおやす)により討ち取られる。この一連の合戦と、これと同時期に関東で起こった将門の乱とを合わせ「承平 ・天慶の乱」と呼び、古代律令時代最大の戦乱とされている。
純友は将門のように神や英雄として崇められることも少なく(築土神社とも直接の関係はない)、純友に関する伝説や資料も乏しい。しかし、『大鏡』や『神皇正統記』では、純友と将門は実は共謀していたとも記されているし、将門と対比して語られることも多く、『大日本史』などではともに「逆賊」として位置づけられている。
純友は、将門を語る上で無視できない西国の「敗者」なのである。余談だが、旧住友財閥の住友家は、もともと愛媛県の出身で、純友の子孫だともいわれている。今でも、愛媛県には住友の末裔と名乗る家が多いそうである。
藤原秀郷(生没年不明)
藤原秀郷は将門討伐に向かう途中、成田山新勝寺(千葉県成田市)にて戦勝祈願をしたとされるが、これについて1814年(文化11年)編纂の『遊歴雑記』に次のような記述がある。
「下総の国成田山の不動尊は弘法大師の作ながら、俵藤原秀郷等が念願せし平の将門を調伏の尊像なるによって、神田明神 ・元鳥越明神 ・築土明神の三ヶ所の氏子はまいらず。その像へ参詣すれば氏神の祟ありて途中に煩ひ怪我などする事とかや」。
これをみるに少なくとも江戸中期頃までは、築土神社の氏子は将門の祟りを恐れ、成田山への参詣を意図的に避けていたことが伺える。
秀郷は940年(天慶3年)の平将門の乱に際して押領使(おうりょうし)に任ぜられ、平貞盛らと協力し下総国(現・茨城県)にて将門を破り、乱を平定。この功積によって秀郷は従四位を賜わり、下野守に任ぜられた。
楠木正成(1294〜1336年)
楠木正成(くすのきまさしげ)は永仁2年(1294年)河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)で生まれた。元弘元年(1331年)正成は後醍醐天皇のお召しにより鎌倉幕府打倒に立ち上がり幕府は滅亡した。然るに、足利尊氏の反乱によって各地で再び戦闘が勃発。1336年(延元1年)正成は後醍醐天皇に命じられ、足利尊氏の大軍を迎え討つべく兵庫へ向かい殉死した。
上記絵図は、正成が討伐に向かう途中、桜井の地(大阪府三島郡島本町)にて息子の正行(まさつら)に後事を託し別れを告げる時の、有名な「桜井の別れ」のシーンで、皇紀2600年(昭和16年)を記念して作成 ・奉納された(「皇紀」とは初代神武天皇が即位した年を元年とし、戦前は、現在の「西暦」よりむしろ「皇紀」が広く使われていた)。当時の天皇主権制の下で、正成は天皇に忠義を奉げた武将として崇拝されていたことが伺える。
太田道灌(1432〜1486年)
太田道灌について、室町時代から江戸時代にかけて書かれたと思われるいくつかの文献をみると次のように記されている。
「太田道灌文明十年戊戌六月五日、日河社に視へ江城の乾に津久戸明神を崇め給ふ」(『永享記』)。「応仁十年六月津久戸明神祠建」(『太田家譜』)。「太田道灌将門の霊を祭り田安明神と号す」(『歳時記』)。
これらによると太田道灌は、江戸築城後の1478年(文明10年)、江戸城の乾(北西)に平将門の霊を勧請して津久戸明神(田安明神、現 ・築土神社)を建立したことになる。
もっとも、社伝では築土神社の創始は940年(天慶3年)であるから、太田道灌は当時すでに江戸城内にあった津久戸明神を江戸城外に移転させた上で新たに社殿を造営したものと考えられる。
ちなみに、下記『永禄(1558-1569年)江戸図』を見ると、確かに江戸城の北西に「筑戸明神」(現・築土神社)の名が見える(但し、同地図は、永禄期に描かれたものではなく、後世に創作された想像図−フィクション−であるともいわれている)。
太田道灌は永享4年(1433年)、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事・太田資清(すけきよ)の子として相模国(神奈川県)に生まれた。幼名・鶴千代。15歳の時、主君の上杉持朝(もちとも)から一字を賜わり「持資(もちすけ)」と称したが、のちに「資長(すげなが)」と改め、さらに、長禄2年(1458年)仏門に帰依して以降は「道灌(どうかん)」の号を用いた。道灌は上杉家の家宰(家来)として、関東の防衛線を固めるため、河越城(埼玉県)や江戸城を築城し上杉家の勢力を確立していったが、文明18年(1486年)、当時の主君だった上杉定正の策略により暗殺される。
天海(1536〜1643年)
現在「神社」と呼ばれるものの多くは、江戸時代には「神社」ではなく「(大)明神」や「(大)権現」の社号を掲げるのが一般的で、築土神社も、江戸時代当時は「津久戸大明神」ないし「築土明神」の社号を用いていた(明治7年に「築土神社」に改号)。
もっとも、「明神」と「権現」の語は明確に使い分けられていたようで、例えば、1616年(元和2年)江戸幕府初代・徳川家康死去の際、当初は家康を祀るための神号を「大明神」とすることに決定したが、その1年後の1617年(元和3年)天海の強い意向で、これを「(東照)大権現」に変更したとされる。
「大明神」の神号は主に吉田神道が神道優位の立場からその優越性を説いて提唱されたもので、家康死去の際も、当初は臨済宗の崇伝(1569-1633)らにより吉田神道での祭儀が主張されたが、山王一実神道を信仰する天海はこれを退け、結局、家康は山王一実神道に基づき「大権現」として祀られることとなったのである。
ちなみに豊臣秀吉は、死後、「豊国大明神」の神号を賜っており、そのため、天海は家康の神号を「大明神」とすることを嫌ったとも云われている。
天海は、一説には1536年陸奥国会津群高田郷の出身とされる。徳川幕府の参謀(いわゆるブレーン)として絶大の信頼を受け、家康、秀忠、家光の三代に仕えた。1625年(寛永2年)には江戸城の守護祈祷所として上野寛永寺(天台宗東叡山)の創建に尽力し、1643年、108歳という長寿で没した(但し生没年には諸説あり)。死後は、「慈眼大師」の号を賜わっている。
天海は、その出自の曖昧さから、明智光秀との関係についても様々な議論を呼んでおり、非常に謎めいた人物である。
ところで、将門死後、間もない頃に書かれた『将門記』(真福寺蔵)では、将門のことを「明神」と称している。また明治40年発行の『平将門古蹟考』(碑文協會)の中で著者の織田完之氏もこの点に触れ、「江戸の地に明神と唱ふる神社はたいてい将門を祀れり、後に祭神を取替たるものもあり」と述べている。
この点、「明神」の語自体は平安時代以前から用いられており、その語源については必ずしも明らかでない。しかし、明治7年に築土神社で便宜上、将門が主祭神からはずされる際、同時に「大明神」の社号も「神社」に改めていることからすると、少なくとも関東においては、「明神」には将門を連想させる語としての意味が全く無かったわけではないと思われる。
他方、「権現」は「権化(ごんげ)」「化現(けげん)」などと同義で、もともと仏が救済のため化身となって現れることを意味し、仏教的色彩の強い語であったことから、神仏分離を推進する明治政府下にあって、当時「(大)権現」の社号を掲げていた諸社の社号も「神社」に改められている(『神道事典』弘文堂)。
なお、築土神社は承応3年(1654年)2月、江戸城二の丸にあった東照宮の古社を拝領し境内に移築したが、その時行われた遷宮祭には上野寛永寺の住職が立ち会っている(『築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌』築土神社社務所)。この東照宮は昭和20年戦災で焼失後再建されることなく、廃絶された。
徳川家康(1542〜1616年)
かつて築土神社境内には築土明神の末社として東照宮が置かれていた。徳川時代初期の江戸城内(千代田区)には紅葉山(本丸付近)・二の丸・天守閣下にそれぞれ東照宮が築かれていたが、当社はこのうち二の丸にあった東照宮を1654年(承応3年)2月に拝領して境内に移築。徳川幕府の祖・家康之霊を祀った(もっとも、この東照宮は昭和20年に焼失したまま以後再建されていない)。
徳川家康は、天文13年(1543年)、三河国(現・愛知県)の大名・松平広忠の長男として生まれた。幼名・竹千代(たけちよ)。 幼少期は駿河国(現・静岡県)の大名・今川義元の人質として苦渋の日々を過ごす。永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に破れ討死すると、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入り、今川氏から自立。天正18(1590年)に豊臣秀吉とともに関東の北条氏を滅ぼすと、本拠を江戸へ移し、その後、「関が原の戦い」を経て慶長8年(1603年)、江戸に幕府を開く。大阪の陣で豊臣氏滅亡した翌年の元和2年(1616年)、74歳で没した。死後は「東照大権現」の神号を賜わり、日光をはじめ各地に祀られている。
小野忠明(1559〜1628年)
江戸時代初期の飯田町は武家地であり、その一帯には大名や旗本の屋敷が連なっていた。室町時代の創始とされる世継稲荷(築土神社境内末社)も当時は幕臣 ・松平主計頭近鎮(まつだいらかずえのかみちかしげ:1645-1716)の屋敷内に鎮座した(「近鎮」は「ちかやす」とも読む)。元禄3年の飯田町地図(下図)では、確かに「九段坂」と「モチノキ坂」の中間(ちょうど現在の中坂下あたり)に「松平主計頭」の名が見える(□)。
そしてさらにその左隣に目をやると、「小野次郎右エ門」との名があるのが分かる(□)。「小野次郎右エ門」は、徳川幕府の剣術指南役の任にあった小野派一刀流開祖 ・小野次郎右エ門忠明の名で、以降、小野派一刀流の宗家は代々「次郎右エ門」を名乗っていることから、この場所も当時は小野家代々の拝領屋敷であったと考えられる(この屋敷はその後、元禄10年(1697年)の大火で類焼し、江戸 ・京橋へ移転)。
小野派一刀流開祖 ・小野次郎右エ門忠明は前名を神子上典膳(みこがみてんぜん)といい、三重県伊勢市の生まれとされる。当初は父とともに上総の里見家に仕え、幼少の頃より剣術に励んだ。
天正年間(1573〜1591年)頃、伊藤一刀斎に入門し剣の腕を磨き、1593年(文禄2年)には一刀斎の推挙で徳川家康に仕え二百石を与えられるとともに、当時14歳だった二代将軍秀忠の剣術師範になっている。1628年(寛永5年)江戸で没(69歳)。小野派一刀流は、江戸時代を通じて、同じく剣術指南役であった柳生新陰流と並び称され、「実力は小野」とまで言われた。
尚、小野派一刀流からは後に「中西派」が生まれ、さらに中西派の四代目・忠兵衛の門からは、幕末に名を馳せた北辰一刀流の開祖・千葉周作を輩出している。
お江与(1573〜1626年)
1634年(寛永11年)4月17日に記された『要用雑記』に次のような記述がある。
「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」。
つまり、津久戸(築土神社)は江戸城(北の丸)の氏神(守り神)であったことから、「大御台様」が御繁昌の時には、「春日殿」(春日局:三代将軍家光の乳母)を通じて築土神社のお守りを御上様方(将軍の妻子)へ届け、さらに正月、五月、九月には御上様が自ら津久戸明神(築土神社)へ御祈祷に訪れたと書かれている。
当時、将軍の正妻は「御台(みだい)」または「御台所(みだいどころ)」と呼ばれたが、これに特に「大」を付けて「大御台(おおみだい)」と呼ばれたのは、歴代の御台所のうち二代将軍秀忠の正妻 ・お江与(おえよ)だけであるから(新人物往来社『徳川十五代将軍実記』参照)、上記『要用雑記』にいう「大御台様」も、お江与を指すものと思われる。
お江与が特に「大御台」と呼ばれたのは、お江与の地位 ・経歴、そして歴史に残した影響力の大きさによる。お江与は1573年浅井長政と信長の妹 ・お市の間に生まれ、姉の淀君は秀吉の側室となり、自身は秀吉の養女として信長の四男 ・秀勝に嫁ぐも、秀勝が1592年朝鮮出兵後に病死するや、今度は秀吉の策略で秀忠のもとへ嫁がされた。
お江与が秀忠との間にもうけた子は、千姫 ・子々姫(ねねひめ)・勝姫 ・長丸(おさまる:実はお江与の子ではなかったとの説もある) ・初姫 ・竹千代 ・国千代 (国松とも)・和子(まさこ)の三男四女。このうち長女の千姫(後の英樹院)は秀吉の嫡男 ・豊臣秀頼に嫁ぎ、四女の和子は御水尾天皇に嫁ぎ明正天皇を産み、そして次男(長男の長丸は二歳で早世)の竹千代は後の三代将軍 ・家光となる。
いずれも徳川幕府に与えた影響は強く、これによりお江与は大奥をはじめ徳川幕府中枢に、「大御台」と呼ぶにふさわしい確固たる地位を築き上げた。もっとも、お江与は竹千代よりもむしろ三男の国千代(後の駿府城主 ・徳川忠長で、駿河大納言とも言われた)を次期将軍に推しており、家光や春日局(家光の乳母)との仲は疎遠であったともいわれる。
ちなみに、お江与の生んだ子のうち、千姫(後の天樹院)と国千代(後の徳川忠長。駿河大納言)は、当時から築土神社の氏子であった江戸城北の丸内に屋敷を構え居館していた(下図参照)。よって冒頭に引用した「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」との記述にいう「御上様」とは、あるいは千姫や国千代ではないかとも思われる。
徳川秀忠(1579〜1632年)
社伝によれば二代将軍秀忠は、家康江戸入城後の1590年(天正18年)、12歳の時に世継稲荷(築土神社末社)を訪れている。この時、秀忠は境内地に神木として橙(ダイダイ)が植えられているのを見て歓喜し、「ダイダイ」の語が「代々」と同音であったことから代々世を継いで栄えるようにと、それまで「田安稲荷」と称されていた社号を改名。「世継稲荷」と命名した。
春日局(1579〜1643年)
1634年(寛永11年)4月17日に記された『要用雑記』に次のような記述がある。「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」。
つまり、津久戸(築土神社)は江戸城(北の丸)の氏神(守り神)であったことから、「大御台様」(お江与の方:二代将軍秀忠の正妻)が御繁昌の時には「春日殿」(春日局:三代将軍家光の乳母)を通じて築土神社のお守りを御上様方(将軍の妻子)へ届けたと書かれている。
春日局(かすがのつぼね)は1579年、明智光秀の家臣・斉藤利三の娘として生まれた。幼名・お福。幼くして父を失い、苦難の日々を送るも、1604年(慶長9年)二代将軍秀忠の子・竹千代(後の三代将軍家光)の乳母となるため江戸城に入る。春日局は竹千代を将軍にすべく奔走するとともに、江戸城における大奥の制度を確立し支配した。
春日局は、当時より築土神社の氏子であった江戸城北の丸内に屋敷を構え、同じく北の丸に屋敷を構え居館していたお勝(おかち :後の英勝院。家康の側室)や千姫(後の天樹院。家光の姉)や国千代(国松とも。後の駿府城主 ・徳川忠長で、駿河大納言と言われた。家光の弟)と軒を並べたが、その中でも家光の乳母であった春日局は、「其内に春日の邸はもっとも広くかまえたり」(『大猷院殿御実記』/正保4年(1647年))と言われるほど栄華を極めていた(もっとも、下図を見る限りではそれほど広くはないようである)。
徳川家綱(1641〜1680年)
1657年(明暦3年)1月、小石川伝通院前から発した火は大風にあおられて江戸市内から城内に及び、本丸や二の丸、天守閣等を悉く焼き払った。これが世に言う「明暦(めいれき)の大火」である(下図参照)。
この時、牛込の築土明神も被災したが、時の将軍・四代家綱はじめ徳川幕府は、被災した江戸市中の武家、社寺仏閣を積極的に復興援助。築土神社の社記にも「明暦三年幕府より銅瓦三千貫目、唐金水溜四個、金燈籠四個舗石大小ニ間余賜る」と記されている。
徳川吉宗(1684〜1751年)
八代将軍吉宗は五男二女を得たが、成人したのは長男家重、三男宗武(むねたけ)、五男宗尹(むねただ)のみ。そのうち家重が吉宗の跡を継いで九代将軍となり、宗武と家重の次男 ・重好はそれぞれ築土神社氏子内の江戸城北の丸に屋敷を与えられ「田安家」「清水家」を興し(下図参照)、宗尹は一ツ橋に屋敷を与えられ「一橋家」を興した。この三家を合わせて、「御三卿」という。
中でも宗武が「田安」を名乗ったのは、宗武の与えられた屋敷が、ちょうど築土神社が田安明神と称されていた頃(1478〜1589年)に鎮座していた場所(現在の日本武道館〜北の丸公園周辺)であったことに由来。
そのため築土神社及びその末社であった世継稲荷に対する田安家の信仰は厚く、特に世継稲荷は創建当初から「田安稲荷」とも称され、当時より田安屋敷のすぐ近くに鎮座していたことから(下図参照)、田安家は以後明治に至るまでこれを専ら田安家の鎮守神の如く信仰し、田安家代々の祈祷所とした。
世継稲荷は戦災で焼失後、昭和29年に再建。同年10月11日の世継稲荷秋祭(鎮火祭)には、田安家10代当主 ・徳川達成氏も参列している。
大田南畝(1749〜1823年)
江戸中期の作者であり、また歌人としても有名な大田南畝(おおたなんぼ)は寛延2年(1749)、江戸城警固を任とする下級武士の子として江戸牛込に生まれた。名は直次郎。号は屬山人(しょくさんじん)。明和2年(1765)17歳で父の後を継ぎ幕臣となるも、一方で学問に励み、18歳で最初の著作「明詩擢材」を刊行。その後も『自筆百首狂歌』『壬戌紀行』等多くの詩集や紀行文を刊行し、江戸庶民に親しまれた。
とりわけ、明和5年(1768年)から文政5年(1822年)にかけて書かれた『半日閑話』(はんにちかんわ)は当時の江戸を知る上で貴重な資料となっているが、この中で南畝は世継稲荷(築土神社末社)についても紹介している。この頃の南畝は世継稲荷を何度も訪れており、当時飯田町中坂下に居住していた滝沢馬琴との親交も深かった。当社の社記にも、世継稲荷の「筋向」にあった「小松屋百亀」なる浮世絵師の家に南畝と馬琴が頻繁に出入りし、両者の「合作の石の鳥居」が昭和30年頃まで残されていたとある。
笠森おせん(1751〜1827年)
1769年(明和6年)2月7日、世継稲荷(築土神社末社)にて初午祭が行われ、同時に御開帳(ごかいちょう)された。「御開帳」とは神社本殿の御扉を開いて、そこに安置されている社宝や御神体を参列者に閲覧させることをいうが、その時ついでに自分の作った人形や絵画を奉納して皆に披露したり、店の商品を奉納して宣伝したりということも多く、当時18歳の笠森おせんもこの日、世継稲荷を訪れ、店の宣伝のため自分の人形を作って奉納したとされる(麹町区役所 『麹町区史』参照)。
おせんは当時江戸笠森稲荷(現 ・台東区)の水茶屋「鍵屋(かぎや)」で働いていた明和三美女の一人で、その人気ぶりは錦絵や手ぬぐい、人形、お仙を題材にした狂言まで作られるほど。おかげでこの店は、お仙目当ての客で大繁盛したという。おせんは後に幕臣の倉地甚左衛門と結婚。数人の子をもうけ、1827年(文政10年)76歳で没した。
滝沢馬琴(1767〜1848年)
江戸中期の戯曲作家・滝沢馬琴は寛政5年(1793年)27才の時から、文政7年(1824年)58才まで築土神社氏子内の元飯田町中坂下に居住。この間、当時牛込にありし築土神社に数回訪れている。
また、天保年間に書かれた『馬琴日記』には「天保二年(1831年)四月十六日戊辰 世継稲荷参詣」とあるから、馬琴邸のすぐ近く(飯田橋中坂)にあった世継稲荷(築土神社末社)にも、馬琴は頻繁に参拝していたことがうかがえる。馬琴自身早くに我が子を失っているから、世を継ぎ栄えることを願い親しまれた世継稲荷に対する信仰は特に深かったものと考えられる。
馬琴は、明和4年(1767年)滝沢興義の五男として江戸深川に生まれた。文化11年(1814年)から28年かけて著した『南総里見八犬伝』はあまりにも有名。父の影響もあって兄とともに法橋吾山(ござん)の下で俳諧の連歌も学び、享和3年(1803年)には『俳諧歳時記』を著している。嘉永元年(1848年)82歳で没。
現在、中坂下(千代田区九段北1丁目5番地)の滝沢馬琴邸跡には、馬琴ゆかりの井戸が残り(上記写真右)、この井戸で馬琴が硯(すずり)に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」と呼ばれ、都旧跡に指定されている。
清河八郎(1830〜1863年)
1862年(文久2年)、清河八郎は将軍警護の名目で江戸の浪士を召し抱えるよう幕府に進言し「浪士組」を結成。京都へ上洛した。もっとも清河の真意は将軍警護ではなく、これを朝廷直轄の尊皇攘夷軍にすることにあったことから、清河に不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は「浪士組」を離脱。京都守護職の任にあった会津藩の預かりで「新選組」を発足させた。
一方、清河の「浪士組」は江戸へ帰還させられ、当時江戸取締の任にあった庄内藩(鶴岡17万石、藩祖は徳川四天王・酒井忠次)の配下で「新徴組」を結成。清河八郎の暗殺後は勤王色を一掃して庄内藩13代藩主 ・酒井左衛門尉忠篤の預かりとなり、江戸市中の警護にあたった。
ちなみに「新徴組」と「新選組」はともに「浪士組」から分かれた組織であるが、お互いに交流もあった。例えば「新徴組」隊士の中川一と「新選組」局長の近藤勇とはお互いに手紙で交流を続けていたし、「新徴組」のちょうちんには、有名な「新選組」の山形模様が描かれていたという(新人物往来社 『新選組史跡事典−東日本編』参照)。
当時、酒井左衛門尉忠篤は築土神社氏子内の牛込元飯田町に屋敷を構えており、慶応元年(1865年)尾張屋板江戸図(下図)によると現在の千代田区飯田橋1丁目に「酒井左衛門尉」の名がみえる(□)。「新徴組」は以後1868年(慶応4年)までここに屯所を置き駐在。「新選組」一番隊組長沖田総司の義兄・沖田林太郎も後に「新徴組」に入隊し、総司の姉ミツと共にここで暮らした。現在、同所には「新徴組屯所跡」の碑が立てられている。
近藤勇(1834〜1868年)
新選組局長 ・近藤勇は1860年(万延元年)28歳の時、築土神社の氏子である松井八十五郎の長女ツネ(当時25歳)と結婚した。現存する謄本でもツネの出自は「東京府飯田町士族亡松井八十五郎長女」となっており、ツネが同地で出生した可能性は高い。松井八十五郎は1847年(弘化4年)から1861年(文久元年)頃まで徳川御三卿 ・清水家の近習番をしており(『有司武鑑』参照)、ツネ自身も以前は一橋家の祐筆をしていたから、もともと百姓の血筋であった近藤より家柄は上であろう。
嘉永2年(1849年)近江屋板江戸図(下図)によると、現在の千代田区富士見1丁目3番地に「松井八十五郎」の名がみえる(□)。両者の結婚はお見合いであるが(『新選組余話』参照)、近藤勇は1851年、ここから徒歩15分程の所にある「江戸牛込甲良屋敷」(現在の神楽坂上付近)で試衛館を営む近藤周助の養子となり、当時からこの辺を頻繁に出入りしていたから、その頃に何かの縁があったとも考えられる。
ちなみに、ツネの実弟である松井徳太郎も天保11年(1840年)同所で出生。近藤勇の死後、新選組に入隊し、函館戦争にも参加している。
有栖川宮熾仁親王(1835〜1895年)
下の写真は戦災焼失前の築土神社拝殿を写したものである。画像が粗くて見にくいが、よく見ると拝殿奥の上部に「築土神社」と記された額が掲げられているのが分かる。これは有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が明治13年(1880年)2月築土神社を訪れた際、自ら筆をとり当社に奉納されたものである(昭和20年戦災で焼失)。
有栖川宮熾仁親王は天保6年(1835年)、有栖川宮家の第一王子として京都に生まれた。17歳のとき孝明天皇の妹 ・和宮(かずのみや)と婚約していたが、文久2年(1862年)政略結婚により、和宮は14代将軍家茂に降嫁。その後、倒幕を決定づけた戊辰戦争が慶応4年(1868)1月勃発すると、熾仁親王は「東征大総督」に任ぜられ、さらに明治10年(1877年)の西南戦争でも「征討総督」となり、明治政府軍の最高指揮官を務めた。明治28年(1895年)61歳で没。
ちなみに、徳川15代将軍慶喜の生母 ・登美宮吉子(とみのみやよしこ)はもともと有栖川宮家の出身で、熾仁親王は吉子の甥にあたる。そして吉子は後に水戸徳川家に嫁ぎ慶喜を産んでいるから、熾仁親王と慶喜とは、いとこ同士ということになる。
永倉新八(1839〜1915年)
新選組二番隊組長の永倉新八は1856年(安政3年)、築土神社氏子内の坪内主馬(つぼうちしゅめ :1830-1881年)の道場に剣術修行のため入塾した。坪内主馬は御小納戸(幕府の雑用係)・坪内主膳公武の嫡男で、最初「藤右エ門」、後に「主馬」と改名。安政5年(1858年)尾張屋板江戸図(下図)によると現在の千代田区富士見2丁目13番地に「坪内藤右エ門」とあり、ここが坪内主馬の道場である(□)。
永倉はその後、坪内道場で師範代を勤めたが、後の新選組伍長 ・島田魁(しまだかい :1826-1900年)も当時ここで修行しており、その縁で永倉と知り合って新選組に入隊した(現存する島田魁直筆の履歴書には確かに「心形刀流剣術免許済 元徳川藩坪内主馬門人」と記されている)。
和宮(1845〜1877年)
仁孝天皇の第八皇女である和宮(かずのみや)は、文久2年(1862年)に御付きの女官29人を連れて世継稲荷(築土神社末社)に参拝したと伝えられる(麹町区役所 『麹町区史』等参照)。
和宮はこの前年の1861年(文久元年)、有栖川宮熾仁親王との婚約を解消し、14代将軍家茂の正妻として徳川家に嫁いでいるが、この頃は討幕運動が最も活発化していた時代でもあった。当時、世継稲荷は「世を継ぎ栄える宮」として人々に深く信仰されており、ここに参拝した和宮も、徳川の世が引き継がれることを必死に願っていたのではないだろうか。
家茂は正妻の他に側室を一人も持たず、他方で和宮も体が弱かったため、結婚後家茂が1866年(慶応2年)に死去するまでの5年間、子宝には恵まれなかった。
和宮が世継稲荷を参拝したのは、皇室出身という和宮の身分に遠慮して側室を置かなかった家茂に対する、妻としての思いやりでもあろう。家茂のため、そして徳川家のため一途に子宝 ・後継者を願った和宮の切なる思いが伺える。
ちなみに『和宮御側日記』によると、家茂と和宮との間に子ができないことを心配した幕府重臣達は、和宮に懇願して家茂に妾を持たせることを同意させたという。
もっとも、家茂にその気はなく、また目にかなう適格者もいなかったことから、結局なにもないまま1865年(慶応元年)第二次長州征伐発令とともに家茂は京都へ上洛し、その翌年21歳で病死。
池田七三郎(1848〜1938年)
子母澤寛著 『新選組聞書』によると、最後の新選組隊士といわれる池田七三郎は、17歳の時、築土神社氏子内の「飯田町仲(中)坂下」にあった天野静一郎道場(流派は一刀流)に入門し、天野の推挙で、そのすぐ近くにあった飯田町二合半坂の旗本・永見貞之丞(助)宅に寄宿したという。ちなみに、天野静一郎は当時飯田町に屯所を置いていた「新徴組」の剣術世話役も勤めていたが、その後、明治4年3月に切腹自殺している(新人物往来社 『新選組史跡事典−東日本編』参照)。
天野静一郎道場の正確な位置は地図上では判明しなかったが、文久3年(1863年)尾張屋板江戸図(下図)によると、永見貞之丞宅は現在の千代田区富士見1丁目1番地に位置している(□)。池田七三郎は1867年(慶応3年)新選組副長 ・土方歳三が隊士募集のため江戸を訪れた際に入隊を志願。後に稗田利八(ひえだりはち)と改名し、昭和13年90歳の長寿で没した。
鳩山一郎(1883〜1959年)
終戦間近の1945年3月10日、東京大空襲により世継稲荷(築土神社末社)の社殿全焼。このとき当社駐在の山本岸太郎は妻の制止を振り切り、激しく燃え崩れる世継稲荷社殿へ飛び込んだ。遺体で発見された時、その腕には焼け焦げた世継稲荷の御神体が抱かれていたという。
1955年山本岸太郎十年祭の折、当時の総理大臣鳩山一郎氏の協賛により当社の境内に山本岸太郎の慰霊碑が建立された。慰霊碑には「山本社司之碑 昭和二十年三月十日戦災に御神体を抱持し此の地に歿す 十年祭に建立 世継稲荷講 総理大臣鳩山一郎書」とある。
鳩山一郎は1883年東京生まれ。1907年東京帝国大学を卒業後、弁護士、市会議員を経て、1945年日本自由党を結成し総裁に就任。1954年には日本民主党の結成に伴い総裁に就任し、第52代内閣総理大臣となる。1959年76歳で没。
田中角栄(1918〜1993年)
かつて牛込(新宿区)にありし頃の築土神社社殿は昭和20年戦災で全焼した。翌昭和21年8月20日、富士見町(千代田区)に移転し新社殿を竣工。以後昭和29年まで当社は同地に鎮座した。
下の写真は富士見町鎮座当時の築土神社社殿の写真であが、当社殿は、その頃、築土神社氏子内の千代田区飯田町2丁目(現・飯田橋4丁目)に住居を構え建築業を営んでいた田中土建工業(株)の社長 ・田中角栄元総理により無償で建立されたものである。昭和21年3月1日付の社殿設計図が現存するが、そこには確かに「田中土建工業」の名が見える。また、新社殿竣工に際し、築土神社宮司以下、氏子崇敬者から田中角栄氏宛に感謝状を贈ったとの記録もある。
田中角栄氏と築土神社との間にこのような接点が生まれた背景には、以下のような経緯がある。
田中角栄氏は大正7年(1918年)新潟県二田村(ふただむら:現 ・西山町)に生まれ、高等小学校卒業後上京し、昭和16年19歳の時に知人の紹介で千代田区飯田橋の建築業者 ・坂本家の住居の一部を借り受け田中建築事務所を開設。翌昭和17年、坂本家の娘”はな”と結婚し、以後、飯田橋を本拠とした。さらに昭和18年に建築業を拡大し、「田中土建工業」を設立。年間工事実績で全国50社に数えられるほどの急成長を遂げた。ちなみに、この頃から金銭の羽振りが良かったらしく、飯田橋から程近い神楽坂の花街に通い始め、そこで親密になった芸者との間に2人の男児(すなわち、田中真紀子氏の腹違いの兄弟)を設けている。
その後、昭和20年戦災で牛込の築土神社をはじめ、飯田橋周辺は一面焼け野原となったが、不思議なことに田中角栄氏の住居と田中土建工業の事務所だけは全くの無傷で残った。田中角栄氏はのちに、この時のことを、「その運の強さは神様の思し召しと思いながらも、世の中のために、私のなしうる何かをしなければならないと、心の奥で激しく感じた」と記している。
田中土建工業は、以後も、昭和38年3月に現在地の新宿区本塩町に移転するまで、ずっと飯田橋を拠点として活動。もともと土建屋は、地元に密着して事業を展開する傾向が強く、地元の氏神たる神社に対しても協力的なものだが、田中土建工業も氏神たる築土神社に対しては当初から非常に好意的で、前述した昭和21年の富士見町移転時のみならず、その後、昭和29年に築土神社が現在地(九段下)へ移転遷座する際にも多額の寄付金を納めたことが記録されている。 
築土神社 2   
旧村社
御祭神 天津彦火瓊瓊杵尊
配祀 平將門 菅原道眞
東京都千代田区にある。九段下駅の北、北の丸スクエアの奥に、ビルに囲まれた境内がある。
境内入口は北側。坂道の途中、ビルの前に鳥居が立っている。鳥居をくぐり、参道を歩くと立派な社殿。
妻入拝殿の後方には、コンクリートの神明造平入りの本殿がある。北の丸スクエアから見上げる本殿は、ビルの谷間に聳えて、異世界の趣がある。
社殿の右脇に、世継稲荷神社があり、社殿との間に力石。世継稲荷神社の脇に「山本社司之碑」が建っている。昭和の大戦で全焼する世継稲荷神社から、身を犠牲にして御神体を守った山本岸太郎を称えている。
世継稲荷神社の奥が社務所になっているが、ビルの一階の管理室のような雰囲気だ。
津久戸大明神、江戸明神、田安明神とも称された神社。
社伝によると、創祀年代は天慶三年(940)。藤原秀郷(俵藤太)に討たれて憤死した平将門の首が、密かに京都より持ち去られ、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現大手町周辺)の観音堂に祀られて津久戸明神と称したのが始まり。当初は血首明神と称されていたという説もあるらしい。
一般には、京都で晒されていた将門の首が京都から飛んできて将門首塚(大手町)の地に落ちたと伝えられているが密かに、江戸に持ち去られたとする当社の伝承の方が真実味がある。
太田道灌の江戸城築城後の文明十年(1478)、江戸城の乾(北西)に社殿を造営し、太田家の守護神・江戸城の鎮守神として厚く崇敬した。
天文二十一年(1552)、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に遷座。田安明神と称されて、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられていたという。
その後、徳川家康江戸入城の際に江戸城拡張により天正十七年(1589)下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在の飯田橋駅付近)へ、さらに元和二年(1616)には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町(現筑土八幡神社西隣)へ遷座し、築土明神、筑土明神と称した。
徳川幕府より崇敬された神社であったが、明治になって、朝廷に反逆した平将門にかえ、天津彦火瓊瓊杵尊を主祭神とした。
昭和二十年(1945)戦火によって社殿が全焼。翌年千代田区富士見へ遷座され、昭和二十九年(1954)現在地にあった世継稲荷神社境内に遷座した。
写真を撮り忘れたが、当社には繋ぎ馬を刻んだ天水桶があるらしく、繋ぎ馬に九曜紋を描いた絵馬が授与所で売られている。平将門と馬とは関連が深く、さらに平将門は相馬氏の祖にあたるとか。神田明神の社家であった柴崎氏や鳥越神社の鏑木氏も相馬氏の流れであるらしい。また、繋ぎ馬や九曜紋は、相馬氏の家紋であるらしい。繋ぎ馬は将門の馬から、九曜紋は将門を守護した妙見信仰からと思われる。
筑土神社 御由緒
天慶三年(九四〇年)二月十四日藤原秀卿に討たれた平将門公の首級は京へ運ばれ晒し首になっていた。
しかし陳没に間に合わなかった軍兵や知遇あった人々が残念がり諸方が騒がしく近国の役人にも同じ思いの者あって早速に京から首級を下げて貰って武蔵国豊島郡(とよしまごおり)上平川(現在の江戸城本丸近辺)の観音堂にその霊を斎い祀り津久戸明神と称したのがはじまりで、降って文明十年(一四七八年)太田道潅江戸城を修築せらるるや殊に当神社を尊崇し、同年六月を以って社殿を造営し、江戸城の鎮守又は太田家の守護神として祭祀を篤くせられた。
越えて徳川家康の江戸城に移るに及び城郭改修に伴い天和七年(一五七九年)二の丸普請の工を起し、当社はその郭内に入る為田安卿に替地を賜り遷座する。
この地は現在の九段北一丁目モチノ木坂附近より牛込門内に至る極めて広い境内を有していた。
当時はその地名を称して田安明神又は江戸明神とも称し世人崇敬の的となっていた。
然るに元和二年(一六一六年)後水尾(ごみずのお)天皇が外濠普請を起工するに当り更に新宿区筑土八幡町に遷座するの止むなきに至った。
その時津久戸明神を改めて筑土明神と改称した。
平将門は一般歴史に伝える如き大悪逆人でなかったとしても国家が特にその功勲を認め其の人格を尊崇し永久に祭祀すべき程のものとは云えまい。
東国での地方的国事を憂えた努力はあったが業績見ゆるまでには行かなかったものと思われる。
そこで明治七年(一八七四年)氏子の請願で国家祭祀の性質のある御祭神、天孫天津彦火瓊々杵尊を勧請し其の相殿として平将門之霊を祀る事となった。
それと共に筑土明神を筑土神社と改称した。
新宿区筑土八幡町に鎮座すること実に三百二十八年の長きに及ぶも、昭和二十年(一九四五年)四月十四日午前二時大東亜戦争の災に遭い社殿その他悉く焼失す。戦後の昭和二十一年九月千代田区富士見一丁目(現在の九段中学校地)に仮遷座、更に昭和二十九年(一九五四年)現在の地九段北一丁目中坂に遷座、今日に至っている。  
築土神社 3  
地図で確認すると、築土神社はビルの並ぶ区画のど真ん中に位置する。ビルの前に立つ鳥居から中へ入り込んでいく。そして神社は高層ビルに取り囲まれるように建っている。
この神社が今の九段に置かれたのは戦後の昭和29年(1954年)。それ以前は新宿の牛込辺り、そして江戸幕府ができる前は田安にあり(このころは田安明神と称していたらしい)、更に最初は上平川にあったという。とにかく都内各地を転々としている神社である。現在では本当に小社と言っておかしくない規模であるが、かつては神田明神・日枝神社と共に江戸を代表する古社であった。
神社の歴史を紐解くと、創建は天慶3年(940年)。平将門が討たれたその年に、その霊を祀るために建てられたのである。言い伝えによると、上平川に津久土明神としてできたのは、ここに将門公の首が落ちてきたためであるとのこと(つまり現在の首塚の場所に作られた社である)。実際、束帯姿の将門公の木像と共に “首桶”が納められていたらしい(戦災により現存せず。写真のみ残る)。
転々と移動している神社であるが、邪険に扱われているわけではない。田安に移したのは太田道灌であり、江戸城の裏鬼門の護りのためと伝えられる。また江戸幕府が移した理由も江戸城内の敷地になるためであった。そして戦後に今の場所に移されたのも、戦災で消失し、元の位置に近い場所に移そうとした結果であるという。 
築土神社 4  
社号 築土神社 (村社)  祭神 天津彦火邇々杵尊  相殿 平将門公
境内社 世継稲荷神社、天満宮大鳥神社
筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわり田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
築土神社の由緒 1
社伝によれば筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
築土神社の由緒 2
天慶三年(九四〇)江戸城内の武蔵国豊島郡上平川村に創祀され、津久戸明神と称したのがはじめで、のち文明十年(一四七八)太田道灌が当社をことのほか尊崇し、同年六月社殿を造営し、江戸城の鎮守または太田家の守護神として祭祀を篤くされた。こえて徳川家康公の江戸城に移るにおよび、城郭の改修に伴い天正七年(一五七九)田安郷に替地を賜い、遷座された。さらに元和二年(一六一六)外濠普請の起工により、牛込区筑土八幡町に遷座するの止むなきに至った。その時津久戸明神を築土明神と改称、明治七年さらに改めて筑土<築土>神社と称した。
築土神社の由緒 3
筑土神社  當社は元城内の三の丸の地に在つたが、天正十七年に牛込門内に移し、元和二年に再び今の地に移った。祭紳は八幡太郎だとも云ひ、叉諸書に大己責命を祭ると考證し、俗説には平将門の首を祭って、血首大明神と崇めたともいふ。『江戸名所圖會』に筑戸は次戸とも記し、次戸は江戸の轉訛であるから、當社は『武蔵風土記』に記す江戸神社であたうと言つてゐる。将門傳説は神田明神にもあり、同社は大己貴命と平将門とを合祀してゐるが、これについては『多祠元之進雄尊。土俗妄傳稱将門。凶賊破家惟此事。神宮何不解誣寃』(『垂加文集』)のやうな否定説、『神田社大己貴命之鎮座。将門之社者去本殿百歩許』(『神社啓蒙』)のやうな攝社攝などもあつて更に定説がない。けれども諸説によつて、神田明神と筑土明神の關係は、考ふべき問題であることはわかる。尚ほ津久戸明神は川越氷川明神と同體であるから、素戔嗚尊を祭つたものであると『永享記』や『中古治亂記』には記してあることも忘れてはならぬ。境内拝領地四千ニ百坪、昔は門前町屋があつた。将門首桶と稱するものを蔵して居り、其銘に『武蔵國江戸郷上平河村、天文壬子十一月十五日御せんくう之事』とある。
築土神社の狛犬
本狛犬は、台座部分もあわせると高さ1.5mほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町」「惣氏子中」「安永9庚子11月」との銘文が刻まれています。元飯田町というのは、現在の富士見1丁目および九段北1丁目あたりのことです。天正18年の徳川家康の関東入国ころより、中坂や九段坂の坂下一帯を飯田町と称していましたが、元禄10年(1697)の火災で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。
社伝によれば筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわり田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。 元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永9年(1780)には、筑土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。下飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証として本資料を奉納したのだといえます。
また、本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠」がのせられています。これは厳密な意味で前者を「狛犬」、後者を「獅子」と意識して区別したことの表れであると思われます。
区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの筑土神社の狛犬は、私たちに筑土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅に佇んでいます。 
   ■平将門の首塚

 

平将門の首塚 1   千代田区大手町
平将門の首を祀っている塚。将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)とも呼ぶ。 伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(地図)三井物産本社ビル傍にある首塚で、東京都指定の旧跡となっている。
かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
首塚そのものは江戸時代まで酒井雅楽頭の上屋敷の中庭だったが、関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
数十年にわたり、地元のボランティア団体が浄財を元に、周辺の清掃・整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。2019年(令和元年)現在、三井物産本社ビルの建て替えと再開発の為、首塚及び首塚の敷地全体に防護柵がとられている。
エピソード
築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。
そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に都市再開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去し造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたという事件である。
結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがあるが、そのような事実は特にない。
お笑い芸人の爆笑問題・太田光はブレイク前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂がある。
蛙の置物
首塚の境内には多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷になった会社員が元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられたものである。若王子事件以来、目立つようになったという。  
将門の首塚 2   
人物 
東国の武士だった。10世紀平安時代、京の都は飢えと夜盗を隣り合わせにしつつ雅(みやび)の世に浸っていた。その時来るべき武士の時代を体現したのが将門公だった。 
その半生は所領をめぐるファミリー内の争いで関東の地を駆け巡って過ごしたように見えるが、間違いなく新しい時代の到来の可能性を感じさせた。その反乱が中央を震撼させたのは、新しい勢力の巨大な力を感じさせたためである。 
武家出身で初めて最高権力者となった平清盛が、将門公を討った従兄弟の平貞盛(伊勢平氏の祖)の子孫であったことは歴史の皮肉といえよう。生年は一説では延喜3年(903)、10世紀初頭である。下総の国(現在の茨城県)に生まれる。父良将は陸奥鎮守府将軍。母は下総国相馬郡の犬養氏の娘。公の通称は相馬小次郎。幼少年期に母の里で過ごしたことをうかがわせる。公の一族は桓武平氏の祖・高望王の一門。高望王は平安京を開いた桓武天皇の曽孫、上総介に任ぜられ平姓を名乗ることになり東国に赴任(9世紀末)。土地の有力者と婚姻関係を結んで土着化する。将門公は桓武天皇5代の末裔ということになる。 
当時の有力者の子弟の習慣に従って京に上り、後の太政大臣藤原忠平の家人となって仕える。延喜11年(911)高望王、同17年(917)父良将死去。故郷に帰るが、そこでその後長く続く伯父国香、良兼らとの一族間の争いに入る。この間、公の妻が敵にとらえられ連れ去られる事件(結末については諸説)など曲折を経て、将門公が関東の有力者として立ち現れることとなる。争いは京に持ち込まれ公は上京して当局に主張を述べる。 
結局関係者の断罪はないまま国香、良兼の死とともに一族の争いは沈静化するかに見えた。しかし東国の実力者として名を馳せつつあった公の元に身を寄せた興世王、藤原玄明らの求めに応じて地域の紛争に介入、国司ら中央の権力機構と対立するようになる。勢いの赴くまま天慶2年(939)常陸国の国府を攻略、続いて下野に兵を進める。同年12月上野国の国府を落とした戦勝を祝う席で、史書によれば「新皇」を名乗る。 
反乱の報を聞き驚愕した京の朝廷は、翌天慶3年(940)1月公追捕の令と褒賞の官符を発す。長く公と敵対した国香の子平貞盛とそれに加勢する下野押領使藤原秀郷(俵藤太)らが公に戦いを仕掛ける。2月14日下総国猿島郡石井(現茨城県坂東市)の野で公は矢に当たり討ち死に。首級は京に送られ獄門にさらされた。 

「将門記」によれば平安京を開いた桓武天皇の五代の苗裔(びょうえい=子孫)であった。後に兵を起こした際、時の太政大臣藤原忠平に送った書状に「…帝王五代の孫なり、たとひ永く半国を領するとも豈(あに)非運と謂はんや(不思議ではないだろう、の意)」と宣言している。皇統の血筋に連なるということと勃興する関東の地の領袖であるというこの二点が、将門公を支えるものであったといえよう。 
公の生きた時代の関東は、新旧の土着勢力の間の確執、任地には赴かず遠くから収奪のみを心がけた中央の高官とその実行者たち、一方にはその対象となった農民、土地からの離散者、蝦夷地でとらわれた虜囚ムこういったエネルギーの衝突する世界だった。東国だけではない。このエネルギーの噴出として西国では藤原純友を見ることができる。しかし純友の乱と将門公とのいわゆる共謀関係は否定されている。 
父の残した下総の広大な領地が一族間の内紛を引き起こしたと見られる。公の事跡は当然のことながら下総、常陸が中心で、現在の茨城から千葉、埼玉に点在する。いまではベッドタウン化しつつある田園といったおもむきの景色の中に往時を思い浮かべるには想像力が必要だ。 
将門公と伯父の国香、良兼らとの争いは所領をめぐるものと見られているが、その一方で「将門記」は公と良兼との間には「女論」すなわち女性をめぐるいさかいがあったと記している。恋のさや当てかそれとも親(良兼)の許さぬ結婚(娘と将門公との)ゆえか、諸説あるがそれはさておき「将門記」に現れる将門公は争いに明け暮れるだけではない人間味を感じさせる人物である。宿敵貞盛(良兼の息子)の妻が争いの中でとらえられ公の部下により辱めを受けたことを聞くと、解き放つことを命じなおかつその身を案ずる(これも解釈はいろいろあるが)歌を一首詠じた。後の史家に、ただの草賊ではないの言があるのもうなずける。 

天慶の乱について。大日本史をはじめかつての史書は将門公を歴史の中でも第一の反逆者として扱っている。その言わんとするところは、明治7年、宗教行政を司る教部省(国家神道の総元締)が神田明神に対し将門公を霊神から完全に外すよう求めた言説に尽きるであろう。「謀反を起こした者はこれまでにもいたが、本当に天皇の位をうかがったのは将門ただひとりである(弓削道鏡ですら神勅を奪うことはできなかった!)」。確かに「将門記」によれば天慶2年11月上野国の国司を追い払った余勢を駆って「新皇」と自ら称すことになったとある。 
一方で歴史をたどれば、将門公の罪は公式に許されているのである。すなわち江戸初期の寛永2(1625)年将軍家光への勅使として江戸を訪れた烏丸大納言光広卿が神田明神を通りがかった際宮司に祭神について尋ね、宮司が「将門公であるが勅勘を蒙っているため700年余開張していない」と返答。卿は「勇猛な者ならば国家鎮守の役にも立とう」と後水尾天皇に奏上、翌年再び江戸を訪れた時に逆賊の名を除く准勅祭を行っているのである。 
このいきさつに関しては朝廷の徳川幕府への気配りが感じられるが、いずれにせよ皇国史観からしても将門公への非難は当たらないのである。にもかかわらずかくも公を敵視する人がいたということは、裏返しにしてみれば民衆の公への敬慕の念の強さを物語っているように思われる。実際、上に述べた教部省の見解も「衆庶」がかような信仰をなすことは捨て置けない、正さねば、と腹立たしげに述べている。 
「新皇宣言」については取り巻きにのせられたとの見方が一般的だ。親族間の争いの過程で力を広く認められた公の下に現体制への不平分子(アウトローでもある)が集まり、国家機関と衝突するうち勢いが余ってしまった、というのである。しかし解せない点もある。忠平に宛てた上申書では新皇について触れていない。文意は、自分には資格も実力もあるのだから(天下ではなく)これまでに奪った土地の領有を認めてほしい、と取れないこともない。天皇の位うんぬんは、中央の廷臣がつくりあげた虚構だとの説もある。 
論議はさておき、長く逆臣のそしりを受けてきたことは事実だから、それにもかかわらず篤い信仰の対象となってきたことに注目すべきだろう。 

将門公の事蹟についての後代の知識は「将門記」によるところが大きい。乱が終息して間もない天慶3年(940)の6月ごろに書かれたと見られている。原本は失われ残っているのは写本(主に2種類)で、それも冒頭部分は欠けている。筆者は不明。戦闘描写が詳しいところから東国にいた僧侶、公式文書を掲載している点からみて都の知識人、あるいは複数説などいくつかの説がある。平安朝の難解な漢文で書かれているが、現在は詳しい注釈付きの現代語訳も手に入る。 
謀反人として一方的に公を断罪するのではなく、その勇猛さあるいは心遣いなどを公平に記した部分もあり、現代人の共感を呼ぶ。単なる歴史文書ではなく、後世の軍記物の先駆けを成すとの見方もある。 
将門首塚 
地番は千代田区大手町1丁目1番1号、まさしく東京の中心。広さは約290m2、90坪ほど、鬱蒼とはいかないまでも樹木が生い茂り大都会の真ん中で異彩を放っている。西側は内堀通り、お堀を隔てて皇居東庭園、お堀の周囲はジョギングする人の姿が終日絶えない。西には大手町通りが走り、二つの通りを結んだ道に面して玉垣に囲まれた正面参道がある。敷地内には東京都、千代田区教育委員会など碑、案内板などがいくつかあり、由来はこれらに詳しい。「樅の木は残った」で知られる伊達騒動の主人公原田甲斐の終焉の地となった酒井雅楽頭の上屋敷跡でもあることが分かる。参道奥に建つ石碑は明治39年(1906)建立の「故蹟保存碑」。表書は昭和期の蔵相河田烈、撰文は渋沢栄一の女婿で建立時の蔵相阪谷芳郎、書は「平将門故蹟考」の著書があり塚の保存に尽くした史家織田完之。その記すところの大意は、明治となって大蔵省が置かれたこの地はその昔芝崎村と呼ばれ日輪寺という寺と(公の首を埋めたという)平将門の塚があった。徳治2年(1307)遊行真教坊が公に「蓮阿弥陀仏」の号を贈り碑を建てた。故事からもまた近代財政史の上でも重要な故蹟の地が忘れ去られないよう碑を建てる、といったものである。実際、明治の有力者が保存に意を用いたことにより塚の歴史は途絶えることなく今に続いている。真教上人が建てた板石塔婆は焼失したり盗難に遭ったりと転変を経てきたがその度に再建、いま見る表書は昭和45年(1970)遊行七十一世他阿隆然上人の筆になるもの。カエルの置物が多いのは、公の娘・滝夜叉姫がガマの妖術を使ったとのお話からの連想であろう。 

案内板には、将門塚、将門首塚と二通りの表記がある。 また石塔婆を建てた真教上人は時宗の僧で「蓮阿弥陀仏」は言うまでもなく仏式の号。一方で将門公は神田明神(神社)の祭神であり、毎年秋の彼岸中に行われる慰霊祭はおごそかな神式である。塚に参る人を見ても仏式あり柏手を打つ神式ありとさまざまである。もちろん決まりはない。この間口の広さも首塚の特徴である。 

織田完之が明治40年に刊行した「平将門故蹟考」には平面図とともに当時の塚の状況が記されている。 それによると敷地内には大きな池がありそのほとりに塚があった。樅の木、しいの木などの巨木が生い茂り昼なお暗く鬼気迫るものがあったという。 
塚の前に礎石が置かれその上に石灯籠が立っていた。板碑は紛失して行方知れず。また池の傍らには古い井戸があり将門公首洗いの井戸と伝えられていたとも書いている。 
ところで地図を見ると大蔵省の正門は大手町通りすなわち東向きに付けられている。塚もそちら側に向いて全体がつくられていたと思われる。 
現在、参道は南から北へ、板碑は西側を向いている。明治以降、この塚が幾多の変遷をたどったことがうかがわれる。 
首塚の歴史 
まずは塚の前史から始めなければならない。よく知られているように、古代には江戸湾は今よりはるかに内陸に入り込んでいた。現在塚のあるあたりは芝崎と呼ばれる海辺の寒村だった。 
房総半島の漁民がこの地に移り住み安房神社を建てた、といった専門的な考証についてはとりあえず置いて、ここでは神田明神の創建が社伝によれば天平、現在明神内に祭られている地主神の江戸、八雲神社(スサノオノミコトを奉祭)が大宝年間と、ともに8世紀であることを確認しておけば十分であろう。漁業の民の信仰を集める神社が古くからあった、ということである。 
10世紀、天慶の乱。戦いに敗れた将門公の体は、終焉の地に近い公の菩提寺に埋葬された。現在の茨城県坂東市の延命院である。寺のある地を神田山(かだやま)といい「(将門公の)からだ」が語源と言われている。延命院の境内には拓本から起こした真教上人真筆の石卒塔婆が建てられている。 
一方首級は京に運ばれ河原にさらされたが、公の無念やるかたなく空を飛んで東国に戻り、武蔵国豊島郡の芝崎に下ったという。思うに有縁の者が願って(あるいは無断に)首を京より持ち帰り、当時は当局の目も届かない芝崎の地に埋め、しばらくして遺体も合わせて埋葬、塚を築いて供養したのであろう。 
このときにつくられた神社が築土明神(現築土神社)といわれる。社伝によればこの地の井戸で首を洗い上平川村の観音堂で供養、さらに塚を築き祠を建てたという。首桶は秘宝として長く同神社に伝えられたが、関東大震災で焼失。しかし資料写真は残っている。 
築土明神はほどなくして後の江戸城内に移転、江戸城築城に伴い牛込に移り、地主神の築土八幡と社を並べたが第2次大戦で被災したため草創の地に近い九段中坂に移り、世継神社と同じ地に社を新設して現在に至っている。祭神は明治年間にアマツホコニニギノミコトに定め将門公は相殿。 
時代は14世紀鎌倉時代の嘉元年間、遊行二世真教上人がこの地を通りがかる。上人は念仏をもって仏教を民衆の中に浸透せしめるという時宗の祖・一遍上人の教えを受け継ぎ諸国を旅していた。この芝崎の地では飢饉、天災などに人々は苦しみ、放置され荒れ果てた公の塚のたたりではと言う者もいた。上人は公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈、ねんごろに供養するとともに村人の願いに応じ近くの寺にとどまることとした。寺を天台宗から時宗の念仏道場に変え(神田山日輪寺)、ここが塚の管理に当たるようになった。徳治2年(1307)に上人は秩父石の板石卒婆を塚の前に建て、2年後の延慶2年(1309)傍らの荒れていた社を修復、公の霊を祀って「神田明神」とした。 
さらに300年近い時を経て16世紀末、江戸の地に入った徳川家康は大規模な築城工事に着手、付近の寺社に転地を命じる。日輪寺は浅草芝崎町(現台東区西浅草)に、神田明神は神田山(駿河台)を経て湯島の現在地に移転する。 
神田明神は江戸総鎮守と認められ、将門公は江戸の守り神として信仰を集める。 
塚は手つかずのまま幕閣の有力大名に割り当てられた敷地いわゆる大名小路の中に残され、大老・土井大炊頭の屋敷の庭の一部となる。屋敷の主は江戸期を通じて十余人を数えるが、やはり伊達騒動の酒井雅楽頭忠清が有名。 
忠清以降も酒井雅楽頭が主人である時代は長く、邸内には将門稲荷がつくられ、鳥居、玉垣などが寄進されたという。また神田祭りの神霊渡御の際は神輿を屋敷の前に据え、神主が塚まで赴いて神事を行い神楽も奏されたと伝わっている。単に塚が存続しただけではなく、限定的ではあったが一般とのつながりも保たれていたことがうかがえる。 
明治に入り空気は一変する。 
国家の力を背景に神仏の分離など神社の純化、統制化を押し進める動きが現れるなか、神田明神は(明神そのものは神号ではあるが)神田神社へと名前を改める。将門公への風当たりは特に強く、公は明治7年(1874)祭神の座を降りて末社(将門神社)へと移った。三の宮として本社の祭神に復座するのは1世紀以上後の昭和59年(1984 )である。 
首塚はどうなったのであろうか。地図が示すようにかつての大名小路は官庁街となり、塚の付近には大蔵省、内務省といった枢要な役所の名前が見える。ここで上記の織田完之が登場する。織田は勤王の志士として活動、維新後は新政府に出仕、松方正義の知遇を得る。退官後は故蹟の保存に努め、首塚についても貴重な史料を発掘、保存している。 
故蹟碑の碑文が言うように「故蹟が滅び誰にもわからなくなってしまうのを恐れる」心からからの運動だったのであろう。徳川体制の遺物として取り壊されるかもしれなかった塚は、逆に保存の対象として歴史を刻み続けていくのである。 
大正期に大きな災厄が降りかかる。12年(1921)9月1日の関東大震災。大蔵省の庁舎は全焼、塚も崩れ落ちた。復興の過程で塚の学術調査を行うことになり11月、工学博士大能喜邦に依頼がなされた。その結果、地中から石の棺が見つかったが既に盗掘に遭っていたため塚は取り崩すことになり、池も埋め立ててその上に仮庁舎を建設した。 
昭和に入って2年(1926)6月当時の蔵相早速整爾(はやみ・せいじ)が病死、その他現職の職員からも10人を超える死者が出たほか政務次官が仮庁舎で転倒するなどけが人も続出、たたりではの声が起こり庁舎を取り壊したうえ鎮魂祭を行った。既に見たように塚とたたりへの恐れの結びつきは珍しくない。それよりも塚が忘れ去られ、なおざりにされそうになった時にこのような声が起こったことに注目したい。昭和15年(1940)6月20日。雨の中雷鳴が轟き、大蔵庁舎に落雷炎上する。ここでも塚との関連が取りざたされ、公の没後1000年にあたることから河田烈蔵相の指示で「壱千年祭」が行われる。また故蹟保存碑を新調し、表書は松方正義から河田烈へと変わった。 
第2次大戦の敗戦後、一帯はGHQが接収(大蔵省は移転、都有地となっていた)、駐車場をつくることが決まり工事が始まる。しかし墓のようなものの前でブルドーザーの運転手(日本人)が転落して死亡するという事故が起きた。 
そこでこの土地のことについて町会長に尋ねたところ塚の由緒が知れる。町会長ほか住民がGHQに「この地にとって重要な人物の墓である」と陳情、危ういところで工事は中止、塚の周りに柵が巡らされることになった。 
昭和34年(1959)に接収が解除され、都から民間に払い下げられる。塚は地元の管理となり、町会有志、関連企業が発起人となって史蹟将門塚保存会が発足する。 
36年(1961)植樹、玉垣つくりを含めた修復工事が行われ、東向きだった塚を西向きに改め、北側から参道を付けた。12月に慰霊祭を行う。 
高度経済成長の中、その後も変化は続く。北側にビルが建設されるため北参道を閉鎖することになり、また日比谷通りと内堀通りとを結ぶ道ができることに伴って土地を提供し、その新道に面した南参道を新たにつくる。ここで四方をビルに囲まれた現在見る姿となる。 
江戸以前  
ここで江戸時代の人間が描いた首塚および祭りなどについて眺めてみたい。 
取り上げるのは斎藤幸孝の著書である。幸孝は安永元年(1772)に生まれ文化15年(1818)に47歳で没。神田三河町一帯の名主を務め「江戸名所図絵」の著述、編纂に関わった。 
この書は幸孝の父幸雄の代に作業が始まり、幸孝の子幸成(月岑)の時に完成、天保5年から7年にかけて(1834-1836)出版。多くの図版とともに江戸の繁栄を伝える書として今も広く読まれている。 
幸孝はその一方でより身近な神田一帯の地誌、郷土誌も手掛けており、ここで取り上げるのはそちらの方である。 
「衢の塵(ちまたのちり)」は神田、「駿河台志」は駿河台を扱っている。神田明神旧地として首塚に言及している。 
直接見聞したものもあろうが、古老曰くといった伝聞さらにはうわさ話の類もあり厳密な考証ではないが、貴重な史料ではある。 

その前にまず左の図をご覧いただきたい。「家康入城のころ(1590)の江戸」と題した図は、鈴木理生氏の著書「幻の江戸百年」(筑摩書房刊)所載の図を基に彩色、作図させていただいた。当時の地形に現在の主な地名を重ね、あわせて今のおおよその海岸線も示した。 
注意されたいのは、将門首塚から下(南の方角)に延びる半島のような地形は房総半島ではない、ということである。これは「江戸前島(まえしま)」、現在の大手町から銀座方面へと突き出ていた陸地である。 
日比谷の入江は城の間近まで入り込んでいた。「江に面する地(戸)」という意味でこの入江の奥こそ江戸の地名発祥の地と著者は言う。であるならば、首塚は江戸そのものと言える。 
首塚のある場所は、海を渡って来た者が武蔵野の国に最初に足を踏み入れるに格好の地である。ここに房総に起源を持つ神社が建てられたことに不思議はない。ちなみに斎藤幸孝は平川(図で日比谷入江に流れ込んでいる川)を境に三の丸の地は江戸の郷、反対側(日輪寺)は神田の郷と言った、との古老の説を伝えている。図にある本郷台地の突端は神田山(当時何と呼ばれていたかは別として)となって海に迫っている。 
鈴木氏はこれまであまり触れられることのなかった前島に着目して、江戸の町づくりの跡をたどる。そこで非常に興味深いのが川あるいは広く水と町との関係である。 
図を見て分かるように、川の流れは現在とは大きく異なっている。江戸の町づくりの歩みは河川の流れを変え、運河をはじめとする水路を建設し、海を埋め立てた歴史と言っていい。目を大きく関東平野に向ければ、江戸期の歴史は利根川治水の歴史とも言える。 
先に将門公の本拠地下総を現茨城県と書いたが、平安期の関東の名称を現代の行政区分に当てはめることは、ほとんど意味がない。将門公の活動した現埼玉平野は利根川の水の中に所々乾いた土地が顔を出しているといった状態だった。そのような水と密接な関係を持った暮らしぶりは「将門記」の合戦場面からもうかがうことができる。 
では、大きく変わる江戸の町で首塚がどのように記憶され記録されたかを見てみたい。 
旧地での祭り 
幸孝は「衢の塵」の中で神田明神の旧地は一ツ橋御館の中にあり、隔年の神田祭の際は代々この屋敷前に神輿を据え、お神酒を供えることになっていると述べている。さらに「同旧地祭式」という小見出しを立て、その模様を詳しく紹介する。 
まず御館の中に椎(シイ)の木がありその下にしるし(社跡か)があったので、寛政4年(1792)正月25日に(神田明神)社司芝崎美作に命じてその古跡にあらたに社を立て神霊を鎮座奉った。以後、正月、5、9月25日には社司が奉幣の式を行った。古跡のほとりには小さな池が残っており、そこで魚を釣ることは禁じられていた。 
祭りの際は館よりも神馬二疋が引かれる。館の門より獅子舞が入り玄関まで進む、そこで先導の社家(神職)2人がとどめ、獅子は付き人の太鼓、発声とともに退出。その跡に神輿安座を設け、社家が屋敷の目付にその旨を告げる。二つの神輿が安座したところで神酒、白銀などが供えられる。 
時も宜しと社家が目付に(屋敷主人の)御代拝を申し伝え、用人がこの代拝を勤める。神主が奉幣拍手して用人は退座。神主は神慮平安に御着座あり目付に祝して儀式は滞りなく終了、神輿は立って門より出る。 
移転先 
幕府の江戸建設の進展により神田明神、芝崎道場は移転することになったが、その点についても幸孝は言及している。 
「衢の塵」では、神田明神は慶長8年(1603)に御城造営のころ駿河台・松平備前候宅の地に移ったが、元和2年(1617)に湯島の地に鎮座。芝崎道場は柳原(松枝町あたり)の南に移転、明暦の火事の後、浅草に移される、と述べている。 
また「駿河台志」でも移転先について触れている。神田明神が移った駿河台の地はどこであろうかと疑問を出した後、芝崎道場は今の戸田日向守邸の所であろうと述べる。さらに「紅梅坂辻甚太郎屋敷で先ごろ石室を掘り出した。中には髪と太刀があったとか。掘った者は狂気となってしまった。そこで元のごとく収めて、上に妙見社を勧請し、後に八岐彦と祝い、白川少将の額を与えた。この石室はもしかしたら神田の社地にあった墓ではないか」といった(うわさ)話も紹介している。いずれにせよ神田の郷で台といえるのは駿河台の甲賀町付近くらいで、神田山日輪寺(芝崎道場)というからには、このあたりにあったのであろう、といった意味のことを述べている。  
幸孝が載せている寛政4年の駿河台の図で該当すると思われる箇所をマークしてみた。もとより 厳密な話ではないのではっきりとしたことは分からない。当時の駿河台付近は、神田川が両岸を深くえぐって流れ、川に臨んだ崖は絶壁となってそそり立っていた。周囲の景観は大きく変わったが。その面影はお茶の水付近でかすかに偲ぶことができるように思える。  

紹介した記述を見ても、既に江戸時代を通じて土地や事柄についての記憶が薄れつつあったことが分かる。慶長から文化年間まで約200年、幸孝ら郷土誌家が古地図に当たってみても神田明神、芝崎道場(日輪寺)の移転の足取りはたどれなくなっていた。 
石室に関するエピソードは、取るに足らないうわさ話のように思えるが、首塚にまつわるさまざまな伝説のひとつと考えると、示唆に富むところがあるように思える。 
薄れつつある記憶がある一方で、一橋館での神事に見られるように連綿と続く人々の思いもある。神田明神の旧地という理由だけでは、江戸時代を超え現代までは続かないと思う。 

神田山日輪寺。最終的に落ち着いたのが浅草。かつては芝崎の町名も残っていたというが、現在の地番は西浅草。浅草ビューホテルのすぐ近く。周囲の建物の中に埋没してひっそりと建っている。注意深く探さなければ見つからない地味なたたずまい。石塔には「時宗檀林神田山日輪寺」とある。 
神田の起源 
神田という名称について少し考えてみたい。既に述べたように真教上人が荒れていた公の塚と傍らの祠とを整え、つくったのが神田明神である。神田明神はその後場所を変えたが名前はそのままに残り、湯島の現在地に至り江戸の総鎮守となった。将門公と深く結びついた神田という名称(地名)は江戸・東京を代表するものとなったのである。 
しかし、そもそも神田という地名はどこから来たのか? 神田明神があったからその付近が神田と呼ばれるようになったのか。それとも逆に神田という地に塚、祠があったから上人は神田明神という名を与えたのか? 文政2年(1826)に記された「神田山日輪寺寺伝」は「(上人は)境内の一社荒れ果てたるを修復し、(将門公の霊を)これに配祀し、神田一郷の産土神として隔年祭礼を怠らず。今の神田明神是なり」と書いている。霊を祀った際に「神田明神」という名としたのかどうかは、この一文だけでは判断しがたい。 
神田の地名起源に関しては二つの説に大別できる。 
からだ 
ひとつは将門公の「からだ」という音から来たもので、時とともに音が変化して「かんだ」となったという説。 
享保15年(1730)刊の「江府神社略記」は、将門公の首を追って体が常陸の国から武蔵国豊島郡に至り倒れたが、その後妖怪が出没して人民を悩ませた。「是将門の怨霊の祟りなりと謂うに因りて、郷民等一社の神と祭りて体(からだ)大明神と号す。後に神田(かんだ)と改むと云う。」と記している。「からだ」が「かんだ」になったという説明は、これより前の元禄7年(1694)刊の「増補江戸咄」にも載っているという。 
この説は、公ゆかりの地(本拠地)である下総国岩井、現茨城県坂東市周辺にある地名や寺社名と密接に関わっている。猿島郡にあった神田山(かどやま)村は加戸山または一作門山(まさかどやま)」と称することもあった。現在は坂東市岩井町となりその名称は残っていない。 
一方、神田の字を残す坂東市神田山(こちらも「かどやま」)の延命院本堂の北側には公の死後その体を埋めたといわれる「胴塚」(将門山ともいう)があり信仰を集めている。「からだ」から「かんだ」という音の変化は、まずこの地で起こり、中世に芝崎の地で将門公の霊を祀る社を整える際にその名称を引き継いだということは十分考えられる。 
みとしろ もう一方の説は「神田」は「みとしろ」すなわち伊勢神宮(大神宮)に初穂を供える田である「神田(しんでん)」があった所というものである。享保17年(1732)刊の菊岡沾涼著「江戸砂子」に見られる。著者は足立郡にも神田村という地名があり「みとしろ」が武蔵国の各地にあったことを示すといったような説明をしている。これに対して古代、中世の芝崎は海(入江)に面した地であったことは間違いなく、大神宮の御料になるような良田があったはずがない、との反論がある。「江戸砂子」が人気を博したことからこの「みとしろ」説は普及し、斎藤月岑の「江戸名所図絵」にも受け継がれている。 
興味深いのはこの説が、上に述べた茨城県の地名にも適用できることである。平凡社の「日本歴史地名体系」(1982年刊)の茨城県編を見ると、神田山村は古代、中世には伊勢神宮領相馬御厨に含まれていたと見られ、村名は神宮の「神田=しんでん」に由来するのではないかと記載されている。そうだとするならば、話は大きく一回転し「からだ、かんだ」の音が岩井から芝崎へと伝播したとしても、ルーツは「みとしろ」ということになる。しかしながら、語源がどうであれ岩井の人々が「かんだ」と読める「神田」の字に将門公の「からだ」の音、イメージを重ね合わせていたことは疑いないように思える。 
神田の歴史 
ここで別の資料を見てみよう。昭和13年(1938)に出版された東京市役所編の「東京市町名沿革史」である。 
「神田区」の項を見ると、神田には古くは韓田の表記があったことを記し、さらに「江戸記聞」を引用して古代には「神田=みた」があった所と、みとしろ説を採用している。  
この書の特徴は「神田」の語を文献史料の中にたどったころにある。まず、13世紀末から14世紀にかけて成立したとされる「吾妻鏡」の中に神田三郎なる人物の名が見える。この神田氏は平将門の後裔か、あるいはこの地に長く住んでいたため地名を氏の名にしたのではないか、と「沿革史」は公との関係にも触れて推測している。 
15世紀室町時代、太田道灌の歌集「慕京集」に「神田の社にて読める」の語が見えるが、この書には疑義があるとしている(どの点かは不明)。一方、16世紀半ばに成立、小田原北条氏配下の武士たちの所領について記した「小田原役帳」の中に、太田新六郎の知行として「江戸神田の内新掘方六貫五百八十文ノ」との記述があることから、この時点で神田の名称があったことは間違いないとする。 
さらに下って16世紀後半の天正年間の文献「天正日記」18年の条に「神田の台」の語が散見され、神田が地名として定着していたことは明らかと述べている。天正18年(1590)8月1日江戸に入った徳川家康は町づくりに着手、神田の台は湿地埋め立てのため取り崩され、後の駿河台となる。いずれにせよ、家康入府のときに地名・神田は存在していたのである。 
祟り 
将門公に関する言い伝えは多くの読み物、芝居の中で取り上げられ、庶民の心の中に「将門像」を形づくってきた。歴史上の人物・平将門とは当然異なるが、人々が将門公に託した思いをうかがい知ることはできる。もとより仔細な検討は手に余るので、ここでも史書に表れた将門公の言い伝えをいくつか拾い上げ、あわせて今も語られることの多い祟りについても考えてみたい。 
鎧と兜 まず鎧と兜、武具の名を冠した二つの神社を訪ねてみよう。どちらも将門公との関わりを今に伝える。 
北新宿3丁目の鎧神社は日本武尊が鎧を納めたことを縁起として神社名がついたという。将門公の縁者が鎧を納めたとの言い伝えも残る。さらには、公を討った藤原秀郷がこの地で病を得て、祟りではないかと思い公の鎧を奉ったとの伝説もある。境内に立てられた同神社の説明板にはこの3つの説が並んで載せられている。 
いずれにせよ同神社は日本武尊とともに将門公を祭神とし、柏木、淀橋地区の産土神として信仰を集めてきた。兜町の地名の由来である兜神社は東京証券取引所の近く中央区日本橋兜町1丁目にある。同神社世話人会のパンフレットによれば、江戸時代、楓川の鎧の渡付近に将門公を祭った鎧稲荷と兜塚があり、地元の鎮守として漁民の信仰を集めていた。 
明治以降、幾多の変遷を経て鎧稲荷と兜塚は兜神社となり証券業界の守り神となった。祭神の主神は商業の守護神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。 
境内にある兜岩の言い伝えには源義家が兜を埋めたというもののほかに、将門公の首を兜に添えて持ち来った藤原秀郷が兜を埋めて塚となしたという説も紹介されている。 
巨大化 
「将門記」では公の最期は、矢に当たって倒れ、首は京に送られて獄門にさらされたと書くにとどまる。しかし、京を震撼させたこの大事件は、人々の想像力の中でさらに巨大化していく。 
将門公の首に関する伝説の典型は「太平記」に見ることができる。軍記物の古典とされるこの書は、室町前期14世紀中ごろから成立したとされ、南北朝の動乱を主題としているが、将門公の首に関する記述は巻16「日本朝敵事」にある。概略は次の通り。 
俵藤太に(2月に)切られた公の首は3月まで色変ぜず眼もふさがず、常に牙をかんで「わが五体はいずれのところにかあらん。ここに来たれ。頭(くび)ついで今ひと軍(いくさ)せん」と夜な夜な叫ぶので、恐れおののかない人はなかった。そこに通りがかった者が「将門は米かみよりぞ斬られける 俵藤太が謀(はかりごと)にて」と詠むと、首はからからと笑い、眼をふさいでついに朽ち果てた。 
江戸時代に刊行された歴史読み物「前太平記」では、このエピソードに続いて、こう記す。 
「それでも東国が懐かしかったのであろう、首は空を飛んで帰り武蔵の国のとある田の辺りに落ちた。それより毎夜光を発し、人々の肝を冷やさないではおかなかった。稀代のくせ者であるだけにどんな祟りをなすやもしれないと、その場所に祠を建て神田明神と祝い祀ったところ、怒りも鎮まったのか、その後は何事もなくなった」。 
ところで通りがかりの者が詠んだという歌である。その後も多くの書に引用されて今に伝わっている(「斬られける」が「射られける」というバージョンもある)。その意味は現代人にはいささか分かりにくいが、要するに「米」「俵」「はかり」が縁語になっている、いわば言葉遊びである。 
この歌に関するエピソードは「太平記」以前の史書にも登場、人々の間でよく知られていたことをうかがわせる。源平の争いを描き、鎌倉時代(12-14世紀)に成立したとされる「保元」「平治」物語のうち「平治物語」中の巻、源義朝の首が京で獄門にかけられた場面。過去の例として将門公の首のエピソードと共にこの歌が引用されるのである。その一節では、詠んだのは「藤六といふ歌読」ということになっている。岩波書店刊の新日本古典文学大系の注によれば、藤六というのは滑稽な歌を詠む人間の一般名称との説が載せられている。確かに、義朝の首に添えられた歌も滑稽(むしろ悪趣味といいたい)なものである。そこで「太平記」の将門公の首の場面を読み返してみると、機智に一本取られた首が引き下がるという、読者の笑いを取るための場面ではないかと思えてくる。「平治物語」では「義朝の首も笑うのではないか、とうわさした」と結んでいる。 
切られた首に対する人々の恐怖は、多くの史書にうかがえるが、それに関するエピソードは、現代の感覚では、おおらかな怪異譚といった趣きである。俵藤太にしても、もともと田原という地名を姓にしていたが、ムカデを退治して龍神から与えられた俵が使えど使えど中身が尽きないところから俵と呼ばれるようになった、という民話的世界を背景とした人物として立ち現れる。。 
将門公の祟り伝説を考えるとき、日常と超自然がいわば混然一体となった世界に生きた人々の心情に思いをいたさなければ真の意味は理解できないように思える。 
イメージ 祟りの話に移る前に、当時の人々が思い描いた将門公のイメージを史書に見てみたい。  
「保元物語」 
その昔承平のころ(原文のまま)、平将門が八カ国を討ち取って都へ攻め上がるというので、諸山では将門討伐のための祈祷が行われた。天台の座主・法性坊大僧都尊意は、比叡山大講堂で不動安鎮国家法を修したところ、弓箭を帯した将門が炎の上に現れ、ほどなく討ち取られたーと比較的シンプルに記している。これが「太平記」では、概略「平将門は、その身、鉄身で矢も剣も歯が立たない。そこで諸卿は詮議して鉄(くろがね)の四天王を鋳(い)奉って比叡山大講堂に安置。四天合行の法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋降って将門の眉間に立った」と、劇的に盛り上げる。 
「前太平記」は、これらをミックス、他の要素も加えてさらにドラマチックに仕立て上げている。 「将門記」の中で公の最期を描いた場面に次の一節がある。「ついに琢鹿(たくろく)の野に戦いて独り蚩尤(しゆう)の地に滅びぬ」(漢字の表記には異同がある)。蚩尤は中国古代の書「山海経」などに見える神話世界の人物。銅の頭に鉄の額、人の体に牛の蹄、角があるといわれる。雨、風、霧などを巻き起こす力を持ち、兄弟と共に天帝である黄帝と戦い敗死した。もちろん将門公を直接描写したわけではなく、その運命についての比喩ではあるが、いわば人間離れした力の持ち主というイメージは後世の将門像形成に影響を与えたことは間違いない。そうでなくとも、情報(ビジュアルの面で)の乏しかった古代、はるか離れた東国を瞬く間に席巻した武将の人物像が京の人々の間で、人間離れしたものへと肥大化していくことに不思議はない。ましてや、その首がさらされた時の興奮はどのようなものであったか想像に難くない。 
 
江戸後期、天保12年に刊行された絵草紙「源氏一統志」(松亭金水著)は「洛中の貴賎是を見んとて、群集すること、あたかも蟻の途渡(とわた)るに似たり。」と表現している。 
現代のように、さまざまなメディアを通じて人物のイメージに接することのできなかった時代に、生身の体(その一部)が持っていた力を感じ取らなければ、伝説の多くは理解できないように思える。 
祟り 
神田山日輪寺の寺伝はこう言う。 
承平の乱(まま)の後、所縁の者の所為であろう(芝崎の地に)平将門の墳を築いたのだが、星移り物換わりいつか塚は荒廃し花を手向ける者もなくなった。よって凶霊祟りをなし、病災、天災、枚挙にいとまなく大いに村民を悩ました。村民は恐れおののきながらも逃れる術もなく空しく歳が過ぎた。 
ときに嘉元年間、遊行二世他阿真教上人が東国に教えを広めに来られ、この地に至った。村人は上人に凶霊をなだめんことを乞い願い、そこで上人が法号を授与し供養回向したところ霊魂の祟りは退き、死に向かっていた者もことごとく回復した。 
もとより寺の立場から書かれたものではあるが、塚に関わる祟り、言い伝えの基本的なものである。江戸幕府が文政年間(19世紀初め)に町々の旧事・伝承を報告させ、それを基にまとめた資料文書「御府内備考」(正続)にも、塚の祟りについての記述はあるが、ほぼ寺伝と同様である。言い伝えの中で、古いところでは、天暦4年(950)、すなわち将門公敗死の10年後、首塚が鳴動、光を発し異形の武士が現れたという怪異なものもある。 
ところで寺伝に見られるような祟りの話は、明治以降の怪談的な祟り物語とはかなり印象が異なる。そこから浮かび上がるのは、塚の荒れるのを嘆き(もちろん恐れ)ながらも、霊を鎮めるためのしかるべき人物、徳の高い人物が現れるのを待っている人々の姿であるように思える。祟りはその願望の裏返しの表現ではないか。 
菅公 
 ここで菅原道真すなわち菅公の祟り伝説と比べてみたい。「将門記」では将門公に皇位を授けるお告げという重要な場面に菅公の霊が登場する。将門公と菅公になにかしら共通のものがあると、人々が感じていたことをうかがわせる。しかし、祟りという点で見た場合にはどうであろうか。菅公の怒りの雷は内裏を直撃する。菅公を陥れた(とされる)藤原時平の子孫は早逝する。すなわち祟りは、直接に対峙した者(その子孫)に向けられる。将門公を討った平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)に目に見える祟りはなく、子孫も繁栄した。秀郷の息子・千晴は謀反に連座して流罪となったが、これは祟りとは関係ないであろう。また、鎧神社の伝承に秀郷が、自らの病は将門公の祟りではと思ったとあるが、これも菅公のすさまじい怒りに比べれば祟りと言えるほどのものではない。 
将門公の祟りといわれるものは、公に害をなした者に関することではなく、塚が荒れ、魂が鎮まらないことに関するものだ、という点が特徴であるように思える。 
八所御霊 寛永年間(17世紀半ば)江戸にやって来た公卿の大納言烏丸光広卿が神田明神に足をとめ、将門公の勅免についてとりなそう、と請け合ったエピソードがあるが、その際に言及したのがが「八所御霊の例もあるので」ということだった。八所御霊は伊予親王(桓武天皇の皇子)、橘逸勢ら主に謀反の疑いで処罰され、その後冤罪と認められ許された高位高官の人物の魂を鎮めるために祭ったものである。もちろん菅原道真公も含まれる。 
しかし将門公の場合は、謀反の疑いをかけられたが後に冤罪と分かったというものではない。天皇の位を望んだか否かについては異論があるが、中央に対して(結果的にであれ)反乱を起こしたことは公自身、上申書の中ではっきり認めている。 
勅免の後、明治に入って朝敵論がむし返された所以でもある。公のこの世に残された思いは、疑いをかけられ、あるいは陥れられた無念さではなく、史書にあるように「今ひとたび戦をせん」というものであったろう。怨霊、祟りといったことを考える際に参考になるように思う。 
明治以降の祟りについては、時代が近いだけにより具体的なものとなり(いわゆる犠牲者の名前も特定されている)、マスコミの発達により話が増幅され広まっていった。それは今も続いている。いわく、ビルの谷間に塚が残っているのは、大企業といえども触れるのを恐れているからだ。現に、しかじかの不可思議な出来事があった…。これらの話を面白半分に受け止める者もいれば、まじめにとらえる者もいるだろう。受け取る者の自由である。ただ、将門公の祟りといった話は広く知られているだけに、これだけは確認しておきたい。 
祟りが怖いから塚には手を触れないというのであれば、祟りを恐れない時代が来た時に(そう遠くはないかもしれない)塚の命運は尽きるであろう。一方で、塚が荒れ、あるいは潰されそうそうになるなど危機に瀕したときに、塚の存続を願う人々の危機感が祟りを現出させるのだとするならば、塚はまだまだ今の場所にあり続けるだろう。 
平将門首塚 3  
この首塚の祟りは周知のごとく凄まじい。かなり信憑性のある記録に残っているのでは、関東大震災後に大蔵省が首塚を潰して仮庁舎を建てた直後に大臣以下14名が死亡した件。そして終戦後にGHQがブルドーザーで整地中に事故が起こり死傷者が出た件。いずれもその祟りぶりは凄いものがある。
そしてオフィス街にまことしやかに噂されるのは、首塚に尻を向けた格好で机を配置すると祟られるという話である。また塚の供養を怠った企業は何らかのトラブルに巻き込まれるという話もある(首塚の隣りにあった某銀行が20世紀の終わりに破綻したのは祟りだという噂まであるらしい)。
関東で兵を起こした将門は藤原秀郷・平貞盛に討たれ、その首は京都四条河原に晒された。ところが、その首が「今ひとたび一戦を」と声を立て、三日後に自力で東国へと飛んでいったのである。そして武蔵国芝崎村にてとうとう力尽きたのだが、その首が落ちた場所がこの地である。住人が首が落ちた所に塚を作り、祀ったという。首塚の碑の後ろにある石灯籠の辺りが塚のあった場所と言われている。
この首塚の脇には蛙の置物がおかれている。将門が蝦蟇を自由自在に操ることができるということで、願いが叶うとお礼に置いていくという。そしてひときわ大きな蛙の一つであるが、誘拐された某商社のマニラ支店長が解放された直後に、真っ先に奉納したものであるという。ちなみにこの商社は首塚の隣にあり、首塚の街灯の電気代をずっと負担しているとのことである。 
■新宿区

 

鎧神社 1   新宿区北新宿
御祭神 日本武命 大己貴命 少彦名命
配祀 平將門靈神
東京都新宿区にある。中央本線の南側、東中野駅と大久保駅の中間あたりに鎮座。境内入口は東向きだが、やや南寄り。となりに保育園がある。
鳥居右脇に「鎧神社」と刻まれた社号標があり、左手に境内社の天神社。天神社社殿の左右にある狛犬は、珍しい「狛犬型庚申塔」で新宿区指定有形民俗文化財になっているらしい。
鳥居をくぐると広い境内。左手に手水舎、右手に神楽殿があり、正面に社殿。拝殿は入母屋造の木造だが、後方の本殿はコンクリートの流造。
御朱印の日付にある通り、当社への参拝は2011年3月11日の午後。参拝時は晴天の青空だったが、参拝後から曇り始め、次の参拝目的地・水稲荷神社を目指し、高田馬場に到着した頃には曇天。参拝後にて早稲田通りを歩き駅前で信号待ちをしている時に、東日本大震災に遭遇。揺れはおさまったが電車は運休。池袋まで歩いたが高速バスも運休し、長野に戻れなくなった。
創祀年代は不詳。醍醐天皇の御宇、円照寺が創建されたようで、その時期に円照寺の鬼門鎮護の神祠として祀られたと考えられる古社。
通称は、鎧さま。江戸時代までは鎧大明神と称し柏木村の鎮守として崇敬された神社。
「鎧」の社号は、日本武尊東征のみぎり、甲冑六具を当地に埋めたことによると伝えられている。
また、天慶三年(940)平将門公下総猿島で亡ぶにおよび、土俗これを追慕して天暦のはじめ、将門公の鎧もここに埋めたとも、さらに、藤原秀郷(俵藤太)が病を得て円照寺薬師如来に参詣し、将門の祟りを恐れて鎧を埋めたところ病が平癒したとも伝えられている。
いずれにしろ「鎧」を埋めた地。「鎧」を埋めた行為が何を意味するのかわからないが、戦いの終焉宣言、亡くなった者への鎮魂、祟りの回避などが目的だったのだろうか。
明治になって、朝廷への謀反人である平将門の霊は末社に遷されたがその後、本社へ戻されたらしい。
本殿の左手(南側)に、稲荷神社、三峯神社、子の権現を合わせた境内社があるが小祠は二つ。
御朱印をいただいたが、当社の旧社格を聞き忘れた。各社の社格の記載がある『神社名鑑』には当社は載っておらず『全国神社名鑑』『東京都神社名鑑』には社格の記載はない。
鎧神社縁起
醍醐帝の御宇(八九八年−九二九年)、理源大師徒弟、筑波の貞崇僧都、行基作と伝える薬師如来像を此地に安置すとあり、これが円照寺の創建と考えられるので、同じ頃、寺の鬼門鎮護の神祠として祀られたのが神社の初めで、後世土地の産土神社として尊崇されて来たものである。
旧記によれば柏木本村および青梅街道南側の淀橋町、更に成子町をふくんで鎧神社の氏子地だったのだが、昔時、神社の摂社である天神社(北新宿四丁目柏木公園の地にあった)を成子町に移してまづ成子地区が分立し、明治維新以後淀橋町南側はもともと角筈字地だったので熊野神社氏子地となり、柏木本村のみを氏子地として現在に至っている。(西新宿七丁目の七番地の地区及び北新宿全部)このあたりはもと春日局の所領の地で石高は三百石ほどと記されている。村の中央(北新宿一丁目付近)に春日とよぶ字が残っていたがこれは局の下屋敷跡で、死後は菩提寺、湯島の麒祥院持となっていた。明治中頃まで高燥で肥沃な土地に植木を培養するもの、又東京市中へ鬻ぐ野菜を耕地するものが多かったが、日露戦役以後は人口遽に増加して畠地に家屋敷建ち、商家店頭を飾り大正の初め戸数一千余戸を数えたという。
このあたりを柏木と云うのには諸説があるが、昔、京の人に柏木右ヱ門佐頼季という官人が罪をえて此地に遠流し、中野の郷に住んでいた折、円照寺内に桜の木一本を植えたのが、後立派な名花となるに及んで、人々右ヱ門桜と呼んで近隣に名をあげた。これにちなんで此処を柏木右ヱ門佐の姓をとって柏木と名づけたという。(小田原北条家の所領中に柏木の地名が既に記されている)
当社は江戸時代まで鎧大明神と称し、此あたりの古社として人々の尊崇をうけて来たが、この鎧の社名は伝説によれば、日本武命、御東征のみぎり甲胄六具の内を此地に蔵めたことにより、この社名起ると伝えている。下って天慶三年(九四〇年)関東に威をとなえていた平将門公、下総猿島に亡ぶるに及んで、士俗の之を追慕して天暦(九四七年)の始め、将門公の鎧も亦此処に埋めしという。又一説によれば藤原秀卿重病を得て悩み苦しんでいた時、たまたまこの地に至り薬師如来を本尊とする円照寺に参詣した所、将門公の神霊の祟りなるを恐れ、寺内に公の鎧を埋め厚く一祠を建ててその霊を弔いしに、病ことごとく癒えたという。それを聞いた里人たちその神威のあらたかなるを恐れ畏み、以後村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけて来たと伝えている。
日本武命は十二代景行天皇の皇子で本名を小碓皇子と云う。十六歳で勅命により常陸、武蔵、甲斐等を歴遊しての帰路尾張にて病を得、能褒野に至って薨去された。その折みたまは一羽の白鳥と化して天に上られたと記されるなど、大己貴命は有名な大国主命の若い頃の御名前で出雲の国づくりに又いなばの白兎の説話にみられるように仁の神様である。
少彦名命は神産巣日神の御子で天上より大国主命の国づくりに参画した神様で、身体は大変に小さかったが、知恵すぐれ、大己貴命とともに医薬、殖産の神として広く尊崇されている。智の神様である。
また平将門公は桓武帝五代の子孫で、亡父の遺領のことで伯父たちと争ううち、戦いはいつか拡大して叛乱となり関東一円を治めた。のち藤原秀卿によりうたれたが、藤原貴族政治の地方民への圧迫と、藤原一門の権勢に反感をもつ地方豪族の共鳴を得た将門公の統治は、民衆の味方として、死後もその霊を畏れ尊び、関東の各所には公を祀る民衆の神社が多く創られて来た。  
鎧神社 2  
御祭神
当社では、4柱の神様をお祀りしております。
日本武命やまとたけるのみこと
十二代景行天皇の皇子で、本命を小碓皇子(おうすのみこ)と言います。十六歳の時天皇の命により、九州の熊襲(くまそ)、東国の蝦夷(えぞ)を討伐しました。その東征の帰りに、尾張(愛知県西部)で病気となり、能褒野(三重県)で薨去されました。その時、みたまは一羽の白鳥となり天に上られたと伝えられます。 日本神話のヒーローとして知られる、「勇」の神様です。
大己貴命おおなむちのみこと
大国主命の別名を持ち、国づくりの神様として、また出雲大社の主祭神として広く知られています。神仏習合においてはだいこく様として崇敬を集め、国土開発、夫婦和合、医療、縁結びなどに大きな力を発揮されます。因幡の白兎の説話に見られるように「仁」の神様です。
少彦名命すくなひこなのみこと
神産巣日神の御子で、天乃羅摩船にのって波の彼方より大己貴命のもとに来訪し、国づくりに参画した神様です。身体が大変に小さく手のひらにのるほどと伝えられますが、知恵が非常にすぐれ、神仏習合ではえびす様として知られています。大己貴命とともに医薬、殖産の神様として広く尊崇される「智」の神様です。
平将門公たいらのまさかどこう
恒武天皇五代の子孫で、延喜3年(903)に生誕。父の遺領をめぐって関東東部に起きた平氏一族の抗争は拡大し、やがて将門公は関東一円を治めるにいたります。朝廷からの関東の独立を目指し、「新皇」を名乗りましたが、ついに藤原秀郷により討たれてしまいます。民衆の味方として敬われた将門公は、死後も多くの人々の崇敬を集めています。
伝説の社の歴史
当社の創建は、約千百年前に遡ります。 醍醐天皇の時代(898〜929)、理源大師の徒弟である 筑波の貞崇僧都、行基作と伝えられる薬師如来像がこの地に祀られ、円照寺が創建されました。 当時は神仏習合といって、神社とお寺が密接につながっていた時代でした。 その際、寺の鬼門鎮護のため当社が創建されたと伝えられています。
また創建以前から、この地は一つの伝説が伝えられていました。 それによると、武の神様として名高い日本武命が天皇の命によって東国の平定に向かったとき、当地に甲冑六具を蔵めた(しまいかくした)というのです。
鎧にまつわる話はこれだけではありません。 天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。
また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったと言われます。 それを聞いた人々はその御神徳に恐れ畏み、以後、村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけてきたと伝えています。 これらのことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられています。
伝説の社として、今も静かに人々の暮らしを護られています。 
鎧神社 3   
平将門公の鎧が眠るという
鎧神社には平将門公が使用したという鎧が境内に埋められているという伝説が残ります。江戸時代までは「鎧大明神」と呼ばれ、柏木村の古社として人々から尊崇されていたと言います。この社が鎧神社と名付けられたのは、ヤマトタケルが東征の際、甲冑六具をこの地に奉納したことに由来すると言われています。現在は境内の敷地に保育園も開設されている都内の神社となっています。
鎧神社 4   
ここの由来はその名の通り“鎧”である。ただ神社の由来書によると、第一の説としては日本武尊がこの地に甲冑を納めたこととしている。しかしながら、歴史的な事実として天暦元年(947年)に平将門の鎧を納めた記録があるらしく、こちらの方が有力な説であるように感じる。
地元の人々が将門の威徳を慕って鎧を納めたのが始まりとする説もある一方で、藤原秀郷が残党狩りをしている最中ここで不意の病に倒れ、将門の霊を鎮めるために将門の鎧を奉納したともされる。
さらには将門の弟である将頼がこの地で鎧を脱いで休んでいたところを襲われて討ち死にし、その霊を慰めるために将門の鎧を納めたという異説まである。とにかく将門と鎧というキーワードは共通であり、鎧が埋められているのは確実だと思われる。 
鎧神社 5  
社号 鎧神社  祭神 日本武尊、大己貴命、少彦名命、平将門公
境内社 天神社、稲荷社、三峯社、子の権現社
鎧神社は、薬師堂(現円照寺)とほぼ同時期の平安時代に創建したと伝えられます。社号の鎧は、薬師堂に埋められたと伝えられる平将門の鎧に因んでいます。当地柏木村の鎮守として崇敬を集めています。境内には、成子天神社が遷座する前の天神社(元天神社)が祀られています。
鎧神社の由緒 1
鎧明神社  (柏木)村の鎮守なり。平将門滅亡の後其鎧を祭りしと云。或は秀郷着領の鎧を祭りしとも云傳ふ。円照寺持下同じ。末社。稲荷、三峰。天神社。寛文年中本社を成子町へ移し(成子天神社)ければ、ここは元天神と云。
鎧神社の由緒 2
当社は江戸時代まで鎧大明神と称した。社名は日本武尊御東征のみぎり、甲冑六具の内をこの地に蔵めたことより起こる。降って天慶三年(九四〇)平将門公下総猿島に亡ぶるにおよんで、土俗の追慕して天暦(九四七−五七)のはじめのころ、将門公の鎧もまたここに埋めたという。別説によれば、藤原秀郷重病を得て円照寺薬師如来に参詣りした折、将門神霊の崇りなるを恐れ、公の鎧を寺内に埋め、一祠を建ててその霊を祀ったが、病たちまち癒えたのを里人恐れ畏み、以後鎮守の社として尊崇してきたという。
鎧神社の由緒 3
江戸時代までは鎧大明神と称し、柏木村の古社として村人の崇敬をうけてきた。鎧の社名は伝説によると、日本武尊命が東征してきた際に甲冑六具をこの地に納めたことより起ったといわれる。
また一説によれば、天慶3年(940)藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しんでいた秀郷が本社の別当寺である円照寺に参詣した際に、将門の神霊のたたりではないかと思い、境内に将門の鎧を埋めて詞を建ててその霊を弔ったところ、病が全快したからともいう。それを聞いた村人たちは、その霊験あらたかなることを恐れ畏み、以後、柏木村の鎮守の社として近隣の崇敬をうけたといわれる。
また本社は天慶の乱の時、将門の弟将頼が陣地にした所ともいわれる。ある日将頼が鎧を脱いでここで休んでいると、秀郷の子千晴が奇襲してきた。
鎧をつける暇もなかった将頼は奮戦し、川越まで落ちのびたがついに戦死した。その後、疫病が流行した。これは将頼の霊が安住しないからだとして、一門の党首の将門の霊を祀ったのが鎧神社だという。
境内の天神社には、享保6年(1721)に奉納された素朴な狛犬があり、庚申塔に流用されており、とても珍しい。
鎧神社の由緒 4
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し、此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶3年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺寺内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。 
円照寺   新宿区北新宿 
山号 医光山  寺号 円照寺  本尊 薬師如来像
真言宗豊山派寺院の円照寺は、医光山と号します。円照寺の創建年代は不詳ですが、理源大師の弟子の貞崇僧都が安置した薬師堂を起源とし、天慶3年(940)藤原秀郷が平将門征伐の際に一寺となしたと伝えられます。当地は、地頭柏木右衛門佐頼秀の居館跡といわれ、その桜が接木され残されています。慶長年中(1596-1615)に焼失した際には春日局が施主となり再建されています。豊島八十八ヶ所霊場8番です。
円照寺の縁起 1
(柏木村)円照寺 新義真言宗、田端村与楽寺末、医王山瑠璃光院と号す。本尊不動を置。慶長年中に諸堂焼失して記録も皆失ひす。春日局施主となりて再建すと云ふ。寺宝。蛇骨一、来由詳ならず。同茶碗一。同香炉一。以上三品は尾張大納言光友卿簾中千代姫より御寄附と云。薬師堂、本尊は行基の作なり。閻魔堂。鐘楼、鐘は寛政2年の再鋳なり。
右衛門桜。薬師堂の前にあり。古木は枯て後に植つきしものなり。正保改の国図にも載たれは、其頃既に名高かりし事しらる。往昔後一條院の御宇柏木右衛門左頼季と云人あり。始は乙葉三郎季長元3年上総介平忠常、陸奥権介忠頼兄弟を追討せる賞として角筈、柏木の地をたまはり、即此処に館を構へて住居せし「右衛門桜物語」と云ものに載たり。されと此記は後人の手に成て事を工に綴りしなれば、元より證となすへきものにはあらんとのみ記したれは、天和の頃傳への造ならさりしこと知らる。或日、此地近き処に武田右衛門と云人ありて、この桜の古木となりしを憂へ、接木となし栽つきしゆへ此名ありしと、兎角拠とすへきものなし。萬冶、寛文頃は木も盛りにして遊賞の者多かりしと云。
円照寺の縁起 2
真言宗豊山派の寺院で、医光山瑠璃光院円照寺という。もと鎧神社の別当寺であったといわれる。
縁起については定かではないが、「江戸名所図会」などによれば、次のような経緯を経て藤原秀郷によって建てられたという。
醍醐天皇の時代に、理源大師の弟子の貞崇僧都が現在の円照寺のあたりに、薬師如来像を安置した。承平5年(935)から天慶2年(939)にかけて平将門が関東に勢力をもつようになった。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門を討伐するため軍勢を率いて出陣したが、中野のあたりで病に伏してしまった。あいにくと軍中に適当な薬もなくこまっていたが、その夜の霊示に従ってこの薬師如来像に祈ったところ、苦痛はたちまちのうちになくなったばかりでなく、あわせて行なった将門討伐の祈願も無事に達成された。喜んだ秀郷は、凱旋の後に堂塔を建立し、円照寺としたという。
また一説では、旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えられており、境内にその由来にもとづく右衛門桜が植えられており、名木として有名だった(現在の木は三代目)。
堂宇はその後何回か焼亡し、修覆をくり返した。寛永18年(1641)には春日局が施主となり再建されている。第二次大戦の戦災でも被害を受け、近年になり堂塔が新築された。 
水稲荷神社 1   新宿区西早稲田
旧村社
御祭神 倉稻魂大神 大宮女大神 佐田彦大神
東京都新宿区にある。都電荒川線・面影橋駅の南にある甘泉園の南西隅に鎮座。面影橋駅のある新目白通りからテニスコートの横の道を上ると当社裏門。早稲田通りから200mほど北へ入ると、当社表門に到着する。
表の鳥居は南向き。鳥居をくぐり手水舎の前を通り、参道を左手に曲ると社殿のある境内。参道をまっすぐ進むと、徳川家遺構の茶室があり、裏門へ抜ける。
砂利が敷き詰められた境内に、東向きの社殿。稲荷らしい赤い社殿で、後方の本殿は流造。境内周囲には稲荷大明神と染められた赤い幟が並んでいる。
本殿の後方に「冨塚古墳」があり、古墳の穴や、古墳の上にも稲荷が祀られている。案内板によると、この「冨塚」が戸塚の地名の起源だそうだ。
ただし、由緒を見ると、旧社地は現在地の南300mほどの位置らしく、本来の冨塚は、ここではないのかもしれない。
御朱印の日付にある通り、当社への参拝は2011年3月11日の午後。参拝後、池袋へ向かうため高田馬場駅を目指して早稲田通りを歩き駅前で信号待ちをしている時に、東日本大震災に遭遇。揺れはおさまったが電車は運休。池袋まで歩いたが高速バスも運休し、長野に戻れなくなった。
社伝によると、天慶四年(941)藤原秀郷(俵藤太)によって、現社地の南方300mの富塚の上に稲荷神が勧請され、冨塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれていた。
文亀元年(1501)川越管領上杉治部少輔朝良朝臣の夢に老翁が現れ「我此所を守護し、民をして太平の化を蒙らしめ、所を繁栄ならしめんとす、汝必ず民を虐ぐる事勿れ」と告げた。朝臣が老翁の名を問うと「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよにけり」と答えたという。
目覚めて見ると、庭に一匹の老狐が居り、江戸の方に飛び去った。朝臣はただちに家臣を江戸へやり、戸塚の辺りを探させたところ、戸塚音信山に稲荷の古社があったことから、これを再興し、戸塚一円を社領にした。
元禄十五年(1702)四月、神主の夢想により御神木・大椋の下に霊水が湧き出し、眼病治療の霊験があった。また、その時の神託に「我を信仰する者には火難を免れしむべし」とあり水稲荷と称するようになり、消防関係者や水商売関係者の崇敬が篤いという。
天明八年(1788)京都の大火で、皇居が炎上した際、しきりに防火につとめる老翁があり、名を問うと「江戸の水稲荷」と答え姿を消したという。この時の恩賞により、関東稲荷惣領職を賜わったと伝えている。
昭和の大戦により社殿が焼失。御神木の大椋も焼け水稲荷の由来となった霊水も止まってしまった。その後、早稲田大学から甘泉園に社地が提供されさらに社殿の奉納を条件に旧社地を譲り受けたいとの申し出があり徳川家御三卿の一つ・清水徳川家の旧跡である現在地に遷座した。
『神社名鑑』には、当社の神紋は稲穂丸とあるが。御朱印、提灯、幕、社殿、天水桶に、包み抱き稲の神紋。提灯には他に火焔宝珠。狛狐の台に別図案の稲紋が付けられていた。
鳥居から社殿へ向かう参道に大国社。社殿の右手に、事比羅神社・高木神社・水神社と、清水徳川家の守護神・三島神社。本殿後方には北野神社が祀られている。高木神社は、もとは早稲田大学構内に祀られていたもの。北野神社は、牛込天神町から遷座され、早稲田大学創立者・大隈重信が信奉篤かった社だそうだ。
社殿の左手、小学校横へ抜ける参道の脇に耳欠け神狐という、耳の部分が欠けた狛狐がある。この神狐の欠けた耳と、身体の痛い場所を交互にさすると痛みがとれるとか。僕は、歩き疲れて足が痛かったので、足をさすった。そのおかげで、池袋まで無事に歩くことが出来たのだろう。
日本稲荷古社の随一 水稲荷神社
天慶四年(皇紀一六〇一年)鎮守府将軍俵藤太秀郷朝臣が初めて旧社地(現境内地南方凡そ三百米)の富塚の上に稲荷大神を勧請されました。
初めは富塚稲荷又は将軍稲荷と呼ばれました。
文亀元年(皇紀二一六一年)川越管領上杉治部少輔朝良朝臣が夢に一老翁を見ました。
老翁は「我此所を守護し民をして太平の化を蒙らしめ所を繁栄ならしめんとす汝必ず民を虐ぐる事勿れ」と言はれましたので朝臣が「翁は如何なる人にましますぞ」と問へば「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよにけり」と答えて夢が覚めました。
時に庭前に一老狐が居り朝臣を顧みて江戸の方に飛び去りました。
朝臣は直ちに家臣をして江戸、戸塚の辺りを探させました処、戸塚音信山に稲荷の古社があり、又社側の古塚に白狐が年久しく住んでいる事がわかりました。朝臣は直ちに社頭を造営し戸塚一円を社領に致しました。
天文十九年(皇紀二二一〇年)牛込主膳正時国が社頭を造営しました。
天和二年(皇紀二三四二年)佐藤駿河守信次が社頭を造営しました。
元禄十五年(皇紀二三六二年)四月神主の夢想により大椋の下に霊水が湧き出しました。時に江戸市中眼病を患うもの多く諸人困難しましたが、此の霊水によって治った者が沢山ありました。
又其の節の御神託に「我を信仰する者には火難を免れしむべし」とあり此の事から世に水稲荷と称し奉り消防関係者、水商売の人達は特に参詣しました。当時は信仰範囲甚だ広く現に伊勢国飯高郡の人の納めた石灯籠が残って居ります。天明八年(皇紀二四四八年)京都大火皇居炎上の際しきりに防火につとめる老翁あり遂に天眼に留り名を問われた時「江戸の水稲荷」と奉答して姿を消しました。
この時の恩賞に関東稲荷惣領職を賜はったと伝えて居ります。
明治十七年村社に列せられました。昭和二十年五月戦災により社殿炎上に及びました。此の時天然記念物になって居りました神木大椋が焼け霊水が止まりました。氏子の方は大部分戦災より免れましたので一同協議して直ちに再建に着手し翌年末、資材不足を克服して木造二十五坪の社殿を新築しました。都内戦災神社復興の第一番でありました。
昭和三十八年七月廿五日現社殿に御遷座になりました。
数年前より旧社地が戦災の後漸次荒廃に趣き御神木も焼け枯れ神水も止まりました。二十一年再建の御社殿も十有余年の歳月に損じて参り更に総代に御造営の計画を立てました所はからずも早稲田大学より甘泉園に三、四六二坪の土地を提供し且御社殿を奉納するから旧社地二、〇六〇坪余をゆずり受けたいとの申出があり調査・審議の末、是れを決定致しました。
現在地は徳川御三卿の一たる清水徳川家の旧趾で都内稀なる名園甘泉園の一部であります。  
水稲荷神社 2  
平将門調伏のための神社と伝わる
かつて「冨塚稲荷」とも呼ばれていた水稲荷神社は、1702年に水が湧き出たことをきっかけに、現在の名称に改名されたと言います。こちらには水商売、消防、そして眼病の神様が祀られており、基本的に一般客の登拝は行えないものの、7月の海の日と、その前日の「高田富士まつり」の時のみ、一般客の参拝が行えるようになっています。ちなみに隣接する甘泉園公園では、和の趣がある昔ながらの日本庭園が楽しめます。神社を訪れた際には、隣の公園に足を伸ばしてみるのも一興かもしれません。
水稲荷神社 3   
加門七海氏の『平将門魔方陣』によると、この神社も平将門関連の地なのであるが、他の伝承地とは違和感がある。というのも、討伐した藤原秀郷との関連の方が大きいからである。この地に秀郷が稲荷神社を勧請したのが天慶4年(941年)、つまり将門を討った翌年となる。おそらく討伐が成功したお礼の意味合いが強いものであると思われる。
将門との関連はさておき、この神社の裏手には古墳がある。【冨塚古墳】というもので、藤原秀郷が最初に稲荷明神を勧請したのもこの塚の上であり、冨塚稲荷と呼ばれていた。そしてこの辺り一帯はこの塚の名前を取って【戸塚】と呼ばれるようになったという。(当時は、塚も神社も現在の早稲田大学の構内にあったのだが、昭和30年代後半に早稲田大学との土地交換によって現在の地に遷座している)
冨塚稲荷から水稲荷という名称に変わったのは、元禄15年(1702年)のこと。神木の根元から霊水が湧き出て眼病に効くという評判が立ち、さらに火難退散の神託があったことで改名となったとされる。
またこの神社には「耳欠け神狐」と言って、身体の痛い箇所と同じ部分を撫でると痛みがとれるという狐の像がある。 
水稲荷神社 4  
主祭神 倉稲魂大神・佐田彦大神・大宮姫大神  社格等 村社
別名 戸塚稲荷神社、高田水稲荷神社、早稲田水稲荷神社
旧称「冨塚稲荷」と命名されたが、元禄15年(1702年)に霊水が湧き出し、現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。
また甘泉園公園に隣接しており、境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも)は早稲田大学拡張工事の際に、同大学の構内にあった江戸中最古の富士塚を移築したものである。普段は登拝できないが、7月の海の日とその前日に催される「高田富士まつり」の際に一般の登拝が可能となっている。
941年(天慶4年) - 藤原秀郷が冨塚の地に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」と命名。
1702年(元禄15年) - 神木の椋の根元より霊水が湧きだし、眼病に利くとして評判となり、火難退散の神託が下ったことから、「水稲荷神社」と改名。
1788年(天明8年) - 「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。
1963年(昭和38年) - 早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園(清水徳川家の下屋敷)である現社地に遷座。 
宝泉寺   新宿区西早稲田 
草創期〜戦国時代
宝泉寺は「和漢三才図会」(江戸時代の百科事典)や「吾妻鏡」などによると、西暦810年頃の草創と伝えられます。また承平年間(931-938年)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称、俵藤太) の草創とも伝えられ、そのどちらをみても千年以上の歴史を持つ古寺であることがわかります。
南北朝の動乱で荒廃しましたが、文亀元年(1501年)に関東管領上杉朝良が荒廃を嘆き私財を投じて迦藍を復興しました。しかし、戦国の戦乱により再び荒廃してしまいます。その後、天文19年(1550年)牛込時国によって再興されました。
江戸時代
江戸時代に宝泉寺は隆盛を極め、本堂(本尊薬師如来)、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁し、なかでも毘沙門堂は藤原秀郷の念持仏の毘沙門天が安置されていたことで勝負事にご利益があると有名になり、江戸で最初に富くじが行われた寺院として「富興行一件記」に記されています。また隣接していた水稲荷神社の別当(寺が神社の代わりに行事を行う)となり、高田富士という模造の富士山が在り富士講の流行とともに多くの信者を集めました。境内には、三代将軍家光が名付けたという守宮地(いもり池)があり、春には、梅や桜の名所として江戸の人々の憩いの場となりました。当時は、広大な土 地を有し現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であったと伝えられています。
江戸時代に流行した宝くじのルーツ「富くじ」。谷中の感応寺が有名ですが「富興行一件記」によると、宝泉寺が江戸で最も古くから「富くじ」を行っていたことが記されています。また「淀橋奇聞」では、文化一三年に寺男の伝蔵が、寺近くを掘り返して畑を広げようとしていた時、ピカピカと光る山吹色の小判が出てきたとされており、天保一四年にも境内から大枚八〇〇両という小判のぎっしり詰まったつぼが出てきたとも記されています。宝泉寺の「富くじ」「おたから小判」は、お財布の中にいれておくと富が貯まるなど、金運・勝負運にご利益があると言われています。
明治時代〜現在
江戸時代に幾度かの火災にあい、明治時代の廃仏毀釈により寺領も縮小されましたが、15世ェ苗大僧正によって復興整備が行われました。 しかし第二次世界大戦の空襲により、そのほとんどを消失してしまいます。
戦後は檀信徒の協力により昭和20年に仮堂を建立、 昭和 27年本堂再建、 昭和 41年には現本堂が建立され、墓地の整備、その後も庫裡(くり)、客殿が建築され現在の姿となりました。
戦時唯一焼け残ったものとして、正徳元年に鋳造され約300年の歴史を経てきた梵鐘があり、今もなお往時の響きを伝えております。
宝泉寺は歴史的には、現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であったこともあり、早稲田大学とはたいへんご縁のあるお寺です。この縁を大切にし、新たな歴史を築き早稲田の宝泉寺として、住民、学生、子供たちをはじめ、地域そのもの行き交う人々の平安を願う寺院として、次の千年の新しい歴史を築き重ねていけるよう努めてまいります。
毘沙門堂
毘沙門堂承平年間(931〜938年)、平将門を倒した藤原秀郷(俗称:俵藤太)が戦勝祈願をしたと伝わる毘沙門堂。慈覚大師円仁の作にして、藤原秀郷の念持仏であった毘沙門天を安置していました。その後は、明治30年代まで宝泉寺南側の毘沙門山にあったが火事で消失。「江戸名所花暦」には、「毘沙門堂の小高き丘の上は、新樹空を覆いて涼しく、このあたりの森より時鳥なきそむるとなり」とあります。江戸時代、毘沙門堂は眺めが良く、他より早く鳴き始めるホトトギスが有名だったことが記されています。現在は、本堂に慈覚大師円仁彫刻の毘沙門天を描いた当山第十二世住職慈純(生年不詳〜1830年没)の掛け軸が祀られています。 
筑土八幡神社 1   新宿区筑土八幡町
旧村社
御祭神 應神天皇
配祀 神功皇后 仲哀天皇
東京都新宿区にある。飯田橋駅の北西300mほどの筑土八幡町に鎮座。大久保通りに面して、境内入口がある。
当社の正式名は「八幡神社」だが、一般には筑土八幡神社と呼ばれ鎮座地名にもその名が用いられている。
参道入口は南東向き。注連柱が立っているが、注連縄ではなく横木を用いた形状。階段下、左脇には「筑土八幡神社」と刻まれた社号標が立っている。
階段を上ると社殿のある境内で、通常の鳥居が階段途中にある。これは享保十一年(1726)建立の区内最古の鳥居らしい。また、階段途中の右手には小さな公園があり、ちょっと和む。
階段を上ると、右手に手水舎があり、緩く左に曲がる参道の先に社殿。拝殿は入母屋造で、本殿は流造。ともに柱が赤く、屋根は緑青の銅が美しい。
社伝によると、嵯峨天皇の御代の創祀。
牛込の里に、毎年、放生会をし八幡神を信心する翁がおり、ある夜、その夢に神霊が現れ、「われ、汝の信心に感じ、この里に跡をたれん」と告げた。翁は不思議に思い、身を清めようと井戸へ行くと、一本の松の上に、旗のような八雲がたなびき、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまったという。
その松を祀ったのが当社の起源。
その後、慈覚大師がこの地を訪れ、一つの洞を作りさらに、伝教大師がこの地を訪れ、神像を彫刻して祀った。その時、筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけたという。
文明年間、江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神・江戸鎮護の神として尊崇した。
このように、社伝では「筑土」の名の由来は「筑紫」「宮土」であるとされているが、当社の西隣にあった築土明神に由来する可能性もある。築土明神は、もとは現在の大手町にあたりの津久戸に創祀され津久戸明神と称されていたが、田安へ遷座して田安明神、さらに、当社筑土八幡神社の横に遷座した。この「津久戸」が「筑土」と書かれたのかもしれない。
さらに、津久戸明神は平将門の首を祀り最初は血首明神と称されていたが、「津久戸」へ変化したとも。
現在、西隣にあった津久戸明神は、九段北に築土神社として遷座されている。
賽銭箱には、八幡神の神紋、三つ巴が描かれている。
境内の右手に、境内社・宮比神社。大宮売命とも天鈿女とも言われる宮比神を祀り、古くは下宮比町一番地の旗本屋敷にあったが明治四十年、当社境内に遷座した。
その宮比神社の前には、舟型(光背型)の庚申塔。寛文四年(1664)に奉納されたもので、日月と雌雄の猿と桃の木が刻まれている。
また、境内には『浦島太郎』などで有名な作曲家、田村虎蔵顕彰碑があり、『金太郎』の一節の楽譜が刻まれている。当社の側に住んでいたらしい。
筑土八幡神社 神社由来
昔、嵯峨天皇の御代、(今から約千百五十年前)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。
その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。 
筑土八幡神社 2  
平将門の足が祀られた?という風説が残る
夢の中に出てきた八幡神のお告げを受け、ある老人が神を祀ったのが神社の起源と言われています。西暦850年ごろには、円仁が東国を訪れた際にほこらを建設し、最澄が彫ったと言われる阿弥陀如来像を奉納。それから約600年後、上杉朝興によって社殿が建設されたという歴史を辿っています。尚、戦時中に社殿が消失してしまったため、現在の社殿は飯田橋自治会によって再建されたものとなっています。筑土八幡神社には、江戸時代初期に黒衣の宰相と呼ばれた天海僧正が、平将門公の遺体の一部(足)を祀ったという風説がありますが、正確な事はわかっていません。
筑土八幡神社 3   
旧村社 御祭神 應神天皇 配祀 神功皇后 仲哀天皇
正式名は「八幡神社」だが、一般には筑土八幡神社と呼ばれ鎮座地名にもその名が用いられている。
参道入口は南東向き。注連柱が立っているが、注連縄ではなく横木を用いた形状。階段下、左脇には「筑土八幡神社」と刻まれた社号標が立っている。階段を上ると社殿のある境内で、通常の鳥居が階段途中にある。これは享保十一年(1726)建立の区内最古の鳥居らしい。
社伝によると、嵯峨天皇の御代の創祀。
牛込の里に、毎年、放生会をし八幡神を信心する翁がおり、ある夜、その夢に神霊が現れ、「われ、汝の信心に感じ、この里に跡をたれん」と告げた。翁は不思議に思い、身を清めようと井戸へ行くと、一本の松の上に、旗のような八雲がたなびき、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまったという。その松を祀ったのが当社の起源。
その後、慈覚大師がこの地を訪れ、一つの洞を作り、さらに、伝教大師がこの地を訪れ、神像を彫刻して祀った。その時、筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけたという。
文明年間、江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神・江戸鎮護の神として尊崇した。
このように、社伝では「筑土」の名の由来は「筑紫」「宮土」であるとされているが、当社の西隣にあった築土明神に由来する可能性もある。築土明神は、もとは現在の大手町にあたりの津久戸に創祀され津久戸明神と称されていたが、田安へ遷座して田安明神、さらに、当社筑土八幡神社の横に遷座した。この「津久戸」が「筑土」と書かれたのかもしれない。
さらに、津久戸明神は平将門の首を祀り最初は血首明神と称されていたが、「津久戸」へ変化したとも。現在、西隣にあった津久戸明神は、九段北に築土神社として遷座されている。
賽銭箱には、八幡神の神紋、三つ巴が描かれている。
境内の右手に、境内社・宮比神社。大宮売命とも天鈿女とも言われる宮比神を祀り、古くは下宮比町一番地の旗本屋敷にあったが明治四十年、当社境内に遷座した。
その宮比神社の前には、舟型(光背型)の庚申塔。寛文四年(1664)に奉納されたもので、日月と雌雄の猿と桃の木が刻まれている。
また、境内には『浦島太郎』などで有名な作曲家、田村虎蔵顕彰碑があり、『金太郎』の一節の楽譜が刻まれている。当社の側に住んでいたらしい。
筑土八幡神社 神社由来
昔、嵯峨天皇の御代、(今から約千百五十年前)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。
その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。  
稲荷鬼王神社 1   新宿区歌舞伎町
御祭神 宇賀能御魂命 月夜見命 大物主命 天手力男命
合祀 旧大久保村の神
東京都新宿区にある。大江戸線、副都心線の東新宿駅から西へ100mほど、新宿区役所から北へ500mほどの位置に鎮座。
境内入口は西向き。鳥居の前にアコーディオンタイプのゲートあるので夜間は閉められているのかもしれない。
その鳥居の左手、ゲートに隠れて力士様と呼ばれる、力士像に支えられた石の水鉢がある。もとは、加賀美某の庭内にあって夜中に水音を発するという怪異があり加賀美某が、宝刀・鬼切丸で切り付けたが、その後も災難が続いたので天保四年、鬼切丸(翌五年に盗難)と共に当社に寄進されたもの。今も力士像に刀傷が残っているとか。これに水を注ぐと熱病や子供の夜泣きに霊験があるとか。
社殿は拝殿本殿ともにコンクリート造。
本殿の左手に、裏参道入口近くに富士塚があり浅間神社が祀られている。また、境内左手、社務所の横に三島神社が祀られ新宿山の手七福神中の恵比須神として崇敬されている。
稲荷神社と鬼王神社を合わせ祀った神社で、社殿扁額にも稲荷鬼王神社と記されているが正式名は稲荷神社、通称は鬼王神社。
稲荷神社は、承応二年(1653)将軍家綱の頃、当所の氏神として稲荷大明神を勧請されたもの。
鬼王神社は、宝暦二年(1753)当所の百姓田中清右衛門が紀州熊野から鬼王権現を勧請し、天保二年(1831)、稲荷神社に合祀されたという。ただし、熊野には鬼王権現は現存していないらしい。
この鬼王権現は、湿疹・腫物などの病に霊験があり、当社に豆腐を奉納して、治るまで豆腐断ちをするという。鬼は豆が嫌いなので、豆を断つのだろうか、当社の節分は「福は内、鬼は内」と唱えるようだ。
この鬼王神社は、一説には平将門の霊を祀り、鬼王とは将門の幼名「鬼王丸」に由来するという説もあるらしい。
また、鬼切丸は鬼を切る宝刀で、切れなかった鬼が水鉢として境内にある。この鬼を平将門と重ねるのは、考え過ぎだろうか。
狛犬の台座や賽銭箱、社殿の扉に三つ巴紋と稲紋が刻まれていた。稲紋が稲荷神社の紋で、鬼王神社は巴紋らしい。
由緒 古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応二年(一六五三年)、当所の氏神として稲荷神社が建てられました。宝歴二年(一七五二年)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)と当地の百姓、田中清右衛門が勧請し、天保二年(一八三一年)稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。 この鬼王権現は、湿疹・腫物を初め諸病一切に豆腐を献納し、治るまで本人或は代理の者が豆腐を断ち、当社で授与される「撫で守り」で患部を祈りつつ撫でれば必ず平癒するといわれ、明治十五年頃まで社前の豆腐商数件がこの豆腐のみにて日々の家計を営んでいたといわれたほどでした。今日でも広く信仰されています。 尚、明治時代に旧大久保村に散在していた、火の神である火産霊神の祠や、盗難除けの神などの大久保村の土俗の神々が合祀されました。 「鬼」というと私達はとかく悪いイメ−ジをもちがちですが、古来、「鬼」は神であり「力」の象徴でもありました。又、「鬼は悪慮を祓う」といわれ、すべての災禍を祓う力があります。その為、鬼を祓ったり、鬼の名のつく社寺は全国に幾つもあります。しかし、その「鬼」の王様という意になる「鬼王」という名のある社寺は全国で当社のみです。この為、江戸時代は近在の農家の人達だけでなく、江戸から武士や商人、職人と多くの人が参拝にまいりました。現在では地図でみる新宿の中央にある唯一の神社としても注目を集め、全国から当社の御神徳を得ようとする方々が詣られております。 大祭は九月十八日です。  
鬼王神社 2  
新宿歌舞伎町のはずれにあるのが鬼王神社である。正式には“稲荷鬼王神社”といい、大久保の稲荷神社に鬼王神社を合祀してできた神社である。この“鬼王”という名称を持つ神社はここにしかなく、節分会では鬼を悪者とせず、「鬼は内、福は内」と言って豆を撒くらしい。
この珍しい名前の由来であるが、大久保の百姓、田中清右衛門が熊野にあった鬼王権現を勧請してきたのが始まりであるという。ただ、現在熊野に鬼王権現は存在せず、神社で鬼王権現が祀られているのは全国でここだけと称している。
そもそも“鬼王権現”とは“月夜見命”“大物主命”“天手力男命”の三神である。実際、鬼王神社の祭神としてこの神々は祀られている。しかし、この“鬼王”という名にはもう一人、重要な人物の存在が見え隠れしている。それが平将門なのである。将門の幼名こそが【鬼王丸】なのである。だが、この神社の由来には全くその名は記されていない。
神社の前に置かれた手水鉢にはあやしい伝承が残されている。この手水鉢はかつて加賀美某の屋敷内にあったのだが、文政の頃(1800年代初頭)毎夜のように水音が聞こえるという怪異が続いた。そこでこの手水鉢を斬りつけたところ、水音はしなくなったが、家人に不幸が続いたため、この神社へ預けたという(天保の頃というから、ちょうど稲荷神社と鬼王神社が合祀された直後のことと思われる)。
怪しげな水音の正体であるが、この手水鉢の土台になっている鬼の仕業であるとされている。手水鉢を斬りつけたというのも、実際にはこの鬼を斬りつけたらしく、肩のあたりに傷跡が残っているとされているが、それらしき痕跡はあるものの、はっきりとした傷には見えなかった。ちなみにこの斬りつけた刀は“鬼切丸”という名が付けられ、手水鉢と同時に神社に納められたがその後盗難にあって行方知れずであるという。 
稲荷鬼王神社 3 
JR新大久保駅の南東約400mに鎮座する。鬼の福授けの社として信仰を集め「撫で守り」の授与で有名である。皮膚病・その他病気平癒に御利益がある。境内の三島神社に祀られている恵比寿神は新宿山ノ手七福神の一つである。
天保2年(1831年)、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。熊野の鬼王権現は現存していないため、「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社となっている。また、大祭で担がれる宮御輿は、鬼面が彫られた珍しいものである。
祭神は、稲荷神の宇迦之御魂神、鬼王権現の月夜見命・大物主命・天手力男命。また、大久保村が祀っていた神々(火産霊神など)も明治時代に合祀されている。神社の名前から誤解されやすいが、「鬼」を祭神としているわけではない。
他、平将門の幼名が「外都鬼王(げづおにおう)」「鬼王丸」といったことから、名前を取ったという伝承もある。
歴史
承応2年(1653年):諏訪神社境内にあった福瑳稲荷を大久保村に勧請し、氏神として稲荷神社を創建。
宝暦2年(1752年):田中清右衛門が病気平癒を得、紀州熊野の鬼王権現を勧請。
文化年間(1804 - 1818年):松平出雲守より、同家の祈願所であった東大久保の二尊院に恵比寿像が寄進される。
天保2年(1831年):稲荷神と鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社と命名。
嘉永6年(1853年):二尊院が火事に遭い、鬼王神社社家の大久保氏が恵比寿像を自宅に遷座。後に当社の境内に祀りなおす(境内社・三島神社)。
明治27年(1894年):古来よりこの地にあった浅間神社を、稲荷鬼王神社に合祀。
昭和5年(1930年):境内社として浅間神社を再興。境内に富士塚(西大久保の厄除け富士)を造成。
昭和43年(1968年) :社殿再建。富士塚を二分する。 
赤城神社   新宿区赤城元町 
御祭神は磐筒雄命(いわつつおのみこと)・赤城姫命(あかぎひめのみこと)。磐筒雄命は経津主神の親神にあたる。
小安二年(1300)九月、上野国赤城山の分霊を、今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請したのが創建の始まりだという。
現在の「赤城元町」という町名もこちらの神社が鎮座することが由来なのだが、実はこんな説も存在するのだ。
かつては「赤木明神」 と称していたというこちらの神社。平将門公の首が飛んできてこの地に落下し、この神社の木の梢に落ち留まった。その木に赤く血が付いたのが「赤木」の由来だというのだ。
にわかには信じ難い話であるが、こういう説があるのは確かなようだ。赤城元町の地名について小生も調べてみたが、やはり町内に鎮座する「赤城神社」 が由来としか分からなかった。
埼玉県幸手市の首塚(浄誓寺)の近くにある「赤木」という地名も、将門公の身体から出た血で辺りの木々を赤く染めたことに由来するという話があったが、その由来がこちらにも飛び火したのであろうか?
詳しいことは不明だが、引っ掛かる点が一つだけある。赤城元町のとなりには筑土八幡町がある。筑土八幡神社の隣にはかつて「築土神社(築土明神)」が鎮座していた。築土神社には実際に将門公の首を容れて運んだとされる首桶も伝えられており、江戸時代の文献には将門公の首そのもの(頭蓋骨や頭髪)が祀られていると紹介されていたからだ。
住民の将門公への畏敬の念が、このような伝承を生んだのかもしれない…。 
東山藤稲荷神社   新宿区下落合 
社号 東山藤稲荷神社  祭神 宇伽之御魂大神、大宮能売大神、佐田彦大神
東山藤稲荷神社は、新宿区下落合にある神社です。東山藤稲荷神社は、清和源氏の祖六孫王源経基が、延長5年(927)に京都稲荷神社を勧請して、東国源氏の氏神として祀ったと伝えられています。境内に大きな藤の木があったことから藤森稲荷とも称されたといいます。藤稲荷神社、富士稲荷神社とも呼ばれ、おとめ山公園隣にあります。
東山藤稲荷神社の由緒 1
当社は、かつて此の地方を統治された、清和天皇の皇孫源経基という御方が、今より約一千百年前、延長5年初午の日に京都稲荷山より勧請御遷宮申し上げた御社であり、「藤稲荷神社」「富士稲荷神社」とも申し上げております。 当社は源経基を始め、源家一族の守神として大変厚く信仰されました。その由縁は、当時平将門が反逆を企てた折、当東山稲荷の大神様よりその旨御神託あり、経基は早速忍者を走らせ調査した処御神託の通りだったため、帝の許しを頂き、これを平定致しました。この功により、帝より源姓を賜った経基は、以来東山稲荷神社を源氏の氏神様として一族で崇敬することとしたと伝えられております。 やがて時代の流れと共に、武家のみならず庶民の信仰も厚くなり、「知恵と勇気」を御授け下さる福徳の神様として、その信仰者は農商業、芸能方面と広く江戸市中関東一円に増えていったとのことです。
東山藤稲荷神社の由緒 2
東山稲荷・藤森稲荷とも呼ばれる。社伝によれば、清和源氏の祖六孫王源経基が京都の稲荷神を勧請して、東国の源氏の氏神として祀ったという伝承がある。
もとは現在地の坂下(下落合2-10-7付近、記念碑が建っている)にあったが、第二次大戦で焼失し、昭和28年現在地へ移転した。「江戸名所図会」には旧社地での様子が図示されており、それによると堂舎もいくつかあり、かなりの神社であったことがわかる。また、藤の大木があったため社名の由来となった。
境内には文化15年(1818)に奉納の神狐一対と、寛延3年(1750)と天保9年(1838)に奉納された二つの水鉢がある。
東山藤稲荷神社の由緒 3
清和天皇の後胤経基王が当地に居住され、延長五年(九二七)京都稲荷山より勧請御遷宮、源氏一族の守護神として崇敬された。
東山藤稲荷神社の由緒 4
(下落合村)稲荷社三。 一は藤稲荷と云、山上にあり。喬木生茂れり近き頃鳥居の傍に瀧を設て、垢離場とす。薬王院持。二は上落合村最勝寺持。 
■中央区

 

兜神社 1   中央区日本橋兜町
御祭神 倉稲魂命
相殿 右 大国主命 左 事代主命
東京都中央区にある。首都高速都心環状線の江戸橋ジャンクションの下、東京証券所の近くに小さな境内がある。
境内入口は南西向きで、川を背にして鎮座。境内入口には扉があり、丸に兜の紋が刻まれている。
鳥居の右手に「兜神社」と刻まれた社号標があり左手に手水鉢。その兜の文字が面白かったので当社の神紋として掲載してみた。本当の社紋は、扉にある丸に兜かもしれないが。
明治十一年の創祀。東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、明治十一年五月に取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として造営された。
ただし、当地には江戸時代から兜塚と称する塚があったらしく、境内に安置されている兜岩は、前九年の役の時、源義家東征のおりにこの岩に兜を懸けて戦勝祈願したと伝えられ、兜町という地名の由来となっており、創建以前から、何らかの祭祀の対象となっていたと思われる。
一説には藤原秀郷(俵藤太)が平将門の兜を埋めた場所だとも。であれば、兜岩は将門の霊を押さえる 意味があったのかもしれない。  
兜神社 2   
平将門公の兜が埋まると伝わる
日本の証券ビジネスの中心地、「兜町」という街の名前の由来にもなっているというのが「兜神社」。ここには平将門公がかつて使用していたという兜が埋まると伝えられています。また、源氏の源義家が戦に出陣する前に、柳川の川辺に兜を埋めて勝利を祈願したという逸話も残ります。こじんまりとした神社ではありますが、オフィス街の中に佇む巨大な石碑は存在感を放っています。
兜神社 3  
東京証券取引所のすぐそば、首都高速道路が真後ろを走るというとんでもない都会の一隅に兜神社はある。日本経済の中心地の一つに置かれた神社は、現在では商業の神様としてこのエリアの守護をしている。由来によると、この近辺にあった兜塚が兜神社(源義家が祀られている)となり、更に鎧稲荷(平将門が祀られている)が合祀されて今の兜神社となったようである。合祀後の明治初期に祭神の源義家を廃して倉稲魂命を勧請し、現在に至っているようである。つまりこの神社そのものは既に伝説的二人の武人とは何の関係もないことになる。
しかし、この神社の名になった“兜”にまつわるものは残されている。それが兜岩である。この兜岩についても二人の武人が大いに絡んでくる。
義家の関連で言うと、東北凱旋後の義家が鎮定のために兜を埋めて塚をなした、あるいは義家が東北遠征のおりに兜を岩に掛けて必勝祈願をした。将門の関連で言うと、藤原秀郷が将門の首を兜を添えて持ってきたが、この地で兜だけを埋めて塚をなした。いずれも決定的な証拠はないのだが、何らかの祭祀がかなり昔からおこなわれていた場所であることは間違いないところである。  
兜神社 4  
社号 兜神社  祭神 倉稲魂命  相殿 大国主神、事代主命
兜神社は、中央区日本橋兜町にある神社です。兜神社は、東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当り、明治11年(1878)5月に取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営されました。境内に安置されている兜岩は、前九年の役(1050年)に源義家が東征のみぎりこの岩に願を懸けて戦勝を祈願したと伝えられ、当地名日本橋兜町の由来ともなっています。
兜神社の由緒 1
明治11年(1878)5月
明治11年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当り、同年5月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある倉稲魂命の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われた。昭和2年に再度換地を行い、兜橋橋畦の現在地約62坪を卜して同年6月御遷座を行い、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和44年5月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同46年3月現在の鉄筋コンクリート一間社流造り・句拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし、玉垣・参道・敷石などは御影石をもちいた。
境内に安置してある兜岩については、かつてはその昔前九年の役(1050年)に源義家が東征のみぎりこの岩に願を懸けて戦勝を祈願したことに由来すると伝えられ、兜町という地名はこの兜岩に因んでつけられたといわれている。
兜神社の由緒 2
兜神社 兜町にあり。祭神は倉稲魂命・大國主命・事代主命三座にして、例祭は毎年十月一日とす。境内に兜塚あり。其由来は第六章名所古蹟の條に出したり。
兜神社の由緒 3
兜神社 兜神社は、兜町二、四番地に鎮座せり。境内凡五十坪。正面素木造の門あり。左右の扉に「兜」の文字を彫れり。門内花崗石の鳥居あり、扁額に兜神社、従一位藤原實徳謹書と題せり。石階あり、境内清新にして、近年修復する所、丘上に祠あり、銅瓦を葺きて、檜木造の拝殿、翠簾垂籠めて幣束を捧げぬ。本社は土蔵造なり。祭神宇迦御魂命、大國主命、事代主命の三座にて、例年十月一日祭典を執行す、氏子は兜町一ヶ町なり。神前にぬかつきて、左側に古塚あり、即ち兜塚にて、地上六尺を擢きたる自然石なり、注連縄を施せり。社後は日本橋川に面し、対岸思案橋を望み、末廣河岸、鎧河岸の土蔵は、ただ一とつらに見えて、舟筏朝夕に輻湊せり。 
鎧の渡し   中央区日本橋兜町 
兜神社から徒歩で数分のところに「鎧の渡し」という場所がある。ここにも平将門と源頼義(源義家の父)の伝説が残されいる。
源頼義が東北遠征へ行く際、この地で暴風雨に遭い、この淵に鎧を沈めて龍神に祈ったところ、風雨が止んで川を渡ることができたという。この由来からこの辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになり、ここにできた渡し場を“鎧の渡し”と名付けたそうである。
将門の由来については、この地に兜と鎧を納めたということになっている。“兜”という名で思い出すのが兜神社であるが、向こうでの兜の由来は将門公の死後の出来事であり、どうも関連性は薄いようである。
江戸時代にはこの“鎧の渡し”は有名だったらしく、名所図会にも取り上げられている。しかし、明治5年に橋が架けられ、渡し場は消滅してしまった。という訳で、現在ではこの橋が「鎧橋」と呼ばれるようになっている。 
椙森神社   中央区日本橋堀留町
社号 椙森神社  祭神 五社稲荷大神、恵比寿大神
相殿 素盞鳴大神、大市姫大神、大己貴大神、四大神、恵比寿大神
椙森神社は、中央区日本橋堀留町にある神社です。椙森神社は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社で、江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集め、当たりくじ富興行も行われていたといいます。明治6年村社に列格したといいます。日本橋七福神の恵比寿神です。
椙森神社の由緒 1
椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために有力寺社で当りくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれました。
明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋入りで再建されました。
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもので(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
椙森神社の由緒 2
椙森神社(日本橋堀留町一の五)維新後は一般神社の冠称を廃止したゝめ、一時単に稲荷神社とよび、その後明治九年に至り旧称に復した椙森神社と称し、明治六年村社に列せられた。震災後の昭和六年、耐火耐震コンクリート造延約七十坪の新社殿の落成をみたが、今次戦災にも損傷を免れ現在に至った。当社例祭は四月上旬卯の日であったがいつの頃よりか四月十五、十六日となり、更に明治八年から五月十五、十六日をもって祭事を執行することになった。このほか初午祭・節分祭・秋祭・隔年に神幸祭等の年中行事がとり行われる。氏子の堀留町一丁目・同二丁目・芳町一、二丁目・人形町二、三丁目西部並びに本町二丁目の一部にわたりほぼ千戸に達する。
合殿として恵比寿大神を奉斎するが、十月十九日、二十日に恵比寿神祭が行われる。境内富塚は富興行記念の碑であり、また社宝に俵藤太寄進、聖徳太子作と称する白銀狐像一寸八分、俵共二寸五分のものがある。
椙森神社の由緒 3
承平元年(九三一)ころの創建にて、天慶三年(九四〇)俵藤太秀郷当社に祈願して平将門を亡ぼす。その報賓の証しとして白銀の狐像を奉納。くだって元文元年(一四六六)太田道港南乞して霊験があり、大いに喜びて稲荷山の大神を分霊して、椙森稲荷伍社大明神を祭る。以来五月十六日を祭日と定める。江戸時代には江戸三森の一つに数えられ、諸大名の崇敬者も多く、花相撲富興行等も数多く行なわれた。特に神道家吉川惟足の信心厚く、寛文元年(一六六一)伍社稲荷の一社なる大己貴大神の御託宣により、恵比寿大神を祭る。江戸時代は特に火災多く明暦三年(一六五七)の大火以後関東大震災まで二十数回におよんだ。大正十二年仮社殿社務所をたて、昭和六年九月には社殿・神楽殿・神輿庫・社務所・水舎・玉垣・鳥居等本建築の鉄骨鉄筋コンクリートけ造りにて整備した。昭和二十年三月の大空襲には社殿等すべてコンクリート造りが幸し、神社をはじめ氏子の大部分が焼失をまぬかれたのは神の御加護にはかならない。 
■台東区

 

鳥越神社 1   台東区鳥越
旧郷社
御祭神 日本武尊
配祀 天兒屋根命 合祀 徳川家康
東京都台東区にある。地下鉄の蔵前駅から少し南下して蔵前通りに入り、西へ300mほどの鳥越2丁目に鎮座。
境内入口の鳥居は、蔵前通りに面して南向き。鳥居をくぐると、稲荷と恵比須・大黒と天神を祀った福寿神社があり、左に向かうと正面に当社社殿がある。よって、社殿は東向き。社殿に向かって、左手に手水舎があり、右手に社務所や授与所。本殿は入母屋造のシンプルだが美しい形。屋根は緑青だろうか緑っぽい色だ。
通称は明神さま、あるいは鳥越さま。社伝によると、白雉二年(651)五月の創祀。
景行天皇の皇子・日本武尊が東夷征伐の時、当地にしばらく留まり、当地の悪者を退治された。土地の人々はその徳を慕って、白鳥明神として祀ったのが始まり。
当初は、周囲は海村で、樹木の茂った小高い山の上に鎮座したいたらしく、東南の方は海(今の東京湾)に面した街道筋の村であったという。
永承年間、八幡太郎義家が奥州征討の時、付近の海を渡ろうとしたところ、白い鳥の導きを得、白鳥明神の御加護であると、社名を鳥越明神と称したという。
相殿の天児屋根命は、奈良時代、仁明天皇の御代、藤原氏が国司としてこの武蔵の国へ下られた時、祖神を祀ったものと伝えられている。
また、徳川家康公は、三代将軍徳川家光の発願によって、寛永十一年に江戸城の鬼門除けとして、昔の南元町(蔵前四丁目)に松平神社として祀られ、関東大震災後、大正十四年に合祀された。
神社の由緒には記されていないが、一説に、京都で晒された平将門の首が、東国に飛んで戻った時、当地を飛び越え、鳥越となったという説があるらしい。
社殿前の狛犬の台座や天水桶、賽銭箱など、いたるとことに七曜紋が付けられている。当社の社家・鏑木氏は千葉一族で、七曜、九曜を家紋としているらしい。また平将門の相馬氏ともつながる家系であるとか。
社殿の左手には祖霊社と志志岐神社。志志岐神社は、宗対馬守が台東1−2にあった邸内に対馬国下県郡久田の社を勧請し祀っていたもの。平成十三年に当社境内に遷されたらしく、産婦は、この社の石をいただいて安産を祈り、お礼に、石と箒を納める風習があったとか。
鳥越神社略誌
御鎮座地 東京都台東区鳥越二丁目四番一号
御祭神 日本武尊
相殿 天児屋根命・東照宮公
御創立 孝徳天皇白雉二年(615年)陰暦五月(今より千四百年近く昔)
御由緒
鳥越神社は景行天皇(人皇十二代)の皇子。日本武尊が東夷を御征伐の御時に、この所へ暫く御駐在遊ばされました。土地の人々はそのご徳を慕い尊び奉り、白鳥神社(明神さま)をその地へお祀り申し上げました。
相殿の天児屋根命は天照皇大神に仕え、御功績勝れた御方で、奈良時代藤原氏の人が国司としてこの武蔵の国へ下られた時、御祖先たる故を以てお祀り申されたのです。
また、東照宮(徳川家康公)は、昔の南元町(蔵前四丁目)に三代将軍徳川家光の発願によって寛永十一年に江戸城の鬼門除けとして祀られ、大正十四年合祀され相殿にお祀り申し上げました。
北國紀行に「墨田川の鳥越と云へる海村に・・・」と書かれています様に五百年ほどの昔は海村で樹木の茂った小高い山の上に御鎮座になり、東南の方は海(今の東京湾)に面した街道筋の村であったようです。
回國雑記に「暮れにけり、やどりいずくと、いそぐ日に、なれも寝に行く、鳥越の里」と詠まれ、鳥がねぐらを求めて鎮守の森に群がり閑静な懐かしい気分にさえなります。
永承の頃、八幡太郎義家公奥州征伐の折、白い鳥に浅瀬を教えられ軍勢をやすやすと渡すことができました。義家公これ白鳥大明神の御加護と称え鳥越大明神の御社号を奉られてより鳥越の地名が起こりました。尚、昔は社の境内は頗る広く小島町・下谷竹町の境にあった三味線堀は境内の一部で姫が池といい御手洗の池であった。(不忍池−忍川−隅田川の間の堀で三味線に似ていた)と伝えられています。
徳川幕府が江戸に開かれるにあたり堀は埋め立てられ、旗元・大名屋敷地として没収され幕府の市街地整備・米蔵・矢の蔵の土工の為、鳥越の山は取り崩され埋め立てに使用されました。森田町に榊神社(第六天)・三味線堀に熱田神社が末社としてお祀りされておりましたが、榊神社は堀田堀へ熱田神社は三谷へ移され吉野橋付近を新鳥越町と称しましたので鳥越を元鳥越と称しました。この時本社も他に遷されそうになりましたが、第二代神主鏑木胤正が幕府にさまざまに請願し元地に残り、鳥越三所明神と称えられるに至りました。  
鳥越神社 2  
平将門公の一族が今も宮司を務めるという
かつて東征に出たというヤマトタケルを祭神として祀る鳥越神社。こちらは平将門公の首が空を飛んだ際、この地を飛び越して行ったために「飛び越え→鳥越」という地名がついたという逸話が残されています。現在、この鳥越神社の宮司は代々にわたって千葉氏という一族が務めていますが、この千葉氏の祖先を辿ると平将門の叔父にあたる平良文に行き着くとも言われます。
鳥越神社 3  
祭神は日本武尊。東征の折にこの地に留まったことを近在の者が尊び、白鳥神社を建立したのが始まりとされる。その後、永承年間に源義家が奥州征討へ赴く際、この付近を渡河しようとし、白い鳥に導かれて浅瀬を渡ることが出来たため、鳥越神社と改称したという伝承が残る。
しかし神社の由来書きにない伝承もある。それが平将門にまつわるものである。この鳥越神社は将門公の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという。
この神社と将門を結びつけるものはいくつかある。神社の紋を【七曜紋】としているところ(将門の紋は【九曜紋】であり【七曜紋】も同種とみなされる)。また宮司である鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の中でもかなり由緒のある家柄であることが、挙げられるだろう。全く縁もゆかりもない土地ではないわけである。 
鳥越神社 4   
白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、例年6月に開催される。
主祭神 日本武尊
合祀 天児屋根命 - 仁明天皇の御代に武蔵国司となった藤原氏が、祖神を合祀した。
合祀 東照宮公 - 徳川家康を祀っていた松平神社(現蔵前4丁目16番付近)が関東大震災で焼失したため当社に合祀された。
景行天皇の御代に、この地に日本武尊が良き斎庭と定めて皇祖二柱の大御神を祀り、その後白鳥村とよばれたこの地に白雉2年(651年)、村民が「白鳥明神」として奉祀したのが由緒とされる。
前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
江戸時代までにここには三社の神社が成り一帯の約2万坪の広大な敷地を所領していたが、元和6年(1620年)、江戸幕府が全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに蔵(浅草御蔵)を造営することとし、この埋め立て用に大明神のある鳥越山を切り崩すことになり土地を没収されてしまった。さらに、大明神の北側にあった姫ヶ池も鳥越山からの客土で埋め立てられ、大名屋敷などの御用地とされた。
三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社である。  
日輪寺   台東区西浅草
山号 神田山  院号 芝崎道場  寺号 日輪寺  
時宗寺院の日輪寺は、神田山芝崎道場と号します。日輪寺は、了円法師により神田御門内柴崎村(千代田区大手町)に開基したと伝えられます。平将門公の首塚(将門塚)で、時宗ニ祖他阿真教上人が平将門公に「蓮阿弥陀仏」の法号を授与し供養、柴崎道場(時宗の念仏道場)として中興し、以後平将門公の法要を毎年2月14日に営んでいるといいます。江戸時代には、佐倉藩主堀田氏の菩提寺で、乗輿独礼席を許された他、時宗の総触頭を努めていた他、安称院、林香院、宝珠院、東福院の4院の塔頭を擁していました。 
浅草寺   台東区浅草
東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観世音菩薩。元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立し、聖観音宗の本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている。
創建 - 平安時代
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下のとおりである。
推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。
一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。浅草寺創建より100年程前に、岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって堂ごと成木川に流され、行方不明になったという。成木川は入間川、荒川を経て隅田川に流れており、下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が返還を求めたが、かなわなかったという。
中世 - 近世
浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。
天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。
貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。
近代
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。
大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。 
海禅寺   台東区松が谷
山号 大雄山  寺号 海禅寺  臨済宗系単立
臨済宗系単立寺院の海禅寺は、大雄山と号します。海禅寺は、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624年)神田明神北妻恋に草創、寺号は下総国相馬郡に平将門が創建したとされる同名の寺に因んで命名したといいます。振袖火事の後、当地へ移転しました。蜂須賀家をはじめ諸侯から厚く庇護を受け、「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒(霊梅寺)、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁していた他、臨済宗妙心寺末の触頭を湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めていました。
海禅寺の縁起
京都花園妙心寺末 浅草不唱小名
大雄山海禅寺、境内拝領地6762坪8合3勺借漆年貢地2400坪
起立之儀は、慶長8年ニ御座候。
開山勅賜無礙浄光禅師覚印周嘉和尚は旧住下総国相馬郡高埜邨海禅寺。慶長8年4月依、台命出府乃謁観於秀忠公
家光公両殿下吹嘘之者曽我主計頭尚祐也云。爾来時々来往登、城随於、殿下之親問上答足利家歴代之憲法或経論護法之薀奥大如懸河而道徳兼備亦最勝於
東照神君之附属尚被感悦為博覧之知識而後賜於城外単庵掩留於此矣。寛永元年3月12日於
謁見之時蒙賜地於湯島妻恋令創造一宇住之乃山号大雄寺曰海禅更所 命以吾関山門派之棟梁曽謂所開創平親王将門之下総相馬郡海禅寺者以旧住之地延用扁之也。復屡雖有可被附膏腴田之 台命固辞不受弁道暇時々随衆徒到 城庫分衛以鉗鎚緇素所謂佛入舎衛城乞食大相似護釈氏之風貴族君臣道俗男女帰嚮其智執弟子之礼得師檀之因者無遑枚挙、就中阿州蜂須賀祖蓬庵居士者旧以道友長子後孫亦随受師鉗鎚草創一宇於門内扁曰霊梅令師肥遯之親子伯仲時々来往弁問之矣其住任者授嘱小師古道和尚同辱 公命勉之云其他嗣法者分披四方闡揚道風紹隆今日矣。于時世歯八十三寛永10年冬臘月初5掩、爯坐化為而後、明暦3年正月18日罹祝融災故賜替地於此相丁茲時草創宝殿安排祖佛以伸供養者蜂須賀阿波守光隆侯也。諸檀越復随喜捨浄財再興堂宇一新之報答遺徳云云。
開山勅賜無礙浄光禅師覚印周嘉和尚、寛永10年5月16日寂。
中興開基松平阿波守
本堂、本尊釈迦牟尼如来、開山祖像、4世中興祖師像
鐘楼堂、洪鐘径2尺7寸5分長4尺9寸(中略)
塔頭。霊梅軒(霊梅寺)、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵。以上乙酉書上。 
下谷神社(したやじんじゃ)   台東区東上野
大年神と日本武尊を祭っている。
古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社。東京メトロ銀座線の稲荷町駅に名を残す旧町名の稲荷町は、この神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇る。
社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。 夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。 「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。 宮司の阿部明徳は、東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。
当初は上野公園に鎮座していた。730年(天平2年)、峡田の稲置らが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年(天慶2年)、平将門による天慶の乱追討祈願のため、藤原秀郷が社殿を新造したという。寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627年(寛永4年)別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため、1680年(延宝8年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換した。1703年(元禄16年)旧地も正法院抱地になった。
1868年(明治元年)神仏分離令により正法院を分離した。翌年周囲の町名が当社に因み下谷稲荷町となる。1872年(明治5年)下谷神社と改称、翌年下谷地域の郷社と定められた。関東大震災で社殿を焼失、1928年(昭和3年)現在地に移転。1934年(昭和9年)現在の社殿が完成した。東京大空襲では被害を受けなかった。  
黒船稲荷神社   台東区寿
社号 黒船稲荷神社  祭神 倉稲魂命
黒船稲荷神社は、台東区寿にある稲荷神社です。黒船稲荷神社は、平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営、黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請したといいます。江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、黒船三社稲荷大明神と称されたといいます。
黒船稲荷神社の由緒 1
当社はもと「黒船三社稲荷社」と呼ばれ、天慶三年(九四〇)に、平貞盛が藤原秀郷と協力して将門の本拠を攻めたのち、黒船稲荷大明神を祀ったのがはじまりと伝えられている。中世には一時衰弱したが、江戸時代のはじめ寛永年間(一六二四−四四)のある秋に、釈妙圓尼が再興した。享保十七年(一七三二)には、浅草通り黒船町河岸の南西に祀ってあったが、同年三月の大火で類焼し、その後、替地を賜わり現在に至っている。
黒船稲荷神社の由緒 2
浅草黒船町代地
黒船三社稲荷社、拝領地百二十坪七間半奥行十六間裏巾七間半
天慶三年五月、平貞盛藤原秀郷東州平定之時造営して黒船稲荷大明神と号す。中世衰廃せしを、寛永年中、釈妙円尼再興し、別当泉住寺を起立す。其後享保十七子年迄浅草通黒船町東側南河岸迄両面ニ候処、同年三月廿八日類焼之後、御蔵火除御用地二被 召上、代地として当所を賜ハり候。
本社、土蔵間口二間二尺奥行九尺。拝殿、方二間。祭神三坐黒船稲荷、丈一寸八分運慶作。
散穂稲荷、丈二寸五分。紅葉山稲荷、白狐石ト号ス一寸斗ノ石也。
相殿両輪弁天木坐像。丈一尺二寸開基、妙円比丘尼、竹生嶋弁天参籠之時、感得之像ト云。
此余宇賀神金毘羅不動十一面観音安置。
宝物
一御紋附戸帳、水戸養泉院殿御奉納
一金幣台附三本、同上
一菓子台、梨地御紋附御寄附人同上一箇
一赤地錦水引一張
裏書二天下泰平四海静謐御武運長久祈攸荻原近江守取次之 妙円尼駒井衛門梅寸浄月院ト記ス。
黒船三社稲荷大明神鎮座記文左之通
武州豊鳥郡些戸浅草黒船三社稲荷大明神は、人皇六十一代朱雀天皇天慶二年、平将門関東を押
領し下総国猿嶋の郡に居住して自ら平親王と号す。因茲同三年春二月、平貞盛・藤原秀郷、勅を奉り奥常野武の兵を挙て大小是を撃破り、貞盛遂に自ら将門を射、秀郷進んてその首を得たり。東州悉く平定す。同五月東征の勲功として、秀郷従四位下ニ叙し、相模の国主に任し、並て武州豊嶌郡及ひ数郡を賜ふ。或夜秀郷夢らく、蒼海漫々たる沖に大ひ成る黒船あり。貸財岡のことく積ミ、傍に神人あり。白狐左右に列す。時に神人秀郷に告て日、我ハ是倉稲魂也。汝常に吾を信ス。故に尓現せり。永く家門の擁護とならん。また一瑞を顕さん。汝か分領入間川の浜の石上に、白狐在住する処、是我有縁の地也と。秀郷覚て心決せす、潜に入間川の辺を回視するに、果して石上に白狐蹲踞す。秀郷を見て堤の上に走隠る。其行跡を見失、秀郷符合の神託を感し、自らその石を取揚、神体とし、白狐の登りし岡の上に社を造営し、夢中の容像を象りて、黒船稲荷大明神と号せらる。是尊敬厚ふして宮殿門廡整々として、神威魏々然タリ。既にして后中古久しく、戦国ニて新田・足利の確執、北条・上杉の鯨波、此地戦士たり。故に宮殿焦土ト成り、社地荒廃して殆泯滅に至らんとす。此艱難の間ニ有志の人僅に一祠を建立して、神体を安置し、幸に神跡を失さらしむ。然して日去月往て関東漸く平均し時哉神君江城に移らせ玉ひ、繁花日を追て入間川の浜ミな市町と成る。今社前の街区を黒船町と称するも当社の神号に拠るもの乎。爰に近世寛永のころ釈妙円尼近江国産姓ハ佐々木社地の衰微を歎き、祠の側ニ茅屋を設け、晨夕社前に給仕し、時々鎮座の容易ならさる事を演説す。是に於て土人始て社祠の来由尚事を知り、緇素更に霊験の感応貴き事を敬ふ。終に艸宝を泉住寺と名し、和光の灯あきらかに絶す撥くる便とす。然しより神威上古に復起し、参詣の衆人祈願満足し霊瑞日々に新にして、其神徳を蒙る者勝て不可量。
散穂稲荷大明神縁起文左之通
武江の金城は、旧大田道灌是を経営す。道灌始て郭を築んとするの時、肥後の国より大石数多船こて渡海す。時に逆風俄に起り、波濤大ひに巻てふね忽に覆らんとす。船長某常に稲荷を尊信す。将に丹誠を尽して即得浅処を求む。以下の水主柁人等皆稲荷の神号を唱し、此危急を免れん事を祈るに奇瑞帆上に顕れ、暴風自然に静り、難なく武府に着船する事を得たり。而て積所の石陸へ運送せんとするに、磐岩のことくにして、揚る事を得す。皆々驚怖す。其夜舟長夢に石中稲穂一束あり。是をもって稲荷の社地に奉納すへしと。覚へて水主等に語りて怪ミ尋に稲穂一束を石中より提出せり。其後石を運送するに、功甚速に成る。幸当社着船の地に近きを以て稲穂を当社へ奉納シ、散穂稲荷大明神と号し、古来の祭神と井せて二座とす。運送海船の霊異、稲荷の神徳たる事を証せんか為に当、御城中の御門両傍に大小の狐祠を勧請して今猶現然たり。
紅葉山稲荷大明神由来
往昔より金 城紅葉山に鎮座、其後近世元禄年中紅葉山 御仏殿御造営の時、他所へ移し奉るとするに、先年散穂の所縁あるを以て 台命下り、当社へ遷座し奉る。先の祭神二座に合して、三座とす。是より黒船三社稲荷大明神と尊号し、霊応益ゝ盛んにして祈望の輩如意円満し、信敬の徒、福寿増長せすと云事なし。貴むへく仰くへし。仍縁起前文のことし。
追加
里人伝云、浅草川入間川ノ別名に黒船着岸す。故にその所を黒船町と名付、黒舟の頭の有し所をミヨシ(今三好ノ字ヲ用)町と号スと。此説大に非也。古来より浅草川に黒船留舶せし事を不聞。実録及び野史にも兄へす。益上に所謂大田氏肥州より数多の大石を積下し渡海せし船此川辺に碇せしを、黒船着岸と伝ヱ誤るのミ。又ミヨシ町は黒舟丁の上の方に隣を以て好事のもの作意して名付たるへし。黒舟ハ当社久しき神号にして神号を以て社前の町の名とする事必せり。黒舟着岸の謂にハ非ず。
時享保十八年癸丑春二月吉辰
昔日不可無鎮座縁起及往々霊験記録等也。惜哉中古兵乱尽亡失而不伝矣。近頃釈妙円尼勤尋其興起善明其来歴自編為一巻暴示干後世因得衆人知詳来由久遠而耀漸神霊和光焉無此著述何以徴乎妙円之有功実当社之幸甚也。然享保壬子年隣巷有火矣。社地炎上危奉遷神輿其余什宝且妙円之自記皆悉灰燼也。鳴呼命哉命哉。奈何之乎矣。爰民人誥田住晶予識妙円之記粗筆之如前文恨有遺漏不能全写伏庶将使向後信敬之貴賎仰神霊之不庸以被許愚之感応者也。
享保十八歳癸丑夏四月
武州豊嶋郡江戸浅草黒船町
泉住寺謹書
氏子町 黒船町三好町
別当金龍山泉住寺、天台宗浅草寺末
以上乙酉書上
熊野三社浅草黒船町に在しか、近き頃諏訪町のうしろ堀田家の屋敷近所へ移る。早玉弁天稲荷相殿なり。神主曽根外記(再訂惣鹿子)
早玉弁天・黒船稲荷・熊野権現三座同社諏訪町うら黒船町うら黒船町代地に在り(江戸図説)
本社九尺四方土蔵造。向弁天稲荷不動十一面観音。この観音ハ弘法大師の作にして、故ありて紅葉山より御預りといふ。此社を三社といふハ黒船稲荷・三好町散穂いなり、御城の比丘尼方より納めし所のいなりを合せ祭る。
別当泉住寺黒船町代地にあり。小名を吹上といふ浅草寺の末寺、金龍山と号す。
延享二年九月、浅草寺地中門末改書上之内
浅草黒船町泉住寺
一御除地境内百十六坪五合、本社弐間二弐間半。幣殿弐間九尺。拝殿二間四方。右散物銭五貫文程
一祈願檀方、五十軒
右檀得、金弐拾両程
収納金、金弐拾両程銭五貫文程
右之通相違無之候、泉住寺印 
■江東区

 

香取神社 1   江東区亀戸
今年でご鎮座1350年。これを節目に「スポーツ燈籠會(え)プロジェクト」を開始いたします。勝利に向けて挑むアスリートの「言葉」には強いパワーがあります。その言葉を、燈籠に競技イラストと共に書き込ませていただき、そのあかりを守り、皆様の活躍をご祈念しようというプロジェクトです。
   宮司からのご挨拶
天慶の昔、平将門が乱を起こした際、追討使俵藤太秀郷はこの亀戸香取神社に参籠し戦勝を祈願しました。乱をめでたく平定した後、弓矢を奉納し勝矢と命名。この古事により「勝矢祭」が現在も守り伝えられています。 歴代の天皇をはじめ源頼朝や徳川家康などの武将達、剣豪塚原卜伝や千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受けてまいりました。このような由来から、現在亀戸香取神社は「スポーツ振興の神」として、全国に知られるようになりました。毎年、スポーツ選手をはじめ、スポーツ大会・試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ篤い祈りを奉げており、また、そうしたみなさんの勝利をご祈願しております。そして、2020年に東京でのオリンピックが決まったことや、昨今のマラソンやラグビーをはじめとするスポーツ全般の盛り上がりの中で、御鎮座1350年を迎えることができました。これを節目として、スポーツのさらなる繁栄をご祈願し、より一層スポーツ振興の一助になりたいと考えていたところ、地元の多くの方々の賛同の声と後押しをいただき「スポーツ燈籠(仮称)」の奉納を広く日本中から募るプロジェクトを始めることにしました。 ぜひ、みなさまのご協力をいただければ幸甚です。
   スポーツ復興の神 亀戸 香取神社
天慶の昔、平将門が乱を起こした際、追討使俵藤太秀郷はこの香取神社に参拝し戦勝を祈願しました。乱はめでたく平定することができ、神恩感謝の奉賓として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。この古事により、1000年の時を経て今も「勝矢祭」が守り伝えられています。 歴代の天皇をはじめ源頼朝、徳川家康などの武将達、また剣豪塚原卜伝、千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受け、 武道修行の人々は香取大神を祖神と崇めていました。 このような由来から、亀戸 香取神社は「 スポーツ振興の神」として、スポーツ大会・試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ篤い祈りを奉げています。
御祭神
香取神社の御祭神、経津主神(ふつぬしのかみ)は、千早振る神代の昔、畏くも皇祖の神勅を奉じ、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる、我国武将の祖神です。
然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義のあることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。
故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くされたのであります。
経津主神(ふつぬしのかみ)相甕槌神(たけみかづち)大己貴神(おおなむじ)
御由緒
香取神社は天智天皇4年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因です。
天慶の昔、平将門が乱を起した際、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、めでたく乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に執り行われております。以来、益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、ご神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました(当時の葛飾は下総国の大半を意味します)。元禄10年検地の節は、改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられています。
香取神社奉納刀七振 江東区有形民族文化財
香取神社に代々伝えられてきた奉納刀。本社である千葉県の香取神宮、茨城県の鹿島神宮と並び、武士の神として信仰を集めていたことにより奉納されたものです。 銘文のある刀のうち、「陸奥會津住道長」は、寛文・延宝期(1661〜80)に活躍した刀工、三善道長の可能性があります。こしらえはさほどではありませんが、貴重な作例です。また、「備州住兼光」銘の短刀は、有名な備前長船派の名刀工、兼光を模したものと推定されています。
御神徳
香取神社の御祭神、経津主神(ふつぬしのかみ)は千早振る神代の昔畏くも皇祖の神勅を奉じ、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖神であります。
然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義のあることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。
故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くされたのであります。
経津主神(ふつぬしのかみ)相甕槌神(たけみかづち)大己貴神(おおなむじ)
宝船(道祖神祭祭具) 江東区有形民俗文化財
「千艘万艘御ふねが参った。銭でも米でもどんと一ぱい、おっつめろ。さいの神を祝う。」と、氏子の子どもたちがはやす文句があります。江戸時代には毎年正月14日に道祖神の祭りが行われていました。この宝船はその時に使われていた祭具で、竿から垂らした縄で船を吊るしてかつぎ、亀戸から両国の辺りまでを練り歩きました。
紙本淡彩道祖神祭図 安藤広重筆 江東区有形文化財(絵画) 
道祖神祭の人物や宝船を墨で描き、朱、青等で淡彩を施しています。画面右側から宝船が進み、それを担ぐ人物とその周りではやす子どもたちが描かれています。画面右上に「年中行事亀戸道祖神祭」と題があり、右下には「廣重」の署名と落款があります。宝船の旗には「寶船 亀戸村 氏子」と描かれています。安藤広重肉筆の貴重な作例で、晩年の作と推定されています。 ※安藤広重(1797〜1858):浮世絵師。江戸の生まれで、本名は徳兵衛という。代表作「東海道五十三次」。
御神殿
建武年間(1334〜37)香取伊賀守矢作連正基が始めて当社に奉仕し、香取神社初代神職となり、応安4年(1372)社殿再建、降って大永3年(1524)修造を営み、後寛永3年(1627)4月8日本殿改築に着手、同年9月24日竣工、文政年間(1818〜29)拝殿造営、明治5年11月16日村社に定められました。昭和20年3月9日第二次世界大戦にて本殿炎上、同23年8月社殿再建。更に昭和63年10月19日現在の社殿が建立されました。
御神輿
明治11年に完成したもので、約5年の歳月をかけて製作されました。一度担がれれば、屋根の部分・胴体の部分・台座の部分とそれぞれが別の動きをすることから、俗称で「こんにゃく神輿」と言われ、現在国内に2基(1基は九州)しか存在しない、珍しく、貴重な神輿です。
御末社
   天祖神社(入神明宮)
御祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ伊勢神宮の御内宮)
御由緒:香取神社改築に伴い移転され、境内神社として祀られるようになりました。当神社の創立には江東区内では最も古く、口伝によるとこの地が四辺海に囲まれていた頃、漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に、伊勢の大神を祈念すると災害を免れたという事で、太平榎塚に小祀を営み鎮祭されたといいます。江戸名所図絵に描かれている神明宮は当社です。 尚、境内から多量のおもり(石器)が出土(明治40年)し、考古学的にも有益な資料とみることができます。現在香取神社にて保存しています。
弥生式土垂 江東区有形文化財(考古資料)
状の土製のおもりで、漁猟の網に使用したものと推定されています。完成品5点、破損品1点が社宝として保存されています。長さ4.3〜6.5cm、厚さ0.6〜1cm、直径2.6〜3.3cm。この土垂は、亀戸3-41にあった入神明宮から出土したもので、入神明宮のあった場所は「江戸名所図絵」によれば「相伝ふ、上古この地は一つの小島にして、その繞りは海面なりしと。」と記載されており、一つの小島でした。このことは「先史時代(或いは原始時代)の下町」(「鳥居龍蔵全集」第二巻所収)に、「これは、貝塚の土を持ってきたように思われる。この中に無数の網の錘や、ハニベ土器の破片等が混じて居る。」と記載されています。
   稲足神社
御祭神:面足神 (おもだるのかみ)、惶根神 (かしこねのかみ) 相殿に金山毘古神 (かなやまひこのかみ)、宇賀御魂神 (うがのみたまのかみ)
御由緒:寛文9年(1670)創立。明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社の奉仕となる。明治35年香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。琴平神社は宝暦年間香取12代神職香取正幸の鎮祭する処で、稲足神社は元渡辺稲荷神社と称え明治12年当社に合祀。
御神徳:産業発展・家運隆昌
   福神社
御祭神:事代主神 (恵毘寿神 えびすしん)、大国主神 (大国神 だいこくしん)
御由緒:元々御本社の相殿に奉仕されていた大国主神と併せて明治年間に至り、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内に鎮祭しました。当時の社殿石燈篭は小山富蔵氏寄進造営です。
御神徳:富徳円満・商売繁昌の守護神
   熊野神社
御祭神:家津御子大神 (けつみこのおおかみ)ほか天神地祇十三柱
御由緒:熊野の神の総本社で曽ては「蟻の熊野詣で」の諺通り、貴賎老若男女をとわず全国から参詣者が集り、信仰絶大にして盛況を極めました。当社は元梅屋敷隣の北の方に位置し、熊野入りと称して、亀戸村の水利を司っていました。大正13年、北十間川が拡張されるのに伴い、香取神社の境内に移転鎮祭しました。
   三峯神社
御祭神:国常立命(くにとこだち)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)
御由緒:享保年間(1716〜35)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主安藤喜右衛門が園内にお祀していたのを、明治の末年に香取神社に移しました。火防、盗難除のご利益あらたかで、梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者も増え、近年本社参拝も盛んです。
   水神社
御祭神:水波能女神 (みずはのめのかみ)
御由緒:天明6年(1787)香取神社13代神職香取正武がその年の洪水を記念し、災害防止、氏子住民の安体を祈願して石祀をもって建設しました。江戸名所図絵にもみえます。 
亀戸香取神社 2  
社号 香取神社  祭神 経津主神  相殿 武甕槌神、大己貴神
境内社 水神社、三峰神社、熊野神社、稲足神社、天祖神社
亀戸香取神社は、江東区亀戸にある香取神社です。亀戸香取神社は、藤原鎌足が東国下向の時に勧請したとも、応安4年(1371)鎮座とも伝えられます。亀戸七福神の大国神、恵比寿神としても知られています。
亀出神社(江東区大島3-31-15)、亀戸水神宮(江東区亀戸4-11-21)の兼務社です
亀戸香取神社の由緒 1
(亀戸村)香取社
当村の鎮守なり。祭神は経津主神なり。右に健御雷神、左に大杉大明神を合せ祀れり。由緒に云。当社は天智天皇4年乙丑大職冠鎌足東国下向の時勧請し、太刀一腰を納め朱雀院御宇俵藤太秀郷、将門追討の時参籠して弓矢を納めし事あり。其後大永3年当社を再興し、又応安4年修造云々とみえたり。此事他の所見なければ信ずべきものにはあらされど、寺社帳に応安4年鎮座の由載たれば古社なることは論なかるべし。享保の頃当社へ常州阿波郡大杉明神飛来せりとて、其頃参詣群集せりと云。
末社子守稲荷金比羅。
旅所、北十間川の北側にあり、僅の除地なり。
神主香取中務。吉田家の配下なり、旧家なれど家系等も傳へず。
神明社
往古大樹の榎神木たりしが、此木枯たりしとき天下泰平の文字を虫食しより、泰平神明と尊称すと云。香取中務(香取社)持
亀戸香取神社の由緒 2
「香取神社御由緒記」によれば昔亀戸は小さな島からなり、島の形が亀に似ているところから亀島、亀津島とも呼ばれていた。天智天皇四年(六六五)藤原鎌足公が東国御下向の際、この亀島に船を寄せられ、香取大神を勧請され、太刀を一振を納め、旅の安泰を祈り、神徳を奉るのが創立の起因であるという。建武年間(一三三四〜三八)に香取伊賀守矢作連正基が始めてこの社に奉仕し、香取神社の初代神主となり、応安四年(一三七一)社殿再建、大永三年(一五二三)修造を営み、寛永三年(一六二六)本殿改築、文政年間(一八一八〜三〇)拝殿造営、戦災で本殿炎上し、昭和二三年社殿再建、昭和六三年現社殿建立という。
藤原鎌足は平安時代に栄華を極めた藤原氏の始祖である。藤原氏は氏神として春日神社を奈良に創建し、鹿嶋・香取なども祀る。そのところから、亀戸香取神社に藤原鎌足と香取を結びつける伝承が生まれ、相殿に鹿嶋の神武甕槌神を祀るのであろう。なお、香取神社は南葛飾郡に広く分布しており、下総の香取神宮の社領がこの地域に存在していたためだと考えられている。 
江東区の地名由来 
清澄
寛永6年(1629)ごろ、この一帯の干潟を開拓した猟師町(りょうしまち)開拓八人の一人、弥兵衛がこの町の祖で、はじめは弥兵衛町と言ったが、元禄8年(1695)の検地の時に改めて清住町となる。清住とは、地形が安房国の清済(清澄)に似ていることからつけたと伝えられている。昭和7年、伊勢崎町や西・裏・仲大工町と合併して、清澄町と改称とした。
常盤
古くは深川村の分郷(わけごう)で松代町といったが、四の橋南側に移って南松代町と言っていた。後に火災で焼失し、高橋際と二の橋通りに替地が与えられた。そのとき、新町名を付けるにあたり、もとの松代町の「松」にちなんで縁起よく常盤町と名付けられた。俳聖松尾芭蕉の庵があった地で、「古池やかわず飛び込む水の音」はあまりにも有名な句である。
新大橋
新大橋は、元禄6年(1693)架橋された。昔大橋といわれた両国橋の次に造られた大きな橋に由来し、現在の町名になったのは、昭和9年である。歌川広重の描く当時の木橋「名所江戸百景」中の「おおはしあたけの夕立」は傑作であり、また、芭蕉も新大橋が架橋され、その恩恵に浴した喜びを「ありがたやいただいて踏む橋の霜」と詠んでいる。
森下
昔は深川村の一部であった。江戸時代の前期(1660年ころ)次第に町屋が建てられた。当時、この地の酒井左衛門尉の下屋敷に樹林が繁茂していて、周囲の町屋は森の下のようであったから森下と呼んだ。
平野
元禄11年(1698)幕府によって埋立てられ町屋が開かれたが、後に名主平野甚四郎長久の姓をとって平野町としたのが始まりという。
三好
元禄14年(1701)、中川屋佐兵衛(なかがわやさへえ)等三人が払下げを受けて町屋を開設したことから、16年(1703)に三好町と命名したと伝えられる。
白河
白河楽翁(白河藩主・松平定信の号)にちなんで町名がつけられている。寛政の改革で名高い松平定信(1758〜1829)の墓所がこの地の霊巌寺にある。町名となったのは定信の没後100年余のことである。昭和7年、深川東大工町・霊岸町(れいがんちょう)・元加賀町(もとかがちょう)・扇橋町の各一部を合わせ白河町が誕生した。
高橋
昭和9年6月15日に新しく名付けられた町名で、この地は江戸時代の中ごろから武家の屋敷や町屋が開け、発展してきたが、地名は小名木川に架かる高橋に由来する。
佐賀
寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。元禄8年の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。
永代
昭和6年、付近の町々を合わせ、永代橋にちなんで名づけた。永代橋の歴史は古く、元禄11年(1698)の創設と伝えられ、五代将軍綱吉50歳の賀を祝し、永代の名を付したといわれるが、永代島の古名をとったとも言われる。
福住
区の西部、一丁目・二丁目に分かれる。この地はもと一色・伊沢・松村・黒江・永堀・大住・東永代・材木の各町を、昭和6年合併して福住と名づけられたものである。昔は隅田川の河口の洲で、江戸時代に埋め立てられ、網打場、石置場、材木置場などがあったが、しだいに町屋に発展していった。
深川
慶長の初期(1596〜1614)、江戸がまだ町づくりをはじめたばかりのころ、深川八郎右衛門という人が、摂津国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名としたが、これがこの地一帯をよぶ名称となった。深川区の名はこれをうけたものである。現在の深川は、昭和16年、亀住町と和倉町・万年町・冬木町の一部を合併して町名としたものである。
冬木
材木商冬木屋に由来する。冬木屋は、上野国(こうずけのくに、現・群馬県)から江戸に出た上田直次がおこした。三代目冬木屋弥平次は一族の上田屋重兵衛と、仙台堀川の南の地を材木置場として、幕府から買い取った。宝永2年(1705)町屋をたてて、深川冬木町と名付けたのがこの町の始まりである。昭和15年に和倉・亀久・亀住・大和(やまと)・万年などの各町が合併して冬木1丁目・2丁目と和倉2丁目となった。16年には冬木2丁目と和倉2丁目が合併して冬木町となり、44年冬木とした。
門前仲町
区内随一のにぎやかな商業地区である。門前仲町は、昭和6年、従来の黒江町・門前山本町と蛤町の一部を合併して誕生した。古くは深川永代寺門前仲町、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前町屋として発展した。
富岡
昭和6年、従来の富岡門前町と数矢町などいくつかの町を合わせてできた(数矢町は江戸時代浅草の三十三間堂がこの地に移り、遠矢の数を競い合ったところからその名がある)。富岡の名は、現在の横浜市富岡町にある富岡八幡宮の分霊により、深川富岡八幡宮が建立されたことに由来し、この地が名付けられたと言われている。
牡丹
江戸時代は、海岸を埋め立てた土地であった。昔、このあたりに牡丹を栽培する農家が多かったので、牡丹町と名付けられた。また現錦糸町あたりの牡丹園の職人が多く住んでいたので、この名が起こったともいう。
古石場
地名が示すように古くは江戸幕府の石置場であった。埋立てが進み、周辺に深川海辺新田(しんでん)飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場と呼ばれる地ができ、明治24年に統合して深川古石場が新設された。
越中島
隅田川河口にできた寄り洲だった。江戸初期の一時期、播州姫路の領主榊原越中守(えっちゅうのかみ)の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。
塩浜
昭和43年4月1日、住居表示制度の実施に伴い、浜園町と塩崎町の名からとられたものである。浜園…大正10年埋立完工、11年11月、深川区に編入され、浜園町と名付けられた。塩崎…大正10年埋立完工、11年11月、海浜の町を表わす名として付けられたものである。
枝川
大正4年9月、埋立工事に着手、昭和3年4月に完成し、当時の深川区に編入された。東京市の「枝川改良工事計画」によって、市内の各河川を掘り下げた土砂によって埋め立てられたことから、町名が付けられたものである。
豊洲
区の南端にあり、東京港の一部を構成している地である。地名は、昭和12年7月、この埋立地に町名が設定され、将来の発展を願って豊かな洲となるよう命名されたものと言われる。
東雲
昭和13年6月1日、豊洲五丁目の東南、海面埋立地に東雲(しののめ)一丁目・二丁目を命名し、更に11号埋立てに伴いここを東雲三丁目(現二丁目)と名付けて現在に至っている。東雲とは明け方にたなびく雲で、夜明け・あかつき・あけぼのを意味する。
有明
昭和36、37年に10号埋立地の一部を深川有明町(一丁目〜五丁目)とし、昭和43年4月1日、住居表示制度実施により現町名となる。有明とは、「有明の月・有明の灯…」などとも言われ、夜明けに残る月のようすであるが、すがすがしさを感じさせる。
辰巳
十二支で表した辰巳の方向、つまり南東の方角である(江戸城から巽の方角にあたるからである)。昭和41、2年に七号埋立地が区に編入され、43年4月1日、住居表示制度実施に伴い現在の町名となる。
潮見
昭和43年1月30日、8号埋立地を区に編入する。首都高速九号線が通り、潮見グランドがあり、潮の香のただよう地である。
青海
臨海部の将来のシンボルゾーンとしてふさわしい町名として、すがすがしく、すぐれたさまを意味している。昭和38年から埋立てが始められ、58年から63年にかけて本区に編入された。その帰属は、江東、港、品川の三区の申請により自治紛争調停に付され、57年10月に出された調停案によるものである。現在、臨海副都心として東京テレポートタウンの建設が進められている。
千石
昭和11年12月1日、石島町の南部と千田町の南部を合併して町を作った時、両町の各一字を取って千石町とした。
石島
区のほぼ中央部にあり、大横川(おおよこがわ)沿いの地である。江戸時代から開け、芝居などで知られていた。昔、付近一帯は海辺の低湿地だと言われるが、石島の名もこのような地形から名付けられたものであろう。
千田
「人里はなれた十万坪…」と芝居の文句にあるように、江戸の頃は淋しいところであった。もとは海岸の干潟を、享保8年(1723)千田庄兵衛が埋め立て、千田新田(せんだしんでん)と名付けたことから、千田の姓にちなんで町名となっている。
海辺
海辺新田(うみべしんでん)がこの町の祖である。慶長元年(1596)ごろから、野口次郎左衛門が開拓を始めた。カヤの茂る干潟を開拓し、海に臨んでいたことから海辺新田と言われ、海辺の町名が生まれた。
扇橋
区の北部にあり、天和のころ(1683年ごろ)深川村と海辺新田の耕地を土地の者が願い出て町屋とし、そこにあった扇橋と言う橋名にちなんで町名とした。扇橋は江戸の文献にも見られることから、古くからあったと考えられる。
猿江
伝説であるが、康平年間(1058〜65)源義家の奥州征伐のころ、この地の入江に、「源義家家臣猿藤太」という名入りの鎧が打ち寄せられた。このことから、この地は猿江と呼ばれるようになったと言う。
住吉
昭和9年6月に従来の猿江裏町・同東町・本村町を合併し新設された町である。吉は縁起のよいことばであることから住吉町と名付けられたようである。
毛利
昭和9年6月15日、本村町の北の一部と猿江裏町の北の一部を併せて現在の名に改めた。本村町は毛利新田(もうりしんでん)の一部であったことからこの名が残る。
木場
この地が木場となったのは元禄14年(1701)だった。材木商たちは各地を転々とさせられたが、江戸市中では火事の原因となるため、深川の埋立地が指定された。元禄16年(1703)に木場町と命名された。昭和6年、島田・鶴歩(かくほ)・入船・茂森・扇橋の周辺各町を合わせ、42年、平久町(へいきゅうちょう)も合併した。昭和48年から材木業者は新木場(一四号埋立地)へ大半は移転したが、まだ木の香を残している。
東陽
東陽町、平井町、豊住町、洲崎弁天町、加崎町にあたる地域が、昭和42年、東陽となった。現在、区役所のある区域である。東陽の地名には諸説があり定かでないが、町の発展を願って名付けられたものである。
亀戸
地名の由来にはいくつかの説がある。一つは、亀形の井桁がある亀の背の甲から水が湧き出る亀ケ井という古井戸があった。もう一つは、この地が島であったころ、形が亀に似ていたからというものである。更に、「かみど(神戸)」であったという説もある。
大島
江戸時代の正保(しょうほう・1644〜47)ごろ、海岸の低湿地を開発して村が作られ、約250年前の「元禄図」に初めてその名が出ている。当時比較的大きな島であったので、この地名がつけられたといわれる。「大島」の呼び名は、弘化四年(こうか4ねん・一八四七)改版「江戸町鑑」(えどまちかがみ)に「大ジマ」と濁音で呼ぶよう強調しており、これは深川猟師町の一つの大島町と区別して、ここを「大ジマ」と呼んだのであろう。その後昭和40年の住居表示制度実施時に「おおじま」と読むよう決められた。
北砂
砂村の村名は、明治22年4月1日、多くの新田を合併して代表的な、砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした。大正10年6月30日、砂村を砂町と改称、更に昭和7年10月1日、城東区が成立したとき砂の字を残して北砂町・南砂町とした。そして、昭和41〜2年の住居表示制度実施にともない北砂・東砂・南砂・新砂へと町名を変更した。現在の北砂は、八右衛門新田(はちえもんしんでん)、治兵衛新田(じへえしんでん)、久左衛門新田(きゅうざえもんしんでん)、大塚新田、亀高村等の地域で、昭和7年城東区北砂町一・二・三・四・五の各丁目(ちょうめ)となり、昭和41年に北砂となった。
東砂
荻新田(おぎしんでん)、又兵衛新田(またべえしんでん)、太郎兵衛新田(たろべえしんでん)、中田新田、大塚新田の地域で、城東区成立時に北砂町六・七・八・九・十丁目となり、住居表示制度実施時に東砂一・二・三・四・五各丁目となったものである。東砂六・七・八各丁目の区域は、もと八郎右衛門新田(はちろうえもんしんでん)の区域である。
南砂
砂村新田(すなむらしんでん)、永代新田、平井新田の地域で、城東区成立時に南砂町一・二・三・四・五各丁目及び、六丁目の一部となり、住居表示制度実施時に南砂となったものである。
新砂
大正時代以降、昭和に入ってからの埋立地で、城東区成立時に南砂町四丁目と九丁目に分かれていたが、住居表示制度実施時に、南砂町四丁目が新砂一・二丁目となり、南砂町九丁目が新砂三丁目となった。ここにある水処理センターは、江東区・墨田区の全部と、中央区・足立区の一部を処理している。
新木場
昭和47年11月1日、海に面する14号埋立地を区に編入した広大な地である。「東京湾第二次改定港湾計画」に基づき防災拠点開発構想をすすめるため、木材流通基地の整備がなされ、昭和48年から、木場地区の木材業者の大部分が移転してきた地である。
夢の島
埋立ては昭和14年にはじめられ、当時飛行場が建設される予定だった。戦後、遊園地などが計画され、いつの間にか夢の島と呼ばれていたが、本区へ編入のときは正式町名となった。
若洲
新たに生まれた若い島の意味で、新木場と若洲の間に若洲橋があり、橋の名にもちなむ。昭和40年11月から埋立てを開始し、49年5月に埋立て終了。54年から64年にかけて本区に編入された。  
■港区

 

烏森神社 1   港区新橋
旧村社
御祭神 倉稻魂命 天鈿女命 瓊瓊杵尊
東京都港区にある。新橋駅前の路地の奥に鎮座。
参道入口は烏森通りにあり、参道に特徴的な鳥居が立っている。参道を進むと境内があるが、鳥居の前、右手に当社の授与所。境内入口の鳥居は、当社独自の構造で、名前はわからない。どうやら社殿の形を模したもののようだが、その社殿も独得な形状。ただし、江戸名所図会に記されている社殿や鳥居は一般的なものだ。
鳥居をくぐると狭い境内だが、社殿はビル。階段を上った二階部分が拝殿となっている。
境内の隅に「きやり塚」と力石がある。また社殿の一階部分右手に「心願色みくじ」に願いを書いて結ぶ場所がある。四色の色によって願い事が違うらしい。赤は恋愛・良縁の願い、黄は金運・幸福・商売繁盛の願い、青は厄年・厄除・仕事・学業の願い、緑は健康・家庭・交通と旅行安全。
烏森稲荷とも称された神社。
「烏森」の名は、昔、この地が江戸湾の砂浜で、「枯州」とも「空州」とも呼ばれていたとか、砂浜の松林に、烏が多く集まって巣が多かったからとか。
社伝によると、天慶三年(940)平将門が乱を起こした時、鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに乱を治めることができたので、秀郷が一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐あらわれて、神烏の群がるところが霊地だと告げたので、この地に祀られたという。
一説には、秀郷が当社に戦勝を祈願したとも。
江戸時代になって、明暦の大火(振袖火事)で多くの家屋敷が焼失したが当社は類焼をまぬがれたため、屋敷神として尊崇され「祠曹雑識」によれば、百余の稲荷番付の中で烏森稲荷は東の関脇に位置付けられているという。
くろやきに なるべき烏森なれど やけぬは神のいとく成りけり
明治六年、日比谷稲荷神社との混同を避けるため、烏森稲荷社の社名を烏森神社と改めた。
当社の神紋は三巴紋だが、烏森稲荷の名から、烏・森・稲を図案化した紋。森の上で烏が稲を咥えた紋も社紋として使用している。
烏森神社縁起
御祭神倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)天鈿女命(アメノウズメノミコト)に瓊々杵尊(ニニギノミコト)
平安時代の天慶三年(940年)に東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を治めることができたので、秀郷は御礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐あらわれて、神烏の群がるところが霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが烏森稲荷の起こりである。神勅を朝日に告げる烏森その後、秀郷の八代目の子孫にあたる下川辺行平も、当社に祈願して弓道の奥儀を究め、お礼として社殿を修理しまた、わにぐちを奉納した。その表には、「元暦元(1184年)甲辰正月吉日、下川辺庄司行平建立」と書かれてある。室町時代の亨徳四年(1455年)には、室町幕府の関東菅領で古河公方(こがくぼう)と言われた足利成氏が戦勝を祈願しており、その請願書(港区指定文化財)と奉納された宗近の剣は今も当社に宝物として蔵されている。当社が隆昌に赴いたのは、徳川家康が江戸に幕府を開いてからである。当地は早くから御府内に編入され、武家屋敷と町屋が設けられたため、一時は参拝もままならぬ状態であったがたまたま明暦三年(1657年)に有名な大火(振袖火事)が起こった。このとき江戸中はもちろん、当社の周辺も大方焼けてしまった。ところが烏森稲荷社だけは、不思議にも類焼を免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以後当社に対する屋敷神としての信仰は日に日に厚くなっていった。江戸の地誌にも芝愛宕下久保町の烏森稲荷としてしばしば登場している。「祠曹雑識」(しそうざっしき)によれば、百余の稲荷番付の中で烏森稲荷は東の関脇に位置付けられている。
くろやきになるべき烏森なれどやけぬは神のいとく成りけり
やがてこのことが四代将軍家綱の耳に達し、その翌年(万治元年)には社地二百五十坪を当社に寄進して神徳に報いた。六代将軍家宣も引き続き当社を信仰し、宝永六年(1709年)には、立願成就の御礼として御戸張の寄進があった。さらにその翌年からは毎月将軍家繁栄の御祈祷祓献上の例も開かれ、併せて御子息の無病息災の御祈願を命ぜられた。
明治六年に日比谷稲荷神社との混同を避けるため、これまでの烏森稲荷社の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として、多くの人々の信仰を得ている。昭和四十六年十二月には御社殿を造営、五十二年には社務所をそれぞれ建築し、現在に至っている。  
烏森神社 2   
祭神 倉稲魂命(稲荷神)・天鈿女命・瓊々杵尊を祀る。
社伝によれば、天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが当社の始まりであるという。
江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは《江戸で一二を争うものであった》という(境内案内板における山田將夫宮司の説明、1971年)
新橋には他に日比谷神社があり、大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われる。当神社の大神輿は1930年に名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られた巨大なもの。「だし鉄の最高傑作とも言われている」と境内案内チラシにある。
境内に木遣塚あり。また「心願色みくじ」なるものが頒布されている。 
愛宕神社   港区愛宕
承平3年(933年)平将門が乱を起こした時に、源経基(みなもとのつねもと)が愛宕神社の児盤水(こばんすい)で水垢離(みずごり)をとり、神の加護によって乱を鎮めたという伝説があります。
主祭神 火産霊命(ほむすびのみこと=火の神) / 罔象女命(みずはのめのみこと=水の神) / 大山祗命(おおやまづみのみこと=山の神) / 日本武尊(やまとたけるのみこと=武徳の神)他
出世の石段
寛永11年(1634年)三代将軍家光の時、四国丸亀藩の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が騎馬で86段の男坂を駆け上がり、社に国家安寧の祈願をした後、境内に咲き匂っていた源平の梅を手折って将軍に献上した事から、彼は日本一の馬術の名人としてその名を轟かせました。この事により愛宕神社の正面男坂は「出世の石段」として全国に知られるようになりました。
愛宕神社
愛宕神社は愛宕山の上にあります。標高26mという低い山ですが、江戸時代には非常に目立っていた山で、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛されたそうです。
創建は慶長8年(1608年)。徳川家康が江戸に幕府を開くに当たって、江戸の防火・防災の守り神として愛宕神社(あたごじんじゃ)を創建しました。
万延元年(1860年)の「桜田門外の変」の時には、水戸浪士たちがここに集合し、神前で祈念した後桜田門へ赴いて大老・井伊直弼(いいなおすけ)を討ち取りました。また、明治元年(1868年)には勝海舟が西郷隆盛と共に愛宕山に上り、江戸市中を見回しながら会談して江戸城を無血開城へと導きました。
児盤水(こばんすい:小判水)の滝
境内説明板 「昔、この愛宕の地に児盤水(こばんすい:または小判水)という霊験あらたかな名水が湧き出ていました。承平3年平将門の乱の時、源経基という人がこの児盤水(こばんすい)で水垢離をとり愛宕様に祈誓をこめ神の加護により乱を鎮めたということが旧記に載っています。」
社の前には池があって、その池の中に鳥居が建っておりその奥に小さな滝があります。…それで水の女神・罔象女命(みずはのめのみこと)が祀ってあるのです。  
氷川神社(ひかわじんじゃ)   港区元麻布
主祭神 素盞嗚尊、日本武尊  社格等 郷社  
同区内赤坂にある赤坂氷川神社・白金にある白金氷川神社と区別するため麻布氷川神社とも称される。麻布地区の鎮守。
天慶5年(942年)、源経基が平将門の乱平定のため東征した折、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松)の地に創建されたと伝えられる。他方で、文明年間(15世紀後半)に太田道灌が勧請したという説もある。2,000坪以上の社有地を有したといわれるが、創建地が増上寺の所領となり、万治2年(1659年)当地へ遷座した。江戸時代は、江戸七氷川に数えられた。
東京大空襲で、本殿・社務所等が焼失、戦後に再建されている。
周辺には麻布宮村町、麻布宮下町、麻布鳥居坂町等、関連する地名が残っていたが、住居表示実施による町名変更に伴い、これらは公式の町名としては廃止された。  
氷川神社 (ひかわじんじゃ)   港区赤坂
主祭神 素盞嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命  社格等 准勅祭社・府社
同区内白金にある白金氷川神社・元麻布にある麻布氷川神社と区別するため赤坂氷川神社とも称される。旧社格は府社で東京十社の一つ。
天暦5年(951年)、蓮林僧正が霊夢を見て、現在の赤坂四丁目のあたりに奉斎したと伝えられる。
享保15年(1730年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の命により、現在地に遷された。現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されている。麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭とされる。
明治元年(1868年)、准勅祭社に列する。  
笄橋伝説 / 黄金、白金長者
現在の西麻布交差点付近は、住居表示変更前までは麻布笄町(こうがいちょう)という町名で呼ばれていました。
笄町は明治期に新設された町名で、旧湯長谷藩邸、武家地、開墾地などを併せて起立した広い範囲の町で、牛坂下の笄川こうがいがわ (龍川たつかわ)にかかる笄橋があったためについた町名だそうです。
そして、「こうがい」の語源については諸説があるようですが、代表的なものとして、
笄 源経基がこの橋を通過する際に使用した刀の笄が語源
鉤匙 上記笄と同義。本来笄は髪を整えるための道具。毛筋を立てたり、髪のかゆいところをかいたりするための、箸に似た細長いもの。象牙・銀などで作られており刀の鞘(さや)に挿しておく、中世以降は装飾具として使用された。
甲賀・伊賀 家康入府に伴いこのあたりに組屋敷を拝領した甲賀衆と伊賀衆の境界の橋。「こうが・いが」が「こうがい」に転化
香貝(こうがい) このあたりをかうがい村・こうが谷といったのが転化した。
小貝 上記に同じ。「こがい」が「こうがい」に転化
高貝 長谷寺鐘銘にこのあたりを「高貝村」とあるため。高貝村の橋で高貝橋
鵠が居 鵠こうが生息する地域で「鵠が居」
国府方こうがた このあたりを国府方こうがた村といったため。「こうがた」が「こうがい」に転化
後悔 むかしこのあたりの百姓が公儀に訴訟をしたが、敗訴して後悔したのでついた地名。
狼谷 「江戸雀」には笄橋あたりを狼谷おおかみだにとも呼んだとある
などがあります。 そして、この笄橋にはいくつかの伝説が残されており、その一つは、黄金長者の息子と白金長者の娘にまつわる伝説です。
黄金白金長者伝説
「 鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏)とよばれた長者が住んでいました。名の由来は幼名を金王丸といったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存します。
また白金長者は、柳下氏といい元は南朝禁中の雑式を勤めた家系で、南朝没落後の応永年間(1394年〜1427年)頃から郷士となって今の白金自然教育園あたりに住み、江戸時代には元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、その子孫は横浜市に現存するそうです。
この二つの長者は、近隣であったため交流があったと思われ、その有名なものが現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来です。
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。」
といわれています。 そして、現在は、笄川こうがいがわ (龍川たつかわ)が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまいましたが、笄川(龍川)は暗渠を通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいます。そして上笄町には、黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた坂が「姫下坂ひめおりざか」という名を残しています。
江戸期の書籍「江戸砂子」の鉤匙橋の項には、
〜又古き物語に、白銀長者の子銀王丸と云もの、黄金の長者が娘と愛著の事あり。童蒙の説也〜
とあり、また同書「長者が丸」の項では両長者を、
百人町の南。むかし此所に渋谷長者と云者住みけり。代々稚名おさななを金王丸こんのうまる と云。 渋谷の末孫なりといへり。その頃白銀村に白金の長者といふあり。それに対して黄金の長者と もいふと也。応安(1368〜1375年) ころまでもさかんなりしと云。その子孫、ちかきころまでかすかなる百姓にて、此辺にありつるよし。今にありけんかしらず。
と記しています。また、「故郷帰の江戸咄」という書籍では、
「 それより百人町かかり、長者丸を過て香貝橋に着たり。ここを長者丸云事、香貝橋のいわれを古老の云伝にはむかし此所に渋谷の長者とて長者有けるが、金(こがね)の長者也とて代々おさななを金王丸といへり。是正尊(※土佐坊正尊)が子孫成べし。然るに後光厳院の御代かとよ、其時の長者の子なきにより、氏神八幡宮に祈て女子をもうけたり。此姫十五の春の比、目黒不動に参詣しける所に、白銀村の長者の子をしろかねの長者也とて代々おさな名を銀王丸と申せしが、是も目黒に参詣して御賽前のきざ橋にてかうがひをひろい給う。見ればくりからぶどうのほり物也。是はひとへに明王より給りたる所なりとて秘蔵し、下向の道にて渋谷の長者の娘を見て、恋慕の闇にまよひ、帰りて中だちを頼、千束の文を送りて終に心うちとけければ、忍やかに行かよふ。あこぎが浦のならひあればはやはしはし人も知たるようになる程に、有夜姫をともなひて、館の内を忍出て此橋まで迄来たりぬ。もとは大河にて橋も広長成けるとぞ。渡らんとするとき橋の下より鬼形あらはれ出てさまたげんとす、其時太刀にさしたるかうがいぬけて、くりからぶどうと化、鬼神をのまんとかかる。鬼神も又是にまけじとあらそひけるが、終に鬼神いきほひおとりて、いづちともなくさりうけり。その時またもとのかふがひと成りてここにしづみける故にかうがいはしと云うと也。彼鬼形と見へしは日比渋谷の姫を恋て、色にも出さずして恋死たるものの霊魂なりとかや。彼長者の住ける跡を長者丸と云伝へけると也。かくて追手のもの共来り、二人ともつれ帰りて、渋谷の長者には幸男なければとてむこに取りて銀王を改金王丸とし、銀(しろがね)の長者には子供おほき故に次男を総領に立てけると也。其長者の末孫近き比迄かすかなる百姓にて有ぬるよし今もや有けん 」
と記して二人の恋の話しと笄橋伝説を伝えています。
源氏伝説(源経基通過説)
笄橋は長者伝説の他に源氏由来説もあります。
「 平将門が関東で乱を起こした時(天慶の乱)、六孫王源経基はその状況を天皇に直訴するため京都へ向かう途中、笄橋にさしかかります。この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れだったのでこの橋を通るしかありませんでしたが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていました。
そこで経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽ります。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけといわれ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができたといわれています。
これにより以後この橋を経基橋と呼びましたが、後に源頼義が先祖の名であるためはばかり笄橋と改称させたといわれています。 」
江戸砂子には、
「 鉤匙橋こうがいばし−大むかしは経基橋といひしと也
此川、大むかしは龍川たつかわと云大河なり。天慶二(939)年平将門将軍良望を殺し、下総相馬郡石井の郷に内裏を立てる。六孫王経基は武蔵の都築郡にあり。将門羽書をして相馬へ招く。その謀をしらんと下総に至り、帰路に竜川にかかる。越後前司広雄と云者、興世王に与し、竜川に関をすへて旅人をとがむ。ここにおゐて経基帯刀の笄を関守にくだし、是後日の証あかしなるべしと也。それより経基橋といひならわせしを、康平六(1063)年三月、源頼義当所旅陣の時、その名をいやしむ。いはれあればと鉤匙橋こうがいばし とあらためられしと也。傍に一宇を建て、鉤匙殿こうがいどのとあがめしと云。その笄、親王院にありとぞ。此親王院は渋谷東福寺の事なり。かのかうがひ今に東福寺にあり。 」
このようにして笄橋の関所を通過した源経基はその後、麻布一本松の民家で一夜の宿を求めます。この様子を続江戸砂子「一本松」では、
「 一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。 」
として、こちらでも渋谷東福寺との因縁を記しています。
この他にも麻布と源氏を結び付ける伝説は多く、源経基はこの他、「一本松」に衣をかけたといわれ、また 「氷川神社」を勧進したともいわれます。
経基の国司としての居城は埼玉県鴻巣に城址が現存しますが、麻布にも彼に関わる何か(荘園、支城?)のような物があったのでは、と説もあります。また彼の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となりました。その時(長元元年10月)坂東の兵を集めたのが麻布であった。また近辺の三田にも源頼光の家来で四天王の一人、大江山の鬼退治で有名な「渡辺 綱」の伝説があります。
綱が産湯を使った「産湯の井」は、オ−ストラリア大使館内に、出生地の綱生山当光寺、綱坂、綱の手引き坂、綱が馬を得た土器(かわらけ)坂、また三田綱町と言う住居表示にも残されています。そして、
江戸っ子の綱に対する人気を表わす川柳を以下に紹介。
   名からして江戸っ子らしい源氏綱
   あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂
   江戸っ子に してはと綱は 褒められる
   氏神は八幡と綱申し上げ
などと詠まれました。  
笄橋伝説 / 麻布近辺の源氏伝説 
これまで笄橋伝説、一本松・麻布氷川神社創建など源氏と麻布のかかわりを伝えてきましたが、今回はその麻布源氏伝説のまとめをご紹介します。
源氏と麻布のかかわりが初めて登場するのは、平将門の乱(承平天慶の乱)にちなんだ伝説です。源経基を六孫・六孫王などと唱えることがありますが、これは清和天皇の第六皇子の子ども、つまり孫なので、六孫王と言う意味だそうです。
天慶二(939)年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守(国司クラスの地方行政長官)の興世王と介(副長官)の源経基が、前例のない赴任早々の税の取り立てをめぐって以前からの足立郡の郡司(郡を治める地方官)武蔵武芝と紛争となってしまいます。そこでこれまで親族闘争や近隣との紛争により関東地方に権力を持っていた平将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を和解させましたが、祝宴の際に武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲したと思い込み、驚いた経基は京へ逃げ出してしまいます。そして京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えました。これが平将門の乱(承平天慶の乱)の始まりでした。この京へ逃げ帰る道中で、経基は麻布の笄橋通り一本松で宿泊することとなります。
笄橋伝説
この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れでしたので、この橋を通るしかありませんでしたが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていました。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽りました。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができました。これにより以後この橋を経基橋と呼んだそうです。そして後に源頼義が先祖の名であるためにはばかり「笄橋」と改称させました。
そして橋を渡った経基は一本松にたどり着き、樹のそばの民家に宿を求め止宿します。翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたといわれます。その様子を江戸期の書籍「続江戸砂子」は、
一本松伝説
天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也
としています。
しかし渋谷八幡(金王八幡神社)は寛治六(1092)年、渋谷山 東福寺は承安三(1173)年の創建と伝わっており年代が合いません。 (しかし東福寺には経基との因縁を示すものとして、経基が笄橋通過時に川の関守に与えた笄が残されています。 )  また、本村町薬園坂には江戸期まで七仏薬師を安置する東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)、またの名を源経基との縁から六孫王寺とも呼ばれる寺があり、この七仏薬師は源経基の念持仏と伝わっていたので、あるいは渋谷云々は「続江戸砂子」の誤記であるのかもしれません。
この薬園坂の東福寺を「精舎」に当てはめるのが妥当かと思われますが、江戸名所図会、江戸砂子などによると、七仏薬師は鎌倉→川越→江戸平川 →神田→下谷と変遷して天和二(1682)年に麻布薬園に安置され、さらに貞享1(1684)年に東福寺に安置されたと伝わっていますので源経基の麻布通過時には存在していなかったようです。よって、残念ながら無関係だと思われます。
そして、あくまでも根拠のない全くの推測ですが、これを麻布氷川神社の創建と仮定すると、ほぼ年代的には無理がないように思えます。また一本松は氷川神社のご神木であったとの説もあるので、精舎→麻布氷川神社と考えても場所的にも時代的にもあまり無理がないように思えます。
鳥居坂〜暗闇坂〜現在の麻布氷川神社〜本村町薬園坂は古道(麻布区史には古奥州道とあります)といわれているので経基はこの道を通過したものかとも思われますが、根拠はありません。また敵対した武蔵武芝については諸説ありますが、現在も芝・聖坂の上にある済海寺は竹芝寺の跡といわれ、その当時は武蔵武芝の居館の一つであったとの竹芝伝説もあるので、北関東に拠点を置く平将門の乱の当事者たちと麻布近辺の不思議な縁が、しのばれます。
そして、武蔵武芝は氷川神社を祀る武蔵国造家を勤めたといわれており氷川神社との因縁も深いものと思われます。
芝・聖坂の下を麻布御殿の造営に伴う古川改修工事で現在の川筋が造られるまで、三の橋から分岐した古川が流れ薩摩藩邸重箱堀となって最後に江戸湾に流れ出ていました。この川は改修工事が行われるまでは古川の本流だったとの記述もあり、この川は「入間川(いりあいがわ)」と呼ばれていました。ご存じのように「入間川(いるまがわ)」と呼ばれる川が現在も北関東に流れており、将門の乱の当事者たちの本拠地である鴻巣、浦和などのすぐ近辺でした。
不思議な事ですが、これは偶然の一致でしょうか?また敵である武蔵武芝が社務職を司った氷川神社を何故経基は勧進したのでしょうか?そして、経基は将門追討軍の副将軍として関東に向かいますが、将門が討たれ乱が終息したため途中から京へと引き返すこととなり、さらに帰京後にほぼ同時期に瀬戸内海で起こっていた藤原純友の乱にも副将軍に任命されて再び戦地へと赴く事が決まりますが、これも終息により実戦には参加していません。しかし、これらの功績?により地方行政官から中央軍事貴族として大きく飛躍し、以降の清和源氏が発展する礎となった事は間違い有りません。
この他にも、三田綱坂に名を残す渡辺綱は通称で、正式名称は源綱で清和天皇を祖とします。また後年渡摂津国渡辺庄に住んだことから渡辺氏の祖ともいわれています。そして綱は、桓武天皇の皇子嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏の一族で、名前が代々漢字一文字であるため一字源氏といわれています。この綱の先祖には源氏物語の光源氏の実在モデルといわれる源 融(みなもと の とおる)がおり、おそらくそうとうな美男子であったと想像します。この綱が芝・綱町の由来となっており、綱坂、産湯の井戸、綱の手引き坂などにも名を留めています。江戸期の川柳には、
   氏神は 八幡と 綱申し上げ
などとありますが、八幡とは御田八幡神社のことで、現在札の辻にある御田八幡の社地は一時期、三田小山町であったことから詠まれました。この渡辺綱の生まれを綱町近辺と確定する資料は無いようですが、もしあのあたりとすれば生まれが天暦七(953)年とされているので、天慶二(939)年に起こった将門の乱の直後と考えられ、その事件を聞いて育ったのかもしれません。
また、さらに源経基の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令により「鬼丸の剣」でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となりました。その時[長元1(1028)年]坂東の兵を集めたのが赤羽橋の土器坂付近で「勝手ヶ原」とよばれた地域であったといわれています。 そして、金王八幡神社とのつながりのある金王丸(渋谷氏)と白金長者(柳下氏?)の娘の恋は笄橋伝説の別説となっており、
笄橋伝説の別説
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。
との伝説を残していて、こちらにも渋谷氏と源氏のつながりが垣間見えます。さらに、時代が下って江戸初期には渋谷氏が創建したとされる櫻田神社が元地の櫻田郷から赤坂を経て麻布へと移転し、麻布と源氏の因縁をさらに強めることとなります。  
■渋谷区

 

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)   渋谷区渋谷
主祭神 応神天皇  別名 澁谷八幡
社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。
東福寺   渋谷区渋谷
正式名 渋谷山親王院東福寺  本尊 阿弥陀如来、兜建観音
創建年 承安3年(1173年)  開山 円鎮僧正  天台宗寺院
渋谷山親王院東福寺は、1173年(承安3年)円鎮僧正によって、武蔵国豊嶋郡谷盛庄(やもりのしょう)(『東福寺雑記』)といった現在地に開創されたと伝えられている。東福寺は開創当初から、隣接する金王八幡宮(渋谷八幡宮)の別当院で、渋谷区内最古の寺院である。
1500年(明応9年)に村岡五郎左衛門重義が記したという『奥書』のある『金王八幡神社社記』によると、当寺の草創を1092年(寛治6年)といい、1704年(宝永元年)に鋳造された『東福寺鐘銘』には、後冷泉天皇の御代と記されているが、今からおよそ8〜9百年も昔のことで、その草創の時代は「すでに伝説の世界と交錯している」といってもよい。
1092年(寛治6年)、源義家が後3年の役の凱旋の途中この地に赴き、領主・河崎基家が秩父妙見山に拝持する日月二流の御旗のうち、月の御旗を請い求めて八幡宮を勧請した。そのおり、939年(天慶2年)の平将門の乱のとき源経基が宿泊したという家を改めて一寺となし、親王院と称して別当寺とした。これが東福寺の起立である。
荘厳寺   渋谷区本町
山号 光明山  院号 真言院  寺号 荘厳寺
本尊 薬師如来像  真言宗室生寺派
真言宗室生寺派寺院の荘厳寺は、光明山真言院と号します。宥悦(天文2年1533寂)が開山となり、創建したといいます。当寺不動堂の本尊不動明王立像は、智證大師が三井寺を創建した際に彫刻、東大和市三光院より当寺へ安置したものと伝えられ、幡ヶ谷不動尊として信仰を集めています。また当寺大師堂は、御府内八十八ヶ所霊場11番となっています。
荘厳寺の縁起
荘厳寺 新義真言宗、江戸大塚護国寺末光明山真言院と号す。開山宥悦、天文2年5月15日寂。本尊薬師。不動堂 木佛立像長3尺3寸、智證大師作。縁起に云、智證大師三井寺開基の時、自此不動を彫刻して彼等の本尊とせしか、天慶2年平貞盛、藤原秀郷等平将門追討の時、秀郷此不動に新誓をこめ、陣中まで守り行て渇仰怠り無く、果して勝利を得たりしかは、凱陣の後下野国小山の郷に安置せり其後遥星霜を経て、永禄年中武田信玄甲州七覚山邉に移して崇敬せしを、北条氏政奪取て、相州筑井縣地勝院に納む、然るに天正18年北条氏没落の後、東照宮代々の武将崇敬ありし像なる事を聞し召れて、多磨郡宅部郡三光院に移し給ひ、延享4年9月霊夢の告ありて当寺に安置すと云ふ。稲荷社
平田神社   渋谷区代々木
江戸時代の国学者平田篤胤を祀った神社である。
平田神社は、復古神道を創始して古典文化の復興に寄与し、その学問は「草莽の国学」として日本近代化のさきがけとなり、明治維新の原動力の源泉ともなった江戸時代後期の国学者平田篤胤(安永5年8月24日(1776年10月6日)−天保14年閏9月11日(1843年11月2日))を祭祀する神社で、篤胤は没後の弘化2年(1845年)3月、「神霊真柱大人(かむたまのみはしらのうし)」の諡名霊神号を白川伯王家より賜っている。学問文化、医学健康、豊かな生活(財運)、世直しの霊験あらたかな神社として知られ、近年は、神代文字の御朱印が評判になっている。
平田篤胤を祭神として祀る神社の創建運動は、篤胤の子孫や在東京の門人たちより始まった。平田神社の由緒を記した「明細書」によれば、篤胤を祀った祠は、明治2年(1869年)11月、当時、篤胤の養子で気吹舎当主の平田銕胤が居住していた京都の屋敷のなかに創建されたとしている。そして、銕胤が永年暮らしてきた江戸(東京)に戻ってきたことにともない、明治5年(1872年)8月、武蔵国葛飾郡柳島横川町(現、東京都墨田区)に平田邸の邸内社として平田神社が創祀された。
明治11年(1878年)、銕胤の子、平田胤雄(平田延胤弟)が平田神社を正式な神社として認めてもらうよう、東京府知事楠本正隆に宛てて上申書を提出した。
創建運動は実り、1881年(明治14年)11月、明治天皇の下賜金をもとに東京小石川第六天町(現、東京都文京区)に遷座した 。現在地(渋谷区代々木)に移ったのは1959年(昭和34年)11月のことである。  

 

氷川神社・太刀佩観音   板橋区東新町
『平将門故蹟考』によると、上平川村観音堂の本尊仏(太刀佩観音・将門の像とも)、将門親筆の写経紙片、将門宮の瓦が伝えられている。
成就院が廃寺となり、これらが氷川神社に移されたそうですが、この伝承はここには伝えられていないそうです。
浅間神社   江戸川区上篠崎
社号 浅間神社  祭神 木花開耶媛尊
末社 下浅間神社、下浅間御嶽宮、香取神社、天満宮、八幡神社、白髭神社、天祖神社、須賀神社、霧島神社、稲荷神社、柳島稲荷神社、水神宮、道祖神、弁天社
浅間神社は江戸川区上篠崎にある浅間神社です。浅間神社は、平貞盛朝臣が平将門平定を祈願して天慶元年(938)に創建したと伝えられます。新編武蔵風土記稿には、下篠崎村の項には神明社(天祖神社)、浅間社、香取社が記載されており、いずれも当浅間神社に鎮座しています。文化文政の頃から江戸やその周辺からの参詣者が増加し、講社なども組織されるほどだったといい、明治7年郷社に列格しています。
浅間神社の由緒 1
篠崎の浅間神社は木花開耶姫命を祀り、天慶元年(938)5月15日の創建といわれ、区内で最も古い神社である。明治7年(1874)に郷社に昇格した。
天慶3年(940)平将門の乱を鎮めるため平貞盛が将門降伏の祈願をこめ、金幣と弓矢を奉納したと伝えられている。文化文政の頃から江戸やその周辺からの参詣者が増加し、講社なども組織されるほどになった。
境内は約4000坪あり、多くの樹木が繁り区の保護樹も多い。昔から「せんげん様の森」として親しまれてきた。昭和57年2月「浅間神社の社叢」として区の「天然記念物」に指定された。
浅間神社の由緒 2
(下篠崎村)
神明社
前村(上篠崎村)の記す如く、当所は往古伊勢太神宮の御厨領なれば、恐くは太神宮遥拝の為に造立せるべし。されば最古社なるべけれど、其詳なる事は傳へず。今僅に元和3年承応2年の棟札あるのみなり。其図左の如し(略)。
神主奥山伊勢。吉田家の配下なり。先祖は下総国印旛郡弥山と云処の人にて、弥山左奈比と号し、承平2年当所に来て当社及浅間の神職を兼帯し、康保2年5月11日卒す。それより11代の孫某の時、いかなるゆへにや弥山を深山と書改しに、享保年中又故ありて今の苗字に改と云されど後年しばしば水災に罹り、又近き年己が家より火登りて旧記等失ひたれば、古の事総て詳ならず。
富士浅間社
一は村の鎮守とす。無量寺持。社地に御小嶽社あり。一は下の宮と号す。当社は神明神主奥山氏の分家深山佐渡と云者神主たりしに、享保年間罪ありて配流の後本家奥山氏の兼帯といふ。
香取社
浅間神社の由緒 3
当社は承平二年(九三二)九月下総国弥山の人弥山佐奈比、神大として奉仕した社であり、のち承平・天慶の乱のとき、平貞盛朝臣、将門平定を祈り、霧島神社を祀り金幣・弓矢を奉献して関東の平安を祈った。その時が天慶元年(九三八)五月十日であり、この時を神社の創建としている。村上天皇の宝剣、後花園天皇連歌、伏見天皇色紙等を有し、明治御改革に伴ない祠官任命社となる。これにより明治以前の社守、伊勢守祠掌としてともに奉仕。この社には日本最大の幟十本を伝えており、氏子数十軒前後の村々が強力に維持してきた大幟である。祠官任命の社でも、この職にたいしては国の力はいっさいはいっていない。幟の基に「下総国」の文字が伝承時に入っている。浅間の森(境内)が江戸川区の天然記念物であり、幟祭も無形文化財、冨士講碑も文化財である。宝剣は社の遷宮および節分の夜、厄払神事のときだけ神前に奉持する。浅間の末社八社は、合祀以前は町々の鎮守の社で、明治御改革に伴なう明治初年の合祀であった。なお境内には日清・日露戦役忠霊碑にあわせて、大東亜戦争忠魂碑を造営した。
山王熊野神社   大田区山王
山王熊野神社は、大田区山王にある善慶寺山門の奥にある神社です。山王熊野神社の創建年代は不詳ですが、平将門の乱の鎮圧に下向した藤原恒望に従った熊野五郎武通が当社に戦勝を祈願したと伝えられます。元和年間(1615-1624)にこの地域新井宿村の地頭木原木工允が日光造営の棟梁を務めた際にその余材で当社の社殿を造営したといいます。境内社の稲荷社は、もと別当寺の善慶寺の稲荷堂として三十番神を祀っていたといいます。明治10年に村社に列格していました。
社号 熊野神社  祭神 伊邪那岐命、速玉男命、事解男命  境内社 稲荷神社
山王熊野神社の由緒 1
創建の年代は明らかでない。伝説では平将門の乱の鎮圧に下向した藤原恒望に従った熊野五郎武通が当社に戦勝を祈願したといわれている。元和年間(1615-1624)にこの地域新井宿村の地頭木原木工允が日光造営の棟梁を務めたので、その余材で当社の社殿を造ったといわれている。(「大田区の神社」より)
山王熊野神社の由緒 2
熊野神社については、新編武蔵風土記稿新井宿村善慶寺項に稲荷社、熊野本社、熊野新宮と記されています。
稲荷社。本堂の背後山の中腹にあり。2間に1間、神体は三十番稲荷の内の稲荷なり。寺の傳へに昔は社のみありて神体もなかりしに、いつの頃のわざとも知らず、今の神体を納めてありしとぞ。想ふに諸国巡礼のものなどが持来りしものならんと云り。前に石階ありて、其下に鳥居をたつ。
熊野本社 稲荷社より猶山上にあり。本社2間に1間覆屋あり。元和年中日光御遷宮のとき、地頭木原木工はそのころ御大工の棟梁なりしかば、かれへ御造営のことを命ぜられ、落成の日、御礼式の飾に用ひられし冑を神体とし、御造営の余木を以この社をつくり、熊野権現に祀れり。神体はいま別当に蔵す。練鉢のごとく紙を以はりたれたる冑にて、四十八間の筋あり。すべて黒塗にして、星には金泥をぬり、鎧は日根野形にして白糸威なり。吹返に御紋あり。
寶物 貝、老石、木の葉石、二股竹、経文古写。此余にも駒の玉、日取玉、水晶念珠、関蟹芝草等もありしと社記に載たれども、いつの頃にか失して今はなし。
熊野新宮 本社とおなじ山つづきにて、南の方にあたれり。この所は善慶寺境内にはあらざれども、因みにここに出せり。社は2間半に2間、内陣9尺に1間、勧請の年代はつたへざれど本社建立より後のことなればちかき社なるべし。社前に鳥居とたてて其前に石階あり。
末社。疱瘡神社、本社に向ひて左にあり。小祠。
天神社。これもわずかなる祠なり。同じ所にあり。
千束八幡神社   大田区南千束
洗足池に鎮座する千束八幡神社は、860年(貞観2年)に宇佐八幡宮が勧請され、千束郷の鎮守として祀られたことにはじまるという歴史のある神社。
平将門の乱を鎮圧するため下向した鎮守府副将軍の藤原忠方は、乱の平定後、この地に土着しこの神社を氏神としたのだという。
この藤原忠方が、のちに日蓮信者となる池上氏の祖といわれている。
また、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家は、洗足池で禊ぎをして祈願し、安房から鎌倉へ向かう途中の源頼朝は、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったという。
源頼朝所有の名馬として知られる「池月」(いけづき)の発祥伝説も残され、「旗挙げ八幡」と呼ばれる由来となっている。名馬池月(生月)は、磨墨(するすみ)と並ぶ源頼朝所有の名馬。木曽義仲を追討するため京へと軍を派遣した頼朝は、梶原景季に磨墨を与え、佐々木高綱に池月を与えた。そして、名馬を賜った2人が繰り広げたのが宇治川の先陣争い。
中野城山   中野区中野
JR中野駅の南東にある谷戸運動公園付近が城跡とされています。現地の解説板には次のように説明されています。
天正4(1576)年頃に後北条氏の支配下にあった彫堀江氏が周辺を治め、後世の江戸期(延宝3・1675年)の記録として「中野村のうち900坪ほど土手を築き、から堀を掘ったところがあり、これを昔から城山と申し伝えている。そこはもともと名主堀江卯右衛門の先祖からの屋敷地で、いまは年貢地になり、代だい卯右衛門が所持している。」
さらに解説板の後半には、平安時代の武将で、後の名門千葉氏などの祖でもある平忠常や、またさらに後世には、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌などの砦跡だった可能性もあると記載されています。
堀江氏は後北条傘下であったとされていますが、豊臣秀吉の命も受けたと記されているので、おそらく天正18(1590)年の小田原の役で秀吉方につき、しばらく秀吉政権下では存続したものの、その後の徳川家康の関東入り後に、なんらかの理由があって廃城になったものだとは思います。
現在の公園は周辺も開発されており、遺構は残りません。唯一冒頭で紹介した解説板が用意されているのみです。
地形も大きく改変されているものと思われ、今では「城山」という地形ではありません。もちろん、この谷戸運動公園でなかった可能性もありますが。 
■青梅市

 

惣岳山青渭神社   青梅市沢井
青渭神社は延喜式内社(論社)で、高水三山の一・惣岳山(標高756m)の山上に鎮座する。創建年代は不詳だが、崇神天皇7年(B.C.91)神地神戸を賜って官祭に預かり、天慶年間(983〜47)源経基が社殿を再建したと伝えられる。三田氏・北条氏・徳川氏からも崇敬を受けたという。明治初年、山麓に拝殿(現在の里宮)を建立した。
正式名称 青渭神社(あおいじんじゃ)  御祭神 大国主命  社格等 式内論社 旧郷社
鎮座地 里宮:青梅市沢井3-639
鎮座地 奥宮:青梅市沢井3-1060
御由緒
御祭神 大国主命
『青梅市史』によれば、昭和35年(1960)社殿を改修した際、惣岳山上の末社27社のうち、真名井神社を除く26社を合祀したという。ただし「神社明細帳」で確認できる末社は真名井神社を含む25社しかない。「神社明細帳」に記載されている末社と御祭神は以下の通り。
愛宕神社 迦具土命 / 金山社 金山彦命 / 真名井社 罔象女命 / 神明社 天照皇大神 / 八幡社 誉田別天皇 / 稲荷社 倉稲魂命 / 天満社 菅原道真朝臣 / 二荒社 月読命 / 鹿島社 武甕槌命 / 春日社 天児屋根命 / 日吉社 大己貴命 / 龍田社 天御柱命・国御柱命 / 浅間社 木花咲耶姫命 / 八雲神社 素戔嗚命 / 諏訪社 建御名方命 / 三島社 大山津見命 / 箱根社 火々出見命 / 氷川社 速須佐之男命 / 白山社 伊弉冉命 / 伊豆神社 宇気持命 / 熊野社 伊弉冉命 / 厳島社 市杵島姫命 / 山神社 大山祇命 / 御嶽社 少彦名命 / 住吉社 底筒男命・中筒男命・上筒男命
青渭神社は青梅市の西部、奥多摩町との境界にほど近い惣岳山の山頂に鎮座し、古くは惣岳明神とも称された。現在は惣岳山上に本社(奥宮)、山麓に里宮がある。延喜式神名帳所載多磨郡八座の一・青渭神社の論社である。
『新編武蔵風土記稿』に「社説に云う、総(惣)岳は山の名なり、故に総岳山青渭神社と号す」とある。宝暦4年(1754)の沢井村上分明細帳は「想(惣)岳山青渭大明神」、寛政11年(1799)の沢井村明細帳は「式内社青渭神社」とする。
惣岳山は標高756mで、高水山・岩茸石山とともに高水三山と呼ばれる。『武蔵演露』によれば近隣の霊山を中国の五嶽に擬えて高水山を東岳、大嶽山を西岳、光明山(高明山)を南岳、惣岳山を北岳、御嶽山を中岳とし、「近傍の諸山を総管する」という意味から惣岳山と呼ばれるという(『青梅市史』)。
山頂近くに真名井と称する年中涸れることのない霊泉がある。別名を青渭の井といい、これが社名の由来とされる。神社明細帳に、沢井・川井の両村名もこの霊泉に因むという古老の説が記されている。
創建年代は不詳。社伝によれば、崇神天皇7年(B.C.91)国内に悪病が流行して多くの死者が出たため、天皇は諸国の神々に疫病退散を祈願した。この時、当社も神地神戸を賜り、初めて官祭に預かったという。
延喜の制では小社に列した。天慶年間(983〜47)武蔵国に赴任した源経基は当社を深く崇敬し、社殿の再建や神領の寄進を行ったと伝えられる。その後も三田氏・北条氏・徳川氏により尊崇され、最盛期には巫女数名が奉祀していたとされる。
慶長7年(1602)火災により社殿が焼失し、神宝・社記も多くが失われた。その後も二度の火災に見舞われ、特に文化3年(1806)の火災では神主の屋敷も延焼し、社記・古文書も悉く焼失した。天保〜弘化年間(1831〜48)社殿が再建された。創建以来たびたび火災に遭ったにも関わらず、御神体に被害が及ぶことはなかったという。
明治6年(1873)郷社に列格。
明治の初め頃、山麓の横尾子に拝殿を設け、遙拝殿として祭事の多くを行うようになった(現在の里宮)。昭和9年(1934)拝殿を改築し、現在の形になった。さらに昭和35年(1960)本社を改修し、その際、末社27社のうち真名井神社を除く26社を合祀した。
拂澤熊野神社   青梅市御岳
社号 熊野神社  祭神 伊弉那美命、速玉之男命、事解之男命
境内社 八雲神社、箱根神社、稲荷神社、山神社
拂澤熊野神社は、青梅市御岳にある神社です。拂澤熊野神社は、濱竹熊野神社を分祀して寛文12年(1672)に創建したといいます。
拂澤熊野神社の由緒 1
(端村中野村)熊野社
年貢地、村の東小名拂澤の南方なる山下にあり、是は濱竹に立る社を勧請せしと云、小社なり、例祭は前に同じ。
拂澤熊野神社ノ由緒 2
もと熊野権現と称し、寛文十二年(一六七二)中野鎮座の熊野神社の分祀。嘉永四年(一八五一)二月、社殿を再建し、明治三年現社号に改めた。
拂澤熊野神社の由緒 3
御岳中野(現・御岳一丁目)に鎮座する。祭神は伊弊郡美命、速玉之男命、事解之男命で、例祭は三月二十日である。創建は天文年間(一五三二〜一五五四)と伝えられ、社伝によると三田氏の家臣洪竹五郎の居住地であったが、五郎縁の本宮、新宮、那智、三山の神をこの地に勧請し、本山修験であった宮本家に奉仕させたという。寛政五年(一七九三)八月社殿を再建し、慶応四年(明治元年一八六八)九月宮本右善の代に神祇道によって奉仕。明治六年、村社に列格し、同二十八年に社名を改称した。同四十四年、拝殿を新築した。境内面積は一八七坪(六一七平方b)である。
海禅寺   青梅市二俣尾
海善寺は平将門公の子孫と称した三田氏のお墓があるお寺です。
鹿島玉川神社   青梅市長淵
社号 鹿島玉川神社  祭神 建御雷之男神、大名牟遅神、伊豆能売神、豊玉毘売神
境内社 八雲神社、蚕祖神社、天祖神社、菅原神社、八幡神社、住吉神社、熊野神社、春日神社、多賀神社、厳島神社、疱瘡神社、稲荷神社、稲荷神社、(境外社)愛宕神社
鹿島玉川神社は、青梅市長淵にある神社です。鹿島玉川神社は、武蔵介源経基が承平年間(931-937)に常陸国鹿島神宮を勧請して創建、長淵村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には徳川家光より社領2石8斗の御朱印状を拝領、承応2年(1653)玉川上水開削に際して玉川大明神を祀ったといいます。
鹿島玉川神社の由緒 1
(長淵村)鹿島社
下村の西にあり、小社にて、覆屋あり、二間に三間、北向なり、鎮座の年代詳ならず、それの年代御朱印を附せられ、社領二石八斗の地を賜ふ、例祭年々九月十九日、入間郡北野村神職栗原左衛門社事を司どれり、村の鎮守なり。
末社。牛頭天王社。小社にて本社の傍にあり。
岩石。本社の右の方にあり高一丈餘、周圍は六抱ほど、名もなき石なれども、その状奇なり。
鹿島玉川神社の由緒 2
古老の伝に承平年間(九三一-三八)武蔵介源経基が仁国の時、常陸国鹿島神宮の神威仰慕のあまり、国家鎮護のため一社を造営せんとして、当長淵の里の上古より神霊の降坐処と称し、里人が敬畏していた巨大な神石を清浄地として選び、大神を祀って鹿島大明神と称した。元和年間(一六一五-二四)修復、慶安二年(一六四九)十月、徳川幕府二石八斗の地を賜い御朱印地とした。相殿玉川大神は神官伯耆守信久の氏神であった。幕府より承応二年(一六五三)玉川上水開削の時、飲用者の無病健全を願い、浄水清浄祈願永代勤仕すべき旨を命ぜられ、毎年正、三、六、九の四時祭事を行ない、三年に一度神符を献上した。文化二年(一八〇五)二月、奉行の允許を得て江戸深川八幡境内において、江戸市民に神霊の拝受の儀を行ったことが数回ある。その後、文久元年(一八六一)覆舎、幣殿を修復、明治十一年鹿島玉川神社と改め、同二十二年拝殿を再建現在に至り、大正九年、調布村より二町歩の山林寄進があった。
鹿島玉川神社の由緒 3
鹿島玉川神社
長調(現・長淵二丁目)に鎮座する。祭神は建御雷之男神、大名牟遅神、伊豆能売神、豊玉昆売神で例祭は九月十九日である。創建は不明であるが、伝えによると承平年間(九三一〜九三七)、源経基が武蔵介に任ぜられたとき、国家鎮護のため、常陸国鹿島神宮の分霊を巨大な神石のあるところを清地として当地に祀り、鹿島大明神と称したと伝える。
元和年間(一六一五〜一六二三)に社殿の修復。慶安二年(一六四九)十月、徳川幕府より二石八斗の朱印地を受領した。相殿玉川大明神は承応二年(一六五三)玉川上水開削のとき、無病息災を祈願し、三年に一度神符を献上した。その後文久元年(一八六一)、覆合、幣殿を修復し、明治五年に村社に列格、同十一年、鹿島玉川神社と社名を改称した。
境内は市史跡、鹿の舞は市の無形民俗文化財に指定されている。境内面積は八二八坪(三七三二平方b)である。
塩船観音寺   青梅市塩船
真言宗醍醐派 別格本山
当観音寺は、山号を 大悲山 と称し、寺は地名の塩船を付けて『大悲山塩船観音寺』と申しております。塩船とは、周囲の地形が小丘に囲まれ 舟の形に似ており、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名づけられたのであります。
大化年間(西暦645〜650年)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の紫金の観音像を当地に安置したのが開山と伝えられ、貞観年間(859〜877年)には安然和尚が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられております。
当寺の御本尊は十一面千手観世音の木彫立像で像身四尺六寸(1.4m)鎌倉時代(文永元年西暦1264年)の作にして宋朝様式の影響を多分に受けております
高峰山天寧寺   青梅市根ヶ布
東京都青梅市根ヶ布。曹洞宗梅華林高峯山天寧寺御本山は永平寺です。天寧寺は高峯山と号し、曹洞宗永平寺に属する関東地区の名刹である。寺の創立は寺伝によれば、天慶年間(九三八〜九四六)に平将門の開創であって、高峯寺と称し、顕密兼修道場であった。其後兵火に罹り、堂宇は焼き尽され廃寺となったが、文亀年間(一五〇一〜〇四)、此地の領主将門の後胤三田弾正平政宗の帰依によって、曹洞宗甲斐国中山広厳院(寛正元年(一四六〇)古屋対馬守の開基)の末寺として伽藍が再興され(第一期)、開山第一世として、広厳院第二世一華文英和尚が招請された。以来礼学盛んにして曹洞の宗風を宣揚し、参学の徒が四方より集まった。当時後柏原天皇は、当寺開山和尚に深く帰依し、永正三年(一五〇六)、勅して紫衣ならび神獄通竜禅師の号を賜った。また、詔勅して天下の安寧と改称して山を高峯と号した。
虎柏神社(とらかしわじんじゃ)   青梅市根ヶ布
旧称、諏訪神社。古社で、『延喜式神名帳』には武蔵国多摩郡八座の一座に数えられている。
祭神 
正殿(虎柏神社) 大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)
東相殿(諏訪上下神社) 建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)
西相殿(八雲神社) 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)
創建時期は不詳であるが崇神天皇の御代に神戸を寄進されたと伝えられ、いわゆる延喜式内社に比定される古社である。
天慶3年(940年)に六孫王・源経基が諏訪大社より諏訪上下神を勧請し、永正年間(1504年 - 1521年)勝沼城主、三田氏宗により再興されたと伝えられ、享保12年(1727年)の「武蔵国多摩郡小曽木郷惣社縁起」には、天正16年(1588年)浅野長政が除疫神(牛頭天王)を勧請したと伝えられている。これが八雲神社である。天正18年(1590年)には正殿に諏訪上下神、東の相殿に虎柏神、西の相殿に除疫神を定め、小曽木郷の総社を号したと記されており、江戸時代は諏訪明神、諏訪宮と称し、今でもお諏訪様と通称される。最寄りバス停の名称は現在でも「諏訪神社」である。
天正19年(1591年)には徳川氏より、朱印地三石を下賜され、朱印高は幕末まで変わることはなかった。明治3年(1870年)、それまで脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。明治6年(1873年)郷社に列する。
現在の本殿は享保19年(1734年)の再建で、三間社切妻造だが、覆殿の中にあって外から見ることはできない。末社の高峯神社と稲荷神社は諏訪神と同じく源経基が勧請したものであり、稲荷神社は、もとは西の相殿に祀られていたという。本殿や江戸時代以降に寄進された石造物及び古木の境内林などは、江戸・明治期の旧態を留めて宗教的神秘性を有する独特な空間を形成している。
『延喜式神名帳』に虎柏神社があり、論社に調布市の虎狛(こはく)神社があるが、これは狛の字を柏に写し間違えたのだとも言われている。虎柏神社では銘板を設置するなどして、式内社であることの宣揚に努めている。
安楽寺   青梅市成木
山号 成木山  院号 愛染院  寺号 安楽寺  真言宗系単立
真言宗系単立寺院の安楽寺は、成木山愛染院と号します。安楽寺は、行基が和銅年間(708-714)に軍荼利明王を彫刻・安置して創建したといいます。鎌倉期には源頼朝が愛染明王を納め愛染院を建立、足利尊氏は大泉坊、財泉坊、吉祥坊、多門坊等の六僧坊を暦応年間(1338-1341)に建立したといいます。天正19年(1591)には徳川氏から寺領七石の御朱印状を拝領、末寺29ヶ寺を擁する檀林所だったといいます。多摩八十八ヶ所霊場45番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所38番です。
安楽寺の縁起 1
(下成木村)八幡社安楽寺
境内八千七百九十坪餘、村の中央より北の方山の中腹にあり、新義眞言宗、御室御所仁和寺の末、成木山愛染院と號す、本堂十三間に七間半南向、本尊不動木の坐像にて長二尺餘、二童子は立像にて長一尺六寸許、起立は聖武天皇の御宇行基菩薩開基せしとのみ傳へて、年歴事實を詳にせず、鐘銘には足利尊氏暦應年中の草創なりとあり、何れが是なるや疑ふべし、縁起を閲するに、往古此山上に數十圍の楠樹あり、時々鳴動して雷光を發しけり、折しも行基關東遊經の序、當所にしばらく錫をとどめ、此樹下に座禅せしに、かの光りの中より軍荼利不動明王の形あらはれけるゆへ、行基かの楠木をもて自ら其明王の姿を彫刻して、一宇をいとなみて安置せり、因て鎮護国家安楽寺と號す、夫よりして此所を成木郷軍荼利村と唱ふといへり、其後平将門一部の法華經を納め、鎌倉右大将ョ朝も又屬臣畠山次郎重忠をして、弘法大師彫刻の愛染明王を納めしめ、又足利尊氏浄侶六坊をいとなましめ、及び北條家より兵革亂妨禁止の制札を下せし事などあり、往古はかかる盛んの寺なりしが、其後しばしば兵火にかかりて堂宇及び什寶等をことごとく焼失す、天正の初にいたり、僧賢能なる者志を勱し、力をつくして再興せりと、因てこれを中興開山とす、此餘うけかひがたき説のみ書のせたれば、信じがたきことなれど、古くより傳へしなれば、しばらく其あらましを録して全文をば略しぬ。同き十九年御入國ののち、寺領七石の御朱印をたまふ、この文中には高麗郡とあり、今は當郡に屬したれど、郡の堺の村なれば古くは彼に屬し、これに録せしことままあり。
鍾樓。門を入て右にあり、一丈四方、鐘の徑り二尺三寸、高三尺五寸、銘文には尊氏将軍暦應中の草創とあり、又天正十八年太閤秀吉小田原陣の時、昔の鐘は陣中に用ひ鐘なきことを載たれど、是は銘文をあやまれるにぞ、既に天正十六年北條氏が當寺を借用せしことを記せし、朱印の古文書あるを以て知るべし、其後は鐘もなかりしかば、慶安三年僧賢重なるもの檀越を勧化して、供鐘を鑄造せり、しかるにこれも年ならず撞損しければ、享保十六年再び鑄造せしと云。
寶篋印塔。本堂の前西の方にあり、高さ二丈五尺、廣さ二間半、經蔵にして愛染明王を安す、木の坐像一尺六寸、弘法大師の作にて、前にいふ所の右大将ョ朝の納めしむる所なりと。
脇士多門吉祥の二天共に長七寸許の立像なり、寺傳に此塔の正面の柱に、佛舎利十五粒を籠をけりと云。
源龍権現社。境内鎮守、小祠、乾の隅山林の中にあり。
禁制
右軍勢甲乙人、假初にも當寺来致横合非分者有之者、則可相搦、猶不及手柄ニ付而者、記交名可有披露、可被處罪科旨被仰出者也、仍如件、
虎印 庚午十月廿五日
塀和刑部丞奉之
愛染院
依天下之御弓矢達、當寺之鐘御借用ニ候、速ニ可有進上候、以世上御靜謚之上、被鑄立可有御寄進間、爲先此御證文、其時節可被遂披露旨被仰出者也、仍如件、
天正十六年戊子正月五日
成木愛染院
塔中
吉祥院。除地上畑一段二畝、堂地一畝二十歩、境内南の方にあり、堂十間に五間南向、不動の立像長一尺二寸なるを安す。
多門院。除地上畑九畝の内寺地二畝二十歩、小名大木の下にあり、堂八間に二十間南向、彌陀の立像を安す、長一尺一寸。
軍荼利明王堂。除地上畑三段十八歩、堂地百五十坪許、安楽寺の境内つづき東の方にあり、安楽寺は元此堂の別當にて、今も指揮せり、社家丹波といへるを境内に住せしめて、これを守らしむ、村内の總鎮守なり、堂五間四尺に横五間二尺南に向ふ、本尊木のリズ王八臂の形一丈餘、前にいふごとく行基菩薩の作なり、のちあまたの星霜を歴は隤廢せんことを患へ、紙にて其像を張、澁を以て塗くれば、木の色辨じがたし、亦側に明王の類と覺しき像二軀あり、大さ三尺ばかり、古物なれど未だ再修に及ばず、まことは何の像なりやつまびらかならず。
仁王門。三間餘に二間餘、仁王の木像、一は黒く、一は赤くして長七尺ばかり、その作をつたへざれど、いかにも古き像にて、鎌倉の佛師などの作れる者にも有べきや、尋常の像とは異なりし者なり、又門も近世の營にはあらず、其柱は松の丸木にて所々虫喰て文をなし、いと古き色口也。
大門。境内入口にあり、ここより明王堂まで一町許、道幅一間にて直路なり。
辨財天祠。仁王門の内西の方にあり、小祠、神體は石の逆鉾にて、二つに折てあり。
白山社。明王堂の後ろ東の方に在、小祠。
薬師堂。明王堂に向て右の方にあり、二間四方、本尊は木の坐像にて長一尺。
安楽寺の縁起 2
安楽寺(成木山愛染院)
下成木(現・成木一丁目)にあり、本尊は不動明王(胎内仏愛染明王)である。縁起に奈良時代・和銅年間(七〇八〜七一四)僧行基が諸国巡錫の途次、山上の樟の巨木が鳴動し光を発した。その光の中に軍茶利の形を見て、この木を伐り一丈二尺(三・六メートル)の軍荼利明王を彫りあげ一堂に安置したのが、安楽寺の基という。樟木が鳴ったので、鳴木すなわち成木山と号したという。鎌倉時代、源頼朝が家臣畠山重忠をして自らの念持仏愛染明王を納め愛染院を建立。また足利尊氏も暦応年間(一三三八〜四一)、大泉坊、財泉坊、吉祥坊、多門坊等の六僧坊を建てさせ、近隣の武士・僧侶に大般若経六百巻の写経奉納を命じたという。この奉経は康安二年(一三六二)から文明九年(一四七七)の一一五か年間続けられ、「成木郷軍茶利」あるいは「武州杣保成木郷安楽寺」などの奥書が見られる。後、火災によって堂宇も什宝も大部分焼失。永禄年間(一五五八〜六九)鎌倉の僧賢能が再興し中興開山一世となっている。寺宝として元亀二年(一五七一)小田原北条氏からの禁制状、天正十六年(一五八八)の北条氏直からの鐘借用状があり、ともに市有形文化財に指定されている。天正十九年、徳川氏から寺領七石の朱印状が寄せられ、江戸時代に入ると京都・仁和寺の直末として来院二十九か寺を統べる檀林となった。元禄六年(一六九三)十一世寛晃により十三間×七間半の現本堂(都有形文化財)が再建、その後、昭和五十二年から五十三年、五十七年から五十九年と二期にわたり、本堂・法堂・仁王門が修理された。宝暦六年(一七五六)経蔵造立。鐘楼には享保十六年(一七三一)鋳造の銅鐘がかかり、境内の 「やどり木の大杉」は都天然記念物に、寺城も都史跡に指定されている。二十九の末寺は市内八か寺、うち三か寺が現存。他は北多摩郡、埼玉県など広い地域に分布している。
勝沼城   青梅市
勝沼城は三田氏により築かれた平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。
築城年代は詳らかでないが、三田氏により築かれたとされる。
永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の三田綱秀は後北条氏を離れ上杉方についた。
永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が辛垣城を築き居を移した。
永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照により三田氏が滅ぼされ、勝沼城も落城した。
加治丘陵端の尾根上に占地し、本丸を中心に、尾根方面に三の丸、丘陵端方面に二の丸を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の丸には東面及び南面に馬出しが設けられている。また、二の丸及び三の丸には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る構造となっている。
辛垣城(からかいじょう)   青梅市
三田氏により築かれた山城。上杉謙信の関東侵攻後後北条氏を離れ上杉方に付いた三田氏がその峻険な地形を頼んで拠り、名族三田氏の終焉の地となった。
永禄年間初期、三田綱秀によって築かれた。ただし、永禄年間以前より存在したという説もある。
永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の綱秀は後北条氏を離れ上杉方に付いた。
永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が勝沼城から居を移した。
永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照に攻められ落城した。
稲荷神社(将門稲荷)   青梅市裏宿町
東京の青梅から奥多摩方面には平将門伝説が数多く残されています。平将門公が実際にこの地に足を踏み入れたかどうか確たる証拠はないようですが、将門公が敗死後、一族や縁者の者が追っ手から逃れて山間部に逃げ込んだと言われています。またこの地を統治していた三田氏が将門公の後裔を名乗っていたことから多くの伝承が生まれたと考えられています。今回は再び青梅市の将門伝説を訪ねてみました。「青梅」の地名も平将門伝説が由来です。
この稲荷神社は「天慶稲荷」「将門稲荷」ともいわれ、御神体の鉄平石に天慶三年と刻まれているそうです。
神社の裏は登山道に繋がっています。稲荷神社と八幡神社が合祀されていました。
浜竹柵   青梅市御岳
築城年 平安時代
多摩川で渓流釣りを楽しむ人たちを見下ろす丘の上に熊野神社があるが、このあたりは平安時代に平将門に従った浜竹五郎が柵を構えた場所と伝わる。多摩川の対岸にはやはり将門の従者尾崎十郎が構えた尾崎柵がある。奥多摩に伝わる将門伝説はさておき、二つの砦は後の時代に築かれたものと思う。それが三田氏か北条氏なのかはわからないが、伝承が伝わらないことを考えると北条氏ではないかと思える。
柚木愛宕神社   青梅市柚木町
社号 愛宕神社  祭神 火産霊神
柚木愛宕神社は、青梅市柚木町にある神社です。柚木愛宕神社は、即清寺の開基にともない、陽成天皇の元慶年中(877-884)、即清寺の守護のために創建したといいます。慶安元年(1648)江戸幕府から社領20石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格したといいます。
柚木愛宕神社の由緒 1
(柚木村)愛宕社
社地凡六十坪、村の南の方愛宕山の頂上にあり、小社にして上屋を建つ、神體は本地勝軍地蔵にて長一尺二寸許、當社は傳云、往昔相馬師門の後裔師秀なるものの勧請せし處なりと云、按に師門師秀は其傳いまだ考へず、おもふに當所の舊領主にして、三田弾正が祖先にてやありけん、村内にて社領二十石を賜はり、御朱印を附られしは慶安元年九月十七日のことなり、鳥居二基、一は南の方に立つ、柱間六尺、一は北の方にあり、これも同じ大さなり、村内の鎮守にて例祭正月廿四日、即清寺の持なり。
柚木愛宕神社の由緒 2
陽成天皇の元慶年中(八七七−八五)即成寺の開基にともない、守護のために創建したと伝えられる。建久年中(一一九〇−九九)源頼朝公が霊感を得て、畠山重忠に命じて山麓に殿堂数宇、山頂に愛宕神社を再建させたという。慶安元年(一六四八)九月十七日幕府より御朱印二十石を賜わる。安政四年(一八五七)発起、文久元年(一八六一)遷宮を行なった。昭和十一年氏子崇敬者の便をはかり、柚木町一丁目百五番地に現在の本殿・拝殿を造営し、社務所、神楽殿等の施設を完備した。
柚木愛宕神社の由緒 3
愛宕神社
柚木(現柚木町一丁目)に鎮座する。祭神は火産霊神で、御神体は本地勝軍地蔵である。例祭は四月二十四日。
創建は伝えによると、陽成天皇の元慶年中(八七七〜八八四)、即清寺の開基にともない、その守護のため創建されたという。その後、建久年間(二九〇〜二九八)源頼朝が畠山重忠に命じて、山頂に社殿を再建したともいわれる。
また『皇国地誌』によると、三田弾正の祖先で相馬師門の後裔師秀が辛垣城築城の際に、その鎮護のため愛宕神社を勧請したのであろうともいわれている。
慶安元年(一六四八)、幕府より御朱印二十石を受けている。安政四年(一八五七)社殿の起工を経て、文久元年(一八六一)遷宮が斉行された。
昭和十一年、現在の地に本殿・拝殿を造営し、同時に社務所・神楽殿を竣工した。旧社格は村社である。昭和五十三年には参道入口に石造の大鳥居、玉垣などが造られた。境内面積は一八六・四八坪(六一五平方メートル)である。  

 

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)   国立市
甲州街道沿いにある。社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。府社。式内社穴沢神社の論社でもある。
東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。
南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」である。
江戸時代の著名な狂歌師の大田蜀山人(南畝)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝える。
1908年(明治41年)8月1日、有栖川宮威仁親王の運転する「ダラック号」(Darracq )を先頭に、国産ガソリン自動車「タクリー号」3台など11台が隊列を組み、日本初のドライブツアーであるとされる、甲州街道を立川までの遠乗会(当時の新聞では「自動車遠征隊」と呼ばれた)が行われた。谷保天満宮の梅林で昼食会が催され、いまも記念碑が残されている。
『天満宮略縁記』(谷保天満宮蔵)によると、903年(延喜3年)2月に菅原道真が薨去したとき、子息の道武は自ら像を刻み、廟を建てて祀ったのが谷保天満宮の創建だとされる。921年(延喜21年)11月に道武が薨去すると、道武も相殿に合祀されたという。
阿波洲神社   西東京市新町
社号 阿波洲神社  祭神 高望王、少名彦名命  境内社 愛宕神社、稲荷神社
阿波洲神社は、西東京市新町にある神社です。阿波洲神社は、享保21年(1736)から開発された上保谷新田に宝暦2年(1752)に創建したといいます。
阿波洲神社の由緒 1
(上保谷新田)淡島社
小社なり、本村寳光院の持
阿波洲神社の由緒 2
縁起創建年月不詳
阿波洲神社の由緒 3
享保二十一年(一七三六)辰年創立。祭礼は毎年九月十三日前後の日曜日。昔は湯花神楽興行があった。昭和十年社務所竣工。同十五年手水舎新築。
阿蘇神社   羽村市羽加美
社号 阿蘇神社  祭神 豊受媛命、櫛御毛奴命、大物主神
境内社 神明社、稲荷神社、八雲社、御嶽社、直日宮、日ノ神社、聖徳神社
阿蘇神社は、羽村市羽加美にある神社です。阿蘇神社は、推古天皇9年(601)の創建と伝えられ、平将門、三田定重も社殿を造営したといいます。江戸期には徳川家光から社領13石の御朱印状を受領しています。
阿蘇神社の由緒 1
(羽村)阿蘇宮
村の西多磨川涯にあり、本社一間四方、拝殿二間に四間餘、祭神磐龍姫命、神體秘厨に納む、神職の話にそのかみ祖先の神體を見んとて、自ら潔斎して扉をひらきしに、兩眼忽ちにしゐたり、それよりの後子孫に眼病を患るもの絶ずと云、當社は平将門の勧請なりと云、天文五年の棟札あり、大旦那平朝臣三田掃部助定重とあり、是将門の後胤なりしといふ、御朱印十三石の社領を附せらる、例祭六月十三日、村内の鎮守なり、吉田派の神職にて宮川左京持
阿蘇神社の由緒 2
創建は推古天皇九年(六〇一)五月と伝えられ、領主武門の崇敬が厚く、承平三年(九三三)平将門が社殿を造営した。以後藤原秀郷、三田定重もまた社殿を造営した。小田原北条氏は永二十貰文の神領を寄せ、徳川家康は、二丁四方の馬場を寄進、神馬を放ったという。
さらに家光は十三石の朱印地を寄せ、代々家例とした。慶応四年(一八六八)朱印地を奉還、神領を上知した。明治政府より逓減禄金五十円を下賜。明治二年阿蘇神社と改称。
将門神社 1   八王子市上恩方
地元では・まさか様と呼ばれ今でも信仰がある。上恩方の旧家・草木家が建立の祖とし、地元氏子の信仰により現在も秘かなパワースポットとして人々を惹きつけている。将門神社から振り返り集落を見渡すと、この社が何とも良い場所に配置されている事に気がつく。まるで氏子を見守る将門公の力が渦を巻いて宿っているかのように感じられる。1000年の時を経て今だに人々を惹き付ける力、そこに何かがあるのかは分からないが何も無いとは言い切れない。そして現在もこの地に暮らし続けている草木家の方々の背後に漂う魂もただならぬ雰囲気を感じずにはいられない。
将門神社(まさか様) / なぜこの地に平将門公を祀りし社があるのか、すべては想像の域に過ぎない、 しかし、この地域に土着している旧家、上恩方町の草木家の古文書からはその謎がもしかしたら隠されているかもしれない。
草木家文書より抜粋 / ・・・藤原玄茂の子、万徳丸三歳の時、乳母に抱えられ軍茶利山に隠れおりしが、その後この地に逃れたるその子孫草木と名乗る・・・このような古文書が草木家に伝来する
将門神社 2   
関東各地に広がる平将門伝説、千葉、茨城はもとより奥多摩、青梅などにも将門公に関する神社などは存在する。この将門神社は 東京都八王子市に実在する平将門を祀った社である。
地元では・まさか様・と呼ばれ今でも信仰がある。各地に点在する将門神社の中でもほとんど知られていないが、上恩方の旧家・草木家が建立の祖とし、地元氏子らの信仰により、現在も秘かなパワースポットとして人々を惹きつけている。
まさか様(将門神社)に辿り着くには、草木家の墓地を通させてもらわなければ行けません。まるでこの山に立入る者を見張っているかのように見えてきます(合掌を忘れずに)。
墓地を過ぎると、道らしき道はなくなってしまう、心を無心にして、荒れた草原を見つめていると、将門神社に続く道が不思議と見えてくる。そのうちに突然、まさか様の小さな社も見えてくる。
将門神社から振り返り、集落を見渡すと、この社が何とも良い場所に配置されている事に気がつく。まるで氏子を見守る将門公の力が渦を巻いて宿っているかのように感じられる。1000年の時を経て今だに人々を惹きつける力。そこに何かがあるのかは分からないが、何も無いとは言い切れない。そして現在もこの地に暮らし続けている草木家の方々のその背後に漂う魂も、ただならぬ雰囲気を感じずにはいられない。
草木家文書
西暦890年 寛平二年七月二十八日 草木家墓地の五輪塔が調査確認されており、その子孫、今に連綿する。八王子市内でも有数の数量と質を誇る文章群で(八王子市史)や(新八王子市史)でも資料の引用が確認できる。将門の乱の後、鎌倉将軍家義輝公まで代々に渡り勤仕の侍であり梶原の姓を名乗り関東八ヶ国の管領職に任命されていることから南北朝期、室町時代には武州南一揆の梶原氏が草木家の前身だったと推測される。
八王子城 落城
小田原城攻めが始まり北条氏照の家臣、横地(監物)天正十八年六月十七日主馬郡中村々の水帳並諸侍代々の證文を八王子城 戸倉城にて全てを焼き払う。天正十八年六月二十三日北国之勢攻に落城する。戦国乱世、大混乱の中全て焼き捨てた為、草木家の墓碑も慶長年間からの記録となっているのが伺える。この事を残念に思った草木家の先祖が書き残した書物に「玄茂の子を逃して・・」と将門の乱に触れている。後の子孫がこのことを知らなざんことを悲しく思いここに記す。修證院殿覚源浄智居士 草木兵部 慶長六年八月二十八日清光院殿月照妙桂大姉 兵部妻  慶長十年九月二十八日と、最後はむすんでいる。
江戸幕府以降は代々名主として上恩方に残り現在に至る。1980年代、草木家墓地拡張工事の際に切り土した土手の中から複数の五輪塔が出土し工事を一時中断する事態が起こった。横穴を発見したがそれ以上の発掘はされず現在も謎を閉じ込めたままとなっている。八王子市恩方地区文化財調査員、佐野泰道氏の見解によると五輪塔のパーツが揃っておらずサイズの違う伊奈石だと言う事でまだ土の中に眠っている石塔が多数あると考えられる。
平将門公伝説を訪ねているうちに、偶然草木家に辿り着いた。この旧家が将門の乱、副将軍 常陸介 藤原玄茂の末裔であることを古文書で知ることができた。伝説と言う箱から飛び出した、1000年以上昔の事実に触れた気がして鳥肌がたった。
将門神社(まさか様)
なぜこの地に平将門公を祀りし社があるのか、すべては想像の域に過ぎない。 しかし、この地域に土着している旧家、上恩方町の草木家の古文書からはその謎がもしかしたら隠されているかもしれない。
草木家文書より抜粋・・・・・藤原玄茂の一子、万徳丸三歳の時、乳母に抱えられ軍茶利山に隠れおりしが、その後この地に逃れたるその子孫草木と名乗る・・・・・このような古文書が草木家に伝来する。 
武蔵国府跡(むさしこくふあと)・国史跡 武蔵国府跡 国衙跡地区   府中市
武蔵国の国府に関する遺跡である。指定史跡として徳川家康の府中御殿跡、国司館地区も含む。本項目では、関連する「武蔵国府関連遺跡」についても記述する。
武蔵国府は、府中市に奈良時代の初め頃から平安時代の中頃にかけて置かれ、武蔵国の政治・文化・経済の中心地として栄えていた。
国府成立には、府中市内で古墳時代に築かれた古墳群、特に武蔵府中熊野神社古墳が特に関わり合いが深いと推測されている。
昭和52年 宮町2-7調査(26次) 大型建物柱穴群を検出。国衙中枢部分と推定。
平成7年 宮町2-27 当初の京所国衙推定地が「多磨寺」であることが判明(国衙東側範囲が絞られる)。
平成17年 宮町2-5(1284次) 国衙中枢が判明(赤塗りの柱)。
平成23年 大國魂神社境内宮之盗_社建て替え調査(1539次)出入りのための「西門」発見。
かつて武蔵国府は、「多麻郡に在り」と『和名類聚抄』に記述があるだけで、所在地に関しては諸説あり、正確な位置が不明であった。
昭和50年以降の発掘調査により、大國魂神社境内南北溝と旧甲州街道と京所道に挟まれた、南北300メートル東西200メートルの範囲が「国衙」であると判明し、その中の東西南北100メートルの範囲が国衙中枢の造営だと考えられる。 宮町2丁目5番2、宮町3丁目1番1、1番2、1番3、宮町2丁目1番16と同3丁目1番1に挟まれ同3丁目1番1と同3丁目6番3に挟まれるまでの道路敷きを含む場所が武蔵国府跡と指定された。
国府を中心に、東西2.4キロメートル、南北1.2キロメートル範囲内で住居が発掘され、確認されたものだけで4000軒にも及び、7世紀末〜8世紀にかけて爆発的に人口が増加した。 主な出土品は、瓦、セン(漢字では、土編に専門の「専」と書き、古代のレンガのこと)、円面硯。
史跡指定範囲内の宮町2丁目5番2に「史跡整備地」が用意され、「ふるさと府中歴史館」と共に見学する事が可能となっている。
発掘調査は活発で、1400か所以上で行われている。 範囲は武蔵野台地上に広がり、中心は武蔵国総社「大國魂神社」(東京都府中市宮町)にある。大型東西棟・総柱の南北棟建物が発掘され、国府の主要施設が明らかになった。
称名寺   府中市宮西町
山号 諸法山 院号 相承院 寺号 称名寺  本尊 阿弥陀如来像
時宗寺院の称名寺は、諸法山相承院と号します。称名寺の創建年代は不詳ながら、天慶3年(940年)に創建、六孫王源経基が平将門征伐した際に当地に寄宿したといいます。道阿上人一光大和尚が寛元3年(1245)に称名寺として開山、江戸時代には寺領13石8斗の御朱印状を拝領したといいます。
称名寺の縁起 1
(本町)称名寺
甲州街道の北裏にあり、諸法山相承院と号す、時宗遊行相模国当麻無量光寺末、御朱印十三石八斗の寺領を附せらる、本堂九間に七間半南向、本尊弥陀長二尺八寸許、恵心作、六孫王経基平将門を征伐の時、当院に止宿ありしと云傳ふ、此事誠ならんには、其より以前起立の寺なるべし、然れども外に證左なければ是非をしらず、古へは三井寺の硯学大道寺と唱へしよし、寛元の頃にや称名寺と改めしと寺傳にいへり、什物には古様の太鼓あり、銘に正応二巳丑年冶云々の文字ありて、次に寛永寛保の年歴、并に工人の名氏等を記せり、破壊の後屡修理を加へし者なるべし、又墓所に応永・吉・嘉文安・延文の年号みえし古碑ともあまたあり、是等をみれば何れにも舊蹟なることは推して知るべし、今開山を尋ぬるに一向道阿上人といへるものなりと云、示寂の年月を逸せり。
称名寺の縁起 2
時宗称名寺
無住起立天慶三年。有信起立寛元三年。
開山道阿上人一光大和尚は都三井寺の法師にして法然上人の法門に入り、後関東に下り寛元三年此道場に留り昼夜出難の大道を勧め又此道場を改め諸法山相痩@称名寺と号す。寛元四年八月鎌倉より恵信僧都の御作三尊の阿弥陀如来を安置して祀る。
伝うるところによれば当山は六孫王経基が武蔵介であったときの館跡という。現在の本堂は中興五十七世深蓮社入誉上人其阿信老和尚が自ら蚕を飼い基金を作り明治初年に建立された向拝は昭和三十八年新築。
境内の地蔵堂は日限子地蔵尊をまつり、近隣の信仰が非常に厚い当山五十世廓蓮社忍誉上人他阿万的大和尚が念持仏として木造の地蔵尊二体をつくりそれを石地蔵の台座の中にお納めしてある。昭和四十年五月八日現在のコンクリートづくりの御堂に改築した。
福生神明社   福生市福生
社号 神明社  祭神 天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、禰津波能売神、豊宇気比売神、大山咋神、菅原道真公  境内社 八雲神社、稲荷神社
福生神明社は、福生市福生にある神社です。福生神明社の創建年代は不詳ながら、明治7年旧福生村内の五柱を合祀したといいます。
福生神明社の由緒 1
古来、清の正と呼ばれた社に、伊邪那岐、伊邪那美神を祭神として旧福生地域の神明社を中心に、明治七年各部落の五柱の神々を合配した神社である。
福生神明社の由緒 2
(福生村)
天神社 社地、村除、九尺四方の覆屋なり、村の西にあり、村内寳蔵院持。
神明社 年貢地、十二歩、二間四方の覆屋、是も同寺(寳蔵院)の持。
兩體権現社 社地、村除、三間四方の覆屋せり、小名長澤にあり、祭神伊弉諾伊弉冉の兩尊なり、村持。
關上明神社 年貢地、十歩、二間四方の覆屋せり、多磨川岸に臨てあり、村持、土人の話に昔洪水の時神體いづれよりか漂ひ来りしを、村民古堰の上にて得たりしに、堰は關と訓同じければとて、關上明神と崇めしといふ、其像長五寸許、妙見の形状に似たり。
陵明神社 小社、小名宿にあり、村民の持、昔年多磨川上水の新堀開鑿の時、土中より銅佛、并せて長き石を得たり、俗に傘石と云よし、平将門を祭るの文をえれり、故にかく云、後その銅佛を失ふて今は石のみあり。
神明宮 社地、村除、九尺四方の覆屋、小名中福生にあり。
熊野山王稲荷三社合殿 社地、村除、九尺四方の覆屋、小名萱戸に在。
浅間社 小名牛濱にあり。
稲荷社 小名原ヶ谷戸にあり、共に小社、以上孰も村持。
井の頭弁財天(大盛寺)   三鷹市
井の頭弁財天は、天慶年間(938-946)に関東源氏の祖・源経基が伝教大師の延暦8年(789)作という弁財天女像をこの地に安置したのが始まりで、その後建久8年(1197)に源頼朝が東国の平安を祈願して宮社を建立したとされている。また、正慶2年(1333)には新田義貞が鎌倉北条氏と対陣する際に戦勝祈願を行なったとも伝えられている。
江戸時代に入り、徳川家康は江戸入府に際して上水道の整備を行なうが、その際の水源として選ばれたのが井の頭池であり、その上水路が神田川である。
家康自身も何度かこの地を訪れたとされ、慶長11年(1606)に家康が井の頭池の水でお茶をたて、その時に使用したとされる茶臼は今も弁天堂に伝えられている。
三代将軍家光の代になるとこのあたりは鷹狩り場とされ、寛永6年(1629)に家光が訪れた際に、この池の水は江戸の飲料水の源・上水の頭であることから「井の頭」と命名し、池のほとりのこぶしの木に小刀で井の頭と刻んだと伝えられている。  
■多摩地区

 

多摩地区の平将門を祀る神社仏閣
金剛寺 青梅市天ケ瀬町1032
海禅寺 青梅市二俣尾4丁目962 将門の位牌を祀る。紋は七曜星。
海海寺 将門の子孫・三田氏の墓。
天寧寺 青梅市根ケ布1丁目454  将門の位牌を祀る。
鷹巣神社(将門明神) 西多摩郡奥多摩町川井 不明。
将門神社 西多摩郡奥多摩町鳩の巣(棚沢)
根元神社内将門神社 西多摩郡奥多摩町氷川1804 峰畑より遷宮。
将門神社 西多摩郡奥多摩町氷川字三ノ木戸
絹笠神社 西多摩郡奥多摩町氷川字絹笠 廃屋が並ぶ。
将門神社 西多摩郡奥多摩町氷川 氷川には三、四社あるようだ。
七つ石神社 西多摩郡奥多摩町日原 山梨県との境、将門を祀る。旧は、七つの石(将門の家臣の化身)がご神体。
将門明神社 八王子市上恩方
羽黒三田神社   西多摩郡奥多摩町氷川
社号 羽黒三田神社  祭神 高皇産霊神、少彦名神、稲倉魂命、天穂日命
境内社 鹿島神社、両輪神社、八幡神社、立野神社、山祇神社、琴平神社、菅原神社、出雲神社、榛名神社
羽黒三田神社は、西多摩郡奥多摩町氷川にある神社です。羽黒三田神社は、貞観2年(860)出雲国の人、土師連行行基が東国に下向し、御嶽山に詣り神告を得て当地に高皇産霊神、少彦名神の二神を祀り、穴澤天神と号したといいます。平将門の子良門が軍を起こした際には八角の鏡を奉納、永享6年(1434)に元巣の森鎮座の羽黒大神を合祀して羽黒大権現と称したといいます。永正元年(1504)には平将門十六世の孫、三田弾正忠次秀が社殿を再興して扁額を奉納しています。
羽黒三田神社の由緒 1
(氷川村)羽黒権現社
除地一段二畝二十七歩、小名南にあり、往来の傍に鳥居を立、前に石階あり、ここを入て、
五町許にして本社にいたる、鳥居と石階との間に二間に四間の随身門を建てり、本社東向、一丈二尺四方、拝殿四間に二間、祭神は倉稲魂命なり、社内に穴澤天神を合せ祭れり、この祭神は高皇産靈尊・天穂日命にて、八角鏡を神體とするよし、當社の神主河邊伊織が家にこゝの社の略記を納めたり、それを閲するに貞観二年土師朝臣行基といへるが、穴澤天神とは崇めたるよし、その後天慶年中平将門の子良門が軍を起せしとき、故有て八角の鏡をこの社へ納めしと云は、今の神體なるべし、後又永正元年に将門十六世の孫、三田弾正忠平次秀祈願のことありて、社を改め作れるよし、穴澤社は式内の神社なれども、郡中矢ノ口、棚澤の二村及びこゝにもその名あり、その内いづれの社式内なるべきや定かならず、猶かの村に幷せ見るべし、是より以前後宇多帝の御宇、建治三年出羽國羽黒山の神を、この邊元巣ノ森と云所に祭りして、永禄九年六月穴澤天神の社内に合せ祭れるよしをいへり、されど今は羽黒権現を本殿とし、穴澤天神を合殿せりと、例祭六月十五日、神主河邊伊織。
羽黒三田神社の由緒 2
「羽黒三田神社明細帳」(明治十二年書土)にもこれとほぼ同様の記述があり、穴沢天神は一に「調布郡祖の社」と称したとあります。宝永二年(一七〇五)、安永九年(一七八〇)の両度社殿を再建し、明治三年、羽黒山、穴沢天神両者を併せて羽黒三田大神とし、同九年、更に羽黒三田神社と改称したとあります。なお三田弾正忠次秀奉納の扁額の文は次のとおりです。
武蔵国多西郡川辺神社羽黒山ニ座(武蔵国多西郡川辺神社羽黒山に座す)
穴沢天神起立者人皇五十六代(穴沢天神の起立は人皇五十六代)
清和天皇御宇貞観三辛巳中穐十五日(清和天皇御宇の貞観三辛巳八月十五日)
祭主土師行基雨請祭日請祭阴阳行儀(祭主土師行基雨請いの祭り日請いの祭り陰陽の儀を行い)
勧請羽黒者協宮氷川陰宮也各川隔(勧請す羽黒は陽の宮氷川は陰の宮なり各々川隔たりて)
鎮座云云去々甲子年天下一統之凶穀(鎮座すしかじか一咋甲子の年天下一統の凶穀により)
民飢饉早速五穀成就而可豊熟守護(民飢鐘す早速五穀成就して豊熟守護し奉るべく)
寄祈願成就者領内為惣鎮守永社頭(祈願を寄せ成就せば領内の惣鎮守と為し永く社頭)
可造営之条奉願書今年豊熟志願(造営すべきの条願書を奉り今年豊熟志願)
依成就加神地奉鎮祭記者也(成就により神地を加え鎮祭肥奉るものなり)
于時永正丙寅年弾六月十五日(時に永正三丙寅年六月十五日)
三田弾正忠 平次秀敬白
以上の記録によって羽黒三田神社の性格がわかります。穀霊の神と穴沢天神から平将門の後裔という三田氏と羽黒派修験道がからみ合って明治維新を迎えたのです。ここで一つ疑問に思われるのはこの社前に摂社格と見える「双馬神厩」と呼ぶ社のあることです。これは風土記稿にも明細帳にも載っていませんが社殿内に二駆の木彫馬と「馬」の文字を陰刻した二枚の扇平形の石が奉納されていて、馬の神様といわれていますが、羽黒三田神社が平良門の鏡奉納といい、三田弾正の遍額といい平将門−その後裔三田氏との関係を強調するところから考えると、双馬神厩創建の始めは平将門を肥った「相馬宮」ではなかったでしょうか。ここは平将門の伝説地、絹笠、城、三ノ木戸、六ツ石、七ツ石の登山口に当ります。
羽黒三田神社の由緒 3
創立は社記によると清和天皇の貞観二年(八六〇)出雲国の人、土師連行行基が東国に下向し、御嶽山に詣り神告を得て当地に高皇産霊神、少彦名神の二神を祀り、穴澤天神と号した。また本社南の山林裏に川辺の神社と称して天穂日命を祀る一個の清泉湧き出でる洞穴がある。この社と村内元巣の森鎮座の羽黒大神を永享六年(一四三四)に合祀して、羽黒大権現と称した。のち成良親王が神地を寄付し、永正三年(一五〇六)六月将門十六世の孫、三田弾正次秀が社殿を再建、領内総鎮守とした。明治三年この両社をあわせて羽黒三田神社と改め、同二十二年社殿を再建した。
絹笠神社(きぬがさ)   西多摩郡奥多摩町氷川
訪問時は絹笠神社と2軒の廃屋が残っていた。1軒は平屋、もう1軒は2階立てだがほぼ全壊。地下室があったり、飼料用のタンクのようなものがあったりと、集落でも有力者の住宅だったのだろう。その他にも敷地がいくつかあり、竈・バイク・自転車・薪ストーブ・茶碗などの遺物や遺構が残る。
資料によると「絹笠」は平将門にちなむ地名で、将門が金の笠を置いた地であるという。絹笠神社は平将門を祭神としているが、集落の生神は稲荷神社。浜中姓5、金子姓3。離村は昭和50年代か。
ちなみに、付近の城(じょう)・三ノ木戸(さのきど/サヌキド)も数戸程度の小集落。どちらも平将門由来の地名で、城は城を築いた所、三ノ木戸は城の三ノ木戸のあった所であるという。ほか付近の六ツ石(むついし)山の東には将門馬場(まさかどばば)がある。
峰畑将門神社   西多摩郡奥多摩町氷川
祭神 平将門(たいらのまさかど)
峰畑地区の人々によって祀られた祠。安永7年(1778)当地に遷された事を記した棟札が伝わる。
峰畑地区は付近に室町時代の板碑16枚が見つかっている事から、かつては多くの人々が住んでいたと思われるが、現在は全戸転出して無住となっている。
将門神社 1   西多摩郡奥多摩町棚沢
ご祭神   平将門(たいらのまさかど)公
ご利益   武運長久、五穀豊穣 他
由緒    天慶の乱(935年〜940年)に敗れた平将門没後、その子となる将軍太郎良門が亡き父の像を刻んで祀ったことに始まるという。その後、多摩川流域を領した青梅の三田氏は、将門後胤を称し、三田弾正忠平次秀のときには、将門宮を再修して神剣を奉納しているという。 
将門神社 2   西多摩郡奥多摩町棚澤
社号 将門神社  祭神 平親王将門霊、八千戈命
相殿 高皇産霊神  境内社 穴沢天神社
将門神社は、西多摩郡奥多摩町棚澤にある神社です。将門神社は、日本武尊が東国平定の折に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したと伝えられます。将門神社は、かつて日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった地に、鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後さらに将軍太郎良門が亡父の霊像を彫作して平親王将門がここへ祭られ、以来社号は平親王社と呼ぶようになったといいます。永正年間(1504-1520)には領主三田弾正忠平次秀等が尊崇し地域の総鎮守とし、江戸期には、棚澤村東部地区の鎮守だったといいます。明治41年熊野神社(棚澤)に合祀されたものの、昭和50年に野村孝之氏を中心とした地域住民が社地を整備、再建したといいます。
将門神社の由緒 1
(棚澤村)
多名澤神社相殿平将門靈像
除地三段四畝、村の中央にて往還に鳥居をたて、それより一丁許山を登りて本社にいたる、五尺に六尺南に向ふ、上屋二間に三間半、是は将門の社にて多名澤社は却て奥の院と稱す、神體は神璽にして箱におさめ秘封せり、多名澤元穴澤といひしを、音の近きによりいつとなく唱へかへたるものなりと傳へ云、昔人皇五十代桓武天皇の御宇、延暦年中鎮守府将軍利仁陣中擁護の神なればとて、八千矛の神を崇め祀れる所にして、則【延喜式】に載る所多磨郡八座の一なりといへど、【神名帳】には穴澤天神とあり、ことに下に載る所の穴澤天神の社は、當社より古く鎮座せしものなれば、【神名帳】にのせる所はかの社の事なるべし、然るに當社は将門の嫡子将軍太郎、天徳年鑄父の遺跡をしたひて當所に来り、其肖像を彫刻してこれを納め、其後遥の星霜をへて永正年中、それが子孫當村の領主三田弾正忠平次秀等が信仰の餘り、惣鎮守となしければ、次第に勢盛になりゆきて、後には誤りてかく式内の神社とせし神なるか、又彌當社式内とせば、かの天神は末社などにてもありしを、幸ひ天神の社なれば穴澤の號をおはせしものなるか、何れにも式内の社一村の内に二社あるべき謂れなければ疑ふべし、其上同郡矢の口村に天満宮の社あり、是式内穴澤の神社にして、孝安天皇四年に鎮座せし二千餘年の舊社なりといひ、其上矢ノ口村古老の説などを以て考ふるに、これぞ式内にてもあるべきか、又神主兵庫が家の記に、永承四丑年源ョ義朝臣宿願のことによりて、武相兩州の舊社へ神田を寄られしことあり、其後年歴て又延元二年後醍醐帝の御宇にも神供寄附のことあり、又永正元年に至りて領主三田弾正忠年穀豊穣を祈りて神劔を納め、社頭を再修し總鎮守となし、御入國の後慶長十九亥年大坂の役に、東照宮武州大小の神社へ御祈誓ありしとき、當社も其内にあづかれりと、此等のこと委くしるしたれど、古く記録せしにもあらず、又此こと誠ならんには式内の社にあらずとも古き社なれば、かかることもあるべし、さればこれを以て式内の證ともいひかたし、尚下天神の條下及び矢ノ口村神社の條合せみるべし、例祭は一ヶ年に五たびあり、正月五日・二月十四日・六月十五日・八月朔日・九月十九日なり、其内時により流鏑馬のさま或は祇園會獅子舞等をなすと云。
神劔。永正元甲子年領主三田弾正忠平次秀が納る所なり、長さ九寸三分、中心長さ三寸五分、その圖並に鰐口の圖ともに上に出せり、寛永十五年の棟札あり、文中考證によしなければこれを略す。
穴澤天神社 除地百坪、将門社より山をこへ五丁程北の方にあり、祭神は高皇産霊尊に天光珠星亜肖氣尊をしてあはせ祀れり、神體は是も神璽にして箱にをさめ人の見ることをゆるさず、傳へ云當社は日本武尊東國の夷賊を征伐し給ふとき、暫く此所に軍旅を屯し給ひしが、夜中なにとなく光明かがやきければ、是正しく神靈降臨の地なりとて、一紙の幣帛を納め穴澤天神とあがめたるものといひ、土人の傳へのみにて正しく記録せしものあるにもあらず、うけかひがたし、事は多名澤の條下に辨したれば合せみるべし、其後遥の星霜をへて鎌倉の右大将、國家平安の爲め式内の神社へ神供をよせられしことあり、此時當社へも三百戸を附せられしが、後爭亂しばしばつづきて、それらのことも失ひたりと云、是また疑ふべし、例祭は三月十五日。
将門神社の由緒 2
将門神社と穴沢天神
「棚澤村地誌捜索御改帳」は、将門神社と穴沢天神について次のように記述しています。 御除
地三反四畝歩
多名沢神社 祭神八千戈命
将門大明神 平親王将門霊
二座
本社南向 五尺台間 上屋弐間 三間半 略拝殿兼
当社は桓武天皇延暦年中鎮守府将軍武蔵守利仁、陣中衛護の御願に依て、軍神八千戈命をもって多名沢の神社と崇祭り、其後朱雀帝承平年中平親王将門再祭把たり。嫡子将軍太郎良門亡父の霊像を彫作して相殿に奉安してこれを置く。以来称号は平親王社たり。
永正元甲子年、年穀祈願のため領主弾正忠平次秀候社頭に神劔を奉納御再建総鎮守と崇めらる。(中略)
延喜帝御宇 式央に載するところ武蔵国四十四座の内多摩郡八社の一座 今奥の院と称する是なり。
御免地 百坪
穴沢天神社 祭神高皇産霊神一座 御相殿 天光珠星亜肖気尊
そもそも起立は日本武尊東夷御征伐の御時 安国治平の御宿願によって御岳に軍馬を屯し給う夜、当山に光輝現われ、尊、瑞光を尋ねて直に北谷深遠に到りたまいまことに神霊降臨ありと、即ち一紙の幣を捧げて穴沢天神と崇めまつる。
後に穴沢を多名沢と唱う所以は音の通ずるためか、又はいう八千戈神御鎮座これあり、御神名の多き故にや沢もなお沢山というか、是等謂後邑の名其事の濫觴かと
鎌倉右大将家之御治世、治国平天下のため式内の神社に御祈り神供免地御寄附の時即当社三百戸、中頃の国乱に及びこれを空失したりといえども今に証地のみこれを存す。
毎年御祭礼
二月十四日 忌日祭
六月五日 奉幣 神酒献供 矢鏑初神事
六月十五日 祇園祭栄木神事
八月一日 獅子舞祭礼
九月十五日 奉幣祝詞
霜月十五日 神酒祭 皆済祭
右社地は御除地の内にて山之中通り嵯峨なる平地に御座候
この記録を整理すると次のようになります。
そのむかしここに日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった。延喜年中、その下へ鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後さらに平親王将門がここへ祭られて二座となり、それ以来社号は平親王社と呼ぶようになり、穴沢天神社は奥の院となった。
将門神社は明治四十一年地区内の熊野神社(棚澤)に合杷され、本殿、将門霊像、灯籠は熊野神社(棚澤)へ移設されました。霊像は長さ四二センチメートルほどで前床に坐した木像、灯籠は文政三年(一八二〇)建立されたもので九曜星と巻藤の紋があります。
熊野神社へ合祀後、将門神社の跡地は荒廃にまかされていましたが、昭和五十年、野村孝之氏を中心とした地域住民の信仰から社地を整備し、総檜造りの社殿が再建され、また社地の一隅に将門の女、御幸姫を紀る御幸姫観音の石像が造立されました。
将門神社の内陣には弓を携えた将門馬上姿の銅像(新作)が安置されていますが、これは東京赤坂氷川神社の将門神像を模して造られ、御幸姫観音の像はもと将門宮の神職家三国家に所蔵されていた護符の像影から写し取ったものです。
現在将門神社の後背地には不動堂があり、その傍に穴沢天神の小祠がありますが、その御神体は自然石のものですが『棚澤地誌草稿』はこれを、次のように説明しています。
穴沢天神 神璽石高さ一尺二寸巾一尺一寸程の奇石なり、高さ一尺八寸許りの箱宮に蔵めまた陰陽両箇の石あり、陽石は長さ七寸回り三寸許り、陰石は長さ四寸五分、巾三寸二分、神璽の石と同箱に納めたり。
熊野神社(棚澤)   西多摩郡奥多摩町棚澤
社号 熊野神社  祭神 伊邪那美乃命、速玉男神、事解男乃命  相殿 八千矛命、将門霊神
境内社 天王社、竜神社、疱瘡社
熊野神社(棚澤)は、西多摩郡奥多摩町棚澤にある神社です。熊野神社(棚澤)の創建年代等は不詳ながら、棚澤村の西部地区の鎮守として祀られていたといいます。明治41年、棚澤村の東部地区の鎮守多名澤神社(相殿将門神社)を合祀、村社に列格していました。(現在、将門神社は昭和50年旧地に再建)
熊野神社(棚澤)の由緒 1
(棚澤村)
熊野社 除地三畝九歩、村の西北の邊にあり、官丑を若林主馬と云、京都吉田家の配下なり、社は三尺八寸に五尺南向、祭神は伊弉諾尊、泉津事解男命、速玉男命をあはせ祀れり、社前に鳥居をたつ、當社は文安三丙寅年清水某、榊原某立願成就に因て、其かしこまりに鎮座せしものなりといふ、此二人の名さへ失ひたれば、その詳なることは傳へず、例祭は正月七日。
熊野神社(棚澤)の由緒 2
棚澤の熊野神社
文化十二年(一八一五)、棚澤村から書上げた「地誌捜索御改帳」(武蔵風土記の原資料となったもの)によれば、社名は「熊野三座権現」とあり、「伊弊諾尊」は「伊弊冊命」、願者を「清水某榊原某」と複数人にしていますが、これは榊原滑水氏(複姓)の一人のようです。この原文は
抑当社は文安三丙寅年、榊原清水氏の某、依心願奉勧請所也。尓来産子磐栄仕毎年正月七日奉幣御酒御供矢鏑初(おみごくやぶさめ)執行仕来り申候
とあるのです。なお祭神名の書上「伊弊冊尊」を「伊弊諾尊」としたのは編者が意識して改めたかも知れません。
「出雲国造神賀詞」によると熊野神社は「伊射那伎」の日真名子、「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とあり、紀伊の熊野本宮の祭神は「家都御子大神」であり、ともに穀霊神といわれます。なお祭神の一柱、速玉男命は熊野新宮の祭神です。
棚澤区ではもと舟川沢(はとのす駅東側の沢)を境界として大略東側は将門神社、西側は熊野神社と氏子が二分されていたのですが旧村単位に一の幣吊供進指定社を設けるに当り、明治四十一年、将門神社を廃して、これを熊野神社に合祀することとなり、将門神社の本殿、灯寵等をここへ移し、明治四十四年拝殿を新築して現状に至っているのです。
歴史のある多名沢神社−将門神社がどうして廃されたかというと、当時の皇国史観の上から将門神社の名は好ましくないという名分があり、また合祀にいたるいま一つの理由は区内を両分して神社祭礼を行う場合兎角無用な競争心や摩擦ができるおそれがあったからといいます。
熊野神社(棚澤)の由緒 3
創建年代不詳。もと熊野大権現と称した。明治二年、社号を現在に改めた。当時は前橋藩の管轄であった。
戦後例祭日を七月から本来の八月にもどし、子供の参加を容易にした。また明治末に合祀した将門神社を、昭和五十年旧跡地に建設。
沢井から川井 
日中とても暑く気温が下がる夕方まで待つことにした。前回歩いた沢井駅の手前から2〜3時間歩く予定で16時55分、青梅線沢井駅に降り立った。200mくらい西に戻ったところに、大きな石碑があり、隣の家のおじいさんがちょうど出てきたのでたずねてみた。
坂本雄一さん(80歳)で「子供のころよくここの中段の石版に草を載せて、石や木の棒で突付いて遊んだもんだ」と丸くへこんだいくつかの穴を指差した。そこへちょうど通りかかった近くのS保育園長さんが、「聞き覚えのある声だと思ったらあなただったのね」と車を止め、「これはこの先の雲慶院の参道にあったもので、青梅線の踏み切り工事の時に移転したものらしいよ」と教えてくださった。70年も前からこの穴で子供たちが遊んでいたと思うと不思議な気がする。
「もっと東の光背版地蔵がある根岸左官工業のところを下ったところが旧道だよ」との声に従うことにした。 現青梅街道に合流すると、右手に旧沢井市民センター、(旧三田小学校跡・旧三田役場跡)があり200mも進むと右手に茅葺き屋根の旧沢井名主福島家がある。
東京都有形文化財で、寛政年間(1789〜1800)の建築、二代目重富の時代という。写真を撮ろうと庭に入り込むと、母屋におばあさんの姿が見えたので、あわてて引き返す。すぐ隣の多摩名酒澤の井の醸造元小沢醸造の茅葺屋根旧家屋も見事だ。
17時20分、沢井駅入り口信号を通過し100mで、すぐ右手の細い道を入る。新道に沿った細い道で、家々の隙間から、鮎めしの看板の「ひもの屋」が見える。新道に合流し大きなカーブの所に、柚子にこだわった宿・勝仙閣がある。400mで、そばで有名な玉川屋のところを右折して坂道を登る。玉川屋前の道の分岐点に青梅の道標の中で最古といわれる角柱型の道標がある。踏切を渡りT字路に慈恩寺、左手に行くとすぐ御嶽駅、17時40分着。
御嶽駅を通過して400m行くと、日本画家河合玉堂画伯が生前住んでいたという建物がある。長屋門をくぐると奥に茅葺の家が見える。表札には玉堂山房・鴨居恒夫の名札がついている。戻って袴線橋渡って現青梅街道に戻る。すぐ右に道幅1間ほどの民家が密集する狭い道が続く。これが旧道らしい。そこから600mも行くと御岳美術館、青梅はここまでで、ここから先は奥多摩町になる。
じき、左手にせせらぎの里美術館、そば懐石丹縄が見える。通称「尾崎の坂」を登ったところに、ちょっと前まで屋号「尾崎」(酒・よろずや)があった。多摩川の川幅がもっとも狭く、20m位しかなく急峻な景色を見せているところだ。姫が淵と呼ばれる場所だ。昔はその川幅の狭さを利用して、対岸の梅沢地区への連絡橋が針金で作られていたという。川井駅に18時20分に到着。
巣鷹神社(将門明神)
奥多摩をはじめ秩父や関東西縁の山地の地方には平将門公やその妻妾・一族・末裔にまつわる伝承が数多く残されています。秩父地方では秩父で生き残った将門一族が奥多摩方面に移住し子孫が繁栄したとの言い伝えもあります。奥多摩地方を永らく支配した豪族・三田氏は将門公の後裔を名乗っていました。
奥多摩には将門公を祀る将門神社や将門公にまつわる地名が今も多く残されています。
丹縄にも将門伝説が残っています。せせらぎの里美術館の駐車場を出て青梅街道の反対側、山の斜面の木々の間に鳥居がわずかに見えます。上をJR青梅線が通っていますがここに神社があることに気付く人はまずいないでしょう…。
どうやらこれが「巣鷹神社(鷹巣神社?)」のようです。平将門公を祀り、かつては「神田明神」または「将門明神」と呼ばれていたそうです。
草木を分け入って石段を上がって神社をお参りしました。どこにも神社名が書かれていないので、ここが本当に巣鷹神社なのか確認しようがありませんでした。
奥多摩町観光案内所でもらった「奥多摩 山里歩き絵図」には「飯綱神社」と書いてあるので、ひょっとしたら違うかもしれません。
六ツ石山(むついしやま)   西多摩郡奥多摩町
標高1,478.9m。奥多摩の山の一つ。
南麓の国道411号線(青梅街道)上にある西東京バスの水根バス停からのルートが一般的だが、この道は鷹ノ巣山の稲村岩尾根などと並び「奥多摩三大急登」の一つに挙げられることもあるため、初心者は経験者の引率で登る方が好ましい。このほか、JR青梅線奥多摩駅から石尾根と呼ばれる尾根を経て登頂するルートもある。
最新の登山道の情報は奥多摩ビジターセンターのホームページで確認ができる。また、登山計画書は青梅警察署・青梅警察署管内の交番・駐在所又は奥多摩駅や御嶽駅にて受け付けており、警察署には郵送も可能である。狩猟期(11月15日〜翌年2月15日)には目立つ色の服装で、登山道を外れないように注意する必要がある。
天祖山(てんそさん)
江戸期は白石山と呼ばれていた山で、明治初年天学教の霊山となり、天祖山と山名が変わった。山頂に天祖神社が祭られ、その表参道に宿坊が建てられ、今日に至る。礼祭日には信者による登拝が行われている。
天祖山への日帰りは余程早く日原を出発しないと、下山時に夕刻となってしまうので、日原に1泊してゆっくり登った方がよい。
日原川が孫惣(まごそ)谷と合流する先の八丁橋を渡ってすぐ右上に登るのが表参道である。途中樹林帯なのでほとんど展望はない。山頂直下にある社務所辺りで上空を見ることができるが、山頂も樹木のため展望は皆無である。
コースは東日原バス停から八丁橋を経由して天祖山に至るまで約3時間40分、下山は山頂から八丁橋まで約3時間。

将門一行が七つ石山から、ツバノ尾根を下りてこの山に登り、その北側から秩父の大血川方面に逃れたという。
平井八幡神社   西多摩郡日の出町平井
社号 平井八幡神社  祭神 誉田別命
平井八幡神社は、西多摩郡日の出町平井にある神社です。平井八幡神社の創建年代等は不詳ながら、承平5年(935)の平将門の乱に際して藤原忠文が参詣したと伝えられ、建永元年(1206)当地へ遷座したといいます。新編武蔵風土記稿では、当時残されていた棟札の記載から、平山景時が明徳元年(1390)に創建、その後も平山家がしばしば再興したと、記載しています。
平井八幡神社の由緒 1
(平井村) 八幡社
除地、三段四畝九歩、社地二十歩餘、小名和田にあり、五尺に七尺の社にて前に拝殿を建つ、四間に五間、棟札の文によれば、當社は平山景時明徳元年創建する處にして、その後子孫平山出羽守等しばしば再興し、御入國の後も正保四年元禄九年打續きて再興ありしといへば、古き社なることしらる、神體は木にて作りし衣冠單騎の像なり、例祭年々八月十五日、神主和田隼人持、隼人は吉田家の門流五日市村有竹右京が配下なり、
末社。稲荷社、疱瘡神牛頭天王相社
平井八幡神社の由緒 2
もと本宿山獄の上に鎮座、勧請年代は不詳。承平五年(九三五)の平将門の乱平定の勅命を受けた藤原忠文が、派兵の途次に参指した史伝がある。現在地に建永元年(一二〇六)遷所。明地元年(一三九〇)再築。正保三年(一六四六)再建。元禄九年(一六九六)御神体再興現在に至る。その間、和田義盛子孫の和田太郎源義直以下、鈴木克一まで四十代続く宮司がこれを祀る。  
 

 

 
■神奈川県

 

五所塚(ごしょづか)   川崎市宮前区
現行行政地名は五所塚一丁目及び五所塚二丁目。面積は0.154km2。
宮前区の北部に位置する。多摩丘陵の斜面に宅地が立ち並ぶ町である。五所塚は北端で多摩区長尾と、東端で神木本町と、南端で平と接している(特記のない町名は宮前区所属)。
当地は、かつて武蔵国橘樹郡長尾村と同郡平村の各一部であり、ほとんどが畑で占められていた。戦後昭和34年より川崎市によって山を切り崩し谷を埋める大規模な宅地造成が行われ、造成中は「長尾団地」、分譲住宅地完成後には「五所塚団地」と名付けられ、独立した町域となった。
地名の由来​
五所塚第1公園内にある南北に5つ並んだ塚に由来する。この塚には平将門の乱の兵士、あるいは長尾景虎の従者の墓という言い伝えもあるが、十三塚と同様に、村境を鎮護する信仰施設という見方もなされている。
名所・旧跡​
〇 五所塚(ごしょづか) - 高さ2m前後の塚が南北に5つ並ぶ。中世の信仰塚であったと考えれれている。
〇 権現台遺跡(ごんげんだいいせき) - 縄文時代中期から後期の集落跡。
〇 見晴らし坂 - 富士山、箱根、生田緑地、東京府中方面、秩父の山並みなどの眺望が良いことから宮前区が坂道の愛称を選定。みやまえカルタ「雲近く 屋根を見下ろす 見晴らし坂」。
苅宿神社・苅宿八幡大神    川崎市
「苅宿」の地名は、平安時代中期の武将・平将門(たいらのまさかど)にまつわる伝説と関係がある。平将門の軍勢が移動していた途中、この地で一夜の宿をとってから「借宿村」と呼ばれるようになったという。
日本の三大祭りといえば、東京の神田祭り、大阪の天神祭り、京都の祇園祭りがあげられる。祭神は、神田明神が平将門、天満天神宮が菅原道真、八坂神社がスサノオノミコトである。共通しているのは、それぞれ天皇家に楯突いた神様である。
平将門は、第五十代桓武天皇から五代目の子孫にあたり、天皇家の血筋を引いた人物である。
桓武天皇の第三子・葛原親王は、関東地方の上総(千葉)、常陸(茨城)、上野(群馬)の太守(知事)をつとめた人物。その孫になる高望王が寛平元(889)年に皇族を離れ、「平」姓となって京都から上総介(現代の千葉県副知事に当たる)に赴任。その平高望上総介の三男・良将が将門の父である。将門は七人兄弟の二男であった。
蝦夷の血を引く母の里・下総国(千葉県北部と茨城県の一部)の北相馬郡で育ったことから、相馬小次郎と名乗っていた。
相馬御厨の下司(国司補佐官)となった将門は、関東地方の豪族と争いながら無血で常陸国の国府を攻め落とした。同じく上野・下野国の国府も支配下においた。
下総国では、天皇の末流としての将門を「平親王」「新皇」と呼ぶようになり、王城建設の計画も立てられた。坂東諸国を掌中にした将門の名声は高まり、中央政府に公然と反抗して烽火(のろし)を上げ、理想郷の建設を目指した。そこで中央政府は、「反逆者の烙印(らくいん)を押して追討令を出した。征東大将軍・藤原忠文を下総国へ派遣したが、その到着を前に平貞盛と藤原秀郷の連合軍が放った流れ矢が首を射抜き、平将門の首はとられた。天慶二(939)年2月14日のことである。
平将門ゆかりの伝説は、その非業の死による怨魂(えんこん)を慰めようとした民衆の信仰心が、広い地域に伝播(でんぱ)して生れた。伝統的な祭礼行事としては、福島県相馬郡小高町の「相馬・野馬追い」がある。将門の霊を慰める目的で、子孫の相馬義胤が始めたものだ。
苅宿にある「八幡大神」は、この平将門ゆかりの石が神体となっている。青い色をしたまりのような美しい石は、「金龍石」と書かれた箱に納められている。八幡大神の創立年代は不祥だが、宇佐八幡宮より勧請(かんじょう)したものである。
関東大震災のとき、八幡大神の社殿は崩れたが、不思議なことに民家は一軒も倒れなかった。八幡信仰の厚い住民たちは、神が身代わりになってくれたと信じて疑わなかったという。
師岡熊野神社   横浜市港北区師岡町
相模は天慶の乱とはかかわりがないようだが、将門の巡検のほか、弟将頼が相模に逃れて討たれているので、かれらの「伴類」となった百姓のいたことを思わせる。横浜市港北区師岡には将門をまつる熊野神社があるが、これは百姓が将門の勇武と反抗をたたえたなごりであろう。この百姓とは、下人、所従を農業経営に使い、富裕化し武力をたくわえて将門の「伴類」となったものであった。
師岡熊野神社
祭神  イザナギノミコト / コトサカオノミコト / ハヤタマオノミコト
神亀元年(724)全寿仙人によって開かれた。熊野大社の神を勧請している。仁和元年(885)光孝天皇の勅額を賜った。
光孝天皇(こうこうてんのう)は、第58代の天皇で在位は元慶8年(884) からたった3年であった。親王として不遇の生活がつづき55歳で即位した。先帝は気性の激しい人であったが、光孝天皇はきわめて寛大で穏やかな人柄だったという。
エピソードに突如白羽の矢のあたった親王にそれまでの多くの借財があったが、即位するや貸主の町人が押し寄せたという。
亡くなる少し前に仁和地震があり、南海トラフを震源とする地震である。その9年前に貞観地震がありこの地震と連動したといわれている。貞観地震は東日本大震災と比較された地震である。このような天変地異に光孝天皇は心痛めたといわれる。京都の仁和寺を勅願所にしようと建設をはじめた。
い・の・ちの池伝説
いの池には片目の鯉伝説が伝わっている。熊野権現が片目を射られてしまい、鯉がみがわりになったという。それから池をさらうと雨が降るといわれ雨乞い神事も行われた。12の龍を使うという。
のの池は涸れることなく神社が落雷で出火したときこの水によってご神体を守ったという。古来から伝わる筒粥神事の水もこの池の水が使われる。
ちの池は妊婦が通りかかると、池に引き込まれ。 水争いでけがをして血で赤く染まった。池のまこもが秋になると赤く染まった。ちょっと怖い。
頼朝もこの神社に願掛けをした記録があるので、きっと平将門も霊験を得るために訪れたことだろう。
この神社に伝わる話は製鉄とかかわる話が多い。ちの池は昭和44年(1969)に埋められ、現在は大曽根第三公園や宅地になってしまった。
大熊杉山神社   横浜市都筑区大熊町
社号 杉山神社  祭神 日本武尊  相殿 天御中主命、伊弉諾命、伊弉冉命、面足命、稲田姫命、天照皇大神  境内社 稲荷神社・八坂神社(末社)
大熊杉山神社の創建年代等は不詳ながら、古くより鎮座、大熊郷の鎮守だといいます。明治6年村社に列格、明治42年以降に村内の無格社熊野社・面足社・御蔵社・神明社を合祀、大正11年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。
大熊杉山神社の由緒 1
(大熊村)杉山社
除地、二段、村の南丘上にあり、社二間に四間東向なり、社前に石の鳥居をたつ、神體は不動の如くにて石の坐像なり、長一尺ばかり、元文五年に作りし物なりといへり、例祭は年々七月廿九日、村の鎮守にして、新羽村西方寺の持なり。
末社
稲荷社。本社に向て右にあり。
伊勢宮。左の方にあり。
大熊杉山神社の由緒 2
創立年代不詳であるが、明治六年村社に列し、同四十二年六月村内の無格社面足社、御歳社、熊野三社を合併、後神明社をも合祀した。大正十一年九月神饌幣帛料供進社に指定された。
大熊杉山神社のユイショ
創立年代不詳であるが、往古より当地の鎮守として住民の信仰の中心となっている。新編武蔵風土記稿に「村の南丘上にあり、社二間に四間東向なり、社前に石の鳥居をたつ、」云々
「熊野社」当社は承平年中、平将門宿願によりて、不思議な霊夢を蒙り、此の社に七日参籠せる夜、こけら不動浮檀金の観音を授かり、夫より将門威勢盛になれとぞ」云々とあり、。
明治六年村社に列し、同四十二年六月村内の無格社熊野社・面足社・御蔵社の三社を合併後、神明社をも合祀した。
大正十一年九月神饌幣帛料供進社に指定される。
久松山長福寺と熊野社  横浜市都筑区
久松山長福寺と熊野社は平将門公が7日間籠もり戦勝祈願し出世した聖地
皆さんは都筑区の区名が旧都築郡に由来している事を御存知でしょうか?
地方出身の横浜市民は明治以前の"ヨコハマ"が、そのまま村民100人位の横浜村だったと間違った歴史認識を教えられている人もいるかも知れませんが、その横浜村と言うのは今でいう関内辺りに在った半島上の村だけを指す範囲で現在の横浜市全域を指す訳ではありません。
横浜市の中でも都筑区は山坂が多く現代には開発が遅れた地域だった上に、古代から橘樹郡の郡衙だった橘樹神社と都築郡の郡衙だった西八朔の杉山神社や茅ヶ崎一帯を結ぶ矢倉沢往還や中原街道等の旧街道が通り特に多くの遺跡が残っている事から古代において重要な地域だった事が考古学的に解っています。
そんな早くから開けて主要街道が通る都築郡だったので、平安時代にも重要視されていた様(よう)でして東京の神田明神では商売の神様として有名で、多摩地方や神奈川県域では善政を行った名将として江戸時代に成っても庶民から親しみを込めて尊敬されていた平将門公もやはり都築郡に来た歴史が伝わっています。
その場所が都筑区仲町台の長福寺が江戸時代迄別当寺として管理した熊野社です。
平将門公が熊野社に籠もり祈願した話しが新編武蔵風土記稿にも紹介されているのですが、小生は風土記を読むより先に長福寺を初参詣した際、御住職様に直接その伝承を教えて頂き後に風土記を読んで見ました。伝承では平将門公が寝ている時に霊夢を見て、ここに在った熊野社の社殿に7日間も参篭(さんろう=建物に泊まって御参りする事)したと紹介されています。
最初に長福寺を参詣したのは偶然で、当日は茅ヶ崎城址公園の写真再撮影に行こうとして車を走らせていた際に停止した信号の交差点の名前が"長福寺南側"だったのですが・・・
「何か気に成るな〜」
・・・と思い立ち寄ったのが最初でした。
久松山長福寺と平将門公所縁(ゆかり)の熊野社
神奈川県横浜市都筑区仲町台
さて、長福寺さんは元々は熊野社を守る為に存在した御寺なのですが、実は小生が顕彰活動を行っている横浜の殿様の間宮康俊公の間宮家や、その上官の北条綱成公の実家福島家とも少し因縁が有りそうな歴史が有るんです。ですが先ずは御寺の紹介を先にしましょう。
御本堂は木造と鉄筋コンクリートを合わせた構造に成っていました。
新編武蔵風土記稿 巻之八十四 都筑郡之四の大熊村の項に江戸時代の頃の様子が"熊野社"と"別當寺長n"として紹介されています。
最初に熊野社の説明が登場するので一応、現代では長福寺境内にこじんまりと存在する熊野社も先に写真で様子を紹介します。
幅は1mちょいって所で現代の熊野社は凄く小さな物に成っています。これでは平将門公が霊夢を得ても"熊野社の御堂に籠もる"事は出来そうに有りませんね。後世に熊野社を守る役割だった御寺の長福寺の方がメインに成り、熊野社は火災とか色んな変遷を経(へ)て復興する際に小規模化されたのかも知れません。
新編武蔵風土記稿を読むと江戸時代当時迄は平将門公が籠もった当時の規模が維持されていたかも知れない様子が記載され、当時の熊野社の御堂の幅は1辺が3.6m四方の御堂だと説明が有ります。そして御堂ではなくて社(やしろ)と書かれているので神社として存在していた事も判(わか)ります・・・
境内御朱印地の内、村の西にあり、社(やしろ)は二間(1間=約1.8m)四方(1辺3.6m四角の面積の広さ)東に向けり、本地仏(ほんぢぶつ=神様の仏様としての姿)弥陀(阿弥陀様)木の立像長四寸許、縁記によるに當(当)社は承平年中、平将門宿願によりて、不思議の霊夢を蒙り、此の社に七日参籠せる・・・以下中略
別當寺長福寺 本社に向かいて右にあり、禪(禅)宗曹洞派、橘樹郡末吉村寶泉寺末、久松山と稱(称)す、本堂七間(12.7m)に五間(9m)南向きなり、本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許、今自山應大と云(言う)僧を以(もって)開山とせり・・・以下省略・・・江戸時代までは神仏習合の宗教観で本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想に基づいて阿弥陀如来が神社だった熊野社に御神像として祀られていた事が解かります。そして熊野神社は東に向いていると掲載が有りますので現代の配置を見て見ましょう。
現代に本堂として機能している建物は東向き熊野社は北向きと日本古来の神社の宗教観では有り得ない御社の向きに熊野社が配置されている事と、本堂は新編武蔵風土記稿で熊野社が向いていた筈の東向きに配置されている上にどうも元々神社の形式の建築を踏襲している様に本堂を幣殿としてその奥左手に本殿の様な構造の御堂が併設されている事が航空写真から解ります。
そして現代の庫裡(くり=寺務所や居住スペース)が新編武蔵風土記稿で熊野社右手に在ると書かれた長福寺の位置に現在在(あ)ります。
この状況から見ると、以下の変遷が推測出来ます。
〇先ず本堂が幣殿でその左手奥の建物が熊野社だった。そして庫裡が長福寺だった。
〇明治時代の神仏分離令の際に神社機能を廃止して、元々から御神像が阿弥陀如来だった事から熊野社の社殿が長福寺本堂として利用された。そして熊野社北側右手の長福寺は僧侶の居住スペースとしてだけ活用される様に成った。
〇そんな経緯を知らない世代の御住職様や檀家さん達が現代になり「あれ?熊野神社無いじゃん?」と思ってわざわざ本堂に成っている熊野神社幣殿の南側に北向きで熊野社を再建してしまった。その際に記載の通りに3.6m四方の社殿である事や社殿を神道文化に準じて記載の東向きや太陽に向いた南向きにする事は特に気にしなかった。
・・・そんな感じで文献記載と航空写真を根拠に現代の熊野社の配置の経緯が推測出来ます。
さて、熊野社の向きはさて置いても現代でも平将門公がここを大切にした歴史は現在の御住職様や新編武蔵風土記稿によって語り継がれている訳ですが、江戸時代にこの御寺を中興したのは師岡(もろおか)越前守(えちぜんのかみ)と言う小田原北条家臣でした。その事も記載が有ります・・・
其後(そののち) 天文年中(1532〜1555年)に至り、橘樹郡篠原村の城主師岡越前守伽藍を再興かど、戦国の折なれば次て修理を加ふる者なく、自ら破損せり
・・・つまり、この一文で熊野社は一回、戦国時代に師岡サンに立てなおされた後で支援者を失い風化して経年劣化の上で損壊し、後に再び立て直されているらしい事も判ります。そしてその師岡サンですが、新横浜駅北側に在る篠原城の城主だった師岡越前守と言う人物が1532年〜1555年の間に熊野社を再建した事として記載が有りますが、その頃の篠原城主は小田原北条所領役帳(小田原北条家臣団の所得明細)の編纂された1555年迄の篠原村は金子出雲(十郎)が篠原代官として丗(三十)五貫で知行を当てがわれていたりします。金子一族は現代も港北区篠原に住んでいるので、つまり金子出雲の赴任以前の篠原城代が師岡越前守だった事が解かります。そして師岡越前守の師岡家は後に東京都青梅市の三田領を治める役割を担って転勤した一族でもあります。
戦国時代、青梅辺りは三田領と呼ばれ三田綱秀(つなひで)公と言う武将が治め青梅市勝沼城を居城にしていましたが、三田家が北条家を裏切ったので後に師岡家が赴任した事を、たまたま小生は城好きでもあるので青梅市勝沼城や間宮家関連の青梅市二俣尾の海禅寺を訪問した際に知る機会が有りました。
ちなみに金子出雲の金子一族もそもそも青梅に鎌倉時代から勢力を誇った一族で、三田家は青梅に後から室町時代に成って入って来た一族なのですが、面白い事に師岡家・金子家・三田家の全てが青梅市と深い関わりが有る上に、青梅市を含めた多摩地方では今でも平将門公が"善政を行った"歴史が語り伝えられており武蔵阿蘇神社も平将門公が熊本の肥後国一之宮阿蘇神社から神様を勧進し開いた神社として知られていたりします。
さて、そこで実は都筑区の長福寺さんも、どうやら青梅市としがらみが有る事が元々の御寺の本寺格だった寶泉寺の名前が新編武蔵風土記稿に書かれている事や、三田領勝沼城代と成った師岡家が関わっている事から解ります。この長福寺さんは鶴見区下末吉の長谷山 寶泉寺の末寺でした。
長谷山 寶泉寺
神奈川県横浜市鶴見区下末吉6
この寶泉寺(ほうせんじ)は権現山城の戦いで活躍した間宮彦四郎と思われる間宮信冬公が開いた御寺で信冬公の系図上の曾孫に当たる間宮康俊公が中興しているのですが、中興開山の御住職が東京都青梅市二俣尾の海禅寺から招聘されています。そして旧二俣尾村の海禅寺は元は福禅寺と言う寺名で、戦国時代天正三年(1575年)には天皇家勅願所にも成った凄まじい由緒の有る御寺なんです。
瑞龍山 福禅寺(現名:海禅寺)
東京都青梅市二俣尾4
その青梅市一帯を元々治めたのは三田氏でしたが、三田氏は三田綱秀公の代に小田原の北条家を裏切って上杉謙信に付いた為に討伐され福禅寺近くの辛垣山城に立て籠もりますが結局は降伏し、三田綱秀公は旧上司に当たる太田家の岩槻城に抑留された後に切腹する事に成りました。
更に二俣尾村の名主を江戸時代ずっと務めたのが"福島家"である事、小机の土地は元は北条幻庵公の所領でしたが、後に福島家から北条家の婿養子に入った北条綱成公の御子息の北条氏繁公が譲り受けている事、その北条氏繁公の祖父の代までの苗字だった福島家が海禅寺一帯の名主を江戸時代を通じて務め支配を行っていた事も風土記に記載が有ります。
福島家の辺りには澤乃井酒造さんと言う御洒落な酒蔵が有り、現代では八王子市界隈の人が奥多摩レジャーに訪れる際の観光地の一つとして有名だったりします。
澤乃井園(澤乃井酒造)
東京都青梅市沢井2
どうも記録に残らない三田綱秀公没後の青梅市界隈の三田領を分割支配した殿様の事を室町時代末期〜安土桃山時代頃の様子を江戸時代の記録や現在の状況から推測すると、玉縄北条家の北条氏繁公や、その子の北条氏勝公の所領に青梅市奥部は成っていて横浜市小机辺りに青梅市辺りの武将達が逆に代官として赴任して来ていたかも知れない様子が何となぁ〜く想像出来たりします。
因みに青梅市の躑躅(つつじ)の寺として有名な塩船観音さん・・・
大悲山 観音寺
東京都青梅市塩船194
この御寺の鎌倉時代の支援者が金子家の金子十郎公でした。どうやら金子"十郎"は世襲された名前らしいですね。
さて、そんな感じで横浜市鶴見区〜港北区〜都筑区辺りの武将や御寺が実は東京都奥多摩地方に深く関わっていた歴史が辿れるのが長福寺サンの歴史から紐解ける訳ですが、最後に長福寺さんや青梅市の人達が敬愛する平将門公が港北区〜都筑区に来た証拠が地名として現存している事も紹介して置きます。
長福寺から茅ヶ崎城址、つまり横浜市営地下鉄センター南駅方面に車を走らせると平台と言う地名が有ります。この地名は平らな台地だったからでは無くて、平将門が来て長福寺に成った熊野社に参篭した歴史から一帯の地名に成った様です。この事を長福寺の御住職から近くに平台と言う地名も有って云々〜と教えて頂きました。
現代では平台と呼ばれる地域は台地の西の端の範囲しか指しませんが、長福寺辺りが"仲(中)町台"と地名が有る事から、長福寺背後の丘〜現代の平台辺りの広範囲が本来の平台だった事も推測出来ますね。そしてそこには中原街道が通り、その北には矢倉沢往還が走る訳です。
特に矢倉沢往還は古代東海道と分岐して続く陸路だったので、その道は平将門公が生まれる遥かに昔から使われた街道で平安時代にも重要な地域だった事が解かります。
さて…実は長福寺さん、3年くらい前の記事で紹介する予告してスッカリ放置し忘れてました!
今回改めて3年分拾い集めたピースを繋げ長福寺さんと熊野社の歴史、平将門公の伝承から意外な東京都まで話が繋がりましたが、きっと皆さんの御近所の神社や御寺サン、御城の跡の山や公園にも意外な歴史偉人との繋がりが有る場所が必ず有ります。そして悩んだ時や気分転換をしたい時、神社や御寺に御参りしたり城跡を散歩して緑を見るだけでも心が落ち着きます。 
御霊神社(ごりょうじんじゃ)   藤沢市宮前
祭神 早良親王(さわらしんのう) / 鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ) / 葛原親王(くずはらしんのう) / 高見王(たかみおう) / 高望王(たかもちおう)
天慶3年(940年)に村岡五郎良文が平将門の討伐祈願のために山城国洛中(京都市上京区上御霊前通)の御霊神社より勧請した。のちに鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王が祭神に加えられた。
依知神社(えちじんじゃ)   厚木市上依知
祭神 磐筒之男命 ( いわつつのおのみこと )
縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来たのである。
第五十代桓武天皇六代の後裔平将門公関東平定の節当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前に熟 視され赤城山神馬献進の託宣を給い忽ち堅牢なる護岸の完成が実現したのである。之に感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして天慶元年(937)社殿を再建し、赤城明神社と称したのである。
建久三年(1192)源頼朝公鎌倉幕府を創設せられるや当社に沿革由緒に深く感銘され、拾万余坪に及ぶ 社領を寄進されたという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にして 現代に遺す程の広大なる土地であった。続いて鎌倉幕府第二代将軍源頼家公は建仁二年(1202)当社の社殿 再建記念に銀杏を寄進されたという。それが現在厚木市指定天然記念物の神木大銀杏である。
天正十九年(1591)徳川家康公は、当社の由緒経緯と氏子の誠意に深く感動され、御朱印壱石を下賜された のである。以来依知郷の郷社として祭礼も盛大に行なわれ、金田村までも神輿が渡御したと伝承されている。
明治四年広大な社領も維新の大改革により上知となり、ついで社地の払い下げを得て同二十七年七月十九日に 依知神社と社号を改名し現代に至っているのである。
当社は上記の通り千有余年の往古ささやかな一農村の守護神として創建され、霊験あらたかに郷土発展の 支柱となり、氏子住民は言うに及ばず他地域有名人の崇敬も受けて来たのである。その間天変地異栄 枯盛衰の試練に堪えて祖先は、新築造営、維持修繕を幾度も繰り返し神社を護ってきたのである。
昭和現代の今ここに氏子崇拝者一同の絶大なる浄財の集結を得て、荘厳なる社殿増改築 を完遂したのである。
神社殿の大前に益々諸難や治安の守護神とし、又五穀豊穣 大願成就 家業繁昌の神として、地域住民 の福祉安泰を鎮守されるよう畏み畏み祈願するものである。
昭和五拾七年四月二十五日依知神社社殿改築造営の竣工に当たり記念碑を建立し、当社の沿革由緒を延べ後 余に伝える次第である。
内社
狹水神社
祭神は水の神罔象女の命である
寛文七年(1667)水天宮として幹線水路一関の所に地区農民により祀られた
その後元地元年(1864)依知神社境内に安置され相模川の水害を防除し依知地区水田の潅漑用水を守り 耕作農民の生活安全と豊作を守護している
明治末期入之藪水利組合が設立されると共に狹水神社と改命し秋の祭日には農民の代表が参列して 祭事を行っている
罔象女神 / みつはのめのかみ
正一位火防稲荷大明神
この社殿は、星梅山妙伝寺(日蓮宗)に本社がありますが、語り伝えによりますと、明治三十一年(西暦1898年) 妙伝寺祖師堂が全焼し、飛火して六反向きで六軒川向こうの当麻でも火災のあった大火でした。
その后、祖師堂の再建の工事中、大工棟梁が夜な夜な夢枕に社殿が無くて困っているとのお告げがあり、ご住職が ご祈祷いたしましたところ、火防稲荷大明神のお姿が見えたので早々に社殿を建立して、お祭りされました。  当時は、たまたま村内に火災が多く人心を痛めましたので、私どもの先代が村の火災の守護神として分魂をお願い して、当社神社境内に社殿を建立致しました。
その語火災のあるときは、火防稲荷大明神の赤旗を屋根棟にかざすと風向がかわって、火災を逃れたという話 もありました。
このような霊験あらたかな社殿も大正及び昭和初期、戦後昭和三十四年につづき四十六年・五十一年と社殿の 修復鳥居の建立等を行って今日に至りました。
今般依知神社の拝殿の新築・妙伝寺の庫裡等が新築されたことに伴って大分老朽化した社殿の新築造営を発願 しましたところ、多くの方々のご奉賛を得て、この社殿鳥居等が立派に建立できました。
ここにご奉賛くださいました方々に深甚なる敬意を表し益々のご信仰を賜りたく、当社の由来を記した次第で あります。
相模国・国分寺​   海老名市国
令制国の一つ。東海道に属する。「相模」の模という文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「摹」が使用されており、手へんの「摸」による相摸とするのが本来の表記である。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち川崎市・横浜市を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧武蔵国を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の鎌倉郡にあたる。
武相国境​
境川はその上流部において、現在では神奈川県と東京都の都県境であり、かつては武相国境(武蔵国との境)となっていた。境川を過ぎた後は、「武相国境道」と呼ばれる尾根道(主に東京湾と相模湾の分水嶺にあたる)が聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから(旭区と瀬谷区の境)金沢区と鎌倉市の境まで続いていた。
沿革​
相模国は7世紀に成立した相武国造(さがむ-)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。
なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。
国名の語源は不明。前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている(『神奈川県史』通史編1)。
12世紀末に源頼朝が鎌倉を本拠地とし、以来相模国は鎌倉幕府の本拠地となった。北条氏による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、執権が相模守となり、副執権である連署が任官された武蔵守と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた。
1333年に鎌倉幕府は滅亡したが、その後も建武の新政の時期には鎌倉将軍府が、室町時代には鎌倉府が置かれ関東の政治の中心であった。1428年の永享の乱によって鎌倉府は下総国の古河へ移り、関東の政治の中心の座から外れたが、戦国時代になると小田原城を本拠地とした後北条氏が関東地方に勢力を広げ、1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となった。
江戸時代には小田原藩を初めとする譜代の諸藩や幕府領・旗本領となった。
国内の施設​
国府​
相模国の国府所在地は、未だ明らかでない。史料では、『和名類聚抄』および『拾芥抄』において「大住郡」、『伊呂波字類抄』では「餘綾郡」と見えるが、いずれも国分寺の所在地(高座郡)と異なるため、最低でも3遷したと推測される。
〇 高座郡国府説 相模国分寺の地に初期国府の所在を求める説。推定地は現在の海老名市付近。江戸時代の『新編相模国風土記稿』に高座郡国分村と見える一帯に推定される。
〇 大住郡国府説 平安時代中期成立の『和名抄』の記載に基づく説。別地から移ったと見る説では、元慶2年(878年)の関東大地震を契機として新たに建てられたと推測する。平塚市四宮において関連遺跡が発掘されている。ただし比定地については、平塚市四宮説以外にも伊勢原市比々多説・秦野市御門説がある。
〇 餘綾郡国府説 平安時代末期成立の『伊呂波字類抄』の記載に基づく説。推定地は相模国総社の六所神社が鎮座する大磯町国府本郷付近。
以上のほか、現在の小田原市千代で見つかった千代廃寺(千代寺院跡)を国分寺と見なし、その付近に初期の国府があったとする説(足柄国府説)もある。
国分寺・国分尼寺​
〇 相模国分寺跡 (海老名市国分南) 国の史跡。法隆寺式伽藍配置で、推定寺域は東西約240メートル・南北約300メートル。寺院跡南方の東光山医王院国分寺が法燈を伝承する。
〇 相模国分尼寺跡 (海老名市国分北) 国の史跡。東大寺式伽藍配置で、推定寺域は約175-200メートル四方。後継寺院はない。
なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている 。
宝蓮寺   秦野市蓑毛
宝蓮寺はその古道が、ヤビツ峠へ登る車道と分かれる、まさに大山への登り口にある寺である。手近にある書物を調べたかぎりでは、大山登山と宝蓮寺との関係について書かれた直接的な記述は見つからなかったが、地理的に言えば間違いなく大山の登山口にあたり、山岳密教的な色合いを抜きに語ることはできないはずである。現在は臨済宗であるため、由緒として山岳信仰や密教とのつながりを強くアピールしにくいのかも知れない。境内は、車道を挟んで南北に分断されている。南側にある本坊エリアに、本堂、玄関、庫裏、鐘堂などがある。
西相模は平将門の伝説を色濃く残す土地であるが、将門の弟将文がこの地で相模地方を治めたとか、将門の娘が将門の死後この寺に潜伏したのち福島の恵日寺へと落ちのびたという伝説がある。
白玉鴨居稲荷 (しらたまかもいいなり)   秦野市本町
伝説では、平将門が夢にみた都を探し回り、秦野の地にやってきて、今の龍門寺辺りに滞在したという。ある夜、将門の夢まくらにキツネが現れ、「この郷は将門の居城としては狭い。南の方角の地形も良くない。」と告げたという。将門は、キツネがすみかとしていた祠に何度も参拝し、秦野盆地を後にした。この祠は以前、日本専売公社秦野支局内の鴨居屋敷内にあったため、地名をとって鴨居稲荷と呼んでいたが、戦後、妙法寺境内に移された。妙法寺には、もともと白玉稲荷があったため合祀し、白玉鴨居稲荷となった。
葛原親王(かずらわらしんのう)・皇子塚   綾瀬市
延暦5年(786) - 仁寿3年(853) 平安時代初期の皇族。桓武天皇の第3皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。
延暦17年(798年)異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服。延暦22年(803年)四品・治部卿に叙任される。
延暦25年(806年)平城天皇の即位後まもなく大蔵卿に任ぜられ、弾正尹を経て、大同4年(809年)三品に任ぜられる。弘仁元年(810年)薬子の変に前後して式部卿に遷ると嵯峨朝ではこれを10年以上務め、弘仁3年(812年)大宰帥を兼ね、弘仁7年(816年)には二品に叙せられている。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位後に弾正尹に遷り、天長2年(825年)には息子を臣籍降下させ平朝臣姓を称することを上奏して許されている。天長7年(830年)式部卿に復し、翌天長8年(831年)には託基皇女以来80年ぶりに一品に叙せられている。こののちも、約20年の長きにわたって式部卿を務め、この間の承和2年(835年)に甲斐国巨麻郡(現在の山梨県南アルプス市)の牧であった「馬相野空閑地五百町」を与えられている。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に、再度大宰帥に任じられている。
仁寿3年(853年)6月4日薨去。享年68。最終官位は一品大宰帥。遺言により葬儀は質素なものとしたという。伝承の墓所と邸宅跡地が京都府乙訓郡大山崎町にある。
親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年(810年)に任官ののち、途中弘仁14年(823年)から天長7年(830年)の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、『六国史』の薨伝において「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」と親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられていたことが記されている。

幼少から俊秀として知られていた。史伝を精読しており、歴史上の成功あるいは失敗例をもって自らの戒めとしたという。恭しく慎み深い性格で、傲り高ぶるようなことがなかった。
五所塚(ごしょづか)   川崎市宮前区
現行行政地名は五所塚一丁目及び五所塚二丁目。面積は0.154km2。
宮前区の北部に位置する。多摩丘陵の斜面に宅地が立ち並ぶ町である。五所塚は北端で多摩区長尾と、東端で神木本町と、南端で平と接している(特記のない町名は宮前区所属)。
当地は、かつて武蔵国橘樹郡長尾村と同郡平村の各一部であり、ほとんどが畑で占められていた。戦後昭和34年より川崎市によって山を切り崩し谷を埋める大規模な宅地造成が行われ、造成中は「長尾団地」、分譲住宅地完成後には「五所塚団地」と名付けられ、独立した町域となった。
地名の由来​
五所塚第1公園内にある南北に5つ並んだ塚に由来する。この塚には平将門の乱の兵士、あるいは長尾景虎の従者の墓という言い伝えもあるが、十三塚と同様に、村境を鎮護する信仰施設という見方もなされている。
名所・旧跡​
〇 五所塚(ごしょづか) - 高さ2m前後の塚が南北に5つ並ぶ。中世の信仰塚であったと考えれれている。
〇 権現台遺跡(ごんげんだいいせき) - 縄文時代中期から後期の集落跡。
〇 見晴らし坂 - 富士山、箱根、生田緑地、東京府中方面、秩父の山並みなどの眺望が良いことから宮前区が坂道の愛称を選定。みやまえカルタ「雲近く 屋根を見下ろす 見晴らし坂」。
 

 

 
■山梨県 

 

七社権現洞窟・岩殿山   大月市
七社権現洞窟を指さす木像は今も変わらずに洞窟への道証をしてくれています。かつてはこの洞窟の祠に「七社権現立像」が祀られていたという。現在「七社権現立像」は、真蔵院により管理されています。
昔から多くの人々がこの場所を訪れ、そして様々な願いを込めて石が積まれてきました。七社権現洞窟は岩殿登山口より徒歩30分程の場所です。
甲斐岩殿山円通寺   大月市
明治維新の神仏分離・修験廃止 などによる廃仏毀釈により、円通寺常樂院および大坊は廃寺、三重塔は取壊される。
明治初頭まで存在した円通寺堂宇は現在の賑岡公民館岩殿分館の西側一帯に位置した。門前には参道となる急斜面の東西道が通され、その北側には常楽院、南側には大坊の屋敷地が並び、急斜面を石垣で造成した屋敷地が残る。
円通寺大坊 「甲斐国社記・寺記 巻4」慶応4年では、建家(張5間、行間7間、板葺)、土蔵(張2間半、行間3間、板葺)、長屋と云う。北條家(大坊)は廃仏毀釈による円通寺廃寺の後、岩殿山円通寺の什宝・古文書などを長年護持し、現在に伝えると云う。例えば「七社権現立像」(県文)、「摺本大般若経533巻」(大月市文)、「岩殿山絵図」などがそれである。なお北条熱実氏は現当主の祖父、明治維新時、つまり円通寺最後の住職である北條高順氏は曽祖父と云う。また、高順氏の後裔は医業を営むと云う。
円通寺常楽院 「甲斐国社記・寺記 巻4」慶応4年では、建家(間口10間、奥行5間?、茅葺)、土蔵(3間、4門、板葺)、門(6尺、2間、板葺)、同裡門(東西2間、南北6尺、板葺)と云う。常楽院母屋は近年立替、この民家の西の住人によれば、立替前は草葺(藁葺?)であったという、坊舎の建物が残っていたのであろうか?現在もこの民家には常楽院住職の後裔が住む。現当主のご婦人の祖父が僧侶であって還俗と云う。
伝三重塔四天柱 大坊(北条熱実氏)所蔵資料中に、明治の神仏分離の対象建築に「三重塔」と明記されていると云う。(以上から三重塔は明治の神仏分離に伴う廃仏毀釈で毀却されたのは確実である。)この塔の柱の1本と伝承される部材が柳原明文氏(常樂院)邸に伝来する。柳原家では神仏分離の処置で取壊された三重塔の柱1本を貰い受け、それを長年池の松の枝の下支えとして使用してきたと云う。近年傷みがひどくなってきたため、その材を取り外し保管している。
岩殿山概略 創建については「甲斐国志」「甲斐叢記」では棟札現存と云い、「行基菩薩が大銅(同)元年(806)に建立して以来、永正17年(1520)に至り寺が大破したので、上総国の賢覚阿闍梨が再建のために有志の奉加を求めた…云々」(「甲斐国志」)と云い、大同元年行基の開創と云う。他に創建を伝える資料としては、三重塔の枡形に「承平3年(933)七月廿五日大檀那孝阿禅尼」の銘文があったとする。(「殿居風土記」「甲斐国志」「甲斐名勝志」など)「峡中家歴鑑」北条高順の項には、第一世義秀が承平年中(931〜937)に一寺を建立し、これが岩殿山円通寺の始めと云う。
最盛期には三重塔・観音堂・常楽院・大坊・新宮・不動堂など多くの堂宇があり、境内地は岩殿山頂から東麓一帯 を占めたと推定される。中世には常楽院・大坊が円通寺うを護持し、両者は聖護院末として寺領を保障され、本山派修験の郡内元締めとして勢力を保持する。またこの頃、郡内では小山田氏が台頭し、長年の抗争の後、武田氏との和睦が成立し、円通寺は武田、小山田の両氏の庇護を受ける。と同時に戦略上の観点から「岩殿城」が構築される。江戸期には幕府統制によって寺領や霞場を多く失い次第に衰微する。
明治維新の神仏分離の処置や修験宗廃止の布告(明治5年・1872)などで、常楽院・大坊は復飾(常楽院は神勤か)、大坊 の後裔は 医業を営むと云う。かくして、明治8円通寺(常楽院・大坊)は年廃寺となる。(円通寺三重塔、観音堂、不動堂などの多くの建物や資料が失われる。)ただし、真蔵院は常樂院の内庵であったが、真言宗慈眼寺末であった(「甲斐国志」)ため、廃寺は免れる。
春日神社   大月市賑岡町畑倉
旧村社 御祭神 天児屋根命、武御雷命、経津主命、日女神
大同三年(八〇八)小俣将監なる者創建の由、天長五年(八二八)一寸八分の御神体を奉斎し納むとも伝へられる。天檪五年(九五一)平将門の一族相馬卯月両氏の崇敬を受け、備前長船の大刀一振の奉納あり。他神鏡一面翁面一面の寄進もあり現存する。なほ寛文二年、寛永三年、享保九年、文政九年、嘉永二年、それぞれの棟札があり、寛文検地文禄墨付等の古文書も保存されてゐる。
「卯月の宮」一宮神社   大月市
松姫峠を経て、埼玉県大月市と東京都奥多摩町を結ぶ国道139号は、深山に分け入る趣きのある国道だ。上和田集落まで来ると、いっそうその感が深い。
集落北西端の高台に神社があり、石段を上りきったところに、大杉が立っている。その屹立する姿は、道路からもよく目立つ。
写真を撮った後、社名を確認しようと思うのだが、社名額などの手がかりがない。仕方がないので、近くの方に伺おうと思ったが、これも生憎、留守のお宅が多く、叶わなかった。
集落の反対側に、お店があったことを思い出して、そこで伺うことにした。
応対して下さったご主人(婦人)は、たいへん親切な方だったが、残念ながら社名をご存じなかった。たまたま客として来ていらした、もう一人のご婦人と一緒に思い出そうとして下さったのだけれども。
そもそも、ここでは社名で呼ぶことがあまりないそうなのである。上和田の二つの神社は、「卯月の宮」「相馬の宮」と呼び分けられているらしい。大杉の神社は「卯月の宮」だそうである。
後日、資料を調べてみたら、どうやら「卯月の宮」は一宮神社、「相馬の宮」は御嶽神社であるらしいことがわかったが、二人のご婦人の好印象が心に残ったので、私は標記の名で呼ぶことにした。

卯月の宮のスギ(うづきのみやのすぎ) 樹高 35m 推定樹齢 300年以上
御嶽神社   大月市七保町瀬戸
御祭神 日本武尊
創建年代は不詳であるが、和田の旧家相馬家の勧請創祀とされる。将門の後裔相馬常門(幼名治郎丸)天慶四年駒宮より小金沢に移り、更に康保四年上和田に遷り此の社を創建、後世相馬家の祖霊七柱と共に、二月七日に祭事を行ふを例とする。
春日神社   大月市七保町駒宮
旧村社 祭神 天児屋根命、武御雷命、経津主命、日女命
大同年間(八〇六―八一〇)に大和国奈良の春日明神を勧請奉斎と伝へられてゐるが、別の記録には「創建元禄九丙子年(一六九六)三月十四日とある。しかし元亀三年(一五七二)の棟札が現存してゐるので江戸時代の創建ではないことは明らかで、中世以前の古社であると云へよう。明治八年拝殿神楽殿を建立。昭和十年十三年と本殿拝殿を改修し社殿が整備されてゐる。
駒宮砦(こまみやとりで)(御前平烽火台・天神山砦)   大月市七保町駒宮
葛野川左岸の、麻生山から南西に伸びる標高496mの尾根先端部に築かれている。東から2郭、主郭と並び堀切が残っている。主郭西に帯郭があり、横堀が残っている。
緩やかな尾根を登ると堀切があり、2郭がある。2郭は細長く東側に低い土塁がある。2郭西の浅い堀切を登ると、主郭で「南無阿弥陀仏」(安政四年)の供養石碑が建てられている。左側の祠は、壊れ屋根の一部が残っている。その西に帯郭があり、北西の横堀につながっている。
大月と小菅を結ぶ国道139号線に沿っており、戦国時代、小山田氏によって築かれ、小菅氏との境目の砦と思われる。
鶏淵の滝   大月市七保町瀬戸
将門の愛鶏を埋めたところという。やがて、鶏は金鶏に変わり小金沢の主になって、金山を支配したと伝えられている。今でもこの淵からは鶏鳴が聞こえるという。
一宮神社   上野原市西原
旧郷社 祭神 木花開耶姫命
康永二年(一三四三)正月志野正義創立と伝へられる。甲斐国志に「武田氏此の地に居住して一の宮、二の宮を建立し鎮守に祀りける。よりて武田一の宮と称せり。天王壬子年勝頼滅亡の頃共に亡びけるにや、天承二年の棟札に武田丹波守有氏とありて、その後の棟札に載する事なし、館跡方壱町ばかり今に存して草茫々たり、土人は丹波屋敷と称して間田となす。康永元年、永享六年、文明三年、永正五年、天文九年、永禄元年、天正二年、慶長六年、寛永八年、明暦四年、元禄三年の棟札あり。遊行他阿の六字名号板、南無阿弥陀仏奉納甲州一の宮大明神遊行十四代他阿書、永享六年二月二十五日」とある。宝物には古鏡二面と、聖徳太子時代に彫刻と言ふ翁面二個があり、夏早魃の際に宮前原の河原にて水に浸し、雨乞をすれば直ちに降雨ありと伝へられてゐる。明治六年郷社に指定された。祭日の太神楽と西原歌舞伎は今も受け継がれて有名な行事となつてゐる。
檜峯神社   笛吹市御坂町
御坂町上黒駒、国道137号線から桃畑を通り過ぎ、神座山林道という林道へと入り、およそ3kmほど進むと檜峯神社へとたどり着く。「檜峯」の名のとおり、辺りをヒノキ林に囲まれ標高1,090mと山間部に位置する。
昭和10年、県文化財委員中村幸雄氏により、「ブッポウソウ」と啼くコノハズクが確認された地として有名。また市町村合併前から御坂町のマスコットとしてコノハズクをモデルにコノハッピーの愛称で親しまれ町内のあちこちで見られる。
山梨百名山の大栃山や釈迦ヶ岳がここから楽しむことができます。大栃山は初級者向け、釈迦ヶ岳は、黒打の頭経由で上る健脚向けコースとしておすすめです。後者は富士山を望むポイントあり。
鹿倉山(ししくらやま)   小菅村
奥多摩湖の西にある山。山頂は広場になっていて、樹木の間から大菩薩方面の山々や富士山を望める。奥多摩湖方面・深山橋からから登ると約3時間10分、丹波から登ると2時間40分ほど。下山後は丹波山温泉を楽しみたい。

将門一行は、土室山から矢花古道を越えて小菅に着いたが、秀郷軍に追われ獅子倉山(鹿倉山)を越えて、丹波の「お祭り」へと下り、さらに「七ツ石山」を越えて秩父へと落ち延びて行ったという。
山沢神社   北都留郡小菅村
旧村社 御祭神 素戔嗚尊
創建御鎮座に関する由緒としては、大正十三年刊行の北都留郡誌に「村社山澤神社、小菅村字山沢、祭神素戔嗚尊、由緒文明十年(一四七八年室町時代後土御門天皇の御代)正月創祀」とある。明治六年村社に列せられる。本殿行二尺一寸五分梁三尺九寸、拝殿行二間梁二間がある。 
 

 

 
■静岡県

 

東光寺・平将門十九首塚 1   掛川市
天慶3年2月14日、平将門を滅ぼした藤原秀郷は、将門、家臣19人の首級を持って京に上る途中、京からの検視役と掛川で出会いました。
秀郷は、小川で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、「将門は、逆臣とはいえ、名門の出である。その屍に鞭打つことはしてはならない。」と言い、 十九人の首を別々に埋葬して、丁寧に供養しました。
東光寺は、明治10年に成田山心勝寺より不動尊を勧請して祀り、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可されたそうです。
醫王山東光寺
当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました。その後、兵火により焼失いたしておりますが、慶応3年(1867年)玉澗観嶺大和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っております。
成田山(不動明王尊)
東光寺本堂の東側に続いて建てられてある御堂です。将門に関係のある十九首町に於いても当山鎮守として不動尊を祀ろうと明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。大正14年8月、堂を増築して別格大本山成田山新勝寺より遠州唯一の遙拝所として認可され、毎月28日を縁日と定め厄除不動尊として信仰を集めています。不動明王は大日如来の化身にて一切の悪魔を隆伏するために忿怒身を現しています。
十九首塚(じゅうくしょづか) 2   掛川市十九首 
平将門の伝承といえば関東がその中心であるが、それ以外の地にもいくつか残されている。掛川市内にもぽつんと伝承が残されている。
平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋するべく将門以下の主立った一族郎党の首級を持って西へ向かっていた。そしてちょうどこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使も到着。ここで持参した19名の首実検がおこなわれたのである。
ところが首実検が済むと、勅使はこれらの首を打ち棄てるように命ずる。京都に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京都に持ち込むことはならぬという理由であった。それに対して秀郷は「逆臣とはいえ、死者に鞭打つことは出来ない」と言って、この地に手厚く葬ったという。これが十九首塚であり、また首と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたという。そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を「掛川」と呼ぶようになったとの説もある。
19の首はそれぞれ塚に葬られたのであるが、現在は将門のものとされる塚だけが残されている。そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備されている。 
将門縁りの宝物と十九首町
将門縁りの宝物−犬の掛軸
掛川には、今でも将門縁りの宝物が残されているという。掛川での首実験の後、将門の剣、黒白二双の犬の掛軸、念持仏の薬師如来他の宝物を、東光寺の草庵に収めて使者は帰ったが、後に神社へ移した。その神社を十九首八幡と改め、朱印75石を賜わった。しかし、この神社が出水のたびに神殿が汚れるので、宝永3年(1707)に、大池上屋敷二つ池の大池八幡宮(海洋センター前・池辺神社)に移された。
この宝物のひとつ、二双犬の掛軸はには不思議ないわれがある。
『遠江古蹟図絵』によると、江戸初期の寛永年間(1624〜1643)、十九首の東光寺で御開帳が行われ、平将門念持仏と一緒にこの絵も公開したとき盗賊が絵を盗み、江戸へ出て売り先を探したところ、旗本の宝来喜太郎のもとにおさまったが、たちまち気が変になり、霊がのりうつって「この絵を八幡宮へ返せ…」と口走るようになった。これを聞いた家族が、もとの宮におさめた−と記されている。 この犬の絵は、将門誕生のお七夜祝に飾られたとされ、『図絵』に記されているように、何回盗まれても売られても、必ず大池八幡神社の神主のもとに帰ってくると伝えられている。しかし、『図絵』の著者兵藤庄右衛門は、宝物の虫干しのときにこの犬の絵を見たが、画風や紙質からとても将門の時代まで遡るものとは思えない、したがって、将門の子孫かその関係者が供奉のために絵師に描かせ、神社に奉納したものではないか・・・と書いている。
この大池八幡宮の社名は時代によって変わっており、元禄3年(1690)の文書には「天王八幡」とあり、江戸後期には「牛頭天王八幡」と呼ばれていた。大池八幡の名は、大池に鎮座している八幡社という通称と考えられ、「牛頭天王八幡」の社名が現在の「池辺神社」に改められたのは、明治4年のことだという。この宮のご神体は、将門の信仰していた『鼻取薬師』で、牛がお供をしており、信仰すると「キツネつき」が治るといわれている。
首塚と十九首町
この伝え話によると、藤原秀郷は、掛川の宿で将門ら十九名の首実験のあと、その首を捨てるように命じられた理由は、京都に将門の怨念を持ち帰ることを嫌った朝廷の恐れからとされている。京との忌み嫌う首を置いていかれる村にしてみれば、懇ろに供養せざるをえなかったであろう。
この伝説の特徴的なところは、藤原秀郷が美しく描かれている点である。後世の芝居や書物では、秀郷は桔梗姫をだまして、将門の弱点を聞き出したとされ、老獪な武士というのが、一般的な秀郷(俵藤田ともよばれたという)のイメージだが、十九首塚の伝説では、敵方の武将に心ある武士の態度として語られている。
この事件のことは、文書として残されていないが、当地の地名に残されている。この塚がある十九首町は、地元の人からは「ジュウクショ」と呼ばれ、正式な町名としても使われている。検視を行った川は、現在の東光寺南側を流れる下俣川という小川の清流で首を洗ったといわれ、通称「血洗川」「どんどろ川」と呼ばれた。そして、川辺の東光寺の所に橋をかけて首実験を行い、塚に埋葬したという。川のところで首を懸けたため「懸川」という地名になったとする説もある。当時は十九ケ所あった塚も、時代を経て数が減り、現在では将門のものと思われる大きな塚がひとつ残されるのみである。
供養された武将
相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高
この塚があるのは掛川市十九首町で、掛川市街から0.5kmほど西側に位置する。塚は東光寺北側、十九首町公民館裏手にある。町民は首塚を町の守り神として、春と秋の彼岸と8月15日の命日には今でも供養祭を続けているという。
清見関(きよみがせき)   静岡市清水区
駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区)にあった関所の名称。
跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中(673年 - 686年)に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている。
1020年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した更級日記には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。
その後、清見関に関する記述は吾妻鏡や平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。
設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された。  
 

 

 
■長野県 

 

城山(じょうやま/尾野山城址)・孫台(まごだい)   上田市
平将門の戦跡伝説 / 城山 734m ・ 孫台 644m
旧丸子町(現:上田市)にある、中世の山城址のある山々。いずれも次に述べる通り、意外に深い歴史をはらんでおり、「山」として以上に「歴史巡り」の探訪地として、非常に高い価値を有するエリアであろう。
まず「尾野山城址」であるが、尾野山集落の南背後にある稜線上にあり、稜線の末端の駐車場所から「愛宕社」経由で本郭址の頂上に至る。「三峰社」の祠と案内看板があるだけの地味な場所だが、その案内看板等によれば、この城址、度々戦禍に巻き込まれ、天文10年(1541年)の海野平合戦では落城も経験しているとのこと。
次に「孫台」については、尾野山城址の北東、間近に位置する三角点地点であり、現在通用している城(址)名と地名が同じ「孫台」であるという、珍しい場所である。(注:長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の所在地欄において、現・旧とも「字孫台としている。」) 実際に訪れてみると「山」というより丘陵といった趣の場所であり、『丸子町誌 歴史編 上』(旧丸子町刊)や宮坂武男氏著『図解 山城探訪 第三集 改訂上田小県資料編』(長野日報社刊)等によれば、尾野山城の支城の一つであるとしている。また、三角点標石が埋設されている小高い盛り上がりは、どうやら古墳であるらしく、この地が古くから人々によって開かれてきたことが知れる。
そればかりでなく、この場所、さらに意外な歴史をはらんだ地であるらしいのだ。ここで筆者が訪問時に現地で見た、文字が消えかけた案内看板の文言を、そのまま次に転記掲載してみよう。
「平将門戦跡案内 天慶二年関東を平定した平将門は尚、勢力を保つ従兄弟の平貞盛が上京しようとするを追って信濃路に入り当高台(尾野山地籍俗称高孫代)を背に北方の斜面に敷陣する貞盛勢を千曲川を渡り攻め激戦の上敗走せしめた、此の場所は真に由緒ある地点である。」
筆者はこれを目にして、実際、驚いた。というのは、まさか信州のこの地で「平将門」の名を目にするとは思いもしなかったからだ。平将門といえば、武蔵の地において自ら「親皇」と名乗って時の朝廷に反旗を翻し、最終的には朝廷の討伐を受けて天慶3年(940年)に戦死する、平安時代の武将であるが、筆者にとってはかつてのNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門役の加藤剛が見せてくれた好演が今でも脳裡に焼きついており、謀反人というよりは英雄といったイメージの方が強く、それゆえ筆者は「孫台」においてその名を目にして、何やら奇妙な嬉しさにも似た感慨をおぼえたものである。
然るに、TVドラマでとりあげられるほど有名な武将にまつわる話なら、もっと広く知られていてもよさそうなものなのにもかかわらず、少なくとも筆者はかつて平将門が信州で戦ったことがあるなどとは、現地に訪れるまで全く知らなかった。それゆえ、あるいは先の案内看板の内容は、もしかしたら現地のみに伝わる出典不明の単なる言い伝えの類に過ぎないのではないかとも思われたので、帰宅後に手元の参考文献を再度ひもといてみたところ、『角川日本地名大辞典 20 長野県』中「尾野山」の項や、『長野県の地名 日本歴史地名体系 20』中「尾野山城跡」の項に、いずれも出典を『将門記』とした上で、同様の記事が掲載されているのを見出すことができ、おかげで現地看板の記述内容も、あながち荒唐無稽なものではないという一応の裏付けを得ることができたのであった。『将門記』の記述内容が真実かどうかはともかく、少なくともこんな、思いがけない隠れた歴史に接することができるのが、実に里山巡りの醍醐味の一つといえよう。
さて、これらの歴史性豊かな城址の山々に訪れるには、しなの鉄道「大屋」駅近くの国道18号線「大屋」交差点から国道152号線に入って西(旧丸子町)に向かい、「東郷橋入口」交差点を右折して尾野山集落方面に上がる。「信州国際音楽村公園」あたりを目指して行けば進行方向の目安になるだろう。尾野山集落に入ったら、「下ノ池」のすぐ東の高台に「孫台」がある。車道は細いながらも三角点地点付近まで通じている。「孫台」上からは南東に浅間山など、結構展望が良い。後述の「尾野山城址」の方は樹林の中で、あまり良好な展望は得られないのとは対照的だ。三角点標石は上述の通り古墳とおぼしき盛り上がりの上に埋設されており、その古墳の脇は墓地になっている。
「尾野山城址」へは、山麓の「龍泉寺」あたりから南に山腹をトラバース気味に上がっている細い車道を行けば、尾根の末端部で「愛宕社」への登り口を見出せるので、そこから「愛宕社」経由で本郭址の頂上を往復する。頂上には上述の通り「三峰社」の祠と案内看板がある。樹林の中で展望は得られないが、本郭址より先にも数条の空堀の遺構などがあるので、それらを見つつ、さらに北西に稜線をたどっていけば、場所によっては浅間山や籠ノ登山などを樹間に見渡せるポイントを見出すことも可能であるので、興味のある向きには、そちらにも足を延ばしてみるとよい。「愛宕社」の登り口から本郭址の頂上までの所要時間は20〜30分ほどもあれば十分。
なお、これらの城址の「山名」についてであるが、まず、「尾野山城址」については、『長野縣町村誌 東信篇』の「生田村」の「古跡」の項中「尾山氏の城址」に「尾野山組未の方山上にあり。城山、城平の字存して、太刀の折れ、矢の根等を出す事有り。」云々とある他、『丸子町誌 歴史編 上』中「尾野山城跡」の項にも「生田字城山にある山城」とあり、『長野県の地名 日本歴史地名体系 20』中「尾野山城跡」の項にも「小字城平の城山にある山城」とあることから、山名は「城山」で差し支えなさそうだ。
また「孫台」だが、こちらは『長野縣町村誌 東信篇』の「生田村」の「古跡」の項中「孫臺」の記述内容によれば「佐久、小縣の方言、古墳ありし地を臺と稱す。」とのことであり、すなわち「孫台」の「台」とは、「山」というよりは「古墳」の意味であるようなのだが… 他に適当な山名を示す資料があるわけでもないので、ここでは便宜上、この「孫台」を「山名」扱いとしても使用・紹介させて頂くことにしたい。
神坂峠(みさかとうげ)   中津川市・長野県下伊那郡阿智村
木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mの峠である。
木曽山脈南部の主稜線の富士見台(富士見台高原である)と恵那山との鞍部である。木曽川水系落合川支流の冷川と天竜川水系阿知川の支流園原川との分水嶺となっている。岐阜県側からは林道大谷霧ヶ原線で峠までの車両乗入れは可能であるが、長野県側の峰越林道は崩落の危険がありゲートが設けられ一般車両の通行が禁止されている。
岐阜県の胞山(えなさん)県立自然公園(本来の山の名前は「恵那山」であるが、県立自然公園の名称としては「胞」を使用する。因みに恵那という地名自体がイザナギとイザナミが天照大神を産んだときにその胞衣(えな)を納めたという伝説から来ている)の一端をなしている。
歴史​
神坂峠は、古くは信濃国の伊那郡と美濃国の恵那郡(木曾谷)との境であった。古代において坂とは「峠」の意味であり、東山道が通る交通の要所であり難所であった。
その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた(「御坂峠」という別表記はここに由来する)。神坂峠は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、いろいろな古典に書かれている。後に、東山道(中山道)は神坂峠を避けて、木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少した。
神坂峠の頂上からは、古代に祭祀で使用された(滑石で作った鏡、刀子、剣、勾玉、臼玉、管玉、棗玉など)や須恵器、土師器、灰釉陶器、鏡、刀子などが発掘されており、神坂峠遺跡と言う。遺跡は1972年に全国初の峠祭祀遺跡として長野県史跡に指定され、1981年には国史跡に指定された。。これらは現在阿智村の中央公民館に保管・展示されている。
平安時代初期に、伝教大師最澄は、この峠のあまりにもの急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで両側に広済院と広拯院という「お救い小屋(仮設避難所)」を設けた。『叡山大師伝』に記載あり。
古典文学に登場する神坂峠​
『日本書紀』の景行天皇四十年条にある、日本武尊が東征の帰路、神坂峠で尊を苦しめようした山の神が白鹿に変じ、それを尊が蒜で撃ったという話。
『万葉集』巻二十にある「ちはやぶる神の御坂に幣奉り齋ふ命は母父が為」という歌。
『古今和歌集』、『源氏物語』『今昔物語集』に登場する、神坂峠山麓の園原という里にある、歌枕にもなった帚木というヒノキ。
『今昔物語集』の巻二十八に、信濃国司の任期を終えて都へ帰る途中の藤原陳忠が神坂峠から谷底へ転落したものの、救出の際にヒラタケを抱えて生還したとの逸話。
『信貴山縁起』の尼公の巻
『雨月物語』の浅茅が宿に書かれている「真坂峠」で大勢の山賊達に取り囲まれ、衣服金銀を残らず掠め取られ、自分の命が辛うじて助かったとの話。
明治になってできた長野県歌信濃の国にも神坂峠信濃側山麓の里、「園原」が歌われている。
東山古道​
古代には信濃坂と呼称され、東山道はこの急峻な峠を越えて伊那方面に抜ける形になっていたが、中山道は比較的緩やかな馬籠峠を経由して木曽方面へ行くように整備された。西側の強清水から神坂峠まで林道を何度も横切るルートとして、東山古道の登山道として整備されている。
岐阜県恵那市から長野県塩尻市にかけてほとんど中山道と並行している形となっている国道19号に対して、中央自動車道の恵那山トンネルはこの峠の約1km北側に掘られており、中央自動車道の道筋もまたそのほとんどが奈良時代以前の東山道沿いとなっている。
大伴神社    佐久市望月字御桐谷
式内社 信濃國佐久郡 大伴神社 旧村社
御祭神 天忍日命(大伴氏祖神) 天道根命 月読命
合祀 御嶽社 素盞嗚尊 大己貴命 少名彦命 他 明治合祀十数柱
中山道、「望月の宿」にある。望月城の南、歴史資料館のそば。役場などの並ぶ通りに入口があり、階段上が境内。
社伝によると、景行天皇四十年の鎮座。式内社・大伴神社に比定されている古社で、大伴宮、樋口宮とも称された神社。もとは現在地の北数百mの「椀ノ木」に鎮座していたと云い、現在、古宮などの地名が残っている。
大宝年間、諸国に牧場が設置されたが、当地は、高原台地にあり牧草地に適した場所。
祭神・天忍日命は大伴氏の祖神で、大伴武日命とも呼ばれている。祭神が馬に乗ってこの地へ来られ、鎮座。乗って来た馬を種馬として駒の改良繁殖をはかリ、この地は、多数の馬を産する地となって、信濃国最大の望月牧へと発展したという。
よって当社は、小社ではあるが御牧七郷の総社と称えられていたという。
逢坂の関の清水に影見えて、いまや曳くらむもちづきの駒  紀貫之
寛政の時代、佐久市にある新海神社は、佐久郡内一の大社であり、佐久郡内の各神社の神官は、新海神社の神事へ奉仕することになっていたが、当社大伴神社・長倉神社・英多神社の三社は式内社であることを理由に、拒否。それに対し、新海神社は寺社奉行へ訴訟を起こすという事件があった。
神紋は「七曜」だが、社殿の瓦には、「雲に月」が附属していた。社殿左側には、多くの道祖神・石祠が置かれていた。  
 

 

 
■愛知県  

 

社宮司社(しゃぐうじしゃ)   名古屋市熱田区須賀町
創建年 不明  旧社格・等級等 村社・十五等級
祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)/ 岐之神(くなとのかみ)/ 八衢彦神(やちまたひこのかみ)/ 八衢媛神(やちまたひめのかみ)
いくつかの民間信仰が重なって絡まった神社で、その実体は分かりづらい。一般的に社宮司社というとミシャクジ信仰に端を発したものが多い。石神を拝んだり、ヒシャクに願いを書いて奉納したりといったものだ。しかし、ここはそれだけではなさそうだ。古くからこの神社を知る地元の人は「おしゃぐりさん」と呼び、江戸時代は三狐神社(さごじのやしろ)などと呼んでいたようだ。祭神についてもいろいろな説がある。平将門の霊を祀るとされたり、導きの神としての猿田彦命(サルタヒコ)とされたり、明治に入ってからは高皇産霊命(タカミムスビ)とされたりもした。現在、神社本庁の登録ではサルタヒコ(猿田彦命)に加えて岐之神(クナト)、八衢彦神(ヤチマタヒコ)、八衢媛神(ヤチマタヒメ)となっている。クナトやヤチマタは普通の神社では馴染みのない神だ。簡単にいうと、村を守る塞の神(さえのかみ/さいのかみ)や道祖神といったようなものだ。
クナト(岐の神)については諸説あってはっきりはしないのだけど、「来な処」つまり「きてはならない所」という意味ではないかという説がある。『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、追いかけてくるイザナミに向かって逃げるイザナギが、これ以上来るなといって投げつけた杖から化成したのが来名戸祖神(くなとのさえのかみ)といっている。『古事記』では衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)とする。ヤチマタヒコ(八衢彦神)、ヤチマタヒメ(八衢媛神)は、イザナギが檍原(あわきがはら)で禊ぎをしたときに生まれた道俣神(ちまたのかみ)のこととする考え方もある。天孫降臨するニニギ一行がどちらへ行ったらいいか分からず立ち尽くしていた分かれ道を、天の八衢という。道俣神はサルタヒコと同一視されたり、ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメと同神とされたりする。村人たちがどの程度日本神話を知っていたかは分からないけど、村の入り口に石や石像などを置いて邪気が入らないようにと願い、それをクナトやヤチマタや道祖神などと呼んだのが始まりだったかもしれない。のちにそれらは単なる厄除けを超えて結びの神や五穀豊穣、導きの神など、多様な願掛けの対象となっていったのは自然な流れだ。その信仰は仏教や道教などとも結びついているため複雑で、現代人の感覚では本当には理解できないのかもしれない。
『尾張名所図会』(1844年)に、「三狐神社(さごじのやしろ) 表大瀬古(おもておおせこ)にあり。俗に平親王将門の霊を祭るといへり」とあるように、江戸時代の庶民感覚では平将門を祀っているという認識が優勢だったようだ。社宮司社が今の場所に移されたのは戦後の昭和27年で、それまでは現在地から130メートルほど南東にあった(地図)。今、景清社があるすぐ近くということになる。かつてそのあたりに扇川という小さな川が流れていて、扇橋が架かっていた。
『尾張名所図会』はこう書く。「扇の橋(おうぎのはし) 同じ所にあり。此所将門の首を埋(うづ)みし跡といひ傳ふ。彼(かの)『将門は米かみよりぞ射られける』といへる故事によれるにや、一名米かみ橋ともよべり」 これは藤六左近が詠んだとされるこんな歌から来ている。「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」  無敵を誇る平将門にも唯一の弱点があり、それが「こめかみ」だということを知った俵藤太こと藤原秀郷は、そこを狙って矢を射て将門を討ち取ったという伝説がある。こめかみに米の字を当てて俵藤太の俵に掛けた洒落でもある。その歌を聞いた将門の首はその洒落を笑ったともいわれる。この故事から扇橋は米かみ橋とも呼ばれたという話だ。将門の首が飛んできて落ちたという伝承地は各地にあって、一番よく知られているのが東京千代田区の将門の首塚だろう。岐阜県大垣にも御首神社(みくびじんじゃ)がある。南宮大社の隼人神が飛んでいく将門の首を射落としてそれを祀ったとしている。いつ頃から熱田の大瀬古で将門伝説が語られるようになったのかは分からないのだけど、そういう話が語り継がれてきたということは何かしらの意味があるように思う。将門の乱を鎮めるために各地で祈りが行われ、尾張国では熱田社(熱田神宮)が担当し、のちに七所神社(南区笠寺)が創建されていることなども考え合わせると、将門の乱やその存在は、尾張でも他人事ではなかったということだろう。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。「創建は明かではない。『熱田旧跡記』『熱田阡陌記』『熱田之記』には三狐神祠とあり、『尾張徇行記』には社宮司、猿田彦命を祀るとある。俗に導引の神と称し諸願成就の時は無底の柄杓子をお供えする。明治5年、村社に列格した」 『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。「社宮祠 字西ノ地ト云所ニ八尺四方ノ小祠アリ、猿田彦命ヲ祀ル、又一説ニ相馬太郎将門ノ首ヲ祀ルトモ申伝ヘリ、町控ナリ」 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、明治30年頃村社に列して、祭神は高皇産霊命とし、こう続ける。「例祭は舊六月二十日にして、龍宮の畫を施せる提燈の屋形十一基を出す、古来町の支配に属して、熱田神宮の末社にあらず」  祭神については諸説ありながらも熱田社の支配ではなく町の支配だったことからも民間信仰から発した神社ということがいえそうだ。竜宮の絵というのがどういうものかイメージできないのだけど、それにも何か意味があったはずだ。竜宮の絵を描いた提灯を吊した屋形が十一基も出たということはけっこうな祭礼だったのだろう。
大瀬古は熱田神宮の南で、熱田台地の南の突端あたりに位置している。古代は海岸近くだったと考えられる。近くで縄文時代早期の新宮坂貝塚や弥生時代の熱田神宮南門前貝塚が見つかっていることからして、熱田台地の突端には早くから人が暮らしていたことが分かっている。大瀬子の地名由来は定かではないのだけど、狭いところという意味から来ているというのが一般的な解釈だ。熱田台地の突端ということだろう。しかし、ただの瀬子ではなく大瀬子となると少し違うのかもしれない。神社がある須賀町の須賀もわりと古い地名で、砂地の潟という意味の洲潟が転じたものとされる。ただ、須賀といえばスサノオを連想させる。須賀町は「スガ」と濁らず「スカ」だ。熱田台地の西縁の北に天王社(那古野神社)、中央に洲嵜神社と、古くからスサノオを祀る神社が配置されていることからして、南端にスサノオを信仰する一族がいたとしても不思議ではない。今は熱田神宮の摂社となっている南新宮社はスサノオを祭神としているし、失われてしまったと考えられている従一位という高位の素戔鳥名神(『尾張国内神名帳』)は熱田にあったはずだ。熱田台地にはスサノオの影が見え隠れしている。
いつ誰が何の神を祀るために始めたのかは分からない。素朴な信仰だったのか、祖霊崇拝のようなものだったのか。たとえば海に突き出す岬の突端に石でも置いてそれを集落の守り神としたのが始まりだったかもしれない。あるいは、将門伝説が先にあって、あとから民間信仰があわさって導きの神、守り神としての性格を強めていったという可能性もある。サルタヒコもクナトもヤチマタもタカミムスビも全部後付けだとしても、歴史を積み重ねた末に今の社宮司社がある。神社は始まりがすべてではない。人々が神社を守り、神社が人々を守ってきた。祭神がどうかなんてことはそれほど重要なことではないのかもしれない。
七所神社(ななしょじんじゃ)   名古屋市南区笠寺町字天満
創建年 伝941年(平安時代中期)
旧社格・等級等 郷社・八等級
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)/ 須佐之男尊(すさのおのみこと)/ 宇賀魂命(うがみたまのみこと)/ 天穂日尊(あめのほひのみこと)/ 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)/ 乎止与尊(おとよのみこと)/ 宮簀比売尊(みやずひめのみこと)
創建にまつわるいきさつははっきりしている。祭神の顔ぶれを見ただけでも熱田神宮に関わりが深いことが分かる。ただ、熱田関係の神社かといえば、そうでもありそうではない。七所の名前はこの熱田七柱の神から来ていることは間違いなさそうだ。読み方は「ななしょ」としている。中村区岩塚にある七所社は「しちしょしゃ」と読ませるからちょっとややこしい。あちらも熱田神宮との関わりがある神社だ。七所神社創建に関わる重要な人物が平将門と聞くと意外に思うんじゃないだろうか。平将門の乱を鎮めるために熱田の神々の力を借りて祈祷を行ったのが七所神社の興りとされている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。「承平五年(935年)五月、平将門関東にて反逆騒乱を起す。朱雀天皇、将門追討の詔を下す依って熱田の宮七柱の神を鳥居山に迎え将門の降伏、天下安穏を祈祷する。天慶三年(940)乱治る。翌四年鳥居山に七社の神を奉斎して産土神として祀る。貞享四年(1687)四月、伊神長大夫好運、社殿を再建せりと、明治五年五月郷社に列し、明治四十年十月二十六日、指定社となる。『尾張志』に七所社笠寺にあり、熱田七社神をまつる社人を伊神右ヱ門と云う、とある。
『寛文村々覚書』(1670年頃)では七所宮となっている。『尾張徇行記』(1822年)はこう書く。「七所明神社祠官伊神筑後正書上ニ、境内二反四畝御除地 摂社 稲荷祠二区 秋葉祠 旅所境内三畝六歩年貢地村除 当社ノ草創ハ承平年中平将門降伏ノ為ニ熱田神輿ヲ星アノ地ニ移シ奉リテ祈願アリ、将門退治ノ後天慶年中熱田七所ノ神ヲ祀レル由申伝ヘリ」 『尾張志』(1844年)は摂社に天王社と子安社もあると書いている。
平将門(たいらのまさかど)が生きたのは平安時代中期、朱雀天皇の時代だ。討ち取られたときの年齢が37歳(940年)だったという説を採るなら、生まれ年は903年ということになる。平(たいら)の名が示す通り天皇の血筋を引いている。桓武天皇の5世孫に当たる。生まれは下総国佐倉(千葉県佐倉市)とされていて、下総国一帯を支配する豪族だった。若い頃から武勇で名を馳せ、よく知られる存在だったという。将門が朝廷に刃向かって関東で乱を起こした理由ははっきりしていない。いろいろな説があるのだけど、簡単に言ってしまえば成り行き上そうなってしまったということだったのだろう。平氏と源氏の権力争いや領地争いに巻き込まれ、強かったことがかえって災いして、戦いに勝ちまくって勢いづいてしまった。それだけなら地方の争いということで朝廷も見逃したのかもしれないけど、国府を襲って国司を追放してしまったのがいけなかった。そのまま勝ち進み、ついには関東八ヶ国の国府を占領して関東一円を手中に収めてしまった。関東独立を本気で考えていたのかどうかは分からない。天皇に対抗して新皇を名乗ったというのも自らの意志だったのかどうか。生粋の乱暴者のように思われがちな将門だけど、15歳の頃に平安京に出て、藤原忠平と主従関係を結んでいる。藤原忠平といえば、朱雀天皇、村上天皇に摂政、関白として仕え、政務のほとんどを担っていた人物だ。その忠平が認めたくらいだから、ただの地方豪族というわけではない。将門が乱を起こしたのが935年で、討ち取られたのが940年ということで、足かけ6年に渡っている。すぐに鎮圧されたという印象を持っている人も多いかもしれないけど、6年というのはけっこう長い。その間、朝廷が何をやっていたかというと、全国の神社仏閣に命じて将門鎮圧のための祈祷を行わせていた。呪いで倒してやるといったところだ。
現代の感覚で言うとちょっと笑えてしまうようなことだけど、当時の人たちにとっては真剣なことで、有効な手段と考えられていた。朱雀天皇の父である醍醐天皇や藤原忠平の兄の時平などは、菅原道真を無実の罪で左遷したせいで怨霊になった道真によって呪い殺れたと信じられていた時代だ。将門の乱も、寺社の祈祷や呪術で鎮められると考えたとしても不思議ではない。実際、伊勢の神宮をはじめ、宇佐神宮や賀茂社、春日社や石上神宮などは積極的に祈祷を行い、反乱鎮圧が成功したのはうちのおかげだと言い張ったりもした。中でもよく知られているのが成田山新勝寺だろう。朝廷の命で京都から空海作の不動明王を持って下総へ行き、そこで祈祷を行ったところ見事鎮圧に成功して京に戻ろうとしたら不動明王が動かなくなってしまったのでそこに寺を建てることにした。それが成田山新勝寺の始まりとされている。平将門を祀る神田明神の氏子や関係者は、将門の御利益を受けられなくなるといけないからという理由で決して成田山に行かないなどという半分都市伝説めいた話もあるくらいだ。最終的に将門は、朝廷から派遣された軍と地元豪族連合軍によって討ち取られることになる。最後は矢に射られてあっけなく絶命した。首は京都の七条河原に晒された。これが史上初のさらし首(獄門)とされる。しかし、何ヶ月も腐らず、夜な夜な目を見開いて胴体を返せとか、自分と戦えなどと叫び続けたという話が残る。あるとき、首は関東に戻るために飛び去ったため、美濃の南宮大社の隼人神が矢で射落とし、首が落ちたところに御首神社(岐阜県大垣市)が建てられたともいう。
尾張で将門鎮圧に名乗りを上げたのが熱田社だった。熱田大宮、八剣宮、日割宮、高倉宮、大福田宮、氷上宮、源田夫宮のそれぞれの神を神輿に乗せて、鳥居山(今の丹八山/地図)で祈祷を行った。社伝では鎮圧翌年の941年に鳥居山に熱田の神を祀ったのが七所神社の始まりとしている。現在の場所に移されたのは100年後の1040年頃とされる。以降、笠寺の氏神として祀られることになった。どうして最初に鳥居山の地が選ばれたのだろうか。少し南へ行くと、星宮社(地図)があり、当時そこは海に突き出した岬の突端だった。熱田社と氷上姉子神社との中間地点というのも関係があっただろうか。あるいはそこが何か特別な場所とされていたのかもしれない。
菅原道真、崇徳天皇とともに平将門は三大怨霊のひとりとされている。ただし、他のふたりとはやや事情が違っている。道真は無実の罪で左遷されたことが原因で、崇徳天皇は父親との確執や身内の権力争いに敗れたことを恨んで死んだのに対して、将門の場合はそれほど恨んで死んだとは思えない。本来であれば怨霊化する理由がない。少なくとも、無関係の人間に祟るようなことは望んでいなかったはずだ。にもかかわらず将門が怨霊とされたのは、虐げられた人々がヒーローとして祭り上げたからだ。中央に対する不満を持っていた人々が自分たちの代弁者としたことで結果的に将門が怨霊としての使命を与えられることになった。自分たちの代わりに恨みを果たしてくれというわけだ。将門は加害者ではなくむしろ被害者だったともいえる。確かに反乱を起こしたことは事実だし、人も大勢死なせているからそういう意味では加害者だ。しかし、死んだ後も本人のあずかり知らないところで勝手に自分のせいにされてきたのは心外に思っているんじゃないだろうか。将門の死からすでに1000年以上の歳月が流れた。私たちはいいかげん、将門を怨霊から解放してあげるべきではないのか。過ぎたことは恨みっこなしということにして。将門の恨みが怖いから七所神社に参拝するのはやめておこうなどと考える必要はない。そんなことで将門は人を恨んだりしないはずだ。などと言いつつ、私がぽっくりいってしまったら、それは将門の怒りを買ったせいかもしれない。いや、だからそれ、オレのせいじゃないってと将門は言うかもしれないけれど。
迦具土社( かぐつちしゃ)   名古屋市南区鳥山町
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 迦具土命(かぐつちのみこと)
丹八山公園(たんぱちやまこうえん)は地元ではちょっと知られた公園だ。桜名所であり、謎の石碑が建ち並ぶ小山というのが一般的な認識だと思う。かつてここは鳥居山と呼ばれ、七所社(七所神社)が建っていた。七所社は平将門の調伏祈願が行われた跡地に941年に創建されたとされ、100年後の平安時代後期の1040年頃に現在地(地図 )に移された。時が流れて明治の時代、石川丹八郎(いしかわたんぱちろう)という人の所有地になっていた。郷土史家で易者でもあった丹八郎は、鳥居山を丹八山と名付け(勝手に)様々な石碑を次々と建てていくことになる。入り口の完平泰社と刻まれた石碑を始め、お銀坂、笠寺観音霊木漂着之地、七砲臺、織田信長遯来地、平将門首塚、浦島太郎誕生地、壬申の乱出兵、豊臣秀吉誕生地、 草薙の剣盗難、ハワイ国王など、50以上の石碑が乱立している。
この石碑群からもかなりの変わり者だったと思われるのだけど、地元有力者とのつながりがあったり、テレビに出たり、著作をしたり、易者としての評判がよかったりと、なかなかの活躍ぶりだったようだ。丹八山に桜の木を植えたのも石川丹八郎で、生前に名古屋市に寄贈している。石碑を50も建てるにはずいぶんお金もかかっただろう。丹八郎は作詞作曲もやり、笠寺節、笠寺おけさ、笠寺甚句、笠寺小唄、本星音頭なども作っている。丹八最中(たんぱちもなか)も発売しているらしい。明治のみうらじゅんのような人と思っておけば当たらずといえども遠からずかもしれない。
鳥居山と平将門、七所神社、みこし山の軻愚突知社のことについては、七所神社と軻愚突知社(本星ア)のページに書いた。どうして丹八山の上に迦具土社があるのかは分からない。『愛知縣神社名鑑』は「創建については明かではない。明治6年据置公許となる」とごく簡単に書いている。明治6年に据置公許となったということは、江戸時代にはすでに建っていたということだ。丹八郎は明治26年生まれ(昭和54年没)なので、丹八郎が建てたわけではない。七所社が移されてほどなくして建てられたのかもしれない。狭間の谷を挟んで南北に並ぶみこし山の上にも軻愚突知社があるということは、この二社はセットと考えた方がいいだろうか。地理的にも小山の格好からも、鳥居山もみこし山も元は古墳だった可能性がある。熱田社がわざわざ熱田の七神を神輿に乗せてここまで運んで将門調伏祈願をしたということは、平安時代後期、ここは聖地と考えられていたのではないか。何の理由もなくここで祈願が行われたとは思えない。
『南区の神社を巡る』は、創建を940年と書いているのだけど、さすがにそれは無理がないだろうか。940年は平将門の乱を鎮める祈祷が行われた年で、七所社もまだ建っていないときだ。七所社に先行して迦具土を祀ったとは考えづらい。どこからそういう話が出てきたのか。ただ、鳥居山(丹八山)は七所社の御旅所として使われていた場所なので、七所社が現在地に移された1040年以降の早い時期に何らかの社があった可能性は考えられる。
鳥居山が歴史の舞台になったことがもう一度ある。戦国時代の天文16年(1547年)、笠寺観音(地図)で竹千代と織田信広との人質交換が行われたとき、岡ア衆300名がこの鳥居山から様子をうかがっていたのだった。今川の人質に差し出された竹千代(のちの徳川家康)は途中でさらわれて織田家の人質になっていた。竹千代人質強奪事件に関しては熱田社(伝馬)のページに書いた。一方、織田信広(信長の兄)は安祥城の戦いで今川方に生け捕りにされ、今川義元の提案で人質交換が行われることになった。笠寺観音での交換が無事に済むと、岡ア衆は竹千代を連れて岡崎城へ帰っていったのだった。
10月の七所神社の大祭の時には、今でも丹八山の御旅所まで七柱の神を神輿に乗せて渡している。歴史のある場所と奇妙な石碑群とのコントラストが面白いといえば面白い。春になると山の上では桜が咲き、近所の人々が集い、近くの園児たちが遠足にやってくる。そんな光景を想像すると、なんだかんだいって日本はわりと平和だなと思うのだ。
星宮社(ほしみやしゃ、ほしのみやしゃ)   名古屋市南区本星崎町
社殿の扁額には「星崎宮」とあり、古い文献では星の宮(尾張名所図会)、星社(尾張徇行記)等とも呼ばれている。旧社格は村社。
境内社の上知我麻神社と下知我麻神社は、延喜式神名帳の尾張国愛智郡に記載され、現在は熱田神宮摂社になっている同名社の元宮という説があり、式内社論社とされることがある。
創建
文政5年(1822年)の尾張徇行記には、創建は「舒明天皇御宇の由申伝へり」とある。星崎庄(南野村)の項目では「南野隕石」に触れて、この隕石が落ちたので「星社(星宮社)」と呼ばれるようになったのではないかとし、星宮社は妙見信仰(妙見菩薩信仰)を重んじた大内氏末裔の山口氏が創建したものではないかとする考察を付している。ただし、考察の材料となる南野隕石は江戸初期に降ったものであるため、時系列が逆転し矛盾する。尾張徇行記は「愛知神名帳等に此社見へ侍ら子(ね)は」という別の理由から、この社は近世に祀られたものではないかとも付記している。
天保15年(1844年)の尾張志には、舒明天皇9年(637年)、七星が天から降り、神託があったので、往古の千竃郷であった当地に社を建てたという社説が引用されている。同書は、古来当地に鎮座していた地主神は、星宮社ではなく上下知我麻神社であって、この社が妙見信仰に変質した時期が舒明天皇9年だったのではないかという考察を付している。
大正2年(1913年)の愛知郡誌には、舒明天皇9年9月、神託によって「千竃の里に初めて星の社を建つ」とだけある。
尾張国の国内神名帳には、星宮社の神名は記載されていない。
創建時の星宮社は、今の笠寺小学校のあたり(星崎城址)に建てられたが、織田信長が星崎城を築城する際、現在の地へ移されたとの説がある。現在の社地は、笠寺台地の「星崎の岬」の端部だった。
笠寺台地は古代、松炬(まつきょ、まつご、まつこ)島(松姤島、松巨島)と呼ばれた場所で、乎止與命(上知我麻神社の祭神)の館があったという。
星と隕石に関する伝承
星崎一帯には、古来から星や隕石についての記録や伝承が残っている。星崎の地名については以下の説がある。
〇 尾張徇行記は、承平5年(935年)、平将門の乱が起きた際、勅命により熱田大明神(熱田神宮)で平将門調伏の祈願を行ったという伝承を記している。別説に、「熱田年中行事」には、熱田神宮の神輿を星宮社に渡御したとある。社家が祈願をすると、星宮社で七星が耀いたので、その村を星崎と呼ぶようになったという。
〇 尾張志は、「星社あるによりておこれる星崎の地名ならむには星崎とよめる歌の堀河天皇初度の百首に見えたるにても其時代は大概おしはからるる也」とし、星宮社が地名の由来であるとしている。愛知郡誌は、同じく「星崎の地名は、星宮社有によりて起これるものならんか」と考察を付している。
〇 毎日新聞の「町名由来記」(1954年)は、元久2年5月24日(1205年)、入江に明星が降りたことから星崎と鳴海の地名が生じたと記している。この伝承は修験地蔵院の地蔵縁起に基づくものであり、尾張徇行記の山崎村の項にも記載されている。同日、天地がにわかに震動し、海上が鳴り響き、数多くの星が雷のように光輝いた。しかし、里人が海上に出てみると何の痕跡も残っていなかった。この時から「なるみ(成海)」を「鳴海」と表記するようになり、明星が下った場所を「星崎」と呼ぶようになったという。
確実な記録としては、寛永9年8月14日(1632年)、本地村の隣村であった南野村に落ちた「南野隕石」がある。当時の様子が尾張名所図会の付録「小治田之真清水」に描かれている。隕石は「星石」として民家に保存されていたが、文政12年(1829年)、同村にある喚続社(よびつぎしゃ)に寄進され、その神体になった。隕石を収められている木箱には表に「霊石」と書かれている。昭和51年8月15日(1976年)、国立科学博物館の村山定夫により隕石と同定され、「南野隕石」と命名された。現在、落下年代が分かっている隕石としては、直方隕石に次ぎ、日本で2番目に古いものである。
8世紀、13世紀にもこの地方に「隕石が落ちた」という言い伝えがある。その一部は上記の承平5年(935年)と元久2年(1205年)の伝承を指していると考えられる。なお、星宮社が隕石の落下地点であるとか、隕石を神体として祀っているというわけではない。
平将門調伏の祈願に関する伝承
笠寺には、尾張徇行記にある平将門調伏の祈願の伝承に関する遺跡が幾つか残っている。
笠寺小学校の西にある訶愚突知社(秋葉社)は、熱田神宮の神輿を渡御した場所で、神輿山(御輿山)の古称がある。
笠寺七所神社は、星宮社の平将門調伏の祈願に霊験があったので、天下安寧を祈るために熱田七神を勧請したものという伝承がある。
笠寺小学校の北にある丹八山には、平将門の首塚がある。丹八山は史跡ではなく、石川丹八郎が整備して寄贈した公園であるが、笠寺七所神社の霊地であることは同社の社説で肯定されている。
沿革​
舒明天皇9年(637年) - 創建。
承平5年(935年) - 熱田神宮社家により神輿山で平将門の乱の調伏を祈願。
元久2年5月24日(1205年) - 入江に明星が降りる。
寛永9年8月14日(1632年) - 南野村に南野隕石が落下。
幸田町(こうたちょう)   愛知県額田郡
額田郡を構成する唯一の自治体であり、9市1町からなる西三河地方唯一の町村でもある。中部工業団地をはじめ多くの工業団地があり、自動車関連産業を中心に製造業が盛んである。
愛知県の西三河地方南部に位置する。東西10.25km、南北10.55kmで、56.72㎢の面積を有する。東南にかけて遠望峰山(とぼねやま、標高439m)を含む山地、南部の西尾市、蒲郡市との境界には三ヶ根山(標高325.7m)を中心とした山地、西部は標高100〜350mの山地があり、三方を山に囲まれている。町域の大部分は洪積台地。中央部には、町名の由来となった広田川が遠望峰山の源流から北に流れ、西尾市で矢作古川に合流している。東海道本線の西側、東海道新幹線の東側にあたる地域には、かつて菱池という湖沼があったが、近世以降の新田開発や明治時代の干拓によって消滅した。
基礎地質は、中央構造線に沿って分布している領家変成帯に属し、「領家変成岩類」と「領家花崗岩類」から成っている。表層地質は、中央部から北北西にかけて沖積層が広く堆積。北北西に向かうに従って厚みを増し、北北西に位置する新田地区で15mに達する。その他の地域は第三紀以前の地層、岩石類から成る。山地や丘陵部を中心に領家花崗岩類が風化した「風化花崗岩」が広範囲を覆っている。
道路は、南北に国道248号、東西に国道23号が通っており、岡崎市や蒲郡市、西尾市などと結ばれている。鉄道では南北に東海道本線が通り、東西を東海道新幹線が通過する。市街地は、幸田駅周辺から北へかけてと、南西部の三ケ根駅周辺に形成されている。このほかにも、町内各所に集落が見られる。
歴史
原始・古代
先土器時代の遺跡は町内にはないが、岡崎市美合町の五本松遺跡があることや西尾市上羽角町で有茎尖頭器が発掘されたことから、周辺では人間の活動があったと考えられている。また、縄文時代の遺跡も発掘されていないが、石鏃、石棒、縄文土器や貝塚などが発掘されている。その中心は町北東部で、西側は矢作川が入り込み菱池という湖沼があったと考えられている。弥生時代になると、菱池の岸辺と考えられる周辺や東部の内陸部で水田の跡が見られる。灌漑技術の進んでいなかった弥生時代初期に菱池周辺に湿田が作られ、技術の進展とともに高力や大草といった内陸に乾田が作られていったと考えられる。
古墳時代には、古墳が菱池を挟んで東西の丘陵や台地に分布していた。東側は、菱池の東部から町北東部の坂崎・大草といった周辺に集中し、町内で唯一の前方後円墳である青塚古墳がある。一方の西側は、菱池西部から西尾市羽角・野場などにかけて集中し、丸山古墳がある。このことから、菱池を挟んで2つの農業共同体があったと考えられる。また、坂崎、大草、深溝、野場六栗、須美の5ヶ所で古墳時代後期に見られた群集墳の存在が確認されている。
律令制下、町域は三河国額田郡となった。『和名類聚抄』には、額田郡には7つの郷と1つの駅家があったと書かれているが、町内と比定できる所があるか詳しいことは分かっていない。また、荘園の存在を裏付ける史料は見つかっていない。そのなかで唯一確認できるものが、蘇美御厨・蘇美御薗である。これは律令制下で伊勢神宮を経済的に支えた新封戸のひとつで、町西部の須美にあたる。藤原宗忠の『中右記』によれば、角平御厨(現在の西尾市吉良町東部)の一部で、久安元年(1145年)に正式に認められ、南北朝時代の神宮領の記録では外宮領とされていたことが書かれている。
中世​
建武3年(1336年)、吉良満義が今川氏兼に三河須美保の政所職を与えた。このことから、須美は少なくとも建武3年には武家領となっていたことが分かる。また、平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて、町北東部の久保田を中心に17の窯が作られ、陶器が生産されていたが、室町時代に姿を消した。
戦国時代、蓮如の布教により三河では浄土真宗に改宗する寺院が増えた。町内では、大草の広福寺、菱池の西光寺が天台宗から浄土真宗に改宗している。また、三河三か寺のひとつである上宮寺の『如光弟子帳』には町内の上宮寺下の道場が4ヶ所記載されている。
寛正6年(1465年)、額田郡井口(岡崎市井ノ口町)で同郡南部の小領主が砦を築いて東海道の往来を妨害する事件が起きた。この額田郡牢人一揆には、大場・高力・芦谷といった町内の小領主も参加していた。首謀者の中山中務入道父子と大場次郎左衛門らは、伊勢貞親の被官だった松平信光と戸田宗光に討伐された。松平信光はこれを機に三河の制圧を進め、一族に所領を与えた。町内では、信光の五男・光重を祖とする大草松平家と、五井松平家初代・忠景の二男・忠定を祖とする深溝松平家が生まれた。永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、大草松平家の昌久や六栗の夏目次郎左衛門ほか地侍が一揆方として参加する一方、家康方には深溝松平家の伊忠はじめ、天野康景、平岩親吉、高力清長などが付いた。家康方の勝利により、大草松平家は大草の所領を没収された。
鳥越神社・将門の涙雨   額田郡幸田町
祭神は将門で祭礼の次の日は必ず雨が降るという。鳥越神社は火神社に合祀されている。  
 

 

 
■岐阜県 

 

南宮大社   不破郡垂井町宮代
金山彦命を主祭神に、旧国幣大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。
現在の建物は、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の兵火によって焼失したものを、寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したものであります。
広い境内には本殿・拝殿・楼門など、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の代表的な遺構18棟が、国の重要文化財に指定されています。
由緒
御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。 社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。 御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ名神大社として 名神祭にも預る大社に列せられています。 天慶3年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058〜65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。
真禅院(しんぜんいん)   不破郡垂井町宮代朝倉
天台宗寺院。山号は朝倉山(あさくらさん)。山号にちなみ朝倉山真禅院、朝倉寺、または単に朝倉山とも呼ばれている。 かつての南宮大社の僧坊であった。本尊は無量寿如来(阿弥陀如来)、十一面観世音菩薩。無量寿如来は南宮大社本地仏。
古くから霊験があると言われ、平安時代の承平天慶の乱の際、朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願が行なわれている。また、前九年の役の際、後冷泉天皇の命により安倍貞任追討祈願がおこなわれている。
境内には干支の守り本尊(守護仏)がある。西美濃三十三霊場第十七札所。美濃七福神(大黒天)
歴史
真禅院は、近隣にある南宮大社(旧称南宮神社)と関係の深い寺院である。南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていた。明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の現在地に移され、朝倉山真禅院と称するようになったものである。
伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)行基により創建された象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょじ)であるとされる。その後、延暦年間(790年頃)、勅令があり、最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習合(神仏習合)され、神宮寺と改称したという。宮処寺の名は『行基年譜』に見えず、創立者を行基とするのは後世の付託と思われるが、後述のように宮処寺という寺院が奈良時代に存在したことは確認できる。
『続日本紀』天平12年(740年)12月条には、「幸宮処寺及曳常泉」(宮処寺及び曳常泉を(聖武天皇が)訪れた)との記事がある。これにより、天平12年の時点で今の岐阜県垂井町に「宮処寺」という寺院が存在したこと、聖武天皇が同寺を訪れたことは史実と認められる。垂井町内には宮処寺跡に比定される奈良時代の寺院跡があり、岐阜県の史跡に指定されている。ただし、この寺院跡は発掘調査未了のうちに宅地開発が進んで遺構が破壊されており、この寺が南宮神社の神宮寺の前身であるかどうかは断定できない。
『扶桑略記』天慶3年(940年)正月24日条には「美濃国中山南神宮寺」において、延暦寺の僧・明達が平将門調伏の修法を行ったことが見える。これにより、平安時代には南宮神社に神宮寺が存在したことが明らかである。神宮寺は近世末まで存続したが、前述のように明治時代初期の神仏分離に伴い廃絶した。南宮神社内には神宮寺以外にも仏教僧の住む坊舎が複数存在したことは古絵図等からも明らかで、真禅院はそうした僧坊の1つであった。
近世の記録(「本末分限改帳」)には、平将門の乱調伏のため、南宮神社二ノ宮の十禅師社に社僧10名を置き、その時建立された僧坊の1つが真禅院であるとされている。
文亀元年(1501年)、火災で焼失し、永正8年(1511年)、美濃国守護土岐政房により再建。慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失した。南宮神社の再建は江戸幕府3代将軍徳川家光により実施され、寛永19年(1642年)に落成した。これが現存する南宮大社の社殿群である。現存する真禅院の三重塔、本地堂もこれら社殿と一連の造営になるもので、元来は南宮神社境内の南方に建っていた。
明治元年(1868年)、神仏分離により、南宮神社内の寺院・仏堂を統廃合し、当時の真禅院の住職と地元の人々の手により現在地に移築した。明治4年(1871年)までに移築が完了し、朝倉山真禅院として再出発した。
矢剣神社 (やつるぎじんじゃ)   大垣市矢道町
主祭神 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
摂末社祭神 大山咋神(おおやまぐいのかみ) / 軻遇突智神(かぐつちのかみ) / 応神天皇(おうじんてんのう) / 神功皇后(じんぐうこうごう) / 豊受姫神(とようけびめのかみ)
当社のご鎮座は古くその創建は詳らかではないが、既に千年前正三位矢剱大明神と美濃国神明帳に見え例年国司奉幣の御神徳高い古社である。古伝に依れば遠く天慶年間の平 将門の乱にその首級怨霊となって虚空を京に西上せんとするのを南宮大神神矢を放ってこれを御首社に射落されこの時通る矢に矢剱大明神更に神威を憑せられた故を以って以来この地を矢道と呼ばれるに至ったと伝えられる。
古来諸その災難魔障を祓い退けられ矢道の高き守護神として御神威洵に顕著な御社である。
御首神社(みくびじんじゃ) 1   大垣市荒尾町
主祭神 平将門公の御神霊
今から約千年前、平将門は時の朝廷の政策に憤りを覚え乱(天慶の乱)を起こした。しかし藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ、将門は捕えられ首を討たれた。その首は京都に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立った。
この異変を知り、美濃の国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく将門の首を射落とした。(その時、隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある。)
この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀ることによって再びその首が関東に戻らぬよう、その怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが、御首神社であると伝えられています。
そのため当社は、桓武天皇第六代の皇胤平将門公の御神霊をお祀りしている神社であり、その御神徳は古くより知られ首から上の諸祈願に霊験あらたかで、全国各地からの参拝があります。特に年明けには、中学生や高校生の受験生が多数詰めかけ、普段のご祈祷と相俟って拝殿は身動きも出来ないくらいの混雑を呈します。
御首神社(みくびじんじゃ) 2   岐阜県大垣市荒尾町 
祭神は平将門の御神霊。関東を根城にして歴史に名を残した平将門が東海地方に祀られているのには、次のような伝承がある。
討ち取られた将門の首は京都に運ばれてきて晒し首となったのだが、何ヶ月経っても一向に朽ち果てることもなく、それどころか切り離された胴体を求め、さらに一戦を交えようという勢いで罵り続けていた。そしてある時、首は胴体を求めて東に向かうべく、宙高く舞い上がって京都を去って行ったのである。
美濃国の南宮大社では、将門の首が関東に戻ればまた大乱が起こると怖れて祈願をおこなった。すると大社に座する隼人神が弓を構え、東へ向かって飛んで行く将門の首を矢で射落としたのである。
首は荒尾の地に落ち、そして再び関東へ行かないようにこの地に祀ることで将門の御霊を慰めた。これが御首神社の始まりと伝えられている。
首を祀る神社ということで、首から上の諸祈願に霊験あらたかと言われ、近年では合格祈願の神として知られる。また祈願の際には絵馬ではなく、帽子やスカーフなど首から上に身につけるものを奉納する者も多くあるとのこと。 
白鬚神社   可児市土田
白鬚神社大祭 / 天慶年間、平将門の乱鎮定のために東征中であった平貞盛の戦勝祈願が始まりといわれる神事です。400mある神社の参道を舞台に疾走する馬上から弓矢が射こまれ、勇壮な武家絵巻が繰り広げられます。市の無形民俗文化財に指定されています。 
 

 

 
■富山県  

 

二上山(ふたがみやま)   高岡市
富山県の高岡市と氷見市に跨がる標高274mの山。高岡市の最高峰である。
雨晴海岸などの近隣の景勝地とともに、能登半島国定公園を形成する。「二上山」の名は、現在の二上山(東峰)と西隣の城山(西峰)を2柱の神に見立て、「二神山」と呼んだのが語源であるとする説がある。正式な読み方は「ふたがみやま」だが、地元富山県内では、親しみを込めて「ふたがみさん」とも呼ばれている。
山頂に二上射水神社の摂社「日吉社」(ひえしゃ、通称「奥の御前」)、二上山公園万葉植物園に同じく射水神社の摂社「悪王子社」(あくおうじしゃ、通称「前の御前」)がある。

藤原秀郷が化け物蜘蛛を退治したという。悪王子伝説では退治したのは、「二上の神」の悪王子という大蛇。
二上射水神社(ふたがみいみずじんじゃ)   高岡市
富山県高岡市の二上山南麓にある神社である。式内名神大社、越中国一宮で明治時代に遷座した射水神社の元の鎮座地である。二上山を神体山とし、二上大神を祀る。旧社格は村社。 境内には、二上山養老寺(別当寺)のひとつである高野山真言宗の寺院、慈尊院も併設されている。
蓮王寺(れんのうじ)   射水市三ケ
富山県射水市三ケにある高野山真言宗の寺院。高寺、鷹寺の名でも知られる。
大宝元年(701年)、越中守佐伯有若が行基を招いて鷹の供養のために七堂伽藍を建立したという。戦国時代に荒廃したが、江戸時代初期に再興された。
蓮王寺・五輪塔 / 藤原秀郷の墓とも、百足退治の記念碑ともいう。
縄が池姫神社   南砺市蓑谷
縄ヶ池の龍神伝説
約1200年前に鎮守府将軍をしていた藤原秀郷(俵藤太)が近江国で大むかでを退治したお礼に龍神から龍の子(姫)をもらいました。そして、この地に小さな池を堀り、龍神の子を放し、しめ縄を広く張り巡らしたところ、一夜にして大きな池となったと伝えられています。
その時の龍の子が縄ヶ池の守り神になっと言われ、湖畔に小さな石の祠が建てられています。縄ヶ池は龍神の住む池のため、池に石を投げると祟りがあるといわれています。
縄ヶ池の竜女
平安朝の昔、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太ともよばれた)が、近江の琵琶湖の主の竜に頼まれて、三上山の大百足を退治し、お礼にもらった竜の子(女)をこの谷に放して、田畑の水源地を作ったといわれる。大正のころまで、日照りがつづいて水不足のときは、この池に雨乞いをした。
水底は深く、竜宮城があるという。昔、この池のほとりで草刈りをしていた男が、草刈鎌を水中に落としたので、探しに潜ったところ、池の主の竜女を見た。絶対に他言しないようにとの口止め約束をして、大財産家になった。しかし、あるとき思わず、竜女実見を口走ったために血を吐いて死んだという話も語り伝えられている。  
 

 

 
■石川県 

 

大野湊神社   金沢市寺中町
大野湊神社は、神亀4年(727)陸奥の人、佐那(さな)が航海中に猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の出現を感じ、海辺の大野庄真砂山竿林(おおのしょうまさごやまさおのはやし)に存していた神明社の傍らに一祠を建立し勧請したことをその創祀としている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)です。
この神明社、即ち天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を奉斎した社の創立年代は不詳ですが、おそらく飛鳥朝時代であると考えられています。
この猿田彦大神を合祀してより、天平元年(729)には天に達し「佐那武大明神」(さなたけだいみょうじん)の称号を賜りました。
しかし建長4年(1252)社殿が炎上したため、離宮八幡宮(現在の社地)に遷座されました。
歴代朝廷の崇敬篤く度々の造営神宝の御奉納、勅使参向もあり、武将国司の神器社領の寄進がありましたが、一向一揆の乱により社殿の荒廃甚だしかったとされています。
天正14年(1586)加賀藩主前田利家公が任国の際、社殿を再興し、社領を寄進されました。
以降加賀藩主前田家の崇敬篤く、大野庄(現在の金沢駅西地区)の総社として社殿、神器の修築や寄進を受けております。
明治5年郷社、同18年県社に昇格、同34年壱千弐百年祭が斎行されました。昭和25年壱千弐百五拾年祭、同41年神社本庁別表神社に加列されました。

延喜式内社: 『延喜式』は延喜5年(905)醍醐天皇の命により編纂された三大格式(律令の施行細則)のひとつ。なかでも巻9、10は『延喜式神名帳』とよばれ、この神名帳に記載さえた神社を「延喜式に記載された神社」、いわゆる「延喜式内社」「式内社」と呼びます。加賀国には式内社42社の記載があり、大野湊神社は加賀国加賀郡の頁に記載されている。
氣多大社(けたたいしゃ)   羽咋市寺家町
石川県羽咋市寺家町にある神社。式内社(名神大社)、能登国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「気多大神宮」。
能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座する。祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
現在は本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物の社叢「入らずの森」で知られる。
祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
創建
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、位置)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる。
概史
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(文献上初見)。
国史では、古くは『続日本紀』神護景雲2年(768年)の記事が見え、同記事では封戸20戸・田2町が支給されている。また神階に関しては、延暦3年(784年)の正三位から、天安3年(859年)に従一位勲一等までの叙位・叙勲の記事が載る。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では能登国羽咋郡に「気多神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
中世以降は能登国一宮とされ、中世・近世の間は畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。第二次世界大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、後述のように平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となった。  
 

 

 
■滋賀県 

 

三上山(みかみやま)   野洲市三上
滋賀県野洲市三上にある山。一般には近江富士として知られる。標高432m。ふもとには御上神社や滋賀県希望が丘文化公園がある。
平野部の残丘(浸蝕から取り残され、孤立した丘陵。モナドノック(英:Monadnock))であるため標高に比して目立ち、琵琶湖を挟んだ湖西地方からでも望める。南西部を野洲川が流れる。登山道は西側に表登山道と裏登山道が、東側に花緑公園側登山道がある。
『古事記』『延喜式』にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山である。紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように近江富士という愛称がある。藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持つ。
中世以降、周囲の山々が燃料などの採取目的に伐採が続けられて、大規模にはげ山化していったが、三上山は取り残されるように青々とした山様を維持した。このことからランドマーク的に存在感を増し、松尾芭蕉が「三上山のみ夏知れる姿かな」と詠んでいる。
華階寺(けかいじ)   大津市京町
旭高山幻中院。大津浄土宗五箇本寺の一つ。開山は足利義澄の姪、称誉西念。西念は師の生実おゆみ大巌寺二世虎角に師事、大津に幻案寺、西念寺の二箇寺を建立した後、永禄二年(一五五九)に当寺を建立。一説には、天文元年(一五三二)ともいう。この地にはもともと、平安中期に平将門を討つなどして活躍した関東の武将・俵藤太秀郷(藤原秀郷)が居を構えていたと伝えられ、境内には秀郷が腰をかけて石山の月を眺めたという月見の石がある。また秀郷には、近江富士で有名な三上山の百足むかで退治伝説があり、当寺には、秀郷がそのときに用いた矢の根で刻んだという矢の根地蔵尊がある。
延暦寺(延曆寺)   大津市坂本本町
滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。
歴史
前史
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。
最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
大乗戒壇の設立
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった。
名僧を輩出
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。
なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。
平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。/ 源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者/ 良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖/ 法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖/ 栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖/ 慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。/ 道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖/ 親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖/ 日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻め、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を焼いた。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。
神田神社   大津市本堅田
滋賀県大津市の堅田、真野周辺にはいくつもの神田神社がありますが、この神田神社は琵琶湖畔の堅田の浮御堂(満月寺)のすぐ近くです。
神田神社の創建の歴史は古く、今から千年以上も前の天暦3年(949)年のことです。これは堅田の地が京都の下鴨神社の御廚(みくりや)であって、琵琶湖で獲れた魚などを下鴨神社に献餞していたのが縁で、下鴨神社を勧請したのが始まりと伝えられています。京都の下鴨神社とはゆかりが深く、神田神社の御神紋は下鴨神社と同じ双葉葵です。

主祭神 鴨玉依姫命(かもたまよりひめのみこと)(賀茂御祖神社御分霊)
境内社 貴船神社(キブネジンジャ)(闇淤加美神・罔象女神) / 蛭児神社(エビスジンジャ)(事代主神) / 稲荷神社(イナリジンジャ)(倉稲魂命)
当社が鴨玉依姫命を奉斎せし所以は、往昔この地は、京の都 糺の森御鎮座 賀茂御祖神社(下鴨社)の御厨として栄え、諸祭礼に魚産物の神饌の供御を行ってきた、此の為 天歴三年(九四九)堅田西の切の氏神として、その御分霊を勧請奉祀された。従って神紋は下鴨社と同様 双葉葵である。神饌供御は一時期途絶えていたが、近年に至り復活し、供御人行列と言う堅田の行事として、葵祭に鯉・鮒寿司等の献饌を行っている。
龍王宮秀郷社・雲住寺 百足供養堂   大津市瀬田 
(りゅうおうぐうひでさとしゃ・うんじゅうじ むかでくようどう)
近江八景の1つに数えられる景勝地であり、京の都にとって軍事上の要衝でもある瀬田唐橋にまつわる伝説で最も有名なものは、俵藤太の百足退治である。これにまつわる伝承地が唐橋の東端にある龍王宮秀郷社と雲住寺である。
瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。
さらに時代が下って寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。
さらにこの神社の隣にあるのが、雲住寺である。創建は応永15年(1408年)、蒲生郡に城を構えていた蒲生高秀によって建てられている。高秀も俵藤太から数えて15代目の子孫であり、先祖の功績のあった場所に追善供養のために寺院を建立したのである。さらにこの境内には百足供養堂があり、藤太によって退治された百足を供養している。この地に伝説の当事者が全て祀られているという格好になるわけである。
俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。
闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。
その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。 
白鬚神社(しらひげじんじゃ)   高島市鵜川
滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。
祭神 猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)
国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えることから、両社の密接な関係が指摘される。
創建
社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。
後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある。一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江国・筑前国には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。また白鬚神社の鎮座する近江南部や同神が多く鎮座する池田郡、猿田彦命を祀る壱志郡の分布から、本来は海神族の流れを汲む和珥氏の祖神を祀ったものとする説もある。
当社の周囲には、背後の山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている。
概史
国史では貞観7年(865年)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この「比良神」が当社にあたるとされる。ただし『延喜式』神名帳には記載されていないため、当社はいわゆる国史見在社にあたる。
弘安3年(1280年)の比良庄の絵図では「白ヒゲ大明神」と見えるほか(「白鬚」の初出)、『太平記』巻18では「白鬚明神」という記載も見える。また、謡曲『白鬚』では当社が舞台とされている。
その後、慶長年間(1596年-1615年)には豊臣秀頼によって境内の整備が行われた。慶安元年(1648年)には朱印地として100石を受け、のちには189石余となったという。
明治に入り、1876年(明治9年)に近代社格制度において郷社に列し、1922年(大正11年)に県社に昇格した。
金勝山金勝寺   栗東市荒張
天平5年(733年)奈良朝の昔、聖武天皇の勅願により、奈良の都(平城京)の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として東大寺初代別当良弁僧正が開基しました。その後、弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受け、興福寺伝灯大法師願安により、大伽藍が建立され、大菩提寺と称しました。8世紀中頃までに近江の25別院を総括し、法相宗興福寺の山岳仏教道場でもありました。(興福寺官務牒疏)
天長10年(833年)仁明天皇により、鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられました。その折の勅願の題字が、金光明最勝王経の金勝陀羅尼品の「金勝」であり、金勝山金勝寺と改称しました。
寛永9年(897年)宇多天皇は、国費支給による学業僧である年分度者試度の太政官符を下賜せされ、菅原道真公が勅命により登山されました。(続日本書紀)
歴代天皇は論旨を下し、仏燈料を施入せしめられました。源頼朝公、義経公、足利尊氏公、義詮公等各武将は下知状を下され当山を保護されました。
天文18年(1549年)火災により全山灰燼に帰します。後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599年)時の住職清賢法印は、徳川家康公に謁見し再建を請願しました。漸く希代の霊刹を知り保護を命じましたが時宜を得ず、再建までには至りませんでした。現在の本堂・二月堂は、約400年前、元禄年間に建立された仮堂のままであり、 排水を考えた山型配石の参道、石垣は延宝2年(1674年)に修復されたものです。
朝に法華を講じ、夕に最勝を演じる声高く、更に日夜法華三昧を奉修し国家の安穏を御祈願しました。
朝廷の祈願所として(毎年正月15日九重の小豆粥の水は当山の清水を加持し、京都御所に持参する古例でありましたが、明治3年の献上物廃止令により途絶えました。)の勤行を怠ることはありませんでしたが、当山は山科毘沙門堂門跡の兼帯となり、廃寺の運命をたどることになります。
明治の政変に至り、仏供田30石、境内山林は上地となり全くの無録の寺とまります。治圓法印は、これを歎き、当時の法令に基づき寺領の一部を金勝村に譲与するという訴願の提起により下戻され、再興の芽が兆し現在にいたります。 
 

 

 
■京都府  

 

将門岩(まさかどいわ)
四明が嶽山上にある大きな岩。平安中期の武将であった平将門(?〜940)は、この岩の上で京の都を睥睨し、西国の海賊であった藤原純友(?〜941)と天下支配の密議を凝らしたという。のち、平将門は常陸国の国衙を攻略。下野・上野・相模などの諸国を支配して「新皇」と称したが、藤原秀郷らに敗れて将門の関東支配は僅か三ヶ月で終わった。純友の反乱と合せて、「承平・天慶の乱」という。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)   八幡市
京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。
平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社で、京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座する。皇室からは遠国の宇佐神宮に代わり二所宗廟の1つとして崇敬されるとともに、京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。武家からは特に源氏が源義家が当社で元服したこともあって武神として信仰し、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。
創建以来、当社は境内の護国寺と一体となる宮寺形式をとった。往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓の社殿である高良神社を八幡宮と勘違いしたという『徒然草』の話で知られる。その後、明治維新の神仏分離において仏式は排除された。仏式で行われていた放生会もまたその際に「石清水祭」と名を変えたが、現在も同祭は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。
境内は国の史跡に指定されており、大きく分けて本宮のある山上の上院と、頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。また、本社10棟の建物が国宝に指定されている。「やわたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている。
祭神
祭神は次の3柱。3神は「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称される。
中御前:誉田別命 (ほんだわけのみこと) 第15代応神天皇の本名。
西御前:比淘蜷_ (ひめおおかみ) 宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の3柱を指す。
東御前:息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと) 神功皇后の本名。
歴史
貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国、宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。「石清水」の社名は、男山に既に鎮座していた石清水寺(現・摂社石清水社)からとも、男山の中腹から湧き出ている"石清水"からともされる。また、元々男山の麓に鎮座していたのは和気氏の氏寺であった神願寺(和気清麻呂の墓があったと伝わる)であったが、空海ゆかりの高雄山寺を神護寺に改めて新たな氏寺にした際に元の神願寺に八幡神を勧請することで新たな位置付けを与えようとして行教や清和天皇の後見人である藤原良房に働きかけたとする説もあるが、神願寺の位置については諸説あるために現時点では可能性に留まる。
石清水八幡宮が創建されると薬師如来を本尊とする石清水寺はその神宮寺となり、貞観4年(862年)名称を護国寺と改めてより神仏習合の度合いを増していった。
天慶2年(939年)、伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得る。皇室・朝廷からは、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。中世以降は勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並び二所宗廟の1つに数えられる。また清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などの源氏諸氏族から氏神として崇敬されたため、武神・弓矢の神・必勝の神とされた。これら源氏によって、当社の分霊は源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鎌倉の鶴岡八幡宮など、数多くの八幡宮に勧請された。
幕末までは神仏習合の宮寺として「石清水八幡宮護国寺」と称し、東寺(教王護国寺)・清水寺・比叡山延暦寺・仁和寺・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・相国寺・大安寺など多くの寺院と深い関係を持った。また伊勢平氏も当社を重んじ、平正盛の造営の功や平清盛ら伊勢平氏の臨時祭での演舞が知られる。江戸時代まで護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる宿坊が参道に軒を連ねたといい、寛永の三筆である松花堂昭乗も当社に仕える社僧であったことが知られる。
慶応4年(明治元年・1868年)3月12日に明治政府の神仏分離令により、神号を「八幡大菩薩」から「八幡大神」と改めた。1871年(明治4年)に近代社格制度において官幣大社に列する。1883年(明治16年)には、勅祭社となった。
社号は、1869年(明治2年)8月に「男山八幡宮」に改称したが、1918年(大正7年)1月に「石清水八幡宮」へ復し、現在に至っている。
なお、神宮寺であった護国寺は廃仏毀釈によって廃寺とされたが、護国寺住職の道基は1869年(明治2年)に本尊の薬師如来像と十二神将像を淡路島の東山寺に移している。
醍醐寺(だいごじ)   京都市伏見区醍醐東大路町
京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院。真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称し、本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所観音霊場第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。
札所本尊真言(准胝観音):おん しゃれい それい そんでい そわか
ご詠歌(上醍醐):逆縁(ぎゃくえん)ももらさで救う願(がん)なれば 准胝堂はたのもしきかな
京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。
歴史
平安時代初期の創建。貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後、室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり(例、金堂、満願寺(紀州))や三宝院が再建されたりなどし、今日の姿となった。
京都 神田明神   京都市下京区綾小路通西洞院東入新釜座町
旧名:神田神宮とは、平將門の首が晒されたとされている地に残されている祠である。天慶の乱の後、 貞盛、秀郷に討たれた将門の首級は平安京まで送られ東の市・都大路で獄門にかけられた。その首の行方から将門塚(しょうもんづか)をはじめ数々の伝説が全国各地に残されている。
京都・四条通を南の綾小路通りへ少し下がった路地に民家の軒下に埋め込まれるように祀られている。所在する新釜座町の地は、平安時代当時は左京五条三坊一保一町の町中であったが、後には 太政大臣・藤原頼忠の四条宮となった。その後再び町屋になったという、市内でも古い町である。2010年(平成22年)2月に行われた改修工事以前は、民家軒下の壁が路地にせり出しており、上部には格子の中に古い廚子が納められ、下部には壁の中に石が塗りこまれていた。その後、祠は民家の中に移設され、下部にあった石と共に祀られるようになった。
歴史
築土神社が祀られた頃、当時“市聖”とあがめられていた高僧の空也上人は京の都において、将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養したという。いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、細い路地に位置することから“膏薬の辻子(こうやくのずし)”として地名になったと伝わっている。明治2年に南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、現在の町名(新釜座町)に変えられるまではこの名で呼ばれていた。江戸時代の地誌類にはいくつかに掲げられている。『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載されている。 『拾遺都名所図会〜巻一〜』においても「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれている。 明治に入ってからの、『京都日出新聞』では将門の首塚を発見したという記事が載ったが、大正初年の『京都坊目誌』には将門との縁を否定する文が残されている。ここが東京の神田明神の本家であるという説もあるが、裏付ける資料は見つかっていない。
空也堂   中京区蛸薬師通堀川東入亀屋町
空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。
毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服(おうぶく)茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民俗文化財の六斎(ろくさい)念仏焼香式が奉修される。
膏薬図子・神田神宮   京都市下京区四条通新町西入ル下ル新釜座町 
(こうやくのずし・かんだじんぐう)
自転車がなんとかすれ違える程度の細い路地。四条通に面しているが、一旦路地へ入ると喧噪とは全く無縁の地となる。
「膏薬図子」という奇妙な名であるが、これはこの地に空也上人が供養のための念仏道場をおいたことが由来だという。「空也供養(くうやくよう)」が転訛して「膏薬」となったという訳である。ちなみに「図子」は「小路」よりも狭い路地の意味とのこと。つまり「膏薬図子」は空也上人が供養のために開いた土地にできた路地ということになる。
この狭い路地の途中、一軒の家を借りるようにして、小さな祠が安置されている。これが空也上人の供養を必要としたものの正体なのである。屋内に丁重に置かれた、ちっぽけな祠こそが京都の神田明神なのである。そして祭神はいうまでもなく、平将門である。
関東で乱を起こした将門は討たれ、その首は京都に持ち帰られて四条河原辺りに晒されたという。この首が晒された場所が、実はこの祠の置かれた場所であるというのである。
その後将門の首は胴体を求めて関東へ飛び去っていくのだが、やはり京都への怨みが強いのか、空也上人が晒し首のあった場所に念仏道場を建てて供養することになる。さらに将門を祀る祠としてこの神田神宮が建てられたのである。(一説では、京都のこの神田神宮の方が本家にあたるとのこと) 
末多武利神社(またふりじんじゃ) 1   宇治市宇治又振 
小社ではあるが、それなりに整えられた神社である。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文を祀る。忠文は藤原式家の出身で、長らく国司などの地方官を務めた後、高齢ながら参議となった。そしてその直後の天慶3年(940年)に起こった平将門の乱にあたって、征東大将軍として朝廷軍の最高指揮官に就任するのである。ところが、忠文らが関東に到着する前に、平将門が藤原秀郷・平貞盛によって討ち取られる事態となる。
徒労に終わった遠征から帰ると、さらに問題が起こる。乱鎮圧の恩賞を巡って、戦闘に参加しなかった忠文の処遇をどうするかで公卿の意見が割れたのである。中納言・藤原師輔は恩賞を与えるべきであると意見したのに対し、大納言・藤原実頼は戦っていないから恩賞を与えるべきではないと主張した。結果、実頼の意見が通り、忠文は恩賞に与ることが出来なかったのである。
これを恨みに思い続けて忠文は亡くなったのか、その後、実頼に不幸が訪れる。忠文が亡くなった直後、村上天皇の女御であった娘が、子をなさないまま死去。同年、さらに嫡子の敦敏が病死。これによって忠文は“悪霊民部卿”とも呼ばれることとなり、その慰霊のために建てられたのが末多武利神社である。同時代の菅原道真・平将門と比べると強大ではないが、れっきとした祟り神である。 
末多武利神社(またふりじんじゃ) 2   宇治市宇治又振
祭神 藤原忠文
藤原忠文は天慶2年(940年)、平将門の乱鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ東国に向かったが、到着前に平将門は討たれていた。忠文は大納言藤原実頼の反対により恩賞の対象から外されたので、忠文は実頼を深く恨み、死後も実頼の子孫に祟ったという。この神社は忠文の御霊を慰めるために作られたものである。
遍照寺(へんじょうじ)   京都市右京区嵯峨広沢西裏町
京都市右京区にある真言宗御室派準別格本山の寺院。山号は広沢山。本尊は十一面観音。
成田山新勝寺を開いた寛朝が989年嵯峨広沢池の湖畔に創建した寺が始まりとされる。その後衰退し江戸時代文政年間(1818年〜1830年)にようやく復興された。
仁和寺(にんなじ)   京都市右京区御室
京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。
皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。
御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道「御室流」の家元でもある。
普段は境内への入場は無料であり、御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。
宿坊で宿泊客を受け入れている。御室会館のほか、「松林庵」(しょうりんあん)を改修して高級宿坊としている。
歴史
仁和寺は平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められた。光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、遺志を引き継いだ宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて年号をとって仁和寺と号した。
宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室(仁和寺)御所」の別称がある。仁和寺の初代別当は天台宗の幽仙であったが、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に、別当を同じ真言宗の観賢に交替させて真言宗の寺院として定着。その後は宇多天皇の子孫が別当を務めてきた。11世紀に三条天皇の皇子である性信が別当の上に新設された検校に任じられて以降は、皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。
なお「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。
仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族出身の門跡は伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。
室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。応仁の乱の最中、本尊の阿弥陀三尊像は持ち出され、焼失を免れた。仁和寺が本尊と共に、双ヶ丘の西麓へ移された時期があった。
近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、徳川幕府により伽藍が整備された。また、寛永年間の皇居(現・京都御所)建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。 この江戸期の再建に際しては、門跡補佐の僧・顕證が尽力した。仁和寺で使われている軒丸瓦(仁和寺の寺号入り)のデザイン、再建される伽藍の配置構想や金堂に祀る仏尊の選定を行った。 仁和寺霊宝館に顕証上人像が収蔵されているが、小さく、衣体も顕證が普段に使っている袈裟を身に付けているという。
また、経典・密教経典の儀軌などの聖教、仁和寺に伝わる古文書の管理・収蔵のために経蔵の建立を発願し、完成させた。  
 

 

 
■奈良県 

 

東大寺   奈良市雑司町
法華堂執金剛神立像(ほっけどうしゅこんごうじんりゅうぞう)
制作年代 奈良時代  像高 173cm  安置場所 法華堂
執金剛神像とは金剛杵(こんごうしょ)を執って仏法を守護する神のことで、金剛力士(仁王)はこの神将が発展して生まれたといわれている。法華堂の執金剛神像はこの神将のうちでも古来もっとも著名なもので、すでに9世紀初頭に成立した『日本霊異記』に、「法華堂本尊不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう)の背後の厨子内に北面してまつられていた」と記されている。目を瞋(いか)らせ、口をかっと開いて、いまにも怒号とともに金剛杵を振り下ろそうとする一瞬の姿が見事にとらえられている。
この像の成立時期については諸説あるが、東大寺の前身寺院である金鍾寺(きんしょうじ・或いは、こんしゅじ)時代の良弁(ろうべん)によって発願(ほつがん)されたとすることはまちがいないとされる。また、髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐の端が欠失しているのは、天慶2〜3年(939〜940)の平将門(たいらのまさかど)の乱のおり執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、大蜂となって東方に飛び去り、将門を刺して乱を平定したからだとされ、この像の霊異伝説のもととなっている。
宝前左右の両柱に懸けられている鉄製の燈籠(重要文化財)は、この説話にもとづいて造られたもので、火袋に蜂が、左では木の枝に止まる姿で、右では羽を広げて空中を飛ぶ姿で、それぞれ透かし彫りで表されている。
制作年代は不明であるが、火袋上段に見られる唐草文の蔓の延びや形から、室町時代頃のものと推定されている。 厨子の両側には板絵が描かれているが、この同じ執金剛神像にまつわる説話のうちから二つの場面を描いたもので、板絵裏面の墨書銘によると、寛永11年(1634)6月に辻七右衛門丞なる人物によって寄進されたものである。

執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、大蜂となって東方に飛び去り、将門を刺し殺して乱を平定した。髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐の端が欠失しているのはそのためという。
御霊神社   五條市岡町
将門を祀るという。
御霊神社(神霊宮)   五條市西阿田
「阿陀比売神社」から更に北へ行くと、バス停「阿田山田」を過ぎて曲がり角の手前、左側の高台の上に石碑「磐座の森」が建ち、また、曲がり角の右下には石碑「伝承、天盤舟」が建っています。更に北へ進み国道370号線を渡って、直ぐ左側に五條市西阿田の「御霊神社」が鎮座しています。五條市内に23社もある「御霊神社」の1社で、藤原百川(ももかわ)によって無実の罪で殺されたと云う第49代光仁天皇の皇后だった井上(いのえ)内親王と、その息子の他戸(おさべ)親王の霊を鎮めるために創建された神社ですが、地元では、昔から頭痛の神様として知られており、遠く和歌山方面からも毎月お参りに来られます。
御霊神社に祀られている「井上内親王」のこと
井上(いのえ)内親王は、奈良朝3代目で初の男性天皇、第45代聖武天皇の長女として、717年(養老元年)に生まれ、母は県犬養宿弥刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)です。
721年(養老5年)9月11日5歳の時、卜定(ぼくじょう、占い)により、斎王(いつきノみこ、伊勢神宮に出仕する未婚の皇女)に選ばれ、
727年(神亀4年)9月3日11歳で伊勢神宮の斎宮に出仕し、19年間奉任して、
746年(天平18年)内親王30歳は斎王を交代し、任を解かれて平城京へ戻り、数年後、 白壁王(しらかべおう、天智天皇の孫、志貴皇子の第六子)58歳の妃になって、
754年(天平勝宝6年)38歳の時、高齢出産で酒人(さかひとノ)内親王を生んで、
761年(天平宝字5年)井上内親王は45歳で、第一子の他戸(おさべ)親王を産んで、
770年(宝亀元年)8月4日異母妹の第48代稱徳天皇が崩御の後を受け、10月1日夫の白壁王62歳が、藤原百川(ももかわ)や藤原永手(ながて)の推挙によって、奈良朝最後の第49代光仁(こうにん)天皇に即位したので、11月6日井上内親王は54歳で皇后になり、翌年正月23日他戸親王11歳も皇太子になりましたが、光仁天皇は皇位継承問題が浮上した時、身の危険を感じて酒浸りになり、腑抜けを装い、、光仁天皇の即位を拒んだ吉備真備は孤軍奮闘したけど叶わず、「長生の弊、この恥に遭う」と嘆き、政界を退きました。 
772年(宝亀3年)3月2日井上内親王は、密告により巫蠱大逆(ふこだいぎゃく、巫女に天皇を呪い殺す祈祷をさせること)の冤罪(えんざい)をきせられて、皇后の位を剥奪され、同年5月27日他戸親王も母に連座して皇太子の位を剥奪され、廃太子になったが、
鎌倉時代初期に書かれた神武天皇から仁明天皇までの55代(弘文天皇を除いて、神功皇后、飯豊天皇を含む)1522年間の事跡を編年体で記した歴史書「水鏡」に、「后は呪詛をして、その呪物を井戸に入れさせ、御門(みかど、光仁天皇)の早死を願い、我が子東宮(他戸皇太子)を位につけようと願った」と書かれ、更に、
773年(宝亀4年)10月19日井上内親王が光仁天皇の姉・難波(なにわ)内親王を厭魅(えんみ、呪いで天皇らを殺すこと)した罪(惑害した罪)により、大和国宇智郡(今の奈良県五條市)の没官(ぼっかん、官職を取り上げられた人)の館、今の五條市須恵(すえ)辺りに幽閉されたが、奈良から流される時、内親王は懐妊しており、五條市近内(ちかうち)町から西河内町、今井町を通って岡町を越える辺り、今の奈良カントリークラブ五条コースの辺りで男児を出産し、この男児が後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった若宮で、彼の出生の地を産屋峰(うぶやみね)と呼んでいます。
なお、五条市の辺りは藤原南家ゆかりの地だったから、おそらく退官した藤原一族の館へ預けられたものと思われますが、須恵一帯を下馬町と呼び、江戸時代ここを通行する者は、大名といえども馬から下りて通る習わしがあり、それを犯すと、落馬するか、禍を受けたと伝えられ、それもこれも井上内親王の幽居があったからで、その跡に井上院(いじょういん)が建立され、現在井上町と云う自治会があり、「聖神さん」と呼ぶ古い祠を祀り、境内で子供はいくら戯れて遊び、おしっこを漏らしても祟りはないけど、大人が放尿でもしようものなら病魔に冒されてしまいます。
775年(宝亀6年)4月27日井上内親王は59歳で、他戸親王は15歳の若さで毒殺され、それを陰で策謀した者は女帝・称徳天皇の崩御後、弓削道鏡が失脚して、左遷されていた大宰帥(だざいのそち)が再び中央の参議に登任して政権を握り、時の権力者になった藤原百川朝臣(あそん)と云われ、公卿補任(くぎょうぶにん)は、「藤原百川の策諜であった」と断言し、本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、二人が獄中で亡くなった後、龍(りゅう)になって祟って出たと記していますが、
奈良時代は律令制が完成し中央集権政治が確立して、咲く花の匂うがごとく華やかな時代でしたが、陰では皇位、政権をめぐる政争が極めて激しい時代で、藤原百川が策を用いて、光仁天皇を立て、天皇のもう一人の妃・高野新笠(たかのノにいがさ、百済系帰化人の出)が生んだ山部親王(後の第50代桓武天皇、他戸親王の異母兄)を皇太子にする為、井上内親王と他戸親王が邪魔なので、親子に巫蠱(ふこ)、厭魅(えんみ)の罪を被せて流罪の後、暗殺したのが事の真相で、また、「水鏡」によると、井上内親王による祟りによって、
776年(宝亀7年)9月、「20日ばかり夜ごと瓦や石、土くれ降りき。つとめて見しかば屋の上に降り積もれりき」とあり、そして、また、奈良朝も押し迫って末期に至り、
777年(宝亀8年)「冬雨も降らずして世の中の井の水みな絶えて宇治川の水既(すで)に絶えなむとする事侍(はべ)りき。12月百川の夢に、鎧兜(よろいかぶと)を着たるもの百余人来たりて吾を求むとたびたび見えき。また、御門東宮(みかどとうぐう)の御夢にも、かように見えさせ給ひて諸国の国分寺に金剛般若(こんごうはんにゃ、金剛般若波羅蜜経のこと)を読ましめさせ給へりき」とあり、奈良の都でも、光仁天皇や藤原百川が悪夢に悩まされ、
779年(宝亀10年)井上内親王は怨霊となって祟り、竜に変身して藤原百川48歳を蹴殺した事が、鎌倉時代の初期に成立した史論書「愚管抄(ぐかんしょう)」に書かれ、また、天変地異が起こるのは井上内親王の祟りと恐れられ、御霊を鎮める祈祷が行われ、12月28日井上内親王の墳墓を改葬して、御墓と称し、墓守一戸を置き、
780年(宝亀11年)正月20日勅使(ちょくし、天皇の使い)従四位・壱志濃(いちしの)王らが再び奈良県五條市御山(みやま)町の御墓を改葬しました。
781年(天応元年)4月3日光仁天皇が73歳で山部親王に譲位して、他戸親王の死で、棚から牡丹餅式に第50代桓武天皇が即位し、天皇の弟・早良親王(さわらしんのう、他戸親王の異母兄)が皇太子になって間もなく、784年(延暦3年)都が奈良の平城京から長岡京へ遷都(せんと)し、桓武天皇は呪われた平城京から逃げ出しましたが、
785年(延暦4年)早良親王も造長岡京使・藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座したかどで皇太子の位を剥奪され、長岡京の乙訓寺へ幽閉の後10日余り断食し、淡路へ流される途中淀川の畔で餓死して、後に安殿親王(あてしんのう、後の第51代平城天皇)が皇太子になるが、その母と高野新笠が病死し、安殿親王も病んでなかなか治らず、これらのことが早良親王の祟りと恐れられ、
790年(延暦9年)桓武79天皇勅願で宇智郡一円を社領にもつ奈良県五條市霊安寺町の「御霊神社(御霊本宮)」が創建されたと、御霊神社神主藤井家伝来書が伝えているが、
794年(延暦13年)都を長岡京から平安京へ遷都の後、800年(延暦19年)早良親王を崇道(すどう)天皇と追号し、墓が改葬され、7月19日同時に亡井上内親王も皇后の位が復され、吉野皇太后の称号を贈られて、墓を山陵(宇智陵、井上内親王陵)と称し、勅使従五位下葛井(ふじい)王が宇智郡まで下向して「霊安寺」を建立したが、
805年(延暦24年)2月6日の「日本後紀」に記載されている「霊安寺」がその後、兵火にかかって焼失し、現在は寺名のみが霊安寺町として残っており、「続日本紀」によると、堂塔50余宇(棟)をもつ大寺院で、焼失後に「神宮寺」が社前左に建てられたけど、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になって、「霊安寺」から伝えられた「神宮寺」の仏像、大般若経など全ての寺宝が「御霊神社」東隣にある井上山(いじょうざん)「満願寺」へ移され、
また、同年2月京都でも僧150人に大般若経を読ましめ、「霊安寺」に一小倉を造って、稲30束と、調綿(ちょうめん)150斤、庸綿(ようめん)150斤を納め、井上皇后の御霊を慰めたので、これにてやっと、井上内親王の祟りも何とか鎮まって、
863年(貞観5年)最初の御霊会が京都の神泉苑で営まれ、やがて都へ出入りする街道筋で疫病を封じ平穏を祈る御霊会がたびたび行われ、当初は陰惨な感じの祭事だったが、その内御霊も慰められたのか、民衆もまた平素の苦しい生活を忘れて楽しむ祭事になり、
9世紀末あっちこっちに御霊神社が建立され、一般に御霊として祀られている八所大明神は井上内親王、他戸親王、崇道天皇(早良親王)、伊豫親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文室宮田麿の八柱ですが、五條市霊安寺鎮座の御霊神社は、本社に井上内親王、他戸親王、早良親王の三柱を祀り、後一柱に丹生川(にうがわ)をへだてた御山(みやま)町の火雷神社(からいじんじゃ、若宮火雷神社)の火雷神(ほのいかずちノかみ、他戸親王の同母弟)を祀り、合わせて四所大明神と称しています。
なお、若宮火雷神社(わかみやほのいかずちじんじゃ、若宮さん)の例祭は、昔は本社の例祭より数日早く行われていましたが、今は本社と同じ日で、毎年10月23日に執行され、神輿が御旅所になっている宇智陵まで渡御し、母子対面されますが、御渡の途中の道を100mほど上がった所に、兄の他戸(おさべ)親王の御陵があります。
1428年(正長元年)御霊神社(御霊本宮)が土一揆に際し、守護・畠山氏によって焼かれ、1455年(康正元年)の棟札も残っているが、現在の本殿は県文化で、1637年(寛永14年)に再建され、三間社流造で、
1472年(文明4年)五條市中之町に鎮座する御霊神社の本殿が創建され、こちらは現在国の重要文化財に指定され、
13世紀に御霊(ごりょう)本宮から10ヶ所に御霊神社が分祀され、更に宇智郡各地に勧請されて御霊信仰が一円に広まり、現在五条市内に全部で23もの御霊神社があり、
本社の春季大祭は、2年に1度、井上内親王の命日を前にして、太々神楽祭が4月15日霊安寺氏子会によって斎行され、また、例祭は毎年10月22日・23日で、22日渡御神事があり、御旗、神具を先頭に神輿が進み、行列は100余名、御旅所では出店も出て賑わssい、23日五條市内を御渡して、夕刻本社に還幸しますが、市内至る所にある個々の御霊神社でも祭事が行われ、子供の山車(だし)も出て五條市内は祭り一色で賑わいます。  
 

 

 
■大阪府  

 

西琳寺(さいりんじ)   羽曳野市
大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の寺院。
西琳寺は、7世紀前半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏により創建されたとみられる。創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。創建時の伽藍は、塔を東、金堂を西に配する法起寺式伽藍配置とみられる。境内からは創建時の建物の屋根を飾っていた鴟尾(しび)が出土している。
寺の歴史に関しては『西琳寺文永注記』(一名『西琳寺縁起』、『続群書類従』所収)という文献がある。これは、鎌倉時代の文永8年(1271年)、惣持(叡尊の甥とされる)という僧が当時の寺に残っていた古文書、金石文などをもとに編纂したものである。同書に所引の「天平十五年十二月晦日記」(天平15年は743年)という記録は、西琳寺の創建を欽明天皇の乙卯年(欽明20年・559年)のこととするが、上田睦は境内出土瓦の型式編年等から、干支が一巡した60年後の推古天皇の乙卯年(欽明27年・619年)を実際の創建年とする説を取る。また、笹川尚紀も西文氏が欽明天皇と近い氏族で、欽明天皇の没後50年の前年にあたる推古天皇の乙卯年に欽明天皇の追善のために創建したとする説を取る。
安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により中世以前の堂塔ほぼ全てを喪失した。
朝日神明社(あさひしんめいしゃ)   大阪市此花区
大阪府大阪市此花区にある神社。別称として、逆櫓社(さかろのやしろ)。
祭神 天照皇大神、倭比売命、春日大神、菅原道真
明治40年(1907年)に、朝日神明宮(現・大阪市中央区)と皇大神社(現・大阪市此花区)を合祀して、社号を朝日神明社とした。そのとき、春日神社(現・此花区春日出)と安喜良神社(現・西区阿波座)を合祀した。
明治維新以降、二社(朝日神明宮・皇大神社)とも社運が衰微し、維持が困難となり、合併合祀され、現社号に改称して、此花区川岸町に鎮座した。その後、境内周辺の喧噪が甚だしくなり、現在の社殿がある場所へ遷座することとなった。
昭和20年(1945年)6月1日、大阪大空襲により、社殿のほか、すべてが灰燼に帰したが、昭和24年(1949年)に本殿、昭和40年(1965年)には中門と拝殿を復興・再建を果たした。
朝日神明宮
〇 朝日神明宮は、浪速三神明(朝日神明宮・日中神明宮・夕日神明宮)の一つに数えられて、大阪市中央区神崎町にあった。平貞盛が父平国香を(平将門の乱)によって、平将門に殺されたために、父の仇を討つため、天慶年間(938年〜947年)、大阪に天照皇大神を奉祀し、社殿を営んで戦勝祈願を行ったことを創建の起こりとする。その後、平貞盛が平将門を討ち取ったことを朱雀天皇に奏上すると、御神徳を讃られて、「朝日宮」の社号を贈られた。以後、朝敵追討の際は、奉幣使を遣わして、敵徒降伏の祈願を行った。
〇 源義経が平家追討へ西国へ赴くとき、戦勝祈願を行った。源義経と梶原景時が「逆櫓の論」を行ったが、朝日神明宮において、平家追討の祈願を行ったので、戦勝の確信があり、梶原景時に論争を挑んだという。この故事から、別称が逆櫓社と呼ばれるようになった。
〇 豊臣時代、大坂城築城の際、多くの社寺が遷座を命じられたが、遷座させられることはなく、豊臣秀吉の崇敬を受け、毎年、米百俵の寄進が行われた。また、大坂夏の陣(1615年)では、真田幸村が金色の采配を奉納し、出陣したとされる。
〇 江戸時代、大坂城代が参拝し、神前に供物を献じている。 
 

 

 
■兵庫県 

 

廣田神社   西宮市大社町
兵庫県西宮市大社町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神 
主祭神 - 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと))。伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と同体。
脇殿神 - 住吉大神、八幡大神、武御名方大神、高皇産霊神。
日本書紀に当社の創建のことが書かれている。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。
朝廷より篤い崇敬を受け、貞観10年(868年)に従一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、白河天皇の時代には二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。
元暦元年(1184年)、源頼朝が当社に平氏の討伐を祈願して淡路国・広田荘を寄進している。慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって大規模な社殿の改築が、末社・戎社(現・西宮神社)共々行われている。
当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため享保9年(1724年)に江戸幕府将軍の徳川吉宗により廣田山の地に遷座した。
1871年(明治4年)には官幣大社に列格した(兵庫県で最初。伊弉諾神宮は1931年(昭和6年)に列格)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であったという。六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられる。六甲比命神社は、インドの渡来僧法道仙人によって大化の改新の頃に、付近の心経岩・雲ヶ岩とともに、唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺 (神戸市北区)(本尊は毘沙門天・吉祥天・禅膩師童子)奥の院とされた。六甲山東麓の社家郷山は廣田神社宮司家の所有地であったその名残という。   1945年(昭和20年)8月6日の空襲によって社殿を焼失する。空襲による全焼までは廣田山に鎮座していたが、戦後その東側の現在地に移転している。
本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて1963年(昭和38年)に竣工したが、1981年(昭和56年)に不慮の火災によって焼失した。
廣田神社を中心とする神社群は、京から西国方向を目指す街道上にある神社ということで「西宮」(にしのみや)とも呼ばれていた。「西宮」の語は、後に廣田神社の神郷一帯(現在の神戸市東部から尼崎市西部まで)を指すようになったが、行政区画では廣田神社が武庫郡大社村、戎社(現・西宮神社)が西宮町となり、現在は町村合併により西宮市に含まれている。えべっさんで有名な西宮神社は元は廣田神社の摂社、浜南宮で、西宮神社境内社の南宮神社がその原型といえる。  
 

 

 
■和歌山県 

 

長藪城   橋本市細川字堂垣内
形態 山城(340m/140m)
築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に牲川(贄川)筑後守義春によって築かれたと云われる。
牲川氏(にえかわ)は義春の祖父牲川左衛門頼俊が楠木正成に仕えていたが、千早城落城によって十津川へ逃れ、義春のときに紀北へ復帰し長藪城を築いて居城としたという。
牲川氏は義春の後は義則、義次と続き、畿内に勢力を伸ばした織田氏に属した。しかし、その子義清のとき、天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州攻めによって攻め落とされた。

長藪城は城山小学校の北方に聳える標高340m程の山に築かれており、河内や大和との国境に近い場所にある。長藪城は東西二つの峰に西城と東城があり、さらに南西の先端の標高300.5mの峰に出城がある。東の城は南北に長い曲輪の南西端に折れを伴う虎口があり、南西、南東、北東、北西の四つの尾根を堀切で遮断している。西の城が主郭と思われ、北端の最高所に土塁が付いた主郭があり、南西に伸びる尾根に曲輪が伸びている。東の城へ続く東尾根は大堀切、北、北西、南尾根も堀切で遮断する。出丸のある南西へ続く尾根には竪堀が長く伸びる堀切を用いて遮断している。出丸は西の城から南西に伸びた峰にあり、山頂部を中心に帯曲輪が巡っている。 
 

 

 
■三重県 

 

平将門と伊勢と斎宮女御
先日、東京に出張した折り、かねてより希望していた実地調査を行いました。神田明神、その神宮寺だった日輪寺、そして将門の首塚跡と東京に残る平将門(?〜940)関係伝承地を歩いたのです。伊勢との関係を調べるために。
平将門の乱は、承平5年(935)頃に、下総国(今の千葉県北部)に勢力を持つ将門が、常陸国(今の茨城県)に勢力を持つ源護兄弟と、叔父である平国香を討ち取った戦に始まります。この時期の戦は坂東での豪族同士の私戦と見なされ、将門自体が京に上って裁判を受けてもいたようです。ところが天慶二年(939)頃に、こんどは武蔵・常陸の国府と闘うようになり、ついに坂東八カ国を支配するまで勢力を拡大します。こうなると国家的な反乱と見なされ、朝廷は反乱鎮圧のために追討使を任命します。しかし追討使の到着前に、一族の平貞盛や坂東の有力者藤原秀郷が、将門攻撃に立ち上がり、将門は戦死したのです
さて一方、朝廷は将門の乱の鎮定を祈願するため、伊勢神宮に勅使を派遣しました。天慶3年(940)正月のことです。
この将門の乱に関する祈願については、不思議な言い伝えが神宮に残されました。朝廷からの祈願の際に、多くの甲冑が奉納され、神宮から武装をした神々が海上を東に向かっていくのが見えた、というのです。
鎌倉時代の1280年代の終わり頃、神宮を統括する祭主、大中臣氏の一族の、通海という僧が著した『太神宮参詣記』には「俗に言うことで、確かかどうかはわからないが」、と前置きして、こういう話を載せています。
天慶2年(正しくは3年)に将門討滅の勅使が立てられ、成就のあかつきには神郡一郡と封戸を奉ると祈願をしました。するとある夜、神宮正殿の中で人の名を呼んでは弓矢・剣・鉾・甲冑などを数え、渡していく声が聞こえたというのです。また二見浦では、海人たちが甲冑を着た数多くの人が白馬に乗って海上を東に向かい、陸地を歩むが如くに走って行ったのを見たといい、その日に、厩の神馬が水に濡れていた、というのです。
また、同じ本の別の箇所には、天慶に将門を討った時には、日吉の神を大将軍、住吉の神を副将軍として派遣した、ともしています。
このように神宮にとって、将門の乱は長く語り伝えられる事件だったのです。しかし伊勢と坂東は、大変離れているのに、どうしてこんな記録が残るのでしょう。
その原因の一つは、平将門の乱が、『平家物語』の冒頭でも語られるように、長く貴族社会で恐怖の記憶として語り伝えられたことでしょう。しかしそれとともに、その背景には、南伊勢地域と関東南部の意外に深いつながりがあるのではないか、と思います。
例えば、12世紀後半頃から南伊勢地域で作られ始め、伊勢型鍋と呼ばれた独特の薄手の素焼き土器の鍋がありますが、この鍋は東海地方だけではなく、江戸湾(現在の東京湾)の沿岸地域の中世遺跡でも出土しており、南伊勢地域との海を介した交流の中で伝わったものと考えられています。

さて、現在の皇居の東北東に隣接する千代田区大手町には、平将門の首塚と称するものが早くからありました。当時このあたりは芝崎村と言われており、鎌倉時代には神田明神や日輪寺(時宗)などの施設も整備されていったようです。とはいえ、このあたりは江戸開府まではほとんど海岸といってもいいような地形だったのです。そして江戸城造営により、神田明神は鬼門(丑寅)の守護として外神田の現在地に、日輪寺は最終的には西浅草に遷され、別れ別れになります。今の神田明神は高台にありますが、日輪寺の山号は今でも芝崎山で、海岸にあった寺の名残を留めています。
つまり将門についての御霊信仰(非業の死を遂げた人の怨霊を神として祀ることで、その力で守護してもらおうとする信仰)ともいうべきものは、江戸湾に生きる武蔵や下総や安房などの海人によって伝えられていたと考えられるのです。それは南伊勢と交流が認められる地域と重なるものでした。
南伊勢地域と将門の関係はこれに留まりません。平清盛の祖先は伊勢に土着した平氏で伊勢平氏と呼ばれましたが、その祖先は、常陸の豪族で、将門を討った平貞盛の子、維衡とされています。そしてその本拠は津市街の西郊とも、斎宮にほど近い多気郡河田あたりともいわれ、いずれにしても伊勢の中南部地域だったのです。さらに伊勢平氏は伊勢湾の湾内交通とも深く関わっていたと見られており、関東との交通関係も念頭に伊勢に土着したのではないかと考えられます。南伊勢の側にも将門の乱の関わりがありました。
また、面白いのは、南伊勢地域に、今も民俗事例として将門に関わる意識が見られることです。旧多気郡・度会郡などを中心に、愛知県三河地方の一部から奈良県南部の一部まで、家の門口に年中注連縄を掛けるという風習があります。そこに付ける木札には多くは「蘇民将来子孫門」と書きます。これは牛頭天王(祇園の神)の信仰に関わる、陰陽道の疫病除けの信仰なのですが、松阪・明和町地域などでは「笑門」と書く例が見られるのです。笑門来福の意味かと思ったら、地元では、「将門」と略すと平将門と同じになるので「笑」に変えているのだと伝えられている、というのです。近世頃の新しい解釈なのかもしれませんが、こんな所にも将門がいました。
同じく伝承の世界では、志摩半島の南側、紀伊長島に近い紀北町にある有久寺温泉は、平将門の子の将国が拓いた、という伝説があります。将国は伝説上の人物で、常陸国の豪族信田氏の開祖となったというのですが、その言い伝えが西日本にあるのは珍しいのではないでしょうか。
なお、面白いのは、この将国が後に安倍晴明になった、という伝承もあるらしいことです。「蘇民将来」の木札の裏には、「セーマン」と「ドーマン」といわれる、五芒星と九字の真言のマークが描かれており、このマークは、安倍晴明(セーマン)とそのライバルの芦屋道満(ドーマン)にちなむともいわれるのです。ところがこのマークは略式の「笑門」の札には書きません。将門に連なる晴明を避けて、などと妄想もふくらみます。
このように、南伊勢地域にまで大きなインパクトを遺した平将門の乱なのですが、さて、斎宮についてはどうだったのでしょう。実は、将門の乱の祈願があった時の斎王は、かの斎宮女御徽子女王(929〜985)なのです。将門は、彼女の母方の祖父、藤原忠平に臣従しており、身近に仕えていた時期もあったようで、全く無縁というわけではありません。祖父の従者が大反乱を起こし、自らが仕える伊勢神宮への祈願で鎮圧された、というこの戦は、遠い関東でのできごとながら、伊勢神宮に関わる生涯忘れられない記憶となったのではないでしょうか。朝廷からの追討祈願があった年には斎王徽子は12才、最も多感な時期でありました。
後年、円融天皇をはじめ周囲の反対を押し切って二度にわたり斎宮に下向する、という斎宮女御の強靱な意志の力は、少女の頃のこうした経験と強く関わっているのかもしれません。
このように見ると、平将門の乱と南伊勢地域と斎宮女御は、意外に深い関係があったといえるかもしれないのです。
有久寺温泉(ありくじおんせん)   北牟婁郡紀北町島原
三重県北牟婁郡紀北町島原にある山あいの温泉。有久寺とは近くにある古刹の名前で、花山天皇の開基と伝えられる。
『北牟婁郡地誌』によれば、949年(天暦3年)に発見されたという。西国三十三所詣でで那智山に参った花山院法皇が冷泉の名湯であると現し、これを伝え聞いて戦傷の治療に訪れた平将国(平将門の子)は49日間の湯治で全快したという。しかし、花山院法皇は949年時点ではまだ生まれていなかったし、承平天慶の乱後の動向が不明である将国が乱から10年余りを経てこの地を訪れて古傷を短期間で癒やしたということに根拠はない。『紀伊長島町史』は、当地を東熊野街道が経由していたことと当時の旅人の間で知られていたことを示すものと考えられなくもない、としている。なお『北牟婁郡地誌』の当該記述は1889年(明治22年)に地域住民から聞いた話を記したものである。有久寺薬師堂の棟札には湧出時期は不明であると記されている。
鎌倉時代から霊泉として知られた古湯である。由井正雪が入湯したという伝説もある。

将門の子、将勝(将国とも)が湯治をして全快したという。  
鵜森神社(うもりじんじゃ)   四日市市鵜の森
祭神は天照大神・素戔嗚尊・菅原道真であるが、実質はこの地にあった浜田城主の田原氏4代とその祖先の藤原秀郷(俵藤太)である。
田原氏は元は上野国赤堀庄の出であり、景信の代に伊勢に移り、その末子の田原忠秀が文明2年(1470年)に築城したのが浜田城である。忠秀は東海道の整備をおこない、また定期市を開いき、それなりの治世を施したとされる(この定期市が“四日市”の名の由来ともいわれる)。その後も2代目藤綱・3代目元綱と、田原氏はこの地に居を構える。しかし天正3年(1575年)、織田信長の武将・滝川一益によって浜田城は落城し、田原氏は領主の座から転落する。落城から逃れた4代目の重綱は織田信雄に仕えたが、いわゆる小牧長久手の戦いの緒戦で討死し、田原氏は滅亡する。さらに滝川氏の持ち城となっていた浜田城も、同じ一連の戦いの中で攻略され廃城となってしまう。
やがて万治元年(1658年)頃までに、旧田原氏家臣によって城跡に鵜森大明神が建てられ、田原氏の4代が祀られたという。これが現在の鵜森神社の始まりであるとされる。
鵜森神社には国の重要文化財指定の社宝がある。「十六間四方白星兜鉢」と呼ばれる兜である。平安時代の作とされ、武具の変遷史においても非常に重要な作品である。社伝によると、この兜は藤原秀郷所有のものであり、田原氏に代々伝わったものであるとされる。しかもこの兜は、秀郷が三上山の百足退治をした際に龍王から褒美として与えられたものであるとされる。そのためこれに祈願すると雨雲を呼ぶということで、これを使って雨乞いの儀式が大正頃まで続けられたという。
天照寺・千方五輪塔(てんしょうじ・ちかたごりんとう)   伊賀市霧生
天照寺は、創建が延元元年(1336年)の古刹である。当初は天正寺の名で多くの伽藍を有する大寺院であったという。その墓が並ぶ裏山の頂上付近に、一基の大きな五輪塔がある。ほぼ人と同じ背丈の五輪塔には、正平17年(1362年)の銘が刻まれており、市の文化財にも指定されている。これが藤原千方の首塚であるという伝承を持つ。
藤原千方は『太平記』巻十六にある「日本朝敵事」に、土蜘蛛・平将門と共にその名が見える。
天智天皇の御代、藤原千方という者が4匹の鬼を従えて伊賀・伊勢国で朝廷に対して反旗を翻し、傍若無人の振る舞いをしていたという。配下の鬼は、身体が堅くて矢をも通さない“金鬼”、敵の城を打ち破るほどの大風を吹かす“風鬼”、洪水を起こして敵を溺れさせる“水鬼”、姿を隠しにわかに敵前に現れて打ち倒す“隠形鬼”の4匹であり、この人智を超えた能力のために、千方の軍勢は敗れることがなかったのである。
そこで朝廷は千方討伐に紀朝雄を派遣する。朝雄は鬼に対して次のような歌を送りつけた。
草も木も わが大君(おおきみ)の 国なれば
いずくか鬼の 棲(すみか)なるべし
この歌を読んだ鬼達は、自分たちが悪逆非道の者に仕え、有徳の天皇に抵抗しているとなれば、天罰を免れることは出来ないと考え、千方の許から逃げてしまったのである。これがきっかけで千方の軍は朝廷軍に敗れ、最終的に千方は首を刎ねられたのである。
しかし超人的な鬼を従える藤原千方も、当然の如く、人智を超えた力の持ち主であった。刎ねられた首は川へ転がり落ちて、一旦は川下へ流れていった。ところが、「千方ともあろう者が、流れのままになりはしない」としてその首は川を遡ったとされる。
この一帯には藤原千方にまつわる伝承地が多くあるが、千方橋と名付けられた橋のレリーフには配下の鬼が描かれているが、その姿はまさに忍術使い。伊賀国で特殊な能力を持つ怪人達ということで、藤原千方以下、忍者の祖ということになっている。 
 

 

 
■岡山県 

 

三石城(みついしじょう)   備前市三石
岡山県備前市三石に存在した日本の城(山城)。
三石市街地の北側にある標高291mの天王山山頂に位置する中世の連郭式山城である。最上部に本丸、一段下に二の丸、更に一段下に三の丸がある。三の丸端には石垣が認められる。三の丸北の一段低い部分に馬場曲輪がある。馬場曲輪の北に大手門があり石垣が残存している。本丸北には堀切があり堀切を隔てて出丸の鶯丸がある。
『太平記』によれば鎌倉時代終末期の1333年(元弘3年/正慶2年)に三石保地頭の伊東大和二郎が南朝方に加勢し居館の背後にある天王山に城を築いたことに始まると伝えられている。大和二郎は西国から六波羅救援に向かう北朝方に対抗した。南北朝時代の1336年(建武3年/延元元年)には九州へ敗走する足利尊氏が家臣の石橋和義に守備を命じ新田義貞の追撃軍を足止めした。
赤松則祐が備前守護となると浦上宗隆が守護代となり1365年(貞治4年/正平20年)三石城に入城した。以後、室町時代から戦国時代にかけて概ね浦上氏の居城となった。
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱が起こる。赤松氏当主の赤松満祐は室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、山名持豊(宗全)を主力とする幕府軍に居城を攻撃され自害した。これにより備前は山名氏の配下となった。1467年(応仁元年)応仁の乱に乗じて満祐の甥・赤松政則が備前守護となり主家の守護復帰に尽力した浦上則宗も守護代に復帰した。政則の死後、則宗は養嗣子の赤松義村に家督を相続させ赤松氏の中で権勢を振るうようになり、次第に赤松家中で対立を深めていった。
則宗の2代後の当主・村宗の代になり主家との対立が決定的となる。1519年(永正16年)村宗は三石城に籠城し、赤松義村は三石城を包囲した。しかし浦上方は包囲軍を敗走させた。1521年(大永元年)には義村を幽閉し殺害した。こうして浦上氏は戦国大名となった。
村宗の嫡子・政宗が本城の室山城主、次男の宗景が三石城主となった。宗景は兄との不和から1554年(天文23年)播磨国境より離れた天神山城を築いて移り、三石城は放棄された。
三平山(みひらやま)
中国山地主稜から突出した独立峰。大山火山群に最も近い1000m峰で、その展望はつとに有名だ。山容は火山的だが、石英斑岩を主体とした古い山で火山ではない。米子自動車道が山体をトンネルで貫いている。
東麓の岡山県川上村森林公園から往復2時間。北方の内海峠(うつみだわ)、西方の俣野自然休養林からも踏み跡があり、各々往復3時間。頂上には三等三角点と石祠があり、祠が向いた方が豊作になるとの伝説によって、今でも向きを変える力自慢がいるという。頂上の南「牛の寝間(ねま)」西方に豊富な湧水がある。東麓の白髪(しらが)は、ゴルフ場追放で全国に知られた所。付近の清流にはムカシトンボやオオサンショウウオが棲む。
頂上部に米沢(よねざわ)びら・俣野(またの)びら・作州(さくしゆう)びらと3つの平坦尾根があり、山名の由来とか。

三平山の戦(鳥取県境)、将門軍と追手の戦場 。 
 

 

 
■鳥取県 

 

大山寺(だいせんじ)   西伯郡大山町
鳥取県西伯郡大山町(大山隠岐国立公園内)伯耆大山中腹にある天台宗別格本山の寺。中国三十三観音第二十九番。山号は角磐山。本尊は地蔵菩薩。
大山寺は奈良時代に成立した山岳信仰の霊場であり、養老2年(718年)に俊方(金蓮上人)によって開かれたとされる。『選集抄』や『大山寺縁起』によると、俊方はある日大山で鹿を弓で射たが、その対象が鹿ではなく地蔵尊だったと知った。俊方は殺生は罪深いことだったと悟り、出家して「金蓮」を名乗り、草庵をむすび地蔵菩薩を祀った。この草庵が大山寺の起源とされる。なお、この「起源」の説話が影響しているのか、現在でも、大山には石造りの地蔵が多数みられる。
平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の一大拠点となった。寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となった。
古くから信仰の道である大山道が岡山県岡山市から南北に整備され、途中出雲街道とも交差することもあって、信仰だけでなく、商業交通の面でも発展した。
中世には尼子氏・毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされた。江戸時代に入ると一時、中村一忠によって寺領の一部が没収されたが慶長15年(1610年)、西楽院の僧正豪円が幕府に働きかけたことにより大山寺領3000石が安堵された。
明治8年(1875年)廃仏毀釈により大山寺の号が廃された。大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿を大神山神社に引き渡した。これにより大山寺は急激に衰退した。明治36年(1903年)に大山寺の号が復活した。昭和3年(1928年)には4度の火災に見舞われた。
滝夜叉姫(たきやしゃひめ)   鳥取市河原町
この地に逃れて、杣小屋地区の洞窟を本城とし、追手と一戦を交えたという。  
 

 

 
■島根県 

 

大祭天石門彦神社(おおまつりあめのいわとひこじんじゃ)   浜田市相生町
式内社 石見國那賀郡 大祭天石門彦神社 旧県社
祭神 天石門別命 (手力男命) 配祀 建御名方命
創祀年代は不詳。社伝によると、阿波忌部氏の一族が当地に祀った神社。一説に、浜田市の西にある大麻山神社と同時期に祀られたとある。
祭神は、天石門別命(手力男命)。配祀の建御名方命は、承和二年(835)十二月二十五日に信濃から勧請された神。
社殿の後方に巨石があり、他に烏帽子岩があって、石信仰が本来の姿だろう。
その後、諏訪神の勧請により、諏訪的性格を帯びた神社となったらしい。当社の特殊神事に、贄狩祭というものがあり、昔は、山狩りをして鹿を捕らえて供物にしていたようだ。現在でも、猪の肉を献じるという。
境内の左手には、境内社である足王神社がある。猿田彦命を祭神とする神社で、旅の神。社殿には多くの草鞋が奉納されていた。
神紋に関して。『式内社調査報告』には、亀甲に柏とあるが、『神国島根』には、亀甲のみ。『神社名鑑』には記載がない。
社殿には、亀甲の中に五枚葉の立ち木の紋が付いていたが、僕には梶の葉に見える。梶は、阿波の忌部氏の紋で、当社の創建を物語っている。また、梶は諏訪神の紋でもあり、諏訪社を配祀しているためかも。あるいは、諏訪と忌部は関連する、ということかも。とにかく、柏では無いと思うのだが。
石見の国三宮 大祭天石門彦神社 御鎮座御由緒
大祭天石門彦神社 通称 三宮神社  御主祭神 手力男命  配祀神 建御名方命
石見の国三宮にして創立年代不詳なるも阿波忌部族が第十 五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請と伝えら れ延喜式内社である建御名方命は仁明天皇の承和二年十二 月信濃国諏訪神社より勧請後鳥羽天皇文治年間に正一位三 宮大明神の称を許されている。武将の祈願信仰もあり朱雀天 皇の朝右近衛少将小野好古卿西下し藤原純友の乱を平定に 際し祈請奉幣の事あり、又毛利吉川の祈請奉幣あり社領も三 十六石三斗六升があり古来より信仰の篤い神社である。明治 六年五月県社に定められ三の宮として国司の巡拝の信仰か ら庶民信仰が生まれたのは鎌倉時代の十二、三世紀の出来ごと である。現在島根県神社庁より特別神社に定められたいる。
石見の三宮
三宮で知られている浜田市黒川の大祭天石門彦神社は あめのいわと主祭神手力男命、配祀神建御名方命 二神を祭祀する社で浜田川の河畔三つ子山の麓にある 神社でこの山には高さ四間幅六間余りの大きな岩石 があって、本殿はその前に建っている。
又本殿の西側には烏帽子岩がある。 
 

 

 
■大分県 

 

宇佐神宮(うさじんぐう)   宇佐市
大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。
現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。
大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内は国の史跡に指定され、本殿3棟は国宝に指定されている。
八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。
祭神
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも
主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。
創建
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説や、大分県中津市の薦神社(こもじんじゃ)も元宮として有力視されている。
また、社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。
当社南に立つ御許山山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうともいわれている。そこに、辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込んだと考えられている。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく-、稲積神社とも)、乙盗_社(おとめ-)、さらに酒井泉神社、郡瀬神社(ごうぜ-、昔は瀬社とも)と社殿を建築した。
崇峻天皇年間(588? - 592年?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。
奈良時代以降
和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄えたとされる。
社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)に一之殿が造営された。以後、天平元年(729年)に二之殿、弘仁14年(823年)に三之殿が造営されて現在の形式の本殿が完成したと伝えられている。
天平12年(740年)の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743年)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には、3神が「豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、いずれも名神大社に列している。
また、平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。また神職家や坊官家は武士としても活動しており、このため近郊の(特に豊後国の)有力武士としばしば敵対している。
源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司・宇佐公通が平氏方につく。屋島の戦いから敗走する総大将・平宗盛ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の緒方惟義が源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した平清経が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった。
鎌倉時代の元寇でも当時の他の社寺同様に加持祈祷を行っている。この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。その子・宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。
戦国時代には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立した。特に大内盛見や大内義隆の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。また、宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている。しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司宮成公建らは北九州市の到津八幡まで逃げ延びることとなった。
豊臣秀吉の九州平定後、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐した。
江戸時代には、宇佐一帯は中津藩・佐賀藩飛び地・天領などが複雑に入り組む土地となった。その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。
闇無浜神社(くらなしはま)   中津市角木
御祭神
十代 崇神天皇の御代 豊日別国魂神・瀬織津姫神
十ニ代 景行天皇の御代 海津見神・武甕槌神・経津主神・天児屋根神・別雷神
九十九代 後醍醐天皇の御代 祇園神鎮座
古代より上下の尊崇厚く天平の太宰小弐藤原広嗣が謀反を起こした時、朝廷は佐伯常人、阿部虫麿を征西将軍として西下させ、当社に朝敵退散の祈願をし、賊を平定した。
爾来宝亀2年(771)の疫病鎮滅、延暦9年(790)の天災祈願、天慶4年(941)の藤原純友の乱、弘安4年(1281)の蒙古襲来等、国の危急に度々、敵国降伏を祈願し、神威が大いに顕した。
国造、国司時代を始め、黒田、細川、小笠原、奥平歴代藩主は社殿の造営、修復をし、御神戸、田畑、神輿神宝、金品等奉献。崇敬の篤い祈願社であった。
明治5年(1872)、豊日別国魂神社を闇無浜神社と改称した。摂社としての祇園八坂神社は中津下祇園として名高く厄除の神として信仰が深い。
その他船魂住吉社、恵比須社、稲荷社、厳島社、金刀比羅社を祀っている。また境内に神霊垂迹(この世に姿を現わす)といわれる霊烏石がある。 
 

 

 
■佐賀県 

 

太田神社   佐賀市諸富町大堂
御祭神 事代主神、大山祗命、応神天皇
当社は太田美濃守藤原資元(浄泉)の創建で大堂六所宮の神霊を分祀し、太田の姓をとり太田神社と称した。
毎年10月には祭礼用として白米2石を供進された。後年太田氏が鍋島氏に属し本藩の国家老として佐賀城へ居を移された後もあつく尊崇され神殿の修理費等寄進されたといわれている。
明治9年9月20日村社に列せられ、明治45年1月25日神饌弊帛料供進指定された。現在5年に1回10月19日大祭が行われている。
宝物・肥前狛犬一対の石造物。
大堂神社   佐賀市諸富町大堂
祭神 事代主神、大山祇命、豊玉姫命、三女神、平将門
大堂神社銅造明神鳥居 江戸時代 寛永17年の銘あり
大堂神社は、弘安2年(1279年)創始したと伝えられ、事代主神・大山衹命・豊玉姫命・平将門・宗像三女神をまつる、境内中央に見られる唐獅子の灯籠には、諸富津周辺の船頭や舟問屋・舟大工などの信仰を伺わせる。この銅造鳥居は、県内唯一の鋳銅製明神鳥居であり、島原の乱に出陣した初代小城藩主鍋島元茂が、彼の産土神である大堂神社に戦勝祈願成就に寄進したもので、鳥居左柱には、銘が刻まれている。歴史的な意義ばかりでなく鋳銅技術史のうえからも価値が高い。この時期の鍋島氏は、島原の乱における軍礼違反により幕府の尋問を受け、佐賀領内や江戸表では、佐賀藩改易が心配されている。銘文中に見られる「武運彌盛」「子孫繁行」の文字は苦況にたたされた鍋島家の安堵を願う元茂の心が表れたものと推察される。  
 

 

 
■長崎県 

 

有馬氏
有馬氏の祖は、天慶の乱の藤原純友とされている。つまり、純友の子直澄が有馬氏の祖になったとするものだ。また純友の五世の孫幸澄が有馬氏を名乗ったという所伝もある。
しかし、純友後裔説を裏付けるものはまったくなく、むしろ、平安時代の末期に平正盛に捕えられた平直澄が藤原に付階されたものと考える方が妥当なようだ。直澄のことは「百練抄」にもみえ、元永二年(1119)の十二月二十二日の条に、正盛が直澄の首を持って帰洛したとあるのがこれである。
『姓氏家系大辞典』では、有馬氏初期の系譜を「直澄─永澄─清澄─遠澄─幸澄─経澄」というように推定し、 経澄のときはじめて、鎌倉幕府から肥前国高来郡有馬庄地頭に任じられたという。経澄の子が友澄で、 これは『吾妻鑑』にみえる朝澄と土井いつ人物であろう。しかし、経澄が鎌倉幕府から有馬庄の地頭に任じられた という以外、室待ち時代まで目だった動きは見られない。
原城址  室町時代になって、氏澄の子貴澄に至って四囲に兵を進め、在地領主として国人領主に成長していったようだ。貴澄は松浦氏、波多氏、草野氏、志佐氏・田比良(田平)氏らと戦い、あるいは幸福させ、次第にその領地を拡大し、その後の有馬氏発展の基礎を築いた。
貴澄の孫賢純(晴純)は、松浦氏をはじめ、大村氏、平井氏、多久氏、後藤氏、西郷氏、伊福氏などを討ち従え、ついに本拠高来郡を中心に、彼杵、杵島、松浦、藤津の五郡を領国にすることに成功している。この頃から戦国大名化の動きが顕著となり、賢純は将軍足利義晴の偏諱を受けて賢澄の名を改め、晴純と名を改めている。
ところが、竜造寺氏の勃興とともに一時衰退し、義純の弟晴信が義純の跡を継いで有馬氏の全盛時代を現出するに至った。晴信は、十六歳のとき、天正十二年(1584)薩摩島津氏の加勢を得て、龍造寺氏と戦い、これを滅ぼした。
その後三年して、秀吉の九州征伐の軍が九州にいたると、晴信は秀吉に従って本領を安堵され、その後の朝鮮の役にも従軍している。なお、天正十年(1582)大友宗麟・大村純忠らと少年使節をローマ法皇のもとに遣わしたことは有名である。
関ヶ原の合戦では初め西軍に属したが、思い返して東軍に属し、子直純を西軍小西行長の宇土城攻めに参加させて、戦後本領を家康から安堵されている。しかし、その後、ポルトガル船を撃沈して家康から咎められたが、岡本大八の上書で甲斐国へ流され、同地で自殺した。しかし、子の直純は連座をまぬがれ家康の曾孫が室だった関係もあって無事に本領を継ぎ、慶長十九年(1614)日向高鍋で五万石を領した。
その後、有馬氏は、元禄年間の清純のときに越後へ転封され、さらに越前の丸岡に移り、五万石を世襲して明治維新を迎えた。  
 

 

 
■熊本県 

 

藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)   熊本市中央区
熊本県熊本市中央区にある神社である。旧社格は国幣小社。熊本市域の総鎮守として信仰を集める。応神天皇を主祭神とし、神功皇后・住吉三神を相殿に祀る。社名は「幡」ではなく「旛」と書く。これは天文11年(1548年)の後奈良天皇宸筆の勅額に基づくものである。
承平5年(935年)、敕願により藤原純友の乱の追討と九州鎮護のために、国府の所在地であった宮崎庄の茶臼山に石清水八幡宮から勧請を受けて創建された。九州の石清水五所別宮の一社である。鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので、「藤崎」を社名としたという伝承がある。国府八幡宮として国司や朝廷の崇敬を受けた。鎌倉時代以降は歴代領主の崇敬を受け、江戸時代には熊本城の鎮守社とされた。
明治10年(1877年)、西南戦争で社殿を焼失し、現社地に移転して復興した。大正4年(1915年)、国幣小社に列格した。
藤崎の語源の異説
熊本県の歴史研究家鈴木喬は以下の説を唱えている。
「肥後国誌」によると藤崎に八崎あり、藤崎、鐘射崎、牧崎、榎崎、河原崎、御崎、弥勒崎、筆崎とある。つまり台地の先の尖ったでっぱりが岬(崎)とよばれている。藤崎も藤の花が咲いたら「藤咲」の字を当てるべきなのに、「藤崎」という字を当てているところからみると、井芹川に突き出た岬であったと考えていい。また藤という振り仮名が今でこそ「ふじ」ですが旧かな使いによると「ふぢ」でした。これを濁らないで読むと「ふちさき」で、つまり井芹川の淵に突き出た岬という意味からついた地名でいい。 
 

 

 
■緒話

 

平将門の乱
「平将門」(たいらのまさかど)は、武士ながら、桓武天皇(かんむてんのう)の血筋を引く高貴な人物。939年(天慶2年)に起きた「平将門の乱」では、自らを「新皇」(しんのう)と称して天皇になることを宣言します。これは、古代以来の支配体制を揺るがす、画期的な大事件。貴族の時代を終わらせ、武士の時代を作ろうとしたのです。
平将門はどんな人物
平将門は、平安時代中期の903年(延喜3年)生まれ。桓武天皇の血筋を引く5世です。桓武天皇のひ孫にあたる「高望王」(たかもちおう)が「平」姓を賜って臣籍に入り、「上総国」(かずさのくに:現在の千葉県中部)の国司を務めました。
この高望王の子供は全部で5人。「良文」(よしふみ)・「良正」(よしまさ)・「良将」(よしまさ)・「良兼」(よしかね)・「国香」(くにか)です。良将が将門の父で、「下総国佐倉」(しもうさのくにさくら:現在の千葉県北部)を所領していました。
そんな良将を父に持つ将門は、15歳で京に上ります。藤原北家・「忠平」(ただひら)の従者となり、京内外の犯罪を取り締まる「検非違使」(けびいし)を志願しますが叶わず、官位も低く、天皇の護衛をする「滝口の武士」に留まっていました。
決して実力不足と言う訳ではなく、この時代には「律令制」(りつりょうせい)が崩れ始め、天皇をとりまく貴族の中でも、朝廷の要職は藤原氏が独占。地方の政治は国司が横暴してやりたい放題。要職に就けない貴族は武士になるしかないという背景があったのです。
そんな中、父・良将が早世。将門は、不遇にも夢を諦め、家(関東)に帰るハメになりました。
激しい親族間争い
将門が家に戻ると、父の所領(下総国佐倉)が、叔父・良正(下野介:しもつけのすけ)、良兼(上総介:かずさのすけ)、国香(陸奥大掾:みちのくのだいじょう)に横領されていることが発覚。
また、将門が妻に望んだ「源衛」(みなもとのまもる)の3人の娘の3人ともが、叔父・良正、良兼、国香に嫁いでしまい、将門はかなり憤慨。さらに、将門が妻とした女性に、源衛の3人の息子が横恋慕したとも言われています。
そして、935年(承平5年)、将門は源衛の3人の息子と、叔父の国香を殺害してしまうのです。これに怒ったのが、源衛、良正、良兼。もはや将門を許せません。
まずは、源衛が良正に泣きつき将門打倒を企てますが、将門に大敗。次に良正は、良兼と国香の子「貞盛」(さだもり)と連合軍を作って将門を攻撃しますが、総崩れ。打つ手がなくなった源衛は、朝廷に将門の非を訴えることに。これにより将門は、検非違使で尋問を受け、捕らえられてしまいます。しかし、937年(承平7年)4月、朱雀天皇(すざくてんのう)が元服する際に「恩赦」(おんしゃ:犯罪者の罪を全免する制度)が行なわれ、自由の身となるのです。
まだ許せない良兼は、8月に軍を起こし、また将門を攻撃。しかし、将門はかつての主人の藤原忠平に良兼、貞盛の暴状を訴え、これが功を奏して12月に朝廷から良兼、貞盛追捕の官符が発せられるのです。これにより、良兼軍の勢力は衰え、さらに、939年(天慶2年)6月、良兼は病死してしまいます。一方、貞盛は、将門が捜索しても行方が分からないままでした。将門の連戦連勝ぶりは関東で大きく広まり、名声を高めました。
「将門記」(しょうもんき)は、日本で最初の軍記物語。原本はなく、写本が2冊現存。平将門は939年に、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)よりの神託を受けて新皇を自称したと記載されています。
なぜ平将門の乱が起きたのか?
平将門の乱が起きたのは、939年(天慶2年)11月。「藤原玄明」(ふじわらのはるあき)が、税金の不払い問題等で常陸国司(ひたちこくし)と対立し、将門に助けを求めます。常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求しますが、将門は応じず、それが高じて合戦になったのです。
将門は1,000の兵で、常陸国府軍3,000の兵に大勝。そして、常陸国府を焼き払い「印綬」(いんじゅ)という朝廷が国司に与えた証明書を略奪します。これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味しました。これにより、将門は完全に「朝敵」(朝廷の敵)となったのです。
朝廷は、これに驚きます。それまで、将門がらみの戦いを「領地と女をめぐる親族間の揉め事」程度だと認識していましたが、違うということにようやく気が付きました。
実は将門は、朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、かなり憤慨していました。
将門が助けた藤原玄明は、強い意志を持って税金を払わず、朝廷が管理する蔵を襲って、米を民衆に分け与えていた人物。つまり、将門が闘っていたのは単なる叔父ではなく、叔父の職務「国司」に対して、それ以上に「朝廷」に対してだったのです。
将門はさらに勢いを増し、国司から次々と印綬を奪って追放。上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の関東8か国を占領し、朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付け、自ら新皇と名乗ります。
将門の謀反は、即刻京に知らされ、朝廷は大激怒。将門討伐を決意します。まずは将門を呪い殺すための祈禱(きとう)をしますが、全く効果はなし。追い詰められた朝廷は、その存亡をかけて「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」と、全国に通達を出すのです。これを知った、以前から将門に恨みを持つ平貞盛と、貴族に強い憧れがあった「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと:別名・俵藤太[たわらのとうた])は、連合して出陣。この戦いで、額に矢が命中し、将門は討死。将門の野望は未完に終わりました。
同時期に瀬戸内で、藤原姓でありながら、出世の道を絶たれた藤原純友(ふじわらのすみとも)が海賊を率いて「藤原純友の乱」を起こし、鎮圧されました。朝廷を震撼させたこの2つの乱を、合わせて「承平・天慶の乱」と呼ぶのです。
日本三大怨霊のひとりに
無念の死となった将門は、崇徳天皇(すとくてんのう)、菅原道真(すがわらのみちざね)と並んで「日本三大怨霊」(にほんさんだいおんりょう)と呼ばれています。
将門の死後、その首は平安京の七条河原に運ばれ、さらし首の刑に。何か月経っても、生きているかのように目を見開いて腐らず、夜な夜な「斬られた私の胴体はどこにあるのか。持って来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けていたそうです。
それを歌人の「藤六左近」(とうろくさこん)が見て歌を詠むと、将門の首はケタケタと笑い出し、関東目掛けて高く飛んでいったとのこと。途中で力尽きて落ち、そこに将門の首塚(東京都千代田区大手町)が建てられたと言われています。
成田山建立の理由
「成田山新勝寺」(なりたさんしんしょうじ)が建てられた理由は、何と平将門の乱鎮圧のため。
東国の混乱を恐れた朱雀天皇が、真言宗の開祖「弘法大師・空海」(こうぼうたいし・くうかい)に願い、空海自らが彫刻して魂を入れた「不動明王像」(ふどうみょうおうぞう)をご本尊として開山しました。このため、将門の子孫・家来・ファンは決して、成田山にはお参りに行かないそうです。
平貞盛の子孫は平清盛
将門を討伐したのが、国香の子・貞盛でした。この貞盛の子孫が、178年後に現れる「平清盛」(たいらのきよもり)です。
平清盛は、1159年(平治元年)の「平治の乱」で勝利し、武家の棟梁(とうりょう)となります。同時に貴族の頂点の「太政大臣」(だじょうだいじん)に任命され、朝廷の要職を独占していた藤原氏をしのぎ、政治の実権を握るのです。将門を倒した敵の子孫でありながら、偶然にも清盛は、将門が理想とした「武士が中心となって政治を行なう」世の中を実現するのです。 
 
平将門は菅原道真の生まれ変わりだった!
歴史学者の織田完之(おだかんし)によって書かれた1907年(明治40年)発行の「平将門故蹟考」(たいらのまさかどこせきかんが)には、「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」と記されている。道真が大宰府で亡くなった903年(延喜3年)に平将門は生まれたことから、将門は道真の生まれ変わりだと言うのだ。しかし二人の間には、没年と生年の一致以外にも、後世の人に生まれ変わりを想像させる、運命的な因縁があった。
因縁1 怨霊伝説を生んだ二人の非業の死
道真と将門の最大の共通点は、非業の死を遂げ、怨霊伝説を生んだことだろう。無念の思いを残して死んだ道真の魂が、同じく失意のうちに死ぬ運命を背負った将門を生んだ。信心深いいにしえの人々の怨霊に対する恐れや同情心が、生まれ変わり説を生んだのかもしれない。
菅原道真の怨霊伝説
幼い頃から頭脳明晰だった菅原道真は、中流貴族の出身でありながら、宇多天皇(うだてんのう)に重用されて右大臣にまで出世。
しかし宇多天皇が退位して醍醐天皇(だいごてんのう)の代になると、異例の出世に嫉妬した貴族達から反感を買うようになり、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)が醍醐天皇に「道真は、あなたを廃して、娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようとしている」と根も葉もないことを吹き込んだことで、道真は大宰府に左遷されてしまう。
そして、道真は衣食もままならない大宰府の地で、寂しく死んでいったのだ。
道真の怨霊が暴れ出したのはそれから間もなくのこと。道真の霊を慰めるために建立された、北野天満宮の「北野天神縁起」(キタノテンジンエンギ)によると、死後数年たったある夏の夜、比叡山の座主のもとに道真の霊が現れて、復讐することを宣言したとされている。のちに学問の神様になるだけあって、怨霊になっても礼儀正しいのだ。
以降、藤原時平の謀略にかかわった人物が次々に死亡。時平も、祟りに怯えながら狂死。醍醐天皇の子や孫も急死する。さらに930年(延長8年)に、内裏の清涼殿に雷が落ちて、大宰府で道真の監視役をしていた藤原清貫(ふじわらのきよつら)が即死すると、祟りはいよいよ本物と信じられるようになり、その3ヵ月後に醍醐天皇も体調を崩して崩御したという。
平将門の怨霊伝説
平将門は道真が亡くなった903年(延喜3年)、桓武天皇(かんむてんのう)を祖父に持つ上総国の高望王(たかもちおう)の孫として生まれた。
下総国を拠点としていた父、平良将(たいらのよしまさ)が病死すると、一族の間で内紛が勃発。その争いはやがて関東一帯に広がり、将門は常陸国、下野国、上野国を次々に制圧し、「新皇」を自称して東国の独立を宣言した。
これに驚いた朝廷は、朝敵となった将門を打つべく、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛(たいらのさだもり)らの連合軍を差し向け、合戦となった。将門軍は兵力では連合軍に劣っていたものの、強風を味方に付けて矢戦で優位に立つ。
しかし、勝利を確信したそのとき、急に風向きが変わり、将門の額に1本の矢が命中して即死してしまった。
その後、京でさらし首にされた将門。その首はいつまでも腐らず、夜な夜な「私の体はどこにある。首をつないでもう一度戦おう」と叫び続けたという。
また、その首は関東を目指して、空高く飛び立って地上に落下したという伝説もある。その落下地点とされているのが、全国に数か所ある将門の首塚。もっとも有名な東京・大手町の首塚のある地は、建設計画などが持ちあがるたびに事故が起きるため、現在もそこだけ取り残されたように開発を逃れている。
ところで、将門の死後、鎌倉時代頃に書かれたとされる「将門記」には、将門が新皇を称するようになったのは、道真の霊魂が宿った巫女が将門の目の前に現れて、「八幡大菩薩が将門に天皇の位を授ける」と宣託したからとある。道真と将門にまつわるこんな逸話も、生まれ変わり説に信憑性を持たせるスパイスになったに違いない。
因縁2 菅原家と平家の結び付き
将門が生まれる前も、道真が没したあとも、菅原家と平家は不思議な縁で結ばれていた。
道真は晩年、三男、菅原景行(すがわらのかげゆき)に「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と遺言を残して亡くなった。
景行はその言葉通り、諸国を巡り、926年(延長4年)に常陸介(常陸国の地方公務員)として赴任し、この地が道真を葬るべき場所と悟った。そしてこの地は平家の本拠地でもあり、菅原家と平家は親交を持つようになったのだろう。
現在、茨城県常総市大生郷町にある大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)は、道真の遺骨を祀るために、景行と将門の叔父の平良兼(たいらのよしかね)が創建したとされている。
また千代田区九段北にある築土神社には将門と道真がともに祀られている。
もともと築土神社(つくどじんじゃ)は940年(天慶3年)に討たれた将門の首を祀るために建立された神社で、その末社として同敷地内に道真を祭神とする木津川天満宮があった。
しかし1994年(平成6年)に境内工事のため木津川天満宮が取り壊されることになり、道真も築土神社に祀られることになった。1000年を超える年月を経て運命に導かれるように揃って祀られることになった2人。今も恨み節を語りあっているのか、それとも吹っ切れて雑談に興じているのか、あの世でどんな話に花を咲かせているのか興味深い。 
 
平将門はなぜ日本史の中で「特異な存在」に見えるのか
平将門と平清盛の距離感
平将門はずいぶん古い時代の人である。とても古い。それをあまりきちんと把握できていない。刺激的な新書『平将門と天慶の乱』を読んで、つくづくそうおもっている。それはおそらく「平安時代」の長さを身体的に捉えられてないからだろう。具体的に言ってみれば、「平将門と平清盛の距離感」がわかってないのだ。
同じ平氏で、どっちも平安時代の人だから、なんか頭の中で何となく似通ったグループに入れてしまっている。でもこの二人はかなり離れている。平将門は10世紀前半の人である。だいたい900年から910年くらいの生まれ。平清盛は12世紀後半の人だ。1118年の生まれ。200歳ちょっとの差である。200歳の年齢差というのは実感しにくい。
いまの人でいえば、トランプ大統領は1946年生まれだけど、歴代大統領をさかのぼっていけば初代大統領ワシントンが1732年生まれで、年齢差が214歳だ。1954年生まれの安倍晋三首相と比べるなら、そうですねえ、寛政の改革の松平定信が1759年生まれなので195歳差、それぐらいになってしまいます。
清盛から見た「将門さん」は、トランプからみたワシントン、安倍晋三から見た松平定信くらいの距離があったということになる。これでもまだ、遠いという感じしかわからない(平清盛は、将門を倒した従兄弟の平貞盛の直系子孫である)。
平安時代に珍しい「肉感的な男」
平安時代をざっくり4つに分けると、将門は2つめの時代の前のほう、清盛は4つめの最後ということになる。
将門は、武士の鎌倉時代よりも、大仏の奈良時代のほうに近い人なのだ。
平安時代の有名人を思い浮かべると、時代が長いわりにさほど浮かんでこない。歴代天皇と摂関家を除いたら、菅原道真、清少納言と紫式部、あとは平清盛に源頼朝あたりになってしまう。天皇とその周辺だけで世界がまわっていたかのようだ。(それ以外の記録が少ないということだろうけど)これぐらいの知識では具体的な世界がなかなか想像できない。
そのなかで、あらためて平将門はきわめて肉感的な人物である。言ってしまえば、物語で語られる人物だということでもある。
それは『平家物語』で語られる人物と同じヴィヴィッドさがある。だから、平将門と平清盛を同じように捉えてしまうのだろう。
もう一度確認しておくけれど、平将門は、菅原道真のすぐあとの時代の人である。彼が死んでからずいぶん経って、「藤原道長、清少納言、紫式部」の時代が来る。光源氏からコメントを取れたとしても「将門って、けっこう昔の人ですよねえ」としか言われないとおもわれる。何のコメントかわからないけど。
長く日本では忌避されてきた存在
平将門は、武士ではない。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。残念ながら貴族でもない。「無位無冠」のまま生涯を終わっている。それが将門にとっても大きな引っかかりだったようだ。新書『平将門と天慶の乱』を読んでいると、そのへんの時代風景が沸き立つように見えてきて、とても興味深い。
平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、変わらず天皇家の国である日本では、将門は「怨霊」とした語られる時代が長かった。見方にもよるけれど「“日本”の歴史上ただ一人の天皇以外の統治者だった(可能性がある)男」として、強く忌避されてきたのだ。
書いていてふとおもいだしたが、1976年のNHKの大河ドラマを放映したいたとき、一緒に見ていた明治生まれの祖母が「将門って悪い人やとおもてたけど、けっこう良い人やったんやなあ」と感慨深く言っていたことがあった。明治の教育では、この素敵な反逆者は、徹底的な悪として教えられていたのだろう。
(“日本”の歴史上と書いたのは、つまり“日本”という国号が使われるようになった7世紀末以降の“日本”国において、という意味である。それ以前のいろんな王権が乱立していたような時代には、いまの天皇家の祖先以外の統治者もたくさんいたとはおもう)
『ワンピース』に出てきそうな人物
新書『平将門と天慶の乱』が楽しいのは、将門が魅力的に描かれているからだ。将門の乱について書かれた唯一の同時代記録「将門記」に沿い、将門の立場に立って、反逆者とならざるをえなかった男の半生を描いている。NHKの大河ドラマでも同じだった。将門の立場に立てば、それなりの事情がある、ということになる。
『平将門と天慶の乱』は、いままでの将門像について、いくつもの疑問を投げかけ、あたらしい将門像を提供する。この本では研究書とはおもえないような、生き生きとした将門に出会える。まず将門の年齢設定が新鮮であった。通説より10歳ほど若いのではないかと推定、最初の争乱を起こしたころを20歳ころとする。「新皇」を名乗り、京都の天皇政権と別の政権を打ち樹てようとしたのがだいたい30歳くらいである。10世紀の関東の平野に立ち、鬼神のごとき働きによって敵を蹴散らし続ける20代の若者というのは、それだけで魅力的に見える。20代を戦いにあけくれ、そして30歳で独立国を樹てて、そしてあっさり滅ぼされてしまう。ロマン漂う風景である。しかもこれは小説ではない。先人の研究をもとに書かれたある種の専門書なのだ。血湧き肉躍る研究書である。
漢の劉邦みたいなものであると言いたいが、打ち樹てた独立国は継続しなかったから、陳勝呉広とか、明末の李自成あたりでもいいですけど、おのれの才覚と武力でもって、私的集団をまとめあげ、腐敗した公的機関をぶちのめして、自分たちの国を造った男の話である。
めちゃおもろいヤツやん。あらためてそうおもった。言ってしまえば中国の王朝交代劇のような話であり、また漫画『ワンピース』みたいな話でもある。
鬼神のような戦いぶり
平将門は桓武天皇の5世の孫である。つまり、自分の「父の父の父の父の父が」桓武天皇だ。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。
将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。
彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。位階を叙され、できれば公認の貴族(の仲間)になりたかったはずである。地方で睨みを利かせられる「肩書き」が欲しかっただろう。
でも彼は無位無冠のままに終わる。
将門は、桓武天皇五世の孫であるから、蔭位というシステムによって、自動的に叙位されるはずだった(従六位下というような位階が授けられるということ)。彼は若いころ、京都で、当時の最大権力者である関白・藤原忠平のもとで奉公していたとされる。21歳になると自動的に叙位され、やがて地方の貴族として認められるはずだった。でも叙位されていない。
当書によると、相続すべき土地や軍事機関などを伯父たちに奪われそうになったので、地元へ戻り、土地を守るために戦ったのが21歳より前だったからではないか、ということだ。となると、とても若々しい将門像が現前してくる。
19なり20歳で国へ帰り、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。しかし、その戦いぶりも尋常ではなく(当時としてはめずらしく敵を殲滅したらしい)周囲の恨みも買う。
関東エリアで何を勝手に暴れ回っているのだ、と、いちど、朝廷に呼び出され、京都に上がって釈明をする。しばらく京都に留まり、許され、自分の地に帰ってくる。将門の本拠は下総と常陸、だいたいいまの茨城県の千葉よりのほうである。
地元を留守にしていた将門を殺そうとして、伯父や従兄弟に襲われ、再び戦さになる。
戦さが重なり、罠に掛けられたように「常陸国の国衙」を襲うことになる。京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出してしまう。勢い、国に対する反乱軍となった。そのままの流れで関東諸国の国司を追い出し、関東一円を支配した(そこまで広く支配していないのではないか、という見方も存在するが)。
京都の朝廷は驚く。
将門は、この瞬間に日本史上に突然、出現した。彼の死亡年はわかっているが、誕生年がわからないのは、「反逆者として殺された」という事実しか中央の正史には残っていないからである。
自分の王国を作ろうとした
朝廷はここで、将門に懸賞首をつける。
誰であろうと、将門の首を取ったものは「貴族にしてやる」という報償が示された。ものすごい報償である。「デッドorアライブ」という手配書を国中に張り出したようなものだ。「ワンピース」でいうならば、まあ「50億ベリーの賞金首」というあたりじゃないだろうか。比べるもののなき巨魁とされた。
そして懸賞首効果は著しく、周縁の荒くれ者たちは一斉に立ち上がり、将門を襲う。この瞬間に「武士」が生まれた。俵の藤太と呼ばれる藤原秀郷など、彼自身がもともと懸賞首レベルのならず者だったようだが、将門狩りに参加し、将門を倒す。その功績で彼は貴族に叙せられた。
前歴のよくわからない藤原秀郷であったが、彼の子孫は武家の名家として歴史に残ることになる。「将門の首」が多くの武士を生んだのだ。
将門の首についての伝説が、1000年を越えて語られるのもむべなるかな、というところだ。
将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。
そもそも、唯一の記録書である『将門記』がそういう方向で記しているのだから、そのように捉えたくなる。なぜ天皇と並び立とうとしたのか、その飛躍についてはただ想像するしかないのだが、そういう男だった、ということで納得するしかないし、またそういう納得をしたくなる。
将門は、つまり「関東王に、おれは、なる!」と叫んだのだ。
この新書は、1000年以上昔の関東エリアに、そういう中国史に再三でてくるようなタイプの英雄がいた、ということを示してくれる。読んで、ひたすら興奮する一書である。 
 
「将門の首塚」
崇徳天皇、菅原道真、平将門という非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼んでいます。
その中の平将門は、古代の朝敵から中世の崇敬対象、そして明治時代の逆賊視から戦後の英雄化と、時代と共に評価が変わる興味深い人物です。更に興味深いのは、現代でも将門の祟りが恐ろしいと噂されていることです。
将門が供養された神社
「神田明神」は、730年に大己貴命(大国様)を祀って、現在の千代田区大手町に創建されました。14世紀初頭、平将門の祟りと云われた疫病が流行しました。そこで将門を葬った墳墓「将門の首塚」の近くにあった神田明神が、将門の霊を供養し疫病が沈静化したことから、1309年に平将門を祀りました。
江戸時代では崇敬篤かった将門神でしたが、明治7年に明治天皇が行幸する際、天皇が参拝する神社に逆臣の将門が祀られているのはあるまじきこととして祭神から外されました。その代わりに少彦名命(恵比寿神)が祀られ、将門神は境内摂社への左遷となったのです。
昭和になると将門を祭神に復帰させる嘆願が起き、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映される頃には機運が高まり、昭和59年にめでたく本社復帰が叶いました。まさに摂社(支社)から本社への栄転と云う経緯から、現在では出世のご利益があるとビジネスマンの参拝が多いのです。
怨霊となるきっかけの反逆
時代は平安時代まで遡ります。平安時代後期、当時の地方行政はそれぞれの国司に任されていました。その為、国司は横領など悪事のやり放題であったことから治安も悪化し、その対処として現れたのが桓武平氏や清和源氏などの武士です。
将門の祖父は、上総国の国司として赴任したのですが、任期後も居座り武士団を形成して勢力を拡大していきます。しかし、将門の父の死をきっかけに相続争いが勃発、将門は叔父を殺害し、従弟の平貞盛の引渡しを断った常陸国府をも攻撃しました。勢いに乗じた将門は、他の国府にも次々と攻撃をはじめたのです。
合戦では、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われる将門の武器力と、豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使した機動力で、瞬く間に関東八ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放してしまいます。これが平将門の乱で、私事で始まった戦いが、国家反逆の戦いになり、その揚句、自ら“新皇”と称して、真っ向朝廷と対立姿勢を取ったのです。
将門が葬られた怨念の地
京都の天皇に対して自ら新皇と称したのですから、当然、朝廷が黙って見過ごすはずもありません。朝廷は、早速、諸社諸寺に怨敵(将門)退治の祈祷を命じ、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門の乱の鎮圧に向かわせました。その結果、この討伐軍が到着する前に将門は、地元の武士である藤原秀郷等に討たれました。
戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。しかし、無念やるかたない首級は腐りもせず目を見開き、「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、夜な夜な叫んだと云われています。
そして3日目に首級は、切断された胴体を求めて夜空に舞いあがり、故郷の東国に向かって飛んでいき、数ヶ所に落ちたとされています。その首級の落ちた最も著名な伝承地が、千代田区大手町にある「将門の首塚」です。こうして終わった将門の乱でしたが、将門の魂は、無念の気持のまま葬られたのでした。
よみがえる将門の怨念
一件落着となった将門の乱でしたが、将門のすさまじい怨念は後世まで続きます。最初の不可思議な現象は、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建の時です。首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、それ以外にも多くの怪我人・病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されました。
次は戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止しています。更に昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が次々に病気になる事態が発生し、お祓いしたという話もあります。
これ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないようにフロアレイアウトされていたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けないなどの配慮がされていると云ったことが実しやかに囁かれており、1000年以上経過した現代でも、その怨念を気にしています。
将門の怨念のご利益
こうした将門の怨念を、神田明神の祭神となる遥か前から祭神としていたのが「筑土神社」です。首級の飛来は怨念の強調で、実際は将門所縁の者が首桶に首級を納め、現在の千代田区大手町周辺の観音堂に祀ったのが始まりと云われています。この観音堂が“津久戸明神”と称され、現在は、実にモダンな神社になっています。
この「筑土神社」には、戦前まで将門の首級を納めた首桶、将門の肖像画、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたのですが、戦災で焼失し、現在はその写真が残っています。六回の移転により、首塚からは離れてしまいましたが、拝殿の装飾や絵馬には将門の巴紋が使用され、騎馬隊創設の将門に因んだ繋ぎ馬の紋も使用されており、なんと商標登録までされているのです。
更に、この筑土神社が日本武道館の氏神でもあることは意外と知られておらず、武道を志す方たちから崇敬されています。そして独自の“勝守”があり、あらゆる勝負事に対する絶大なるご利益を授与しているのです。祟りとご利益という相反するパワーながら、今だ現代人への影響を与える将門は不滅なのです。
老婆心ながらご注意を一言
全国的に著名な神田明神にご参拝の際には、将門ゆかりの『首塚』『筑土神社』にも参拝して、将門の霊を慰めるとともに、たくさんのご利益を授与されてください。
ただし、ここで老婆心ながら一言ご注意を申しあげます。将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じた諸社諸寺の中に、こちらも全国的に著名な成田山新勝寺がありました。成田山は、特にこの祈祷を開山起源としていることから、将門とその家来の子孫、そして神田明神や筑土神社の氏子などは、成田山に参拝すると将門の加護が受けられないという伝承から参詣しない人が多いのです。
将門所縁の地の参拝の際には、くれぐれも成田山の参拝はなさらない方が良いかもしれません。信じるか信じないかは、あなた次第ですが・・・。 
 
天皇の子孫だった平将門が自称した「新皇」の謎
桓武天皇の子孫である平将門は、いくつもの戦いを経て関東を支配下に治めた。独自に「新皇」を称したとされる将門のもとへは天慶三(940)年に朝廷から追討使が派遣され、それに呼応した藤原秀郷や平貞盛らの攻撃を受けて討たれた。将門の乱は中世に活躍した武士が登場する画期ともいえるという点でも注目される事件である。中世における武士の特徴とあわせて考えながら、事件の概要を追うことにする。
天皇の子孫であった将門が坂東で活躍することになったのはなぜか。まずはそこからたどり直してみよう。
平安京への遷都で有名な桓武天皇。その曾孫である高望王は、平姓を賜って臣籍に下った。新たに「平高望」を称することになって与えられた任務は、坂東へ下向することであった。この当時、地位が低下した郡司や、任期切れの後も任地に留まり続けた前任国司、あるいは中央貴族の家人たちが地方での有力者(「富豪層」)として活動し、ときには国司の命令にも従わず、さらには武力蜂起に至るような事件が発生していた。平高望が派遣された坂東は、そうした富豪層による事件がとくに多発していたのである。治安の紊乱(びんらん)が著しい坂東に下向し、地域の安定化という実績を上げることで、藤原氏の優位が確立しつつあった京都の貴族社会での失地回復を図ったのだともいわれる。地方に蟠踞(ばんきょ)する富豪層の反受領武装闘争を鎮圧するために、彼らの武力が期待されたというのである。
しかしこのような見方には問題が残る。
まず、朝廷内において勢力を維持するためには、京都に留まって国政の枢要に関わり続けることが最低条件である。地方に下向すると決めたことは、平高望が朝廷内における主要な地位の維持を半ば放棄したものと見てよい。
また、新たに地方へ下ってゆく彼らにどれほどの武力が期待できたであろう。この時代には、有事において国司が動員・指揮する諸国の兵士も維持されていたとされる。その上で坂東に派遣される平氏に期待されたのは、反受領武装闘争を繰り返す地方の富豪層を、中央との政治的提携を活かして現地の国司らと協力し合いながら支配下に取り込みつつ(「家人化」)、それに従わない者は鎮圧すること(「治安維持」)であった。
平高望は上総介(上総国の国司)であったことに加えて、前常陸大掾(常陸国の前任国司)源護の一族と姻戚関係にあるなど、国家権力の一端を担いつつ、現地の諸勢力とも協調関係を維持しながら活動していた(将門と争うことになる叔父の平国香や平良兼らも源護の一族と姻戚関係を維持していた)。
高望の子・平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子にあたる将門は朝廷に中級官人として出仕する旁ら、太政大臣藤原忠平の家人でもあった。つまり将門は、地方で所領を経営する父親と分担し合うかたちで、在京活動を行っていたのである。
所領を維持するためには、その地方での活動はもちろんのこと、在京活動による政治的地位の保全も欠かせなかった。地方での活動を円滑に行うためには、近隣の国司との関係を良好なものにしておくことが欠かせず、そのために国司との姻戚関係を築いたり、国司の動向を左右しうる有力な中央貴族との提携が必須であった。
つまり関東に下向した平氏は、その当初から朝廷の権威・権力に依存する存在であったのだが、このことはまた、古代〜中世にかけての武士の特徴の一つでもある。
ところが、良将が没したため将門は在京活動を休止し、地方の所領を維持するため現地での活動を優先せざるを得なくなる。そして、将門が所領に下向したときには、父の所領の多くは伯父の平国香や良兼、叔父の良正らに横領されてしまっていたとされる。それが将門と一族との間の長い抗争のはじまりとなるのだが、このように一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すこともまた、古代〜中世にかけての武士の特徴の一つである。
叔父たちのなかでも平良兼とその姻戚である前常陸大掾・源護の一族は、とりわけ激しく将門との間で抗争を繰り広げることになる(その原因は、将門の父の遺領をめぐるもののほかに、「女論」によるとも言われている)。
この抗争は互いの一族を殺し合い、拠点となる集落を焼き払い合うなど凄惨を極めた。
抗争のなかで将門は叔父の平国香を殺害し、それまでは(かつての将門のように)朝廷に出仕するため在京していた国香の息子・貞盛をも巻き込むこととなる。
貞盛自身は将門との争いに消極的であったとも言われるが、将門が父の死後の所領支配をめぐって叔父たちとの争いに身を投じたように、父を将門に殺された貞盛もまた、一族との戦いへと駆られたことであろう。この貞盛が、後に藤原秀郷の協力を得て将門を討つことになるのである。
先述のように、一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すことは古代〜中世の武士の特徴の一つであったが、このような抗争は、たとえ坂東の平氏やその姻族も含めた一族を広く巻き込んだものであっても「私戦」であり、それ自体は朝廷の追討(「公戦」)の対象とはならない。この時点では、誰も国家への反逆者ではないのである。
しかし、敵対勢力を「朝廷に仇をなすもの」として訴え出てそれが受理されれば、朝廷による追討(「公戦」)が発動されることとなる。朝廷から追討使が派遣されれば、国司を含む近隣諸勢力の支援も得ながら、それに合流する形で戦いを優位に進めることもできる。そうすればより容易(たやす)く敵対勢力を駆逐することも可能になるのだ。そのため両陣営ともに、相手が国司の命令に従わないなどとして朝廷に訴え出るような工作を行っていたのである。
このような経緯で発せられる朝廷からの追討命令は「私戦」の延長という色合いが強く、朝廷によって実施される追討(「公戦」)のなかには、こうした「私戦」的側面を持つものが少なくなかった。
伯父・良兼や源護一族との抗争も将門優位で終息に向かっていた頃、武蔵国では別の争乱が勃発しつつあった。
新任の武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基が、武蔵国足立郡の郡司・武蔵武芝と諍(いさか)いを起こしたのである。将門は「武芝は自分の近親者ではなく、守・介(興世王・経基)も自分の兄弟ではないが、両者の紛争を鎮める」と称して武蔵国に出向き、武蔵国府において興世王と武芝を会見させることに成功した。両者による紛争を調停したのである(経基は京へ逃亡)。
この当時、地方で発生した紛争とそれへの介入の実態は、同時期の史料からもうかがうことができる。
寛平八年(896)の太政官符(朝廷の発する行政命令)には、地方における紛争の当事者双方がそれぞれ別々の貴族に訴え出ることで、もともとは地方で発生した紛争が、中央の貴族同士の対立という形に発展するという弊害が記録されている。
また、延喜五年(905)の太政官符においては、中央の貴族が紛争を私的に裁定することを通じて、地方の人々を支配下に取り込んでゆく様子が描かれている。
このように、地方における紛争の調停には中央の貴族も関与していたとみられる。いずれのケースにおいても、中央貴族より立場の弱い国司や郡司は地方におけるこうした違法行為を制止することができなかった。武蔵国における将門の調停行為も、これと同様のものと見てよい。また、坂東の平氏一族の抗争が将門優位で終息に向かうなか、坂東諸国にあって中央からの強力な政治的バックアップを受け、紛争の調停に当たることができたのは、おおよそ将門だけであったともいえよう。
この興世王と武芝との調停を通じて将門は両者を従属させたとみられ、とりわけ興世王は、将門が後に坂東諸国を制圧した際にはその「宰人」(ブレーン)とも称された。みずからの政治的立場(中央との提携やその地域における広範な支配)を利用して、対立する二者間の紛争に介入し、いずれか(あるいは両者とも)を従属させるという行為もまた、古代〜中世の武士の特徴である。
一方、京都に逃亡した経基は、将門、興世王、武芝らの行状を朝廷に訴え出た。これを受けて太政大臣藤原忠平(かつて将門が家人として仕えていた)は調査に乗り出したが、将門は自らの上申書に坂東五カ国の国司の証明書も添えて提出し、謀反の疑いを晴らすことに成功した。訴え出た経基が、むしろ誣告(ぶこく)として罰せられたのである。朝廷では、坂東における将門の名声を承認し、その功績を評価することなども審議された。
この間の経緯が将門に都合良く運んだのも、将門が中央(とりわけ太政大臣・忠平)との政治的提携を保持していたことが大きく作用したのである。
その後、武蔵国では権守・興世王と武蔵守・百済貞連が対立し、興世王が将門のもとを頼ってきていた。同じ頃、常陸国では富豪層とみられる藤原玄明が常陸介・藤原維幾と対立し、玄明もまた将門のもとを頼ってきた。いまや将門は、坂東の諸勢力から頼りとされる存在となっていたのである。
維幾は玄明の引き渡しを要求するが、将門はこれを承知せず、両者は対立し合戦となる。将門と玄明は維幾を常陸国府に追い詰め、国府の周辺を襲撃し、印鎰(国司が使用する印と国倉の鍵)を奪うに至った。
国府への攻撃は朝廷への攻撃を意味する。将門は、それまでの一族同士の戦いでは国府への攻撃を慎重に避けつつ、戦いを「私戦」の枠内に留めていた。常陸国司である藤原維幾と対立する藤原玄明との「私戦」に介入したことが、結果的に常陸国府襲撃に繋がったのである。この攻撃は朝廷への敵対行為、すなわち「謀反」と見なされて、近隣諸国の国司からただちに京都へ報告された。将門本人に対する調査も行われないまま、将門の乱は朝廷が鎮圧に乗り出す「公戦」と認定され、ついに将門は国家的な追討の対象となったのである。
常陸国府を襲撃した将門は、ブレーンとなっていた興世王の進言(「一国の占領だけでも罪は軽くない。同じことならば、坂東諸国を占領すべきである」)に従って軍を進め、下野国・上野国の国府をただちに占領した。“毒を食らわば皿まで”といったところか。
このときに独自の「除目」(本来は朝廷が行う人事)を行い、坂東諸国の国司を任命するのだが、さらに八幡大菩薩の使者と称する一人の昌伎(しょうぎ/かんなぎ。巫女のことか)までが現れ、将門は「新皇」を称するに至ったというのである。
将門による「新皇」「即位」を自明視し、そこから将門の居所を「都」とするような見解もある。しかし、そのような見解は妥当なものだろうか。
将門はその存立基盤からみれば、自らの存立のためには中央貴族や国司との政治的提携が必須となる地方の富豪層なのである。いかに将門の支配領域が拡大しても、そのことに根本的な変化はない。
あたかも朝廷に対抗して「新皇」を自称するようになったようにもとれるが、これを伝える『将門記』自体が文飾に満ちた作品であって、事実をそのまま描いているとは言えず、したがってその評価についても意見が分かれるのだ。全体的に、将門の乱はそれに関する史料が限られているため、よく知られている事件であるにもかかわらず、その実態は不明な点が多い。事件の経緯に即して考える限り、「新皇」の自称も突発的なことであったと見られる。たとえ実際に巫女の宣託が行われていたのだとしても、将門と彼の支持勢力(多くは、将門と同様に中央の貴族と結合した富豪層)の存在形態自体に大きな変化はないのだから、宣託(せんたく)を受けての「新皇」「即位」という一連の流れを過大評価することはできない。
「八幡大菩薩」の使者と称する昌伎の託宣を受けた将門らは、貧者が冨を得たが如くに意気盛んとなり、将門自身は「新皇」を自称するに至ったというわけだが、つづいて朝廷に奏上も行った。
この奏上には、これまでの一族間の「私戦」の経緯の説明と、常陸国衙襲撃において自らに罪はないとする弁明、坂東諸国を占領したことに関する開き直りとも取れる文言が並んでいた。しかしそれに続けて、将門は「傾国の謀」(国を危うくする陰謀)の片鱗を示したものの、その一方で主君である太政大臣藤原忠平への恩義も忘れていないとする文言も明記されている。勢いに任せて常陸・下野・上野の国府を占領したものの、この段階に至ってなお中央との連繋を重視しそれを維持しようとしていたのである。この奏上から“将門が坂東を独立国にしようとした”とった意図を読み取ることはできない。
『将門記』に描かれる将門の「新皇」自称も、将門の指導的立場が坂東の諸勢力のなかで承認されたことを象徴する場面であった、とでも理解すべきであろう。坂東諸国の富豪層もそれぞれが各地で「私戦」の当事者であったとみられるが、朝廷との連繋が良い人物(この場合は将門)と結合することで利権の拡大を図りつつ、勢いに乗じた将門に味方することで、自らと競合する勢力の駆逐を目論んだ者も多かったのであろう。将門を滅ぼすのが同じく坂東にいた藤原秀郷であったように、この段階に至ってもなお将門とその支持勢力は、坂東全域を一元的に支配していたわけでもないのである。
とはいえ、将門の勢いを恐れた坂東諸国の国司らは任国を捨てて逃亡し、将門は武蔵国・相模国なども次々と従え、実効支配の地域を拡大していった。
同じ時期に西国では藤原純友による争乱も報告されており、朝廷ではそれぞれの対応に追われることとなった。
純友に対してはひとまず懐柔策を取り、当面は将門追討を優先することが決まった。西国で藤原純友の乱が発生した上に、坂東数カ国の国司を追放したことは、もはや朝廷でも看過できなかったのであろう。
しかし国司相手の紛争で訴えられても、中央との関係次第では罪から逃れられたというケースもあった。先述のように将門自身も一度は朝廷による調査の対象となったのだが、中央政界との連繋を活かしてその時には国家的な追討を回避している。また、たとえば将門の乱から百年ほど後、九州で国司との間で紛争を起こしながら、結局は大きな罪には問われなかった平季基の事例もある。坂東で平忠常が大規模な争乱を引き起こしたのとほぼ同時代のことである。
長元二年(1029)、大宰府の役人であった平季基は大隅国の国司との間で紛争を起こし、国衙や国司の館などを襲撃して、大隅国から大宰府に訴えられた。その裁決が下る前に任期が切れてしまった大隅国司は、やがて直接朝廷に訴え出た。朝廷は事件について大宰府に問い合わせたが、平季基が大宰府の長官に賄賂を贈ってもみ消しを依頼したため、うやむやになっただけでなく、大隅国司が直接朝廷に訴えたのを越権行為であると称して、以後の調査を妨げようとした。それでも平季基は朝廷に召喚されてしまうが、やがて放免され、朝廷の高官には返礼ともみられる大量の贈り物を届けた(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年)。諸方への賄賂はそれなりの代償ともいえるが、追討を受けて滅ぼされることを考えれば…といったところか。
このように、中央との関係を良好に保った上で巧みに立ち回れば、国司との間で紛争を起こしても国家的な追討を回避することもできたのである。
将門の乱への対応に戻ろう。諸社諸寺には将門調伏の祈祷が命ぜられた。また、以前に武蔵国における将門の行状を密告した源経基は、召し出されて従五位下に叙された。そして天慶三年(940)二月八日には、ついに参議・藤原忠文を征東大将軍とする追討使(単なる使者ではなく、追討を目的とする軍隊とその指揮官である)が進発した。
将門自身はその間も関東にあって、従来敵対していた平貞盛や、それと結んだ藤原維幾の子・為憲らとの戦いを続けていた。やがて貞盛と為憲は下野国押領使藤原秀郷の協力を得て将門を攻撃した。この攻撃は京都を発った追討使が到着する前であったが、追討令が発せられた将門に味方する兵力は少なく、秀郷らとの戦いに敗れた将門は討ち取られ、将門の弟たちや興世王、藤原玄明らも誅殺された。
ところで、この秀郷について当初は将門に同調していたというエピソードもある。将門は新皇と号した上で坂東諸国に自ら国司を任じ、さらには大軍を率いて京都へ攻め上り、日本国の主になると主張して秀郷も当初はその構想を感心して聞いたという。しかしその後、秀郷は将門の立居振舞や食事の様子などを見てその乱雑さに落胆し、やがて将門を討ったというのである。このエピソードは『俵藤太物語』に記されたものだが、物語自体は室町時代に成立したものだから、後世に創作された俗説であろう。
最後の戦いでは、朝廷からの追討使派遣と時期を同じくして将門の勢力は減退したとみられる。これは、将門に味方していた勢力が朝廷からの追討対象となることを恐れて、随時離脱していったからであろう。勢いに乗じて坂東諸国の国府を占領していったが、そもそも国司は任国を平穏無事に運営し、所定の税を滞りなく中央に納めることが任務の第一であった。それを武力で追い出したうえで強引に支配しようとしたとしても、広い支持を集めることはできない。また、手段が強引であればあるほど、強い反発も招くことになる。
この戦いで藤原秀郷という味方を得た貞盛と為憲は、以前から将門や玄明らと敵対する勢力であった。つまり、将門の乱は「私戦」の延長線上で「公戦」と認定されつつも、最後はやはり「私戦」の延長線上で決着がついたのである。
以上が、平将門の乱と呼ばれる争乱の概要である。この争乱の経緯は坂東において幾重にも交錯した凄惨な抗争(「私戦」)が主軸であり、それ自体は朝廷の支配を揺るがすようなものではない。「新皇」を称した将門も、拠って立つ基盤は中央の貴族や国司との結合にあり、地方において朝廷の権威を背景に活動する勢力の一つであった。国府襲撃という事件を起こさなければ、将門は国家的軍事・警察権の担い手として朝廷や貴族から重用されていたかもしれないのだ(その可能性はあった)。
将門の“独立”について、たとえていえば、新たな起業を目指したもののように思われるかもしれない。だが実際には、新たな組合の設立を目指したようなものであって、しかもそれは近隣の支持も失った上で潰されてしまったのである。
将門を支持した富豪層も、程度の差はあれど将門のように朝廷の権威に依存する存在であって、その転覆など考えることはできない。彼らは現行の体制を承認しつつ、そのなかで自らの利益の拡大を図るに過ぎないからだ。自らの利益にかなえば将門にも味方するし、利益に反するようなら一度は味方しても易々(やすやす)と離脱するような“支持者”たちなのである。
将門を討った秀郷には従四位下、貞盛には従五位下の位が与えられ、彼らの子孫はやがて武士の家として発展を遂げることとなる。
   平貞盛…伊勢平氏(平家政権を立てた清盛などを輩出)、北条などの祖。
   藤原秀郷…小山・結城・長沼、波多野、山内首藤、平泉藤原氏、佐藤(歌人の西行を輩出)、後藤などの祖。
   平良文…千葉・上総、秩父平氏(畠山・小山田など)、三浦、大庭・梶原などの祖。
   藤原為憲…伊東・工藤、二階堂などの祖。
中世は「武者ノヨ」(慈円『愚管抄』)といわれるほど、武士がめざましく社会進出を果たしたことが大きな特徴の時代であった。それ以前の、たとえば将門の乱前後の時代にも武勇に優れた人物を追討使に任じたり、京都の警固(けいご)に徴発したりする事例はみられる。しかしこれらはいずれも突発・散発的な事例に留まり、彼らが恒常的に起用されるというようなことはほとんどなかった。
ところが時代も下って院政期になると、皇統の対立や、寺社強訴の頻発などにより、自らの皇統を武力によってより強固に守護する必要に迫られた院による軍事動員が恒常化する。そのときに麾下(きか)の武力として編成された伊勢平氏や河内源氏などのなかには、将門の乱に関わった人々の子孫で武士の家として発展を遂げた者も含まれていた。また、各地に設置された荘園を預かる下司(げし)などにも、諸国の国衙(こくが)在庁を務めていたような武士が起用されるようになり、荘園領主(院や貴族、寺社)らとの関係をそれぞれ独自に展開するようになっていく。
このように、中世における武士の社会進出は彼らが得意とする武芸を活かした奉仕を中心としたものであった。しかし一方では、ほかの貴族たちのようにさまざまな経済奉仕(荘園寄進の仲介、造寺・造塔・造仏、院知行国の運営実務)も行っていたのである。このことは、武士の政権といわれる鎌倉幕府が成立したあとでも例外ではない。
鎌倉幕府は、内裏や院御所などの警備のほか、その造営の費用を御家人らに賦課するなどして積極的に協力しており、それが彼らの主たるアイデンティティーとなっていたのである(「武芸をこととなし、朝廷を警衛せしめたまわば、関東長久の基たるべし(武芸に専念し、朝廷を警備することが鎌倉幕府の繁栄にも繋がるのだ)」『吾妻鏡』承元三年(1209)十一月七日条)。
将門の活動にもその端緒がうかがえたように、中世社会における武士は朝廷の権威を相対化して「私戦」を繰り返す側面をもつ一方で、そのさまざまな活動を展開する上で朝廷の権威に依存する側面もあるというように、背反する特徴を併せ持っていたのである。武士が天皇や貴族、寺社勢力などと対立し合うといった単純な評価のみでは、中世における武士の存在形態を考えることはできない。まして、将門の乱の舞台となった坂東の“自立性”を過度に重視することはできない。
将門の乱や源頼朝の挙兵という事実をもって坂東の「独立」を過度に重視する風潮が顕著であるが、現代人の価値観に左右されることなく、その当時の状況を冷静に分析し、評価を下すことが重要である。 
 
平将門 1
平安時代に関東地方で反乱を起こした武将。没後、崇徳上皇と菅原道真と共に「日本三大怨霊」として後世の人々から恐れられた。
生涯
平安時代の関東地方の武士・豪族。
平家出身で(つまり天皇家の血を引いている)下総(千葉県北部)を本拠とし、藤原忠平に仕えた。当時関東で台頭しつつあった武士たちの紛争やその調停にも介入し、関東各地へ出兵した。
935年(承平5年)に伯父の平国香や良兼と対立し、国香を殺害したことで翌年に朝廷に召喚され禁獄。帰国できたが同族間の争いは激化し、天慶2年(939年)に興世王・源経基と武蔵武芝の争いを調停しようとしたが失敗。将門は興世王が起こす問題解決に加担してついに国守の邸宅を襲撃し、明確に中央政権への反旗を翻した結果になった。そして、八幡神からのお告げを受けたと称し、自らを「新皇」と自称し、関東の独立化を図った。
同時期に瀬戸内海で藤原純友も海賊を率いて挙兵し(将門の乱と純友の乱をあわせて承平天慶の乱という)、朝廷は東西の反乱に戦々恐々とした。将門は序盤の大勝利に驕ってか無謀な采配が目立ち、最後には民心も離反、藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛に朝敵として討たれた。
承平天慶の乱を鎮圧した側の中核も東国武士であり、特に藤原秀郷の血筋を引く一族が武家の棟梁として隆盛を極めるようになった。これ以降の日本では関東地方を中心に武士が台頭していく。結果として将門の反乱は源氏による武家政権(鎌倉幕府)の先駆けとなった。将門による政権樹立の試みは、後世、日本の中心地が畿内から関東に移動していく一番最初のきっかけである。
神・怨霊としての平将門
東京都千代田区大手町の一角にある「将門の首塚」は、京都に運ばれた首が空を飛んで、関東を目指してここで力尽きたという伝説がある。この首塚は何度か移転しようとして原因不明の事故が相次ぎ、人々から怨霊として恐れられている。近年における周囲の再開発計画においても「地元にとって大切な信仰の場であるため」として、首塚の一角だけがノータッチとされた。
将門は中世になって武士の崇敬を集めるようになり、神田明神に合祀された。東国武士の祖として、平氏のみならず、源実朝らの源氏も崇敬したという。江戸時代、徳川将軍家も将門を篤く崇敬し、江戸の庶民からも江戸の守護神として崇められた。だが、明治時代に皇国史観が国定史観化すると逆賊と見なされ、神田神社の祭神からも外された。一方で地元有志による復権の動きもあり、戦後は英雄視された。昭和59年に神田明神の本社祭神に復している。
将門を調伏するようにという朝廷の指示に従い、そのための祈祷を行った寛朝僧正が開山した成田山新勝寺への参拝は、神田明神や同じく将門を祀る築土神社においては禁忌となっている。僧正が祈願し、成田山の本尊となっているのは不動明王であるが、不動信仰じたいはタブー視されていない。例えば、首を切り離された胴体を葬る「胴塚」の伝承がある神田山延命院の境内には「谷原光不動尊」が祀られ、明王山大栄寺には京都の東寺から将門が守り本尊として持ち帰ったと伝わる「山川不動尊」があり、東京都奥多摩町の将門神社の北側には「将門山不動尊」が祀られている例がある。関東で将門を信仰する人々は、不動明王を拝む際は成田山を避ける形で、別個に祀られた尊像に向かって拝んでいた。
逸話
将門公には不思議な逸話が幾つも伝わっている。
曰く、「常に7人の影武者を従え敵を混乱させるのが得意であった」「その影武者は実は将門公が信奉している北斗七星の化身だった」「日本で一番最初に反りのある刀(日本刀)を作らせ、戦で活用した」…などなど。
中でも有名なのは、愛妾だった桔梗姫の裏切りの説話であろう。将門公が源氏の兵に捕らえられた際、前述の影武者達も共に捕らえられ、立ち振る舞いも姿も本物の将門公に瓜ふたつだった為になかなか処刑に踏み切る事が出来なかった。その折、同じく捕らえられた将門公の愛妾・桔梗姫が「本物の将門は食事の折こめかみが大きく動く」と言う事実を白状してしまい、その為に本物の将門公は首を打たれた、と言うものである(飽くまで説話であり、事実かどうかは推測の域を出ない)。
処刑される間際、将門公は処刑場の傍に聳える城峯山を睨み
「この山に 桔梗あれども 花咲くな」 と詠んだ、と言われる。それ故か、今でも城峯山には桔梗が咲かない。また、この説話に因み、現代でも将門公を神と奉ずる人々は桔梗の花を忌む習わしがある。
「冷酷非情さや皇族の末孫でありながら簒奪を起こそうとした悪人ぶりが強調されるが、実際は寛大で情け深い一面もあったと言う。敵である平貞盛(将門公の妻子や家来を殺した一門の仇)の奥方が連れて来られた際、将兵に凌辱されて肌が露わな状態になっていたのを憐れみ、釈放するよう命じた。その時、 」
よそにても 風の便りに 吾そ問ふ 枝離れたる 花の宿りを
と将門公は詠んで新しい上着を与えて慰めた。貞盛夫人もまた、
よそにても 花の匂ひの 散り来れば 我が身わびしと 思ほえぬかな
と返した逸話が「将門記」に記される。
晒し首になった際、首級が朽ち果てることもなく、
斬られし我五体何れの処にか有らん。此に来れ。頭続(くびつい)で今一軍せん(切り離された我が体はどこなのか?ここに来い、首と繋ぎ合わせてもうひと勝負じゃ)
と叫んでいるのを見た歌人が、
将門は こめかみよりも 射られけり たはら藤太がはかりことにて(将門さんはこめかみから射られましたね。俵藤太の陰謀で)
と詠んだ。こめかみと俵(いずれも米繋がり)の語呂合わせを詠んだ歌を聞いて慰められたのか、将門公の首級はそのまま笑いつつ、朽ちていったと「太平記」は記す。  
 
平将門魔法陣
ビジネス街の中でも一等地の大手町には、かつて関東一円で武芸に優れながらも、世に受け入れられず悲劇的な死を迎えた平将門の首を埋めたとされる塚がある。塚に関しては、史実や不思議な伝説が相まってか、21世紀の現代でさえ忌んで憚られながらも「最恐心霊スポット」なる都市伝説としてしばしば注目を集めている。
その都市伝説に挙げられるのは、将門にゆかりのある神社を線で結ぶと、将門が信奉していた妙見菩薩を象徴する北斗七星が現れるというもので、格好のオカルトネタになっている。
ゆかりの寺社
たしかに将門にゆかりがあるとされる神社を線で繋げると、見事に綺麗な北斗七星のレイラインが江戸城の頭上に浮かびあがる。しかしながら、それらの神社の御由緒と伝承の類を調べてみると、必ずしも祭神としての将門に対して好意的な由来ではない。というか7分の4社が将門討伐を成し遂げた藤原秀郷が関わっているないし将門と関りが無い。
平将門魔法陣では、この7社だけがクローズアップされているのだけど、実際に将門ゆかりあるいは討伐側とのゆかりのある神社は他にもいくつか見つかった。
地図に当てはめると図の通り。オレンジの点が将門にゆかりの寺社、赤の点が討伐側とゆかりの寺社になる。
鳥越神社
貪狼の星(天枢) 北斗七星の右から1番目
【選出理由】宮司が将門の子孫、祭神が将門と伝わる
【祭神】日本武尊・相殿天児屋根命・徳川家康公
【社伝】人皇十二代景行天皇の皇子日本武尊にてまします也、此尊東夷征伐して帰り給うてより後、八尋の白智鳥となりて飛び去り給いしに基づき、此皇子を祭れる所を鳥越と申しける也。「御府内備考続編より」
【縁起】正保二年(1645)以前の旧号は鳥越三所明神といい、今戸の熱田神社、蔵前の第六天榊神社が並び祀られていた。熱田は石浜神社に譲渡、第六天は鏑木氏の分家が務めた。
江戸砂子には当社の宮司鏑木氏が将門を祖とする平忠常(忠頼と将門の次女春姫の子)の末裔千葉氏族であるため、古くから先霊社に将門の霊を祀ると言い伝えられてきたが、現在祭神にその名は無い。築土神社のように朝廷の反逆者であることを憚って祭神に記載しない場合もあるが、無いものは何とも言えない。末裔なので関りがあるか無いかでいえば○である。
兜神社
巨門の星(天璇) 北斗七星の右から2番目
【選出理由】将門が自ら甲冑を納めたと伝わる
【祭神】倉稲魂命 右に大国主命・左に事代主神命を合祀
【由来】明治十一年(1878)、東京株式取引所が設けられるに当たり同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
【縁起】当社には、社号に兜、背後の川には鎧の渡しがあったように、兜や鎧にまつわる伝承が3つある。
天慶三年(940)俵藤太(藤原秀郷)が将門討伐の折、将門の兜をこの地に埋め、塚を築いて兜塚と称するようになったというもの。「紫のひともと」
永承年間(1046-1053)、源義家が奥州征伐の折、ここより船で下総国へ渡ろうとしたところ暴風吹き荒れて難航したため、日本武尊の例に倣い鎧一両を海中に投じて龍神に祈願し鎮め、ここを鎧が淵と称するようになったというもの。「江戸名所図会」
将門自身が兜と鎧を納めたところ。「鎧の渡し跡(中央区教育委員会設置掲示板より)」
現在の兜神社は、伝承を伝える兜岩が境内に設置されてあるのみで、神社自体はこれら伝承と関係が無いため祭神にも将門の名は無い。が本当であるなら聖地といういみでは○。
将門塚
禄存の星(天璣) 北斗七星の右から3番目
【選出理由】将門の首を奉斎(供養)している
【伝承】京の七条河原に晒された将門の首は、腐敗することなく目を見開き、三日後には不気味に光りながら東国へ向かって飛んでいった。当地に落下し、次々と災いを成したため或は憐れんで人々が塚を築いて篤く祀った。
通称首塚ともいうが、そもそも塚の埋葬人が将門かどうかなど確かな証拠はないし、いろんな書籍を見ても「将門塚」に触れられていない。すべての著者が憚ったのか、あるいは存在しなかったからこそ記載が無いのか。ただ大正のころまでは実際に墳墓とおぼしき塚があり、写真が残っている。現在の将門塚は、塚も祭祀の宮居も無く、ただ供養塔と石灯籠が立つのみだが、これでも祀っているとはいえる。
神田神社
文曲の星(天権) 北斗七星の右から4番目
【選出理由】将門を奉斎している
【祭神】大己貴命・少彦名命・平将門命
【由来】上平川村芝崎(現:大手町将門塚周辺)にあった。江戸城拡張工事のため慶長八年(1603)に神田台へ、元和二年(1616)再び遷座し、以来400年同地に鎮座されている。明治時代に朝廷の逆賊であるとして祭神から外され、空座に少彦名命が入った。戦後数十年経って皇室に対するタブーが薄れると祭神として迎える機運が高まり、昭和59年(1984)には110年ぶりに祭神に復した。
【縁起】天平二年(730)、上平川村芝崎(現:大手町)に創建。当初は大己貴命を祀り、日輪寺というお寺の小さな叢祠であった。延慶二年(1309)に真教他阿によって将門の御魂を合祀して二座とする。その後慶長八年(1603)に一橋家(気象庁辺り)に、元和二年に現在地に鎮座されている。代々木の平田神社に秘蔵されていた、平田篤胤が尊崇した将門像が、昭和59年以来、神田神社に遷座している。
神田明神と築土明神
今でこそあまり広く知られてはいないものの、江戸時代にはすでに神田明神と築土明神は同体でどちらも「江戸総鎮守」と言われていた節がある。
例えば神田神社では、将門塚を起源としてかつて江戸城ができる以前から祀られていたという牛頭天王即ち素盞雄尊を奉斎している境内社があり、これを江戸の地主神として「江戸神社」と称した経緯がある。
一方築土神社も将門塚を起源とし、統治者の交代や災害が起こる度に遷座を繰り返しているものの、江戸時代には「御城内の氏神」として徳川家からも篤く尊崇されてきた。また次戸明神とも書き、これは江戸明神が誤って伝わったもので、築土明神が素盞雄尊と平将門を祀る(現在は瓊瓊杵尊と平将門公)。
築土神社の旧地
廉貞の星(玉衡) 北斗七星の右から5番目
【選出理由】将門を奉斎していた
【縁起】芝崎の将門塚を起源とする築土神社の創建は、討たれた将門の首が江戸の地に堕ちた天慶三年(940)を起源とし、土を築き込めて築土明神と称した。田安(九段北)〜牛込御門内(富士見)〜筑土八幡町などを転々とし、戦後九段北に移転している。
北斗七星の形を完成させるためには、現在地ではなく、江戸時代を通して328年間あった筑土八幡神社の境内でなくてはならない。
築土神社の由来など詳細は、後日続編の「魔法陣外二十所」にてまとめます。
水稲荷神社
武曲の星(開陽) 北斗七星の右から6番目
【選出理由】見当たらず
【祭神】豊受姫大神・佐田彦大神・大宮女大神
【縁起】藤原秀郷が高田の地にあった毘沙門堂にて将門討伐を祈願し、天慶四年(941)戦勝後に宝泉寺を草創および当稲荷を勧請。
鎧神社
破軍の星(揺光) 北斗七星の右から7番目
【選出理由】将門を奉斎している
【祭神】日本武命・大己貴命・少彦名命・平将門公
【由来】旧称鎧大明神といい、四世紀にヤマトタケルの鎧を埋めて祀ったのが興りであると伝わる。一説に秀郷が将門討伐後に大病を患い、将門の神霊の怒りを恐れ将門の鎧を埋め弔った、もしくは天暦年間(947-957)土俗が公を追慕し鎧を埋めたとも。
であれば関わったのは討伐側の秀郷であるが、といずれにしてもこの時をきっかけに平将門公を祭神に加えたことになる。祀っているという意味では○。
またこの柏木地域は秀郷と将門の戦場で、弟の将頼が戦いの最中に蜀江錦(しょっこうきん)を落としたと伝わる蜀江坂、蜀江山の名が残る。

外二十所
今回調べてみて、魔法陣の構成要因から外れているものの、将門とゆかりのある寺社、討伐側とゆかりがある神社が他にも20ヶ所ありました。
将門信仰
この首都東京のど真ん中にかつて徳川将軍家が築いた天下の巨城・江戸城があり、その頭上とも言うべき北側には、平将門ゆかりと伝わる神社が広がっていました。
関東の覇者ということもあって、もちろん他県にもゆかりの遺跡や伝承はあるのですが、どうして東京に将門の伝承が多いのか。
そこで気になったのは、江戸地域の歴代の統治者たち。平安時代末期の渋谷長者・河崎基家、鎌倉幕府執権北条氏の内管領・長崎円喜、原初の江戸城にあたる館を築いた江戸氏、それ以降も豊島氏、葛西氏、板橋氏、千葉氏、北条氏綱と、江戸の地は永く平氏によって庇護されてきた土地だとわかります。桓武天皇の五世の孫といわれる平将門の東国における華々しい活躍は、その子孫にとっては一族にとっての英雄であり、尊崇の対象だったのでしょう。
魔法陣だったのか
これら取り沙汰されている伝説として、1神田神社は将門の体を祀っており、「カラダ」が訛って神田になった。2鳥越神社では将門の首が飛び越えて来たから「飛び越え」が鳥越になった。3それぞれの神社で将門の「首」「体」「腕」「足」「兜」「鎧」を祀っているなどがある。
1は伊勢神宮に奉納するための米を産出する神田(みとしろ)があったことに因むとされる(現在も美土代町にその名残がある)。
2は日本武尊(白智鳥)の飛び去ったことに由来し、将門の首が飛び越えたわけではない。というか、京都から飛来して鳥越を飛び越えたのなら、将門の首は大手町まで引き返して来て着地点を選んだことになる。
3そもそも部位ごとに祀ったという話を見かけないし、なにより亡骸をバラバラにするのは崇敬というより狂気。
後日掲載予定の「魔法陣外二十所」にも出てきますが、将門に由来する神社、討伐側の人物に由来する神社は他にもあり、たまたま北斗七星に見える神社を線で繋げ、そこのみがクローズアップされただけと言えそう。なにより将門にゆかりがある神社の方が少ない結果となった。
将門の人物像
平将門についてざっくり調べてみました。掲載順に困ったので、最後にしました。
坂東平氏。高望王を祖とする氏族であるとされるものの、桓武平氏は仮冒(他人の名を語る)であり、古族の末裔との説もある。高望王という人物は、桓武天皇の孫か曾孫であるとすでに曖昧で、子は11人、孫が少なくとも24人(将門の兄弟だけで10人)と妾が一般的であった時代にしても多い。賜姓皇族でありながら遥任せず、高望王、将門の父良将ら三兄弟は、直接任地に赴き、任期を終えても帰京せず現地に土着し坂東平氏の基盤を固めていった。千葉県東金市御門(みかど)・宮の両地区に将門の館が、高倉・片貝周辺には大小の関を築いたところであったとされ、十文字川で生まれ、殿廻(とのまわり)には将門の胞衣を埋めた胞塚が残る。
将門は予てより叔父の鎮守府将軍平国香・同じく良正・上総介良兼、婚姻関係にある常陸大掾源護(みなもとのまもる)ら一族間での私闘が多い。上総国の実質的な長官であった良兼に至っては、中立を保っていたものの、将門と源護の長子・扶(たすく)との抗争に巻き込まれて軍事介入したりと、境遇は芳しくない。長子が相続をするという制度が無い時代の環境下にあったことも災いしてか、闘争を繰り返し、各国の国衙を制圧した将門は結果的に討伐の対象になってしまう。
平将門魔法陣の外二十所
篠崎浅間神社
【祭神】木花開耶姫尊
【由来】権輿は定かではないものの、承平二年(932)の記録が残る古社である。天慶元年(938)に、平貞盛が関東の平安を願って霧島神社の宮居を立て、これを当社の創建としている。現在この霧島神社は境内社として鎮座、瓊瓊杵尊を奉斎。
亀戸香取神社
【祭神】経津主神 相殿武甕槌神・大己貴命
【由来】天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際に、太刀一振を納め香取大神を勧請されて創建した。天慶年間、藤原秀郷が参籠して戦勝を祈願、戦勝後当社に勝矢を奉納した。
大雄山海禅寺
【由来】寛永元年(1624)に湯島妻恋に草創。それ以前は下総国守谷郷(現:茨城県守谷市)にあり、平将門が開基となって創建したと伝わる。将門の没後、荒廃した当寺をこの地に移したと伝わる。
妻恋神社
【祭神】倉稲魂命
【由来】4世紀の日本武尊が東征の折、身を投じて尊の渡海を助けた弟橘媛の死を憐れんだ里民が、二人を祀りそれを当社の創建としている。
【縁起】将門の後裔・小山行重が、将門の孫信太小太郎(平文国)と戦い討ち取られた。その霊が祟るので稲荷を祀ったと伝わる。
末裔の逸話が残るも、将門や討伐側双方とも関係ない。
神田山日輪寺
【由来】延慶二年(1309)に上平川村(現:大手町)を訪れた真教他阿が、将門の祟りによって苦しめられている里人たちのために将門の御魂を供養したところ治まった。以来、天台宗から時宗に改め、地名を取って芝崎道場と称された。徳川氏入国後の天正十八年(1590)以降は、各地を転々とし、明暦の大火(1657)西浅草の地に落ち着き現在に至っている。
【縁起】将門塚が先にあり、これの祟りを鎮めるために日輪寺が草創、そして境内にあった大己貴命を祀る小祠に将門の御魂を合祀、ここに神田神社並びに築土神社の原初の姿が確認できる。神田神社の移転と同じ元和二年(1616)に江戸城拡張工事を理由に、当寺は浅草新町へ移っている。
寿黒船稲荷神社
【祭神】稲荷神
【由来】当社はもと「黒船三社稲荷社」と呼ばれ、天慶三年(940)に、平貞盛が藤原秀郷と協力して将門の本拠を攻めたのち、船上に現れた黒船稲荷大明神を祀ったのがはじまりと伝えられている。
下谷神社
【祭神】大年神・日本武尊
【由来】天平二年(730)、忍岡(現:上野公園)に創建したと伝わる古社で、峡田稲置が建立したとも、行基が伏見稲荷を勧請したとも伝わる。天慶三年(940)に藤原秀郷が参籠し戦勝を祈願したという。
椙森神社
【祭神】五社稲荷大明神(倉稲魂尊・素戔嗚尊・神大市比売・大巳貴大神・四大神)
【由来】創建年代は詳らかではないものの、天慶三年(940)、藤原秀郷が平将門討伐の際に当社に戦勝祈願をし、後に白銀の狐像を奉納したといい、その神像は現存している。室町時代には、太田道灌が山城国稲荷山から五社大神を勧請したという。
築土神社
【祭神】天津彦火邇々杵尊・平将門公・菅原道真公
【由来】将門塚を起源とし、太田道灌の時代に城の北西に移転。北条氏康の時代に田安の台へ移転。徳川家康の時代に牛込に移転。秀忠の時代に御殿山の異名を持つ筑土八幡神社の境内へ移転。先の大戦で焼失し九段へ移転。九段中学校開設のため現在地へと、再三遷座を繰り返している。
【縁起】天慶三年庚子相馬将門誅せられし後、その首級を当国江戸平川の観音堂へ移しこれを斎ひて津久戸明神と称す。文明十年戊戌太田道灌江戸城の鎮守として宮社を造立ありしといへり。「江戸名所図会より」
築土明神は、太田道灌の時代に将門塚辺りから城の北西の田安(北の丸)に移転。その後徳川家康の時代に将門塚周辺から神田明神が城の北東(一ツ橋)に移転している。つまり二人の統治者によって将門は二度遷座していることになる。これが両大明神が同体と言われている由縁だろう。
新橋烏森神社
【祭神】倉稲魂命・天細女命・瓊瓊杵尊
【由来】いつ頃の創建かは詳らかでないものの、朱雀院御宇天慶三年(940)将門征伐の時、藤原秀郷が参拝し勝利を得たと伝わる。その昔樹木生い茂り烏の巣が多い様子から「巣の森稲荷」または「烏の森稲荷」と称すようになったという。
麻布氷川神社
【祭神】素盞鳴命・日本武尊
【由来】清和源氏の初代六孫王経基が、将門の乱平定の折に当地を訪れ当社を創建したという。またその時ここの一本松に衣冠を掛けたと伝わる。太田道灌が武蔵一宮の氷川明神を勧請したとする説有り。
将門霊神祠
【縁起】港区三田には将門の後胤・三田弾正政定が創始した将門神を祀った祠があったが現存せず。
また三田の台(元神明天祖神社の辺りか)と呼ばれたその地は、将門の乱の遠因とされる武蔵国造家・武蔵武芝(むさしのたけしば)の荘が、討伐側のひとり六孫王経基がこの地に出張したという言い伝えがある。
赤城神社
【祭神】磐筒雄命・赤城姫命
【由緒】正安二年(1300)、上野国赤城山麓の豪族・大胡宮内少輔重行が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊を荏原郡牛込郷田島(現:西早稲田)にお祀りして創建。太田道灌が現在地に遷したともいう。
【縁起】将門の首が木の梢に落ち留って血がついた故に赤木の明神という。
江府神社畧記の津久戸社の項にあるのみで、赤城神社の項にこの手の話は見られない。
東山稲荷神社
【祭神】宇迦之御魂大神・大宮能売大神・佐田彦大神
【由来】源経基が延長五年(927)初午の日に京都の稲荷山から勧請したと伝わる。
【縁起】天慶年間には経基の下に稲荷神が現れ、御神託によって先んじて将門に謀反の疑いがあることを知り得たと伝わる。藤森稲荷、東山藤稲荷ともいう。
東新町氷川神社
【祭神】須佐之男命
【由来】創建年代など詳らかではないものの、武蔵国一之宮氷川神社の御分霊と伝わる。
【縁起】将門が深く信仰した太刀佩観音(太刀を身につけた姿)や将門正筆と伝わる金泥の写経、将門の宮殿の瓦で作ったとされる硯が収蔵されている。いずれも築土神社の旧別当成就院の什物だったが、廃寺の際に当社へ伝わっている。また太刀佩観音は将門の御影であるとも、また最初に首を祀ったとされる上平川の観音堂に納められていたとも。
小豆沢地名由来
【祭神】国之常立神他一六柱
【由来】康平年間(1058-1065)、源義家の勧請によって創建と伝わる。
【縁起】将門が東国を平定した際、貢物の小豆を積んだ船が、この辺りの入り江に沈んだので小豆沢の地名になったと伝わる。小豆沢神社そのものは、将門との関連は無い。
稲荷鬼王神社
【祭神】宇賀能御魂命・鬼王権現(天手力男命・大物主命・月夜見命)
【由来】承応二年(1653)創建の稲荷社で、宝暦二年(1752)に熊野より鬼王権現を勧請。天保二年(1831)稲荷と鬼王権現を合祀させ、稲荷鬼王神社となった。
【縁起】平将門を祀り、幼名「外都鬼王」から取って社号としたと伝わる。
創建年が将門の没後700年も後のことで、また祭神にその名が見られない。「鬼王」の名前から作られた逸話だろうか。というか桓武天皇四世の鎮守府将軍平良将が息子に鬼王などと名付けたかも不明。そもそも将門は「小次郎」。
幡ヶ谷不動荘厳寺
【由来】智証大師作と伝わる不動明王の本尊があり、近江国三井寺(現:滋賀県)を創建の時の霊像という。
【縁起】藤原秀郷が将門討伐の折、この霊像を陣中にまで持って信奉したといい、下野国小山郷(現:栃木県小山市)にあったが、武田信玄が七覚山円楽寺(山梨県)に移し、北条氏政が奪取して相州筑井の寺へ移し、徳川家康が多摩郡三光院に移し、そこからまた霊夢ないし武蔵野の開拓の折に荘厳寺へ合併し霊像が遷っている。
千束八幡神社
【祭神】品陀和気之命
【由来】貞観二年(860)、宇佐八幡宮から御分霊を勧請し創建した。源義家がこの池で足を洗ったことから別名足洗池八幡宮とも言い、また頼朝がここで平家討伐の旗を立てたことから旗挙八幡とも言った。
【縁起】将門討伐の折、朝廷より派遣された鎮守府副将軍・藤原忠方の館があった地と伝わる。
神社と藤原忠方の館は関係無さそう。
山王熊野神社
【祭神】伊邪那岐命・速玉男命
【由来】元享年中(1321-1324)、紀州から移った開拓者らによって創建された。
【縁起】将門の乱に際し、この地の熊野五郎という人物が、当社に戦勝祈願をし鎮圧に向かっている。

江戸の歴代の統治者に平氏が多いため、将門ゆかりの神社が多いのはわかるのだけど、意外と討伐側にまつわる神社も多かった。またそれぞれの神社仏閣の歴史を調べると、魔法陣の一社に加わる神社と、そうでない寺社との間には、由来などからくる確たる線引があったわけでも無さそう。ただ、何かしらの意図を感じるぐらい、綺麗なレイラインではあるかな。
 
平将門 2
天慶3年(940年)2月、下総国石井(いわい・・・現 茨城県岩井市)において、平将門は藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲の連合軍との戦いの最中、どこからともなく飛んできた矢にあたりあえなく戦死しました。前年坂東諸国を制圧し、新皇を称した将門の乱はわずか2ヵ月であっけなく幕を閉じたのです。
朝廷に刃向い皇位を僭称する悪人の末路はかくのごとし・・・将門は戦前の歴史観上、日本史上最大の悪人として恰好のサンプルでした。
系譜
将門は平氏の祖・平高望の孫にあたります。桓武天皇の曾孫にあたる高望王が臣籍降下で平の姓を賜り、上総介として赴任したことは ここ にも書きました。平高望は任期をすぎても帰京せず、開拓農場主として上総国に土着し土地の有力者となったのです。彼の長男国香(くにか)は常陸大掾、鎮守府将軍。二男の良兼は下総介。良持(将門の父)も鎮守府将軍に任命されていました。
高望王の子孫は代を重ねるにしたがって上総国から下総国、常陸国に広がり、やがては平清盛はもちろんのこと、後に坂東八平氏と言われるようになる長尾氏、千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、梶原氏、土肥氏、大庭氏達を生み出しました。もちろん平安末期源頼朝に協力した北条時政、畠山重忠等も平氏であり、このことは平安中期にこの一族が坂東でいかに繁栄したかを物語るものです。
この時代より約150年後、源頼義は奥州制覇をめざして前九年の役を引き起こしましたが、なぜ奥州なのかといえば坂東はすでに平氏一門等に押さえられていて土地のスペース(?)がほとんどなかったのも一因です。
平国香の長男貞盛が伊勢守に任ぜられて伊勢国に移り住むと、今度は坂東にかわって伊勢が平氏の本拠地となりました。ご案内のとおり伊勢平氏は清盛が登場し政権を掌握すると同時に貴族化し、全国の武士達にそっぽをむかれてしまいます。坂東の平氏達は平氏の末流とはいえそのころにはもはや平氏一門の待遇は受けなかったため、源頼朝に味方し平氏打倒の兵を挙げることになるのです。
一方初期のころ将門と争うようになる源氏は源頼朝等を出した清和天皇の子孫(清和源氏)ではなく別の系統になります。源氏は清和源氏が有名ですが、皇族の臣籍降下で源氏の姓が与えられたのは豊臣秀吉のころまで行われていたので源氏の流派は実に多かったのです。
平氏は桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の4流だけですが、源氏は21の流派がありました。嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏がそれです。
この中で嵯峨源氏は一文字の名前で知られています。姓も一文字ですから合わせて二文字です。歌人として高名な源融(みなもとのとおる 812〜895年)や源頼光の四天王として知られる渡辺綱はこの流れです。
平将門と深くかかわる源護(みなもとのまもる)は確実なところはわかりませんが、名前が一文字なので嵯峨源氏と推定されています。彼は常陸の大掾(たいじょう)として赴任しました。
源護の長女は平良兼(国香の弟)、次女は平良正(同)、三女は平貞盛(国香の長男。将門の従兄弟)にそれぞれ嫁いでいます。つまり、まことにややこしいことながら源護は平氏と姻戚になることで勢力の拡大を図ったのです。

他のところで何回か書いていますが、国司の官位(朝廷内の役職)は数段階に別れていました。このコンテンツにも守、介、掾という名称があちこちに出てきますので一応参考まで。
等級 / 官位 / 読み方 / 内容
1 守 かみ 今で言う県知事。その国の最高官
2 介 すけ 副県知事。ただし上野、常陸、上総にあっては最高官
3 掾 じょう 副々県知事。国によっては大掾、小掾もあった
ですから武蔵守といえば武蔵の国(今の埼玉・東京)の最高官です。これに対して上野、常陸、上総の三国は親王任国といって、守は親王が任命されるのが慣例でした。親王は当然皇族ですから京都から離れることはできません。このためこれら三国では介が事実上の最高官だったのです。なお任期は5年間で、時には再任されることもあったようです。
権力争い
平安中期の朝廷で絶対的権力を握ったのは藤原氏ですが藤原氏が危険視し、これを除くことに躍起になった人が少なくとも三人います。一人は菅原道真であり、あとの二人は伴善男(とものよしお)と源高明(みなもとのたかあきら)です。
菅原道真についてはここでは書きませんが、伴善男(809〜868)が失脚したのが応天門の変です。応天門とは現在でいえば国会議事堂正門のようなもので、866年3月ここから不審火が発生。またたく間に左右の門を含めて全焼した事件です。
2ヵ月後、右大臣藤原良相と大納言伴善男はこれを左大臣源信(みなもとのまこと・・・嵯峨源氏)による放火と断定。しかし同年8月、犯人は伴善男父子であるとの密告者が現れ、その結果伴善男をはじめとする5人が連座し流罪となったのです。源信は疑惑は晴れたものの、疑われたショックで家に閉じこもったまま2年後に亡くなります。
この事件の真犯人はいまだに不明です。これは伴善男がライバル源信を蹴落とそうとした事件とも、あるいは伴善男の失脚をねらった太政大臣藤原良房の陰謀ともいわれています。仮に藤原良房の陰謀でなかったとしても、彼はこの事件を巧みに利用した結果藤原良房の有力な政敵である伴善男と源信がいなくなったのは事実なのです。
安和の変は969年、源高明(914〜982)が娘婿である為平親王を擁立して冷泉天皇の皇位を奪おうとした事件です。源高明は醍醐天皇の子で臣籍降下で源の姓を賜り26歳で参議、52歳で右大臣、続いて左大臣にまで昇進しましたがこの事件で失脚。この人も菅原道真同様大宰府に左遷されました。
しかし安和の変は菅原道真のケース同様に藤原氏による陰謀・でっち上げ事件に間違いなく、強力なライバルを蹴落とした藤原氏はその後朝廷内での絶対的権力を掌握することになるのです。
この頃の坂東は『群盗山に満つ』状態で武蔵国、上総国、下総国などは郡ごとに検非違使(警察署のようなもの)を設置しなければならないほど治安が悪化していました。しかしそんなことはなんのその。当時の朝廷ではこんな事件(権力闘争)が相次いで起きていました。藤原氏には国政を担当している自覚など一切なく、ひたすら一族の繁栄だけを目的に朝廷を(つまり日本の国政を)牛耳ることになるのです。
将門記
将門の乱について書かれたものが将門記(しょうもんき)です。将門の死後四ヵ月ほどで書かれたらしくほとんど同時記録のようなものであり、信頼性は高いとされています。作者は不明ですが下総・常陸国の地理に詳しく、また仏教的な文章が多いため現地付近の僧侶ではないかと言われています。
また将門について称賛しているところがある反面、反逆者としても書かれており、作者の立場が将門側なのか朝廷側なのかよくわからいところもあります。
出生〜青年期
将門の生年はよくわかっていませんが、母は下総の豪族、犬養春枝(いぬかいはるえだ)の娘で、下総国石井(現在の茨城県岩井市)付近で生まれたと言われています。父は良持(良将と書いた記録もあります)。将門は通称として小次郎を名乗っているところから、二男と推定されています。長男はおそらく早世したのでしょう。
将門は少年のころ、一時京に上っていました。目的は何かしらの官位(朝廷内での役職)を得ることです。この時代の地方武士の中には京の公家の私臣となって雑務をする人が多かったようで、将門もどのようなツテで仕えたのかはわかりませんが右大臣藤原忠平(時平の弟)の家人となっています。ひょっとしたら将門の父良持が開拓した荘園は藤原忠平に寄進されていて、その縁で仕えたのかもしれません。
仕事は藤原忠平の家屋敷や京の町の警備などだったでしょう。武士ですから学問はないし、それくらいしかやることがないのです。まじめに勤務して主君に気に入られれて、しかも運がよければなにかしらの官位がもらえたのです。もちろん一種の任官運動ですからクソまじめに勤務するだけではなく、それなりの貢物・・早い話が贈賄活動をしていたことでしょう。
将門の家は坂東一の氏族の家ですし、父良持は鎮守府将軍として陸奥に赴任していました。相当裕福な家だったことでしょうからそれなりの贈賄はしていたことでしょう。それでも貰える官位は、なにしろ当時は武士などごく低い身分でしたから決して高いものではなかったと思われます。
この時代から約150年後、後三年の役を鎮めた源義家(八幡太郎)は当時の武士としては破格の正四位下与えられ、昇殿をもゆるされましたが、これはあくまで例外なのです。
武士にすれば低いとはいえ官位があれば豪族仲間の間でも大きい顔ができますし、仮に国司や豪族間でトラブルが起きた場合、京との公家とつながりがあると何かと有利だったのです。この点政財界とつながりがあるといろいろ有利とされる現代と同じようなものです。社会の構造や人のあさましさは昔も今も変わりません。
将門は武骨な田舎武者にすぎません。故郷にいれば大勢の郎党や下人にかしずかれていた身です。戦は得意でも貴族の教養など持ちあわせず、宮仕えは戸惑うことばかりだったことでしょう。
何年間京都にいたのか。結局将門はなんの官位ももらえませんでした。官位をもらえなかった恨みから将門は反逆したと主張する人もいるようですが、これは考えすぎというものでしょう。将門は戦のこと以外、特に官位などにはそれほど執着する男ではなかったような気がします。
やがて不幸なことに陸奥国に単身赴任していた父が急死し、将門は急遽家を継ぐため京都から戻ることになります。そしてそれは他の平氏一門との戦いのはじまりでもありました。
同族との争い
将門記は935年2月、常陸国野本付近で将門と源氏の武力衝突があったことを伝えます。この戦いで将門は源護の長男扶(たすく)、二男隆(たかし)、三男繁(しげる)の三兄弟だけでなく、源氏に加担した伯父・平国香までも討ち取るという戦果をあげました。
将門がなぜ源氏と戦うことになったのか原因は不明ですが、普通に考えればこの付近の土地は源護や将門の領地が複雑に入り組んでいたため、それまで小競り合いだったのがこの時は本格的な戦闘に発展したのかもしれません。
将門記には女禍とも書いてあります。将門の妻は平良兼(将門の叔父)の娘のようですが、将門がこの娘を略奪同然に奪ったので将門は一族から孤立していたという説もあります。平良兼は源護の娘を妻にしていますので彼にとっても源護は親戚にあたるのですが、それならばこの時なぜ平良兼が加担しなかったのかナゾです。
また平真樹という人が源護と紛争を起していて、将門は真樹に頼まれてこの紛争を調停しようとしていたとも言われています。将門はけっこう人に頼られる人物でもあったようで、将門の乱は将門のこの侠気に富んだ性格が大きな原因になっているように思えます。
平国香の加担もまた謎です。この人にとって源護は息子の舅。親戚とはいえ将門は甥ですから将門との縁の方が濃いと思うのですが・・・。
ところが前記したように源護の三人の娘は平貞盛・良兼・良正に嫁いだのではなく、国香・良兼・良正の兄弟に嫁いだと書かれた資料もあります。これが真実なら国香の加担は納得できます。いずれにせよ将門と源護の争いは他の平氏一門を巻き込んでの争いに発展して行くのです。
将門は源氏三兄弟の不意打ちをくらったようです。このため一時は劣勢だった将門ですが次第に体制を立て直し、ついには攻撃に転じ一気に大串にある源氏館に、続いて石田にある平国香の館に攻め込みました。この戦いで野本から石田にかけて点在する村々(ほとんどが源護や平国香の領地)はすべて焼き払われ、人は男女幼老を問わず殺されたといいます。
最初に少なからぬ郎党を失ったため、怒り心頭に達した将門が徹底的に戦ったのでしょう。そうでなければ将門の攻撃の激しさが説明できません。しかしこうした場合の攻撃は激しければ激しいほど、強烈ならば強烈なほどよいのです。そうでなければ弱い主人、頼りにならない主人として郎党から離反されてしまうのです。当時はそういう時代であり、坂東はそういう風土だったのです。
将門記にはこのように記されています。
「悲しいことに男女は焼けて薪となり、珍しい財宝は他人に奪われてしまった。三界火宅の財宝は元々五人の持ち主があるというが、持ち主が変わって定まらないとはこういうことを言うのか。その日の火が燃え上がる音は雷鳴のように響き渡り、その煙の色は雲と争うように空を覆った。山王神社は煙の中で焼け落ち、国府の役人や一般庶民はこれを見て嘆き、遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。矢に当って死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、盾を捨てて逃げた者は予期せぬ夫婦の生き別れとなった。」 *三界火宅・・・苦しみ多いこの世の意味
薪(まき)とは若い人には知らない人がいるかも知れませんが短く切って乾燥させた木で、火をおこすのに使い燃えれば黒焦げの炭や灰になります。
それにしても生々しい表現です。このすさまじいばかりの逆転劇は、将門の軍事力が源護や平国香の想像以上だったことを意味します。戦いは将門の大勝利でしたがこの結果、源氏三兄弟はともかく一門の統領である平国香を討ち取ったことにより、将門は平氏一門から孤立し、一族すべてを敵に回すことになるのです。

前記のとおり将門の叔父平良正もまた源護の娘を妻にしています。良正は源氏の不幸に同情するあまり、車輪のごとく国中を奔走し、味方を募って将門に戦いを挑んできました。両者は935年10月、常陸の川曲で戦いましたが良正は死者60人、怪我人は数知れずというダメージを受けて敗退。良正は敵の名声を上げ、他国で恥をさらすことになりました。(茶色の文字は将門記の記述)
ここで将門の従兄弟、平貞盛(たいらのさだもり)が登場します。平国香の長男で、平清盛の祖先にあたります。貞盛はやはり官位目当てに将門とほぼ同時期に京へ行っていましたが、将門よりは宮仕えの才能があったのか、要領がよかったのか。左馬充の官位を貰っていました。
左馬充(さまのじょう)とは御所の馬や馬具、諸国の牧場の馬を管理する役職で、卑賤な職ではありましたが何の役職にもつけなかった将門とはかなりの違いがありました。
父の死を知って故郷に帰った貞盛は何を思ったか将門と和解すると言い出したのです。おそらく坂東で戦いに明け暮れれば自分の朝廷内での出世にひびくと思ったのでしょう。しかし何といっても将門は貞盛にとって父の仇。将門は和解するとの貞盛の言葉を信じず、結局貞盛も叔父の平良兼や良正と共に将門と戦うことになるのです。
平国香亡き後平氏の長者となった平良兼はいつまでも事態を捨ててはおけず良正、貞盛と共に翌年6月、将門追討に立ち上がることになります。兵数約1000人。これに対する将門勢はわずかに200人。
将門の兵力は決して少ない数字ではありません。常に数千、数万の兵が動員されたのはずっと後、戦国時代になったからのこと。当時の豪族の動員兵力は数十からせいぜい数百だったのです。そんな時代に平良兼が1000人もの兵を集められたということは、これはそのまま良兼の実力を意味します。
しかし戦いは必ずしも兵力の大小では決まらないものです。良兼は兵を引き連れて北上し一旦は下野国に入ります。示威運動です。兵数に開きがありすぎて尋常に戦ってはとても勝てないため、良兼軍を待ち伏せした将門は奇襲攻撃で敵の前軍を混乱させ、それに乗じて一気に突撃するとたちまち良兼軍はばらばらとなり、良兼・良正兄弟は近くの豪族の館に逃げ込みます。
ところが将門はその館を一旦は包囲しますが、しばらくすると囲みの一部を開けてわざと良兼等を逃がしてやり、その後将門は下野国府に赴いて騒動を起こしたことを侘び、国府の役人に一部始終を報告して帰っています。
なぜ将門が良兼・良正を逃がしたのかはわかりません。彼の甘さかもしれませんし、時折みせる人の良さなのかもしれません。
この年の10月将門は源護に訴えられたため、朝廷に呼び出されて上京しています。しかし結果として将門の罪は軽微であるとされ、かえって将門の武名は都に知れわたることになるのです。翌937年4月朱雀天皇の元服による恩赦があり、罪は不問となり5月には帰郷しています。
帰郷した将門には再び良兼・良正との戦いが待っていました。この時将門は一時的ながら戦いに敗れています。
運悪く将門は脚気を病んでおり、さらには祖父高望王の木像を掲げて突撃してくる良兼・良正にはさすがの将門も弓が弾けず敗退しています。これは相当卑劣な手段でしたが、良兼・良正にとっては普通の手段では将門には勝てないと考えた窮余の策だったのでしょう。しかしそれでも将門を倒すことはできず、9月になると脚気が治った将門が常陸国真壁郡にある良兼の領地を焼くと良兼は筑波山中に逃げ込んだため引分になっています。
将門が帰郷した5月から9月にかけて大小、多くの戦いがありました。この当時の兵は農民兵。農民にとっては農繁期の戦いは農作業はできず、戦死者も出るし迷惑この上もなかったことでしょう。もっともこの状況は織田信長が兵農分離を始め、豊臣秀吉が刀狩をして農民の武装解除を行うまで変わらなかったのです。

将門の下人で丈部子春丸(はせつかべ こはるまる)という男がいました。
丈部という姓は大和民族のそれではありません。越後方面にいた大和朝廷に背く人・・・まつろわぬ人の姓です。
まつろわぬ人で朝廷に降伏し帰順した人は俘囚(ふしゅう)と呼ばれていました。当時の坂東はまだまだ未開の地が多く、開拓のため多くの人手を必要とし、その労働者として坂東や他の地方に送り込まれた俘囚も多いのです。
当然ながら俘囚達は好きこのんで坂東に移住したのではありません。坂東での労働は過酷だったでしょうし、その不満から時には大規模な反乱に発展することもありました。
子春丸が実際に丈部氏の一族なのか、それとも単に名乗っていただけなのか今になってはわかりませんが、少なくとも将門の配下に丈部姓を名乗る人がいたということは、将門の軍には俘囚達がかなりいた証拠と思えます。
さて子春丸はおそらく下人ではなく、郎党に取り立てるとでも言われたのでしょう。良兼の誘いに乗って将門を裏切り、将門の館内の様子や家屋の配置を良兼に教えてしまうのです。ある日の未明、良兼は80人の精兵で将門の館を襲撃しようと進んでいくと、途中でこれを将門の兵に見られてしまいます。その兵の急報で良兼の襲撃を知った将門はわずか10人の兵(その時、彼の館内にはそれしかいなかったのです)を部署し、良兼を待ち受けます。
不意打ちをかけようとした良兼は逆に不意を突かれ、数十人の死傷者を出して逃げ帰ります。またしても将門の勝ちでした。その後ほどなく良兼は失意のうちに病死し、貞盛は将門の追求を逃れるために翌938年2月、東山道から京都へ向けて出発しました。
これを知った将門は百余騎の騎馬兵を率いて追撃。信濃の国分寺で追いつき、千曲川で合戦となりましたが一戦して貞盛は敗れ逃走してしまいます。しかし追撃したもののどうしても貞盛を捕捉することはできず、将門は地団太踏んで悔しがったといいます。
貞盛は取り逃がしたものの数回の合戦に勝利してきた将門は坂東一の武者と称えられるようになり、同族との戦いはこれで一応終わり、以後彼の行動は強力な軍事力をバックに同族との戦いの枠を越えて行くのです。
武芝騒動
武蔵国(現東京都、埼玉県)安立郡の郡司(ぐんじ)に武蔵武芝(むさしのたけしば)という男がいました。郡司とは、朝廷から派遣された守が県知事のような存在だったのに対して市長のような立場です。
この役職には朝廷から派遣された役人ではなく、習慣的に現地の有力な豪族が任命されていました。武蔵武芝は極めて優秀な郡司として国司側からも民衆からも信任が厚かったようです。また彼は武蔵という姓があらわすように武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の子孫と考えられています。
938年2月、騒動は武蔵国権守として興世王(おきよおう)、介として源経基(みなもとのつねもと)が赴任して来た時起こりました。守は百済貞連(くだらさだつら)でしたが着任が遅れていて、この時はまだ到着していなかったのです。*権守(ごんのかみ)・・・守の代理。介の上位役職
余談ながら武蔵国は朝鮮からの帰化人が開拓した国です。かつて大和朝廷と親密な関係があった百済国・高句麗国が滅びると多くの人が日本に帰化しました。彼等は大陸の最新の文化・文明を日本にもたらし、ある者は大和朝廷内の要人となり、またある人は開拓のために地方へ移住したのです。
『続日本紀』元正天皇霊亀2年(716)には、『駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1799人をもって武蔵の国に移し、はじめて高麗郡を置く』とあります。
高麗神社(こまじんじゃ・・埼玉県日高市) 現在でも埼玉県南部には高麗川という川がありますし、飯能市(はんのうし)という市もあります。飯能とは韓(ハン)の地(ナラ)という意味のようです。『こま』という地名は古代朝鮮と関係があるようで、東京の駒込(こまごめ)や狛江(こまえ)も朝鮮からの帰化人が残した地名です。
この神社は、唐・新羅連合軍に敗れ滅亡した高句麗国の王族若光(じゃっこう)を祀る神社です。若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発につくし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没したのです。
ついでに言うと地名ではなく姓名になりますが、『こぐれ』という姓は高句麗(こうくり)から、羽田、秦、湊のように『はた』という姓名は始皇帝を出した秦(しん)の住民が日本に移住して国名を名乗ったともいわれています。秦は『はた』とも読むのです。
国司と郡司の利害関係
当時善政を布くために赴任した国司は皆無と言ってよいでしょう。下級貴族達は国司になりたいのです。そのためにはいろんな手づる・賄賂をはじめ、あらゆる手段を用いて藤原氏の機嫌をとってやっと国司に任命されるのです。臣籍降下して平氏や源氏となった皇族、たとえば高望王も同じです。
臣籍降下したとはいえ、モトをただせば高望王達は藤原氏の主筋。なぜ卑屈なまでに運動をして国司になりたいか。
当時の京都では藤原氏一族(もちろん本家の藤原氏)が権力を握っていて、藤原氏一族でなければ絶対といっていいほど出世の見込みはなかったのです。もちろん皇族であっても母親が藤原氏以外の家の出身であっては同じことでした。
彼らはたとえ天皇の血筋であっても京都にいてはうだつが上がらず、下級貴族として一生を終えるしかないのです。ところが国司に任命されて現地に赴任すれば、一定の税を徴収しそれを朝廷に送ることが仕事になります。
国司の仕事とは簡単に言えばそれだけで、それさえきちんとやっていればあとは農民を徴収して私用に使おうと、地元の有力者達から饗応を受けるのも、賄賂を受けるのもやり放題なのです。
賄賂は、例えば訴訟の時や年貢取り立てに手心を加えてもらうようなことであり、私用に使うとは、主な用事は未開拓地の開墾です。そして任期がすぎれば京都には帰らずそこに住み着く。その新しく開拓した土地を荘園として名目上は都の有力貴族(藤原氏など)に寄進しますが、事実上は自分の土地になるのです。
ここに当時の律令政治の矛盾が表れています。国内の土地は三種類に分かれます。国有地と荘園と未開拓地で、国司にとって税を徴収する土地は国有地だけで、荘園は都の貴族の持ちもので税徴収の対象外、非課税領域なのです。
新任の国司にとって国有地が多いほど税徴収の成績は上がります。しかし彼等にとっては未開拓地が多いほど嬉しいのです。なぜならその未開拓地を開拓して荘園とすれば任期終了後は自分が支配することができるからです。
こんなわけで国司になるということは賄賂は入るし、未開拓地が多ければ将来大農場主になれる可能性を秘めているし、喉から手が出るほどなりたいのも無理のないことでした。地元民からみれば国司は朝廷の威をかさにきて威張りちらすだけではなく、税を搾り取るわ、私用に使われるわ、賄賂を要求するわでハラワタの煮え繰り返るような存在で、当然ながら国司と地元民とはイザコザが絶えなかったのです。

武蔵国に到着するなり興世王と源経基は、武蔵武芝に対して領内を検分すると通知しました。検分とは聞こえが良いですが、早い話が検分する土地の有力者から受け取る莫大な貢物が目当てであり、守の百済貞連がいては自分の取り分が少なくなるため、百済貞連の到着を待たずに行おうとしたのです。あさましいものですが、それくらいのことをしなければ赴任した意味がないと考えたのでしょう。
武蔵武芝は二人の要求を、守の到着前の領内検分は慣例に反する、として拒絶しました。すると怒った興世王と源経基は兵を引き連れて武芝の領内を荒らしまわり、略奪をほしいままにしてしまいます。暴悪で非があるとはいえ、興世王と源経基に逆らうことは朝廷に逆らうことになります。衝突を恐れた武芝は一族を引き連れて付近の山に避難してしまいます。
これを知った興世王と源経基は狭服山という山に陣取り、武芝と対峙するようになります。狭服山の所在地は不明です。埼玉県狭山市ともいわれていますが、その後興世王はここを下山して武蔵の国府に出向いていますから国府(東京都府中市)からはそれほど離れてはいないとも思います。狭山市と府中市は直線距離にして約40Km。ちょっと離れすぎているように思えます。
その興世王と源経基は自分達に対する非難の声が高まるにつれてコトの重大さに不安を感ずるようになり、さりとて武芝に詫びを入れるのはメンツにかかわるし、どうにも動きがとれなくなって来ていました。
ここで将門が両者の間に調停に入るのです。すでに坂東一の武者と言われるようになった将門のとりなしは興世王と源経基にとっては渡りに船でしたし、武芝には天の助けだったことでしょう。
なぜ将門が自分の領地を離れて他国の紛争解決に乗り出したのかわかりませんが、武勇だけでなく、こんなことすれば男が上がるとでも思ったのかもしれません。
大国魂神社(東京都府中市宮町)です。武蔵野国の国府はこの近くにあったようです。
国府政庁で関係者が集まりました。和解です。しかし源経基は和解が信じられず、のこのこ国府に出向いては殺されるのではないかと不安がって依然として狭服山から下山しなかったのです。
国府では思わぬハプニングが起こります。和解も済み、興世王と武蔵武芝は将門と共に酒宴を開いていましたが、源経基は自分を酒宴に迎えにきた武芝の兵を自分を攻撃にきたと思い込み、一目散に逃げ出してしまったのです。(一説では武芝の兵が実際に源経基を攻撃したともいいます)
京都に着いた源経基は朝廷に将門は謀反をたくらんでいると報告しましたが、朝廷もそれをそのまま鵜呑みにするほどいい加減ではありません。源経基は事実関係を調べた朝廷からかえって叱責をうけるというありさまでした。
しかし人間、何が幸いするかわからないものです。その後将門が常陸、下野、上野の国府を襲い、新皇を称するようになると、源経基は先見の明があるとして今度は朝廷から誉められてしまうのです。ま、結局朝廷はええ加減なんですがね。
将門が北関東の国府を襲ったとき・・・それはこの翌年のことですが、武蔵武芝の動きについては何の記録もありません。ほどなく亡くなったのか、それとも将門には助けてもらった義理はあっても国家に反逆することはできなかったのかわかりません。武蔵武芝はこの騒動以降永久に歴史に埋もれてしまうのです。 
 
「西では極悪人、東では神様」平将門
平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓があるのだ。京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する――。
「千代田区大手町1-1」に立つ「塚」
大手町と言えば一流企業などのビルが林立するオフィス街である。そこは日本のビジネスの「中心」であり、さらには世界のビジネスの中心の一つと言っても過言ではないだろう。
ところが、その大手町のさらに「中心」、住所表記で言えば「東京都千代田区大手町1-1」に建っているのが「将門塚」と呼ばれる「塚」だというと、意外に思う方が多いにちがいない。管理しているのは、史蹟将門塚保存会という近隣の大企業などを中心に組織されている団体である。
もっとも、「塚」とはいうものの、そこに建っているのは「墓石」(板石塔婆(とうば))である。その表面の中央には大きく「南無阿弥陀仏」、その右と左に小さく「平将門 蓮阿弥陀仏」「徳治二年」と刻まれている。塚に対する信仰は厚く、いつ訪れても新しい花が供えられ線香の煙がなびいている。
「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した
平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、筑波山麓地帯に勢力を張っていた東国平氏の族長的な存在であった伯父の平国香(くにか)や平良兼(よしかね)たちと激しく対立し、互いに武器をとって戦うようになった。戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸(ひたち)一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。
そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)らに追討される。
その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。
京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」
後世の人びとのあいだで語られる将門には、異なる視点から形成された二つのイメージがある。一つは京都側のものである。王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東(ばんどう)の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。
天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕(ついぶ)の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏(ちょうぶく)(呪殺)の祈祷を依頼している。武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。
その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇(ごまだん)に投げ入れたり、賊徒(将門)の形代(かたしろ)である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。
「怨霊化」した菅原道真との違い
天慶の頃と言えば、あの菅原道真の怨霊が猛威をふるっていた時代である。獄門にかけられたあと、将門の霊は怨霊となって出現してもおかしくなかった。ところが意外なことに、将門の霊は死後怨霊化して朝廷・貴族を襲うことはなかった。というのは、京都には将門の怨霊を「御霊」として祀り上げたという神社が存在していないからである。どうしてだろうか。
もちろん、将門の怨霊化をまったく考えていなかったわけではないらしい。朝廷は天慶の乱での戦死者を敵味方の区別なく供養するようにとの命令を出すとともに、関東地域の役人の大刷新をおこなっている。それによって怨霊化の芽が摘み取られてしまったのだろうか。
わたしは別の理由があったと推測している。当時の宮廷社会での怨霊の候補者は、その社会内部に属していた者、自分たちと濃密な社会関係にあった者であった。そうした関係性に欠けていた将門に対して、貴族たちは怨霊を発生させる「後ろめたさ」や「同情の心」を抱くことがなかったのである。
語り継がれるほどに、神格化されていく
怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。
例えば、将門を討ったことで有名になった藤原秀郷を主人公とする室町時代のお伽草子『俵藤太物語』では、将門は「身長(たけ)は七尺に余りて、五体はことごとく鉄(くろがね)なり。左の御眼(おんまなこ)には瞳二つあり。将門の変わらぬ人体同じく六人あり。されば何(いず)れを将門と見分ける者は無かりけり」と、その超人ぶりが語られている。「将門の変わらぬ人体同じく六人」とは、後世に言う「七人の影武者」のことである。
これほどの超人であった将門も一カ所、こめかみだけが生身であることや、影武者は灯火を通して影がないという弱点があった。これを愛妾・桔梗前(ききょうのまえ)の裏切りによって秀郷に知られ、敗れてしまうのであった。
このように、京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。
関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」
京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていなかった。だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。
梶原正昭・矢代和夫の研究によると、将門伝説はとくに関東地方に濃密に分布していることがわかる。例えば、「佐倉惣五郎」で言及した佐倉の将門山の将門大明神は、将門の死後の天禄年間(970―973)に、藤原秀郷の第三子と第四子が相次いで将門の祟りによって亡くなったので、秀郷の命で将門の霊を祀ったものだという。
茨城県坂東市岩井の國王(こくおう)神社は、将門の戦没の地ということで将門の霊を祀る神社である。たとえ京都の朝廷からは朝敵として極悪人扱いされようとも、在地の人びとやその他の地域の民衆には、自分たちの思いを体現してくれた悲劇の英雄という思いがあり、それが在地・民間での将門伝説を支え続けたのである。
復讐ではなく、鎮魂を求める「祟り」
冒頭で紹介した大手町の「将門塚」も、こうした将門ゆかりの地の一つである。この塚を管理する史蹟将門塚保存会が設置した「将門首塚の由来」の看板には、次のように記されている。
将門は下総国で兵を起こし、坂東八个国を平定して新皇と称し、政治の刷新を図ろうとした。だが、平貞盛・藤原秀郷の奇襲にあって憤死し、その首級は京都に送られて獄門にかけられた。ところが三日後、その首は白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになった。村人は恐怖し、塚を築いて埋葬した。これがすなわちこの場所であった。
その後もしばしば将門の怨霊が祟りをなすために、徳治2年(1307)、時宗二祖真教上人が「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈し、塚の前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍らにあった社にその霊を合祀した。それでようやく将門の霊も鎮まり、以後はこの地の守護神になったという。
ここで語られる将門の祟りは、復讐のための祟りではない。それは祀り上げ=鎮魂を求める合図なのである。もっとはっきり言えば、祀り手側の「思い」、すなわち、将門の霊は怨みを残して死んだはずなので、その怨念を鎮めなければならないという「思い」が、飛ぶ首や天変妖異、病気などの祟りとして言説化されたものなのである。将門の英雄的行動を記憶し語り続けること、言い換えれば、祀り続けることが将門への最大の供養であった。そして、将門の霊を合祀したというこの「傍らにあった社」が、のちの「神田明神社」(神田神社)の前身であった。
光を放った将門塚から異型の武者が現れた
ところで、この将門塚をめぐる伝説は、内容にかなりの差異はみられるが、そうとう古くからいろいろと語られていたらしい。例えば、『永享記』に「平親王将門の霊を神田明神と崇め奉る」とあり、謡曲「将門」にも「神田明神」が将門を祀った社だと語られているので、この伝説は室町時代にはすでにかなり広く知られていた。
いま少し詳しく述べると、「安房洲崎明神」の社司の旧記によれば、将門の乱より十年後の天暦4年(950)、将門塚がしきりに鳴動し、暗夜に光を放って異形の武者が現れ祟りをなしたので、人びとは恐怖し、その霊を祀り鎮めたという(『将門伝説』)。『御府内備考』にも、かつて神田明神の小さな社の近くに天台宗末寺の日輪寺という寺があった。将門の乱後、平家ゆかりの者がここに将門の墳墓を築いたところ、天変妖異が続いたために、嘉元3年(1305)、真教上人が東国遊化(ゆけ)の際に立ち寄って供養し、法号を授けてこれを板碑に刻んで建てたところ祟りは収まった。以後、日輪寺は時宗の道場として栄え、神田明神はその鎮守として崇敬されたという。
また、『神田神社史考』は、将門の乱後、獄門にかけられた首を都より持ち帰り、現在の将門塚のところにあった池(首洗い池)で洗い、上平川村(現在の大手町首塚付近)の岩屋観音堂で供養し、塚を築いてその首を埋葬し、さらに祠を建てて霊を祀った。この祠が現在は九段にある築土(つくど)神社(江戸時代は築土明神で、祭神は将門の霊)の前身であるという築土神社の社伝を紹介している。しかし、この築土明神の祠はすでに真教上人が来る以前に移転したため、大手町の塚の脇には荒れ果てた祠があるにすぎなかったらしい。
家康の江戸入府で、事実上の神仏分離
いずれにせよ、中世には、将門塚の脇には「神田明神」という将門の霊を祀る社があった。この神田神社の祭神が将門の霊だけなのか、それとも「神田」の名が語るように、別の神も合祀されていたのかは、もはや定かでない。
この社を管理していたのは将門塚の近くにあった日輪寺である。神仏習合の時代であるから、すでに紹介してきた談山神社や多田神社の神仏分離までの状態を想起すればわかるように、このような墳墓祭祀の形式はむしろふつうであった。この地に特別のことが生じなければ、おそらく、将門塚は江戸時代が終わるまで日輪寺が管理する塚=墳墓であり、神田明神もこの寺の管理する小さな社に留まっていたであろう。
ところが、その「特別なこと」が起こったのである。言うまでもなく、徳川家康の江戸入府であった。江戸幕府はただちに江戸城の普請と城下町の建設に取りかかり、このとき将門塚の脇にあった神田明神も、日輪寺も移転させることにした。神田明神はいったん山王権現(さんのうごんげん)とともに駿河台に、さらに元和2年(1616)、現在地の湯島(外神田)に移された。日輪寺のほうは浅草に移された。ある意味でこのとき、神仏分離がなされたのである。
「将門様のお社」として定着した神田明神
移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。神主には将門の末裔という芝崎氏が任命され、代々世襲で神事をおこなった。興味深いことに、神田明神は江戸城の鬼門、山王権現は裏鬼門に配置された。
以後の約百年は、神田明神の祭神は「平将門の霊一座」のみであった。しかも、すでに述べたように、寛永年間(1624―44)には朝敵という烙印も除かれ、さらには霊元天皇の勅命で「神田大明神」という勅額も社殿に掲げられた。この時期は神田明神の黄金時代であったと言っていいだろう。
ところが、いつの頃からか、またなぜかもわからないが、神田明神に「大己貴命(おおなむちのみこと)」も合祀されるようになった。しかし、江戸時代を通じて、例えば『江戸名所記』に「神田明神 この社は将門の霊なり」とあるように、神田明神は江戸の住民には「将門様のお社」として認知されていた。祭礼も山王権現と交代で二年に一度盛大におこなわれ、たくさんの出車(だし)の江戸城練り込みをクライマックスにした、江戸っ子の心意気を示す祭りとなっていた。
実は、将門の霊は「第一座」ではない
五月のある日、わたしは久しぶりに神田神社に参拝に出かけることにした。神田神社は御茶ノ水駅のすぐ近くにある。駅の東口から聖橋に出る。神田川と中央線の上に架かっている橋である。この橋を渡るとすぐのところに湯島聖堂の森がある。神田神社はこの聖堂の森の道路を挟んだ反対側に位置している。東側は坂になっていて、野村胡堂の小説のなかでの話だが、かつてこの坂の下の長屋には銭形平次が住んでいた。いまは秋葉原の電気街となっているが、そのあたりを歩いてみると、いまでもそんな趣を残す長屋風の住宅がまだ残っている。
神田神社の鳥居をくぐって進むと、豪壮な随神門(ずいしんもん)があり、その門を入って本殿を望むと、鉄筋コンクリート造り・総朱漆塗り、屋根は銅板瓦二枚重ね本葺き、外観は権現造という豪華な社殿が控えている。
祭神は当然のことながら、将門の霊が第一座と思われる読者が多いにちがいない。ところが、違うのである。現在の主祭神の第一座は大己貴命、第二座が少彦名命(すくなのひこなのみこと)であって、平将門は第三座という扱いになっている。しかも、あまり知られていないが、第三座になったのも昭和59年(1984)のことで、それまでは摂社(せっしゃ)にすぎなかったという。
明治時代に「追放されなかった」のは幸運だ
いったいどういうことなのだろうか。これには、明治時代に再び天皇親政となったことに由来する複雑な経緯、すなわち、文明開化期の政治的・宗教的状況が深く影を落としている。
当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてであれ留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。
当時の騒ぎを「郵便報知新聞」(明治7年9月14日)は、次のように伝えている。
氏子一同人心渙散(かんさん)し、例祭期日既に近づくといえども、難ありて事を挙行する者なく、あまつさえ神主柴崎を始め、氏子中千百来衣服豊贍(ほうせん)安楽富有せしは、まったく氏神の恩恵なるを忘却し、朝廷に諂諛(てんゆ)して神徳に負(そむ)きし事の人非人なりとて怨み誹(そし)り、一文銭を投ずるとも快とせず、かえって旧神の新社別構のために醵金(きょきん)既に千円に近しと聞えあり。
例祭をボイコットした江戸っ子たち
ようするに、徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。
案内してくれた神社の方に、そのあたりのことを率直に尋ねてみたところ、とても苦しげで曖昧な答えしか聞くことができなかった。また、神社として現在とくに強調している霊験はなにかを尋ねてみたが、これもとくにないという。しかし、将門の「パワー」にあやかってスポーツなどの勝負事の祈願に来る方が多いそうである。ということは、人びとのあいだでは、神田神社は大己貴命を主祭神とする神社ではなく、まだ将門の霊を祀る神社として知られているということになる。
ところで、神田神社と日輪寺が移転した後の「将門塚」は、さすがに潰すのははばかられたらしく、そのまま大名屋敷のなかに留め置かれた。明治になると大蔵省の敷地になったが、戦後になって民間に払い下げられた。また、関東大震災後に塚を崩すまでは、盛り土した墳墓状の塚と、そのそばに首を洗ったという池があった。
江戸時代から現在まで、神田神社の神輿(みこし)の巡行では、この将門塚に立ち寄るのが決まりになっている。 
 
平将門伝説の謎〜叛乱者はなぜ神として祀られたのか 
一族の内紛から国府を巻き込む争乱となり、平将門は朝廷に弓引く叛乱者として征伐された。人々は獄門にかけられた将門の怨念を怖れて霊を祀るようになり、そこから数々の将門伝説が生まれていった。そして、将門は神や英雄として信奉されていく。千年の時を経て、将門はいかにして畏敬される存在となったのか。
都人の恐怖心から生まれた将門伝説
将門の乱が平定されて10年余の月日が流れた天暦5年(951)のこと。出羽国田河郡で龍華寺の僧妙達は、入寂後7日7夜を経て蘇生し、次のように語ったといいます。
「下総国に住む平将門は城東の悪人の王であるが、それは日本国中の悪王を支配・管理するためであった。冥界では先世の功徳によって『天王』となっていた」
叛乱者とされた将門は、あの世では「天王」となっていたという驚きの伝説です。一方で、叛乱平定の調伏を行なった比叡山延暦寺の天台座主である尊意は、将門を殺した罪で長い間人身になりえず、将門と1日に10度も戦わされる安らぎのない境遇に置かれたそうです。
この冥界伝説は「僧妙達蘇生注記」という書物に記されたもので、当時の東国における将門の見方が現われているといえるでしょう。都では大悪人と見られていた将門は、東国では好意的に見られていたことが窺えます。
やがて時代を経るごとに、将門像は変容を遂げます。都で怖れられた怨霊から、社寺で祀られる神となり、江戸時代には歌舞伎や読み物で庶民にも親しまれるようになりました。
叛乱者は、いかにして神や庶民のヒーローとなったのでしょうか。伝説の誕生を追い、将門像の変遷を辿ってみましょう。
まず、将門伝説で早く誕生したとみられるのは、藤原純友と東西から都を挟撃しようとした共謀伝説です。これは当時の都の貴族の間で噂になっていたといいます。
そもそも将門はなぜ朝廷に対して兵を挙げたのか。最初は単なる一族の内紛に過ぎませんでした。将門が伯父たちの領地争いと関わったことからか争いとなり、それがやがて国府を巻き込む戦いに発展しました。そしてさらに、国府からの追捕を逃れて頼ってきた人物を匿ったために、将門は「叛乱者」というレッテルを貼られてしまうことになったのです。
図らずも朝廷に叛旗を翻すことになった将門は、桓武天皇の5代の孫にあたることから、側近の勧めで「新皇」を名乗り、東国支配を目指しました。
天慶3年(940)、朝廷はこの脅威に対して社寺に調伏を行なわせ、下野国の藤原秀郷や将門の従兄弟の貞盛に征伐を命じました。将門は寡兵ながらも決戦におよび、戦いを有利に進めましたが、急に風向きが変わり、流れ矢に射抜かれて絶命してしまいます。そして、その首は京に晒されることとなりました。
記録に残る限り、日本史上で獄門にかけられたのはこの時が最初であり、朝廷がいかに将門の存在を怖れていたかが窺えます。調伏や首伝説は、こうした将門に対する都の人々の恐怖心から生まれたものと考えられます。
将門の乱と伝説を記した『将門記』は、正確な成立時期は不明ですが、平安時代末期頃と見られており、調伏が行なわれたことや将門が冥界から便りをよこしたことが綴られています。次いで、鎌倉・室町期には、『平治物語』や『源平盛衰記』『太平記』『俵藤太物語』などで、首伝説や鉄身伝説、影武者伝説などが語られるようになりました。
御霊信仰から産土神へ
叛乱者とされた将門は、実は人情に厚い人柄で、彼を慕う人々も大勢いました。争乱の中でも農繁期には兵を気遣って田畑に帰してやり、また乱暴を受けた敵の婦女にも手厚く労わる優しさを見せています。
それだけに、叛乱者として不本意な死を遂げた将門の霊魂が、怨霊となって祟りをなすということが都の人々に怖れられたのです。将門の乱の10年前には清涼殿の落雷事件が起こり、菅原道真の怨霊によるものと怖れられていましたので、将門も道真と同じように御霊信仰の対象となりました。
特に東国では民衆からの信仰が篤く、畏敬される存在となります。それを伝えるのが、有名な東京の大手町にある首塚の伝説です。
将門を祀る神田明神の云われには諸説ありますが、一説によると、この地はもともと芝崎という村で、そこに塚を築いて将門の首を祀り、築土明神と称されました。しかし嘉元年間(1303〜06)頃、村が荒廃したため、将門の墓に花を供する者もなくなり、亡霊が祟りをなして人々に病災をもたらしました。その時、この地に立ち寄った時宗の二祖である真教上人が回向し、将門の怨霊を鎮めたのです。
人々は上人に賛仰してここに念仏道場を建て、その境内に産土神(うぶすながみ)として将門を祀りました。これが神田明神の縁起といわれ、徳川家康が江戸入封で現在の地に移すまで、神田明神はこの地に鎮座していたのです。ちなみに、家康は将門の神威によって江戸の町を守ることを企図して、神田明神を江戸城の鬼門の方角に据えています。
一方、首塚はこの地に建てられた大名邸内に祀られ、明治後、屋敷跡には大蔵省が建ちました。有名な話ですが、その後、新たな首伝説が生まれます。大正12年(1923)、関東大震災が起こり、大蔵省の庁舎は全焼、首塚も崩れました。そこで塚をならして仮庁舎が建てられたのですが、すると大蔵大臣をはじめ、役人に死傷者が続出したのです。
さらに終戦直後には、GHQが一帯を整地しようとしましたが、なぜかブルドーザーが横転し、運転手が死亡するという事故が起きてしまいました。これらの出来事から、現代においても産土神である将門の祟りが怖れられ、現在の地で手厚く祀られ続けています。
武士団、民衆のヒーローに
中世以来の民衆による信仰と同時に、将門は東国武士団でも英雄として信奉されました。その中心的な存在は千葉氏や相馬氏で、彼らは源頼朝の挙兵の頃より、「平親王将門の後裔」として妙見信仰伝説を広めました。
ところで、将門と同時に叛乱を起こした藤原純友は将門ほど信奉される存在になっていません。これはやはり血統によるところが大きいように思われます。藤原氏の純友は臣下の立場で海賊とみなされますが、将門は桓武天皇に繋がる平氏です。中央政権に対して勢威を誇った将門は、東国武士団が自分たちのアイデンティティーの象徴とするにはうってつけの存在だったのでしょう。
一方で、修験山伏や時宗の僧も将門を信奉し、伝説を各地に広める役目を担いました。彼らにとっては民衆が信奉する将門の伝説を語ることが、布教する上で都合がよかったのかもしれません。そのため、東北地方や関東各地で、将門やその一族の伝説が数多く残りました。
例えば、山形県の羽黒山には1400年もの歴史を誇る出羽三山神社があり、その神社の五重塔を創建したのは将門であるという伝説があります。そして驚くことに、東京の奥多摩には出羽まで繋がるという鍾乳洞があり、修験者たちがこれを使って出羽から奥多摩まで出てきて、将門伝説を語り布教をしたと伝えられています。
このように民衆や東国の武士団、修験者たちが将門を信奉した背景には、中央政権に対して堂々と物申した将門の姿勢を賛美する思いがあったのでしょう。将門の時代には、中央から派遣される国府の役人に不正が横行していました。そのため、国府と戦った将門は、地方に生きる人々に寄り添う存在だったのです。
その延長で、江戸時代には江戸庶民の間で将門人気がいっそうの高まりを見せます。浄瑠璃や歌舞伎で上演され、黄表紙や読本などでも多くの作品が生まれました。これは将門の文芸化と言われますが、各地で滝夜叉姫や相馬太郎、信田小太郎伝説が生まれたのも、その影響でしょう。将門の存在は、お上に対して世直しを求める反骨精神の象徴として捉えられるようになりました。
ところが、明治時代になると一転して、将門は朝廷に弓を引いた逆臣としての扱いを受けます。神社の祭神から外されるなど、苛酷な待遇が終戦時まで続きました。そのためか、戦時中、将門は兵役逃れの神として信じられるようになります。あくまで民の側に立つ神様として、崇敬を集めてきたためでしょう。
このようにお上から弾圧を受けても、将門への民衆の信奉は揺るがず、戦後には復活を遂げました。大河ドラマや演劇、小説などでも主人公として華々しく登場し、神田明神をはじめ各地の社寺で人々の尊崇を集めています。叛乱者として処断された将門は数々の伝説で語り継がれながら、千年の時を経て、郷土の英雄、民衆のヒーロー、そして祭神として畏敬される存在となったのです。 
 

 

 
■文学

 

平将門 / 幸田露伴
千鍾せんしようの酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし啄そつたくが機に違たがへば、何も彼かもおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優まさつてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申さるの歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚たつとぶわけでは無いが、嚢なうを括くゝれば咎とが無しといふのは古いにしへからの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性たちがよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句あげくの果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏なむあみだぶつでも吐出した方が洒落しやれてゐるらしい。何かの因果で、宿債しゆくさい未いまだ了れうせずとやらでもある、か毛武まうぶ総常そうじやうの水の上に度〻遊んだ篷底はうていの夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意こゝろも無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔しゆくすゐ猶なほ残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却かへつて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人〻の勝手で、刀根とねの川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題はうだい。
六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武くわんむ天皇の後胤こういんに鎮守府将軍良将よしまさが子、相馬の小次郎将門まさかどなれ、承平天慶のむかしの恨うらみ、利根の川水日夜に流れて滔〻たう/\汨〻ゐつ/\千古経ふれども未だ一念の痕あとを洗はねば、なんぢに欝懐の委曲を語りて、修羅しゆらの苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大おほドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者ふらちものに扱はれてゐるが、ほんとに悪にくむべき窺きゆの心をいだいたものであらうか。それとも勢いきほひに駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰あがつて天を拍うつに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢あへてしないで、いきなり幸島さじまの偽闕ぎけつ、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤うるほひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称となふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無さなくても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀まつつて、隠然として其の所謂いはゆる天位の覬覦きゆ者しやたる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑〻そも/\何に胚胎はいたいしてゐるのであらうか、又抑そも何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇げうゆう慓悍へうかんをしのぶためのみならば、然程さほどにはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。
心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造ねつざうし出すに至つては、愈〻いよ/\以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠よると、将門が在京の日に比叡ひえいの山頂に藤原純友すみともと共に立つて皇居を俯瞰ふかんして、我は王族なり、当まさに天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠よつたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人むほんにんで、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚その項羽かううや漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦しんの始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫応まさに是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看みれば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原在衡ありひらを侍読じどくとして始めて読まれ、前帝醍醐だいご天皇様は三善清行みよしきよつらを御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博ひろく采とることはこれ有り、精くはしく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田鷹洲ようしうなどは頭から叡山〻上の談を受取らない。清宮秀堅せいみやひでかたも受取らない。秀堅は鷹洲ようしうのやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟しけう之性を以て、豕蛇しいの勢に乗じ、肆然しぜんとして自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄きやうまうほとんど桓玄司馬倫の為ゐに類す、宜うべなるかな踵くびすを回かへさずして誅ちゆうに伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐けびゐしのすけたらんことを求めて得ず、憤を懐いだいて郷に帰り、遂に禍を首はじむるのみ、後に興世おきよを得て始めて僣称せんしようす。猶なほ源頼朝の蛭ひるが島しまに在りしや、僅わづかに伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘ぬすみしが如き也、正統記大鏡等、蓋けだし其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採とらず」と云つてゐる。此言は心裏しんりを想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦中あたると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双G鵬いつせんさうてうを貫いてゐる。宮本仲笏ちゆうこつは、扶桑略記に「純友遙はるかに将門謀反むほん之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何いかにも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾いよのじようで、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人きのよしひとが伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾ひたちだいじよう国香や前さきの常陸大掾源護みなもとのまもる一族と闘つたことから引つゞいて、終つひに天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦ゆるされたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随したがつて叡山瞰京かんきやうの事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙つとに覬覦きゆの心を懐いだいてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜よいのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。
将門が検非違使けびゐしの佐すけたらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉じようかを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼かの国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋〻として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反むほんをしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離かけはなれて居て、提燈ちやうちんと釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反むほんをするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気はき勃〻ぼつ/\たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。
将門謀反の初発心しよほつしんの因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様どんなであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸やうやく実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫つくしに薨こうぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声うぶごえをあげたのである。抑そも/\醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮さがしい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上かみに貴胄きちうの[#「貴胄きちうの」は底本では「貴冑きちうの」]私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛ひんゑんは詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸〻ぜん/\と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣きぬを纏まとひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑のどかに、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀きりぎりすのやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会せちゑの噂で日を送つてゐる其の一方には、粗あらい衣を纏まとひあらい詞ことばを使ひ、面白くなく、鄙いやしく、行詰つた、凄すさまじい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼がきの草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子しゆてんどうじや鬼同丸きどうまるのやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警いましめしめられ、其三年には上野かうつけに群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守さきのあきのかみ伴忠行は盗の為に殺され、其前後博奕ばくち大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守ひだのかみの藤原辰忠ときたゞを殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介かうづけのすけ藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前さきの武蔵の権介ごんのすけ源任みなもとのたふが府舎を焼き官物を掠かすめ、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆一揆いつきや騒擾さうぜうの気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶巫覡ふげきで、扶桑略記ふさうりやくきだの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭いとはしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程厭いとはしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛のろひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡いはしみづはちまんの本宮の徒と山科やましなの八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵きざみゑした男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神だうろくじんならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做いひなしてゐる者も多いことであるが、少し料簡れうけんのある者から睨にらんだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁たうくわいとなつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶なほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓こして一挙して太宰府だざいふを陥おとしいれた。苟いやしくも太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時崛強くつきやうの男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯ふして生白い公卿の下もとに付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢あへてせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未なほいまだ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉じゆんずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原かづらはら親王と申す一品いつぽん式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子高望王たかもちわうが平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾ひたちだいじよう、上総介かづさのすけ等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植たつるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良よしより、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名良望よしもちは蓋けだし長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥むつ大掾、下総介しもふさのすけ、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良よしよりは上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家〻の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田をさだの祖である。次に良茂は常陸少掾ひたちせうじようである。
扨さて将門は良将の子であるが、長子かといふに然様さうでは無い。大日本史は系図に拠よつたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚みくりや三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものは蚤はやく消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の女むすめである。此の犬養春枝は蓋けだし万葉集に名の見えてゐる犬養浄人きよひとの裔すゑであらう。浄人は奈良朝に当つて、下総しもふさ少目せうさくわんを勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠ばんきよしてゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁いんねんに疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様かういふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅きんまさ、公連きんつら、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持むねもち、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟いとこを有した訳である。
此の中で生長した将門は不幸にして父の良将を亡うしなつた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋けだし十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私わたくしをしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸やうやく加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙〻と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓てづるを得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人〻に技倆骨柄ぎりやうこつがらを認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允さまのすけとなつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟いとこ同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息いきのかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異をかしいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂うはさするとかならば、嫉猜忌ばうしつさいきの念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様さういふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様どうの斯様かうのしたといふことは無くて、却かへつて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼あきかねの撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯様かうである。将門の在京中に、貞盛が嘗かつて式部卿敦実あつざね親王のところに詣いたつた。丁度其時に将門もまた親王の御許おんもとへ伺候しこうして帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方かなたがジロリと見れば、此方こちらもギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴きやつは天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚はなはだしいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃を研とぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者てふじやをして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く/\は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香の忰せがれは将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤かつとうが既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋は夙はやく此の辺から始まつてゐるのである。
将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるに拠よれば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議は擱おいて、将門と貞盛の家とは、中睦なかむつまじく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。
今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁いんねんのもつれであるだけは明白である。護は常陸の前さきの大掾だいじようで、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波つくばの西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子の扶たすく、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨さが源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番季すゑなのであらう。
将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家が特ことに将門を悪にくんで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾ふんきうした事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護の女むすめを得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋の叶かなはぬ焦燥せうさうから、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何いかに将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚てひどく将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁に連つらなる一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌〻しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬なでぎりにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条ひとすぢの事ではあるまい、可なり錯綜さくそうした事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋の叶かなつた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様どうも情理が桂馬筋けいますぢに働いて居るやうである。
故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想けさうして之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで嫉ばうしつの念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を併あはせて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬の夥おびただしい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比ひごろから彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃して恨うらみを散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、拠よるところの無い想像では無い。
要するに委曲ゐきよくの事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕ざんけつであつて、生憎発端のところが無いのだから如何いかんとも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家の女むすめを得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故なぜといへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところの条くだりの文に、「斯かくの如く将門思惟す、凡およそ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈を尋たづぬるに疎うとからず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩たとふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物の譏そしり遠近をちこちに在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭きゆうせんをとつて相見あいまみゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間前さきの大掾だいじよう源護の告状に依りて、件くだんの護並びに犯人平将門及び真樹まき等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田わびた真樹で、国香の属僚中の錚〻さうさうたるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。
戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯かういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑でんいふを有してゐる片孤へんこがあつた。其の児の未いまだ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶めとらせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者はうたうものとなり、家は乱脈となり、紛争は転輾てんてん増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣いつしやくの曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女むすめを欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏まとめようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶めとらせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償つぐなひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌よしなほ、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗ききやうの前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾さいせう共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視べつしして顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。
闘たたかひは何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦いくさをしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門が攻めて行つたのを禦ふせいだものとしては、子飼川を渉わたつたり鬼怒きぬ川がはを渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原とりふばらの誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰こゝに将門罷やまんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截きつて戦を挑いどんだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故なぜといへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐已やむ能あたはずして是こゝに至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心熾盛しせいになつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反むほんをして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。
貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇いとまを請こうて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛倩〻つら/\案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云〻。孀母さうぼは堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦むつびて云〻、乃すなはち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様かやうの事も出来たのであるから、無暗むやみに将門を悪にくむべくも無い、一族の事であるから寧むしろ和睦わぼくしよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃がした人である、国香を強ひて殺さう訳は無い。貞盛の此の言を考へると、全く源氏と戦つたので、余波が国香に及んだのであらう。伯父殺しを心掛けて将門が攻寄せたものならば、貞盛に斯様かういふ詞の出せる訳も無い。但し国香としては田邑でんいふの事につきて将門に対して心弱いこともあつた歟か、さらずも居館を焼亡されて撃退することも得せぬ恥辱に堪へかねて死んだのであらうか。こゝにも戯曲的光景がいろ/\に描き出さるゝ余地がある。まして国香の郎党佗田真樹は弱い者では無い、後に至つて戦死して居る程の者であるから、将門の兵が競ひかゝつて国香を攻めたのならば、何等かの事蹟を生ずべき訳である。
良正は高望王の庶子で、妻は護の女むすめであつた。護は老いて三子を尽こと/″\く失つたのだから悲嘆に暮れたことは推測される。そこで父の歎なげき、弟の恨うらみ、良正の妻は夫に対して報復の一ト合戦をすゝめたのも無理は無い。云はれて見れば後へは退けぬので、良正は軍兵を動かして水守みづもりから出立した。水守は筑波山つくばさんの南の北条の西である。兵は進んで下総堺の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と訓よんだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一ト塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散〻に打うちなされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。
「負け碁ごは兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏めんどりのすゝめを試みた。雄鶏は終つひに閧ときの声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入とにふしてゐる武射むさ郡の径路から下総の香取郡の神崎かうざきへ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前はえのさきで、今の江戸崎である。それから翌日、良正がゐる筑波の南の水守へ到着したといふ事だ。私闘は段〻と大きくなつた。関を打破つて通りこそせざれ、間道〻〻を通つて、苟いやしくも何の介すけといふ者が、官司の禁遏きんあつを省みず武力で争はうといふのである。良正は喜んで迎へた。貞盛も参会した。良兼は貞盛に対むかつて、常平太何事ぞ我等と与にせざるや、財物を掠かすめられ、家倉を焼かれ、親類を害せられて、穏便を旨むねとするは何ぞや、早〻合力して将門を討ち候へと、叔父様顔さんがほの道理らしく説いた。言はれて見れば其の通りであるから、貞盛も吾が女房の兄弟の仇、言はず語らずの父の讐かたきであるから、心得た、と言切つた。姉妹三人の夫たる叔父甥三人は、良兼を大将にして下野しもつけを指して出発した。下野から南に下つて小次郎めを圧迫しようといふのだ。将門はこれを聞いて、御座んなれ二本棒ども、とでも思つたらう。財布の大きいものが、博奕はきつと勝つと定まつては居ないのだ。何程の事かあらん、一ト当てあてゝやれと、此方こちらからも下野境まで兵を出したが、如何さま敵は大軍で、地も動き草も靡なびくばかりの勢堂〻と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧よろひの毛もあざやかに、旗指物もいさぎよく、弓矢、刀薙刀なぎなた、いづれ美〻しく、掻楯かいだてひし/\と垣の如く築つき立てゝ、勢ひ猛に壮さかんに見えた。将門の軍は二度の戦に甲冑かつちうも摺すれ、兵具ひやうぐも十二分ならず、人数も薄く寒げに見えた。譬たとへば敵の毛羽艶やかに峨冠がくわん紅に聳そびえたる鶏の如く、此方こなたは見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸露あらはに貧しげなるが如くであつたが、戦つて見ると羽ふくよかなる地鶏は生命知らずの軍鶏しやもの敵では無かつた。将門の手下の勇士等は忽たちまちに風の木の葉と敵を打払つた。良兼の勢は先を争つて逃げる、将門は鞭を揚げ名を呼よばはつて勢に乗つて吶喊とつかんし駆け崩した。敵はきたなくも下野の府に閉塞されてしまつた。こゝで将門が刻毒に攻立てたら、或は良兼等を酷ひどいめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺うかゞひ知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任まかせた。良兼等は危い生命を助かつて、辛からくも遁のがれ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反むほんをしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側そばだてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。
源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者ちしやが衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口きずくちを気にするやうに、段〻と悪いところを大きくして、散〻な事になつたが、いやに賢く狡滑かうくわつなものは、自分の生命を抛出なげだして闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘くるしめることに長たけたものだ。何様どういふ告訴状を上たてまつつたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢あへてしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上英保純行あぼのすみゆき、英保氏立、宇自加支興もちおき等によつて齎もたらされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下きかの佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛ばんどうなまりの雑つた蛮音ばんおんで、三戦連勝の勢に乗じ、がん/\と遣付やりつけたことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅つけた談をするが如きことは敢あへてし無かつたらう。箭やが来たから箭を酬むくいた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭ゆみや取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸さいはひに斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論私わたくしに兵仗へいぢやうを動かした責罰譴誨けんくわいは受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足たら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使けびゐし庁ちやうの推問に遇あうて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却かへつて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈かんくわを動かしたことは、深く公より譴責けんせきされたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲ゐきよくを告げたのである。将門はそれで宜よいが、良兼等は其儘そのまゝ指を啣くはへて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥おひの小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚しんいの火を燃もやさない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石さすがに謹慎して居る状さまを見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪そゝぐは此時と、良兼等は亦復また/\押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧ちゑを出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭やが放せるなら放して見よ、鉾先ほこさきが向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐かゝつた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何いかに将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌ゐはいで頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院くるすゐん、常羽御厩いくはのみうまやや将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。
芝居で云へば性根場しやうねばといふところになつた。将門は一ト塩つけられて怒気胸に充みち塞ふさがつたが、如何とも為せん方かたは無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷おほかたがう堀越の渡に陣を構へ、敵を禦ふせがうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭ととうでは無いが堀籠村といふところである。併しかし将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事朦〻もうもうとしてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼きようくして、仮りにも尊族に対して私わたくしに兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽うんと忍耐したのかも知れない。弱くない者には却かへつて此様かういふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等敢あへてしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽はらすは此時と、郡中を攻掠こうりやくし焚焼ふんせうして、随分甚ひどい損害を与へた。将門は島郡ぐんの葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏ちつぷくしたが、猶危険が身に逼せまるので、妻子を船に乗せて広河ひろかはの江に泛うかべ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼いひぬまの事で、飯沼は今は甚はなはだしく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥だてや惣兵衛そうべゑ為永ためながといふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川辰口たつぐちで一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋けだし降間ふるまの誤写で、後の岡田郡降間木ふるまぎ村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退ひいて終しまつたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方折合をりあふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下くだるや其の勢いきほひ必ず加はる道理で、終つひに良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占しめたといふのであつたらう、忽ちに手対てむかふ者を討殺うちころし、七八艘さうの船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸むざんにも斬殺きりころしてしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処こゝに至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜ひそんで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其の巨おほきい頭を振つて牙きばを咬かんで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹ひかれて動転するのは弱くも浅くも甲斐かひ無くもあるが、人間としては恩愛の情の已やみ難がたいのは無理も無いことである。如何いかに相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影つくばみかげで出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜くやしがり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反むほんをしようとは思つて居ないのである。
記の此処こゝの文が妙に拗ねぢれて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総かづさに拘とらはれたので、九月十日になつて弟の謀はかりごとによつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様どうも妻子は殺されたらしく、逃還にげかへつたのは一緒に居いた妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不レ少」「件妻背二同気之中一、迯二帰於夫家一」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存二真婦之心一」「妾之舎弟等成レ謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共紛まぎらはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与二伯父一為二宿世之讐一」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨ゑんこんになつた事と見て差支さしつかへは無い。しばらく妻子は殺されて、拘とらはれた妾は逃帰つた事と見て置く。
此事あつてより将門は遺恨ゐこん已やみ難がたくなつたであらう、今までは何時いつも敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率ひきゐて、良兼が常陸ひたちの真壁郡の服織はつとり、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠よつたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈おくつて是非の一戦を遂とげようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散〻さん/″\敵地を荒して帰つた。斯様かうなれば互たがひに怨恨ゑんこんは重かさなるのみであるが、良兼の方は何様どうしても官職を帯びて居るので、官符は下くだつて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾ひたちのだいじよう貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文はたきよぶみ、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房あは、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催かりもよほして将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募つのつて対抗する。諸国の介すけや守かみや掾じようやは、騒乱を鎮める為に戮力りくりよくせねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強あながち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉みやけを預かつて相馬御厨みくりやの司つかさであるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮かるとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍ゆうかんである故のみでは無い、蓋けだし人の同情を得てゐたからであつたらう。然無さなくば四方から圧逼あつぱくせられずには済まぬ訳である。
良兼は何様どうかして勝を得ようとしても、尋常じんじやうの勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜べんぎを伺うかゞひ巧計を以て事を済なさうと考へた。怠おこたり無く偵察ていさつしてゐると、丁度将門の雑人ざふにんに支部はせつかべ子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中こひなかの女をもつて居るので、時〻其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即すなはちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉こと/″\く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑ゑんで、手腕のある者八十余騎を択えらんで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入きりいつた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘ふんとうした。良兼の上兵多治良利たぢのよしとしは一挙に敵を屠ほふらんと努力したが、運拙つたなく射殺いころされたので、寄手は却かへつて散〻になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭驍勇げうゆう、死物狂ひを極きはめ尽した活動写真的の此の華〻しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行びかうして居て、鴨橋かもはし(今の結城ゆふき郡新宿しんじゆく村のかま橋)から急に駈抜かけぬけて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢いきほひ衰へ、怏〻あう/\として楽まず、其後は何も仕出しいだし得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終しまつた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京上のぼりを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉かりてこれを亡ほろぼさうといふのである。将門はこれを覚さとつて、貞盛に兎角とかく云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率ひきゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃しなのの小県ちひさがたの国分寺こくぶじの辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭やを射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立ぶんやのよしたつは負傷したが助かつた。貞盛は辛からくも逃のがれて、遂つひに京に到いたり、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原維幾これちかの手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿をばむこであつた。
貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾ふんぜうが生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸やうやく弛ゆるんだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤かつとうを結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造むさしのくにのみやつこの後で、足立あだち埼玉さいたま二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟じんえん多くなつて、奥羽への官道の多摩たま郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中〻勢力のあつたものであらう、そこへ新あらたに権守ごんのかみになつた興世王と新に介すけになつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人〻がかゝる官に任ぜられたのは当時の習ならひであるから、興世王も蓋けだし然様さういふ人と考へて失当しつたうでもあるまい。其頃桓武天皇様の御子万多まんた親王の御子の正躬まさみ王の御後には、住世すみよ、基世もとよ、助世、尚世ひさよ、などいふ方〻があり、又正躬王御弟には保世やすよ、継世つぐよ、家世など皆世の字のついた方が沢山たくさんあり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世すけよ、季世すゑよなど世のついた方〻が沢山に御在おいでであるところから推おして考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測まうそくは力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂長範ちやうはんか何ぞのやうに思へるが、何様どういふものであらうか。扨さて此の興世王と経基とは、共に我がの強い勢いきほひの猛さかしい人であつたと見え、前例では正任未だ到いたらざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推おして部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤かくきんして上下しやうかの噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒こばんだ。ところが、郡司の分際ぶんざいで無礼千万であると、兵力づくで強しひて入部し、国内を凋弊てうへいし、人民を損耗そんかうせしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿かくれると、武芝の私物しぶつまで検封してしまつた。で、武芝は返還を逼せまると、却かへつて干戈かんくわの備そなへをして頑ぐわんとして聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過ふぢくわいくわの一巻を作つて庁前に遺のこし、興世王等を謗そしり、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしも睦むつまじくは無く、様〻なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等らうどうを率したがへて武蔵へ赴おもむいた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とは恰あたかも狭服山に在つたが、興世王だけは既すでに府に在あるに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙ふがで各〻数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちに逃のがれ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王を大おほいに恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反の企くはだてを致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等の訴うつたへによりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま/″\の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。
将門の方は和解の事画餅ぐわへいに属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏ざんそうは、自分に取つて一方ひとかたならぬ運命の転換を齎もたらして居るとも知る由よし無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に愈〻いよ/\謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿くぎやう諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少ちゆうぐうせう進多治しんたぢ真人まびと助真すけざねに事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣けうがうにせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文げもんを取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄きよまうにせよ将門を誣しひて陥おとしいれさうなところである。貞盛の姑夫をばむこたる藤原維幾が、将門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさか未いまだ嘗かつて謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を与へることは出来兼ねて解文を出したか、それとも短兵急に将門から攻められることを恐れて、責め逼せまらるゝまゝに已むを得ず出したか、一寸ちよつと奇異に思はれる。然し五箇国の解文が出て見れば、経基の言はあつても、差当り将門を責むべくも無く、実際また経基の言は未然を察して中あたつてゐるとは云へ、興世王武芝等の間の和解を勧すゝめに来た者を、目前の形勢を自分が誤解して、盃中はいちゆうの蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、誣しひるに謀反を以てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と将門記の文にある通りで、将門の罪せらる可べき理拠は無い。又若もし実際将門が謀反を敢あへてしようとして居たならば、不軌ふきを図はかるほどの者が、打解けて語らつたことも無い興世王や経基の処へわざ/\出掛けて、半日片時へんしの間に経基に見破らるべき間抜さをあらはす筈はずも無いから、此時は未だ叛を図はかつたとは云へない。むしろ種〻の事情が分つて見れば、東国に於ける将門の勢威を致した其の材幹力量は多とすべきであるから、是かくの如き才を草莱さうらいに埋めて置かないで、下総守になり鎮守府ちんじゆふ将軍になりして其父の後を襲つがせ、朝廷の為に用を為させた方が、才に任じ能を挙ぐる所以ゆゑんの道である、それで或は将門を薦すゝむる者もあり、或は将門の為に功果ある可きの由が廷に議せられたことも有つたか知れない、記に「諸国の告状に依り、将門の為に功果有るべきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄きよまうで無くて、有り得べきことである。傭前介びぜんのすけ藤原子高たねたかを殺し播磨介はりまのすけ島田惟幹これもとを殺した後にさへ、純友は従五位を授けられんとしてゐる、其は天慶二年の事である。何にせよ善よかれ悪あしかれ将門は経基の訴の後、大おほいなる問題、注意人物の雄ゆうとして京師の人〻に認められたに疑無いから、経基の言は将門の運命に取つては一転換の機を為してゐるのである。
良兼は今はもう将門の敵たるに堪へ無くなつて、此年六月上旬病死して居るのであるが、死前には病牀に臥ふしながら鬚髪しゆはつを除いて入道したといふから、是これも亦また一可憐の好老爺だつたらうと思はれる。貞盛は良兼には死なれ、孤影蕭然こえいせうぜん、たゞ叔母婿をばむこの維幾を頼みにして、将門の眼を忍び、常陸の彼方此方かなたこなたに憂うき月日を送つて居た。良兼が死んでは、下総一国は全く将門の旗下はたしたになつた。
興世王は経基が去つて後も武蔵に居たが、経基の奏によつておのづから上の御覚えは宜よくなかつたことだらう、別に推問を受けた記事も見えぬが、新あらたに興世王の上に一官人が下つて来た。それは百済貞連くだらさだつらといふもので、目下の者とさへ睦むつぶことの出来なかつた興世王だから、どうして目上の者と親しむことが成らう、忽たちまち衝突してしまつた。ところが貞連は意有つてか無心でか知らぬが、まるで興世王を相手にしないで、庁に坐位をも得せしめぬほどにした。上には上があり、強い者には強いものがぶつかる。興世王もこれには憤然ふんぜんとせざるを得なかつたが、根が負け嫌ひの、恐ろしいところの有る人とて、それなら汝きさまも勝手にしろ、乃公おれも勝手にするといつた調子なのだらう、官も任地も有つたものでは無い、ぶらりと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に「居てやるんだぞぐらゐな居候ゐさふらふ」になつた。「王の居候」だからおもしろい。「置候おきさふらふ」の相馬小次郎は我武者に強いばかりの男では無い、幼少から浮世の塩はたんと嘗なめて居る苦労人くらうにんだ。田原藤太に尋ねられた時の様子でも分るが、ようございますとも、いつまででも遊んでおいでなさい位の挨拶で快こゝろよく置いた。誰にでも突掛つゝかかりたがる興世王も、大親分然たる小次郎の太ッ腹なところは性しやうに合つたと見えて、其儘そのまゝ遊んで居た。多分二人で地酒ぢざけを大酒盃おほさかづきかなんかで飲んで、都出みやこでの興世王は、どうも酒だけは西が好い、いくら馬処うまどころの相馬の酒だつて、頭の中でピン/\跳はねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ、なんのかのと管くだでも巻いてゐたか何様どうか知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩けんくわもせずに暮して居た。
大親分も好いが、縄張なはばりが広くなれば出入でいりも多くなる道理で、人に立てられゝば人の苦労も背負つてやらねばならない。こゝに常陸の国に藤原玄明はるあきといふ者があつた。元来が此これは是これ一個の魔君で、余り性しやうの良い者では無かつた。図太づぶとくて、いらひどくて、人をあやめることを何とも思はないで、公に背そむくことを心持が好い位に心得て、やゝもすれば上には反抗して強がり、下には弱みに付入つて劫おびやかし、租税もくすねれば、押借りも為しようといふ質たちで、丁度幕末の悪侍わるざむらひといふのだが、度胸だけは吽うんと堪こたへたところのある始末にいかぬ奴だつた。善悪無差別の悪平等あくびやうどうの見地に立つて居るやうな男だが、それでも人の物を奪つて吾が妻子に呉れてやり、金持の懐中ふところを絞しぼつて手下には潤うるほひをつけてやるところが感心な位のものだつた。で、こくめいな長官藤原維幾は、玄明が私わたくしした官物を弁償せしめんが為に、度〻の移牒いてふを送つたが、斯様かういふ男だから、横道わうだうに構かまへ込んで出頭などはしない。末には維幾も勘忍し兼ねて、官符を発して召捕るよりほか無いとなつて其の手配をした。召捕られては敵かなはないから急に妻子を連れて、維幾と余り親しくは無い将門が丁度ちやうど隣国に居るを幸さいはひに、下総の豊田、即ち将門の拠処に逃げ込んだが、行掛ゆきがけの駄賃にしたのだか初対面の手土産てみやげにしたのだか、常陸の行方なめかた郡河内かはち郡の両郡の不動倉の糒ほしひなどといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚かつさらつて、常陸の国ばかりに日は照らぬと極きめ込んだ。勿論これだけの事をしたのには、維幾との間に一ト通りで無いいきさつが有つたからだらうが、何にせよ悪辣あくらつな奴だ。維幾は怒つて下総の官員にも将門にも移牒いてふして、玄明を捕へて引渡せと申送つた。ところが尋常一様の吏員の手におへるやうな玄明では無い。いつも逃亡致したといふ返辞のみが維幾の所へは来た。維幾も後には業ごふを煮やして、下総へ潜ひそかに踏込んで、玄明と一ト合戦して取挫とりひしいで、叩き斫きるか生捕るかしてやらうと息巻いた。維幾も常陸介、子息為憲もきかぬ気の若者、官権実力共に有る男だ。斯様かうなつては玄明は維幾に敵することは出来無い。そこで眼も光り口も利きける奴だから、将門よりほかに頼む人は無いと、将門の処ところへ駈込んで、何様どうぞ御助け下さいと、切しきりに将門を拝み倒した。元来親分気のある将門が、首を垂れ膝を折つて頼まれて見ると、余あまり香かんばしくは無いと思ひながらも、仕方が無い、口をきいてやらう、といふことになつた。居候の興世王は面白づくに、親分、縋すがつて来る者を突出す訳にはいかねえぢや有りませんか位の事を云つたらう。で、玄明は気が強くなつた。将門は常陸ひたちは元もとから敵にした国ではあり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、貞盛だつて今に維幾の裾すその蔭か袖そでの蔭に居るのであるから、うつかり常陸へは行かれない。興世王はじめ皆相談にあづかつたに相違ないが、好うございますは、事と品とによれば刃金はがねと鍔つばとが挨拶あいさつを仕合ふばかりです、といふ者が多かつたのだらう、とう/\天慶二年十一月廿一日常陸の国へ相馬小次郎郎党らうだうを率ひきゐて押出した。興世王ばかりではあるまい、平常むだ飯を食つて居る者が、桃太郎のお供の猿や犬のやうな顔をして出掛けたに違無い。維幾の方でも知らぬ事は無い、十分に兵を用意した。将門は、件くだんの玄明下総に入つたる以上は下総に住せしめ、踏込んで追捕すること無きやうにありたいと申込んだ。維幾の方にも貞盛なり国香なりの一いちまきが居たらう。維幾は将門の申込に対して、折角の御申状おんまをしじやうではあるが承引致し申さぬ、とかう仰せらるゝならば公の力、刀の上で此方心のまゝに致すまで、と刎付はねつけた。然さらば、然らば、を双方で言つて終しまつたから、論は無い、後は斫合きりあひだ。揉合もみあひ押合つた末は、玄明の手引てびきがあるので将門の方が利を得た。大日本史や、記に「将門撃つて三千人を殺す」とあるのは大袈裟おほげさ過ぎるやうだが、敵将維幾を生捕いけどりにし、官の印鑰いんやくを奪ひ、財宝を多く奪ひ、営舎を焚やき、凱歌がいかを挙あげて、二十九日に豊田郡の鎌輪かまわ、即ち今の鎌庭に帰つた。勢いきほひといふ条、こゝに至つては既に遣やり過ぎた。大親分も宜よいけれども、奉行ぶぎやうや代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴こやつめといふので生捕りにして、役宅やくたくを焚き、分捕りをして還かへつたといふのでは、余り強過ぎる。
玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促うながされて都へ出て、糺問きうもんされねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以いはれか知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼りやくだつふんせうを敢てし、言はず語らず一国を掌握しやうあくしたのは、相馬小次郎も図に乗つて暴あばれ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒いけどりし、国庫に入る可べき財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口やりくちを大規模にしたのである。将門猶未なほいまだ僣せんせずといへども、既すでに叛したのである。純友の暴発も蓋けだし此様かういふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守さきのあきのかみ伴光行、飛騨守ひだのかみ藤原辰忠、上野介かうづけのすけ藤原厚載、武蔵守むさしのかみ高向利春などいふものも、蓋けだし維幾が生擒いけどりされたやうな状態であつたらう。孔孟こうまうの道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行はやつたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世祈祷きたうのみ盛んで、事実に於て神祠巫覡しんしふげきの徒と妥協だけふを遂げ、貴族に迎合げいがふし、甚はなはだしく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭かけをして他ひとの妻を取るほど博奕ばくち思想は行はれ、官吏は唯ただ民に対する誅求ちゆうきうと上に対する阿諛あゆとを事としてゐる、かゝる世の中に腕節うでふしの強い者の腕が鳴らずに居られよう歟か。此の世の中の表裏を看みて取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無はつむ邪正の感情に不知不識しらずしらず陥おちいつて居た者も所在にあつたらう。将門が恰あたかも水滸伝すゐこでん中の豪傑が危い目に度〻逢あつて終つひに官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特ことに長い間引続いた私闘の敵方荷担人かたうどの維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇あふのだらう。玄明をかくまつた行懸ゆきがゝりばかりでは無い、自分の頸くびにも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引くびひきをして、そして敵をのめらせて敲たゝきつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東気質かたぎで、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生はへる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工だいくさんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差ながわきざしの侠客も大抵たいてい利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道しんだう徳次は小貝川の傍そば、飯岡いひをかの助五郎、笹川の繁蔵、銚子てうしの五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様かういふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異ことなつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵押領使あふりやうし、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸ゆきがゝりり、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう/\火事は大きな風に煽あふられて大きな燃えくさに甚はなはだしい焔ほのほを揚あげるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対むかつて、一国を取るも罪は赦ゆるさるべくも無い、同じくば阪東を併あはせて取つて、世の気色を見んには如しかじと云ひ出すと、如何いかにも然様さうだ、と合点して終しまつた。興世王は実に好いい居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳そびえさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸ぬすみ酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併しかし此の居候のお蔭で将門は段〻罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝えんせうは沢山たくさんに籠こもつて居た大筒おほづゝだから、口火がついては容赦ようしやは無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利さつていりの苗裔べうえい三世の末葉である、事を挙あぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌たなそこに八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室ぶんやの好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所うまばしよの士さむらひだ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元だいげんが猛威を振ふるつたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力ふたんりよくに於て歩兵に陪ばいしするから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮さまれう御牧貢馬地みまきこうばちとして、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省ひやうぶしやう諸国馬牛牧式ぼくしきを見ると、高津たかつ牧、大結牧、本島もとじま牧、長州牧など、沢山な牧まきがあつて、兵部省へ貢馬こうばしたものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特ことに将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。
天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威凛〻りん/\と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易へきえきした。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人〻に換かへられたが、斯様かういふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰いんやくを差出して降くだつて終しまつた。前司の大中臣おほなかとみ全行まさゆきも敵対し無かつた。国司の館やかたも国府も悉こと/″\く虜掠りよりやくされて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐ能あたはず、すご/\と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰いんやくを奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門を首はじめ興世王、藤原玄茂等堂〻と居流れた。(玄茂も常陸の者である、蓋けだし玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等若もしくは何人かの使嗾しそうに出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩はちまんだいぼさつの使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、位くらゐを蔭子いんし将門に授く、左大臣正二位菅原道真朝臣みちざねあそん之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍きんきじやくやくした。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、挙こぞつて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。
此の仕掛花火しかけはなびは唯が[#「唯が」はママ]製造したか知らぬが、蓋し興世玄明の輩やからだらう。理屈は兎ともあれ景気の好い面白い花火が揚あがれば群衆は喝采かつさいするものである。群衆心理なぞと近頃しかつめらしく言ふが、人は時の拍子にかゝると途方も無いことを共感協行するものである。昔はそれを通り魔の所為だの天狗てんぐの所為だのと言つたものである。群衆といふことは一体鰯だの椋鳥むくどりだの鴉からすだの鰊にしんだのの如きものの好んで為すところで、群衆に依よつて自族を支へるが、個体となつては余りに弱小なものの取る道である。人間に在つても、立教者は孤独で信教者は群集、勇者は独往し怯者けふしやは同行する、創作者は独自で模倣者もはうしやは群集、智者は寥〻れう/\、愚者は多〻であつて、群衆して居るといへば既すでにそれは弱小蠢愚しゆんぐの者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理は即すなはち衆愚心理なのであるから、皆自から主たる能あたはざるほどの者共が、相率あひひきゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動を敢あへてしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野内匠頭たくみのかみの家は潰つぶされ城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者は終つひに何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処どこかへ行つてしまふのが却かへつて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄かんゆうや煽動家せんどうかである。八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶に歓よろこんだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を島ゑんたうに持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。
道真公が此処こゝへ陪賓ばいひんとして引張り出されたのも面白い。公の貶謫へんたくと死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を藉かりたなどは一寸ちよつとをかしい。たゞ将門が菅公薨去こうきよの年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡ふげきの徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可べきことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷きたうをした叡山えいざんの明達めいたつ阿闍梨あじやりの如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記ふさうりやくきに見えてゐるが、これなぞは随分変挺へんてこな御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾かつて無い大動揺が火の如くに起つて、瞬またゝく間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲せきけんしたのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様かやうなことを口走つたかとも思はれる。然しからずば、一時の賞賜しやうしを得ようとして、斯様なことを妄言まうげんするに至つたのかも知れない。
田原藤太が将門を訪ふた談はなしは、此の前後の事であらう。秀郷ひでさとは下野掾しもつけのじようで、六位に過ぎぬ。左大臣魚名うをなの後で、地方に蟠踞ばんきよして威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流はいるされたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有かねあり、高郷たかさと、興貞おきさだ等十八人とあるから、何か可なりの事件に本もとづいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮あはせて為した事だらう。何にしても前科者だ、一筋ひとすぢで行く男では無い。将門を訪ふた談はなしは、時代ちがひの吾妻鏡あづまかゞみの治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽いつはりて門客に列す可べきの由よしを称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳くしけづるところの髪を肆をはらず、即ち烏帽子に引入れて之に謁えつす。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰ちゆうばつす可べきの趣おもむきを存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云〻」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角かくといふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分怪けしからぬ料簡方れうけんかたの男で、興世王の事を為なさずして終つたが、興世王の心を懐いだいてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観みれば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪にくむべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云〻」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造いたりて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢いきほひが浩大かうだいで、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖せきくわくの一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許もとを訪とふたといふのであるから、咎とがむべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴ちはるは、安和年中、橘たちばなの繁延しげのぶ僧連茂れんもと廃立を謀はかるに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、憚はゞかるべきことだ、田原藤太を強しひて、何方どちらへ賭かけようかと考へた博奕ばくち打うちにするには当らない。
将門に逐おひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりは櫛くしの歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕きやうがくと憂慮と、応変の処置の手配てくばりとに沸立わきたつた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。
将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔まんかうの欝気うつきを伸のべ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲ゐきよくを尽してゐる中に手強いところがあつて中〻面白い。

将門謹つゝしみ言まをす。貴誨きくわいを蒙かうむらずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次ざうじに何いかでか言まをさん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源ノ護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、然しようぜんとして道に上り、祗候しこうするの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑うるほひぬ。仍よつて早く返し遣やる者なりとなれば、旧堵きうとに帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬ゆるくして安居しぬ。」然る間に前さきの下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ能あたはざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠さつそんだつりやくせらるゝの由よしは、具つぶさに下総国の解文げもんに注し、官に言上ごんじやうしぬ、爰こゝに朝家諸国に勢せいを合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了をはんぬ。而しかるに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具ぐして言上し了んぬ。未だ報裁を蒙かうむらず、欝包うつはうの際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到いたりぬ。仍よつて国内頻しきりに将門に牒述てふじゆつす。件くだんの貞盛は、追捕を免れて跼蹐きよくせきとして道に上れる者也、公家は須すべからく捕へて其の由を糺たゞさるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾けうしよくせらるゝ也。」又右少弁うせうべん源相職朝臣みなもとすけときのあそん仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの比ころほひ、常陸介ひたちのすけ藤原維幾朝臣あそんの息男為憲、偏ひとへに公威を仮りて、ただ寃枉ゑんわうを好む。爰こゝに将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、恣ほしいまゝに兵庫の器仗戎具きぢやうじゆうぐ並びに楯たて等を出して戦を挑いどむ。是こゝに於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数幾許いくばくなるを知らず、況いはんや存命の黎庶れいしよは、尽こと/″\く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由よしは、伏して過状を弁じ了をはんぬ。将門本意にあらずと雖いへども、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候うかゞふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠りよりやくし了んぬ。」伏して昭穆せうぼくを案ずるに、将門は已に栢原かしはばら帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈あに非運と謂いはんや。昔兵威を振ふるひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既すでに武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比およばんや。而るに公家褒賞の由无なく、屡しば/″\譴責けんせきの符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸さいはひなり。」抑そも/\将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政しやうこくせつしようの世に意おもはざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝たゆ可べからず。将門傾国の謀はかりごとを萌きざすと雖いへども、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫つらぬく。将門謹言。
   天慶二年十二月十五
      謹〻上 太政大殿少将閣賀恩下
此状で見ると将門が申訳まをしわけの為に京に上つた後、郷に還かへつておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を綬ゆるくして安居す」といふ語に明らかに見あらはれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷ひどい目に遇あつたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。然しかるに将門は公おほやけの手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦ふくしゆうせんを試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事が已やんだのを見て、勘忍かんにんならずと常陸ひたちへ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山つくばさんへ籠つたのは、丁度将門が前に良兼に襲はれた時応戦し無かつたやうなもので、公辺に対して自分を理に敵を非に置かうとしたのであつた。将門は腹立紛はらたちまぎれに乱暴して帰つたから、今度は常陸方から解文げぶんを上して将門を訴へた。で、将門の方へ官符が来て召問はるべきことになつたのだ。事情が紛糾ふんきうして分らないから、官使純行等三人は其時東国へ下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかつた。そこへ又後から貞盛は将門の横暴を直訴ぢきそして頂戴した将門追捕の官符を持つて帰つて来たのである。これで極きはめて鮮あざやかに前後の事情は分る。貞盛は将門追捕の符を持つて帰つたが、将門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符の下つた時、良兼同罪であつて同じく配符の廻つて居た者だから、追捕を逃れ上京した時、公おほやけに於て取押へて糺問きうもんさるべき者であるにかゝはらず、其者に取つて理屈の好い将門追捕の符を下さるゝとは怪けしからぬ矯飾けうしよくであると突撥つつぱねてゐるのである。こゝまでは将門の言ふところに点頭の出来る情状と理路とがある。玄明の事に就ては少し無理があり、信じ難い情状がある。玄明を従兵といふのが奇異だ。行方河内両郡の食糧を奪つたものを執とらへんとするものを、寃枉ゑんわうを好むとは云ひ難い。為憲貞盛合体して兵を動かしたといふのは、蓋けだし事実であらうが、要するに維幾と対談に出かけたところからは、将門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨恨こんひと自暴の気味とがあるが、然し天位を何様どうしようの何のといふそんな気味は少しも無い。むしろ、乱暴はしましたが同情なすつても宜よいではありませんか、あなたには御気の毒だが、男児として仕方が無いぢやありませんか、といふ調子で、将門が我武者一方で無いことを現はしてゐて愛す可べきである。
将門は厭いやな浮世絵に描かれた如き我武者一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりも又やさしい。将門が新皇と立てられるのを諫いさめて、帝王の業は智慧ちゑ力量の致すべきでは無い、蒼天さうてんもし与くみせずんば智力また何をか為なさん、と云つたとある。至言である。好人である。斯様かういふ弟が有つては、日本ではだめだが国柄によつては将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡ゆげのだうきやうの一類には玄賓僧都げんぴんそうづがあり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様どうも戯曲には真の歴史は無いが、歴史には却かへつて好い戯曲がある。将門の家隷けらいの伊和員経いわのかずつねといふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕うたんだといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭せうとうらんとうあるのみだ。「とゞの詰りは真白まつしろな灰」になつて何も浮世の埒らちが明くのである。「上戸じやうこも死ねば下戸も死ぬ風邪かぜ」で、毒酒の美うまさに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓たいすゐりんりで島広山しまひろやまに打倒れゝば、「番茶に笑ゑんで世を軽う視る」といつた調子の洒落しやれた将平も何様どうなつたか分らない。四角な蟹かに、円い蟹、「生きて居る間のおの/\の形なり」を果敢はかなく浪の来ぬ間の沙すなに痕あとつけたまでだ。
将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出して諫いさめ、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目ぢもくが行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ/″\の受領が定められた。毒酒の宴は愈〻はづんで来た。下総の亭南ていなみ、今の岡田の国生くにふ村あたりが都になる訳で、今の葛飾かつしかの柳橋か否か疑はしいが橋ふなばしといふところを京の山崎に擬なぞらへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことは夥おびたゞしい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿らくはくくげ、いろ/\の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁汲安くみやすなどと威張り出す、出入の大工が木工頭もくのかみ、お針の亭主が縫殿頭ぬひのかみ、山井庸仙やまゐようせん老が典薬頭、売卜の岩洲友当いはずともあてが陰陽おんやう博士はかせになるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童きやうわらべが云つたらしい珍談が残つてゐる。
上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄戞〻かつ/\大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者の談はなしも残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服えつぷくして居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様どんな新政が頭上づじやうに輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様どうだらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落おひおとされ、新軍は勢いきほひを得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷うすひ、相模は箱根足柄あしがらが自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州秦野はたのあたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原れうげんの勢いきほひ、八ヶ国は瞬間にして馬蹄ばていの下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯華奢くわしや風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二単衣ひとへでぞべら/\した女どもと、恋歌こひかや遊芸に身の膏あぶらを燃して居た雲雀骨ひばりぼねの弱公卿よわくげ共との天下であつて、日本各時代の中でも余り宜よろしく無く、美なること冠玉の如くにして中空むなしきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにも脆もろく西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然クビライが少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨へいげいしてウムと堪こらへたものは公卿どもには無くつて、却かへつて相馬小次郎将門だつたかも知れはし無い。「荒壁つとに蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時は頼朝が頤あごで六十余州を指揮しきする種子たねがもう播まかれてあつたとも云へるし、源氏物語を読んでは大江広元が生まれない遥はるかに前に、気運の既すでに京畿けいきに衰えてゐることを悟つた者が有つたかも知れないとも云へる。忠常の叛、前九年、後三年の乱は、何故に起つた。直接には直接の理由が有らうが、間接には粉面涅歯でつしの公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたやうにして居たからだ。奥州藤原家が何時いつの間にか、「だんまり虫が壁を透とほす」格で大きなものになつてゐたのも、何を語つてゐるかと云へば、「都のうつけ郭公ほとゝぎす待つ」其間におとなしくどし/\と鋤鍬すきくはを動かして居たからだ。天下枢機の地に立つ者が平安朝ほど惰弱苟安こうあんで下らない事をしてゐたことは無い位だ。だから将門が火の手をあげると、八箇国はべた/\となつて、京では七斛余こくよの芥子けしを調伏祈祷の護摩ごまに焚たいて、将門の頓死屯滅とんしとんめつを祈らせたと云伝いひつたへられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七斛こくの芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐の緩ゆるみ加減も随分太甚はなはだしい。
相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐる虞おそれのある常陸へと出馬して鎮圧に力つとめた。丁度都では此時参議右衛門督うゑもんのかみ藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方まさに食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸はしを投じて起つて、節刀せつたうを受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生なまぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳こぶしを握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮をののみや大臣を詛のろつたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈なかくじ両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処ありかを申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤原氏どもに捕へられるほど間抜まぬけでも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江ひるまえで捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼ひぬである。
前には将門の妻が執とらへられ、今は貞盛の妻が執とらへられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取はぎとられて、みじめな態さまになつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪るらうの女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣一襲ひとかさねを与へて放ち還かへらしめ、且かつ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂にほひの散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠よみかけられて返しをせぬと、七生唖おしにでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁いんねんにでもこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉のどを鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石さすがに平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱はづかしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることは叶かなはぬが、何様どうも李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つて管くださへ巻かなかつたらば、氏うぢは異ふが鎮西ちんぜい八郎為朝ためとものやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様どうしたらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものか何どうか分らぬが、「慮おもつて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡ひんぼ雌雄が引分けられてもいつか互たがひに尋ねあてゝ一所いつしよになる。銀杏いてふの樹の雄樹と雌樹とが、五里六里離れて居てもやはり実を結ぶ。漢の高祖の若い時、あちこちと逃惑つて山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏がいつでも尋ねあてた。それは高祖の居るところに雲気が立つて居たからだといふが、いくら卜者ぼくしやの娘だつて、こけの烏のやうに雲ばかりを当にしたでは無からう。あれ程の真黒焦の焼餅やきな位だから、吾が夫のことでヒステリーのやうになると、忽ちサイコメトリー的、千里眼になつて、「吾が行へを寝いぬ夢に見る」で、あり/\と分つて後追駈けたものであらうかも知れぬ。貞盛の妻もこゝでは憂き艱難しても夫にめぐり遇あひたいところだ。やうやくめぐり遇つたとするとハッとばかりに取縋とりすがる、流石さすがの常平太も女房の肩へ手をかけてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の模様を語る。柔らかいしつとりとした情合の中から、希望の火が燃え出して、扨さては敵陣手薄なりとや、いで此機をはづさず討取りくれん、と勇気身に溢あふれて常平太貞盛が突立上つゝたちあがる、チョン、チョ/\/\/\と幕が引けるところで、一寸おもしろい。が、何の書にもかういふところは出て居ない。
然し実際に貞盛は将門の兵の寡すくないことをば、何様どうして知つたか知り得たのである。将門精兵八千と伝へられてゐるが、此時は諸国へ兵を分けて出したので、旗本は甚はなはだ手薄だつた。貞盛はかねて糸を引き謀はかりごとを通じあつてゐた秀郷ひでさとと、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。将門の兵は千人に満たなかつたが、副将軍春茂(春茂は玄茂か)陣頭経明遂高かつたか、いづれも剛勇を以て誇つてゐる者どもで、秀郷等を見ると将門にも告げずに、それ駈散らせと打つて蒐かゝつた。秀郷、貞盛、為憲は兵を三手みてに分つて巧みに包囲した。玄明等大敗して、下野下総界ざかひより退ひいた。勝に乗じて秀郷の兵は未申ひつじさるばかりに川口村に襲ひかゝつた。川口村は水口村みづくちむらの誤あやまりで下総の岡田郡である。将門はこゝで自から奮戦したが、官と賊との名は異なり、多と寡くわとの勢いきほひは競きそは無いで退いた。秀郷貞盛は息をつかせず攻め立てた。勝てば助勢は出て来る、負ければ怯気おぢけはつく。将門の軍は日に衰へた。秀郷の兵は下総の堺、即ち今の境町まで十三日には取詰めた。敵を客戦の地に置いて疲れさせ、吾が兵の他から帰り来るを待たうと、将門は見兵けんぺい四百を率ゐて、例の飯沼のほとり、地勢の錯綜さくそうしたところに隠れた。秀郷等は偽宮を焼立てゝ敵の威を削り気を挫くじいた。十四日将門は島郡の北山に遁のがれて、疾とく吾が軍来れと待ち望んで居た。大軍が帰つて来ては堪らぬから、秀郷貞盛は必死に戦つた。此の日南風急暴に吹いて、両軍共に楯たてをつくことも出来ず、皆ばら/\と吹倒されてしまつた。人〻面〻相望むやうになつた。修羅心しゆらしんは互に頂上に達した。牙を咬かみ眼を瞋いからして、鎬しのぎを削り鍔つばを割つて争つた。こゝで勝たずに日がたてば、秀郷等は却かへつて危ふくなるのであるから、死身になつて堪へ堪へたが、風は猛烈で眼もあけられなかつたため、秀郷の軍は終つひに利を失つた。戦の潮合しほあひを心得た将門は、轡くつわを聯つらね馬を飛ばして突撃した。下野勢は散〻に駈散けちらされて遁迷ひ、余るところは屈竟くつきやうの者のみの三百余人となつた。此時天意かいざ知らず、二月の南風であつたから風は変じて、急に北へとまはつた。今度は下野軍が風の利を得た。死生勝負此の一転瞬の間ぞ、と秀郷貞盛は大童おほわらはになつて闘つた。将門も馬を乗走らせて進み戦つたが、たま/\どつと吹く風に馬が駭おどろいて立つた途端、猛風を負つて飛んで来た箭やは、はつたとばかりに将門の右の額に立つた。憐れむべし剛勇みづから恃たのめる相馬小次郎将門も、こゝに至つて時節到来して、一期三十八歳、一燈忽たちまち滅きえて五彩皆空しといふことになつた。
本幹已すでに倒れて、枝葉全まつたからず、将門の弟の将頼と藤原玄茂とは其歳相模国で斬きられ、興世王は上総へ行つて居たが左中弁将末に殺され、遂高玄明は常陸で殺されてしまひ、弟将武は甲斐かひの山中で殺された。
将門の女むすめで地蔵尼ぢざうにといふのは、地蔵菩薩ぼさつを篤信したと、元亨釈書げんかうしやくしよに見えてゐる。六道能化のうげの主を頼みて、父の苦患くげんを助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、却かへつて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田しのだの二郎将国まさくにといふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田しのだ」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸こぼくの味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人〻の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎先生せんじやう義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。
将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人〻故平将門の男なんの京に入ることを曰いふと。そこで右衛門督朝忠に勅して、検非違使をして捜さがし求めしめ、又延光をして満仲みつなか、義忠、春実はるざね等をして同じく伺うかがひ求めしむといふことが、扶桑略記の巻二十六に出てゐる。馬鹿〻〻ばか/\しいことだが、此の様な事もあつたかと思ふと、何程都の人〻が将門に魘おびえたかといふことが窺知うかゞひしられる。菅公に魘おびえ、将門に魘え、天神、明神は沢山に世に祀まつられてゐる。此中に考ふべきことが有るのではあるまいか。こんな事は余談だ、余り言はずとも「春は紺より水浅黄よし」だ。
(大正九年四月) 
 

 

平の将門 / 吉川英治 
御子と女奴
原始のすがたから、徐々に、人間のすむ大地へ。
坂東平野ばんどうへいやは、いま、大きく、移りかけていた。
――ために、太古からの自然も、ようやく、あちこち、痍きずだらけになり、まぬがれぬ脱皮を、苦悶するように、この大平原を遠く繞めぐる、富士も浅間も那須なすヶ岳たけも、硫黄色の煙を常に噴いていた。
たとえば、茲ここにある一個の人間の子、相馬そうまの小次郎こじろうなども、そうした“地の顔”と“天の気”とを一塊の肉に宿して生れ出たような童わっぱだった。
年は、ことし十四ぐらい。
かた肥りの、猪肉ししむらで、野葡萄のような瞳をもち、頬はてかてか赤く、髪はいつも、玉蜀黍とうもろこしの毛みたいに、結び放しときまっていた。全身、どこともなく、陽なた臭いような、土臭いような、一種の精気を分泌している。
だが、今年になってから、その童臭も、黒い瞳も、どこか、ぼやっと、溌剌を欠いていた。痴呆性ちほうせいにすらそれが見えるほど、ぼやけていた。
父の死後。家に飼っている女奴めのやっこ(奴婢ぬひ)の蝦夷萩えぞはぎと、急に親しくなって、先頃も、昼間、柵さくの馬糧倉まぐさぐらの中へ、ふたりきりで隠れこんでいたのを、意地のわるい叔父の郎党に見つけられ、
「御子みこが、蝦夷えびすの娘と、馬糧倉の中で、昼間から、歌垣うたがきのように、交まくわりしておられた。――相手もあろうによ、女奴と」
と、一大事のように、吹聴された事件があった。どうしてか、後見の叔父たちは、小次郎には、何もいわなかったが、女奴の蝦夷萩は、きびしい仕置にあい、大勢のまえで、鞭むちで三十も四十も打ちすえられた。
それきり、女奴の蝦夷萩は、小次郎のまえに、一度も、姿を見せなくなった。小次郎もまた、以後はよけいに、家に在る大叔父や小ちい叔父に対して、気うとい風を示して近づかなかったし、大勢の家人けにんや奴婢たちにも、なんとなく、顔を見られるような卑屈を抱いているのだろう。この頃は、ほとんど、屋敷の曲輪くるわうちには、いなかった。ひまさえあれば、その住居から一里半も離れている――この“大結おおゆうノ牧まき”へ来て、馬と遊んでいるか、さもなければ、丘の一つの上に坐りこんで、ぼやっと、行く雲を、見ているのだった。
ここの牧は、坂東平野のうちでも、最も大きな、広い牧場だと、いってよい。
わが家には、こんな牧が、所領の内に、四ヵ所もある。
馬は、土地につぐ財産だ。都へ曳ひいて行けば、争って人は求めたがるし、地方でも、良馬は、いつでも砂金かねとひき換えができる。
その馬が、わが家には、こんなにもいるのだ。
下総しもうさ、上総かずさ、常陸ひたち、下野しもつけ、武蔵むさし――と見わたしても、これほどな馬数と、また、豊かな墾田と、さらに、まだまだ無限な開拓をまつ広大な処女地とを、領有している豪族といっては、そうたくさんは、あるものじゃない。
「――いいか、おまえは、その跡目をつぐ、総領息子であるのだぞ」
と、死んだ父の良持よしもちが、生前、よくいっていたことばを、相馬の小次郎は、ここへ来ると思い出した。牧の丘に、坐りこんで、ぽかんと、父の声の、あの日この日を思い出しているのが、なにかしら、楽しみでもあったのだ。
そんな時。――行く雲を見るともなく見ている眼から、急に、ぽろぽろと、涙を奔はしらせ、鼻みずを垂らし、しまいには、顔をくしゃくしゃにして、独り、声をあげて、泣き出してしまうことがあった。
ここでは、いくら泣いていても、なだめてもなし、怪訝いぶかる者もいなかった。彼は、自然に泣きおさまるまで、自分を泣かせて、やがて、嗚咽おえつが止まると、忘れたように、けろりと、太陽に顔を乾かわかしている。
「御子……。御子うっ」
たれか、遠くで、彼をよんだ。
馬舎働きの男が、丘の下から、手招ぎしていた。飯時を告げるのであった。小次郎は、首を振って見せた。
「おらあ、食わねえよ。食いとうねえだ、晩に食う」
男が、なお執しつこく、くり返して、すすめると、彼は、やにわに、石を拾って、抛ほうりつけた。
「ばかっ。そんなに、食わせたけれや、烏にくれてやれ」
石は、男を外それて、罪もない仔馬にあたった。男は、馬房の方へすッ飛んで行き、仔馬も、沢へ、奔り降りた。
牧の中には、こんな丘が、幾つもある。そして、沢の水を飲んでいる馬、横になって眠っている馬、草を泳いでゆく仔馬の群など――眼をやるところに、馬の影が見られる。
けれど、去年の暮、父の良持が死んでから後は、急に、馬の数が減っていた。
父の家人で、いまも牧の管理をしている御厨みくりやの浦人うらんどは、その事について、ある折、
「御子。――馬ばかりではありませんぞ。御本屋ごほんやの、穀倉の物、弓倉の中の物、そのほか数ある土倉のうちに、どれほどな物が残っていましょう。……大きな声ではいえませんが、御後見の叔父方が、みな、自分たちの所領の地へ、こそこそ運ばせてしまわれたのでございます。……ええ、馬もです。決して馬盗人うまぬすびとの所業ではありません。浦人が、この目で見ておるところです。けれど、あの三叔父の権威にたいして、私などは、顔いろにも出せません。出せば、一日も、この牧にとどまる事はできないので」
と、小次郎の耳へ、さも、深刻そうに、囁ささやいたりしたこともある。だが、小次郎には、深刻でもなんでもなかった。牧の馬数が、目に見えて、減ってゆくのは、親しい友達が去ッてゆくに似た哀愁にはちがいなかったが、倉の中の物などは、あろうと、失なくなろうと、彼にとっては、頭にもない問題だった。
ただ、子ども心にも、深く彫ほりこまれていたものは、父の死と同時に、常陸や下総や上総など、それぞれの居住地から、彼の家へ乗りこんできた叔父たちであった。
大叔父というのは、父の良持の兄にあたる人で、常陸の大掾だいじょう、国香くにかといい、これがいちばん威張っている。
そのほか、良持の弟、良兼よしかね、良正よしまさのふたりも、後見人として、のべつ来ていた。
小次郎の父良持が擁ようしていた広大な土の支配は、この三叔父が、すべて指図し始めた。たくさんな家人も、奴婢も、みな、その三名を、新しい主人とも仰ぎ、陰口一ツさえ、怖れあった。
これを、不当なかたちと、見る者はなかった。なぜならば、小次郎の父良持が、息をひく寸前に、親類、家の子など、大勢を枕もとにおいて、親しく、国香、良兼、良正の三名へ、こう遺言して逝った事実があるからである。
「わしに、七人の子はあるが、総領の小次郎とて、まだ幼い。わしが拓きり開いたこの地方の田産でんさんや、諸所にある伝来の荘園しょうえん(官給地)は、お身たちが、管理して、小次郎が成人の後は、牧の馬や、奴婢などと一しょに、そッくり、還してやってくれい。それだけが、気がかりなのだ。……たのむ」
かくれもない事なので、御厨の浦人が、何度もいって聞かせるまでもなく、小次郎もよく知っている。そしてその事に、彼はなんの不平もない。
彼が彼らしい童心の溌剌を急に削そがれたのは、決して、そのような物質でもなく、蝦夷萩との、恋でもない。ただなんとなく、生れたわが家が冷たくなり、屋敷曲輪のどこにいるのも嫌で、この丘に坐っているのが、一番いい、ということだけのようであった。
土と奴隷層
良持が、遺言に、所領の土や馬などと一しょに、奴婢までを、遺産にかぞえているのは、おかしく聞えるが、当時の世代では、まちがいなく、奴婢奴僕ぬぼくも、個人所有の、重要な財産のひとつであった。
後の将門、相馬の小次郎が、十四歳頃の世は、史家の推定で、延喜えんぎ十六年といわれている。
西暦で九一六年。指を繰れば、今日から一千三十四年前になる。
千年は、宇宙の一瞬でしかない。――が、人間の社会にとっては、こんなにも、観念がちがう。
奴婢といい、奴僕というも、女を女奴とよび、男を男奴おやっことよぶ、それは同じ奴隷にすぎなかった。奴隷制度が、まだあったのである。
どんな苛酷な使役にも、貞操にも、衣食の供与にも、身体の移動にも、絶対に自分で意志の自由を持ち得ない約束の人間が、この国の地上には、まだ全人口の三分の二以上もいた。
それらの無数な生命の一個が死ぬまでの価としては、稲何百束そくとか、銭ぜに何貫文なんがんもんとか、都の栄華のなかに住む女性たちが、一匹の白絹を、紅花べにばなで染める衣きぬの染代にも足らない値段だった。いや、牧の馬よりも、人間の方が、はるかに、下値ですらあった。
人買いは、東北地方から、野生の労働力をあつめて、近畿や都へ売りこみ、都の貧しい巷ちまたから美少女を買って帰ると、これは、すばらしく、高値を吹いた。
市いちに出して、物と換えることもでき、質に入れることもできた。
だから、奴婢、奴僕、小者などと呼ぶ者を、数多あまたに抱えている主人は、これを当然、財物と見、その身売り証券は、死に際の目で見ても、大きな遺産だったにちがいない。
小次郎の父、良持などは、それの主人として、坂東八州のうちでも、尤ゆうなる者のひとりだった。
かれの家は、この未開坂東の一端に根を下ろしてから、五代になる。
――桓武かんむ天皇――葛原親王かつらはらしんのう――高見王たかみのおう――平高望たいらのたかもち――平良持よしもち――そして今の相馬の小次郎。
系図は、正しく、帝系ていけいを汲んでいるが、そのあいだに、蝦夷の女の血も、濃く、交じったであろうことは、いうまでもない。
また、帝系的な都の血液と、アイヌ種族の野生の血液とが、次のものを、生み生みしてゆけば、母系の野生が、著しく、退化種族の長を再現して、一種の中和種族とも呼べるような、性情、骨相をもって生れてくることは、遺伝の自然でもあった。
だから、小次郎の親の良持はすでに、その顴骨かんこつや、頤おとがいの頑固さ、髯、髪の質までが、都の人種とは異っていた。
性情もちがい、処世の考え方も、良持の代になって、ちがって来た。
良持は、先祖からの、官途の職をすてて、土に仕えた。喰くろうて、税を納めて、余りあるほどな、前からの荘園もあったが、なお多くの奴婢、奴僕、田丁を使役し、上に、家人等の監督をおいて、限りない未開の原始林を伐り拓き、火田かでんを殖やし、沼を埋め、丘を刈り、たちまちにして、野の王者となった。
荘園では、いやでも、課税の対象にされるが、朝廷の墾田帳こんでんちょうにも、大張使だいちょうしの税簿にもない未開田は、督税使とくぜいしがやかましくいっても、なんとでも、ごまかせた。
こうして、彼が一代に作った田産と、豊田郡とよたぐんの一丘を卜ぼくして建てた柵、本屋ほんやしき、物倉ものぐら、外曲輪そとぐるわなどの宏大な住居は、親類中の羨望の的であった。
「常陸の兄も、上総の弟共も、おれを羨むというが、どうだおれの一生仕事は。――百姓でも、大百姓なら、これで結構。国司こくしでも、郡司ぐんじでも、おれのまねは、よも出来まい。――その下の、守かみでも、介すけでも、掾じょうでも、目さかんでも、みんなおれにお世辞をいってくるではないか」
いま、中央では、藤原氏か、藤原姓の端ッくれにでも、縁のつながる者でなければ、人間仲間ではないようにいわれている時の下もとに――地上の一方に、良持は、そんな豪語を含んで生き、そして間もなく、死んで行ったのであった。
だが、ことし十四の小次郎には、亡父が遺した何一つとて、さほどの物には、見えなかった。
強いて、その中で、彼に役立ったものといえば、アイヌ娘の蝦夷萩が、叔父たちの眼をしのんでは、着る物、喰う物などに、あたたかな愛情を寄せ、
「可哀そうな御子。……御子は、かわいそうなお生れね」
と、自分が、奴隷というあわれな宿命なのをも思わず、しまいには、唇くちをも、肌をも、惜しみなく与えてくれた――彼女以外には、何もない。
自然戯
北武蔵から、秩父ちちぶ、上野こうずけへわたる長い連山の影が、落日の果てに、紫ばんで、暮れてゆく。
小次郎は、まだ、丘にいた。
曠野こうやは、春の三月だった。
土もあらく、風もあらく、水の質もあらく、それと等しく、人間もあらあらとして、野生のままな坂東の天地であったが、さすがに、春の夕ぐれは、余りにともいいたいほど、何事もない。なんのうごき一つもない。
目に見えないほどずつ、陽が沈み、雲の色相しきそうが、変ってゆくだけだ。
「御子っ。そんな所に、何して、ござらッしゃる。はよう、おいでなされ、身どもと、一しょに」
また、誰か、呼びに来た。
いずれ、馬舎うまやの馬丁か、浦人の小者かであろうと思い、小次郎は、
「おらあ、行かぬぞ。飯も食いとうない。こん夜は、馬と寝る」
と、ふり向きもせず、いった。
すると、下の影は、丘へ駈け上ッてきた。――手こずらす童よと、口叱言をいうのが聞え、同時に、小次郎の腕は、抜けるほど、力づよく、引ッ張られていた。
「御子っ、なにをいい召さるッ。そんな悪たいばかり申さるる故、叔父御たちからも、忌いまるるのじゃ。大掾さまの、召さるるに、来んという答えが、あろうかやい」
「うるせえッ」と小次郎は、突ッ放して、「そうなら、そうと吐ぬかせば、おらだって、歩ばぬと、いうかやい」
ぷんぷんと、面つらふくらせて、先に、歩き出した。しかし、嫌で嫌で堪らない気がするとみえ、眼は、ぼたぼた、涙をたらしていた。
その晩、彼は、大叔父の腹心らしい家臣から、一つの急用を、命じられた。大叔父の国香や、小い叔父たちが、奥で酒もりしているらしい間にである。
「明日あした、柵の厩うまやの栗毛くりげを曳いて、横山ノ牧へ、行てくだされ。こちらの牝馬めすうまの栗毛へ、横山の名馬と評判のたかい牡馬おすうまのタネを、もろうて来るのじゃ。タネ付け料も、絹や稲などで、先に払うてあるし、仲介なかだちの者から、この一月、とうに話もついておること。いまは、春蚕はるごを飼うので、手もない時故、御子ひとりで、行てくだされ。行けぬことは、あるまいがの」
小次郎はむしろ、よろこんだ。幾日かの解放をゆるされたように、いそいそして、母屋から遠くの屋おくで、独りぼッち、眠った。
すると、真夜中に、蝦夷萩が忍んできて、彼を、ゆり起した。
奴婢長屋は、曲輪の遠い隅ッこで、晩には、逃げないように、空壕からぼりの橋は、外はずされる。それに高い柵もあるのに、どうして来たのかと、小次郎は、目をまろくした。
「御子は、あした、横山ノ牧へ、行くんでしょう。そしたら、途中の武蔵野で、殺されますよ。わたしは、叔父御さまたちが、密談しているのを、床下ゆかしたで聞いていた……」
彼女は、一心に、小次郎を想っている。小次郎は、かの女が告げた恐ろしさより、べつなものに襲われた。すぐ取って喰べてしまいたいような衝動に駆られ、アイヌ族の特有な梨の花みたいな肌をすぐ頭にえがいた。
「……ね。ですから、ここは出ても、遠くへ行くのは、およしなさい。武蔵野は通ってはいけませんよ」
蝦夷萩は、それだけ告げると、暗い床むしろを、後退あとずさりに、出て行きかけた。
――と、小次郎の鼻に、彼女が日ごろ髪につけている猪油いのあぶらのにおいが、ぷうんと触れてきた。彼の影は、それを嗅ぐと、動物的に、跳びついて、香におうものの焦点へ、ごしごし顔をこすりつけた。蝦夷萩は、鼻腔びこうからひくい呻うめきに似た息を発し、身を仰向あおむけに転ばして、嬉々ききと、十四の少年が、なすままに、まかせていた。
まだ、人間たちの間には、人間の自覚すら、ほとんど、稀薄な時代であったから、わずかに、夫婦の制度とか、妾めかけの認知とかいう――本能と愛憎と専有欲を基とした、ごく単純な社会約束はあっても、男女生活の、多岐多角なすがたには、なんの思考も持たれてはいなかった。――恋愛はしても、恋愛の自覚はないのだ。原始的なしきたりのまま、肉の意志のまま、振舞うことが、人間として出来る何でもない行為の一つというに過ぎない。
都人みやこびとの風習は、上下一般に、早婚だった。男は十二、三歳から十五、六歳までに、女は九歳から十二、三歳といえばもう嫁いだ。放ッておいても、小さい彼氏や彼女たちは、童戯のように、肉体の交じわりも、卒業してしまうからである。それは、大人のまねでもあった。男女の大人たちは、その事をそう秘密に、不自由に、恟々おどおどとして、行ってはいない。いくらでも、童女童子たちは、それを見ることができる。見ればまねするし、まねすれば、喜悦であるし、習性づいてくれば、肉体も性情も、自然の状態に従ってくる。
宮廷の人々から、一般の都人さえそうだから、この坂東地方などは、原始人時代の男女間から、まだいくらも自覚の男女に近づいてはいない。掠奪結婚も、折々あるし、恋愛争奪戦争に、家人奴僕を武装させ、鏃やじりを射つくし、矛ほこに血を飛沫しぶかす場合も稀ではない。
筑波つくばの歌垣のように、夜もすがらの神前かみまえで、かがりも焚かず、他の人妻と他の人夫ひとづまが、闇の香を、まさぐり合う祭りに似た風習など、この豊田郡、相馬郡の辺りにも、広く行われていた。
蝦夷萩は、十六だったから、奴隷仲間で、ただ措おかれているはずはないし、二ツ下の小次郎とて、決して、彼女との馬糧倉が、初めてだったわけではない。
菅公の三番息子
厩は、牧のほかにも、本屋の曲輪を中心として、小さいのが、諸所にあった。いつでも、戦に応じられるように、鞍くらを備え、弓倉や矛倉の近くにあり、それらを柵の厩とよんでいた。
この栗毛は、迅はやいぞ、矢風や矛の光にも、たじろいだ事はない。名馬の相があるぞ、仔種を絶やすな――と、父の良持が、十年の余も愛乗していた牝馬の背に、小次郎は、なんの感傷もなく乗った。
鞍には、旅の食糧かてやら、雨具やら、郡司の吏りに咎とがめられた時に示す戸籍の券やら、一束ひとつかの弓矢をも結ゆわいつけて、豊田の館たちを出るとすぐの坂道へ、意気揚々と、降りて行った。
どこかで、蝦夷萩の顔が、自分を見送っているような気がしたが、振向いても、仰いでも、行くてに展ひらけた桑畑をながめても、どこにも見えない。
――殺されますよ。武蔵野を通ると。
と、あんなに熱い息でささやかれたのに、彼の頭には、自分の死が、ちっとも、考え出されて来なかった。水々しい果物のような乳くびだの、すこし縮ちぢれている猪油の黒髪だの、キリキリと前歯をきしませたあの時の唇もとだの、そんなものしか脳膜に写って来ない。
沼、川、また沼、葦あしの湿地。曠野の道でいやなものは、水だった。下総の猿島さしまから、武蔵の葛飾かつしか、埼玉さいたま、足立あだちの方角をとって歩こうとすれば、大河や小さい河は、縦横無尽といっていい。坂東太郎と敬称する大利根の動脈を中心として、水は静脈のように流れているというよりは、この大陸を、暴れまわっているといった方が実際の相すがたに近かった。
「おうい。豊田の童、どこへ、おじゃる?」
旅の二日目。
小次郎は、誰やらに、呼びとめられた。
彼は、うしろの人を見かけると、彼らしくもなく、あわてて馬を降りた。お辞儀もした。
「景行かげゆきさまで、ございましたか」
「和子わこ。ただ一人で、どこへ行く」
「大叔父のいいつけで、この栗毛を、タネ付けに持って行きます」
「どこの牧への」
「横山ノ牧まで」
「え、横山へ。和子ひとりでか」
「はあ」
景行も、馬上だった。うしろには七、八名の従者をつれていた。……不愍ふびんなと、小次郎を見るように、しげしげと、馬の背からながめていたが、
「横山とは、遠すぎる。もう甲斐かいに近い笹子山ささごやまのてまえになる。わしは比企ひきの郡司の庁まで行くところだから、あの近くの菅生すごうノ牧で、良い馬に、種付けしてもらうがいい」
「叱られます。叔父御たちに」
「庁から、横山ノ牧の者へ、ほどよく、口をあわしておくように、使いを出しておいてやる。大掾の国香どのへは、知れぬようにしてやるから、わしの供に、交じって来い」
「はい。じゃあ、そうします」
菅原景行は、尊敬している人だった。彼にとって、どういう印象があるわけでもなかったが、亡父の良持が、賞めていた人だからである。その亡父のはなしでは、この人は、今でこそ、こんな田舎へ落ちて来て常陸の大掾国香よりも低い身分の地方吏を勤めているが、ほんとは、朝廷で、右大臣うだいじんにまで昇り、学問では、諸博士でも及ぶ者がなかった。菅原道真みちざね公の、三番目の実子だということだった。
菅公の名は、こんな遠い地方でも、知らない者はなかった。今から十三年前、筑紫つくしの配所で死んで以来、なぜなのか、神格化されて、崇めねば、むしろ恐ろしいもののように、鳴りとどろいている。
筑波山の麓には、わずかな菅家かんけの荘園があった。景行は、父の遺骨をもって、筑波のふもとに祀まつり、そのまま、住みついて、地方官吏の余生を送っている者だという。
一時、もっぱらいわれた郷さとの噂も、小次郎は、うろ覚えに、記憶していた。――そういうものが、漠然と、かれの敬礼けいらいになり、かれの言葉つきまでを、ていねいにさせたのだった。
景行としては、小次郎の旅行を、はて、おかしいがと、すぐに、疑われたものがあったのである。良持の死後、豊田の館にはいりこんで、後見している三名の叔父たちが、なにを、意図しているか、察し難いことではない。殊に自分の上官ではあるが、大掾の平国香なる人物が、どんな性格かということは、吏務のうえからも、よく分っている。
「わしに出会って、おまえは、命びろいをしているのだぞ」
景行は、それとなく、小次郎にいいきかせ、菅生ノ牧まで連れて行って、そこでも、
「わしは、これから公用で、比企の庁へ行って、故郷くにへ帰るが、おまえは、良持どのの総領そうりょう、殊に帝系の家の御子なのだから、身を、大事にせねばいかんよ。いいかね」
と、くれぐれも、諭さとした。
「ええ。……うん。……うん」
小次郎は、幾度も頷うなずいた。だが、どの程度、呑みこめたのかは疑問である。彼と別れた翌日、ここの御厨の下司げすが、彼の持って来た栗毛の牝と、秘蔵のたね馬とを、契かけ合せると、小次郎は、我をわすれて眺め入り、終るまで、一語も発せず、満身を、血ぶくろみたいに、熱くして見入っていた。
富士まだ若し
牧で、幾日かを遊び、横山へ行ったほど日数をわざとおいて、彼は、なに食わぬ顔で、豊田の館の本屋へ帰った。
「……汝われは、たしかに、横山へ行ったのか」
大叔父も、小い叔父も、こぞって、変な顔をした。御苦労とも、いわなかった。
常陸笠間の北方の山岳で、つねに、平野の豪族たちに反抗している蝦夷ばかりの柵の者が、乱を起したという早馬が来、国香、良正たちは、それから九十日ほど、見えなかった。
翌年の春にも、秋にも、同じ乱が多かった。
叔父どもが、多忙だと、小次郎は、羽を伸ばした。しきりに、蝦夷萩と会う機会にも、めぐまれた。家人たちは、彼女の血を賤いやしむが、彼には、なんの区別もない。当然、その真実に彼女の熟うれた肉体も盲目になった。蝦夷萩は、奴婢曲輪から、危険な空壕を這いわたり、高い柵を、跳躍して、真夜中になると忍んで来た。生命を賭していることは、小次郎の鈍な神経にもわかった。彼女の肌に烙やかれては、思い知らさずにおられない。
だが、その年の冬の一夜あるよ――。いや、夜は明けて、霜にまッ白な凍地いてちの朝だ。
空壕の底に落ちて、烏の死骸みたいに死んでいた少女がある。蝦夷萩であった。
「小次郎。見て来い」
小い叔父に突きのめされて、小次郎は、ぜひなく覗きに行った。崖際から、矛を逆さに植えたような氷柱つららの簾すだれの下に、一片の雑巾ぞうきんみたいなものが見えた。彼は、顔まで、鳥肌になり、唇のふるえを噛んだまま、その足で、大結ノ牧の方へ、奔馬みたいに、逃げて行った。
正月も、牧の馬と一しょに、馬房の藁わらの上で寝た。
彼には、人間の家よりは、馬の仲間のほうが、あたたかだった。
二月である。大掾の国香は、館の奥で、毛皮の上に坐りこみ、良兼、良正の両叔父をも、左右において、小次郎へいい渡した。
「都へ、遊学に行け。人間らしくなるように、学んで来い」
小次郎は、むッそり、口をむすんでいた。不服と、とったものか、小い叔父まで、声をいかつくして、
「なんだ、貴様は。桓武天皇からの血を辱はずかしめやがって、蝦夷の奴婢と、交まくわるなどとは、あきれた呆痴者うつけものだ。――死んだ、兄者人あにじゃひとにも、相すまぬ。家のため、貴様のため、都へ出て、勉強して来い。立派に、成人して、人らしくなるまで、帰って来ても、家には入れぬぞ」
ただちに、旅費の砂金、少しと、旅装一通りと、そして、一通の書状とが、小次郎の眼のまえに置かれた。
いやも応もない。小次郎は、それを持って、退がりかけた。
「待て待て」と、国香がよびとめた。「――その書状を、途中で、失くすまいぞよ。時の右大臣、藤原忠平ふじわらのただひら公へ、特に、お召使いおき下されと、わしからのお願いの状じゃぞ。よいか、幾年でも、辛抱して、汝われの亡父ちち良持へ、わしらが顔向けのなるように、一かどの男になって帰れよ」
この頃は、この三叔父の腹のなかは、小次郎にでも、すこし読めている。小次郎は、憎まれ口でも叩きたかったが、京都へ放たれることは、意外な歓びだったので、それをいう余裕もない。
一人の野の自然児は、こうして、家郷千里の想いもする京都への初旅を、いそいそ西へ向って立った。延喜十八年。小次郎が十六歳の春である。
叔父どもは、あれほどある一頭の馬もくれなかった。けれど彼は、なんの不平も思わず歩いた。武蔵野の端から端へ出るまでを、三日も四日もかかって歩いた。人の通った跡さえ辿たどれば、夜々の泊りの草屋にも困らなかった。
近々と、富士を仰いだ日、かれは感激に燃えた。都へ出たら、勉強せよ、えらくなれよと、富士の噴煙に、いわれる気がした。
富士は、近年、また鳴動を起し、さかんに、噴煙をあげていた。そして、風向きにより、武蔵野の草も白くなるほど、灰を降らした。小次郎は、髪の毛の根に溜った灰を、爪で掻いて、不思議なものを見るように見つめた。
東海の汀なぎさに出れば、塩焼く小屋や、漁師の生活も、もう下総の辺りとは、文化のちがうここちがした。駿河路するがじとなれば、見た事もない町があり、寺院がある。そして、夜となれば、富士のけむりは、炎の華はなとも見え、海も燃ゆるかとばかり美しい。
平安の都は、これ以上、美しいにちがいない。道ゆく人々は、どんなに気高いだろうか。まだ童形どうぎょうを持つ彼の野性は、人のはなしだけに知っている藤原氏全盛の宮廷や巷を予想して、もうそこへ立ち交じる日の羞恥はにかみにすら、動悸していた。
たまゆらの我が天国
延喜十八年の晩春の一日あるひ。相馬の小次郎は、生国しょうごくの下総から、五十余日を費やして、やっと、京都のすぐてまえの、逢坂山おうさかやままで、たどりついた。
「そこの、低い山を越えれば、もう眼の下が平安の都だよ」
志賀寺の下で、そう教えられ、彼は、胸ふくらませて、西の視野の展けるまで、汗の顔を真ッすぐに持ったまま、長い登りを、登りつめた。
「……ああ」
と、やがて彼は、胆きもを天外にとばしたように、茫然と、また恍惚たる面おももちで立ちすくんだ。
未知の世界に寄せて来た彼のつよい憧憬しょうけいは、想像以上な地上の展開に酬いられた。紫ばんだ山々のゆるやかな線にかこまれた広い盆地一帯の事物がすべてただならぬ光彩をおびているように、彼には見えた。街をつらぬいている加茂川も、ただの水が流れているただの川とは思えなかった。かつて寺院の奥で拝んだことのある“浄土曼陀羅図じょうどまんだらず”そのままな国が此世このよにもあったのかと思う。
「ああ。……都へ来た。……都だ」
感涙しやすい少年の純真は、いつか頬をぬらしていた。自分も、今日からは、都人のうちに立ち交じり、あの荘厳な社会の中に生きるのだとする感動の顫ふるえだった。そして、飽くことなく、驚異の視界に眼をやっていた。
東西一里五町、南北一里十二町といわれたその頃の平安の都府は、真珠末しんじゅまつを刷はいたような昼霞の底に一望された。市街の中央部には、遠くからでも明らかに皇居の大内裏だいだいり十二門の一劃とわかる官衙殿堂が、孔雀色くじゃくいろの甍いらかや丹塗にぬりの門廊とおぼしき耀かがやきを放ッて、一大聚落じゅらくをなしており、朱雀すじゃく、大宮などを始め、一条から九条までの大路おおじや、横縦三十二筋の道路は、碁盤目のように、市坊を区ぎって整然と見えた。また、それらの辻や溝の辺ほとりのものであろう、所々は、柳、桜に染められて、実げにや、万葉の詞藻しそうを継いで、古今こきんの調べを詠み競う人たちの屋根は、ここにこそあるべきはず――と、ここに立つ旅人はみな一様に感じあうに違いない。
ましてや、坂東平野の未開土に生れ、朝に那須や浅間の噴煙を見、昼は、牧の野馬を友として育ち、あらい土、あらい風、あらあらした人間たちばかりの中に、およそ文化らしいものの匂いも知らず、十六歳の肉塊となってきた相馬の小次郎が、ここも同じ人間のすむ地上かと忘我のあやしみに打たれたのも無理はなかった。
「和子は、どこの和子やの。どこから来て、どこへ、おじゃるかえ」
ふと、誰かに、こういわれ、彼は、ようやく、われに返った。
尼すがたの、中年女である。やはり同じ長い坂道を登って来たものとみえ、腰を立てて、彼のすぐそばに休んでいた。
孤愁こしゅうの少年は、すぐその尼の親しさに馴れた。そして、はるばる東国下総から来たことだの、これから大叔父の添え書を持って、藤原忠平公のお館をたずね、成人の日まで留まって、学問修養に専念し、一かどになって帰国するつもりであるなどと、遠い未来夢までを話し話し、道づれになって、いつか、京都の街なかを歩いていた。
ひとつの焚火
「まだかい。忠平公のお住居は。――小母さんは、ほんとに、お館のある所を、知ってるんだろうね」
小次郎は、やや不安になって、尼にたずねた。
「ああ。心配おしでない。そこの御門前まで、連れて行ってあげる」
尼は、初めに、約束したとおり、平然として、うなずいた。
けれど、田舎者の小次郎にも、同じ道を二度も歩いたり、いちど曲がった辻へまた出て来たりすれば、疑わずにいられなくなる。
尼は、よくしゃべった。「和子がこれから訪ねてゆく右大臣家は、小一条のお館だけれど、九条にも御別荘があるし、河原の石水亭も、お住居のひとつなんだよ。そのうちの、どこへ行くがいちばんいいか、私は、ひとに親切をかけるにも、親切を尽さないと、気のすまない性質たちだから、かえって、迷い迷い歩いてしまったのだよ」――そしてまた、いいつづけた。「和子よ。この辺で、ひと休みしよう。もう御門前も近いけれど、第一、おまえ、右大臣家をお訪ねするのに、そんな、さんばら髪をして行っては、笑われてしまう……」
ほんとに、親切な尼であると思い、小次郎は、彼女のいうなりに、腰をおろして、辺りに見とれた。なんという寺院か知らないが、山門があり堂閣がそばだち、五重の塔の腰をつつんだ一朶いちだの桜が満地を落花の斑ふに染めている。ただ心ぼそいのは、夕闇の陰影が、自分の影にも、濃くなりかけていたことだった。
「ねえ、和子……」と、並んで足を休めると、尼はすぐいい出した。「おまえが、背に負っている旅包みは、膨ふくらんで見えるが、きっと、まだ食べないお弁当がはいっているのじゃないか。そうだったら、尼のお駄賃に、その弁当を私におくれよ。実をいうと、私は、お腹がへって、もう、ひと足も歩けないんだから」
いともあわれに手を出して乞うのである。
道理で、この尼は、初めから自分の旅包みにばかり眼をそそいでいたことよ、と小次郎も今にして、思いあわせた。それを解いて、食べたかったことは、彼の空腹も変りなかったが、連れの尼にたいして、むしろ我慢して来たところだった。で、彼はさっそく旅包みからそれを出して、尼の手に渡した。
尼は、礼もいわずに、食べはじめた。もとより今朝、木賃でこしらえてくれた貧しい粳うるちの柏巻かしわまきが幾ツかあったにすぎないが、尼はその竹の皮づつみを膝へ抱きこんで、黄色い歯をむき出しに、がつがつ食べた。爪の伸びた、汚い指の股にくッついた一粒まで、うまそうに舌で甜め取っては、すぐ次のを食べにかかり、ついに、小次郎には、一つもくれずに、みな食ってしまった。
「寺の者に、湯など乞うて、ひと口、飲んで来るほどにな。和子は、ここで待って給たもよ」
尼は、立ち去った。
それきり尼の影は見えず、辺りは暗くなった。彼は待ちくたびれて、体をもてあました。するとさっきから焚火たきびの光が赤々とうごいていた御堂裏みどううらのほうから大きな男がのそのそ歩いて来た。そして小次郎の前で小鼻をクンクン鳴らし、そのヒゲ面を突きつけていった。
「おい、旅の童。汝われの体は、いまの乞食尼から、おれが買ってやったぞ。てめえは、倖せなやつだよ。おれが買ってやらなければ、いずれは遠国の奴隷ひと買いに渡されるにきまっている。だが、こっちは、欲ばり尼に、うんと欲ばられ、これ、このとおり、薄着になってしまったぞ。さあ来い、童、こっちへ来い」
御堂裏の焚火には、なお七人ばかりの男どもがいた。猥雑わいざつな声で何やらげらげら語りあい、みな獰猛どうもうな眼と、そして矛、野太刀などの兇器を持ち、まるで赤鬼のような顔をそろえて、居ぎたなく、炎のまわりに、寝まろんでいるのだった。
「どうだ、みんな、この童は、拾い物だろうが」
小次郎の腕をつかんで連れて来た男は、仲間の者と思われる男共を見くだして、大自慢で、こういった。
「何たッて、黒谷くろだにの欲ばり尼が相手だから、安いものしろじゃ、換えッこねえ。玄米くろごめ一提ひとさげに、おれの胴着一枚よこせと、吹ッかけやがったが、値打は、たっぷりと見て、買うてやった。……どうだ、この童は」
むくむくと、みな起き出して、小次郎の顔を見、装いを見、全姿を、ジロジロ眼で撫でまわして、
「安い。これやあ、安いものだぞ」と、ひとりがいえば、他の者も、安い安いといい囃はやして、口々に罵ののしった。
「なんだ、それじゃあ、たった今、黒谷の尼と、物蔭で耳こすりしていたのは、その取引だったのか」
「童の着けている狩衣かりぎぬと太刀だけでも、物代ものしろ以上の値はふめる」
「ふてえ奴。ひとり儲けは、よくねえぞ。おれたち八坂組やさかぐみの掟おきてをやぶるものだ」
「酒を買えやい」
「そうだ。やい、不死人ふじと。酒を買うて、みなに振舞え。さもなくば、八坂組の仲間掟は要らぬことになる」
仲間といい、組という。一体、これはどういう類たぐいの徒党なのであろうか。もとより小次郎に、理解の力はあり得ない。彼は夢みるような顔して、ここの不思議な焔の色と、不思議な男共の会話のなかに、ぽかんと、ただ身を置いているだけだった。多少、途方に暮れた容子は見せたが、一身の不安などとは少しも感じていないらしかった。
予言の末世
相馬の小次郎が、昼、初めて、逢坂山の高所から眺め知った平安の都は、決して、彼の幻覚ではない。王朝設計による人間楽土の顕現であり、世に謳うたわるる藤原文化の地上にほこる実在のすがたであった事にまちがいはない。
けれど一歩、その市中に、足をふみ入れてみたときは、余りにも、表裏のちがいの甚はなはだしいのに、その頃の旅行者とても、みな意外な思いをなしたことであろう。
いったい、飛鳥あすか、奈良などの時世を経、ここに遷都した初めに、その規模や企画も、唐朝とうちょう大陸の風をまねるに急で、およそ、現実の国力とは不相応な、ただ広大な理想にばかり偏しすぎたきらいがある。
――というよりも、貴族たちが、貴族たちだけの生活設計と、繁栄の意図のもとに創案して、零細な庶民の生態と、大きな力の作用などは、考慮にいれなかったものといったほうが早い。
だから、年をふるに従って、平安の都なるものは、実にへんてこな発展を描いてきた。
たとえば、宮門や太政官、八省はっしょうなどの建物とその地域は、華美壮麗なこと、隋ずい唐とうの絵画にでも見るようであったが、そこを中心とする碁盤目の道すじをすこし離れると、もう泥濘ぬかるみは、言語に絶し、乾けば、牛の糞ふんが、埃ほこりだち、そして左京の四分の一、右京はなお全区の三分の一強が、田であり、畑であり、湿地であり、ふしだらな小川であり、草茫々たる空閑地であり、古池であり、森であり、また、見るもみじめな貧民たちの軒かたむいた板屋葺ぶきの長屋やほッたて小屋だった。いや、中にはまだ、穴居の習慣をもっている一部の極貧者すら、たくさんに住んでいた。
そういう地上に、また、突とっこつとして、あちこちに、宏大な浄土の荘厳をほこっている堂塔伽藍がらんの仏閣が散見できる。そこには、仏教渡来以来、宮中と廟堂に、牢として抜くべからざる根をもった僧侶たちが、依然、大きな生存範囲をかかえて、もう幾世紀にわたる特権の中にわがままを振舞ってきた。
「阿呆よ。何を拝むのだ」と、かれらにたいして、憤る者は、坊主の口まねを借りて、こういった。
「――釈尊しゃくそんは予言している。仏の教えも、功力くりきの光をもち得るのは、せいぜい五々百歳にすぎず、正法千年、像法千年をすぎ、およそ二千年で、滅するであろう――と。あとは闘争腐敗の末法時代に入る――と明らかに現示しているではないか。かぞえてみると、延喜何年という今は、もう末法に入っているのだ。世は、寛平年代から、末世まっせなのであり、今日の世のみだれも人間の堕落も、何のふしぎでもありはしない」
こういう声は、徐々に、巷に聞えだし、上流層も庶民も、ひと頃からみれば、よほど自己の信仰に、懐疑し出してはいたけれど、それでもなお、素朴なる知的水準にあるこの国の上では、およそ仏陀の鐘の音みたいに、無条件に衆を跪伏させてしまうほどな魅力あるものは、他になかった。
白と黒の地界
天智、天武、持統、聖武天皇などの歴世を通じて、仏教の興隆このかた、全国に創建された寺院の数はたいへんなものである。財も労も精も、国力の――それはみな下層民の汗と税によるものが――限りなく投じられてきたといっても過言ではない。
だが、その中枢の信仰者である王朝貴族たちは、自らの政治や私的生活の中に、その仏教を急激に腐敗堕落させる経路ばかりを追ってきた。藤原閥のここ一世紀余にわたる栄華と専横は、その歴史でもある。
それでも、大化の革新以後、藤原百川ももかわや良継よしつぐたちの権臣が朝に立って、しきりに、土地改革を断行したり、制度の適正や、王道政治の長所を計ったりしていた短い期間は、どうにか、日本の曙光しょこうみたいな清新さが、庶民の色にも見えたが、やがて彼等の専横がつづき、皇室、後宮、みな藤原氏の血をいれて私にうごき、中央の官衙かんがから地方官の主なる職まで、その系類でない者は、ほとんど、衣冠いかんにありつけない時代がここ十年も続いた結果は――いまや世はあやしげなる両面社会を当然に持つにいたり――たまたま、相馬の小次郎が遭遇したような、柳桜の綾をなす文化の都と、百鬼夜行の闇の世とが、ひとつ地上に、どっちも、厳として、実在するような状態になった。
そして、そのどっちかに拠よって生きている二つの群は、白と黒のように、極めて明瞭な生態別をもっていた。上流貴族階級と、貧民浮浪者層との、ふた色でしかなかった。
中流階級という層は、その頃まだ、日本には見あたらなかった。それらしき知性人や、無産文化人の極く少数が、いることはいても、それとてみな、ボロ衣冠をまとい、藤氏とうしの権力下にある朝堂ちょうどうの八省に、名ばかりの出仕をするか、摂関、大臣家などに禄仕ろくしして、ほそぼそ生活を求めるしか、社会は、彼等を生かす機能も余地も持たなかった。社会構成に層を成すほどな中流人士とてはなかったのである。
――だから、相馬の小次郎が、入京の第一日に接触した者はみな、その一方の黒い層に住む人間たちだったことは、もう再言するまでもなかろう。ただ、それにしても、暗夜の寺域に、鬼火のごとき火光をかこんで、更ふくるも意とせず、勝手気ままな囈言たわごとを投げあっているこれらの男共は、いったい何を生命に求め、何を職としているかという疑問になると、これは、小次郎がなお多くの年月を、実際に、この都会において生活してみた上でなければ、そう簡単に、解るというまでの、理解に達するまでにはゆかない。
悪罵宴
酒を振舞え、酒をおごれ、と仲間たちからせびられて、不死人と呼ばれていた大男は、腰の革ぶくろから、銭をかぞえて、投げてやった。すると、一人はたちまちどこかへ走って行き、やがて素焼の酒瓶さかがめをかかえて来て、
「さあ、豊楽殿ほうらくでんの、おん酒宴さかもりとしようぜ」
と、さらに車座を、睦み合った。
「待て待て、すこし火が、不景気になった。薪まきはねえか」
「なに、薪か。薪なんざ、あんなにもある」
伽藍を指さした一名の者は、立ちどころに、そこの廻廊へ上がって、すでに壊れている勾欄こうらんの一部をもぎ取り、また内陣から、経机だの、木彫仏の頭だのを抱えて来て、手当り次第に、焚火の群へ、投げやった。
「ほい。まだあるが」
「もう、たくさん、たくさん」
かくて素焼の瓶から、どろどろした液体を、酌ぎ交わし、飲み廻している程に、ようやく、火気にあぶられた手脚のさきにまで、酒がまわり始めたとなると、彼等の卑猥に飽きた話ぶりは、一転して、胸中の鬱憤うっぷんばらしになってきた。
小次郎は、不死人のそばに、ぴったりと寄せつけられて、立ちも逃げもできないように置かれていたので、ただぽかんと、この光景を見ていたが、彼にとって、実にびッくりさせられたことは、この連中が、時の大臣おとどであろうが、親王、摂家せっけの高貴であろうが、片ッぱしから、穀ごくつぶしの、無能呼ばわりして、まるでそこらの凡下ぼんげ共より劣る馬鹿者視して、罵りやまないことだった。
いや、公卿堂上だけの悪口ならまだしも、はては、天子の暗愚におよび、藤原氏の女じょを閨門にいれて、かれら一門の非望をとげさせた桓武、嵯峨さが、淳和じゅんな、陽成ようぜいなど歴代天皇の御名までを口にして、
「いったい、こんな世の中にした一族めらは、極悪党といっても足りねえが、させた者もまたさせた者で、天子様だから仕方がねえという法はあるまい。むかしむかし、おれたちの祖々おやおやから語り継がれて来た天皇というものは、仁徳天皇様を持ち出すまでもなく、こんなはずの者じゃあなかったぞ」
と、怨嗟えんさをこめていう語気は、あながち酒だけのものではない。
かれらは、祖々からの慣わしで、天子というも、父母というも、自分たちのものという同意義に考えていた。だから、子が親に悪たれをたたく場合もありうるように、そこらの天皇や法皇の御名にたいしてもくそみそに悪口をいって憚はばからないのであった。
だが、小次郎がもっている習慣では、これは、霹靂へきれきにしびれたような驚愕きょうがくだった。かれらの言葉のうらに持つ天皇と庶民との親愛の変形が、そんな言語になって出るのであろう――などという考察のいとまはない。彼の生国たる坂東地方にあっては、天皇のおん名はおろか、国司、郡司の知事級にたいしてすら、到底、おくびにも、いえた言葉ではない。たとえば、都の摂関家や、太政官の名を以もって、地方の庁に官符をもたらす使者などに対してすら、慇懃いんぎん、拝迎はいげい、文字どおり、下文げぶんの沙汰書を、土下座して、受けねばならないほど、絶対的な、卑下と高貴を、明らかにされている。
「なんだろう? この人たちは」
彼は、入京の第一夜に、第一の疑問にぶつかった。
だが、てんで見当もつかないのである。ようやく、落着き得た眼をもって仔細に連中の風俗を見ても、公卿の子弟かとも思えるような、人品服装の若者もいるし、猟師か、牛飼うしかいの親方かと思われる男だの、法師くずれに違いない者だの、野伏のぶせり姿の髯面だの、どこにも種族的な一致はない。
仲間同士で呼びあっている名前にしても、八坂やさかの不死人ふじとを始めとして、禿鷹はげたかだの、毛虫郎けむしろうだの、保許根ほこねだの、穴彦だの、蜘蛛太くもただのというだけで、これにも職業のにおいはない。だが、その放言の中には、折々、凡下ではいえない知的な批判があったりして、殊に、朝臣のくずれらしい八坂の不死人の言には、小次郎も、耳をそばだてた。
矢風
不死人が、一同の雑言ぞうごんを、叱っていうには、
「天子の多くは、愚蒙だというのは、当らない。仁徳帝は、申すも畏かしこい。桓武天皇は、おれたちの世の今、さっそく現われてくれればいいような名天子であった。つまりは、そのときの朝臣輩ちょうしんばらにもよるんだ。藤原全盛ってやつが、そもそも、天下を紊乱びんらんし始めた原因だ。せっかく、行われた大化の革新も、でたらめ制度に堕し、個人が私田しでんや私兵しへいを持つことは禁ずという根本の国政を、てめえたちの栄達を分け取りするために、めちゃくちゃにしてしまやがった」
と、眦まなじりをさいて痛罵し、なお、濁だみ酒をあおっていいつづけた。「さ……。それからの、地方の混乱と、都の腐れ方だ。大臣、関白からして、土地国有を無視し、諸国に私田を蓄ためこんで、私わたくしに租税をしぼり取ってるのだ。地方の郡司や国司など、もちろんいい事にして、まねするさ。寺だって、神社だって、やらなければ損という気になるのは当りめえだ。いや、都から地方へ派遣された役人でも、公卿でも、親王でも、またその一類の地方吏でも、こいつあ、田舎にいて、しこたま、私田を持ち、私兵を飼い、仕たい放題をやって、一生を暮した方が賢明だとなるから、みろ、押領使おうりょうしだの、権守ごんのかみだのなんだの、かんだのと、任命されて、任地へ下って行った役人共は、みんな、中央から呼びをかけても、口実を作って、都へ帰って来ねえのが、大部分だというじゃねえか。――その結果は、自暴やけと不平の仲間や、土地を失い、故郷を追われて、うろつき廻る百姓や、ばかばかしいから、やりたい事をして送れと、ごろつき歩く遊民だの、淫売だの、苛税の網の目をくぐりそこねてつかまる百姓の群だの、そして、おれたち八坂組の仲間のように、悪いと知りつつ、世の中に楯ついて、強盗でも切り盗りでも、太く短く、やって生きろと、悪性あくしょうを肚の本尊に極めこんでしまう人間も、うじゃうじゃ出て来たということになっちまったのだ」
不死人の雄弁は、急に、ぷつんと、口をつぐんだ。
「な、なにか?」と、すぐ怪しんで、浮き腰立てる仲間たちを、彼は笑って、かたわらの小次郎の頭の上へ、自分の大きな掌てのひらを載せて、つかむように、揺りうごかした。
「童。てめえは今、大きな眼をして、おれの顔を見たな。おれたちの仕事を知って、驚いたのだろうが。……いいか、仕込んでやるぞ、てめえにも。あしたから俺の手先になって、その道を、覚えるがいい。大臣おとども関白もあるものか、藤原の一門が、この世を我がもの顔の栄華をやるなら、こっちも、暗闇に、醜原しこわらの一門を作って、奴らに、泡をふかせてやる。金殿玉楼きんでんぎょくろうの栄華が楽しいか、土を巣にして、魔魅跳梁まみちょうりょうの世渡りが楽しいか、おれたちは、楽しみ競べをしてみる気なんだ。そこで、仕事の重宝に、てめえぐらいな童がひとり要り用なんだ。恐くはあるまい。こう見えてもみな、ほんとは、いい小父さんばかりだから、そうジロジロひとの顔を見ることはないよ」
彼がまだ、いい終りもしないうちだった。真向いにいた禿鷹が、ぎょッと、突き上げられたようにひとり起ち上がって、
「変だ。やっぱり……、何か、おかしい?」
呟つぶやくのを、みな見上げて、
「禿鷹。なにが、いぶかしいんだ」
「おれの勘は、迅風耳はやてみみだ。……たしかに、遠くから、官馬の蹄ひづめの音がしてくる」
「よせやい、おい。いやだぜ、おどすなよ、禿鷹」
「いや! もう近い。来たぞ」
「げっ。ほんとか」
「あっ――検非違使けびいしだっ」
一せいに、わっと起ったとたんに、突きのめされて、小次郎は、燃え残りの焚火の上に、尻もちをついた。
「あわてるな。いつもの山の穴へ」と、不死人は、われがちに逃げまどう仲間へ叱咤しったしながら、一方の腕に、小次郎のからだを引ッつるし、[#「引ッつるし、」は底本では「引ッつるし、、」]山門を横に、山寄りの地勢へ向って、駈け出してゆくと、彼すら予測し得なかった物蔭から、一陣の人影が、列をすすめ、ばらばらと、虚空には羽うなりを、地には空走からばしりの音を立てて、無数の矢を、射集いあつめてきた。
「あっ。いけねえ」
と、身をひるがえして、方角を更かえたとき、小次郎の体は、彼の腕から振り捨てられ、大地に平へいつく這ばっていた。
脚に二本、肩のあたりにも一本、矢が立った。小次郎はその後、なにも知らなかった。気がついたときは、猪檻ししおりのような、臭い、狭い、まッ暗な、牢格子の中にいた。
門から門へ
そこは、王朝官衙の八省のひとつ、刑部省ぎょうぶしょうの門内にちがいない。
省内には、贓贖司あがものつかさ、囚獄しゅごく司、五衛府このえふ、京職きょうしき、諸国司などの部局が、各構内にわかれ、各※(二の字点、1-2-22)おのおの、庁舎をかまえて、衣冠の官吏が、それらをつなぐ長い朱塗り青塗りの唐朝風な歩廊を、のんびりと、書類などかかえて、往き来している。
かつては、弾正台だんじょうだいもあったが、今は廃され、代るに、検非違使庁が、設けられ、近頃になっては、刑部省行政のうちで、もっとも活溌な一機関となっていた。
いうまでもなく、ここの管下では、巡察、糺弾、勘問、聴訴、追捕、囚獄、断罪、免囚など、刑務と検察行政のすべてに亘わたっている。――禁門外の京中はもちろん、畿内きない、全国の司法も視み、地方には地方の検非違使を任命してある。
「おいらは、罪人じゃない。何も、悪い事はしていない」
小次郎は、昨夜から、気がつくと同時に、自分の不安に、自分でいい聞かせていた。
「獄舎ひとやだ」ということは、彼にも、ひと目でわかった。彼のほかにも、牢のすみには、臭い動物みたいに、気力なく、ごろごろしている囚人が、幾人かあった。
「童。おめえも、火放つけしたか、物盗りをやったのか」
と、それらの者から訊かれたりした。
小次郎は、時々、ぽろぽろと、涙をこぼした。なにか、無念なのである。童心の潔癖が、心外さに、顫おののくのであった。
「おいらは、桓武天皇から、六代目の御子だ。坂東武士の平たいらの良持という豪族の子だ」
みずからの純潔を奮いたたせるために、彼の胸は、ふだんには意識もしてない血液のことが、沸たぎるばかり、呟かれてくる。
「役人の前へ出たら、そういって、威張ってやらなければならない」
唇をかんで、獄舎に、待ちうけていた。
すると昨夜、自分に“気つけ水”を呑ませてくれた最下級の捕吏が、覗き窓から、眼を見せて、
「おう、元気だな、童。おまえは、直きに出されるよ」と、教えてくれた。
間もなく、衣冠の囚獄吏が、令史れいし、府生ふしょう、獄丁ごくていなどの下役をしたがえて、外にたたずみ、
「出してやれ」
と、顎で命じた。
そして、小次郎を、聴訴ちょうそ門の庭にすえ、どういうわけで、八坂の群盗共の中にいたかを取調べ、理由を聞きとると、むずかしい追及はせず、彼の所持品を、眼のまえに、返してくれた。そして、
「立ち帰って、よろしい」と、いい渡した。
所持品の中には、大叔父、常陸の大掾国香から、藤原忠平にあてた大事な書類がつつんである。彼は、解いて、たしかに、あるのをよろこび、今度は、懐中ふところにそれを持って、白洲しらすを辞した。
すると、獄司は、門まで送って来て、しきりと、小次郎の物腰を見ていたが、
「おいおい、東国の小冠者こかんじゃ。おぬしは、ほんとに、忠平公のお館へ行くのか」
と、訊ねた。
「ええ、参るんです。どっちへ行ったらいいでしょう」
「じゃあ、その書状に見ゆる、大掾国香どのの、由縁ゆかりなのか。ほんとに、そうなのか」
「はい。国香は、私の大叔父です。私は、東国の豪族、平良持の子、相馬の小次郎と申すんです」
こういえば、獄司にも、帝系の御子だということくらいは、いわなくても分るだろうと、小次郎は、ひそかに、晴がましい血を頬にのぼせた。
案のじょう、獄司は、態度をあらためた。そして、初めて都の地をふむのでは、大臣のお館たりとも、方角に迷おう。放免(下級の偵吏ていり、後世の目明めあかし)を一人、道案内につけてやろう――と、親切を示した上で、
「これよ、小次郎冠者。もしな、そのおてがみを、直々に、忠平公へ出す折、何ぞ、途中の事どもを、公のお口からたずねられたら、云々しかじかの理由わけで、刑部省の獄司、犬養いぬかいの善嗣よしつぐに、一夜、たいそう心あたたかな親切によく世話してもろうたと……そこは、お聞えよく、話しておくりゃれ。……のう。頼むぞ。わしの名を、忘れずにな」
と、露骨な、自己宣伝の依頼を、平気な顔でいった。
白粉始事
放免は、気がるな男だった。
「東国ッていうと、ずいぶん、遠いだろうな。よく一人ぼッちで、来たもんだね。ゆうべみたいな目に、何度も、道中で遭あやしなかったかい」
「ううん」と、小次郎は、かぶりを振り――「あんな目に遭ったのは、初めてだよ。鈴鹿山すずかやまにも、海道にも、ずいぶん泥棒はたくさんいるそうだけれど、大人の後にばかりくッついて歩いて来たから」
「賢いな、おまえは。都へ出て、何になるつもりなんだい」
「学問したり、いろいろ、一人前の男の道を、勉強したりして、帰郷かえるんだ」
「とんでもない事だ。いい人間になろうというなら、都から田舎へ、見習いに行った方がほんとだ」
牛輦うしぐるまが、前から来た。悪路に揺れて、輦の簾が、音をたてている。泥濘をよけつつ、それと、すれちがう時、小次郎は、簾のすき間から、チラと見えた麗人の白い容貌かんばせと黒髪に、胸が、どきっとした。そして、薄紅梅うすこうばいに、青摺あおずりの打衣うちぎぬを襲ねた裳もすそからこぼれた得ならぬ薫りが、いつまでも、自分のあとを追ってくるような気もちにとらわれた。
「ねえ。放免さん」
「なんだい。小冠者」
「へんな事、訊くようだけれど、どうして、都の人は、女も……それから時々の男でも、あんなに、色が白いんだろう?」
「はははは。白粉おしろいを、知らないのだろう、おまえは」
「白粉って、何」
「化粧に、顔へ塗つけるものさ。鉛華えんかもあれば、糯もちごめの粉で製こしらえたものもある」
「なアんだ。顔へくッつけてるのか」
「きまっているじゃないか。女が、白粉をつけ始めたのは、今から二百余年もむかしの、持統天皇の頃からだというのに、まだ、東国へは、行っていないのかなあ」
「見たこともないよ。初めは、ほんとに、色が白い人なのかと思った」
「じゃあ、紅べにも知るまい。推古朝すいこちょうの頃、僧の曇徴どんちょうが製こしらえ出した物だと聞いているが、おかしな事には、白粉も、観成かんじょうという僧が、時の天皇に献上したのが始めだということになっている。……女の化粧になくてならない物が、どっちも、坊さんの発明だというから、おもしろいじゃないか」
「うそだい。それは、遣唐使が、支那しなから船で、持って来たんだ」
「ほ。なかなか、おまえも、知ってるな。けれど、輸入して来たのはやっぱり坊主だったにちがいない。どうして、僧侶というものは、あれでなかなか如才のないものだ。大般若経だいはんにゃきょうだの漢籍みたいな物ばかり持って来たのじゃ、色気がなさ過ぎて、仏法弘通ぶっぽうぐつうの方便でないと考えたにちがいないさ」
「放免さん、まだかい。小一条は」
「あ。もう見えている。……あれだよ、あれに見える長い長い築土ついじ、御門、幾つもの大屋根、築山の樹々、そっくり取り囲んだ一郭が、のこらず小一条院のお館さ」
小次郎はもう連れへの返辞もわすれていた。近づくにつれ、彼のひとみは、その宏壮と優雅なる寝殿造りの邸宅の美に打たれて、ただもう驚異と、ある畏おそれに、身が緊しまってくるだけだった。
「あ。……今日はまた、お客人まろうどを招いて、御宴楽の折とみえる。……な、ほれ。あの舞楽の曲が、洩れ聞えてくるだろうが」
門前を、やや離れた所で、二人は、ふと佇たたずんだ。――なるほど、連れの放免のいうとおり、築土ごしの樹々を透して、笙しょう、和琴わごん、振鼓ふりつづみ、笛などの散楽譜さんがくふが、天上の雲間からでも降ってくるように、小次郎の旅垢だらけな耳の穴へも、春風とともに、忍びやかに、流れこんできた。
投銭
百敷もゝしきの大宮人おほみやびとは いとまあれや
さくら挿かざして今日も暮らしつ
自らの生活を、こう詠み誇った人々をきょうも呼び集めて、小一条の対たいノ屋やから泉殿いずみどののあたりには、奏楽がやむと、主の忠平の大きな笑い声やら、客の嬌笑雑語の溢れが、大表の轅門ながえもんから、垣舎かきやのほとりまで、近々と洩れ聞えていた。
「小冠者。おれが先に、ちょっと、取次を頼んでやるから、そこらに、待っていな」
放免は、轅門をはいって、白砂のしきつめてある広前をきょときょと見まわし、もう一重ひとえある右側の平門をのぞきかけると、一隅の雑舎ぞうしゃのうちから、水干すいかん姿の小者が、ぱっと、駈けよって、
「こらっ。いけないっ。――出ろ、出ろ」
と、引きもどした。
放免が、小次郎になり代って、はるばる訪ねて来たわけやら、ゆうべからの仔細を、つまびらかに、述べたてているまに、狼藉人ろうぜきにんとでもまちがえたものか、さらに奥から、家司けいし、侍、雑色ぞうしきたちまで、あふれ出て来て、物々しく放免を取りかこみ、さて、顔見合せたり、訊き直したり、さんざんに議したあげく、やっと放免に、小次郎を、呼び入れさせた。
放免は、出過ぎた親切気を、悔いるように、
「じゃあ、てまえは、これで……」と、辞儀ひとつ残して、匆々そうそうに、立ち去った。
だが、後には依然、小次郎を取囲んで、はなしにのみ聞く、蝦夷の子でも見るように、好奇な眼と、疑惑とを、露骨にあびせながら、なお騒々と、諮はかり合っていた。
そして、結局は、
「御遊宴のさなか。お客人たちもおらるる所へ、ひょんなお取次は、興ざめのお叱りもうけよう。まずまず、童は、そこらに留めて、人目にふれぬようにしておいたがいい」
と、家司(老職)のさしずが下って、小次郎は、そこから更に、外庭を歩かせられ、
「ここで、待っていろ」
と、雑色の指さす所へ入れられた。
そこは、邸隅の輦宿くるまやどとよぶ供待ともまち小屋であった。
たくさんな牛輦が、幾台も曳きこんであり、所々は、牛の糞が、山をなしている。
糞と涎よだれと、牛の尻しッ尾ぽのあいだでは、いろといわれても、いる所がない。晩春なのに、もう銀蠅が、慕って来ている。小次郎は立ちくたびれて、輦宿の横の棟をのぞいてみると、そこには、それぞれの主人に供して来た牛飼やら舎人とねりたちが、十人以上も、屯たむろしていて、なにか、血眼をひとつ莚むしろに寄せあっていた。
博奕ばくちだった。
“投銭がにうち”と俗にいう博奕で、その頃の庶民が熱中してやったものである。胴元の男が、幾枚かの穴あき銭を両の掌に入れ、振り音を聞かせて、ばっと、場に投げる。文字の銭面ぜにめんと、文様の銭面とが、どう出るかという点に賭け合うのであった。
小次郎も、覗きこんでいた。博奕は、坂東地方でも盛んである。けれど、もっと原始的な博技で、それに、こんなにもざらざらと銭ぜにを賭けることはない。賭けるのも、稲だの、毛皮だの、布だのといった物ばかりだ。
ここでも、彼は、眼をくるめかせた。銭がまるで石ころみたいに扱われていることもだが、もっと彼を昂奮させたものは、赤裸な人間の欲心をつよく描いた彼ら同士の顔つきであり、その語気と語気の火を発するような遣り奪りであり、また、殺気立つばかりな闘争の光景だった。
右大臣忠平
大人たちのするのを、傍観しているだけでも、小次郎は充分に、血を遊ばせて、退屈をわすれていた。
――が、やがて、銭の手もとも夕闇にまつわられて灯が欲しくなりかけた頃。
「牛飼の衆。お客人方いずれも、お座立ちと見えまするぞ。輦寄せへ、そろそろ、立ちならび候え」
と、奥の者から触れて来た。
それとばかり、勝った者も、負けた者、一せいに出払って、おのおのの牛輦を曳き出して行った。あわただしい轍わだちの啼なき軋きしみに、まだら牛の斑ふが宵闇をよぎり過ぎたあとは、糞も蠅ももう見えない。どこから紛れてくるのか、遅桜の片々が、晩春の印影を、わずかに描いているだけで、泉殿のあたりであろうか、蛙の声が遠く聞える。
小次郎は暗がりで、何やらむしゃむしゃ頬ばッていた。邸側から供人たちへ出た弁当の余りを拾ったものらしい。あんなに、虫のいい依頼をした刑部省の獄司ですら、食物などは囚人にくれる粥かゆしか与えはしなかった。また、ここでも、いつ供されるとも知れなかったので、大急ぎで、腹を満たした。
だが、心配はない。さっきの家司も雑色も、彼を置き忘れてはいなかった。紙燭の影が揺れて来、ふたたび、以前の平門前の前栽せんざいまで連れて行かれた。
すでに、彼がさきに述べた口上と、大叔父国香からの書状とは、家司から取次がれて、右大臣忠平の許もとに通じられていたことは確実らしい。
決して、客らしい扱いではないが、召使たちから、一部の建物のうちに、まず上がることをゆるされ、草鞋わらじなど解きかけていると、中庭を隔てたあなたの妻戸つまどの蔭で、
「やい、やいっ。家司の臣賀おみがは、どこにいやるぞ。臣賀爺じじ、急いで来うっ」
と、不きげんな気色をこめて、大喚おおわめきに呼びたてている人影があった。
世に、自分の意志の行われぬことを知らぬ藤原一門の長者たる主人の声癖を、家司の臣賀は、遠くでうける老いの耳でも、聞きあやまることはなかった。
「はいっ、はいっ。臣賀めは、御前おんまえでござります。お召は、なんの御意ぎょいにござりましたか」
「ここな、不つつか者よ。よい年をしおって」
「あっ、なんぞ、お心にそいませぬか」
「おどけ者よ、爺は。なんぼ、客のあとかたづけに忙しかろうと、あれ程、かたくいいつけた事、なぜおろそかにいたしよった」
亡兄の藤原時平も、著名な大声で、よく殿上の論争にも、菅原道真という文人肌の政客を、その声できめつけたという話をのこしているが、その弟の忠平も、豊満な肉体の持ち主ではあり、ことし三十八歳という壮年でもあるせいか、兄に負けない喚わめきを時々やるのであった。
「お叱りついでに、まいちど、仰せ下さりませ。爺め、やはり幾ぶん、年老とりましたものか、今日のような忙しさにあいますると、つい、ふと、もの忘れなど仕つかまつりまして」
「東国の餓鬼のことじゃよ。国香の書状を持って来たとかいう童じゃよ。まだ、わからぬか」
「は、はい。その小冠者を、どうせいと、おさしずでござりましたやら」
「ええい、やくたいもない耄碌もうろくをば。……わしがいったのは、供も連れず、たったひとりで、国香が旅へ追いやった童。どうせ、ろくな者であるはずはない。――それによ、何よりの注意は、長い遠国からの道中、どんな穢けがれに触れたやら為体えたいも知れん。いやいや、現に、昨夜は、獄舎に寝いね、きょうは門前まで、不浄者の放免などに、送られて来たと、われ自身、告げよったことではないか。……いかん、いかん。穢えに触れた人間を、館の屋の内の、どこに上げてもよくないぞ。それこそ、大事だ。神禰宜かんねぎをよんで、穢れ払いをすますまで、土居外どいそとの、牛小屋へでも入れておけい。……そういうたのじゃ。……それをばなんぞ、爺、おろそかにも、彼方では、招き上げようとしているではないか」
「や、や。それは、しもうた」
「もう遅いわ。穢れ者を上げた所は、すぐ浄きよめろ。そして、童の体も、さそくに浄め払いして、水垢離みずごりをとらせい」
果ては、肩に顫ふるえを示すほど、忠平は、癇かんをたてた。
この異様な怒りかたは、病的にすら見えたが、臣賀でも他の召使でも、これを、不自然な嚇怒かくどとは、誰も見ない様子なのだ。
狂疾貴族層
なぜであろうか――というに。ひとりここの藤氏とうしの長者ばかりでなく、禁中でも、朝臣一般のあいだでも、“触穢しょくえ”といえば、おぞ毛をふるって、穢れ払いに、幾日でも、門を閉じ、衣冠を廃して、参内さんだいも休やめ、客を謝すという例を、誰もが知っているからである。
強烈な信仰は、半面に、極端なまでの迷信をいつか伴っていた。禁厭まじない、祭祝さいしゅく、祓除はらいよけ、陰陽道、物忌ものいみ、鬼霊きりょう、占筮せんぜいなど、多様な迷妄の慰安をもたなくては、生きていられない上流層の人々だった。わけても、穢の思想は、根ぶかく、神道とも仏教ともからみ合せて、実生活の一面に、深刻な病的心理を蝕むしばませていた。
たとえば、死穢しえに触れたとなると、三十日の忌いみを最上とし、少なくも、七日は、祓除をしなければならない。
産婦にふれた者、家畜の死にふれた者、火を出した家の者、みな、触穢の者と忌まれるのである。
その一人ばかりでなく、周囲の者、家人、時には、出入りの知人までが、同様な目に遭うこと、少なくない。
史書に、実例を索もとめれば、枚挙にいとまがないほど、幾らでも、事件が出てくる。二、三例を拾ってみれば――
=朱雀帝ノ天暦テンリヤク元年。左近衛府ノ少将ノ飼犬ガ、死者ノ骨片ヲ咥ヘテ来タトイフノデ、府ハ、三十日ノ穢トナツテ門ヲ閉ズ。
=同月、府ノ井戸ヲ、ソレト知ラズ、修法所ノ童ガ汲ンデ用ヰタト騒イデ、大内裏中、七日ノ穢ニ服ス。
=光孝帝ノ世代、貞観殿ノ南ニ、少女ノ死髪ヲ見出デ、諸司シヨシ釈典シヤクテンヲシテ、三十日ノ祓ハラヘヲス。
このほか、産児の臍緒えなが落ちていたというので、辻の通行止めがあったり、火災の出た場所の土をふるわせて、火の神を祀まつったり、およそ気病きやまいの厄神やくがみが、上流層の心に、これほど悪戯を振舞いぬいた時代はない。
これは、穢とはいえないが、王朝の華奢に彩られた当時の貴族たちが、常日頃には、物の祟りだの、生霊いきりょうだの死霊だのというものの実存を信じて、ほとんどが、神経質的な性格をおび、中には、狂疾にすら見える者が生じたのは、栄華の独占が、必ずしも、幸福のみではなかった事の一証といっていい。
加うるに、この階級の驕奢淫蕩は、各人の生命を、みな短くしていた。三十歳、四十歳を多く出ぬまに、夭死わかじにする者が多かった。――これをまた、物怪もののけの祟りとし、菅原道真の怨霊がなすところであるという説を、かれらは本気で信じたのである。
延喜の当代、その最も陰鬱な実例は、現在の宮中にあった。時の醍醐帝は、道真怨霊みちざねおんりょう説を、心から信じて、ついに不予になられ、その皇太子、寛明ひろあきら親王なども、生れて以来、三年の間、一日も太陽の光にあわすことなく、夜も昼も、帳内に灯をとぼし、衛士を徹夜交代させて、いたいたしい白い一肉塊のあわれな生命の緒を、ひたすら怖れ守っていたという事実すらあるのだった。
馬たちよ淋しむ勿れ
峻厳しゅんげんな父基経に似あわず、優柔で姑息で、わがままな嬌児にすぎない忠平が、政治家としては、右大臣の顕職を獲、一門の長者としては、父以上、兄以上な生活の見栄を張っても、心のどこかには、たえず弱い迷妄と狂疾がうずいていたことは、察するにも難かたくない。
せっかく今日、客を招いて、晩春の陰鬱を、一掃いっそうしたと思ったのに、遠方の大掾国香などという末端吏まったんりから、おもしろくもない厄介者を添え文ぶみして向けてよこし、舌打ちをもらしたことではあったが、平良持の子というので、そう素気なく追い払いもできなかった。良持は、生前から、何事につけ、藤氏の門に、臣礼を執り、彼の擁する東国の私田の事務でも勤めたがっていた男だからであった。
だが、その遺児のこしごにまで、どうこう考えてやるほどな好意はない。反対に、ふと頭をかすめたのが、日頃から彼の最も嫌忌している穢の心配だった。一日、はしゃぎぬいた疲労の反動も、それに手伝い、いきなり、臣賀爺への、大喚きとなったのである。
臣賀は臣賀で、また、雑色部屋へ来て、どなり立てていた。結果は、いちどそこまで、招き上げられた小次郎の身へ返って来た。小次郎は、横の土居門から、河原へ連れ出され、まる裸にされて、加茂川の水の中へと、突きのめされた。
「――穢を洗うのじゃ、穢を。朝のお陽さまが、東の峯から昇るまで、何度も、沈んでは、祓して、穢を浄めたまえと、諸天にお祈りしておるのだぞ。よいか。昼は、小屋籠りして、夜は夜で、七日の祓をやらねばならん」
臣賀は、きびしくいいつけて、雑色たちと共に、邸内へもどって行った。
小次郎は、さて、なんの事やら、分らなかった。
けれど、これが右大臣家への、奉公初めの一つかと思い、ぽかっと、急流の中から、首だけを出していた。
水はまだ、雪解ゆきげをもつかと思われるほど冷ひやっこい。ぎゅっと、流れの中で、四肢の骨が、肋骨あばらに向って凝結した。――が、ほうっと、大きく肺気を空に吐いたとき、朧おぼろな月を、平安京の夜空のまん中にふと見つけた。
「……あの月も、都に来ている。ああ、おいらも、都にいる」
彼は、たくさんな、馬の顔を、朧雲の上に描いた。故郷の大結ノ牧の馬房に、こん夜も、うまや藁を踏まえ、平和に眠っているであろう馬たちに、心から告げていた。――おいらの友達たちよ、淋しむなかれ。おいらは幸福だ。都人になるために、加茂川の水がいま、おいらの旅の垢あかを洗ってくれている。
供待ち放談
延喜は、二十二年までで、その翌年から、延長えんちょう元年と、改元された。
相馬の小次郎も、はや二十一歳である。彼が、右大臣家に仕えてから、いつか、五年はすぎたわけだ。生意気ざかりの年頃といっていい。
もちろん、元服もし、帯刀もゆるされ、もう一人前の男である。小ざッぱりと結髪して、垢のつかない布垂衣ぬのひたたれなど着ていると、よく、東国あずまのえびすの子と、からかわれていた彼も、近ごろでは、どうやら、大臣邸の小舎人ことねりとして、世間なみの召使には見えるようになっていた。
邸内での、彼の役がらは、車雑色くるまぞうしきとよぶ小者のひとりだった。主人の外出にあたって、牛ぐるまを曳き出し、そのお供について歩き、また、帰ってくると、牛を放ち、車の輪を洗い、轅ながえの金具までピカピカ磨いて、怠りなく備えておく。
きょうも彼は、参内の供について、朱雀門すじゃくもんの輦溜くるまだまりに輦を入れ、主人の忠平が退がるのを、終日ひねもす、待っていた。
ほかの納言、参議など、諸大臣の輦も、轅をならべて、供待ちしている。
ここでは、他家の雑色がよりあつまるので、都のなかの出来事は、一として噂から洩れることはない。
「なにがしの大臣おとどの後家の許へ、ゆうべ、さる朝臣あそんがいつものように忍んで行った。すると近ごろ多い群盗の一類が見つけて、おもしろ半分に、男女が、閨ねやむつみの頃をはかって室を襲い、家人をみな縛りあげた上、財宝はもちろん、男女の衣裳まで悉皆しっかい、車につんで持ち去ってしまった。そのため、忍び男おの朝臣は、着るに着る物もなく、さりとて、裸でわが家へ帰りもならず、雑色の布ひたたれを借りうけて、しかも夜が白んでから、こそこそ帰って行ったが、館には、有名なやきもち妬やきの奥方がおらるるし、その奥方は妊娠中で、ほかにもたくさんな子がおらるるし、あとの騒動も思いやられ、あわれにもまた、おかしいかぎりではあった。――ところが、その朝臣が、きょうの宮中集議にも、参議の衣冠をつけて、しかつめらしゅう参内している。なんと、廟議びょうぎの席が、眠たくて、ものうくて、耐え難くしておわすことであろうよ――」
などと、ひとりが語れば、またひとりも。
「いやいや、色事と群盗のはなしなら、都には、毎日、掃くほどもある。これはごく内密になっているが、内裏のうちにだって、こんな事があった。ことしの五月雨さみだれ頃だった。弘徽殿こきでんの更衣こういづきの、さる女官が、藤壺のひとつのうす暗い小部屋で、ひとりの官人と、秘ひそか事をたのしんでいた。すると、折わるく、その晩、刑部省の下役のものが、後涼殿こうりょうでんに何か見まわる用があって、足のついでに、そこを覗いた。女は、おどろいて、衣きぬうち被かずいてかくれたが、男は妻戸を蹴って逃げ出そうとしたから、役人は声をあげて、人々をよび求め、とうとう、男をつかまえたが……これが何と、後涼殿の空き部屋から、さる朝臣の衣裳を盗みだして、それを着こんでまんまと官人になりすましていた盗賊だったというのだからあきれるではないか。もちろん、女官は、薄くらがりで、それが、野盗とは知らずに肌をゆるしたのだろうが、かわいそうに、更衣のお耳にもきこえてしまったので、病気といって、宿へいとまをとって、退がってしまったそうだが……」
雑談がわくと、限きりもなく、そうした猥みだらと、物騒なはなしは、次から次へ、いくつも、語り出されるのである。
京師を横行する群盗は、いまや、市中をあらすだけでは物足らなくなり、折々、宮門をうかがって、後宮の女御更衣たちをも、おびやかすばかりでなく、あるときなど、真昼、陛下がおあるきになる弘徽殿の橋廊下のしたに潜もぐっていたのを、陛下自身お見つけになって、騒ぎとなったことさえある。
――そういう、兇悪なものの出没を聞くたびに、小次郎は、かつて十六歳の春、この都の土を初めて踏んだ日の宵に、東山のふもとで見た焚火の群をいつも記憶から呼びもどされた。そしてその仲間たちの顔や、また、八坂の不死人だの、禿鷹だの、穴彦だのと呼び交わしていた彼らの名まえまで思い出された。  
素朴な読書子
いかめしい、八省十二門のうちには、兵部省もあり、刑部省もあり、また市中には、検非違使もいるのに、どうしてそんな群盗どもに横行されているのか、小次郎には、ふしぎでならない。
けれど、供待ち仲間の、諸家の奴僕や舎人たちの放談が教えるところによると、
「こうなるのは、あたりまえだ……」と、みないって、憚らなかった。
「御政治がわるいのさ。……いや、悪いにも、いいにも、今は、御政治なんかないんだから、群盗たちには、こんなありがたい御世みよはない」
話題が、この理由と、原因ということになると、小次郎は、いつも、肩身がせまくなった。なぜならば、彼の仕えている主人――右大臣藤原忠平が、だれよりも、くそみそに、悪口の対象になるからであった。
忠平は、氏うじの長者として、いまや藤氏とうしの一門を、思うままにうごかし得る身分であるのみでなく、朝廷の中でも、かれの一びん一笑は、断然、重きをなしている。
それは、さきに、若くて亡くなった、左大臣時平の位置と権勢とを――弟の彼がそっくり受け継いでいるからであるが――兄の時平とは、その政治的な才腕も、見識も、抱負も、人間そのものも、まるで段ちがいに、格落ちしているのが、いまの右大臣家であるというのだ。
すくなくも、前さきの左大臣時平は、菅原道真を、政敵として、辛辣しんらつな政略や、自閥本位な謀略もずいぶんやったが、また、地方の農地改革だの、民心の一新だの、財政と文化の面にかけて、かなり理想ももっていた。それが、惜しくも、三十九という若さで、病死してしまったため――時平の才幹は、まだ、政治のうえに実現はされなかったが――だれも、人物は、認めていた。
ところが、弟の忠平と来ては、比べるにも、おはなしにならない。
“宮中の狡児こうじ”
という評が、それを尽している。
優柔で姑息。わがままで、華奢かしゃ放逸ほういつ。優れているのは、管絃と画だけだ、とみないうのである。
画は、自慢で、かつて扇に、時鳥ほととぎすを画いたのを、長明ながあきら親王にさしあげた。親王が、なにげなく、扇を開かれると、要かなめが、キキと鳴ったので、
(あ。この時鳥が啼いた――)
と、戯れに仰っしゃった。それをまた、おベッかな公卿たちが、そばから、
(さすがは、お筆の妙、名画のしるし、時鳥は画いても、啼く声までを画きあらわした者は、古今、忠平の君おひとりであろう)
などと賞めたてた。
それを忠平は、自分で、自慢ばなしにしたり、歌の草稿などにも、自ら“時鳥の大臣”などと署名している。
また甥おいの敦忠あつただは、管絃の名手なので、これをあいてに、和琴、笛などに憂き身をやつし、自らの着る物は、邸内に織女おりめをおいて、意匠、染色、世間にないものを製して、これを、誇りとするような風だった。
ちかごろ、宮廷のうちも、際だって、華美になり、むかしは、天皇のほかには着なかったような物を、一介いっかいの史生ししょうや蔵人も着かざったり、采女うねめや女房たちが、女御更衣にも負けずに艶えんを競ったり、従って、風紀もみだれ、なおかつ、廟議や政務にいたっては、てんで、怠り放題な有様である。
こういう大官や宮廷のもとに、ひとり刑部省や兵部省の官人たちだけが、精勤とまごころを以て、服務を看ているはずもない。――かれらは彼らの領野において、やはり同じ型の逸楽と役徳をさがして時世に同調している。群盗にとってありがたい御世たる所以のひとつである。
こんなふうに、ここ輦溜りの供待ちで、小次郎が、毎日、見ること聞くことは、なに一つとして、ろくな事ではない。
「下司げすは、口さがないものというが、まったく、うるさい京雀きょうすずめだ。この人たちは、人間の醜みにくいところと、世の中の汚いところばかりに興味をもっている。そんな裏覗きばかりしないで、もっと、人間と此世このよの、いい所、美しい所も、少しは、見たらどうだろう」
小次郎は、時には、ひとの放談に、われを忘れて、おもしろがりもしたが、また、折には、腹が立って、なにか、反抗して見たくもなった。
なぜ、というまでもなく。
彼は、今でも、この平安の都を、美しい花の都として、抱いていた。初めて、不毛の坂東曠野から上洛のぼって来て――京都に入る第一歩を、あの高い所において、加茂川や、大内裏や、柳桜の、折ふし春の都を、一望して、
(ああ、こんな天国が、人間のすむ地上にあったのか? ……)
と、恍惚として、憧憬あこがれの満足に涙をたらした――あの日の印象を、いまもはっきり持っている。その、幻影でない、現実を、彼はいつまでも信じたい。
そして、自分も、その美しい都人のなかの一人となり得たことを誇っていた。汚けがしたくない。ゆめ、傷つけたくないのである。
さらには、また、
故郷の人々からもいわれた通り、ここに遊学した効かいを見せて、都の文化に習まなび、よい人物になって、ひとかどの男振りを、いつの日かには、故郷下総の豊田郷にかざって帰りたい。――
「だが、勉強のほうは、まるでだめだ。藤原氏の子だと、勧学院かんがくいんにも入学できるが、東国生れの小舎人では……」
彼の素朴は、まだ上京の初志を、わすれてはいなかった。だから、夜間、ひそかに夜学したり、昼も、この輦溜りでつぶす多くの時間を、なるべく、読書することにしていた。
――で、今も、轅と轅のあいだに、ひとり潜んで、近ごろの学者といわれる三善清行みよしきよつらの家人から借りた何かの書物を、ふところから取出して、読み耽っていた。
すると、たれやらその側へ来て、だまって、小次郎の手の書物を、共に、見おろしている者があった。
直衣姿のうしすがたの、身分のひくい青侍あおざむらいで、年ばえも、小次郎にくらべて、幾つもちがわない――三ツ四ツ上か――ぐらいな青年である。
ふたりの従兄
「……? やあ」
ふと、気がついて、小次郎は、書物から眼をはなした。
そして、恥かしそうに、あわてて、書ほんをふところにしまいこみ、
「――まだ、陽が高いようですね。諸卿のお退がりには、だいぶ、間がありましょうな」
と、てれかくしに、午後の陽を、ふり仰いだ。
供人宿の廂ひさしの蔭では、例によって、なにか、猥雑なこえが喧かしましい。外の、青桐の花の下で、居眠っているのもあるし、ものうい初蝉の声をよそに、ひそかに、投銭(博奕)をやっている物蔭の一群もある。
「よく勉学されるな。そこもとは」
さきも、初めて、にやりと笑った。小次郎は、顔をあからめた。事実、自分が読んでいたのは、中華の書物ではあるが、ごく初学者の読本にすぎない孔子の一著書であったからだ。
「……いえ。勉学なんて。……それほどなものじゃありません」
「でも、心がけは、嘉よみすべしだよ。――ところで、お身は、わしを、知っているか?」
「さあ。どこかで、お会いしたことが、あるでしょうか?」
「こっちから訊きいているんだよ」
「失礼ですが……覚えがございません」
「そうだろうな。ハハハハ」
「どなた様でございますか。おさしつかえなくば、お聞かせ下さい」
「そこもとの生国は、東国であろうが」
「そうです。あなたは」
「わかるだろ。ことばでも。……わしも東国さ。しかも、お身の生れた下総の豊田郷から程遠くない常陸の笠間だ」
「や。……」なつかしさに、小次郎は、いきなり立ち上がった。
「……じゃあ、常陸の大掾国香どのを、御存知でしょう」
「知らないで、どうするものか。わしは、国香のせがれだもの」
「ああ。じゃあ、この私とあなたとは、従兄弟いとこにあたるわけです。思い出しました。大叔父国香どののお息子――常平太貞盛じょうへいたさだもりどのも、早くからこの都へ、遊学に来ていると聞きました。あなたは、その貞盛どのですか」
「ちがう。貞盛は、わしの長兄。わしは弟の繁盛しげもりというものだよ」
「では。御兄弟おふたりで、都にいらっしゃるのですか。これは、羨ましいことです。いつから、この京都においでなので」
「お身が、豊田郷から、京都へ出た、翌々年のことさ。もっとも、兄の方は、それよりずッと前に、来ているが……」
「で、今は、どちらに、お住居すまいです」
「兄の貞盛は、もうとくに、勧学院を卒業して、御所の蔵人所くろうどどころに、勤めている。……が、わしは、つい先頃、三善清行博士の門を出て、今では、右大臣家の御一子、九条師輔もろすけさまのお館に、書生として、仕えておるのさ。……きょう初めて、宮門のお供について来たのだから、お身と会うのも、初めてなわけだ」
「御舎兄の貞盛どのは、私が、小一条の右大臣家に身をよせていることを、御存知のようですか」
「……うム。知っているらしいが、くわしい事は、何も聞かなかった。会って、話したことがあるかい」
「いえ。一ぺんも……」
小次郎は、ふと淋しい顔を見せた。実は、たった一度、応天門の焼址やけあとの附近で、人から、あれが常平太貞盛である、おまえとは同郷らしい――と教えられたことがあり、近づいて、せめて、挨拶でもしようと思ったところが、何か、先が勘ちがいでもしたのか、ぷいと、横をむいて、貞盛は、背を見せたまま行ってしまった……そういう記憶が、ふと、頭をかすめたのである。
だが。――それには触れるいとまもなく、彼は、繁盛から今、ことばをかけられたのがうれしかった。従兄弟といえば、血は他人よりも濃い、いや、他人にしても、異郷千里のこの京都で、初めて、同じ故郷の、同じ坂東平野の土に育った人間に会ったのである。なつかしさ、うれしさ、小次郎は、淡い郷愁と同時に、大きな力強さを感じた。
彼のこの気もちは、決して、誇大な感傷ではない。その頃――人皇第六十代、醍醐帝の皇紀一五九〇年という時代の日本のうちでは、畿内きないのそとはもう“外国”といったものである。東国といい坂東といえば、まるで未開人種の国としか扱っていなかった。
たとえば、陽成帝ようぜいていの元慶げんけいの五年五月には、在原行平ありわらのゆきひらが、奨学院しょうがくいんという学校を新たに興おこしたが、そのときに、物部斯波もののべのしなみと連永野むらじのながのという二名の史生が、折から上洛中の陸奥みちのくの民の代表者をつれて来て、講堂で、東北語の対訳をして、聴かせたりしている――そして、この二人は、東北語の通訳官としても、朝廷に功があったというので、同年、各※(二の字点、1-2-22)、従五位を授けられたほどである。
この異郷の空で、小次郎が、たまたま、同じ坂東者に、出会ったのであるから、繁盛を見る彼の眼が、従兄以上な、ある、同血種の親しみとなつかしさを感じたのは、決してむりなことではない。
夢大きく
「小次郎、お身も、勉強したいのか」
「したい」と、小次郎は、率直に、繁盛に答えた。
「奨学院へも、勧学院へも、入らないで、雑色なんかして働いていてはだめだ。体が疲れて、勉学など、思いもよらぬ」
「でも、奨学院へは、在原氏。勧学院へは、藤原氏の子弟でないと、入れないのでしょう」
「校則は、そうなっているが、右大臣家から、たった一言、お声をかけてもらえば、なんでもないさ。博士たちも、学者はみな、貧乏だから、袖の下も欲しがっておるし、方法はいくらもある」
「そうでしょうか……?」
「また、正面からいっても、そうじゃないか。おたがいは、坂東の地方豪族の子に生れ、公卿でも、藤原一族でもないが、系図からいえば、正しく、桓武天皇から六代めの孫たちだ――帝系じゃないか、われわれも」
「そうだ。なるほど……。けれど、右大臣家に、身をおいても、まだ一度も、忠平公からお声をかけられたことすらなし――どうして頼んだらいいだろう」
「わしのいる御子息の九条師輔さまのお館へは、折々、わしの兄が、管絃のおあいてに召されるから、そのとき、兄に話しておいてやろう。兄から、師輔さまへ、師輔さまから、父の君の忠平公へと、頼むようにすれば、きっと、お耳に達するだろう」
「おねがいします。まだ、お会いいたしませぬが、兄上の貞盛どのにも、どうかよろしく、仰っしゃってください」
「よし、よし。心配するな……」と、繁盛は、のみ込んで、別れかけたが、またふと、足をもどして――
「おい、小次郎。近いうちに、もひとり、坂東者が、きっと、右大臣家へ顔を出すぜ」
「へえ。誰ですか」
「九条家の者から聞いたのだが――下野国しもつけのくに安蘇郡あそごおり田沼の土豪で、俵藤太秀郷たわらのとうだひでさとというのが、なんでも、下野ノ牧の馬やら、たくさんな土産物をもって、お礼に上ってくるとかいうはなしだ……。九条家へも、右大臣家へも」
「下野の秀郷の名は、私の郷のほうへも聞えています。けれど、その秀郷は、私がまだ豊田郷にいた頃に、何か、大きな争いを起して、流罪るざいになったとかいう評判でしたが」
「それが、一昨年おととし、赦免になって、下野に帰っていたのだ。一年は、謹慎していたが、もう、よかろうというので、都上みやこのぼりさ。……もちろん、そのお礼のためにだよ」
その日は、それで別れた。
しかし、繁盛と会い得たことから、彼の希望は、一そう大きく膨ふくらんでいた。ほかの雑人たちと一つに、舎人の屋おくの板じきに、素むしろを敷き、蚊に喰われ、奴僕生活の貧しい中にあっても、小次郎の夢には、未来が自由に描かれた。学問もし、人間もつくり、はやく故郷に帰って、弟共をも安心させたい。同族の輩にも、よろこばせたい。そして、父が遺してくれた莫大な田産でんさんと家門とを経営する身にならなければならない。
ただ、わずかに、不平だったのは、
(従兄たちは、ああして学業を終え、みな、低くても、位置を得ているのに、どうして自分のみ、いつまで、こんな牛部屋の隣に住み、学院へも入れられずに、きょうまで放ッておかれたのか?)
という不審だけであった。
しかし、彼は元来、もの事を、善意にうけとる素朴な本質と、人を信ずる純一な性情がつよい。で、こういう疑問がわいても、彼が彼にする答えは、
(きっと、大叔父の国香が、おれに持たしてくれた添え状に、そんな事まで、細かに書くのは忘れていたからにちがいない。――そして、忠平公も、あんな暢気のんきなお方だから、おれが仕えていることも、迂うッかりしておいでになるのかもわからない。……だが、こんどは、従兄の貞盛から、話してくれれば、ああそうかと、お気がつかれる事だろう)
ひたすら、彼は、その吉報を、待ちかねた。――繁盛から、何かいって来てくれる。あるいは、突然、忠平公から、
(――小次郎。庭さきへ来い)
とでも、家司を通じて、おことばが、かかるかと。
待てば、長い。なかなか、なんの吉事もない。
八月。――秋の初めである。
ある日、小一条のやかたに、一群の訪客があった。
訪客たちは、遠国からの人々らしく、同日、市坊しぼうの旅館に、旅装をといて、あらかじめ、使いをもって、右大臣家の内意をうかがい、衣装、髪かたち、供人などが担にのうて来た土産の品々まで、美しく飾りたてて、いとものものしく門へ佇み並んだものだった。
「これは、東国下野の掾、俵藤太秀郷にござりまする。越し方、かずかずの御鴻恩にも、たえて、親しゅうお礼も申しあげず、御不沙汰をかさねておりました故、いささか、国土産くにつとなと、おん目にかけばやと、まかり出てござる」
ひとり、秀郷だけ、内へはいって、ほかの郎党は、平門にのこし、こう、大臣家の上達部かんだちめへ、申し入れた。 
流人秀郷
秀郷も、小次郎の亡き父、平良持とひとしく、坂東地方の北辺に、幾代かをかさねている土豪の族長であった。
かれの居館たちが、下野の田沼に近い田原にあるところから田原ノ藤太ともいわれ、俵藤太とも書かれている。
かれは生え抜きの坂東土豪だが、母系が藤原氏の縁をひいているところから、藤原姓も名乗っていた。それもあって、官職を得、早くから京都へも出て、大番も勤めたり、また近年、下野ノ掾を任ぜられ、その系図、縁故、京都との折衝などにおいて、いよいよ地方的な勢力を加えていた。
ところが。――去る延喜十六年の事である。秀郷の腹心の配下が、国司にタテを衝いて、いたく辱められた。法規と腕力の抗争となり、果ては、血を見るような私闘となった。同族のうけた辱めには、理非を超えて結束することの強いのが、彼等の特質であり、また、族長をいただく者の自然な生態でもあった。
秀郷は、まだ、四十前の、血気旺盛である。いかでか看過みすごし得んというところだ。彼は、家人郎党を糾合きゅうごうして、国司の庁を襲撃した。そして獄をひらいて、同族の囚とらわれている者を奪い返し、凱歌をあげて、わが館へひきあげた。その際、幾人かの司庁の役人を殺傷し、また、火を放って、官倉を焼いたり、騎虎のいきおいとはいえ、相当な乱暴を働いたのである。
これは、直ちに、中央に早打ちされ、朝廷、摂関せっかん家でも、由々ゆゆしき事とし、問罪の軍を、さし向けられようとした。秀郷一族も、それにこたえて、戦備をととのえ、事重大になるかと見えたが、多少、都にいて、中央の地に呼吸し、また、藤原氏のたれかに、縁のつながりもある彼としては、無謀は愚と、すぐ覚さとった。かれは元来、理性にとみ、部下の意地にのって、伝来の財、田地、官職――まちがえば生命までを賭かけるような迂愚うぐではなかった。それまでの、処世にも抜けめなく、日ごろの行動にも、計算をもつ男で、こんどの事件をひき起した如き例は、かつてない事だし、彼としては、実に、族長のつらさといおうか、若気のいたすところといおうか、大いに悔いていたのである。
(甘んじて、罪に服し、償つぐないを、後の計とすべきである)
彼がすすんで、服罪したので、一族もみな、兇器を捨て、太政官下知だいじょうかんげじに依って問罪の使節として下向して来た将軍の手につながれ、同年八月十二日甲午きのえうま、同族の兼有かねあり、高郷たかさと、興貞おきさだ等――すべて十八人、重罪により配流はいるといい渡され、伊豆の南端へ、流されたのであった。
そして、配所の罪人と月日をすごすこと、およそ三年。
そのあいだには、彼の妻の縁をたよって、都の大官たちの間に、あらゆる赦免運動が行われていたことはいうまでもない。
三年にみたず、赦ゆるされたのは、まさに、その効といってよい。しかも、帰国して謹慎後、一年の余で、さきの官職にも復し得たのは、なみならない蔭の声と黄金の力でもあった。
そこで、秀郷は、将来のため、また、その折にあずかって庇護をうけた右大臣忠平へ、かさねて、莫大な音物いんもつをたずさえて、はるばる上洛したわけであった。――地方土豪とはいえ、こういう訪客をよろこばぬ大臣家ではない。忠平が、彼を迎うるにも、ほとんど、都の諸卿とかわらない程だった。
小一条のひろやかな庭園には、無数のささ流れを、自然の小川のようにひき、おちこちの泉石のほとりには、燈籠とうろうが置かれ、初夏の涼夜は、遠来の客のため、あらゆる風情と、美酒佳肴をつくしていた。そして、主の趣味とする管絃楽も興を添え、土豪秀郷の田舎奢いなかおごりとは、雲泥の差があるところを見せもした。
飼いごろしに
「小舎人、小舎人。……おん内庭の御門をひらき、釣殿つりどののおん前へ、遠国の客人が、お館へ献上の馬を、曳いて見せいとの仰せであるぞ。――その、用意な急ぎ候え」
右大臣家の老家司、巨賀おみがは、よく忠平に叱られつけているので、下の者へ、命を通じること、いつも、このように、くどくどしい。
かれの語調をまねて、雑色部屋の者も、
「心得て候う」
と、笑いながら、腰をあげ、なお臣賀老人が、しつこくいうのに、再び答えて、
「御献上の下野鹿毛。ただいま、釣殿のおん前へ、曳ひいて参ろうずるにて候。しばらく、おん待ち候え」
と、どっと笑った。
臣賀は、さらに、他の小者に、松かがりを、庭に焚かせて、露芝の遠くに、ひざまずいていた。
「小次郎、口輪をもってくれい。……小次郎、口輪を」
雑色たちは、庭門のそばで、騒あがいていた。駻気かんきのつよい馬とみえ、ちょっと、手におえないらしいのである。
日頃から、召使たちの間でも、馬にかけては相馬の小次郎――と、これだけは、通り者になっていた。実際、かれの手にかかって、おとなしくならない馬はないからである。
小次郎は、性来、馬が好きだ。馬を見ると、肉親の者を見るような気がした。あの、故郷のひろい天地を、馬のにおいに感じる。また、大結ノ牧の馬房で、馬と一しょに、寝藁の中で寝た夜もおもい、馬の腹に枕して、泣き泣き眠った悲しい日のおもい出も奏かなでられてくる。
「おいっ。心得た。――離してよい」
小次郎は、同僚から、口輪をうけとって、しっかり、つかんだ。
そして馬の駻気を、なだめながら、しずしずと、貴人のまえに臨む歩調をとらせた。
客の秀郷と、主の忠平は、廊の間へ出て、立っていた。
「……ほ。この馬か。なるほど、見事よな」
忠平は、酔眼をほそめて、しきりに賞めた。この大臣は、輦の飾りには、ひどく凝っているが、乗馬には、まるで趣味はない。しかし、こう褒めるのは、馬は、貨幣だからである。殊に、名馬ともなれば、それは驚くべき高価だということは、よく知っているからだった。
秀郷は、贈り物が、気に入ったと見て、さらに、自分で庭へ降りてきた。そして、この馬が、いかに名馬であるかという専門的知識をかたむけて、庭上から説明した。
そのことばつきは、どう丁寧に述べても、いわゆる坂東なまりの粗野な語である。それが、耳なつかしく、心をひかれて、小次郎は馬をわすれて、秀郷の顔ばかり見ていた。
年の頃は、三十八、九か。皮膚の色さえ、小次郎には、故郷のにおいが感ぜられる赭土色あかつちいろの持主だった。眉は、粗で、眼はきれ長であり、面長な顎あぎとに近いあたりに、黒子ほくろがある。この黒子に、毛が生えていたためか、小次郎の眼には、いつまで忘れない記憶になった。
「これ……小舎人。なんでそちは、わしの顔ばかり見ているか」
秀郷は、彼のぶしつけな視線に、不快をおぼえたのか、やがて、馬の説明を終ると、こう叱った。
「よも、白痴うつけではあるまいに。ジロジロと、不気味な奴だ」
小次郎は、それが、忠平の耳へもはいったと思ったので、はっと、身をすくめ、われにもあらず、地へ、ぬかずいてしまった。
「おお、どうされたの客人……」と、果たして、忠平は、聞き咎めて――「その、小舎人を、御存知か」
「いや、見も知りませぬが……」
「なにか、粗相いたしたか。その召使は、お汝ことの国もとに近い、下総の良持の子じゃがの」
「良持? ……と、仰っしゃると、下総の豊田の郷にいた平良持がことでございますか」
「そうじゃよ。知らんかの。常陸の国香から添え手紙あって、生来、痴鈍ちどんな童、故あって、郷里にもうとまれ、とかく、肉親はらからたちとも、折合いのむずかしい者故、長く、当家の下僕のうちになと、飼いごろしに、召使うてくれいとあったので――そのまま館においておる」
「これは、亡き良持の、何番目の伜にございますか」
「さあて。三男やら、四男やら、そのほどは弁わきまえぬが、良持の子とは、国香の状にもあった。多分、外そとの妾おんなの子でもあろうか。ともあれ、鈍な子と、国香の添え状にも、ことわりのあった者じゃ。何か、粗相をしたなら、ゆるしてやれい」
小次郎は、地にぬかずいている耳へ、そのまぢかな声が、何か、ただがんがんと、地うなりのように聞える心地で、満足には、聞きとれなかった。
忠平のことばの途中から、くわっと、血が逆上のぼっていたためである。熱い、充血した面とは反対に、体はさむく、芝の夜露に、身も耐えないほど、がくがくと、ふるえに襲われていた。  
老書家
常平太貞盛は、もう誰の眼にも、坂東者とは、見えなかった。父の国香に似て、背もすぐれ、面貌おもざしも上品だし、都の知性も、身について、公卿真似くげまねの、優雅をつねに忘れない。
身だしなみもいい。執務もまじめである。有為な青年だ――と、たれにも、感心されている。
勤めている蔵人寮くろうどのりょうに、余暇があると、かれは、小野道風おののみちかぜの家へ、書道を習いに通っていた。
道風は、紀貫之きのつらゆきなどとならんで、当代随一の名筆家といわれて、その道においては、名声ある人だったが、家へたずねてみて驚いたことには、その屋敷のひどい貧乏さであった。――が、考えてみると、かれの官における身分は、少内記しょうないきにすぎないのである。史生や書記生に、毛が生えただけのものである。
それでいて、年はもう六十をこえ、子が多く、孫もたくさんいる。書斎の板縁は腐っているし、蔀しとみや妻戸もガタガタなのだ。そして、邸内の草茫々たる一隅には、幼児おさなごのおむつが干してあったり、幼子が、食物をねだって泣きぬいている声までが――やしきは広いが――何となくつつ抜けに、風も一しょに通っている。
だが、道風は、書家である。筆硯のそばに、いつも独自の天地を楽しんでいるふうだ。しかし、この老書家は、行儀がわるく、夏など、冠だけはかぶっているが、羅うすものの直衣のうしの袖などたくしあげて、話に興ずると、すぐ立て膝になり、毛ぶかい脛すねや腕をムキ出しに談じるのである。
はなし好きで、文学のことになると、すぐ熱しるが、より以上、夢中になるのは、時憤じふんであった。時局や政治について、どこから聞くのか、なかなか事情通である。そして、結論は、いつも、「閥族政治は、不可いかん」――である。それから、また、
「君側を、清新にしなければだめだ。もう小手先の、小政策では、どうにもならない。藤原氏が政権を離さないうちは、それも見込みはない。……が、いまに見て居給え。こんなことを、やっているうちに、何が、起るかしれんよ。天を畏おそれざるも甚だしい。民は、ウジ虫じゃない、人間だからね。この人間が、地の底に、怨みをふくむこと久しいと、やがて、地熱になり、地殻が、揺れ出すよ。地震なえだな、大地震がやってくる。――道真の死を、怨霊とふるえ上がったくせに、まだ、性コリもなく、政権にしがみついている。こんどは、何が襲やってくるか分らん。わしには分るな。それがどんな怨霊かは分らないが、襲やッてくることだけはたしかだよ」
というふうに、時もわすれ、舌禍ぜっかの難も知らぬげに、残暑の蠅を、蠅叩きで、叩きながら、藤原氏の華奢我欲をののしり出すのである。
こうなると、いつ果つべしとも見えない気しきなので、きょうも、そこを訪ねていた常平太貞盛は、
「先生。……実は、ちょっと今日は、さるお方の許へ、寄り道しますので……」
と、逃げ腰をうかせた。――すると、道風は、
「アアそう……」とかろく舌鋒をおさめて、自分も、乾いた硯の蓋ふたをしながら、
「寄り道? ……どこのお館。歌の会でもあるかの」と、たずねた。
貞盛が、いつも愛顧をうけている右大臣家の御子息、九条師輔さまの所へ――と答えると、急に、それで思い出したように、道風は、立て膝を上げて、かたわらの書棚から、一帖の書の手本を取り、無造作に、彼に托した。
「長いこと、お頼まれしていたのじゃが、気がすすまんのでね……放っといたが、ついでがあったので、書いといたよ。これを、師輔君に、さしあげてくれい。……書いてあげたところで、どうせ、ろくな手習いもしまいがね」
「かしこまりました。では……たしかに、おあずかりして」
と、貞盛は、匆々に、そこのあばら屋同然な門を辞した。
冷たい若人
その夕べ、師輔に会い、書の手本を、渡した。そして、いつものごとく、和琴を合調あわせ、灯を見てから、帰ろうとすると、ここに仕えている弟の繁盛が、
「兄上。ちょっと、お顔を……」と、自分の小部屋へまねいて、こういった。
「相馬の小次郎が、都へ来て、右大臣家に仕えていますが、まだ、御存知ありませんか」
「……小次郎か」と、ちょっと、いやな顔をして――「おまえは、会ったのか」
「え。いつぞや、宮門の御輦溜りで、会いました」
「あまり親しくせんほうがいいな」
「なぜですか」
「常陸の父上から、そういって来ている。わしも、一度おまえに、注意しようと思っていたのだが……」
「はて。でも、その父上が、右大臣家へ、添え状を書いて、特に修学させてくれと、御依頼申したのではないのですか」
「修学なんて、あの男に、滑稽な望みだよ。田舎にいたときから、粗野で暴れ※[#小書き片仮名ン、83-14]ぼで、人にも、嫌われていた小次郎だ。良持どのの亡いあとは、父上が、あれの大叔父として、あとあと、家のつぶれぬよう、一族や召使の将来も見てあげなければならん立場にある……。そういう点から、小次郎の性格は、おもしろくないと思っておられるらしいな」
「じゃあ、小次郎に、豊田郷の跡目は継がせないおつもりなのでしょうか。しかし、そうはいっても、小次郎は、まぎれもない良持どのの長男だし、私の見るところでは、そう悪くいうほど欠陥のある性格とも見えませんが」
「繁盛、繁盛……」と、貞盛は、兄として、たしなめるような眼で――「めったな臆測を、みだりに、口へ出すものじゃない。何事も、父上のお旨むねによって、わしはいっているのだ」
「他人ひとには、そんなこと、申しはしません」
「おくびにも……。よいか」
貞盛は、すぐ立った。
いつぞや、小次郎と約束したことなど、何も、いい出さないうちに――である。でも、繁盛は、小次郎への返辞もしなければならないと思い、兄を送って、邸外まで歩いた。そして、それとなく、小次郎の希望をいってみると、貞盛は、ニベもなく反対した。
「そんなこと、師輔様へも、右大臣家へも、お頼みできるすじのものじゃない。よせよ、よけいな、おせッかいは」
それから、こうもいった。
「わしだって、いつか、応天門の附近で、あれに会っているよ。その時、小次郎が、物欲しそうに、何かいいかけて来そうにしたから、あわてて、身をそらした程なんだ。右大臣家でも、雑色の中へ入れて、小舎人ぐらいにしかお用いになっていないじゃないか。それを見ても、わかることだ。あんな者に、親類顔されたり、妙に、親しくなって来られたら、われらまで、同じように、周囲から見られてしまう。それは、出世の障さわりにこそなれ、なんの益にも足らないということは、おまえにだって、分るだろ」
繁盛は、兄のうしろ姿を、夜霧のなかに見送って――なにか、兄弟ながら、冷たい人だなあと思った。
しかし、彼には、兄の意にそむいてまで、小次郎のために、単独でうごく勇気もない。
ただ、それからは、努めて、小次郎に会わないことのみ、心がけていた。
自分の馬鹿
小次郎の「都への恋」は、ようやく懐疑にかわってきた。
都を知らないがための都への恋は、おなじ夢の子が、みな、いちどはひとしく味わう滅失の苦杯ではあった。小次郎とても、おおむね、多くの世の夢の子たちと、おなじ轍をふんでいたわけである。だが彼自身にとれば、独り自分だけに限っている薄命みたいにうけとれた。
「右大臣家は、おれを、一生涯でも、輦宿の小舎人のまま、飼いごろしにしておくつもりだろうか?」
若い前途を、いたく脅かしたこの不安不平は、以来、小次郎の胸に、癒いえがたい深傷ふかでとなった。
東国の客、秀郷が、右大臣家を訪れたさい、主の忠平が秀郷にもらしていたことばに依って、彼は、自分の運命の前途が――いや、前途も何もない、これッきりなものだという運命を――初めて、身に知ったのであった。
「大叔父の国香も、ほかの叔父めらも、ていよく、おれを故郷から追ったのだ。……右大臣家への、頼み状は、おれを都へ捨て子する、身売り証文もおなじだったのだ」
今にして、それを知ったものの、東国の遠さ、現在の境遇。――うらみは、独りの中で悶々と、独りを燃やすだけに過ぎない。
――故郷の小さい弟どもは、どうしているか。牧の馬は、どうなったろう?
郷愁も、また、不安を手つだう。
殊に、大叔父の国香の、肚ぐろい遠謀が、あきらかに、読めてきた今では、都にとどまって、空むなしい希望にすがるよりは、いッそ、東国へ帰ろうか――とは、何度も考えたことだった。
「だが。帰ったら、叔父たちが、どんな顔するか。大叔父たちの勢力をむこうにまわして、自分の小さい力が、どれほどに対抗できるか?」
必然な、恐こわいものが予想されてくる。おそらく、自分の帰国を待つものは、弟と、馬ぐらいなものだろう。たくさんな奴婢、家人とて、信じられない。いわんや、大叔父たちを怖れている一族がいい顔して自分を迎えるはずはない。――こうふりかえると、帰国の途とへの不気味さは、都にとどまる空しさより、もっと暗い予感と、怨みとを、伴うのであった。
「……いや、今は帰るまい。帰ってもだめだ。おれさえ、一人前に成長すれば、自然、時が解決する。……また、いつかは、忠平公も、事情を知って下さるだろう。辛抱のしどころだ」
小次郎は、思い直した。
かくて、ひとりの輦舎人は、せッせと、輦の輪を洗い、牛を飼い、日ごと、参内する主人の轅に従って、勤勉を旨とした。
そして、大内裏の供待では――
「繁盛どのは、来ていないかしら。あの頼みは、どうなったろう」
と、いつかの約束による彼の返辞を楽しむことも久しかったが、繁盛の主人九条師輔の輦がここに見える日でも、繁盛のすがたは、あれきり見かけない。
年は暮れて、延長二年の春、忠平は、左大臣に昇った。
任官式やら、諸家の賀の参礼やら、春日社参かすがしゃさんやら、ひとりの大臣の昇格に、朝廷も洛内も、まるで国家の慶事みたいに騒いでいる一日。――左大臣家の玄関へ、“勧学院の歩み”が賀をのべるために、練って来た。
“歩み”というのは、行列の意味である。
勧学院出身者の、同い年ぐらいな学生や公達が、冠のおいかけに、藤の花を挿かざし、直衣の色や沓くつまでもおそろいで、華々と列をつくり、祝う館の玄関へ来て、賀詞を呈し、賀を唱歌して、ひきあげてゆく。
藤原氏の誰かが、昇官したとか、朝廷によろこびがあるとかすると、かならずこの“勧学院の歩み”を、そこの門に見るのが、例であった。もともと藤原氏が創たて、藤原氏の保護のもとに、学院経済も維持されているためである。
それはともあれ、小次郎は、当日、その“歩み”の中の一人に、繁盛の姿を見た。また、繁盛の兄――貞盛の姿も見た。
「あ。……従兄たちがいる」
と、気づいたとき、たしかに、二人とも、自分の方を見たような気がしたが、なぜか、貞盛も繁盛も横を向いてしまった。あきらかに、避ける様子が感じられた。
この事についても、彼は、かなり時をおいてから、やっと悟ったような顔をした。
「……そうか。考えてみれば、二人とも、国香の息子だ。大叔父の腹からいっても、おれをよく思っているわけはない。おれは、何たるおめでたい男だろう。そんな奴らを、従兄と慕ったり、頼み事の吉報を、正直に、待ちこがれたり……。ああ、おれは国香の書状に書かれたとおり、ほんとに、愚鈍な生れかもしれない」
彼は、自分の馬鹿にも、気がついて来た。
紫陽花の君
忠平はよく肥っている。ぶよぶよな餅肌もちはだだった。そこで、小一条の左大臣は、夏まけのお質たちといわれ、宮中の定評にもなっている。当人もそれをよいことにし、よほどな政務でもないかぎり、真夏の参内はめったにしない。
しかし、小一条の館の管絃は、毎晩のようであった。宴楽には、倦うむことを知らないらしい。もっとも、加茂川の上流から三十六峰は庭のうちのようだし、泉殿や釣殿の下には、せせらぎを流して、ここでは、暑さをいう遑いとまもあろうはずはない。殊に、紫陽花あじさいの壺は、対たいノ屋やから長い渡り廊下をへだて、内裏の弘徽殿も及ばない構造といわれている。
むかし、河原左大臣源融みなもとのとおるは、毎月二十石の潮水を尼ヶ崎から運搬させ、その六条の邸にたたえ、陸奥の塩釜しおがまの景をうつして、都のたおやめを、潮汲しおくみの海女あまに擬し、驕奢の随一を誇ったというが、忠平には、それほどばかな衒気げんきもない。むしろ、実質主義である。紫陽花の壺には、たったひとりの佳人しか、かくまっていない。
佳人の名は、壺(庭、建物の称)の名をとって、紫陽花の君とよばれている。天皇をはじめ、総じて、一夫多妻はあたりまえな慣いとされている世なので、この君が、忠平にとって、何番目の夫人というべきかなどは、詮索のかぎりでない。けれど、いぶかるべきは、かりにも、時めく大臣の愛人であるものが、いつのまにか、いつからここに住むようになったのか、邸内でも知る者がないのだった。それのみか、氏素姓を何よりやかましくいう階級において、この君の身元についても、誰知る者もないのである。
この不審が、もっとも露骨にささやかれているのは、下司げすの陰口といわれる通り、何といっても、下部しもべの仕え人びとたちである。
「……見たか」と、いい、「……いや、見ぬ」といい。
「おれは、ちらと、垣間かいま見たぞ」というのがあれば、「じゃあ、おれも何とか、いちどは覗いてみなくては」と、秘苑の花に妄想をもつのであった。なべて、高貴な上淫に異様な、妄念にこがれるのは凡下ぼんげのつねで、そのささやきは、餓鬼が壁をへだてて、隣の食物のにおいに美味を想像するのと異ならない。声こそヒソヒソだが、凄すさまじいの何の、いうばかりもない。
その紫陽花の壺へは、老家司の臣賀のほかは、庭掃除の舎人でも、男は、ゆるしなくは入れぬことになっているが――麗人を見たという幸運なる一人の雑色のはなしによると、「お年ごろは思いのほか、二十四、五に見られたが、それはもう、この世のひととは思えない。夏なので、白絹すずしにちかい淡色うすいろの袿うちぎに、羅衣うすものの襲ね色を袖や襟にのぞかせ、長やかな黒髪は、その人の身丈ほどもあるかとさえ思われた。櫛匣くしげをおき、鏡にむこうておられたのを、なかば捲かれた御簾みすごしに見たのだが……」などと、乏しいかれらの形容詞ではなかなかいいきれない程に、艶えんなるさまを、説明して聞かすのであった。
小次郎も、それは幾たびか耳にして、ひとしい物好みの血を、彼も人知れず掻かきたてられていた。ところが、はからずも――それは、短夜も明け遠い気がするほど寝ぐるしかった土用の真夜半、おもいがけなく、紫陽花の君のすがたを、あらわに、しかも目まのあたりに見得るような、一つの事件にぶつかったのであった。
彼は時々、こっそりと、館の裏へ抜け出して、加茂川の中に身を沈め、独りジャブジャブと夜を水に遊ぶ習慣をもっていた。からだの垢や汗を流すばかりでなく、自然なる水の意志や生気と戯れあって、本来の野性と、若い体熱に、思いのままな呼吸をさせる楽しさが、何ともいえぬよろこびだった。
これは、彼ひとりでなく、他の多くの下部でも、たそがれ過ぎには、皆やる水浴であった。しかし彼のばあいは、蚤のみ虱しらみに寝もだえる夜半だの、未明の頃に限っていた。人知れず、寝どこを抜け出し、加茂川と一天の涼夜をわがもの顔に、河鹿かじかと共にあることが、ひそかな愉悦であったのである。
――その晩も。いや、もう五更こうの頃であった。例のごとく、まっ裸になって、清流に身をなぶらせていると、対岸の糺ただすノ森の下しもあたりから、一群の人影が川原の方へ降りて来た。うち七、八名は、浅瀬をこえて、こっちへ渡って来る様子。――はてな? と見ているまに、それらの者の影は、小一条の館の裏手に、ふたりほどの見張をのこし、あとはみな、紫陽花の壺の築土をこえて、中へ掻き消えてしまったのである。……小次郎は、終始、眼をまろくして見ていたが、やがて、愕然と、気がついた。
「あっ……。群盗だ。……とうとう、ここへもやって来た」
川の瀬・人の瀬
およそ、盗賊の跳梁ぶりは、いま、いかなる貴紳の第宅でも、その出没の土足に、まぬがれている館はない。
この夏の、公卿の別荘のさびれは、一つは、その脅威だといわれている。つい五月雨ごろには、内裏の御息所みやすんどころにさえ、不敵な怪盗が、ある行為をのこして去ったという程である。
――が、さすがに、時めく、小一条の左相さしょうの邸には、まだその騒ぎが、今日まではなかった。人の盛んなるときはこうしたものかと世間でもいっていた。
しかし、いま、小次郎が眼に見たのは、たしかに、ふつうの人間の群ではない。折ふし、時刻も丑満うしみつをすぎて、五更にちかく、しかも見張らしい影は、対岸の川原にも、一かたまり残っているし、築土の下にも立っている。三段がまえの忍びこみである。盗賊にしても、鼠賊ではない。左大臣忠平の紫陽花の壺を目ざして、組織的に、もくろみを果たしにかかった群盗にまちがいない。
「たいへんだっ……。ただ事ではない」小次郎は、水から飛び出しかけた。
だが、両岸に、見張がいる。うかつに、立ったら一矢ひとやであろう。彼は、着物をおいた所まで、細心に、這って行った。肌も拭わず、身にまといかけた。一瞬ひとときのまに思われたが、その間に、群盗たちは、すでに、ぞんぶんな行動を仕遂げたものとみえる。内から一つの門をあけ放つと、なだれを作なして、川原の土手を馳け降りて来た。
小次郎が、すぐ眼のまえに、紫陽花の君を見たのは、このせつなである。
思うに、悲鳴を聞かなかったので、紫陽花の君は、気を失っていたものにちがいない。ひとりの男の小脇に抱えられた彼女の顔は、黛まゆをふさぎ、眼をとじて、何の苦悶のさまもない。白いえり首が、だらりと黒髪に巻かれていただけである。そして一名の獰猛そうな男が、彼女の両足を裳裾もすそぐるみ持っていた。二人がかりで、ひきあげて行くのだ。ほかの仲間も、離れ離れに、浅瀬をえらんで、ザブザブと、もとの対岸へ、渡って行く――。
「待てっ」といったのか「泥棒っ」と怒鳴ったのか、小次郎には、わきまえもなかった。意識にあったのは、瞬間に見た紫陽花の君の白い顔だけだった。その美しさが、彼を無謀にさせたといえよう。いきなり、賊の毛脛へしがみつき、力いっぱい、持ち上げたのだ。ついでに――彼女の足の方を持っていた男の横顔をも、撲なぐりとばした。
足もとに、石ころや河鹿はいても、まさか人間がいようとは、賊も、思いもしていなかった。――わっと、喚きながら、紫陽花の君を抱えたまま、浅瀬のしぶきへ、よろめいた。そして大声で、これも先へゆく仲間の者へ、何か怒鳴った。
まっ先に、そばへ来たのは、一ばんさいごに、館から引きあげてきた賊の頭目らしい男だった。
「何を騒ぐ。騒ぐこたあない」
と頭目は叱った。さすがに落ちつき払ったもので、すぐ小次郎のうしろへ廻って、襟がみをつかんでしまった。そして、
「こんな小舎人一匹。おれが片づけるから、てめえたちは、さっさと、女をかついで、川を渡ってしまえ」
と、部下へいいつけた。
小次郎は、首をあげて、彼等の行方を見ようとしたが、たった一つの拳こぶしを襟がみから離すことができない。……が、ふと見ると、頭目は左の手に、鉾ほこに似た長柄の刀をさげている。小次郎は、その柄えをつかんだ。
これには、頭目の男も愕いたらしく、
「小ざかしい奴ッ」
と吠えて、大きく振り放そうとした。ところが、小次郎は両手を懸けてしまったし、男は、左手だったので、勢いは、小次郎を利し、小次郎のからだが、ぶん廻しみたいに廻った代りに、長柄は、彼の手に移ってしまった。
「たたっ殺すぞっ」
頭目の男は、さそくに、野太刀をひき抜いて、炬きょのごとき眼を、彼にそそいだ。小次郎は大いに怖れた。過って、武器を手に得たことを悔いるように、長柄を捨てて、逃げかけた。
すると、頭目の男は、からからと笑って、
「おい待て。相馬の小次郎。おもい出せないのか。八坂の不死人を」
と、いって、また笑った。  
蚊に美味き大臣の肌
「あっ? ……。オオ、覚えている。……八坂の下で、焚火にあたっていた中の一人だ」
「おぬしは、まるで蝦夷えびすの子みたいな、都上りの童だった。あれから何年たったろう。……しかし、おれは、おぬしが平良持の長男、相馬の小次郎だという事も、おぬしが、常陸の大掾国香の書状をもって、忠平の館へやって来たことも、その手紙の中の文句まで、ちゃんと、覚えているがどうだ。もの覚えがいいだろう」
「ええ。どうして、そんな事まで、知っているのですか」
「はははは。タネ明しをすれば、おぬしを、あの翌日、刑部省の獄舎から、小一条の館まで、送ってくれた放免(目明し)があるだろう。あの放免も、おれの手下さ」
小次郎は唖然たるばかりである。不死人の傲岸ごうがんさや、悪党口調が、何か、英雄のように見えさえした。――と、不死人は、急に親しみをみせ、
「……が、小次郎。おぬしも、だいぶ都を知ったろう。いい若者になったといえる。いちど、どこかで、ゆっくり飲み合おうじゃないか。そうだ……さし当って、おぬしに一手柄たてさせてやる。まあ、そこの土手の下へでも坐って話そう」
逃げるに急であるはずの賊が落ちつき込んでいうのである。けれど、仔細を聞いてみれば、そうあわてない理由もわかった。不死人は、左大臣忠平の、痛い弱味を、握っている。――今ごろは、おれを、追うにも追えず、泣きベソをかいて、独りもだえているだろうよ。彼は、あざ笑って、小次郎に話すのだった。
紫陽花の君というのは、もともと、女の本名ではなく、忠平が、彼女を奪って、この小一条に、かくまってから後、仮に呼び慣わせているにすぎない。まことの名は、清原きよわらの藍子あいこといい、雅楽寮うたりょうの名手、清原恒成つねなりの妻であり、婚して、まだ、二年ともたたないうちに良人を亡くした若後家の君である。
忠平は、かねてから、藍子の容姿に、食指をうごかしていたので、さまざまな手だてをつくして、射落そうと試みたが、藍子は、うるさく思ったか、かえって、紀貫之きのつらゆきの甥で、紀史岑ふみみねという、いとも貧しい一朝臣の家へ、再嫁を約してしまった。――と知って、憤った忠平は、まだ冬の頃の雪の一夜、滝口の武士をつかって、藍子を襲い、一時、洛外に隠しておいて、いやおうなく、この紫陽花の壺へ、やがて移していたものである。――だから、正しい恋愛でもなければ、野合やごうですらない。暴力と権力で、ひとの妻を、奪ったものだ。それをおれが、また奪うのは、不義ではない。不死人は、そう傲語して、はばからないのである。
「ところで、小次郎……」と、彼は声を落して――「おぬしは、左大臣の召使だ。ここでひとつ、手がらを立てろ。な……こうして」
と、何か一策を、ささやいた。
そして、やおら立ち上がると――
「じゃあ、待っているぞ。八坂の塔で」
不死人は、さいごに、念を押すと、それこそ、燕が川を擦するような迅はやさを見せて、たちまち、加茂の向うへ渡って行った。
気がつくと、一乗寺の峰のふところから、白い雲が、ゆるぎかけていた。その辺りの白雲がゆらぎ出すと、いつも峰の肩に、夜明けの光がほの白むのが近い兆しるしである。――小次郎は、肚をきめて、盗賊たちが出た裏門から、紫陽花の壺へ、駈けこんで行った。
「――大臣。大臣」
開け放されてある妻戸のひとつから入って、奥まった一間のうちへ、こう呼ぶと、うめきが聞え、そして、誰じゃ? ……と、恐々こわごわいう声がする。次の間あたりから、小次郎が、
「小次郎です。輦宿の小舎人、小次郎にござりますが、裏御門のほとりで、賊を見かけて、戦って来ました。――何も、お怪我はございませぬか」
というと、忠平は、非常に驚いたらしく、かえって、しばらくは、うんもすんも答えなかったが、ややあって、
「たれでもよい。はやく、儂みの縛いましめを、解いてくれい。憚らいでもいい。入れ……早く」
と、あたふたいった。
彼は、まっ裸にされて、柱にくくしつけられていた。あちこち、蚊にくわれたあとが、おかしいほど、腫はれている。こよいのみは、この大臣も、わが美味な血を、蚊の歓宴に施していたのである。
「賊を見かけたなら、壺の君が、攫さらわれて行ったのも、見たであろう。……彼女あれは、どうした。彼女の身は」
「藍子さまのお行方ですか」
「なに……」と、呆れるばかり驚いた表情をして――「ど、どうして、そちは、彼女の名を、知っているのか」
「賊の頭目が、そう呼びました」
「ああ、あの悪魔めが? ……。して、そちは、斬り合ったのか」
「はい、ちょうど、今晩は、いつもより早くに目ざめ、牛に土手の草を飼っておりました。怪しと見て、追いましたところ、大勢は、藍子さまをかついで、先に、川の彼方へ渡りこえ、あとに残った賊の頭目が、こう申すのでございました」
「どういった……。どう?」
「藍子の身が、いとおしかったら、二日のうちに、砂金一袋いったいを持って、うけとりに来い。その日が過ぎたら、女の体は、おれが自由にしていると思え。飽いたら、浪花江なにわえの遊女に売りとばすから、探して、買いもどしたらよかろう。……と、かようにいい放って逃げ失せました」
小次郎は、そうしゃべっている者が、自分ではないように、一息にうまくしゃべれた。
公達
たれにもいうなよ。――小次郎はかたく口どめされた。もとより大臣のおん為に悪いような事、何しに口外いたしましょう。小次郎は答えた。ただちに、彼は、信頼を得た。
約束の、翌々日の夕がたである。
彼は、忠平からあずかった砂金の一嚢いちのうを携え、八坂の塔の下へ行った。
たれもいない。不死人も来ていない。
清水寺せいすいじが峰ふところに建立こんりゅうされても、このあたりは夜に入ると、怪鳥けちょうの羽ばたきを聞くような淋しさである。老杉ろうさんの上に、夕月を見た。やぶ蚊が襲ってくる。通る僧侶もない。
「やあ、来ていたのか」
待ちあぐねて、放心していた頃、いきなり木蔭から不死人の声だった。小次郎は、おとといの、結果を告げて、
「お約束の物です」と、すぐ、金を渡した。
不死人は、大笑いして、受け取ると、うしろにいた手下の男へ、
「禿鷹、預かっておけ」と、右から左へ渡して、なお何やらいいのこすと、小次郎を見て、こう誘った。
「そこまで、一しょに来ないか。仕事はうまく行ったし、涼やかな晩だ。約束どおり、飲もうよ、今夜は」
小次郎にとっても、小一条に仕えて以来、かかる自由を得た夜は初めてである。殊には、いまや主人の忠平も、自分に負ひけ目をもっている。それだに、愉快でならないところへ、彼は、不死人という人間に、先夜以来、甚だ心がひかれていた。これが、賊とよばれる悪人だろうか。信じられない程、何か、あたたかなものを感じていた。――そうだ、少年の日、大結ノ牧の馬にも、こういう情愛を感じていた。彼は、およそ父と死に別れてから、そういうものに、飢えていた。馬にすら、盗賊にすら、それを感じると、離れがたいここちになる。
意外だった。不死人に誘われて来た家は、四条六角堂の木立を横にした大きな公卿やしきである。このあたり、おちこちに、門戸のみえる第宅も、みな然るべき朝廷の顕官が多い。――不死人は、大きな平門ひらもんの袖扉そでとをたたき、まるでわが家のようにはいって行った。式台に出迎えた青侍にも、一瞥いちべつをくれただけで、
「おられるか。純友すみともは」
といった風。
はばかる小次郎を、ふりむいて、
「友だちの家だよ。上がり給え」
先に立って、長い渡殿わたどのをゆく。廊の間――やがて対ノ屋の広間とおぼしき燭が見えると、大勢の笑い声がそこに聞えた。
「やあ。寄っていたのか」
「おう不死人か。よい折へ」
どれが主人やら分らない。小次郎には、いずれも同じ公卿の公達きんだちか、どこぞの御曹子たちに見える。
各※(二の字点、1-2-22)、円座を敷き、広床ひろゆかもせましとばかり、杯盤を、とり乱していた。貴族の子弟たちにしては、殺伐な光景でもある。しかし、この部屋、人々の服装は、官職のところにしても、朝臣以外な者たちではない。
「これは、左大臣家の小舎人、相馬の小次郎という者……。生れは、東国だが、父は亡き平良持。面がまえを見てもらいたい。なかなかたのもしげな若者だろうが」
これが、不死人の紹介のことばであった。
――そういう不死人も、思い合すと、初めて、八坂の焚火の仲間で見たときも、今夜の姿も、まぎれなく、公卿くずれにちがいなかった。市井しせいの無頼漢とは、趣を異にしている。
「あ。……そう」と、正面にいて飲んでいた青年は、こっちを向いて、すぐ、気がるに杯を、小次郎へさした。
「私は、南海の海賊といわれる藤原純友です。それにおるのは、小野氏彦おののうじひこ、紀秋茂きのあきしげ、津時成ときしげなどで……どれも隔意のない友人ばかり。暢気者の集い。気がねな者はひとりもいません。君も気楽に飲やってください」
――海賊とは、冗戯じょうだんであろう。小次郎は、うち消して、笑っていた。
だが、主あるじはこの人にちがいない。そのうちとけた親しみぶりは、むしろ小次郎を、まごつかせた。彼は、ちがった世界にあるような気がした。
公卿の子弟といえば、笛でもふくか、歌の一つも作るしか、ほかに能のない公達輩でも、みな衣冠を飾り、牛輦にかまえ、人を見ること芥のようなのが、すべてである。ところが、ここには、主の純友始め、たれにも、そんな臭気がない。
虚飾や権力のそれがない代りに、汗や垢のにおいは、誰にもする。直衣、狩衣、布直垂など、まちまちの物を着、袖を捲りあげて、夏の夜らしき、談論風発である。かたわらには皆、太刀をおいていた。
そのはなしも、小次郎には、耳めずらしく、また、事々に、未知への驚異であった。
空蝉贈呈
いまは無人で、いと荒れ古びてはいるが、ここの邸が、宏大なのは、ふしぎではない。純友の祖父、藤原遠経ふじわらのとおつねの代に建てられた館である。
遠経は、陽成ようぜい、光孝の二帝の朝に権威をふるって、大氏族藤原の繁栄をひらいた関白基経かんぱくもとつねの弟である。
基経の次男、時平ときひらは、左大臣の栄職にのぼり、菅原道真と、廟堂に権を争って、ついに道真を駆逐したほどな政治的手腕の男であった。
いまの、小一条の左相忠平は、父や兄の余光を継いだものにすぎない。無能とは、いわれながらも、氏の長者、宮廷の権与、ふたつながら、しかし、彼のものだ。
――ところが、おなじ摂関家の孫でいながら、藤原純友は、父良範よしのりの代から、地方官に追いやられていた。それでも良範はまだ、大宰少弐だざいのしょうにぐらいまでは、勤めたが、純友にいたっては、伊予の僻地で――六位ノ掾という低い官位のまま捨て子みたいに、都から忘れられている。
純友は、不平にたえない。
「なんだ、忠平ごときが」
伊予にいても、中央の政令といえば、私情の反抗心が手つだって、素直に、服従する気になれなかった。
殊に、南海方面には、中央の威も、とどいていない。彼はつねに、
「おれの父は、左大臣忠平の従兄だ。彼の無能は、父はよく知っていた。画や管絃は、器用だが、とても政治などのできる男じゃないといっていた」
周囲の者に語っていた。そして、政令を批判し、悪政を、罵倒していた。
こういう彼に、いつか、一味の党がつくられて来たのも、自然である。
強権を発して、未納税を取りたてにきた中央の徴税船を襲って、税物の奪り返しをやったりし出して、いよいよ、純友の名は、四国では、英雄視されていた。
捨ててもおけず、官では、先ごろ、問罪使をさし向けて、純友以下――五、六名の共犯者を、都へ拉して来たのである。
「おれを、罰するというのか」
純友は、朝ちょうに出て、主税や刑部官たちを、へいげいした。摂関家の孫にあたり、左大臣忠平とは、あきらかな、縁につながる彼である。もてあまして、官でもついに、うやむやにしてしまった。説諭は、純友の方から、いいたいほどいって、退きさがった。
「どうだ。そのあとで、おれに、伊予の掾から介へ、一階級ほど、昇格の辞令をいってよこした。……忠平が、うしろにあって、おれの宥なだめ料というつもりなのだろう。およそ、中央の政情とは、こんなところだ。滑稽とも、ばからしいとも、いいようはない」
こよい、不死人や、ほかの人々の前でも、彼は、こういって、笑いぬくのであった。そして、
「どうせ、官費で上洛のついでだ。なお、滞京して、秋までは、遊んで行こう」
とも、語っている。
胆の太さ、人もなげな大言、小次郎は、ただ聞き惚れるばかりである。
いや、もっと小次郎が、驚いたのは、紫陽花の君の藍子を、不死人たちに、盗ませたのも、この仲間うちの、紀秋茂の入れ智恵だったという事である。その秋茂も、小野氏彦も、津時成も、また八坂の不死人も加えて、すべてここに会している二十四、五歳から三十前の公達どもは、その所在と、放縦や悪行ぶりこそ、各※(二の字点、1-2-22)ちがうが、時代の下の、一連の不平児、反抗児であることには変りがない。
――夜も更けた。小次郎は、主人を、思い出した。
「帰るのか」と、不死人は、彼の容子を見て「――女は、二、三日うちに、紫陽花の壺へ帰してやるから、腑抜けの大臣に、そう告げて、おぬしも、褒美を取ったがいいぞ。氏の長者なんていう奴ほど、肚は吝しみッたれだから、よこせと、押しづよく、いわねばだめだ。おぬしは、気が弱い。強くなれ、強く」
と、けしかけた。
すると、純友や秋茂たちが、そういう不死人の横顔をながめながら、意味ありげに、笑いあった。
「女は、返すだろうが、女のからだは、元のとおりでは、返すまい。不死人のことだ。さんざん、楽しんだあげく、空蝉うつせみみたいな女のぬけ殻を、持って行くにちがいない。忠平に、そのあとを贈呈するのはおもしろい。……小次郎、おぬしも、あの大臣の顔を、時々、ながめるだけでも、愉快だろうが、しかし、いうなよ、その事は」
小次郎は、晩おそく、小一条へ、帰った。
次の朝、彼のみそっと、紫陽花の壺へ呼ばれた。ただひとりで、庭さきに、うずくまっていると、忠平は、病人みたいな顔して、廊にあらわれた。
「どうじゃった? ……小次郎。彼女あれは、返してよこすであろうな」
訊くにさえ、小声である。しかし、小次郎の返事を得て、忠平は、大げさに、眉をひらいた。まるで、よくきく薬でものんだように、機嫌をよくして、
「そうか。……イヤそうであったか。大儀大儀。二、三日あとになっても、ぜひはない。安堵したぞよ。彼女の体さえ、戻るとわかれば」
そして、なお、こういった。
「そちも、当家に仕えて、はや六年ほどにはなるのう。あとで、家司の臣賀に、申しておこう。……きょうよりは、小次郎を、青侍あおざむらいにとりたてて、遠侍とおざむらいの間において、働かせいと」
これは、思いもうけない、恩命であった。小次郎として、これがもし、紫陽花の君の事件がない前であったなら、地にぬかずいて、感泣したかもしれなかった。けれど彼には、ゆうべの純友たちのことばが思い出されて、感涙よりは、おかしさが、こみあげていた。
卑下と弱味
彼は、主家から、青い狩衣を、賜たまわった。
遠侍や、召次めしつぎの士に、取立てられると、みな、その色の物を着るのである。
服色によって、人の位階や身分が、一目で分る時代なのだ。青色階級の若侍は「青侍」とも呼ばれていた。後世の、“青二才””や“あいつはまだ青い”などという言葉の起原かと思われる。
時に、相馬の小次郎は、二十二歳。――上京遊学してから六年目、とにかく、忠平にやっと知られ、その一人となったのである。充分、まだ青くさかったには違いない。
――その年。秋も暮れる頃である。
左大臣家の裏の河原で、口笛が聞えた。小次郎は、すぐ邸内から顔を出した。
もう、人は見えなかったが、いつもの所に、紙きれが、草の穂に、縛ってある。八坂の不死人からの連絡である。――彼は、あれ以来、その不死人とも、藤原純友たちとも、水魚すいぎょの交わりをつづけていた。
(たそがれ、八坂ノ塔まで参られよ)
文面は簡にして明だ。彼は、約をたがえず、出かけて行った。手下が立っている。そして、黙って、彼を、八坂からもっと奥の――祇陀林ぎだりんの一寺院まで、連れて行った。
むかしは、祇園の末寺であったらしいが、いまは廃寺同様に荒れはて、不死人等の住むにかっこうな、巣となっている隠れ家である。
「やあ、小次郎」と、不死人は、彼を迎え――「ほかでもないが、いよいよ、純友たちが、伊予ノ国へ帰るというので――その送別を、どうしようか、という相談だが」
不死人は、まず、小次郎に、酒を酌さした。
この仲間と親しくなってから、小次郎は、急に酒の手が上がった。酒の味と共に、人間同士の肌合いも覚え、都に知己あり、と思いそめた。
「おれの考えでは、いつも、同じ所で、色気もなく、飲んでいても、曲きょくがない。ひとつ、純友の帰国を送りながら、一しょに、淀川を舟で下り、江口えぐちの遊女をあいてに、盛んな送別会をやろうと思うのだが……どうだ、一しょに、行かないか」
「それは、いつですか」
「明後日あさっての朝、伏見に落ちあい、舟の中でも飲み、たそがれには、江口に着こうというわけだが」
「すると、帰りは、その翌日の晩になりますね」
「まあ、三日がかりと思えばいい」
「弱りましたな」
「どうして?」と、不死人は、彼の当惑を見て、笑いだした。
「おいおい。まさか、主人の忠平に気がねしているわけじゃあるまいな」
「でも。……やはり、召使われている身では」
「人が良いにも、程がある。――忠平こそ、おぬしに、気がねしていい筈じゃないか。ええ、おい。左大臣忠平だとか、氏うじの長者とか、思うからいけないのだ。――紫陽花の壺に、騒動があった晩、そこの柱にくくられて、蚊に食われながら、奪られた女の行方に、ベソを掻いていたときの裸の男を思い出してみろ。――いつも、それを頭において、大臣の前へ出るがいい。するとなんでも楽にいえるだろう」
「いや。行きましょう。――主人には、なんとかいって、暇をもらい、ぜひ、同行することにします」
小次郎は、つい、約してしまった。――たびたび、馳走になったり、以後、いろいろな点で、友情もうけている純友への義理からも、その壮行に、欠けるには、忍びなかった。
あくる日。――何かの事で、忠平に召されたついでに、小次郎は、三日の休暇を、願ってみた。
すると、忠平は、言下に、
「そんな事は、家司の臣賀にでもいえ」
と、ひどく不機嫌に、いい放った。
小次郎は、顔を赤くしたまま、平伏をつづけてしまった。嘘が、出ないのである。考えていた口実が、にわかに、口へ出て来ない。
「…………」
だが、この沈黙の間に、忠平も、思いちがいしていた。――家司を通さずに、自分へ、直接申し出るからには、小次郎にも、肚があっての事にちがいない。……とすると、いやな奴だ、ヘタに、紫陽花の君のことを、いいふらされても、世間がうるさい。忠平は、内心の負け目に、そう疼うずかれて、
「……三日のあいだも、どこへ何しに、参るのかよ。日頃は、よう勤めておるし、暇をくれぬでもないが」
と、自分の方から、いい直した。
放歌浪遊
蕭々しょうしょうと、目のかぎりの水、目のかぎりの葦あしと空。
そのむかしの淀川は、後の世よりも、河幅もひろく、そして「大坂」などというものは、まだ、地上に存在もしていなかった。
けれど、都から、西国や紀州へ行くには、ぜひ、この舟航に依ったので、旅船や小舟は、水郷の漁村に、あちこち、苫とまや帆ばしらを、並べていた。
「――江口は、まだか、江口は」
「右手の岸に見えるのが、鳥飼とりかいの里だから、もう、いくらもない。――神崎川と、安治あじ川の三ツ股に、分れる川の洲す。そこが、江口の君たちのいます村だよ」
「思いのほか、迅かったな」
「遊び男おの心を乗せるにふさわしい急流だ。――けれど、後朝きぬぎぬを、また、都へもどる日は、舟あしも遅いし、懶ものういそうだぞ」
「いや、後をいうまい。明日あしたを思うまい。それが、遊びというものだ」
大河を下る一ツの小舟に、七人ほどの男が乗っていた。
伊予へ帰る藤原純友を始め――小野氏彦、紀秋茂、津時成の四人と、こちらの見送り人は、八坂の不死人、手下の禿鷹、そして相馬の小次郎の三名。
朝、舟の中へつみこんだ酒や弁当も、飲みつくし食いつくし、放歌朗吟に、声もつぶし、果ては、舟底を枕に、思い思い、ひと昼寝して、いま、眼が醒めあったところである。
「……やあ、あれが江口か。岸に、柳が見え、家かずも多く、大ふね小ふねも、おびただしく着いている――」
「やれやれ、江口の里か。日も暮れぬうち、はやく着いた。……オオ、女たちの舟が来る」
俄然、退屈は、けし飛び、遊び心に、たれの顔も、冴えてくる。
殊に、小次郎には、女護にょごノ国へでも来た思いがした。――彼には、人々のような冗戯じょうだんも口に出ず、ただ目をみはって、近づく岸の家々と、幾艘もの、遊女たちの船に、見とれていた。
歌人で地方官吏だった紀貫之も、任地の四国から都へ帰る途中、ここを通って、水村の遊里の繁昌を、「土佐日記」に書いている。――まことに、山陽、南海、西国にわかれ去る旅人たちにとって、江口の一夜の泊りこそ、忘れえない旅情を残すものだった。
「おう、喧やかましいぞ」
「まるで、水禽みずとりの囀さえずりだ……」
舟が、岸へ近づくにつれ、待ちもうけていた遊女船が、客をとらえるために、一せいに漕ぎ寄せてきた。彼女たちは、絵日傘に似た物を翳かざし――口々に客の舟へ何かさけびかけるのだった。――嬌声、水にひびき、脂粉しふん波を彩る――と詩人の歌った通りにである。  
野火の肌
いま、この遊里には、こんな話が、人々に語り継がれている――。
つい、おととしの、夏の頃。
ここから遠くない、やはり同じ淀川の岸にある鳥飼の院(離宮)へ、避暑においでになっていた宇多上皇が、ある日、つれづれのまま、江口の遊女を、たくさんに、院へ召された。そして、
「この中に、よしある人の娘もいるか」
と、訊ねられた。
ひとりが、答えて、
「されば、江口の君たちには、中君なかのきみ、主殿とのも、香炉こうろ、小観音、孔雀などという佳人もおりましたが、近頃では、大江玉淵おおえのたまぶちの娘、白女しらめの君に及ぶものはありません」
と、奏した。
大江玉淵というのは、大江音人おとんどの子であるから、その孫娘にあたるわけである。
音人は、清和帝に仕え、従三位左衛門督さえもんのすけをかね、検非違使の別当まで勤めた人であり、その弟の千里ちさとは、歌人としても、有名であった。
帝は、さっそく、白女を召されて、
「鳥飼の地名を詠み入れて、一首詠め」
と、その歌才を、試みられた。
浅みどりかひある春に逢ひぬれば
霞ならねど立ちのぼりけり
白女が、すぐ、こう詠んだので、宇多上皇は、彼女が、以前の家がらや身を恥じている心根を察して、
「よしないことを、思い出させた」
と、酔い泣きをさえ、催された。そして袿衣うちぎと襲かさねを、与えたので、居合せた皇子や朝臣たちも、思い思いに、物を与え、
「何か、生活くらしにつらい事があったら、遠慮なく院へ奏聞そうもんせよ」
と、なぐさめて帰したということである。
上皇は、それからも、たびたび、白女をよんで、寵幸ちょうこう、ただならぬものがあったが、鳥飼の離宮には、ほんの夏の一ときだけしかおいでがないので、南院の七郎という者にいいつけて、平常にも白女の生活を、何くれとなく、後見こうけんさせ――庶民の間にも少ない人情をお示しになったという。
これは「大和物語」にも載っている話で、当時、この遊里の、語り草になったことであろうが――純友、不死人、小次郎などが、まみえた遊女たちのうちには、上皇の御感に入るほどなたおや女めは、どう見ても、見あたらなかった。
いずれも、白粉おしろいまだらで、髪油くさい、そして、呉越の客に、一夜妻として、もてあそばれ果てた――摺れからしの裡うちに哀愁の影のある――女たちでない者はない。
もっとも、客も客だった。
純友や、秋茂などにいわせると、
「瀬戸内の、鞆ともノ津や、室むろノ港などの女は、これよりは、もっと、品が落ちる。……やはり、江口の君たちには、どこかまだ優雅みやびなところがある――」のだそうで、いずれも、その夜は、満悦のていだった。
七人は、一楼に上がって、宵から夜半まで、飲みつづけた。
踊りもし、歌いもし、およそ遊ぶ手だてが尽きるほど、遊び呆うけた。
「ああ酔った。こんなに、飲んだことはない――」
小次郎は、眼まいを覚えて、ぶッ仆れた。そのまま前後不覚に寝入った。……そして、ふと眼をさました時は、川や海に近い水郷の常として、そこらの壁や、夜の具ものまで、じっとりと、水気をふくみ、自分のそばに、もひとり黒髪をみだしたものが寝くたれていた。
夜は白んでいるが、カタともせず、家の中はまだ夜である。――正体なく、そばに寝ている女は、ゆうべ、酒席にいた遊女のひとりに違いあるまい。が、小次郎は、初めて、見る女のように、ぎょっと、寝顔に眼をみはった……。そして、なぜか、睫毛まつげに涙をすら、にじませた。
「……蝦夷萩。……死んだ蝦夷萩と、瓜二つだ。これは、彼女あれの生れ変りではないのかしら?」
そう思われるほど、小次郎が十四のときに初めて知った、美しい奴隷の娘と、よく似ていた。
彼は、卒然と、寝醒めのうつつに、坂東平野の牧の馬小舎を思い出した。馬の寝ワラの中で、年上の奴隷の乙女に愛撫されたときの匂いが、そばの女からも嗅かぎ出されていた。そっくり、その時のような幻想と野性をもって、いきなり寝顔の唇へ唇を圧しつけた。女は、ア……と軽く驚いて、眼をあいたが、男の遠慮ぶかい四肢を、いきなりふかぶかと抱擁した。そして小次郎の、過去ともつかず、今ともつかぬ、幻覚と妄想を、野火のびのような情炎で焼きつくした。
水草記
霧もふかく、夜も明けきれていないので、柳の木々は、雫しずくをもち、大河の水もまだ眠たげで、江口の岸に、波騒なみざいも立てていない。
「……どこ? 生れた国は」
小次郎は、女とならんで、散りかける柳の水際を、歩いていた。自分たちの宿もまだ寝ているし、同じような屋造りの遊女宿も、商い家も、いまが夜半のように、ひそまっている暁だった。
「……東国ですの」
女は、答えた。年は、十八という。――そして、睫毛の黒さや、小麦色の粗あらい皮膚。笑うと、虫の蝕くっている味噌ッ歯の見える唇もとまでが、蝦夷萩と、そっくりである。やはり、東国の蝦夷の血をもっていたのかと、小次郎は、愛着に、燃えるような眼をして、見直した。
「じゃあ、売られて来たんだね。――東国から」
「ええ。……おっ母さんが」
「あ。そうか。おまえは、何も知らない、子どものうちにか」
名は――と、たずねると、
「草笛といいます……」と、小声だった。
小次郎は、率直に、おれも、坂東の生れだから、何だか、おまえが好きだ。また、きっと、通って来る――といったりした。
草笛も、商売のうそや、おざなりではないらしく、私も、何となく、あなたが好きです、きっと、忘れないで……と、ながし眼に、いった。
幼稚な客に出会って、彼女も、幼稚な娘のときめきを、真実、共に持ったものかもしれない。恋は、幼稚なほど、当人たちには、楽しい筈である。
あたりの、明るくなるにつれ、ちらほら、舟もうごき、人影も見えだして来た。二人は、もとの宿の方へ、帰りかけて来た。
すると、一軒の水亭から、やはり一人の遊女に送られて、舟に乗りかけている都人らしい客があった。男女は、岸と、舟の上で、後朝の惜しみを、くり返していたが、やがて、客の舟は河中に、女は、岸に立ち残った。
「あ。……?」
小次郎と、その客と、思わず、視線をあわせてしまった。――それは、従兄の常平太貞盛に、ちがいない。
貞盛も、小次郎の姿を、しかと、見たように思われる。小次郎は、理由もなく、胸さわぎを、覚えた。
「御存知なのですか」
草笛にきかれて、小次郎は、
「うム、仲の悪い、従兄なんだ。……あの男、たびたび、ここへ来るのかい」
「淡路あわじさんのお客さまです。月に、二度か、三度ぐらいは、きっと、見えているようですよ」
草笛は、小次郎が、貞盛の従兄ときいて、なお、信頼をましたようであった。
宿へもどると、純友を始め、ゆうべの仲間は、みな起きていた。不死人は、しきりに、もう一日、ここで遊ぼうという説を主張したが、それでは、浪華から四国への船便に、また七日も待たねばならぬ。いずれまた、上洛するから――と、純友たちは、ここで旅装を調えた上、やがて、二艘の船に乗り別れ、大河のうえで、西と東へ、袂を分かった。
遊女たちも皆、船の上に、日傘をさし並べて、淀の流れの中ほどまで、一行を送りに出た。その中の、草笛の顔一ツだけしか、小次郎の眼には、残らなかった。
滝口の下
「これ。小次郎――」と、ある折、忠平は、彼にむかって咎め出した。
「聞くところに依ると、そちは近頃、しばしば、公務を欠いて、幾夜も、館を空けるそうだの。――言語道断な」
嘘ではない。小次郎は、恐れ入って、額ぬかずいてしまうだけだった。
「いったい、どこの誰と、江口へなど、通い始めたのか。遊びの物代ものしろなど、どこから出るのか。怪態けたいではあるぞ。それを、明らさまに述べねば、捨ておかれぬ。……ありのままを申せ。ありのままを」
「申しまする。……が、大臣には、たれから、そんな事をお耳に入れ遊ばしましたか」
「左様なことは、訊かいでもいい。そちのいう事をいえ。そちの、身の明しを」
「実は……」と、小次郎は、嘘を考えたが、面倒くさくなってしまって、求められる通り、こういってしまった。
「後の月、初めて、江口へ誘われました。それは、親しい友が、伊予ノ国へ帰るので、送別のため、彼処かしこの水亭に、集まったのでございます」
「なに。親しい友? ……そちに、どんな親しい友があるのか」
「はい。伊予の六位ノ掾、藤原純友です。また、紀秋茂や小野氏彦たちとも、滞京中、懇意になりました」
「えっ、あの、純友と」
これは、衝撃であったとみえ、忠平は、穴のあく程、小次郎を、見まもった。
小次郎は、心のうちで、なるほど、純友がいったのは、嘘ではないと、感心した。
純友は、小次郎が、主人にたいし、常に恟々きょうきょうたるていを見て、いつか、その小心をあざ笑っていったことがある。
(こんど、何かあったら、おれの名をいってみろ。純友と、友達だといえば、あの忠平が、きっと、眼を白黒させて、以後は貴様にも、一目もく措おくに、ちがいないから――)
小次郎は、今、その言葉を思い出して、その言の適確さに、おかしさを、かくしきれなかった。彼のそうした容子が、忠平には、なお意味ありげに、取れたものか、
「よいほどに慎め。ほかの青侍共の、てまえもあるに」
と、うやむやに、叱りを収めてしまったが、以後何があっても、小次郎参れ――と、身近くへは、呼ばなくなった。
そのうちに、突然、彼は、小一条の館から、滝口の衛府えふへ、勤め替えを、命じられた。
衛府は、禁門の兵の詰所である。
左衛門府、右衛門府に、各、六百人ずつの常備兵がいる。
ほかに、内庭ないていに、近衛このえ。外門に、兵衛ひょうえの各兵部があった。
滝口にも、古くから、防人さきもりとか、健児こんでいなどの、諸国の壮丁が詰めていた。御所内の滝口に兵舎があるので、滝口の衛士えじとか、滝口の武者などという称呼が生れた。――小次郎も、ここへ来てから、滝口の小次郎と、呼ばれ出した。
暁起の点呼、午前午後の訓練や調馬など、さすがに、皇城内の兵部だけに、きびしさもきびしいし、第一、外出がやかましい。
六衛府の長官は、中納言で、衛門督えもんのかみであり、その下に、金吾、大夫、尉じょう、帯刀たちはきなどの諸官がいる。
「ははあ、おれを、封じ込めたな」
小次郎にも、忠平のこころは読めた。しかし小一条にいるよりは、はるかに、羽翼が伸ばされて、決して、不愉快な日々ではなかった。ただ、かなしいのは、ふたたび江口へ通う機会のなくなった事だけである。
休暇はあるが、わずか、一日に過ぎない。郷里のある者は、郷里へも帰れるが、それは三年に一度しか、賜暇しかされない規則である。
「今にして、やっと、わかった。小一条の大臣へ、おれの江口通いを、いいつけたのは、常平太貞盛にちがいない。……畜生、いやにおれを、目のかたきにしやがる」
彼が、こう覚ったのも、滝口へ移って後、偶然、左馬寮の門前で、彼とすれちがったので、はっと思いついたのである。
その時も、貞盛は、
「お。……」
と、遠くから、軽く、小次郎の会釈を、眼でうけたきりで、大容おおように行くてへ向いたまま、去ってしまった。
以後、禁門の内では、自然、貞盛と行き会うことも多かったが、貞盛はつねに、貴公子然と構えて、滝口の平武者ひらむしゃなどと、親しみのあることは、恥みたいな顔つきだった。
君見ずや
衛府の武者生活は、小次郎に、苦痛ではなかった。曠野の野性に、むすびついて、彼の体躯は、いよいよ逞たくましくなった。
さらに、皇城内の生活は、彼の心に、新たな野望をめざめさせた。何をするにも、位官等級の差別がある。自然、小次郎の意中にも、栄達の欲望が、頭を擡もたげ出した。
精励した、勉学もした。何をしても、他の兵には、劣るまいとした。
特に、調馬――馬をあつかわせては、左馬寮、右馬寮を通じても、滝口の小次郎に及ぶ者はないといわれた。
四年の後、彼は、七位ノ允じょうにまで、登った。
その四年目の春。
久しぶりに、また、伊予の藤原純友が、上洛した。――そして、純友が滝口へ誘いに来たので、連れ立って、遊びに出た。
滝口の允ともなれば、外出も、自由であった。だが、江口の草笛は、水辺の萍うきくさに似て、もう、とうにそこにはいなかった。
「どこへ行こう……?」と、純友はいう。小次郎にも、あてはなかった。
「まず、八坂の不死人を誘ってみよう。――衛府に入ってから、実は、不死人にも、あれきり一度も会っていないのだが」
「や。……じゃあ、おぬしは、都にいながら、不死人の最期さいごを、知らないのか」
「不死人が、死んだって」
「――と、聞いているが」
「嘘だろう。うわさにも、おれは耳にしていない」
「捕まって、投獄された事だけは、嘘ではない。これは、諸国へ逃げ散った手下の一人から、直かに、聞いたことだから」
「あの神出鬼没な男が、どうして、検非違使などに、捕まったろう」
「いや、庁の手ではなく、常平太貞盛とかいう男の指揮で、突然、八坂の巣を、寝込みに襲われ――刑部省の獄屋へ投げこまれたというはなしだ。……何でも、それは左大臣家に取入っている貞盛が、忠平に乞うて、進んでやった仕事だと、いわれている」
「……知らなかった。いつの事だろう?」
「つい、この正月のことだという。貴様も知らない程では、世間へも、よほど、秘ひそかにしているものと思われる。……察するところ、忠平としては、紫陽花の君の仕返しを、貞盛に、やらせたものに違いない」
「それが、ほんととすれば、やがては、おれの身にも、何が、降りかかって来るかも知れぬ」
「だが、どんな拷問をうけようと、不死人が、貴様との関係まで、口を割るとは思われない。その辺は、心配するにも当るまいが、貞盛には、飽くまで、気をつけていることだ。何をたくむか、予測はできぬ。――いつか、おぬしの身の上ばなしに、故郷元の事情も聞いたが」
加茂の岸を、いつか、上がって、
「おい、叡山えいざんへ、行こうか」
ふいに、純友が、いい出した。
麓で、酒を買い、それを携えて、二人は、四明ヶ岳へ登った。
春霞の下に、京洛の屋根と、皇居の諸門が、望まれた。
「……ああ、平安の都、人間の都」
小次郎は、感慨にたえない。
十六、はるばる、坂東平野から、都へ上って、初めて、京都を見た日の美しい夢や希望と、今、見ている思いとでは、余りにも、ちがいがある。
きょうの歎声は、都への、嘲笑だった。また、人間の地上への、怒りだった。
「小次郎、ひどく、考えこんだじゃないか」
「うム……。ばからしさに、唖然としているのだ。おれは、正直者だった」
「いや、その愚直は、直るまいよ。――お互いにだ」
「君は、賢い」
「はははは。賢ければ、なんで、南海の片隅に、いつまで、六位ノ地方吏などして、くすぶッているものか。とうに、都へ出て、左大臣忠平ごときに、大きな顔はさせておかない。――おれの祖父は、関白基経の弟だ。――陽成、光孝の二帝の朝に仕え、藤原氏の繁栄をひらいた基経の血すじなのだ」
純友の語気は、悲調をおび、充血した眼に、涙が光った。南海の狂児と、いつも、自嘲していう、持ちまえのものだった。
「伊予にいれば、国司の腐敗や、郡司の弱い者いじめが、目にふれて、黙っていられなくなるし、都に出れば、朝廷を栄花の巣にして、明け暮れの猟官、夜も日もない宴楽、小刀細工をして立ち廻る小人輩の讒訴ざんそだの、何だの、かだの……。この気もちの、置き場がない」
純友は、杯で、面をかくした。途中の寺院で乞うて来た杯。それを、小次郎に、つきつけて、
「飲まんか。――おぬしも、桓武天皇から六世。正しく、帝系の御子ではないか。しっかりし給え」
「そうだ。おれも……父の生きていた頃までは、故郷では、御子とよばれていた」
「滝口の下げろうぐらいになって、出世したなどと、安んじていてどうするか。――眼にも、見ないか」
純友は、爪まで赤い手で、彼方なる平安の都を、指さした。
「――あの屋根の下に、どれ程な人間が、きょうを、楽しく、暮しているか。おおむねは、栄花の大樹の下草か、石にひしがれている雑草だ。氏の長者といい、一門の誰彼といい、藤原氏だけが、有ることを知って、無数の飢えを、地に見ようともしない。そして朝廷までを、内部から蝕くっている。おどろくべき、存在だ。それを、ふしぎともしていない、この春日のうららかな昼霞に、おぬしは、血も、涙も、わいて来ないか」
「おれには、政治向きのことは、分らないが、毎年の疫痢えきりや洪水でも、都の窮民は、みじめなものだ。――その出水の水が引かないうちに、もう公卿たちの館では、管絃の音ねが、聞かれ出すのに」
「いや、天災は、まだしも。人災を坐視している法はない。匡ただすべしだ。おれは、匡してやろうと思う」
「でも、おれたち、身分のない者が、どう思っても、初まらないじゃないか」
「見てい給え、こんど、伊予へ帰ったら、おれは必ず、何かやる。――小次郎、ここ数年のうちに、南海に変ありと聞いたら、そこに、藤原純友ありと、思ってくれ。やる、おれは、どうしてもやる」
帰国
純友の、こんどの上洛は、何の為だったか、わからない。彼自身も、その事は、小次郎に、何も語らなかった。
まもなく、彼は、ふたたび、南海の任地へ、帰った。
「不死人の生死が分ったら、分り次第、便りをくれ……」
それが、彼の残して行った頼みだった。
しかし小次郎の聞き探りぐらいでは、刑部省の内秘は分るはずもない。
彼は、一案を思いついた。ある日、手土産を調えて、唐突に、刑部省の獄司、犬養善嗣いぬかいのよしつぐを、訪ねて行った。
「お見忘れで、ございましょうか……」と、小次郎は、耄碌もうろくしているようなその老典獄へ、土産を出しながらいった。
「もう、十年も前になります。私は、東国から上洛のぼって来たばかりで、八坂の辺で、賊に出あい、その夜、賊の召捕りと一しょに、私も、この獄舎に、一晩、置かれたことがありました。その時の、田舎出の小冠者ですが」
「え。……もう十年も前にとな? ……。ふウむ、して、何といわれるの、おん許の、姓名は」
「相馬の小次郎といい、小一条の大臣へあてた叔父平たいらの国香の書状を持っていた者です」
「おう……思い出した。あのときの、小冠者でおわすか。思い出せぬはずよ。余りな、お変りではある」
「その折は、獄舎の内でも、また小一条まで、お下役に、案内を命じて下さったり、ご親切を、忘れぬつもりでしたが、つい、ご無沙汰しておりました」
「いや、よう見えられたな。……そして、今も、左大臣家に、お仕えかの」
「近頃は、滝口の武者所に、仕えています。実は、きょうは、ちと、お伺いしたい儀があって、出向きましたが」
小次郎は、ここで「八坂の不死人」の名をもち出した。――近頃、内裏の更衣殿を冒おかした賊があり、それは、不死人の仕業という者があるが、聞けば、不死人は、刑部省の獄で、とうに獄死したともいわれている。果たして、どっちが真で、どっちが嘘か。貴方なら御存知にちがいない。御内秘ではあろうが、そっと、もらしていただきたい――と、巧みに、かまをかけてみたのである。
「えっ、更衣殿へ、不死人らしい賊がはいったとな。もうそんな大胆を、働きおるか……」
犬養善嗣は、眼をまるくして、自分からしゃべり出した。
「いや、たしかに、不死人の身は、左大臣家から差し廻され、いちどは、獄へ入ったが、二晩と、ここにいず、獄を破って逃げてしもうたわ。……そのため、わしも百日の慎みをうけ、つい四、五日前から出仕したばかりでな」
髭ひげの中から、口をあいて、笑ったが、急にまた、真顔に返って、
「――が、一切、内秘という事になっておるのに、おん許には、どこから聞いて参られたか。左大臣家から、何ぞ、いいつかってのお越しかの?」
と、不審がった。
足もとの明るいうちにと、小次郎は、いい紛まぎらして、すぐ帰った。――そしてただちに伊予の純友へ、書状を送った。
どうしたのか、純友からは、それきり何の便りもない。
翌、延長八年は、世上に、いい事が、一つもなかった。
前年の、近畿一帯の水害で、春から、都の両京は、路傍に、餓死者の空骸なきがらがみちた。
小次郎始め、滝口の兵は、毎日、死骸片づけに、忙しかった。死骸捨ツベカラズ――の制札など、何のききめもなく、夜が明けると、あちこちに、また、捨ててあった。
京職は、病人や飢餓の者を、洛外の施薬院せやくいんと悲田院ひでんいんに、収容したが、すぐ入れきれなくなり、さらに、関をこえて、地方の飢民まで、都にはいり込んでくる。
もう、食物のある所は、寺院と、公卿と、禁裡きんりしかないと、いい騒がれた。
その上、夏、疫痢の流行があり、清涼殿に落雷があって、大火を起した。
人心、恟々きょうきょうなどというも、おろかである。暴動が起らないのは、暴動を起すほどな数がみな、飢え臥しているからで、元気な者は、群盗と化し、夜々の洛内を、荒し廻った。
こういう世態のうちに、醍醐天皇は、崩御せられ、まだ八歳の朱雀帝が、皇位につかれた。――左大臣、藤原忠平を摂政として。
改元して、承平元年。――春になっても、京師の群盗横行はやまなかった。
その中に、不死人や、八坂の一味共が、ありやなしやも分らない。うわさに依れば、公卿朝臣の家人すら、それらの仲間にいるという。
にも関わらず、小一条の大臣の館では、盛大な、摂政就任の祝いが、三日にわたって催され、それをしおに、諸家の権門でも、春の淡雪に、また、春日しゅんじつの花に、巷をよそな管絃の音がもれはじめた。
「世の中が、分らなくなった。いちど、元の坂東平野へ帰って、弟たちの顔も見たり、父の遺産も整理して、郷土で終るか、なお都で生きるか、考えてから、人生を出直そう」
滝口の小次郎は、今年になって、こう決心した。
そこで、官を辞し、都門ともんを去って、十三年ぶりで、郷里下総の豊田郷へ、二十九歳で帰って来た。 
旧山河
富士は富士のままである。武蔵野は武蔵野のままである。また、坂東の平野も、丘も、大河も、小川も、十三年前にわかれた旧山河は、そっくり、彼の記憶のままだった。
「……何ひとつ、変っていない」
小次郎は、近づく郷里の空へ、つぶやいた。
流転るてんの烈はげしい都から、この無変化な、原始の原貌をもったままの天地へ帰って来て、彼は、回顧のなつかしさよりも、不安に似た寂寥せきりょうにとらわれた。
しかし、さすがに、豊田郷に近づいた日は、生れた郷さとの土のにおいが、そくそくと、多感を呼んだ。
「おお。兄だ。――兄が見えた」
「小次郎様にちがいない。小次郎様よ」
ゆくての道に、一かたまりの人群れが見え、彼を指さして、がやがやいっていたと思うと、中から三、四人の若者が、駈け出して来た。
「兄上。お迎えに出ていました。弟の三郎将頼まさよりです」
「四郎将平まさひらです」
――それから、将文まさふみ、将武まさたけなどの、末弟まで、みな来ていた。
「あーあ。大きくなったなあ、みんな」
小次郎は、その弟たちの、どの顔を見ても、十三年の空間を、つよく覚えた。田舎武者にはちがいなくても、それぞれ頼もしげな逞たくましさだ。彼は、一ぺんに、愛情の渦に取りまかれ、
「どうだ。おれも変ったろう。おれも、二十九だからな。長い間、留守にして、おまえ達にも、いろいろ苦労が多かったにちがいない。――が、帰って来たぞ。これからは、共に働いて、父の遺のこした領野を拓き、仲よく家門の繁栄に努めようぞ。よく、みな揃って、元気でいてくれた。将頼も、将平も、すっかり成人して、見ちがえる程だよ。よかったなあ」
――ありがたいありがたいと、彼は、しきりにいうのである。何へ向ってでもない。ただいッぱいな感謝だった。一人一人の肩を抱き、手を握り、瞼からあふれる涙も知らずにいる。
ほかの、出迎えは、家人たちである。叔父共の顔は一つも見えなかった。人々が曳いて来た馬の背に乗り、弟たちに口輪を把られ、幸福の門へ迎えられたように、小次郎は、その日、自分の生れた家、すなわち、豊田の館へ、着いたのである。
部落の民も、この日は、業を休んで、
「館の御子が、成人して、都から帰られたそうな」
と、祝いあっていた。古い巨大な門の外には、郷の老幼が、むらがって、内を覗き込んでいる。媼おうなや田老でんろうが、餅だの、麺類など、献上に来るし――まるで、祭の日みたいだ。古雅な太鼓や笛の音も、どこかで、している。
あたたかい人々、あたたかい言葉、あたたかい家中の酒宴。小次郎は、心も肉体も、愛撫と労いたわりに浸ひたりきって、眠りについた。
だが、翌日。――この巨大な構造の中の一部屋に坐って、あらためて、
「これが、父から遺されて、自分が家長として、これから営んでゆく家だ――」という、覚悟と、感慨をもった時、小次郎は、なぜか、いいしれない、空しさと、佗わびしさを、洞ほらのように感じた。
父の良持がいた頃の館とは、まるで違う。その父が死に、十六で郷を離れた頃の館ともなおちがう。こう空虚うつろなのは何だろう。
変らないのは山河だけだ。また、古い柱や梁はりや門だけであった。変りすぎる程、何かが変っている。
うつろの館
起き抜けに、彼は、広い館や柵門さくもんを、一巡した。たくさんな土倉ものぞいた。けれど、以前はそこに充ちていた稲もなく、武器もほとんど失われている。
あんなに多かった召使たちも、数えるほどしかいない。それも皆、ほかへ行き場のないような老朽や弱々しい病者ばかりである。
「蝦夷萩のような女奴もいない。……」
彼は、奴隷長屋の前の空壕からぼりをのぞいた。逃げる奴隷はいないので、そこは、芥捨ごみすて場になっている。
――冬の、崖氷柱がけつららの下に、ここへ墜おちて死んだ蝦夷萩のことが、はっきり、少年の日の思い出の一齣ひとこまとして、うかんでくる。忘れ得ない彼女の唇の熱さも想う。小次郎は、ぼんやりしていた。
「兄上。ここにおいででしたか。まだ、お眠りかと思っていました」
「おう、三郎か。よく寝たよ、ゆうべは。――ほかの、弟たちは、どうした?」
「今朝、早立ちして。――四郎は、石田の館たちの大叔父の許へ。五郎も、六郎も、ほかの叔父御の郷へ、それぞれ、手分けして、兄者人あんじゃひとのお帰宅を、知らせに、旅立ちました」
「なんだ。放ッておけばいいに」
小次郎は、無意識にも、いやな顔いろが、出てしまった。
「おれの帰る日が、どうして、先に、分っていたのか」
「その叔父御たちから、報しらせがありました」
「うウむ……。じゃあ、おれが都を立つと、追っかけに、貞盛から親の国香へ、早文はやぶみでも、出していたかな?」
「何か、知りませんが、日を報らせて来ました。そして、小次郎が戻ったら、すぐその旨を、届けに来いと、いいつけられていましたので」
「なに。届けろと。……まるで官庁みたいだな。近頃、叔父共は、ここへ見えるのか」
「ええ。大叔父は、余り参りませんが、良兼様と、良正様とは、こもごもに、よく来ます」
「じゃあ、おれの留守、おまえ達の世話は、その叔父二人が、見てくれたか」
「……いえ」と、つよく顔を横に振ると、三郎将頼は、肱ひじを曲げて、涙の顔をかくした。
「三郎。何を泣く……。おれが、郷土を立つとき、いったじゃないか。おまえは、おれのいない後では、小さい兄弟中の、頭かしらだぞと。――あの頃はまだおまえも、十二、三の洟垂はなたらしだったが、もう、おれに次ぐ、いい若人。何を泣く。泣き面など、見せてくれるな」
「せっかく、お帰りになったばかりの兄上に、ベソは、お見せしまいと、きのうから、じっと、気を張りつめていたのです。――兄上っ。この館には、もう、父が遺してくれた遺産は何もありません」
「見たよ。稲倉いなぐらも、武器倉も、……が、たいがい、こんな事だろうとは、おれも都にいるうちから、察していた。意外とは思わない」
「私たちは、ここにいても、叔父御たちの、召使も同様でした。多少、物事が分ってからは、不平を抱かずにいられませんでしたが、いえば、言下げんかに――。(何を申す、汝わいらは一体、誰に育てられたと思う。幼少に親はなく、兄の小次郎もあの愚鈍、もしこの叔父たちがいなかったら、とうの昔に、豊田の郷も、この館も、他郡の土豪に攻め奪られ、汝らは、他家の奴僕に売られているか、命もあるか否か、知れたものではない。それを、無事成人してきたのは、誰の恩か――)と、手いたく、極めつけられては、黙って、涙をのんでしまうしか、なかったのです」
「ううム。……おまえたちには、恩を着せ、そして、おまえ達の為に、父が遺してくれた財物は、みな叔父共が、こそこそ運び去ったのだろう」
「ええ。この館は、空家同然です。もう何も残っていませぬ。兄上、私たちが、失ったのではありませんから、ゆるして下さい」
「ばか。たれが、おまえ達を、疑うものか。気の弱いやつ。泣くなもう……」
「は、はい」
「いいじゃないか、三郎。家財、調度、穀倉の穀、武器倉の武器が、みんな失くなろうと、ここに、おれが帰って来た。なお、父の代に、父が開拓した広大な田野や、血をもって、父が戦い守って来た相伝の土地は、小さい末弟たちに頒け与えても、余りある程な面積だ。気を取り直して、働けばいい。父の一代を、もいちど、おれたち自身が、父になって、やり直すことだ。……なあに、土さえあれば、何が、なくたって」
「ところが、その古くからの荘園も、新田しんでんも、兄上が十三年もお留守のまに、みな三家の叔父が、各※(二の字点、1-2-22)めいめい、分けてしまいました」
「たれに? ……。たれの物に」
「叔父たちや、叔父たちの息子の物に」
「ば、ばかな」と、小次郎は、笑い出しそうに――しかし、ちょっと、不安な眉の翳りを見せながら、吐き出すように、自分へ否定した。「そんな事が、あるものじゃない、そんな事が。――家の後継あとつぎのおれはいないし、おまえ達は、幼かったから、叔父共三家で、おれの帰るまで、預かっていてくれるのだよ。そういう約束になっているのだ。おれが帰って来たからには、当然、おれに返してよこすさ」
「けれど……。そうではないと、人が、いいます。みな、勿体ないことだ。ひどい横領事おうりょうごとだと」
「それは、他人の妬ねたみだろう。何しろ、広大な田領だから、官へ租税を納めても、余る収入みいりは、莫大なものだからな。それは、十三年の間、叔父共が、おまえ達の養育料として、ふところへ、入れてはいたろうよ。……ああ、朝ッぱらから、つまらない話に落ちた。おれは、大結おおゆうへ行ってくるよ」
「大結ノ牧ですか」
「む、む。牧の馬どもにも、おれの帰って来た顔を、見せてやるのさ……」
「馬とても、以前のような、良い馬も、馬数も、今はおりません。老馬、廃馬が、わずかに残っているだけです」
「馬まで、持って行ってしまったのか」
「奴婢、奴僕まで、連れ去ってしまった程ですから」
「いいさ、土さえあれば。――とにかく、行って来るからな」
と、小次郎は、柵を出た。
故郷へ帰ったら、少年の日の多くを過ごした、あの牧の丘へ坐って、もう一ぺん、行く雲を眺め、那須、浅間、富士の三煙を遠望してみたい――と、それは、都にいた頃からの願いであった。憶いであった。
浦人の遺書
いま、望郷の日の、憶いはとげた。
小次郎は、一つの丘の上に坐り、ぽつねんと、少年の日のとおりの恰好で、膝を抱えた。
――が。充たされてくるなにものもない。
空しい天地。馬のいない牧場まきば。
どうして、幼い日、こんな寂寥の中に、終日、独りでいられたのだろう。また、都にいても、折にふれ、事にふれ、恋しく憶い出されて、いたのだろう。
長くいるにも耐えなかった。
しかし、肚をきめよう。この静かな天地の中で、――この丘に抱いていた夢とは、まったくべつな現実の中に、小次郎は、考え耽ってしまった。――何よりは、一人前の男として帰った以上、これから、いやでも、自分の双肩にかかってくる家長の責任だった。
「――都へ出たのは、ムダではなかった。何は学ばなくても、おれは人間を観てきた。都を知らない弟たちとは少しちがうぞ。おれは、叔父共に、ごま化されはしない。また、怖れもしない」
しきりに、彼は、自分へむかって、呟き出した。郷土の大自然は、やはり、肉親の父に次いでの、無言の慈父であった。正しい勇気と、良心とが、さかんに、彼の若い体を励ますものとみえる。
「そうだ。人間を相手に思うまい。都にいても、人間仲間は、あの通りだ。腹ばかり立って、おれも、純友や不死人のような考えになってしまう。郷里もそうだ。叔父共の肚ぐろさには、業ごうが煮えて、たまらないが、過ぎた事には、囚とらわれまい。――ただ、土をあいてに、黙々と、出直そう。父の良持のした生涯を、この息子も、素直に倣ならって、行くとしよう。愚鈍というならいえ。お人よしと笑うなら笑え。おれには、総領の任がある。土さえあれば、おれだって、父の一代ぐらいな家門には、きっと、盛り返してみせる。いや、それ以上にもして、叔父共を、見返してやる」
帰り途に、彼は、父の代から牧の番をしていた御厨の浦人の住居をのぞいた。厩は朽ち、馬の影も見えない。ただ、破れ戸の内の土間に、白髪の媼おうなが一人、糸車を廻して、独り、糸を紡つむいでいた。
――それは、変り果てていたが、浦人の妻だった。彼女は、涙をながして、良人の浦人が、もう世にないことを語って、
「やがて、和子様が、都の空からおもどりになったら、そっと、これをお見せ申しあげろというて、あの人は、息をひきとりました。……それは、もう、おととしの秋のことで、ございまするが」
と、遺書らしい物を取出して、小次郎に渡した。
その夜、小次郎は、浦人の遺書を読んで、灯に、すすり泣いた。浦人は、ひたすら、小次郎の帰国を待ち、あらゆる迫害と、貧窮に耐えつつ、さいごの最期まで、牧を守っていたのだった。遺書の終りには、こうあった。(――三ヵ所の、牧のうち。ほか二ヵ所は、すでに、良兼、良正様たちの、家人方に持たれています。そのほか、相伝そうでんの御荘園ごしょうえんや開田地かいでんちなども、どうやら、あやしげな処分になってしまいました。無念ながら、浦人ごとき老骨の力には及ばず、あるまじき非道を見ながら、病に果て終ることは、何とも心残りです。どうか、御帰国の上は、充分に、お力を養って、御家運を、盛り返してください。浦人の魂魄こんぱくは、世を去っても、和子様を、お護まもり申しあげているでしょう……)
切々たる末期まつごの文字をつらね、なお、幼い日に、郷家を離れた小次郎のために、当然、小次郎が相続すべき良持以来の所領の地域と、その郡名などが、細々こまごま、終りに書いてあった。
しかし、その後に、また、
(これだけは、確かに、御家門に付いている相伝の御領地にちがいありませんが、太政官の地券の下文や、国司の証などは、どなたの手にあるや、聞いておりませぬ)
と、追記してある。
小次郎は、大きな、不安に襲われた。それでもなお、よもや? よもや? ……と、打ち消したい気もちの方が勝っていた。叔父といえば、父の兄弟たちである。自分たち兄弟にも、血の濃い人々ではないか。年もみな、五十、六十という長上の年配であり、しかも、それぞれ家人郎党もたくさん抱え、困るという家柄ではない。歴乎れっきとした土豪ばかりだ。何で、自分たち、親のない孤児の遺産など、掠かすめ奪とろう。他人のひがみだ。邪推である。――と、小次郎には、どうしても、疑いきれないで――しかしまた、一抹の不安も、拭いきれなかった。
日蔭の弟等
二、三日すると、四郎将平や、ほかの弟たちも、次々に、帰って来た。
小次郎は、将平へ、たずねた。
「常陸の大叔父(国香)は、なんといったか。――おれが、帰国したことを」
「そうか……と、いっただけでした。そして、総領の兄も帰った上は、もうわし達を、いつまで、頼っていてはいけない。親戚などは、ないものと思って、働けよ、と仰っしゃいました」
「おまえは、なんと答えたのだ。え、将平」
「……ただ、はい、と挨拶して、一晩、泊めてもらって戻りました」
「ばかにしていやがる」
沸然ふつぜんと、彼の心は、つぶやいた。意地のない弟にも、腹が立ってくる。しかし、将平を見ても、その下の将文、将武を見ても、みなまだ、二十歳はたちそこそこの若者でしかない。老獪ろうかいな叔父たちの眼からは、まるで、乳くさい赤子にしか見えまい。ムリもない気はするのだった。
「将文は。……筑波の叔父(良正)の所へ、行ったわけか」
「え、よろしく、いいました」
「よろしく? ……。それだけか」
「いえ。兄上にも、落着いたら、遊びに来い。わしも、そのうちに行くと」
「将武。――良兼叔父は、どうした」
「お留守でした。何ですか、新治にいばりの館に、およろこびの、招ばれ事があって、お出かけだとか、家人が申しました」
「新治の館とは、誰のやしきか」
「嵯峨源氏さがげんじの、源護みなもとのまもるどのです。――兄上のお留守のうちでしたが、良兼叔父は、まえの妻を亡くされてから、その護どのの、御息女のひとりを、お娶もらいになりました。祝言の宴は、七日つづきで、私たち兄弟も、手伝いに、参りました」
「叔父の嫁娶よめとりなら、おまえ達には、叔母迎えじゃないか。それが、宴にも招かれず、台盤所だいばんどころの手つだいか」
不機嫌な、兄の語気に、弟たちは、黙ってしまった。
――肚を立つべきではない。この孤児たちは、こう意気地なく、しつけられて来たのだ。小次郎は、すぐ思い直した。
「祝言ではないが、わが家でも、人招びを、やらねばならぬ。いつにしような。――おれの帰国披露目だ」
陽気に、いった。弟たちは、眼を見あわせた。老人みたいに、すぐ、費用の思案などするらしい。
「状を廻せ。いいか、叔父共へも。そのほか、父の旧知、もとの郎党、社寺の僧や神禰宜かんねぎ、郡吏ぐんりの誰彼へも」
文案を書いて、彼は、弟たちへ渡した。
十荷じっかの酒瓶さかがめを用意し、干魚、乾貝ほしがい、川魚、鳥肉、果実、牛酪ぎゅうらく、菜根など、あらゆる珍味を調理して、当日の盛餐せいさんにそなえた。――おそらく、この館の古い厨房が始まって以来の煮炊きであったろう。
これらの材料は、大半、市で物交ぶっこうして来なければならない。小次郎は、そのため、亡父が身につけていた遺物まで市へ持って行かせた。厨くりやの調理も、自分がのぞいて、味の加減をみたり、都風な器づかいを、教えたりした。左大臣家で覗いていたまね事にすぎないが、郷土人の眼と舌を、驚かせてやろうとする、幼稚な衒気が、はたらいていた。
――が、単なる衒気ばかりではなく、人のよろこびをよろこびとする性質は、たしかに、彼の中にはある。その日は、べつに、餅をつかせ、豊田郷の老幼に、餅を撒いた。門前にむらがった土民にも、酒だの、菓子だのを、振舞った。
客は七、八十人も見えた。
亡父ちちの知己は、多くは故人になり、従兄の、姪のという者も、小次郎には、みな覚えのない顔ばかりだった。
むかし、仕えていた郎党たちは、客に来ても、依然、末座にいて、手伝った。その人々の眼ざしや、顔つきに、小次郎はかえって、肉親を感じた。大叔父の国香は、風邪ぎみといって来ず、筑波の叔父も、旅行といって、姿が見えない。上総介良正だけが、叔父組の代表みたいに、席に見え、人々へ、口あたりのいい辞令や杯のやりとりを、ひきうけていた。
その客の中で、小次郎にとって、もっとも、うれしい人が、来ていてくれた。それは真実、忘れ難い人なのである。
「お久しゅうございました」
小次郎は、その人の前へ坐って、いつまで、ほかを、かえりみなかった。
「御成人ぶりだの……」と、その人は、しげしげと、彼を見て、温和な唇もとに、杯をあげていた。
菅原景行すがわらのかげゆきである。
少年の日、この人に、あやうい一命を、助けられたことがある。――菅原道真みちざねの三番目の実子と生れ、学才もあり、人物がよくても、ついに、こんな遠国の地方吏として、一生を、世にも知られず、しかも不平もいわず、黙々と、終る人もあるかと思うと、中央の顕官権門の存在が、妙なものに思われてくる。
「どうだったね。……都は」
「お恥かしいことですが、何一つ、習い得た事もありません」
「これからは、ずっと、お国元かの」
「総領ですから」
「良持どのが、生きておいでたらなあ。……よろこぶだろうし、お許も、倖せなものだが」
叔父の良正が、じろじろ、見ているせいか、景行は、口かずを、きかなかった。そして、満座の酔が、歌や、手拍子に、崩れ出す頃、いつのまにか、そっと、先に帰ってしまった。
この夜の、帰国披露目を、さかいに、小次郎は、以後、将門まさかどと、名のることにした。
元服のときから、将門という名のりは持っていたが、都へ出たので、何となく童名のまま、つい過ぎたのである。弟たちすら、童名はつかっていない。彼は、その頃の、大家族制度のもとに、家長となり、また、将門となった。
麦秋
将門の帰国が知れわたると、何となく、以前、身を寄せていた郎党や家人が、ぼつぼつ、豊田の館へ、もどって来た。
かれらは皆、大掾国香や、良兼、良正などの叔父組が、肚をあわせて、ここの田産や財物を、将門が在京中に、分け奪りしてしまった非道な事実を、知っている。
「あんな非人情な者を、主人とするのはいやだが、御子がお帰りになったと聞いたので、戻って来たのだ」
いい合わせたように、仲間同士で、語りあっている。
将門は、うれしかった。同時に、よしっ、と何か、力づよい、自信をもった。
むかし程にはゆかないが、市で、奴婢奴僕も購い、馬も買い、附近の耕作や、未開墾地へも、手をつけ出した。
が、人が殖えれば、すぐ食糧がいる。その稲すらも、稲倉にない。
「麦秋むぎあきだ。毛野川の河原畑は、もう真ッ黄色だ。刈入れして来い」
いいつけて、ここ、四、五日にわたり、刈るそばから、麦束の山を、豊田の館へ、運ばせていた。
その日、将門は、奴僕と一しょに、足場の上で、土倉の上塗りをやっていた。
夏ちかい薄日照りが、この地方特有な土の香を蒸している午ごろだった。物々しい人声に、将門が、ふと、足場の上から、柵門の外をのぞくと、毛野川へ刈込みにやった郎党や奴僕たちが、怪我人をかついで、後から後から入って来る。
「どうしたっ?」
将門の声を仰いで、郎党の一人が、
「やられました。――やられました」と、子が親へ、訴えるような、声を投げた。
「喧嘩か。あいては、どこの、たれだ」
「喧嘩はしません。いきなり、向うから、大勢して、討ってかかって来たのです。――麦は、たれに断わって刈入れるぞ。ここの河原畑は、どこの所領か、知っているかと」
「相手を訊いているのだ。相手を」
「筑波の郎党たちです」
「なに。良正の家来だと」
将門は、足場を降りて、
「どの辺だ。たれか、案内しろ」
と、血相をかえて走りかけた。
「兄上。およしなさいっ……」
三郎将頼や、ほかの小さい弟たちは、抱きついて、ひき止めた。
「毛野川の河原畑は、去年の暮、叔父御の召使が、胚子たね付けしたのですから――もともとそれを刈入れるのは、こっちが、悪いのです。兄上は、御存知ないから」
「ばかっ、ばかっ。知らないのは、おまえ達だ。あの河原地はな、父上が生きていた頃、毎年毎年の出水を、やっと、堰止せきどめして、それこそ、十年がかりで、麦でも作れるような土地にしたのだ。――おれは、小さい頃、それを見て、覚えている。父上や家人や、たくさんな召使の、血と汗とで、土らしい物になった畑地なのだ。――それを、父の後継ぎのおれが刈入れるのに、何の、ふしぎがある」
将門は、弟たちの耳に聞かすには、必要以上の大声で、そうわめいた。どうしても、いちどは、天へむかって、わめきたがっていたような声だった。
「それっ、お館に、ついて行け。相手は、大勢だ」
奴僕も、郎党も、得物をもって、彼の駈け出したあとにつづいた。しかし、毛野川べりの、長い畑には、どこを眺めても、すでに、相手の影は、見えなかった。
ただ、そこに、制札が立っていた。見ると、こう書いてあった。
河原地、西南、二十七町、総テ、筑波水守ノ住、平良正タイラノヨシマサガ所領ノ一地タリ。盗ミ鎌ヲ入ルル者、見付ケ次第、訴人アルベキコト。   良正家人景久
「笑わすな。盗人の高札こうさつとは」
将門は、それを、蹴仆けたおした。
なお、腹がいえないように、把とって、毛野川の流れに、投げ捨てた。
彼につづいて来た十数名の顔は、それを、小気味よしと見るよりも、何か、さっと、血の色をひいたように、口をつぐんだ。殊に、性格のおとなしい三郎将頼は、
「……ア」と、驚きの声すら放って、まっ蒼な顔をした。
「将頼っ」
「はい」
「案じるな。いつかはと、おれは、肚のうちで、いい出す時を待っていたのだ。――ちょうどいい。おれはこれから、叔父共へ、談はなしに行ってくる」
「な、なんの、お話しにですか」
「知れている。――叔父共が、おれから預かっている広大な土地を、おれに返してもらうのだ。こんな、猫の額ひたいみたいな、河原地などの掛合いではない」
「でも。……、ああ兄上。今となって、そう仰っしゃっても」
「だまって見ておれ。将門は、叔父共が、望みどおりに、都へ出て、少しは、育って帰って来た。いちど、石田の大叔父にも、ごあいさつを、したい事もある。かたがた、預けた物を、返してもらうだけの事だ。行って来る。……なに、一人でいい。数日は帰らなくても、心配するな」
歩き出してから、将門は、なお、憂い気な弟や郎党たちを、振りかえって、いいつけた。
「かまわぬから、つづいて、麦を刈れ、麦を館の土倉へ、どしどし運んでしまえ。なにも、他人ひとの物じゃないぞ。天地も照覧あれ、将門は、おまえたちに、ケチな盗み鎌など唆そそのかすものか。おれと暮すなら、おれを信じろ」  
行々子
気の向くまま、心の澄むまま、遊ぶまま、狂いたいまま、しかも無理はしないで、この天地間に、水ほど、領野を自分の物にしきって、自由に暮しているやつはない。
「――羨ましい姿だ。水の心だ。癇癪かんしゃくなどは、すこし恥かしいな」
将門は、のべつ、大股に、汗をかいて歩いていたが、ふとそんな考えも起した。
――というのは、歩けば歩くほど、実に、この地方は、水だらけで、およそ、視界や足もとから、水と縁の切れることはない程だからである。
従って、河原だらけで、すこし草の生えている土壌でも森でも、それは河原の中の島にすぎない。そして河原を走る縦横無尽な、幾すじもの水脈が、やがて中心部に相寄って、湖うみのような幅になる。そこがやっと主流で、いわゆる、下総、常陸の国境をなす毛野川(今の鬼怒川)の大河であり、新治にいばり、常陸の平野と、筑波の山が、彼方に見える。
「……はてな。おれが子供の時分には、たしか、この辺に、渡舟わたしがあったはずだが」
将門は、芦間あしまの岩に腰を下ろした。さすがに、豊田の館たちから、馳せ通し、また、歩きとおしたので、少し疲れたものとみえる。渺茫びょうぼうたる大江たいこうの水を前に、しばし、行々子よしきりの啼く音につつまれていた。
その行々子の声に、彼は、自分がまだ、幼い頃、両親に伴われ、侍女や郎党に傅かしずかれ、常陸の方から、この大河を舟で渡って帰った日のことが思い出された。記憶にある程だから、自分の三ツの祝いではなく、七歳ななつの祝いであったろう。何しろ、行った先でも、舟の中でも、晴れ着を装われた御子みこ様の自分が祝福される中心であった。
招かれた先の、常陸石田の大叔父も、羽鳥はとりや水守みもりの両叔父も、みな家人家族をつれて、わざわざこの川岸まで、見送りに来たものだった。――その頃の、自分の父良持の威勢と徳望は、大したものだったにちがいない。彼らは、父の兄弟だが、父の前では、たれ一人、頭のあがる者はなかった。一族の長上とあがめて、犬馬の労もいとわなかった。
その日、この大河を渡って帰るためにも、叔父共は、殊更、新しい船を用意し、若い女達に、大きな絵日傘を翳かざさせて、酒さけ肴さかなまで、備えてあった。七歳の祝い着に飾られた自分は、その真ん中に、太子様のように、行儀よく、坐らせられていた。……そして、船が、河心にまで出ても、なお、常陸岸の叔父たちの群れは、豆つぶみたいに見えていた。手を振って、坂東の豪族、曠野の王者たる父の良持と、後嗣の御子たる幼い自分を、祝福していた――。
父が、死ぬとき、あの叔父たちの良心を、信頼したのもムリはない。父も神ではない。今日の叔父共が、あのときの人間と同じ者だったということは、神でもなければ、分ろうはずはない。当然、父は、あとの小さい子供らと、一代に開拓した遺産の田領でんりょうとを、そっくり、叔父共の良心に托して逝ってしまった。
……もし、霊があったら、父は、ここにこうして毛野川の水を見ている今の小次郎将門を、どう眺めていらっしゃるだろう?
勃然ぼつぜんと、将門は、また憤りを、新たにしていた。……畜生と、思うそばから、涙が膝にこぼれて来た。
「もし父が生きていたら、奴等を、ただおくものではない。その父が世にいないのをつけめに勝手なまねをしている叔父共なのだ。ようし。父良持は、まだ生きているという事実を、悪叔父めらに、思いしらしてやろう。どこに生きているというか。……問うも愚かよ。おれは平良持の子だ。おれの中に、父がいるのはあたりまえだ」
彼は、ぬっと、突ッ立った。何かに衝き上げられたように。――そして芦荻ろてきの間を見まわし、対岸に渡る舟を探し求めていると、一頭の馬を曳いた男が、
「おうっ。お館さま。河の上にも、岸辺にも、お姿が見えないので、どうしたかと、ずいぶん探しましたよ」
と、思いがけぬ声をかけて近づいて来た。
男は、豊田の館の郎党のひとりで、牛久うしくの梨丸なしまるというまだ十七、八の小冠者である。むかし家に仕えていた乳母の末子であった。将門が京から帰って来たと聞くと、牛久の里にまだ生きている乳母が、ぜひ、召使うてやって下されと、むかしを忘れずに向けて来た者なのだ。いわば乳兄弟でもある。将門は、乳母の遺物かたみと思って可愛がっている。梨丸も、愛に感じて、生涯を托す主人として働いていた。
「――梨丸か。何しに来たんだ? おれは、常陸へ出かけるのだ」
「ですから、馬がなくては、御不便でしょう。いずれ、水守の叔父御さまか、羽鳥へも、お廻りでしょう」
「うム。……ずいぶんな、道程みちのりではあるな」
「河原畑で、かっと、御立腹なすって、そのまま、一散に、お立ちになってしまったと、ほかの者から聞きましたので」
「館の馬を、曳いて、追いかけて来てくれたのか」
「そして、私も、ぜひ御一緒に、お供をしたいと思って来ました」
梨丸は、将門の眼を、じっと見て、哀願するように、そういった。何しに、常陸へ渡るかを、彼は知っているふうである。将門は、だまって、うなずいた。こんな無言のうちにも、情にはすぐ涙ッぽくなるのが、彼のくせであった。
野霜の宿
「渡舟口は、こんな所ではありませんよ」
梨丸は、主人をすぐ馬の背にのせて、そこから五、六町も下流へつれて行った。
馬を乗せ、自分たちも乗り、渡舟は、岸を離れて、河心へ漂い出した。河幅はおそろしく広いが、所々に、浅瀬があり、そのたびに、舟底が、ガリガリ鳴った。舟は、下流へ流され流され、斜めに、対岸を招きよせてゆく。
「将頼や、ほかの者は、あれから、館へ帰ったか」
「お帰りになりましたが、みな、お行先の事を心配して、つつがなく、帰って下さればよいがと、お身を気遣っておいでです」
「そうか。……おれを除くと、まだ、まるで世間見ずな弟たちばかりだからなあ」
舟の上から振向くと、豊田の館や、森や、また館のある辺りの小高い地形が、呼べば、答えて来そうな、彼方に見られる。
(――生きて、ふたたび、ここを渡るだろうか?)
彼はふと、運命観みたいな、明日、あさっても知れぬ人間と思う思いにとらわれていた。その反面には、それほど危険な怒りが、一朝でない怨恨の器が、自分だということも分っていた。
(対岸へ着いたら、梨丸は、帰すとしよう。行く先で、おれに万一があろうとも、乳母の子までを死なせてはすまぬ)
そう考えたがまた、
(いや、おれの骨など拾って貰いたくもないが、梨丸でもいなければ、誰が、豊田の館へ、万一を報らせよう。やはり連れてゆくとしよう。梨丸には、巻きぞえを喰わせないように)
渡舟の舳みよしが、岸を噛んだ反動で、将門は、大きくよろめいた。その踵かかとから我れに返った。
馬の背に移って、梨丸に口輪を把とらせながら、東へ東へと道をとった。野路のじはいつか茜あかねに染まり、馬と人の細長い影が地に連れだって行く。そして、行く手の筑波山は、紫ばんだ陰影をもって、鮮あざらかに、近々と見えるのだが、これがなかなか歩いては遠いのである。どこかに、泊らなければならないかと思う。
夜に入ると、十方、何もないだだっ広い闇の果てに、蛍屑ほたるくずのようにチカチカとまたたいている灯のかたまりが望まれた。梨丸に訊くと、それは利根川の入江になっている土浦の市いちだという。
「市があるのか。じゃあ、そこへ行って泊ろうか」
「あんな遠くへ参るほどなら、まだまだ、水守の良正様のおやしきへ行った方が、よっぽど近うございますよ」
「そうかなあ。それならやはり、良正叔父の邸へ行こうよ。なあに、夜半になってもかまうものか。……だが、腹がへるぞ、腹が。……梨丸、何か食い物は持ったか」
「持ちませぬ。それには、抜かりました」
「灯の洩る家をみたら訪おとのうてみい。何とかなろうが」
「なりましょうとも」
主従は表面、気がるだった。どっちも若い賜ものである。不自然でなく、死も、どんな危難も、明日の事を今夜はまだ心のうちで幾ぶんでも遊戯していられるのだった。
「あ。……家が見えます。寄ってみましょうか」
「百姓家か」
「――でもないようです。土塀もあり、門も見えます。ははあ、思い出しました。ここは、野霜の部落です。まだ、あちこちに、小さな家もたくさんある」
「野霜か。……とすると、ここには、むかし、武具を作るなんとかいう古い家があったはずだぞ。ここの部落は、弓師、鍛冶、染革師、よろい師、鞍師。みんな武具馬具ばかり作っている者たちの部落だ」
「ともあれ、そこの土塀門を、訪うてみましょう。――お館は、ちょっと、ここでお待ちください」
梨丸は、ひとりで、門を叩きに行った。なかなか戻って来なかったが、やがて、何かいそいそして飛んで来た。
「主が出て参りまして、実は、かくかくと、事情を語りましたところ、――なに、豊田の御子が、お寄り下されたとか。それは、まことでおざるか。――と、まるで、賓客に訪われたような歓びかたです」
「おい、おい、梨丸。おまえは、家の主へ、おれだということを、触れたのか」
「いい触らすほどには申しませんでしたが、余り先で訊きます故、豊田の将門様だと、つい申しました。すると、主は、にわかに、仕事着を着更えたり、家の者に、あたりを清めよといったりして、どうぞと、門迎かどむかえに出て来て、あそこに、立っておりまする。……ですから、お館にも、知らずにとはいわないで、筑波への通り道に、わざわざ立ち寄ったと仰っしゃって下さい」
「でも、おれは、そこの主など知らないが」
「先では、ようく、存じ上げておりますよ。――ともあれ、駒を、おあずかりいたしましょう」
と、梨丸は、空馬からうまの手綱を曳きながら、主人のあとに従って、そこの土塀門まで尾ついて行った。
分野
常陸、下総を両岸にして、武蔵へ流れる他の諸川しょせんと、上総の海へ吐かれてゆく利根川とに、この毛野川の末は、水口みなくち(今の水海道の辺)のあたりで結びあっている。
この大水郷を繞めぐって、結城ゆうき、新治にいばり、筑波、豊田、猿島さしま、相馬、信太しのだ、真壁まかべの諸郡があり、その田領でんりょうの多くは――というよりは、ほとんどが、この地方の源平二氏の分野になっていた。一半は、将門の叔父たち――常陸の大掾国香、羽鳥はとりの上総介良兼かずさのすけよしかね、水守の常陸六郎良正など、いわゆる平氏の族が持っていた。
もちろん、その中には、都の摂関家せっかんけ領や、社寺の荘園や、国庁の直接管理している土地や、たれの領とも知れない未開地などが、複雑に、混み入ってはいるが、要するに、勢力範囲といえる形になっており――また、いうまでもなく、将門の亡父良持が、遺産として、将門以下の遺子たちのために、三叔父に托しておいた田領の面積が、少なからず加わっている。そして、それが、今ではそっくり、叔父三家の物となってしまい、所詮しょせん、黙っていたひにはいつまで、返してくれそうもない。
分野の、もう一半はというと。
これは、新治郡大串に住む源護に属する所領や管理地であった。その版図はんとは、さきにあげた諸郡のうちの四郡にわたり、武族としても、勢威、国内を圧するという一族である。
一族はみな、嵯峨源氏のように、一家名をもっている。護の子、扶たすく、隆たかし、繁しげるなど、それぞれ、領土を分けて、門戸をもち、総称して、この一門のことを“常陸源氏ひたちげんじ”といい囃している。
将門の父良持の健在だった頃には、まさに、常陸源氏に応ずる“坂東平氏ばんどうへいし”の概がいを以て、両々、相ゆずらない対峙をもっていたものであったが、いつのまにか、良持亡きあとは、叔父三家とも、護の門に駒をつないで、常陸源氏の下に従属してしまった――おそらくは、そうして辛からくも、旧門旧領を、保ち得てきたものにちがいない。
護は、肚のふとい、武力もあり、政略もゆたかな男にちがいなかった。常陸大掾なる官職は、実は、彼がもっていた役だが、自分は退ひいて、平国香に代らせてしまった。また、自分の女子を、良正に嫁がせ、次のむすめも良兼の後妻に与え、さらに、末の姫まで、いまは都にいる国香の子、常平太貞盛の嫁にやっている。
こうして、名利と、結婚政策の両面から、護は、平氏の三家を、手もなく、常陸源氏の族党に加えてしまい、そしていまや、この地方随一の豪族中の長老として、たれも、威権をくらべうる者もない。
――こんな、現状の中に、将門は、何も知らずに、帰っていたのだ。十三年も、都にいて、ただ、親ののこした広大な土だけはあると信じて帰って来たのである。ところが、残っていたのは、何もない豊田の古館ふるやかたと、去勢されたような弟たちだけだった。世の推移と頼みがたい人心を、都では、いやというほど見て来たが、彼はまだ、生れ故郷では――悠々として変化のない大自然にごま化されて――眼に見るほどには、痛感できなかった。どこかにまだ、郷土を信じたい気もちがあった。この美しい水や田野や山に朝夕染められて住む人間には、都人のような軽薄や悪さはないという信念が抜けなかった。――いくら狡ずるい叔父たちでも、これから行って、誠意を訴えれば、案外、はなしはわかるにちがいない。なお、欲は張っても、たとえ幾分でも、返してくれないという話はない。――どうしても、そう思いたかった。
しかし、どうしても、返さなかったら、どうするか。
将門は、もちろん、この場合も、途々、ずいぶん考えた。が、すぐ命をかけても、というような結末の怒りが血に沸たぎってしまうだけで、事前に、その場合の考慮をもって臨むことは不可能だった。ただ、自分の性格の弱点が、もっとも、危険な羽目にぶつかるのだという反省は、充分にしていた。前もっての反省などが、役にたつ程ならば、なにも、弱点とはいえないし、将門が、怖れているのは、むしろ相手ではなく、自分であった。
「……おう。そうして、おいで遊ばすと、まこと、よう似ておいでなされますぞや。お亡くなり遊ばした良持様と。……血はあらそわれぬ。瓜二つじゃわ」
武具作りの野霜の翁おきなは、客を上座にすえて、さっきから、見とれてばかりいる。見とれてはまた、一言一言、平伏してばかりいる。円座に坐って、将門は、あいさつのしようもなかった。余りに、ここの主も、家族も、自分を拝して、丁重にするからだった。都で、牛輦の輪を洗ったり、滝口へ勤めてからも、禁門で出会う衣冠の人には、いちいち頭ばかり下げていた癖がまだ抜けていない。まるで、これでは、自分があの忠平大臣になったような気もちがする。
実のところ、腹がへっていてたまらないのだ。礼儀よりは、飯を食いたい。そして、先の夜道も急がれる。
「なあ、梨丸」
将門は、きゅうくつそうに、横へ話しかけた。
「何でもいい。ざっと、粟でも稗ひえでも、馳走になって、暇いとましようじゃないか。――帰り途にでも、また、寄らせてもらうとして」
朝霧
翁は、以てのほかな顔をした。
「どうしてでござりまする。せっかく、かかる野末のあばら屋へ、わざわざお訪い下されたものを」
泊ってもらうつもりだという。
そのため、もう、湯殿では風呂を焚かせ、厨では、老妻や娘までが、あの通り、炊かしぎのけむりをあげて、何はなくとも、野の味、川の味、真心を喰べていただこうとして、大騒ぎをしてもいる。
「すぐ、お立ちとは、余りも、味気のうございまするぞ。豊田の御先代には、どれ程、お目をかけていただいたか知れませぬ。そもそも、てまえが、都から弟子共でしどもをひきつれて、ここに部落を開いたのも、良持様のお招きに依るのです。この地方には、よい鎧師よろいしひとりいない。もし、諸職を連れて坂東へ下るなら、一代、仕事は決して手あきにはせぬ。どのような世話もしようと、あのお殿の御親切にもほだされ、また、都にも住み飽いた心地なので、弟子、諸職の者を語ろうて、ここに住んでからもう二十幾年になりました。……その良持様も世を去られ、ふと、稀に淋しむこともおざりましたところ、思いがけない、御子の御成人を今、眼まのあたりに拝して、この爺じじは、思いも千々ちぢに、むかし懐かしゅう存じあげておりますものを」
――涙を、拭くのである。
将門は、立ちかねてしまった。腹がへったなどとも、いい出せない。
翁の名は、伏見掾ふしみのじょうといい、山城やましろの生れだが、この地方へ下り工匠たくみとして移住してからは、単に野霜の翁とか、野霜の具足師ぐそくしとよばれている。
唯一の後援者であった良持の没後は、一時、部落の諸職とも、仕事を失って、途方にくれたが、その後、大串の源護が、それに代る以上の註文を出し始め、以来常陸源氏の諸家の武具をひきうけて、年中、手のあくことはないなどとも、話し出した。
「御先代の良持様にお納めした、美々しい御鎧やら、雑兵具足やら、弓、矛ほこ、長柄なども、おびただしい数でござりましたが、あれらの品々は、まだ武器倉に、そっくり、お伝えでござりましょうな。いちど、あなたのお体に合せた具足も、ぜひ、作らせていただきたいもので……」とも、いったりする。
将門は、つい淋しい顔をした。梨丸も、それをいわれると、感情が顔に見えた。地方の豪族の頼みとするのは、土の次には、武器なのだ。自分の主人には、その二つとも、今はない。
「明日の朝は、どちらへ向けて、お立ちでございますな」
翁は、もう泊るものと、独りぎめして、そう訊いた。――筑波の叔父共のやしきへ、と将門が答えると、
「ははあ、水守や羽鳥へいらっしゃいますか。やれやれ、それは」
と、なにか浮かない顔をした。
野霜の翁も、将門の今の境遇は、知っているらしい口吻くちぶりである。自分の納めた武具が、今も倉にありますかと訊いたのは、わざと、将門の口を誘うために訊ねたのかもしれない。
良持の遺子たちへ返すべき広大な土地を、その叔父たちが結托して横領しているという事実は、相当、近郷の土民にまで知れ渡ってかくれない噂になっているらしい。――野霜の翁の歓待は、ただ、むかし懐かしいとする情のみではなく、実は、そうした将門を、哀れがっているのかもしれなかった。
いや、それから、夜更くるまで、馳走になりながら、次第に打ち解けて話しこんでみると、ここの家族が皆、こぞって、将門を、気のどくな、あわれな、御不運な御子として、同情しているものであったことが、なお、はっきりした。翁の妻の、もう五十以上とみえる媼も出て来て、給仕に傅かしずきながら、話のそばで、貰い泣きしているのである。
「羽鳥へお出でなされても、石田の国香様のお館へおこしなされても、ゆめ、お腹をお立てなされますな。ひとは皆、知っております事じゃ。それに、万一、お身に怪我などあってはなりませぬ。それこそ、亡きお父上良持様が浮かばれませぬ……」
媼もいう。翁もいう。
あたたかな人心にくるまれ、あたたかな食物に腹をみたし、将門は、ついにその晩は、野霜の具足師の家に寝た。家はなかなか広く、弟子やら召使やらも多く、ゆたかな感じである。そして、寝屋ねやに導かれるとき、どこかで、若い娘の声もした。その美しい声のぬしを想像しながら、将門は、すぐ眠りにおちた。
夜明けに立ちたい、といっておいたので、まだ、朝霧のふかいうちに起された。食事をし、弁当も作ってもらい、家族たちに送られて、門を出るとき、ふと、将門は馬の上から媼のそばにいる十六、七歳の娘を見た。まるで平安の都で見たような娘だった。将門の視線がゆくと、娘は母の肩の蔭へ、身をかくした。朝の陽が、まばゆげな彼女の顔を、鮮らかに、浮かせていた。
「……お帰りがけにも」
と、家族たちがいった。将門はうなずいたが、実は自信がなかった。土塀門の方へ、馬の尾がめぐると、梨丸はすぐ口輪を把った。梨丸も、この道を、もう一度通るでしょうとは誰にもいわない。
「おさらば」
と、馬が歩き出してから、将門は振り顧かえった。――と。まだ立っている家族たちの視線が、みな、べつな方へそれていた。将門も、馬上から見まわした。彼方の青芒すすきの上に五、六名の上半身が見えた。中のひとりは、騎馬である。
相互から近づくほどに、当然、その者たちとすれ交ちがった。騎馬の若い武士は、将門の顔を、無遠慮に、白眼で見た。狩衣といい、鞍といい、太刀といい、この地方では、甚だしく目立つ程な装いである。従者たちでも、将門よりは立派である。梨丸は、そッぽを向いて通りぬけた。
やり過ごしてから、将門が訊いた。
「梨丸。いまのを、知ってるか――。誰だい、あれは?」
「あれが、源扶ですよ。大串の源護の嫡男とかいう」
「常陸源氏か。……成程、派手やかなものだな」
「息子たちはもう、御曹子おんぞうしとか、若殿とか呼ばせて、畑にも、森にも、出ませんからね。……けれど、梨丸の御主人の方が、はるかに常陸源氏などより、家がらは上です。桓武天皇から六世の御孫でしょう。里の者でも、あの人たちを、御子とは誰も呼びはしません」
梨丸は、ひとりでしゃべっていた。将門がうしろを振向いているのを知らないのである。将門の眼は、ただ今、自分が別れて来た土塀門の前で、その常陸源氏の御曹子が、馬を降りて、家来たちと共に、威儀づくりながら、家の中へ迎えられているのを――馬の背に揺られ揺られて見ていたのだった。
せせらぎの君
筑波山の西南のふもと、筑波平野と、毛野川の方へ向って、水守の庄、石田の庄、羽鳥の庄などが、二里おき、三里おきにある。
どれも皆、筑波を背にした麓の人里だ。
その日、将門は、まず水守の良正のやしきへ行ったが、叔父はいなかった。居留守をつかっている様子でもない。
しかし、家来たちの顔つきには、将門を見たとたんに、さっと、うごく色があり、
(来たな!)
といったような反撥が、あきらかに見られた。そして、将門が小冠者をひとり連れただけでやってきたことに、むしろ、気抜けを食ったほどな緊張ぶりが窺うかがわれた。
「お留守だ。お館は、昨夜から御不在だ。何ぞ、御用か」
と、家人郎党は、幾人も、大きな櫓門やぐらもんから顔を出して、通しもせず、切り口上でいうだけだった。
おそらくは昨日、毛野川の河原畑で、わが家の奴僕や郎党を傷いためつけたのは、この連中にちがいない。あとから、河原の麦畑へ、横領宣言みたいな高札を立てた家人景久けにんかげひさとやらいう良正の家来もこの中にいるのかもしれない。しかし、将門は、こういう雑人共をあいてに喧嘩する気になれなかった。かれらの不遜な態度には、腹はたったが、笑い流して、ここは立ち去った。
道程からいえば、大掾国香だいじょうくにかの居館、石田の里の方が、そこからは近い。しかし、あの大叔父こそは、いちばんの怪物であり、元兇であると、将門は観ている。すでに、都にいたときから、それは国香の子、常平太貞盛の行動でも読めていたし、また、上京の初めから、しまいまで、自分にたいする国香父子の態度は、腑に落ちない事だらけである。
「……後にしよう。さいごの対決として」
将門は、さきに、羽鳥の上総介良兼を訪うことにきめた。
この叔父も、食わせ者かもしれないが、一族の中では以前から、いちばん信仰家であった。仏法に帰依きえふかく、館の内にも、寺のような持仏堂を建てているともいう。そうした人ならば、いくらかの仏心はもち合せているだろう。いちばん、手強てごわそうな大叔父へぶつかるよりは、まず、その信心家の叔父と話してみるのが、良策というものだ。将門は、なお、決して、冷静を欠いたり、分別を失ったりはしていないつもりである。
羽鳥の叔父の館は、山荘だった。麓からすこし山へ食い入った高所に構え、屈折した石段の山に、さながら大寺院のような門が、自然の老杉や松を美しく冠かぶっていた。
馬は、麓で降り、梨丸も、下に待たせておいて、ただ一人で、門をはいった。大玄関を見まわしていると、横の家人小屋から、武士が出て来た。初めは、つまみ出しそうな権まくだったが、彼が、毅然として、小次郎将門だと告げると、さすがに気押けおされた気味で、ことばも改めだした。
取次ぎに去ったまま、家人は、なかなか出て来ない。夕ぐれ近い陽が、針葉樹を虹のように透いて、もう裏の山ふかい所では、蜩ひぐらしが啼いていた。どこかに、ふと、水のせせらぎも聞え、将門は、喉の渇かわきを覚え出した。
「遅いなあ。何をしているのだろう?」
取次にかくれた家人は、主が、いるともいわず、いないともいわなかった。ここにも、昨日の毛野川原の事が、聞えているものとみえる。とすると、ある覚悟はしていなければならない。叔父の館へ来て、危険を猜疑さいぎする気もちに努めるのは、将門の性格には、骨の折れることだった。けれど野霜の武具師も、それとなく、注意を与えてくれていた。――何せい、あなたは、まだお若いでなあ、といかにも心もとないように、しげしげと自分を見てつぶやいたことだった。
「よし。何が、突然起っても、おれは決して、驚きはしないぞ。それ程なら、毛野川を渡って来はしない」
将門は、自分へむかって、そういっておく必要を覚えた。大股に、広前ひろまえを斜めに歩き出していた。さらに、山庭へはいりこんだ。さっきから、喉の渇きが求めている水を――どこかに、岩清水の落ちている音を――探しに行ったものらしい。
きれいに、手のとどいている灌木や、岩苔や、松の巨木は、目につくが、水は、どこを通っているのか、見つからなかった。そのかわりに、彼は、思いがけないものを、ふと、彼方の木蔭に見出した。
先でも、いぶかるように、将門を見ていた。
「あ。……?」
将門は、理由なく、顔をあからめた。いま以て、彼は、美しい女性と感じると、理由の生じない前に、顔はもちろんだが、体じゅうに反射が起った。
彼が、うっかり立ち入ったところは、女の住居のある壺であったかも知れない。都の忠平左大臣の小一条の壺が思い出された。大臣が、そこに秘して可愛がっていた紫陽花の君によく似ていて、それよりはやや小づくりで年も若い女性が、じっと、なおまだ木蔭から、彼の姿を、見すましているのだった。  
玉虫
「ここは通れませぬ」――彼女は好意のある注意を与えてほほ笑んだ。「何か、御用ですの? ……。木戸を間違えたのじゃありませんか」
親しげにこう訊かれて、将門は、また、どぎまぎした。理由のない羞恥を、自分では、見ッともないと思いながら、思うほど、なお、顔を赤くした。
「いえ、水です。水を一ぱい、欲しいと思って」
「お飲あがりになる水ですか」
「ええ。朝から、草息くさいきれの道を、馬で乗り通して来たので、ここにつくと急に、のどの渇きを覚えたところへ、そこらに、水音が聞えたものですから」
「ホホホホ。それなら、こちらへ来て、おあがりなさいませ。おやすいことです」
彼女は、壺の木の間を縫い、そこの瀟洒しょうしゃな家の水屋へかくれた。
器に水をたたえ、こんどは、廊の妻戸から立ち現われて、将門の前へすすめた。将門は、簀すの子(縁)の端に腰かけた。そして、予期しなかった落着きにつつまれたように、あたりのたたずまいを見まわした。
「こうしていると、どこか、都のお住居のようですな」
「都。……あの平安の都を、あなたは、ごぞんじなのですか」
「え。永いこと、あちらへ、行っておりました」
「まあ」と、女性は、大げさな程、なつかしむ表情をして「都は、どちらに、おいででしたの」
「小一条の左大臣家にもおりましたし、後に、御所の滝口にも、勤めたりなどして」
「では、あなたは、豊田の御子の、将門様ではありませんか」
「そうです。小次郎将門です」ようやく、彼は彼女を正視することができて――「私を、御存知ですか」と、心の距離を急にのぞいた。
「いいえ。お会いするのは、初めてですが、おうわさは、聞いていました。それに私も、元は、都の者ですから」
「そうですか。どうも、そうではないかと思いました」
「どうしてです?」
「どこやら、都の風ふうがおありになるし、こんな、土も粗い風も荒い東国の果てに、あなたのような美しい人が……と」
「あれ、あんなことを、仰っしゃって」
彼女は、耳のあたりを、ぱっと染めて、自分の顔を、自分の肩のうしろへ隠した。からだの姿態につれて、長やかな黒髪もやさしい曲線を描いた。将門は、彼女の袿衣うちぎの襟あしから、久しくわすれていた都人の白粉の香を嗅ぎとって、何もかも、忘れていた。
すると、さっき奥へ取次にはいった良兼の家人たちに違いなかった三、四人の声がして、しきりに将門を探し廻っていた。そしてふと、中の一人が、ここの廂の下を、木の間ごしに窺って、
「や。いたわ。ここにおる。玉虫どのの局に来て、話しこんでいるわ」
と、あきれたように、ほかの者を、呼びたてた。
将門は、弾はじかれたように、縁を離れて、自分から家人たちの方へ、歩みだした。良兼の家人たちは、彼と玉虫のすがたを、等分に見くらべて、瞬間、妙な顔をしていたが、
「豊田の小殿ことの。――良兼様が会うてやると仰せられた。こちらへ、渡られい」
と、先に立った。そしてもとの広前に戻り、そこから館の内へ、案内して行った。
忘恩論争
京風の建築をまねたのであろう。寝殿、対ノ屋づくりである。しかし、この地方の風雪に耐えるためには、柱もふとく、壁も多くなければならない。自然、頑固であり、粗野であり、薄暗くもなる。――後の鎌倉建築と似るところが多かった。
内の坪(中庭)へ面した広床の間に、藺いを敷き、円座に坐って、酒を酌みあっている客と主人とは、さっきから、愉快そうに談笑していた。
上総介良兼と、水守の六郎良正である。
将門の父良持の弟たちだ。つまり叔父共である。ここにはいないが、常陸の大掾国香が、いちばん上で、その下が将門の父、次が良兼、良正の順だった。
「良正。――将門がこれへ来ても、余り嬲なぶらんがいいぞ。嬲り者にして、怒らしても始まらぬ」
「ですが、いちどは、首の根をとっちめておいた方がいいと思うな。……くせになる」
「ま。それもあるが、それにしても」
「きのう、河原畑で、将門の奴僕と、わが家の家人とが、喧嘩の果て、それに怒って、彼自身、ここまでやって来たところをみると、まだ以前の所領地にこだわって、おれ共の処置を、ふかく、遺恨にしているにちがいない」
「その執着は、一朝には、抜けまいよ。手をかえ品をかえ、気長に、諦めさすにかぎる」
「あなたは、よくそういわれるが、将門も、今では、むかしの鼻たらしとちがい、都のかぜにも吹かれて来て、理屈の一つも覚えたろうし、ごまかしのきく年でもない。――力で抑えつけるに限りますよ。ぐわんと、一度、こちら側の、力のほどを、思い知らしておかぬことには」
廊の端に、足音がした。二人は、眼まぜと共に、むずかしい顔を作って、口をつぐんだ。
将門は、ぬっと、室の外に立った。そして、叔父たちの視線に視線をもってこたえた。しかし、努めるように和なごませて、
「お邪魔します」と、一隅に坐った。
将門を案内して来た家人たちは、付け人みたいに、彼の背をにらまえたまま、廊の間にかしこまっていた。
「やあ、将門か。もっと、寄らぬか。そんな遠くに、屈かがまっていることはない」
良兼は、さりげなく、あしらった。――が、良正は、きのうからの事もあるし、嘘にも、仏いじりをしている良兼とちがい、平常でも、武勇を以て、近郷に鳴っている男である。てんで、甥の将門など、眼のうちにもないように、横を向いて、酒をのんでいたが、
「何しに来たのだ。何しに? ……」
と、いきなり将門の方を見ていった。
将門の全身が、感情にふくれて、丸くなったように見えた。が、彼は、手をつかえて、自分の烈しい面色を隠すように俯向うつむいたのであった。
「帰国以来、つい、ご無沙汰しておりました……で、いちどは、ごあいさつに出なければと、思いまして」
「礼に来たのか。多年の礼に」
「……え。……まあ、そうです」
「まあとは何だ。夙とくに、石田の大叔父へも、ごあいさつに伺うのは当然だ。行って来たのか」
「いえ。まだ、参りません」
「なぜ行かん。ここへ来るなら、通り道ではないか。すべてのやり口が、和主わぬしのは、取ッちがっておる。用でもない郡司や近郷の有象無象うぞうむぞうを、帰国披露目に、豊田へ招いたりして。――そんな見得より、なぜ、恩義のある大叔父の館へ、永々、留守中には、えらいお世話になりましたと、いって歩かないか」
「……とは、思いましたが」
「将門っ」
「は」
「奥歯に物のはさまったようないい方をするな。貴様は、何か、思いちがいしているな。へんに」
「…………」
「よろしいか。よく聞けよ。十数年という永い間、とまれ、将頼以下の、父ててなし子、幾人も、あのように、無事、成人させて来たのは、たれの情けか」
「…………」
「そればかりじゃない。もしまた、われら叔父共の庇護がなかったら、兄良持の遺した土地といえ、館といえ、牧場といえ、あの通りに、難なんなく、今日まで、貴様たち兄弟の手に、残っていると思うのか。――とんでもないやつだ」と、良正は、手にしていた杯の中へ唾つばするようにいって、それを仰飲した後、またいった。
「そんな甘い考え方だから、ひいては、恩義は忘れて、逆さかうらみなど抱くようにもなる。――この広い坂東の曠野では、毎日、東から陽が出て、西に陽が沈んでいるだけのように、貴様などの眼には、見えるかもしれぬが、どうして、間まがな隙すきがな、那須、宮城みやぎなどの、東北の俘囚ふしゅうや、四隣の豪族が、一尺の土地でも、蚕食しようと、窺いあっているのだぞ。――それを十数年の間、防ぎ守ってくれたのは誰だ。いや、たとえ、以前のような宏大な田領、荘園はいささか減ったにしても、都から帰って来て、さっそく、住む家にも困らず、耕す土地もあり、家名も郷土に存続しているという大恩は、たれのおかげか」
「お、おじ上、ちょっと、待って下さい」
「だまれ。それから答えてみろ。たれの力が、四隣の狼から、土地や館を、防ぎ、守っていてくれたかを」
「わ、わかっています。……けれど」
「わかったら、それでいい。分ったといいながら、何だ、その涙は、……ぼろぼろ、何で涙を出すのだ」
「そう、仰っしゃるなら、私も、申します」
「なにっ」
「たれの恩だ、たれの情けだと、仰っしゃいますが、その事は、私ども兄弟が幼少であったため、父の良持が、肉親のあなた方を信じて、死……死ぬまえに……父が、たのむと遺言し……あなた方は、死んでゆく者に、心配するな、かならず、子らが成人の後には、荘園も、拓いた土地も、返してやると、誓って、お預り下されたものではありませんか」
「そうだ。……だから、今日、貴さまは、豊田の館に、住んでいるではないか。ほかの弟どもも、飢えずに、生きているではないか」
「いや。まだ、返って来ないものがあります。――父が、一代をかけてきり拓いた土地、功によって賜わった相伝の荘園。それらに附属している太政官の地券、下文、国司の証など、遺産の大部分は、返していただいておりません」
「つけあがるなッ」呶喝どかつして、良正は、杯の酒を、ぶっかけようとしたが、良兼が、あわてて、手くびを抑えた。
「これこれ、将門。肉親だからいいようなものの、そんな得手勝手は、いうものではない」
「得手勝手でしょうか。――叔父御たちでなく私の方が?」
「何。何だと。これ……おまえはな」と、良兼も、勢い、自己の利得の防禦に立たざるを得なくなった。いや、自分たちで分割横領した土地の正当化を、ここで弁じておく必要に迫られたのだ。
「返せの、返らぬのと、単純に、いっているが、広大な田領を多年、守ってくるには、それだけの、犠牲があるのだぞ。国香殿でも、ここにいる良正でも、その為には、何度、隣郡の侵入者や、俘囚の族長などと、血をながして、喧嘩や、争いもしたか知れぬ」
「それは、それです。お返し下さる以上は、将門始め、弟共も、終生、それは御恩に感じ、また、叔父御たちのお家に、一朝、変乱のあるときには、いつでも、弓矢を帯たいして、まッ先に駈けつけようというものです。――不幸、将門は幼少で覚えていませんが、母方の親類共のはなしでは、かつて、あなた方が、この常陸、下総の地に、微力で立ち、あまたの敵や、俘囚の勢力の中で、悪戦苦闘されていた頃には、私の父良持が、自分の分身とも思って、あなた方を助けて、ついにこの筑波山以東以北のひろい平野を、あなた方の領野にしたのだと聞いております」
「た、たれがいった、そんな事を」
「たれでも、世間では、知っています。――父が、あなた方に遺孤いこを托したのも、それがあるからです。よも、間違いはあるまいと信じたのでしょう。私を、忘恩と仰っしゃるなら、その前に、あなた方こそ、死者の遺托を裏切った忘恩の徒ではありませんか」
「生意気なっ」
こんどは、間にあわなかった。呶鳴ったのは、良正である。良兼がとめるすきもなく、突っ立って、良兼のうしろを跨ぎ、
「忘恩といったな。叔父にむかって、悪罵したな。この青二才め」
将門の左の肩へ、彼の大きな足が、蹴ってきた。将門は、その足を、両手でつかまえた。そして、彼が腰を立てるのと、良正が、そこらの高坏たかつきや銚子ちょうしを踏んづけて、仰向けに、ひっくり返ったのと、一しょであった。
「やったなっ、将門」
良正は、吠えた。しかし良正が、起き上がるまえに、廊の間にひかえている家人たちが、おどりかかって、うしろから、将門に、くみついていた。
虫籠の女人
頑丈な曲輪造りの家も、一瞬、家鳴りに似た物音と、獣じみた人間の呶号に、揺すぶられた。
――が。一瞬にそれは、ハタとやんだ。
そのあとの、凄愴せいそうなしじまの下に、将門のうめきが聞えた。いや、断続してしゃくり泣く彼の異様な声だった。また、その周りに、眼や唇を、血だらけにしたり、袖や袴はかまを、ほころばしている幾人が――まっ蒼な顔を持ったまま、しばらく、大きな息を、肩でつきあっていた。
「……ち、畜生め。……甥だとおもって、よいほどにしておけば」
良正は、やっと、口がきけて来たように、呟いた。そして、大勢で滅茶滅茶に撲ったり蹴ったりして、半殺しの目にあわせた将門の姿を、そのもがきを、いつまで、にらみつけていた。
「立てっ。さ。もう一ぺん立って、今みたいな口をきいてみろ。――将門っ。どうした。立てないのか」
良正、良兼、はじめ、人々はようやく、あたりの杯盤の粉々になっているのや、仆れている壁代かべしろなどに気がついて――自分の鼻血を袖で拭いたりした。
将門は、身を揉んで、まだ、哭なきむせんでいた。
「たわけ者が」
良兼は、家人けにんへ、いいつけた。
「せっかくの酒もりも、だいなしだ。つまみ出してくれい。この甥を」
物音に駈け集まっていた家人郎党は、十人をこえていた。将門を、かつぎかけた。よほど、荒っぽく、袋叩きにされたとみえ、将門は、立ちも得ない。無念を、もがくだけだった。
「まてまて、まだ」
良正は、彼をかついで、歩き出す群れをとめて――
「将門。わすれるなよ。きょうのところは、ゆるして帰すが、これが、青空の下だと、おそらく、生命いのちはなかったはずだ。……きのうも、河原畑に、家人の景久が建てておいた高札を、ひき抜いて、毛野川へ抛ほうり捨てたとか。――あの一条でも、ほんとは、豊田の館へ、わが家の郎党が、押し襲よせてゆく理由はある。襲せたがさいご、何百騎という荒武者だ、この叔父共が、止せというても、止まらぬぞ。……よいか。この後とも、無分別はいましめろ。つまらぬまねして、下の弟共に、泣きを見せぬがいい」
と、四肢の自由を失っている彼の耳もとへいってきかせた。
将門も、何か、死力をふるって、喚こうとしたが、とたんに、長い廊の橋をこえて、戸外そとの広前へ、かつぎ出されていた。
「どうする……?」と、そこで、郎党たちの相談だったが、やがて、面倒だとばかり、館の門を出た所の崖際がけぎわから、下へ向って、将門を、抛り捨てた。
崖は急だが、巨おおきな杉が、密生しているので、彼の体は、すぐ途中の木の根に、ひっかかった。
「……うごいている。死にはしない」
上で、郎党たちが、いって去ったのが、将門に、聞えていた。が、意識のそのほかの何ものもとらえ得ない。空くうをさぐっているような気はするが、その手にも知覚がない。
一つの木の根から次の木の根へズルズルと転がった。痛いと、思い、首をもたげることができた。
「……うごいてはだめ。うごいてはいけません。下は、流れですから」
たれか、どこかで、いっている。まったく、時間の経過を無知覚でいたらしい。真っ赤な夕空が、黒杉の梢のすきまを鮮らかにしている。夕露が、肌に沁む。
「いま、行きますからね……。もがかないで」
声が近い。いや近づいてくる。将門は、とろんとした眼を上へ向けた。
一所懸命に、少しずつ、生命がけの冒険に臨んででもいるように、上から降りてくる者がある。昼見た、袿衣の人である。良兼の郎党が、玉虫どのとよんだあの女性にちがいない。
「あ……?」愕然とし、おもわず、将門は下から、
「あぶない」と、さけんだ。
さけぶまでに、意識がはっきりすると、全身の痛みも、熱をおびて、彼を、唸うめかせた。大きく、何度も唸うなった。唸ると、楽である。
玉虫は、ついにそばまで、降りて来た。彼女は、彼に気力をかして、ここから上がるようにすすめたが、だめだった。といって、彼女の嫋なよやかな腕では、将門の体を、どうしようもない。
「つれて来た梨丸という小冠者が、正門の石段の下で、待っています。その梨丸に、知らせて下さい」
将門は、やっといい得た。彼女は、もいちど、袿衣の裳もが、綻ほころぶのもいとわず、崖をのぼって行った。そして、やがて梨丸をつれて来た。空の茜はうすれて、夕星が見え出していた。
ようやく、将門を、連れ上げて、梨丸は、主人のからだを、背にかけた。高い、暗い、石だん道を、玉虫は、途中までついて来ながら、いたわった。そして、その傷ましい主従の影が、麓の夕闇と一つになるまで見送っていた。
――ふと、人の気はいを感じて、彼女は、石だんを、上へ、戻った。ところが、そこには、彼女にとって、ひどく気まずい人物が渋面をつくって佇んでいた。もちろん、彼女を所有している肉体の主人である。その良兼は、仏教信者でもあるが、また、妻以外に幾人もの女を抱えては、この山荘の局に飼っておくのが、無上な道楽でもある人物だった。
玉虫は、かつて彼が、官途の公用で、上洛したとき、左京の常平太貞盛の案内で、江口の遊里にかよい、ついに、莫大な物代と交易して、東国へつれ帰った女なのである。
家人から聞くと、昼も、その玉虫の局に、将門が、話しこんでいたというし、今も、局を覗いてみると、玉虫の姿が見えない。そして、ここのこの有様なのである。
将門も、都にいたのだし、その将門のすがたを、江口の遊里で、見かけたこともあるというはなしを――かつて、貞盛から、聞いてもいたので、良兼は、初老の男の駆られやすい、ひがみと嫉妬に、むらっと、燃えた。しかし、それをすぐ口に出して、安直な気やすめを急ぐような彼でもなかった。
「何しているのだ、こんな所で。……また、良正と二人して、そなたの琵琶でも聞こうと思うて、さっきから探させていたのに」
「…………」
玉虫も、くすぐったそうに、笑うだけで、すみませんとも、いいはしない。彼女には充分彼女の自信みたいなものがあり、おいやならいつでも都へ帰ります、というのが口ぐせなのである。
「おいっ。どこへ行くのだ、どこへ」
さっさと、彼女が、ひとりして、先に、歩き出したので、良兼が、追いかけるように、いうと、玉虫は、投げやりに、うしろへ答えた。
「だって、女には、お化粧がありますのよ。こんな恰好で琵琶をひけの、また、舞えのといっても、ごむりでしょう」
良兼は、にが笑いしたが、彼女が、局に入るまで、彼女の虫籠である住居の小壺にうしろから尾いて行った。
月と水
野霜の翁――具足師の伏見掾ふしみのじょうは、夜業よなべをしていた。
源護の嫡男、扶から、誂あつらえられていた一領の鎧を、きのうも、大げさに、催促されていたからだった。
三ヵ所に、灯皿ひざらを架け、その乏しい灯の下ごとに、背をまろくして、老いたる妻や、娘や、二人の弟子なども、膠にかわごてを使ったり、おどしの糸を綴つづったり、みな、精を出しあっていた。
「……どうなすったろうの。豊田の小殿は」
ふと、思い出したように、伏見掾が、つぶやいた。きのうの朝、夜明けと共に、ここを立った将門のことが、きょうは、家族たちの口に、何度も、うわさにのぼった。
「きょうも、ここの道を、まだ、通られはしなんだのう。――たれか、お姿を、見たものは、あるか」
媼もいった。弟子たちは、顔を振った。縅おどしの染め糸を、白い掌に、揃えては、綴じ板にならべていた娘だけは、無関心のように、うわさの、外にいた。
「ここの道を、おつつがなく帰るお姿を見るまでは、何となく、気にかかることではある。……あの叔父御たちの、肚ぐろい企たくらみが、小殿の方にも、うすうす分っているらしいだけにな」
翁のことばについて、弟子達も、水守の良正や、羽鳥の良兼の悪口を、不遠慮に、いい出した。奴婢を、牛馬のごとく、ムチで追い使うことだの、その家来たちまで、市いちへ来ても、部落を通っても、肩で風を切って、あるいているとか、また、註文の武具を、納めに行っても、一度でも、文句なしに、取ったことはない。工匠たくみの良心などは、わからないで、価の安い高いばかりいうとか……いい出すと、きりもない程、弟子たちは、しゃべった。
「いやいや、あの二人は、まだ良い方なのだよ」
と伏見掾はいった。媼や、弟子が、意外な顔つきをすると、翁は、「そうだとも……」と、自問自答して、仕事の手をつづけ、やがてまた、いい足した。
「――ほんとに、お肚の悪いのは、石田に住む常陸大掾国香さまじゃ。豊田の良持様の大きな御遺産を、あんぐり、呑んでおしまいになって、ほんの僅わずかを、良兼、良正様へ、くれておやりになっているに過ぎぬ。……だが、御自身は、そ知らぬ顔して、何もかも、良兼、良正のお二人にやらせているという狡さ。よくいう古狸というのは、ああいうお方の事であろうよ」
遠くで、さかんに、犬が吠える。野盗のそなえに、この部落でも、犬を飼っていた。――娘は、白い顔を、灯皿の翳かげに、ふと下げて、脅おびえるような、眸ひとみをした。
「仕舞えや。眠ろうぞよ、もう」
細工場を、片づけ、あちこち、広い家の戸じまりを、手分けして、しはじめている時だった。
土塀門を、たたく者があった。
弟子が、二人して、覗きに出た。馬のいななきが聞える。雨気をもった低い雲間に、もう夜半をすぎた月が、ぼやっと、ほの白い。
「たれだえ。……どなた?」
「梨丸です。――豊田の将門様の召使で、おとといの夜、お世話になりました、あの主従です。夜更けに、おそれいりますが」
「え。将門様ですって」
「そうです。あのときの、おことばを思い出し、これまで、急いで、戻って来ました」
「やれ。ようこそ」と、翁は、尻ごみしている弟子たちにむかい、
「はやく、小門をあけて、お通し申さぬか」
と、叱った。
やがて、梨丸が、将門を、背に負って、はいって来たのを見て、翁も媼も、初めて、顔いろを、失った。……娘は、茫然と、片すみに、立ちすくんだ。
梨丸は、馬の背に、主人をのせて、からくも、あれから水も飲まずに、野路から野路を、これまで引っ返して来たのである。驚愕してむかえる家族たちに、あらましを、無念そうに語って、将門の体のいたみが、やや癒えるまで、どうか、一室をかして下さるまいかと、頼むのであった。
もとより、ここの家族に、否やはない。挙げて、将門主従に、同情をよせ、その夜から薬餌やくじ、手当に、夜も明かしたほどである。
「なに。たいした事はない。だいぶ、心もおちつきましたし」
朝になると、将門は、家族たちに、感謝して、その日のうちにも、豊田郷へ帰るような事をいい出した。伏見掾は、以てのほかな顔をした。
「お気がねなさるのでございましょう。ところが、私共には、よろこびなのです。先夜も、お物語りいたした通り、小殿のお父上良持様には、どんなに、お世話になったことやら知れません。幾年いくとせの後、はからず、一夜のおん宿を申しあげるのも、尽きぬ御縁です。良持様のわすれがたみでお在わすあなたに、こう、傅かしずき申しあげることが、人の世のよろこびでなくてどうしましょう」
翁のことばは、そのまま、ここの家族の、真心な世話ぶりに出ていた。将門は、気がゆるんだせいか、その日から、大熱を発した。次の日も、夢うつつな、容態であった。
すこし、意識づくと、彼は、無念そうに、泣いてばかりいた。泣くことに、そう、人前をはばからなかったのは、この時代――平安朝期の日本人のすべてであったが、幼少から特に、癇が強くて、泣き虫な将門であった。その将門が、たまたま、こんな奇禍のあとに、思いがけない曠野の家の人情にふれて、すっかり、幼児のような心理に返っていたのかもしれなかった。またそれ程に、日頃から、愛情に飢えていた彼でもあったにちがいない。
けれど彼は、三日目ごろから、意識的に、泣くのをやめた。と、いうのは、いつも彼の枕許に、看護みとりしているこの家の小娘が、彼が泣くと、共々泣いて、果ては、しゅくしゅく、袂たもとに、嗚咽おえつをつつむからである。
娘の名は、桔梗ききょうといった。もちろんまだ二十歳はたちをすぎていない。弟子たちは、桔梗さまと呼んでいる。
「桔梗どの。なぜ、お泣きになるんです」
将門は、ある折、彼女にそういった。病人と看護する者の間ほど、心と心との接近を、急速にするものはない。
「だって、将門様が、お泣きになるんですもの」と、桔梗は、はにかみながら答えた。
「ひとが泣くのに、何も、つきあって、一しょに泣かないでもいいんですよ」
「おつきあいではありませんよ。泣きたいから泣くのですもの」
「どうして、泣きたくなるのですか」
「でも……。あなたが、お泣きになるから」
「では、おれが泣かなかったら」
「私も、泣きますまい。けれど、将門様は、心のうちでは、時々、お泣きにならずにいられないのでしょう」
「そうかも、しれない」
「そうしたら、私も時々、心のうちで、泣かずにいられなくなるかもしれません」
「え。どうして」
「なぜでしょう。あなたのお心が、だまっていても、私には、いちいち、月と水のように、すぐ映ったり、揺れたりします」
「桔梗どの。……ほんとに」
「え。ほんとに」
「ほんとなら。……」と、彼は手をのばした。そして急に、むくっと、身を起しかけたが、
「……痛い」と、顔をしかめて、からだを、折り曲げた。
「あれ。いけません。急にお起きになっては」
桔梗は、彼を抱えて、寝かしつけた。それは、弟をいたわる姉のようなしぐさであった。

体は快よくなった。もう、身うごきに、不自由はない。
留守をしている豊田の弟共も、さだめし、案じていることだろう。帰らなければなるまいと思う。が、帰りたくない思いもする。
同じ容子が、桔梗にも見える。
うすうす、知っているかのように、野霜の具足師の老夫婦は、なお将門に親切であった。客人としてでなく、家族あつかいの、温かさである。
「自分の館でも、このように、朝夕、揃って、飯時めしどきに笑えたら」
羨ましいことに思った。団欒だんらんの中でも、彼はふと、箸はしを持ちわすれたまま、桔梗の横顔を見てしまうことがある。
豊田へは、梨丸を使いに出して、心配するなといってやってたのに、その梨丸について、弟の将平、将文の、二人が迎えに来た。
将門は、それを機しおに、伏見掾一家の者に、礼をのべて、弟と一しょに、野霜の部落を立った。
「わざわざ、二人も揃って、迎えになど来なくても、よかったのに」
毛野川の渡舟わたしの上で、将門は、いった。
桔梗の面影が、頭から消えない。眼のまえに弟たちを置いても、彼女の顔が、重なって見える。もう一日はいたかったのに。――
未練の不機嫌が、いわせたのである。
「――が、留守中にも、何も変りはなかったか」
「え。べつに。……お留守中は」
弟たちは、兄がこわかった。都から帰って来たこの兄には、自分たちには、量はかり知れない新知識が備わり、充分な人生体験と、将来の抱負もあるものと、鑽仰さんぎょうしていた。父に代る太柱ふとばしらが立ったように、力としていた。
「将頼は、どうしている? ……気の弱い将頼だ。心配し抜いていたろうな。――が、おれはこの通り、何ともない。叔父共ぐらい、束たばになっても、怖れはしないよ」
叔父の事を、口にすると、将門の眼は、眼の底から、無意識に燃えだした。筑波の山影を、はるかに、振りむいて、しばらく、ものもいわなかった。
ふとまた、われに返って――
「またも途中で、万一があってはと、梨丸がいるのに、お前たちまで、迎えによこしたのは、将頼のさしずだろう。そんな取り越し苦労はするな。お前たちまで、将頼みたいに神経が細くなってはいけないぞ」
「いえ。ちがいます」
「何が、ちがう」
「私たちに、兄上を、早く連れて来いと仰っしゃったのは、都から来ているお客人です」
「都の客人?」
「え。ずっと、泊って、兄者人のお帰りを、豊田の館で、待っておいでです」
「ばか。それなら、そうと、なぜ早くいわないのだ」
「将門を、びッくりさせてやるのだから、会うまでは、黙っておれと、固く、お客人から、口止めされたものですから」
「そういうのを、馬鹿正直と、都ではいうのだ。冗戯をまにうけるやつがあるものか。して、そのお人の名は、何と、聞いたか」
「お名は、伺っておりません」
「将頼からも、聞いていないのか」
「ええ、将頼兄も、知らないようです。けれど、偉い人らしいといっていました」
「年ごろは、幾つぐらい」
「四十ぐらいかと思います」
「一人か?」
「え。お一人です。けれど、太刀も立派なのを横たえ、都の人々でも、左大臣家の誰彼でも、この地方の国司、郡司でも、みな呼び捨てになさいます。――そして、酒がお好きで、朝から飲んでは、将頼兄をつかまえて、一日中、杯を離しません。都はおろか、九州の果てから、この坂東地方の事まで、じつによく何でも知っていると、将頼兄も舌をまいて、尊敬しておりましたよ」
「はてなあ。誰だろう」
将門には、思い当りがない。左大臣の使いなら、供の四、五名は連れているはずと思う。
それにしても、氏うじも素姓もしれない旅の人間を、館へ泊めておくばかりか、朝から酒を出して、傅いている将頼や、この弟たちの、無批判と、世間知らずには、唖然とした。これでは、あの叔父共が、悪心を起したのも、むりはないと考えられた。彼は、自分を、世間知らずのお人好しとは思わない。それどころか、余りなお人よしは、周りに、悪人を作るものだとさえ気がついた程だった。そして、歯がゆい弟共に、腹が立つと共に、
(都も都だし、田舎もこれだ。正直者が正直に住める地上など、ありそうもない。――その中を、下の弟五人も抱えて、世に剋かってゆくには、叔父共の上を超えた肚ぐろさも、持たねばだめだ。よし、おれだけは)
おれだけはと、将門は、肚にちかった。
豊田の孤児六人で、あの叔父共を見返してやる為には――と、自分の性情にはない性情を持とうとした。――成ろうと思えば、叔父共以上な無慈悲な悪人に成れないことはないと、思いきめた。
良兼、良正を、筑波に訪ねて、彼が肚にもって帰ったものは、それだった。いや、それと、左の眼の下に、うす黒く残った撲傷うちみの痣あざであった。  
飄客
豊田の館へ、帰った晩。彼は、よろこび迎える家人や奴僕に、一わたり、無事な顔を見せて後、すぐに、
「都の客人とは、どこにおるのか」
と、将頼にたずねた。
咎めている彼の眼つきも覚らず、将頼は、いそいそと、
「もう、四日も泊って、毎日、待ちわびておられます。奥の客殿で」
と、もう先へそこへ走ろうとする。
「待て待て将頼。おれが、面つらを見とどけてからにしろ。こんな遥かまでおれを訪ねて来る都の知人など、心当りもない。どうも、うさん臭い」
将門は、奥へ行って、廊ろうの間まの壁に身を寄せ、そっと、客の人態にんていを、覗いてみた。
――なるほど、見馴れない奴がいる。
しかも、飲んで飲んで飲み飽いたという風に、杯盤や、肴の折敷おしきを、みぎたなく、散らかしたまま、のうのうと、手枕で、横になっているのだった。
「……?」
将門は、不快と、怪訝いぶかりに、思わず左の手で、太刀のさやを握った。燭は、二ヵ所にもまたたいているが、生憎あいにくと、あいての寝顔が見えないため、ずかずかと、男のそばまで、歩いて行った。そして、その図々しい寝顔を、真上から覗いた。
「……おや?」
と思ったとき、反射的に、男も眼をあいた。
熟柿のような顔の眼は、まだ、いくぶんか、とろんとしている。が、将門は、錐きりみたいに見澄ました。そして、彼より先に、思い出したものらしい。その声には、懐かしさをこめていた。
「あっ、不死人ではないか。――八坂の不死人」
「おう、帰ったのか。小次郎」
男は、むっくり、起き上がった。将門の手へ、手を伸ばした。そして固く握りあった。胡坐あぐらと胡坐を対むかい合せ、顔と顔をつき合せ、二人は茫然と、相見てしまった。
「しばらくぶりだなあ。小次郎。いや近ごろは、将門といっているそうだが」
「うム。お久しぶりだ。まさか、客が和主わぬしとは、思わなかった」
「驚いたろう」
「正直。驚いた」
「あはははは。まあ、健在で何よりだ。なるほど、都でも聞いていたが、貴様の館は、大したものだな。さすが、坂東の豪族、桓武天皇の御子、葛原親王かつらはらしんのうの末――平良持がいた頃の勢力がうかがわれる。貴様はその総領息子じゃないか。――おいっ、しっかりしろよ」
「しているよ。しっかり、やっている」
「うそをいえ。――留守中、弟たちに聞けば、親の良持が遺のこした荘園や家産は、あらまし叔父共に分け奪とりされてしまったというではないか。しかもまた、数日前、羽鳥の良兼の館で、貴様、袋叩きの目に遭ったとも聞いている」
「知っていたか。察してくれ。残念で残念で堪らない。この無念をどうしてはらそうか。そればかり考えて帰って来たのだ……いいところへ訪ねてくれた。おいっ、将頼、いちどここを片づけさせて、改めて、酒を運べ。おれも飲みたい」
弟たちには、兄と客が、どういう関係なのか、分らなかった。在京中の親友だろうくらいに想像した。家人は、燭を剪きり、席を清めて、高坏や銚子を新たに、持ち出した。
その間も、不死人と将門は、ひッきりなしにしゃべっていた。話したい事、聞きたい事が、山ほどあって、何から、纏綿てんめんの旧情を解くべきか、どっちも、思いに急せかれている姿だった。
叡山の約
まだ、将門が都の左大臣家にいた頃。――一年ひととせ、藤原純友が、伊予ノ国へ帰るというので、友人ども大勢が、一舟いっしゅうを棹さおさし、江口の遊里で、盛大な壮行の宴をひらいて、夜もすがら大乱痴気らんちきをやって別れたことがある。
不死人と、会わないのも、それ以来の――久しいことだった。
ひとつには、将門が、左大臣家から滝口の衛士へ、役替えされたためでもある。
その間に、左大臣家にあだした八坂の仲間が検挙され、首魁の不死人は刑部省の牢で獄死したと、噂された。
その後、純友が二度目に上洛したとき、将門は、彼と叡山の一角へ登った。酒を酌みながら、共に、青年客気かっきの夢に酔い、平安の都を、眼下に見て、
(みて居給え。いまに、南海の一隅から、大事を挙げる天兵があるぞ。貴族政治の腐敗の府を揺り潰つぶし、天下の窮民に、慈雨と希望を与える者が現われたら、それは伊予の純友だと思ってくれ。――君も坂東の曠野に生れ、しかも、帝系の家の御子ではないか。純友、西に立つと聞いたら、君も、東に立て)
こう、情熱の賦ふを歌われて、将門も、
(うん。君のいう通りだ。君のいう事を聞いていると、じつに、愉快になるよ)
と、いった。
純友は、片手に杯をあげながら、
(じゃあ、今日の誓いを記念しよう。君も、杯を持て)
といい、二人して、乾杯した。そして、呵々かか、大笑した。――都の春の一日には、滝口の小次郎に、そんな記憶も遠くあるにはあった。
(不死人の生死が分らない。分ったら、伊予へ、知らせてくれ)
とは、そのとき純友から初めて聞き、また、依頼もされた事だった。そのため将門は、刑部省の獄司、犬養善嗣をたずねて、探ってみたこともある。しかし、八坂の仲間とも、連絡が絶え、不死人の消息も不明のまま、以来、忘れるともなく忘れていた。――殊に、帰国の後は、生活も頭も一変していた。それどころでない事々日々に追われ通している。
「……時に。おれの事ばかり、問われたり話したりしているが」と、将門は、酒景の一新したところで、あらためて、客に杯を呈し、話題を、不死人の身の上に向け更かえた。
「いったい、和主は、その後、どうしていたのだ。――獄死もせず、生きていたことは、今、眼に見ているが、この坂東の遠くへまで、将門を訪ねて来たには、何ぞ、仔細がなくてはなるまい」
「それはあるとも。たれが、的あてなく、こんな遠国へ来るものか。いかに、小次郎将門がなつかしいとて」
「聞こうではないか。まずそれを……」
「ひと口にいえば、藤原純友の使者だ。じつは、この春、瀬戸の室むろノ津つで純友と落ちあい、いちど東国へ下って、小次郎将門と、往年の約を、そろそろ実行に移す準備にかかってくれと、いわれて来た」
「往年の約とは」
「和主と純友とが、杯をあげて誓ったとかいう――叡山の約だ」
「待ってくれ。べつに、おれは何も、約束はしないが」
「いや、純友は、打ちあけた。おれだけにはと、その秘密を」
「そうかなあ……。そうかなあ? あの時」
将門は、首をかしげた。
共に、酒中、虹のような気を吐いた事は覚えている。純友が、腐敗貴族をののしり、慨世がいせいの眼まなじりをあげて、塗炭の民を救えとか、救世の慈父たらんとか、くだを巻くようにいったのも、記憶にはないことはない。
けれど、それは、純友の十八番おはこなのだ。酔えば必ず出る語気や涕涙ているいであって、叡山の日と限ったことではない。ひとつの慷慨癖こうがいへきだろうくらいに将門は受けとっていた。多少、自分の方にも、世にたいして、彼と同様な、不平や憤慨もあるので、飲むにも、歌うにも、怒るにも、伴奏的な乾杯はしたが、天下顛覆てんぷくの密盟などを、そんな酔中に、あっさり結ぶわけもない。それを「叡山の約」などと、物々しく、今ごろ持ちこまれては、まごつかざるを得なかった。将門は、返辞に困った。
「むむ。……そういえば、純友は、大望めいた事をよくいっていたが、瀬戸内で海賊を働いた前科もあるから、おれは、その事かと聞いていたのだ。叡山の約とは、何をさすのだろうか」
「あはははは。隠さんでもよい。おれも一味の人間だ」
「でも、それについて、使いに来たというのは?」
「まあ、そう性急に、片づけるにも及ぶまい。おたがい、遠大な計をもつ身だ。当分は、厄介になるつもりだから、折を見て、また篤とくと、談合しよう。……それよりも、その後はどうだ。……え、将門。あの江口の遊宿やどの草笛みたいな君には、その後、出会わないのか。あはははは。まだ、独身ひとりみだというじゃないか。意気地がないな、いつまでも」
狼友
かなわない。どうにも、五分に取組めない。不死人と彼とでは、大人と子どもだ。
もっとも、十六の春、将門が都の土を踏んだその日、へんな尼に、誘拐かどわかされて、祇園の森に、連れこまれた晩――そのときすでに――八坂の不死人は、焚火をかこむ、怪しい夜の人種のうちでも、頭目と立てられていた盗賊の大人であった。
(かなわないのも、むりはない……)
将門は、肚はらの中で、かぶとを脱いだ。と同時に、不死人が都においての神出鬼没ぶりを思い出して、急に、酔が寒気さむけに変った。――都に遊学した最初の日からの妙な機縁で、この男に、酒の味を教えられ、この男の、情的な一面に、親しみ馴れて、いつか、恐さもなく、またなき友みたいに、交わって来たが、考えてみると、これは大変な珍客である。
弟共に、彼がまだ、素姓を名乗っていないのは、倖せだった。彼の前身は、知らすべきでない。まして、仇敵の叔父共に知られたら、ゆゆしい事になろう。自分を葬る悪宣伝には、絶好な事実だ。将門は、とつおいつ、酔えもしない思いになった。
「……おいっ。どうした。酔わんじゃないか、さっぱり」
不死人は、ひとり杯をかさねて、
「女気がない館は、なにやら淋しい。なぜ、北の方をもらわないのだ」
と、眼をすえて、酔わない相手の顔を見つめた。
「いや、そのうちに、娶もらうよ」
将門は、ちょっぴり笑った。桔梗を、胸に想い出していた。
「娶もてよ、早く。青春は短い。未来の大望にでもかかると、馬上、花をかえりみる間もないぞ。……たれか、あてはあるのか。恋人は」
「ない事もない」
「それやあいい。安心した。――安心したところで、今夜は寝よう。愉快さに、おれは、思いやりを忘れていた。和主わぬしは疲れていたろうに。勘弁しろ、勘弁しろ」
始末のいい客ではあった。けれど、どこかに、餓狼がろうの風貌がある。薄く巻き上がっている腹の中へ、いつ鶏や兎を貪むさぼり入れようとするか知れたものではない。
将門は、翌日、弟たちへ、こう告げた。
「ものいいは、荒っぽいが、おもしろいお人だろう。あれでも、都では、五位蔵人という立派な朝臣の御次男なのだ。ただ大酒と放埒ほうらつのため、官途が勤まらないで、つい公卿くげくずれみたいに身をもち崩してしまわれたらしい。……だが、おれの遊学中は、親切にして下すった。皆も、大切にしてあげてくれい。当分、東国巡りをして帰るつもりだろうから」
弟たちは、疑わなかった。
将門は、ただ一つの満足を、この弟たちが、揃って頷く顔に見た。無条件に、兄を信じているその従順さである。兄以上、世間知らずの素朴さだ。責任を感じる。彼は、この顔の一つ一つの上に幸福を持たせてやらなければならないと、重荷を思う。
「兄者人あんじゃひと。……お客人の、お名まえは」
末の七郎将為が、ふと、訊いた。
「あ。そうそう。お名は、藤原不死人。――遊んでいるから職名はない」
答えながら、毛穴のどこかが、汗ばんだ。
当の不死人は、昼からもう飲んでいる。将門は、またつかまると、座を抜けられない気がしたので、
「今のうちに、国庁こくちょうまで行って来るぞ」
と、梨丸と子春丸ししゅんまるの、童僕ふたりに、馬の口を把らせ、数日前の事件もあるので、ほかに郎党十人ほど、後ろに連れ、国司の庁へ、出向いて行った。
何か知れないが、留守中に、出頭するようにとの、通達が来ていたのである。庁の所在地までは、一夜泊りの往復だった。悪くすると、大掾国香や良正あたりから、先手廻しをして、訴訟でも出ているのではないかと思われ、将門は、恟々としながらも、相手の虚構をいい破ることばを、途々、無数に用意していた。
予想は外はずれた。だが、吉いい事のほうに違っていた。
太政官下文くだしぶみの示達をもって、中央から彼にたいし、辞令が届いていたのである。
七位允シチヰノジヨウ、前サキノ滝口ノ平タヒラノ小次郎将門ヲ以テ、相馬御厨ミクリヤノ下司ゲスニ叙ジヨス。
と、ある。
将門は、意外なだけに、歓びが、大きかった。
御厨とは、地方地方の御料ごりょうの荘園である。そこで取れる魚鳥の類や、果実、植物油、野菜などの大膳寮用の調菜ちょうさいを管理して、四季ごとに、朝廷へ送る職名なのだ。
都の朝臣たちにくらべれば、微々たる地方の一小官だが、地方にあっては、どんなに低くても、官職があるとないとでは、住民の信頼も重さもちがう。将門は、多年、酷使された左大臣家の恨みも忘れて、はるかに、小一条の忠平公へ、心を向け、心から恩を謝して、欣然と、豊田に帰った。
弟たちも、欣んだ。家人奴僕も、あげて祝いを述べた。悪いことつづきの古館ふるやかたに、じつに、将門帰郷以来の、ただ一つの吉事だった。それだけに、召使は、郷さとの住民にも、すぐ吹聴ふいちょうしてあるき、全部落のよろこびとなって、門前は、賑わい立った。
だが、これを聞いて、ひとり嘲笑わらったのは、奥にいる狼友だった。
「笑止だぞ、将門。畑や、沼の水鳥の番人を仰せ付かって、何がそんなに、めでたいのだ。もっとも、遠謀の計ならよいが、そう沸わいては、おれまでが、世辞にも何か、一言ぐらい、祝いを述べなければならなくなる」 
むかしなじみ
郷土は祭り好きである。猿島も葛飾も、筑波や結城も、この豊田郡も、何かといえば祭りだった。
館の御子が、太政官下文をいただき、御厨の職をうけられたと聞き、五風十雨ごふうじゅううの喜憂と共に、土着民はすぐ、産土神うぶすながみに集まった。原始的な楽器や仮面を持ちだし、二十五座の神楽を奏し、家々でも餅をつき、黒酒を酌んで歌った。夜は夜で、万燈を一時に消した境内で歌垣の集いをなし、乙女らも、人妻も、胸とどろく暗闇に、男の手を待ち合った。よその良人と、よその人妻と。知らぬ若人と、知らぬ娘と。どう睦むつみ戯れても、祭の庭では、人もゆるし神もゆるし、罪とはしないその頃の習俗であった。太古、この辺の密林に、巨獣が吼えていた頃の人間の遺習を、忘れぬままに、なおしているだけのことだった。そしてそれが無上の楽しみで、都の空も、土にたらす汗も、汗行も思わない土民たちであった。
「じゃあ、将門。自重してくれ。――陸奥みちのくの帰りには、また、きっと寄る。冬を越えて、来年になるだろうが、必ず、立寄るから」
この晩。
不死人は急に、別れを告げた。
東北の奥地――まだ蝦夷えぞ人種の勢力が多分に強い――平泉あたりまで、行くのだという。
目的は金。事を挙あげるには金だ。砂金かねを手に入れて来るというのだ。将門には、地理的な知識もない。眼を瞠みはって聞くばかりである
(――盗みにでも行くのか)
よほど、訊いてみたかった。――が、そこまではいえないでいると、顔いろだけで、不死人は、将門の心を読み取ったように、笑い出した。
「都の怪盗も、都を追われてからは、木から落ちた猿だ。田舎は、おれに働きにくい。変現出没のきかない所だ。将門まさかど、ヘンな顔をするなよ。盗みに行くわけではなく、立派に物代ものしろを携えて、砂金と、交易して来るつもりだ」
「それならよかろうが、しかし、物代は」
「物代は、よその館に置いてある。当ててみろ。何だか」
「分るものか。ひとの館にある物などが」
「ところが、和主は、見ているはずだ」
「おれが。はてな」
「羽鳥はとりの良兼の館に、きれいなのがいたろう。都ぶりの、すこし年はとっているが、二十五、六の女が」
「え。……玉虫か」
「そうだ。いつかの年、大勢して、純友や、紀秋茂きのあきしげや、津時成つのときなりなどが、伊予に帰るのを、江口の遊里さとまで、送って行ったことがある。和主も一しょによ」
「ある。あるが……玉虫とその事と、何の関りがあるのか」
「打ちあけるが、彼女あれはおれの馴じみだった。純友と共に一夜騒いだ家とは、べつな遊宿の女だが、常平太貞盛じょうへいたさだもりは、よく通っていた。その貞盛が、ある折、上洛した良兼を案内したのが縁で、東国へ身を引かされて行った。それが羽鳥に囲われている玉虫だ」
信じられない。彼のいうが如き女性とは将門に、思えないのだ。高貴な、そして優しい親切な女性であった気がする。少なくとも彼の印象と感銘ではそうである。
「いずれ、わかる。とにかく、来年また訪れよう。おさらば……」
夜というのに、彼は、豊田を立って行った。馬の背を借るでもなく、どこへ泊るつもりかと、曠野に育った将門ですら、彼の棲息の仕方には、驚きを覚えた。梟ふくろのように、暗闇と、同化しきっている。むかし、祇園の森の暗がりに、いつも一つの焚火をたいて、怪しい同類をまわりにおいていた彼の存在が思い出された。また、忠平ただひら左大臣を裸にし、愛人の紫陽花あじさいの君を盗み出して、幾日も、どこかに隠しておき、色も褪せるほどにして、また、大臣おとどの閨ねやへ返してやったことなどもある。凄い男というほかはない。果たして、来年また来るかどうか。将門は、何しろ、その珍客を送り出して、ほっとしたような心地だった。
ところが、半月ほどたつと、いやな噂が、耳にはいった。
常陸の下妻しもづままで用達に行った梨丸が、先頃の礼に、野霜の具足師、伏見掾の家へ寄ったところ、そこでも噂に出たし、ほかでも、聞いたというのである。
――というのは、良兼の寵愛しておかない局つぼねの玉虫が、忽然と、羽鳥の館から姿を消した。手分けをして探したが、皆目知れない。その結果、
(これはてっきり、将門の許へ、逃げて行ったにちがいない。怪しむに充分な理由はある)
と、羽鳥の人々が、いい触れたのが動機で、またその憶測おくそくに、尾ヒレがつき、
(事もあろうに、豊田の御子は、叔父御の愛妾を、横奪りなされた)
と、もっぱら、遠方此方おちこちで、取沙汰されているというのだった。
野霜の具足師の家へ来て、それを将門の行為ときめ、人非人だと罵ったのは、源護みなもとのまもるの嫡子の扶たすくであることも、梨丸は聞いていた。その通りを、将門に告げた後、梨丸は、なおいった。
「そんな、ばかな事はない。まるで、嘘ッぱちだ。羽鳥の奴らが、それほど疑うなら、なぜ豊田の館へ見に来ないか。見にも来ないで、何をいうか。――と、私は思うさま、野霜の家で、怒鳴ってやりました。が、そこの翁や媼も、そうであろ、そうであろと、共々怒っておりました。お娘御の、桔梗さまも泣いていました。……残念です。この間も、無念でしたが、きょうは、それにもまさる口惜し涙をのんで帰りました」
将門は、黙然と聞いているだけだった。
――余り気にもかけないのかと、梨丸は、木像のような主人をふと見上げた。怒気とも、泣き顔ともつかない面色が、そこにあった。梨丸は、後悔して、口をとじた。そして涙を抑えながら、主人の前に俯向うつむくと、木像の両眼からも、たらたらと、二すじの涙が垂れた。
黙然人
ある期間、自分だけに誓って、黙々と馬鹿みたいになって働く――ということは、真面目な人物がよく思い立つことである。
一種の自虐じぎゃくだが、当人には、人の窺い知れない自悦じえつもある。
懊悩おうのうのまま年は暮れたが、年もあらたまって、承平しょうへい二年の正月を迎えるとともに、将門は、翻然ほんぜんと考えた。それに似た誓いを独り胸にたたんだ。克己こっきである。馬鹿になろう、馬鹿になろう、である。そして、今にみろ、という目標をたてた。
「これは、気が楽になった」
将門は、自分を、危機から救ったと思った。馬鹿でない自分が、馬鹿みたいになって、その実、孜々ししと、目的に邁往まいおうしてゆく。――やがて五年か十年後には、馬鹿馬鹿とばかり思われていた自分が、はっきりと、馬鹿でない実績を見せて、あの叔父共を、見返してやる。
「おもしろい。黙然人もくねんじんになることだ。もう一ぺん、左大臣家の車舎人となったと思えば、なんでもない」
彼は、世間に耳をふさいだ。家人や奴婢が、外から何を聞いて来て告げ口しようと、笑っていることに決めた。
開拓しさえすれば、新たな農田のうでんは、無限に獲えられた。山林を伐り、沼を埋め、治水に励み、そのとし一年だけでも、豊田郷の面積と農産は、面目を、あらためた。
折ふし、承平二年から三年にかけては、全国的な大飢饉ききんが、日本の緯度を、見舞っていた。
秋には、寒冷がつづき、翌年五月には、杏花きょうかの候というのに、各地で降霜を見、その夏にはまた度かさなる颱風の襲来と、洪水の出現だった。
そのため、二年目の秋には、地方の調貢ちょうこう(税物)が、まるっきり都へ送られなかった。
天皇は、詔みことのりして、常の御膳部の量を、四分ノ一に減じられた。
(――更ニ、服御フクギヨノ常膳ジヨウゼンヲ、四分ノ一ニ減ゼヨ)
という、倹約のために諸卿へ範はんを示された詔は、一年に二度まで、発せられた程である。
おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の蜂起ほうきが、頻々として、聞えた。
内海の海賊は、都の官庫へ輸送されてくる調貢船を狙っては、襲った。
「伊予の純友だ。……純友のしわざだ」
と、それも、都の不安に、輪をかけた。
穀倉院の在庫高は、洛内の窮民に、施粥せがゆの炊き出しをするだけでも、日々、気がひけるほど減ってくる。大炊寮おおいりょうの廩院りんいんでは、財務官たちが、青くなって、全国の庄家しょうけ(荘園役所)にたいし、私田、公田こうでんの徴税と輸送とを、督促するのに、眼のいろを変えていた。
当然、各地とも、徴物使ちょうもつし(徴税吏)の取立てが、苛烈を極めた。
抗するにも、訴えるにも、何ら、法の庇護をもたないこの時代の無力の民は、どんな苛斂誅求かれんちゅうきゅうにも服すしかない。膏血こうけつをしぼっても、出さねばならない。
平安朝の民の、その頃の民謡に。
挿さし櫛ぐしは
十余とをまり七つ
ありしかど
武生たふノ掾じょうの
朝あしたに取り、夜よさり取り、
取りしかば
挿し櫛もなし
わずかな税物の代りに、髪飾りすら、地方の掾の下吏に持って行かれたと嘆いている土民の妻の顔が目に見えるような謡うたである。そのうらみを、後々まで、地方の子等は、無心に、謡っていたものとみえる。
が、櫛はおろか、自分たちの露命をつなぐ、何物すらなくなってしまうと、彼らは、最後の手段として、小屋を捨て、郷を捨て、一家離散して、思い思いに、自分の身を、奴隷に、落した。
寺院であれ、官家であれ、豪族の家人であれ、どこでも、力のある所へ、奴婢奴僕として、奉公するのである。そういう、無籍の民には、税は負わせられない。つまり、身をすてて、税の負担から遁のがれるのであった。
そういう逃散ちょうさんの流民るみんが、将門の豊田郷にも、おびただしく、入りこんで来た。
将門は、追わなかった。むしろ、幸いとして、
「食えない者は、おれと働け、働くところに、飢饉はない」
と、かかえ込んだ。そのため、館の大家族形態は、膨脹ぼうちょうするし、郷民は殖える一方であったが、急開拓の火田法かでんほうなども用いて、およそ二年半、死にもの狂いに、結束して働いた。
世は、承平の大飢饉といわれた程なのに、豊田郷は、この期間に、かえって、富を増した。
朝廷から任ぜられていた相馬御厨からの御料の納物のうもつは、春秋とも、きちんと都へ送っていたし、租税も完納できた。
また、さっそく、種つけし始めた牧の牝馬ひんばは、みな仔を生み、明けて三歳の春駒や、二歳、当歳仔とうさいごが、大結ノ牧に、群れ遊び、むかしに近い景観を呈し始めてもいる。
いや、もっと、大きな力を加えたことは、隣郡の結城や猿島の小豪族が、帝系桓武ていけいかんむの末流という魅力にひかれ、また実際に、彼の努力やら、豊田郷の勃興を見て、将門の館へ、何かと、誼よしみを通じてきたことである。
それにたいしても、彼は、
「うむ、一つになるか。よかろう。小さく、こせこせ、茂り合うよりは、一門となって、力をむすび、深く根を張って、大木となろう」
来る者は、拒まず、誰とでも、杯をくみ交わした。彼にはどこか、そんな風に慕われる親分肌な人がらがあったとみえる。由来、関東八州は、後世まで、ややもすると、杯によって義を約す侠徒の風習を生じたのも、遠く、平安の世の坂東曠野時代、この辺の原始制度の中で強く生きるために自然に仕組まれた族党結束の名残といえないこともない。  
桔梗ひらく
到底、三人の叔父に横領された遺産の大には、及びもしないが、それでも、将門はひとまず、家運を挽回ばんかいした。
すんでの事に、建ち腐れともなる、父祖以来の、豊田の館を、もりかえした。叔父共の手からは、依然、一枚の田も返されてはいないが、奪られた家産田領の何十分の一かは、自分の努力と汗から取りもどした。
「――天はおれを憐んでくれている。おれには、励みがある、人知れぬ楽しみもある」
黙々三年の間、彼を時々ニタニタさせていた胸中の秘密は、承平五年の正月、初めて、一族兄弟に、披露された。
「ことしは、おれも、妻をもつぞ。……誰だ? 当ててみろ」
と、初春の宴会の夜である。いきなり大勢の前で、こう、彼らしく、いい出したものである。
「ほんとなら、一族の歓びです。お館やかたとて、早や三十五歳にもおなりですもの」
みな、どよめいて、杯を上げ合ったが、さて、将門が正室として迎えようと決意したほどの女性は、誰であろうか? 誰にも見当はつかなかった。
当時、早婚の風は、平安の都ばかりでなく、鄙ひなでも、十三、四、あるいは十五、六歳で妻をもつ者は、幾らもあった。だから勿論、将門が三十五歳まで女性を側におかなかったというわけではない。妻ならぬ妻は、郷内にもおいていた。館の棟のちがう所に住んでいたかもわからない。しかし、正妻はまだ娶めとっていなかった。
「兄者人あんじゃひと。私は知っています。……当ててみましょうか」
いったのは、弟の将頼である。
将頼は、うしろにいた梨丸と、顔を見合せて笑った。
「なに。知っていると?」
「分っていますとも」
「当ててみろ」
「当てたら、何を下さる?」
「おまえには、御厨の御料地をふくむ、守谷一郷もりやいちごうをやる」
「え。……まさか、兄者人、そんな、おねだりはしません」
「よいから、いえ。当ててみろ」
「野霜の……桔梗ききょうどのでしょう」
「そうだ」
将門は、手を打った。そうだといった声も、途方もない大声だったので、みな、あっ気にとられて、将門を、見まもった。
しかも将門は、あわてて杯を唇へ運び、眼に涙をためていた。そして、将頼に、杯を与えた。
「当たったよ、将頼。分っていてくれたのだな、うれしいぞ。……どうだ、将平も、将文も、将武も、将為も」
ずっと、弟たち、すべての顔を見わたして、
「桔梗どのを、おれが、娶ってもいいか、どうか。それが聞きたい。家人共も、いってくれ、遠慮なくいってくれ。この館の北の方としてよいか、悪いかを」
と、おそろしく真剣になって訊ねた。
将頼を始め、彼の弟たちは、口々にそれへ答えた。
「よいも悪いもございません。兄者人が、お好きな方なら」
「兄者人も、御決意なのでございましょうが」
「うすうすは、将頼兄から、聞いていました。そんな、お好きな方があるのに、いつお娶もらいになるおつもりかと、私たちこそ、待ち遠い思いをしていた程です」
「…………」
将門は、大きな味方を得たように、弟たちの一語一語を、うなずきで受けては、だらしなく、鼻のあたまの涙を、水洟みずばなと一しょに、こすっていた。
「そうか、お前たちが、そういってくれれば」
「なぜ、そのように、私たちへ、お気がねなさるのですか」
「いや。あれを娶うには、お前たちの力もかりなければならないからだ。手ッ取りばやく、結末をいうならば、桔梗どのの親、野霜の翁のことばには、晴れて、嫁入らすというわけにはまいらぬ程に、強たっての仰せならば、娘を、盗んで給われ――と申すのだ」
「あ、そうですか。余りに身分が違いすぎると、あの実直な親共は、卑下しているわけですな」
「……とも、ちがう。理由は、まったく、べつにある」
「ではなんで、そんな古風な事を、望むのでしょう。遠い昔には、望むところの家の娘を、聟と、聟の一族が行って、掠かすめ奪とって来るのが婚礼であった習慣もあるやには聞いておりますが」
「それも、先方の望みだから仕方がない。おれには、桔梗どのの親共の苦しい気もちは充分にわかっているのだ。そして、お前たちにも、その苦しみが、やがては、累るいをなして行くことも惧おそれている。……だが、あきらめられないのだ。おれは……この兄は」
将門は、指で髪を掻きあげた。その手は、いつまで、髪の根をつかんだまま、彼らしくもない溜め息になっていた。
将頼にも将平にも、ふかい事情はわからない。ただ、兄の恋が、四年ごし、胸の中におかれていたことだけは知っている。そして、その兄が、酒興ではなく、大勢のまえで、こう苦悶するのを見、何でわれわれに否やがあろう、と一せいに、兄の恋を励ますような眉色びしょくをたたえた。
家人郎党たちにしろ、それは、ここで更に祝杯を重ねてもいい程な思いこそあれ、異議のあるべきはずはない。やがて、異口同音に、
「吉事は早くこそ。花に雨、月に雲のたとえもありますぞ」
と、凱歌のようにいい囃はやした。
一族の者に、そう祝福され、励まされて、将門も、いよいよ臍ほぞをかためたらしく、
「では、二月きさらぎまでには、嫁御寮を、ここに迎えよう。何かと、その心得をしておけやい」
と、宣言した。
酒の強いのは、この時代の、殊に、この原野の人種の特色である。十壺じっこの黒酒くろき(黍酒きびざけ)を空からにしてなお足りぬほどだった。一門、泥亀のように酔った。そして、将門の恋と、併せて、正月の夜を、底ぬけに、祝った。
ところが、ただひとり、不安そうに、これを眺めていた老人がある。将門の父良持の代からいる多治経明たじのつねあきという老臣である。
経明は、もう眼もかすみ、腰も曲がって、物の役には立たない老齢なので、御厨の御料の池の番所に詰め、めったに、館へも来なかったが、たまたま、新年の宴に会して、かえってひどく憂い顔に沈んでいた。
何か、彼も一言、いいたげであったが、この若者ぞろいの、逞しい野性に酒気をそそいだ雰囲気に反そむくような事は、とても老人の乏しい意力では、よく為なしうることではない。
――と、悟ったように、彼のみは、独り、とぼとぼと、暗い遠い道を、御厨の御料園へ帰って行った。
常陸源氏
正月中は、賀客がきゃくが、絶えない。
将門は、坐ったきり、客に接して、のべつ酔っているような恰好だった。
きょうも、菅原景行が来ていた。
「よくぞよくぞ、これまでに励まれた。亡き良持どのがお在わしたら、いかばかり歓ばれようぞ。――さすがは、桓武帝の末裔まつえいたる御子将門どのよ。わしも、どんなにか、うれしいか知れぬ。よい初春はるを、昔なつかしいこの館で、祝わせて戴いた」
景行は、口を極めて、ここ数年の、将門の克己を賞ほめた。
この謹直な君子人くんしじんのまえでは、将門も、かつての洟垂れ童子の頃そのまま、ただ、畏まって、往年の恩義を謝したり、これからの勤勉と、家運の挽回をちかうくらいが、関のやま、口に出る話題であった。
「たのむぞ。この上ともに」
まるで、真の父が、真の息子を、励ますようにいって帰る景行であった。
その人を、館の中門まで、送り出して、ふと土倉の方を見ると、五、六頭の荷駄が着いている。弟たちと、家人が、馬の背から下ろした武具の菰梱こもごりを、武器倉へ、運びこんでいるのだった。
「おう、また、野霜から、誂あつらえてある具足が出来てきたのか」
「はい。なお鉾ほこや弓の類も、近日、出来た分から、次々に届けて参るそうです」
「馬具も、長柄も、弓も、もう相当、量は溜ったろうな」
「だいぶ、揃って参りました。いちど、三つの土倉を、御覧なさいますか」
「いや、きょうは止そう。……それより将頼と将平は、ちょっと、おれの居間まで、来てくれないか」
将門は、やがて、後から従ついてきた二人の弟を、前において、こういった。
「おとといの晩な。初春の夜宴やえんの席で」
「はい」
「おれは、よほど、心が浮いていたものとみえる。われ知らず、桔梗どのの事を、口に出してしまった。あきらめきれぬ女性ではあり、決して、諦めようとも、思ってはいなかったが、さりとて……ああいうつもりもなかったのだ」
「よいではございませぬか。想いを、想いのまま、いつまで、おつつみ遊ばしているよりは」
「そういって貰うて、おれは、涙がこぼれたよ。――将頼、将平。……打ち明けるが、実は、桔梗どのには、おれのほかにも、いのちを賭けて、恋している男がある。おれにとっては、何しろ、手強てごわい恋がたきだ」
「どうしたことです。兄者人、恋に負けてなるものですか。相手があると聞けば、私たちも、兄者人を、失恋の人にはさせられません。なア将平」
「そうですとも。たれです、相手は」
「それがよ。源護の息子たちだ」
「息子たちとは、おかしいではありませんか。護の嫡男、扶ですか。次男の隆か。それとも、三男繁ですか」
「げにも、笑止なことだ。その扶と、次男の隆とが、これまた、ひとりの桔梗を争いあっているわけだ。そのため、彼ら兄弟も、無下むげには、桔梗どのを手にいれかねているし、桔梗どのの親共も、それを理由に、どっちの求めにも、巧みに、断る口実を持って来られたのだが……もうそうそうは、その口実も、利かない切迫せっぱくに追いつめられているらしい」
「――と、仰っしゃるのは」
「扶と隆の兄弟が、やはり兄弟だけに、話し合って、この恋、どっちに幸いするか、籤くじを引いて、桔梗の所有を決めようとなったらしい」
「ば、ばかにしている。恋する女性を、賭け物にするなんて……」と、気の優しい将頼すら、義憤をもらして、「――それで、野霜の伏見掾は、娘を、そのどっちかへ、与えるつもりなのでしょうか」
「いや、あの翁は、職は具足師でも、心は硬骨だ。もちろん、やる気はない。それはおれにも誓っている」
「いつ、お会いでした」
「ここへ来ては、人目にたつ。そこでいつも、御厨の御料園へ、そっと忍んで見える。あの経明の住んでいる池守小舎いけもりごやのうちで、幾たびとなく、会っていた。――愛娘まなむすめの桔梗どの可愛さに、あわれ、野霜の翁も、子ゆえに迷う夜の鶴という諺ことわざどおり、何かにつけて、おれを訪ねて来る」
「それでは、親御の伏見掾も、兄者人へ、嫁とつがせたいと希い、桔梗どのも、兄者人を、想うているわけでございましょうに」
「ま。……そうなのだ」
将門は、顔を赤くした。弟たちに、自惚うぬぼれと笑われもしまいかと、遠慮がちな頷き方をした。
「――ならば、何を、さは、御躊躇ごちゅうちょなさることがありましょう。扶や隆へ、うまく、いいわけのつくように、翁が、考えた通りの手段を、兄者人が、さっそく、実行しておしまいになれば、それまでの事でしょう」
「いや、おれの惧れるのは、それから先だ。――何といっても、源護一家は、新治、真壁、筑波三郡にわたる常陸源氏の宗族だ。坂東一帯にも、数少ない大族ではあり、嵯峨源氏の与党も各地にもっている」
「だって……兄者人。恋でしょう、問題は。いくら嵯峨源氏の嫡男でも、女ひとりに、そんな表立った権力を振えもしますまい」
「……が、なあ弟。あいにくと、その護の女むすめ二人までが、おれたちの叔父共へ、嫁かたづいている。ひとりは良兼どのの室。ひとりは良正どのの内室へ」
「縁は、どうつながっていようともです。――では、兄者人は、桔梗どのを、想い切れるのですか」
「きれない……」
将門は、眼をつむった。
「じゃあ、あとの苦情や、多少のいやな思いは、お覚悟の上でも、思いをつらぬくしかないではありませんか」
「ゆるしてくれるか」
「そんなお気の弱いことを」
「おれに怯ひるみはない。自分の恋だ。命を賭けてもつらぬきたいわさ。――では将頼、おまえは、おとといの夜も、いったように、おれと分家して、近々に、御厨の方へ住め。あの辺、守谷一帯の田領は、おまえに遣やる。また、将平は、猿島の岩井を持つがよい」
「この時に、私たちの身まで、そんなにお考え下さらなくても」
「いつかは、将文、将武にも、追々、そうしてやらねばならない年頃にみな来ている。父の亡い家だから、おれが父の仕残しを仕遂げねばなるまいわさ。あははは……。今ごろ、恋にとらわれて、おまえ達にまで、心配させている困った親代りだ。恃たのみ効がいなくは思うだろうがな」
弟二人は、しゅくしゅく、俯向いた。共に、幼時おさなどきの哀愁を呼び起された。将門は、泣かせて悪かったような顔をした。
すると、常には気の弱い神経質な将頼なのに、決然と、涙を払って、いい出した。
「わかりました。お気もちも、御事情も、よく分りました。おいいつけのように、私は、数日中に、御厨へ別れます。将平も、そうせい。――ところで、兄者人。兄者人の恋人は、いつお迎えしますか。野霜へ、桔梗どのを、攫さらいにまいる夜は、ぜひ私も、連れて行ってください」
「兄者人。――私も」
と、将平もまた、兄へ迫った。
掠奪
まだ、野も丘も、冬枯れのままだった。如月きさらぎ初めの風は、ひょうひょうと葦の穂に鳴り、夕方、こぼれるほど落ちた霰あられが、野路にも、部落の屋根にも、月夜のような白さをきらめかせている。
――その日。伏見掾の家は、終日ひねもす、ひそやかだった。翁も弟子も、仕事についた様子もない。
夕餉ゆうげの一刻ひとときには、親娘おやこして、そっと、土器かわらけで杯が酌みかわされ、桔梗の母なる媼おうなは、瞼をぬぐい通していた。
彼女は、化粧した。泣き腫れた顔を、幾たびも、鏡にむかって直した。
弟子たちは、裏表を、見張っている。
――やがて、遠く野の中で、松明たいまつを振るのが見えた。
「……では」
と、にわかに、翁も媼も、家中して、ざわめいた。
「しずかに。……静かによ」
涙ながら、桔梗の姿を、土塀門の小さなくぐりから、送り出すのだった。桔梗は、うす紅梅、緑、白、紫と襟色を重ねた小袿こうちぎを着、つややかな黒髪をうしろに下げていたが、親の家の門を、幾歩か、出ると、その黒髪も小袿の袖も、空へ舞いちぎられるように、赤城颪あかぎおろしに吹かれていた。
すぐ、その辺に、身を伏せていたものだろう。さっと、木蔭や草むらから、十人余りの人影が立ち、桔梗のそばへ近づいた。
さすがに、桔梗が、ア――と、かろい声を流した。ともう、彼女は、馬の背に、押しあげられ、鞍くらに、布でくくられ、東の方へ、駈け去った。
それを、遥かで待っている者の合図らしく、さっき見えた松明が、またしきりに、野面のづらのうえで、うごいていた。――見ようによっては、野霜の翁と媼へ、何かを、焔で語っているともうけ取れる。
媼と翁は、家のうちへ戻ると、おたがいに、老いの涙のとめどなさを、慰めあった。
「ああ、寂しい。手のうちの珠たまを失うたような。……けれど、むすめの望みが、かのうたのだ。かなしいような嫁入りではあるが、桔梗の身になって、歓んでやれ。桔梗の心は、もう、豊田へ行っているであろ。いや、遥か野面に見えた松明は、聟殿むこどのがみずから振っていた炬ひかもしれぬ」
夜もすがら、この老夫婦は、桔梗が生まれた時から、きょうまでの想い出を、いくら話しても話しつきないように、語りあっては、泣き沈んでいた。次の日も、この具足師のやしきは、夜のように、ひそまり返っていた。
弟子たちは、部落の同職の人々へすら、
「桔梗さまが、きのうの夕方から、行方知れずにおなりなされた」
と、事実を隠していた。そして、
「平泉の人買いに、誘拐かどわかされたか、野盗の群れに、攫われたやら」
と、わざと大仰に吹聴した。
こういう例はないではない。陸奥の俘囚(半蝦夷領)の勢力地へ行くと、美しい女が高価に売買されるという。また、はるばる都から美女を輸入してゆく人買いはよく北の方へ通って行く。
現に、数年前には、羽鳥の良兼の局にかこわれていた――あんな堅固な館のうちの女人すら、忽然と、姿が見えなくなってしまった実例さえある。
しかもこれは、国司の庁や、郡司の役所へ訴えても、どうしようもない事だった。あの羽鳥の良兼の勢力を以てさえ、ついに、愛妾の玉虫は、あれきり、どこへ行ったか、分らず仕舞いである。一時は、将門が隠したのだと、もっぱら嫌疑をかけて、探りを入れたが、真実、豊田にも、どこにもいないと分って、ようやく、ここ一、二年前に、噂もなくなっていたところだった。
名門息子
「何、何。――桔梗が行方知れずになったと」
源護の嫡男、扶は、その日、水守の良正の館へ遊びに出向き、まだ良正にも会わないうちの門前で、良正の家来たちから、その事を聞かされた。
「それは、捨ておけん。一大事だ」
彼は、たちまち、馬を回かえして、野霜の方へ、駈けて行った。
この嵯峨源氏の嫡子も、年はもういい程である。正妻も側室も持っていた。だが、恋は、べつな道としているらしい。地方にめずらしい洒落者しゃれもので、綺羅やかな太刀、狩衣の装いや、馬具の飾りの美々しさは、つねに草深い領下の土民の眼をそばだたせていた。そして、いつも七人や八人の供は連れている。
「はやく来い。ばかっ。おくれな、郎党共」
追いつき切れない家来たちを、時々、馬上から振り返って叱りながら、まるで、戦場へでも急ぐような語気である。
「隆の仕業かな? ……。そうだ。悪くすると、弟め、それくらいな事はやりかねん」
充分に、疑って、野霜の具足師、伏見掾の部落屋敷へ、駈けこんだ。
ところが、どこで聞いたか、弟の隆の方が、もう先にそこへ来ていた。翁も媼も、その夕から、床について、嘆き沈んでいるといって会わない。弟子たちや、部落の諸職の者を集めて、細々、訊きただしていたのだった。
「どうも、よくわからん。――桔梗がいなくなったのは、事実らしいが、前後のいきさつが、辻つま合わぬ」
「隆。何も、手がかりは、ないのか」
「やあ兄上。これはちと、おれ達の不覚だった。察するに、豊田ではないかと思う」
「将門か。……うム、一度は、そうも考えたが、あの小心者に、大それたまねは出来まい。桔梗の身には、われらの息がかかっていると、彼奴は、百も承知のはずだ」
「そう考えていた隙すきが、鳶とびに、出し抜かれた因もとではあるまいか。つらつら思うに、ここ一両年、野霜で出来る武具なども、大半は豊田の方へ買い取られている。いつのまにやら、将門と伏見掾との間に、話し合いが出来ていたのかも知れぬぞ」
隆は、ずんぐり短い体を振って、しきりに、かなつぼ眼を、あたりへ動かした。自分の嗅覚に、確信をもって、いいきるのである。
扶は、青ざめた。憤怒するとそうなる性質らしい。
「おい、隆。伏見掾夫婦を、おまえの馬の背に引っ括くくって、後から館へ、引っ立てて来いよ。よろしいか」
そういいつけて、自分は、不快怏々おうおうと、先に自邸へ、帰ってしまった。
まもなく、隆が、後から来た。しかし、野霜の老夫婦は、拉致らちして来なかった。どうしたかと訊ねると、翁と媼は、一間を清掃し、枕をならべて、眠るように、自害していたというのである。
「豊田領へ、放免ほうめん(密偵)を入れてみれば、すぐわかる。もう疑う余地などあるもんですか」
隆の言があたっていたことは、数日の後に、立証された。共に、失意となってみれば、この兄弟は、将門を憎むことに於いて、また、報復を期す目的に於いて、どこの兄弟仲よりも、急に、仲がよくなった。
「彼奴にも、家人郎党はある。うかつには、手が出せん。どうしてやろうか」
行ったら完全に将門の致命を扼やくすような策でなければならないと、二人は智恵をしぼりあった。だが、完全扼殺となると、にわかに名案もうかんで来ない。
すると、二月の末頃である。
石田の大掾国香から、使者が来た。書状をひらいてみると、こうあった。
――長らく在京中のせがれ常平太貞盛が、突然、帰省いたしました。
このたびの帰省は、新たに、右馬允うまのすけに任官した歓びをこの老父に告げるためと、今春の御馬上おんうまのぼせの貢馬みつぎうまを、東国の各地の牧に、下見したみするための公用の途次との事です。
ここわずか両三日ほど、郷家に旅の身を休める暇をもつのみとか。ぜひその間に、久々ぶり、お会いもして、四方よものお物語りなど、日頃の思慕の想いを尽したいと、念じております。
お待ち申しあげる。どうか、おそろいにて、お立ち越しのほどを。
富貴と積罪
常陸も北と南では、かなり季節がちがう。
石田の館は、南常陸にあった。
二月。筑波の風はまだ冷たいが、宏大な館の築土にも、中門の籬まがきにも、紅梅白梅がもう綻ほころんでいた。
大掾国香は、朝から機嫌である。蓬莱ほうらいの翁おきなのように、白髪ながらきれいに櫛を入れて結髪もし、直衣のうしの胸にも白い疎髯そぜんを垂れている。烏帽子えぼし、衣紋えもんも着崩さずに、なにかと、客待ちのさしずをしていた。
やがて、家職や侍たちが来て、準備の出来たことを告げると、
「そうか。客門の辺りばかりでなく、客人まろうどの駒をつなぐ厩うまやなども清めたろうな。厩の不精ッたいのは、嫌なものだ」
「藁一つ散らしてないように、清掃しておきました」
「よし、よし。……もうやがてお見えだろう」と、幸福そうに老眼を皺しわめて恍惚うっとりと庭園の春日に眸を細めた――。
「右馬どのには、何しておられるか」
「今し方、お湯殿を出られ、御装束更ごしょうぞくがえを遊ばしていらっしゃいます」
「すっかり、都風よの。あれもなかなか洒落者ではある。支度がすんだら、客人たちのお見えになるまで、これへ来て、父と話さぬかというてくれ」
右馬どのとは、自分の長男、さきの常平太貞盛をいうのである。新たに、右馬允に昇官したので、この老父は、愛情と自慢を併せて、意識的に、家人たちには、近頃そう呼ばせていた。
「父上、これにおいでで」
「お、貞盛か。まあ坐れ。日和ひよりにめぐまれてよいあんばいだった」
「きょうの客人は、誰方どなたと誰方ですか」
「正客は、源護どの。水守みもりの良正、羽鳥の良兼など、ごく内輪だけにしておいたが」
「護どのの御子息たちは」
「来るだろう。案内はしておいたから」
「都へ出たまま、久しく帰国もしませんでしたが、以前とは、比較にならぬ程、荘園も拡まり、家人郎党も殖え、このお館など、見違えるばかり華麗になりましたな。これ程な生活くらしは、都でも大臣か督かみぐらいの地位でないと出来ません」
「しかし、わしの官位などは、依然として、大掾に止まったままだ。何というても、田舎にいては、分ぶがわるい。お許もとは、右馬允になり、やがては、衛府えふの頭かみにもなれよう。官職では、この老父よりはるかに上じゃよ」
「あちらでは、仁和寺にんなじの式部卿宮しきぶきょうのみやだの、右大臣家や九条師輔様などに、なんとか、引立てをうけております。中央では、何といっても、摂関家や親王方などにお近づきを得なければ立身は成りません。……あ、それで思い出しましたが、小次郎将門は、この頃、どうしていますか」
「将門か。……ふふふふ」と、国香は下唇を反らして笑った。貞盛を見るときは、眼の内へも入れてしまいたいような愛情に溶とろけるこの老父が、将門という名を聞いただけで、眸の底から呪咀じゅその光を見せるのだった。
坂東にいて、都にも負けない居館や、家人けにん眷族けんぞくの慴伏しょうふくの上に坐し、有徳うとくな長者の風を示している大掾国香も、常南の地に、今日の大をなすまでには、その半生涯に、信義だの慈悲だの情愛などというものは、すべて自分のうちに締め殺して、外には敢て、辛辣しんらつな手段や方法を、成功の秘訣とえらび、強欲の収得を累積してきたにちがいない。年は、七十余齢、いまでは深くつつんでいる過去のそうした時代の物欲の夜叉やしゃだった片鱗も、どうかすると容貌の皺の底からにじみ出てくる。
「いや、弱るよ、あの将門にはな。……ややもすると今でも、良持の遺言だの、荘園の古証文など持ち出して噪さわぐ。よほど、根ぶかい遺恨としているらしい。そのため、何か、われらもおちおちしておられぬ。良兼も良正も、一族繁栄の中で、それ一つが、禍いだと申しおる」
「鈍物どんぶつの一念でしょう。悧巧りこうでないから、なお、始末がお悪いにちがいない。はははは」
「笑い事かよ貞盛。そもそもは、お許もすこし怠慢であったぞ」
「ホ。私にも罪がありますか」
「あるぞよ。――それ、そのように、忘れ顔ではないか」
「はて? 仰っしゃってみて下さい」
「過ぎ去った事だが、将門がまだ都にあるうち、お許への密書のうちに、いいつけておいたであろが。……将門めが、国許へ無事帰って来ては面倒になる。都にいるうちに、何とか、処分するようにと」
「あ、なるほど。思い出されます。――彼の在京中、折あらばと、私も密ひそかに、尾け狙ってはみたのでした。しかしヘタに仕損じたら大変ですからな。つい、殺す折がなかったわけです。また、あの才気もない魯鈍ろどんな人物故、帰国したところで、父上や叔父御たちで、どうにでもなろうと、それも、多寡をくくっていた一因でしたが」
「いや、鈍は鈍でも、彼奴を帰国さしたのは、せっかく、都の檻おりに追いやった野獣の子を、都で育てて、またわざわざ坂東の野へ放してよこしたようなものだ。お許の抜かりよ、それだけは」
「これは、時過ぎてから、思わぬきついお叱りで」
「なにも、改まっていうではないが、いずれきょうの宴には、良正、良兼などからも必ずその話がむし返されて出るにちがいない。あらかじめ、親心でいうておくのだ。もし叔父共が責めたら、よいようにいい解けよ」  
魔計
貞盛の帰洛の別宴とはなっているが、兼ねては彼が右馬允に昇官した披露目の意味もあろう。夜に入るまでの盛宴だった。
主賓の源護は、老齢なので、ちょっと顔は見せたが、輿こしに乗って、明るいうちに帰った。一族のほとんども、それぞれ頃をはかって散った。――残ったのは、良兼、良正、それにすこし遅れて来た護の子息の扶、隆、繁の五人だった。
広間の燭を、一隅に縮めて、国香を中心、内輪だけがなお夜を飲み更かしているのは、話題が、将門の事になったからである。
「きょうは、この兄の嘆きも聞いてやって下さい」と、弟の隆は、自分の横恋慕は棚に上げて――
「長年、恋していた女を、兄は、将門に奪われて、悲嘆やる方なし……というこの頃なのです。うんと飲ませて、元気をつけていただかないと、恋死ぬかも知れません」
などと酔いにまかせていった。
貞盛は、かえって、揶揄からかい半分に、
「そうか、扶どの。――道理で浮かぬ顔よ。したが、失恋は、酒では癒いえぬし……医師くすしも匙さじを投げように」
と、おかしがった。
けれど良正、良兼たちは、わざと深刻な表情を持して笑わなかった。その事は、数日前から聞いていたし、相手が、将門と聞いて、われらも共に、恥辱を感じていたところだ――と、焚たきつけた。将門ずれに、見返されては、あなたの男も立つまいが、われらとて、捨ておかれない。無念である。じつに忌々いまいましい限りだ、と、若年でもない二人の年配者にしてさえ、怒りやまずいうのだった。
その間、国香も、むずかしい顔して、疎髯そぜんを指でまさぐりながら、チロ、チロと兄弟たちの顔を見たり、良正の煽動的な語気へ、大きく頷いてみせたりしていた。
それでなくても、鬱憤にくるまれていた、扶、隆の血気は、わけもなく誘い出された。そして、激越な語気のもとに日頃の大胆な考えを口にし出した。
「もとより、このまま、私たちも引っこんではいない。どうしたら将門を、必殺の地へ、おびき出せるか――と、じつはその謀はかりをこの間じゅうから考えているのです。何か、よい策があったら、お智恵をかして下さい」
酔いを蒼白なものに沈めて訴えるのである。その若気わかげを、ひとまずは宥なだめながら、実は、不抜な意志にかためさせているような言葉が、国香や良兼たちの老巧な態度に見られる。
貞盛も、さきに自分の手でやり得なかった事が、扶や隆の手で行われれば、これに越したことはないと思った。それも、それをやる者の如何いかんにもよるが、常陸源氏の嫡子や二男三男らが手を下すならば、周囲や近国でも、その成敗せいばいに、苦情をいい出す者はあるまい。国司ノ庁などは、どうにでも動く。――また、中央の聞えは、自分が、都へ帰った上、先手を打って、予備工作にかかればよい。
貞盛も、そんな意見を出した。知性的な態度の彼からそういわれると、扶たちは、自己の考えに、なお確信をもった。殊に、中央の工作を、貞盛が受け持ってくれるとあれば、――と、それも大きな力とした。
とにかく、その夜、一つの密謀が、かためられた事は、確かである。――久しく都にいて、めったに帰省しない貞盛が、居合せたことも、後に思えば、宿命的であった。
その貞盛は、やがて、都へ帰った。
三月から四月への、坂東一帯の春の野の麗うららかさは言語に絶える。自然美の極致を、際涯さいがいなき曠野の十方に展ひらくのである。
将門は、そうした自然に身まで染まって、相変らず、家人奴僕を督励して、働いていた。
わけて、恋人を妻として、館の一棟に、その桔梗の前と、蜜のような楽しい新家庭を奏かなでてからは、なおよく働き、よい良人になろうとしていた。
すると、五月の初旬はじめ。月が更かわるとすぐの日である。
石田の大叔父、大掾国香から、いんぎんな使者が来た。そして、将門宛に、書面があった。
披ひらいて見ると、将門の父良持の法要を営みたいという招き状。
「あ。……もう亡父ちちの十七年忌か」
彼はふと、茫として、遠い回顧にとらわれた。
――日は、五月四日。場所は、新治郡の大宝寺。
一族相寄って、良持どのの法要を営み申したい。ほかならぬ故人のこと、其許そこもとにも、旧事近情は水に流して、ぜひ御臨席ありたい。
という意味の文章である。
「……参ります。何は措おいても」
つい眼に涙が溜った。返事をしたため、また、使者へ口でもことづけた。
幸福な百日
桔梗は、四日の事を聞いて、睫毛まつげの翳かげに、憂わしそうな眸を沈めた。新妻らしく、まだ、良人にも、どこか気がねをたたえている。
「いらっしゃらなければ、いけないのでしょうか……」
俯し目になって、それだけをいい、どこか泛うかない姿態しなであった。
明日となった。
桔梗は、また、
「どうしても、おいでにならなければいけませんの……?」
おとといと、同じようにいった。
将門は、ちょっと、眉を硬こわめて――
「そんな事より、新しい狩衣かりぎぬは、縫わしておいたのか。袴も」
「ええ……。御装束は、みな、調うていますけれど」
「なぜ、そんな淋しい顔をするのか。――桔梗、よせよ、そんな悲しそうに、睫毛をふるわせるのは。おれまでが、悲しくなって、何だか、行きたくなくなってしまう」
「おねがいですから……」
桔梗は、抱かれた良人の手の甲へ、濡れた睫毛を、ひたと、すりつけた。
「――いらっしゃらないで下さい。四日の御法事には」
「どうしてか。なぜ」
「でも……私、心配でなりません。いいえ、御舎弟たちも、寄り寄り、お案じ申して、私へ、強たって、お止めしてくれと仰っしゃいます」
「将頼がか?」
「いいえ。将平様も、将文様も」
「新治の大宝寺というので、敵地へ行くように案じるのだろうが、常陸源氏の息子たちは、この法要には関りはない。羽鳥や水守の叔父共は見えるだろうが、おれさえ、何事にも怺こらえていれば事はすむ。――それも、余人の年忌ならばだが、亡父良持のと申されては、どう嫌な人間が集まっていても、行かぬわけにはゆかぬ」
「将頼様の御代参ではいけませんか」
「総領のおれがいるのに。……殊には、ほんとなら、法要はおれの名をもって営まねばならないところだ。……な、そうであろうが」
「え、え」
「この二、三年は、おれはただ、家運の挽回に、無我夢中だった。起きれば、田野へ出て、奴僕と共に、土にまみれ、疲れた身を、横たえると……桔梗、おまえの夢ばかりみていたよ。……夢が、昼の働きを励まし、昼のつかれも、夜の夢を楽しみに、ここ三年は暮していた」
「……私も。……私もです」
「二人の夢が、こう結ばれた。その二月きさらぎの夜からの幸福さ。……おれは今、毎日、いっぱいなんだよ、その幸福で」
「ですから、この愛しい日を、いつまでも続けてゆけるように、じっと守っていたいのです」
「もとよりだ。……ただ、そんな幸福に、ここ百日も、恵まれていたものだから、まったく、亡父の十七年の年忌など、頭のうちに、思い出されもしなかったのだ。不孝といわれても仕方がないが、しかし、死んだ父上は、知っていてくれるよ。……ゆるして下さっているに違いない」
「…………」
「おれは、母とは、顔も知らないうちに別れ、父も少年の日に死なれてしもうた。こういう館住居たちずまいでは、その父へも、甘える日はなくて別れた。死んでから甘えてもいいだろうと思っているのだ。な、桔梗」
「ですから、明日の御法要へも」
「行くなというのか。さあ、今となっては、ちと遅い。行くと、返書もしてあるのに、その日になって、おれが姿を見せなかったら、臆病風おくびょうかぜにふかれたぞと、満座で笑いどよめくだろう。亡父ちち良持よしもちの恥だ。おれは坂東平氏の総領だ。行かいでか」
桔梗はもう止めることばを失った。また、そういう凜乎りんこたる良人の男性らしさにも惹ひかれた。恐いような魅力に恍惚となっている自分にはっと気がついた。そしてその魅力ある腕のなかに、その夜も、幸福な夜を、ついそのままに明かしてしまった。
伏兵
「行って来るぞ」
将門は、馬寄せから、鞍上あんじょうの人となって、館を出て行った。馬の上から振り向いて、家人の中の新妻へ、明るい一言を残した。
小冠者二人に、郎党十人ばかりしか連れなかった。
承平五年の五月四日だった。
早朝の新緑の風が、爽やかであった。――豊田の町家を通って行く。里の老幼が、あわてて馬を避け、朝のあいさつを、ていねいにする。――将門は、
「町家まちやの戸毎こごとも、ひと頃よりは、よくなった。皆のふところ工合も、少しは富んできたかな?」と、ながめた。
大宝寺へは、豊田から下野しもつけ街道を、毛野川けぬがわに沿って行く。――と、どの辺から従って来たのか、うしろから甲冑かっちゅうを着こんだ一隊が見え隠れに将門の供みたいについて来た。
「ははあ、弟共の手兵だな」
将頼か、将平か、将文か。それともみな揃ってか。とにかく、おれを一心に案じて、協議の結果、やって来たにちがいない。ありがたい、うれしい奴らだ。それまでの心を無下に叱って追い返すこともない。――将門は知って知らない振りをしていた。
ところが、川西の野爪のづめヶ原はらにかかると、葭よしや芦あしや、また低い丘の起伏の彼方に、たくさんな弓の先が見えた。鉾の先もきらめいている。
「はてな? ……あれも、弟かしら」
鞍の上から、伸び上がった時、耳のそばを、ひゅっと、へんな音が掠かすめた。シュッ、シュッ――と、あたりの草むらへも、無数の矢が、矢音をこぼし、矢風に戦そよぎ立った。
「やっ、身内じゃないっ」
将門は、仰天して、どなった。
「な、なんだろ。あの人数は、何か、人違いしているんじゃないか。おうーい、豊田の将門だ。間違えるな、おれは将門だが」
彼はまだ気がつかない。身は、平日の狩衣である。矢の一つもうけたらそれまでなのに、彼は、まだ、わざと標的になるように、手を高く振りぬいている。
何たる愚鈍な兄。お人よしな兄。
むしろ、敵の伏兵よりも、それに腹が立ったように、うしろから、鉄甲武者が二騎、
「兄者人あんじゃひと、あぶないッ」
と、呶鳴どなりながら、彼を追い越して、彼方の弓の群れへ向って疾走して行った。
ちらと、二騎の横顔を見て、
「あっ、将文、将平」
と、鈍重な彼もようやく事態のただ事でないのを知った。
するとまた、すぐ後から、将頼が馬をとばして来た。そして、
「兄上、兄上。早く、これをお召しなさい」
と、一領の具足を抱えて、馬をとび降りた。将門も、つられて跳び降りた。
「将頼。いったい相手は何者だ」
「知れきっております。――源護の息子共です。あれ、あの軍勢の装いをごらんなさい」
「なに、扶や、隆だと」
「今頃、どうして、そんなに吃驚びっくりなさるのでしょう。桔梗どのを、館へお迎えになる前には、兄上こそ、私たちへ、かかる事もあるぞと、覚悟をお告げになったではありませんか」
「が。……あれは、恋の上の事。……きょうの途中は、ほかならぬ仏の法会ほうえの日ではないか」
「兄上を狙っている敵に、何を、そんな憚はばかりがあるものですか。私たちが、人を放って、探らせたところでは、その法要も嘘です。兄上を否やなく誘い出して、一挙に、討ってしまおうという伏兵の謀計です。なお、何を疑う余地などありましょうか。――さ、兄上」
将頼は、具足の着込みを手伝って、兄の体を、元の鞍の上へ、押し上げるように急せきたてた。
矢は飛んで来なくなった。しかし、彼方では、将文たちに続いた豊田の郎党が、敵との間に白兵戦を起していた。
将門は、郎党の長柄を把とって、
「もう、我慢しないぞ。おれは」
と、曠野へむかって、一声喚おめいた。
野爪合戦
ひとむらのけやき林がある。
整った林のある所には、かならず家があり、部落をなしていると見てまちがいはない。それは原野の住民が初めに防風林として植えた集団生活の墻かきであり、それ以外の雑木林とは、自おのずから姿がちがっているからである。
沼地の葦の間を縫い、また、広い野原を駈け、畑を駈け、一すじの土けむりを曳いた騎兵の群れが、今、吸いこまれるように、そこの欅林けやきばやしの蔭にかくれた。
「来るぞっ、来るぞ。将門が」
「やがて、野猪のじしのように、襲やって来ようぞ」
「かくれろ。――姿を伏せろ」
毛野川の東を、伏兵線の一陣とし、ここの欅林を二陣として、源扶、隆たち兄弟の兵は、二段がまえに、埋伏まいふくしていた。
その第一線から戻って来た物見の騎馬たちは、あちこちの味方へこう呶鳴りながら、部落の中の一番大きな家の前へ来て、土塀の中へ、馬をかくし入れた。
「どうした、将門は」
ここには、扶と隆が、物々しい武装をして、報告を待っていた。屈強の郎党を、二十名もまわりに従え、まるで、大将の本営めかした備えであった。
「うまく行ったか。彼奴を、袋づつみにして、戦闘中か」
兄と一しょに、弟の隆も、物見の者へ、こうたずねた。
五、六人の物見の中から一人が答えた。
「はい。合戦は今、野爪のづめの沼と丘の間で起っています。――が、首尾は、思うつぼとは申されません。何ぶん、将門の方にも、用意があったようですから」
「なに。先にも、合戦の備えがあったと。それはへんだな? ……。まさか、こっちの計りを、内通した者もないだろうに」
「どうか、分りませんが、とにかく豊田の郎党も、将門の姿を、遠く離れて、あとから隊をなして従ついて来ました。――ですから、第一線の小勢では、遠矢とおやをかけても、袋づつみに、将門を討つなどという事はできません」
「しまった。それでは、やはりあそこ一ヵ所に、総がかりで、伏せておればよかったのだ。――して、戦のもようは」
「何しろ、将門が、怒り出しましたので、豊田勢の強さといったらありません。それに、将頼、将文など、将門の弟たちも一つになり、お味方は、駈けちらされている有様です」
「では、来るな、こっちへ」
「必定ひつじょう、お味方の崩れ立って来る方へ、追い慕い、追い慕うて、襲ってくると思われますが」
扶は、こらえているふうだが、具足の下に、ふるえを見せ、顔も、硬直していた。
隆は、かえって、あざ笑った。
「いいじゃないか。こっちの作戦どおりだ。ここにも二陣の伏兵はひそめてある。わざと、勝ち誇らして、彼奴を、部落にさそい入れ、四方から火を放って、焼き殺してしまえばいい」
そこの屋根より高い空で呶鳴る者があった。三男の繁である。繁は、欅の大木から辷すべり降りながらいった。
「毛野べりの方から、真っ黒なほど、土ぼこりが、こっちへ向いて、駈けて来るぞ。将門と、豊田の奴らにちがいない」
土塀の中は、騒然と殺気だった。扶たちは、馬の背に跳びつくと、たちまちどこかへ、走り去った。郎党たちも、後につづき、残った者は、巧妙に、家々の蔭に、身をひそめた。
やがて土旋風つちつむじの運んで来た人声やら馬蹄の音が、欅林の中にもけむり出した。将門とその家人に追われて来た扶方の伏兵共が、狩られる野兎やとのように、あっちこっちへ逃げまどうのであった。そしてついには、敵の一影も見えず、見るのは、将門につづいて来た将頼や将文、そのほか、豊田の郎党だけでしかなくなった。
招かざる味方
さすがに皆、戦いつかれて、血と土にまみれた姿を、かえりみ合った。たれの具足にも、矢が立っている。
「もう追うな。これくらい痛めてやれば、懲こりたろう。この広い曠野、どこまで、追い捲まくしても、果てはない」
将門は、馬を降りた。水が飲みたかったのである。家々の間を、水の樋といが通っている。そこの筧かけひの落ち口へ、顔をよせていた。
将文も、兄をまね、郎党たちも、池のまわりへ、屈み合った。
すると、将頼が、注意した。
「やあ、兄者人。かりにも、馬を降りてはいけませんぞ。あぶないあぶない」
「なぜか。将頼」
「ごらんなさい。どこの農家も、空き家です。空き部落だ。察するところ、今まで、敵がいたにちがいない。四方から火を放たれる怖れがありましょう」
「や、そうか」将門は、急いで、馬を寄せた。日頃は、意気地のない、気弱な将頼と思っていたが、その将頼が、きょうは自分よりも、落着いているし、よく何かに気がつくのには、驚かされた。
「早く、野へ出ましょう。味方も追々、寄って来ましょうが、部落の中にかたまるのは、物騒です。遠見もきかないし」
「オオ、いう通りだ」
急に、人数をまとめて、走りかけたが、将頼が不安がっていたように、もうその行動は、遅すぎていた。
家々の狭い間から黒煙が這い、道を駈ければ、どっちへ出ても、いつのまにか、山のように、柴が積んであり、柴はパチパチと、火をはぜている。
木の間、笹むらへさえ、火が這い出した。また、木の間には、縄を張り渡したり、木を仆したりしてある所もあって、馬を入れるのはおろか、徒歩で駈けるのも、危ういことこの上もない。
「気をつけろ。ここらにも、まだ敵の伏せ勢がいるらしいぞ」
それに答えるように、弦音つるおとや矢うなりが、四方に起った。煙を縫い、焔をかすめて、赤々と見える人影に、矢が飛んでくる。
「あ、兄者人っ」
「弟っ。弟っ」
呼びあい、呼びあい、見えぬ敵と戦う彷徨ほうこうを繰返すだけだった。じつにこの野爪村の陥穽は、以後の将門の性格に大きな変化を来させしめたほど、苦しい苛さいなみと危機迫る思いに追いつめられたものだった。そして彼は完全な罠わなに陥ちた形になった。いまはこれまでと、観念せずにいられなかったのである。と同時に、きょうまで、上手に企たくらんでいた扶たちの――いや大叔父の国香の名を以て、いやおうなく自分をおびき出しにかけた彼等一連の人間共にたいして、本当の怒りに燃えたのもこの日だった。怒髪どはつ天てんをつくという形容は火中の彼の形相ぎょうそうそのままであったろうと思われる。
何しろ彼はここで死ぬ目にあったわけだが、ただ一つの僥倖があった。それは、毛野べりの乱闘で、兄の姿を見失い、そのため、他へ奔はしって、弟のうちの将平一人が、この火中にいなかった事である。
将平は、べつな敵を追って、方角ちがいへ駈けていたが、煙を見たので、一散にここへ駈けつけて来た。そして道の障碍物しょうがいぶつや、火の柴を除いて、部落の中の兄たちを、火中から救い出したのである。
「将平か。あやうく、おれは死ぬところだった。よく来てくれた。おれは生きた」
「どこにも、お負傷てきずは」
「矢傷の二つや三つ、何のことはない。――おれは生きた。弟たち、見ておれ。おれがどうするか」
「――が、兄上。ここは一度、豊田へ引き揚げた方がよろしいでしょう。何といっても、敵は、充分、用意をもって襲かかっている。こっちは、準備のない戦ですから」
将頼の諫いさめも、将門の怒りをなだめるには足りなかった。彼は、断じて、このまま、豊田には帰れないといい張り、家人郎党を集めて、一たん兵糧を摂とり、その間に、偵察を放って、扶や隆等のいる所を突きとめた。
扶、隆、繁たちの常陸源氏の兵は、ここから半里ほど東の野寺のでらに陣していることが分った。また、そこには、常陸方の三兄弟ばかりでなく、将門の叔父水守の良正が、手勢をつれて加わっているともいう。
「みろ。奴らは、おれの叔父共と、与くんでいるのだ。どんな手段をもっても、おれを殺さずには措かない気でいるにちがいない。おれが退けば、奴らは、豊田までも、追いしたって来るにきまっている」
将門は、悲壮な語調で、あたりの一族たちへいった。
「館へ、楯籠たてこもったら、こっちの負けだ。それよりも、おれは、豊田の百姓や郷さとの民が、奴らに、放火されたり、掠奪りゃくだつされて、逃げまどうのを、見てはいられない。――同じことなら、こっちから攻め込め。奴らの土地の館でも民家でも、焼き払ってしまえ」
彼はもう馬上になって、阿修羅あしゅらの姿を、先に進ませていた。初めは、百五、六十人の小勢であったが、毛野べりの事が早くも豊田本郷へ知れ渡ったので、後から後から、将門の身を案じて駈けつけて来る者が絶えなかった。
館の下僕しもべから、郷さとに住む地侍じざむらいといった類の者まで、およそ日頃から常陸源氏の一族に、反感をもっているか、あるいは、被圧迫的な立場におかれている者など、お互いに、呼びかけあって、
「野爪へ行け。将門殿を助けろ」
と、火の手を見て、集まって来た。
それに、もとよりこの地方も、かつては、将門の父良持の旧領であったから、大掾国香や、良正、良兼たちの多年にわたる悪行を憎んで、ひそかに将門に同情をよせていた者も少なくない。
それらの人々も、すべて、
「野爪に、合戦があるぞ」
と聞くと、破れ具足をまとったり、サビ刀を横たえたり、また、鞍もない野馬の背にまたがって、飛んで来る者も多かった。
かくて、やがて将門は、敵の屯たむろと見た野寺をめがけていよいよ攻勢にかかったが、その時、ふと振り向いて、初めよりは当然、減っていてよい筈の人数が、かえって何倍にも殖えているので、これには将門自身が、
「おや、どうして、こんなに、おれのうしろに味方がいるのか」
と、大いに驚いたということである。  
騎虎
将門が初めに挙げた火の手ではない。
嵯峨源氏のせがれ達が、将門の叔父の大掾国香や良正、良兼などに、うまく唆そそのかされて、野爪に待ち伏せした事の――失敗から大きくなった戦火である。
五月四日という夏も初め頃の真澄ますみの空に、ばくばくたる馬けむりや炎が立ったのを見て、坂東平野に住む、多分に原始的性格をもつ人間たちが、
「それっ、合戦だ」
と、こぞり立って、煙を目あてに、野の十方から、駈け出したことは、たしかに、ここの広い土壌にもめったにない大異変であった。
しかも、その駈け出す者のほとんどが、優勢な常陸源氏のせがれ達の陣地へ行かず、豊田の殿の為に――と、将門方へついたという事も、彼にとって、幸か、不幸か、わからなかった。なぜなれば、そのため、俄然、将門は優勢となり、ほとんど、彼の思うままに、戦は勝ってしまったからである。
その勝ち方がまた、じつにひどかった。
扶たちの野寺の陣は、やがて将門について押し襲よせた郎党と土民軍の攻勢に会って、一炬いっきょの炎にされてしまい、潰走する扶たちの部下も何十人となく討たれた。
その中で、気のつよい源隆が、矢にあたって、討死したし、また、三男の繁も、逃げそこなって、落命した。
こうなると、野獣化した猛兵は、とどまるところを知らないし、第一、将門自身が、憤怒ふんぬの権化ごんげ像の如きものであったから、勢い、常陸領へ越境し、野爪一帯ばかりでなく、大串、取木などの郷を焼きたて、常陸源氏の与党の宅舎から、武器を取り出したり、郷倉を破って、兵糧を獲えたりして、ついに翌日も翌々日も、敵地を荒しつづけ、その範囲は、筑波、真壁、新治の三郡に及んだ。
しかも、この襲撃で、源護の大串の館をも、焼き払い、そのさい、遂に、護の嫡子扶も、火中の戦いで、討ちとってしまった。
いや。酸鼻さんびは、これだけに止とどまらない。
大掾国香も、見ているわけにゆかないので、大串へ加勢に馳けつける途中、将門のために、返り討ちになった。その場で討死したのではないが、負傷して、一たん石田の居館まで逃げ帰り、その晩、苦しみにたえかねて、自害して果てたのだった。
そのほか、将門の前を阻はばめたり、敵対したりした郷吏ごうりの小やしきだの、社家しゃけだの、民家だの、貯備倉だの、焼きたてた数はかず知れなかった。「古記」によると、焦土しょうどとなるもの五百戸、人畜の死傷もおびただしく、曠野の空の燻いぶること七日七夜に及んだという。
以て、いかに、怒れる阿修羅のあばれかたが、ひどいものであったか、想像に難くない。
おそらくは、七日のあと、大雨たいう一過いっかして、さしも、いぶり燃えていた曠野の火も血も洗い消された後では、将門も、凱旋がいせんの誇りもさめて、
「……ちと、やりすぎたかな?」
と、自分のした事に自分で茫然としたかもしれなかった。
けれど、これ以後、豊田の館は、家人郎党で、充満してしまった。彼らはもう勝手に将門の股肱ここうであり、郎党であるときめて、野の家には、戻らなかった。将門に臣事すること、先代良持のような礼をとって、
「わが、お館」と尊称した。
もっとも、常陸から凱旋するときに、敵地の馬は、何百頭も曳いて来たし、その馬の背には、財物、食糧など、積めるだけ積んできた。彼らにいわせれば、
「多年、わがお館の先代良持さまの荘園田領を、横どりしていた人間の物だ。これくらいは、年貢としても、取上げてやるのが当りまえだ」
と、いうのである。
野爪の合戦の結果が、やがて四隣にまで聞えわたると、久しく音絶えていた父方や母方の縁類までが、おのおの豊田の一族と名のって、幾組も将門を訪ねて来た。そして口を極めて、
「こうあるのが、当然じゃ。これは、和殿わどのをまもる亡き良持どのの計いであろ」
と、戦捷せんしょうを祝した。
それら縁類の家族も、またいつか、豊田の館の附近に、門を並べて住み始めた。豊田の郷はもう昔年のさびれた屋並みではなく、商戸も市も繁昌を見せ始め、この地方の小首都らしい殷賑いんしんを呈してきた。住民の尊敬もまた、将門の一身にあつまり、いまや良持のありし日がそのまま豊田の館にはめぐり還って来るかに見えた。
戦乱の結果は、たちまち、広い土壌の移動になって、現われた。常陸荘園の大半が、国香や護の支配をはなれて、将門の下に帰属して来たのである。
土と人の流動は、いつもこういう事から、形を変えてゆく。まして、かつては、元々、豊田領であった土地が多く、人もまた、良持に縁故の輩ともがらが多かったのであるから、その帰属は、自然な作用であるといえなくもない。
しかし、常陸源氏や筑波の良正、良兼などから見れば、事態は坐視できないものであった。殊に良正のうけた精神的な打撃は、ひと通りであるまい。彼は、この大事件をひき起した蔭の煽動者として、第一に、源護の仮館かりやかたへ、謝罪に出かけた。
「かならず、甥の将門を討って、御子息方のおうらみをはらします。きゃつめを、八ツ裂きにして、その肉をくらわねば、私の胸もおさまりません」
十遍も百遍も、良正は床にひたいをすりつけて、護に謝罪した。それを、詫びの、誓いとした。
護は、館を焼かれるし、息子たち三人は、一時に、戦没してしまったし、それに老齢なので、焼け出されの仮普請かりぶしんの中で、このところ、ぼうと、虚脱していた。
「わしの身になってくれい。無念じゃ。ただ無念じゃ。嵯峨源氏の兵をあげて、わぬしに委せてもいいが、あの将門が討てるかよ、あの将門が」
「多寡のしれたものです。ただ過日は、御子息がたが、余りにも、彼をあまく見過ぎたための不覚でした」
「それにしても、どうして、なぜ、せがれ達が、将門と、あのように、争わねばならなかったのか。喧嘩は、元々もともと、お汝ことたち叔父甥の事とばかり思うていたによ。……それだけが、わしにはなお、いくら考えても、判じられぬが」
「いや、そ、その事はですな」と、良正は、苦しそうな顔をして、額を抑え――「いずれまた、折を見て、ゆるりと、おはなしいたします。これには、深い仔細もあり、御災厄は、何とも、お察しされますが」
しどろもどろに、いいつくろい、匆々、護の前を立ち去った。
一方。――彼は京都へ、早馬を立て、書状をもって、今度の事件と、大掾国香の横死を、こまごまと国香の嫡子ちゃくし貞盛へ、報らせておいた。
貞盛の驚きは、いうまでもあるまい。
つい先頃、別れて来たばかりの老父の死。
また、自分の右馬允昇進を、あんなにも、有頂天に、よろこんでいた老父。
――だが、考えてみると、余りにも、吉事吉事のかさなりを、思いあがって、人の世の中を、自分らの意のままに、あまく見過ぎていた結果の禍いであったとも、貞盛は、反省せずにもいられなかった。
なぜならば、都へ帰る数日前の別れの宴で、老父の国香や、将門の叔父良兼、良正などが語っていたことは、余りにも、得手勝手な望みであり悪企だくみであった。いくら同族の父や彼等が憎悪している将門でも、すこし将門が不愍ふびんになるくらい、悪意にみちた、陰謀の会合であった。
「あのとき、つよく、そんな企みは、止めておけばよかった。――が、自分も悪かった。自分も、右馬允任官に、まったくいい気でいたところだったから」
何はともあれ、都へ帰ったばかりであるが、ふたたび帰国しなければなるまいと、彼は、倉皇そうこうと、官へ賜暇願いを出して、またぞろ、旅装を新たにした。
水守の良正は、都から貞盛が、夜を日についでやって来たと聞いたので、さっそく、石田の館へ、彼をたずねた。そして、何とも気のどくそうに、
「……どうも、このたびは」
といったきりで、ちょっと、なぐさめる言葉が出なかった。
貞盛は、道中で疲れてもいたろうが、良正に会うと、何ともいえない不愉快な顔をしめし、
「叔父上。えらい愚をやりましたな。何とも、ばかな事を――。いったい、良正どのは、老父のそばにいなかったのですか。あんな老人を、先頭にたたせて、あなたや良兼殿は、どうしていたんですか」
と、涙をたたえて、やや突っかかりぎみになじった。
「誤解してはこまる」と、良正は、当時のもようを、つぶさに説明して、「よせばいいのに、源護どのの大串の館があやうしと聞いて、あの御気性だ……止めるもきかずに馬を馳せ、将門めに、射られたのだ」
「射たのは、将門ですか。たしかに」
「そうだ。将門は、叔父殺しだぞよ。――宿命だな。こうなるのも」
「どうして、宿命ですか」
「考えてもみるがいい。将門が、まだ、都におるうちに、幾たびか、お許に、密書が行っていたであろうが……あれが、郷里へ無事に帰って来ては、かならず後に禍いをなすにちがいないから、何とか、手段をめぐらして、在京中に、将門を殺あやめてしまうように……と」
「それは、老父からもいわれていたし、たしか一、二度、あなたのお手紙にもありましたが、都のうちでは、そうやすやすと、彼を殺すような機会などはあるものではありません。……まして、将門は、左大臣家に仕えていたことですし、後には、禁門の滝口にもいて、武力では、めったに、この貞盛の手にもおえる者ではありません」
「いや、なにも、お許が、それを果さなかったことを、今さら愚痴ったり、咎めだてするわけではない。ただ、そうまで、行く末を考えてしていたことが、今日、こういう結果になったことを、宿命とはいったまでだ……」
「この不幸の中で、私も、今更、叔父上と喧嘩したくもありません。どうくやんでも始まらないことだ。それよりは、後々あとあとだが」
「さ。その後々が、容易でない。早くも、あちこちの荘園やお家の私田まで、豊田の将門へ、奪われている。たとえば、野爪あたりの百姓も、以来、まったく、常陸源氏には、背をむけて、何につけても、豊田へ足をむけてゆく」
「それは、困った事ですな。手をこまぬいたら……」
「もちろん、両三年を出ないまに、石田の領は、何もなくなってしまうだろう。柱としていた石田が侵されれば、われらの水守や羽鳥も、将門めに、脅かされてくるのは当然。貞盛どの、しっかりしてくれ」
数日の後。――貞盛の名をもって、大宝寺では、大掾国香の葬儀が行われた。もちろん、将門は来ないし、将門に心をよせる者は、みな顔を見せなかった。
この葬儀の参会者の顔ぶれによって、およそ、敵味方の分類がはっきりついた。これは、偶然だが、葬儀のもたらした効果といえるものだった。
貞盛は、考えこんだ。なぜというのに、あんな愚劣なと、都では思っていた将門に、案外、味方する者の多いことが分ったからである。これでは、うかつに、彼にむかって武力を擬ぎしたら手を焼くはずであるとも思った。郷里にいる間に、もういちど、彼の実力とその人間を――そしてまた五月四日のいきさつを、充分、調べてみる必要があると思った。
燎原の火
どうしたのか、貞盛は、いっこうに、積極的でない。
水守の六郎良正は、業ごうをにやして、
「だめだ、都人みやこびとの風ふうに染しみたやつは。ひとりの甥など、恃たのみにすることはない。よし、おれひとりでも、果してみせる」
と、こんどは、独力、豊田攻めを計って、ひそかに、部下に、鏃やじりを研とがせていた。
夏もすぎ、承平五年の十月二十一日である。
水守を出た千人ぢかい軽兵と騎馬隊が、豊田へ向って行った。
将門の方でも、つねに物見を配っていたので、すぐこれを知った。
「郷を焼かすな」
と、将門は、新治まで、駈け出して、陣をした。
六郎良正は、これを見て、
「叔父ごろしの将門を討て」
鼓こを鳴らして、味方に、下知した。
将門は、怯ひるむいろもなく、矢かぜの中に、一馬をたてて、
「ばかをいえ。国香をころしたのは、汝らだ。おれが手にかけて討ったのではない」
と、いい返した。
こんな場合でも、将門は、何か、自分の正しさを、大勢に、いい開きをたてたいような気もちが捨てられないのであった。その愚鈍を、嘲あざけり笑いながら、良正は、
「おう、いつまで、そうして立っておれ」
と、自分も、弦つるを張って、彼を的まとに、一矢、引きしぼった。
「くそっ、そんなヘロヘロ矢にあたってたまるかっ」
将門は、長柄を横に持って、馬をとばして来た。矢が、彼の体から撥はね、良正との距離が、一気に、迫った。
良正は、あわてて、味方の中へ逃げこんだ。
この日の合戦も、ついに、水守勢の総くずれに終り、いたずらに、豊田の将門一党に、再度の誇りを持たせてしまった。
良正は、さんざんな目を見て、水守のやしきへ帰ると、すぐ筑波の兄良兼の所へ行って、うらみをいった。
「ちと、おひどいではありませんか」
「なぜ、何を、いうのか」
「元々もともと、将門をかたづけようという計は、お互いの密契みっけいでしょう。私ひとりに、かくまで、苦心させて、さきに書状もあげてあるのに、一兵も加勢を出し下さらぬとは」
「その事か。……いや実は、なにも、将門を怖れてではないが、わしには、すこし腑におちぬ事があるので、この羽鳥の砦とりでを、めったに留守にしかねているのだ」
「――と、仰おっしゃるのは?」
「例の貞盛の行動だが」
「なるほど。不審です。いや、不満です、私も」
「父の国香を討たれているのだ。誰よりも、将門を怒り、まっ先に、義を唱えて、起たねばならないはずの貞盛がよ……」
「ひとつ、御同伴して、彼の真意を叩いてみようではありませんか。私も、内心大いに、あきたらなく思っているところなんで」
二人は、数日の後、つれだって、右馬允貞盛を訪い、その冷静さを詰問した。
貞盛の答えるところは、こうだった。
「……どうも郷里の風聞は、ひとつも、われわれに、いい事はない。たれに糺ただしても、将門に、同情します。これでは、いくら老父の死を見ても、自分には、勇気が出てまいりません。悪謀の失敗から、将門を恨むのは、逆恨みだと、露骨にいっている者さえある。……老父国香の死も、これでは、自ら求めた災難とあきらめるしかないかと、そろそろ都へ還かえる準備をしているところでした」
良正、良兼は、そう聞いて、愕然とした。これでは、味方の内から、切り崩しが出たようなものである。喧嘩すれば、また同士討ちだ。そこで、二人は、口を酢くして、その非を説いた。
「何しろお許は、都にいて、常日頃の郷土の実情を知らないからだ。それらの事は、みな将門がいわせている豊田方の流言にすぎない。つまりお許からして、敵の流言の策に乗っている。つい、この間までは、こうまででもなかったが、ひとたび、将門が、勝ち誇って、将門方が強いとみたので、急に、百姓共までが、そんな事をいい出したのだ。……かつはまた、右馬允貞盛ともある歴乎れっきとした嫡男がありながら、父を討たれて、平然と、見過していたりして、お許は、どの顔さげて、以後、郷国の領民にまみえるつもりか」
老獪な叔父二人は、かわるがわる、虚実をまぜて、力説した。責めたり、すかしたりである。貞盛も、ついには、そうかと思い直して、あらためて、将門征伐の加担を約した。
しかし、賜暇の日限もせまったし、また、政治的に、中央において先手を打っておく工作も、大いに必要なので、ひとまず、彼はまた、京都へひっ返す事になった。
こうして、その年は暮れ、翌、承平六年の夏である。
良正、良兼の兵力にあわせて、さらに石田の貞盛の家人や、常陸源氏をも加えた数千の軍隊が、焼きつくような夏野をわけて、三たび、将門を襲った。――初めの、叔父甥喧嘩から思うと、じつに、思いもよらぬ本格的な戦争状態になったものというしかない。
野火は狂う。
狂いだした火は果てもなくひろまってゆく。
四隣の噂もようやくこの戦闘にもちきって、一波は万波、あっちも、こっちも、物騒な動揺が兆きざし始めた。
――と。その頃、赤城あかぎ山の裾から遠くない阿蘇あそノ庄しょう田沼に、東山道とうさんどうの駅路うまやじを扼して、館たち、砦とりでをかまえ、はるかに、坂東の野にあがる戦塵を、冷ややかに見ていた老土豪がある。
この地方の押領使おうりょうし、田原藤太秀郷たわらのとうだひでさとである。
訴訟文
その頃、坂東地方から京都への往還おうかんには、東海道と東山道の二道が動脈となっていた。
東山道は、碓氷うすいを越えて、信濃高原を経て、木曾路へ出るのである。もちろんこの方が日数はかかるが、右馬允貞盛は、途中、訪うべき人もあったので、こんどの帰洛には、東山道をえらんだ。
「折よく、いて下さればよいがな」
貞盛は馬の上から、供の郎従たちへ、何度もいった。
「いや、おられましょうとも。通る駅路で訊いてみても、近頃は田沼の館にひき籠ったきりで、めったに、お旅立ちなど見かけないそうですから」
供のひとり、貞盛の侍臣牛浜忠太がそう答える。
一行は主従十二名、騎馬は貞盛と忠太だけで、ほかは徒歩だった。いや、もう一人、進物の荷を積んだ馬一頭を、小舎人が手綱で曳いて行く。
まぢかに、赤城の長い山裾が、くっきりと夏空を劃して見えた。田沼の宿は、東山道から横へ数里、北方にはいりこんでいる。押領使、藤原藤太秀郷の役邸がそこにあり、すこし離れた田原には居館がある。そこで、田原藤太秀郷とも人は称よんだ。
「ほう。右馬允貞盛。あの貞盛が、訪ねて来たとか。ま、通せ通せ。……何日いつかは来るだろうと思っていたところだ」
田原の館の宏大な門に、旅人たちの馬は繋つながれていた。
主の秀郷は、もう六十に近かった。地方人で、藤原の姓を称となえている者は、めったにない。それ程、藤原氏の姓は、中央的な、また貴族階級的な匂いと、特権性をふくんでいた。
しかし秀郷は、都人でも、貴族の流れでもなかった。生れながらの坂東骨ばんどうぼね――未開地人の野性逞たくましき男である。
もっとも、母は藤原氏から出た者の女であるから、母方の家系を辿って、都の大官と近親をむすび、母姓の藤原氏を名乗ることは出来たにちがいない。
それをみても、若いうちから、相当な策士でもあり、野心のつよい性質で、地方人特有な“顔きき”に成るべく、早くから心がけていたことが分る。そして彼は、まんまと志を遂げた成功者であるといってよい。
この地方における彼の官職は、押領使兼下野しもつけノ掾じょうである。
押領使の任は、治安、警察、司刑などの職権をもち、掾は、徴税を監察するにあった。つまり後世の八州十手預りの顔役を配下にもち、併せて、税吏を督す位置にあったのであるから、これ以上な睨にらみはない。その上、多くの郎党を養い、眷族けんぞくもみな、土地、武力を蓄え、東山道から吾妻あがつま山脈をうしろにして、坂東の大平原に、南面している形であった。
「じつに、久しいこと、お目にかかりませんでしたが、いよいよ御壮健のようで」
客殿に通された貞盛は、長上の礼をとって、主へ、あいさつした。
「いや、あなたも、さすがお立派になられたの」
秀郷もまた、鄭重に、彼を迎えた。そして、
「……いや申しおくれたが、お父上の国香殿の御死去。はるかに、お噂はきいた。さぞ御無念でおわそう。お悼いたみ申しあげる」
「都にて、報らせをうけ、まったく仰天いたしました。葬儀のため、帰国いたしましたが、その節には、ねんごろな御弔使をさし向けられ、また、霊前へ種々くさぐさのおん手向たむけ物など賜わり、一族、お心のほどを、みなありがたく存じております」
「なんの、心ばかりじゃよ。――が、困ったものだの。その後も、騒乱はやまず、源護の子息三人までも、将門に討たれたとやら、この地方まで、えらい噂だが」
「何もかも、お聞き及びでしょうが、今は、宿怨しゅくえんに宿怨が積もり、解きがたい争いとなりました。悪くすると、これは、大乱の兆しもみえまする」
「どうして、ひとりの将門を、嵯峨源氏の力や、あなたや、また良兼、良正殿まで揃っていて、抑えられぬのか」
「あいにくと、ここ数年間、飢饉がつづきました。それらの飢民や浮浪の徒を加え、良持殿からの旧領の地ざむらいが、みな、豊田の郷に集まり、将門をおだてあげて、乱によって、利を食おうとしています。ですから、その兇暴なこと、当るべからずです」
「そこで、あなたは、どういうお考えでおられるのじゃ」
「なにぶん私は、右馬允の官職を奉じ、都に在勤の身ですから、父国香の葬儀もすんだ以上は、どうしても、一たん帰洛いたさねばなりません」
「うム。ごもっともだ」
「将門の乱暴、眼に余るものがあり、これ以上、乱の波及を坐視してはおられませぬ故、帰洛のついでに、源護どのの訴状と、叔父良兼、良正の上訴じょうそ文を携帯して、中央の府に訴え出で、太政官だいじょうかんの下文くだしぶみを賜って、征伐いたすしかないと思いきめておりまする」
「なるほど」
「そういうわけで、都へ急ぐ途中ではありますが、先に、御弔使を賜ったまま、つい今日までも、騒乱に暮れて、御音信を欠いておりましたので、途みちのついでと申しては、失礼ですが、お礼に参じ出た次第でございます。父なきあとも、どうか、以前にかわりなく、何かと情けを仰ぎまする」
と、貞盛は、馬に曳かせてきた数々な弔礼の返物と手みやげとを、次の室に積ませて、秀郷へ贈った。
将門再上京
貞盛は、歓待された。彼の考えにある外交的な意図からも、この訪問は、充分に効果があった。
秀郷もまた、この客をとらえて、多分に、自己勢力の拡充に、利用するのを忘れていない。夜は特に、宴をひらいて、貞盛をねぎらい、老熟した人あつかいのうちに、貞盛の肚を見抜いて、
「何なりと、また御相談にみえるがよい」
と、力づけた。そしてなお、
「苦労負けして、おからだを、こわし召さるなよ。国香殿のない後は、なおさら大事な、あなただ」
と、いたわったりして、貞盛を涙ぐませた。と思うとまた杯を向けては、豪放に気を変えて、その健闘を励ましたりした。
けれど、秀郷は、将門個人については、悪くも良くもいわなかった。貞盛などより、はるかに年上の彼である。将門の父良持がまだ生きていた時代からの常総地方の事情も、各家の勢力分布のいきさつに就いても、貞盛以上、古い事実と、土と人の歴史を知っているのだった。がしかし、この老獪は、知っている風も余り顔には出さなかった。
その辺が、何となく物足らない気がしたのであろう。貞盛は、意識的に、彼が、将門をどう考えているか、ひき出そうと試みた。
「秀郷様。あなたは、将門という人間と、お会いになったことがおありですか」
「いや。将門には、訪ねられたこともなし、会ったこともない」
「むかし、もう十三、四年前になりましょうか。たった一度、おありでしたな」
「どこで」
「都の右大臣家のお壺で」
「……あ。そうか」
思い出した顔つきである。しかし、その頃の小次郎将門の姿よりも、秀郷には、べつな事が思い出された。
あれは延長元年、秀郷は、まだ三十台だった。国司の下の役人と、大喧嘩を起し、国庁を焼いたり、吏員を殺傷し、流罪るざいに科せられ、一族十八人、珠数じゅずつなぎに、配所へ送られたことがある。
百方、運動の手を廻し、時の右大臣忠平ただひらにも、莫大な贈り物をしたりして、三年で赦免しゃめんになった。その礼に、上洛したのである。――その時、彼から贈った名馬を、忠平が、小壺のさきへ、曳かせてみた。壺のさきへ、口輪をとって出てきたのが、坂東平氏良持の子、小次郎将門だと、その時、忠平から聞かされたことがある。
あとにも先にも、秀郷が、将門を見たのは、その時かぎりである。今は遠いむかしである。近頃、頻々ひんぴんと将門のうわさを耳にしても、思い出せないほど、記憶はうすくなっていた。
「――左大臣家へ、参られたら、忠平公へ、よろしくお伝え申しあげてくれい。春秋の実みのり物や、四時のお便りは[#「四時のお便りは」はママ]欠かしていないが」
秀郷はすぐ話をそらした。自分が、前科者だったような記憶にはふれたくないのだ。貞盛も、さとって、
「帰洛の上は、さっそくにも、参上するつもりです。ほかに、御書面でもあるなら、持参して、お取次ぎいたしましょう」
と、いった。
翌日、貞盛が、田沼を立つさいには、秀郷は、屈強な侍を三名、彼の供に加えさせて、
「何しろ、碓氷越えは物騒です。佐久さくあたりまで、お連れください」
と、館の外まで出て、見送った。
貞盛は、やがて、都へ着いた。
彼は、ただちに、太政官に出向いて、護や叔父たちの訴文を提出し、
「よろしく、朝集ちょうしゅうにかけて、諸卿の議判を仰ぎ奉ります」
と、なお自分からも、べつに詳細な一文を認めて、出しておいた。
が、それだけではと、彼は、知るかぎりの高貴や大官を訪ねて、将門の非をいいふらして歩いた。
貞盛が、若年から愛顧あいこをうけている仁和寺の式部卿宮しきぶきょうのみやの許へも伺った。また、弟の繁盛が仕えている忠平の子息九条師輔もろすけにも会って、話しこんだ。
もちろん、その九条殿の父君であり、またかつては、小次郎将門が仕えていた左大臣家――宮中第一座の顕職にある藤原忠平の私邸を訪うことは怠るはずもない。
ところが、どうも行く先々では、彼の訴えを、たれも余り熱心に耳をかたむけて、聞いてくれなかった。
「ほう。ほほ……?」と、都人らしい、いつもながらの、外国事とつくにごとでも聞くように、のどかな眼を、すこしばかり大きくするだけだった。
「時もわるい」
と、貞盛はさとった。――というのは、あいにく、この夏頃からまた、南海に剽盗ひょうとうが蜂起し、騒乱の被害地は、伊予、讃岐、また瀬戸内の各地にわたり、朝議でも、捨ておきがたしとなって、伊予守紀淑人の訴文を容れ、官船十数隻に、兵を満載して、海賊討伐にさしむけ、太政官も各省でも、その事でもちきっているところである。
それでなくても、都人の距離感と、また生活関心は、未開土の東国などよりは、難波津なにわづから瀬戸の海につづく南海方面のほうが、はるかに、身ぢかなものだった。
秋になった。
なおまだ訴文にたいする沙汰はない。
この秋、藤原忠平は、摂政をかねて、太政大臣に叙じょせられた。
一しきりは、その昇任の祝賀やら何やらで、また、公卿たちの車馬は管絃や賀宴の式事にばかり往来し、南海の賊乱さえ、都の表情には、影も見られなかった。
「もし、このまま、放っておかれたら、東国の乱もまた、どんな大事にいたるやもしれません。坂東の諸地方には摂関家の荘園、官田かんでんもたくさんあることですし、かたがた、陸奥にはまだ、中央の令に服さぬ俘囚ふしゅうの族も、強力な軍備と富力をもって、虎視たんたんと、御政治の紊みだれをうかがっております。国家のため、貞盛は、憂いにたえません」
師輔を説くこと、幾度かしれない。忠平へは再度の上訴もした。なお、さまざまな彼の運動が、ついにものをいったか、その年も十月になって、やっと、
――下総御厨シモフサミクリヤノ下司ゲス、平将門。兇乱ヲナシ、謀叛ムホンノ状、明カナリ。使シヲ派シテ、コレヲ捕ヘ、ヨロシク朝ノ法廷ニ於テ、指弾シダン、問責モンセキアルベキ也。
という公卿詮議せんぎの議定が、公示された。
ただちに、下総の将門へ、召喚状が発せられ、将門は、官符をうけると、まもなく、東国から馳せのぼって来た。そして太政官に、着到をとどけ、しばらく、彼は街の旅舎に泊っていた。
彼にとっては、二度めの上京であり、六年ぶりに見る平安の都であった。 
対決
「逆手を打たれた。こっちが、訴人として、出たいところを」
将門は、出し抜かれたと知って、心外になった。
「……だが、白は白、黒は黒だ」
彼は、怒りをなだめた。中央に出て、法官の前に、理非を争うのは、むしろいい事ではないか。正義の者に与えられた好機ではないか。そう、思い直した。
「卑屈になるまい。堂々と、いうところを述べ、けちな袖の下だの、裏から諸卿へ、泣きつきに歩くことはしまい」
在京中も、彼は、行状につつしみ、進退を守った。
緊張の中に、毎日を送っていた。
けれど、官の喚よび出しは、その年のうちにはなかった。承平七年の正月が来てしまった。
男の三十五となった元旦を、彼は訴訟中の旅舎で、わびしく迎えた。
妻の桔梗から、便りが届いた。なつかしい彼女の文字。一字一字が、詩のように、将門にひびく。将門は、涙をためて、読み終った。しかし、かなしい事は何一つないのだ。留守はみな無事だとある。そして、彼女は、終りの方に、
(お帰りのころには、あなたと私との、初めての和子わこが、豊田の館たちに、生れているかもしれません)
と、書いてあった。
彼女は、彼が上洛のまえから、妊娠みごもっているらしいことを、良人の耳にそっと告げていた。
――と、もうひとつ、用事がしるしてあった。八坂やさかの不死人ふじとが、陸奥の旅の帰りに立ち寄って、四、五日滞留しているという留守中の事を。
ちッと、心の奥で舌打ちに似た気もちがうずいた。あの無頼な男が、また将頼や将平などを、手こずらしているのであるまいか。わが家へでも、帰ったように、酒を出せの、どうせよのと、桔梗にも、難儀をさせていることだろう。……酒や我儘わがままだけならよいが、桔梗は、あんな口達者で狷介けんかいな人間は見たこともあるまいから、もし、彼の強引なわるさになど懸かからねばよいが、などと妙な不安にも襲われたりした。
一月の末。やっと、初めて、太政官のよび出しをうけ、彼は、おととし以来の、親族間の争いのいきさつを、詳しく申し立てて宿へ帰った。
帰ってから、独りで、しまったと、胸のうちでつぶやいた。
「出つけない場所へ出たためか、あんなに、考えていたのに、いいわすれた。おととしからの、喧嘩沙汰だけではだめだ。そもそも、父良持の死後、おれたち、幼いみなし子が、叔父共の手に、ゆだねられ、そして、おれが十六で、都へ追いやられたその時の大掾国香のたくみだの、国香が、貞盛にいいつけて、おれを、都にいるうち刺し殺してしまえといいつけていた内輪事まで、つつまず打ち明けねば、わかるまい」
思いつつ、彼は、刑部卿だの、検非違使けびいしだの、別当だの、大中小判事などの公卿が衣冠をつらねている前では、思いの半分も、陳述できなかった。
あるとき、靫負庁ゆげいのちょうの法廷で、右馬允貞盛と彼とが、対決された。貞盛は、ゆたかな辞嚢じのうと、明晰めいせきな頭と、そして弁舌とをもって、滔々とうとう、数千言に亘わたって、将門のその日までの陳述を、ことごとく、いい覆くつがえして、
「従兄弟いとこの間ですから、情じょうにおいては、断ずるに忍びませんが、要するに、将門は、叔父たちの厚意を、みな悪意に解し、また飢民や浮浪の煽動にのり、彼自身も、後にはびっくりするような叔父殺しの大罪を犯し、ついに、大それた反官的な悪思想をも抱くにいたったものです。憐れむべき孤児のひがみに発し、性来の兇暴性が、地方の悪民に、利用されたものなのです。――ですから、不愍ふびんには、思いますが、もし官がこれを放置しておくなら、乱は、坂東に止まらず、四隣に及び、ひいては、南海海上の剽賊ひょうぞくにも響き合って、国家の禍いとならぬ限りもありません」
と、弁じた。
将門は、貞盛の弁論に聞きほれて、敵ながら感心した。時々、なるほどとうなずき顔にさえなった。大判事は、憐れむように、彼を見て、
「将門。おまえの申しぶんを、存分、申したててみい」
と、いった。
だが、到底、彼の呶々どどなどは、聞きづらくて、貞盛のまえには、刃が立たなかった。しかし、貞盛の冷然たる横顔の微笑を見ると、さすがに、憤然と、曠野に燃えた怒気がそのまま口を迸って、貞盛のウソと、こしらえ事を駁ばくし立てた。
しかし、かれの言は、激すほど、彼の粗暴を証拠だてた。情に激して来なければ、ことばも烈々と吐はけない性分なのである。だからそれは吼ほえたり、喰って懸かるだけのものとしてしか聞えなかった。理論は支離滅裂しりめつれつになり、果ては、涙をにじませ、いたずらに、拳をにぎってしまうのである。
「きょうは、退がれ」
靫負庁を出ると、彼はいつも、馬上で戦ったときのように疲れていた。
よび出しは七回、うち二度は、貞盛と、対決された。そして、しばらくまた、沙汰もなかった。
すると、三月の末。さいごの判決が、朝議の末、公卿列座の上、いい渡された。
「将門の罪は、厳罰に値するが、折ふし、天皇御元服の大赦たいしゃあるによって、赦免、仰せつけられる。帰国して、謹慎を示すがいい」
無罪であった。将門は、夢みるごとく、かえって、ぽかんとしていた。
貞盛への申し渡しには、
「一族内紛ないふんの蔭には、何よりも、平良持の遣領が、争いの因になっていると断じる。よろしく、将門に渡すべき荘園の地券や、田領の証書など、一切を、このさい返却して、和解いたすように」
と、あった。
貞盛には意外だった。落胆顔は、いうまでもない。非常な不平である。しかし、返すことばもなく、命を奉じて、その日は退廷した。
将門は、国へ早馬を立て、
「訴訟は、勝った」と、妻や一族へ、便びんをもって、先に報じた。
それから初めて、彼は、自分の身になったような心地で四、五日、京洛を歩きまわった。妻の桔梗へ、都のみやげをと、都の臙脂べにだの、香油だの、めずらしい織物など買って、いそいそ、暮した。
きょうも彼は、八坂やさか、祇園林ぎおんばやしなど、遅桜おそざくらの散りぬく下を、宿の方へ、戻りかけていた。すると誰か、将門将門と、うしろで呼ぶ者がある。振り返ってみると、忍しのぶ草ぐさを摺すった薄色の狩衣かりぎぬに、太刀を横たえ、頭巾をかぶり、さらに頭巾の上から大笠をかぶっている旅人であった。
近づき合って、やっと分った。それは、八坂の不死人である。
「おう。……いつ、どうして、都へ」
「わぬしが、上洛と聞いて、あとを追って来たのだ。ところが、旅舎やどがわからない。靫負庁で聞いて、やっと知れ、これから不意に驚かしてやろうと思って、訪ねて来たところだ」
「そうか。……もう、都を歩いていても、かまわぬのか」
「かまわぬかとは」
「逮捕たいほの令をうけて、世をしのんでいる身ではないのか。白昼、しかも、靫負庁へ、自分で行くとは」
「はははは。人のうわさも、幾日とかだよ。南海の海賊騒ぎで、それどころか、検非違使も、兵部省も、手いっぱいだ。彼らはとっくに、わすれておる。もうあの頃の事は、時効というものさ」
不死人は、いつも不死人である。変らないし、また、相かわらず、官を官と思っていないし、人を人とも、思っていない口吻である。
「旅舎へ行くか。どこか、ほかで飲むか」
「明日は、国へ立つつもりだ。とかく用事もあるから」
「ははは。将門ともある者が、ひどく、真面目じゃないか。国もとに美しい妻が待っているせいだろう。しかし別杯ぐらいは、つきあえよ。まあ、おれについて来い。いい隠れ遊びの家がある」
裏の都
不死人と、初めて会った時から、彼はすでに大人であったが、以後全く成長もない。幾年たっても、会えばすぐ遊蕩ゆうとうを考える。ほかに能はないかのように見える男である。
しかし、まがりなりにも、将門は、成長している。内容の変化もある。どうも、この男とは、これ以上、つきあいきれない気もするのだった。
そのくせ、彼はやはり、拒みきれず、不死人について、洛内の遊女宿へ、はいって行った。
酒の座になると、不死人は、一だん不死人らしく、冴えてきて、
「まず、君の訴訟の勝ちを祝そう」
と、いい、杯を、眼の高さに上げた。
「え。知っているのか。貞盛との、訴訟のことを。いやそれは、豊田の留守の者に聞いたろうが――おれが勝った事を、一体、たれに聞いたのか」
「おいおい、将門。おぬしは、自分の力で勝ったつもりでいるのか。こんどの訴訟を」
「正しい者は、ついに勝つさ」
「あははは。アハハハ」不死人はいよいよ笑って――「まあ、いい。まアいい」と、ひとりして、頷いた。
「何が、まあいいのだ」
「余り、滑稽だからだ。いつまでたっても、君は、大人にならない。天然の童子だ」
「おかしな事をいうじゃないか」
「じゃあ、実を明かすが。――貞盛が訴えたと聞いたから、これはいかん、貴様の負けと決まっている。悪くすると、死罪かもしれない。おれは、そう直感した。――おぬしの豊田を訪ねたが、急いで、あとを追うように、上洛して来たのもそのためだ」
「そして」
「貴様は知るまいが、おれは、陸奥から持って来た砂金かねの大半を、その為に、費つかってしまった。刑部省、靫負庁の主なる役どころの公卿や、殿上の参議たちに、手を廻して、裏口から贈っておいた。――貴様の勝ちは、その効き目だよ。うそだと思うなら、いまに分る。まあ、飲むがいい。飲んでいれば、いまに分る」
いっているところへ、
「やあ、不死人。もう始めたのか」
ひょっこり、一名の公卿がはいって来た。どこかで、見たような公卿だがと、将門は、小首をかしげた。そして、やがて杯を交わし始めてから、愕然とした。
それは、靫負庁の法官のひとりだ。たしかに、自分の裁きに立った公卿の一名にちがいない。
「いま、仔細を、将門に打ち明けているところだが、この男、どうしても、おれのいうことを、真実と思わないのだ。あんたからも、話してやってくれ」
不死人は、突っ放すようにいって笑った。そして、交情蜜のごとく、その公卿と、酒を酌みあい、そして、裏面にとってくれた公卿の労を、謝しているふうであった。
やがてなお、三人、四人と、公卿たちが、寄って来た。彼らは、不死人の前では、拝跪はいきするばかり、卑屈だった。みな砂金の分け前にあずかっている者共であることをいわずして自白していた。
「こういう、馬鹿正直な男ですからな、将門とは」
面とむかって、不死人はいった。まるで、将門の迂愚うぐを、皆が、酒のさかなにして、飲んでいるような光景であった。
夜が更けると、彼らはそれぞれ遊女を抱いて、ほかの寝屋へかくれた。泊ってゆけと、しきりにいうのを、断って、将門は、旅舎へ帰って、独りで寝た。
「なるほど、おれは、ばかだった」
将門は、自分の愚を、今はみとめていた。
官府の腐敗も、大宮人の貧しい裏面も、都会のどんなものかという事も、かつて、長い遊学中に、ずいぶん、知っていたはずなのに、もうそれを、忘れはてて、正しいものは必ず勝つと、信じていたほどなばかであった事を、自ら覚さとらずにいられなかった。
「――今朝は、立つのか」
不死人は、早朝にやって来て、彼の帰国を見送った。そして、別れ際に、これだけは、声を、ひそめて、真面目にいった。
「南海の藤原純友が、いよいよ、暴れはじめた。官庫の財政も、出費で、火の車だ。討伐の官兵たちは、いくら増派されても、鎮しずまるまい。――ところで、将門、御辺の方も、そろそろ、時機だぞ」
「時機とは」
「まだあんな事をいっている……」と、あきれ顔に「純友との約を果たすことだ。呼応して、兵を、東北の地と、南海で挙げることだ」
「おれにそんな力はない。叡山の約束なら、あれはもう反古ほごにしてくれ」
「そうはなるまい。天下の大事を約しておいて」
「身内の喧嘩にさえ、精いっぱいだ。天下に、何を野望しよう。おれは、くたびれた。ただ、国へ帰って、平和な燭のそばで、妻の顔が見たい」
将門は、馬上になって、それきり振り返らなかった。三人の従者をつれ、蹴上けあげへさして、駒を早めた。不死人はなお、逢坂口までついて来て、
「いずれ、純友に会ってから、秋ごろにはまた、東国へ下ってゆく。なお、ゆるりと、そのとき話そう」と、告げて別れた。
家郷を離れてから、いつか半年はたった。以前の帰国とちがって、こんどは、はっきり、豊田の家には、自分を待っていてくれる妻がある。壮気、孤独の頃、ふと藤原純友と会って、血のけの多いことを語りあった頃と今とは、まったく、心のありかたが、違っていた。
まして、訴訟にも勝った。その訴訟が、後には、自分の正義によって剋ちとったものでなかったのを知ったのは、淋しいことだし、何だか、心の負担にたえないが、しかし、勝ったことは、事実である。間違いはない。
新緑の豊田の館では、もう先に、彼の便りで知っていたので、彼がここに着く日には、一族郎従が出揃って、門に、凱旋の主を待っていた。
桔梗は、産屋うぶやを離れたばかりであった。でもその日は、化粧を新たにして、母となった腕かいなに、珠のような男の子を抱いて、旅の夫つまを、中門のほとりで待ち迎えた。  
繭の中に
この晩春ほど、妻の桔梗が、良人おっとの眼に美しく見えていることはない。
すこやかな初産ういざんを見て後、一しお血色を浄化され、ちょうどその年齢や肉体も女の開花を完全に示してきた風情である。爪のさきから眸ひとみの奥にまで産後美の熟うれを透すきとおるほど象徴している新妻だった。
「わたくしは倖せです。あなたは愛してくださるし……。けれどあんまり幸福で、こんな幸福な日が、いつまでつづくかと思って」
彼女はまったく幸福の繭まゆの中にいた。しかし、豊田の館の奥ふかい所にも、何となく、世間のうわさは聴えてくる。殊には、これまでの数年が、たえず彼女の心を脅おびやかしていた毎日であったから、繭の中に守られていても、ややもすれば、風を恐がる花のように顫おののくのだった。
「そんな取越し苦労はしないがいい。どうも、おまえはちと苦労性すぎるよ」
将門は、強しいて、笑って、
「そういう不安は、いい替えれば、おれが余りに頼りにならない良人だと、おまえがいっていることにもなるぞ。なぜ、おれの腕につかまって生きてゆくのがそう不安なのか」
「もったいない。私は満足しきっています。――見てください。母の私の腕に、こんなに、安心しきって抱かれているこの乳のみ子のように……です」
「おお。よく寝ているね」
「やがて、あなたの、お世嗣よつぎですのよ」
「おかしなもんだな。おれもいつか、父となったか」
「……ですから、どうぞもう、お心を練ねって、世間がどう騒ごうと、なにを企んで来ようと、お辛くても、じっと、堪忍してくださいましね」
「そうか。おまえはまた、羽鳥の叔父や貞盛などが、何かやり出して来やしないか――とそれを心配しているのだな」
「折々、いやな噂も聞きますので」
「聞けば聞き腹で、おれも時には、むかつくが、しかし、奴等が何を策動しようと、先頃の上洛により、おれは正しく、太政官の法廷で、訴訟に勝っているのだからな。中央の政府がすでにおれの正当を認め、法律に照らして――叔父共が横領をくわだてた領田の地券は、これを一切、将門に返せ――と判決を下しているのだ。奴らとしても、これ以上、どうにもなるまい」
「けれど、人の心は量はかれません。それでなお、叔父御さま達が遺産を返してよこさなくても、もう決してお腹を立てて下さいますな。私は、何も要らないと思います。これ以上には」
「そうだ、これ以上にはな」
将門も、共に、思う。妻のことばは、聡明であり、また生命を愛する者の声だと思う。
事実、今ほど幸福に盈みたされている時はない。訴訟に勝って、彼が、郷土に帰って以来、彼の人望は、郷党たちから、いやが上にも高められている。
(良持殿のあとを嗣ついで、良持殿にもまさる坂東平氏の棟梁とうりょうよ。ゆく末、東国の諸州を締めくくる人物は、あなたを措いてはありませんぞ)
四方の小地主や地侍は、招かずして、豊田の門に馬を繋つなぎに来、そろそろ、将門の耳には、甘い世辞や、彼をもちあげる阿おもねりが、集まりかけているのである。
しかし、すぐいい気になる彼でもない。彼は、それらの者のおだてには乗るまいとして、
(いや、とても、おれは父の良持どのには、似もつかない、不肖の子だ。おれはおれの馬鹿をよく知っているのさ。けれど、正直者が虐しいたげられて、悪智恵のある奴が、威張りちらしたり、巨富を積んで、ぜいたくするのを、免ゆるしてはおけないからな。そういう勢力とは、戦うよ。あくまで戦って、坂東の天地を、ほんとの平和にして、住もうじゃないか。それだけの事さ、おれのたてまえは)
と、誰にも一様にいうのである。しかし、その単純で開け放しな人がらが、かえって、魅力でもあるように、四隣の客は、よけいに絶えない。
そうした四隣の客はまた、かならず、豊田の館の内部から、領下一般の勤勉と和楽が稔らせている繁昌を見て帰った。
養蚕も農作も、水産も林業も、この地方の進歩はじつに目ざましい。市は諸方に立ち、交通もよくなり、農家の一つ一つを覗いても、飢えているような顔はない。祭りといえば、どこの地方より、賑うし、酔って、土民が唄うのを聞けば、唄にまで、将門の徳を、頌たたえている。
将門自身も、よい妻を得、よい子を生み、いまは何の不足もないのだ。――だから彼はこれ以上、むりな搾取さくしゅを領下の百姓に求めはしない。
また彼には、少年の頃、自分を熱愛してくれた女奴めのやっこの蝦夷萩の死が、いつも思い出されるので、奴隷どれい長屋に飼っている男女のたくさんな使用人にも、常にあたたかい主人だった。
「あ。わかったよ。何が起っても、堪忍しよう。だからもうそんな取越し苦労はおよし」
子どもの寝顔をのぞきに来たついでに、彼は、妻の唇にも、唇を以て、愛撫を与えた。
日に、何度となく、こんなふうに、館の北の殿をたずねて、繭の中の平和と愛情に浸りに来るのが、このところ数ヵ月の、彼の唯一な楽しみであった。
けれど、この館の平和も、春から秋ぐちまでの、わずか半年ほどの間でしかなかった。桔梗の予感は、不幸にもあたっていた。
土と人
八月。
爽涼そうりょうな秋が訪れはじめたある日の早暁である。
将門の弟――去年、分家して、葦原あしわらに一邸を持っていた大葦原四郎将平は、
「兄者人っ。ただ事ではない」
と、馬を飛ばして、豊田へ報らせに来た。
「なんだ、あわただしく」
その朝も、将門は、乳児のにおいのする妻の部屋にいた。外の小鳥の音と、桔梗の明るい声が、いつもの朝のように、良人の笑顔をつつみ、これから近くの領下へ検見けみに出かけようという供揃いを、門外に待たせたまま、時を忘れていたのである。
「ゆうべ晩おそく、筑波の者が、門を叩いて、告げに来てくれたのです。――羽鳥の良兼が、山に兵を集めて、水守の良正の方と、さかんに、早馬を交かわして何か目企もくろんでいる様子だと」
「また、叔父共のカラ騒ぎか。頼みもせぬのに、わざわざ、何だかだと、報らせて来るのもいるから困るな」
「困ることはありません。お館やかたを大事に思い、兄者人に、好意を寄せていればこそ……」
「が、なあ四郎。おれはもう、いつまで、叔父おじ甥おい同士で、浅ましい血みどろ喧嘩はしたくないんだ」
「それは、私たちでも、同様ですが、叔父たちは、今でも、豊田のわれら兄弟を、あくまで敵として、やじりを研といでいるのだから仕方がありません」
「相手にするな。どう悪声を放とうと、企たくもうと」
「充分、こっちは避けています。しかし、羽鳥や水守の衆は、この半年、いよいよ武器馬具を集めて、戦備に怠りなく、しかも、太政官の訴訟では、自分等の方が、正しく勝ったと、いい触れています」
「何といおうが、おれの手には、おれの勝訴となった文書もんじょがある。そして、羽鳥や水守の叔父達へは、わが家の正当な遺産である田領の地券を、ただちに、将門に返還せよという官の通達が届いているはずだ」
「そんな物は、彼らにとって、何の威令でもありません。――むしろ、そこまで、追いつめられたので、なおさら、策謀と武力に、邪心を集注し、一挙に、豊田を破って、中央の敗訴を、うやむやにしてしまおうという肚なんです。それに極まっています」
「……ま、待てよ。四郎」
将門は、弟の憤激がやまないので、口を抑えるように、ふと、語気を変えた。
そばにいて、息をつめながら聞いている妻の顔に、はっと、聞かせたくない思いをつきあげられたからである。
「おれは、出かけるところだ。郎党たちも、馬をすえて待っている。話は、あっちで聞こうよ。道々、駒を並べて聞いてもよい」
桔梗の顔は、もうまっ蒼になっている。母の恐怖はすぐ乳腺にひびいて、抱かれている子までが、乳の味にそれを知るのである。急に、彼女のふところでムズカリ始めた。――四郎将平の胸はこの朝、早鐘をついている思いだったが、兄の気もち、あによめの心を覚さとって、
「あ。そうでしたか。では、ともかくその辺まで、ご一緒に出かけましょう」
と、さりげなく、桔梗の部屋を先に出た。
将門、将平のふたりが、館の表の、家人部屋けにんべやの廊のあたりまで出て来ると、もうそこらの家僕や女たちの跫音が、いつものようでなかった。
「何を騒いでいるのか」
将門が、郎党のひとりを、叱ると、
「いえ、郷の者が、騒ぐので。そして、それを聞いた女奴や下僕どもが、あらぬ事を、口走るものですから」
「あらぬ事とは?」
「今朝、豊田を通ってゆく旅人が――豊田は何と暢のんびりしておるわい。今にも、常陸勢や筑波勢が、こっちへ来るのも知らぬ気げに――と、あきれ顔に、この辺を、笑って通ったとか申します」
四郎将平は、それを聞くと、
「それ、ごらんなさい。旅人や百姓まで、もう聞き伝えているでしょう。――察するところ、羽鳥の叔父は、昨夜のうちに、筑波を発し、水守の兵を合せて、この豊田へさして急いでいるにちがいない」
「いやだなあ、売り喧嘩か」
「兄者人! 備えてください」
「四郎」
「はいっ」
「何とか、交かわす法はないか。戦わずに」
「ば、ばかな事を仰っしゃって。――それなら、豊田を捨てて逃げるしかありません」
「逃げもしたいが」
「冗談じゃありません。あなたを、豊田の主あるじとも、土地の親柱とも頼んで、ここへ眷族けんぞくをつれて寄り合った多くの者、また、たくさんな郷の者を、どうにもなれと、振り捨てて、逃げられますか」
そこへ、守谷に住んでいる御厨みくりや三郎将頼も、馬にムチを打って、駈けつけて来た。
将頼は、下の弟の四郎将平よりは、気もやさしく、兄の将門よりも、めったに、激さない性たちである。――が、その将頼すら、もう武装して、矢を負い、弓をひっ抱えていた。
「良兼を大将に、二千以上の大兵が、子飼の渡しをさして、続々と、向かって来るそうです。――良兼、良正たちは、去年の敗れに懲りて、このたびこそと、軍備作戦をねっているとかいう事は、夙はやくから聞えていましたが――やはり本当だったとみえます」
三郎将頼は、息をはずませて、いった後、
「もし、子飼の渡しを、彼らに断たれると、こちらは、豊由一郡に、追いつめられ、戦うに、不利となります。兄者人、すぐ駈け向ってください。一刻を、争いましょうぞ」
「……ちいっ。ぜひもない」
将門も、肚をきめた。
しかし、彼の命令を待つまでもなく、あたりにいた郎党は、館、柵内の味方へむかって、事態をどなり歩いていたので、馬を曳き出し、武器を押っとり、前後して、甲冑の奔流ほんりゅうが、諸門から往来へ、溢れ出ていた。
将門も、大急ぎで、具足を身に着けた。その間とて、彼の心のどこかでは、
(いやだなあ、血みどろは、見たくないが……)
と、しきりに疼うずく弱気があった。妻の白い顔や、乳のみ子が、眼にあって、いつになく、鎧の重さが、身にこたえた。
その間に、五郎将文、六郎将武なども、大結ノ牧や、附近の邸から、駈けあわせ、またたくまに七、八百騎。
「子飼の渡し口へゆけ」
「子飼を守れ」
と、まっ黒に、駈け出した。
後から後から、なお駈け続く兵も多い。曠野の兵は、その頃まだ、みな「半農半武」か、「半農半猟」か、とにかく、館の郎党から散在している地侍にいたるまで、純然たる武士という者は一般にごく少なかったようである。「今昔物語」などには、“合戦ヲモツテ、業トナス――”人種のようには書いてあるが、匪賊ひぞくのように、それのみが目的ではない。武門といえど、荘園や開墾や、土の経済の上に、立っていた。それだけにまた、土の争奪には、血を惜しまず、骨肉の相剋も、辞さなかったわけでもある。
こういう兵団。こういう原始的な武力。――従ってまだ軍律や、秩序ある陣法もなく、ただ極めて幼稚な作戦知識と、大ざっぱな階級別とがあるだけだった。
とはいえ、蛮夫ばんぷの勇に近い敢闘精神と、野性そのものの血は、もうすでに「坂東猛者ばんどうもさ」と天下に著名なほど旺さかんであった。この自然下にあった特性が、史上、将門がよび起したものといわれて来たいわゆる“天慶てんぎょうノ乱らん”なるものを、ひどく凄惨なものにしたに違いないことは、疑いの余地もない。  
木像陣
「やや。遅かったか」
「しまった。もう遅い」
子飼へ殺到してみると、敵はそこの渡し口を、もう完全に、扼やくしていた。
羽鳥の良兼を大将としたこんどの奇襲は、じつに、彼らにとっては、四度目の来攻である。
地の理も、将門の戦い方も、経験によって、彼らは、相当、研究をつんで来たらしい。
まず、前日から、変装した散兵を放ち、この辺に、隠密な予備工作をとげてから、一挙に、筏いかだや船や、また、浅瀬を求めて、押し渡ってしまったのだ。
将門は、遠くから、敵勢のかたちを見て、
「畜生」
と、体じゅうに、たちまち、彼らしい滾たぎりをもった。そして、
(やはりおれは、暢気のんきすぎていたのだろうか。どうしても叔父共は、おれの首を見ないうちは、止めないつもりだろうか)
と、悲涙して、悔い悶もだえた。
すごい矢ひびきが、風を切って、左右を掠かすめてゆく。
彼の弟たちはもう部下と一しょに、敵のまっただ中へ、肉迫していた。ゆとりをもって、充分に、待ちをかけていた敵の弓は、序戦において、多くの犠牲を、豊田兵に払わせた。
「やや、敵は、ここだけではないぞ」
将門は、すこし狼狽した。というのは、加養かよう、田下たげ、宗道そうどうなどの附近の部落から、煙が立ち始めたからだ。それらの小部落は、戸数は大したものではなくても、みな豊田郷の内である。朝夕に、将門も見ている屋根だし、将門にとっては、常に自分を、「力づよいお館様」と頼みきって、鍬すきをもち、漁業すなどりをしている、可憐いじらしい領民なのだ。
「やったな。糞叔父めら」
耐えている忍辱にんにくの横顔を、いきなり撲はりとばされたように、将門は憤然と、まなじりを上げた。
「ひとたび、おれが怒ったら、どんな事になるか、奴らはまだ、思い知っていないのか」
彼は、悍馬かんばと一つになって、敵前に迫り、
「良兼っ、出て来いっ。今日こそは、おれと、勝負をしろ」
と、一騎討ちを挑んだ。
もとより良兼や良正が、彼の求めに応じるわけはない。むしろ、波上にあらわれた大魚の背を見て気負う漁師のように、
「それっ、将門だぞ」
「将門をねらえ。将門を射ろ」
「逃げ口を取って、逸するな」
などと口々にどよめき渡って、一瞬、彼ひとりに、矢をあつめた。
矢風の外へ出るのが重要である。将門は一心不乱の鬼神きじんになった。そして、直接、敵兵に触れ、悍馬の脚あしもとに蹴ちらしながら、長柄の刃が血で鈍なまるほど、縦横無尽に、薙ないで行った。そして、ついに、主将の陣へ、迫りかけた。
そこが、あきらかに、良兼のいる陣の中核と分ったわけは、いちめんな青芒あおすすきに蔽われている低地へ、さらに、楯たてを囲い、一部に、幕とばりを繞めぐらしなどして、ぐるりと、守り堅めている武者も、雑兵とはちがい、見るからに皆、いかめしい甲冑や武器を揃えていたからである。
「良兼は、どこにいるぞ。良正はいないのか。小次郎将門が、今日はここまで来たのに、なぜ、おれの首を取りに出ないか」
「おうっ、将門、来たか」
それは、誰の声とも、咄嗟とっさには、分らなかったが、ばらばらと、一方の楯囲いを開くと、芒の波の上に、ゆら、ゆらと、異様なる二体の木像が、神輿みこしのように、舁かつぎ上げられ、左右に数十人の甲冑武者が従ついて、
「……おうっ、将門、来たか」
と、唱歌のように、声をそろえて、どなった。
「や、や? ……何だろ」
将門は、思わず、悍馬の手綱をしぼった。
木彫の人間像は、二体とも、坐像である。衣冠束帯のすがたで、台座の横木には、あざらかに、こう書いてある。
家祖高望王たかもちおう、尊霊
故こ、平良持公たいらのよしもちこう、尊霊
――つまり平氏の先祖と、将門の亡父の木像とを、どこからか持ち出して、陣頭に押し進めて来たわけだ。
将門が、ちょっと、たじろいだ様子を見ると、木像陣を作なして来たその一群は、また、声をそろえて、
「畏おそれろ、畏れろ。畏れを知らぬか」
「高望王の尊像に」
「さきの良持公の前に」
「射るや、矢を」
「懸るや、不敵に」
「畏れろ、将門っ」
と、相手の耳もつんぼにしてしまおうと計ってでもいるように、喚おめき囃はやした。
そして、ザッザ、ザッザと、草の波を分けて、押し進んで来るのを見て、将門は、急に馬を退さげて、意気地なく、ためらい出した。
――と見て、木像の前にいた前列が、
「将門、くたばれっ」
と、急に、弦つるを鳴らした。四、五本の矢が、将門の青白い顔を的まととして、びゅっと飛んだ。
がばと、将門は、馬のたてがみに打っ伏した。迅速だった。馬は尻を刎はね上げて、くるりと、廻った。とたんに、将門は、ムチを加えていた。――それこそ、一目散といってよい彼の姿であった。
勝鬨かちどきとも、爆笑の嵐ともつかない声が、うしろで聞えた。
「それっ、追い討ちにかかれ」
「焼き立てろ、火攻めに移れ」
良兼の部下は、余勢を駆って、さらに、豊田郷の深くに進攻し、放火、掠奪、凌辱りょうじょくなど、悪鬼の跳躍をほしいままにして、その日の夜半頃、筑波へひきあげた。
脚気を病みつつ
一夜のうちに、豊田郡一帯は、無数の焦土を、ここかしこに、作っていた。たのみ難い人の世の平和を語るように、余燼のけむりが、次の日も、もうもうと、水郷いちめんを晦くらくしていた。
「何も知らない百姓の女わらべや老人としよりにまで……。ああ、気のどく。これは、おれのせいだ」
将門は、馬で、あちこち、見舞ってあるいた。その惨状を、眼で見、耳に聞いた。
去年。――敵地へ駈け入ったとき、将門が敵へ与えた通りな惨害が、今日は、彼の領下に、加えられていた。
幸いに、豊田の本拠は、無事だった。館にも、柵前にも、また彼の妻子にも、何事もなかった。
けれど、将門は、辛かった。正しく、自分の精神と肉体に、痛打をうけた感じである。
救い粥がゆの状況を一巡見て、館へ帰ると、彼は、いつになく、疲労の色をたたえていた。今暁、一睡はしているのに、なぜかひどく気力がふるわない。
「どうしたのです、兄者人」
将頼もいい、将平、将文も、彼を囲んでいった。
「いや、どうもせん。ただ少しくたびれたよ、おれは」
「いつにないお顔色ですが」
「そうか……」と、将門は、自分の頬をなでた。知覚がにぶく、何だか、顔の幅が倍もあるような気がした。
「寝不足とみえる。案じることはない。きのうは、まずい戦をやってしまったが……なあに、こっちに、油断がなければ、あんなばかな負け方はせぬ」
「むしろ、私たちは、よかったと思います。――余りにも兄者人は、自分の気もちで、他を量りすぎる。これからは、私たちのことばも、きっと、きいて下さるでしょうから」
「……悪かった」
素直である。将門の、こんな素直も、弟たちにすれば、かえって、どうしたことかと、心ぼそい。
「いえ、決して、兄者人を、私たちが揃って、お責めするわけではありません。――ただ、いかに危険な相手共か、それを、もう一ぺん胆に知っておいていただかないと」
「わかった。もう、不覚はとらん。もういちど、おれの本当の力を、思い知らしておく必要がある。三郎、四郎」
「はい」
「近いうちに、見ておれよ。そうだ、充分に、郎党や馬を休ませておいてくれ」
それから、十日ほど後である。
将門は、一情報をつかむと、すぐ主なる家人や弟たちを寄せて、万全な密議をこらし、夜半、豊田の兵一千余を引率して、子飼の江上を渡った。
ここは、四方の大河、江頭をあわせても、どこより水を渡る最短距離であった。
なおまだ暁天も暗いうちに、彼は、敵領に近い大宝郷だいほうごう堀越の渡し附近に埋伏まいふくした。
葦も芒も秋草も伸びるだけ伸びきっている季節である。伏兵には時を得ていた。そして、蛭ひるに喰われたりヤブ蚊にさされたりの沈黙をじっと怺こらえて、やがての戦機を待っていた。
「……見えぬぞ、まだ」
「はて、来ないなあ」
この日、羽鳥の良兼が、先日の奇襲に味をしめて、ふたたび、豊田へ襲せてくるという密報が、前日に探られていたのである。
――と、果たして。
陽も高くなった頃、筑波、常陸、水守の兵をあわせた大軍が、えんえんと、長蛇の影を見せてきた。
渡しへ、かかった。
筏にのり、馬を、浅瀬に曳き、列も陣も、みだれた時を計って、将門が、
「射ろ」
と、急に命令を下した。
敵は、狼狽した。江の水は、赤くなった。
しかし、良兼の部下は、先頃にもまさる大兵であり、あらかじめ、途中の伏兵には、要心もしていたらしく、たちまち、勢いを、もり返して、
「ござんなれ。きょうこそ、将門を生擒いけどりにしろ」
と、反撃してきた。
どうしたのか、この日、将門は、ややもすると、逃げ廻っていた。
「はて。いぶかしい」
「おかしいぞ、兄者人の容子ようすは」
彼の弟たちも、それが、一抹の憂いとなって、充分に、戦えなかった。
――理由は、後になって、分ったことだが、将門は、すでにこの夏頃から、この水郷地方に多い風土病ともいえる“脚気かっけ”にかかっていたのである。
この前の、子飼の渡しの合戦でも、何となく、全体がだるく、そして、頭も冴えない心地がしていたのだ。
――殊に、その日は、暗いうちから、沼地の葦や水溜りの多い湿地に半日も浸つかっていたので、急激に容態が悪くなっていた。いかに、阿修羅になろうと思っても、気も猛たけくなれないし、第一、操馬が自由にならなかった。
このため、積極的に、ここまで敵を迎え討ちに出陣しながら、彼の軍は、ふたたび、みじめな退却を、余儀なくされた。
「将門の勇猛も、底が見えた。もう彼の腰はくだけているぞ」
良兼は、そう観た。
「きょうこそは、さいごのところまで、豊田を攻めろ。おそらく、夜には、将門の首が、わしの前にすえられるだろう」
そういって、堂々と、鼓手こしゅをして、鼓を鳴らさせ、あたかも、もう占領軍の入城のように、豊田へ迫った。
そして、この前のように、行く所の民家屯倉などを焼き立て、ついに将門の本拠にまで迫った。ここは郡の中心地であり、将門館の門前町なので、人家も建て混んでいる。煙の下を、逃げまどう女子供の悲鳴が、たちまち、阿鼻叫喚あびきょうかんを現出した。
一ノ柵に、火がついた。
二ノ柵門も、館の正門も、はや炎にくるまれ、領下の火ばかりにとどまらず、将門の妻子が住んでいる北ノ殿まで、炎は、余すなく狂い出した。  
病躯
「どっちを見ても火だ。火ばかりだ。弟。豊田の館の運命も、今日が終りとみえる」
敵の攻勢がゆるむと、かえって、将門も気がゆるむ様子だった。路傍の木蔭へ、流れ矢を避け、さも、疲れきったように、馬の背で吐息といきをついた。
「兄者人。頑張ってください。いつもの兄者人らしくもない」
弟の五郎将文まさぶみは、兄の無気力に、苛々いらいらしていった。具足の腰に付けていた革の水筒を解いて、馬上から馬上へ、
「水がありますが、ひと口、水をおあがりになりませんか」と、手渡した。
「あ、ありがたい」
将門は、ごく、ごく、と喉のどを伸ばして飲みくだした。ほっと太息をつく。そして、その雫しずくや顔じゅうの汗を、鎧下着よろいしたぎの袖で横にこすった。
「将文。――三郎や四郎たちは、どうしたか。姿も見えなくなったが」
「ほかの兄達は、奮戦して、鎌庭かまにわの外へと、敵を退けています。もう、御安心なさいまし」
「いや、敵は新手あらてを持っている。ここまで、攻め入られては」
「どうして、今日に限って、そんな弱音よわねをおふきになるんです。兄者人からして、お気を挫いたんでは、士気はどうなりましょう」
「だが、見ろ。父からの館も、門前町も、御厨みくりやの建物も、みな火や煙にくるまれている。退ひいては襲よせ、退いては襲せて来る敵に、こう防ぎ疲れてしまっては……」
「どこか、お体でも、お悪いのですか」
「なに。体?」
「お顔が、常の二倍にも、膨ふくれています。いま、気がつきましたが」
「そうか。……いや、おれは、何ともないぞ。体は、常の通りだよ」
いわれるまでもなく、将門は自覚していた。自分の顔を撫でても、まったく知覚がなく、全身は重く、勇気の欠如が、われながら、もどかしかった。しかし、病気のことだけは、まだ、弟たちには秘して、今も、さあらぬ態を持つのだった。
一方。御厨三郎将頼、大葦原四郎将平、そのほか六郎将武などの弟たちは、さんざんに戦って、敵を、ともかく遠くまで撃退したので、
「長追いは」
と、いましめ合い、
「兄者人のお身の上こそ、案ぜられる」
と、戦線をさげて、将門の姿を、あちこち求めて来た。
そして、ここに長兄の無事を見て、よろこび合ったのも、つかの間、敵はまた、潮しおの返すように、新手を立てて、襲せて来た。
「ここは、われらして、防ぎます。兄者人は、館にある味方を励まして下さい。館へ籠って、女子供らを、お守りください」
弟たちのすすめに従って、将門は郎党二、三十騎をつれて、さいごの砦とりでと恃たのむ豊田の本邸へひっ返した。
しかし、東西の柵門から、母家下屋まで、火の手は大きく廻っている。家人や奴婢長屋の男女まで、総がかりで消火に努めているものの何の防ぎになろうとも見えない。ただ幸いな事は、火は、飛び火によるものらしく、敵勢の影は、まだここまでは侵入していなかった。
「桔梗っ。……桔梗はどうした。桔梗よっ……」
将門は、広い柵内を、走り廻り、走り廻り、炎へ向って呼びぬいた。彼女のいる北の殿も、火をかぶっていたからである。
「おおっ、お館っ」――煙の中から泳ぐように、郎党の梨丸なしまるが、彼を見つけて、駈け寄って来た。
「北の方様を始め、女房衆も老幼も、みな、大結おおゆうノ牧へ、立ち退かれました。この有様です。もう、炎も矢も、防ぎはつきません。――殿にも、大結へお落ちあそばしますように」
「ついに、だめか」
狂風は、炎をあおり立てて、眼の及ぶかぎりを、火の海としている。しかも、敵影は見えないが、どこからとなく、敵の矢は、巨大な明りを目標に集中されていた。
父の良持が、生涯をかけて、土とたたかい、四隣と戦って、築きのこした物も、今や一ときに灰燼かいじんに帰すかと思うと、将門は、自分も館と共に灰となるのが、正しい死に方みたいに思われた。
けれど、桔梗を思い、乳のみ子の顔をえがくと、このままには、死にきれなかった。
浮寝の巣
豊田一帯の火は、夜になると、いよいよその範囲を、燎原りょうげんのすがたに、拡げていた。
桔梗は、乳のみ子を抱いて、牧の馬小屋の中に、身をひそめ、
「わが良人つまは。将門様は」
と、そばに従いている老臣の多治経明たじのつねあきにのべつ訊ねていた。
経明は、折々、丘へのぼって、赤い夜空をながめ、自分の生涯と、自分が仕えて来た前代良持からの半世紀に亘わたる土の歴史をふりかえって、
「ああ長い年月だった。また、短いつかの間の夢でもあった。空の星だけは、何も知らぬげに、悠久と、またたいていることよ。――何百年、何千年、今夜のような業火ごうかをくり返して、ここの土が、ほんとに、禍いなく安楽に住める土になることやら? ……。到底、限りある命では、それは見極め得ないものを、わしは余りに長生きをし過ぎたようだ」
八十をこえた老臣は、さして烈はげしい感情に衝かれることもなく、また、折々に、桔梗のそばへ戻って来て、
「まだ、お館様は、必死に、御合戦と見えまする。敵を追いしりぞけて後、かならず、お見え遊ばしましょう。余りに、お気づかいなされると、和子さまの、お乳ちの出にも障さわりましょうず。何事も運命におまかせあって……」
と、落着き切った語調で彼女の暴風のような不安をなだめていた。
そのうちに、負傷した味方やら、防ぎ口を破られた人々が、いい合せたように、この大結ノ牧へ、逃げ退いて来る。
やがて、将門も。また将頼、将平たちも、「残念だ」「無念だ」と、口々にさけびながら、雪崩なだれ合って来た。
「こうなっては、一時、ちりぢりに身を潜めて、再挙を図るしかありません。兄者人は、お体もすぐれぬ御様子ゆえ、どうか、ここを落ちて、御養生に努めてください」
彼の弟等も、老臣の経明も、また主なる郎党にしても、すべてが、それを目睫もくしょうの急として、
「桔梗さまも、御一しょに」
と、いや応なく、疲れていない馬を選んで、馬の背へ、押しあげた。
それと、経明のさしずで、ここまで、火中から運び出した財宝の品々も、十数頭の馬に積んで、
「一刻も早く」
と、大結ノ牧の丘から、南の曠野へ、急がせた。経明はその後で心静かに自刃じじんした。
将門には屈強な郎党が四、五十騎ほど従いて行った。彼と桔梗を乗せた二頭の馬をまん中にして、行くあてもなく、その夜の危地を脱したのであった。
その、わずかな郎党と、妻子をつれて将門は数日のあいだ、彼方此方かなたこなた、逃げまわった。
初めの四、五日は、芦あしヶ谷や(安静村)の漁夫の家に、妻子を隠して、近くを警戒しながら潜伏していたが、偵察に出した梨丸なしまるや、走り下部しもべの子春丸ししゅんまるなどが、立ち帰って来て、
「ここも、物騒です。良兼の兵が、あちこち、農家の一軒一軒まで、豊田の残党はいないか、将門を匿かくまってはいないかと、吠え脅しながら、調べ歩いているようです」
と、報告した。
翌日。また六郎将武も、十騎ばかりつれて、ここへ加わり、
「三郎兄や四郎兄は、他日を期して、遠くへ落ちて行きました。兄者人も、こんな近くにいては、物騒です。――敵は豊田を占領して、勝ちほこり、草の根を分けても、こんどは、将門の首を持って帰ると豪語しておるのに」と、将門の油断をいさめた。
将門も、それを、覚さとらないではない。けれど、乳のみ子を抱いた桔梗が足手まといなのである。それと、自分の病も懶ものうく、なお、妻子との別れ難い気もちも手伝う。
が、危険は、そのほかにも、いろいろ、身近に、感じられてきた。
「しかたがない。しばしの間、さびしい思いを忍んでくれ。きっと、冬の初霜が降りぬまに、以前にまさる味方を募つのって、羽鳥はとり、水守みもりの敵に、逆襲さかよせをくわせ、そして、そなたを迎えに来るから……」
桔梗は、良人のこの言葉に、涙ながら、うなずいた。いや、乳の香ふかく、ふところに眠っていた幼子おさなごへ、母の頬をすりよせたまま、涙の面を上げなかった彼女のほんとの意志は、
「嫌です。……死んでも、離れるのは……」
と、つよく面を振っていたのかも知れないが、将門の眼も、あたりに、深刻な眼をそむけていた郎党たちも、彼女が、豪族の妻らしい覚悟のもとに、けなげにも、頷うなずいたものと、皆、見てしまった。
三艘の漁船が用意された。
漁船の上は、すっかり、苫とまを敷きならべ、中に、食糧や、夜具や、そして豊田から運び出した重宝の一部だの、すべてを積み隠した。うち一艘には、桔梗と女童めのわらべや女房たちが乗り、べつの二艘には、十余名の郎党を乗せた。そして芦ヶ谷の入江から、海のような湖上へと、先に、逃げのびて行けと、いいつけた。
彼の妻子をのせた三艘の苫船とまぶねは、なるべく、葦や葭よしの茂みを棹さおさして、臆病な水鳥のように、まる一昼夜を、北へ北へ逃げ遡り、やがて広河ひろがわの江えのあたりに、深く船影をひそめて、ひとまず、そこを隠れ場所としていた。
将門は、陸路をたどって、妻子の落着きを、見とどけた後。
「わずかの間の船住居だぞ。長くは、待たさぬ。つつがなく、病気をせぬよう、いてくれよ」
遠くから祈った。その辺りの秋の蘆荻ろてきにたなびく霧の寂寞せきばくに惜別の眼を、焼きつけた。そして彼自身は、手勢をひきつれて陸閑むつへ岸(下結城村)附近の山中へかくれ込んだのであった。   
秋水蕭殺
じとじとと、長い秋雨がつづいた。
山蔭に、横穴を掘り、穴の口に、丸木を組み、木の皮で屋根を葺ふいたような小屋が、彼の当分の隠れ家だった。
同じような物を、その附近に、土蜂どばちの巣のように作って、主従六、七十騎が、一種の山寨さんさいを構成し、しきりに、密偵を放ったり、離散した味方との連絡を計ったり、また食糧の猟り集めなど、営々として、とにかく、再起の意気だけは、持ち耐えていた。
けれど将門は、ここへ落着いた日から、まったく、病が重って、寝ついたきり、身うごきもできなくなった。
脚は、樽のように太く、指で圧すと、ふかく凹くぼむ。顔のむくみも、いっこう退かないし、全身のだるさも、気が張っていた間はまだしも、山へかくれてからは、わが身をさえ、持て余すばかりだった。
「桔梗は、無事か。……和子も、変りはないか」
呻うめきながらも、そればかりは、日に何度も、訊くことを忘れない。
「お難しいかもしれない……」
末弟の将武は、郎党たちが、ひそひそ声で、そう呟つぶやくのを、何度も聞いた。――ほかの将頼、将平などの兄と、何とか、連絡をとりたいと思ったが、へたに、盲動すると、なお豊田附近に充満している敵の目にふれて、ここの山寨を、さとられる惧おそれがある。
「もし、ここへ、敵に襲よせられたら――」と、考えると、将武は、身の毛がよだった。何とか、長兄の病気を、一刻も早く――と、そればかり祈るものの、その薬餌すら、手に入れ難い。
すると、どうして、知ったものか。亡父ちち良持の友人で、蔭ながら、将門の身に、非常な同情をもっていた菅原景行が、ある日、見舞に来て、将門の病状を見、
「これは、癒なおらぬ病ではない。わしも、かつて同じ病にかかったことがある。その薬を届けて進ぜる」
と、いって帰った。
将門は、その人のうしろ姿を伏し拝んで、
「ああ、申しわけがない。あの人には、何事も怺こらえとおせと、いつも、堪忍が大事だという御意見をよく伺っていたのに……。ついに、こんなみじめな自分の姿を見せて」
と、病床に、涙を流していた。
数日の後、景行の使いが、薬を届けてよこした。薬草袋を煮ては、毎日何度となく、その薬を飲みつづけた。驚くほど、尿がよく出る。それに比例して、気分が際立きわだって爽快になってきた。
将門は、ひとり語に、
「おれは癒る!」
と、大声でいった。すると、空洞の木霊こだまがグワンと(おれは、なおるっ)と、それに和すように、もう一ぺん聞えた。
肉体に、健康がよび返され、その健康が、彼の彼らしい意志気力を、恢復してくると、
「はて。おれはどうして、こんな目に遭あっているのか。相馬小次郎将門ともある者がだ。おれは、決して、喧嘩に負けて凹へこむような男ではない。……そうだ、おれは合戦に敗れたのではなく、おれはおのれの病気に負けたのだ」
むらむらと、こんな考えかたが、頭を擡もたげてきた。身のみじめさを、鮮あざらかに、見廻すにつけ、最愛の妻子の、あわれな船住居を思うにつけ、彼は、心に、遺恨の弓を、ひきしぼって、満を持すような眉を示した。
「どうだ、おれの顔は。……もうすっかり腫はれもひいたろう。滅法、粥もうまくなって来た。何を喰っても、餓鬼のように美味うまい」
――その朝は、わけて将門は、気分が快かった。穴住居には耐えなくなり、早暁に鳥の音の中を歩いて帰った。そして大勢の郎党たちと共に、雑穀や木の実をつき交ぜた異様な粥に、小鳥の肉など炙あぶって、賑やかに、食べていた時である。
誰か、麓から、駈け上ってくる。本能的に、みな立った。しかし、味方の物見の者とわかったので、すぐにまた、腰をすえかけると、近づいて来た味方のその物見たちが、口々に、たいへんだっ――といきなり喚おめいた。その声にも、表情にも、たしかに、一同を愕然がくぜんとさせる――ただならぬもの――があった。
「北の方の船が襲われた」
「敵に知られて、桔梗さまや、和子様まで」
舌がひッつれて、多くを、正しく、いえないのである。口々の声はみな、報告というよりは、ここへ来て、とたんに、息ぎれと一しょに吐いた絶叫であった。
「なにっ」
将門のそれにたいする声も、ふるえを曳いて、あとは、
「桔梗や、和子が」
と、いったきりである。
唇のほか、血のいろもない顔を、じっと、持ち耐えながら、
「もっと、詳しくいえ。敵に見つかって、どうしたのだ?」
と、やっと次の語を吐いた。そして、物見の三名を、睨みつけた。
「無残や、お姿も見えません。……血にそんだ船や、あなたこなたに、御衣おんぞの袖やら、味方の郎党の死骸は、捨てられてありましたが」
すべてを聞き終らないまに、将門は、山を駈け下りていた。もちろん、すべての彼の部下が、山つなみのような勢いをなして、彼に駈けつづいたことはいうまでもない。
麓に近い平地に、味方の馬十数頭が隠してある。彼は、その一頭へ、とびのった。うしろに、兵が続いて来ようと来まいと、問題ではないらしい。彼はただ、彼の魂が翔かけたい方へ、駈けている。
陸閑岸から、彼の妻子の船のある湖辺まで二、三里はある。その間、将門は、道も眼に見えなかった。
蘆荻と、水が近づいた。
晩秋の大気は、水も空も、ひとつの物みたいに、しいんと、澄みきって、そこに、何があったかを、疑わせる。余りにも、自然は、平和であったし、美しすぎるほど、美しい秋を深めている。
「……桔梗っ」
馬を降りた将門の声が、水へひびいた。同じ叫びを、彼は、白痴の児のように、何度も、水へむかって、繰り返した。
「き、き……桔梗……」
やがては、ただ咽むせび、ただ涙となり、そして、おろおろと、あたりを、行き暮れたように、歩き廻って、突然――
「おれだぞ。将門だ。……桔梗よ」
と、水の中へ、ざぶざぶ、這入はいって行こうとした。
すでに、後から駈けて来た面々も、そこらの地上を、物色したり、そして、芦間に、血に染しみて、沈みかけている破れ船を見つけたりして、地だんだを踏んで、呪いや不覚を、口走っていたのである。
「あっ。どこへ。……お館様、どこへ」
将門の異様な行動を見て、郎党のひとりが、抱きとめた。将武も走りよって、手をつかまえた。
「離せっ、おいっ。……離さぬか」
将門は、恐ろしい力で、二人を刎はねとばした。
将武は、足に、しがみついて、
「あ、あぶのうございます。兄者人っ、あの船には、誰も、おりません。桔梗さまも、誰も……」
「いる。……いる……。おれには、見える。……桔梗が、和子が」
「おういっ。み、みんな、ここへ来てくれ」
と、将武は絶叫した。
「――兄者人が、発狂なされた。……あ、兄者人を、どこか、よそへ、担いで行ってくれ」
鬼哭
たれか、密告した者が、あったのかも知れない。
羽鳥の良兼は、将門の妻子が、湖上の苫とま船に、潜んでいるのを、ついに、何かの手懸りから、知ってしまった。
すでに彼は、豊田郡の本拠を、占領して、狼藉ろうぜき、掠奪りゃくだつ、破壊、やりたい放題なことはやった。
しかし、彼の本来の目的は、それにあるのではなく、じつに将門の首を見ることにあるのだ。
かんじんな将門を逸したことは、良兼にとって、なお一抹の不気味をのこしている。いつ彼が、兵を糾合きゅうごうして、報復に出てくるか分らないし、何よりは、筑波羽鳥の自分の留守が、不安になった。
「もういい。ぞんぶん、腹は癒えた。ひとまず、羽鳥へ引揚げよう」
凱旋の途中で彼は、将門の妻子の居場所を知ったのである。で、そのため急に、道を変えたのだ。鴻野こうの、尾崎、大間木、芦ヶ谷と水路に添って来るうち、ふと、湖の東岸に近い芦の中に、三艘の苫船が、舳みよしを入れているのを見つけた。しかも、その一艘の苫には、嬰児あかごの褓むつきが干してあった。
「あれへ、射込んでみろ」
良兼は、兵に、弓を揃えさせた。
数百箭せんの矢かぜが、一せいに、苫へむかって、放たれた。堪るものではない。苫の下には、何とも、名状しがたい人間の悲鳴が起った。
桔梗の守りについていた十数名の郎党は、いちどに、船を躍り出して、
「これまで」と、船を近づけ、阿修羅になって、斬りこんで来たが、多くは、矢にあたって、水中に落ち、岸を踏んだ者も、なぶり斬りになって、討死にした。
その一艘に、良兼の部下が乗って、すぐ他の二艘を、岸へ曳いて来た。一艘は、女房や女童おんなわらべばかりである。良兼は、
「桔梗を搦からめろ。ひきずり上げて、縄をかけろ」
と、わめいていた。しかし、船が、岸近くへ、曳かれて来るまでに、桔梗は、将門との中に生じた――この春、生んだばかりの愛しい――あれほど夫婦ふたりが珠たまと慈いつくしんでいたものを、眼をとじて、母の手で刺し、自分もその刃で、自害していた。
良兼は、何か、彼女の行為が、非常に面憎つらにくい気がした。――彼はなお今でも思いこんでいる。かつて、自分の愛妾玉虫が姿をかくしたのは、将門が盗んだものとしているあのときの感情だ。その報復をなすべきものを失ったための業腹ごうはらであったにちがいない。桔梗の死骸を、水底に蹴落し、なお罪のない女童や傅かしずきの女房たちまで、部下の残虐な処置に委して、羽鳥へ引き揚げて行ったのだった。
――それが、きのうの、夕暮であった。
酸鼻さんびをきわめた辺りの状は、なおそのままで、余りの生々しさに、鴉からすも近づいてはいなかった。
将門は、一たんは、たしかに、狂いにちかい発作をやった。哭なくとも喚おめくともつかない怒号をつづけて暴れ狂った。醜態といえば醜態なほど嘆いた。けれど、この時代の曠野の人間は――いや、たしなみある都人みやこびとの間でも、喜怒哀楽の感情を正直にあらわすことは、すこしもその人間の価値をさまたげなかった。将門の部下は、むしろ、将門がだらしのないほど、哭ないたり狂ったりするのを見て、心を打たれた。そして彼らもまた、おいおいと手放しで泣き、洟水はなみずをすすりあい、そして遥かに筑波の山影を望んで、
「みろ、みろ、おのれ鬼畜きちくめ。わすれるな良兼」
と、拳を振るもあり、眦まなじりを裂いて罵る者もあった。
彼らのような半原始人のあいだにも、なお女性や幼い者への愛いとしみはあった。いや弱くて美しいとなす者を虐しいたげる行為を憎む感情は、道徳概念ではなく、本能のままな強さを帯びていた。従ってこの結果は、当年の史実を伝える唯一の原典といわれる「将門記しょうもんき」の記事にも、
――爰ココニ将門、本土ヲ敵ノ馬蹄ニ足躙ソクリンサレ、奮怨フンヱンヤム所ヲ知ラズ、ソノ身ハ生キナガラ、ソノ魂ハ死セルガ如シ
とある程、将門にとっては、致命的な暗黒を生涯に約されたものではあるが、しかし、彼の部下が、彼と共に哭き、彼の一身に、心を結束させたことは、非常なものであったろう。あらゆる犠牲と同情をあつめて、将門の傷魂しょうこんをいたわり慰めたであろうことは、想像に難くない。
富士山噴火
いちど、姿をかくした三郎将頼や四郎将平たちは、叔父の良兼勢が、筑波へ帰ると、ただちにまた、豊田の焦土へ、帰って来た。
さきの敗北で、味方は半分以下にも、減っていたが、これが諸地方に聞えると、かえって、以前の数に倍するほどな人数が、山川草木まで、焼けいぶっている豊田郡へ集まって来た。
「ひとまず、石井ノ柵をひろげて、石井にたてこもろう」
石井は、豊田の隣郡で、猿島郡の内になる。
将門もやがて、ここに帰って来た。
この石井時代から、彼の性格、彼の人間観は、たしかに一変を来している。その原因が、この秋の湖上の悲劇にあることはいうまでもない。
ぽかんと、馬鹿みたいに、惚ほうけた顔つきを、うつろにしていることがあるかと思うと、些細ささいなことにも、激怒したり、また哄笑こうしょうを発したりした。
「兄者人は、あの日から、まだすこし変ですぞ」
と、将武は、上の将頼や将平にささやいた。
弟たちには、思いやり深い長兄であったが、この頃は、どうかすると、その弟たちすら、頭ごなしに、どなりつける事がある。そして、ともすると、
「飲もう」と、いい出すのであった。酒量は、以前のようなものではない。大酔を欲しながら、いくら飲んでも、酔えないふうであった。
「怒っても、怒っても、おれはまだ、ほんとに、捨て身で怒ったことはない。それはおれに、生命いのちを惜しませる愛しい者があったからだ。……が今は、何もない。堪忍ぶくろもズタズタだ。今日までは、受け身に廻って戦っていたが、これからは、おれから戦いを布告してやる。――歯を以て歯に酬う――」
彼は、それを、何度もいった。
気のせいか、将門の相貌までが、前とは、違って来たように、誰にも思えた。らんとした光をもち、しかも、あたたかさが、失われている。眸めだけでなく、眉が、けわしく、唇は、何ものかを強く結び、桔梗に見せていたあの微笑や、わが子をあやしていたあの和やかな父の笑くぼは、もう永遠に、彼の面上に回かえって来ないものであった。
冬の初め。ああ、冬の初め。
彼は、初霜を見ると、思い出した。
桔梗と、別れて、落ちるときに、
(さびしくても、しばらくの耐こらえだよ。初霜の降りるまでには、きっと、迎えに来るからな)
そういって慰めたあの最後のことばを――である。将門は、石井の営兵を数えた。部下は二千をこえている。以後、まったく積極的に鍛えてきた精鋭である。
「よし、備えはできた。妻子のとむらい合戦ぞ」
将門は、兵千八百人をつれて、筑波へ立った。なお六、七百の兵を、石井の営に残して、弟たちには、留守をたのんだ。
羽鳥の良兼は、これを知ると、
「そういう鉾先ほこさきは、かわすに限る」
と、一族をつれ、逸早いちはやく、筑波をこえて、弓袋山へ逃げ籠ってしまった。
「ええ、存分に戦って、夏以来の思いをそそいでやろうとしたのに」
将門は、羽鳥へ来てみて、無念がった。あらゆる手段をつくして、良兼をおびき出そうとしたが、さきは老獪ろうかいである。決して、こういう場合は、相手にならない。
ぜひなく、彼は、それが目的ではないが、豊田郷の館や自分の領民に与えられた通りな、狼藉、放火、掠奪を、良兼の領下に振舞って還って来た。まさに、歯を以て歯に酬いたのである。
こうして、その年は、暮れかけた。承平七年も、十一月にはいった。坂東平野は、赤城颪あかぎおろしや、那須なすの雪風に、冬が翔かけめぐる朝夕となった。
すると、突として、朝廷から、官符かんぷをもって“将門追捕ノ令”が関東諸国へたいして、発せられた。その内容は、
(平小次郎将門事、徒党を狩り、暴を奮ふるい、故なく、官田かんでん私園しえんに立ち入り、良民を焚害ふんがいし、国倉を掠奪し、人を殺すこと無数。――すなわち、同族良兼、源護まもる、右馬允うまのすけ貞盛、ならびに、公雅きみまさ、公連きみつら、秦清文はたのきよぶみ等に協力して、暴徒を鎮圧、首魁将門を捕え、これを、朝ちょうにさしのぼすべきものなり)
と、いうのである。
ところが、諸国の郡司や押領使は、この官符をうけながら、いっこう朝命を奉じる様子はなかった。中央の命なるもの自体が、それほどまでに、地方には行われなかった証拠でもあるが、また一面、
「どうして、将門に、追捕が発せられて、良兼やその他には、何の科とがもないのか。――まして、この春の訴訟では、将門が、勝訴となって、帰国しているのに?」
という疑いも、多分にあり、お互いが、隣国の出方をまず見ているという態度であった。
官符の通達された範囲は、武蔵、安房、上総、常陸、下野しもつけの国々である。ところが、偶然にも、同じその年十一月末に、富士山の大噴火が起った。そのため、ちょうど官符をうけた諸地の地殻が、幾回となく、地震なえのように鳴動した。天地いちめん、ふしぎな微蛍光をおびた晦冥かいめいにつつまれ、雪かとまごう降灰が、幾日となく降りつづいた。
すぐ翌年は、天慶てんぎょう元年(改元)である。いわゆる天慶ノ乱の、それが前兆であったよと、後にはみな、思い合せた事であった。
冬の海
右馬允貞盛は、ちぬの浦(江戸川尻)の沖を行く便船の上に、坐っていた。
ほかの沢山な旅客とはべつに、艫の一部を囲い、従者の長田真樹おさだのまきと牛浜忠太の二人を相手に、弁当をひらいて、小酌を交わしている。
土民的な地方人は、この主従に、眼をそばだてたが、
「都の堂上人が、東下あずまくだりして、歌の旅でもしているのか……?」
と、いったような観察しか持てなかった。
便船は、今朝、上総の浜を出て、武蔵の芝崎村(後の浅草附近)へ向っていた。――で、船がいま、ちぬの浦をよぎる頃になると、旅客はみんな騒然と一方の天を見て指さしあった。――はるか西方に豊島としまヶ岡や飯倉いいぐらの丘陵(後の芝公園附近の高台)が半島のような影を曳ひいて望まれ、その方角に、富士の噴煙が、あざらかに眺められた。
「おお、西の空、えらい黒煙だ。数日前から、富士山が爆発したという噂だったが、あれがその煙だろうか。……まるで、雪雲のような灰ではないか」
貞盛は、杯を片手に、ふしぎな天変の相貌を、見上げて、いった。
従者、二人も、
「ごらんなさい。この辺の海まで、何やら、霧のようなものが、立ちこめています」
「や。……杯の酒の上まで、灰が降ってくる。これでは、相模、武蔵などは、灰に埋まってしまうかも知れませんな」
「まさか……」と、笑って、「富士の噴火は、初めてではない。噴くだけのものを噴き上げ、燃えるだけのものを燃やしてしまえば、自ら、熄やむだろう」
貞盛は、杯を覗きながら、ひと口に飲みほした。そして今、なにげなく出た自分のことばが、常総平野に大乱を捲き起している将門の猛威を、無意識に、予言したように思った。
「……そうだ。あわてることはない」
飯を噛みながら、彼は、自分へいって聞かしていた。正直のところ、彼は、将門が想像以上、屈しないし、まだ幾らでも、彼への味方が出てくるので、先頃来、あわてていた。
京都へ上っては、政治的工作に奔走し、常陸へ帰っては、国々の郡司や、国庁の役人たちを、説き廻って、
(すでに、中央では、将門の罪をみとめ、将門追捕の令が、発せられている。――四隣の諸国は、協力してこれを討つべし――と官符もそれぞれ届いているはずだ。なぜ、兵を出して、筑波に拠より、良兼殿を助けないか)
と、それの督促に、常陸、下野、上総、安房、武蔵などを、歴訪している彼であった。
夏以来――将門と良兼との戦闘はじつに激烈を極めていたのに、たえて、戦場には貞盛の名すら聞えなかった。――意識的に、彼自身、表に立つのを、避けていたものにちがいない。
彼は、将門とは正反対な、理性家であり、良正、良兼などという老獪以上に、若いが悧巧者なのだ。野蛮な喧嘩や殺し合いは、良兼に、受け持たせて、自己の姿を巧みにぼかしていたものと思われる。
だが、このところ、賢明なはずの彼も、少々、慌て気味だった。折角の“官符ノ令”も、いっこう威令が行われない。国々の国司や郡司は、みな傍観的である。貞盛として、これは晏如あんじょたり得ない。――やがて。
船は、芝崎の入江にはいった。船を降りると、彼の前に、
「やあ、日和もよくて、お早いお着きでしたな」
と、早速、駒を曳いて、一群の郎従と共に、貞盛を、出迎えて来ていた人物がある。
武蔵介経基むさしのすけつねもとだった。
迷吏と病国
経基は、秋ごろ、都からこの武蔵へ赴任して来たばかりの、新任の「介すけ」であった。
前さきの武蔵介藤原維茂これしげが、常陸へ転任したので、その後へ――貞盛のあつかいで――任官して来た者である。
「お疲れでしょう。ともあれ、こよいは、私の渋谷の館たちへお泊りください」
「御好意に甘えよう。先に出しておいた書面は、もう、お手許へ届いていたかな」
「拝見しました。……出兵の儀も、権守殿ごんのかみどのと、寄り寄り、相談はしておるのですが」
と、経基は、口を濁して、
「仔細は、後でお耳に入れましょう。何せい地方事情というものは、地方へ居着いてみると、想像外なものですな。着任半年で、ほとほとその難しさが、やっと分って来たぐらいなところです」
と、駒をならべて、嘆息した。
郎従たちは、途中で松明たいまつを点ともした。そして、渋谷山の経基の邸へついたのは、もう夜更けであった。
貞盛は寝坊した。――翌る日、起き出てみると、もう館たちの母屋おもやに、客が来ていた。
「お目ざめですか。権守殿が、早朝から来て、客殿でお待ちいたしております」
主の経基に、紹介されて、貞盛はやがて、その人と、客殿で対面した。
「――武蔵権守興世王むさしのごんのかみおきよおうです」
と、彼は、名乗った。貞盛も、都人らしい態度で、
「右馬允貞盛でおざる。お名まえは、疾はやくに、太政官の省内でも、よく伺っておりました」
と、片言にも、すぐ相手をよろこばすような挨拶をした。
酒宴となった。
都の官人を迎えれば、必ず、饗宴となるのは、この時代からの、地方吏の風習だった。
しかし、興世王という男は、どこか、癖の多い、傲岸ごうがんな面がまえをしていた。日頃、無力な地方民を虫ケラのように見下している土くさい権力型の人物であることは、少し飲み合っていると、すぐ分ってくる。
(好もしくない人間だ)
貞盛が、そう思うせいか、興世王の方でも、
(いやな、やつだ。都風を吹かせやがって)
と、観ているらしい。
けれど、新任の経基は、貞盛が推薦した者であるし、興世王の次官である。――で、貞盛は、経基のために、
「ひとつ、よろしく、ひき立てていただきたい」
と、心にもない機嫌をとっていた。
その後で、彼は、
「時に、当国もまだ、出兵の御様子がないが、もし、官符の命に反そむくような事があっては、乱後、由々しいお咎めがあろうも知れんが、御所存は、どうなのであろう」
と、これは、太政官の名においてであるから、貞盛も、相当強く、二人の真意を糺ただした。
「いや、決して、朝命を軽んじるわけではないが……。ま、仔細は、経基からお聞きとり下されい」
と、興世王は、次官たる彼の方へ、ちょっと、顎をしゃくって、自分は、空うそぶいていた。
経基が、代って、事情をのべた。
――その理由というのは。
経基も新任だが、興世王もまた、一年ほど前に、「権守」を拝命して、この武蔵へ来た地方長官なのである。
ところが。
この武蔵の国には――牟邪志乃国造ムサシノクニノミヤツコ――以来の子孫であり豪族たる、土に根を張っている先住がいる。
足立郡司判官代あだちのぐんじほうがんだい、武蔵武芝むさしのたけしばという人物だ。
これが、新任の「権守」や「介」を、
(おれは、認めない)
と、拒否して、税務その他、一切の行政に、嘴くちばしも容いれさせないのである。
武芝のいい分は、こうなのだ。
(――おれの治績と撫民ぶみんの功は、一朝一夕のものではない。累代るいだい、地方のために、貢献して来たのだ。然るに、何の落度もなく、また調貢ちょうこう、収税も怠っていないのに、いきなり民情も知らぬ人間が、中央の辞令など持って、「権守」だの「介」だのと、大面おおづらして赴任して来たところで、そんな奴等に、おいそれと、武蔵一国を任せられるものか。――この武芝を、ふみつけにするも程がある)
武芝は、郡司。
興世王は、権守だから、国司ノ代だいであり、郡司より、上役である。
それも、気に食わない一つらしい。
とにかく、武芝は、いろいろ苦情をつけて、新任の「権守」と「介」を絶対に排斥しつづけていた。そういう実情にあるので、官符の命による出兵の実行などは、今のばあい、思いもよらぬことである――という経基の釈明であった。
「ははあ。……そんなわけがあるのか」
貞盛は、一応は、うなずいた。
とはいえ、あるまじき事だ、と呆れもしなかった。
後世の国家のすがたから観れば、驚くべき国家への反抗だし、無秩序なはなしであるが、ひとり武蔵一国に限らず、遠隔の地方ほど、中央の政令は、まだまだ行われていなかったのである。
自分たちに、都合のいい政令なら、受けるが、不利な政令なら、無視する、あるいは、反撥する。
まして、一片の太政官辞令などは、古くから地方に根を下ろしている者にとっては、権威でも何ものでもない。それも、自己の地位を冒おかさない者ならば、容認するが、天降あまくだり式に任命されてくる上官などには、決して、易々として、その下風には従わなかった。
噴火口時代
「じつに、不埒ふらち極まる武芝です。上命を無視し、中央の辞令などは、てんで歯牙しがにもかけません」
経基は、憤慨して、貞盛がこの地方へ来るのを待っていたように、いきさつを訴えた。
貞盛は、裁きに、困った。
自分の目的は、将門退治の出兵の督促である。こういう紛争の中へとびこんで、訴えを聞こうとは思わなかった。
「仔細を、中央へ上申し、武芝へ対し、何らかの措置をとって貰ってはどうです。――摂関家の御名を以て、再度、武芝へ厳達していただくなり、さもなくば、朝議にかけて」
「いや、だめです。そういう手続きは、何度、くり返したか知れません。ところが、朝廷でも、太政官でも、かえって、武芝をおそれて、何のお沙汰も返って来ない。理由は――今や、南海方面には、伊予の純友一類の海賊が、頻々と乱を起しており、また、坂東平野には、将門の伴類ばんるいが、四隣を騒がせている折から、この上、武蔵に事端をひき起しては――という堂上たちの、消極的な考えだろうと思われます」
「いや、事実、南海の賊は、年々、猛威を逞たくましゅうしていますからな」
「……といって、われわれ両名が、官の辞令を持ちながら、空しく、都へ帰れましょうか」
「何とか、足立武芝と、そこの折り合いは、つかぬものか」
「それもずいぶん、辞を低うして、試みましたが、府中の国庁へ参っても、兵を以て、われわれを拒み、一歩も入れないのですから、妥協のしようもありません。――ただこの上の一策は、こちらは、太政官任命の辞令を持っているのですから、官命を称えて、武芝を、一度、武力で叩いてしまうことですが」
「兵力は、どうなんです。充分、彼を圧する実力があればですが……」
「それは、充分に、勝目がある」
興世王は、初めて、ここで口をあいた。――それ以外に、方法はないので、ひそかに、先頃から武力は準備しているというのである。
「しかし、徒いたずらに、武力を用いたと聞えては、かえって、こっちが暴徒の汚名を着せられる心配がある。もし、貞盛殿が、中央へ対して、われらの正義に、証人としてお立ち下さるなら、このさい、思い切って、武芝を処分してしまいましょう。――そして、将門征伐の出兵へ、必ず協力申し上げるが」
「なるほど。――その上ならといわれるか。いや、尤もっともだ。よかろう。おやりなさい。官辺や摂関家にたいしては、貞盛が証人に立ち、上洛のさいには、委細を上申いたしておく」
彼は、それを約した。
同時にまた、その紛争が一決次第、将門退治に、武蔵の兵を、必ず、協力させる確約も取った。
貞盛としても、官符を仰ぎながら、その官命にたいして、諸国、いい合せたように、一兵も出さないとあっては、中央にたいして、面目が欠けるばかりでなく、自身の立場も危うくなる。
それには、多少、恩を着せてある経基に手つだわせて、興世王に、それくらいな冒険はやらせても仕方がない。出兵を確実にさせる為には、彼等の内部にある異分子の一掃いっそうは、むしろ、急がすべきであるとすら考えたのであった。
興世王と経基は、
「いや、これで、此方共も、武芝にたいする決意がつきました。貞盛どのが、官辺への証人として、お立ちくださると聞く以上」
と、俄にわかに元気づいて、飲み始めた。
数日の間、貞盛は、渋谷の館へ滞在して、彼等の密議にあずかっていた。――武芝の邸宅を奇襲して、国庁を占領し、武芝を監禁してしまおう――という手筈がその間に進んでいた。
しかし、貞盛はなおこれから、下野しもつけ、上野こうずけの諸国を廻り、田沼の田原藤太秀郷にも会う予定であるといった。郎従の牛浜忠太、長田真樹の二人を連れ、やがて数日の後、この渋谷山から東山道へ立って行った。
以来、彼の消息は、また、杳ようとして、何も聞えて来ない。
貞盛の性格と、その行動は、あくまで、陰性であり、惑星のごときものであった。
けれど、こういう間にも、将門を中心とする常総の野にも、また一波瀾が起っており、更に、貞盛の去った直後には、武蔵の国庁に、予定されていたところの騒乱が表面化されていた。
富士山噴火は、こうして、いたる所の地表と、そこに住む人間の生理にも、何か、狂噴的な作用を、鳴々動々、伝播していたのかも知れなかった。
むさし野喧嘩
足立郡司判官代武芝のやしきは、後世、江戸時代には三田聖坂といった芝の高台にあった。
古文書には、武芝はまた、竹柴村とも書かれ、あの辺の高地は、すぐ断崖の真下を、打寄せる東海の波が洗っていた。
そして、磯を、武芝ノ浦とよび、牟邪志乃国造以来の豪族――武蔵大掾むさしのだいじょう武芝は、見晴らしのよい山の上に、宏壮な居館をかまえていた。
当時。
ここから、彼の管領している武蔵一国を、鳥瞰ちょうかんしてみるならば――。
まず、いまの東京都の下町一帯は、ほとんど、海であったと観てよい。
浅草の森、根津、本郷辺の原始林、そして、太やかな大河が、高地の鬱林の間から、海へ吐け出し、その河辺に沿って、所々、自然に土砂が溜って出来た洲が彼方此方に葭や芦を生い茂らせていたであろう。(それらの洲や沼や自然なる泥土が、後の千代田区、中央区などである)
武蔵は、江戸時代で二十二郡といわれたが、中古では、武蔵十郡に分れていた。そして、その内の中武蔵は、北を豊島郡といい、南を荏原えばら郡と称し、芝の赤羽川をその境界としていたのである。
で、武芝の居館は、時代的に観ると、やはりその頃にあっては、領下の荘園を管理するに都合のいい枢要地にあったものにちがいない。
そして、彼は折々、ここから、多摩の府中にある国府ノ庁へ、通っていた。
「近頃、都から、右馬允貞盛が来て、経基の館に、逗留しているようです。――いちど、お訪ねなされてはどうでしょう」
武芝の家人は、市で聞いて来た噂というのを、主人につたえて、そう勧めた。
「ばかをいえ、おれから出向くことがあるものか」
武芝は、武蔵の国主をもって、自ら任じていたので、
「――右馬允風情が、来たからとて、なにもおれから膝を曲げて、御機嫌伺いに出向くことはない。用があるなら、彼の方からやって来るさ」
と、ほとんど、眼もくれていなかった。
ところが、やはり気には懸るので、内々、入れてある密偵をよび寄せて、探らせてみると、貞盛の滞在中、興世王も加わって、たびたび、密議がひらかれ、また、ひそかに、兵備も進められているらしいという。
「……はてな?」
と、武芝が、警戒し出した時は、もう遅かったのである。ある日の早暁、約二千ほどの兵が、ここを急襲して来た。
武芝には、応戦の備えがなかった。
彼は、伝来の家宝や財を、そっくり居館に残したまま、妻子を、磯から船で落し、自分は、わずかな郎党をつれて、丘づたいに、多摩河原を辿って、調布にのがれ、府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ逃げて行った。
しかし、翌日にはもう、府中へも、興世王と経基の兵が襲せて来ると聞えたので、
「よし。国庁にたて籠って、さいごまで、戦おう」
と、俄に、戦備を触れ出したが、庁の地方吏たちは、日頃から彼の暴慢を憎んでいたし、領民もまた、多年、武芝に反感をいだいていたので、進んで、彼と共に、難に当ろうという者もない。
「ええ、ふがいない奴らだ。今に見ておれ」
と、捨てぜりふを残して、ぜひなく、武芝はまた、そこを落ちのびた。そして、はるか多摩の西北地方――狭山さやまの辺りに、身を隠した。狭山には、彼の別邸があったらしい。
興世王と経基の示威運動は成功した。
二人は、武芝の居館の財物を没収し、国府に君臨して、訓令を発し、武芝に代って、新たに時務を執った。
「うぬ。どうして、くれよう」
武芝は、鬱憤やる方なく、日夜、報復を考えた。
国庁の内には、なお彼の方へも、二股かけて、色気をもつ小吏も多い。
それらを操って、内部の時務を怠らせ、外部からは、流言や放火やさまざまな不安を起して、攪乱かくらんを計った。武芝のこの逆戦法も成功した。結局、国庁は蜂の巣のような存在になり、貞盛が意図した筑波への出兵などは、到底、望みもされないてんやわんやに陥ち入ってしまった。
相搏ち相傷つく
筑波の麓の柵に、同族を糾合して、羽鳥の良兼は、石井ノ柵の将門と、この冬中、対峙たいじしていた。
「いっこう消息もないが、一体、貞盛はどうしたか?」
彼が待つものは、諸国の援兵である。――貞盛の画策に依って発せられた官符の効果だった。
さきには、将門の復讐に会って、弓袋山へ逃げこみ、からくも彼の襲撃から遁れたが、帰ってみると、羽鳥の館も、附近一帯の民家から屯倉まで、一夜に、焼野原と化している。
加うるに、この前後、彼が恃たのみとしていた水守の良正が、病死してしまった。これも大きな精神的打撃だった。
「官符は降ったが、諸国とも、兵は出さないし、貞盛は陣頭に立ちもしない。――こうして、この身一人が、将門の目の仇かたきに立ってしまった。……考えてみると、当初の発頭人たる大掾国香は死に、源護も逝き、その子の扶、隆、繁も相次いで戦歿し、今また良正も病死した。……生き残った者の災難とはいえ、こんな大争いを自分一個にうけ継いで、一体、どうなることだろう」
良兼も、もう、いい老年としである。
それに、深い堅固な信仰ではないにしても、元々もともと、多少仏教に帰依して、この地方に寺の一つも建立こんりゅうしたことのある男だけに、さすが無常を観じて、そう考えずにもいられなかった。
「貞盛こそ、怪しからぬ。――本来、誰よりも、貞盛自身が、矢表に立つべきではないか」
その不合理にも思い至って、ようやく、右馬允貞盛の狡ずる賢い立ち廻り方にも、気がついていた。
しかし、今にして、こう気づいても、すでに遅い。
彼の部下は、将門の豊田郷に侵入して、穀倉、御厨、門前町、民家にいたるまでを焼き払い、ついには、将門が自分の生命ともしている最愛の妻子までを捜し出して、みなごろしにしてしまっている。――すべてそれは良兼の所業として、将門から終生の恨みをうけているのだ。今さら、骨肉の血みどろと、領土の荒し合いが厭いやになっても、将門の方で、このまま矛ほこを収めるはずはない。
しかも、弓袋山から里へ出て来た彼の眷族や伴類たちは、将門が石井へひき揚げたあとで、歯噛みをしあい、
「見ておれ、こんどは、こっちから、ひと泡ふかせてやるから」
と、再挙、おさおさ怠りはない。
げにも、歯ヲ以テ歯ニ酬ウ――の報復をくり返せば、人間の野獣化と残忍な手段は、とどまるところを知らなくなる。復讐に対して、復讐を返し、その復讐にまた復讐を思うのである。
ここに。
将門方の走り下部しもべに、子春丸という童わらべ上がりの郎党がいた。
もと、水守附近の、百姓の小伜である。
良兼の家人景久が、この子春丸を誘惑して、利を食らわせ、石井ノ柵を内偵させた。
「柵は、手薄です。大した兵力はありません。ちょうど、年暮くれの三十日には、炭倉へ千俵の炭を送り入れますから、その時、馬子や百姓の中に交じって、柵の内へ筑波の兵をお入れになれば、内と外との両攻めに会わせて、難なく、ぶち破ることができましょう」
子春丸は、欲に目がくらんで、羽鳥方に内通し、ついに、こんな計略の手先を働くことになった。
彼の奇策は用いられた。
為に、その事の行われた夕方、石井ノ柵は、炭倉から火を発し、同時に、内から内応する者と、外から奇襲した筑波勢とに囲まれて、まったく、一時は、危急に陥ちかけた。
しかし、将門は、その年の夏から秋へかけてのような脚気患者ではなかった。もう彼の健康は、恢復かいふくしていたし、かつは妻子を失い、豊田の本拠を失ってから、一念、鬼のごとき復讐に燃えていた。
「ござんなれ、良兼」
という意気である。
慌てはしたが、たちどころに、営中の郎党から兄弟たちも団結して、それに当った。奮戦力闘、攻め寄る敵を殱滅せんめつして、かえって、良兼の筑波勢に、手痛い損害を与えて、見事、追い返してしまったのである。
「裏切り者は、子春丸です」
彼をよく知る仲間の梨丸が、その後ですぐ将門に訴えた。
「幼少の時から、眼をかけてくれていたのに、憎い童め」
将門は、弟の将平にいいつけて、ただちに、彼を引っ捕え、首を打って、羽鳥の良兼へ、わざと、送り届けてやった。
子春丸には、老いたる母があった。羽鳥ノ柵へ、その首を貰いに来て、良兼の前で、首を抱いて慟哭どうこくした。
「わしの伜を、このようにしたのは誰じゃ。誰が、わしの子を……わしの子を! ……」と、老母は、泣き沈んでいるうちに、突然、発狂したらしく、わが子の首のもとどりをつかんで、おそろしい形相をしながら立ちよろめくと、良兼へ向って、
「おまえじゃろ。おまえにちがいない。わしの子を、元のようにして返せ!」
と、いきなり、抱いていたわが子の首を、抛ほうりつけた。その首が、良兼の胸にぶつかった。そして、彼の膝の上に、どすんと、重たく落ちて坐りこんだ。
良兼は、その晩から発熱した。
ついに正月中も、床を上げられなかった。
「……癒なおったら、出家したい」
そんな事をいい出したのも、気の弱りであろう。二月に入ると、病はなお重り、彼も良正のあとを追って逝くかとさえ思われた。
「この上は、どうしても、右馬允どの(貞盛)を表面に立てねばならぬ。自体、あのお人が、妙に、蔭にばかり隠れているので、四隣の国々も、連合して来ないのだ」
良兼にも、いい息子がある。
下野介公雅しもつけのすけきみまさ、安房あわの庄司公連きみつらなどだ。――それと、子息ではないが、安房の要吏に、秦清文はたのきよぶみなどと有力な味方もいた。家人景久、常行つねゆき、昌忠まさただなどの重臣も加えて、協議の末、俄に四方へ使いを派して、貞盛の居所を探しまわった。
長蛇を追う
貞盛の所在をたずねていたのは、羽鳥方の良兼一族だけではない。
将門もまた、八方、手をわけて、
「大叔父の大掾国香以来、おれを亡き者にしようと、幼少、都にいた頃から、おれの一命をねらっていたのは、あの白面郎はくめんろう貞盛という食わせ者だ。彼奴こそ、おれの生涯の仇、貞盛を尋ね出せ」
と、部下の者へ、厳命していた。彼の弟たちも、坂東平野の草の根を分けてもと、血眼になって、行方を嗅ぎあるいていた。
安房、上総から、武蔵へ渡り、そして両毛を徘徊して、田沼の田原藤太秀郷を訪うたということまでは、うすうす分ってきた。
しかし、秀郷の所では、ていよく援助を断られて、どこかへ立ち去ったという噂なのだ。それは、どうも真実らしい。
ただ、その以後が、わからない。まったく、杳として分らない。
「――もし、また、ふたたび、都へ上ったものとすると、ちと厄介だ。いずれ、摂関家などを立ち廻り、ろくな事は、ふれ歩くまい。それならそれで、おれとしても、何とか、都へ手を打たねばならぬが」
と、将門は、それのみを、苦にやんでいた。
彼は、都を知っている。十数年の生活を、都人の中で送り、摂関家の何たるものか、朝廷のどういうものかを、地方人としては、知悉ちしつしている人間である。それだけに、中央政府というものに、地方の豪族らしくもなく、余計な気をつかうのだった。
天慶元年の二月末――山も野も春めいてきた矢さきである。
「兄者人! 知れましたぞ。貞盛の居どころが」
と、弟の将平、将文のふたりが、石井ノ柵へ駆けこんで来て告げた。
「常陸にいる彼の姉の良人、藤原維茂これしげの家に隠れていたんです。そして昨夜、急に、そこを立って、郎党四十騎ほどに守られ、山越えで、東山道から碓氷を越え、都へ帰って行ったそうです。――追えば、追いつけるにちがいありません」
「なに、碓氷越えに出て、都へ向って行ったと」
「まちがいなく、それを眼に見とどけた者の知らせです。――このときを逸しては、再び、彼奴を、手捕りにする機会はありますまい」
「しめたっ――」と、将門は、手を打ってさけんだ。
「天の与えだ。貞盛の運の尽きだ。直ぐ追おうぞ」
具足を着こみ、矢を負い、馬を曳き、将門は、広場に立って勇躍した。
居合せた家人郎党は、百名に足らない。
「柵は、空き巣になってもかまわぬ。一人のこらず従いて来い」
砂ぼこりを揚げて、この日、柵門から出払った。
今は、愛する子も妻もない仮の館といえ、ここを羽鳥の敵に明け放しても、ただ一個の貞盛を逃がすまいとする彼の決意であった。
その意気ごみから見ても、いかに彼が、貞盛という賢くて陰性な敵にたいして、日頃から、いや都に舎人とねり奉公していた弱冠のむかしから、心中の怒りを抑えていたか、また、近年の憤怒をつつんで密かに今日の機会を待っていたことかが、察しられる。 
千曲川
高原の二月は、まだ残雪の国だった。
春は、足もとの若草にだけ見えるが、遠い視界の山々は、八ヶ岳でも、吾妻あがつま山脈でも、雪のない影はない。
「――なに、将門が追い慕って来たと?」
右馬允貞盛は、そう聞いても、初めはほんとにしなかった。
けれど、ゆうべ碓氷権現うすいごんげんの境内に、その将門、将頼、将文などの手勢が、宿営したという噂は、途々、何度も耳にした事だし、また佐久さくノ御牧みまきでも今、
(およそ百数十騎の兵が、今日は、佐久高原から小県ちいさがたあたりを、何やら血眼になって、狩り捜している様子です)
と、そこの牧夫たちから聞かされたので、今は、疑う余地もなかった。
「――真樹まき。どうしたものだろう?」
貞盛は、馬上から振り向いた。長田真樹、牛浜忠太うしはまのちゅうたを始め、従者はおよそ四十騎しか連れていない。
「彼奴に、追いつかれては大変だ。――というて、この信濃路、山越えして諏訪すわへ抜けるか、千曲ちくまの川原を渡って、更級さらしな、水内みのちから越後路へ奔はしるか、二つのうちだが……忠太はどう考えるぞ」
「さ。山に雪さえなければですが」
真樹も忠太も、暗澹と、行き暮れたような顔つきである。将門と聞いただけでも、彼等は、胆のすくむ思いがする。まして味方はこの小勢、しかも都へ向って、常陸からそっと落ちのびて来た旅装のままだ。何しろ逃げられるだけ逃げるに如しくはないと思う。
貞盛にも、万夫不当ばんぷふとうの勇があるわけではない。真樹、忠太の考え方は、そのまま貞盛の分別でもあった。
「さらば、善光寺平ぜんこうじだいらへさして、ひた走りに、急ごう。あとは、夜の匿れ家でも見つけた上の思案として」
騎馬、徒士かち、あわせて四十人ほどの主従は、この日、小諸こもろ附近から小県の国府(上田近傍)あたりまで、道を急いでいた。
そして、千曲の河畔ほとりへ出たと思うと、何ぞ計らん、渡船小屋らしい物を中心に、一かたまりの人馬が、こっちを見て、俄に、弓に矢をつがえたり、矛ほこ、長柄の刀などを構えて、何か、喊声かんせいをあげ始めた。
「や。将門の豊田兵らしいぞ」
「それにしては、小人数ですが」
「先廻りして待伏せていた一小隊にちがいない。後の人数が来ぬうちに」
「そうだ。将門さえいなければ、あのくらいな小人数の敵は……」
急に、貞盛たちも、戦備をととのえた。
まったく何の陣形の用意も偵察もなしに、突然、双方の間に、猛烈な矢戦が始まった。――十五、六人の豊田兵の中にいて、指揮している若い騎馬武者は、たしかに、将門の弟の将頼か将平にちがいない。
「怯ひるんだぞ、敵は――」と、貞盛は、初めの優勢に、奮い出して、「この隙すきに、千曲を駈け渡ってしまえ。多寡のしれた将頼の手勢、恐れることはない」
と、自身、真っ先に、しぶきをあげて、浅瀬へ、駈け入った。
ところが。
そこから二町ほど上流を、一群の騎馬が、先に対岸へ渡ってゆくのが望まれたし、また下流の方からも、黒々と、一陣の兵馬がこっちへ襲よせてくる。
「あっ。いけないっ。――将門だ」
貞盛は、そう叫ぶと、仰天のあまり、あやうく馬から河中へ落ちそうになった。
山中放浪
山岳地帯は、まだ雪融どけもしていないとみえ、千曲川の水は少なかった。渺びょうとして広い河原に、動脈静脈のような水流のうねりを見るだけである。
将門の手勢は、三ヵ所に分れていた。将門にとって、この日ほど、快味を感じたことはなかったろう。貞盛はもう網の中にはいった魚だ。あとは網をしぼって、手づかみに捕えるだけのものである。
しかし、貞盛とて、こうなれば、やみやみ坐して敵手にかかるほど怯者きょうしゃでもない。
「しまった」
一度は絶望的な叫びをもらしたが、たとえ敵の半数以下にしろ、四十人の郎従は連れている。これだけの者が死を決すれば――と思い直した。
彼は、戦にも、勇よりは智が働いた。
「あの渡船小屋に拠って戦え。小屋の蔭や楊柳かわやなぎを楯にとって、めったに出るな。物蔭からただ矢を放て」
何の掩護物もない戦場では、これは有利にちがいない。しかし、将門方は戦備して来た兵だし、貞盛たちは、旅装である。また何よりも、持っている矢の数にも限度がある。
当然、矢が尽きてきた。
頃はよしと、将門の兵は、渡船小屋を中心に、取り巻いた。将門、将頼、将文、将平と、兄弟、駒をそろえて、
「貞盛。出ろっ」
と、呼びかけた。
「おうっ――」と、小屋の蔭から、悍馬を躍らせて、出て来た者がある。
貞盛と見たので、将門が、
「手捕りに、手捕りに――」
と、弟たちへ注意した。
その一騎はなかなか勇猛だった。彼のために傷つく者が少なくない。
いやここばかりでなく、乱闘乱戦、さながら野獣群の咆哮ほうこうとなった。誰か一人が小屋へ火を放つ。その炎と黒煙も双方の殺伐を煽り立てた。
やがて、勝つ方が勝った。討ち洩らされた貞盛の郎従は、蜘蛛の子みたいに、山地の方へ逃げ散った。将門は血ぶるいしながら、敵の屍を辺りに見て、
「将頼、将平っ。……どうした、貞盛の身は」
と、弟たちの姿へいった。
「惜しいことをしました」と、将頼が答えながら馬を寄せて来た。「――生け捕りにして、郷里へ曳いてくれんと思いましたのに」
「なに。逃がしたのか」
「いや、自害してしまいました」
「自害したか――」と、将門は悵然ちょうぜんと歎声の尾を曳きながら、
「憎い奴だが、さすがは、恥を知っている。自害したものなら仕方がない。将頼」
「はいっ」
「首を挙げろ」
「心得ました」
将頼は馬の背から飛び降りた。
将門以下、豊田の将兵は、そのとき、粛しゅくとして、心に、凱歌の用意をしていた。
ところが、次の瞬間には、じつに計らざる事実が起っていた。
「や! こ、これは貞盛ではない」
と、首を挙げてみた将頼もいえば、また、周囲の者も、騒ぎ出したのである。
「太刀、具足など、貞盛の物を着けているが、貞盛の郎従、長田真樹だ――。長田真樹が、身代りに立ち、貞盛らしく振舞っていたのだ」
「では……当の貞盛は?」
と、将門の眼には、涙がこぼれかけて来た。
「供の郎従たちの中にまぎれて逃げ失せたか。それとも?」
乱戦のあとを思い出してみれば、小屋が黒煙を吐いたとき、中にいた渡船の老爺だの、土民らしい者が何人か、こけつ転まろびつ逃げて行った。
ひょっとしたら、その中に、姿を変えていたかもしれない。
いやいや、そんな隙があったとも思われぬ。あるいは、亡骸なきがらになって、べつにそこらに仆たおれているのではあるまいか。
将頼、将平たちは、兄の茫然たる面を見るに耐えないように、辺りの敵の死骸を一個ずつ見て行った。が、すぐにその徒労を覚さとった。
「残念だ。しかし、落胆しているばあいでない。……この上は、手分けをして、たとえ、貞盛がどこへ潜もうと、尋ね出さずにおいていいものか」
将門は面を蒼白にして、弟たちへ命令した。百余人が八組に分れ、里、野末、山岳方面など――思い思いに捜索に向った。
が、その日はついに手懸りもなく暮れた。
翌日もその翌日も、山里の部落や道という道を捜し廻った。こうなると、不利なのは、かえって大人数の方だということになる。いちいちの行動がすぐ遁走者には覚られているにちがいない。それと、土地の郡司は、「下総の将門の手勢らしい――」と聞くと、邪魔はしないまでも、すこぶる冷淡な態度を示した。むしろ、右馬允という肩書をもち、中央政府にも、公卿社会にも関係のある貞盛の方へ、暗々裡な庇護がうごいていた。当然、貞盛もその方面の手に隠れて、危地を脱していたにちがいない。
それにしても、貞盛は、惨憺たる苦労をしたもののようである。
おそらく、身一つで木曾路へのがれ、やがて京師に辿りついたものであろう。さっそく、帰洛届と共に、将門の暴状を、太政官に訴え出た。その上訴文の一部に、彼自身、千曲川の難をこう書いている。
――寧ムシロ京師ニ上リ訴フル所アラント、二月上旬、東山道ヲ発ス。将門、謀シノビヲシテ、我ガ上京ヲ知リ、軽兵百余騎、疾風ノ如ク追躡ツイデフシ来ル。二十九日、信濃小県シナノチヒサガタ国分寺ヲ通スグルニ、既ニ将門、千曲川ヲ帯タイシテ待チ、前後ヲ合囲ス。我ハ小勢ニシテ大敗スルモ、貞盛ナホ天助アリ、山ヲ家トシ、薪タキギニ枕シ、艱難カンナン漸ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ……。
人心鳴動
この年(天慶元年)の頃、京都には、僧の空也くうやという者があらわれて、辻に立ち、念仏をとなえ、念仏をすすめ、念仏即浄土の説教をし始めていた。
空也は、諸国を歩いて、貧者を見舞い、病人を扶たすけ、橋を架し、道をつくろい、また地相を見ることに長じていて、どんな水の不便な所でも、空也が行って、井戸を掘ると、そこから水が湧わいたという。
都の中にも、空也の掘った井戸が幾つもあって、その井を、街の人々は“弥陀みだの井い”と、名づけたりした。
とにかく、彼は、庶民の中の庶民の友人であった、師であった。
だから、街の人々は、彼を呼ぶのに、
「市いちのお上人しょうにん」
といって、親しんでいる。
いや、何かこの人が、自分たちの力であるように、空也が夜の辻に立つと、みな彼のまわりに集まった。そして、説教に耳をかたむけ、念仏を唱和し、やがて誰ともなく静かに叩く鉦かねの音律にあわせて、群集の輪は、市の上人のまわりを踊るが如く巡りあるいた。
空也念仏――空也踊り――
春の星が、都の空を、妖あやしい光に染めている。民衆の中に、こういう事象が起るときは、民衆の中に、何か、不安があるときだった。――空也踊りの輪は、念仏と鉦の音の音律は、それを語っていた。
「きょうも、西の早馬が、太政官の門へはいった」
「いや、きのうもだ」
「伊予の純友一類が、南海ばかりでなく、近頃は、つい淡路や津の海まで、荒し廻っているというぞ」
「いったい、官の追討は、何しているのであろ?」
こういう不安な囁きは、絶えず聞く。
ここ数年、中央政府は、純友一類の海賊征伐には、まったく、手をやいている。
小野維幹、紀淑人などは、いくたび宣旨せんじをいただいて、純友一類の海賊征討に、瀬戸内海を南下して行ったか知れないが、都人はただの一度も、凱旋軍を見たことはない。
「行けば行くほど海のもくずよ」
誰とはなく、敗戦は知れるものである。ついには、兵を徴しても、応じる壮丁そうていもないような有様である。
その最もひどい一例は、天慶元年からいえば、つい二年前の承平六年三月、
南海ノ賊、船、千余艘ヲ以テ、官ノ調貢テウコウヲ剽掠ヘウリヤクシ、為ニ、西海一帯ノ海路マツタク通ゼズ
という太政官日誌の一項を見てもわかる。貢税の物資を載せた官船が、海賊たちに狙われた例は、一度や二度の事ではない。甚だしいばあいは、船ぐるみ、孤島へ運び去られ、裸にされた官人が、幾月も後になって、都へ逃げ帰って来たという嘘のような話すらある。
天下の乱兆は、純友一派の海賊ばかりでなく、山陽北陸地方には、国司や土民の争乱がのべつ聞え、殊に、出羽の俘囚[#「俘囚」は底本では「俘因」](蝦夷の帰化人)が、国司の秋田城を焼打ちしたというような飛報は、いたく堂上の神経をついた。おまけに、洛中名物の放火沙汰や群盗の横行は毎晩の事で、それはもう珍しくも何ともなくなっている。
こういう洛内。こういう上下の不安が満ちていたところへ、右馬允貞盛が――山ヲ家トシ、薪ニ枕シ、艱難漸ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ――という姿で関東から逃げ帰って来たのであるから、
「すわ、何事かある?」
と、遠隔の事情にうとい大臣、参議たちが、彼の上告文なるものを、重視したのもむりではない。
上告文には、坂東一帯の騒擾は、すべてこれ、彼の野望と、中央無視の反意によるものであるとなし――為ニ、荘園ハ枯渇コカツシ、農民ハ焦土ニ泣涕流亡キフテイルバウシ、ソノ暴状ハ鬼畜モヨク為ナス所ニアラズ――と、誇張した文辞で、将門の反官的行為を、ある事ない事、針小棒大に書き出してある。
「すててはおけない」
太政官は、これを取り上げた。
しかし、先年、将門上京のとき、貞盛との訴訟の対決では、将門の申したてを正しいとして、「彼に罪なし」という判決を下してあるばかりでなく、「将門が父以来の遺産田領はこれを直ちに、将門の手に帰すべし」という宣告を貞盛へ申し渡してある。要するに、そのときの官の裁判は、将門を正当とし、貞盛の訴えを、不当としたのだ。
――それを今また、敗訴の貞盛の上告文を取り上げて、軽々しく、将門を朝廷の罪人視するのは、どういうものであろう。すこしヘンなものではあるまいか。――というような正論も、公卿の一部にいわれていた。
「一応、貞盛を召して、つぶさに、貞盛の口から、坂東の実情を、訊き取ってみるべきであろう」
堂上の意見は、それに一致した。貞盛はその日、衣冠して、朝廷の南庭に畏まった。
殿上には、三卿以下の大官が、列座して、彼の口から、東国の実情を聞き知ろうと、居並んでいた。
その中には、太政大臣忠平(前左大臣)の子息――大納言実頼さねより、権中納言師輔もろすけなどの姿も見える。
貞盛は、庭上から仰いで、
(お。見えておられるな……)
と心づよさを、ひそかに抱いた。権中納言九条師輔は、弟の繁盛が多年召仕えている主人であるし、また、その兄君の実頼も、自分に好意をもっているお人であることを、常々、繁盛から聞いていた。
「上告文は、あの通りに違いないか。将門にたいし、右馬允は、謀反人むほんにんなりと断じてあるが、それに、相違ないのか」
実頼が、質問した。
「ちがいありません」
貞盛は、すずやかに、答えた。
こういう所で、思いのまま智弁をふるうことは、貞盛として、得意中の得意である。まして、実頼が質問に当ってくれるなど、願ってもない事だと思った。
策士策動
貞盛の地方事情の説明は、徹頭徹尾てっとうてつび、彼自身のための巧みな弁護であった。同時に、将門にとっては、拭うことのできない「反逆者」「乱暴者」という印象を、堂上公卿の頭に烙やきつけてしまったものであった。
ことばは爽やかで、理念はよく通っているし、第一、貞盛の態度がしおらしい。こういう印象には、わけもなく、好感をもつのが、公卿心理でもあった。
「……なるほど」
「そうしたわけか」
殿上の諸官は、みな、貞盛の説明に、肯定した。実頼は、さいごに、訊ねた。
「しかし貞盛。お汝ことは、すでに先に、将門追討の官符を請うて、その令旨をたずさえて東国へ下っていたのではないか」
「左様であります」
「なぜ、令旨を奉じて、将門を捕えぬか――前には、久しい月日、東国においては、お汝の所在も知る者なく、そのため、将門をして、ほしいままに、暴威を振わせたとも聞き及ぶが」
「その儀は、申しわけもありません」
貞盛は、素直に、庭上へぬかずいて、罪を謝した。
「けれど、それには、仔細がないわけではございません。――理由は、すでに、私の父国香、叔父良正、良兼、また源護の一家までが、ほとんど将門のために、滅されております。それ故、今や将門一人が、勢威を占め、四隣の国々も、将門の仕返しを恐れて、官符の令旨を奉じる心にならないのです。すべて、将門を恐れるところから来ております」
「けれど、その害を除かん為の、官符の令ではないか。なぜ、努めぬ」
「されば、私としては、武蔵、下野、常陸、安房、上総と、国々を歴訪して、官命にこたえ、各※(二の字点、1-2-22)、出兵せよと、説いて歩きましたが、そのうち、身辺に危険が迫って、やむなく常陸に嫁いでいる姉の良人、常陸介維茂の許へ、しばらく身を潜めていた次第でした」
「世間も歩けぬほどに始終、将門が狙うておるのか」
「刺客、密偵を放って、この貞盛をつけ廻し、折あらばと、諸道を塞いでおります故、常に、生けるそらもありません。……加うるに敗残の叔父、羽鳥の良兼も、将門のため、居館、領土を焼きつくされ、ついに、悲憤の余り、病床に仆れ……敢あえなく……」と、貞盛はここにいたると、声をかき曇らせ――「敢なくも、先頃、病歿いたしました。ここにおいて、ついにわれらの九族は亡び去り、残るは、貞盛一名となりました。……今は、果てなく他国に潜伏して、空しくこのままあらんよりはと、維茂と計って、ひそかに東山道より信濃路を経へ、都へ、再上告のため、急ぎ上って来たようなわけでございます」
「む。千曲川の難は、その途中の事であったよな。やれやれ、将門の執念の烈しさよ」
と、実頼は歎声と共に、訊問を終った。――こうして、貞盛はその日、まもなく退出したが、殿上の反応にたいして、彼は、
「まずは、上首尾」
と、心のうちで、独り満足して帰った。
そしてまた、数日の後、彼は大納言実頼の私邸を訪ね、また九条の権中納言師輔の邸宅へも伺って、
「いまや私は、東国の郷里では、父祖以来の家園も将門に蹂躪じゅうりんされ、まったく孤独無援の心細い立場になりました」
などと雑談にまぎらせて、若い師輔の同情をひくような事をいった。
若いといっても、九条師輔は三十二歳。長兄の実頼はもう四十歳である。
むかし、将門が仕えた藤原忠平は、すでに六十からの老齢であり、太政大臣の顕職けんしょくにあるが、政治面からはもう実際的には身を退いていた。朝廷の政廟で、実権をもっているのは、子息の実頼と師輔なのである。
「いや、さは案ずるな、お汝の弟繁盛に、わしの内意は申してある。ただ、父の忠平公がどうも、将門にたいして、多少、お愍あわれみをかけておられる。……多分、むかしわが家に仕えていた小者という御憐愍ごれんびんからではあろうが……容易に、彼を朝廷の謀反人とする儀には、御同意をなされぬのだ。しかし、それも、お汝の訴文に偽りがなければ、時と事実が、証拠だてて来るにちがいない。もうしばらく、時を待て」
師輔は、貞盛を力づけた。
貞盛が、表向きの訴文や裏面運動によって、官に求めているものは、将門を朝敵として、決定づける事にある。――けれど、朝敵の詔が発せられれば、当然、これが討伐には、正式な征賊将軍を任命し、また都から官軍を派遣しなければならない。
「たとえ、貞盛の上告文の通りであろうと、朝敵と断ずるのは、由々しいことである。将門を喚問かんもんしても、猜疑さいぎして上洛せぬとすれば推問使すいもんしを下向させて、将門の真意と、実情を、たしかめて見るべきではあるまいか」
廟議は今、こういうところで低迷しているとも師輔は貞盛に洩らした。――貞盛としては、その廟議の帰決を、あらゆる方法のもとに、自分に有利に誘みちびかなければならなかった。
今や、彼にとって、中央の方針の如何いかんが、生涯の運命をひらくか閉じるかの分れ目でもあったのである。
夜々の辻
天慶二年の夏中は、夜毎よごと夜毎、空也念仏の称名しょうみょうの声と、夢中でたたく鉦の音と、妖しいまでに踊り更ふける人影に、都の辻は、異様な夜景をえがいていた。
「戦がある」
「大乱の兆しが見える」
「宮門の戌亥いぬいに、虹が立った」夜の人出に紛まぎれこんで、こう囁き廻る者がある。むかしから、宮苑の森に虹が立つと戦があるということを、洛中の民は信じていた。
秋の頃には、念仏の声よりも、流言の方が多くいわれ出して来た。
「伊予の純友と、たくさんな海賊兵は、もう瀬戸内を上って、摂津、難波ノ津あたりに時を窺うかがっている」
また、こういう者もあった。
「――それは、東国の将門が、攻め上って来るのを待っているのだ。純友と将門とは、十年も前から、世直しをやる約束を結び、天下を二分して、分け取りにする黙契もっけいまで出来ている」
いったい、誰が、そんな事をいい流すのか。
天に口なし、人をしていわしむ――というそれなのだろうか。
「……なあ、弟。まるで、わしたちの為に、誰か、代弁してくれているようなものじゃないか」
貞盛は、ある夕べ、弟の繁盛と共に、辻の空也念仏の群れを見物に出かけながら、途々、そういって、微笑しあった。
――そして、夢に憑かれて踊っているような人影の輪を眺めていた。
すると、烏帽子えぼしの下に、また、面を布で包んでいる狩衣かりぎぬ姿の男が、ふと、兄弟のそばに寄って来て、
「もしや、あなた様は、右馬允貞盛どのではありませんか」
と、馴れ馴れしく話しかけて来た。
「? ……。そうだが、おぬしは誰だ」
「数年前まで、東国の源護殿のお館に仕えていた者にございます」
「おお。護殿の家人けにんだったのか」
「御一族、みな、あの通りになりましたので、流浪の末、都へ来ておりましたが、思いがけない所で、お姿をお見かけいたし、おなつかしさにたえませぬ。……おお、それよ、あなた様に、お訊きすれば、確かな事が分ると思いますが」
「わしに、何を訊きたいというのか」
「いえ、自分一人だけでなく、ここらに黒々と踊っている者や、都じゅうの民は、それが嘘かほんとか、知りたがっておりましょうよ。――おういっ、みんな寄って来い」
貞盛が、びっくりしているまに、男は両手を振りあげて、こう呶鳴っていた。
「ここにいらっしゃるのは、右馬允貞盛様だ。東国の事情なら、このお方ほど知っているお人はない。……みんなして、お訊ねしてみろ。この頃のいろいろな噂が、嘘か、ほんとか」
「これ、何をいうぞ。町の流言など、貞盛の知ったことか」
「だって、あなた様は、この春、東国から御帰京になるやいな、太政官へ長い上告文をさし出して、将門に謀反が見えるというお訴えを出しておられたでしょう」
「や。どうして、そんな事を、おぬし如きが知っているのか」
「いくら、つんぼにされているわれわれ下民でも、それくらいな事は、いつか、聞きかじっておりますよ。……流説流説と仰っしゃるが、その流説、何ぞ計らん、堂上方から出ているんですよ。いや、張本人は、あなた様なんです。……さあ、大勢に答えてやって下さい」
すると、群集の中から、姿は見せないが、貞盛へ、こう質問の声がとんで来た。
「東国の将門が、常陸の大掾国香や、叔父の良正、良兼などを滅ぼして、あの地方に、急に猛威を振い出したというのは、噂だけではありませんか」
「…………」
「嘘ですか」
貞盛もつい答えてしまった。
「決して、嘘ではない」
「じゃあ、ほんとなんですね」
「ほんとだとも」
「すると、兵をあつめて、諸地方を焼払ったり、乱暴狼藉を働いている事も」
「むむ……」
「じゃ、将門は、あきらかに、謀反人なんで?」
「そうだ。官符の令旨にも、服さぬから」
「今に、大軍をつくって、都へ上って来ましょうか」
「放っておけば、燎原の火、どこまで、野望をほしいままにして来るかわからぬ」
「するとやはり、海賊の純友と、噂のような、示し合わせがあるのですな」
「知らん。そんな事は」
「まあ、はっきり、仰っしゃって下さい。凡下ぼんげの私たちは、心配なんです。海と陸の両方から、この都へ、火を放って、どっと暴れこまれては堪りません」
「つまらぬ流言を申すな」
貞盛は、群衆を叱って、繁盛と共に、そこから逃げるように、辻の暗がりへ曲がりかけた。
すると、一部の人影が、
「やい待てっ。――その流言は、誰がいい出したのだ」
「馬鹿野郎っ」
ばらばらと、彼の影へ向って、礫つぶてが飛び、同時に、蜘蛛くもの子のように逃げ散る跫音あしおとが、夜の街へ散らばった。
「わははは。あははは。……いや、今夜はうまく彼奴を利用してやったな。こんなおもしろい目を見たのは久しぶりだ」
同じ夜の事。
六条坊門附近の娼家の多い横丁を曲がって行きながら、傍若無人な高声でこう話し合ってゆく四、五人の遊蕩児らしい男がいた。
その中の年上な一人は、たしかに、八坂の不死人らしい声だし、また特徴のある彼のするどい眼であった。
陸の酒
この六条坊門附近は、娼家の巣であった。近くに市があり、細民町だの盛り場もある。八坂の不死人は、この辺を根じろに、官憲を翻弄ほんろうしていた。やりたい放題、都の秩序を乱している。もちろん、彼の下には、八坂時代の手下が前より多く集まっていた。そして検非違使をテコずらせたり、根のない風説を撒まきちらしたり、公卿堂上を動揺させては――また当分、市や娼家の雑民街へ、泡つぶのように、消え込むのである。
夏の末頃。
不死人は、海の仲間から、連絡をうけとった。
(いつもの会合を、江口でやるから、江口まで出て来てくれ)
という純友の手紙である。
そこへ出向く日、不死人は手下の穴彦、保許根ほこね、禿鷹はげたかなどへかたくいいつけた。
「――ぬかりはあるまいが、例の右馬允(貞盛)の門の見張りだけは、怠るなよ。それに弟の繁盛の方もだ。このところ、奴らと官辺のあいだに、何やら往来が多いようだし」
不死人は、穴彦に送られて、淀から小舟で、摂津へ下って行った。
江口の一楼には、もう大勢の友人が来ていた。――藤原純友、小野氏彦、津時成、紀秋茂、大伴曾良おおとものそら、伊予道雅などといった顔ぶれだ。
公卿の果てや、地方吏のくずれである。
そして、南海の任地で、海賊に変じ、数年前から、公然と、瀬戸内の海を、わがもの顔に横行している連中である。
それも初めは、伊予の日振島ひぶりじまを中心に、ある限界を出なかったが、海賊の経験が、訓練を経てくる一方、官辺の無力さがだんだん分ってきたので、近頃は、四国の北東から、淡路、摂津の近海まで、悠々と横行したり、そして時には、この淀川尻の、江口、蟹島、神崎あたりへも、陸おかの酒を飲みに上っていた。
彼等は、江口、神崎の上客だった。往来の旅人や、公卿などとは、散財ぶりがまるでちがう。
何か、密議をやったあとは、妓おんなたちを交じえて底ぬけの大遊びだった。それも一日や半夜ではない。二日も三日もぶっ通して、酒、女に飽くのであった。
すると、早舟に乗って、六条の留守の巣から、禿鷹が、知らせに来た。
「貞盛が、急に、東国へ立ちましたよ。それに、太政官では、いよいよ、将門を叛逆者とみとめて、征討の令を出すとか、征討大将軍を誰にするとか、評議が始まっているそうですぜ」
不死人は、聞くと、
「そいつは大変だ。こうしてはいられない」
と、俄に、あわてた。
「じゃあ、都では、将門討伐軍が、もう出発すると、騒いでいるんだな」
「いや、まだ、そこまでは行っていません。だらしのない公卿評議ですから、そいつもまた、いつ、立ち消えになるか知れませんがね、まあ、探ってみたところでは、九条師輔や大納言実頼などが、そう運ぼうとしているということなんで」
「貞盛は、その約束を握って、東国へ下ったんだな」
「それだけは、確かでしょう。――ところが、おかしい事には、誰も、将門討伐の大将軍になりてがないっていう噂です。何しろ今、東国じゃあ、将門と聞くと、ふるえ上がって、立ち向う奴もないほどな勢いだと……公卿たちも皆、聞いていますからね。こいつあ、右馬允貞盛が、堂上衆を焚たきつけようとして、余りくすりがきき過ぎちまった形なんで」
不死人は、このままをすぐ、純友に話した。
純友は、そう聞くと、杯の満をひいて、
「機は、熟して来たな。――前祝いだ」
と不死人に、酌さして、
「じゃあ、おぬしも、貞盛を追っかけて、東国へ下ってくれ」
と、いった。
もとより不死人もその気らしい。東国においては、将門に大乱を起させ、海上からは、純友一党が、摂津に上陸して、本格的な革命行動へ持って行こうというのが、この仲間の狙いであった。
おんな貢物
「将門とおれとは、叡山の約がある。――いまや、その誓いを、ほんとに見る日が来たのだ。彼に会ったら、そういってくれ。……おたがいに、都へ攻めのぼって、志をとげたあかつきには、あの思い出の叡山の上で、手を握ろうと。……純友がそう申したと、忘れずにつたえてくれ」
純友は、将門が帝系の御子たるところに、魅力を寄せている。つまり利用価値なのだ。けれど彼は賢明な打算家ではなく、いわば一種の狂児である。飲むと、その狂児の眸は、虹を発し、いつも、詩を歌うような語調になる。
じつをいうと、不死人の心のうちに、まだ不安があった。
その“叡山の約”なるものを、将門の方では、てんから問題にしていないのだ。いつかも、口に出してみたことがあったが、ほとんど、忘れたような顔つきだったし、まったく一時の酒興の言葉としかしていない。
――だが、そんな空漠な言葉の上よりも、運命は将門をして、思うつぼに、また思う方角へ、彼をとらえている。不死人はそこが恃たのみだった。
まさか、純友へは、彼が叡山の約などは、一笑に附しているとも、いえないので、
「そいつは、劇的だ。そういう事になれば、すばらしいもんです。将門に会ったら、そういっておきましょう」
と、答えた。
「うム。叡山の約は、おれの恋なんだ。それを実現して、劇的な再会をとげたい。――そうだ。彼も今では、むかしの滝口の小次郎とはちがう。こんど、おぬしが下るついでに、純友からの貢物みつぎものだといって、ここの妓を四、五人連れて行ってくれ」
「あ。……あの草笛くさぶえですか」
「草笛もだが――もっと若いきれいなのも三人ほど加えて行った方がいい。ケチなと思われては、おれの沽券こけんにかかわるからな」
草笛は、ここの妓である。
もう三十にちかいが、水々しさが失せていないし、素朴といってよいほど、都ずれがしていない。
流連いつづけの酒のあいだに、この仲間が、ふと、将門のむかし話をしているのを聞き、
(あの人なら、わたし、よく知っています。東国にいるのなら、会いに行きたい。ええ、どんな遠国でも、行きますとも)
と、その小次郎が、まだ小一条の右大臣家に、舎人としていた頃、自分の許へ通っていた“好ましい初心うぶなお客”であったことを、酔いにまぎらして、さんざんのろけちらしたのであった。
不死人も、当時の悪友のひとり。いわれてみれば、なるほど、そんな事もあった――と思い出されはする。
純友は、この里に、小次郎の古馴染みを見つけた事を、興深くおもって、ひとつ彼を驚かしてやろうと、草笛の身代みのしろを、楼の主にわたして、不死人と共に、東国へ連れて行ってやることになっていたのである。
だが、それだけでは、興がない。草笛は、いくらむかしの彼の恋人でも、三十といっては年をとりすぎている。――どうせの事、もう三人も、若いのを、連れてゆけ。むかしは知らず、今は南海の純友が、東国の平将門へ貢みつぎするのに、(何だ……)と思われては、おれの面目にもかかわる、となったのだ。
女人の貢とか、女人の贈りものとか、女を物質視する風習は、その頃の人身売買を常識としていた世間では、ふつうの事としていたのである。純友は、莫大な物代を払って、江口の妓三名と草笛の身を、不死人に托し、そして将門へ一書をしたためて、持たせてやった。
それから幾日かの後。
不死人は、妓たちを、駒に乗せ、自分も馬の背にまたがり、陸奥みちのくの商人あきゅうどが国へ帰るものと称となえて――手下の禿鷹、蜘蛛太、穴彦などに馬の口輪を持たせ、都から東海道を下って行った。
元祖関東者
妓たちや不死人が、旅の木賃を重ねて、ちょうど、富士の降灰こうかいが雪のように降りしきる秋の武蔵ノ原を行く頃――折ふし将門は、他へ、旅に出ていて、石井ノ柵にはいなかった。
武蔵ノ国の府中へ出向いていたのである。
弟の将頼、将文を留守におき、自身は将平以下、一族郎党を数多あまたひきつれて、深大寺の境内に、宿営していた。
この物々しい行装は、まるで出陣のような兵馬だが、将門としても、それだけの用意をもたなければ、出向かれない危険を感じての事である。――何しろ、旅の目的というのが、戦争の仲裁をすることであったし、しかも武蔵ノ国は、彼にとって、いわば敵地にひとしい土地である。
「この将門の顔で、うまく和解がつくかどうか。まず、相手の武芝たけしばに会ってみよう。――話は、その上の事として」
彼は、深大寺まで迎え出て来た武蔵権守むさしのごんのかみの興世王おきよおうと介すけノ経基つねもとへ、そういった。
「よろしくお願い申しあげる。――武芝の方さえ、兵をひけば、こちらはもとより、乱を好むのではない。いつでも、彼を国庁にむかえて、共に、庁務に努める寛度はもっているつもりなので」
「よろしい。将門にお委まかせあるなら、ひとつ、武芝を、説いてみよう」
「もとより、お出向きを願った以上、何のかのと、条件めいた事は、いい立てぬ」
「では、府中へ帰って、吉左右を、お待ちなさい」
将門は、こう呑みこんで、二人を帰した。
問題は小さくない。
しかし、争いの根は、簡単だ。
「――これは、治おさまる」
将門は、そう見越していた。また――確信をもったので、口ききをひきうけて、敵地とも味方とも分らぬ武蔵へ出向いて来たわけでもある。
この武蔵地方には、先年、彼にとっては、不倶戴天ふぐたいてんの仇敵ともいえる右馬允貞盛が、立ち廻っていた形跡がある。
うすうす、彼も、それは偵知しているのだ。
ところが。
その後、武蔵地方を注意していると、貞盛が、協力を求めて、出兵を説いて廻ったにもかかわらず、ここの国庁を中心に――内紛、また内紛をつづけたあげく、近頃では、ついに、毎日の小合戦に、双方、まったく疲れてしまったらしい。
双方というのは。
例の、足立郡司判官代あだちのぐんじほうがんだいという肩書のある武蔵武芝と、新任の権守興世王、介ノ経基との対峙たいじである。
この連中のいがみ合いは、さきに、貞盛がこの地方へ来たとき、貞盛の策と、加担に励まされて、興世たちは、竹柴台の武芝の居館を襲撃し、そのとき、一応は、彼らの勝利で、終っていた。
けれど、武芝も、牟邪志乃国造ムサシノクニノミヤツコ――という古い家がらの豪族である。その後、ちりぢりになった一族をかりあつめ、多摩の狭山さやまに、砦とりでをかまえて、朝に夕に、府中の国庁をおびやかし、放火、第五列、内部の切りくずし、領民の煽動、畑荒し、暗殺、流説――などを行い、そしてはわっと兵をあげて奇襲してくるので、以来、国庁では、吏務も廃すたれ、税物も上がらず、まったく無政府状態に陥ってしまった。
で。その困憊こんぱいのあげくが興世王から、将門へ、
(ひとつ、仲裁の労をとっていただきたい)
と、泣き込む羽目を余儀なくさせたものだった。
将門は、そう聞いたとき、おかしくて堪らなかった。
本来は、貞盛が始末するものだ。
貞盛が、あとの事を保証し、貞盛にケシかけられて、武芝追放をやったような興世王と経基の二人と彼は知りぬいている。
だが。その貞盛は、さきに自分が、信濃の千曲川まで、追い捲くし、ついに、長蛇は逸したが、おそらく、骨身に沁むような恐怖を与えて、都へ追いやってしまった。おそらくはもう二度と、この将門がいる東国へは、足ぶみも出来ないはず――と、彼は、ひそかに、うぬぼれていた。
いわば、貞盛から離れて、木から落ちた猿みたいな興世と経基だ。――そう見たので、その二人が、自分を頼って来たことが、何とも、おかしくもあり、哀れにも見え、
(よし。おれが、話をつけてやる)
と、侠気おとこぎを出して、乗りこんだものである。
要するに、これが将門の性格だった。
彼の甘さであり、彼の人の好さでもある。
もし、将門に、もうすこし、人のわるさがあるならば、この機会に乗じて、武蔵一国を併呑へいどんしてしまうのは何でもない。
後に、世上でいわれたごとく、彼に、心からな謀叛気と、大きな野望があるならば、こんな絶好な機を、つかまないでどうしよう。得にもならない仲裁役に、危険を冒してまで、のめのめと、敵地にひとしい武蔵へ出て来るなどは、そもそも、よほど人を疑わず、また、頭を下げて頼まれれば、嫌といえない人間のすることで、まことに――いわゆる後世の関東者、江戸ッ子人種の祖先たるに恥じない性格の持主ではあった。
馬鹿
数日の後。
将門は、武芝と、会見した。
多摩川上流の山岳をうしろにし、武蔵の原を、東南一帯に見わたした一丘陵に、武芝は、別荘をもっていて、その附近を、砦造りに、かためていた。
(なるほど、この天嶮てんけんと、地勢に構えられていては、興世などが、手こずるのは、むりもない)
と、将門すら、来て見て、いささか驚いた。
「よく、遠路もいとわず、来て下すった」
と、武芝は、酒食をもうけて、歓待した。
「いや、自分の労などは、何でもない。ただ貴公が、大度量を以て、この将門に、まかせるといってもらえれば――だが」
「おまかせしてもよい。……けれども、相馬殿(彼は将門をそう呼んだ)――この武芝が、興世や経基のために、祖先代々の居館も財物も、悉皆すっかり、焼き払われたことは御存知でしょうな」
「それは、聞き及んでおる」
「――と、いたしたら、その償つぐないは、どうしてくださる。ただ彼らと手を握れと仰っしゃっても、むりだし、また此方の一族が、承知するはずもないが」
「もとより、その財物や居館は、償わせようではないか。……相互に、明けても暮れても、今のような泥合戦をやり合って、焼打ちだの田畑の踏み荒しをつづけ合うことを思えば、国庁の損失はたいへんなものだ。いや、かわいそうなのは領民だ。――貴公さえ、うんというなら、そのくらいな償いは、何ほどの事でもない。きっと、興世王と経基に、承知させよう」
将門は、こういった上に、
「自分の身に代えても、その儀は、ひきうけた」
と、断言した。
第三者たる彼に、こうまで真心を以ていわれては、武芝も、渋ってはいられなかった。
「然らば、相馬殿に、御一任いたそう」
となった。
「ありがたい」
彼は、ほんとに、歓んだ。その笑い顔には、何のくもりもない。虚心坦懐きょしんたんかいそのものである。――そう聞いてから、大いに飲み出した。
そして、府中の国庁で、日時をきめて、和解の式を挙げようとなった。その日どりと時刻も約束して、やがて狭山の砦を辞した。
休戦の協約はできた。
ただちに、興世の許へ知らせてやる。
興世王と経基の方でも、異議のあろうはずはない。
将門が、指定の日を待ち、その日は、国庁のある府中の六所明神ろくしょみょうじんを、手打式の庭として、相手の武芝と、仲裁者の将門を、待った。
たれより歓喜したのは住民である。
「やれやれ、これで商売もでき、夜も寝られる」
と、その日は、祭のような賑いを呈した。
将門は、隊伍を作って、町へはいった。そして、部下は町屋の辻に屯たむろさせ、自身は弟と主なる者だけをつれて、六所明神の式場の森へはいってゆく。
時刻近くに、武芝もやって来た。
幔幕を打ち廻した神前で、将門立会いの下に、双互の者が居ながれ、禰宜ねぎ、神職の祝詞のりと、奏楽、神饌の供御くごなどがあった後、神酒みきを酌みわけて、めでたく、和睦がすんだ。
「よかった」
将門は、一同へいった。
一同の者も、
「おかげを以て」
と、彼の労を、感謝した。そして、以後の親和を誓った。
さて、それからの事である。
もちろん祝いだ、大祝いの酒もりだ。一時に、心もほどけたにちがいない。
ここでは、巫女みこの鈴が鳴り、笛や鼓が、野趣に富む田舎歌いなかうたに合せて沸き、町屋の方でも、神楽囃しに似た太鼓がとどろく。
泥酔乱舞は、武蔵野人種のお互いに好むことである。これあるがための人生みたいなものだった。しかも、平和がきたのだ。――殺し合いと焼打ち騒ぎが熄やんだのだ。――今日こそは飲むべかりけり、と酌くみあい、差しあい、泥鰌どじょうのように、酔いもつれた。
――すると。日も黄昏たそがれに近く。
境内のそこここや、町屋の辻にも、かがりの火が、ほのかに、いぶり始めた頃。どこかで、
「喧嘩だっ」
と、いう声が、つき流れた。
急雨のような人の跫音、つづいて怒号。
「喧嘩だっ、殴りあいだッ」
「いや、喧嘩じゃない。斬り合いだ。いや、合戦だ」
「武芝の兵と、こっちの者と」
「――武芝方が、不意討ちを仕かけたぞ。油断するなっ」
きれぎれに、そんな大声が、飛び乱れる。
「――素破すわ」と、六所神社のうちでも、総立ちになった。
何しろ、酔っていない者はない。おまけに、陽も暮れはじめた夕闇だ。
「騒ぐな」
と、将門は、声をからして、制したが、鎮まればこそである。
あわてた人影は、その将門を、後ろから突きとばして、武器を小脇に、駈け出してゆく。
「将平。――見て来い」
兄のいいつけに、将平は、飛んで行ったが、はや森のあちこちでは、取ッ組みあいや、白刃のひらめきや、数百頭の闘牛を放したような乱闘が、始まっている。
誰が、やったのか、町屋の一角には、もう火の手だ。
未開土の住人の習癖として、すぐ火を闘争の手段に使う。火つけを、何ともおもわない。
「興世王。いるか」
将門は、呼んでみた。
「――経基どの。介ノ経基どのは、おらるるか」
それも、返辞はない。
「武芝どの。武芝どの」
あたりへ向って、彼は、そう三名を、さっきから呼び廻っていたが、いずれも、部下を案じて、駈け出して行ったものか、いい合せたように、みな見えない。
将平が、やっと、帰って来た。
「兄者人あんじゃひと。もう、手がつけられません」
「どうしたわけだ。一体」
「よく分りませんが、何でも、興世王や経基の家来が、町屋の辻で、祝い酒をのみながら、大はしゃぎに、騒いでいたらしいのです」
「ウム。……武芝の家来も、一しょにか」
「もちろん、武芝の身内も、また、私たちの郎党も、その辺に、小屋を分けて、酒もりをしていたものでしょう。――ところが、つい今頃になって、また、甲冑に身をかためた百人ばかりの武芝の郎党が、狭山から――主人武芝の帰りを案じて、迎えに来たらしいのですが――それを、経基の家来が邪推して、町の入口で立ち阻はばめ、入れる入れない、といったような事から、乱暴が始まり、ついに、本ものの戦闘になってしまったものです」
「ば、馬鹿な奴等め! こんなに、骨を折って、やっと和睦のできた日に」
「馬鹿です。まったく、馬鹿者ぞろいです。――兄者人、もうこんな馬鹿者喧嘩に立ち入って、こけの踊りを見ているのはやめましょう。一兵でも損じてはつまりません」
「そうだ。もう腹も立たない」
「決して、馬鹿合戦に関かかずらうなと、私たちの郎党は、町の外へ、立ち退かせておきました。――兄者人、お帰り下さい」
将平は、あいそが尽きたように、遮二無二、兄を引っ張って、六所の森から、外へ連れ出した。
そして府中の火光と叫喚を見捨てて、夜どおし馬を急がせ、下総の領内へ向って帰ってしまった。
また。――あとの府中の方でも、その晩、一椿事いちちんじが、なお加わっていた。
たしかに、椿事といっていい。
新任の武蔵介経基は、どう考えたか、任地を捨てて、この夜かぎり、都へ逃げ帰ってしまったのである。
彼は、その夜の部下同士の争いを、武芝の計った“不意討ち”とかたく思い込み、また、その武芝と将門が肚ぐろい密約をむすんで、自分たちを殺そうとした“計画”であったのだと、悪推量わるずいりょうをまわしたのだ。
それが誤解であったことは、彼がもすこし落着いていたら、充分、すぐ翌日にも分っていたはずだが、何しろ、よほど仰天したか、慌て者だったにちがいない。
即夜、命からがら、任地を逃亡してしまったので、都へ着くやいなや、太政官へ出て、
「将門の野望は、ついに、武蔵ノ国まで、魔手をのばしてきました。武芝と心をあわせ、われらを追って、国庁の奪取をもくろみ、府中はついに混乱に陥入るのほかない有様となり果てましたゆえ、こは大事と、御報告に上洛した次第にござりまする」
と、自分の不ていさいを隠すためにも、極力、将門の野望を主題とし、武芝との紛争は二義的なものとして訴え、また堂上の諸公卿にも、吹聴ふいちょうして廻った。
俄然。――将門にたいする中央の疑いは、この事件にも、火へ油をそそがれた。いまや将門謀叛の沙汰は、確定的なものとされて、あとはただ、東国の大謀叛人を、どうして討ち平げるかが、朝議の重大問題として、上卿しょうけいたちの悩みであったに過ぎなかった。
似ている草笛
あとの出来事などは、将門は、何も知らない。
もとより彼は、一片の義侠から、乗り出したまでの事だ。
「馬鹿を見たよ。なあ、将平」
「それはもう当りまえです。馬鹿を相手にすれば、きっと馬鹿を見ますよ」
「上には上のあるものだ。……おれもずいぶん馬鹿の方だと思っていたが」
「何しろ、あんな馬鹿仲間は、見たことがありません。将平には、いい見学になりました」
「痛い事をいうなよ。それはこの兄のことだ。おれが十年余りの上洛中なども、今思えば、馬鹿世界の見学さ。何の役にも立っていやしない。……あはははは、そういうと、やはり自分は馬鹿とは思っていないようだな」
馬の背と、馬の背とで、兄弟はこんな気軽い話を途々にしていた。
「そうだ、途のついでに、豊田の普請ふしんでも見て行こうか」
豊田は、羽鳥の良兼に、焼打ちされた廃墟の旧邸だ。その後、大工事をさせている。以前にまさる大館おおやかたが、もう八分どおり竣工しゅんこうしかけていた。門前町も、復興していた。
彼は、それを見て、石井ノ柵へ帰り、将頼に会って、笑いばなしをした上、鎌輪の仮屋敷へはいって、旅装を解いた。
すると、家人や弟の将文が、
「お留守中に、都からお客人が来て、べつな棟で、お帰りを待ちますと、毎日、賑やかに滞留しておられます」
と、告げた。
「なに、賑やかに。……誰と誰だ。いったい」
「数年前にも見えられた八坂の不死人殿と、そして今度は、幾名もの下郎と、なお四人の女性にょしょうをお連れになって、同勢、十人ほどもございましょうか」
「ふうむ? ……あの不死人がか」
不死人と聞けば、妙に、なつかしくもあり、重くるしい圧迫も感じてくる。――年少、都へ遊学に出た日の第一夜から、八坂の暗闇で知己ちきとなった悪の友。ニガ手という先入主も抜けないのだ。
「どの壺か」
と、彼は、将文を案内に、その棟へ行ってみた。
なるほど、廊を渡ってゆくまに、もうたいへんな声が聞える。不死人や連れの者のだみ声に交じって、キャッキャッと笑う女たちの嬌声やら何やら、まるで旗亭の一室といったような騒ぎである。
「おう、不死人。来ていたのか」
彼が、そこに現われると、男たちの顔、女たちの眼、一せいに、彼を振り向いて、そしてやや居ずまいを直した。
「やあ、戻ったか。おん主あるじ」
と、不死人は、さっそく、杯を洗って、
「まず、ここへ」
と、席をすすめて、一応の辞儀やら、一別以来の旧情をのべてから、さて、にやにやといった。
「ときに、相馬殿(彼も、以前のような呼び捨てをやめて、世間でいうように、そう呼んだ)――そこにいる女性をお見忘れはあるまいの。……おい、何を黙って、はにかんでおるのだ。はるばる連れて来てやったものを」
と、草笛を指さした。
将門は、さっきから彼女の横顔を、まじまじ見ていたところである。眸が合った。女の顔は、ぱっと紅くなった。
「おお、おまえは、江口の……」
「お覚えでございましたでしょうか。江口の草笛でございまする」
「ああ。これは意外な」
将門は、心から、そういって十余年の過ぎた日を、思わず詠歎した。
「――女はいつまで、変らないものだなあ。わが身の方は、こんなにも変ったが」
「いいえ。あなた様も、すこしもお変りになりませぬ。ほんとに、そうお変りになっていらっしゃいません」
「いや。そうでもあるまい。まだ都では、あの頃、右大臣家の小舎人か、滝口の小次郎であったはずだ。以来、坂東の野に帰って、悲雨惨風ひうざんぷうに打ち叩かれた将門。顔も心も、むかしのようではない」
「お心が変られたと仰っしゃるなら、それは私には分りませんが……」
草笛は、ふと、拗すねたような、そして、淋しさに泣きたいような顔になった。それを、やにわに、酒にかくそうとするもののように、杯をとりかけると、不死人が、
「おいおい。さっそくの痴話口説ちわくぜつはよしてくれ。杯を、相馬殿にお差しせぬのか。――将門、いや相馬殿。なつかしいなあ、江口の里は」
「忘れてしまった。もう……まったく遠い夢のようでしかない」
「そうであろう。じつは……さもこそ、淋しくお在わさめと、純友殿から、その草笛と、ほか三人の遊君たちも、其許への、貢みつぎとしてお贈りになったものだ。どうか受けとっていただきたい」
「貢物とは、おかしいではないか。贈り物なら、お受けしてもよいが」
「いや。純友どのは、あなたを、いつも帝系の御子みことして、尊敬しておられる。そこでついそんな言葉をつかわれたのであろうが、贈り物には、ちがいないのだ。どうです、坂東には、野の花々は、繚乱りょうらんでしょうが、こんな都の花を、お内にあって眺めるのも、まんざら悪くはありますまいが」
「いや、ありがたい。そういう贈り物なら、折ふし、将門の身のまわりは、冬荒ふゆざれのように淋しいところ。さっそく、その杯をまわしてもらおう。……草笛、注いでくれい」
と、将門は、彼女の方へ手をのばした。草笛は、年ばえ過ぎた花嫁のように、恥じらいながら、銚子の柄を把った。
――その姿態しなに、その横顔に、将門はふと、少年の遠い遠い日、厩舎藁うまやわらの蒸れるなかで、童貞の肌に初めて知った館の奴隷の女奴――蝦夷萩のおもかげを、心に思い出していた。
糺問使
由来、武蔵野人種は政治的性格にはまったく欠けている。先天的に、狩猟の武勇を得意とする野性の民で、これの撫民ぶみんは容易ではない。
その後も――
武蔵一国は、混乱のまま治まりがつかなかった。
せっかく将門が仲裁に出向いて、武芝たけしば、興世王おきよおう、経基つねもとの三者のあいだに、和睦ができ、手打ち式にまでなりながら、その日の平和を誓う酒もりから、また大喧嘩をひき起し、もとの泥合戦へ返ってしまう始末である。将門さえも、見限りをつけて、
「いや、あきれたものだ。もう再びあんな馬鹿共の馬鹿合戦に立ち入って、仲裁の口きき役などは真ッ平だ。まあ、やるところまでやっていたら、眼がさめるだろう」
と、以来、どっちから仲介を頼みに来ても、笑って相手にしない程だった。
しかし、この武蔵の内乱も、将門の運命にとっては、そう笑って見ていられる対岸の火災ではなかったのだ。
任地の官職を擲なげうって、京都へ逃げ帰ってしまった源経基は、
「まったく、将門の謀たくらみに依るものです」
と、中央の官辺へ、吹聴して廻った。
「――和睦の仲裁に立つと称して、じつはいよいよ喧嘩を大きくさせ、その虚に乗じて、国庁を荒らし、ひいては武蔵を自己の勢力下に抱き込もうとしたものにちがいありません」
と、太政官だいじょうかんの答申にも、口を極めて、述べたてていた。
何しろ、さきには、貞盛の訴えがあったところだし、将門の人気は非常にわるい。将門を悪しざまにいいさえすれば、実相を深くも見ないで、
「……さもありなん。さもそうず」
と、肯定してしまうような公卿一般の先入主であった。
放置してはおけないという朝議である。
「武蔵へ下くだす国司には、誰ぞ、よほど不屈な人物をさし向けねばなるまい」
として、新たに選ばれたのが、百済貞連くだらのさだつらであった。
この貞連が、武蔵の新任知事として、東国へ下向してから数ヵ月の後に、将門の旧主たる太政大臣家――藤原忠平は、余りに紛々たる将門の悪評と、そして朝議がすでに彼を謀叛人視している事からも、
「すておけまい」
とあって、忠平は特に、中宮蔵人多治真人ちゅうぐうのくろうどたじのまびとに、教書をさずけて、
「なお一応。事の実否をあきらに糺ただしてまいれ」
と、東国へ立たせた。
真人が、糺問使きゅうもんしとして、東国へ向うと聞いたとき、忠平の子息の九条師輔や大納言実頼たちは、口をそろえて、
「おそらくは、真人が下っても、何の益にもなりますまい。さきには、貞盛の訴えもある事です。彼が、尊属を殺して、所領をひろげた結果、勢いに誇って、ついに今日では、朝廷も憚らず、官に抗しても、なおその暴欲をほしいままに伸ばそうとしている事は、余りにも明白です。――今さら、御教書みぎょうしょなどを下して、調査をお命じになるなどの事は、かえって、将門をして、増長させるだけのものでしょう」
と、反対した。
けれど、忠平の心の奥には、まだ小次郎時代の将門が残っていた。――あの小次郎がと疑われるのである。
「いや、念のためよ。何事にも、念を入れ過ぎて悪いということはない」
忠平は顔を振って、初めの考えを変えようとはしなかった。彼も今では、小次郎が仕えていた頃の色好みな風流大臣おとどではない。年も七十に近く、氏うじの長者として、また朝廷の元老として、何事にまれ、この危うい世を、どうしたら穏やかに治め得るだろうかと、さすがは、憂慮にたえない立場にあった。
蝦夷萩と呼べば
糺問使の多治真人は、約二ヵ月ほどに亘って、武蔵、下総、その他の地方を視察し、そして将門にたいしては、直接、面談して、その釈明を、求めた。
将門にとっては、すべてが歪曲わいきょくされた無実である。
貞盛の讒訴ざんそであり、経基の虚構にすぎない。
彼は、それをさらに確証づけるために、武蔵、上野、下野、常陸、下総など、五ヵ国の国衙こくがから、解文げぶん(官庁の証明)を取り寄せて、
「かくのごとく、中央は知らず、坂東地方では、自分を非なりと認めている者はありません。すべては讒者ざんしゃの作り事です。そしてその讒訴にたぶらかされて、ありもせぬ幻影に悩まれておるのが、堂上の諸卿ではありますまいか」
と、自身の認めた弁明の表ひょうと共に、これを多治真人に提出した。
「神妙です」と、真人は、彼を好意に見た。
表と解文を携えて、やがて彼は、ありのままを忠平に報告すべく、京都へ帰って行ったのである。
ここまでは、まず、無事であった。
この約半年ほどの短い無事の期間こそ、将門の一生涯を通じても少ない“無事の日”であったかも分らない。
豊田の新邸も、竣工していた。
彼はそこに移り、人数の一部は、鎌輪ノ柵に残った。また石井ノ柵にも、大葦原おおあしはらにも、守谷もりやの御厨みくりやにも、彼の弟たちが、家人郎党を分かって、それぞれに定住した。
初めは、客分として、将門の館に身を寄せていた八坂の不死人も、いつか将門の家臣同様に、彼に仕え、
「相馬殿――」と、彼を崇あがめ、また内にあっても「お館」と敬称して、もう以前のような悪友ぶりや非礼は決して現わさなくなった。
将門自身の貫禄もまた、自ら以前とはちがって来ている。
今や、彼の衆望は、たいへんなものであった。かつての常陸大掾だの、源護だの、羽鳥や水守の叔父たちの下にあった土地と人間とは、招かずして、草木のなびくように、彼の門へ、彼を慕って、集まって来た。
野の王者であり、野人の中の親分であった。
けれど、こういう順調な、そして隆運の日が巡って来ても、彼には、どこか虚無的な影が拭いきれていなかった。――こういう変り方が彼の人間に見え出してきたのは、最愛の桔梗と、彼女との仲に生まれた[#「彼女との仲に生まれた」はママ]一子とを、叔父の良兼の兵のために、芦ヶ谷の入江で惨殺された時からの現象である。
あのときの、彼の絶望感と、人間の残虐性への烈しい憤怒とは、今もって、鑿のみで彫りこんだように、彼の相貌に、深い陰影をとどめている。
顔ばかりでなく、その陰影は、もちろん、心の壁にも、カビみたいに、染しみついていた。
酒は、年と共に、量を増した。いまでは大酒の方である。鯨飲げいいんすると、心の窓がひらけ、自然、からりと気が晴れるらしい。
「おい、蝦夷萩。……おまえはもう都へ帰さないぞ。それとも江口へ帰りたいか」
将門は、草笛のほそい腕くびを握っていった。ある夕べの酔いの中であった。
「まあ、私を、蝦夷萩だなんて……。私は江口の草笛ですよ。そんな名ではありません」
「拗すねたのか」
「だって、ほかの女と間違えられたりすれば、どんな女だって怒るでしょう」
「怒るなら怒れ。……都にいた頃、初めて、おまえと馴染なじんで、心をおどらせたのも、おまえがその蝦夷萩と瓜二つといってよい程、よく似ていたからだった。――おれにとっては、忘れ得ない初めての女。それが蝦夷萩なのだ。そう呼ばせてくれ」
「ひどいお館ですこと。私は私でないんですね」
「いや、おまえは、蝦夷萩だ」
「いいえ、草笛ですよ、わたくしは」
「うそをつけ。これでも蝦夷萩でないか」
抱きすくめて、息がつまる程、草笛の唇をむさぼった。薄い肩をふるわせ、眉をひそめて、三日月形なりに身を反らした女の姿を、将門は、遠い日に死に別れてしまった蝦夷萩が、今も在る姿と見るのであった。
「……や、これは……。悪い折でしたかな」
廊の外に、不死人の影が、立ち淀んでいた。
「おう、不死人か。べつに見られて悪いほどな事じゃない。這入はいったらどうだ、こっちへ」
「では、お取次だけここから申しておきますが」
「うむ、何だ?」
「武蔵の興世王という者が、今、御門前へ、同勢二十騎ばかりで見えましたが」
「あ、また泥合戦の末、仲にはいってくれとかなんとか、仲裁事の頼みだろう。おぬしが会って、用向きを訊きおいてくれ」
「では、先年、府中へ出向かれて、和睦にまで成りかけたものを、当夜の喧嘩で、またぶち壊してしまったあの一方の者ですな」
「そうだよ。前さきの武蔵権守興世という男だ」
「心得ました。何を申し入れて来たか、会ってやりましょう」
不死人はのみこんで、すぐそこを退がって行った。
客といっても、二十騎の同勢である。馬は厩に預かり、人間は控えに通し、そして興世王だけを、客殿に案内した。
「てまえは、相馬殿の御内みうちの者、八坂の不死人ですが」
と、彼は、将門に代って、応対に出た。そしてさっそく、来意をたずねた。
侠者の門
興世王は、亡命して来たのである。
ついに武蔵にいたたまれずに、一族をつれて、国外へ逃げて来たのであった。
前から不和な武芝とも、なお抗争をつづけていたところへ、都から新たに赴任してきた百済貞連とも合わないで、
「ここばかりが天地ではない」
と、夜陰に乗じて、武蔵を立ち退いて来たのである。
――が、ひろい天地とは思ったが、さて見まわす所、坂東十州の平野では、頼む木蔭も多くはない。
「どこへ行っても、昨今、相馬殿の名を聞かぬことはない。将門殿とは、かねて御面識も得ておるし、仁侠寛懐なお方とは、夙つとに、お慕い申しておる。甚だ押しつけがましいが、自分以下、一族ぐるみ、お館の端へ、身内の者としてお加えくださるまいか。……推参申したお願いの儀とは、じつはそんなわけでおざるが」
興世王は、こういった後で、かさねて、
「ひとつ、御辺からも、相馬殿へお取りなしを頼む。かくの通りおねがい申しあげる」
と、両手をつかえた。
不死人は、考えた。
これはおもしろい鳥が舞いこんで来た。――こういう人間は、どしどし傘下に集めなければいけない。
不死人の画策からいうと、この館の余りに無事なのは本意に悖もとる。なぜならば、かくては、南海にあって烽火のろしを待っている純友との黙契が、いよいよ空むなしいものになる公算が大きいからである。
富士は噴煙を吐いている。
坂東の平野も、あの如く荒れよ、と彼は思う。
彼は何か、機会をつかんで、点火役を演じなければならない。そして、将門の身辺をつつんでいる無事と安易を吹き飛ばしてしまうことを考えていた。そうしたところへの客である。亡命者興世王が同勢を持ち込んで来たのである。
(これは歓迎すべき窮鳥だ。何とか、将門を説いても、仲間に加えてやろう)
不死人の肚はそうきまったが、これを将門に取次いでみると、彼の助言などは不必要であった。なぜならば、興世王の事情を聞くと、将門は、旧事も忘れて、率直にその境遇に、同情して、
「それは、可哀そうだ」
と、いうのである。
「ひとたびは、権守まで勤めながら、一族をつれて、他国へ流亡るぼうし、おれの門に頼って来るとは、よくよくな事だろう。西ノ柵の内に、一構えの屋敷が空いているはずだ。あれへでも入れてやれ」
数日の後には、興世王の妻、女、童、下郎たちも辿りついて、彼の一家族だけでも五十人近い人間がまた、豊田曲輪ぐるわのうちに住むことになった。
いわゆる風を慕って集まるというものであろうか。相馬殿の門へ頼ってゆけば、何とかしてくれる――と伝え聞いた者共が、興世王のほかにも、幾組もあった。
しかし、そういう類の者は、いずれも曰く付きに極まっている。もっとも、それを承知で、禍いも共に、ひきうけたと、呑み込んでやるのが、後世のいわゆる仁侠の親分であり、その性情は、武蔵野人種のあいだには、将門時代から持ち前のものであったらしい。
天慶二年の秋、十月初めの頃だった。
常陸の国から、また、この下総豊田へ、流亡して来た人間がある。
藤原玄明げんめいといって、常陸の官衙で、少掾の職にあった男である。
これも大勢の妻子や召使を連れ――
「どうか、お匿かくまいねがいたい」
と、泣きこんで来たのであった。
玄明は常陸の下官として、余り評判のいい男ではない。
彼が、下官のくせに、つねに上司に反抗し、粗暴で冷酷な官吏だということは将門もかねてうすうす耳にしていたので、
「玄明が職を離れたのは、いずれ自業自得というものだろう。そんな者、匿まってやるわけにはゆかぬ。追い払ってしまえ」
と、彼だけには、いつもの寛度も仁侠も示さなかった。
「いかにも、仰っしゃる通り、狡智こうちに長たけた官僚くさい男ですが……ただ彼奴は、常陸の内情をよく知っているはずでしょう。そこでいろいろと訊いてみると、お館にとっては、ゆるがせに出来ない一大事をふと口走りましたよ。じつに意外な事を」
不死人はこういって、人を焚たきつけるような眼をかがやかした。将門は、つい引きこまれて、
「なんだ。おれにとって、ゆるがせにならぬ一大事とは」
と、早口に訊き返した。
「右馬允貞盛が、とうから常陸へ帰って、密々に、また策動をめぐらしているらしいので……」
「なに、貞盛のやつが?」
貞盛ときくと、将門はすぐ鬼相きそうを現わした。骨髄こつずいから滲み出して面にたたえる彼への憎悪と、警戒と、そして忘れ難い怨みに燃える眼は、到底、不死人がいたずらに努めている煽動の眼などとは比較にならないものである。
胸中の一人物
玄明の妻子や召使も、また、豊田の内に匿まわれた。
同時に、この人物の密告が、将門を驚かせたことは一通りでない。
いや豊田、御厨、大葦原、石井などにある彼の一族をして、
「油断はならぬぞ。……いつのまにか、貞盛めが、また常陸へ潜りこんでいるというぞ」
とばかり、すべてに、ただならぬ緊張を持たせた。準戦時体制に入ったように、川すじには哨兵を立て、夜は夜警の兵を布いて、
「――ござんなれ、貞盛」
という将兵の眼光であった。
では、藤原玄明が、どういう密告をここに齎もたらしたのかといえば、それはただ、右馬允貞盛が常陸にいるというだけのことでしかない。
しかし、常陸との国境は、一衣帯水いちいたいすいだ。将門にすれば、それだけでも、枕を高うしてはいられない。警戒の理由は、充分にある。
さらに、その後、玄明の手によって、貞盛が常陸で何を企んでいるかという輪郭は、追々おいおいに、明らかになった。
常陸の国司(長官)藤原維茂と、貞盛とは、切っても切れない間である。――貞盛の姉は維茂の妻だった。
この義兄の子息に、為憲ためのりという者がある。貞盛とは、叔父甥仲だ。
為憲は、文官の父親には似ず、弓馬の達者で、常に、国庁の兵を、私兵のようによく動かし、わが家にも、子飼いの武者をたくさんに養っている。――玄明のことばによれば、もし為憲が指揮をとれば、少なく見ても、三千の兵馬はいつでも自由に駆使する力があるという。
貞盛は、相変らず賢明だ。決して、表に自分は立たない。
そして、為憲を、抱きこみ、
「もし、あなたが、わが家の恥辱をそそいで給わるならば――そして大きくは、治国と平和のために、兇暴将門を、討ち取ってくれるならば、亡父国香の田領でんりょうの一半は、お礼として、あなたに献上しよう。……また、国家への功労としては、私から太政官へ申請して、かならず相当な官位叙勲じょくんのあることを、お約束申してもよい」
と、ことば巧みに、説きつけていた。
さなきだに、弓馬にかけては、自信のある為憲である。心を動かさないはずはない。
「私の言は、決して、空言そらごとではありません。――かくの如く、いつにてもあれ、将門討伐の官命はあることになっているのです」
と、貞盛はなおも、官符の写しや、訴状に関する書類を示し、また中央における堂上の空気なども、つまびらかに、為憲に語って、
「いま、大功を立てようとするならば、将門を討って、太政官の嘉賞を賜う事が第一でしょう」
と、この血気なる地方武者を、煽動した。
「やるとも」
と為憲は、功に燃えた。
「わしにとっても、将門は、縁につながる人々の仇敵だ……やらいでか、いつの日にか」
「しかし、先へ行くほど、将門の兵力は、強大になります。いつの日にかといってはいられません」
「味方は、誰と誰か」
「群小の族やからは、頼むに足りません。もしあなたが、かたく誓うならば、私は、これこそと思う胸中の一人物を、三寸不爛さんずんふらんの舌頭ぜっとうにかけても、きっと起たせてみせますが」
「ふウむ……。そんな大人物が、どこにいるのか」
「ここから遠くない下野の田沼におります。あなたとは、姓も同じ藤原氏ですが、所の名を称えて、田原藤太秀郷ひでさととよばれている人ですが」
「ああ田原藤太殿か。……だが、あのような人物が、味方に起つだろうか」
「私が説客として参るからには、かならず起たせずには措おきません。……かつはまた、秀郷自身にも、充分、色気はあるのです。彼が欲しいものは、何であるかを、貞盛は知っていますから」
「どうして、それが分る?」
「かつて、田沼の館に、一夜を過ごした事がある。その折の彼の語気で、彼は決して、今の下野の押領使ぐらいで、満足しているものではないことを見抜いています。むしろ、野望満々たる人物です。けれど老獪ですから、将門のような下手はしません。――将門に、野を焼かせ、芦を刈らせておいて、後から、麦や麻でも植えようと考えているのが、藤太秀郷であると――私は見ました」
「怖ろしい人物だな。ちと、小気味の悪い……」
「それ程な者でなくては、味方に寄せても寄せ効いがありますまい」
「それはそうだ……。相手は将門だし」
常陸入り
事態は、こういうところまで、密々に進んでいたのである。
そして貞盛は、常陸から山越えをしては、幾たびか、下野の田沼へ往来していたのであったが、将門方には、まだそれまでの機密は探り得ていなかったらしい。
玄明にしてもそうである。
彼の齎もたらした情報そのものが、極めて不充分なものだったし、それに玄明自身、うしろめたいものがあるので、そのいいつくろいに、強いて、事実を歪曲している傾向もある。
だが、不死人にすれば、何はともあれ、おもしろくなって来た。思うつぼへ向いて来たといってよい。
「不意をついて、相手の狼狽のうちに、虚実を見る、という計略でしょう。ひとつ常陸へ乗り込んでみようではありませんか」
その年の冬、十一月のことである。
不死人は「時来れり」と考えたので、こう将門へ、献策した。
「え。……乗込む? おぬしが常陸へ行くというのか」
「いや、そんなケチな小策ではありません。堂々と、兵馬を立て、陣容を作って、相馬殿が国司維茂に見参せん――と公言を払って行くのです」
「口実がないではないか、口実が」
「表面の理由は、いくらでもあります。――藤原玄明なる者が、豊田へ哀訴して来たによって、これを助けてやって欲しい、玄明の追捕を止め、彼を、旧職に復してもらいたいと申せば、世上への聞えもよいでしょう」
「やろうか。不死人」
「やるべしです。そして、われわれが常陸に入れば、彼らの狼狽ぶりがどうか、すぐ分る。また、貞盛も慌て出して、尻っ尾を出すにちがいない。――場合によっては、その途端に、貞盛めを、生け捕るなり、首にして凱旋がいせんするような事にもならない限りもありません」
この策には、興世王も、口を極めて、賛同した。将頼、将平、将文なども、
「さあ、そう巧く行くだろうか?」
と、多少の二の足をふんだが、まったく不賛成でもない。
そして、その年、十一月二十一日のこと。
将門はついに肚をきめた。部下の将兵一千名を従え、豊田から常陸へ向って出発となった。
後に思い合せれば、この一歩こそ、彼にとって、致命的なものであり、これまでの私闘的な争いから、天下の乱賊と呼ばれる境を踏みこえたものであったが、その朝の彼の行装や人馬は、意気揚々たるものであった。――すべての場合、人間が他の陥※かんせい[#「こざとへん+井」、U+9631、402-1]に落ち入る一歩前というものは、たいがい得意に満ちているものである。
京へ帰る日
常陸の国庁には、先頃から太政官の巡察使が来ていた。そして数日間、中央との行政の打合せやら、貢税こうぜいの状況などを、府官から訊き取ったりしていた。
弾正忠だんじょうのちゅう藤原定遠さだとおと、その随員たちであった。
その弾正忠定遠は、昨夜、国司の藤原維茂の邸に招かれて、盛大な饗宴の主賓にすえられた。
歓をつくして、旅舎にひきあげたのは、かなり深更のことであった。もちろん、彼の随員たちも、それぞれ酒食の饗応をうけ、みな飽満して眠りについた。
公務は、終ったのである。
ゆうべの宴は、送別の意味でもあった。しかし、わずかな残務と旅支度のために、翌一日は休養していた。
すると、荷駄に山と積ませた土産物をもって、維茂とその従者が、早朝に彼の旅舎を訪ねて来た。
「昨夜は、お疲れでしたろう。ろくなおもてなしもなくて」
「いや、それどころではない。あんな御饗宴には、都でも滅多に出会えません」
「やがて、伜の為憲と、そして昨夜御一しょになった貞盛も、ちょっと、御挨拶に伺いたいとか申していました。何かと、旅のお支度に、お心もそぞろな中でございましょうが」
雑談しているうちに、その為憲と貞盛が、連れ立って、またここへ来た。――この二人も、餞別の品々を、定遠の前に供えて、
「何かまだ、お名残が尽きぬ気がしますな。今夜はひとつ、お気軽に、私の家へ遊びに来てください」
と、為憲がいったりした。
「伺いましょう。旅の支度さえ調えば、もう用のない体ですから。……もちろん維茂どのや貞盛どのも御一しょでしょうな」
「出かけます」と、貞盛は答えて――「自分の邸も、以前のようなら、ぜひ一夜は泊っていただきたいのですが」と、いった。
「そうそう。お父上の大掾国香どのも亡くなられ、以後の御災難で、お館なども焼かれておしまいになったとか」
「さだめし、醜い噂ばかりがお耳にはいっている事でしょう。いやお恥かしい次第です」
「して、お住居は近頃?」
「那珂郡なかごおりのさる所に、仮に妻子と家人共は置いております。――が、自分は京都とこの地方を往来しているので……まあ、萍うきくさのような境遇ですな。はははは」
貞盛の自嘲していう顔には、複雑な影があった。それに昨夜から同席して打ち解けたふうは示していても、自分の住所にしろ、近頃の進退についても、どこか話に明瞭を欠いていた。秘密をもつ人間のような、誰にでも細心な気をつかって物をいっているふうが見える。
しかし、弾正忠定遠が、何もそんな観察をくだしていたわけではない。彼も、貞盛と将門との険悪な葛藤や、またこの地方を含めた坂東一帯の積年にわたる闘争なども、中央を立つときから耳にしていた。けれど、それに触れたら厄介な話になるのをよく弁わきまえていたのである。馬鹿ばなしや、冗談には興じても、それには触れないに限るときめていた。――そして今は、官用も果たし、別宴にも臨み、慣例の郷産物の贈り物を受けたので、ただ、さりげなく宿を立ち、早く都の妻子の顔でも見ようという欲望を余しているだけであった。
ところが、その日。
為憲や貞盛たちも、まだこの旅舎で定遠と話しこんでいる間に、国庁の早馬が、長官たる維茂を、ここまで、探し当てて来て、
「兵変です。隣国の侵入です。下総の将門勢が、大挙して、常陸の国境を踏み越えて来たとの報らせがありました」
と、二騎三騎と、相次いで、急に維茂に訴えて来た。
――まあ、一献、と旅舎の者に命じて、酒肴の支度をさせ、定遠がしきりに、三名をひき止めていた折であったが、途端に、そんな主客のくつろぎは消し飛ばされてしまった。
「なに、将門の軍勢だと」
と、まず貞盛が蒼白な顔をして、浮き腰を立てたし、為憲は、予期するところもあったので、
「来たな! 機先を制して」
と、眦まなじりを上げて、突っ立った。
けれど、誰よりも、責任上、仰天したのは、維茂である。維茂は、息子の為憲と貞盛とが、ここ数ヵ月にわたって、何か、将門を牽制けんせいすべく、軍備の充実をはかっているくらいなことは知っていたが、そうまで、将門を刺戟していたものとは思っていない。もとより両国間に戦闘が起ろうなどとは、夢想もしていない人だった。
「ど、どういう事なのだ。これは一体」
貞盛を見、息子の顔を見、彼はその狼狽ぶりを隠すこともなく狼狽して、二人に正した。
「何か、間違いではないのか。……あの一徹者の将門を相手に、事を起したら、必ずやまた、かの国香や水守の良正や羽鳥の良兼と同じ轍を踏むだろう。――構えて相手にするなと、おまえ達にも固くいっておいた」
貞盛は、眼をそらした。眉間に、彼らしい神経を青白く漂わせて、廂ごしに、十一月の空を見ていた。
維茂と為憲との父子の間に、ちょっと感情のもつれが露骨になりかけた。父の文治主義と息子の覇力主義との食いちがいが、はしなくも表面に出たのである。
「まあ、御父子でありながらの議論はおやめなさい。そんな場合ではないでしょう」
定遠がいったのはもっともである。たしかにそんな事態ではない。そして定遠もまた、急に座を立っていい出した。
「明朝と思っていたが、私もこれから直ちに宿を立ちます。――貞盛どのには、都でお会いする折もあろうが、御父子には、いつまたお会い出来るやら分らぬ。……どうぞ御機嫌よう。……私に構わず、どうか国庁の方へ、すぐお駈けつけ下さい。一刻も早く、どうぞ」
途上の難
半日のまに、国庁は、城塞のように固められた。
常陸の行方なめかた、河内、那珂郡などの諸方からも、なお続々、国境の変を聞いて、国府の官衙や官倉を守るべく、兵馬が駈けつけているとも聞えた。
一時、騒然と紊みだれ噪さわいだ住民も、やっと落着いた。国司藤原維茂以下、すべてが甲冑に身をかためて、
「いざ来たれ。ひと泡吹かしてくれん」
と、弓を張り、楯を並べて、待ち構えた。
一軍を柵から遠く出して、始終、物見を放ったり、馬の脚を馴らしたり、闘志満々たる意気を示していたのは、いうまでもなく為憲で、
「あわれ将門も、ここへ迫らば網の魚だ。この為憲の下に、常陸には常備の強兵三千が、いつでも事に備えて錬られているのを彼は知らぬとみえる」
と、あたりの味方へ、豪語を払っていた。
しかし、諜報によると、将門の軍勢は、およそ四、五里も先に兵馬を止めて、どうやらそれ以上には前進して来るもようなく、夜営の準備までしているという。
「兵数は、どれ程だな」
と、為憲は物見へたずねた。
「ざっと、千騎程かと見えます」
「なに、千人。なんの事だ」
と、為憲は大いに笑った。他国へ侵攻するには、少なくもその国の常備以上な兵力を以て向うのが常識だ。こけ脅しな――と若い為憲は、それだけで、もう将門の力を、充分に見縊みくびっていた。
以後の物見は、夕方に迫っても、何の変化も告げて来ない。
彼は、兵を分けて、要地要地に埋伏まいふくさせ、やがて郎党数騎をつれて、国庁の本営へ帰って来た。
すると国庁の広場に、覊旅きりょの人馬が一群れ、夕闇の中でまごまごしていた。見ると、その中に、今朝旅舎で別れた弾正忠だんじょうのちゅう定遠も、ぼんやりした顔をして佇んでいる。
「やあ、弾正忠殿。どうなすったのです」
「お。為憲どのか。合戦のもようは、どうなのです」
「合戦。そんなものは、どこにも起ってはおりませぬよ。それよりも、御出発はどうなされたので」
「いや、かくの如く、荷駄供人も旅装をさせて、宿は立っては来たのですが、途中、戦に巻き込まれては大変だと思うし、維茂どのも貞盛どのも、そこは保証の限りでない、危険は充分に考えられると、しきりにお引き留め下さるのでな」
「ははは。初めの驚きが大きかったので、父もちと狼狽しているのでしょう」
「街道は無事に行けましょうか」
「まだ一本の矢も射てはいません。明日の事は知れぬが、今宵は平穏です。もしお立ちを急ぐお心ならば、途中、安全な所まで、部下の兵を守りにつけて送らせましょう」
為憲にいわれてから、急に定遠は腹を極めた。両軍の矢交ぜを見ないうちに、何しろ、常陸を離れてしまうに限ると、気が急せかれたのだ。
貞盛は、昼間から国庁の内にあって、維茂や府官の中に立ち交じり、いわゆる帷幕いばくの内の助勢をしていた。本来、彼はここの吏ではないし、公にも、庁政に関われという任命は帯びているわけでもないから、官衙の内部に姿を現わして、国司へ助言したり指図がましい振舞いをなすなどという事は、違法でもあるし、越権な沙汰だが、事態が事態なので、誰も怪しむ者はいない。
「弾正忠様には、やはり夜にかけても今のうちに、御出発になりたいと仰せられますが」
府官の一人が、維茂に知らせて来た。
貞盛も、聞いて、
「それは、物騒だが?」
と、ひき止めるつもりで、慌てて庁の庭へ出て来てみると、定遠はもう馬に乗って、従者に口輪を取らせていた。
「大丈夫ですよ。御心配はありません……」
そう告げたのは、出発して行く当人ではなく、側に見ていた為憲である。
「私の部下にいいつけて、途中まで、送らせますから」――と、父や貞盛の杞憂を笑っていうのだった。
ぜひなく、二人も、
「では、お気をつけて」
と、定遠の一行を、庁の門外まで、見送った。
すると、その夜も明けないうちに、弾正忠定遠とその随員を送って行った国庁の兵が、逃げ帰って来て、
「一大事です。途中、将門の兵に取囲まれ有無もいわせず、弾正忠様には、捕虜として、敵の手に奪われてしまいました。――その他の随員も、みな縄目をうけて、将門の陣中へ引っ立てられた様子に見えます」
と、意気地のない報告であった。
しかも、二十名も付けてやった兵のうち、帰って来たのは四、五名にすぎない。
「すわ、将門が挑戦して来る前ぶれとみえるぞ」
為憲は、暁のうちに、陣頭に立ち、国府の内も、色めき立っていた。
――と、その朝。将門方から、騎馬甲冑の一団が、進んで来て、
「これは、下総の平将門が使者です。常陸の国司維茂どのに物申す事のあって推参して候。――維茂どのの営へ導き給え」
と、為憲の陣前に向い、まんまると寄り合いながら、大声にいっていた。
危険な舌の持主
常陸側の首脳部と、将門方の軍使とが、国庁の広庭で会見したのは、その日の昼で、冬の冴えきった空に、陽がらんとして燦きらめき、双方、いかめしく、床几を並べて、対峙した。
「せっかくのお申し入れだが、その藤原玄明という男は、当庁にあって、府官にあるまじき悪行を働き、ついに身の置き所もなくて、他国へ奔はしった人間でおざる。――いわば当国としては、追捕中の前科者と申すべき者だ。――左様な人間を、いかに将門殿のお扱いでも、罪を解いて、旧職に復すわけには参らぬ。お断りする。明確にお断りする」
維茂の返答である。
その返答でも分るように、将門方の軍使は、将門の扱いと称して、玄明の無罪と、彼への追捕を止めることを、常陸側へ、求めたのだった。
「御宥免ごゆうめんは、出来ないでしょうか」
こういったのは、将門方を代表して、ここに使いとして来た御厨三郎将頼で、
「……さて、困ったのう」
と、副使格で付いてきた藤原不死人の横顔を見て呟いた。
将頼は、初めから、この出兵に、反対だった。それに、藤原玄明の人物も分っていたし、その罪科も知っている。どう聞いても、先方のいい分の方が正しく思えて仕方がない。
だが、副使役を買って将頼について来た不死人はまた違う。穏和な将頼とは、人間も違うし、その目的も肚も違っている。
彼はさっきから不逞ふていな面構えをして、顔から飛び出すような眼を以もって、相手の維茂、為憲以下の者を睨にらまえていたが、
「や、お待ち下さい。お言葉ですが」
と、このとき初めて口を開いた。
「なるほど、仰せの如く、玄明には、多少の罪もあるでしょう。たとえば、国外へ逃亡するさい、行方郡、河内郡などの官倉の物を持って逃げたとか、また、在職中にも、貢税の者の頭を刎はねたとか、訴訟を聴くのに、一方から収賄を受けたとか。……だが一体、常陸の国庁には、そんな事は一切いっさいしない良吏ばかりがいると仰っしゃるのか。他の府官には、一点の罪悪の蔭もないと仰せかな。その辺は、どうです。念のため、承うけたまわっておきたいが」
為憲は、ぴりっと、眉をうごかした。
貞盛は、ここに姿を見せていない。――もし、為憲が発言してはと、問題のもつれを怖れて、維茂はあわてて答えた。
「お訊ねは、少々、お門かど違いではないか。そんな事は、貴公へ御返辞する限りではない」
「何を……いや何で門違いといわれるか」
「ここは常陸の国ですぞ。下総の領下ではない。他国の内政に、いらざる御懸念は止めて欲しい」
「なるほど。そう出る事であろうとは心得ていた。しかし、常陸の国庁に勤めていた府官が、主人相馬殿(将門)にすがって、豊田の館に泣きこんで来ていることを御存知か。――国司たる御辺の不始末が、隣国へまで、迷惑をかけたものとは思われぬのか」
「これは思いもよらぬいい懸りだ」と、維茂は、顔じゅうに不快な皺しわを描いて――「元々、常陸においても、日頃から悪評の高かった人物。わけて官舎を荒らして逃亡したような者を、匿かくまわるるこそ、当方から見れば、怪しからぬ思いがしておる。……何で、御門を頼って行ったなら、突ッ刎ねて下さらんのか。また、隣国の誼よしみを思わるるならば、一応、常陸の国庁へ、御通諜ごつうちょうでもして給わらんのか。こちらこそ不満でおざる」
「窮鳥懐ふところに入れば――という事もある。主人将門殿は、弱者にたいし、そういう事は出来ないお人柄なのだ」
「ならば、それでもよい。しかし、そんな小我の情を以て、玄明を赦免しゃめんせよの、追捕を解けのと、他国の内政へ、お口出しなどは、大いに困る」
「いや、その内政が紊みだれておるため、かく隣国へまで人騒がせをさせたのではないか。国司として、謝罪もなすべきに、傲然、余計な口出しはするなと、いわんばかりな態度は何事だ」
「当国として、詫びる筋はないゆえ詫びぬまでの事、べつに傲慢なお答えはしておらぬ」
「何せい、そんな一片の挨拶で、追い返されたなどといっては帰れん。玄明の罪を解いて、謝意を表すか、あるいは、一戦も辞さんと仰せられるか。明白な御返辞を聞こう」
「貴公の態度こそ、まるで喧嘩腰だ。よう思うてもみられい。明らかな罪人を罪なしとして免したり、その上、国司が膝を曲げて詫びるなどという馬鹿げた事がどうして出来ますか。そんな事をしたら藤原維茂は、府官の長として、明日から庁務を執ることはできません。――何と威嚇いかくなさろうと、お断りのほかはない」
「なに。威嚇だと。いつ威嚇したか。――御辺の部下のために、わざわざ、穏便な話し合いをつけに来たものを、威嚇とは、何事だ。おいッ、何とかいえ、維茂どの」
不死人は、だんだんに声を荒らげた。努めて、相手の激発を誘おうと仕掛けてゆく。
しかし、さすがに、国司の維茂は、その手には乗って来ない。怒りの代りに、にゅっと、無理な笑いをたたえて見せる。――老練だな、と不死人は見たので、ついに暴言を承知で「……おいッ、何とかいえ」と、一喝いっかつを放ってみたのである。そしてわざと、語気にふさわしい眼気も示して、為憲の顔を見ていったのである。
果たせるかな、為憲はすぐそれに引っ懸って来た。維茂が何かいうまもあらず、火を呼んだ油壺のように、くわっと口を開いた。
「だまれっ。先刻からいわしておけば、好き勝手な小理屈をひねくり廻す奴めが。――わずか一小吏の扱い事に、仰山な兵馬を進め、しかも、挨拶もなく常陸の国土へ踏みこんで来るとは何事だ。それでも、威嚇でないといえるか」
「お。いわれたな。……いわれたのは御子息為憲どのか」不死人は、その不気味なほど動じない面構えに、ニコと冷笑をうかべた。彼にとって、この血気らしい息子は、好餌に見えたにちがいない。どうしても、ここで事件を紛糾させ、ここに戦端を切らして、坂東一面を燎原の火に染め、遠く、南の海に拠って、大挙の機を待ちかまえている藤原純友たち一味に、答えてやらなければならない時が来ていた。
で、不死人は、舌なめずりして、為憲の憤怒を、弄もてあそんだ。
「やあ、為憲どの。父上とはちがい、あんたなら耄碌もうろくもしておるまい。――兵馬を従えて来たのが悪いというが、それ程、常陸は物騒な国だから、要心に如しくなしと考えてのことだ。主人や自分の身を守るのがなぜ悪い」
「なに、常陸は物騒だと」
「白ばッくれては困る。お若いくせに」
「事々にいい懸りをつけるな。かつて常陸から下総へ理不尽な兵など一兵も入れた事はないぞ」
「だが、一挙にそれをやろうと、密々、謀たくんでおられるではないか」
「ば、ばかな事を。何を証拠に」
「証拠呼ばわりなどはおかしい。聞きたくば、ここへ右馬允うまのすけ貞盛を呼んで来い」
「えっ。……貞盛などが」
「さ、連れていらっしゃいっ。どうだ。貞盛がこの国庁に折々姿を現わし、しかも数日前からいることも、こっちでは既に偵知している」
「問うに落ちず語るに落つ。汝らこそ、その通り、常に密偵を使って、犬の如く、他領を探っているのであろう」
「探っておらんとはいうまい。それも自領の安全を護るためだ。何となれば、貞盛こそは、年来、相馬殿を亡くさんと、都と坂東ばんどうの間を往来し、あらゆる虚構と奸智かんちをかたむけて、主人将門殿を呪咀じゅそしている卑劣者だ。――その貞盛が、常陸に潜伏している。……何でこれが、黙視できるか」
「…………」
「しかも、貞盛にそそのかされて、御辺父子も、兵力を増大にし、弓馬の猛訓練をさせて、虎視眈々たんたんと、下総の境を窺っている者ではないか」
「…………」
「なお、武器を蓄え、兵糧を積み、庁の政務などは、怠っても、軍備を第一に努めているとは、玄明の告げ口に聞くまでもなく、われらの諜報には確かめられている。……そのため、貢税の時務を滞り、領民も怨嗟えんさの声を放っているとは、つい今日の夜明け方、わが陣中へ立ち寄った弾正忠定遠どのの話でもあった」
「何を申す。その定遠どのは、汝らの兵が、捕虜として引っ立てたのではないか。そのような暴力と脅迫を以ていわした言葉が、何の証拠になろう」
「あはははは。こうすべて内部が分ってしまっては、さすが維茂どのも、二の句があるまい」
「分った。……すべては、喧嘩を売るために、そして常陸へ兵を入れる口実を作るために、よくよく企んで来た事だの。そうだ、売る喧嘩なら買ってやる。ただし、口幅ったい名分をいうのはよせ。汝らは明らかに暴賊だ」
「暴賊と申したな」
「いった。土の暴賊だ。しかし、われにも備えはある。常陸の寸土も、汝らに渡すことではない」
「よしっ。話は終った」
不死人は、そういって立ち上がった。そしてさっきからしきりに何かいおうとしている将頼には、ついに何もいわせず仕舞いに帰ってしまった。
火魔と火の粉
右馬允貞盛は、国庁の内から、庭上における下総と常陸側の談判を、息をこらして覗いていた。
「……はてな。甲冑は着ているが、あのよくしゃべっておる将頼の側の男は、たしかにどこか見覚えのある顔だが」
彼は、それのみに、気を奪われていた。
「そうだ。――八坂やさかの不死人。あの純友一味の不死人にちがいない」
そう思い出したせつな、彼は、身の毛がよだつような気がした。
ひと頃、都では、群盗の首領として、魔魅まみのような跳梁ちょうりょうをほしいままにし、刑部省の獄中で死んだというような噂のうちに、その姿は洛中から掻かき消えていたが、年経つと、また現われて、空也念仏の人だかりへ、夜毎に不穏な流説を撒まいたり、南海へ行ったり、またこの坂東地方を徘徊はいかいしていたり――そして今日は将門方の軍使の一名となってこれへ臨んでいる。
何という不可解な、そして変現に巧みな男だろう。天地を飛行ひぎょうするとか、神出鬼没とかいうのは、あんな男の事ではあるまいか。
「恐るべき奴が将門に味方している……」
やがて、相互のいい分は、決裂したとみえ、維茂父子は、昂奮こうふんの醒さめきれない面を硬めたまま、国庁の内へ戻って来た。
「帰りましたな。将門の使者共は」
「じつに乱暴ないいぐさだ。談合でも何でもない」
維茂は、憤然と呟き、為憲は、充血した眼で、貞盛を見ながら、強いて苦笑して告げた。
「矢は放たれたも同じだ。一戦あるのみですよ」
「が、為憲どの。大丈夫か」
「その為に、ここ数ヵ月、兵馬も鍛えてある。奴らに負ひけをとるものか」
「きょうの使者のうちで、ひとりでしゃべっていた男があったでしょう。あれに油断はなりませんぞ」
「藤原不死人とか、名乗っていたが、あれが何だというのです」
「南海の乱賊、藤原純友とも交わっている人物です。一時は、検非違使の手に捕われて、刑部省の獄中で死んだはずだが、それがまだ東国へ来て生きている……」
「純友の……?」と、維茂父子もその噂は聞いていないでもないが、南海の賊だの、純友といわれても、それは千里も先の別世界なものとしか心に響いて来なかった。
「そうだ、自分は……」と、貞盛は俄にその冷たい眉宇に意識的な意気を描いて、「――これから山越えして、下野しもつけの田沼へ参ろう。かねてお味方を頼み入れてある田原藤太秀郷どのに、急をお告げして、援軍を仰がねばならぬ」
半ばは、独り語のようにいい、庁の廊を急ぎ足に出て行った。
従来、どんなばあいでも、決して、戦場には立たないで来た貞盛である。この日も、その要心が働いたのであろうが、彼としては、やや姿を消すのに、時を失したきらいがないでもない。
なぜならば、時すでに、国庁の内は、すわ戦ぞ、将門が襲よせて来るぞという声々に、何ともいえない恐怖の波がうねっていた。夜来、戦備は固めているはずなのに、いざとなると、やはり“将門恐怖”の心理が、騒然と、府官や兵の中に作用を起した。
貞盛は、従者の控えへ駈けて行ったが、そこには牛浜忠太も他の郎党の影も見えない。
庁の四門を見歩いても、恟々きょうきょうたる守りの兵が、そそけ立った顔を鉄にくるんでいるのが騒ざわめいているのだ。それを眺めると、彼も“将門恐怖”に囚とらわれ出した。将門の敵愾心てきがいしんの執拗しつようさ、その駆使する兵馬の迅はやさ、それは、かつて信濃路の千曲川に追い詰められたときも、いやという程、身を以てその経験を舐なめさせられている貞盛であった。恐いと思い出したら、世に誰よりも、将門の恐さというものを彼ほど知っている者はない。
おびただしい兵馬や町の庶民が逃げ廻る間を、彼は心もそらに、仮のわが家まで帰ってみた。そしてしばらく休んでいると、忠太と郎党たちとは、かえって彼の姿が見えないのを憂えて、ここへ探しに帰って来た。
「旅だ、旅だ。山越えして、下野の田沼へ行くぞ。大急ぎで、旅装をせい」
慌あわただしい事だった。彼も従者も、すべて狩衣の上に、甲冑かっちゅうを着こみ、平常とちがい、弓、長柄など、物々しく掻い持って、同勢二十余名、山の方へ急ぎ出した。
するともう町の一角には、将門の兵が乱入していた。
寡兵を以て、常陸の大軍へ当って来たので、その攻勢には、堤を切って落ちて来た濁流のような勢いがある。
貞盛は、矢の中を、行き迷い、彼方此方と、西の山道へ出る安全な落ち口をさがし歩いた。
そのうちに、民家の一部から、黒煙が揚がった。煙の下には必ず精悍せいかんなる将門方の兵馬が駈けてゆく。
激戦は半日以上もつづき、やがて暮色も迫る頃だった。どうしたのか、まだ守りは崩れず、常陸勢の鉄兵の中に、安泰と見えていた国庁の内部から、味方の失火か、めらめらと、真っ赤な焔ほのおが上がり始めた。
それは見るまに、官衙の廂ひさしから廂へ、大きな焔の波濤をなし、常陸勢は、たちまち混乱に陥ちてしまった。大書庫や貢税倉の棟からも、どす赤い焔が、唸りをたてて噴ふき始めた。
「――裏切だ。味方のうちから、寝返った者があるぞ」
火焔に染まった赤い大地を、こう呼ばわり呼ばわり、戟ほこを躍らせながら、駈け廻っている、七、八人の兵があった。常陸方は誰あってそれを敵の忍びと疑っていなかった。ところが、やがて打ち破られた門から外へ向って、火旋風ひつむじと共に走り出して来たのを見ると、それは不死人が都から連れて来た手下の禿鷹はげたか、蜘蛛太くもた、穴彦などという一連の出没自在な剽盗ひょうとう仲間であった。
老獣
国庁の兵火を見捨てて、山づたいに、常陸から下野へ逃げ奔はしった貞盛の主従が、秀郷を頼って、やがて赤城あかぎ山麓の田原の館たちに辿り着いたのは、十二月に入ったばかりの寒い日だった。
押領使藤原秀郷は、家人けにんからそう聞くと、
「――おう。来たか」
と、予期していたもののように頷いた。
だが、すぐに会おうとはいわなかった。
右手の中指を、頬のクボに当てて考え込む容子ようすは、たとえば、狡智こうちに長たけた老獣ろうじゅうが、餌物を爪で抑えながら、さてどう肉を捌さばいて食おうかとしているような余裕とほくそ笑みをつつんでいる。
「いるといったのか」
主人の意外な受け方に、取次の家人は、まごついた。
「は。つい、御在邸と申してしまいましたが」
「そうか。……ならば」と、秀郷はここでまた、老獪そうな眼まなざしを、じっと沈めて、
「風邪で臥ふせっておるといっておけ。――しかし、ていねいに犒ねぎらえよ。粗相にはするな。よろしいか。西の屋の客殿に請じ、酒肴をさしあげて、よくわけを申せ。秀郷はお会い申したく思うておるが、何せい老齢ではあり、この寒気。深く寝屋に閉じ籠っておりますれば……と」
「心得ました。お旨むねのように、粗相なく致しておきまする」
家人は引き退がった。
翌日、秀郷は、饗応に当った家臣の一名を呼んで、そっと様子を訊ねた。
「どうした。客の貞盛は……」
「手厚いおもてなしに、たいへん恐縮しておられまする」
「立帰るような口吻こうふんはないか」
「何か、容易ならぬ事で、ぜひ、お縋すがり致さねばならぬとか申されて――お風邪の癒いえる日まで、御逗留のおつもりらしゅうございます」
「そうだろう。……ま、もう二、三日は待たせておくもよい。秀郷に会わずに帰る筈はない」
彼は、何もかも見抜いていた。貞盛の来意ばかりではない。およそ坂東平野の出来事なら、知らない事はないほどである。わけても、常総じょうそう方面の将門旋風にたいしては、これを対岸の火災と見てはいなかった。いつ、下野へ火の粉が飛んでくるかもしれないと警戒していたし、また、あわよくば、虎視眈々たる野心もひそかにいだいていた。
そういう秀郷の眼から見ると、いかに才賢さいかしこく立廻っているようでも、貞盛などはまだまだ青くさい一若輩に過ぎなかった。
ましてや今は、将門に追われて、空しく都にも帰れず、常陸にも止まれず、いわば五尺の身を容れる所もない窮鳥であるのだ。――秀郷ほどな男が、これに対して、五分と五分の取引を考えているはずはない。
数日の余も、貞盛を焦じらしておいてから、さて秀郷は、やっと床を上げたような顔をして、貞盛に対面した。
貞盛は、焦躁から解かれただけでも、ほっとした顔つきだった。当然、主客の応対は、あべこべとなる。つまり秀郷は尊大に構え、貞盛はそれに阿おもねるのほかはない。
「わしに兵力を貸してくれといわれるのか」
「ぜひ、御助勢を願いたいのです」
「したが、あんたは中央の命を持ち廻っておられるのじゃろ。官符を布令ふれて、なぜ相模、武蔵、上野などの諸国に号令し、また一刻も早く、朝廷からの追討軍を仰がぬのか」
「仰せまでもなく、都へは、幾たびも早馬をのぼせております。……が、いつの場合でも、こんなとき、征夷大将軍が任命されて、兵が下って来るまでには、数ヵ月を要しまするので」
「はははは。堂上の公卿集議と来ては、戦いくさも花見も、同じものにしておるからの」
「いや、このたびだけは朝廷でも、天下の大事と、いたく驚きもし、諸令を急いでもおるのです。しかし、何せい時を同じゅうして、またぞろ、伊予の純友が、内海に乱を起したため、都は、海陸からの腹背の恐れに会い、まったく、狼狽の状にあるものらしく思われます――」と、貞盛は、自分の苦境はいわず、ただ中央のそればかりを説いて、「――すでに、御当家へも、いくたびとなく、官符の御催促は来ているはずですが、正義のため、また朝廷の御為に、枉まげて御出馬くださいませ。貞盛はその為、敵地を脱して、これまで、お迎えに参りました。もし、おききいれなき時は、将門の威力は、坂東八州を併呑し、やがてこの地方はいうもおろか、甲、信、駿、遠の地まで、威を振って来ることは間違いありませぬ」
と、畢生ひっせいの弁をふるって、秀郷を説いた。
秀郷起つ
「うム……。むむ……。なるほど」
秀郷は、いちいち頷いてみせる。肚のうちでは、貞盛の弁舌ぶりを、よくしゃべる男だわいと、べつな意味していた。
「だがのう、右馬殿(貞盛のこと)――年を老とると、何をするのも、懶ものうくての。……これが若い頃なら、一旗挙げるによい潮しおと、血もわこうが、秀郷には、もうとんと名利の欲もないのじゃよ」
「……が、乱賊将門の悪業ぶりは、お聞き及びでもございましょうに」
「知っている。……しかし、なにも将門だけが悪人でもあるまい。あんたの前だが、常陸の大掾国香どのといい、羽鳥の良兼、水守の良正など、どれもこれも相当なお人じゃよ」
「それは……」貞盛は、赤面した。貞盛自身にも、後ろめたいものが多分にある。秀郷の細い眼に、眼皺の中から、それを見すかされているような気がするのだった。
「何分、多年にわたるもつれなので、お聞き苦しい事も数々お耳に入っておりましょうが――詮ずるところ、近年、将門は思い上がって、近隣の領土を奪い、また、不平の輩ともがらを門に集め、その旧主の領へ攻め入る口実とするばかりか、彼の左右には、南海の賊で、純友と気脈を通じ合っている者もおるとか聞いております。――明らかに、天下を窺う野望があるに違いありません」
「……かも、知れんなあ」
「さすれば、押領使おうりょうしたる御職務からも」
「わしが起つのは当然だといわるるのか」
「ま。理屈になっては、失礼に存じますが」
「いや、それは、ほんとじゃよ。……だが、朝廷にせよ、太政大臣家にせよ、こんな騒ぎになると、すぐ忠誠をもち出すが、一体、わしの官位はどうだ。何十年、一介の押領使のままで、捨ておかれて来たことか。年々、貢みつぎはさしあげても、絶えて、恩爵の命などうけたこともない」
「いや、ごもっともです。しかし、もし将門平定の後は、必ず、こんどこそは、中央でも、すておかれますまい」
「それがさ……。勲功勲功と、匂わせておきながら、血をながして、さて、乱が鎮しずまったとなると、けろりと、忘れ去るのが、公卿たちの前例じゃよ。ばかな話さ」
「貞盛が、こう罷り出て、御出馬を仰ぐからには、誓って、左様なことはないように致しまする」
「ふム……。あんたが、誓うというのか」
「誓紙をさしあげても」
「おう、誓紙とあれば、受けようか。――そして、秀郷を総帥そうすいに立て、三軍の指揮を委すというなら、出向いてもよいが、さもなくて、ただのお手伝いなら、まあ、ごめん蒙こうむりたいものだ」
実際に貞盛が誓紙を入れたかどうかは不明である。しかし、それ程な礼をとって懇請したことには違いない。秀郷は、相手にさんざん気を揉ませておいてから、やっと「うん……」と承諾したのだった。
永年の間、下野一帯の治安、警察、徴税の監察などに当って、秀郷一族がこの地方に培つちかって来た勢力は、いよいよ彼が将門征伐に起つとなった時、初めて表面に現れた。
四千騎の兵が、田沼に糾合され、武庫を開いて、鏃やじりをみがき、刃を研いだ。
けれど、その行動はまだ極秘のうちに行われていた。あくまで用意ぶかい秀郷は、なお田原の居館を出ず、ただ密偵を派して、将門の以後の行動をさぐり、周到な情勢判断だけを握って、ひそと、出撃の機会をうかがっていた。
痴児の酔い
将門は捷かった。大いに捷った。
彼の部下は、声をからして、勝鬨かちどきをあげ、狂せんばかり、常陸の国土を、蹂躪し廻った。
「捷つには捷ったが、これはちとやり過ぎたな」
将門がそう気づいた時は、すでに狂兵の乱舞も終っていた後である。
たれが火を放ったのか、将門さえ知らないまに、常陸の国庁は、焼け落ちていた。そのほかの官衙官倉と、あとかたすらない。
敵の死屍は、累々と、辻にみだれ、町を舐めつくした炎は、遠い野を焼いて行き、土民の小屋や寺や森までが煙を吐いている。
「何という脆もろさだ。これが強兵を誇っていた常陸勢ですぞ。いや、こちらの兵が強過ぎるのかも知れん」
「あははは、いうもおろかよ。今や、わが相馬殿の御威勢の前に、立ち得る敵があるものか」
将門の耳に、そんな声高な話が、ふと聞えて来た。
彼が、振り向いてみると、相馬軍の帷幕の将星として、自ら任じ合っている興世王や不死人や玄明などが、国庁の焼け跡に、早くも幕を張って、祝いの酒瓶をあけ、各※(二の字点、1-2-22)意気軒昂けんこうと、杯をあげている。
将門もいまそこで、一杯、勝祝いを飲み干して来たところだが、余りに、荒涼たる戦火の焼野原に対して、何か、自分のした事ではないような気もちにつつまれながら、茫然と、独ひとりそれを眺めていたのである。
(……しまった。何も、これ程までに、やる事もなかったのに)
彼の心は、呟いていた。
淡あわい悔いに似たものが、心の底からにじみ出してくる。
明らかな侵略行為だ、官衙や官倉の焼打ちは、官への叛乱である。乱賊といわれても弁解の余地はない……。
「殿。将平様の兵が、生捕った敵を、曳きつれて来ました。すぐ首を打って、領民の見える所に梟かけましょうか」
興世王が勢い込んで、彼の前に告げた。
「待て待て。――そう、やたらに、首ばかり斬りたがるな。どんな捕虜か、おれが見る」
将門は、幕とばりの内へ戻った。
二人の縄付の敵が、悄然と、地上にうなだれていた。
将門は、弟の将頼や将平や、また不死人、玄明などの幕僚をふり顧かえって、
「この敵は、誰だ。――敵の何者だ」
と、たずねた。
「ひとりは、都の使者、藤原定遠です。そして、もう一名は、常陸介維茂にございまする」
と、誰かが答えた。
すると、将門は、急にいやな顔をして、まるで唾を吐くようにいった。
「なんだ! 為憲でもなければ、貞盛でもないのか。おれが、斬らんと欲しているのは、第一に右馬允貞盛、次に、為憲なのだ。こんな者に、用はない。縄を解いて、追ッ払え」
「えっ。免ゆるすのですか」
「貞盛こそは、八ツ裂きにしてもあき足らぬが、都の巡察使や、維茂ごとき老いぼれを斬ったところで、何になろう」
将門は、いよいよ憂鬱な顔をした。そして、
「豊田へ帰ろう」
と、俄に、引揚げの命を出した。
このとき、退軍のさいにも、不死人の手下や、興世王の部下は、さんざんに常陸領を掠奪して行った。掠奪隊の指揮には、いつも玄明があたっていた。
将門は、そういう末端の行動には気もつかずに、豊田へ帰った。領下の民衆は、彼を凱旋の将軍として迎えた。下総四郡は、万歳の声で沸き返り、門には、祝賀の車馬が、毎日、市をなす有様だった。
帰来、将門は飲んでばかりいた。
彼のそばには、いつも草笛を始め、江口の妓おんなだの、妻とも妾ともわからない女たちが、幾人となく侍はべっていた。
そうした乱酔の日が続くうちに、十二月となった。しかもまだ、毎日の酒はつづき、門には、媚こびと諂へつらい客が絶えず、興世王や玄明は、彼を称えて、
「相馬の大殿」
と、呼び奉っていたりした。
醒めれば、沈湎ちんめんと暗くなり、酔えば、眼まなこに妖気をふくんで、底も知れない泥酔に陥ちて寝てしまう。――女たちが、体に触れると、
「うるさい」と、罵ののしり、そして時々、
「……桔梗よ。……桔梗は……桔梗はいないか」
と、まなじりを濡らして呼んだりするのであった。
そうした師走しわすのある日。
例のごとく、大ざかもりとなって、将門がそろそろ爛らんたる酔いを眸に燃やしかけたときである。
「何と、わが大殿は、情にもろく、そして、女子のように、お気が小さい事よ」
と、興世王が、やや意識的に、将門へ戯たわむれた。
将門は、果たして、かっと怒った。
「おい、興世。どうして、おれが女みたいに、気が小さいというか」
「でも、いつまでも、桔梗さまの愚痴を仰っしゃいますから」
「笑え。笑わば笑え。おれは、忘れ難いのだ。……愛しい桔梗を。……そればかりか、あのような酷い目に遭わせて死なせたと思うと、泣かずにいられない」
「天下には、桔梗さまにも勝る美女は、星のごとくおりますものを」
「天上の星を何かせん。……おれはただ一輪の桔梗が恋しい。だが、踏みにじられてしまった」
「敢ない事でございます。けれど、死んだお方が甦るはずもありません。お心をふるい直して、どうか、桔梗さまに勝るお方を、天下の野辺におさがし下さい」
「それほどな女性にょしょうが世にいようか」
「あははは。おりますとも」
それは、満座の笑い声だった。将門は、はっと、われに返ったような顔をした。まが悪そうに、大杯で顔を隠した。
「――大殿」と、興世は、膝をすすめた。同時に、不死人や玄明も、左右から、つめよるように、将門に迫った。
「なお、申し上げたい儀があります」
「なんだ」
「すでに、わがお館の兵は、国庁を焼き、官倉を破り、多くの官人を撃ちました」
「たれが、あのような、乱暴をやれと、命じたか」
「騎虎の勢いというものです。誰の命でもありません。……が、すでに、常陸を侵した以上、一国を奪るも、乱賊の汚名をうけ、八州を討つも、公辺の問責をうくることは、同じものです」
「だから、どうだというのだ」
「このままでは、やがて、中央から必然に下るであろう問罪の軍を、神妙に待っているようなものではございませんか」
「おれに縄を打つなら、打たれて、都へ曳かれて行こう。そして、太政官の諸公卿の前で、ふたたび、自分のやましくない肚をぶちまけて見せるまでの事よ」
「滅相もない!」
三人は、異口同音に、反対した。
毒杯
藤原不死人は、前々から、まず興世王を手なずけ、玄明や、そのほか、目ぼしい諸将を、悉ことごとく、自分の説く所に、抱きこんでいた。
要するに、不死人の使命は、将門を立てて、天下の大乱に、突入させることにある。
その混乱に乗じて、彼がつねに気脈を通じている藤原純友が、海上から摂津せっつに上陸しようという計画である。
もちろん、彼らは、累代の摂関家と、一連の朝廷貴族に、うらみはあるが、それを以て、朝廷をどうしようという考えはない。目企もくろむところは、革命にはちがいないが、摂関政治への私怨であり、その改革であった。
ところが、将門には、そんな気もちは、毛頭もない。彼はただ郷土の平和の中で、凡々たる幸福の子でありたいだけなのである。しかし、事々に、その小なる願いも妨げられて来たのだった。――事ここに到ってもまだ彼は、恋々として、桔梗を想い、酒に悲しみ、なろう事なら、このまま、酔い死なんとさえしているふうに見える。
――かくては、と三人は眼まぜを交わして、(一国を奪るも、八州を奪るも、乱を問わるる公責は同じですぞ)
という前提を以て、将門に、こうすすめたのである。
「このさい、唯一の策は、権力を拡大することです。たとえ問罪の軍が、中央から下って来ても、われに、十万の兵も恐れぬ強大な結束があれば、どうする事もできません。かえって、公卿共の方から妥協してくることでしょう。力です、武力です。――一刻も早く、坂東八国を掌管して、善政を布き、諸民を手なずけてしまうに限ります」
「そうか。……いや、おれも、死を待っているわけにはゆかぬ」
将門は、ついに、毒杯を仰飲あおった。
ふたたび、馬上の人となって、十二月十一日、豊田の館たちを発向し、下野の国府へ攻めて行ったのが、彼として、今や公然たる叛軍の旗を挙げた第一歩だった。
――各※(二の字点、1-2-22)、龍ノ如キ馬ニ騎ノリ、士卒雲ノ如ク、コレニ従フ。
とは「将門記」の描写である。大陸的な誇張であることはいうまでもない。しかし、この頃の相馬殿の勢威は、そんな風にいっても、おかしくない程、いわば破竹はちくの勢いであったろうとは想像できる。
坂東占領の挙は、将門としては、窮余の一策であり、常陸侵入の暴挙を、それで埋め合わせようとしたものだった。けれど、死中に活路を得ようとした彼の意図は、客観的には、
(いよいよ、将門大乱を謀る)
という大旋風の序曲となってしまったことはいうまでもない。
下野の国府へ、軍勢が着くと、一戦を交じえる者もなく、勅司藤原公雅きみまさ、大中臣定行おおなかとみのさだゆきなどが、門を出て、地上に伏し、将門を再拝したといわれている。
それを見ても、相馬軍の勢威と、そして、将門のうごきが、いかに四隣を恐怖させたものかわかる。
その月十五日には、もう彼の大兵は、上野へ侵攻していた。
ここでも、ほとんど、抵抗はなかった。
介ノ藤原尚範なおのりは、国庁の印を、使いを以て、将門の陣へ送り、自分は妻子をつれて、風のように都へ逃げのぼった。
行くところ、まるで草木もなびく勢いである。そして国司は国庁の印を捧げて、彼の軍馬を迎えるのだ。その領民はいうまでもない。
彼は、だんだん八州の大将軍のような気になった。これは悪い気もちではない。しかも彼は、乱暴を働かない。一時は、逃げ惑った領民も、彼を礼拝した。
将門は、また、国司たちの都へ帰りたいと乞う者には、兵を付けて、その家族を守らせ、信濃路の境まで、いちいちこれを送らせた程である。
武蔵、相模の国司などは、
“――コノ風聞ニ依ツテ、諸国ノ長官、魚ノ如ク飛ビ、鳥ノ如ク驚キ、将門ノ軍到ラザルニ、早クモ皆、上洛シ去ル”
と古記に見えるとおり、ほとんど、八州の官衙は、空き家になってしまったらしい。
まさに、無人の境を行くようなものだったろう。こうして、坂東八国の掌握は、難なく、その年のうちに成ってしまった。
将門の部下は、威風堂々と、豊田に帰った。
そして、その凱旋と、八国掌管の祝典を、大宝郷だいほうごうの大宝八幡の社前で開いたのは、明けて、天慶三年の一月、将門が三十八歳となった新年の事である。
この日に、彼はまた、はからずも大酔のあとで、生涯の大失態を演じてしまった。
失態といえば、弱冠の帰郷以来、将門の生活は、ほとんど、次から次へ、失態の連続ばかりやって来たようなものだが、この日の失態だけは、取返しのつかないものとなった。終生、いや千年の後までも、そのために、彼としては所謂いわれのない、そして拭いようもない憎しみをこの国の人々から受けてしまうものとなった。
なぜならば、彼は、肚ぐろい一分子と、酔狂な周囲の者から、無理に、天皇にされてしまったからである。
楽土
大宝八幡の地域とか、宮前町の戸数や概況が、どんな程度の土地であったかは、今では、想像に拠るほかはない。
地理的にいえば。
真壁、結城、新治と、三郡の境にあたっている。現今の小貝川をへだてて、筑波山麓の石田ノ庄(以前、大掾国香の邸宅地)があり、またすこし東南の街道には、大串(以前、源護まもる一家)があった。
こう見てくると、この辺が、数郡の中心をなす国庁の所在地であったことが窺われる。また、かつては源護一族や、大掾国香のような豪族を始め、多くの府官の邸宅、屯倉、民家なども軒を並べていたにちがいない。そうした大部落と大部落とが、数里のあいだに接し合っていた。そして聚落じゅらくの殷盛いんせいな炊煙が朝夕に立ち昇っていたものと思われる。
こういう郷里に、国分寺時代の創建にかかる大宝八幡があるのは不自然ではない。境内も広かったであろう。大宝沼の水が、社前の木立の間から眺められ、楼門の外には、門前町の賑わいが見られ、いずこの郷さとにもあるように、ここにも酒亭や遊女が住んでいた。また、緋ひの袴はかま、白絹をまとい、髪をすべらかして、面を白く粧った怪しげな巫女みこたちも、社家や町の辻に、ちらちら姿を見せていたに相違ない。――とにかく、坂東特有な土くさい新開地的な文化と、神祭的な色彩と、そして附近の官衙に住む支配族の取りすました雰囲気とが、ごみごみと、人里の臭いと騒音を醸しあっていたものといっていい。
ここへ。
戦捷せんしょうの誇りに昂ぶりきった数千の兵馬が、こみ入って来たのである。
しかも、時は、正月でもあったし、大宝八幡を中心として、おそらく未曾有みぞうな混雑と活況が、この土地を沸きかえしたことであろう。どう分宿しても、夜営しても、収まりきれないほどだったろうし、夜は、酒や女を漁る将兵の影が、うす暗い、しかし、俄に激増した人家の灯を、あちこち覗き歩いて、夜もすがら、怪しい嬌笑や、悲鳴に似た悪ふざけや、酔っぱらいの濁だみ歌などが、寒さも知らずに沸いていたかと思われる。
大串や石田ノ庄の豪家の邸は、これまでの戦いで、ほとんど、瓦礫がれきと化し去っている。将門は、大宝八幡の社家を宿営とし、さて、新年宴会をかねた戦捷祝賀の大饗には、
「ひとつ、常総の諸氏が、あっと驚くように、盛大にやろうではないか」
と、彼らしい豪放さで、左右の者に計った。そして、彼の弟たちを始め、帷幕の興世王、玄明、不死人などの輩も、
「――新たに東とう八ヵ国を、お館の一手に、掌管し給う政令始めの祝典でもありまする。坂東八州の人民に、こくごとく[#「こくごとく」はママ]、業を休ませ、貧しき者には、あまねく施し、富みたる者には、五穀を献じさせ、万民楽土ばんみんらくどのすがたを、眼にも見せるように、未曾有の祭典を営ませましょう」
と、各※(二の字点、1-2-22)、奉行を承って、その準備にとりかかった。  
夜神楽、朝神楽
準備には、おそらく、十数日を要したにちがいない。何しろ、凱旋早々、軍旅をここに駐とめて、挙行したことでもあるから。
で。その日は、天慶三年の一月も、半旬なかばを過ぎていたのではあるまいか。
とにかく、布令は、新領下の八ヵ国に、早馬を継いで、公達された。
伝え聞いた諸郡の人々は、
「相馬殿の御威勢を以て、どんな大祭典をやるのか」
と、ここ大宝郷へ、蝟集いしゅうして、肩摩轂撃けんまこくげきの人波をその日には見せた。
大宝八幡の祭典は、三日にわたって執行された。第一日は、東八ヵ国掌管の戦捷を告げて、楽土安民を祈願し、第二日目には、新たに、各州の庁に任用された百官の礼拝と、神前の宣誓式があり、さて、三日目には、
「軍功を賞し、祝酒を給わるであろう。全軍の将兵も、弓を袋に収め、このよき新春を、寿ことほぎ合うがよい」
と、あって、早朝に、恩賞の沙汰が発表され、社前の満庭を、大宴会場として、神楽殿かぐらでんにおける奏楽と巫女たちの舞楽のうちに、万歳、万々歳を三唱して、いよいよ大饗の酒もりになったのであった。
神楽は、夜神楽、朝神楽と、三日間というもの、たえまなく奏されていたが、特に、大饗楽となると、土俗的な俚謡さとうたや、土地ところの土民舞なども、演じられて、早くも、酔狂な将兵たちが、各※(二の字点、1-2-22)扮装をこらして舞殿ぶでんにあがり、将門を始め、帷幕の諸将の喝采をあびていた。
その将門は、というと。
拝殿前の広庭に、臨時に出来た大桟敷が見える。そこには、彼の一族や諸将の顔ぶれはもちろん、新任の府官や吏生りせいなど、数百名が、群臣の礼をとって、陪席していた。
そして、彼自身は、将台と称となえる一だん高い座に、大きく坐った。そこだけは、幄舎形に、屋根や袖部屋の設けもあった。うしろは、橋廊下から社家の住居へも通えるのである。さながら、殿閣の王者みたいであった。
その上に、彼のそばには、彼の侍妾かと思われる十数名の美姫が侍はべっていた。――また、諸将諸官の席には、緋の袴の巫女やら、舞衣を着けた門前町の妓たちが、入り交じって、銚子や杯の乱れあう間に、嬌声をながしていた。  
さびしき人
「なんと、これほどな大典と盛宴は、大宝八幡はもとより、この土地開けて以来、初めてのことだろう。――いや、こう上から下まで、一堂に会したことも、諸郡の百姓が、群集した例も、かつて、坂東八ヵ国になかったことだ。めでたいではないか。じつにめでたい春だ」
興世王は、もう赤面あかづらの舞楽面ぶがくめんみたいになって、しきりに、泰平を謳歌していた。
すると、藤原玄明だの、藤原不死人だの、将門の股肱を以て任じている一連の首脳部たちも、
「めでたい。万歳」
と、何度も、杯を高く上げたりして、
「しかし、ほんとの事をいうと、これでもまだ、何だか、祝い足らんな。もっと、何か、わんわと、沸かしてもよかった」
などと、呟いた。
将頼や、将平、将文なども側にいて、
「それは、奉行役の諸公にすれば、いくら盛大に運んでも、多少、不足はあろうが、ま、これほどにゆけば」
「ところが、ちと、淋しいことがあるので」
玄明が、将門の弟たちに対して、なおいった。
「――というのは、百姓万民、また神前の式事、昼夜の神楽なども、あのとおり賑々と、箪食壺漿たんしこしょうの歓びに沸きたってはおるが、かんじんな相馬の大殿おおとの将門君ぎみが、なんと、ややもすれば、お淋しそうな、お顔つきではあるまいか。……しきりと、御酒は参られておるらしいが、自分は、それが気になってならぬ」
「あれは、兄のもちまえですよ」
と、将頼は、あっさりいった。
「――酔わねば、どこか、うつろな影があるし、酔えば酔うで、淋しげなお顔の彫ほりを濃こくしてゆく。お若いときは、ああでもなかったが、先年、陸閑岸の入江で、桔梗どのを亡くされ、ひとりの和子わこをも死なせたでしょう。……たしかに、あの頃からの変り方です。まあ、兄の癖ですな。お気にかけることはない」
「ですから、われわれ共が談合して、豊田のお館から、草笛やらそのほか、お気に入りの女性も招いておき、またなお、お目にとまる美女もあらばと思って――八州の内から選りすぐった美姫も何人か、お側に侍らせておきましたのに」
「そのためでしたか。あんなに、女性がたくさん来ていたのは」と、将頼は、兄の将門の座を振り仰いで、「折角の配慮だったが、しかしそれは無駄であろう。兄上にとっては返らぬ愚痴であっても、悟りの悪い未練と笑われても、桔梗どのでなければ、いけないのだ。たとえ、桔梗どのより美しい女性でも、桔梗どのでなくては駄目なのだ」
「そうでしょうか。はて、そんな男というものがあるだろうか」
「あっても、なくても、兄上は、そういうお人だ。だから、お酔いになると、なお、心の寂しみが、滲にじみ出てくる。その滲みをお顔から酔い消すには、まだまだよほど召上がらなければ……」
すると、さっきから、黙々と、杯をかさねていた藤原不死人が、
「やあ、はなしが、ちと理になった。第一、この辺の座がいけない。われらからして、浮かねばいかん。御舎弟方も、まじまじと、畏かしこまっておられずに、すこしお過ごしあれ、お過ごしあれ」
と、妓たちをさし招いて、杯を、改めさせた。
ここばかりではない。歓声酔語は、あちこちに沸騰している。酒気は、満堂に漲みなぎり、誰の顔にも、すぐ燃えそうな脂がてかてかし出した。羯鼓かっこを打つ、笛を吹く、鉢をたたきちらす。そろそろ、酒戦場風景である。――この頃になって、将門も、ようやく、眸の中に、虹をあらわし、
「たれか舞え、舞わぬか、陽気に」
と、わめき出した。
こんなに大陽気なのに、将門はなお、陽気に陽気にと、不足らしくいっていた。肌の悪気さむけが、強欲に布を纒まといたがるように、寂しさを打ち消すものが欲しかった。
忘れかねる桔梗の面影やら、死んだ愛児のことばかりでなく、もうひとつ、彼の心には、孤独な怯おびえが潜んでいた。
それは、およそ彼の表面の言行とは、正反対な、小心さで、人知れず、くよくよしているものだった。――後悔、反省、中央への憂い、弟共への未来の心配など、すべて、愚痴といってよい種類の凡情と、愚直ともいえるほどな、持ちまえの正直さから来るものだった。――それをかりに彼の良心とよぶならば、彼の良心は、こんな時、酒漬けにされる蝮まむしのようにもがいて、日頃よりも意地悪く、彼の胸に噛みついているのであった。
それゆえに彼は、十一月の末以来、常陸へ攻め入り、官衙穀倉を焼き払い、貞盛、為憲を追い、転じて、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、降人を容れ、軍の威容を、数十倍にもして、ここに凱旋しながらも――またこの大祝典を挙行しながらも――それを悔いる気もちのほうがしきりであった。戦っては悔い、勝っては悔い、八ヵ国の官民に、万歳を以て迎えられるや、いよいよ、人知れず、後悔の蝮まむしに、腸はらわたを噛みちらされていた。
上申文
将門は楯の両面を持っていた。一面には暴兵の首将として、八州を席巻しながら、また、一面のそうした小心さにはのべつ破れていた。そしてその正直な自己をなぐさめるべく、年の暮、この大宝郷に滞陣すると共に、一夜、大宝八幡の神殿に、ひとり燭をかかげ、寒机かんきに向って、一文を草した。
それは、真実の身分を披瀝して、中央に訴えんとする上告文であった。
むかし、十六歳の弱冠から、車舎人くるまとねりとして、都で仕えた藤原忠平を、心にたよって――摂関家への、上訴と、そして情状の酌量をも仰いだ――彼としては、一字一行も、涙なきを得ない、衷心ちゅうしんを吐露とろした文書である。
それは、かなり長文ではあり、かつ、古文の態さまを、そのままに見るのでなければ、将門の心底の声は響いて来ないであろう。――で、次に、その全文を、原文(将門記ニ拠ル)のまま載せておくことにする。しかし、煩わずらわしいと思われる読者は、その一項を省略して先へ読み進まれても、この小説への筋の関連にはたいして支障はないと思う。
将門、謹んで言まうす。
閣下の貴誨きくわいを蒙かうむるなく、星霜多く改まる。常に渇望の至り、造次ざうじも忘れず、伏して、高察を給へ。
先年、源護等が、愁訴によりて召さる。将門、官府を恐るゝがゆゑに、急に上京して、天裁を仰ぎ、事実、明白となつて、帰国をゆるされ、旧堵きうとに帰る。
すでに、旅憊りよはいいまだ止まざるに、叔父良兼、みだりに将門を攻め襲ふ。われ又、やむをえず、防禦す。
良兼が為に、人を損じ、物を掠かすめとられたる次第は、つぶさに、下総の国庁より、さきに、解文げぶみを註して、言上せり。朝家においても、隣国合勢して、良兼等を追捕すべきの官符を下さる。
然しかるに又、翻ひるがへつて、将門を罪に召すの使しを給ふ。心、甚はなはだ安からず。誠に、鬱悒うついふの至りなり。
さらに、咄々とつとつ怪事にこそ。平貞盛が、将門を召すの官符を奉じて、常陸国へ至れるをや。
右、貞盛はかつて追捕を脱し、跼蹐きよくせきして、上京せる者なり。官府において、その事由を、糺ただせらるべきに、何ぞはからん、彼が理を得るの官符を下し賜はんとは。
これ全く、彼がために、矯飾けうしよくせらるゝに依るもの。また、右少弁源相職うせうべんみなもとすけもとよりも、仰せの旨とて、書を送り来る。今般、武蔵介経基の告状によりて、将門を推問せらるべきの由なり。よつて、謹で、詔使のいたるを待つ。
然るに、常陸介維茂の息、為憲、みだりに公威をかり、冤枉ゑんわうを逞しうす。ここに将門の従兵、藤原玄明の愁訴により、その実をたゞさんと、彼の国府に赴ゆく。
為憲、明に、貞盛と協謀し、三千余の兵を発し、恣ほしいまゝに、兵庫の器仗をとり出して、戦ひを挑む。こゝにおいて将門、やむをえず、士卒を励まし、為憲等が軍を討ち伏せたり。これ、介ノ維茂が、子息為憲に、訓をしへざるの致す所なり。
将門、本意に非ずといへども、すでに是これを討伐す。罪科、軽からず、自首に及ぶところ也なり。たゞし、将門とて、柏原帝五代の孫、たとひ国庁を領するも、豈、当らずとせんや。
将門が武芸天授、たれか、将門の右に出づるものあらん。公家、さらに褒賞の典は無くして、しばしば、譴責けんせきを下さるゝこと、かへりみれば恥のみ多し。面目、いづこに施さん。推して、察し給はらば、甚だ以て幸なり。
抑そも※(二の字点、1-2-22)、将門少年の日より、名籍を太政大殿に奉ずる今に十数年、相国摂政の世に、思はざりき、かゝる匪事ひじを挙あげられんとは。
まことに、歎息の至りにたへず、将門、立身の計を思ふといへども、何ぞ旧主の貴閣を忘れんや。
天慶二年十二月
将門謹言
太政大殿少将閣賀 恩下
この上告文を持たせてやった使者は、暮のうちに立っているので、とうに都へ着いているはずである。しかし、使者もまだ帰って来ないし、摂関家の沙汰も、中央の反響も、皆目、まだ、分っていない。
将門が、怏々おうおうと、ひとり案じていたのは、その事だった。
衷情ちゅうじょうを訴えた血涙の文字だと思っているのは、彼自身の感傷が、彼自身を、悲壮にさせていたのだともいえる。
なぜならば、正直な彼にも、やはり文には、偽飾がある。すべてが、真実ではない。また、憐憫れんびんを仰ぎながら、その筆ですぐ強がりもいっている。
だが、中央の紊乱びんらんはもとよりのこと、地方の民治は、支離滅裂な時代ではあった。強い者があくまで勝ち、虚構が正直者を圧し、中央の公卿仲間に如才ない者が、ややもすると、官符を受けて、国庁の権や、土地ところの政情をも、私にうごかし得たのだ。そういう濁流の中の一文としては、まだまだ将門の文字の如きは、あわれむべき小心さと、正直者の光を、紙背にもっていたものといってよいかもしれない。
森の巫女
誰よりも、飲んでいるように見えて、じつは、誰よりも酔っていない男がいた。つねに、将門の気色や、また満座の雰囲気に、ひそかな注意を怠らずにいる藤原不死人だった。
「おい、おい、玄明。こら、玄明。おぬし、きょうの大役をひとつ、忘れておりはしないか」
「なんだ、不死人。いきなり、おれの腕くびなどをとらえて。これ、離せ」
「おれは、酔うた。……だが、おぬしはまだ、酩酊してはおるまいが」
「呂律を、はっきり申せ。何が、何だと」
「わからぬか。いや、忘れ惚けたのか、この、老いぼれは」
「老いぼれとは」
「まあ、怒り給うな。おんめでたき吉日ではないか。――なあ、興世王どの」と、不死人は、両手で両方の者に、絡からみついた。
「これは、いかん」興世王は、酒豪である。性根は、たしかだ。「――玄明どの。不死人が、くだくだ申しておるのは、それ、三名して、昨夜ひそかに仕組んでおいたあの神降かんくだりの宴遊戯うたげあそびを、なぜ早く演やらぬかと、催促しているのではないか。のう、そうだろう、不死人」
「そうだ、その事よ。何たるうつけ者ぞや、玄明は」
「や。なるほど」玄明も、そういわれて、急に、思い出した顔つきである。大仰に、頭を掻いた。
「まこと、酔いにまぎれて、うっかりしておったよ。……だが、せっかく、仕組んだ宴遊戯の筋書ではあるが、こう満座が酔いみだれてしもうては、ちと遅いな。まあ、やめておくか」
「ばかをいえ、ばかな事を。――祝宴はこれからだ。いままでは、大饗だいきょうのほんの前酒盛まえざかもりと申すもの」
「だが、おぬしも、興世王どのも、その酩酊ぶりでは」
「なんの、おれは、酔わぬ。どこに、酔うているか。さあ、演やれい。おれもおれの役割は、しゃんと、勤めるぞ」
「演やれというても、かんじんな、巫女みこの森比女もりひめが見つからぬわ。はて、どこにおるやら」
「森比女は、かしこに、人と戯れておる。それ、立ち給え、そして筋書通り、演やらせ給え」
不死人は、玄明の尻を、押し上げた。
玄明は、よろめき、よろめき、酒間を泳ぎ渡った。そして、武将たちをあいてに、杯を持って、何か、おしゃべりしていた森の巫女という女を横から拉らっして、橋廊下を大股に、社家の住居へと、渡って行った。
興世王と、不死人とは、それを見届けると、
「はははは。あはははは。連れて行ったわ、行きおったわ。どれ、それでは、こっちも、こうしてはおられぬぞ」
二人も起って、こっそり、橋廊下の彼方の建物の内へかくれた。
社家の住居は、大混雑であった。母屋も釜屋も、料理人やら饗膳の支度に立ち働く男女で足のふみ場もない有様だ。その騒ぎをよそに、さきの玄明と森の巫女も、また後から来た興世王と不死人も、小部屋にはいりこんで、神楽殿の伶人れいじんたちを呼びにやったり、巫女を集めて来たり、そして自分たちも、しきりに演技の扮装を凝らしている様子であった。
「よいか。そろそろ」
「よかろう。さきに出て、榊払さかきばらいをやり給え。それを合図に、天楽てんがくを奏し、天女の舞楽を見せ、つづいて、森の巫女が、神降りを演る段になるのだから」
「では……」と、小部屋の帳とばりを払って、玄明が、先に、橋廊下から、おごそかに、
「しいッ……。静まれ、ひそまれい」
と、警蹕けいひつの声を発しながら、酒席の中央に、立ち現われた。
玄明は、冠かんむりをかぶり、笏しゃくを、装束の襟にさし、両手に、榊を捧げている。面には、何か、白い粉や青隈あおぐまを塗り、付け髯ひげであろう、胸の辺まで、白髯を垂れていた。たれの眼にも、玄明とは、わからない。
「おや。何を演るのか」
「八幡の神職か」
「いや、ほんものの神主にしては、すこしおかしい。誰かの、酒興だろう。何か、戯ざれ事を、始めるつもりだろう」
満座の顔が、玄明の方を見た。彼は、いよいよ、しかつめらしく、何か、祝詞のりとのような事を、いい始めた。おかしいような、おかしくもないような声が、くつくつ流れる。
颯さっ、颯っ、颯っ、――と、榊が、風を鳴らした。彼の祝詞が、一だんと、声を高める。
すると、物々しい雅楽が、一せいに吹奏され出した。笙だの、ひちりきだの、笛だの、胡弓だの、竪琴だの、竪笛だの、大鼓おおつづみだのあらゆる高級な楽器が、田舎伶人のあやしげな感覚によって、交響楽を奏かなで出したものである。本来は、粛然たる趣のある雅楽のはずだが、酒興の乱痴気を沸かせるだけの目的であるから、呂りょも律りつも譜ふもあったものではない。宛えんとして、神楽調である。
ところへ、また、どたどたと、橋廊下を走り渡って来た役者がある。一方は、背に箙えびらを負い、弓をもち、左大臣の扮装をした興世王である。もう一人は、不死人で、これも、おいかけを付けた冠に、右大臣の装束をつけ、太刀を佩いて、裳もを長く曳いていた。
そして、二人は、裳と裳を、曳き合って、
「……ああら、ああら、ふしぎや、奇瑞きずいやな」
と、唱歌しながら、
「ひんがしの、空の曠野ひろのを、ながむれば――むらさきの、雲はたなびき――春野の駒か、霞むは旗か、つわものばらの、盈みち満みつところ……」
と、眼の眩まわるほど、舞い連れ、舞いつづけ、
「おお。あれは……」と、仰山に、鑽仰さんぎょうの所作しょさをよろしく演じて、「――まさしく、八幡大菩薩」と、ひれ伏した。
鈴の音が、堂を揺ゆすぶった。たくさんな鈴の音の数ほど、天女に扮した巫女が現われ、綾羅りょうらの袂や裳をひるがえしながら、大勢の頭の上へ、五色の紙蓮華を、撒き降らした。
そして、風のように、天女たちは姿をかくし去ったが、たったひとり、あとに、森の巫女だけが、立ち残っていた。それが、趣向の眼目とみえ、彼女は、高貴な神の使わし女めのような化粧と扮装をし、笏しゃくを胸にあてて、眼をとじたまま、息をしているのか否かも分らないほど、肉感のない形相をしていた。――よく神降りをやる巫女が、いちど悶絶もんぜつして、それから、うわ言のように、神のことばをしゃべり出す――あのときの凄味すごみをもった顔なのである。  
泥んこ余興
森の巫女の姿と、そしてその顔を見たものは、誰もが、酒の気をさまして、一瞬、しいんと、満堂、水を打ったような鬼気にとらわれてしまった。
迷信は、都の貴族ばかりにあった病弊ではない。未開土にはまたもっと素朴な原始教そのままの祟りとか、禁厭ものいみとか、仏罰神威などが、盲信されていた。
これは、たれかが演出させた余興である、茶番狂言にすぎないのだ――とは、満座のすべては知っていたが、森の巫女の魔芸は、そう知りぬいている人々をも、ひっそりさせてしまったのである。
彼女はまた、こういう魔芸にかけては、神しんに入るの妙技を持っていたにちがいない。かすかに、体の線や黒髪の端はしに、波のようなけいれんを描き、まったく、人々の魂魄を自分の唇元に吸いよせたと思うと、天性の美しい音声に、金鈴のような威をもたせて、やおら、こう、神の託宣たくせんを告げたものである。
「――こはこれ、われこそは、八幡大菩薩の御使にて候うぞや。朕ちんが位を、蔭子いんし将門に授く。左大臣正二位菅原朝臣すがわらのあそんの霊魂に托して表せん。それ、八幡大菩薩は、八万の軍をもって、新皇将門を、助成あらん。……須すべからく三十二相の音楽を以て、これを迎え奉れ」
どういう心理やら分らない。けれど、演技者に溶けこんで自分も一しょに演技する心理は、酔っぱらいにはよくある事である。――さっきから失神していたように平べッたく身を伏せていた左大臣、右大臣が、しいッというと、満座の酔っぱらいが、一せいに頭を下げた。将門も彼女を再拝した。――そしてその奇妙な一瞬が、すべての人間の頭脳を、風のように掠め去ったとたんに、誰ともなく、わっと、喝采のあらしを捲き起し、つづいて、
「万歳っ」
と、どなった者があったかと思うと、負けない気で、また、何者かが、
「新皇、万歳っ」と、さけび、もう次には、「わが君、万歳」と杯をもって、起ち上がる者があったり――「相馬の御子は、もともと、正しい帝血をひいておられるのだ。帝位をとなえても、何のふしぎがあろう。相馬の新皇、万歳」などと、演説する者が現われたり、いちど、毛穴から内に潜んでいた酒気が、反動的に、爆発したかたちで、その狂態と、乱酔の旋風は、いつやむとも見えない有頂天をつつんでいた。
さて、それからの悪ふざけであった。
将門の座を、高御座たかみくらに擬し、天皇の拝をまねて、叙位除目じょいじもくの奏請をやる。
興世王や、玄明などが、ちょうどよく、衣冠束帯をしていたので、これが執奏しっそうとなって、
「宣旨――」
などと、とりすまし、
「舎弟、平朝臣将頼を、下野守に叙せらる。御厨別当みくりやのべっとう経明の子多治員経かずつねを上野守に。――文屋好立ふんやのよしたつを安房守に。まった、平の将文を、相模守に任ぜられる」
などと、出放題なことをいうのが、いちいち拍手を呼び、爆笑を起し、将門までが手を打って、興じぬいている様子なので、彼らは、いよいよ図に乗っていた。
「右大臣。王城はどうする。新皇が即位されながら、王城の地も定まらないでは」
「いや、王城は、下総国、亭南の地とする。南面して、皇居を作り奉らん」
「やよ、左右の大臣。納言、参議を始め、文武百官、六弁八史の叙目は、到底、一日には任じきれぬ。したが、かんじんな内印ないいん外印げいんの玉璽ぎょくじは、鋳いてあるのか」
「たった今、八幡大菩薩の神告があったばかりだ。まだ、そこまでは手がとどかん。それに、玉璽には、古文を正し、鋳印には、寸法の故実も考えねば」
「わははは。もっともらしい事をいうわ。左大臣も、右大臣も、それらしい。したが、暦日博士には、誰がなるか」
「さあ、暦日博士は、ちょっと、見つかるまいぞ」
「何の、上総の浜から、漁夫すなどりの翁でも連れて参れば……」
将門はもう泥んこに酔いつぶれていた。乱舞の声も狂酔の歌も、遠いものにしか聞えていなかった。そこらにいる女と女たちの間に横たわって、眼じりから涙みたいなものを垂らしていた。
――ふと、醒めたのは、暁天の頃である。たれに、どこへ運ばれ、どう寝たのかも、まるで覚えはない。
「……水をくれい」
がばと、起き上がりざま、そういった。
ほの暗い燭と、帳の蔭に、黒髪を寝くたらして、幾人もの女が、木枕をならべていた。――何たる寒々しい光景だ。将門は、水を飲み終ると、ぶるっと、骨も鳴るばかりな胴ぶるいした。
「出かけよう。いや、豊田の館へ、引揚げよう。……もう、桔梗のいた奥の館も、和子の乳の香がしみていた部屋も、あとかたはなく新しい木の香になってしまったが、それでも、豊田の家に眠っていると、そこはかとなく、在りし日のことが夢にも通ってくる。――さあ、ここを立つぞ。女ども、下着を出せ。具足を出せ」
それは、独り言なのか、そこらの女たちに命じているのか、分らない口調であったし、起き抜けだというのに、ひどく腹立ちっぽい荒々しさがこもっていた。
「まだ、きのうの酔いが、宿酔わるよいとなって、よくお醒めになっていないらしい」
女たちは、畏怖いふして、ささやき合った。
侍臣を、呼び立て、将頼や将平たちにも、出立の用意を伝えさせる。
兵は、愕いた。――朝の兵糧をとれという命令はなく、すぐ、馬を立て並べろとある。
将門は、恐い顔をして、馬上になった。――頭上には、まだ、朝の月がある。
でも、ようやく、三軍が揃って、大宝八幡の社前から、蜿々えんえんと、四陣の兵が、序じょに順したがって、ゆるぎだしたときは、もう春らしい朝の陽が、大地にこぼれ出していた。
将門は、諸将の馬にかこまれて、むっそりと、苦々しい眉をひそめながら、門前町の辻を、街道の方へ、ゆらゆら、馬首を向けて行った。
道の端や、軒下に、黒々とうずくまって、彼を送迎しているかたちの土民たちは、口々に、新皇様だ、と囁きあった。いつもより恐ろしそうに、そして、上げることもゆるされない首のように、地に低く垂れたまま、じっと、馬のつま先だけを、上眼うわめで見ていた。
「……はてな?」
将門は、へんに思った。
けれど、その日の行く先々の路傍で、彼は同じような庶民を見、また、自分をさして、新皇様と、恐れ囁く声を聞いた。まるで、悪夢を見つづけているような思いである。そうした彼は、やっとわが家の門を見た日、初めて、自分のものらしい息を、ほっとついた。  
天子節刀を賜う
坂東、大乱に陥つ。
という公報が、都へとどいたのは、暮もおしつまった十二月末である。
東八ヵ国の官衙から、蜂の子のように叩き出された国司や府生たちが、やがて、命からがら、都へ逃げ上って来ては、
「いやもう、大変というも、おろかな程だ。まさかと思っていたが、やはり将門の謀叛気は噂だけではなく、ほんものだった」
といい、
「あのぶんでは、相模、遠江と、順に国庁を焼き立てて、都までを、騒乱に捲きこむかもしれぬ」
などと、恐怖的なことばを、火の粉のように、ばら撒いた。
武蔵の百済貞連を始め、諸国の介や掾も、前後して、太政官へ駈けこみ、
「いまさら、将門謀叛などと、上訴に及ぶも、事こと古ふるしです。事態は、そんなどころか、もう天下の大乱で、駿河以東には、朝廷も中央の命もあったものではありません」
と、極力、言を大にした。そして吏事りじ根性の常でもあるが、自己の無能を、天災時のような不可抗力のものに、見せようとした。
それだけでも、洛中は、不安に明け、不安に暮れた。上下、恟々きょうきょうと暮も正月もない有様だった。すると時も時、こんどは、南海の剽賊藤原純友を討伐に向っていた官軍が、大敗戦をまねき、備後介びんごのすけ藤原子高が、海賊軍の捕虜になった――という不吉な報がはいって、堂上輩どうじょうばらを、仰天させた。
「南海の賊と、坂東の大乱とは、別なものではない」
「純友と将門とは、かねてから気脈を通じ、軍を同時に挙げたものだ」
公卿百官の驚きようと、そして恐怖の声は、もう頂点という有様だった。
勅使は、奈良へゆき、叡山えいざんにむかい、また洛中洛外の山々寺々に命じて「逆賊調伏ぎゃくぞくちょうぶく」の祈祷を修せしめた。
祈祷。――じつに、祈祷以外の処置も政策もない政府だった。
時に、太政大臣の藤原忠平も、もう齢よわい六十をこえ、政務は多く子息の大納言実頼と、権中納言師輔もろすけにまかせきっている。しかし、将門問題については、この父子の意見が、一致していなかった。
「わしは、将門という人間を知っておる。愚直だが、佞奸ねいかんではない。よく、人に訴えられてばかりいるが、何かのまちがいであろう。いわんや、大それた謀叛などを企む男とは思えぬ」
これが、忠平の観ている将門であり、従来からの、彼の情勢判断の基調となっていたのである。
ところが、子息の実頼や師輔の考えは、まったく違う。
この二人は、貞盛の報告や、貞盛の訴えに、まったく同調していた。
「父君は、あまい。どこやら、もうろくしていらっしゃる」
「いや、むかし、わが家の青侍に置いたことのある将門なので……」
「うむ。人情、やはり肩を持ってやりたいのであろ」
「それもあるし、とかく、時勢にも、どこか、おうとくなられてもいるし」
そんなふうに、忠平の判断は、将門の肩持ちにすぎないもの、そして、老父が一片の私情であると、頭から決めてかかって、従来、幾たびかの対将門方針を選ぶばあいにも、「まあ、まあ」と、片づけておくだけで、これを朝議のうえでは、採らなかった。
で。――これまでの間、糺問使を派すにも、処断を下すにも、つねに、煮えきらないような中央の東国対策の裏面には、執政父子のあいだの、こういうもつれや、意見のくいちがいも、多々、原因をなしていたものにちがいない。
ところが、こんどは、捨ておけない。坂東の将門は、皇位を僭称し、みずから、いる所を、王城に擬ぎし、左右の大臣を任命したり、一夜拵ごしらえの文官武官に、勝手な除目を与えて、その勢威は、ほんとうの天子のようだという噂が、都じゅうに拡がった。
これには、忠平も、暗然として「……ば、ばかな奴だ」と洩らしたのみで、もう将門については、一言も触れる容子はない。
「純友の平定には、さらに、援兵を急派し、摂津から兵船百艘をさし向けました。……が、将門には。……やはり討伐の軍には、誰かを以て、征夷大将軍に任命しなければなりますまいな」
兄弟が、老父の意見を求めると、忠平は、そっけなくいった。
「なに、軍の編成。そのような手続きは、分りきった事であろうが」
「しかし、征ゆき人てがありませぬ。誰も、それを望んでいないらしいので」
「朝命でもか」
「いえ、まだ、綸旨りんしが下ったわけではありません。今は、人選に、迷っておるので」
「何を、ぐずぐずしておるか。廟議びょうぎに諮はかれ。廟議に」
やがて、藤原忠文ただぶみに、白羽の矢が立った。
すでに、一月に入っていたのである。忠文へたいし、征夷大将軍として、賊を平定せよとの勅命が降った。天皇おんみずから、南殿に出御され、忠文に、節刀を賜い、任命式が行われた。侍立の百官は、
「首尾よく、凱旋あれよ」
と、万歳を唱えて、それを歓送した。
副将には、藤原国幹くにもと、平清基など、東国の守や介が、任命され、そのほか筑波の羽鳥の良兼、良正の子や甥など――あの平公連たいらのきみつら、公雅といったような顔も、軍のうちに、見えていた。
秀郷出兵
征討軍が、都を発向したのは、一月二十七日であり、二月上旬には、もう大行軍の列が、東海の駅路を、東へ東へ、蜿々えんえんと、急いでいたはずである。
ところが、大将軍忠文を初め、副将国幹にも、全軍の将士にも、将門にたいして、どれ程な自信と意気があったか、甚だ疑わしい。
――というのは、都を立つ前から、かねて貞盛がいいさとしたり、また、坂東の国司たちが、逃げのぼって来ては、吹聴しちらした“将門禍まさかどか”の誇張が、余りに効きすぎていた結果、将門旋風の波長は、今や、極端な“将門恐怖”をひき起し、将兵たちは、家を立つにも、駅路うまやじの軍旅のあいだも、将門将門と、口にするたび、悪魔に憑つかれたような怯おびえを募らせていた。
いや、これはひとり、彼等の臆病風ばかりではない。西海には、純友、坂東には、将門が、暴れ出したと聞えてから、北越、信州地方にも、頻々と、騒乱の噂が立ち、現に、忠文以下の征討軍が行く道にさえ、その無政府状態が見られた。
駿河の国府は、炎々と、焼けていた。
「もう、将門の兵が、こんな方にまで、進出している? ――」と、一時は、大動揺をきたしたものだが、物見を出して、調べてみると、それは将門とはまったく無関係な富士の人穴辺に蟠踞ばんきょしている賊が、官衙や駅路の混乱につけ入って、働き出し、
「この分なら、俺たちにも、一国や二国は伐り取れるぞ」
と、急拵えの名分を唱えて、地方の叛兵と化したものであることが分った。
同国の袖ヶ崎の関や国分寺も、襲われている。
旅行者は絶え、駅路の長おさや役人も、みな逃げ去ったか、姿も影も見せない。――こんなわけなので、征夷大将軍忠文自身が、足柄あしがらノ関へかかるのさえ、容易でなかった。
後に、彼らの軍が、いったい何をしていたのかと、大いに、世論から責められたのは、こんな理由からである。
こういう状勢は、けだし、東海道だけではなかったろう。文字どおりな「天下大乱」を、天下の人心が、自ら醸かもし、自ら求めていた。夜も昼も、いたるところに、暴徒騒ぎと、掠奪りゃくだつ、焼打ちが、行われ、
「どうなるのか?」
と、善良な民をして、ただ右往左往、働く土地も、住む家も、食も失わせるような、悲しむべき日がつづいた。
「時は、来ました。これを救う者は、あなた以外にはありません。かねてのお約束を、今こそ、眼に見せてください」
下野国、田沼の郷さと、田原の館たちでは、右馬允貞盛が、年の暮から正月にかけて、さいごの決断をうながしに来ていた。
秀郷ひでさとは、なお、容易に、「うん」とは、いわなかった。老獪な彼である。完全な勝算の立つまで、腰をあげるはずがない。
――また、出兵するとしても、朝廷から任命されたわけではないから、彼としては、大きな思惑なのだ。火中の栗を拾うまいとするならば、恬然てんぜんと、傍観してもいられる位置にあったのである。
その藤太秀郷が、どう思ったか、
「貞盛どの、常陸へ帰れ。そして常陸の維茂、為憲の父子と語らい、残兵を狩りあつめて、わしの出兵を待ち給え」
と、詳細なる策をさずけた。
貞盛は、そのとき、よろこびの余り、泣いて、老獪の姿を拝したという。
そして、貞盛は、押領使秀郷が、檄げきを発して、その一族と、下野一円にわたる兵力を、田沼へ召集するのを見届けてから、
「よし、この味方を、得るからには」
と、常陸へ、舞いもどった。――けれど、さきに、将門のために国庁を焼かれた藤原維茂、為憲などは、どこへ逃げ隠れたか、捕われたか、その兵も、全く四散し尽して、消息すらわからない。その間を、東奔西走して、とにかく、短時日のあいだに、常陸勢の再編成を遂げ、下野勢の新手を加えて、将門へ当ろうと計っていた貞盛の根気のよさと苦心の程も、また、生やさしい軽薄才子のよくなしうる業ではない。陰性な理智と、舌さきで立ち廻って来た彼も、今や一生を賭けた、底力をここにふるい出している姿が見える。
貞盛の妻
将門は、大宝八幡から、豊田の新館へ帰った後、二、三日というものは、馬鹿みたいに、寝てばかりいた。
まったく、身心ともに、疲れはてたという態である。
まる三日にわたる戦捷と、新年の大饗宴にも、余りに、飲みすぎていたが、何よりは、周囲の有頂天な雰囲気に、悪酔いしたにちがいない。
天皇にされ、新皇万歳だの、王城をどこにするの、左右両大臣以下の任官式――などという悪ふざけが、まだ、彼の後頭部に、むうんと、重たく、祟っているらしい顔いろである。
「さっぱりしない。どうも、気分が冴えぬ。岩井へ移ろう」
岩井の館たちは猿島さしま郡だ。相馬から渡船わたしで一水を越える地にある。船中で酒を酌みあい、寒いが、気は晴れてきた。昼も消えぬ霜の蘆荻ろてきの白々とした上に、筑波の山を――遠くをふり返れば、富士も見えた。
「兄者人あんじゃひと。――常陸の蒜間ひるま辺に、敵方の残党が隠れて、何やら目企もくろんでいるといいますぞ」
猿島へ上がると、将平、将文の兄弟が、彼を迎えるやいな、そう告げた。
「なに、残党が、うごいていると」
将門は、このところ、ひどく神経質になっていた。誰か、麾下きかの将をやっても足りそうな事なのに、
「すぐ、陣揃いを触れろ。おれも赴く」
と、いい出した。
豊田にいるより、岩井の館で、冬日を楽しむよりも、彼の心理は、今や、馬上の曠野の方が、かえって心が休まるもののようだった。――その日に、猿島へ立ち、南常陸方面の、那珂、久慈郡などを巡遊した。
事実、残党のうごきなどは、見られなかったので、庶民の眼からは、新皇の巡遊ぐらいに、見えたのであろう。そしてその行く先々では、将門が好むと好まないに関わらず、沿道の民が、道に平伏していた。郡司や府官は、堺まで出迎え、宿舎には、砂を撒き、白木の御所を調え、ここでも新皇あつかいである。
ところへ、彼の部下が、吉田郡の蒜間ノ江で、敵の一船群を見つけた。
といっても、戦闘にかかってみると、手にあう敵兵はいくらも出て来ず、それらの者を射尽して、あとの船を調べて見ると、女子供や老女みたいな者ばかりが、苫の下から曳き出された。
しかし、その中には、源扶みなもとのたすくの妻がいたし、貞盛の妻も、潜伏していた。一夫多妻の世なので、貞盛の妻は、都にもいるはずだが、この地方にも、妻室があったとみえる。
「これは、思いがけない獲物であったわ。貞盛の行方は、とんと、知れぬが……その妻とて、正しく、仇の片われ」
と、部将の多治員経たじのまさつねや坂上時高さかのうえのときたかなどは、大いに誇って、彼女らを辱め、やがて、将門の前へ曳いて来た。
将門は、そうした敵将の女たちを見ると、どうしたのか、眼のふちを充血させ、鼻をつまらせたきり、ろくに、ものもいわなかった。――思うに、彼の愚痴な性情が、ふと、何かを思い出していたのではあるまいか。
彼の最愛の妻と、最愛の子も、かつて、陸閑岸のほとりで、同じような運命に漂い、敵兵の手にかかって、惨殺された。――はからずも、その敵の妻が、こんどは、自分の前にひきすえられている。
(桔梗よ、わが子よ、因果は、こんなものだ。お前たちだけが、悲運なのではない)
しかし彼は、眼のまえの敵将の女たちを、桔梗が受けたごとくに、また、わが子がされたように、刃を以て、なぶり殺しにする気にはなれなかった。
むしろその正反対な、憐あわれみすらわいて、つい、彼らしくもない一首の和歌をよんで、恨みの代りに、彼女らに示したと、伝えられている。その和歌は、
よそにても風の便りをわれは問ふ枝離れたる花の宿りを
貞盛の妻は、泣きぬれながら、
よそにても花の匂ひの散りくればわが身わびしとおもほへぬかも
と、返歌し、また、源扶の妻も、将門の情に、一首の和歌をよみ、共に、縄を解かれて、放たれたという、一挿話がある。
将門のような坂東男でも、多年、都に遊学し、右大臣家のみやびも真似ていた時代もあるのだから、生涯に一度や二度の彼の作歌があっても、べつだん、それだけを怪しむことはないが、しかし、この話は、たれか後世の将門びいきが作為したものではあるまいか。彼の歌も、貞盛の妻の歌も、何となく、そらぞらしい。巧拙はとにかく、そんなばあいの真情らしい余情もひびきも感じられない。
といって、将門が、彼女をゆるして放した事までを、すべて、虚伝とするのはどうであろうか。貞盛や扶の妻が、身のおきどころもなく、蘆荻のあいだを、漂泊していたなどの事は、当時の実情として、甚だ、ありそうなことだし、将門がこれを殺さなかったという郷土の伝説には、多分に、それらしい事実もあったものと思われる。
とにかく、彼は、こんな事で、むなしく一月末頃までを、空虚に暮していたのである。その間に、偽宮の造営を計ったとか、貪欲どんよくに人民の財物を集めたとか、兵馬の拡充を急いだらしい痕跡もない。うかつといえば、じつにうかつな限りだが、周囲や世上の渦が、どう彼を大野望家に仕立てようとしても、彼自身が内面に、そんな大それた企画もなければ、欲もないのだから、何とも仕方がない。おそらく、彼はなお、都へやった長文の自己弁解の上申が、忠平父子にとりあげられて――やがて朝廷から慰撫いぶの使いでも来るものと、ひそかにそんな期待でもしていたのではあるまいか。そのため、貞盛の妻や、扶の妻なども、助けてやったのではないかと思われるふしもある。
ところが、彼にむくわれて来たものは、
「貞盛に、呼応して、田沼の藤原秀郷が、下野の兵四千をひっさげて、山越えに進軍してくる」
という寝耳に水の報らせだった。  
狂風陣
「え、秀郷が。……間違いだろう? ……どうして秀郷が、この将門の敵にまわるわけがあるのか」
初め、将門は、信じなかった。
第二、第三の早馬がはいっても、疑っていた。
が、事実と、わかるや、彼は見得もなくあわて出した。秀郷の老練や、下野の武力には、脅威も抱いている。また、押領使たる彼の地位へも尊敬を払って、従来、秀郷の職能と一族の田野は侵害しないことに努めても来たのである。
それが、その秀郷が。
彼は、自分の敵と考えられる以外の人間は、すべて、味方ではなくても、善なる人間として、少なくも、万一のばあいとか、応変の危害など感じないで通して来た男である。――だから、こんな時、狼狽の色もつつまず、あわてふためいたり、極端に、こんどは、感情をあらわして、罵ったりするのを見ると、部下の眼にさえ、彼の魯鈍と、愚直さえ、はっきり見えた。頼みがいなき人物と、見えもした。
さきに、敵将の妻を放してやったことといい、この仰天ぶりを見て、その涙もろさや、人のよさに、いっそう心を彼に協あわせて、生死も共にという気を強めたのは、彼の一族中や、将士のうちでも、極く少数にかぎられていたろう。
ともあれ、急遽、対戦の策をたてた。
そして、多治員経、坂上時高らが、逆に、秀郷の本拠地に近い――阿蘇郡へむかって、進撃した。
出ばなを、叩かれた形で、下野勢の先鋒は、敗れては退き、戦っては破れ、後方へ潰走した。
員経や、時高らは、
「秀郷の手のうち見えたり」
と、気負い込んで、敵地へふかく這入はいりこみ、将門の本陣との連絡も欠いてしまったので、やがて、孤軍のすがたとなった。
秀郷は、部下に、やおら命を発した。
「さあ、これからだ。まず、目前の賊を、存分に、包囲して、一兵も余すな」
彼の、予定の作戦は、思うつぼに、はまったのである。――それからは、蓆むしろを捲くような勢いで、下総へ、攻め入った。
一方。
貞盛と、為憲は、常陸、上総から同時に起った。序戦において、秀郷の術中に陥ちたがための、将門勢敗北の声は――その他の国々のうごきにも、大きな作用を起した。
「新皇は、しょせん、本皇には敵わないものだ」
「官軍につけば、他日、恩賞もあろうが、賊兵につけば、かならず、首はあるまいぞ。九族まで、重罰に処せられようぞ」
貞盛は、声を大にして、百姓のあいだにも、こういい触れさせた。
一戦ごとに、将門は、敗退をかさね、ついに、岩井ノ館一柵が、彼の余す防塁となってしまった。
猿島の館は、自分の手で焼き払い、ここにたて籠って、さいごの一戦を――と計ったのであるが、なんと、営中の兵をかぞえれば、わずか四、五百騎しか余していない。
これが、二月一日以来、わずか十日程な間の転落ぶりであった。
そして、二月十四日の朝。
将門は、その岩井を、すこし離れ、北を背に、陣を布いた。――敵は、われより八、九倍の大軍と見て、
「待つよりは、機を計って、敵の虚を衝つけ」
と、奇襲の構えを取ったものである。
その日は、ひどい烈風だった。日光颪おろしが江の水にさえ、波濤をあげている。二月半ばの、蕭殺たる芦あしや荻おぎは、笛のような悲調を野面に翔けさせ、雲は低く、迅く、太陽の面を、のべつ、明滅させていた。
――ソノ日、暴風枝ヲ鳴ラシ、地籟チライ、塊ツチクレヲ運ビ、新皇ノ楯ハ、前ヲ払ツテ、自ラ倒レ、貞盛ガ楯モ、面メンヲ覆クツガヘシテ、飛ブ。
と「将門記」にも見える通り、いわゆるこの地方特有な空ッ風の日であった。――将門が、奇襲法をとろうとしたのは、この天候の利用を考えたものと観てよい。
申さるの刻こく(午後三時)といわれている。
将門は、その手兵、全部をあげて、敵の大軍に近接し、射戦を仕懸けた。風向きは、彼に有利であった。いかに、十倍の兵力と、弓勢をつらねても、この烈風が味方しない以上、秀郷、貞盛の連合軍も、いたずらに矢を費い、手負いや死者を、積むだけであった。
乱れ立った敵陣のさまを見て、
「かかれっ。――貞盛の首、秀郷の首、二つを、余すな」
将門自身、馬を躍らせて、敵の怒濤のなかへ没して行った。あんな、涙もろい、鈍愚な、しかも事に当っては、うろたえたりする彼が、どうして、あんなに強いのか。強いという事と、日頃の侠気や魯鈍とは、べつなものであるのだろうか。将門の兄弟も、麾下も、驚いた。いや、励まされた。
貞盛は、馬をとばして逃げまどい、秀郷勢も、右往左往、荒野の雁の群れ、その物のような影を見せ、四散するのに、逸はやかった。
まさに、乱軍の状である。
いや、坂東の土が生んだ、将門という一個の人間の終末を、吹き荒すさぶ砂塵と風との中に、葬り消すには、まことに、ふさわしい光景の天地でもあった。
将門はもう、将門という人間ではなくなっている。一個の阿修羅である。睫毛から髪の毛の先までの生命が、みな焔のごとく燃焼していた。勝ち誇った双眸である。血も血と見えない顔つきである。――せめてその前に、もう一個の貞盛という者を見たがっていただけである。荒ら駒の躍る背に、彼は、それだけを、探していた。
刹那せつな――彼の顔に、矢が立った。
「…………」
何の声もなかった。
戦い疲れた顔が、兜の重みと、矢のとまった圧力に、がくと、首の骨が折れたように、うしろへ仰向いたと――見えただけである。
馬から、どうと、地ひびきを打ってころげ落ちた体躯へ向って、たちまち、投げられた餌へ痩せ犬の群れが懸るように、わっと、真っ黒な雑兵やら将やらが、寄りたかっていた。あっけなく、天下の騒乱といい囃はやすには、余りにも、あっけなく、相馬の小次郎将門は、ここに終った。
その陣没は、天慶三年、二月十四日。時に、年歯はまだ三十八歳であった。  
将門遺事
何があっけないといって、史上では、将門の死ほど、あっけないものはない。
が、彼としては、精いっぱい、生きるだけ生き足掻あがいた事ではあった。
だが、彼が生存していては、自分の生存に都合のわるい人々が、彼を死へ急がせた。なぶり殺しにしたといってもよい程に。
この日、彼に殉じて、斬り死にした者、百九十七人というのが、後に、下野の国庁から都へ報告された数である。
彼の首が、都へついたのは、四月二十四日といわれ、遺骸は、江戸の庄芝崎村の一寺や、あちこちの有縁な地で、分骨的に葬られ、それが後世の塚や遺跡などになっている。死後には、案外、彼を慕い、彼を憐れむ者が、坂東地方には多かった証拠といえよう。
弟の御厨三郎将頼は、相模へ落ちのびる途中、追捕の手に打たれ、藤原玄明も、常陸で殺された。興世王は、上総の伊南で、射られた。
将平は、陸奥へ逃げ入ったともいわれ、将武は、甲斐の山中まで落ちながら、やはりまもなく命を終っている。しかし、それらの将門の弟たちの没命地にも、土地ところの人々の手厚い埋葬があったとみえ、みな地方地方で祠とか村社みたいな森にはなっている。

江戸の神田明神もまた、将門を祠まつったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。
初めて、将門の冤罪えんざいを解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、
「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」
と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。
旧、大蔵省玄関前には、明治頃まで、将門の首洗い池があった。また、日本橋の兜かぶと神社、鎧橋よろいばしなどの名も、みな将門の遺骸とか、遺物とかに、因ちなみのあるものと、いい伝えられている。
そのほか、将門伝説は、関東地方一円にあって、挙げきれない程である。けだし、将門の子孫とか、坂東平氏の末流とかいうものが、この地方の土壌には、草分けの家々として繁殖して来た関係によることはいうまでもない。

ここで、乱後、おかしなことは、征夷大将軍忠文の、凱旋ぶりと、論功行賞などの取沙汰である。
彼の正統な討伐軍が、坂東へ着いたときは、もう戦乱は、終っていた。それにたいし、秀郷が、どんなあいさつを以て、朝廷から節刀を受けて来た征夷大将軍をあしらったであろうか。前後の事情を想像してみても、興味ぶかいものがある。
忠文のばあいは、凱旋ともいえない帰還だった。そのせいか、都に帰っても、朝廷からは、忠文以下に、何の論功行賞もなかった。
忠文は、公卿の衆議にふんがいし、それを怨みに、憤死したなどという記事が「古事談」などに見える。
彼の憤死も、また、忠平の子息実頼が、その後、とかく多病がちになった事も、関係者の凶事は、みな、将門の祟りだといわれ出した。いや堂上ばかりでなく、一般が、将門天魔説にとり憑つかれ、悪疫が流行っても、将門の祟り、風水害があっても、将門の祟りだと、一時は、口ぐせに、怯え慄えたものだった。
しかし、純友については、余り、あとの祟りは、いわれていない。彼も、やがて西海のもくずと消え、さしも、猖獗しょうけつを逞しゅうした伊予の巣窟も、陥落してしまったが、あとの世まで、妙な陰影は残さなかった。――なぜか将門にたいするような人心の恐怖は残していない。これを見ても、将門の事件には、何かの無理があり、裏面的な事が行われ、あと味のわるいものが、世人の眼にも、うすうす、分っていたのではあるまいか。
忠文の始末は、さきにいった通りだが、押領使藤原秀郷には、将門の首が、まだ、都へも着きもしないうちに、彼への勲功叙位が、発せられている。
しかも、貞盛よりも、数等上の従四位が与えられたのだ。貞盛は、従五位下をもらった。
とにかく、神皇正統記じんのうしょうとうきなどに、「平将軍へいしやうぐん貞盛、宣旨を蒙るによつて、俵藤太秀郷の官軍を引率して、下総へ発向――」などとある記事は、総じて後の粉飾である。後世の武門武家が、系図の上で、その家祖を、秀郷としたり、貞盛とあがめたりした関係から、箔に箔をつけてゆくうち、史上の英傑のように称えられて来たものといってよい。
だから、秀郷、貞盛などは、今日まで、どんな美名をもって来たところで、それは偶像であって、ほんとの人間そのものではなかった。しかし将門は、今でも人間そのままを感ぜしめる。天慶以来、一千年。大逆人の濡れ衣ぎぬを着せられて来たが、もう彼の偽官ぎかんだの僭上説を、真にうける人はいない。やはり、さいごは、裸の彼が、残ったともいえる。裸は尊い。いや、裸以下には正味の価値は下がらない。
世に弄もてあそばれた将門とは反対に、世を弄んだ不死人のごときは、どうしたろうか。南海の賊も、討伐されたので、彼の帰る塒ねぐらはもうなかったろう。都の秩序も、いつまで、彼らの跳梁に都合のよい状態を持続してもいなかったであろうから、そのはてはおよそ知れている。世を弄ぶつもりの彼や純友一味の輩ともがらも、結局は、時代の風に、片々へんぺんの影を描いては消え去る落葉の紛々ふんぷんと、何ら異なるものではなかった。  
 

 

日本の伝説 (抜粋) / 柳田國男
神いくさ
日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山つくばさんが、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔御祖神みおやがみが国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗にいなめの祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来きたり遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。(常陸国風土記。茨城県筑波郡)
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀まつる神を、以前から浅間大神と称となえておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間せんげん様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見くもみの御嶽山みたけやまにも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛このはなさくやひめ、この山の神はその御姉の磐長媛いわながひめで、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御嫉ねたみが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。(伊豆志其他。静岡県賀茂郡岩科いわしな村雲見)
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田しもだの町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭いやで、間に天城山あまぎさんを屏風びょうぶのようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。(郷土研究一編。同県同郡下田町)
越中舟倉山ふねのくらやまの神は姉倉媛あねくらひめといって、もと能登の石動山せきどうさんの伊須流伎彦いするぎひこの奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山そまきやまの神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬しっとの争いがあったと申します。布倉山ぬのくらやまの布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山かぶとやまの加夫刀彦かぶとひこは能登媛を援けて、大きな神戦かみいくさとなったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫つぶてを打ちたもう故に、この山の麓ふもとの野には小石がないのだともいっておりました。(肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉)
これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越こうつ山との間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。(美馬みま郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村)
それよりも更に有名な一つの伝説は、野州やしゅうの日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒ふたら神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射ぶしゃ祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。(二荒山神伝。日光山名跡志等)
しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡老神おいがみの温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。(上野こうずけ志。群馬県利根郡東村老神)
それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣まいらなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込うしごめはもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土つくどの八幡だの市谷いちがやの八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。(十方庵遊歴雑記)
奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良ゆらという所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。(東遊雑記その他)
信州松本の深志ふかしの天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真すがわらのみちざねであり、島内村の氏神武たけの宮は、その競争者の藤原時平ときひらを祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。(郷土研究二編。長野県東筑摩ひがしちくま郡島内村)
時平を神に祀ったというお社は、また下野しもつけの古江ふるえ村にもありました。これも隣りの黒袴くろばかまという村に、菅公かんこうを祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖ふすま屏風びょうぶの絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。(安蘇あそ史。栃木県安蘇郡犬伏いぬぶし町黒袴)
下総の酒々井しすい大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。(津村氏譚海たんかい。千葉県印旛いんば郡酒々井町)
丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷しへいやしきがあり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像えぞうをもって来る者があると、必ず旋風つむじかぜが起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。(広益俗説弁遺篇。兵庫県多紀たき郡城北村)
何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。(遠碧軒記。鳥取県岩美郡)
しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見ふしみの稲荷いなりは、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊が雷らいになって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。(渓嵐拾葉集。載恩記等)
或あるいはまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様こんぴらさまと、蠣殻町かきがらちょうの水天宮すいてんぐう様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、独ひとりで繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬くらまの毘沙門様びしゃもんさまへ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにも拘かかわらず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。(都名所図会拾遺。日次ひなみ記事)
どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山かなさやまに登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城ろうじょうしていた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。(楓軒雑記。茨城県久慈くじ郡金砂村)
東京では神田かんだ明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門たいらのまさかどの霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷たわらとうたひでさとの後裔こうえいだからというのであります。下総成田しもうさなりたの不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木かしわぎという村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神鎧よろい大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。(共古日録。東京府豊多摩とよたま郡淀橋町柏木)
信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連もののべのもりやのむらじの子孫であって、善光寺の御本尊を難波なにわ堀江に流し捨てさせた発頭人ほっとうにんだからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。(松屋筆記五十。長野県長野市)
天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰とうのみねという山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足ふじわらのかまたりを祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿そがのいるかが祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。(即事考。奈良県吉野郡高見村)
この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後うごの飛島とびしま、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑けいべつしなかったのであります。日向ひゅうがの飯野郷というところでは、高さ五尋ひろほどの岩が野原の真中にあって、それを立石たていし権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山くるそざんの絶頂に、卒都婆そとば石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。(三国名所図会。宮崎県西諸県もろかた郡飯野村原田)
肥後の山鹿やまがでは下宮の彦嶽ひこだけ権現の山と、蒲生がもうの不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子ままこで母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原くばらという村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。揺ゆるぎ嶽だけという岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕あとだといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。(肥後国志等。熊本県鹿本かもと郡三玉村) 
 

 

本朝変態葬礼史 / 中山太郎
屍体投棄から屍体保存へ
我国で古く屍体を始末することはハフル(葬)と云うていたが、この語ことばには、二つの意味が含まれていた。即ち第一は投はふるの意(投げ棄てる事)で第二は屠ほふるの意(截り断つ事)である。しかして時間的に言えば投はふるが先で屠ほふるが後なのである。
須佐之男命が古代の民族の為めに、まきの木を以て奥津おきつ棄戸すたへに将臥もちふさむ具そなへ――即ち棺箱を造ることを誨おしえたとあるが、それが事実であるか否かは容易に判然せぬ。それと同時に奥津は沖津の意であるから、古代には水葬のみで土葬はなかったと云う説もあるが、これは置おきつと解するのが正当ゆえ賛成されぬ。さらに棄戸すたへとは死人を厭い、死者があると住宅を棄てて他に移ったので、かく言うたのであると説く学者もあるが、これもただ棄て去ると云うほどの意味に解すべきだと考えるので、にわかに首肯することが出来ぬのである。全体我国にも古代においては、屍骸を保存せずに投棄した習俗のあったことは、葬儀をハフルと称した点からも推察されるのである。遊牧期にある民族としては、こうした習俗は当然のことであって、実際を言うと水草を趁おうて転々した時代においては、屍体のことなどに屈托しては居られなかったに相違ない。これに加うるに宗教意識は低劣であり、祖先崇拝の道徳も発生せなかったのであるから、屍体の始末は極めて簡単に取片付けられたものと見て差支さしつかえあるまい。換言すれば霊肉を一元視した原始時代にあっては、屍体は野か山かまたは池か河かに投棄して顧なかったのであろう。出雲の大社の国造神主が死ぬと、直ちに死骸を赤めの牛の背に縛りつけ、菱根ひしねの池へ沈める葬法は、かなり後世まで行われていたようであるが、これなどは或いは原始期の屍体投棄の習俗を残したものとも考えられるのである。それが農耕期に入り住所が固定し、邑落ゆうらくとして社会的生活を営むようになって来ると、宗教意識も発達し祖先崇拝の道徳も称導され、さらに肉体は腐朽するも霊魂は存在すると云う、即ち霊肉を二元的に観るようになって、ここに始めて屍体を保存する必要が起り、従ってこれに伴う種々なる葬法が発明されるに至ったのである。復言すればこの時代の民族は、屍体(もし屍体が水死または焼死等でないときは、死者の着ていた衣服または生前使用した器具)を保存して置けば、その霊魂は何時までもそこへ帰って来るものだと信じていたのである。それとともに死者は霊魂となって夜見ノ国(我国では霊魂は地下へ往くものだと信じたのが古く、天上に昇ると考えたのはその後である)へ赴き、ここで生ける時と同じような生活を営むものだと信じたのである。石廓や石棺を用いる厚葬が工夫され、使用の器具が副葬されたのもみなこれが為めである。
そしてこうした観念のもとに出発した我国の葬儀にあっても、その時代の信仰により、またはその地方の習俗により、多種多様なる変態的葬礼が発生するに至った。限られた紙幅とてその委曲を尽くすことは思いも寄らぬが、重なるものについて記述する。
殉死の発生と殺老及び棄老
殉死のさかんに行われた時代にあっては、それは必ずしも変態の葬礼とは言えぬけれども、それかと言うて常態とも想われぬので略述する。魏志の倭人伝によると女酋卑弥呼が死んだ折に、奴婢百余人を殉葬したとあるが、この女酋は我国の文献には載せてないのでしばらく措き、殉死の我が記録に見えた初めは垂仁紀の左の記事である。
二十八年冬十月、天皇の母弟倭彦命やまとひこのみこと薨みうせぬ。十一月倭彦命を身挟桃花坂むさのつきさかに葬る。こゝに近習の者を集へて、悉に生きながらにして陵域に埋め立つ。数日死なず、昼夜泣いざち吟によぶ。遂に死して爛※くちくさ[#「自/死」、U+81F0、175-5]りぬ。犬烏聚あつまりはむ。天皇此の泣いざち吟によぶ声を聞きて、心に悲傷いたみ有ます。群卿に詔みことのりして曰く、それ生くるときに愛めぐみし所を以て亡者なきひとに殉したがはしむ。これ甚だ傷いたきわざなり。それ古風といへども良からずば何ぞ従はむ。今より以後、謀りて殉したがはしむることを止めよ。
その後三十二年秋八月に、皇后日葉酢媛命ひはすひめのみことが薨去せられた折に、またも殉死のことが問題となり、詮議の結果として野見宿禰のみのすくねに命じて埴輪土偶を作らせ、これを陵域に立てて殉死の男女に代えることとした。しかしながら我国の殉死は、これに由って根絶したものではない。時代の好尚と死者の身分とにより、多少の相違は在ったけれども、はるかに後世まで習俗として行われたものである。播磨風土記の飾磨しかま郡貽和いわノ里の条に、雄略朝に尾治連の祖先である長日子ながひこと、その善婢と愛馬との墓が三つ並んでいるが、これは長日子の死に妾と馬とを殉葬したものである。さらに孝徳紀の大化二年の条には、『人死亡みまかる時に、若くは経わなきて自ら殉したがひ、或は絞きて殉はしめ、及び強あながちに亡ゆきし人の馬を殉へるが如き旧俗は、皆悉く断とどめよ』とあるのは、まだこの時代に殉死がさかんに行われ、或いは自発的にまたは強制的に、この蛮習の存したことが窺われる。殊に注意すべき点は死者の愛馬を殉葬したことであって、前掲の播磨風土記の如き陋俗までが、なお依然として行われていたことである。今に神社へ絵馬を納める源流は、即ちこれに出発しているのである。そして令集解の古註によると、信濃国では夫が死ぬと妻を殉死させたと載せてあるのを、粗忽の者は姥捨山の派生伝説位に考えているようであるが、これは決して左様なものではなく、古く我が全国に渉って行われた殉死の弊風が、たまたま同国に残存したものと見るべきである。妾と馬とは殆ど世界を通じて殉死の先駆者であるが、これに次いでは妻であった。しかも古代には老人を冷遇する習俗が濃く、殺老は左迄さまでに珍らしい事ではなかった。そしてこの老人を殺すことが、食人の嗜好から出たものか、それとも食料の欠乏に由ることかは異説があるも、我国においても殺老から棄老となり、さらに隠居と云う制度を生むようになったことは、しばしば疑いのない事実と見て差支えないようである。こうした情態に置かれた社会にあっては、幾度か殉死を禁ずる法令が発せられても、なおこれを払拭することが出来なかったのである。そして武家階級が起るようになり、主従道徳が強調さるるに随い、俗に『追い腹』と称してこれを行うた。時勢の降くだった徳川期にあっても、将軍とか大名とかが死ぬと、家臣は主従三世の武士道を重んじ、三人または五人の殉死者のあるのが尋常とされていた。三重県津の城主であった藤堂高虎が死んだ折に、十八名の家臣が追い腹を切り、その墳墓が主人の塋けい域を囲んで並んでいるのを見ると、誰か民俗の永遠性を想わぬ者はなかろうとさえ考えるのである。
屈葬と支解分葬の習俗
古代には屍体を埋めるときは、概して屈葬と称して首から脚へかけ縄を以て強く縛るのが習俗となっていた。そしてこの葬法は近年まで残っていた。石川県羽咋はくい郡富永村では、死者を納棺する際に藁縄、或いは白布を以て屍体を緊縛した。これを極楽縄と称し老人は自分で拵こしらえて置いたとある。老先の短い年寄達が、やがては自分が屍体となって縛られて往く縄を、用意する心持を察しると何とも言われぬ淋しさを感じるのである。沖縄でも屍体を蒲葵くばの縄で縛り埋めたが、硬直せる屍体の膝を折ることなどもあって、実に惨たらしいものであったと聴いている。
それでは何が故にこうした惨酷なる処置を屍体に加えたかと云うに、これにはまた段々と説明すべき理由が在って存したのである。古代人が死霊を恐れたことは、現代人が想像するよりは幾十倍の強烈さであった。眼に見える猛獣や毒蛇の害なれば、何とかして防ぐことも出来たであろうが、眼にも見えず手にも取れぬ死霊――殊にそれが変死を遂げた者の凶霊にあっては、迷信が深かっただけに、さらに思索が進まなかっただけに、これが依憑なり襲来なりを防ぐことが出来なかったのである。加うるにこの時代にあっては悪疫の流行も思わぬ怪我も、この死霊や凶霊の為す仕業と考えていたのであるから、その死霊の発散して疎び荒ぶることを恐れて、かくは屍体を緊縛するようになったのである。我国で古く鎮花祭はなしずめまつりと云うのを、桜の花の散る頃に行うたのは、あたかもこの時分に死霊や疫霊が発散するので、それを防ぐための祈祷に外ならぬのである。
こうした民族心理は、変死を遂げた者、または叛臣や逆徒等の兇暴性を帯びた者の屍体を埋葬するに、さらに一段の惨酷を加えたことは、当然の帰結であった。そしてその方法は変死者なれば屍体を逆さかさにして、橋の袂か四ツ辻に埋めたものである。これはこうした場所ならばたえず人馬の往来があるので、死霊が発散せぬよう踏み固めると信じたからである。沖縄県では近年まで変死者をこうして取扱ったもので、内地の各地に逆さかさに歩く幽霊が出ると云う話のあるのも、また辻祭や辻占と称して四ツ辻が俗信と深い関係を有しているのはこれが為めである。宇治の橋姫の怪談などもこの習俗の伝説化されたものである。それから兇暴者の屍体は、これを幾つかに裁断して各所に分葬することとなっていた。崇峻紀に物部守屋の資人けらいである捕鳥部万ととりべのよろずが官軍に抗し、自ら頸を刺して敗死したが、朝廷ではその屍体を八段に斬り、八ヶ国に散梟さんきょうしたと載せている。平将門もまたこれと同じように支解分葬されたことは、彼の首を祀り、胴を祀り、手や脚を祀ったと云う神社が、各地に在る所からも推知される。さらに京都府北桑田郡神吉村の八幡社は、康平の昔に源義家が安倍貞任を誅し、その屍骸を埋めるに神占を行い、四ツに截って四ヶ所に葬ったが、それでもなお死霊が祟りをするので、鎮霊のため宇佐から八幡社を勧請したと伝えられている。この屍体を截断することが即ちハフルであつて、しかもこの役目は神主が勤めたので、古く神主を祝はふりと呼んだのである。そして屈葬も逆葬も支解分葬もともに変態であって、それが死霊を恐れた古代民族の俗信に由来することは言うまでもない。
先住民族が残した変態葬儀
関東地方から東北地方へかけて、死人があるとその者の着ていた衣服を日陰へ竿で吊し、四十九日の間は昼夜とも水の乾かぬように間断なく水を懸ける。俗にこれを『七日晒し』と云うている。それから和歌山県海草郡有功いさお村大字六十谷むそたに及び同県那賀郡山崎村大字原では、昔から僧行基が誨おしえたと云う、『圧ふせ三昧』と称する葬法を用いている。その葬法は屍体を入れた棺を上半部は地上に露し、下半部だけを地中に埋めるのである。同地は山間にある村落であって、屍体は土深く埋めても猛獣のために発掘され喰い散らされるのであるが、僧行基が圧ふせ三昧の呪法を修してから、この被害がなくなったと伝えている。
この二つの習俗は、余り他に見聞せぬことであって、その源流がどこにあるか、久しく見当が附かなかったのであるが、漸ようやくにしてそれが先住民族であるアイヌの残したものであると考えついた。まずこれが典拠を挙げ後で管見を加える。近藤正斎の辺要分解図考巻三に左の記事がある。
カラフト夷人アイヌ(中略)の葬礼は、夷人アイヌ初めて死するときは、刃物を以て死者の肛門を抉り、その穴より臓腑を抜き出し、骸骨の中うち少しも汚穢なきやうに浄潔に洗ひ滌そそぎ、布を以て拭ひ乾し腐らざるやうにす。若もし腐ることあるときは、その臓腑を去ること不念なりとて、その者より夷俗の償ひを取ることなり。此の死者の臓腑を拭きとる者は平生予め言かはせ置きて、その人は極りあることなり。さて屍を干し乾して凡そ三十日ほど擱をき、その間に親族集りて木を伐り棺を制するなり。(中略)奥地タライカヲリカ辺にては屍骸を三年の間乾し曝し置くなり。その棺を山へ舁かきあげ半なかばは土中へ埋め半は上より出す。棺の上には内地の神祠の勝男木かつおぎの如きものを上げ置くなり云々。
さらに蝦夷風俗彙纂に由ると、この屍体を乾すために、一名の婦人が附き添い絶えず水を懸けると云うことである。そしてこれらの記事を読んで、前に載せた七日晒しや圧三昧の習俗を稽かんがえて見ると、ともにアイヌの残したものが簡略化されたことが知られるのである。しかるにこうした事は他にも類例がある。
福島県平町附近の村々では、昔は妊婦が難産のために死ぬと、妊婦の腹を割き胎児を引き出して妊婦に抱かせ(愛媛県では妊婦と胎児とを背中合せにした)それを一つ棺に入れて葬ったものである。そしてこの惨むごたらしい習俗はアイヌのウフイが残存したものである。アイヌでは難産で死ぬと墓地において、老婆が鎌を以て妊婦の腹を切開して葬ることが、アイヌの足跡と云う書に詳記してある。福島県のそれと全く同じものである。なお同県の安達ヶ原の故事として、老婆が妊婦の腹から胎児を取り出して食うと云うのも、要するにこの習俗が伝説化されたものである。
水葬と風葬と空葬の三つ
葬法と云えば、土葬、火葬、水葬、風葬、空葬の五種であるが、我国でも古くはこの五種が行われ、その中で土葬、火葬、水葬の三種を常態とし、他の風葬と空葬との二種を変態とした。しかしながら現代の好尚から云うと、水葬を常態としたとは合点の往かぬことであるが、これは時代に伴う葬儀観の変化であって、昔は水葬が土葬や火葬よりも多く行われていたのである。万葉集に『沖つ国知らさむ君が染しめ棺やかた、黄染きじめの棺神の海門と渡る』とあるのは、黄に染めた柩が浪のままに流れて往く水葬の光景を詠じたものである。和歌山県の熊野浦では昔は死人があると菰に包み、『今度は鯛になって御座らッしやい』と言いながら海中へ投じたとのことである。これは鯛が熊野神の供御ぐごとなるからだと云われている。棺を船型に造り、入棺を船入ふないりと称え、それを置く場所を浜床はまゆかと云うことから推して、大昔は水葬ばかり行われていたものだと説く学者もあるが、これは決して左様に解すべきものではなく古く我国には鳥船信仰と云うがあり、霊魂は鳥の形した船に乗って天に昇るものと考えていたので、後までも棺を船型に造るようになったのである。水葬とともに他の土葬も火葬も並び行われたことは勿論である。ただ補陀洛渡海ふだらくとかいと称する、自分が生きながら水葬するものについては、後で詳しく述べるとする。
風葬は一に大蔵だいぞうとも云い、屍体を焼きそれを粉末となし、風のままに吹き飛ばしてしまう葬法である。養老の喪葬令に、三位以上及び別祖、氏宗うじのかみの外は墓を造ることを得ず、また墓を造る資格ある者でも、大蔵を慾する者は聴ゆるせと規定してある。しかしてこの大蔵とは大天地の間に蔵すと云う意味で、その方法は風葬と同一である。我国では畏くも淳和上皇が遺詔して、御骨を砕いて粉となし、これを山中に散ずるよう命じ給うた。この時に中納言藤原吉野が『昔、宇治の稚彦わかひこ皇子が遺教して、自ら骨を散ぜしめ、後世これに傚う者があるも、これは皇子の事であって、帝王の迹あとにあらず、我国上古より山陵を起さざるは、未だ聞かざる所である』と諫諍を試みたが、遂に容れられずして上皇の遺勅の如く、大原野西山の嶺上にて散らし奉ったとある。しかしながら藤原吉野の言った、宇治稚彦皇子が風葬を行われたことは古史に見えぬ。これは当時の伝説であろうけれども、喪葬令に大蔵を聴せとある点から推すと、奈良朝以後には相当に行われたものと見て差支えあるまい。
空葬はまたの名を樹葬と云い、霊柩を高く樹上に吊し行うものである。京都市外の嵯峨の清涼寺に近い八宗論池の側に、棺掛桜かんかけさくらと云うのがある。伝説によると平安朝の貴族が遺言してこの樹に棺を掛け腐骨したので、かく云うのだと称している。福島県耶麻やま郡熱塩あつしお村に五峰山慈眼寺と云うがある。僧空海の開基したと伝える巨刹で、境内に人掛松ひとかけまつとて大木がある。昔は天狗が人を攫さらって来ては掛けたので、この名があると云うているが、恐らく空葬の習俗が泯ほろびた後に天狗に附会したものであろう。薩南の奄美大島には各村に男子の入る事を禁じている場所があるが、これは巫女のろくめを葬る墓地であって、昔は巫女のろくめが死ぬとその屍体を柩に納めて樹の上へ掛け、三年間を風雨に晒さらした後に石で造った墓に収めたと云うことである。奄美大島から沖縄諸島にかけては、今に洗骨と称する変態の葬礼が存しているが、これに関しては後に述べるとする。そして朝鮮にはこの空葬が現今でも残っていて、疱瘡と痲疹はしかで死んだ子供は空葬にせぬと他に伝染するとて、迷信的にこれを行うている。
自分で水葬する補陀洛渡海
天平宝字五年に作られた法隆寺流記るき資財帳を見るに、補陀洛山浄土画像一鋪と載せてあるから、補陀洛信仰は古く奈良朝から在ったことが知られる。しかるに平安朝の中頃から鎌倉期の初葉にかけ、補陀洛山に居る生身の観音菩薩を拝すると称して、志願ある者は小舟に打乗り海に出で、浪のままに流れ漂うて往生する事がさかんに行なわれた。発心集に一条院の御時の事とて、賀東聖かとうひじりと云う者が『補陀洛のせんこそ此の世の中のうちにて、此の身ながら詣もうでぬべき所なれ』とて、土佐国から解纜したことが載せてある。藤原頼長の日記である台記の康治元年八月十八日の条に、権僧正覚宗の談として、同人が少年のとき紀州那智に籠って修行していたが、その頃一人の僧があって現身に補陀洛山に祈参するとて、小さい船の上に千手観音の像を造り立て手にかじを持たせ、祈請三年に及び北風を得て出発したとある。
由来、紀州の熊野は死に関係の深い所で、地名の起りも隠り野――即ち墓所の転訛であろうとまで云われている。殊に我国の冥府の神である伊弉冊尊がこの地に祀られてから、一段とその関係が深くなった。屋島の戦場から脱れた平維盛が、二十七歳の壮齢を以て熊野から入水したのも、また補陀洛渡海の信仰が含まれていたのである。源平盛衰記に『三位入道船に移り乗り、遥かの沖に漕ぎ出で給ひぬ。思ひ切りたる道なれど、今を限りの浪の上、さこそ心細かりけめ、三月やよいの末の事なれば春も既に暮れぬ。海上遥かに霞こめ浦路の山も幽かすかなり。沖の釣船の沈の底に浮き沈むを見給ふにも、我身の上とぞ思はれける。(中略)念仏高く唱へて、光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨と誦し給ひつゝ海にこそ入り給ひける』とあるのは、熊野で死ねば浄土に往かれると云う信仰が在ったためである。こうした信仰は長く同地を補陀洛渡海の解纜かいらん地としたのである。
鎌倉幕府の記録である吾妻鏡天福元年五月二十七日の条には、聴くも憐あわれな補陀洛渡海の事件が載せてある。それは同年三月七日の事であったが、熊野の那智浦に居た智定房と云う者が補陀洛渡海をした。この智定房とは誰あろう右大将頼朝の近臣河辺六郎行秀の成れの果てである。頼朝が下野の那須野ヶ原で狩猟かりくらをした折に、林の中から大鹿が一頭飛び出したのを頼朝が見つけ、六郎行秀を召して射て取れと命じた。武門の誉れと行秀は矢頃を計って鹿を射たが、天か時か、それとも行秀の業が拙なかったのか遂に射損じ、その鹿は小山四郎朝政の斃たおすところとなってしまつた。面目を失った行秀は狩場において薙髪ていはつし逐電して熊野に入り、ここで日夜とも法華経を読誦して、せめてもの後生を念じていたが遂にこの企てに及んだのである。智定房の乗った船は小さいもので、しかも乗るとともに外から戸を釘で打ち付けさせて日光の見えぬようにし、僅かに一穂の孤灯を挑かかげ、三十日分の食物を用意しただけであつたと云う。この知らせを受けた鎌倉中の武士は智定房の胸裏を察して悲嘆したとある。古歌の『執れば憂し執らねば物の数ならず、棄つべきものは弓矢なりけり』の心が偲ばれて憐あわれを誘う物語である。
補陀洛渡海はこの外にもたくさんの事例が存しているも省略に従うとするが、これにはこの当時の信仰から導かれて、自ら入水して仏果を得ようとした『捨身往生』なるものが、一般に流行したことを参考せねばならぬ。秋広王記あきひろおうきに安元二年八月十五日に桂川(京都)の投身者十四人、十六日十二人、十七日二十八人、以上五十四人、古今未だこの事を聞かずとある。沙石集に入水往生した僧のことを載せている。こうした流行が補陀洛渡海をさかんならしめたことは言うまでもあるまい。なおこの頃に火定かじょう(自ら火を放って焼死すること)または禅定ぜんじょう(生きながら土中に埋り死ぬこと)なども行われているが、これは習俗ではなくして限られた人達の信仰ゆえ、ここにはわざと除筆することとした。
沖縄諸島の葬礼と洗骨の習俗
沖縄は本島を始め各島々まで、古代の習俗を克明に保存しているだけあって、葬礼についても各島々に限られた習俗が沢山に残っている。ここにその総てを記すことは能なし得ぬところであるが、各島々に渉り特に変態と思うものだけを摘録する。
沖縄諸島で古く屍体を林野に投棄したことは、内地のそれと全く同じであるが、この場合に遺族や親友は、その屍体を訪れて俗に『別れ遊び』と云うことをした。もちろん、この事は古く内地にも行われた資料は残っているが、習俗としてははやく泯ほろびてしまい、わずかに沖縄諸島に保存されたのである。この事につき同地出身の伊波普猷氏は左の如く記している。
二十余年前、沖縄島の中部の東海岸を、少し沖に離れた津堅島つけんしまで、暫らく教員をしていた知人が、彼が赴任する十数年前までは、同島で風葬が行われていたと云うことを、私に話したことがあった。其処そこでは人が死ぬと、蓆で包んで、後世山ごしょうやまと証する籔の中に放ほうったが、その家族や親戚朋友たちは、屍しかばねが腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後世山に訪れて、死人の顔を覘いて帰るのであつた。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴や楽器を携えて、之これを訪れ、一人々々死人の顔を覘いた後で、思う存分に踊り狂つて、その霊を慰めたものである。私も数年前この小島に講演しに行った序ついでに、所謂、後世山のあとを見たが、島の西北部の海岸に沿うた藪で、昼だに薄暗い所であった。其処そこでは風葬の関係上、古来、犬を飼わなかった云々。(民族二ノ五)
こうした原始的の葬法から幾多の変遷を経た後に、一度ひとたび、土中に埋めた屍体を三年目(これは原則であって例外のある事は言うまでもない、それについては後に述べる)に掘り出し、水に酒を和して叮嚀に洗骨して別に造ってある石室せきしつの墓に収める習俗を生むようになったのである。しかしながら沖縄の洗骨なるものが、内地の遺風か支那の影響か、それとも同島の固有のものか判然せぬが、恐らく南支那から輸入したものと思われる。そして洗骨に関しては石垣島測候所長の岩崎卓爾氏から、かつて左の如きお話を承わったことがある。
沖縄の各島では三年毎に洗骨をするが、この現場だけは他国人には絶対に見せぬ。私は島に二十余年も居るので、数年前に村民に嘆願するようにして漸ようやく見せてもらつた。しかしその時の条件として、第一は現場を写真に撮らぬこと、第二は現場の始末を口外せぬことであつた。私は村の人達に伴われて現場に臨んだが、最も驚いたことは洗骨する者が悉く女性であったのと、その始末が想像以上に惨酷であつた点である。沖縄では古俗として一人の遺骸より外には墓地に置かぬと云う迷信があるので、後の人が死ぬと前の人のが三年を経過せずとも洗骨するのであつて、私が見たのは死後約半歳しか経ぬ男子の屍体であったのを、三名の婦人が手に庖丁様の刃物を持って、片ッ端から腐肉を殺そいで骨とし、それを水五升に酒一合ほど入れたもので洗うのであるが、それは全く地獄の活図を見るようであつた。数年後の今日でもその時の事を憶い出すと、一種言うべからざる異臭が鼻を突くのを覚える。ただ茲に注意すべきことは、洗骨を境として寡婦の心理状態が一変して、それより稍々やや放縦に流れる傾きがある云々。
屈葬した石器時代の人骨(備中津雲貝塚)
沖縄の髑髏塚
朝鮮の空葬風景
唐人島首長の墓
沖縄にはまだこの外にも変態の葬儀や墓地と見るべきものが多く残っている。洞窟内に屍体を置き、それが腐つた髑髏塚も各地に在った。さらに墓地を大金を投じて築造し、これを抵当にして金を借ると云う、同島独特の習俗もあるが、今は長文になるのを恐れて省略する。
辺土に残っている不思議な葬礼
弔とむらいと云う字は、大昔に人が弓を携えて葬儀に列したので、それを象形したのであると聞いている。勿論、これは文字の製造元である支那の故事であるが、我国でも葬礼に弓を用いる習俗は各地にある。栃木県河内郡豊郷とよさと村では会葬者は弓を持つと云うし、宮崎県の米良山めらやまの山村でも同じく弓を持つと物の本に載せてある。しかしこの習俗が支那からの伝来か否かは判然せぬと同時に、何のために持つかも分明せぬ。しかるに高知県長岡郡豊永郷の葬儀は、その方法がすこぶる異態であって、かつ弓を用いる作法も詳しく知れるので、少し長文になるが、左にその要点だけを摘録する。
豊永郷にては死人あれば、身近き者死人の枕を蹴外し少しく寝所を移すなり。墓を定むるには彼かの蹴外したる枕を持ち行きて、爰ここぞと思う所に彼かの枕を据え置き、『地神様より六尺四面買取り申す』とて、銭四文を四方へ投げて定むるなり。これ地神を汚さぬ為めなりと云う。遺骸を棺に納むるとき身近き者死人に向い、『普請をするぞよ、相普請あいぶしんではないぞよ』と言いかくるなり。これを言わざれば其の年は家作りは元より、葺替え造作田地開発などの類些いささかならずとせり。また棺を出すには必ず家の戸尻とじりより出し、棺の後に霊供持れいぐもちとて握り飯を持ち行く者と、水持みずもちとて水を持ち行く者あり、共に身近き婦人の役なり。亦また弓持ゆみもちとて竹の弓矢を携えて附添え行く者あり。墓地に至り棺を埋むるとき、彼かの弓持、棺を覆い来たりし着物を弓の先に掛けて取り退け、穴の内に納め大石を其の上に直す。それより杖笠を置くことなどは常の如し。彼かの枕をも上に据え置くなり。此の時水を手向なり。さて埋葬のまだ終らざるうち、彼かの弓持一番に立帰り、家に至り大音にて、『宿借り申そう』と云えば、留守居の者が内より、『三日あとに人質に取られて、宿貸すことは出来申さぬ』と答うれば、又弓持、『然らば艮鬼門うしとらきもんの方へ、世直り中直りの弓を引く』と言いつつ矢を番い、家の棟を射越し弓を踏み折りて投げ越すなり。然して墓所はかしょに行きたる者追々に立帰り、予て設け置きたるタマセと云うものを跨またぎ、箕の先より米を取り食い、門口の柱を廻りて内に入るなり。(土佐群書類従豊永郷葬事略記)
この記事は明治三年に認したためられたものであるが、かなり古風な葬儀と異態な作法を伝えている。六十年後の今日において、この中うちのどれだけが残っているか知らぬが、余り他国に類例がないので資料としても珍重すべきものである。
葬儀の泣女と屍体を隠す葬礼
我国には葬式の折に泣女なきおんなを用いたことは神代じんだいからある。天稚彦あめのわかひこを葬るときに雉を泣女なきめとしたことは有名なものである。そしてこの習俗は時代とともに段々と泯ほろび少くなったが、それでも各地に渉わたって古い面影を残している。和歌山県の熊野、伊豆の大島、愛知県の村々、沖縄の各島々にあったことは誰でも知っているが、私の手許てもとにあるものは如何なる訳か北越地方が多い。そしてこの地方は前記の地方とは異りかつかつながらも今も行われているのである。石川県江沼郡橋立村では死者に最も親等の近い婦人が、白帷子しろかたびらを被つて号泣しつつ葬列に従うがこれを帷子被りと云うている。旧時は種々の繰言を云って慟哭したものだが、漸ようやく廃れて今は稀れになった。全体私の考えるところでは、泣女の古い相すがたはこの帷子被りのように、死者の身近き者が当ることになっていたのが、時勢とともに赤の他人の、しかもこれを半営業とする婦人を雇うようになったのであると信じている。福井県丹生にう郡越廼村こしのむら蒲生津がもうづは日本海沿岸の漁村中でも大部落であるが、ここでは今でも泣女を雇う習俗がある。その女は殆ど専門的の老婆で、その報酬に米を与えるが、その米の多寡によって泣く程度を異にし、随って死者の貧富の度が知れる。米一升を与えれば一升泣なきと云い、二升ならば二升泣と云うている。そしてその泣き方は入念のものであって、霊柩が家を出る時から泣き始めて、死者の生前の家庭生活の内面を巧みに泣き語り、特に若い漁師が結婚後間もなく遭難した場合や、また愛児を残して永眠した場合などには、泣女の言々句々、悲痛を極めて遺族は言うまでもなく、葬列の人々をして断腸の思いあらしむると云うことである。さらに能登の七尾地方に行われているのは前記の作法と異り、泣女は葬式の前夜に招かれ、死者の枕許で悲しげな声で主人が死んだのならば、『飲みたい飲みたい言うたが、飲ますりゃよかった七尾の酒を』と調子をつけて泣きながら言い、主婦なれば『食いたい食いたいと言うたが、食わすりゃよかったカンショバ(カンショバは便所のこと、同地方では南瓜を作るに便所の屋根に蔓を這わす風がある)のたか南瓜を』と言い、小娘の夭死したのには、『したいしたいと言うたが、さすりゃよかった繻子しゅすの帯を』と泣き口説くと云うことである。しかしてこの七尾の泣女の作法は、明治以前まで殆ど全国的に行われた。死者の霊を巫女に憑かからせて苦患くげんを語らしめたものと共通しているが、その詮索を始めると柵外に出るので差控える。
我国の変態葬礼は、以上で総てを尽くしたものではない。弘法大師や親鸞上人が屍体を隠したこと、武田信玄や真田昌幸が遺骸を水中に投じさせたこと、及び山形県に行われたミサキ放しの故事や、遊女屋の亭主が死ぬと犬の死骸のように、首に縄をつけ町中を引きずり廻した習俗など、記すべきことが多分に残っているが、既に与えられた紙幅を越えたのでこれらはまたの機会に譲るとして擱筆する。  
 

 

屍体と民俗 / 中山太郎 
栃木県足利郡地方の村々では、死人があると四十九日の間を、その死人が肌に着けていた衣類を竿に掛け、水気の断えぬように水をかけるが、これを『七日晒し』と云うている。俚伝にはこの水がきれると、死人の咽喉が乾いて極楽に往けぬから、こうするのだと云うているが、元より信用することの出来ぬ浮説である。私の考えるところでは、この民俗はかつて同地方に住んでいたことのあるアイヌ族が、残して往ったウフイと云う蛮習が、こうした形で面影を留めているのだと信じたい。それではウフイとは如何なるものかと云うに、大昔のアイヌは死人があると、刃物を以て死者の肛門を抉り、そこから臓腑を抜き出し、戸外に床を設けてその上に置き、毎日婦人をして水を濺そそぎ遺骸を洗わせ、こうすること約一年を経て四肢身体が少しも腐敗せぬときは、大いに婦人を賞し衣服煙草の類を与えるが、もしこれに反して腐敗することがあると、たちまち婦人を殺して先に葬り、その後に死人を埋めるが、これをウフイと称えている。アイヌ族では棺及び葬具に、その家々の格式による彫刻を入念にするので、一年位を経ぬとこの彫刻が出来上がらぬので、屍体をこうして保存するのだと云うことである。即ち知る足利地方の七日晒しは、このウフイの蛮習が形式化されたものであることを。そしてこうした先住民族の間に行われた民俗が、今に各地に残存していることは決して珍しいものではない。その一例として次の如きものもある。

福島県平町附近の村々では、妊婦が難産のために死亡すると、その妊婦の腹を割き胎児を引き出して妊婦に抱かせて埋葬する民俗が、五六十年前まで行われていた。さらに愛媛県ではこうした場合には、胎児を妊婦と背中合せにして埋葬したと云うことである。妊婦の腹を割くことは産道が活力を失い、ここから引き出すことが出来ぬからだと聞いている。そして、こうした事はアイヌ族の間には、つい近年まで実行――勿論それは秘密ではあったろうが――されていたのである。近刊の「アイヌの足跡」と云う書によると、妊婦が産死した折には墓地において、気丈夫なる老婆が鎌を揮って死者の腹を截ち、胎児を引き出してから埋葬する。残忍なる所業は正視するに忍びぬと云う意味のことが記してある。これによって彼れを推すとき、内地の民俗がアイヌ族の残存であることが会得される。なおこの機会に言うて置くが、奥州の安達ヶ原の鬼婆とて、好んで妊婦を殺し胎児を取ったと云う伝説は、この民俗から出発していると云うことである。

石川県の富来トギ湾は同県でも有名な漁場であるが、漁場の習いとして毎年のように、漁船の幾艘かが海上で暴風雨の為めに遭難し、稀には五人七人の漁師が屍体となって浜に打ち揚げられることもある。それも遭難後四日か五日なら甲乙が直ぐ知れるが、もし十日も二十日も経過し、膚肉が腐爛しては容易に判別することが出来ぬ。殊に漁師の常として海上で働くときは、丸裸の犢鼻褌ふんどし一つであるから、持物で誰彼を知ることは困難である。それではこうした場合に、如何にしてその溺死体の甲乙を判別するかと云うに、親は子と思う屍体を、姉は弟と信ずる屍体を、妻は夫と考える屍体を、ともに自分の舌で舐めるのである。それがもし血縁あり姻縁あるものならば、舌が屍体に引ッ附くので、それを証拠としてそれぞれ屍体を引取るのだと、同地出身の文士加能作次郎から聴いたことがある。

屍体の一部を遺族の者が食う民俗は、昔から今に至るまで、多少その形式は異っているが、各地に行われているようである。琉球では大昔は死人の肉を遺族または親族が食ったものであるが、現今では人肉に代えるに豚肉を以てするようになった。しかしながらこの民俗は今に親族の親疎を言い表す語となって残っている点からも、在りし昔の事実が窺知される。即ち琉球では死人の肉を食うべき権利――であると同時にまた義務でもあった――を有する者を骨肉親族マツシシエーカと称して、その家に対して重大なる交渉を有し、これに反して死人の肉を食うことの出来ぬ者を脂肪親族ブトブトエーカと云うて、その家からはやや疎遠の地位に置かれているのである。人肉を食うか否かで親族に等級があったのである。
静岡県の沼津近在の村々、及び同県賀茂田方二郡の村落では、死人を焼いた骨を、遺族または親族の者が噛じる民俗が今に行われている。先年故人となられた皇典講究所の講師青戸波江翁の女むすめが沼津在に嫁して居られたが、不幸にも病死されたので翁も葬儀に列すると、火葬場において会葬の遺族や親族が、死んだ女の骨を噛じるのを見た翁は大いに驚き、その理由を訊ねると同時に、かくの如き所為は死者に対して失札であると詰なじると、会葬会者かいしゃの答えに、これは決して左様な失礼の意味ではなく、死なれたお方が温順で貞淑で、如何にも婦人の鏡とも云うべき為人ひととなりであったから、せめてはそれに肖アヤかるようにこうするのだと言うたと翁が語られたことがある。死人の肉を食うと云う民俗の起原は全くこれに存していて、英雄の肉(生前なれば血を飲む)を食えば英雄に、大力を有する者の肉を食えば大力持になれると云う俗信に由来しているのであって、さらにこれに親愛の意味が加わっていたのである。鳥取県の村々で昔は死人があると、それに最も縁の近い、例えば親なれば子、夫なれば妻が、一晩その屍体を擁して眠る民俗のあったのも、その名残りを留めたものと見ることが出来る。沼津辺の屍体の骨を噛じることが、古くは人肉を食うたことの形式化されたものであることは、言うまでもあるまい。

変死した者の屍体を凶霊のあるものとして、特別の取扱いをしたことは古くからの民俗である。水死や焼死や縊首や自刃やの屍体は、一般の墓地に葬ることを許さず、屍体を棺にも入れず菰にも包まず、そのままで橋の袂か道の辻に、多くは倒サカサにして埋めるのが習いとなっていた。これは橋畔や道辻なれば通行人が多いので、絶えず屍体の上を踏み固めるので、凶霊が発散することが出来ぬと云う信仰から来たのである。これが宇治の橋姫の古い信仰であり、また辻祭や辻占の俗信の起原である。それと同時に我国の各地に倒に歩く幽霊の出ると云う伝承の由来である。沖縄県の嶋々では近年まで、変死者を道の傍らに倒にして埋めたものである。
こうした俗信から導かれて、変死者の屍体を幾つかに斬り放して、各所に埋めて凶霊の発散を防いだ民俗もあった。即ち支解しかい分葬がそれである。古く鳥取部万ととりべのよろずの遺骸を、朝廷の命令で八段に斬り八ヶ所に埋めたのもその一例であり、さらに平将門の首を、腕を、脚を祀つたと云う神社が各地に在るのも、またこの俗信に由来しているのである。京都府北桑田郡周山しゅうざん村の八幡宮の縁起に、康平年中に源義家が反臣安倍貞任を誅し、屍体を卜部ウラベの勘文かんもんにより四つに斬って四ヶ所に埋めたが、それでも祟るので鎮護のために宇佐から八幡宮を勧請したのであると伝えている。これなども支解分葬の一例と見ることが出来る。

屍体の或る部分が呪力を有し、または薬剤として特に効があると考えた民俗も、かなり大昔から行われたことである。勿論これには容易に手に入れることが出来ぬと云う点に、多くの俗信が繋がれていたことも見のがす訳には往かぬが、とにかくこうした事実のあったことは疑う余地はない。例えば我国の古代において男女ともに胸間にさげていた曲玉マガタマなども、その起原は腎臓を生命の源泉としたところから、これを乾し固めてさげていると、災厄を払うと信じていたのか、後に玉を代用するに至ったもので、その形ちは元のままを残していたのである。さらに卜占ウラナイの呪術を行う者が、俗に外法頭ゲホウガシラと称する――福助のような頭をした者の髑髏を有していると、呪術が思うように行えるとて、これを所持していた話が沢山に残っている。殊にこの外法頭の所有者であった大臣が死んだ折に、それを発掘して首を斬って盗んだ者があったと正史に載せてある。今でも各地に残っている梓巫女アズサミコと云う者は、人頭が獲れなくなったので犬や狐の髑髏を持っていると云う話も伝わっている。しかしこれらが迷信であるのは言うまでもないことである。
死人の頭を黒焼にして服すると、病気に利くと云う迷信も近年まで行われていた。俗にこれを「天印テンシルシ」と云い黒焼屋で密売し、それが発覚して疑獄を起したこともある。または屍体を焼くときこれに饅頭を持たせ、屍脂の沁み込んだのを食うと治病するとて、同じく処罰された迷信家もあった。明治四十年頃のことと記憶しているが、大阪の火葬場の※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)坊おんぼうがこの種の犯罪を重ね、大騒動になったことがある。さらに極端な迷信家になると屍体を焼くとき脂をとり、飲むやからさえあったと当時の新聞に載せてあった。まだこの外に人胆じんたんを入れた売薬があるなどと云われているが、そうなると民俗でなくして全くの迷信となるので、省略する(春風秋雨亭主人談)。 
 

 

歴史其儘と歴史離れ / 森鴎外
わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱つた作品は、小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある。しかし所謂 normativ な美学を奉じて、小説はかうなくてはならぬと云ふ学者の少くなつた時代には、此判断はなか/\むづかしい。わたくし自身も、これまで書いた中で、材料を観照的に看た程度に、大分の相違のあるのを知つてゐる。中にも「栗山大膳」は、わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど単に筋書をしたのみの物になつてゐる。そこでそれを太陽の某記者にわたす時、小説欄に入れずに、雑録様のものに交ぜて出して貰ひたいと云つた。某はそれを承諾した。さてそれが例になくわたくしの校正を経ずに、太陽に出たのを見れば、総ルビを振つて、小説欄に入れてある。殊に其ルビは数人で手分をして振つたものと見えて、二三ペエジ毎に変つてゐる。鉄砲頭が鉄砲のかみになつたり、左右良まてらの城がさうらの城になつたりした処のあるのも、是非がない。
さうした行違のある栗山大膳は除くとしても、わたくしの前に言つた類の作品は、誰の小説とも違ふ。これは小説には、事実を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習であるに、あの類の作品にはそれがないからである。わたくしだつて、これは脚本ではあるが「日蓮上人辻説法」を書く時なぞは、ずつと後の立正安国論を、前の鎌倉の辻説法に畳み込んだ。かう云ふ手段を、わたくしは近頃小説を書く時全く斥けてゐたのである。
なぜさうしたかと云ふと、其動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。
わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ点は、巧拙は別として種々あらうが、其中核は右に陳べた点にあると、わたくしは思ふ。
友人中には、他人は「情」を以て物を取り扱ふのに、わたくしは「智」を以て取り扱ふと云つた人もある。しかしこれはわたくしの作品全体に渡つた事で、歴史上人物を取り扱つた作品に限つてはゐない。わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollinisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只観照的ならしめようとする努力のみである。

わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌つて、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱せようと思つた。
まだ弟篤二郎の生きてゐた頃、わたくしは種々の流派の短い語物を集めて見たことがある。其中に粟の鳥を逐ふ女の事があつた。わたくしはそれを一幕物に書きたいと弟に言つた。弟は出来たら成田屋にさせると云つた。まだ団十郎も生きてゐたのである。
粟の鳥を逐ふ女の事は、山椒大夫伝説の一節である。わたくしは昔手に取つた儘で棄てた一幕物の企を、今単篇小説に蘇らせようと思ひ立つた。山椒大夫のやうな伝説は、書いて行く途中で、想像が道草を食つて迷子にならぬ位の程度に筋が立つてゐると云ふだけで、わたくしの辿つて行く糸には人を縛る強さはない。わたくしは伝説其物をも、余り精しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た。
昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があつた。永保元年の冬罪があつて筑紫安楽寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姉をあんじゆと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待つて、父を尋ねに旅立つた。越後の直江の浦に来て、応化の橋の下に寝てゐると、そこへ山岡大夫と云ふ人買が来て、だまして舟に載せた。母子三人に、うば竹と云ふ老女が附いてゐたのである。さて沖に漕ぎ出して、山岡大夫は母子主従を二人の船頭に分けて売つた。一人は佐渡の二郎で母とうば竹とを買つて佐渡へ往く。一人は宮崎の三郎で、あんじゆとつし王とを買つて丹後の由良へ往く。佐渡へ渡つた母は、舟で入水したうば竹に離れて、粟の鳥を逐はせられる。由良[#「由良」は底本では「山良」]に着いたあんじゆ、つし王は山椒大夫と云ふものに買はれて、姉は汐を汲ませられ、弟は柴を苅らせられる。子供等は親を慕つて逃げようとして、額に烙印をせられる。姉が弟を逃がして、跡に残つて責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つし王は梅津院と云ふ貴人に逢ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさに参籠したのである。
つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡つて母を連れ戻し、丹後に入つて山椒大夫を竹の鋸で挽き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎の三人の子があつた。兄二人はつし王をいたはつたので助命せられ、末の三郎は父と共に虐けた[#「虐けた」はママ]ので殺される。これがわたくしの知つてゐる伝説の筋である。
わたくしはおほよそ此筋を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使つた。官名なんぞも古いのを使つた。現代の口語体文に所々古代の名詞が插まることになるのである。同じく時代を蔑にしたくない所から、わたくしは物語の年立をした。即ち、永保元年に謫せられた正氏が、三歳のあんじゆ、当歳のつし王を残して置いたとして、全篇の出来事を、あんじゆが十四、十五になり、つし王が十二、十三になる寛治六七年の間に経過させた。
さてつし王を拾ひ上げる梅津院と云ふ人の身分が、わたくしには想像が附かない、藤原基実が梅津大臣と云はれた外には、似寄の称のある人を知らない。基実は永万二年に二十四で薨じたのだから、時代も後になつてをり、年齢もふさはしくない。そこでわたくしは寛治六七年の頃、二度目に関白になつてゐた藤原師実を出した。
其外、つし王の父正氏と云ふ人の家世は、伝説に平将門の裔だと云つてあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思つたので、只高見王から筋を引いた桓武平氏の族とした。又山椒大夫には五人の男子があつたと云つてあるのを見た。就中太郎、二郎はあん寿、つし王をいたはり、三郎は二人を虐ける[#「虐ける」はママ]のである。わたくしはいたはる側の人物を二人にする必要がないので、太郎を失踪させた。
こんなにして書き上げた所で見ると、稍妥当でなく感ぜられる事が出来た。それは山椒大夫一家に虐けられる[#「虐けられる」はママ]には、十三と云ふつし王が年齢もふさはしからうが、国守になるにはいかがはしいと云ふ事である。しかしつし王に京都で身を立てさせて、何年も父母を顧みずにゐさせるわけにはいかない。それをさせる動機を求めるのは、余り困難である。そこでわたくしは十三歳の国守を作ることをも、藤原氏の無際限な権力に委ねてしまつた。十三歳の元服は勿論早過ぎはしない。
わたくしが山椒大夫を書いた楽屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざつとこんな物である。伝説が人買の事に関してゐるので、書いてゐるうちに奴隷解放問題なんぞに触れたのは、已[#「已」は底本では「巳」]むことを得ない。
兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りない[#「し足りない」は底本では「足りない」]やうである。これはわたくしの正直な告白である。  
 

 

古城の真昼 / 野村胡堂

「ああ退屈だ。こう世間が無事ではやり切れないなア」
文学士碧海あおみ賛平は、鼻眼鏡めがねをゆすり上げながら、女の子のように気取った欠伸あくびをいたしました。
「全くだ、何んか斯こう驚天動地の面白い事件が無いものかネ」
百舌もずの巣のような乱髪を、無造作に指で掻き上げるのは、朝山袈裟雄けさおというあまり上手でない絵描きです。
十五六人集った倶楽部くらぶの会員は、いずれも金と時間の使い途みちに困ると言った人達ばかり、煙草たばこを輪に吹くもの、好きな飲物を舐めるもの、乱雑不統一の限りを尽して、雑談に耽ふけって居りますが、腹の底から退屈し切って居ることだけは、倶楽部くらぶ員全体に通じた心持でした。
神保町じんぼうちょうのとあるカフェーの裏二階、夜分だけ定連を借り切って、何時いつの間にやら出来たのが、この有名なる「無名倶楽部くらぶ」です。会長というわけではありませんが、年配、地位、名望を推されて、倶楽部くらぶの音頭を取って居るのは、子爵玉置たまおき道高氏、正面の安楽椅子いすにもたれて、先刻から立て続けに葉巻を吸って居るのがその人です。
やや額の禿げ上った、中年輩の好男子で、聊いささかうで玉子を剥いて、目鼻を描いたといった、冷たい感じはありますが、さすがに門閥だけあって、何んとなく上品な風采をして居ります。類は友で集まった倶楽部くらぶ員達は、華族の次男三男坊、金持の息子、文士、美術家、俳優と言った比たぐいばかり、貧乏人は一人もありませんが、その代り社会的に有用な人材も一人もあり相そうは無いのでした。
「みっちゃんお茶だ、人数だけ」
子爵の声に応じて、衝立ついたての蔭の椅子にかけて居た可愛らしい女給は、静かに立って人数を読んで居ります。光子とか、道子とかいうのでしょうが、倶楽部くらぶ員の間では、みっちゃんみっちゃんで通る十七八の美人、小柄で愛嬌があって、こんな商売をして居る娘らしくない上品なところがあります。
「面白い事があるよ、解釈次第では、驚天動地の事件なんだが……」
蜂屋はちや文太郎という新聞記者、紅茶の角砂糖を砕き乍ながら、独り言ともなくこう申します。何新聞の記者なのか誰も知りませんが、本人が言うのですから、新聞記者をして居ることだけは確かでしょう。磊落らいらくで話上手で倶楽部くらぶ員中の人気者です。
「何んだ何んだ、驚天動地なんて鳴物入りでおどかすのは? イヤに持たせずに、手っ取早く発表したまえ」
これも退屈がり屋では人後に落ちない、会社員の筒井知丸ともまるが早速食い付いて来ます。
「玉置子爵の旧領地に起った事件なんだが、話しても構わんでしょうな」
「それは困る、あればかりは勘弁してもらい度たいが」
子爵は一方ならず迷惑相ですが、
「話したまえ、少しでも我々の耳へ入ったら、隠し了おおせるものでは無い」
「賛成」
「謹聴謹聴」
もう斯うなっては手の付けようがありません。

玉置の城趾じょうしの奇談というのは、一時新聞でも騒がれた大事件ですが、真相というのはまだ世の中につたわって居りません。新聞記者蜂屋文太郎は、商売柄かなり突っこんだ所まで知って居るらしい口振りです。
「天慶二年、平将門は下総猿島に偽宮を造り、関東諸国を攻略して、諸国に要塞を築き、城池じょうちを修理して、官軍を待った。超えて三年、貞盛秀郷ひでさと等に討たれて、東国の乱悉ことごとく平らいだ……これは日本歴史に詳しく載って居ることで、今更申すまでもありません」
蜂屋文太郎の話はなかなか大掛りです。今まで倦怠し切って居たクラブ員達も、思わず乗り出して小学生のように物好な顔を輝やかせて居ります。
「ところで、その諸国の要塞の内、玉置子爵の旧領地に、玉置の城というのがあります。当時の兵略上一番重要な足場だったらしく、将門は部将に命じて、軍用に充てられた夥おびただしい金銀珠玉を、その城中に蔵かくしたという事が、玉置家の古記録や、一部の稗史はいしなどに伝えられて居ります。やがて将門は誅せられ天慶の乱は平ぎましたが、さてその宝というのが、何処どこへ匿されたか一向判りません。世は移り人は変っても、秘められたる財宝に対する人間の執着は尽きる時なく、軍国時代から徳川時代へかけて、幾度か城中を隈なく探索し、瓦を剥ぎ壁を崩して見ましたが、金銀珠玉は怠おろか、文久一枚出て来なかったのです。
昔々大昔の日本には、黄金がダブダブする程沢山たくさんあった相で、特に王朝時代に黄金の産出が非常に多かった事はいろいろ古書に見えて居りますが、仏教の伝来、三韓征伐、遣唐使などと朝鮮支那との往来が繁く、降っては天竺や南蛮諸国と関係を生じて、さしも夥しかった日本の黄金も次第に国外へ持去られ、徳川時代に至っては、日本の黄金が十の九を失って居たとまで言われて居ります。実際室町時代特に足利義満、義政等が国外へ向って濫費した黄金だけでも大変なもので、その頃日本の国内で流通した永楽銭が、黄金と引換に支那から買入れたのですから、黄金の国外流出は思いやられます。
話は余事に亙わたりましたが、こんな黄金の大濫費のある以前ですから、天慶年間などはまだ黄金が国内にフンダンにあった時で、将門が軍用金を秘めたとすれば、その額は容易ならぬものがあったでしょう。
玉置の城というのは、築かれた時代が時代ですから、平場の城ではなく、山の中段を切り開いて、石を畳み水を繞めぐらした要塞ですが、今は城池の影もなく、僅わずかにその本丸、二の丸の跡を偲ぶばかり。それも数百年来の宝探しに荒し抜かれて、瓦の一枚一枚、石畳の一つ一つまで叩き割られ、城内一面大根畑のように掘り返されて居ります。
さて、そこで満場の紳士諸君、東京の埃の中に住んで、退屈という慢性病に悩まされて居るより、一番この玉置の城跡へ遠征を企てて、宝探しの手柄を競って見ようではありませんか。数百年間、数千の人が智恵を絞って、どうしても発見の出来なかった宝を我々の手で発見して、「無名倶楽部くらぶ」を「有名倶楽部くらぶ」と改称するのも、亦また男子の本懐ではありませんか。
室の中は異常に緊張して、珍らしくシーンとして居ります。その様子を眺め廻した蜂屋文太郎、我意を得たりと言った調子で、
「重要な事を一つ言い落しました。城跡には一基の碑が建って五十語ほどの漢文が刻んでありますが、何分年数が経って、雨風に腐蝕されたために、満足に読み下すことが出来ません。これは彼方あちらへ行ってから、銘々判読するとして、ここで申上げて置き度いのは、その中に『夏至げしの日の正午しょううまの刻こく』と書いた言葉があります。これも判読で、確かにそう書いてあるかどうかは、はっきり申上げられませんが、昔から土俗に、『夏至の正午の刻に、玉置の城の宝が世に出る』という言い伝えがあるところを見ると、これは重要な鍵キイの一つとして、或程度まで信じても宜よろしいことと思います。
夏至と申すと、六月の二十二日で、丁度ちょうど明日に当ります。汽車で二時間、上野から早朝立てば、常磐線の小駅から少し歩いて十時までには城跡へ着きます。御都合の宜しい方は、七時上野駅でお待合せを願います」
「賛成」
「是非私も参りましょう」
ざわめく室内をもう一度眺め渡し乍ら蜂屋文太郎は尚なおも言葉を継ぎます。
「もう一つ、この探検は一見何んでもない事のように思われますが、実は非常に危険があるという事を申し添えて置きます。一昨年も昨年も、丁度同じ夏至の日に、玉置の城趾で、何者とも知れぬ者の為に何者とも知れぬ者が殺害されて居ります。一昨年は昔の内濠の跡、今は用水堀になって居る所で、一人の老人が石垣の中から抜け出したとも見える、大石に打たれて死んで居りました。が、石垣の石はそんな所へ独りで飛ぶわけはありませんから、これは仔細あって何者かに殺害されたものと見なければなりません。超えて、昨年は、これも同じ夏至の日に、本丸の昔泉水のあったろうと思う辺で、一人の若い婦人、身装みなりは至って粗末でしたが、比たぐい稀なる美人が、背後から短刀で一ひとえぐりされて、紅あけに染って死んで居りました。県警察部は全力を挙げて捜査しましたが、犯人が挙らないばかりか、今以て殺害された者の身許もわかりません。肝腎の玉置氏――ここに居られる旧領主にして、古城趾の所有者なる玉置子爵――さえ、これについては、何んの心当りも無いと言われるのです。
兎とに角かく夏至の日に、玉置の城趾に近づく者には、命がけの危険があることだけは疑を容れません。明日探検に行かるる方は、これだけは記憶して頂いて、万一の危険を慮おもんぱかるる方、危うきに近寄り度くないと思う方は、切に同行を中止して頂き度いのです」
蜂屋文太郎の異様な話は、これで終りました。「行こうか、行くまいか」「行っても見たいが、多少気味が悪くもある」といった、不安と焦躁は、暫しばらくの間倶楽部くらぶ員達の間に悪い沈黙を続けさせました。
「蜂屋君はつまらない事を言ってしまいました、これは私の国に起った、お伽噺とぎばなしのような事件で、決して諸君の退屈しのぎになるような面白い事柄では無いのです」
玉置子爵は、安楽椅子に凭もたれたまま、やや迷惑相に斯う申しました。
「それに、もう一つ悪い事があるのです、近頃世間を騒がして居る、判官三郎とかいう怪盗、あれが私へ手紙でこういう事を言って来てるのです。……玉置の城趾の宝は、最近かく申す判官三郎が発見するであろう、貴下あなたは玉置の旧藩主ではあるが、間違っても宝に対する権利を主張してはならない、これは天慶の昔平将門が隠したもので、貴下あなたは何んの権利も無いからである……随分手厳しいでしょう、ハハハッハッハ」
「ホウ――」
「判官三郎が飛出しましたか」
「それは大変」
怪盗判官三郎が、この事件の真っ只中へ飛こんで来たと聞いて、一座の緊張は又加わりました。何となく物々しくなる空気を払い除けるように、玉置子爵は手を振り乍ら、
「イヤ、諸君まで驚いてはいけません。世間はどうも判官三郎を買い被かぶって神出鬼没の怪盗で人間以上の事を仕遂げるように信じて居るのは、甚だ怪けしからん事です……そこで私は、明日の夏至に備えるために、県警察部に依頼して、約百五十名程の警官を出し、玉置の城趾を完全に警備して貰う筈です。そんな中に諸君が行かれたところで、決して面白い筈はありません、まあ止された方がいいでしょう」
「イヤ」
子爵の言葉が終らぬ内に、スックと立ち上った和服姿の若い紳士があります。これは生月いけづき駿三という近頃売り出した「テアトル築地」の新劇俳優、貴公子揃いの中でも特別上等の美男、本当に水も垂れそうな男振りです。
「子爵のお言葉ですが、これは矢張やはり倶楽部くらぶの名誉のために、一同揃って探検に出かけた方が宜しいかと思います。警官百五十人で包囲して置けば、先まず絶対に危険は無いと言っても宜しいでしょう。それにたった一人の判官三郎に恐れたとあっては、私共はこれから後、人に合せる顔がありません」
「行こう行こう」
「卑怯ひきょう者だけ残れ」
こうなってはもういけません。玉置子爵は苦笑してドッカと安楽椅子に身を埋め、蜂屋文太郎は会心の笑えみを浮べてすっくと起ち上りました。
「みっちゃん、お茶を人数だけ、前祝いに景気付けよう」
「ハッ……ハイ」
衝立の蔭から美しい女給の声、居眠りでもして居たのでしょう、僅に顔をあげた風情ふぜいで、こう応えました。階下からは蓄音機でジャズの響き、神田かんだの十一時は未だ宵です。

一行十二人、玉置の城趾に集ったのは、その翌る日の十時頃でした。常磐線の寒駅から田圃たんぼ道を一里ばかり、二つ三つ坂を登ると、ある小山の中腹を切り開いた台地に出ます。城趾と見れば城趾、うっかりして居ると、崖崩れの跡としか見えません、今は用水堀に使って居るのが、当年の濠の跡で、注意して見ると、成程なるほど畳み上げた石垣や、四角に区画した城塞の跡らしいものが僅に残って居ります。
「ヤレヤレ疲れた、折角せっかく来たんだから、せめて小判の一枚も拾い度いものだが」
「小判一枚よりは、無事に命を拾って帰る工夫をした方がよかろう」
「ああ、命はいらないが、ビールが一杯飲み度い」
こんな下らない事を言い乍ら、一番の見晴しに出て、石畳の上に這い廻る蔓草の上に、めいめい腰を下しました。
目の覚めるような満山の緑、晴れやかな午前の陽を受けて、その清々しさというものはありません。藪や木立の隙間に、チラリチラリと動くのは、警固の警官百五十名の一隊でしょう。そんな事を考えると、あまり風流な気持にはなれませんが、関東平野を見下す眺めは、さすがに俗腸を洗い清めます。
「サア疲れが直ったら、そろそろ活動を開始しましょう。正午までに一時間半しか無い。まごまごすると、一年に一度の機会を失する」
一番先に蜂屋文太郎が起たち上りました。その後へ十一人の同勢、ぞろぞろ付いて行くと、道はうねりくねって城の裏手の山際へ出ます。梅雨つゆ時の谷川は、水かさを増して、山の上からエライ勢いで逆落しに、用水堀の中へ落ちて居ります。城跡は蜂屋文太郎が言った通り、大根畑のように掘り荒され、石畳も石垣も滅茶苦茶に動かされて、元の形を存して居るものは一つもありませんが、城跡の後の盆地に唯ただ一基の石碑だけが、貴いもののようにそっと残されて居ります。
「成程これだ」
「ドレドレ」
ぐるりと十二人、六七尺の自然石の碑を取巻いて、ためつすかしつしますが、風雨に磨滅した上、散々に苔蒸してどう見当をつけても読み下せません。
「桑田縦変――珠玉黄金――相伝――これだけは読める、よしや桑田変じても、珠玉黄金が子孫に伝わるというような事だろう」
先達せんだつの蜂屋文太郎が、苔を撫で乍ら暗示を与えてくれます。
「その次は、夏日咸陽かじつかんよう、巴水はすい……次は何んと書いたか解らない。溝渠こうきょという文字もある。暗動という文字もある。兎も角、何んの事か、これだけでは一向見当が付かない。最後の四字は――玄之又これまた玄、どうです。解りましたか」
六むつかしい問題を出した小学校の先生のように、蜂屋文太郎は、反り身になって一向を見廻しました。
「解るわけは無い。数百年来何千人の人がこれで頭をひねったんだ。一時間や二時間で、この謎が解けたら、それは人間業ではない」
主人公の玉置子爵は、すっかり投げてかかって居ります。
「わかる、確かにわかる、人間の工夫して作った謎を、人間の頭で解けないという事は無い……」
自信に充ちた凜然たる声、一様に振り向くと、テアトル築地の俳優生月駿三、今日は気のきいた洋服姿で、一行から稍々やや遠く、見る影もなく掘り返された石畳の上を、華奢きゃしゃな籐のステッキで叩き乍ら、ホテルの廊下を散歩して居る西洋人のように、大跨おおまたで往ったり来たりして居ります。
「解る? それはエライ、さすがは生月君だ」
冷笑に似た語気、これは玉置子爵です。
「解るのが本当です、今までの人は、碑の上の無駄な言葉に囚われ過ぎて、一番肝腎な事を忘れて居たのです。私には大体の見当はつきましたが、最後にたった一つ、ある時が来なければ解けないところがあります。正午まで待って下さい」
「あと一時間と十分」
蜂屋文太郎は時計を出して、アナウンサーのような几帳面きちょうめんな声を出しました。
「そんなにはかからない、十分で宜しい」
「たった?」
「…………」
それには答えず、生月駿三はズカズカと石碑の背後にある俗に底無しの井戸と言われて居る空井戸の側へ行って、その辺に生い繁る雑草を引きむしって居ります。
「あと一時間と五分」
蜂屋文太郎は、委細構わず進行係をやって居ります。
「諸君は銘々の案を立てて、一年に一度の機会を掴んで下さい、でないと判官三郎にしてやられますよ」
倶楽部くらぶの同勢も、こう時間が切迫しては手の下しようがありません、掘り荒された古城趾、武士つわもの共の夢の跡なる夏草の繁りと、木の間を漏るる警官隊の剣光帽影を眺めて、途方に暮れて呆然としているばかりです。
「あと一時間と二分」
時計の針は遠慮もなく進みます。たった十分間で宜しいと言った、生月駿三の為の時間は、あと僅に二分を余すのみです。
「あと……」
蜂屋文太郎勝ち誇った調子で、「あと一時間」即ち生月の要求した十分が切れた事を報告しようとする刹那、
「解った!」
明決な一語。
空井戸を覗いて居た生月駿三は、此方こちらを振り向いて莞爾かんじとして居ります。
「何? 解った、ど、どう解ったのだ」
玉置子爵は少しあわて気味に乗り出しました。事件はこの人に取って、非常に重大になって来たのです。
「至って簡単です、お話しましょう」
やおら、生月駿三、ステッキを挙げて、碑いしぶみと、そしてその後の夏草に埋まる空井戸を指しました。

その時、
「待って下さい」
転げるように、藪蔭から出て来た一人の娘があります。お召らしい単衣ひとえ、羽二重らしい帯、すべてそれは「らしい」という程度の粗末なものですが、咄嗟とっさの間にも、身のこなしが紅雀のような敏捷で、容貌が白文鳥のように可愛らしい事がわかりました。
「アッ」
「みっちゃんじゃないか」
「どうしてこんな所へ」
異口同音とはこの事でしょう。神田の「無名倶楽部くらぶ」が、このまま古城趾へ引っ越して来たような中へ倶楽部くらぶには無くてはならない美しい「みっちゃん」までが、降って湧いたように飛出したのですから、驚きやら不審やらの声が、十二人の口へ同時に爆発したのも無理はありません。
「待って下さいな、この謎は私が解かなければなりません、どなたも暫らく待って下さい」
みっちゃんはほんのりと上気のぼせて、露にぬれた美玉のように匂う顔をふり仰ぎ乍ら、半ば嘆願するように一同を見渡しました。
「何どうしたのだ、お前などの出る幕じゃあるまい」
筒井知丸。大事な話の腰を折られて、少しジレ加減にこう申しました。
「貴方あなたは何んにも御存じないワ、……私が出たわけは……」
「馬鹿、帰れ帰れ、お前などの来る場所じゃない」
口汚く罵るのは、御人体にも似げなく玉置子爵です。上品な青白い顔を緊張さして、こめかみのあたりが、ビリビリ虫が這うように動きます。
「私は玉置光子です、この城趾へ来て悪い筈はありません」
「玉置光子、玉置光子……? ?」
「解らなければ、もっと詳しく話しましょうか、私は先々代の子爵玉置義正の孫で、昨年この城趾で殺された、玉置春子の妹光子です」
「嘘だ嘘だ、そんな、そんな馬鹿な事があるわけは無い、お前は騙かたりだ」
子爵は漸ようやく落付きを取り返して、冷たい瞳を娘の上に投げかけ乍ら、それでもややせき込んで罵り散らします。
「騙り? 騙りは貴方あなたでしょう、先代の子爵だった父の照正は、長い間支那印度を放浪して亡くなりましたが、香港ホンコンで同じ日本人の母と結婚して、姉と私を生んだのです。今では父も母も亡くなりましたが、結婚証明書も、死亡証明書も、何も彼かも皆んな用意してここに持って居ります、よく調べもせずに、私を騙りとは失礼でしょう」
美しい小娘とばかり思った「みっちゃん」が、名門の跡取りであったのも予想外ですが、大の男を相手に、一寸の引けも取らぬシャンとした手強てごわい応対振りには、居合わせた顔馴染の皆んなも舌を巻いて驚きました。神田の倶楽部くらぶの二階で、エプロンをかけて、グラスを満載したお盆を持ち運ぶ時の様子とは大変な違い、第一今日は服装みなりこそ至って粗末ですが、みっちゃんの顔は後光がさすほど綺麗です。
「こら出鱈目をいうな、先代は支那で亡くなったのは知って居るが、子供などがある筈は無い。私が別家から入って玉置家を相続したのは、法律上の正当な手続を踏んでした事で、何処どこの馬の骨ともわからぬ女の子などの知った事ではない」
「そんな事は私にはわかりません。もう弁護士に頼んでありますから、いずれ裁判所で何んとかして下さるでしょう……けれども、差しせまって、この石碑の謎は私が解かなければなりません。一昨年の夏至の日、私の伯父――お母様のお兄様に当る方――が、この城趾へ謎を解きに来て、大石に打たれて殺されてしまいました。昨年の夏至の日には、私の姉がこの城趾を訪ねて、これも謎を解きかけて短刀に刺されて殺されてしまいました。その噂を聞いて、私は遥々はるばる支那から帰って来たのです。私も殺されるかも知れませんが、殺されるまでに、お母様や伯父様やお姉様の志を継いで、この城趾の謎を解かなければならないんです」
美しい光子の頬には、夏の陽を受けて、汗とも涙とも判らぬものが光ります。一生懸命の娘の弁舌に言い伏せられて、さすがの玉置子爵も、今はもう沈黙してしまいました。軽蔑し切った様に、時々この小娘を眺め乍ら、下品な西洋人のように肩をすくめて居ります。
「あと三十分」
思いもよらぬ冷たい声、それは時計を見詰めて居た、蜂屋文太郎の掛声です。
「アア、どうしましょう、私にはまだ解らないところが一つある、たった一つ……」
光子は空井戸の側へ行って、その危あやう気げな井桁いげたに手をかけたまま、幾百尺とも知れぬ底を覗いて居ります。
「その井戸の中へは、何百人の人が入って探険した筈だ……底の底まで空井戸だ……何があるものか」
子爵は冷罵に近い言葉で、こう言い切り乍ら、白麻のハンケチを出して額の冷汗を拭きます。
「アッ」
不意に光子の身体からだは突飛ばされて、でこぼこの石畳の上へ、存分に投ほうり出されました。相手は光子と並んで空井戸を覗いて居た生月駿三、片手突きに娘を突飛ばして、自分もサッと身を引いたのです。
「危い」
「何をする」
文学士の碧海賛平は駆け寄って娘を抱き起し、画家の朝山袈裟雄は、胸倉をつかまんばかりに、この無法な俳優に詰め寄りました。可哀相に光子は、石畳の上でひどく身体からだを打って、容易に起き上れ相も無い様子です。
「…………」
生月駿三は、黙って斜ななめに上の方を指しました。井戸の側に繁った桂の大木の枝に、ブツリと突立ったのは、青光りのする錐きりへ、真新らしい紙を巻いた真物ほんものの吹矢です。
「アッ吹矢!」
「これが、みっちゃんの眼を狙ったんだ、的面まともに突っ立つと命が危ない」
生月駿三が娘を突き飛ばしたのは、その吹矢から救う為だったのです。

やがて生月駿三は、完全にこの探検隊を支配してしまいました。この男――テアトル築地の人気を背負って立つ優男――のすることは、何んかしら根強い理由があって、グイグイと人を圧伏する力が潜んで居るのです。
「あと十分」
その中で、蜂屋文太郎だけは超然として、圏外に立ったままジッと腕時計を見詰めて居ります。この男には何んか違った考えがあるらしい事は判りますが、それが何どんな事なのか、今のところ少しもわかりません。
「どうしましょう、あと十分、私にはどうしても判らない、たった一箇所だけ……」
光子の美しい眼は、救いを求めるように、生月駿三の顔を見上げました。
「みっちゃん、心配するな」
やさしく娘を顧かえりみた生月は、探検隊を一と渡り見廻して、
「みなさん、手を貸して下さい。この井桁を取り払うんだ。……あぶない……井戸の中を覗いちゃいけない。その中には怪物エテものが居る」
六七人力を併せると、四枚の御影みかげを畳んだ井桁は何んの苦もなく取り払われて、石畳の上に陥穽おとしあなのように、空井戸は真黒な口をポカリとあきました。
「サア猪が飛出すぞ」
谷川の此方こちらを塞いだ一枚岩を取り除のけて、用水堀へ落ちる口を塞ぐと、梅雨つゆにふくれた山水の大量がサッと音を立てて石畳の凹みを這い、取り除いた井桁の跡から、底も知れぬ空井戸の闇の中へ、唸りを生じて落ちこみます。
「ワッ、ブルブル」
落ち込む水の中から顔を出したのは、猪とはよく言った、髭武者の山男、井桁の下の凹みに隠れて娘に古風な飛道具を吹き付けたのを、生月に発見されて、思いもよらぬ水攻めを食わされたのです。
「助けて」
とうとう悲鳴をあげてしまいました。僅に石畳へ両手をかけて、上半身を持ち上げたのも暫らく、猛烈な水に掃き落されて、あわや底も知れぬ空井戸の中へ落込み相になります。
「そら、獲物だ」
「オウ」
とゆるぎ出たのは、今まで時計と睨めっこをして居た蜂屋文太郎、ズカズカと傍へ寄ると、僅に井戸の縁ふちにかかった兇漢の両手を取って、軽々と上へ引上げます。
「コラ、何処どこへ行く」
身体からだが井戸から出ると、引上げた蜂屋の手をふりもぎって、早くも逃出そうとする兇漢を、小手を返して見事に石畳の上へ叩き付け、ガチリと手錠。
「騒ぐな」
凜とした叱咤の声、もう新聞記者蜂屋文太郎ではありません。
「みっちゃん……イヤ光子さんだっけ……君に解らないというのは、これだろう。もう猪は居ない。安心して井戸の側へ寄って、中をよく見るんだ」
生月駿三に招かれて、光子は近々と寄り添い乍ら、谷川の水の轟き落ちる井戸の中を覗きました。
「この井戸は一寸ちょっと見ると、山上の城によくある隠かくし井戸らしく見えるが、決してそうでは無い。水の手を断たれた時の用意の隠し井戸なら、こんな変な場所へ掘らずに、もっと浅くて水の出る場所を見付ける筈だ――いくら山城の井戸でもこんなに深くては物の役に立たない。みっちゃん、よく見るがいい。イヤ、光子さんと言うんだっけハッハッハハ」
からからと笑い乍ら、生月駿三は井戸へ落ちる水を加減してだんだんその量を少すくなくし乍ら、
「夏至の正午……この意味がわからなければ、井戸の中へ三年籠って研究したって謎はとけない。夏至は言うまでもなく、一年で一番日の永い日だ。そして一番太陽が中天に来る日だ。北半球のこの辺では、太陽の位置は何時いつでも少しは南に偏して居るが、その角度は冬が大きくて、夏は少くなる。六月二十二日の夏至の日は、太陽は北の子午線へ直射するから、太陽の動く道即ち黄道が、一年中で一番私等の頭の上へ近くなる。こんな事は小学校の生徒でも知って居るだろう――ところで、地上に掘った井戸は、少し深くなるともう底まで太陽の光線が入らない。この辺はかなり緯度が高いからだ。が、夏至の日の正午は太陽が頭の真上近く来るから、その光線が一年中で一番深く井戸の底へ入って行くのだ――あれ、あの通り」
指す下には、なるほど太陽の光線がかなり深い所まで、井戸の中へ落ちて居ります。
「丁度十二時」
片手に捕物を引寄せた蜂屋文太郎は、片手の腕時計を見乍ら斯う宣告しました。
「丁度よし」
響の音に応ずる様に、生月駿三は井戸の中を覗いて応えました。
「井戸の口から入る光線と、すれすれの所まで水を入れたのだ。井戸の口径と太陽の位置とを測れば、こんな手数をしなくともいいわけだが、何百年の昔、畢生ひっせいの智恵を絞って、ここに宝を埋めた人達のやった通りにやって見せるのも一興だろうと思って、こんな細工をやって見せたのだ。数学的に割り出すと、この深さは四十八尺、疑は無い」
石畳を一つ起すと、その中に凹みがあって、したたかな棕梠しゅろ縄、鈎かぎ、柄の短かい鶴嘴つるはしなどが入って居ります。
「こんな事だろうと思って用意をしたのだ。退屈病患者達は、後学の為によく見て置くがいい」
だんだんこの優男の言葉がぞんざいになります。くるくると上着を脱ぐと、井戸の側の桂の大木に棕梠縄の一端を堅く結び付けて、一端をぞろりと井戸の中へ、
「みっちゃん、君は一番信用が置けそうだ。あとをよく見張って居てくれ。その辺の狼へ気をつけるんだよ」
生月駿三は鶴嘴つるはしを小脇に、スルスルと縄を伝って井戸の底へ。

太陽と水との接吻をする辺まで降ると、棕梠縄の瘤を足だまりに、じっと四壁を見廻して居りましたが、やがて、
「フム」
一つ唸ると、かくしからU字型になった鈎を出し、縄の途中へ引っかけて、それを自分のバンドへ止め、両手に鶴嘴つるはしを振り上げて、サックと畳み上げた石垣の隙間へ叩きこみました。
二打三打、石はポロリと落ちて、井戸の中へ溜った水はその穴の中へ恐ろしい勢で流れこんで行きました。
「これで可よし」
鈎を外して鶴嘴つるはしを小脇に縄を伝わって上ろうとして驚きました。
井戸の上に、真昼の陽を受けて、キラリと閃めくナイフ。
「オオ危あぶねエ」
思わず首をすくめて息を呑みましたが、不思議に縄は切られた様子もありません。大急ぎで手繰たぐって井戸の中からヒョイと首を出すと、光子は石畳の上へねじ伏せられて、その繊細かぼそい首筋へ、血に飢えたナイフが臨んで居ります。
「エッ」
早速の気転、井戸の口から横なぐりに投ほうった鶴嘴つるはし、ナイフの主に当って、
「ウム」
と倒れてしまいました。見ると、それは思いきや子爵玉置道高の血に飢えた恐ろしい姿だったのです。
「みっちゃん、危なかったなア。君は縄を切らせまいとして争ったんだろう。どうも有難うよ。キットお礼はする」
「あれ、生月さん、私こそ」
身じまいをして、ポッと娘は赤くなります。人目が無ければ手でも取り度いような心持でしょう。
蜂屋文太郎その他は、手錠をかけられた兇漢が逃げ出したのを、追い廻して其処そこには居なかったのです。
折から警戒の巡査の手を借りて、兇漢を捕えた一行は、蜂屋を先にドヤドヤと帰って来ました。
「オウ、これは子爵じゃないか」
鶴嘴つるはしを叩き付けられて、石畳の上に倒れた子爵を助け起して、筒井知丸は大袈裟おおげさな声を出します。
「蜂屋さん、仮にそう呼ばして貰いましょう……この城趾で、一昨年は山根老人を殺し、昨年は玉置春子を殺した真犯人を引渡しましょう」
生月は少し改まります。
「生月君、仮にそう呼ばして貰いましょう。御厚意有難う」
蜂屋文太郎はズカズカと、半ば気を喪うしなった玉置子爵の傍に寄って、その肩に手を置きました。
「サア、起たつんだ」
「無礼だろう。子爵玉置道高を何んと思う」
僅に起き上った玉置子爵は、この場の様子に気が付いて、ギョッとした様子でしたが、直ぐ気を換えて威猛高いたけだかにこう怒鳴ります。
「二人殺しの真犯人」
自若とした蜂屋文太郎の声、
「何を証拠に」
「証拠は充分過ぎるほどある。最後の確証を握るために、骨を折って此処ここへおびき出したのだ。サア」
「君は何んだ、何の権利があって……」
「私は花房はなぶさ一郎だ」
新聞記者蜂屋文太郎と名乗る男は、当時名探偵として鳴らした、警視庁の花房一郎だったのです。
「お前は、山男の三治という前科者を買収して、二度までも邪魔者を殺させ、今日は吹矢で最後の一人を倒そうとしたろう。井戸の中に宝があることは解っても、謎を解くことが出来ないばかりに、謎を解きかけた人を見ると殺さずには居られなかったのだろう。お前は子爵家の血統の者でも何んでもない、大騙りの偽者な事はよく解って居る、サア弁解は出る所へ出てからしろ」
花房一郎は、子爵の肩を叩いて言い放ちます。筒井知丸、碧海賛平の輩ともがらの驚きは、まことに目も当てられません。
折から、
「妙な所から水が出ます」
警固の警官の一人が駈けて来て、用水堀の石垣を指します。
「しめた。そう来なくちゃ嘘だ。一たん止めた谷川の水を、先刻さっきから又うんと井戸へ流しこんだのはその為だ……サアみっちゃん一緒にお出いで」
生月駿三につれて、十何人一と塊りに駈け付けます。見ると用水堀の中程の石垣がゆるんで、その間から一道の水が勢よく噴出して居る有様、足場を見付けて、スルスルと降りて行った生月、鶴嘴つるはしを振ってサッと打ちこむと、石垣は手に従って二つ三つ四つ、用水堀の中に落ちて、その跡へ、方五尺程の大穴がポカリと口を開きます。
「みっちゃん、君は主人公だ。一緒に来給え」
娘の手を取って、石垣伝いに危あやうい道を降ろし、懐中電灯を片手に、小腰を屈かがめて二人は穴の中へ入りました。

暫らく経ってから、
「彼奴あいつだ」
花房一郎に引立てられた玉置子爵は、今思い出したように、穴の口を指し乍ら、
「彼奴あいつが判官三郎だ、早く早く捕とらえて」
とわめき立てます。
「わかってる」
冷い一言、花房一郎は自若として動き相もありません。
「彼奴あいつを逃すな、警官達、判官三郎が穴の中に居る」
子爵の声を聞いて、間近に居た十人ばかりの警官、用水堀の上へ集って来ましたが、花房一郎は二人の入った穴を見詰めたまま、何んとも命令を下しません。
暫くは、白日の下に恐ろしい緊張が続きます。
やがて、待ちくたびれた頃、穴の口へスラリと現れたのは、判官三郎の生月駿三ではなくて、玉置光子のみっちゃん唯一人。
「みっちゃん、彼奴あいつはどうした。判官三郎、イヤ生月駿三は?」
あわて臭って筒井が聞くと、娘は黙って首を振って、危い石垣の上を、覚束おぼつかない様子で上って来ます。
「此処ここだよ諸君」
朗らかな声、後を振り向くと、井戸の口から棕梠縄を伝って上ったらしい生月駿三、泥だらけな身体からだを拭いて、悠々と脱いで置いた上着をつけながら、
「中は磨き上げた様な石室いしむろで、金銀珠玉は一杯だ、時価に積って何十万、イヤ何百万円あるかな」
にこやかに話すのを遮って、
「判官三郎動くな」
子爵玉置道高、押えられたまま口惜しそうに身をもがきます。
「ホウ、今わかったか……よしよしあわてる事は無い。マア聞き給え、最初はこの財宝を一人占めにしようかと思ったが、本当の持主が現われると、オレが取るわけには行かない。地下の財宝は全部玉置光子嬢事、わが美しき『みっちゃん』のものだ、誰も争ってはいけないぞ、判ったらそれでよし」
「オイ、警官達、判官三郎をなぜ捕つかまえないのだ、コラッ」
玉置子爵が歯がみをするのを、面白相に莞爾かんじと眺めて、
「騒ぐな騒ぐな、オレは生月駿三というテアトル築地の俳優だ、判官三郎という確かな証拠は一つもあるまい、よしんば判官三郎にしたところで、今日はその筋の御用をこそ勤めたが、悪い事は一つもしちゃ居ない筈だ」
言うだけの事をいうとくるりと後へ向いて、
「左様なら花房君、又逢おう」
「待て、三郎」
今まで黙って居た花房一郎、後から浴せるように一喝すると、花房の顔色を伺って、手も下さずに居た警官達、「ソレッ」と居合腰になって、生月の後へ飛付こうとします。
「何んだ、花房、君は二人殺の真犯人を手に入れ、みっちゃんは巨万の富を手に入れ、そしてオレは新しい恋人を手に入れたんだ。それで充分じゃないか。それとも未だ不足だというのかい。今日の腕比べは五分五分だ。お互にそんな事で我慢するさ。みっちゃん、左様なら、又逢おうよ、あすこでネ。忘れちゃいけないよ」
サッと身を翻すと、思いもよらぬ山の上へ、藪や木立をスラスラと分けて、アッと言う間にその姿を消してしまいました。 
 

 

道鏡皇胤論について / 喜田貞吉
一 序言
野人かつて「道鏡皇胤論」一編を京大史学会の雑誌史林の誌上で発表した事があった。要は道鏡が天智天皇の皇孫であるとの旧説を祖述し、これによって道鏡に纏わる幾多の疑問を合理的に解説して、以て我が皇統の尊厳をいやが上にも明らかにせんとするにあった。しかるにそれを見られた仏教連合会の当時の幹部の人々は、従来我が仏教がこの悪逆なる妖僧の為に被った冤罪も、この研究によりて幾分緩和せらるべきものとなし、これを複製して世間に頒布したいと申し出でられた。その趣意は、道鏡が臣籍の出として日本において開闢以来かつて他に類のない非望をあえてしたという事は、彼がまた一の僧侶であることから、我々仏教徒にとってことに遺憾に思い、仏教徒として特に肩身狭く感ずるところであった。しかるにそれがこの考証によりて、彼がうぶからの臣籍の者ではなかった事が明らかにせられた以上、彼が畏れ多くも天位を覬覦きゆし奉った事についても、そこに幾分の理由が認められ、それが必ずしも彼が仏教徒であったが為ではないとの言い開きも立つ訳だというにあった。勿論彼が大それた非望を懐くに至った事が、必ずしも彼が仏教徒であったという理由からではなく、また彼がよしや皇胤であったとしても、それが決して彼の罪悪を軽減すべき理由とはならぬ。しかしながら野人のこの学説は既に学界に発表したものでもあり、今もなおそれを確信しているが上に、もしそれが仏教徒にとりて幾分でも従来負わされていたと感ずる重荷を軽くするに役立つものならば、必ずしも野人として敢えてそれを拒むべきものではなく、ことにその宣伝は我が皇統の尊厳なる事実を世間に知らしむる所以のものだと考えたので、読者に誤解を来さしめる様な記事を附け加えぬ条件の下に、潔く承諾した事であった。
しかるにそのパンフレットが世間に広まったについて、歴史に素養なき人々の間にもそれが評判となり、中には本書を通読することなくして、伝聞に訛伝を加えた場合が多かったらしく、道鏡は皇位覬覦という様な不軌を図ったものでは無いとか、和気清麻呂の方がかえって不忠の臣であったとか、思いもよらぬ説が一部の人々の間に流布せられて、為に野人の身の上を案じて親切な注意を寄せられた人すらあった。すなわち世の誤解を防がんが為に、当時その趣意を簡単に記述して中外日報紙上に掲載を請うた事があったが、今もなおそんな誤解を有する人の無きにあらざるかを思い、ここにいささか補訂を加え、さらに註解を附記してその全文を収める事とする。精しくは大正十年十月発行の史林について見られたい。
二 道鏡問題に関する幾多の疑問
大体道鏡が皇胤であるとしたところで、それですぐ彼は善人であったとか、不軌を図ったものではなかったとか、これを排斥した清麻呂はかえって不忠の臣だったとかいう様なことがどうして連想されるのであろうか。どこを押せばそんな妙な音が出るのであろうか、野人には、まず以てそれが不思議でならない。
言うまでもなく道鏡関係の史実には、甚だ多くの疑問が纏わっている。けだし藤原百川らの道鏡排斥の事件が極めて隠密の間に計画せられ、隠密の間に遂行せられたのであったであろうから、その事情の外間に漏れなかったに起因するという理由もあろう。ことにこれを伝えた史筆の上にも、確かに忌むところがあって隠した形跡が窺われるのである。したがってその伝うるところに疑問の多いのはやむをえぬとしても、歴史家としては出来得る限りその疑問に対して合理的解釈を下してみたい。そしてその解釈が国家社会の為に、また世道人心の上に、幸いにいささかでも裨益するところがあるものならば、差し支えない限り、それを宣伝してみたいと自分は思っている。
勿論歴史家の研究は公平無私であらねばならぬ。曲学阿世の譏そしりがあってはならぬ。しかしながら我ら歴史家もまた、同時に帝国臣民である事を忘れてはならぬと自分は信じているのである。したがってこの道鏡問題の如きも、こと皇室の尊厳に関して重大なる疑問があり、歴史家としての研究からそれが氷解せられて、いやが上にも皇室の尊厳を明らかにしうるものである以上、自分は徹底的にこれを研究して、世の誤解を解く事が歴史家としての冥加であると思っているのである。
そこでその多くの疑問の中について、まず以て自分の最も解し難しとするところのものは、帝権の最も隆盛であったかの奈良朝時代において、いかに天皇の御親任が厚く、また天皇が当時出家の天子にておわしたと云え、何ら皇室に因縁のない臣民出身の一僧侶を推して、仮りにも天子に戴いてはとの大それた説が現われてみたり、また天皇がそれにお迷いになられたり、道鏡自身もそれを聞いて、なるほどそうかと始めて野心を起してみたりしたというところにある。当時にあってそんな思想が起りえたという事が、自分にとって不思議でならぬのである。ことに彼が唯一の保護者とも申すべき称徳天皇崩御後までも、彼は自衛の道を講ずる事なく、晏然陵下に廬を結んでこれに仕え奉り、今に諸臣が皇嗣として自分を迎えに来るであろうかと、その僥倖を冀ねごうてボンヤリしていたというに至っては、いかに彼が時勢に暗かったとは言え、むしろ滑稽千万な事ではあるまいか。彼はそもそも何を恃んでそんなに平気でいられたものであろう。否彼がさきに法王の位におり、服飾供御天子に准じて、政巨細となく決をこれに取るという様に、諸大臣の上に立って傲然と政治を見ているをえたという事からして、臣民出の一比丘としてはまことにおかしな次第ではないか。
申すまでもなく、我が皇室は万世一系天壌無窮にましまして、いかなる場合にも臣籍の者がとってこれに代ろうという様な思想が起りえたとは信ぜられない。いわんや帝権の最も盛んな奈良朝時代において、道鏡に限ってどうしてそんな問題が起りえたであろう。これは我が国民思想の上からも、特にその時代思想の上からも、断じてあるべからざるものである。すなわち自分にとっては解しえざる最大の疑問であるのである。
またこの事件について最も反対側から憎まるべき筈の習宜阿曾麻呂(註一)が、道鏡失脚後の新政において続々栄転した形跡のある事や、その反対に最も多く賞せらるべき筈の和気清麻呂、法均の姉弟が、その当時割合に恩賞に預らなかった事や、その他称徳天皇の宣命の中にお述べになったお言葉の中などにも、表面にあらわれただけの事実では、到底解し難い問題が甚だ多く存するのである。
しかるにこれらの多くの疑問のすべては、道鏡が皇胤(註二)であったとの旧説を是認することによりて、ともかくも或る程度まではことごとく解釈しえらるるのである。
三 右の疑問の解決と皇統の尊厳
この事は実は自分の創見ではない。去る明治二十年代において故田口卯吉博士が、その経営の雑誌史海の誌上で既に多少の解決を試みられかけたのであった。しかるに当時その説には反対説が多く、博士も遂に大成されずに中止されてしまったのであった。けだし当時田口博士は道鏡の素性に関する続日本紀の文に、河内の弓削氏の人であるという事、彼の先祖に大臣があったという事などある記事について、適当なる解釈を下しえられなかった為であるらしい。
しかしながら右の道鏡素性に関する問題は、その時代に往々実例を見るが如く、一皇族が母方の姓をついで臣籍に下ったものであったと解して、容易に通ずべきものなのである。彼は実に多くの旧説の斉ひとしく言うが如く、施基親王の王子で、おそらく河内の弓削氏の腹に生れた者であったであろう。したがってそれが河内の弓削氏の人であり、その先祖に弓削(物部)の守屋の大臣(大連)があっても差し支えはないではないか。彼が皇胤であることを隠さんとした史筆の陰に、そんな事があっても一向差し支えはないではなかろうか。
かく解することによって、そこに彼を推戴せんとする説の生ずる間隙のあった事が始めて諒解せられる。天皇も為にお迷いになり、道鏡自身、為に始めて野心を起すに至った事情の如きも、これによってほぼ首肯せらるべきものである。さらに遡って彼が法王位を授かったということについても、これによってなるほどと合点することが出来るのである。
無論一旦臣籍を継いだものが、天位に即つきうべき資格のあろう筈はない。したがって清麻呂が「臣を以て君と為す未だかつてこれあらざるなり」との正論とは矛盾しない。しかし当時の右大臣吉備真備の如きも、称徳天皇崩御の後において、天武天皇の皇孫で、既に臣籍(註三)に下った文室浄三や、その弟の大市を推戴しようと試みた事もあった。されば道鏡が天智天皇の皇孫として、既に一旦臣籍を継いだものであったとしても、或る目的からそれを推戴しようという説の出たという事は、彼が皇胤であるというところに乗ずべき間隙があった為である。そして自分はここに我が皇統の最も尊厳なる所以があると信ずるのである。これだけの間隙があったればこそ、ここに始めてそれに喰い入る事が出来たのである。そして天皇もそれにお迷いになり、道鏡も始めて大それた野心を起し、清麻呂によって面責せられた後になってまでも、彼はなお平気で僥倖を冀ねごうていることが出来たのである。
我が万世一系天壌無窮の皇運は絶対(註四)のものである。これに対する国民の信念は牢乎として抜くべからざるものがある。いかなる場合にも異姓の者を以てこれに代えんとするが如き思想は起りうべからざるものである。さればたといいかに天皇の御信任が厚かったとしても、それに媚びて臣籍のものに皇位を伝え給わばなどという様な、そんな不都合な説を容るるが如き薄弱なものではないのである。無論何人も初めからそんな事を考えてみるものもなければ、たとい神託を仮りてこれを口にするものがあったとしても、何人も為に迷わさるべきものではないのである。かの平将門が関東で割拠独立を図ったのは、当時朝廷の綱紀が甚だしく弛緩して、中央政府の威令が遠方に及ばぬ様な、至って混乱した時代であったが上に、彼は騎虎の勢いやむをえずしてそんな立場に推しすすめられたのではあるけれども、それでもなお彼が平新皇を称するに至ったについては、彼が「王家を出でて遠からず」、桓武天皇から分れてまだ五代しかならぬ程の、近い皇胤であるという事の自信がこれを為さしめたのであった。ここに我が皇室の最も尊厳なる所以が存するのである。
四 道鏡の暴悪と清麻呂の正義
勿論皇胤だとて必ずしも皇族ではない。また皇族であったからとて不軌を図ったものはやはり謀反を以て論ぜられる。皇太子の如きお身分のお方であってすら、時到らぬに天位を望んだという点でその位から除かれ、その謀に与ったものが厳科に処せられたという例は幾らもある。
いわんや道鏡の如き、よしやその身は皇胤であったとしても、つとに臣籍を継いだ筈の一僧侶たるに過ぎないのである。しかも彼は天皇の御信任の厚きに乗じて、至尊の聡明を暗まし奉り、たといそれが聖慮に出でたとは云え、自身法王の位を授かりて傲然朝に臨み、皇族を残害し、国用を濫糜らんびしただけでも、既に以て許すべからざる罪を犯したものであった、彼の虐政のいかに盛んであったかは、当時心ある皇族の方々が、身を全うせんが為に自ら願って臣籍に降られたという一事のみによっても察せられよう。また称徳天皇崩御の後を承け給うた光仁天皇が、御一代間行政財政の整理に没頭し給うたという事の如きも、彼が在朝中にいかに多く行政財政の紊乱を来していたかという事を察するに足るのである。
彼が皇胤であったという事は、我が皇室の特に尊厳なる所以を示すの一つの材料ではあるけれども、これが為に彼は決して高徳の僧とはならぬ。これが為には彼は決して善良の人とはならぬ。そしてこれを排除せんが為に、身命を賭して事に当った和気清麻呂らが、どうして不忠の臣となるであろう。
道鏡排斥の事に当った清麻呂姉弟のその際の行動についても、その伝うるところ種々の疑問に充たされている。しかもその結局は、これが為に彼ら姉弟が神教を矯ためて天皇を欺き奉ったという罪名を以て、罪科に処せられた事によってともかくも一旦は落着した。そしてその以後においても、道鏡はなおその野心を放棄することなく、天皇崩御の後までも、平気で僥倖を待っておったのであった。しかしながら問題は天皇の崩御によって急転直下した。したがって仮りに清麻呂の行為が、その際道鏡排斥の上に直接の効果をもたらさなかったとしたところで、決してその当時における結果のみを以て是非を論ずべきものではないのである。
或いはこの史実の研究の為に、清麻呂に対する或る一部の世人の観念に、よしや多少の変動があるとしても、それは史実の示すところに従わねばならぬ。この際もし清麻呂なかりせば、我が万世一系の皇統も、河内の一比丘の為に涜されたであろうというが如き議論は慎まねばならぬ。もし(註五)仮りにそんな事を信ずる者があるとすれば、それは我が皇統の尊厳を低く見過ぎたものである。我が天壌無窮の皇運は果してしかく薄弱なものであろうか。自分はこれを信ずる事が出来ぬ。ことに当代の史実に現われた時代思想において、自分は到底これを信ずる事が出来ないのである。
道鏡は天皇に近い皇胤の身分であった故に、これを推戴してはとの説も提出せられたのではあったが、勿論それは実現せらるべきものでなかった。称徳天皇崩御の後において、彼ひとり晏然として僥倖を待っていたにかかわらず、何人もこれを後援せんとはしなかったのである。清麻呂は道鏡の投じた大臣の好餌を捨て、天皇の逆鱗と道鏡の激怒とを顧慮するなく、身命を賭して神教を伏奏した。「我が国開闢以来君臣の分定まる。臣を以て君となす事は未だかつてこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を続げよ。無道の人は早く掃除すべし」と伏奏した。これが果して神教に出でたものか、清麻呂自身の腹から出た事か、いずれにしても、彼は帝都出発の際既にこれを予定していたのであった。そして予定通りそれを断行したのであった。その議論の公正なる、その行動の勇敢なる、万世の後になお我が皇統の特異なる所以を知らしめ、懦夫をして為に起たしむべきものである。何人かこれを欽慕せざるものがあろう。ただそのこれを賞讃せんとするの余りに、道鏡の皇胤たることにまで耳を蔽い、皇統の危機が清麻呂によってのみ救われたと言わんとするものがあるならば、それはかえって我が皇室の尊厳を傷つくるものではあるまいか。
五 事実の真相
従来の史家の多くは阿曾麻呂の多※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)島守たねがしまのかみに任ぜられた事を以て、彼が道鏡を煽動した罪科によって、遠島に貶謫へんたくせられたものだと解している。しかしそれは確かに誤まりである。多※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)島守は彼の前官たる太宰主神よりは高官である。のみならず彼は道鏡の死後直ちに大隅守に栄転している。これが何の貶謫であろう。何の左遷であろう。ここにこの問題に関する事実の真相を明らかにすべき秘鍵が存するのである。
思うに彼が僻陬の任に当てられたのは、当時道鏡の党与なお存するを慮って、これを安全の地に置いた為であったかもしれぬ。道鏡の天位を覬覦きゆするに至った事が、阿曾麻呂の奏言によって始まったことは勅撰の国史の明記するところである。したがって彼が真に道鏡に媚びてこれを為したのであったならば、彼は天地も容れざる大罪人でなければならぬ。またそれが道鏡を誑たぶらかすの手段であったならば、彼は道鏡の党与の最大怨府でなければならぬ。けだし当時誠心国を憂うる人々は、道鏡のあまりに悪虐なるを見るに見兼ねてこれを排除せんと企て、道鏡が皇胤たるの間隙に乗じて、これを誑かして天位覬覦の念を起さしめ、それによって彼を排斥せんと試みたものであったと解する。そしてその任に当って表面に立つものは、実に阿曾麻呂と清麻呂姉弟とであったであろう。
阿曾麻呂が神教に託して道鏡を誑かしたのであったとは、これ国史の明記するところなのである。そしてそれを天皇に奏したのが清麻呂の姉法均であって、清麻呂が再び神教を請うべく宇佐に遣わさるべきことは、前以て予定の行動であったのだ。しかるに天皇の道鏡に対する御信任はあまりに篤く、清麻呂の伏奏もその当時においては実にただ姉弟の貶謫にのみ終ったのであった。
その陰には勿論藤原百川らがあった。しかしそれは表面にはあらわれなかった。清麻呂姉弟の貶謫の際においても事件を単に表面に現われたもののみに局限して、他の同志に及ぼさぬとの事は明らかに天皇の宣命にも仰せられているのである。そして百川は陰に清麻呂を扶持しつつも、表面にはその後もうまく道鏡に取り入って、その由義宮ゆげのみやの為に設けられた河内職の長官に任ぜられ、天皇この宮に行幸の際の如き、彼は道鏡の前に倭舞を奏してその歓心を求める程の老練なる白パクレ振りを発揮していたのであった。道鏡は実に彼にゴマかされていたのである。時勢に暗く人を見るの明なき道鏡が、最後までも野心を包蔵して僥倖を冀ねごうていたということも、満更無理ではなかったのであろう。
六 結語
要するに道鏡が皇胤であったという事は、決して彼を善人とならしめる所以のものでなく、ただ為に我が皇統の尊厳がいかなる場合においても、決して冒涜せらるる事のなかった所以を示すものであるに外ならぬ。無論これが為に清麻呂が不忠の臣となるなどと考えるのは以てのほかの事である。他の所論を玩味することなく、伝聞によりて猥みだりに批評を下すが如きことは慎んで戴かねばならぬ。ことにこと皇室に関するこの種の問題においては、一層の慎重を冀ねがわねばならぬ。

(註一) 習宜阿曾麻呂は太宰の主神として、宇佐八幡大神の神託と称し、道鏡を天位に即つけたなら天下太平ならんなどと、とんでもなきことを奏上して天皇を惑わしめ奉り、道鏡をして始めて非望を起さしめ、遂にあれだけの大騒動を引き起した男である。しかるにもかかわらず彼は道鏡貶謫と同時に、多※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)島守に栄転し、また道鏡の死と同時に、さらに日向守に栄転したのであった。その後彼は間もなく死去したとみえて、その名は再び歴史に現れてはいないが、ともかく道鏡失脚後の新政府では、彼は大いに重んぜられたものであった。しかるにこれに反して清麻呂・法均の姉弟は、流罪だけは免ぜられたが、その当時は官位はもとの地位までも復するには至らなかった。清麻呂の後の栄達は、彼が長生して摂津職大夫となり、中宮大夫となって以来の事である。けだし道鏡排斥の事件は、百川、阿曾麻呂、清麻呂等の間に仕組まれた、一つの謀計の現われではなかろうかとの疑いが無いでもない。
(註二) 続日本紀、日本後紀など、勅撰の国史以外の道鏡の事を書いた古い記録には、大抵彼を天智天皇の皇子施基親王の子としているのである。さればこれを河内の人弓削氏と云い、先祖に大臣があったという国史の記事とは矛盾しているが如く見ゆるも、葛城王が母の姓を継いで橘諸兄となり、山背王が母の家を承けて藤原弟貞となった例を以てこれを観れば、その矛盾は容易に解決せらるべきであろう。
(註三) 道鏡既に臣籍に下った以上、もとよりこれを以て君と仰ぐべきではない。真備が文室浄三や大市を推戴せんとした事も許すべからざるところであった。しかし藤原基経の権力は、一旦臣籍に降った侍従源定省を親王に復し、さらに宇多天皇として推戴し奉った例も後には無いではない。ここに阿曾麻呂の奏上を容るる間隙があったと解すべきであろう。
(註四) 皇族以外のもので非望を懐いたものとしては、通例平将門が例示せられるのであるが、彼は乱世に乗じて関八州に割拠し、独立を企てただけで、日本国の天子たらんとするのではなかった。しかもそれにしても彼は皇胤たる事の理由を以て自ら説明している。この外には平群真鳥が天位覬覦者として数えられるが、これも孝元天皇の皇胤として、ただの臣籍の例には引き難い。蘇我入鹿にも多少その嫌疑が無いでもないが、彼もまた同じく皇胤であるの誇りを持っていたに相違ない。
(註五) 我が皇位の尊厳と、和気清麻呂に対する過大なる賞讃とは、例えば両天秤の様なもので、一方をあまりに高くあげると、一方が低く下って来るとは、かつて故久米邦武先生の論ぜられたところであった。 
 

 

賤民概説 / 喜田貞吉
1 緒言
「賤民」の研究は我が民衆史上、風俗史上、最も重要なる地位を占むるものの一つとして、今日の社会問題を観察する上にとっても、参考となすべきものが少くない。しかしながらその及ぶ範囲はすこぶる広汎に渉り、予が従来学界に発表したるものの如きは、いずれもこれが一部分の研究たるに過ぎず、しかもなお未だ研究されずして遺されたものまたすこぶる多く、今これを全般に渉って記述せんことは、到底この講座の容さるべきところではない。よってその詳述は、従来既に発表し、もしくは将来発表すべき部分的の諸研究に譲って、ここにはただ、かつて或る融和事業団体において講演せる草案をもととして、その足らざるを補い、なるべく広く多方面に渉って、その沿革を概説するに止めんとする。
まず第一に述ぶべきことは、いわゆる「賤民」の定義である。言うまでもなく「賤」は「良」に対するの称呼で、もし一般民衆を良賤の二つに分つとすれば、いわゆる良民以外は皆ことごとく賤民であるべき筈である。しかしながら、何を以てその境界とするかについては、時代によってもとより一様ではない。大宝令には五色の賤民の名目が掲げられて、良民との関係がかれこれ規定せられているが、それはその当時における国家の認めたところであって、事実はその以外に、なお賤民と目さるべき民衆が多かった筈である。またその法文は、実際上後世までも有効であった訳ではなく、ことに平安朝中頃以後には、大宝令にいわゆる賤民中の或る者が、その名称そのままに社会の上流にのぼり、かえって貴族的の地位を獲得したというようなこともあれば、従来良民として認められていた筈のものが、その名称そのままで社会のドン底に沈められ、賤者の待遇をしいられたようなこともある。また一旦落伍して世の賤しとする職業に従事し、賤者の待遇を受けていた程のものでも、後にはそれがその職業のままに、社会から一向賤しまれなくなったという類のものも少くない。したがって古今を一貫して、良賤の系統を区別して観察することは到底不可能である。要はただその当時の社会の見るところ、普通民の地位以下に置かれたものを「賤民」の範囲に収めるよりほかはない。普通民はすなわち良民で、平民である。平民以上のものはすなわち貴族で、それはもちろん今の問題外である。さればこの講座においては、貴族平民以外のものをすべて「いわゆる賤民」として、以下これを概説することとする。
2 良民とは何ぞや
いわゆる賤民の範囲を観察せんには、まずもってその対象たるべき良民の性質を観察することを必要とする。大化の改新は従来の階級的社会組織を打破して、すべての民衆を同等の地位に置いたものの如く普通に考えられている。しかしながら事実は必ずしも然しからず、従来部曲べのかき等の名を以て貴族の私民となり、半自由民の地位にあったものを解放して、公民すなわち「百姓」となしたに止まり、奴婢階級の賤民の如きは、相変らず新法の上に認められたのであった。大化元年の詔の中に「男女の法」を規定して、
良男良女共所レ生子、配二其父一。若良男娶レ婢所レ生子、配二其母一。若良女嫁レ奴所レ生子、配二其父一。若両家奴婢所レ生子、配二其母一。若寺家仕丁之子者、如二良人法一。若別入二奴婢一者、如二奴婢法一。今克見二人為レ制之始一。
とある。ここに「賤」という文字はなきも、良人の法と奴婢の法とを相対して、いわゆる良賤の間に、判然たる区別の存在が示されているのである。そして「日本紀」には、「良男」をオオミタカラオノコ、「良女」をオオミタカラメノコ、「良人」をオオミタカラ、「奴」をオノコヤッコ、「婢」をメノコヤッコと傍訓してある。奴婢をヤッコということについては後に譲る。ここにはまず、良人をオオミタカラと呼ぶことについて観察したい。
オオミタカラの語、右の良人以外に、「百姓」「公民」などの訓にも用いられている。「政事要略」には、「大御財」の文字をあて、後のこれを解するもの、百姓すなわち農民は、食物を供給する大切なもので、すなわち天皇の「大御宝」であるという。崇神天皇の詔にも、「農は天下の大本なり」とあって、農民が国家の至宝であるには相違ないが、しかしそれが為に、これを天皇の大御宝と呼んだとは思われぬ。
案ずるに、オオミタカラは「大御田族おおみたから」で、天皇の大御田を耕す仲間ということであろう。古語にヤカラ(家族)、ウカラ(親族)、ハラカラ(同胞)、トモガラ(輩)など、「カラ」という語を仲間の意に用いている。大化以前には国造くにのみやつこ県主あがたぬし等の所領の外に、天皇直轄御領の公田すなわち大御田があって、その農民すなわち公民を大御田族おおみたからと呼んだものであったであろう。もちろん国造県主等の私田を耕す農民は、その私民であって、同じ農民でもオオミタカラとは呼ばれなかったであろう。しかるに大化の改新によって、日本の田地は、原則としてみな天皇の大御田となったのであるから、その田を耕す農民はすなわちことごとく大御田族おおみたからであらねばならぬ。そしてその農民が、同時に当然公民であり、良民であったのである。大化改新の政治には、人民の戸口を按じ、田地を校し、戸籍によって班田収授の法を行われたのであった。さればいやしくも国家の公民として、戸籍に登録せられた程のものは、原則としてことごとく口分田の班給にあずかり、自らこれを耕すところの農民、すなわち大御田族おおみたからであった筈である。これは農を以て大本とする我が国において、まさにしかるべきところでなければならぬ。
さらにこれと併せ考うべきことは、「百姓」という語がただちに農民を意味することとなり、漢字の「民」に当つるに「タミ」という邦語を以てしたことである。
本来「百姓」とは、あらゆる姓氏を有するものの総称で、その語にはもとより農民という意味はない。姓氏を有するものはすなわち公民で、賤民には姓氏がない。これは古代の戸籍を見れば明らかである。しかるにその百姓たる公民は、原則としてことごとく口分田の班給を得て、すべてが農民であったが為に、遂には百姓すなわちただちに農民ということになったに相違ない。後には農民以外の雑戸の徒も、解放せられて平民の仲間となり、農民以外の百姓も出来た筈ではあるが、それは第二次的意義の転化で、原則としては百姓すなわち農民であったのである。また「タミ」の語は、本来「田部」であったと解せられる。余戸あまるべを後世時に余目あまるめに訛り、「田部井」と書いてタメガイと呼ぶ姓のあるように、田部が「タメ」となり、さらに「タミ」と転じたものであろう。田部はすなわち農民である。そしてその農民の名称たるタミの語が、ただちに一般人民の名称となったということは、国家の認むる人民がこれただちに農民であった事を示したものでなければならぬ。
果してしからば、しばらく貴族の問題を別として、一般民衆の間にあっては、農民のみが公民であり、その以外のものは、原則として賤民と見るべきものであった筈である。無論その賤という程度に相違があったとはいえども。
3 ヤッコ(奴婢)
原則として公民すなわち農民のみが、良民すなわちオオミタカラであるとすれば、それ以外のものはすべて賤民であるべき筈であるけれども、前記大化の改新の詔にも、特に良男良女と奴婢ぬひとの関係をのみ規定して、他に及ばず、奴婢以外に賤民がありとしても、この場合それは国法上の問題に上っていないのである。大宝令にはいわゆる五色の賤民として、陵戸、官戸、家人けにん、官奴婢ぬひ、私奴婢ぬひの五種を数えている。しかしその官戸というは、次の家人というと同一種類に属するもので、官奴婢と私奴婢とを分ったと同じように、その所属が官にあることを示して区別したに過ぎない。もちろん官戸、官奴婢と、家人、私奴婢との間には、待遇上多少の相違はあるとしても、その種類の上から云えば、畢竟は家人、奴婢と、陵戸との三種となる。しかもその家人とは、奴婢の上級なるもので、天平十九年の「法隆寺資財帳」に、家人何口奴婢何口と区別して列挙し、しかもそれを総称しては奴婢何口と数えてあるのを見れば、つまりは奴婢の徒である。さればいわゆる五色の賤民の別も、詮じつむれば陵戸と奴婢との二つとなるのである。しかもその陵戸が、特に国法上賤民の中に数えられたについては、特別の意味のあることで、これは後の説明に譲り、これを除けば、広い意味の奴婢のみが、いわゆる賤民として挙げられているのである。
「奴婢」を「日本紀」にはヤッコと訓よませてある。コは「人」の義で、江戸ッ子、捕子とりこ(囚人)などの「コ」であり、ヤッコは「家やッコ」、すなわち「家の人」で、その家に従属するものの義であろう。中世武士の従属者に「家いえの子こ」「郎党」などというものがある。これも畢竟は同義で、その家に属する人という義であると解する。すなわち本来は他人の家に属するもの、すなわちいわゆる主人持ちの義である。されば社会の上流に位する貴族の如きも、これを天皇に対し奉って、やはり家やッ子こにほかならぬもので、国造、伴造をクニノミヤツコ、トモノミヤツコと訓むのは、「国の御奴」、「伴の御奴」の義でなければならぬ。そして「家人けにん」とは、ヤッコすなわち「家の人」を文字そのままに音読したもので、それを中世には邦語で呼んで、「家の子」と云ったにほかならぬ。すなわち通じてはいずれもヤッコ(奴)である。
いわゆる五色の賤民は、良民と通婚が許されぬばかりでなく、同じ賤民同士の仲間においても、お互いに当色の者同士のみが婚すべきことになっている。そしてその陵戸の問題はしばらく措き、官戸以下の四色の賤民にありては、通じては皆ヤッコとして、天皇直属の民ではない。天皇に対し奉ってはいずれも又者またものの地位におり、国家の公民ではないのである。これ特に賤民として、国法上その身分を厳格に区別し、互いに相紊みだれざらしめて、以て社会の秩序を正し、兼ねて所属主の財産権を擁護した所以のものであった。
家人、奴婢(官戸、官奴婢とも)は畢竟同じくヤッコであって、服装までも橡黒衣つるばみすみそめのころもを着せて良民と区別し、その子孫は特別の場合以外、永久にその主人に属すべき性質のものである。中について家人は、奴婢の高級のものとして、国法上特別の扱いを与えられていた。すなわち家人は一家を為して主人に属するもので、主人も任意にこれを売買するをえず、またその家族全部を挙げて任意に駆使することも許されなかった。しかるに奴婢は純然たる奴隷であって、公には夫婦親子の関係をも認められず、牛馬と同じく全く主人に飼養せられて、単に労役に従事し、主人の任意に売買譲与をもなしえた程で、全くその人格を認められなかったものである。
かくの如く、いわゆる良民と賤民との間において、また賤民同士の間において、国法上厳重な差別が設けられてはあっても、それは単に境遇上のみの問題で、決して民族上の問題ではなかった。いわゆるヤッコとして全くその人格が認められなかった程のものでも、人そのものが賤しいのではない。良賤の別は全く境遇によって定められたもので、境遇が変れば賤民もただちに良民となりうる。大宝令の規定によれば、官奴婢は年六十六に達すれば優待して官戸となす、癈疾となった場合も同様であった。さらに年七十六に達すれば、解放して良民となし、願う所に貫籍することになっている。或いは臨時に、官奴婢を解放してただちに良民と為した場合も少くなかった。私の奴婢でも同様で、或いは主人の意志により、或いは相互の諒解により、或いは自ら贖あがなって、家人に昇級したり、良民になったりしうるのである。家人を解放して良民となしうることも同様である。この場合、本属の官庁に申告して、家人奴婢の戸籍より除き、良民の戸籍に付けてもらえば、それでよいのであった。
彼らは賤民の身分であっても、やはり田地の班給を受けて農業に従事した。普通良民は男子に田二段、女子に一段百二十歩ずつを受ける制で、官戸及び官奴婢はこれに同じく、家人及び私奴婢は、土地の寛狭に従ってその三分の一を供せられる。彼らは被使役者であっても、やはり食料を要するからである。
奴婢の起原には、征服せられた異民族、戦争の際に生じた捕虜などというような場合も想像せられ、現に征夷によって得た蝦夷の捕虜を、神饌として神社に寄付し、或いは奴隷として公卿に賜わったという実例もあった。されば時には実際上民族的差別を有するものがないとは言えないが、しかし原則としてその差別は民族によるものではない。同じ異民族でも、決してそのすべてが賤民として待遇せられたのではない。前記の場合の如きも、捕虜になったという境遇がしからしめたので、民族を異にするという為ではない。もっとも遠い遠い大昔には、秦民のすべてが諸国に分散して、臣連の為にその欲するままに駆使せられたと云う事実もあって、いわゆる秦人はたびとがその族を挙げて奴隷の境遇に落ちたというようなことも無いではなかったが、それも雄略天皇の十五年に解放せられて秦造はたのみやつこの部民となった。されば少くも歴史時代における実際には、犯罪者或いはその一族の官没せられたもの、或いは合意的に売られた子弟、その他誘拐掠奪等から生ずるもので、要するに生存競争上の劣敗者、社会の落伍者ともいうべきものが賤民となったのであった。したがって事情がこれを許し、解放を得さえすれば、彼らはいつもとの良民となるも、何ら支障がなかったのであった。
4 陵戸
奴婢と並べて大宝令に、五色の賤民の一つとして数えられた唯一つの陵戸は、少しく性質の違ったものである。彼らはむしろ後に説明する雑戸とか、品部ともべとかいうべき種類のもので、一定の職業に従事する部族であるが、しかも他の雑戸や品部が賤民の仲間に数えられずして、ただひとり陵戸のみがここに加えられたことは、同じく一定の職業に従事するものとはいえ、その従事するところが陵墓の事に関し、穢れに触れるという思想から、特に賤視せられたものであろうと思われる。顕宗天皇元年六月、狭々城山君韓※(「代/巾」、第4水準2-8-82)宿禰、天皇の御父市辺押磐皇子殺害の罪に連坐して、特に死一等を許され、陵戸にあてて兼ねて山を守らしめ、籍帳を削り除いて、山部連に隷せしむとある。罪科によって官没せられたのであった。かく陵戸は、時として新たに加えられることがあって、もちろんその子孫は陵戸の賤職を世襲せしめられたのであろうが、大体としてその家が極まっておって、その身分が賤しいがために、逃亡その他の事情から、その数が減じこそすれ、自然増加の率は少く、しかも陵墓の数は世とともに増加して、需要を充たすに足らなくなる。そこで持統天皇の五年に、陵戸の数を定め、先皇の陵には五戸以上、自余の王及び有功者には三戸を置く事になった際、陵戸不足の場合は百姓を以てこれに充あて、その徭役を免じて三年交替の制を立てられた。これが「延喜式」にいわゆる「守戸」に相当するものであろう。「延喜式」には守戸は十年交替となっている。三年交替ではその煩に堪えなかったのと、一方徭役を免ぜられる特典があったが為に、彼らもその職に甘んじて、あまり短期の交替を望まなかったためでもあったとみえる。
因に云う、後世近畿地方にシュクと呼ばれた賤者階級の徒があった。解するものこれを以て守戸の後となし、余輩またかつてはその説に従ってみた事があったが、後に至って必ずしもそのしからざることを明らかにした。別項「シュク」の条下を見られたい。
「延喜」の諸陵寮式には、各陵墓についてそれぞれ陵戸守戸の数を記してある。身分は違っても同一職務に服したものであった。後いつとはなく諸陵寮の管理も廃し、陵墓多くはその所在を忘れられるようになっては、陵戸守戸の末路も不明になってしまった。
5 ハシヒト(間人)
陵戸は大宝令に賤民の中に数えてあっても、もちろん奴婢の徒ではない。ただその身が穢れに触れるということから、特に賤民の籍に収められたもので、職業から見た性質上では、むしろ雑戸の部類に属すべきものだと解せられるが、その以外の一般の雑戸は貴族に属する部曲の民などとともに、良民とも賤民ともつかぬ、中間階級のものとして認められていた。いわゆるハシヒトの類で、それを文字に「間人」と書いた。或いはその文字のままにマヒト、または転じてマウトなどと呼んだこともある。良賤両者の中間に位置するということであろう。
大化以前の「間人」に関する具体的実例は、不幸にして古文献に見当らぬ。しかし姓氏及び人名として、しばしばそれがあらわれている。間人連はしひとのむらじ、中臣間人連、丹比間人宿禰、間人穴太部はしひとのあなほべ王、間人穴太部女王、間人はしひと皇女などこれである。この「間人」の二字、古くハシヒトと訓ませてあるのであるが、奇態な事には、「古事記」に「間人穴太部はしひとのあなほべ王」とある欽明天皇の皇子の御名を、「日本紀」には「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部穴穂部皇子」に作り、その古訓に、「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部」を「ハセツカベ」と訓ませている。これによって「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部」すなわち「ハセツカベ」が、すなわち「間人」であることが知られる。
ハセツカベはすなわち駆使部はせつかいべで、「日本紀」には「駈使奴つかいびとやっこ」などいう文字を用い、普通に姓氏としては「丈部」または「杖部」の文字を用いている。けだし彼らはもと駆使はせつかいに任ずる賤者で、杖を突いて駆けまわるが故に、文字に会意上「杖部」と書き、略して「丈部」と書いたのであろう。しかもそれを一に「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部」とも書くに至っては、一考を要するものがある。
大宝令に宮内省の被管土工司があり、土作瓦※(「泥/土」、第3水準1-15-53)を掌つかさどり、これに二十人の泥部がついている。「義解」に、「瓦※(「泥/土」、第3水準1-15-53)は猶瓦といふが如し、※(「泥/土」、第3水準1-15-53)を以て瓦となす、故に連ね言ふなり」とあって、またその泥部については、「集解」に、「波都賀此之友造」とある。これは文字のままならば、当然「ハツカシのトモノミヤツコ」と読むべきもので、したがって「日本紀」古訓※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部をハセツカベとあるのは、ハツカシベの誤まりだとの説もある。しかし泥部を何故にハツカシベと云ったかについては、もちろん説明が出来ず、また意義をなさぬ。これを他の例から見ても、「此」字を「シ」の仮名に使ったことも珍らしい。けだしここに「波都賀此」とは、疑いもなく「波世都賀比」の誤写で、泥部すなわち「ハセツカヒ」の「トモノミヤツコ」であったに相違ない。
ハセツカイは本来駆使に任ずる賤者の称で、「日本紀」に駈使奴をツカイビトヤッコとある通り、低級なる使用人の名称となっていたのである。そして泥工或いは※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部の如き賤職に従事したものは、これと同一階級の身分なるが故に、通じて然しか呼んだものか、或いは泥工の徒が同時に駆使に任じたものであったと思われる。泥工は元来土師部はじべの職である。すなわち土師人はしひとである。そしてその身分は良民と賤民との中間に位するものであるが故に、文字にそれを「間人」と書いて、ハシヒトと云ったもので、そのハシヒトが同時にハセツカベと呼ばれたものであることが知られる。すなわち土師部(※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部)、間人、駆使部は、畢竟同一身分のもので、良賤両者の中間にいたものであった。無論雑多の職業に従事するいわゆる雑戸の徒も、畢竟は同一身分のもので、その中特に陵戸となったもののみが、国法上賤民として数えられたにほかならぬ。
平安朝時代に、下賤の使用人をハシタオトコ、或いはハシタメと云う称があった。文字には「半男」または「半女」と書く。今も物の全からざることをハシタと云うのはこれであるが、その名称はけだしもと間人すなわちハシヒトから起ったものであると解する。ハシヒト約つづまりてハシトとなり、さらにハシタとなるに不思議はない。そして後に武家の中間ちゅうげんと呼ばれる下男は、そのハシタオトコを音読したものに外ならぬ。半端はんぱなことをチュウゲンという語は、すでに平安朝の文学に見えている。チュウゲン(中間)すなわちハシタ(半)で、もと間人の義であることは明らかである。彼らは身分上賤民ではないが、さりとて良民としては待遇されなかったのであった。
徳川時代になって、土佐では水呑百姓の類をモート(間人)と云って、もちろん賤民扱いはしないが、一人前の人格を認めなかった。阿波では同じく「間人」と書いてマニンと呼び、半人前の人格をしか認められなかった一階級があった。やはり水呑百姓の徒である。藩から賦課する課役役銀の如きも、普通の百姓の半額を負担させられたものであった。これすなわち身分上古えにいわゆるハシヒト、ハセツカベに相当するもので、良民と賤民との中間に位置したものである。
阿波ではまた、間人の同階級に来人きたりにんというのが認められていた。他所から浮浪して来て住みついたもので、普通は昔の雑戸の如く、鍛冶屋、桶屋など雑多の工業的職業に従事し、維新後なお普通の百姓とは差別されていた。明治四年エタ非人の称を廃して平民となした時に、彼らも平民の地位を翹望し、願書を提出して、「平民申付候事」という滑稽な処分を受けた実例がある。その他讃岐に「西国」、淡路に「シャシャミ」(沙弥?)など、地方によって種々の名称を以て差別された家筋があったが、それらは大抵浮浪者の末で、永く良民に齢されず、いわゆる間人同様の身分に置かれたのであった。
近畿地方では、俗にいわゆる番太或いは※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)房おんぼうをハチと呼ぶところがあった。山陰地方に鉢屋はちやと呼ばれたものもやはりハチで、土師はじの義であると解せられる。ハチはハシの転で、すなわちハシヒトの義である。彼らは事実上では社交的にいわゆる間人以下の身分に置かれていたけれども、その名称は彼らがもと三昧聖さんまいひじりの徒として、葬儀の事にあずかるところから、土師はじという古い称呼が用いられたものであったに相違ない。古えの土師部はもちろん賤民という階級ではなく、駆使部はせつかべなる使用人つかいびと等と同じく、間人として待遇せられたものであった。かくて徳川時代のマニン、モウトに至るまで、同じ階級のものをすべて中間ちゅうげん、ハシタ、マウト、マニンなどと呼んだものであった。
 

 

6 雑戸
古えにいわゆるハシヒト(間人)の範囲がどれだけのものを含んでいたかは明らかでないが、いわゆる丈部はせつかべなる駆使丁の徒はもとより、大化以前にあっていわゆる伴造とものみやつこの下に属し、雑多の職業に従事した部民の如き、或いは臣連等所属の部曲の如きは、すべてこの間人の類であったらしい。たといそれが農業の民であっても、他の部下に属して某部と呼ばれた程の徒は、天皇直隷の民でないが為に、もちろん国家の公民ではなく、やはり間人はしひと階級のものであったと解せられる。大化の改新には、原則としてこれらの部民を解放し、良民の戸籍に登録し、口分田を班給して農民すなわちオオミタカラと為した筈であるが、何らかの事情でその編戸に洩れ、工業その他の雑職に従事して、農業を営まなかったものは、やはり雑戸の徒として取り遺された。しかし彼らはもはや古えの伴造の私民ではない。良民すなわちオオミタカラからは自然一段と身分の低いものに見られていても、やはり国家所属の民であった筈である。そしてこれを時にトモノミヤツコと呼んだことは、「令集解」穴説に、「諸司伴部等皆直ちに友造と称す」と云い、朱の説に、「伴部は諸司の友之御造なり」と云い、また泥部をハセツカベのトモノミヤツコと云っていたので知られる。トモノミヤツコとはもと伴造の称で、貴族階級のものであるが、後にはその名称が下に及んだのである。徳川時代に三河甲斐などに、卜筮に従事する賤者で、陰陽博士の称を以て「博士」と呼ばれた徒があったようなものであろう。
雑戸という名称はもと支那の語で、彼にあっては謀叛などによって国家に没収せられたものを以てこれに宛て、一種の賤民となっていたものである。したがって良民との通婚を許さなかった。我が大宝律では、雑戸が良民の子弟を養子とするを禁じているが、令に関する法家の解釈では、通婚は差支えないとある。これは一般的に雑戸を解放して、平民と同じくしたという天平十六年以後の実際を見て云ったことかと思われるが、ともかく我が国にあっては、同じく雑戸の名称を用いながらも、これを純粋の賤民とはせず、しかも一方では明らかにその卑品たることを指摘しているので、いわゆる間人の徒としてこれを待遇したものであったことが知られる。
彼らは工人その他の雑職人として、通例土地の班給にあずからなかったものらしく、「古事記」垂仁天皇条に、「地ところ得ぬ玉作たまつくり」という諺の存在を伝えている。また諸国に多い余戸あまりべの如きも、「高山本寺和名抄」によれば、「班田に入らざる之を余戸といふ」とあって、土地を有せず、農民ではなかったものらしい。承平二年の丹波国牒にも、「同国余部郷本より地なし」と見えている。「出雲風土記」には、出雲の余戸あまりべを解して、「神亀四年の編戸に依る」とあって、天智天皇八年庚午の戸籍にも漏れていたものが、この年新たに戸に編せられ、戸籍に登録せられて国家からその存在を認められたのであった。しかもそれが「班田に入らず」とあっては、従来より存在した工人部落か、または浮浪民の土着定住して雑職に従事するの徒であったらしく、いわゆる雑戸の類であったと解せられる。
彼らは班田に入らず、農業に従事せぬが故に、農業を本とした我が国では、いわゆる大御田族おおみたからではありえない。したがってかつては公民の待遇を受けなかった筈であるが、しかしすでに神亀四年に編戸せられたとある以上、国家の公民として認められたものであったに相違なく、社会の進歩とともに、農民以外の雑戸の徒も、段々とその地位が向上したものらしい。果して天平十六年二月に至って、一般に雑戸は解放せられて、平民すなわち良民と同等の身分になった。「続日本紀」に、
丙午、免二天下馬飼雑戸人等一。因勅曰、汝等今負姓、人之所レ恥也。所以原免ゆへにゆるして、同二於平民一。但既免之後、汝等手技如もし不下伝二習上子孫一、子孫弥降二前姓一、欲レ従二卑品一。
とある。これは明治四年に穢多非人の称を廃したのと同じような美挙ではあったが、後者が「身分職業共に平民と同じくす」とあるのとは違って、身分は平民と同等になっても、職業はやはり従前のままをつがしめ、そしてもしその技を伝習せずんば、農業に従事せぬ彼らは次第に貧困に陥って、子孫ますます堕落すべきことを戒められたものであった。かくてここに農民ならぬ公民も出来た次第であるが、しかし世間のその職業に対する賤視観念はにわかに一変し難く、彼らは国家から折角平民と認められても、世間からは相変らず賤しめられる傾きがあるので、自然その職を襲つぐを忌み、怠り勝ちになったものらしい。そこで天平勝宝四年二月に至り、彼らの旧籍帳を尋ねて、前の如くその職業によって使役することになった。「続日本紀」に、
己巳、京畿諸国鉄工、銅工、金作、甲作、弓削、矢作、桙削、鞍作、鞍張等之雑戸、依二天平十六年二月十三日詔旨一、雖レ蒙二改姓一、不レ免二本業一。仍下二本貫一、尋二※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)天平十五年以前籍帳一、毎色差発、依レ旧使役。
とある。これによっていわゆる雑戸なるものの種類もわかり、またその職を名に負うところの姓が、人の恥ずるところであったことが知られる。しかしともかくもその身分は平民に同じくなったので、これより後は自然淘汰の理法によって、同じく雑戸であったものの中でも、その執るところの職業によっては、段々と身分が向上して、普通の平民とそう社会的地位に相違のないものになったのもあろうし、また職業によっては、相変らず賤視を免れないものもあった事と思われる。かの陵戸が、その性質上からは雑戸の一つであるべく思われるにかかわらず、大宝令では特に家人奴婢と伍して、賤民の中に数えられているのは、その職業が穢れに触れる為であったと解せられる事から考えても、いわゆる雑戸なるもののうちで、その職業の種類と、社会のこれを見る感じとによって、その行く末が種々の階級に分たれるべき事情が察せられよう。
7 賤民の解放と武士の興起
大化の改新も一般民衆の根本的解放を見るに至らず、賤民及び間人の存在は、相変らず国法上に認められて、遂には奈良朝平安朝の貴族全盛の時代となった。その間に、間人の地位にいる雑戸は解放せられて、平民と同じ地位に置かれることとなったが、賤民の制は引続き国法上存在した筈である。しかるに時とともに貴族の勢力は向上して、その反対に平民の地位は段々下落し、両者の間の距離が甚だしくなるとともに、平民と賤民との距離が相近づいて来る。遂にはいわゆる賤民の制は破れて、その実、国法上からは賤民の身分にして、しかも実際上には社会的に貴族の地位を占め、平民はかえって新賤民となるというような、甚だしい混乱状態を生じて来た。
朝廷の大官を始めとして、貴族等ひとり専横を極め、荘園の名の下に天下の田園を壟断ろうだんして、国政を顧みず、上に見習う地方官は誅求を事として、私腹を肥すことのみに汲々とし、下積みになった平民は口分田の班給にもあずかることをえず、その多数が農奴の状態に堕ちてしまったのであった。
かくの如くにして地方政治は紊乱の極みに達し、生活に安んぜざる庶民階級の人々は、課役を避けて逃亡するものが多く、盗賊到る処に起っても、国司にはこれを鎮圧するだけの実力と誠意とがなく、人民は国家に依頼して、その生命財産の安全を保護してもらうことが出来なくなった。ここにおいていわゆる武士なるものが起って来るのである。微力のものは有力者の下に属して、その保護を受けねばならぬ。有力者は多くの部下を擁して、自ら護るの途に出る。その有力者もさらに一層有力なるものの部下に属して、自己の勢力の拡張を図る。ここに複雑したる主従関係が生じて来る。もちろん乱れたる世の事ではあり、国家の軍隊警察その用を為さぬ際であったから、彼らは自然武芸を錬磨して、自ら衛まもるの必要があり、ここに国法以外の私兵が生じた。これすなわち武士である。
既に主従関係が生じてみれば、その従者たるものはもちろん天皇直隷の国家の公民ではなく、実際上社会に勢力を有する程の身分であっても、国法の精神から云えば立派に家人けにん奴婢階級の賤民の徒であらねばならぬ。否ただに令制の精神からというのみでなく、事実彼らは依然賤民の名称たる「家人」を以て呼ばれていた。しかもその「家人」たるや、もはや決して賤者を以て目せらるべきものではなかった。もともと国法上の賤民が境遇の問題である以上、境遇がよくなれば解放されて良民となるのは当然の事であるが、今や名義上ではその賤民たる身分のままで、しかもかえって良民たるべき農民以上の地位を占めるものが起って来たのである。すなわち令制の賤民の地位が、そのままに解放せられ、向上せられたものであった。ことに有力なる主人を有する家人等は、その主の威光を笠に着て勢を振うことが出来る。ここにおいてか、有為の士は自ら好んで有力者の家人になり、令制の賤民の地位に甘んずるようになる。一方では将種、将家などと呼ばれて、累代多くの家人を有し、立派に武士の統領たるの家を為しているものでも、一方では摂関家の如き、自分よりも一層有力なる者の家人となって、自らその爪牙に任じたものであった。かの一時関八州を占領して独立をまで企てた平将門の如きも、もとは摂政藤原忠平の家人であった。一旦家人となれば決してその主人に反抗することは出来ぬ。彼は自ら平新皇と称して、日本半国の帝王気取りになっておっても、なお旧主の忠平の許へは、さすがに甚だ慇懃なる消息を通じているのである。また源家の祖先として威名の高かった源頼信も、関白藤原道兼の家人であった。内大臣の地位にいる藤原宗忠すら、関白藤原忠実の家人を以て甘んじていたのである。藤原惟成身を屈して藤原有国の家人になった時、人これを怪しんでその故を問うたところが、惟成は、「一人の跨またに入りて万人の首こうべを超えんと欲す」と云ったとある。以て当代の趨勢を見ることが出来よう。
家人たる従者は、本来は常に主人の座右に侍して、その用を弁ずべき身分のもので、すなわち「侍さむらい」である。大宝令には不具癈疾或いは老人に「侍」を給するの制がある。その同じ名称の侍が、武芸を錬磨し、刀剣を帯して、主人を警護するようになっては、これいわゆる武士である。後世武士が「侍」と呼ばれたのは、全くこれが為であった。
家人の地位は主人の地位とともに消長する。源頼朝天下の政権を掌握するに及んでは、国法上では賤民である筈の源氏の家人等は、事実は一国或いは数国の守護となり、或いは多くの公領荘園の地頭となり、いわゆる大大名おおだいみょうとなった。けだし一人の跨に入りて、万人の首を超えたのである。
しかしながら、これあるが為にすべての家人や侍の地位が、相率いて高くなったのではない。その主が失敗すれば、その家人や侍は一層堕落の境遇に置かれるのはやむをえなかった。勝者たる源氏の家人が勢力を得た陰には、敗者たる平氏の家人が没落したのは言うまでもない。主人の身分が高ければ、その家人の身分も高く、主人の身分が低ければその家人の身分も低い。徳川時代になっても、幕府直参の武士は「御家人ごけにん」と呼ばれて、これは立派な士族であるが、一方百姓にも譜第の家人があって、それは「下人げにん」として賤しまれ、今に下人筋げにんすじ等と云って、社交上にも或る場合には疎外されるのを免れない風習の地方もないではない。
8 国司の悪政と新賤民の輩出
平安朝における政治の紊乱が、令制の賤民を解放して、新たに武士という、名義上では賤民であっても、その実平民以上にいるような、奇態な新階級の勃興を見るに至ったが、それと同時に一方には、国法には認めていなかった浮浪民なる新賤民が、またはなはだ多く起って来た。
歴史上普通に賤民と云えば、ただちに大宝令の五色の賤民を数えて、ただそれだけが古代の賤民である如く考えられている。さらに深入りして考えるものでも、それに中間人たる雑戸の徒を加えるくらいである。しかしながら実際上我が古代において、貴族と良民と雑戸と、それ以外に大宝令に見えるいわゆる賤民とのみが、我が国土に生活した人類のすべてではなかった。令制上の賤民や雑戸は、たとい賤民だ雑戸だといわれても、やはり国家からその存在を認められた「賤しい民」で、それぞれ戸籍帳に載っているのであるが、そのほかにその実はなお或る種の人類が少からず生活していたのであった。すなわち戸籍帳に漏れた無籍者で、一定の居所をも有せず、国家の法律にも拘束せられず、生活の便宜を追うて各地に漂泊的生活をなしていたもので、いわゆる浮浪の徒である。これをウカレビトと云う。
浮浪民はおそらく人類の発生とともにあるべき筈で、その存在は古くから歴史にも見えていた。既に天智天皇八年に、「庚午年籍こうごねんじゃく」を造って、浮浪人を断つとある。無籍者を調べて民籍に編入したのだ。しかしそれで天下の浮浪民が無くなった訳ではなく、たまたまその中の境遇のよいものが、新たに戸に編せられて公民権を得たに過ぎなかったのであろう。つまり彼らは社会の落伍者で、したがって一方に解放せられる者があっても、一方にはあとへあとへと出て来る訳である。もちろんその中には、祖先以来の浮浪の生活を続けて、未だその存在が国家に認められず、公民の戸籍に編入される機会を得ざるままに、子々孫々にまで相ついで浮浪漂泊しているというものもあったであろう。しかしそれは比較的少数で、少くも中世以後には、一旦公民権を得て戸籍に編入されていたものが、事情あって原籍地から逃亡し、浮浪民となったものが甚だ多かった。その中には、地方官の悪政の結果として、その誅求に堪え兼ねて他郷に逃亡したものが、平安朝にはことに多かったのである。もちろんこの以外に、犯罪その他の理由より、身を郷里に置き兼ねて逃亡したものも多かろう。恋愛関係から駆け落ちしたもの、負債の為め身を暗くらましたものなどもあったであろう。その原因は種々であろうが、とにかく一旦公民籍に編入されておったものの、逃亡して浮浪民となったのが多かったに相違ない。
或いは初めからその住居が僻遠であったが為に、その存在が世に知られずして、公民籍に編入せらるるの機会を得なかったものも、もちろん昔は随分多かった。今に至ってもなおその種のものが、時に発見されることがある。先年の国勢調査の際に、そんな事実のあったことがしばしば新聞に見えていた。彼らは従来国家から存在を認められず、何村の戸籍にも載っておらず、児童はもちろん小学校教育をも受けず、村民は兵役の義務にも服せず、もちろん一銭の租税をも納めないで、全くの別世界であった。この類のことは実は太古からあったもので、古く既に素戔嗚尊スサノヲノミコトは、出雲の簸ひ之川上から流れて来たのを覧みて、山奥に人ありとの事を知られ、分け登って高志こしの八岐大蛇やまたのおろちを退治して、奇稲田姫くしなだひめの危難を救われたとある。越後の三面村、肥後の五箇山中など、この種の話は後世にもたくさんある。これらの中には、太古から山間に住んでおった山人が、狩猟のみで活きる事が出来なくなり、里から農業の法を伝えて、不完全な農村を開いたのもあろう。或いは隠れ里と呼ばれるように、もと平地の農村にいたものが、何らかの事情でその村に住みかねて山間に幽棲の地を求めて、山村を作ったのもあろう。山間僻地の村落には、よく平家の落人伝説を有したものがある。無論そのすべてが信ずべき限りでないが、さる種類のものも全然ないとは言われない。しかしいずれにしても、要するに社会の落伍者である。そしてこれらの落伍者の中には、一方では人口の増加とともに食物の供給が不足になり、一方では里人の向上したる生活にあこがれて、ついに里人に交って、今に鬼筋などと呼ばれているものもあるが、中には農業を営まずして、里人の間に賤職に従事しつつ、相変らず浮浪性の生活を続けているものも多かろう。
大江匡房の「傀儡子かいらいし記」、「遊女記」の二篇は、当時の浮浪民の様子を事面白く記述している。
傀儡子とは支那の言葉で、本来は傀儡すなわち木偶を弄して人目を楽しましめるもののことであるが、邦語ではこれを「クグツ」と云い、もと必ずしも人形舞わしとは限らないものであった。彼らは一所不定の浮浪民で、水草を逐うて便宜の地に小屋住まいをする。男は弓馬に長じて、狩猟を本職とし、また剣舞、弄玉、人形舞わし、手品、軽業というような技芸を演じて、人の耳目を楽しましめる。またその婦女は、粉粧をこらして淫を鬻ひさぐ。田も作らねば蚕かいこも飼わず、国司の支配をも受けず、少しの課役をも負担せぬという、至って気楽そうな生活をしていたとある。農桑の道を捨てた浮浪民、すなわちウカレビトの生活としては、けだしこうなるのが順序であろう。遊女をウカレメというのも浮浪女うかれめの義で、「万葉集」には「遊行女婦」と書いてある。大宰帥だざいのそつ大伴旅人や、越中守大伴家持などと歌の贈答をしたという、名誉の遊行女婦うかれめがすでに奈良朝にあった。遊女と云うはけだしその略で、或いはそれをもクグツと云った。これを遊行女婦と云っても、常に所定めず浮浪してのみいるのではなく、都合のよい所に住みついては、そこで半定住的の生活を営んでいるものも多かった。平安朝の遊女は、上方かみがたでは江口とか、神崎とか、蟹島とかいう所に根拠を構えていたとある。この浮浪民たる傀儡子や遊女は、道祖神さいのかみを祭って福助を祈る習慣を持っておった。各自その像を帯して、その数百千に及ぶが故に、これを百大夫と云ったとある。現に摂津の西の宮の傀儡子は、百大夫を氏神と仰ぎ、人形舞わしとして非常な発達を遂げた。これが為に後世には人形舞わしの事をただちに傀儡師だと心得るようにまでなったけれども、本来は傀儡子必ずしも人形舞わしのみでなく、鎌倉時代では、彼らは主として狩猟を業とし、その婦は遊女の如しとも「塵袋」に見えている。
いずれにしてもこれらはみな社会の落伍者である。落伍者はいつの世にも必ず生じて来るもので、その代りに、その中の或る者は、浮浪の境界から脱して立派な身分になるものもある。つまり新陳代謝が行われて、古い賤者が消えて行って、新しい賤者が起って来るのである。
かく新陳代謝が行われる中にも、平安朝の中頃以後に輩出した浮浪民は、令制の賤民の代りに生じた新賤民の起原をなしたもので、その顛末は我が賤民史上最も注目すべきものである。しかもそれが「聖の御代」とまで言われた延喜の頃から、既に甚だしくなっていたのには驚かざるをえぬ。
「延喜式」に「濫僧屠者」の語があり、下賀茂すなわち賀茂御祖みおや神社の付近に、その居住を禁止している。御祖神社は賀茂川と高野川との会流の地にあって、その河原にはこれらの輩が群がり住むが為に、特にこれを禁止したものであったと解せられる。
ここに濫僧とは、当時の文章博士三善清行の「意見封事」に、当時の人民課役を避けんが為に、私に髪を剃り、猥みだりに法服を着けて、法師の姿に身をやつしたというそれである。「家に妻子を蓄へ、口に腥※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを啖くらふ」とあって、すなわち肉食妻帯の在家法師であり、その「形は沙門に似て、心は屠児えとりの如し」とあって、もちろん仏教信仰からの出家ではなかった。しかもその数が「天下の三分の二」に及んだと清行は云っている。実に夥しい数で一概に信ぜられないようではあるが、しかしこれは事実であった。それには証拠がある。延喜二年の阿波国の戸籍の一部と、八年の周防国の戸籍の一部とが、幸いにして今日伝わっていて、それを見ればなるほどとうなずかれる。その当時帝国の公民として戸籍に載っているもののうちには、男子が甚だ少く、大多数が女子である。稀に男子があれば、多くは老人、不具癈疾、または有位者というように、課役免除の輩である。課役の負担の義務のある課丁は、ほとんど戸籍に上っておらぬ。延喜二年の戸籍で性別の明らかなもの五百五十人中、実に四百八十三人までは女子であった。これは言うまでもなく公民が課役を避けて自度の僧となり、戸籍外に脱出した結果でなければならぬ。彼らは国家から公民として認められても、これが為に何ら得るところなく、かえって国司の誅求に苦しめられるのみであったから、自ら公民の資格を捨てる方便として、争うて出家したのであった。したがって彼らは無論如法の僧ではない。無籍者である。その多数は在家の俗法師、すなわちいわゆる毛坊主の徒である。もちろん彼らの多数は相変らず農耕の道に従事したであろうが、しかし彼らはもはや公民としての農民ではなく、日蔭者であり、他人の田地を作る水呑百姓、すなわちいわゆる間人まうと階級のものでなければならぬ。或いは全然農奴の階級に落ちたのも多かったであろう。或いはかつて雑戸の職となっていたところの、雑多の家内工業に従事したであろう。
しかし浮浪民だ、無籍者だと言われながらも、ともかくも一定の住所を有して郷里の家庭に住むことの出来たものは、これを賤民と称するにはやや妥当を欠くの感があるが、それ以外に郷里にいることも出来ず、逃亡して他郷に浮浪漂泊の生活をなすという、一層堕落の底に落ち込んだものが多かったのは言うまでもない。彼らは法師姿であるが故に、いわゆる樹下石上を家となし、身を雲水に任して頭陀の生活をなす修行者に交って、乞食として生活するの道を求めたであろう。これすなわちいわゆる濫僧ろうそうである。平安朝の悪政の結果として、延喜の頃既に多数のこの濫僧の徒が続出したのであって、そして漂泊して京都に流れついたものが、賀茂川の河原に小屋掛けをして、いわゆる河原者となるものが多かったが為に、特に「延喜式」の禁制の必要があったのである。
9 非人と乞食
濫僧の徒は古くこれを「非人」或いは「非人法師」と云った。この場合の「人」とは広く「人類」という意味ではなく、狭く「日本人」という義である。すなわち非人とは、帝国の臣民に非ずと云う程の義であるが、鎌倉時代にはこれをその文字通りに解して、人間以外すなわち畜生仲間というような、極めて同情のない説明をした場合もないではない。かの日蓮聖人が、自ら「旃陀羅せんだらの子なり」と云い、「身は人身にして畜身なり」とも、「畜生の身なり」とも云われたのは全くこれである。しかしもともと非人とは、決してそういう意味ではない。
最も古く非人の名称の物に見えている著しい例証は、かの橘逸勢たちばなのはやなりである。彼は罪あって除籍せられ、「非人」と称せられた。無籍者になったのである。すなわち非公民の称である。さればこれを広い意味から云えば、一般的に僧侶すなわち「出家」の輩は、もはや公民ではなく、やはり非人と云ってよいのかもしれぬ。かの有名なる京都栂尾とがのお高山寺の大徳明恵上人高弁が、自らその著の終わりに「非人高弁」と書いているのは、けだしこの意味の非人であった。
非人は食物の生産者ではない、故に彼らは何らかの方法で食を生産者から乞わねばならぬ。すなわち「乞食」である。もっとも厳格なる意味から云えば、施主の供養に生きる如法の僧侶の如きもやはり乞食で、弘法大師の「三教指帰」には、自己を仏教の代表者とし、これを「仮名乞児」と名告なのらせているのである。
非人乞食は、原則としては同時に浮浪民である筈である。もちろん浮浪民であると云っても、そのすべてが常に一定の居所なく、各地に浮浪してのみいるのではない。中には永く一所に定住して、浮浪民の村落を作り、長者の統率の下に自治の境界に安んじている場合もある。また国家として永くこれを度外視し、その自治にのみ放任する訳には行かず、浮浪人の戸籍を作って、一定の課役を賦課し、また飢饉の際の如きは、土民浪人ともにこれを救助したというような場合もあるが、それでもなお彼らは、やはり国家なり、社会なりから、浮浪民の名称を以て呼ばれている。一旦浮浪民と身分が極まれば、或る特別なる事情がないかぎり、公民籍には編入せられず、いつまでも浮浪民として認められたのであった。
かくの如きものは、もちろん賤民と呼ばるべきものではなく、中には新たに戸に編せられて公民の資格を得る場合もあり、然しからざるものも、必ずしも社会からひどく賤視されたもののみとは限らなかったが、真に浮浪生活を続けているものが、実際上の非人として世間から仲間はずしにされるのはやむをえなかった。
この以外に事実浮浪的生活をなしている漁夫狩人の徒ももちろん多かった。漁民の中には、近い頃までなお漂泊的の習慣を存し、他から特殊的待遇を受けていたものもある。その海岸に定住して漁村をなしているものの中には、早く戸籍に編入せられて、公民の資格を得ていたものも少くなかったが、大体として奈良朝頃まで、なおこれを乞食と呼んだらしく、「万葉集」の歌に「乞食の詠」というのが二首あって、一つは漁師の歌、一つは狩人の歌を収めてあるのである。彼らは獣肉魚肉を里人に供給し、無条件に食を乞うのではない。しかし元来農業を以て本位とする我が国においては、これらの肉類は食料とは云わなかった。少くも奈良朝頃の日本民族は、もはや獣肉魚肉のみによって生きて行く事は出来なかった。生きるには必ず農民の作った五穀に依り、獣肉魚肉は副食物の原料たるに過ぎなかった。したがって漁師とか狩人とかは、やはり農民から食を乞う方の側の人で、すなわち乞食と目せられたものと解せられる。副食物はオサイである。オサイは「お添え」の義で、食物に添えて喰うものたるに過ぎない。農民のみが食物の供給者であり、国費を支弁する納税者である以上、それのみが公民であって、その以外の者は、たとい相当の代償を払っても、食物をこれに乞う以上乞食と言われても致し方がなかったのであろう。漁家の子たる日蓮聖人が、「畜生の身なり」と言われたのも、全くこの意味からであったと解せられる。
俳優或いは人形舞わし、その他の遊芸者を、古く河原乞食と云った。「河原」ということは後に説明する。これを乞食といったのは、右の乞食の意味を示しているのである。彼らはもとホカイビトの徒であった。ホカイビトはすなわち「祝ほぐ」人で、その語がただちに乞食を示すの語となっている。今も地方によっては、乞食の事をホイトという。ホカイビトの略称である。彼らは人の喜びそうな祝言ほかいごとを述べて、食を乞うて生きて行く。これすなわちホカイ人である。しかしただ口先で祝言を述べただけでは、長く顧客の心をつなぎ難きが為に、彼らも次第に工夫を加え、声に抑揚曲節をつけ、楽器を用い、手振り足振りを加えて、歌を歌い、楽を奏し、踊りを踊る。なおそれに満足せず、はては人形を持ち出す。物真似をする。遂には各種の遊芸がこれから出て来るのである。
その一例として、右に述べた西の宮の傀儡師は、最も適切なる由来を有している。摂津西の宮の付近には、もと「産所」という部落があった。これは後に説明するところの「散所」の義で、浮浪民の住みついた所である。その住民は西の宮の百大夫を祖神と仰ぎ、ホカイをなすにも、西の宮の夷えびす神の木偶を作ってそれを舞わす。これを古く「恵比須かき」とも、「恵比須舞わし」とも云った。彼らは手に恵比須の人形を舞わしつつ、節面白く目出度い限りの祝言を述べる。それがもとで、遂には他の人形をも舞わすようになり、後には浄瑠璃に合せて段ものを演出し、遂には「道薫坊どうくんぼう」と云われた人形舞わしが成立した。道薫坊とは「木偶でくの坊」ということである。関西地方ではそれを訛ってデコンボウと云い、元祖と仰ぐ百大夫に付会して、道薫坊などともっともらしい名を按出したのであった。デクとは、詳しくは「手クグツ」と云い、手に持って舞わす人形、すなわち手傀儡の事である。クグツすなわち傀儡子が、往々にして人形を舞わすので、はてはその人形のことをクグツとも、手クグツとも云ったのであった。
この西の宮の人形舞わしが、後に淡路の国府付近に移って、ここに大発展をなした。その地を三条というのは、文字は変っているがやはり散所の義であろう。或いはここにももと散所の者がいて、それが西の宮の散所の芸当を伝えたのかもしれぬ。この人形舞わしは、西の宮では早く亡びたが、淡路にては大発達を遂げて、一時は人形座の数が四十にも及び、後には十八座となり、今もなお五六座は遺っていて、全国を興行してまわっているという。やはり一種の旅芸人と云うべきものである。
これはただ具体的の一例を述べたに過ぎないが、ホカイ人は、かく一方では人形舞わし専門の遊芸者となったと同時に、一方では神を慰めるための神楽にも発達した。西の宮の傀儡師も、やはりもとは夷神の神慮を慰める為だったとも云っているが、これは人形の方に発達し、神楽は手先の芸当の方に発達した。神楽と云っても、神子みこが鈴を振り、笛に合せて、神前で舞を舞うばかりではない。これにもいろいろの芸当を取り入れて、滑稽な身振りをして人を笑わせる。東京辺りでよく演じている丸一の大神楽と云うのがその一例である。彼らは皿を廻したり、毬を投げたり、出刃庖丁を操ったり、鼻の先へ棒を立てたり、昔の傀儡子がなしたような色々の所作事を演じている。その名は相変らず神楽と云っても、実は一派の遊芸者になっているのである。
このほか東京近在の馬鹿囃ばかばやしと俗に称する一種の遊芸も、やはりお神楽と云っているが、これは京都の念仏狂言類似のもので、もとはやはり同じような起原を有するものであろう。念仏狂言とは、念仏が遊芸の方面に発達したものである。彼らはもと課役を避けて出家した法師なるが故に、人の門に立って念仏を申し、供養を受けて生活した筈であるが、いわゆる仏の顔も三度という如く、ただそれだけでは聞き手の方が飽きて来るので、ついにはその念仏に抑揚曲節を付し、身振り手振りを加えて、歌念仏、踊念仏となる。これは空也上人が始めたと云われているが、近頃でも京都近在で行われている六斎念仏の如きは、名は念仏と云っても、その実全く一種の遊芸になっている。また壬生の大念仏と称する無言狂言が、今以て念仏狂言と云っているところに、これもその起原が窺われる。このほか田楽、猿楽、万歳などの芸能に従事するものも、もと田楽法師、猿楽法師、千秋万歳法師などと呼ばれて、やはりこの濫僧の徒の従事する遊芸となっておったのである。
かくの如き遊芸者は、それぞれ相当の技芸を演じて人の耳目を喜ばしめ、その代償として食を求めるのであるけれども、やはり乞食と呼ばれていたのであった。
10 河原者、坂の者、散所の者
濫僧は非人法師として、身を雲水に委して乞食生活をなすに好都合であったであろうが、多数の濫僧が輩出しては、もはやこれのみによって活きる事は出来ぬ。勢い何らかの職業に従事せねばならぬ。ここにおいて彼らは多く繁華なる都会に流れつき、都人によって職を求めんとする。或いは村落に寄生して、村人によって生活の道を講ずる。
当時にあって職業の最も求め易かるべき繁華な場合は、第一に指を京都に屈すべく、次には奈良であったであろう。その選んだ職業としては、第一に市民の為に労働して、その日その日を送って行くという、今日のいわゆる自由労働者や、上方かみがた地方でいわゆる手伝(テッタイ)の如き道に流れて行った。すなわち雇われて走り使いをする、掃除をする、庭作りをする、大工左官等の職人の臨時助手となる。或いは道普請をする。井戸掘りをする、墓の穴掘りをする、葬式の手伝いをするという風に、種々の雑役に従事するのである。或いは昔の雑戸の亜流となって、草履を作り、靴を作り、弓矢等の武具を作る等、その他雑多の家内工業に従事する。そしてその製作品を販売する行商人、店売たなうり商人となる。或いは遊芸を事として、人の門に立ち、または路傍に技を演じて米銭を貰うという、いわゆる移動芸術家、街上芸術家となる。もちろんその婦人には、淫を鬻ひさいで遊女となるものもある。しかしながら彼らの取った職業の中で、最も注意すべきものは、社寺或いは村落都邑に付属して、その警察事務を受け持ち、その安寧を保障する事であった。盗賊の番、火の番、野番、山番などを始めとして、押売強請者の追っ払い、行倒れの取片付け、行路病者の保護、行倒れ人の跡始末という風に、およそ今の警察官の行うところを行ったものであった。この場合彼らはその報酬として、各自の受持ちの区域なり村落都邑なりから、一定の扶持を得て生活していたのである。
かくの如くにして彼らは相当の職業を得て、一所に定住するに至っても、本来浮浪民である。今日の如き手軽に宿泊する木賃宿の如き設備のなかった時代にあっては、彼らは便宜空地を求めて、小屋住まいをせざるをえなかった。京都では主として賀茂川の河原に小屋掛けをして、いわゆる河原者と呼ばれていた。或いは東山の坂、ことに清水坂に最も多く集まった。清水坂は東海道の要路に当り、自然に往来の人が多く、生活するには便宜が多かったのである。これを坂の者と呼んだ。奈良では奈良坂の坂の者が最も有名であった。その他各地の村落都邑に住みついたものは、いずれもその町外れや村外れの空地に小屋住まいをした。これを普通に散所の者と云う。これは主として上方かみがた地方で呼ばれた名称であるが、地方によっては、その住地の状況から、山の者、野の者、島の者、谷の者などと呼びならわした所もある。或いはその住居の状況から、宿しゅくの者、垣内かいとの者などと云い、職業とするところから、皮屋、皮坊、皮太、茶筅、御坊、鉢屋、簓ささら、説教者、博士など、種々の名称があるが、要するに河原者と云い、坂の者と云い、或いは散所の者などと云っても、宿の者、皮屋、鉢屋などと云っても、つまりは同じ流れの浮浪者の群で、ただその居所や生活の状態、或いはその職業とするところによって、名を異にしたにほかならぬ。通じては非人法師である。今日浮浪民の事を、地方によって「サンカモノ」と云うのは、「坂の者」の転訛で、サカノモノがサカンモノになり、転じてサンカモノとなったのである。また前記の如く俳優或いは人形使いの如き遊芸人を、古く河原乞食或いは河原者と云ったのも同様で、もと遊芸者が多くこの徒から出たが為に、たまたまその名称が彼らの間に伝わったのであった。サンジョの者と云ってもやはり同じ流れであるが、後世ではその原義が忘れられて、或いは「算所の者」と書いて、占をしていたからの名だとか、或いは「産所の者」と書いて、昔は産の穢を忌んで、場末に産小屋を設ける習慣があったが、彼らはその穢れた場所に住みついたものだったからだとかの説をなすものも無いではなかった。
落伍者はいつの時代にも生ずる。大正十二年の関東大震火災によって、一度に生じた多数の罹災者の中には、もしこれが古代に起ったのであったならば、おそらく多くの非人が生じたのであったに相違ない。徳川時代にも、落伍者が多く京都や、江戸、大坂等の、大都会に集まった。それを京都では、悲田院の長屋に収容して、その中で年寄と称する役員を置いて取り締らせたが、これをすべて非人と呼んでいた。もちろん彼らとて、無償で養ってもらったのではない。労働しうるものにはそれぞれ適当なる職を与えて、生活の道を講じさせたのであったが、それでもやはり彼らは非人と呼ばれていたのである。その職業の主なるものは、京都の町の警察事務、監獄事務で、そのほかに遊芸、雑工業、井戸掘り等にも従事した。昔の浮浪民と同じ道を歩んだのである。
京都における悲田院の非人の数は年とともに段々増加して、当初の粟田口付近の一箇所のみに収容し難くなり、他に五箇所の収容所を設けて、いわゆる垣内かいとをなした。垣内かいととはもと村と云う程の義で、特にこの非人部落を呼ぶ場合にその称呼を用い、垣内の者などとも云った。大坂では天王寺村、そのほか千日前、鳶田、梅田等に非人小屋があり、また江戸では浅草と品川とに非人溜たまりがあって、善七、松右衛門の両名がいわゆる非人頭となり、エタ頭弾左衛門の下に属していた。そのほか奈良にも、また諸大藩の城下にも、同様の施設が少からず存在した。地方によって多少趣きを異にしていても、要するに落伍者の流れ行くところは古今その軌を一にしたもので、これみな昔の河原者、坂の者、散所の者に相当するのである。
 

 

11 祇園の犬神人
浮浪民が社寺或いは村落都邑に付属して、種々の職業に流れて行ったことは、既に簡単に概説したところであるが、その社寺に属するものとしては、京都東寺の掃除散所法師、同祇園感神院の犬神人いぬじにんすなわち弦召つるめそなどが有名である。
東寺では、散所法師という名称のままで、寺の警固掃除の任に当っておった。彼らは京の信濃小路通猪熊の西に散所部落を成していたもので、東寺に付属して境内の掃除をする、或いは土木工事に従事する、警固の事に当るというような、種々の任務に服していた。その顛末は不幸にしてこれを明らかにする史料が不備であるが、祇園の犬神人の方は、この社が延暦寺に属していたが為に、その活躍も目立たしく、史料も比較的豊富に遺されている。よってここにややこれを詳説して、一般浮浪民の流れ行く道を具体的に示すの一例として提供したい。
祇園社所属の犬神人は、いわゆる坂の者、すなわち清水坂の非人法師であった。彼らは時に犬法師とも呼ばれていたらしい。祇園は神社であると同時に寺であったから、神事にあずかる方から神人じにんと云い、本来非人法師であるが故に法師とも呼ばれたのであろう。彼らの職務はやはり警固が主で、門番をするが為にこれを犬にたとえて、犬神人とも犬法師とも云ったものと解する。蓼たでに似て非なるものを犬蓼いぬたでというように、神人に似て非なる故に犬神人と云ったとの古い説があるが、これは妥当であるとは思われない。
祇園社付属としての彼らの職務は、東寺の散所法師と同じように、境内の掃除、穢物の取り片付け、或いは警固、門番、土工等に従事し、特に祭礼の節には、行列の先頭に立って警戒をなし、時に或いは神輿を舁かつぐ等の事をなしたが、主として警察事務に従事したのであった。
しかし彼らはこれらの表職のほかに、傍ら普通の非人の行くと同じく、種々の工業に従事している。すなわち弓を作る、矢を作る、弓弦ゆんづるを作る。或いは靴を作ったので、「祇園の靴作り」とも云われていた。伝教大師が支那から靴を作る法を伝えて、これを彼らに教えたと云われている。これはもとより信ずるに足りないとしても、彼らは一方で立派な家内工業者であったことは確かである。
彼らはまた弓弦を行商する。弓弦は武士ばかりでなく、昔は普通の民家で綿を打ち和らげる為に使用し、その需要が多かったのである。その売声の「弦召し候らへ」と云うのが、ツルメソと聞えるので、それで彼らはツルメソと呼ばれていた。すなわち彼らは一方では行商人であったのだ。
このツルメソのおった場所は、今の建仁寺の東の方で、その地を今に弓矢町と呼んでいる。これは彼らが自己の製作した弓矢等を、店に並べて売っていたからで、彼らは一方では店売商人であった。
彼らが祇園祭の警固に出るには、甲冑に身を固めて太刀を帯し、武士が戦場に赴くが如き出で立ちをしたものと、一方には「六人の棒の衆」と称して、法衣類似の衣服を着て、頭をつつみ、六尺棒を持った法師姿のものとがあった。すなわち一方では武士の仲間であり、一方では依然非人法師の身分を保存していたのである。今日でも祇園祭の行列には、必ずこのツルメソの参加がなければならぬことになっている。これも時代によって段々風が変っているが、今日では甲冑を着した威風堂々たるものが、大道狭しと大手を振って、行列の先頭に立っている。もちろん昔の犬神人の子孫ではなく、普通の氏子の中から出るのであるが、やはり旧称を存してツルベサンと呼んでいる。
祇園は叡山の末寺であった。したがって山法師出動の際には、ツルメソは常にその先棒となって、破却打壊しの任務に当っていた。彼らは山法師の使嗾しそうによって建仁寺を破壊した。仏光寺を破壊した。天龍寺を破壊した。法然上人の墓処を破却した。彼らは実に僧兵の下働きとして、暴力団の任務を行ったのであった。
彼らはまた一方では、同時に乞児すなわちホカイビトの亜流であったらしい。祝言を述べて他を祝福し、米銭を貰うのはすなわちホカイビトで、坂の者の本来の所業であったが、犬神人の間には徳川時代になっても、なおその遺風が多少存して、正月元日の早朝には、禁裏御所の日華門前において、毘沙門経を読誦する例であった。毘沙門天は七福神の一つにも数えられた福神で、彼らが禁裏の御門に立ってこの毘沙門経を読誦することは、やはりいわゆるホカイビトたる非人法師の名残であったと解する。また彼らは正月に赤色の法衣を着、顔を白布で包んで目ばかりを出し、懸想文けそうぶみを売って歩く。今の辻占売のようなもので、それを買ったものはそれによって縁起を祝った。やはりもとホカイビトの所為である。
ツルメソはまた、京都市内の葬式に干渉する特権を持っていた。南北朝時代にも、彼らを経ずして葬儀を営んだが為に、彼らから故障をつけられたという事実が、「祇園執行日記」に見えている。彼らはけだし京都市中を縄張りとして、その葬儀担当の権利を主張したものであったのだ。彼らは本来非人法師で、いわゆる三昧聖として、もとから葬儀に関係していたのであろうが、祇園の所属たるに及んで本寺たる叡山の威光を笠に、京都市中を縄張りと定めたものと解せられる。徳川時代になっても、彼らは折々市内の墓地を見て廻り、新しい墓の出来たのを発見すれば、たちまち寺院に故障を持ち込む。寺ではその煩を避けて、盆暮に寺相当の祝儀をツルメソに与えて、見のがしてもらう習慣になっていた。すなわち彼らはいわゆる「御坊おんぼう」であったのである。現存文献の伝うる限りでは、彼らが実際上に自身普通の葬式に干与したことは明らかでないけれども、或る特殊の葬式には、やはり後までも直接その事に与り、今以てその習慣が遺っている場合がある。すなわち先年の東本願寺光瑩上人の葬式の時に、六人の「宝来」と称する者の参加したのはこれである。彼らは赤い法服類似の衣を着、白布を以て頭をつつみ、樫の棒を持つ。これは昔祇園祭の警固に出た六人の棒の衆と全く同じものである。本願寺の伝えに依ると、昔親鸞聖人が越後に流されておられた時に、かねて聖人に帰依していた靴作りのツルメソが、越後まで度々来て京の消息を伝えてくれた。それを聖人が非常に喜ばれて、ツルメソが来るのを宝が来たように嬉しく思われたというので、それで彼らのことを宝来と云った。彼らも聖人の知遇に感じて、聖人の御葬式には荼毘の役をつとめ、爾来代々の法主の葬儀に参列する例になったというのである。けだし彼らは行商人として遠く越後までも行ったもので、聖人と或る関係を結んだということはあったであろうが、しかし事実は本願寺のみに限らず、仏光寺などでも同じ事であったという。もっとも先年の東本願寺の葬儀に出た宝来なるものは、無論昔のツルメソの子孫ではない。新聞の報ずるところによると、大阪の阿弥陀講中の人々がこれを勤めたと云うことであった。しかしその風態は、まさしく祇園祭に出た古い時代のツルメソ中の、六人の棒の衆と同様で、彼らで事実「御坊」として葬儀を扱った名残を止めていると云ってよい。
要するに祇園所属のツルメソすなわち犬神人は、非人法師の一つたる清水坂の坂の者として、大体においてはあらゆる非人法師の歩んで行った路を歩んだもので、祇園所属として有力であったが為に、特に代表的に発達し、他の人々が次第に職業によって分れ行くところを、彼ら多くは兼ね有していたのであった。ただ彼らにおいて見ざるところは、遊芸の側の発達のみであるが、それも史料が遺っておらぬというだけで、事実はやはりこの方面にも関係していたものかもしれぬ。
12 長吏法師と宿の者
浮浪民たる非人法師の仲間には、それぞれ長たるものが出来てこれを統轄し、自然と不文律による自治制が行われていた。その長たる非人を長吏法師と云い、その下に属する平非人を小法師という。浮浪人の長の事は既に「霊異記」にも見えて、由来すこぶる久しく、彼らはそれぞれ縄張りを構えて、その縄張内の浮浪人を雑役に駆使し、調庸を徴乞したとある。すなわちその縄張内で生活の道を求めんとするものは、必ずその長に運上を納めなければならなかったのだ。同書に、神護景雲三年に京の或る優婆塞うばそくが、修行して加賀に托鉢していたところが、その処の浮浪の長たるものが、調を責めてこれを凌轢したが為に、現報を得て横死したという話がある。
原則としては、浮浪民は無籍者として、国法以外に置かれたものであった。「江談抄」に、非人たる賀茂葵祭の放免ほうべんが、綾羅錦繍を身に纏うて衣服の制に戻もとるとの非難に対し、彼らは非人なるが故に、国法の関するところにあらずとの説明が与えられている。その代りに彼ら仲間の規律は極めて厳重で、いわゆる「仲間の法」による制裁はかなり峻烈に行われたものであった。前記加賀の浮浪人の長が、廻国の修行者に私刑を加えたとあるのはその一例である。また彼らは、仲間同士の階級意識もかなり濃厚であった、鴨長明の「発心集」に、京都清水坂の坂の者の事について、興味ある話が見えている。或る僧が途中に、坂の者すなわち清水坂の非人法師等の語りつつ行くを聞くに、近江はいみじき運者かな、坂の交りまだ三年にもならぬに、よい役をあてがわれたと云った。その僧これを聴いて、かかる賤しい非人の身分にも、やはり運がよいとか、悪いとか、出世するとか、せぬとか云うことがあり、またそれを羨み妬むなど云うことがあるのかと、大いに感じさせられたというのである。この話は、当時いわゆる非人法師等が、いかに世間から賤しめられ、度外視されていたかを示し、また彼らが諸国から流れて来て、長吏法師の手下に属して、次第にその数が殖えるに従って、その仲間のうちにそれぞれ階級が出来、一つの組織立った団体となって、役々によって統率せられていたことを示しているのである。ここに「近江」と呼ばれた男は、三年前に近江国から出て来たものらしく、それで近江と呼ばれていたと察せられる。彼らは諸国からの落伍者の集まりで、それぞれ郷国の名を以て呼ぶ例であった。寛元年間の清水坂と奈良坂との非人闘争に関する訴訟文書を見ると、中には法仏法師とか、阿弥陀法師とかいう類の、仏法臭い名のものもあるが、大抵は備中法師とか、土佐法師とか、近江法師、伊賀法師、摂津法師、越前法師、播磨法師、淡路法師、若狭法師などというように、国名を名乗ったり、或いは吉野法師とか、明石法師とかいうように、一地方の名を呼んで、彼らが諸国から集まった落伍者の群であることを示している。
鎌倉時代には、京の清水坂の非人法師と、大和の奈良坂の非人法師とが最も勢力があった。その長吏は他の多くの非人部落の上にも勢力を及ぼして、大親分となっていた。清水坂の非人は祇園感神院に属し、奈良坂のは東大寺に属しておったから、ここにも南都北嶺争覇の影響が及んでいたものらしく、仁治、寛元年間に縄張争い等の事から軋轢を始めて、奈良坂の非人が清水坂の非人の或る者を味方につけ、清水坂を襲撃して、その長吏法師を殺したという事件が起った。そこで清水坂からそれを東大寺に訴え、奈良坂の方からこれを弁明した訴訟文書が遺っている。これを見ると、徳川時代における侠客間の、縄張争いの大喧嘩の如きものであった様子が知られる。
これらの非人部落を普通に「宿しゅく」と云った。当時大和には五十七宿あって、それが奈良坂の長吏の下に属していたのであった。
宿とはもと浮浪民の宿泊所ということで、それが非人部落の名称となったものらしい。古代にあっては、後世の如く旅宿の設備が整っておらぬ。公用を以て旅行するものは駅に宿し、身分のよい者ならば臨時に仮小屋を構えて宿泊する。普通の人は、知音を尋ね、或いは人の好意によって、宿を貸してもらう場合のほかは、いわゆる野臥山臥をしたものであった。もっともこの時代には、普通の人民が遠方に旅行をすると云うことは少く、長途の旅行を常に行うものは、大抵廻国の頭陀ずだか、浮浪民かで、いわゆる一処不住の旅芸人、或いは渡り職人、旅商人とか、乞食法師とかの類であったが、かかる類の者は、善根宿ぜんごんやどとして修行者を宿泊せしめる場合のほかは、普通の民家には宿泊を許さない。また彼らが旅稼ぎを為すには、既に述べた如く、所在の浮浪人の長、すなわちいわゆる長吏法師の縄張りを侵すものとして、まず以てその地の長吏に渉りをつけなければならぬ。すなわちその部落に足を留めて泊めてもらう。あたかも徳川時代に、博徒の親分というものが各々縄張りを定め、旅人たびにんと呼ばれる渡り博徒が、そこへ来て「草鞋わらじを脱ぐ」という有様であったに相違ない。すなわち浮浪民の宿所であるが故に、いつとはなしにその部落を「宿」と云うことになったのであろう。かくてその足を留めるものが段々増して、非人部落すなわち「宿」は次第に大きくなる。言うまでもなくその長吏法師は、その「宿の長者」なるもので、その下につく小法師等は、いわゆる「宿の者」である。その「宿」が発達して、一般旅人を宿泊せしめる「宿駅」となるものもあれば、「宿の遊君」を置いて婬蕩の方面に発展し、ついには遊女を以て宿の長者の名をもっぱらにせしめた場合もある。
上方地方には、後世まで「シュク」と呼ばれた一種の賤者があった。文字には通例「夙」と書くが、もとはやはり「宿」と書いていた。これももとは上方には限らず、関東地方でも、九州地方でも、中国筋でも、奥州地方でも、また同様であって、今に村落都邑の場末に、よく単に「宿」とか、何宿とかいう地名のある所が多い。今では人家もなく、単に地籍名として遺っているのもあれば、立派に普通民の部落となっているものも少くないが、もとはけだし各地共通の意味があって、浮浪民の宿泊所たる非人部落があった所であるに相違ない。或いはそれを宿駅の「宿」と解する説もあり、事実それが街道筋の宿駅として発達しているのもあるが、その起原必ずしもそうでなく、また実地がそう街道筋であったとは思われないものが多い。
大和河内地方のいわゆる「宿」については、前述の如く、普通に「守戸しゅこ」の訛りだと説明せられ、その陵墓のない地方のシュクについては、その名が他の同じ階級の賤者に及んだのであろうと説明されていた。多数のいわゆるシュクの中には、或いはかかる起原のものがないとも限らぬ。しかし一般的にいわゆる「宿の者」が守戸からのみ起り、或いはその名称が他の同じ階級のものに及んだとは考えられぬ。たまたま「守戸」の名が「宿」に似ているので、その徒をもシュクと呼ぶに至ったのがあったとしても、それはむしろ例外であろう。しかるに上方のいわゆるシュクの徒の中には、世間から軽侮忌避さるるに対する自衛上の努力から、種々の起原説を唱えているものもある。その中には非常な富豪もあって、徳川時代に知名の学者に依頼したり、或いは京の公家衆に因縁を求めたりして、都合のよい説を宣伝した。シュクは光仁天皇の皇子春日王の後だなどとも云っている。春日王は癩病になられたがために、奈良坂に隠棲し給い、その子の弓削浄人がこれを孝養するについて、朝夙はやく起きて市中に花売をした。それで市人が弓削夙人はやびとと云った。それが「夙しゅく」の元祖であるなどという。或いは自分らは野見宿禰の率いた土師部の子孫である。土師部の首領たる土師連家は早く足を洗って、菅原、大江、秋篠等の学者の家になり、菅原道真というような大人物もその家から出たが、相変らず葬儀に関係して、いわゆる「御坊」をやっていた部下の土師部の子孫等は、取り遺されて遂にシュクと云われたのであるという。或いは夙の先祖は高貴の葬儀の際における殉死者で、その実殉死したと見せかけて墳墓から逃れさせてもらった代りに、永久日蔭者となって葬儀に関するものになったのだなどとも云っている。要するにみな後世の付会たるにほかならぬ。
しからばすなわち「宿」は非人部落の通称と云ってもしかるべきもので、それがその執る職業によって、他の名称を以て呼ばれたり、或いはもとの名が忘れられたりして、特に上方地方にのみ、主としてその名称が遺ったものと解せられる。彼らは他の非人の行ったと同じ道を行って、種々雑多の職務に従事した。葬儀に与っては「御坊」と呼ばれ、遊芸に「宿猿楽」の名もある。警察事務またその重要なるものの一つであった。これに関して最も正確な証拠文書を伝えているのは兵庫の「宿の者」である。兵庫には今も宿の八幡という神社があって、そこに昔は宿の者の部落があった。彼らは兵庫の津に付属して、地方の警察事務に従事していたのである。これに対して慶長十七年に、大坂の奉行片桐且元から、その報酬すなわち扶持を規定した文書を与えられている。これによると、兵庫の宿の住民は、平素宿の者を煩わすことが多いので、これに対して相当の報酬を与うべきものであった。すなわち兵庫の津からは、毎年盆に二貫文、暮に五貫文の銭を宿の者に与える。田地持は田畠大小にかかわらず稲一把ずつを与える。湯屋、風呂屋、傾城屋は、特別に人の出入りがあって、宿の者を煩わすことがことに多いので、盆暮に二百文ずつを与える。或いは富有の者からは、祝儀不祝儀の際に、二百文ずつを与える。また宿の者が罪人を捕えた場合には、肌付きの着物は宿に与える。かように宿の者の警察事務担当に対する報酬が、文書を以て規定されているのである。つまり「宿の者」というのは、或る村或る町に付属し、長吏支配の下にあるその町の常雇の警察吏というべきものであった。ことに人だかりの多い場所には、必ず宿の者が警固する。それ故に人集だかりのする営業者や、或いは富有なるものの祝儀不祝儀の際などに、宿の者に一定の金を与えるのは、つまりこれに対する報酬で、彼らは権利としてこれを要求することを認められていたのである。
これを要するに長吏法師は非人部落の長たるもので、小法師なる平非人は、その配下に属して雑多の職務に従事したのであった。しかるに後世にはこの名称や関係が忘れられ、長吏の名は普通にエタと呼ばれた或る一部族にのみ残り、小法師の名は、禁裏御所の御掃除人や、江戸の筆屋の屋号などに残るのみとなった。しからばエタとはいかなるものか。
13 いわゆるエタ(餌取、穢多)
徳川時代も中頃以後には、社会から賤視せられた階級のものが、種々の流れに分れていたが中にも、特にその身が穢れたものとして、一般社会から接触交際を厳重に忌避せられ、したがって普通には最も賤しきものとして視みられていた一部族があった。いわゆるエタである。関東地方や九州地方には、これを長吏或いは長吏ん坊などと呼んだ所もある。彼らはもと屠殺製革の業に従事したもので、それで学者の筆にした場合には、普通にこれを「屠者」と書き、通俗には皮太、皮屋、皮坊、訛ってカンボウなどと呼んでいたが、或いは山の者、谷の者、島の者などと、その居所によって名に呼んだ所もあり、或いはこれを御坊、番太、ホイトなどと混同して呼んだ地方もある。
しかしながらつらつらその名称の沿革を尋ねてみると、エタと称せられたものの含む範囲は、時代によって一様ではなかった。
徳川時代の賤者に関する法令の文には、普通に穢多非人の称を用いて、その間に或る区別の存在が認められていた。
エタはすなわち屠殺業者皮革業者で、職業上当時の迷信から、その身に穢れ多しと認められたから、これを文字通りにもっぱら「穢多」と称し、その以外のものを総称して「非人」と云ったものと解せられる。しかしそのほかに、エタともつかず非人ともつかぬもの、すなわちエタに類するもの、非人に類するものが、また多かった筈である。例えばかの御坊(俗に隠亡、穏亡、※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)坊などとも書く)の一類、すなわち上方地方の宿(夙)、山陰道筋の鉢屋はちや、山陽道筋の茶筅ちゃせん、北陸道筋のトウナイなどと呼ばれた人々の如きは、もと葬儀にあずかり、屍体の穢れに触れるので、やはりその身が穢れていると思われてはいたが、普通には皮太すなわちエタ程には世間からは忌避されず、さりとていわゆる非人とも違っていた。また乞胸ごうむねの名を以て呼ばれた大道芸人、縁日芸人、或いは猿引すなわち猿舞わしの如く、町家に住居して遊芸の生活をするものは、また非人小屋、非人溜りにいる非人とは別であった。
しかもこれをその本源に遡って考えたならば、エタも非人も実はもと一つの流れのもので、徳川時代の初頃までは、すべてを通じてエタとも非人とも呼び、その間に名称上の区別がなかったのである。しかるにその執とる職業の性質によって、世間のこれを見るところに段々と相違が出来、幕府の法令の如きも、関東のエタ頭弾左衛門の家法によって、ついにエタと非人との区別を立てたのであった。
彼らはもと通じて河原の者であり、坂の者であり、散所の者であった。それは後までも往々名称の上に残っている。かの河原者と云えば遊芸者のこと、坂の者すなわちサンカモノと云えば浮浪民の名称だと心得られていたのは、彼らがもと河原者、坂の者の流れであったことを伝えたのである。されば徳川時代もまだ寛水の頃までは、エタと非人との間にそうハッキリした区別はなく、通じては三家者さんかものとも云ったのであった。袋中和尚の「泥※(「さんずい+亘」、第3水準1-86-69)ないおんの道みち」には、いわゆるエタも非人も、獣医すなわち伯楽も、関守、渡し守、弦差つるさしすなわち犬神人つるめそなどの徒をも、みな一緒にして三家者と云っているのである。袋中は戦国時代に生れ、寛永年間九十三歳で死んだ人で、彼の目にはまだエタ非人の間に判然たる区別はなかったのであった。
さらに遡って室町時代の「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄あいのうしょう」には、「河原者をエツタといふ」とある。また鎌倉時代の「塵袋」には、「キヨメをエタといふ」ともある。キヨメは文字に「浄人」と書き、やはり河原者の仲間で、「延喜式」にいわゆる濫僧の徒である。それを或る場合には、通じてキヨメとも云ったのであった。「今物語」に、或る五位の蔵人が、革堂こうどうで窈窕ようちょうたる佳人を見てそれに懸想し、そのあとをつけて行ったところが、一条河原の浄人きよめの小屋に這入ったという話がある。かの女はすなわち河原者の娘であったのだ。「塵袋」には、そのキヨメの事を一に「濫僧」と書いて、「ロウソウ」と云うとある。この場合濫僧すなわちエタであったのだ。そのほか漁師狩人など、殺生肉食を常習とするものをも、鎌倉時代には一般にエタの仲間に入れておった。前に引いた如く、かの日蓮聖人は房州小湊の漁師の子であったというので、自ら「旃陀羅せんだらの子」すなわち「エタの子」であると云っている。それで「大日本史」などには、日蓮は屠者の子なりと書いてあるが、決していわゆる屠者の家より出たのではない。しかし既にその父が漁夫で、殺生者である以上、厳格に云えばやはり屠者の仲間で、すなわち非人であるから、普通の人間ではない、畜生であるという解釈によって、「畜生の身なり」とも、また「身は人身にして畜身なり」とも云っているのである。
かくエタという名称は、鎌倉時代以来甚だ広い範囲に渉って用いられ、非人との間にあえて区別を認められなかったのであったが、さらに遡ってその語本来の意義を尋ねれば、決してそんなものではない。
そもそもエタという名称の、最も早く物に見えているのは、自分の見た限りでは、前引鎌倉時代の「塵袋」である。この書には「穢れ多し」と書いて、「エタ」と読ませている。しかもそのエタと云う語の本来の意味を説明して、「餌取えとり」ということだと云っているのである。エトリが訛ってエタとなったというのである。
餌取とは、鷹や犬に食わせる餌を取るを職とするもので、徳川時代の餌差えさしというに同じい。昔は高貴の御鷹狩を催される為に主鷹司たかづかさという役所があり、餌取はその主鷹司に付いている雑戸の類であった。天皇以外貴紳の徒も鷹を使って、三位以上は餌取を二人、四位以下は一人を抱えていたとある。そして餌取の扱う鷹や犬の餌すなわち食料には、通例死牛馬の肉を用いる。したがって餌取は平素死牛馬を屠るの屠者で、職業上常に獣肉を扱い、これが為に一般世間が肉食を忌み、特に牛馬の肉を一切喰わなくなった後にまでも、彼らは相変らず古来の習慣のままに、肉食の俗を有しておった。それ故に仏法者の方ではこれを排斥して、天竺の旃陀羅に比し、甚だしくこれを憎んだものであった。
無論餌取以外にも、殺生肉食を常習とする屠者はある。しかもこれらはやはり餌取同様、仏法の方から云えば、悪業を為す悪人仲間である。したがって都人に耳近い餌取の称を一般屠者に及ぼして、「屠者」または「屠児」と書いてエトリと読ませる例であった。その中でも特に死牛馬を屠る習慣を有するものを、最もひどく排斥し、この思想は鎌倉時代から室町時代に至って一層ひどくなったものらしく、「塵袋」や「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」には、これを悪人と云い、「空華日工集」には、「人中最下之種」などとひどい事を書いてある。
かくて遂には自身屠殺を業とせずとも、肉食妻帯を常習とするいわゆる濫僧の徒をも、餌取法師というようになった。
濫僧と屠者とはもと区別があり、「延喜式」には、明らかに「濫僧屠者」と連記して、両者を別々に見ておった。濫僧も屠者も共にいわゆる河原者で、京都では下賀茂すなわち賀茂御祖神社付近の河原に多く住んでいた。また同じ頃の三善清行が、この濫僧の徒を評して、「形は沙門の如く、心は屠児に似たり」とあるのも、濫僧と屠者とは、同じ賤者ではあるが、その間区別のあるものだと見た証拠である。しかるにそれが後には一つものに見られることになった。つまり屠者も、濫僧も、同じく当時穢れとした肉食の徒であって、事実上だんだん区別がなくなったのだ。その日その日の生活に追われているような下層の落伍者は、肉を食わないなどとそんな贅沢は言っておられぬ。ことに古来肉食の習慣が根強く存していた我が国において、相変らず肉食が一方では行われたに不思議はない。かくてその徒のすべてが餌取すなわち屠者と同一視せられ、それが訛ってエタと言われるようになったのであった。しかもその中で、徳川時代に至っては、現に死牛馬を屠り、皮革を製造していたもののみが、特に「エタ」と呼ばれるようになり、他のものは普通に「非人」として、その間に区別が認められるようになったのである。そして一旦「エタ」として認められたものは、後に屠殺業をやめて純農民に変っても、相変らずその素性を賤しまれて、容易に「エタ」仲間から脱出することが許されなかったのであった。
14 肉食の禁忌と屠者えとり
大宝令の規定するところ、賤民の主たる家人奴婢の徒が特に賤民として差別されたのは、階級意識の濃厚な時代における、社会の秩序維持の犠牲となったものであったが、特にこれらとは種類の違った陵戸が、雑戸の中から抽出されて、賤民の一つとして数えられたのが、触穢の思想の結果であったことは、既に述べた通りである。そして平安朝以後における新賤民が、ことに社会から隔離忌避されるに至ったのは、やはりこの触穢禁忌の思想の、一層濃厚になった為である。
触穢の禁忌とは、我が神明甚だしく穢れを忌み給うが故に、これに触れたものは神に近づくべからずとの思想で、その穢れという中にも、中世には肉食が最も重いものとなっていたのである。
我が国は本来そう肉食を忌まぬ国であった。奈良朝頃までは豚までも飼って食用に供したのであった。したがって神にも生贄として獣類を供え、上は一天万乗の天皇を始め奉り、下は一般庶民に至るまで、みな一様に肉を食したのである。したがってこの時代には、無論肉食を以て穢れとするような思想があった筈はない。しかるに仏法が広まってより以来、殺生を禁ずるという意味から、肉食は段々と排斥せられる事になった。既に天武天皇の御代から、動物の内でも牛馬犬猿鶏の五畜に限って、その肉を喰うことを禁止せられた。牛馬はもちろん人に飼われて、耕作運搬等の人助けをする。鶏は時を告げ、卵子を与える。犬は夜を守り、猟の手伝いをする。また猿は人間に一番近い動物であるから、人情上殺して喰うには忍びないという意味である。さればこれは単に肉食の禁というのとは意味が違う。しかるに後には段々それがひどくなって来て、我が神明穢れを忌み給うという思想に付会して、肉食は血腥なまぐさく、神がその穢れを嫌ってこれを近づけないという事になって来た。しかもなお同じ肉食殺生といっても、相手によってその罪に軽重があるとされていた。獣類を殺し、その肉を喰うことは、鳥類魚類を殺してこれを喰うよりも罪が深い。鳥類を殺し、その内を喰うことは、魚類を殺してこれを喰うよりも罪が深い。これは人情から出発したもので、獣類や鳥類は、いかにも殺されるのを恐れて、明らかに苦しがる事がよく人の目にも見られるが、魚類はそれ程でない。そこで同じ殺生と云っても、魚類は一番罪が軽く、獣類は一番重い。中にも人間に親しいものとか、近いものとかは最も罪が重いわけである。したがって、肉食を忌むようになっても、魚肉を食うことはそれ程ではない。鳥類も或る程度までは許されたが、獣類すなわち四ツ足に至っては、絶対に禁ぜられた。中にも牛馬の如きは、もはや議論の外であった。もちろん魚類といえども、それも殺生せぬ方がよい。そこで持統天皇の時から、或る特別の場合には、場所と時とを限って魚を獲ることを禁ぜられた事もあった。奈良朝に至っては、放生を以て大なる功徳の行為となし、捕えたり飼ったりした生き物を放つ。聖武天皇の御代には、豚までも山に放たしめた事があった。
肉食を忌む思想の由来はかなり古い。既に大宝の「神祇令」に、祭祀に当って神官は肉食を遠慮すべき事が規定されている。生贄を神祇に供し、神官はこれを屠るが故に「ハフリ」と呼ばれた時代にあって、神官自身これを喰うを忌むという理由はない。神道で肉食を忌むことは、無論仏教の影響の、神祇の上に及んだ結果に相違ない。しかもその殺生肉食禁忌の思想は、次第に濃厚になり、神は殺生を忌む、特に肉食の穢れを非常に嫌うという思想が、一般国民を支配する事になって来て、「延喜式」では、神祇にあずかる官人は平素でも肉を喰ってはならぬとある。まだその頃までは、祭祀関係者以外のものは平素はそれを忌まず、天皇の供御にも、明らかに猪鹿の肉を奉った事が「延喜式」に見えているが、爾後百六七十年も経った大江匡房の頃には、猪鹿の肉を喰ったものは、三日間宮中へ上ることすらも出来ないという習慣になっていたことが、「江談抄」に見えている。無論肉食の輩は神社に参詣することが出来ない。牛馬の肉はもちろんのこと、普通に食用獣として、その名までが「しし」(宍)、すなわち「肉」とまで、俗に呼ばれるようになっているところの、鹿や猪などの肉を喰っても、それから数日間は遠慮しなければならぬ。その日数は神社によって相違があって、石清水八幡宮がことに甚だしく、春日神社・稲荷神社・賀茂神社など、またいずれも厳重にこれを禁じていた。それも時代によって相違があり、鎌倉時代の習慣と思われる諸社禁忌の記するところによると、八幡宮は百日、春日や稲荷は七十日、賀茂・松尾・平野等は三十日とある。また八幡宮では、魚食のものでも三日間の禁忌とある。かくて肉食の徒は神罰を蒙るが為に、「宍しし喰った報い」という俗諺までが出来た。しかもなお神社によっては、後までも古風を伝え、信州の諏訪、摂津の西の宮、肥後の阿蘇、下野の二荒ふたらなどでは、祭の日にわざわざ御狩と称して、猪鹿を狩ってそれを生贄に祭ったという事もないではなかった。
肉食の穢れはひとり肉食者のみに存するのではない。自身肉を喰わずとも、その穢あるものと「合火あいび」したもの、すなわち会食したものにも穢が及ぶ。八幡宮では、猪鹿の肉を喰ったものと合火すれば三十日間参詣を禁ずる例であった。さらに「又合火またあいび」とて、合火したものと合火しても、三日間遠慮しなければならなかった。もちろん穢れたものと同席してはならぬ。穢れた家に這入ってもたちまち穢がその身に及ぶ。穢れたものが這入って来れば、その這入られた家のもの全体が穢れる。殺生肉食者は、神に近づくことが出来ぬのみならず、一切他家と出入りすることをも忌避されたのであった。かくの如き次第で、殺生肉食常習者は、次第に社交圏外に置かれ、普通民からは相手にされなくなる。餌取えとりすなわち屠者の如き肉食殺生常習者が、次第に人間仲間に置かれなくなったのも実際やむをえなかった。たまたまエトリという語が訛ってエタと呼ばれるようになったので、彼らは「穢れの多い身」だという訳から、都合のよい「穢多」という文字をこれに当てることになり、全く社会外の非人として認められることとなったのであった。
かく仏法では殺生肉食を悪事とし、神道の方でもこれを非常なる穢として排斥したが、しかし屠殺業も、皮革業も、社会にとっては必要な職業である。何人かがこれに従事せねばならぬ。ことにその日その日の生活に困るような社会の落伍者たる人々が、かくの如き職をも厭わずこれを行い、したがって古来の習慣のままに肉食の風習を伝えていることは、いかに一方で排斥されても実際やむをえぬ次第であった。
仏法は本来衆生済度の宗旨である。したがって肉食者なりとてこれを疎外する筈はなく、ひとしく慈悲の手をこれに加えて、これを善導することに怠らなかった筈ではあるが、しかし既に貴族的になってしまった天台宗や真言宗の如き旧仏教では、いつしかこれを顧る程の親切がなく、穢を忌んだ結果として、自然彼らを疎外することになってしまった。もっともこれらの戒律を重んずる宗旨では、自己の戒行を保つ上において、これらの徒に近づくことを避ける事も実際やむをえなかったであろう。かくて比叡山では、穢者の登山をまでも禁じておった。また高野山では、今でも山内諸院の門に、往々「汚穢不浄の輩入るべからず」という禁止の制札をさえ見る程である。比叡山では、昔は山の登り口に、女人禁制、三病者禁制、細工の者禁制の制札があったという。ここに細工の者とは、いわゆるエタの事である。彼らの中には、竹細工や、革細工や、草履・武具・筆墨等、各種の家内工業に従事するものが多かったので、一つに「細工の者」とも云われていた。かかる有様であったから、僧侶は自身肉食妻帯が出来なかったのみならず、屠者に近づくことも出来なかった。したがって、「家に妻子を蓄え口に腥※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを喰う」と言われ、「形は沙門の如く心は屠児の如し」と言われた濫僧ろうそう、すなわち河原の者、坂の者、散所の者等は、自然仏縁に遠いものとならざるをえぬ。彼らは自身法師であっても、如法の僧徒の方からは、下司げす法師である、非人法師である、餌取法師であるとして、仲間に入れられなかったのである。
旧仏教者がいかに屠者の輩を忌避したかについて、こういう事実がある。阿波の国では、室町時代の末から戦国時代にかけて、三好氏が勢力を有していたが、当時エタの事を「青屋」と云って、真言寺の方では甚だしくこれを排斥したものであった。青屋はすなわち藍染屋で、それがエタの種類であると云うことは、京都などでは余程後までも云っていた事で、徳川時代正徳の頃までも、藍染屋は役人村と云われたエタ部落の人々とともに、二条城の掃除や、牢番、首斬り、磔などの監獄事務を掌っていたので知られるが、その青屋を、勝瑞城下にある真言宗の堅久寺が檀家にしたので、同じ城下なる同宗の他の六ヶ寺から絶交を申し込まれ、堅久寺もやむなくこれを離檀して詫言をしたという事が、「三好記」に見えている。この書の著者は非常なるエタ嫌いで、同書にはいろいろと青屋すなわちエタの悪口を云っている。「青屋と申す者は化者ばけものにて候を、年寄より外存ぜず候。人間は生れぬ先の事は正しく存ぜず候故に、化けて人交り仕り候」とか、「エツタ交りする者は必らず滅び候と申して、堅くあらため申候。エツタ交りして家の滅びたるもの如何程も御座候」とか云っている。そしてその滅びたる証拠としては、三好長春(治)は青屋四郎兵衛の子の大太夫を小姓に使ったが為に滅んだのだとか、長春の小姓の山井図書は大酒飲みであったが、青屋にかたぎぬ着せたが為に乱心したとか、たたつ修理という侍は、青屋太郎右衛門の娘を息子の嫁に取ったところが間もなく死んだとか、そんな事をまで書いているのである。これ程にまで旧仏教の方では穢れを嫌い屠者の徒を忌んだのであった。
15 長吏と屠者
既に述べた如く、エタという名称はもとその含む範囲が甚だ広く、ことに鎌倉時代には、殺生肉食の常習者として漁師の徒までもその仲間に看做し、漁家の出たる日蓮聖人が、自ら施陀羅の子である、畜生の身であると言われた程であった。その広い意味のエタの中にも、現に死牛馬を屠り、皮革を製するものをのみ、特に後世エタと呼ぶに至った事も、また既に述べたところであるが、この狭い意味のエタの事を、或いはチョウリとか、チョウリンボウとか云った地方がある。長吏または長吏坊の意で、すなわちいわゆる長吏法師である。
非人部落の長なるものは、往々特権として己が縄張内に生じた死牛馬処理の業を独占し、皮革を製造して、利益を壟断したのであった。もちろんあらゆる長吏法師が、ことごとく皮革業者となった訳ではない。後世シュクとか、御坊おんぼとか云われた人達の中にも、やはり長吏はあったけれども、死牛馬を扱わなかったものは、後世いわゆるエタとはならなかったのである。
非人部落の長吏は、前引兵庫のシュクの場合と同じく、村落都邑に付属し、部下を率いてその村方町方を警固し、その報酬として一定の俸給を貰う。農村であれば出来秋に稲を貰う。普通は一反について稲一把ずつという例であった。また祭礼とか、正月とか、盆とか、節季とかいう紋日にも、餅やその他の物を貰う。彼らはもと法師仲間であるが故に、それぞれ受持ちの檀家というものがある。いわゆる檀那である。檀那とは仏法の方の言葉で、施主のことをいう。寺の住職は檀那の家すなわち檀家から、布施を受けてその家の仏事を受け持つ。餌取法師もまた寺に檀家があると同様に、それぞれ檀那を受け持って、その受持ちの家に事件があれば、早速駆けつけて面倒を見る。そのためにその家からは特別に貰いが多い。後世では通例これを「持ち」と云う。彼らはその村落都邑の警固掃除等の任務を負担するとともに、特にその「持ち」の家に専属する形になっている。すなわちその村落都邑の住民を分担しているのであった。そしてその報酬として、相当の俸給を受けたのであった。
その以外にも、彼らは種々の特権をもっておった。そこに市が立つ、或いは勧進興行があるなどの場合には、彼らは秩序維持の任に当る。したがって市の店主たなぬしからは店銭たなせんと称し、また興行の勧進元からは櫓銭やぐらせんと称して、相当の報酬を取る。あたかも博徒がテラ銭を取る、顔役が祝儀を受けるというのと同じ様子のものであった。特にまた関東のエタ頭弾左衛門は、関八州の灯心の専売権を有して、非常に富裕であったという。その他地方によっていろいろの特権が認められたのであった。もちろんその配下のものが、一方では家内工業に従事して、細工の者とも呼ばれ、また各種の遊芸をなしてホカイビトの仲間ともなり、多くの遊芸人がこの中から出ていることの如きに至っては、他の非人部落とそう区別はなかったのである。そしてこの死牛馬を処理するの特権を有する長吏の配下のもののみが、後には特にエタとして忌避されたと同時に、長吏の名称をその部族全体に及ぼして、他の非人の上位にいるとして主張したのであった。
いわゆるエタが長吏として、他の下さがり者といわれた雑工業者や、遊芸者たる非人の徒を支配するの権利を有すと主張したことについては、種々の事例を遺している。これはこれらの徒がもと非人法師の仲間であって、長吏はその首領であったが為であるにほかならぬ。
もともと雑工業者は、上古から雑戸として、卑品と認められていたのであったが、平安朝以来いわゆる非人法師が輩出したについて、彼らの徒の中には自然この卑職に流れたものが多かった。したがって雑工業者の徒のうちには、室町時代に至るまでも、相変らず法師姿でいたものが多い。「七十一番職人歌合せ」の絵を見ると、筆結ふでゆい・弦売つるうり・轆轤師ろくろし・饅頭売・賽磨さいとぎ・甲よろい細工・草履作・足駄作・唐紙師・箔打・鏡磨とぎ・玉磨すり・硯士すずりし・鞍細工・葛籠作つづらつくり・箙細工えびらつくり・枕売・仏師・経師・塗師の助手・硫黄・箒売・一服一銭・煎じ物売など、下さがり者と云われた諸職人・諸行商人は、多く法師姿である。その他既に俗体になっているもののうちにも、同じ流れのもの多かるべきは云うまでもない。渡守・関守・山番・野番・水番などにも、同じ流れの者が多く、長吏は、それらをもみなエタ支配の下にいると主張していたのであった。
遊芸者の仲間も多くはまた同様で、千秋万歳法師・田楽法師・猿楽法師など、もとはその名の如く法師であり、虚無僧の如きも、やはり尺八を吹く遊芸僧であった。それで長史は、この流れの遊芸者をもやはり自己支配の下にいると主張しておった。
死牛馬を屠り皮革を製する皮太かわたの徒は、後世穢れ多しの意味でエタの中のエタとせられ、「穢多」という忌まわしい名を専有せしめられたのであったが、しかもそれは実に非人中の長吏の専職となっていたのである。本来は皮革業必ずしも長吏なる者の職ではない。もとはいわゆる屠者えとりの職で、非人法師たる濫僧とは別であったが、それが利益の多いものであったが為に、自然長吏法師等が自己の特権として、死牛馬を扱う権利を壟断し、部下を役して皮革業を独占したものと解せられる。日本は農国で、耕作運搬の為め牛馬が多い。また公家の牛車の牽き牛もあり、また武士の世には騎乗用の馬も多かった。そしてその牛馬の死んだ時に、それが人生に必要な皮革を供給すべき有用なものであっても、普通民は、穢れを恐れるが故に、自身これを扱うことが出来ぬ。そこで自然それは非人の業となり、彼らはこれを屠ってその皮を剥ぎ、皮革を製し、肉を喰う。この有利なる事業がいつしか長吏の壟断するところとなり、その「持ち」すなわち縄張り内に生じた死牛馬を独占して、同じ非人仲間のものでも、他の者には手を触れさせぬ。農家にしても、或いは武家にしても、牛馬が死ねば必ずこれを長吏に下付する。かつては農家ではその所置に困って、一定の捨場に放棄し、いわゆる牛捨場・馬捨場なるものが所々にあったが、その捨場の権利を長吏が壟断し、これが彼らの大きな財産となって、これを高価に売買し、また質権の目的物としたものであった。
かくの如く、いわゆる下さがり者の職業も次第に分業になって、警察事務に従事する非人の長吏が、必ずしも皮革業者とは限らなかったが、皮革業は或る長吏の壟断するところとなって、自ら同じ非人の流れの中にも、穢れの多いものと、然しからざるものとの二つに分れて行った。皮革業者たる長吏は、部下を率いて一方では相変らず村落都邑の警察事務に従事しながら、一方では皮革を扱うが故に、その利益は甚だ多かったが、これが為にまた自然に、普通民からは穢れを恐れて疎外さるることを免れなかった。かくて徳川時代になっては、一方ではエタ、非人の人口が非常に殖えて来たし、一方では国家の秩序も段々立って来たので、従来は彼らはいわゆる非人として、国家はこれを国民の外に置き、国法ではこれを顧みずして、一に彼らの自治に委しておいたものも、もはやそれを長く放任することが出来なくなったので、種々取締法を講ずるに当って、ここに「穢多」・「非人」という区別が、次第に判然と出来て来たのである。すなわちもとは同じ流れの非人の中から、「穢多」という一部族が区別されて、特別に身体が穢れていると認められるようになったのである。
エタは自ら他の非人よりも地位が高いと主張する。他の非人等は、エタの下に置かれていることを潔しとせずして、しばしばその間に悶着を起す。しかもその訴訟は大抵エタの方が勝ちになっている。彼らの祖先がもと長吏法師であり、またはその部下であった為でもあろうが、実は関東においてエタ頭として認められた弾左衛門が、種々の証拠書類を持っておった為でもあった。弾左衛門は浅草に住し、頼朝公のお墨付というものを持ち伝え、徳川幕府ではこれを認めて、彼を関八州から、甲斐、駿河・伊豆及び奥州地方十二ヶ国のエタ頭とし、エタ非人を総轄せしめたのであった。彼の祖先はもと鎌倉におって、鶴ヶ岡八幡宮に属して警固掃除等の役をつとめた事、なお京都祇園の犬神人つるめそのような関係のものであったらしい。したがって頼朝公のお墨付というものを伝えて、徳川家康江戸入府の際にも、その由来を申し立てて、エタ非人の頭たることを認められたのであった。そのいわゆる頼朝公のお墨付なるものによると、座頭ざとう・舞々・猿楽・陰陽師以下、いわゆる二十八座の遊芸者・工業者等は、みな長吏支配の下に置くということになっている。これは奈良の唱門師が、いわゆる七道の者を進退したと同様で、いわゆる長吏法師なるものが、非人を取り締るは普通のことであったのだから、必ずしも弾左衛門のみの特権とは限った訳ではないが、彼が頼朝公のお墨付というものを持っていたが為に、特にその権利が江戸時代に認められたのであった。そして彼は、長吏として皮革業に従事していたが為に、非人の中でもいわゆるエタとして認められ、一般に長吏すなわちエタ、エタすなわち長吏であるとして、いわゆるチョウリンボウなる言葉が普通にエタに対して用いられるようになったと思われる。
この文書は無論真っ赤な偽物である。偽物ではあるが、大体弾左衛門がそんな偽物を以てその権利を主張したということは、もともと長吏なるものが、他の非人を支配の下に置いたものであることを示している。その数もと二十八座とあるが、後には段々と増して四十余となり、湯屋・風呂屋・傾城屋等も、みなその中に加えられることになっているのである。
この書類に基づいて弾左衛門はその支配権を主張し、しばしば種々の問題を惹起した。宝永年間房州で歌舞伎芝居興行の節、弾左衛門手下のものが、舞台に乱入して役者を脅迫した。弾左衛門の方では、芝居者はやはりエタ支配の下にいるとの見解によって、渉りを付けなかったのを咎めたのである。しかるに役者の方ではそれを承認しない。遂に訴訟になって、初めは弾左衛門の方が有利であったが、弾左衛門の方で提出した例の頼朝公のお墨付には、確かにそれに当てはまるべき名目がない。役者の方では「雍州府志」を証拠として、芝居なるものは八十年ばかり前に、京都の四条河原に始まったもの、歌舞伎も慶長年間に、出雲のお国が始めたもの、浄瑠璃も治郎兵衛というものが始めたので、いずれも新しいものである。無論頼朝公の時分には無かったものだ。それを頼朝公が長吏支配の下に付けられる理由がないという。その主張が通って、この訴訟は遂に弾左衛門の敗けとなった。
また同じ頃に能役者金剛大夫が、江戸で勧進能を興行した事があった。この時も弾左衛門から苦情が出て、その手下が五十人ばかり舞台へ乱入した。この問題は例の頼朝公のお墨付に猿楽という名目があるのが証拠になって、弾左衛門の方が有利に認められ、酒井讃岐守の仲裁で無事に治まったと云うことである。
座頭との間の面倒な問題もこの頃に起った。いわゆる当道・盲僧の輩である。盲僧たる琵琶法師の徒は、常に高く自ら標持して、舞々・猿楽の如き賤しき筋目の者とは同席せぬとまで威張っていたものであった。しかるにこの頃検校の僧官を有する座頭が江戸に下ったところが、弾左衛門は例の文書によって、エタ支配の下にいるべき筈だと主張した。これは座頭にとって思いもよらぬ難題であるが、形勢不利とみて、京へ夜逃げして帰ってしまったとある。このほかにもエタ、非人の身分上下の争いは、度々所々で起ったが、大抵はエタの勝ちとなっている。すなわち彼らの長吏たることが認められたのである。
要するにエタは世間から穢れ多いものとして、ひどく忌避されたけれども、身分は他の非人の上に立って、これを支配する長吏だという事が認められていたのであった。
 

 

16 御坊おんぼと土師部はじべ、鉢屋はちやと茶筅ちゃせん
非人の職業の中でも重要なるものの一つは、葬儀に関したものであった。そして主としてこれに関する者を、俗に「オンボ」と呼びならわしている。すなわち「御坊」の義である。御坊とはもと非人法師に対する敬称で、「御坊様」という事にほかならぬが、後にはその法師たることが忘れられて、穏亡或いは隠亡、※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)房・煙亡・煙坊などの文字を当てている。いわゆる三昧聖さんまいひじりである。地方によってはそれをハチとも、またハチヤともいう。土師の義である。
我が古代における葬儀のことは、土師部はじべの掌つかさどるところであった。葬儀は穢に触れるものとして、その専業者は自然他から卑しく視られるのはやむをえなかった。土師部はいずれ社会の落伍者として、農民すなわち公民となるの機会を失い、雑戸の徒として土器を焼き、兼ねて葬式を扱う家柄となったものであったと解せられる。その土師部の末がそのままに、上方かみがた地方のいわゆるシュクの或る者の主張する如く、後世のシュクになってその祖業を継承しているものもないと言われぬが、いわゆる御坊はその名の如く、三昧聖と云われた下級法師で、非人法師の仲間である。ただその執る職が昔の土師の職であったが為に、他からハチまたはハチヤなどと称して、これを賤視することになったにほかならぬ。
古代の土師部が他から軽侮されたのは、彼らがもと公民でなく、土器作りの雑戸であった上に、ことにそれが葬儀を担当し、穢に触れる為であった。土師の頭なる土師氏は、出雲国造の一族として、系図上その立派な家柄を主張していても、やはり葬式を扱う事から、自然に人がこれを嫌う。たまたま桓武天皇の御生母が、その土師氏の女の腹から出られたお方であったという関係から、御孝心深くましました天皇は、その専業の不当をお認めになり、土師氏葬式の祖業を廃して、その居地の名に因んで菅原氏、秋篠氏と称し、或いは御生母大枝の山陵の名を取って、大江氏を名告なのり、それぞれ学者の家を起した。これが為に土師氏は、触穢の業から離れてしまったが、しかしその下に付いていた部民は、相変らず祖業を継いで、土師として軽侮せられ、後世これと同じ業に従事した三昧聖の「御坊」も、ハチまたはハチヤなどと云って、自然卑しまれる習慣が濃厚になった。「ハチ」はすなわち土師の転訛であると認める。かの空也上人の門流たる三昧聖の徒が、瓢ひさごを叩いて念仏を唱えながら、これを瓢叩きといわずして、世間から「鉢叩き」と呼ばれているのも、ハチ叩きの意であろう。山陰道筋では、近い頃までこの流れの者をハチヤと云っていたが、上方地方でも、もとは御坊のことをハチヤとも云い、また警察事務に従事したいわゆる番太の事をも、ハチヤと呼ぶ場合があった。北陸地方でトウナイと呼ばれたのも、つまりは同じ御坊の流れの者であるが、これはハチと云う名称が軽侮の感を起さしめるので、その「八はち」の語を隠して、十とおに足らぬ「十無とおない」だと、隠語で云ったのが本であろう。上方地方ではエタのことを隠語で「ヨツ」と云った。エタは非人で、人間仲間ではない、畜生である、四ツ足であると云う意味だとも、或いは獣類すなわち四ツ足を喰う為だとも説明されているが、おそらくこれもやはり「八はち」と云う言葉を隠して、半分の「四ツ」と云ったのではないかと思われる。しかしそれらはいずれももとは通じてエタと呼ばれたので、エタも、御坊も、ハチも、本来は差別はなく、いずれも落伍者たる非人法師の徒であったにほかならぬ。
非人法師はもちろん法師の徒ではあるが、もともと社会の落伍者としての自度の法師で、かの三善清行の指摘した如く、家に妻子を蓄え、口に腥※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを啖くらい、形は沙門の如く、心は屠児えとりの如しと言われた破戒法師であった。それで時には餌取えとり法師とも呼ばれ、前記の如く真言宗や天台宗の如き貴族宗では、非常にこれを嫌って寄せつけなかったものであったが、しかしまた一方では、毫もこれを忌まぬ宗旨もないではなかった。念仏宗門すなわちこれである。阿弥陀如来はいかなる極重悪人でも、ことごとくこれを極楽に摂取するというのである。
念仏の教えは古くから我が国に伝わり、餌取法師と呼ばれて、口に牛馬の肉を喰い、家に妻子を有する非人の徒でも、念仏の功徳によって極楽に往生することが出来るという思想は、既に平安朝からあって、「今昔物話」にその例話が幾つも出ているのである。しかもその特にこれを宣伝して非人済度につとめたのは、空也上人が初めであった。
空也上人は延喜の頃に生れた人で、ちょうどかの濫僧ろうそうすなわち非人法師の徒が、しきりに発生した時代の人である。彼は盛んに念仏宗を下層民の間に宣伝して、口に念仏を唱えしめて、彼らに極楽往生の安心を与えたのであった。ことに彼は今日のいわゆる社会事業に努力し、橋をかける、道を繕う、嶮岨を平らにする、井戸を掘る、これらはみなその追従の信徒を使役して、事に従わしめたのであった。その追従の法師(聖ひじり)には、道に落ちた紙屑を拾って、漉き直して写経の料紙を作る、縄切れを拾って、土に雑ぜて古堂の壁を修繕する、瓜の喰いさしを拾って、獄舎の囚人に与えるなど、種々の社会奉仕的事業、慈善的事業をなさしめ、またしばしば墓所を見まわって、三界万霊に回向する。いずれ葬式の世話をする三昧聖の徒であったと解せられる。「三国長吏由来記」と称する弾左衛門家の記録によると、空也上人が牢舎の囚人二十一人を申し受けて、七乞食、八乞食、六道の者というものを仕分け、掟を長吏に預けて、国々に置いたとある。いわゆる七乞食とは、猿引・編木師ささらし・恵美須・辻乞・乞胸ごうむね・弦指つるさし・盲目で、また八乞食とは、薦僧こもそう・鉢坊はちぼう・絵説えとき・鉦打かねうち・舞々・猿牽さるひき・山守・渡守を云い、次に六道の者というは、弓造・土器作・石切・筆結・墨師・獅子舞だとあって、みないわゆる長吏弾左衛門支配下の者どもであった。けだしこれらの「下り者」と云われた職人・芸人等が、空也上人を祖と仰いでいた事を伝えたので、空也は一方に各種の非人法師の救済者であると同時に、一方ではいわゆる免囚保護の事を行って、それぞれに生活の道を授けたのであった。
空也はまた殺生肉食常習の猟師の徒をも教化した。平定盛狩を好んで、上人に馴れ親しんでいた鹿を殺したので、上人これを傷んで、その鹿の皮を請い受けて皮衣とし、角を杖の先につけて、始終身を離さず念仏を申す。定盛為に一念発起して、その弟子になったとある。殺生者はその悪業の故に、三悪道に堕ちねばならぬ因縁を持っている筈であるが、阿弥陀如来は過去の罪業を追及せぬ。空也は念仏の功徳によって、彼らをもことごとく済度したのであった。かくてその徒は常に鹿の皮衣を着、瓢箪を叩いて念仏を唱え、一方内職としては竹細工に従事し、茶筅を作ってそれを売ってまわる。いわゆる鉢叩きであり、茶筅売である。瓢箪を叩いて鉢叩きとは聞えぬ名称であるが、けだし古くは単にこれを「叩き」と云い、それがいわゆる「ハチ」(土師)であるので、ハチ叩きと云ったものかと思われる。
空也の門流として後世までも有名なのは、山陰道筋のハチヤと、山陽道筋のチャセンとであった。地方的にその名称を異にしてはいたが、古くはハチヤをもチャセンと云い、チャセンをもハチヤと云ったのであった。岡山県あたりにヒジヤという地があって、文字にはいろいろ書いてあるが、つまり土師谷(或いは土師屋)で、ハチまたはハチヤというと同語である。茶筅は或いはササラとも云った。彼らは竹細工を内職として、茶筅或いは簓ささらを造ってこれを売り、またその檀家とするところに配ってまわったが為で、そんな名称を得たのである。檀家とは、彼らが法師であるが故に、なお前に述べたエタの「持ち」と同じく、自分の受持っている家の事をそう呼んでいたのである。東海道筋では、普通に説教者とも、またササラとも云っていた。前述空也の門流中の編木師ささらし・絵説えとき・鉢坊はっちぼうなどというのはこれで、通じては「御坊」である。彼らは葬儀・警察等の事務を行い、村落・都邑に付属して、管内の静謐をはかり、特に檀家、すなわち受持ちの家を定めていること等、一つに前述のシュクやエタと同様であった。否後世その名称を異にしていただけで、彼ら自身実はシュクであり、エタであったのである。出雲において尼子経久が、エタの軍勢を催して富田城を恢復した事が、「陰徳太平記」などに見えているが、ここにエタとは、すなわちいわゆるハチヤの事であって、ただ彼らは死牛馬を屠らず、皮革を扱わぬ為に、皮屋すなわち後世のエタにはならなかったので、つまりは同じ流れの落伍者にほかならぬ。そして他の地方のものが、多くは空也の門流であったことを忘れた後にも、山陰道筋の鉢屋と、山陽道筋の茶筅とは、相変らず上人を祖述し、空也流の本山たる京都四条坊門なる、紫雲山光勝寺との因縁を保っておった。
空也は下層民を率いて、ただに念仏を唱えしめたのみでなく、その念仏に曲節をつけ、手振り足踏みを加えて、いわゆる歌念仏、踊念仏を始めたと伝えられている。極楽往生の安心を得たならば、自然に歓喜踊躍の情が湧き出づる訳ではあるが、つまりは普通に落伍者の流れて行く道の一つなる遊芸の徒と、念仏の行者とが合致したものと解する。いわゆるハチヤ・茶筅などは、万歳その他種々の遊芸を行っていたのである。すなわち工業・遊芸・葬儀・警察等、普通の落伍者が行ったと同じ道を行っているのである。またこの徒には、産婆や医者の如き、世助けの業をなすものがすこぶる多かった。北陸道のいわゆるトウナイ筋には、トウナイ医者という称呼まであって、今でもこの筋の人で、名医が相当多いそうである。
17 下層民と念仏宗
天台真言の如き貴族的な旧仏教の諸宗が、穢を忌避して下層の特殊民を相手にしなくなった際において、空也上人が大いにこの方面に布教宣伝したことは、念仏宗本来の教義に基づいたもので、最も時勢に適した宣伝であった。罪人だ、悪人だなどと呼ばれて、現世に到底光明を認めえなかった最下層民は、実際念仏によってのみ未来の光明を認めることが出来たのであった。
空也に次いで出たのが恵心僧都源信である。彼は「往生要集」を著わして、「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤誰か帰せざらんものぞ。ただし顕密の教法はその文一にあらず、事理の業因はその行これ多し。利智精進の人は未だ難しとなさざるべきも、予が如き頑魯の者は豈あに敢てせんや。その故に念仏の一門によりて、聊いささか経論の要文を集む。之これを披ひらいて之を修せば、覚り易く、行じ易からん」と説き、下層民の依るべきものは、ただ念仏の易行門のみであるとのことを盛んに宣伝した。この源信が自身手を下して、下層民を済度したことはあまり知らないが、その後に出た源空すなわち浄土宗の開祖の法然上人大いにこれを祖述するに至って、浄土欣求のこの念仏宗門は日に隆盛になり、殺生常習の屠者の如き輩までも、為に救われることとなった。源空の説法は、今日の言葉で云えば、たしかに旧仏教に対する過激思想、左傾思想の宣伝で、甚だしく当時の旧仏教の人々を驚かせた。「善人尚以て往生す、況いわんや悪人をや」とは、彼のモットーとするところであった。旧仏教によって毫も顧みられなかった殺生者の如き、いわゆる極重悪人の輩でも、阿弥陀如来は救うて下さる。善人ならばわざわざ弥陀のお世話にならずとも、自力で極楽往生の道があろうが、他によるべのない悪人は、弥陀の他力本願に依頼してのみ往生が出来る。十方の衆生至心に信楽して、我が極楽浄土に生れんと欲せば、ないし十念せよ、五逆罪と正法を誹謗したものとのほかは、ことごとく往生せしめるという誓願を、阿弥陀如来は持っておられるというのである。十方の衆生とは一切の人類を包含する。殺生者でも盗賊でも、人殺しでも差支えはない。念仏の功徳によって、みなその願いのままに極楽へ引き取って下さるというのである。なおその極楽には九品の階級があって、たとい五逆十悪の如き諸の不善の業を具している程のものでも、死ぬる時に善知識に遇うて妙法を聞き、念仏すれば、下品下生の極楽へは生れる事が出来るとさえ説いているのである。極楽往生の為には神を祭る事もいらぬ。親に孝行しなくても極楽へは行ける。僧侶の破戒もかまわぬ。一体破戒の持戒のという事は、戒律があっての上の事である。例えばここに畳があるが故に、畳が破れているとか、破れておらぬとかの問題も起るが、初めから畳がなければ、破不破の問題はない筈だ。今は末世末法の代で、戒律などは全然なくなっているのだから、破戒の持戒のという問題は起りようがないと、かなり思い切った説法を源空は行ったのである。これは現世に光明を認めず、また無学文盲にして、高尚な教理を会得するの準備もなく、また到底厳格なる生活をなしえないような、堕落のドン底にいる当時の下層民済度の為には、極めて適切な説法であった。しかしこれを聞いた旧仏教徒が、騒ぎ出したに無理はない。解決を暴力に訴える右傾派が起って来る。朝廷に嗷訴して禁止を強請する。それで源空も余程閉口したものと見えて、晩年には大いに温和な説法を試みる事となった。余の仏菩薩を謗そしってはならぬ、破戒をすすめてはならぬなどと、厳重に弟子を誡めて、七箇条の起請文を書き、一同に署名させている。また叡山に対しても恭うやうやしい怠状を呈し、自身には日課七万遍の念仏を申して、「一念尚生る、況や多念をや、罪人尚生る、況や善人をや」などと、善行をすすめ、多念をすすめるようになった。一念とは、唯一度の念仏で極楽に往生しうるという流義であり、多念とは、多く念仏を繰り返すを奨励する流義である。
かくの如く源空は、その晩年において大いに温和なる説法をするようになったが、これが為にいわゆる悪人往生の方にはやや疎遠になり、その流れを受けた後の浄土宗の方では、同じ念仏宗でも、エタ非人などといわれる側の下層民は、あまり収容されなくなった。しかるにその門弟子の中には、相変らず過激の宣伝をなすものが多く、これには源空もかなり悩まされた。「我が師法然上人は、あんな温和な事を言っておられるけれども、あれはほんの世間体を繕う為で、上人の本心ではない。上人の言みな表裏ありで、本当の事を言ってはおられないのである。上人は毎日日課として七万遍の念仏を唱えておられるけれども、実は一遍申せばそれで十分なのである。神を祭るにも及ばぬ、女に近づいてもよい。肉を喰うてもよい。ただ一度南無阿弥陀仏を唱えて、極楽に生れようと願えばそれで十分である。上人は下根の輩には本当の事を言われてない。真に上人の法を受けている者は、吾ら利根の輩五人のみしかない。自分はその一人である」などと言って、しきりに北陸地方で、一念義を唱えた者もあった。
同じく源空の門下に出て、後の浄土宗から分立し、源空最初の意気盛んな頃の説をどこまでも主張したのは、真宗の開祖善信聖人親鸞であった。彼は相変らず悪人往生の為に尽力し、「善人尚以て往生す、況や悪人をや」を説いている。その唱うる念仏は報恩謝徳の念仏であって、極楽往生を願う為の念仏ではない。同じ念仏でも、真宗の念仏と浄土宗の念仏とは、念仏の意義が違う。かくて親鸞は自身肉食妻帯を体験して、破戒の行業を辞せず、非僧非俗の愚禿と称して、在家法師、俗法師の徒を以て任じ、社会のドン底に沈淪した最下層民たる餌取法師、非人法師の徒をも疎外することなく、いわゆる御同朋御同行として、世間から最も罪業深いものと認められた、かの屠者えとりの輩をまでも済度された。同じ念仏宗でも空也流とは趣きを異にして、一方に罪を犯しながらも、一方に仏を信ずることによって、極楽に往生しうるというのである。これが為に従来仏縁から遠かった人々も、多くこの宗旨に救われた。浄土宗ではあまりエタ、非人の徒を収容せず、空也流でも、茶筅・鉢屋・簓など、殺生から遠ざかった下層民を収容したが、親鸞の流義では、必ずしも殺生を禁ぜぬ。職業としてやるならそれでもよい。もともと神を祭らぬのであるから、肉を喰っても、皮を扱っても、それを穢れとして忌避する必要はないのである。これが為に、徳川時代にエタとして世間から甚だしく疎外された下層民は、大多数この宗旨に帰依するようになった。
親鸞とほぼ時を同じゅうして、日蓮聖人が現われた。彼は熱心に法華を説いて、他宗派を攻撃し、時に念仏とは全く反対の道を歩んだ。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊とは、彼のいわゆる四個の格言であるが、中にも念仏者は正法を誹謗するもので、阿弥陀如来の誓願にも、五逆と正法誹謗者とは除外されているのであるから、彼らは無間地獄へ落ちて、永劫浮ぶ瀬はないというのである。しかし日蓮もまた下層民済度の為には、かなりの努力を惜しまなかったようである。彼は自身漁家の出として、旃陀羅せんだらすなわちエタの子であると呼号して、法を説いたくらいであるから、もとより殺生者を疎外しない。そこで東海道筋から、関東、信州辺りには、徳川時代にエタと云われた人々の中に、日蓮宗を奉じているものが少くない。
最後に出て特殊民を済度した念仏の行者は、時宗の開祖たる一遍上人智真である。彼は遊行上人ともいわれる程で、念仏を唱えて諸国を遊行しつつ法を説いたもので、この遊行派に属する者は関東地方に多い。この派の行者を鉦打かねうちと云う。空也の鉢叩きが瓢箪を叩いたと同様に、遊行派のものは鉦鼓かねたいこを打って人の門に立ち、念仏を申して報謝の手の内に生きるのである。この鉦打は鉢叩きの徒と同じく、「興福寺大乗院寺社雑事記」には、七道の者と称する中に収め、唱門師たる非人頭支配の下に属する非人と見做し、弾左衛門支配の二十八座という中にも、共に数えられているのである。鉦鼓を打って念仏を申す修行者は、既に平安朝からあったが、遊行上人出でて以来、ことに盛んになったのである。鉦打の徒は四国九州のあたりまで広がっているが、特に関東地方の落伍者が、多くこの徒に走ったらしい。山陽道筋のチャセン、山陰道筋のハチヤが、空也の門流として鉢叩きの徒であると同様に、関東地方に多いこの鉦打の徒は、後までも一遍の門流たることを標榜している。その遊行すなわち浮浪の状態から脱却し、土着してカネウチ筋と呼ばれて、遊芸や雑職に従事しているものが所々にあった。このほか信州から関東筋には、「ネブツチャ」或いは「ナマダンゴ」などという筋のものがあるが、ネブツチャは疑いもなく「念仏者」の訛りで、ナマダンゴは「南無阿弥陀子」、または「南無阿弥陀講」の訛りであろうと言われている。これらはみな念仏宗と特殊民との関係を語っているもので、我が国のいわゆる賤民史上、ことに重要なる地位を占むるものである。
18 声聞師しょうもんじと下司法師
いわゆる非人法師、餌取法師などの輩は、古代の国法上にいわゆる賤民以外の新賤民で、三善清行のいわゆる形は沙門の如く、心は屠児の如き下司法師の徒であった。その一類を時にショウモンジということがあった。
上方地方には、後世になってもショーモン筋と呼ばれて、他から疎外される家筋のものがあった。文字には俗に「正文」、「証文」などと書いてあるが、正しくは「声聞師」である。声聞とは仏教上の語で、小乗阿羅漢の徒を云う。彼らはただ仏の説法の声を聞き、煩悩を断じて涅槃に入らんとするもので、灰身滅智けしんめっちを結局の目的としている。すなわち自利の行者である。菩薩の如く利他の大行を行じて、結局は仏果を得るものというのとは、大いに選を異にしているのである。そこで低級なる下司法師は、同じ法師姿をしておっても、大乗菩薩行の如法の法師等とは事変って、単に自利のみを事とする小乗下根の声聞の徒であると云う意味から、これを声聞師といって疎外したものと思われる。しかるに後にはその本義が忘れられて、彼らは人の門に立ち、経を誦し、仏名を称して、米銭を貰う乞食である、門に唱えるもの、すなわち唱門師であるという意味から、室町時代には普通に「唱門師」と書くようになった。これはいわゆる声聞なる名称が、もとは非人法師を指斥賤称として用いられたとは云え、その実阿難とか迦葉とか、舎利弗とかいうような、尊敬すべき阿羅漢衆の事であるから、もちろんかの賤しい下司法師原ばらの徒と同日に談ずべきものではないということで、自然その本語が忘れられるに至ったものであろう。けだし彼らは鉦打、鉢叩きの徒で、いわゆる河原者、坂の者、散所の者と云われた非人法師である。
室町時代には、所々に声聞師と呼ばれる部落があって、千秋万歳を舞ったり、警固雑役に従事したりしていた。中について奈良の興福寺に属する者は、余程有名であった。彼らは清水坂の非人法師が、祇園感神院に属して犬神人となったように、奈良坂の非人法師が、付近の興福寺に属したのであろう。興福寺は大和一国の領主とまで云われたくらいの勢力ある大寺であったから、その所属の声聞師もことに勢力を有し、五ヶ所十座の唱門などと呼ばれて、奈良市中にいくつもの部落に分れて住んでいたのである。その職務は無論警察事務が主で、いわゆる七道の者等、他の非人取締りをなし、また土工その他雑役にも従事した。この部落のものが、徳川時代には、いわゆるシュクの徒ともなり、或いは陰陽師と呼ばれて、占うらないをする部落ともなり、或いは芝居者などになっている。つまりは同一の流れのものが、地方により、時代によって、その名称を異にし、多少職業の上にも区別を生じたにほかならぬ。しかるに後世彼らがもはや法師姿を為さなくなり、もと下司法師たる声聞師であることを忘れて、そのショーモンという名称から、平将門すなわちショウモンの子孫であるとか、平将門の部下の落武者の子孫であるとか云う説を主張するものも起った。山陰道筋のハチヤの如きも、やはり声聞師の一種であったとみえて、将門の落武者が空也上人に救われて、警固の任に当ったものだとの伝説を持っている。
要するに「下さがり者」と呼ばれた流れの人々は、その職業も、その名称も、地方により、時代によって種々に分れ、また種々に変ってはいたが、もとは同じ日本民族中の落伍者であった。その落伍者が国司の誅求から逃れんが為に、或いは生活の便を得んが為に、肉食妻帯をも辞せぬ俗法師となったので、濫僧と呼ばれ、声聞師と呼ばれ、或いは非人法師、餌取法師などと呼ばれても、つまるところはいわゆる「下司法師原ばら」である。これらの徒が活きんが為に各種の賤業に従事したので、中世以後の賤業者は、多くは法師姿をなし、或いは世間から、目するに法師を以てせられた。これが為に、「法師」と云えばただちに賤者だとの事が連想される程になった。されば親鸞聖人の「正像末和讃」にも、「僧ぞ法師の其の御名は、尊きことと聞きしかど、提婆五邪の法に似て、賤しきものに名づけたり」とも、「末法悪世の悲しみは、南都北嶺の仏法者の、輿かく僧たちの力者法師、高位をもてなす名としたり」とも、或いは「仏法侮づるしるしには、比丘、比丘尼を奴婢として、法師、僧徒の尊さも、僕従ものの名としたり」とも述べている。しかし実は法師そのものが賤しいのではなく、賤しまるべきものが多く法師となった為である。そしてこれら下司法師の長たるものが、すなわち長吏法師で、部下のものが小法師であることは前に述べた通りで、その長吏法師と云う名称は、後世にもチョウリ、またはチョリンボウとして遺ったのである。また小法師という名称は、後には多く忘れられたが、ただ江戸の筆屋に小法師を屋号とするものが多くあったのと、今一つ京都において、明治に至る迄も御所のお庭のお掃除役に、その名が遺っていたのとがある。御所のお庭のお掃除は、もと京の天部あまべと呼ばれた部落から出て勤めたもので、それを古くから小法師と呼ぶ例であったが、これが中頃失策があって、一時は大和や丹波から出ておった。後にはこれも京都蓮台野から出て、相変らず小法師と呼ばれ、年七石の御扶持米を頂戴しておった。これが為にその子孫は、明治三十幾年かにその由緒を申し立てて、士族に編入されているものもある。これらは昔の長吏法師の下にあった小法師の名称が、彼らの本来法師であったことを忘れた後までも、たまたま保存されたものである。
かく法師という名称がもっぱら賤者に呼ばれるようになったが為に、法師という語は、相手を軽侮するような場合に用いられることとなった。今も大和吉野の山間十津川郷では、人を罵るに、「何だこの法師が」などというそうである。かく法師という語が一種の賤称となった為に、自然に忌避せられるようになり、戦国時代の頃から、「法師」に代うるに「坊主」という語を以てすることが流行り出した。「坊主」という語は、鎌倉時代から既に物に見えて、一坊の主の称である。されば蓮如上人の御文おふみなどにも、「坊主」という語はたくさん見えて、決して軽侮の語ではない。法師と呼ばれては嫌がるが、坊主と云われれば喜ぶというのが、当時の有様であった。したがって坊主という語が段々濫用される事になり、今川氏真の如きは、永禄四年にわざわざ令を発して、「諸末寺の塔主看院等、本寺に断らずして坊主と号し、恣ほしいままに居住するを得ず」と云って、その名称の濫用を禁止した程であった。しかし世の趨勢は致し方がない。「坊主」の美称は次第に下級法師に向かって濫用されて、ついには卑しい者を一般に坊主と呼ぶことにまでなった。かくてついには「坊主」がかえって軽侮の称呼となる。法師ならぬものに向かっても、相手を賤しむ場合にはこれを坊主という。乞食坊主、売僧まいす坊主、オゲ坊主、チャンチャン坊主、糞坊主、スッタラ坊主、ハッチ坊主、横着坊主、毛坊主、カッタイ坊主などこれである。或いはこれを略して単に、「坊」と云い、シワン坊、ケチン坊、皮坊、ツン坊、長吏ン坊、ハチン坊、トチメン坊、酔タン坊、黒ン坊、泣ン坊、弱ン坊などから、遂には泥坊、立ン坊、べら坊にまで、好んで「坊」という語をつけるようになった。言うまでもなく、下級法師を蔑視したことの名残である。或いは化物に高入道、大入道、三ツ目小僧などいい、盗賊に鼠小僧、稲葉小僧などの名があり、丁稚でっちを小僧と云い、婦人を罵ってこの尼などというも、みな同じことで、淫売婦にも、和尚とか、比丘尼とか云うものまでが出来て来た。つまり濫僧たる下司法師が、あらゆる賤者のもととなったが為にほかならぬ。しかもその濫僧たるや、多くは同情すべき社会の落伍者の末であった。
19 近世におけるいわゆるエタの沿革
上述の如く、濫僧すなわち下司法師の流れの末が、大宝令規定以外の種々の賤民、すなわち「下さがり者」として、中世以降に多く現れて来たが、中にももと同じ流れの者ながら、その従事する職業に依って、世間のこれに対する感じがだんだん違って来る。かくて長く同じ職を続けているうちには、甲と乙との距りがますます遠くなり、世間からはまるで別の筋のものの如くに考えられるようになる。ただに世間からばかりでなく、もと同じ流れのものでも、自らその由来を忘れて、他の職業のものを疎外排斥するようになる。かの猿楽法師すなわち能役者の如きは、もとはシュクの者の一種で、興福寺では七道の者として、唱門師進退の下に置かれたものであった。されば座頭の仲間からは、後の時代までもなお、「舞々猿楽の如き賤しき筋目のもの」として、同席をまで忌避されたものであったが、しかもその中で金剛、金春、宝生、観世のいわゆる四座の猿楽の如きは、室町時代から既に将軍の前でその技を演じ、後には武家お抱えとなって、猿楽は武家の式楽とまで呼ばれ、猿楽師の身分は高取として、士分の扱いにまでなったのであった。その他比較的後までも、河原者とか、河原乞食とか呼ばれて、賤視された人形遣い、すなわち道薫坊どうくんぼうの徒の如きは、つとに日向掾などの受領を得て、今で云えば地方庁の高等官の資格を獲得していたものがあり、また歌舞伎役者の如きも、今では立派な芸術家として、何人もこれを嫌がるものがない程になっている。その他の非人と呼ばれたものの中にも、段々足を洗って、或いは社会から消えてしまい、或いはそのままに世間の疎外を免れたものが甚だ多いのである。換言すれば、これらの社会にも常に新陳代謝が行われて、一旦エタ、非人と呼ばるる境遇に堕落したものも、いわゆる足を洗うてその社会から脱離するものもあれば、新たにその社会に落ち込んで来るものもあるのである。しかるにひとり死牛馬を屠り、皮革を製するを業として、皮太、皮屋、皮坊などと呼ばれた輩のみは、穢れのことに多いものとして、江戸時代には文字にも「穢多」という忌わしき名を専有せしめられ、容易に足を洗うことが許されず、特別に疎外される事になってしまったのであった。
元来エタもやはり非人の一種として、国家の公民ではなく、したがって国法の外に立ち、長吏の自治に任じたものであった。関東では弾左衛門がエタ頭で、他の非人等もその支配を受けていた。上方ではやや様子が違って、下村庄助という者がこれを支配し、百九石余の高を給せられて、身分は侍であったが、宝永年間に庄助が死して後は、各部落はやはり部落の年寄の自治に任ずることになっていた。さればエタ、非人の犯罪者に対しては、国家は直接に国法に依ってこれを処分することなく、「エタなるが故に」、「非人なるが故に」との理由の下に、その長吏に引き渡して、これが処分に一任する例になっていた。しかし徳川幕府の施政も次第に整頓し、国家の秩序も立って来る。一方いわゆるエタ、非人の身分も極って、足洗いも容易でなく、その人口は段々殖えるばかりとなって来ては、もはやこれを彼らの長吏にのみ委まかしておくことが出来ない。幕府では段々これが取締りの方法を定めることとなり、各藩もそれを標準として、各自取締法を定めることとなった。それがいつの頃から着手されたかはハッキリせぬが、既に元禄頃の諸藩の布令書などには、エタ取締りの事が往々見えている。元禄十二年の徳島藩の布令書に、町人百姓の風俗を戒めて、その終わりに、「穢多は百姓に準じて尚軽くすべし」と書いてあるが如きこれである。これはその当時のエタが、通例村方からの扶持を得るほかに、皮革業を独占して、自然生活が豊かであり、ことに身分が賤しい為の自己慰安として、自然贅沢な暮しをする風俗のあったのを戒めたもので、まだその頃までは、大体において、百姓とエタとの間には、そう甚だしい風俗上の区別はなかったようである。
幕府で明らかにエタ、非人の調査をなさしめたのは、享保の頃であった。この頃しきりに各地のエタや非人の頭に命じて、その由緒書を提出させている。けだしこれに依って、彼らの取締りの途を講ずる参考としたのであろう。もとはエタと百姓とが通婚するとか、エタが百姓や武家に奉公するとかいう事は、甚だしく問題にもならなかったようであるが、それは厳重に禁ぜられることとなった。取締りは年とともに次第に厳重になった。ことに安永七年に至って、非常に厳重なる取締法が発布せられて、エタ、非人と百姓、町人との間に、判然たる区別を立てた。エタ、非人は、一見して百姓、町人との差別が出来るようにと、その風俗に制限を加えた。従来にもたびたび差別の命令があるにはあったが、とかくエタが風俗をごまかして百姓、町人の中に紛れ込んだり、身分を隠して通婚したり、奉公したり、娼妓になったりして、為にその穢れを社会に及ぼすおそれがあるという為であろう。これに基づいて定められた諸藩の取締りは、藩によってそれぞれ寛厳の差はあったが、要するにエタを普通民から差別せしめるにあった。そして社会の階級意識がますます盛んになるとともに、それが年を逐うていよいよ厳重になり、文化五年の伊予の大洲藩の触書の如くんば、七歳以上のエタは男女にかかわらず、必ず胸に五寸四方の毛皮の徽章を目立つように付けよ、居宅にはその屠者たることを示す為に、必ず毛皮を下げて置けよ、下駄をはいてはならぬ、傘をさしてはならぬ、木綿合羽はもちろん、桐油合羽をも着てはならぬ、髪の結び方をも区別せよ、芝居などの如き人だかりの場所には、雨覆のない所に平人とは別におれ、笠も不相当な物を用いるななどと、実に滑稽といえば滑稽、残酷といえば残酷なものであった。されば彼らが百姓、町人の家に入る事の出来なかったのはもちろん、これを座敷に上げたならば、その者までが罰せられるという程の厳重なものであった。しかしかく風俗上に厳重な区別を立てても、夜間にはそれが判明せぬが為にか、多くの地方では、エタは日出前日没後には、外出を禁じられていた。夜間やむをえず外出する場合には、何村のエタ某とか、仲間某とか明記した提灯を持たなければならぬという規定の所もあった。かくの如くにして、平素武家から極端なる軽侮圧迫を受け、それに屈従しなければならなかった百姓、町人等は、さらに一層下級のエタ非人を有することによって、僅かに優越感の満足を与えられていたのであった。
また一方にはエタ仲間の掟においても、彼らが結束を固くし、自己の勢力を維持する必要上からでもあったろうが、いわゆる弾左衛門の掟なるものには、非人は足を洗う事の道があるが、エタは永久にエタとして、素人になることを許さなかったものであった。しかしこれも地方によることで、遠州地方には、「打上げ」と称して、三代の間皮剥ぎの渡世を廃したものは、足洗いが出来る習慣もあり、決して全国的のものではなかったが、ともかく弾左衛門の法は、幕府取締りの標準となったが為に、大体においてエタは永久にエタとして鎖ざされ、遂に解放さるるの機会を得ずして、明治四年にまで及んだものであった。
いわゆるエタが同じ流れの多くの下り者の徒の中で、特別に賤しまれ、忌避せられ、はては甚だしく圧迫せられるに至ったのは、彼らが屠者であり、皮革業者であったが為に、触穢禁忌の思想からこれに近づくことを忌まれた結果である事は、今さら繰り返し述べるまでもない。もちろん彼らは同一日本民族の、同情すべき落伍者の末である。しかるに世間にはその沿革を忘れ、彼ら自身またその由来を解せずして、これを異民族なりとし、朝鮮人の子孫だなどと説くものが古来多い。古いところでは神功皇后三韓征伐の際の捕虜の後だとか、近いところでは秀吉の朝鮮征伐の際の捕虜の後ではないかなどと考えているものが、今もなお少からず存在している。のみならず彼ら自身またその説に誤られて、朝鮮との関係を云為するものがないではなかった。慶応四年に長州征伐の功によって、弾左衛門がエタの肩書きを除かれた例にならって、大阪の渡辺村から指し出した嘆願書には、自分らの祖先は神功皇后征韓の際に従軍した兵士であって、久しくかの地に滞在するうちに、かの地の肉食の風に習い、帰朝の後もその風習をつづけたが為に、神国清浄の国風に違たがうところから、エタとされたものだと云っている。ともかく肉食が差別の主なる原因をなしていたのであるから、これを説明せんが為には、ただちに朝鮮関係を連想するのが普通であったのだ。何となれば、我が国では久しく肉食の風習を失い、これを以て甚だしく穢れたものだと考えた時代において、世人の知識に上るほとんど唯一の肉食人は、朝鮮人のみであったからである。これが為に世人が極めて簡単にこれを朝鮮人の子孫だと解し、彼ら自身また朝鮮関係を以てこれを説明せんとしたに無理はない。しかしながら、これはもちろん甚だしい誤解である。我が古代において、それが帰化人である、外国人であるというの故を以て、これを差別したという事実はない。既に桓武天皇の御生母は百済氏の出であり、神功皇后の御母方も新羅の天日槍あまのひぼこの後裔だと言われている通りで、そのほかにも支那、朝鮮から帰化した者は甚だ多く、それのみで一郡、一村を為しているのも少くないが、社交上決してそれを区別したという事実はない。人或いはいわゆるエタの言葉遣いや発音が、多少近隣部落の人々と違っていたというの事実を以て、その異民族たることを言わんとするものがないではない。しかしこれは多年交際する社会が違っていたが為に、自然に特別の言葉の訛りが発達したにほかならぬ。言葉はいわゆる「国の手形」で、地方地方によって訛りが違うと同一の現象である。
かくの如くいわゆるエタが、他の多くの「下り者」と同じく、民族上少しも差別なきものであるにかかわらず、特に社会からこれを忌避した所以のものは、もちろん触穢禁忌の思想の結果であるには相違ないが、実はその以外に、さらに大なる原因があったのである。
元来エタは文字にも「穢れ多し」と書かれた程で、早くから一部の人々、特に或る宗派の仏教家から、甚だしく忌避されていたとしても、一般人からは必ずしもそう交際を拒否されてはいなかったのであった。現に戦国時代には、前記の如く三好長治の如き大大名も、エタの子を小姓として寵愛し、侍がエタの女を嫁に取ったという実例もある。ことに村落都邑には、優待条件を以て彼らを招聘し、警固の任に当らせたものであった。奥羽の如くその地が僻陬へきすうであり、住民素樸にして、村方警固の必要も少く、各自相扶たすけて葬儀その他の業をも執り行ったような地方には、特にエタを置くの必要がなく、したがってその部落の分布も少いけれども、早く開けて人気が柔弱であり、盗賊その他警戒を要することの多かった地方には、村落、都邑の警固にも、またその雑役にも、かかる専門家配置の必要があったのである。そこで彼らは歓迎され、優待条件を以て請待されたのであった。またその執る皮革業の如きは、社会にとって必要の職であり、彼らにとって有利な業であったから、彼らは一方では穢れたもの、賤しいものとして、忌避されていたとしても、為に世間から甚だしい圧迫を受けた筈はなかるべきである。現に元禄頃までは、少くも阿波藩の掟では、その風態も百姓に準じたるものとして、そう変った風俗を強いられた事はなかったのである。彼らはその身分は賤しくとも、非人の長として、有利な業を独占し、村落、都邑にとっては必要な警察吏であり、むしろ生活においては恵まれたものであった筈である。しかるにそれが段々と圧迫を加えられ、ことに安永七年に至って、甚だしく差別を励行せられる事になったのは、彼らの人口が世間に比して甚だしく増加した結果にほかならぬ。
徳川時代約三百年を通じて、我が国の人口はあまり増加しなかった。明治維新後急激に繁殖して、明治三年末に約三千三百万と云われたものが、今では内地人口約六千万にもなり、五十七八年間に八割強を増した程の増加率を有する我が日本民族も、徳川時代にはほとんど増加しなかったのであった。これは一に一般民衆の生活が困難であり、堕胎、間引き等による人口調節が盛んに行われた為にほかならぬ。これは幕府が鎖国主義を採って、日本国内で自給自足の政策を実行したのと、一つは万事が現状維持で、新規の発展を厳禁したとの結果である。徳川時代の人口統計は案外正確なものであったが、その古いところで享保頃から、新しいところでは安政頃までの調査を見ると、公家、武家及びその使用人を除いて、一般庶民に属するものが、大概二千五百万台より、六百万台の間を上下している。さればその以外の公家、武家の数を約四十万戸とし、一戸平均五人として約二百万人、その使用人一戸平均二人半として約百万人、合して大約二千八九百万人、まず三千万人以内とみて大差のない数であった。それが幕末に近づいて段々と殖えて来たのは、一つは堕胎、間引きが人道に背くという思想から、これを禁ずるようになったのと、一つは産業の発達の結果、生産額の増加した為とで、ついに明治三年末になって、三千三百万という数になったのであった。そしてその後急激なる増加をなして、今日の約六千万を数うるに至ったのである。
しかるに一方では、いわゆるエタの数はその間にも非常に増加した。この趨勢は維新後においても同様で、明治四年エタ、非人の名称を廃した当時の数を見ると、エタの数が二十八万三百十一人、非人の数が二万三千四百八十人、皮作雑種七万九千九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中には後にほとんど解放されたものが多く、いわゆる特殊部落として、依然差別観念の残っているものは、主としてエタと云われた人々の流れに属するのであるが、仮りにそれが明治四年の当時三十万人であったとして、一般人口の増加率によって約八割の増殖とすれば、現今約五十万人位となってしかるべき筈である。しかるに事実は甚だしくこれと相違して、現今少くも百二三十万の多きに達していると計算される。すなわち一般世間の人々が約八割を増せる間に、彼らは四倍以上の数に達しているのである。かくの如く維新以後普通民の増加が甚だしくなった時代においても、彼らは普通民に比してさらに甚だしい増殖率を示しているのであるが、これが既に徳川時代において、立派に存在した現象であった。普通民が一向増加しない間にも、彼らのみは甚だしく増加した。これはその部落の沿革を調査すれば明らかなことで、もと二戸ないし三戸であったと云うものが、後世には大抵数十戸に増加しているのである。中にも正徳の頃百八十八戸であった京都の六条村の如き、明治四十年には千百六十九戸となり、今では約二千戸に達したとも云われているのである。すなわちいわゆる特殊部落なるものは、もとは村落都邑に属する少数の請願警吏の駐在所の延長で、その人口増加の結果として、遂に部落をなすに至ったのが多いのである。
しからば何故に彼らのみ、特に増加率が多かったのであろうか。これには特殊の事情もあるが、大体この社会の人々は生活が簡単にして、自然病気に対する抵抗力が強く、婦人の生産数も多いという以外、彼らはもと警固の報酬として、一定の扶持に生活したが上に、死牛馬処理の有利事業を独占し、その他にも特権が多く、生活に余裕があったが為と、一つには彼らが一向宗門徒であって、その宗旨の教えとの為に、自然堕胎、間引きの風習がなかった故であった。されば同じくエタ、非人と疎外された中にも、非人の方が段々減少したが、長吏たるエタの方のみ特に著しく増加したのである。
しかしながら、普通民が少しも殖えぬ間に、彼らの人口のみが甚だしく殖えたとしたならば、その結果はいかなるであろう。村に一戸、二戸あってこそ、彼らは警察吏として、また雑役夫として、歓迎もされたであろう、村にとって必要なものとして、相当の扶持に生活しえたであろう。その縄張内に生じた死牛馬の役得のみにても、少からざる収入となったであろう。しかるにその人口が甚だしく増加し、一方その需要が一向増さぬとあっては、たちまち失業者を生ぜねばならぬ。従来一人にて多くの戸数を分担し、いわゆる「持ち」と称してこれに出入りしておったものも、遂にはこれを数人で分たねばならなくなる。収入は著しく減少する。かくてその多数は警固の事務から離れて、番太という特別の警固の者が出来ては、彼らは全く雑役労働によってのみ生きなければならぬことになる。しかるに不幸にして彼らは、触穢禁忌の思想によって、自由にその欲する職を択ぶ事が出来ぬ。やむをえず狭少なる範囲の職業に従事して生きねばならぬ。仲間内には競争が起る。従来はむしろ祝儀をまでもつけて引き取ってやった程の死牛馬も、今は競争して買収せねばならぬ事ともなる。生活はますます苦しくなる。次第に身を卑下していわゆる檀那方の好感を博し、少しでも多くの物質的利益を得るの道を講ぜねばならぬ。従来は権利として集めてまわった村方の扶持米も、今はただ永年間の習慣によって、いわゆる旦那の同情に待つようになる。かくては乞食待遇せられてもやむをえなかった。もちろん住居の地には限りがあって、自由に拡がる事も、分散する事も出来ぬ。その限られたる部落内に、限りなく増加する人口を収容せねばならなかった彼らは、次第に密集部落となり、細民部落となり、世間の進歩とは反比例して、ますます普通民との距離が遠くなる。もとは村方に必要であったものも、今では厄介な寄生物となる。世間の忌避と軽侮との度はますます甚だしくなる。それでもなお満足に生きて行く事が容易でないのみならず、彼らとても同一の人間でありながら、一方世間の差別待遇に甚だしく不満を感ずるの結果、その身分を隠し、仮面を被って世間に紛れ出る。或いは武家や百姓、町人の家に奉公し、或いは遊女となり、出稼人、行商人となる。しかし普通民の側からこれを見れば、穢れたものとして誤信された彼らに紛れ込まれては迷惑である。そこで風俗上一目見て区別が出来るようにという、取締法の必要も起って来る。かくの如くして、彼らはますます圧迫せられ、ますます去勢せられ、武家に対してはもとより、百姓、町人に対しても、一切頭が上がらぬ下賤のドン底に落ち込んで、同じ人間でありながら、人間として待遇されない、気の毒なものになってしまったのであった。
20 結語
人類の生活に必要なるあらゆる物資が、日光の如く、空気の如く、何らの考慮と勢力とを用いず、すべての人類に、無限にかつ公平に供給せられざる以上、またその人類の有する智能と体質とに、生れながらにして賢愚強弱の差が到底避け難いものである以上、さらにまたいわゆる機会なるものが、すべての人類に必ずしも常に同一に恵まれざる以上、いかなる原始の時代と云えども、彼らの社会において、すべてが同一の境遇にいることはありえない。智能勝れ、強健にしてよく勤労に堪えうるものが、自然その社会に勢力を占有して、幸福な生活を遂げ、暗愚にして、羸弱懶惰るいじゃくらんだなものが、その反対に社会の落伍者となるということは、おそらく人類始まって以来の自然の法則であらねばならぬ。のみならず一方には、人類には不可抗力の運命というものが伴って、一層その関係を複雑ならしめるものがある。もちろんこれらの不公平なる現象に対しては、人力を以て幾分これを緩和しうる場合があるとしても、その場合恩恵に浴するものは、自然その恩恵を与うるものに対して卑下せねばならぬこととなる。人類の間に上下の階級を生じ、従属関係の起ることは、少くも歴史を遡りうる限りにおいて、必ず存在した現象であった。
一方人類には、禽獣とは違って、子孫は父祖の延長であるとの思想が濃厚である。したがって特別の事情なき限り、子孫は父祖の地位を継承するを常とする。ここにおいて境遇が自然に世襲的となる。我が上古に氏族制の行われた如きは、ことにその著しいものであった。すでに社会に上下の階級があり、それが世襲させられるとすれば、よしや貴族、賤民というような判然たる名称はなかったとしても、それに相当するものが必ず太古から存在したに相違ない。
しかしながら、社会は常住不変のものではない。常に新陳代謝して、新しいものと代って行く。これを社会上の事実に見るに、昔時の貴族、富豪が、どれだけ今日にその尊貴と富有とをつづけているであろう。これを今の武家華族の家についてみても、徳川時代の諸大名は大抵戦国時代に新たに起ったもので、鎌倉幕府以来の大名の子孫が、そのまま継続しているものは僅かに指を屈するばかりしかない。彼らの中には薬屋だとか、桶屋だとか、野武士だとか、水呑百姓だとか云われた卑賤の身分から起って、混乱時代の風雲に際会し、天下の政権を壟断するの地位を獲得したものも少くなかった。かの太閤秀吉の如き大人物は、実にそのもっともなるもので、その素性を尋ねたならば、実はどういう人の子だかよくは分らないのであった。応仁、文明頃の奈良の大乗院尋尊僧正の述懐に、「近日は土民、侍の階級を見ざるの時なり。非人三党の輩といへども守護国司の望をなすべく、左右する能はざるものなり」とも、また「近日は由緒ある種姓は凡下に下され、国民は立身せしむ。自国他国皆斯くの如し」とも云っている。そしてその応仁、文明の頃から、世間は混乱を重ねて、遂に戦国時代となり、実際胆力の大きい、力量の勝れたものが成功して、下賤のものも立派な身分となる。かかる際において、エタも非人もあったものではない。現に非人と呼ばれたもので一方の旗頭となり、一城の主となっていたものもある。したがって従来賤民階級に置かれたものも、この際多く解放せられたのであった。
しかしながらこれはいわゆる成功者の方面に対する観察であって、その反面には失敗して新たに落伍者となったのも、また必ず多かるべきことはもちろんである。「切取、強盗は武士の習い」とか、「分捕功名、鎗先の功名」とか、体裁のよい遁辞の前に、いわゆる大功は細瑾を顧みずで、多くの罪悪が社会に是認され、為にその犠牲となったものが、到る処に発生した。かくてともかくも徳川時代三百年の太平は実現し、落伍者の子孫は永くその祖先の落伍を世襲させられたのであった。
もちろん徳川時代においても、相変らず社会の落伍者は発生する。そして多くは非人の仲間に収容される。京都では悲田院の長屋に収容して、やはり警察事務や、雑役、遊芸等に従事させた。当初はそれをもエタと呼んだ例はあるが、後には明らかにエタと区別されている。
明治、大正の時代になっても、相変らず落伍者は出て来るが、彼らはもはや非人の名称を以ては呼ばれない。大正十二年の関東大震火災の際に生じた多数の罹災者の如き、もしこれが旧幕時代に起ったのであったならば、いわゆるお救い小屋に収容せられて、非人となったものも少からぬことであったに相違ないが、今日そんなことを考えるものは少しもない。昔ならば河原者、坂の者、散所の者となるべき運命の下に置かれたものも、今日では木賃宿へ仮住まいして、自由労働者と呼ばれている。乞胸ごうむねと呼ばれた大道芸人の仲間も今では立派な街上芸術家である。昔ならば家人けにん、奴婢ぬひと呼ばれて、賤民階級に置かれた使用人の如きも、今ではサラリーマンと名までが変って来た。今日ではいわゆる賤民は過去の歴史的一現象となってしまったかの観があるのである。
しかしながら、これあるがために、事実上賤者階級のものが、果して社会に跡を絶った訳ではない。生存競争は相変らず激烈であり、自然淘汰、適者生存の原則はどこまでも行われている。過去におけるが如き賤民の名こそなけれ、名をかえ、形をかえて、相変らず社会の落伍者は存在し、引続き発生しつつあるのである。目のあたり見る今日のこの現象を以て、これを過去に引き当てて考えてみたならば、思い半ばに過ぐるものがけだし少からぬことであろう。今はただ過去における落伍者の動きの大要をかいつまんで略叙するに止め、その詳細なる発表は、さらに他日の機会を待つことにする。 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
  
 
 
 

 

 
 
 

 

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