時宗 [一遍] 法話

遊行寺法話 / 六道の心極楽浄土孤独師と弟子慈しみ昨年の漢字法に依りて業ってなに無財の布施慈母いただきます仏様のものさしいのちの相続泥中の蓮華顔面問答写経の功徳この世で往生健康の得無常と今捨ててこそ人のこと全体ゾウをみる超世の願紫陽花他力という鏡彼岸への道福を生む田んぼ青黄赤白仏教は死後のため財宝は毒蛇鬼の正体無常の別れ信じるということ五月病追善供養実るほど頭を垂れる稲穂かなお盆はあなたに会える精進無涯平凡は非凡ありがとう掃除で世直し念仏のある生活迷いも悟りも偏らない心脚下照顧今いる所で咲きなさい一水四見称名感応道交我慢ではなく辛抱微妙香潔の香り覚悟鐘の音とともにワンチーム・・・
真光寺法話・・・
圓福寺法話・・・
荘厳寺法話・・・
無量光寺法話・・・
向福寺・・・ 光照寺・・・ 教浄寺・・・ 正宗寺・・・ 寶厳寺・・・ 浄光寺・・・ 海前寺・・・ 蓮台寺・・・

 時宗・一遍 仏の世界

雑学の世界・補考

藤澤山無量光院清浄光寺(遊行寺)・法話

遊行寺縁起
当山は通称「遊行寺」の名で知られており、正式には藤澤山無量光院清浄光寺と号します。
開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代他阿呑海上人です。その兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建されました。創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇は度々焼失し、その都度復興してきました。永正10年(1513)兵火により全山を失った際は、当時、遊行21代他阿知蓮上人が滞在されていた駿河長善寺に本尊を移動します。その後、ようやく藤沢に再興されたのは、慶長12年(1607)のことです。そして、寛永8年(1631)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺は、『時宗藤沢遊行末寺帳』を提出し、幕府から時宗総本山と認められます。現在の遊行寺は、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍〔平成27年(2015)に10棟が国の登録有形文化財に登録〕や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場として、また市民の憩いの場として今日に至っています。
1325 正中二 遊行四代呑海上人 遊行寺を開く
1356 延文元 鐘完成
1435 永享七 関東管領足利持氏 遊行寺に仏殿120坪を造営寄進
1513 永正十 兵火により遊行寺全焼 本尊を駿府(静岡県)長善寺に移す
1591 天正十九 徳川家康 遊行寺へ百石寄進
1603 慶長八 遊行三十二代普光上人 伏見城に於いて徳川家康にまみえる
1607 慶長十二 普光上人 再建された遊行寺に入住
1625 寛永二 弥三郎(法名臨阿弥陀仏) 四十八段(いろは坂)寄進
1661 寛文元 本堂客殿庫裏を焼失
1664 寛文四 本堂を上棟
1694 元禄七 徳川綱吉 金魚銀魚の類を遊行寺の池に放生(ほうじょう)すべき旨を発令
1782 天明二 本堂入仏式厳修
1788 天明八 惣門再建上棟
1794 寛政六 遊行寺焼失
1799 寛政十一 遊行寺再興
1816 文化十三 鐘楼堂建立上棟
1831 天保二 藤沢宿茅場より出火、書院・居間以下諸堂焼失
1832 天保三 広間・庫裏、台所御番方上棟
1836 天保七 藤沢付近凶作、本山より領内の人々にほどこす
1838 天保九 宗祖一遍上人550年御遠忌 大玄関及び大書院上棟
本堂の復興完成はならず
1839 天保十 観音堂及び茶亭上棟
1856 安政三 熊野瑜伽権現両社拝殿再興上棟 大型台風のため被害甚大
1859 安政六 中雀門上棟
1880 明治十三 遊行寺類焼 中雀門及び倉庫3棟以外焼失
1897 明治三十 遊行寺再興 宗祖一遍上人600年遠忌
1911 明治四十四 書院居間番方庫裏焼失、国宝「一遍上人絵詞伝」焼失
1915 大正四 時宗宗学林に籐嶺中学校併設開校
1919 大正八 時宗宗学林及び藤嶺中学校全焼
1923 大正十二 関東大震災 本堂他倒壊
1937 昭和十二 本堂復興
1975 昭和五十 時宗開宗700年記念慶讃法要修行  宝物館及び大書院等建立
1989 平成元 宗祖一遍上人700年御遠忌
2004 平成十六 国宝「一遍聖絵」(絹本着色一遍上人絵伝)遊行寺の所有となる
2014 平成二十六 地蔵堂建立
2015 平成二十七 宝物館改装、特別展「国宝 一遍聖絵」開催
遊行寺の御本尊
時宗寺院の御本尊は一般には阿弥陀如来像です。なかには薬師如来像・観音菩薩像・地蔵菩薩像を御本尊とする寺院もあります。それは寺院の来歴によってさまざまです。遊行寺の場合、創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇を度々焼失してきたため、創建当初の御本尊は今日伝わっておりません。現在、本堂に安置されている御本尊は阿弥陀如来坐像で、高さ六尺一寸(184cm)、浅草日輪寺塔頭(たっちゅう)の宝珠院が浅草寺からゆずり受けたものです。宝永5年(1708)夏、遊行四十八代賦国(ふこく)上人が日輪寺に滞在したとき、この仏像をみて大仏であるから、本山の本堂に安置するのがふさわしいとおっしゃられ、元文2年(1737)10月に遊行寺に移されたのです。なお、本堂の脇檀には、宗祖一遍上人・遊行二祖真教上人・遊行四十二代尊任(そんにん)上人の祖師像が安置されています。  
 
 

 

■六道の心
「とにかくに 心は迷う ものなれば 南無阿弥陀佛ぞ 西へゆく道」   一遍上人
我々は煩悩にあふれた凡夫であるが故に、心は迷いに満ちています。だからこそ、南無阿弥陀佛と名号を称えることだけが西方極楽浄土に至る道だと心得て、無心で念仏することが重要なのです。

8月といえば「お盆」や「お施餓鬼」を連想される方も多いかと存じます。施餓鬼は「餓鬼」に「施(ほどこ)す」と書く通り、餓鬼に食べ物を与えるという意味です。さらに、“心”に注目すると、餓鬼の心に“智慧の潤いを与える”と解釈できます。心はコロコロと変化するので“こころ”と言うそうですが、心の状態は六道になぞらえて6つに分けることができます。
天の心 …人を見下し、勝ち誇っている状態(有頂天とも)
人の心 …迷いや執着が渦巻き、偏った状態
修羅の心…怒りや勝負心を抑えられない状態
畜生の心…理性がなく、本能のままの状態
餓鬼の心…欲望が絶えず、むさぼり続ける状態
地獄の心…苦しく、つらい状態
日々の生活でどれもよく出てくるのではないでしょうか。人は常に、この「六道の心」をさまよっているといえますが、ここから抜け出すことは簡単ではありません。だからこそ凡夫である私たちは、余計な考えを捨て、”無心”でお念仏することにより、餓鬼の心だけでなく、六道を迷う心をも消し、清らかな心の状態を保つことができることでしょう。
 

 

■極楽浄土は遠い?近い?
『従是西方過十万億仏土(これより西方に十万億の仏土を過ぐ)』といふ事。実に十万億の里数を過るにはあらず。衆生の妄執のへだてをさすなり。(中略) 故に経には『阿弥陀仏去此不遠(阿弥陀仏ここを去ること遠からず)』と説り。衆生の心をさらずといふ意なり。   『一遍上人語録』

遊行寺秋の開山忌は、彼岸(ひがん)の期間中に行われます。「彼岸」は日本古来の習慣で、春分、秋分を中日として前後3日間、計1週間の期間をさします。中日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むことから、阿弥陀仏のおられる西方極楽浄土を想像するのにふさわしい日でもあります。つまり「彼岸」は煩悩が尽きない此岸(しがん:現実世界)から煩悩が滅された彼岸(極楽浄土)へ渡りたいという想いを実践する期間なのです。さて、一遍上人は上記の言葉で、極楽浄土が私たち生きている者にとって遠い存在などではなく、現実世界でも至れる存在であると示されます。
《極楽浄土は遥か西のかなたにありますが、それは決して数量的な隔たりだけではありません。自分自身への執着、間違ったこだわりこそがこの大きな距離を生みます。つまり、人々の心のすぐそばに阿弥陀仏や極楽浄土は存在し、“執着の心”が消えた時、この世と極楽は一体となるのです。》
この迷いの心や執着は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることで不思議と取り除かれるとも上人はおっしゃいます。また、極楽が心の近くにあるように、阿弥陀様も十劫(じっこう:無限に近い)の昔に悟られた仏様ですが、“今”、影のように私たちに寄り添ってくださっているのです。彼岸」を迎え、“今私たちの命があるのは極楽浄土におられる阿弥陀様、ご先祖様のお陰さま”との想いをはせ、念仏をお称えしましょう。  
 

 

■孤独を恐れない心
を(お)のづから あひ(い)あふ(う)ときも わかれても ひとりはを(お)なじ ひとりなりけり   『一遍聖絵』
縁によって人と出会うときも別れた後も、人間はいつも独りなのです。独り生まれて独り死ぬのが本来なのです。

『一遍聖絵』の中に上のような和歌があります。これは、『無量寿経』の「独(ひと)り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る」という一説を踏まえての作といわれています。さて、現代社会はインターネットなどで情報が行き交い、常に他者との繋がりを感じられるにもかかわらず、孤独の時代と言われます。それは、集団として生きることが「孤独」から目をそらすことができる反面、“孤独になる”ことへの恐怖感を増幅させるからではないでしょうか。この恐怖感の大きさは、携帯電話やアルコール、ギャンブルなどへの依存という形となって現れているように思います。
ところで、「孤独」と聞くと、悪いイメージだけを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。そもそも人間とは、本来孤独な存在であり、集団であっても、一人一人が縁あって集まり関わっているだけだと、お釈迦様も一遍上人も説かれます。だからこそ、共生するためには立場や違いを超えて、お互いに認め合い、尊重し合うことが重要であると示されているのです。孤独とは辛く悲しいものです。だからこそ、孤独に押しつぶされないように、人間誰しも孤独であるという事実を受け入れ、自己を見つめなおし、新たな境地に自分を高めるようとすることが大切なのではないでしょうか。 
 

 

■師と弟子、親と子
他阿弥陀佛、南無阿弥陀佛はうれしきか   『一遍上人絵詞伝』
他阿弥陀仏(二祖真教上人)よ、南無阿弥陀仏はうれしいものか。

一遍上人は亡くなる前、時衆(付き従っていた念仏衆)が最後の教えを聞きたいと願ったところ次のように答えられました。「あなた方の信心は身・口・意(三業:人間の一切の行為・意志)の働きを超えた念仏と一体であるとは言っても、言葉だけ知っていて、意味を知らない人が多い。しかし、阿弥陀様の教えはそのように一心に往生を願うことのできない人のためにあるのです。さて、他阿弥陀仏(二祖真教上人)よ、南無阿弥陀仏はうれしいものか」 この時、一遍上人と13年間旅を共にした真教上人は、一遍上人の心中を察し、たまらず歓喜の涙を流されました。言葉ではなく涙をもって答えられたことに、完全な帰依の心がうかがえます。
真教上人は本当に良い師に出会われました。今の世の中、よき師弟関係、親子関係というのはあまり多いとは言えません。学校や家庭で起きる諸問題がそれを表しているのではないでしょうか。茶道、武道などで使われる「守破離(しゅはり)」という言葉があります。師匠の教えをまずは守り、次に破り、そして最後は自在に離れていくという意味です。ずっと守るだけが正しいとは言えないのです。師は弟子が一歩先んじた時に師の役目を終えます。その恩は師より優れた業績を残すことで返すことができます。また、一遍上人は時衆を弟子と呼ぶことはありませんでした。先生も弟子も共に真理を探究する一人の人間であるという謙虚な自覚が大切なのでしょう。 
 

 

■慈しみの教え
自力我執をも(っ)て、懺悔すべからず   『播州法語集』
自分の力で懺悔できると考えてはいけません。悪いことをしたのなら「南無阿弥陀仏」と唱えなさい。 阿弥陀仏に任せる心が大事なのです。

先月末、皆様のお陰をもちまして、当山最大の年中行事である「歳末別時念仏会」、「一ッ火」を無事成満することができました。この行事には、年末に近い時期に行われる通り、“一年間の悪業を懺悔する”という意味合いがあります。さて、仏教では反省することを懺悔(さんげ)といいます。時宗日用勤行式に『懺悔偈』が記されているように、念仏を通し懺悔する行為はとても重要です。いくら気を付けていても、過ちを犯さない人はいません。良かれと思ってした言動が人を傷つけることもありますし、あるいは、家族や友人のために、やむを得ず悪行を働くこともあるでしょう。人間とは弱い存在なのです。もちろん、自分が犯した罪に気づいたならば、開き直るのではなく、素直に反省し、二度と繰り返さないと決心することが大事なのです。もとより、阿弥陀仏を拝する浄土の教えとは、自らの罪深さを省み、未来の善行を志す人のための教えです。しかしながら、自分の事は棚に上げて、他人の過ちを徹底して非難する人は多いものです。「あの人はこんなに悪いことをした」、「あいつは迷惑をかけてばかりだ」などの物言いには“自分はいつも正しい”、という傲慢な心が見えます。自省を忘れない人ならば、他人の過ちに慈悲の心をもって対応できるはずです。また、一遍上人は懺悔の中にも他力念仏の教えを忘れてはならないとおっしゃいます。自分の力で懺悔できるというのは、人の思い上がりで、念仏が懺悔の唯一の道であることを忘れてはならないと示されているのです。 
 

 

■“昨年”の漢字
開くへ(べ)きこころの花の身のために つほ(ぼ)み笠きることをこそいへ(え)   『一遍聖絵』
(笠を身に着けていることを非難されて) 私が笠を被っているのは、心の花を開くための蕾(つぼみ)を守るためである。(極楽往生を目指す身を守るためである)

年末に注目が集まるものの一つに、日本漢字能力検定協会が発表する「今年の漢字」があります。では、遊行寺の“平成27年”を振返り、漢字一字で表すと何がふさわしいでしょうか。職員数人で話し合った結果、「結」という漢字ではないかという結論に至りました。昨年の出来事といえば、まず6月に「本尊阿弥陀如来像大修復」が決定し、広くご寄付を募る計画が立ちました。多くの方が浄財勧募のお力添えをくださり、阿弥陀様との“結”縁を果たされました。また、10月から始まった「国宝一遍聖絵」展が注目を集めます。聖絵全12巻が集“結”した本邦初の展覧会は、延べ3万人以上の方にご来場いただきました。そして最後におめでたい話をもう一つ。実は昨年5月、遊行寺のお檀家様としては初めて、当山にて“結”婚式が執り行われました。阿弥陀様に誓いを立てる仏前結婚式は、厳かで温かみのある素晴らしいものでした。以上が「結」にまつわる昨年の出来事です。さて、今年はどのような一年になるのでしょうか。一月は一年の目標を決める良い機会です。特に初詣の折、仏前で新年へ思いを固めることが正しくそれに当たります。しかし、環境であったり、心の状態であったり、目標に向かうには様々な困難があるかと思います。一遍上人は、自分が笠をかぶる様子を和歌で「開くべき花のために、蕾が笠を被っているのだ」と例えられます。皆様も“開くべき花“を想い定め、“蕾”を困難から大事に守りながらこの一年間を精進されてはいかがでしょうか。 
 

 

■法に依りて人に依らず
此俗は依法不依人のことわりをしりて、涅槃の禁戒に相かなへり。珍しき事なり。   『一遍聖絵』
(このぞくは えほうふえにんのことわりをしりて、ねはんのこんかいに あいかなえり。めずらしきことなり。)
(ある武士が、一遍上人を誑惑(きょうわく)の者と見なしながらも念仏札を受けたことに対して) この武士は「法に依って人に依らず」というお釈迦様が涅槃に入られる前に弟子たちに説いた戒めにかなっている。感心なことである。

今月15日は、お釈迦様の遺徳を偲ぶ「涅槃会(ねはんえ)」を厳修いたします。この日は、今から約2500年前に、お釈迦様が涅槃に入られた日です。涅槃に入るとは「死ぬ」ことではなく、肉体を脱ぎ捨て「完全なる悟りの世界へ入る」ことを意味します。また、入滅される前にお釈迦様は弟子たちに一つの教えを説かれました。それが「自灯明・法灯明」の教えです。「私が死んだ後、修行する者は、私の教えた真理を灯明として、また自分自身を灯明として仏道を歩みなさい。」  灯明は、暗闇を照らす仏様の慈悲と智慧を表し、「拠り所」とも言えます。自灯明に関しては、お釈迦様は決して“自分の好きに生きなさい”、“自分の力を信じて生きなさい”とおっしゃっているわけではありません。「自分自身の中にある仏性(仏としての本性)を観察・認識し、仏の教えを拠り所にして生きなさい」とおっしゃっているのです。
話は少し変わりますが、「今月のおことば」のこの一節。ある時、一遍上人は旅で出会った武士をたいそう褒められたことがありました。それは武士が一遍上人のことを「日本一のまやかし者で偉そうだ」と推し測りながらも、宴会のさなか、服装を正し、手と口を清め、静かに念仏札を受け取ったからです。御札を受けとった理由を客人に聞かれたこの武士は「念仏にはたぶらかしがないからだ」と答えたそうです。一遍上人は「『人を見るのではなく、仏の教えを拠り所にしなさい』という法灯明の教えにかなっている」と深く感心されました。さて、頭ではわかっていながらも、なかなか実践できないこのお教えを、改めて涅槃会の日に思い起こしてみてはいかがでしょうか。 
 

 

■業ってなに?
聖道浄土の法門を 悟りとさとる人はみな 生死の妄念つきすして 輪廻の業とそなりにける   「別願和讃」
(しょうどうじょうどのほうもんを さとりとさとるひとはみな しょうじのもうねんつきずして りんねのごうとぞなりにける)
自力の修行で覚りを目指す教えや阿弥陀仏の他力を信じる教えをことごとく覚りきったという人は皆、生死への執着がなくならないで、かえって輪廻を繰り返す業を積んでいくだけです。特に自力の教えはいくら悟っても迷いの根本である我意我執がつのり、悪業を増やしていくばかりなのです。

3月、「卒業」のシーズンを迎えます。卒業と言えば、“先生や友達との別れ”、“第2ボタン”など、その思い出は何年、何十年経っても忘れられないものではないでしょうか。さて「卒業」は「業(ごう)」を「卒(しゅっ)する(終える)」と書くとおり、本来一切の業を作らない境地を表わす言葉だと思われます。業とは仏教で「行い」を意味し、業の原因は3つに分けて「三業(さんごう)」と呼ばれます。
三 業・・・ 身(しん) (身体的な行い 食べる、歩くなど)
      口(く) (ことばを発する行い 挨拶、悪口など)
      意(い) (心に思う行い 欲する、感じるなど)
人間の行いは全てこの三業に分類できます。また業や、業による影響は一時的なものではなく、長く蓄積されるものです。そして善い業は必ず善い結果を、悪い業は必ず悪い結果をもたらします。いわゆる「自業自得」はここからきています。そして、この三業を浄(きよ)めなさいというのが仏教の教えです。特に他人に知られない「意」は、世間では他の2つに比べ軽んじられがちですが、実は最も重要視すべきものです。なぜなら「意」は「身」や「口」よりも必ず先に起るからです。清らかな心で犯罪など起こせませんよね。ただ、凡夫(ぼんぷ)である私たちは汚れやすく、正しい行動、きれいな言葉、清らかな心を保ち続けることはできません。ですから、自分の言動や感情に間違ったこだわりや、悪い心、自分勝手な心が働いていないか、常に自問し反省することが“浄める”ことに繋がるかと思います。日常生活でいえば、仏壇の前やお寺などで手を合わせ(身)、心静かに(意)お念仏を申す(口)時が、まさに最上の時と言えましょう。ちなみに、時宗では決まりがありませんが、お焼香を3回行う作法は、この身口意を浄める意図があります。 
 

 

■無財の布施
こころより こころをえんと 意得こころえて 心にまよふ こころ成なりけり   一遍上人   
(こころより こころをえんと こころえて こころにまよふ こころなりけり)
自分の心の中を探し求めて心をとらえようと思っても、かえって何が本当の心なのか迷ってしまうのが凡夫の心なのです。

新年度を迎え、進学や就職など新たなスタートを踏み出す方も多いかと思います。おそらく様々な期待と不安が入り混じっているのではないでしょうか。特に、新しい人間関係が生まれるのですから、他人とうまくやっていけるかという不安は誰しもが抱えるものです。良い人間関係とは、まず自分が善い言動を心がけることから始まります。具体的には「布施(ふせ)」の精神をもって人に接することが大切です。「布施」というと“お金”をイメージされる方も少なくないとは思いますが、本来の意味は自分自身のために行う見返りを求めない施し・・・・・・・・・・であり、日常生活でも簡単にできるお釈迦様の教えなのです。『雑宝蔵経ぞうほうぞうきょう』に説かれる「無財の七施」がその実践方法です。
1.眼施(げんせ)・・・優しく温かい眼差しで人に接する
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ)・・・明るい笑顔で人に接する
3.言辞施(ごんじせ)・・・優しい言葉を人にかける
4.身施(しんせ)・・・自分の身体で人や社会のために奉仕する
5.心施(しんせ)・・・他者のために心を配る(思いやり・共感)
6.床座施(しょうざせ)・・・席や場所を人に譲る
7.房舎施(ぼうじゃせ)・・・一宿一飯のもてなしを提供する
自ら施すことで心を豊かにさせていただくことが布施の意義です。そして布施行う人の周りには必ず感謝と報恩の気持ちがあふれているはずです。私たちはこの一つの世界で共存する限り、少なからず他者に迷惑をかけたり、支えられたりして生かされていることは明白です。それにもかかわらず、「人に迷惑を掛けないようにしましょう」という内向きな道徳観ばかりに目を取られると、時に私たちは他人の迷惑にも寛容になれないものです。むしろ、「人に迷惑を掛けてきたのだから、感謝を忘れず、献身的に恩に報いよう」と考えれば、社会により良い“人の輪”ができるのではないでしょうか。 
 

 

■慈母じもの観音さま
観音勢至の勝友あり   一遍上人 
阿弥陀如来の脇侍わきじであられる観音菩薩・勢至菩薩は極楽往生を志す念仏行者のよき同朋である。

よく知られているとおり5月の第2日曜日は、「母の日」として母の常日頃の苦労をいたわり、母への感謝を表す日です。また、5月5日の「こどもの日」も、祝日法によると「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日であると定められています。子供をひとりの人格を持つ人間として尊重するにあたり、大変な苦しみを乗り越え出産してくれた母への感謝を教えることは、とても大切だと思います。
さて、本来仏さまに性別はないでしょうが、仏教で“母”に挙げられる代表は「慈母観音」・「悲母ひも観音」とも呼ばれる観音さまです。観音さまは正しくは「観世音かんぜおん菩薩」・「観自在菩薩」等とお呼びします。全国に多くの観音霊場がありますし、『般若心経はんにゃしんぎょう』の冒頭で登場されることをご存じの方も多いのではないでしょうか。観音さまは「音を観みる」と書きます。「観る」とは単に見るのではなく、内面まで見通し、明らかにする観察かんざつのことです。ですから「自由自在に世の中の音(苦しみの声・救いを求める声)」を観て、お救いくださる仏さまなのです。そしてこの観察力と慈悲じひの象徴が観音さまとも言えます。自分以外から聞こえる「音」を観察し、慈悲をもって苦しみを除かれるお姿は、私たちの理想の在り方です。現代社会は、いじめや自死、孤独死といった多くの問題をはらんでいます。インターネットが発達し人間関係が見えにくい現代だからこそ、観音さまのように私たちは他者の救いの声を観じ、心から寄り添うことが必要不可欠ではないでしょうか。観音さまは常に念仏行者の慈母として、勝友(よき同朋)として、極楽往生を願う私たちに付き添ってくださっています。 
 

 

■“いただきます”
命をさゝふる食物じきもつは あたりつきたる其そのまゝに 死するを嘆なげく身ならねば 病やまいのためともきらはれず   一遍上人 
命を支える食事は施されたままいただきます。いつ死を迎えてもよい身ですから、健康に良い悪いなどの理由で好き嫌いすることは嘆かわしいことです。

今月は犬猫慰霊法要を営みます。「犬猫」とはありますが、犬や猫以外にも様々な動物のご供養をいたします。近年ペットの数は増え続け、犬と猫だけでも約2000万匹が飼われているそうです。現在、15歳未満の子供の数が約1600万人という統計もありますので、いかに多くの家庭でペットが飼われているかがわかります。
さて、多くの動物の命は人間に比べると非常に短いものです。命の長さは平等ではありませんが、命の尊さは平等であると仏教では説かれます。普段私たちが何気なく食事の中で食べている動物や魚、野菜、果物も当然この尊い命です。では、「いただきます」という食事前の言葉にはどのような意味があるのでしょうか。もちろん食事を作った人、食材を育てた人などその食事に関わった人すべてに感謝するという意味もあるかと思います。ただ、もっと大切な意味は「これから尊い生命をいただきます」という感謝の念です。私たちは“命は大切にしましょう”と幼い頃より教わってきました。ただ、人間は自らの生命を維持するために他の生命を奪わざるをえない存在でもあります。これを仕方ないで済ませることは人間の身勝手だと言えましょう。他の命が自分の命を支えてくれている、その命をどのようにまっとうすべきか。私たちはこのことを忘れることなく、しっかりと考えなければならないと思います。自分は他の無数の生命によって生かされているということに気が付けば自然と、「いただきます」と言う時の心持ちが変わってくるのではないでしょうか。 
 

 

■仏様のものさし
ふればぬれ ぬるればかはく 袖そでのうへを 雨とていとふ 人ぞはかなき   一遍上人 
雨が降れば濡れ、そして濡れたものはやがて乾くのが道理であるのに、雨が降ってきたからといって慌てて避けようとすることは愚かなことである。

先月、犬猫慰霊法要と大施餓鬼法要という二つの大きな法要を厳修いたしました。梅雨の時期だけに雨が心配でしたが、天気にも恵まれ多くの方にご参拝をいただきました。さて、私たちは雨が降ると「天気が悪い」、「うっとうしい天気」などと表現することがあります。自然をはぐくみ、大地に恵みをもたらす雨も、自分に都合が悪ければ時として“悪”のレッテルを張ってしまうのです。天気に限らず、世の中では学校の成績、運動能力、仕事能力などで様々に「人の価値」がつけられます。それは私たちが日頃から「人間のものさし」で物事を判断しているからです。
「人間のものさし」は対象が有益かどうか、自分にとって損か得かで判断します。例えば、“成績のいい子、仕事ができる人が偉い”、“あの人は怒りっぽくて嫌い”、“この人には逆らわない方がいい”、などです。しかも、このものさしの目盛りは自分勝手に変化してしまうので、自分には甘くなったり、他人には厳しくなったりとたいへん厄介です。それに対して「仏様のものさし」はその存在そのものの価値を測ります。決して、他の存在とは比べません。また、自分にとって有益かどうかで目盛りが変わることもないので、「あるがままの命」を慈しむことができるのです。現実社会は、損得や学力、経済力など「人間のものさし」であふれています。そして人は“比べること”で差別を生み、自ら苦しみを生み出していることになかなか気づくことができません。「隣の芝は青い」ことに気を取られず、目の前にある我が子や家族、毎日の食事などあるがままを「仏様のものさし」で眺めましょう。 
 

 

■いのちの相続
曠劫こうごう多生たしょうの間あいだには 父母にあらざる者もなし 万よろずの衆生しゅじょうを伴なひて はやく浄土にいたるべし   「百利口語」
遠い過去から続く輪廻(生き変わり死に変わり)の間のすべての人々を父母であると思い、共にすみやかに極楽浄土に往生しましょう。

夏本番、まもなく八月盆を迎え、お墓参りをお考えの方も多いのではないでしょうか。お盆とはお釈迦さまの弟子である目連もくれんさまが、死後「餓鬼道がきどう」という苦しみの世界に堕ちたお母様を救おうと、多くの僧侶に供養した「盂蘭盆会うらぼんえ」がその起源です。日本にこの仏事が伝わると、供養の対象が両親はもとよりご先祖様、あらゆる精霊へと広がり、お盆でのお墓参りが風習となったわけです。今回はご先祖様の供養の意義を「相続(そうぞく)」という言葉で考えてみたいと思います。
まず、相続とは仏教用語で「つづくこと」、「連続しているもの」という意味があります。諸行無常しょぎょうむじょう(あらゆるものは変化し続ける)が仏教の教えではありますが、“私”のように変化しながらも一定のカタチで存続することが「相続」です。また、大乗仏教の大成者である龍樹りゅうじゅの著『大智度論だいちどろん』には、「相続することは、穀子こくし(穀物の種子)の芽・茎・葉を生ずるが如し」とあります。植物が成長するとき、種は消滅したようにみえて芽や茎や葉や花の中に生きているのです。私たちも同様に両親、そのまた両親、そのまた両親、そして数えきれないご先祖様から命を、そしてお念仏の教えを“相続”しています。ご先祖様は亡くなっても、自分の中に確かに生きておられるのです。だからこそお墓参りは子供たちと一緒にしていただき、ご先祖さまや命の話をしてあげてほしいと思います。なぜなら、次にこの悠久の命、お念仏の教えを相続していくのは、ほかならぬその子たちなのですから。
最後に中国浄土教の祖師・道綽どうしゃく禅師のお言葉をご紹介いたします。「前さきに生まれん者ものは後のちを導き、後に生まれん者ひとは前を訪とぶらえ。」 
 

 

■泥中の蓮華
すてやらで こころと世をば 歎なげきけり 野にも山にも すまれけるみを   一遍上人縁起絵
もともとこの身は苦しい環境でも生き抜くことができるというのに、それをできないといって、自分の心や世の中をつらいつらいと嘆いていることよ。

私事ですが、毎月お檀家さまにお配りしているこの「遊行寺だより」の発行を担当することになって1年が経ちました。皆様に仏教をできるだけ身近に感じていただこうと毎月法話を考えて執筆しているのですが、いざパソコンに向かうとピタリと手が止まってしまい、ものを書くことの難しさをひしひしと感じている今日この頃です。さて、今月は“書くこと”を通じて仏教界に多大なる功績を残した仏典翻訳家「鳩摩羅什くまらじゅう(クマーラジーヴァ)」をご紹介いたします。鳩摩羅什(350-409頃)は中国西域にある亀茲国という国のたいへん優れた僧侶でした。“でした”と過去形にしたとおり、彼は長安に迎えられた際に、時の権力者の謀略によって戒律を破ってしまい、還俗(僧侶をやめ俗人に戻ること)を余儀なくされます。戒を破ってしまったことに対する恥辱や悔恨に悩み苦しみながらも鳩摩羅什が仏教から離れることはありませんでした。むしろ自らの経験を大乗仏教の思想に重ね合わせて仏教理解を深め、仏道を歩んでいきます。その成果が『阿弥陀経』や『妙法蓮華経』、『維摩経』といった数々の大乗経典の翻訳になって表れます。大乗仏教では出家僧侶、在家信者を問わず、悟りを目指し、救いを求めるすべての人々が仏になる可能性を持っていると考えます。そして実は日本人が信仰している仏教はすべてこの大乗仏教です。
鳩摩羅什が翻訳した『維摩経』に次のような一節があります。「譬たとえば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿ひしつの淤泥おでいにすなわち此この華を生ずるが如し。」 意訳すると「蓮華という美しい花は、歩みやすい陸地のような環境では育たず、泥の中でこそ育ち大輪を咲かせる。」という意味です。この世に生きている限り辛い出来事や苦しい環境は避けられません。しかしそれを嘆くのではなく、むしろその中で力強く歩むことが美しい花を咲かせるのです。蓮華の姿に勇気づけられるのは鳩摩羅什だけでなく現代の私たちも同じではないでしょうか。  
 

 

■顔面問答
ただ愚おろかなる者の心に立たちかへりて 念仏したまふべし   一遍上人
知識や信心、能力などにとらわれることなく、すべてを捨てる心で、お念仏を唱えることが大事なのです。

先日9月28日に、時宗全国青年会の大会が西山浄土宗の総本山である京都府長岡京市の光明寺において行われました。光明寺は浄土宗の宗祖法然上人の立教開宗の地、そして御廟がある地として知られています。法然上人は様々なお言葉を残されており、中でも「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」は教えの到達点とも言われます。右に載せている一遍上人のお言葉と共通した心が感じられるのではないでしょうか。
さて、話は変わりますが、今回は中国清時代の詩人・兪曲園が書いた『顔面問答』というお話を簡単にご紹介いたします。ある時、顔の中の“口”、“鼻”、“目”が顔の中での位置関係について不満を言い出しました。口は「私は食事という大事な仕事をしている。それなのになぜ顔の中で一番下に位置しているのか」と噛みつきます。鼻は「いやいや、私がいなければ呼吸ができないではないか。目は食事も呼吸もしていないくせに私たちを上から偉そうに見下ろすとはけしからん。」と息を荒らげます。それを聞いた目は「私にだって重要な役割がある。高い位置から世の中の様々な危険を監視しているのだ。」と反論します。そして結局、三者の矛先は“眉毛”へ向けられました。「ほとんど何の役にも立っていないにも関わらず顔の最高位にいるのはなぜか。」と目、口、鼻に問われた眉毛は「君たちの職務にはとても感謝している。そして私自身恥ずかしながら役目がなんであるか分かっていないのだ。ただ祖先以来こうしてこの場所を守っているだけなのだ。」と話しその場が治まりました。
この話の著者である兪曲園は「私は今まで目や口や鼻のように自分を主張して生きてきたが、これからは眉のような心持ちで生きていきたい」と結んでいます。“自分が自分が”と我を通そうとするから不満や不平が生まれるということでしょう。また、目、口、鼻は存在そのものに価値があることを忘れてしまっています。さて、この『顔面問答』と冒頭でご紹介した祖師方のお言葉に似た含意を感じるのは私だけでしょうか。  
 

 

■写経の功徳
専もっぱら神明しんみょうの威いを仰あおぎて 本地ほんちの徳とくを軽かろんずること莫なかれ   一遍上人
ひとえに日本古来の神々のすぐれた力を敬い、神々の本来の姿である仏の功徳を軽んじてはならない。

「専ら神明の威を仰ぎて 本地の徳を軽んずること莫れ」 これは「時衆制誡じしゅうせいかい」の一節。「時衆制誡」とは一遍上人が時衆(一遍上人に付き従った人々)のために決められた日々の生活で守るべきお教えです。実は先日の全国時宗檀信徒研修会で行った写経講座で、この「時衆制誡」を参加者の皆様に書写していただきました。シーンと静まり返った部屋で一文字一文字集中して筆を運ぶその姿はまるで“無心”のよう。「疲れたけれど書ききった時が気持ちよかった。」、など達成感を感じた方が多いようでした。ちなみに、『脳トレ』で有名になった川島隆太博士の認知症治療の調査では、オセロやくるみ握り、あやとりなど様々な体験の中でも写経が最も効果的であるという実験結果が出たそうです。
さて、写経は仏道修行の一つとして取り入れられており、その最大の功徳は自分の中にもとより備わっている菩提心ぼだいしんに“気づく”ことであるといわれています。菩提心とは自利じり(自らの悟りを目指すこと)と利他りた(自分の善業による功徳を他者に回し向けること)を志すことです。お釈迦さまの教えが詰まった経典を書写し、その後に他者の利益を願う一文を入れる。まさに写経は自利と利他の実践であることが分かります。また、仏教の教えは実践することが大変重要であるとされます。教えの内容を知っているだけでは意味がなく、実践してこそ仏教者であるといえるのです。例えば、ある料理があってその料理について多くの知識があったとしても、食べてみなくては本当にその料理を知っているとは言えないようなものです。写経はたいへん手を出しやすい仏教の実践であり、そしてさらに易しい実践がお念仏を唱えることなのです。実践・行動を重要視するからこそ、唐の善導大師、法然上人、一遍上人などの祖師方は仏さまを想い浮かべる観想念仏ではなく、仏さまの名を唱える称名念仏を勧められたのだと思います。学んで知識をつけることも大事ですが、それ以上に行為に重きを置いて自己を鍛錬されてはいかがでしょうか。遊行寺でも来月12月より定期的な写経会を計画しておりますのでぜひご参加ください。 
 

 

■この世で往生?
生いきながら死して、静しずかに来迎らいこうを待まつべし   一遍上人
生と死の区別を乗り越えるということは、自分に執着しないということです。この心持ちをもって念仏と共に生きることで、いつ仏さまのお迎えを頂いてもよいという信念に至るのです。

去る11月27日、当本山で最大規模の年中行事である歳末別時念仏会を無事成満することができました。歳末別時念仏会は一遍上人がご在世の頃より修されており、念仏三昧の中、「報土入り」、「御滅灯(一ッ火)」を通して、他力本願の深意を体得する目的があります。報土とは極楽世界のことで、「報土入り」は極楽世界への往生を意味しています。つまりこの「報土入り」は、生きているうちに往生を体験する実践行なのです。さて、生きているうちに往生するという言い回しに疑問を抱かれる方も多いのではないでしょうか。人は死んでから極楽世界に往生をするということは広く認識されていますが、実は、一遍上人がより強調しているのは平生(この世)での往生なのです。この平生での往生を端的に表しているのが、今月ご紹介するこのお言葉です。
「生ながら死して、静に来迎を待べし」 では、ここでいう“生きながら死ぬ”とはどういうことでしょうか。実は、一遍上人は先ほどのお言葉に続けて「我執なくて念仏申が死するにてあるなり」ともおっしゃられており、自分への執着を捨てた状態を“死”と捉えられていることが分かります。ですから“生ながら死して”とは“自分への執着を捨てて生きる”とも言い換えることができるかと思います。自分自身に対する執着が強いと、他人の言うことに耳を傾けず相手を認めない、まさに自己満足的・自己中心的な考え方になってしまいます。反対に、自分の意見を無理に押し通そうとはせず、それでいて他人に流されない主体性を持っている人を、執着を抑えられている人と言えるでしょう。そして自分の力ではなかなかどうにもコントロールできないこの“我”を消し去る教えがお念仏です。なぜなら、阿弥陀仏の救いと私たちの願いの両側面を含む「南無阿弥陀仏」の名号は、自分と他人、生と死といった区別を超えた絶対的な存在だからです。この世に暮らしながら往生すること、それはただ阿弥陀仏の衆生を救いたいという本願に身をまかせ、自分へのこだわりを捨て、ひたすら念仏を唱えることだと一遍上人は力強くおっしゃっているのです。 
 

 

■健康の“得”
生老病死しょうろうびょうしのくるしみは 人をきらはぬ事なれば 貴賤高下きせんこうげの隔へだてなく 貧富共にのがれなし 一遍上人   『百利口語』
人が生きる上での苦しみである「老い」、「病気」、「死」は、地位や貧富とは全く関係なくやってくるものであり、逃れることはできないのです。

一年が過ぎるのは早いもので、光陰矢の如しとはよく言ったものです。昨年は、当山の住職である他阿真円上人が運転免許証を自主返納されたことが大きな反響を呼び、様々な議論を生むきっかけとして注目されました。高齢ドライバーの増加は日本が直面している「超高齢社会」問題の氷山の一角であり、真円上人は常々そのことを案じられています。そして、「健康寿命」という言葉をキーワードに、日本が直面している超高齢社会の諸問題について語られます。健康というのは身体の健康と心の健康の二つから考えることができ、言うまでもなく人にとっては心(精神状態)が健康であることが大変重要です。皆様の中で健康を気にされている方は多いかと思いますが、実際に食生活を節制し、適度な運動、睡眠をとれている方は少ないのではないでしょうか。
さてここで『法句経』(『ダンマパダ』)にでてくるお釈迦さまのお言葉を紹介したいと思います。
健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。
まず第一句で健康が最高の「得」であるとお釈迦さまはおっしゃいます。病気になると、仕事にも支障が出ますし、お金もかかります。これは人が生きていくうえで大変「損」なことであり、逆に健康でいることは最高の「得」なのです。健康な身体を持っている人は、常に「得」をしていて、それだけで喜ばしいことだと理解できるでしょう。ただし、お釈迦さまは病気にかかっている人を「損」だとおっしゃったわけではありません。病気と闘っている時は自分も努力しますし、周りの多くの支えにも改めて気づくでしょう。そこから多くのことを学べる人は「得」であり、決して「損」ではないのです。お釈迦さまや一遍上人がおっしゃるように、病気や老いはどんな人であろうとも逃れることはできません。自分がその立場になった時、いかに「損」を「得」に変えられるかが大事になってくるのではないでしょうか。 
 

 

■無常と“今”
身を観かんずれば水の泡 消きえぬる後のちは人もなし 命をおもへば月の影かげ 出入いでいる息にぞとどまらぬ 一遍上人   『別願和讃』
人間とは水の泡のようであり、消えてしまえば何も残らないはかない存在である。命は水に映った月のように頼りないものであり、吸っては吐く一息一息も常に連続していているが、いつ止まるか分からず永遠不変ではないのである。

2月15日はお釈迦さまが涅槃に入られたことを偲ぶ「涅槃会」が全国的に行われます。遊行寺でも涅槃図をかかげ、往生礼讃の一つである日没にちもつ礼讃を読誦し法要を勤めます。涅槃とは煩悩を完全に滅した深い瞑想状態のことをいいます。日本では涅槃=死と考えられることが多く、本来とは違った意味が定着してしまっています。
さて、お釈迦さまは入滅に際し、次のような言葉を告げられました。
さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。
このように弟子たちへ激励の言葉を残すとともに、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)の教えを改めて説いたのち入滅されたのです。仏教で最も重要な教えの一つである「諸行無常」。『平家物語』の冒頭の一節「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」で日本人にもなじみ深い教えでしょう。世の中のすべてのものは変化し、不変のものはない、というこの真理は、身近なところでも感じることができます。例えば今の状態がずっと続くものだと錯覚している人は、体の老いや病気、死や別れなどの変化に直面した時、大きな苦しみを生じます。無常であることを知っていても苦しみをすべて消すことは難しいとは思いますが、それが軽減されることもまた確かでしょう。そして無常を知ればこそ、このひと時ひと時を大切にし、有意義に過ごせるのだと思います。今できる限りの最善を努め、ご先祖様から受け継いできた貴重な人生を全うしたいものです。  
 

 

■捨ててこそ
「捨ててこそ」(中略) 是これ誠まことに金言きんげんなり 一遍上人   『消息法語』
念仏を唱える時の心構えを聞かれた空也上人は、「捨ててこそ」とだけおっしゃられた。これは誠に素晴らしい教えで、念仏をする人は心身ともに執着から離れ、すべての境界を捨てて、阿弥陀仏に帰依することが大事なのである。

先日、お檀家様から「一遍上人の“捨ててこそ”という言葉はどういう意味ですか」、とのご質問がありました。実は、この言葉は一遍上人ではなく、慕われていた空也上人のお言葉なのですが、説法でも「捨てる」という言葉を多く使われたため、一遍上人は「捨聖(すてひじり)」と呼ばれ、“捨ててこそ”のイメージが定着しているのだと思います。その生涯をみてみると、一遍上人は遊行(全国を行脚し教えを説くこと)の途中で妻と子供と決別し、さらに旅路では衣もボロボロ、食も、住居も求めないという衣食住への執着を完全に取り払われた生き方をされました。その生き方はまさに「捨てる」生き方と言えましょう。ただし、一遍上人は私たちに衣食住を完全に失くしなさいとおっしゃってはおられません。私たちがまず「捨てる」べきものとは、“利己的な衣食住への執着”なのです。つまり、“自分さえ衣食住が満足ならばよい”という考え方をまず捨てる、ということです。そのためには必要以上の衣食住は離れなければなりません。そして、この「捨てる」教えが、様々な物質や情報、欲望があふれる現代社会において大きな意義を持つのではないでしょうか。
一遍上人は「捨てる」という教えを通して、私たちが往々にして陥おちいりがちな自己中心的、独善的な考えを諌いさめられ、私たちが縁起の中で深くつながりあっていることを改めて説かれているのだと思います。縁起とは全ての存在は共につながり、支え合っているという仏教の基本的な教えです。おかしな個人主義が蔓延する現代社会が生み出している様々な苦しみの原因はこの縁起の思想を見失っていることかもしれません。念仏を通して、縁起や自省の道を説かれた一遍上人の教えを、今一度心に刻む必要があるのではないでしょうか。 
 

 

■人のこと
一切衆生いっさいしゅじょうのためならで 世をめぐりての詮せんもなし 一遍上人   「百利口語」
全ての人々のためにではなく、自分のためだけに世の中を生きたとしても無益なことではないか。

今月は4月21日より春季開山忌を迎え、時宗総本山遊行寺を創建された遊行4代他阿呑海上人の遺徳をお忍びいたします。二祖真教上人や呑海上人は、宗祖一遍上人と異なり、遊行し全国を行脚するだけでなく、寺院を建立し僧侶を常駐させるという布教方法もとられました。それが今日まで残る全国の時宗寺院の始まりであり、現在も遊行と寺院の双方で布教するという時宗独特の習わしが残っています。全国を行脚するにせよ、寺院に身を置くにせよ、布教の目的は身命を賭して念仏の教えを広め、多くの人に利益を与えることです。このように自分ではなく他者に心を配り、利益を与えることを仏教用語で「利他」と言い、非常に良い行いとされています。
ただ、人というのはどうしても自己中心的に考えてしまうことが多々あります。「自分さえよければよい」と普段は考えないという人も、実際は身近な人となると誰しもが利己的になりがちです。例えば、自分の子供さえよければよい、家族さえよければよい・・・といった具合です。これでは社会もうまく回りません。そうではなく、あらゆる人、全ての人に思いやりの心を向けなさいと仏教では説かれます。また、自分の心は変えようとせず、人にもっとこうしてほしい、こうすべきだ、と押し付けるのも自分中心の一つと言えます。よくよく考えてみれば、自分の心さえ変えるのは難しいのに、人の心を変えるのはなおさら難しいことだと思いませんか。人に「何々すべき」と言うのではなくて、「自分はこうありたい」と考えるのも人間関係を良くする一つの手段でしょう。利他の精神は、社会全体の潤滑油として働き、人間関係をより良くします。周囲の人々が幸せであれば、自分も日々笑顔で過ごすことができる、そうしたご利益りやくとなって戻ってくるのです。 
 

 

■全体ゾウをみる
眼まなこのまへの かたちは 盲めしいて見ゆる 色もなし 一遍上人   「別願和讃」
目の前に見えているものの形がどのようなものであるかは、目が見えなくなっては分からない。

突然ですが、『ゾウを撫なでる』という映画をご存知でしょうか。これは『半落ち』で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した佐々部清監督の作品で、映画制作にまつわる人々の人間模様が描かれています。なぜこの映画をご紹介したかというと、先日、ふじさわ宿交流館で行われた映画上映会でこの映画を拝見した際、内容もさることながらタイトルが大変印象に残ったからです。さて皆様、この『ゾウを撫でる』というタイトルの意味がお分かりでしょうか。実は、この言葉の由来はインドの「群盲ぐんもう、象を撫でる」という寓話だそうです。群盲とは目が見えない人たちのことで、目が見えない人たちが象の様々な部位を触って、それぞれ感想を述べるというものです。足を触った人は臼うすのようだと主張し、尻尾を触った人は蛇のようだと主張する……といった具合に鼻や耳、背中を触った者もそれぞれ自分の触った部位だけで象を判断しようとして対立してしまいます。要は象の全体像を見ようとせずに、自分の狭い判断にとらわれてしまっているのです。
この寓話は人物やものごとの一面だけをみてすべてを分かったように判断してしまう人間の性格を表している例として挙げられますが、だからといって、私たちがものごと全体をとらえることはなかなか難しいことかと思います。それは、どうしても自分自身の間違いや勘違いに気づきにくいからです。ですから、まず第一歩目として、私たちは自分自身が他者やものごとに対して多種多様な偏見を抱いてしまう存在(凡夫)であることを自覚する必要があります。そうすれば自ずと、自分の主張だけを通そうとする“群盲”にはならずにすむはずです。目に見えているものが本当に見えているかを考えたくなる寓話ではないでしょうか。 
 

 

■超世の願
人ばかり超世ちょうせの願がんに 預あずかるるにあらず 一遍上人   「消息法語」
阿弥陀仏が建てられた誓願の救いは、人だけに通じているものではなく、生きとし生けるもの、ひいてはこの世のすべての現象に通じているのです。

「人ばかり超世の願に預るるにあらず」とは、一遍上人が興願僧都こうがんそうずという人へ宛てた手紙に出てくるお言葉です。その前には「よろづ生いきとしいけるもの、山河草木さんがそうもく、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。」という一節もあります。大まかに言うと、念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱えることではありますが、人間や動物、山河草木といった全ての生命、ひいては風の音、波の音も念仏のあらわれであり、念仏は人間だけのものではないという意味です。もしかするとこの意味がピンと来ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。
まず、“今月のおことば”に出てくる「超世の願」とは、阿弥陀様が修行中に建てられた48の誓願、特にその中の第18番目の誓いを指しています。その誓いとは“この世において、私の名前を呼び極楽世界へ生まれ変わりたいと願う人がいて、もし一人でもその願いが叶わなければ仏にはなりません”というものでした。この誓いを果たされた阿弥陀様に一切をゆだね、極楽往生を願う――これが「南無阿弥陀仏」と私たちがお唱えする由縁です。(南無とは、帰依します、お任せしますという表明です) 超世(世代を超える)という通り、阿弥陀様が悟りを開かれた“過去”と私たちが今生きる“現在”をつなぐものが「南無阿弥陀仏」の念仏なのです。過去・現在だけでなく、善と悪、地獄と極楽、迷いと悟り、人間と動物、私と私以外、といった世の中で区別されているものも、念仏を唱える時にはそこに隔たりは生まれないのです。冒頭のお言葉にはこのような意味が含まれています。一遍上人が「捨聖すてひじり」と称されたのは、家や財産と言った物だけでなく、上で例に出したような相対的な差別、分別ふんべつをお捨てになったからなのです。 
 

 

■紫陽花のように
もっぱら柔和にゅうわの面おもてを備えて 瞋恚しんにの相を現すことなかれ 一遍上人   「時衆制誡」
いつも、穏やかな気持ちと顔で、怒りの相貌をださないようにしなさい。

花菖蒲が先月中旬に見頃を迎え、また同じくして紫陽花がその可憐な姿を境内のあちらこちらで見せました。紫陽花は有志の寄贈で鐘楼しょうろう(鐘つき堂)の側に新たに株が植えられ、その成長が楽しみとなっております。さて皆様、坂村真民さかむらしんみんという詩人をご存知でしょうか。近現代を代表する詩人のひとりで、時宗の宗祖一遍上人を敬愛していたことでも知られます。その坂村真民の詩の中に紫陽花をテーマにしたものがあります。
「あじさいの花」
まるくまるく 形のよいものになろうとする やさしい心の あじさいの花 
きのうよりもきょうと 新しい色になろうとする 雨の日の あじさいの花
丸みを帯びて柔和で、日が経つにつれて色濃くなる詩の中の紫陽花がつい菩薩様と重なってしまいます。ところで、“まる”つまり“円”は仏教では完全や円満を意味し、非常に良いものとされます。名前に“円”がついておられる当本山住職の真円上人は「まあるく まるく まんまるく」とよく口にされ、「怒らない、威張らない」ということを説かれます。人間関係において、トゲがあってカドもあるような人は相手の意見を受け入れることができず、自分本位にしかなれません。一方、カドがなく柔軟な人は相手の意見を受容できるゆとりがあります。これは単に人の意見に流されるということとはまた違い、自分の立場や意見を保ちつつ他者と調和できるというあり方です。一人一人が相手を理解し受容しようとする円まどかな心構えをもつことが大事なのです。色濃くまんまるの紫陽花のような心でありたいものです。 
 

 

■他力という鏡
名号みょうごうの鏡をもて 本来の面目めんもくを見るべし 一遍上人   「播州法語集」
私たちは煩悩にまみれた凡夫であるから自分自身や物事をありのままにみることができない。悟りの智慧を備えた名号という鏡をもって自己本来の様相を見るべきである。

7月、8月はお盆の時期ということで、お墓参りに行く、もしくは家での読経をお願いするという方も多いのではないでしょうか。ご先祖様に手を合わせる際、私たちの宗派では必ず「南無阿弥陀仏」とお称えします。この「南無阿弥陀仏」は「名号」とも呼ばれ、簡単に言うと“阿弥陀様を信じ、全てをお任せします”という意味です。阿弥陀様は、その修行時代に、全ての人々がこれから自分の建立する浄土へ生まれ変わることができないならば仏にはならないと誓い修行され、見事に誓いを果たし仏になられました。この誓いのことを本願と言い、阿弥陀様は48にも及ぶ本願を成就されました。私たちは阿弥陀様のお力をもって極楽へ往生するわけですから、この阿弥陀様の救済の働きは「他力本願」と呼ばれ、大変ありがたいものなのです。しかし、俗に「他力本願」というと、人任せといった良くないイメージが定着してしまっています。
宗祖一遍上人は法語の中で、“他力の名号”を鏡として自分自身の心を見つめなさいとおっしゃります。なぜ自分を見つめる際に鏡が必要なのでしょうか。それは私たちには自分の心をもって自分の心を見ることができないからです。例えるならば、自分の目で自分の目を直接見ることができないようなものです。鏡の力をもって初めて自分の目や心を見ることができます。そして、ここでいう心とは“仏性ぶっしょう”(悟りを開き仏になれる資質)のことです。日頃、感情のコントロールもままならず、煩悩の尽きない私たちですが、本質的には仏性を持っています。だからこそ悟りの智慧を備えた “他力の名号”という鏡の力を借りれば、そのことに気づくことができ、仏様と同じように自分自身やあらゆるものをありのままの姿で見ることができるのです。こういった側面からも一遍上人は名号を称える念仏の道を説かれています。 
 

 

■彼岸への道
専ら自身の自身の過あやまちを制して 他人の非を謗そしることなかれ 一遍上人   『時衆制誡』
つねに自分自身の言動を省みて、他人の欠点だけを非難してはならない。時には相手の非に寛容になることも必要である。

9月になるとやはりお彼岸が思い浮かびます。「彼岸」は日本古来の習慣で、春分、秋分の日を中日として前後3日間、計1週間の期間をさします。中日は太陽が真西に沈むことから、阿弥陀仏のおられる西方極楽浄土を想像するのにふさわしい日でもあります。ただしもともと「到彼岸」=“智慧の完成”という言葉があるように、「彼岸」は煩悩が尽きない状態(此岸)から煩悩が滅された状態(彼岸)へ至るための修行期間という意味があります。そして、その具体的な実践方法として「六波羅蜜」が挙げられます。「波羅蜜」とは先ほどの「到彼岸」と同じ意味です。
【六波羅蜜】
1布施(ふせ)・・・他者へ分け与えること。物質だけでなく笑顔や良い言葉づかいなどを他者へ施すことも言います。
2持戒(じかい)・・・戒を保つこと、自主的に善行を心がけること。
3忍辱(にんにく)・・・あらゆる障害に対して耐え忍ぶこと。
4精進(しょうじん)・・・目標に向かい努力すること。
5禅定(ぜんじょう)・・・精神を集中し、心を安定させること。
6智慧(ちえ)・・・お釈迦様の教えを分析し、ものごとの真実を見極めること。1〜5は智慧波羅蜜へ到る手段です。
この6つの修行が悟りへの道の基礎となるものですが、どれも“言うは易し行うは難し”ではないでしょうか。特に3番目の「忍辱」は楽な暮らしになれた現代の私たちには耳が痛いものかもしれません。ですが、耐え忍ぶことは他人に対しても自分自身に対して福徳をもたらします。耐えること、寛容であることは怒りの感情を生まず人を傷つけることがありません。また、いかなる苦境にも耐えることはその人を成長させやがて大輪を開かせます。ただし心の中にモヤモヤを残して我慢することが「忍辱」では決してありません。あくまでも自分のための修行として精進することが大事なのです。 
 

 

■福を生む田んぼ
道具秘釈どうぐひしゃく  一 袈裟けさ 南無阿弥陀仏 苦悩を除くの法は名号みょうごうに対ならぶもの無きを信ずる心、是即ち無対光仏むたいこうぶつの徳なり 一遍上人   『一遍上人語録』
袈裟には、「私たちの苦悩を除く教えは名号の他にないと信じる心」という意味がある。この信心は無対光仏むたいこうぶつ(阿弥陀仏の12の異名のうちの一つ)が私たちに与えられた利益である。袈裟はそれを表していると理解し念仏を忘れないようにしなさい。

本格的に衣替えの時期がやってまいりました。私たち僧侶の法衣にも夏物と冬物があります。法衣よりも袈裟(けさ)という名前の方が一般的で、よく勘違いされるのですが、袈裟というのは袖を通す衣ではなく、その上に着ける長方形の布だけを指します。種類によってマントのようだったり、棒状だったりします。袈裟をよく見ると四角い布が縫い合わされる形になっていて、まるで畦道に仕切られた田んぼのように見えます。これは、かつて僧侶が財産を持てなかった時代に施された布を張り合わせて衣服としていたことに由来しています。かつてお釈迦さまは、田んぼから着想を得て「福田(ふくでん)」という言葉を使われ、そこから袈裟が別名「福田衣(ふくでんね)」と呼ばれるようになりました。
仏教では、田んぼにまいた種が収穫を生むように、善い行いをし、徳を積むと未来に善い果報を得ることができるとされます。その福徳を生む田んぼのことを「福田」と呼ぶのです。つまり、「福田」とは徳を積むべき対象のことを指し、「敬田(きょうでん)」、「恩田(おんでん)」、「悲田(ひでん)」の3つにまとめて「三福田」ともいいます。「敬田」とは、仏教で最も敬う対象である三宝のことです。三宝とは「仏ぶつ(仏さま)・法ほう(仏さまのみ教え)・僧(教団)」をいいます。「恩田」とは、最も恩義のある対象、つまり両親とご先祖様のことです。自分の存在の根源である相手に対して感謝し、追善を捧げます。「悲田」とは、貧しい人、苦境に立つ人のことです。近年度々起こる大災害の被災者への施しもこれにあたるでしょう。こうした善行の種はいずれ善い収穫をうみます。ただしあくまでもご縁ですからいつ収穫できるかは分かりません。“果報は寝て待て”といいますが、自分の行いの結果がすぐに返ってこなくても焦ることなく、常に自らを省みて、善行を積むことが大切であり、それが仏道を歩むということなのでしょう。 
 

 

■青・黄・赤・白
南無阿弥陀 ほとけの御名の いづる息 いらば蓮の 身とぞなるべき 一遍上人   『一遍聖絵』
もっぱら慈悲じひの心を起こして他人の愁うれいや悲哀ひあいの気持ちを理解して忘れないように。

先日行われた「文化講演会」では釈徹宗先生、直林不退先生をお迎えし、浄土真宗に伝わる「節談説教」を軸にご講義をいただきました。お説教の中で浄土三部経の一つである『阿弥陀経』についてのお話があり、聴講された方々は極楽浄土の世界に様々な想いをはせられたことかと思います。さて『阿弥陀経』の中に私の好きな一節があります。
「池中の蓮華、大きさ車輪の如し。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。」 “極楽浄土の池に咲く蓮の花は、青色であったり、黄色であったり、赤色であったり、白色であったりするけれども、それぞれがそれぞれの色で美しく光り輝いている”という意味です。
「隣の芝生は青く見える」と言いますが、人はどうしても他人と自分を比べたり、自分を他人に合わせたりしてしまいがちです。そうではなくて極楽浄土の蓮のように自分の色を自信をもって光らせなさいというのが仏教の教えです。他の色をうらやむ必要も、他の色になろうとする必要もないのです。日本人は総じて集団主義であると言われてきました。その是非はさておき、主体性がなく周囲に合わせるということは、多様性というものが無くなるということです。多様性のない社会は閉鎖的、排他的な社会となるでしょう。確かに集団生活では統率のために一定のルールは必要かもしれませんが、そういった場での協調性と主体性というものは必ずしも相反するものではないと思います。一人一人の価値観や性格は違って当たり前で、各々が個性を光らせながら共存することが理想であり、それをあらわしているのが極楽浄土なのではないでしょうか。「今月のおことば」は宗祖一遍上人の臨終間際の和歌で、まさに蓮の花のように力強く生きられた一遍上人が、今度は蓮の実(仏様)となることを詠まれています。 
 

 

■仏教は死後のため?
ただ今の念仏の外ほかに、臨終の念仏なし 一遍上人   『播州法語集』
「今」称える念仏が日常の念仏でもあり、臨終の念仏でもある。臨終が日常であり、それが続く限りに人生がある。臨終に不安があるのなら、「今」念仏を称えなさい。

「ただ今のお念仏」 宗祖一遍上人のお言葉は和歌や語録で残されていますが、その教えはこのフレーズに集約されているのではないかと思います。さて、「輪廻転生」や「極楽」、「往生」という仏教用語を聞くと、皆様は“仏教は死後のため”の教えであると感じられるのではないでしょうか。決して間違っているわけではありませんが、仏教で最も重要とされるのは日常である「現在」です。そもそも私たちは「過去」、「現在」、「未来」もしくは「前世」、「現世」、「来世」という区分で時間を常識的に捉えています。仏教ではこれを「三世」と呼びます。ただし、時間は実体的なものではなく、3つの時間軸も仮の区分であると説かれます。そしてなぜ「現在」を重要視するかというと、「過去」は「現在」の原因であり、「未来」は「現在」の結果だからです。「過去」や「未来」に影響されているのも、結局「現在」の自分であることは明白でしょう。だからこそ「現在」を懸命に生きる意義を仏教は説いているのです。
そうはいっても死後の憂いが絶えないのが私たち凡夫です。一遍上人は、臨終に念仏を称えられるか不安がっている人に対して、「死に際のみが臨終なのではなくて、生きている今も臨終であるから、死に際を心配するのではなく日常の念仏を大事にしなさい」と仰いました。浄土教の極楽往生を知ることで死後の憂いをなくし、今生きている「現在」に専念できれば最良なのではないでしょうか。さて今年も残すところあとわずか。一年を振返ったり、来年のことを想像したりする時期ではありますが、「過去」を引きずらず、「未来」に翻弄されず、「今、現在」を大切にしたいものです。 
 

 

■財宝は毒蛇?
財宝は煩悩の所依しょえ 心又欲のみなもとなり 他阿真教上人   『他阿上人法語』
財宝は煩悩が拠り所にし、住処(すみか)としている。そして心もまた欲望の根源である。人は一歩間違えれば財宝によって煩悩に振り回され、欲望によって心を蝕まれてしまうのだ。

時宗総本山護持会が発行している「時宗 月訓カレンダー」をご存知でしょうか。このカレンダーには「偉人の名言」が月ごとに揮毫(きごう)されていて、毎月楽しみに拝見させていただいています。先日、平成30年版のカレンダーに二祖他阿真教上人のお言葉が載っているのに気付きました。次のようなお言葉です。
「財宝は煩悩の所依」 所依とは「拠り所」という意味ですから、「財宝は煩悩が拠り所にする存在である」とおっしゃっています。とはいえ、「財宝(お金)=煩悩=悪」と言われると私たちは生活できなくなってしまいます。ですから、ここでは財宝自体が“悪”と説かれているかというと、そうではないと思います。例えるならば、財宝は「刃物」と同じようなものではないでしょうか。刃物は、調理に使えば食事の下ごしらえの道具、医師が使えばメスとして人命救助の道具になります。しかし、用途によっては人を傷つける凶器にもなりえるでしょう。お分かりかとは思いますが、要は「財宝」にも「刃物」にもそれ自体に罪はなく、それを正しく使えるかは私たちにかかっているのです。
お釈迦さまはかつて財宝のことを「毒蛇」であると例えられました。財宝に目がくらむと知らず知らずのうちに心を蝕(むしば)まれ、気づいた時には手遅れになってしまうことを知っておられたからです。よほど注意して扱わなければならないということを肝に銘じておかなくてはいけないでしょう。そうは言っても私たちにそのような注意力、判断力がしっかり備わっていると自信をもって言えるでしょうか。もし自信がないというのならば、「財宝」も「刃物」も何事も、“必要以上に求めない、そばに置かない”というのも一つの手です。さて戌年の新年、「煩悩の犬は追えども去らず」とはいいますが、しっかりと自分自身の在り方を見つめていきたいものです。 
 

 

■鬼の正体
物をほしがる心根は 餓鬼の果報にたがはざる 一遍上人   『一遍上人語録』
必要以上に物を欲しがる心は、餓鬼という「ものをむさぼる鬼」の世界に堕ちたのと同じことである。

毎年節分の様子をテレビのニュースで見かけますが、泣き叫ぶ子供たちに豆を投げられた挙句、突進や蹴りを入れられる鬼は何となく不憫な気がしてなりません……。さて、節分とは季節の分かれ目、特に立春の前日を指し、一般的には豆(煎った大豆)をまき、年齢の数だけ豆を食べて厄除けをするという習慣が全国的に多いようです。豆まきでは豆で鬼を退治する様子が多く見られますが、その由来をご存じでしょうか。実は季節の移り変わりには邪気(鬼)が発生すると考えられており、その厄払いに豆をまくというのが定説で、豆を使用するのは「魔(ま)を滅(め)す」という語呂からきているそうです。
伝統行事や慣習は、仏教や神道、中国の儒教や道教などが混ざり合っていることが多いので一つの正解はないかもしれませんが、仏教的な考え方をすれば節分にはどのような意味があるのでしょうか。以前このお便りの中で「餓鬼の心」についてお話させていただきましたが、追い払われる鬼も私たちの外にいるものではなく、内にいるもの=“人間の心”であると考えてみてください。つまり悪い鬼というのは人間の弱い心そのものであると捉えるのです。人間の弱い心は「煩悩」とも言えますが、その代表が「貪欲(とんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚癡(ぐち)」の「三毒」です。それぞれ「むさぼり欲しがること」、「怒り憎しむこと」、「真実に暗いこと」を意味しています。赤鬼・青鬼・黒鬼というのはこの三毒を色で表していると言われます。
この心に住む鬼を豆で追い払おうというのが節分追儺式なのです。恐れられたり、敵視されたり、悪の代表格のような鬼が実は自分の弱い心であったのだと考えると、またひと味違う節分を迎えられるのではないでしょうか。最後に、以前どこかで目にした法語をご紹介します。“ ぬけぬけと 「鬼は外」とは その口で ” 
 

 

■無常の別れ
地獄鬼畜のくるしみは いとへども又受やすし 一遍上人   『一遍上人語録』
この現世に生きていると、地獄や餓鬼、畜生の世界とも思われるような苦しいことが降りかかる。どんなに望まくとも、願わなくともその苦しみはやってくるからこそ、私たちはその苦しみを乗り越えなければならない。

卒業、転職、転勤など「別れ」が多いのがこの季節。恋人や家族、友人など、愛する人との別れは本当につらいものです。距離が遠くなってしまうだけ、というならまだましですが、死別であればその心を癒すにはどれほどの時間がかかるか分かりません。まさに「地獄鬼畜の苦しみ」でしょう。そのような別れの苦しみを仏教では「愛別離苦(あいべつりく)」と申します。かつてお釈迦様が在世の頃、キサー・ゴ―タミーという女性がいました。ゴータミーは幼い子供を亡くした激しい悲しみで錯乱してしまい、生き返らせる方法を探すために、遺体を抱えたまま町をさまよい歩いていました。縁あってお釈迦様のもとを訪れたゴータミーは、生き返らせてほしいと懇願します。すると、お釈迦様はこれを了承し、その方法を次のように示されました。
「ゴータミーよ、町の家々を回ってケシの実を貰ってきなさい。ただし死人を出した家を除くこと。」 とても簡単な指示にゴータミーは喜び、町の家々を駆け回りますが、死人を出していない家を見つけることはできませんでした。「昨年親を亡くしています」、「妻に先立たれてしまって…」、「うちも子供を亡くしたばかりです」というような話を聞いたことでしょう。そのうちにゴータミーは、身内の死に悲しんでいるのは自分だけでないこと、そして、どんなに愛する者でもいつかは別れがやってくることを悟りました。ゴータミーは、お釈迦様の言葉の真意――子供の“死”と向き合うこと、そして自分自身の“生”と向き合うこと――を理解し、その後仏門に入ったということです。ゴータミーのような状況においては、誰しも頭の整理がつかず、自暴自棄や無気力になることがほとんどでしょう。ですがそれははたしてお浄土に先立った故人が願う姿でしょうか。ゴータミーのように前を向き、生死に向き合う姿勢をお釈迦様は勧められているのだと思います。人によって癒える時間は変わるでしょうが、悲しみをこらえ、別れた人を偲ぶことで「愛別離苦」を乗り越え、前向きな歩みを踏み出せるのではないでしょうか。 
 

 

■信じるということ
信といふは、まかすとよむなり 一遍上人   『一遍上人語録』
「信じる」ということは「任す」ということです。私たちが任せる相手は他者の心であり、他者とは仏法、阿弥陀仏、他力のことを指しています。天運に任せきることを信じるというのです。

宗教においては、「信じる者は救われる」、「鰯の頭も信心から 」といったように、「信じる」という言葉がしばしば言及されます。時宗を含めた浄土門では名号「南無阿弥陀仏」をお称えしますが、この「南無」とは“帰依します”、“信じます”という意味です。ここでいう「南無=信じる」とは、絶対的な信服の表明であり、少しも疑わないことを指しています。ですから、信じる相手と言うのは全てを任すことができる存在、間違いのない存在でなければいけません。私たちが普段「友人を信じる」「無実を信じる」といったように使う時とはニュアンスが少し異なるかとも思います。
さて、一遍上人は「信じていても信じていなくてもお念仏を申せば極楽浄土に往生できる」と説かれたことから、しばしば一遍上人は「信心」を全否定されていると評されることがありますが、そうではありません。一遍上人が否定されているのは自力の信心、つまり“自分はこれだけ信じているから救われるはずだ”というような考え方です。むしろどちらかといえば、自分には信仰心や仏道修行の心がなかなか起こらないから阿弥陀仏の本願に頼むしかない、お任せするしかないという気持ちが信心なのです。ですから、一遍上人は「信じる」とは「任せる」ことだと表現されたのです。
ところで、科学技術の発展した現代社会は目に見えないものや、原理の分からないものを信用しない傾向があるように思います。と同時に様々な情報があふれ、何を信じていいかもわからないような世の中でもあります。また近年宗教心、信仰心が薄れているとも言われます。信仰とは、非科学的なものを妄信することなどではなく、人間は間違いを犯しうるという謙虚さを忘れず、絶対的な存在に心を任せるということではないでしょうか。その存在が、阿弥陀仏であり、仏法(仏様の教え)であると一遍上人は説かれています。「人間万事塞翁が馬」とはいいますが、日ごろ価値判断にとらわれ、喜びや憂い、幸せや不幸せ、楽や苦にコロコロと翻弄される私たちも、仏様に手をあわせ、その絶対性(大いなる平等)に触れるとき、とらわれのない心が生まれるのではないでしょうか。 
 

 

■五月病
五蘊(ごうん)の中に衆生をやまする病なし 四大の中に衆生をなやます煩悩なし 一遍上人   『消息法語』
我々を形作っている要素の中に病や煩悩は存在しない。

五月は大型連休があり、様々な予定に胸を弾ませている方が多いのではないでしょうか。さて、五月といえば必ずと言っていい程耳にするのが“五月病”であります。五月病を辞書で引きますと、「新しい環境に適応できず、焦り、ストレスを感じ、気持ちが落ち込むうつ状態」と出てきます。総本山でも新たに7名の在堪生(ざいかんせい)(修行僧)を迎え早一ヶ月が経ちました。環境が大きく変わった中で、慣れない修行生活に戸惑いながら、体力的にも精神的にも疲れが見えてくる時期です。まさに、“五月病”との闘いといったところでしょう。
病気について宗祖は入滅する際、門弟に対して次のようにお話しされました。「人間を形成する五つの要素、『五蘊(ごうん)』は色(存在)・受(感受)・想(概念)・行(構想力)・識(識別)であって、その中に私たちを病気にする要因は入っていない。また、一切万有の存在を構成している四つの元素、『地・水・火・風』にも、私たちを悩ませる煩悩は入っていない。つまり、本来人の心は清いものであり、我々が感じている煩悩とは、日々の生活の中で様々な影響を受け生じたものだ。」 宗祖はそのことを分かった上で、「外からの要因に負けてしまわぬように、一念発起しようと念仏修行に励むべきであり、我々は念仏一筋以外に何もない。」と加えて示されました。
人間は自分の弱さに負けて生活リズムを崩してしまいます。環境が変わって心身ともに不調をきたしがちなこの時期だからこそ、自らがやるべきことに対して気を抜かず、目の前の課題一つ一つに全力で取り組む姿勢が求められるのではないでしょうか。そういった自分の課題に真摯に打ち込む姿こそ、宗祖がお示しになった“念仏一筋”に通ずるといえるでしょう。 
 

 

■追善供養
始はじめの一念よりほかに  最後の十念なけれとも 念をかさねて始めとし 念をつくるを終おわりとす   「別願和讃」
念仏往生ねんぶつおうじょうとは思いをこめて名号みょうごう(南無阿弥陀佛)を称えればそれでよい。思いがなくなれば終わりなのだから、一念一念を大切に称えるべきである。

私事ではございますが、先日兄の17回忌を迎えました。月日が経つのは早いなと感じながら、何年経っても忘れる事のない大切な存在であると改めて考えさせられました。さて、今月は“追善供養”についてお話させていただきます。追善供養とは、「善事(法会)を修し供養を施して、亡くなった方々の冥福を祈る行為」のことをいい、一般的には、年回忌法要や彼岸の際に法要を行うことを指します。家族や友人を亡くしますと、耐えることのできない悲しみ、そして生きる希望を失うほどの喪失感に襲われます。それは、時間をかけることで落ち着かせていくことは可能かもしれませんが、その悲しみが完全に消えてなくなることはございません。では、どういった姿勢でその悲しみに向き合っていけばよろしいのでしょうか。
私たち僧侶が朝の御勤めでお称えしている『往生禮讃偈おうじょうらいさんげ』には次のような一文が繰り返し登場致します。「願共諸衆生がんぐしょしゅじょう 往生安楽国おうじょうあんらくこく」(願わくは諸々の衆生と共に、安楽国に往生せん)。これは、共に阿弥陀仏の極楽世界に往生できるようにという切なる願いが込められた一文であります。いくら大切な存在であった人のことでも、日々の生活で四六時中思い続けて生きていくことは難しいです。だからこそ私は、衆生を極楽世界に導くためのものである『往生禮讃偈』をお称えする際には、特に先祖への思いを強く馳せております。しかし、一般信徒のみなさまが、僧侶と同じように『往生禮讃偈』をお称えすることは、中々大変ではないかとお察しします。それに対して、“南無阿弥陀佛なむあみだぶつ”と念仏を称えることであれば、実践できるのではないでしょうか。今月のことばで宗祖がおっしゃっていますように、ただ一念の念仏に思いを込めて称えることが重要であります。
死は誰にでも訪れるものです。それは、いつ、どこで、どんな時に直面するかわかりません。自分の身近な人に死が訪れた時に、どういった姿勢で向き合うべきかを今一度考えてみましょう。大切な存在を失う悲しみを乗り越え、阿弥陀仏のご加護を願いながら念仏を称えるという行為は、私たち人間にしかできないことであります。みなさまには、ご先祖様を思いながら手を合わせる時間をどうか大事にして頂ければと思います。 
 

 

■実るほど頭こうべを垂れる稲穂かな
専もっぱら卑下ひげの観に住して 驕慢心きょうまんしんを発おこすこと莫なかれ   「時衆制誡」
つねに、他人を軽蔑する驕慢きょうまんの心を持つことのないようにせよ。 ※驕慢きょうまん=傲慢ごうまん。

先月まで開園しておりました遊行寺の菖蒲園には、多くの参拝者の方々に立ち寄っていただきました。私も当本山住職の真円上人と一緒に菖蒲を眺め、貴重な時間を過ごしました。その際、真円上人からこんなお話をしていただきました。「近年は寺離れ、仏教離れが進んでいる。そんな時代だからこそ、住職が自分を偉いと思っておごり高ぶって、お檀家さんと接してしまえば、どんどん見離されてしまう。住職が一般信徒から手を合わせて笑顔で挨拶していただける関係を築いていく事が大切だ。謙虚さが無い者は、信頼もされないし、僧侶である以前に人としてその先の成長がない。」 真円上人は、先月満99歳を迎えました。高齢である現在も遊行七十四代遊行上人として、法要の際には導師をお務めになり、日々の生活では私たち後輩僧侶の取り組みを見て、気にかけてくださります。また、特に藤沢地域の方に親しまれる存在であります。そのように、周囲の方々から信頼を得ているのは、自分の立場が偉くなっても威張った態度を見せず、下積み時代から変わらない気持ちで生活をされているからなのでしょう。
私は、日々の生活で修行僧に対して厳しく指導をする時があります。もちろん立場上、叱らなければいけないことがあるのは当然です。しかし、真円上人のお話を受け、自分の言動を思い返し、もっとうまく的確な指導ができたのではないかと、日々模索しております。さて、今月のお話の題に掲げました、“実るほど頭こうべを垂れる稲穂かな”という故事成語がございます。稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物しょうじんぶつほど尊大に振る舞うものである。人格者ほど謙虚であるというたとえでございます。人間は、物事に慣れると自分の能力を勘違いして、得意げな態度を取ってしまいがちです。しかし、故事成語にありますように、そんな態度を取ってしまうようでは、まだまだ未熟といえるでしょう。普段多くの人と関わって生活をしていく中で、自分の方が優れていると威張ってしまっては、良い人間関係を作ってはいけません。一歩引いて自分の行動を客観視する時間をつくることも必要なのではないでしょうか。そうしないと、立場が上であるから、自分の方が優れているからなどという理由で、傲慢ごうまんになってしまう恐れがあります。真円上人がおっしゃられていますように、どんなに偉くなっても、物事に謙虚な気持ちで取り組むことが、周りからの信頼を得て、自分を成長させることに繋がるのではないでしょうか。 
 

 

■お盆は”あなた”に会える
諸佛隨縁還本国しょうぶつずいえんげんほんごく 普散香華心送佛ふさんこうげしんそうぶつ 願佛慈悲遙護念がんぶつじひようごねん 同生相勧尽須来どうしょうそうかんじんしゅらい   「日用勤行式にちようごんぎょうしき・送佛偈そうぶつげ」
どうぞもろもろのみ佛よ、それぞれの縁にしたがって本国にお還りください。あまねく香を薫じ、華を散じて心をこめてお送りいたします。願わくはみ佛よ、慈悲のみ心をもって、遥かかなたより護り念じて下さいますように。私どもと同じ信仰によって既に極楽世界へと往生された方々も、皆共に勧めあってお出で下さり私たちをお護り下さい。

8月はいよいよ夏本番となり、非常に厳しい暑さを感じる今日この頃です。8月といえばお盆を連想される方も多いかと思います。お盆は、盂蘭盆会うらぼんえに由来しているといわれています。お釈迦様の弟子の一人である目連尊者もくれんそんじゃは、神通力じんずうりきによって亡きお母様が餓鬼道がきどうに堕ちて苦しんでいるのを知りました。そこでお釈迦様の導きにより、安居あんご(三か月の雨期の修行期間)の終わりに修行僧に衣食を供養したところ、亡きお母様がその苦しみから救われたといわれています。これが盂蘭盆会うらぼんえであり、お盆の起源であります。さらに、お釈迦様は「色々なご馳走をお盆に盛り、仏様や僧侶、大勢の人々に供養すれば、その功徳くどくによって多くの祖先そせんの苦しみが除かれ、今現在生きている人も幸せを得ることができるでしょう。」と説かれ、この教えがお盆行事の由来となりました。日本人にとってお盆とは、私たちのもとに帰ってきたご先祖さまを家族でお迎えし、手厚くご供養したのち、また家族で揃ってお送りするという大切な習慣として定着しています。また同時に、お盆には親戚など血縁者が一堂に会し、食卓を囲みながら、のんびりと時間を過ごす機会でもあります。そして、その場には当然ご先祖さまもいらっしゃるわけです。
人間は亡くなってしまうと、二度と生き返ることはありません。ですから、故人との別れは辛く悲しいものです。しかし、お盆には故人と再会することができます。それは、目に見えて実体として現れるわけではありませんが、私は年に一度ご先祖さまに成長した姿を見せることのできる期間として、特別な思いで迎えております。時にはお墓参りの際に何かを話しかけてみたり、団らんの時間にご先祖さまの思い出話に花を咲かせてみたりすることもいかがでしょうか。最後に、先月発生した西日本豪雨災害では、死者・行方不明者が200名を超え、雨の被害としては未曽有の大災害となってしまいました。お亡くなりになられた方々のご冥福と被災地の一日も早い復興を心より願っております。そして、ご家族を失った方々は、未だ心が休まらず辛い日々を過ごしているかと思いますが、お盆が意味するとおり、心落ち着けて故人の菩提を弔うことで、被災者皆様の苦しみや悲しみが和らぎ、顔を上げて災害前のように一歩ずつ前へ歩んでいけることを信じております。 
 

 

■精進無涯
もっぱら化他の門に遊んで 自利の行を怠ることなかれ   『時衆制誡』
衆生を教化きょうか(け)・救済きゅう(ぐ)さいすることも大切なことであるが、自分の修行がおろそかになってはいけない。常に、精進することを忘れることがないように。 ※教化・・・人々に仏教を説き仏道に導くこと。※救済・・・救いとって悟りに到らせること。

先日まで行われていました夏の全国高校野球選手権大会では、連日の熱戦をみて感動した方も多いのではないでしょうか。高校球児は甲子園で試合をするために日頃から凄まじい努力をし、試合に臨んでいることと思います。私も球児たちの一生懸命な姿に感化され、自分の今いるステージで活躍できるように頑張らなければいけないと考えさせられました。そこで、今月は努力ということに焦点を当ててお話しさせていただきます。
仏教の正しい行いの指針として八正道はっしょうどうがあります。いわゆる八つの正しい実践を行うことによって、涅槃ねはんに到るとされているものです。その八つとは、正見しょうけん・正思惟しょうしゆい・正語しょうご・正業しょうぎょう・正命しょうみょう・正精進しょうしょうじん・正念しょうねん・正定しょうじょうであります。仏教において努力とは、“精進”と言い換えられます。この八正道の中にある「正精進」とは正しい努力のことで、涅槃に向かって一心に進むことを示しています。一概に努力と言っても、努力の方向が問題となります。正しい方向へ進もうとする時に現れる、あらゆる誘惑を断固として排除することが大切であります。だからといって、我を見失ってただがむしゃらに物事に取り組むのではなく、頭を使って結果を見据えた取り組みであるべきです。
「努力は人を裏切らない」という言葉をよく耳にしますが、努力したからといって必ず結果がついてくるということはありません。しかし、努力を続けることで、大きな成果をだす可能性を高めることができると思います。それは、方法と目的がしっかりと考えられているものであればなおさらです。『精進無涯』・・・精進に果てなし。精進は怠ることがあってはならないものであり、常に志を新たに、際限なく続けなくてはならないということです。つまり、精進とは一生続きます。ですから、何か目標を達成したときに、そこで精進することを止めてしまうのではなく、また新たな目標をたて、続けていくことが大切です。私も現状に満足せず、より高みを目指して精進していきたいものです。また、そういった姿勢こそが、仏教徒である私たちのあるべき姿なのではないでしょうか。 
 

 

■平凡は非凡
諸悪莫作しょあくまくさ 衆善奉行しゅぜんぶぎょう 自浄其意じじょうごい 是諸仏教ぜしょぶっきょう   『七仏通誡偈しちぶつつうかいげ』
すべての悪いことをしないで、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである。

日本人選手としてはじめて四大大会(グランドスラム)を制覇した大坂なおみ選手や、日本人メジャーリーガー1年目の本塁打記録を更新した大谷翔平おおたにしょうへい選手の活躍を伝えるニュースには、日々驚かされます。それと同時に、自分にもそのような並み外れた才能があればと少し羨うらやまましくさえ思えてしまいます。さて、中国の詩人である白楽天はくらくてんはインドから伝わった仏教がどんなものであるかに関心を持っていました。そこで、著名な僧侶である道林どうりんのところへ出かけて、「仏教とは何なのか、私にもわかるように簡単に教えて欲しい」と尋ねました。道林は、しばらく考えたのち、諸悪莫作しょあくまくさ 衆善奉行しゅぜんぶぎょう 自浄其意じじょうごい 是諸仏教ぜしょぶっきょう(諸々もろもろの悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄きよめる、是これ諸仏の教えなり)という七仏通誡偈の偈文を説きました。それを聞いた白楽天は「悪いことをしないで善いことをする、そんな簡単なことが仏教なのか、そのくらいのことであれば小さな子供でもできるではないか」と答えたという逸話が伝わっています。
私たちの生活の中には様々なルールや約束事が存在しております。それは法律という大きなものから、自分の属している社会、家族の中での決まりといった小さなものまでたくさんです。その中には、言われなくても分かっていると思って見過ごしていることも多々あるでしょう。しかし、悪いことだと分かっていても過ちを犯してしまったり、善いことだと分かっていても躊躇ちゅうちょしてしまったりするのが、私たち人間の弱さです。あたりまえのことであっても、それを実践するのは中々難しいということです。つまり道林は「仏教の教えとは知っているだけでは何にもならず、実践しなければ意味がない。そして、怠けず日々積み重ねることである」ということを言いたかったのでしょう。世間から天才と呼ばれる大坂選手や大谷選手も基本をおろそかにせず、努力を積み重ねた結果、世界の大舞台で活躍することができています。大舞台で結果を出すことに目を向けられがちですが、その手前にある、あたりまえのことを馬鹿にしないで取り組む『立派な平凡へいぼん』こそが非凡ひぼんな才能といえるのではないでしょうか。 
 

 

■“ありがとう”の想いを込めて
専もっぱら慈悲心じひしんを発おこして 他人ひとの愁うれいを忘れることなかれ   『時衆制誡じしゅうせいかい』
もっぱら慈悲じひの心を起こして他人の愁うれいや悲哀ひあいの気持ちを理解して忘れないように。

私たちは日常生活で多くの人々と関わり、お互いに支え合って生きています。皆様は、普段周囲の方々に対して感謝の気持ちをもって接することができているでしょうか。「ありがとう」、この言葉は相手に面と向かって伝えるとなると、気が知れた仲であればあるほど照れくささが生じて伝えられなかったり、後回しにしているうちに伝えそびれたりする言葉ではないかと思います。さて、その「ありがとう」の語源にまつわるお話を紹介します。お釈迦さまは弟子の阿難あなんに対して、盲亀浮木もうきふぼくというたとえ話をしてこの世に人間として生をうけることの難しさについて説きました。それは、大海に住む目の見えない亀が100年に一度海中から頭を出すときに、偶然にもそこへ流れてきた一つの穴がある木に、頭が入るということよりも難しいというものでした。つまり、私たちがこうして生きていることはそれほど喜ばしいことであって、ありがたいことであるというわけです。「ありがたい」を漢字で書くと「有り難い」となり、本来は「有ることが難しい」という意味でめったにないことをいいます。そのめったにないことに対しての感謝の気持ちを伝える言葉として「ありがたい」がくずれて「ありがとう」になったと言われています。
仏教には、他人に分け隔へだてなく、あまねく施ほどこすという意味の言葉である布施ふせというものが存在します。この布施には財力や権力などに関係なく誰にでもできる無財むざいの七施しちせがあり、まさに感謝の気持ちを行動に移すための実践方法ではないかと思います。
〜無財の七施〜
1 慈眼施じげんせ・・・相手を慈いつくしみの眼でみつめること
2 和顔施わげんせ・・・相手にやさしい顔でほほえみ接すること
3 愛語施あいごせ・・・相手にあたたかい気持ちと真心のこもった言葉で語りかけること
4 捨身施しゃしんせ・・・相手に身をもって親切にし、よく世話をすること
5 心慮施しんりょせ・・・相手の悲しみや喜びを自分のこころとすること
6 床座施しょうざせ・・・相手に席をゆずる、ゆずりあいの心をもつこと
7 房舎施ぼうしゃせ・・・相手に心のゆとりを与えること
以上の七つが周囲の世界を明るく豊かにできる無上むじょうの施ほどこしであります。そこに、見返りを求めてはいけません。あるのは感謝のこころです。盲亀浮木もうきふぼくの話の通り自分が今生きていること自体が奇跡であり、身の周りにいる人が生きていることも奇跡、そんな人と出会えたことも奇跡なのです。そう考えますと、身の周りにいる大切な人に対して感謝の気持ちをもってありがとうと伝えることや、その気持ちを行動に移すことができると思います。どうか皆様も、身近なところから無財の七施を実践してみてはいかがでしょうか。 
 

 

■掃除で世直し
願以此功徳げんにしこうとく 普及於一切ほきゅうよいせい 我等與衆生がとうよしゅせい 皆供成佛道かいきゅうせいふとう   『法華経』
どうかこの仏道を歩む功徳をどこまでも行き渡らせ、私達と全ての生きとし生けるものと共に、仏道を完成したいものである。

年の瀬もせまり、間もなく総本山も煤払い(年末の大掃除)を行います。掃除といえば生活をする上で避けては通れないものですが、つい面倒くさがって怠りがちな仕事でもあります。遊行寺に住み暮らしている修行僧は、一日の大半の時間を掃除に割いて生活をしています。私も先輩僧侶に「僧侶たるもの、一に作務(掃除)、ニに勤行(毎日のおつとめ)、三に学問」と言われ指導を受けました。なによりも先に掃除があげられるということは、それだけ大切な修行であり、怠ってはいけないものというわけです。
掃除についてお釈迦さまは、五つの功徳があると説きました。
1.自心清浄(自分の心が清められる)
2.他心清浄(他人の心も清められる)
3.諸天歓喜(すべての存在、周囲の環境が活き活きとしてくる)
4.端正の業を植ゆ(人の心も物事も整ってくる)
5.命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後必ず天上に生を受ける)
では、この教えはいったいどういうことなのでしょうか。例えば、どこに何があるかも分からない散らかった部屋と、整理整頓されて掃除の行きとどいた部屋では、当然ながら後者の部屋で生活したいと思うはずです。さらに友人の家に招かれた時、綺麗に掃除がなされていると、居心地の良さを感じると共に気が引き締まる思いがします。また、私達の心は煩悩の貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)が積み重なり、その汚れによって悪い行いをしてしまいます。しかし、綺麗な環境にいると、おのずと本来の清らかな心の状態を保つことができるのです。つまり、お釈迦さまは掃除によって自分の心にまとわりつく煩悩を払い清めるだけではなく、他人の心や社会の環境までも浄化できると説いたのです。掃除を自ら進んで取り組む当たり前の仕事として定着させて、日々の生活を晴れやかにしていきたいものです。また、年末の大掃除では一年の汚れを落とし、新年を迎えていただければと思います。 
 

 

■念仏のある生活
いつまでも出入る人の息あらは 弥陀の御法の風は絶えせし   『一遍上人語録』
いつまでも長生きをして吐く息、吸う息があれば、その出入の息を頼りに念仏の声の続く限りは永久に阿弥陀仏の教えは絶えないだろう

一年が過ぎるのは早いもので、また新たな年がスタートいたします。元号が変わる年ということもあり、何か特別な一年になりそうな気がしております。さて、今年真円上人が年賀状に載せる一字としてお選びになったのは「寿」という字でした。御上人は本年満100歳を迎えます。「寿」には新しい年の始まりがおめでたいという意味での寿、阿弥陀仏の他力不思議たりきふしぎの力に支えられて100歳を迎える長寿としての寿、この二つの思いが込められているそうです。
一遍上人語録にある別願和讃の中にこんな一文があります。
「別願超世べつがんちょうせの名號みょうごうは 他力不思議の力にて 口にまかせてとなふれは 声に生死しょうじの罪きえぬ」 南無阿弥陀佛なむあみだぶつの名号には、他力不思議の力があり、自力の知恵学問もいらず、ただ口にまかせて称えれば、その一声一声の中に生死の迷いや罪は消えて救われるという意味です。
時宗の教えは念仏に重きを置いています。南無阿弥陀佛と称えることで、安らかで喜びに満ちた毎日を送ることができ、やがては極楽世界へ往生することを願う教えであります。真円上人は日々の生活の中で、ふとした瞬間にも南無阿弥陀佛と自然に口から出るようになったとおっしゃっております。年を重ねても元気で生活している姿を見ますとまさに時宗の教えを体現していると感じます。また、私たちは自らの行いに対して迷いが生じることや、執着しゅうじゃくした考えにより間違ったこだわりが生まれ過ちを犯してしまうことがあります。そんな時に外から入ってくる雑念を捨て、すべてを阿弥陀仏にお任せするという気持ちでお念仏を称えることで、迷い悩む無力な自分でも良いのだと、心を落ち着かせることができるのではないでしょうか。心が落ち着けばおのずと余裕が出てきます。気持ちに余裕を持つことで小さなミスや争いごとなども少なくなっていくことでしょう。
毎日のあいさつのように意識せずとも念仏を称えられるようになることが理想の姿であり、その姿に近づくほど、別願和讃のいうように、他力不思議の力にて迷いや執着の気持ちも取り除かれ、心おだやかに前向きな生活ができるかと思います。阿弥陀仏の御加護を受け、皆さまの生活がご多幸で、希望に満ち溢れた一年になることを願っております。 
 

 

■迷いも悟りもなきゆえに
本来仏性一如にて 迷語の差別なきものを そそろに妄念おこしつつ 迷いとおもうそ不思議なる 一遍上人   『一遍上人語録』
本来我らは仏ゆえ、迷い、悟りという区別はないのだから、理由もなく妄念おこしては迷いと思うことが不思議である。

2月15日はお釈迦さまが入滅された(亡くなった)日とされ、遊行寺でも涅槃図を掲げ、涅槃会を修行します。お釈迦様は入滅する際、悲しみに嘆く弟子たちに、「自らを灯とし、自らを拠より所どころとせよ。法を灯とし、法を拠り所とせよ、他を拠り所とする事なかれ」と『自灯明じとうみょう・法灯明ほうとうみょう』の教えを説きました。それは、物事の判断に迷ったときは法(真理、お釈迦様の教え)を拠り所として、自分で判断しなさい。そして、出した結論の責任は全部自分で受け止め、他人の意見や原理、原則、主義、主張に惑わされてはいけないというものでした。私たちは進学、結婚、就職など人生の節目で大きな決断を迫られます。その際自分だけで判断することが困難なものもあります。そんな時、信頼できる友人や家族に相談する人が多いかと思います。それは、第三者に相談をして物事を違った角度からみることで、自分ひとりで判断した時よりも良い結果が出る気がするからでしょう。しかしながら、相談をして出した結果に満足できなかったときには、その悪い結果を相談相手のせいにしてしまう時もあります。
大前提として、あくまで相談相手の話はアドバイスであることを忘れてはいけません。そして、最終的な結論は自分で出さなければならなく、その結果は全て自分で負うべきものなのです。
本来仏性一如ぶっしょういちにょにて 迷語めいごの差別しゃべつなきものを
そそろに妄念もうねんおこしつつ 迷いとおもうそ不思議なる
一遍上人はこのことばの中で、本来人間は善人や悪人を問わず、誰しも仏心ぶっしん(慈悲心じひしん)が備わっており、自分と仏は一体なのだから、仏のこころでもって物事を考え、行動すべきだと説いてくださっています。とはいえ、私たちは外的要因による気持ちのぶれで、迷いが生まれてしまう生き物です。だからこそ判断に迷った時は、『自灯明・法灯明』の教えや一遍上人のお言葉を思い出して、責任ある行動を心がけたいものです。
 

 

■偏かたよらないこころ
色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅうそうぎょうじき 亦復如是やくぶにょぜ   『摩詞般若波羅密多心経まかはんにゃはらみったしんぎょう』
物質的現象には実体がなく、実体がないことこそがすべての物質的現象の本質である。(空くう) 偏らないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、“ひろく ひろく”これが般若心経の示す空のこころなり。

暖かい日が続き春の訪れを感じる今日この頃です。三月は日本独自の仏教行事、お彼岸があります。お彼岸は、春は春分の日、秋は秋分の日を中日ちゅうにちとして前後三日、計七日間で修行されます。春分、秋分は二十四節気のひとつで、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになります。春は春分の日を境に日が長くなっていき、暖かくなっていきます。秋はこの逆で夜が長くなり寒くなっていきます。厳しい暑さや寒さの目処がつく頃なので、「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるのです。お彼岸をこの時期に行う理由のひとつに、お釈迦さまの「中道ちゅうどう」という教えがあります。
中道とは、二つの極端な立場から離れた自由な立場のことを指します。時に人間は、「善い・悪い」、「好き・嫌い」、「綺麗・汚い」といった極端に偏った考え方で物事を判断してしまいがちです。しかし、弦楽器は弦が緩すぎると聴き心地の悪い音になりますし、強く張りすぎても弦が切れてしまうように、適当な強さで張ってこそ美しい音色が出ます。つまり、何事も極端さにとらわれてしまうと、良い成果を得ることができないのです。また、お彼岸の七日間は、煩悩が尽きない状態(此岸しがん)から煩悩が滅された状態(彼岸)へ至るための修行期間でもあります。彼岸とは、悲しみや苦しみ、悩みのない世界を意味し、私たちも中道の教えをもとに物事を考えられれば、その彼岸へ近づけるでしょう。お彼岸には皆様もお墓参りをされるかと思います。春の暖かい木漏れ日のように優しい“偏らないこころ”でお彼岸を迎え、ご先祖供養をしていただきたいと思います。  
 

 

■脚下照顧きゃっかしょうこ
他を利することは 即ち自らを利するなり   『十住毘婆沙論』
他人の利益を優先することの大切さを述べた龍樹(インド大乗仏教中間派の祖)のお言葉。人間は互いに支え合って生きている。他者のために尽くすことは大切なこと。それは、巡り巡って最終的に自分のためにもなるのである。

新年度を迎えると、進学、就職や転職などに伴って、今までとは違った環境で生活を始める方が多いことでしょう。新しい環境では、初めてのことや慣れない仕事に戸惑うことがあったり、思ったような結果がでなかったりと、うまくいかないことで物事を後ろ向きに考えてしまうことがあるかもしれません。近年、若者の早期離職率の高さが問題視されていています。その要因には働く目的が定まらず、働くことへの意欲が見出せないことが挙げられています。目的をもって立ち向かわなければ、モチベーションも上がらず、つまらない・できない・やりたくない・面白くないといった感情にながされてその場から逃げるという選択をしてしまいます。では、皆さまにとって、働くことの目的はいったいなんでしょうか。
「働く」の語源は「端はたを楽にする」ということからきていると言われております。端とは、自分以外の周りの人を指します。仏教において、私たちは縁によってたくさんの人(端)との出会いがあり、生かされていると考えられています。つまり、端の支えにより自分が存在していることを知っていれば、自然と人との関わりを大切にする意識が生まれるはずです。端を楽にするとは、端を幸せにすると解釈できます。私たちは、仕事をする目的をどうしても自分の利益に重きを置いて考えがちですが、『自分は他人をも幸せにするために仕事をしている』と考えると、行動の仕方に変化がでて、単純な理由で投げ出すことが減るのではないでしょうか。そして、その行動のよき結果はやがて自分に返ってくることでしょう。
今月のお題「脚下照顧きゃっかしょうこ」は、総本山の玄関先と食座じきざ(食堂)の入口に掲げられた言葉です。脚下(自分の足元)をみて履物を揃えだすと、横に並んでいる他人の履物にも目がいき、同じく整えようという意識が生まれることから、自分を顧みて精進すれば人のことも支えられるようになるという意味があります。うまくいかないときこそ今一度自分の行いを見直し、自分の支えとなっている人たちのことを考えることで、仕事の目的をみいだすことができ、意欲をもって臨めるのではないでしょうか。  
 

 

■いまいるところで咲きなさい
千秋万歳をくれとも ただ電いなずまのあひたなり つなかぬ月日は過行すぎゆけ 死の期ごきたるは程もなし 一遍上人   『百利口語』
たとえ千年万年いきたとしても、それはただ一瞬の稲妻の束の間ようで、あっという間に日はすぎて死の時はたちまちやってくるものである。だからこそ、いまという時を大切にするべきである。

先月新たに6名の在堪生(修行僧)が登山をし、一年間の修行をスタートさせました。在堪生たちはせわしく過ぎる遊行寺での生活に日々奮闘しております。私も在堪生の時は、初めて耳にする専門的な言葉を覚えることに苦戦したり、法式ほっしきが中々身につかなかったりと、苦労をした毎日だったことが思い出されます。時宗の僧侶になるためには、まずは総本山で一年間の修行をしなければなりません。そのたった一年しかない修行期間もあっという間に一ヶ月が過ぎてしまいました。限りある時間を生かすも殺すも自分次第でございます。時間という概念は大きく分けて、「過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)」があり、これを三世さんぜと呼びます。過去の出来事をひきずってしまう人、将来のことばかりに思いを馳せてしまう人は大勢いますが、ただ一心に現在をみて生活をしている人は意外と少ないのではないでしょうか。
仏教ではまずは目の前にある現在に集中して生きる必要性を説いています。なぜならば、過去は現在の行いの原因であり、未来は現在の行いの結果であると考え、過去も未来も現在があってこその時間であるからです。また、一般的に時の流れは過去・現在・未来という順番に考えますが、仏教では過去・未来・現在の順で考えます。過ぎ去った時間(過去)と、これから来るであろう時間(未来)は観念的かんねんてき時間で、今は目の前に実在しません。現在を最後に言うのは、実在している“ただ今”の時間の大切さを強調しているのです。今月から元号が変わり『令和れいわ』となり、新しい時代へ突入します。令和には「一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を咲かせることができるように」という願いが込められているそうです。過去も未来も蜃気楼しんきろうのようなもので、我々にはどうすることもできません。私たちの手の中にあるのは常に“現在”のみです。その現在を精一杯に過ごすことが、やがては三世にわたって満開の花を咲かせることへと繋がるのではないでしょうか。  
 

 

■一水四見
手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池   「詠み人知らず」
池のほとりで手を打つと、鯉は餌がもらえるものと思い、岸辺に寄っていき、鳥は鉄砲に似た音に驚き飛び去る。また、近くにある旅館の女中は客が自分を呼んでいると思って、大きな声で返事をする。つまり物事は受け手の解釈によってその意味が異なり、受け手との関係性の中で存在するのである。

今回の表題にしました「一水四見」とは、同じ水であっても、見方により四つの見え方があるという意味の言葉です。水は、人間にとっては無くてはならない飲み物、天人にとっては瑠璃でできた大地、魚にとっては家宅や道路、餓鬼にとっては飲もうとした瞬間火に変わる苦しみの源、地獄人にとっては膿で充満した河、というように立場が変わるとそれぞれ見え方が異なります。私たちは普段自分が見ている視点をすべてであるかのように、ある一つの固定観念にとらわれて物事を判断してしまいがちです。例えば、東日本大震災の時に太平洋側の地域を襲った大津波を見てしまうと、どうしても直後は恐怖や悲しみから海へ近づくことを避け、海を憎む想いすらあったでしょうが、徐々に復興が進むにつれ、様々な恵みを与えてくれる海と共に歩む姿を見ると、海と島国である日本の切っても切れない関係を示しています。
同様に、間もなく梅雨の季節になりますと、雨=「天気が悪い」と捉えてしまう人が多いかと思います。確かに、これから外出しようと考えている人にとっては、衣服や足元が汚れるなど煩わしくて鬱陶うっとうしい存在ですが、農家の人々にとっては作物を育てる上での必須条件である恵みの水となります。また、猛暑の夏には一雨降ることによって、暑さを和らげてもくれます。海は海のままであり、雨は雨そのものです。風吹くときは吹き荒れ、降るときには降り続くものなのです。であるならば、一つの固定観念にとらわれることなく、その存在を尊重し、感謝をして、ありのまま受け入れれば、我々自身も穏やかに心落ち着いて日々を送ることが出来るのだと思います。また、自分の視点だけでなく、少しでも視野を広げるだけで辛いと思っていることの中にも、実は幸福な側面があるかもしれません。それを発見できると生活に良い変化や刺激が生まれるのではないでしょうか。梅雨は敬遠されがちな季節でありますが、広い視野を持つことの大切さを再発見するきっかけとなる期間にしていただければと思います。 
 

 

■称名のおちから
弘願一称万行致ぐがんいっしょうまんぎょうち 果号三字衆徳原かごうさんじしゅうとくげん 不蹈心地登霊台ふとうしんじとうれいだい 不仮工夫開覚蔵ふかくふうかいかくぞう   「一称万行頌いっしょうまんぎょうじゅ」
南無阿弥陀佛は仏に帰依するための手段ではなく、そのものが、阿弥陀仏に代わって救ってくれるのだ。だから、念仏を称えることで最高の境地に入ることができるのである。

先日、遊行寺の地蔵堂でご祈願をした際、ある願主さんからこんな質問をお受けいたしました。「祈願の最中に何度も南無阿弥陀佛と称えるのはなぜですか、お念仏を聞くと、どうしても供養することを連想してしまい、なんだか妙な気持ちになってしまいます。念仏やお経をお称えする行為にはどんな意味が込められているのですか。」 確かに、念仏や経典は供養のために称えるもの、というイメージを持っている人が多いのかもしれません。時宗でお称えする念仏、『南無阿弥陀佛』の“南無”とは、サンスクリット語のナーマスの音写で、帰依(その力に任せる)しますという意味があります。その“南無”が阿弥陀仏と合わさり、阿弥陀仏にすべてをお任せしますという意味の『南無阿弥陀佛』となります。
宗祖は、「南無阿弥陀佛と称えると、その六字の名号そのものが阿弥陀仏に代わって救ってくれる」と示しております。祈願では、絶対的な拠り所としている念仏を繰り返しお称えすることで、自分の願いが成就するための後押しになっているのです。また、経典は悩みや苦しみを軽減させ、より幸せな状態へ導くために書き残された教えであります。遊行寺の祈願は、日限地蔵菩薩を前にして行います。胎内に『少病少悩』(病気、悩みが少なくなるように)の文字が刻まれている、地蔵菩薩の回向を営むことは、そのご加護を受けて、我々の中に湧いてくる不安を取り除いていただいているということであります。つまり、念仏や経典は安心感をもたらし、精神面の支えとなるものです。何か物事に取り組む際にはプレッシャーや緊張を取り払い、最後の一押しとなる力となるはずです。
皆さまが、僧侶と同じように称えることは難しくとも、僧侶が称えるものを聴き、その時間を共有することで同じようにお力を貸していただけます。ご自宅の仏壇の前でお手を合わせるのはもちろんのこと、遊行寺ではご祈願以外にも毎朝の勤行や年中行事で法要を修行しておりますので、ぜひ参拝していただき、一緒の時間を過ごしていただければと思います。読経する僧侶と同じ空間にいるだけで、不思議と気持ちが落ち着き、心が穏やかになるちょっとした功徳を感じることができるでしょう。 
 

 

■感応道交かんのうどうこう
もっぱら仏法僧を念じて 感応の力を忘れることなかれ   「時衆制誡」
もっぱら、仏法僧の三宝を念じて仏の慈悲を感じて、それに応じてこたえる衆生の力を忘れるな。 ※感応・・・人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心

夏には仏教の代表的な行事、お盆がございます。お盆を迎えると、皆さんも親戚や友人と再会し、にぎやかに語り合い、楽しく食事をされることかと思います。みんなと集まるその時間は、きっと有意義に感じられることでしょう。そしてまた、お盆とはそういった楽しい時間を過ごすだけでなく、お帰りになったご先祖さまの供養をする大切な期間であります。私たちは、家族や友人など多くの人とのつながりの中で生きていますが、いつまでも一緒にいたいという願いとは裏腹に、死の別れが必ずやってきます。皆さんも、年回忌法要を営む時は、ご先祖さまへ供養のこころを表しているかとは思いますが、日常生活ではどうでしょうか。案外普段はその存在を思い出すことを怠っていませんか。さて、話は変わりますがここで、日本の童謡詩人・金子みすゞさんの『寂しいとき』という詩をご紹介いたします。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
この詩では、人間の心とは友人や家族であっても理解するのは困難であり、他人にはわかりえないものだということをうたっています。しかし、最後の一文に目を向けると、仏さまだけは同じ気持ちになってくださっていることがわかります。仏さまとは私たちを常に見守ってくださり、喜びや悲しみを分かち合ってくれる存在であると感じられませんか。確かに私たちは、ご先祖さまから何かしらの形で、想いを受け取り、励まされ、精神面の支えにして生きているように思います。同じ空間にいて会話ができなくても、大切な人であればあるほど通じ合うものです。お盆には、お墓参りに行くのはもちろんのこと、日常生活を送る中でご先祖さまの存在を忘れないということが、私たちのできる一番の供養ではないでしょうか。誰にでも別れの瞬間は訪れますが、その命の終わりを人間関係の終わりにしてはいけません。“感応道交”、仏さま(ご先祖さま)と私たちの心は通じあっているという意味の言葉です。より近くに感じ、その関わりを大切にしたいものです。 
 

 

■我慢ではなく辛抱を
心に我執の本念あれば いかにも本念こそ 臨終にはあらはる   『播州法語集』
どんな取り組みも心に我執の念があると、その少しの驕りが必ず最後に結果としてあらわれてくる。心に妄念は起こさないように。

立秋を過ぎて暦の上では秋となりましたが、未だに日中の最高気温は夏日を観測し、もう少し残暑が続きそうな今日この頃です。近年の夏は異常な猛暑に見舞われ、今年もいたるところで熱中症への注意喚起がされていました。皆様も厳しい暑さを耐えしのぎ、仕事に精を出していたのではないでしょうか。我慢強く物事に立ち向かい、何かを成し遂げるという精神は、古くから伝わる日本人の良き姿のように感じます。さて、仏教にも我慢という言葉がございます。ただし、一般的に使われている忍耐や抑制といった肯定的な意味合いとは少し異なります。
仏教おいて我慢の語源は「我に慢(まん)心(しん)を抱く」ということであり、自分に自惚(うぬぼ)れて驕(おご)り高ぶり他を軽(かろ)んじることから、「我意(がい)(わがままな気持ち)を張ること、強(ごう)情(じょう)なこと」を意味します。例えば、辛抱とは自分に降りかかってくる困難に耐えている状態を言いますが、耐えていることがすごいことであるかのように勘違いをしたり、辛抱しているのに結果が出ないことにいらだったり、周りと比べて自分ばかりが大変な思いをしていると考え恨んでしまう状態などは仏教のいう我慢です。同じ耐え忍ぶでも、我に慢心を抱いたがゆえに引き起こしてしまう我慢は決して良いものではありません。むしろ「辛抱」は、仏教の心の働きを表す「心法」からきていると言われ、「辛棒」とも当て字で書かれます。慢心することなく、心をまっすぐな棒のように、耐えるべきことを“辛抱”するのが大切です。
慢心が生まれると自己に執(しゅう)着(じゃく)し、他者との比較がはじまり、他者を見下すことにも陥ってしまいます。どうか、仏教における我慢を減らすようにしていただければと思います。残暑を乗り切ると、季節が秋へと変わります。草木が紅葉し、落ち着きをもたらしてくれる秋を慢心や執着心のない綺麗なこころでむかえたいものです。 
 

 

■微妙香潔みみょうこうけつの香りなり
口にまかせてとなうれば 声に生死の罪消えぬ   『別願和讃』
念仏は口に任せて称えれば、その一声一声の中に生死の迷いや罪は消えて救われるのである。念仏を重ねる度に、阿弥陀様の功徳がいつの間にか心に染みついて表れてくるのである。

先月の秋季開山忌が終わる頃には暑さも落ち着き、秋の風が感じられるようになってきました。毎年涼しげな秋風にのって、寺務所前の金木犀の香りが漂い始めると、「今年もこの季節がやってきたな」と心地良くさせてくれます。さて、皆さまは薫習くんじゅうという言葉をご存知でしょうか。私たちが普段生活を送っている部屋は知らず知らずのうちに、自分自身の香りが染みついていきます。それと同じく、三つ子の魂百までと申しますとおり、子供のころに教えてもらった食事作法や言葉遣いなどは大人になっても忘れることなく、浸透しております。また、自分で決意しひたむきに取り組んでいれば、次第に自分の力となっていきます。同様に、他者の行動を見聞きすることで、自然と体に染みついていく力もあります。自分自身や他人の行為が心や体に影響を与えて残存すること、それが薫習でございます。
仏さまのいる極楽世界に咲く様々な色の蓮の花は微妙香潔と呼ばれ、いつも気高く清らかな香りを漂わせていると言われています。さらにそれは単にいい香りというだけでなく、仏さまの教えが説かれる世界ですので、清らかな仏の教えが香りと共に身に染みついてくることでしょう。秋は涼しさに加え、落ち着いた夜の時間が長いことから、様々なことに集中して取り組むことができる季節として、読書の秋、芸術の秋などと言われます。金木犀の香りには心を落ち着かせるリラックス効果や潜在能力を引き出してくれる力があるそうです。一つのことを継続して取り組むことはなかなか容易なことではありませんが、秋の香りを感じながら自分にとって実りある習慣となるよう、心静かに薫習してみてはいかがでしょうか。 
 

 

■覚悟をもって
もっぱら菩提の行を修して 遊戯ゆげの友に交わることなかれ   『時衆制誡じしゅうせいかい』
つねに仏陀の智慧・正覚・悟りを修行して、遊びほうけないように。

日本代表の活躍に湧いたラグビーワールドカップですが、ニュージーランド代表の選手たちが試合前に披露する“ハカ”という踊りが話題になっております。ハカとはニュージーランドの先住民マオリ族に伝わる戦いくさへ出陣する際に士気を高めるための民族舞踊です。歌詞の冒頭、「カマテ カマテ カオラ カオラ」は「私は死ぬ、私は死ぬ。私は生きる、私は生きる。」という意味があり、最後の歌詞、「ア・ウパネ カ・ウパネ フィティ・テ・ラ・ヒ」は「上に向かって進め、さらにもう一歩、太陽は輝いている。立ち上がれ」と訳されます。闘いに負けて死ぬかもしれない、それでも向かっていき、悔いなく挑み続けようという”覚悟”の歌であります。
さて、お釈迦さまが説かれたお話に“黒白ニ鼠こくびゃくにそ”というたとえ話がございます。
ある男が象に追われ、逃げ場所を探していると道の側に空井戸を発見しました。男はその中に入り、くぼみに足をかけ、井戸の中に伸びている木の根に掴まって象が通り過ぎるのを待っていたそうです。しかし、木の根に掴まりながら下を見ると、恐ろしい毒蛇が口を開いて落ちてくるのを待ち構えていました。さらに、周囲を見ると、白いネズミと黒いネズミが交互に出てきて、掴まっている木の根をかじっています。木の根が切られると下へ落ちて毒蛇に噛まれてしまうし、上に出れば象に襲われる。どうしようかと考えていると、枝においしそうな実がなっていることに気づきました。実から汁が垂れているので、口で受けてみると非常に甘く、男は自分の置かれた状況を忘れて、夢中になって甘い汁を舐めていた。というお話です。加えて、お釈迦さまはおっしゃいました。「汝なんじらが日々行なっていることは、この話のようなものだ。二匹のネズミは昼と夜のことで、昼と夜が今日、明日、明後日とやってくる間に、命の根は少しずつ噛み切られて先が短くなっている。だから生きている間に覚悟を定めなければならない。だが、人生のつまらない楽しみにとらわれている。それは木の実の甘い汁を舐めているようなもので、その間に命の根が無くなっていくことも知らないのだ。」
私たちは日々の生活が当たり前のように続くと思って、つい怠けてしまいがちです。人の命ははかないもので、いつ終わりが来るかわかりません。それが今日、明日になるのかもしれません。形あるものが壊れるのと同じで、時間は今この瞬間も過ぎていて、無常であります。だからこそ、一日をなんとなく終わらせることなく、やらなければいけないことに全力で取り組んでいくべきです。そうすることで、覚悟や責任をもって挑まなければいけないことに直面した時、力を発揮できることでしょう。ハカを歌って、闘いに挑むニュージーランド代表や格上相手にも物おじせず覚悟をもって立ち向かって結果を出した日本代表のように、一日一日に後悔を残さず、物事へぶつかっていきたいものです。 
 

 

■鐘の音とともに
過去遠々のむかしより 今日今時にいたるまで おもひと思ふ事はみな 叶はねはこそかなしけれ   『別願和讃』
思い通りにならないことばかりで悲しくなってしまうのが凡夫です。結果にばかりとらわれず、悟りの境地を目指すのです。

今年も残すところあと一か月。時間の流れの早さを感じております。年の瀬が迫り一年を振り返ると、良いことや悪いこと、改善しなければいけないことなど様々なことを思い起こすのではないでしょうか。さて、遊行寺では大晦日の深夜から元朝にかけ、除夜法要を修行しております。大晦日は「除日」と呼ばれ、古い年を除き去り新年を迎える日という意味を表します。その夜に煩悩を払うために打つ鐘を「除夜の鐘」と呼び、一般的に煩悩の数と同じ108回撞きます。
煩悩の数については四苦八苦という言葉に由来しているといわれます。四苦(4×9=36)と八苦(8×9=72)を足した数が108になることから、煩悩は108つあるという訳です。(諸説あります) 仏教では、人生を送る上でどうしても避けられない苦しみを四苦とし、その四苦にさらに四つ加えて八苦で表します。ですから、四苦八苦といっても苦が12個あるわけではなく、全部で8つとなるわけです。四苦は「この世に生まれる辛さ」「老いていく悲しみ」「病の苦しみ」「死への恐れ」を表す生老病死を指し、八苦は愛別離)苦(愛する者との別れ)怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会うこと)求不得苦(求める物が得られないこと)五蘊盛苦(肉体と精神がおもうままにならないこと)を意味します。
私たちの心を汚す煩悩の多くは、四苦八苦の言葉が示すように、自分の思いどおりにならないがゆえに湧き出るものです。また消し去ろうとしてもなかなか消え去るものでありません。だからこそ、年に一度は自らの行いを振り返り、悔い改めて同じ過ちを繰り返さないようにするのです。一年の締めくくりには、除夜の鐘が鳴り響く遊行寺へぜひ足を運んで下さい。鐘の音には、煩悩を振り払い心に落ち着きを与えてくれる他にも、過ぎ去ってゆく年への感謝や、新年への期待感をつのらせてくれます。皆さまのご参拝お待ちしております。どうか気持ち安らかに素敵な一年をお迎えください。 
 

 

■ワン チーム
一切衆生のためならて 世をめくりての詮もなし(中略) 後生の為に依怙えこもなし 平等利益の為そかし   『百利口語』
自分の為だけに世間をめぐり、長生きしても仕方がない。一切衆生が平等に利益を受けるために生きようではないか。

先月発表された、ユーキャン新語・流行語大賞の年間大賞にラグビーワールドカップでベスト8に進出した日本チームのスローガン、「One Team」が選出されました。前回大会での悔しさを胸にチーム一丸となり闘った選手たちはもちろんのこと、選手を支える家族やスタッフなど裏方も含めて一つになった代表の活躍ぶりに感動させられたことは記憶に新しいです。昨年遊行寺では、二祖上人七百年御遠忌を修行していく上で、多くの宗内寺院僧侶や檀信徒の方々にご協力いただきました。おかげ様で御遠忌事業は無事成満を迎えるとともに、人と人とのつながり、協力して一つのものを完成させるすばらしさを実感できました。まさに、事業にかかわったすべての方々との「One Team」であったと言えます。我々は自分自身に関わることへの精進や、身内の喜怒哀楽に共感したり、取り組みに手を差し伸べ協力したりすることは苦になりませんが、少し離れた第三者のことになると急に難しく感じ、中々実践できません。それは、近頃結果が求められる世の中であるがゆえに、目立ちたい、利益を出したいといった欲が出て、誰かのために役に立とう、誰かが幸せになるように、といった他者を思いやる精神を持ちにくくなっているのも一つの要因としてあるでしょう。しかし、この度の御遠忌事業に合わせて着手した御本尊阿弥陀如来ごほんぞんあみだにょらい修復のために募った御寄付には、時宗の檀信徒に関わらず全国各地から、多大なる浄財を頂戴いたしました。修復により以前の輝きを取り戻した御本尊に向かい、毎朝手を合わせますと、小さな力であっても結集させれば大きなことを成し遂げられるという素晴らしさをしみじみ感じます。
さて話は変わりますが、一月は睦月むつきといい、その語源は睦むつみあう・互いに親しみあう・仲睦なかむつまじいことからきていると言われます。仲睦まじいとは、ただ仲良く、楽しい間柄というのではなく、様々なことを共感し協力し合う姿であります。他人のためにという精神があれば、その行いはやがて自分にも返ってきます。また、個人では叶えることが難しい大きな目標でも、共に力を合わせることで実現できることでしょう。一年の始まりの今だからこそ気持ち新たに目標をたて、その実現のために家族・友人・仕事の仲間など、人と人との繋がりを大切にしていただければと思います。今年一年が幸多き素晴らしい年になることを願っております。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
西月山真光寺・法話

 

由来
真光寺は、もと兵庫輪田の崎島「光明福寺」に創まり、宗祖一遍上人が念仏勧進の全国遊行の旅の途中、この地に立ちより1289年(正応2)8月23日観音堂に於いて臨終しました。
その後兵庫の信者達によって、荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納められ、お木像を御影堂に祀り、その遺徳を崇めました。
その後二祖真教上人は、伏見天皇に奏して「真光寺」の寺名を拝受し、播州守護職赤松円心より寺領を寄進され、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地は三十八町四方に及んだといわれています。
次いで後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜され、南朝の皇族「尊観法親王」が住持されてからさらに念仏の大道場として繁栄しました。
その後再三の兵禍や火災に遭遇し、その都度再建されました。近年に至っては、1945年(昭和20)3月、第二次世界大戦で空襲に遭い全山消失してしまいました。現在の本堂は昭和37年再建されたものです。更に1995年(平成7)1月の阪神・淡路大震災により御廟所、観音堂、鐘楼が倒壊し、1998年(平成10)5月に再建復興しました。
観音堂の御本尊はその昔、輪田岬の海底より霊光を放っているのを、漁師が引上げてみると観音様の御像であったので、お祀りしたのが始まりであると伝えられています。
また戦前、山門の横に池があり、石亀が多数放生されていたので、通称「亀の寺」と親しまれてきましたが、都市計画のため境内が縮小され、現在は池はありません。
なお、一遍上人御廟所の五輪塔のある玉垣内は文化財として県史跡に指定されています。
寺宝として絵巻物紙本着色『遊行縁起』10巻(国重文指定)を所蔵しています。
一遍上人御歌  「旅ごろも 木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬところあるべき」

1301 正安3 8月15日 二祖真教上人兵庫に至り一遍上人御影堂で13回忌を勤め、自ら調声する
1323 元亨3 『遊行縁起』「宗祖・二祖絵伝」完成する
1318〜1339 後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜される
   播州守護職・赤松円心より寺領寺地を寄進される
1370 建徳1 尊観法親王(後の十二世遊行上人)真光寺に住す
1377 天授3 尊観法親王、兵庫真光寺より山形光明寺に移る
1401 応永8 東西三十七町南北三十八町塔頭二十八輪番。七堂伽藍荘厳を極む。のち兵禍にあう
1519 永正16 春、遊行二十四世不外上人兵庫真光寺の祖廟に詣でる
1613 慶長18 8月23日 遊行三十四世燈外上人、兵庫真光寺に一遍上人忌を修し同寺僧衆を督励する
1676 延宝4 3月18日 遊行四十二世尊任上人、兵庫祖廟前に石灯籠一対を寄進される
1688〜1704 元禄年間 真光寺祖廟改修する
1707 宝永4 伏見天皇より「真光寺」に寺号の勅額を賜わる
1713 正徳3 賞山、真光寺に於て「誓願文標指鈔」を梓行する
1714 正徳4 10月23日 賞山真光寺で「一遍上人絵詞伝直談鈔」を著わす
1715 正徳5 真光寺重層阿弥陀堂再建される
1716 享保1 7月23日 遊行四十九世一法上人、真光寺留錫中、祖像の厨子を寄進する
1748 延享5 2月21日 遊行五十一世賦存上人、真光寺留錫中宗祖像の厨子及び光背を寄進
1760 宝暦10 真光寺青銅造大毘盧舎仏参道に安置される
1772 明和9 真光寺観音堂・熊野堂・鐘楼再建なる
1774 安永3 俳人佐々木泉明、遊行柳植樹する
1804〜1818 文化年間 真光寺書院再建される
1827 文政10 真光寺大門改築される
1836 天保7 11月23日 兵庫真光寺を足下寺と定む
1837 天保8 3月17日〜23日 宗祖五百五十回忌を真光寺にて修す
1888 明治21 3月 真光寺河野往阿、寺内に大悲学校を開創し、近隣の児童を教育する
1912〜1926 大正年間 真光寺客殿虚空蔵堂建立される
1919 大正8 真光寺本堂改修、塔頭(陽徳・竜蔵・修善・宝積・常徳)五院となる
1945 昭和20 3月17日 第二次世界大戦の戦災にあい真光寺全焼する
   真光寺檀家もほとんど戦災にあい兵庫区(神戸市)全域が焦土となる  
住職のお話

 

 
 

 

■住職のお話 12月
早いもので、もう師走となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。今回は、お釈迦さまの悟り(成道・じょうどう)についてお話をします。
お釈迦さまはインドのブッダガヤーで、悟りをひらかれました。それを祝って営まれる法会(ほうえ)が成道会(じょうどうえ)または臘八会(ろうはちえ)ともいわれています。南方仏教の伝承では、成道の日がヴァイシャーカ月の満月の日とされ、漢訳の仏典では2月8日と記されていることが多いのです。しかし、中国の周の暦法を用いると陰暦の12月となります。日本ではその説により12月8日が成道の日となりました。このため臘(陰暦の12月の意味)八会ともいわれています。現在は新暦の12月8日に行われることが多いのです。
お釈迦さまは29歳で出家し、6年間の苦行をかさねたのですが、苦行することが無益だとさとり、苦行をやめて村の少女・スジャータから供養された乳粥を食べて体力を回復して、菩提樹の下で悟りをひらかれたといわれています。コーヒー用のミルクで有名なスジャータは、このお話が由来といわれています。この乳粥は、日本でいうお粥というよりは甘い味付けのものだったようです。
お釈迦さま・成道の地であるブッダガヤーはインドのビハール州、ネーランジャラー川のほとりにあります。お釈迦様が悟りをひらいてブッダになった場所です。仏教徒にとっては最も重要な聖地です。ブッダガヤーには52メートルの大塔がある壮麗なマハーボーディ寺院(大菩提寺・だいぼだいじ)がそびえています。マハーボーディ寺院の建てられた年代は不明ですが、唐の玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)が訪れた7世紀には、ほぼ現在の形の大塔が建っていたと記録されています。大塔の裏にはお釈迦様が悟りをひらいた場所「金剛法座(こんごうほうざ)」と言われる石の台座があり、その横には菩提樹が繁っています。

■修正会とは
新年を迎え、初詣に神社にお参りに行かれた方も多いと存じます。お寺には正月に修する修正会という法会(ほうえ)がございます。寺院によって期間は様々ですが、新年を祝い、国家の繁栄や五穀豊穣を祈願します。真光寺では、元旦に修正会を厳修致しております。修正会の起源は中国で陰暦の一月に修する法会を意味しています。また、「お水取り」の行事として有名な東大寺・二月堂の修二会(しゅにえ)は陰暦の二月の初め(現在は三月)に行われるもので、主に国家の隆盛、万民豊楽、仏法興隆等を祈念します。

■涅槃会
お釈迦さまを偲んで今年も真光寺では、2月15日に本堂の内陣に涅槃図を掛け、「釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)」が営まれます。涅槃という言葉は、梵語・ニルバーナの音写で、吹き消すこと、消滅の意をあらわし、転じて煩悩を滅却した状態をいいます。さらに釈尊または聖者の死(入滅)を意味するようになりました。釈尊の入滅を描いた画は、厳密には「仏涅槃図」といわれます。
一遍上人の臨終
『一遍聖絵』第12巻の一遍上人の臨終の場面では、頭を向って右にして仰向けに横たわり、合掌して腰から下には白衣を掛けています。その白い絵の具が剥がれて、下絵が見えて来ています。それは「頭北面西」すなわち、一遍上人が頭を北に顔を西に向けた姿です。これは釈尊が入滅した時の姿と同じように描かれているのです。光明福寺(のちの真光寺)の観音堂に滞在していた一遍上人に、臨終のことを聞いた人がいました。一遍上人は「よき武士とよき僧侶は、死ぬ様子をむやみに人に知らせないものである。私の死ぬ時を人は知らないであろう」といった通りに晨朝(じんじょう)の礼讃(らいさん)を称えるうちに臨終を迎えたと記されています。この下絵が描き直されたということは、一遍聖絵の編者・聖戒(しょうかい)が一遍上人の臨終の場面は、釈尊の涅槃図に模して描くのではなく、念仏を称えているなかでの臨終が念仏者一遍上人にふさわしいと考えたのではないでしょうか。それでも、一遍上人のまわりで泣いている人びともそのまま描かれ、また、一遍上人の周囲の柱の数は八本描かれており、涅槃図の中で、釈尊のまわりに八本の沙羅双樹(さらそうじゅ)が描かれているのと相通じるところを感じ取ることができます。

■兵庫県の文化財防火デー広報訓練
ご報告が遅くなりましたが、真光寺の境内において1月26日(火)防火訓練が行われました。真光寺は絵巻物紙本著色『遊行縁起』(国重要文化財)を所蔵しています。当日は、寺の関係者、地域住民、中学生、消防団、消防署が連携し、広く市民の方々に文化財愛護思想により一層の高揚と防災意識の啓発を図ることを目的として行われました。参加機関は、兵庫消防署、兵庫消防団第5分団、入江・名神防災福祉コミュニティ、須佐野中学防災ジュニアライセンスチーム、真光寺関係者で、訓練は、本堂より出火と想定し、119番通報訓練、水消火器による初期消火訓練、文化財搬出訓練、中学生(130余名)によるバケツリレー、続いて、各チームの放水隊が、一斉放水の掛け声とともに大本堂にむけて放水をしました。最後に、消火、避難を円滑に進め命を守り文化財を残していくのは我々の務めであると講評があり、訓練は終了しました。

■お彼岸
昔から「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、一年中で最も過ごしやすいのがこのお彼岸の頃です。彼岸という語は、梵語・パーラミターを漢訳した到彼岸(彼岸に達した状態)の略で生死(しょうじ)輪廻(りんね)する(生まれては死に、再び生まれては死ぬ)迷いのこの世を此(し)岸(がん)とするのに対して、煩悩の川を隔てた彼方にある悟りの世界をいう言葉です。なお、パーラミター波(は)羅(ら)蜜(みつ)(または波(は)羅(ら)蜜(みっ)多(た))と音写(発音をそのまま漢字)されますが、それは到彼岸の為の実践行とされています。その名が京都の六波羅蜜寺でも有名な、六波羅蜜とよばれる六つの実践行です。すなわち、布施(ほどこし)・持戒(戒律を守る)・忍辱(にんにく)(がまん)精進(努力)・禪定(心の統一)・智慧(正しい洞察力)を実行する修行です。したがってお彼岸には先祖供養とともに、本来は悟りの世界に行くことを願って行いをつつしむ期間とされていたのでしょう。真光寺では春の御彼岸の施餓鬼法要を、3月19日(土)14時より行います。お塔婆(1本二千円)は事前にお申し込みください。 
 

 

■花まつり
4月8日はお釈迦さまのご生誕を祝う「灌仏会(かんぶつえ)」の日です。他にも「降誕会(ごうたんえ)」、「仏生会(ぶっしょうえ)」、「仏誕会(ぶったんえ)」などとも呼ばれます。一般には「花まつり」の名で親しく呼ばれ、仏教の春の行事です。故事によればお釈迦さまは、今からおよそ2500年前の4月8日、インドの北方ルンビニーでお母さまのマヤ夫人(ぶにん)が無憂樹の枝に手をさしのべた時にお生まれになりました。お釈迦さまお誕生の際、天から龍王が舞い降りてきて甘露(かんろ)を灌(そそ)ぎ、雅楽(ががく)の美しい音色が流れ、人々はもとより動物たちも木々も花々も、全ての生きとし生けるものが、お釈迦さまのお誕生をお祝いしたとあります。これにちなんで、日本ではお釈迦さまの誕生仏に香水を灌ぐ儀式が行われてきましたが、江戸時代からは香水に代わって甘茶(霊水である甘露になぞらえている)を灌ぐようになりました。また、近年ではお釈迦さまがルンビニーの花園で誕生したというお話から、誕生仏を花御堂(はなみどう)に安置して祝うようになりました。お釈迦さまはお生まれになるとすぐに七歩あるいて、右手で天を、左手で地を指すその誕生仏のお姿は「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉に象徴されるように、「この世に生きるものには皆それぞれの価値があり、尊いものである」という意味を表すものです。真光寺では本年4月1日から8日まで本堂に誕生仏を安置した花御堂をお祀りしております。

■一遍上人の熊野本宮参籠
文永11年(1274)の夏、一遍上人は熊野の山中で一人の僧に会いました。「一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなえてこの札を受けてください」と言って念仏札を渡そうとするが僧に拒否され、押し問答の後無理矢理にお札を渡しました。お札の渡し方に疑問を持った一遍上人は熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)に参籠しました。すると夢の中に熊野権現が現われて、お札を配る意義を告げます。「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」と。この時が一遍上人の成道(じょうどう・さとり)の時であり、時宗が開かれたときであると言われています。真光寺境内にも熊野権現社をお祀りしております。毎年5月には熊野権現社の前で御法楽を行い、本年は、5月15日(日)10時半より執り行います。

■二祖他阿真教上人について
平成31年(2019)は二祖他阿真教上人の七百年御遠忌にあたります。真光寺にも所縁の深い二祖他阿真教上人について述べて参りたいと思っています。
1 九州で一遍上人の弟子になる
『遊行縁起』第一には、「同(建治)三年九国を修行し給けるとき、他阿弥陀仏はじめて隨逐(ずいちく)したまふ」と述べ、真教上人が一遍上人に出会い、入門したのは建治3年(1277)九州であるとしています。遊行二祖他阿弥陀仏真教(たあみだぶつしんきょう)上人は、このとき師弟の契りを結んでから、一遍上人が入滅するまでの13年間常に隨逐し、その教えを受けるとともに一遍上人の遊行・教化を助けています。一遍上人の弟子たちのなかでも最も重んじられた人であったでしょう。また、この絵巻(一遍上人の御影堂に参詣する真教上人)の御影堂が今日の大檀林(だいだんりん)真光寺のもとになったのでしょう。『一遍上人年譜略』によれば、建立者は時宗二祖他阿真教上人で、伏見天皇に上奏して真光寺の勅額を賜ったと伝えられています。
2 遊行をはじめる
一遍上人が入滅すると真教上人たちは、「一遍上人はお亡くなりになってしまいました。我々もすみやかに念仏して臨終しょう」(『遊行縁起』第五)と摂津・播磨両国境にある丹生山(たんじょうざん)に分け入りました。山中の朽ち落ちそうなお堂(極楽浄土寺)で念仏しながら死を待っていました。そのとき、山麓の粟河の領主が念仏札を受けたいといって尋ねてきました。この粟河の領主の女房は、一遍上人から念仏札を受けた最後の人です。真教上人は、「我らは亡き聖の後を追い、臨終しようとしている身です。したがって、念仏札を与えることはできません」と断りました。ところが領主は、「このように縁を結びたいと願っている者がいるのに、どうして念仏札を与えてくれないのか。是非与えてほしい」と。と言って承知しません。やむなく真教上人は一遍上人から受けた念仏札を領主に与えました。真教上人は、「念仏札を渡したからには我々が後を追って死ぬことに意味はない。一遍上人素晴らしい教えも耳の底に残っている。この教えを人々に説いて行こう」(『遊行縁起』第五)と臨終を思いとどまり、時衆は真教上人を知識として山を下り、賦算(ふさん:お札くばり)の旅に出ることになりました。粟河の領主の勧めによって、時衆におされ知識となり教団の再編成を試みた真教上人は、その法を嗣(つ)いで教団を率いて、さらに16年の遊行を続けたのです。
3 時衆教団を確立
一遍上人の教えを受け継ぎ時衆教団を確立、大成させたのは真教上人の力です。門下から大上人(おおじょうにん)または大聖(おおひじり)と呼ばれていました。真教上人の生まれは京とも豊後(大分県)ともいわれるが、はっきりとはしません。在俗時代のことについて、くわしく語らなかったためでしょう。はじめは浄土宗鎮西派(ちんぜいは)の流れを汲み、一遍上人と出会う前は豊後の大友氏の帰依を受け、府中(大分)に住していたといわれています。年齢は一遍上人より二歳上でした。真教上人は、41歳の時、一遍上人に出会い、教えを受け入門したときの様子を後になって『奉納縁起記』に記しています。建治3年(1277年)秋の比、九州化導のとき、『予始めて温顔を拝し奉り、草庵に止宿して一夜閑談せしめ、五更(ごこう・夜明け方)に及ぶまで欣求(ごんぐ)浄土の法談あり。〜中略〜年来所居の栖(すみか)を捨てゝ一所不住の身となり、堅く師弟の契約を成し、多年隨逐したてまつる。誠に謝し難きは恩徳なり』この『奉納縁起記』(嘉元4年・1306)は、真教上人が一遍上人一代の絵伝十巻を熊野本宮に奉納したときの「願文」です。
4 遊行の足跡1
他阿真教上人の嗣法(しほう)と遊行については、『遊行上人縁起絵』十巻のうち、後半六巻が伝えている。『遊行上人縁起絵』は『一遍聖絵』に比べると年月日などが不正確です。また、記事の順序なども違っている箇所があります。そのため、真教上人の遊行の行程を正確に知ることは困難です。正応3年(1290)夏、真教上人の一行は越前の国府(福井県越前市京町)へ入っています。惣社に七日参籠した後、佐々生(さそう)(福井県丹生郡朝日町)、瓜生(うりゅう)(福井県越前市瓜生町)などを遊行し、冬には再び越前の惣社に戻って歳末別時念仏会を厳修し、七日間「暁ごとに水を浴、一食(いちじき)定斎にて、在家、出家をいはず、常座合掌して一向称名の行間断なく、番帳(ばんちょう)定めて、時香一二寸を過ごさず、面々に臨終の儀式」(『遊行上人縁起絵』第五)を考えて修行しました。翌4年8月、加賀国今湊(石川県白山市)、藤塚(同)、宮越(石川県金沢市)を賦算(ふさん・お札くばり)した真教上人は、翌年秋の頃、人々の召請(しょうせい)によって再び惣社に参詣したが、ときに国中の人たちから帰依を受けました。これに対して平泉寺の法師たちは、越前国から真教上人たちを追い出そうと企てたので、真教上人たちは衆徒の迫害を逃れて加賀国(石川県)に入り、同6年には越後国(新潟県)、続いて永仁5年(1297)6月には小山(栃木県小山市)・新善光寺の如来堂に逗留したといわれています。永仁2年(1294)から4年までの遊行は明らかではありませんが、越後国をまわっていたと考えられます。
5 遊行の足跡2
北陸地方は、一遍上人が善光寺参詣のために通ったことがあったかもしれないが、教化が十分であったとは思われません。そこで真教上人は、この地方を重点的に遊行したのではないかと考えられます。 永仁6年(1298)、武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)で『他阿弥陀仏同行用心大綱』を書いて時衆の心得を示し、その後、越中国放生津(ほうじょうづ)(富山県射水市)、越後国池(新潟県上越市)などを遊行しました。さらに、真教上人は信濃(しなの)、甲斐(かい)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、武蔵、相模など関東各地の教化につとめています。すなわち、越後国府(新潟県上越市)より関山(新潟県妙高市)を越え信濃国へ行き、善光寺(長野市)に参詣しました。それから甲斐国一条(山梨県甲府市)、中河(山梨県笛吹市)を経て、御坂(みさか)(山梨県笛吹市)から河口(山梨県南都留郡富士河口湖町)を遊行しています。
6 遊行のお砂持ち
越前国に入った真教上人は、角鹿笥飯(つるがけひ:敦賀気比)大神宮(福井県敦賀市)に参詣した際に、参道にあった沼のぬかるみを自ら「もっこ」を担いで浜の砂を運び、時衆とともに参道を直したといわれています。これを「遊行の御砂持(おすなもち)」と呼び、今日でも、新しく遊行上人になるとこの行事が行われます。『縁起絵』第八には、『社司・神宮等大に悦(よろこび)て、先縄を引て、道のとほりを定む。広さ二丈あまり、遠さ三丁余也。さても其あたりはおびたゞしき沼なりければ、すべてうむべき土のたよりもなかりけるを、聖、社頭より四五町許(ばかり)ゆきて、浜の沙を運はじめ給程に、時衆の僧尼、われもわれもとあらそひける。其外も諸国帰依の人、近隣結縁(けちえん)の輩(やから)、貴賎を論ぜず道俗をいはず、神官、社僧、遊君、遊女にいたるまで、七日夜の間は肩をきしり、踵(きびす)をつげり。海浜すこぶる人倫を成し、道路ますます市のごとし。』と記されています。

■中元について
急に暑さが加わってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。今日は、季節のお便り「お中元」についてお話をします。「お中元」は、中国の古代の黄帝や老子の教えに基づく道教からきたものといわれています。中国の暦法では1月15日を上元、7月15日を中元、10月15日を下元として、合わせて三元といい、いずれも重要な祭日でした。日本では現在、このうち中元のみが贈り物をする日として用いられています。本来は祖先の供養とともに親類知人を訪問し、一年の無事を喜びあう日でした。しかし、お中元の風習は日本古来の風習やお盆の行事とも結びついて、やがてこの祭日にかわす贈答のことを意味するようになり、日本ではお中元がお歳暮と並んで代表的な贈答となっています。お時間に余裕のある方は、笑顔とともにお届けしてみてはいかがでしょうか。

■お盆の話
暑さも厳しくなってまいりましたが、体調など崩されてはいませんでしょうか。今回は、お盆のお話をしたいと思います。スーパーなどでは、お盆のお飾りが店頭に並び始め、いよいよお盆の季節となりました。お盆の期間は地域で様々ですが、一般的には7月13日から15日の3日間やひと月おくれの8月13日から15日が多くまた、旧暦で行う地域もあります。真光寺では、8月7日から15日としています。お盆の正式な呼び名である「盂蘭盆会」(うらぼんえ)は『仏説盂蘭盆経』という経典が元となり、行事として定着していきました。『盂蘭盆経』は竺法護(じくほうご、239〜316年)の訳と伝えられていますが、中国で作られた偽経ともいわれています。盂蘭盆とはサンスクリット語のウランバナが漢字に写された(音写)もので「倒懸」つまり「逆さ吊りの苦しみ」を意味しています。『盂蘭盆経』によれば、お釈迦様の十大弟子の一人、神通第一(じんづうだいいち)と言われた目連尊者(もくれんそんじゃ)が、「亡くなったお母さんがあの世でどのような生活をしているのであろうか」と神通力をもって眺めてみました。すると、お母さんは餓鬼道(がきどう)に堕ちて逆さ吊りにされ、やせ衰え苦しんでいることがわかりました。これを知って目連尊者が食べ物をお母さんに食べてもらおうとしましたが、すべての食べ物は火炭となって食べられません。
困り果てた目連尊者はお釈迦様に相談しました。そこでお釈迦様は静かに語りかけました。「目連よ、お前の母は罪が重いので、母を救いたいと思うなら、修行者たちが3ヶ月間の夏安居(げあんご、夏の修行)を終える7月15日に集まった僧侶たちに百味飲食(ひゃくみおんじき)の御馳走を食べていただいて、母や多数の人びとの苦しみを除いてくれるように回向を頼みなさい。」 目連尊者はお釈迦様のおっしゃるとおりにいたしました。この結果、目連尊者のお母さんは救われ、安楽の世界(極楽浄土)に行くことができたのです。この物語がお盆の起源となっています。このことから、お盆は亡くなった人やご先祖様の精霊供養をする行事となったのです。また、敬うべき年長者のことを生身魂(いきみたま)といい、故人の霊を供養するばかりでなく生きている目上の人に対しても長寿の祝い物を贈るなど礼を尽くすという風習もあります。このお盆には、ご先祖様のご供養とともに目上の方にも日頃の感謝の気持ち伝えてみてはいかがでしょうか。 
 

 

■『一遍聖絵』と踊り念仏
時宗の宗祖である一遍上人の伝記絵巻として『一遍聖絵』があります。その中で描かれている踊り念仏についてお話しします。踊り念仏は信州佐久の伴野(ともの)で、なかば自然発生的に始まりました。次いで佐久の大井太郎の屋敷。多くの人々が屋敷の濡れ縁を回って踊りながら念仏をとなえ、忘我の境地のあまり縁側の板敷を踏み抜いたあげく、引き上げていく一行の姿が描かれています。やがて踊り屋、つまり舞台が設けられるようになりましたが、これは明らかに組み立て式です。遊行の旅先で木材を借りたのでしょうか。踊り跳ねる足で板を踏むどんどんという音が鉦(かね)の音とマッチして音響効果を高めたのでしょう。このような踊り屋をしつらえない場合でも、土の上に板だけは敷いています。
一遍上人が当時の都である鎌倉へ入ろうとして追い払われた後、江の島の片瀬の浜の地蔵堂に行き、そこで踊り念仏を行ったのです。それを見物するために多くの人々が雲集したと書かれています。そこで一遍上人は集まった人々に念仏札を賦(くば)ったことでしょう。この時の『一遍聖絵』に描かれている絵が「踊り屋」と呼ばれる舞台です。それと同時に観客と踊る僧尼がはっきりと分かれています。
このように『一遍聖絵』にも描かれている踊り念仏を真光寺でも9月16日の宗祖御祥忌の時に一遍上人の御廟所(雨天時本堂)にて修行いたします。当日は法話もございます。参拝自由でございますのでぜひお参りください。

■歳末別時念仏会
日増しに秋の深まりを感じる季節となりましたが、皆様もお変わりなくお過ごしでしょうか。今回は、少し早いですが12月にございます『歳末別時念仏会』についてお話したいと思います。まず、今まで真光寺では12月7日(大雪)18時より厳修致しておりましたが、12月8日(成道会(じょうどうえ)・お釈迦様のお悟りの日)18時に変更いたしましたことをご報告いたします。この兵庫の地で厳修する『歳末別時念仏会』では各菩提寺の住職より阿号(あごう)・弌号(いちごう)を授かった檀信徒が「報土入り」をされます。「報土入り」の方々は、浄(じょう)衣(え)に身を包み荘厳(そうごん)で独特な音調の別時念仏が本堂内に響く中、僧(そう)尼(に)と共に礼拝(らいはい)行(ぎょう)を勤めていきます。参加された方々からは、非常に有難い体験だったと喜ばれています。
一、「二河白道の図」
一遍上人は三十三歳の時、信濃の善光寺にお籠(こも)りをして、唐の善導大師の説いた「二河白道(にがびゃくどう)の図」を感得して自ら描き、それを本尊にしました。右側に描かれている仏さまはお釈迦様、左側が阿弥陀様です。お釈迦様のおられる右側がこの世、左側は阿弥陀様のおられる極楽浄土を表わしています。両方の仏さまの足元に白い筋が一本通っています。これが白道です。二河というのは白道をはさんだ二つの河、左側は炎の河、右側が水の河が描かれています。この二つの河は貪(むさぼ)り・怒(いか)りといった人間の欲望を表わしています。その細く白い道をお釈迦様の「ためらわずその道を行きなさい」という声に送られ、阿弥陀様の「心配ないからこっちへ渡って来なさい」という迎えの声に励まされて、白道を渡り、そして極楽浄土に往生するという様子が描かれています。
二、「報土入り」
歳末別時念仏会(さいまつべつじねんぶつえ)は「不断念仏」ともいわれるもので浄土教では古くから行なわれています。期日を定めてその間、念仏三昧に入るので別時念仏会といわれています。歳末別時念仏は時宗宗祖一遍上人の時代から重要な修行として今日まで続いているのです。年の暮をむかえ人生の無常を体感して、極楽浄土への往生を願った修行です。本堂内を二河白道図のようにしつらえて、報土(ほうど)(極楽浄土)と穢土(えど)(この世)とに区画しています。「報土入り」を希望した人たちが次々に交代して現世から極楽浄土へ参入し、浄土内に坐している導師(どうし)から十(じゅう)念(ねん)を授(さず)かり極楽往生を成しとげるという行事です。ふたたび現世に立ちかえって衆生済度に奉仕する。というのがこの報土入りの中心です。
三、「一ツ火」
続いて一ツ火(ひとつび)の式が行なわれます。本堂の灯火をすべて消して暗やみにします。お釈迦様の死後、遠くへだたった末法(まっぽう)の時代はお釈迦様の教えも滅(めっ)すると経典(きょうてん)に書かれています。暗やみはその末法の教えの灯の消えた様子を現しているのです。その闇の中で、火打(ひうち)石(いし)で新たに火を切り出すのです。その火を堂内の諸灯(しょとう)に点火します。これはふたたび明るい世界によみがえる様子を表しています。末法の世に諸々の教えが滅びても、お念仏の教えはますます盛んになると教えるのです。

■除夜の鐘について
行く年を惜しみながらも、新しい年に希望を馳せるこの頃。本年も大変お世話になり感謝申し上げます。回は、除夜の鐘についてお話をしたいと思います。まず除夜とは、1年の最後の夜=大晦日(おおみそか)の夜のことで、一年を除くという意味があります。先祖を祀り家族が一年間無事に過ごせたことに対して感謝し、夜を通して人々が過ぎゆく年を惜しみこの夜を過ごすと昔の本には記しています。その夜に年をまたいで、寺院の梵鐘を撞(つ)くのが除夜の鐘です。一般的に108回撞きます。
08回という数字は、眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)の六根に、好(こう:よい)悪(あく:悪い)平(へい:どうでもよい)の3つがあって18となり、またそれぞれに浄(じょう:綺麗)染(せん:きたない)の2つで36になり、それが三世(前世・今世・来世)のそれぞれにあり全部で108となります。それが人間の煩悩の数と言われています。また一年を表す数字(月:12、二十四節:24、七十二候:72の合計で108)や四苦八苦(4×9+8×9=108)を取り払うという説もあるようです。煩悩の数が108、多く感じる方も少なく感じる方人それぞれいらっしゃるでしょう。
元々、煩悩とは仏教の教義の一つでありサンスクリット語でクレーシャ(क्लेश, kleśa)といい、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を意味します。煩悩の根本には、三毒【貪欲(とんよく)貪り求める心、瞋恚(しんに)怒り・憎しみの心、愚癡(ぐち)真理に対する無知の心】があります。煩悩=欲と思われがちですが、欲は人が生きていく上でのエネルギーとなるところもあるので、その欲が煩悩(三毒)に囚われ、執着することや、怒りや憎しみ、無知であることで自分や他人を傷つけてしまうことが良くないことだと思うのです。この一年、自分の欲が三毒に囚われていなかったかと自分自身と向き合い、除夜の鐘を聞くとより心が洗われ、清らかな心で新しい年を迎えられるのではないでしょうか。も、12月31日(土)除夜の鐘を撞きます。

■四万六千日
不安定な天候が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。さて、今回のお話は『四万六千日』でございます。四万六千日といえば、東京の浅草寺や芝の愛宕神社のとくに有名です。観音さまのご縁日は「毎月18日」ですが、これとは別に室町時代以降に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。この「功徳日(くどくび)」に参詣すればいつもの日に増して御利益(=功徳)があり、中でも7月10日は、四万六千日分のお参りと同じ大きな功徳がいただけるお得な日です。「四万六千」という数ですが、一説には「一升枡に入る米粒の数=46,000粒」が由来だといわれています。一生(=一升)分の御利益がいただけるというわけですね。四万六千日は約126年なので、たしかに一生分の大変な御利益があるといえそうです。関西では千日参りの京都の清水寺(きよみずでら)(8月9〜16日)や大阪の四天王寺(8月9、10日)など同じような功徳があるようです。真光寺では、7月9日に一遍会・観音講として観音様のご供養を致します。またこの近くの薬仙寺でも8月に四万六千日詣りがございます。皆さんもお近くの観音様の功徳日にお参りしてみては如何でしょうか。

■涅槃会〜お釈迦さまのはなくそ〜
新しき年を迎え、気が付けばもう早2月となっておりますが皆様におかれましてはご健勝の程お慶び申し上げます。さて、真光寺では本年も2月15日にお釈迦様を偲び「釈尊涅槃会」を厳修致します。以前、お釈迦様の御入滅にちなみ一遍上人の臨終についてお話いたしましたが、今回は『お釈迦様のはなくそ』についてお話いたします。名前にびっくりされると思いますが、仏様のお供え物のことを『花供御(はなくご)』というのですが、それが転じて『お釈迦様のはなくそ』になったといわれています。本来はお正月にお供えした鏡餅を小さく切り、あられにした物に味を付けたものでした。大涅槃図で有名な京都の真如堂の涅槃会では「田丸弥の花供曽」をお供えしているようです。真光寺ではこの地域のお菓子であり、どことなくお釈迦様のはなくそという言葉のイメージにも近い丸い形で素朴な味の鶯ボールをお供えしています。このはなくそを食べるとこの一年無病息災で過ごせるといわれております。お釈迦様からのお下がりを頂戴し、皆様もこの一年、無病息災でお過ごしください。 
 

 

■地蔵盆
最初に、毎年、8月23日夕刻に行っております地蔵盆でございますが、今年は台風接近に伴う暴風雨が予想される為、真光寺での地蔵盆は8月24日(金)の午前10時より観音堂にて行う事に致しましたのでお知らせいたします。お子様への粗供養(お菓子)も24日でございますので、ご了承ください。今回は、地蔵盆についてお話いたします。お地蔵様は、子どもの守り佛として古くから信仰されていた地蔵菩薩です。この地蔵菩薩はお釈迦様が入滅してから未来仏の弥勒菩薩がこの世に現れるまで、人間界のみにあらず地獄・飢餓・畜生・修羅・人・天といった六道すべてにおもむき、人々を救済しました。平安時代以降に阿弥陀信仰と結びつき、地蔵信仰が民間に広がり、道祖神と同じように村を守る役割も果たすようになります。そして、地獄の鬼から子供を救うとして子供の守護神ともなり、現在にいたっています。基本的に地蔵盆は、8月は23、24日の地蔵菩薩の縁日を中心に行われます。しかし、準備する親や地域の方たちの都合によってこの日の前後の土曜日から日曜日にかけて行われるところもあります。また最近では、子どもが少なくなり2日を1日だけに短縮する場合もあります。
地蔵盆の主役は、子どもたちです。地蔵盆発祥の京都では、各町内ごと地蔵尊の前に屋台を組んで花や餅などの供物をそなえ、お菓子を食べながらゲームなどの遊び、福引きなどが行われているようです。大阪では地蔵盆には地車がでたり、神戸では子どもたちがお地蔵さんめぐりをして、町内の人からお菓子を頂いたりします。真光寺のあるこの神戸では、8月23日に各家庭の子どもの名前が入った提灯を吊ってもらい、子どもがお菓子を貰いに回ります。場所によってはその提灯の下で盆踊りを行うところもあります。真光寺では檀家の皆様や地域の皆様より御供のご協力を得て、地域の大勢の子供たちにお菓子配りを行っています。こうして地蔵盆が終わると、夏休みも残り1週間余りになります。子どもたちにとって夏休み最大にして最後のイベントが終わります。その頃には、あんなにうるさかった蝉の声はいつのまにか聞こえなくなり、空には入道雲から秋の雲に変わりつつ、夏の終わりの寂しさだけが残ります。しのびよる少子化問題、習慣も時代と共に変わりつつありますが、失われつつある地域社会の行事を守っていくためにもこの「地蔵盆」も大切に受け継がれていってほしいものです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
吟龍院圓福寺・法話

 

開基〜明治時代
そもそも慶陽山圓福寺は島根県八束郡乃木村にあり、その開基については詳らかではないが、太古は法相宗、中古は真言宗の寺であった。後に平家開運の祈願所として信仰され、朱雀天皇の御宇に平将軍貞盛卿の守護仏であった毘沙門天(これは弘法大師一刀三礼の御作と伝えられる)を圓福寺の本尊として奉祀されて以来、平家一門並みにその残党の菩提寺となった。天慶三年猿島郡岩井郷で敗死した平将門の遺体は神田山日輪寺に葬られたが、鎌倉時代末期(将門死後三六〇年)遊行二祖他阿真教上人が日輪寺に於て将門の供養をし蓮阿弥陀仏の法号を贈られたことが縁で、平家残党の菩提寺だった圓福寺は時宗に改められた。爾来七百有余年の間、道俗の信仰を集めてきたが、天保十三年に火災に会い堂宇は悉く消失した。幸いにして厄災を免れた毘沙門天は、その後仮本堂に奉祀され、明治年間に至っては軍神乃木大将の尊信篤く、日清日露の両戦役に際し、親しく武運長久の祈願をされたと伝えられている。  
住職のお話

 

 
 

 

■お彼岸の迎え方
お彼岸を迎えるには次のような準備をします
お仏壇、仏具の掃除 / お墓の掃除 / やお供え  果物・菓子などの他、お仏壇には精進料理をお供えするのも良いでしょう。 / お墓参りするときは事前にお寺に卒塔婆をお願いしておきましょう (宗派によっては不用のところもありますが・・・・・)。
「おはぎ」と「ぼたもち」の違いって?
岸と聞いて思い出す物の一つに「おはぎ」、「ぼたもち」があります。もともとは小豆の赤い色が災難から身を守り邪気を払うといわれ、お供えをするようになったそうです。 さて、「おはぎ」と「ぼたもち」どう違うのでしょう?漢字で書くと「御萩」と「牡丹餅」。秋に咲く花「萩」、春に咲く花「牡丹」と、花の名前がついています。秋のお彼岸に食べるのが「おはぎ」、春のお彼岸に食べるのが「ぼたもち」と言われているんです。「おはぎ」は、「萩の花」「萩の餅」などと言っていたものを丁寧な「お」をつけて「御萩(おはぎ)」と呼ばれるようになりました。ぼたもちも「ぼたんもち」から変化したようです。 また、萩の花は小さい花がたくさんついていて、つぶつぶのように見えます。ですから、粒あんのものが「おはぎ」、こしあんのものが「ぼたもち」とも言われています。実際、小豆の収穫時期が秋ですので、とれたての小豆は柔らかく皮も一緒に食べられることから、秋はつぶあんで、春は冬を越した小豆の皮は硬いので、皮を取り除いたこしあんになるそうです。

■年末のご挨拶
平成二十二年も間もなく終わろうとしております。皆様におかれましてはどのような一年だったでしょうか?今年も檀信徒の皆様方との悲しいお別れがございました。また逆に新しい命の誕生や出会いにより深いご縁もいただきました。決して人の手でくい止めることの出来ない別れと出会いをあらためて痛感し、繰り返す永遠の御霊を目の当たりにした一年でした。喜びが多かった方は・・・喜びの余韻を楽しむと共に、新しい幕開けに備え、悲しみ苦しみが多かった方は・・・これからの人の優しさに感謝出来ることと思います。良くも悪しくも、絶え間ないご縁により、この一年分皆様は成長させられたのでしょう。多いに笑って、泣きたい時は泣きはらし、逞しく生きていくお智恵を仏様よりいただいたのですね。この私も、皆様に助けられ、支えられた一年でした。一年分の感謝を持って御礼申し上げます。誠に有り難うございました。そして明年も変わらぬお付き合いの程、伏して宜しくお願い申し上げ、年末のごあいさつとさせて頂きます。

■お彼岸を迎えて
一年中で最も快適な季節に営まれるお彼岸は、日本独特の仏教行事です。この彼岸の行事は、一説によりますと聖徳太子が大阪の天王寺で始めたと云いますが、平安時代にはすでに年中行事になっていたようです。彼岸会は、昼夜の時間を同じくする春と秋の二分の日を「中日」として、前後三日間の七日間、主として一般の人々が仏道を修する縁をもつための期間です。『彼岸一日の善根は、他日の100日の善根に勝れ、彼岸七日の善根は、700日の善根に匹敵する』とも云われ、仏教行事としては、お盆や施餓鬼と同様に最も人々に親しまれています。
彼岸」とは、インドの古語(波羅蜜多)を訳したもので、「向こう岸に渡る」とか「正しい知恵」という意味です。向こう岸は仏様の世界であり、真実の世界を表しています。こちらの岸は、私たちが生きている世界です。こちらの岸と向こう岸の間には、大きな河があります。この河には、とうとうと水が流れていて、渡ろうとする人々を煩悩という大きな力で押し流してしまうのです。私たちが、明るく・正しく・穏やかな真実の世界を望んでいながら、つい煩悩という強い水流に押し流されてしまい………、この迷いの世界から一歩も抜け出せずにいる………、これが現実です。その、彼岸に渡るための六つの行いとは………。(布施行)(持戒行)(忍辱)(精進)(禅定)(智慧)いう行いです。御本尊をはじめ、御先祖さまに香花などを供え、その御照覧のもとで、もろもろの徳を積んでいく………、それが彼岸の本来の姿です。

■心を養う
来月は秋のお彼岸です。彼岸というのはご先祖を思うということです。今日ご先祖を忘れるということは、自分自身が子孫から、子供や孫から忘れられるということと同じです。子供から見れば、自分が一番身近な先祖なのです。いい換えれば、お父さんが死んだら、お母さんが死んだら、こうしてあなた方も思い出してくださいよ、という道を自分の身をもって、子供に残している姿なのです。数十年前までは、本家より分家するときは必ず仏壇と神棚を持って分家するのが常識という日本人の歴史がありました。ご先祖の心、家の歴史を分かち与えるところに分家本来の意味があったのです。それが途絶えてしまっている現在、この習慣を急いで復活する意義は大きいと思います。
仏壇がなければ一枚の仏像写真でも結構です。身近な先祖の写真でもいいから飾ってお線香を上げるのです。線香って臭くていやという人は、安価な物を使っているからではないでしょうか・・・。沈香の入った上等のものはアロマセラピーにも使われるくらいです。 そして、お茶やお水を上げてください。コーヒーでもココアでもよいでしょう。それをあげて「おはようございます」「いってまいります」「ただいま」「おやすみなさい」と、親がすれば子供も必ずまねて手を合わすようになります。戦後日本の繁栄と豊かさの中で、どうも物的な面にはあらゆる創意と工夫を働かせますが、心の養いをなにも考えようとしてこなかった。ここに日本人のひとつの大きな不幸があるのではないでしょうか。楽して得とることばかり考えていたのが最近の日本人と思えてしかたありません。けれども最小の効果のために最大の努力を惜しまない。そういう人間精神の大切さというものを、私たちは仏さんから教わってきました。それを改めて見直す良い機会として、このお彼岸をお迎えください。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
佛光山荘厳寺・法話

 

荘厳寺の創立
時宗荘厳寺は、応永12年(1405)遊行11代自空上人の弟子義縁和尚の創建です。かつては、高辻の北側・油小路堀川の間・東西72間・南北45間半(明治初年以来の明細書)あり、高辻道場佛光山荘厳寺と呼びました。同時に法性寺中将親信を始め、諸人の寄進により数多くの寺領を有していました。年5月兵火にかかり焼失。文明年間に再建されますが、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により現在地に移り、西院に御朱印高二石を領しました。その後、次第に衰退荒廃甚だしくなり、一時は無住のような状態になりました。然るところ、明暦元年(1655)遊行39代上人がこの地に遊行された折りに、圭堂和尚が当寺の第18代住職を拝命し、努力精進を重ねて一宇を建立して中興し、次いで第19代證堂和尚が更に整備に力を注いで漸く寺院の基礎が確立しました。しかし、天明8年・天保11年・安政5年・元治元年、度重なる火災により古記録を失いました。明治3年以降、滋賀県某郷士から譲り受けた家を庫裡とし、滋賀県某宮家から譲り受けた御殿を本堂に再建し、整備復興を重ね、現在に至ります。  
住職のお話

 

 
 

 

■宗祖一遍上人
時宗の宗祖一遍上人のご先祖は、第7代孝霊天皇第二皇子伊豫親王といわれ、父は伊豫の領主河野通廣です。一遍上人は延應元年(1239)2月15日に生誕せられました。10歳にして母を失い、父の命により出家されます。隨縁と名を改め、13歳にして聖達上人の弟子となり、更に華臺上人(聖達上人の法兄)の許にて名を智眞と改め浄土宗西山派の奥義を究められました。25歳にして父を失い一旦故郷に帰られます。それから8年間の記録はありません。おそらく武門の河野家に於いて、俗人の生活をせられたものと思われます。ある日、子供たちがコマ遊びをしていた時、コマが落ちて止まったのをご覧になって、われわれが六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。6つの迷いの世界)をぐるぐる廻っているのと同じで、コマが止まったように六道輪廻から早く抜け出さねばならぬと悟られて、33歳にして再び聖達上人の許に戻って勉強されました。文永8年(1271)春、信濃善光寺に詣で、善導大師の描かれた二河白道の図を写し、同年秋、愛媛県窪寺の草庵にてこれを掲げて本尊とし、「水火の二河はわれらの心であり、中の白道は南無阿弥陀佛で、二河にも犯されないのは名號(みょうごう)である。名號の他にわれらの救われる道はない」と名號の真意を悟られ、更に岩屋観音の岩窟に籠って念仏三昧の修業の結果、衆生に名號念佛を勧めるため、野に伏し山を越えての念佛勧進の遊行の旅が始まったのです。時に文永11年(1274)2月8日のこと。最初は超一・超二・念佛房の3人を随伴せられていたが、次第にお弟子になる人が増えて行きました。上人はこれらの人々を時衆(じしゅう)と呼ばれていました。
九州から大阪へ廻られたとき、四天王寺で初めて「南無阿弥陀佛」のお礼の札を配られました。これを賦算(ふさん)といいます。続いて高野山を経て熊野に詣でられ、同じように賦算をされた折に、律宗の僧に「信心をおこして名號を称えてこの算(ふだ)を受け給え」と算を差し出されました。しかし僧は「只今信心がおこりません、それに受けたならば嘘になります」といって受けられませんでした。上人は止むを得ず「信心おこらなくても受け給え」と、その場は一応おさまりましたが、この信・不信の大難題解決を祈って熊野證誠殿に百ケ日参籠(さんろう)されました。その満願の暁に、権現のお告げを受けられるのです。「あなたが勤めるから衆生が往生するのではない。阿弥陀佛が遠い昔に佛の位に就かれた時に一切衆生の往生は南無阿弥陀佛と決定しているのである。従って信ずる・信ぜない・清らかな心・汚れた心、そんなことは問題ではない。ただその算をくばって念佛を勤めよ」と。ここで初めて絶対他力の名號の真意を体得せられたのです。
これを高祖成道といい、その後の賦算を「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」とし、自らを一遍と改められました。
これより名実共に捨聖(すてひじり)としての念佛勧進の遊行(人呼んで遊行上人)が始まり、その足跡は東北より九州に至るまで概ね全国にわたり、衣食住を全て庶民の供養に任せ、ひたすら念佛遊行を事とし、その間16年、兵庫観音堂(現在真光寺)にて示寂されました。51歳でした。病が重くなった時、「私の化導は私一代限りですよ。お釈迦様の説かれた教えは南無阿弥陀佛に尽きている」と仰って、ご所持の経典も記録類も一切、お念佛を称えながら焼き捨てられました。かくの如く一遍上人の「わが化導は一代限り」との仰せを守って門人達は念佛勧進の遊行を打ち切り、丹生(とう)の山に入って念佛に専念されていましたが、麓の領主の再三の懇請により、賦算せられたのを機縁として、二祖他阿弥陀佛を知識として遊行が続けられることとなり、今に至っています。宗祖上人は遊行の旅に終始し、寺を持たれることはなかったのですが、四祖呑海上人が、遊行を五祖に譲って自らは藤澤清浄光寺(現在本山)を開創して初代となられました。遊行上人のおられる寺というので、通称遊行寺と呼ばれています。

■時宗という宗名
一遍上人はただお念佛のみが根本で、その助業として阿弥陀経・六時礼讃等を勤めることを日課とせられました。六時礼讃とは、晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の6つの時に各時の礼讃を、節をつけて読誦するものです。礼讃とは、お念佛に関連したものを七言・五言で以て讃嘆する文のことをいいます。夜6時に阿弥陀佛を拝し、西方往生を歓ぶ集団を時衆と呼びました。その時衆が他の宗名と同様に時宗というようになったのは第14祖太空上人の時(1430年前後)からです。の如く一遍上人時宗独自の勤行は念佛勤行に尽きるわけですが、当初のお師匠が浄土宗西山派聖達上人であったために、これも併せ修せられた関係上、現在に於いては西山派に準じた勤行を勤めています。

■遊行上人のお姿
遊行上人とは一遍上人のことであると共に、総本山遊行寺の歴代住職のことも示します。遊行上人は以下のような特殊なお姿をされています。
1.頭巾・法衣・袈裟・白衣・足袋まですべて鼠色を着用されているのは、遊行のため衣の黒は色褪せ、白は汚れて鼠色となったもので、これを遊行鼠といいます。
2.お頭巾は皇族の頭巾であり、皇族ご出身の12代上人が着用されたのに始まります。
3.ご賦算箱を前に掛けておられます。
4.蕾の持蓮華(蓮華のように清浄なる念佛の行者であることを表わす)を持っていられます。
5.髭を剃られないのは、皇族出身の12代上人のお顔に剃刀をあてるのを畏れ多く思ったからであります。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
当麻山無量光寺・法話

 

縁起
当寺をひらいたのは、「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍上人さまです。弘長元年(1261)秋もなかばのこと、一遍上人(当時23歳)は諸国遊行の旅の途中、依知の里の薬師堂(現在の瑠璃光寺〈神奈川県厚木市上依知 当寺から相模川をはさんで西南方面にある〉)に一夜の宿をとり、夜もすがら一心に念佛を唱えていました。すると真夜中頃東の空が急に光り輝き、妙見菩薩が姿を現され、「あなたのおいでになるのを長い間待っていた。この山はあなたに宿縁のある山である。この山で修行すれば念佛の功徳は四海に及ぶであろう。ゆめゆめ疑うことなかれ」と告げられ紫雲の中に消えたのです。上人はこの有り難いお告げに感激し、夜の明けるのも待ちきれず、相模川を渡り、東北方の大樹の茂る亀形の丘に登ってみると、そこに妙見菩薩の小さなほこらを発見しました。上人はここに草庵(粗末な住まい)を結び金光院と名付け、修行に励まれましたが、弘長3年(1263)、父河野通廣公死去の悲報を受け、故郷の伊予(現在の愛媛県)に向け旅立たれました。その後、文永7年(1270)上人が32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の時に、奥州遊行の帰路、当山にとどまり修行をされたと伝えられています。弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれることになりました。このとき名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成されました。これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置され、多くの人々を信仰の道に導かれているのです。
真教上人と無量光寺の建立
一遍上人からお寺を引き継ぎ、基礎をつくったのは真教上人さまです。真教上人は一遍上人が九州地方を遊行されていた時、上人の信仰の深さに心打たれ、一遍上人に帰依されました。それより終始一遍上人と遊行をともにされ、一遍上人の信頼も厚かったといわれます。宗祖・一遍上人が臨終の際にはそれに殉じようとされましたが、衆徒に乞われて宗祖の教義を継がれ、嘉元元年2月(1303)、老衰と病弱のため遊行を智得上人にゆだねて、宗祖ゆかりの地当麻に帰り、その翌年、ここに一宇(建物)を建立しました。無量光佛(阿弥陀如来の別名)の由来からその名を「無量光寺」と名付け、宗祖の分骨を埋骨して時宗教団の本拠地とし、念佛の根本道場として守り続けられたのです。真教上人は文保3年(1319)1月27日示寂される(亡くなる)までの16年間当山にあって、衆徒の教化に努められました。その後の当麻山は後北条氏の外護を受け、天正19年(1591)には徳川家康より30石の寺領を寄付され寺門は大いに繁栄したそうです。しかし天文年間には北条、上杉の戦の折に伽藍が焼失し、天正年間(1573〜1593)、元和年間(1615〜1623)にはともに火災にあいました。安永2年(1773)の火災においては絵詞伝8巻を始め、貴重な寺宝が多数焼失してしまいます。その後再建された堂宇も明治26年には全焼し、現在、旧本堂跡は空き地となっており、一遍上人の銅像がそこに建っています。  
住職のお話

 

 
 

 

■開祖一遍上人
この当麻山を開山し、時宗の開祖として崇められている一遍上人は、延応元年(1239)2月15日、伊予の名門武士であった河野家、通廣公の次男として生まれました。幼名を松寿丸といい、幼くして母を亡くしてしまいますが、父のすすめにより7歳にして同国越智郡の得智山に登り、縁教律師を師として仕え、修行にはげみました。そして15歳のとき、同師について剃髪し、名を随縁と改め、台教(天台宗の教え)を学びます。18歳のとき、比叡山(延暦寺)に登り慈眼僧正の室に入り、三大部及び密灌をうけます。22歳のとき、兄通真の死去により、家督相続の争いに巻き込まれ、ますます発心を強くし叡山を出、修行の旅に出ます。26歳のとき、深く浄土門に帰し、法然上人の弟子として知られた観智上人のもとに赴き7年間修行し、浄土の安心を伝授され名を智真と改めます。建治元年(1275)、37歳のとき宇佐八幡宮にて参籠の後霊夢を感じ、回国結願の大願を起こし、南無阿弥陀佛の名号の算(ふだ)を作り人々に配り諸国を遊行するになります。建治2年3月25日、(当時、もっとも阿弥陀の浄土に近い場所とされていた)紀伊国熊野本宮の證誠殿において、百日参籠につとめます。その満願の日、まのあたり熊野権現にまみえ本願の深意、他力の奥旨を悟ります。この時より一遍と名乗り、《賦算(名号のお札をくばる)を続ける》旅に出ます。弘安2年(1279)、41歳の時、信州佐久郡で踊り念佛を始めます。その後、正応2年(1289)8月23日、摂津国(兵庫)の観音堂で51年の生涯を終えられます。南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行し、身命を尽くされた一遍上人は法然上人、親鸞聖人と並び日本浄土教を確立された名僧として称えられています。

■南無阿弥陀佛 〜 一遍上人法語 〜
夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。「むかし、空也上人へ、ある人、『念仏はいかがもうすべきや』と問ひければ、『捨てゝこそ』とばかりにて、なにとも仰せられず」と、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくのごとく愚老の申す事も意得にくゝ候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏したまふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏
【現代語訳】 念仏の行者で一番心に留めておくべきことは、南無阿弥陀仏ととなえるほかに何もないのである。昔から今日まで立派な人たちが定められた仏法の要義も、しょせんはかりそめのもので、真の念仏の行者は、そんなものは皆捨ててしまえばいいのである。わたしの先達である空也上人も、ただひとこと、捨てることだ、と言われたとある。これはまったく黄金のような言葉である。念仏の行者は、知恵も愚痴も、善悪の境地も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れたり、極楽を願うたりする心も、悟りも、すべて捨てて申す念仏というものが、阿弥陀仏の本願に一番かのうものである。この心を心として声高らかに称名すれば、この世が浄土である。宇宙すべてのものは仏と一体になり、念仏をとなえているのである。もしわたしの言うことに納得いかないなら、それもそのままにして念仏を申しなさい。肝心なことは、愚かな者の心になって念仏を申すことである。 
 

 

 
円龍山向福寺

 

神奈川県鎌倉市材木座
1282年(弘安五年)創建
開山: 一向俊聖上人
本尊: 阿弥陀三尊(木造南北朝作)
一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を修しました。一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により時宗に統合されました。
時宗とは
宗祖: 一遍上人(1239〜1289)
開宗: 鎌倉時代 1274年
本山: 清浄光寺(遊行寺) 神奈川県藤沢市
本尊: 阿弥陀如来
唱える言葉:南無阿弥陀仏
教義:「南無阿弥陀仏」とお唱えする只今のお念仏が一番大切なことです。家業に努め、励み、睦み合って只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく生かされて、明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道は、そこに開かれるとする教えです。
一遍上人について
一遍上人は、延応元年(1239年)伊予国(愛媛)の豪族河野通広の次子として生まれました。10歳で出家し、天台学・浄土学等を学びました。25歳の時、父の死をきっかけに帰郷し、一度は俗人として生活をしていました。しかし、32歳で再び出家し、信濃(長野)善光寺にて「二河白道の図」を写し、伊予国に持ち帰りこれを本尊として修行しました。文永十一年(1274年)摂津国(大阪)の四天王寺や高野山など各地を遊行(布教や修行の旅)しながら六字名号(南無阿弥陀仏)の書かれた念仏札を配りました。そして、すべての衆生に念仏札をくばるため、西は鹿児島、北は岩手までほとんど日本国中を遊行して歩かれました。 
材木座の住宅街の中に時宗の寺院、向福寺があります。バス通りから本堂は見えず、家と家の間を入った少し奥まった場所が境内となっています。境内には庫裏と本堂、墓苑があるのみで小さなお寺です。
山門は無く、「時宗 向福寺」と刻まれた石碑とその上を覆う大きな桜の木がお寺の入り口の目印です。海街の民家といった雰囲気を醸し出している本堂は赤い屋根が印象的で、どことなく昭和の香りを漂わせています。参拝者が来るとお寺の方が本堂の扉を全開にして、ご本尊の阿弥陀三尊が見えるようにしてくれます。安阿弥(あんあみ)作といわれる阿弥陀三尊は南北朝時代の作で、左脇侍の観音菩薩は鎌倉三十三観音の十五番札所となっています。本堂の軒下にはお守りなどが並べられ、こちらで授与できます。墓苑の入り口には二体の石仏のお地蔵さま。一体は半跏趺坐のお地蔵さまで、もう一体は3回地獄に亡者を連れ戻しに行ったと伝わる「袖引き地蔵」と呼ばれるお地蔵さまです。
弘安5年(1282年)に一向俊聖(いっこうしゅんしょう)上人によって創建された向福寺ですが、1923年に起きた関東大震災の大津波で甚大な被害を受けており、その際に寺史に関する史料を紛失しています。鎌倉を流れる滑川を逆流して津波が押し寄せ、材木座のこのあたりの地域は被害が大きかったと言われています。
鎌倉向福寺は弘安五年(1282年)に、一向宗の開祖である一向俊聖上人によって開山されました。一向俊聖上人は時宗の開祖一遍上人と同じように、踊念仏で不況を行っていましたが、江戸時代に幕府が一向宗と時宗を統合したために、藤沢市の遊行寺の末寺となりました。
本尊は南北朝時代に作られた木造阿弥陀三尊像になります。像には衣文が深く刻み込まれ美しさを現代に伝えています。創建当初にあった伽藍は被災し江戸時代末には本堂と表門が再建されましたが、関東大震災で全壊してしまいました。現在の本堂は昭和5年に再建されたものになります。
向福寺の本堂南側には関東大震災前には「丹下左膳」を執筆した林不忘(長谷川海太郎)が妻の和子と新婚生活を送った場所です。林不忘は結婚翌年、中央公論社の特派員としてヨーロッパ14か国に滞在しましたが、帰国後は材木座に戻り過ごしたそうです。向福寺は小さいながら、ひそやかな幸せを感じさせるお寺で小説家が新婚生活を過ごすのに選んだと言われて納得する佇まいでした。
 

 

 
西台山英月院光照寺

 

神奈川県鎌倉市山ノ内
正式名称 西台山英月院光照寺(せいたいさん えいげついん こうしょうじ)
通称    シャクナゲ寺・一遍上人法難霊場
宗派    時宗(じしゅう) (開祖:一遍上人、本山:遊行寺)
寺格    遊行寺末寺
本尊    阿弥陀如来
光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあったそうです。鎌 倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をし、翌 日江ノ島に至り、そこで踊念仏を修したと伝えられています。その際に野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、一遍上人法難霊場となっております。
江戸時代には一遍上人の“信じる事ができない者さえ阿弥陀如来はお救いくださる”との信念により、鎌倉周辺の切支丹を光照寺檀徒として匿ってきました。 40年近く前、切支丹の研究家でもあらせられたルメ神父の調査を受け、切支丹が寄進した燭台やクルス紋を確認していかれました。ルメ神父は江戸時代の 切支丹が書き残した文書の中に鎌倉郡光照寺の名が残っていたと教えてくださいました。
一遍上人法難
一遍上人の法難とは鎌倉に入ろうとして排除された弘安五年(1282年)三月一日の事件の事を指します。(一遍聖絵)  この日はちょうど執権北条時宗が山ノ内の邸へ行く事になっていて、その為に通り道である小袋坂(現在の巨福坂)では、みずぼらしい姿のもの達が追い出されていました。 この時代、鎌倉幕府は『夜討・強盗・山賊・海賊』を企てるものを“悪党”と名付けると共に道路を占拠する乞食などの定まった住所を持たない者も一緒くたにして好ましからざる者としていました。
そこへ何も知らない一遍上人と時衆達が小袋坂の木戸(関所)を通り抜けようとした為、警護の武士に行く手を阻まれて一遍上人が杖で二回ほど叩かれ、一遍上人の一行(時衆)が追い返されたのです。実際時衆は一遍聖絵に書かれた姿を見るとわかりますが、大変粗末なぼろぼろの衣を纏い、みずぼらしい姿であったので先に上げた好ましからざる者として見られ、追い出されたのだと思われます。この時どれほどみずぼらしい姿であったかを連想させる着物が遊行寺宝物館に残されています。小袋坂の木戸があったのは現在の北鎌倉駅前のあたりだと言われています。もちろん今の道路等を見てもとても納得は行かないでしょうがかつての小袋坂は陸軍が道路を通す際に切り通しを爆破したりして標高を下げたり拡幅してしまいましたし、戦後も道路の拡幅工事が行われましたので知らない人が多い現在では想像するのも大変です。しかし、昭和30年代の古い北鎌倉の写真を見ますと北鎌倉駅前から鎌倉方面は道幅が狭く、巨木が覆いかぶさるような緑のトンネルであった事が伺えますし、もっと古い写真では確かに駅前に木戸が写っているものもあります。
一遍上人は鎌倉入りして布教する事が大切と考えていたようでかなり抵抗したようですが警護の武士から、鎌倉の外は御制の限りにあらずと諭され、鎌倉の境のすぐ外側に野宿し、翌日片瀬へと移動して行ったのです。その時、一遍上人達が野宿した地に寺が建立され、光照寺となりました。光照寺には鎌倉時代の五輪等が残され、また、鎌倉時代の年号である正中二年の安山岩製の板碑が残る等何かしらお寺があった事を伺わせるものが残っています。お寺のお堂のようなものがなければ野宿も辛く大変なものであったでしょうから、推測の域はでないものの、野宿した当時既に建物があったと考えられます。また、一遍聖絵の中でも東に山があり、小高い丘の上で野宿したとある事からしてもぴったりです。光照寺は小高い丘の上にあり、光照寺の前の道を辿ってかつて山崎にあった切り通しを抜けて深沢を経て片瀬へと歩かれたのは間違いない事でしょう。この山崎の切り通しはやはり昭和30年代の古い写真が残っていますが、秘境の感すらあり、その頃までは鎌倉時代の雰囲気が残っていたのでしょう。この切り通しには特に名はないようですがかつて近所に住んでいた北大路魯山人が臥龍峡と名付けていました。この臥龍峡の雰囲気を気に入ったのか李香蘭(山口淑子)とイサム・ノグチが居を構えた事もあったそうです。
光照寺
光照寺は江戸時代、鎌倉郡のいわゆる隠れキリシタンを受け入れていました。隠れキリシタンが居た事を示す証拠も残されています。
江戸時代、キリシタンである事が露見するとたちまち死刑に処せら れると言うのが定説でしたが、それほど厳しいのは島原の乱が起きた九州地方くらいなもんで、関東地方はそれほど厳しい事はなかった様です。むしろ、島原な んて遠い異国も同然だったようです。ただ、全ての人がどこかの宗派に属さねばならなかった時代ですので、一遍上人以来『信ぜずともよい(信じる事が出来な い者でさえ救われるから信じなくても良いと表現される)』でやって来た時宗に属する事になったようです。実際、キリシタンである疑いが出て、町役人に連行 されそうになった時に江戸時代の光照寺の住職にこの者は光照寺の信者であるとして助けられたと言う話が残っています。光照寺にはこうしてキリシタンの研究家の方や、神父様がいらっしゃいます。そのような研究の中から、ルソン島で発見された江戸時代のキリシタンの文書の中から光照寺の名が出て来た事もあきらかとなりました。調査に来られたルメイ神父様は、のちに祖国からレジョンドヌールを頂いたそうです。日本だと勲一等旭日大綬章クラスでしょうか。が、最近は東慶寺に所蔵されている来歴不明の通称聖餅箱と呼ばれる聖体拝領の儀式で神父が使うパンとぶどう酒の小瓶の入った箱(蓋の真ん中にイエズス会のマークが入っている)に夢中で、鎌倉のキリシタンの里は東慶寺にしていらっしゃるようで悲しい事です。東慶寺は北条時宗の奥方覚山尼の建立以来、明治維新まで男子禁制の尼寺であり、住職も豊臣家や徳川家、皇族所縁の方が務められた臨済宗の御由緒寺院です。現在もカトリック教会は女性聖職者を認めていないにもかかわらず、尼寺にこのような物があると言う事はいろいろ人手に渡っている内に本来の使用目的が忘れ去られて東慶寺に寄付された物である事は容易に想像がつくものですが、教会の中の人も有名寺院ばかり好きなんですね。ちなみ天保12年(1841年)に成立した新編相模国風土記稿の東慶寺寺宝の一覧にも存在していないのです。関東大震災の時の目録にもなく、昭和になってから寺にもたらされたと聞きました。
光照寺にはクルス紋(中川クルス)と キリシタンが納めた燭台があります。クルス紋は九州ではそこら中で見かけられるそうですが、関東ではまず見られないそうです。燭台も妙に平べったい皿の上 にろうそくを立ててその影を見ると十字架の姿になり、燭台の装飾の数が聖書に由来するとかでキリシタンの研究家や神父様には容易く見分けられるそうです。光照寺には現在も時宗とは違う宗教の方と思しき方が檀家としていらっしゃいますが、光照寺と檀家としておつきあいくださる限りはなんとも思っていません。光照寺に観光にいらっしゃる方はガイドブックに切支丹の遺物等が記されているのを見ていらっしゃる方も居ますがそうそう一般公開するようにしておりません。秘仏だからとかなんとか言ってもったい付けようと言うのではなく、ただ単に光照寺が観光寺院として作られていないからです。時には法要・葬儀で忙しく『ちょっと今日は.........』と言う事もあり得ますので事前に予約なりしていただきたいものです。特に最近はいきなり来て小銭ばらまいて『早く見せろよ』と言う傍若無人で無礼な方も多く閉口しています。どう言うわけかこういう方はいい歳したどうみても礼儀をわきまえているはずの身なりとみかけなのですがこまったものです。今時の若者の方がずっと礼儀正しいですね。
また、光照寺には市重要文化財の板碑があります。火成岩である安山岩の板碑で極めて珍しい物です。このほか、地元の名もない民衆を支えた咳の神様(おしゃぶき様といいます)や子育て地蔵尊が山門の所で出迎えてくれます。光 照寺は出来た当初から庶民の寺であったようで有名な人はどなたも埋葬されていません。これが円覚寺や建長寺、明月院、東慶寺なら、当初から鎌倉幕府の篤い 庇護のもと発展して来ましたので様々な歴史上の高名な人物、最近では作家や弁護士という人々がたくさん埋葬されています。しかし、光照寺は庶民だけです。今も昔も権力者と手を結ぶ事が無く庶民の為のお寺です。
そ のため、時の権力者に左右される事無くのんびりと寺院が営まれて来ました。円覚寺や建長寺等は鎌倉幕府滅亡後勢力が衰え、足利幕府の鎌倉府滅亡後は円覚寺 や建長寺でも中の小さな寺院のいくつかが消滅して規模が縮小したそうです。明月院に至ってはもともと禅興寺という建長寺等にも劣らぬ大寺院が明月院という 塔頭(建物)を残して消滅するほどだったのです。中には地名にのみ痕跡を残して消滅する寺院もありました。今日、円覚寺や建長寺はかつての勢いを取り戻しつつあ り、消滅した建物の再建に努めていますが、光照寺は今も昔も変わらぬ姿でいます。  
 

 

 
擁護山無量院教浄寺

 

岩手県盛岡市北山
教浄寺の由来
当山の開山は覚阿湛然和尚で、開基は南部11代伊予守信長公であります。 正慶2年(1333)、兄の南部10代右馬頭茂時公が、鎌倉で北条氏滅亡の際、高時に殉じ割腹。 遺臣と共に藤沢の時宗総本山清浄光寺(通称遊行寺)に埋葬されました。現在も遊行寺に墓石があります。 信長公は兄茂時公の菩提の為、三戸(青森県)に教浄寺を建立いたしました。 後、南部27代利直公が、盛岡に城を移されるに当り、慶長17年(1612)、現在の地、北山に教浄寺を移転されました。
時宗について
時宗の開祖一遍上人は衆生済度(人々を迷いから救うこと)念仏勧進(南無阿弥陀仏の念仏をすすめること)のために その生涯を遊行(修行と説法のため諸方を巡り歩くこと)に終始されました。 その足跡は北は岩手県、南は鹿児島県に至る日本全国に及んでいます。本山は神奈川県藤沢市、清浄光寺(しょうじょうこうじ)。 一遍上人以来代々の上人が全国を遊行するところから遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれています。
盛岡五山
「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直公は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めました。 城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立しました。 京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)を特に「盛岡五山」と定めました。
南部家とのゆかり
当山は南部家の菩提寺であることから、寺領200石を与えられ、手厚い庇護を受けました。 南部家は文化5年(1808)には20万石という大大名となり、北辺警備の重任を担い、 文化10年に南部藩を盛岡藩と改め明治維新に廃藩置県となり、伯爵を与えられ、第二次世界大戦後爵位は廃止されました。 南部の殿様が御参詣の時におはいりになった特別のお座敷が「お成りの間」という名前で今に残っています。
宮沢賢治とのゆかり
賢治が北山、名須川町の寺々に下宿していたことは有名ですが、当山もその一つでした。 盛岡中学(現盛岡第一高校)卒業後、病気治療や家業の手伝いをしていた賢治は、盛岡高等農林(現岩手大学農学部)受験の為、 大正4年1〜4月、教浄寺本堂の片隅で猛勉強の末、見事首席で入学し、特待生にまでなりました。 それにあやかって、おあみださん御縁日には合格祈願の絵馬を吊るしたり、こっそり手を合わせる受験生が大勢いるとか。 賢治が教浄寺を詠んだ詩が残っています。
僧の妻面膨れたる 飯盛りし仏器さゝげくる。 (雪やみて朝日は青く、かうかうと僧は看経。)
寄進札そゞろに詠みて、 僧の妻庫裡にしりぞく。 (いまはとて異の銅鼓うち、晨光はみどりとかはる。)
山屋他人海軍大将、雅子皇太子妃について
山屋他人海軍大将は、雅子皇太子妃の母方曽祖父にあたります。山屋家の菩提寺は藩政時代より教浄寺です。 他人大将とその父勝寿の墓は東京都麻布長谷寺にありました。 平成15年4月19日・山屋家の家督を継いでおられる登氏はじめとする枝栄会(しえいかい)の尽力で、 長谷寺に眠るお骨を教浄寺に移し、また他人大将の功績を後年に残す為、平成15年に顕彰碑が建立されました。 
 

 

 
一翁山阿弥陀院正宗寺 (通称 北寺)

 

栃木県芳賀郡益子町益子

紀貫之、十七代の末孫紀仲之(益子氏(紀氏)初代・之宗の父)、入道し、正宗と号す。天治元年(1124年)夢告により、専阿上人を開山上人に迎え、自ら開基となり、一宇建立し守り本尊を安置し一翁山阿弥陀院正宗寺と号した。これが正宗寺の起こりである。益子氏の菩提寺。 略縁起(安永四年)より

本尊 〜阿弥陀如来〜 阿弥陀如来立像。開基紀仲之の守り本尊は、文保年間の落雷により一山焼失するも罹災を免れるが、益子氏と宇都宮氏との戦の折り、堂宇ともに焼失する。(略縁起より) 現在の本尊仏は、制作期は不詳であるが、 宗朝作と伝えられる。

鎮守 〜熊野権現〜 開山専阿上人が所持していた聖徳太子御作の熊野権現の尊像。正宗寺鎮守とし山中に社を建立し尊像を安置する。(略縁起より) 熊野権現の本地仏は阿弥陀仏なり。  
 

 

 
豊国山遍照院寶厳寺

 

名称 「時宗」
宗祖 証誠大師 一遍上人(智真)
開宗 鎌倉時代(1274年)
本山 遊行寺(清浄光寺)(神奈川県藤沢市〉
本尊 「阿弥陀仏如来」を本尊に仰ぎます。
称名 南無阿弥陀仏
教義 「南無阿弥陀仏」とお唱えする只今のお念仏が一番大事なことです。家業につとめ、はげみ、むつみあって只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく生かされて明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれるとする教えです。経典 ・無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、六時礼讃 などの経典を読誦致します。
「念ずれば花ひらく」 坂村 真民
「あかあかと一本の・・・」 斉藤茂吉 歌碑
「金剛の滝」 一遍堂 新田兼市・房子建立
「色里や十歩はなれて秋の風」 子規
「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」 黙禅
「あとやさき百寿も露のいのち哉」 静雲
一遍は、鎌倉時代の僧で遊行上人といわれ、時宗を開祖した高僧である。「南無阿弥陀仏」を専らとして、宗教的感興にまかせて念仏踊りを勧め、農漁民など各層に広く支持を受けて、革新仏教を確立した。正応二(一二八九)年に兵庫和田岬の観音堂で五一歳の生涯を閉じるまで衆生済度の旅を続けたのである。上人立像は、寄木造で像高一一三.九センチメートル。太く秀でた眉、意思の強さを示す口元、慎ましい合掌、裾短い法衣からあらわれた素足、これらは遊行する上人の崇高な姿を表現し、室町時代中期の優れた肖像彫刻である。銘文に文明七(一四七五)年作とある。 
縁起
湯月町にある古刹で、寺伝には天智天皇の四年(六六五)国司 乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応五年(一二九二)再建され天台宗を時宗に改めた。 時宗の開祖一遍上人(昭和十五年澄誠大師(しようじようだいし)号宣下)誕生の地として名高い。 河野四郎通信の孫に当り別府七郎左衛門通広の三男。 十才で母を失いすぐ仏門に入り随縁と称し、太宰府の聖達上人の下で修業し智真と改名、のち紀州熊野権現に参籠して成道、これより一遍と名のり、南無阿弥陀仏を唱名しながら全国を遊行し世に遊行上人と専称された。 寺は昔十二坊あり広大荘厳であつた。一遍上人木像は重要文化財で室町期の傑作。懸仏及び残欠一体は市指定文化財。 寺境は一遍上人誕生地として県指定の史跡。 明治二十八年子規は漱石と共に道後に遊び散策集に、『松が枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ。ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往今来当地出身の第一の豪傑なり。
妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく「一遍上人御誕生地」の古碑はしだれかかりたるもあはれに覚えてーーー』 と次の句を残した。 ・・・ 古塚や恋のさめたる柳散る 色里や十歩はなれて秋の風 ・・・

道後温泉本館横のだらだら坂をのぼりきったところで、急にネオン坂が視界に飛びこむ。ここは一八七七(明治一○)年以来昭和三三年の売春防止法施行にいたるまで道後松ヶ枝町遊廓があったところだ。漱石が『左に大きな門があって、門の突き当りが御寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。』と「坊っちゃん」で描写している花街は、いまは旅館と飲み屋に変貌している。そのつきあたりの寺が宝厳寺だ。この寺は時宗の開祖一遍の誕生地といわれる。一遍は、一二三九(延応元)年に伊予の豪族河野氏一門の子として生まれ、一五歳のとき出家して、大宰府の念仏上人聖造のもとで行をおさめた。その後、伊予にかえり、久万菅生(すごう)山岩屋などにこもって苦行をつづけ、一二七四(文永十一)年熊野権現に参籠してさとりをひらき、時宗をおこした。そして一二八九(正応二)年兵庫の観音堂で五一歳の生涯を終えるまで、賦算(札くばり)と踊り念仏による念仏勧進の遊行をつづけた。宝厳寺は六六五(天智天皇四)年に創建され、一二九二(正応五)年の再建時に天台宗を時宗に改めたという。この寺に安置されている寄木造の一遍上人立像(重文)は、銘文に一四七五(文明七)年の作とあり、上人の崇高な、いのりの姿を表現した室町時代の肖像彫刻である。

一遍上人 鎌倉中期の僧。時宗の開祖。円照大師。伊予の人(一二三九〜八九)。浄土教を学び、のち他力念仏を唱道。全国を巡り、衆生済度のため民衆踊り念仏をすすめ、遊行上人、捨聖といわれた。一遍上人は伊予河野家の出で、父は河野通広で名は智真坊。兄弟に伊豆坊こと仙阿上人、通定こと聖戒上人がいる。有名な河野通有の祖父と一遍上人の父が兄弟。戦乱の時代、わが子の命を長らえるため出家させたと云う。こんなことから上人は、幼い頃から人の世の儚さ、虚しさを感じたといわれている。
茂吉の第二歌集「あらたま」(大正10年刊)巻頭6の「一本道」の第一首。「霊剋る」(たまきわる)は「命」「吾」(わ)などにかかる枕詞。 当寺とのかかわりは昭和一二年五月一二日茂古が参拝したことによるが、この歌は、東京代々木ヶ原の秋の斜陽のイメージに孤独な者の一筋の人生行路を重ねたものといわれる。歌人山上次郎氏は茂古の遺髪を受けてこヽにおさめた。
時宗
時宗は700年の昔一遍上人がお開きになった念仏宗であります。中国の唐の時代に善導大師という方が念仏の教えをさかんにされました。鎌倉時代になって法然上人がこの善導大師の教えを深く信じられて浄土宗を開かれたのです。一遍上人は浄土宗の一流、西山派の開祖証空上人の孫弟子に当ります。
一遍上人のはじめられた宗派をなぜ今日「時宗」と呼ぶかというと、次のようなわけがあります。
善導大師はその弟子たちを「時衆」と呼びました。法然上人も証空上人も一遍上人もそれにしたがいました。一日を6時(4時間づっ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをいたしました。これは時間ごとに交代いたします。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を行いました。これも時間ごとに交代します。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだのです。この言葉は他の宗派では次第に使われなくなりましたが、一遍上人の流れをくむ教団では今日まで使われていて、「時衆」がこの教団の呼び名になりました。徳川時代に「時宗」と改められて宗派の名になったわけであります。
時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えであります。
時宗の教えは、『大無量寿経』・『観無量寿経』 『阿弥陀経』に拠っています。これを浄土三部経と申します。歴代の上人がこれらの経典に説かれている念仏の教えをひろめるために、広く全国をまわるのを遊行(旅をしなから教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからおきています。遊行上人が念仏の札をくばることを賦算といい、念仏によって救われることのあかしとされるのです。
宗祖一遍上人
一遍上人は700余年の昔、四国は愛媛県の道後の豪族河野家に生れました。幼くして出家、法然主人の孫弟子に当る九州の聖達上人から浄土の教えを学ぶこと12年。のちに善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟ります。それから故郷の窪寺や岩屋寺にこもって念仏三昧の生活を送り、ゆるぎない信仰を確立いたします。それからこの教えをすべての人々に広めようという念願をおこし、全国遊行の旅に出るのです。信州・佐久では踊り念仏をはじめました。16年間に、ほとんど日本国中を歩かれました。上人は正応2年(1289)8月23日、神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなり、今もそこにお墓があります。その伝記は国宝『一遍聖絵』(藤沢清浄光寺・京都歓喜光寺)にくわしく、またその教えは『一遍上人語録』としてまとめられております。
御賦算(お札くばり)
遊行上人が巡り歩かれるところ、必ず御賦算なさいます。わかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。賦は「くぼる」、算は「念仏ふだ」であります。このお念仏のお札は遊行上人が、集まった人びとに一枚づつ手ずから配られます。宗祖一遍上人は、生涯に25万1千余人にくばられたと記録されています。お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお礼であります。「南無阿弥陀仏 決定往生60万人」と刷り込まれていますが、「決定往生60万人」とは、60万人の人々にお札をくぼることを願われ、また次の60万人の人たちに、ついにはすべての人々(一切衆生)に配ることを念願されたのであります。遊行・賦算・踊り念仏は、今日では時宗独特の行儀であります。
遊行上人と遊行寺
遊行寺は「時宗」の総本山であり、一遍上人を宗祖と仰ぎます。一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一 人でも多くの人々に念仏をすすめて歩かれました。その志をつぎ、遊行を代々、相続していく方を遊行上人とお呼びします。 その遊行上人が、遊行をやめられて定住されることを「独住」といいます。遊行四代呑海上人は正中2年(1325)に、もと極楽寺の旧跡に寺を建てて独住されました。それが、遊行寺のはじまりです。遊行の法燈をつがれて、念仏をすすめて歩かれる方を遊行上人といい、遊行の世代を次の方にゆずられて、遊行をやめて「藤沢山・遊行寺」に独住された上人を藤沢上人といいます。そして、現在では一人の上人が“遊行上人"と“藤沢上人"の両方を兼ねておられます。
歳末別時念仏会と一ッ火
この念仏会は、一遍上人以来今日まで、700年も続けられている厳しい修行であります。明治のころまでは、12月24日から30日までの7日7夜にわたる行事でありましたが、近年では、11月18日から30日まで執り行われ、27日夜には“御滅灯"の式、つまり”一ッ火"の儀式が行われます。
この行事は、1年間の罪業を懺悔して心身ともに清浄になって新しい年を迎えることと、さらに重要なことは、極楽浄土への往生を体得することであります。この修行の中で最も厳粛なのは”一ッ火"の式であります。27日の夜は、堂内の一切の灯火が消されて、シーンと静まりかえった暗闇の中で式がはじまります。遊行上人の底力のある念仏が静かな堂内に満ちてくると、末法のこの世の中に念仏のみがただ一つの救いであること、胸の奥ふかく沁みとおるようであります。しばらくの間は、身じろぐものもありません。そして新しい火が打ち出されて、つぎつぎに仏前の灯火が点じられてゆきます。堂内が次第に明るくなって、居ならぶ修行僧の顔が見えはじめるころには、念仏の声も一 段と高く、ひびきわたってゆきます。闇黒と光と念仏と・・・。人々はこの三つが織りなす雰囲気に感激し、念仏のありがたさを体得するのであります。ここに700年の伝統の火が念仏とともに輝き出すのであります。
一遍上人・宝厳寺と遊行寺
宝厳寺といえば一遍上人(一二三九〜一二八九)の生誕寺として有名であり、一方では参道筋(上人通り)には旧遊郭「松ヶ枝町」があったことを戦前派の方はとくとご存知のことだろう。
明治二五年、正岡子規が喀血後の療養で帰郷し、当時松山中学で英語の教鞭をとっていた夏目金之助(漱石)の寓居「愚陀仏庵」で五十余日を共に過ごした。十月六日、漱石と共に道後界隈を散策し宝厳寺にも立ち寄り、『散策記』に次の一文を残している。
「松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあわれに覚えて  古塚や 恋のさめたる 柳散る  宝厳寺の山門に腰うちかけて  色里や 十歩はなれて 秋の風」 境内には、子規の「色里や十歩者なれて秋の風」のほかに、一遍上人、酒井黙禅、斎藤茂吉、川田順、河野清雲の詩・句碑が建っている。
さて宝厳寺の歴史は古く、天智四年(六六五)斉名天皇の勅願により越智守興が創建した法相宗寺院で、開山は法興律師である。斉明七年(六六一)天皇が百済救援の為、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)らとともに「熟田津来湯」され、越智守興が「白村江の戦」に伊予水軍を率いて出陣した史実と深く結びついている。万葉歌人額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の一首もこの時この地で詠まれた。奥之院が天皇一行の行在所であったとの伝承がある。
風早(旧北条市)出身の天台宗別当でもある光定(七七九〜八五八)の影響もあり天長七年(八三〇)天台宗に改宗しているが、松山市の東部には天台宗別院弥勒寺(食場)、河野院円福寺(藤野)、西法寺(伊台)、常信寺(祝谷)、佛性寺(菅沢)、正観寺(小野)など天台宗寺院が散在している。宝厳寺の寺名は「豊国山遍照院宝厳寺」であるが、鎌倉・室町期には総門、地蔵堂、毘沙門堂、庫裏、鎮守社、楼門、本堂、開山堂、奥の院と塔頭十二房(法雲・善成・興安・医王・光明・東昭・歓喜・林鐘・正伝・来迎・浄福・弘願)を持つ大寺であった。
鎌倉時代に入り河野氏が急速に力をつけるが承久の変(一二二一)で当主河野通信一統は後鳥羽上皇側に加担して北条方に敗北し殆どの所領を没収される。一遍の父通広は奥谷の一塔頭に隠棲し、そこで一遍(幼名松壽丸)が誕生した。一遍(智真)は寺域内の塔頭や大宰府で浄土教典を学び、信濃の善光寺、伊予の窪寺や岩屋寺で修業し、熊野本宮で神託を得て、薩摩の大隅(鹿児島県姶良郡)から陸奥の江刺(岩手県北上市)まで念仏勧進を始める。踊念仏・賦算・遊行により一遍が教化した時衆は大衆の支持を受けて急速に拡大する。近世の「道後八景」では「宝厳寺黄鳥(鶯)」を挙げ「道後十六谷」では「奥谷」があり法師谷と尼谷に分けられている。
建治元年(一二七五)一遍により宝厳寺は時衆寺院となり正応五年(一二九二)時衆寺院(奥谷派)として一遍の実弟仙阿が中興開山となる。河野氏や小早川氏の支援、松山藩を治めた加藤、蒲生、松平(久松)家の庇護を得て幕末を迎えた。山門脇に在る「一遍上人御誕生旧跡」碑は元弘四年(一三三四)得能通綱が建立し、道後公園北口にある「湯釜薬師」の宝珠部に彫られている「南無阿弥陀仏」は従弟に当る河野道有の求めにより一遍が揮毫したものと伝承されている。
時宗の本山は「藤澤山無量光院清浄光寺」であるが、法主が「遊行上人」と呼ばれるので「遊行寺」が一般名となった。遊行寺の門前町が山号藤澤山から藤沢と呼ばれ、やがて東海道の宿場町として発展し今日の藤沢市となった。時宗の聖地としては1生誕地「道後奥谷・宝厳寺」ほかに2発心の地「信濃・善光寺」3成道の地「那智・熊野大社」4終焉地「神戸・真光寺」がある。時衆である善光寺聖、高野聖、熊野修験者が嘗ては全国津々浦々で南無阿弥陀仏の世界を広めていき、室町期には少なくとも全国に八六〇寺院、四国に二十寺院、伊予に六寺院存在した。現在は四国に三寺院で、伊予には宝厳寺と願成寺(内子)の二寺院を残すのみである。  
夕暮れ時、本堂の廊下に座して西を眺めると城山や瀬戸内の島々・海原が広がり正に西方浄土を連想させ、本堂階段に座して南の御仮屋山と対峙すると道後十六谷の一つ奥谷が迫り、早暁や深夜には幽谷の感すらする。「豊かな社会の崩壊」が囁かれる今日、一遍が希求した「捨ててこそ」を求めて宝厳寺を訪ねる参詣者が多くなってきている。尚、文化団体「一遍会」では月例会とあわせて一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)一遍忌(窪寺まんじゅしゃげ祭り)などを市民対象に企画実施している。  
 

 

 
藤澤山無量院浄光寺

 

来歴
【寺名】 藤澤山 無量院 浄光寺(とうたくさん むりょういん じょうこうじ)
【宗派】 時宗(じしゅう)
【本山】 遊行寺(神奈川県藤沢市内)
【宗祖】 一遍上人
【開山】 遊行五十九世 他阿尊教上人
【本尊】 弥陀三尊
浄光寺は明治五年、横浜が開港してからまだ間もないころに時宗総本山遊行寺の説教所として始まりました。明治十五年には当時の遊行上人であった遊行五十九世 他阿尊教上人により開山。元々遊行寺の説教所であったため、「横浜の遊行さん」と呼ばれ親しまれました。昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲により過去帳を残して全て焼け落ちてしまいましたが、先代住職と檀信徒の尽力により復興しました。
ご本尊である弥陀三尊とは、中央の阿弥陀仏。右の観音菩薩。左の勢至菩薩。これら三人の仏様を合わせて弥陀三尊と呼びます。観音菩薩と勢至菩薩の見分けがつきにくいかもしれませんが、左右の配置は必ず上記の通りになります。
宗祖と二祖
定光寺の本堂正面はこんなしつらえになっています。真ん中のお三方は、来歴にもある弥陀三尊です。ではその両脇にあられるお坊さんは誰なのでしょうか?実は、このお二人は時宗という宗派にとって、とても大切な方なんですね。まず向かって左側が一遍上人。時宗を開かれた宗祖であらせられます。国宝にもなっている一遍上人絵伝では色黒に描かれていますが、この御像では普通の肌となっていますね。しかしその厳しい表情をされたお顔はしっかりと表現され、勢至菩薩の化身と言われた峻厳さを感じ取れるようです。そしてこちらは真教上人。一遍上人亡き後、時宗を発展させたお方です。写真ではわかりにくいのですが、顔の半分が少しゆがんでいるのはご病気のためだったのではと言われていますが、はっきりとしたことは分かっていません。一遍上人と比べても柔らかい表情から伺えるように、その優しい人柄から観音菩薩の化身だったとも言われていました。そんなお二人の逸話から、御本尊との並びはこのようになっています。観音菩薩のお隣に真教上人、勢至菩薩のお隣に一遍上人です。本堂においでになりましたら、是非近くからこのお二方のお顔をご覧下さい。
浄光寺の仏様や神様
馬頭観音
浄光寺の車門、入って正面には動物たちの霊が祀られる犬猫供養碑があります。その中央、沢山の腕を持ち、それぞれに道具を持っている石造りの仏様が馬頭観音様です。「観音」と呼ばれるものの、しかしこのお姿は普段お寺で見るような優しげなお顔とはだいぶ異なっていますよね、一体どうしてでしょうか。実は観音様は、救う相手に応じて様々な姿を持っていると言われています。馬頭観音様は動物たちの住む世界、畜生道を救う仏様なんです。ですから犬猫供養碑に祀られているんですね。それにしてもこのお顔、どうしてこんな怒ったような表情をされているんでしょうか。これにはちゃんと理由があります。仏教には六道と呼ばれる六つの世界がありまして、畜生道はその内の一つになります。六つの世界には序列が有り、良いところから天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の順となっていて、畜生道は上から四番目の世界なんです。ここに生まれ変わる人は、あまり良い行いをしてきた人ではありません。それに動物を飼ったことのある方は分かると思いますが、動物は基本的に自分勝手で本能のままに行動しますよね。テレビには、人間よりも賢いんじゃないかと思えるような動物も出てきますが、これは厳しい訓練を受けた成果です。ですから動物たちは、すぐには良い世界へ生まれ変わることができないのです。馬頭観音様は気ままな動物たちに、「お前達もっとしっかりせぇよ。次はもっと良いところに行けよ。」と発破をかけているんですね。怒ったお顔は、お気楽な動物たちを助けるためのお顔なんです。
千手観音
平成二十二年、本堂向かって左奥に位牌堂が建立されました。そちらにいらっしゃるのは、これまた観音様。その名も千手観音様です。まず何よりも目を引くのはその手でしょう。背中から沢山の腕が伸びていますね。千本あるという腕ははあらゆる人を余さず救う慈悲の表れとされています。また、日本では千手観音の名前で知られていますが、より正確には千手千眼観音と呼ばれ、五十二の顔と千の眼を持っているとされています。この沢山の眼も、救いを求める人を見逃さないという慈悲の力の表れなんですね。この観音様も含め大抵の千手観音像は四十二本の腕で「千手」を表現し、それぞれに道具を持っていますが、中には本当に千本の腕を持った像もあるんですよ。奈良の唐招提寺にある物が有名です。
熊野権現
犬猫供養墓のすぐ近くに建っているのが、熊野権現が祀られるお社です。「お寺の中にどうしてお社が?」と不思議に思われるかもしてませんが、江戸時代まではこれが普通でした。特に時宗と熊野権現の間には、深い関係があるんです。昔々、一遍上人が南無阿弥陀佛と刷られたお札を人々に配り歩く旅に出てからまだ間もない頃、紀伊国(現和歌山県と三重県)で一人のお坊さんと出会いました。いつものようにお念仏を授けようとする一遍上人でしたが、このお坊さんは「今はお念仏に対する信心が起こらないから受け取れない。」と言って、一遍上人の申し出を断られたのです。このことが一遍上人を悩ませました。上人は念仏を進める自分の行いは、自分勝手な押しつけだったのではと悩みます。そして悩む心を抱えたまま、熊野の証誠殿という社に籠もります。するとそこに熊野権現が現れ、一遍上人に告げました。「あなたが(念仏を)勧めるからあまねく人々が極楽へ往けるのではない。阿弥陀仏が悟りを開かれた時から、全ての人々が極楽へ往けるのは、南無阿弥陀仏に依ると定まっている。相手に信心があるかどうか、行い正しい人であるかどうかにこだわらず、その札を配りなさい。」 一遍上人はこの言葉を聞いてさらにお念仏への悟りを深め、それからは自信を持って旅を続けられました。熊野権現のお告げは一遍上人に大きな影響を与え、時宗にとって特別な神様となったのです。
水天宮
玄関から本堂に入ると、正面奥にご本尊である阿弥陀様がおられます。あまり知られていませんが、そこは本堂の一番奥ではなく、阿弥陀様背後の壁の裏には、俗に「裏堂」と呼ばれる空間があります。その一角にも、これまたあまり知られていないのですが、一柱の神様が祀られているんです。その神様とは「水天宮」、一般に水の神様とされ、水の関わること(水難除け、農業、漁業、海運)の安全と繁栄をもたらしてくれます。その一方で子供の守護神としても知られ、安産、子授け、子育てにも御利益があると知られています。この水天宮様は、戦前は中区長者町一丁目に祀られ大変な信仰を集めましたが、戦災により遷座を余儀なくされました。永らく水天宮を護ってこられた河野家より御真影が奉納され、現在は浄光寺で祀られております。かつて水天宮で御祈願をされた方、これから御利益を受けたい方、ご挨拶に寄られてはいかがでしょうか。 
 

 

 
供養山三宝院海前寺

 

神奈川県逗子市小坪
逗子市小坪5にある海前寺は時宗のお寺で供養山三宝院海前寺という。逗子市では唯一の時宗寺院である。永和2年(1376年)、小坪漁民の為の念仏道場として厳阿上人によって開山した古刹である。海前寺の名前が示すように、海の見える穏やかで風光明媚な景勝地として栄え、江戸時代には時宗歴代上人の隠居所となっていた。本尊は木造阿弥陀三尊立像(南北朝時代作)で市指定文化財となっている。
中尊阿弥陀如来像は、いわゆる上品下生の来迎印を結んでいる。胎内に文政13年(1830年)の修理を示す銘札が納入されている以外、造立時、作者等についての記録類は残っていない。 しかし、張りの強い中尊の面部、幾分形式化しているものの写実性を持つ衣紋など、室町時代の作風をそなえ、佛乗院本尊像と並んで逗子市内に残る遺品としては貴重である。なお、光背、台座、箔などは後補である。
脇侍の観音菩薩像は蓮台を捧げ、脇侍の勢至菩薩像は合掌する。両脇侍菩薩像は上体を前にかがめ、腰をひき、動的な姿勢を示す。
典型的な来迎の三尊像である。鎌倉の時宗寺院には優れた仏像が多いのだが、ここ小坪でも同じであるようだ。
海前寺の前の小路が古東海道である。飯島崎と小坪坂からの二手の古道が交わり、正覚寺から庚申塔が並ぶ山道が続いていた。現在は土砂崩れがあったために通れず、正覚寺横はフェンスの扉に鍵が掛けられている。
古道から津波非難の指示通りに少し上がったところに海前寺墓地の雛壇がある。標高は20mを少し越えたくらいであり、小坪湾が見下ろせる。この墓地には地蔵堂があり、中にふくよかなお地蔵さまがいらっしゃる。この上には山に上る階段が続いているが、これは津波非難路であろう。この山一帯が住吉城址であるが、海前寺本堂裏にある断崖の台のような山も住吉城址で、どこからでも見える。その崖の下の高台に古東海道が通っていたのだ。
海前寺(時宗)は、1376年(永和2年)頃、小坪漁民の念仏道場として建立されたと伝えられている。開山は厳阿。本尊は阿弥陀三尊。裏山は、1180年(治承4年)、源頼朝が旗挙げした際、三浦軍と畠山軍が一戦を交えた小坪坂古戦場(小坪・衣笠合戦)。正覚寺から海前寺までの海沿いを通っていた切通(小坪切通)は、古東海道の道筋とも考えらているが現在は廃道となっている。また、1512年(永正9年)、三浦道寸と北条早雲とが戦った住吉城址でもある。裏山中腹にある首塚は、三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将を葬った場所と考えられている。やぐらからは頭蓋骨や鎧片などが出土していることから、「お首さま」と呼ばれていた。  
 

 

 
蓮台寺

 

時宗蓮台寺
蓮台寺は小田原市国府津にある時宗の寺です。時宗の開祖は一遍上人で総本山は藤沢の遊行寺です。蓮台寺は一遍上人の教えを引き継がれた二祖・他阿真教上人によって1297年に開かれました。平成15年秋、蓮台寺所蔵の他阿真教上人像が他阿上人の生前に造られた「寿像」であることが判明し、平成17年6月、国の重要文化財に指定されました。お像は今、神奈川県立歴史博物館に預託され、蓮台寺にはありません。
蓮台寺はごく普通の「葬式寺院」です。たまに、リュックを背負った人が紛れ込んできますが、千坪足らずの境内には墓地以外には何もなく、あてがはずれたかのようにそそくさと引き上げていきます。蓮台寺は、先祖の墓参りする人のための「生きている寺」であって、観光目的の「死んだ寺」ではありません。したがって、リュックを背負った彼らは、蓮台寺にとっては招かざる客なのです。檀徒の中には、観光客が多数訪れることが寺のステイタスをあげることと、思い違いをしている人もいますが、蓮台寺は、寺に縁ある人々が仏様となった故人とふれ合うことによって、心の安らぎを得るために存在しているのです。寺のステイタスという言葉自体が奇妙なものですが、もしこの言葉を使うならば、寺のステイタスは、寺に関わる人々が得る心の安らぎの量と質によって決まるのであって、「開山からの年数」や所蔵している寺宝とは、関係ありません。「開山からの年数」という言葉に怪訝な顔をされる方もいると思いますが、よく「この寺はいつ開かれたのですか」と質問をされます。「700年を越えています」と答えますと、決まって「ずいぶん古いんですねえ」とありがたそうな顔をされます。こういうとき、私は「古ければいいというわけではない」といつも思うのですが、人々の心の中には「古さへの信仰」、「古さに対する安心感」が牢固としてあるのでしょう。
国府津地区の宗教施設には、6つの仏教寺院のほかに天理教会があります。当然のことながら、設立年数に関しては天理教会が最も若いのですが、檀家組織に安住している寺と違って、宗教活動は最も活発に行っていて、教えさせられる点が多々あります。設立年数が宗教的存在意義と無縁であるよい証拠です。上述のように、蓮台寺所蔵の他阿真教上人像が、歴史的に価値のあることが判明し、「これで寺のステイタスがあがる」と喜んでいる檀徒もいますが、そんなことは寺の価値とは無関係です。あくまでも、寺の価値は、檀徒の日常活動によって決まるものです。700年ぶりに私たちの手でこの事実を世に明らかにできたことは、私たちの「手柄」には違いありませんが、この手柄は、最近活発になってきた檀徒の日常活動のご褒美として仏様が授けてくれたものだと思います。
ところで、10年前の蓮台寺はいつの間にか葬式寺院としての本来の姿が崩れてしまっていました。原因は、物質的豊かさのみを追求している時代の流れに巻き込まれてしまったことにあります。そういう動きをくい止めるこそが宗教の役割であるはずなのにです。この現状を憂い、新体制のもと、私たち蓮台寺に関わる者は、寺一丸となって葬式仏教の本来の姿を回復しようと、様々な試みをしてきました。大げさに言わしていただければ「蓮台寺改革」です。内容は多岐にわたりますが、着実に新しい実りを得ています。この試みがなるべく多くの人に理解され広がりを持つことによって、ささやかではありますが、今の社会の乱れの歯止めに役立てばと思い、このホームページは開設されています。
他阿真教上人
蓮台寺の歴代和尚之墓所中央には「当山開基遊行二祖他阿大上人」と刻まれた大きな墓石があります。蓮台寺はこの他阿上人によって、永仁五年(一二九七年)に創建されました。
他阿上人は、もとは浄土宗の僧侶で、真教上人と呼ばれておりました。真教上人が初めて一遍上人に会われたのは、一遍上人が今の大分県を遊行されていたときで、二人は夜の更けるのも忘れて仏道について語り合いました。そして、一遍上人のありがたくもすばらしい法話を聞かれた真教上人は、ついにはらはらと涙を流し、弟子に加えてくれるように頼みました。 このとき、一遍上人は三十八才、真教上人は四十一才でした。これ以後、真教上人は一遍上人の一番弟子として、おそばを離れることなくたゆみない遊行の旅を続けられたのです。
真教上人が他阿真教上人と呼ばれるようになったのは、一遍上人から他阿弥陀仏という法号を授かったからです。ちなみに、一遍上人はご自身を自阿弥陀仏と号しておられました。
一遍上人の遊行の旅は、十六年間続きました。その間に、非常に多くの人が一遍上人に帰依し、自然と一遍上人を聖と仰ぐ人々の集団が出来てきました。この集団の人々を時衆といっておりました。一遍上人は北海道を除く全国を、くまなく遊行され、各地で多くの人々が信者となりました。勧進目録という名簿に書かれた人数だけでも二十五万人を越えているということです。 このように、多くの人々を教化された一遍上人も、長い遊行の旅の疲れからか、一二八九年五十一才で遷化されました。
一遍上人は生前から 「わが化導は一期ばかりぞ」
といわれて、自分の死後に教団をつくる意志をお持ちになりませんでした。この考えは、死の直前にご自分の書かれた書物を全て焼き捨ててしまうほどに強いものでした。したがって時衆の中には、一遍上人を失った悲しみの余り、後を追って入水自殺者が出るほどでした。他阿上人も、 「一遍上人に先立たれたからには、自分も念仏して速やかに上人の後を追おう。」 と決意し、丹生山という山の中にある荒れ寺に籠もり、念仏しながら断食をして死を待っておりました。
このとき、近隣の領主が、時衆がいるという噂を聞いて、念仏札を受けたいといってたずねてきました。他阿上人は 「自分は亡き一遍上人の後を追い、ただただ臨終を待っている身ですので、念仏札を与えることはできません。」 と言って固く断りました。ところが領主は 「是非、念仏札を与えてください。」 と言って引き下がりません。やむなく、一遍上人から拝受した札を領主に与えました。念仏札を受けた領主は非常に喜びましたが、更に懇願しました。「極楽往生を保証する手形である念仏札を欲しいと望んでいるのは私だけではありません。もっと多くの人々が救済を望んでいます。是非、生き長らえてそういう人々を救って下さい。」 と。一遍上人に殉じて餓死することを決意していた他阿上人は、領主のこの言葉を聞いて迷いました。そして悩み抜いた末に、 「救済を待っている人々を遺していたずらに死ぬのは意味のないことである。一遍上人の教えは、体にしみついている。この教えを人々に伝え、生きるための指針を与えることこそが仏教者としての使命である。」 という考えに到りました。
こうして死の決意をひるがえした他阿上人は山を下り、残された時衆たちと共に時衆教団をつくり、一遍上人の教えを伝えるべく、遊行の旅を続けられたのです。そして、文保三年(一三一九年)の一月二十七日、八十三才で入滅されました。その後、時宗の法灯は歴代の遊行上人に引き継がれ、現在に至っています。そして歴代上人は皆、「他阿」を名乗られています。ちなみに、現在のお上人は他阿一雲上人です。
なお、蓮台寺では毎年春のお彼岸のお中日に、開山忌法要を行い、他阿真教上人のご遺徳を偲ぶと共に、蓮台寺檀信徒各家のご先祖様のご回向を行っております。
「僧阿念」
「僧阿念」について、私なりの考えが少し進んだので紹介します。
前にも書いたと思いますが、僧阿念は、法名を阿念と号した、当時の力を持った武士というのが私の考えで、一族の極楽往生を祈願して阿弥陀三尊を造像したと思われます。延應元年の時代に、そういう人物がいれば、彼が僧阿念である可能性があります。
インターネットで調べたら、「東ク町史」に「三朝地頭信定」という人物が記されています。彼の法名は阿念なので、随分前から有力候補と考えてきたのですが、彼の生没年が分からなかったので、それ以上の論は進められませんでした。ところが今日、別の文献に「信定の子の宣政が1272年に鎌倉で討ち死にしている。」との記述を見つけました。延應元年(1239年:造像年)の33年後のことなので、時代は合っていると考えられます。同じ時代に、法名を阿念と号す、例えば地頭などの有力武士が他にも存在した可能性は低いだろうから、ここに絞って調べるのは意味あること、と言うのが今日の結論です。
六波羅蜜寺の空也上人像の体内に「僧康勝」の墨書があることを知って、「僧阿念」も仏師の可能性があると思ったことがありますが、それは撤回します。
本尊に書かれた墨書は「延應元年十月十七日 僧阿念(花押) 往生極楽」です。先ず思うのは、もし僧阿念が仏師だとしたら、日付は書かないだろうと言うことです。お像製作には数ヶ月かかるだろうから、仏師が特定の日付を選んで書くのは考えにくいからです。だからこの墨書は、(施主である)僧阿念が、往生極楽を祈願して書いたもので、その日付が延應元年十月十七日と考えるのが自然だと思うのです。(施主である)の括弧付けは、僧阿念は造像時の施主でなく、既に出来ていた本尊を後に手に入れ解体修理した際に墨書した可能性があるので、付けたものです。そう考えるならば、本尊の制作年は、延應元年より前に遡ります。どうしてこのようなことを書いたかと言えば、今はいろいろな可能性を考えておいた方がよいと思っているからです。
今日、芝崎氏から写真が送られてきました。右は、解体した観音菩薩像の首下に書かれた墨書で、脇士二体から見つかった墨書はこれだけです。おそらく、花押のようなものだと思いますが、他に類似のものがあれば仏師を特定する手がかりになると思われます。今はそうでなくとも、100年先に見つかることもあり得るので、この記号は蓮台寺にロマンを残してくれたことになります。
右は、今日芝崎氏から送られてきた写真で、勢至菩薩像の解体写真です。墨書きは見つからず、頭部内もファイバースコープで調べたけれど、何も書かれていなかったそうです。観音菩薩像の解体はこれからですが、同様だと思います。したがって、今度の解体修理で本尊のルーツを知る手がかりは「延應元年十月十七日 僧阿念 往生極楽」の墨書だけですが、これにより、本尊は蓮台寺開山以前に造像されたことが明確になったことは、当初の私の目的からすれば、想像以上の収穫でした。あとは、芝崎氏と神野氏の話し合いで、どのように修復されるかを楽しみに待ちたいと思います。
本尊の造像が延應元年だとすると、何故58年という短い時間で蓮台寺に安置されたかを考えてみました。次が、昨晩私が得た仮説です。「本像は法名を阿念と号する武士の頭領が、一族の極楽往生を祈願して造像し、館に安置したが、半世紀後に一族に維持できなくなる事情が生じ、遊行で縁を結んだ真教上人に託すことになり、蓮台寺にご本尊として安置された。」 その頃は北条政権が成立していたけれど、完全統治ではなく、各地で小さな武力衝突が起こる不安定な世だったので、上のような仮説は十分に成り立つと考えました。この説に沿って、真教上人の遊行記録などを調べれば、何かが分かるかもしれません。                              
本尊造像の施主である「僧阿念」の人物像について、次の仮説を思いつきました。僧阿念の僧は、「僧としての」という意味で、この人物は本尊を個人的に造ることが可能な当時の有力者で、出家した法名が阿念である。時代を少し経るけれど、戦国時代には武田晴信が39才で出家し信玄と号し、上杉景虎が27才で謙信と号しながらも武将として活動した例もあるので、法名を阿念と号した有力者が延應元年の時期に存在したとしてもおかしくないと考えました。インターネットで調べたら、それに当てはまる人物が見つかったので、以後の検証は、芝崎氏と神野氏に任せることにします。
ご本尊の下部には直径4cmくらいの穴が空いています。これがあったので、竹筒の存在が分かったし、ファイバースコープで墨書も見つかりました。でも、何のために穴を開けたのかが、ずっと疑問でしたが、昨晩、1つの考えを思いつきました。それは、原木を垂直に立てて彫るために開けられた穴ではないかということです。そうだとすると、これは特殊な技法なはずなので、他にも同様の穴が空いている阿弥陀如来像があれば、同系統の仏師によるものと考えられ、ご本尊のルーツを知る上で重要なポイントになると思います。ただ、これはあくまでも、素人の仮説です。
墨書きの内容は次の通りであることが分かりました。○前面墨書き 「延應元年十月十八日 僧阿念(?) 往生極楽」 ○後面墨書き 「此尊像者安阿弥御真作無疑慮者也 奉刻彫時代者 施主僧阿念(?) 延應元年 遊行第二祖他阿上人真教大和尚當山草創之節奉安置舊記有之 末弟當山廿一世一察法阿上人恵水奉再興者也 元禄六癸酉年八月十二日」。後面墨書きの最初に 「この尊像は安阿弥御真作であること疑いなし」と言う意味が書かれていますが、これは間違いです。安阿弥とは、おそらく快慶のことで、インターネットで調べたら、快慶は延應元年の12年以上前に亡くなっているとあるからです。いつの間にか、この頃の「快慶作」という偽情報がエスカレートして、明治時代には「恵心僧都作」に化けてしまったようです。
ご本尊を解体した写真を掲載します。左が前面、右が後面です。画素数が100kバイトと小さいので、文字が不鮮明ですが、公開時には10倍の解像度の写真をお見せする予定です。
芝崎氏から電話がありました。とうとう今日、ご本尊を割ることが出来、竹筒を取り出したそうです。興味深いのは、竹筒に入っている薄板に書かれた内容です。「安楽院」、「寶金剛寺」という近隣の他宗寺院の名が書かれているそうです。これから全てが判読されれば、当時の寺院関係について、新事実が分かるかもしれません。
上は、今日送られてきた画像です。ご本尊は、両肩が外されました。当初、芝崎氏は肩の部分には穴が空いていて、ここから竹筒を取り出せると考えていましたが、右の写真のように塞がっていたので、前後に外さなければ出ないことが分かりました。だから、楽しみはもうしばらくお預けです。
下記は、今日現在ファイバースコープで確認できたご本尊体内の文字です。県博関係者が注目しているのは、前面材に墨書された「延應元年」(1239年)です。これは造像された年を表すもので、蓮台寺開山(1297年)の58年前と分かったことが重要なのです。□は現時点では読み取れない文字で、解体した後に判読されることを期待しています。
(前面材墨書 造像時のもの) 「延應元年□□□□□□□□□ 往生極楽 」
(背面材墨書 修復時のもの) 「此尊像者安阿弥□□□□□□也 □刻彫時代  施主僧阿□□ 延應元年 遊行二祖他阿上人真教大和尚當山草創之節奉安置□記有之 未第當山廿一世□□法阿上人恵水奉再興者也 元禄六癸酉年八月十□日」
(竹筒外側の墨書 修復時のもの) 「元禄六癸酉年八月上旬 廿一代□□□」
昨日、ご本尊内部を更に調べた結果が送られてきました。それによって確定したことを次に記します。1.このお像は延応元年(1239年)に造られた。施主は僧阿□□ (□の部分は不明)。2.その後、元禄6年(1693年)に修復された。体内の竹筒はそのときに新調された。3.竹筒の中には、薄く紙状に加工された木片が10数枚入っている。この一部と思われるものが竹筒から出ていて視認できるがこれには文字が書かれている。制作年月日と修復年月日が明確になったことで、ご本尊のルーツを知りたいという修復目的の1つは達せられました。残った興味は竹筒の中身ですが、これは解体すればはっきりしますが、今から推理すれば、「阿弥陀経」が書かれているのだと思います。お経以外の事務的な情報をわざわざご本尊の体内に閉じ込めておくのは考えにくいし、体内に納めるには浄土三部経の中で最も短い阿弥陀経がふさわしいと思うからです。竹筒の外側には、元禄6年の文字が記されていますが、修復時に新たにお経を納めるとは考えにくいので、既に制作時に納められていた経文を保護するために新調された、と私は考えています。解体したら別の結果になるかもしれないけれど、今現在、私の中では資料的な興味は無くなりました。
ご本尊内部に墨書されている文字を紹介します。「施主僧阿」の文字が読み取れる 「延應元年」が読み取れる
今年の施餓鬼会(8月16日)で、「ご本尊修復について」という題名の印刷物を配布しました。この中に、「ご本尊は、蓮台寺が開山する前に造られた。」という仮説を書きましたが、どうやら、それが真実らしいことが分かりました。今日、ご本尊の内部をファイバースコープで調べたら、背面に墨で書かれた「延應元年」(1239年)という文字が見つかったという報告があったからで、メールで送られてきた写真は、真教座像のものより遙かに鮮明でした。もし、延應元年が制作年だとすると、ご本尊は蓮台寺開山の58年前に造られたことになり、仮説と合致します。
明治37年5月22日に本山遊行寺に提出した「寺院明細簿」には、次のように書かれています。本尊阿弥陀如来 御丈3尺5寸 恵心僧都御作 観音勢至二大士 御丈1尺8寸 御作同断 元祖上人 立像木仏 御自作 二祖上人 立像木仏 御自作
これを私が最初に見たのは20年前で、この時は「とんでもない嘘が書いてある。」と思いました。嘘と思ったのは、「恵心僧都御作」と「御自作」となっていることです。恵心僧都は蓮台寺開山の300年前の歴史上の高僧で、伝恵心僧都作と言われる絵画、彫刻は数多くあるのですが、美術史上は疑問視されているそうです。おそらく、その根拠となる証拠は何一つ見つかっていないからです。それよりも、20年前に私が思ったのは、御本尊のような精巧な彫刻をいくら高僧と言えども自ら彫れるわけがないということでした。一遍上人と二祖上人の「御自作説」にも、同様の思いを持ちました。こういう嘘は、寺の権威を高めるために生まれたと考えられますが、一方、好意的な見方をすれば、これには何らかの根拠があったとみなすことも出来ます。それが真教座像です。御自作ではないにしても、頭部内にご自身でお名号を印されたことで、制作に深く関わっていたことが御自作となって伝わったと考えられます。では、一遍像の方はどうかといえば、御自作で無いことは明らかですが、これこそご都合主義で、二祖像に合わせてしまったのでしょう。         
次に「恵心僧都作の御本尊」ですが、専門家の見立てでは、「江戸期のお姿」となっています。しかし私は、この説には、疑問を持っています。開山して間もなく、真教座像を造ったくらいの蓮台寺なので、その頃にはすでにレベルの高いご本尊があって、真教座像と同等かまたはそれ以上に檀徒に大切に護られてきたはずです。蓮台寺は過去2回火災に遭っていますが、真教座像と一遍上人像は、無事檀徒に護られました。まして、ご本尊が護られないはずがありません。だから、普通に考えれば、ご本尊は開山当時のものであるはずです。では、なぜ「江戸期のお姿」と言われるのでしょうか。それは、江戸期に修復され、そのときに、時代の影響を受けた、というのが私の考えです。似たようなことが、今回の修復前の真教像にもありました。関東大震災後に修復されたお姿を見た専門家が、「制作期の下降を物語る」と判断した前例があるからです。ということで、今のご本尊は、開山当時に、「恵心僧都作」と言われていた阿弥陀三尊を蓮台寺が購入したもので、それが明治時代の文書となっている、と私は考えています。
今回の下調査で、ご本尊の体内には竹筒が入っているのが確認されました。これが、ご本尊の由来を知る手がかりになるかもしれないことが、今回の修復の楽しみの1つです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

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