浄土真宗 [親鸞] 法話

東本願寺法話 / 法話1法11法21法31法41法51・・・真宗の教え・・・
本山東本願寺法話 / 法話1法11法21法31法41法51法61・・・
西本願寺法話 / 法話1法11法21法31法41法51法61法71法81法91法101法111法121法131法141法151法161法171法181法191法201法211法221法231法241法251法261法271法281・・・

正信偈正信偈の教え / 教え1教6教11教16教21教26教31教36教41教46教51教56教61教66教71教76・・・
教行信証 / 文類一文類二文類三文類四文類五文類六・・・
 

雑学の世界・補考

真宗大谷派東本願寺・法話

真宗大谷派東本願寺 沿革
真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
第3代覚如かくにょ上人(1270〜1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
戦国乱世の時代、第8代蓮如れんにょ上人(1415〜1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興さいこうの上人(中興ちゅうこうの祖)」と仰ぐ。
京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如けんにょ上人(1543〜1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如きょうにょ上人(1558〜1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如じゅんにょ上人が継職した。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺じ檀だん関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
そのような中、当派の僧侶である清沢きよざわ満之まんし(1863〜1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動どうぼうかいうんどう」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主ほっす※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔さんげし、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会どうほうしゃかいの顕現けんげん」(存在意義)・「宗本一体しゅうほんいったい」(組織理念)・「同朋公議どうほうこうぎ」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。
東本願寺
東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。
親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。
それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。
どうぞ心静かにご参拝いただき、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、お一人お一人の生き方をお念仏の教えに問い尋ねていただきたく存じます。  
 
 

 

■1 釈尊の説教を頂戴される聖人
いま手元に、安井広度先生を代表者とした親鸞聖人全集編集同人(八人)により刊行された『親鸞聖人全集教行信証』2を置いている。昭和三十六年五月三十日の初版発行、定価四百五十円である。東本願寺では、親鸞聖人七百回御遠忌が無事勤修された直後のことになる。この全集こそ、宗門の学者が派を越えて結集し、全力を傾注して世に問うたものである。
全十八冊。この刊行が始まった昭和三十年、私は、学業も生活も日本育英会の奨学金に依存する貧乏学生であった。なぜかお金がなかった。指導を受けていた藤島達朗先生から、全集刊行を教わっても、すぐには入手できず、学部を出て大学院に進み、かたわら教学研究所に嘱託から助手に採って頂いてから、給料全部で既刊分を買った。
その全集本の『教行信証』1と2は、稲葉秀賢先生が中心となり、藤原幸章、細川行信、幡谷明の諸先生が携わられた。学寮から明治以降の真宗学が凝縮している。
その2の二九七頁の中央に、
『阿弥陀経』言不可以少善根福徳因縁得生彼国聞説阿弥陀仏執持名号
を諸本を対校して訓(よ)み(真宗聖典三四八頁参照)を示した上で、〈〔底本〕「不可…生彼国」十四字、右に補記〉と注意してくださってある。そこで、近年宗門から出た坂東本コロタイプのこの箇所を確認すると、親鸞聖人が当初はお釈迦さまの教えを「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」と頂いておられたことが分かる。その凛然たる態度に身の置き所のない感動を覚える。
住職を四十一年勤めて息子に譲った。三十戸に満たない門徒だが、ほぼ全戸に月参りしてきた。拝読するのは阿弥陀経である。この頃気づいたのだが、短時間で読了する阿弥陀経なのに、親鸞聖人はその前半、極楽の荘厳を著書にご引用にならない。「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」。以下五首の弥陀経和讃にも、すばらしい極楽の描写は出ない。極楽に憧れて、善根功徳を積み重ねて、極楽に往生することは「不可」だとお釈迦さまが仰せられるのだ、と。
それでも福徳を気にする人のために、親鸞聖人は元照律師の著作を引いて、補説される(真宗聖典三五一頁)。それはまさしく「信心のひとにおとらじと疑心自力の行者も如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」(疑惑和讃七)という励ましで、改めて、親鸞聖人の峻厳(しゅんげん)な聞法の姿と同朋への暖かい思いやりとに頭が下がる。こんなことに気づいたのも、譲職の効能であろうか。 

■2 諸仏の声
十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり(真宗聖典四八六頁)
先日、ある聞法会に参加した時、ある方の今の聞法生活に至るまでの歩みを聞いた。自分の息子さんを亡くされ、その死をどのように引き受けたらよいのかに苦しみ、それまでの自分自身が保てなくなり、精神科の病院に通っていることまで話しをされた。そして仏教に解決の糸口を求めて話を聞いているということだった。しかし色々な法話等を聞いてもやはり難しいと話されていた。「難しい」にも色々な意味合いと響きがあるが、その方には苦悶の顔があった。そして最後に自分なりの教えの了解を話され、息子さんの死を何とか受け止めようとされていた。
私たちは、様々な出来事、友人、先生と言われる人と出会いながら生きている。出会いには様々なものがあり、そのすべてが意味のあるものとはなりえず、そのほとんどが不信感や猜疑心に覆われてしまうことだってある。その中で、たまたま出会った真宗の教えを通して生きる意義、喜びを得たいと求めている。
念仏といい、信心といい、このような宗教心が芽生えることによって私たちは、生きる意義を得るという。そしてその芽生えの事実を改めて振り返ると、そこには一切衆生を救わんとする弥陀の慈悲の深きことを知る。しかし弥陀の慈悲というがどこでそれを確かめることができるのだろうか。自分の中で作り出した「物語」にしか過ぎないかもしれない。
清沢満之は、「無限」(如来)との出会いを求めて歩んでいた。自分の頭で考え出した無限ではなく、病気をし、様々な批難中傷を受けるといった壮絶な人生の中でその出会いをかちとっている。さらに自分が経験したそれまでの人生を、無限との出会いという視点から改めて振り返っている。
教えとの出会いとは、言葉と人(「よき人」)との出会いにあると言われる。ここでいう「人」とは「事実」との出会いと私は受けとっている。言葉だけでなく、人との出会いにおいて、弥陀の慈悲が事実として働いていることを知る。そしてその出会いは、さらに他の様々な出来事等への眼を開いていく。自分の中で弥陀の慈悲を確かめるのではなく、出会おうとして出会えるものではないという偶縁によってこのような眼が開かれていくことが大事なことだといえる。
何も信じられるものがなくなったといわれる現代においても、不信感や疑い等を深く見つめると同時に、どこまでも深いところで出来事や人を信じる生き方が求められているように思う。そこにあらゆる事実を担っていく力、言うなれば空の手で担う力が与えられるように思う。 

■3 そらした視線
「点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶよ死体が、時には喉や下腹部から管などをぶら下げたまま、病院から運びだされる。どうみても、生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。…死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぽっちで死と対峙するようにセットされる。」(『納棺夫日記』青木新門著)
人の生き死について、今も忘れられない出来事がある。記憶の奥に留めてきたことだが、最近『納棺夫日記』を読んでいて、ふと思い出されてきた。
学生時代、弁当配達のバイトをしていた。店主は、古希を過ぎた老女で、店の看板が台風で飛ばされても修繕しない弁当屋さんだった。五〇個程度であったか、数名の学生が手分けして、古い軽トラで配達するのが仕事だった。
配達先に、市内最大の病院があった。客人は、休息時間がままなら無い看護師たちである。配達着の白の割烹着姿で「どうも」と挨拶すれば、「給湯室に置いておいて」と、短いやり取りがすめば、急いで次の配達場所へ移動する。
その病院へ配達に行ったある日、看護師を通じて、別に弁当一つの注文が来た。翌日、ナースセンターで病室の番号だけを教えてもらって、いつもと違う階の、階段に近い部屋にやってきた。
ノックをしてドアを開けると、そこは、さながら集中治療室だった。ビニールシートの膜に覆われたベッドの中で、口を呼吸器で覆われた老婆が、いくつもの生命維持装置と見受けられる医療器械に、身体を繋がれていた。真っ先にその老婆と目が合い、思わず息を呑んだ。合った目を斜め下にやった先に、ドア横のイスに座る付き添いの婦人が目に入った。婦人に弁当の箱を一つ渡し、「明日も」と約束して帰った。
翌日だったと思う。頼まれた弁当をその病室へ持っていくと、半開きになったドアから、ただ布団が敷かれたベッドが置いてある光景が目に入った。呼吸器を付けた老婆も付き添いの婦人も、そこにはいなかった。あの老婆は、亡くなったのだと直感した。病室が並ぶ病棟は、しかし、普段と何も変わらなく、看護師たちが、相変わらず忙しそうだった。
その時、人の生き死にとは、こんなものか、と思ったことが忘れられないでいる。あっけなさとかではなく、人の生き死にが、放り出された、その剥き出しな有様に、戸惑いを覚えたのだ。
『納棺夫日記』に綴られた納棺夫である著者の言葉は、しばし頁を捲(めく)ることを忘れさせ、私に迫った。「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである。…仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである。」(『同』)
弁当配達の通りすがり私が、ベッドの上で死に直面する見ず知らずの老婆と、たった一度、目が合った。しかし思わず私は、その合った視線をそらしたのである。私は、その視線の合った老婆に、まもなく訪れるであろう死を直感し、その死から目をそらしたのだ。
あの時までも、あの時からも、ずっと死から目をそらして生きてきた私なのではないか。今は、ただそう認めるしかない。そう思い切ると、急に親鸞が気になりはじめた……。 

■4 越後での家庭生活
仏教各宗の中で真宗は、肉食妻帯、在家仏教と称されるのが特色の一つである。それは特別に滝に打たれるような荒行をしたり、世間との交渉を断って仏道を求 めるのではなく、普通の家庭生活・社会生活を営みながら仏道を歩むことから、そのようにいわれるのである。
それは仏法を聞き念仏申す身となり、人生を荘厳していくことである。賜った命を人間として日暮らしの中でつくしていくことでもあろう。
そのゆえんは、宗祖が妻帯され家庭をもつ身で「教え」を明らかにされたからである。否、家庭をもって「生死する命」をつくす中で、いかに救われていくか が課題であったといえよう。
宗祖が恵信尼公と結婚された時期について京都説と越後説とがあるが、近年の研究では前者が有力となっている。宗祖の結婚について大きな契機となったの が、六角堂参籠の九十五日の暁に、「聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて」(恵信尼消息、聖典六一六頁)の夢告である。いわゆる「女犯偈」と いわれる「行者宿報設女犯」以下の四句である。おそらくこの夢告を得た近い時期に宗祖は結婚されたと考える。
とすれば、承元元年(一二〇七)宗祖三十五歳の時、越後に流罪となるが、少なくとも小黒女房が生まれていたであろう。家族を伴って越後に向われたのであ る。
宗祖が明らかにされた信仰・思想体系は越後での生活が基本になっていると考えられる。
比叡山や京都で生活されていた宗祖は、陸路を長距離歩かれ、海路を船に乗られたことなどは初めての経験であったであろう。越後の居多ヶ浜に上陸され国府 で暮らされたのであるが、流人の身であり、役人の監視下であった。
自らの力で農耕を営み、家族を支えていかなければならない。自然の恩恵にありがたさを感じるとともに、一方で冬は豪雪となり北風の猛吹雪の日が続いたこ ともあったであろう。あるいは荒れる海にも出て魚を追う漁民の姿、山へ入って狩猟をし、生計をたてる人。いわば「殺生」という罪業に直面しながら懸命に生 き抜いている人々を、宗祖は眼のあたりにされたのである。
また、優しい自然と厳しい自然の中で、互いに支えあい、協力しあっている純朴な民衆、逆に妬み憎しみあう人間どうしの醜い争い等々、一般民衆とともに同 じ家族をもつ日常を営む中で、宗祖はそれらを肌で体得されたのである。
我々は生まれて生きて死んでいく「生死の命」をつくしている。その限られた命を、「教え」を聞き「化生」(和讃)して人間らしく荘厳していきたいもので ある。それは時を超えた「無量寿」に聞き、目覚めることである。
宗祖の越後生活を推測する時、我々と同じ視線をもって感得されたことを基盤に「教え」として示してくだったことを身近に感じる。 

■5 「親鸞」の名のり
時々、「親鸞」とは誰なのだろうと考える。おかしいかもしれないが、私は、一体誰を「親鸞」と呼んでいるのだろう、と疑問に思うのである。
たしかに「親鸞」の書いたものが残され、不明なことが多いながらその生涯が伝えられている。そして七五〇年にわたって、その人の教えに生きた人々があって、いま、私がその教えに縁をいただいている。それが私の前にある「親鸞」という人の事実である。だがいつの間にか、この「親鸞」という人を、宗祖と呼び、聖人といただくようになっているが、私がこの人の何を知っているのだろう。私はやはりそのように問い返さざるを得ない。
そんなとき、いつも立ち戻るのが「親鸞」という名のりの問題である。肩書きがなくなったらただの人というが、現代では、名が私とはこういうものであると明示することはほとんどない。しかし、「親鸞」という名はそれとはちがう。そこには明確な主張がある。
宗祖の名は「親鸞」の他に、比叡山時代の「範宴」、法然上人と出遇って名のった「綽空」、そして「親鸞」とともに生涯使用された「善信」がある。「綽空」は、末法という時代を課題にした道綽という人と、その道綽の提起した課題に浄土宗独立という形で応答した法然(源空)という人、その二人の名を合わせた名である。法然はその「綽空」の名において『選択本願念仏集』の流通を宗祖に託したのであった。それはいわば師から託された課題的な名といってよいだろう。しかし宗祖は、その名を返上して新たな名を名のる。
その名のりについては諸説があるが、宗祖は、『選択本願念仏集』をどこまでも戴き、善く信じる者であり続ける立場に自らを決したに違いない。つまり、師から託された課題への自己全体を挙げての応答、「善信」への改名である。そして「親鸞」。この名は流罪以後に名のられたものに違いない。それは師との別離を機に、どこまでも師の教えを善く信じようとする存在が、なお遺された教言を尋ね続けていく営みを象徴する名であるといってよい。
「親鸞」という名は、天親と曇鸞からとられたという。その二人が表しているのは、師の教えに生きる弟子の営みである。つまり天親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』の関係からわかるように、師の教えを生みだした根源、すなわち阿弥陀の本願のはたらきを自他に明らかにしてやまない営みこそ、曇鸞の示した学びである。そこに師なき後を歩む弟子の営みがあると見定めたところに、「善信」は「親鸞」と名のりつつ生きる者となったのである。その二つの名のりの結晶化が「(愚禿釈)親鸞」の名のもとに編まれた『教行信証』に他ならない。
「親鸞」とは誰か、「親鸞」とは師の教えを尋ね続けるその営みにこそおられる。あの真筆『教行信証』(坂東本)を手に取り、私はそのことにいつも立ち返らされる。 

■6 親鸞を学ぶ 親鸞に学ぶ
欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。 (聖典二三七頁)
と述べられています。それは、私達が念仏を申せば申すほど、かえって信心が遠ざかってしまうことを言われているのかも知れません。
そして、その信心が得られない者にとって、念仏とはそのまま「聞」という学びを徹底するものでなければならないと、いわれているのだと思います。
しかし、真宗における学びとは、どのような方法を持っているのかということは、私達一人ひとりに与えられた課題であります。私はそれを、親鸞を学び、親鸞に学ぶものだと考えています。
親鸞を学ぶとは、言うまでもなく『教行信証』をはじめとして、親鸞の残された言葉そのものを学んでいくことであります。しかし、その学び方は、決して親鸞を対象化した学びであってはなりません。
むしろ、親鸞の目によって聖教を読みなおしていくような学びでなければならないのです。それを親鸞聖人は、「真宗」の一言で表わしているのではないかと思います。
私達は真宗というと、浄土真宗と結びつけてしまいます。しかし、親鸞にあっては、浄土と真宗は、決してそのまま一つの言葉として、表現されているわけではありません。
むしろ、真宗というものを徹底して見ていくという、そこに浄土という世界が拡がり、また浄土の真実は、真宗という表現となっていると、宗祖は言われていると思うのです。ここでいう真宗こそ、物事に対する私達の態度であり、思考の方法を示すものだと私は思うのです。
それは、親鸞において、真・仮・偽と表現される現象と真実の関係の中で、一切のものを、この構造の中で捉えようとする思惟の歩みそのものだと言えると思います。
そして、この真宗の立場に立って、仏教を捉え直し、浄土思想そのものも「仮」として問い続けたものこそ、親鸞の残された言葉に他ならないのです。ですから、親鸞を学ぶとは、決して親鸞の言葉の外から学ぶものであってはならないのです。むしろ親鸞の言葉によって、学ばなければならないと思うのです。
そのために、私達は、親鸞に学ぶことを同時にしていかなければならないのです。
親鸞に学ぶとは、「親鸞」にまでなった念仏者の道程を学ぶことであります。それは、むしろ「愚禿」という名告りへの、宗教心の旅ということが出来るでしょう。
そして、その「愚禿」の名告りをさせたものこそ、流罪であり、そこから見えてきた社会―世間であったのだと思うのです。
それは、どこまでも、信不具足に立った、聞不具足の自覚を深めていくものではないかと、流罪八百年の今、強く思っています。 

■7 釈尊と親鸞聖人
仏教とか親鸞聖人の真宗が私の人生の具体的な関門となったのは、大谷大学で恩師山口益先生の仏教学に出遇うことができたからであった。末寺の長男として生まれ、寺の後継者として特別な扱いを受けながら大切に養育されてきたが、高校生になる頃には、それが重荷となり、周囲の敬愛に満ちた束縛から解放される自分の未来を考えるようになった。このままでは田舎の末寺に埋もれた人生となってしまう。あまりにも不本意である。自分の未来はこのままでよいのであろうか、自分に相応しい別の未来があるのではないか、と。そこには、仏教とか真宗は眼中になく、自分の未来への漠然とした大志だけがあった。
私の高校生の頃は、塾や予備校もなく、ときどき全教科の模擬試験があるだけの大らかな時代であった。仏教といえば京都というイメージがあったのか、担任の先生からは京都大学を受験してはどうかと薦められた。私自身も京都では京大に、東京では早稲田大学に憧れを抱いていたので、そのことを父に告げると、寺の後継者は大谷大学に進学すべきであり、京大などに行く必要はないと一蹴された。谷大に行かないのなら学費は出さないとまで言われ、頑固な父を恨みつつ、泣く泣く谷大の門をくぐった。そのとき父は「谷大でしっかり仏教を勉強してこい。それでも仏教に回心できず、仏教に人生を委ねる決意が沸いてこないのなら無罪放免してやる。青春時代の四年間などは短いものだ。」と、私を押し出した。
谷大での仏教への学びは、私としてはかなり真剣であった。卒業後の人生について決断しなければならなかったからである。授業だけでなく、仏書屋や古本屋を巡り歩きながら真宗学や仏教学に関する仏教書を求め読みあさった。そのとき、山口益著『空の世界』(理想社)に出遇った。それまで乱読してきた仏教書にはない信頼の置ける確かさがそこにあった。難解ではあったが、新鮮であった。入学したときは真宗学科を専攻するつもりでいたが、三回生となったとき躊躇なく仏教学科を専攻し、山口先生の指導の下で、縁起・空性・無我という徹底した自我崩壊の原理を前にして呆然自失し、一方では「自己とは何か」と自我を問うことのない唯物史観に虚構を感じ、ニーチェのニヒリズムに共感していたとき、
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。如来、世に出興したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。 (聖典二〇四頁)
という「正信偈」の六句が、釈尊と親鸞聖人となって面前に立ち現れたのである。恩師の学問と父の信念とに導かれての出遇いであった。
今年の報恩講においても、面前に立ち現れてくださる世尊と宗祖の御前で、回心懺悔して仏恩報謝の念仏をいただける勝縁が待っている。 

■8 地獄=大悲の本願に遇うところ
秋葉原での無差別殺人事件の犯人が、(真偽はわかりませんが)人を殺せば死刑になれると思ったとか、ネットで殺人の予告をすれば誰か止めてくれると思ったと言っている事がマスコミを通して漏れ聞こえてきた時、それならなぜ人を巻き込むようなことをしないで、自殺しないんだという怒りをおぼえたのは、遺族だけではないでしょう。しかしその一方で、「彼の気持ちがよくわかる」「自分もいつ同じことをするかわからない」という多くの反応が起こったことに、人間の立てた善悪の観念ではとても解決のつかない、精神の闇が深まっていることを憶わずにはおれません。
犯行の背景には、ワーキングプアなどの雇用問題・経済問題があるとコメントする政治家や評論家もいますが、世界を破壊したいという衝動は、そうした経済などの条件問題とは全く次元の異なる問題にその根はあるのでしょう。その根とは、世界全体が自分を拒絶する敵であるという感覚であり、それは自分はこの世界にあって、全くのよそ者であるという、底知れない孤立感です。
自殺はもちろん悲惨なことであり、自殺しようとするところまで追い込まれるということは、苦しいことではありますが、そこには自己愛があります。つまり、苦しみのただ中で、苦しい自分を助けて、楽になりたいという、自分への愛着がそこには動いています。ところが、世界を破壊し、無差別に人を殺したいという、底知れぬ衝動に駆られるときには、その自分そのものも破壊し尽くしたいという、出口の全くない絶望的な精神状態がそこにはあるのです。
親鸞聖人が「正信偈」で、浄土の教えに帰した大切な先輩として仰いでおられる「七高僧」の一人である源信僧都は、その著『往生要集』で、人間にとって一番苦しい地獄は「無間地獄」であり、それは「孤独無同伴」つまり孤独な世界であると、はっきりとおっしゃっておられます。そして真宗の根本経典である『仏説無量寿経』に説かれる、阿弥陀如来の本願の第一願には「地獄・餓鬼・畜生」がないことを誓われています。つまり、その地獄に生きるものはまた、餓鬼・畜生の生き方をせずにはおれないと、阿弥陀の本願は、衆生の苦しみを智慧によって見抜き、大悲しておられるのです。
親鸞聖人がその本願に触れ、本願に生きることになったのは、親鸞聖人自身が本願の目当てである孤独の地獄をくぐられたからでありましょう。非道な行動をとることは、人倫からは許すことのできないことではありますが、人間の立てた愛や善悪の価値観の虚偽を痛いほど知り、孤独の地獄にあって、世界を恨み、絶望するということは、機縁さえ熟すならば、親鸞聖人を殺そうとした板敷山の弁円がそうであったように、大悲に触れて懺悔がおこる、重大な意味があるということを、親鸞聖人から教えられるのです。 

■9 親鸞が出遇った釈尊
宗祖親鸞聖人はどこで釈尊と出遇ったのであろうか。もとより、様々な仏典によって教主世尊・大聖としての釈尊を遙かに礼拝していたであろうが、直接的には『無量寿経』において出遇ったにちがいない。同経では、まず聴衆として、釈尊の直弟子たちの名前が列挙され、続いて、大乗の菩薩たちの名前が列挙された後に、釈尊の生涯が伝記(仏伝文学)に基づいて説かれている。その内容は、言葉の限りを尽くしての賛嘆に満ちあふれている。
ちなみに、この釈尊の伝記の部分は、現存する同経のサンスクリット原典にはなく、漢訳の際に挿入されたのであろうが、この挿入はきわめて重要であったと考えられる。そこには、大乗の菩薩たちへの釈尊の授記によって浄土への往生が説かれるという漢訳者の了解が込められていると見なされるからである。原典の場合は、ここに釈尊の伝記がなくても、そこには自明なこととして釈尊は絶対的な存在としてあり得ていたのであるが、漢訳ではそのことを明示し、かれら大乗の菩薩たちは、釈尊の授記を得た菩薩たちであることを再確認しておく必要があったということであろう。
ここに説かれている伝記は、大方の伝記にならいながら、要を得て巧みに釈尊の生涯を辿りつつ、釈尊が群生を荷負する大乗の菩薩たちにとっての大聖であることを説き、釈尊から記別を授けられた菩薩たちがここに来会していることを示すためである。そのような手続きを経て、まさしく同経の主題である本願について、阿難の問いが起こされることになる。
ところで、ここに説かれている釈尊の伝記の記述において注目しなければならないのは、大乗経典、特に浄土経典であるが故の大切な記述が含まれていることである。それは、
成等正覚、示現滅度、拯済無極。(釈尊は「覚り」を成し遂げられ、その入滅においては大般涅槃を示現されたけれども、救済されなければならない衆生に極まりがない)(聖典四頁)
という、大切な一文である。
この一文の中の「成等正覚示現滅度」は、宗祖の『正信偈』において、
成等覚証大涅槃(「覚り」をなし、大涅槃を証することは)(聖典二〇四頁)
と詠まれている一文とまっく同意である。「等正覚」とは、釈尊の「覚り」のことで、「等覚」「正等覚」とも漢訳されるsamyaksambodhi(三藐三菩提)の意訳である。「滅度」とは「大般涅槃」「大涅槃」「無上涅槃」のことに他ならない。従って、『正信偈』における、
成等覚証大涅槃必至滅度願成就(同右)
は、「釈尊が「覚り」を成し遂げられて、その入滅において大涅槃を証明され、滅度を示現されているから、私たちを必ず滅度に至らしめるという本願はすでに成就されている」と了解されるべきではなかろうか。しかしこれまでのところ、この句が釈尊自身のこととして解釈されていないようであるが、私はここに宗祖が出遇った釈尊を看取するのである。 

■10 宗祖の姿を求めて
教学研究所では、昨年『親鸞聖人行実』を改訂し発行した。ここ数年改訂作業にかかわり、発行を終えて、親鸞聖人を憶うということの意味を改めて考えている。
私たちは、九歳で出家し、二十九歳で法然上人に出遇い、流罪ののち関東で布教し、京都に戻って沢山の著述に力を尽くされたという、大まかな宗祖の生涯は知っている。しかし、私たちが思っている宗祖は、それだけではないのはどうしてであろう。私たちの思う宗祖は、その大まかな生涯以上に、もっと肉がつき、豊かであるはずである。私たちは、実在が疑われたほどに、生涯を知る確実な手がかりが少ないこともよく知っているが、その宗祖像はどのように出来上がったものであろうか。そして果たしてそれは、正しいものであるだろうか。
私の宗祖像、つまり私の憶う宗祖のお姿は、様々なところから形成されているはずである。親や先輩の話、法話、聖教、その他の書物、学校…。そして宗祖像にも時代性がある。かつてはマルクス史観的な階級闘争に宗祖が位置づけられたこともあった。そのような生々しい人間親鸞といった見方や、あるいはさらに近世に遡れば、奇瑞を起こし、神もが尊敬する貴人としての親鸞。このような宗祖像はその時代性を背負っている。つまり人間親鸞と言うところには、近代化する社会において生き生きと生きることが失われていく中、まさしく生々しく生き生きと生きる人間という理想が、親鸞に求められ、重ねられたのであろう。また、近世の伝記であれば、厳しい身分制度、そして幕藩体制下の寺檀制のもと、日々忍従しつつ暮らす人々にとってその忍従を宥めるよき教えとなって用いたのであろうことは想像できる。それと同じように、私たちも、私たち自身(の思想)を補完するものとして宗祖という存在を利用してしまうことがある。
しかし、宗祖の生涯のほとんどが不明であるという事実は、その私たちの宗祖像が本当に正しいのであろうか、自分の考えを投影しているのではないのかと、どこまでも私たちの宗祖像を問い直していく。勿論、そこには絶対に正しいという宗祖像などない。私たちの宗祖像は、常に必ず問い直されるものとしてある。これは宗祖像だけでなく、真宗という教えの受け取りもそうである。皆それぞれ、自分なりの教えへの受け取りがある。しかし果たしてそれは宗祖のお心であるのか。そう問い直す場が、聞法である。宗祖像であれ、教えの受け取りであれ、どちらも常に固定化を破り、問い直していくところに、真宗という仏道の大切な営みがある。
だからこそ私たちは、いつでも新しく宗祖に出遇うことができるのである。その宗祖像は、人ごとに違ってよく、同じである必要はない。私たちは語り合うところに、いつでも様々な宗祖に出遇うことができる。そう、私たちには、宗祖像が無限に開かれている。いつでも新しく、私たちは親鸞聖人の姿を求め続けていくことができる。 
 

 

■11 『伝絵』中の親鸞聖人―箱根示現の意味―
親鸞聖人の曾孫覚如上人は『本願寺聖人伝絵』上下二巻十五段を制作し、聖人を顕彰した(康永本)。「伝絵」中に、ア「六角告命」の段、イ「蓮位夢想」の段、ウ「定禅夢想」(「入西鑑察」の段)、エ「箱根示現」の段、オ「熊野示現」の段と、仏神の示現・夢告の段に三分の一を割いてあるのが目を引く。
これらのなかで、本地(来)の仏が衆生済度のために、権りに神に姿を変えて現れる本地垂迹思想に依り、聖人は弥陀の化現として表されている。覚如上人の「伝絵」制作の意図のひとつに、本願念仏の教えを広めた親鸞聖人を、「生身の弥陀如来」として讃仰することがあったと考えられる。
これらのなかでエの「箱根示現」の段についてその意味を考えてみたい。
「箱根示現」は、関東から帰洛する親鸞聖人一行が、箱根の山中で日が暮れて困っていた所、箱根神社の神官が一夜をもてなした。聖人が理由を尋ねると、われ尊敬をいたすべき客人…かならず慇懃の忠節を抽でて、殊に丁寧の饗応を儲くべし、と権現の夢告があったからと答えたという。
聖人が箱根神社に立ち寄ったという伝承は「伝絵」以外の史料には見えない。そもそも本となる伝承があったのか、また覚如上人の創作なのかはわからない。この段はこれまで「念仏者は、無碍の一道…信心の行者には、天神地祇も敬伏」(『歎異抄』第七条)することを説いた段として理解されてきた。しかし、なぜ箱根神社でそのことを言わなければならなかったのか。他の神社でもよかったのではないか。道中には鶴岡八幡神社や三島大社、尾張の熱田神宮、近江の多賀大社など有名な神社がある。しかし、それらの神社ではなくて、箱根神社でなければならなかったのであろうか。また、箱根権現は、なぜ聖人を「尊敬を致すべき客人」と夢告したのか。
覚如上人が「伝絵」に「箱根示現」の段をいれた理由を、その祭神にあると考える。箱根神社の祭神は、ニニギノ尊、コノハナサクヤヒメノ尊の夫婦神と、子のヒコホホデノ尊の三柱である。そして、ヒコホホデノ尊の本地は勢至菩薩とされている。『仏説観無量寿経』に、「住立空中」の弥陀三尊が現じたように、勢至菩薩は観音菩薩とともに阿弥陀如来に脇侍としてつかえている。ここに、箱根権現でなければならない必然性があった。それこそ本地垂迹思想で説明できるのである。
ところで、「伝絵」のなかで、すでに勢至菩薩の示現とされた人物がいた。それは法然上人で、幼名を勢至丸といい「智慧第一の法然房」と称されていた。したがって、「伝絵」解釈では法然上人を勢至菩薩の示現として、弥陀三尊とみてきた。しかし、法然上人は聖人を教え導いた師匠であって、法然上人が、聖人を礼拝する形をとっていない。ところが「箱根示現」の段を設けることによって、勢至菩薩(法然上人)が弥陀如来(親鸞聖人)を尊敬するかたちとなって解決するのである。
親鸞聖人を「生身の弥陀如来」として崇敬させるうえで、「箱根示現」の段はそれを補完し証明す意味をもっていたのである。 

■12 如来が出興する「世」とは
如来所以興出世 唯説弥陀本願海(聖典二〇四頁)
―釈尊がこの世に生まれ出られたのは、ただ阿弥陀の本願海を説くためである― と『正信偈』にはっきりと述べられている。それが親鸞聖人から釈尊へと向けられた眼差しであり、敬いである。この二句には『大無量寿経』を通して釈尊の教えに直に触れ、本願に帰した仏弟子としての自覚が顕わされていると聞かせて頂いた。
親鸞聖人が生まれた時代とは貴族と武家との政権争いによる動乱期であり、さらに飢饉や疫病によって都には死者があふれ、死臭が鼻をついたという。それはまさに恐れと不安に満ちた時代である。「死」がむき出しにされ、同時に「死」に迫られての「生」がむき出しにされていた世界だったといえよう。親鸞聖人にとって、如来が出興すべき「世」とは釈尊在世時代の過去の出来事ではなく、まさに親鸞聖人が生きた「その時」の事に他ならない。
さて、親鸞聖人の生まれたそのような時代からおよそ八〇〇年以上が過ぎ、今を生きる私たちは便利で快適な生活が送られるようになった。しかし、言い換えれば「便利で快適」な時代とは「死が見えない」時代とも言えないだろうか。やはり人間にとって死とは何事にも代えがたい恐れを孕み、私自身、死を遠ざけたところに幸せがあると思っているのである。そして、死から離れた幸せをこそ頂点として、生活の進歩と向上をさらに求め続けているのだ。その先に本当の満足はあるのだろうか。
今年の五月、臓器移植法の改正に伴い様々な議論が交わされ深く考えさせられた。そもそも臓器移植とはかつては夢のような話だったのが「出来る限り長く生きていたい」、或いは「なんとか生き長らえてほしい」、そういう素朴でありつつも切なる願いを受けて医学は発達し、高い医療技術を我々は手に入れた。そして、臓器移植が夢の事ではなくなったのだ。実際に生きた臓器が求められる現場からは、違った意味で「死を乗り超え」ようとしていることの強い意志が表われているように感じる。そしてそれが科学技術を手に入れた人間の必然性であるともいえる。
私はこのことを書いて医学や臓器移植についての善し悪しを言及したいのではない。ただ、生きた臓器がやりとりされる時代を生きる者として、死を遠ざけ、生のみを求め続ける人間の姿がさらに際だって見えてきたと感じるのである。
これらのことを合わせて考えてみると、釈尊在世の時代、親鸞聖人在世の時代、そして私たちが生きている今と時代は全く違っているが、死をめぐる混乱は何一つ変わっていないといってもいいだろう。だからこそ「今、現に在して」法を説きたもう如来が出興すべき「世」とは「常に」なのだといえる。今こそ、釈尊の声に耳を傾ける時だと確かめておきたい。 

■13 「和讃」に親しむ
自坊で毎月声明や勉強会を門徒とともに行っている。二十数年が経ち「正信偈」、『歎異抄』、「和讃」、『唯信鈔文意』などを読みながら解釈や宗祖のいわんとするところを提示している。また、宗祖、蓮如上人の生涯、あるいは本願寺東西分派などの歴史的な話も順次行った。
特に多数の和讃を紹介、読誦した時は、筆者もそのわかりやすさや讃歌にあらためて心うたれることがあった。和讃は宗祖が「ヤハラゲホメ」と左訓されるように、経、論、釈の深い教理を和語をもって意味をわかりやすくされ、諷誦するようにされた歌である。和語の『教行信証』ともいわれる。
『三帖和讃』の「浄土和讃」、「高僧和讃」は宗祖七十八歳の時脱稿され、八十三歳の時に再治された。その喜びを描かれたのが著名な「安城の御影」である。蓮如上人の孫、顕誓は『反故裏書』で「世に申伝へけるは、『和讃』御所作をなされ御歓悦の御かたちをうつさせられ侍る、画工は朝円法眼と云云」(『真宗聖教全書』第三巻九五七頁)と、宗祖が「和讃」完成で歓ばれ、自画像を描かせたと伝え聞いていると記している。
宗祖が高齢にもかかわらず、「浄土和讃」一一八首、「高僧和讃」一一九首(蓮如文明版)の多数を著され、また宗祖八十歳代半ばで「正像末和讃」一一六首を加えられた。七五調の四句一章形式の讃歌は、拝読したり聞く門徒にとって心に印象深く残る。宗祖は難解な漢文を解読できない者にわかりやすくするため心血を注いで和讃を作成してくださったのである。また、流暢な語調や教義的に組織だてられている内容は改めて必読、口誦することが求められているように思う。
筆者が好む和讃が多々あるが、たとえば左掲の和讃もその一つである。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし (「天親讃」聖典四九〇頁)
特に「功徳の宝海」に魅せられる。宝海は苦海に対応する文言であろうが、宗祖は「海」と「水」を喩えにされていることが多い。右掲の「煩悩の濁水」、「弘誓の智海」、「名号不思議の海水」、「智願海水」、「他力の信水」等々である。煩悩は本願を信ずるとそのまま同化、一味になるもっともわかりやすい比喩として海、水を宗祖は提示して下さったと考えられる。海は清濁、大小の川の水をみな受け入れてくれる身近な自然であろう。もちろん『願生偈』に「能令速満足功徳大宝海」(聖典一三七頁)とあり、宗祖も読誦しておられたのはいうまでもない。
筆者は「正信偈」を日常的にお勤めする時、「帰入功徳大宝海必獲入大会衆数」(聖典二〇六頁)の箇所で、前掲の「和讃」を思いおこす。特に「宝海」に思いをはせる。
多くの「和讃」を味読することは、門徒としての自覚をより一層促されるのではないだろうか。 

■14 悪人こそがすくわれる
阿闍世と言えば『仏説観無量寿経』の序分に説かれる、「王舎城の悲劇」の一方の主人公で、父を殺し、仏を傷つけようとした五逆、謗法の大悪人です。宗祖親鸞聖人は、『大般涅槃経』を『教行信証』「信巻」に引用して、その阿闍世のすくいを説かれて、浄土真宗の信心を明らかにしておられます。そこで阿闍世は「一闡提」といって、「仏がすくおうと思ってもその手がかりがない者」としてえがかれています。「すくわれないもののすくい」、つまり悪人がどのように成仏道に立てるかということが浄土真宗の信心の内容だということなのです。
『教行信証』のこの部分はまた、『仏説無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の第十八の願の「すべての者をすくうけれども、ただ五逆と正法を誹謗したものを除く」という言葉の意味を明かしている、と宗祖が受け止めていらっしゃいます。宗祖にとって阿闍世のすくいが自らのすくいであるということです。それは実は、同時に自らも、すくいからもれるべき五逆と謗法のものであるという自覚に立っているということでもあります。
このような「悪人のすくい」が浄土真宗の大きなしるしであるのは間違いありません。しかし、このことは実は法然・親鸞のお二人が特別に考えられたことなのではないのです。仏教は実はその初めから「悪人・阿闍世のすくい」を一つのテーマとしてきました。阿闍世のすくいを述べた経典がたくさんあるのです。そこで阿闍世のすくいは「無根の信を得た」と説かれています。阿闍世の側には根拠がない信心だというのです。それはちょうど宗祖がおっしゃる「阿弥陀さまからいただいた信心」のことです。
私たちはどこかに仏がいて、それに自分がであうのだろうと考えています。「自覚」という言葉で示されるのは、善悪を自分で決め、その延長に仏やすくいをおいて疑いもしない、そういう偽りが照らし出されることです。仏とであったから悪人と名づけられる者になるのですし、また悪人であるという自覚こそが仏とであった証拠なのです。真なるものとであうから偽であることがわかるのです。正しい教えを聞こうとも、仏になろうとも思ってもいないのが私のすがたです。そういう自分のすがたに目覚めること以外に、私たちに仏道が成り立つ根拠はありません。このことこそが「南無阿弥陀仏」という言葉で示される浄土真宗の「信心」であり、仏教であるしるしなのです。
すくわれる者ではないという自覚から深められていった宗祖親鸞の仏道が、時間を超えてまっすぐお釈迦さまの説かれた教えにつながっています。 

■15 往生極楽のみちをといきかんがため
先日、御門徒の方々と親鸞聖人の御旧跡を巡る時間を共にした。ゆかりの地を巡りながら、その地で語り継がれる聖人のお姿を想った。また同じ頃、地元の博物館で「安城の御影」が公開され、そのお姿にお遇いすることができた。御遠忌を間近に控え、各地で聖人の足跡を尋ねる機会が増えている。八百年の時代を超えて聖人のお姿を想う。
時を経て聖人在世中と現代では時代は大きく変わった。御旧跡に立ち、眺める景色も、そこに住む人々もすっかり違っている。その変化の度合いはますます急激なものとなり現代を生きるわれわれを呑み込んでいるように感じる。自然科学や社会科学の発達はその技術と知識で人々の世界観を大きく変えた。生活の利便性を向上させ、当時では考えられなかったような社会が実現しているのである。
そんな社会のなかにあって、八百年もの時代を超えて、さらに釈尊からは二千五百年もの時代と国を超えて、その教えがこの時代を生きる自分とどう関わってくるのか、戸惑いながら考える。今、親鸞聖人のしめされた教えに聞いていこうというのはどういうことであるのか。変わりゆく世界のなかで、教えがその時代その時代の衆生に応えていくということはどういうことであるのかと考えさせられるのである。
『歎異抄』第二条には聖人と門弟とのやり取りが記されている。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」(聖典六二六頁)。関東から尋ねてこられた門弟に対して、あなた方がはるばる尋ねてこられたお気持ちは、「往生極楽のみちをといきかんがため」である、と。そしてその「みち」は、よきひと法然上人によって出遇った「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典六二七頁)というお念仏の教えであることを伝えておられるのである。おそらくさまざまな質問をもって参上したであろう門弟に対して、それらへの回答ではなく、それらの問いをつつんだ、ただひとつの根源的な問いを言い当てるこの場面は印象的である。そしてこのことは、現代のわれわれも同じく、たとえ時代が変わろうとも、「往生極楽のみちをといきかん」というところでしか聖人とつながる道はないのだと教えられてあるように思う。
教えは時代の相を言い当てるのではなく、その時代を生きる人間の苦悩の根源を言い当てるのである。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」とは、その苦悩の根源に応答する如来の本願の勅命である。その勅命に従うことによって、聖人もまた時代を超えて七祖に出遇っていかれたのであろう。 

■16 本当の自分とは
私は京都の大谷専修学院に、週一回ではあるが、学院生と共に仏教を学ぶご縁を頂いている。学院生は、スタッフと共同生活をしながら、その生活を通して仏の教えを聞き、学んでいる。その姿から、私自身の学びの姿勢を振り返る機会に恵まれている。
その専修学院で、先日、座談会が開かれ、そこに参加した。座談会ではいくつかのテーマが出されていたが、その中の一つに、「本当の自分とは何か」というものがあった。
他人との生活の中で私たちは、友達や先生、あるいは家族からどのように自分は見られているのかという、他人の「目」を気にして生きている。またその「目」を気にして、他人に気に入られるように、嫌われないように、いろんな自分を作っている。いろんな顔をもつ自分がいる中で、本当の自分とは一体何なのか、自分は何のために生きているのか、自分を生きるとはどういうことなのかという問いが生まれてくるというものであった。座談では、実際に自分が感じることや、聖典の言葉を持ち寄りながら、そのテーマについて話し合われた。
本当の自分とは何か、という問いそのものはとても大切なものであることはいうまでもない。しかし、「日頃の自分」とはまた別に、「本当の自分」があるということになると、その自分に、「日頃の自分」を無理に当てはめようとする。そこに「本当の自分」と「日頃の自分」とに自己分裂が起こり、「本当の自分」に振り回され、逆に自分を見失ってしまうことになる。
清沢満之は、「自己とは何ぞや」(大谷大学編『清沢満之全集』第八巻三六三頁、以下『全集』と略)という問いが人世の根本問題であるとした。これはどういう意味があるのだろうか。
満之は、人間関係に苦しみ、不治の病に罹る中で、自らの人生の意義を問う日々を送っていた。その中で、次のように言っている。
人生の意義は不可解であるという所に到達して、ここに如来を信じるということを惹起したのであります。(『全集』第六巻一六一頁)
様々な思いが交錯する中で、人生の意義は、「不可解」(不可思議)であることに到達したとある。この不可解とは、問おうとしている自分自身の思慮分別が崩れたことを意味している。そしてこのことから「如来を信じる」のである。満之は本当の自己とは、「今、如来を信じている自己」以外にないという結論に至ったのである。
私たちは、「本当の自分とは何々である」ということを具体的に示すことによって安心しようとする。それは今の自分に満足できずにもっと違う自分がいると思いたいからである。しかしそれは同時に何かを見失うことであることに気づいていないのである。
「自己とは何ぞや」という問いは、本当の自分に対する答えをどこか外に求めるものではなく、それを探し求めている自分そのものが問われることに、本当の意義がある。それはまた、「日頃の自分」の中にすでにはたらいている課題を照らし出す意義がある。自分を超えて自分にはたらき続ける仏の願い、ここに気づくことが大切なのである。 

■17 雑行を棄てて本願に帰す
宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、自力作善の心を棄て、本願他力の浄土門に帰入された。この慶びを、後年『教行信証』「化身土巻」に「雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記されている。「雑行」とは、「正行」に対してであり、「正行」とは弥陀他力回向の「念仏」である。それは「大行」ともいわれる。「雑行」は、念仏以外の自力作善の行である。「本願に帰す」とは、自力作善の心を棄て、他力の念仏を頂く身となることである。
しかし、「雑行を棄てて本願に帰す」ことの難しさを痛感する。“ご門徒”も、お内仏にお参りして念仏を称えることも少なくなり、また念仏を称えても、追善供養・現世利益を求める自力作善の念仏であることが多いのではないだろうか。「個の自覚の宗教へ」という、五十年前の同朋会運動発足時のスローガンは遠くなっている。
遺骨とお墓、追善供養がお参りの中心となり、亡き人へ追慕の情を抱くことを、信心と勘違いされている。それは聞法の抜け落ちたお参りである。わたし自身が教えを頂き教えに問われることがないお参りである。それは、極言すればご本尊を無視し、必要としないお参りである。情を超えて不変の法に遇わなければならない。
また、健康・家内安全など現世利益で称える念仏も多く見受けられる。弥陀の「本願」と「わたしの願」の認識に大きなずれがある。
弥陀は、煩悩を断つことができず生死流転の闇を迷い続けている一切全て、このわたしたちを、真実覚りの世界、浄土極楽に往生させようと、願を建てて下さった。しかし、煩悩まみれのわたしたちは、本願を自分の欲にすり替えてしまっている。
ある“ご門徒”の家にお参りすると、お内仏の戸袋の前に紙の束が置いてあった。「…ジャンボ宝くじ」の文字が見えた。その“ご門徒”は、《わたしの願いを叶えてほしい。わたしの願いは、たくさんのお金を手に入れることである。宝くじに当たったら家を買い、旅行に行って、貯金をして…》と妄想をえがく。このわたしの願いとは、煩悩から生じている欲である。わたしの願と、阿弥陀如来の本願を勘違いし、同一と思いこんでいるのである。弥陀の超世の願、本願までも、自分の欲を叶えることとして受け取っている。我欲を叶えるために、阿弥陀如来をも利用しようとする、煩悩熾盛のわたしがいるのである。
親鸞聖人は、
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし(聖典五〇八頁)
と、「愚禿悲歎述懐和讃」に詠われている。これこそが、わたしたちのすがたであろう。
親鸞聖人は、「愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑し」「いずれの行もおよびがたき」「底下の凡愚」と、自身を厳しく見据えられ、雑行を棄てて「本願に帰」されたのである。
この聖人の生きざまと教えを頂かなければならない。煩悩熾盛・罪業深重のわが身の事実を頷き懺悔し、「本願他力」の念仏を頂く身とならなければならないのである。 

■18 斉しく悲引したまうや
親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません。むしろ、そのように受け取ることを拒絶するものこそ親鸞聖人の言葉です。
それはある意味では、宗教が、そのままの形では伝承することができないとする、仏教の末法思想と通底するものであります。
その時に、易行をもって宗教の伝承を可能としようとされたのが、法然上人の選択念仏の思想だったともいえるでしょう。
しかし親鸞聖人は、その法然上人との出遇いによって、自らを愚禿と名告り、愚禿の心によって賢者の信を受けとめていくことが、いかにして可能かを生涯の課題とされたのでありましょう。その思索と苦悩の記録こそが『愚禿鈔』ではないかと思います。
そして、その思索を通して、易行として伝えられるものと、難信として断絶するものの絶対的矛盾を受けとめた時に、はじめて宗教心が大菩提心として伝承されることを顕らかにされたのが『教行信証』として私達に残された言葉だと思われます。
『教行信証』には、「己が能を思量せよ」(聖典三三一頁)、「己が分を思量せよ」(同三六〇頁)と私達に教誡されています。
それは「己の能」の自力無効によって、浄土の思想が全ての者の救いを完遂することを顕らかにすると同時に、その救いが一人ひとりの「己の分」によって異なった相を持ち、その異なりによって普遍的な救いとなることを示されているのでありましょう。そのことを「広大異門に生まる」(聖典二四五頁)と示されています。
ですから、親鸞聖人にとって顕真実とは、浄土を顕すことだけでなく、同時に穢土を顕すものでなければなりません。そして、この浄土と穢土の二つの世界の用きこそが、私たちの生に真実を与えるものであります。親鸞聖人は、この真実を生きた者として、私たちに、これから生きていく根拠と力を自覚させることで宗祖として用きつづけているのです。
そのような、宗祖としての言葉は、何よりも親鸞聖人自身の、愚禿としての自覚の中にある絶望と、その絶望を通した先にある希望を示すからこそ私達に具体的な力となって作用するのであります。
「悲しきかな、愚禿鸞」と悲嘆される言葉をそのまま、「悲しきかな、垢障の凡愚」と呼びかけられた、その憶いを受けとめることこそ、私達が親鸞聖人を宗祖とするということに他なりません。
そして、この絶望を通して伝わるものこそ末法思想として表現された宗教心をもって人間を成就する力となるといわれているのでしょう。「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや」(聖典三五七頁)という言葉こそ、私達が親鸞聖人を宗祖として生きる事に与えられる課題だと思えてなりません。そこから、親鸞聖人を学び、親鸞聖人に学ぶ学び方が明らかになるのではないかと思います。 

■19 御遠忌に遇う慶び
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌も、いよいよ第三期法要をお迎えすることになり、すでに多くの方々に、この尊い御法要の勝縁にお出遇いいただいたことです。宗務にたずさわる私たちも役目として、参拝くださる人々をお迎えさせていただいています。五十年ごとにお勤まりになる御遠忌にお遇いできるのは、生涯において二度という方もいらっしゃるでしょうが、一度限りという人が多いのではないでしょうか。それだからこそ五十年ごとの大法要にお遇いすることは尊い御縁なのです。
お参りくださる方々のお顔を拝見していると、どなたも慶びにあふれておられるようです。その雰囲気は言葉で交わさなくても、その姿を通して伝わってくるものです。五十年前の七百回御遠忌の様子を教学研究所の大先輩である宮城先生は、全体を包んで、御遠忌中にあふれていました生命感というものは、尊く力強いものでありました。百万を越える人々が、一人の師の教を中心に、しかも七百年後の今日心を一つにして集まったということは驚くべきことです。(『教化研究』第三二号「編集後記」) と記しておられます。宗祖と仰ぐ親鸞聖人がお説きになった真実の教えを拠り所として生きている人々のつながりを「生命感」と感じ取られたのでしょう。
親鸞聖人のお言葉に、遠く宿縁を慶べ。(総序、聖典一四九頁) とあります。悩み苦しみながらなんとか生きている者をこそ、拯い取ろうと願い続けていてくださる阿弥陀如来に、今お遇いできた慶びを情感をこめて記しておられます。お念仏もご信心も、この私のために仏さまが、すでに用意してくださっていたことに、今、気づいた慶びなのでしょう。
「慶」の字には、めでたい時に祝いものとして鹿の皮を贈ることを表していて、よろこぶの意とともに、祝うとか、たまわったものという語意があるようです。必ずたまわることが約束されていたものを、今、この私がいただけたという大きな慶びでしょう。親鸞聖人が晩年にお書きになった『唯信鈔文意』には 、慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。(聖典五五五頁) とあります。私の得た信心は、生きとし生ける者すべてを拯い取るという阿弥陀如来の大慈悲心そのものなのです。そのお心をいただいて慶喜する人の姿を通して、さらに衆生を救済したいという仏さまの慈悲心がひろがっていくと述べておられるのでしょう。
この御遠忌に間近くお遇いさせてもらいながら、全国から、また海外からもお参りになる方々の慶びにあふれた姿に接して、親鸞聖人がお亡くなりになって七百五十年という年月はたっても、聖人がいただかれた仏法が確かにあることを実感しています。御遠忌を御縁として、今を生きる私を貫いて伝わり、伝わっていく浄土真宗の御教えを確かめさせていただきたいものです。 

■20 師の言葉とともに生きる
近年、真宗門徒にとって最も大切な法要である報恩講でのお話を依頼されることが多くなった。ご法中方が報恩講のお勤めをされている間、私は控え室でひとり『真宗聖典』を読むことが多い。ご法中方の声明を聞きながら聖典を読んでいると、いつもより深く宗祖の言葉が響いてくる。そして、思いがけない発見をすることがある。
ある日、宗祖が晩年に頻繁に使われる言葉があることに気がついた。それは師・法然上人からいただかれた「義なきを義とす」という言葉である。『歎異抄』に「念仏には無義をもって義とす」(聖典六三〇頁)という言葉が語られていることは承知していたが、聖人八十六歳のときに認(したた)められた『尊号真像銘文』にもその言葉がある。「他力には義のなきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり」(聖典五三二頁)と述べられている。また、関東のご門徒に送られた手紙にも「行者のはからいのなきゆえに、義なきを義とすと、他力をば申すなり。善とも、悪とも、浄とも、穢とも、行者のはからいなきみとならせ給いて候えばこそ、義なきを義とすとは申すことにて候え」(五九三頁)と書き記されている。
晩年の親鸞聖人は何故にこれほどまで「義」にこだわられたのだろうか。そこには阿弥陀さまの誓願を「他力」という表現で伝えることにたいへん苦労されている姿が伝わってくる。言葉も絶え果てた世界を文字で伝えることの厳しさを知らされる。関東のご門徒に対して手紙という手段を用いて 、なんらかの言葉で語らねばならない。宗祖は具体的に善、悪、浄、穢という私たちが立場として取りやすい事柄を示して、このようなことを「はからい」というと語られている。そして所々に散見される言葉は「ただ、仏にまかせまいらせ給えと、大師聖人のみことにて候え」(聖典五九三頁)である。若い頃に師・法然上人から聞いた言葉をいつも憶念され、生涯にわたって師の言葉とともに生きられた聖人の姿を思い浮かべる。  ひるがえって、私は先師から「法は法自身によって伝わる」というような言葉を聞いたことを思い出す。報恩講で貴重な時間をいただいて、仏法を語ろうとすればするほど上滑りしそうなとき、先師からいただいたこの言葉に安心し、「法」に託してお話を続けさせてもらっている。先師もまた、仏法をどのように語るか苦労されたのかもしれない。先ほどの言葉は、その苦労の中から生まれ出たものであるように、私は感じている。
親鸞聖人が「他力」をいかに伝えるか、師・法然上人の言葉を繰り返し繰り返し、手紙に認めておられる姿を思うとき、聖人が師の言葉とともに生きられたことをあらためて感じる。
宗祖親鸞聖人の徳を讃嘆する報恩講という場でお話をさせていただく身として、仏法が正しく伝わっていくか心配しつつ、聖人が師・法然上人から聞き取られた言葉をいつも憶念されていた姿を思いながら、お話をさせていただいている。 
 

 

■21 人間であることの問い
実家でもある田舎の寺を手伝わせて頂くようになって今年で六年が過ぎた。月参りが盛んな地域で、親しくご門徒さんと顔を合わせられる大切な時間だと思ってお勤めさせて頂いている。ほとんどの家ではどなたかお一人が私の後ろに参られるのだが、一件だけ必ず家族でお参りされるお宅がある。
そのご家族が熱心になられるのには理由がある。六年前の夏、高校生の息子さんをクラブ活動中に心不全で亡くされ、それがご縁となって皆でお参りされるようになったのだった。息子さんのご両親と妹、そして祖父母の五人が毎月必ず一緒にお勤めをする。そのような一家族の姿をそういうこともあると簡単に片付けてしまえばそれまでであるが、なにしろ毎月必ず、家族そろってという姿勢に何か強い意志を感じさせられる。  お勤めを終えて茶の間で雑談をしていると、「あの子は今何しているんだろうね?」「あの世で頑張っているのかね?」と、まるでどこかで生きているかのような会話に度々なるのだが、私はその会話を大事にすべきだと思っている。なぜならそのような会話となって現われ出る亡くなった息子さんへの尽きせぬ思いが家族を動かし、毎月必ず仏前へと歩ませていると感じるからだ。
言うまでもなく、諸行無常という仏教の教えからすれば亡くなったことを受けとめることが教えに適うことではあろう。しかし、受けとめられない人の心があるのではないか。私には親しい人の死に向き合う一家族の姿を通して、このお釈迦さまと親鸞聖人の姿が思い起こされる。
若き日のお釈迦さまは人の死を目のあたりにされて「生まれることなく老いることなく病むことなく死ぬことのない、悲しみなくけがれのない、無上な、寂静な涅槃を求めねばならないではないか」(山口益編『仏教聖典』一八頁)と、出家を決意されたと伝えられている。そしてお城を棄てて托鉢乞食をしながら導師たるべき師をもとめて歩み出されたのだった。また親鸞聖人は、比叡山での修道に実りを見い出せないままに、「生死出ずべきみち」とは何かを求めて、
百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、(『恵信尼消息』聖典六一六頁)
と、法然上人のもとに足を運ばれた。若き日のお釈迦さまと親鸞聖人は、ともに生き死んでいくいのちをいかに生きるのかにまどい、自らの足で師を求めて歩み出されたのであった。この誰もが道を求めてやまない、人間であることの問いを、一家族の亡き人への尽きせぬ思いが私に教えてくれたのだと思う。
思い起こせば六年前、寺を守っていこうと決心し、意気揚々と自坊に帰ってきた私の姿が確かにあった。その同じ年の夏、若くして亡くなられた高校生の葬儀を勤めさせて頂き、生死の問いこそが門徒さんと私の間を繋ぐものだと確認したはずであった。あれから六年、また今年も夏が近づいてきた。私自身は、その問いを頂き続け歩み続けてきたであろうか。自己自身を振り返らずにはいられない。 

■22 親鸞聖人にとっての本願
親鸞聖人は、自らの回心の体験を『教行信証』の後序に、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記している。建仁元(一二〇一)年は、聖人二十九歳の時で、法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典六二七頁)という教えに出遇った年である。普通なら「ただ念仏せよ」という教えには、「念仏に帰す」と応答する。しかし宗祖は、如来の本願に帰すと言われる。つまり宗祖において、「念仏して弥陀にたすけられる」という法然上人の教えは、如来の本願に帰すこととして頷かれたのである。それは、念仏を救いの手段とすることの問題性、自分に都合の良い救いを実現しようとする人間関心に念仏が取り込まれることの問題性を見抜き、それと法然上人の念仏とが決定的に違うことを明確にすることであった。
本願に帰すということが宗祖にとってどれほど大切であったかは、『教行信証』全体が真実教としての『大無量寿経』の論書であること、つまり本願とその成就という関心で貫かれていることを見れば明らかである。それでは、親鸞聖人は、どのように本願ということを確かめておられるのであろうか。
  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
  覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
  五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方  「正信偈」(聖典二〇四頁)
「正信偈」はその冒頭、阿弥陀如来の恩徳を述べるところで、阿弥陀そのものではなく、いきなり因位の法蔵のことを述べている。親鸞聖人が見ておられた阿弥陀如来とは実体的なものではなく、具体的には、法蔵菩薩が誓われた本願というはたらきであった。法蔵菩薩が、その説法を聞いて自らもその様な世界を作りたいと誓った仏の名が、「世自在王仏」という一人の仏であった。一人の仏の名であるけれども、世自在という名は、すでに法蔵菩薩が、自ら発願して起こすべき願の課題をすでに表現している。それは、世において自在であること。生きとし生けるものすべてが、いきいきと自らの人生を自在に全うしていくという世界という名のりである。その世自在王仏のもとでまず最初に法蔵菩薩が取った態度が、「国を棄て、 王を損てて、行じて沙門と作り」(聖典十頁)ということである。本当に一人ひとりが自在であるためには、先ずは、私たちが日常的に依りどころとしているような、社会や秩序を立場とすることを止める必要があると法蔵菩薩に託して親鸞聖人は説く。それは別に、世捨て人となれということを言っているのではない。それは、私たちの作っている社会や秩序は、結局は誰かの犠牲の上に成り立っているものであることを示されているのである。その根にあるものは、私たちの自我を主体とする執着心である。どこまでも自分を立てていくこころである。そのことを私たちに、自らの態度で法蔵菩薩は示しているのであると思う。
その法蔵菩薩が、誓願(本願)を建てるにあたってまずされたことが、「覩見諸仏浄土因」と言われるように、徹底して、諸仏の浄土の因を見ることであった。浄土がきれいだと結果だけを見るのではなく、その因を見られた。それが「国土人天之善悪」と言われる人間の欲望とそれによって作られる苦しみや悩みの世界を徹底的に見ることであった。
このように親鸞聖人は、阿弥陀の本願を、どこまでも人間がその欲望によってお互いを傷つけあっている現実を徹底して見据え、そのようなあり方から人間を開放するはたらきであると確かめておられたのではないだろうか。 

■23 つねならざる年
遇うということは、その人が生きた時代に、その人の背後にある世界に遇うということでもあるだろう。
親鸞聖人が三部経の千部読誦を発願された年は、一二一四(建保二)年であるという。最終的に読誦は中止された。千部読誦の発願という出来事の背後に時代全体を覆う闇を感じる。それは、困難を前にして何ともならないという諦念であり、何もしたくはないという無気力である。
時代を覆う闇は、千部読誦の発願と同じ年に起きた別の出来事の背後にも感じられる。この年の六月、将軍・源実朝は日照りが続いたため、栄西に依頼し、自ら八種の戒律を守って法華経を読誦した。将軍が自然の恩恵を求めて祈願することは極めて珍しいことである。
鎌倉時代の政治に関する記録である『吾妻鏡』によれば、一二一四年の夏は洪水、日照りなどが相次ぎ、季候は不安定であった。人間の生活は自然の動きに左右される。異常な事態を前に人々は天を仰ぐしかなかったと思われる。
このような異常な季候は政治情勢にも影響する。民衆のみならず、為政者も安定した季候を望む。実朝が祈願した結果、雨が降ったと『吾妻鏡』は伝えている。山本幸司氏によれば、「実朝が単なる政治的支配者にとどまらず、天水の支配力を持つレイン・メーカーの霊能まであわせ持つ人物として描かれていることは、その真偽とは別に当時の人びとの実朝に対する最大級の評価を表していることになる」(山本幸司『頼朝の天下草創』、 「日本の歴史」第九巻、講談社)。つまり、実朝による祈願は、将軍としては前例のないことであり、実に異常なことであったのである。
一方、天皇が祈願することは珍しいことではなかった。実朝以前の政治状況を概観するなら、武力による支配は鎌倉幕府が、祭祀や儀礼を通じての支配は朝廷が分担していたように見える。ところが、実朝が将軍であった時代には、幕府と朝廷の間における支配の分担の境界線があいまいになり、将軍が祭祀や儀礼の領域にまで進出してきた。
伊藤喜良氏によれば、「国土安穏・万民快楽・徳政の興行というような帝王としての役割は、少なくとも初期における源氏将軍にはそのような権威はそなわっていなく、将軍では代位できなかった」。その後、幕府による支配の長期化に伴い、将軍・実朝は支配の基盤をより強固なものとするために朝廷から「呪術的要素や儀礼」を「移入」した(伊藤喜良『日本中世の王権と権威』、思文閣出版)。先に述べたように一二一四年は夏の季候が安定しない年であったと同時に、将軍による支配のありようが変化した年でもあったのである。このような時期に、親鸞聖人の関東での生活がはじまったのである。
一二一四年は、その時代を生きた人々にとって異常な年であった。今日から見れば、そのような異常な年を幾度も経験しながら、人類は歴史を形成してきた、と言うこともできるだろう。人類が経験したことのない事態に直面している今、忘れてはならないことは、異常な年を経て今があるという事実である。異常な年も連綿とした歴史の流れの中にある。歴史の中で孤立したり、隔絶したりしているわけではない。この一年は確かに未来へとつながっているのである。 

■24 慙愧和讃における宗祖の「かたち」
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり (『真宗聖典』五一一頁)
右は、文明本三帖和讃の最後に載る二首の和讃の内の一つである。宗祖晩年(八十八歳のころ)の作で、通称「慙愧和讃」と呼ばれる。なぜそう呼ばれてきたのか、この和讃の不思議な魅力を思う。
「よしあしの文字をもしらぬ」の「しらぬ」は古語で「付き合いがない」「関係がない」「用がない」の意。だからはじめの二句は、「善だ悪だというような尺度でものごとを決めたり選んだりしている生活には縁がない人は皆、まことの心をもっている」という意味。「まことのこころ」は「いつわりのない誠実な心」の意。
昨年の十一月、本山の仕事で北海道に出向いた際、アイヌの人たちにお会いした。皆アイヌ差別と戦ってきた勇者であるが、ものの見方が柔軟で、特に自然に対する敬虔の念が深い。アイヌとはカムイに対することばで、アイヌは人間、カムイは神の意味である。「両者は紙の裏と表の関係で、もしカムイがいなかったらアイヌもいない。友達のような間柄です」と教えてくれた。そういえばアイヌ民族は文字をもたない。すべてカムイから「まこと」をもらってアイヌはアイヌ(人間)らしく生きているので、文字は不要なのだろう。
都を離れ越後・関東において宗祖が触れた人々もそういう人たちだったに違いない。それは、夜明けと共に起き、外の空気に触れて今日の天候を知り、田畑に出て大地に汗して働く人たちであり、一日の仕事が終わると、夕日に向かって今日一日を感謝し、自然の恩恵に頭をさげる人たちであった。宗祖は、そのような人たちの「まこと」に感動すると同時に、今まで求め続けてきた仏道の歩みが、実際は善悪の文字づらにこだわり、その是非を競うという「おおそらごとのかたち(おおきなまちがいをしているすがた)」ではなかったかと気づかされたのであろう。
しかし、「文字づらにこだわる」という「かたち」―書を著し、手紙をしたため、和讃を作り、あらゆる努力をつくして念仏の大道を人々に伝えようとする、その宗祖の「かたち」は晩年になっても変わらなかった。ただ、そのかたちが「おおそらごと」であることへの慙愧は、年とともに深まっていったに違いない。宗祖八十八歳の和讃と言われるこの和讃が「慙愧和讃」と呼ばれる所以ではないかと思われる。 

■25 御遠忌をお勤めして
今年は大震災の年として誰の心にも銘記され続けるでしょう。そして、宗門に身を置く方は皆、震災に思いを寄せつつ、同時に宗祖の七百五十回御遠忌の年として、御遠忌を勤修して意味があったのか、御遠忌は何だったのかと考え続けていくに違いありません。
かつて、ナチスの強制収容所を生き抜いたV・E・フランクルは、生きる意味を問うことについて、その問いの立て方の問題に言及しています。私たちは、人生に、あるいはさまざまな出来事に何かを期待します。そして、その期待が裏切られる時、私たちはきっと人生の意味を問い、何のために生きるのかと自問することでしょう。しかし、フランクルは、
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ(『夜と霧 新版』一二九頁、みすず書房)
と、人生から問われているのは自分の方なのだとして、問いの百八十度方向転換を説きます。そしてフランクルはさらに、
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。…中略…生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(同一三〇頁)
と続けます。人生から問いかけられ、答えを迫られているのは私であり、私がなすべきは課題を果たし、要請を充たす義務を引き受けることである、と教えるのです。
このフランクルの言葉に、私は、宗祖の六角堂参籠を想起します。宗祖は、六角堂に参籠し、夢告を受けて、法然上人のもとへと向かいました。その夢告は、「あなたがいかなる存在であろうが関係ない、あなたが歩む仏道はすでにある、問題はあなたが仏道を歩もうとするかどうかなのだ」、そう宗祖に問いかけたのではないか。そしてそこに宗祖の問いに方向転換があったのではないかと思うのです。つまり、仏道はいかに自己を救うのかという仏道に対する問いから、あなたはいかに仏道に立とうとするのかという、自己に対する仏道からの問いへと転換があったのではないか。そして、夢告を得てすぐさま吉水に向かった宗祖に、私は、自己を引き受け、立ち上がった人間の姿を見るのです。
私たちは、宗祖の七百五十回御遠忌をお勤めしました。御遠忌に何かを期待していた時は過ぎ、すでに御遠忌からの問いに答える責務を負っています。御遠忌をいかに引き受け、課題を果たしていくのか。その課題は、一人ひとり、生きる現場によって一様ではありません。ですが御遠忌は、立ち上がっていく契機を斉しく与えてくれたのだと思います。 

■26 篤信者に学ぶ
日常生活の中で真宗の教えが生かされてはじめて念仏者であることはいうまでもない。単に知識として学ぶだけではない。
小生は歴史分野を研究対象にしており、論文作成で史料調査をした中で感動した印象深い真宗の篤信者が何人かいる。現在も時に思いおこし考えさせられることが多い。
江戸時代中頃、大坂商人に平野屋五兵衛(高木宗賢)という篤信者がいた。彼は大坂今橋一丁目(現在、中央区北浜付近)に住し、両替商(金融機関)を営んでいた。そこは当時、大坂商人を動かす二大銀行のひとつであった。もう一人は天王寺屋五兵衛で、双方とも今橋に居住し、「天五に平五、十兵衛横丁」と称された最有力両替商であった。
平野屋五兵衛は大坂商人に影響力の大きい家職であり、一方で真宗信者として知られていた。彼は東本願寺(大谷派)初代講師の恵空に師事していた。
恵空は教義・歴史・儀式・遺跡などの総合的著書『叢林集』九巻などを著した学僧で、俊秀な門弟を育成した高倉学寮の中心的人物である。当時、講師などの学僧は学寮内の安居で講義するのが基本であった。
しかし、恵空は学寮以外でもたびたび法話を行った。先述の平野屋が施主となって天満本泉寺(現四条畷市)で、恵空を招いて法話会を毎年行った。宝永六年(一七〇九)より計六回である。
大桑斉氏によると、学寮外での恵空の講話は本泉寺で合計九回、八尾別院二回、難波別院一回、長浜別院二回である。ほとんどが大坂あるいはその周辺であった。その法話会を催したのは平野屋五兵衛を中心とする大坂商人らであり、教学者を招いて自らの信仰深化に務めたのである。真宗を日常生活、職業生活に生かそうとしたのであろう。
恵空と平野屋との接点は光徳寺(柏原市)である。平野屋は代々光徳寺門徒であり、光徳寺の支坊が大坂北久太郎町(中央区)にあった。恵空伝の信頼できる『恵空老師行状記』には、二十一歳から二十七歳までは不明朗で記載されていない。その期間、恵空は光徳寺でいわゆる役僧をしていたといわれる(暁烏敏編『恵空語録』)。
恵空はおそらくこの時期に法務のかたわら、勉学に励み、一方で平野屋五兵衛と接触する機会をもったと考えられる。また、五兵衛も恵空の人柄、求道・勉学にとりくむ姿勢に共感し、支援したり師事したのであろう。
五兵衛も商人道を形成する中で真宗に依った価値観をもって職業生活を実践したと考えられる。大坂商人の家訓に「商い」は「報恩行」として行うなどとある。
五兵衛は大坂商人・大黒屋道誓とともに学寮の経蔵一棟を寄進し、広く教団の人材育成に尽力したことでも知られる。
僧侶は篤信者・念仏者が育成されることを願い情熱を注ぐが、逆にご門徒が僧侶を育成することも多々あったことであろう。僧俗ともに真摯に教えを聞き学ぶというところに、門徒としてお育ていただくことをあらためて気づかせていただく。 

■27 弟子一人ももたず
親鸞は弟子一人ももたずそうろう
『歎異抄』第六条の言葉である(聖典六二八頁)。ならば、宗祖には師匠はいなかったのだろうか、弟子はいなかったのだろうか。否、宗祖には「よきひと」法然上人という師がいることを私たちは知っている。そして、真仏をはじめとした多くの門弟がいることも知っている。ならば、宗祖はどうして「弟子一人ももたず」と宣言したのだろうか。
私が学生時代から、ずっと教えを受けてきた先生が、先日私の叔父と初めて対面した。その際、先生は叔父に「義盛君は私の友なんです」と話してくださったそうである。私としては、その先生から多くの教えを受けたし、当然師と慕う方である。しかし、私が師と慕っていたその先生は、私を弟子ではなく友、すなわち共に念仏往生の仏道を歩む者として見ていてくださっていたのである。その先生の言葉によって、私もともに念仏の仏道を歩もうと言うメッセージを聞いた。
「師」と慕っている方が「友」と敬ってくださる、一見矛盾するような感もあるが、これが浄土真宗の伝統であろう。
宗祖はその九十年の御生涯を通して多くの人に念仏の教えを弘めたが、宗祖にとって信心とは自らの力で発起するものではなく、また自らの力で他の人に発起させるものでもなかった。信心とは、どこまでも阿弥陀如来のはたらきによって発起するものであり、阿弥陀如来の前では誰もが煩悩具足の凡夫、一人ひとりが仏弟子である。だからこそ、宗祖は師弟関係を越えた人間一人ひとりの姿を見つめて「弟子一人ももたずそうろう」と宣言された。そして、多くの門弟から師と慕われながらも「弟子一人ももたずそうろう」と宗祖は宣言し、門弟を「とも同行」と敬った。宗祖は門弟をどこまでも、法然上人より受けた選択本願念仏の教えを共に聞く仲間として敬ったのである。重ねて述べるが、阿弥陀如来の前にあっては、師であろうと弟子であろうと、同じ煩悩具足の凡夫であり、仏弟子なのである。
蓮如上人はそのことを、
とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。(聖典七六〇頁)
と了解されている。思えば、
他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまう(聖典五〇五頁)
と和讃にあるように、私たちが釈尊と敬い、教主世尊と仰ぐ方もやはり、同じ念仏往生の仏道を歩む者として私たちを敬い、しかも「わが親友」とほめてくださる。
ならば、私たちが師から受けるのは教えだけではない。教えとともに敬いを与えられている。そして、共に仏道を歩んでいこうと呼びかけられ、歩み続ける原動力をも与えられている。
これが御同朋・御同行の道理なのだろう。 

■28 有縁の法による
先日、日蓮宗主催のセミナーに参加した。このセミナーは日蓮宗教師・寺族・檀信徒を対象に二十年以上開催されている。今回、当教学研究所も招待を受け、聴講することができた。
二百人を超える会場のほぼ全員(私と本願寺派の一名を除く)が、おそらくは日蓮聖人を宗祖と仰ぐ方々だった。日蓮聖人といえば、その著『立正安国論』で、「法然というものあり。『選択集』を作る。すなわち一代の聖教を破し、あまねく十方の衆生を迷わす」と述べ、念仏の教えに対して異論を唱えた人物である。いささかアウエーの感がないわけではなかったが、同じ仏教でありながら立場の違う方々の考えに直接触れられることに胸躍った。それは親鸞聖人の教えのみを学んでおけばそれでよしとしようとする(これは聖人の願いではなく、したがって教えを学ぶことにはならないだろう)、私の閉鎖的かつ怠惰な日頃の姿勢への自身が抱く危機感の裏返しでもあった。
今回のテーマは「震災と祈り―立正安国とは何か」だった。開会に先立って「南無妙法蓮華経」とお題目が唱えられた。外部宗教学者一名、そして宗派講学識と呼ばれる碩学二名によって発題と討議がなされた。「よいことをしたからといって、よい結果が出るとはかぎらない不条理の世界だからこそ、この世は菩薩行をするのにふさわしいんです」と語られた碩学のおひとりの言葉は力強かった。その後すぐに「そう信じたいのです」と言い直されたところにはその方の実直な人柄がうかがえた。
セミナーの議論のひとつは、昨年物議を醸した震災天罰論についてどのように受け止めていくかであった(日蓮聖人は「国が正法を失えば大災害がおこる」と言い、弟子にあてた手紙には「天この国を罰す」という表現がある)。震災を単に「生死無常」ととらえることは無責任対応に陥りやすい、そうではなくむしろ「天罰」という言葉で受け止めたほうが、自分のこととして主体的に考えていけるのではないか、というのが全体の論調だった。
議論はさらに、生き残った者ができることは何かということに進んだ。一人ひとりが法華信仰を確かめ直していかなければならないという見解に大変共感を覚えた。「法華信仰」の部分を「親鸞の教え」に置き換えれば、私たち真宗門徒の取るべき姿勢となるだろう。
それぞれがその縁にしたがって、それぞれの宗祖に出遇っている、出遇いたいと願っている。このことを実感したセミナーだった。 

■29 民の如く生きる親鸞聖人
宗祖七百五十回御遠忌を機縁として、各地で親鸞聖人と浄土真宗をテーマとした展覧会が開催された。聖人と門弟たちの自筆や御影、絵伝などを間近に拝見することで、聖人たちの面影と真宗の息吹を感じたように想う。一見、他の文化財と同じような展示物に見えても、浄土真宗の教えを伝えるために時代を超えて遺された宝物類は、黙してはいるが何かを語ろうとしているのである。
出展された宝物のなかに、親鸞聖人が「花押(かおう)」を記された自筆の書状が数通あった。花押とは署名の一種で、今でいうサインである。元々は名前を崩し字で書いたものであったが、聖人の時代には筆者の意志や主張を文字に込めてデザインした花押が登場していた。すると、花押からは筆者の人格や思想が読み取れるのである。
聖人が何の文字を花押とされたのかは謎であり、あるいは「鸞」を崩したものかという意見もあるが、一説に「如民」と読めるのではないかという興味深い見解がある(『花押読み解き小事典』)。 もし聖人が、 「如」と「民」をデザインして自身のサインとされていたとすれば、そこには何が込められているのだろうか。
聖人の書状は、ほとんどが関東門弟宛であるから、「民」の語からは聖人が終生親しんだ関東の門弟たち、「ゐなかのひとびと」を連想できると思う。もし聖人が「私は民の如く生きる者である」と花押に込められていたとすれば、様々な理解が可能であろうが、私はまず最晩年の聖人が書状で「信心の人は如来に等し」「弥勒に同じ」と繰り返し説かれていたことを思い起こす。
この教えは『教行信証』などにも説かれているが、注意しておきたいことは、京都や奈良の「いみじき僧」(高位の僧侶たち)に向けたのではなく、関東のいなかの人々へ向けて教説されたことである。その根拠は「信巻」に示され、のちに『唯信鈔文意』に展開された元照律師の文、
具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。「世間甚難信」と謂うべきなり。(聖典二三八頁)にある。
聖人が凡愚・下類とされるような「民」と身近に接し、共に生きたのは流罪地越後であり、特に二十年に及ぶという関東時代であったことは疑いない。この人々に向かって、信心を獲た人は煩悩の身のままで無上大涅槃にいたる、如来と等しい位の仏者である。これが煩悩に縛られた凡愚、あるいは下類とされた人々が世俗の常識を超えて仏となる道、本願の仏道であると、聖人は告げられている。
いなかの人々という「民」と同じ凡愚であるという自覚と、本願他力の教えを身証し伝えるのはこの人たちであるという信頼を、聖人は抱き続けた。聖人は関東を離れ京都でその生涯を終えられたが、終生、民の如く生きる関東の仏者の一人であり続けたことが、聖人の花押に込められているように想うのである。 

■30 「であい」の大切さ
毎年、高校の恩師から年賀状をいただいている。高校を卒業してからであるから、もう十数年になる。今年の年賀状には、「この三月で高校教師を退職します」と記されていた。私には、高校時代にこの先生から言われた、いまだに忘れられない、大事な言葉がある。
先生は、私が高校二年生の時の担任で、英語を担当される女性の方であった。何事にも非常に厳しく、豪快で、かつ生徒一人ひとりと真向かいになって相談にのってくれる方であった。高校の中で唯一寺院出身であった私に対しては、特に進路について大変心配をし、様々なアドバイスをして下さった。
はっきりとは記憶していないが、進路を決める三者面談の時であったと思う。進路に悩む私に対して、先生は次のようなことを言われた。「偏差値や就職率で大学を選ぶことは大切なことだ。しかし、本当に大切なのは、大学に進学して、一人の先生、一人の友達にであうことだ」と。当時は、成績の悪い私に対するなぐさめの言葉としか思えなかった。しかし、大学に進学し、少しずつではあるが、親鸞聖人の言葉に触れていくにつれ、先生から言われた言葉の重みを感じるようになった。
親鸞聖人は、『教行信証』「化身土巻」に、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と記され、また『歎異抄異抄』第二条には、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(聖典六二七頁)
と述べられている。これは、聖人が二十九歳の時、「よきひと」法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えとのであいを通して、阿弥陀の本願に帰依されたことを表している。さらに、『高僧和讃』には、
曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし(聖典四九八頁)
と記されている。曠劫多生という長い間、生死を離れる強縁である阿弥陀の本願を知らなかった、もし法然上人がおられなかったならば、一生涯をむなしく過ごしていただろう、と。親鸞聖人が生涯をかけて念仏者として生きていくことを決定できたのは、法然上人とのであいによってであった。
また親鸞聖人は、流罪の地の越後や、その後身を置かれた関東でたくさんの方とであわれ、その方々と共に念仏の教えを聞き、仏道を歩んでいかれた。その意味で、親鸞聖人が歩まれた仏道は、法然上人を始めとするたくさんの方々とのであいを抜きには考えることは出来ないだろう。
現在、全国各地の方々とであう場に身を置いて仕事をさせていただいている。先生ご自身がどのような意図で「であいが大切だ」と言われたのかは分からないが、ただ、今の私にとって「であい」が元気や勇気を与えてくれていることは間違いない。 
 

 

■31 心がおこる
「発心」という言葉は、道心をおこす、菩提心をおこす、という意から転じて、一般には仏門の入門に限らず、目的意識を持って何かを思い立つ意として用いられる。
あるとき、タレントの小泉今日子さんが、「いつ歌手になろうと思ったのですか?」と尋ねられ、「歌手になってからです」と答えていたことに、なるほどと思った。歌手になる前から明確な動機があるはずだと思うと、ぽかんとしてしまうが、歌手になってみてから、はっきりと歌手になりたいと思った、と言うのは率直な思いだったのではないか。目指したきっかけはあったとしても、その気になるということは、その場に身を置くことで、場のほうから引き出してもらうものなのかもしれない。
さて、この私が、お念仏の教えを聞かせてもらおうと思ったのはいつですかと尋ねられるとどうであろう。お寺に生まれたことが大きなきっかけとしてあるにせよ、いつの間にか聴聞の場に身を置いていた。しかし、実感として大きなことは、聴聞の場に身を置くことを通して、聴聞していかねばならないという心を引き出してもらっているということである。私が思い立って聴聞の場に足を運んでいる、というより、教えのほうから聴聞する気を起こしてもらっているように感じるのである。聞法する機会に出遇ったことは不思議としかいってみようがないが、私が、先立って教えを聞こうという心をおこすのではない。教えに触れて、教えを聞いていこうという心を賜るのである。
親鸞聖人は、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(「総序」聖典一四九頁)
と、念仏の教えに出遇わせてくださった「宿縁」に対する慶びを表白されている。そして、その慶びについて、
「慶」は、うべきことをえて、のちによろこぶこころなり。(『一念多念文意』聖典五三九頁)
と言い表しておられる。つまり、念仏の教えに出遇いえて「のちに」、出遇うべく願われ続けてきたという「宿縁」を知り、よろこんでおられるのである。かねてから「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』)と呼びかけられてあったことを今知り、その願いに応えるべきわが身を知らされる。そのよろこびは、目標を実現したときだけの達成感のような、ひと時のよろこびではないのである。教えに出遇うからこそ、教えから問われ続け、教えに聞き続けていく身をいただく。聞法の場は、私を立ち止まらせる場ではなく、教えに触れてみて、いよいよ聞いていかねばならないという心がおこる、歩みだしの場であることを教えられてあるように思う。
すでに聞かせていただいていること、共に聞かせていただく人たちの姿。それらに背中を押されて、私はなんとか聴聞の場に足を運べているのだと感じている。 

■32 明易や
明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀 (高浜虚子)
六月下旬のある席で、この高浜虚子(一八七四〜一九五九)の俳句を知る機会を得た。「明易」とは、夜が明けるのが早い、夏至前後の短い夜のことを意味する季語であり、ここでは、「短い明易い人間」(虚子談)を意味している(以下、『高浜虚子の世界』〈角川学芸出版、二〇〇九年〉他参照)。そして「花鳥諷詠」というのは、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂」という、「客観写生」と共に虚子が提唱した俳句の理念である。この句は、虚子が八十歳の時(昭和二十九年)の句である。「明易」という季語を前に、自らの人生を思い起こす時浮かび上がる、花鳥諷詠と南無阿弥陀(仏)を詠み上げた句と思われる。
高浜虚子は、正岡子規に師事したことが知られている。その子規との出会い、そして朋友の河東碧梧桐との確執、その後勃興する新興俳句との関わりという俳句人生を思い起こしながら、「俳句は『花鳥諷詠詩である』と断じた事は、私の一生のうちの大きな仕事であったと思う」という辞が示すように、虚子自身が出会った俳句が、この花鳥諷詠であったことがわかる。  この花鳥諷詠とともに 、ここに南無阿弥陀仏がある。虚子は東本願寺の門徒であり、若い時には、暁烏敏、そして句仏上人(大谷光演)との出会いがある。虚子の辞世の句は、句仏上人十七回忌の時(昭和三十四年)に詠んだ、「独り句の推敲をして遅き日を」が知られている。あまり表に出ることはないが、虚子の俳句には、この南無阿弥陀仏への「信仰」があることが、これらの俳句によって知ることができる。
俳句については初学の筆者だが、季節の移り変わりの機微の一つひとつに季語があり、その季語によって映し出される詩情の世界を、十七文字に表現する俳句のもつ魅力、形容しがたい力強さを感じるものの一人である。この花鳥諷詠とともに虚子は、「客観写生」を唱える。あらゆる主観を離れ、小さな感動をも消し去ろうとする姿には、厳しさが同居している。「俳句は沈黙の文芸であります」という虚子には、言葉を超えた沈黙を生きる姿があるように思う。このように主観を離れ自然を詠むということの中には、単なる自然賛美とは違うものがあると思うが、これからまた探っていきたいと思う。
主観を離れ、そのままありのままに見ていくというのは、阿弥陀仏の心に通ずるものがあるようにも思う。そのままありのままというのは、その現象の根源を照らし出す光であり、あらゆる生死勤苦の姿を浮かび上がらせる眼差しだともいえる。そこに、本願を建立しようとする、不可思議なる法蔵菩薩の初一念の声がある。  六月のこの季節、虚子の大切な句を知る機会を得たことから感じたことを記させていただいた。 

■33 手話から問われたこと
テレビの歌番組で「いのちの理由」という歌が流れていた。ベテランの女性歌手が手話をまじえて優しく語りかけるように歌っていた。テレビの字幕に歌詞が表示されており、歌詞と手話が対応していて、手話にまったく知識がない私でもわかるところはあった。そのなかで「幸せ」という部分は、あごに手を当てて下になでるような表現をされていた。この部分はどういう意味でこのような仕草をされるのか、たいへん気になった。インターネットで手話の研究所のホームページを開いて問い合わせたところ、あなたの住んでいる町の近くに県立聴覚障害者センターがありますからそこを紹介しますといわれ、県立聴覚障害者センターに電話した。
手話を習いたいということではなく、ただ表現の由来を知りたいということだけでたいへん失礼ではないかと伝えたが、どうぞお越しください、ということで直ちに訪問することになった。私のために一人の方が時間をさいて応対してくださった。あごに手を当てて下に長く伸ばすのは「好き」という表現ですと言われた。「幸せ」という単一の表現はありませんので他の表現で表します、ということであった。
いろいろな話をうかがっているうちに、聴覚障害の人たちが置かれている状況に話が展開していった。昨年の東日本大震災のとき、避難情報などは防災無線で呼びかけられましたが、聴覚に障害のある人たちは聞き取ることができません。それで、今何が起きているのかわからない。聴覚に障害のある人たちは目から入ってくる情報が頼りです。津波などの情報がわからないため、逃げ遅れて多くの人が亡くなりました、という話をされた。さらにその方は、その歌を知りませんので私見となりますが、と断られたうえで、手話に関心をもっていただけるのはありがたいですが、歌に手話をつけて表現するのは聞こえている人たちの文化です、そこに聴覚障害の人がいたのでしょうか。誰を対象に歌っているのでしょうか。そこまで掘り下げてほしい、と言われた。また、手話はコミュニケーションの手段です。役所などの窓口に手話ができる人がいれば、聴覚障害の人たちの世界はずいぶん変わります。医療機関にかかろうと思っても、まず対話が成り立たないとだめです。バリアフリーといいますが、アクセスの問題があります。利用可能にしていくという仕組みが社会の側にあります。社会の側が変わっていくことが大事です。このような多岐にわたる話を聞くことになった。
「聞こえる人たちの文化です」ということばには強く響くものがあった。「共に生きる」と標榜している私たちであるが、どのような人と共に生きようとしているのか。最も基本的なことが問われているように感じた。終生、世の人々と共に生きることを願われた宗祖親鸞聖人に、身を入れて尋ね直さねばならない。 

■34 山を出でて
「山を出(い)でて、六角堂に百日こもらせて給いて…」これは、親鸞聖人命終の知らせを受けた越後住いの妻恵信尼が末娘覚信尼へ宛てた返信の手紙の冒頭の一節である。「山を出でて…」―私はこの文字を読むと、曽我量深先生が『精神界』に載せられた「出山(しゅっせん)の釈尊を念じて」という文の次の一節を思う。「我は徒(いたずら)に出家入山の釈尊を逐(お)ふて、出山の釈尊を知らなかった。釈尊は已(すで)に山を出でて、聚落(じゅらく)に来り、又霊山法華(りょうぜんほっけ)の会座を没(もっ)して王宮(おうぐう)に降臨ましましたではないか。惟(おも)ふに釈尊入山の後を遂ふは小乗仏教であり、釈尊出山の大精神より出立するが大乗仏教である」と。
「山を出でる」ということは大乗仏教の道を歩む者の必然の道であると曽我先生はおっしゃる。そうであれば、この恵信尼の手紙の冒頭は、親鸞によって誓願一仏乗たる浄土の真宗が開かれる契機となった出山の経緯を覚信尼に伝える大事な手紙となる。手紙は出山からはじまって六角堂夢告→法然上人との出会い→上人への帰依→下妻での夢→恵信尼の親鸞帰依の表白→覚信尼への同意の催促…と続く。長い手紙だが 、内容は豊かで深い。
『大経』が説く釈尊の入山は、「老病死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」と述べられている。しかし、その入山においての悟りは、梵天による転法輪の勧請によって出山へと転じ、「もろもろの庶類のために請せざる友と作(な)る」のである。仏道とは、この入山から出山へと転ずる道程を指すのだろう。世間に背を向けて山に入って学んだ者が、そのままそこに居座ったら仏道は消滅する。声聞とはそこに居座る者を言う。だから「声聞は…仏道の根芽を生ずべからず」と曇鸞は言う。
ふりかえって恵信尼の手紙を読むと、冒頭の短い文のあと、「山を出でて…」と親鸞の出山を語りだす。推定だが、恵信尼は覚信尼の手紙の中に、父への不信が潜んでいることを感じたのではないか。あのころの時代は、古代から中世への急激な転換期で、世情が混乱を極め、加えて地震・台風・洪水・冷害・干ばつ・大火などが頻発し、その結果として凶作・飢饉・疫病などがうち続き、民衆は明日ともしらぬ命におびえながら苦境にあえいでいた。
しかし、そのような苦悩に寄り添うべきはずの仏教は、密教的修法による加持祈祷や浄土教的な臨終来迎往生説などによって一時的な慰安を与えるに過ぎなかった。そのような社会の雰囲気の中に育った覚信尼は、父の臨終に何の奇瑞も起こらなかったことに疑問をもち、その父の一生の歩みが声聞的であったと誤解したのではないか。
「山を出でて」からはじまる恵信尼の手紙は、その覚信尼の不信を氷解させ、親鸞への崇敬と帰依の念を生じさせた。そのように思うと、覚信尼から始まる本廟護持の精神は、この手紙から出発したように思われる。ともあれ、この恵信尼の手紙は、われわれ真宗人が立脚すべき地(じ)を示したものと言えるのではないだろうか。 

■35 念仏の本源を尋ねる
親鸞聖人は、法然上人の教えによって頂かれた称名念仏について、
「選択易行の至極」(行一念釈・聖典191頁)
と言って、一切の衆生を平等に救うために選び取られた究極の易行であると言われる。正に念仏は、誰もがたやすく、どこでも、いつでも出来る行であり、だからこそ、一切の人々が漏れることなく、平等の救いが実現されるのである。
しかし、親鸞聖人は、その究極の易行をただ単に頂かれただけではなく、なぜそのような易行念仏を選択されたのかと、阿弥陀仏の選択の願心を尋ねていかれる。そこで、
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることをあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう」(『歎異抄』聖典627頁)
と、本願をおこされた本意を明らかにされたのであった。阿弥陀仏はなぜ念仏を選びとられたのか、その本源を尋ねると、そこには正に煩悩具足の凡夫としての自己のためであったと、自己のすがたが明らかにされるのである。念仏を選びとられた本願を明らかにすることは、同時に真実の自己自身を明らかに知らされることにもなるのである。正に念仏を尋ねていくことは、真実の自己自身との出遇いでもあり、そのことによって、はじめて念仏を頂くことが出来るのではないだろうか。正に、選択の願心の本意を尋ねることが、信心の課題であることが窺われる。
曽我量深先生は、そのような行の一念について、
「最後最終の一声」と言われ、それに対して信心の発起する信の一念については「最初の一念」を示すと言われる(『開神』「「行の一念」と「信の一念」」『曽我量深選集五巻』108頁)。
その事を川の流れに譬えれば、行の一念は、あらゆる念仏を伝え流れてきた歴史伝統の最終最後の到達点であり、信の一念は、そうした流れが涌き出る本源の泉を尋ねあてたことになる。
私たちはその本源を尋ねることを辞め、伝えられた結果の念仏ばかりを我が物に奪い取ってはいけない。どこまでも流れついた最後の念仏をもとに、その念仏がどこから起こってきたのか、その本源を尋ねていかなければならない。そうでなければ、一声の念仏は最後とは頂けずに、念仏を手段として、更なる結果を求めることになるであろう。そこでは念仏は自力の念仏となり、臨終来迎を祈る念仏となってしまう。
そうではなく、念仏は最後の一声であり、その念仏の一声において、人生のあらゆる経験がこの一声に到達するためのものであったと、あらためて自分の人生を捉え直すことができるのではないだろうか。曽我量深先生は、日々の念仏とはこの最後の限りなき連続であると明かされた。
正に念仏を選択された本源の願心を尋ねあてたとき、念仏は最終最後の一念であると肯かれるのである。お念仏申すとは、そうした大いなる流れの中に自己を見出し、その流れにまかせきる自身として、そこに立って生きていくことではないだろうか。 

■36 「いなか」はどこにあるか
いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。……(聖典559頁)
以前から「いなか」という言葉の語感が気になっていた。「いなか」という言葉は都会から遠く離れた土地、あるいは郷里といった意味で用いられることが多いように思われる。親鸞聖人の時代も同じ意味で「いなか」という言葉が用いられたのだろうか。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「いなか」は「中世では京都郊外よりさらに外の地、また単に地方の意にも使われたらしい」とあり、この他にも「上代のいわゆる両貫貴族の本貫の地、すなわち生産を営む場をさす場合」もあったと説明されている。「いなか」が「生産を営む場」に近い意味で用いられている例として『方丈記』の次の部分を挙げることができる。
……京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。……(『日本古典文学大系』第30巻、岩波書店)
鴨長明は養和元年(1181)年前後の時期を回想して、当時の世の中の動きについて述べている。親鸞聖人が出家された時期のことである。都の物質的な豊かさは「いなか」から集積された富を基礎としている。豊かさの源泉は「いなか」にあったのである。長明は災害に関する記述を通じて、「いなか」に依存した都の生活が脆弱であることを指摘している。物質的な豊かさに内実がないと認識していたからこそ長明は必要最小限の「方丈」(畳の間で言えば四畳半)の生活を実践したのである。
もう少し広い視野から解釈するならば、鴨長明や親鸞聖人の時代には、「いなか」から都へと向かう富の流れが変化しつつあった。平安時代後期において「院の権力は、諸国の富を集め、蕩尽する装置として機能した」。だが、平氏政権の終わりとともに、支配者が統率する一極集中的な「蕩尽する装置」にもほころびが生じて、「荘園領主の経済圏と金融業者の経済圏とが互いに支えあい、表裏を成す体制」へと移行した(本郷恵子『蕩尽する中世』新潮社)。当時の人々は都の華美な文化が朽ち果てる姿を眺めつつ、「みなもとは田舎」という実感を共有していたのではないだろうか。
現代においても「みなもとは田舎」という表現は過去のものではない。都市の内部で自給自足の経済圏が確立できない以上、つねに「みなもとは田舎」である。だが、生産・流通・消費が世界市場と結びついた現代において、一国の内部に「いなか」を発見することは稀である。例えば、コンピュータ機器を分解すると、複数の国で製造された部品が国境を越えて一つの枠の中に収まっていることに気がつく。このような場合、生産の場である「いなか」を特定することはできるのだろうか。おそらく、現代の「いなか」は、複数の国々がつながり合う関係性の中に存在するのだろう。 

■37 花からの愛情
「癒し」ということが最近よく言われるが、それはいま私たちが、さまざまなストレスで日々疲れ切っていることの裏返しであろう。確かにそうだと思う。
昨年の春以来、大阪の南河内から京都の教学研究所まで通勤している。京都駅から高倉会館の裏手にある教学研究所の建物まで歩いて十五分程度だが、その途中に、道路際に鉢植えの花をいくつも並べておられる家がある。四季折々に、いろんな花が顔をのぞかせている。毎朝その家の前を通りながら、何かホッとするものを感じさせてもらっている。
長い花だと、下の方から上の方へ次々と二ヶ月ぐらい咲き続けるものもある。最後の一輪が咲き終わる時には、長い間楽しませてくれて有り難うと、お礼を言いたい気持ちになったりもする。花の世話をしておられるその家の方を見かけることもあるのだが、「いつも楽しませてもらっています」と挨拶をさせて頂きたいところだが、見ず知らずの私がいきなり声をかけたら、きっと驚かれるであろうと、そのことは果たせないでいる。
以前、平野修先生が、「化身土末巻」の『大集経』「月蔵分」の「地の精気・衆生の精気・正法の精気」(聖典三七七頁)に触れての講義の時であったと記憶しているのだが、「皆さんは、なぜ私たちが花によって癒されると思いますか。それは、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているからですよ」というお話をされたことがある。
多くの人は、この話を聞いたときに、動物でもない植物である花に愛情というような心があるはずがない、と思うにちがいない。そのような私たちの思いを、平野先生は見透かしておられたのだろう。その言葉に続いて「月蔵分」の「地の精気」という経言を紹介されて、「このように大地に心があるように、花にも心があるんですよ。」と話された。
私はそれ以来、いろんな花に出会うたびに、とくに行きずりに花に出会うとき、平野先生のその言葉を思い出す。そしてますます、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているということは間違いのないことだ、という感を深めている。ご縁を頂いたお寺の法話でも、時にこのお話を紹介している。
いのちというものが、いよいよ見えにくくなっているという現状がいま社会の中にある。先日も大阪でホームレスの人たちを手当たりしだいに襲っている若者の記事が載っていた。他人のいのちを軽く扱ってしまうということは、おそらく自分のいのちの尊さにも出会えていないのであろう。そしてその根本には、彼ら自身が「愛されている」という実感を持ったことがない、ということがあるのではないか。
七五〇年前、親鸞聖人はどのように花々と出会っておられたのであろうか。 

■38 教如上人と「ふるさと」
本年は東本願寺を創立された教如上人の四百回忌に当たる。上人は信長・秀吉・家康と対応し苦労されたことでも知られる。
上人の人格形成の一端は「頭」ではなく「肌」から感じとられたことが大きく影響していたのではないかと考える。上人は大坂(石山)本願寺で永禄元年(一五五八)誕生され、二十三歳まですごされた。その間、全国各地から本山へ上山した門徒の姿、同朋・念仏者が集う解放的な寺内の環境などを眼前にした日常であった。その環境が自ずと上人の人格や志願を育くんだといえるのではないだろうか。誰もが「ふるさと」の風景が生涯忘れられないのと同様である。
上人四歳の時、親鸞聖人三百回御遠忌が十昼夜盛大に厳修された。御影堂、阿弥陀堂で法要があり、初めての行道が行われ、沢山の参詣者があった。幼い上人にとってたいへん印象深い法要であったことだろう。
祖父・証如上人の時にできた寺内町には、各地から商人や手工業者らが集まり自由に営業する念仏者の活動、あるいは寺内各町の「綱引き大会」、能の観賞など文化的な行事が活々と繰り広げられた。そのような同朋・同行の姿を見ながら上人の日常は過ぎていった。
しかし、上人十三歳の時、信長との石山合戦が始まる。各地から番衆として門徒が上山し、本山・御真影を護るための必死のはたらきを上人は見られた。各門徒にはそれぞれ家族もあったことである。その心情も上人は察知していたであろう。
石山合戦終結の和睦に対し、父から義絶されながらも徹底抗戦を主張し籠城した上人の決意の背後には、上述の門徒・同行の行動があったと考えられる。宗祖を慕う真摯な門徒の心に共感された上人といえよう。上人の消息に「宗祖聖人の御座所を仏敵の信長軍の馬のひづめにけがされるのは無念」とある。この文言の根底には門徒が本山を死守してきた心情がうかがえる。
「本能寺の変」後、本願寺は鷺森から貝塚、そして天満へ移転するが、その際、上人は秀吉政権の中枢にいた千利休に積極的にはたらきかけ、大坂に天満本願寺を成立させた。
また、上人は東本願寺創立以前、隠居中の文禄五年(一五九六)、大坂に「大谷本願寺」を建立した足跡がある。その地は敢えて大坂城の北、渡辺である。これも天満本願寺と同様、旧縁の大坂本願寺を意識してではないだろうか。
上人は東本願寺御影堂建設中に巨大な梵鐘を鋳造している。これは現在の東本願寺阿弥陀堂内に安置されている。その銘に「大坂大工浄徳」とある。「浄徳」の人物については不明であるが、法名であることから大坂の門徒と推定される。先の大谷本願寺の梵鐘銘にも大工は大坂の「我孫子杉本」(現大阪市住吉区)の家次という。
教如上人はこれらの職人に大坂本願寺時代に出会ったのだろう。二十三歳まですごされた大坂本願寺・寺内町には「仏国土」ともいえる「報恩行」で活動する門徒の世界の雰囲気があり、それが上人の願われた教団のかたちとなっていったのではないだろうか。 

■39 芯
子どもたちが巣立って、二十年が経った。まだ核家族という言葉の珍しかった頃には、老い二人の日が、こんなに早く訪れようとは思いもせずにいただけに、驚くのである。
世界にも前例のない経済成長を遂げた日本の激しい変わり方は、一人ひとりの人生や家族の生活、さらには、社会状況や自然の生態系にまで及んでいることは、「身土不二」の教語に照らしても、道理の示す所である。
ところで、我が家では事情あって、五、六年前から、家事のほとんどが我が務めと相成り、一年を通して台所に立つことになっている。朝、台所からコトコトと聞こえる包丁の音で、目を醒ましていた頃の気分はとっくに消えて、時に哀れをもよおすこともあったが、ほどなく、「台所も、これまた聞法の道場よ」と、心は決まってきた。
少年の頃から寺で四世代、十三人の大世帯の中で育ったので、食事の手伝いも珍しくなく、学生の頃の自炊生活も、今は助けとなっている。
気がつけば、素早く要領よく、しかも栄養も片寄ることなく作るということが、出勤前の朝食の準備の掟となっていた。
南瓜、玉葱、キャベツ、人参、大根、椎茸に玉子に竹輪、すり胡麻、出しじゃこ、そこへ時には季節の青物と前日の残飯を入れての味噌仕込みの雑炊が、三百六十五日、朝食の定番となっている。
ところで地元の朝市から、丸ごと求めてきた特大のキャベツを、上の葉から切り離しては使って一ヶ月ばかりが経ったころ、その真ん中あたりが脹れ出してきたのであった。そして冬が近づきキャベツにとって替わった白菜も、春間近のころには花芽がのぞき出してきた。根を切られても、なおその芯が含んでいる養分を糧に、生命を継ぎ生きんとするその姿に、私は驚いた。生命の要は、まさに「芯」にあったのである。
「マニュアル」や「システム」の改革も必要であろう。だが何よりもまず家庭や学校で親や教師が、この子やこの生徒のその「芯」はどこにあるのか、と見守り育むところに、そして一方で子どもや生徒達は、自分に向けて下さっているその気持ちを、じっと胸に手を当てて聞いてみるところに、心が通い合いそれぞれの歩む道が見つかってくるに違いない。
仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。(『唯信鈔文意』聖典五五四頁)
との、聖人の教語を思い浮かべるほどに、いかに五濁悪世の度合いが進もうとも、人類のみならず、無辺なる衆生のすべてに通底する「いのち」(仏性)こそが私達人間にとっても「芯」であるという事実に目醒めるところにしか道はないとの思いが、年々に深まってくるのも、加齢のためとばかりとは、思われないのである。
この人間の道を、聖人との出遇いのなかに生涯を尽くされた教育者の、
私どもは、自分の生涯でただ一度、それも五十年、六十年前にお会いしただけでも、一緒にいて離れないという実感がする人があります(中略)一度も出会ったことがなくても、場合によっては生涯、自分と一緒にいる人があるわけです。 (廣小路亨「一期一会」『縁に随う』)
との遺語が、いよいよ身に沁みるのである。 

■40 思いと願いが声になって
真宗大谷派仙台教区主催で行われた「3・11東日本大震災・心に刻む集い」に教学研究所のメンバー二名とともに参席した。あの震災から二年と二日たった三月十三日のことである。杜の都・仙台の中心部にある会場の仙台国際センター大ホールは約千人の聴衆でほぼ満席だった。招待席には原発事故で全町民が避難を余儀なくされ、現在は福島県いわき市の仮設住宅で過ごす多くの方々が座っていた。
嘆仏偈が厳粛に勤められ、集いは始まった。震災に遭い、震災問題と向き合う二人の僧侶が登壇し、いまの思いを「私は聞く」という形で吐露した。
私は聞く、あなたの悲しみが分からないから。
私は聞く、お前には分からないという慟哭を。
この最初の二句には、これまでの支援がいかに精神的な重圧のなかでなされてきたか、いかに苦労の多いものであったかが綴られていた。さらに「聞く」対象は被災者の叫び、汚染された大地の呻き、素朴であるがゆえに胸が痛まざるをえない子供の願いなどへと広がっていった。そして「今に生きる。今に生きる。南無阿弥陀仏」で閉じられた。
次にさまざまな立場にある七人がリレートークの方式で思いを語った。当時実家を離れて高校生活する自分に「あなたはそこにいなさい」とメールを残したのを最後に津波で流された母親との思い出を語る大学生、「申し訳ないという気持ちでやっている」「支援する者・される者の関係をこえて、人と人という関係ができてきた」と語る被災地で支援活動する人たち、「本当に申し訳ない」と涙する甲状腺検査の数値が思わしくない子供を持つ母親、「なぜ検問を受けて一時帰宅しなければならないのか」とやるせない心情を述べる原発事故のために故郷を離れて生活をする人などの声が会場に響きわたった。
最後に被災地で支援ライブを行っている二組の歌い手によるライブがあった。「三百六十五歩のマーチ」「上を向いて歩こう」など十曲以上が歌われ、会場は一体感で包まれた。「自分たちはなにかを言うよりも、歌で思いを伝えたい」。そう語る男性ボーカルの声は、支援のあり方のヒントを教えてくれているようだった。それは「自分のフィールドで自分のできることをする」ということである。したがって支援のあり方は人それぞれであり、被災地に出向く形もあれば出向かない形もあるのである。
翌日、私たちは石巻市の大川小学校に向かった。津波で全校児童百八人のうち七十四人が死亡・行方不明となった小学校である。変わりはてた校舎の横には慰霊碑が建てられ、多くの人がお参りに来ていた。「おとうさんおかあさん、もっとみんなといっしょにいたかったよ」。そんなたくさんの声なき声がこだましているかのようだった。
二年たっても震災・原発問題はまだまだ終わっていない、風化させてはならない。このことを身をもって再確認した三日間だった。 
 

 

■41 真宗移民の記憶
真宗の移民といえば、明治初期の海外移民が思い浮かぶが、江戸時代にも集団移民があった。いわゆる労働移民とは異なる、真宗の信仰と生活習慣を護り続けた人々を「真宗移民」と呼ぶ。
最初は、天明の大飢饉と間引きの流行により荒廃した関東幕府領を、越後門徒の移住によって回復させようという合法的移民であった。北陸地方は間引きの悪習がなく、人口も多い真宗地帯であった。しかし北関東の荒廃は続き、やがて藩が禁じる非合法的移民(走り人)が始まる。親鸞旧跡寺院の稲田西念寺良水は笠間藩(茨城県)と語らい、真宗移民によって間引きを絶ち農村復興を目指した。北陸前田藩領からの移民は関東旧跡巡拝を口実にしたが、やがて発覚し頓挫する。その後、真宗移民の引受先となったのが同じく飢饉で荒廃した相馬中村藩(福島県浜通り地方)である。
文化八年(一八一一)の入植以来、真宗移民は藩より厚遇されたが、信仰や習俗を巡って地域との摩擦は消えず、移民門徒は真宗寺院や講を中心に結束し信仰を護り続けた。以降も移民は続き、各地の真宗寺院や門徒の支援を受け相馬を目指し、約三十年間で移民数約九千人、開墾地は約三万石に達したという。
真宗移民の尽力で復興を遂げたかにみえた相馬中村藩を天保の大飢饉が襲うが、弘化二年(一八四五)より藩民一体の一八〇年に及ぶ復興計画(報徳仕法)を実施する。この計画は明治維新で途絶えたが、真宗移民はこの時も尽力したという。
前田藩領内では縁者から移民が出たことが発覚すれば厳罰を受ける。送り出した人々は移民を懐かしむことも許されず、真宗移民は歴史の彼方へ消えたかに見えた。しかし、移民の子孫たちは先祖が北陸出身であることを語り継いでいた。3・11直後、子孫たちは支援に駆けつけた越中門徒に、故郷を同じくする自分たちの先祖について問うたという。二百年の時を超えた再会である。
現在、原発災害が特に深刻な福島県浜通り地方は、放射線による健康不安とともに、人口流出による地域衰退への危機感が増している。この過疎化と高齢化の加速は、実は全国でも起こっている問題である。国の農林業政策への不信感、更に地球温暖化が原因とされる近年の異常気象が地域住民の不安を煽り、郷土の荒廃が進みつつある。
原発災害は自然界が長い時間をかけ減らした放射線量を逆戻りさせた。地球温暖化と同じく人間がもたらした人災であり、目先の政策では解決しない。私たちは、この事実を便利さを求め続けた業果と受けとめ、未来世代に害を残さぬよう、今の生活を問い直さなければならない。原発被災地と同質の問題が全国で起きている今、かつてこの地の復興に尽くした真宗移民の歴史に学びたい。時代は変わっても、復興の手がかりは真宗移民の記憶のなかに遺されているはずである。 

■42 凡夫の歴史
福井県を訪れた際、勝山市にある白山神社へ連れて行っていただいた。養老元(七一七)年に創建された古社で、中世以降、白山信仰の拠点寺院であった平泉寺の旧境内である。平泉寺は、四十八社、三十六堂、六千坊といわれるほどの巨大な宗教都市を築いていたが、一向一揆勢力の攻撃により全山焼失したという。その後近世にやや復興したが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって平泉寺は廃寺となり、今は遺構をのこすのみである。その平泉寺の廃墟跡に立ち、一向一揆と対立した人びとの逃げまどう姿を想像しつつ、織田信長によって虐殺された一向一揆の人びとや戦国の戦乱で亡くなっていった人びとのことを思った。一向一揆の戦いがもつ意味をあらためて考えさせられたひとときであった。
学生の時、聖人の御生涯以外の歴史にはほとんど興味がなかった。しかし入所以来、広く仏教史から近現代の教団の歴史まで学び、考える機会をいただいて、よく戸惑いを覚えた。それまでは、歴史の一部分を切り取ってあれは間違いだ、これは大事だといって済ませていればよかったが、知るほどにそれでは済まないことや異なる見方にであってしまう。そして、歴史に対する善悪の判断や、否定、肯定は簡単にできるものではないということを知り、戸惑うのであった。それは単に判断がつかないという戸惑いではなく、自分の立ちどころがどこにあるのかと歴史を通して問い直される経験であったと思う。
歴史は単なる事柄の羅列、時間の経過ではなく、人の生きた歴史である。そして、それは「凡夫(ただひと)」(聖典九六五頁)が生きた歴史である。英雄や偉人の歴史もまた「凡夫」の生きた歴史である。すばらしい業績に意味がないということではなく、誰もが「凡夫」であるという一点を外すならば、結果として、人間の中に正邪や上下といった価値体系を作り出すほかない。どの人の歴史も、様々な縁によって生きた存在の歴史の他ではなく、その歴史が、逆に、縁によって様々な在り方をしてきているわが身を浮かび上がらせる。「凡夫」の生きた歴史は、わたしが「凡夫」であることを証しするのである。そして歴史の方が、「凡夫」であるお前はどう生きるのか、と問うてくるのである。
だから私にとって歴史を知ることは、歴史の中におぼろげに浮かび上がる人間の姿、物言わぬ他者との対話のようなものの気がする。「なぜこのような歴史になったのか。あなた方は何を、なぜ、どのように求めたか」。その問いは、自ずと自分自身に還ってくる。「あなたこそ凡夫であることを見失って、何を求め、どう生きようとしているのか」。歴史は、そう私に問いかけ、見守ってくれているようにも思えてくる。こうして、教団を含めた、歴史を学ぶことは、いつの間にか、私にとって真宗の学びの一つとして大切なものとなっていた。 

■43 親鸞聖人と『観阿弥陀経』
『観阿弥陀経』とは、『観経阿弥陀経集註』、『観無量寿経註・阿弥陀経註』などとも呼ばれる親鸞聖人の著作である。この著作は、料紙に『観無量寿経』と『阿弥陀経』が書写され、その経文の行間、経文の上下の欄外、紙背に善導大師の著作を中心に、こと細かく註記が施された巻物仕立てのものである。
昭和十八(一九四三)年二月に西本願寺より発見され、翌年影印本が刊行されている。影印本の解説には、「二経を分離して両巻とし」とあることから、もとは一巻であったと考えられる。高田派専修寺には存覚書写本が所蔵されているが、それには「観阿弥陀経」と題号が付され、奥書には「二経一巻」と記されている。ここから、「観阿弥陀経」が原題名ではなかったか、と指摘されている。
もちろん、『観阿弥陀経』という経典が存在するわけではない。しかし、二経に註記が施された聖人の著作に「観阿弥陀経」という題号が付されるところには、『観経』と『阿弥陀経』を「二経一巻」として受け止めていかなければならない必然性があることが示唆されているのではないだろうか。その意味で、「観阿弥陀経」という題号に、重要な意味があるように思われる。
『教行信証』「化身土巻」に、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と述べられるように、親鸞聖人は二十九歳の時、法然上人の本願念仏の教えとの出遇いを通して、阿弥陀如来の本願に帰依された。それから越後へ流罪となる三十五歳までの約六年間、法然上人のもとで多くの門弟と共に、本願念仏の教えを懸命に聞き続けられたのだろう。『観阿弥陀経』は、筆跡や引用文などから、吉水にいた頃にはほぼ完成していた、と先学によって推測されている。吉水時代に親鸞聖人がどのような学びをしていたのかを具体的に示す史料はほとんどないため、『観阿弥陀経』は、若き聖人の学びが窺える重要な著作と言えよう。
『観経』の流通分に、
汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。(聖典一二二頁)
と説かれ、『阿弥陀経』には「名号を執持せよ」と勧め、そのことを六方の諸仏が証誠することが説かれている。『観経』と『阿弥陀経』に一貫して説かれていることこそ、本願念仏である。法然上人の本願念仏の教えを、この二つの経典の上に確かめようとした著作が『観阿弥陀経』ではないだろうか。このような親鸞聖人の学びは、主著『教行信証』にも展開するものと考えられる。その意味で、『観阿弥陀経』は、親鸞教学の原点を明らかにする著作と言えるだろう。
「本願念仏の教えに出遇ってほしい」。『観阿弥陀経』は、私にそのように呼びかけているように感じる。 

■44 「伝親鸞聖人筆」名号について
「伝親鸞聖人筆」とする六字名号と十字名号が二幅づつ、高山教区内の四か寺に伝来する。六字名号には「善信(花押)」とあり十字名号にはない。署名・花押、書体も聖人真筆ではない。それらの寺院は御旧蹟でもなく伝来は不明である。
以前、これと同様の六字名号を新潟県と富山県の御旧蹟寺院で見た。富山の寺院では、転宗した際聖人から授与されたものと伝えていた。「伝聖人筆」とする同じ書体の六字と十字の名号が、岐阜(飛騨)、新潟、富山の寺院に伝来することから、もっと広範囲で多数存在する可能性があり、製作された場所や意図がずっと気になっていた。
近頃知人が、先祖の高山の豪商に伝わった「親鸞聖人筆」六字名号と「由緒書」を見せてくれた。名号には「善信(花押)」とあり、先の「伝聖人筆」の六字名号と全く同じである。「由緒書」には次のように記されていた。
「延享三(一七四六)年に、信濃国戸隠山の修験者から十字・九字・六字三幅の名号を譲ってもらった。その後、宝暦十三(一七六三)年七月二十九日に名号の極め書きを頼んだ。十字・九字・六字の名号は、安貞二(一二二八)年秋、五十六歳の聖人が戸隠山に参籠して奉納したもので、六字は聖人が六角堂へ参籠した時、感得した名号である。近年、戸隠山の宝庫から三幅が発見されたので、東本願寺門跡に上覧のため上洛する途次商家に逗留した。主が“御開山様”の真筆を拝見することは“宿縁浅からず”“隨喜感嘆ふかく仏祖の大悲善巧の恵”と感じ譲渡を願い出た。すると戸隠山行勝院は“辞退なく譲書を相添、授与した」
とある。「伝聖人筆」名号の出処が戸隠山の修験者と判明した。飛騨の二か寺の十字名号は、この商家から出たものかもしれない。また他に九字名号が存在する可能性もある。
贋作の「聖人筆」名号が出回るのにはいろんな要件がある。いわゆる「聖人御旧蹟」には、聖人の遺品が伝来しているはず、という先入観がある。当時、ほとんどの真宗の僧侶・門徒は聖人真筆を知らない。「善信(花押)」があれば、偽物という疑念をもたない。聖人が越後に流罪中、北信濃や善光寺へ参籠したという伝承が既にあり、それを背景として、戸隠山では「親鸞聖人真筆名号」を創出し、出開帳をしながら広範囲に売り歩いた。ターゲットは真宗寺院や篤信の豪商であった。門徒、特に篤信の門徒は疑うより先に合掌礼拝の対象としたため、このような門徒の崇敬の念を利用したのである。売り渡した後は、冥加の無い者には拝ませないよう秘蔵させたようである。
真宗門徒は、親鸞聖人を「御開山様」と称して崇敬し、「正信偈」や「和讃」などの聖教に念仏の教えを深く戴く伝統に生きている。加えて遺品(聖教・名号などの手跡)に生前の聖人の聞思の姿や息吹を感じ取る情も抱いたと思う。「伝聖人筆」名号の真偽は重要である。しかし、本願念仏の教えを相続している門徒にとって、「善信(花押)」は、真筆か否かを超え、本願念仏の確かさを証すものとして受けとめられてきたのである。 

■45 人知の闇
2011年に宗祖の七百五十回忌御遠忌法要が勤まった。しかし、その法要に先立つ3月11日に発生した東日本大震災は、今でも多くの爪痕を残すと共に、人々の心の中に大きな悲しみと痛みをもたらしている。復旧・復興に全力を挙げて取り組まれている現在でも、今なお先の見通しがつかない極めて深刻な危機を招いているのが福島第一原子力発電所爆発による放射能汚染事故である。この事故は、そこに住んでいる人々に不安と怒りと悲しみを二年経った今も与え続けている。当時、御遠忌中に配布された挨拶文の中に、
原子力発電所の極めて深刻な事態は、経済至上・科学絶対主義と表される人知の闇が、まさしく露わになった事実であり、私たちの生活の根底から問い直させる、大変重要な意味をもっている。
という文章がある。
今なお続く原発事故問題に対し、二年以上経った今でも、完全な解決策が示されているわけではない。逆に、この先どの様になるかさえ、その最終的な真の結論については誰一人知る人はいないのではなかろうか。それにもかかわらず、国は原発の安全性を改めて主張すると共に、海外に向けて輸出しようとしている。何故、あのような悲惨な事故が起こったのかに対する総括や問題の解決策も示されてはいない。それよりも、今も現状に苦しむ人々の痛みや悲しみを受け止めることなく、ひたすら「科学絶対主義」を信じ、そこに何らの疑いも挟むことなく、それを裏付けに「経済至上」に邁進しようとするのであろうか。そこに、人間の幸せがあるかのような幻想を抱かせようとしていることに、危機感を感ぜずにはいられないのである。その根本にある課題とは何なのか。
私たちは、人間のもつ知恵により全ての幸せが達成できると信じて疑わない。今日の社会の繁栄はその知恵の結晶によって成立してきたと考えているし、その様な社会をひたすら求めていたのも、実は私たちである。しかしその事を根底から問い直させているのが原発問題ではないだろうか。その事は「想定外」と言葉に聞き取れると思う。つまり、「想定」そのものが人知の象徴であるならば、それが「外」れた事は、正に科学万能を疑わない人知そのものが問題である事を示しているのではなかろうか。何故なら、全てを「数値化」し、それを基準に判断していく人知そのものが、実は「闇」であると教えられているからである。
宗祖が、何故私たちに阿弥陀仏を仰ぐ生き方を勧められるのかといえば、それは光としてはたらく阿弥陀仏によって自らの闇が知らされる以外に、本当の生き方はないと頷かれたからである。私たちはどこまでも仏の教えに依らない限り、他者への痛みを感じることなく互いに傷つけ合う生き方しかできないのではなかろうか。その様な現実を、大悲して止まないところに阿弥陀仏の願いがある。私たちは、どこまでも教えを通して人知の闇が破られ慚愧するところに、共なるいのちを生きる道が開かれるのではないかと思う。 

■46 師教の恩厚を仰ぐ
『小倉百人一首』の撰者として名高い藤原定家(一一六二〜一二四一)は、宗祖と十一歳上の同時代人である。彼は一一八〇年(十八歳)から五十六年間にわたり、ほぼ毎日日記を綴った。その全文が、のちに『明月記』と題して世に出、公家の世から武士の世へと転換していく中世初期の社会のありさまが知れる貴重な史料となった。
その日記の一二〇七(建永二)年一月から三月にかけての記を見ると、宗祖が越後へ遠流となった「承元の法難」に関する生々しい記事が散見される。まず一月二十四日の日記に、次のような記事があらわれる。
「専修念仏ノ輩(やから)停止(ちょうじ)ノ事、重ネテ宣下スベシト云々(専修念仏を広める人々に対して、再び停止せよとの天皇の命令がおりた)」〔以下( )内は意訳〕と。続いて二月九日、「近日、只一向専修の沙汰。搦メ取ラレ、拷問サルト云々。筆端ノ及ブ所ニアラズ(近頃は、毎日一向専修の人々の裁判がどうなったのかという話ばかり。今日は数人が捕縛されて拷問を受けているとのこと。その有り様は筆に書きとめられないほど過酷なものである)」。
そして二月十八日、裁決が出、住蓮・安楽など四名斬首、法然・親鸞など八名、俗名を与えられて遠流に処され、三月十六日、還俗させられ俗名藤井元彦となった法然が鳥羽の近くで乗船したと言われている。
この三月十六日の出来事については、『親鸞聖人正明伝』に更に詳しく、次のように語られている。
「(三月十六日)午ノ時(正午)、源空上人、華洛(京都)ヲ出テ配所ニ赴タマフ。(中略)同十六日卯初刻(午前五時)、善信聖人(親鸞)出京ナリ。コレ空上人イマダ都ニマシマス内ニ、片時モ先立テ洛ヲ出ムトテ 、兼テ送使ノ許ヘタノミタマヘバナリ(わずかな時間でも先に出発して都を出たいと思い、前もって送使役の人に頼んでおいたからである)」。
流刑の地へ出発する師の背中を弟子が見送ることは、師に我が身の罪を背負わせることになる。そう直感した宗祖は、すべての罪を一身に背負い、暁天のときを待って越後の国へと旅立たれたのだろう。一方、法然上人の伝記には、配所に旅立つときの上人の言葉が次のように残されている。
「流刑さらにうらみとすべからず(中略)、念仏の興行、洛陽(京の都)にしてとしひさし、辺鄙(へんぴ)におもむきて、田夫野人(でんぷやじん)をすすめん事、季来(としごろ)の本意なり。しかれども時いたらずして、素意いまだはたさず。いまの事の縁によりて、季来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし」(『法然上人行状絵図』第三三)
この言葉は、やがて宗祖の目にも止まっただろう。宗祖はこれを受けて、『教行信証』「後序」末で「深く如来の矜哀を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ」と述べておられる。法難を逆縁として、「朝恩(朝廷の恩)」といただかれた師法然と、それを「師教の恩厚」と仰いで、ここに凡愚救済の仏道があきらかに開かれる時が熟したとして、「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」と受けられた宗祖との見事な応答が、「承元の法難」という一過性の出来事に永遠の真理性をもたらしたのである。  

■47 言葉の歴史
改めて言葉の歴史は大切であると痛感することがある。それは言葉の歴史を知ることによって前よりも聖教の意味が明らかになった時である。しかし言葉の歴史を知るということはなかなか容易なことではない。日本語や漢文だけでも各々に長い歴史があるし、さらにそれが翻訳語や仏の教えの言葉となると、事情がより複雑になるからである。
そもそも仏教の経論はインドから日本へと翻訳されながら伝来している。訳者は言葉では表現できない真実を表現しなければならないだけでなく、原語の意味と完全に一致しない、それと近似する言葉を用いることによってしか翻訳することができない。そのために意味が複雑になるのだろう。
またそれ以外に意味が複雑になるのは、数種類のサンスクリット語などの原語が、一つの言葉に漢訳されるからであると思われる。現代の日本語からみると一つの言葉の中に、数種類の原語からの意味と、中国や日本での伝統的な意味と時代特有の意味、そして漢字そのものがもつ意味が混在する。そしてその混在することから起こる混乱と、さらにはそこに現代人の語感と、個人的な感情や意図が加わることによって新たな意味が創り出される。
これはもちろん仏教術語だけではない。例えば自然という言葉についても同様だったようである。明治の頃もともと日本で用いられていた自然と、外来語の訳語として用いられるようになった自然との間で混乱があった。しかもその混乱の中にいる人は、そのことに気づかなかったという。
ところがそのような言語的な問題を、仏教における過去の先輩たちは超えておられる。もちろんそれは仏のお力や善知識からの教えによるものであり、信仰上の実体験に基づくものであるが、一つには多読であり多聞によるものだろう。親鸞聖人が仏教術語について、あれほど偏りのない語感をお持ちなのも、様々な経論に通じておられたからであると思われる。
ただ言葉の歴史が大切であるとしても、気にかかるのは、歴史と個人的な感情についての曽我量深先生の次の言葉である。
個人的感情は妄念である。個人的感情も歴史にうらづけられたとき真実である。 (『歎異抄聴記』真宗大谷派宗務所出版部二七五頁)
ここでの歴史とは、念仏に生きる者にとっての歴史的背景や事実のことであり、それは法蔵菩薩から七高僧そして親鸞聖人まで伝えられた伝統的な精神のことである。ただそれらのことを私たちに伝えてくださるのは仏や善知識や聖教である。聖教はその中の一つであり、誰もが確かめることのできることからも、やはり重要であると思われる。
しかしどうしても聖教の言葉自体にとらわれてしまう。聖教は人間を絶対的な自由に導くものであるにも関わらず、気づかぬうちに個人的な感情のまま他者を否定し、自らを肯定し正当化してしまう。そのようになるのは凡夫の身としてはやむをえないことではあるものの、ただ悲歎し慚愧するのみである。
そうであるからこそ曽我先生の言葉には、私たちにもそのことに気づいてほしい、個人的な感情や思いに終始することなく聖教の言葉にたずねてほしい、そのような意味が含まれているように思われてならない。 

■48 自己とは何ぞや
自己とは他なし 絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾にこの境遇に落在せるものすなわちこれなり(『清沢満之全集』〈大谷大学編、岩波書店刊、以下『全集』〉第八巻三六三頁)
これは、清沢満之(一八六三〜一九〇三)が、『臘扇記』(一八九八年八月)に記した一連の文章の中にある一節である。当時満之は、人間関係に悩み、また肺結核を煩いながら、現実に差し迫る「死」を前にしていた。その中にあって人生の意義(「死後の究極」)を尋ね、畢竟「不可思議」であるということから、真実の自己は、絶対無限の妙なる働きに乗托して、現前の境遇に落在せるものであると決着したのである。ここに念仏への目覚めが表現されているといえる。
念仏への目覚めが、「自己とは何ぞや」という問いとともに表現されている。この問いはわが身への深いまなざしと自覚をうながしていく響きをもっているといえるだろう。もちろんこの一文は、満之自身が記したものだが、同時に満之を超えたものとして、以後の満之を導き、そして今の私たち一人ひとりに問いかける。
この一節の後には、次のような内容が続いている。
絶対吾人に賦与するに善悪の観念を以ってし避悪就善の意志を以てす。いわゆる悪なるものもまた絶対のせしむる所ならん。しかれども吾人の自覚は避悪就善の天意を感ず。これ道徳の源泉なり。吾人は喜んでこの事に従わん(同上)
ここに善悪の観念が与えられることが記されている。満之は「無限の境界には善悪なし」(『全集』第二巻一二六頁)としているが、冒頭にみた一節は、善悪を超えた不可思議なる世界、真実によって自我分別が破られる世界を意味する。その善悪を超えた世界から、今度は善悪の観念が開かれると記される。
この善悪について、満之は「吾人をして絶対を忘れざらしむるものこれ善なり」として、念仏(絶対)への目覚めを善悪の基準としている。ここには念仏する歩み、念仏する生活(願生浄土の道)が示されているのである。
善悪を超えた世界から善悪の世界へと転換していくというのは、自己に本来そなわる関係存在(同朋)への眼を開いていくことを意味する。
有限無限の関係はついに吾人が無限に対する信仰を発得せしめ、他力信仰の結果は吾人の同朋に対する同情となり、同情の開展する所は道徳を策進して真正の平和的文明を発達せしむるに至るべきなり、(「他力信仰の発得」『全集』第六巻二一五頁)
自己への深い眼は、自己に本来そなわる同朋への眼を開く。自己への眼差しが、狭い自己に閉じこもるのではなく、同朋への世界を開いていく。また同朋ということが、観念の中に閉じこもるのではなく、自己への目覚めを伴ったリアルな内容として頷かれてくることが示されている。
昨年(二〇一三)は、満之生誕百五十周年の年にあたり、満之の出現の意味が改めて確かめられる。ここで示される同朋への眼をもう一度確かめ直していきたいと思う。 

■49 念仏における二つの特徴
曽我量深師は、親鸞聖人と法然上人の念仏における趣の違いを次のように指摘する。
「法然聖人は果して本願を憶念することに依りて念仏を唱へられた乎、将(は)た念仏の声に導かれて本願力を憶念せられた乎。是れ須要の研究問題である。此憶念と称名との因果前後の関係が法然、親鸞二師の信念の色味を異ならしめた要点である。親鸞聖人は先づ本願力を憶念して、此憶念の心が顕はれて称名となった。然るに、法然聖人の傾向は正しく反対であった。彼は先づ忽然として称名の声が現はれ、此声の上に本願力の虚しからざることを憶念し給ひた」(「大闇黒の仏心を見よ」『曽我量深選集二巻』三〇三頁)。
これは、法然上人には「日課七万遍」などと言われる、毎日お念仏を称えていた伝承があるのに対して、親鸞聖人にはそのようなお念仏を熱心に励むことがなく、その相違を論じているものである。
この二つの違いを単純化して表せば、先に念仏を称えてから本願を憶念するか、本願を憶念してから、そこに自然に念仏を申すかの違いである。その一つ目の特徴は意志実行の念仏で、この念仏の声に往生決定や本願力を証し、開顕しようとするものと表されている。もう一つは瞑想的な感謝の想いから出る念仏で、まず決定往生を確信し、その確信が感謝の想いとなり、その表明としての念仏の声となったものと言われる。
師は、この違いは教義意見の違いではなく、人格上の相違であると言われる。私は、この違いは、その生きられた時代の違い、その立場による課題の違いであるとも思うのである。
というのも、法然上人の時の課題は、新しく浄土宗を独立し、専修念仏を広めていくことにあった。そのような新しい宗を興こす場合は、まずもって念仏を称えることが重視されたのではないだろうか。それに対して、親鸞聖人の立場は、すでに多くの専修念仏者が居るなかでは、むしろ真実に念仏する意義、念仏をする心の在り方をよくよく思案することが課題となったと思われる。そのような課題の違いから、それぞれの特徴が出てきたと言えるのである。
そこで問題は、我々が生きている現代の状況にはどのような課題があるかである。この事をよくよく考える必要があるのではないだろうか。現代は、核家族化がすすみ、御内仏の無い家が増え、信心が相続せず、念仏を申す機会など、圧倒的に減少しているといえよう。
このような教えが伝統相続していくことの危機的な状況にあっては、法然上人のように念仏を称える声、念仏を称えるすがたを積極的に表現する必要があるのではないだろうか。念仏に生きる人を通さなければ、どれだけ理屈を重ねても、阿弥陀仏の本願のはたらきや浄土の存在についても、伝わらないからである。
具体的に称えられる念仏の声、御本尊を前に合掌・念仏を申す後ろすがた、そうしたことがだんだん貴重となってきているのである。 

■50 露伴のなかの親鸞聖人
他力に頼って自己を新にしようとするにしても、信というものは自己によって存するのであるから、即ち他力に頼る中に自力の働(はたらき)がある。自力によって自己を新にせんとするにしても、自照の智慧は実に外囲の賜物であるから、自力による中に他力の働がある。
(『努力論』改版、岩波文庫、二〇〇一年、四五頁)
これは幸田露伴の著書『努力論』の一節である。露伴は『五重塔』などの作品によって知られた小説家だが、今日では娘の幸田文の方が有名であろう。
露伴の『努力論』は一九一二(明治四十五)年に刊行された。題名を見ると努力することを奨励しているように見えるが、露伴は「一所懸命に努力しよう」と主張しているわけではない。露伴は「人が努力するということは、人としてはなお不純である」、「努力を忘れて努力する、それが真の好いものである」(「初刊自序」、『努力論』改版、二五頁)と述べている。
先の一節は親鸞聖人の御消息から着想を得て書かれたものであるが、その内容は『努力論』の基調ともかかわる。幸田露伴が参照した御消息は次のとおりである。
他力のなかには自力ともうすことはそうろうとききそうらいき。他力のなかにまた他力ともうすことはききそうらわず。他力のなかに自力ともうすことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏とこころにかけられてそうろうひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力ともうすことはうけたまわりそうらわず。(聖典五八〇頁)
幸田露伴は、努力を自己目的化することに批判的であった。『努力論』の後半では宇宙全体を貫流する「気」について語られている。露伴は「気」の循環を説きつつ、個人と宇宙との調和した関係を描いている。『努力論』は、その題名とは無関係であるかのような内容を含んでいるのである。
露伴の主張は当時の時代状況とも結びついている。『努力論』は日露戦争と「大正デモクラシー」との間の時期に刊行された。日本は日露戦争以後、西欧列強と肩を並べる存在になった。ひとまず「富国強兵」の理想が実現したかのように見えた時代であるが、人々の生き方も変化していく。人々の視線は、対外関係だけでなく、国内の政治的、経済的不平等に向けられる。ここに「大正デモクラシー」が幕を開ける。
このような時代のなかで「富国強兵」の理想と表裏一体の関係にある「努力」や「立身出世」という生き方も限界に達した。夏目漱石が小説「それから」のなかで描いた「高等遊民」の姿は、「努力」や「立身出世」とは対極の生き方を体現していた。
親鸞聖人の言葉は、「努力」や「立身出世」という生き方が限界に達した時代にあって、この時代の底を流れるものとつながっているように思われる。 
 

 

■51 「よきひと」からのメッセージ
「よきひと」というと、まず『歎異抄』第二章のお言葉が浮かんできます。親鸞聖人は師である法然上人からの言葉を
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と語られます。
親鸞聖人が「よきひと」とおっしゃったのは、その師の言葉が法然という単なる一個人の言葉ではなく、本願に出遇い念仏申す身となった人の言葉であるという受けとめがあるからです。その言葉の背景には、第十七の本願による脈々と流れ続けている念仏の大行の歴史、そしてその大行に出遇っていった大信(信心)の伝統、すなわち親鸞聖人が『正信念仏偈』に歌いあげられ、顕らかにしてくださった浄土真宗の世界があるのです。
また親鸞聖人の『御消息』(聖典五六四頁)には
「それこそ、この世にとりては、よきひとびとにてもおわします」
というお言葉があります。ここでは、「よきひとびと」の前に置かれている「この世にとりては」という言葉が気がかりになります。「この世にとりては」という言葉で親鸞聖人は何を言おうとされているのでしょう。
「この世」とは文字通り、私たちが人びとと共に現実に生きているこの社会のことでしょう。宗教が歴史的社会的現実に対してどう関わるべきなのか、宗教と政治の関係性、それはいつの時代においても大きなテーマです。聖徳太子の政治の背景には、『十七条憲法』に象徴されるように仏教精神がありました。対外的にも中国や朝鮮半島の国々と平和外交を展開されました。今日の安倍首相の国内外への政治姿勢には大いに危うさを感じている者の一人ですが、その姿勢の背景にも彼の思想と宗教観があるのでしょう。
御消息のこの言葉は、聖覚のお書き物を勧められる言葉に続いて述べられたものです。聖覚の書かれた『唯信鈔』は、一二二一年の承久の乱直後に書かれたものですが、その大混乱については一切触れられていません。にもかかわらず親鸞は「この世にとりては、よきひとびと」と言われるのです。聖覚も親鸞もこの世の現実を無視されたのでしょうか、決してそうではないでしょう。
親鸞聖人がこの世の現実にどのように向かい合おうとされたのか、その真意をくみ取ることは容易ではありませんが、真宗門徒はそれを見出し歩もうと努力してきました。真宗教団のこれまでの歴史的な歩みは、その苦闘の足跡とも言えるのではないでしょうか。
同朋会運動の中で蓬茨祖運先生は大きな仕事をされた方ですが、「僧伽と還相」という講義(聞思の人・蓬茨祖運集上)で、
「教団僧伽というものは人であると言いたい気持ちがする。…念仏によって人間が自己を本当に回復できる。…そこから本当の僧伽をつくっていく。そのつくり方は、どこかに場所を求めていくのではなく、その人自身がなっていくのではないかと思う」(一〇九頁)
と語っておられます。蓬茨先生のお仕事の背景にあるものが何か、そのことがいま想われます。 

■52 在家止住
蓮如上人の
「末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは」(聖典八三二頁)
で始まる「御文」は誰もがよく聞き、日常的にも親しんでいる。上人は第十八願の念仏往生の誓願を簡潔に述べられているのが主旨である。
この中にある「在家止住」の文言に筆者は心がひかれる。我々は滝にうたれ、山にこもるなど修行をしなくて、家庭生活を営みながら仏道を歩み、仏心を聞けるからである。いわゆる修行は特別な人ができるのであり、一般職業に従事している人は不可能に近い。
また、在家・家庭生活を営む中で、人間関係や周辺環境、あるいは怒りやおごりに接し、悩んだり苦しんだりする。罪業や我執を感得するのも家庭生活の中からではないだろうか。もちろん、楽しみや喜びも家庭生活や出会いの中から、わかちあえることが多い。
そのようなことを考えると、宗祖の家庭生活はどのようであっただろうかと推測する。宗祖は自らの私的なことは語っておられない。であるから、「恵信尼文書」や覚信尼の行状から推察せざるをえない。
宗祖と恵信尼との結婚の時期は従来より諸説がある。また最近、梅原猛氏が「玉日」との結婚も背定的に論じておられる(「芸術新潮」二〇一四年三月号)。
少なくとも越後時代は家庭をもっておられたことは確かである。越後での宗祖の具体的な生活基盤・実態などは明確にできないが、承元五年(一二一一)宗祖三十九歳の時、息男信蓮房が誕生している。いわば「子育て」をしながらの日暮らしであられた。また、越後の厳しい寒さ、自然の恵み、温かい人の心、人間同士の醜さ、漁業、狩猟にたずさわる人々などの風景を眼前にされ、肌で感じられたことと推察できよう。
また、「恵信尼文書」にある、宗祖が高熱の病気、恵信尼が夢でみられた夫婦の会話などから、あらためて宗祖の教えを多視的に求めようと筆者は考える。
覚信尼は宗祖五十二歳の時、関東で誕生され、宗祖が帰洛後、命終されるまで側におられた。宗祖命終の十年後、覚信尼は再婚された小野宮禅念の土地に大谷廟堂を建立された。
特筆すべきことは、廟堂・御真影・敷地すべてを、覚信尼が宗祖の門徒、墓所に寄進したことである。所領拡大に精根をむける当時の一般的風潮の中で、覚信尼は廟堂等を門徒共有にしたのである。それは廟堂が永遠に維持・相続されることを願いとされたからであろう。
覚信尼が常に宗祖の身近におられ、「同朋精神」を自ずと身につけてこられた結果でもあろう。家族や宗祖の門弟方との何気無い会話や「うしろ姿」をみて育たれ、体得された覚信尼の人柄・真宗精神の行状としても考えられるのではないだろうか。 

■53 相手の話を聞く
以前、本山・同朋会館に、
人間を尊重するということは、相手の話を最後まで静かに聞くことである。(安田理深師)
ということばが掲げられていた。全国から奉仕団や研修会等で上山される方々が聞法し、様々な話を交わす。 そんな場において、ことさらに味わいがあることばだと感じたのだが、我が身に問えば「相手の話を最後まで静かに聞く」ことが容易ならないといつも思い知らされている。
先日、原発事故による被災が今なお続いている福島を訪れた。地元の方々にお話を伺うと、震災当時のことや、今も苦しんでおられる状況を色々とお話しくださった。涙ながらに話をされる姿などに触れると、私に何かできることはないのだろうかという思いを改めて持つ。しかしそこで印象的だったのは、こちらからお願いしてお話しいただいた方々の多くが、「話を聞いてくださってありがとうございました」と口々におっしゃったことであった。
「話を聞いてくれる人がまだいる。そう思えるだけで明日からもうちょっとだけがんばってみようかな、という気持ちになります」。そう言われたとき、今の原発の問題を外から眺め、「どうしたらいいか」「私は何をすべきか」ということばかりを考えていた私には、「まずは私たちの話を聞いてください」と叱られたように感じられ、はっとした。それがいつでも自分のところだけで「どうすべきか」と考えていて、「相手の話を聞く」ことが抜け落ちる私の姿である。
このことは心がけ一つで劇的に変われるような根の浅いものではないと思う。表向きは静かにしていたとしても、心の中では黙っていないようなものを抱えていて、耳を傾けても私はせいぜい自分の都合でしか人の話を聞けない。
蓮如上人が、聞法において、
一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり(『蓮如上人御一代記聞書』一三七条 聖典八七九頁)
と指摘されている。このことを私は、「法を得手に聞いてはいけない」とおっしゃったのではなく、「得手にしか聞けないことを知らされていく大切さ」を説かれているのだといただいている。 そのはたらきこそが聞法の場が持っている座の功徳であると教えられているのではないか。談合することでしか、自分の「得手に聞く」姿には気づいていけない。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話を最後まで静かに聞く」ことでもある。だれもが得手にしか聞けない者として、 「一人では聞法はできない」ということをはっきりされたのが蓮如上人のことばであったのだと思う。
共にたずねる人があることが在り難いことであり、「相手の話を最後まで静かに聞くこと」は、他人を尊重することに留まらず、自身の歩みを大切にしていくことに重なっている。

■54 東国伝道八〇〇年
東国とは、古くは京都より東の地方を指し、やがて関東・東北の国々を意味した。四十一歳の親鸞聖人が上野国「さぬき」(群馬)に至ったのは建保二(一二一四)年とされ、「浄土三部経千部読誦」の逸話が妻恵信尼によって伝えられている。すると、本年は聖人の東国伝道開始より八〇〇年目に当たる。この春、教学研究所「真宗の歴史研究班」は、この地域の風土と歴史を直に感じ、今後の研究の糧とするため、主に茨城県の笠間から常陸太田を中心とした関東御旧跡を参拝した。
茨城県は三年前の東日本大震災において、県内全域で震度5弱以上の本震と同規模の余震を観測し、北茨城市などの沿岸部は最大六・九mの津波に遭い、原発災害の影響を受けた。特に笠間など八市は震度六強の烈震であり、現在も残る震災の傷跡を目にすると今さらながら被害の大きさに気づかされた。
この地域に伝わる浄土真宗の歴史が、聖人とその門弟たちの伝道を始原とすることに変わりはないが、それに加えて、この始原を受け伝えてきた真宗門徒の歴史についての関心が、特に震災以降高まってきたように思われる。それは、江戸時代後期に北陸地方から北関東に移住し、飢饉などの災害によって荒廃した村々の復興へ力を尽くしたとされる「真宗移民」の歴史についてである。
現在の笠間から水戸へかけての一帯には聖人の東国伝道を偲び、また真宗移民の記憶を伝える寺院が点在する。聖人の稲田草庵跡とされる西念寺は
「かの国(加賀藩領)にあふれる民俗を引き入れ、荒田を開発せしめ風儀をここに移さば」(「入百姓発端之記」)
と記した移民史料を伝え、近接する林照寺は移民門徒による本堂再建の逸話と「蓮如上人四幅絵伝」を伝えている。真宗移民は単なる移民労働者ではなく、真宗門徒としての生活文化を持ち込むことが期待されていたのである。
また門弟唯信を開基とする宍戸の唯信寺は、十九代唯定の時代に西念寺と共に北陸門徒より移民を募り、入植門徒の子孫は現在でも唯信寺門徒の七割を占めるという。いずれも文化文政年間(一八〇〇年代前半)のことである。農民など庶民の移動が厳しく制限されていた当時、移民たちは関東旧跡巡拝を口実に北陸を離れたとされ、同寺本堂に掲げられる当時の通行許可証である「往来切手の事」からは苦難の歴史が偲ばれる。
今回、私は御旧跡を訪ねながら、移民門徒の歩んだ道をたどっているような想いに駆られた。一説に移民門徒は更に東国を進み、やがて福島県浜通り北部の旧相馬中村藩領(相双地方)に到達した。聖人五五〇回忌の年(一八一一)のことである。聖人が志した東国伝道は後世の真宗門徒によって受け継がれ、この地に浄土真宗が根づいていった。現在、東電の原発災害が続く仙台教区浜組相双地域では、震災復興が実現する世界を共に考える場として「相馬親鸞教室」を開催し、真宗移民の歴史を学んでいる。 

■55 直感すること
将棋の世界に羽生善治さんという天才がいる。デビュー以来、数々の記録を打ち立て、獲得したタイトルは八十を超える(歴代一位)。さる五月には通算八度目の名人位に返り咲き、四十三歳になった今も現役トップの棋士だ。羽生名人は著書のなかで自身の棋風について次のように語る。
これまで公式戦で千局以上の将棋を指してきて、一局の中で、直感によってパッと一目見て「これが一番いいだろう」と閃いた手のほぼ七割は、正しい選択をしている。
直感力は、それまでにいろいろ経験し、培ってきたことが脳の無意識の領域に詰まっており、それが浮かびあがってくるものだ。まったくの偶然に、何もないところからパッと思い浮かぶものではない。(『決断力』角川書店)
また、学問の世界には島薗進さんという多才な学者がいる。元東京大学教授(現上智大学グリーフケア研究所所長)で、宗教学、近代日本宗教史、死生学を専門とし、さまざまな社会問題に対して提言を行うオールラウンダーだ。昨年の日本生命倫理学会では、原発放射線被曝問題に関するシンポジウムで発題し、そのなかで学問に取り組む自身のスタンスをおおよそ次のように語った。
私は実践的・フィールド的な感覚を好んで研究をしてきました。ここがおかしいというところをついていけば、大事なものが出てくるであろうということです。
島薗さんも直感を大切にしていることが分かる。「ここがおかしい」というこの直感は、幅広い知識に裏付けされたものだからこそ、そこを掘り下げていけば「大事なものが出てくる」のであろう。
宗祖親鸞聖人もこのような直感力の持ち主だったのではなかろうか。法然上人に出遇ったとき、宗祖は次のように直感したと私は想像する。
―この人は本当のことを語っている―
二十年におよぶ比叡山での学びと苦悩が深かった分、それはとてつもなく研ぎ澄まされた直感だったであろう。そして、この直感は宗祖の強靱な聞思によって確かめられていき、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり(聖典六二七頁)
という信念となった。
また本願の教えとして『教行信証』に体系化された。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。(聖典四○○頁)
そのような視点であらためてこの大書を拝読したい。その上で、今度は頭を真っ白にした状態で拝読し、宗祖のおこころを直感してみたい。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
真宗大谷派東本願寺・真宗の教え

 

 
 

 

■人は死んだらどうなるの?
人は死んだらゴミになるといった人がいます。いかにも唯物的な考え方ですね。事実はゴミではなく、灰になるのでしょう。灰は事実で、ゴミは一つの価値観です。ゴミは無用なもの、不必要なモノの代名詞です。人間の最後がゴミならば、人間の存在はゴミへの途中でしょうか。
それにしても、なぜ私たちは「人は死んだらどうなるのか」と問うのでしょうか。おそらく、それは私たちがどこから来てどこに行くのかがわからない、その存在の不安からおきているのでしょう。それは来た先と行き先を問いながら、実は、現在の自分を問うているのです。
現在ただ今の自分がわからない、その迷いが「人は死んだらどうなるのか」と死後を問わせるのです。インドに古くからある輪廻(りんね)の考え方は、そういう問いに、霊魂不滅の立場から、生まれ変わり死に変わりする人間の在り方を示すものです。それは、死後のよき再生を願って、いまの不幸を耐えて来世のために頑張りなさいと教えます。
日本においては、人は死んだら霊となり、その霊となった死者に対して、生者が慰霊・鎮魂・祭祀をしないと、死者に祟られ、災いをもたらされると考えられています。それはこの世の吉凶禍福がすべて霊の支配下にあるとする考え方です。
インドの輪廻の思想も、日本の霊の宗教も、いずれの場合も、この現在の矛盾と不正と過ちを作り上げてきた私たち自身の愚かさに目を向けることを妨(さまた)げています。それに対して浄土真宗の教えは、我は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」、我が世は「火宅無常(かたくむじょう)の世界」であると、どこまでも過去を背負い、未来をはらむ自分のこの「現在」をごまかさず問うものであります。
そのような自分の「現在」を問わないで「人は死んだらどうなるのか」と考えることは、私たちを出口のない路(みち)に迷わせ、神秘的な世界に惑わすこととなるだけでしょう。 

■真宗にとって供養とは?
宗教の形でいえば、供養ほど、私たちの身近なものはないでしょう。法事・法要にお墓参り、先祖供養に水子供養、さらには針供養に人形供養、全部ひっくるめて供養という名で、私たちの宗教的行為が語られています。
それだけではなく、若い人たちまでもがテレビの影響なのでしょうか。心霊写真などと称した霊のたたりに恐怖して、「供養してもらわないと」と思わず口に出す今日このごろの状態です。
一体全体、供養とは何でしょうか。もともと供養とは、「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」ことを意味しています。決して、亡くなった人から祟られたりすることのないようにと願って供養するなどということはないのです。
それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を守るための道具にされてきたのです。それは、私たち自身が仏教を利用して自分の欲望を満足させようとしてきた結果であります。
供養は、仏さまの大いなる世界を私がいただいたことの表現です。それが、死者を供養しないと私が祟られる、私に災いが起こる、だから供養しなければならないと、供養が自分の欲望を満足させる道具になっていることが問題なのです。
そうではなくて、供養とは、「仏法僧の三宝」として現されている真実の世界に対してなされるものです。本当に尊敬されるべき世界、本当に大切にされるべき世界を見いだすことです。それは自分を中心にして生きているものが、自他平等のいのちを現す仏さまの世界に、われもひとも共に生きることのできる世界を見いだすことです。その感動が供養の形をとるのです。 

■南無阿弥陀仏って何?
仏さまに手をあわせるときに、心に何か思い浮かべますか。口に何か言いますか。それとも何も思わない。何も言わない。ただ習慣として手をあわせているだ けですか。どうでしょうか。
たとえば、こんなことはないですか。仏さまに手をあわせて、病気を治してもらいたい。お金をたくさんもらいたい。いい暮らしがしてみたい。幸せになりたい。そして最後に、何か言わないとカッコもつかないので、そこで「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」とお念仏を称えたことないですか。
もしあれば、そういうお念仏は、自分の都合を満足させるために、私の根性で仏さまを念ずる私の念仏です。それはどれほど一生懸命に称えようと、私による人間の行(ぎょう)であります。この私が問題になることはありません。
それに対して、親鸞聖人が法然上人をとおして、我が身にいただかれたお念仏は、それとは全く反対に、仏さまが私を念ずる、仏さまの行です。仏さまの呼びかけです。親鸞聖人は「大」の一字を加えて大行(だいぎょう)と表しています。仏さまの大いなるおはたらきと言ってもいいでしょう。
つまりお念仏は、あらゆることを自分中心にしてしか考えない私たちに、仏さまが「それでいいのか」と問うてくださる呼びかけです。人を踏みつけ、傷つけ、時として殺しあって、人間であることを見失っている私たちに、人間であることを回復せしめる根源のことばです。
私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、仏さまが私を呼びかけてくださるときです。お念仏は、人間を見捨てない仏さまの願いが、まさしく南無阿弥陀仏の言葉となって、私たちにまで届けられた仏さまの名告りなのです。決して、私たちの欲望を満足させる呪文ではありません。 

■いま浄土とは…
浄土は仏さまの世界です。その仏さまの世界に生まれることが私たちにとっての救いです。それが真宗の基本的な教えです。浄土とは、安楽国とも安養国ともいわれる阿弥陀如来の国土です。私たち人間の生きる世界になぞらえて国土として現されています。
人間の救いがなぜ国土として、つまり、浄土として現されているのでしょうか。それは私たちの救いが、個人的な私一人の心の安らぎにとどまらないからです。もちろん、私たちの心が落ち着き、心が安らかになることは大事なことでしょう。
しかし、人間の救いということになりますと、ただ単に私一人の心が安らぐことでは本当の救いになりません。あらゆる人々と共に安らぐことが成り立たないと、私たちは救われないのです。
なぜなら、人間は、文字どおり、人と人との間柄を生きる存在だからです。私たちは関係を生きています。世界とともにある存在です。他者とともに生きる存在です。
ですから、私たちが日々感じる喜びも悲しみも、それはかかわりの中で起きる感情であります。生活をともにする相手が悲しんでいるときに、私ひとりが喜べますか。悲しいはずです。それが人間を生きることの具体的な姿です。
そのような私たちの生きることの現実が、真宗が浄土をもって人間の救いを明らかにしてきた根本的な理由です。浄土とは阿弥陀経に「倶会一処(くえいっしょ)」(ともに一つ世界に生きる)とあります。あなたも私もともに生きることのできる世界です。
それは、決して私たちが普通に考えているような死後の世界としての「あの世」ではありません。また、ユートピアとしての理想郷でもありません。それは、人間を見失ったものに人間を回復させる仏さまの世界なのです。
そういう人間回復の大地としての浄土こそが、人を傷つけ踏みつけてやまない私たちの誰もが、何よりもいただかなければならない世界なのです。 

■亡き人を縁として
「五代前の先祖がたたっていますよ」と言われると、ドキッとする人は多いかもしれません。しかし、「亡くなったお母さんがたたっていますよ」と言われれ ばどうでしょう。ほとんどの人は、「私のお母さんはそんな人ではありません」と怒り出すのではないでしょうか。つまり、先祖が迷っているとか、祟っているというのは、亡くなった人のことをはっきりと受け止められていない私たちの心のすき間につけ込んでくるものなのです。そして、ほとんどの場合、それにはお金がからんでいます。
亡くなった人は、すでに喜怒哀楽はありません。ですから、お内仏(仏壇)に何々を供えろと言うことはありません。また言うことをきかないと化けて出るぞということも言いません。にもかかわらず、生きている私たちの方が、亡くなった人をどうにかしないといけないと勝手に思いはからっているのです。
それは、一見すると亡くなった人を大切にしているようですが、実は自分の人生を守ってもらいたいという気持ちや、災いが自分におよぶことを恐れる気持ちからきていることが多いのではないでしょうか。お祓(はら)いなどが流行るのもこのためです。
亡くなった人は、自らの身をもって、人は必ず命を終えていかねばならないということを教えてくれています。限りある人生をどのように生きるのかと呼びかけているのです。近しい人の死は、特にこのことを感じさせられます。亡き人と向き合うことにより、私たちは初めて自分の人生についてよく考えることができるのです。
お墓参りに出かけるのも、法事を勤めるのも、それは亡くなった人の生き方に思いをはせ、自分の生き方を見つめ直す大切な機会なのです。 

■お経に遇う
お坊さんが「ニョーゼーガーモン、イチジーブツ」と読んでいる声だけを聞いていると、お経には訳のわからないことが書かれているように思うかもしれません。しかし、お経には迷い苦しみを越えていく釈尊の教えが説かれています。いわば釈尊からのメッセージが詰まっているのです。ですから、お経を読むということは、本来は釈尊の教えに出遇うことなのです。
ところが、私たちは自分が迷いの人生を送っているとは、日ごろ思っていません。そのため、自分がお経に出遇う必要があるとは感じておらず、他人事のよう に考えています。亡くなった人にお経を読んであげないといけないというのも、そのあらわれです。亡くなった人がお経を聞いているかどうかを、確かめたことがないにもかかわらずです。
ましてや、お経をお坊さんだけに読ませて、自分は聞くこともなく済ませているのであれば、それは亡くなった人を大事にしているのではありません。単に自分がすっきりしたいだけの気やすめにすぎません。お経はどこまでも、私たちに対する呼びかけであるというのが大事な点です。
たとえば、親鸞聖人が真実の教と仰いだ『大無量寿経』には、次のような言葉があります。
「吉凶禍福(きっきょうかふく)、競(きそ)いておのおの之(これ)を作(な)す。一(ひとり)も怪しむものなきなり。」
これは、吉凶や禍福にとらわれている人間の姿を教えようとする釈尊の言葉です。自分に都合の良いことばかりを追い求め、お互いに競い合い、しかも自分のしていることを正しいと信じ込んで怪しむこともない生き方が見据えられています。
日ごろは疑ったこともない自分の生き方を見つめ直すこと、これがお経との出遇いによって始まるのです。この意味で、お経は私たちの生き方を照らし出すものだといえます。 

■朱印をしない理由
そんなに古い歴史をもつわけではありませんが、参拝した記念に朱印を押してくれるところが数多くあります。寺の名前や仏教の言葉などが添えられる場合もあります。
回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、師の法然上人との出遇いをとおして、生涯を「ただ念仏」の教えに生きられた方です。それは念仏を称える時、どんな者も 決して見捨てることのない仏の世界が、いつでも憶い出されてくるからでした。逆の言い方をすれば、貪(むさぼ)りや憎しみの心に翻弄(ほんろう)されて、何が大切であるかをすぐに見失っていく自分であることをよく知っておられたからでした。
私たちはどうでしょうか。一度お参りしたから大丈夫とか、教えはこの前に聞いたからもう聞かなくてもいい、などといえるでしょうか。さまざまな問題が次々と起こってくる状況の中で、何を本当の拠(よ)りどころとして生きていくかが、いよいよ問われてきているのが現代です。お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか。 

■お守りを持たない理由
どこの神社でもお守りは売られていますし、お寺でも置いていないところの方が珍しいくらいです。形もさまざまで、昔からのお札(ふだ)、かばんなどにぶらさげるもの、またかわいいシールになっているものまであります。
効力にもいろいろあって、合格祈願や恋愛成就などの願いごとをかなえるためのもの。交通安全や家内安全といった無事を祈るもの。また、厄除けや病気平癒など嫌なことの消滅を願うもの、などなど。
しかし、本当に効力があると思っている人はどれだけいるでしょうか。願ったとおりにならなかったからといって、お守りを買った先を訴えたという話を聞くことはあまりありません。お守りが気休めでしかないことを実はわかっているのです。わかっていながら、軽い気持ちで、だんだんとはまり込むのです。
たとえば、交通事故にあったのはお守りを忘れたからだとか、商売がうまくいかなくなったのは始めた日が悪かったからだとか、不幸が続くのは名前の画数が悪いからだとか。問題の原因さがしに追われたり、もっと効力のあるお守りをさがし求めたり、振り回されていくのです。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことを避けようとする、これは人間の性分といっていいでしょう。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れるようになります。そして悪いことが続くと、自分の人生までも呪ったりするのです。
どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。しかし、それは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。お守りをもたないということは、良し悪しを越えて、現実と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺・法話

 

東本願寺の法統
念仏の教え
浄土真宗の御開山親鸞聖人(1172〜1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。9歳の時、青蓮院門跡慈圓和尚のもとで頭を丸め出家され僧侶となられました。その後20年比叡山で厳しい修行をなされましたが、ついに世の人々を真に救いうる教えが何であるかを悟ることはできませんでした。 源平の争乱が長引き、京の町も荒れ果てて、多くの人々が苦しみ迷っていたのです。「叡山での修行では、御仏の光を見つけることができないし、ましてや迷える人々に救いの手をさしのべることもできない」と親鸞聖人は思われ、山をおりる決心をされました。その後、聖徳太子を奉安した六角堂での夢告もあり、新たな教えと出会うこととなるのでした。その頃京都では法然上人(1133〜1212)がお念仏の教えを広めておられました。 お念仏の教えを聞きに法然上人のもとを訪ねられた親鸞聖人は、まるで雷に打たれたようにショックを受けたのです。この法然上人のもとで、親鸞聖人は本願他力のお念仏の教えを、あたかも乾いた大地に雨がしみていくように吸収されました。 親鸞聖人は法然上人にお会いできたことを心から喜ばれたのでありますが、その後訪れる悲劇をこの時、一体誰が知っていたでしょうか。
立教開宗
法然上人の念仏の教えが盛んになってきたことを快く思っていない人たちの陰謀によって、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流され(1207)離ればなれにさせられてしまいました。親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、法然上人に教えていただいたお念仏の教えを越後の国でも広めようと思い立たれたのでした。遠く離ればなれになった法然上人のお心に通じるだけでなく、当時の都から離れたところに仏法を弘め人々を救うことが、阿弥陀如来の願いであると思われたのです。その後、流罪を赦された(1211)親鸞聖人は一刻も早く法然上人と再会しようと、雪深い北陸路をさけ雪解けの早い関東から一路京都を目指されました。その途中法然上人がお亡くなりになったという訃報を受けた親鸞聖人は、法然上人と再会できないならば、京都へは戻らず関東の地で布教をしようとお考えになり、稲田を中心に布教を始められました。瞬く間にお念仏の教えは関東一円に広まっていきました。この頃親鸞聖人は浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を著されました。その年(1224)を以て浄土真宗では立教開宗の年としてしています。その後、関東から京都へ戻られた親鸞聖人は多くの著書を作られ、九十歳で御浄土に還られました。
本願寺開創
親鸞聖人がお亡くなりになった後、末娘の覚信尼公が親鸞聖人の御骨を京都の大谷というところに御堂を建てて埋葬されました。これを大谷本廟といいます。その後、親鸞聖人の御弟子の唯円(1222〜1289)という方が聖人のみ教えが正しく伝わっていないことを嘆かれ、『歎異抄』という書物で、その異義を正されました。時は流れ親鸞聖人の曾孫の覚如上人(1270〜1351)の時代になると、真宗念仏のみ教えは日本中に広まりましたが、その一方で様々な異義もまた現れました。このような状況の中で覚如上人はお念仏の教えの純粋性を高らかに主張され、大谷本廟を本願寺と改められ、親鸞聖人よりの本流はここ本願寺にあるとし、本願寺を中心として真宗教団全体としての統一を目指されました。しかし当時の各地の御門徒は覚如上人の純粋にして高潔高邁な理想が理解できず、本願寺に参詣する人もまばらとなり、本願寺は衰退の道をたどるのです。そう、ある人物の登場までは・・・・。
中興の偉業
参詣する人もない寒々とした状態の大谷の本願寺の一隅で産声が上がりました。御一代で本願寺教団を日本一にされた蓮如上人(1415〜1499)の御誕生です。幼くして御生母と生き別れられた蓮如上人は大変な御苦労と御苦学の末、親鸞聖人御一流の御法義を修められました。この結果、み教えは、上人の人格の高みを感じさせながらも誰にでもわかるやさしいものとなったのです。父、存如上人の後を受け42歳で本願寺住職となられた蓮如上人が、近江地方に布教にまわられるとお念仏の教えは、りょう原の火のごとく瞬く間に当時の民衆にひろがり、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず訪れるようになりました。しかし、あまりにも爆発的にその教えが広まったために他の宗派から反感を買い、様々な迫害を受けるようにもなりました。そしてとうとう比叡山の衆徒により大谷の本願寺は跡形もなく破壊されてしまったのです。これを「大谷破却」といいます。けれどもこんな事では蓮如上人の布教への情熱を止めることはできませんでした。親鸞聖人の御真影を南近江にお移しし、今度はお念仏のみ教えを簡潔にまとめた『御文』(おふみ)というお手紙を数多く書かれたのです。それが蓮如上人に代わって四方八方に広がって、お念仏の声が各地に轟くようになったのです。しかし蓮如上人の活躍を快く思わない人たちから様々な妨害を受けるようになり、蓮如上人は争いを避け布教の新天地を求るため一路北を目指し旅立たれたのでした。
本願寺再建
北陸に入られた蓮如上人は吉崎というところに落ち着かれ、北陸の人々に布教されました。 するとわずか一年で近くの越前・加賀は言うに及ばず奥州・出羽にまでお念仏の教えが弘まって、蓮如上人に会いたいという人々で吉崎は大変な賑わいとなり、大谷の本願寺以上の参詣者が集まるようになりました。けれども、蓮如上人は南近江に預けたままになっている親鸞聖人の御真影を御安置する本堂を建てたいと思い続けておられました。その思いを実現するため北陸の地を離れ、京都の隣、山科の地に本願寺を再建し御真影をお迎えしました。その年の親鸞聖人の御命日には盛大な報恩講をお勤めし、お念仏の声高らかに大勢の御同行と一緒に本願寺の再建を親鸞聖人に御報告されました。やっと念願の本願寺再建を果たされた蓮如上人は関西の各地を布教に歩かれ、所々に坊舎をお建てになりました。中でも大阪の石山というところに隠居所として建てられた坊舎は、後に荒れ狂う歴史の荒波に飲み込まれることとなるのです。そう、天下大乱の足音はもうすぐそこまで迫っていたのです。
争乱の足音
応仁の乱に端を発した天下の暗雲は日本全土を覆い尽くし、本願寺もそれと無縁ではいられなくなりました。このころの本願寺は蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)の時代でした。證如上人はわずか五歳で父圓如上人と死別され、そして祖父實如上人がお亡くなりになり、十歳で本願寺を背負うという大変な御苦労をされました。しかし御苦労はそれだけではとどまらず、あろうことか蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。世の乱れはますます勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕を刻み込むこととなるのです。
戦国の世
顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。
東西分立
戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。ここで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです。
昭和の法難
激動の現代にあって、親鸞聖人の法統を受け継がれたのは二十四代闡如上人(1903〜1993)でした。闡如上人は、終戦後荒廃していた人々の心に、親鸞聖人の御教えにより、広く救済の手を差し伸べられました。特に、大谷智子御裏方と共に、大谷楽苑を設立し、仏教音楽を通じて戦後日本の文化的復興に尽されて、その御感化は遠く海外にまで及びました。多くの人々が教化を受けて闡如上人の下に集い、親鸞聖人七百回忌(1961)、並びに蓮如上人の四百五十回忌(1949)の法要も盛大に行われました。蓮如上人四百五十回忌の法要では、京都東本願寺の参詣者だけでも50万人を超えました。しかし、この一見順風満帆に見えた東本願寺にも、世界の東西冷戦という時代の影響が、暗い影を落とし始めていたのです。1969年本願寺と包括関係にあった真宗大谷派内部から、当時の反体制革命思想等の影響を受けた僧侶(宗政家)達に煽動され、教義を根底から覆し、親鸞聖人から続いた法統を廃絶しようとする反乱が起きました。闡如上人は本願寺の法統を守るために、真宗大谷派との包括関係を解き、京都の本願寺を独立させようとされました。そして全国の別院末寺にも独立をするよう命を下されたのでした。それを受けて闡如上人の長男の興如上人(1925〜1999)は、自身が住職をされている東京本願寺の独立を進められたのでした。 が、悲しきかな1981年改革派は、700年の法統を廃絶するように、宗憲を変更してしまいました。ここに真宗大谷派は、従来の東本願寺とは全く異なった宗教団体へと変質してしまったのです。そればかりか、1987年「宗本一体」の実現という名目で、京都の本願寺を法的に閉鎖消滅させてしまいました。けれども、御仏の光はどんな時代にも、真に信仰ある人々を見捨てません。希望は残ったのです。
真の法統
東京本願寺は、1981年6月15日東京都知事の認証を得て大谷派からの独立を達成しました。けれども1987年京都の宗教法人本願寺が閉鎖解散し、法主・住職・法統ともに全て消滅してしまいました。700年に及ぶ法統が断絶するというこの危機に、興如上人(1925〜1999)は深く歎き悲しまれます。そして念仏三昧のなか阿弥陀如来の願いを憶念され、「これを逆縁として、自ら法統を継承せよ」との御冥意を受けられます。1988年2月29日、興如上人は「今こそこの御冥意を直ちに具現せねばならない」との使命責務を痛感され、 阿弥陀如来の尊前で、東本願寺第二十五世を継承されました。同時に、東京本願寺を本山とし、全国独立寺院の数百ヶ寺とともに「浄土真宗東本願寺派」を結成されました。 ここに、親鸞聖人から受け継がれた法統は、浄土真宗東本願寺派本山・東京本願寺において継承されたのです。興如上人は、御開山親鸞聖人を始め歴代御法主の御真骨を茨城県牛久市に移し、高さ120メートルの阿弥陀大仏が立っておられる、東京本願寺の施設「牛久アケイディア」の一角に、「東京本願寺本廟」を建てられ、全国の門信徒の心のよりどころとされたのであります。
法統伝承
御開山親鸞聖人から連綿として受け継がれて参りました東本願寺の美しい伝統は、1999年に遷化された興如上人の後を受け、そのご長男聞如上人(1965〜)へと受け継がれました。平成13年(2001)、21世紀の最初の年に賑々しく東本願寺第26世 大谷光見法主 傳燈式が挙行されました。
− 名称変更のお知らせ − 本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。これによって、名実ともに東本願寺の正しき法統を受け継ぐ本山として、御開山親鸞聖人立教開宗の御精神に基づき、御歴代上人のお心を体し、御法主台下のお導きのもとに和合の僧伽として、多くの御同行御同朋の方々と共に、新たなる一歩を踏み出すこととなりました。
関東における歴史
光瑞寺開創
1591年、教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開創。江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となる。一説には1603年の開創ともいわれる。
1609年、同じ神田域内で更に広い土地へ移転。俗に「神田明神下」といわれる場所がそれであるが、神田明神は1616年に同所へ移転したので、正確には神田筋違橋外というべきか。
1614年教如上人遷化後、光瑞寺は掛所(別院)となる。
補足:1621年、江戸浅草御堂(築地本願寺)が創建。この頃から東西分立が本格化。1622〜24年、本願寺末刹・輪番所となる。
浅草へ移転
神田明神下においては、慶長16年(1612)、寛永9年(1632)、そして明暦3年(1657)と、度々火災に見舞われた。特に明暦の大火により、江戸市中ことごとく焼失、死者10万人以上。この頃、東本願寺は14世琢如上人の時代。
明暦の大火以後、幕府は「築地か浅草か好きな方を選べ」とし、東本願寺は浅草を選び堂宇を建立。浅草本願寺時代が始まる。ちなみに江戸浅草御坊は築地へ移転し現在に至る。
大正時代から昭和へ
大正12年9月1日、関東大震災が発生。地震には耐えたが、火災で焼失。
昭和9年11月26日、定礎式を挙行し、本堂再建が始まる。
コンクリート杭を480本打ち込んで基礎を造り、昭和11年には闡如上人御親修のもと、上棟式が行われ、同14年に遷仏法要が厳修された。しかし、第二次大戦末期の昭和20年3月、空襲により被災し、本堂内部は全焼したが、外郭は鉄筋コンクリートのため残った。
東京本願寺へ改称
昭和40年04月、宗祖700回御遠忌が厳修され、同年5月に浅草本願寺の名称を東京本願寺に変更する認証が下りた。翌年、大谷光暢法主のご長男、大谷光紹師が住職に就任した。
昭和48年5月3〜5日 立教開宗750年、親鸞聖人御誕生800年慶讃法要
昭和56年6月15日 大谷派との包括関係を廃止
昭和63年2月29日 東本願寺派結成 25世興如上人、法統伝承を宣言
平成05年4月13日 24世闡如上人遷化
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺へ改称
平成10年 蓮如上人500回御遠忌を厳修
平成11年12月24日 25世興如上人遷化
平成13年04月26日 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の名称が文化庁より認証される
平成13年06月01日 第26世聞如上人傳燈式・奉告法要が厳修され、現在に至る  
 
 

 

■1 落ちるまんまで、落とさんぞ
仏教とは知識だけで救われるものではないというお話です。
美濃の国(今の岐阜県)に、あるお婆さんがおりました。このお婆さんは、大変な物知りでございました。読み書きさえ出来ないお婆さんでありましたけれども、お参りしている時には、一言も聞き漏らすまいと、命がけに聞いているものですから何時の間にか、お文さまであろうとお説教で聞いた事は、すべて頭へ覚えておりました。
そのようなお婆さんでありますから、周りの方々から褒め讃えられたお婆さんでありましたけれども、ふとした病が元で、明日をもしれんという身になってからは、今までの喜びはどこへやら、一変いたしまして「地獄へ落ちる。地獄へ落ちる」と七転八倒の苦しみを始めました。
そのような苦しむお婆さんをなんとかしてあげたいと思う実の娘さんは京都の本願寺まで香樹院御講師に教えを聞きに行かれました。そこで香樹院御講師に母のことを伝え、助けを求めましたところ香樹院御講師は「自分勝手に、地獄へ落ちるというならば仕方が無いなあ。残念ながら落といてしまえよ」と申されました。これを聞かされた娘さんは悲しみのあまりその場で泣き崩れてしまいました。堪えきれない心のまま帰路に着こうとしたその時、香樹院御講師に呼び止められると「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。凡夫じゃもんの。地獄へ落ちるは今更の事ではないぞ。石の自性は、沈むのが石の自性なら凡夫の自性は落ちるのが凡夫の自性でないか。その落ちるに間違いのないそのものを、落ちるまんまで、落とさんぞと呼んでくださいますところの御勅命じゃが、それでも自分勝手に落ちるつもりかいや」と阿弥陀さまの慈愛のこころを頂いたのでございます。
その言葉を聞いた娘さんは寛喜の涙に咽び入りながら、母の元へと急いで帰り、母へ香樹院御講師の御言葉を涙ながらにそのまま伝えましたところ、この親思うところの娘の一念と、大悲の親の、「助け救わにゃあおかんぞ」のこの一念とが見事に一つになって、お婆さんの胸のどん底へと到り届きましてついに、しぶといところのお婆さんもやがて、御恩の称名、喜びながら、めでたく浄土往生を遂げられました。 

■2 当たり前のことにこそ
世の中には、自分と年齢も生活環境も趣味も全く違った実に多様な人々がいます。私は東京に住み始めてから、新しい出会いがとても増えました。最近は特に年上の方に出会う機会が多いのですが、やはりそういう方々は、いろいろな面で手本となることが多く、私がまだまだ未熟なのだと気付かされる毎日であります。
その知り合いの中に、とても旅行が好きで、特に海外旅行には週末を利用して頻繁に出かけているという方がいます。その方に海外の話をよく聞かせてもらうのですが、「海外に行くと自分がいかに幸せな生活を送っているのかということを思い知らされる。今の自分の生活に感謝しなくてはならない」と聞いた話が特に印象に残っています。
私は、毎日本堂で報恩感謝のお念仏を称えているつもりでいましたが、この話を聞いた時、自分には感謝の気持ちが足りないのではないのかと、ふと疑問が浮かびました。なぜなら、話を聞いて始めに思い浮かんだ気持ちが、改めて感謝を感じる体験ということを自分は最近まったく経験していない、と羨んでしまったからです。何も特別な体験だけが感謝に繋がるわけではありません。毎日の何気ない生活、朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして帰宅し、夜寝床に就くというような当たり前のことにこそ感謝しなければならないのです。どんな些細な出来事にも感謝の気持ちから南無阿弥陀仏と手が合わさる、ということが大事なのです。先の旅行の話を聞いた時にも南無阿弥陀仏とすぐに手を合わせることができたら良かったなと今になって思います。
善導大師は、南無阿弥陀仏の「南無」というのは「帰命」ということであると説かれています。「帰命」とは、自己中心的な思いに立った生き方をしていた自分が、阿弥陀如来の本願を聞き、うなずかされ、真実なる生命の声にうながされて初めて、阿弥陀如来に全面的に頭が下がるということです。この帰命という言葉の意味をしっかりと心に留めて、どんな時でも感謝の気持ちを忘れず、「ありがとうございます」とお念仏を称える日々を送らせていただきたいものです。 

■3 煩悩に向き合う 不断煩悩得涅槃
私たちは、この世に生を受けた時以来すべからず、一説には八万四千あるともいう煩悩の心を持っているものです。それは死ぬまでなくなりません。その煩悩に身も心も任せすぎると、自分自身を滅ぼしてしまうこともよくあり、それは今も昔も変わりません。
宗祖親鸞聖人がお書きになられた正信偈の中に「不断煩悩得涅槃」という一文があります。煩悩を断たずして、涅槃の境地を得るということです。煩悩を断たずに涅槃を得ると聞くと、自分の好き勝手に欲のまま行動していても、涅槃の境地に至ると考えそうなものですが、そうではないのです。
確かに阿弥陀如来は、煩悩にまみれた人間こそ、一人残らずお浄土に救い取りたいと願い誓われています。しかし煩悩にまみれた生活をしてもよいとは仰っていません。煩悩に身をまかせて生活をするということは、自分があれをしたい、これをしたいと自己中心的な生活となってしまい、他のことを考えなくなってしまいます。とても涅槃の境地に至る状態とは言えないでしょう。阿弥陀如来は知らず知らずのうちに煩悩まかせになっていることをしっかりと自覚して欲しいと願われているのです。私たちはその願いに気づき、煩悩と向き合っていかねばなりません。それが不断煩悩得涅槃につながっていくのではないでしょうか。
仏様の尊前には花瓶・香炉・鶴亀(燭台)の三具足が備えられてます。お供えした花を仏様の方に向けずに私たちの方へ向けるのは、仏様からの回向を表しているからです。お香を焚くのは、良い香りが隅々まで行き渡るように、全ての人々に行き届く仏様の慈悲の姿を表しています。鶴亀の蝋燭は、仏様の知恵を表し、鶴は千年、亀は万年と言うように、長い時間、仏様の大いなる知恵で私たち人間を導いて下さることを表しているのです。いつでもどこでも私たちみんなのことを見守り、手を差し伸べているよとの阿弥陀如来の思いがそこに詰まっているのです。
日々のお仏壇のお給仕も仏様の願いを味わいながら心を込めていたしましょう。 

■4 その人はその人であっていい
今月二日、バンクーバー冬季五輪の選手団が帰国した。各競技とも盛り上がっていたが、特に冬の競技の花形といわれるフィギュアスケートは見応えがあった。氷上を優雅に舞う各選手の姿に、感動を覚えた方々も多いことだろう。
よくメディアに取り上げられる事だが、フィギュアスケートの採点基準は素人目にはわかりづらい。芸術性を求められる競技なので、その基準はスピン、ジャンプ、ステップの出来栄えや難度だけでなく、他にもテーマ曲を正しく表現できているか、さらには選手の衣装までを評価対象としているのである。他の競技がタイムの差や得点といったように明確な判断基準があるのに対して、フィギュアスケートは優劣がつけにくい競技と言われる所以である。
男子では四回転ジャンプを決めた選手が銀メダル、四回転を封印した選手が金メダルだった。両者とも確かにすばらしい演技であったが、これでは四回転という大技の醍醐味が無いようにも思える。失敗する恐れがある大技に果敢に挑む姿勢は評価されるべきではないだろうか。選手それぞれの良さが最大限に尊重される採点とはまた難しいものだと痛感した。
『仏説阿弥陀経』には「地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光微妙香潔」とある。「極楽浄土の池の中にある蓮華の花には様々な色があり、青い花は青色、黄色い花は黄色、赤い花は赤色、白い花は白い光を放っていて、それらは奥深く高潔なものだ」という意味である。青い花が黄色や赤色の光を出す必要はない。青い花は青いままでいい、人はそれぞれ顔も形も違うけれども、その人はその人であっていい。別の誰かになる必要はないのだ。
「参加することに意味がある」とは五輪精神であるが、競技である以上、順位がつき優劣が決まる。メダルを取った選手もいれば、予選で敗退してしまった選手もいる。だが、どの選手にもそれぞれの輝きがある。五輪という晴れ舞台で力を尽くしてきた選手たちを笑顔で迎え、讃えたいものである。 

■5 心に罪深き鬼を飼っていないか
先日のテレビ放送で、普通の人間では難しい海の中での緻密な作業において評価が高く、それまでにも世界各国で数々の潜水作業の仕事をしてきた潜水士のドキュメンタリーが流された。その中に、その潜水士が以前に橋を建築した場所へ潜る機会があった時に見た海底の姿は、橋を建築した当初の海藻が生い茂る海の姿ではなく、見渡す限り一面岩だらけという、まるで砂漠のような海の姿に変わっていたという話があった。
これについて、その潜水士は、橋の建造によって影響を受けた海流が起こした海水温の変化、またそれにともない、その海流が運んでいた栄養となる物質も欠如した事などが原因として考えられると分析していた。そして、その事実を目の当たりにしたとき、一流の技術を持つ潜水士として今まで自分のしてきた行動が、地球規模でみて一流の自然破壊者でもあったということに気づかされ、自分の行動に初めて罪の意識が生まれたという。それからは海を再生するために、ボランティアとして様々な活動をし、失われ続ける自然と向かい合いあうようになったと話されていた。
このように、人間にとっては良いことをしているつもりでも、自然にとっては大変迷惑なことをしている場合が、実は私たち一人一人にも例外なくあるものです。知らず知らずのうちのことなので、それと気づかず日々を過ごしてしまいがちですが、それに気づかされることによって、自分がそんなことをしていたなんて思いもよりませんでした、お恥ずかしい限りです、と自分の言動を改めることができます。
自分が気づかないうちに行ってしまった悪いことには、悪いことをしたという意識がありません。ですから悔いることもありません。言い換えれば、後悔しなければ、人は悪いとも感じないとも言えるでしょう。自分が悪いと気づいていないことは大変恐ろしいことではないでしょうか。今月、豆まきがありますが、心に罪深き鬼を飼っていないか、今一度自らを振り返ってみてはいかがでしょう。 

■6 私たちを包む暖かい光
年も改まり、また気持ちを新たに仏さまのみ前で襟を正してこれから一年を過ごさせて頂きたいと思います。寒くなった気候とも相まって、身が引き締まるとはこの事でしょう。
寒さが厳しくなると、日なたと日陰では過ごしやすさが違います。暖かい日の光があるからこそ、日中はいくらか暖かいものです。もしこの光がなければ、毎日つねに暗くて寒い中、生きていかねばなりません。なんと過ごしにくいことでしょうか。太陽がなければ次に来る春もなく、もちろん昼夜もなく、毎日が真冬の夜中のような状態なのかもしれません。太陽の光の暖かみ、ありがたみを実感できる良い季節だと感じます。
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と『観無量寿経』に説かれております。阿弥陀様の光はあらゆる方向の世界を照らしてくださっています。また十二の光にも例えられて、無碍光と讃えられる光はさまたげられる事がありません。すなわち、日陰がないのです。さらに炎王光と讃えられ、最高の輝きを持つ光。不断光とも讃えられ、絶えることなく常に照らしてくださる光でもあります。また超日月光とも讃えられ、日の光や月の光とは比べられない光です。私たちはなんとありがたい光を受けて一日を送らせていただいているのでしょうか。
太陽の光は暖かくとてもありがたいものですが、それでも日陰が出来てしまいます。ですが、その日陰ですら照らしてくださるのが阿弥陀様の光なのです。深い悩みや迷いの闇の中という内面の日陰でただ身震いをするのではなく、すでに暖かい仏さまの光が私たちを包んでいるのです。その暖かさに私たちは気付かねばなりません。お念仏を称える私たちを迎え入れて、決して見放すことがない。それが阿弥陀様という仏さまなのです。
ただ日々を寒い寒いと言って過ごすだけでなく、阿弥陀様の暖かい光のありがたさ。そのような光に出会わせていただいた、ご縁のありがたさ。寒い日々ではありますが、皆様心も体も暖かくしてお過ごしください。 

■7 本当の価値
私たちはたくさんの人や物に支えられて生かされています。
以前、私の家の近くのご住職が草刈をしていたところ、足を虫にかまれてひどくはれ上がり、動くのも困難になるということがありました。その方の、「足が動かないことが、どれだけ不便なのかということと、こういう怪我をしてみて初めて足が動くありがたさと、家族のありがたみを感じました」という言葉を聞いて、私は深く頷かせられました。今の世の中、物が溢れている状態が当たり前になっています。またスイッチ一つで結構なんでもできてしまうので手助けをあまり必要としません。何とはなしに生活していると気づかないものですが、このご住職のように当たり前だったものが当たり前でなくなったときに、はたと気づかせていただくのです。
本願寺第八世・蓮如上人は、廊下を歩かれていた際、落ちていた紙切れを拾い上げ、「仏法領の物を、あだにするかや」と仰り、その紙切れを両手で押し戴かれたそうです。
紙切れを頂くというのは、ただ物としての紙切れを拝むということではありません。その紙一枚を製造するに当たっても、自然の恵みや人の技術が必要であり、表面上だけでなく、それらも含めて紙切れ一枚の本当の価値となるのです。たかが紙切れ一枚ではない、仏様からの頂き物なのだ、何事も粗末にしてはいけない、と蓮如上人は説いて下さっているのです。
人間というものは現状にはなかなか満足せず、さらに上へ上へと考えてしまうものです。この欲望には限りが無く、次から次へと物を手に入れようとします。先にも書きましたが、その手に入れた物は、そこにあるのが当たり前の物ではないのです。それらの背後にある本当の価値に目を向けた時に、それが有り難いものなのだと気づくことができるのです。
皆さんも年末の大掃除の際には、ご家庭にある物一つひとつへ感謝の思いをこめて埃を払ってみてはいかがでしょう。
きっと今まで以上に晴れやかな心で新年を迎えることができるのではないでしょうか。 

■8 ほんの一瞬
街中の紅葉も深まり、カメラを片手に街中を散策に出かけた時のことでした。何気なくシャッターを切ったときピントがずれていたことに気付き、もう一度同じ場所を撮ろうとしましたが、そこには先ほどと同じものはありませんでした。同じ場所、同じ背景ですけれど、風になびく木々の揺れの違いや、街中を走る車や人達など、そこには同じものは存在していませんでした。
最近は、日本のアニメーションが海外でも大変人気があり、日本の文化を代表するものの一つとして認知されてきています。ご承知の通り、このアニメーションというのは、セル画という静止画が元になっています。一枚一枚のセル画には人物や背景が描かれていますが、ちょっとずつ姿勢やものを動かしたようにしてあり、それが何枚も繋ぎ合わされて一つの動画アニメになっているのです。
私たちの日常生活を動画として考えるならば、写真を撮るというのは生活の中から一枚の静止画を切り取る作業と言えるでしょう。ただその一枚はほんの一瞬です。その一瞬が過ぎれば、違う一枚になっていくのです。
日本各地で色鮮やかな紅葉の季節が訪れていますが、やがて冬が訪れると枯れ落ちるのが自然の流れです。しかし、色づいた紅葉のように、いつまでも若く綺麗でありたいというのは誰しもが望んでいることかもしれませんが、この世に存在するものは一瞬一瞬の刹那に変化しているのであり、その刹那ごとに生じては滅し、滅しては生じて続いていくのが事実です。
だからといってそのことに失望し、刹那的に生きなさいということではありません。むしろその一瞬一瞬を大切にして欲しい、二度と戻らないその瞬間の意味を深く考えて欲しいというのが仏様の願いです。一瞬が一時間になり、一日、一週間、一月、一年と積み重なって私たちの生活が営まれ、いのちが続いていくのです。一瞬一瞬を生かされていることに気付くこと、これはとても大切なことなのです。 

■9 十円玉の数とお念仏の数
先日、お盆に実家へ帰省した際、古い友人から、一つの昔話を聞いた。それは、その友人が以前に会社の旅行で海外へ行ったときの話で、空港で家族が見送ってくれた際に、おばあちゃんが出発の前に意外なモノを手渡してくれたという。その意外なモノとは、両手いっぱいの十円玉だった。そして「何か困ったことがあったらいつでも電話しなさいよ」と、おばあちゃんから言われたそうだ。そこまで言って少し笑ったあと、友人は「やさしいおばあちゃんでしょ」と言った。
それを聞いた私は、国際電話は高いから「十円玉ではいくら入れても足りないだろう」とか、「海外では十円玉を使うことのできる公衆電話はないだろう」などと多少ナナメから話しを聞いていた。
しかし、"その十円玉の数に見合うほどおばあちゃんは孫を心配し、大事に想っているのだ"というふうに肯いてみると、忙しい毎日の生活の中でついつい忘れているさまざまな事に気づかされ、また、そのようなたくさんの思いやりや支えの上に私たちの人生が成り立っているのだと、自分を見つめ直すことのできる、よい機会となった。
また、よく門徒の方から、お念仏は何回唱えたらいいですか?と聞かれることがあるが、"数に規定や、いつどこで合掌しなければいけないという指定はない"と答えると、不思議そうな顔をされる事がある。
先に書いた十円玉の数とお念仏の数は、心配と喜びの数ともいえるのではないだろうか。何枚でも、親の心配と御恩の数だけ渡したくなるものであり、これをお念仏に置き換えると何回でも唱えずにはいれなくなくなるものといえるだろう。
日常生活において、そのように考えることが自然とできた時、今、なんとなく唱えなければいけないと思い称えているお念仏が、阿弥陀仏の勧める南無阿弥陀仏という報恩感謝のお念仏に置き換わるのではないか、と思う。
私もまた、たくさんの支えによって、今をいただいていることに改めて感動し、人生をお念仏と共に生かさせていただこうと思えてくる。 

■10 たかが夢?
皆様は、夢をどのように考えるでしょうか。私は最近よく夢を見るのですが、目が覚めると、「夢を見た」ことは覚えていますが、その内容まで鮮明に覚えていることはあまりありません。
世の中には、「夢は観念の作用であり、疲れた意識の乱舞であって、何の実在性も真実性もない幻だ」と言い切る人もいますが、夢の中でも現実の生活そのものであり、全く変わったところがないという経験をされた方もいるのではないでしょうか。
しかし夢は、事実として厳然たる実在性をもって、夢の中の私たちを苦しめ、悩ませ、驚かせ、悲しませ、ややもすれば覚めた後の私たちの生活にまで、大きな影響を与えることがあります。
例えば、ある日見た夢が正夢になった、逆夢になったということもあるでしょう。また今まで神社仏閣に参ったことがない人が、生々しい恐ろしい事故に遭った夢を見て飛び起きた朝などは、急に参拝したくなったということもあるかもしれません。夢には不可思議とも思える神秘性があるようにも思えますが、心理学などでもいまだ全容が解明されていないのが現実です。
御開山親鸞聖人は、夢を多く見られた方であったとされています。そして、自らが見た夢を夢告であるとされました。なぜなら、聖人が何かに悩み苦しんでいるときに必ず夢を見たからです。比叡山の六角堂で救世観音よりこの夢告を得て、山を下り師匠の法然上人の門下に入った聖人は、山での仏道修行に限界を感じていられたのです。聖人の夢告には、救世観音や如意輪観音があらわれましたが、聖人はそれを仏様からのおはからいと受け取ったのでしょう。
私たちが何気なく見ている夢ですが、その夢も全て、もしかしたら凡夫に向けての阿弥陀さまのおはからいかもしれません。この無意識から働きかけてくる夢を、たかが夢と終わらせるのではなく、必然的にご縁を頂いて見ているのだと頂くのも興味深いと思います。 
 

 

■11 後世へ伝えること
近年若者の宗教離れが深刻であると言われ続けていますが、はたしてその原因はどこにあるのか、またそれは事実なのでしょうか。
多くの人が情報源とするマスコミの影響は決して少なくなく、世間で騒がれた事件を起こした一部のカルト教団などによって、宗教にマイナスのイメージが植え付けられてしまったのが実際であり、若者の宗教離れを加速させる原因の一つともいえるかもしれません。
しかし全てがそうというわけでもなく、例えば正月の初詣や盂蘭盆会でのお墓参り、寺院観光には多くの方々が参詣に訪れていますし、アクセサリーとしての腕輪念珠をする若者もたくさんいます。意識するしないは別にして、宗教に本当に無関心な訳ではないように見えます。
以前ある寺院で、誰に言われたわけでもなく被っていた帽子を脱ぎしっかりと一礼や合掌をしたり、通りがかるお坊さんの挨拶に声を出して返していたりする若者の姿を多く見ました。逆に、挨拶を返さなかったり帽子を脱がないなど配慮に欠ける様子が、逆に年配の方に多く見受けられました。
過去、現在、未来と時間の流れる中で命を頂いている私たち。先人の方々が良いお手本を示してこそ、輝ける未来社会へと進んでいけるのではないでしょうか。しかしながら、核家族化が進み、地域社会も崩壊している現代社会においては世代間で伝えられてきたことが、なかなか伝えられなくなっています。こうしたことも宗教離れの一因ともいえますが、だからこそ今、一人ひとりが自分を見つめ直し、自分が両親、祖父母から伝えられてきた真宗の作法、お念仏の有り難さを今一度思い出し、子や孫へはもちろんのこと、より多くの方々へ伝えていくことが何より重要な勤めであり、また自分たちのお念仏の実践へとも繋がっていくのです。
南無阿弥陀仏と手を合わせ感謝のお念仏を称える、その姿をしっかりと後世へ伝えることは、仏様から託されたとても大切な自分の役割なのです。 

■12 子猫が一匹
ある日のことでした。本願寺の倉庫から猫の鳴き声が聞こえてきたのです。倉庫の中を見てみると、子猫が一匹。しかし鳴き声は複数で、他にもいるようでした。親猫らしき姿は周囲に見あたりません。食べ物の無い倉庫で、親猫ともはぐれ、やせ細りながら、親猫を探す呼び声を発していたのです。
何とかして助けてあげたいと思ってゆっくり近づいて、そっと手を伸ばすものの、親猫でないものが近づくとビックリするのか、子猫は逃げていきます。物の多い倉庫の中、小さい子猫たちが相手では鬼ごっこにもなりません。小さな隙間に入られては、私の手では届かないのです。何とかしてあげたいが、倉庫から出してあげるにはどうしたらいいだろうか、またその後子猫たちが安心して暮らす場所はあるだろうかなどと考えているうちに時間ばかりが過ぎていきました。
結局、倉庫にいた都合三匹の子猫を無事に助けることができましたが、子猫と鬼ごっこをするうちに、ふと気づきました。仏さまからみれば、私はこの子猫と変わらない存在なのです。仏さまの私を救うために立てられた願い、そして私を救おうと伸ばしてくださっている手、それらを信じられずに逃げ回っていたのではと。ただ仏さまを信じて疑わず、その手にゆだねてしまえばよいのに、それができない私だったのです。
生まれたばかりの赤ちゃんが母親をしたって頼りにし、やがて「ママ」と呼ぶようになるのは、母親が慈愛をこめて何度も何度も「ママですよ」と名乗り、呼び続けているからです。私の方から仏さまにお助け下さいとてを伸ばしているより前に、実は先に仏さまの方から、お前を救うぞと手を差し伸べて下さっているのです。
浄土真宗の仏さまである阿弥陀さまは、私たちを救う手立てと、私たちのいずれ行き着く極楽浄土を、五劫という長い間考えられたのです。そしてさらに長い間修行なされて、私を今救おうとしてくださっているのです。子猫は、私にその事を教えてくれたのでした。 

■13 「一期一会」
「一期一会」という言葉があります。これは、江戸時代の末期に幕府の大老と なった井伊直弼の言葉であり、著書である「茶湯一会集」という茶道の心得書の 中に出てきます。
一般的にこの「一期一会」を、物や人との一つ一つの出会いを大切にするとい うニュアンスで使っている人が多いと思われますが、別に間違いではありません 。しかし、この言葉にはもっと奥深い意味があるのです。
私たちの出会いには喜怒哀楽のいろいろな出会いがあると思います。その中で 、一期一会と思える出会いとはどんなものかと問われたら、強く記憶に残るよう な特別な出会いが思い浮かぶのではないでしょうか。ですが、それだけが大切な 出会いではなく、普段の私たちの生活を含めた全てが大切にすべき出会いなので す。私たちがほぼ毎日のように会っている人たちとの出会いもこの「一期一会」 に含まれているのです。
この「一期一会」は始めに述べたように茶道の言葉です。茶道では、毎回同じ 主人がお茶を入れ、同じお客がそれをいただくということは珍しいことではあり ません。そういったくり返しの連続であっても「一期一会」なのです。なぜなら 、各人はもとより、一切のものが時間と空間によって変化しているからです。そ のため、茶道ではこの一回の茶会が一生で一度の出会いと説くのです。その事を お互いに心得ているからこそ主人と客人が万事に心を配り、誠意をもってお互い に最善を尽くすのであり、ここから「一期一会」という言葉が生まれてきたので す。ですから、私たちの日々の生活においても決して同じ出会いはなく、どれも が一生に一度の出会いなのです。
私たちの命は「無常」の中に生かされているのです。生かされるためには多くの出会いがあってはじめて成立しているのだという事をしっかりと理解し、「一 期一会」を大切にしたいものです。 

■14 モノサシ
昔、三河に篤信な妙好人の老夫婦が住んでいました。その夫はある晩、吹き荒れたすさまじい東風によって家の戸が立てるガタガタという音で目を覚まします。すると、当時、京都にあった御本山(本願寺)の伽藍が気になり、すかさず横に寝ていました奥さんを起こします。「この嵐では御本山さまが心配じゃ。今から嵐を止めに参ろう」と。
そして老夫婦は話し合い、家にある出来るだけ大きな風呂敷を探し出して、凍える様な嵐の中、家の裏にある小高い丘に登ります。二人は風呂敷の四隅をしっかり持ち広げ、「なんまんだぶ、なんまんだぶ。これで少しでも風が弱くなれば有難いのぉ」「本当ですね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と冷たい風雨も忘れ、風が弱まるのを待ちました。結局、風が弱まり、老夫婦が家に帰れたのは夜も明けるころでした。
この二人の行動はすぐに村の人々へ伝わりましたが、その村ではこの夫婦に対しての意見が大きく二つに分かれました。一方では、「風呂敷ごときで、あの大風が防げるはずがない。しかも御本山はここから五十里以上も離れた京都にあるのに、なんと馬鹿なことをしたんだろう」と非難する声です。もう一方では、「なんと、この夫婦は有難いのだろうか。私たちも見習わなければならん」と賞賛する声です。
この老夫婦を非難する声はもっともな話でしょう。私たちも「そんなつまらない、役に立たないことをしても無駄じゃないか」とついつい思ってしまいます。それが人間のモノサシであり、現代の多くの人間がこの様なものの考えをしているのかもしれません。しかし、この老夫婦が行ったことは果たして非難されるべき事でしょうか?
この老夫婦が行ったことはたとえ愚かなことであったとしても、この老夫婦の心持ちは大変素晴らしいものであり、この老夫婦とそれを賞賛した人々の心は仏のモノサシといえるでしょう。
この様な人々を素直に賞賛することが出来るでしょうか?知らず知らずのうちに自分だけのモノサシで物事をはかっていませんか? 

■15 明日ありと 思う心の あだ桜
今年も桜の季節がやってきました。この季節を迎えると、我々浄土真宗の僧侶の心には一首の歌が浮かびます。
明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
この歌は、わずか九才の少年が詠んだ歌と言われています。この少年は幼い頃に両親と死に別れ、叔父のもとで生活をしていましたが、世の無常を感じ、僧侶になることを決意しました。そして僧侶になる試験を受けにお寺まで行きましたが、着いたのは日もとっぷり暮れた夜でした。少年が「今からでも試験をして欲しいのですが」と尋ねると、試験官は「今日はもう時間も遅いし、明日に試験をしましょう」と答えました。
それを聞いて少年は冒頭に紹介した歌を詠みました。いま綺麗に咲き誇っている満開の桜も、もし夜に嵐が吹き荒れれば、明日までには全て散ってしまうでしょう。同じように、人の命にも明日があるという保障はありません、と少年は歌にのせて自分の思いを告げたのです。すると試験官はハッと気付かされ、すぐに試験を始めたそうです。少年は見事に合格し、僧侶になりました。この少年こそが浄土真宗の宗祖、親鸞聖人です。
このエピソードは今から約八百年前のことです。この頃と現代とは環境も全く違いますが、「明日もわからぬ人の命」というのは変わることのない事実です。医療が発達して治る病気も増えましたが、それでも病気で亡くなる方は絶えません。また、多くの方々の命を奪う凶悪な事件や悲惨な事故が、毎日どこかで起こっています。
しかし、これらを人ごとだと思い、何をするにも「明日から」とか「明日でいいや」としてしまう人も多いのではないでしょうか。明日には、あなたが当事者になるかもしれないのです。咲き誇っている桜の花を見て「綺麗だな」で終わるのではなく、この歌を思い出し、今を大切に過ごすことが大事なのです。もう一度いいますが、明日を約束されている人などいないのです。 

■16 横載五悪趣
「あ〜した、天気に、なあ〜れ〜。」
懐かしいかけ声にふと振り返ると、空高く小さくも色鮮やかな靴が舞い上がっていた。
そこにいた子供達は、小さな身体を躍動させながら、笑顔をいっぱいに振りまいていた。
今私は、人生の岐路に立っていた。家庭や仕事、幾十もの想いを巡らせながら、どの選択が正解なのかを模索していた。考えても考えても出ない答えを・・。
人が考える正解には、正しい答えは無い。この人にはこの人の、あの人にはあの人の答えがあり、それも人それぞれの主観であり、煩悩渦巻く本性が根底にはある。いつからか笑顔を忘れている自分がいた。そんな自分の心に、子供達のいっぱいの笑顔が太陽のように光輝き、昔持っていた純真な心が呼び覚まされていった。
これはある私小説の下りである。
親鸞聖人が述べておられる「横載五悪趣(おうぜごあくしゅ)」について、大無量寿経では、"横"という字は阿弥陀如来が衆生を必ず救うという願いを表し、"載"という字には切るという意味が、そして"五悪趣"は迷いの世界のことを指していると説かれています。これは、阿弥陀如来が一人も漏らさず迷いの世界の絆を横ざま(本願力)によって断ち切るとおっしゃっておられるということです。
私たち衆生は、「幸せになりたい、健康でいたい」などいろいろな想いを巡らせ、努力したり願ったりしておりますが、それらは全て私たちの煩悩うずまく本性から生まれたものであります。浄土真宗の教えをいただくということは、このような煩悩や迷いの心を断ち切っていただく仏心を頼りとして信じるということですから、信じることは自分で思いたってするのではなく、阿弥陀如来よりいただいたものとなるのです。
子供のような素直で純真な心を今一度思い起こし、仏さまへの報恩感謝の心をいつまでも持ち続けたいものです。 

■17 「恩」
「恩に着せる」「恩に着る」「恩を仇で返す」「恩を売る」など、世の中には「恩」を使う言葉がたくさんありますが、使われ方によって、いい意味だったり悪い意味だったりします。仏教では恩を非常に大切にしており、古来より、人は恩を知り(知恩)、心より感じ(感恩)、それに報いなければいけない(報恩)と説かれています。
恩という字は「因」に「心」と書きます。恩を知ることや、恩を感じることは、私たちの「心に因る」のです。ですから、もし私たちが誰かに親切にされた時、素直な心を持っていれば、その恩に感謝して自然とそれに伴った行動がわき起こってくるものなのです。しかし、私たちはついつい疑いの心を持ち、その好意の裏には何か思惑があるのではないかと勘ぐってしまうことがあります。
江戸時代中期の中根東里という学者が著した書物『東里新談』にこんな言葉があります。「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」(人にモノを送ってお礼を期待するな、人からモノをもらったらすぐにお礼をしなさい)
この、施して報を願うとは、自らの行為を誇り、それによって慢心することと言え、まさに「恩に着せる」事ではないでしょうか。また、受けて恩を忘れずとは、人からもらった恩を、恩と感じて、それに報いようとする行いであり、報恩感謝と言えます。
仏事においても同じ事です。仏様から受けているご恩を、素直に感じて、それに報いようとする事が大切なのです。しかし、誰しもはじめは煩悩による疑いの心があるものです。ましてや仏様のご恩は目に見えないもので、科学万能の現代に育った私たちにはなかなか受け取りづらいものですが、それでも仏様がくださるご恩の深さを知り、心より感じることが出来れば、感謝するお念仏が自然と沸き起こってくるのです。
さまざまな人の思惑が交差する世の中においても、私たちが素直な心でいれば、いろいろな人からたくさんの恩を受けている事に気づき、感謝の日々を送っていけるのではないでしょうか。 

■18 お正月
お正月には、多くの方々が神社・仏閣へ初詣、初参りに行く様子がテレビなどで報道されます。
「今年も一年無事健康で過ごせますように、交通事故に遭いませんように、商売が繁盛しますように、望みの大学に合格しますように、もっとお金が貯まりますように...」
などなど、それぞれに願い事をされたことでしょうが、それらはどうしても自分中心の願い事やお祈り事が多くなってしまうものです。
しかし、どんな願い事にせよ、叶えばとても嬉しいことです。また難しい願いであればあるほど「自分一人の力ではない。神様仏様のお力によるものだ」と感謝の念も湧いてくることでしょう。
ですが、仏様の教えでは、願いが叶わなくても感謝を申し上げなければならないのです。
仏様は、どうしてもみんなに本当の幸せを与えたいと強い願いをもって、常に私たちに目を向け、誰であってもどんなことがあっても区別することなく、平等に働きかけてくださっています。
ですから、願いが叶ったときでも、願いが叶わなくて生きる望みもないというようなときでも、仏様は常に私たちに目を向けて下っているのです。
親鸞さまは「逆縁」といって、自分に都合の悪い出来事に出会ったとしても、それがかえって大切なことに気づかせてくれることもあり、「仏様のお導きであった」と受け取らせていただいています。
例えば、泥棒に入られて大切なものを盗まれたとしても、前述の教えからいくと喜び、感謝申し上げねばならない、となります。
自分には盗まれるだけのものが手元にあった、それだけの財産を持てるということは幸せなことだ、盗まれてみて初めて気づかせていただいた、ありがたい、ということです。
しかしながら、なかなかそのような心情にはなれないのが性です。普通は怒ってしまうでしょうね。
日々の生活の中で、なかなか気づかせていただけないことに、目を向けて欲しいと願われているのが仏様です。
一年の計は元旦にあり。
自分にとって都合の良い願い事、お祈り事ばかりではなく、本来あるべき仏様との関わり方を、今年も一年目指していきたいものであります。 

■19 「命を大切に」
車を運転していると、ふとある標語が目に止まりました。
『命は大切に。交通ルールはしっかり守ろう』
車を運転される方だったら、誰でも運転中にヒヤリとしたことやハッとした経験があるでしょう。車の重量は1tくらいあります。それが40km以上のスピードで走り、道路を行き交っていると考えると恐ろしいですね。車が多く普及している現在、その便利な車によって毎日多くの人の命が失われているのも事実です。命の大切さはみんなわかっていることですが、失われてから気づくのでは遅いのです。今、ここで、私たちが命の大切さを実感していかなければなりません。
お釈迦さまは「人生は苦である」と仰いました。確かに世の中には思い通りにならないことは多く、現代社会では人々のストレスもたまる一方で、「たった一度の人生だから、自分の思い通りに生きなければ損だ」となるのもやむを得ないことです。人生において、自分の役に立つか立たないか、楽か辛いか、などの尺度は必要です。しかし「こんな風に生きれば損だ」「あんな風に生きれば得だ」と、自分の人生を損得で勘定してそれだけで良いのでしょうか。
命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準から見れば、自分の利益になることばかりをし、楽をして生きた結果、ずいぶんと得をした人生だったとしても、自分の人生を無駄に生きたということも充分あり得ます。反対にどのような辛い日々を過ごしたとしても、尊く生きた、真実に生きたということもあり得るはずです。
損したり、思い通りにならなかったことが無駄に生きたということではありません。お釈迦さまも「この世に無駄なものは何一つない」と仰っています。ましてや私たちの命は、多くの命の支えによって成り立っているのです。「自分だけが」という思いを超えていくところに、本当に意味で「命を大切に」していくことになるのではないでしょうか。 

■20 機事あれば、必ず機心あり
ここ十数年の間に、私たちの生活はどんどん変化してきています。特に携帯電話やパソコンの普及によってワープロやEメールなどを使用する機会が増えた反面、自分で文字を書くという機会が減っています。そのせいでしょうか、いざ自分で何か漢字を書く必要があった時に、その漢字が出てこないことがあります。
また現代では、都会になるほど地域社会のつながりは薄く「向こう三軒両隣」の顏や名前は知っているけれどもどんな人かわからないことも多いのではないでしょうか。そんな現代で、人気があるものにインターネットがあります。これは電子機器を使って利用するのですが、ボタン一つで商売や調べ物ができたりと大変便利なものです。さらに、それだけではなく新しい社会としても機能しており、たとえば遠くに住んでいて顏も名前も知らない人と知り合ったり、仲良くなったりすることも可能です。かたや顏や名前は知っていても交流が薄い、かたや顏や名前は知らなくても交流が深い、面白いですがどこか変ですね。こんなねじれが様々な事件や事故を起こしている原因の一つかもしれません。
大谷光紹台下御遺著「弥陀をたのめ」の中で、台下は、中国の昔の書である「荘子」に出てくる「機械あれば、必ず機事あり、機事あれば、必ず機心あり」という言葉を引用されています。台下の御言葉によれば、「機事」というのは機械によって一つの仕事ができる、機械を使う仕事ができる、ことであり、「機心」というのは、機械を使って仕事をしていると、いつの間にか心まで機械のようになってしまう、ということだそうです。
機械や道具を使って仕事をしているうちに、いつの間にか今度は心まで道具に使われてしまっている、そんなことを感じることはないでしょうか。自分の足下をしっかりと見据えて下さい。大きな落とし穴があいているかもしれませんよ。 
 

 

■21 「聞く」
私たちが、わからないことを質問して解決することを「聞く」といいますが、その聞の字が出てくることわざをいくつか探してみましょう。
1. 下問を恥じず 知らずば人に問え
2. 聞くは一時の恥聞かぬは一生の損
3. 聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥
4. 聞くはその時の恥聞かざれば一生の恥
5. 問うは当座の恥問わぬは末代の恥
6. 負け惜しみは一生文盲
と、ざっと上げただけでも六つもでてきます。  しかもこれらは全部、自身の疑問をそのままにせず、出来るだけ早く先達にうかがって解決する事の大切さを教えることわざです。
このようにわからない事を質問して解決する事を「聞く」といいますが、大切な教えを享受することも「聞く」と表します。この二つの「聞く」は同じ字ですが同じ意味でしょうか。
わたしたち浄土真宗の御開山聖人の説かれた有名なお言葉に「平生業生」(生きている平生に、往生の業事が完成する)があります。その言葉通りに、今生きているこの世界で往生を決定するには、何よりも阿弥陀様より賜る他力のご信心に気付かせていただかなければなりません。その手段が聞といえるのです。その理由の一つを、仏説阿弥陀経に垣間みることができます。
阿弥陀経は、如是我聞に始まり、聞仏所説 歓喜信受 作禮而去と、聞に始まり聞に終わるなど、その重要さを説かれております。つまり、お経をふまえましても、阿弥陀様から賜る他力のご信心は「聞」つまり聞法が大切ということがみえてきます。  
このように「聞」という字を味わいますと、平生業成を成すために一刻も早くご信心を決定させていだだく大切な手段を表した一文字としてわかってきます。
わたしたちは、自問自答を繰り返しながらそのつど仏法にわが身を照らし合わせることによって私たちの無明の闇が浮かび上がってくるのです。
手を合わせてお念仏を称えさせて頂ける仏恩のありがたさに感謝いたしましょう。 

■22 ありがとう
「孝行したいときには親なし」と言いますが、最近、私は友人に「お前は親孝行しているか?」と聞かれました。その友人は、自分の親に「ありがとう」と言いたくても、恥ずかしさが先に立ち、なかなか言い出せなかったそうです。しかしある時、友人は母親がしていた食事の支度を手伝った際、それまでなかなか言えなかった「お母さん、いつもありがとうね」という言葉をやっとの思いで言ったのです。するとその言葉を聞いた友人の母は、何も言わずにしゃがみこんで号泣されたそうです。
この話を聞いて、今まで親孝行をしてきたのか、一回でも親のために何かをしたのか、と自らを振り返ってみました。しかしよく考えてみると、今まで、私は親が子供のために何かをしてくれるのは「当たり前のことだ」と思っていたので、親のために何かをしたことがほとんど無いことに気づかされました。全く恥ずかしい限りです。
そこで先日、私も両親に感謝に気持ちを伝えよう、まずはそれを親孝行の第一歩にしようとの決意を胸に実家に帰省しました。ですが、やはり友人同様になかなか言い出すことがむずかしく、日にちばかりがどんどん過ぎていきました。帰る前日の夜になって、ようやく母とゆっくりと話せる機会が出来ましたので、「お母さん、今までありがとうね」と言いました。母は「急に何を言っているの。子供が親を頼るのは当たり前のことなんだから、いいんだよ」と言ってくれましたが、感謝の思いを伝えることができて本当に良かったと思いました。
子供の頃は素直にありがとうといえた記憶がありますが、大きくなるに従い、言えなくなっている自分がいます。また今度のことでそんな自分であるということに築かされました。今、伝えなければ、一生言えないかもしれません。私たちの一生は、一瞬一瞬の積み重ねです。一瞬のちの確証がないからこそ、今この一瞬を大切に、今しか出来ないという気持ちで物事にあたる事が大切でしょう。 

■23 避けがたいことを避けがたいと知る
最近の報道を見ますと、嫌な事件のニュースばかりどんどん増えてきています。その中でも、多くなってきたのは、若者による無差別的な犯行です。無差別的、つまり、特に動機はないことが多く、強いてあげるなら人生の苦に対する反発と思えます。何とも身勝手で、自分にしか苦はないと思っているのでしょうか。
釈尊は、「世の常の人々は避けがたいことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は避けがたいことを避けがたいと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはない」と説かれました。
人は誰でも老いや病気や死など、どうしても避けがたい事実にいずれ直面するでしょう。その時に、目の前の事実を「避けることの出来ない当たり前のこと」と受け入れることこそ、安らぎの道であると釋尊は説かれているのです。
そもそも苦しみや悩みというのは、物事が自分の思い通りにならないところに生まれるものですから、自分の思い通りにならないのならば、その思いを変えれば良いのではないでしょうか。
「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。
『准南子(人間訓)によると、塞に住む翁の馬が逃げてしまったが、その馬が北方の駿馬を率いて戻ってきました。喜んで翁の息子がその馬に乗ったのですが、落馬をして足の骨を折ってしまいました。しかし、そのおかげで戦士にならず命長らえたそうです。』
これは、世の吉凶・禍福(わざわいとしあわせ)は転変常なく何が幸で何が不幸か予測しがたいという喩えです。
「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざもあります が、その幸も楽も、不幸も苦も基準があるわけではなく自分の思いが幸か不幸か決めるものです。
苦しみから逃れるのが宗教ではなく、その苦しみに出会ったときに、物事を正しく見ていかに対応するかという「柔和忍辱」の心を養うのが仏教なのです。 

■24 「見ざる・言わざる・聞かざる」
昔からよく『口は災いのもと』と言いますね。自分の失言はもちろんのこと、相手に良かれと思った一言が、相手の気分を害したり、嫌な気持ちにさせてしまった、ということは、誰しも一度は経験したことがあるでしょう。
皆さん鏡で自分の顔を見てください。言うまでもなく目は二つ耳も二つ、鼻も二つあるけれども、口は一つです。世界文化遺産である日光東照宮に「見ざる・言わざる・聞かざる」の有名な三猿の彫刻があります。「見ざる・聞かざる」が、二つある目や耳を両手で押さえるのはわかりますが、一つしかない口を押さえている「言わざる」も片手ではなく両手で押さえています。それぐらいしないと口というものは押さえられないのかもしれません。
『十悪』という仏様の教えがあります。これは「殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴」の十個の悪業を指しますが、その中に、嘘をつくという意味の妄語、二枚舌を使うという意味の両舌、悪い言葉という意味の悪口、かざりことばという意味の綺語と、実に口に関することが四つもあるのです。どうやら人という生き物は少なからず噂話やお喋りが好きであり、ついつい「一を聞いて十を知る」ではなく「一を聞いて十を話す」くらいになってしまうようです。仏教では、聞くということをとても大切にしています。聞く耳をしっかりと持ち、二つを聞いて一つを喋るくらいの生活を心がけなさい、という仏様のお諭しではないでしょうか。
人と人が心を通じ合わせるためには、会話がとても大事です。会話せずとも以心伝心といけば最高ですが、なかなかそうはいかないものです。最近では、電子メールなどによる文字での会話も多いようですが、話し言葉にせよ、文字にせよ、その一言、一文字が人と人とを繋ぐ大切なご縁を育んでいくものとなるのですから、日頃より和顔愛語(穏やかな顔で優しい言葉を話す)の気持ちで接していくことを心がけたいですね。 

■25 敬い、思いやり、感謝の心
親鸞様は、歎異抄で「私は亡き父や母を供養するために念仏したことは一度もありません」と仰っております。これは亡き方々を敬わなくていいと仰っているのではありません。親鸞様は、いくら親のことを思って「どうか成仏できますように」とか「あの世で幸せに暮らせますように」と祈ったところで、自分にそんな力なんか無い、と気づかれたのです。もし、私たちにそんな力があれば、迷信に振り回されたりはしないのですが、力がないゆえに信じてしまうのです。それ故に、私たちは「生死の苦海」に溺れているような状態で、むしろ自分たちの足下の方が覚束ないはずなのです。まずはそれに気づかなくてはなりません。またそれに気づいて欲しいと仏様やそのお手伝いをしているご先祖様、親鸞様は願われているのです。
しかし、その声は、なかなか私たちには届きにくいので、仏様やご先祖様は、残されたものたちに、何とか気付かせようと必死に働きかけているのです。お参りもその働きかけの一つなのですが、では「お参りに来たけど、何をすればいいの?」という方もいるでしょう。仏様の教えは、ご縁を大切にして、敬い、思いやり、感謝の心で生活させていただきましょうというものです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、迷信に惑わされ、大量の情報に溺れてしまっていると、なかなかできないことなのかもしれません。何かと忙しい毎日を送っている私たちですが、仏様の前に座り、手を合わせてお参りをすると心静かになるものです。その時には、ぜひ考えてみて下さい。ご縁を大切にしているだろうか。敬い、思いやり、感謝の心を忘れてないだろうか、と。そのように自らを振り返り、それ以降、充実した日々を過ごして欲しいのです。
敬い、思いやり、感謝の心のある生活では、争いごとは起こりません。何かと暗い世情の現代を少しでも明るくしていきたいと仏様はいつでも見守っておいでなのです。 

■26 「つつしむ」
春になると街中のいたる所で新生活応援フェアの文字が躍り、新しい事を始める方も多いことでしょう。また次々と新商品が広告され、発売される季節でもありますので、購買意欲もかき立てられますね。
ご承知の通り、私たちには「欲」がありますから、物が欲しくなってしまうのは仕方のないことです。しかし、それに心を奪われて自分を見失うと、周りが見えなくなって、人に迷惑をかけたり、知らないうちに誰かを傷つけたりしてしまいます。
だからといって、欲が無くなればいい、という訳にもいきません。なぜなら三大欲をはじめとして、私たちの生活は欲の上に成り立っている部分が多いからです。もし無くなってしまったら、私たちの営みもできなくなってしまうかもしれません。ではどのように「欲」と向き合っていくのが良いのでしょうか。
私の好きな言葉に「少欲知足」(大無量寿経)というものがあります。意味は「少しの欲で足りると知る」ということです。百獣の王ライオンは、お腹が満たされているときに、目の前をエサとなる草食動物が通っても襲いません。腹八分が体に良いと言いながら、お腹いっぱいに食べ、更に別腹だといってデザートを食べたりするのは、人間だけなのです。とどまるところを知らない欲に身をまかせるのではなく、「ほどほど」にすることが大事なことなのです、と仏さまは教えて下さっているのです。
古来より日本には「つつしむ」という素晴らしい習慣があります。これを「慎む」と書いた場合は、いきすぎた行動をして身の破滅を招いたりしないように、自らを戒めるという意味になります。また「謹む」と書いた場合は、相手を尊重し、それに応じる気持ちがあるという意味になります。
「欲」に心を奪われれば、道を踏み外しかねない私達の本質を見抜いた仏さまのありがたいお諭しが「少欲知足」です。「つつしみの心」を持って日常生活をおくるということは、仏さまの思いを受け止めて生活することといえるでしょう。 

■27 諸行無常
今年も早いもので厳しかった寒さもやわらいで春のあたたかい風が吹き始め、本山境内の桜も咲き、春を感じさせる季節となりました。
春、夏、秋、冬という四季は順序よくやってきますが、私たちの寿命、人生の終わりというのは、順序とは関係なく誰にでもやってくるものだ、というのは、みなご承知のことだと思います。 しかし私たちは、「死なんて、まだ先のことだ」と、いくつになってもさし迫ったこととは考えていないものですから、「死」は誰にとっても思いがけず、にわかに自分のところにやってくると感じるのです。
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」という詩がありますが、この世のあらゆる現象は変化して止まないという諸行無常は、三宝印という仏教の大切な教えの一つです。 古来より私たち日本人は諸行無常を日々の生活の中に感じ、心得ながら生きていました。色々なもののはかなさを感じる故に、それらの大切さを大事にしていたのです。 現代は科学が発達し、便利な世の中になっています。スイッチを押せば何でもできるような今では、一つ一つ物事の大切さは感じにくいでしょう。現代ではどこへでかけるにも早く目的地に着くことができます。旅行をするからといって、家族や友人と今生の別れを偲ぶ人はないでしょう。 かつて旅に出るといえば、まさに命がけのこと、今生でもう会えるかどうかわからないほどだったのです。色々なものが便利になった分、時間や物事一つ一つの大切さ、人との出会いのありがたさが薄れてしまっているようです。
仏さまは「今まさにあなたの心は何を感じているの」と常に問いかけて下さっているのです。仏さまと向かい合うということは、自分自身の心と向かい合うということなのです。いつ自分に諸行無常の風が吹くかも知れないというときに、あなたは何を感じ、何をしようとしているのか、その一瞬一瞬が繋がって一時間となり、一日となり、一週間となり、私たちの人生になっていくのです。 

■28 私たちの姿が映る鏡
苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、嫌なことなどがなく、毎日が楽しく、楽に過ごしたいと思うことは誰にでもあることでしょう。
ですが、実際の生活ではなかなかそうはいかないということは誰もがわかっていることです。
仕事でもプライベートでも、同僚・先輩後輩、家族、友人知人とぶつかり合って不平不満が出ることもしばしばですが、だからといって一人きりで生きてゆくことができるかというとどうでしょうか。
やはり周りにいる人々と支え合っているからこそ生きていくことができるのです。
あるテレビ番組で、体の不自由なあるお子さんの人生が紹介されていました。
その子は普段、周りの人たちに助けてもらっているから、何か自分でできることで、他の人の役に立ちたいと考えていました。
そこで思いついたのが、養護施設での人形劇です。友達と一生懸命に練習して発表の日を迎え、見事な劇を披露して施設の方々に喜んでもらえました。その子も役に立てたと満足したようでした。
それからしばらくすると、その子の考えに変化が出てきました。役に立ちたいと頑張って何かをしたけれども、よく考えてみたら、自分が元気に生きているだけでも他の人の喜びになっているんだ、役に立っているんだと。生きていることのすばらしさに気づいたのでしょうね。
いいことも悪いことも、喜びも苦しみも含めて、生きている、更に言えば生かされているということなのです。それが当たり前になってしまい、不平不満ばかりになっていてはそのすばらしさには、なかなか気づきません。
当たり前のことが、本当は当たり前のことではないのだよ、と教えて下さるのがみ仏さまの教えなのです。本当に今のままの自分でいいのかい、今一度振り返ってみたらどうだい、と私たちの姿が映る鏡を目の前に示して下さっているのが仏様です。その鏡に自分の姿を映してみて下さい。どんな姿が映っているでしょうか。本当の姿を知ることで、当たり前なことが当たり前ではなくなり、そのありがたさが感じられてきます。
仏様はいつでも私たちのそばにおいでになり、見守って下さっています。 

■29 帰るべき場所
ある日、道端で土人形と、木の人形が口論をしていました。
木の人形が「おい土人形、お前は一雨降ったら簡単に流れて無くなってしまうではないか? お前はなんと弱いのだ。俺は雨がどれだけ降ろうと大丈夫だ。しかし、お前は雨が降って無くなってしまうのではないかと心が安まるときがないだろう」と自信満々に土人形に言います。
それに対して土人形は「俺はたしかに一雨降ると無くなってしまうもろい存在だ。しかし俺はどれだけ大雨が降っても、ただ故郷の土に帰るだけだ。しかしお前はどうだ。一度大雨が降って流されてしまったら何処にたどり着くかも分からないぞ。」と言いました。(司馬遷著「史記」より)
木の人形は自分が丈夫であるということを頼りにしています。しかし、丈夫さを頼りにしている木の人形も、例えば火の中にくべられてしまいますと、あっという間に燃えて無くなります。逆に土の人形は火に燒かれると、焼き物となり、丈夫になります。しかし、土人形はこの様な反論はしなかったのです。ただ「俺には帰るべき場所がある」とだけ答えているのです。
私達も木の人形のように、若さ、体の丈夫さ、名誉、財産など頼りとしているものが色々とあります。しかしこれらはいつかは失ってしまう、不確かなものです。私達はこの不確かなものを頼りに生きていることで苦しみ、更には、周りの人をも傷つけていることになかなか気づきません。
土の人形は雨が降ってしまうと無くなってしまう、はかない存在ではありますが、帰るべき場所のあることのありがたさ、を教えてくれているのです。旅行に出かけて楽しく遊べるのも、帰ってきてホッとできる自分の家があるからではないですか。あてのない旅路は辛いものです。人生という旅路の、帰る場所はどこでしょう。仏様のお導きによって、いのちの帰る場所であるお浄土へ参らせていただくことが真の安心で、心の拠り所となる、それこそが一番大事なことであると親鸞聖人は説いて下さっておられます。 

■30 「怨憎会苦」
お釈迦さまが教えて下さった八苦の中に、「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生どこにいっても「会いたくない人」と会うものです。地域でも職場でも、顔を見るのもいやな人が、一人や二人はいるものです。そんな時はお釈迦さまの言われることは本当だなと思うのですが、みなさんはどうでしょう。
しかし、よく考えてみますと、「怨み憎しみ合うものが会う」というのも本当ですが、「会ううちに憎しみ合うようになる」ということもあります。初めは、「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるということが私たちには多いのではないでしょうか。嫁姑の関係も最初のうちは自慢の嫁であっても、しばらくすると「いい嫁ですが」となり、最後はお嫁さんの愚痴ばかりとなっていくこともあるように。何も嫁と姑に限ったことではなく、地域でも職場でもあることです。
人間は悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなります。それで「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。そしてお互いに苦しめ苦しむのです。「漢書」に「短を捨て長を取る」という言葉があります。欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にし、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう、自損損他の人生です。美点や長所を知って、そこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を実現する秘訣でしょう。
人間というのは他の人やものの短所を探しだして文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。しかしこの肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていない人なのかも知れません。 
 

 

■31 正しく聞く
広く見聞して知識を蓄えることは、過去を知り未来を知るための備えとなります。人間は常に明日を見つめ、未来を見つめて生きる生きものです。明日を失い、未来を失ったら人間は生きられなくなります。それほど人間にとっては明日が、未来が大切なのです。それなのに、私たちは明日をよく考え、未来をよく見極めて生きているかというとそうではないようです。太陽が昇ってから、その日のことを考え、目の前のことにあわてるということが多いのではないでしょうか。あわてないためにもしっかりと見聞することが大事です。
聞くということは、耳さえ不自由でなかったら、簡単なことのように思っていますが、私たちは、この耳で聞いているようで案外聞いていないのです。私たちは、耳に心地いい言葉や、自分に都合のいい話は聞いていますが、そうでないものは、全く聞いていないということがよくあります。これは見るということに関しても同じようで、私たちの目は自分の都合で、自分の都合のいいようにしかものを見ないようです。
私たちは、きちっと聞いたようでも、間違って聞いたり、自分の都合のいいように聞いていることが多いのです。その証拠に、一つ話を聞いても、人によって聞いているところが違いますし、そして、その受け取りもまちまちです。ご法話を聞く時も同じで、蓮如上人は「蓮如上人御一代記聞書」で
「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」
と仰ってます。正しく聞くためには、聞いた者同士で、聞いた話を話し合うことです。話し合うことによって、偏った自分の聞き方が修正されます。
また仏教を聞く上で一番大切なことは、どのようなお話でも他人事に聞かないことです。どれほど素晴らしいご法話を聞いても、他人事と聞くならば、それはただテレビのワイドショーで噂話を聞いただけと同じです。自分のことと聞いていく時、ご法話はそのまま自分の仏道となるのです。 

■32 「眼施」
多くの「いのち」に生かされて生きているのが私たちですから、自分の身体も、自分の持ちものも、全て、他の「いのち」によって与えられたものです。よってお釈迦さまは、自分の身体も持ちものも、みんなに施すことを仏道の第一に挙げられているのでしょう。でも分け与えるものを何にも持たない人は、どうしたらいいでしょうか。お釈迦さまは、無財の七施といって、他の人に分け与えるものが何にもない人でも、分け与えるもののあることを教えて下さいました。しかもそれは誰にでもできることであり、日常生活の中で行えることばかりなのです。
その中の一つに「眼施」というのがあります。これは「やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心が和やかになる」ものです。
私たちは、主体性だとか、自主性ということをよく口にしますが、人生は、どのような「まなざし」の中で生きるかによって決まります。「冷たいまなざし」の中で生きると、私たちは知らないうちに冷たい心の人間になってしまいます。「意地の悪いまなざし」を意識し、負けるものか、跳ね返してやると頑張っていると、いつの間にか、頑張っている本人も意地の悪い人間になってしまいます。「眼施」である「やさしいまなざし」の中で生きて、初めて、やさしい心の人間になることができるのです。
ですが世の中、「やさしいまなざし」ばかりではありません。どちらかというと「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が多いでしょう。だから「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が気になり、そちらに引っ張られて、自分もつい冷たく、意地悪いまなざしになってしまうのです。人は「まなざし」で人を殺しも、生かしもするのです。
常に「やさしいまなざし」を見失わないように、「やさしいまなざし」の中で生きるように心がけて、「やさしいまなざし」の持ち主になれるのです。見失いそうになったら、仏さまの前に座るのです。仏さまの「やさしいまなざし」の前で、「やさしさ」を取り戻して下さい。 

■33 「心の広さ」
お釈迦さまは、言葉には耳に心地よいものと、そうでないものがあることを教え、耳に心地よい言葉を気持ちよく聞くだけでなく、その反対の言葉も「慈しみの思いを心にたくわえ怒りや憎しみの心をおこさないように」聞いて受け入れる人が「心に広い人」であると教えて下さってます。
私たちはどうしても自分の耳に心地よい言葉だけを聞いて、そうでないものをシャットアウトして聞こうとしません。言葉だけでなく、自分と考えの近い人だけを集め、考えの違う人を排斥したりもします。どちらにしましても、自分の物差しを最優先させ、自分の物差しに合う人だけを集め、自分の物差しに合わない人を非難したり、中傷したり、排斥して、自分の世界を自分で狭めながら生きているようです。
「心の広い、狭い」は、どれだけ自分と異質なものを持っている人を理解し受け入れることができるかによって、決まるのではないでしょうか。自分と異質なものを持った人を排斥し、同質のものだけが集まれば、話もよく合い、気持ちが良いかもしれませんが、視野をだんだん狭め、結局「井の中の蛙」になってしまいます。また、同質のものだけが集まっていると、物事が順調にいっているときは良いのですが、問題が起こったときに困ります。その時には、反対の意見も聞く、異質なものを持った人も大切にしていくという「心の広さ」があれば、良い方向が見出せるはずです。
家庭においても、地域においても、職場においても同じ事がいえるでしょう。お互いが異なるものを持った人を尊重しながら、それぞれが持ち味を出し、お互いに補い合っていくことが大切です。頭ではわかっていても実践するのはなかなか難しいですが、そのためにはお互いに、異質なものを受け入れる「心の広さ」がなければなりません。人生は障害の多い道、それも曲がりくねった道を進むようなものです。人生はアクセル役だけではなく、しっかりしたブレーキ役がいないと、安心して進めないような道なのです。異なる役割を果たしてくれる異なったものを持つ人を大切にすることは、この人生を全うする上でも何よりも大切といえるでしょう。 

■34 相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし
人間的に素晴らしい人に出会って、「私と人間のできが違う、私はダメなつまらない人間だ」と、劣等感にさいなまれたことがないでしょうか。また、素晴らしい仕事をした人に会って、「私には、あんなことはできない」と、やってみようとも思わず、はじめからあきらめたり、更には「私は粗末な人間」と居直ってみたり、ひどい場合は親や周りに責任を押しつけたりすることがないでしょうか。
聖徳太子の「十七条憲法」の第十条には
忿を断ち、瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執れることあり。彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ。是非の理。たれかよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし
とあります。どれほど素晴らしい人でも聖ではありません。どれほどつまらない私も、一から十まで愚ではありません。時には自分で驚くほど素晴らしいことを言ったり、したりします。しかし、それもたまたまであって私の全てではありません。一から十まで間違いのないという完璧な人間もいません。どれほど素晴らしい人間にも、一つや二つ問題はあるものです。反対に、一から十まで間違いという人間もいません。必ず素晴らしいところを持っているものです。
「共にこれ凡夫」とは、どれほど素晴らしく見え、どれほど素晴らしいことをした人間も、その時の縁で何をしでかすかわからない危うい、人のことは見えていても自分の将来は何も見えない悲しい、自分中心の、存在ということです。いばることもいりませんが、卑下することもいりません。
他の人と比べて勝った負けたでなく、私は私として、同じにはなれないがあの人のようになりたい。同じ事はできなくともあの人のやったようなことはやりたいと、他の人を良き手本とし、他の人の仕事を良き見本として、私は私として頂いた「いのち」を精いっぱい生きたいものです。 

■35 「精進」
私たちは、ややもすると毎日の生活を疎かにし、何か事があると、はりきったりするものです。しかし事あるときだけはりきっても、人は高く評価してくれません。やはり、人間は普段の行いが大切でしょう。人から信頼されるのも、また人から軽く見られるのも、みんな普段の行い次第です。
「阿含経」に、「声聞は精進をもって力となる」という言葉があります。声聞とは、文字通り、仏様の声を聞く人ということであります。(後には違う意味づけがされますが)何を力にして生きているのかと言いますと「精進」を力にしていると教えて下さっています。「精進」の「精」は「不雑」、「進」は「不間」という意味ですから、すなわち、「精進」とは、あれもこれもでなく、これだけはと、間を空けずにコツコツと努力していくことなのです。
ですから「常が大事」ということの実践が「精進」であるといっていいでしょう。コツコツと「常を大事」に続けていくところに、自ずから、信用もでき、信頼もされる人生になるのです。
若い者は、お仏壇に手を合わすことがないと愚痴っている人に、「あなたはどうですか」と聞くと、「親の命日には欠かさず仏壇に手を合わせています」とのこと。「毎朝や毎晩はどうですか」と続けて聞くと、「何かと忙しいので」と答えられます。そこで「きっと若い方も、毎日忙しいのでしょう」と言うと「忙しいと言い訳をしてはいけませんね」と気づかれました。朝夕の勤めとしてお仏壇に参る自分の姿が、いつか若い人をお仏壇の前に座らせる力となるのです。常のあり方が、自分自身を育て、周りの人を育てていくのです。そしてその人生が、他の人を導き、他の人を大きく変えるような素晴らしい人生となるのです。
「平生業成」という教えがあります。臨終を目前にして、あわてても、なかなかみ教えは聞けません。平生に聞いて、間違いなく「仏に成る」という大事業を成就しておきなさいという言葉です。み教えを聞く人は「常が大事」と今を生きる人になるということです。 

■36 泰山、大河、大海
中国の歴史書「史記」には「泰山が大きな山になったのは、どのような小さな土塊でも、辞退することなく受け入れたからであり、大河も大海も、どのような小さな川の水も受け入れた故に、大きく深いものになったのです」とあります。これを人間に例えれば、大人物といわれる人は、どれほどつまらないと思われる意見でも、他の人の言葉に耳を傾け、受け入れて参考にすることによって、大人物になるということでしょう。
人間の大きさ、深さはどれだけのものが受け入れられるのかという包容力によるのです。どれだけすばらしい才能に恵まれ、どれほどすばらしい考えを持っていても、包容力のない人は大人物になることはできませんし、また、その考えは通りません。
人間は、自らに才能があると、それを振り回して、周りの相手かまわず切りまわり、結局自らの身を滅ぼすことになりやすいのです。「能ある鷹は爪を隠す」というのは、なかなかむずかしいことで、立派な爪があるとついつい使いたくなります。実力・才能のあるものほど、謙虚に人の意見をよく聞くことが大切です。
また、すばらしい考え、正しい意見を言うときは、謙虚に述べるべきです。正しい意見にはみんな賛成するしかないのですから、正しいことは正しいと大きな声で高圧的な態度で言えば、反発され意見が通りません。
自分の小さなものさし、自分流のゆがんだものさしで、他の人や他の意見を計って取捨選択すれば、受け入れる人や意見はわずかなものになってしまいます。自分のものさしを捨て、その人をそのままに、その意見をそのままに聞いていく、取捨選択は最後の最後、事に当たるときに考えればいいのです。はじめから、自分の思いで取捨選択するのでは、人も集まらない、他の人の意見も聞けないという悲しい結果に繋がっていくでしょう。何かを成そうとするとき、謙虚な態度で泰山や大河、大海の如くどっしりと構えることも時には大切なことです。 

■37 「好きな道に辛労なし」
好きなことをしているときは、時間の過ぎるのが早く、疲れも残りません。反対に、嫌々ものをしているときは、時計の針が止まっているのかのごとく時間が経ちませんし、やたらと心身共に疲れが残ります。
同じ事をするにしても、それに取り組む私たちの心のあり方によって、辛労なしとなったり、苦痛になったりします。生きていくためには、嫌いなことにも取り組まなければならないこともしばしばあります。そんなとき嫌いなものでも好きになれば、同じ事をしても、辛労のない疲れの残らない、楽しい日暮らしになります。「好きな道に辛労なし」という言葉の通り、好きになることが、物事を遂げる上では大切なことの一つです。とはいえ、嫌いなものは嫌いという人もいるでしょう。
ですが、私たちが嫌いといっているものは「食わず嫌い」なものが多いのではないでしょうか。誰にでも食わず嫌いの食べ物が一つくらいあるものです。食べたことがない物を食べるには勇気がいります。確かにいつも食べている物は味もなじんでいますし、何かにつけて安心です。しかし、それでは人生に広がりがありません。珍味といわれるものは一癖あって、なじみにくく、嫌いな方も多いでしょうが、何度か食べているうちに美味しくなり、病みつきになってしまうこともあります。
ですから、物事が好きになる方法は、自分の経験を盾にした小さな枠から出て、それに慣れ親しむことが第一です。私たちの好き嫌いは、向こうに問題があるのでなく、こちらにも問題があるのです。「私はこれは嫌い、これはできない」と自分で自分を限定した上に、自分のものさしで他を量って、好き嫌いをいうのです。自分で自分を限定すること、また、全てのものに自分のものさしを当てることをやめて、ありのままにそのものを受け入れ、慣れ親しめば、嫌いなものはなくなり、みんな好きになります。みんな好きになれば、何をしても辛労なしという人生が実現するでしょう。 

■38 「怨憎会苦」
「四苦八苦」の中に「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生○○年もあると「会いたくない人」と会ったり、顔を見るのもいやになる人が、一人や二人はいたりするものです。またはじめは「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるという「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」ケースもしばしばあるようです。
息子さんにお嫁さんを迎えた姑さんが、はじめはお嫁さんの自慢話ばかりしていたのが、しばらくすると自慢話が陰をひそめ「いい嫁ですが......」と不満げな口ぶりになり、しまいには口から出てくる言葉は、お嫁さんのグチばかり、という話はよく耳にします。
だけど、これは嫁姑だけに限った話ではありません。私たちは悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなり、「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。
欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にして、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう人生です。また人間というのは他の人やものの短所を探し出して文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。もう少し身長があれば、痩せていれば、この鼻が高かったら、目が切れ長だったらなどなど。しかし、この肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。ましてやその肉体は、文句をいわれても不平不満を言わずに、日夜私のために働いてくださっているのですから。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていないのかもしれません。
美点や長所を知ってそこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を生きる秘訣の一つです。

■39 「大事の前の小事」
「大事の前の小事」ということわざには反対の二つの意味があります。一つは、大事を行うには、小事を慎重にしないと、油断から思わぬ失敗をするという意味です。二つには、大事の前では小事にかまっていられないという意味です。一つの言葉に反対の意味があるのは面白いですね。でもどちらが本当で、どちらがウソということではなく、どちらも本当なのでしょうね。
さて、私たちがこの人生をどう生きるかは、一人ひとりにとっての大事であります。ましてや、迷いの世界である此岸に「いのち」をいただいている私たちが、仏様のみ教えを聞き、さとりの世界である彼岸にお導きいただけることは、わが人生の大事であり、「いのち」の一大事です。
お釈迦様はお聖教にて、
道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。
道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。
と一歩一歩、一日一日の大切なことを教えて下さっています。一歩をおろそかにし、一日を無駄にすることが、仏道において恐ろしいことなのです。小事をおろそかにして、さとりの岸に至るという大事は達せられないのです。どんなに堅固な堤防でも、虫のあけた小さな穴や数センチのひび割れから崩れるのです。最新技術の詰まったシステムビルも、ちょっとした漏電やネズミが配線をかじっただけで、設備が動かなくなってしまいます。全く不可能と思われたさとりの岸にわたるという大事も、毎日の日暮らしの中で、み教えを聞き、実践することによって実現していくのです。
ですが、つい忙しいから、疲れたからと言ってまた明日、また明日と、今日一日おろそかにしてしまいがちです。そんなことぐらいと大雑把にみ教えを聞く姿勢が、仏道の歩みをストップさせているのです。お釈迦さまのお言葉を真摯に受け止め、日々、精進に励ませて頂きたいものです。 

■40 「心得たと思うは心得ぬなり」
「親の心 子知らず」との言葉があります。人間は自分勝手なもので、自分の都合のいいときに「お父さん」「お母さん」と近づいて、用事を頼んだりします。
しかし、自分にとって都合が悪くなると、近づくどころか父母にさえ背を向けて離れていきます。そんな背を向けて離れていく子のことを案じ続けてくれるのが父母なのです。
親がものを言うと、言い終わる前に「言いたいことはよくわかっている」と反発したり、途中で立って最後まで聞かないようなことは、誰にでも記憶にあることでしょう。
心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり『蓮如上人御一代記聞書』
という言葉があります。子どもに反発されたり、聞いてもらえなかったりしても、嫌な顏をせずにまた言葉をかけてくれるのは親だけです。そんな時、子どもは「親の心ぐらいわかっている」と心得顔でいますが、本当は何もわかっていないのです。何がわかっていないのかというと、親の言う言葉はわかっているのですが、何度も何度も言わずにいられない親の心がわかっていなかったのです。
親の心を本当に「心得た」ならば、ありがとうと頭が下がるはずです。しかし、ありがとうの言葉も、頭の下がることもなく「心得た」と言っているのは「心得ぬ」証拠です。何度言われても親の心が受け取れない、何と「心得ぬ」私であったかという方が、親の心を受け取れている、「心得たる」姿なのです。
何かにつけて、あれも心得ていると思い上がる私たちですが、何事も、自分が当面して苦労すると始めてわかってきます。当然、父母の恩も、自分が子を養うことに当面してわかっていくことなのです。子ができて、初めて父母の恩を知ることができた、という話も聞いたことがあります。親は子を育てることによって、子に育てられているのです。子に教えられて親になり、親に養育してもらって子は成長します。互いに敬い、思いやり、感謝しあう、それが真の親子の姿でしょう。 
 

 

■41 み教えの本末・終始を聞く
古代中国の書物『礼記』に「物に本末あり事に終始あり」とあります。どのような問題でも、本当に解決しようと思えば、その問題がなぜ起こったのか、始まりはどうであったのかを正しく把握しなくてはいけません。物事には、必ず本と末、始めと終わりがあり、それをしっかりと心得ることが大切です。物事の本末、終始が明らかになれば、どのように難しい問題でも解決したようなものです。
実は、み教えを聞くことにおいても、「何故この教えは説かれたのか、誰のための教えであったのか」と、み教えの本末・終始を聞くことが大切なのです。
それを親鸞聖人は、  しかるに『経』に「聞」と言ふは、衆生、仏願の 生起・本末を聞きて疑心有ることなし。これを 「聞」と曰ふなり。(教行信証 信巻) とお説き下さいました。「経」とは『大無量寿経』(大経)です。「聞」とは、大経の要「阿弥陀如来の本願」(仏願)を聞くことです。「衆生」とは、あらゆる世界(十方)の生きとし生けるものです。しかし、私一人がそこから抜けると、生きとし生けるもの全てになりません。衆生=私なのです。
ですから、この私が、「阿弥陀如来の本願」は、誰のために、どうして起こされたのか(生起)ということと、そのためにどのようなことがなされ、その結果はどうなったのか(本末)を聞いて、疑いの心が無くなり、そのまま受け入れることが、み教えを聞いてゆくことなのです。
親鸞聖人は『歎異鈔』にて「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえ に親鸞一人がためなりけり。」 と仰っています。
しかし、私達は、私のためにみ教えが説かれ、本願が起こされていたとは受け取れないのです。聖教に悪人と出てきても、法話で地獄行きの人間だと言われても、他人事だと思い、なかなか私のためと自覚できるものではありません。ですが、「阿弥陀如来の本願」は、AさんもBさんもみな等しくさんも救いたいという誓いですが、まず「私」を救いたいという願なのです。 

■42 「千里の行も一歩より始まる」
「今日一字を覚え、明日一字を覚え、久しければ則ち博学となる」
これは江戸時代の儒者・中井竹山の言葉です。また似たようなことわざで
「千里の行も一歩より始まる」や「ローマは一日にして成らず」があります。
何事も一つ一つの積み重ねが大切です。私たちは結果だけ見て、私もあの人のようになりたい、私もあんなものを手に入れたい、どうしたら手っ取り早く、どうしたら楽にそれが実現できるかを考えますが、どのようなことでもまず一から始めるしかないのです。
世には様々な記憶術のようなものがあったりしますが、仮にそれを使ったとしても、何かを覚えようと思って覚えることは大変です。
しかし繰り返しや積み重ねが記憶術にも勝るときもあります。例えば皆さんが毎日通る通学通勤などの道のりを思い浮かべてみてください。
まず花屋さんがあって、その先にコンビニ、角を曲がると電気屋さんという具合にすぐに思い出せるのではないでしょうか。同じ道を毎日通ると知らず知らずのうちに自然と覚えてしまうもの。更には、あの家の飼い犬はいつも居眠りしているなどという、覚える必要のないことまで覚えていたりしませんか。
「千里の行も一歩より始まる」のことわざのもととなったのは、
「合抱の木も毫末より生じ、九層の台も塁土より起こり、千里の行も足下より始まる」
という老子の言葉です。一人では到底抱えることのできないような大木も、初めは、小さな枝葉から大きくなったのです。
また、天にとどく程の高い塔も、まず基礎の土盛りから始まったのです。
千里の遠方へ行く旅も、足下の一歩から始まるのです。同じように、着実に一歩ずつ進むことによって大事業をも成し遂げられるのです。
仏教の大切な行の一つに「精進」がありますが、「精は雑に対する言葉、進は不間ということ」という意味です。あれもこれもではなく、一つでもいいから、間も開けずに進むことが、何よりも大切な姿勢なのです。 

■43 「塵を払い垢を除く」
釋尊の弟子・周利槃陀伽はもの覚えが悪いのが有名で、他の弟子の中には彼を軽んじている者もいました。ある時、周利槃陀伽は釋尊のもとを去ろうとしました。
「お釈迦さま、私のようなものは迷惑をかけるばかりで、さとりをひらくことなど到底考えられません。ここを出ようと思います」
「周利槃陀伽よ、本当にそう思っているのか」
「思うも思わないも、私のような愚か者は、この世にいません」
すると釋尊は他の弟子を集め、全員に
「もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち『賢者』である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」と説かれました。
のちに周利槃陀伽は、釋尊から教えられた「塵を払い垢を除く」という言葉の通り、精舎の掃除をしながら、ついには塵や垢とは次々に起こってくる自らの煩悩のことであったと、自分を軽んじていたお弟子たちもより早くさとりをひらいたのです。
親鸞さまは御和讃にて
浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし
とうたっておられます。
仏さまのみ教えを聞くまでは、自分には「真実の心」「真実の身」「清浄の心」もあると思っていました。しかしみ教えをたずねていくと、私には「真実の心」のない。わが身は「虚仮不実の身」である。他人を思いやるより、わが身かわいいの心ばかりで「清浄の心」を持ち合わせていない。み教えに照らされて、ようやく自分という人間がよくわかりました、と親鸞さまは告白されているのではないでしょうか。
み教えを聞くということは、色々なことを覚えたり、知ったりすることでなく、自分自身に出会うことなのです。自分自身を知らない人は自分に「真実の心」があると思い、どこまでも自分を善しとし、他の人を悪しとして責めてしまいます。まず自分を知ることこそ、自分自身の幸せの道であり、他の人を幸せにする道なのです。 

■44 五百着の衣
ある国の妃から、五百着の衣を供養されたとき、阿難尊者は快く受け入れました。王様は妃よりこれを聞いて、もしや阿難が貪りの心から受けたのではあるまいかと疑い、阿難を訪ねて聞きました。
「尊者は、五百着の衣を一度に受けてどうしますか?」阿難は答えました。
「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
「それでは破れた衣はどうしますか?」「破れた衣で敷布を作ります。」
「古い敷布は?」「枕の袋に。」
「古い枕の袋は?」「床の敷物にします。」
「古い敷物は?」「足ふきを作ります。」
「古い足ふきはどうしますか?」「雑巾にします。」
「古い雑巾は?」「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」
仏さまの教えでは、自分の周りにあるものは一つとして「わがもの」ではない。全てはみな、ただご縁によって、自分の元にきたものであり、しばらく預かっているだけだと考えます。
蓮如上人は、廊下を通られているとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「仏法領(如来からいただかれた物)の物を粗末にするのか」と仰って拾い上げ、それを両手で押しいただかれたということであります。紙切れ一つのようなものでも、大切にして粗末にしてはならない、活かして使っていかなければならないのです。
また預かっているだけですから、手放す時がきたら執着せずに、見返りを期待せずに、喜んで手放さないとなりません。自分で汗水流して働いて稼いだお金や、そのお金を使って、手に入れた大切なものであったとしても、です。普段私たちが思っている常識のものさしでははかれないのが、仏さまのものさしなのです。
ですから、自分の宝物が盗まれても喜びなさいとなります。それが手元にあったということは自分には富があって幸せだったということがわかり、その宝物によって盗んでいった人も幸せになれるかもしれない、となるからです。人のものを盗むのは良くないのは当然ですが、仮にそうなったときが来たら皆さんは喜べますか? 

■45 「人間の命はどれくらいあると思うか」
ある時、お釈迦さまが一人の僧に尋ねました。 「人年の命ははかないものだが、どれほど生きていることができるだろうか」 すると僧は答えました。 「数年の間ともいうべき短いのが私たちの命です」 お釈迦さまは 「お前は仏教がよくわかってないね」 と言われました。また二人目の僧に聞きました。 「人間はどれくらい生きられるものだろうか」 僧は答えます。 「ご飯を食べている間は確実に生きていることができるでしょう」 お釈迦さまはまた 「お前も仏教の心がつかめていない」 と言われました。そして三人目の僧に聞きました。 「人間の命はどれくらいあると思うか」 すると僧は答えました。 「確実に生きているといえるのは、息を吸って次に吐く瞬間だけです」 するとお釈迦さまは褒められました。 「その通り。お前は仏教の心をよく把握している」
自分の命はあと数年、あと数十年は大丈夫と私たちは思っています。しかし、命は極めてはかないものです。いつ自分が事件事故、災害に遭遇するかもしれない、いつ不治の病に冒されるかもわからないというのが本当のところです。にもかかわらず、自分は大丈夫だと思い込み、今日しておかなければならないことを明日に、明後日に延ばしてしまいます。
蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に  「今日の日はあるまじきと思えと仰せられ候う」 と言われ、何事も急いでやり、今日できることはその日の内に済まされました。
確実に生きているといえるのは、今の一瞬だけです。ですから一瞬一瞬を大切に生きていく心構えが必要だと先達の方々は仰せになられているのです。「一瞬一瞬を大切に生きる」ということは「一瞬一瞬を有意義に生きる」ということです。そうすることで毎日毎日を心新たに、充実した気持ちで生きてゆくことができるのです。 

■46 捨つるも取るもいずれも御恩なり
動物実験について書かれたある本に、化粧品を作るための実験として使われていたウサギの話が載っていました。
それによると、ウサギは涙腺が発達していないので、異物を目に入れられても涙を流して洗い流すことができないのだそうです。また痛い目に遭わされても、泣き叫んだりしません。この特性を利用して、化粧品の原料をウサギの目に注入して実験を行います。目の粘膜が悪くなり、役にたたなくなったウサギは処分されます。その数は年間で何十万匹にもなるそうです。何気なく使っている化粧品の陰にある多大なる犠牲に驚きを禁じ得ません。
また内に目を向けてみると、私たちの身体の中では、心臓や腎臓、肝臓などの臓器が四六時中働いて私たちのいのちを支えてくれています。健康なときには気づきにくいですが、私たちがまだ意識のない母の胎内にいるときから、いのちが終わるときまで、文句一ついわず、御礼も要求せず、黙々と動いてくれているのです。
蓮如上人は「万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨つるも取るもいずれも御恩なり」と仰せになられています。
例に出したウサギをはじめ、生きていくために頂かねばならない多くのいのち、私たちの臓器などに支えられている私たちの生活を振り返ってみれば、何もかもが「御恩」「おかげさま」の中にあるのです。自分の力だけで何もかもできればいいですが、そうはいきません。ですから生きるということは迷惑をかけていくということなのです。迷惑をかけるということはつながりを持つということです。たくさんのいのちとつながりを持って生かされている私たちなのです。それを当たり前だと思ってしまえば、御恩を忘れ、感謝の心を失います。当たり前だと思っている生活を今一度見つめなおして、それまで見えてなかったかもしれない驚きを知ることが大切なのではないでしょうか。そこからおかげさまの感謝の心が生まれてくるのです。 

■47 「さてその後は死ぬるばかりぞ」
「世の中は 食うて稼いで 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ」 一休禅師
仕事や用事に追われて「忙しい、忙しい」と思いながらの日々も多いことでしょう。「忙」のりっしんべんは「心」を表したもの、つまり「忙しい」というのは心を亡くした状態なのです。朝起きてご飯を食べ、仕事して寝るをただただ繰り返す毎日では、あまりに悲しい人生です。
「雑阿含経」というお経にこんな話があります。 「広い海底に、目が不自由な一匹の亀がいて、百年に一回、海面に浮上する。大海には、真ん中に亀の頭が入るほどの穴が一つあいている流木が、一本流れている。百年に一回浮かび上がる亀の頭が、その穴に入ることがあるか?」 お釈迦さまが阿難尊者に問いました。 「そんなことは、ほとんど考えられません」 阿難尊者の答えにお釈迦さまは諭します。 「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れないのだ。人間に生まれることは、今の例えよりも、更にあり得ない難いことなのだ。」
地球ができて、生物が発生して、人間ができて、そして自分は両親から生まれました。何十億年よりもっと前からの、多くの縁が重なってここにいるのです。大げさな話のようですが、自分が今いのちをいただいているのは当然のことではなく、本当にありがたいこと、有ることが難しく滅多にないことなんです。
いのちを粗末に扱うような事件や事故が毎日のように報道されています。ものの使い捨てが当たり前になり、ついには人のいのちも使い捨てられる時代になってしまったのでしょうか。いのちすらモノのように扱う、それでは敬いや思いやり、そして感謝の心も育たず、「死ぬるばかりぞ」のさみしい一生です。一休さんの歌の通りにならないように、まずは一人ひとりが考えていかねばなりません。 

■48 慈しみ
牛久浄苑にて、墓参に向かうご家族と同行している時のこと。 私の後ろを歩いていた二十歳くらいのお嬢さんが、お母さんとこんな話をしていました。
「あの大仏様は怒った顔をしているのかな?」
阿弥陀様が憤怒の形相と思われてはマズイので、ちょっと振り返り、
「あれはね、怒っているんじゃありませんよ。あれはね、ええ〜っと...」 とまで口に出して、「慈悲」という言葉を呑み込みました。現代っ子に「慈悲」といって果たして理解してもらえるのだろうかと。それで、「あれはね、慈しみのお優しい表情なんですよ」と言ったのです。
するとお嬢さんは、少々戸惑いながらも「はあ、そうなんですか」と言って、今度は私には聞こえないように言ったつもりでしょうけど、私には聞こえてしまいました。
「イツクシミってナニ?」
いきなりで恐縮ですが、鯛の仲間に随分と変わった習性を持つ魚がいます。メスが数千個の卵を産むと、オスはそれを全部口の中に入れてしまうのです。卵から稚魚に孵化するまでは一週間程かかりますが、オスは口の中には大切な自分の子供が入っている訳ですから、餌を食べる事もできません。そうしてまさに命がけで新しい生命を育むわけです。では、無事に孵化した稚魚がお礼の一言も云うのかといえば、さっさと大海原へ泳ぎだしてしまいます。単なる本能・習性だと言ってしまえばそれまでですが、何の見返りも求めず尽くすこの親の姿、守ろうとする姿に慈しみの本質を感じます。
阿弥陀如来は私たちに一体どんな見返りを求めていますかと問われれば、何もないと答えるよりほかありません。見方によっては一方的とさえ言える阿弥陀如来のお誓い、普段拝んだり感謝しない私を、ためらう事なく救わんとする如来のお働きを慈悲というのでありましょう。先例に挙げた魚が「ネンブツダイ」と名付けられているのは何かの偶然でしょうか。

■49 赤色赤光白色白光
地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔
<訳> 池の中には車輪のように大きな蓮の花があり、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである。
これは『仏説阿弥陀経』の一節です。
蓮の花は清らかな水では育たず、泥の田で育ちます。泥の田というのは苦しみや煩悩を表しています。蓮の花はその泥が汚いからといって逃げ出したりはしません。その苦しみや煩悩を養分として育ち、煩悩の汚れの無い美しい花を咲かせます。これは、命が終った後の話ではなく、今生きている現実から逃げることなく、ここを自分が育つための場所と捉えて生き抜くための教えだろうと思います。
さいた さいた チューリップの花が
ならんだ ならんだ あか しろ きいろ
どの花みても きれいだな
という有名な唱歌があります。歌詞が前出の阿弥陀経の一節に似ていますね。
私たちは果たして、赤・白・黄色と花が並んでいる、それを見てどの花見てもきれいだなと感動を持って言えるでしょうか。
「どの花が一番きれいだろう」と比較していないでしょうか。「どの花みてもきれいだな」と言えるのは仏の目だろうと思うのです。ここで説かれる花は、実は人間を譬えています。生まれた場所や、皮膚の色、職業や、顔の形などで差別する心を持っていて、どの花みてもきれいだなという心が起こらない。それぞれの色が輝いていることを見抜けないところに地獄というものがあるのです。そこを見抜くための目、いままで掛けていた色眼鏡を外すということを、仏法聴聞を日々重ねていく中で気づかせていただきたいものです。 

■50 不平不満
暑い夏の日、とある大学のバスケットボール部の練習風景です。
体育館ではバタバタバタ、キュッキュッ、走る音、止まる音、人の声、さまざまな音が聞こえてきますが、肝心のボールの音はしません。
「早くボール使った練習したいよな。走るの、もう飽きたよ」
「これじゃまるで陸上部だな」
休憩時間となり、部員たちはタオルで汗をぬぐいながら口々に不満を言います。
練習が再開され、ようやく監督からボールを使う指示が出ました。するとどうでしょう、先ほどまで文句を言っていた部員たち、なんとも楽しそうにコート中を走り回っています。ボール一つ手にすることによってとても生き生きとしているのです。
しかし明日にはまた同じ不満を言い、ボールを与えられたら嬉々として練習に励むわけですが、こうして徐々に上達するのでしょうね。急激に上達するような「魔法の練習方法」でもあれば便利なのですが、現実的にはこうやって反復練習する事が向上への近道のようです。
私たち仏教のみ教えを聞くものにとっても同じことではないでしょうか。 法話を聞いたり本を読んだりして、一時的に心が安らいだという経験をされた方も多いでしょう。しかし残念な事に、せっかく安らいだ気持ちも長くは続きません。
地域、会社、学校などの人間関係その他日常の生活に埋没し、つい、不平不満をこぼしてしまいます。
よく浄土真宗は「何もしなくていい教え」と思われがちです。確かに私のはからい(自力)によって浄土往生するわけでは決してなく、全ては阿弥陀さまによって往生が定まるのですから、そういった意味では「何もできる事はない」かも知れません。しかし、こうして生かされているあいだに何もしなくて良いという事にはならないのです。たとえ明日にはまた不満を言ってしまうかも知れないけれど、少しの時間でも割いて仏法を聞く、お念仏を称えるといった習慣を身に付けてゆきたいものです。 
 

 

■51 厳しい「慈悲」
七高僧のお一人、源信僧都と弟子たちが住む草庵近くに鹿が迷い込んできました。すると僧都は、その度に飛んでいって力任せに鹿を殴るので、鹿は悲鳴を上げて逃げていきます。
何度も繰り返されるその様子に弟子たちは、
「鹿はそんなに悪いことをする動物でもないし、何も殴らなくても......」 と僧都をなじる者さえ出てきましたが、僧都は、
「これが慈悲というものではないか? 私も鹿が憎い訳ではなく、命の限り生きて欲しいと思っている。この山に私とお前たちだけしかいないなら、三度の飯を二度にしても鹿に与えてやりたいが、山裾には至る所に罠が仕掛けられ、猟師も沢山いる。わたしが可愛がったらどういうことになるか? 猟師にまですり寄っていくことになるまいか? だから、人間は恐ろしいものだから近づくなと教えてやるのだ」と話をしました。
僧都の胸のうちを聞いた弟子たちは、鹿を殴り続ける師の姿に、厳しい「慈悲」の姿を学んだのです。同情と慈悲は似ていますが、実は異質なものです。同情は、思いやりの心の動く有様で常に温かいものです。ですから美しいように思いがちです。しかし、よく考えてみると同情され続けた挙げ句にダメになってしまうこともあるでしょう。同情する側の心に優越感が潜んでいることもあり、必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。
対して慈悲は、いつも温かいものとは限りません。時には僧都のように、はた目には非常に厳しく、冷たいものだったりします。ですが、それは本当に相手の身になって考えるからこそ出来る行為なのです。
子供を叱らない、または叱れない大人が増えたと世間では言われます。何をしても無関心あるいは無関心を装うような大人ばかりに囲まれた彼らの目に、私たちはどのように映っているのでしょう。他人事ではないはずです。 

■52 「モノとお前自身のどちらが大切か?」
昔々、ある裕福な家庭の若者が大きな宴に参加しました。
着飾った若者は歌っては飲み、飲んでは踊り、しまいには疲れ果て、仲良くなった美女と庭先の木陰で寝てしまいました。
目覚めると、隣で寝ていたはずの美女がいません。しかも、いつも首に掛けていた大切な首飾りが見当たらないのです。若者はあの女が盗んだに違いない、と慌てふためきます。
「若い女を見なかったか?」と尋ね回っているうちにお坊さんに出会います。
「大事な首飾りを盗まれました。あれは私にとって一番大切なモノです。それを盗んだ女です」
お坊さんはそれには答えず、逆に問いかけました。
「モノとお前自身のどちらが大切なのか?」
あれを無くしたら生きていけない。これこそ私の命だと思い込んでいるモノ。例えば財産や名誉、地位をはじめ、目に見えるモノや見えないモノなど様々ですが、それらは私たちの欲や煩悩、つまり執着心が姿を変えて現れているに過ぎません。
自分にとって大事なものには違いありませんが、「私そのもの」ではないのです。
考えれば野生動物はごく僅かの例外を除けば、貯えたり収集したりする事はありません。人だけが競って財を成そうとした結果が現代社会と言えましょう。しかしせっかくため込んだ財産も生活のための道具に過ぎないのであり、それを所有する人が逆に支配されるようでは、人生とは誠に味気ないものではないですか。
裕福な若者から盗んだ女は、その首飾りを売って、自分が住む貧しい村の人々に食べ物を施しました。しかし、同情してその罪を許せば、困っていれば人からモノを盗んでもいいのだという誤った考えを持ってしまうかも知れません。盗みは許されない罪であるとお釈迦さまも説いておられます。
大事なことはモノそのものに罪があるのではなく、それを所有したり取り扱う人間の心の有り様ではないでしょうか。あるから幸せ、ないから不幸という考え方、こんな有るか無いかの世界ではない、束縛されない自由な生き方を仏法は教えてくれるのです。 

■53 子煩悩
その家では、農閑期になると、一家の大黒柱である父は大阪へ出稼ぎに行きます。
妻との間には就学前の小さな男の子が一人おりますが、胸を患い、時に激しく咳き込むのでした。この事は、子煩悩の父にとって大きな悩み苦しみでありましたが、妻にくれぐれも我が子のことを頼み、遠く離れた地で働く父でした。
お正月、束の間の里帰りをした父。久々の我が家、そして可愛い我が子を膝に抱き上機嫌でお酒をいただきます。こうしていると厳しい出稼ぎ現場の疲れが融けてゆくようです。
酔いも手伝ってか、ウトウトまどろんでいたこの父を目覚めさせたのは、息子の激しい発作でした。久しぶりに息子の病の重大さを目の当たりにして、ただただ狼狽えるばかり。
「はて、妻はどこにいる? 息子がこれほど苦しんでいるというのに、何故気が付かない?」 と周囲を見回すと、妻は炬燵の向こうで突っ伏したまま眠っていたのでした。
その姿に憤った父、思わず声を荒げて、
「おい、お前! この子を何とかせんか!」
妻はあまりの大声に慌てて顔を上げると、何事が起きているのかをすぐに察知し、子供に薬を与え介抱したのでした。
息子もようやく落ち着きを取り戻し、ほっと胸をなで下ろした父でしたが、妻の憔悴しきった姿を見て愕然としました。
「ああ、私は子煩悩だ、などといいながら、本当に愛していたのは息子ではなく、子煩悩を演じる自分であった。妻は日々、このような息子の発作と対峙しながら家を守り、私を温かく迎えてくれたのに、情けなくも私はその妻を罵ってしまった。そんな自分は息子の看病すら出来ないではないか」
そして涙を流して、すまなかった、申し訳なかったと妻に手をついたのでした。
「あなたのお陰でこの子も私も暮らせるのです。有り難いことです、」と妻は申したそうです。 この夫婦はともに、お寺参りを欠かさない、お念仏の家で育ったそうです。 

■54 「蜘蛛の糸」
芥川龍之介作『蜘蛛の糸』という有名な物語があります。
カンダタという極悪人がその死後、当然のように地獄に堕ちてしまいますが、ある日、一本の細い銀色の糸が自分の目の前に降りてくるではありませんか。 お釈迦様が彼が生前、蜘蛛の命を救ったことを覚えておられ、救いの手を差し伸べられたのです。 急いで蜘蛛の糸をたぐり登ったカンダタ、途中地獄の方を眺めると、おびただしい罪人どもがこの細い糸にぶら下がっており、今にも糸が切れそうです。 思わず叫びました。 「この蜘蛛の糸は俺だけのものだ。お前たちは 来るんじゃない」 その瞬間、カンダタのぶら下がっているところからぷつりと糸が切れてしまい、地獄へ真っ逆さまに堕ちていったのでした。
私が子供の頃、学校の授業の中で先生からは「カンダタはやはり悪者。だから、自分だけ助かろうとして、その報いで再び地獄に戻されたのです。皆さんは日頃からはしっかりと良い事に励み、皆と仲良くいたしましょう」といった感じでお話しされた事を思い出します。
それから数年後、今度はお寺で再び、この『蜘蛛の糸』を聞きました。布教使のお話はいきなり、「誠にカンダタはかわいそうなお人じゃ...」で始まるのです。道徳の時間ではカンダタのような悪者はこうなる、という具合に悪者の代表のように非難されたのに。
「ここに参詣をしておる者一人ひとりが、もしカンダタの様な境遇であったならば、『おりろ!』とは叫ばんかの?親鸞様はご自身みずからを『心は蛇蠍の如くなり』と申された。カンダタは紛れもない、この私たちの心の有り様を表しておる」と。
この布教使のお話は、「少なくとも自分はカンダタの様な非道い悪人ではない」などと思い上がっていた私に、実は彼こそが自分自身の本当の姿であると気付かせて下さったのです。 

■55 パソコン
小学生が当たり前のようにパソコンを操る時代、なんでも「検索」すれば様々な情報が手に入ります。また、ある話題についてパソコンを通じて語り合うことが出来る「掲示板」や「チャット」なども大流行。
インターネットは文字通り、今や世界中に網羅され、その特性をフルに活用すれば大変便利なものです。
例えば主婦の方が「今晩のおかずは何にしよう?」などと悩んだなら、パソコンの前に座りキーワードとなる「おかず・今晩」を画面に入力すれば、なんと数十万件の関連ページが瞬時に表示されるのです。多すぎてむしろ悩みそうですね。
そんな便利なパソコンですが、最近は犯罪に利用されたり、思わぬトラブルに巻き込まれたりするケースが増えてきています。成人向けの「チャット」でも、パソコン画面の中では、発言者が本当に成人なのかどうか確認できません。またある掲示板が、暴力的な発言や特定の人を名指しで中傷するなどといった行為がエスカレートし、ついに閉鎖されるという事態も今や珍しいことではありません。
大切なことは問題の原因がパソコンやネットにあるのではなく、実はそれを使う私たちにあるということです。特に「掲示板」や「チャット」では相手からはこちらが見えないという安心からか、何を言ってもいい、相手が傷つこうが構いはしないという意識が持たれがちです。逆に今までチャットの中で友人だと思っていた人から嫌なことを言われたとたんに、相手を非難し始める。所詮は苦楽を共にした訳ではない、仮想空間における友情などその程度のものかもしれません。
今後もどんどんパソコンは身近になりますが、しかし私たちが生身の人間である以上、社会から孤立しては生きていけません。画面の中のバーチャル(仮想)空間では、今晩のおかずは決められても、明日ありと思う心の問題はどうにもならないのではないのでしょうか。
このコーナーも本山ホームページに掲載されていますが、どうかそこを入り口として、お寺の門をくぐって頂くことを切に願うばかりです。 

■56 「いただきます」
言葉はコミュニケーションの方法として生活に不可欠なものですが、最近、テレビや雑誌などでしばしば日本語の乱れが話題になります。
以前読んだある本に、こんな事が書かれてありました。それは、イギリスの旧家へ嫁がれた方が書いたものです。...ある日、彼女のお宅へ日本から友人が訪れました。ちょうどお昼時でしたので、
「お食事は?」と尋ねたところ、
「来る途中レストランでいただいて参りました」と友人は答えたのですが、この「いただく」という言葉に、この本の筆者は違和感を憶えたといわれるのです。彼女によれば、
「誰かにご馳走になったのでもなく、自分で食事代も払ったのに『いただく』というのはおかしくありませんか?」ということです。
確かに、お食事を作って下さった方、ご馳走になった方にも「いただく」という言葉を使います。しかし、いただくという言葉は、たった、それだけのものでしょうか。言葉の表面にばかり執らわれて、自分の都合良く言葉を受取ってばかりいると、大切な事を見失いがちになるでしょう。  みなさんの今日の晩ご飯はなんですか? 魚・牛・豚・鶏はもちろんのこと、野菜もお米も、お茶の一杯まですべて、ついさっきまで生きていた「いのち」を私たちは食材として食べています。
私たちが「いただきます」と手を合わせて言うのは、そのいのちの恵みに対して心から申しあげる言葉なのです。
仏さまがいらっしゃる極楽浄土は、「言葉の要らない世界」と説かれます。一方、言葉一つ間違えれば、大きな問題が起こるのが私たちの住む娑婆世界です。
普段何気なく使っている言葉だけに、その大切さが分からなくなっていないでしょうか。私たちは一人では生きていけません。互いに支え合うためにも、言葉を通して心まで通じ合う真のコミュニケーションが必要です。
「いただく」に限らず、聞こえてくる言葉が真に伝えようとするこころに耳を傾けなくては、とあらためて考えさせられました。 

■57 三つの髷 (もとどり)
法然上人のもとで大勢が聴聞に励んでいた頃、お弟子の一人が故郷に帰りたいと申し出ました。すると上人は、
「おや、髷も切らずに帰るのかね?」 と仰ったので、このお弟子は、
「はて、出家した私のどこに髷が? 上人のおっしゃる意味が私には分かりません」 と尋ねました。そこで上人は、
「お前さんは故郷へ帰って、ここで学んだ知識で人々を驚かそう、そして有名になろうと考えてはいませんか? またそれを利用して生活の糧を得ようなどとは思っていませんか?」 と答えられたのです。さらに続けて、
「知識をもって人を驚かそうとする我慢勝他の心、それによって有名になろうとする名聞の心、そして経済的にも恵まれようとする利養の心の三つの髷が私には見えるのです」
すっかり自分の心を見透かされてしまったこのお弟子、直ちに自ら書きためた書物を焼き捨て、裸一貫で帰ったと伝えられます。
せっかく勉強したのに何てもったいない、と考える読者も多いのではないでしょうか。中には法然上人って、ちょっとイジワルな人だと感じる方もいるかも知れませんね。
でもこのお弟子に限らず、私たちがもし、「世間のほとんどの人が知らない知識」を手に入れたとしたら、「優越感」を持つことはないでしょうか。かといって、仏法を聴聞することを全く止めてしまったのでは意味がありません。
聴聞は大切、だけど自分自身が偉くなったなんて考えたら大間違い、考えれば当たり前のことです。だって、仏法とは全て仏さまが私たちを導くためにご用意下さったものであり、それを聞いて知ったからといって、自分が偉くなるわけでもなんでもないのですから。
そこで蓮如さまのお言葉をひとつ。
「王法(世俗の法律)をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」
自慢げにひけらかすなんてもってのほか、との上人の仰せ。耳が痛くなるお言葉です。 

■58 「親死ぬ子死ぬ孫死ぬ」
一休禅師のお話として伝えられている有名な物語です。
むかし裕福な商人が、孫が生まれたお祝いに、何かめでたいことばを書いて欲しい、家宝にするから、と一休さんに頼みました。
「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さん、さらさらと書いた言葉はなんと、『親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ』。
それを見た商人、顔を真っ赤にして怒ります。
「私は、めでたい言葉と言ってお願いしたのに、死ぬ死ぬ死ぬとは何事ですか」
そこで一休禅師、慌てず騒がずさらりと、
「なるほど、ではなにか、お前のところでは、『孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ』の方がめでたいのかな」と言ったのです。
商人はますます怒って帰ろうとすると、一休さんは、
「お前さんにはこの言葉のめでたさが分からんようだな。年寄りのあんたより先に、せっかく生まれた孫が不治の病にでもなったらどうする?代わってやりたいと嘆いても代われんだろう?」
年老いたものから順番どおりに死ぬということは実はとても難しいことです。
もしも自分の家族が年齢の順に亡くなったとすれば、それこそ家族みんなが長生きをし、仏さまより頂戴した命をまっとうしたということで、めでたいのです。
しかし現実はどうでしょうか。
時代を問わず、若者がある日突然、命を落とすことは、毎日どこかで必ずあるのです。
順番だなんて、最初から無いのです。
また順番通りにいかなかった家族が不幸だという考え方の根底には、「死」イコール「不幸の象徴」のように決めつけてしまう事に問題があるのではないでしょうか。
家族や最愛の人を失う辛さ悲しみは誰しも共通のものです。
しかし、生まれたものがいつか必ず死ぬことは避けられません。
ならば人生とは「生」も与えられ「死」も与えられたものだと言えましょう。
その、せっかく与えられた生を精一杯生きて欲しい、と一休さんは言いたかったのかも知れませんね。 

■59 「無明」
三人の子供たちにゾウの絵を描かせました。
前からゾウを見た子供は長くて大きな鼻を描き、横から見た子供は、大きな耳と大きなお腹を、後ろから見た子供は大きなお尻とシッポだけを描いたそうです。そして、絵を描き終えた子供たちが互いの絵を見て、これはゾウの絵ではない、あなたのも、あなたのもゾウではない、私の絵こそゾウであると言い争うのです。
この寓話は、私たちが実は、物事の一部分だけしかとらえていないのに、つい、全部理解したつもりになっている様子を表します。
自分がどういう場所に座ってゾウの絵を描いたのか、事の始まりはここにあると思うのです。
私たちは、とかく手に入りやすい答えを求め、その答えが自分以外の大勢の意見と同じだと安心します。
しかしその安心は、まったく異質なものに対しては、時として激しい嫌悪感を抱いたり、敵意をむきだしにする時もあります。
仏教では、自分の本当の姿を知らずに、悩み、もがく様子を「無明」といいます。
光が無いから手探りで歩き、目の前にどんな危険があろうと気付かないのです。
仏法は、そんな私自身とこれから歩むべき道を光で照らして下さいます。あせって急ぎすぎれば、時につまずいたり、転んだりするかもしれません。でも、自分が今どこにいるのかが明らかになることは、私にほんとうの安心と勇気を与えてくれます。
光がもっと大きくなれば、今度は他人の姿をも照らして下さいます。すると、ああ、この人にはこういう事情があったのかと、他人が進もうとしている道も見えてくることでしょう。お互いの道は時に交わったり、重なったりしています。「無明」を生きている間は、そこで争いが生まれます。
しかし、お互いの道がはっきり見えれば、ゆずることだって、ともに歩むことだって出来るはずです。争う必要のない世界、異なるものどうしが異なったままで歩める世界を、どうか仏法に聞いていただきたいのです。 

■60 「お陰さま」
これは、とある草野球チームの試合中の出来事です。
守備についたA君のもとへ、平凡なフライが飛んできました。
彼はグラブを構えボールを見据えていたのですが、夜間照明の光のせいか、ボールはグラブをかすめ彼の左目に直撃したのです。
A君はその場にうずくまってしまいましたが、大変気の毒な事にチームメイトは「どうせ照れ隠しの演技だろう」ぐらいにしか思わなかったのだそうです。
ところが一向に立ち上がってこないので、さすがにみんなが心配して様子を見にいきますと、哀れにもまぶたは腫れ上がり、出血はするわで、大変な事になっていたのです!!すぐさま病院に運ばれ、眼科の先生方二人により念入りな検査と手当てを受けた結果、大事に至らなかったのは不幸中の幸いでした。
みんな、見るからに痛々しい姿のA君に口々にこう言いました。
「だいじょうぶ?災難だったね」
まあ、もともと彼のエラー(!?)が原因だし、結果的に打撲で済んだのですから、みんな口で言うほど、同情しているとも思えないのですが・・・。A君はそんな彼らに、こう漏らしました。
「いやあ、助かった」
「???」みんなA君がケガのせいで少し混乱しているのか、と少々心配になりましたが、 「目の前が真っ暗になったときは、これでもう光を失ったかと思いましたよ。打撲で済んでよかった。ありがたい」というのです。
人はいざ自分自身に災難が降りかかると、不幸を嘆き、他を恨みがちです。 しかし、若い頃から家庭環境の中で仏法に親しんでいた彼は、「お陰さま」と手を合わせたのでした。
仏法には、良きにつけ、悪しきにつけ、全て「お陰さま」と引き受けてゆく強さがあります。
そしてその強さとは、からだをいくら鍛えてもなかなか手に入らない強さなのです。なぜなら、それはみ法を聞きひらき、仏さまから授かる強さなのですから 。 
 

 

■61 自分中心のメガネ
事件の容疑者が捕まるたび、近所や知り合いの方がいいます。「なぜあの人が...」と。
ふだん真面目そうな人、優しいひと、そんな風にみられている人間でも、「縁」がもよおせば信じられないことをしてしまいます。それは裏を返せば私の姿でもあるわけです。
親鸞聖人は「なにごとも心にまかせてしまえば、極楽へいきたいがために人を千人でも殺すだろう。それができないのは、そこまでやるほどの業縁が自分にないだけのこと。自分の心が美しいからではありません」とするどく見抜かれています。
「邪智世間智」という言葉があります。これは普段私たちが自分中心のメガネをかけて全てのものを推しはかっていることを意味します。例えば、あの人が好きとか嫌いとか、これは正しいとか間違っているとかの判断は全てこのメガネによるというのです。自分の都合次第で、これまで大嫌いだった人間が好きになれるのも、このメガネのせいなのです。
そんなメガネをかけている私ですから、仏教がいくら、「全てのものは移り変わり、永遠に変わらないものはない。また全てのものは互いに関係し、支え合って存在する」と説き、この言葉を頭で理解したとしても、いざ自分のこととなると、はなはだ怪しいかぎりなのです。
高度に文明が発達した現代社会に住む私たちは、命がほかの多くの命によって支えられ、生かされているという事実に、少し気付きにくくなっているのかも知れません。しかし、いったん気がつくと、これまで見えていなかったことが見えてきます。すると痛みも伴うかもしれません。
でも大丈夫。誰もけっしてひとりじゃないんです。恐れず一緒に見ていきましょうよ。
「一人いて喜ばは、ふたりと思うべし。ふたりいて喜ばは、三人と思うべし。その一人は親鸞なり。」あたたかい、親鸞様のお言葉です。 

■62 まっすぐに見る
村の大きな松の木の下に「この曲がった松の木をまっすぐに見ることのできたものには褒美を与える」という立て札が立ちました。
さあ大変、村中が大騒ぎです。村人の中には弁当持参で一日中じっと見ているものもいましたが、その松は幹はもちろんのこと、枝も曲がりっぷりがよく、ものの見事にねじれていて、どこからどう見ても曲がっているのです。
そこへふと、お坊さんが通りかかって、立て札を読むなり、お付きの小僧さんに「まっすぐに見えたから、褒美をもらってきておくれ」と言うのです。あっという間になぞを解いてしまったお坊さんの言葉に、村人たちは戸惑うばかり。そこで、村人の一人がおそるおそる尋ねました。
村人:「お坊さま、どうやったら、この松がまっすぐに見えるのでしょうか。私には曲がってしか見えないのですが...」
お坊さま:「そりゃ私が見ても、この木はよおく曲がっているとも」
村人:「ですが、まっすぐに見えたんですよね」
お坊さま:「その通り、まっすぐに見えたよ」
村人:「ならば曲がっていないのですよね」
お坊さま:「いいや、よく曲がっておる。見事な曲がりっぷりだよ」
村人たちは訳が分からずチンプンカンプン。
そこでこのお坊さんが云うには、
「あなたたちは、この曲がった松の木をまっすぐに見ようとするからダメなんだよ。いいかい、まっすぐに見るというのは、この松を見て『何ともよく曲がっておるの』と感心することが『まっすぐ』なんだよ。わかるかな。曲がったものを曲がっていると見ること、それがまっすぐということなのだよ」とのこと。
お釈迦さまの教えの中に正見(正しくものごとを見る)という教えがあります。私たちは普段、ちゃんとものを眺めているつもりですが、自分勝手な都合のよい見方や考え方をして、自分の意見ばかりを主張してはいないでしょうか。仏教では、物事を正しく見ることから正しい心、つまり正しい考えが生まれてくると説きます。仏法とは常に自分の心を問いただすことが大切なのだ、と教えて下さっているのです。 

■63 人間も自然の一部
結婚式などに出席すると、晴れてさえいれば「良いお天気でよかったですね」などと、皆が口々に言います。子どもの運動会となればなおさらですが、ここで私たちが言う「良いお天気」とは、つまりは「晴れ」のことですね。
なんだ当たり前じゃないか、と思うのも当然ですが、では快晴が何週間も何ヶ月も続いたら、どうでしょう。
夏ならば海の家は大繁盛で、電気店ではエアコンが飛ぶように売れることでしょう。一見なんの問題もないようですが、水不足となれば農業にとって深刻な問題となります。工業にも大きな影響がでるかもしれません。とても「良いお天気」などと浮かれてはおられないのです。「そろそろ一雨欲しいなあ」などと言っていても、自分が旅行に出かける時だけは晴れて欲しいと思うもの。結局、私の都合を最優先に考えてしまうんです。
春になると桜の花が美しく咲きますが、都合良く週末に満開を迎えるとは限りません。せっかく満開になっても、風が吹いて雨も降るかも知れません。自然とは私の勝手な思いとは関係なく、その営みを続けています。
あふれるモノや情報で、そんなことすら忘れがちですが、よく考えると人間も自然の一部なのです。私たちは、土や水、光の力を借りて作物を実らせますが、肝心の土を作ることはできませんし、太陽そのものを作ることはできません。全て与えられたものばかりです。そして、それらの自然を恵んでくれる地球という星は、果てしない宇宙の中で他の惑星や恒星と深く関わり合いながら存在しています。
地球の自然を含む宇宙全体の働きかけがあってはじめて、桜の花は開き、海水浴にもいけるのです。大きな事を言うようですが、人生の営み全てが自然のお陰様、お陰様の人生でございましたと謙虚になると、自分一人で生きていたのではない、生かされていたのだという事実が、新鮮な驚きとして心に響いてくるのではないでしょうか。 

■64 一粒の米の重さ
「一粒の米の重さはどれくらいだと思うか」
ある時、お釈迦さまは弟子の阿難尊者にお尋ねになりました。
「お米は小さいものでございますから、とても軽いものと考えます」と阿難尊者が答えると、
「その重さは須弥山(しゅみせん)よりも重いものである」とお釈迦さまは仰せになりました。
須弥山というのは、仏教の世界観で宇宙の中心をなす巨大な山のことで、十六万由旬(一由旬=約七キロメートル)もの高さがあります。
現代に生きる私たちもお釈迦さまのお尋ねには、同じように答えるのではないでしょうか。
お米一粒は秤にかけても針はほとんど動きませんし、お金に換算したとしてもわずかの値打ちにもなりません。だから阿難尊者のお答えは科学的、合理的見方としては正解です。
しかし、お釈迦さまが「須弥山よりも重い」と仰ったのは、もちろん、秤にかけた重さではありません。この一粒ができあがるまで、春から秋までに受けた恵みの重さは量り知ることのできない広大無辺なものである、そのご恩を忘れてはいけない、との教えであります。
少し考えただけでも、お米が私たちの御膳にのるまでどれほどの恵みがあることでしょうか。太陽の光、大地の熱、水などの自然の恵み、子育てをするように大切に稲の世話をする人々、お米を運搬する業者、販売店、炊事してくれる家族......。無数の恵みのお陰様で、やっと私にいただけるのですね。
目に見えないものはついつい忘れがちです。ましてや使い捨てが当たり前になってしまっている現代、お釈迦さまの教えをしっかりと心にとどめ、お陰様の日々を暮らさせていただきたいものです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
浄土真宗本願寺派龍谷山本願寺(西本願寺)・法話

 

 
 

 

■心ゆさぶるお手紙
行間から漂う香り
よくしれらんひとに尋ねまうしたまふべし。またくはしくはこの文(ふみ)にて申すべくも候(そうら)はず。目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふうへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ。よくよく浄土の学生(がくしょう)にとひまうしたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。
親鸞聖人、85歳の時のお手紙です。ある人からの質問に対して、丁寧に的確かつ理路整然として応答されたお手紙の結びの一節です。丁寧にお答えになられたその上で、「この手紙にいちおう詳しくは書きましたが、よくお浄土について学んでいる人にお尋ねください。もう私はご存知のように老いてしまいました。目もよく見えません。なにごとも忘れてしまいました。人さまに教えを説くような身ではございません」とおっしゃっているのです。なんともいえず深い味わいがあって、私はこのお手紙が好きです。私はうまく表現できないのですが・・・、聖人が「老い」を静かに引き受けている香りが漂っている気がするのです。どこにも力みがなく、行間からは、自然の風景を観じているがごとき眼差(まなざ)しで自らの有りさまを語っておられる雰囲気を読み取ることができます。
一筋縄でいかないお方
一方、このようにおっしゃられながら、聖人は90歳近くまで精力的に著述活動を続けられました。「悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃」のような緊張感あふれるご和讃や、近代哲学で高く評価された「自然法爾章(じねんほうにしょう)」を書かれたのは85歳以降の最晩年です。一方では自らの老いをあるがままに引き受け、一方では「浄土は恋しからず候う」(歎異抄)と語る。なんて一筋縄ではいかない方なのでしょうか。しかし、考えてみれば、「生きる」ということは一筋縄ではいかないんですよね。理屈で割り切れないことばかりです。私たちは、お念仏してお浄土へ往生させていただく身を喜びながら、這(は)いずり回って生にしがみつき、アンチエイジング(加齢への抵抗)を試みます。まさに、仏さまの教えと日常との狭間(はざま)でのたうち、宙づりにされる日々です。それが「生きる」ということでしょう。どこにも着地できない・・・。浄土真宗の教えはそこから決して目を逸(そ)らさない厳しさがあります。その中で、確かに確かに生と死を超える世界が開かれる、親鸞聖人が書き残されたいくつかのお手紙からはその実感が伝わってきて、私の心はゆさぶられます。
必ずお浄土で会う
例えば、かくねんぼう(お弟子の覚念房?)という人が今生の息を引き取られたときには、かならずかならず一つのところへまゐりあふべく候ふ(同)
「必ず必ず同じお浄土でお会いいたします」と、手紙にお書きになっています。それは、「私はかくねんぼうと少しも変わらぬ道を歩んでいるから」という覚悟に立脚した揺るぎのない宗教性です。間違いなくお浄土へと往生させていただける喜びを語る聖人。その反面、『歎異抄』では、ちょっとした病気だけでも「死ぬんじゃないだろうか」と心配してしまう苦悩の世ではあっても「離れ難い」、そう告白した赤裸々な聖人が描かれています。どちらも親鸞聖人の実存(現実の存在そのもの)です。すごいですね。私など聞かせていただくほどに迷路の奥へと進むような気持ちになります。でも、間違いなく、心ゆさぶられます。普段とても大事に思っていることがつまらなく見えてきたり、いつもは考えてもいないものが浮上してきたり・・・。
どうでしょう、みなさんもご一緒にゆさぶられませんか。 生と死を超える世界の扉が向こう側から開(ひら)けてくる教え、なかなか出あえませんよ。

■ベンチの風景
なんで座ってない?
平成18年、私の住んでいる兵庫県で「のじぎく国体」が開催されました。それに伴い、県全体の競技力アップを図ろうという動きが起こりました。その縁で私は、地元の小・中学生と一緒にハンドボールをすることになりました。そこで出会う子どもたちのいのちは、実に個性豊かです。ガッツポーズを乱舞させ、闘争心を前面に押し出す子ども、自分のミスに責任を感じて、思わず泣き出してしまう子どもなどなど。これからも、縁ある限り、そんな子どもたちと共に汗や涙を流していきたいと思います。そんなふれあいの中で、先日、こんなやりとりがありました。それは、ビデオ録画をしていた自分たちの試合を観ながら、各々の反省点を探そうという時のことです。ある1人の子どもが、ベンチに映っている私たちスタッフの姿を見て、「なんでイスがあるのに座ってないの?」と聞いてきたのです。その場にいたスタッフを代表してチームの監督が「それは、みんなのことが心配で心配で仕方ないから、思わず立ってしまうんや。練習してきたことを精いっぱい、発揮してほしいと思うから、立ち上がって、声をかけてるんやで。みんながコートで一生懸命プレーしてる時に、ベンチのイスにふんぞり返って座ってるなんてことはせえへん」と答えたのです。
お立ち姿の仏さま
私は納得してくれたのかなぁと、彼の様子を窺(うかが)っていると「ふーん。でも、試合になると無我夢中やから、ベンチからの声は聞こえへんで」と笑いながら話したのです。素直な言葉です。これが選手たちの本音なのでしょう。あまりにも正直な返答に、私たちスタッフも苦笑いするしかありませんでした。けれど監督が「それでもええねん。みんなに声が聞こえなくても、みんなのことが大好きやから、それでも立って応援し続けるんや」と言葉を続けました。これは、スポーツを通して交わされた、監督と選手の何気ない会話です。けれど、その場に居合わせた私は、このやりとりから、阿弥陀さまのお姿をふと思い浮かべたのです。浄土真宗の阿弥陀さまは、お木像であれ、ご絵像であれ、すべてお立ち姿の仏さまです。逆に言えば、蓮華の座に腰をおろし、じっと座りながら、私たちを見ておられないということです。なぜか? このことについて、中国の善導(ぜんどう)大師は、ご自身のいのちの問題として深く味わっておられます。
迷い続ける私のために
善導大師は『観経疏(かんぎょうしょ)』を著され、「仏さまのお徳は、この上なく尊いことである。だから、仏さまというのは、本来、たやすく、軽々しく立ち上がるべきものではない」(筆者取意)と告げられました。その上で、にもかかわらず、お立ち姿で現れてくださったことを「この世を偽りの笑みを浮かべながら、裏切りを胸に秘め、欲望に振り回されて生きていこうとする凡夫の在り様は、まさに三悪道(さんまくどう)(地獄・餓鬼・畜生)の迷い火の中に堕(お)ちていく姿そのものである。さらに申すなら、その危機に直面しながら、気付こうともしていない。その凡夫のいのちを、ただ座ったままで、じっと見続けることができないと願われ、阿弥陀さまがわざわざ立ち上がってくださったのだ。迷いの牢獄にいる凡夫のために立ち上がり、抱きとって、光を与えよう、ぬくもりを与えようとはたらき続けてくださるのが阿弥陀さまの大悲の深さである」(同)とお示しくださいました。生死(しょうじ)の海に流されながら、溺(おぼ)れゆく私を、岸辺から座ったままで眺(なが)めることができなかった阿弥陀さまは、私のために立ち上がり、休むことなく、私のいのちに寄り添い続けてくださっている。私を決して決して、ひとりぼっちにはさせないと立ち上がり、今、まさにこの私にはたらき、生き続けてくださっている阿弥陀さま。
喜びの日も、悲しみの日も、愛する日も、背く日も、この人生を共に歩んでくださる阿弥陀さまの慈しみと育(はぐく)みのおこころを、あらためて教えてくれたのは、子どもの感じ取ったベンチの風景からでした。

■暗闇(くらやみ)にいるようなもの
教壇に立ってみて
「学校がなかったら暗闇の中にいるようなもんや」
みなさんは〈夜間中学〉をご存じでしょうか。全国で35校しかないのですが、夜間といっても公立の中学校です。不思議なご縁で、私が非常勤講師として教壇に立たせていただいて6年になります。生徒さんは、先の戦争のために小中学校で学べなかった方々。日本人、旧植民地出身の在日韓国朝鮮人と台湾人、そして現在では多数を占められる、旧満州に終戦とともに置き去りにされた中国残留邦人とそのご家族です。この方々に、家庭崩壊や不登校などの理由で若者がちらほら加わって、なんともバラエティに富んだ学校となっています。さて、文字を知らない、読み書きができない、とはどういうことでしょう。冒頭の言葉は74歳の生徒、Sさんの言葉です。「朝鮮」から父親とともに渡日。父親は日雇いで働き、彼女が家事や妹たちの子守を引き受け、結局学校にはいけなかったのです。自分の子育ても終わり、やっと〈夜間中学〉にたどりつかれて、初めて鉛筆をにぎり「あいうえお」を書かれた。・・・読み書きができないことが恥ずかしい・・・だから無文字であることを隠すために近所づきあいもできない・・・。もちろん福祉や人権なども遠い話、役所にいっても申請書類が書けないのです。
おごりも卑下もなく
また、入学当時は誰とも目を合わせずいつもうつむいておられたHさん。彼女は「学校に入っていろいろ教えてもらって、私、初めて一人で町へ出たんやで」と教えてくださいました。それまでは、家事を行うのもすべておつれ合いの指示で動き、値札も読めないから買い物も二人連れであったそうです。その彼女に「学校に来て何が一番良かったですか」とお聞きしましたら「修学旅行がうれしかった」と。「なるほど旅行する機会がなかったので、珍しい風景やモノが見られて良かったんですね」と言うと、「ちがうの。生まれて初めて他人といっしょに宿泊したから、楽しくうれしかったのよ」とおっしゃられたのです。先ほどのSさんも自分と同じ境遇の仲間と出会い、何一つ隠すことなくすべてをさらけ出して無邪気に学べる、そこに人生に灯(あか)りがともったような喜びがあると言われるのです。お二人の内なる思いを聞けたとき、「教員であるとモノ知り顔の私は何もわかっていなかった」と大きなショックを受けたのです。その人の人生に本当に寄り添わなければ、真実はわからない。と同時に、人はそのように自分のことを真実理解し支えようという存在の中でこそ、驕(おご)りもせず卑下(ひげ)もしない「人間」に育てられていくのだよ、と示された思いでした。
一味平等の世界
「無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)になるぞ」とお名のりになられた阿弥陀さまは、遠くから照らし見ているような仏さまではありません。私の人生に飛び込んでこられてその痛みや悲しみを共に受けて支えようという如来さまだとお聞かせいただきます。その尊さと困難さを思うと、今さらながら頭が下がります。〈夜間中学〉は、失った「学び」を取り戻す学校です。そのために受けた差別やそこから生まれた劣等感から解放されることを目指します。けれどそれは、文字を知って知らない人より優位に立つことではありません。それでは過去の自分を否定することになります。むしろ過去の自己をも含んである今の自分にかけがえのない価値を見出し、共に課題を越えていく「学び」でなければならないのです。そこでは、読み書きができるできないというモノサシを超えて、一味(いちみ)平等の世界が広がるのでしょう。「南無阿弥陀仏」に遇(あ)わせていただくとは、「衆生は皆平等にわが子なり」という如来のお慈悲に遇うことです。だからこそ親鸞さまは「善悪の文字をも知らぬ人はみな まことの心なりけるを 善悪の字知り顔は おおそらごとのかたちなり」と、我々のはからう心を戒め阿弥陀さまへの帰依をすすめてくだされたのです。あらゆる姿、境涯の存在から、生徒さん方の尊い人生の一つ一つから如来さまが立ち現われ、この私をお育てくださるのだと感謝の思いを深める毎日です。みなさんにも〈夜間中学〉に関心をもっていただき、知ろうとしてくださることを念じます。

■心の依りどころ
結婚式って何のため
年末に、北豊(ほっぽう)教区仏教青年連盟の活動として、模擬仏前結婚式を開催しました。青年が対象ですので、まずは仏教に興味を持ってもらわねばと考えた結果、仏前結婚式にたどり着いたのです。実をいいますと、私自身結婚を間近に控えており、そのことも手伝って結婚式についていろいろと考えてみました。まず、私の実感として、仏前結婚式はあまり一般に知られていないように感じます。仏事と言えば、葬儀や年回法要といった印象が強いせいでしょう。実際、日本における結婚式は神社で行う神式や、教会やチャペルで行うキリスト教式、最近では人前式がはやる一方で、仏式はごくわずかです。とはいえ、いずれの形態にしても、宗教的な思いから行っているとはあまり言えないようです。例えば、「あの有名人が○○神社で挙式したから」といった流行や、「ウエディングドレスも着ることができるし、見た目もいいから」といった外見などが重視されがちです。しかし、そもそも結婚式とは形式だけのものなのでしょうか。本来は、巡り遇(あ)い、結ばれるご縁をいただいた二人が、新たな人生を歩み始める大切な儀式です。ですから、流行を追いかけたり、見た目を気にしたりするよりもまず、夫婦二人が生きていく上での心の依りどころに基づいて行うべきではないでしょうか。
「僕と苦労を共に」
ところで、すでにご結婚されている方は、プロポーズの言葉を覚えておられるでしょうか。現代においては「必ず幸せにするよ」という内容のものが多いようです。しかし、以前は「一緒に苦労しておくれ」といっていたようです。「どうか私の苦労を分け合っておくれ、一人ではとても背負いきれないから」「あなたの苦労を私にも背負わせておくれ、あなたと共に歩んで行きたいから」そんな思いが、この言葉には込められています。一緒に喜ぶことよりも、一緒に苦労したり、泣いたりすることの方が、はるかに難しいことではないでしょうか。私はここに、仏さまのようなあたたかさを感じます。『仏説無量寿経』には「もろもろの庶類(しょるい)のために不請(ふしょう)の友となる。群生(ぐんじょう)を荷負(かぶ)してこれを重担(じゅうたん)とす」と、あります。私自らが求めなくとも、仏さまの方から私にはたらきかけてくださり、友となってくださるのです。そしてまた、私の苦をそのまま自らの苦として引き受けてくださり、私のいのちを引き受けてくださっているのです。苦しみ、悲しむ私に向けて、「一人じゃないよ、私がそばにいるよ」とよびかけてくださり、私の心の依りどころとなってくださっているのです。その仏さまの尊前において、結婚を誓い、互いに敬い合い助け合う人生を誓うのです。そして、その仏さまと一緒に、夫婦が歩んでいく人生であるからこそ、二人の新たな出発点である結婚式を仏前で執り行うのです。
お慈悲は私の活力
浄土真宗では「仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)」ということを大切にします。仏のご恩とは、私が求めなくてもいつも私のそばに寄り添い、私のいのちを引き受けてくださる仏さまから受けたご恩です。では、報謝はどうでしょうか。私たちは、自分勝手な生き方しかしていません。それどころか、自分勝手な生き方をしていることにすら、気付いていないのです。仏さまの光に照らされることによってはじめて、私の姿が知らされるのです。そして、自身の姿が知らされたならば、恥ずかしく思って立ち止まるのではなく、自身を改めることはかなわなくとも、少しでも仏さまのお心にそっているかとたずねていく。それは、この私のいのちを精いっぱい、力強く生き抜くことでもあります。これが報謝の姿です。阿弥陀さまのお慈悲が、今を生きる私の依りどころとなっているのです。最初に触れましたが、私も今年の3月に結婚します。形式的に仏前で行うのではなく、いつも私に寄り添ってくださっている阿弥陀さまのお慈悲を依りどころとし、そのお心にそった、夫婦共に敬い合い支え合っていく、仏恩報謝の日暮らしを歩ませていただきたいものです。

■如是我聞(にょぜがもん)
とても謙虚な姿勢
お経(きょう)は「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まります。日頃親しく拝読いたします『阿弥陀経』も「如是我聞、一時仏在(にょぜがもん、いちじぶつざい)・・・」と始まります。『大無量寿経』は「我聞如是」で始まりますが、意味は同じです。「わたしは、かくの如くお聞かせいただきました」。これが「如是我聞」です。「仏さまがかくの如くおっしゃられました」で始まるのではなく、あくまで「私はこのようにお聞きしました」と、われわれ人間の立場から始まるのが、お経の大きな特徴であると言えます。これは、お釈迦さまのおさとりの世界は広大無辺で捉えようもないが、この私が頂いたところによりますとという、とても謙虚な姿勢です。私見をまじえることなく、そのまま、その通りに聞く、仏さまの意にかなう姿勢が示されていることだと思います。実際私たちは人間は、自分のあるようにしか世界が見えません。ほかの人を見て、その人の過去も、また何を思ってその人生を歩んでこられたのか、その人の百分の一、万分の一もわかっていないのに、「この人はこういう人だ」と決めつけたりします。何もわかっていないのに、わかっているつもりになっていることこそが迷いです。また、「今日は寒い」と言いますが、「私が感じるところでは、今日は寒い」と言うのが正確な表現です。寒いと思わない人がその場にいるかも知れません。私たちは自分の感じる世界にしかいることができません。自分がしんどい時には世界は灰色に見え、楽しい時にはバラ色に見えるのが私たちの有り様です。ですからどこまでいっても真実がわからないのです。
よき人のおおせに
しかし私たちは真実に遇(あ)っていく世界があります。それが如是我聞、聞いていく世界です。ここに何を言ってもウソをつく人がいたとします。さて、そのウソつきの人が「私はウソつきです」と言った言葉はウソでしょうか・・・。いいえ、この言葉だけは真実です。ウソつきも一つだけ真実を言うことができます。そのように真実の全くわからない私たちも一つだけ真実のことが言えます。それは「私の中にはどこまでいってもあてになるものはありません。真実はありません」ということです。聞けば聞くほど私の中には真(まこと)のまの字も無いと知らされていくのが、実は真実に遇っていく世界なのです。このことに徹底されたのが親鸞聖人でした。聖人は「私の言うことは真実であり、間違いない」という姿勢ではありませんでした。『歎異抄』に「よきひとの仰せをかぶりて」とありますように、「ただ恩師・法然聖人からこのようにお聞かせいただきました」という姿勢を一生貫かれました。聖人の著された『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)も自説が展開されているのではありません。お釈迦さまの説かれた経典、法然聖人までの高僧の方々が著されたご文(もん)、そしてそれをいただかれた聖人のお言葉が載せられてあります。これこそ如是我聞の姿勢そのものだと思います。
愚かさを知らされる
世の中に「この私の言うことこそ真実だ」と宣言する教祖がいて、その教祖という一人の人間の言葉こそ真実の声だという教団があったら、それは最も危険なものと思われます。如是我聞という世界は、聞けば聞くほど私こそ真実に近づき偉くなっていくことではありません。逆に愚かさに気付かされていくことです。私たち人間は上へ上へとはい上がっていくことを好みますが、聞けば聞くほど逆に下へ下へと落ちていくのです。ではどこに落ちていくのかと言いますと、それこそ阿弥陀さまの胸の中へと落ちていくのです。もし「私の信じる教えこそ真実である」と主張する異なる教えの信奉者が二人いたら、そこに起こるのは争いでしょう。その想いが純粋であればあるほど争いは熾烈(しれつ)になっていきます。これが現に今世界で起こっていることではないでしょうか。もしそこにお互いが、「我々人間の中にはどこまでいっても、自分の力で真実の世界を見ることができない」という気付きがあったならどうでしょうか。主張して、戦って相手に勝つことより、自分の愚かさへと眼が向けられていきます。そこにはもはや争いはありません。「如是我聞」―これこそ異なった民族、宗教がますます混ざり合ってボーダレスになりつつある今日この世界の、大切なキーワードに思えてなりません。

■「すでに道あり」
旅ゆくしんらんを・・・
平家物語でも有名な「盛者必衰会者定離(じょうしゃひっすいえしゃじょうり)」という言葉が示す通り、これは私たちが住む世界の道理です。盛んなる者は必ず衰え、出会った者は、いつかは必ず別れねばなりません。小学校入学から卒業するまで、月に一度の自坊の子ども会に出席していたK君のおばあさんが、先日ご往生になりました。亡くなられたという知らせを受けてお参りしました。K君も親族のみなさんといっしょに、ご遺体の傍らに座っていました。K君は昨年、初めての子どもに恵まれ、育児にも励む新米お父さんです。新しい家庭を持ってすぐに、ご本山からご本尊をお迎えしました。秋には初参式のご縁に遇(あ)い、おばあさん共々大変喜んでいました。そのK君が読経の後で、おばあさんが息を引き取る前の様子を話してくれました。「祖母はたったひと月の療養で往(ゆ)きました。小さい時からかわいがってくれました。厳しいけれども優しい、懐の深い情の厚い祖母でした。亡くなる一時間前に僕に『旅ゆくしんらん』を耳元で歌ってくれと言うのです。残念ながら僕はその歌を知りません。でも、ご本尊の前にいつも置いている、子どもの時から使っているお経本にはこの歌があるだろうと思って、急いで病院から家に帰りました。それを手に取り病室に戻り、経本を開きました。でもその歌は載っていませんでした。あぁと落胆しましたが、『恩徳讃』なら知っている、空で歌えると思い直し、ずっと繰り返し歌いました。その歌を聞きながら祖母は静かに安らかに目を閉じました」
懸命に伝えようと
思い返せば昨年11月末のお取り越し報恩講には、87歳になるそのおばあさんは、参拝のみなさんの前に立ち、『旅ゆくしんらん』の歌唱指導をされました。5番までの歌詞が大きな文字で印刷されたものと、音符と歌詞がいっしょに印刷してある2枚の紙を全員に配られて、大きな声で歌われていました。みなさまに伝えよう、歌ってもらおうと懸命な姿勢でした。親鸞聖人のお姿が目の前に立ち現れるようなこの歌詞に、大いに励まされる心持ちがすると生前によく話されていました。あらためて歌詞の1番から5番までの出だしを見てみると、「しろい小径(こみち)」「暗い夜道」「吹雪の道」「けわしい坂」「長い旅路」となっています。長短の差はあれ、人生行路において、それぞれに自分が出合っていかねばならないものです。時には暗く吹雪の道を進み、時には険しい山坂をつまずきながらも越えなければなりません。
一人じゃないから
今、子ども会に1年生の男の子が来ています。先日、本堂に入るとすぐに「今日はここまで歩いて来るのに、すごく近くに感じたよ。いつもは遠いなぁと思うのに・・・。今日はずっとおばあちゃんが付いてきてくれたから」と話してくれました。私はその子のうれしそうな誇らしげな顔を見て、自分もうれしくなりました。そしてこれだと思ったのです。連れがある、連れがいるという心強さは、一人の心細さを払拭(ふっしょく)し、安心と明るさをもたらし、感じ方さえも変えてしまうのだなと思いました。「南無阿弥陀仏」は「わたしがいますよ。あなたは一人ではありません。暗く寂しい道にあっても、つまずく険しい山坂にあっても、わたしがいます。さぁ元気を出して。さぁ辛(つら)くても立ち上がれ。共に乗り越えていきましょう。いつでもどこでもどんな時にも、南無阿弥陀仏とわたしをよんでください。わたしは南無阿弥陀仏となって自らを知らせていますから」という言葉です。あなたは決して一人ではない、あなたと共にわたしがいますという名告(なの)りです。「すでに道あり」。この南無阿弥陀仏の白道(びゃくどう)はすでに私のために用意されてあります。その道を親鸞さまもお歩きになりました。「しろい小径がありました」と歌詞には表されています。そして、さきに往(ゆ)かれたおばあさんは『旅ゆくしんらん』を自ら歌いながら、また人にも教えていく中に、親鸞さまと同一のお念仏の道を歩む身の幸せを喜ばれていたのでした。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えながら往かれた親鸞聖人。「夕陽のような人でした」と歌は結びます。

■忘れてませんか?
お休みしてるのは・・・
春の足音とともに、きびしかった冬もようやく終わりを告げようとしています。「春眠暁(あかつき)を覚えず」などといわれますが、朝の寝床の名残惜しさも、あまり感じなくなってきた今日この頃です。朝の目覚めとともに気になるのが、その日の体調。「胃がちょっともたれてるな」とか、「なかなか肩こりがとれないな」と、日頃の疲れがたまっているのが、忙しさに追われる現代人ではないでしょうか。さて、私たちのお腹の中にある胃や腸といった臓器は、食べ物を消化して、生きていくために必要な栄養を身体(からだ)に取り込んでくれています。これらの臓器は心臓と同じように、意識をしなくても勝手に働いてくれています。ありがたいことです。元気な時は忘れがちでも、ちょっと風邪をひいたり、お腹が痛くなったりすると、健康のありがたさが身にしみます。毎日頑張って、それこそ寝ている時も起きている時も、私の身体中のすべてが働き続けてくれているのです。ところが、一つだけお休み?をしているところがあります。それは「おへそ」です。いかがですか、「この前、おへそに世話になったなぁ」という方がおられるでしょうか。やっぱり、おへそなんて何の役にも立っていませんね。
親の心 子知らず
でも、私がこの世に誕生するまで、母親のお腹の中で私と母は一本の管で繋(つな)がっていました。その名残がおへそです。日頃の会話の中にも、「へそを曲げる」とか「へそで笑う」など、昔からおへそに関することわざは多く使われています。普段はあまり気にも留めていませんが、おへそをよく見てみると、へこんでいるものや、出ているもの、右に向いたり、左に向いたりと、いろんな顔を持っているおへそです。このおへそのおかげで、オギャアと産まれてくるまで休むことなく母親から充分な栄養を分けてもらって育ててもらいました。ですが、そんなことはすっかり忘れてしまっているのが、ほかならぬこの私自身なのです。確かに、実際に見てきたわけでもないので、母親にその時のお礼なんてするはずがありません。でも、「親の心 子知らず」といったところでしょうか、よく考えてみると何とももったいないことです。
常にわが身を省みる
釈迦(しゃか)は慈父(じふ)、弥陀(みだ)は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。親鸞聖人は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』というお書物に、こうお示しになりました。お釈迦さまは、慈しみあふれる父親であり、阿弥陀如来さまは、あわれみ深い母親であるといわれます。そんな私たちの父(ちち)・母(はは)は、さまざまな手だてを施して他力の信心を開きおこしてくださるとおっしゃるのです。私たちが「おやさま」とお慕いする阿弥陀如来さまは、五劫(こごう)という永い永い間、あらゆる衆生を救うために思惟(しゆい)されました。そして、めでたく南無阿弥陀仏のご本願を成就され、この私は必ずお浄土へ往(い)って仏に成ることができるのです。迷いのまっただ中を生きているこの私ですが、阿弥陀如来さまに願われて「そのまんま」救われていくのです。でも、おやさまの願いをよそに、目の前のことだけに右往左往しているのが、ほかならないこの私です。いつも私の真ん中にある「いのち」の証(あかし)なのに、こんなに身近にあるおへそなのに、ほったらかしにしているように・・・。皆さんはいかがですか? おへそに最近ご挨拶されましたか?ひょっとして汚れていませんか?私という縁を結んでくれた「おへそ」をきれいにして、私のいのちをもう一度見つめてみませんか?「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と「そのまんま」救われていくこの身のしあわせを喜びながら、「このまんま」でよいのか、と常に自らのすがたを問うていく日暮らし。それがおやさまの願いに出遇(あ)い、お念仏を申す日暮らしなのです。

■出遇(あ)えてよかった
何でだろう?
親鸞聖人はご生涯をかけて、私に「阿弥陀さま」を告げてくださいました。「すべての世界の『念仏のいのち』をご覧になり、おさめ取り、決して捨てることのないおはたらきであるから阿弥陀ともうしあげるのだよ」とのお心が示された、
十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
というご和讃も、そんな尊いお言葉の一つです。ただ、このご和讃を聞かせていただくたび、「何でだろう・・・」と気になることがありました。というのは、「十方」とは、四方八方の八方に上下の二方を加えた言葉。「平べったいところも上も下も全部」という意味です。だったら「十方世界の」とおっしゃるだけでも「あらゆる場所に住む、すべてのいのち」という意味は示されます。実際、お経(きょう)にも「十方世界」と示されているのです。どうして親鸞聖人は、数限りないという意味の「微塵」を挟(はさ)まれたのか・・・。「和讃は当時の流行歌の形式だから、歌いやすいよう言葉数を調(ととの)えられたのかもしれない」と思いつつ、それでもそれでも「何でだろう・・・?」
来てあげたよ!
あるご法縁でのこと。そのお寺の幼稚園の年長さんの男の子が、ずっと私と一緒にいてくれました。それはそれで、うれしかったのです。が、何度も繰り返されるトランプ、はたまた、果てしなく続くゲームでの対戦、そのお付き合いには疲れました。なにせ、ご法話の間にとらせていただくわずかな休憩の時間さえも許してもらえなかったのです。1日目のご縁が終わり、いったん自坊へ帰ろうとした時のことです。見送りに来てくれたその子が「明日は、大好きなお稽古(けいこ)があるから一緒に居られないかもしれない・・・」と言いました。私は「そう、それは残念だなぁ」と言いつつ、内心は「あしたは解放される!」とホッとしていたのです。さて、その翌日。ご法話を控え用意をしていると、ドタドタ、バタバタとあわただしい足音。その足音が急速に近づいてきたかと思うと、いきおいよく襖(ふすま)が開けられました。肩には、まだカバンが掛けられたまま。ゼイゼイと息を切らせながら、それでも「先生、ただいま。僕、来てあげたよ!」との大きな声が飛んで来ました。後でお母さんから聞かせていただきました。今まで休んだことのなかった大好きなお稽古を取りやめてくれたこと。しかも、間に合うように一生懸命、走って帰ってきてくれたこと・・・。私は前日、ご法話の間に、この男の子の遊び相手をしてあげていたつもりでした。ところが、この子の思いは違っていたのです。講師部屋で一人っきりでさびしくないようにと、私の相手をしてくれていたのです。幼い胸のうちにそんな思いをかかえてくれていたのです。だからこその「僕、来てあげたよ!」だったのです。その心を大変ありがたく思いながら、「同じ場所で一緒にトランプし、ゲームをしながら、まったく違う思いの世界でいたんだなぁ」とつくづく思わされたのです。
念仏よろこぶ衆生に
おかげで「何でだろう・・・?」が少し解決しました。いのちの数だけ、「いのちの世界」があるのです。だからこそ親鸞聖人は「微塵(みじん)」という言葉を挟んでくださったのでしょう。十把一絡(じっぱひとから)げではなく、それぞれの「私一人(いちにん)」を、そのいのちがかかえる悲しみ・不安をとことんご覧になってくださった如来さま。そんな如来さまを告げてくださる大切な言葉であったのです。すると今度は「念仏の衆生」の響きまで変わってきました。確かに「念仏するもの」という言葉です。けれど、それはそのまま、『念仏の衆生』とする以外には救いようがないとみてくださった如来さまご自身が、まさにそのようにしようと私の上にはたらいてくださっている姿であったのです。私の「いのち」となりきって私をお救いくださる如来さまとの出遇(あ)い。同時に、そうまでしていただかないと救われようのない私との出遇い。「念仏の衆生」に、そのような響きまでが重なってきたのです。安心の如来さまに抱かれて、如来さまに呼びさまされていく「念仏の衆生」という人生。なんともたのもしく、豊かな「いのちの世界」です。南無阿弥陀仏、浄土真宗に出遇わせていただいて本当によかった!ナモアミダブツ

■満ち足りた人生
こんなはずじゃ・・・
「疲れがたまって、しんどいから、ちょっと温泉に行ってくる」 そんな言葉を家族に残して家を出た後、帰ってきて玄関の扉を開けると、思わず私が口にするセリフがあります。「あぁ疲れた。やっぱり家が一番」そんなふうに思うのなら、そもそも行かなければいいんだけれど、また、次の旅行の予定を考えたりします。別に、「温泉が悪い」「旅行に行ったって仕方がない、行かない方がいい」─そんな話をしているわけではありません。ただ、私が選んだり、決めたりして行動すると、よくこんなことになってしまうのです。「こんなはずじゃなかった・・・」と。きっと、問われているのだと思うのです。「あなたは今、どこに向かって、一体どうなりたくて生きているのですか?」
さとりの岸にいたる
春と秋にはお彼岸があります。彼岸は「到(とう)彼岸」。「彼(か)の岸に到(いた)る」という意味です。「迷い」というこちらの岸から、「悟り」という彼の岸に到るということだと聞かせていただいています。でも「迷い」とは?私は自分の価値観の中で懸命に「こうすれば楽になる」「こうなればきっと満足できるはず」と考えて人生を組み立てているつもりです。でも、思いがけないことがたびたび起こりますし、仮に予定通りにいったとしても、すぐに「こんなものか」と、何の感激もなく、空(むな)しく時を過ごしているのが事実だったりします。感動することも、満足することも失ってしまった私は、一体どうなれば満足するのか・・・?おそらくこんな私のありさまを「迷い」というのだと思います。「彼の岸」は、阿弥陀さまのお浄土。私はこのいのちを終えると、お浄土に生まれる。でも、そこに生まれてどうなるのか・・・。「私と同じような仏さまになるんだよ」と阿弥陀さまはおっしゃってくださいます。仏さまになるとは?それは、一切のいのちを・・・、時間でいえば「すべての瞬間」と、きっといえるのだろうし、場所でいえば「どこでも」、人でいえば「誰でも」ともいえるのだと思います。そんな一切を、私のように空しく、無意味なものに見ていくのではなく、全(すべ)てにきちんと意味を与えることのできるいのちになること。そして、他の人にも、ちゃんとそのことを気づかせることができるような、そんな大きな大きないのちになること。「無意味ないのちなど一つもないんだ」と。そんなことを、ちゃんと考えて生きていないのが、私であったりするのです。
生まれてきてよかった
私はどこかで、自分だけが思い通りにいけば、都合通りにいけばいいと思っています。他の人は関係なし。でも、そんなところでけっこう孤独を作っていたりもします。「誰も僕のことなんてわかってくれない」などと言いながら・・・。ずいぶん勝手なものです。何だか恥ずかしいのかもしれません。なぜなら、もし他人のことを考えるとしても、私は見返りだったり、結果を気にしますから。それで思い通りにいかないと、またイライラしたりするのです。でも、阿弥陀さまは、全部知っていてくださいます。そんな私だから、「南無阿弥陀仏。ここにいるからね。絶対捨てないからね。必ず仏さまにするからね」と一緒にいてくださるのです。いつ終わるかわからない、今という時間しか生きることのできない、この私を捨てない、そんな世界がここにあります。私の人生の方向は決まっています。とてもとても不思議なことですが、阿弥陀さまがいてくださる。きっと私が生きるということは、そんな大きな大きな阿弥陀さまに、たくさんたくさん気づかされ続けていくことなのでしょう。一体私はどこに向えばいいのか、何を望めばいいのか、願えばいいのかということも、全部阿弥陀さまが知っていてくださった。阿弥陀さまが、私の人生を本当に満足させてくださる。私は生まれてきてよかった。いつ終わってもいいのだと。

■大いなるはたらきの中に
命の深さが見える
座談会の時でした。「先生、私は93歳になり、長生きをしすぎました・・・」と、思いがけない言葉を聞きました。長生きがあたりまえのような現代ですが、その人生の中身は充実しているのでしょうか。お釈迦さまは「人生は長生きが尊いのではなく、いかに生きたかが人生の尊さを決める」ということをおっしゃっています。今の自分の生き方を問いながら考えさせられます。かつて「肉体は衰(おとろ)えても、心の目がひらかれている。人間の晩年というものはおもしろいものである。ここまで生きてきて、いのちの深さが見えてきた」と言われた念仏者がいます。人生そのままがお念仏のなかにあるような先生の生きざまでした。私に浄土真宗の素晴らしさを感じさせてくださった先生です。人は心の目がひらかないと、衰えた肉体は愚痴(ぐち)るだけのものになります。この先生がおっしゃる「おもしろい」とはよろこびです。年とともにいつもお育てにあずかることのできたよろこびがある人生であり、今まで生きてきたことの満足の声です。「この人生おかげさまでした」というよろこびと満足の声なのです。
損など一つもなし
私たちは、さまざまな出会いによって人生に多くのことを学びますが、お念仏を生活の依りどころにして生きている人との出会いほどうれしいものはありません。それがウチのおじいちゃん、おばあちゃんなら、この上ないよろこびです。蓮如上人は「仏法者になれ近づきて、損は一つもなし」とおっしゃっています。いつもお念仏がこぼれるような人と交われば、生きることがうれしくなってきます。それは自分だけで生きているのでなく、生かされて生きているよろこび≠ェ感じられてくるからです。いつも「あたりまえのありがたさ」を伝えていた念仏者に、宇野正一さんという方がおられました。この方の詩に、「たべものさま」というありがたい詩が残っています。
たべものさまには仏が
ござる おがんでたべなされ 帰命無量寿如来 おじいさん 今頃やっと おがめました たべものさまには 仏がござりました おじいさん
正一さんは、母親が亡くなり、祖父母に育てられました。おじいさんは、4歳の正一さんに、「おかあさんにあいたかったら仏さまにおまいりしなさい」といって、「正信偈」を教えてくれたそうです。そのおじいさんの口癖が「たべものには仏さまがござる。拝んで食べなされ」です。
わが心にナモアミダブツ
このおじいさんが亡くなって、四十数年が経ってもこの言葉の意味がわからずに、ずっと聞法を続けてきました。長い年月をかけてようやく探しあてたよろこびと、おじいさんへの感謝がこの詩になったのです。正一さんがめざめたものはなんだったのでしょうか。仏さまはお仏壇のなかでじっとされているのではなくて、「私のいのち」となり、私を生かし続けるはたらきであった、とうなずけたのです。私は、私を生かし続けるはたらきに生かされて生きていることに、気がついたのです。私はいつも気づかずに過ごしていたが、私が気づこうが気づくまいが、ただ私だけにはたらいてくださるはたらきがあることに気づいたのです。このことにめざめた時に「たべものさま」の詩がうまれたのです。このはたらきをナモアミダブツといいます。ナモアミダブツのはたらきを、わが心・わが身にいただくことができて、人生の意味にめざめたのです。人は気づかず傲慢(ごうまん)に生きています。大いなるみ仏のはたらきに生かされている自分に気づかないと、大事な人生もさびしく愚痴だらけのものになるかもしれません。正一さんのように聞法を通してこのことに気づかさせていただき、人生を豊かにしていきたいものですね。 
 

 

■お骨になったって・・・
胸がつまりそう
親鸞聖人の兄弟子・聖覚法印(せいかくほういん)が書かれた『唯信鈔(ゆいしんしょう)』というお書物があります。親鸞聖人も大切にされていたものですが、その結びのところに、「今生(こんじょう)ゆめのうちのちぎり(契り)をしるべとして、来世さとりのまへの縁を結ばんとなり」というお言葉があります。「ともに過ごした人生は夢のように過ぎてしまったが、この娑婆(しゃば)でのご縁は、実はともにお浄土に生まれる前の不思議なご縁だったんだよ」と私におっしゃっているような気がして、胸がつまりそうになるときがあります。
もう聞きたくない
奥さんが亡くなって四十九日(しじゅうくにち)。その法要のとき、ご主人に「奥さんが逝(い)かれてからどんな感じですか」とお聞きしました。「お医者さんから、がんだって聞かされて、しばらく動けなかった。先生(医師)は奥さんにも説明しますって言うけど、2回も聞きたくなくて・・・。おれはもう聞いたから、お前聞いてこいって、家族と一緒に先生のところにやった。身体がいよいよ悪くなってから、家内がそのときのことを怒るのよ。『あの時、一緒に聞いてくれなかった』って。1回聞いたらじゅうぶんだって言ったら、キッとした顔してビンタされた」 奥さんが逝かれてから、いろんなことを考えた時間の中で、一番思うことは奥さんに「すまなかった」ということだったのでしょうか。ご主人だって、奥さんが部屋に帰ってくるまで、どんなにつらい思いで待っていたのだろうか・・・、と思いましたが、私はわざとこんな言い方をしました。「そりゃ、怒るわ。なんで一緒に聞かなかったのさ」「2回も聞きたくなくてな」「そうだよね。奥さんもわかっていたと思うけど、それでも何で一緒にいてくれないんだ、と思ったんだろうね」「そうだな」と言ったあと、こんなことをお話されました。「骨箱抱えて、帰って来たとき、近所の人が骨箱を撫(な)でながら、『お骨って拾ってすぐは箱の中でカサカサって音するんだよね』って言うからよ、せめてその音を聞きたくて、みんな寝てから、骨箱の前に布団敷いて、横になったのよ」「それで音は聞こえたの」「いや、無理やり詰め込んだから、音はしないんだな。今聞こえるか、今聞こえるかと思っている間に、朝になってしまってよ」「それじゃ余計に切なくなってしまったろさ。そして、どうしたの」「どうしたってか。『おい、お骨になったって返事くらいできるべ』って、怒鳴ってやった」そう聞いたとたん、二人で声を上げて笑いながら、泣きました。
みんなよび声のなか
お骨が返事をするなんて無理な話です。でも、声くらい聞かせてくれたっていいじゃないか、と思うのです。普段、慎重な物言いをする人の素直な言葉だけに、その気持ちはよくわかりました。愚かといえば愚かなことです。でも、その愚かさや弱さが今まで気付かなかったことを教えてくれるのです。この四十九日から最初の月命日に、お宅にお参りしたときのことです。私は、「お浄土があるって、なんかうれしいよね」と言いました。なんと言われるかなと思っていたら、ニヤッと笑って、涙を拭かれました。そのご主人も昨年往生され、4月初旬に1周忌を迎えました。ご家族にとって大切なことを受け取る時間になるように願い、法事をつとめました。私たちは、いつの日か必ず別れる日を迎えます。でも、あなたも私も、如来の「十方衆生(じっぽうしゅじょう)よ」という喚(よ)び声の中にあります。夢のように過ぎていった人生、何もしてやれない、何もしてやれなかったあなたとの出会い。でも、この悔い多き娑婆のご縁は、ともにお浄土に生まれる前のご縁だったことを仏法は教えてくれます。

■医学の進歩とお念仏
病を診る 人を診る
日本緩和医療学会という学会があります。どのような学会かと言いますと、がんやその他の治療困難な病気の全過程において、いかにQOL(生きることの質)の向上を目指すかを考える医療・福祉系の学会です。以前は終末期医療という考えのもと、治療が困難になった方の終末期に対してどのように医療が寄り添えるかを考えていましたが、今は、大きな苦悩を抱える病気の全過程を対象とするように変わってきました。いずれにしても、かつての医学教育の中には、無かった分野です。「医者は病気を治すもの」と考えていましたから、「治せない病気の人」に対して医者は関(かか)わりが持てませんでした。しかし、「病気を治す」という考えから「病気の人を治す」。あるいは「病気を診る」から「人を診る」という考えに変わってきました。海外では日本より先んじて、先の緩和医療という考えも起こり、日本もその考えを学び、医療・福祉の考えも進化してきました。現在、緩和医療の考えの一つにチームアプローチがあります。医者や看護師、薬剤師、ソーシャルワーカーなどがチームを組み、患者や家族に知識や技能を提供するのです。かつて海外からこれらの考えが輸入された時、このチームの中に「宗教家」という名前が入っていました。残念ながら、最近の日本の学会発表の場において、このチームの中に「宗教家」を入れている学会発表は少なくなっています(実際、学会が出している「緩和ケアチームの手引き」には「宗教家」の文字は見当たりません)。海外における宗教観と日本における宗教観の違いでしょうか。あるいは、あまりに動かない日本の「宗教家」に対して、医療・福祉の現場であきらめられてしまっているのでしょうか。
私の存在は?
毎年多くのメンタルサポート(精神的な寄り添い)について学会発表がなされている中で、「その先はどうするの?」と疑問がわく発表を多く聞きます。これは「歳をとること」より「若い方」が良い。「病気」よりも「健康」が良い。「死」より「生」が良いというような、二元的で、比較でしか価値を見出せない考えから抜けきれないための行き詰まりでしょう。どのように寄り添おうとも、治らないのですから、悪い方にしか行かない。最後に「やっぱりだめだった」と死を迎えることになってしまいます。寄り添う方も、この比較の価値の中にいる限りは、「ここから先どうしたらいいの」と途方にくれるのでしょう。親鸞聖人は「現生(げんしょう)における正定聚(しょうじょうじゅ)」をお説きくださっています。これは死んでからいいことがあり、生きている間は我慢しなさいという考えでもなければ、生きている間にいいことが起こり、死んでからは知りませんという考えでもありません。生きている現在から、人間界と縁が尽きることとなっても、途切れることなくお念仏の日暮らしが続くというものです。「生」と「死」という対比的な言葉をあえて使うならば、「生」と「死」が一体の価値を持つというものです。言い換えますと、私たちの本来の存在価値は生きていようと死んでしまおうと変わらずに有るということです。
南無阿弥陀仏の世界
私たちが今ここにいるのは、数限りない因子の結合と重なり合いがあって存在しています。仏教では「因」とか「縁」とかいわれます。この無数の「因」や「縁」の集合体が「私」なのです。もし、たった一つの「因」でも欠落していたなら、今の「私」は存在しません。その関係の中で「私」の存在なくしては、他のいかなる物も存在しなくなってしまいます。「私の命」というのは人間の目に見えているものの中だけに有るのではないのです。「あなたの命」はあなた一人の物ではなく、すべてに影響を与え、肉体が滅んでもその影響はいつまでも続いていくのです。穏やかな春の風の中にも私がおり、柔らかな日差しの中にもあなたがいるのです。それが「南無阿弥陀仏」の世界なのです。

■最後の言葉「た・・・」
タイムマシンのように
「トミちゃん、あんたとしゃべっていたら、あの時、お父さんが何を言いたかったのか・・・やっとわかったわ」私の父が亡くなって、今年の夏で49年になります。50回忌の相談をしていた時に、急に姉が何やらうなずいていたかと思うと、「わかった」と安堵(あんど)した顔で言ったのです。父が亡くなったのは、私が10歳の時、8月の早朝でした。父が入院先の病院で死んだと知らせが入り、その後、どうやって病院まで行ったのか・・・。私が病院に着いた頃には、父は遺体安置室に移されていました。眠っているような穏やかな父の顔、高い鼻が印象的でした・・・。「春休みに新聞社の見学を申し込んでいるので、お母さん、一緒に行ってやってくれませんか?」と、嫁から言われた時、面白そう!!と喜びました。私はわくわくして、孫の保護者として新聞社の見学に行きました。以前に編集の仕事をしていた時から、印刷工程が見たくて仕方がなかったのです。新聞がどうやって作られるか、新聞社の女性は子どもたちが理解できるよう、やさしく、詳しく説明してくださいました。印刷現場のドアが開けられた瞬間、インクのにおいと印刷機の騒音で、タイムマシンに乗ったような気分になりました。このにおい、この音・・・いつかどこかで出あったような・・・。最後に、孫と一緒に「マイ新聞」の紙面をあれこれ言いながら作りました。裏面には、孫が生まれた日の新聞紙面のコピーが用意され、一緒にラミネート加工してくださいました。新聞社からの帰り道、夕陽に向かって歩いている時に気付きました。孫は10歳、私が父を亡くした時と同じ年齢。そして父は印刷工場をしていた・・・深いご縁で胸がいっぱいになりました。
姉が父亡き後を・・・
父は入院してから、しばらくして、突然言葉が出なくなりました。見舞いに行くと、私の頭を悲しそうな顔をして撫(な)でていました。私が覚えている数少ない父との思い出です。父はある日、母や姉に、「た・・・」と振り絞るように言ったそうです。「たばこ?」父は首を横に振ります。姉は、「た」の付く言葉を考えましたが、わかりません。別の日、いのちの終焉(しゅうえん)を感じた父は姉の手を握って、また「た・・・」と言いますが、伝わりません。そして姉の心の中に大きな謎が残りました。6人姉弟の次女。家族の難事は、いつもこの姉が助けてくれました。父なき後も、姉の夫とともに、私たち家族のことで奔走し続けてくれました。その一番末っ子の私がもう、60歳を迎えようとしているのです。父の50回忌を私と相談している時、そんな姉は弟、妹のことはもう、心配しなくていいんやなあ≠ニ安心した途端、父の「た・・・」の言葉が「たのむ」であったと確信できたのでした。小さな子どもを遺(のこ)していく悲しさ、「どうか頼む」と父は言いたかったに違いありません。姉は、その父の想いを受け継ぎ、成し遂げていたのでした。
人生のすべてが仏縁
時代が濁(にご)り、人々の思いも乱れています。貪欲に私欲を追い求め、すぐに怒り、真実を見失っている私。先にお浄土に生まれた人は、お浄土から私の所に来て、迷いに沈んでいる私に、お釈迦さまのようにはたらき続けてくださっていました。振り返れば、父の死によって、私は仏縁をいただきました。その後も、思わぬ病に出あい、戸惑うこともしばしばです。老いて寂しさも忍び寄ってきました。だけれども、それらの一つひとつに、阿弥陀さまとの出遇(あ)いを感じます。それはまるで、氷が解けると水になるように、つらさ、悲しさ、苦しさは、先人の言葉を思い出すきっかけになり、友の有り難さを気付かせてくださるご縁となりました。身近な人々の温かい思いのその向こうに、ほのぼのとした明かりを見ることができた時、お念仏申す私をたくさんの仏さまが見護(まも)ってくださっていたのだと知らされました。人生には何一つ無駄はないのです。50回忌の法事は、そんなご縁に気付かせていただきありがとう、おかげさま≠ニ、みんなでお念仏申したいと思います。

■私の気持ち 聞いてえな
自分がなってみて
うちの母は、8年前から認知症。母との生活や応対を通して、母の想いと、心に気付かされました。母の気持ちを聞いてください。私は86歳。8年ほど前、私にとっては自然な行動だったのですが、周囲には異常に見えたようです。これが「認知症」の初めの頃。会話がうまくできなくなり、直前の記憶があいまいになって、多くの人たちに迷惑をかけたようです。その時、周囲の人たちは認知症のことをよくわかっておられなかったようです。「あの人ボケてはる」「恥ずかしいな」「なりとうないな」と陰口を立てられ、悲しい思いをしました。恥ずかしいことですが、実はそういう私も「認知症」をよく知らなかったんです。自分がなってみて、みんなの変な視線に、やり場のないストレスを感じました。でも、私が病気の理解のお役に立てたことはうれしいことです。家族も最初は戸惑っていたようですが、福祉施設で働く孫娘の助言のおかげで、少しずつわかってもらえたようです。初めて病院に行き「認知症」だとわかった時は、認めたくないという気持ちでいっぱいになり、「なんでこんなことになったんやろ」と情けなくなって一人で泣いたこともありました。でも、家族のみんなが支えてくれ、やがて周囲も受け入れてくれました。
これが病気の自然な姿
私は編み物や手芸の教室も開き、人一倍手先も頭も使いましたが、この病気になりました。でも、罰(ばち)だとか、恥ずかしいと思ったことはありません。ご縁をいただいたと理解しました。「認知症」は、病気なんですね。この病気、物覚えがあいまいになっても、プライドや生きてきた経験は今でも身に付いています。ただボケーッとしているんじゃありません。それが病気の自然な姿なんです。「きみょーう・むりょーう」と、おつとめもできますよ。毎日してきたことですから。「恩徳讃」も忘れてません。阿弥陀さんが好きですから、一緒にいると安心できるんです。年を重ねると、昔が懐かしくなり、実家に帰りたくなります。思い始めると、居ても立ってもいられず、足が先に動きます。でも、どこをどう通ってということがうまく考えられず、道に迷ってしまうんです。皆さんはそれを「徘徊(はいかい)」と言われます。でも、私にとっては、行きたいところをめざして、一生懸命歩いているんです。ところが、どうも目的地とは違う方向に行ってしまうことが多いようです。皆さんにご心配をおかけしています。また、家族のためにと、デイサービスやショートステイも行きましたが、毎日環境が変わり、気遣いをする性格の私はなじめず、不安になるんです。どうしていいのかわからず、つい身近な人に当たってしまうんです。思い込みも多く、頑固(がんこ)な自分が悲しくなります。家族がそれを心配して、病院に入れてくれました。慣れるのにしばらくかかりましたが、おかげさまで、今は穏やかな毎日を送っています。
憂いに寄り添う人
病院に入って1カ月ぐらいした時、歯の具合が悪かったんですが、介護の人に伝えられず我慢してたんです。そのうちにストレスで食事ができなくなり、動けなくなりました。でも、そのことに嫁が気付いてくれ、食事ができるようになり、歯の治療もしていただきました。その最初に3人で食べたパンは本当においしかった・・・。ある人が「いつもボケーッとしてて、何の悩みもなくていいな」と言われました。でも、私にも悩みや思いも皆さんと同じようにあるんですよ。親鸞聖人が「凡夫(ぼんぶ)」について、「怒(いか)りやそねみ、妬(ねた)むこころが息絶えるまで消えない」とお示しいただいていることに、あらためて「その通りだな」とうなずかされます。同じ生身の凡夫です。悩みもありますよ。み教えの通り、阿弥陀さまはどんな私であってもお救いくださいます。いつも一緒。寂しくはありません。でも、わがままですが、私の憂いに、優しく寄り添い、病を理解してくださる人があれば、よりうれしいのですが・・・〈憂い+人=優しさ〉。

■戦争は絶対だめ
敗戦で生活が一番
私は中学校の恩師やその仲間たちと一緒に、地元で活躍されている方々のお話を聞く会を月に一度開いています。その会の会員にある女性がいます。彼女は81歳の今でも、「下宿のおばさん」として、地元の農業高校に通う女子生徒の世話をしています。毅然(きぜん)とした態度で学生に向き合うその姿には、大人の私たちも大いに学ばされます。そんな彼女の原風景には、過酷な戦争体験があります。樺太(からふと)(現・サハリン)生まれの彼女は、12歳の時、父親に連れられて満州(現・中国東北部)へと渡りました。一家5人が入植したハルビン近郊の村には、樺太や北海道から新天地を求めて多くの人が移り住んでいました。しかし、その土地は満州を統治する関東軍が中国の農民から略奪したものでした。比較的自由な気風の青年学校で学んでいた彼女でしたが、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦を境に、生活が一変します。ソ連軍の侵攻の知らせに、着の身着のままで村から逃れた一家は、何とか難民収容所にたどり着くことができました。けれども、逃げ遅れた人々の中には、ソ連軍や中国人に襲撃されて全滅した開拓団や、強姦(ごうかん)されて殺された女性もいました。息絶え絶えの子どもを連れてこられず置いてきた母親もいました。また、収容所にたどり着けても、そこには食糧も暖房もなく、病気も蔓延(まんえん)して、大勢の人が冬を越せずに亡くなりました。満州で生まれた彼女の幼い妹二人も命を落としました。
先生やお坊さんが・・・
彼女の一家は翌年、無事帰国することができ、水戸にある父親の実家に世話になりました。ですが、もはや生まれ故郷の樺太に帰ることはできません。長女である彼女は意を決して、一家を連れて北海道へと渡り、町から40キロ離れた山奥の開拓地に入ることになりました。政府による「戦後開拓」で引揚者に入植地としてあてがわれたのは、作物のとれないやせた土地が多かったのですが、その土地もご多分にもれず、開墾(かいこん)に適さない荒れた土地でした。それに加えて寒さで作物は育たず、一家は山菜を食べて飢えをしのぎました。開拓地で結婚した彼女は、家族を食べさせるためにどんな仕事でもしたそうです。けれども、懸命に開墾した土地はダムの底に沈むことが決まり、一家は十数年暮らした開拓地を離れることになりました。町に下りてきてからも彼女は懸命に働き、子どもたちを育てあげました。数年前には40年連れ添った夫に先立たれましたが、今、若い女生徒たちと暮らす彼女は、いつも元気いっぱいで年齢を感じさせません。そんな彼女は折に触れて、次のように語ります。「私の原点は満州。あのとき、無残に死んでいった人のことを考えると、こんなことは二度とあってはいけないと思う。戦争は絶対にだめ」そして、こうおっしゃいます。「学校の先生やお坊さんこそが戦争反対!≠ニいわなければなりません」
非戦平和こそ仏教
『仏説無量寿経』に「兵戈無用(ひょうがむよう)」〈兵戈用(もち)ゐることなし〉という言葉があります。仏さまが巡り歩く国々には、仏法のはたらきで戦争は起こらないというのです。このように非戦・平和こそが仏教の立場といえますが、私たちが、そのような生き方を貫くには、さまざまな困難が伴います。私も仏教徒の一人として非戦・平和の活動にささやかながら取り組んでいますが、周囲の人から批判を受けたりすると落ち込むこともしばしば。そんな頼りない私の背中を彼女の言葉は力強く押してくれたのです。また、平和活動に取り組む元日本軍兵士の方には、次のような言葉をいただきました。「ご門徒さんを大事に、ゆっくり、ゆっくりと取り組んでいきなさい。君が生きているうちに伝わらなくてもいい。次の世代につながればいいじゃないか」このような先輩たちに導かれつつ、その平和への想いを多くの人たちに伝えていくことが自分に課せられた役割だと、今、あらためて思っています。

■お母さんのさん
親心のはたらく証拠
親の名告(なの)りは、実に味わい深いものです。というのも、母親は子どもに「おかあさんよ」と名告りますが、「おかあさん」の「さん」という言葉は、本来よぶ側が用意するものです。それを名告る側が用意したら、おかしなことになります。たとえば、「私は北嶋さんです」と名告ったら、おかしいのと同じです。けれども、母親は「おかあさん」と名告ります。一体、「おかあさん」という名告りは何なのでしょうか。それは、母親は最初から子どもの立場に立って、名告っているのです。「さん」という言葉は、よぶ側の子どもが用意しなければなりません。でも、それができない子どもに先立って、「おかあさん」と名告っているのです。つまり、その名告りには、「このように、よんでおくれ。私を頼っておくれ。いつでもどこでも一緒だよ」という親心があるのです。ですから親の名告りは、そのままが親心いっぱいのよびかけなのです。そのよびかけを聞いて、子どもは安心します。その安心しているままが、親を頼っているすがたです。その頼っているすがたが、親心のはたらいている証拠です。実に、親を頼る心まで、親が与えてくれるのでした。
南無の心もご用意に
このように、「おかあさん」という名告りは、最初から子どものためであったのです。ところで、南無阿弥陀仏というみ名は、最初から私たちのための名告りであったことを、親鸞聖人は「回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて」と示されました。阿弥陀さまは、私たちに南無阿弥陀仏と名告られたのですが、南無は「おまかせします」という意味ですから、本来は私たちが南無の心を用意しなければなりません。けれども、南無阿弥陀仏の南無は、阿弥陀さまがご用意くださっています。最初から私たちの立場に立って、名告られたのです。まかせる心を起こすことができない私たちのために、阿弥陀さまが先立って南無阿弥陀仏と名告られたのです。つまり、その名告りには、「このように、よんでおくれ。私にまかせておくれ。いつでもどこでも一緒だよ」というお慈悲があるのです。ですから南無阿弥陀仏は、そのままがお慈悲いっぱいのよびかけなのです。そのよびかけを聞いて、安心します。その安心しているままが、阿弥陀さまにまかせているすがたです。そのまかせているすがたが、お慈悲のはたらいている証拠です。実に、まかせる心まで、阿弥陀さまが与えてくださるのでした。このように、南無阿弥陀仏という名告りは、最初から私たちのためであったのです。
苦悩する者のために
阿弥陀さまは、私たちに南無阿弥陀仏とよびかけずにはおれませんでした。なぜなら、阿弥陀さまの眼に映った私たちが、「苦悩の有情(うじょう)」であったからです。心弱く、愚かに、涙しながらしか生きていくことのできない悲しい存在・・・それが阿弥陀さまがご覧になった私たちの姿でした。誠に、涙しながらしか生きていけないのが、私たちです。「なぜ、自分だけがこんな目に遭わねばならないのか・・・」と、暗い気持ちになることもあります。「誰も私のことをわかってくれない・・・」と、愚痴をこぼすこともあります。「こんなはずじゃなかったのに・・・」と、悲嘆にくれることもあります。それがどうにもならないことだとわかっていても、弱々しく涙を流しながら生きているのが、私たちの現実です。悲しみに沈む時、苦しみにあえぐ時、心の底は一人ぼっちです。誰も知ることはできません。そういう中で、たったおひと方、この悲しみ苦しみの境界(きょうがい)をお知りになり、涙されたのが阿弥陀さまでした。そして、「悲しき者よ。どんな時も、あなたを見捨てない」と、南無阿弥陀仏とはたらきかけてくださっていました。私たちの現実は、苦悩の現実です。しかし、今ここに阿弥陀さまがご一緒です。苦悩する涙の中で、お慈悲の深さが味わえてまいります。

■シュウカツ
近くの座席の会話が
「最近のシュウカツって、大変ねえ」「ほんとほんと、今じゃなくってよかった!」新幹線で移動中に、通路をはさんだ座席から聞こえてきた会話です。ふと、その席を見ると、二十七、八歳の同級生同士らしい女性たちが話していました。「ん?シュウカツってなに」と思っていたら、就職活動のことなんですね。何でも略してしまうんだなあと思って聞いていたら(いえいえ、決して聞こうと思って聞き耳を立てたわけではなく、ついつい聞こえてきてしまったのです)彼女たちも就活とやらを、したようなのです。「就活をすると、自分が見えてくるよね」「これでもか、これでもかって落とされて、自分のどこが悪いのかって、さんざん悩んで・・・」「そうそう、ほんと自分が見えてくるよね。それで、がく然としたこともあるし、へえ〜、私ってこんなところもあるんだって思ったり・・・」「そうそう、周りの人がいろいろ言ってくれたり・・・。うるさいって感じたけどね。うふふ」「とっても嫌だったけど、終わってみればありがたい期間だったわ!」そろそろ、定年後の生活は・・・などと考えるようになってきている私たちの頃は、そんな苦労はなかったなあ。いい時代だったんだなあ。希望するところに大抵は就職できましたもの。
自分が見えてくる
会話は、続きます。「でもさ、一人では何にもできないんだよね。今までだって、みんなに協力してもらって、いろんなことしてきてるんだもんね。今の私があるのは、あのサークル活動で培った根性や、この勉強で身につけた知識の上に今の考え方ができるとか・・・。ほんと、みんなにお世話になってるんだよね。支えられてここまで来たんだよねえ」自分が見えてくる、って、とっても大事なことですよね。この二人の会話を聞いていて、「いい経験をしたなあ」とつくづく思うのです。そして、そんな彼女たちを見て、私はちょっと(いや、かなりかな?)先輩ぶって「よくぞ気付いてくれました」と思うのです。「自分を見る」ということは、周りの人たちに支えられていることがしっかりと見えてきて感じたはずです。たとえば、就活中に周りでいろいろ言っていた人。活動に必死で、それしか見えていなかった彼女たちには、「あ〜、うるさい。ほっといて!」と思われたことでしょう。でも、自分が見えてきた今は、それが私を心配してくれている表れであることが身にしみて感じられたことでしょう。ついつい、自分は一人で努力して自分の力で、自分を築き上げたように思ってしまうんですよね。
お育ていただこう
「み光の中に生きる」「お育ていただく」とよく言います。阿弥陀さまの「ひかり」と、周りの方々に支えられているということは、一見何の関係もないように思います。でも、一つ一つのことが別々の所で起こっていたことなのでしょうか?いいえ、そうではありません。阿弥陀さまの大きな大きな光に照らされた中で起こっていたことなのです。彼女たちは、照らされていたからこそ、自分の姿がうつり、しっかりと自分を見ることができたのでしょう。うつった姿を、しっかりと受けとめることができたのでしょう。阿弥陀さまは、私たちをいつも照らしてくださっています。その光によって、気付かせていただけたのです。ありがたいなあ、うれしいなと思える瞬間です。だから、こころからのお念仏が、出てくるんですよね。おいしい果物は、太陽の光を浴びて光合成をおこない、地中にはった根っこからも栄養を摂取し、お世話してくださる方があり、はじめて美味しい実になります。そして、いろんな人々の手が掛けられ、私たちの口に届きます。就活で、いろいろ感じ取った彼女たち同様、私たちも「み光の中に生き」「お育ていただく」毎日をおくっているんですね。この就活のお話を、ちょっと小耳にはさんだおかげで、私もまた自分を見つめなおすことができました今日も、このおかげさまの気持ちと共に、「み光の中、お育ていただこう」と思います。

■やさしくしかって
近くの座席の会話が
自分がわからない人は 他人を責める 自分が知らされた人は 他人を痛む
あるお寺の掲示板です。この言葉に、私の姿をズバリと言い当てられた思いでした。私には3人の子どもがいます。長男9歳、長女6歳、そして4歳の次男です。今から約5年前、一番下の次男が誕生する7カ月前のことでした―。私が住職を務めるお寺は保育園を運営しており、その年も恒例の運動会が開催されました。ちょうどその頃、副園長であるつれあいには、新たな生命が宿り、すでに妊娠3カ月とわかっていたのですが、3人目という油断もあったのでしょう、園児と一緒になって、夢中で走り回っていました。ところが次の朝、真っ青な顔をして「流産したかもしれない」と言うのです。急いで病院に駆け込みました。「絶対安静! 即入院!」という医師の言葉。告げられた診断結果は切迫流産というものでした。その日から約2カ月間、入院を余儀なくされたのです。大変な日々が始まりました。報恩講とも重なり、私は多忙を極めました。その上、4歳と1歳の兄妹は何かと手がかかります。私なりに精いっぱい歯をくいしばり頑張りました。
親の都合の押しつけ
入院から約1カ月近く経った夜のことです。私は疲れ果てた状態で、ようやく長女を寝かしつけ、一刻も早く自分も休みたいと思っていました。ところが、その日に限って、長男は寝る気配がなく、「絵本読んでよ〜」「遊んでよ〜」とせがむのです。「また明日な!」と答えても、全く言うことを聞きません。頭に血が上った私は「お前はこんなにパパが大変なのに、何でわかってくれんのや!」と大声で怒鳴ってしまったのです。長男は目に涙をいっぱいためながら「ごめんなさい。ちゃんと寝ます・・・」。そしてこうつぶやきました。「でもパパ・・・、もっとやさしくおこってよ・・・」。その瞬間、私は「はっ」と我に返りました。「怒(おこ)る」と「叱(しか)る」は違うのです。「怒る」は子どもの身になれずに、自分の都合ばかりを押しつけている態度です。「叱る」とは、まず自分の都合を離れて、子どもの身になって、言い諭す姿勢です。その時の私はまさに「怒る」でした。「こんなに苦労しているのに」と、自分の都合で怒(いか)りの弓を引き、その矢を長男に向けていたのです。それが、「パパ、やさしくおこってよ・・・」という言葉によって、その矢が自分自身に突き立てられたような痛みを感じました。長男も一生懸命に妹の面倒を見て、お手伝いもして頑張っていたのです。まだ4歳なのです。1カ月も母親がいない寂しさはどれほどのものだったでしょう。その寂しさを少しでも埋めたい一心で、父親とふれあいたかったはずなのに・・・。
お育て≠ェ必要な私
長男の言葉を通して、阿弥陀さまの「目覚めよ、気づけよ」との厳しいまでのおよび声が聞こえてきました。痛むべき、恥ずべき私の姿でした。そして、思わず「ごめんな。お前も頑張っていたんよな。パパが悪かったな」と抱きしめながら謝りました。すると、息子は満面の笑みを浮かべて、「パパ! 大変やけど、がんばれよ!!」。この言葉には一本とられましたが、「一緒に頑張っていこう」という思いが伝わってきました。これまでのトゲトゲしい私の思いが、安らぎへと転じられるのを感じました。状況が変わったわけではありません。しかし、状況は変わらない中にも、阿弥陀さまの智慧と慈悲に支えられながら、できる範囲で精いっぱい頑張っていこうという力がわいてきたのです。そこには「痛みをともにしてくれる安心」の生活が恵まれていました。しかし、縁によっては、再び怒っている私の姿がありました。そのような私だからこそ、日々の生活の中で、阿弥陀さまからの「お育て」が必要なのです。
苦労をすれば苦労をにぎる 我慢をすれば我慢がたまる 我が励めば、励むが残る 積んだそれらが 他人を泣かす 放す力が南無阿弥陀仏
友人が教えてくれた、ある念仏者のお言葉が身にしみる今日この頃です。

■安心をいただきます
アレルギーでもOK
2年ほど前に、あるドキュメンタリー番組で、食物アレルギーの方でも食べられるケーキを作っておられる菓子職人が取り上げられていました。現在、厚生労働省が発表している食物アレルギーの原因となる食品は25種類もあり、日本の1歳児の10人に1人が食物アレルギーに苦しんでいるとのこと。その菓子職人は、アレルギーの原因となる25種類の食品を一切使わずにケーキを作っておられました。小麦粉の代わりに「ゆきひかり米粉」や「アマランサス」という植物の粉、「ホワイトソルガム」という高キビの粉などを使用し、クリームなどの乳製品の代わりに菜種マーガリンを使用して作られたケーキは美しく、とてもおいしそうでした。番組が進むにつれて、1人の女の子が取り上げられました。「4歳の誕生日に、今までアレルギーで食べられなかったケーキを食べさせてやりたい」と、お母さんがその菓子職人に誕生日ケーキを注文します。しかし、その女の子は代用品として使ってきた食品にもアレルギー反応が出て、加えて砂糖にも反応がでる症状のお子さんでした。その菓子職人は医師と相談して、その女の子が食べることができるケーキを作るために、試行錯誤を重ねて見事なタルトのケーキを仕上げられました。誕生日になり、ハッピーバースデーの歌とともに、そのケーキは女の子の前に運ばれてきました。今まで、絵本のケーキやプリンを指差して「これなあに?」と聞いても、「わからない」としか答えられなかった女の子が、ケーキを口にしてひと言、「おいしい」といって、うれしそうに笑顔をこぼしたのです。その姿を見たお母さんは涙ぐまれ、菓子職人は一番うれしそうに女の子を見つめていました。そして、最後に夢をたずねられた菓子職人は「2015年までに、食物アレルギーで苦しむ子どもたちが、おいしいケーキを食べられるようにしたい」と話されました。番組を見終えた後、何ともいえない感動とともに、味わいをひとつ深めさせていただきました。
常に私に寄り添って
私の地元・山形最上(もがみ)の20カ寺(現22カ寺)に、第19代のご門主・本如(ほんにょ)上人から賜(たまわ)ったご消息には「十方の諸仏に捨てられしを阿弥陀如来こそかかる機をたすけんと不可思議の大願を起こして救いたまふなり」というご文(もん)があります。阿弥陀さまから見抜かれた私の姿は、まことのいのちのあり様を知らず、迷っていることもわからず日暮らしをしています。その「知らない」「わからない」私を何とか救わずにはおれないと、五劫(ごこう)という長い時間を費やし、四十八の願いを立ててくださいました。ケーキでいうレシピでありましょう。そして兆載永劫(ちょうさいようごう)というとてつもなく長い時間とご苦労を重ねられ、その願いを『南無阿弥陀仏』の名号(みょうごう)として完成してくださいました。言い換えますと、そこまでのご苦労がないと、諸仏に捨てられている私を救うことができなかったといえるでしょう。こちらからは見向きもしない私に、阿弥陀さまは姿や形をかえておはたらきくださり、み名の仏となって、常に私に寄り添ってくださっています。 また、その尊いおみ法(のり)を勧めてくださる方々がおられて、今私が『南無阿弥陀仏』に遇(あ)わせていただいているのでした。誕生日にケーキを食べることができた女の子は「おいしい」と言いました。女の子が言った言葉ではありますが、言わしめたのはケーキです。菓子職人の真心と努力が詰まったケーキというはたらきがあったからこそ、感動が女の子の口からこぼれました。今、この口からこぼれてくださる『南無阿弥陀仏』も、この身を揺り動かすはたらきがあったからに他なりません。菓子職人が語っていた夢は、誰でも分け隔てなく安心して食べることができるケーキを作ることとも言えます。阿弥陀さまもいつでもどこでも誰にでも分け隔てなく寄り添い、私のいのちを自分の事として案じてくださり、その安心の中でいのちを生き抜かせてくださるのです。

■大きな羽のぬくもり
あくなき大悲
「阿弥陀さまの姿をこの眼で確認できるなら、文句無しに信じることができるのに・・・」そんなふうに思ったことがあります。しかし、私の眼は煩悩によって曇っている、迷いのまなこでしかありません。迷いをもって見る世界は、すべてが迷いなのです。親鸞聖人は『高僧和讃』に、
煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり 
といわれています。悲しいことに自己中心の生活に明け暮れ、欲望に心を閉ざされている私には、仏さまのお姿を見ることができません。しかし阿弥陀さまは光明によって私を摂(おさ)め取り、片時も目を離さずに護(まも)りはぐくんでくださることをお慶(よろこ)びになったお言葉です。摂取の光明は、あらゆるものを照らしはぐくんでくださいます。それはまるで太陽の光を受けた、生きとし生けるすべてのいのちが、いきいきと躍動するように。ところで、はぐくむという字は「育む」と書きますが、これはもともと「羽包(はぐく)む」という意味だそうです。親鳥の大きくて柔らかな羽で卵を大切に包み込み、わが子を温めている姿を想像させてくれます。親の深い愛情を感じずにはおれません。
おなかすかへんの?
以前、娘とお寺の境内の掃除をしていましたら、梅の木にハトが巣を作っているのを見つけました。ちょうど私の目の高さ辺りで、とても見やすい位置にありました。ハトは公園やお寺など、どこに行っても見られる鳥ですが、卵を抱いているハトを見たのは初めてでした。しかし、私はとりたてて気にかけることもありませんでした。ある日のこと、梅の木の前を通りかかると、あの親バトが私に背を向ける格好で卵を温めていました。そっと近づいていくと、私の気配に気づいたのか、急に身をひるがえして、こちらに向きなおるのです。普段見かけるハトは人間が近づくと慌てて飛び去ってしまうのですが、その時ばかりは、まるで私に挑みかかってくるような、そんな気迫さえ感じました。卵を抱いている時の親の迫力たるや想像を絶するものがあります。そして私たちがいつ見かけても、必ずそこにじっとしているのです。それからというもの、私と娘はハトが本当に巣を離れることがないのか気になって毎日様子を見に行くようになりました。朝、昼、夕方と時間帯を変えて何度も見に行ったのですが、ハトが巣から離れることはありませんでした。疑問に思った娘が、私に「ハトさんは、ゴハンどうしてるんやろ?」「お腹(なか)すかへんのかなあ?」と聞いてきます。私は「親は2羽いるのだから、どちらかがエサを捕りに行って、交代で抱いているのだろう」と単純に考えていました。すると娘が、「自分のゴハンより、卵の方が大切なんかな?」といったその一言に、私はハッとさせられました。
仏とならせていただく
このハトは自分の身がどうなろうとも、「この子を立派に育て上げる」と必死に抱きつづけている姿であったと気づかされたのです。ただ外敵から卵を護っているだけではありません。我がぬくもり(体温)を卵に与え続け、それがそのまま子のぬくもりとなっているのです。ヒナは殻に閉ざされて親の姿を見ることができません。しかし、その大きな慈愛の中で成長し、やがてその硬い殻を破って、親と出あうのです。一方、親は一瞬の休みも油断も許されません。そんな苦労を思わずにはおれませんでした。私は煩悩という自我の殻に覆われて阿弥陀さまのお姿を見ることができません。けれども、阿弥陀さまは、そのかたくなな心を障りとせず、摂取の光明という大きくて柔らかな羽で抱きかかえ、ぬくもりを与え続けてくださいます。阿弥陀さまのお徳のすべてを、この私にふり向けてくださっているのです。卵が親バトにはぐくまれてやがて立派なハトになるように、私も今、仏さまにはぐくまれて、お念仏を喜ぶ身に、そして、お浄土で仏とならせていただくのだと思わせていただきました。 
 

 

■「はやぶさ」が届けたもの
地球誕生の頃のまま
最近、火星と木星の間にある小さな星「イトカワ」に行った惑星探査機「はやぶさ」が帰ってきました。往復7年もの歳月をかけて、さまざまなトラブルに見舞われながらも、無事地球に帰ってきました。さらにうまくいけば、地球まで届いたカプセルの中に、小惑星「イトカワ」の塵(ちり)が入っているかもしれません。その塵には、46億年前の地球ができた頃のそのままの状態が封印されていますので、太陽系形成の謎を明らかにできるかもしれません。そのため世界中が注目しています。宇宙は、実に137億年前に始まったといわれています。地球ができるずっと前から、宇宙は存在していたのです。気の遠くなるような過去ですね。では、宇宙が始まって、地球ができるまでの約90億年のあいだには、何があったのでしょう。私たちにはちっとも関係がないかといいますと、大ありなのです。地球上の海の水、植物、そして私たちのからだを作っている物質すべては、この90億年間に、星のなかでゆっくりと作られたものなのです。宇宙の中では、星が生まれ、成長し、やがて爆発して、物質が宇宙空間に戻っていきます。この星の一生の繰り返しを何度も経た後、さまざまな物質の元が作られたのです。従って、「はやぶさ」が「イトカワ」の塵を持ち帰っていたとしますと、地球ができた46億年前の無垢(むく)の物質が探れるのです。一方、地球上の物質は、火山や生物の影響などを多様に受けていますので、もともとの姿を留(とど)めていないのです。このようにみていくと、私は今年59歳になりますが、本当のからだの寿命を考えますと宇宙の年齢プラス59歳、つまり、137億59歳なのだと気づかされます。長い永い時間の、いろいろな働きによって、今ここに生かされている自分であると思い知らされます。作詞家の永六輔さんも同じことをお話しされていると聞きました。
無限の過去から私のために
137億年と聞くと想像もつかない時間ですが、仏の世界はもっと長大でした。ご開山(かいさん)・親鸞聖人の詠(よ)まれたご和讃(わさん)に、
弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは いまに十劫(じっこう)とときたれど 塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも ひさしき仏(ぶつ)とみえたまふ ・・・(阿弥陀さまが仏と成られて十劫という時間が経(た)つとお経(きょう)に説かれていますが、それよりはるか昔の塵点久遠劫より久しい仏と思われます)とあります。
「劫(こう)」というのは、仏教で使う長い永い時間の単位です。現代の時間でいいますと、諸説があるのですが、私なりに計算してみますと、なんと宇宙の年齢(137億年)の約3京(けい)(10の16乗)倍でした。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまが、修行の後に、阿弥陀さまとなられて十劫の時が経(へ)ましたと、お経にはあります。それだけでも、想像もつかない時間の長さです。しかし、親鸞聖人は、私たちが阿弥陀さまのおはたらきによって信心が開かれるならば、阿弥陀さまは、無限の彼方(かなた)の過去より、私たち一人ひとりのためにはたらいてくださる仏さまであったと気づかせていただくと説かれています。私たち凡夫のことを想って、ずっと以前より、まさしくいつでも、どこでも、どのようなときも、お慈悲のはたらきをかけてくださる阿弥陀さまなのです。そのような仏さまがおられるということに感激するばかりです。そのことに気づかせていただきますと、お念仏するこころを、さらにいだきます。「はやぶさ」が持ち帰ったかもしれない小さな塵は、小さいですけれども、地球の生まれたときの姿を留めているかもしれません。それもすごいことですが、もっと大きな感激は、阿弥陀さまは、目には見えませんけれど、無量の寿命をもって、ずっと以前より、私たちを慈悲の心で包んでくださっていることです。本当に有り難いことです。

■原爆地獄から出発した吉田勝二さん
被爆体験を語り続け
平和の原点はひとの痛みがわかる心を持つ事≠アの言葉は、被爆体験を語り続けたご門徒・吉田勝二(かつじ)さんが、今年4月1日に78年の生涯を終えられるまで、力の限り訴え続けられた言葉です。私も原爆の時は6歳、小学1年でしたが、あの時のことは65年たった今も原風景として焼き付いています。本堂に次々と運び込まれてくる人々、何の治療も受けられず、ただ赤チンをぬるだけ...。やがてウジがわき、苦しんで亡くなっていかれた様子は忘れられません。ご遺体は大八車やリヤカーで近くの小学校へ運び運動場で火葬に...。その煙と臭いは今も私の体にしみ込んでいます。まだ1年生、何もわからなかったはずですが、あの日あの時、B29の爆音とピカドンの一瞬、死にものぐるいで防空壕に飛び込んで助かったようです。しかも、どこのどなたかわかりませんが、「コラッ! 早く逃げろ!」と大声で呼んでくださった方のおかげでした。いつも8月9日11時2分には、その声の主を想って手を合わせお念仏申さずにはおれなくなりました。それがまた、南無阿弥陀仏の弥陀のよび声≠ニ重なり、いつもよび続けてくださっている如来さまのお心に気付かされることでもあります。
戦争を憎んで人を憎まず
さて、吉田勝二さんは、当時13歳。長崎工業学校造船科の2年生で、学友7人とともに被爆。畑や道路を飛び越え40メートルも吹き飛ばされ、全身焼けただれ、意識もかすかで、気がつくと全くの悪夢でした。血に染まり死体で埋まった浦上川。友人同士「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合いました。元気だった一人が数キロ離れた吉田さんの自宅までたどり着き、「吉田君はやけどはしているが生きています。早く学校へ助けにいってやってください」と伝えてくれました。ご両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、白い包帯でぐるぐる巻きにされた人ばかり。「勝二! 勝二!」と叫んでも、誰がわが子かわかりません。一人一人に声をかけやっと捜(さが)し当てたものの、それでも半信半疑。あまりにも変わり果てていた姿に驚くばかりでした。やっとの思いで自宅へ連れて帰られた後も、全身からの膿(うみ)やウジで、何ともいえない臭気が家中に漂っていました。それからは全く意識が無くなり、うわ言ばかり。治療のため大村の海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきた米軍によりペニシリンが使われ、九死に一生を得ました。その後1年余りでなんとか退院したものの、人目にさらされる苦しみから一歩も家を出られなくなりました。でもお母さんの「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出るようになりました。そして、悲しいことばかりに出あいながらもやっと立ち直り、社会人として生きるため食品会社に就職。しかし、セールス先で子どもに泣かれていやがられたりして苦しみました。それから幾年月。お母さんの命日には大きな声で正信偈をおつとめし、今日の自分があるのは母親のおかげと、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と、お念仏申す人となられました。そして「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語りました。近年は次の世代の小中学生に語り続けられ、これに感動した中学生が吉田さんの体験をパネルにし、やがてそれが絵本になりました。吉田さんは絵本を紙芝居仕立てにして、長崎平和推進協会の白鳥純子さんと読み聞かせを始めました。3年前の初公演は、光源寺の仏さまの前で、ひかり子ども会のみんなに、と決めていました。この4月に吉田さんが亡くなられ、その追悼の紙芝居が、吉田さんの心を受け継ぐ白鳥さんによってお寺で上演されました。その後も各地で公演されています。原爆地獄から出発してお浄土へ歩まれた吉田さんの78年。信じられないほど明るく強く、優(やさ)しさいっぱいの生涯でした。
安楽浄土にいたるひと 五濁(ごじょく)悪世(あくせ)にかへりては 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益(りやく)衆生(しゅじょう)はきはもなし
ご和讃の通り、今も吉田さんは平和を語り続けています。

■本当に大切なもの
あまりに冷たすぎる
医師兼僧侶>泄s思議な肩書と思われた方は、少なくないと思います。実は、医師と僧侶には共通する点があります。それは、悩んでいる人・苦しんでいる人に、何がしてあげられるか、お手伝いできるか考え、そして実際にその悩み苦しみにかかわっていくということです。そして、その中で"いのち"を見つめ、"いのち"を大事にしていくということです。私は医師として、"がん"の患者さんと多くかかわり、治療し、看取りもしてきました。現在、日本で年間約34万人の方が"がん"で亡くなり、日本における死因の第1位です。現代人の少なくとも3人に1人は"がん"で亡くなり、"がんで死ぬ"ということが、非常に身近なものになっているわけです。私見ですが、死ぬ準備は大事だし、必要だと本当に思っています。ある意味、仏教も生死(しょうじ)を見つめる中で、そのようなことを説いてきたのかもしれません。しかし、本当に死を見つめるということは、つらいというより残酷なことだと思うのです。この世における、愛別離苦の極みとも言えると思います。「自分は治る!」と信じながら"がん"と戦い、そして敗れ、そして愛(いと)おしきこの世、愛する家族と死をもって別れなければならない。それを、「生死は自分の問題だから責任もって自分で考えなさい」というのは、あまりにも冷たすぎる仕打ちじゃないかと思うのです。
まず人間同士として
浄土真宗の他力の信心は「二種深信(じんしん)」といわれています。「機(き)の深信」と「法(ほう)の深信」です。二種深信とは、落ちるしかない救われようもない私(機の深信)が、必ず取って捨てぬ仏、必ずお救いくださる阿弥陀仏(法の深信)に出あわせていただくことといただいております。妙好人(みょうこうにん)といわれるお園(その)さんの「落ちればこそ、救ってもらいますわいのー」といういただき方でしょうか。「死ぬ準備をしなさい」とはある意味、落ちるしかない救われようもない自分に気づきなさいということです。そこに救いがなければ、どうなるでしょう。そのようなときに、宗教家が「この世は、どうにもならない。どうにもならないことをご存じで、そのままで救うとおっしゃるのが阿弥陀さまだ」と説教をして、はたしてありがたい法話といただけるでしょうか。その前に、家族として、友人として、同朋として寄り添い、一緒に涙する。そういった、生きた人間同士として、精いっぱい出来ることをやる。やるだけやったがどうにもならん。そこに立ってこそ、本当の意味で阿弥陀さまの救いを語れるような気がします。お慈悲の水は、高いところにはたまらぬ。信心の蓮華は泥の中にこそ開く─。
心のメタボリック
小川一乗先生(大谷大学元学長)の妹さんで、乳がんで亡くなられた鈴木章子(あやこ)さんは自著『癌告知のあとで』の中で、転々移を告げられて ふと 末期の痛みに恐怖がはしった その時 如来様 誰もが死んでゆけた お前も必ず死んでゆけると 励まして下さった だれもが死んでゆける 例外者なしが 安心・・・・・・ と自分の死をいただかれています。
鈴木章子さんは、別な詩の中で、がんになって自分の自惚(うぬぼ)れが砕かれたことを語っておられます。私の出会ったがん患者さんからも同様なことをうかがいました。目が見えなくなって、本当の世界が見えてきたというお話をうかがったこともあります。現代は"心のメタボリック"の時代だと思っています。あまりにも情報やものが溢(あふ)れています。だから、本当に大切なものが見えにくい時代、混迷の時代とも言えるでしょう。そして、"がん"になって、落ちるしかない救われようもない自分に気づいたその時に、ようやく"本当に大切なもの"が見えてきたのでしょうか。あなたにとって、本当に大切なものは何ですか?

■わたしの大遠忌
活き活きと弾んだ顔
昭和36(1961)年、本願寺では親鸞聖人700回大遠忌法要が修行されました。法要に参拝する人たちを、自坊の山門で見送ったことを微(かす)かに覚えています。その頃に出始めた8ミリフィルムカメラを、父は得意そうに肩にかけ、皆さんと一緒に京都に向かいました。お寺に帰ってきてから、そのフィルムに収められた本願寺の姿を、法座のたびに白いカーテンに映しては、それぞれみやげ話や自慢話に花を咲かせていました。法要に参拝した人たちの顔が活(い)き活(い)きと弾んでいるのが、とても印象的でした。昭和30年代は、終戦後の復興が形になって現れた時期といわれています。テレビの全世帯への普及をはじめ、経済成長は10%を超え、新幹線の開業や東京オリンピック開催に象徴されるように、全国民そろって豊かな暮らしを求めて奔走しました。しかし、私たち人間の欲望を満たしてくれる進歩・発展の陰で、過密化する都市や工業地帯では公害が問題となり、農漁村では人口流出による過疎化が表面化し始めていました。
警鐘に耳を傾ける
平成24年1月16日は親鸞聖人の750回忌。その前年の4月からこのご正当(しょうとう)にかけて、本願寺で親鸞聖人750回大遠忌法要が修行されます。聖人は「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなり」と、この私一人の存在意義と尊厳を示されるとともに、「『十方衆生(じっぽうしゅじょう)』といふは、十方のよろづの衆生なり、すなはちわれらなり」と、いのちあるすべての存在が等しく救われてゆく大乗仏教の究極をお諭しになられました。私一人の存在は、すべての存在と切り離すことはできないのです。我欲が肯定される競争社会の原理とは相容(あいい)れない聖人のみ教えの世界です。私たちは、誰もがやっていることだからと、社会や自分の悪業に鈍感になり、自らの欲望のおもむくままに心身の満足を求めて暮らしています。それでは聖人の思いから遠のいているのではないでしょうか。そんな私たちに今、警鐘が鳴らされているようです。そんな鐘の音に敏感でありたいと思う今日この頃です。目前に迫った親鸞聖人の大遠忌法要。聖人の思いからはずれることなく、少しでも近づけるよう自らを律していきたいと思います。それには、逃れることのできないこの現実の苦しみと向き合っていく以外にはないと思います。閉塞感に包まれる時だからこそ、念仏とともに力強く生き抜く姿を共に示していきたいと思います。

■倶会一処(くえいっしょ)
亡き人を偲び仏縁に
お墓参りに行きますと、「倶会一処(くえいっしょ)」と刻まれたお墓を目にすることがあります。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀さまのお浄土でまた共に会わせていただくという意味です。阿弥陀さまは、この私を必ず浄土に往(ゆ)き生まれさせ仏にさせると願われ、今「南無阿弥陀仏」と私にはたらいてくださっています。私たちがお称(とな)えするお念仏、南無阿弥陀仏は「我にまかせよ、必ずあなたを救う」という阿弥陀さまのおよび声です。そのおよび声、願いをそのまま疑いなく聞かせていただき、いのち終わったらすぐに、阿弥陀さまのはたらきによってお浄土に参らせていただくのです。ですから、「死んで墓の下に眠る」のではありません。お墓というのは亡き方のお骨を納め、亡き方を偲びつつ、仏縁にあわせていただく大切な場所です。しかし、私たちは死んで墓の下のような暗い世界にいくのではないのです。阿弥陀さまの限りない光の世界、智慧の世界であるお浄土に参らせていただくのです。そして、お浄土に眠りにいくのでもありません。浄土で仏に成るということは、阿弥陀さまの願いを伝え、後の者を導く活動体としてはたらいていくということです。
どこのお墓に入る?
昨年末、伯父が亡くなりました。伯父はナマンダブツ、ナマンダブツとお念仏を申された方でした。身近な人を亡くすのはさびしいものです。私は都合で翌日お参りさせていただきましたが、妻と7歳の娘、4歳の息子はその日の夕方、家が近くなので歩いてお参りさせていただいたそうです。私が家に帰ると、妻がその時の様子を話してくれました。娘はよく知っているおじさんが亡くなった姿を見て、いろいろなことを考えたのだと思います。お参りがすんで、また夜道を3人で手をつないで帰ったのですが、その帰り道、いろいろなことを尋ねたそうです。「お母さん、おじちゃんこれからどうするん?」「どうするって、おじちゃんは焼いて、お骨にして、おじちゃんちのお墓に納めるんよ」「えーっ、焼くの!」と娘は驚いたそうです。「じゃ、うちのおじいちゃんとおばあちゃんは?」「そりゃ、うちのおじいちゃんもおばあちゃんも亡くなったら、お骨にしてうちのお墓に納めるんよ」「お父さんとお母さんは?」「お父さんもお母さんも一緒のお墓よ」今度は自分のことが気になったのでしょう。「じゃ、私は?」「たぶん、お嫁さんに行って、その嫁ぎ先のお墓に入ることになるでしょうね」すると弟はどうかと聞いてきたので、妻は「しまった!」と思ったそうです。しかし、正直に「うちのお墓に入ることになるでしょうね」と答えました。でも、やはり娘は自分だけが取り残されるような思いがしたのでしょう。「イヤだ、私も一緒にお墓に入る。一緒にお墓に入りたい」と言い出しました。私は少しおかしさもあったのですが、みんなが入る同じお墓に自分も入りたいという娘の気持ちを思うと、何とも言えない気持ちがしました。でもその時、妻が娘にこう言ってくれたそうです。「そりゃ、お墓は別々のところで違うかもしれんけど、往(ゆ)く場所はおんなじなんよ。阿弥陀さまのお浄土で仏さまに成って、また一緒に会えるんよ」有り難かったですね。よくお取りつぎしてくれたなと思いました。
仏と仏としての再会
伯父とこの娑婆(しゃば)世界ではもう会うことはできません。しかし、伯父は身をもって、いろいろなことを娘やこの私に伝えてくださっているなと思いました。「限りある人生だぞ、限りある人生をどう生きるのか、お念仏を申し、またお浄土で会おうな」と呼びかけてくださっているように思いました。同じ阿弥陀さまのはたらきによるからこそ、同じ倶会一処のお浄土で、また懐かしい方々とも仏と仏としてのお出会いをさせていただき、仏としての活動に加わらせていただくのです。

■しっかり刻まれてます
亡くなった後の仕事
先に亡くなった人はズルイ、と思うことがあります。こっちは老(ふ)けていくばかりなのに、まぶたの裏に浮かんでくるあの顔も、耳の奥底に残っているあの声も、まったく歳を取らないし、なにより、悪い思い出は色あせて、いいイメージばかりが色濃くなっていくんですよね、なぜか。残してくれた言葉だってそう。ちょっと困ったときなんか、すぐに頼りにしてしまうんです。死んでるのに、「たぶん、こう言うだろうな」とか「ああ、怒られる」とかね。言われっぱなしで反論もできないし、ときには、それがしがらみになったり足かせになったりする。でも、それはそれで心地よくもあるんです。あの人がまだわたしの人生に関(かか)わっている、みたいなものですね。残された言葉というか教えに、亡き人の願いが込められているからなんでしょうか、逆らえないんです、あの人に。だから、ズルイ。亡くなる前は、そうじゃなかった。関係が近しければ近しいほど、「言われんでもわかっとるわ」と反発して、ケンカにもなりましたよね。でも、いなくなって初めて気付くんです、「ああ、このことを言ってたのか」って。死んだ人は、亡くなった後の方が仕事するって、そういうことなのかってね。わたしの所へ還(かえ)ってくるって、こういうことなのかと思うんです。誰にだって、懐かしい人との思い出はごまんとあるし、忘れられない言葉の一つや二つはありますよね。もちろん、わたしにもあります、そんな言葉が二つほど──
死を覚悟した状態で
「田井よお、ホンマ苦しいときはなあ、殺してくれとしか思われへんのや。命の瀬戸際で、お念仏なんぞ出えへんぞ」何があっても裏切れない大恩人であり、二人いる師匠の一人、僧侶であり説教師であり物書きだった某先生のひと言。もう10年近く前の話です。型破りで精力的、前をしっかと見すえながらも、繊細かつ淋(さび)しがり屋で人の心を読むのが実に巧(うま)い人でした。缶に入った両切りのタバコを、40本から50本も喫(の)んでいたんです、1日に。成るべくしてなった「肺がん」。お連れ合い曰(いわ)く、「肺がんになって本望。他のがんなら後悔してたけど、あれだけタバコを吸ってたからね」病に冒(おか)されても、先生は先生のままでした。「好き放題、充分(じゅうぶん)生きた」と豪語したかと思えば、人生初の入院で、お経典の「人は、ひとり生まれ、ひとり死んでいく」の言葉を実感し孤独に身がさいなまれた、とも聞きました。手術前の検査を重ねるうち、カルテの中だけに自分の命があるかのように錯覚されたそうです。重要な検査の当日朝、始発のモノレールに飛び乗り逃げ出しもしたそうです。長時間の検査に身体がたえきれず、持病の喘息(ぜんそく)が暴発。とうとう、西洋医学に見切りをつけ、漢方薬を服用するように。「どや、元気そうになったやろ」の言葉は弱々しく、肉はそげ落ち骨と皮だけのような身体に。激しく咳(せ)き込み、呼吸器の入り口にへばり付く痰(たん)を切る。悶え苦しむしかない状態。「死」を覚悟されたのか、「死」を待っておられたのか。そのころ言い放ったのが、先ほどの「お念仏なんぞ」の件(くだり)です。
もう一つのメッセージ
死の淵に立っていると実感した人間の本音を吐露してくれたんだと思います。でも、「やっぱり、ナンマンダブツやのう」と言ってほしかった。だから、忘れられない。話はこれで終わりじゃありません。結局、近代医学に降伏して終末医療を受けることに。緩和ケアによって小康を得られました。最後のお見舞いで、わたしの胸にしっかりと刻んでくれた、もう一つのメッセージ──「ワシはなあ、自分からお念仏を捨てたと思い込んどったんや。でもなあ、田井よお。阿弥陀はんは、ワシを捨てずにいてくれてたんや。ほら、いまでも、ワシの口から、ナンマンダブツが出てくださるんや。変わってないんや。捨てられてないんや。ひとりじゃなかったんや。かたじけないのう」 うれしすぎて忘れられない、お浄土を恋しくさせる珠玉のひと言です。

■化かされていませんか
仏さまと直結の道
ときたま浄土真宗には行(ぎょう)がない≠ネどと言われる方がありますが、行のない仏教なんてありえないのです。なるほど、この世で煩悩をなくして聖者(しょうじゃ)をめざす修行≠ニしての行はありませんが、だからといって、行がないとなると仏教を逸脱することになります。ではどうなのか── はい、この世でさとりを開く此土入聖(しどにっしょう)の修行は無用ですが、浄土に往生し仏と成(な)る彼土得証(ひどとくしょう)の「大行(だいぎょう)」である「南無阿弥陀仏」のお念仏があるのです。大行であるお念仏をこの身に確かにいただいております、と味わうのが浄土真宗のみ教えではないでしょうか。その南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)大行は、私たちにとっていかなる意味をもつのでしょう。それについて、親鸞聖人は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』総序(そうじょ)のご文(もん)に、かならず最勝(さいしょう)の直道(じきどう)に帰(き)して、もつぱらこの行(ぎょう)に奉(つか)へ、ただこの信(しん)を崇(あが)めよ ・・・とご教示くださいました。すなわち南無阿弥陀仏の大行は、阿弥陀さま直接の道ですからわが道≠ニいただき、「この道を歩め」と願われた阿弥陀さまのおこころを尊崇いたしましょう、との思(おぼ)し召(め)しであります。
「他の道」で右往左往
それではなぜ「南無阿弥陀仏」を私の歩む道≠ニいただくのかについて、同じ総序のご文に、
穢(え)を捨(す)て浄(じょう)を欣(ねが)ひ、行(ぎょう)に迷(まど)い信(しん)に惑(まど)い
であるからと仰せられました。すなわち、いかに「厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の理想を掲げてみても、阿弥陀さまの直道(じきどう)をわが道≠ニいただかず、その道に疑念を懐(いだ)くなら、それこそが迷いであり惑いのすがたである、とおっしゃるのです。しかしながら、仏教の通例では、迷いの根源は煩悩であると見られるようですが、親鸞聖人はもっと深く見られ、人間の迷いは煩悩というよりも、道に迷うことである。すなわち、私たち煩悩のまっただ中に「この道を歩め」とよびたもうお念仏の道があるのに、他に道がないのだろうかと右往左往しているすがたが人間の迷い≠ナあると、実に具体的な見解を示されるのです。
すべての人が歩む道
ちょっと面白い話ですが── 道に迷った旅人が原っぱに出たところ、一匹のキツネが人間を化(ば)かす準備をしている姿を見つけました。旅人が「おまえごときに化かされてたまるか」と大声で怒鳴ると、びっくりしたキツネは「あなたは化かしません。向こうの竹やぶの一軒家にいるおじいさん、おばあさんを化かす準備をしているのです」と言って娘に化けました。そして泥であんころもちを作り重箱に入れ、「さあ、化かしにいきましょう」と旅人を誘いました。一軒家に着いた旅人が格子から中をのぞくと、おじいさんたちが今まさにおもちを口に入れようとしていました。旅人が思わず「あっ、そのあんころもちを食べてはいかん」と大声で叫んだその時、ポンと旅人の肩を猟師がたたきました。「あんた、竹やぶに頭突っ込んで、何をそんなに大声で騒いでいるんだい」気がついてみれば、そこには一軒家もなければおじいさんやおばあさん、キツネもいません。ただどういうわけか、旅人一人が、握った竹の間から大声で叫んでいたということです。私たちは、自分はキツネになど化かされない、と思っていますが、そうでしょうか。本当は人間すべからく煩悩というキツネに化かされ続けて一生を終えるのではないでしょうか。ですから阿弥陀さまは、煩悩をなくしてからお浄土に来なさいと、そんな無茶なことはおっしゃいません。なぜならば煩悩をもってしか生きられないのが人間だからです。それ故に、私たち在俗の人々も、山にこもって修行される人々も、皆ともに煩悩成就の人間なのです。ですから「一切善悪大小凡愚」のすべての人間が歩ませていただく、お浄土への道は「お念仏の道」ただひとつでありました。

■私を照らすはたらき
頑張ってきたけれど
季節の移ろいの中、懐かしい知人の訪問を受けました。知り合ったのは、彼が学生の頃なのですが、卒業後どんな生活をしていたのか、知る由(よし)もありませんでした。訪問の数日前に突然の電話で、「いろいろとお話したい事があって・・・、聞いていただけますか?」とのことでした。私は「話を聴くだけならいいですよ。でも、アドバイスを求められると・・・、ちょっと困るかな?」と応えておいたのです。彼はやって来るなり、家族のことを語り始めました。親ごさんとの関係、子どもさんとの関係、そして事業を起こして頑張ってきたこと、その過程で大病を患ったこと、病気を通して知り合った人たちのこと、そして最後に夫婦関係のことを語ってくれました。それは一気にあふれ出すような語り口で、瞬く間に3時間近くが過ぎました。まるで彼の卒業後の人生物語のすべてのようでした。彼は学生時代から、体育会系で頑張り屋さんでした。そんな性格と姿勢は少しも変わっていなくて、話を聴いていて相変わらずパワフルだなと感じて、そのことを彼に伝えると、「そうですよ。ポジティブ・シンキング(肯定的発想)とプラス思考が私のすべてだと思って頑張ってきたんですから」と言うのです。そして続けてこうも言うのでした。「でも最近、このポジティブ・シンキングとプラス思考、ちょっと違うんじゃないかと感じてるんです」 私が「それって、どういうこと?」と尋ねると、「家の外で出会う人には笑顔をふりまいて、一緒に頑張りましょうねって。でも家族に対しては、眼をつり上げて、私がこんなに頑張ってるのに、どうしてもっと頑張れないのか・・・」と。親ごさんにも、子どもさんにも、連れ合いさんにも、そのように要求する自分がいて、そういう自分が「醜(みにく)くて、嫌(いや)なんです」と言うのです。「私って、醜いのです。どうしたらいいですか?」というのが、私に対する彼の問いかけでした。
人と人との関係こそ
私自身が日頃から感じていることですが、人生で一番つらいことは人間関係の上に起こるということ。逆に、人生で一番うれしいことも、やはり人との関係性の上に起こるということです。例えば、素晴らしい景色に出合ったときの感動。美しいメロディーや自分を励ましてくれる歌を耳にしたときの感動。いかにも元気をもらえそうなおいしいものを口にしたときの感動。これらは、それぞれに素晴らしい体験ではあるのですが、やはり人との関係の中で感じる親密さのこと、いわゆる心底理解し合えたときの感覚、何かを共に感じ合っていることなど、これらは他とは比較にもならないのではないでしょうか。あなたと出会えて本当によかったという、あの感覚です。そこには、人として感じる絶対の喜びと感謝があるように思うのです。訪ねてきた彼は、それこそ人生に苦悶(くもん)しながらも、同時に生活の中で味わった喜びもたくさん語ってくれました。そして、帰り際になってから、いのちについてのことも語ってくれたのです。「私はずっと過去にさかのぼって、ご先祖さまや今まで出会った人や、いろんな人に支えられて今の私があるんですよね。感謝しないといけないなと思うんです」「いのちの連鎖のこと?」と尋ねると、続けてこうも言いました。「私がいろんないのちに支えられているんだということを、子どもたちや、出会ういろんな人にも伝えていきたいんです」実際に、そのような絵本も見つけたのだというのです。彼が帰った後、私なりに思いをめぐらせました。「醜い私」を自覚させたもの、同時に一連(ひとつら)なりのいのちを自覚させているものは何か?それは、真実というものが、今ここに私に向かって、はたらき続けているという事実でした。そうであればこそ、苦悩しながらも生きていける。すべてのいのちを、照らし護(まも)り続けるという真実のはたらきによって、私自身の人生への信頼と安堵(ど)が成り立っているということでした。彼の訪問によって、そのことにあらためて気づかせていただき、私に感謝が生まれました。

■『せいてん』とともに!
なぜお経を読むの?
この夏、お寺に地元の小学校から3年生41人の参拝がありました。最初と最後はきちんと正座をします。先生が「おへそを住職さんの方に向けて」と号令をかけると背筋も伸びて、私も真剣な表情に応えて楽しくお話しました。早速質問、一問一答です。「お経は長いのにどうやって覚えるんですか?」私は「覚えません。このお寺では、毎朝6時半に鐘(かね)をついて、その後おつとめをします。毎日読んでいたら結果的に覚えることになります。間違わないように本を持つのですよ。後で一緒に読んでみましょう」と答え、子ども向けの『せいてん』を配ると、はやくも「正信偈」を読み出す児童がいました。日頃からご家族と朝夕のお参りをしているのでしょう。お念珠(ねんじゅ)についての質問もありました。「お念珠は何のために持つのですか?」と聞いたのはひと昔前の子どもで、今時の子どもは「お念珠の効果は?」と聞いてきます。「お念珠は仏教を信じる者が持つのです。かばんやポケットに入れているお念珠を見るだびに、私は仏教を信じる者だったんだと思い出す効果があります」と答えましたが、どれだけの児童に通じたことか少し疑問が残ります。「何のためにお経を読むのですか?」という質問には、『せいてん』のはじめにある少年連盟総裁(大谷範子お裏方)のお言葉を紹介しました。「私たちが、お経を読むということは、文字だけを読むことでしょうか。私たちは、毎日ごはんを食べています。一回だけ食べれば、それで一生食べなくていいというものではありません。仏さまのみ教えを聞くことも、それと同じではないでしょうか。毎日毎日聞いていかねばなりません。お経を読むときに、文字を通して、仏さまのお心を、まちがいなく受け取らせていただくのです」あっという間の1時間が終わりました。『せいてん』を持って帰りたい人は持って帰っていいというと、半分以上が持ち帰りました。終わりにあたり、香炉に炭火を入れると、たちまち焼香したい児童の列ができ、『せいてん』を見ながら作法をお互いにチェックし始めました。正しく焼香できたという満足感から、帰宅後にはきっとお寺で見てきたことを得意げに話したことでしょう。家族中がご本尊と向き合う日暮らしをしてくれればいいなあと思います。
子どもから大人まで
子どもたちの参拝があってから、この『せいてん』のお言葉をご法事でも紹介することにしました。あらかじめ子ども向けに書かれているお言葉と説明するので、朗読し始めると、大人も慈愛に満ちた笑顔になります。先日、95歳のおばあさんの葬儀がありました。私の地域では葬儀があると、収骨の後、自宅に帰る前にお寺の阿弥陀さまにお礼のお参り(還骨(かんこつ)勤行)をする風習があります。本堂で一緒に「讃仏偈(さんぶつげ)」をおつとめするのですが、5歳の女の子(亡くなった方のひ孫)が、この『せいてん』を手にすると、仮名が読めるのがうれしいのか、少しフライング気味ながら大きな声で読んでいました。完全に大人を引っ張っているのです。初七日に伺った時に「大きな声でおつとめできたね」と褒(ほ)めると、大きな声で「うん」と返事がありました。それ以来、毎週玄関で約束の時間に私を待っていてくれます。大人の声もそろってきた五(いつ)七日からは「正信偈」をおつとめしました。少し遅めのテンポですが、女の子は一生懸命声を出しておつとめについてきます。六(む)七日からは「念仏・和讃」もよく読めるようになり、満中陰(まんちゅういん)には40人を超える親戚(せき)が集まって声高らかに「正信偈六首引(しゅびき)」をおつとめしました。このお宅に受け継がれてきたおみ法(のり)の宝物が、おばあさんからお子さん夫婦へ、そして孫、ひ孫へと、それぞれ目に見える形で受け継がれはじめました。まさにご勝縁です。還骨のおつとめで、この女の子が初めて手にした『せいてん』がご縁となって、家族中が「正信偈」を読めるようお育ていただいたのです。満中陰のキーパーソンもやはり5歳の女の子でした。

■いま仏さまといっしょ
きれいに撮ってや!
阿弥陀さまはとっても素晴らしい仏さま。私のいのちを常に思い、いのちの行く末を案じてくださる仏さまです。私の苦しみ・悩みを他人事とせず、私の悲しみを我が事とし、このいのちの痛みを解決しようとはたらき続ける仏さま。そんな阿弥陀さまが私は大好きです。ところで、「いらっしゃ〜い!」で有名な落語家、と言えば桂三枝さんです。その三枝さんの実際にあった話なのですが、ある観光ツアーの方々と一緒に記念写真を撮ることになったそうです。誰もが三枝さんの近くで写真を撮ってもらいたいと、奪い合うように周りを囲んで並んだのですが、全員並ぶものですから三枝さんが、「誰がお写しになるんですか?」と尋ねると、「アッ!そやー」。それまで誰も気付かなかったのです。ちょうど通りかかったお兄さんに、「ちょっと兄ちゃん、撮ってんか!」と、5個も6個もカメラを渡して撮ってくれとせがむのです。おばちゃんのパワーに翻弄(ほんろう)されて、「それでは撮りますよ」と声を掛けると、「きれいに撮ってや!」と大きな声。必ずこういう方がおられますが、「それは無理やわ!」とツッコミ。するとAさんが「ちょっと待って」と後ろを向いて、「Fさん。三枝さんの横に座らせてもらいーな」と言うのです。振り向くと、その中で一番年長の80歳ぐらいの方がおられたのです。「三枝さんの横で撮ってもらい!記念やから」ちょうど横には30歳前ぐらいの、その中で一番若い女性が座っていたのです。「あんた後ろに行きぃ!Fさん。三枝さんの横にきい!」Aさんが勝手に席替えをするんです。するとFさんは気をつかって「私みたいな年寄り、三枝さん嫌がりはるがなぁ」と謙遜(けんそん)されました。その時、「なに言うてんねんな! 今より若い時はもうないねんで!」すかさずAさんが言ったのです。「今より若い時はもうないねんで・・・・・・そや、今が一番若い。この言葉に感動した」と、三枝さんが語っておられました。私たちは歳を多く重ねると、何だかいのちが減ったような、残りわずかの衰えたいのちになったような感覚が強くなり、気力も衰えがちです。でも、「今が一番若い。今より若い時はもうない」と言われると「今しかない。今やれることをやろう!」と、今しかない自分のいのちに気付かされるような気がします。
逃げる私を追いかけて
この話を聞かせていただいて、私はふと阿弥陀さまのことを思ったのです。阿弥陀さまはいつでも・どこでも・どなたにもはたらき続けている仏さま。つまり、今・ここで・この私にはたらいていてくださる仏さまです。『仏説観無量寿経』というお経に、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」というお言葉があります。親鸞聖人はこのお言葉の意味を「ものの逃ぐるを追はへとるなり」「ひとたびとりて永く捨てぬなり」とお示しくださいました。阿弥陀さまから、せっかく救いのおはたらきが与えられていても、そのお心に背き、逃げ出す私がいるのです。そのいのちを放ってはおけない、必ず救うぞと追いかけて、捕まえ放さない仏さま、ということです。私は「逃げる者を捕まえるのは一筋縄ではいかない大変なご苦労をなさっておられるが、ひとたび捕まえてしまえば、後はさほどの苦労はなかろう」と、どこか心の中で思っていたのです。でもふと思い直してみれば、捕まえた後でも今、今、今・・・・・・と煩悩まみれの私を、阿弥陀さまは一瞬一瞬に持てる力をすべて、惜しげもなく与え続けて、はたらいてくださるのです。まるで、病の子どもを抱えた親のように、ぬぐい払う額の手ぬぐいや、何度も蹴る布団も、気を緩めることなく夜通し看病するように、このいのちにはたらき続けてくださるのです。今、今、今のこの一瞬を阿弥陀さまと共に歩ませていただけるこの身をあらためて思いますと、我がいのちでありながらも尊いこと、頼もしいことであるなぁと、阿弥陀さまのおはたらきを味わわせていただきます。まるで、病の子どもを抱えた親のように、ぬぐい払う額の手ぬぐいや、何度も蹴る布団も、気を緩めることなく夜通し看病するように、このいのちにはたらき続けてくださるのです。今、今、今のこの一瞬を阿弥陀さまと共に歩ませていただけるこの身をあらためて思いますと、我がいのちでありながらも尊いこと、頼もしいことであるなぁと、阿弥陀さまのおはたらきを味わわせていただきます。 
 

 

■いのち≠ヘ平等やもんな〜
恥ずかしくて言えない
私の父は、1990(平成2)年6月、56歳で往生いたしました。早いもので20年の月日が経ち、現在、四女の私が住職にならせていただいています。私が小学1年生だったある日、父と二人でお風呂に入ることになりました。「おい、一緒にお風呂入らんか」「え〜っ、お父さん一人で入れば〜」「そい事言わんと入らんかよ」「ん?〜〜〜うん!」私は、なんだか緊張しながらお風呂に入りました。その頃の父は毎日のように住職として法務や、布教使としてご法座、講演会に出かけたりして、ほとんど家にはいなかったからです。しかしその姿が、私にとって自慢の父であり、住職でありました。戸惑いながらも一緒に、お風呂に入っていると、父が私に、「弦(ゆずる)は、家族の中で一番好きな人は誰け?」と聞きました。私はしばらくして、「おばあちゃん!」と答えました。すると、「ほ〜ん、おばあちゃんか。次は?」「お母さん!」「ほぉ〜ん、次は?」「上のお姉ちゃん!」「ふぅ〜ん、次は?」「下のお姉ちゃん!」「おっ、そん中にお父さん入っとらんがか?」「なぁ〜ん、ちゃんとお父さんも入っとるちゃ」「で、お父さんは一番最後なんか?」「違うちゃ!一番最後やってわけじゃない!」私は「一番好きながはお父さん!」と言いたいのに・・・なにか恥ずかしくて言えませんでした。私は「家族で一番誰が好きかって聞かれたって、順番なんかつけられん。み〜んな大好き」と答えました。すると父は、「そうかそうか、順番はつけられないか。そっかそっか"いのち"は平等やもんな〜」と言いました。私は「"いのち"?"平等"?何が?どういう意味?」と、たずねていたことを今でも覚えています。
お慈悲の温もりが
仏教では、生きとし生けるものすべての"いのち"は「平等」であると教えてくださいます。男女や老少の違い、姿形は違っていても生あるものは、すべて、かけがえのない尊い"いのち"なのです。阿弥陀さまは、すべての"いのち"を我が子とおっしゃいます。阿弥陀さまを「親さま」といただけば、私たちは、みんな兄弟姉妹(きょうだい)ということになります。しかし、阿弥陀さまは、私一人に向かっては、「一子(いっし)(ひとり子)」とおっしゃいます。それは、どのようなお心から、そうおっしゃるのでしょうか。
親鸞聖人は、平等心(びょうどうしん)をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし ・・・と、お示しくださいました。
阿弥陀さまは「みんな、私の大切な子どもたちですよ。でも私は、あなたたちを比べたり、順番をつけたりしませんよ。あなたの"いのち"は、この世にたった一つしかありません。あなたの"いのち"は、あなたにしか生きられません。だから、あなたは、私のかけがえのない『ひとり子』ですよ」と呼びかけ、「ひとり子のあなたを、私はすでに摂(おさ)め取っていますよ。必ずお浄土に参らせて、素晴らしい仏さまに生まれさせますよ」とお誓いくださっておられるのでした。阿弥陀さまは、私たち一人ひとりの"いのち"を、隔てない"無量の光(ひかり)"と、限りない"無量の寿(いのち)"の中に育んでいてくださるのです。阿弥陀さまは「平等心」というお心の故に、すべてが「我が子」でありながら、私を「ひとり子」として見ていてくださるのです。「ひとり子」だから、順番はつけられないのです。「そっかそっか"いのち"は平等やもんな〜」という父の言葉を懐かしく思い出しながら、「私も父と同じ住職かぁ・・・。私も父も、阿弥陀さまから大切に思われている『ひとり子』なんだなぁ〜!」と、ひとり呟(つぶや)いていたお風呂の中は、お慈悲のような温もりがありました。

■聞いていてよかった
このいのちに感謝
あるお宅のご法事にうかがった時のことです。おつとめの前にお茶をいただいていますと、70代後半のKさんに「暑いですが、お体は大丈夫ですか?」と、お参りに来られた方々が口々に声を掛けておられました。私は「ご病気なのかな」と思っていました。法要が終わり、お斎(とき)の席に座りましたら、先ほどのKさんが私の隣りに座られましたので、「どこか具合がお悪いのですか」とおたずねしました。するとKさんは「先日、膵臓(すいぞう)がんの宣告を受けたんだ」とおっしゃったのです。そして、「だけどなぁ若さん、俺(おれ)が昔お寺の壮年会の役をしていた時、研修会でのお話や、お彼岸や常例法座でお話を聞いていたから、がんの宣告を受けた時はショックだったけど、すぐに、『あぁ阿弥陀さんにおまかせだな』と思えたんだ。今になって思うと、阿弥陀さんのお話を聞かせていただいていて本当に良かったなぁと思うよ。聞いていなかったらこんなに落ち着いてなんかいられなかったかも知れない。あとどれだけ生きられるかわからないけど、いただいた命、感謝の気持ちで最後まで生かさせてもらおうと思っている」
与えることを第一に
私たちのみ教えは「阿弥陀さまの願いを聞かせていただく教え」です。阿弥陀さまは、悩み苦しみ悲しんでいる私を何とかしたいと、いつもはたらきかけてくださっています。そんな阿弥陀さまが私たちの苦悩を解決するために、断食をしなさいとか、滝に打たれなさいなどとはおっしゃいません。
親鸞聖人は『正像末和讃』に、如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就(じょうじゅ)せり ・・・とお示しくださいます。
なぜ阿弥陀さまが苦悩の私を救おうと願いをたててくださったのかと尋ねれば、悩み苦しみ悲しんで不安の中にある私を捨てることはできないと、ただ私に仏の功徳を与えることを第一に考えて、南無阿弥陀仏という六字のお名号で私の苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されたのだとおっしゃいます。阿弥陀さまは私の苦悩を何とかしたいという願いを「南無阿弥陀仏」のお念仏に込めて、私に届けてくださっているのです。いつでも・どこでも・誰でも、称(とな)え易(やす)いように、南無阿弥陀仏というみ名となって、すでに私に寄り添ってくださっているのです。
自分勝手な私たち
でも、南無阿弥陀仏とお念仏を称えたからといって、病気が治るとか、事故に遭わないということではありません。私たちは勝手なもので、できれば自分に都合の良いことばかり起きてほしい、都合の悪いことはなるべく来ないでほしいと思っています。しかし、実際の生活では、自分に都合の良いことばかりではありません。むしろその逆です。お念仏を称えさせていただく私に阿弥陀さまは、「あなたの喜びは私の喜びであり、あなたの苦しみは私の苦しみ。私も背負うぞ、あなたの悲しみを、私も共に悲しもう」といつも寄り添ってくださっているのです。都合の良い出来事にはありがとうの感謝ですが、都合の悪い出来事にも感謝です。なぜならその都合の悪い出来事は阿弥陀さまと共にその出来事を乗り越えさせていただく機会であり、阿弥陀さまのお慈悲をより一層深く受け止めさせていただき、私をお育ていただくご縁にほかならないからです。いつ命尽きるかわからない不安の中でKさんは、仏法を聴聞されたお蔭(かげ)で、この世の命尽きてもそれが終わりではなく、無量光明土に往生し無量の寿(いのち)をいただくということ、そしていつも阿弥陀さまが寄り添ってくださっていることを感じておられるのでしょう。膵臓がんの宣告を受けられたKさんの落ち着いた所作・言葉と、日々感謝の気持ちで生きておられる姿を目の当たりにしたとき、「あぁ、Kさんはまさに阿弥陀さまと共におられるのだなぁ、阿弥陀さまの願いがここに届いておられるのだなぁ」と思わせていただいたことでした。

■無縁社会と仏教の縁起
病院で迎える「死」
在宅で亡くなられる数と、病院で亡くなられる数は15年ぐらい前から完全に逆転し、今では80パーセント以上が病院で死を迎えられるそうです。私は43歳ですが、祖母は私が9歳の時に、日に日に老いながら、自宅でゆっくりと「死」を迎えました。家族や親類、お医者さんに見守られながらの最期でした。近所の人もそういう形で亡くなられることが多かったようです。お別れすることの寂しさは深く感じていなかった記憶がありますが、「死」が眼の前にある時の、あの空気、人々の気配、感情、緊迫感は、今でもはっきりと覚えています。「死」というものがどういうものかを知識としてではなく、経験として触れ、「命」を少し学んだ気がしています。家には、3世代が住み、タテの世代間で伝わる「老」「病」「死」の姿を間近に学ぶことができました。集落共同体として、互いに関(かか)わり合いながら地域の人々が生活をしていました。最近、にわかに「無縁社会」と言われ始めました。しかし、いきなりそうなるわけでもなく、実はその流れは、2世代だけで住み始めることが増えだした、20年以上も前から起こっていたのではないかと思います。身元不明や引き取り手のない「無縁死」は年間3万2千人もあり、自殺で亡くなる人は3万人を超え、自殺未遂の数はその5倍とも言われています。理解、想像し難い社会が今現在あります。そもそも縁のある人々、家族や親類、地域の人々などは、互いに迷惑をかけたり、助け合ったりという関係のものであったと思います。共同体意識があるうちはまだ残っていましたが、いつからか、葬式での香典を断ったり、身内のみで結婚式だけを済ませたりと、付き合いを狭めることが増えてきました。冠婚葬祭だけでなく、多面にわたり、「付き合いが面倒だから」「迷惑をかけたくないから」という言葉が聞こえだしました。世代間のタテの関係も、同世代のヨコの関係も薄くなりました。そうせざるを得ないという事情があるかもしれませんが、一方でそうすることの気楽さを選んだのかもしれません。そこに大きな間違いの始まりがあったと思います。
できることから始める
仏教は「縁起」ということを説きます。「すべてのものは深く関わりあっており、単独で存在するものはない」という教えです。それは、ある方の言葉で例えるなら、「一枚の紙に、空を流れる雲を観(み)る」ということです。雲があることによって、雨が降ります。雨が降ることによって樹木は水分を得て育ちます。そして育った樹木から紙の原材料であるパルプをとることができ、紙が出来上がります。紙からは、直接雲は観えませんが、雲がなければこの紙は存在しないのです。直接観えるからとか、観えないからとかではなく、すべてのものはこのように、関わりあって存在している、網の目のように世界はつながっているということ、それが「縁起」です。よく、「知り合いの知り合いが知り合いだった、世の中狭いな」ということを言いますが、人間の関係も、人間の行いも、この世のものすべてが、どこかで縁によって結ばれつながっている、それが「縁起」です。直接観えないもの(雲)を、いかに見えているもの(紙)から観えるようになるか、観える心を育てるかが、仏教を学んでいくことであり、仏の願いに生きることです。それはまさしく、私の「命」は、多くの縁において成り立ち、「生きている」のではなく、「生かされている」と思い当たることです。同時に私の「命」は、他の「命」を「生かしている」存在なのです。そこには、重みもあり、責任もあります。宮沢賢治が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言ったことは、「縁起」と深く関わっており、私たちに教えてくれていると思います。良き事にしろ、悪しき事にしろ、一人一人がつくってきた社会が現在あるわけです。そしてまた多くの未来の縁をつくっています。だからこそ変えうる事もできるはずです。今すぐ自分ができること、それを考え行動にうつすことから始めることが大切だと思います。

■お念仏ひとつ とは?
もう一つの意味は?
私がまだ学校に通っていた頃のことです。あるとき、先生が私たち生徒に問いかけました。「ここに『授業中の飲食禁止』と書いた紙が張ってありますが、これには二つの意味があります。一つはもちろん、授業中に飲食してはならないということですが、もう一つの意味が皆さんにはわかりますか?」いきなりそんなことを言われても、私にはその質問の意味さえよくわかりません。ただ、先生にそう言われたので、いろいろ考えてみました。「教室は勉強をする場所で、食事をする場所ではないということなのかなぁ」とか、「授業中は飲み食いせずにきちんと授業に集中して、しっかり勉強しなさいということなのかなぁ」などが頭に浮かびはしたのですが、手をあげてまで発表する勇気もなく、黙っていました。ほかのクラスメートも同じようで、しばらくの間沈黙が続きました。するとその沈黙の後、先生はこのように言われました。「これは、授業中に飲食をする人が実際にいるということなんです」そう言われてみればその通りです。私たちの周りを見まわしてみても、例えば「ゴミ捨て禁止」の紙が張ってある場所は、おそらく誰かがよくゴミを捨てていくのでしょう。また、「迷惑駐車お断り!」の紙が張ってある場所は、おそらく誰かがよく路上駐車をするのでしょう。そのような例はいくつもあります。
自分の姿知らされる
その教室も、それまで実際に授業中に飲み食いをする生徒がいたので、「授業中の飲食禁止」の紙が張られることになったのでしょう。 浄土真宗は、お念仏ひとつでこの私が救われていく教えです。 しかし、このことは同時に、この私はお念仏によってしか救われないということでもあります。 親鸞聖人は、七高僧の第五祖・中国の善導大師が記された、決定(けつじょう)して深く、自身は現にこれ罪悪生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)し、つねに流転(るてん)して、出離(しゅっり)の縁あることなしと信ず。 ・・・というお言葉を大切にされていらっしゃいます。
「わが身は今このように罪深い凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる」ということです。親鸞聖人が、お念仏でしか救われない自分であるというところに立っていらっしゃったのは間違いありません。み教えに出遇(あ)うということは、私が教えの内容を知るだけでなく、教えを通して私の姿が明らかにされていくということです。ですから、私たちは、「教えを学ぶ」という表現のほかに、「教えに学ぶ」という表現を大切にしているのです。み教えに私自身のほんとうの姿を学ぶのです。そして、そこから知らされてくる私の姿はまさしく、「いづれの行もおよびがたき身」です。お念仏以外に、私の救われていく道はないのです。み教えに私の姿を学び、そのような私を救わんがためのみ教えであると聴聞していくことこそ、本当の意味でみ教えに出遇ったということができるのです。最初に紹介した「授業中の飲食禁止」の張り紙の話は、当時も「なるほどなぁ」とは思ったものの、まだ仏教を深く学んでいない時期だったので、そこまでの受け止めに終わっていました。しかし、こうしてみ教えを学んだ最近になって振り返ってみると、あの「授業中の飲食禁止」の張り紙こそ、ほかの誰のためでもなく、私のために張ってあったのであり、縁さえ整えば授業中の飲食はおろか、何をしでかすかわからない私であったんだなぁと味わっております。

■生死出づべき道
生命に宿る問い
「自分が死んでいかなければならない」これは極めて宗教的な問いです。しかし、この問いを持つ人は少ないのではないでしょうか。また、臨終になろうとも、この問いを真剣に考えることなく死んでいく人もあることでしょう。ところがこの問題は、たとえ若くとも、また健康に自信があろうとも、決して無関係ではなく、この世に生まれた万人が抱える共通の問題なのです。この宗教的な問いをひとたび持つような事態となれば、この私を支えてくれるものは何ひとつないことに気付かされます。ただ一人この世に来て、ただ一人この世を去っていく。まったくの単独者であり、孤独です。「自分が死んでいかなければならない」という宗教的な問いは「生命」そのものの中に宿っているといってよいでしょう。「生命」を営んでいくために必要な教養や知識、蓄えた財産などは、死を目の前にしては何の支えにもなりません。では、ただ一人空(むな)しくこの世を去っていかなければならないのか、と思い悩むしかないのでしょうか。生と死は紙の裏表のようなものですから「生死(しょうじ)の問題」といい、「生死の壁」ともいいます。浄土真宗では「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」ともいいます。生死の壁の前で終わる人生は、ただいたずらに暮らし、いたずらにあかした生活であり、そこに、人間に生まれた意義を見いだすことはできません。あたかも人生は夢のようなもので、夢を見ているときはそれが現実で、その現実にいかり、腹立ち、悲しみ、喜びます。しかし夢から覚めてしまうと、夢の中の現実は、まったく空ごとたわごとというものでしょう。この生死の壁を超えていく道を明らかにされたのが、今年、750回大遠忌のご法要がおつとめされる親鸞聖人です。聖人が説かれた仏法は、まさしく「生死出(しょうじい)づべき道」なのです。
煩悩をかかえたまま
仏法のさとりは涅槃(ねはん)といい、涅槃をインドの古語ではニルバーナといいます。それは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態を意味します。しかし煩悩具足といわれるこの私は、煩悩の世界から一歩も出ることは不可能です。というのは、この煩悩は、自己中心のメガネをかけて人生を受けとっているために生じるのです。このメガネはいかに知識や教養があっても取り除くことは至難です。しかし、阿弥陀如来のご本願にあわせていただくと、「正信偈(しょうしんげ)」に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」(煩悩を断(た)たずに涅槃を得る)とあるように、煩悩の身のままで、涅槃のさとりに至る道が開かれています。阿弥陀如来のご本願は、煩悩から一歩も出ることの不可能なこの私のために特別に誂(あつら)えられた大慈悲の願いだからです。このご本願に「必ずたすける」と誓われたまま、この私の上にはたらいてくださるのが南無阿弥陀仏のお名号です。この南無阿弥陀仏は、私の存在するところに、いつでも、どこでも既に与えられているのです。ですから、この私の生死の問題は私が解決するのではなく、解決してくださっている南無阿弥陀仏の法が先に与えられているのです。それ故(ゆえ)、浄土真宗の教えは、今ここが臨終であっても、このご本願を聞けば、間に合う教えなのです。
俳人・松尾芭蕉の門人として知られる曽良(そら)の句に、
行きゆきてたおれ伏すとも 萩の原 ・・・と詠(よ)まれたものがあります。
南無阿弥陀仏のはたらきは、いま私の上に至り届いています。それは私を仏にするというはたらきであり、私がどこで倒れようともそこが彼岸の世界、お浄土なのです。「萩の原」とは、このお浄土をあらわした名句です。不治の病となり、明日をも知れない状況であっても、阿弥陀如来は一人も漏らさず救うはたらきとなってくださっています。その証拠が、いつでもどこでも誰にでも届けられている南無阿弥陀仏であり、皆さんのお家のお仏壇(ご本尊)です。この私のたすかる道を、自分が求め聞いて理解するのではなく、救い取って捨てないという南無阿弥陀仏の法を聞かせていただくのが、浄土真宗の要なのです。

■阿弥陀さまと歩む人生
いただいたわら草履
数年前のこと、布教に出掛けた先で、ご門徒のAさんにお会いしました。それからというもの、そのお寺に布教に行くたび、Aさんからお土産(みやげ)をいただきました。そのお土産は、藁草履(わらぞうり)二足、そして布で仕上げた草履二足。さらに、携帯電話のストラップとして、糸で仕上げた小さな草履数個をいただいて帰るのです。私はただ「ありがとうございます」と、お礼の言葉だけを言って帰っていました。お寺に帰って、早速、お土産の藁草履を使わせていただきました。あるとき、草履で歩きながら、ふとAさんのことを思い出しました。「この藁草履を作るのに、いったいどれほどの時間がかかるのだろうか。大変な集中力や気力が必要だろうな」と思いました。数年後、そのお寺の法座にまたご縁をいただき、同じく藁草履のお土産をAさんからいただきました。私はAさんに「ありがとうございます」と、まずお礼を申し上げてから、「この藁草履を作られるのにどれほどの時間がかかるのですか。大変な集中力や気力が必要なんでしょう」と尋ねてみました。するとAさんはにっこりと笑いながらお話をしてくださいました。「時間も集中力も気力も、考えたこともないです」そして私に向かってAさんは「先生のー、先生はここにお越しになるのに何を履(は)いてこられましたか」と聞かれました。私は靴(くつ)ですと答えました。Aさんは「靴を買うには、わしが靴に合わせないといけない」と言われました。自分に合った靴を見つけないといけないということでしょう。続けてAさんは「藁草履はのー、わしの足が藁草履に合わせなくても、藁草履がわしの足に合わせてくれる。最初に履いたときは堅いかもしれんが、藁草履は履けば履くほど、わしの足にしっかりと合わせてくれる。まるで『阿弥陀さま』のような気がします」と話してくださいました。
ひとりじゃないよ
藁草履を作ることが、Aさんにとって、生活の中にいて、阿弥陀さまのご苦労に「であう」ご縁だったのかも知れません。藁草履のお話を終えてから、今度は布の草履の説明を受けました。この草履を履いて、庫裏や本堂の中を歩くようにご指導を受けました。なぜかというと、布の草履は雑巾として使ってくださいと言われました。歩きながら掃除ができるから一石二鳥だということです。携帯電話のストラップ、糸でできた小さな草履は、ご縁のある方々に差し上げてくださいとおっしゃいました。Aさんはお念仏のみ教えをいただく中で、私が阿弥陀さまに合わせる教えではなく、阿弥陀さまが私に合わせてくださるみ教えを私に伝えたいがために、苦労して細かい作業をしてくださっていたのだと、味わわさせていただきました。私はAさんの温かさをいっぱい聞かせていただきました。お寺へ帰る時、Aさんが力いっぱい手を振って見送ってくださったことを思い出します。「独(ひと)りじゃないよ」 お念仏のみ教えは、私たち自らが阿弥陀さまに合わせる教えではなく、阿弥陀さまがすべての「いのち」に寄り添ってくださり、「必ず救う」という阿弥陀さまの「願い」を聞かせていただく教えです。私は阿弥陀さまの願いを、どこにいても、いつでも「独りじゃないよ。『南無阿弥陀仏』となって、苦しみ悲しみ多いあなた≠フ人生と共に歩みます」とお聞かせいただいています。しかし、自己中心的な恥(は)ずかしい思いを持つばかりの私。そんな私であっても、逃げも隠れもせずに寄り添ってくださる阿弥陀さま。ただただ申し訳ないと思うだけでなく、その阿弥陀さまの願いに応えたいと思わずにおれなくなりました。孤独な人生から、こころ豊かに生きることのできる社会の実現に向けて手を携えて歩んでくれるお仲間との「であい」。ともにいのちかがやく世界へ

■灯台もとくらし
エコのため車を軽く
あるご門徒さんのお宅で、ご法事をつとめさせていただきました。親族が集まり、厳かな雰囲気の中で法要をつとめ、そのままお食事まで同席させていただきました。無事ご法事が終わったこともあってか、アルコールが入った勢いもあってか、皆次第に楽しげな雰囲気となり、会話も盛り上がってきました。すると、突然ご門徒さんが私に「うちの息子は結婚適齢期なのに、彼女もつくらないで、車にばっかり入れ込んでるんですよ。どうにかなりませんかね。誰かいい人でもいませんか?」と尋ねてこられたのです。差しあたって思いつく方もおられなかったので「う〜ん、おられませんね」とお答えすると、ご門徒さんは肩をガクッと落とされ苦笑されていました。そんな光景に私も笑いながら「では、いい人が見つかったらご連絡いたします」と約束をしながら、話題を息子さんの車に関するものへと向けていきました。30歳という息子さんは、とにかく車好きで、お金もたくさん車にかけられているようでした。車の知識が乏しい私は興味を抱き、隣に座っていた息子さんに話しかけてみました。「車のどのようなところが楽しいのですか?」 すると息子さんは「最近は車の燃費をできるだけよくしようと運転するところに楽しみを感じます」と答えてくれました。さらに「エコの時代に一人ひとりが低燃費で運転することは地球にとっても大事なことだ」と目を輝かせながら主張し始めたのです。その時、私は気付きました。ご子息さんの関心に火をつけてしまったことを・・・。それから話は続きました。燃費がよくなる車の運転の仕方、大切な部品、最後には車の軽量化を維持するため、ガソリンは満タンにはしないとまで言いだしたのです。妥協を許さないその性格から、彼女がいない理由が何となくわかったように思いました。すると、話を聞いていたお母さんから一言、「そんなに車を軽くしたいのなら、まず先に自分の体重を減らせばいいのにね」と。確かに息子さんはふくよかな方でしたので、思わず笑ってしまいました。まさに灯台下(もと)暗し≠ナす。お寺に帰り、父である住職にその日の出来事を報告しました。すると住職は「ありがたいことだね」と笑みを浮かべながら「ナンマンダブナンマンダブ」とお念仏を称え始めました。
後生の一大事を心に
私たちはついつい目先のことに惑わされ、気付けば足下が見えていないことがあるものです。例えば、生きていることが当たり前のように思いながら日々を過ごしていることも同じではないでしょうか。蓮如上人は「白骨の御文章」で「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず」(わたしが先か、人が先か、命の終わりを迎えるのは今日とも知れず、明日とも知れない)と、私の命のあり方を示されています。確かにテレビや新聞を見ていても、老若男女を問わず、亡くなる方の報道は後を絶ちません。思えば私の命も死の縁にあえば、むなしく果てるだけです。生きていることは当たり前のことではありません。足下をみれば、いつ死ぬのかわからない無常の世界を生きているのです。私は死んだらどうなるのでしょう。どうなるのかわからなければ不安でたまりません。だからといって、死ぬことを考えず不安を忘れようとしても、本当の解決にはなりません。だからこそ蓮如上人は「たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて」(どなたも早く浄土往生の一大事に真剣に心を向けて)と、死の不安を解決できる浄土往生に一刻も早く心を向けなさいとお示しくださっておられます。「南無阿弥陀仏」というおはたらきは、私が安心して死んで往ける世界を調えてくださるおはたらきです。そのおはたらきに出遇(あ)えば、私の命は安心の中に包まれます。安心できる人生を歩むことは、人生の有り難さに気付かせてもらうことともなるでしょう。住職の称えたお念仏には、そのような世界がひろがっていたのです。ちなみに住職の「ありがたいことだね」という言葉の前には「足下は阿弥陀さまに照らされているんだから」という一言がありました。

■仏さまのこころとは
おこころをいただく
浄土真宗の門信徒にとって、ご本尊は、言うまでもなく阿弥陀さまです。私たちの先人は、悲しい時、うれしい時、腹の立った時、それこそ毎日毎日、何があってもなくても、阿弥陀さまと向き合い、「ナンマンダブ、ナンマンダブ」とお念仏申しながら暮らしてきました。そして、日々の生活の中に起こってくるさまざまな問題を、その都度、阿弥陀さまに相談し、自分とまわりの世界のあり方を問い、生きてきました。言うなれば、阿弥陀さまのおこころ(願い)をいただき、生きる力としてきたのです。蓮如上人は、「信心獲得(ぎゃくとく)すといふは第十八の願をこころうるなり」と「御文章(ごぶんしょう)」にお示しくださいました。阿弥陀さまのおこころを、わが身にいただいて生きなさいとの実に明確なお示しです。それでは、阿弥陀さまのおこころをいただくとは、どういうことをいうのでしょう。念仏者、教育者として知られた東井義雄先生のご本の中に、『次郎物語』で有名な下村湖人(こじん)先生の「おかあさんのかんじょう書き」というお話が紹介されていましたので、要約してご紹介します。
みんなただ
進君という少年が、学校へ出かける時、前夜書きつけた紙片を二つに折って、お母さんの机の上にそっと置いて学校へ行きました。紙片には次のように書いてありました。
請求書 ・・・ 市場へのお使い代 十円 / マッサージ代 十円 / お庭のそうじ代 十円 / 妹をつれて行き代 十円 / 婦人会の留守番代 十円   進    お母さんへ
進君のお母さんは、これを見てニッコリしました。そして、その日の夕食の時、今朝の請求書と五十円が、ちゃんと机の上にのっていました。進君は大喜びで、お金を貯金箱に入れました。その翌日、進君がごはんを食べようとすると、机の上に一枚の紙があります。開いてみると、それはお母さんからの請求書でした。
お母さんの請求書 ・・・ ハシカの看病代 ただ / 学校の本代、ノート代、えんぴつ代 みんなただ / 毎日のお弁当代 ただ / 冬のオーバー代 ただ / 進さんが生まれてから、今日までのおせわ代 みんなただ   お母さん   進さんへ
このお話の中には、私と阿弥陀さまのつながり、阿弥陀さまのおこころをいただくとはどういうことなのかというヒントがあると思います。進君とお母さんに、私と阿弥陀さまが重なってくるように思えるのです。進君は自分がしたことを請求書としてお母さんに送りましたが、お母さんが自分にしてくれたことは「みんなただ」でした。つまり、進君は親に請求書を出すより先に、お礼と感謝という領収書をお母さんに送るべきだったのでしょう。そのことに進君は気付かされたのです。このように心がひるがえることを「回心(えしん)」といいます。「摂(おさ)め取って捨てない」という阿弥陀さまのおこころをいただくことが、まさに回心なのです。「みんなただ」というお母さんの言葉には、いつも進君を心配しているお母さんのこころ(願い)がありました。そして進君に芽生えた、大好きなお母さんのためには何でもしてあげようと思うこころも、進君がつくったこころではなく、お母さんの言葉からいただいたこころでした。阿弥陀さまの親ごころ(願い)は、私たち一人ひとりに南無阿弥陀仏として今届けられています。阿弥陀さまは、今日も、私と共に歩んでくださっているのです。

■大地のような大悲<
生きる価値がない?
ある育児冊子に「子どもを"ほめる""しかる"という一見相反する行為は、実は"評価する"という同じ性質をもったものである」とありました。子どもの将来を考え、小さい頃から善悪をしっかり教えておかなくては、というのが親心です。誰もがそうして子育てをしているのではないでしょうか。しかし、冊子には子どもにとって本当に必要なのは、評価ではなく、さまざまに生じる気持ちをそのまま受け入れ、寄り添ってくれる存在だとありました。以前、「自己肯定感」について世界の子どもたちにアンケート調査をしたという記事を見ました。自己肯定感とは「自分は生きている価値がある」という感覚です。結果は、日本では30%程度の子どもしか自己肯定感を持っていなかったようです。「自分は生きている価値がある」という感覚を持たない子どもがいるということは、大変な驚きであり、本当に悲しいことです。幼い頃から他人と比較され、大人から"よい子"になることを求められ、また過剰な競争の中にさらされていることで、他人と比べることや、自分が大人の期待に応えることでしか自分の存在意義を確認できなくなっている、と専門家は分析していました。幼い子どもに限らず、学生時代も常に成績や生活態度を評価され、就職してからもきびしく業績を評価されるのが現代社会ではないでしょうか。ベンチャー企業のある社長さんが、「部下を叱(しか)る時、何に気をつけていますか」と聞かれた時、「叱ると同時に、必ず"あなたは会社にとってとても大切な人です"と伝えることです」と答えました。この娑婆(しゃば)世界では「評価」もやむを得ないことで、時には必要なことでしょう。しかし、真に人を救うのは、評価ではなく"受け入れてくれる存在""寄り添ってくれる存在"なのです。「あなたが大切ですよ」というメッセージをしっかりと伝えることが大事なのだと思います。その大事なメッセージが、なかなか伝わりにくくなっているのではないでしょうか。
いつでもどこでも
お年寄りや病気の方などにとっても、現代は自分自身を大切な存在であると思えなくなり、生きづらい世のなかになっているように思います。お参りにうかがうご門徒のおばあさんで、手術をされた方がいらっしゃいます。退院後も、頭が重く手がしびれ、つらい思いをされていて、この先、自分一人で自分の世話ができなくなるくらいだったら死んだ方がいい、とおっしゃいます。もちろん、家族に迷惑をかけたくないという気持ちからの言葉ですが、一人で自立できないと生きる価値がないという意味にも聞こえ、たとえようのない寂しさを感じます。「自立」を辞書で調べると、「他の援助や支配を受けずに自分の力で身を立てること。ひとりだち」とありました。自分の力でしっかり生きていくことは素晴らしいことです。しかし、本当に「他の援助や支配を受けずに・・・」なんて可能でしょうか。私たちは気付いていないだけで、日々たくさんの命をいただき、他人の世話なしでは生きられない存在なのです。「立」という字は、人が両手を広げ、両足を地面につけている状態から作られた象形文字だそうです。人と地面が一体になった字であり、つまり、人が"自ら立つ"ためには地面がないと立てないということを表しているのです。「誰の世話にもなっていない」「誰にも迷惑をかけていない」と思っている時、「私は自立している」と慢心になります。反対に、仕事を失ったり、病気になったりして、まさに、他人の助けなしに生活できなくなると、途端に不安になり、情けなくなり、絶望的になったりするものです。あるお寺に「転んでも転んでも大地の上」という言葉が掲げられていました。"大地"とは阿弥陀如来のことでしょう。人生は悩み苦しむことがたくさんありますが、いつでもどこでも大地が私を支えてくれているように、阿弥陀如来は、私をいつでもどこでもそのまま受け入れ、寄り添ってくださっています。

■だいじょうぶ だいじょうぶ
みなさんは『だいじょうぶだいじょうぶ』(いとうひろし作・絵)という絵本をご存じでしょうか。主人公の僕(ぼく)は、幼い頃からずっとおじいちゃんの愛に包まれて成長してゆくのですが、その過程で、いじめや学業不振、杞憂(きゆう)や社会の矛盾というような壁にぶつかるたびに、おじいちゃんから「だいじょうぶだいじょうぶ」という言葉がけをしてもらいます。おかげで僕は大きくなるのですが、今度はおじいちゃんが入院してしまいます。もしかすると今生(こんじょう)の別れになるやもしれません。二人にとって一番つらい結果が待っているかもしれないその時、僕は「今度は僕の番です」と念じ、おじいちゃんの枕元で「だいじょうぶだいじょうぶ。だいじょうぶだよ、おじいちゃん」と、今までずっとかけてもらっていたあの言葉を、今度はおじいちゃんに返すのです・・・。この絵本のタイトルには「だいじょうぶ」が二回繰り返されています。その意味は、大切なことは繰り返すのが肝要ということもありますが、一回目の「だいじょうぶ」と二回目の「だいじょうぶ」の意味合いが違うからかもしれません。一回目の「だいじょうぶ」は、「きっと、たぶん、だいじょうぶよ!」という、安心は安心でも一(ひと)安心(気休め)のだいじょうぶでしょう。きっとだいじょうぶと思い込んで一歩踏み出さねばならないことが、この世の中には多いですよね。でも"きっと"の裏返しは"万が一はダメ"ですから、二回目の「だいじょうぶ」が必要なのです。この「だいじょうぶ」は「生きてよし、死してよし」のだいじょうぶ、すなわち結果がどうであろうと見捨てられないだいじょうぶ。「ご安心(あんじん)をいただく」とは、こういった心持ちをいただくことではないでしょうか。渡る世間で必要なだいじょうぶと、阿弥陀さまにどんな時でも抱(いだ)かれているご安心のだいじょうぶを、この絵本は簡潔にあたたかく描いていると私は思いました。
不安でたまらない
実は私自身、この「だいじょうぶ」を、5年前に往生した祖父から、最後の敬老の日にかけてもらった経験があるのです。私は敬老の日だけは、どんなに忙しくても祖父に会いに行こうと努力していましたが、今思えば、寝たきりになってもその日には必ずワイシャツにネクタイをして待っていてくれた祖父のおかげだったと、目頭が熱くなります。でも最後の敬老の日の三日前に、私には大変なことがあったのです。初めての入院・手術が決まり、不安でたまらない私でしたが、祖父のお祝いだからと何とか笑顔で出発しました。しかし、会食の最中、大出血という惨事が起きたのです。頭がまっ白になりましたが、これ以上心配をかけるわけにはゆかず、取りつくろって病院に向かおうとしたその瞬間、「ゆうちゃんや、なんかあったんかい?おじいちゃんに言うてみなさい」と祖父が絶叫したのです。私は祖父の胸の中で号泣しました。成人してからは呼ばれていなかった幼名で呼んでくれたおかげで鎧兜(よろいかぶと)(見栄や体裁)を脱ぎ捨ててありのままの私に戻って泣きました。そしてとうとう涙も枯れ果てたころ、ぽんと背中をたたかれて「だいじょうぶ、おじいちゃんがついとる!」と、春の日だまりのような声で伝えてくれたのです。おかげで私は手術を無事受けることができました。おじいちゃんがついとる!と言ってもらったから、不安は全部祖父にあずけてしまったのです。祖父は、手術の結果ばかりが気になって今を安心して生きられない私に、「どうなるかではなく、どうにかなる大丈夫(だいじょうぶ)。おじいちゃんがずっとそばにいるから、一人で立ち向かっているのではないのだから」という確かな安心を届けてくれたのだろうと思っています。
でも、だいじょうぶ
私は今でも、強い心の持ち主ではありません。いつもくよくよ悩みます。でもそのたびに、仏さまとなった祖父の声が届きます。「だいじょうぶ、おじいちゃんがついとる!」「まかせよ、必ず救う!」――南無阿弥陀仏が届きます・・・。 
 

 

■聞く安心
お寺で開く書道展
「本願寺新報」では、いろいろなお寺でさまざまな行事に取り組んでおられる様子を見ることができます。コンサート、キャンプ、落語会・・・、特に本年が親鸞聖人750回大遠忌法要の年ということもあり、各寺院での活動もバラエティーに富んでいる感じがします。私のお寺でも、昨年5月に大遠忌お待ち受け法要を住職継職法要とともにつとめさせていただきました。その時、お参りいただいたご門徒の一人に、美術館の副館長の方がいらっしゃいました。その方から「亡き父がお世話になったこのお寺で、父の書道展を開けないだろうか」とのご提案をいただきました。この提案が昨年10月に実現。「竹澤丹一 信心の世界展」という書道展で、本紙にも掲載していただきました。浄土真宗の信仰に深く関(かか)わったこの書家の生涯を通した40数点の作品を本堂や庫裏に展示する、本格的な書道展となりました。多くの方がお寺に足を運び、書道の作品を通して浄土真宗のみ教えに触れることができたと思っています。書道展自体は、主催者でもある息子さんが、各地の美術館や施設にある作品を借用され、専門業者による移送・展示と、寺院側としては何の心配もいりませんでした。しかし、裏方としての住職や坊守には、この展示の10日間、大きな心配がありました。それは防犯という心配です。通常は美術館のガラスの中にある作品が、本堂の鴨居(かもい)や庫裏の床の間にそのまま掛けられているのです。しかも、多くのメディアで宣伝したため、遠近各地からこの作品を見るために集まって来られました。そのため、作品が展示されていた10日間は、神経が休まることはありませんでした。少しの物音が気になり、心配して見回りをしたり、見知らぬ来場者の様子を陰からうかがっていたこともありました。10日間の展示期間が終わり、息子さんが片付けに来られました。「期間中いかがでしたか。何か変わったことはありませんでしたか?」。そして「保険に入ってはいたのですが・・・」と一言。この言葉を聞いたとたん、体の力が抜けました。「保険のことを早く聞いていれば、10日間もピリピリしなくてすんだのに・・・」と思ったからです。保険は将来に備えて加入しますが、そこから生まれる安心は今現在のことです。現在の安心と未来の損害補償は別々のことではないのです。
今聞かないと未来も
蓮如上人は「御文章」の中に、「一念発起(ぽっき)のかたは正定聚(しょうじょうじゅ)なり。これは穢土(えど)の益(やく)なり。つぎに滅土(めつど)は浄土にて得(う)べき益(やく)にてあるなりとこころうべきなり」と、浄土真宗の利益(りやく)を現在と未来の二つについて述べられています。信心をいただいた時、浄土に往生することが正(まさ)しく定まり、必ずさとりを開いて仏となることが決定している身にさせていただきます(現在)。そして、この世の縁尽きた時、ただちに浄土に生まれ、無上のさとりを開かせていただきます(未来)。しかし、凡夫の私たちは、眼前の雑事にばかり心を奪われ、日々不安にさいなまれて生きています。だからこそ、阿弥陀さまは、そんな私たちを救わずにはおれないと、南無阿弥陀仏の名号を私たちに回し向けてくださいました。親鸞聖人は『浄土和讃』に、「五濁悪時悪世界濁悪邪見(ごじょくあくじあくせかい じょくあくじゃけん)の衆生には弥陀の名号あたへてぞ恒沙(ごうじゃ)の諸仏すすめたる」と詠(うた)われています。南無阿弥陀仏の六字は「必ず救う、まかせよ」という阿弥陀さまのおよび声です。その名号を聞き、大きな安心をいただくことができます。これが「正定聚」という現世の利益です。残念ながら今でも「仏教は死んでからの教えだ」とか、「まだお寺まいりをする年齢ではない」といった声を聞くことがあります。しかし、今聞かずして、それに続く未来もまたありえないのです。このたびの大遠忌のさまざまなご勝縁に、阿弥陀さまの願いが今生きている私たちに向けられていることを、あらためて聞き、大いなる安心をいただきたいと思います。

■言葉というもの
虹の色は7色?
年に何回か、空にきれいな虹を見ることがあります。空にかかった橋のような大きな虹を見た時は、なぜか幸せな気持ちになります。実はこの虹、国によって色の数が違うようです。旧ソビエト連邦では4色〜7色、ドイツでは5色だそうです。日本では小学校で「虹は7色」と教えられたように覚えています。太陽の光を、プリズムという三角柱の透明のガラスの中に通すと、いろいろな色に分かれます。この色は赤、橙(だいだい)、黄、緑、青、藍(あい)、紫の7色に分かれているように見えます。光がガラスの中を通るとき、色によって曲がる角度が異なるためにこのように分かれるそうです。これが虹の正体です。ところが、本当は7色ではなく、よく見ると無限の色に分かれているのです。私たちがその無限の色を、私たちが使っている色を表す言葉の範囲で区切って、7色の言葉として表現しているだけなのです。世の中には、いろいろな言葉があふれています。時代とともに使わなくなっていく言葉があり、新しくできる言葉があります。その中で私は、あまり使いたくない言葉があります。「婚活(こんかつ)」「就活(しゅうかつ)」「無縁社会」です。婚活とは結婚活動の略、就活とは就職活動の略だそうです。
人にラベルをはる
結婚も就職もなんらかの縁により結ばれていくものです。そこに「活動」などという言葉がくっついた時点で、それをしなければ社会からはずれた人間になってしまったような感覚になり、結婚、就職ができないことが、罪悪であるかのように感じてしまわれる方がおられます。就職できていない状態に対して、「ニート」や「フリーター」などという新しい言葉ができてきます。そして、そういった状態にある人に、「ニートの人」などというラベルをはってしまうのです。ラベルをはられた方は、それによって何かその状態が申し訳ないかのごとく、新しい悩みとなってしまうのです。人生の中で、なんらかの理由によって、一人で生きていかなければならない状態になってしまった。そして、もしかしたら誰にも見取られずに亡くなっていくかもしれない。そういう方々が増えていく可能性がある。そこに「無縁社会」というラベルをはってしまっているのではないでしょうか?縁がうすれる社会の傾向を何とか違った方向に変えていかなければならないという思いは必要かもしれません。しかし、この言葉だけで、どれだけの人がつらい感覚、いやな感覚、底知れぬ孤独感を覚えたことでしょう。私たちの世界に「縁」が無いなどということはありえないのです。
「犯罪者」などという言葉も、その人が育ってきた環境、生きてきたプロセスなど、すべて無視して、一人の人間にラベル付けを行ってしまう言葉です。臨床心理学者であった河合隼雄さんが、「大人の友情」というテーマで、ある心理学者の話を引用して次のようなことを話しておられました。「ほんとうの友人とは?」という問いに対して、「夜中の12時に、車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言った時、黙って話に乗ってくれる人だ」と。そこには「犯罪者」というラベル付けは存在しません。私自身も、その縁があれば、同じような状況で罪を犯してしまうかもしれないのです。言葉は、自と他を分離する働きを持っています。本当は一つの世界であったものが、言葉によって、分離した世界を作り上げていると言っても過言ではないかもしれません。コンビニやファストフード店に行くと、それがよくわかります。「人と人」の関係が、店に入った瞬間から「客と店員」になります。客にとって「店員」は、何かちょっと気に入らないことがあると平気で文句を言ってしまう存在になります。反対に店員にとって「客」という言葉は、一人の人間というより、単に物を買ってお金を払ってくれる存在になってしまうのです。
「南無阿弥陀仏」という言葉はどうでしょう。その言葉に「量(はか)りしれない光」「量りしれないいのち」が含まれています。私は、「南無阿弥陀仏」をよくよく味わってみるとき、分離されない、あらゆるものが一つである世界が見えてくるのですそこには、「犯罪者」も「無縁社会」も存在しないのではないでしょうか?

■いのちの帰依処
遠くて近いお浄土
「とってもきれいなお日さまですよ」川土手の道路を運転していると、同乗の方が教えてくれました。「本当ですね」車を止め、しばらく美しい夕陽を眺(なが)めました。ため息をつかんばかりに夕陽に見とれていました。私たちの顔は陽の光に照らされて赤く染まっています。太陽ははるか彼方にあるのですが、その光は私たちを照らし、包んでいました。教えてくれた方があったので、私は美しい夕陽を見ることができました。そして、その光が私を包んでいることに気付かされました。お彼岸には、太陽は真西に沈みます。西は、月や星も沈む方角です。お経(きょう)には、お浄土は西にあると示されます。西の方角をもっていのちの帰依処(きえしょ)、さとりにいたる方向を指し示してくださっているのです。『阿弥陀経』には、「これより西方に十万億の仏土を過ぎて」と、はるか遠くにあると説かれます。「これ」とは私の煩悩の世界です。煩悩を超えたところがお浄土と示されます。煩悩からすると、お浄土ははるか遠くにあるのです。しかし同時に、お浄土のはたらきは、この煩悩の身をも包んでくださっているのです。煩悩の身では、私たちはどの方向に歩んでいいのかわかりません。煩悩に振り回され、迷いの世界にとどまるばかりです。欲や煩悩の方に向いている私たちに、さとりの方角を示して、お浄土への歩みをおすすめくださっているのです。
迷いを重ねるこの私
先日、「お寺に行きたいのだけれど道に迷ってしまって」と、携帯電話からお電話をいただきました。「今どこにおられますか」と尋ねると、「それがどこにいるかわからないのです」という返事。こちらも答えようがなく、「何か目印になるような建物などありませんか」と聞くと「丸い建物があります」と言われました。「それではよくわかりませんね。お店か何かは?」 「少し戻ってみます」などと長いやり取りがありました。しばらくして、「今、消防署の所に出ました」という電話があり、ようやく今どこにおられるかがわかり、道順をお伝えしました。カーナビをたよりにお寺においでになろうとしていたそうなのですが、どうも目的地の設定がうまくいっていなかったようです。道に迷うにはいろいろな原因があります。行きたい所がはっきりしていても、行き方を間違えると迷ってしまいます。「今自分がどこにいるかわからない」と、現在地を見失うと迷いは深まります。さらに深い迷いは、行き先も現在地もわからないときです。どこに行っていいのかわからずに、さまよっているときでしょう。もっと深刻な迷いがあります。それは、自分が迷っていることさえ気付かずに、迷いに迷いを重ねてしまうときです。
道に迷ったら たちどまって 道を知っている人に 尋ねるのが一番 そのうちにと思っていると 日が暮れてしまう  鈴木章(あや)子『癌(がん)告知のあとで』
迷いのままの自分では、迷いから抜け出すことはできません。そんなときは、まず立ち止まることです。今、自分がどこにいて、どこに行こうとしているのか、そしてどういう方法で行くのかを確かめることです。それを教えてくれるのは道を知っている人です。道を知らない人に尋ねると、かえって迷いは深まります。道を知っている人とは、お釈迦さまであり、親鸞聖人であり、すでにお浄土にお生まれになった、有縁の方々でしょう。煩悩に惑わされ、自分が迷っていることさえ気付かずに、迷いに迷いを重ねている私たちに、さとりの方角を示し、お浄土へ生まれゆく人生、お念仏申す人生を教えてくださいます。お彼岸のこの時季、お浄土のはたらきに気付かせていただきながら、今、私の人生はどこを向いているのか考えてみたいものです。

■聞こえたまま
布教にうかがったお寺の坊守さまから、このようなお話を聞かせていただきました。「私の祖父は『お浄土でまっているぞ』という言葉を母にのこして亡くなったそうです。それ以来、母は『父がまっているお浄土に参らせてもらわないと』と、一生懸命、聞法に励みました。しかしいつも、『お浄土の蓮の花のつぼみが開かん』と口癖のように言っては、さびしそうにしていました。そうして私が三十七、八歳の頃でした。母は脳こうそくを患い、闘病生活を送っていたのですが、いつの頃からか、母はあの口癖のような言葉を言わなくなったのです。私は気になって、『お母さん、お浄土の蓮の花のつぼみはどうなったの?』と尋ねました。すると『もうそんなことは、どうでもいい、どうでもいい』と言うのです。病気になって、きっと考えるのも煩わしくなったんだ、と私は思っていました。でも、違っていました。母は阿弥陀さまのお慈悲に出遇っていたんですね。私もやっとそのことに気付かせていただきました。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」ありがたいお話でした。このお話を、もう少し味わってみたいと思います。
まず「お浄土の蓮の花」とは、ご信心のことです。「つぼみが開かない」とは、お母さまがご信心をいただけないと嘆かれていたということでしょう。阿弥陀さまのお救いは「信心一つ」のお救いですから、み教えを真剣に求める人にとって、どんなにつらいことだったでしょうか。ところで、親鸞聖人が明らかにされた他力の信心とは、一般的に考えられている「信じる」ということではありません。阿弥陀さまが「必ず救う、間違いないぞ」と喚んでくださっている、南無阿弥陀仏の喚び声を聞く以外にない信心です。聞いてから信じるのでもありません。信じようとする必要がない、聞こえたまま、それが信心です。例えば、大学の合格発表です。発表を聞くまでは心配でなりませんが、合格と聞いたとたん、その心配はなくなります。信じる必要もありません。ただそこには合格したという事実があるだけです。その事実が「よかった」という喜びとなり、安心になるのです。
蓮如上人は、南無阿弥陀仏を「われらが往生の定まりたる証拠なり」とおっしゃっています。まさに私たちの往生の解決した証拠です。この喚び声に遇わせていただいたなら、そこには「ようこそ、ようこそ」しかありません。これが他力の信心です。ところが、その信心がいただけません。喚び声が聞こえないのです。なぜでしょうか。それは、こちらから手を出すからです。自分の心に「落ちついた。安心した」という確かなものを作ろうとするからです。これが「自力のはからい」「疑い心」です。その疑いは何百年聞法しても私の力では取れません。向こうからしか開かない扉を、こちらから押しても引いてもダメなのです。救い取ってくださるのは阿弥陀さまです。だから今一度、阿弥陀さまのお慈悲を聞いてみてください。いつでも「そのまま救う」の親さまです。疑う私を救わないとはおっしゃっていません。疑う私に、そのまま救うとはたらいてくださる広大なお慈悲に遇って、あんなに取れなかった疑い心が取られてしまいます。
胸にさかせた信の花 弥陀にとられて今ははや 信心らしいものは さらになし 自力というても 苦にゃならぬ 他力というても わかりゃせぬ 親が知っていれば 楽なものよ ・・・と詠んだ浅原才市さんの歌が何ともありがたく響いてきます。
お話してくださった坊守さまも、お母さまがはからってもはからっても、はからいきれなかった阿弥陀さまの広大なお慈悲を、ご自身も喜ばれていたのでしょう。その眼には涙がにじんでいました。

■み光の中でお育てを
今まで経験ない揺れ
カタカタカタ・・・・・・。引き戸の揺れる音で始まった。「えっ! 地震?」と思っている間に、ゆさゆさゆさ・・・・・・。今まで経験したことのない揺れ。窓から見える親鸞聖人の像が今にも倒れそう。本堂に走って行ったその間も、ゆさゆさ・・・・・・。「阿弥陀さまは大丈夫だろうか!?」土香炉(ぢごうろ)が、金香炉(かなごうろ)が、落ちている。阿弥陀さまは、動じずにじっとお立ちであった。ほっとする間もなく、あちこちから、がしゃんがしゃん・・・・・・。あさましいことに、とっさに、どれが高価なものか、頭の中で計算機が動く。テレビに走った。揺れが治まってから、家中を見て回った。「ああ!納骨堂が!」納骨堂の中の各お仏壇が、すべて倒れている。あちこちに、被害を発見。でも、これくらいで済んでよかった。大ざっぱな片付けが終わる頃、テレビで情報収集をしていた母が、「大変だ! 津波が!」と叫んだ。テレビの画面にくぎ付けになってしまった。親類・友人のことが気になる。電話はつながらない。どうすることもできないことにいら立つ。
スカウトたちが尽力
私の住む会津若松市は、東北の被災県ではあるが、目を覆うような大きな被害はなかった。翌12日より、福島原発が相次いで爆発を起こし、煙が上がる。避難区域に指定された町の方々が、次々と会津に避難。体育館が、あっという間にいっぱいになった。そんな中、我が家にも親類の勝縁寺から避難してきた。当初は津波被害の方々を受け入れていたが、自分たちの所が避難区域になったからだ。しかし、その住職は、ご門徒の葬儀で地元に残っている。私たちも気が気ではない。そのうちに、ご門徒方も避難されてきた。また別に、知り合いの伝(つて)を頼って、受け入れの要請があった。もちろん、受け入れた。着の身着のままでの避難。そんな中、「お彼岸なのに、お寺参りも、お墓参りもせず、お仏壇もほったらかしで・・・」と気に病んでいる方々が多いと聞いた。急きょ「彼岸会・震災追悼法要」を計画。ガソリンがないため、歩いてこられる範囲の避難所に連絡。ご法要まで中一日。情報は伝わっただろうか?いや、誰もお見えにならなくても、私たちの気持ちで追悼法要を、と思った。当日、本光寺と勝縁寺の門徒さん・スカウトを含め35人の方々が参拝。終了後、茶話会をする。地震の時の恐怖、この先の不安、少しは吐き出していただけただろうか?こころ和ませていただけただろうか?避難所にいて、お参りはしたい。だけど、ここまで来る気力がない方もいる。スカウトたちは、今後の活動を話し合う。
地震直後から、募金やボランティアをしようと声をあげてくれたスカウトたち。今年の活動は、被災した方々に焦点を当てたプログラム展開にすることで一致。リーダーたちは、すでにそれぞれに避難所でお手伝いを開始。本光寺に避難してきている子どもたちと遊んでくれたスカウトもいる。回数が問題ではない、かけた時間が問題ではない。そう思ってくれるこころが、とにかくうれしい。普段、「お話に耳も傾けずそっぽを向いている」と思っていた自分が恥ずかしい。自分の欲・損得でしか動かない私の姿を突き付けられた。被災して、帰るに帰れないでいる方々、手を合わすことさえできなかったことに心を痛めている方々。私の中で、響いてきた言葉。私の好きな言葉・・・。「み光の中で、お育ていただく」本当だろうか?私は体裁ぶって言っているだけではないだろうか?自問自答もした。それでも、今回ほどこの言葉を心の底からかみしめたことはない。もやもやが、すっきりと晴れた。やっぱり私たちは、阿弥陀さまのみ光の中で生かされ生きているんだ。お育ていただいているんだ。
ありがたいなあ。涙が出る。今現在、福島県は原発問題で、遺体捜索確認ができない状況もある。まだまだ歩み出せないでいる。私たちのできることはなんだろう?精いっぱいつとめさせていただこう。

■希望を胸に
千年に一度の・・・
東日本大震災が発生した3月11日、所用で外出していた私に、坊守から電話がありました。大阪で就職活動の説明会に出席していた大学生の次女から、地震があり結構揺れてこわかったと連絡してきたという内容でした。どこが震源かなぁ、と思いながら寺に帰りテレビを見た瞬間、体が凍りつきました。その後の惨状は、皆さんがご存じの通りです。震災の直後から、「千年に一度」「想定外」という言葉が、防災や原発の専門家、担当者の口から相次ぎました。確かに、人間の想像を超えた災害であったに違いありません。しかし、それまで「地球にやさしい」「環境に配慮した」など、人間の力で自然をコントロールできるかのような宣伝を、同じような人や企業が発言していたのです。この宣伝文句がいかにおこがましいものであったのか、今回の災害は人間の能力が自然に対して、微力ではなく無力であることを証明しました。ですから「千年に一度」「想定外」などの発言は、人間の言い訳以外の何ものでもありません。実はこれと似たようなことが、以前にもありました。
阪神・淡路大震災で
私は神戸市灘区に住んでいますが、16年前、阪神・淡路大震災により大きな被害を受けました。その時は震度7でした。震度7という揺れは、実際には「揺れ」とは感じられません。器の中でかき回されているような感じです。よく訓練などで、地震がきたら先にガスやストーブを消して・・・などといわれますが、まず不可能です。何しろ自分を守るのが精いっぱいで、それ以外の余裕などほとんどありません。この時、よく使われたのが「無常」という言葉でした。今までのすべてが一瞬にして崩れて変わってしまったのですから、あながち間違いではありません。しかし、それまでは各地に災害が発生しても、「無常」などと頻繁に使われたことはなく、あの大震災をきっかけに突然、盛んに使われだしたのです。私は近所の方々と避難生活を送りながら、「そうかな?」と疑問を持っていました。なぜなら、阪神・淡路大震災も今回の東日本大震災も、被災地はそれまでと一変して非日常的な状況になります。その非日常的な状況を指して「無常」と使ったのです。日常と非日常を区別する、つまり被害があった地域と、そうでない地域を区別してとらえていました。しかし、そうでしょうか。毎日の暮らしが、電気・水道・ガスを当たり前のように使えることに慣れてしまい、一つでも止まると右往左往して不便に思います。でも何でも手に入るなどという社会は、むしろ異常でもあるのです。つまり安定した毎日を日常的というのではなく、山あり谷ありの人生をひっくるめて日常的と言えるのです。
「無常」は、決して他人事ではなく、私自身の生き方を問題にしているのです。ともあれ、生きるか死ぬかの状況から、いかに生きるかという現実を前に、悲しみを抱きながら、先の見えない日々を過ごすつらさは、どのようなお見舞いの言葉も空(むな)しく響くだけかもしれません。最後に歌詞を紹介します。阪神・淡路大震災が起きた後、小学校の音楽の先生・臼井真さんが、壊れた街並みを歩きながら作った歌です。今でも、小学生を中心に歌い継がれ、多くの人々に勇気と希望を与えてきました。皆さんに笑顔が戻る日が来ることを、いつまでも待ちたいと思っています。
しあわせ運べるように   作詞・作曲臼井真
地震にも負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に 生きてゆこう 傷ついた神戸を 元の姿に戻そう 支え合う心と 明日への希望を胸に 響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたい わたしたちの歌 しあわせ運べるように

■「なもあみだぶつ」は不思議な言葉
もしも私が・・・
ある日、私が帰ってこなくなったら、探したのに見つからなかったら、お浄土に行ったんだ、と思ってください。あるいは、どこかに転がっていたら、ご迷惑をおかけしますが、自分ではどうにもできないので、葬ってくださるようお願いします。お骨がないときは、お墓に入れてやれなくてかわいそう、と思われるかもしれませんが、お墓に入ろうと思って生きてきたわけではありませんから、どうぞ気になさらないでください。もしくは、私を葬(ほうむ)ってくださることになる方、お世話になります、本当にありがとうございます。どんな最期を迎えるか誰もわかりません。が、問題は死にざまではなく、生きざまだ、とお聞かせいただいています。苦しんだとか楽だったとか、私が死んでも、そんなことは話題にしないでほしいです。できれば、私の良いところを思い出して、お褒(ほ)めいただければ幸いです。もし、ありがたいことに葬式をしてやろうということになり、でもなんにもなしじゃあ、と残念に思われたならば、「南無阿弥陀仏」と書いた紙を張って、手を合わせ、「なもあみだぶつ」と称えてください。紙がなければ、「なもあみだぶつ」の声だけで、もう本当にうれしいです。その声の中に私がいます。驚かないでください。私と言っても、私はもういません。それは仏さまという存在です。「なもあみだぶつ」は不思議な言葉で、その声は、称えた人の声であると同時に、仏さまの声でもあります。私も、死んだら即!仏さまの仲間に入れていただくので、「なもあみだぶつ」の中に私の声がする、と申しあげました。そんなことはない、これは自分の声で、誰の声でもない、と思われますか?自分ひとりで生まれてきたわけでもなければ、自分ひとりで育ってきたわけでもありません。声だってそうです。ざっくりと申せば、おかげさま、で生きているのです。この私も、おかげさまのかたまりなのです。
おまかせします
さて、不思議な言葉「なもあみだぶつ」の意味はというと、こちらからいえば、「おまかせします、阿弥陀さま」ですが、それは阿弥陀さまからの「なもあみだぶつ」に応えた言葉です。阿弥陀さまからはこうおっしゃっています。「まかせなはれ」。すみません、関西人の私にはそう響きます。「まかしんしゃい」とか「まかしなされ」かもしれません。ともかく、私はそう言ってもらったので、「ありがとう、阿弥陀さま」と、私の全部をおまかせしているわけです。いつでもどこでも、阿弥陀さまは私を見まもっていてくださいます。そして、いのちが終わるその時には、阿弥陀さまの国、さとりの世界に私を生まれさせ、仏さまにしてくださるのです。仏さまになったならば、今度は生きている人々を、見まもっていきます。だから、行ったといっても、実はすぐに帰ってきているのです。帰ってきたら、阿弥陀さまと同じようにはたらきます。阿弥陀さまのはたらきとはどんなものかというと、生きている人をともかく尊敬してくださるのです。悲しんでいる人がいたら、とことん尊敬してくださり、涙する人がいたら、とことん尊敬してくださる。下を向いていても、尊敬してくださっている。前を向けなくても、上を向けなくても、とことん尊敬してくださっているから、安心してうつむいていていいのです。もし、身近に、小さい人がいて、父親や母親がいなくなってしまった人がいたら、不思議な言葉「なもあみだぶつ」を称えてごらん、聞いてごらん、と声をかけてください。それは、ののさまの声だよ、そして、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの声でもあるんだよ、と。言葉の意味を問われたら、「ありがとう」ということだよ、とお話しください。人の言葉は、時にわずらわしいことがあります。意味はわからなくても、慈しみの声を響かせて、そこに光あることを聞いていってもらいたい、と願います。

■無縁の慈悲
うなずけない言葉
いきなりお国自慢で恐縮ですが、私の住む富山は「いい所」です。立山連峰は四季を通じて雄大な姿を見せ、世界遺産の五箇山合掌集落、おわら風の盆、さらに富山湾から恵まれる、ブリやホタルイカなどの海の幸、もちろんコシヒカリもおいしい。本当に富山は「いい所」なのです。けれども、今まで何度か「そうだよね」と、素直にうなずけないことがありました。例えば阪神大震災のとき、あるいは近年の大型台風上陸の折、「ごんげはん(住職さん)富山ちゃ地震もないし、台風も来んし、本当にいい所やちゃ」という言葉を聞いたときでした。そして今回の東日本大震災でも、私が山形出身であることをご存知の方々が、私の実家のことや両親のことを心配してくださって、「ごんげはん、山形のお父さんとお母さんはご無事でしたか?お家の方は大丈夫ですか?」と、たくさん温かい言葉をかけていただきました。その上、被災した東北の人々のことを気づかって「何といとしや(かわいそうな)」と心を痛めておられました。ところがその後に、「ごんげはん、やっぱり富山ちゃいい所やちゃ」とおっしゃるのです。同じ言葉でありながら、冒頭の「いい所」とはちょっと違います。やはり素直にうなずけません。実際、仙台で暮らす息子さんが被災したご門徒がおられますが、命に別状はなかったものの、ご両親にしてみれば息子さんやそのお連れ合い、かわいいお孫さんのことを思って夜も寝られなかったに違いありません。その場で「富山ちゃいい所」と言えるでしょうか。震災の後、東京に住む私の娘から、スーパーに食べ物が無くなったから何か送ってくれという電話がありました。日本で一番物があふれる所でそんな馬鹿なと信じられませんでしたが、本当でした。テレビでは、食品の無くなったスーパーの棚を映していました。別の画面では卵のパックやお米の袋をいくつも買い求めている人がいます。あれまあと思いつつ私は娘に言われるがまま、ダンボールにカップ麺やレトルト食品を詰め込みました。娘は計画停電に備えて懐中電灯も送れというので、ホームセンターに行くと、どこも売り切れでした。富山も一緒だったというわけです。そんな私自身、実家の両親や弟家族が無事だとわかったときは、ほっとした瞬間、岩手、宮城や福島のことを忘れていました。
そばにいるだけで・・・
大震災以降、「幸せとは何だろう」という問いが私の頭から離れません。もちろん一人一人の幸せの価値観は異なります。ただ、人はどんなにささやかなことでも、一緒に喜んでくれる仲間がいるときに幸せだと感じるのではないでしょうか。阪神大震災で被災したある医師は「誰かがそばにいてくれるだけでいい」と語っておられます。以前、子ども会でこんな話をしました。「ここに一個のおまんじゅうがあります。Aさんは一人でこっそり食べました。Bさんはみんなで分け合って食べました。さてどっちがおいしいでしょうか?確かに一人あたりのおまんじゅうは少なくなったかもしれませんが、こそこそ隠れて食べるより、みんなと一緒に『おいしかったね』と言い合える方が、きっとおいしいよね」 どこまでも自己中心的で、自分の欲望を満たすためには、平気で人をだましたり傷つけたり(そういえば被災したお宅に泥棒に入ったり、学生が集めた義援金を脅し取った人がいました)しかねない私たちですが、そのような私たちだからこそ放(ほ)ってはおけない、と立ち上がってくださった阿弥陀さまでした。「無縁の慈悲」という言葉があります。辞書によれば、「仏の慈悲は平等で、差別がなく、なんら関係のないものにもそそがれる」とあります。つまり縁もゆかりもないものもたすけずにはおかないという無条件の救いです。今はやりの「無縁社会」とは対極の言葉です。それに引きかえ私たちは、どうしても自分と、自分に関係のあるものから優先的に考えてしまいますが、お念仏の教えを聞かせていただく中から、共に生かされ共に歩む人生を送りたいと思います。

■猫も小判!
学ぶとどうなる?
東西本願寺など浄土真宗の十派でつくる真宗教団連合が、京都市美術館で開催している「親鸞展」を見学しました。聖人が実際に書かれたものや生前のお姿など、本物の持つ迫力が伝わってきて、とても感動しました。イヤホンから流れる三國連太郎さんの音声ガイドも、素晴らしいものでした。「○○展」などの展示を見学するたびに思い起こす一つの光景があります。もうずいぶん前のことなのですが、博物館での兄弟の会話です。保育園か幼稚園に通っている子が、展示ケースの中を見てこんなことを言いました。「なんでここに"石ころ"が入れてあるの?」 それを聞いた小学校高学年ぐらいの兄とおぼしき男の子が、「これは"石器"といって、昔の人が使った石の道具だよ」と説明していました。幼い弟には単なる石ころにしか見えなかったものが、兄には石器という大昔の人々が生活の中で使用していた道具だと見ることができたのです。学ぶことによって、見方が変わったのです。価値を発見できたのです。ただ、学ぶことは偉くなること、立派になることだと思ってはいけないと思います。学ぶことによって、「こんなことも知らなかった。あんなことも・・・」と自分の愚かさを知らされる、と味わいたいものです。学べば学ぶほど、自分の知らないことが逆に増えてきます。至らない自分に気付かされることでもあるのです。学んだことにより知識が増え、知恵がつき、賢くなったとしても、その結果が人を馬鹿にするだけでは困ります。私は、賢くなることばかりを求める教育には問題があると危惧(きぐ)しています。
親鸞聖人は、ご自分のことを「愚禿(ぐとく)」と名のっておられます。しかし、国宝「観無量寿経註(ちゅう)」を見るだけでも、ものすごい研鑽(さん)を積まれたことが知らされます。「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とは、まさしく親鸞聖人の姿です。その聖人が一筋に歩まれたのが、お念仏の一道です。「南無阿弥陀仏」です。このわずか六字に込められた阿弥陀さまのお心、そして親鸞聖人のお心は、聴聞を重ねていく"仏縁"の中で聞き開いていくものです。先人たちが命がけで伝えてくださったお念仏を、石ころにしか思えないようでは、本当に残念なことです。
役に立たなくても・・・
ところで皆さんはペットを飼っていますか。うちのお寺には「たま」という名の猫がいます。お昼寝の大好きな猫です。猫は人の役に立つようなことは、あまりしませんね。その点、犬は立派なものです。盲導犬、耳の不自由な人を助ける聴導犬、車いすを引くこともする介助犬、麻薬の探知犬・・・など、さまざまに活躍しています。人に役立つということだけで比べれば、断然、犬に軍配が上がります。でも、猫は猫でかわいいところがあります。愛らしいところがあるものです。犬のように役立つようになったらかわいがってやる、というわけではないのです。猫は猫なりに素晴らしいところがあると思います。『仏説阿弥陀経』には「青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃくこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃくこう)ありて、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり」と説かれています。青、黄、赤、白のそれぞれの色が、そのまま輝く世界が描かれています。猫は猫のまま、犬は犬のまま輝く世界があるといえるのです。
「猫は犬にはなれません!」 同様に、私はあなたになれないのです。私は私として生まれ、私として生涯を終えていかねばならないのです。そして、この私は年をとり、病気になり、迷惑をかけるだけで、何の役にも立てなくなるかもしれません。でも、私がどういう存在になったとしても、「あなたしかできない尊いことがあるのですよ」と、いつでもどこでも阿弥陀如来さまから大切に思われている"私"であるというのです。本当にありがたいことだと、お念仏申させていただくばかりです。

■私たちの務め!
お仏飯の盛り方から
私の住んでいる兵庫県の播州地方では、田植えが始まりました。今では機械で行っていますが、その昔、手で田植えをしていた頃には、田植えで余った苗を田んぼの片隅に、かためて植えておいたようです。この苗がある程度の大きさになった時に刈り取って、それを束にして、輪灯(りんとう)のような真鍮(しんちゅう)の仏具のお磨(みが)きに、タワシとかスポンジのかわりに使っていたそうです。大きくなった苗は柔らかく、仏具が傷まなくて良かったそうです。そのかわり、今のようにピカピカというわけにはいかなかったようです。この話を聞いた時に、仏さまのご飯・お仏飯(ぶっぱん)の昔の盛り方も教えてもらいました。当時は麦飯だったので、普通にすくっても、ご飯がバラバラして盛れなかったそうです。それで、ご飯が炊けた時、お釜の真ん中に少しだけ真っ白なお米だけの部分があって、その部分をそーっと杓文字(しゃもじ)ですくって、仏さまのご飯にしていたそうです。ですからお仏飯は冷えても、それだけで大変なご馳走だったそうです。このような営みで、それぞれのお家のお仏壇と仏さまを大切に護(まも)ってこられたのです。私の地方では、姫路仏壇とか播州仏壇と呼ばれる独特のお仏壇があります。彫刻が多く施された豪華なものです。その彫刻にもいろいろな図柄があるのですが、その一つに西遊記の図柄があります。なぜ西遊記の図柄がお仏壇に施してあるのか疑問でしたが、これはいかにお経、ひいては仏教の教えが、私のもとに至り届くのに、どれほどの先人たちの苦労があったかということを示したものであるということが、お磨きの仕方や、お仏飯の盛り方を聞いてわかったように思います。
後書きとは違う
お経の内容を学び始めた時、経典は前書きにあたる部分を「序分(じょぶん)」といい、本文にあたる部分を「正宗(しょうしゅう)分」、そして後書きにあたる部分を「流通(るずう)分」ということ教えてもらいました。本当に仏教を習い始めた時でしたので、仏教だからそれぞれの名称が違うのだなぁというくらいの認識でした。序分は序章のようなものだろうし、正宗分も正しい宗(むね)が書いてあるから本文だろうというくらいの理解です。後書きをどうして流通分というのかなぁ・・・という疑問はその時には、残念ながらおこりませんでした。仏教では「りゅうつう(流通)」と書いて「るずう」と読むのかということだけに注意がいっていたように思います。しかし、あらためて考えますと、「後書き」と「流通」では、その思いが全く違うということに気付きます。後書きは、文章が終わり、さらに最後のまとめを行うことが目的です。それに対して流通分は、それでお経が終わったということにはなりません。このお経を語るのは終わったけれども、この経典の中に説かれている教えは広く流布(るふ)し、今後私たちに流れ込み、私たちの思いに通わないといけない。そして、後に伝えていかないといけない。私たちが受け取っているみ教えを後に伝える、ということを担っているように思います。
こういうと何やら難しいのですが、「○○ちゃん、マンマンちゃんにナムナムしようね」と、仏さまの前で手を合わしてその声や姿を後に伝える、仏さまを敬う生活を知らせていくことが大切な時代ではないでしょうか。今の人は幼い頃に労働期がないといいます。労働期というと何か大仰(おおぎょう)な感じがしますが、要はお手伝いをする機会がないということです。「手伝い」とは「時間を自分以外の他者のために使いなさい」ということです。勉強、勉強と自分のためだけにしか時間を使ったことのない人間に対して、他者を敬えとか認めろということは、もともと無理なことかもしれません。自分に対して有意義な存在であるかないか、荒っぽく言うと「損か得か」という点でしか他者を見ることができないとしたら、とても悲しいことです。仏さまとは、無量のいのちの輝きです。このいのちの輝きにお礼している姿を後に伝えていくことこそが、今この時を生きる私たちの務めです。 
 

 

■問いかけ
喜びや悲しみさえも
「なして『あなかしこ、あなかしこ〜』って言うと?」 ひいおばあちゃんの祥月命日。御文章の拝読の後、小学生のA子ちゃんの問い。「真宗の坊さんたちゃあ、おかげさまとか、生かされとるとか言わすばってん、ほんなこて、そがん思とらすとかにゃあ」 外で会った他宗派の酔っぱらったおじさんの問い。「来る道で思うたことばってん、疑う罪によって化土(けど)(辺地(へんじ))にとどまるということば考えてきた。ばってん、ようわからん」 毎月の常例法座の後、お茶を飲みながら、篤信のIさんからの問い。お参りに行く先々での問い、教育現場での子どもたちの問い・・・、これまでどれだけの問いかけに出あい、考えさせられたことでしょう。問いかけばかりではありません。目の前に起こってくるさまざまなトラブルや心配事、煩わしい出来事、喜びや悲しみ・・・それらもすべて、僕自身に対する問いかけなのだと思えた時、それらに応えるべく、考え、書物を読み、どう答えるかを構築していきました。さまざまな問いかけが、この身にしみ込んで、僕を育ててきたように思います。その中の一つのことです。
ちがってていいんだ
今から20年ほど前、小学校で1年生の担任を受け持った時、学級園にチューリップが咲いたので、みんなでチューリップの歌を歌いました。ある女の子が「どの花見てもきれいだねって良かねえ」と、つぶやきました。「うん、良かねえ」と言いながら、僕は『仏説阿弥陀経』の「青色青光(しょうしきしょうこう)、黄色黄光(おうしきおうこう)、赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)、白色白光(びゃくしきびゃっこう)」(青い花は青い光、黄色い花は黄色い光、赤い花は赤い光、白い花は白い光を放ち)を思い浮かべていました。お浄土の蓮の花が、青が黄色をうらやましがったり、赤が白をバカにしたり、白が青を邪魔したり、黄色が赤にへつらったりせず、それぞれの色がそれぞれの光を輝かせて、個性を発揮している。そして、一つひとつが全体を荘厳(しょうごん)している。これは、お浄土の蓮の花のことではない、目の前にいる一人ひとりの子どもたちのことだと思いました。さっそく、教室の後ろの壁に、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と墨書した紙を張りました。子どもたちを十把一絡(じっぱひとから)げにしないという僕自身の戒めの言葉として。その言葉を毎日眺めているうちに、金子みすゞさんの「小鳥とすずとわたし」の詩を子どもたちと群読するようになり、さらに曲をつけて歌うようになりました。みすゞさんには失礼ですが、「ちがってていいんだよ、ちがうからいいんだよ、ちがうあなたがいて、ちがうわたしがいる」というフレーズを入れ込んで・・・。
蓮のつぼみが花開く
そのクラスには、車いすで生活している女の子がいました。バリアフリーではない学校の暮らしの中で、まわりの子どもたちは、その困難さを克服するやさしさを学び、「元気を出せば何でもできる」を合言葉にして、運動会も遠足も車いすで参加できるように考え、工夫し、実行していきました。1年生なりの精いっぱいのアイデアを駆使して。その子たちが小学校を卒業する時、町の体育館のスロープや電話ボックスの扉が車いすでは使えないこと、公共施設の歩道や段差が実際にはバリア(障壁)になっていることなどをクラスのみんなで検証し、地元の新聞に提言したそうです。「クラスのみんながまとまって行動できるようになった」と6年生の担任の先生から聞かされて、僕は「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」のつぼみが大きく花開いたのだと思いました。問いかけのおかげで、子どもたちと一緒に、僕も育てられたのだと思いました。すべて阿弥陀さまのはたらき(無量寿、無量光)の中で。

■阿弥陀さまの涙
カッコウの声
6月も下旬を迎え、日本列島の大半は梅雨の季節の真最中となりました。前線の影響の少ない北海道や、私の住んでいる北東北の岩手県でも、どんよりとした空になっています。本堂の裏手にある杉の木や公孫樹(いちょう)の天辺(てっぺん)では、夜も明け切らぬうちから、カッコウが飛んで来て、大きな声で鳴いています。この情景を、私と同じ渋民(しぶたに)村(現盛岡市玉山区)出身の、薄幸・漂泊の詩人、石川啄木は、「ふるさとの寺の畔(ほとり)のひばの木のいただきに来て啼(な)きし閑古鳥!」(歌集『悲しき玩具』)と詠(よ)んでいます。ここでの「ふるさとの寺」とは、すぐ近くにある啄木の育った宝徳寺(曹洞宗)のことです。今は亡き私の祖母は、「カッコウは木の頂(いただき)から、四方八方を眺めながら『お前の親さまはここにいるぞよ』と呼んでいるのだ」と、よく話してくれたことを思い出しています。しかし、私・私たちは、この「親さまの声」に気付くことなく、一生を終えてしまいがちです。
親のこころ
ここで、啄木の短歌を二首紹介しましょう。「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」(歌集『一握の砂』) 「もうお前の心底をよく見届けたと、夢に母来て泣いてゆきしかな。」(歌集『悲しき玩具』) 上京し、貧困と病苦の床から、思郷の想いで詠んだものですが、母親の恩愛に気付かなかった自分の恥ずかしい姿を嘆いたものです。だれの親であろうとも、親は自分の子どもの「幸福」を願いながら、育てています。いつでも、自分の子どもの安否を心配し、それを子どもに対する愛情と思って生きているのです。外の世界を充分に知らない、よちよち歩きの幼児が、ひろびろとした草原で遊んでいる間でも、一時さえ目を離すことはしません。また、自動車が往来して危険な道路や、深くて流れの速い河川のほとりで、それに気付かないで無心に遊んでいる場合はもちろん、急いで走り寄って、抱きかかえるようにして、その子どもを連れもどすのが親の愛情でしょう。子どもの願望をそのまま認めるのは、真の愛情ではありません。親よりも人生や社会経験の乏しい子どもですから、正しく、道理にかなった時は認め、子どもの判断に過ちや危険がある場合は、親として、また人生の先輩として、生命をかけ、身を挺してまでも子どもを救うために反対もするのです。しかし、このような親の心を子どもは理解できないのが実情ですね。
姥捨山伝説から・・・
貧しい村の青年が「口べらし」のため、年老いた母を背負って、山に登っていきます。背の母は山に捨てられるのを覚悟のうえで、息子の帰り道を心配していたのでした。これは、長野県・姥捨(おばすて)山伝説より取材した、深沢七郎の小説『楢山節考(なりやまぶしこう)』の内容です。この時の、老母の気持ちは、どれほどの悲しみに満ち、また子どもへの愛情で涙したことでしょう。帰り道を迷わずにとの息子への配慮から、さらには、母が折り捨てた薪(たきぎ)の小枝を、後に息子が見つけたときの心情は・・・。感動なしに、読み終えることはできません。みなさまにもぜひ一読をお勧めいたします。
み仏のこころ
ここでの「息子」とは、だれのことでしょうか。「親の心」に気付かない「私の姿」です。
親鸞聖人が晩年に詠まれた『浄土和讃』には、
超日月光(ちょうにちがっこう)この身には 念仏三昧(ねんぶつざんまい)をしへしむ 十方(じっぽう)の如来は衆生を 一子(いっし)のごとく憐念(れんねん)す 子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶(おく)すれば 現前当来(げんぜんとうらい)とほからず 如来を拝見うたがはず 
・・・と、仏(母)が衆生(子)を慈悲の心で「一子のごとく憐念」してくださることを示されています。これが阿弥陀仏の大慈悲心、つまり、「親さまの心」なのです。阿弥陀仏は、人生に迷い苦しむ「私」の姿をごらんになり、深い悲しみと、ふびんに思う親心から、大切な我が子、私を一子と喚びかけ続けているのです。阿弥陀仏は慈悲の涙を流しながら、必死の声が「南無阿弥陀仏」なのです。親心を歓喜で聞信させていただきましょう。

■「だいこん」と言ったね〜
すべて子ども中心
如来さまのおはたらきを「南無阿弥陀仏のおよび声」と聞かせていただきます。
原口針水(しんすい)和上は、
われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよび声 ・・・とお味わいくださいました。
阿弥陀さまは私の親と名乗ってくださり、いつもいつも私と一緒にいてくださるのです。阿弥陀さまが私の親と名乗ってくださることは、どういうことなのでしょう。この関係は私たちの身の回りにも味わえることがあります。赤ちゃんが泣いている声を聞いて、親が急いでわが子のもとに行き、「お母さんよ」と声をかけながら抱きかかえる姿がそれでしょう。子どもがはげしく泣いているのに、何もしない親はいません。子を抱きかかえ、「大丈夫よ、お母さんがいるからね」と、子どもに安心を与えながらあやします。わが子の声を聞き、遠くからでも「お母さんはここにいるよ」と子どもに聞こえるように大きな声で伝えるのです。
私事ですが、かつてわが子の誕生の時、心躍る出あいの喜びを感じつつも、必ず別れていく寂しさとつらさを少し感じたことを思い出します。別れる時が必ずくるというつらさがあるなら出あわなければよいのでしょうか。いいえ、出あいたくて出あえたわが子です。その子を抱きかかえ「お父さんだよ」と何度呼んだことでしょう。妻が子どもを抱き「お母さんよ」と、そして私の両親が「おじいちゃんよ」「おばあちゃんよ」と呼んでいるのは、自分の名前ではなくて子どもにとっての呼び名なのでしょう。その声も、ちょうど子どもに届くほどの大きさで、柔らかく和ませるような優しい声で呼んでいるのです。私の母が孫に「お父さんもここにいるよ。お母さんもここにいるよ」と、自分の親ではないのに父母と言い、私も「お母さんもいるよ」と自分の母親ではないのに母と言います。わかりにくい話ですが、すべて子ども中心ということなんです。私の母が孫に「おばあちゃんよ」と10回言うと、私はそれ以上に「お父さんだよ」と呼びました(「お父さん」と呼んでほしい負けず嫌いの父心でした)。
六字以外にはない
そんなある日、ついに子どもがはっきりとしゃべったのです。それがなんと「だいこん」だったのです。妻と私は大笑いしました。初めてしゃべる言葉は何だろうと期待していたのに、「だいこん」だったのです。すぐにその子を抱きかかえ「だいこんと言ったね〜」と大喜びしました。期待と違う言葉でしたが、いいんです。「お父さん」と10回呼んでも20回呼んでもこの子に届いたのは、近所の方が「たくさんできたのでお供えしてください」と持ってきてくださった「だいこん」という声だったのでしょう。だからといって「だいこん」と言ったわが子を嫌いになったりはしません。この子に届いた声のように、私に届けと、仏さまが南無阿弥陀仏の六字に仕上げ、み声の仏さまと現れていつでもどこでも誰にでも称えられる仏さまなのだと知らせていただきました。
私が称えるみ名、私が聞くみ名は「南無阿弥陀仏」という、「必ず連れて行くから安心して今生(こんじょう)を生き抜いておくれ」という親の願いです。その願いを、ただ疑いなく信じ、親の名をよばせていただくのです。蓮如上人は「御文章」の無上甚深(じんじん)章に「南無阿弥陀仏の名号は、わずか六字ですから、それほどのはたらきがあるとは思えませんが、この六字の名号にはこの上ない深い功徳や利益(りやく)があり、その広大なことははかり知れません。信心を得るということも、この六字にあるのであり、それ以外にあるわけではありません。信心とは、六字の名号のいわれをよく心得ることをいうのです。この六字のいわれを心得たものを他力の信心を得た人というのです。南無阿弥陀仏の六字には、このようなすぐれたいわれがあるのですから、疑いなく深く信じるべきです」(取意)とお知らせくださっています。

■妙好人(みょうこうにん)のこころ
困難に出あっても
私はここ数年、妙好人(みょうこうにん)について学ばせていただきました。妙好人とは、善導大師や親鸞聖人が、真実の信心をいただいた人のことを讃(たた)えられた言葉ですが、江戸時代以降に編集された『妙好人伝』では、多くは一般庶民で真実の教えにめざめ、お念仏の生活を送った人を指します。妙好人にもそれぞれ個性がありますが、共通するのは、み教えを聞いて、今まで気づかなかったわが身の煩悩の姿を知らされ、阿弥陀さまのお慈悲に抱かれていることにめざめ、感謝と仏恩報謝の思いで生きたことです。困難に出あっても、お慈悲に抱かれたわが身を、「おらにゃ苦があって苦がないだけえのう」「お慈悲の力は強いでなあ」と語り、何ごとも「ようこそようこそ」と感謝しつつ生きた因幡(いなば)(鳥取県)の源左(げんざ)さん、阿弥陀さまの光明に照らされた自分を「あさましあさまし」と恥じながら、その私をお救いくださる阿弥陀さまのお慈悲に出あって、「うれしうれし生きるがうれしなむあみだぶつ」といのちの喜びを詠(よ)んだ石見(いわみ)(島根県)の浅原才市(さいち)さん、「おも荷背負ふて山坂すれどご恩思へば苦にならず」とうたった長門六連島(ながとむつれじま)(山口県)のお軽(かる)さんたちの生きざまです。
こうした妙好人は、阿弥陀さまの智慧の光に照らされ、お慈悲に抱かれ、損得・勝敗・賢愚などの相対を超えた安らぎの世界を見いだしています。身はこの世にあって、心は浄土につながっているのです。お慈悲に触れて苦しみ悲しみを乗り越え、いのちの尊さにめざめて人々や動植物、すべての命あるものに温かくやさしく接しました。親鸞聖人が『教行信証』に「大悲の願船(がんせん)に乗(じょう)じて光明の広海(こうかい)に浮びぬれば、至徳(しとく)の風静(かぜしず)かに衆禍(しゅか)の波転(なみてん)ず」(阿弥陀さまの、すべての者を救うという大悲のお誓いを喜び、智慧の光明に照らされると、この上ないお徳によって、もろもろの禍(わざわい)が安らぎへと転換される)といわれる境地に生き、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の願いをわが願いとして生きた人たちでした。
火の中に落とさない
中でも印象深いのは、六連島(むつれじま)のお軽さんのことです。お軽さんは勝気で活発な娘さんでした。結婚しますが、夫の浮気で死ぬほどの苦しみを味わいます。しかし、それが縁となって必死の思いで仏法を聴聞するようになり、やがてまことの信心をいただき、お念仏する身となって心豊かに暮らしたそうです。先ほどのお軽さんの歌は、江戸時代の僧純(そうじゅん)編『妙好人伝』第三編に収められている「お軽三十五歳の信心の歓び歌」十六首の中の一首ですが、この歌から、阿弥陀さまのお慈悲に出あって苦しみを乗り越えたお軽さんの喜びが伝わってきます。お軽さんのお寺である、下関市六連島・西教寺の西村真詮住職が編集された『妙好人おかるさん』に次のような逸話が載っています。ある年のこと、北海道でアジ船が大しけにあい、船が潮に流され、ようやく六連島に漂着したことがありました。命からがら助かった漁師たちは、お軽さんの家で食事などでもてなされた後、囲炉裏(いろり)を囲んで、お軽さんの語る阿弥陀さまのお慈悲の話に耳を傾けました。そのとき、お軽さんは次のような歌を詠んだそうです。
私しゃ自在鉤 阿弥陀さまこざる 落としゃなさらぬ 火の中に
「自在鉤」とは、囲炉裏の上の天井から鍋を吊り下げる道具のことです。その鉤に鍋を懸けて囲炉裏の火で煮炊きするのです。「こざる」とは小猿鉤(こざるかぎ)のことで、自在鉤を上げ下げして鍋と火の距離をとり、火加減を調節する横木です。お軽さんは自分を自在鉤に見立て、阿弥陀さまを小猿鉤に見立てて、阿弥陀さまがいつも私を離さず、煩悩の火の中に落ちないように支えてくださっている安心を詠んだのです。どんな時にも、阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の名号となって私に寄り添い、抱いてくださっていることを漁師たちに伝えたのです。漁師たちの心に、安らぎと生きる力が湧いたことでしょう。この世は、生きている限りつらく悲しいことが起きますが、仏法を聴聞させていただき、お慈悲をよろこび、お念仏申しつつ、共に手を携えて乗り越えたいものです。

■わかり合う
経験した者同士でも
私には中学生になるダウン症の息子がいます。その体験を大学生に話す機会がありました。生まれてまもなく医師からダウン症の疑いと告げられた時の驚きや戸惑い、病気がちで困ったこと、早期療育が大切と聞いてあちこち走り回ったこと、偏食で保育所の給食を食べるのに1年かかったことなど、話題はいくらでもあります。ちょうどテレビでダウン症のドラマやドキュメンタリーが放送されていた時期でもありました。メディアの美談調なパターンに疑問を持っていた私は、「当事者でないとわからないことがあります」と無意識に口に出していたようです。後で学生の感想を読んだら、「私は障がいに関(かか)わる人の気持ちを理解したいと思いますが、当事者でないとわからないと言われてしまうと悲しくなります」というものがありました。私ははっとしました。「経験した人こそわかる」ということが言われます。私も、ダウン症親の会というものに入れてもらって、他の親御(おやご)さんと話をして落ち着いた時期がありました。なるほど遠慮なく話ができる場ほど安心できるものはありません。話をしていて、肩の力が抜けていくのを感じたものです。この意味では、経験した者同士が共鳴し合えるというのは事実です。しかし、必ずしも経験者との交流が、私の苦しみを取り除いてくれるとは限りません。
私が少し冷静になった時、見えてきたのは他との違いの部分でした。一口にダウン症といっても、個々の症例は全然違います。同じくくりに入れるのが難しいぐらいに、症状の出方も発達の度合いも変わるのです。加えて家族の環境や考え方も千差万別です。社会の雰囲気も制度もめまぐるしく変化します。もちろん本人の性格や意志もそれぞれです。こうなると、経験談は参考意見の一つに過ぎず、悩みを解決できるものではないのです。そんな中で出てきたのは、優越感、羨望(せんぼう)、後悔、嫉妬(しっと)といった「煩悩」でした。これでは安心できるどころか、迷いが深くなるばかりです。ダウン症以外の症例でも、同じようなことがあるのではないでしょうか。これはまさに「自我」のなせるわざです。私はこうありたい、私にはこう見えるという自我のフィルターが、次から次へと苦しみを作り出しているのです。頭ではわかっていても、それをやめられないのですね。
ありがたい出あい
先日も、私は近所の中学生の制服姿を見て、複雑な気持ちになりました。息子は支援学校に満足して通っているにもかかわらずです。私というものは、絶望的に自己中心的な生き物だと思わざるを得ません。ややこしいことを言って申し訳ありませんが、私たちが知らなければならないのは、わかり合うことの難しさそのものではないでしょうか。学生たちへの私の発言は、人との間に壁を作る傲慢(ごうまん)な響きを持っていたのでしょう。それに対して「でも私は理解したい」という学生がいたということに、私は恥ずかしく感じ、有り難いと思いました。考えてみたら、私はそのようないくつもの「ありがたい」出あいに支えられてきたという気がします。
私の苦しみは、自我の壁がある限りなくなりません。でも、私が私である以上、私の方からその壁を乗り越えることも困難です。それが可能になるのは、自己中心的な私が、自己中心的でない大きなものに出あった時でしょう。私の自己の抵抗が無意味になることによって、自己の問題が解決されるのです。そこに、私が苦しみから解放される可能性が開け、人と人とがわかりあえる可能性が開けるのだと思います。その出あいというのも、実は向こうから準備されたものであるはずです。私たちに準備されている、この私たちを下支えするものが阿弥陀さまの慈悲です。悲しみの経験を語るというのも、同じではないでしょうか。語ったことが、たとえわずかであっても相手に共感してもらえるという思いがなくては、語りは成立しません。その共感を生む根拠は、阿弥陀さまの慈悲が私たちに届いているということにほかならないでしょう。私たちは、その慈悲の上で救われ、共感していくのです。

■人生を歩む力
わかってもらえる
人生の中で起こるほとんどの努力や苦労は、誰にもわかってもらえないまま耐え忍ばなければならないことがほとんどです。私たちが生きているこの世界のことを「忍土(にんど)」ともいうのはこういうことです。もし、その苦労をわかってもらえる方がいらっしゃるとしたら、その時、一緒に苦労した方でしょうか。しかし、それでもすべての歩みを知ってもらえるわけではありません。私のすべてをわかっておられる方がいらっしゃるとしたら、それは阿弥陀さまです。私の恥ずかしいところも全部知ってくださっていますが、それだけでなく、これまでの歩みをすべて知っていてくださるのです。私たちの歩みのすべてをご覧になられ、誰にもわかってもらえないことまでも知ってくださっているのです。報われない努力、耐え忍ばなければならない苦悩、そんなことを全部ひっくるめて「おまえを救いたいのだ」と、はたらいてくださるのが阿弥陀さまです。それが「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、摂(おさ)め取って捨てたまわず、というお言葉にあらわされているお心です。阿弥陀さまは私たちに寄り添い「一人ではない」とよび続けてくださっています。この寄り添う心こそが阿弥陀さまの「慈悲」のお心です。それは、全部知ってくださっている阿弥陀さまが、私の悲しみをわが悲しみとして寄り添い、またうれしいときには一緒によろこんでくださるお心です。阿弥陀さまと一緒に歩む人生ほど心強いことはありません。
一人じゃない
3年前、住職であった父の突然の退任により、私は25歳で住職になりました。90歳の祖父と、がんで二度の手術を終えて退院したばかりの母とでお寺を守っていくという中で、大きな不安がありました。しかし、悩む暇もなく、住職としての日々が始まり、とにかく一生懸命でした。音楽をやめ、大学院を休学し、お寺に専念する中で、私は心の底で「誰にもわかってもらえない」という気持ちがありました。そんなある日、私はご門徒さんのお宅へお参りし、おつとめの後、いつものようにお話を聞かせていただいておりました。私はご門徒さんとわかりあいたい、ご門徒さんの気持ちに出来るだけ寄り添いたい、という思いでお参りさせていただいており、故郷の話や戦争の話、身近な出来事や家族の話などを聞かせていただいて、一緒によろこんだり、悲しんだりさせていただくのです。たとえ、その方の人生の千万分の一にも満たないことでも聞かせていただこう・・・。しかし、その日ずいぶん時間をかけてお話を聞かせていただいた後、そのご門徒さんが言われた最後の言葉は「誰もわかってくれへん。やっぱり一人です。寂しいです」というものでした。これだけ時間をかけて、聞かせていただいたのに残念だな、と思ったその瞬間、私は「あっ・・・!」と思いました。「この方は、私だった!」 報われない努力、耐え忍ばなければならない苦悩、そんなことを全部ひっくるめて「一人じゃない」「おまえを救いたいのだ」とはたらいてくださる阿弥陀さまがいらっしゃるではないか。「摂取不捨」(摂め取って捨てたまわず)と、聞かせていただいてきたではないか!
つながりあって
人生には、誰にもわかってもらえず、真っ暗闇の中で独りぼっちだと思うことが一度はあることでしょう。そんな時、「南無阿弥陀仏」を称(とな)えると、阿弥陀さまのよび声が聞こえてきます。「一人ではない」 「おまえを救いたいのだ」 「まかせよ」 まるで、厚い雲が割れて光が差し、闇で見えなかった光る一本の道が与えられていることにようやく気付かせていただいたように、一歩踏み出す勇気が湧いてくるのです。「一人じゃない」というお慈悲に気付かされ、人生を歩む力をいただいた者どうしがつながり大切にしあって、この人生を生き抜きたいと思うのです。

■サンキュー ブッダ
アリガトウ・・・だけは
「やっぱり」と思いました。その時、彼女は確かに「アリガトウ」と、たどたどしい日本語で、コンビニのレジにいる男の子に言ったのです。ビジネス街にあるその店では、レジ袋に商品を入れてもらって店員にお礼を言うような人はほかになく、その男の子はちょっとけげんそうな表情をしたように見えました。彼女は、女子高生です。ただし、カナダから来た。海外開教区からの青少年国際研修団の一員として来日し、私のお寺がホームステイ先として受け入れることになり、京都市内を案内している時のことでした。彼女は日系4世で、話せる日本語は非常に限られているのですが、なぜ、「ありがとう」だけは忘れずに言えたと思いますか?それは、お礼の言葉を言わずにおれなかったからです。英語を使う生活をしていて、一日のうちで、一番よく使う言葉は何かというと、間違いなく「サンキュー」または、類似の言葉です。「サンクスアミリオン(百万回ありがとう)」などという言い方までありますし、断る時だって、「ノーサンキュー(結構です。でも、ありがとう)」などと言ったりします。「サンキュー」を言わないというのは、社会的に受け入れられないのです。「それは日本語だって一緒だ」という声が聞こえてきそうですが、問題は「誰が、誰に対して言うか」なのです。
地位や立場ではなく
日本では、店員さんとある程度の関係ができていないと、お客が店員に「ありがとう」とは、あまり言いません。なぜか。それは、店が客に対して「ありがとうございました」というものであって、その逆ではないという理解があるからです。でも北米では、お客が店員に「サンキュー」と言い、店員は「ユアウェルカム(どういたしまして)」と返すのが当たり前なのです。私もかつてカナダに住んでいた時、最初は戸惑いましたが、慣れてくると、その感覚がしみ込んでいきました。お店に行っても、客である私は、店員という「立場」を意識することなく、レジを打って袋に品物を詰めてくれた相手の「行為」に対してお礼を言うのです。(どういう立場の)「誰」が、ではなくて、「何を」してくれたか、が大事なのです。
帰国して、もう20年以上になります。「カナダは、住みやすいですか?」と、今でもよく聞かれます。私は答えます。「見知らぬ人とでも、相手の地位や立場を意識しないで、個人として会話が成立する社会は居心地がいいですよ」 自然が豊かで住みやすいというような答えを期待しておられた方は、不思議そうな顔をします。
翻(ひるがえ)って、日本では地位や立場による、固定観念がまだまだ根強いように感じます。女が男に、子が親に、生徒が先生に、店員が客に、言うべきではないことがたくさんあるように思います。「ありがとうございます」は、相変わらず店員が客に一方的に使う言葉のようです。当たり前、でいいのでしょうか?仏教では、「有り難い」というのは、人として命をいただき、仏の教えを聞くことができたという、難しいことができたことを感謝するのであって、地位や、金銭のやり取りの有る無しによって、感謝する相手を選ばないはずです。「いただく」ということは、もともと自分のものではないのですから。
親鸞聖人が、師の法然聖人の「信心」も、自分の「信心」も、ともに「仏」からいただいたものであるから同じものだとおっしゃって、ほかのお弟子さんから反発されたにもかかわらず、法然聖人も同じ信心だと認められたというお話がありました。この中に、お念仏をいただく者の、真に個人を尊ぶ社会への道が示されているのではないでしょうか。
カナダにいた時に、ある日曜学校の子どもが、「先生、南無阿弥陀仏とは『サンキューブッダ』だね」と言いました。思わず、うなりました。誰に対しても、「ありがとうサンキュー」を言う、そんな社会にしていくのは、私たちの責任だと思いませんか?

■悲しませていませんか
お彼岸のご法話で
「口はわざわいのもと」という言葉がありますが、「あんなこと、言わなければよかったなぁ・・・」と、後悔することがありますよね。さて、仏教ではこのようなことを、どう考えるべきだと教えているでしょうか?私はカナダで開教使として6年ほどご縁をいただいておりました。毎年、特に春と秋のお彼岸になると、多くの開教使の先生方は「六波羅蜜」についてのご法話をよくされます。六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、大乗の菩薩が修めなければならない六種の行業(ぎょうごう)です。この中で、第二に挙げられているのが、「持戒(じかい)」です。浄土真宗のお寺では「戒(かい)」についてのお話はあまり聞かないかもしれませんが、大乗仏教では仏さまの説かれた「戒(いまし)め」(自らに課す自己規律)というものを、ただ自分のさとりのためだけでなく、利他行(りたぎょう)として味わうものであるといわれています。浄土真宗も大乗仏教ですので、その道を歩む者が「他の方の幸せを願う」生き方こそが尊いという、慈悲のはたらきによびさまされ続けるみ教えなのです。さて、持戒の中にはどんなことが掲げられているのでしょうか?それは「十善戒(じゅうぜんかい)」ともいわれています。1殺さない 2盗まない 3配偶者以外と淫らな行為をしない 4嘘をいわない 5悪口をいわない 6二枚舌を使わない 7へつらいの言葉を語らない 8貪(むさぼ)らない 9怒らない I愚かな考えをしない、です。これを破るのが「十悪(じゅうあく)」です。耳が痛いとお思いでしょうが、結局この持戒を含めた六波羅蜜とは、仏さまがお示しになられた「仏になる道」、つまり「菩薩の道」を具体的に示したものなのです。
何とも心痛むこと・・・
しかし、みなさんご安心を。浄土真宗では六波羅蜜は私たちが行うのでありません。どんな修行にもたえられない、煩悩だらけの私たちを救おうと、阿弥陀さまが大変な修行を成し遂げられ、その功徳を「南無阿弥陀仏」の六字のお名号として完成され、私たちに届けてくださっているのです。縁に触れれば十悪を行ってしまうような弱い愚かなこの私を、救いの目当てとされているのです。でもここで安心だけしていていいのでしょうか?阿弥陀さまは生きとし生けるものの悲しみや痛みを、我がものとされているということをお聞かせいただくたびに、人を傷つけ、他の生命を犠牲にしてもなんとも思わないような「私」の姿を深く悲しんでいらっしゃることを知り、十悪は決してすべきことではなく、「他の生命を悲しませることをした・・・」と、心から慚愧(ざんぎ)をすることが大切なのではないでしょうか?
親鸞聖人は、お手紙(ご消息(しょうそく))に次のように記されています。
「煩悩をそなえた身であるから、心にまかせて、してはならないことをし、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思い、どのようにでも心のままにすればよい、と言いあっているようですが、それは何とも心の痛むことです。はじめて阿弥陀仏のご本願を聞いて、自らの悪い行いや悪い心を思い知り、このような私ではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、阿弥陀仏は私たちの心の善し悪しを問うことなく、間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、心からこの身を厭(いと)い、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けることをも悲しんで、深く阿弥陀仏のご本願を信じ、その名号を進んで称(とな)えるようになるのです。以前は心にまかせて悪い心を起こし悪い行いをしていたけれども、今はそのような心を捨てようとお思いになることこそ、この迷いの世界を厭うすがたであろうと思います(現代語訳)」 当時、関東に起こった「悪いことをしても浄土往生のさまたげとなるものは何もないから、悪を行おう」という大きな誤解に対して、京都の親鸞聖人が深く嘆いておられるお手紙です。現代の私も、阿弥陀さまや親鸞聖人を、悲しませていないでしょうか・・・。

■お浄土の妻へ
携帯に残る温もり
今年の夏、あるご門徒宅で初盆のお参りをした時のことです。お仏壇に携帯電話が置いてありました。付いているストラップなどの様子から、それが亡くなった奥さまのものであろうことがわかります。毎日触れておられた携帯電話には、今も奥さまの温もりが残っているような気がしました。私自身も、今年の3月、妻をお浄土へ見送りました。38年の生涯でした。妻は、昨年の9月に娘を産みました。ようやく授かった第一子で、婿養子に入った私も、妻の両親も、とても喜んでいました。夜泣きによる寝不足の疲労も、娘の一つ一つの仕草で吹き飛んでしまうように思っていました。しかし、妻は産後の体調がすぐれず、娘の1カ月健診の1週間後に入院したのです。検査の結果、卵巣がんであることがわかり、妻本人にも伝えられました。すぐに抗がん剤治療が始まり、妻は病室で娘の様子を気にかけながら、私たちに子育ての指示を出し、治療に取り組んでいました。ところが、順調に進んでいると思っていた抗がん剤治療のさなか、11月に脳梗塞(こうそく)をおこし、病状は絶望的に悪化したのです。
妻の言葉
年明けを病院で迎え、友人や親戚(しんせき)がお見舞いに来てくれました。病院の方々の懸命な処置もあって、一時は体調が上向きのように見えました。家に帰ったらあれを食べたい、娘を連れてどこに行こう、そんな話もしていました。しかし、がんの進行を止めることはできず、2月に入って状態は見る見る悪くなっていきました。がんの転移は明らかで、完治は見込めないことから、体調のいい時を見計らって一度家に帰ることを検討するようになりました。治療方針の変更にともない、本人に状態を伝えることになり、2月16日の夕方、私は妻にすべてを話しました。病気はもう治らないこと、残された時間が短いこと、一度家に帰るのを目指すこと。だまって聞いていた妻は、少し間を置いた後、「ごめんなぁ・・・ ごめんなぁ・・・」と二度、私に謝りました。2月末のある日、体を起こして座っていた妻が、下を向いたまま、小さな声で私に言いました。
「それでは・・・ひと足お先に・・・失礼します」 私は、妻の言葉と同じ調子で答えました。「私も・・・すぐに・・・参ります」 すると妻は、こう言いました。「すぐでは・・・困ります」 私は、うなずいて言いました。「かほのことを・・・ひと通り終えたら・・・参ります」 「かほ」とは娘の名前です。間もなく6カ月を迎えようとしていました。結局家に帰ることができないまま、3月6日の夕方、妻は静かに息を引き取りました。
入院中、いろいろな思いが頭をよぎりました。どうしてこんなことになったのだろう。誰か何とかしてくれないか。夢だったらいいのに。見ず知らずの他人なら、死とはこういうものだと客観的に考えられますが、大切な人が死にゆくとなると、なかなかそうはいかないものです。親鸞聖人のお手紙の、次の言葉が浮かびます。
浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし
お浄土があって、本当によかった。でなければ、私は立っていられませんでした。死とは、さとりとは、という理屈ではなく、妻を感じることができる世界があったのです。今年のお盆に、4月から娘が通っている保育園の先生が、妻の初盆のお参りに来てくださいました。一度も会ったことのない、かほちゃんのお母さんへ、と手作りのポストカードを持って。保育園の友達と一緒に写る娘の写真を貼(は)った裏、宛て名の面にはこう書いてあります。「かほちゃんのママへ、みんな仲良しです」 お浄土の妻は私たちを見守ってくれているに違いありませんが、私からは見えません。会いたい、声を聞きたいという思いは募り、携帯電話などを通して妻の温もりを感じていたいのです。ですから、待ってくれているお浄土の妻へ、私は語りかけます。「一生懸命生きていくよ、お浄土に参る、その日まで」と。

■大いなる慈悲
私が仏に成る教え
親鸞聖人は90年の長い苦難の人生を過ごされました。そのご生涯の中で、私は特別大切な出来事が二つあると思います。その一つは、比叡山での修行をすてて山を下りられたこと。もう一つは、妻子とともに家庭生活を送られたことです。比叡山での修行をすてて山を下りられたことについて、聖人ご自身が「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」と主著『教行信証』に記されています。これは自分の修行によって仏さまになるという道をすてて、阿弥陀如来の大慈悲によって救われていく道を選ばれたということです。雑行とは自力、本願によって救われる道は他力といいます。出家して、一人黙々と修行する道では救われず、家庭生活を送り、複雑な人間関係の中で親類縁者、すべての人々とともに救われる道に出あわれたのです。
さて、「仏教」とは、お釈迦さまの教えを実践して私が仏さまになる教えですが、親鸞聖人のみ教えを通して、私は次の三項目に分けて味わっています。
一、 お釈迦さまという仏さまによる教え。
二、 その内容は阿弥陀如来と名のられる仏さまのお慈悲よって救われる教え。
三、 それは、この私が救われ仏になる教え。
阿弥陀さまのお慈悲は「大慈悲」と呼ばれ、すべての苦悩の人々を余すことなくお救いくださるはたらきです。そのお慈悲が、この世界に満ちあふれてはたらいてくださっていることをお釈迦さまがさとり、み教えを説かれたのです。そして親鸞聖人は、一人で修行しても救われない私たち凡夫が家庭生活を送りながら、複雑にもつれた社会の中で、そこに生きるすべての人々がお慈悲のはたらきに出あって救われるという真実のみ教えを明らかにして、私たちに開いてくださったのです。
やさしかった祖母
私は小学生の頃、脚(あし)が痛む病気で長年苦しみました。当時、お医者さんの診断は「小児座骨神経痛」でした。遠足や運動会の日には、午後になると毎回脚が痛くなって、泣きながら家に帰りました。痛みをかかえて帰った夜は、いつも祖母が朝方までずっと、私の脚を撫(な)でてくれました。「目の中に入れても痛くないっていう孫だけれど、痛みは取ってやれない。代わってやれない」と言って、祖母は嘆いていました。「おばあちゃんが死ぬ時は、この痛いのを持っていってやるからね」と言いながら、私の脚から痛みをすくい取る仕草をして、自分の脚にすり込んでいました。そのずっと後のこと、私の脚の痛みは神経痛などではなくて、重度の骨髄炎だったことがわかりましたが...。かわいいかわいい孫だから、朝まで撫でてやれる。でも、痛みは代わってやれない。人間の慈悲、慈愛には限界があるのです。人間の慈悲を「小慈悲」といいます。それに対して、阿弥陀如来のお慈悲は「大慈悲」です。
すべての人々を幸せにしなくてはいられない。すべての人々が幸せになったとき、「ああ、うれしい。これで私も幸せになれた」と言われるのが仏さまなのです。祖母は60年前に亡くなりましたが、いまはお浄土から私の脚の痛みがなくなっているのを眺めて、「ああ、うれしい」とよろこんでくれていることでしょう。目には見えないけれど、多くの慈愛と慈悲によって、私たちは生かされ守られてきました。そんな私たちは「小慈悲」であっても、真実のみ教えに出あえたよろこびから、精いっぱい報恩感謝の営みに努めさせていただき、この世の縁が尽きてお浄土で仏さまになったときには、すぐにこの世に還(かえ)ってきて「大慈悲」を実践することができるのです。
親鸞聖人はそのことをよろこばれました。そしてそのみ教えが永遠に伝えられていくことを願われました。お念仏のみ教えを伝えてまいりましょう。 
 

 

■無縁の慈悲
殻の中に閉じこもる
皆さんは目の前にいる友人、隣にいる家族でさえ、時々わかり合えないなと感じる時がありませんか。「凡夫(ぼんぶ)」のことを、仏教では「異生(いしょう)」とも言うそうです。人間は一人一人が異なる境涯を生きていかざるをえない孤独な存在である、と私は味わっています。だから、自分の都合でしか相手を見ることができず、わかり合えない時があるのではないでしょうか。もしも、相手の喜びや悲しみを自分のことのように共に分かち合うことができたならば、どんなに素晴らしいでしょう。しかし、私自身を顧みてもなかなかそうはいきません。特に気持ちに余裕がなくなると、最も身近な人の苦しみ悲しみさえ、我が苦しみ悲しみとしてなかなか受け止めることができません。むしろ自分の思いを相手に押し付け、わかってくれないと自分の殻に閉じこもってしまいます。学生時代、私は龍谷大学男声合唱団に所属していました。仲間と仏教讃歌を練習する中で、私には一つ目標がありました。それは定期演奏会で独唱者に選ばれることです。皆がハーモニーを奏でる中で独唱をすれば、スポットライトを浴びることができると思ったのです。独唱をするのは当然歌のうまい、限られた者だけです。そのために私はひたすら練習に励みました。しかし選ばれたのは、残念ながら私ではなく、同じバリトンというパートの友人F君でした。私は表面上では「おめでとう」と言いました。しかし本心は悔しくてたまらず、こう思っていました。「前日に風邪をひいて、演奏会を休んだらいいのに...」 当日F君は元気に演奏会に来て、演奏は感動するほどの素晴らしい出来栄えでした。しかし、私はモヤモヤした気持ちで一人落ち込んでいました。
あるがままを救う
演奏会の終了後、打ち上げの時にF君がボソっと私に言ってくれた一言があります。「お前がいてくれたからバリトンのパートがまとまることができたよ。ありがとう」 私は思いもよらないF君の言葉にびっくりしたと同時に、私を見ていてくれたことがうれしく、ホッと肩の力が抜けました。そして、そんなF君にひどいことを思っていた自分を恥じました。思えば、皆の羨望(せんぼう)やプレッシャーに耐え、一人本番に臨まねばならなかったF君の方がよほど苦しかったに違いありません。それなのに私は「どうしてわかってくれないのだ」と自ら殻に閉じこもり、F君のことを見てこなかったように思います。その殻を突き破ってくれたF君の言葉から、私は少しでも相手の思いを知っていく大切さに気付かされました。
『仏説観無量寿経』には、
仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈(じ)をもつてもろもろの衆生を摂(せっ)したまふ ・・・と説かれています。
「無縁の慈」とは、阿弥陀さまがどんな者でも差別なく、大きな慈悲のお心で、「あなたの悲しみは私の悲しみ」「あなたの喜びは私の喜び」と、私のことを我がことと見てくださることです。親鸞聖人は、ひかりといのち量(はか)りなき阿弥陀さまは、常に相手とすれ違い、殻に閉じこもっていく自己中心の私に至り届き、いつでもどこでもご一緒くださっているとお示しくださいました。今、み教えに出遇(あ)って思うことは、私はあの時、独唱に選ばれなかったことが悲しいのではないということです。確かに選ばれなかったのは残念だけれど、自分なりに精いっぱい努力し練習をして叶(かな)わなかった結果は決して恥じることではなく、青春のほろ苦い1ページとなったのです。しかし何より悲しいのは、私はあの時、F君と共に心から喜ぶことができなかったことです。阿弥陀さまのお心は、どこまでも相手とすれ違って生きていかざるを得ないこの私の、あるがままを抱き取ってくださいます。そして「異なる境涯を生きるお互い」だからこそ、逆に相手の思いに寄り添おうとすることの大切さを教えてくださっているのです。私自身、お念仏を喜ばせていただきながら、ご縁ある方々にしっかりと温かく寄り添っていきたいものです。

■いのちの壁
みんなの願い
先日、組(そ)内の連続研修会で「環境やいのち」について学ぶ機会がありました。環境破壊の現実を見るにつけ、地球温暖化や海洋汚染、熱帯雨林や野生生物の種の減少、廃棄物の処理問題や酸性雨による被害など、枚挙にいとまがありません。これらの問題の原因を作っているのが人類であることは、全く疑う余地がありません。その陰で人間以外の数え切れないいのちが失われてきたことを、私たちは決して忘れてはなりません。もし、今からでも人類が目指す方向を180度転換できるなら、これらの問題も徐々に改善していくかもしれません。もう10年ほど前になるでしょうか、テレビで「週刊ストーリーランド」という番組が放送されていました。視聴者から寄せられるストーリーを、アニメ仕立てで構成し直したものでした。フィクションですが、いまだに心に残っている一つのストーリーがあります。それは「みんなの願い」というお話です。
ある時、神さまからのメッセージが、地球上に届けられました。「一週間後に、地球は七色の光に包まれる。その時、それぞれの心の中で願い事をしなさい。その中で最も多い願いを、地球のみんなの願いとしてかなえよう」というものでした。そこで、超大国であるA国の若き大統領を中心に国際会議が招集され、世界中の願いを一つにまとめようとしました。ところが、各国の利害が対立して、混乱が増すばかりとなりました。このままではいけないと、若き大統領は世界のためにある決断をします。それは「みんなが願うことをやめよう」という呼びかけでした。 いよいよ願いをかなえる日がやってきました。地球のみんなの願いとはいったいどんな願いなのか? そして、願いがかなえられることになったまさにその瞬間......。人類はすべて滅亡してしまいました。
一如(いちにょ)のあり方を私に
なぜ、人類は滅亡してしまったのでしょうか。それは、人間以外の多くの生き物が「この地球から人間を消滅させてほしい」という願いを持ったからでした。それが地球上で最も多い「みんなの願い」だったのです。好き放題にいのちをむしり取る人間に対して、他の生き物がそんな願いを持ったとしても、何ら不思議ではありません。もし、犠牲になった多くのいのちが、人間にわかる言葉で訴えたとしたらどうなるでしょう。金子みすゞさんの詩「大漁」に出てくる「何万の鰮(いわし)のとむらい」の声は、私たちにどう聞こえるのか。その悲痛な叫びが轟音(ごうおん)となって、人類をのみ込んでしまうことでしょう。阿弥陀如来のご本願は、「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」に対して建てられた願いです。本来、「衆生」とは生きとし生けるものすべてであって、人間だけを指す言葉ではありません。ところが人間は、勝手に衆生のあいだに壁を作り、人間とそれ以外の生き物とを分け隔ててしまいます。
「いのち」と言われても、人間にしか思いが及びませんし、他人よりも自分のいのちにしか関心がありません。如来さまとは、自他の壁のない一如のあり方を知らせるために、私の元にやって来てくださったお方です。自分は自分、他の世話にはならないなどと、いのちに自他の壁など作ったら、真っ先に自分のいのちが立ちゆかなくなってしまうだけです。他のいのちのおかげで成り立っている私のいのちなのに、自分のいのちしか大事にしない私に、阿弥陀如来は他を思いやることの大切さを教えます。お念仏を申すということは、阿弥陀如来のおこころにかなう人生を歩むという、自らの生き様を表明することです。いのちはみんな同じだ、自分のいのちと同じように他のいのちも思いやるのだという阿弥陀如来のおこころを体して、精いっぱい、お念仏の道を歩んでまいりましょう。

■どこまでも追いかけて
お釈迦さまを避ける
芥川龍之介さんの命日は「河童(かっぱ)忌」として知られています。これは、芥川さんの作品の一つである「河童」や、芥川さんが河童の絵を好んだことにちなむ名称だそうです。芥川さんは、「河童」に河童の出産シーンを描きます。河童の父親が母親のお腹の中の子どもに対して「生まれたいか」と尋ねると、子どもは「生まれたくはない」と返すのです。なるほど、ここに至るまで流転輪廻(るてんりんね)して繰り返す生(しょう)の中には、生まれたくはない「私」もあったかもしれません。芥川さんはまた、「尼提(にだい)」という作品を書いています。尼提は、『阿弥陀経』に「一時仏在舎衛国(いちじぶつざいしぇこく)・祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)」と説かれる、その舎衛国城内で排泄された糞尿(ふんにょう)を城外に捨てに行く仕事をしている人物です。ある時、尼提は、はるか前方より釈尊が歩んで来られるのを目にします。彼は自分が卑(いや)しい身分であることを恥(は)じ、釈尊の目に触れることを避けようと横道に入ります。ところが、避けたはずの道で、やはり前から来られるお姿を見つけるのです。幾度繰り返して道を変えても同じことです。持っていた器を割ってしまい糞尿にまみれる尼提の前に立たれた釈尊は、彼に出家を勧められます。さて、この作品は仏典に材を取っています。その一つ『賢愚経』というお経には、自分は下賎弊悪(げせんへいあく)の極みであるからと、尼提は釈尊の勧めをいったんは断ったと伝えます。対して、仏の法は弘広無辺にして貧富貴賎男女の差はないのだと、釈尊は説かれます。いのちに貧富貴賎男女の差別はありません。しかし、尼提は自分が卑しい身分だからと自らを蔑(さげす)みます。釈尊はその思い込みこそが尼提自身を苦しめてきたのだ、とおっしゃっているのです。
間違いのない救い
釈尊の時代においては、出家すること自体が、河童と違って生まれ来るか否かを選べない、人間の苦悩からの救いであったのかもしれません。ところで、尼提はついに出家するのですが、なぜ彼はそのように思い込んでいたのでしょうか。他者のいのちを自分のために利用しようとする人がいます。生まれによる差別を作ることによって、自分は快適に暮らそうとする人がいます。親鸞聖人の生きられた時代もまた、わずかな人が巧みな仕組みによって多くの人々から自由な思考と行動を奪う、身分制の世の中でした。願ったわけではないのに、貴族や武士たちの道具として生まれたいのちは、道具のまま死んでいくしかありませんでした。しかし、尼提のような立場の人を受け入れた教団はありません。なぜなら、仏教教団そのものがその身分制度の中にあって、その仕組みを支えていたからです。
親鸞聖人は飢饉(ききん)に苦しむ人々のために「浄土三部経の千回読誦」を発願されたことがある、と伝えられています。結局、阿弥陀さまの願いに違(たが)うとして読誦を止められるのですが、このことからも知られるように、聖人は当時の仏教教団の中心であった比叡山から下りることにより、自ら耕しながら自らの食(く)い分(ぶん)までも奪われていく人々、災害や飢饉、争いなどの際に真っ先に切り捨てられる人々の中においでくださいました。生まれや立場によって、生き残るいのちと死んでいくいのちとに選別されていく。そのことを当然のこととして受け入れている姿は、釈尊から逃げようとする尼提の悲しみに重なります。阿弥陀さまのおはたらきの場は、今この時この私です。逃げる尼提をどこまでも追われた釈尊は、尼提の逃げざるを得なかった苦しみと悲しみを見抜かれ、尼提を救うためにその前に立たれました。尼提にとっての釈尊と同じく、今この私の前にお念仏となって阿弥陀さまがおいでくださるからこそ、間違いのない救いにあずかるのです。父は私に、門信徒会運動は「寺の中の差別をなくす」運動、同朋運動は「社会の差別や不条理に向かい合う」運動、と教えてくれました。運動という言葉を、仏弟子たる念仏者の生き方と聞く時、750年の月日をつなぐ教えが知らされます。今日もまた、そこに我が身が積み重なる一日にしたいですね。

■よしよし、大丈夫だよ
どうして言えない
このたび50年に一度の親鸞さまのご法要のご勝縁にお参りすることができました。特に新しく制定されました「宗祖讃仰作法(しゅうそさんごうさほう)」の音楽法要での、あのご和讃とお念仏のリズム、そしてメロディーは、今でも耳に心地よく残っております。そのご和讃の一つ ───
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生をみそなはし 摂取(せっしゅ)して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
摂取不捨(せっしゅふしゃ)、如来さまのお慈悲の光の中に摂(おさ)め取(と)って絶対に捨てることはない、だから「阿弥陀さま」と申し上げるのだよ、とお聞かせいただきながら、昔の出来事を思い出しておりました。今から20数年前、長女が2歳の頃のことです。その娘が遊びの最中、私の母に大けがをさせかねない過ちをしてしまったことがありました。その時、私はまだ幼い娘を「どれだけおばあちゃんが痛かったと思うの!ごめんなさいと言いなさい!」と、大声でしかりつけました。きっと恐ろしい形相だったのでしょう。娘は驚きと恐怖からか、ただ泣きじゃくるばかりで「ごめんなさい」がどうしても言えません。だから私はさらに大きな声になります。「はやく言ってくれたら許してあげられるのに」と私も悲しい気持ちでしたが、「これもしつけ」と思って、しかり続けました。母は娘をしかるそんな私の姿をじっと見つめながら、とても悲しそうな表情をしていました。そのうちにたまらなくなったのでしょうか、母は私をそっと押しのけ、娘を優しく抱きしめました。そして「よしよし、大丈夫だよ、よしよし大丈夫」と笑顔で、しかし、涙を流しながら何度もそう言うのです。すると娘は大泣きしながら母の胸に抱きついていきました。そして震える声で「おばあちゃん、ごめんね、ごめんね」と、その胸にすがり、絞り出すようにやっとそう言えたのです。
仏のハタラキのなか
思えばこの時、幼い娘の胸の中には、逃げ場のない深い悲しみ、どうしようもない思いが渦巻いていたことでしょう。そのことを見抜き、今一番つらいのは、自分に痛い思いをさせたこの孫なんだ、だからこそ愛(いと)おしいと、ただ「よしよし」と抱きしめずにはいられなかったのが私の母でした。そして、しつけと言いながら恐ろしい顔で、泣きじゃくるわが子をしかりつける息子を、母はどのような思いで見ていたのでしょう。どれほど悲しかったでしょう。私には見抜けませんでした。「ごめんなさい」と言わせることが先ではなかったのです。悲しみにしっかりと寄り添い、あたたかく包まれたからこそ、娘は「ごめんなさい」と言わずにおれなかったのですね。そして、その母の大きな慈愛に、実は私も包まれていたのだと知らされました。多くの世界に、さまざまな苦悩や悲しみを抱えたいのちが存在します。その中には、怒りや憎しみに打ち震えているいのちもあるでしょう。そのひとつひとつの姿をしっかりと見抜いて寄り添い、お念仏する身へと育ててくださるのが、阿弥陀さまのハタラキでした。それが「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし」ということであり、そして「摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」と、その光明の中に摂め取って決して捨てない。だからこそ無量寿(むりょうじゅ)・無量光(むりょうこう)の仏さま、阿弥陀さまと名のられるのです、と教えてくださいます。
「宗祖讃仰作法」ではこの後、
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり ・・・のご和讃が続きます。
煩悩によって阿弥陀さまの光明が見えないとは、まさしく怒りによって母の悲しみも娘の苦しみも見えなかった私の姿だったと思います。けれどその私を、阿弥陀さまのお慈悲の光は常に照らし包んでくださっていた。私がお念仏申す身となるずっとずっと前から、阿弥陀さまは「必ず救う。絶対に捨てぬ。どうかお念仏しておくれ」と願い続け、よび続けておられたのです。私は阿弥陀さまの大いなる慈悲の願いの中にいたのでした。母が往生して17年になります。大きな気付きをいただいた、私の大切な思い出です。

■遺された言葉と共に
一言の中に人生が
親鸞聖人750回大遠忌法要で行われた「街頭布教」のお手伝いをさせていただきました。京都駅の前にある京都タワーの下で、観光客などに法要のご案内をしました。お坊さんの姿ですから、修学旅行生には珍しそうに見られますし、外国の方には写真を撮られたりします。信号で立ち止まる方はいても、聞いてくださる方はほとんどありません。最初ははずかしくて言葉に詰まりましたが、次第に慣れてきて、法要のご案内と仏教のお話をしていました。1時間経ったので本願寺へ戻ろうとした時、一人の女性がこちらをじっと見ておられました。「どうぞお参りしてくださいね」と私が声をかけると、「坊主はきらいだ」と言って立ち去られました。1時間いて、たった一言「坊主はきらいだ」との言葉に、私は落ち込みながら本願寺へ戻りました。しかし、時間が経ってから、本当に嫌いであれば私と話をしないのでは、何か伝えたかったのかもしれない、と考えるようになりました。一言の中にはその人の人生があります。その人がこれまでに誰とであい、何にであい、どのようにであってきたのか、と考えさせられました。お坊さんらしい人間ではない私に「坊主は嫌いだ」と、お坊さんとして声をかけてくださったことが有り難く、尊いご縁であったと後から思えるようになりました。
時計を見ながら
今年、祖父の25回忌を迎えました。祖父が亡くなった当時、小学生だった私に祖父は「よいお坊さんになれよ」と言い遺しました。私にとって、その言葉だけが心の片隅に遺されました。そんな祖父のことを、昨年3回忌を迎えた祖母が「いつが別れになるかわからんから話しておくね」と、いつも私に語りかけてくれました。寒い冬の日、祖父が脳出血で倒れた時のこと、半身不随での厳しい闘病生活を送っていたこと、貧しいお寺の状況の中で、ご門徒の方々が支えてくださったことなど...。ご門徒さんのお宅へお参りできない祖父は、唯一、時間励行に朝夕の梵鐘と勤行を日課にしていました。杖をつきながら、お念仏と共に本堂へゆっくり歩んでいく半身不随の祖父を思い出します。祖母は亡くなる直前、私に腕時計と掛け時計をくれました。それは祖父のようなお坊さんになってほしいからでした。部屋に掛けてある祖母から贈られた時計をいつも見ながら、祖父の生涯と「よいお坊さんになれよ」という言葉を思い出します。時間にルーズな私は、よいお坊さんにはなれそうにありませんが、祖父と祖母のお念仏の声と遺された言葉を心の支えとして、法灯を護っていきたいと思います。
私を救うよび声
親鸞聖人の面授の門弟である唯円房が遺された『歎異抄』には、「故聖人の仰(おお)せ」られた「耳の底に留むるところ」のお言葉が伝えられています。特に後序(ごじょ)には「聖人のつねの仰せには...」(親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことです...)とありますように、聖人からいつもお聞かせいただいたお言葉を、唯円房は生涯大切に味わっておられたことがうかがえます。当時、親鸞聖人の遺されたお言葉が、唯円房だけに限らず越後でも、関東でも、晩年の京都においても、多くの人の心の中で依りどころとなっていたのではないでしょうか。さらに第2条には「親鸞におきては...よきひとの仰せをかぶりて(法然聖人のお言葉をいただき)」とありますように、親鸞聖人ご自身も、法然聖人の「仰せ」を生涯大切に味わっておられたことがうかがえます。先人の遺された言葉が、教えをいただく人々の心の中で生き続け、その人の生涯を支えていくことに、み教えが言葉となって伝わっていく尊さを思います。「坊主はきらいだ」と言われた一言にはその人の人生があります。「よいお坊さんになれよ」という祖父の言葉の中には祖父の私への願いがあります。「南無阿弥陀仏」の御名(みな)は、阿弥陀さまが私のために歩まれたご苦労と、私を必ず救う願いの喚(よ)び声であることを、先人の遺してくださった言葉と共に大切に聞かせていただきます。

■ひろくあまねく大悲
善導大師のおことば
「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難(かた)きがなかにうたたまた難し。大悲弘(ひろ)くあまねく化(け)する、まことに仏恩(ぶっとん)を報(ほう)ずるになる」 今年は多くの出来事がありました。深い悲しみの中で年の瀬をお迎えの方も数多いことと思います。そんな私たちがさまざまな思いを抱えて生きる今ここが、阿弥陀さまのはたらくところ、「あなたを必ず救う」とよびかける如来大悲の真っただ中なのです。「自(みずか)ら信じ、人を教えて信ぜしむる」。漢文では「自信教人信(じしんきょうにんしん)」です。これは七高僧のお一人、中国の善導大師のお言葉です。親鸞聖人はこのお言葉を『教行信証』の中で引用されて、他力の信心を恵まれた者は、自ら信じさせていただいたことを大いによろこび、ほかの人をまた信じさせることになる。それは実に得難いよろこびであるといただかれました。それに続く「大悲弘くあまねく化する」は、阿弥陀さまのお慈悲が主語です。聖人は教えを伝えることも私たちの手柄ではなく、阿弥陀さまのはたらきの中の出来事といただかれました。私たちが教えを信じ、人に教えて信ぜしめることも、法そのものの持つ「弘まる」はたらきということです。お念仏をよろこぶ、お浄土へ向かう今をよろこぶ方々を通じて、私たちに如来の大悲が届いているのです。
若い夫婦がおつとめ
今から10数年前、私は広島県のお寺に法務員(お参りのお手伝い)として勤めていました。広島は各ご家庭で「お取り越し」が盛んな地域です。お取り越しとは、親鸞聖人のご遺徳(いとく)を偲ぶ報恩講のご法要のことで、1月の御正忌(ごしょうき)報恩講より先に「取り越して」おつとめすることです。私のいたお寺でも、毎年10月下旬から、ご門徒のお宅にお参りをさせていただいておりました。ある年、私がお参りしたお宅は、街に完成したばかりのマンションの一室でした。お伺いしてまず驚かされたのは、ご夫婦の年齢です。当時の私と同世代の、若いご夫婦だったのです。マンションですからお仏間はなく、案内されたのはリビングの窓際でした。そこには、小さいながらも丁寧にお飾りされたお仏壇があり、明るい秋の日差しを受けて、阿弥陀さまが輝いておられました。そして、一緒に正信偈のおつとめをさせていただきました。私はおつとめをさせていただきながら、ご夫婦にどんなご縁があってお取り越しのお参りをされることになったのかと考えました。ご夫婦いずれかの親御さんか...、もしかすると、お子さんか...。いずれにしても、お身内を亡くされたことがきっかけとしか考えることができません。またお参りさせていただく機会があれば、ゆっくりお話ししたいと思いながら、マンションを後にしました。
忘れ得ぬご縁に
しかし、お寺に戻ってから聞いたいきさつは、私の想像とは全く違っていました。お仏壇は、奥さんのおばあさんからの結婚祝いだったのです。おばあさんは、結婚して家庭を持つことになる孫娘さんに、お念仏申す家庭を築いてほしいと願われ、お仏壇を贈られたそうです。そして、「結婚してどこに住むことになっても、まずは浄土真宗のお寺を探しなさい。そして年に一度、必ず親鸞さまの報恩講にはお参りに来てもらいなさい」と、おっしゃったのだそうです。そのおばあさんの願いをしっかり受け止められた孫娘さん、つまり奥さんのおかげで、その日のご縁があったのでした。私にとって、おばあさんと孫娘さんを通じて「自(みずか)ら信じ、人を教へて信ぜしむる」姿をいただいた、今でも忘れ得ぬご縁です。そして、それもまた「大悲弘くあまねく化する」出来事なのです。さまざまな出来事があった今年が間もなく終わります。今、それぞれの皆さんにそれぞれの思いがおありのことと思います。もし手を合わせる人やお念仏申される方に出会うことがあるならば、そこにもまた「あなたを必ず救う」と届いた、如来さまのはたらきがあるのです。

■阿弥陀さまをつかむ!?
「ご信心が大事!」
私はお寺育ちです。小さい頃から、学校が休みなら毎月の常例法座にいやいやながらも出され、ご法話を聞きました。ご講師は皆さん、阿弥陀さまと親鸞聖人をほめて「ご信心が大事」とおっしゃいます。ご法話の後でいただく御文章(ごぶんしょう)にも「聖人一流(しょうにんいちりゅう)の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」、やはりご信心が大事だとあります。「ぼくは長男だから、ゆくゆくはお寺を継ぐのかな。だったら浄土真宗でいちばん大事な『ご信心』がわからないといけないな。自分が理解できない、ありがたくないものを他人に勧(すす)めたりはできないもの・・・」 そのように思った時から「ご信心」が気になりだしました。やがて哲学や思想を学び、浄土真宗以外の宗教でも「信心」が大事であることを知りました。でも浄土真宗のご信心は、普通の信心と違うようでした。そして、よくわからなくなりました。わからないご信心の問題を先送りしたかったのでしょうか。私は浄土真宗の大学には行かず、東京の私立大学に進みました。卒業後、僧侶になる心づもりが少しだけでき、お寺の専門学校に進学し、その後も浄土真宗の学校に通い続けました。しかし、いかに学んでもご信心のことはわからないままでした。
何をどうすればいい
私に転機が訪れたのは、あるお寺でご法話をさせていただいた時でした。最初、私は辞退しました。「私はご信心がわからないので、ご法話はできません。阿弥陀さまにご迷惑がかかります」 ご法話をすすめてくださった方は、おっしゃいました。「ここのご門徒さん方は大丈夫。ご法話することも勉強ですから、しゃべってごらんなさい」 そう言われたら断れません。心を決めて、よせばいいのに、浄土真宗でいちばん大事な「ご信心」の話をしました。「私はいかにしてご信心を得るのか。私はどうすれば阿弥陀さまの救いにあずかることができるのか・・・・・・」 話しながら、聞いてくださっているご門徒さん方が残念そうな顔をされ、心が遠のいていくのが見えました。それでも私は一生懸命に話しました。ご法話が終わり「何か変だったな・・・」と思っていた私に、ご法話をすすめてくださった方が話しかけてくださいました。
「少し気になることがあったんだけど、言ってもいいかな?」 「ぜひお願いします」 「いま石田くんは、自分がどうすればご信心を得られるか、自分がどうすれば阿弥陀さまの救いにあずかれるのかという話をしてくれた。でもね、お聖教(しょうぎょう)を読んでみたかい?」 「どういうことですか?」 「お聖教のどこにも、そんなことは書かれてないよ。お聖教には『私が何をどうすれば救われるか』ではなく、『阿弥陀さまがいかにして私を救ってくださるか』だけが説かれているんだよ・・・」 私はそれを聞いて、すごくびっくりしました。
「そんな話はずっと前から聞いていたよ!なのになんにも聞けていなかったぞ」 私ではなく、すべて阿弥陀さまのはたらきによって救われるんだ、ずっとそう聞いてきました。南無阿弥陀仏が私に届いているのが、私が救われる証拠だ、そう聞いてもいました。なのに、こちらからご信心や阿弥陀さまをつかみ取ろうとして、結果、なんにも聞けていなかったのです。私は一体何をしていたのかと思い、恥ずかしくなりました。でも同時に、だから大丈夫であることも知らされました。つかもうとする前から、私はつかまれていたのです。それから、それまでは知識でしかなかったいろいろなことが、心の中で有機的に結びつくようになり、とても楽になりました。阿弥陀さまが私を救ってくださる事実を聞いたままがご信心なのです。同じ事実を聞くから、親鸞聖人も法然聖人も、そしてあなたも私も同じご信心なのです。自分が力を入れて信じる必要はないのです。聞いたつもりで何も聞いていなかった私は変に遠回りをしましたが、そのあいだもずっと待っていてくださった阿弥陀さまは、やっぱりすごいです。

■仏さまのはたらき
この絵さえあれば...
自坊のお内陣の片隅には、タンポポの花が咲き、綿毛が空に向かって一面に飛ぶ様を描いた屏風(びょうぶ)絵があります。その絵は、私自身お寺に全く縁がなかった独身時代、浄土真宗のみ教えどころか、宗教に偏見さえ持っていた頃に、いただいたものでした。後に縁あって私はお寺に入り、お内陣に絵を置かせていただいて、今に至っています。この絵を描いたのは、私の祖母の弟で、3年ほど前、68歳で亡くなりました。彼は生前、新聞記者をしながら男手一つで二人の息子を育て、記者を辞(や)めてからは、島根県の山奥で一人暮らしをしていました。牛小屋を改装し、ギャラリーにした彼の家へ、私は片道2時間半かけて車を走らせ、何度か遊びに行ったのです。話し上手で聞き上手の、冗談が大好きなおちゃめな人でした。そこで描かれたタンポポの絵が、不思議なほどどうしても欲しくなり、彼に頼み込んで譲ってもらったのです。今思えば、当時の私は不満でいっぱい、何に関しても投げやりな状態でした。でも、タンポポの絵を見ると、「この絵さえあれば、穏やかに安心して生きられるかもしれない・・・」と感じたのです。彼は、「ここまで取りに来るんじゃったらあげるけえ。その代わり、絵ができたらすぐに来んさいよ。手元に長くあったら、渡しとうないなるけえのお」と言ってくれました。その時は、鮮やかに輝くタンポポの黄色と空の青、光に向かって一斉に飛ぶタンポポの綿毛があまりにきれいで欲しがったのですが、この絵は私に、これまで多くの縁をつくり、さまざまなはたらきをしてくれています。
教えられ、導かれて
タンポポが花を咲かせて種を生み、それが大空へ旅立ち、そして土へ舞い降り、残った花や葉が枯れ、次の栄養となるべく土へと還(かえ)っていく。一連のドラマが絵に凝縮され、「こうやって、いのちはみんな繋(つな)がっているんだよ」と伝えてくれている気がします。それと同時に、世の中のあらゆる物事は変化し、一定ではないという諸行無常(しょぎょうむじょう)の理(ことわり)を教えているようでもあります。小さな小さな綿毛が、宇宙の星の輝きのようにキラキラと光って見え、自分が些細(ささい)なことにとらわれ、くよくよしているなあと、知らされたりもします。まさか、私の一人暮らしのアパートにあった絵が、お寺のお内陣に置けるとは思ってもみなかったので、「おじさん、亡くなってからも必死で導いているんだなあ」と感じたりもしました。彼の人生は、はた目には決して幸せとはいえないものでしたが、多くのものを残してくれました。仏さまとなってよびかけておられるなあと思うのです。きっと、どなたにも先立たれた大切な方がおられることでしょう。その方々は今、四苦八苦しながら懸命に生きている私たちに向けて、どうか仏さまのお心に気付いてほしいと、あの手この手でよびかけておられるはずです。
自己中心の塊(かたまり)である私は、それが感じられていませんでした。さらに言えば、「真実に気付いておくれ」と願う仏さまのお心が、私を包んでいたにもかかわらず、欲に縛られ、はねつけていたのです。だから不満だらけでした。「仏さまなど見えないからないのだ」というのは、人間の傲慢(ごうまん)です。見えないものにこそ心を砕かないと本当の安らぎは感じられません。つまり、仏さまのお心は、難しいことを会得してから感じるものでは決してないのです。ある布教使の方が、「正信偈」の中の「唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)」の「説」を「聴」に置きかえて、自らのことを次のようにおっしゃいました。「私はただ、阿弥陀さまの願いを聴かせていただくのみです」 ですから、お寺でのお聴聞を通じて、私自身のこととして、自己中心的な私の心をごまかさず、どこまでもすなおに聞く、ただそれだけです。タンポポの絵は、欲だらけの私をまるごと受けとめ、仏さまのお心に触れさせてくださった、仏さまからの贈り物。これからも、仏さまのはたらきを喜ばせていただけるような日暮らしをしたいと思います。

■大地に根をはる人生
独立を決心する
今夏開催されるロンドンオリンピックに向けて注目を集める選手がいます。マラソンの川内優輝さんです。川内さんは埼玉県職員として働く公務員の市民ランナーで、実力は日本人トップレベル。その素朴な人柄と、ゴールに倒れ込むまで懸命に走る姿が人気の若手です。私も埼玉県に住む一人として、川内さんを応援しています。川内さんは雑誌のインタビューで自分のマラソン人生を振り返り、こう話していました。「高校時代は5000メートル14分台を目指し、駅伝で埼玉県代表として走れば、箱根駅伝の強豪校からスカウトされるだろうと、将来陸上の道を進む夢を持っていましたが、高校2年生で腸けいじん帯を傷めたため、高校生活の後半は全く走れず、最大の挫折を味わいました。進学した学習院大学では自分に才能もなく、実業団からの誘いも来ませんでした。大学卒業後もしばらく母校の監督に指導を受けていたのですが、徐々に自分の理想とのギャップに悩むようになり、走行中に派手に転倒したことがきっかけで、指導者から離れて独立することを決めました」 川内さんは現在、監督やコーチを持たず、トレーニングを自分で考え、ひとり黙々と練習するスタイルで知られています。「振り返ると、挫折と失敗の連続でした。ケガをしたから無理せず走ろうと思い、弱小校だから自分なりに工夫し、市民ランナーだから時間をやり繰りしてトレーニングに集中しなくてはいけない。落ちこぼれたことやエリートの道を外れたことは、自分にとって発想の転換になりました。だから私は、走るということが実業団か市民ランナーかの二者択一ではないということを知ってもらいたいのです。自分に合った形を見つけることが、競技を続けるうえで一番大切だということを若い世代に伝えたいのです」
本当の依りどころ
川内さんは、大学時代の恩師、陸上部の津田誠一監督の言葉が今も思い出されるそうです。ハード過ぎるトレーニングで故障がちだった川内さんに、津田監督は言いました。「頑張るな」 この言葉を何度も聞き、川内さんは不思議と記録が伸びたと語っています。「頑張るな」──私たちは反対に「頑張ろう」と自分自身を励まし、「頑張って」と人の背中を押します。では、何を依りどころに頑張るのでしょう。私たちの心は日々、単に社会的な価値観に押し流されているに過ぎません。ただ押し流されているだけの私が、何を「頑(かたく)なに」「張る」というのでしょう。大地がなければ種は芽吹かないように、ゆるぎない大地に根をおろすことは私たちの人生で最も大切なことです。それはお金という大地でしょうか。名誉や学歴という大地でしょうか。家族や夢という大地でしょうか。大地に根を張っていなければ、頑張ることも頑張らないこともできません。
親鸞聖人がお示しくださった数々のお言葉の中に、「心(こころ)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶっち)に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す」というお言葉があります。
私の心を本願の大地にたてて根を張り、思いを不可思議の大海に流す。私の心は阿弥陀如来のお心の大地にしっかりと立てる、それは成功も失敗も、どんなときも揺るがない根をおろすことです。台風がきて枝のたくさんの葉が舞い散ろうとも、大地の下では太い根がびくともしない、揺るぎない大地に自らをゆだねていくことです。同時にそれは、社会的な価値観に押し流されてきた私が、いかに頼りにならないものを頼りにしてきたかわかることでもあります。人生を通して依りどころになるものは、たったひとつしかありません。私の心が仏法の大地にしっかりと根をおろしていれば、日々の感情と思いは、人生の順境も逆境も見通した教えの大海のなかに安心して流すことができます。人生の依りどころとなる深い教えに出遇(あ)えたよろこびは、頑張る、頑張らないという世界を超えた、何ものにも勝(まさ)る安心を与えてくださるのです。

■私を知らされる
「涙が止まらない...」
お歳を召した女性から、こんなお話を聞きました。「あるとき、私は幼稚園の孫娘とお話をしていました。すると、『おばあちゃん、いつまで生きているの?』って、突然聞いてきたのです。私はそれでムッと腹を立てて、孫娘を一方的にしかりつけてしまったのです・・・」 このお孫さんは、3人兄弟の末っ子で、お兄さんやお姉さんには勉強部屋や、勉強机があるのに、自分にはいまだにないので、普段からお母さんに、おねだりをしていたそうです。それに対して、このお母さんは、「家は余裕もないし、狭いからだめよ。でも、もうちょっと待っていなさいね。もうちょっと待っていたら、勉強部屋をご用意してあげるから」 と言ったとか?もちろん、そんなことをおばあさんの目の前では言いませんが、同じ屋根の下に暮らしていると、お互い察するものがあるのでしょう。ですから、この方もうすうす気付いていたところに、「いつまで生きているの?」と孫娘から言われたので、一方的にしかりつけたというのです。このお孫さんは、おばあさんのあまりの剣幕に、びっくりして泣きじゃくりながら、「だっておばあちゃん、私の結婚式に出てほしいの。出てちょうだいね・・・」 と言ったそうです。おばあさんは言葉に詰まり、お孫さんを抱きしめながら涙が止まらなくなった、というのです。
わかったつもりでも
この話が、私の心に深く刻まれた理由を、自分なりに考えてみました。私はお寺に生まれ、それなりに親鸞さまの浄土真宗を聞いてきたつもりです。その私には、次のように自分の心の動きが見えてきました。まず、私は「けしからんお母さんだな。たとえ、おばあさんがその場にいないからといっても、このような発言をするのは親としてなっていない。教育上、問題のある発言だな」と、お母さんを裁き、批判する心の動きが起こったのだと思います。次に、私は、このおばあさんに対しても、「この人もなってないな。たとえ、相手が幼稚園の子どもでも、話というものは最後まで聞いてやるものだ。それなのに、このおばあさんも一方的で、せっかちだな」と批判していたと思います。もちろん人間はいちいち自分の心を確かめながら生きているわけではありませんから、後になって見つめ直すことができたということになります。しかし、「おばあちゃん、私の結婚式に出てちょうだい」という言葉を聞かされて、私の思い上がりが、決定的に知らされたのです。
親鸞聖人を通して仏教を学び、お互いが認め合い、尊び合うような生き方こそ、浄土真宗が示している「御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)」だと理屈ではわかっているつもりでした。しかし、私は、相手を認めたり、尊ぶことよりも、気付いたときには、相手を裁き、批判するような自分中心のあり方を、より深いところに抱え込んでいたのです。そして、それを教えてくれたのが、この幼稚園に通うお孫さんの一言だというわけです。私が仏法を学ぶのは、新しく知識などを学ぶことが大切だと思っていました。つまり、自分の上に、一つでも多く仏さまの教えを知識として覚えて、理解して、それを利用して、どれだけ自分がわかった人間になっていくことができるか。そして、それが人間にとって幸せなことなのだと思っていたのです。しかし、人間にとって本当に学ぶべきことは、私がどのように物事を考え受けとめているのか、そして、私自身が気付いていない私とはどういう姿なのか、ということだと思いました。ちょうど、鏡の前に立てば自分が見えてくるように、仏さまの教えの前に身を置くと、今まで見えていなかった自分が見えてきます。教えを学ぶとは、人間として本当に大切なことを自分の上に受けとめていくと同時に、そうなっていない、思い上がった自分に気付かされていくことこそが大切なのだと思いました。 
 

 

■恋のはなし
恋をしていますか
学生さんにとっては、卒業式の季節が近づきました。「3月は別れの季節、4月は出会いの季節」ということで、これからむかえる3月4月を「恋の季節」と申します!思い返せば二十数年前、高校の教室で一人の女の子の笑顔が見たい一心で、ずっこけてみせたり、おどけてみせたり、日々むなしい努力を積み重ねている私がいました。しかし現実は、好きな人には振り向いてもらえず、好かれようとすると、自分が自分でなくなってしまう。結局、想いは伝えられませんでした(心が純だったから)。しばらくして、その子に彼氏ができたことを耳にした時、私に残ったものは、勇気を出せなかった自分のなさけなさと、怒りだけ。思えば、それが大人に一歩近づいた瞬間でした。さて、恋にもいろいろあると私は思うのです。この会社に絶対入りたい・・・就職活動という恋ごころ。いつまでも元気で若くて・・・健康への恋ごころ。「オリンピック誘致」というのも、恋ごころの一つでは・・・。ある中学生が、おばあちゃんに「受験に失敗したら、どうしよう・・・」と、不安を打ち明けました。おばあちゃんは孫を抱き寄せ、こう諭(さと)しました。「受かっても、受からなくても、あんたの人生に寄りそってあげるよ。どちらを引き受けても、それはあんたの人生の宝だよ」 そこには、中学生の「受験」という恋ごころがありました。皆さんは、どうお考えになりますか。ふつう、想いがかなった出来事は人生の宝になりますが、どうして想いかなわぬ出来事が宝であるのか。宝とは、何なのか・・・。今、皆さんはどんな恋をしていますか。
心の眼を開こう
親鸞聖人がお書きになった『高僧和讃』という書物に、
煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり ・・・というご文があります。
「煩悩によって自分の殻(から)に閉じこもってしまい、人生の道筋を見失っているこの私に、阿弥陀如来の大悲が常に光を照らしてくださっている」と、自身の身近な所に寄せて味わわせていただきます。人は、誰もが人生に理想を描きながら、時間の流れと複雑な人間関係に翻弄(ほんろう)されていきます。しかし、大悲に照らされている「わが身」とは、決してそのような孤独な私という意味ではなく、世の中全体のつながりにある私の存在であることに眼を向け直そうというメッセージと味わわせていただきます。その場にいる時は気付かなくても、失敗やつまずきは私の深さであり、私の傷は必ず誰かに寄り添い、出会いは私の広さとなります。世の中全体のつながりにある私自身の足下に眼を向け直すことができた、実はそれが、弥陀大悲の光明のはたらきなのです。どうか、阿弥陀如来の大悲のみ教えを聞き、照らされた互いのつながりを大切に味わいましょう。そして手を合わせ、世の中全体に心の眼を開いていきましょう。その、お念仏と共に歩む私たちの人生こそが、弥陀の大悲が伝わる尊い仏縁と活(い)かされてゆくのだから。親鸞聖人は、そう呼びかけてくださっています。
新たな一歩
あの時、勇気を出していたら、自分の人生、何かが変わっていただろうか・・・。たまにそんな思い出にひたりながらも、今では、昔の道化師だった自分も、勇気を出せなかった自分も、それはそれでよかったのだ。あの時の自分は、今の私の人生に欠かせない大切な自分であったことを、手を合わせ聞き学んでいます。「どちらを引き受けても、人生の宝」。宝とは、「味がある」ということ。私の宝には、青春時代のほろ苦い味がありました。いろんな出来事や出会いが、人生の味を深めます。味のある人生こそ、生き甲斐(がい)ではないでしょうか。もうすぐ新しい年度が始まります。どんな出来事があるでしょうか。どんな出会いがあるでしょうか。どれを引き受けても、それは光に照らされた人生の宝です。お念仏申しながら、一歩を大切に踏み出しましょう。

■わが身に届くはたらき
忙しいから難しい?
親鸞聖人750回大遠忌法要が終わりました。私自身、50年に一度のご勝縁にあわせていただく中で、こうして聖人のお導きに出あえたことを、ますます喜ばせていただきました。しかし、こうしてみ教えにご縁をいただきながらも、お念仏を申す難しさ、お念仏を喜ばせていただくことの難しさを、あらためて感じたご縁でもありました。皆さまはいかがでしょうか。お念仏申す喜びということを、日々の生活の中で味わうことは、なかなか難しいと感じておられるのではないでしょうか。私自身、共働きですので、日々の生活を忙しく送っておりますと、阿弥陀さまの前で腰をすえて手を合わせて、お念仏を申して喜ぶことの難しさを日々感じております。わが家では、手の空いた者が食事の準備をしたり、洗濯をしたり子育てをしたり・・・、そういった生活をしておりますので、あれもしなければ、これもしなければならないという日常ですから、腰をすえて仏さまの前に座るということの難しさといったらありません。それは共働きの家庭に限ったことではありません。皆さんそれぞれに忙しい日々を送っておられることでしょう。朝早くから夜遅くまで仕事をされている方もおいででしょうし、家事や子育てに追われる生活をされている方も、高齢化社会でありますから、家族の介護を中心として生活している方もいらっしゃるでしょう。そうした本当に忙しい生活をしておりますと、なかなかお念仏を申すということが難しい、お念仏どころか口を開けば不平不満、何で私がこんなことをしなければならないのか、世間が悪い、あの人が悪いと、愚痴(ぐち)をこぼすことしかないのがこの私です。また、忙しいというだけでなく、日々深い悲しみに暮れている方も多くおられます。私のご縁のある方々にも、お連れ合いを亡くされた方、近しい方を亡くされた方、小さなお子さんを亡くされた方も見えました。多くの方が悲しみのどん底におられます。その中には、人生を悲観して生きておられる方、ただ時間だけを重ねてその悲しみを薄れさせていくような生き方をされている方もおられます。そうした日々に思いをいたす時にも、お念仏を喜ぶことの難しさを感じるのです。
この私を目当てに
親鸞聖人が示されたお念仏のみ教えは、「必ず救う、まかせよ」といわれる阿弥陀さまから信心をいただいて、ただ念仏申す一生を送らせていただく、ということであり、聖人ご自身の歩みでもありました。お念仏というのは本来、私がしようと思って私がしているものではない。あれこれして右往左往している者、悲しみ苦しみを抱えて生きている者を目当てとして、念仏申す者に育て上げようというはたらきがあるからこそ、今、私がお念仏している。それが「阿弥陀」という仏さまのおはたらきだとお伝えくださるのです。悲しみの声を上げたから来てくださる仏さまではありません。私が私の人生をどうにかしてくださいと頼んだから来てくださる仏さまでもありません。私が呼び、私が頼む、そのずっと前から、私の本性を見抜き、日々生活の中であれこれして悲しみに沈みこんでいる、念仏申すことのない者を目当てとして、はたらき続けてくださる仏さま、寄り添ってくださる仏さまが、阿弥陀という仏さまなのです。不平不満しかこぼれ出ることのない私の口から、阿弥陀さまの願いとはたらきによってお念仏となってくださっている。阿弥陀さまの願いが私の体に満ち満ちて、私の口からお念仏がこぼれ出てくださる。それが親鸞聖人の示されたお念仏だと味わわせていただきます。そのことを知らされますと、仏さまのことも、仏法のことも知らず、お念仏申すこともなかった私が、いつの間にかお念仏させていただく身の上に育て上げられてきたことの有り難さ、不思議さを感じるのです。私が称えるお念仏は、阿弥陀さまから我が身に届けられたおはたらきでありますよ、との親鸞聖人のお導きであったと、あらためて喜ばせていただいたこの大遠忌法要でありました。

■合掌ができない子どもたち
浄土真宗が風土に
20年ほど前から滋賀県に住んでいます。住職が亡くなった後、後継者がいなくて坊守がひとりで護っていたお寺に家族4人で入寺しました。滋賀県には若いとき琵琶湖に遊びに来たくらいで、住むのは初めてです。私が住む大津市は琵琶湖の南で「湖南」といいますが、長浜市など「湖北」では、今も人が生まれたら「赤ちゃん、もらわはったんやてな。おめでとう」「おおきに、おかげさんでいい子をもらいましたわ」。人が亡くなったら「今朝、ばあちゃん、まいらしてもらいましたんや」「ほらまあ、お早いお旅立ちどしたなあ」という会話が日常的に行われていることを知りました。滋賀県には140万人が住んでいますが、浄土真宗の寺院は1600カ寺近く(そのうち本願寺派が601カ寺)あり、「浄土真宗が風土」ともいえます。そういえば、嘉田由紀子滋賀県知事は、6年前に「もったいない」をキャッチフレーズにして初当選しました。マスコミの取材で「なぜ"もったいない"なのですか」と聞かれ、若いときから県職員として琵琶湖研究所などで環境問題に取り組んできた嘉田さんは「調査で県内をくまなく回ったが、琵琶湖のほとり、あるいは山手のどんな小さな集落に行っても、皆さんが"もったいない"と言うのですよ、だから」と答え「私が生まれた埼玉県ではあまり聞いたことがありません」と言っていました。
「お育て」の大事さ
その滋賀県は全国でも数少ない、人口が増えている県です。この20年、田や山地が開発され新しい住宅やマンションができ、核家族化した住民が増えています。10年ほど前、そのような家族の子どもと昔から住んでいる家族の子どもが混在する20人ほどの集まりで、お経(きょう)をおつとめする機会がありました。経本を配り、おつとめを始めようと「合掌」と言いました。ちょっと振り返ってみたら半分ほどの子どもは合掌をせずにキョロキョロしているのです。
「君たち合掌を知らんのか」「知らん」「家でご飯を食べるときにするやろ」と尋ねると、「してない」という返事が返ってきました。
合掌は「自己を見つめる・他を思う・感謝」の表現であり、そもそも日本人にとって、宗教行為の基本動作です。逆に合掌ができない生活や社会は、「自己中心、他を思えない、感謝の気持ちに欠ける」、つまり宗教心がない、ということです。「浄土真宗の教章」の「生活」にある「つねに我が身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活を送る」ことは、合掌ができないに対置しています。昨年夏に『合掌ができない子どもたち』(白馬社刊)を上梓しました。刊行のきっかけは、宗教心の基本行為ができていない人がいることへの僧侶としての責任でした。それに原発問題への対応を含めて政治、経済、科学、思想など日本を動かす一部の人に見られる倫理観のなさに「合掌ができない」ことが根底にあるからではないかと思ったからです。倫理観の根底には宗教心があるからです。農山漁村など日曜学校が続きキッズサンガが盛んな地域の住職からは「合掌ができない子どもがいることを初めて知りました」、都市部の住職からは「その通りです。家族や親類が集まっての年回法要などで、合掌をしない人が増えたので、おつとめのはじめに"合掌"と言うようにしました」と、大まかに二通りの感想が寄せられました。手紙を読ませていただきながら、「広辞苑」にもない言葉ですが、最近聞かなくなった「お育て」という言葉を思い出しました。湖北の人たちに「赤ちゃん、もらわはった」という日常会話が続いていることは、まさに「お育て」によるものであり、それがなくなってしまったところに「合掌ができない子どもたち」が現出したように思います。
阿弥陀さまの救い(浄土真宗の教え)は、「(自分で)得る」ものではなく「たまわる」ものであるという、現代思潮から理解が難しい一面がありますが、それ故(ゆえ)に「理屈」だけではなく「お育て」が求められています。まもなく春の彼岸を迎えますが、私が「合掌の生活」を送ることから子や孫に「お育て」がなされていくこと、その大事さを痛感しています。

■おかげさま 阿弥陀さま
お弁当の温もり
35年前の春4月、高校へ入学して下宿生活を始めたある日、本来は、2年生担当の数学の先生が、都合でひとクラスだけ1年生の私のクラスを担当されました。その先生は、下宿生活で昼の弁当がない私のために、先生方が取られている弁当を、ご厚意で一緒に取ってくださることになりました。毎日、弁当を先生から受け取り教室で食べ始めた半月後のこと、職員会議で「先生と生徒が同じ弁当を食べるとは、けしからん」と大問題になり、弁当は取ってもらえなくなり、先生も、私のために、ひどく怒られたそうです。翌日、先生は「弁当、取ってやることができなくなったわ。すまんのう」と私に断りを言われ、「取ってやると約束して取ることができなくなったのは、私に責任があるから、明日からお前の弁当は私が作ってくる」と、その翌日から私のために約3年間、弁当を作ってきてくださったのです。本当に有り難く、これほど人の温もりを感じうれしかったことはありませんでした。しかし、高校3年生の2月、大学も決まり、卒業間近で気も緩み浮かれていた頃、私は学校を休んだのです。その先生は、金曜日が休みの日でしたので、「今日は弁当を持って来られない日だ。サボってやれ」と、学校を休んで下宿で寝ていたのです。ところが、先生は学校がお休みにもかかわらず、わざわざ弁当だけ学校へ届けに行き、私が休んでいるとわかると、下宿先まで私のために足を運んでくださったのです。怒ることもせず、「明日は出て来いよ」とひと言、声を掛けられただけでした。一人下宿生活する私を温かく見守り、道を逸(そ)らさないように導いてくださった先生に背き、ここまで私のことを考えてくださる先生のご厚意に対してとても恥ずかしく、これほど反省したことはありませんでした。その時の弁当の味は、一生忘れることができません。
一如(いちにょ)の世界から
温かく見守り育ててくださる先生の大きな力に支えられ、おかげさまで無事、高校を卒業。そして進学した京都の大学も卒業し、実家の広島へ帰り副住職をしていたある日のことです。大学の恩師から見合い話をいただき、京都で見合いをすることになりました。その時の相手が何と、高校の時、弁当を作ってくださった先生の娘さんでした。その後、結婚して3人の子どもに恵まれ、その先生は今では、優しいおじいちゃんとして、私たちのことを見守ってくださっているのです。3年間の高校在学中、一度もご縁のなかった先生は何人もいらっしゃる中、本来2年生の担当で、会わなかったであろう先生と出遇(あ)い、弁当まで作っていただき、その娘さんとも結婚して35年の歳月が流れました。そして、これからも末永くずっとお付き合いがあるのだと思うとき、自分の考え、力では及びもしない、計り知れない大きなつながり、かかわり合いの中で生かされていることに気付かされるのです。
仏さまは、すべての存在をあるがまま如実に見尽くされ、何一つぽつんとあるものはなく、すべてつながり、かかわり合い存在することを「縁起(えんぎ)」(相依相関(そうえそうかん))の法として教えてくださいました。この縁起の法にうなずかずにはおれません。この教えをいただき、「決して一人で生きているのではないのだ。自分の気付かない大勢の陰(かげ)の力があればこそ、今があるのだ」と、謙虚に生き抜かれた先人が残してくださった言葉が「おかげさま」です。自分は気付いていなくても、支えてくださる大勢の人や物に感謝し、自分さえ良ければいいという傲慢(ごうまん)な生き方を戒めながら日々、歩みたいことです。そして、すべてのいのちのつながりを、自他不二(じたふに)、自他一如(いちにょ)(一つの如(ごと)し)と、さとりきわめられたのが阿弥陀さまです。その大きな一如のお慈悲に抱かれているのが私の命です。問題を抱え、悩み、苦しみ、悲しむこの私のことを思い、その問題をわが問題と受けとめ、おはたらきくださるのが阿弥陀さまです。決して一人ではありません。いつも阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」となって常に願い守ってくださっているのです。

■みんなちがってみんないい
「アシ」は「悪し」?
2カ月ほど前、新聞にこんな記事が出ていました。水辺に生える「葦」は「アシ」だが「ヨシ」とも読むこと。それは発音からアシは「悪し」に通ずるとして「ヨシ」(良し)に読み変えたのだというのです。こういうのを「忌(い)み言葉」といって、他にもいっぱいあると知りました。浄土真宗とは無縁な、いわゆる「げんをかつぐ」ということでしょう。「アシ」を「ヨシ」に読み変えるというのは、単に言葉の表現上の問題だといわれれば、そうかも知れませんが、それを人の心について問いかけてみたらどうでしょう?「悪し」つまり「悪いこと」をどう受け止めているでしょうか。例えば、マスコミなどが連日のように世の中の不正や欺(ぎ)まんを報じています。人間は悪を悪と受容したがらないのでしょうか。それとも人間の身勝手な欲望が、罪悪感を鈍感にさせているのでしょうか。それでは、私自身はどうでしょうか?小学5年生の時でした。家ではニワトリを飼っていました。昼間は小屋から出すのですが、それがどこでもフンをするのです。勝手口を閉め忘れるとすぐ家の中に入ってきて、そこらはフンだらけ。閉め忘れた方が悪いのに、それにフンガイ?して私はニワトリを蹴ったのでした。「ギェーッ」とすごい鳴き声の後、苦しそうな声になり、ピクピクと体をけいれんさせて息絶えたのです。それを知った母は烈火のごとく怒り、私は長時間、命の尊さを説諭(せつゆ)されたのでした。生意気盛りの私も、この時ばかりは黙って聞いていました。それは、目の前で死んでいったニワトリの残酷な光景の一部始終が、私の心に食い込んでいたためでした。食前の言葉、合掌「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうを・・・」と言って食事をします。ニワトリとのことを悔やんでいるはずの私が、平然と鶏(とり)肉を口にします。姿造りのお刺身を目の前にする時、かわいそうだと思いますが一瞬です。そういった私とは一体何なのでしょう?
あたたかなお慈悲
布教使の先生方からは「煩悩を抱えている自分に気付くことが大切です」と、お説教の端々(はしばし)でよく耳にしていました。換言すれば、自己の罪悪性に気付くことの大切さ、必要性を説いていらっしゃったともいえるでしょう。幼少時、友達と遊ぶ中でいわゆる「悪さ」もよくしました。しかし、例えば窃盗とか恐喝といった刑法犯罪に触れるようなことは今までありません。それを普通と言えば普通と言うのでしょうか。人は誰しも利己的であるといいます。それを是認する私ですが、深く自覚しているわけではありません。それを良しとはしませんが、正直なところ特別に自戒するほどでもないと思っているのです。いや、思っていたのです。あいまいな感覚が明瞭に変わったことがあります。自分にとってこれは長い道のりでした。良きにつけ悪しきにつけ、人は自分のすべてをひとつ残らず一生引き受けていかねばなりません。それぞれ顔が違うように、能力も性格も何もかも違います。「みんな違ってみんないい」と、金子みすゞさんはおっしゃいました。味わい深いことばで私も大好きなのですが、人は誰しも、他人の言わばそれぞれの「特徴」のすべてを、広い心でもって「みんな違ってみんないい」と受け止めてくれるでしょうか。悪の自覚に気付いたら改善されるかというと、そうとは限りません。あさましいことです。しかし、そのような人生を歩む私たちであるからこそ、向けられているあたたかなお慈悲がありました。それが「ご本願」と味わわせていただき、お念仏を申すばかりです。そして、やはり「みんな違ってみんないい」のでしょう。

■罪を罪とも知らずに
郷に入っては郷に
数年前、十数人でインドに旅行に行った時のことです。インドの人は牛をとても大事にします。牛はヒンドゥー教のシヴァ神が乗る神聖な動物とされているからだそうです。インドでは街中のいたる所に牛がいましたが、牛が道路をふさいで寝ている場合も、人や車が牛をよけて通るのです。人間よりも牛が優先ということだそうです。ですからインドの人は牛を絶対に食べません。そして旅行者である私たちの食事にも、牛肉が出されることは一切ありませんでした。あの有名なハンバーガーチェーンも、インドでは牛肉は一切使用せず、鶏(とり)肉などで代用しているそうです。私たちの旅行中、現地ガイドとして案内してくれたのは、インド人のJさんでした。日本に住んでいたことがあるそうで、日本の文化をよく知っていて、流暢(ちょう)な日本語を話す方でした。10日間ほどの旅行日程も中盤にさしかかった頃でした。ある日の晩、ホテルの部屋でJさんを囲んで話をする機会がありました。その時、牛の話になり、ある人がJさんに次のような質問をしたのです。「インドの人は牛を食べないけれども、外国では牛は普通に食べられています。このことについてインド人としてどう思いますか?」 Jさんはこう答えました。「他の国には他の国のやり方があるのだろうから、それをとやかく言うことはできません」 Jさんは観光ガイドという職業柄か、幅広い国際感覚を持ち合わせているようでした。そしてさらに質問は続きます。「日本に何年間も留学していたと聞きましたが、日本でも牛は食べなかったんですか?」 すると、「実は、牛とは知らずに間違って食べたことはあるけれど、それを今でも後悔しています。でも、自分から牛を食べようと思って食べたことは絶対にありません」と。
そして、これまでのにこやかな表情を一変させ、「逆に、インドに外国人がやって来て、牛を食べたりすることがあったなら、それは許せない。黙って見ていられない」と言うのです。突然真顔になったJさんを見て、私たちは少し驚いたのですが、この話は、一応これで終わったのでした。さらにその後もしばらく、いろいろな話をしつつ、全体としては和やかな雰囲気で、その場はお開きとなりました。その時の部屋のテーブルには口の開いたお菓子の袋がならんでいました。日本から持ち込んだポテトチップスが、実はグリルビーフ味だったことに気づいたのは、Jさんが自室へ戻った後のことでした。インドの文化や習慣は日本とまったく異なるものでしたが、旅行中は「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、異国の地の文化を尊重しようと努めていたつもりでした。Jさんが、ポテトチップスの袋に描かれた牛の顔に気づいていたかどうかはわかりませんが、広い心で許してくれていたのかもしれません。
気付くことすら・・・
仏教では、自分の犯した罪を認め、恥じることを「慚愧(ざんぎ)」といいます。罪を犯さないことが第一ですが、いったん犯してしまったなら、それを反省し、同じ過ちを繰り返さないようにしなければならないということでしょう。けれども慚愧は、自分自身が罪を犯したということに気づくことが前提となります。それがなければ慚愧はありえません。親鸞聖人は晩年、阿弥陀さまのはたらきに照らし出されたご自身の姿を「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて」と述懐されています。これは、罪を罪とも知らずに日々を過ごす私たち凡夫の姿であり、それはそのまま救われていく者の姿でもあることをお示しくださったものと受け止めたいと思います。グリルビーフの一件は、幸いにも後で気づくことができましたが、おそらくそのほかにも、外国人である私たちが、Jさんにいやな思いをさせたことがあったことでしょう。4月に入り、新たな生活が始まった方も多いのではないかと思います。実は私もその中の一人です。生活環境は変わっても、愚かな凡夫であることは変わりありませんが、今後もお聴聞を忘れることなく、精いっぱいに過ごしていきたいと思います。

■花びらは散っても・・・
蓮如上人のお導き
いつも私がお育ていただいているお聖教(しょうぎょう)に『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』があります。その198条に、年下の蓮如上人を生涯慕いながら、お念仏をよろこんだ道西(どうさい)(のちに改名して善従(ぜんじゅう))のことが記されています。「ある人、善従の宿所(しゅくしょ)へ行き候(そうろ)ふところに、履(くつ)をも脱ぎ候はぬに、仏法のこと申しかけられ候ふ・・・・・・履をさへぬがれ候はぬに、いそぎかやうにはなにとて仰せ候ふぞと、人申しければ、善従申され候ふは、出(い)づる息は入(い)るをまたぬ浮世なり、もし履をぬがれぬまに死去(しきょ)候はば、いかが候ふべきと申され候ふ。ただ仏法のことをば、さし急ぎ申すべきのよし仰(おお)せられ候ふ」 お同行(どうぎょう)が善従の道場に来た時のことです。その人が履(は)き物をぬぎ終わらないのに、善従はお念仏の話をはじめました。するとその人は、まあまあ、そんなに急がれずとも後でお話しましょう、と言いました。すると善従は、お釈迦さまが吐(は)く息は吸うをまたぬ無常の命と言われているではありませんか。もし履き物をぬぎ終わらないうちに死んだらどうしますか、と厳しく言われたのでした。これは、何よりも仏法のことは急がねばならないことを伝えているのですね。私の命は風前の灯火のようなものです。だから、大事なことは何をさておいても急がねばなりません。
私のよき人の仰せ
また、同じ『聞書』の48条には、蓮如上人から法敬(ほうきょう)と順誓(じゅんぜい)の二つの法名をいただいた法敬坊の話があります。「法敬坊九十まで存命(ぞんめい)候ふ。この歳(とし)まで聴聞(ちょうもん)申し候へども、これまでと存知(ぞんじ)たることなし、あきたりもなきことなりと申され候ふ」 これは「お念仏の教えを何度聞いても、聞けば聞くほど尊くありがたい。知らされれば知らされるほどもったいない阿弥陀さまのお慈悲であります」と、死の直前までお念仏をよろこんでいたことを伝えていると味わっております。これは、花びらは散っても・・・日々を過ごす私たち凡夫の姿であり、それはそのまま救われていく者の姿でもあることをお示しくださったものと受け止めたいと思います。
蓮如上人のお弟子の法敬坊や善従などがお念仏に生きる姿をいきいきと伝えている『聞書』ですが、このような信仰をもてたのは、お念仏のおいわれを伝え導いてくださった蓮如上人に巡り会えたからです。人生のよろこびはよき師、よき同行との出会いからはじまります。まさに池山栄吉先生が詠(うた)われた、
よき人の仰せにききてみ名を呼べば喚(よ)ばはせたまふみ声きこえぬ ・・・の心です。
私自身も、巡り会った先生方の言葉と生きざまが、今の私を支えています。その一つが、今年13回忌の村上速水先生の晩年のお言葉です。「病気をして嬉(うれ)しいとは思わないが、有り難いと思うようになった。・・・・・・私の場合は、そのよろこびの心境を味わうのに、六、七年の年月が必要であった。ご法義のよろこびもまた、長い間かかって純熟(じゅんじゅく)するものであり、その代わりに、いつまでも決して消えぬ喜びであるように思われる」(「大乗」昭和60年1月号)という、その澄み切ったよろこびの言葉です。この言葉に私は、ずいぶんと心が癒されてきました。愚鈍な私も長い時間をかけて求道(ぐどう)していれば、いつしかみ仏が私を喚(よ)びたまう声が聞こえてくる・・・。京都の浄住寺にある池山先生の名号碑(ひ)の裏には、「オネガイダカラスグキテオクレヨ」と書かれていますが、この仏の願いとみ声が私に聞こえてくるのですね・・・と心に響いてくるのです。また、今年3回忌の浅井成海先生のおかげで、私は浄土真宗のありがたさを素直によろこべるようになりました。昨年、先生のお寺にお参りした時に、坊守さまが「ご門徒の皆さんが、お寺の前を通るたびに、阿弥陀さまと前住職に手を合わせてくださっているのですよ」と何気なく言われたのが心に残っています。思わず、金子大栄先生の「花びらは散っても花は散らない。形は滅(ほろ)びても人は死なぬ」の言葉を思い出しました。お念仏のご縁のあった方々は仏となって、今の私を導いてくださっているのですね。

■親の願い 子どもの姿
「おやさま」と呼ぶ
私たちのご法義、浄土真宗のみ教えは「他力本願」(他力回向(えこう))のみ教えであるとよくいわれます。阿弥陀さまは、ふらふら生きているこの私を、抱きかかえて共に歩んでくださいます。そしてこの娑婆(しゃば)のいのち終われば、お浄土へお連れくださり、私をさとりの身と仕上げてくださるのです。他力本願という阿弥陀さまの願いとはたらきは、私の親となってみせることがその中心であるといえるでしょう。「間違いなく、お前の親はここにおるぞ!安心しておくれ」と、およびくださるその声が、いま私の口から「南無阿弥陀仏」と、お念仏となってくださいます。そして、この私をお念仏する身に仕上げてくださった阿弥陀さまのお慈悲の心に包まれて大きな安心をいただき、私たちはお念仏とともに阿弥陀さまを「おやさま」とお呼びしてまいりました。阿弥陀さまは私をいつも無条件に抱(いだ)いてくださいます。確かにお経(きょう)さまをいただきますと、讃仏偈(さんぶつげ)の最後に、たとひ身(み)をもろもろの苦毒(くどく)のうちに止(お)くとも、わが行(ぎょう)、精進(しょうじん)にして、忍(しの)びてつひに悔(く)いじと、阿弥陀さまが私の親となる決意がうかがえます。阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)のお姿をして、師匠の世自在王仏(せじざいおうぶつ)にひれ伏される厳しいお姿です。でもそのお姿を、厳しい修行と精進のほどを、凡夫である私たちに説き示して見習わせようとされているのではありません。人の親も、どれほど仕事で疲れていても、家に帰って幼い子が飛びついてくれば、笑顔で向き合い、優しく抱きしめます。子にいらぬ詮索をさせまいとの親の慈悲心が、子には疲れをみせまいとさせます。やがて子どもは親の優しさに安心をしつつ、この子の親でありたいという親の強い決心に、親の名を呼ぶ子と育てられていきます。
本当の願いとは
ところで最近、阿弥陀さまを「おやさま」と呼ぶのは、あまりにも感情的すぎる。また具体性がない、現代に合わないなどと、私たち人間の発想で「おやさま」と呼ばなくなっているようです。背景には、阿弥陀さまの願いとはたらきを、今の教育や思想によって把握してしまおうとする傾向があるように思います。「浄土真宗は、わかったといったら間違っている」といわれます。阿弥陀さまのはたらきを、私の知識で理解できると思うなということでしょう。私が理解できるくらいの阿弥陀さまは、私の生き方や考え方が変われば、崩(くず)れていく阿弥陀さまです。そのことにいつも気を付けておくことが大切でしょう。私が大学院の受験に臨んだ時のことでした。試験日の朝、母親が「お前はすでに、私たち両親の願い通りの子どもだよ」と言うのです。その時は、まだ受験もしていないのに不思議だなぁと、思ったくらいでしたが、何かホッとしました。しばらくして、よくわかることができました。私が大学院に進学しようとしたのは、親の願いに応えようと思ったからです。だから何としても合格しなければならないと思っていました。しかし、実際の親の願いは違ったのです。親の願いは、私がお坊さんになることでした。だから、私がお坊さんになることに前向きになった時、親は願いがかない、とてもうれしかったのです。大学院を目指して勉強することとか、ましてその合否は、私が勝手につくり上げた親の願いだったのです。私はそれがわかった時、恥ずかしい自分を思い知らされました。親の願いは、子である私が詮索できるような、浅いものではありません。子が子の知恵で詮索した親は、いつか崩れていく関係です。子はただ、親の願いを親の慈愛を通して安心をもらうだけなのでしょう。私たちは、法蔵菩薩の厳しいご修行があるから「おやさま」と呼ぶのではありません。厳しい姿を隠し、「安心しなさい」と私を抱きかかえて「南無阿弥陀仏」と、お慈悲の仏さまとなってくださった、その阿弥陀さまのおはたらきに救っていただいています。阿弥陀さまを「おやさま」とお慕いし、お念仏申しながら、手を合わせ頭を下げさせていただくばかりです。それが阿弥陀さまの子である姿なのです。

■真夜中のギター
三拍子揃った部屋に
「♪街のどこかに淋しがり屋がひとりいまにも泣きそうにギターを奏(ひ)いている・・・」という歌い出しで始まる『真夜中のギター』という曲があります。いつ頃この歌を聴いたのかは忘れてしまいましたが、なぜだか歌詞に共感し、時折思い出す歌になっています。ただ今回お話しするのは、私が2年半ほど前に体験した「真夜中のギター」についてです。当時、私は引っ越しをしました。新しい住まいは、街中で駅に近くて便利、手頃な家賃、しかも広い、という三拍子そろったマンションでした。下見をせずに部屋を決めたため、引っ越しの当日が初見でした。部屋に入ると、予想以上に広く、これは本当にいい所を選んだなぁと、あらためて満足感でいっぱいでした。しかし、引っ越しを終えて2日目の深夜でした。もうお察しかと思いますが、突然大きなギターの音が響いてきたのです。あまりに大きい音のため、初めはマンションの中に生演奏をするお店があるのかと思ったほどです。実は、階上の住人がミュージシャンで、夜中にギターの練習をしていたのでした。引っ越しの満足感から一転、大変な所に来てしまったのではないかと重たい気持ちになりました。翌日、寝不足の状態で仕事を終え、夕方、不動産会社に連絡して、注意してもらうようにお願いしました。会社側からは、マンションの管理は別の管理会社に委託しているので、そちらに電話してくださいと、そっけないものでした。続いて管理会社へ連絡しましたが、管理しているのはマンションの共有部分だけで、各部屋については管轄外と言われました。結局、全戸への注意書きを掲示板に貼り出してもらうことしかできませんでした。不動産会社に連絡すれば解決すると思っていましたが、なかなか思うように進まず、また、直接、階上の住人に注意できないとなると、すぐには解決しないだろうと暗い気持ちでした。そしてまた夜がやってきました。そろそろ眠りにつこうかという頃、昨日同様、ギターの音が響き始めました。この日はギターに加え、隣の部屋からも大音量の音楽が聞こえてきました。「このマンションは一体どうなっているんだろう」 夕方の会社の対応から始まり、上から横からの騒音。ほとんどの荷物が段ボールに入ったままの殺風景な部屋に一人でいると、だんだん冷静さが失われます。「みんなぐるなんじゃないか」 ありえないことまで考えてしまいます。「こんな状況では眠れないな」と思っていた時でした。外から「カンカンカンカン」と音が鳴りました。ベランダの手すりを叩いたような金属音です。誰がどんな意図で叩いたのかはわかりません。しかし、私には騒音への抗議に聞こえ、「やっぱりうるさいですよね」と妙に安心したのです。そして自分でも驚いているのですが、騒音が気にならなくなり、朝まで熟睡してしまいました。
わかってくれる人が
作家の遠藤周作さんは、人間の「苦痛」というものについて、手術を受けた際の体験から語られています。術後、あまりの激痛に耐えかねていた遠藤さんですが、看護師さんに手を握られて、「この人はおれの痛みをわかってくれるんだと思うとね、痛みがおさまるんです」「人間の苦痛というものには、かならず孤独感というものがつきまとっている」と言われています。この晩の私も、騒音への不快感、怒り、不安などの感情を持っていましたが、その根本には、孤独感があったのではないかと思います。だから、「わかってくれている人がいる」と思った瞬間、安心して眠ってしまったのでしょう。人は一人でないとわかった時、何とも言えないぬくもりを感じます。親鸞聖人は煩悩を抱えた私たちのあり方を「長い夜」、阿弥陀さまのおはたらきを「ともしび」にたとえられ、「弥陀の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり」とお説きくださいました。真っ暗な闇の中で、孤独にうちふるえる私たちを、阿弥陀さまのお救いの光があたたかく照らしてくださっています。

■値遇(ちぐう)─であい
本願寺出版社が発行する「伝道」の編集スタッフとなって、今年で7年目を迎えました。その間、13冊の表紙画に、親鸞聖人のご一生を描かせていただきました。今でこそ、「描かせていただいた」と思っていますが、当初はかなり嫌々引き受けたというのが正直なところです。そのあたりの経緯は、その絵をまとめた拙書『絵とき親鸞聖人』の「あとがき」で愚痴っていますので、ここでは控えます。しかし、このご縁によって、今まで意識することのなかった聖人のお姿に出あうことができました。私は表紙画のスタートをあえて聖人の29歳に設定し、画題を「値遇」としました。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」とまで言い切られる、法然聖人との出遇いを描かせていただきました。13回のうち、ビジュアル的には4回も法然聖人が登場しています。絵に寄せることばにも、「法然」という文字が8回も出てきます。私としては、法然聖人を抜きに、親鸞聖人を描くことができませんでした。親鸞聖人のご生涯は、法然聖人を抜きにしては「浄土真宗」というみ教えもなければ、それを人に語り伝えることもありえなかったと思います。そして、このお二人の師弟関係が、古きよき時代の出来事としてではなく、今日的にも大切な姿として、考えなければならないと思うようになりました。内田樹先生が「師であることの条件は、師を持っていることだ」とおっしゃるのを聞いたことがあります。養老孟司先生からも同様のことをお聞きしたことがあります。「私は師を超えた」と思った時に、その人の成長は止まるわけです。ここで言う「成長」とは、技術や学力の向上とか、経済成長、身体の成長といった計測可能な技量や数値のことではありません。
内田先生のことばを借りれば、「自分の中のどこかに外部へ続く〈ドア〉が開いている、そういう開放性」のことです。「年を取っていようが、体力が衰えようが、つねに自分とは違うもの、自分を超えるものに向けて開かれている。そうやって自分の中に滔々と流れ込んでくるものを受け止めて、それを次の世代に流していく」(『下流志向』)。これが、師が師である姿であるとすれば、親鸞聖人のお姿こそ、私にとっての師であると思います。「師を持つ」ということは、言い換えれば「学ぶ姿にある」と言えると思います。一生超えることのできないものがあるからこそ、人は学び、そして謙虚であることができます。しかし学びを止めた途端、一端極めたものも、それはそれまでであるということでしょう。そこには謙虚さもなくなり、傲慢になります。親鸞聖人が88歳の時に書かれたお手紙には、「故法然聖人は、『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに...」と、本師・法然聖人のおことばを引かれて、愚者としての目覚めと、「信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり」と、信心の大切さを述べておられます。ご自身もお年を重ねられて、すでに、80歳で往生された法然聖人のお年をも超えられてもなお、どこまでも師を師として仰ぎ続けられる親鸞聖人です。だからこそ、師の示された教えをより深く、より広く領解されたのでしょう。そしてアミダ仏の願いとはたらき、その「源」であるお浄土に向き開かれたお姿で、私たちに語り、伝えてくださるのだと思います。「♪師主知識の恩徳も ほねをくだきても〜」と、お気楽に「恩徳讃」を歌っている自身の姿に恥じ入ると同時に、親鸞聖人のご生涯から「生涯聞法」の大切さを改めて教えられる、尊いご縁でもありました。 
 

 

■前(まえ)に生まれた人
花びらは散っても・・・
新緑の季節を迎え、お寺の境内の木々も、とてもきれいな緑色となりました。私が暮らす富山県は、冬になると雪が多く降ります。そして、木々の葉も枯れ落ちてしまいます。しかし、不思議なことに春になると必ず新しい葉が芽吹いてきます。最近、そんなことをよく考えるようになりました。というのも、私にお念仏の尊さを伝えてくれた母方の祖母が昨年秋、お浄土へ往生させていただいたからです。あれからもう半年が過ぎました。祖母は、母の実家のお寺の坊守として、96歳の長寿を全うしました。幼い頃から本当によく私をかわいがってくれた祖母でした。高校生の頃は、ちょうど通学路がお寺の近くで、帰り道にはしょっちゅう寄っていました。祖母は、私と話している時も、台所に立っている時でも、いつも「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」と、お念仏がこぼれていました。そして、「お念仏を大切にな・・・」「み教えをしっかりと聞いてゆくんだよ・・・」と私に話していました。
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)
祖母は身をもって、この世の無常を私に示してくれました。それは同時に、仏さまとなった祖母が、これからもお浄土からこの私を、お念仏とともに、さとりの世界へと導いてくれることでもありました。
「花びらは散っても、花は散らない」(金子大栄)
たとえ木々の葉が枯れ落ちても、新たな葉が芽吹くように、仏法という大地に根を下ろした人は、その命亡き後も、残された有縁の者を導いてくださいます。
親鸞聖人は、ご和讃に
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量(じっぽうむりょう)の諸仏(しょぶつ)は 百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して よろこびまもりたまふなり ・・・と詠(うた)われました。
今生(こんじょう)で祖母と会うことはもうありません。しかし、私が南無阿弥陀仏とお念仏する時、仏さまとなった祖母が寄り添ってくれているんだと感じます。
連続して途切れなく
世間一般では、亡き方に対して「供養」という言葉をよく使います。これは、ご先祖のたましいをなぐさめることのように使われていますが、仏教本来の意味ではありません。供養とは「供(そな)え養(やしな)う」と書きます。「供給資養(くきゅうしよう)」の意味だそうです。仏さまに対して、お敬いのこころで、お香やお花、お灯明(とうみょう)、飲食物などをささげることをいいます。つまり、亡き方がなぐさめてほしい、物を供えてほしいと願われているのではなく、残された私たちが仏さまを敬い、仏さまとなられた亡き方を偲んで、こころからお供えさせていただくのが「供養」なのです。しかも、「供えている」側であるはずのこの私が、実はお供えすることを通して、仏さまをお敬いするこころを「養われ」ているのです。この私が、亡くなられた方をなぐさめるのではなく、亡き方の生前のご恩、これからのお導きに対して感謝し、お敬いのこころで供養させていただくのです。それだけではありません。ご本尊に礼拝(らいはい)し、み教えが説かれた聖典を拝読し、仏さまとなられた亡き方を偲び「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」とお敬いのこころでお讃(たた)えすることも、大切な「供養」なのです。
親鸞聖人は、主著である『教行信証』の一番最後のところに、「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなり」とお示しになりました。前に生まれたものは、後のものをお念仏の道へと導き、後から生まれたものは、前に生まれた方にみ教えを尋ねていき、連続して途切れないようにしましょう。なぜならば、数限りない迷いの人々が一人残らず救われるためです、と親鸞聖人はおっしゃっています。美しい緑の木々を眺めるたび、聖人のお言葉が心にしみる今日この頃です。

■友人としての姿
ただ聞いてほしい・・・
「友人」。どのような人を指すのでしょうか。広い意味から狭い意味まで、さまざまな形があるでしょうが、一つ考えさせられた出来事があります。先日、友人のYさんから相談したいと連絡があり、一緒に飲みに行くことになりました。すると、Yさんには付き合っていた恋人がいたのですが、別れたというのです。私はYさんがその恋人と結婚するだろうと思っていたので、非常に驚き、かける言葉が出てきませんでした。かろうじてできたのが、Yさんの言葉に対して「そうなんや、そっか〜」と、うなずくことだけでした。その後も、Yさんは、別れた経緯について自身の感情を交えて話していましたが、しばらくしゃべり続けた後、落ち着いたのか少し沈黙が続きました。そこで私が少し慰めるつもりで、「でも、切り替えて新しい恋にいったらいいと思う」と言うと、私の思いとは逆に、Yさんの顔つきが変わったのです。その後もいろいろ話してはくれますが、何か不満そうな顔つきをしています。それから一時間くらいで別れたのですが、その後もずっとYさんの態度が気になり、Yさんがどのような心情であったかをいろいろと考えてみました。すると、もしかしてYさんは私に相談したいと言いながらも、私の意見がほしいと思っていたのではなく、ただ自分の話を聞いてほしかったのではないか、と思うようになりました。私は相談にのってほしいと言われ、相手に頼られていると思い、何かアドバイスする必要があると考えていたのです。頼りにされれば「何か言ってやらなくてはならない」と、相手が気付かないことや納得しそうなことなどを頭の中でたくさん考えて、相手の役に立たなければならないと必死になっていたのだと思います。しかし、Yさんにとっては、ただ自分の思いの丈(たけ)や感情を発散したかっただけ、もしくは誰かに認めてほしかっただけなのかもしれません。いや、きっとそうであったでしょう。もし私がYさんの言葉に素直に耳を傾けて聞くことができていたなら、Yさんは自身が打ち明けた怒りや悲しみなどの感情を共有してくれているという気持ちになり、安堵の表情を見せたのではないかと思うのです。私は、そのYさんの態度から、相手の思いをそのまま受け入れていくことは大切であり、「無条件に相手を受け入れる」という「友人」としての姿に気付かされたのでした。
大いなる慈悲
人は誰かに助言を求められた時、自分の経験や考えをもってアドバイスしようとします。その思いは相手の気持ちに完全に応えることができるわけではありません。その相手が自身のことを認めてほしいと思っていたとしても、それを完全に受けとめることができず、それどころかアドバイスを強要することすらあるのです。親鸞聖人が「小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて」とおっしゃるように、私たちはそのような小さな慈悲さえも持ちえないのかもしれません。
『仏説観無量寿経』には、
仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり。無縁(むえん)の慈(じ)をもつてもろもろの衆生(しゅじょう)を摂(せっ)したまふ ・・・との言葉があります。
阿弥陀さまの慈悲とは、大いなる慈悲です。「慈悲」は抜苦与楽(ばっくよらく)ともいわれ、仏・菩薩が私たちの苦しみをとりのぞき、楽を与えることだと示されています。阿弥陀さまは大いなる慈悲で常に私たちをみておられ、「ありのままでいいんだよ」とすべてを認めてくださっています。喜びや悲しみをそのまま受けとめてくださるのが阿弥陀さまなのです。今思うと、私が発した言葉の内容くらいのことならYさん自身もわかっていたはずであり、Yさんの感情を共有しようとしなかったことを反省しています。どこまでも自分のはからいをもってしか相手の気持ちを汲(く)めない私であることを、阿弥陀さまに見抜かれて、自分の姿を省みる良い縁をいただきました。

■最後のお弁当
私は自称シンガーソングボンサンとして、自作の歌や替え歌をギター弾き語りで法話に挟み、み教えを味わい伝えています。その中で毎年、梅雨の時期になると思い出す悲しい出来事と歌があります・・・。
忘れられない歌
西井真菜実ちゃんは、じょうせん保育園に通うとっても明るくかわいい女の子でした。5歳の誕生日が過ぎてすぐの暑い暑い6月最後の土曜日の午後。当時は、まだ学校週休二日制実施前のことです。お昼すぎに保育園からおうちに帰った真菜実ちゃん、お昼ごはんもそこそこに「行ってきまーす!」と仲の良いお友達と遊びに出かけました。梅雨の合い間の快晴の午後、気の早いセミの鳴き声が響く中、田植えが終わったばかりの田んぼの中のあぜ道をお友達と走りまわっている姿が、近所の人たちの見た最後の真菜実ちゃんの元気な姿でした。その日の夕方、近くの小さな公園にあるブランコから落ちて頭を打ち、意識不明になってしまったのです。救急車で病院に運び込まれ、すぐさま手術を受けましたが、すでに脳死状態でした。病室のベッドに寝かされた真菜実ちゃんの姿は、人口呼吸器から伸びた透明パイプが口に固定されている姿が痛々しく、また規則的に「プシュー・・・プシュー・・・」というポンプ音に合わせた胸の動きが不自然なほかは、体温や皮膚の色も普段のまま・・・閉じた目も少し涙で濡れていて、とてもすでに死亡しているとは思えませんでした。わが子の額(ひたい)を撫(な)でながら「痛かったら我慢しなくていいよ。いつもは頑張り屋さんの真菜実だけど・・・今日は泣いてもいいんよ」というお母さんの呼びかけに、今にも甘え声で泣き出しそうな・・・まさに眠っているような姿でした。家族中つきっきりの看病の末4日目の夕方、とうとう人口呼吸器が外され、お別れの時がきました。次の日にお通夜、その次の日がお葬式でした。親類、縁者、村中の人々や保育園のお友達・家族など、数百人の見送りの中で読経が終わり、やがて火葬場へ出棺。子ども用の棺(ひつぎ)は切ないほどの小ささでした。
1.ここは御浄土(みくに)を何億土(なんおくど) 離れて遠き苦の浮(う)き世(よ)
 わずか5歳の娘でも 無常(むじょう)の風にさらわれる
2.思えば悲し今しがた 元気に遊びに出たものを
 事故の知らせに駆けつけば 泣き叫びさえしてくれぬ
3.これが我が子の見納めと 夜どおし眠らず4日間
 どうか夢であってくれ 誰か嘘(うそ)だと言ってくれ
4.かわいい着物に薄化粧 帽子におもちゃにお人形
 最後のお弁当持たせつつ この母さんを忘るるな
5.あきらめきれぬ別れでも また会う浄土(くに)があると聞く
 静かに名号称(みょうごうとな)えれば 浮かんできますあの姿
 聞こえてきますあの声が 聞こえてきます・・・ あの声が・・・
そのお弁当のおにぎりは、真菜実ちゃんが見て喜ぶように大好きなドラえもんの顔になっていました。大きさは真菜実ちゃんがちょうど食べやすい大きさです。味は真菜実ちゃんが一番好きな味つけです。親でないと作ることができない、わが子だけのためのおにぎりでした。南無阿弥陀仏とは、この「私」が仰ぐご本尊として、また称えやすいお念仏として、そして心で味わえるご信心として表れてくださり・・・悲しいくらい、お前がかわいいよ・いとしいよ・大切だよ・・・とのお慈悲のおにぎりであると、私は味わわせていただきました。今年も、まもなく命日です。
満中陰に寄贈された玄関ゲートに「平成二年六月二十七日 寄贈 西井真菜実」とお名前を入れました。今日もそれをくぐり登降園するかわいい園児たちを見守ってくれています。

■いのちの輝き
日本産か中国産か?
今年の春は、野生放鳥されたトキ(朱鷺)の卵からヒナが誕生したというニュースがありました。「ニッポニア・ニッポン」という学名を持つトキ。19世紀までは東アジアに広く生息し、よく見かける鳥だったようですが、20世紀には乱獲や開発による環境変化によって激減したようです。日本の自然界で絶滅状態に陥る中、佐渡にあるトキ保護センターで少しずつヒナの数を増やし、数年前からは野生復帰をめざして放鳥を重ねてきました。4月22日には、野生下でのヒナの誕生が確認され、5月下旬には7羽のヒナが順調に巣立ちを始めました。私はこのニュースを聞きながら、十数年前の出来事を思い出しました。それは、蓮如上人500回遠忌法要が本山で厳修された翌年、1999年春のことです。既にこの時点で、日本における野生のトキは0羽、トキ保護センターでも1羽のみとなっており、日本のトキによる人工ふ化は不可能となっていました。そのため、中国からトキのペアを譲り受けて、このペアによる人工繁殖がトキ保護センターで行われていました。そして、この年の5月21日に、1羽のヒナが誕生したのです。このニュースは日本中を駆け巡りました。ところがヒナの誕生が一つの論争を生み出したのでした。それは「このヒナは日本のトキか?中国のトキか?」というものです。「両親は日本へ贈呈されたものだし、佐渡で生まれたのだから日本のトキだ。日本のトキ絶滅は避けられたのだ!」 という意見と、「たとえ佐渡で生まれようと、もともと両親とも中国産のトキなんだから、生まれたトキも中国のトキだ。日本のトキはもう絶滅するのだ!」 という意見の対立です。
私自身は後者の意見に賛同していたので、ヒナ誕生のニュースが流れても醒(さ)めた目で見ていました。そんな時、長年トキの保護に尽力されていた方が、この論争についてインタビューに答えておられるのを見ました。「トキには日本も中国もありません。国境は人間が作ったものです。人間によって絶滅の危機に追い込まれたトキの"新たないのちの誕生"を、どうして素直に喜べないのですか・・・」 このコメントを聞いて、とても自分が恥ずかしくなりました。トキの"新たないのちの誕生"を見ているつもりだったのですが、結局は日本か、中国か、ということに執着している自分自身の姿が照らし出されたのでした。
決して見捨てない
浄土真宗は、阿弥陀如来のはたらきによって救われると説きます。そのはたらきは光となって届くと示されています。いつでもどこでも、決して私を見捨てず、護り育ててくださる光です。それだけではありません。光には、私の本当の姿を照らし出すというはたらきもあります。阿弥陀如来の光は、自ら認めたくないほどの、情けなく恥ずかしい私の姿を知らしめながらも、その私を決して見捨てないというはたらきです。そのはたらきが依りどころとなり、私の歩むべき方向を示してくださるのです。私は、「新たないのちの誕生をどうして素直に喜べないのですか」というコメントによって、いのちの価値を自分の都合でしか見ていなかった己(おのれ)の姿を知らされました。このコメントは、私にとって阿弥陀如来のはたらきのようにも思えます。阿弥陀如来は、私の自己中心性を知らしめた上で「仕方ないよね。いいよいいよ」と甘やかす仏さまではありません。でも、「もう、おまえはダメだ」と切り捨てる仏さまでもないのです。阿弥陀如来は「おまえのことがほっとけないんだ」と、私とずっと一緒にいてくださる仏さまです。あれから10年以上経ちましたが、トキのニュースを聞くたびに、わが身を振り返らされています。ついつい自分勝手な価値観でいのちを見ている私に、「本当のいのちの輝き」を教えてくれるのです。

■大いなる灯火
あんたどこにおる?
昨年の春に九州新幹線が全線開通し、実家の近くにも新幹線の駅ができました。以前は、京都から九州方面の新幹線に乗ると終点は博多駅でした。そこから在来線に乗り換えてしばらくすると、だんだんと緑が増え、見慣れた故郷の景色が広がってきます。新幹線の駅ができたことで、時間の短縮にはなりましたが、まだなかなか慣れません。その新幹線の駅で初めて降りた時のことです。私の実家は、田園に囲まれた地域にあって、今の季節は虫の声がよく響く、のどかな場所にあります。そんな地域にできた新幹線の駅ですから、初めて降りた時は、そこだけ異空間のようでした。天井が目映(まばゆ)いばかりにピッカピカで、「すごいのができたなあ」と感心しながら改札を抜けました。しかし、一歩駅を出ると辺りは真っ暗でした。母と出口で落ち合うことになっていましたが、姿が見あたりません。反対側かと思い、そちらへ行ってみると、そこにも見あたりません。すぐ近くに在来線の駅があり、そっちだったかもしれないと思い、さらに行ってみましたが、やはり姿はありません。ウロウロとして最初に出た所まで戻ってきてしまいました。よく考えたら具体的な場所を決めていなかったのです。慣れた駅ならば、どこの出口ということは言わなくても暗黙の了解でわかるものですが、初めて降りた駅です。実家から車で10分ぐらいの場所にあり、私は妙に慣れたつもりでいたのですが、向かうべき実家がどの方向にあって、駅のどの出口から出ればそちらに近いのか知らなかったのです。その時です。携帯電話が鳴りました。母からです。「あんたどこにおるとね?」 「どこって・・・」 遠くに明かりは見えますが、あたりは真っ暗で、東西南北を判断するような目印は見つかりません。「駅の表ね? 裏ね?」 「表か裏かわからん・・・」 自分がどの方向を向いて立っているのかわからないのですから、表も裏もあったものではありません。「何が見えるね?」 「広い駐車場・・・」 「わかった。そしたらそこまで行くけん。そのままそこにおりんしゃい」 電話を切って間もなく、真っ暗な景色の中に母の車のライトが見えました。母の話を聞いて車に乗って、はじめて私がどちらを向いていたのかがわかりました。
迷いに気付かない私
仏教では、私自身のあり方を「迷い」と言います。それは、私が苦悩の解決のために歩むべき方向を知らず、知らない私であることさえも気付いていない、煩悩をそなえた存在であるからです。阿弥陀如来という仏さまは、そのような私であることを知って、放(ほう)ってはおけず、必ず救うと願われた仏さまです。親鸞聖人は、阿弥陀さまのことを光の仏さまであると、そのご著作のさまざまなところでおっしゃっています。
『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』には、
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ ・・・と、阿弥陀さまの必ず救うと誓われたご本願を、絶えることのない大きな灯火に譬(たと)えられています。
夜の闇の中にある大いなる灯火のように、迷いながらの人生にも、この私を照らす光があるのです。親鸞聖人は、迷いを打ち破る眼(まなこ)がないからといって悲しむことはない、とお示しになられています。それは、ほかならぬ阿弥陀さまがおられるからです。進むべき方向も知らずにウロウロと迷い、自分の居所がどこなのかもわかっていない私であることを知って、「そこまで行くけん。そのままそこにおりんしゃい」と言ってくれた母のように、阿弥陀さまはこの私のもとに南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって喚(よ)びかけ、至り届いてくださっています。そして、この私をお浄土へ迎えとり、仏とならせてくださるのです。

■亡き友を縁として
アメフトの練習中に
毎日毎日、暑い日が続いています。8月といえば、お盆を思い浮かべられることでしょう。私には、お盆になると必ず思い出すことがあります。それは亡き友のことです。私は学生の頃、とある大学のアメリカンフットボール部に所属し、日本一を目指して仲間たちと日夜励んでいました。学生アメフトは9月初旬からはじまる秋のシーズンが本番で、わが部では毎年8月のお盆の頃に1週間ほど合宿し、集中して練習を重ねるのです。最終学年の4年生になると、最後のシーズンですから、自ずとより一層気合いが入り、練習の強度も増すことになる、というのは想像に難くないかと思います。私が4年生の夏合宿最終日、最後の追い込み練習を終えた時、一人の選手が倒れて意識を失ってしまいました。彼は私の同期で、当時の学生アメフト界において名の知られた優れたプレーヤーでした。すぐに救急車の手配をしましたが、山の上の合宿所ですから、到着までかなりの時間を要しました。やっとの思いで搬送されましたが、みんな気が気ではありません。最終日ですので次の団体のために合宿所を明け渡さなくてはなりませんから、それぞれ不安な思いを抱えながら私たちは帰路につくこととなりました。
危うい存在の私を
帰りの貸切バスの中、逐一、彼の容体が伝えられますが、芳しいものではありません。そして伝えられたのです。彼が亡くなったと。何とも言えない重たい空気が車内を支配しました。その時に、私のこころにふっと浮かんできたのは、「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世(よ)の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり・・・されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身(み)なり・・・」という蓮如上人の「白骨の御文章」の言葉でした。それまでも祖父や曾祖母の死は経験していましたが、まざまざと、「無常」ということを、「生まれたからには必ず死なねばならん。それは年寄りだろうが若かろうが関係ない、いつでも死ぬのだ」ということを、突きつけられ思い知らされたのはまさにこの時でした。と同時に、「あのとき練習をやめさせていれば・・・。自分がアイツを殺してしまったのではないのか・・・」と、助けられなかった後悔と自責の念を抱きました。この思いは拭(ぬぐ)っても拭いきれません。おそらくこの先もずっと持ち続けていくものと思います。ともかく、この出来事が、浄土真宗のみ教えを聞いていく一つの縁となったことは間違いありません。このようなことですから、「やっぱり自分は救われてはいけないのではないか。相応の罰を受けるべきではないのだろうか」と思うこともあります。しかしその反面、例えば自分の気にくわないものに出あうと、「早くいなくなってほしい」と思って恥じもしないこともあるのです。まさに私というものは、何を考え、何をしでかすかわからない危ない存在です。けれども、阿弥陀さまはそんな私のことなど百もご承知で、「必ず救う、われにまかせよ」と喚(よ)び続けてくださる。本当にもったいないことだと思います。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世(ごじょくあくせ)にかへりては 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益衆生(りやくしゅじょう)はきはもなし ・・・と詠(よ)まれています。
阿弥陀さまのご本願のはたらきによって、お浄土に往生し仏さまと成らせていただいたものは、大いなる慈悲のこころをおこし、再びこの迷いの世界に還(かえ)り来て、迷いのなかで苦しむ一切の生きとし生けるものを自在に救うはたらきをしていく。この還相(げんそう)ということは、私の「人生の目標」として大変大事なことです。これも浄土真宗のみ教えの素晴らしいところであり、私の大きな支えとなっているように感じます。また気持ちを新たにして、み教えを聞き続けていきたいと思います。

■いのちは誰のもの
本人でも私物化ダメ
昨年11月21日、落語家の立川談志さんが亡くなりました。75歳。「最後の名人」「100年にひとりの天才」などと、談志さんの名声は死後ますます高まりました。その凄(すご)さが多方面から語られているため、生前は談志さんの落語に興味がなかったけれども、あらためて聴いてみたいと思った人が少なくないようです。そのために死後続々と新たにDVDやCDが発売され、よく売れているようです。ある人が、談志さんのお弟子さんにこう聞いたそうです。「いろいろ発売されているので、どれを聴いたらいいかわかりません。これが談志のおもしろさだ、これを聴けば談志の凄さがわかると言えるような噺(はなし)をひとつ推薦してください」 それに対するお弟子さんの答えはこうでした。「それなら、志の輔の落語を生で聴いてください」 そのお弟子さんの言いたいことはこうです。談志の落語の凄さやおもしろさは生で聴いて初めてわかるもの。いや、談志に限らず落語というのはそういうもの。たしかにDVDやCDで落語を聴くのもいいが、それはもはや記録でしかない。でも、談志の生きた落語は、志の輔に、志らくに、談春に、談笑に、その他の弟子の落語の中に確実に生きている。その弟子たちが今、高座にあがっている。だから、談志の落語を今聴きたかったら、その弟子の落語を生で聴いてほしい。そこに必ず談志は生きている、と(コラムニスト・堀井憲一郎氏の発言より)。このお弟子さんのことばを私は、とても仏教的いのち観に重なるなあと受け止めました。談志さんの落語は、談志個人が私物化できるものではなく、弟子たちと共有されていたのでしょう。ここでの「落語」を私は「いのち」と読み替えます。談志さんのいのちは記録や思い出の中にではなく、弟子のいのちの中にあります。談志さんのいのちは弟子をはじめとする多くの方々が共有しているのです。
落語は人間の業の肯定
「君のいのちは誰のもの?」と問われたらどうお答えになりますか。「ぼくのいのちはぼくのもの」 小学生でなくてもほとんどの人がそう答えるでしょう。でも仏教的にこの問いに答えるなら、「誰のものでもありません」。仏教から見たいのちは、その身ひとつの中に小さく収まっているものではなく、縁にしたがって大きくひろがり大きくつながり大きくはたらいているものです。到底私物化できるものではないのです。それを私物化できる、と疑わなくなってしまったところから、社会の分断化と人の孤立化が始まったと考えるのは、大げさではないと思います。「落語とは人間の業の肯定である」。談志さんが弱冠28歳にして著した『現代落語論』にあるこのことば以上に、落語を一言で表わしたことばを知りません。ろくでもない人間のろくでもなさを、どうしようもねえなあとひっぱたきながら抱き取る。「肯定」と言ってしまうと開き直りのようですがそうではなく、みっともなくしか生きられない人間への静かなまなざしがここにあります。そこに私はどうしても親鸞聖人のまなざしを重ねてしまいます。「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」。条件と環境によっては、どんなにしないでおこうと思っても悪いことをしかねない、あるいは思いがけずも良いことをしかねない我(わ)が身であると表白(ひょうびゃく)し、賢(さか)しらに厭(いと)うことなく隠すことなく、そんな我が身であったと肯(うなず)いていった親鸞聖人のことばが、先の談志さんのことばに重なります。談志さんは宗教嫌いと自称し、最期まで破天荒な発言を続けていました。しかし、その言葉とは裏腹に、芸や生き方から弟子たちや観客へ宗教的な深みを湛えたものを伝えていたように思えてなりません。談志さんの公式ウェブサイトは今も開設中です。タイトルはなんと「地球も最後ナムアミダブツ」。

■仏さまはみてござる
生涯の座右の銘に
親鸞聖人は、「正信偈」に、
煩悩(ぼんのう)、眼(まなこ)を障(さ)へて見(み)たてまつらずといへども、大悲(だいひ)、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照(て)らしたまふといへり ・・・と述べられ、絶え間なく照らす如来大悲のはたらきを讃(たた)えられています。
どんな苦悩の日々にあっても、如来さまと共に歩む人生は、まことに力強い人生です。著名な布教使であった愛知県の宮部円成(みやべえんじょう)氏は「みてござる」を生涯の座右の銘にされたのでした。「誰も見ていなくても、仏さまが見ておいでだ!」 いかなる場面でも、「無倦(むけん)の大悲」のはたらきをわが身に感じる生き方は、時として、厳しい誡(いまし)めを与えてくださいます。私たちの日常生活では、「相手」や「周囲の人々」、さらには「世間」の視線を敏感に意識することが、極めて多いです。「こんなことをしたら、あの人にどう思われるだろうか?」 「ああ言ったけど、世間の不評をかいはしないだろうか?」 これが、私たちの善悪判断の基準の一つになっています。その一方で、人間の理解や思考の世界を超えた「大悲の光」を身近に感じている人が、はたしてどれほどいらっしゃるでしょうか。「よいこと」をした時は「一人でも多くの人に知ってもらいたい」と願い、「悪いこと」は、どこまでも隠したい私たち。しかし、如来さまは常に「みてござる」のです。
そうせざるを得ない?
「ご講師さん。明日、和上(わじょう)さまのお墓にお参りしんさるか?」 一昨年、島根のあるお寺へ布教のご縁をいただき、初日の法座が終わって玄関を出た時、一人の年配の男性が、石見(いわみ)弁で遠慮がちに声をかけられました。「和上さま」とは、明治時代の服部範嶺勧学(はっとりはんれいかんがく)のことで、私の寺の四代前の住職と縁があり、たいそうお世話になったと聞いていました。その日、偶然にも服部和上がそのお寺のご門徒の出身であると伺(うかが)い、ご法話の中で感謝の思いの一端を述べさせていただいたのでした。もちろん、ぜひお参りしたい気持ちでいっぱいでしたが、布教先での勝手な行動はご迷惑だとの心配が一瞬胸をよぎり、「もしお座の前に時間があれば・・・」と、中途半端な返事でお茶をにごしてお寺を後にしました。幸い翌日は、早目にお寺に到着できました。すると昨日のお同行(どうぎょう)が、駐車場の一番出やすい場所に車を置いて、私を待っていてくださったのです。お寺の裏山のつづら折れの急坂を登りつめた林道の終点に車をとめ、「ここからは少し山道を歩いてもらわにゃ」という案内に促され車を降り前を見た時、一瞬わが目を疑いました。雑草が生い茂っていたであろう数十メートルほどの墓地への参道が、きれいに除草されているではありませんか。このお同行は、おそらく何時間もかけて、あやふやな返事しかしていない私のために草刈りをされたのです。もし万が一、その日の時間の都合で墓参ができなかったとしたら、大変な努力は徒労に終わってしまうのに・・・。
いや、それはちがう!たぶんお同行は、私に見せたくて掃除をされたのではない。私が行こうと行くまいと、それ自体この方にとってさして重要な意味を持たなかったのでしょう。それよりも、この方を突き動かしたのは、服部和上への報恩の思いであり、さらに常に我を照らしたもう如来の大悲を身に受けて「そうせざるを得ない」ご催促に出あわれていたからではないでしょうか。「これは、何ともったいない」 精いっぱいの感謝のことばを探している私に対し、「なあに、朝露はすべりますけーな。気ぃつけちゃんさい」 それ以上は何も話されず、ただ「ナンマンダブツ・・・」と念仏を称えながら、飄々(ひょうひょう)と坂道を登っていくお同行の後ろ姿にそっと手を合わせ、私も共に称名念仏させていただくばかりでした。石見の地は、まさにお念仏の「土徳」篤(あつ)きところでした。「大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」と、いかなる厳しいご縁に出あっても、いつも如来さまが「みてござる」とお念仏もろとも、強く明るく日々を生き抜きたいと思います。

■大悲の絆の中で
宗派をこえて聴聞
8月に、四国の自坊に帰省しました。京都での生活がとても多忙で、なかなか時間が取れなかったのですが、小学校1年と幼稚園の子どもたちが、リュックサックに宿題や着替えを詰め込んで、「早く帰ろう」と急(せ)かすものですから、渋々(しぶしぶ)応じた感じでした。お寺に着いて玄関の戸を開けると、懐かしい家の匂いがして、帰ってきたという安堵(あんど)感が湧きました。子どもたちは、早速、自分の玩具箱を持ち出し部屋中に広げたり、おばあちゃんのお手伝いをするといって、本堂の掃除の手伝いに真剣でした。そして水を得た魚のように、蝉しぐれの境内を走り回り、クモがいると大声を上げ、ムカデがいると血相を変えて報告にきたりで、すっかりわんぱく小僧に戻っていました。自坊では、夏季に4日間、お盆行事として、朝6時から仏典講座が開かれています。『法句(ほっく)経』のパーリ語の原典と、漢文・英語・日本語の諸訳とを読み比べて、お釈迦さまの教えを味わうのです。参加者の中に、英語、漢文に堪能な方々がおられるので、それぞれ分担して味読し合います。宗派や門徒の別を問わない30人程のグループという雰囲気です。それでも30年以上続いています。まず「礼讃文(らいさんもん)」を唱和して始まりますが、皆お念仏・礼拝しているのは、ご本尊の阿弥陀さまからのおよび声があるからでしょう。仏法は毛穴から入るものだとつくづく思います。
お彼岸に想う
お盆も終わり、9月はお彼岸。曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花の色を見るにつけても、お浄土に想(おも)いを馳せる時節です。『仏説無量寿経』には、お釈迦さまが「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)、いますでに成仏(じょうぶつ)して、現に西方(さいほう)にまします。ここを去ること十万億刹(じゅうまんおくせつ)なり。その仏の世界をば名づけて安楽(あんらく)といふ」と弟子の阿難(あなん)に説法され、その世界は果てしなく広々として大きく限りがないことを、言葉を尽くして説明しておられます。なぜ西方か、ということについて、唐(とう)の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、東は生の始め、西は死の終わりを表し、心の落ち着くところとして西方を選んでいると説明され、善導大師(ぜんどうだいし)は西方を指し示して、煩悩のために心が乱れて安定しない凡人に、正念(しょうねん)を得させるためであるとお示しくださっています。思いますに、西方は太陽もお月さまも等しく目指す方角であって、懐かしく大恩ある両親や祖父母がまします世界であり、この私もやがて往(ゆ)き生まれる世界でもあります。したがって、私どもの生の依るところ、死の帰するところ、それが阿弥陀さまの西方浄土、さとりの世界と領解(りょうげ)いたします。
大悲の絆
九州の友達から「いのちの絆(きずな)を思う」という法話レターが届きました。絆とは、絆創膏(ばんそうこう)の「絆」ですから、「つなぎとめるもの」の意です。また、人間関係に用いるときは、人と人との断つことのできないつながりの事実、離れがたい結びつきを指します。英語で言えば「ボンド」です。
「正信偈(しょうしんげ)」をおつとめするとき、ご和讃の第一首目に、
弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは いまに十劫(じっこう)をへたまへり ・・・とありますが、私たちは、すでに十劫の昔から阿弥陀さまの大悲の絆に結ばれていたということに気付かされます。同時に、日々の生活は、報恩感謝の姿勢であるべきですが、散乱にして放逸(ほういつ)の生きざまに明け暮れていることを恥ずかしく思うばかりです。
私どもの暮らしの行事の中に、春秋のお彼岸や、お盆、あるいは報恩講があるのは、阿弥陀さまの大悲の絆を偲ばせていただく、気付きの機会でもあると思うのです。千載一遇(せんざいいちぐう)の大悲の絆に気付かせていただき、二度とないこの人生を深く顧みて、生かされて生きる今後に思いを馳せるべきでありましょう。『法句経』182偈をいただいて結びといたします。「人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい」

■ともに会える世界
極楽は無量光明土
お彼岸の季節です。彼岸とは「彼(か)の岸」、すなわち「さとりの世界」を表し、いのちの向かうべき方向を示しています。ところが、お葬式の弔辞や弔電を聞いていますと、いのちの行く末がさまざまな言葉で表現されています。「草葉の陰」はお墓のイメージでしょうか。「葬」の字は草の上に死体を載せてその上に草が生えるイメージと聞いたことがあります。「天国」は、仏教では六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いの境涯。なかでも一番上の「非想非非想処天(ひそうひひそうしょてん)」の別名が「有頂天(うちょうてん)」で、あとは堕(お)ちるしかない世界とされています。「黄泉(こうせん)の客」の黄泉はヨミの国、亡くなったイザナミノミコトを追いかけて行ったものの、ウジがわき腐って醜い姿になっているのに驚いて、イザナギノミコトが一目散に逃げ帰って来た世界。ケガレを落とすために海水でミソギをしたことから、清め塩の風習が生まれたという説もあります。「ご冥福を祈ります」の冥福は、冥土(めいど)の幸福。冥土とは冥(くら)い世界、冥い世界の幸福ってどんな幸福なんだろうか、冥福の祈り方を知っている人はいるのだろうか、などなど考えれば考えるほど、一般的にはあまり良い世界には行けないことになっているのだと思います。そんな中で有り難いことに、私たち念仏者に示された阿弥陀如来の極楽浄土は「無量光明土」、光り輝くさとりの世界とされています。まことに願うべきは極楽浄土ですね。
会いたい夢でもいい
さて、数年前ですが、テレビの報道番組を見ていました。小学1年生の男の子が殺された事件からちょうど1年ということで、番組の中で事件の経緯が流され、リポーターが被害者のおばあさんのお宅を訪ねてマイクを向け、いろいろと尋ねています。その中でリポーターが「お孫さんの夢を見ますか」と尋ねました。するとおばあさんは「夢でもいいから、もう一度会いたい」と、消え入りそうな声で答えていました。「夢でもいいから、もう一度会いたい」 その言葉から、おばあさんの万感の思いが伝わってきました。このおばあさんは「孫の夢を見たい」と単純に言っているのではありません。「もう一度孫に会いたい」というやるせない思いが、「たとえ夢であっても、もう一度会いたい」という言葉になって表れているのだと思いました。お釈迦さまは私たちの現実を「一切皆苦(いっさいかいく)」と示し、さらにその苦の内容を生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の四苦、さらには愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えた八苦に分類されました。孫を殺された祖母の苦しみは愛別離苦、どんなに愛しく思い、どれほど一緒にいようと思っていても別れていかなければならない苦しみそのものです。
子どもを亡くした親が「うちの子はどこへ行ってしまったんでしょう」と尋ねるとき、本当はどこへ行ったかが問題ではないのだろうと思います。「私も同じところへ行きたい」「どうしたら子どもと同じところへ行けるのか」が問題なのでしょう。先立って逝(い)った者と、今ここに生きている私が再び会えるのか、同じ世界に生まれることができるのかということが、私たちにとっての大問題なのです。阿弥陀さまは私たちの苦悩の現実を見抜かれて、あらゆる衆生をもらさず生まれさせることのできる世界として極楽浄土をご用意くださいました。「倶会一処(くえいっしょ)」――倶(とも)に一つの処(ところ)で会える世界として、お浄土の存在をお聞かせいただかなければ、私たちは安心して人生を歩んでいけないのではないでしょうか。お念仏のみ教えは、一生涯を精いっぱい生き抜いた一人のお方が、この世の命を終えるとともに、お浄土に生まれて仏さまとしての歩みを始められていると受け止めて、敬いの心でお見送りすればよいのだと教えてくださいます。見送る側の私もまた、故人と同じく阿弥陀さまのはたらきで浄土に生まれ仏になるべきいのちをいただく者として、自らの生き方を仏さまの教えに学びながら、残りの人生を精いっぱい歩ませていただきたいものです。 
 

 

■み光につつまれて
美しい夕日に想う
ある秋の日に、長男と一緒に買い物に行こうと自転車を走らせていました。すると、眼前にとてもきれいなあかね色の夕焼けが見えました。自宅の近くは高い建物が多く、あまり美しい夕焼けを見ることができませんが、自転車を走らせていたJRの線路沿いの道には、障害物がないので見えたのでした。「きれいな夕焼けだね」と息子と話をしながら、しばらく眺めていました。それから数日後、仕事を終えて帰途についたところ、ふっと西にある本願寺の方を望みますと、見事なあかね色の夕焼けが見えました。御堂(みどう)のはるか西の空が真っ赤に染まっているのですが、御堂がその中で浮かんでいるように見えたのです。「わー、まるで西方浄土だ」と感動しました。その時、きれいに見える夕焼けを西方浄土のすがたと重ね合わせていたのでした。しかしながら、そのあかね色の光は、毎日のように、この私を照らしていたはずなのですが、平素は、そのことに気をとめるわけでもなく、家の周りは高い建物が多いとか、日々の生活が忙しいとか言いながら、毎日を過ごしています。
親鸞聖人は『高僧和讃』に、
煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり ・・・と、阿弥陀さまのおはたらきを讃仰(さんごう)されています。
高い建物があるとか、日々の生活が忙しいからとか、ついつい自分以外のもののせいにしてしまう私ですが、阿弥陀さまはそういう私であっても、いやそういう私こそ、救いのめあてとして、はたらき続けてくださっています。
ひとりじゃない
金子みすゞさんは「さびしいとき」という詩をつくっておられます。
私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。
私が苦しみ悲しみ寂しがっている時に、阿弥陀さまは私と同じく苦しみ悲しみ寂しがってくださっています。人生を歩んでいく中で、楽しくうれしい時もありますが、悲しいこと、苦しいことも必ずあります。そのような悲しい時や苦しい時に、「何で私だけがこんなつらいめにあわないといけないんだ」と思ってしまいますが、阿弥陀さまも私とともに悲しみ苦しんでくださっている、ということを、みすゞさんの詩からうかがうことができます。
親鸞聖人は『教行信証』に、
悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚(じょうじゅ)の数(かず)に入(い)ることを喜(よろこ)ばず、真証(しんしょう)の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥(は)づべし傷(いた)むべし ・・・と、ご自身のことを述懐されています。
自己中心にしかモノを見ることのできない私は、常に不平不満を言っています。幸せそうに見える他人を見てはうらやましいと感じ、つらいことがあれば「何で私だけがこんなつらいめにあわないといけないんだ」と言っては、心に高いカベを作りふさぎこんでしまいます。しかも、阿弥陀さまがいらっしゃることを有り難いとも思えない心を持っているのです。しかしながら、このような心の持ち主の私を、阿弥陀さまは救いのめあてとしてくださっているのです。そのことさえ喜べないこの私を「恥(は)づべし傷(いた)むべし」と親鸞聖人は仰せになっている、と私は味わわせていただいています。あかね色の夕日がすべてのものをつつみこむように、阿弥陀さまの大悲の光明は、この私を常に照らし、つつんでくださっています。たとえ、心に煩悩という高いカベを作りふさぎこんでいても、それをまるごとつつみこんで、阿弥陀さまは私と同じく悲しみ苦しんでくださっています。そこには人生の荒波を乗り越えていく大きな力が恵まれ、お浄土への道を歩ませていただくはたらきがとどいているのです。

■ただ除く
交番に連れて行く!
あらゆる人々をもらさずに、さとりの世界へ救うと誓われた阿弥陀さまのご本願。『仏説無量寿経』に説かれるこの本願文(もん)の末尾には、「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」とあります。「ただ、五逆の罪をおかし、仏の教えを謗(そし)るものはその救いから除く」と但(ただ)し書きが添えられています。なぜ、あらゆる人々をもらさずに救うと誓いながら「唯除(ゆいじょ)」(ただのぞく)とあるのでしょうか。親鸞聖人は、これこそ阿弥陀さまの慈悲心のあらわれであると味わっていかれました。そのことを考えるとき、私は大川毅さんが書かれた「負(お)んぶ」というお話を思い出します。『私が四歳の夏だった。そのころ子どもたちの間でビー玉遊びが流行(はや)り、近くの駄菓子屋で売っていたビー玉が欲しくて仕方がなかった私は、父がやっていた日本橋の製氷問屋の店の手提(さ)げ金庫から、そっと小銭を盗んだところを父に見つかった。
「泥棒は交番に連れて行く!」 私の手から小銭を取り上げた父は、私を負んぶして店を出て、百メートルほど離れた街角にある交番のほうに歩いていった。小さな私は、いかめしい顔にちょび髭(ひげ)を生(は)やし、サーベルを下げた交番の中年巡査の顔を思い浮かべていた。「いやだよぉ、いやだよぉ!」 父の背中で私は必死に泣きわめいた。しかし父はそのまま交番の前に行った。すると交番の表にあの中年巡査が立っていた。「こ・・・怖いよう!」 私は懸命に父の背中に顔を隠した。「こんにちは、暑いですねぇ」 「そうですなぁ」 父と巡査の声が聞こえた。「坊や、お父さんに負んぶしてもらっていいなぁ」 という声に、私がハッと顔をあげると、巡査がにこっと私の顔をのぞいていた。その顔は予想に反してやさしい顔だった・・・』
抱き取られた私
「泥棒は交番に連れて行く」とわが子に罪を告げ、交番に向かうことを通してその罪の重さを知らせる父親。これは決して、罪を犯したわが子を憎み、その子を家族から除かんとしてする行為ではありません。罪を恐れて泣きわめく子ども以上に、父親はわが子が犯した罪に対して涙しているのです。心で涙を流しながら、わが子に心からの反省を願っているのです。阿弥陀さまの願いの世界もそうでした。「唯除」(ただのぞく)とは、凡夫と真剣に向き合ってくださる阿弥陀さまなればこその罪の宣告であり、改悔への願いだったのです。そして、「泥棒は交番に連れて行く」と罪を告げ、その罪に涙する父親が、わが子を負ぶって交番に向かう姿・・・・・・これはわが子を真剣に愛する父親の慈しみのあらわれそのものであり、父と子が宿す真実がここにあるのです。ですから巡査はただ「お父さんに負んぶしてもらっていいなぁ」とほほ笑むばかり。
親鸞聖人は「罪のおもきことをしめして、十方一切(じっぽういっさい)の衆生(しゅじょう)みなもれず往生(おうじょう)すべしとしらせんとなり」と示されています。私たち凡夫を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)であると見抜ききった上で、必ず救うと誓われた阿弥陀さまなればこその「唯除」(ただのぞく)。ここには慈悲の親さまである阿弥陀さまと凡夫が宿す真実があるのです。自らの悪業(あくごう)煩悩を知り、阿弥陀さまの慈悲を味わうならば、私たちはただその阿弥陀さまの願いにおまかせするばかり。そして、これこそが「南無阿弥陀仏」であり、「私は阿弥陀さまに負んぶされ、抱きしめられている者でありました・・・」という驚きと安堵と歓喜のお念仏です。妙好人(みょうこうにん)の浅原才市(あさはらさいち)さんは、
なむあみだぶつに 抱きとられ とられて申す なむあみだぶつ ・・・と見事に歌いあげられました。
私たちの口からこぼれてくださる南無阿弥陀仏こそが、いつでも、どこでも、どんな時のあなたでも必ず抱きとりますという阿弥陀さまの慈悲の喚(よ)び声なのです。共々にお念仏を大切に味わっていきましょう。

■お慈悲のぬくもり
豆腐が好きだった?
先日、ご門徒のお宅へ法事でお参りした時のことです。その日は、亡くなられたお母さんの13回忌でした。おつとめや法話が終わり、仕出し屋さんから届けられたお斎(とき)を皆さんと一緒にいただいておりました。すると、そのお料理とは別に、ひと切れの豆腐が出てきました。お斎の際、このようなかたちで豆腐を出していただいたのは初めてでしたので、私は息子さんに、「亡くなられたお母さんは、お豆腐がお好きだったのですか」と尋ねました。すると息子さんは、「いや、そういうわけではないんですが、豆腐には母に関する特別な思い出があるんです・・・」とおっしゃりながら、次のようなお話をしてくださいました。息子さんとお母さんは二人暮らしで、息子さんがまだ小さい頃、学校から帰るといつもお母さんからお使いをたのまれていたそうです。そのお使いとは、近所の豆腐屋さんに置いてあった「おから」をもらってくるというものでした。息子さんはほぼ毎日、その豆腐屋さんにおからをもらいに行ったそうです。そんなある日、いつものようにおからをもらいに行くと、豆腐屋のご主人が「ぼくちゃん、いつもお使いご苦労さま。でもね、お母さんにたまには豆腐も買ってくださいと言っておいてね」と言われたそうです。そう言われた息子さんは、家に帰るとすぐにそのことをお母さんに伝えました。すると、それを聞いたお母さんは、そのまま静かに泣いていたそうです。お母さんは、子どもに思うように食べさせてやれないつらさに涙を流されたのでした。息子さんは、お母さんが亡くなって以後、折にふれてこのことを思い出しては、あの時お母さんはどんなにつらい思いをしたのだろうかと涙し、お母さんが日々畑で泥にまみれ、虫に刺されながらも、一生懸命自分を育ててくれたことに、言葉に尽くせないほど感謝しておられるそうです。
「死ぬ」でなく「往く」
そんなお母さんが生前、よく独り言のように言っておられた言葉があったそうです。「親さまは私を抱いて決して捨てることがない。それは親さまなればこそ、親さまなればこそ・・・」 私の地域は、昔から「安芸門徒」と呼ばれ、現在でも信仰の篤い方々が多くおられる土地柄で、特に年配の方は阿弥陀さまを「親さま」と呼んでおられます。こちらのお宅のお母さんも、お寺やお講でいつも熱心にお聴聞をしておられたそうです。そのお母さんが料理をする時も畑を耕す時も、「親さまなればこそ・・・、親さまなればこそ・・・」とつぶやいてはお念仏しておられた姿を、息子さんはいつも見ておられたといいます。現在、息子さんはお母さんがそうであったように、お聴聞のご縁を大切にされ、お念仏を味わう生活をしておられます。
親鸞聖人はご和讃に、
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・とお示しくださっています。
こちらのお宅のお母さんは、毎日一生懸命、畑を耕しながら、そして、時に子どもに思うように食べさせてやれないことに涙しながらも、自らを抱きとって決して捨てることなく大悲のまなざしをそそいでくださっている親さまの、そのお慈悲のぬくもりを感じ、お念仏を依りどころとして生きていかれたのでした。そのお母さんが亡くなられる前に最後におっしゃった言葉が、「お母ちゃんは死ぬんじゃないんで、往(ゆ)かせてもらうんで(お浄土にまいらせてもらうんだよ)」というものだったそうです。涙ながらに話をしてくださる息子さんと共に、ご法義の深い味わいの中に生きていかれたお母さんの姿を偲ばせていただきました。

■人から人へ・・・いま私に
前途に浄土あり
太陽と水、万物を育む大地・・・。そして、今、お念仏の日暮らしを恵まれていることのありがたさ・・・。加えて、成熟社会・超高齢化時代に生きる仕合わせを思います。中学時代の同級生Sさんのお母さんは、今年98歳。息子のSさんは福岡市内に居を構えていますので、週に一度は100キロ離れた故郷へ母親に会うために帰って来られます。茨城県に住む同級生のKさんのお母さんは94歳。そして、私の母が97歳になります。私たちは、そんな社会に生きているのです。古希(こき)(70歳)を過ぎてから、同窓会などで時折、「80歳までいのちがほしいものだ」などという話もします。そんな夏のある日、Sさん、Kさんと3人で本願寺のお朝事にお参りしました。その時、仏縁が熟したのでしょう。お二人は仏弟子として生き抜くことを尊前に誓う帰敬式(ききょうしき)(おかみそり)を受け、法名(ほうみょう)をいただかれました。そして、「このいのちがどこで終わっても、お浄土がある」との悦(よろこ)びを共にしました。お念仏の日暮らしは、み仏さまが私と共に生きてくださっているという、法悦(ほうえつ)の世界です。ですから浄土真宗の家庭では、人が亡くなることを「死」ではなく「往生」といいます。お浄土に生まれて仏となることを意味します。親鸞聖人がお勧めくださったみ教えは、世間でいう「死は人生の終わり」ではなく、お浄土(無量寿(むりょうじゅ)・無量光(むりょうこう)の世界)に生まれて仏になるという、阿弥陀如来さまのお救いのご法義です。そのことを「生死(しょうじ)を超える」ともいいます。「前途にお浄土あり」と、お念仏の大道を歩ませていただくのです。そのみ教えが人から人へと伝えられ、今、ここに私のお念仏の生活があるのです。
頼みもしないのに
この春にいただいた一通のお便りがあります。「春本番、ここ和歌山は桜が散り、毎日暖かくなりました。今日は、浄土真宗についてお伺いいたしたく、お手紙を出しました。先日、私の先祖のお骨が分骨されている京都の西大谷(大谷本廟)にお参りしました。私も定年から早9年が過ぎ、その時に、自分の死のことを考えました。私の家には、結婚の時に母がプレゼントしてくれたお仏壇があります。学生時代には、母に連れられて京都の本願寺にお参りし、その時に帰敬式を受け、法名もいただきました。その時にいただいたのは『釈泰然』という法名でした・・・」と綴(つづ)られていました。その方のお母さんは生前に、『み仏に抱かれて?お浄土へ』という小冊子に、「ご縁のつながるご一同さまへ」と題して、「愚かな母が念をこめて書き遺(のこ)す」という一文を遺言として記され、91歳で往生されました。その中に、
頼みも願いもせぬのに 私の生まれたのが人間だった。
頼みも願いもせぬのに 私の生まれた所が日本だった。
頼みも願いもせぬのに 私の住む所が田川(福岡)だった。
頼みも願いもせぬのに 私の生まれた家が浄土真宗だった。
とありました。
み仏さまのお育てを悦ばれたご生涯が偲ばれます。「遠(とお)く宿縁(しゅくえん)をよろこべ」という、親鸞聖人のお言葉が心に響きます。今年は、このお母さんの17回忌のご法要をおつとめしました。晩年まで、お寺のご法座には車いすを持参され、息子さんが夫婦同伴で片道40キロの道のりを通われました。そして、最晩年にはお寺参りもできなくなりましたが、それからというものは、「行く先は大丈夫ですね・・・、お浄土ですよ」と家族に話しかけられ、いつもお念仏を称えられていたといいます。お念仏の故郷に生かされる仕合わせです。今、ここに「いのち」あり、お念仏あり。そして、前途にお浄土あり・・・・・・

■本当の「こころ」にあう
終わらない苦しみ
先日、在宅緩和ケアに携わっていらっしゃる医療従事者を対象にした講演会で、ご法話をする機会がありました。お話をした後に、あるリハビリ施設に勤めている女性の方が質問をされました。その方は、リハビリ期間が終わって退所された患者さんが亡くなられたとき、「最後まで自分は看取(みと)れなかったけれども、ご縁のあった方なので」と思い、ご遺族にご挨拶に行くようにされているそうです。しかし、「自分が本当に十分な対応ができたのだろうか?」と不安になり、「ご遺族の方と向き合うのには相当の覚悟がいるし、正直しんどいです」と話してくださいました。また、実際に家族を介護されている方も参加されていたようで、ある方は「正信偈をおつとめしていても、イライラした気持ちや、上の空になっている時も多いです。本当にこんな気持ちでいてもいいのでしょうか」と質問されました。誰しも、人生にはいろんな問題が起こります。家族、学校、友人、仕事、金銭的なこと。また、病気になったり、ケガをしたり、年をとったりと、健康や身体的な問題も起こってきます。身近な問題だけでなく、大きな範囲では政治や経済、地域、国同士の問題なども関係してきます。こうした問題は、私自身と周囲との関係性の中で悩みの程度が変わっていきます。自分とあまり深い関係がないと思えば「このことは捨てて、違うものを求めよう」と先送りをすることもできますが、関係が深ければ深いほど、「この問題を解決するもっと良い方法があるのではないか」「こんなことでいいのだろうか?」と不安になります。そして、なんとかしようともがけばもがくほど悩みは深くなっていきます。親鸞聖人は、そうした私の姿を「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなしひさしくしづめるわれら・・・」とお示しになられています。ほとりがないということは、勇気を出してそこから外(そと)に一歩踏み出そうとしても、そこにはまた生死の苦しみが続いているということです。泳ぎ切ろうともがけばもがくほど、海に深く沈んでいくかのような、無辺の苦しみが広がっているのです。
同じ方向を向くと・・・
あるご門徒のお宅に、お参りした時のことです。おつとめの後、お茶をいただいていると、「昔は、お義母(かあ)さん(姑)が植えたあのイチジクの木を、どうしても切りたかったんです・・・。でも今では切らなくてよかったと思ってます」と、その女性は庭を眺めながら話を始められました。その方はご主人を亡くされ、一人暮らし。それを心配して、事あるごとに娘さんが家族連れで里帰りをされるそうです。その時、亡くなったおじいちゃんのことが大好きだったお孫さんたちは、家に上がると真っ先に仏間に行き、阿弥陀さまに手を合わせるのだそうです。孫の隣りに座って一緒に手を合わせていると、ふと「お義母さんはこんな思いで私を見てくれていたのかな・・・」と気付かされたのだそうです。すると今まで憎いと思っていたイチジクの木が、大切なことを伝えてくれていたのではないかと思えるようになったというのです。お義母さんの植えた木と向き合って対峙していた時は、木を見ながらも自分の思いを見ていたのかもしれません。しかし、お義母さんと同じ方向を見たとき、その木に込められた本当の「こころ」に出あわれたのだと思いました。私の苦しみは無辺であり、そこから抜け出す方法を持たないからこそ、「弥陀弘誓(みだぐぜい)の船のみぞのせてかならずわたしける」(同)という阿弥陀さまの無上のはたらきがあるのです。自分の勝手な思いから苦をつくり、それを越えようとさらに苦しみ、越えてもなお苦しみが続くと悲しみに沈む私を、大きく包み込んでくださるのです。問題を抱えたとき、そばにいる人の心と対峙し、自分の心と対峙する先には苦しみが続き、不安しかありません。「どんな状態であっても、見護(みまも)り、育て続けていきたい」という阿弥陀さまの「こころ」をともに喜ぶ中に、お互いが安心しあって人生の問題に取り組んでいける道があるのです。

■ほんとうの親心
互いに条件をつける
「おかえり〜」 私が玄関を開ける音に気づいて、息子がリビングから小走りにかけよってきます。先日3歳になったばかりの息子の笑顔と声には、一日の疲れを吹き飛ばしてくれる力があります。3歳にもなると、いつ、どこで覚えたのかと思うような言葉を使ってみたり、ハラハラするような行動をしたり、好き・嫌い、したい・したくない、欲しい・欲しくない、といった意思表示もできるようになり、私と妻は子どもに振り回されています。日々、子どもの成長に喜び、悩み、不安を抱えながらも、親としてできる限りのことをしようと奮闘しています。こうした日常を過ごすなか、自坊での法要の際でしたが、私やご門徒のマネをして念仏する息子のすがたを見て、ふと気づかされたことがあります。それは、ひそかに私と息子は、「〜をしたら」「〜ができたら」という条件をつけあいながら関係を築いていたということです。例えば、百貨店に行った時です。息子は車が好きなのか、ゲームコーナーにある車の乗り物に向かって脇目もふらず駆け寄ったかと思えば、「ブッブー」と声を張り上げ、ハンドルをグルグルと回し続けます。短い時間ならいいのですが、20分、30分と経つにつれ私も待ち疲れて、「違うところに行こうよ」「もう終わりにしよう」などと声をかけますが、息子は無視・・・。さらに10分も経つと我慢も限界、「ジュース飲みに行こうか・・・」。息子はそれきた、とばかりに「うん。ジュース、ジュース」とまたもや声を張り上げ、ハンドルを離します。こういったことは、その時々の都合によってしょうがない面もあるのかもしれません。しかしながら、私はいつも「私の都合」を中心にした態度や言動をしているのです。百貨店での言動も、「私が疲れてきたから」「私が飽きたから」「私が違うことをしたいから」、このような「私の都合」を隠して、息子に「ダメだよ」「〜しなさい」「〜しよう」などと言い、自分がしたいように息子を誘導しているのです。
如来のお心を聞く
「親さま」とも呼ばれる阿弥陀如来は、私たちをどのように見ていらっしゃるのでしょうか。『教行信証』「行(ぎょう)巻」には、源信和尚(げんしんかしょう)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』から、次のような文が引用されています。慈眼(じげん)をもつて衆生(しゅじょう)を視(み)そなはすこと、平等(びょうどう)にして一子(いっし)のごとし。ゆゑにわれ極大(ごくだい)慈悲母(じひも)を帰命(きみょう)し礼(らい)したてまつる。「仏(ほとけ)は慈悲の眼(まなこ)で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる」と示されます。阿弥陀如来は、あらゆる人々を平等に、一人の子どものようにご覧になる慈悲の眼をそなえていらっしゃる母に喩(たと)えられています。あらゆる人々を我が子のようにご覧になる阿弥陀如来の慈悲の眼にうつるものこそ、「私の都合」を中心としてしか生きられない私たちのすがたです。阿弥陀如来は、そのような私たちに向かって「必ず救うまかせよ」との南無阿弥陀仏のよび声となっておはたらきくださっています。息子の口から現れ出たお念仏に接し、阿弥陀如来のお心に気づかされるとき、同時に、自分の息子に対してだけでなく、あらゆる場面で、したい・したくない、欲しい・欲しくないと、「その時々の自分の都合」を押しつけ、もっともらしく親として、またあるときは子として、先輩として・・・などと上手に仮面をつけかえては行動している私自身のすがたに気づかされ、反省させられます。阿弥陀如来のようなお心になることはできませんが、お念仏の中でそのお心に気づかされ、支えられて生きていく中には、尊い一つ一つの命の中で生かされてある「今この私」に気づかされ、感謝できる生活が恵まれるのではないでしょうか。それは「私の都合」で発するのではない、「私」を生かしてくれる阿弥陀如来へ、そして息子への「ありがとう」の生活でありましょう。

■いのちのセーフティーネット
学校だけではない
最近、子どもたちの「いじめ」についての報道が多くみられます。「いじめ」はいけない行為であることは、子どもたちや先生はもちろん、みんなが知っています。しかし、一向になくなる気配はありません。むしろ、どこにでも起こっていることが報道などで知られます。この「いじめ」の原因は、いったい何なのでしょうか。私は子どもたちの人権保護の役割の一端を担わせていただいています。そこで聞かれることは、「学校の指導が・・・」「教員の質が・・・」などの言葉で、学校関係の責任を問う声が多く聞かれます。確かに、いじめの事件が起こっているのは子どもたちの世界ですから、学校が舞台となっていることは事実です。その意味で原因の一端は学校にあることは否定できません。しかし、いじめの加害者を生んだのは、単に学校での指導の問題ではないようです。別の視点で見ると、地域社会や家庭の大人の問題が、大きな要因となっているように感じます。教育関係機関の研究データによると、現在の子どもたちは、学校以外の社会で多くのストレスを感じていることが報告されています。また、それを解消できる家庭・家族関係でもストレスを受け、こころを休めることができる場所もありません。家はあっても子どもたちのこころを受け入れ、安心できる家庭が少ないのが現実です。常に、子どもたちから「お母さんやお父さんが私のことをわかってくれない」「誰も私の話を聞いてくれない」などの相談を受けることが多いのも頷(うなず)けます。子どもの成長過程によりさまざまなケースがあり、一概には断言できませんが、仮にいじめを受けた子どもが、追い詰められてサインを出しているとしても、こうした家庭では察知することは不可能です。さらには、自死のセーフティーネットにもなり得ません。ですから、家庭や社会での子どもたちへの寄り添いと安心できる場の確保を私は呼びかけています。
何があっても安心
ある家に養子に入った友人から、過去にいじめを受けた話を聞いたことがあります。その理由が「よそもの」の排除です。それは、養子に入った当初、地域の同年の友達と楽しく自然に遊んでいたのですが、ある時、友達のお父さんから、一緒に遊ぶことを禁止されました。何も問題になることがあったわけではないのですが、その理由が「よそもの」です。そのとき彼は、本当に腹が立って養子先から少し距離を置くようになりました。何度か実家へ帰っていたそうです。実家は両親がいて、何もなくても、そこにいるだけで安心できました。1〜2時間ゆったりとして落ち着くと、養子先へ帰ることを繰り返していました。その間、心配をかけないようにと、一度も愚痴(ぐち)をこぼすことはありませんでした。1カ月ほど過ぎた頃、実家のお母さんが、彼の悩みを察して、「いつ帰ってきてもいいよ」と言ってくれたそうです。そのとき彼は、ふっと気づかされたのです。「何も悩みを話してないのに、お母さんは私の想いを受け止めていてくれていたんだ」。彼はそれを機に、自分の目の前の課題に目を向けるようになりました。そして前向きに努力し、それ以来、15年を経て地域の人に認められるようになったそうです。その心の内は「いつ何があっても、帰れるところがある」という想いの安心の中での毎日でした。この事を通して、「いじめ」対策の一方法に気づかされます。「何があっても受け入れてくれる」家庭・両親がいること。それがどれだけ大きな安心と力となるか。また、前向きな生き方ができる力が、そこにあることが理解されます。これが「いのちのセーフティーネット」です。「何があっても、必ず救うぞ」と、いつも母の如く私の側にいて、寄り添っていてくだる阿弥陀さまの御こころ。おおきな安心の中に現実に気づかされ、安心の願いのうちに生き抜かせていただく場所が私にはあります。私たち念仏者は、いつもこの「いのちのセーフティーネット」に生かされているのです。

■心豊かに生きるとは
孤独死が社会問題に
まもなく私が住職となって20年になります。振り返ると本当に早かったという思いがします。「光陰矢のごとし」。まさにこの言葉が胸に響きます。時代の変化とともにかつての家族制度は崩壊し、社会全体も大きく変革してきている中で、お寺を取り巻く環境も以前とはずいぶん変わってきました。ひと昔前なら、三世代が一つ屋根の下で暮らすことが当たり前と考えられていたことが、最近では「親は親、子どもは子ども」といった考え方が主流となり、子どもたちもある一定の年齢を過ぎれば自立し独立しています。祖父母が去った後は家に残るのは夫婦二人。お互いいつまでも健康であれば結構なことですが、そうはいかず、いずれ必ずどちらかは先に亡くなられる。その後、また子どもと同居という方もおられますが、なかなかそうもいかない。その結果、一人暮らしのご家庭が目に見えて増えてきたように思われます。ここ最近、日々のお参りの中での実感です。この究極の核家族化が変化する兆しは見えてきません。それだけではなく、近隣同士の関係は希薄化し、かつて「東京砂漠」と言われた時代も今は昔。次第に人間同士が無関心な時代になってきました。バブルの崩壊以降、人にかかわっている余裕がなくなってきたことも一因かもしれません。現代人は、時間は持てても、ゆとりと余裕を無くしてしまったといわれます。そんな状況下、「孤独死」が大きく社会問題化しています。孤独死とは、一般的に一人暮らしの人が一人だけの時に、自分の住居内で生活中に死に至ることといわれるそうですが、中でも多いのは、突発的な事態が起こり、そのまま誰にも連絡できずに亡くなってしまうというケース。遺品整理専門の業者も毎年増えているといいます。本当に寂しい限りですが、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』には「世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独り死し、独り去り独り来(きた)る」と示されています。結局最期(さいご)は一人なのかもしれません。
お念仏申す身は
先日、iPS細胞の研究・開発により京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞されました。心からお祝い申し上げたいと思いますが、あれだけ類(たぐ)い稀(まれ)な研究をされている方のコメントがまた素晴らしい。「私が受賞できたのは、日本という国に支えていただいて、日の丸のご支援がなければ、このように素晴らしい賞は受賞できなかったということを心の底から思いました。まさに日本という国が受賞した賞だと感じています」 この謙虚さには清々(すがすが)しい感動を覚えました。これからも難病治療に留まらず、さまざまな分野で役立っていく研究を期待するばかりです。ただ、ここで忘れてならない大切なことは、たとえこの研究がどれだけ進んでも、人間が不老不死の妙薬を手に入れることは有り得ないということです。今まさに問われている大きな課題は「心豊かに生きることとは、どんな生き方か」という問いを持つことだと思います。いくら物質的に恵まれた生活であっても、それは一時的なものであって、未来永遠に喜びが続くとは到底考えられません。近年、都市圏では「家族葬」といった言葉が一種の流行語のようになり、最近に至ってはそれも通り越して「直葬」という言葉も珍しいものではなくなってきました。葬儀がコンパクトに行われ、家族と親族の方のみが、他から何の干渉もされずに感謝とお礼、そしてお見送りをする。これもひとつの現代風葬儀の形態かもしれません。しかし、これは残った方々にお任せしておくこととして、現在を生きている私たちは、今まさに阿弥陀如来の大願業力(だいがんごうりき)によって、その御手(みて)のうちに生かされていることに気づいていく。これがお念仏申す身であり、自らの思慮分別(しりょぶんべつ)だけで生きるのではなく、常に阿弥陀如来に導かれて生きる。これが親鸞聖人ご自身の一生涯をかけて示された人生でありましょう。『歎異抄』に「念仏申(もう)さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」と示される通り、今逃げる私がその救いの中にあることを気づかせていただくことが肝要です。

■切手のない手紙が届きました
終活≠はじめる
ご院主さん聞いとくなはれ。ちょっと手紙を書かせてもらいます。私は今年77歳の喜寿を迎えました。なんとなく体がしんどくて、気になって早々と病院へ行きました。お医者さんがおっしゃいました。「どこも悪いとこありません。としのせいでしょう」。そうです、加齢のためです。私は後期高齢者に分類されております。平均寿命まではまだ何年かあるはずですが、日をまちがえます、時間をまちがえます。外出時には、カギをかけたやろか、電気消したやろか、仏だんのローソクの灯はどうやったろうか、と必ず一度は家へもどります。テレビみてましても、健康のために、長生きのためにと、サプリメントの広告が不安をあおりますし、市からは無料で検査をしてやるから病院へ≠ニ催促の案内がとどきます。眠りは浅いし、夜中には2回も3回も便所へ行かんならんし、小学校の同窓会も3年に1回やったんが、5年前から「毎年しよう」ということになったんです。それでも参加者はへりつづけ、ついこのあいだなんかはまるで達者じまんみたいで、ああ同窓会もこれで終わりやなあと思いました。昨日の気力・体力が今日はないんです。そんなこんなで、私もついに人生の終わりにむけての準備活動、つまりいま世間で言われる終活≠はじめようと決心したのです。現代は無縁社会≠竄ニ言われ、そこへ孤独死≠竄フ、家族でのうて孤族≠竄ニ追いうちをかけられ、いや恥ずかしいことですが、もっと早うに、若いときにしっかりと聴聞させていただいてたら、とご院主さんすまんことです。息子夫婦も孫も、遠くに離れて住んでます。ですから、いま家ではばあさん、いや嫁さんと二人ぐらしです。田んぼは少しありますが、他人に頼んで米をつくってもらってます。荒らさんだけのためです。米つくるより楽やし、買うた方が安いです。息子は田んぼなんかいらんと言うてます。築70年の家は雨もりを心配せんならんし、息子は帰りとうないと言うてます。過疎になっていく、ということです。ほんま・・・・・・。
まちまゐらせ候ふべし
財産とか、健康とか、地位とか、そんなもんあてにし、自分の支えにして生きとったということに、ふと気づかされたんですわ。『人間臨終図巻』(徳間文庫)て読まはったことありますか。山田風太郎さんが書きはった、15歳から120歳までの有名人923人の人はどのように死を迎えたか¢S4巻です。自分に重ねましてね、としに関係なく人はいのちの終わりを迎えるんやと、聴かせてもろてたはずやのに、どないなっとるんや、思いましてね。無常やといわれてもおれだけは別やと、喜寿や米寿迎えても、傘寿や白寿迎えても、みんなあたりまえみたいで、このとしまでよう生かされたと言ういのちへのありがたさや、はらのそこからの喜びもなくなってしもうた。ときどき聴聞させてもろうてたときのこと、思いだしてたんです。いつ、どこで死んでもええ、そんな生き方させてもらわなあかん。81歳で亡くなった親父がいつも言うとりました。「お念仏さえとなえてたらええ、というもんではないぞ。そのもとにはな、アミダ如来さんの大きなおはたらきによって得させていただいたご信心がある、ということをしっかりといただけよ。ええようにしてくださる。おまかせしたらええのや、おまかせのほか、ないのや」 このとしになって、無性に親に会いとうなりましてな。ほれ、ご開山(かいさん)さまのお手紙に、
この身(み)は、いまは、としきはまりて候(そうら)へば、さだめてさきだちて往生し候(そうら)はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候(そうろ)ふべし
そう、お浄土で、かならずかならずと・・・・・・、涙がこみあげてきます。ご院主さん、本願力にて往生させていただく、まさにこれこそいのちの終活=A自分で何の準備もいらんということですね。お会いしておはなしすればすむことを、なんやしらん、手紙にしました。春の彼岸会(ひがんえ)≠ノは、ご本山へお参りして聴聞させていただこうと思うております。また、お手紙を書きます。ナマンダブツ、ナマンダブツ。

■安心して悩む
お仏飯で育つんじゃ
先日、あるお宅で報恩講のおつとめをした時のことでした。お茶をいただきながら話をしていますと、そのお宅のご年配の女性から突然、「私はあんたのおしめを取り替えたこともあるんよ。それもバスの中で」と言われました。そんなご冗談を・・・と思いながら続きを聞きました。私のお寺では毎年、本山へ団体参拝を行っているのですが、二十数年前、まだ幼かった私も一緒に参加したようでした。おしめの卒業が少し遅れていた私は、予想通り、バスの中でしてしまったらしいのです。予想していたものの慌てる母を察してか、周りのベテランの女性方が揺れる車中で手際よく私のおしめを取り替えてくれたそうです。話を聞き終わるや、あまりの恥ずかしさに私は耳の先まで赤くなりましたが、その方は「ええ思い出です」とにこやかにおっしゃいました。また、私が生まれて間もない頃、「跡取(あとと)りが生まれたんじゃね。よかったね」と皆さんが言ってくださったそうですが、そんな言葉を聞いて過ごした私は、幼稚園に入り、将来の夢を絵に描こうというとき、何を勘違いしたのか「鳥」の絵を描いたそうです。お寺に参られた方々は、私が自慢げに示したその絵を見て、「アトトリを鳥じゃと思うとるよ」と皆で笑った、というお話も披露してくださったのです。このような話を聞くと、周囲の方々の願いとお育ての中にいること、「あんたはお仏飯で育つんじゃよ」と言われたその意味を、あらためて感じることができます。そんな幼少期を過ごした私も次第に大きくなりますと、自我の芽生えとともに、何でも自分で決め、自分でしないと気がすまなくなってきました。以前は父が「今年も京都へ団体参拝に行くぞ」と言ってくれるだけでうれしくてたまらなかったのに、「本山のお参りすんだらどこへ行くの?ほかにも楽しい所へ行こうよ」などと、父や母に注文をつけるようになりました。中学生の頃には、お坊さん以外にも何か進路があるんじゃないかと悩むようになり、理由もなくふてくされることも多かったように思いますし、次第にご門徒の方々を避けるようになっていたようです。
決して捨てはしない
ある時、そんな私にあるご門徒さんが、「どんな道に進んでも、ちゃんと見ておるよ、しっかり悩んで思うことやりなさい。大丈夫じゃ。心配せんでええ」と言ってくださいました。その時、お坊さんにならなきゃいけないんだと思っていたプレッシャーが、すっと消えたような気がしました。おかげさまで、今、私は僧侶として歩んでいますが、そのひと言がなかったら、どのような人生を歩んでいたかわからなかったと思います。
親鸞聖人は、ご和讃に、
十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・と示されています。そして「摂取」の文字の左側に「ひとたびとりて永く捨てぬなり。ものの逃(に)ぐるを追(お)はへとるなり」と註釈を施されています。
阿弥陀如来は、私たちをお慈悲に包み込んで永遠に捨てられない。逃げる私を追いかけて救い取ってくださる。だからこそ、「阿弥陀」とおよびするのだといわれます。私たちが起こす願いは、どのような努力をしても我執を離れることができません。時にはその願いが他者に思わぬプレッシャーをかけることもあるでしょうし、思い通りにならないことに腹を立ててしまうこともあります。如来さまが私たちにかけてくださる願いは、どのようなことがあろうと決して捨てぬとはたらかれている温かいお慈悲なのです。如来さまのお慈悲にあわせていただきながらも、煩悩に惑わされ、お慈悲を忘れ、如来さまにまかせきれず、ジタバタともがき、逃げ回り、悲しみに沈んでいるような時もあります。そんな私たちをも追いかけて、お慈悲に包み込もうとされるのです。なんと有り難い如来さまでしょうか。必ず救う、捨てぬと誓われ、どこまでもどこまでもはたらかれるそのお慈悲があるからこそ、安心して悩むことができるのです。 
 

 

■悲しみの意味
長生きの保証書ない
「浄土真宗ってどういう教えですか?」と尋ねられたら、「それはお浄土の真(まこと)を宗(むね)とすることです」と答えます。私のいのちが、人生が、お浄土の真に貫かれているということです。お浄土とは、私がこの限りあるいのちを生き切る依りどころ、支えです。ところが、私たちの現状はどうかといえば、お浄土が生きることとは無関係なところに切り離されて、死後の世界に追いやられてしまっているように感じます。ですから、60歳や70歳になった方にお寺参りを勧めても、「私にはまだ早いから、当分お参りする気はありません」と言われます。80歳、90歳まで生きられて当然、死後のことなど考える暇があったら、いかに楽しく生きるかを考える方が利口と言わんばかりです。ちまたでは、いわゆる「平均寿命」なる数字が幅を利かし、あたかも80歳までは生きられるかのように考える人も多いようですが、私は誰からもそんな保証書はもらっていません。私だけでなく、誰一人としてそんな保証はしてもらっていないはずです。確かに、100歳まで生きる人は年々増えているのかも知れません。しかし、平均寿命に至らずに終わるいのちもたくさんあります。病気が縁で終わる若いいのちもあれば、不慮の事故が縁で終わる幼いいのちもあります。いのちの事実は「老少不定(ろうしょうふじょう)」。老いた者から順番にいのちが終わるのではないのです。そう言うと、「そんなこと言われなくてもわかっているさ」と言われるかも知れません。しかし、頭ではわかっているつもりでも、私たちの心と体はなかなか理解しようとはしません。だから、大切な人を失った時には、私たちは平静を保つことができず、深い痛みと悲しみに襲われることもあるのです。しかし、そんな時、浄土真宗の教えに触れていると、この痛みや悲しみには大切な意味があることが知らされます。
限りないいのちになる
もう24年も前のことです。私が23歳の時、同級生を交通事故で亡くしました。彼とは、中学校の野球部のチームメートで、3年間共に白球を追った仲間でした。私たちはそれぞれ別々の高校・大学に進学し、彼は教師を目指しました。そして、大学卒業と同時に、彼は東京の中学校に教師として赴任しました。学校では、弱小野球部を任されましたが、持ち前のガッツと牽引(けんいん)力でチームを引っ張り、その年の秋の都大会では優勝を勝ち取ったのでした。彼は、いち早く優勝の報告をと、会場から学校に向けバイクを走らせました。その途中、路面でスリップした彼は、車にはねられ即死しました。彼の死の知らせを受けた私は、彼の実家へ急ぎました。お仏壇の前に置かれた棺(ひつぎ)の中で物言わぬ彼に、私は胸を切り裂かれるような悲しみに襲われ、葬儀の時もまともに読経ができないほど、悲しみに打ちひしがれたのでした。しかし、月日の流れの中でその悲しみも次第に薄れ、最近では彼のことも忘れかけたような生活をしていました。ところが、そんなある日、町で偶然、彼の妹さんにお会いしました。彼の面影を偲ぶに十分な妹さんの姿を見た時、思いがけず24年前の悲しみがよみがえってきました。あの時の悲しみは、消えたわけではなかったのです。
お浄土の真(まこと)を宗(むね)として生きる。それは、このいのちがお浄土に生まれさせていただき、仏に仕上がるいのちだと知らされて生きることです。そして、このいのちがお浄土に生まれるということは、限りあるいのちが限りなきいのちに生まれるということです。この世のいのちには必ず限りがあります。しかし、そのいのちの終わりは「死」ではなく、限りなきいのちへの誕生です。そして、限りなきいのちへの誕生は、同時にそのいのちが、残していったいのちにはたらきだす瞬間でもあります。24年経っても無くならなかった悲しみは、彼のいのちが限りないいのちとなって私のいのちにはたらき続けていた証(あかし)だったのでした。限りある私のいのちに、お浄土の限りなきいのちがはたらく証。それがいただいた悲しみの意味でした。

■祖父の後ろ姿
西に沈む夕日を眺め
私の今の楽しみの一つは、2人の子どもと本堂でお夕事(ゆうじ)のお参りをすることです。子どもたちが見たいテレビ番組などがあると、なかなか素直についてきませんが、子どもたちには、親である私が、阿弥陀さまのことを大切にして、お参りをする姿をできるだけ見せておきたいと思っています。本当に大切なことは、後ろ姿を通して伝わっていくのではないかと思います。阿弥陀さまに手を合わせることもそうです。おじいちゃんやおばあちゃん、父親や母親、そして周りの大人たちが阿弥陀さまに手を合わせる姿を子どもたちが見て、またその子も手を合わせる人として育っていきます。私自身も、かつて祖父と一緒にお参りをしたその後ろ姿が、心に強く残っています。中学生の頃、私はサッカー部に所属していましたので、日頃は帰宅が遅かったのですが、定期試験前など部活動が休みのときは早く家に帰っていました。そういう時は、夕方になると決まって祖父が「おーい、おつとめやぞー」と呼びに来ました。私は祖父の後について、まず本堂で正信偈をおつとめし、続いて会館の2階の仏間でおつとめをします。そしてその後、天気のよい日には、祖父は決まって会館の2階の窓から西に沈む夕陽を眺めていました。私の住んでいる地域は夕焼けが大変きれいなところで、「砥山夕照(とやませきしょう)」と呼ばれ、栗太八景の一つにも数えられています。周りをぐるっと山に囲まれているのですが、ちょうど西の方角だけ山が切れていて、天気がよければ、お夕事の時間帯に本当にきれいな夕焼けが見えます。そういう時、祖父は西の方に向かってじっと手を合わせて、なかなか動こうとしませんでした。中学生の私は、祖父の後ろで待ちながら、心の中では「早く終わらへんかなぁ」などと思っていたように思います。でも今思い返しますと、祖父のその後ろ姿が大変ありがたいと思うのです。
受け継がれるお念仏
これは父から聞いた話ですが、祖父も若い頃は「お浄土」をどのように受けとめたらいいのか、またどのように語ればいいのかということについて悩んでいたそうです。祖父が青年時代を過ごした大正、そして昭和初期という時代は、日本の近代化が進み、人々の価値観も大きく変わっていった時代でした。「お浄土」に対する人々の受けとめ方も変わっていきました。そのような中で祖父は「浄土真宗が浄土を説かなかったらよかったのに」とさえ思っていたこともあったそうです。それが、だんだんと年を重ねていくと、「お浄土が説かれていることが本当にありがたいと思う」と、しみじみ語っていたといいます。そしてさらに晩年になると、理屈や言葉を超えて、ただ夕陽の沈む西方に向かってじっと手を合わせるようになったのです。祖父がお浄土に往生してから22年が経ちました。あの時、西に沈む夕陽に手を合わせながら祖父が何を思っていたのかは私にはわかりませんが、今、私がお浄土のことを考える時、いつも祖父のあの後ろ姿が思い浮かびます。それは理屈や言葉を超えた世界でありながら、何とも言えない温かさを伴うイメージです。そして私も祖父のような後ろ姿を示すことができる人になりたいと思うのです。そういうとき私は、今でも祖父の後ろ姿に導かれているような気がいたします。
親鸞聖人が『教行信証』の最後に引用される、道綽禅師の『安楽集』の次の文が思い浮かびます。
前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。
先にお浄土へ往生された方々の後ろ姿に導かれて、私も同じようにお浄土への道を歩ませていただくのです。そしてそのようにして歩んだ私の後ろ姿も、きっとまた子どもたちが見て歩んでくれる。このようにして、阿弥陀さまのご本願のお念仏が、絶えることなく受け継がれていくのです。今日もまた、西に沈む夕陽を見ながら、祖父が往(ゆ)き生まれていったお浄土を思い、子どもたちと一緒にお念仏したいと思います。

■ともにこれ凡夫(ただひと)
幻の完全試合
2010年6月、大リーグ・デトロイトタイガースのアルマンド・ガララーガ投手は、9回ツーアウトまでパーフェクトピッチングを続けていました。27人目の打者が打った一、二塁間へのゴロを一塁手が捕球し、ベースカバーに入ったガララーガに送球しました。塁審はセーフのジャッジを下し、それに対してタイガースの選手たちは大いに抗議し球場全体も騒然となりましたが、判定は覆(くつがえ)りません。試合終了後、ビデオ再生を見たこの塁審は明らかに自分のミスジャッジであると認め、すぐさまガララーガ投手に詫(わ)びました。審判のミスジャッジによって大リーグ史上21番目のパーフェクトゲーム達成投手になれなかったのですから、ガララーガ投手の無念さは想像に余りあるものがあります。ところが彼は、「たぶん僕よりも彼のほうがつらい思いをしているだろう」と反対に気遣い、心から詫びるこの審判を「完全な人間なんていないのだから」と言って、寛容な態度で許したのです。唐突なようですが、このニュースを聞いて私は、聖徳太子の「憲法十七条」の第十条の言葉を思い出しました。「われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚(おろ)かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」 日本に仏教を受け入れて、仏教精神にもとづく社会のあり方を目指されたのが聖徳太子でした。もちろんガララーガ投手が聖徳太子や「憲法十七条」を知っていたはずはありませんし、彼の示した態度を仏教精神に裏付けられたものというつもりもありません。ただ世の東西を問わず、人は自分の非はなかなか素直に認めようとせず、逆に自分への不利益に対しては怒りや報復の態度をあらわにしがちです。そうであるからこそ、相手の過ちをせめないという寛容のこころは、人類の精神史において培われてきた最も尊いもののひとつであると思います。
自分のことは棚上げに
普段の生活の中で、人の善し悪しを口にして他者を裁いているのが、偽らざる私の姿です。私たちが人を裁き批判する時には、どのような位置に立っているでしょう。自分の不完全さを棚上げして、あるいは「自分も立派なことは言えないけれど」と抜け道を作っておいて、他者の批判をしているのではないでしょうか。『歎異抄』後序(ごじょ)のお言葉が思い起こされます。
「本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、いつもお互いが善いとか悪いとか、そればかりをいいあっております。親鸞聖人は、『何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽(つく)したのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫(ぼんぶ)であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである』と仰(おお)せになりました」 
まことなるものに聞き触れるとき、わが身のまことならざる姿が知らされます。そこから、ともにこれ凡夫であり、真実なる如来さまから哀(かな)しまれているものどうしでしたね、という共感と寛容のこころが、私のうちにひらかれていくのではないでしょうか。こうした態度は、決して綺麗(きれい)ごとでも生ぬるいことでもなく、人間の持ち前である自己中心性と対立する厳しいものであるはずです。お念仏の教えに育てられる人は、しばしば蓮(はす)の華(はな)に譬(たと)えられます。お念仏の教えは、一つ間違えば根から腐(くさ)らせてしまう汚泥(おでい)の毒を、逆にしなやかに私の栄養と転じ、泥(どろ)に汚(けが)されることなく清浄(しょうじょう)な花を咲かせ、汚泥をも麗(うるわ)しく荘厳(しょうごん)していく力となってくださいます。涼(すず)しげに咲く白蓮華(びゃくれんげ)の根は、地中で汚泥と必死に闘(たたか)い続けているに違いありません。そして共感と寛容のこころは、その底にこうした厳しさを内包するものであればこそ尊いものといえるのでしょう。

■苦悩を生きる
生老病死の四苦
お釈迦さまは「人生は苦である」として、「生(しょう)・老・病・死」の四苦(しく)を示されました。確かに、生まれたからには誰しも、老・病・死を背負って生きていかなければなりません。若い時には平気だったのに、体力が続かないなど、日常のふとした時に自分の老化を痛感することがありますが、そんな時は「本当に年はとりたくないもんだ・・・」と誰もが思うことでしょう。病気もそうです。誰だって病気になんかなりたくありません。でも、病気になってしまったら引き受けるしかありません。それなのに、なんで私がこんなことになったのか・・・と思い悩んでしまいます。昨年のことです。突然、腰に痛みを感じました。お酒の席でしたので、友人が「飲めば治る」というので飲み続けたところ、痛みが消えたのです。「本当に治った」と喜んだのですが、次の朝は痛みで目が覚め、動けないほどになり、お世話になっているカイロプラクティックの先生にみてもらいました。先生は首から肩、腰とマッサージをして、「老化かな」と言ってお腹(なか)を手で診察された時、「あっ」と言われたのです。「何ですか」と聞くと、「いや、何でもありません」と言われましたが気になります。おかげで痛みは和らぎましたが、気になったせいでしょうか、帰宅する車の中でまた痛み出しました。今度は友人のところで電気治療をしてもらい、湿布をたくさんはってもらいました。帰り際に友人が薬をくれたので、飲んでから帰りました。家に着いて、横になって休んでいると、妻が「この薬を飲むと、痛くないの?」と尋ねるのです。「痛くないよ」と答えると、妻は「おかしいね、これは化膿止めよ」というのです。その言葉が気になってきた私は、次第に腰が痛み出し、ついにその夜は、今まで感じたことのない痛みで眠れませんでした。そして、痛みが少し弱まってくると、今度はカイロプラクティックで言われた「あっ」のひと言が気になって、「もしかしたら大変な病気では・・・」と、ただただ不安でいっぱいになりました。次の日の朝も痛みが取れず、結局、病院に行きました。レントゲンでもわからず、MRIで調べてもらうと、「原因はヘルニアです」と言われました。痛みを抑える注射をしてもらい、経過をみながら治療することになりました。おかげで痛みはなくなりました。私という人間は、人のひと言ひと言で、すぐにふらふらと迷ってしまうのです。「飲めば治る・・・」「老化かな・・・」「あっ・・・」「この薬は・・・」。痛みを抱えた時も不安で仕方なかった私ですが、病院で痛みの原因を正しく知らせてもらって、ようやく安心することができました。
阿弥陀さまだけが・・・
親鸞聖人は『高僧(こうそう)和讃』のなかに、
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめる われらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける ・・・と詠(うた)われています。
私たちいのちあるものの生死(しょうじ)の苦しみ、迷いの深さは、海のように巨大でほとりがないとおっしゃいます。どんな名医でも治せない難病のように、どんな仏さまでも救い出すことのできない深い海です。しかし、阿弥陀さまだけが、「救わずにはおかない」とご本願をおたてになり、南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を成就して私たちに与えてくださっています。「われ称(とな)えわれ聞くなれど南無阿弥陀つれてゆくぞの親のよびごえ」という、原口針水(しんすい)和上の有名なお歌があります。病気になると、「何か大変なことでは・・・」と右往左往し、人の言葉一つで、あっちにふらふら、こっちにふらふらする私。そんな私に阿弥陀さまはいつも「われにまかせよ、必ず救う」とよび続けてくださいます。「ナモアミダブツ、ナモアミダブツ・・・」とお称えするひと声ひと声の中に、苦悩の人生を精いっぱい生きる喜びがあふれています。

■私を見抜くはたらき
自分を知ってる?
私たちは、自分のことは自分が最もよく知っているつもりで暮らしているのではないでしょうか。ところが、案外、そうでもないことに気付かされたクイズがあります。簡単なものですので、ぜひ、挑戦していただきたいと思います。こんなクイズです。
<問題>父と息子がドライブに出かけました。ところが、事故に遭(あ)ってしまい、二人はそれぞれ別の病院に運ばれました。息子が病院に到着すると、待っていた外科医が出てきて叫びました。「これは私の息子!」 病院に運ばれてきた息子と、外科医とはどのような関係でしょうか。答えは出ましたでしょうか。息子のことを「私の息子!」と呼ぶ人は父か母です。お父さんはここにいませんから、外科医は運ばれてきた息子の母親になります。息子と外科医の関係は母子だというのが正解です。お母さんが外科医として勤務する病院に、たまたま息子さんが運ばれたのでした。私はこのクイズに答えることができませんでした。なぜかと考えていきますと、「外科医と言えば男性」という誤った思い込みが原因でした。試(こころ)みに問題文の「外科医」を「看護師」に置き換えると、間髪入れずに正解できそうです。もちろん、私も女性の外科医がおられることは知っていました。けれども、その知識は役立ちませんでした。つまり、このクイズでは、知識の有無ではなく、私の愚かさ、すなわち誤った思い込みに自分の力では気付くことができないことが問題にされているのです。
仏かねてしろしめして
私はこのクイズに出あうまで、自分の物事の見方がこんなに危ういものであるとは考えもしませんでした。私がクイズに答えられなかったように、私たちの物事の見方は、さまざまな思い込みに縛られた、あてにならないものです。クイズのような形で教えていただかなければ、気付くことができない思い込みを、まだまだしているに違いありません。ところが、そのような悲しいありさまを、私は自分の力では知ることができずにいます。私たちはそのような愚かさを抱えているのです。『歎異抄』第九条に、「仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫と仰(おお)せられたることなれば・・・」と記されています。私たちは、自分のあてにならない物事の見方を「正しい」と思い込んで暮らし、「正しい」もの同士が衝突しては自他共に傷つき、悩みを深めているのではないでしょうか。とりわけ、「最後は結局自分がかわいい」という物事の見方は、自分の力では気付くことも、なくすこともできない根深いものです。その私たちのすがたを、阿弥陀さまはすでに見抜き、「煩悩具足の凡夫」であると仰せになっているのです。
阿弥陀さまは、物事を正しく見抜くお智慧と、智慧なき愚者を救うお慈悲をお持ちの仏さまです。その智慧と慈悲はお名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」に込められています。私たちにとって大切なのは、このお名号に込められた阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくことです。お名号を聞くとは、阿弥陀さまが見抜いてくださった、私の本当のすがたを聞かせていただくということです。私が煩悩具足の凡夫であることを聞かせていただくのです。それはそのまま、私の愚かさを放っておけないというお慈悲を聞かせていただくということです。「煩悩具足の凡夫」などと言われると、「私はそんなに愚かではない」と、反発してしまうかもしれません。けれども、家族や先輩から厳しく意見されて反発したものの、よくよく考えると、至らないのは私であったという経験はないでしょうか。私は愛情をもって見抜かれていたのです。お名号を通して、自分の力では気付くことができない私の愚かさ、危うさを知らせていただく時、私を見抜く阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきの中に、今、この私があることに気付かされるのです。

■真の仏弟子
法要つとめる心持ち
先日、故郷を離れて久しいご門徒さんから、うれしいメールが届きました。「おかげさまで、夫婦ともどもご本山御影堂においておごそかに帰敬式(ききょうしき)を受け、法名をいただきました。すぐにご報告、御礼に参上すべきところ、誠に失礼ながらメールにて取りあえずお知らせいたします。ありがとうございました」という報告です。また「これからは浄土真宗のみ教えを大切に過ごしてまいります」と付け加えてありました。九州から首都圏に出られてからも、故郷のお寺を忘れることなく、おかみそりを受け、法名をいただこうと思い立たれたことが何よりありがたく、うれしいことでした。すでにお浄土の人となられたご両親も、きっと喜んでいてくださることでしょう。私たち浄土真宗の門徒は帰敬式を受けることにより、親鸞聖人が仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依し、仏弟子として生き抜かれたように、そのみ教えに生きようという思いを新たにさせていただきます。帰敬式を受けると、お釈迦さまの教えを聞くもの、お釈迦さまの弟子として、釋(しゃく)(釈)の一字を冠した、釋○○という法名をいただきます。仏弟子としての名のりであり、仏弟子として生きるということの表明です。
すべて阿弥陀さまが
仏弟子という言葉は、あまりなじみがないかもしれません。一般的に弟子というと、師匠から弟子へと特別な技術や技能を伝承する世界で多く使われるようです。学問、芸術の分野や、落語など古典芸能の世界などが思い浮かびます。師匠と弟子の個人的な関係が重要で、手取り足取り指導するというイメージです。でも、仏弟子というときはそうではありません。
『歎異抄』には「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」という有名なお言葉があります。お念仏は私が教えたり、こと細かに指導したから伝わったというのではなく、念仏申させずにはおかないという阿弥陀さまのはたらきによって、念仏申す身になったのですから、弟子とか師匠という人間関係で語るべきことではないのです、と教えられています。善導大師は「深く信じる心」を説明する中に「真の仏弟子」という言葉を使われています。「また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者(ぎょうじゃ)たちが、一心にただ仏(ほとけ)の言葉を信じ、わが身もわが命も顧(かえり)みず、疑いなく仏が説かれた行(ぎょう)によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを釈尊の教えにしたがい、仏がたの意(い)にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである」と、この私のためにおこしてくださった本願に、お念仏一つを選び取ってくださったお心を聞きひらいてお念仏申すものを「真の仏弟子」といわれたのです。
親鸞聖人はこれを他力の信心をいただいた念仏者のことだと受けとめられました。とても自分の力で仏のさとりに至ることなど、考えられもしない愚かな私が、こんな私をこそ見捨てておけないのだと、はたらき続けてくださっている本願名号「南無阿弥陀仏」によって、無上のおさとりを開かせていただくからこそ、真の仏弟子といわれるのです。お釈迦さまをはじめ、諸仏と呼ばれる無量無数の仏さまたちも、この私に「南無阿弥陀仏」とお念仏申させようと、真実の慈悲をもってわが子を育てはぐくむ父母のように、ありとあらゆる手だてをもって、無上の真実信心をひらきおこしてくださったのです。この真仏弟子釈の結びには、「悲しきかな」と遇(あ)いがたき本願に遇いお念仏申す身にさせていただき、安心して今を生きることのできる身をたまわりながら、相変わらず自己中心の小さな私から抜け出せず不平不満のただ中にある身を「恥(は)づべし、傷(いた)むべし」と悲嘆されています。仏弟子として名のりをあげた私たち真宗門徒は、阿弥陀さまの本願に出遇い、無上のおさとりを開かせていただくよろこびとともに、この身の現実はどこまでも本願に背き続けていることを教えられ、傷み悲しみをもって歩ませてもらいます。

■有ること難し
法要つとめる心持ち
先日、ご門徒のお宅で一周忌のご法要をおつとめしました。一周忌は最初の年忌法要ですので、私は「法要はどんな気持ちでおつとめしたらいいのか」ということを、お話しすることにしています。私自身も若い時、そのことを先輩にお聞きしたところ、二つの心持ちでつとめよと教えていただいたのです。一つは「故人を偲ぶこと」です。法要にお参りしている人たちは故人と縁の深い人たちばかりですから、これは当然でしょう。皆さんが故人の思い出話をしていました。そして、自分の暮らしを故人にご報告されるのがよいと思います。もう一つは「ご勝縁(しょうえん)」です。法要は、日常忙しい生活をしている人も、仏縁を結ぶことのできる優(すぐ)れたチャンスだということです。つまり、ご法要は亡き人を偲ぶとともに、仏縁を結ぶ大切な行事であるということでしょう。『三帰依文(さんきえもん)』の最初の文に、「人身受(じんしんう)け難(がた)し、今すでに受(う)く。仏法聞(ぶっぽうき)き難し、今すでに聞く」とあります。人間として生まれることは、とても難しい。しかし、そのことを今初めて気付くことができた。仏法についても同じことだという意味でしょう。私が学校に勤めていた時に、生物の先生とこんな話をしました。「現在、地球上には多くの生命体がありますが、一番多いのは何ですか」と聞いたところ、バクテリアやウイルスなどのミクロの世界の生物、微生物だそうです。グラウンドで話を続けました。「例えば、このグラウンドの砂が地球上の命の数だとしたら、人間の数はどれ位ですかね」と問うと、「一握りの砂」だと教えられました。これでは人間に生まれる可能性は皆無に等しいでしょう。皆さんはよく生まれましたね。生物の先生と話した後、お釈迦さまのお話を思い出しました。
すべて阿弥陀さまが
お釈迦さまが弟子のアーナンダに、足もとの土をすくいあげさせて、「この世の中に生きているものは、大地の土のようにたくさんいるけれども、人間に生まれるのは手のひらの土ほどのわずかなものだ。よほど幸せなことだ」と話されました。さらに、手のひらの土を指の爪ですくい、「手のひらの土が人間ならば、爪の上の土は仏の教えを聞くことができるもので、喜ばねばならない」とおっしゃいました。「有り難い」という日常用語があります。文字通り見ると、「有るのが困難である」という用語です。存在が稀(まれ)である。めったにない。珍(めずら)しいという意味でしょう。今までお話ししてきたことによると、「人間として生まれること」や「仏の教えに遇(あ)うこと」はなかなか難しく「有り難い」ことです。だからこそ「人間に生まれた」「仏の教えを聞けた」ことは決して当たり前ではなく、大変貴重なことです。ですから、「ありがとう」は、感謝を表す言葉となりました。有り難いことですね。
先日のご法要には、皆で「正信偈(しょうしんげ)」を唱和しました。その「正信偈」の中に、往還回向由他力(おうげんねこうゆたりき)とあります。現代語訳では「往相(おうそう)も還相(げんそう)も他力の回向(えこう)であると示された」とあります。「往相」は浄土に往生するすがたのことです。「還相」は浄土からこの世に還(かえ)ってきて人々を救う活動をすることです。そして、そのような行動は、「他力による」とあるように、すべて阿弥陀仏の本願力の回向によるのです。その次には、正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)とあります。現代語訳では「浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである」とありました。
一周忌のご法要が終わりました。「故人を偲ぶこと」と「仏縁を結ぶこと」を中心に、「有り難い」法要に感謝して、ご門徒のお宅を後にしました。

■薫習(くんじゅう)の世界
大人のあり方が影響
新しい年度が始まり、日本列島も春爛漫(らんまん)の季節を迎えました。ピカピカの新入生たちが、それぞれの世界で輝き羽ばたいています。春の陽光に包まれてはしゃぐ子どもたちの笑顔は、何ものにも替えがたい尊いものです。しかしながら今、子どもたちを取りまく環境は大変きびしく、学校でのいじめや教職員による体罰、さらには家庭内での虐待など、昨年1年間のまとめによりますと、これまでの統計で最も多かったことが報じられていました。残念ではありますが、その中にはかけがえのない尊い〈いのち〉を自ら絶ってしまった児童や生徒が含まれていることは周知の通りです。このようないじめ・体罰・虐待はどうして起こるのだろうかと、その原因を探ってみますと、一つには大人社会の価値観の倒錯やその生き方などが影響していると言っても過言ではありません。さらに追跡をいたしますと、戦後教育において宗教教育を忌諱(きき)してきた文教施策のもたらした弊害と言えなくもありません。自分の権利の主張には長(た)けていても義務を遂行することは他人任せで、自分の思い通りにならなければ他人のせいにするなど、自己中心のライフスタイルが反映しているとも言えるのです。かつての家庭には独自の家風があり、学校にはよき校風があって、それぞれが人間性を育(はぐく)む学びの場でありました。今、その学びの場が機能せず、親も教師も自己主張や防衛に腐心して、都合の悪いことは隠蔽(いんぺい)する体質で、人間存在の原点である〈いのちの教育〉についての学びを置き去りにしてきたからではないでしょうか。生きとし生けるものの〈いのち〉の尊厳について真摯に向き合うことが、今あらためて問われているのです。その〈いのち〉の尊厳とは、弱者は弱者のままで尊重され、共に生き、生かされる絆づくりが求められているのです。
決して一人ではない
京都女子学園では毎年、宗教文化研究所主催の懸賞論文を、児童・生徒・学生から募集しています。過年度、入賞した高校2年のBさんは、体育祭の体験をもとに文章をまとめました。その一部を紹介いたします。『体育祭名物、応援合戦の人文字は、一人ひとりに割り当てられた役割を正確にこなさないと全体として完成しない。呼吸を合わせ、プラン通りの動きを何度も練習を重ね、みんなの気持ちが一つになった時に初めて、あの感動の発表が完成するのだ。歴史と伝統の重さを感じ、強く心を揺さぶられた瞬間は鳥肌が立った。親鸞聖人は、人間は善行(ぜんぎょう)や学問によって浄土往生を遂げることは難しいため、己の罪深さを自覚することが大切であると説かれた。このことを今の自分にあてはめてみると、自分一人がよければよい、自分の行いは正しいのだというような思いあがった心ではなく、周りのみんなに支えられ、教えられ、助けられてはじめて自分が存在するのだということを自覚せよとのことではないかと思う。お釈迦さまの教えにある「縁起(えんぎ)」とは、ありとあらゆるものは互いに関係しあい「もちつもたれつ」の状態にあることを表す。この世にはただひとつだけで存在するものはないのだ。私が思い悩み、苦しんでいる時も決してひとりではないのだ。目には見えないかもしれないが、私にはいつも両親や友達、先生方や先輩方の手が、そして阿弥陀仏の救いの手が差し伸べられているのだ。宗教の授業で「縁起」という教えを学んだことで、私の心は救われたのである。今年も先輩方の一糸乱れぬ素晴らしい演技を見て、来年は自分に番が回ってくると、誰もが不安を覚えたかもしれないが、お互いに手を差し伸べ合い気持ちが繋(つな)がっていけば、大きな一つの「輪」がうまれる。そんな繰り返しが広がっていけば、うれしいことも悲しいこともみんなで共有できる関係になれる。私たちはひとりではなく、大きな温かい眼差(まなざ)しのなかで見守られているのだ』と結んでくれています。
このような文章は毎年、学校が発行する伝道誌「求道(ぐどう)」に掲載し、在校生(保護者)全員に配布して閲覧してもらいます。学校でも家庭でも、それぞれの場におけるはたらきかけと学びは、知らず知らずの間に成長期の子どもたちには豊かな心を育む種まきとして、人格形成にとても重要なのです。この「薫習(くんじゅう)」の世界を大切にしていきたいものです。

■桜が教えてくれたこと
報道の力は大きい
私のあずかるお寺は、田舎の小さなお寺です。境内の本堂の屋根に枝がかかりそうな場所に、斜めに生えた桜の木がありました。ほかの桜から遅れて4月の終わりごろの温かい時期に花を咲かせ、天気がいい日には、その桜の下で花見をしながら家族でお昼ごはんを食べたりしていました。4年ほど前、門徒の方がきれいに咲いた桜を見て、この桜はなんという品種ですか、と尋ねてこられました。詳しいことは知らないと伝えると、植物園で聞いてみますと言われるので、枝を切って、持って行ってもらいました。いろいろな調査の結果、この桜が、どこにもない新種であることがわかりました。名前を調べようとしたら、名前がない桜であるとわかったのです。このニュースは、地元の新聞やテレビで大きく報道されました。メディアの力は大きく、その年の春はずいぶんと忙しくなりました。電話はひっきりなしに鳴り、境内にはカメラを持った人がたくさん訪れ、暗くなるまで人が絶えませんでした。はじめは、ようこそようこそと出迎えていたのですが、だんだんと説明するのも追いつかなくなり、お参りにも行けない状況となりました。あわてて案内のチラシを作りましたが、コピーしたものがすぐになくなり、結局、1000枚ほど印刷することになりました。本堂で手を合わせていかれる方も多く、桜のおかげで、たくさんのご縁を結ぶことができました。
仏さまのそばなのに
しかし、たくさんの方が来られると、困ったことも起こります。もっとほかに見るものはないかと、境内の裏のほうまで見に来られる方もいらっしゃいます。うっかり洗濯物も出しておけません。犬の散歩がてら来られて隅の方で用を足して行かれたり、前の道路を車がふさいでしまって出入りができなくなったり、近くのお寺に迷い込む人がたくさんあって苦情がきたりと、いろいろな対応に追われました。はじめのうちは有名になった気分でうれしかったのですが、だんだんと、こんなことなら知られないほうがよかったんじゃないか、とも思うようになりました。そんなある日、庫裏(くり)の2階の窓から、そっと境内の様子をうかがっていると、見なれない、赤い高級外車が門前に止まりました。中からは、濃い色のメガネをかけた、とても派手なおばさんと、小学生くらいの男の子が2人現れました。その姿を見た時、私は、この人たちもきっと桜を見に来たので、お寺には用のない人たちだから出て行く必要はないな、と思いました。案の定、子どもたちは「これや! これや!」と大きな声を出して桜のほうへ走ってきました。「やっぱりね」と思っていたら、後から来たおばさんが、もっと大きな声で子どもたちを叱りました。「あんたら、お寺に来たら、最初に仏さまにあいさつせんとあかんでしょ!」
子どもたちは素直に従って、おばさんといっしょに本堂のほうへと歩いて行きました。私は、人は見かけによらないなと感心しましたが、よく考えると、すべての衆生に願いをかけている阿弥陀さまのそばで、この人は関係ある、この人は関係ない、とより分けている自分の姿が急に恥ずかしくなりました。足を運んでくださった方はすべてご縁のある方に違いないのに、つながりを見ようとしなくなっていたのは、私自身であったと反省させられました。桜の花が咲いている間はにぎやかだった境内も、散った後は静かになりました。少し遅れて訪れた方は、もう葉ばかりになった桜を見上げて残念そうにされますが、花が咲いていない季節にも、桜は生きているのです。咲いては散る「花の命」のその奥で、それぞれの命を育む広い根や、支えとなる大きな幹や枝も含めた「木の命」がはたらいていることに気づくとき、一人一人が「無量寿(むりょうじゅ)」という大きないのちから願いを注がれて生きている。私のいのちが私だけでは終わらない世界が見えてくるように感じるのです。

■生きる力育むとき・ところ
死は終わりではない
昨年11月11日付、産経新聞朝刊の1面に、東日本大震災で親友のゆいちゃんを亡くした小学1年生の羽奈ちゃんの記事が掲載されていました。羽奈ちゃんは親友のゆいちゃんと、海岸から1・5キロ内陸にある同じ幼稚園に通っていました。その幼稚園を津波が襲い、園児8人、職員1人が、避難するために乗った送迎バスごと流されて亡くなりました。早退していた羽奈ちゃんは、海から遠く離れた病院にいて助かりました。震災後、小学生になった羽奈ちゃんは、毎週、幼稚園の献花台を訪れ、置かれたノートにメッセージを書き続けているそうです。「まるで亡くなったゆいちゃんが目の前にいて、話しているかのよう」だと、記者は綴っています。私が住職を務めるお寺では、わが子を亡くした母親が、毎日お墓参りに来られています。もう1年が過ぎました。私は、その姿を見守り続けることしかできませんが、お母さんはきっと「ここへ来ればわが子に会える」との思いで来ずにはおれないのだと、私は感じてきました。住職として、多くの人の死と、その家族や周囲の人たちに会ってきました。予期せぬ別れであったり、つらい別れにも出会ってきました。それらの経験から私が学び感じてきたことは、「死んだら終わりではない」と仏教が説き続けてきたことが、その通りなんだということでした。「死んだら終わりではない」ことは、私の死ということと遺(のこ)された方にとっても、その両方に言えることなのです。
何でも話せる場所
以前出会った詩に、小学6年生(当時)の中村良子さんが書いた『宿題』があります。良子さんのお母さんは若くして亡くなりましたが、学校の宿題で「お母さんの詩」が出されたのです。先生から「つらい宿題だと思うけど、がんばって書いてきてね。お母さんの思い出としっかり向き合ってみて」と言われました。詩の一部ですが紹介します。
がんばってがんばって書いたけれど お母さんの詩はできなかった 一行書いてはなみだがあふれた 一行読んではなみだが流れた 今日の宿題はつらかった今まででいちばんつらい宿題だった でも「お母さん」といっぱい書いてお母さんに会えた 「お母さん」といっぱい呼んでお母さんと話せた 宿題をしている間私にもお母さんがいた
またあるとき、ご門徒さんからこんな質問を受けたことがありました。その方は、連れ合いの方と2人で暮らしていましたが、連れ合いの方が先に亡くなり、いま家にひとりぼっちで暮らしています。お仏壇に向かって、昨日あったこと、今日あったこと、うれしかったこともつらく悲しいことも、時には愚痴や不満も話しかけるそうです。「それはいけませんか」というのが質問でした。「おうちのなかで、何でも話しかけられる場所があってよかったですね」と、私は答えたように記憶しています。今までは、家の中で話しかける相手がいたのですが、先立たれたあと、お仏壇に向かって話しかけるようになったというのです。お仏壇の前に座ったとき、阿弥陀さまを見つめながら、亡き夫に話しかけているのかもしれません。話しかけても決して返事がもどってくるわけではありません。それでも、いつでも、ずーっと黙って聞いてくれているのでしょう。きっと、どんなに日々支えられていることかと想像いたします。
仏教が「死」を通して「生」を考えることを示し続けてきたからこそ、仏教が私に生きる力を与えてきたのではないかと思っています。そして、わが「いのち」を精いっぱい生きていくためには、時には亡き人に出会える「ところ」「とき」が必要なのです。その出会える「ところ」や「とき」は、人それぞれです。その一つに、お寺の本堂やお仏壇、あるいは儀礼があるとするなら、いまを生きる私にとって、宗教的空間や宗教の意義はとても大きく大切なものではないかと思うのです。 
 

 

■宿題できたよ!
その視線の先は...
長いゴールデンウイークも、あっという間に終わりを告げました。楽しい休日を過ごした子どもたちにとって、次の楽しみは夏休みでしょうか。ある年の夏休みのことです。長いお休みも終わりに近付いた8月下旬、お寺のサマースクールには、朝から近所の子どもたちが夏休みの宿題を持って遊びにやって来ました。一緒に「正信偈」のおつとめの後、机を並べてみんな一斉に夏休みの宿題帳「夏の友」を開きます。課題が進んでいる子もいれば、これから取りかかる子も・・・。その中に、兄妹で参加してくれているA君がいました。みんなが勉強しているのをよそに、何をするわけでもなく座っていました。私が「宿題忘れたん?」と尋ねると、「宿題もうできたよ!」と言ったままじっと座っています。「どうしたん?」と、さらに尋ねると、「でかいなぁ!」とひと言。珍しそうに見入るその視線の先は、お内陣の阿弥陀さまでした。ご門徒さんのお仏壇の阿弥陀さまからすると、本堂の阿弥陀さまがとても大きいなぁと目に映(うつ)ったのでしょう。しばらくA君の視線の先の阿弥陀さまを、一緒に眺めていました。すると「宿題終わったけん、遊んでもいい?」とA君。「ほかのみんなは、まだ勉強してるから、もうちょっと待ってね・・・」 その時ふと、子どもたちと一緒におつとめした「正信偈」のご文(もん)がうかびました。重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう) ── 「重(かさ)ねて誓(ちか)ふらくは、名声十方(みょうしょうじっぽう)に聞(きこ)えんと」
私が呼ぶ前から
阿弥陀さまは、自らの名前である「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)が、あらゆる世界を超えて響き渡り、聞こえ届くことを重ねて誓われました。名号の号の旧字「號」は、トラがほえるようにさけぶことを表します。まさに「阿弥陀」という救いのみ親の存在をこの私に知らせるための名号であったのです。いつの頃かはっきり覚えていませんが、よほど心地よかったのでしょう、お風呂場のベビーバスで、両親から「お母さんよ、お父さんよ」と声をかけられながら、体を洗ってもらったことが記憶に残っています。それはひとえに、私が親の名を呼ぶようになる前から、親の方から「あなたの親がここにいるよ」と、いつもよび続けてくれたからこそでしょう。阿弥陀さまは、救い難いあらゆるいのちをどうすれば救うことができるのかという大問題を、「五劫(ごこう)」という気の遠くなるほど長い長い時間、考えに考え抜かれ、さらに「兆載永劫(ちょうさいようごう)」という果てしなく長きにわたるご修行によって、ついに名号「南無阿弥陀仏」を成就されました。それはそのまま、この私を必ず救うという何より確かな「答え」でありました。阿弥陀さまは、み名となり声の仏となられて、私たち一人一人を「如来の子」として見まもり、常にはたらいてくださっています。私たちは直近の課題、目の前の問題が解決されると、肩の荷が下りてホッとした気持ちになります。でも、阿弥陀さまはこの私を必ず助けるという願いを立て、確かな救いの「答え」である親の名告(なの)りを完成し、久遠(くおん)の昔より今も、この私を救い取るためにはたらき続けておられました。
「親の心子知らず」といいますが、阿弥陀さまの目に映る、如来の子である私の毎日のすがたは、時に腹を立て、時に愚痴をこぼしたり・・・と、お恥ずかしい限りのすがたです。でも、阿弥陀さまは、そのような私にこそ、親の願いを聞かせ、親の名をよぶ子に育ってほしいと、はたらき続けてくださいます。お寺に遊びに来る子どもたちは、幼稚園から中学生まで、元気のいい子からおとなしい子までさまざまですが、ともに合掌し、おつとめをします。お寺の本堂は、誰でもみ教えをお聴聞できる場であると同時に、ともに「如来の子」である子どもたちのすがたを通して、み親の願いを聞かせていただく場でもあったということを知らされた、夏のお寺のひとときでした。

■離れることのない教え
今の自分はどうか?
「みんな生かされているんだよ」と、私は生徒に頻繁に語ります。私が奉職している東京の千代田女学園中学校・高等学校は、創立125周年、本願寺の龍谷総合学園に加盟している中高一貫の女子校です。4月になると新入生が入学してきます。中学1年生は、本当にまだ小学生の延長線上にあるような幼い状態ですが、その分素直な心を持っています。その姿を見て、先生として、というより人間として、恥ずかしく思うことが多々あります。鏡のように、自分の姿が生徒に映っているからかもしれません。浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、ご自身のことを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」と自ら語り、常に自己と向き合ってみ教えに生きられた方であると言えましょう。ところで、「素直に話を聞きましょう」「常に自分を振り返りましょう」などと日常的に使いますし、それを否定する人はいないのではないかと思います。学校という場所に身を置いているからこそ感じることかもしれませんが、素直に指導を聞いてくれる生徒ほど早く上達するということは、本当に多くの先生方が実感されます。先生が正しく一生懸命に生徒を指導すれば、生徒はきちんと成長します。クラブ活動などではそのことがよくわかります。その生徒の姿を見て感じることは、「今の自分は素直に人の話が聞けているのか。素直に行動に移せているのか」という思いです。先生として今の自分は正しい指導ができているのか、という思いと、人間として素直に行動しているのかという思いは、共通しています。理想通りにはいきませんが、努力はしなくてはいけないという思いで日々生活を送っています。
知恵と智慧のちがい
さて、私はお寺の次男として生まれました。住職である父の姿を見て育ちましたが、浄土真宗にあまり関心を持たなかった私が、ある時からその教えにひかれるようになり、大学にも入り直し、以後、人生の半分以上の年月を、み教えを聞きながら生きてきました。まだまだ聴聞が足らないことは実感していますが、人生で一つ確信していることは、この教えから離れることはないということです。
智慧(ちえ)の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし 真実明(しんじつみょう)に帰命せよ ・・・と親鸞聖人は『浄土和讃』に詠(うた)われています。
私たちは常に悩み苦しみ、いろいろと言い訳を探しながら、日々生活を送っています。そんな私に、阿弥陀仏の智慧が光となって届いていることに気付くとき、何ものにもかえられない喜びに満たされます。そこで大切なことは、「知恵」と「智慧」には、大きな違いがあるということです。再び生徒たちの話に戻りますが、生徒はまだ人生経験が少ない状態です。でも、自分たちが少しずつ知恵を得て、良くも悪くも成長していることを知っています。ある時、授業中に「小さかった頃の自分の方が好き」という生徒に出会いました。それは、知恵を得て余計に多くの苦悩(煩悩)をかかえていると感じているからではないかと思います。幼い頃は勉強しなくてよかったとか、しなければいけないことが少なかったから楽だったという意味合いもあるかもしれませんが、そればかりではないと思うのです。
私たちには確かに「智慧の光」が全員平等に届いているはずです。しかし、それに気付かないのです。「智慧の光」とは、「自己中心」の私、「煩悩を抱えたまま」の自己に目覚めさせていく「智慧」のはたらきのことです。本願寺派の関係学校では、人間として気付いてほしい大切なことを生徒たちに伝えようと、それぞれの学校で努力しています。蓮如上人は「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい」とおっしゃいました。知恵はある程度自然に得られます。しかし、「智慧の光」にはなかなか気付きません。若い時にこそ智慧の光に満たされ、以後の長い人生をしっかりと歩んでほしいと切望しています。そこに「みんな生かされているんだよ」という言葉の意味が、きちんと認識されてくる世界が開かれると思います。

■見えないはたらきに導かれ
慌てず様子を見て...
お釈迦さまの涅槃(ねはん)のご様子は、涅槃図として描かれ、時代を越え国を越えて、お釈迦さまを敬う人々の間で「絵解(えと)き」として伝えられてきました。その絵には、弟子たちの姿や悲しむ動物たち、沙羅双樹(さらそうじゅ)などが描かれていますが、空を見ますと、雲に女性の姿を見ることができます。この方は、お釈迦さまの母「マーヤ夫人(ふじん)」の姿だそうです。お釈迦さまの誕生から7日後に亡くなられたお母さまのことを、お釈迦さまはとても大切に思っておられたことがわかります。いつもそのご活躍を見守られ、いよいよ涅槃をむかえられる時にも、会いに来てくださる姿がそこには描かれています。私は今年の9月、三男の7回忌を迎えます。2007年の9月9日、三男の亮都(りょうと)は、3歳で急死しました。当時、私は妻と5歳の長男、3歳の双子の次男、三男の5人家族で、双子の弟たちがようやく幼稚園に通うようになった矢先のことでした。
9月8日、その日は土曜日でしたが、3人ともいつものように元気に朝のお参りをしました。そのお昼過ぎ、お昼寝からさめると、三男は38度の熱がありました。かかりつけの小児科の先生は、普段から「熱があってもあわてなくていいですよ。食欲があって元気なようだったら、しばらく様子をみてください。元気がなければいつでも診察しますから」と言ってくださっていました。様子をみていると、元気にお兄ちゃん二人と一緒に遊んで、晩ご飯も残さずに食べましたので、少し安心していました。長男、次男を順番にお風呂に入れている時、三男は突然倒れました。あわてて抱き起こすと、まったく息ができず、唇は紫色に変わってきました。すぐに救急車で病院に運ばれ、医師の先生と看護師さんが交代で心臓マッサージをしてくださっているそのそばで、私は見守るしかできませんでした。画面や音などで心臓の動きや血圧、呼吸などを示すモニターで、子どもの心臓の音が私にもわかりました。先生が胸を押している時だけ、音がしますが、手を止めるとだんだん音が弱くなり止まってしまいます。その様子から、とても危ない状態であることが伝わってきます。どれほど時間がたったのか、やがて先生から「打つ手はすべて打ってみましたが、お子さんを助けることはできませんでした」と伝えられ、ようやく触れることができた亮都のおでこは、少し冷たく感じました。日付は9日になっていました。
また出会える世界が
三男が亡くなってから数週間後のある日の夕食の時です。長男がこんなことを言いました。「家族が4人になっちゃったね。僕、5人の時が楽しくて好きだったんだ。もう5人に戻れないんだよね」 「でも、僕たちが楽しくご飯を食べると、亮ちゃんもうれしいんだよね。だから楽しくご飯を食べようね」 どうやら、私も妻も、まったく笑顔を見せずに毎日を過ごしていたようで、長男は、悲しんでばかりいる私たちを励まそうと、そんなことを言ったのだと思います。でも、その言葉は、大切なことを教えてくれました。「悲しみが大きいのは、出会いの喜びが大きかったからだよ」と。
親鸞聖人がお示しくださった浄土真宗のみ教えは「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還(かえ)って人々を教化(きょうげ)する」教えです。一緒にお念仏香(かお)る家庭を生きた三男は、浄土に生まれ、今度は仏さまとなって私たちを導いてくれます。でも、感情ばかりで生きている私には、そのはたらきが見えずにいます。今見えなくても、仏さまとなってたしかに私を導いてくださる、このことを長男は教えてくれました。そのはたらきに包まれ、このいのちを生き抜いて、また出会うことのできる世界がお浄土です。お浄土でまた会うことのできる亮都に、そして先輩方に、顔向けのできない人生をおくるわけにはいきません。「よくがんばったね」とかけてくれる声に包まれ、家族とともに笑顔で過ごしたいと思います。

■ガンジス河の砂よりも
この子の分まで...
澄んだ夜空を見ると、いまも鮮明に思い出すことがあります。その日は、通院の日でした。夕方からの診察だったので、終わって病院を出た頃には、夜の帳(とばり)がおりていました。当時、私は九州の小さな町に住んでいて、どこに行くのも自分で車を運転していました。病院の帰り道に、町で一番の大きな交差点にさしかかったとき、猫の横たわった身体が運転する私の眼に入ってきました。往来する車も多く、止まることができずに通り過ぎましたが、バックミラーに映った猫はピクリとも動きません。ほどなく家に着いた私は意を決し、猫を納めるための箱とゴム手袋を手に家を出ようとしました。すると、会社から帰っていた夫が「どこへ行くの?」と聞くので、猫のことを話すと、玄関のドアの前に立ちはだかり、「いまの君の状態では、そんなつらいことはしないほうがいい」と言いました。病院通いの私の身を案じる夫。「このままだと、あの猫のことが心配で・・・」と言う私。夫は何度も引きとめましたが、私の決意の固いことを知り、一緒に行くと言ってくれました。交差点まで二人で歩いて行くと、猫の身体は、まだそこに横たわっていました。夫は、私が車にひかれないようにと、車道に立って見護ってくれました。私はそっと猫を持ち上げました。1キロほどしかない小さな猫でした。子猫は、お母さんとはぐれて、こんな大きな道路の角でひかれてしまったのでしょうか。猫を入れた箱を抱えて10分ほど、家への緩やかな登り坂をトボトボと歩きました。夫も私も言葉が出ません。涙がほほを濡らし、小さな子猫の身体が、歩くほどに重みを増していきます。その重みを受けて思いました。さっきのさっきまで生きていたこの子猫の分まで、私は精いっぱい生き抜かなければ・・・。ふと見上げると、澄んだ夜空に満天の星が輝いていました。
夜も昼も私のそばに
遠い昔、お釈迦さまがおっしゃいました。人(ひと)、世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独(ひと)り死(し)し、独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)る。行(ぎょう)に当(あた)りて苦楽(くらく)の地(じ)に至(いた)り趣(おもむ)く。身(み)みづからこれを当(う)くるに、代(かわ)るものあることなし 
病(やまい)に出合って暗やみの中を過ごしました。すごく孤独でした。そして、あらためて思い知らされました。「生・老・病・死」の苦は、誰にも代わってもらえない。しかも、死は誰の上にも等しく訪れるけれど、それがいつかはわからない。今日かもしれないし、明日かもしれない。草の根もとに落ちるしずくのように、ポトポトと・・・。夫が先か、私が先か、死のあと先はわからない。そんなはかないこの世の縁を、うかうかと過ごしてはいないだろうか・・・。小さな子猫の身体が、あんなに重く感じられたのは、いのちの重さと、誰もが受ける苦を伝えていたからでしょう。涙でうるんだ眼で夜空を見あげると、九條武子さまのお歌がこころに浮かびました。
星の夜ぞらのうつくしさ たれかは知るや天のなぞ 無数のひとみかがやけば 歓喜になごむわがこころ ガンジス河のまさごより あまたおわするほとけ達 夜ひるつねにまもらすと きくに和めるわがこころ
夜空の星の美しさを感じて、数えきれないいのちの輝きを想い、喜びに包まれてこころが和んでいきます。インドのガンジス河の砂よりも、たくさんの仏さまが夜も昼も見護ってくださっていると聞くと、ホッとします。そんな想いに包まれると、現実の厳しさを受けとめると同時に、緩(ゆる)んでいくこころ・・・。「私は、あなたと共にいます。安心して、あなたはあなたのままに、いのちのかぎり精いっぱい、生きなさい」 独りで苦を受けているとばかり思っていた私のそばに、阿弥陀さまは、そっと寄り添っていてくださいました。

■ずいぶん静かになりました
最後のお別れではなく
最近、お念仏の声が小さくなっている、とよく言われます。特に実感するのが、葬儀の時です。以前はほとんどが自宅で葬儀をしていました。遺族、親族、会葬者が「正信偈」を読誦(どくじゅ)し、そこにはお念仏の声が満ちあふれていました。時代が変わったのでしょうか。葬儀がずいぶん静かになりました。通夜の法話の中で、心がけていることがあります。人は死んだらみんな仏さまになると思っている人が時々ありますが、決してそうではありません。もしそうなら、キリスト教徒も、イスラム教徒も、仏さまになってしまいます。仏教はそんな独善的な教えではありません。仏さまになることができるのは仏教徒だけなのです。親鸞さまは「南無阿弥陀仏」とお念仏申す人を真の仏弟子であると教えてくださいました。今こうして悲しみの中にある私たちにできることは、お念仏しかありません。ご一緒にお念仏いたしましょう。そうすれば、これが故人との最後のお別れにはならないはずです。このように法話の中で、必ずお念仏を呼びかけます。しかし、法話の後で「一同合掌・礼拝」のアナウンスがあるのですが、お念仏の声が増えることはまずありません。どれだけ呼びかけても残念ながら法話の前と同じです。いつも自分の力のなさを思い知らされます。初めて法話を聞いて、いきなり「お念仏いたしましょう」と言われても無理だろうなと思いつつ、それでも愚直に同じことを繰り返しています。
裏切られた期待
しばらく前になりますが、こんなことがありました。60代の男性の方の葬儀でした。いつものように通夜の法話が終わり、やはり静かな合掌・礼拝があって、退出しようと立ち上がった時でした。男の子の声が聞こえたのです。導師退出ですので、普通は静まりかえる瞬間です。
「お母さん、お念仏しなかったでしょう」 小さな声でしたが、その声は静かな会場内に響きました。声の方向を見ると、遺族席の親子が目に入りました。まだ小さな男の子が隣の母親を見ていました。初めて見る顔でしたが、故人の娘さんとお孫さんだと直感しました。母親は口の前で人差し指を立て、息子さんに向かって静かにするよう目配せをしていました。ところが、男の子がまた言ったのです。「お母さんのお念仏が聞こえなかった」 母親は小声で答えました。「あと少しの間、静かにしていてね」 この親子のやり取りを聞きながら横を通り過ぎようとしたその時です。背中から男の子の半泣きの声が聞こえてきました。「お念仏しないと、もうおじいちゃんに会えなくなるよ。そんなのいやだよ」 そうです。この言葉を聞いて確信しました。この男の子はお念仏してくれていたのです。母親がお念仏したかどうかはわかりません。けれども、少なくともこの子はおじいちゃんのことが大好きだったのでしょう。このままお別れしたくなかったのでしょう。法話を聞いて素直にお念仏してくれたのです。
振り向いて「ありがとう」と言って抱きしめたいほどの喜びでした。実際は何もしませんでしたが、退出しながらうれしくなりました。ところが、喜びはこれだけではなかったのです。次の日は葬儀です。入場の際、横目で男の子を探すと、昨夜と同じ席に母親と並んで座っていました。着席して司会者の開式の辞を聞きながら、耳をすませば彼のお念仏の声が聞こえるかもしれないと期待しました。しかしその直後、期待は裏切られました。「一同合掌・礼拝」のアナウンスと同時に、たくさんのお念仏の声が後ろから響いてきたのです。男の子の声などとても聞き取れません。会場全体からお念仏の声が響いてくるのです。目頭が熱くなり、勤行の最初の声がかすれました。通夜での親子のやり取りをみんなが聞いていたのです。男の子の一言がこれまでお念仏をしていなかった人の心を動かしたのです。彼の素直さが会場全体を変えてくれたのです。後ろを振り向くことはできませんが、声を出してお念仏する母親の姿と、それを聞きながら隣で堂々とお念仏する男の子の姿をありありと想像しながら、私は遺影のお顔を見て、おつとめを始めました。

■灯(あか)りと共に歩む先に
最後になるかも・・・
母の病気が明らかになったのは、昨年の春の頃でした。すでに治療が難しいほど、病気は進んでいました。痛みだけを和らげる治療を進めることとなり、在宅で緩和ケア専門の先生にお世話になることとなりました。自宅での療養でしたから、病気が進行して体力がなくなっていく様子がよくわかります。夏を過ぎ、秋になり、いよいよ動けなくなりました。食事もほとんど受けつけなくなり、水も飲めません。その頃、私は1週間ほど泊まりがけで布教に出かける予定が入っていました。「もしかしたら、母の往生にあえないかも知れない・・・」との思いで、覚悟しつつ、「行ってくるからね」と母に話しかけました。母は声を絞り出すように「気をつけてね」といって、いつものように私を送り出してくれました。重体の母を気遣(づか)い、心配して、「行ってくるからね」と声をかけたつもりが、その母に心配されていたとは・・・。最後になるかも知れない母の言葉を噛(か)みしめながら、車を走らせました。親の思いは、いつも子どもの心を越えているということでしょう。布教に出かける二、三日前、往診に来られた先生から一枚の紙を渡されました。先生は、「大丈夫。お母さんはきっとうまく着陸できますよ」とおっしゃいました。その紙には、母の命が終わっていく過程で、心と体に起こりうる変化について丁寧に書かれていました。母が往生したのは、布教を終えて寺に帰った翌日でした。静かな静かな臨終でした。家族全員で、お念仏を称えさせていただきました。「穏やかな最期でした。うまく着陸できたのは、先生とスタッフ皆さんのおかげです」というと、先生は「それは、私やスタッフの力ではありませんよ。家族の皆さんが、お母さんにがんばれ、がんばれと言わなかったからですよ。がんばれと言われたら、お母さんはもっとつらかったと思いますよ」とおっしゃいました。先生の「大丈夫」という言葉は、亡くなっていく母の気持ちに寄り添うゆとりを、私たち家族に与えてくれました。
聖人と一緒に歩む
『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』の一首です。
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ 
親鸞聖人は、「人生は暗闇を手探りで歩むようなものである。風雨にさらされることもあるが、嘆(なげ)くことはないぞ。阿弥陀さまが用意してくださった灯火(ともしび)があるぞ。念仏という船に乗せていただき、苦悩の海を渡らせていただこう」とお示しです。若い時も、年老いた時も、元気な時も、病の時も、どんな時も、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏とよんでおくれ、私をたよりとしておくれ」と、おっしゃいます。そのよび声と共に歩むとき、安心が生まれ、心にポッと灯りがともります。人生を飛行機に喩(たと)えると、離陸が誕生で、着陸が死ということになります。その間は、まさに順風満帆(まんぱん)な時あり、暴風雨の中の飛行ありと、さまざまでしょう。そして、着陸する時、ゆっくり高度を下げる着陸もあれば、急降下もあるでしょう。飛行機が順調に飛んでいるときは、何も心配ありませんが、突然揺れ出したりすると急に不安な気持ちが起こってきます。しかし、「気流の変化で揺れることがありますが、飛行には問題ありません。当機は、順調に飛行を続けています」と機長のアナウンスが入ると、不安な気持ちが晴れていきます。そして、飛行機は目的地に向かって高度を下げ、点々と輝く誘導灯をたよりに着陸します。阿弥陀さまが、お浄土を用意してくださる。この命を引き受けてくださる。そのお心が「南無阿弥陀仏」となって、私に届いています。その時その時に口からこぼれるお念仏は、灯りであり、その灯りに導かれてお浄土に向かいます。念仏と歩む人生を、親鸞聖人は「私と共に参りましょう」とお誘いになっておられます。

■人といのちのハーモニー
あいさつさえも
みなさんはどんな音楽が好きですか?誰でもお気に入りの曲が一つはあると思います。音楽は、私たちの生活においても大切なものとなっています。その音楽ですが、さまざまな音から成り立っています。トランペットだったり、サックスだったり・・・。それぞれ違った音色を奏(かな)で、自らが中心となるときは主張し、他の音を引き立てるときは一歩下がり、絶妙なバランスで成り立っています。もし、そのバランスが崩れたらどうでしょうか。それぞれの音がぶつかり合っているような状態です。音階が一つ違っただけでも、不協和音になってしまいます。不協和音とは、それぞれの音色が本来素晴らしいものであっても、お互いの響きを遮(さえぎ)り、調和のとれない、耳障りに聞こえるような音のことです。それは私たちの人間関係にもいえるのではないでしょうか。私は僧侶になる前、事務の仕事をしていました。その時、まさに不協和音ともいえる関係の方がいました。その方は、私より少し年上の女性の上司・Aさんでした。最初はとても仲良く和気あいあいと仕事をしていたのですが、いつの頃か、私と話をしてもらえなくなりました。Aさんとは一緒にペアを組んで仕事をしていたので、話さないことには仕事が進みません。しかし、仕事の話どころか、挨拶さえもしてもらえなくなり、意を決して話しかけてみると、「勝手にやったら?」としか言われませんでした。その時、ムカッとした私は、以降、自分からはほとんど関(かか)わろうとしなくなりました。このことが原因かはわかりませんが、Aさんは胃かいようになってしまい、しばらく胃薬を飲んでいました。苦しかったとは思いますが、なぜそのような対応しかしてもらえないのか理解できませんでした。不協和音の原因は全く思い浮かばず、Aさんはひどい人だなぁ、とばかり思っていました。
相手でなく自分が
仕事を辞(や)め、浄土真宗のみ教えを学び始めた時、「宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり」というお言葉に出あいました。
清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは いつつの音声(おんじょう)いだしつつ 宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり 清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし 
雅楽(がかく)やお経(きょう)では東洋音階を用います。宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)という五つの音階がありますが、その中でも、宮と商の二つの音は、ぶつかり合って聞こえる不協和音の関係で、西洋音階でいうドとレのような隣り合う音です。
親鸞聖人は、阿弥陀さまのお浄土の世界では、その不協和音が調和していくと示してくださいました。自分の音も相手の音も、ぶつかり合うことなく響き合っていくということです。不協和音・・・真っ先に思いついたのはAさんとの関係でした。「こちらは誠意をもって話しかけていて、ちゃんと対応しているのに、Aさんはなんでそんなことを言うのだろう?」とばかり思っていました。しかし、よく考えてみると、不協和音の原因となっていたのは、自分の主張ばかりして、なぜわかってくれないのかと相手だけを責めていた自分の姿でした。その時、Aさんのことを避けようとしていた自分に、恥ずかしい思いがしました。「宮商和して自然なり」。このお言葉に出あって、Aさんとのことだけではなく、自分が正しいと思いこみ、相手と調和していけない自分の姿に気付かされました。阿弥陀さまは、私が心地よい音楽のように周りと調和できないことを見抜かれ、放ってはおけないと立ちあがってくださいました。そして、この世の命のご縁が尽きた時、すべてのいのちが調和していける世界をご用意くださっただけではなく、それは今の私にもはたらいてくださっています。今、私を決して見捨てないはたらきが届いていると思うと、少しでも相手のことを尊重していける生き方をしていこうと思います。Aさんとのことは、どこまでいっても現実を見ようとせず、相手に配慮できなかった自分との出あいにもなりました。嫌な出あいではなく、今では大切な出あいだったと思っています。

■「遺言」
何か心に引っかかる
今から3年ほど前、あるご門徒の葬儀をおつとめして、斎場に向かう車中でのことです。いつもなら自家用車で斎場に向かいますが、その日はご門徒が私のためにタクシーを呼んでくださっていました。その時、運転手さんがご自身のお母さまの話をしてくださいました。「実は私も先日、母を亡くしました。私はできるだけ時間をつくり、施設に入所している母の顔を見に行きました。でも、母は私の顔を見ても他人行儀。晩年から認知症になった母は、私の顔すら忘れてしまっていたのです。とてもショックでした。母の頭の中に、母の心の中に、私の存在がないのかと思うと本当にショックでした。ただ、それは病気がさせたこと。決して母の意思ではないと何度も自分に言い聞かせました。そしてもう一つ残念なことがあるんです。それは、母の遺言が聞けなかったことです。最後に一言、母の遺言が聞けるとよかったんですがね・・・」 運転手さんは「遺言が聞きたかった・・・」と何度もおっしゃっていました。その都度、私は「そうですね・・・」と口では相づちをうっていたのですが、なぜか心の底のほうで何かが引っ掛かるような思いもしていました。そして、お話を聞いているうちに、気付かせていただいたことがあったのです。それは「遺言」という言葉でした。何度か運転手さんがおっしゃった「遺言」という言葉に引っ掛かりがあったのです。
誰のためか考える
「遺言」という言葉は、ドラマなどでよく見られる臨終間際に発せられる言葉が「遺言」のように思われがちですが、そうではないことに気付かせていただいたのです。遺(のこ)された言葉。遺さなければならなかった言葉なのです。ということは、遺言とは、遺す側に必要な言葉ではなく、遺された者に必要な言葉で、遺された者が出あっていかなくてはいけない言葉です。臨終間際の言葉ではないのです。私は「運転手さん、私、今気付かせていただきました。私の両親はおかげさまで今も居てくれております。私が小学校に入学した頃は、母からいつも、『ハンカチ・鼻紙持ったか?』『先生の話、しっかり聞くんやで』『友達と仲良くするんやで』と言われていましたが、その一言一言が、その当時の母の遺言だったと思うんです。今もいろいろと母から言葉をもらいます。私のことを思って発してくれているその言葉すべてが遺言だったんだと気付きました。私の心の状態によっては、なかなか素直にありがとう≠ニ言えないことのほうが多くありますが、運転手さんも、お母さまのお言葉(遺言)を聞いてらっしゃるんじゃないですか?」 こうお話すると、運転手さんも「そうでした。母はたくさんの遺言を遺してくれていました。何度も繰り返して、うるさいとまで思っていたあの一言一言が遺言でした」とおっしゃいました。
「お経(きょう)」も同じことではないでしょうか。経典は、お釈迦さまが私たちに遺してくださった遺言です。お釈迦さまは、今この娑婆(しゃば)世界で迷い≠迷いとも気付かずに生きる私のために 尊いお言葉を遺してくださっていたのです。お経は、三蔵法師によって、「絹の道」、別名「骨道(こつどう)」ともいわれているシルクロードを通って日本に届けられました。今もなお道中には、白骨化した無数の動物の遺骨が砂に埋もれています。先の見えない砂漠にあって、はるか彼方(かなた)にお経を届ける・・・。「はるか彼方」とは、三蔵法師が目指される国というだけでなく、遠い先の時代も意味するものでしょう。そして三蔵法師の瞳に目標と映ったはるか彼方というのは、それは「私」のことではないでしょうか。ラクダに背負わせた経典が届けられなければならなかった場所、仏さまが三蔵法師に届けさせたかったその場所とは、正しく「私の手」だったのです。さらに、そのお心を頂戴(ちょうだい)することこそが、本当にお経が私に届いたことを意味するのでしょう。誰に届けられた経典なのか、誰に届けなければならなかった遺言なのか。今一度考えてみたいものです。

■苦しみも悲しみも喜びもご縁
美しい蓮の花
広島の作木町の溜池に自生する蓮の花を、妻と一緒に見に行きました。青い空の下、優しいピンクや清楚な白の大輪の花が一面を覆い尽くす様は、あたかも大海の波のようで、その迫力に目を奪われました。この溜池では、4年ほど前に水を抜いて護岸工事を行ったところ、その翌年から突然、蓮の花が咲き始めたそうです。近くの百歳くらいのおばあさんは、ここに蓮の花が咲くのは見たことがないとおっしゃっています。つまり、少なくとも百年以上昔にあった蓮の種が、工事の影響で傷つき、それが縁となって咲いたのです。実(じつ)は、蓮の種は硬い殻に覆われていて、そのまま蒔(ま)いても発芽しません。種の一部をヤスリなどで削り、傷つけなければ発芽しないのです。傷つくことが縁で発芽し、美しい花を咲かせる蓮の花。私たち人間も、時に傷つくことが仏縁となり人生に目覚め、美しいいのちの花を咲かすということもあるのではないでしょうか。
私を目覚めさせる仏
「仏さま」「ブッダ」とは「覚者」。つまり「いのちの尊さに目覚めたお方」のことです。そして、自らが目覚めるがゆえに、寝ている者を起こし、必ず目覚めさせずにはおれないお方なのです。私たちは口では、命は尊いとは言うものの、日々有り難く尊い命だとは感じず、愚痴や不平の中に暮らしていて、とても目覚めたとは言えません。そんな私たちに、命の尊さに目覚めてほしいとはたらき続けてくださるお方こそが仏さまなのです。昨年の2月、お寺の総代を以前してくださっていた方の長男さんが、働き盛りでお亡くなりになりました。初七日の折、「私たちが亡き方を仏さまと仰ぎ、手を合わすのは、私たちにいのちの尊さを目覚めさせてくださるからです」とお話ししました。すると奥さまが「主人が亡くなりこの初七日まで、一人仏間で寝ておりました。しかし、昨晩は寂しくって寂しくって、二十歳を過ぎた娘の布団に潜り込みました。娘の横で寝ながら、この娘と共に一つのお布団で休むなんて何年ぶりだろう。そして、じっとじっと娘の顔を見ていたら、なんてこの娘かわいいんだろう、と思い、今までこんなにかわいい娘と一緒にいながらも私はなんとも思わなかった。主人はあらためて家族の大切さに気付かせてくれました。これからは主人を仏さまと受け止め手を合わせていきます」と語られました。かけがえのない方を亡くされるというやり場のない悲しみのご縁でしたが、奥さまのお心に、美しく尊い、いのちの花が咲くきっかけとなられたに違いありません。
お寺でフェンシング
昨年の9月、三男がフェンシングをしたいと言い出しました。私にとっては約25年ぶりで学生時代やっていたフェンシングの再開です。すると友達も続々集まり、高校1年生ばかり総勢6人のチームが出来上がりました。その新チームを、広島市中区フェンシングクラブの方々がご指導くださり、大学時代の後輩がわざわざ福山から新幹線に乗ってコーチをしてくれたりしています。福岡では以前お世話になっていた元全日本のチャンピオンの方の所で合宿させていただいたり、子どもたちの親御さんも皆協力してくださいます。そして何より、私が監督として試合などに同行する時、坊守は応援にも行けず、お寺の法務を私に代わってつとめるなど、私や子どもたちを支え続けてくれています。また、子どもたちを私たちのお寺に招いて何度か合宿もしました。宗門校の崇徳高校に通っている生徒たちですから、朝起きてからの勤行も皆大きな声を出しておつとめします。おつとめの後、「仏さまは目に見えなくても、いつでもどこでも私たちを支えてくれるお方だよ。試合の時は、自分一人で臨まなくてはいけない。だが、勝ってる時も負けてる時も君たちは、仏さまやお父さん、お母さん、たくさんの指導者の方々のおかげがあることだけは覚えていてほしい」と話しました。一人ぼっちのように思えても大きな支えをもらっていることに気付くことは力となります。私たちも、喜びの時も、悲しみの時も、時には傷ついた時も、仏さまの教えを聴き、必ずや人生の花を咲かせましょう。

■絶え間ない親心
三つの小包が毎月
学生時代、郵便局でアルバイトをしていた時のことです。私の担当は、小包の仕分けでした。全国から届いた小包を、配達区域に分けて、配達員に引き継ぐ仕事です。さまざまな荷物を、差出人から受取人へと取り次ぐという作業の中で、毎月ある荷物が届いていました。その荷物は大きな段ボール箱で、重量制限いっぱいの30キロの荷物でした。しかも、その荷物が同時に三つも届くのです。配達準備作業もひと苦労です。ところが不思議なことに、その荷物は配達されても、毎回受け取られることなく郵便局に戻ってくるのです。戻ってくるたびに、翌日の再配達の手続きをしなければなりません。30キロにも及ぶ大きな荷物を持って、保管室と配達員の間を何度も往復するうちに、だんだんとその荷物が煩わしく思えてきます。「どうせまた返ってくる荷物なのに・・・」と思うと、自分のしている作業もむなしく感じてきます。そして保管期限が切れると、決まって差出人に還付されてしまうのです。どうして受け取りのされない大きな荷物が何度も送られてくるのか、長らく疑問でした。ある時、その荷物を引き受けてきた局員さんに聞いてみました。すると、その三つの小包は年配の母親が息子さんに送ったものでした。ただ、その方は認知症で、息子さんが引っ越したことも忘れてしまい、元の勤め先の住所に荷物を送り続けているのだそうです。局員さんは事情を知りつつも、その母親の気持ちを思うと言うに言い出せず、結局、荷物を引き受けていたのだそうです。そして、荷物が息子に受け取ってもらえずに戻ってくるときの母親の気落ちした顔を見るたびに「息子さん、次は受け取ってくれるといいですね」と声をかけるしかなかったのだと教えてくれました。わが子を思って、重量制限いっぱいになるまで荷物を作る親心とは、どのようなものでしょう。「あの子は、これが好きだったから。これ、あの子に似合うかしら・・・」。きっと、そんな子を思う一心で作られた荷物だったと思います。あふれるばかりの想いのこもった送りものです。「お母さんありがとう」と、ただ受け取ってくれただけでも、母親は大喜びだったと思うのです。残念ながらその後も、荷物が受け取られることはありませんでした。
ただ受け取るだけ
重量制限いっぱいの荷物を送り続ける親心に触れて、同じように親心のいっぱい込められた南無阿弥陀仏のお念仏がこころに重なってきました。私たちは、阿弥陀さまのことを「親さま」とお呼びすることがあります。阿弥陀さまが私のことを一人子(ひとりご)のように心配し、苦悩の世界から救おうとはたらき続けてくださっていることをお聞きすると、「親さま」と呼ばずにはおられないからです。阿弥陀さまはこの私を救うため、五劫(ごこう)というとてつもなく長いあいだ思案され、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行を積まれた結果、南無阿弥陀仏のお念仏が、この私に届いてくださっています。「この念仏ひとつに、私のさとりの功徳を全(すべ)て込めましたよ。どうか南無阿弥陀仏の六字を受け取ってくれよ」という親心によって、いま届けられているのです。そのお念仏を受け取ろうともせず、背き続けてきた私の姿は、どれだけ親さまを悲しませ、泣かせてきたことでしょう。にもかかわらず、「次こそは、次こそは」と、南無阿弥陀仏を私に届けようとする親心が、絶え間なく私にかけられていることを聞かせていただくたびに、その親心の大きさに気づかされます。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量(じつぽうむりょう)の諸仏(しょぶつ)は 百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して よろこびまもりたまふなり ・・・と詠(うた)われています。
迷いの世界を輪廻する私に「どうか救われてくれよ。南無阿弥陀仏を受け取ってくれよ」という阿弥陀さまの願いを、お釈迦さまをはじめ、十方無量の諸仏もまた願われ、見守ってくださっていたのでした。ただ受け取るだけで、親さま、仏さまのほうが大喜びしてくださるというのです。その喜びの大きさは、ご苦労の大きさ、これまで待ちわびた気持ちの大きさに裏打ちされているようで、申し訳なさと、ありがたさに、お念仏申すほかありません。 
 

 

■ふすま越しのお念仏
声をふるわせて・・・
私が僧侶となったのは、高校2年生の時でした。当時から、日々のご門徒宅のお参りでは『仏説阿弥陀経』をおつとめしていました。漢文で書かれたお経(きょう)は、高校生の私には難しい言葉ばかりで、おつとめはシドロモドロ。なので、留守宅に一人でお参りする時はホッとしました。反対に、ご家族が後ろに座ってお参りされるとひどく緊張するのです。間違ったらどうしよう、そんな思いで、声を震わせておつとめをしていました。あるお家に、おばあさんがおられました。お歳は98歳。長年お寺へお参りされていたこともあり、後ろに座って一緒におつとめをされます。その声の大きいこと素晴らしいこと。私はおつとめに自信がないので、だんだん声が小さくなっていきます。逆におばあさんの声はどんどん大きくなります。これが本当につらかったのです。こんな調子で毎月のお参りにうかがっていましたが、どういう心境の変化でしょうか、そのうちにおばあさんと一緒におつとめするのが楽しみになってきたのです。ある日、今日もお会いできると思ってうかがうと、おばあさんの姿が見えません。畑にでも行っておられるのかなと思いながら、おつとめを済ませて帰りました。しかし翌月もその次の月も、お家におられる様子がないのです。そこでご家族にお聞きすると、「いやあ、実は体調が悪くて入院していまして・・・」とのこと。「そうですか、ちっとも知りませんでした。くれぐれもお大事にとお伝えください」と申し上げました。それからの月参(つきまい)りはとても寂しく感じました。一人でおつとめするほうが気楽だ、と思っていたのが嘘のようでした。そしてしばらく月日が経ったある日のこと、お仏壇で手をあわせお念仏を称えていると、どこからか声が聞こえてくるのです。もう一度私がお念仏を称えると「なんまんだ〜ぶ、なまんだぶつ」と、ふすま越しにお念仏の声が聞こえてくるではありませんか。それはおばあさんの声でした。「退院されたんだ!」と思うとうれしくなりました。「仏説阿弥陀経〜如是我聞(にょぜがもん)〜一時仏在(いちじぶつざい)・・・」とおつとめしますと、隣の部屋からもおつとめの声が聞こえてきます。よろこびに満ちた、声の弾むようなおつとめでした。
思い出≠ネどでなく
おつとめの後、「少しお会いしたいのですが」と声をかけ、ベッドで横になっていたおばあさんと久しぶりに対面しました。「よく戻ってくださいましたね」と声をかけると、私に手を差し出されるのです。思わずその手を両手でギュッと握りました。なんとあたたかい手でしょうか。でも、とても硬い手でした。その手に今までのご苦労を感じました。この手は長い間、土をさわってこられた手、家族を養ってこられた手なんですね。戦争中の物のない時代、言えない苦労もあったでしょう。人生そのものが伝わってくるようでした。「この手は人を幸せにしてきた手なんだ」と、そう思いました。するとおばあさんは、目にいっぱいの涙を浮かべて「ありがたいねぇ、うれしいねぇ」とおっしゃったのです。忘れられない一言になりました。それからしばらく後に、おばあさんはご往生になりました。あの年齢での入院は、さぞ心細かったことでしょう。家には戻れないのではという不安もあったに違いありません。そんなおばあさんにとって、何がありがたく、何がうれしかったのか。それは、いつでもどこでも阿弥陀さまとご一緒だったということではないかと思うのです。ふすま越しに聞こえてきたお念仏が忘れられません。もう一緒におつとめできないと思うと寂しい気持ちでいっぱいになります。ふすま越しに声が聞こえてくるような気さえします。でも、私の心には確かに響いてくるのです。あのお念仏の声がずっと残っているのです。これは、単なる思い出ではないような気がします。阿弥陀さまのおはたらきの中に、私を喚(よ)ぶ声ではないかと思うようになりました。「なんまんだぶつ、いつも一緒にいるよ」。いつどこで、どのように命終えたとしても、お浄土へ往(ゆ)くことが定まっているのです。そのお約束を今いただいているということが、老いに向き合っても、病の床にあっても、ありがたく、うれしく生き抜けるんだよ、と私に伝えてくださった尊いご縁となりました。

■あなたはどこに
「つぶてそんぐ」
あなたはどこに居ますか。
あなたの心は 風に吹かれていますか。
あなたの心は 壊れていませんか。
あなたの心は 行き場を失っていませんか。
   命を賭けるということ。
   私たちの故郷に、命を賭けるということ。
   あなたの命も私の命も、決して奪われるために
   あるのではないということ。
2011年の3月11日に東日本大震災が起こり、それに伴い、福島第1原発の事故が発生して、多くの人が被災しました。詩人で高校の国語教師もされている和合亮一さんは、福島県伊達市の学校で被災されました。避難所で数日過ごした後、自宅に戻ってからは、数々の詩を作ってツイッターで発信し続けられたのです。それらの詩は大反響を呼びました。その詩に感激した作曲家の新実徳英氏が、「つぶてそんぐ」として合唱曲を作りました。その「つぶてそんぐ」第1集におさめられた第1曲が、初めに挙げた「あなたはどこに」です。いま、この歌は全国の合唱団で歌われています。先ほど紹介したように、この詩は大震災、ことに原発事故で、ふるさとを離れることを余儀なくされた人々に向けて送られたメッセージです。私が指導させていただいている永源寺コール・メイプルでも、いま「あなたはどこに」に取り組んでいますので、この曲を歌うときは、できるだけ被災地の方々に思いを寄せるように心がけています。その中で、この詩をよくよく味わってみると、ただ被災された方々だけに向けられたものではないと思うようになりました。平穏な日常の生活の中にあったとしても、傷つくような言葉を投げかけられて孤独感に襲われ、自分の居場所を見失ったり、逆に、知らず知らずのうちに、周りの人を傷つけ、居場所を奪ったりしてはいませんか、と私自身に問いかけているメッセージとして、私の心に響いてきたのです。
安心のメッセージ
さて、お釈迦さま出世本懐の経典といわれる『大無量寿経』では、浄土からその説法の座に集まられた菩薩方は、「私たちが願わなくても、私たちのために大いなる慈しみをもって親友となり、私の重き荷物を一緒に背負ってくださる方々である」と讃えられています。そのような菩薩方の中でも、ことにすぐれたお慈悲の心をもって現れてくださったのが、法蔵(ほうぞう)菩薩というお方でした。師の世自在王(せじざいおう)仏の前で「恐れや不安を抱えて生きるすべてのもののために、私は大きな安らぎとなります」と高らかに宣言し、それを実現するために、長い長いご思案の末に、世に超えすぐれた四十八の誓願をおこされました。さらに、もっともっと長い時間をかけて、これらの誓願を実現するための修行を積み、見事に一切衆生をもらさず救い取ることのできる「阿弥陀仏」という仏さまとなられたのです。そして「あなたを救い取る手だてはすべて完成したから、どうか私にまかせなさい」という、仏としての名のりが、私の口からこぼれ出る「南無阿弥陀仏」というお念仏なのです。いま、『大無量寿経』のお心と「あなたはどこに」という詩に込められたメッセージを重ねてみるとき、
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ ・・・という『正像末(しょうぞうまつ)和讃』の一首が、私の心に強く響いてくるのです。
私たちは、乗り越えられそうにないほどの苦しみや悲しみに出あうと、つらさのあまり、自ら心を閉ざしてしまいがちです。そんな時、私の心の闇を破り、行く手を照らしつつ、背中を押してくれる温かい言葉、それが「南無阿弥陀仏」という仏さまからの安心のメッセージであると、親鸞聖人はお示しくださいました。

■いのちの行方
ラジオで仏事相談
私の住む地域では、葬儀の大半が葬儀社の会場で行われます。ある時、葬儀の前に放映されていたビデオ映像で、宗派の紹介が行われていたのですが、「浄土真宗は、亡くなると誰もが極楽浄土に生まれて仏さまとなる有り難い教えです」というコメントを聞き、がくぜんとしました。日常生活の中で、「死んだら仏」という安易な考えや言葉を聞くことがありますが、経典(きょうてん)のどこを探しても、「死んだら誰もが仏となって浄土に生まれる」とは一言も書いてありません。安易な往生論が安易な生きざまとなっていないか、自らを問いたいものです。私は地元のラジオで、仏事相談の番組を担当しています。日頃の素朴な仏事に関する質問や疑問をはじめ、さまざまな苦しみや悲しみの想いを聴かせていただいています。また寺院や僧侶、宗教者への叱咤激励(しったげきれい)をいただくこともあり、その一つひとつが、私にとっての大切な学びとなっています。昨年の暮れに、聴取者の方からお手紙をいただきました。60代後半の女性の方で、その手紙には「人は死んだらどうなるのですか?」「死んだらどこへ行くのですか?」という問いが記されていました。春先にお嫁さんを亡くされ、残されたお孫さんから「お母さんはどこへいったの?」「何になったの?」と、ことあるごとに尋ねられるそうです。ある時、はからずも「お母さんは星になった」と伝えたその日から、お孫さんは毎日、夜空の下に立って母親を探しました。その姿が余りにもふびんで、本当にそのような答え方でよかったのかという自責の想いとともに、その手紙は綴られていました。後日、その方とお会いして、お話を伺ったのですが、死んだことがない人間にとって、死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?という質問に応えることはとても難しいことです。心に汗をかきながら聴き、うなずかせていただいたのが、私の正直な姿でした。一方で、「星になる」という受けとめは、死を受容する一定の期間で効果のある手段であっても、その悲しみを背負って生きる私の人生の歩みにはならない、つまり限界があるという率直な思いをお伝えしました。そして、お嫁さんが伝え、お孫さんが問うた「いのちの行方」を、私自身の問いとして歩むことの大切さを述べ、お念仏によって拓(ひら)かれる「さよならのない世界」への想いを共にさせていただきました。
悲しみに心を寄せる
私たちに、死後の世界の実証はできませんが、すべてのものを手放し、愛するものと必ず別れなくてはならない「いのちの事実」が私の問題となった時、人は自らの「いのちの行方」を求めずにはおれないのだと思います。そこでは「浄土があるとか、ないとか」で量(はか)られるのではなく、「浄土がなくてはならないもの」として存在するはずです。親鸞聖人は、阿弥陀さまの「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てることはしません。かけがえのないこのいのちを、あなたらしく力の限り生きなさい」という声を聞き、そのお心を「疑いなく信じ喜んで生きる者は、必ず浄土に仏として生まれる」とお示しくださいました。阿弥陀さまのお心をいただいて生きる者には、必ず会える世界が拓かれているのです。その後、ご質問の女性がお孫さんに話をされました。その9歳の男の子は「ぼくはお母さんに会いたい。お母さんに会うため、ぼくは仏さまの話を聞きたい」と言ったそうです。今は共にお参りのご縁をいただいていますが、これは別れの悲しみの中で道を得た者の姿であり、同時にこの子にとって、浄土とは今の自分を照らす確かな力となっているのだと感じています。「いのちの行方」を浄土といただくことは、阿弥陀さまの「同悲同感」のお心、悲しみを同じくし、その想いに心寄せるお心を、我が身の歩みとしていただいていくことに他なりません。だからこそ、いのちの尊厳性を損なうさまざまな社会の問題に対して、私が決して傍観者でなく、不条理・不平等の排除に向けた実践者であることが、念仏者としての生き様でもある、と私はいただいています。

■コスモスのいのち
酒蔵の並ぶ川辺に
9月16日に上陸した台風18号は、河川の氾濫(はんらん)など、各地に甚大な被害をもたらしました。私の住む京都・伏見の町も、自宅近くを流れる宇治川や桂川が急激に増水し、多くの家屋が浸水しました。宇治川に注ぐ派流も増水し、毎朝の散歩道も水に浸かる勢いでした。数日後、水の引いた川は、濁流に草が引きちぎられ、堤防は泥だらけの無残な姿になっていました。そんな堤防を見ながら、私は「もう、土手にコスモスは咲かないなぁ」と、一人のご門徒さんとの想い出を振り返っていました。そのご門徒さんとは、今年9月12日、102歳でお浄土にかえられた山口杉枝さんという方です。私がいつも「スギエばあちゃん」と親しみを込めて呼んでいた方でした。スギエばあちゃんは、伏見の酒蔵が立ち並ぶ川辺にお住まいでした。90歳を過ぎて息子さんを亡くし、独り暮らしになってからも自宅前の土手に季節の花を育て、人々の目を楽しませておられました。やがてスギエばあちゃんは娘さんの所に身を寄せられますが、スギエばあちゃんがいなくなった後も、自宅前の土手にはいつもきれいな花が咲いていました。数年前、初秋を迎えたある日のことでした。足が不自由になってお寺まで歩くことが困難になったスギエばあちゃんから、お寺に一本の電話がかかってきました。
「土手に、コスモスがきれいに咲いたから、とりにきて」 私はうれしくなって、自転車でご自宅へと向かいました。玄関を開けるとスギエばあちゃんは、たくさんのコスモスの花束を抱えて・・・ではなく、一本のハサミを持って、私を出迎えてくれました。一瞬「えっ?」と思いましたが、スギエばあちゃんの電話は「(摘んだものを)取りにきて」ではなく「採りにきて」だったのです。
かみしめて味わう
土手に下りると、一面に赤や紫や薄紅色といった、色とりどりのコスモスが、たくさん風に揺れていました。私は渡されたハサミでその中の一本を切ろうとしたその時です。スギエばあちゃんが大きく手を振りながら「それはだめ〜!」と叫ぶのです。「それはまだこれから咲く子どものコスモスやから、まだダメ〜!」。またまた「えっ?」と思った私が「じゃぁ、どれを摘んだらいいの?」と聞くと、スギエばあちゃんはこんなふうに答えてくれました。「それは、これから花開く、子どものコスモスやねん。それは放っておいてもみんなが見てくれる。でも、川岸にある、今にも散りそうな大人のコスモスは、もう花が開ききって、誰も見てくれへん。でも、アミダさまは、いつでもどんな時でも、見つめてくださる方やろ。だったら、その散りそうなコスモス、アミダさまのいらっしゃるお寺で、最後を迎えさせてあげたいんや」 私はなんだか胸があつくなって、今にも散りそうな「大人のコスモス」をいっぱい摘んで、スギエばあちゃんのお宅を後にしました。お寺に着く頃には、開ききった「大人のコスモス」はほとんど途中で散ってしまいましたが、「取りにきて」ではなく「採りにきて」でよかったなと思いました。軸だけになったコスモスのいのちは、アミダさまのまなざしを受けながら、お寺でそのいのちを一本一本、終えていきました。あれから数年、この9月12日にお浄土へと往生されたスギエばあちゃん。葬儀の時にお孫さんが、スギエばあちゃんの晩年の口癖を話してくださいました。
「粗食とは、よく咀嚼(そしゃく)して美味となる・・・」 百歳を超えて、おそらく噛むこともままならなかったスギエばあちゃんですが、食べ物だけのことではなく、お念仏を噛みしめて、噛みしめて、味わわれた言葉と受け止めました。豪雨の爪痕は大きく、土手の草花はほとんど流されてしまいました。もう、あのスギエばあちゃんのコスモスを見ることはできないかもしれません。でも、花を通して「いのちのありよう」を教えてくださったスギエばあちゃん。そのスギエばあちゃんが称えていたお念仏が、今、私を育ててくれているように思うのです・・・。

■どこにいても どんな時も
予定通りのほうが・・・
もう7年前になります。私は数人の友人たちと仏跡参拝旅行を計画し、およそ8日間、インドに滞在しました。すでにインドの旅行を経験した方々から、「現地に入ると、なかなか時間通り、予定通りに行動するのは難しいよ」と聞かされていました。しかし、インドでの最終日、帰国する航空便の遅延には、ほとほと疲れたことでした。3時間ほど待たされたでしょうか。私たちと同じ便に搭乗予定の人の中には、怒り半分に、説明を求めてカウンターに詰め寄る人もいました。そのいずれもが、インド以外の国の人です。そこで、ずっとご一緒くださった現地ガイドの方に、疑問に思っていたことを友人と共に尋ねてみました。「インドの人は待たされることに、なぜ苦情も言わず、憤りもしないのですか?」 するとガイドさんはニッコリ笑って、私たちに答えてくれました。「私はいつも同じ質問を受けますよ。でも考えてみてください。予定通りに物事が進む方がおかしくないですか?あなたたちは仏教徒ですよね?『命は風前の灯(ともしび)のようなもの』だと、聞いたことはないですか?」 中国の善導大師のお言葉の中に聞いたことがありました。
「灯(ともしび)の風中(ふうちゅう)にありて滅(めっ)すること期し難きがごとし・・・」 
私たちは「聞いたことがあります」と、その方に答えました。「日本人は、『命は風前の灯・・・いつ壊れても、いつ消えてもおかしくない命』だと言われるのに、灯(ひ)の付くロウソクの長さだけを眺めていないでしょうか?『予定通り。まだしばらく大丈夫だ』と・・・」 先の善導大師のお言葉は、「忙々(もうもう)たる六道(ろくどう)に定趣無(じょうしゅな)し」と続きます。「私の過ごすこの世界には、定まるところなどない。みんな壊れていく。本当にあてになるものなどない、迷いの世界なのだよ」 言われてみれば、そのロウソクも灯も、定まることのない、変転極まりない世界にあるのです。一度風が吹けば、どのようなことがそれぞれの身の上に起こっても、何もおかしくないのでしょう。なのに、それが自身のことだとは、なかなか思えないのがこの私です。自分に嘘をつきながら、自分をだましながら、その自分をあてにしながら生きているのが、私なのでしょう。
私が仏さまになる
6月25日、このガイドさんに一緒に質問してくれた友人が、今生(こんじょう)の縁尽き、お浄土に往生しました。突然のことのように感じました。彼の息絶え横たわる姿を目にした時には、やはり「嘘だろう?」とさえ思い、涙した私がいました。しかし、「嘘」は私自身でした。「おのおの聞け。強健有力(ごうこんうりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住(じょうじゅう)を求めよ」 善導大師は、「力の有る今こそ、自らを励まして、常住の法を求めよ」とおっしゃいます。壊れていくことに気付かぬふりをしていた私が、その事実と向き合った時、迷い、戸惑いながら恐れおののくこの私自身が願われている世界があります。その願いによって開かれた道があります。「お前の人生を虚(むな)しく終わらせはしない。安心してくれ。必ず救う。たのむから、この阿弥陀仏をよりどころとする道を歩んでおくれ」
阿弥陀仏は、自分をさえだましながら生き、戸惑い、ただ壊れていくことに虚しさしか抱けない私を、今、支えきってくださいます。それは、阿弥陀仏に導かれ、育まれていく道です。目覚めさせられていく道です。私自身を、もう壊れることのない、本物の値打ち者に仕上げてくださる道を、ととのえていてくださるのです。それがお浄土への道です。迷う者を目覚めさせる仏さまに、私がならせていただく道です。「力有る今、この今しかないで。加藤さん、やっぱり今しかないんやで。自分にだまされたらアカン。僕が加藤さんを支えていくからね」 彼は今現に、この私を目覚めさせるべく、導き育むはたらきとなってくださっています。今生の縁、いつ尽きるかわからないこの私の歩む一歩一歩を、彼はずっと見ていてくださるのです。どこにいても、どんな時も・・・。

■アンパンマンの魅力
戦いに勝つのではなく
漫画家のやなせたかしさんが、10月13日に亡くなられました。「手のひらを太陽に」という曲の作詞者としても知られますが、何といっても「アンパンマン」の作者として、とみに有名でしょう。絵本『アンパンマン』が誕生して40年、テレビアニメの放映が始まって25年になります。その間、アンパンマンは、つねに子どもたちのヒーローであり、国民的人気キャラクターであり続けているのです。私ごとで言えば、20年以上も前のことですが、息子が幼稚園に入る時の面接で、先生から「何が好き?」と尋ねられて、「アンパンマン・・・」と恥ずかしそうに答えていたのを、今も鮮明に覚えています。アンパンマンのどこが魅力なのか?なぜ子どもたちは惹かれるのか?――その理由が、やなせさんが亡くなられてから、さまざまな報道を通してわかったような気がします。やなせさんは言います。正義のヒーローは「戦いに勝つことではなく、ひもじい者に食べ物を与えることだ」と。アンパンマンのキャラクターは、その信念で貫かれているのです。戦争体験をされたやなせさんならではの発想です。そこから「自分の顔を食べさせることで、飢えから助けてあげる」真のヒーローとして、アンパンマンが誕生したのだそうです。「ほんとうの正義というのは、決してかっこいいものではない。必ず自分も深く傷つくものです」とも言われます。自らが犠牲になって、弱者や困窮している人を助ける――そこに人びと、特に子どもたちは尊敬のまなざしを持って共感するのでしょう。
大悲の心が私を救う
「他者を救うために犠牲になる」という出来事は、最近、ほかのところでも話題になりました。横浜市緑区のJR線踏切内で、線路上に倒れたお年寄りの男性を、40歳の女性が助け、結果として自身が電車に轢(ひ)かれて犠牲になられました。彼女の行為に対して、種々の反応はあったものの、多くの人々が心動かされ、お花を供え、手を合わせる人が後を絶たなかったといわれます。実は、自己犠牲の話は仏教では「付き物」なのです。ジャータカ物語では「捨身飼虎(しゃしんしこ)」など、前世のお釈迦さまの善行として数多く語られていますし、「身代わり観音」や「身代わり地蔵尊」など、苦しむ人たちに成り代わって、その苦を引き受ける菩薩の霊験譚(たん)が、全国各地で言い伝えられてきました。日本人の心の中に、こうした自己犠牲を伴う救済に深く感動する心、敬い感謝する心が、今もなお、息づいているということなのでしょう。かといって、私自身の心の中をのぞいた時に、それがあるかと言えば、お恥ずかしいとしか言いようがありません。
今、私は、あれだけ世話になった年老いた母を、介護施設に入れたまま、寂しいであろうその母の側に居てあげていません。月に一、二度ぐらいしか顔を見せていないのです。恩知らずなのです。また、最近、私は大腸にがんができていたことがわかり、ポリープを切除し、なおかつ、近日、大腸とリンパ節の一部を切除する予定です。そこで思ったことは、いかに大腸に負担をかけていたかということです。つらい思いをさせ苦労をかけ、その上、一部を切り取り捨ててしまうのですから、身勝手としか言いようがありません。申しわけないことです。大腸もいのち、リンパもいのち、それらが連携しあって、より大きな「私」と思っている「いのち」を支えていると言えるでしょう。まったく都合のいい話ですが、切除されたポリープも、毎日の排泄物も、「自己犠牲」となって、私を生かしてくれているのかもしれません。どんな小さなものであっても、そこにいのちの息吹を感じたならば、それは間違いなく、仏さまの大いなる慈悲のお心に通じるものがあります。「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」―おさめ取って決して捨てない阿弥陀さまの大悲のお心が、そんな私を救ってくださっています。

■光に照らされて
いきなり法事の席で
「阿弥陀さまの光にいつも照らされている」って、どういうことか考えてみましょう。あるご法事での出来事です。目の前に座ってくれていたのは、中学生の女の子でした。私は、次のような質問から話を始めました。「ちょっと聞いていいかな。今まで、ウソついたことある?」 皆さんはいかがですか?今までウソをついたことはありませんか?私は「ありません」なんて言えません。あります。その数は・・・・・・正直数えることができません。大きなものから小さなものまで、いろんなウソをついてきました。その女の子はビックリしていました。いきなり法事の席で質問されたことにもビックリでしょうし、質問の内容にもビックリ、二重の驚きだったようです。それもそのはず、隣にはご両親が、周りには親戚の方がいらっしゃる中での問いかけでした。「まあまあ、どんなウソかは聞かないからさ(笑)、安心して答えていいよ」 そう言うと、彼女は目を真ん丸に開いて、息をのみながら首を縦に振ってくれました。ウソをついてきた自分を認めた瞬間でした。しかし、ここで終わりではありません。私はさらに質問を続けました。「ありがとう。じゃあさ、その今までついてきたウソの中で、まだ誰にもばれていないウソって、ある?」 女の子はさらにビックリです。今度は「えっ!?」と声まで出してしまいました。とても答えづらい質問ですね。「ばれていないウソがある」って認めてしまうと、その後が大変そうです。その時、一言だけフォローしました。「お父さん、お母さん、この後いろいろ追及しちゃダメですからね!」 そう言うと、ご両親も笑顔で了解してくださいました。
そんなやり取りの中、覚悟を決めた女の子は、ついに答えを返してくれました。静かに一言、「うん・・・」。ばれていない(と思う)ウソがある、という告白でした。あの真剣なまなざし、表情。忘れることはできません。もし私が同じことを聞かれたら、果たしてどう答えるでしょうか。正直に答えられるかどうか、とても不安です。そこから少しお話をしました。
大変だけど素敵
まずは彼女が答えてくれたことにお礼を。そして、仏さまの光に照らされるって、どんなことかを一緒に考えました。私自身のことを話しながら・・・。私もたくさんウソをついてきた、という事実。そしてその中には、彼女と同じように、たぶん誰にもばれていないと思うものもある、ということ。でもここからが大切です。誰にもばれてはいないけれど、ウソをついたということを私自身は知っています。光に照らされるということは、「ウソをついてしまったんだよな」って、「それでよかったのかな」って問いかけを持つことだと私はいただいています。そんな話をしました。
それを聞いて、今度はその女の子から問い返されました。「それって、大変じゃないですか?」 聞いてくれたこと自体がうれしかったので、私はニコニコしながら彼女に返事をしたと思います。「そうだね。とっても大変。きついこともあるけど、おじさんはそれが素敵なこと≠セと思ってるんだ」 阿弥陀さまの光にいつも照らされている。照らされたからウソをつかなくなるのかと言うと、とてもそうだとは言えません。しかし、ウソをついて、つき通して、ばれなければそれでよし、という開き直った生き方とは明らかに違ってくる気がしています。大変であることに変わりありませんが。阿弥陀さまの光は、他の誰でもなく、この私にこそ注がれています。その温かさにであえばであうほど、また私の本当の姿が浮かび上がってくるのでしょう。それでもなお必ず救う、離したりはしない、そう誓ってくださったみ教えです。この私の姿から歩みだそう、と思った出来事でした。

■報恩講をお迎えして
おとりこし
今年も報恩講の時節を迎えました。親鸞聖人の祥月(しょうつき)命日は、1月16日です。報恩講はご本山でおつとまりになる御正忌(ごしょうき)報恩講(1月9日〜16日)をはじめ、各地の別院や全国の真宗寺院、そして門信徒のご家庭でおつとめする宗祖親鸞聖人のご法事です。ご本山の御正忌に先だって、前年の秋の収穫が終わる頃からおつとめする場合が多いので、報恩講は「お取り越し」「お引き上げ」とも呼ばれています。私の地元の安芸教区では、広島別院から毎月、安芸教区報「見真(けんしん)」が発行されています。私は編集委員の1人ですが、今年も「見真」では、報恩講の時節に合わせて特集号を発行しました。今年度は、毎月のページとは別に、「親鸞聖人のご生涯」「親鸞聖人と恵信尼さまとの出会い」という二つの特集を組みました。そして編集会議を繰り返す中で、私たちにとって編集作業がそのまま、親鸞聖人の足跡(そくせき)をたずねさせていただく営みとなりました。一つ目の特集「親鸞聖人のご生涯」では、「お得度」「比叡山」「六角夢想」「吉水入室」「流罪(るざい)」「弁円(べんねん)」「教行信証執筆」「ご往生」と八つの場面の記事を掲載しています。そして今回の編集で実感させていただいたことは、親鸞聖人のご生涯が、筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったということです。しかし同時に、親鸞聖人におかれては、苦難の出来事が苦難の状態のままではなかったということです。
「流罪」の場面を紹介します。親鸞聖人が法然門下に入った6年後の承元元(じょうげんがん)(1207)年、ついに朝廷が、8人を流罪に4人を死罪に処す念仏弾圧に踏み切ったのです。法然聖人は土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪を命じられ、これがお二人の今生の別れとなりました。「承元の法難」と呼ばれる、法然聖人75歳、親鸞聖人35歳の時の出来事です。こうした処罰は、親鸞聖人が怒りをもって明言されるほど、不当な念仏弾圧でした。しかし親鸞聖人は流罪を契機として、越後での布教伝道に心血を注がれたのです。5年で流罪を赦(ゆる)された後も、この地の人々に阿弥陀如来のお救いを伝えるために、2年もの間越後で過ごされました。不当と明言しながらも、ご自身の身に及ぶ念仏弾圧まで仏縁へと転換されたところに、親鸞聖人が残された足あとの一端をうかがうことができると思います。
今・ここ・私
今年の1月、自坊の法要で、ご講師の先生から「お味わい」ということについてお話しいただきました。真宗門徒の先輩方は、「必ず救う」との阿弥陀如来の仰(おお)せを仰せのままに聞き、仰せのままにたまわる他力の信心を、「お味わい」という味覚的表現を用いられてきました。私は耳慣れたふりをしていた自分に恥ずかしさを感じながら、あらためて「お味わい」の一言に尊さを覚えました。「幼い頃においしいと感じていたものは、今でもおいしいですか? 幼い頃に苦いと感じていたものは、今でも苦いままですか? 目の前の事実は変わらなくても、私が変わることで味わいは変わるのです。死を迎えるという事実は一つでも、味わいはそれぞれに違います。死んだら同じではありません。行く先が変われば、今の味わいが変わってきます」と。
「生老病死(しょうろうびょうし)」のみならず、親鸞聖人が歩まれたご生涯は、まさに苦難の連続でした。9歳でのお得度、比叡山との決別、流罪、山伏弁円による殺害計画。苦難の出来事は誰しもが避けたいものですが、親鸞聖人は苦難の真っただ中で「必ず救う」の仰せを味わわれました。かねてより恩師からいただいてきた言葉があります。「お味わいは必ず、今・ここ・私。聞かせていただくまんまが信心。信心は未来のお救いではありません」 阿弥陀如来のお救いは今なのです。全国の真宗寺院で報恩講がおつとまりになっています。いのちある今、ご一緒に仏縁をいただきましょう。

■暮らしにお念仏の声を!
8年前から減少
日本の人口は、2005年に戦後初めて前年に比べて減少しました。その後の2年間はわずかに増加しましたが、2008年には前年比7万9000人減と大幅な減少となりました。それ以降現在まで、いずれの月においても、人口は前年に比べて減少し、しかも減少率は徐々に大きくなってきています。つまり、日本は人口減少社会となったのです。 それまでも、少子高齢化が社会構造を大きく変える大変な問題だと指摘されてきましたが、なかなか実感として受け止められませんでした。そのうち、地域の子どもの数が少なくなり、お寺での日曜学校にお参りする子どもたちが激減していきます。 一方、老人会のメンバーの数が増え、地域社会を支える大きな力になっています。三世代同居の家族は少なくなり、多くの子どもたちは、高校卒業や就職を機に親元を離れるのが当たり前のようになっています。農山村地帯だけではなく、地方都市でさえも、伝統的な行事や風習などの伝承、さらには生活の継続さえも次第に難しくなりつつあります。
問題があるのは私
そんな状況の中、祖父母世代からその子どもたち、孫たちへの仏法相続が希薄になっています。かつては、両親が仕事で忙しくて子どもとの接触が薄くても、祖父母から孫へと仏法が伝えられてきました。その依りどころは、お仏壇だったのではないでしょうか。しかし、祖父母と孫が共に生活する機会が失われ、お仏壇のない生活では、仏法の相続が難しくなっているのです。今や団塊の世代以降の家族では、お仏壇を持たないことが当たり前のようになっています。「亡くなった家族もいないのに、仏壇など必要ない」というのです。しかし、それでは家族に、そして人生に、依りどころとなるものを失ってしまっていることになります。こんな時代だからこそ、親元から離れて生活を始めるときには、まずお仏壇をお迎えすることが必要でしょう。お名号などのご本尊だけでもよいのです。簡素であっても、お仏壇が安置されれば、忙しさに紛れてしまっても、フッと気づかされたときにお仏壇に手を合わすことができます。お仏飯やいただき物をお供えするということもできますし、「ナモアミダブツ」とお念仏することも、仏さまを敬う心も、お仏壇があってこそはぐくまれるのではないでしょうか。それでも、日常生活に追われ、わが身わが心にとらわれて生きるのが精いっぱいの私たちです。生活の糧としてのお金、さらには仕事や人間関係など、わずらわしいことに追われて、わが心を振り返ることなく一日が過ぎていきます。ましてや仏さまのことなど、すっかり忘れてしまう日も少なくはないでしょう。しかし、そんな者さえも、必ず救うとお誓いになられた阿弥陀さまです。いつでも、どこでも、だれでも、どんな状況でも、たもちやすく称えやすい「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、私のところにおでましになってくださっているのです。
世間の目を気にして、お念仏することに抵抗を感じてしまうと、いつでも、どこでもお念仏するということはとても難しいことになってしまいます。それでは、南無阿弥陀仏(名号)が「たもちやすく」「称(とな)えやすい」という阿弥陀さまの願いを、この私が抑えていることにもなりかねません。仏法の相続を難しくしているのは、人口の減少でも、家族や地域の変容でもなく、お念仏のこころをいただく私に問題があるとは言えないでしょうか。どのような社会的な状況であったとしても、私自身がいただいたお念仏を称えさせていただくことによって、お念仏の声とそのこころは必ず世に響いていきます。お念仏を称える者を必ず救い取るというのが阿弥陀さまの誓いです。お念仏への抵抗やわだかまりがあるのなら、その思いをもって聴聞の席に着き、あらためて阿弥陀さまのおこころを聞かせていただきましょう。お念仏は阿弥陀さまのおこころであり、称名念仏は阿弥陀さまのはたらきなのですから。

■あなたの泣ける場所は・・・
ぐっとかみしめ我慢
2年前のある日の夕方、当時3歳の娘が、お寺の境内で自転車の練習をしていました。まだ慣れてないのでいつ転んでもおかしくありません。ちょうどお参りから帰ってきた私は、その姿を見ていました。「お父さん見ててね〜」と調子にのっています。私が「気をつけなさいよ〜」と言ったその時です。機嫌よく乗っていた娘が、パタリと転んでしまったのです。それみたことかと、私が慌てて駆け寄ろうとすると、娘がすっと立ち上がりこっちに向かって来ます。その時、私はその姿を見て驚きました。なんと、泣き虫なはずの娘が泣いていないのです。涙をぐっと噛みしめて、がまんしています。私はケガはしてないかと思い、走って来る娘を受け止めようとしました。すると、走ってきた娘はそのまま私の横を素通りして、玄関から家の中へ入っていくではありませんか。どこへ行くのかと後を追うと、娘は真っ直ぐに、台所にいるお母さんの所へ行きました。そして、お母さんの足にしがみついて、そこで初めてワーッと泣いたのです。妻は「どうしたの」と聞きますが、娘はただただ泣いているだけでした。本当に痛いのは転んだ時だったはずです。しかし、そこでは泣きませんでした。不安そうな顔をして、下唇をかんで我慢していました。安心できるお母さんに抱かれて初めて泣いたのです。娘にとっての泣ける場所はお母さんでした。
安心して泣く
『観無量寿経』というお経に、マガダ国の王妃イダイケが泣く場面が描かれています。それは息子の皇太子アジャセが、お釈迦さまのいとこのダイバダッタにそそのかされてクーデターを起こし、父ビンバシャラ王を幽閉してしまいます。そして、ビンバシャラ王を助けようとしたイダイケも、アジャセによって幽閉されてしまいます。息子によって牢獄に入れられたイダイケは深く悲しみ嘆いて、雨のような涙を流しながらお釈迦さまに助けを請います。その心を知られたお釈迦さまはすぐにイダイケの所に来られました。お釈迦さまの姿を見たイダイケは、みずから首飾りを絶ち、大地にわが身を投げだして、号泣してお釈迦さまに胸の内のありったけをぶつけたのです。イダイケにとってお釈迦さまは、全てを投げ出して泣くことができる存在でした。お釈迦さまは号泣するイダイケをそのままに受け止めておられました。苦悩のすべてを受け止められたイダイケは、苦しみなき世界へ生まれたいという願いをおこします。これはイダイケが現実を受け止め、前へ進もうとしている姿です。
そういえば、私にもこんな経験があります。あるお寺でお取り次ぎさせていただいた時のことです。あるお同行さんが、法話の最中に静かに泣き始められたのです。私としては、泣くような話をしたつもりはありませんでしたが、話の内容が変わっても、しばらくそのお方の涙はやみませんでした。私の母も、自坊でご法座がつとまった時、ご講師の先生が淡々とお話をされている中、一人泣いていることも少なくありませんでした。私はその姿を横目で見ながら、何を泣いているのだろうと思ったことを今でも思い出します。母は、涙をそそる喩(たと)え話を聞いていたのでもなく、ただ普通におみ法(のり)をお聴聞していただけでした。お同行さんも母も、阿弥陀さまのお慈悲の中で、自らの人生を照らし合わせて涙していたのかもしれません。二人にとって、泣ける場所は、ご法座だったのです。
考えてみると、泣ける場所はそう多くはありません。この世は、がんばって笑顔を作り、自分をごまかさなくてはいけないことの方が多いのかもしれません。ゆっくりと自分に向き合える場所。そのままの私でいられる場所。悲しみを悲しみのままごまかさずにいられる場所...。さあ、私にとっての泣ける場所はどこでしょう?あなたにとって泣ける場所はどこですか? 
 

 

■仏さまの御(おん)約束
VBA48
「お父さん、NMB48って知ってる?」 「AKB48なら、ちょっと知ってる。親戚みたいなもの?」 「親戚じゃない。でもAKBと同じようにアイドルグループで、大阪の難波を拠点に活動しているからNMB48、ほかに福岡・博多のHKT48とか...、聞いてる?」 「一応は」 子どもの頃、一緒にテレビを見ていると父はよく、「最近の歌手はみんな顔が同じで、歌詞も何をいっているのかよくわからん」と嘆いていました。私は父の感覚の方がわからず、「だったら一緒に見なけりゃいいのに」と思っていましたが、いつのまにか父の年齢に近くなりました。そして気がつけば自分も、「48人いるから48なの? 顔が似ていて、ぜんぜんわからんわ」とか言っているわけです。典型的なおじさんです。人生の先輩方によれば、これからは新しいものを受け入れていくことがだんだんと苦手になっていくようです。そして加速度的に記憶力が落ちていくようです。父の気持ちがほんの少しですが、わかりました。あの嘆きは、きっと自分の老いに対するものでもあったのですね。でも、認めたくないわけです。私も、「えっ! 知らないの」という顔を娘にされると悔しくて、「じゃあ、VAB48を知ってる?」と娘に反対に尋ねました。しばらく、考えていましたが、「そんなのないでしょ、いま作ったんでしょ」と言います。「ははは、まだまだ中学生やね。これは英語の略なんだよ。ザ・48ヴァウズ・オブ・アミダブッダ。ヴァウ(VOW)というのは仏さんの本願、仏さんがされた約束、阿弥陀さんの本願は四十八個ある。これを、略してVAB48、どう?」 「......」
契約ではないお約束
親鸞聖人は門弟に出されたご消息(しょうそく)(お手紙)の中で、本願は「仏(ぶつ)の御約束(おんやくそく)」だとおっしゃっています。『歎異抄』の中にも、「この名字(みょうじ)をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば」と述べられていますので、本願は御約束とも呼ばれていたようです。普段、私たちも「約束」という言葉を使っていますが、仏の御約束は人と人との間の約束とは違います。そして、神の救済を説く宗教でも約束ということを説きますが、これとも大きく性格が違います。どこが違うのかといいますと、神の約束というのは、預言者によって交わされた神と人間との間の契約をいいます。契約ですから、人はその約束を果たすためにしなければならない事柄が課せられています。そしてそれを果たし遂げることによって、神より恩恵をうけるという関係です。また、人と人との間の約束は、当事者が何らかの取り決めをして作り上げるものです。ですが、いくら納得して決めた事柄であっても、しょせん人間のすることですから、それはしばしば破られます。たとえ故意でなくても、忘れてしまって結果的に破られることもあります。「約束したじゃない!」と叱られた経験は誰でもありますよね。ですから、大切な約束の場合、私たちはそれに強制力をもたせるため、やはり契約を結び、罰則を設けるわけです。
このような契約としての約束に対して、阿弥陀仏の御約束は、私たちのように煩悩を具(そな)え、何一つ確かなものを持っていない愚かな凡夫のすがたを、あらかじめ見通されて、仏の側より先手をうって建てられたものです。本願に説かれる念仏は、契約ではありません。阿弥陀さんが「我にまかせよ、必ずあなたを救う」と、仏に背を向ける私をたえず喚(よ)び続けておられる声なのです。よって本願には、私たちのあれやこれやの詮索、つまり、はからいの心は入っていません。阿弥陀仏と人間との間で交わされた約束ではなく、どこまでも仏自身のおはからいによる御約束だからです。さて、私に似て負けず嫌いな娘は、「お父さん、だったらSTK48はわかる?」と聞きます。 「S・T・K、ステキな48?」 「違う! スギオカ・タカノリさん、今年もう48歳の略」 「いや、素敵な48歳や!」 「素敵な人は約束破らん」 確かにその通りでした。

■唯可信...ただ信ずべし
この命と引き換えても
私には「唯(ゆい)」という4歳の娘がいます。正信偈(しょうしんげ)の最後のご文「唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)」からいただきました。唯は生後8カ月の時に危篤に陥りました。原因不明のおう吐を繰り返し、意識不明になりました。地元の病院では「原因がわからないんです。ただ血液検査の結果、極端に酸性に傾いています。これは身体に毒素が溜まっているのです。恐らく代謝の異常だと思われますが、群馬には代謝の専門チームがありません。このままでは大変危険です。栃木の医科大病院には専門チームがありますので、今から唯ちゃんをそちらに搬送します」と言われました。今思えば、この時の医師の説明などほとんど耳に入らず、手を握るわが子の脈が弱くなっていくこと、体温が下がり手の温もりを感じられなくなっていく現実に、「たのむから助かってくれ! 私のこの命と引き換えでもいいから助かってくれ!」と思うばかりでした。小さな身体が担架に乗せられて付き添う妻とともに救急車の中に消えて行きました。医師から「お父さんしっかりしてください! 唯ちゃんが無事に到着できるかどうかは五分五分です。私も救急車に乗り、精いっぱい努力します!」と告げられた時には、腰から下の力が抜けていくのを感じました。自分の車を運転し群馬から栃木に向かう車中、考えたのは「どうしたらいいんだ...どうしたらいいんだ...」ばかりでした。病院に着き病室に駆け込むと、唯は数人の医師に囲まれて懸命に小さな呼吸をしてくれていました。医師や看護師さんの必死の治療のおかげで、3日目に意識を取り戻してくれました。しかし、病名は不明のまま。尿や血液を全国の病院に送り、検査をする日が続きました。
どうであろうとも
約1カ月後、医師から妻と私に説明がありました。「まず、唯ちゃんの病名が判明したことを幸いと言わねばなりません。というのも、この病気は数年前までSIDS(乳児突発死症候群)に含まれていたものですが、医学の発達により病名が明らかになりました。メチルマロン酸血症と呼ばれるものです。健康な人は、食事をすると、それを分解・吸収し、排泄します。ですが、この病気の人は、個人差はあるものの、1日でタンパク質を体重1キロに対して1グラムまでしか分解できません。唯ちゃんの体重が約10キロですから、タンパク質は10グラムまでしか分解できないということになります...。10グラムというのは牛乳1本に含まれる量です。肉やお魚を食べたいだけ食べるというわけにはいかないんです。そして日本には120人しか患者さんがいないので、臨床例も極めて少なく、われわれも手探りで治療をしていくことになります」 説明を聞き終え、妻を唯の付き添いで病院に残してから、ひと月ほど家で一人で過ごしました。その間、私が考えたのは、「唯は...いつまで生きることができるんだろう? 唯は...普通の生活が送れるんだろうか? 唯は...学校に行っても給食は全部食べられないだろうなあ...給食を食べられないとイジメられたりするのだろうか?」。
毎日そんなことばかり悩んでいました。唯が退院してきた晩、唯を寝かしつける妻の背中に、抱えていた不安をすべてぶつけました。すると妻は、ゆっくり振り返って満面の笑みで「唯は唯ですから...」と答えてくれました。その時、私はハッと気付かされたのです。布教先では「青色青光(しょうしきしょうこう)・黄色黄光(おうしきおうこう)・赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)・白色白光(びゃくしきびゃっこう)......青は青色に輝けばいい、黄色は黄色に輝けばいい、赤は赤のまま輝けばいい、白はそのまま真っ白に光ればいい」などと、お釈迦さまの言葉を引用して自ら語っておきながら、わが子のことになると、この子の色以外の色に光ってほしいなどと考えてしまう自分がいる。そうだった、唯は唯のまま輝けばいい! 妻の笑顔に涙をこぼした私でした。「唯可信(ゆいかしん)...」−ただこの高僧の説を信ずべし。唯−ただ−とは何となくではありません。無気力ということでもありません。己(おのれ)のはからいを超えた「他力」の世界にまかせきるということです。「どうしたらいいんだ」ではなく、「どうであろうとも」それを確かに引き受けていく...。唯ひたすらに南無阿弥陀仏とともに強く明るく...。

■被災地を訪ねて
涙声で話すお母さん
昨年の10月、北海道教区日高組(そ)内寺院のご門徒さんと一緒に東日本大震災の被災地を訪問しました。震災から2年半、「復興」の掛け声とはうらはらに、いまだ心の傷の癒(い)えない方々と出会う旅になりました。東電福島第1原発の大事故によってまき散らされた放射性物質は、福島県の浜通り・中通りを中心とする広域に下降して土地や水を汚染し、動植物、そして人間に被害をもたらしました。浜通りの南相馬市では、稲作農家が米を作り続けるには、これからずっとカリウムを田んぼにまかなければいけないそうです。そうしないと稲がセシウムを吸ってしまうのです。米と野菜を買わなくてはならない屈辱に、農家の方は泣いているとお聞きしました。中通りの二本松市では、6月に北海道にお越しいただいた、幼い子どもを育てている若いお母さん方と再会しました。原発事故以来、お母さん方はさまざまな決断を迫られてきました。福島から逃れるか、福島にとどまるか。洗濯物を外に干すか、中に干すか。外遊びをさせるか、させないか。地元産の野菜を買うか、県外の野菜を買うか。給食を食べさせるか、弁当を持たせるか...。復興を急ぐ周囲との軋轢(あつれき)や、心無い人々の言葉に傷つきながら、必死に子どもを守ってきました。原発事故が起こった当時、放射性物質が頭上から降り注いでいることを知らずに、幼い娘を連れてお店にミルクを買いに走ったことを深く後悔しているお母さんがいます。子どもをこれ以上被ばくさせないために、彼女は家族の協力を得て、常に県外の食物を与えています。そのためには、祖父母が家庭菜園でつくった野菜も食べさせません。しかしある日、外遊びをしたい娘がおばあちゃんにせがんでイモほりをしたそうです。「思わず娘をきつく叱ってしまった」とお母さんは涙声で話してくださいました。
聖道・浄土の慈悲
覚えておられるでしょうか。震災の起きた2011年を代表する漢字は「絆(きずな)」だったことを。被災された方々の悲しみの大きさに触れ、多くの人が日々の普通の暮らしと、人とのつながりの大切さを思い出したからでした。しかし、被災地で私たちが見たものは、絆があるゆえに苦しむお母さん方や、補償の問題をめぐって被災者同士が傷つけあい、絆が壊される現実でした。ひょっとしたら、私たちは被災者を置き去りにして、絆という言葉を自分たちだけで消費していたのではなかったでしょうか。親鸞聖人は『歎異抄』第4条の中で、苦悩の中にいる人々を哀れみ、いとおしみ、はぐくむ慈悲のことを「聖道(しょうどう)の慈悲」、念仏してすみやかに仏となり、その大いなる慈悲の心で思いのままにすべてのものを救う慈悲を「浄土の慈悲」と示されました。「聖道の慈悲」は、人間にできる最高の慈悲ですが、この世に生きている間はどんなにかわいそうだと思っても、思いのままに救うことはできません。ですから、念仏して仏になることだけが本当に徹底した慈悲だというのです。この言葉をそのまま読めば、聖人はこの世で人々を救うことを断念したようにも受け取れます。しかし、私はこの言葉に、お念仏を伝えることですべてのものを救いたいという聖人の決然とした意志を感じます。悲しみに打ちひしがれている人々の心の中で、阿弥陀如来が「あなたの悲しみは私の悲しみです。私はあなたと共にいます」と呼び続けていると伝えたかったのだと思います。
私たちも「人の悲しみをわが悲しみとする」阿弥陀如来のお心にうながされながら、困難な状況の中におられる方々の痛みを想像し、気持ちを尊重しながら、被災地支援の活動を続けていきたいと思います。「聖道の慈悲」にも遠く及ばないちっぽけな、誤りの多い営みですが、これからも被災地の方々と関わりながら、お育てをいただきたいと思っています。そして阿弥陀如来のお心のように「人の痛みを想像する」ことが、今平和をめぐって曲がり角にあるこの国に一番求められていることのように思うのです。

■仏かねてしろしめして
スタッフもドキドキ
私が住職を務めるお寺では、保育園をしています。4月、桜が舞う中、かわいらしい新入園児さんが保育園に入園してくれます。と同時に、保育士免許を取得したばかりの新しい保育士さんが就職してくれます。これに先立ち、就職前の2月には、新任保育士さんのための研修会を1泊2日で行っています。志(こころざし)を共にする保育園合同の研修会で、毎年10人ほどの新任保育士さんが参加され、各保育園の園長先生や先輩保育士さんが講師とスタッフを兼ねてくださいます。私も今から8年前にその研修会に参加し、翌年からはスタッフとしてお手伝いをさせていただいています。この研修会には「恐怖の人差し指」と呼ばれる名物があります。どうして人差し指が怖いのかといいますと、講師である園長先生の人差し指が誰彼かまわず飛んできて質問攻めにあうのです。例えば......、「はい、あなた! 子どもが絵の具を誤飲してしまった。どうする?」 「では君! 子どもが急に熱を出して、今39度ある。どうする?」 しかも、恐怖の人差し指は研修生だけでなく、私たちスタッフにも飛んできます。ですから、研修生もスタッフもドキドキしながら、いや、きっとスタッフは研修生以上に緊張しながら毎年学ばせていただいております。
私を見抜き寄り添う
ある年の研修会、まとめの講義でのことです。講師の園長先生は「あなた!」と個人を指差すのではなく、そこにいる研修生やスタッフ全員に向かってこんな質問をされました。「では、この研修会最後の質問をします。どこの保育園にも物事をすばやく行うのが苦手な子どもっているやろ。例えば、はい、あーつまれ≠チて言っても、なかなか集合できない子どもがいる。その子は一生懸命やっている。けれども早くできない。だから、お友達にまた○○君遅い∞○○ちゃん、いっつも遅い≠チて言われてしまう。その子がかわいそうやな。では、皆さんに質問します。あーつまれ≠チて集合をかけて、一番遅い子が、一番早く集合できるようにするには、どうしたらいい?」 いかがでしょう。ちょっと考えてみてください。私がその時思いついたのは、「うちは幼児クラスには担任と副担任がいるから、一方の先生が集合をかけて、もう一方の先生がその子にがんばって一等賞になろう≠ニ背中を押してあげる」 これが正解じゃないかなぁと考えました。もちろん答えはひとつではありません。先生と子どもの関係、子どもの成長の度合いによって、それぞれに方法があると思います。ですが、講師の園長先生は私たちにこう教えてくださいました。
「あのな、一番遅い子の横で集合をかけてあげたらいいねん。そうしたらその子が一番や!」 続けて「これが、みなさんがこれから成ろうとしている保育士にとって、一番大切な『子どもの目線に立つ』ということなんですよ」と教えてくださいました。この答えを聞いた時、園長先生の保育に対する熱い想いをいただいたようで鳥肌が立つくらい感動しました。園長先生がおっしゃった「子どもの目線に立つ」ということは、「その子を見抜き、その子に寄り添い応じていく」ということだったのです。『歎異抄』に「仏かねてしろしめして」というお言葉があります。「阿弥陀さまはこの私を、誰よりも深く見抜いてくださっていました」という意味です。私はこの「仏かねてしろしめして」と示される阿弥陀さまのお心を、先ほどの園長先生の言葉を通して味わわせていただきました。「こちらにお浄土という素晴らしい世界があるよ。正しい生き方があるよ」とどれほど告げられても、理想の通りに生きていくことができない。阿弥陀さまを目指すどころか、阿弥陀さまに背をむけて、日々愛憎の煩悩を燃やし続けている。そんな私と見抜いてくださった阿弥陀さまだからこそ、こちらにひとつの条件・注文をつけることなく、また私を責められることもなく、「必ず救う」と立ち上がり、南無阿弥陀仏のみ声となって私の「今、ここ」にはたらいてくださっているのです。

■リヤカーと仏教
ひざの上が定位置に
私が生まれた年、父は30歳でお茶の行商を始めました。父は私をよく行商に連れて行ってくれました。父は茶箱をリヤカーに積んで「おちゃーエー」と売り声を出しながら、毎日10キロの道のりを行商していました。私はリヤカーの後を押しながら歩きました。ところが、そんな私も中学生になると、リヤカーを引いて行商をする旧態依然とした父の姿を恥ずかしく思うようになり、家業を継ぐのがいやでいやで仕方がありませんでした。自分にはもっと格好のいい仕事があるはずだと思ったからです。そんな私に家業を継がせてくれたのは、龍谷大学で学んだ仏教と父の仕送りでした。大学の講義で私の心に大きな変化を与えてくれたのは「宗教学」の講義でした。教授に「祈り≠ヘ自己の欲望を絶対者に叶(かな)えてもらうことではないのですか」と知ったらしく質問すると、「告白≠ニいう意味もありますよ」という答えが返ってきました。その予期せぬ教授からの言葉に私は全身に電撃を受けたようなショックを味わいました。今まで自分の考えは絶対と思っていただけに、教授の言葉は私の「自惚(うぬぼ)れ」を打ち砕いてくださいました。その体験があってからは、仏教を肩ひじ張らずに素直に聞けるようになりました。
しわくちゃのお札
わが家の宗旨は代々「真言宗」でしたが、龍谷大学の経営学部に在籍しながら仏教を学んだことが私の人生には大きなご縁になり、在学中に得度を受けました。その時から仏教が私の「いのち」になりました。そんな私のようなわがまま息子を陰で支え続けてくれたのが、毎月送られてくる父からの「仕送り」でした。現金封筒にはいつもお札が2万5000円入っていました。いつも、しわくちゃの汚れたお札ばかりでした。「跡取り息子に送るお金ぐらい、もうちょっときれいなお札を送ればいいのに...。年を取ったら看(み)てやるのに...」とは言いませんが、不満に思っていました。しかし、そのお札は父がリヤカーを引いて、一軒一軒、頭を下げ、お茶を売って稼いだお金でした。それが私の手元に、しわくちゃのまま届いています。新札もしわくちゃのお札もお金の価値は同じですが、しわくちゃのお札には父の限りない「願い」がいっぱい込められています。「おまえは跡取りだから、卒業したら家業を継いでくれよ。大学に行くからには、一所懸命勉強してくれよ」。そんなお金を使うとき、いつしか父の願いが先に働いて、「もったいない」という思いが起きて、無駄遣いができなくなりました。愚かな息子には、百の小言よりもしわくちゃのお札一枚のほうが応えるのでした。
父の仕送りと仏教の出会いが、それまでいやでいやで仕方なかった家業を継ぐ大きな力となりました。お茶と仏教は歴史的に深い関係がある。お茶を通して仏教を肌で学ぶことができて、その上素晴らしい仏教の教えを伝えていけるなら、この道で生きよう。そう思ったとたん、大きな重荷が全身から抜け落ちて急に身が軽くなりました。あれから40年、今は亡き父が歩いた10キロの道のりを、父がやっていた通りに今も毎日リヤカーを引いて行商をしています。お茶の売れない時や悩みのある時は、リヤカーを引く足も重くなります。そんな時は「たとひあきなひをするとも、仏法の御用(ごよう)と心得(こころう)べき」という蓮如上人のお言葉を思い出します。帰宅した時には「今日も1日リヤカーが引けた!」と充実感いっぱいになります。それはリヤカーを引く私を、阿弥陀さまが光明で包み込んでいてくださったからに違いありません。阿弥陀さまの光明には、私たちの煩悩の闇を破るはたらき(破闇(はあん)の光明)、信心をいただくように導くはたらき(調熟(ちょうじゅく)の光明)、信心の念仏者を摂取(せっしゅ)して捨てないはたらき(摂取の光明)といった三つの側面があるといわれています。明日もリヤカーにお茶と仏教を満載して、ご恩報謝のよろこびで、お客さまにお届けします。

■大いなるはたらき
同じ場所にたどり着く
毎年1月下旬から2月上旬にかけて、北海道の北東部に流氷が漂着します。シベリア大陸の沿岸部でできた氷は、長い距離を南下して北海道にたどり着くようです。その年によって気象状況は異なります。しかし、嵐が吹き巻こうが、激しい波が立とうが、その氷は、何ものかの力で引きずられるように、ある一定の方向に進み続け、必ず同じ場所にたどり着くというのです。何とも不思議なことだなと思っていました。海に浮かぶ船であれば、嵐にあえば嵐に流されたり、激しい波に襲われて航路を変えることもあるでしょう。しかし、流氷はそうしたことを無視して風に逆らい、何ものにも影響されず決まった方向へと進み続け、必ず同じ場所にたどり着くというのですから不思議なことです。けれども、よくよく調べてみれば、流氷の行方は、その年に吹く風や波によって決まるのではなく、海の中を流れる潮の流れによって決まるのだというのです。私たちが日常使う言葉で「氷山の一角」という言葉があります。これは、見えている部分は、ほんの一部分であって、見えないものが大半であるといったことを表す時に使う言葉です。流氷も同じように、海面上に1メートルほどの高さがある氷は、おおよそ海面下に6メートルほどの深さを保っているそうです。つまり、見えている部分はわずか7分の1程度であって、見えてない部分がほとんどなのです。潮はその見えない部分にはたらきかけて、氷を南へ南へと運んでいくのです。潮の流れは決して変わることはありません。ですからその強大な氷は必ず同じ場所へとたどり着くのです。
評価の世界を超えて
思えば、この流氷こそ、私そのものではないかと感じました。私たちは日々、家族や友人など、たくさんの方との関わりの中で、言葉を交わし、悩みや慶びを共有して生活をしています。しかし、私たちは、どれほど胸の内のすべてを相手にさらけ出して生活しているでしょうか。実は皆、誰にも知られようのない、悲しみや苦しみ、そして弱さをたくさん抱えて生きています。つまり、外からは見ることのできないものをたくさん抱えた流氷そのものだと思います。阿弥陀さまは、そのような、外からは決して見ることのできない悲しみも苦しみも、すべて知っていてくださいます。すべて見抜いてくださったうえで、「あなたを必ずお浄土へと往(ゆ)き生(う)まれさせる」と、私のすべてをまる抱えしてくださっているのです。
『歎異抄』には、弥陀の本願には、老少(ろうしょう)・善悪のひとをえらばれず ・・・とありますように、阿弥陀さまの本願の大悲は、一人一人の「いのち」を、かけがえのない大切なものと認め、万人を分けへだてなくお救いくださいます。言い換えれば、若い時の私も、老いた時の私も、善い心を起こして善を行う私も、悪心を起こして振る舞う私も、どのような私であっても、「老少・善悪」という善悪をもって人を批判する評価の世界を超えて「いのち」そのものを見すえてくださっているのです。
私たちの人生は、自分の人生でありながら、決して思うようにはなりません。何もかもが思うように進む、順風という追い風が吹いている時もあれば、逆風といったつらい出来事に出くわすこともあります。縁(えん)に触れれば何をしでかすかわからない弱く悲しい存在であるからこそ、阿弥陀さまは、その人生の善(よ)し悪(あ)しにかかわらず、「あなたがどのような人生になろうとも、必ず浄土へ生まれさせる」と喚び続けてくださっているのです。流氷の姿に、私も人生の善悪という荒波に流されることなく、善にほこらず、悪にひがまず、大いなるはたらきの中に生かされてあることを思うのでした。

■待たせ通しの喜び
立派なご住職にお願い
「棺(かん)おけに入っていただけませんか?」 以前、こんな変わった依頼を受けました。といっても、いま話題の終活(しゅうかつ)≠ナの「入棺(にゅうかん)体験」ではありません。何でも、非常に立派な体格の方が亡くなられたそうで、火葬場に入るギリギリの大きさの棺(ひつぎ)を特注でつくったというのです。その葬儀社の人が私を何度か見かけていたようで、私の体格が亡くなられた方とそっくりだから、特注棺の事前チェックをするので手伝ってほしいというご依頼でした。実際、棺の中に入ってみると、外から他人事として見ていた時と違って、あらためて自分も必ずこの中に入るんだ、必ず死ぬんだということをイメージせざるを得ません。なるほど、終活≠ノまじめに取り組む人たちに人気があるのもうなずける気がしました。そんな私をよそに、葬儀社の方たちの入念なチェック作業も終わりました。「ご住職、ありがとうございました。無事に終了いたしました。どうぞ、お出になってください」と言われたその時でした。私の体が全く動かないのです。自分で起き上がろうとしても、体のどこにどう力を入れたらいいのかわからない状態になってしまい、何人もの方々に体を支えていただきながら、ようやく特注棺から抜け出ることができたのです。日頃から「おかげさんで...」と口にしている私ですが、内心では「何でも自分でやっている。ひとさまの手を煩(わずら)わすことなく生きている」と思い上がっていた自分の姿が、あらためて知らされたように感じました。短い時間の入棺体験≠ナしたが、自分自身を見つめ直す貴重なご縁となりました。
案内状を送り続けて
そんなことがあったためか、しばらくして、また葬儀社の方から連絡が入りました。「1歳8カ月のお子さんを亡くされた若いご夫婦がおられるのですが...」 ご臨終から、通夜、葬儀までのおつとめだけでよいので、というお葬式のご依頼でした。20代の若いご夫婦と友人数人だけのお葬式で、私の目の前に置かれた棺は、本当に小さな小さな棺でした。葬儀が終わり、私はご法話で何をお話ししようかと考えました。小さなお子さんを亡くされたご両親、そして若い人たちだけのお葬式です。少し難しいかなと思いつつ、お釈迦さまの時代にも、子どもを亡くした母親がお釈迦さまに救いを求めてやってきたことを話しました。そして、死は必ず、誰にも例外なく訪れること、阿弥陀さまはそんな私を決して見捨てることなく、お念仏一つでお救いくださることをお話ししました。葬儀から数週間後、満中陰(まんちゅういん)(四十九(しじゅうく)日)を前にまた連絡が入りました。今度は若いご夫婦がお仏壇を迎えられるので、入仏法要をお願いしたいということでした。私はとてもうれしくなりました。少しは私の話が心に届いたのかなと思ったからです。
法要に向かう途中、私は何かいいものはないかと仏壇店に立ち寄り、正信偈のCDと勤行(ごんぎょう)聖典2冊を買ってお伺いしました。ピンク色の打敷(うちしき)できれいにお飾りされた小さなお仏壇には、お嬢さんを想うお二人の心が表れているようでした。私は「ナモアミダブツとお念仏申し上げるところに、仏さまはいつもお嬢(じょう)さんとともに、私たちを見まもり続けてくださっているのですよ」と話し、CDと聖典を手渡しました。それ以来、私はお寺の法座案内を、若いご夫婦に送ることにしました。きっとご仏縁が育(はぐく)まれると思ったのですが、1年経っても、2年が過ぎても、お二人がお参りされることはありませんでした。案内状を出し続けながら、いつしか私は「やっぱり若い人には...」と、お参りに来ない夫婦を責めている自分の心に気付かされました。「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」 私は1年や2年どころか、生まれてこの方66年間、阿弥陀さまを待たせ通しだったのです。いや66年はおろか、五劫・十劫という限りない過去から、阿弥陀さまにご心配をかけ通しであったのです。あらためて阿弥陀さまの大悲のお心を、有り難く喜ばせていただきました。

■グチコレ
マスコミも注目
「あなたのグチを聞かせてください」 しんしんと底冷えのする京都の街角で今、街ゆく人々のグチを無料で聞き続ける学生たちがいます。グチコレクション(愚痴の収集)、略してグチコレ≠ニ名付けられたこの活動。場所は主に京都タワー前で、週1回程度、不定期に行われます。彼らは「愚痴 集めています」などのプラカードを持って座り込み、家路を急ぐ人たちや観光客に呼びかけるグチコレクターです。メンバーは宗門校に所属する有志20人ほどで、龍谷大学大学院実践真宗学研究科の藤原邦洋(ふじはらくにひろ)さんが代表を務めています。2012年11月に始めたこの活動ですが、活動回数75回分で来談者総数は約1000人、収集したグチ数は2500グチを超える実績を持ちます。1回あたり13人ほどの来談、1人あたり2・6グチを傾聴したことになります。こうした活動の積み重ねにより、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌などさまざまなメディアでも注目されるようになりました。最近ではNHKでも報道され、海外ニュースとしても発信されました。
「悩み多き現代人には、ためこんだ愚痴をこぼす場所が必要なのかもしれない」と藤原さんは言います。「愚痴といえば悪口や弱音などネガティブに捉えられがちですが、僕たちは愚痴を本音と向き合うポジティブなことだと捉え、気軽に愚痴を言える社会を作っていきたい」と熱く語る彼の言葉に、私は驚かされました。愚痴を本音と向き合うポジティブなことと捉える発想は、私にはなかったからです。「あなたのグチを聞かせてください」というキャッチフレーズは、このように柔軟な発想から生まれた言葉だったのです。ですから、彼らの活動は路上で傾聴するだけではありません。グチコレで集められたグチたちを、本願寺が運営する「他力本願ネット」で公開し、多くの人々が見ることのできるものにしています。それは他人のグチを見て共感するだけでも、少し気持ちが楽になることもあるのではないかという考え方に基づいています。もちろん個人情報の保護(守秘義務の順守)は言うまでもありません。「最近、愚痴が言えてない」「一人で飲んで解決している」「(就職活動で)将来、進路が決まるか不安」など、実際にグチを聞いてもらった人たちは、知らない人のほうが話しやすい、スッキリしたと言います。
願われていたいいのち
グチコレでは、気持ちよくグチってもらうために大事にしていることがあります。1共感的な態度で聞く、2意見してグチを遮(さえぎ)らない、3聞いたグチを関わりのある人に言わない、の三つです。これはグチる≠アとで自分の本音に向き合う人を尊重する姿勢です。つまり、相手が自分の本音に向き合おうとする時間の流れを見守ることで、何かに気付いてもらいたいというグチコレの積極的な願いであり、「待つ」「許す」という、いわば支える姿勢だと私は理解しています。さらに、自分たちが龍谷大学の学生であり、本願寺派の僧侶であることを事前に相手に伝えることも、安心してもらえる要素のようです。「聞く」ということは、積極的な願いである。このことについて、お味わいさせていただくことがあります。それは親鸞聖人が「聴聞」の聴の字に、「ユルサレテキク」と註釈を施されていることです。
私たちは、お念仏のこころを聞かせていただく中に、阿弥陀さまに願われていたいのち≠ナあることにめざめさせていただきます。私の愚痴が許され、私の言葉を沈黙のうちに待っていてくださった大悲のこころがあることを知らせていただきます。知らせていただくがゆえに、ともに聞き、ともに語り合える、お念仏の仲間がおられることにあらためて気付かされるのです。グチコレの活動を知るにつれ、私はこのことを何度も何度もお味わいさせていただきます。「僕たちは未熟ですが、グチに耳を傾け、少しでも寄り添うことで人々に決して一人ではない≠ニいうことを伝えたい」という彼らの言葉が深く心に響きました。

■救い≠チてなに
変えられないことも
人間の苦しみ悩みの解決を求めたお釈迦さまが、求道(ぐどう)の末に開いた「さとり」から始まるのが仏教です。ですから、この世界と人間の具体的な苦悩の現実から、自分自身のさまざまな問いを元にして、その問題解決の道を経典(きょうてん)に尋ねる、という営みが仏教です。さて、人生の不安や苦悩のしくみ(構造)は、自分の思い(自我)と、経験している出来事(事実)がずれることで生まれます。それなら、これらが一致するようになれば、不安や苦悩はなくなります。そのためには、二通りの方法が考えられます。一つは、出来事を自分の思いに合わせるように変化させることです。病気ならば、治療を受け、健康な身体に変えることです。人間は、こうした努力で文化や社会を発展させてきました。もう一つは、出来事が変えられないなら、事実をありのままに受けとめられるよう、自分の思いを改め変えることです。人生を生きるとき、思い通りにならない事実を少しでも変えて、お互いが暮らしやすい平和で平等な生活、そして、争いや差別のない社会をつくっていくことは、とても重要です。しかし、人生の出来事には、どうしても変えられないことがあります。それをお釈迦さまは、生老病死(しょうろうびょうし)、さらに、愛別離苦(あいべつりく)などといわれ、そこから真実の生き方を示されています。
ねてもさめても
私は小学校1年で曾祖母(そうそぼ)(ひいおばあさん)が、2年で祖母が、3年で母方の伯父(おじ)が、そして、4年で父が死にました。いずれも、自宅で亡くなっています。その頃、夜、布団に入ると天井を見ながら、似ているようだけど少しずつ違う板の模様に、一人ひとりの人間の生きざまや自分の死にざまを考える少年期を送りました。その頃の家は残っていませんが、あの部屋で父は、祖母は死んだという思い出の中に、その死はあります。1977年、自宅で亡くなる人の数より病院で亡くなる人の数が上回りました。今では9割を超える人が、医療関係の施設で亡くなって、自宅で看(み)とることは希(まれ)です。また、葬式も自宅ですることが珍しくなり、現代の生活環境は、死を考えるものではなくなってきています。以前、子どもを葬式に連れて行かない若い親がいると聞きました。そういう不吉な姿を子どもに見せたくないということでした。すると、こういう方は、自分が死んでも、子どもには来るなということになるのでしょうか。都内の坊守さんが、近くのレストランの経営者に、法事のお斎(とき)(食事)を希望する門徒さんの話をすると、断られたそうです。黒い服を着ている人が出入りすると、他の客に対してエンギが悪いということでした。エンギがどうであろうと、子どもにも、死というものを見つめさせ、自覚させることがないと、生きていることの尊さ不思議さ、いのちの有り難さが、だんだん感じられなくなるのではないでしょうか。
浄土真宗では、座禅などの出家者の行(ぎょう)は勧(すす)めません。ただ、お念仏を日常生活の中で、称(とな)えなさいと勧めます。
弥陀大悲(みだだいひ)の誓願(せいがん)を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなふべし
阿弥陀仏の教えに出遇(であ)い、その本願の勧めるお念仏を生活習慣として称えていくならば、そこに新しく浄土真宗らしい人格が育てられていきます。苦しいときにも、いつもアミダさまが一緒にいてくださる。今日のいのち、この巡り合わせをかけがえのない尊いことだったと受けとめられるような人格主体が生まれていきます。それを「お育てにあう」と私は受けとめています。これこそ、事実をありのままに受けとめられるような人格が育てられることだと思います。「三度の飯がおいしいときに仏法は聞くものだ」と聞いたことがあります。お念仏を称え、親鸞聖人のまことの浄土真宗を通して、阿弥陀仏の教え、お釈迦さまの教えを大切に生きていきたいと思うことです。

■無限の光
南無阿弥陀仏とは?
浄土真宗のご門徒でなくとも南無阿弥陀仏を知らない人はいないでしょう。でも、それがどんな意味かと問われると答えるのは難しいものです。もともと、ナモアミダブツはインドから中国を経て日本に伝わった言葉です。インドでは、「ナマステー」と挨拶します。この「ナマス」と「ナモ」とは同じ語源で、そこには「尊敬する」「尊ぶ」という意味があります。「テー」は「あなた」、ナマステーは、「私はあなたを尊びます」という意味です。同じようにナモアミダブツは、「私はアミダという仏さまを尊びます(アミダ仏に帰依します)」という意味なのです。さて、アミダとは仏さまの名ですが、名はそのまま、仏さまのはたらき、力の大きさをあらわします。アミダという言葉は、「ア・ミダ」と分けることができます。アは否定の言葉「〜でない」という意味、英語のアンやノンにあたります。ミダの語源は「ミター」、これが西洋ではメーターとなったようです。電気やスピードのメーター、長さの単位のメーター。「メーター」は「はかり」です。ア・ミダとは「はかることができない」という意味で、中国では「無量」と漢字があてられました。では、何がはかれないのでしょうか。中国に伝わる途中、阿弥陀に続く二つの言葉が省略されました。その言葉とは「光」そして「いのち(時間、寿命)」です。はかりしれない光、はかりしれないいのち。阿弥陀仏とは、無限の光、いのちのはたらきを備えた仏さまなのです。南無阿弥陀仏とは、「私は、はかりしれない光といのちの仏さまを尊びます」という意味となります。
宗祖が示された他力
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この言葉の意味を大きく転換されます。 私がナモする、私が尊ぶのではなく、「仏さまが私を・・・」というふうに、南無も含めすべて仏さまのはたらきとされたのです。これを他力といいます。私が無限の仏さまを尊ぶのではなく、はかりしれない光といのちの仏さまが、今、私を抱きとってくださる。仏さまが私のいのちに、いつでも、どこでもはたらいてくださるとよろこばれました。南無阿弥陀仏は、無限です。いつかは死んでいかなければならない、常に変わっていかなければならない、有限、無常の私だからこそ、はかりしれない、無限のはたらきの仏さまでなければならない。念仏は、無限の仏さまと有限の私とのであいの言葉なのです。
地球がリンゴ引っぱる
以前、若い方からの質問にインターネット上で答える機会がありました。寄せられた質問は、「信仰とはなんでしょうか。仰ぐのは仏像? 経典? 自分?」「念仏とは具体的になんですか」というものでした。私は次のように答えさせていただきました。「ニュートンは、万有引力を発見しました。リンゴは木から地面に落ちるように見えます。それを地面、つまり地球がリンゴを引っ張っているのだと彼は見たのです。誤解を恐れず言いますと、私が仰ぐのは、仏像でも経典でも自分でもなく、そこにあらわれた『はたらき』です。私を真理へと引っ張る、導くはたらきがある。そのことをお姿であらわされたのが仏像であり、言葉であらわされたのが経典、そしてそのすべては私に今はたらいている。私はそのはたらきを『南無阿弥陀仏』とお呼びし、人生をかけて聞き、味わい、礼拝させていただいています」 親鸞聖人は、今日の私を底から支えてくださる「力」、真実に導き続ける「はたらき」を南無阿弥陀仏と教えてくださいます。浄土真宗のみ教えは、遠い先の話でも、日常とかけ離れたものでもないのです。私が今、ここで、無限の光に包まれている。そのことを日々の生活の中で、よろこびや悲しみを通して共に聞かせていただきましょう。 
 

 

■お葬式は迷惑?
シンポジウムでの発言
「葬儀の意義とは何なのか?」 私の所属している備後(びんご)教区三次(みよし)組では、この問いかけをもとに3年間にわたって、僧侶門徒が一体となって研修を重ねてきました。三次組は広島県の中山間地域に位置していますが、近年の過疎化や高齢化に伴って地域での葬儀が大きく変化してきています。これまで葬儀は、講中(こうちゅう)と呼ばれる十数軒単位の近隣組織が中心となって、互助的に運営されていました。男性は葬儀の受付や会場設営、女性は食事の世話など、自らの仕事を2日間は休んで葬儀のお手伝いをしていました。しかし、三次市の中心部に葬儀会館が相次いで建設されると、地域で支える葬儀の形は次第に希薄になり、家族の意向を中心に葬儀業者がその運営を担うようになりました。その結果、「家族葬」をはじめ、地域のつながりから離れた葬儀の形が増えつつあります。一連の研修の中で三次組が主催した葬儀に関してのシンポジウムで、あるお寺の総代さんが次のような発言をされました。一人暮らしの近所の高齢者が入院し、その後、亡くなられた。しかし、地域の人には知らされず、「家族葬」で葬儀はすでにすまされたという。地域活動でお世話になっていたこともあり、数人でお参りに駆け付けた。すると、遠方に住んでいるその家族が「地域の皆さまにご迷惑をおかけしないため、皆さまにお知らせせずに、家族葬で営みました」という。はたして「迷惑をかける」とは何なのか、という発言です。この言葉は「葬儀の意義とは何なのか?」を問う私たちの研修の大きなポイントになったと思っています。確かに近年の葬儀は経済的、社会的負担が大きくなる場合があり、その反動として「家族葬」や「直葬」と呼ばれる葬儀が出現する一因となっています。シンポジウムでは、先ほどの発言を受けてある出席者から「私たちは、生きている限りは他人にいろいろな迷惑をかけ、支えられながら生きている。葬儀はこれらへの感謝の場でもあるのに、いまさら『葬儀で迷惑をかけない』というのは、逆に迷惑だ」という発言がありました。
私が転じられる世界
親鸞聖人はご自身のことを「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)」といわれました。それはすなわち私自身の姿であり、そのままが阿弥陀さまの救いの目当てでもあります。
罪障功徳(ざいしょうくどく)の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし
阿弥陀さまの救いとは、私たち人間が抱えている罪業を消し去るのではなく、そのまま氷が水に変わるように、罪障を功徳に転じるはたらきであるとおっしゃいます。むろん私たちは、その深く重い罪業を自らの力で消し去ることなどできません。しかし、それほど大きな功徳をいただきながら歩むのならば、人生の見方や味わいも自(おの)ずから転じられていくのではないでしょうか。確かに葬儀を行うことは、家族や地域・近隣に「迷惑」をかけることかもしれません。しかし、その「迷惑」は、人としてこれまで生きてきた総決算の場であるともいえるでしょう。そして葬儀に集まる参列者や手伝いの人、家族、そうした縁ある人々に私たちは支えられて生きてきました。葬儀という儀式を通して私たちは、「迷惑」ともいわれる人と人とのつながりを、支え合い助け合うことによって「絆(きずな)」に転じてきたのではないでしょうか。もちろん故人や家庭の状況、地域での風習など、葬儀の背景は多様であり、その形を一様に押しつけることはできません。ただ、人間としての生きざまの総決算である葬儀を通して、迷惑をかけながらも多くのものに支えられてきたこれまでを振り返っていく。さらにその儀式を通して、阿弥陀仏の願いと功徳の中で生かされてきたことをあらためて見出しよろこぶ、そんな葬儀をこれからもおつとめしたいと思っています。

■親のよび声
脇目も振らず一直線
ある年の保育園の運動会でのことです。頑張って練習してきた園児たちの晴れの舞台。園児の親だけではなく家族も駆けつけ、応援席では絶えず大きな声援があがっていました。閉会式も終わり、いよいよ解散となりました。担任の先生が整列している園児一人一人とお別れの挨拶をしていますが、どの園児もそわそわして心ここにあらずという様子です。そして、先生との挨拶が終わるやいなや、勢いよく走り出し、「お母さん!」「お父さん!」と大きな声を上げながら、家族のところへ脇目も振らずに一直線です。どの園児も満面の笑みを見せ、安堵(あんど)した様子で帰って行きました。驚いたことには、走って行く方向を間違えた園児は一人もいませんでした。よくよく思い返しますと、演目の最中でも、親や家族からの声援に手を振って応え、向けられたカメラにピースサインで応える園児を何人も見ました。園庭を囲む数百人の中からでも、親や家族の声や顔を聞き間違えることも、見間違えることもなく、その居場所を必ず見つけ出すことができるのです。自分の親や家族を間違えない園児がすごいのでしょうか。
すべて仏のはたらき
ところで「お母さん」「お父さん」と呼び始めたのはいつ頃からでしょうか。身近にいた人を自分が勝手に親と決めつけ、呼び始めたわけではないはずです。それは「私があなたのお母さんだよ」「私があなたのお父さんだよ」という、親の方からわが子に向けた名のりに始まることでしょう。また、この名のりは子どもにとってどんな存在であるのかをも知らせています。そして、早く私の名(お母さん、お父さん)を呼んでほしいという思いをもって呼びかけ続けるのです。この呼びかけはいつもわが子を慈しみ、一度この名を呼んでくれればすぐそばに寄り添い、不安な思いをさせることはないという親心で満ちあふれています。ですから、子どもが親を間違えることがないのは、この親心のおかげであり、子どもの口に出た「お母さん」「お父さん」の一言は、両親の強い思いが確かにわが子に届き、まさしくそこにはたらいていることを物語っているのです。しかし、親心や親の名の意味を理解してから、呼び始めていたのでしょうか。子どもの方から親に請い求める必要がないことや、「母」「父」の上下に「お」と「さん」という、尊び敬う言葉が付いている意味は、幾度となく口にし、心に思い浮かべる中に自然と明らかになってくるのではないでしょうか。はっきりと発音できなくても、声にならない声であっても、目の前に姿を見ることができなくても、そのたった一言が不思議な安心感を与えてくれます。
『拝読浄土真宗のみ教え』の中に「浄土真宗の救いのよろこび」という、浄土真宗の救い、信心のよろこびを表す文章があります。その最初には、
阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となりたえず私によびかけます ・・・とあります。「南無阿弥陀仏」の六字は私へのよび声であり、また、どんな存在であるかを名のり、知らせる声です。
「あなたを必ず救う、安心してまかせてほしい」という阿弥陀さまの本願(誓いと願い)が、この六字に仕上げられたのです。親がわが子を思うように、阿弥陀さまは私をわが子であると慈しんでくださる親さまなのです。私の方から阿弥陀さまに向け、そのお救いを請い求めたからではなく、先に阿弥陀さまの方から私に向け、「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけられていたのです。阿弥陀という仏にまかせよという六字を、そのままに受け入れることが浄土真宗の「まかす」ということであり、私のおまかせ心や、その名を称える声や、合掌するすがたとなって現れ出てくださるのです。それは阿弥陀さまの本願が私の上に届き、まさしく今ここではたらいているすがたであり、すべて「南無阿弥陀仏」のひとりばたらきなのです。

■鬼のこころ
悪いものを外へ
最近の日本人の風潮を見ていますと、悪いことの原因を全部自分の外に追いやって、自分と切り離して考えているようなところを強く感じます。そもそも仏教は内に煩悩を見、それとどう向き合うかというところを大切にします。毎年2月3日になると、日本中で「鬼は外、福は内」の声が鳴り響くのです。この心やこの見方に、今の日本人の大半がなっているように思えてなりません。鬼というか、悪もの狩りばかりが目立つのです。私の孫が小学4年生の時のことです。「じいちゃん、うちじゃあ、豆まきはせんのんか?」と、問いますので、「うちはお寺じゃけー、せん」と、答えました。すると「どうして」と、問いを上乗せします。そこで私が「節分の行事は、ありゃあ仏教とは違うから、真宗のお寺ではしないんだよ」と答えますと、また、上乗せして「それって、どういうことなの」と問いかけてきました。そこで、一般社会の現状ということを一緒に考えたのでした。自分にとって都合の悪いものを外へ追いやり、自分にとって都合の善いものはこっちに来いというのですから、ずいぶん、手前勝手なものの考え方・見方のように思えてなりません。そもそも鬼というのは、腹を立てると全く聞く耳を持たなくなる自分勝手な心のさまの形容のようです。聞く心がないから状況判断ができなるなるということで、私たち人間に不幸や災いをもたらすものが鬼だと考えたのでしょう。これを外に向けるのが、日本古来の宗教観や一般社会の仏教観、考え方のようです。節分の豆まきの行事を全国的にやっていて、何も疑問に思わないということにも、問題があるように思われます。孫が「それなら、お寺でやってもいいじゃない」というので、反対に私が「どうして」と聴くと「仏教や浄土真宗に合うように言葉を変えたらいいじゃない」と言いました。「じゃあ、どういう言葉にしたらいいの」と私が聴くと、孫は「それを考えるのが、おじいちゃんのお仕事でしょ!」と言われてしまいました。
他力真実のみ教え
仏教本来の教義や、妙好人の才市(さいち)さんの姿勢などを通して考えてみたいと思います。才市さんは「自分こそ鬼だ」との味わいから、自分の肖像画に角(つの)を描いてもらわれたのです。そこから考えてみると「鬼は内!(鬼こそこの私)、外を鬼に!(しているのもこの私でした)」という標語にするのはどうでしょうか。この煩悩だらけの鬼のこの私が阿弥陀如来さまのお救いのお目当てだから、「ご恩うれしや、なむあみだぶつ」といわずにはおられなかったのが才市さんでした。普通は煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのですが、浄土真宗ではそうではありません。法然聖人ご自身も「十悪の法然房」「愚痴の法然房」といわれ、親鸞聖人もご自身の名のりとして「愚禿(ぐとく)」を標榜されています。どなたのものかは不明なのですが、「黒犬を提燈(ちょうちん)にする雪の路」「煩悩を喜びにする念仏者」というのがあります。浄土真宗では、煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのではなく、反対に、喜びといいますか、味わいの糧(かて)といいますか、自力の廃(すた)る要素が煩悩であり、他力に帰せしめられるのも煩悩であると味わわれているのです。浄土真宗の本義といいますか、他力真実の味わいといいますか、この積極的な煩悩に対する姿勢こそ、浄土真宗の煩悩に対する対処の仕方であろうと思われます。その証(あかし)として、親鸞聖人のご和讃に、
悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身(み)にて まことのこころはなけれども 弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば
とあります。よって、煩悩(鬼)が自分自身を見つめ直すよりよいはたらきをしているからこそ、このように味わえるのだと思われます。これが他力真実のご法義なのです。

■大好きなお名前
美しさのあまり・・・
5月21日は、親鸞聖人の誕生日をお祝いする宗祖降誕会(しゅうそごうたんえ)です。以前、聖人のお名前にある「鸞」という鳥の物語を聞かせていただきました。鸞は中国に古くから伝わる伝説の鳥です。その姿は、やや赤みをおびた体から五色の光を放ち、羽を広げたその姿はまぶしいくらいに光かがやき、鳴き声も美しい五つの音色を奏で、それはそれは美しい声で鳴くそうです。しかし、その美しさのあまり、鸞は悲しい思いをしなければならなかったのです。卵を産んでヒナがかえった時のことです。親鳥は餌(えさ)をとってきて与えようとします。しかし、鸞のヒナは、親の姿とは違って、体が真っ黒です。ヒナ鳥からしますと、自分の黒い体と、美しく光り輝く親鳥を見比べて、「なんぼなんでも違いすぎる。こんなのはお母さん違う」と、背を向け餌を食べようとしません。そこで鸞の親鳥は悩みました。どうしたら、わが子は餌を食べてくれるだろうか。どうしたら親であることがわかってもらえるか・・・。そして思いついたのが「子どもと同じ姿になろう」ということでした。餌をとってきて、わが子の所へ戻る前に、真っ黒の泥沼に行き、光り輝くその体に泥をかぶって、体を真っ黒にして戻っていったのです。するとヒナ鳥は、ようやくお母さんが来てくれたと思い、「お母さ〜ん」と言って、餌をもらうようになりました。それからというもの、鸞の親はいつも体を真っ黒にして、わが子を育てていったということです。
呼ぶよりも先に
このお話を聞かせていただき、ちょっと阿弥陀さまに似ているなと思いました。阿弥陀さまは、本来そのお姿、真実の光は、私には見えません。よくわかりません。しかし、わからない、わからないでは、いつまでたっても私にはわかりません。そこで、わからない私と知り抜いてくださったうえで、私にわかる姿をもってあらわれてくださいました。「南無阿弥陀仏」というお名号となって、お念仏となってあらわれてくださいました。私の耳に聞こえ、私の口に称えられ、私の心にしみ込んでくださり、「まかせよ、必ず救う、親だからね」と、阿弥陀さまは、仏の子である私に「あなたの親はもうここにいるよ」と告げてくださいました。鸞の親も、光り輝く美しい姿のままでは、わが子に親であるということがわかりませんでした。そこで鸞は、悩み考え抜いた末に、自ら泥をかぶって真っ黒になることによって、子に親であるということを知らせたのでした。さらに味わうと、ヒナ鳥が真っ黒な親の姿を見て「お母さん」と言いました。一見すると、子どもが真っ黒の鳥を親だとわかって、子どもが親の名を口にしたようです。しかし、ここには、子がわかるよりも先に、子が親の名を口にするよりも先に、子にわからせた、呼ばせたのは親のはたらきです。親の苦労があったのです。今、私たちも「南無阿弥陀仏」とお念仏を口にしますが、そこには私がとなえるよりも先に、私にとなえさせようとはたらいてくださる親のご苦労が確かにあったのです。
親鸞聖人のお名前は、インドの天親菩薩の「親」と、中国の曇鸞大師の「鸞」をいただかれたことと思います。しかし、これは私の勝手な味わいですが、親鸞聖人も、どこかでこの鸞の物語を聞かれて、鸞の親鳥を阿弥陀さまと重ねて味わわれたのではないかと思うのです。そして、これからは鸞の親鳥のように生きていきたい、阿弥陀さまのお心にそうように生きていきたい。そんな想いから、鸞の親・・・親鸞・・・と名乗られたのではないかと想像をふくらませています。阿弥陀さまのお慈悲の心を聞き抜かれた聖人にとって、仏法に縁のない人々、お念仏に背を向ける人こそ、浄土真宗の伝道のめあてであったと思います。私には、親鸞聖人はお名前からも「南無阿弥陀仏」のお心を教えてくださっているように思えます。ですから私にとって聖人のお名前は、うれしく、あたたかく、そして厳しくもあり、大好きなお名前なのです。

■ご門徒と共に
気持ちだけがカラ回り
私たちの日々の暮らしには、いろんな人間関係があり、仲間がいます。職場なら同僚、学校なら同級生、地域ならご近所さん、そして家なら家族です。その中で、仲間に認められたいがために、実力以上の立派な人間に見せようとして失敗した経験、皆さんも一度はあるのではないでしょうか?私は4年前、縁あって今のお寺に後継者として入寺しました。現在、お葬式や法事、月参りなど法務のお手伝いをするかたわら、寺報の発行や日曜学校の開催など新しい活動にも取り組んでいます。近所に仏教壮年会(仏壮(ぶっそう))がものすごく盛んなお寺があります。いつもワイワイ盛り上がっていてうらやましいなぁと眺めていました。「いつかうちのお寺にも仏壮をつくりたい!」と思ってはいたものの、自分一人で立ち上げようにもなかなか第一歩が踏み出せません。そんなある日、「若さん、うちも仏壮をつくろう!」と、ご門徒のTさんから声をかけてもらいました。実はTさんも、この近所のお寺の仏壮のことをよく知っていて、私と同じ思いを抱いていたのです。それから総代のIさんも加わって3人で立ち上げに向けて準備を進め、昨年の4月にめでたく発足の日を迎えました。このように始まった仏壮ですが、「仏教を学ぶ会」と銘打って始めた例会が、なかなかうまくいきません。レジュメを作って私が懸命に説明するのですが、気持ちばかりがカラ回りして、自分でも何を言っているのかわからなくなる有り様で、僧侶としての力量のなさを痛感するばかりです。Tさんが一生懸命声をかけて集めてきてくれたご門徒にも、「だめだこりゃ」という雰囲気が漂い始め、早くも行き詰まってしまいました。
わが身を知らされる
ちょうどその頃、日曜学校では、初めての企画「もちつき大会」を予定していました。当初は自分でホームセンターへ行って道具を用意するつもりでした。でも、いざ準備を始めてみると、何をそろえたらいいのか、そもそも、もちつきの手順そのものがさっぱりわかりません。そこで仏壮の例会の時に思い切って「今度の日曜学校でもちつき大会を予定しているのですが、道具を持っている方がおられたら貸してもらえませんか?」とお願いしてみました。そうしたら、皆、快く引き受けてくださり、Tさんが先頭になって臼(うす)や杵(きね)の道具からもち米などの材料まで、すべて用意してくださいました。当日は仏教婦人会の方にもお手伝いいただいて、もち米を蒸(む)すところから、臼と杵でついて、あんこやきな粉をつけて、子どもたちに振る舞うところまで、すべて仏壮におまかせしました。大人も子どもも私も大喜びでおもちをほおばり、お寺の境内にこんなたくさんの人が集まって楽しげな雰囲気になったのは私が入寺して以来初めてのことで、胸がジーンとなったのを覚えています。
親鸞聖人は同じお念仏の教えをいただく仲間のことを、「御同行(おんどうぎょう)・御同朋(おんどうぼう)」と敬われ慶ばれました。仏壮の例会がうまくいかなかった当時を思い返すと、私のどこかに「御同行・御同朋」とはまったく逆の「教えてやろう」「自分を立派に見せてやろう」という気持ちがありました。もちつき大会を終えて、その時の自分がなんだかとっても恥ずかしくなりました。お寺の本堂は、私が教える場でも、私を立派に見せる場でもありません。私にかけられた阿弥陀さまの願いを聞かせてもらう場です。お寺の主役はご門徒です。阿弥陀さまの願いの中で皆が繋がりあう場のお手伝いをさせてもらうのが、僧侶である私の本来の役割であることに、あらためて気付かされたのでした。私のお寺の本堂は6年前に再建されたばかりです。ご門徒の大変なご苦労と願いのかかった大切な本堂です。この本堂は、阿弥陀さまの願いを聞かせてもらう場であり、わが身の愚かさを知らされる場でもあります。また同じお念仏の教えをいただく仲間が繋(つな)がりあう場でもあります。一僧侶としてわずかな力ですが、そのお手伝いをさせていただき、これからご門徒と共に未来のお寺作りを一歩一歩、進めてまいりたいと思います。

■布施の心 教えてくれた父
白エビのお土産
現在、姉妹誌「大乗」に毎月書かせていただいている「わたしの正信偈」のご縁や、中央仏教学院の通信教育などのご縁で、全国のいろんなところに行かせていただきます。卒業生のいるところでは、懐かしい再会があり、出張の一つの楽しみでもあります。出張の帰りには、ご当地の名産をお土産として買うことがあります。帰宅してお土産を渡し、うれしそうに笑顔で受け取ってくれると、こちらもうれしくなります。相手の笑顔を思い浮かべながらプレゼントをさがしているから、プレゼントを買うことが楽しみなのですね。結婚前の話ですが、富山県への出張の帰りです。予約した電車の発車時刻を気にしながら、白エビのお刺身を急いで買って、電車に飛び乗りました。連休中のせいか満席で、隣にも乗客がいたので、買ったお土産を棚に置きました。お土産をリクエストしていた母にメールを送ると、普段は味気ないメールの返信ですが、この時ばかりは絵文字満載、うれしさいっぱいのメールが返ってきました。お土産と一緒に買った缶ビールを飲んでいると、うとうとしてきて、とうとう寝てしまいました。時々目を覚ましてはいたのですが、気がつけば大阪駅に到着していました。すぐに足元のかばんを手に取り、電車を乗り換え、お寺に戻りました。そして鍵を開ける時に「アッ!」と思いました。お土産を忘れたことに気づいたのです。
忘れたらいい
お土産を楽しみにしていた母が残念そうな表情を浮かべる中、大阪駅の忘れ物預かり所に電話をすると、機械音声で営業時間外であることが告げられました。生ものなので、明朝まで待てないと思い、緊急連絡先を調べて祈るような気持ちでかけてみると、今度は人の声でした。「あぁよかった!」と、まだ見つかってもいないのに喜びながら、乗った電車の号車と座席番号を言って探してもらいました。しばらく待って返事がきました。すでに車内清掃がすんでいましたが、私の探している白エビのお土産は見当たらないとのことでした。「寝ている隙(すき)に盗られたのかなぁ?」などと、自分が忘れたことを棚に上げて、誰かを責める気持ちがわき起こってきました。母を喜ばせられなかった残念さと、モヤモヤとした思いのまま、その晩は床に入りました。翌朝、前夜の出来事を住職である父に話したところ、一言、「忘れたらいいんや、お布施ができたんや」と言われました。
すでに仏教を学び、浄土真宗のみ教えを学んでいましたから、「布施」という言葉は私も知ってはいましたが、「なるほど、そうだった」と気づかされました。布施は、誰に何を施したということを忘れてはじめて、本当の布施になるのですね。逆に、誰に何を施した、何かをしてあげた、という思いを忘れないとすれば、それは執着(しゅうじゃく)の心になるのですね。笑顔を期待していても、笑顔が返ってこなければ、モヤモヤとした心になります。布施に似た意味の言葉として、喜捨(きしゃ)という語があります。相手の笑顔を期待するのでもなく、施すことが喜びとなるということです。私が棚に忘れた白エビのお刺身は、どなたかがおいしくいただいてくれたのかなと思うことにしました。けれども、何年も経つのに、この時のことをいまだに忘れていないのは、執着の心かもしれませんね。恥ずかしいことです。この出来事は、布施・喜捨の心をそれとなく教えてくれた住職である父を、尊敬した一瞬でもあります。親鸞聖人が正嘉(しょうか)元年閏(うるう)3月3日のお手紙に「目もみえず候(そうろ)ふ」と記されたのは、85歳の時です。私の父は今年82歳になりますが、動きもスローに、声も小さくなり、頭の回転も話のスピードもゆっくりになりました。法務も充分(じゅうぶん)にできなくなってきましたが、私の到達していない年齢を生きている先輩として、まだまだ教えてもらうことがありそうです。はてさて、今年の父の日には、何を贈りましょう。

■いのちの行方
仏さまの教えにあう
私は、どこに向かっているのか? 私のいのちは、どこにいくのか? この問いが解決されない限り、人間は真に落ち着けないのではないでしょうか。
今、共に仏さまの教えを聞かせていただいているご夫婦がおられます。そのご夫婦は、平成18年、今から8年前に1歳のご長男と、今生(こんじょう)のお別れをなさいました。ご長男のお名前を丈太郎君といいます。丈太郎君は長く入院していたので、お葬式はご夫婦の意向により自宅で行われました。丈太郎君とのお別れがご法縁となり、お寺の法座にお参りされるようになりました。また、ご夫婦と私たち夫婦は年齢も近いので家族ぐるみのお付き合いとなり、時々食事も一緒にするようになりました。以前、お食事の折に奥さんが、こんな話をしてくれました。「小さい子どもを亡くした家族の集いに行ってきたんだけど、他の方々が『私の子どもは、どこにいったんだろうか?どこにいるんだろうか?』と悲しまれている中で、私は仏さまの教えに遇(あ)うことができたので・・・難しいことはわからないけど・・・丈太郎と同じところに行く!って思えてくる。そう思っている」 それから、また何回かお食事するうちに、「京都に行こう。本願寺にお参りしよう!」ということになりました。
真に落ち着く人生
平成22年9月、丈太郎君のご往生から4年後、もうひと家族と一緒に、計3家族で佐賀からご本山へ参拝しました。折角のご縁なので過去帳を持っていき、ご本山の阿弥陀堂で丈太郎君の永代経のおつとめをしていただきました。3家族みんなで手を合わせ、お焼香をしました。お参りが終わり、本山から宿泊所までの道中で奥さんが、「本願寺でおつとめしてもらって、お焼香もできてよかった!丈太郎が本願寺に私たちみんなを連れてきてくれた。丈太郎がお参りさせてくれたように思う」とおっしゃいました。丈太郎君とのつらいお別れを目の当たりにしておりましたので、奥さんからこの言葉を聞いた時、奥さんが丈太郎君とのお別れを受け止め、しっかりと人生を歩まれているように感じ、大変感動しました。今年の5月の祥月(しょうつき)命日には、例年のように私たち家族にもご案内を下さり、みんなでおつとめをし、法話を聞き、食事をしました。次の日、奥さんから妻の携帯にメールがありました。「わが子ながら丈太郎のすごさに感謝です」 祥月命日の座で、丈太郎君が仏さまとして、残された私たちを導くはたらきをされていることを喜ばれたメールの言葉でした。
これまでご紹介してきたように、このご夫婦と共に仏法を聞き、お付き合いする中で、お二人から発せられてきた言葉があります。その言葉の中に、阿弥陀如来のおこころ、おはたらきを味わいます。あらためて、阿弥陀如来がお浄土を建立され、生きとし生けるものをお浄土にむかえとろうとされる願いを頼もしく思います。共々に生まれゆく世界であるお浄土があること。今、この私をお浄土にむかえとろうという阿弥陀如来のはたらきと願いの中にあること。このことに気づかされたいのちは、今、この人生を力強く歩むことができます。このご夫婦が力強く歩まれている姿をみて、今、まさに阿弥陀如来がお二人にいきいきとはたらかれていることを感じます。丈太郎君が仏さまとして、いきいきとはたらいていることを感じます。今、私が称(とな)えた南無阿弥陀仏のお名号は、苦しみの真っただ中に生きているこの私に、阿弥陀如来がおはたらきくださっているお姿です。「われにまかせよ、必ず救う」との阿弥陀如来の私に対するよび声です。はるか昔から、無限の過去から迷い続けてきたこの私が、このたびの人生で南無阿弥陀仏のお名号に遇(あ)いました。お名号に遇いお浄土に生まれるいのちとなりました。いき先が決まることにより、苦しみの真っただ中にありながらも、真に落ち着く力強い人生を歩ませていただけるのです。

■おらは果報者
ご縁の不思議さ思う
6月5、6日、ご門徒の皆さんと一緒に「法統継承」のご縁にあおうと、富山から京都のご本山に参拝しました。5日には、第24代即如ご門主が退任される「御消息発布式」にお参りしましたが、私はただただ寂寥(せきりょう)の思いばかりで、最後に唱和した正信偈は今も心に響いています。しかし、一夜明けた翌6日の「法統継承式」では、若き第25代専如ご門主と前門さまのおそろいのお姿を拝し、これからはお二方ともどものご教導を仰ぎながらお念仏の日暮らしができるのだと、わが身の幸せを喜ぶ尊いご勝縁となりました。そもそも今回の参拝は、ご門徒のお一人が「私は前回の法統継承式(1977年)にお参りしたよ」と、37年前の思い出を話されたのがきっかけでした。そこで団体参拝を実施しようと企画したのですが、その方は都合が悪くなって行けなくなるなど、実施が危ぶまれる時もありました。しかし最後は「私をご本山に連れて行ってほしい!」というお方のひと押しで実現できたのでした。多くの皆さまのおかげにより参拝できましたことに、ご仏縁の不思議さと有り難さをあらためて感じたことでした。
心の田を耕す
ところで、私は昨年からお寺の近くに畑をお借りして耕しています。大根の種をまいたところ、おかげさまで冬には立派な大根が収穫できました。しかし、大根が立派に育つまでには、畑を貸してくださった方をはじめ、種のまき方を教えてくださったご門徒、肥料をくださった農家の方、草取りを手伝ってくださったご近所の方など、多くのご縁やおはたらきがありました。それによってはじめて成就したことだと知らされました。仏教では「心の田を耕す」と申します。お釈迦さまが托鉢(たくはつ)をされていた時のことです。ある人が「あなたも私のように田を耕しなさい」とお釈迦さまを非難しました。すると、お釈迦さまは「私も田を耕している」とお答えになりました。つまり、さとりに至る真実の法を人々に説くことこそが「田を耕す」ことであり、そこで収穫されるのは「さとり」の境地なのです。お釈迦さまの「田を耕す」というのは、すなわち人々の「心の田を耕す」ということだったのでしょう。
私がお育てをいただいたご門徒のおばあちゃんで、一昨年に九十代半ばでご往生された方がいらっしゃいました。おばあちゃんは、とても口数の少ない方でしたが、ある日、毎月のお参りに伺った時、「若はん、私は人間に生まれたことを喜んでおります」と1回だけ言われたことが印象に残っています。そして亡くなる数日前には、息子さんに「おらみたいな果報者はおらん」と言い残されていたそうです。おばあちゃんは若い時から、おしゅうとめさんと一緒に、いつもお寺で聴聞されていたそうです。私が布教使になって法話をするようになってからも、いつも一番前に座ってお話を聞いておられました。蓮如上人は「ただ仏法は聴聞にきはまる」とおっしゃいました。おばあちゃんは若い時から聴聞を重ね、阿弥陀さまのみ教えによって、心の田が耕されたのでしょう。そして、「人間に生まれてよかった!」「お聴聞ができてありがたい」「お念仏の日々を送る私は、本当に果報者!」と、ご仏縁を心から喜ぶ身となられたのでしょう。ご本山で「法統継承式」が営まれましたことは、まさにお念仏のみ教えが次代に確かに受け継がれていくことにほかなりません。私も、おばあちゃんからいただいたお育てを忘れることなく、「布教を志すものこそ、まず聞法に励まねば」という恩師の言葉を肝に銘じつつ、お念仏の日暮らしを喜ばせていただき、み教えを次代へ伝えてまいりたいと思います。

■まことに包まれて
隠した本音が背中に
「まんまんまん、あっ」 2歳の子がお仏壇の前でお念仏を称えます。一方で、ご法事のとき、合掌しつつもなかなかお念仏が出ない人もいらっしゃいます。いま、私たちがお念仏を称える身としていただいたのは、実はとても大きな出来事です。それは、親鸞聖人が「誠(まこと)なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)」、「念仏のみぞまことにておはします」とお示しのように、「真実の言葉」「まこと」がわが身に至りとどくということだからです。「真実」「まこと」は、いつ、いかなるときも真実でなければ真実とはいえません。いまの私の目に真実と映った事柄でも、時を経て真実でなくなってしまうものは「虚仮(こけ)」「いつわり」です。父親のNさんは、高校生の息子さんとの距離感について難しさを感じています。今年になって意見の衝突が多くなってきました。そしてある日、口論はつかみ合いに発展し、はたして体力で勝る息子さんに圧倒されました。馬乗りになった息子さんが、しかし泣きじゃくりながら、「結局、父さんはいつもカネと世間体だけじゃないか!」と訴えたのでした。Nさんには大変堪(こた)えました。この日に至るまで、父子の意見が対立したときには、「家庭のためだ」「おまえのためだ」と息子さんに言い聞かせてきました。Nさんの努力のおかげで、一家が豊かな生活を送っているのは一面で事実です。ですが、同じ家に暮らす息子さんにとっては、父親の面と向かって諭す時間より、背中を見ている時間の方がはるかに長かったのです。詳しい事情は知り得ませんが、先の息子さんのセリフは私にも迫ってきます。私たちはひょっとして、隠しているつもりの本音を、背中から後ろに漏らしつつ暮らしているのかもしれません。前に向かって空虚な正論をかざしながら・・・。
薬をのめばなおる?
先ほどの「念仏のみぞまこと」の言葉の直前には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」とありました。しかし、まことなき虚仮の私が、虚仮(こけ)のまま放っておかれるなら、真実がはたらいていないことになります。虚仮を真実ならしめるものこそ真実です。まことが私に来たって私の虚妄(こもう)が破られる、それが南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)のまことです。真実はお名号となり届いてくださいました。
南無阿弥陀仏の名号はわずか六文字ですが、「この六字の名号のうちには無上甚深(じんじん)の功徳利益(くどくりやく)の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」と蓮如上人は「御文章」でおっしゃっています。仏さまのまことのすべてが込められているのです。絶大な効能をもつ薬も、一口で飲める錠剤としてつくられるように、お名号はほかの行(ぎょう)に勝(すぐ)れていて、なおたもちやすく称えやすく仕上げられています。
妙好人(みょうこうにん)の浅原才市同行(あさはらさいちどうぎょう)は、「さいちが病気はなむあみだぶをのみこめばなおるかいやそんならどうすればなおるかへさいちが病気はなむあみだぶつさまにのみこまれるでなおるであります」 と詠(よ)んでおられます。
その称えやすさから、お名号は一粒の丸薬を飲むかのように思いましたが、実は広大なまことに私のほうが丸のみされている事態だったのです。自分で称えているつもりが、称えるほどに、まことに包まれていたことが知られて、いっそうありがたくうれしいのです。また蓮如上人は「衆生(しゅじょう)をしつらひたまふ。『しつらふ』といふは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御(おん)くはへ候ひて、よくめされ候ふ」とお述べです。阿弥陀さまは私たちのあさましい心をそのままに、真実の心をお与えくださるのです。だからこそ、まことに成り変わるべく頑張らなくても、いいえ、頑張れずにいるこの虚仮の私の安心となるのです。

■さとりの必然
阿弥陀さまの御前(おんまえ)に
お寺の本堂にお参りすると、いつもと随分ちがった雰囲気に包まれます。広いお堂、きれいなお内陣、お優しい顔つきのお仏像・・・・・・。それだけが要因ではありません。一番大きな要因は、本堂の中心にいらっしゃいます仏さまが、本当にこの私のことを全部ご存知で、必ず救うと、いま・ここで・この私にはたらきかけてくださっているからです。浄土真宗のご本尊、阿弥陀さまは、さとりそのものが現れてくださった仏さまだと、親鸞聖人は明らかにしてくださいました。このさとりのことを「無分別智(むふんべつち)」ともいいます。とても難しい言葉ですが、簡単に意味を窺(うかが)うと「あらゆる物事を分け隔てせず、ありとあらゆる物事を自分と一つの如(ごと)くに見ていく心を開く」ということだそうです。いまだにさとりの一分(いちぶ)でも開いていない私たちには、想像がつかない話ですね。でも、これはとっても大事なポイントなんです。
みなさんは足の向こうずねを、コツンと打ったことはありませんか?俗に「弁慶の泣き所」などといわれています。ちょっと打っただけでも涙がでるほど痛いのが向こうずねです。おっちょこちょいの私は、時々、この向こうずねをゴツンと打つことがあります。もう打った瞬間に「あ、痛っ」と、思わず打った向こうずねを押さえてうずくまります。よく見て、落ち着いて、ちゃんと歩いていれば向こうずねなど打つはずもありません。なのによくぶつけるんです。かわいい娘が同じように向こうずねをぶつけたら、どうでしょう。私は愛情たっぷりの父親だと自負しています。娘がどれほど痛いかも、自分の経験でよく知っています。ですから、「大丈夫か?血はでてないか?ケガしていないか?」「今のは痛かったろうに・・・」と心の底から心配します。でも、私の向こうずねは痛くないのです。どれほど愛情があっても、親子であっても、親と娘と分け隔てして、とらまえることしかできないのが私たちです。
仏さまは違います。自と他を一つの如くに見る無分別智を開いていらっしゃるのです。私がいろいろなことで苦しみや痛み、悲しみや寂しさにさいなまれることがあります。この私の痛みを、仏さまは自らの痛みとするのです。自らの痛みとするなら、当然その痛みを何とかして取り除こうとするのです。そうです。無分別智といわれる自他一如(じたいちにょ)のさとりを開いた仏さまは、私の苦悩を自らの苦悩として、その苦悩を取り除こうと、いま・ここで・この私にはたらきかけてくださっているのです。それがさとりの必然です。
ご一緒してくださる私
私たちは今、いろいろな状況のなか、一人ひとりがそれぞれの現場を抱えて生きています。他者には解ってもらえない苦しみや痛み、寂しさや孤独感を感じながら生きています。愛情たっぷりの親子でも、お互いの心を完全にわかりあえることはありません。誰も私の心の奥深くまで知ってくれる人はいないのです。いわば私たちは多くの人と一緒にいても、全くの孤独を感じることがあるのです。無分別智といわれる他者を自己と一つの如くする仏さまは、誰にもわかってもらえない私の心の奥底までを自分のこととしてくださって、そんなあなたをそのままにしてはおけない、その苦悩の本(もと)をぬぐいさろうと、いま・ここで、はたらきかけてくださっているのです。私たちが単純に「見守る」「寄り添う」などと言っている程度のことではなかったのです。
阿弥陀さまという仏さまは、いま・ここで・この私とご一緒となってくださって、この私を支えてくださっているのです。本堂にお参りして、阿弥陀さまの御前に座ると、自然と頭が下がります。それは、いま・ここで・この私に「あなたのことはすべて私のこと、そんなあなたを必ず救う。安心しなさい」と阿弥陀さまが届いてくださっているからでした。 
 

 

■母のお弁当
売店で何か買うから
教区の子どもたちと本願寺に参拝した時のことです。お昼に、持参したお弁当を車座になって食べました。子どもたちに話しかけながら、私が順に見回っていると、「うわ、ピーマン入っとる。いらんって言ったのに」と、男の子がスパゲティを指さしながら言います。その隣で別の子が、ピラフの中からグリンピースだけを黙々と取り除いています。「サンドイッチがよかったのに」と言いながらおにぎりをほおばる子、注文したものが入ってないと文句を言う子・・・・・・親御(おやご)さんの苦労にただただ同情します。そんな時、自分が母のお弁当を食べていた時のことを思い返しました。小学生の頃、野球の練習で持たせてもらったお弁当。空になったお弁当箱を自慢気に母に見せていました。中学になると、友達のお弁当と見比べるようになり、思春期の恥ずかしさからか、隠すように食べていた気がします。高校に入ると給食がないため、毎日お弁当が必要になりました。母は忙しい中で家族の朝食を準備しつつ、毎朝私のお弁当を作ってくれました。けれども私はというと、周りの友人の影響もあってか、日に日に母のお弁当を食べるのが嫌になり、毎度同じ食材を残したり、時にはほとんど手を付けずに持ち帰ったこともありました。無言で茶の間に返したお弁当箱を、母はどんな顔で洗っていたのでしょうか。そしてどんな思いで次の日のお弁当を作っていたのでしょうか。ある日、「もうお弁当いらんで、売店で何か買うからいいわ」と母に言いました。母は何も言わず少しうなずき、次の日からは昼食代を私に持たせました。その時の私は、これで自分の好きな物が食べられると喜ぶだけでなく、母の手間を省いてやったとさえ思っていました。
命の原動力
昼食代は次第に私のお小遣いの一部と化し、何か欲しい物があるとお金を貯めるため、飲み物だけで昼を乗り切ることも多々ありました。母はそのことを知ってか知らずか、いつの日からか昼食代と共におにぎりを添えて渡すようになりました。断る私を制して母は「持って行きなさい。食べんかったらそれでいいし」と言い、かばんにおにぎりを詰め込みました。当時の私は、そのおにぎりに頼ることもありましたが、母のお節介としか受け取れませんでした。そのおにぎりに込められた親心を知らされたのは数年後、ご門徒さんのご法事での会食の席でした。給食がない時代、幼い頃に母親に持たされたおにぎりや芋(いも)を思い出して、「お母(かあ)のあれはうまかったなぁ」と互いに懐かしむご兄弟。学校までの遠い道のりを歩く毎日、母親のお弁当だけが原動力だったと言い切られました。物不足の時代にもかかわらず、子どもの成長だけを願って母がこしらえたお弁当・・・。「どこにいようがお前たちを思っているよ」という母心が、家では手料理として、外ではお弁当として子に届けられる。子はそのご飯を食べ、お腹(なか)におさめる。そして肉や血となり、子をたくましくさせる。単に空腹を満たすための食料ではなく、苦労をいとわない母の親心だとわかっていたから、このご兄弟は何十年経とうと忘れず、味を思い出すことができ、うれしかったと言えるのでしょう。
考えてみますと、私が聞かせていただいている南無阿弥陀仏の名号もまた、「どこにいようともいつでもあなたを思っているよ。安心しなさい」という阿弥陀さまの本願が込められた喚び声です。南無阿弥陀仏はわずか六字の言葉です。しかしその六字には、私を思ってくださる親心やご苦労が満ち満ちていると知れば、六字の名号の称えやすさや忘れにくさは自ずと有り難みと強みとして感じられるのではないでしょうか。母のお弁当には親心のすべてがそこに詰まっており、渡されたおにぎりは「あなたを思っている母がここにいる」と、欲に迷う私に知らせるためだったのでしょう。お念仏を称えるたびに「そばにいるからね」と親心を感じられる喜びが、私に安心を与えてくださり、命の原動力として心身に染みついていくことが「お念仏を味わう」ことなのでしょう。

■原爆を知らない人たちに
爆心280メートルで被爆
8月6日、ヒロシマは69回目の朝を迎えました。私は爆心から280メートルの勤務先で被爆しました。19歳でした。奇跡的に一命は取り留めましたが、骨髄性異形症候群という難病のため、新しい血液があまり作れず、いま生きているのが不思議なくらいです。あの時、即死された多くの遺体を見て私も覚悟しましたが、おかげさまで生かしていただいています。しかし、何も知らず、何も言えずに亡くなった多くの人たちがいます。どうか、二度と戦争のない平和な世の中を築いていってほしいと思います。今からもう40年ほど前、私がつくりました次の詩を、NHKで朗読したことがありました。
「原爆を知らない 幼い人たちに」
その時昭和20年8月6日 午前8時15分 とてもよく晴れた朝でした 赤ちゃんのミルクをつくっていたお母さん 植木に水をやっていたおじいさん 仏さまにお花をあげていたおばあさん ごはんを食べていた坊や 会社に出てこれから仕事をしようとしていたお父さん そして仕事にゆくために道を歩いていたたくさんの人 みんな死んだのです
原爆を落とされることなど何も知らないで いつものように用事をしていたのに 突然「ピカッ」と光って 「アッ」と気がつくまもなく 家の中にいた人は家ごと押しつぶされ 道を歩いていた人は吹き飛ばされ 顔も手も足もからだ中 ヤケドをして広島中の人がみなヤラれてしまったのです たったひとつの原爆で
その時死んだ人 百人?いいえ千人?いいえ一万人?  いいえもっともっとたくさんの人 かぞえきれないほどの人が なんにも言えないで なんにも知らないで 死んでしまったのです ほかの人も大ヤケドをしました大ケガもしました 投げ出されておなかのやぶれた人 背中の骨が折れてしまった人 からだ中にガラスのつきささった人 服などだれも着ていません 焼けてちぎれてなくなったのです
原爆が落ちてすぐ火事になりました 広島中が火事です どこからどこへにげたらよいのかわかりません それでもにげなければにげなければ みんなハダシです 燃えている火の道 われたガラスの上 つぶれた屋根の上 遠く広い火の海を怒りと 悲しみの涙を流しながら 阿修羅のように髪をさか立てて走りました ケガをしている人の血が流れました ヤケドをしている人の皮がはがれブラブラになりました 火の竜巻が吹き荒れました 30センチぐらいの火の塊が なん百なん千と 旋風となって吹き寄せました 火に囲まれて息をするのも苦しく煙のために目もよく見えません
私たちはどうなる? ケガをしながらヤケドをしながら生きていた人たち 声の限りさけびました 「たすけて、たすけて」 道を歩いていて死んだ人の指が燃えました 青い炎を出してボロボロ燃えました 指は短くなり うす墨色をした液体が手のひらを伝わって流れ 地面に落ちました あの指はだれの指だったのでしょう 30年近く経過した今もなお あの青い炎の色を思いだすとき 私は深い悲しみで 胸がいっぱいになります

■川の流れのように
初めての出あい
本願寺派のお寺がなかった愛知県刈谷市で布教所を開き、都市開教専従員として法務に勤(いそ)しんでいます。都市開教における法務の特徴を一つ挙(あ)げますと、「初めての出会いがその方の葬儀」ということでしょうか。長崎県の地方都市で法務をしていた頃、寺院周辺の家庭のほとんどは本願寺派のご門徒で、それぞれの家庭で亡くなる方がおられたら、顔見知りであるのが当たり前のことでした。顔見知りのお宅へ臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)に訪れ、顔見知りの葬儀社のスタッフと打ち合わせをして、顔見知りのご遺族と故人の思い出を語り合うのが常でした。長く門徒総代を務めていた方が亡くなられた時、臨終勤行に参らせていただきました。ご遺族と一緒に読経をさせていただきながら、報恩講やお彼岸の荘厳(しょうごん)(お飾(かざ)り)を一緒にしたことを思い出すと涙がこぼれて止まらず、困った覚えがあります。おつとめを終えてご遺族やご近所の皆さんの方へ向き直ると、故人の長男さんが同様に涙をこぼしながらバツが悪そうに笑っておられました。「家での親父は頑固でうるさいばかりで、お坊さんが泣いて惜しんでくれるような男でしたかなぁ・・・」 僧侶が泣いてしまうのはいかがかと思いますが、忘れ難い記憶として大切にしています。私の命が尽きるまで、何度も思い返すことでしょう。お寺とそれを護持されるご門徒が、代々にわたって関係性を築いてきたからこそ、故人お一人おひとりの話題やご遺族との絆が育まれていくのでしょう。ところが、私が都市開教を行う愛知県下、特に都市部においては事情が異なります。本願寺派の盛んな地域、北陸・中国・九州地方などから炭鉱の閉鎖、農業・漁業環境の変化、集団就職など、さまざまな事情で東海地区に移住し、就職、結婚して家を構えて、いざ法事や葬儀を営むという時、本願寺派の寺院を探してくださる方々と出会うことになります。
みな同じ塩味に
葬儀に際し、初めてお会いする故人は既に棺(ひつぎ)の中におられます。初めて会うご遺族からは、法名をおつけするために故人のエピソードを聞かせていただきます。出身地域が親しみのある場所であったりすると、葬儀の取り持つご縁の不思議を思わずにはいられません。そして、本願寺派の僧侶として、何を一番にお伝えするべきかを考える時、正信偈の一節が浮かびます。
「凡聖(ぼんしょう)・逆謗(ぎゃくしょう)斉(ひと)しく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅすい)海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし」 「凡夫(ぼんぶ)も聖者(しょうじゃ)も、五逆(ごぎゃく)のものも謗法(ほうぼう)のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」
川の流れは古くから人生にたとえられてきましたが、その長さは生きた時間でしょうか。その人の人生をその人が生き抜いたのだから、他の誰かが勝手な物差しで優劣を決めるなどおこがましいとわかっているはずなのに、私たちは平均寿命などの物差しに振り回されて、勝手に悲しみを増しているのかもしれません。川の広さは人生の豊かさでしょうか。経済的な豊かさ、交友関係の範囲。自分が選んだ末の人生であるにもかかわらず、隣の芝生の青さが気になって、感じなくてもいい不平や不満を感じているのかもしれません。川のあり様は生き様でしょうか。清らかにありたいと願いながらも、思いのままに生きられない人生、心ならずも傷つけたり傷つけられたり、憎(うら)んだり妬(ねた)んだり、気付いたら取り返しがつかないほどに濁ってしまった自らの姿にため息をつくのでしょうか。しかし、流れ込んでくる川の水を一切分け隔てすることなく、自らの中に摂(おさ)め取り、ついには自らと同じ塩味一味(しおあじいちみ)に調(ととの)えていく海のはたらきは、まるで阿弥陀さまのようだ、と示されているのです。この正信偈の一節があればこそ、私たちが浄土に生まれることはお慈悲のはたらきによるのだから、何の心配も疑いもありません、とお伝えすることができます。 旧知でもそうでなくても、地方でも都市部でも、私たちの都合を問題としない心強いお慈悲のはたらきの中、安心して今日も法務に励んでいます。

■「開講偈」のこころ
命がけで仏法を
「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法(ほう)は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遇(あ)い値(お)うこと難(かた)し。我今(われいま)見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得(え)たり。願(ねが)わくは如来(にょらい)の真実義(しんじつぎ)を解(げ)したてまつらん」 毎週火曜日、私は京都の中央仏教学院に出講しています。学院の教室では毎朝第1講時の開始前に、講師・学生全員が起立合掌してこの言葉を唱和します。「開講偈(かいこうのげ)」と呼ばれています。遇い難き仏法に出遇えたことをよろこび、命がけで仏法を学ぶ決意を表明する言葉です。布袍・輪袈裟(ふほう・わげさ)に身を包み、「開講偈」を唱える学生たちの姿に初めて接したとき、私は背中を打たれたような衝撃を感じました。多くは大学を卒業した後、自坊の住職になるために入学された方々ですが、中には定年退職後の人生の依りどころを求めて来られた方、ご住職を亡くされ法灯(ほうとう)を守るために来られた坊守さまや中学を卒業したばかりの若い寺院後継者、さまざまな事情を抱え仏法に救いを求めに来られた方もいらっしゃいます。命がけで仏法を学ぶ人たちに、私は命をかけて講義ができているだろうかと、ふと思うことがあります。源信僧都(げんしんそうず)の『往生要集』に、逃げ遅れたキツネの話が紹介されています。人道無常(にんどうむじょう)の相を説く一段に、死苦の恐ろしさを知らせるために提示された譬え話です。源信僧都はその文を天台大師の『摩訶止観(まかしかん)』から引用されていますが、キツネの譬喩は、もとは『大智度論(だいちどろん)』に説かれたものです。 物語風にご紹介しましょう。
まだまだ大丈夫
森に一匹のキツネがいました。ライオンやヒョウの食べ残しをもらって、何とか命をつないでいました。しかし、その日は獲物がありませんでした。おなかがすいてたまらず、真夜中に城壁を越えて町に入り、長者の家に忍び込みました。台所をあさりましたが、肉を見つけられず、とうとう力尽きて戸棚のかげで眠ってしまいました。朝になって気付いた時には、たくさんの人間に取り囲まれていました。逃げ切れないと判断し、そのまま死んだふりをして様子を見ることにしました。ある男が、「おれはこいつの耳をもらおう」と言って切り取りました。キツネは思いました。「耳は痛いけれど、身体(からだ)はまだ大丈夫だ。もう少しじっとしていよう」 次に別の男が、「おれは尾っぽをもらうぞ」と言って持ち去りました。「尾っぽは痛いけれど、これくらいなら我慢できる」 キツネの心にはまだ余裕がありました。「おれは牙(きば)をいただこう」という声を聞き、キツネは考えました。「どんどん持って行きやがる。もし首を取られたらおしまいだ」??そう思った瞬間、キツネは恐怖に襲われて跳び上がり、すべての知恵を傾けて最短の逃げ道を求め、一目散に走って難をのがれました。
手遅れにならぬよう
キツネは、死に直面してはじめて「命がけ」の姿勢をとることができました。もう少し早く行動を起こしていれば傷つかずにすんだのに・・・・・・。私はどうでしょう。「ご催促」はすでに何度かあったような気がします。でもまだ大丈夫と高をくくっています。源信僧都は次のようにもおっしゃっています。
「無限の生死(しょうじ)の中で、人間に生まれることは極めて難しい。たとえ人間に生まれても、仏の教えに出遇(あ)うことは難しく、たとえ仏の教えに出遇えても、信心をいただくのは希有(けう)のことである。ところが今、われらは幸いにも仏法を聞くためのすべての条件に恵まれた。娑婆(しゃば)に訣別(けつべつ)し、浄土に往生できる機会は、今この時をおいてほかにない。なのにいつになっても欲望はなくならない。臨終の時、猛炎の中に堕(お)ちながら助けを求めても、もはやどうにもならない。どうか一刻もはやく、さとりへの道を歩み始めていただきたい。宝の山に入りながら、手ぶらで帰ってくるような、愚かな生き方をしてはならない」(一部要約)
手遅れにならないうちに、居眠りのような人生をそろそろ何とかしなければ、と思っているところです。

■「大悲」のこころ
深い悲しみに...
私が住んでいる広島は今、深い悲しみに覆われています。8月20日未明に襲った土砂災害。多くの方が犠牲になり、家を失った被災者の方々は、現在も不安な生活を強いられています。そうした中、知り合いの若手僧侶たちは、土砂の撤去作業のボランティアをはじめました。尊い行いだと思います。
阿弥陀さまはお誓いになりました。「あなたを浄土に生まれさせたら、その身体や心に不思議なはたらき(神通(じんずう))を得させ、迷いの衆生を自在に救えるようにしよう」 『無量寿経』に説かれる阿弥陀さまの四十八願の第五願からは、このような誓願(せいがん)が説かれています。例えば、天眼通(てんげんつう)=あらゆる苦悩のいのちを見落とさない眼の力。天耳通(てんにつう)=あらゆる苦悩のうめき声を聞きもらさない耳の力。他心通(たしんつう)=あらゆる苦悩の心のうちを知り尽くす力。神足通(じんそくつう)=苦しむいのちのもとへ、自在に飛んでゆける足の力・・・。
詩人・宮澤賢治は、岩手の農民たちの窮状を、「ジブンヲカンジョウ(=勘定)ニ入レズニヨクミキキ(=見聞き)シワカリ(=解り)ソシテワスレズ」にいられる、眼や耳や心を欲しました(雨ニモマケズ)。「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・」と、苦しみ悩む人々のもとへ、ひとっ飛びに飛んでいける足を欲しました。
あなたの苦しみが私の苦しみ。何とかその苦しみを和らげ、安らぎを与えたい・・・。そんな「慈悲」の願いに生きてこそ、「真実に生きた」と言えるのでしょう。けれども、私たちの眼や耳や足には、限界があります。
共にお念仏申す
時間がたつにつれ、全国ニュースで広島の土砂災害のことが報じられる度合いが少なくなっていくのを見て、ある布教使の先生の厳しい言葉を思い出しました。「見たくないもの、聞きたくないものは、見ない、聞かない。私たちは『他人事』をつくりながら生きています」 私も、自分の家族や友人が、よその人より大切なのです。その意味では、私はこの3年間、東日本大震災を「他人事」として生きてきたのでした。自分の家族を養っていく日々の営みの方が大事だったから・・・。どれほど被災者に同情しようとも、「『自分』を勘定に入れ」、いのちにランクをつけて生きるほかない私たちの「慈悲」は、範囲の限られた「小さな慈悲」でしかないのでしょう・・・。
親鸞聖人は、「自分に人を救う力があるなどと、思い上がってはならない」という自戒を、常に持っておられました。晩年には、長男・善鸞さまを義絶することになりましたが、自分には、わが家族を救う「小さな慈悲」すらないと、おのれの無力をかみしめられたのではないでしょうか。けれども、そのように無力な私たちこそ、阿弥陀さまの「大悲」の願いの現場です。
「仏心とは大慈悲これなり」 「大悲」とは、『他人事を持たない心』のことです。阿弥陀さまには「自分と関係のないいのち」など存在しません。土砂に流され亡くなった人々のいのち。大切な家族を一瞬にして奪われた遺族の悲しみ。今も不自由な生活を送る被災者の不安。救助・復旧作業にあたる人々の辛労・・・・・・。すべてのいのちを隔てなく包み、一人一人の苦悩の人生に無上の尊厳を与え、いのち終えたら、無力な私たちを、阿弥陀さまと同じように、自在に人々を救える「大悲」のはたらきに転じてくださる真実の言葉が、「なもあみだぶつ」でした。予想だにしない悲しみに見舞われる世界が、この娑婆(しゃば)です。突然やってくる災難の前に立ちすくみ、おろおろと涙するほかないのが、私たち凡夫(ぼんぶ)です。けれども、この悲しみの大地にこそ、阿弥陀さまの声は響きわたっています。私には、人を救う力などない。でも、みんなで一緒に、阿弥陀さまに救われていくことはできます。真宗門徒はそのように、共になもあみだぶつを仰いで苦難を乗り越えてきました。今この苦難の中で、共々にお念仏を申したいと思います。

■ともに会える世界
ひざの上が定位置に
大切な人を失うと、いくら時間が経っても、遺(のこ)された家族には悲しみや苦しみが大きくのしかかってきます。人生は喜びや楽しみよりも、苦しみや悲しみに直面することの方が多いのではないでしょうか。お釈迦さまの説かれた教えに「四苦八苦」があります。その中に、愛するものと別れる苦しみ「愛別離苦(あいべつりく)」があります。親鸞聖人の尊敬された七高僧のお一人・中国の善導(ぜんどう)大師も「五苦(ごく)」と顕(あらわ)され、第三代覚如上人の『口伝鈔(くでんしょう)』には、「愛別離苦、これもつとも切なり」と記され、愛するものと別れる苦しみは、さまざまな苦しみの中でも特にきびしいものであると示されています。私自身も、愛する者と別れる苦しみを経験しました。それは母方の祖母との別れでした。祖母は大柄で、いつも笑顔で、優しく、温かい人でした。私が祖父母の家で両親に怒られると、泣いたり怒ったりした私を、祖母はいつも慰めてくれました。ですので、心安らげた祖母の膝(ひざ)の上がいつも定位置となりました。祖母とは、学校の休みごとにしか会わなかったのですが、いつも、どんな時でも「ナンマンダブナンマンダブ」と称えていたそうです。
共にお念仏申す
そんな祖母は、毎日決まって夕方の5時になると、祖父と共に仏間で正信偈をおつとめしていました。そして、おつとめが終わったあとも、一人でお念仏を称えていたことを今でも覚えています。そんな祖母が、体調を崩したのは10年ほど前のことでした。糖尿病になり、目が見えなくなりました。次々に病気にかかり、大柄だった身体もとても小さくなっていきました。そして、私が中央仏教学院の研究科で学んでいた時のことです。身体が弱りきった祖母を、私のお寺に移して看病することになり、私と母が交互に面倒を見ました。祖母は認知症にもなって、話もなかなか通じず、私のこともわかっているかどうかというほどでした。そして、ある夜のことでした。あまり口も開かなくなり、私たち家族も「もうあかんかも・・・」と考えるようになっていきました。すると、寝たきりの祖母が、お腹のあたりで手を合わせているのです。祖母の口元に耳を近づけると、小さな声が聞こえてきました。それは、「ナンマンダブナンマンダブ・・・」とお念仏を申していたのです。祖母は、最後まで阿弥陀さまに、すべてをおまかせしていたのでしょう。その後すぐ、いつも私を慰め、かばってくれ、温かく見守ってくれた大切だった祖母を失いました。そして、私は愛するものと別れる苦しみに苛(さいな)まれる日々を過ごしました。
「かくのごときのゥ上善人(しょじょうぜんにん)とともに一処(いっしょ)に会(え)することを得(う)ればなり」 そんな私に『阿弥陀経』のこのお言葉が響いています。「死に別れていくだけじゃない。再び会える世界がある」と釈尊がお説きくださっているのです。今生(こんじょう)の世界では別れてしまいましたが、共にお念仏申す私たちには、再び会わせていただく世界があるのです。今生の世界では、別れて、再び言葉を交わしたりすることはできませんが、ナンマンダブのお念仏の中で出会わせていただけるのだと知らされます。亡くなった祖母も阿弥陀如来のゆるぎないお慈悲の中にあり、私もまた同じお慈悲の中にあり、そこに生かされている私たちは、お浄土で再び会わせていただくことが約束されています。私がこうして祖母のことをお話しさせていただいていることによって、お浄土に仏となって生まれた祖母が、私に「南無阿弥陀仏」とよびかけてはたらきかけてくれているように感じています。それを、祖母の姿を通して知らされました。これからは、私にとって大切だった故人の生き方を偲ぶ中で、再び会わせていただける世界があるという思いを深めて、共にお念仏の道を歩んでまいりたいと思います。

■あなたにだけ
阿弥陀さまを大事に
「あなたにだけあげる」 心に残っているお同行(どうぎょう)の言葉です。小学校低学年の頃の私は、自坊でお座があるのを待ちに待っていました。いつもご法座があると、私の好きなお菓子を袋に入れてお参りに来られるT子さんというお同行がいたからです。T子さんはお寺にお参りになられると、本堂にあがる前に必ず家の玄関に来られます。そのT子さんの声が聞こえると、お菓子欲しさに一目散に走っていく私がいました。私の姿を見つけると、ニコニコしながらおいでおいでと呼んでくれます。「これ、あなたにだけあげる」 と言ってお菓子の入った袋をカバンから取り出すのです。その袋を受け取ると同時に、T子さんは私の手をパッと握ってきます。袋の中身をすぐに見たい私がその手を振り払おうとすると、今度は両手でギュッと握って離してくれません。「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」 T子さんの顔を見ると、ドキッとするような優しくも真剣な表情が私へ向けられているのです。「うん、わかった」と応えるまで握り続けるその手の温もりは今も心に残っています。
ただひたすらに
昨年の10月のことでした。富山のお寺に嫁いでいる姉のご縁で、報恩講のご法話によせていただいた時のことです。いつもお念仏をよろこんでおられたT子さんの話になったのです。「T子さんかあ。懐かしいなあ。いつも明るくて、ニコニコしてたおばあちゃんで・・・。そういえば、お寺に来られたらいつもお菓子くれてたよね」 「あれ??」と私は一瞬思いました。私にだけあげると言っていたはずでは?と思ったのです。家に帰ってからもう一人の姉にT子さんのことを聞いてみると、「そうやねえ・・・。三人それぞれに、袋に入れたお菓子を同じようにくれてたよ」と言うのです。そして同じくT子さんのことを懐かしいなあと話していました。二人の姉と話をしているうちに、T子さんは「あなたにだけ」とはっきり言っておられたのではないのかもしれないと思い始めました。「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」と、私へ向けられた優しくも真剣な表情と、あの心に残っている手の温もりがお菓子の思い出と重なって私の中に生き続け、いつしか「私にだけ」という受け止めになったのではないかと思います。「私にだけ」と受け止められるほど、ただひたすらに私に向けられた思い。それは同じように、二人の姉へも分けへだてなく向けられていたからこそ、それぞれの思い出の中に「懐かしいなあ」と同じように今も生きているのです。
お寺に生まれ、お寺で育てていただいたご縁の中での話となりましたが、皆さまはどのような「であい」をお持ちでしょうか。生活の中にお念仏と共に歩まれた方々が、私たちに残してくださった思い出は、大切なものだとあらためて感じました。このお菓子の思い出が私を育て、南無阿弥陀仏に出遇(あ)わせていただく機縁の一つとなったのだと思います。
親鸞聖人は、「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」 と、ご述懐なさっておられたと『歎異抄』後序(ごじょ)に記されています。この「ひとへに」とは「ただひたすらに」という意味です。阿弥陀如来さまの願いが「私のために」と受け止められるほど、ただひたすらに私へ向けられているのです。そしてその願いは、ただひたすらに私へ向けられているように、分けへだてなくすべての一人ひとりに同じく届けられているのです。南無阿弥陀仏に出遇い、そのよろこびを伝えずにはおれない思いをお菓子に込めて、私に届けてくださったT子さんのように、お念仏をよろこんでおられるお方が身近にいてくださった。阿弥陀如来さまの五劫思惟のご苦労が、そのお姿を通して聞こえてくる、得難いお育てをいただいているのです。

■阿弥陀さまの眼差(まなざ)し
親子で猛特訓
「這(は)えば立て立てば歩めの親心」。子の成長を目を細めてあたたかく見守っているやさしい親心が表されています。しかし、あるご法話で、「這えば立て立てば歩めの親のエゴ」と聞かせていただいたことで、少し見方がかわりました。息子の入園式を前に、先生から「お子さんのお名前を呼びますので、呼ばれた人はハイと大きな返事をして立ち上がってくださいね」と言われました。早速、家で猛特訓が始まりました。「先生に呼ばれたらどうすんの?」 「知らん」 「違うやろ。はーいって大きな返事するんやろ。よし、練習や。藤本慶哉くん」 「・・・」 「慶哉くん」 「・・・はい・・・」 「よっしゃー、やればできる。返事したらどうすんの」 「知らん」 「立つんやろ」 まぁ、そんなやり取りで特訓した結果、なんとかできるようになったのです。
さて、入園式当日。先生が名前を呼び始めました。「はい」と力強く返事をして、すくっと立つお子さんがおられます。すると保護者の方でしょうか。「よくやった。えらい」と大きな声をあげて会場に響き渡るような拍手。一方で、恥ずかしそうにもじもじして返事ができないお子さんがいらっしゃいます。「もーうちの子は・・・」と恥ずかしそうにしている親御(おやご)さん。いよいよ息子の番です。「藤本慶哉くん・・・・・・藤本慶哉くーん・・・・・・」 わが子は何をしているかといえば、椅子に後ろ向きに座って、先生にお尻をむけ、そ知らぬ顔ですましています。「あーやりよった。あれだけ練習したのに」 私は恥ずかしくなって、悔しくなって、帰ったら怒ってやろうと思いました。
お念仏をいただく
入園式も終盤にさしかかった頃、PTA会長さんの挨拶がありました。 「今日は元気よく返事できたお子さんもいらっしゃいます。まったく返事ができなかったお子さんもいらっしゃいます。実は私の子どもも返事ができませんでした。でも私は、それがわが子が精いっぱい頑張っている姿だと思いました。だから返事ができたお子さんの親御さんも返事ができなかったお子さんの親御さんも、まずはしっかり抱きしめて、よく頑張ったねとほめてあげてくださいね」 私はこの言葉がガツンと響きました。勝った負けたで計らない、私の精いっぱいをそのまましっかりと受け止めてくださる、阿弥陀さまの眼差(まなざ)しを味わいました。と同時に「わが子のため」との思いが、気付かない間に「私に恥をかかすな」という、私のエゴにすり替わっていた自分に気付かされ、大変恥ずかしい思いでした。家に帰ったわが子に「よう頑張ったなー」と言って抱きしめると、びくっとして私に言いました。「お父ちゃん、今日は怒らんのか・・・」
お恥ずかしい限りです。わが子にとって、幼稚園は新たな社会との出会いです。お友だちとの比較や競争といった世界の中でもまれ、大きく成長していくことはもちろん大切なことです。しかし一方で、時には幼心ながら傷つき、涙をこらえることもあるかもしれません。わが子にとって、安心できる家庭までもが、競争や比較の眼差しにさらされた空間であったなら、緊張の連続であり、ほっと一息つくことすらできません。「十方微塵(じっぽうみじん)世界の念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし摂取(せっしゅ)してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」 微塵の如く無数にあるいのちの中で、どれほどささやかな私の涙をも、決して見過ごすことのない阿弥陀さまの眼差しがありました。涙ながらにもれ落ちていくものこそ、抱きとらねばならないというお心が、阿弥陀さまの大悲なのです。「南無阿弥陀仏・・・また負けたか、つらかろう、苦しかろう。わかっているよ。私がいるから安心しておくれよ」 阿弥陀さまのあたたかな眼差しが注がれ、頼もしい大きなみ手に今、抱かれてある姿がお念仏をいただく姿でありました。

■私一人のために
姪のケーキを作る
昨年11月、妹の長女が3歳の誕生日を迎えるにあたり、家族全員でお祝いすることになりました。そこで、母が私の連れ合いに、誕生日ケーキを作るように頼みました。なぜ、妹の長女の誕生日ケーキを私の連れ合いが作ることになるのかといいますと、私たちの娘が小麦アレルギーを持っていたからです。小麦粉が少量でも体内に入ってしまうと体中にかゆみが走り、顔を含めた全身がはれ上がるような状況でした。店頭に並んでいるケーキは、基本的に小麦粉が使われています。それを買ってきたのでは、一人ケーキを食べることができない子が出てきます。それが、私たちの娘だったのです。最近は小麦アレルギーで悩んでいる方が増えてきたようで、スーパーなどでも小麦粉に代わる米粉を置いてくださる所が増えてきました。そこで母は私たちの娘のことを一番理解している連れ合いに、アレルギーの出ない食材を使った、娘も食べることのできるケーキを作るように頼んだのです。早速、連れ合いはスーパーに行き、娘に合わせ米粉を含めたアレルギーの出ない食材を探し、子どもたちが喜ぶようにと、果物などを買ってきてケーキを作りました。
条件などつけない
その晩、子どもたちが大喜びで、おいしそうにケーキを仲良く食べている姿を見た時、私も心からうれしくなりました。この日の誕生日会では、たとえ主役であっても、妹の長女の好みだけに合わせてしまったのでは、娘はケーキを食べることができず、楽しい会にはならなかったでしょう。どうすればみんながケーキを食べて、楽しい雰囲気のまま会を終えることができるのか?それは、アレルギーのある娘に合わせることでした。相手に合わせる場合は、合わせる側が一方的に合わせるのです。娘に「早くアレルギーを治しなさい」などというのではなく、相手の状況や素質、能力などを見きわめ、一切条件を付けることはありません。条件を付けたところで、その条件を満たすことができないことを知っているものが、わざわざ条件を突き付けることはありません。すべて合わせる側の仕事です。世間一般の考え方では、高額で希少価値があり、少人数、一握りの人だけ食べることのできるものが素晴らしいもので、一般大衆、多人数が食べることができるものは評価されにくいものでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?違う考え方もあるはずです。今回の誕生日会でいえば、主役しか食べられないケーキの方がつまらないもので、家族がみんなで、楽しく食べられるものの方が素晴らしいものでした。
信じさせ称えさせ
阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者であられた時、善人も悪人も、賢者も愚者も、出家も在家も、持戒(じかい)の者も破戒(はかい)の者も、富める者も貧しき者も、すべてを分けへだてなく救い、浄土に迎え取ろうと願いを立てられました。自力の修行は、必ず落ちこぼれが出てくるような難行道(なんぎょうどう)であるから選び捨て、一人も漏(も)れることなく救い得る称名一行(しょうみょういちぎょう)を往生の行(ぎょう)として選び取られました。そして「どうかお願いだから、念仏して浄土に生まれてきてほしい」と、救いだけを告げ続けてくださっていました。世俗のこと、また自身の愛欲と憎悪に振り回されながら、他を傷つけ、自らも傷つきながら生き、さとりを開く手がかりさえもない私のことを救おうと、五劫(ごこう)もの間、思惟(しゆい)され、今まで見捨てず抱え続けてきてくださっていました。何か一つでも条件がつけば漏れてくる者、落ちこぼれてくる者とは、まぎれもなくこの私だったのです。しかし、この私が漏れてしまっては、命あるすべての者ということにはなりません。だからこそ、この私に条件は一切つけず、この私に合わせてくださったのです。信じさせ、称(とな)えさせ、生まれさせる。この私のためにと仕上がってくださった方のお名前を阿弥陀さまというのです。

■仏の一人子として
初参式は誰のため
先日、生後4カ月になった息子の初参式(しょさんしき)のため、お世話になっているお寺に参りました。初参式は、新たな命の誕生をよろこび、初めて阿弥陀さまにご挨拶をさせていただく大切な儀式です。私たち夫婦と、それぞれの両親も一緒に、家族総出で息子と阿弥陀さまのご縁を喜びました。しかし、考えてみると、生後4カ月の息子は、おつとめができるわけでもありませんし、ご法話がわかるわけでもありません。阿弥陀さまという仏さまのこともよくわからないでしょう。わけがわからないまま連れてこられて、周りの大人が騒がしくしているなあ、くらいにしか思っていないかもしれません。そんな息子にとって、この初参式は「お寺へのお参り」であったり「聞法(もんぼう)」であると言えるのだろうか?そんな疑問が後になってふとわいてきたのです。そう思った時、初参式の時のご住職のご法話を思い出しました。「初参式は、赤ちゃんが初めてお参りに行くことを祝う儀式ですが、その赤ちゃんのお母さんも、お父さんも、その子が生まれた時に親として生まれました。ですから、この子が4カ月生きたなら、この子の親も生後4カ月の親なのです」 確かに、私たちはこの子が生まれた時に、初めてこの子のお母さん・お父さんとしてスタートしたのです。生後4カ月の子の親である私たちは、生後4カ月のお母さん・お父さんというわけです。「この初参式は、息子のための儀式だ」と思っていましたが、実は、親として生まれた私たちにとっても初参式≠セったのだなと知らされたのでした。
私のためのご縁
初参式は、息子を縁としておつとめする家族みんなのための初参式でした。私にとっては、息子が私に結んでくれた、お参りと聞法のご縁だったのです。初参式に限らず、お葬式や法事なども、すでにご往生されたその人自身がお参りしたり、聞法したりしているわけではありません。お参りし聞法しているのは、その人に縁のあった人たちです。つまり、お参りや聞法は「誰かのために」のご縁ではなく、私のためのご縁なのです。親鸞聖人は常々、「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」とおっしゃられていたといいます。「阿弥陀さまが長い長い間、思いをめぐらし、さとりの世界へ救いたいと願ってくださったその願いを、よくよく考えてみると、それは、ただこの親鸞、一人を救いたいがためであった」ということです。
阿弥陀さまの願いはすべての衆生(生きとし生けるもの)を救おうと願われた願いですが、それを誰かのための願いであるように聞いてしまうと、せっかく浄土真宗という素晴らしいみ教えに出あいながらも、私にとってのみ教えから離れて、何か遠くのものになってしまうということでしょう。阿弥陀さまは、いつでもこの私を全力で救おうとはたらいてくださっています。阿弥陀さまの救いはすべての衆生に向かっていると聞くだけではなく、この私こそ目当てとされた救いであると聞いていくところに、浄土真宗のみ教えは私が救われていく仏道となるのです。仏法は、私でない誰かではなく、今ここにいるこの私が聞いていく教えなのです。
私たちは親であったり子であったり、あるいは祖父母として、それぞれ違った立場に立って、それぞれの人生を生きています。しかし、仏さまは人間の立場とは関係なく、一人一人を救いたい目当てとして、一番大切な命として、全力で救おうと見てくださっています。仏さまの前では、私たちは等しく仏の一人子なのです。初参式は息子一人のための式ではなく、私たちみんなが新しい関係性の中で、阿弥陀さまにご挨拶をさせていただき、それぞれが仏の一人子(ひとりご)として仏法を聞かせていただくご縁でありました。 
 

 

■一枚の壁
忘れられないひとみ
銀座の一角にある画廊に「僧職ナイト」という、仕事帰りの会社員や学生たちと僧侶が語り合う場があります。仏教や浄土真宗のこと、日常生活の出来事から悩み事の相談まで、仏教とご縁がない方々と私たち僧侶が気軽に語り合っています。悩みの相談で多いのは、家族や友人、上司と部下など、やはり人間関係の問題でしょう。そんな悩みを聞いて私がいつも感じるのは、状況は人それぞれですが、根源的な問題として横たわる、人と人との間にいつの間にかできてしまう「壁」という存在のことです。数年前になりますが、国際協力活動を行うNGO団体の研修で中東パレスチナ自治区を訪れました。首都エルサレムは、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地がある宗教都市です。訪れてまず驚いたのは、辺りを張り巡らす高さ8メートルの巨大なコンクリートの「壁」でした。1948年、ユダヤ人がイスラエルを建国し、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人との間に紛争が起こります。イスラエルの安全を守るという理由でこの壁は造成されました。壁は決められた境界線を大きくまたぎパレスチナ側の道路や学校、家の中までをも分断しています。そして何よりも二つの民族の心を分断しているのです。ある者にとって必要であっても、他の者の平穏な生活を破壊する壁には違いありません。迫る巨大な壁を前に、他者を犠牲にしても自らの利益を追い求める人間の心の欲深さを見るような思いがしました。
そんな状況下でも、輝いていた子どもたちの目が忘れられません。ある難民キャンプを訪れ、楽しく遊び仲良くなった少年に質問されました。「あなたの名前は何ですか?」 私が答え、少年の名前を聞き返そうとした時、さらに「あなたのお父さんの名前は何ですか?」と尋ねられました。一瞬戸惑いました。これまで、初めて会った相手に親の名前を聞かれることなどなかったからです。彼らは親があって恵まれたいのち、そして家族の大切さを実感しているのだと思いました。難民キャンプでは、子どもたちも生きるか死ぬかという厳しい環境の中で生活しています。生きるためには多くの助けが必要なことを知っています。パレスチナの子どもたちは皆、人と人が家族としてつながる重みや、お互いに助け合わずには生きていけないことを肌で感じているのでしょう。そんな切実な思いが伝わり、今でも私の心に深く残っています。
大きな安心恵まれる
親鸞聖人は、阿弥陀如来の救いのはたらきを光にたとえてお示しになります。
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 有無(うむ)をはなるとのべたまふ 平等覚(びょうどうかく)に帰命(きみょう)せよ
時間・空間を超えた阿弥陀如来の光明は、どこからどこまで照らすという辺際(へんざい)がないために「無辺光(むへんこう)」と呼ばれます。壁を作らず、境界線を引かず、一切の世界を遍(あまね)く照らしてくれます。光明に照らされるとは、決して捨てないという阿弥陀如来の大慈悲心のうちに摂(おさ)め取られるということです。今ここで確かな救いのはたらきに出遇(あ)うからこそ、光明に照らされた人生は、大きな安心を恵まれた人生となるのです。しかし、私たちの日常生活では、「私」「あなた」と壁を作り、目先の境界線を引くことに一生懸命になっています。そして、自分の都合で区別をし、思い通りにならないものを排除して生きています。しかし、阿弥陀如来の無辺光のはたらきに出遇う時、自ら作った境界線によって振り回されて、他を傷つけ、最後には自分をも傷つけている愚かさに気づかされます。目には見えずとも、数限りない思議を超えた大いなるはたらきに生かされている私のいのちです。知らず知らずのうちに心に壁を作って悩み苦しむことがありますが、パレスチナの子どもたちの目の輝きを思い出すと、つながりの中でこそ私たちは生かされ合う存在であったと知らされるのです。お互いに支え合い手を取り合って、自らを省(かえり)みながら、如来さまの光の中を歩ませていただきたいと思います。

■私とは?
ロボットに押し付け
私が住む富山市にも冬がやってきました。もうしばらくすると初雪が降ることでしょう。そんな中、私が園長を務める幼稚園の子どもたちが、頬を真っ赤にしながらも元気いっぱい走り回っています。「園長先生!これ見て!」と、落ち葉や木の枝を持って来たり、私の手を引き、土や泥、砂、木の実など園庭に落ちているもので作ったケーキや山などの作品を見せてくれたりします。子どもたちを見ていると不思議と元気をもらえます。だから私は、子どもによい環境は何かをよく考えます。具体的には自然の中で遊ぶこと、大人から絵本の読み聞かせをしてもらうこと、わが園では特に、お寺の本堂で仏さまの前に座ることも大切だと考えています。先日、とても面白い絵本を読みました。「ぼくのニセモノをつくるには」(ヨシタケ シンスケ著)の主人公は、よしだ けんた君、小学校3年生です。けんた君は宿題やお手伝いや部屋の掃除など、やりたくないことだらけでゲンナリしていました。ある日、けんた君は名案が浮かびました。ロボットを買って、やりたくないことを全部押し付けようと考えたのです。家への帰り道、買ったロボットにニセモノ作戦について説明しました。
するとロボットは「じゃああなたのこと詳しく教えてください!」といいました。けんた君は名前などのプロフィールや家族構成、容姿や特徴、好き嫌い、できることできないこと、ロボットがしつこく聞くことに自分なりに考えて答えていきます。そのやりとりの中で少しずつ、内面的なところに内容が変わっていきます。「ぼくのなかにはちいさいころのぼくもぜんぶはいっているんだとおもう」と。そして、両親の子どもであることは両親にも「それぞれおとうさんとおかあさんがいるからずっとたどっていくとすごいたくさんの人がぼくとかんけいあるみたい」と、いのちのルーツをたどったり、日によって「ぼくのきもちはコロコロかわるいろんなぼくになるけれどやっぱりぜんぶぼくはぼく」と心の移り変わりを見つめたりしながら、最後に「ぼくはひとりしかいないおばあちゃんがいってたけどにんげんはひとりひとりかたちのちがう木のようなものらしい・・・・・・木のおおきさとかどうでもよくてじぶんの木を気にいっているかどうかがいちばんだいじらしい」と気付きます。けんた君がロボットに説明することで感じたことは、「うーん・・・ぼくってなんだろう・・・かんがえればかんがえるほどいろいろでてきちゃう。でもじぶんのことをかんがえるのってめんどくさいけどなんかちょっとたのしい気もする」ということでした。
煩悩具足の凡夫
私とは?知っているようで意外と知らないのが本当ではないでしょうか?例えば両親の両親、そのまた両親・・・と代をさかのぼっていくと、私の中に多くの方の命が溶け込んでいることになります。また私の心や気持ち、気分は肉体的・精神的な状態によって一瞬一瞬変化し、コントロールしているようでできていません。自分らしさとは何か、そして何よりも私の命はかけがえのないもの、唯一無二の存在であることを真摯(しんし)に受け止めていないということです。私はこの絵本を通して仏教に出遇(あ)うことができました。自分自身を見つめることのできない私の不完全さを、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)と知らされ、その私を決してダメとせず、「ニセモノをつくる」ことはできない存在、自身の命の尊さを教えられました。お寺の本堂で子どもたちに伝えたいことは、本堂の中心におられる阿弥陀さまのお心です。「みんなが生まれてきたことって、すごいことなんだよ!失敗したり、つらいことがあったりしても、あなたは大丈夫、素晴らしいよ。あなたの命は一つしかないんだよ。だから大切にしてね。それとね、あなたと同じように、他の人や動物、植物もみんな大切な命なんだよ」 子どもたちの「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ」の声が、わかったつもりの私に「あなたのことだよ」と、私にも教えてくださいます。

■音声(おんじょう)の不思議
まさに無常
今夏、父がその一期(いちご)を終えました。長年、雅楽に親しんできた父は、8月上旬に久しぶりに舞楽を舞ったばかりでした。お盆の時も、住職として多くのご門徒と本堂でお話をさせていただいておりました。ところが、お盆明けに突然体調不良を訴え入院し、8月末に急逝しました。まさに無常を具現するような出来事でした。通夜や葬儀の準備をしながら、まったく理解できないことの中で自分がいる、という、とても奇妙な気持ちでいました。父の死への悲しみも封印されたままでした。あまりにも突然すぎて、あっけなさすぎて、本来自然に湧き出るはずの感情すら、反応に困っている状態でした。父や私が所属する雅楽会では、会員の通夜の席で、献楽するならわしになっています。演奏する曲は、父が一番得意としていた舞楽の曲をお願いしました。しかし、献楽の間近になって「これは失敗したかな」と思い始めました。その曲がきっかけになって感情があふれ出て、涙が止まらなくなって献楽後のご挨拶ができなくなったらどうしよう、と思ったのです。そんな思いを巡らせているうちに、たくさんの方による演奏が始まりました。最初ははらはらしていたのですが、不思議なことに、雅楽の音の中から、笑顔で語り掛ける父の声が自然に聞こえたような気がしました。「突然いなくなって、お前たちと一緒におれなくなったのは残念やけど、わしのことは悲しむ必要はないよ。お浄土に生まれさせてもろたから・・・。死んだ後も全然つらくないし、むしろ、この雅楽の音のように清らかでええところや・・・」 この声が聞こえてから、凍てついていた私の心は次第に解けほぐれて、涙が出るどころか、不思議な温かい安堵(あんど)感に包まれてきたのです。
心を込めて丁寧に
ご門徒には「亡くなったおばあちゃんは、お浄土にいっておられますよ」などと日頃言っておきながら、自分のことになると、有無を言わせない死の不気味な力を前に身をすくませ、それに巻き込まれた父のつらさはいかばりかと、父の行方を案じていたのです。しかし、献楽の途中から「死を経た後も父は苦しんでいない。この雅楽の音の内から声が聞こえてきたのだから、父はこの音に包まれているのだろう。そして生きているときと変わらず雅楽を楽しんでいるのであろう」という確信が自然に生まれてきたのです。そしてこのような素晴らしい音楽に包まれていた父の一生は、立派で幸せであったことであろうという思いもわいてきました。演奏が終わる頃には、ずっと暗雲の中にいた私の心にうっすらと光が差し込んできて、何かに塗り固められて停止していた思考が自然に融け出し、落ち着いてご挨拶ができたことでした。
葬儀が終わって数カ月経った今でも、寂しさはありますが、この時の温かい安堵感に支えられています。僧侶になりたての頃、お通夜の席で自分の未熟な法話を披露して空回りしていることに気付き、ある先生にその悩みをお話しました。その時、先生は「私自身も、今でもそう思っていますよ。だからね、そんな時は、亡くなった方はお浄土へいかれたのであって、苦しい思いは決してされていませんよ、と念じて、心を込めて丁寧に勤行をして儀礼を執行することが大切ですよ。その心は必ず伝わりますよ」と言われました。今回の雅楽の演奏中に、雅楽会の会員さんがそう念じてくださったのかもしれません。あるいは、父も生前から死をそのように考えていて、雅楽の音が触媒となって、父の思いが私の心で開かれたのかもしれません。さらにいえば、阿弥陀さまが雅楽の音にのせて私に語りかけてくださったのかもしれません。われわれの宗門では雅楽が儀礼に用いられて長い伝統がありますが、やはり雅楽は真宗の救いと深いかかわりがあるようです。勤行や雅楽を通じて救われ、支えられ、音声(おんじょう)の不思議にあらためて気付かされた経験でした。

■かしこいと勘違い
恩師に心苦しい思い
中学生時代の同窓会の案内がきました。二十数年ぶりに会う懐かしい学友の顔、幼なじみとの再会に心はずませ、喜んで出席しました。同窓会はお互いの近況報告や思い出話に花が咲き、当時のニックネームで呼び合いながら、まるであの頃にタイムスリップしたかのような、本当に楽しいひと時でした。しかし残念ながら、最もお会いしたかった担任のH先生は、すでに亡くなっておられました。H先生は経験豊富な男の先生で、ユーモアがあり温厚なお人柄でしたので、みんなの人気者でした。思春期真っ盛りの生徒の目線まで降りてくださり、一人ひとりに目を配りながら、生徒と一緒に泣き・笑い、生徒と一緒に便所掃除をされる先生でした。そんなH先生に対し、今でも心苦しく思っていることがあります。生徒の目線まで降りてくださる先生に対し、対等にでもなったかのような気持ちで、反抗的な態度をとったことがありました。未熟者である私のレベルに合わせて会話してくださる先生の優しさに甘え、自分の方が賢いとでも思っていたのでしょう。先生の言われることを素直に聞かず、反論したのです。その時の寂しそうな先生のお顔は、今でも忘れられません。しかし、決して私のことを見放さず、常に気にかけてくださり、中学卒業後もしばらく相談にのっていただきました。大変お世話になった先生でした。
対等になったと錯覚
本当に賢い人は、未熟な者にも理解できるよう、会話の程度を下げて話をされます。ところが未熟な者は、自分の愚かさを知りません。賢い人と対等に話ができると思ってしまいます。自分も賢くなったと勘違いしてしまうのです。対等になったという思い上がりの心は、賢い人の話を素直に聞くことができません。また、相手を見くだす心にもつながります。阿弥陀如来と私の関係も似ています。如来さまは、私のことをよくご存じでいらっしゃいます。しかし、私は如来さまのおさとりの世界を量(はか)り知ることができません。そんな私のすべてをお見抜きの上で、私にあわせてご用意してくださったおみ法(のり)が「南無阿弥陀仏」です。その中身は、「わが誓いを信じ念仏せよ。必ず清らかなさとりの世界に生まれさせる」ということなのです。しかし私は、如来さまの智慧によって仕上がったおみ法を、自分のはからい(思い量(はか)らい)を持って理解しようとしています。自分のはからいで理解しようとするのですから、わかるはずがありません。さらには対等になった錯覚から、如来さまのおおせを謗(そし)ることにもなります。
愚者になりて往生す
法然さまは「愚者になりて往生す」といわれました。愚か者と思えということではありません。如来さまの側で、この私を愚者と見抜かれてのおおせを、自らのはからいを雜(まじ)えず、聞こえたままに受け容(い)れるのです、といわれたのです。唯一その中で、愚者の自覚が芽生えていくのでしょう。浅はかな私の知恵や努力(自力)では、おさとりの世界にはいたれませんが、如来さまのおおせの通りに受け容れてのみ、往(ゆ)き生まれることのできるおみ法です。
親鸞さまは「正信偈」に、速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく) 必以信心為能入(ひっちしんじんいのうにゅう) ・・・「すみやかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入ることは、かならず信心をもつて能入(のうにゅう)とすといへり」と示されました。
すみやかにさとりの世界に入るには、ただ本願を信じる以外にはありません、と法然さまのお示しをお讃(たた)えになられました。自分は賢いと勘違いしている私のはからいが、如来さまのお救いの法を難しくさせているのです。ただただ、如来さまのおおせの通りお念仏申すばかりです。

■ぬくもりのあるやさしさ
背中に違和感が・・・
昨年の3月、住職を継職しました。手続きを済ませた後は、本山で住職補任式を受け、自坊で継職法要を営むことになります。そのための準備や打ち合わせなどを進めていた5月末、胃から背中にかけて違和感を感じました。最初のうちは気にしていませんでしたが、やがてそれは痛みとなり、日常生活にも支障を来(きた)すほどになってきました。病院で専門の医者に見てもらえばよいのですが、とりあえずインターネットで調べてみました。私は性格的に、まずは最悪の場面を想定して、それから開き直るタイプです。痛みの原因についても、「たぶん何でもない、大丈夫だろう!」ではなく、「もしかしたら大変な病気の徴候では?」という気持ちで調べていました。すると、死亡率の高い病気と症状が当てはまるものがあったため、最悪の場面が私の頭に浮かんできました。私は勝手に、自分が間もなく死ぬことを想定しはじめました。朝食を妻と二人の子どもと一緒に取りながら、「こんな朝もあと何日・・・。いや、入院したら、もう今が最後の団欒(だんらん)かも・・・」と、ひたすら悪夢のスパイラルです(ちなみにこれは、私の勘違いであることが判明します。医師の診断はただの痛みですね)。もし余命が少ないとすれば、これからの予定を整理しなければなりません。あれやこれやと調整し、あるものはキャンセルし・・・。せっかく継いだ住職が継職法要前に亡くなって・・・。いろいろなことに思いを巡らせましたが、一番気がかりなのは私がいなくなって困る人よりも、悲しむ人のことです。
銀(しろがね)も 金(くがね)も 玉(たま)も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも
万葉の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)は、どんな金銀財宝も子宝には及ばない、と詠(よ)みました。目の前で無邪気に朝ごはんを頬(ほお)ばる子どもたちは、たしかに私の宝です。けれども、それはやがて離ればなれになる宝です。まもなく別れを迎えるとしたら、私は、どんな宝を大切な人たちに遺(のこ)せるのでしょうか。また、私にとってほんとうの宝とは、何なのでしょうか。
お念仏の宝
ところで、妄想をふくらませるうちに、実際にそのような別れを経験した人、そして、悲しみを抱えながらも安らかに日々を送っておられる人たちが、私の身の周りに数多くいらっしゃることに、あらためて思いがいたりました。その人たちに遺された宝とは何でしょう。そう、それは「南無阿弥陀仏」のお念仏です。蓮如上人は「当流(とうりゅう)の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり」とお示しくださっています。どんなに名残が惜しくても、この世の縁が尽きたとき、私の命は終わります。しかし、その命を無量のいのちとしてすくい取る世界が、私たちにはめぐまれています。「ナモアミダブツ」の声となって私にとどく阿弥陀さまの願いのはたらきは、死にゆく人も遺された人も、ともにあたたかく包み込んでくださいます。それは今を生きる力をはぐくむ宝であり、やがて生まれるさとりの世界へとつながる同じ一つの道となる宝です。早合点であれこれと思いをめぐらせましたが、ほんとうは誰が先に最期を迎えるのか、いつそのときが来るのか、それは誰にもわかりません。だとすれば、今、阿弥陀さまの願い、決して壊れることのない宝に出遇(あ)うしかないのです。
つながりが強ければ強いほど、別れの悲しみやつらさ、寂しさは癒(い)えることはないでしょう。お念仏という宝は、悲嘆の解消剤ではありません。ただ、どんなときにあっても、やさしさのあるぬくもりを添えてくださるのが、お念仏という宝なのでしょう。阿弥陀さまの願いの中に生かされる。それがそのままお念仏の宝を伝えることです。見渡せば、そんなぬくもりに出遇(あ)った人たちのお念仏の声に包まれておりました。

■天国と浄土
気がつけばお念仏を
「先生、結局お浄土も天国も同じところなんですよね?」 カナダで開教使をしていた頃、お寺で毎週催されていたシニアカラオケクラブに来られた日系2世の男性から、このように問われました。お話をよく伺うと、その方のお家は仏教徒でご家族もお寺のメンバーでしたが、熱心なクリスチャンである奥さまの影響で結婚後キリスト教徒になられたそうです。しかし70歳を超えた最近、夢の中に亡くなったお父さんや弟さんが出てこられ、気がつけば明け方にお念仏を称えていることが多いとのことでした。私はその問いに一瞬悩みました。なぜなら涙ぐんだその瞳(ひとみ)には、「お願いだから同じであると答えてほしい」という思いがにじんでいたのです。しかし私は、阿弥陀さまの極楽浄土とキリスト教の天国は、その性質も違うし、そこへ行く方法も違うということ、もっと言えば、阿弥陀さまと神さまは性質が全く違うことを思い切って伝えました。その違いを聴きにお寺にお参りくださいとお見送りしたのですが、やはり落胆されていました。帰国後、そのことがいつまでも頭から離れなかったので、龍谷大学の大学院でご指導を受けていた先生に質問させていただいたところ、「このいのち終わったあと、すぐには会えなくても、いつかはお浄土で出会えます。阿弥陀さまが必ずすべての衆生(しゅじょう)を残らず浄土に生まれさすとお誓いなんですからね。それに浄土の時間は人間が感じる時間と違いますから、会えない時間もほんの一瞬ですよ」とお答えくださいました。有り難いお言葉に胸がすく思いでしたが、同時にカナダでそのように答えられなかった後悔の念でいっぱいになりました。
すべて我が師
親鸞聖人はお手紙に「聖道門(しょうどうもん)というのは、すでに仏(ほとけ)になられた方が、わたしたちを導こうとして示された、仏心(ぶっしん)(禅)宗・真言宗・天台宗・華厳(けごん)宗・三論(さんろん)宗などの大乗の究極の教えです。・・・また、法相(ほっそう)宗や成実(じょうじつ)宗・倶舎(くしゃ)宗といった権教(ごんきょう)や、小乗(しょうじょう)などの教えも、すべて聖道門です。権教というのは、すでにさとりを開かれた仏や菩薩が、仮にさまざまなすがたを現(あらわ)してお導きになるので『権』というのです」とお示しです。聖人は、師の法然聖人や自らを法難にあわせる原因ともなった天台・法相宗を含めた聖道門の僧侶の方々をも、自身を仏にならしめるためにはたらきかけてくださっている還相(げんそう)の菩薩として見ておられたのです。またその最後には、「釈尊の善知識(ぜんちしき)は百十人です。このことは『華厳経』に説かれています」と示され、善財童子(ぜんざいどうじ)が求道(ぐどう)の旅で出あったさまざまな職業や年齢の方を、すべてわが師と仰ぐ謙虚な姿を讃(たた)えておられます。
今も世界中で宗教の違いが原因になり、さまざまな憎しみ合いが起きています。私が受け持つ京都女子大学の仏教学の講義では、毎年1年生の最初の授業で「宗教についてどう思いますか?」というアンケートを書いてもらっていますが、「無い方が平和な世界になる」という答えが見受けられます。世界を見渡した時、仏教の他宗の方々や、他の宗教を信仰している方々、そして特定の宗教を信仰していない方々と、多様な宗教観の中で私たちは生活をしています。ご修行中の阿弥陀さまが二百十億もの仏国土をご覧になり、その長所や短所を学ばれたように、私たちもさまざまな仏教の宗派や他の宗教、そして感動をもたらしてくれる芸術や言葉などにも心を開いて、その素晴らしいところを謙虚に学び、あらゆるいのちからお念仏のみ教えを味わわせていただくという姿勢が大切だと思います。阿弥陀さまの眼(まなざし)から見れば、この世に無駄ないのちはひとつもないのですから。1歳になったばかりの私の息子にとっては、宗教や思想の違い、肩書や社会的地位などは関係なく、自分を見てにっこり笑いかけてくれる人に、ただただにっこりと心の底からほほ笑んでいるのです。その無垢な笑顔に、私の分別に満ちた心の濁りが照らし出される気がいたします。

■言葉になった仏さま
大丈夫です!
近所に一軒の小児科医院があります。そこは、あまり薬を出さないことで有名です。子どもが熱を出して受診しても、普通のカゼならば薬は出ません。暖かくして十分な睡眠を取れば、自然に治るからというのが理由のようです。親にしてみれば、せめて症状を軽くする薬を出してほしいとか、よけいな感染症にならないように抗生物質を飲んだほうがいいんじゃないかと考えるのですが、そういう薬もなしです。でもこの病院は結構人気が高いようです。私たちは、なぜ病院に行くかというと、薬をもらうためではなく、どういう病気であるかを診断して、治し方を教えてもらうためです。この小児科医院でも、薬を飲まないと治らない病気には処方箋(しょほうせん)が出ますし、場合によってはほかの病院へ行くことをすすめられることがあります。病気を治す専門家から、こうすれば治りますという言葉を聞くのが、お医者さまを受診する目的なのです。「大丈夫です」という言葉を聞くと、安心できるんですね。たとえ今熱が出ていても、3日後には下がると知っていれば、それほど不安はありませんから、病気の先は見えたようなものです。その思いに答えてくれるから、人気なのでしょう。
どうして救いなの?
阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏という名前になって私たちを救うといわれます。名前というのは言葉です。言葉を口にすることが、どうして救いになるのか、若い頃の私はよくわかりませんでした。皆さんはそういう疑問を持ったことはありませんか?たとえば、「おにぎり」という言葉と、おにぎりそのものは別ものです。お腹(なか)がすいたときに、口で何百回「おにぎり」といっても、お腹はいっぱいにはなりません。塩味のきいたご飯のかたまりが大事であって、それを何と呼ぶかはどうでもいいことです。あるいは、口約束だけで世の中を渡るような人は、決して信用されません。あの人は言葉だけだと言われて、喜ぶ人はいないでしょう。言葉よりも中身や実行が大事だというわけです。こう思っている人の心の底には、言葉は人間の持ち物で、人間が自由に操(あやつ)れるものだという理解があるようです。でも、これは勝手な思い込みにすぎません。人間が、自分の意志で言葉を完全にコントロールすることなんてできません。言葉は、ペンや自転車のような道具ではないのです。ペンや自転車は、使わないときはペン立てやガレージにしまっておくことができます。ところが、言葉の使用は停止することができません。誰とも話していない時でも、私たちの頭の中では言葉が湧き出ています。これを書いている私自身も、言葉の海の中にいます。たとえ夢の中であっても、私たちは言葉を使っているでしょう。これは道具でないことの証拠です。
また、私たちは言葉に傷つき、言葉で蘇(よみがえ)ります。さらに言えば、私たちが育つためには言葉が不可欠です。「褒(ほ)めて育てよ」というではありませんか。食べ物さえあればいいというものではないのです。人間は言葉から離れられないのです。名前というのは、そういう言葉のひとつです。私たちは、生まれたらすぐに名前をもらいます。そして、名前を呼ばれながらこの世を去ります。私たちの生は、常に名前という言葉とともにあるのです。名前のない人生、言葉のない人間は考えられないでしょう。そう考えてみると、人間が言葉を使うという言い方は、適切でないことがわかります。そうではなく、言葉の世界に生きているのが私たちなのです。そんな私たちのありようをご覧になったから、阿弥陀さまは名号になられたのでしょう。私たちは、迷いにも救いにも自分で気づくことはできません。けれども名前となって呼び続ければ、いつも衆生(しゅじょう)と一緒にいることができる。そしていつか慈悲の存在に気づくはずだというのが、阿弥陀さまの確信だったのです。だから南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)は、私に仏さまの存在を知らせると同時に、「心配ない」と告げてくださっているのでしょう。それを聞けば、私の不安は消えるのです。

■泥の中に咲く蓮
鈴木大拙の著書を
目がさえて眠れず、テレビをつけました。新春特別番組の再放送が流れていて、そのまま画面をぼんやり眺めていました。4人のゲストがそれぞれ1冊の本を紹介し、日本人について考察するという内容でした。そのうちの一人が、鈴木大拙先生の著した『日本的霊性』を紹介しました。「ひょっとしたら浅原才市(さいち)さんが登場するかもしれないぞ」と期待しながら見続けました。私が住む島根県は、才市さんのふるさとです。隣の町が才市さんの暮らした町・温泉津(ゆのつ)です。今もお念仏の土徳(どとく)が薫(かお)る土地柄です。その才市さんを世に広く紹介したのが、世界的な宗教学者の鈴木大拙先生です。やがてテレビ画面に石州(せきしゅう)瓦の町並みが映し出され、「ああやっぱり才市さんが出るぞ。うれしいなぁ」と思いました。テレビには才市さんの写真とともに肖像画が現れました。肩衣(かたぎぬ)を着け念珠をかけて合掌した小柄な姿、柔和な顔の才市さんです。そしてその頭から2本の角(つの)が生えています。地元の画家が才市さんの姿を描いたところ、才市さんは「これはわしじゃない」と言って、鬼を表す角を描き加えさせたといいます。才市さんの鬼の姿から、手帳に記していた俳句を思い出しました。数年前の新聞に紹介されていたものです。
犬抱けば犬の目にある夏の空(高柳重信)
犬をわが手に抱き、つぶらな瞳(ひとみ)をのぞいてみれば、その目に夏の空が見えた。犬の目にはもちろん、抱いている者の姿が映っています。犬の目は、風景も私をも写す鏡です。私が阿弥陀さまに出あい、阿弥陀さまのこころをわが身に受け取ったならば、阿弥陀さまの眼(まなこ)に写る私の姿が発見されます。阿弥陀さまがご覧になっている姿を、才市さんは角の生えた鬼の姿で表したのでした。
なむあみだぶつは よいかがみ 法もみえるぞ 機もみえる あさましあさまし ありがたい あみだのこころ みるかがみ
鬼の私を救い取る
才市さんは南無阿弥陀仏に出あえたよろこびを、こうして詩(うた)にしてたくさん残しました。自分は一皮むけば、本当の姿は鬼。偽(いつわ)りなくそのままを映し出す法の鏡の前に立って知らされる鬼の自覚でした。しかし、その鬼を助けるはたらきが、すでに自分に届いていた。自分のために届けられていた。鬼の私を救わねばならぬと、この私のために阿弥陀さまが、自らの存在を南無阿弥陀仏と名のられた。そして今ここに、南無阿弥陀仏は私をはたらき場所として共にある。あさましい鬼の私が、阿弥陀さまの救いの目当てであったとは。なんとありがたいことか。念仏申す身になって気づかされた。鏡が気づかせてくれた・・・。阿弥陀さまのおこころをいただきながらお念仏申し、日々の生活を正直に生きた才市さんでした。深夜のテレビを見続けていると、司会者が「初めて聞いた言葉です」と言いました。それは「妙好人(みょうこうにん)」という言葉です。
お釈迦さまは『観無量寿経』の終わりに「もし念仏するものがあれば、それは人間の中でも分陀利華(ふんだりけ)である」とおっしゃいました。分陀利華とは白蓮華(びゃくれんげ)のことです。念仏者を「蓮華」といわれたのでした。蓮華は泥(どろ)の中に咲くけれども泥に染(し)みず、清らかに咲き誇ります。善導(ぜんどう)大師はこれを解釈して、妙好人、上上人(じょうじょうにん)、希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)といわれています。親鸞聖人は『入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)』の中で曇鸞(どんらん)大師のお言葉をお引きになり、「淤泥華(おでいけ)といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地(ろくじ)には蓮(はちす)を生(しょう)ぜず。卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)に蓮華を生(しょう)ず」と示されました。番組の終盤、妙好人・才市さんの話の最中、一人のゲストが「そういえば昔、亡くなった母親が『なんまんだぶ、なんまんだぶ』とつぶやいとったなあ」とぽつりと発言しました。それがとても心に残りました。深夜、興味深く見終わった時には、時計はすでに2時をまわっていました。

■速い!阿弥陀仏
如来の手のひら
「西遊記」の主人公・孫悟空(そんごくう)。孫は姓で、悟空は法名です。空(くう)を悟るとはすごい法名です。如来は言います「この右手のひらから飛び出すことができたらそちの勝ち」と。悟空は?斗雲に乗り、あっという間に十万八千里をひとっ飛び。天界の端に立つ五本柱の真ん中の柱に大きな字を記し、第一の柱に小便をして帰ってきます。戻った悟空に「そちは手のひらから出てはいない」と如来。字を書いたのは如来の中指、小便をひっかけたのは親指だったのです。さて、この如来さん、悟空に名を問われ「南無阿弥陀仏じゃ」と答えます。たしかにそのスケール感は阿弥陀仏を思わせます。中国の一里は一説では約400メートル、悟空はあっという間に4万3200キロを飛びますが、それより前に如来の手は伸びていました。その手のひらの広いこと、そして速いこと。さすが、南無阿弥陀仏。阿弥陀仏は広大(こうだい)で長久(じょうく)で、そして高速なのです。阿弥陀仏はまたの名を無量寿如来、不可思議光仏といい、大悲ともいいます。阿弥陀はインドの言葉、アミタに同じ音の漢字をあてたもので、音を伝えますが意味は伝わりません。そこで、意味をとって訳したのが、無量寿如来、不可思議光仏、大悲です。お経(きょう)は海を渡り、さらに東の島国へ。時代を経て今、私の手にも届き、その意味を聞かせていただきました。
量(はか)っても量りしれない年月、考えても考えの及ばない空間、それは空っぽの永遠や無限ではなく、はるばると広がりはてしなく続くいのちの輝きであると。また過去にも未来にもこの世に生きる一人ひとりの悲しみをすべて引き受けてくださる大きな慈しみであると。だから、その輝きはいつでもどこでも私を照らし、悲しいときは同じ悲しみの中にあると。先にこの世の生を終えた私の父も祖母も祖父も弟も、今は阿弥陀仏の国にいます。だからいつでもどこでも私を照らしてくれ、私もいのちが終わったらまたそこで会えるのです。いのち終わると即!阿弥陀仏が浄土に救い取ってくださるのです。なぜ即!なのか。阿弥陀仏の救いは頓速(とんそく)といわれます。私は一瞬で浄土に生まれるのです。お経に阿弥陀仏は光としても説かれています。この世で光は一番速く、?斗雲よりも断然速い。だから弥陀の手はいつも先手なのか、と私は勝手に味わっています。そして阿弥陀仏の国に生まれたら、私は慈しみの光となって、この世のあちこちの悲しみの人を照らします。
こんな私だからこそ
そうはいっても、簡単に老いるものか、死ぬものかと思ってやまない強欲な私。悟空もそもそもは、不老長寿の法を求めて旅に出たのでした。そしてまた、あらあら、このお方も?「苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生(うま)れざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず」と親鸞聖人。苦しいけれど懐かしいこの世とは別れがたく、浄土は恋しくない。まったくその通り! そして、そんな煩悩がおこってくる私だからこそ、阿弥陀仏は哀れみ悲しんでくださっている、と聖人はおっしゃいます。「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏が「この阿弥陀仏にまかせなされ」とおっしゃっている言葉です。私はただただ阿弥陀仏の慈しみに圧倒されて、ほれぼれと頭が下がるばかりです。「まかせなされ南無阿弥陀仏」「おまかせします南無阿弥陀仏」と、阿弥陀仏と私はごあいさつします。
さて、如来の大きさが信じられず、まやかしだと疑った悟空は、山中に閉じ込められること500年、その後、仏道に帰依し、三蔵とともにお経を東土に伝える旅の終始をまっとうし、仏となるのです。悟空はその生をまっとうしたのです。一つしかない、一回しかない私のいのち、そしてそれは私のものじゃない。私のものと思っているけれど、いろいろな縁によって成り立っているもの。それが悟空の「空」の意味です。ものすごい修行の旅をした悟空に比べ、修行も旅もしない私。でも、そんな私だからこそ、仏にしてくださるという阿弥陀仏。私も悟空のように、この縁をまっとうしたいものです。

■願いを受けとめ味わう
自分の名前がイヤ
私の名前は、漢字で「嘉円」と書いて「よしまる」と読みます。でも私は中学生くらいまで、この名前が嫌いでした。それは幼稚園の時も、小学校に上がってからも、私の名前をまともに「よしまる」と読んでくれた人が誰もいなかったからです。新学期が始まり、担任の先生が出席をとるため生徒の名前を名簿順に呼ぶときなどは、憂うつでたまりませんでした。どの先生も私の名前が読めないのです。すると先生が「この名前はどう読むのか」と言われます。私が「よしまる≠ニ読みます」と言うと、先生が「変わった名前だなぁ。おまえの家はお寺か、それで・・・」と言われるのです。すると、なぜだかクラスのみんながドッと笑うのです。しかし、高校生や大学生になると、友だちが「おまえの名前はオリジナリティーがあっていい」って言ってくれるようになりました。私は単純なのか、人から「いい」って言われるとうれしくって、自分の名前も「まんざらでもないなぁ」と思うようになりました。それでも今も多少のコンプレックスはあります。今思えば、父に「何でこんな名前つけたん?」って聞いておけばよかったと思います。しかし、その父も27年前にお浄土へ往生させていただき、今となっては聞きようがありませんが、おそらく父は、親鸞聖人がお書きになった『教行信証』にある「円融至徳(えんにゅうしとく)の嘉号(かごう)(あらゆる功徳(くどく)をそなえた名号(みょうごう))」というお言葉から私の名前をつけたのではないかと思っています。もしそうなら、好きになれなかった私の名前にも、私のことを思う父の願いが込められていたのではないか・・・。仏教を学ばせていただく中で、今ではこのように思うようにもなりました。あらためて、私という存在と名前とは、別ものではなく一つなのだということを思います。だから、自分の名前を軽く扱われたり、馬鹿にされると傷ついたり、腹が立ったりするのです。たかが名前、されど名前です。
名号として届けられ
浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは、「名声十方(みょうしょうじっぽう)に超(こ)えん。究竟(くきょう)して聞(きこ)ゆるところなくは、誓(ちか)ひて正覚(しょうがく)をならじ(私の名号(みょうごう)を広くすべての世界に響かせよう。もし聞こえないところがあるなら誓って仏にはなるまい)」と言われ、みずから名前を名告(なの)り、その存在を私たち一人ひとりに知らせ、私たち一人ひとりのところに届いていてくださっているのです。だから私たちは、阿弥陀さまの名前を称(とな)えながら、阿弥陀さまに出遇(であ)うことができるのです。
では、「阿弥陀」というお名前に込められた願い(はたらき)とは何なのでしょうか。「阿弥陀」とは、インドの言葉「アミターバー、アミターユス」を音訳(おんやく)(発音を漢字に)したもので、「無量光(むりょうこう)、無量寿(むりょうじゅ)」と漢訳(かんやく)(言葉の意味を漢字に)されました。光には、ものを明るく照らしはっきりさせるというはたらきと、ものをあたたかく包み育(はぐく)むというはたらきがあります。私たちは、この阿弥陀さまの無限なる光(無量光)のはたらきに遇(あ)うことによって、自分では見えなかった煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)という愚かな本当の自分の姿を知らせていただくと同時に、そんな私を放っておけないという阿弥陀さまのあたたかいおこころに包まれていることを知らせていただくのです。また、阿弥陀さまは無限なるいのち(無量寿)をもつ仏さまですから、この阿弥陀さまの光のはたらきはいつまでもとどまることがないこと(無量光)も併(あわ)せて知らせていただきます。私たちは、「阿弥陀」という名前に込められた願い(はたらき)をよく受けとめてお念仏を申させていただくこと。また、お念仏を申しながら「阿弥陀」という名前に込められた願い(はたらき)をよく味わわせていただくことが大切です。このように日々お念仏を申して生きる中で、わが身の愚かさを厭(いと)い、阿弥陀さまのあたたかいお育ての中で、お浄土をめざして生きていく新たな自分になっていくのです。一緒にお仏壇の前でお念仏申しながら味わわせていただけたらと思います。
 

 

■お彼岸に寄せて
此岸から彼岸へ
今年の冬は寒暖の差が激しく、例年にない厳しい冬となりました。しかし着実に雪も緩み、春の日ざしが一段と輝きを増し、いよいよお彼岸の季節を迎えました。厳しい冬だからこそ、春の和やかな光に包まれる心地よさを、ありがたく感じることができるこの頃です。旅の楽しみは帰る故郷(ふるさと)があるからこそ、安心して旅をすることができます。人生の旅もまた、帰る故郷がある人と「故郷」に気づかない人生では、今を生きる生き方に大きな違いがあります。「一期一会(いちごいちえ)」の時にも、心にゆとりを持って、日々の出来事を「しみじみ」と味わうことができるのではないでしょうか。このお彼岸のご縁は、あらためて人生の旅の「故郷」を「浄土」として示されたことを再確認させていただく行事でもあります。お彼岸は日本独自の仏教行事で、季節の変わり目の「春分」「秋分」に、西に沈む太陽の先に阿弥陀仏の浄土を想い、此岸(しがん)(この世)から彼岸(お浄土)へいたる「到彼岸(とうひがん)」の仏事として取り組まれてきたことでした。昨今、浄土というと何か夢物語のような世界を思われがちですが、浄土とは阿弥陀仏が願いを持って建立された私たちのいのちの故郷です。親鸞聖人は、私が浄土を願うのではなく、浄土から私が願われている存在であることをお示しくださいました。その浄土からのはたらきかけがお念仏となり、明日をも知らないこの私を照らし、はたらきかけてくださっているのです。次の詩にそのことがよく表されています。
闇の夜の 月の光のありがたさは わかるけど 太陽の光は 大きすぎて わからない  
雨の日の 傘のありがたさは わかるけど 屋根のご恩は 大きすぎて わからない
生かされている私
阿弥陀さまの大悲というものは決して目に見えるものではありません。太陽の光もその存在があまりに大きすぎて、有り難さに気付きにくいものですが、闇夜の「月光」となって、その存在に気づかされます。阿弥陀さまの大悲もすべての場所に行き渡っており、それに目を向け「南無阿弥陀仏」とお称(たた)えすることで、人々を漏らすことなく苦しみの世界から西方浄土へと救いとってくださるのです。また、傘の存在は雨道に傘をさしている時にはその有り難さはよくわかるのですが、家に入ってしまうと、大屋根の恩恵を忘れがちです。しかし、阿弥陀さまは私が忘れていても常に私たちを照らし護ってくださっているのです。
『歎異抄』第十四章に「一生(いっしょう)のあひだ申(もう)すところの念仏(ねんぶつ)は、みなことごとく如来大悲(にょらいだいひ)の恩(おん)を報(ほう)じ、徳(とく)を謝(しゃ)すとおもふべきなり」とあります。一生のあいだに称える念仏は、すべてみな、如来大悲のご恩への感謝の表れだと思うべきであるといわれます。身に着(つ)けたもの、目に見える財産は、やがて時代とともに形がなくなってしまいます。しかし、私のいのちの存在は、父母を通して先祖から、網の目のようにつながっているのです。毎日毎日、私たちは、さまざまなことに振り回されていますが、それをいちばん根っこのところで支え、私が私として、生きることを成り立たせてくれている、大きないのちのはたらきがあるのです。大いなる阿弥陀さまの大悲の中に、私が生かされていることに目覚めたとき、初めて、報恩感謝の生活が開けてくるのではないでしょうか。そのことに気づかされるときに、私たちは本当に大切な教えに遇(あ)うことができたといえるでしょう。ぜひ慌ただしい日々の中にあって、お彼岸を機会に仏事に参加し、自らのいのちの行く末について、しっかり向き合うことのできる人生の時を持ちたいものです。

■私を思うお念仏
今お念仏のおかげで
ときどき思うことがあります。親鸞さまの教えに出あわなかったらどんな人生だっただろうか、お念仏の教えを知らずに生きていたら、どんな生き方をしていただろうかと。今から四十数年前の学生時代に聞いた、金子大栄(だいえい)先生の幸福三條(さんじょう)「一、人身(じんしん)を受けし有(あ)り難(がた)さ一、仏法に遇(あ)へる忝(かたじ)けなさ一、今日を生きる勿体(もったい)なさ・・・・・・この人はまことに幸福な人生を歩んでいる」との言葉が今も心に残っています。私がおあずかりしているお寺は一村一カ寺で、何百年とご先祖から代々相続しているお念仏を、生きる糧(かて)としている人たちが住む田舎町にあります。毎月の常例法座や各法座にお参りする人たちのにこやかな顔が私は大好きです。この笑顔はどこからきているのでしょうか。きっと、いつもアミダさまにいだかれて生きているしあわせが心身に染みているからでしょう。子どもの頃から日曜学校に通い、日常勤行(ごんぎょう)は自分でおつとめできる人たちばかりです。金子先生が晩年によく言われた幸福三條がそのままあてはまるような人たちです。私はこんな人に囲まれてお参りしていて、梅原真髦a上(しんりゅうわじょう)の「生かされて生きるいのちのとうとさよ名もなき草にひかりこぼれる」の歌をいつも思いだして感謝しています。私のまわりには、つらいときも、うれしいときも、お念仏をしながら如来さまのご恩をいただいている妙好人(みょうこうにん)たちがいっぱいおられます。
いつもいだかれて
覚如(かくにょ)さまが「悲しきかなや、徳音(とくいん)は無常の風に隔(へだ)たるといへども、実語(じつご)を耳の底に貽(のこ)す」と申されています。ナモアミダブツの喚(よ)び声が聞こえると、アミダさまのお慈悲が念仏者の心身に満ちて、お念仏が念仏者の生きる力となってくるということです。お念仏の日暮らしをしている私は、いつも・どこでもアミダさまと一緒に生きていると伝えてくださっているのです。覚如さまのおこころはここにあります。どうして、そういえるかといえば、親鸞さまは「諸有(しょう)の群生海(ぐんじょうかい)を悲引(ひいん)したまへり。すでにして悲願(ひがん)います」と明示されています。この「すでにして」とは、私が気づく前から大悲のご本願が私のうえにはたらいてくださっているということです。私たちにはアミダさまの大悲のご本願がかけられてあった身なのです。それでは、その大悲のご本願のはたらきを、私たちはどこで感じうけとるのでしょうか。それはアミダさまがナモアミダブツとなってはたらいてくださっているのです。これをお念仏といいます。
親鸞さまはお念仏を智慧(ちえ)の念仏と領解(りょうげ)されます。アミダさまの智慧がナモアミダブツとなって、私たちにはたらいてくださるのです。そして、私は「信心の智慧」を賜(たまわ)るのです。かならず仏さまになってくれよと、よびづめによんでいてくださっているのがお念仏なのです。多くの人はお念仏を「仏を念ずる」と受けとり、お願いの念仏と理解しています。この理解をひっくりかえしたのが親鸞さまです。親鸞さまは「念ずる仏まします」と領解されました。それは私が仏さまにお願いするよりも先に仏さまのほうから念じられていた私であったと、アミダさまのお慈悲を味わわれています。ですから、お念仏は名号(みょうごう)であり信心(しんじん)です。念仏は正念(しょうねん)だとお示しです。
「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり」
そしてその正念は「『正念』の言(ごん)は、選択摂取(せんじゃくせっしゅ)の本願なり、また第一希有(けう)の行(ぎょう)なり、金剛不壊(こんごうふえ)の心(しん)なり」と、お念仏は他力真実の信心であると伝えてくださいました。このことを木村無相(むそう)さんが「おねんぶつ」という詩でみごとにうたいあげています。
にょらいさんがわたしを おもっておもって おもっておもって くださるのがおねんぶつ にょらいさんのおもいが わたしに とおってとおって とおってとおって くだされたのがおねんぶつ

■見捨てない
「寄り添う」とは
56年歩んできた人生の中で、直近の3年間は波瀾万丈の連続でした。3年前には心臓の病気を患い、2度の入院と体にメスを入れる手術を経験しました。一昨年は妻の入院と二男の不登校、昨年は長男の遠隔地への突然の転校など、予想だにしない出来事ばかりでしたが、そんな時、支えになったのは、40年以上続けている音楽活動でした。分けても、不登校で自宅に引きこもった二男との生活は、本当にこたえました。大好きな音楽を楽しむ気持ちも失せてしまうほどでした。引きこもりの家庭は地獄の苦しみだと聞いてはいたものの、実際にわが身に起こってその意味が身に染みてわかってきます。昼夜逆転の生活、時々暴れたり、自傷行為をほのめかしたり、家中とても不安定な時間が続きました。医師の診察を受けると、昼夜逆転の生活リズムの是正が治療の第一歩であるとのアドバイスがあったので、懸命にその実現に努め、子どもに関わり、寄り添おうとしました。しかし、子どもは簡単に心を開こうとはせず、八方ふさがりの状況になりました。そんな時、新たな気づきを与えてくれたのが、友人のホームページにあった「寄り添うとは、忘れないということであり、見捨てないということだ」という一文でした。「寄り添う」という言葉は、東日本大震災発生後によく見聞きするようになった言葉の一つです。非常に耳ざわりのいい言葉でついつい安易に使ってしまいがちですが、つかみ所のない言葉でもあります。この4年の間に何度か被災地を訪れました。被災者の方とお話をしてみると、まだ4年しか経っていないのに忘れられつつあることへの不安を口にする人が多いことに愕然(がくぜん)とします。恥ずかしながら、今年の1月17日が阪神・淡路大震災から20年というニュースを耳にして、すっかり忘れてしまっていたわが身に反省しきりでした。もう一つの「見捨てない」ということも、そんなに簡単に行えることではありません。いついかなる時も自分のことはさておいて他者を最優先に考え行動する。それができなければ、見捨てないということを完全に成し遂げたことにはなりません。いざ自分に乗り越えなければならない問題が発生すると、他者どころではなくなってしまうのが、人間の偽らざる姿でしょう。
本当の幸せ
『仏説無量寿経』に、法蔵菩薩という修行者が四十八(しじゅうはち)の願(がん)を建て修行を重ね、阿弥陀仏になられたと述べられています。第18番目の願いに、「わたしが仏になるとき、すべての人が心から信じてわたしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません」と誓われています。まさに自ら仏になることに先んじて、すべての人を念仏で救うと誓われた阿弥陀さまでなければ、見捨てないということは完全に成し遂げられないでしょう。
最近では、二男とは親子の会話が成立するまでになりました。引きこもりが始まった当初は、子どもにしっかり向き合うことよりも、世間体を気にしたり、知らず知らずのうちに1日も早く学校に復帰させなければといった親のエゴを子どもに押しつけてしまい、子どもを最優先にしていなかったのです。ようやく子どもの本音に耳を傾けて行動する余裕が出てきました。何よりも私にも子どもにも阿弥陀さまの「見捨てない」というはたらきが届いていることがあたたかく感じられます。親鸞さまは、生老病死のすべてを「いのち」と見られ、苦を伴う生老病死それぞれに大切な意味があり、本当の幸せとして仏のいのちに生まれる人生を、お念仏の道としてお示しくださいました。音楽は私にとって生きる支えになるものであっても、生も死も超えて私を支えきれるものではありません。私も決して十分とは言えませんが、見捨てないとお誓いくださった阿弥陀さまの寄り添う心を体し、現実に向き合っていこうと思います。

■みほとけさまってどんなおかた
真実に導くはたらき
浄土真宗で「みほとけさま」と言えば、「阿弥陀如来さま」のことですが、「阿弥陀如来さま」と「お釈迦さま」と「親鸞さま」の区別はちゃんとつきますか? 多くの中学生・高校生はこんがらがっています。私は時々、意地悪な質問をします。「お釈迦さまは何人(なにじん)?」と聞くと、「インド人」と答えてくれます。「親鸞さまは何人(なにじん)?」と聞くと、「日本人」と答えてくれます。そして、「阿弥陀さまは何人(なにじん)?」と聞くと、多くの場合、「インド人」という答えが返ってきます。きっとお釈迦さまと混同しているのでしょう。阿弥陀さまは何人(なにじん)でもありません。お釈迦さまと親鸞さまは、歴史上に存在した人間ですが、阿弥陀さまは歴史上に存在した人間ではありません。では、何者でしょう。阿弥陀さまは、私たちを真実に導いてくださる真実のはたらきそのもので、私たちのために人格的に現れてくださった方なのです。「阿弥陀さまがいるのなら見せてみろ」という人がよくいますが、阿弥陀さまは目で見て出遇(あ)う仏さまではなく、そのお心を聞かせてもらうことによって出遇うことのできる仏さまなのです。ですから、阿弥陀さまは「いるかいないか」と問うのではなく、「どのようなお方か」とそのお心を聞かせてもらうことが大切なのです。そして、そのお心に出遇った時、私の前に新しい世界が開けてくるのです。阿弥陀さまは、「すべての人を必ず救うという願いをたて、はたらき続けてくださっている仏さま」です。「すべての人を救う」ということは、実はとてもすごいことなのです。普通の宗教は、いいことをした人は救われるけれど、悪いことをした人は救われないのです。ところが、阿弥陀さまは、いいことをした人も、悪いことをした人も、平等に救ってくださるのです。では、どんな悪いことをしてもいいのでしょうか。
お慈悲の心を聞く
皆さんは今までに、「そんな悪いことをしたら、罰(ばち)が当たるよ」と言われたことはありませんか。私は親からそう言われたことはありません。けれど、そんなにいい子だったわけではありません。私が悪いことをした時は、「そんな悪いことをしたら、仏さまが悲しまれるよ」と言われました。浄土真宗は、裁きの宗教ではなく慈悲の宗教です。阿弥陀さまは善悪を裁き、悪いことをしたら罰を与えるということはされません。善悪を超えて、すべての存在を平等に慈(いつく)しんでくださるのです。しかし、悪いことをしてもいいのではありません。悪いことをしたら悲しまれます。その阿弥陀さまの悲しみ(慈悲の心)に出遇うことによって、私の生き方が、少しずつ正しい方向へと導かれていくのです。
親鸞さまは「阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏のお念仏となって、私に届いてくださる」とお示しくださっています。私の母は生前『みほとけさまって どんな おかた』という詩を創っていました。
みほとけさまって どんな  おかた みほとけさま みほとけさま いくら おさがししても おすがた みえない みほとけさま みほとけさま いくら お呼びしても お声が 聞こえない じーと静かに 眼をとじた じーと静かに 手を合わせた 小さな口から 小さな 小さな声が出た なもあみだぶつ なもあみだぶつ みほとけさま いらっしゃった みほとけさま みつけた かなしいときも うれしいときも いつでもおそばに いらっしゃる どこでもおそばに いらっしゃる みほとけさま みほとけさま なもあみだぶつ
南無阿弥陀仏とお念仏するところに「阿弥陀さまはいらっしゃった」と言える世界が開けてきます。南無阿弥陀仏のお念仏を通して、阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただきましょう。そして、少しでも阿弥陀さまを悲しませない生き方を求めていきたいものです。

■ことばはこころ
胸に手を当てて・・・
息子が小さな頃、「お父さん、お互いさま≠チてどういう意味?」と尋ねられ、ドキッとしたことがありました。確かに近頃は、責任を押し付け合う姿は目にしても「お互いさま」と責任を取り合うシーンは、テレビドラマでも見ることはありません。何より私自身が使っていなかったのではと反省し、意識して使うように心がけました。そんな折、頼み事をされたので、ここぞとばかりに「お互いさまですから」と言うと、相手がホッとするのが伝わってきたのです。貸し借りではなく、温(ぬく)もりのある関係が生まれたようにも感じられ、これは大切な言葉だなと、あらためて気づかされました。こんなに大切な言葉を使っていないということは、その心を見失っているということなのでしょう。考えてみれば、「縁の下の力持ち」という言葉も聞かなくなりました。見えないところで支えてくださる方への、敬いの心が見失われてきたということでしょうか。いや、そこまで深く物事を考えることのない、薄っぺらな生き方が広がっているのかもしれません。「胸に手を当てて考える」という言葉も、久しく聞きませんね。自分を振り返り、どんな生き方をしているのかを見つめることは、人間が生きる上で大切なことであるはずなのに。ファッションやヘアスタイルといった外見には気を使っても、自分がどんな生き方をさらしているのかにまで思いが及ばないというのは、いかがなものでしょう。かくなる私も、米沢英雄先生の「自分だけが我慢していると思っていて、相手から我慢されているということがわからないのです」という言葉を聞いて、まず最初に誰かの顔を思い浮かべ、しばらくしてからようやく顔が赤らむ程度の者なのですが。昔は良くて、今はダメだという話ではありません。ただ、昔は「私は大切なことを忘れがちな存在だ」という自覚があったからこそ、言葉にすることでその心を思い出す営みも、続けられていたのでしょう。
お念仏の歴史の中に
もう一つ言えば、ひと昔前までは牛や豚を「育てる」と言いました。ところが今やニュースでは、牛や豚を「生産する」と当たり前のように言い切っています。気がつけば「消費する」「投資する」など、私たちの生活を経済用語であらわす時代になりました。海の魚は「海産資源」、木は「森林資源」、景色は「観光資源」で、人は「人的資源」だそうです。確かに経済は大切なことですが、それがすべてと偏ってしまうことで、役に立つか、お金になるかどうかが判断基準となりました。いのちを、自然の恵みを「いただく」という謙虚さは失われ、「資源」としか見ない傲慢(ごうまん)な考え方が広がっています。「いただきます」「ご馳走さま」が言えなくなるはずです。言葉が失われるとは、心が失われるということです。「お念仏の声が聞こえなくなった」ことも同様です。お念仏を称え、お念仏によびかけられ、お念仏に育てられた私たちの先輩方の歩みが、そしてお念仏に込められた心が、見失われているということなのでしょう。
私が子どもの頃は、山を走り回って遊んでいました。しかし、今は大人でも入ることができません。なぜなら、山に入る人がいなくなったことで、道がなくなってしまったからです。道は、先に行く人が踏みしめる歩みによってできるのです。私の前を先立ち、お念仏を称え、歩んでくださる方があった。そして、その人の前にも歩まれた人があり、その人の前にも、その人の前にも...とさかのぼれば、親鸞聖人はもちろんのこと、たくさんの人々が連なる、長い長いお念仏の歴史があったのです。その歩みが、今私のところにまで至り届き、大切な心を伝えている。これってすごくないですか。ならば、道を消すわけにはいかないでしょう。お念仏を称え、その心を伝えていく歴史の歩みに、私も踏み出していかねばと強く思っています。でも、よくよく「胸に手を当てて考え」てみれば、私などお寺で育てられ住職になっていなかったら、大切な言葉を見失っていてもまったく気づかないタイプです。こんな私もこうして育てられていると思うと、ただお念仏のはたらきに頭が下がるほかありません。

■お浄土があってよかったね
今の人には通じない
『お浄土があってよかったね』 このタイトルは、茨城県にある精光会みやざきホスピタルという病院の宮崎幸枝副院長が、2008年に出版された本(樹心社刊)の書名です。昨年には続編の2も刊行されました。読ませていただくと、まさに書名通りの浄土真宗のこころで病院が運営されていることを知ることができ、浄土真宗が味わえます。実は、同書の出版を広告で知ったときに、私は義母が30年ほど前にこの言葉をもらしたことを思い出しました。妻(坊守)の実家である京都のお寺でテレビのドキュメンタリー番組を見ていました。ある有名な寺院へ信者さんが行き、住職と会話する場面でしたが、信者さんが「(交通事故で)死んだ息子はどこへ行った。今どうしているのか教えてください」と泣き叫んで問うのです。住職は「お浄土」とは言わないものの、それなりに答えていましたが、納得できないのか、信者さんが泣き続けていました。その番組が終わったときに、義母が「お浄土があってよかったね」ともらしたのです。その時は、「そうやな」と感じただけでしたが、だんだんと「お浄土があってよかったね」と共感しあえることが、御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)の内容であると思うようになりました。しかし、このテレビ番組での信者さんの「どこへ行ったのか」との問いに、「お浄土」と答えても納得してもらえなかったのではないかと思います。というのも、私はその後、滋賀県大津市のお寺へ入寺して住職になりましたが、従来からの門徒さんには通じた「お浄土」が、通じなくなっていました。ご門徒が亡くなり、遠隔地に住んでいる息子さんなどが来られて自身の親の葬儀を営み、お寺とのご縁ができた次の世代の門徒さんには、「お浄土」が通じないことが多いのです。
合掌ができる社会へ
とりわけ、死後は「天国」という言葉が昨今一般化してきたため「浄土」がなおさら見えなくなった、曖昧(あいまい)になったようにも思います。もちろん、そうなったのは浄土真宗の僧侶である私自身の責任でもあるのですが、そういう状況に接して、私は浄土真宗教団は仏教教団のひとつではあるが、「浄土真宗の独自性」をいっそう明確にすることが必要な時代、そして社会であると思うようになりました。別の表現をすれば、私はいつも「み教えを依りどころにした人生を」と伝えるのですが、み教えの根本といえる「お浄土」が「死後」のことという理解があり「人生」と繋(つな)がりにくいのです。つまり、「生前」と「死後」が続いていることがわかりにくくなった時代であるように思うのです。
私は入寺して25年になりますが、10年目頃に「合掌ができない(合掌をしらない)子どもたち」に出会ったことがきっかけで、4年前に『合掌ができない子どもたち』(白馬社刊)を出版しました。そして、それが縁となって本願寺出版社から「その本の内容を踏まえて、新たに執筆を」という依頼をいただきました。ほうわ・HOWA・法話シリーズ『合掌ができる社会へ』です。前の本では「合掌ができない子ども」は、「合掌ができない大人(社会)」が作ったことを書きましたが、それは「お浄土が見えなくなった」ことと重なります。今回の執筆依頼を受けて、この機会に「み教えを依りどころにした人生を」というときの「み教え」と「人生(社会)」の内容をあきらかにしようと思い、そのことを書きました。「心身ともに健康」を願いながら「身の健康」に必死になる一方、「心の健康」は「癒(い)やし(パワースポット)」に陥(おちい)っている現代社会の様子などにも触れ、『合掌ができる社会へ』を書き上げました。お浄土?それは、私が心身ともにこの世を力強く生きる世界です。義母が亡くなって7年になります。きょうも「お浄土があってよかったね」の声が私に響いてきます。

■究極の乗り物
半世紀も前に開業
私の住む岡山県高梁市から遠く離れた石川県金沢市。今年の3月、東京〜金沢間を結ぶ北陸新幹線の開業に伴い、一躍時の街≠ノなりました。少しさかのぼって、昨年の10月1日。あるニュースが話題に。東京〜新大阪間を結ぶ東海道新幹線が1964(昭和39)年10月1日の開業から50周年を迎えました。現在まで走行距離にして約20億キロ(地球5万周に相当)、運んだ乗客のべ56億人。特筆すべきは、その間、脱線、衝突などによる乗客の死亡事故が一度もないことです。誰もが安心して乗ることができ、安全に目的地まで連れて行ってくれる唯一の交通手段かもしれません。その裏には立案当時から現在に至るまで、関係者の創意工夫、たゆまぬ努力や苦労があってこそでしょう。例えば、東海道新幹線が走る区間には、トンネルがたくさんあります。できるだけ直線を確保するためです。カーブが多いとスピードも出せませんし、脱線などの大事故に繋がる可能性があります。次に、東海道新幹線の区間には踏切がありません。車との衝突事故を防ぐため、わざわざ高架に敷かれています。人が線路に侵入することも防ぎます。これらの創意工夫があってはじめて、乗客の安心・安全が守られています。と、簡単に述べましたが、これらの策を講じるのにどれだけの苦労があったか、我々は知る由もありません。少し想像してみると、トンネルを掘ることの大変さ。工事に伴う事故が起こったかもしれません。線路を通す土地を買収するために、幾度も頭を下げて回った関係者の姿。逆に、先人が守ってきた大切な土地を泣く泣く手放した方の姿。線路を高架に造るといっても、コストはもちろんのこと大変な時間と労力がかかったはずです。私たちが知りえない、たくさんの苦労があってこその開業50周年です。おかげさまで、安心して乗車できます。乗車したその瞬間から、読書をしようが、駅弁を食べようが、はたまたトイレに行こうが...。車掌さんが切符を確認しに来るため、寝過ごす心配もほとんどありません。それぞれが思い思いの時間を過ごす中、東海道新幹線は乗客を間違いなく目的地まで届けてくれます。北陸新幹線をはじめ、今や全国各地を結ぼうと計画されている新幹線。その原点は、50年前の東海道新幹線開業にありました。
お念仏に確かな安心
『仏説無量寿経』には、阿弥陀さまがおさとりを開く前、法蔵菩薩であられたとき、五劫(ごこう)という長い時間の思惟(しゆい)の末に、「すべてのいのちに寄り添い、決して見捨てることなく浄土へ迎えとることのできる仏となる」と誓われ、この誓いを成就するのに、兆載永劫(ちょうさいようごう)という想像を絶する時間を要された内容が説かれます。皆さんは法蔵菩薩の五劫思惟像をご存知ですか? さまざまな五劫思惟像がありますが、そのほとんどが、ご苦労を表現された痛々しいお姿の像です。目は落ちくぼみ、頬はこけ、指先までやせ細り、今にも折れそうなあばら骨。現在、浄土真宗のお寺にご本尊として安置されている阿弥陀さまのお姿からは、想像し難い痛々しいお姿が表現されています。おさとりを開くことが、どれほど大変であられたか。私を救うことがどれほどの大仕事なのか。法蔵菩薩のご苦労が偲ばれます。
私たち一人ひとりを救いの目当てとして、常に寄り添い、決して見捨てることなく浄土へ導く阿弥陀さまの間違いないはたらきが、ご苦労の上に今、「南無阿弥陀仏」の喚(よ)び声となってこの私に届けられています。阿弥陀さまは私たちに生きる意味といのちの行く末を知らせるため、声の仏となることを選ばれました。家族や子どものことで悩もうが、仕事や人間関係で悩もうが、自身の健康、将来のことで悩もうが...。それぞれの人生を歩む中、そのはたらきに出遇(あ)った時すでに、「南無阿弥陀仏」という究極の乗り物に乗せられているいのちであったことを知らされます。お念仏申す私の声を通して、唯一確かな安心をいただいています。

■メダカと仏さま
様変わりした自然
西山さんは、間もなく80歳を迎えますが、隣村のお寺の役員の傍ら、ゲートボールやカラオケも大好きな、元気なおじいさんです。北陸の山間(やまあい)にある戸数100軒前後の集落にお住まいになり、四季折々に移り変わる田舎の風景を何よりも好み、楽しんでいらっしゃいます。ところが近年、気になるのは、周りの自然が少し様変わりしてきたことです。幼かった頃、家の中まで舞い込んで来たホタルが、最近ではめったに見られません。オニヤンマや初秋の赤トンボの群れも、すっかり少なくなりました。そういえば、うるさいほどだった夏のセミも、トーンダウンしたように感じます。中でも、小川や水田の水たまりに群れていたメダカが、ほとんど姿を消してしまったのに、少しさみしさを感じていました。メダカは農薬や生活排水による環境の悪化に加え、用排水路の改修などの影響で、1960年代から全国的に減少しはじめ、2003年には環境省から「絶滅危惧(きぐ)種」に指定されました。そんな話を、学校で学んだお孫さんたちから聞いた西山さんは、農作業の合間に、谷間の小川や、水たまりなどを注意して見ているうちに、小さなため池に生息(せいそく)している野生のメダカを発見したのです。早速、水槽を用意して、メダカの飼育が始まりました。喜んだのはお孫さんたちです。争うようにして飼育係を買って出て、生息していたため池の水を汲んできて、汚れた水と交換したり、水草などを採取してきて、メダカの住環境を整えてやりました。しかし、熱心だったのは数カ月で、珍しさが薄れると、いつの間にかメダカ係はすっかりおじいちゃんの仕事になってしまいました。それから10年近く、お孫さんたちは成人し、水槽の中では世代交代を繰り返したメダカが、今も西山さんの玄関に置かれた水槽の中で、元気に泳ぎ回っています。
お説教のアンテナ
2、3年前の秋の夕方です。ひょっこりお寺を訪ねて来た西山さんが、よもやま話の中で、このメダカの経緯(いきさつ)を聞かせてくださり、「犬や猫なら飼い主の顔を覚えるが、メダカは自分たちが誰のおかげで生きているのか識別がつかないようだ」というのです。その証拠に、人影を感じると少しでも遠くへ逃げようとする習性は理解できるが、長年世話をしている西山さんに対しても、全く同じ行動を繰り返すというのです。そんなメダカを見ているうちに、西山さんはふと、かつてお説教で「仏さまはその存在が余りにも大きすぎるため、私たちは、命まるごとが、仏さまの慈悲の手に包まれてあることにも気付いていない」とお聞きしたことを思い出し、「私とメダカの関係に似ているなあ」と思ったとおっしゃるのです。また「水槽で生まれた現在のメダカは、それ以外の世界を知らないから、水槽の中が全世界だと思っているに違いない」と考えられました。
つまり、私たちは、仏さまの大いなる御手(みて)に包まれてあるとも知らず、そのお姿に背を向けその手から抜け出すような生き方をしていないだろうか。そして、世の中のことはほとんどわかっているつもりでいるものの「実はメダカと何も変わらない生き方をしているのではなかろうか」というのが、西山さんの感想です。お説教を他人事として聞き、単なる知識か、教養の一端としてしか受け取らない私がいますが、西山さんのように、何回も繰り返して聞かせていただく中で、耳の底に残ったお話しがアンテナとなって、「ああ、そういうことだったのか」と気付かされるような聞き方があったのですね。ご自分のこととして受け取られ、大げさではなく、淡々として話される様子に、私は大いに感銘を受けたことでした。

■お鍋のフタ
母のひと言
私が結婚して奈良・吉野のお寺にやってきてから、早いもので3年半の月日が流れました。うれしいことに子どもにも恵まれ、わが子のおかげで父親にならせていただきました。親とならせていただきながら、親のつとめを果たせているのか不安を感じつつも、わが子を抱きしめる喜びを感じる日々を送っています。親と言えば、私には実家の母との忘れることのできない思い出があります。私がまだ大学生くらいの時だったと思います。その日の晩ご飯はお鍋でした。私は暇だったので、母のいる台所へ向かいました。台所では、すでに下準備が始まっており、テーブルの上にはニンジンなどの野菜を入れたお鍋が火にかけられていました。私はそれをぼーっと見ていたのですが、その時、お鍋が突然噴き出しました。あせった私はフタを開けようとするのですが、熱くて持てません。「熱い、熱い」とただ騒いでいるだけでした。すると母がさっとやって来て、フタを取っていったのです。私は思わず「ようそんな熱いもんが持てるなぁ」と言いました。すると母は、「何を言ってるのよ。あんたらを育てることを思ったら、こんなお鍋の熱さなんか何ともないわ」と言ったのです。母は私を大切に育ててくれているのに、そのことをあまり口にするタイプの人ではありません。そんな母からこんな言葉が出たことに、私は驚いたと同時に、うれしかったことを覚えています。
忍びてついに悔いず
よく親しまれているお経(きょう)(おつとめ)に讃仏偈(さんぶつげ)があります。私はこの一番最後のフレーズが大好きです。
仮令身止(けりょうしんし) 諸苦毒中(しょくどくちゅう) 我行精進(がぎょうしょうじん) 忍終不悔(にんじゅうふけ) ・・・たとひ身(み)をもろもろの苦毒(くどく)のうちに止(お)くとも、わが行(ぎょう)、精進(しょうじん)にして、忍(しの)びてつひに悔(く)いじ
讃仏偈は、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)(阿弥陀仏)が師匠である世自在王仏(せじざいおうぶつ)を誉(ほ)め讃(たた)えつつ、自分もこのような仏になりたいと願って諸仏の証明を求めた詩文(偈頌(げじゅ))です。その讃仏偈の最後がここに挙げた一文です。法蔵菩薩は、最後に「たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」といわれるのです。なぜでしょうか。それは今ここにいる私、迷いを迷いとも思わず、犯している罪を罪とも思っていない私を、何とか救い取ろうとされるからです。しかも、「忍びてつひに悔いじ」いう一文からは、「あなたを救うことができるのであれば、どんな苦難があったとしても悔いることはない」という、人々を救うためならば、自分の行為(苦労)などまったく問題にしないという、仏さまの姿を知ることができるのです。そもそも、法蔵菩薩が仏になろうと思われたのは、自分のためではなく、私たちを救うためでした。親鸞聖人はそのことを、
如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首としたまひて 大悲心をば成就せり ・・・と示してくださいます。
法蔵菩薩は、私たちを救うためであれば、どんな苦労をしたってかまわない、そうやって私たちを救う阿弥陀仏という仏となってくださったのです。
願いの中に生かされ
母との出来事は、阿弥陀さまのお心に気づかせてくれる尊いご縁でありました。しかし、それは同時に、阿弥陀さまのお心に気づくことすらできずに、日々を過ごしている私の姿を教えてくれるものでもありました。願いの中に生かされながら、そのことに全く気づいてもいなかったのです。阿弥陀さまは、そんな私に関係なく、今日も常に私を思い、願い続けてくださっています。ただお念仏させていただくばかりです。

■「いまを生きる」
3万枚の写真で
「いまを生きる」 私の好きな映画の邦題ですし、よく聞くスローガンです。法語などにもよく見受けられます。確かに現在を生きることができなければ、過去の後悔と、未来への不安にとらわれた一生となってしまうでしょう。しかし、瞬間瞬間に転じていくこの世界で、今とはいつでしょうか。われわれに現在を確かめることはできるのでしょうか。5年前のことです。安芸教区青年僧侶の会・春秋会で「坊(ぼう)さんフェス2010」というイベントを開催し、多くの皆さんのご協力により大成することができました。このイベントのメーン企画となったのが「アミダプロジェクト」と題して制作した巨大フォトモザイクです。一人ずつ合掌してもらった写真を組み合わせて、縦9b×横5bというとんでもない大きさの阿弥陀さまのモザイク画に仕上げたのです。撮影期間は3、4カ月ほどでしたが、100人ほどの会員で手分けをして撮影した合掌写真は3万600枚にも及びました。高評を賜り、先の親鸞聖人750回大遠忌法要では、御正当(ごしょうとう)までご本山に掲示していただきました。ご覧になられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
仏と同じはたらき
「坊(ぼう)さんフェス」当日、会場の一画「ふれあい坊さん広場」に、一人の女性が来られました。そこは、お坊さんがお話を聞くブースで、その手がかりにと、ポストカードに法語を書いたものを販売していました。「あみだくじ」と名付け、48種類あるポストカードをくじで引く仕組みで、どれが当たるかはわかりません。しかし、その女性は1枚のポストカードをじっと見られていたそうです。それは「アミダプロジェクト」の阿弥陀さまをポストカードに印刷したものでした。
「どうかなさいましたか?」 一人の会員が声をかけると、その女性がこう答えられたそうです。「この阿弥陀さまのモザイクの1枚に、先日亡くなった母が写っているんです」 応対した会員は、そのポストカードをそっと差し上げたそうです。9bという大きさで、合掌写真1枚が4aほどの大きさですから、ポストカードに縮小したものではお母さんは判別できません。でも、そのポストカードを受け取った女性はとても喜ばれ、大事そうに持って帰られたそうです。恥ずかしい話ですが、私はこのとき初めて気づいたのです、撮影してからそれまでにいのち終えられる方がおられることに。つまり、私たちと亡くなられた方々が共に写っていたということ、生と死が一つとなったフォトモザイクだったことにあらためて驚かされました。そして「弥陀同証(みだどうしょう)」といわれるように、お浄土に生まれれば阿弥陀さまと同じはたらきをさせていただきます。
先ほどのお母さんの合掌写真は生前の、過去のすがたですが、見ておられる娘さんの現在にはたらきかけています。それが、お聴聞のご縁となれば、そのはたらきは娘さんの未来のおすがたとなるでしょう。現在の一点に生と死、過去と未来が一体となって阿弥陀さまを形づくっている。それは、遠い過去に織りなされたご縁から、まだ見ぬ未来のご縁まで、すべてを現在の私に「南無阿弥陀仏」、尊いご縁であると聞かせてくださっていたのです。『阿弥陀経』に「今現在説法(こんげんざいせっぽう)」と説かれています。このお経はお釈迦さまがおよそ2500年前にインドで説かれました。では、この「今現在」とは2500年前のことか、というとそうではありません。今日を生きるわれわれに阿弥陀さまは法を説いてくださっています。
「南無阿弥陀仏」と聞こえた今、この瞬間に、遠い昔から喚び続けられていた過去、お浄土に往生させていただく未来が開かれます。過去に惑い、未来に迷っていては現在は確かなものとはなりません。過去と未来が間違いのないものとして開かれ、「南無阿弥陀仏」と聞こえたところに、初めて確かな今が現れるのです。お念仏が聞こえたところが、「今現在」と確かめさせていただき、共に「いまを生きる」私とさせていただきましょう。  
 

 

■「おふくろさん」
まさに"お袋さん"
「おふくろさん」 私はこの言葉が、人間存在の原点だと思います。混迷をきたしている現今の政治や経済の状況、そして、それによる我欲の狂奔を見るにつけ、今こそこの人間の原点に立ち戻らねば、人類の存続自体が危ぶまれるとさえ、思わざるを得ないのです。北海道を旅していて、シャケのふるさと館に立ち寄ったことがあります。メスのシャケは産卵の1カ月前ぐらいになると、何も餌(えさ)を食べなくなり、やがて産卵し終えると、1匹残らず死に絶えるのだそうです。そして、やがて孵化(ふか)したシャケには、それぞれに大きな袋が付着しており、その中には栄養がたっぷりとあり、それを餌としてシャケは成長し、やがて泳ぎ出すというのです。驚きました。シャケの子どもには母は1匹もいないのです。母に代わるお袋≠ェあるのです。何としたことでしょうか、このカラクリは。まさに自然の妙です。これぞまさに「おふくろさん」です。
牛や馬、犬や猫などの動物はどうでしょうか。産まれると間もなく、ひょろひょろと自力で立ち上がり母親のオッパイにまでたどり着くのです。これがこの動物たちがおのずからいただいているはたらきです。さて、それでは私たち人間はどうなのでしょうか。お袋≠ヘもらっていません。1年近くは立ち上がることもできません。そのまま放置されるならば、生存不可能なのです。おふくろさん、すなわち育ててくれる者なくしては生きられないのです。ひとりで生きていく術(すべ)は与えられていないのです。お世話をしていただき、だからまたお世話をして生きるいのちというのが、人間存在なのです。いのちの真実なのです。母は子を抱いて母親となり、子は母に抱かれて子どもとなるのです。しかしはたして今、このように本当に母が子を抱いて育てているでしょうか。豊かで便利な世の中は、親がいなくても子は育つと思い込んではいないでしょうか。言葉もなく、表情も未熟な赤ちゃんは、母親が放置していても、無反応です。だからこそ危ないのです。母が母となり、子が子となるのは感性の世界です。抱きしめられることで、響き合うのです。体が認知するのです。そして長じては、親は老い、子は育ち、やがて親のお世話をし、そのいのちに寄り添う、これが人間といういのちのありようなのです。
我欲が自らを破壊
かつて、著名な先生が、人間はいかに生きるべきかを語り、人間は「人間していく」ことだと話されたのを耳にしたことがあります。赤ん坊は抱き、老人には寄り添う、これが「人間していく」ことだと私は思います。また、お世話は、人に限ったことではありません。いのちを育む食べもの、飲みもの、そしてそれらを生み出すはたらき、太陽・水・土などの「めぐみ」。そしてまた身体に与えられた絶妙なる「しくみ」など、すべてにお世話になり、わがいのちを生きているのです。大変なはたらきなのです。どこにも自分のものなどないのです。みんないただきものなのです。
親鸞聖人は如来の慈悲、仏さまのはたらきこそ真実であるとお示しになりました。そこにおいて「人間していく」すがたとは何でしょうか。「有り難う」の合掌です。南無阿弥陀仏のお念仏です。ところが人間の煩悩・我欲は、わが命、わが思い、わが力だけで生きていると思い込んでいます。そしてそれは、政治、経済の現実の姿となって噴出するのです。領土をめぐり、日本の、韓国の、中国の...と角突き合わせてせめぎあっていますが、一体領土と称する島は誰が生み出したものなのですか? お互いに仲良く寄り添って利用させてもらうのが「人間していく」世界なのではないでしょうか。しかし、為政者は国防と称して軍事力を誇示し、せっかくいただいたいのちを破滅へと導く愚かさにのめり込もうとしています。すべて我欲に根ざした不自然が、不可思議なすばらしいいのちを滅亡させるのです。

■漆黒の宇宙に輝く宝石
碧(あお)く美しいオアシス
長大な河は、何マイルにもわたって緩(ゆる)やかに蛇行しながら、国を跨(また)いで悠然(ゆうぜん)と流れ、広大な森は、幾(いく)つもの国境を越えて、果てしなく広がっている。そして、ひとつの大海が、異なる大陸をつないでいる。眼下に展開する景色を見るや「それらは共有のものであり、互いに支えあっている」という言葉が脳裏に浮かぶ。すべてのものは、みなひとつの世界である。1985年7月29日、フロリダ州のケネディ宇宙センターから飛び立ち、同8月6日に帰還したスペースシャトルの宇宙飛行士、ジョン・デヴィッド・バートゥさんの言葉です。高度400キロメートル上空の宇宙ステーションの窓からは、地表の人工的な構造物など見る影もなく、地球は、漆黒(しっこく)の宇宙に碧(あお)く輝く宝石のように映り、大河も森林も大地も互いに調和して、ひとつの世界を形成しているということでしょう。凄(すさ)まじいエネルギーを放っている太陽を周回する地球は、その109分の1の直径しかない惑星であるといわれています。そして、その太陽でさえ、全天に点在する恒星のなかではありふれた星の一つであり、太陽の数百倍以上の大きさを誇る巨星も数多く存在しています。私たちは、はかり知ることのできない深淵(しんえん)な宇宙にある、小さな太陽系のオアシスのなかで生きているのです。
かけがえのない星で
地球の誕生から46億年、人類が現れて500万年といわれています。地球の年齢を365日とすると人類の年齢はわずか数時間です。そのなか、私たちはめざましい発展を遂げる一方で、利己的な利潤ばかりを追い求めては自然を破壊し、争いを繰り返しています。一体、私たちは何処を見て暮らしているのでしょうか。何ものにも代え難い碧い星を前にして、今、自らを振り返る時が訪れています。日常の生活のなかでは、地球規模で起こっているさまざまな悲劇は縁遠いように映るかもしれません。しかしながら、その多忙さに紛れて、同じ世界で生きているという思いが薄らいでいるように思えてなりません。デヴィッドさんをはじめ、宇宙飛行士の多くは「すべてのものは、みなひとつの世界である」という旨の言葉を残しています。私たちは、この言葉から何を学ぶべきなのでしょうか。
広がれ朋友への思い
釈尊は「すべてのものは移り変わるものであり、一時も同じところに止(とど)まっているものはない」という無常の道理を説いていらっしゃいます。碧く輝いている地球も、私たち人類も、永遠に存在し続けることなどできるはずもありません。地球を眺めている宇宙飛行士に鮮烈な感銘を与えているものは、あらゆるものが移り変わって行くなかで、互いに支えあって懸命(けんめい)に生きている美しい姿であるといえるでしょう。
蓮如上人の法語などが収録されている『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』には「信心を得たなら、先に浄土に生(うま)れるものは兄、後(あと)に生れるものは弟である」「仏恩(ぶっとん)を等しくいただくのであるから、同じ信心を得る。その上は世界中のだれもがみな兄弟である」とあります。その意は「移り変わる世界のなかで念仏を喜ぶものは、浄土にいらっしゃる方々と兄弟であり、それらのものは阿弥陀仏のはたらきのうちに抱かれている同朋(どうほう)である」ということです。そして、それはまた、わき起こる煩悩に向きあい、悲喜交わる人生に立ち向かっているあらゆる人々に対する、深い慈しみの心からあふれでた言葉であるともいえるでしょう。
漆黒の宇宙のなかで、大地や森林や大海がひとつになって碧く輝いている宝石のように、私たちも、私たち人類がつくりだした愚かな障壁を打ち破り、すべてのものはみな、かけがえのない朋友(ほうゆう)であるという思いを広く伝えていかなければならないでしょう。

■悲喜の初盆
亡き父といま再び
この8月は義父の初盆を迎えます。妻の父は昨年9月に92歳で往生し、まもなく一周忌でもあります。義父はごく普通のサラリーマンでした。ただ、妻からいえば祖母にあたる義父の母は大変熱心なご門徒で、朝夕、お仏壇で正信偈(しょうしんげ)を欠かさずおつとめされる方でした。義父はそんな母親の後ろ姿を見て育ったのでしょう。義父も定年後は朝夕、同じお仏壇で同じようにおつとめするのが日課でした。お酒が好きで、大食漢でしたが、身体が弱られて入院している時に、「ワシもお棺(かん)に入れられて焼かれるんやろうな...」と、ポツンと言われたそうです。自分の死期を何となく感じておられたのでしょうか。妻にとって父はもう見ることのできない人です。どんなに願っても再び姿を目にすることはできません。妻は口には出しませんが、心のどこかに、できるならもう一度会いたい、という気持ちがあるのだと思います。そんな妻にとって、今年の初盆は、見ることができない、触れることができない父に、再び出会う機会ではないかと思うのです。
永遠なる命を思う
幼少の頃は別にしても、自立した子どもが親の存命中に親を見る時、おそらく自分の都合で見ているように思います。もちろん、親の有り難さはたびたび感じます。しかし、その有り難さは、さまざまな援助をしてくれたというような条件付き≠ナはないでしょうか。人は記憶に刻まれた思い出によって亡き方を思います。しかし、単に記憶に残った思い出だけではなく、亡くなってはじめて無条件の有り難さ、こころの底から居るだけでいいというような有り難さ、そのような思いで、亡き方と出会うことになるのではないでしょうか。義父の初盆は、そんな「出会い」の象徴ともなることでしょう。それは単に亡父に会うということだけではありません。父につながるおじいさん、おばあさんにつながっていくことでしょう。さらに私につながっているすべての人、すべてのいのちと出会うということでもありましょう。そしてこのことが、自分が真実のいのちに気がつくということであり、私は亡き人に出会うことによって、はじめて生きていることの大切さ有り難さ、永遠なるいのちを知ることになるのではないでしょうか。
声で楽しむ世界
浄土真宗の篤信(とくしん)者を「妙好人(みょうこうにん)」と讃(たた)えます。その一人、島根県温泉津(ゆのつ)町の浅原才市さんは、「口(くち)アイ」と呼ばれるたくさんの信心の歌を残されています。その中に次の歌があります。
わたしゃ 極楽見たこたないが 声で楽しむ 南無阿弥陀仏
才市さんは、極楽は見たことがないといいます。それは浄土に往生された方の世界だからです。しかし同時に、お念仏で極楽を楽しんでいるといいます。私たちは、亡くなられた方と二度とこの世で会うことができません。会えないことは悲しみ以外の何ものでもありません。しかし、お念仏は阿弥陀さまが私を必ず極楽浄土に生まれさせるというよび声であり、そのお念仏の世界を通して、再び出会うことができるのです。
亡くなられた方の世界は見えない世界です。私たちが生きている人間の世界は見える世界です。見える世界は確かな世界、見えない世界は不確かな世界のように私たちは思っています。そして見える世界は美しく、見えない世界はおどろおどろしい世界のように思っています。でも果たしてそうなのでしょうか。無条件の有り難さ、こころの底から居るだけでいいと思うような有り難さ、そのような有り難いという思いの世界こそ美しく確かなものなのではないでしょうか。
親しい方の死は、たいへん悲しいものです。その悲しみが阿弥陀如来のよび声によって、あらゆるいのちとつながり、静かな喜びへと転じられていくのがお念仏の素晴らしさです。お盆とは、亡くなられた方を追悼(ついとう)し偲(しの)ぶためだけの場ではなく、お念仏によって私たちの悲しみが喜びに転じられる、かけがえのない機会なのです。

■仏さまになる?
本当に私の命?
仏教の目的は仏さまになることです。あるお寺で「みなさんは仏さまになりたいですか?」と問いかけましたら、多くの人はぽかんとしていました。しばらくして、「そんなことは考えたこともないわ」という人、「私は仏さまになりたいと思わない」という方、いろいろなご意見を聞かせていただけました。私が仏さまに成(な)るとは、現実の生活の中で、どんな意味があるのか考えてみましょう。お釈迦さまは、人間として避けることができない老病死の苦しみからの解放を目的として、王さまになる地位を捨て出家され、縁起の道理に目覚め、覚(さと)られました。縁起の道理とは、私という存在はたくさんの因縁によって生かされているということです。私たちは自分で生きていると思っていますが、お釈迦さまは、たくさんのご縁が集まって私になってくださっているという命の事実、本当の相(すがた)に目覚められました。もともと私という存在はなく(無我)、いろいろなご縁が集まって私が存在している事実(縁起の教え)に目覚めさせていただくと、私が私が≠ニ、我(が)に執着して苦しむ自分の姿に気づかされます。若さに執着するから老いの苦しみが始まり、健康に執着して病気を忌(い)み嫌い、生きることに執着するあまり、死をタブー化してしまいます。しかし私の苦しみは老病死という事実ではなく、若さ・健康・生に執着することにより生じるのです。私たちは、私のお金、私の家族、私の命と思っていますが、よく考えてみると私のお金、家族、命というより、ご縁によって一時的に私のものになっているにすぎません。ですからご縁がなくなれば私から離れていきます。私の命と思っていますが、私の思いとは無関係に心臓が動き続け、呼吸しているのが事実です。私の命というなら心臓の動き、呼吸を自由にできるはずです。例えば生きることに絶望し死んでしまおうかと思いつめた時、自分で心臓の動きを止めることができるでしょうか? そんなことは不可能でしょう。仏さまになるとは、私の思いを超えた大きな命のはたらきの中に生かされている私の本当の姿があきらかになり、老病死という苦悩の原因がはっきり自覚されて生きる者になることです。
人生が転換される
自分の思いに執着して苦しむ私を目覚めさせようとするはたらきかけが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が私にはたらいて私のお念仏となります。お念仏は仏さまにお願い事をする言葉だとか、お葬式の時に称える言葉、呪文(じゅもん)だと人によってさまざまな受け取り方がされていますが、親鸞聖人は仏さまのはたらきかけがよび声となって届いたのがお念仏ですよと教えてくださいます。色もなく、形もましまさぬ仏さまが、すべての人が受け取り易(やす)く、保ち易いことばの仏さまとなって私によびかけてくださっているのが、南無阿弥陀仏です。よび声ですからいろいろなご縁を通して、お念仏を聞き続けるうちに、私をよびづめによんでくださってあった仏さまのおよび声であったことに気づかされます。および声が聞こえてきたら、今まで避けていた現実を認め、自分にとって不都合なこともご縁と受け入れる人生に転換されます。
私たちは与えられた事実を自分の都合でとらえて、自分の思いにかなえば幸せ、思い通りにならなければ不幸だと考えますが、このような幸福感は老病死という不都合な事実にであうといきづまります。自分の思いを中心とするのでなく、大きな命の中に生かされてあった自分の本当の姿に目覚めると、生かされていること自体の安心・満足・喜びが与えられます。多くのご縁によって生かされている自分の姿に気づいた時、何事もご縁でありましたと、不都合な事実も受け入れていく人生が開かれます。
ご縁 ご縁 みなご縁 困ったことも みなご縁 ナムアミダブツにあうご縁   木村無相

■仏法に照らされて
「乗せて」いただく私
「主人は毎日、正信偈をおつとめしてお念仏申しておりましたが、お浄土に参って仏となれましたでしょうか?」 先日、ご主人を亡くされた方から、このような相談を受けました。私はこう申し上げました。「大丈夫ですよ、ご主人は先の列車に乗られただけです。阿弥陀さまは、生死(しょうじ)のことについて全く無力な私たちをいつも包み込んでいてくださいますから、必ず摂取不捨(せっしゅふしゃ)(摂(おさ)め取って捨てない)の利益(りやく)にあずかります。ですから、今生(こんじょう)の命尽(つ)きた時、必ず仏とならせていただくのです。そして、私たちも同じ本願力によって、阿弥陀経にある倶会一処(くえいっしょ)(倶(とも)に一つの処(ところ)で会う)なのだと喜べるのです」 後日、奥さまから「あれから心が落ち着きました」と聞かせていただきました。きっと、奥さまにも阿弥陀さまのお喚(よ)び声が届いたのでしょう。親鸞聖人の『高僧和讃』に、「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とあります。阿弥陀さまの弘誓の船は、私が「乗って」ではなく、阿弥陀さまが「乗せて」ですから、私がいつどのようにあっても必ず乗せてくださるのです。これは、正に私が阿弥陀さまに抱(いだ)かれているからこそです。私たちは、生死について全く無力ですから、ただただ「あなかしこ あなかしこ。有り難いことです、もったないことです」といただくばかりです。
つかめない信心
この春、89歳になる母が介護施設に入所しました。見舞いに行くと母は決まって言います。「忙しいから、体に気をつけて早く帰りなさい。帰り道は気をつけなさい」と、自分のことで精いっぱいなはずなのに、私のことばかりを気にかけるのです。そんな母の思いに接するたびに、親は子どもが何か言う前に察して、心配してくれているのだなあと思わずにはいられませんでした。そんな私を、真に支えてくださる本当の親こそ阿弥陀さまです。阿弥陀さまは無条件で私を救ってくださいます。「そのまま救うから我(われ)にまかせよ」と常に私に寄り添い喚(よ)び掛け続けてくださっているのです。この喚び声が私の心に至り届いた時、私の自己中心的な本当の姿が明らかになりました。そして、今まで私は自分の命を大まかな意味でしか捉えることができませんでしたが、そんな私が、永遠の「いのち」の中に生かされてあったんだと気付かせていただいたことです。
主役は私ではなく阿弥陀さまです。私は常に阿弥陀さまに抱かれているのです。たとえこの身が病気であっても、貧しくても、人がどう思おうと、すべて「おかげさま」と受け入れることができるのです。この仏法に照らされ、名号(みょうごう)(南無阿弥陀仏)が私に至り届いたことを、真実信心をいただいたと申します。親鸞聖人は「念仏のみぞまこと(真実)にておはします」といわれ、名号すなはち信心と示されるのです。それを不実(ふじつ)(真実と反対)である私が、「マコトノココロ」である信心を得よう、取ろうとすると、不実な私が主体となりますから、信心に疑いが生じてしまうことになります。蓮如上人は、『御一代記聞書』(ごいちだいきききがき)で、ある人から「私の心はまるで籠(かご)に水を入れるようなもので、法話を聞いている時は有り難いのですが、その場を離れるとたちまち元の心に戻ってしまいます」という悩みを打ち明けられます。これに対し、「その籠を水の中につけなさい、わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と上人はおっしゃいます。真実信心をいただくくとは、「私」がつかむものではなく、疑いのない「仏法(信心)」に素直につからせていただく方向なのです。
私は、この阿弥陀さまのご信心につからせていただくということを、正信偈の最後にある「道俗時衆共同心」(どうぞくじしゅうぐどうしん)で味わっています。僧侶でも、一般の方でも、今ここに生きるすべての人々が共に同じ阿弥陀さまのご信心につからせていただくことによって、煩悩を断(た)たずして、皆ともに救われていくお心だと、いただいております。

■現実をささえるみ教え
「かわいいねぇ・・・」
愛知県刈谷市で布教所を開所させていただいて、二度目の夏を迎えました。本願寺派の盛んな九州や中四国、北陸地方からこの東海地方に移り住み、故郷で過ごしたのと同じお盆の過ごし方を望まれるご門徒の方々と共に過ごす夏のひと時は、大いにこころ楽しいものでした。そんな今年のお盆の最中、珍しいお客がありました。中学校時代の同級生がご家族をともなって、広島県から愛知県までお参りに来てくださったのです。この同級生ご夫婦がお寺にお参りされるようになったのは、10年ほど前の出来事をご縁としています。生まれたばかりの双子の女の子と男の子を、半月足らずで相次いで亡くされたのでした。同級生は、私が僧侶の道を歩んでいることを知っていたため、「お経をあげてもらえないか」と連絡をくれたのです。その時、私は長崎県で法務に就くべく、転居したばかりでしたが、事情をお伝えすると法務先のご住職は快く広島県へのとんぼ返りを許してくださいました。同級生の自宅に着いたのは夜半を過ぎていました。
その赤ちゃんは、初めて病院の保育器から出ることを許されたのだそうです。とても小さな棺(ひつぎ)がないため、木製ではなく発泡スチロールの棺の中、脱脂綿でくるまれた小さな男の子の姿を、どうしても私は忘れることができずにいます。女の子の方が先に亡くなったので、すでに荼毘(だび)に付され、小さな骨壺が安置されていました。出産後すぐに滅菌された保育器に移されたため、手袋越しでしか子どもに触れることができなかったそうで、ようやく子どもの顔をじかに撫(な)でることができたと、お母さんがずっと子どものかたわらに寄り添っていらっしゃいました。子どもの皮膚は薄く、輸液で栄養を摂取していると頬がひび割れてしまうので、絆創膏(ばんそうこう)が貼(は)ってありました。医療用の絆創膏は飾り気がなくてかわいそうだと、お母さんの手でアンパンマンの顔が描かれていました。子どもが生まれてから亡くなるまで、2週間ほどの出来事を聞かせていただきながら、私も女の子の骨壺を抱かせていただき、男の子の頭を撫でさせていただきました。「かわいいねぇ」と泣きながら。それから双子の中陰(ちゅういん)法要をはじめ、百か日法要、初盆法要、一周忌法要をご縁として、ともに浄土真宗のみ教えに親しませていただきました。
私たち一人ひとりに
「つつしんで浄土真宗を案(あん)ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり」 「還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地(りたきょうけじ)の益(やく)なり」 
わが子を亡くした悲しみで「自分も死んでしまえたら」と思っても、死ねなかった。親子であっても、別々の命であると向き合うからこそ、現実の世界を生きる厳しさが明らかにされます。そして厳しい現実を生きなければならない、寂しい私たちに等しく恵まれているお念仏が、決して一人にはしないとはたらきかけてくださいます。現在、同級生ご夫婦は、6歳の男の子と2歳の女の子に恵まれています。二人とも空手を習っているので力も強く、ケンカともなれば騒がしいこと、この上ありません。その兄妹が、お浄土へ生まれて往(ゆ)かれた姉と兄の写真をご仏前に安置し、ご両親と一緒に「南無阿弥陀仏、なもあみだぶつ」と称(たた)えています。このお姿を見させていただくたび、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきが間違いなく私たち一人ひとりに届いていることを聞かせていただいています。
ひとたび仏と生まれた方々が、いつでも私の称えるお念仏として寄り添ってくださることを味わわせていただいています。「家庭を構(かま)えるって、素晴らしいことだね」 「おじさんは結婚しないの?」 「...結婚はね、一人ではできんのよ...」

■寿限無(じゅげむ)・寿限無(じゅげむ)
人間にうまれて・・・
「寿限無(じゅげむ)・寿限無、五劫(ごこう)の擦(す)り切れ...」で始まる落語「寿限無」は、いのちに限りなしという意味です。仏教用語でこれを書くと「無量寿」でしょうし、古いインドの言葉では「ア・ミター」。これを漢字で表すと「阿弥陀」。寿限無とは阿弥陀さまに通じることだったのです。阿弥陀さまは「願い」を持たれた仏さまで、「すべてのいのちを救いたい」と強く深い誓いを立てられたお方です。私たちは限りのある時間を生きています。仏教では流転(るてん)していると説いています。「生死流転(しょうじるてん)」という世界観でこの世を理解しているのです。人間に生まれる前は、縁によって何らかの生き物であったというのです。私は今生(こんじょう)で、人間として53年も生かしていただきました。何とかこうして人生を歩めるようにお育ていただきましたが、この後50年はさすがになさそうです。瞬く間に時は過ぎ、寿命の折り返し地点は過ぎ去りました。わがままを繰り返した人生でした。思いの叶(かな)うこともありましたが、どちらかというと不自由で忍耐しなければならないことのほうが多く、努力と工夫を必要とした人生だったと振り返ってみたりしています。
私たちの生死流転するいのちは「分段生死(ぶんだんしょうじ)」といわれ、前の生の記憶は全くないそうです。ひょっとすると、私は鳥だったかもしれませんね。朝飛び立つ時には「昨日は5匹しかついばんでないので、お腹(なか)が空(す)いたなあー。今日は10匹くらいは欲しいね」と出かけていき、満腹で帰ってきても、木の枝につかまって、うつらうつらしている間に朝がきます。忙しすぎてお腹が空きすぎて、安心した一生ではないようです。その前はミミズだったかもしれません。目の前の土を食べては栄養を吸収し、ずっと地中の生活のつもりでしたが、ふと地上に顔を出した瞬間、鳥の餌食(えじき)となってしまいます。その前もそのまた前の生も、忙しすぎて、ひもじすぎて、不安の中をさまよったことでしょう。仏さまの存在を思う余裕なんて皆無。なぜかこのたびは人間に生まれ、親に育てられ、人さまから学ばせていただき、多くの出会いを恵まれました。とりわけこのいのちの流れを知ったとき、感動となって生きられる身となったことでした。きっと仏さまが私のいのちにご縁を結んでくださったことだろうとお察し申し上げる次第です。
必ず会える世界
「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く」といわれます。とりわけこのたびは、素晴らしいお救いに出遇(あ)えました。すべてのいのちを責任もって二度と悪い世界に戻らないようにするからと、この私のために誓いを立てられた仏さまに出遇わせていただいたのです。「南無阿弥陀仏」は素晴らしいです。あらゆる仏さまたちが「最高の救いをよくぞつくられ達成されました!」とほめたたえるほどの最高の救いです。「南無阿弥陀仏」をこの私に届け、安心して任せてほしい、次のいのちは無量のいのちになることを完成したからね...と。ようやくその阿弥陀さまのよび声が、この私のうえに届いてくださいました。いのちのはかなさを思いつつも、この世の縁が尽きるその時まで、精いっぱい歩ませていただこうと思います。この世で出会った縁は、今までもそうでしたが、次のいのちに花開いていくのですね。先に生まれていった多くの親しかった人、この世でもう会えないと別れた人々...。そうした方々と会える世界を阿弥陀さまがご用意くださっているのです。
阿弥陀さまの浄土は「倶会一処(くえいっしょ)」、必ず会えると聞かせていただきました。この世で出会った縁はいつか消えてなくなりますが、親子・兄弟・夫婦・友人知人・同僚...と、さまざまな方々と再び出会えることを人生の楽しみにできるのです。必ず会える世界、無量のいのちとなって待っていてくださる世界に向かう人生が開けてきます。寿限無・無量寿・阿弥陀。素晴らしい出会いをこれからも続けていこうと思います。人生に起きるさまざまな出来事を、お浄土への楽しいお土産と思って歩んでいこうと思います。

■"ともに生きていく"
チベット難民を支援
インドやネパール在住のチベット難民の支援活動を続けて30年がたちました。ネパールの難民キャンプには特に教育と医療の面での支援を中心にしていますので、必ず学校を訪問します。何度も訪問していると、校長先生ほかスタッフの方など知り合いが多くなります。訪問するたびに新しい経験をしています。ネパールのカトマンズ郊外にあるチベット難民の学校を訪問した時のことです。着いた時が昼食の時間でした。この学校はほとんど全寮制なので、男子生徒は体育館で、女子生徒は寮の食堂で昼食をとります。体育館に入った時、ちょうど生徒たちは席に着いていました。いきなり昼食が入っているトレーを額(ひたい)の上に持っていき、食前の言葉らしきチベットの言葉を発しました。食べ物を額の上まで持っていく行為は、私たちが「食前のことば」の最後に「いただきます」と言うのと似ているので驚きました。私たちも、おつとめの前に聖典を額の前に「いただいて」から開き、おつとめが終わると聖典を閉じ「いただいて」終わることを作法としています。聖典の中の「教え」を敬う気持ちを形に表すわけです。「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」という私たちの「食前のことば」と同じ意味の心が、トレーを額まで上げるという形で示されているのでしょう。同じ仏教徒の心を感じました。
共生のスローガン
この学校の玄関を入ったところの壁には、英語のスローガンがかけてありました。私なりに解釈しますと「この学校での生活を楽しみましょう。そして幸せになりたいと思うなら、他者を幸せに」という内容でした。校長室でこのスローガンの話になりました。これは、慈悲喜捨(じひきしゃ)の精神をあらわした言葉で、子どもの時から非殺生(ひせっしょう)、非暴力(ひぼうりょく)の仏教精神を育てるための教育理念の一つであると言っておられました。また、海外の支援団体から援助された食料などを、学校周辺のお年寄りや障害を持ったネパール人に分けたり、仕事のないネパール人女性にミシンの使い方を教えたりして、「ともに生きていく」という精神の共生教育を行っていると話しておられました。まさにスローガンを実践している姿です。
仏教徒のチベット人の家庭でも、殺生をしないという生き方があります。知り合いになったチベット人の家庭で、子どもが蚊(か)を窓から外へ追い出している姿を見たことがあります。私たち浄土真宗の生き方にも「いのち」を大切にする、できるだけ殺生をしないという生活スタイルがありました。広島大学で教授をされていた有元正雄先生の著書『真宗の宗教社会史』には、門徒の生活が、1殺生を嫌う、したがって堕胎(だたい)・間引きの忌諱(きい)による人口増加、2勤勉・忍耐・節倹(せっけん)などのエートス(慣習や雰囲気)をもつこと、3どこに住んでも弥陀の救いに変化がないと郷里に恋着がないこと、とその特徴をあげて、ハワイやアメリカへ多くの門徒が移民していった要素をあげておられます。
私も小さい頃、友達と魚釣りに行った時、それを見ていた人から父に話が伝わり、その晩、父に怒られたものです。食卓には魚があって、寺の子は魚釣りはダメ、その矛盾に不満がありました。でも後にわかるのです。いのちをとってしか生きてはいけない私たちが、できるだけ殺生を避けていくことで、どんなに小さい「いのち」も大切にしていく生き方をまもっているのです。チベット難民の仏教徒もまさに同じ生き方をしておられます。仏教徒は三宝(さんぽう)に帰依(きえ)します。「三帰依(さんきえ)」を称(とな)えることが仏教徒の証(あかし)です。その三番目、南無帰依僧(なもきえそう)の「僧」(サンガ)をどの範囲まで意識しているでしょうか。サンガをお念仏の仲間から同じ仏教徒の枠まで広げて「同朋(どうぼう)」といただくこともできるでしょう。今年6月にスタートした宗門総合振興計画の基本方針の一つ「自他ともに心豊かに生きる生活の実践」の中に、難民として苦難な状況にある仏教徒を仲間として支援していくことも、その一つににかなうものと確信しております。

■生きる意味って何ですか
人とのつながりの中
「生きる意味ってどこにあるんですか?」 縁あって仲間とはじめた「NPO法人京都自死・自殺相談センター」が今年で6年目を迎えました。6年の間にさまざまなご相談を受けましたが、私がもっとも印象に残っているのが、この言葉です。「こんな苦しい状況で生きていて意味があるんですか?」 「私に生きる価値はあるんでしょうか?」 いままさに「死にたい」と考えておられる方からの問いかけに、私はすぐにお応(こた)えすることができませんでした。いったい、自分の存在の意味や価値はどのようなときに感じられるのでしょうか。3年前、こんな出来事がありました。事務所に若い男性が相談に来られました。その日、事務所は刊行物の発送作業が重なっており、多くのボランティアでにぎわっていました。その片隅のソファで向きあい、お話に耳を傾けます。
1年前に両親を亡くされたその方は、仕事も見つからず一人ぼっちで「生きる意味」を見いだせないこと、そしてこの面談の後に自死するつもりであることを途切れ途切れの声で話されました。固い決意の前に、内心焦りが募ります。その時です。切手貼(は)りをしていたボランティアの一人が、大量の封筒を前に「人手が足りないなあ」と漏(も)らしたのです。私は「あっ」と思って、恐る恐る相談者の方に「もしよかったら一緒にお手伝いいただけませんか」と尋ねました。すると「私でよければ」と快諾され、半日にわたり一緒に作業をしてくださいました。そして帰り際、数人のボランティアから「本当に助かったよ、ありがとう」とお礼を言われると、「また来てもいいですか。人手がなければいつでも言ってください」と、明るい表情で帰られたのです。「自分の命のかけがえのなさ」や「大切さ」。それらは「自分自身」をどれほど見つめていってもなかなか感じられるものではありません。見つめれば見つめるほど、取るに足りない自分が露(あら)わになってくる場合もあるでしょう。そうではなく、私たちは「誰かにとって必要とされること」「大切な存在であること」、つまり「他者」とのつながりのなかでこそ、はじめて「自分の大切さ」が実感できるのではないでしょうか。私は相談を通して、そのことにあらためて気づかされたのです。
私へのよびかけ
大乗仏教の経典には、「インドラの網(あみ)」という有名な譬喩(ひゆ)が示されています。インドラとは、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られている古代インドの神様です。その宮殿の天井を飾っている網の結び目の一つひとつには宝珠(ほうしゅ)が結(ゆ)わえられており、それらがちょうど合わせ鏡のように互いに互いを映(うつ)し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。孤立し、ひとりぼっちで生きているかに見えるこの「私」は、実際には、さまざまな他者とわかちがたく結びつき、かかわり合いながら生きているということ――。それこそがこの世界における真実のあり方であるというのです。「生きる意味」を見失いかけたとき、「あなたが必要だ」「あなたはここにいていいんだ」という他者からの「よびかけ」こそが、そうした関係性を「再発見」させていくのではないでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀さまのお救いについて、『浄土和讃』で次のように讃(たた)えておられます。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる
あらゆる世界のいのちあるものに対し、光明のなかにおさめとって捨てることがない阿弥陀さま。その「よび声」は「南無(なむ)阿弥陀仏」のお念仏となって、今この私のもとに届けられています。さまざまな問題に悩み、孤独を抱(かか)え、ときには死をも考えるこの「私」に対し、よびかけつづけ、見守りつづけてくださっているということ。ここに、「生きる意味」を支える確かなはたらきがあると気づかされるのです。

■「死にたい。でも怖い」
頭ではわかるのに・・・
「一生のうちにどうしても出会わねばならない人がいる。それは自分自身だ」と聞いたことがあります。自分自身に出会うとはどういうことでしょうか?一人の女性を通して、有り難い気付きをいただきました。彼女は70代前半の方で、幼い頃からお寺で聴聞されていました。そんな彼女が1年前にがんと診断され、うつも発症し、家族に不安や怒りなど、つらい思いをぶつけてこられました。そして病状が進行し自宅で過ごすことが困難になり、私が勤めている病院に入院されました。当初は「死にたい。生きてても何もいいことはない。どうせ死ぬのになぜ食べないといけないの? 怖い、大丈夫かな? 死にたい...」と、会うたびに固い表情で言われました。そして僧侶でもある私に「ご法話も聞いたし、頭ではわかるんです。阿弥陀さまもお浄土もあるということは...。でもどうしても今がつらいんです。苦しいんです。頭でわかることと、現実とのギャップが苦しいんです」と。
私はただ聞くことしかできませんでした。そして彼女の思いを聞かせていただく日が10日ほど続いた日のこと。この日も病室にうかがい、お顔を見た瞬間、今までにないスッキリとした表情に気付きました。しかし、あえて触れず、いつも通り血圧を測っていると、彼女から話し出されました。「東さん、今まで無事に死ねなかった人はいないんですね。肝の据わった人も、私のような怖がりも、みんな...私も無事に死んでいけるんですね...」 私は鳥肌が立ち、とても大切なことに気付かれたんだ、苦しみ抜かれたからこそ出たお言葉なのかと思い、心が強く突き動かされるような驚きと喜びを感じました。彼女は本当に美しいお顔でした。「そうですね、あなたから教えていただきました。無事に死んでいけない人は今までにいませんよね。生まれたからには必ず死にます。でも、それは必ず無事に死んでいけるってことですよね。有り難いことですね」とお返しし、共に穏やかで優しい時間を過ごさせていただきました。この日以来、彼女の口から二度と「死にたい。怖い」という言葉は聞かれなくなりました。その3日後に静かに息を引き取られました。
いつもいだかれて
人は当たり前のことに気付かされた時、初めて、今まで見えなかった世界が見えてきます。「死にたい。でも怖い」とあれほど繰り返し苦しい思いを訴えていた彼女から「無事に死んでいけるんですね」と。このお言葉の意味するところは、解決できない苦を抱えたまま、この身のままおまかせすればいいんだと気付かれたところに、この上ない安心を得ていかれたのだといただきました。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
「必ず救う。我にまかせよ」という阿弥陀さまの私にかけられた願いが、彼女にも私にも至り届いているにもかかわらず、それに気付かなければ、私たちは不安と苦しみから逃れることはできません。私の力で生死(しょうじ)、つまり迷いを超えていくことなど到底できないのです。なのに、それをどうにかしようと、もがき苦しむのが私たちの偽りなき姿です。しかし、こんな救われようのない私だからこその阿弥陀さまの願いであったと気付かされた時、初めて、余計な力が抜け、私の力でどうしようもないことに必死でもがき、苦しむ必要がなくなります。安心して泣き、笑い、そして死んでいける。苦しみと喜びは別にあるのではないのです。自分自身に出会うということは、教えに出会うということ。教えに出会うと、自分の置かれた場所、いのちの行き先が見えてきます。身の丈いっぱいに精いっぱい生きる中、自分の力ではどうしようもない生死のことはすべておまかせすればいい。それは投げやりに生きることでは決してありません。与えられたいのちに「ありがとう」と言える生き方であり、どのような自分であっても「自分であってよかった」と言える人生を歩ませていただけることです。  
 

 

■通夜と葬儀と告別式
何がどう違うの?
私は現在45歳ですが、年齢のせいでしょうか、若い時にはあまりなかったお葬式や仏事についての質問や相談を、同年代の友人から受けることが多くなりました。あるとき友人から、「お通夜とお葬式って、どっちに出たらいいんだ?」と聞かれました。「そりゃあどちらも出た方がいいけど、1回というならお葬式だよ」と答えると、「えっ、お通夜だけはダメなの?」と聞き返されました。「本当はね。ただ仕事の関係とかでお通夜だけという人も実際増えたし、遺族としてもお通夜だけのお参りはお断りと言えないしねぇ」と返すと、友人は少し憤慨して「大体、なんでお通夜とお葬式と2回もあるんだよ。何がどう違うんだよ」とのご発言。最後の言葉は友人同士だからこそ出たのでしょうが、言葉に出さなくても、このことを聞きたいと思ってる人は意外と多いのではないでしょうか。お通夜とお葬式の違いはいろいろとありますが、一番の違いは、通夜は生きていた方(の最後の夜)として接し、お葬式は亡くなった方として接するという点にあります。お通夜はもともと「夜伽」(よとぎ)と呼ばれ、身内の者が亡き方を生きた方として一晩中お世話をしていたことがルーツです。
お慈悲を仰げる場に
最近は仕事の関係でしょうか、本来は身内のみでつとめていたお通夜に、仕事の関係者などいわゆる一般参列の方がお参りされて、まるでお葬式のようにつとまり、一方で仕事を抜けてお参りしなければならないお葬式の方が身内ばかりで、お通夜のようにつとまるという逆転現象も起こっています。私の同年代に聞くと、お通夜は一般参列を含めて皆が参るもの、お葬式は主に身内でつとめるものだと思っている人がけっこう多いようです。お通夜もお葬式も今や自宅ではほとんど行われず、葬儀会館で行われるという現実もこれに拍車をかけているのでしょう。本来は式ではないお通夜が通夜式と呼ばれたりするなど、いろいろな面で、お通夜のお葬式化を目のあたりにする機会が増えました。
一方で、お葬式に代わって告別式という表現が増えてきたように感じます。会場の看板には、「通夜式○時、告別式○時」と書かれたものも多く、お葬式の開式にあたっても、「葬儀並びに告別式を執り行います」という表現も珍しくありません。しかしながら、告別式とは明治時代に、葬儀の代わりに行われるようになったものが始まりですから、浄土真宗の作法にのっとるのであれば、普通に「葬儀を開式します」というべきです。また、告別式とは、「別れを告げる式」ですが、浄土真宗の教義から言えば、この「別れを告げる」という言葉についても慎重であるべきでしょう。
親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり」とお示しくださっています。亡き方はお浄土にいき、それで終わりということではないのです。お葬式は亡くなった方に別れを告げる場ではなく、お浄土での再会を誓う場であり、また、すでに仏となられた故人の、お浄土からの還相摂化(げんそうせっけ)のおはたらきを受けている場でもあります。
弔辞などでよくお聞きする、「お浄土でまた会える日を...」というお言葉も、もちろんその通りではあるのですが、弔辞を述べていらっしゃる方にとっての今という時間が、亡き方とお浄土で再会するまでの、ただただつらいだけの、辛抱の時間に終わってしまっているということであれば、私たちが宗祖のお心を伝えきれていないということでもあります。ただ、これらの考えは浄土真宗の教義に基づくものではありますが、ご遺族がそのように感じているかは全く別の問題となります。日頃の教化活動も確かに大切ではありますが、お通夜やお葬式の場が決して教義の押し付けにならないよう、しかしながら、阿弥陀さまを中心にご安置するということに一本の筋を通し、その場にいるもの全員がともに阿弥陀さまのお慈悲を仰いでいけるような、遺族と僧侶にとってもっともよいお通夜やお葬式の形を考え続けていきたいと思っています。

■人生を振り返って
泥の中の美しい花
人生を振り返って後悔することはありませんか?罪の意識に苦しむことはありませんか?取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。反省は懺悔(ざんげ)の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。「申しわけありません」と思う気づきは、「どんなあなたであろうと、決して見捨てはしません」という、今まさに目の前にある阿弥陀さまのお心に気づくご縁となることでもあります。阿弥陀さまは、私と一緒に苦しんでくださり、悲しんでくださっています。私たちは、そんな阿弥陀さまの深い思いを胸に抱いて歩むのです。阿弥陀さまは、いつも私たちの心の底を静かに照らされています。その思いに照らされて、私の愚かさを知らされるとき、泥の中に根を張りながら、泥に染まらないで美しい花を咲かせる蓮(はす)のような輝きを放ち始めるのが、心の底から湧き起こる懺悔の気持ちです。何度となく自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも、「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気を出そう。何か今からでも私にできることはないだろうか」「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて素直に生きてみよう」と、毎日新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになるのです。ありのままの私をまるごと受け入れてくださる阿弥陀さまのお心が、私を生かし、今日を新たに歩ませてくださる力になるのです。
ほんとうの幸せとは
私たちは、過ぎ去った過去を変えることも、明日の私に触れることもできません。しかし、今日の私のいのちは見つめることができます。私たちは、生きていることを当たり前のように思っていますが、一切のものは時々刻々と移り変わり、生滅(しょうめつ)していますから、縁に会えば今日が人生最後の日でも不思議ではありません。人のいのちのはかなさが、悲しさが、身に染みます。通り過ぎていく時間の中で、二度とない今日一日のいのちの尊さに触れるとき、「あなたをどうしても助けたい」と誓われた阿弥陀さまの願いに包まれて生きる、生死(しょうじ)を乗り越えて生きるいのちに気づかされます。また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。
お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰(おお)せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界です。しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起こったら、真実に耳を傾けることができたら...。誰にも言えなかった私の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り、「ああそうだったのか」と合掌している私がいたら...、それは尊いことです。阿弥陀さまがご本願を起こされたのは、どうしても救われなければいけない私がここにいるからです。阿弥陀さまのお心は、すべてのいのちを救い幸せにするという大慈悲のお心です。すべてのいのちを救うとは、この私も絶対に救われるということなのです。阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖(こわ)くてうつむく私をそっと抱きあたため、淡々と凛々(りんりん)と悠々と生きられるようにやすらぎを、喜びを与えてくださるのです。何が起こっても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。これだけは忘れてはいけません。私たちは、私を決して見捨てられない、その阿弥陀さまの大慈悲のお心の中に、すでにいるのです。私の目に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。

■なぜなら、それが・・・
ハニーハンター
ヒマラヤの奥地。崖(がけ)に作られた巨大な蜂の巣から、昔ながらの方法で蜂蜜を採って暮らす人々がいます。人呼んでハニーハンター。以前、その達人ぶりがテレビで紹介されました。ずいぶん前に一度見ただけなのですが、妙に記憶に残っています。というのも、ナレーションがたいへん印象的だったからです。ハニーハンターは、断崖絶壁を簡素な縄ばしごで降り、宙吊(づ)りのまま巣に向かいます。一歩間違えば転落死。なぜ、そこまでの危険を冒すのか?〈ナレーション〉「なぜなら、それがハニーハンターだから」 ハニーハンターが巣を切り取りにかかると、当然のように蜂が全身に群がり刺しまくってきます。しかし彼らは黙々と働き続けます。なぜ、平気なのか?〈ナレーション〉「なぜなら、それがハニーハンターだから」 ずっとこんな調子なのです。この姿を見よ、他に説明は不要。そこには理屈を超えた不思議な説得力がありました。
本願、本願、本願
場所と時代は変わって、中国は唐代のはじめ。長安の都に一人の僧がいました。善導大師(ぜんどうだいし)です。大師は、南無阿弥陀仏と称(とな)えて浄土に往生する念仏往生の教えを、人々に精力的に説いておられました。ところが当時、念仏往生の教えには逆風が吹いていました。高名な僧たちが複雑な仏教理論を用いて、こう主張していたのです。念仏は簡単すぎる、それだけで往生はできぬと。そんな中で善導大師はただ独り、念仏往生に間違いなしと明らかに説かれたのです。なぜ、間違いないのか?「なぜなら、それが仏の本願だから」 人間が組み立てた理論ではない。どうしようもない愚か者を念仏によって必ず救うと、仏さまが願っている。それが、何ものにも比べられない、確かな根拠だったのです。
場所と時代は変わって、日本は平安時代の末。比叡山に壮年の学僧がいました。法然聖人です。聖人は長い苦悩の中にいました。修行を重ねても開けない心。私は仏道を歩める器ではないのか。蔵にこもり、涙ながらに仏典に答えを求めていたのです。そんなある日、善導大師の言葉が目に止まりました。
――いつでもどこでも念仏、それこそが正しき浄土往生の道である――
この言葉によって、法然聖人は比叡山を離れ、念仏ひとつの道を歩まれることとなったのです。なぜ、あらゆる修行を捨てて念仏ひとつなのか?「なぜなら、それが仏の本願だから」 修行を達成できる立派な人だけが仏道を歩めるのではない。どうしようもない愚か者を念仏によって必ず救うと、仏さまが願っている。それが、何ものにも比べられない、確かな根拠だったのです。場所と時代は変わって、日本は鎌倉時代の半ば。京都市中(しちゅう)に八十五歳の老僧が住んでいました。親鸞聖人です。法然聖人の元で学んでいたときから五十年あまり。その教えを静かに振り返る日々を送っておられました。そんなある日、親鸞聖人が見た夢の中に、ひとつの和讃が浮かんできたのです。
弥陀(みだ)の本願信(ほんがんしん)ずべし 本願信(ほんがんしん)ずるひとはみな 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうかく)をばさとるなり
やはりご本願であった。ご本願こそさとりの源であった。聖人は深いよろこびをもって、この和讃を書き留めました。聖人が、息子・善鸞(ぜんらん)との縁を切ったのはこの前の年のことでした。あろうことか、父からの教えと偽(いつわ)って、弥陀の本願はもう不要になったと人々に説いた善鸞。わが子にすら正しい教えを伝えることができず、多くの人々に道を誤らせてしまったという苦悩は、聖人から消えることはなかったでしょう。なぜ、こんな自分がさとりを開けるのか?「なぜなら、それが仏の本願だから」 条件などない。はからうことなど何もない。どうしようもない愚か者を念仏によって必ず救うと、仏さまが願っている。それが、それだけが、何ものにも比べられない、確かな根拠だったのです。

■一茶のまなざし
念仏者の生き様から
人ならば仏性(ほとけしょう)なるなまこ哉(かな) 江戸時代の俳人・小林一茶の句です。一茶は1763年、現在の長野県信濃町柏原で農家の長男として生まれますが、3歳の時に母を亡くしています。そのような生い立ちからでしょう、有名な句「我と来て遊べや親のない雀」があります。15歳で江戸へ出て、20代からの2万句とも言われる一茶の句には、蝶(ちょう)、蛍(ほたる)、蚊(か)やハエなどの虫、動植物がたくさん出てきます。そこには動植物との一体感が読み取れます。また、熱心な念仏者であった祖母、父親の影響もあり、念仏生活の中で育てられた一茶にとって、俳人としての旅は、そのまま仏法求道の旅であったのではないでしょうか。40代後半から65歳で亡くなるまでの句にはお念仏の句も多く、社会的弱者の視点とともに、念仏者の視点から、いや念仏者の生き様から詠まれているように私には感じられます。さて、「人ならば仏性なるなまこ哉」の句は一茶48歳の時のものです。「なまこよ、もしも人間ならば仏になれるのになあ」との意でしょう。一茶がなぜなまこに仏性を見ているのでしょうか。その背景には『古事記』の中にある一節が関わっていると思われます。
絶望などない一本線
『古事記』によると、アメノウズメノミコト(神様の前で踊りをする踊り子)が、すべての大きな魚、小さな魚を追い集め、尋ねて言います。「お前たちは、天(あま)つ神(かみ)である御子(みこ)にお仕(つか)え申し上げるか」と。すべての魚は皆、「お仕えします」と申しますが、なまこだけがそう言わなかった。そこでアメノウズメノミコトはなまこに向かって「この口はまあ、返事をしない口だこと」と言って、紐(ひも)付きの小刀でその口を裂きました。それで、なまこの口は裂けていて、海に沈んで、静かにずっと今まで来たといいます。別の言い方をすれば、「神さまの言われるままに奉仕しなさい。食べられてもしかたがない。食べられることが奉仕なんだ」ということです。そしてなまこだけが「殺されるのはイヤだ。みな平等なる命ではないか、殺されてもいい命などないのだ」と拒否したのです。
念仏者・一茶にとっては、そのなまこの拒否の姿に、もしもなまこが人間だったらなあとの思いが感じられます。仏教では、われわれがそれぞれの行為によって趣(おもむ)き往(ゆ)く迷いの境界(きょうかい)を「六道(ろくどう)」といいますが、その一つに畜生道(ちくしょうどう)があります。畜生とは貪欲(どんよく)・淫欲(いんよく)だけをもち、父母・兄弟の別なく害しあい、苦多く、楽の少ない生きものとあります。また、自立することなく人にたくわえ養われるものとあります。それはまさに、人の言いなりになって言われるがままに生きることを言います。
親鸞聖人は、ご自身が大切なことを述べられるとき、「親鸞は...」「親鸞におきては...」というように、他者に強制されることはありませんが、はっきりと自らを名告(なの)られてからおっしゃっています。「心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、情(こころ)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流(なが)す」
私がお念仏申すそのままがいつも、いかなる状況の私であっても、決して見捨てないとの阿弥陀さまの大いなるはたらき、大地に支えられているという身の安らぎです。その安らぎの中においてこそ、本当に自立できるのです。「念仏者は無礙(むげ)の一道(いちどう)なり」(歎異抄)。そして「犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め」(スッタニパータ)とあるように、念仏者の歩む人生には苦難はあっても絶望はありません。一茶のなまこを詠んだ別の句があります。「浮けなまこ仏法流布(ぶっぽうるふ)の世(よ)なるぞよ」です。なまこさん、安心して浮いてこい。今は仏法が広まり、命を大切にする世の中だ。言われるまま喜んで食べられろという時代じゃないから...。今、私が問われているようです。

■人生の灯火
念仏者の生き様から
もうすぐ1歳9カ月になる娘と過ごす中で、ふとその言動や行動を興味深く観察してしまうことがあります。40代という年齢で授かったことや、職業柄も影響しているのかもしれません。このようなことを言ってる時点でイクメンでないことは確かです。とにもかくにも、自分以外の他者を識別するようになっていく姿に関心を寄せています。発達心理学的には、およそ6カ月頃から自分と他者、特定の対象(おもに母親)を区別するようになるといわれています。今の私は彼女からどのように識別されているんだろうかと気になります。それとともに、もうすでに「分別心(ぶんべつしん)」が育っていってるんだなとも感じます。善導大師(ぜんどうだいし)のお書きになった『般舟讃(はんじゅさん)』に「仰(あお)ぎておもんみれば同生(どうしょう)の知識等(ちしきとう)、よくみづから思量(しりょ)せよ。却(しりぞ)きて受生(じゅしょう)の無際(むさい)なることを推(すい)するに、空性(くうしょう)と同時(どうじ)なり。同時(どうじ)にして心識(しんしき)あり」という文があります。難しい言葉が出てきますが、ここで大師は、私たちがいのちを受けたご縁の背景には、私たちが思議できないほどの、はかり知れない無限の歴史がありました(受生の無際)。またそのいのちは、永遠不滅の実体(本体)を有しているわけではありません(空性と同時)。同時に「心識(心の作用)」も形成されているといわれています。大師はまずもって、身心ともに縁によって生まれ、無常の性質を抱えながらも縁のはたらきが相続されてきたことによって、今の私があるという、「いのちの真実」を思量せよ、とお諭しになられるのです。
闇に気づかない怖さ
生まれたばかりの子どもは、自己と他者との区別がない未分化な状態であるとされます。もちろんそれは、「自他一如(じたいちにょ)」と言われる智慧を得てさとりを開いていることとは違います。むしろ「個(自我)の確立」の準備段階と言えます。生老病死(しょうろうびょうし)などの四苦八苦を生み出す原因を、12の項目によってたどっていく「十二因縁(じゅうにいんねん)」というものがあります。それによると、その根本原因は「無明(むみょう)」とされます。無明とは、縁起(えんぎ)や無常(むじょう)・無我(むが)といったいのちの真実、普遍の道理に暗いことを言います。
先師の説によって、そこから苦が生じる仕組みをうかがっていくと、暗闇で自分勝手に生きている状態であったため(無明)、誤った行いを繰り返して(行(ぎょう))、認識作用にも自分勝手な判断がまじり(識(しき))、認識対象である自他のいのち、さまざまな出来事などを錯覚して(名色(みょうしき))、認識能力までおかしくなってしまう(六処(ろくしょ))。つまり、認識すべてが不確かなものであり(触(そく))、不確かな認識によって、自分にとって楽か苦か、都合がいいか悪いか、などの思いが生まれ(受(じゅ))、楽という感受からはこれを激しく愛し求めようとする欲求が、苦という感受からはこれを激しく憎み避けようとする欲求が生まれ(愛(あい))、愛するものはこれを奪い取り、憎むものはこれを払い捨てるという行動が起き(取(しゅ))、そうした行動が蓄積され習慣化しているものが私たちの存在の本質であり(有(う))、その本質に基づいて、さらに新しい経験が生み出され(生(しょう))、次々に新しい苦悩が生まれるのである(老死(ろうし))、となっています。
これは、暗闇の中で自分の思いこみ(分別心)だけで考え、行動を起こすことの愚かさを教えてくださっているものです。一番怖いのは、自分が暗闇にいるということを認識していないことです。
親鸞聖人は『正像末和讃』に、
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ ・・・と示されます。
真実を持ち合わせていない私たちの心識に、阿弥陀さまは智慧の用(はたらき)を届け、さまざまな生活の出来事を通して、無明の自己に気づかせてくださいます。ご本願を人生の灯火とし、合掌の日暮らしを営み、お念仏の道をともに歩めればと思います。

■私の歩む道
心がきれいになるよ
以前、京都の有名なお寺に参拝に行きました。8月の暑い夏でした。一通り参拝し、帰るために山門に向かって歩いていた時、私の前を歩いていた3人の女性の観光客の会話が聞こえてきました。1人の女性が山門近くにある観音堂の存在に気づかれました。その時の3人の会話を紹介します。
Aさん 「そこに観音堂がありますよ。お参りしましょう」
Bさん 「もう十分参らせてもろうたから早くバスに戻りましょう」
Aさん 「せっかくここまで来たんやし、すぐそこですしお参りしましょうよ」
Bさん 「お参りして何かよいことあるんですか」
Cさん 「手を合わせたら心がきれいになるんよ」
Bさん 「なるほどね。いいこと言われますね。ほな参らせてもらいましょう」
とても暑かったので、Bさんはクーラーの効いたバスに早く戻りたかったのでしょう。でもCさんの「心がきれいになるんよ」の一言に納得されました。この「手を合わせたら心がきれいになるんよ」の言葉は、とても説得力のある言葉だなぁとその時思いました。このやり取りを読まれてその通りだなぁ≠ニ思われる方もおられるかもしれません。でもちょっと一緒に考えていただきたいのですが、皆さんは今まで何回くらい手を合わせてこられたでしょうか。きっと数えきれないと思います。ということは心はすでにピカピカのきれいな心になっているはずですが、どうでしょうか。私自身の心は...どうもきれいにはなっていないようです。手を合わす姿がどんなに尊く美しく見えても、心の中まで見通す力は私にはありません。心の中は自己中心的な願いであったり、ともすれば人の不幸や死を願っているということもあるやもしれません。
親鸞聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に、
外儀(げぎ)のすがたはひとごとに 賢善精進現(けんぜんしょうじんげん)ぜしむ 貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)おほきゆゑ 奸詐(かんさ)ももはし身(み)にみてり ・・・と、人は誰でも、外面に現れた身のふるまいは、賢く善を行いつとめているかのように見せかけているが、内心は貪(むさぼ)り・怒り・偽(いつわ)りに満ちみちていて、人を偽り、だましてばかりいると示されています。ぐうの音も出ない厳しいお言葉です。
よい人≠ニいう仮面をかぶり、面をとると違う顔が出てくるのです。信じていたものに裏切られた気持ちを「虚(むな)しい」というのでしょう。
闇が知らされていく
『教行信証』の序に、無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり ・・・と示されています。阿弥陀如来さまの光明(ひかり)は智慧であり無明を破るはたらきをもちます。
ある先生より、仏法の智慧を「忍」という言葉で表すと教えていただきました。「忍」というのは事実をありのままにはっきりと認めるということであり、事実を事実として受け止めていく勇気だと。光明によって、私の闇(苦悩)が知らされます。老病死とわかっていてもあきらめきれない心。仮面の下にある本当の姿。言い訳ばかりを考える姿。愛と憎しみに翻弄(ほんろう)されている姿。忘れようとしても忘れることのできない心に刻まれた悲しみや悔しさ。それはどれほど手を合わせようとも消えることのない闇です。その闇が破られるとは、ただ私の本当の姿が知らされたということだけではなく、闇のなかにあっても歩んでいくことのできる道がすでに阿弥陀如来さまより届けられていることが知らされていくということでしょう。それは悲しみや罪を忘れて歩むのではなく、悲しみや罪を担い、自分が生きている時代と向き合っていかなければならないことを、手を合わせ念仏申す中で気づかせていただくのです。それが他の人の苦悩にも気づくこととなり、「自他共に心豊かに生きることのできる社会」を実現する歩みとなっていくのではないでしょうか。

■救いのレシピ
おせちもいいけど・・・
仏教と同じく、インドにルーツを持ち、日本人に広く愛されている料理と言えば? そうです、「カレーライス」です。そういえば以前、「おせちもいいけどカレーもね!」というテレビCMが年末年始に流れていました。このお正月にも、カレーを召しあがった方がいらっしゃるかもしれません。さてこのカレーライス、皆さんはどのように作っておられますか? いろいろな調味料や食材を入れて工夫されている方もあるでしょう。私も隠し味にコーヒーがいいと聞き、試したことがあります。しかし、私は長い間、見落としていたのです。カレーをおいしく作るために必要な、とても基本的なことを。何を隠そう、それは「カレールウの入れ方」です。皆さんは、ルウを入れる際、火を止めますか? 止めませんか? 正解は、「止める」だそうです。いったん火を止め、粗熱(あらねつ)をとり、ルウを溶かし混ぜる。それから再び弱火で煮込むのが正しい方法だということです。なぜかというと、ルウはグツグツ煮立った熱い鍋の中ではダマになってしまう性質をもっているからです。私たちがおいしいと感じるカレーの特徴の一つが、カレーソースの「なめらかさ」です。つまり、ダマになるのは、カレーにとってとてもよくないことなのです。この「火を止める」ことが大きなポイントだということは、NHKの「ためしてガッテン」という生活情報番組で以前紹介されていたものです。ただ、「火を止める」という方法は、そもそもカレールウの箱の「作り方」にちゃんと書いてあるんです。あるメーカーの箱には、「いったん火を止め、ルウを割り入れて溶かします」という記載がありました。実は私、この方法を知っていました。でも、まったく気にもとめていませんでした。なぜなら、ルウはアツアツの鍋に入れたほうがよく溶けると思い込んでいたからです。まさか箱の「作り方」通りに調理することが、おいしいカレー作りのポイントだったとは。自分の思い込みを反省させられた出来事でした。長々とカレーの話をしてしまいましたが、この私の失敗談は、浄土真宗の教えにも通じるところがあると思うのです。
「ただ念仏」
親鸞聖人が80歳を過ぎた頃のことです。関東の門弟たちがはるばる京都の親鸞聖人を訪ねてきました。この時、関東では門弟たちの信仰を惑わすさまざまな出来事が起こっていました。門弟たちの心には、親鸞聖人が「浄土に往生する道」として説かれた念仏への疑念が頭をもたげていたのです。「念仏は本当に浄土に生まれ仏になる道なのか」「本当は念仏以外に何か別の道があるのではないか」、この疑問を親鸞聖人にお尋ねするためだけに、門弟たちは長い道のりを旅してきたのでした。そんな門弟たちに親鸞聖人が語られたのが、次のお言葉です。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰(おお)せをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり」
「この親鸞は、〈ただ念仏して阿弥陀さまに救われ往生させていただくのである〉という法然聖人のお言葉を信じているだけです。その他に何か特別のわけなどはありません」 おそらく門弟たちは、「念仏は浄土に往生する道である」と知りながらも、「南無阿弥陀仏」と称えるだけの念仏をたよりなく感じ、念仏以外の道を求めてしまったのでしょう。しかし、門弟たちがたよりなく感じた念仏を、ただ称えることは決してたよりない行(ぎょう)ではありません。「ただ念仏する」とは、念仏以外の他の行を捨て、「念仏するものを救う」とお誓いくださった阿弥陀さまにまかせきった境地です。そこには、阿弥陀さまに抱かれているという大きな安らぎがめぐまれているのです。「念仏するものを救う」。これこそが阿弥陀さまの救いのレシピです。「隠し味」もなにもない、そのレシピにしたがってただ念仏する身とならせていただく。そこにこそ浄土真宗の救いがあるのです。

■悲しみのなかに
阿弥陀仏が私の親に
身内が亡くなり、仲間を失い、師と仰ぐ方とお別れをする。この境界(きょうがい)ではさまざまな別れを経験します。第3代覚如上人は『口伝鈔(くでんしょう)』の中で、「人間の八苦(はっく)のなかに、さきにいふところの愛別離苦(あいべつりく)、これもつとも切(せつ)なり」とおっしゃいました。確かに愛する人との別れは言葉にならないほど悲しくてつらく、身が引き裂かれる思いになります。お釈迦さまは、私たちが生きているこの境界を「娑婆(しゃば)」と説かれました。「娑婆」とは、悲しみや苦しみに満ちた世界、まさに自分の思い通りにならない世界のことです。この思い通りにならない世の中を、思い通りにしようとする煩悩を抱えている限り、私の苦悩は決してなくなることはないのでしょう。私は悲しみや苦しみを背負ってしか、生きることのできない存在なのかもしれません。けれどお釈迦さまは、この世が苦しみであることをお告げになるために、私の煩悩を責(せ)めるためにお出ましになったわけではありません。この娑婆の境界で、悲しみを背負ってしか生きることのできない私がいたからこそ、「必ず救う」とおっしゃる阿弥陀さまのお慈悲を説いてくださいました。たとえどんなことがあっても、私を抱(いだ)きとって離さない、「南無阿弥陀仏」の仏さまがましますことをお告げになるために、『大無量寿経』をお説きくださったのです。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
阿弥陀さまは法蔵という菩薩であられた時、苦悩の底にうち沈むこの私の姿をすでに見抜かれ、「この子を必ず救うことのできる親となる」と誓ってくださいました。それから想像を絶するようなご苦労の果てに、その誓いを成就され、「南無阿弥陀仏」という、まことの親の名告(なの)りをあげてくださったのです。
泣く時もお慈悲の中
先日、あるご門徒のご法事に寄せていただきました。80代で亡くなられたお母さまの7回忌のご縁です。ご法事には60代の息子さんがお一人でお参りでした。おつとめを始めますと、背中越しに、すすり泣く声が聞こえてきます。息子さんが肩を震わせて泣いておられるご様子でした。そのすすり泣きは、おつとめが終わるまで止むことはありませんでした。人の一生には歴史があります。息子さんとお母さまとの間にどのような時間があり、物語があったのか私にはわかりません。しかし親子の関係には、親と子にしかわからない深い思いがあることだけは間違いありません。ご法事を終えた後、息子さんがおっしゃいました。「仏さまの前で安心して泣かせていただきました。苦労して生き抜いた母を、お念仏の中に感じさせていただきました」 私たちは誰にも見せることのできない思いを、心の中に大切におさめて生きています。仏さまの前に座らせていただく時、ふとその思いが涙となってあふれ出ることがあります。けれどそれは、絶望や暗闇の中で一人で流す涙ではありません。仏さまのお慈悲の中で泣かせていただく涙です。
浄土真宗の教えは苦しみや悲しみをなくす魔術や奇術ではありません。ましてや私のわがままや欲望を満たす教えでもありません。決してなくすことのできない苦悩を乗り越えていく道、自分一人ではどうすることもできないこの人生を支えてくださる教えが浄土真宗です。悲しみも喜びも、ともに阿弥陀さまのお慈悲の中にあると、親鸞聖人や先達(せんだつ)方は「南無阿弥陀仏」の人生を生き抜いてこられました。人に見せることのできない私の涙を、思いを、法蔵菩薩はご覧になってくださいました。そして今「南無阿弥陀仏」の仏さまとなって、私のもとへ届いてくださっています。今日も私とご一緒の仏さまがいてくださいます。「南無阿弥陀仏」の仏さまがご一緒であればこそ、苦悩の人生が支えられ、先立って往(ゆ)かれた方々と、また必ず会わせていただくお浄土への道が、確かに開かれていくのです。

■一切隔てなく照らす
一切隔てなく照らす
自爆テロの横行、それを阻止するための厳戒態勢・制裁がせめぎ合う昨今の世情です。お互いが目障りなものを排除≠キることをめざす中で、そこから生じる負の連鎖が恐ろしくてならないのは、私だけでしょうか。親鸞聖人は、人間の姿を「有礙(うげ)」とおっしゃいました。「有礙」とは「障(さわ)りあるもの」ということです。そして『ヨロヅノコノヨノコトナリ』と説明されています。この世間一切そのものが「障り」であるということは、ひとえに「私」が障りを生み続ける以外にない存在である、ということです。大変厳しいお言葉です。道理に背き、保身のためには、他を裁き、切り捨て、そして争いから抜け出せない私。そんな苦しみを、「有礙」の二字から自身の事として受け止めます。
光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう) 一切(いっさい)の有礙(うげ)にさはりなし 光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき 難思議(なんじぎ)を帰命(きみょう)せよ ・・・と、親鸞聖人は阿弥陀如来のお徳を讃嘆(さんだん)されました。
このご和讃からお教えいただくことは、「輝く雲のように広がる阿弥陀如来の光は、まるで大空のように、どんな煩悩にもさまたげられることがなく、すべてのものをわけ隔てなく照らす」ということです。言い換えれば、いのちを隔てなく照らしづめの阿弥陀如来のおはたらきであればこそ、「有礙」の壁にもがき苦しんでいる私の本当の姿に出あうのだ、ということなのでした。しかしながら、難思議とお示しのように、私の知識や理解で及びがつくはずのない阿弥陀如来のおはたらきです。だからこそ仏法に耳を傾け、浄土真宗をその身にいただかれた方々のお姿から、その願いをお伝えいただくのでした。
居場所を与える光明
ご門徒のKさんは北海道の雄大な大地の中で育ち、林業に生きた人生の大先輩。たくましさの中に洒脱(しゃだつ)さを併せ持つそのお人柄で、お寺の門信徒会を盛り立ててくださいました。対する私は大阪人で、理屈っぽさだけが特徴の若輩者。ご縁あって、現在の北海道のお寺に迎えていただいたのです。対極に位置するようなKさんと私の個性でしたが、互いに時を同じくして、予期せぬ体調の異変と出あうこととなりました。私は身心のバランスを崩し、平素の生活ができないばかりか、人前に出ることさえできなくなりました。またKさんは、重い肺病を患われ、自宅での療養を余儀なくされたのです。私は何にも手につかない自分に焦りといらだちを覚えてなりませんでした。ふがいなさを打破しようと動いてみては、結果、周囲の方々に深い傷を与えてしまい、すべてが悪循環にしか感じられませんでした。そして1年以上が経ちました。Kさんの具合が芳しくないという報(しら)せを聞いていた私は、沈んだ心のまま、久々にKさん宅へ月命日のお参りにうかがいました。
お参りの後、お連れ合いの方がお茶の支度のために台所へ向かわれた時、Kさんは酸素吸入の器具を装着したお姿で、私に、ゆっくりとこうささやいてくださったのです。「俺さ、もうお寺へは参れんかもしれん。だから、今、住職に伝えておくな。...住職、住職に代わる住職はどこにもおらんのだからな! どんな姿であってもいい。俺の住職は、あなたなんだよ...」 小さな声でそう話してくださったKさん。私は全身の力みが解かされてゆく自分に出あいました。同時に「無礙光」のおはたらきを教わったのです。私の障り、不確かさを問題とすることなく、いかなる境遇にあろうとも居場所を与え、必要としてくださるおはたらきが「無礙光」であったのだ、と...。間もなく、Kさんはお浄土に仏としてお生まれになりました。しかし、Kさんの命懸けのご法話は、有礙の私を知らせつつ、南無阿弥陀仏とお念仏申し、「排除なきいのち」に私が喚(よ)び覚まされていく中にこそ、円(まど)かな日々が育まれるのだと、今、この瞬間も教え続けてくださるのです。

■慈悲に生かされる
"きょうだい"って
みなさんは「きょうだい」をご存じでしょうか。重い病や慢性の病気、そしてさまざまな障がいのある兄弟姉妹がいる「きょうだい」のことを言います。「きょうだい」たちの多くは、病気や障がいのある兄弟姉妹に両親がかかりっきりになるため、小さい頃から我慢することが多く、甘えることも十分にできず、さまざまな葛藤や問題を一人で抱え込んでしまうことが多いと言われています。私は、そのことをわが子から教えられました。数年前のある日、わが家の1歳になったばかりの次男が白血病を発症しました。長い入院治療に24時間の付き添い、病院近くへの引っ越しと、家族の生活は一変しました。お兄ちゃんは両親がほとんどいない生活に不満も言わず、逆に看病に疲れてつかの間家に帰ってくる私に「先に寝ていいよ」といたわってくれていました。そんな日々が数カ月過ぎたある朝、お兄ちゃんが突然「今日は学校休みたい」と言い出しました。仕方なく、その日は病院の待合で一日を過ごすことになりました。弟に会いたくても、子どもは小児科病棟に入ることができません。ましてや、抗がん剤の影響で免疫が下がり、空気清浄機の前から動けない弟です。一目見ようにも、顔を見ることすらできないのです。当然、親は離れた病室と待合の間を行ったり来たりすることになります。すると、一人の看護師さんが気付いて、「お兄ちゃん、どうしました?」と声をかけてくれました。私が事情を話すと、忙しい中、看護師さんやお医者さんたちが、代わる代わる話し相手になってくれたり、宿題をみてくれたり。お兄ちゃんには何も聞かず、ただ普通に楽しく接してくれました。
家族にも寄り添う
思えば入院中、医療者の皆さんは、患者だけでなく私や家族のことを常に気にかけてくれていました。「眠れていますか? 今のうちに少し休んでくださいね」 「お兄ちゃんは元気にしていますか?」 いつも声をかけ、病室の様子を気にしてくれていました。最初は何気ない気遣い程度に思っていましたが、実は医療者がチームとなって、患者だけでなく家族全体を支えていてくれたんだということに初めて気がつきました。「きょうだい」の問題についても、当然、専門的によくご存じだったのです。 でも、誰もそのことについて私に意見することも、何かを教えようとすることもありません。ただ、目の前にいる患者やその家族の一人ひとりの立場に立って、その悲しみや苦しみに寄り添い、共にあろうとしてくれていたのです。『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には「仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり」と説かれ、善導大師(ぜんどうだいし)は、仏道を学ぶということは「仏(ぶつ)の大悲心(だいひしん)を学ぶことである」とおおせられました。
大慈悲とは、阿弥陀如来があらゆるいのちの悲しみと痛みを自らのこととして引き受けていかれる心のことです。だからこそ仏道とは人の痛みのわかるものになろうと努め、痛みを分かちあいながら生きようと努める道なんだよ、とお聞かせいただいています。しかし、実際には弟の病を代わってやることはおろか、お兄ちゃんの気持ちに寄り添ってやることもできなかった親です。仏さまのお慈悲を聞かせていただくほど、それとは真逆のわが身であることを知らされます。そのようなわが身であると教えてくださったのも、如来の大悲心でした。如来さまのお慈悲をこの身に味わわせていただくことで、痛み、苦しみを抱えて生きているのが自分だけではないことに気付かされます。そして、ほんの少しでも他の人と痛みを共にしようと努める中に、同じお慈悲に包まれていることをよろこび、その痛み、苦しみの中に生きる意味を見出そうとする方向性が育まれてくるのです。あれから数年が経ち、おかげさまでようやく同じ悩みを抱える友と交流会を立ち上げ、共に学びをはじめることができました。やればやるほど果てしなく、自分の無力さと身勝手さに情けなく申し訳のない思いが募る毎日ですが、その一日一日が、お慈悲に包まれお慈悲に導かれる毎日であるといただいています。  
 

 

■生きる勇気
春彼岸が近づくと
春のお彼岸が近づくと、優しくて厳しかった姉の声が聞こええてくるようです。私の姉は、平成14年3月20日、58歳でお浄土にかえりました。姉はご主人の仕事の関係で海外におりましたが、定年で帰国すると、しばらく故郷でのんびりしたいと、熊本の人吉に帰ってきました。両親の遺骨が人吉別院の納骨堂に納められていますので、姉の日課は、雨の日も風の日も1日も休むことなくお晨朝(じんじょう)に参拝し、納骨堂へお参りして、境内をお掃除して、家に帰ると正信偈を唱えることでした。姉はよく、ご法話でわからないことや、勉強してもわからないところは、納得のいくまで僧侶の方に質問していました。いつもそばにくっついていた私は、終わるのをじーっと待っていました。夏のある日、姉が外から帰ってくると、「背中が痛いのよね。明日、病院に行ってみようかしら」と言って、翌日、お晨朝の後に二人で病院に行きました。担当の医師は「末期の肺がんです」と。姉は顔色ひとつ変えず、すぐ「あと、どのぐらい生きられますか?」と尋ねると、医師は「来年のお正月を迎えるのは無理でしょうね」と言われました。横にいた私のほうが力が抜け、よろよろと姉の肩につかまると、「しっかりしてよ!良子(りょうこ)ちゃん。私が死んだら、そんなに弱くてどうするの!」と反対に私を叱(しか)りました。
もっと大きな声で!
ある日、姉は別院のご輪番や僧侶の方にこう話しました。「今までの私、がんになる前の私にとっては、浄土真宗のみ教えは、お料理に例えますと、お料理のサンプルが、とてもおいしそうに並んでいるようでした。目で見て楽しみ、食べてもいないのに喜んで、頭の中でいただいていたように思います。でも、今の私は違います。み教えの一語一語を、しっかりと手に取って、ひと味ひと味、かみしめていただいています。そのひと粒ひと粒が、私の心の栄養となり、生きるエネルギーです。これまでの聴聞の機会とご指導ありがとうございました」 お礼の言葉でした。姉は歩けなくなるまでお晨朝に通い続けました。やがて、痛み止めも効かなくなり、呼吸が苦しくて、夜も眠れない日々が続きました。そして絞り出すような声で、「この苦しみはね、お浄土に生まれるための苦しみだと思うのよね。お浄土に生まれさせていただくと思ったら、なんとかがんばらなくっちゃね! 私がこの世に生まれる時も、きっとこんなに苦しかったのね」と言いました。私は何も言えなくて、歯を食いしばって、ただただ、背中をさすり続けました。
その後、お正月を迎えることができた時は、本当にうれしそうでした。そして3月19日の夜、もうほとんど何も食べられなかったのですが、「私は明日、死ぬと思うから、体力をつけておこうと思うの」と言って、ゼリー飲料を一袋飲み干しました。「ほら、一袋でごはん2杯分のカロリーだって! これで明日はがんばれる!」 翌20日、言った通り臨終でした。姉の願いで前日、僧侶の方に病室に来ていただき、臨終勤行をつとめました。病室に集まった、家族、友人、医師、看護師さん、お掃除のおばさんたちに、「最後に皆さまにお願いがあります。一緒にお念仏を称(とな)えてください」と言ったので、皆、戸惑いながらも、涙声でやっと「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお称えしました。すると姉は「ああ、声が小さくて聞こえない。もっと大きな声で、元気を出して!」と。皆、涙をこらえ、精いっぱいの声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお称えしました。「ああ、よーく聞こえます。ありがとう! 私はお浄土で待っているから...さよなら...」と言って、姉はVサインをしてニッコリしました。私が思わず、「お姉ちゃん、ヤッタね!」と言うと、汗でキラキラ輝く顔で、「うん!」と大きくうなずいて、姉は息を引き取りました。お浄土に生まれさせていただくことが、姉の人生の目標であり、それがそのまま生きるエネルギーでした。目標があったからこそ、苦しみも痛みも悩みもすべて乗り越えて、精いっぱい生き抜いたのだと思います。「お念仏」から、真の生きる勇気をいただくことができたのです。

■私の願い 仏の願い
願いごとばかりでは
ある神社の宮司さんが、初詣客のお賽銭(さいせん)一人あたりの平均額を調べたそうです。参拝者の数をカウントし、お賽銭の総額から計算すれば一人あたりの平均額が出ます。また、神社にはお願いごとを書き込んで奉納する絵馬もあり、こちらは数百円しますが結構な人気だそうです。書き込まれるお願いは「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「受験合格」といったところが定番ですが、中には「世界平和」と書かれたものもあるそうです。テロや戦争など世界のこのような状況に心を痛めた方が書かれたのでしょうか。さて、お賽銭の一人あたりの平均額ですが、結果はなんとたったの6円だったそうです。無病息災や家内安全をたったの6円で、とは、ずいぶんと厚かましい態度であるように思われます。ましてや「世界平和」に至っては何をかいわんや。アメリカ人のお笑い芸人から「why Japanese people!(おかしいだろ日本人は!)たったの6円で、世界が平和になるわけないだろ?!」とツッコまれそうです。お願いごとばかりをしていると、私たちはかえって自分自身のあり方やなすべきことが見えなくなってしまうのではないでしょうか。
脇に置いておく
私たちには、それぞれにさまざまな願いがあります。「世界平和」という真剣なものから「お金があって楽をしたい」といった正直なものまで、また「この病気さえ治れば」とか「時計の針があの時以前にもどってくれたら」という切実な願いもあるでしょう。ここに、浄土真宗にうなずいていくための大きなポイントがあります。それは、「私たちの願い」をいったん脇に置いてみるのです。無くしてしまう必要はありません。ちょっとそばにどかしておくのです。そうしておいて、と言いますか、それと同時に「阿弥陀さまの願い」を私たちの正面から聞かせていただく、受けとめさせていただく、ここのポイントが非常に大切です。私たちの願いがどれだけ真剣で切実なものであっても、それを強く握りしめたまま私の願いの延長線上で阿弥陀さまの願いを聞こうとしてもダメなのです。いったん全部を脇に置くのです。それでは、「阿弥陀さまの願い」とは一体どんな願いでしょうか? たとえるならばこんな感じでしょうか。この地球上の、さらに広げてこの宇宙のすべてのいのちあるもの一つひとつの親のような存在として、そのいのちある限りそれを支え、見まもり、そして「何があっても大丈夫だよ」と励まし続け、しかしながらいのちには必ず終わりがありますので、その終わりに際しては、すべてのいのちを、今度は仏のいのちとして私の世界に生まれさせよう、私の国に迎えとろう、という願いを持った仏さま、と表現できるでしょうか。
「お金があって楽がしたい」といった「私たちの願い」とははるかに次元の異なる尊く大いなる願いを持ち、その願いを成し遂げて仏さまとなられたお方、それが阿弥陀さまなのです。
平等心(びょうどうしん)をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地(いっしじ)は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし
「一子地」とは、あらゆるいのちあるもの一人ひとりを、ひとり子であるかのように思う阿弥陀さまのお心とさとりの境地のことです。親鸞聖人は、「三界(さんがい)の衆生(しゅじょう)をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」と解説してくださり、そのひとり子が、私たちのことであると教えてくださいました。「阿弥陀さまの願い」を正面から聞かせていただく人生は、「何があっても大丈夫」の人生であり、「死んでも大丈夫」の人生ですが、それよりもむしろ「十二分に生きる人生」です。阿弥陀さまが今の私たちをどのように見ておられるか? それを心の片隅に意識しつつ、私たち一人ひとりが阿弥陀さまの救いにこたえていくべく十二分に生きることが大切です。「世界平和」とまではいかなくても、私たちのまわりや世界が少しだけ平和になるかもしれません。

■■よび声が私の念仏に -逃げるものをほっておけない阿弥陀さま-
新幹線の車窓に!
ちょうど、入学式や入社式のシーズンです。大学入学や就職では、親元を離れるケースも多いでしょう。親にとっても、子にとっても、期待や不安の入りまじった時期で、いや応なく、親離れ、子離れを意識させられます。私は、子の立場も経験しましたし、今は親の立場も経験させてもらっています。「子を持って知る 親の恩」とは、よく言ったものだと今になって感じますが、それまでは自分ひとりで大きくなったような顔をしてきました。私の広島の自坊の真裏には山陽新幹線が通っています。開業時には、境内の約40坪が路線に当たったので、私の感覚では、境内に新幹線が走っているようなものです。私は、大学が福岡でしたから、帰省には新幹線を利用しました。広島から博多へ向かう下りの新幹線からは、自坊がよく見えます。ずっと何の意識もなく自坊の裏を通過していたのですが、ある時、ふと懐かしく思って、座席から立ち上がって、車窓から自坊を見た時のことです。新幹線に最も近い本堂の西縁側に、なんと母親が立っていて、こっち(新幹線)を見ているのです。この新幹線に乗っていると見当をつけていたのでしょう。大げさでなく、本堂の縁側に誰がいるか、顔まで見えるくらいの距離を走っていました。その後、大阪の大学院に移ってからは、広島から下りの新幹線に乗らなくなりましたが、大学時代に福岡の下宿に戻る時は必ず母親の姿がありました。お互い、「見てるからね」とか「見てくれてたんだね」という会話はしませんでしたが、母からすれば、いつまでたっても、不安でしようがなかったのでしょうね。当時の私は、仏教や真宗に直接関わる学問をしていませんでしたが、正信偈の「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」の一句に出あったとき、「ああ、このことかもしれない」と実感したのを覚えています。
目先の欲にとらわれ
阿弥陀さまにとって、この私は、実に危なっかしくてしようがない存在です。ちょっと目を離しているうちに何をするかわからないと、いつも気をもませていたはずです。それが「五劫(ごこう)」という長いご思惟(しゆい)となり、「常照我(じょうしょうが)」という大悲を完成させねばならない必然性だったのでしょう。親鸞聖人は、この大悲のはたらきである常照の光明について、摂(おさ)め取って捨てないという「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の語を特に尊ばれ、和讃の左訓(さくん)(注釈)に、この語の意味を「ものの逃(に)ぐるを追(お)はへとるなり」と示してくださいました。阿弥陀さまという仏さまは、逃げ回っている私を追いかけ続けておられます。つまり、自分の方を向いた時だけ救ってあげましょうという仏さまではないのです。真実を見ようとせず、あれがしたい、これが欲しいと、目先の欲にとらわれ、仏縁に背を向け続ける私を、ほっておけないのです。
阿弥陀さま以外の神や仏は、自分の方を向いた時だけ、これだけのことを成し遂げた時だけという、言わば条件付きの救いです。そのいい例が神社に参拝した時の作法だと思います。私は神社に参拝はしませんが、テレビなどで、そういう場面を見ますと、共通の行為に気がつきます。神前に立つと、まず大きな鈴をジャラジャラと鳴らしています。「ちゃんと来ましたよ。こっち向いてください」という意思表示なんでしょうね。さらに柏手(かしわで)を「パンパン」と2回打ちます。「こっち向いてくださいよ、ちゃんと見ていてくださいよ」という意思表示をして、賽銭(さいせん)を投げ入れるのです。私たちが、「南無阿弥陀仏」と、お念仏を声に出すのは、「阿弥陀さま、聞いてください」という意味ではありませんね。「南無阿弥陀仏」のよび声となられた阿弥陀さまが、私の念仏の声となってはたらいてくださっているのです。

■かたちとこころ -よく聞く、心かよわせて生きていくために-
切り離せない二つ
最近、こころにかかることがあります。それは、よく語られることですが、かたちとこころ、その関係ということです。取り立てていうほどのきっかけもないのですが、次のような場面に会いました。私は、瀬戸内海にある島で住職をしています。ご門徒のうちにお参りしたときのことです。日曜日でしたので、子どもたちも一緒に正信偈をあげ、御文章を拝読し、法話を終えて玄関に向かいました。そして、履物に足をかけようとして、ふと後ろを向きますと、家族全員の顔がそろっていました。みんなで見送りに玄関まで来ておられたのです。それは当然だなどというつもりは毛頭ありません。ともかく、お互い心かよいあうような雰囲気、またお会いしましょうね、という気持ちさえ伝わってくるように思えたことでありました。近頃、あまり見かけられなくなったように思います。姿が見えなくなるまで見送っている風景を。それだけ、世の中が忙しくなってきたということでしょうか。人間関係が希薄になっていくように思えてなりません。
このように、人を見送るということと、一方で迎えるということにも人のこころがあらわれるように思います。よくこの時期、歓迎するとか、歓迎会を催すといいます。迎える人のこころがあらわれていることばです。私たちは、迎え受け入れてくださる方がおられるから、知らないところにも安心して出かけることができ、滞在することができるのです。このように考えていきますと、かたちとこころは決して切り離されるものではないように思えてきます。それは、かたちの中にこころを感じ、こころは、かたちを通してあらわれるものだ、と説明できそうです。私たちは、よくこころが大事だ、こころが、こころがと申します。その通りだと思います。ただそのときに、かたちがどこかに忘れられているような気がします。また、先ずかたちから入っていくんだ、だからかたちを大切にしなければいけない、と声を大にして言う人もおられます。いずれも一方にこだわった言い方なんですね。そうではなく、こころは、かたちを通してあらわれていくものだ、こう認識していくことが大切なことといえましょう。
「愚」を深く味わう
ここに、かたちといいましても、ただ目に見えて形をとったものだけをいうのではなく、人間のことば、行為、あるいは芸術作品等にいたるまで含めてかたちと考えます。ですから、優しいこころがあれば、でてくることばもおのずからやさしくなるように、こころとかたちは分けられないものといえます。いま、こころを「内」、かたちを「外」とおいて考えますと、親鸞聖人の『愚禿鈔(ぐとくしょう)』冒頭のおことばが浮かんでまいります。法然聖人の人徳に接し、その教えに耳を傾けることによって本当の意味でこの親鸞のこころが明らかになったということを最初に掲げられ、
賢者(けんじゃ)の信(しん)は、内(うち)は賢(けん)にして外(ほか)は愚(ぐ)なり。愚禿(ぐとく)が心(しん)は、内(うち)は愚(ぐ)にして外(ほか)は賢(けん)なり。 ・・・と続いています。ここに、こころの内面と外にあらわれる姿の関係性を、法然聖人と親鸞聖人の上で比較して示されているのです。
とくに「愚禿(ぐとく)が心(しん)は...」の文(もん)からさらに『大無量寿経』の教説が重なってきます。それは「愚痴矇昧(ぐちもうまい)にしてみづから智慧(ちえ)ありと以(おも)うて」という文です。道理がわからず愚鈍(ぐどん)であるにもかかわらず、自分は智慧があると思っているという意味ですから。この文のこころを深く味わってみたいものです。ともかく、私たちが心かよわせて生きていくためにはどうすればいいかということです。ただ、顔を合わせればいいということではありません。朝から晩まで一日中一緒にいても刹那(せつな)も会わず、ということばもあります。直接顔を合わすことは大事なことですが、そこでよく話し合っていく、その時、よく聞くということを忘れず、大切にしたいと思います。そんなことを思いながら、お参りした家の方と少しでもお話しする時間を持たねばと思うことです。

■お慈悲の花咲く心 -一人じゃないよ、そのよび声がお念仏-
煩悩だらけの私
3月11日。専如ご門主さまが大分教区へご巡回くださいました。吹く風は、とても冷たかったけれど、四日市別院の縁まであふれた満堂のお同行(どうぎょう)さんたちと共に、あたたかい気持ちで、あたらしいご門主さまに出会わせていただきました。「ひとの幸せをわが幸せとし、ひとの悲しみをわが悲しみとするものを仏さまと呼び、そのはたらきは慈悲そのもの...」と語られた記念布教の天岸浄圓先生の言葉が、私の心にしみこんできました。悲しみに寄り添い苦しみを共にすることは、私にとって、とても難しいことです。ひとの幸せを願い、悲しみに共感していく心は、なかなか持てるものではありません。むしろ、ひとの幸せを妬(ねた)み、ひとの悲しみを嘲(あざけ)り笑ってしまう愚かな私が、ここにいます。お恥ずかしいと知りながら、お恥ずかしいことしかできない、この私のことを凡夫(ぼんぶ)というのだとも聞かせていただきました。「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫」と、親鸞聖人がお示しくださった言葉が、あらためて身にしみます。この私の、どうしようもない生きざまを見抜かれて、摂取(せっしゅ)して捨てない、かならず仏にすると願ってくださっている阿弥陀さまのお慈悲は、いま、この私を包んでくださっています。
煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲(だいひ)ものうきことなくて つねにわが身(み)をてらすなり
欲や不平や不満や愚痴や怒りを抱えた、煩悩だらけの私の目には、なかなか見ることはできませんが、阿弥陀さまのお慈悲の光は、たとえ、この私が下を向いていても背を向けていても、そっぽ向いていても、どこまでも捨てることなく照らしてくださっているのです。冷たい北風が、いつのまにか暖かい春風に変わるように、雪が溶けて桜の花が咲くように、お慈悲の光は、この私の、とげとげした心をやわらかく包み、やがて、ぬくもりを与えてくれます。私の苦しみに「苦しいね」と。私の悲しみに「悲しいね」と。私の喜びに「うれしいね」と、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきは、私の心、そのままに受けとめてくださいます。
心からありがとう
先にご往生された方々は、いま仏さまとなって、この私のために、はたらいてくださっていると聞かせてもらいます。ここにいるよ、大丈夫だよ、一人じゃないよ、と呼んでくださる、そのお呼び声が、南無阿弥陀仏のお念仏だと教えていただきました。大震災から5年というその日、四日市別院には教区内の合唱団が集い、被災地を思いながら、皆で「花は咲く」を歌いました。常日頃、何もできない、ともすれば忘れてしまっていることを申し訳なく恥ずかしく思いつつ、どの人の心にも、阿弥陀さまのお慈悲の花が咲いてくれていることに手を合わすばかりです。私の、この手は握りこんで拳(こぶし)になって人を傷つけることができます。この手に武器を持って人のいのちを奪う縁に会うかもしれません。けれど、私たちは、右の手と左の手を合わせる、ということを教えていただいています。合わす手とともにお念仏を称(とな)える生き方も聞かせていただいています。
北風の中、一緒に四日市別院へ参拝された、米寿を迎えたご門徒さんが、翌日、とてもうれしそうに「昨日は、本当にいいご縁でした。生きていればこそ、ですね」と笑顔で話してくれました。生きていればこそ、出遇(あ)わせていただいたご縁、ただいまの出来事、一つ一つを共々によろこび合えるうれしさを、しみじみと味わっております。そして、阿弥陀さまのお慈悲の中で、このいのち尽きるとき、かならず仏にならせていただくみ教えに、いま、出遇わせていただいていることに、心から、ありがとうと、お念仏させていただきます。

■すでに道ありき -確かな依りどころをいただく人生-
病とのであい
幼い頃からたびたび、風邪をひいて扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れ、高熱が出ることがありました。昨年の秋にも同じような症状がありました。ところが、夜中に起き上がろうとすると、掛け布団が重いのです。さらに高熱があり、今までに感じたことのない強い痛みが全身を駆け巡りました。病院で検査を受けると、「関節リウマチの可能性がありますので、早めに専門病院で検査を受けてください」とのことでした。数日後には、熱は下がり、体の痛みもすっかりなくなって、爽快な朝を迎えることができました。一週間後、布教のご縁を終えての帰り道、ハンドルを握っている手に一瞬、こわばりを感じたのです。車を止めて安静にしていると治(おさ)まりましたが、今度はペットボトルのふたを開けようとしても、開けることができないのです。体からの警告に危機感を覚えた私は、早速、専門の外来で精密検査を受けました。「藤井さん、早期の関節リウマチです。現在は症状が出ていなくても、今後、強い痛みが出てくることも考えられます。今は、研究が進んで早期発見で、早期に治療を開始すれば、寛解(治癒)に至る患者さんも増えています。人によって、合う薬の種類も量も注射も個人差がありますので、定期的に検査をしながら副作用にもじゅうぶん注意をして、しっかりと治療していきましょう」と担当の医師。私は、「早期発見」「寛解」という言葉に希望を見いだしました。治療を始めて半年が経過した頃から、体調が良好になって劇的に回復し、検査の結果が、それを裏づける数値になっていました。しかし、これから先ずっと健康で、若々しく、死なない人生が永遠に続いていくことなどあり得ません。
人生の根本問題
お釈迦さまが説かれた仏教は、人間に生まれ、年老いて、あるいは病にかかり、最後には命を終える、という誰ひとり避けて通ることができない生老病死(しょうろうびょうし)という、人生の根本の苦しみを教えてくださいます。健康なときには、まったく考えもしなかったことですが、自分が病気になってみると、いかに深刻な苦しみであるか、身にしみます。老いていくなかで、さまざまな悩みを体験するようになって、老苦がいかに厳しい問題かを知らされます。しかし、私たちは、刻々と変わっていく無常の身でありながら、明日もあさっても、死ぬなどということは考えたくない、考えてもしかたがない、死を遠ざけごまかして、今の状態と同じように元気で生活できるものと信じ込み、今日一日を過ごしています。
親鸞聖人は、『教行信証』の冒頭で、これから顕(あら)わそうとされる浄土真宗の教えの中心は、救いの根本である阿弥陀如来の本願と、何ものにもさまたげられない阿弥陀如来の光明であると、お示しくださっています。「ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり」 
阿弥陀さまの光明に照らされた私のほんとうの姿は、さとりに役立つものを何一つ持ち合わせていない、どこをとってみても、ただ迷いの世界に沈み続けるしかない凡夫(ぼんぶ)なのです。だからこそ、阿弥陀さまは、凡夫が凡夫のままで、迷いの世界を抜け出すことのできる確かな救いの法である本願を建立されたのです。阿弥陀さまの「われにまかせよ、わが名を称(とな)えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という本願は、お誓いの通りに完成された、「南無阿弥陀仏」のよび声となって、仕上がってくださいました。阿弥陀さまの智慧と慈悲を円(まど)かに具(そな)えた救いのはたらきである「南無阿弥陀仏」を称え、聞かせていただき、確かな依りどころをいただいた人生は、阿弥陀仏の大悲のお心に導かれる人生です。人生でもっとも苦しい死を乗り越える道はすでに、阿弥陀さまによって開かれていたのです。

■帰る場所 -「われにまかせよ、必ず浄土へ!」-
「死んだらしまい」
「住職さん、死んだら本当に、何もかも終(しま)いですか?」 目にいっぱいの涙をためながら、唐突に尋ねられたので、私は言葉に窮(きゅう)してしまいました。「浄土に生まれるとか...ホンマですか?」「浄土に往生するとか聞かされてもねぇ...」と言われることは、時折ありましたが、「死んだら本当に、何もかも終いですか?」と聞かれたことは、これまでありません。とっさに、「どうして、そう思われるのですか?」と、私の方から質問を返してみますと、「主人は病気になってから、ずっとそう言いながら死んだんです...」。56歳のお連れ合いと、今生(こんじょう)の別れをされたこの女性は、「死んだら終いや。何もかも終いや」という言葉を、ずっと聞きながら、看病される日々を過ごしておられたのだそうです。「うん。死んだら終いやからね。あなた、お願いやから、頑張って病気を治しましょう」と、その言葉に応えながら、彼女は懸命に大切な時間を越えてこられたのです。ところが別れの後、「死んだら終い」というこの言葉が刃(やいば)となって、自身を斬りつけてくるのだそうです。「私も頭ではやっぱり、死んだら終いやと今でも思っています。でも終いやと苦しいんです。苦しいんです」 むせび泣きながら訴える彼女に、私は「そうでしたか。とても苦しいんですね。終いやとつらいんですね...」と応えたあと、しばらく黙って、彼女の口からこぼれる思いを聞き続けるばかりでした。
涙、涙、涙のゆえに
帰る場所&£i、私たちはあまり意識することがないのかもしれません。「帰る場所≠求めるというのは、生きているものの血の中に通っている、一つの大きな強い願いだ」とおっしゃってくださった先生がおられます。例えば、ウナギの生態は謎だらけで、最近になってやっと紐解(ひもと)かれつつあるのだそうですが、日本のウナギの場合、マリアナ沖の深海で卵を産み、孵化(ふか)した稚魚が6センチぐらいになると、日本の河口にやってくるのだそうです。そこで半年ほど暮らすと、今度は川を上って10年間暮らした後に、あらためて川を下り、必ず元のマリアナ沖の産卵場に向かって旅をするのだと聞きました。非常に雄大な旅です。旅は「帰る場所」があってこそ、旅になります。「帰る場所」を持たないものは、放浪です。不安の中の彷徨(ほうこう)です。私たちにとって、「帰る場所」があるということは、実は本当に大事なことなのではないでしょうか。
親鸞聖人は、善導(ぜんどう)大師の「南無阿弥陀仏」の六字のご解釈を受けられながら、「必得往生(ひっとくおうじょう)(必ず往生を得(う)る)」の「必ず」という言葉を、深く味わってくださいました。自らの思いや考えに縛られることなく、阿弥陀さまの「我にまかせよ。必ず浄土へと生まれさせ、仏に成らしめる」という喚(よ)び声を、疑いなく聞き受けさせていただいた人生は、もはや放浪でも彷徨でもない。単に不安に怯(おび)えるだけではなく、ただ嘆(なげ)くことに終始するだけの人生でもない。それは生に涙し、死にうろたえるしかない私が決め定めるのではなくて、阿弥陀さまが私に、間違いなく「帰る場所」に往(ゆ)き生まれることができるようになったと定めていてくださるのです。白井成允(しげのぶ)という先生は、ご自身のご生涯を通じて、阿弥陀さまのお浄土を、
涙、涙、涙のゆえに みほとけは 浄(きよ)きみくにを 建てたまひけり
とお詠(よ)みくださいました。阿弥陀さまは、浄土を誰か他の人のためでなく、ここに生きる私が、どこまでも涙を溜めねばならない身であるがために、「帰る場所」浄土をご建立(こんりゅう)くださったのではないかといただくのです。

■いま、私に届く願い -「うまれてくださり、ありがとうございます」-
いつもの朝の光景
5月21日は、宗祖親鸞聖人の843回目のお誕生日です。といっても、親鸞聖人は90歳でお亡くなりになられて、もう750年以上経ちます。では、なぜ、すでに亡くなった方の誕生日をお祝いするのでしょうか?「それは、この私にお念仏を伝えてくださった、大切な方だからですよ」と話してきた私でしたが、それを本当の意味で実感したのは、父が亡くなってからでした。平成26年12月19日早朝、リビングで、こっそりミカンをほお張る父に、「ちょっとお父さん! 朝食前に何食べてはるの!」と母の声。ギョッと振り向く父の顔。週3回の透析をし、食事制限のあった父の、いつもの朝の光景でした。「あ〜あ、またか...」と、うんざりしていた私。昼前になって、透析病棟から、父の容態急変の電話がかかるまでは、また明日も同じ風景があるのだと信じて疑いませんでした。ところが病院に駆け付けると、透析中に心不全を起こした父の意識はすでになく、12時53分、眠るが如(ごと)く、この世のいのちを終え、お浄土へ往生いたしました。ドラマで見るような「最後の言葉」がないどころか、住職としての引き継ぎはゼロ状態。涙を流す間もなく、通夜、葬儀を迎えたことでした。
亡くなる約1週間前の12月11日は、父の77歳の誕生日でした。しかし、当日に誕生会ができず、あらためて家族そろって誕生日の食事会をしようと計画していたその日が、まさかまさかの父の葬儀となりました。「人は生まれたら、必ず死ぬ。それがいつかはわからない。でも死んで終わりじゃないんだよ。お浄土にうまれて先に仏さまとなって、いつもお念仏をすすめてくださる、大切な存在となったんだよ」と話してきた私でしたが、「まさか」がこんなに突然来るとは思いもしませんでした。父の存命中から住職交替の手続きは進めていましたので、父の満中陰にあたる2月5日、本願寺で住職補任式を受け、ご門主から住職任命の辞令書をいただきました。
案じてくれていた父
父はかねてより手取り足取り教える人ではありませんでした。しかし、教えないからこそ、父の作法やおつとめの様子をみて覚えるのが、いつしか私のクセとなりました。それが父から今の私への「おそだて」になっているのだと気づいたのは、ごくごく最近のことです。月参(つきまい)りに寄せていただいた数軒のご門徒宅では「お父さんとそっくりの声と立ち居振る舞いですね」と涙を流しながら父の想い出を話してくださり、父の意外な一面を知ることになりました。あんなに私と反目していた父が、「いずれ娘が寺を継ぎますので、どうか育ててやってくださいなぁ」と畳に頭をこすりつけるようにご門徒にお願いしていたのです。「何も教えない」中で、父は「案じてくれて」いたのです。昨年12月19日、父の一周忌法要を、数人のご門徒とともに本堂でおつとめしました。77歳の誕生会ができなかったことと、お浄土への誕生1歳という意味を込めて、小さなケーキをお供えしました。
最初は数名のお参りでしたが、おつとめが終わって振り返ると20人以上のご門徒がお参りくださり、とてもケーキが足りません。新たにケーキを買い足そうかどうしようかと思っていた時、一人のご門徒が「せっかくの前住職のおさがりやから、一口ずつ、みんなでいただいたらええ」と言ってくださり、バースデーソングの代わりに、「みほとけにいだかれて」の仏教讃歌を歌ったあと、一口ずつのケーキをいただき、父の想い出を語り合いました。「何も教えなかった父」の想いが、「何も聞かなかった私」の思いと交差して、ご門徒との語らいの中、いま、この私に届いています。人は人により育てられ、仏縁によって仏さまと出遇(あ)わせていただく...。阿弥陀さまの願いが、親鸞聖人、そして父を通して、この私に届いているのですね。うまれてくださり、ありがとうございます。

■究極の依りどころ -愚痴ばかりの口から、お念仏が出てくださる-
痛っ、何しやがる
新緑から万緑の季節へと移り、木々の緑もいっそう美しく、草木も虫たちも、いのちの息吹を伝えてくれています。私も、お念仏の息吹を伝えていかねばと思います。しかし現実には、「お念仏の声が聞かれなくなった」と言われて久しいものがあります。どうして、お念仏の声が出にくくなっているのでしょう。「南無阿弥陀仏」という、よび声の仏さまとなられ、私を通して、お念仏の声となってはたらいてくださっているのに。それは、私たち自身が邪魔をしているからのようです。一つの邪魔は、「恥ずかしい」とか、「照れくさい」とかいうものでしょう。私の地元広島の高名なM布教使さんから、こんなエピソードをお説教で聴きました。M布教使さんが、坊守さんと一緒に映画を見に行かれた時のことを、お話しくださいました。当時評判の映画で、感動的な場面にさしかかると、突然、隣の奥さまが、脚をつねるのだそうです。「痛っ、何しやがる」と思われたそうですが、声を荒げるわけにいかず、じっと我慢して、しばらく続きを見ておられました。そして再び感動的な場面になったら、また奥さまが脚をつねる、ということが何回かあったそうです。映画が終わって、帰りの途中、奥さまが、「いい映画でしたね」と言われるので、「そうだな」と相づちを打ったものの、脚をつねられたことを思い出し、「それはそうと、なぜ何度も脚をつねるんだ。痛いじゃないか」と責めたそうです。すると、「まあ、あなた覚えてないんですか?」と聞かれたので、「何のことだ」と言うと、「あなたは、いいところになると、ナマンダブ、ナマンダブと言うので、恥ずかしくて」とおっしゃったそうです。ありがたい話だなあと思って聞きましたが、映画館では恥ずかしいという奥さまの言い分も理解できなくはありません。しかし、お御堂(みどう)の中、お仏壇の前は、如来さまの前ですから、恥ずかしいなどという水くさい思いは不要です。思う存分、お念仏申したいものです。
父に申し訳ない
二つめの邪魔は、煩悩の邪魔でしょうね。後生(ごしょう)の一大事の解決ですから、これ以上ない喜びのはずなのに、テレビが面白い、カラオケが楽しいと、ご法義の喜びを忘れた日暮らしを送っています。しかしテレビもカラオケも、大きな悲しみに出あうと、何の支えにもなりません。娯楽番組も見る気になりませんし、ハイテンションな音楽も疲れるばかりです。つまり、これらは、本当の支えではないのです。今年は、父の33回忌になります。32年前の夏、父は心筋梗塞(こうそく)で急死しました。父との死別は悲しかったですし、当時、大阪大の大学院生だった私は、それまでの学問を途中で諦めねばならないこと(自分勝手な発想ですが)や、ゼミの仲間たちと別れて自坊に戻らねばならないこともつらく感じました(もっとも、この点は実際にはそうではなく、数年後に妻となってくれたのは、大阪大の1年後輩のゼミ生でした)。悲しくつらい時には、テレビも見たくありませんし、ご飯もおいしくありません。それでも、父の葬儀の翌日から、自坊の法務が待ち構えていました。慣れない法事での緊張感や、たどたどしい法話、本当にへとへとな毎日でした。
法務をこなしているうちに、ふと「自分は、こういうことがなかったら、ご法義に遇(あ)えなかったのでは」という思いが起こったのです。仏教や真宗とは直接関係のない学問をしていた私に、こういう形で、父はご法義を伝えようとしたのかと思うと、父に申し訳ない思いでいっぱいでしたが、それ以上に、大きなお育ての中にあったことに気付きました。そして、同時に、その先に、阿弥陀さまの大きなお慈悲があることにも気付きました。どんな時でも、心の底から支えてくださっている「畢竟依(ひっきょうえ)(究極の依りどころ)」を、自ら味わい、伝えていくことが大切なのだと思えました。そんな時、思わず、お念仏が出てくれます。他人の悪口を言うのが楽しく、愚痴(ぐち)ばかりこぼしている、この口から、お念仏が出てくださるのは、本当にすごいことです。仏力・他力のたまものだと、しみじみ思います。

■変わるもの、変わらないもの -まことの世界に生まれさせてただく第1歩を-
昨日、今日、違う私
この春、甲子園球場に足を運びました。少し肌寒い日でしたが、観客席はほぼ満席で熱気にあふれていました。芝生のあざやかな緑に爽やかなプレーが重なって、全体が一層美しく感じられました。その日からしばらく経ったある日のこと、古い新聞の切り抜きを見ていましたら、甲子園球場の歴史と魅力について書かれた短い一文が眼にとまりました。そこには、おおよそ次のようなことが書かれていました。
――球場の周辺は大きく変わった。美しい浜辺も消え、球場のそばには高速の高架道路が走り、大きな団地もできた。その中で、球場だけは変わらないものがある。70年前も今も、見る人のこころに焼きつけるものがある。無くてもいいものははんらんする中で、甲子園球場は無くてはならないもの、不変なものの美しさで輝いている――
この新聞記事は私に、変わるもの、変わらないものについて考える一つのきっかけを与えてくれました。私たちは、いつも自分を中心において、こちらから向こうを眺めています。生きているということはそういうことだと思われます。そして、この眼で見えているものは確かに変わっています。私の住んでいるところも24時間煌煌(こうこう)と明るいところが増えてきました。都会では、知らないあいだに、高いビルが建ち、中に入ると方角さえわかりにくくなることもまれではありません。ところで、私の外(そと)の変化は眼に見え、誰もが認識できますが、外を眺めているこの私自身はどうかということです。かつて、こんなことばに出会ったことがあります。「他人と私の違いより、昨日の私と今日の私の違いが大きい」というものです。これをある人に言いましたら、「カッコイイ」ということばが返ってきました。恐らく、こころに強く響いたに違いありません。また、世間的におかれる立場が変わりますと、その前後で同じ人が違ったことを言い出すこともあります。このように考えていきますと、もはやこの世に変わらないもの、そして頼りとすべきものなどないということになります。『歎異抄』に「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」、「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と述べられるのは、まさにこのことを示すものです。
4種のさかさま
仏教には四顚倒(してんどう)ということばがあります。顚倒とは、正しい見方やあり方の反対、さかさま、誤った考えという意味です。真実のあり方に背く四種の見方をいいます。最初は、常顚倒(じょうてんどう)と出てきます。無常なるものを常と顚倒してみるという意味です。また二番目からは、苦しみの世界を楽しみの世界とみてしまう楽(らく)顚倒、無我(むが)であるのに我はあるという我顚倒、不浄(ふじょう)を浄と思う浄顚倒。合わせて、凡夫(ぼんぶ)の四顚倒というのです。つまり、仏教の道理に背いた生き方をしているということです。それは顚倒ですから、ひっくり返っている状態をいいます。しかし、それに気付いていないのが凡夫の姿です。真実まことに遇(あ)って知らされるということです。このような四顚倒に対し、涅槃(ねはん)の四徳(しとく)ということが経典に説かれます。ことばとしては、常・楽・我・浄と、それぞれ顚倒がとられた文字で表されます。常は永遠、楽は安楽に満ち、我は絶対であり、浄は清浄である、このように辞書は説明します。そして、この涅槃界(ねはんがい)のことを浄土ということばでいい表します。
したがって、浄土はさとりの世界です。変わることのない世界です。変わる世界にどっぷり身をおきながら生きていく、そこに変わらないものを求めていく心が起こるのです。それは、仏法というものがはたらくということです。浄土は、如来の願心(がんしん)によって完成された世界です。阿弥陀如来は一切の衆生を浄土に生まれさせて救いとろうと願いつづけてくださるのです。その願いの中に生かされるとき、永劫に変わることのないまことの世界に生まれさせていただく一歩がはじまるということです。 
 

 

■"終活"から"聞活"へ -お念仏申す人生、お聴聞に終わりはない-
命終わらない世界
アメリカ合衆国オバマ大統領が、現職として初めて広島を訪問しました。広島に生まれ育ち、平和教育を受けた者として、深い感銘を受けました。静かな興奮がおさまりません。核兵器の根絶を掲げ、差別を禁じる、私が学んだ平和教育は、机上の理想でしょうか。残念なことに武器としての核は、地球をいくつも消滅させられるほどたくさんあります。愚かなことに、新たな出来事に呼応するかのように、差別は世の中ににじみ出てきます。それが現実だからこそ、痛みや苦しみを抱える人と共に歩む努力を惜しんではいけません。恨みや憎しみを解き放つ勇気を持ち続けなければなりません。そうでなければ、人に生まれた甲斐がありません。私たちは互いにより深く理解するために、問い続け学び続け、思索を深めることを止めてはいけません。投げやる訳にはいきません。しかし、言うは易しです。自分が思う正しさは、正しいのでしょうか。何に照らせば本当の正しさ、真実の様を知ることができるのでしょうか。私は、如来大悲のおこころに尋ねるしか術(すべ)を知りません。
智慧(ちえ)の光明(こうみょう)はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし 真実明(しんじつみょう)に帰命(きみょう)せよ
親鸞聖人がご和讃を通して伝えてくださる真髄が、いよいよ深く、より一層鮮明になってまいります。ところで、近頃しばしば見聞する《就活》《婚活》《終活》といった言葉がありますが、僧侶なので、やはり人それぞれが望む最期の在り様に関心を持ちます。《終活》というと、人生の幕引きを迎える活動ですが、《聞(もん)活(聴聞活動)》とか《念(ねん)活(念仏活動)》として捉え直すと、終わりが終わりではなくなる世界が見えてきませんか。
唯一無二の原動力
人生は、いかに綿密な計画を立てても、努力を積み重ねても、希望通りになるという確約は得られません。私自身、自分が大病をした後に、息子が心肺停止から蘇生したり、介護に明け暮れていた妻が病気になり手術をしたりと、想像さえしなかったことが現実になりました。私の人生は、突然の病でいのちこそ終わりませんでしたが、一瞬にして転変することを体験しました。当たり前の日常も、その先にある予想できる未来もぶっ飛びます。確かなものは、「必ず救う」という阿弥陀如来さまのご本願だけです。すると、大切な人の《死》が喪失の事実だけではなくなります。悲しい寂しい虚(むな)しいという感情を超えて、また会える世界をあらためて深く思い知る千載一遇の機縁なのです。「お聴聞に終わりはない。わかったと思ったそばから迷っている」と、口癖のように話してくれた人がいました。話してくれた父は往生の素懐を遂げましたが、その命は、まったく休むことなくはたらきかけてくれます。
だから私は、誓願不思議の如来大悲をつくづくと知らされるのです。あれやこれやと心定まらない迷いを忘れて、まっすぐに絶対他力のご本願におまかせすればいいのです。とはいえ、私はきっと命尽きる瞬間まで、なにかを思い願うことを止められないでしょう。そして、思い願うままにならないことを嘆き、悔やみ、それでもまた思い願い続ける自我を滅することもかないません。しかし、この迷いや煩悩が転じられ、真実として深まっていく道があります。それがお聴聞です。命ある限り迷いの世界をさまよう「わたし」こそが、必ず救うと誓われた阿弥陀如来さまのお目当てです。「わたし」のためにはたらいてくださるご本願のおこころを深く深く聞かせていただきましょう。それがお聴聞です。寸分先もわからない人生だからこそ、本願他力のお念仏は、心頼もしく生き抜かせていただく唯一無二の原動力です。ただただ尊く有り難く、報恩謝徳のお念仏を申すよりほかありません。

■宝の山 -人生は邂逅と謝念である-
結論は仏法聴聞
私は、滋賀県にある田舎のお寺に入寺してから、ふと気付いたことがあります。ご門徒に出会って話をすると、必ずと言っていいほど「おかげさまで」が話のはじめについていることです。何百年もお念仏の道場を護(まも)り大事にしてくださった方々の願いが、現代の今を生きる人の中で具現しているかのように...。ご門徒とのお話の中で「おかげさま」が聞こえたら、「先祖代々、お念仏のご縁があってよかったね」と心の中でつぶやいています。時代の変遷の中で、富める時代も貧しい時代も、お念仏という宝がいつも生活の中心にあったから、「おかげさま、ありがとう」という感謝の心が、命のつながりとして、代々綿々と継承されてきているのだと実感しています。
若い頃に聞いて感動した亀井勝一郎先生の「人生は邂逅(かいこう)と謝念である」という言葉と、『往生要集(おうじょうようしゅう)』の「頭(こうべ)に霜雪(そうせつ)を戴(いただ)きて、心(しん)は俗塵(ぞくじん)に染(そ)めり。一生(いっしょう)は尽(つ)きぬといへども、悕望(けもう)は尽きず。...願はくはもろもろの行者(ぎょうじゃ)...すみやかに出要(しゅつよう)の路(みち)に随(したが)ふべし。宝の山にいりて手を空(むな)しくして帰ることなかれ」の言葉は、私にとって忘れられないものです。この言葉がつくづくわが身にしみてきている昨今です。ところで、「宝の山」とは何なのでしょうか。結論をいえば仏法の聴聞のことです。宝の山に入りて空しくして帰る人は、仏さまの教えを聞くご縁のない人のことです。こんな人生を過ごさずに心豊かに生きていきましょうと、およそ千年前にお念仏をよろんだ源信(げんしん)さまの声なのです。それではどのように仏さまの教えを聞けばいいのでしょうか。この私に、仏さまの教えを私心・私見を交えず素直に聞くことができるのでしょうか。ここが問題です。
名号は私のために
浅原才市(さいち)さんが、  わたしゃあなたに眼(め)の玉もろて あなたみる玉なむあみだぶつ ・・・と詩(うた)っています。才市さんはお聖教(しょうぎょう)をそらんじたり教えを講釈する人ではありません。ただ純粋無垢(むく)にアミダさまのお慈悲をよろんでいた好々爺(こうこうや)でした。仏さまはあるがまま見る眼(まなこ)を私たちにあたえてくださる方だと体解(たいげ)していたのです。だからこそ、
ええな せかいこくうが みなほとけ わしもそのなか なむあみだぶつ わたしゃ あなたにおがまれて たすかってくれとおがまれて ご恩うれしや なむあみだぶつ ・・・というすばらしいお領解(りょうげ)を披露できたといえます。
才市さんの領解は、アミダさまは南無阿弥陀仏の六字の名号(みょうごう)です。アミダさまの姿・形を求めているのではありません。お名号は誰のために完成させられたのかを聞いてみれば、この私のすべてをみぬき、この私を救うためにこそ誓願(せいがん)をたて修行されて阿弥陀如来となり、その救いはお名号となってはたらいているのです。アミダさまはみ名となって、いつでも・どこでも私に「かならず救うぞ」とはたらいてくださるのです。つまりが、ナモアミダブツと称(とな)えるままが、アミダさまに喚(よ)ばれつづけている私と領解すべきです。
このことを甲斐和里子(かいわりこ)さんが、 み仏をよぶわが声は み仏の われを喚(よ)びますみ声なりけり ・・・とみごとに歌っています。できればこの歌をかみしめて、いつもアミダさまと共に生きているわが命と、よろこびにみちた生活をしていきたいものです。また、親しい先生から聞いた話ですが、池山栄吉先生の書いた名号碑の南無阿弥陀仏と刻んである裏に「オネガヒダカラスグキテオクレヨ」の文字があるそうです。ありがたいですね。私はアミダさまを拝みたのむのではないのです。すでにアミダさまから「タスカッテクレヨ」とたのまれているのです。このことを知ることが人生の宝をよろこぶ生活の出発なのです。

■不自由のど真ん中 -根深い迷信を断ち切るのがお念仏-
占いは偏見のもと
久しぶりに帰省した子どもたちが、ある時、私のいないところで、こんな会話をしていたそうです(誰が明かしてくれたかは機密です)。三男が口火を切りました。「俺たちみんな性格はバラバラだけど、悪いところは、みんなあの親父だよな」 すると次男が、「確かに、頌(しょう)(長男)の、妙に完璧主義で面倒くさい性格や、俺の、おちゃらけたところ、淳(じゅん)(三男)の、我が強いところ、皓(こう)(四男)の、プライドが高いところ、みんな、あの親父だな」 と言うのです。その場に私はいなかったので、言いたい放題です。本当にすべて私のせいなのかは保留するとして、「みんな性格はバラバラ」は確かです。私の血液型は0型で、妻も0型です。必然的に子ども4人も0型です。しかし、この6人、性格はみなバラバラです。血液型占いが、いかにあてにならないかを、わが家が実証していると自負しています。
そういえば、故市川團十郎さんが白血病にかかり、その治療として血液をすべて入れ替える輸血をされ、その時に血液型が変わってしまったそうですが、ご本人が言われるには、「性格は全然変わらなかった」そうです。世の中、占いがはやっています。「ファッションだ」とか言う人もいます。私の購読している地元の地方新聞も、以前は「占い」などなかったのですが、10年以上前から、「○月生まれの運勢」という占い欄が載るようになりました。「安芸門徒の地元の新聞なのに、けしからん」と思い、当時、知己だった、ある記者にクレームを言うと、何とか部長さんという、偉い役職の人が来てくれました。一宗派の論理だけでは聞き入れてもらえないと思い、少し客観的な物言いをしました。「ひのえうまのように、占いは予断や偏見の元で、いじめや差別の原因にもなるので、人権上、悪影響を及ぼす」と抗議しました。すると、予想はしていましたが、「一定の需要があるので、そういう読者層の要望にも応えねばなりません」と言うのです。私も面倒くさい性格ですから、引き下がりません。「需要があるからというだけで、オピニオン・リーダーとしての責務が果たせるのですか」と迫りました。すると、「貴重なご意見として、持ち帰って検討いたします」となりました。この手の立場の人の「持ち帰って検討」とは、「改める気は、ありません」と同義語です。案の定、占い欄は掲載され続け、失望と無力感にさいなまれたことを思い出します。
科学は迷信に無力
また、これも、かなり前のことですが、ある航空会社の飛行機に乗ったとき、自分の座席番号が「5A」だったので、「1A、2A、3A」と順番に捜していったら、何と「3A」の次が「5A」でした。3と5の間に非常口があったのではありません。その場で、理由を問い詰めませんでしたが、どう考えても、理由は一つしか思い浮かびません。「4」は、「死」をイメージするということです。もし飛行機が墜落したら、4番の座席の人だけが危ないなんてはずはありません。さらには、病院も「4号室」が無いという話を聞いたことがあります。金属の塊を空に飛ばす科学の最先端で、人命を救う医療の最前線においてさえ、かくも迷信とは根強いものかとがくぜんとした記憶があります。すべての飛行機やすべての病院ではないでしょうし、現在は改善されているかもしれません。しかし、発達した科学でも迷信には無力なのだと、つくづく感じました。この根深い迷信を、横さまに断ち切るのが、お念仏です。「自由、自由」と、自由を喧伝(けんでん)する現代人が、占いや迷信という呪縛から逃れられない「不自由のど真ん中」にいるのが、滑稽(こっけい)というか残念です。真実信心を、もっと自信を持って伝えていかねばと自省する、この夏です。

■バランスと少欲知足 -仏さまの教えを聞き、欲望を制御する生活を-
均衡を保つ自然界
今朝もホトトギスの鳴き声が聞こえてきます。「夏は来(き)ぬ」の一番の歌詞には、
卯(う)の花の 匂(にお)う垣根(かきね)に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴(きな)きて 忍(しの)び音(ね)もらす 夏は来(き)ぬ ・・・とあります。
このように親しまれているホトトギスですが、いわゆる托卵(たくらん)する鳥としてよく知られています。ホトトギスはウグイスの巣に卵を産み、ウグイスはそれを知らずにあたため、先にふ化したホトトギスのひなは、ウグイスの卵を巣から落としてしまうのです。ウグイスは、ホトトギスの雛を自分の子どもだと思い込んで、育てていくのですね。このような鳥の世界のはなしから「バランス」ということが頭に浮かんでくるのでした。それは自然界は自然そのままでバランスが保たれているんだなあ、そして、人間はバランスをとろうとして、逆にそれを壊しているのかな、と思ったことです。日常生活の中でも、栄養のバランスを考える、バランス感覚がよい、悪い、バランスよくできている、などとしばしば使っています。ただ、このバランスも、人間の命を保っていくという意味ではあまり聞かれないようです。たとえば、あの人はバランスをとって生きておられる、とか。でも考えてみますと、体の諸器官がバランスよく働いて元気でいられるのですから、健康とはバランスのとれた状態といえましょう。ともかく、自然界はそのままで、また人間が生きていくということも、ともに均衡が保たれている、そういう状況だといえます。そして、そこには、「少欲知足(しょうよくちそく)」ということばが大きな意味をもってあらわれてくるように思われます。それは「欲少(よくすく)なく足(た)るを知る」ということを考え、実践していくところにバランスが保たれていく、そのように思えてくるからです。
欲には限りがない
欲望というものは限りがなく大きく膨らんでいく本性があります。新幹線ができるまでは、新幹線以上速い乗り物は考えません。しかし、いったん新幹線が走ると、そのスピード以上のものを求め、手に入れようと懸命になります。『無量寿経』のなかには、「田(た)あれば田(た)に憂(うれ)へ、宅(いえ)あれば宅(いえ)に憂(うれ)ふ」「田(た)なければ、また憂(うれ)へて田(た)あらんことを欲(おも)ふ。宅(いえ)なければまた憂(うれ)へて宅(いえ)あらんことを欲(おも)ふ」と説き明かされます。無いから求めるだけでなく、有っても有っても満足することがないということです。それは、こんな譬(たと)えで示すこともできるでしょう。手に砂を握っている人が、そのままでさらに砂をつかもうとしている姿です。砂にかぎらず、握っているものは手から放さなければ新しいものをつかむことはできません。さらに、つかむことのできないものまでもつかもうとしているのが凡夫(ぼんぶ)の私かもしれません。1歳ぐらいの幼児が外で遊んでいて、砂場に水道の水が流れている。それを一生懸命つかもうとしている。それは、水が棒に見えているからだ。こんな話を保育専門の先生から聞きました。たまたま子どもの話をしましたが、似たことは年齢に関係なくあるかもしれません。
仏教では、欲望のことを煩悩と称して大きくとりあげ問題にします。それは、迷いの世界から悟りの世界をめざす以上、どうしても避けることができないからです。その場合、煩悩を断(た)つという方向が一つあります。これは、ある意味で理解しやすいといえます。ただ、わかりやすいということと、実際に行(ぎょう)ずるということは一つになるとは限りません。そこで、今一つの立場が重要になります。それが、煩悩を制御していくという方向です。これは煩悩を否定してしまうのではなく、かといって、湧き起こってくるものをそのまま容認したり、放置するものでもありません。そこに、制御することの意味があります。少欲とは欲望をなくすことではありません。また知足の意味は、心が穏やかなことである、ともいわれます。謙虚にこのことばのこころを聞いていくべきでしょう。親鸞聖人はお手紙で「仏(ぶつ)のちかひをききはじめしより、無明(むみょう)の酔(よ)ひもやうやうすこしづつさめ、三毒(さんどく)をもすこしづつ好(この)まずして...」と説き示されます。深く味わいながら、念仏者としての生活を送っていきたいものです。

■いのちのつながり -偽りても賢を学ばんを賢というべし-
おかげさまの生活
毎年8月には、お墓掃除、仏教壮年会の本堂掃除、そして盆会(ぼんえ)のおつとめをお寺でしています。親子、そして孫たちと一緒に合掌しているご門徒の姿をみると、それぞれのお顔が輝いているように、いつも思っています。お墓であっても、本堂の如来さまの前であっても、やさしい顔をしています。そんな顔をみるにつけ、ワンガリ・マータイさんが、日本で見つけた「もったいない」という世界を思い出します。私が学生時代、第23代勝如(しょうにょ)ご門主が、親鸞聖人ご誕生八百年のご法要(ご満座)に際してのご消息に、念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります。とお示しになりました。お念仏の生活は「ありがとう、おかげさま」の日暮らしなのですね。つきつめれば、今をもったいないと感じて生きているのが念仏生活なのです。
私は前門さまのご著書『朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて』を愛読していますが、その中で、「ひとりの人間が存在するとき、その背後には、長いいのちの流れ、いのちの連鎖といったものが必ずあります。両親、そのまた両親と、祖先から連綿と続いてきたいのちのつながりによって、ここに生きていることができるのです。(中略)衣食住を考えてみましても、何かのおかげによらないものはありません」と日常の視点を示されています。お参りに来られたお同行(どうぎょう)がよく申されます。「ワシらが今こうしておれるのは、ご先祖さまのおかげじゃあ。この年になっても、お寺参りさせてもらうのはなぁ、阿弥陀さまにまちがいがないことを、何度も知らされ聞かせてもらうためじゃあ」 こんなつぶやきを聞くたびに、歴代の住職の願いがわかりました。「お浄土まいりの人生を歩ませていただいているわが命、阿弥陀さまにいつも喚(よ)ばれどおしのわが身である」ことを。
無条件のおすくい
梅原真隆和上(うめはらしんりゅうわじょう)が、浄土真宗の要を歌っています。
なにもかもまかせまつりて南無阿弥陀 この身このまますくわれてゆく ・・・という歌です。さきに、お念仏の日暮らしは、「もったない」と感謝の生活だと申しました。梅原和上の心情に迫れば、わが往生には何も条件はいらないのです。たとえるならば、赤子を育てる母親は子どもの生きる力を母乳を通して与え、やさしい腕で子どもを守り育てています。阿弥陀さまはこの私を仏にするために、ナモアミダブツのお名号と摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光明でいつも私にはたらいているのです。それはまるでお名号が母親の乳房のようであり、光明が母親のやさしい腕のようなものなのです。ナモアミダブツは阿弥陀さまの「私をタスケルすがた」であり、また、私が「タスカッテイルすがた」なのです。このナモアミダブツの本当の意味を理解するには聴聞しかありません。有り難い人間に生まれ育っているのですから、「薄俗(はくぞく)にしてともに不急(ふきゅう)の事(じ)を諍(あらそ)ふ」と指摘される人生の解決に努力しなければ、空(むな)しい一生です。じゃ、どうすればナモアミダブツが理解できるでしょうか。ヒントに『徒然草(つれづれぐさ)』八十五段の文章を味わってみましょう。
「偽(いつわ)りても賢(けん)を学ばんを、賢といふべし」です。たとえ本心でなくても賢者を学ぼうと実践しておれば、やはり賢者というべきであると吉田兼好は言うのです。日々の月参りで、兼好法師の言わんとすることを味わいました。ご門徒宅へお参りにうかがえば、多くの家は私の後ろでおつとめをしています。おつとめしている子どもは小さな好人(こうにん)です。いつもありがたく思いながら、日曜学校に来てくれる日を指折りかぞえています。おじいちゃんのお念仏の声にひかれ、おうむ返しにお念仏している姿を目(ま)の当たりにして、お念仏のおいわれを領解(りょうげ)できる日が早くおとずれるだろうと信じています。

■ミズスマシ -慈悲に目覚める人生は空しく終わらない-
おかげさまの生活
農民詩人として宗教的な詩をたくさん残された村上志染(しぜん)さんの詩です。
方一尺(いっしゃく)の天地 水馬(みずすまし)しきりに 円を描(か)ける なんじ いずこより来たり いずこへ旅せんとするや? ヘイ! 忙しおましてナ!
方一尺、一辺が30センチあまりの水たまり。そこを自分の世界として、どこから流れてきたのか、ミズスマシがせわしなく動き回っています。お前さんはどこからきて、どこへ行こうとしているのかね。まもなく干上がってしまう狭いその水たまりの中で、そのいのちを終わってゆかねばならないのだよ、という問いかけに返ってきた答えが、「忙しくてそんなこと考えてません」というものでした。言うまでもなくこれはミズスマシになぞらえて、人のいのちの意味と行方を問うているのですね。ミズスマシに比べればはるかに長い時間と広い空間を生きているのが私たち人間ですが、肝心ないのちの来(こ)し方、行方、そしてそのいのちの意味を問うことなく終わってゆかねばならないのなら、このミズスマシと大差ないではないですか、と村上さんは問いかけます。せめて、人と生まれたこのいのちの意味、死の意味の決着をつけさせていただかねば、いただいたいのちにあまりに申し訳ないことです。
自分しか見えてない
ところで、人間の知恵は、自分の見た世界、経験した世界にしか及ばないものです。それも自分を中心にしてしか見ていない世界です。こんなことがありました。36年前の春、私は結婚式を挙げました。その時、参列予定だった母方の祖母が体調を崩し、大事を取って入院したと聞いたので、式の前々日、私は妻と二人で母の実家のある石川県加賀市の病院へ見舞いに行きました。「周りの勧めもあって入院したけど、あさっての結婚式の始まる時間には、病室から福井の方を向いて、お念仏しながらおめでとうと手を合わせてお祝いさせてもらいますよ」と温かいお祝いの言葉をかけてくれた祖母でした。私たち家族は翌々日の結婚式、さらに翌日のご門徒さんへの披露と、慌ただしい中にも皆さまのご祝福をいただき幸福感に浸っていました。ところが、その頃を見計らったようにかかった母の実家からの電話で、本当のことを知らされ、一転して悲しみのどん底に引きこまれたのです。私たちが見舞ったその日、容体が急変して祖母は往生を遂げていたのです。叔父の深い配慮と思い切った決断により、「通夜・葬儀の日取りは延ばすから、結婚式の披露宴に呼ばれている人は何事もなかった顔をして参列するように」という通知が親戚に回されていました。本当のことを知らない私たちは、幸せそうにふるまっています。叔父をはじめとする母方の親戚は、その私たちの姿にどれだけ胸を痛めたことでしょう。その電話の後、とるものもとりあえず、それまで延ばしてくださっていた納棺の儀にかけつけ、祖母の枕辺に座りました。結婚式、披露宴をつつがなく穏やかに済まさせてやりたいというあの時の叔父の配慮には、今でも心から感謝の思いでいっぱいです。私たちは自分の見た世界しか見えていない、ということを痛切に教えられた、厳しくも尊い経験でした。
人生に確かな意味
生と死を平等に見わたせる、まことの智慧(ちえ)を自らの上に体現された如来さまの眼差(まなざ)しには、私の生きざまが危なっかしく哀れで、胸を痛める姿として映ったのです。私のいのちの行方を本当に案じ、胸を痛めてくださる阿弥陀さまを、慈悲の親さまとして、お念仏の先輩方は仰ぎ慕ってこられました。自分にかけられたお慈悲の温かさ、確かさに心動かされた人は、そのまま慈悲の人へと育てられてゆくのでしょう。慈悲に目覚めるためにこの世に生を受け、そしていのち終わっても、お浄土で仏さまと同じはたらきをさせていただくのだと知らされた人生は、決して空(むな)しく終わることはありません。私のいのちはあなたのお慈悲に目覚めさせていただくために賜(たまわ)っていたのですねと、自分の生と死に確かな意味を与えてくださるお慈悲のご恩を、あらためてかみしめさせていただくことです。

■消防車と子ども -問題を遠くに置こうとする私を照らすみ教え-
誰かたすけてくれ!
昨年の春のことでした。私が暮らすお寺の南側には5階建てのビルがあり、朝夕ほんの少ししか陽(ひ)が入りません。冬は洗濯物が乾かないのです。でも、一番東にある1階和室の上の小屋根には陽が当たっています。それなら、そこに物干し場を作ろうということになりました。工事が始まった2日目のことです。古い鉄骨の骨組みを切り外すために「キーン」というけたたましい音が鳴り響いていました。その直後のことでした。何やら騒がしい声が聞こえます。「誰か助けてくれ!」と、現場を仕切る担当者の悲壮な声が聞こえてきました。「どうしたのですか?」 「この小さな隙間から火が入り込んでしまった!」 火事です! 鉄骨の解体時の火の粉が1階天井裏に入ってしまったのです。工事関係者は慌てるばかり。私は、休んでいた夫に知らせ、消火器を取りに行きました。それを工事関係者に渡した後、そうだ、隣に住む息子家族に知らせなくては、彼らに逃げるように言わなくては...と声をかけると、息子は冷静に、「消防署に電話したのか!」 あっそうだ、まだだった。「一番肝心なことをしないで何してるの! 早く電話して!」と叱られ、やっと消防署に通報しました。
息子はすぐに現場に来て、手早く指示してくれました。ほどなく道いっぱいの大きな消防車が入ってきて、たくさんの消防隊員が手早く動いているのを近所の人が心配そうに見守っています。しばらくして、火は広がっていないと判断して、放水は見合わせるように指示されました。通報から2時間ほどして、火が延焼していないことがわかり、大通りに待機していた7、8台の消防車が撤収。最後の消防隊員が「あらゆる所を点検しているから安心するように」と言って帰って行かれた時には、すでに4時間は経過していたと思います。その間、消防隊員、警察官、町の消防団員と多くの方々が動いてくださいました。あんまり慌てると、正常な判断ができず、一番に知らせなくてはならない消防署への通報が後手に回り、住職としてあまりにもお粗末でした。お年寄りの多い街ですから、本当に大火にならずによかった、と胸をなでおろしました。
私のために来た方
一方、家の中は、工事関係者が水道の水をかけ、1階の和室の天井をはがし、和室の中はボロボロ、見るも無残な姿です。ボヤでよかった。内陣の方には火が入らなくてホッとした。でも、これからどうなるのだろうか...。すっかり疲れた頭は何も考えられません。先ほどまでの喧騒(けんそう)は去って、もとに戻った静かな街並み。私は表の通りから敷地内を一人でぼんやりと眺めていました。その時、おじいさんが小さな男の子を連れてやって来ました。たたずむ私のことは目に入らなかったらしく、そのおじいさんは火事の現場であるわが家をのぞき込み、孫に向かって言いました。「な〜んや、もう終わってしまったわ」 どうやら、孫に消防車を見せたかったらしいのです。そう言った後、子どもの手を引いて去って行きました。
悲しかった。火事という痛ましい出来事は、孫に消防車を見せる機会であり、消防車を見る孫の喜びだけを考えて「な〜んや」と言っていたのでしょう。しばらく、その老人の言葉が頭から離れませんでした。数日、そのことを考えているうちに、「そうだよ、あなたも、そんなふうに、人のしんどい場面で、知らない間に、思いの至らぬことを口に出して、悲しみ、痛みを増幅させているようなことをしていない?」と言う声が聞こえてきました。そうか、あの老人は、そのことを私に知らせるために来てくださったお方なのかもしれない...と思えた頃、前に向かって歩み始めることができました。争い、いじめ、むさぼり、いかり、ぐち、資質の低下、社会の混迷...。どこか遠くに問題を置いて暮らしているけれど、どれも私の人生そのもの。だからこそ、お念仏の教えとともに、丁寧に暮らしてゆかなければと思う出来事でした。

■「うけつぐ伝灯」 -私に中継ぎされていたお念仏-
ご門徒の夢に父が
5月29日に、住職継職奉告法要をおつとめしました。その日、稚児行列や出勤僧侶を率いておねりの先頭を歩き、献灯・献華・献香のなかで、献灯の大役をしてくださったのは、ご門徒のMさんでした。Mさんは昨年、末期の胃がんと診断されました。しかし90歳近くなるので進行は遅いだろうから、体に負担をかけないためにも手術はしないという方針になりました。手術をしないとなると、がんを抱えたままですから不安になります。おつれあいさんも私も心配して、少しでも元気になってもらいたいという思いから、体によい食材を勧めたりしましたが、ご本人は「ありがとうございます」とは答えられるものの、その食材を口にすることもほとんどなく、「がん」という言葉に押しつぶされそうになりながらの日暮らしでした。お寺の役員をされた経験もあるので、継職法要の発起人をお願いすると、「私はがんですし、法要まで生きているかどうかも...」とおっしゃいます。私はどう言葉を返していいかわかりませんでした。ところが、その生き方がゴロッと180度変わる出来事が、Mさんの身に起こります。
それは年の瀬も押し迫った深夜のことでした。Mさんの夢の中に、前住職であった父が出てきたそうです。父は黒地に金の刺繍(ししゅう)の入った羽織袴(はおりはかま)を身にまとい、柔和な顔で、大きな盃(さかずき)と扇子(せんす)を持って舞いを踊ります。そして踊り終えたあと、Mさんの前に進み出たかと思うと、持っていた大きな盃を渡し「お寺の事、法要の事、よろしゅうにお願いしますな。ほんまに、よろしゅうに、お願いしますな。なんまんだぶつ」と深々と頭を下げ、盃にナミナミとお酒を注ぎ、「さ、呑(の)んでくださいや」とMさんにほほ笑みかけます。Mさんは「わかりました。ありがとうございます」と盃に口をつけたその時、父の姿がスッと消え、夢から覚めたのだそうです。夢かうつつか幻か、しばらく呆然(ぼうぜん)として、それから「あぁ、夢やったんか」と思ったと同時に、Mさんはその時、「あぁ、そうだった」と生きる力が湧いてきたのだそうです。
主役じゃないの?
その夢をきっかけに、Mさんの生き方が変わります。あまり口にしなかった健康食品も食べ、大好きなカラオケやビリヤードも再開されたり。そして一番うれしかったのは、「せめて法要までは生きていたい。私でよろしければ、発起人をさせてもらいます」と言っていただいたことでした。法要が近づき、実行委員会での準備が進む中、稚児行列を含めた、おねりの参加を呼びかけました。おねりの先頭はろうそくを灯す献灯です。「私、させてもらいます!前住職さんと約束したんです」。そう言って一番に手を挙げてくださったのはMさんでした。胃がんと診断され、生きる希望を見失いかけていたMさんと父との夢の中での約束。「お寺の事、法要の事、よろしゅうにお願いしますな。ほんまに、よろしゅうに、お願いしますな。なんまんだぶつ」その言葉をしっかりと引き継ぎ、法要当日は献灯の大役をつとめてくださいました。そして、法要から約1カ月後の7月8日、Mさんはお浄土へ往生されました。
亡くなるまで何度も、父の夢の話をしてくださり、「お父さんが夢の中で、私にお念仏の大事さ、その意味を伝えてくださったんですよ」と頬を紅潮させながら話しておられた姿は、今も私の脳裏に焼き付いています。父は生前、私によく「中継ぎ」という言葉を使いました。「お前はこのお寺の中継ぎや」というのです。それを聞くたび、私は「中継ぎは主役ではない」と感じ、反論したものでしたが、このMさんの夢の話を通して、父からMさんへ、そして多くのご門徒さまからこの私へと、お念仏が「中継ぎ」されていたことに、気づかせていただいています。まもなく「伝灯奉告法要」がおつとまりになります。「うけつぐ伝灯 伝えるよろこび」のスローガンのもと、この私まで届いてきたお念仏を次世代に弘め伝える歩みをさせていただきたいと思います。

■「自由」という不自由 -「生死出づべき道」が課題にならない現代-
伝灯のよろこび
いよいよ、10月1日から伝灯奉告法要が始まります。ご存じのように、一昨年の6月6日に、第24代即如門主から第25代専如門主へと法統継承式が行われました。法統継承式は「儀式」ですから、通例、儀式は1回のみです。 たとえば「葬式」も、その人にとっては1回だけですし、「帰敬式(ききょうしき)」も1回だけです。「結婚式」も、その後の事情は別として、その時は1回きりのつもりで行っています。ただ、披露宴はいろんな会場で複数回行われることも少なくありません。「法統継承式」は1回だけですが、その喜びを多くの人と分かち合い、決意を新たにする機縁、それが伝灯奉告法要です。10月から来年の5月にかけて、10期80日間にわたって厳修(ごんしゅう)されます。一人でも多くの人にお越しいただきたいものです。専如ご門主は、「法統継承に際しての消息」の中で、「本願念仏のご法義は、時代や社会が変化しても変わることはありませんが、ご法義の伝え方は、その変化につれて変わっていかねばならないでしょう。現代という時代において、どのようにしてご法義を伝えていくのか、宗門の英知を結集する必要があります」と、ご教示くださっています。
親鸞聖人の時代と今の現代とで、何が一番違っているかを考えたとき、私の思いでは、最大にして、かつ決定的な違いは、「生死出(しょうじい)づべき道(みち)」が課題になっているかどうかだと感じています。今の時代は、少なくとも物質的には便利で快適ですから、「今さら信心や念仏などなくても、何の不自由もない」と考えられていて、「生死出づべき道」が課題にならない人には、「さとり」も「浄土」も響かないでしょう。そこに、現代の伝道の難しさがあると思います。自分が迷っているという自覚がなく、「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思い込んでいます。他人のことではありません。この私が、そうだったのです。
欲望に支配され・・・
私は、自分では「若く見える」と思っていました。髪もほどほどありますし、白髪もほとんどありません。時々同級生と会っても、彼らの変わり果てた姿を見るにつけ、「私は若い」と思っていたのです。私は週の半分、京都で本山の研究所に勤めています。時折、その同僚と何人かで食事に行くのですが、店員さんに、「この中で、誰が一番若いと思う?」と聞くと、「そりゃ、お客さまですよ!」と、満面の笑顔で答えてくれました。自分でも若く見えると思ってますし、お店の人も若いと言ってくれる。それで、ますます「自分は若い」と思い込んでいたのです。ところが、数年前、急に十二指腸潰瘍(かいよう)で約2週間入院することになりました。お医者さんには行きたがらない性分でしたが、突然の吐血に驚いて近所の医者に行くと、そこで救急車を呼ばれ、そのまま総合病院に担ぎこまれました。いろんな検査をされて入院となり、主治医の先生が夜になって回診に来られたとき、開口一番、「あなたは、もう若くないんですから、無理をしてはいけません」と言われました。「私は若い」という自意識が、粉々に打ち砕かれたのです。
私が愚かなだけではありません。「自分のことは、自分が一番よくわかっている」と多くの人が思っているでしょうが、実は自分自身の明日さえ、誰もわかっていないのです。さらにまた、「今さら念仏などなくても、何の不自由もない」と思っている「自由」って何でしょうか。おそらく、「自分の思い通りになる」ことを「自由」と考えているのでしょう。しかし、「自分の思い通り」は、決して本当の自由ではありません。「自分の思い通り」とは、欲望という煩悩に支配された、これも一つの不自由なのです。私たちは、こういう価値観の転換を促していかねばなりません。蓮如上人は、「弥陀(みだ)をたのめば南無阿弥陀仏の主(ぬし)に成(な)るなり」とおっしゃっています。欲望という煩悩を自らの主とせず、南無阿弥陀仏を主とした日暮らしを送りたいものです。

■月の光に照らされて -名月はながめる人の心にこそある-
よび続けの仏さま
お彼岸も過ぎ、日暮れも一段と早くなり、夜空にはお月さまや星が輝く季節となりました。名月もこの季節ならではの美しさです。お月さまは、私がどこにいようと、必ず付き添い照らし見守ってくれているように感じます。しかしながら、その美しさがわかる人は、ながめることのできた人だけです。親鸞聖人のよき人、恩師である法然聖人は、
月影(つきかげ)のいたらぬ里(さと)は なけれども ながむる人(ひと)の心(こころ)にぞすむ ・・・と詠(うた)われました。
月の光は、野山や里をくまなく平等に照らしていても、その月をながめる人でなければその美しさは心に伝わらない、という意味です。「月影」は仏さまの光。「ながむる」とはみ教えを聞く「ご聴聞(ちょうもん)」のことです。親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に「『聞(もん)』といふは、衆生(しゅじょう)、仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞(き)きて疑心(ぎしん)あることなし、これを聞(もん)といふなり」と示されています。何を聞くかというと、阿弥陀さまが、必ず救うと誓われたご本願を建て、この私のために「南無阿弥陀仏」の六字となってよび続けていらっしゃったとお聞かせいただくのです。ところが、月と同様に、阿弥陀さまの大慈悲(だいじひ)に照らされていても、ながめる心、すなわち「ご本願の生起本末(しょうきほんまつ)」を聞くことなくしては、その美しさや有り難さが心に宿ることはありません。親鸞さまもそのご生涯を通して、「人間として生まれてきた悲しみ」を解決する道は、自力修行で解決できるものではなく、「南無阿弥陀仏」と照らされ届けられている六字の名号(みょうごう)のいわれを疑いなく聞く以外に、この私が救われていく道はないことを示されました。
「まことの保育」を
また、『教行信証』には、王である父を殺し母をも殺そうとしたアジャセ王子が、お釈迦さまの「月愛三昧(がつあいざんまい)」によって、その深い罪から救われていく姿が示されています。ここでも、お釈迦さまの光明が月の光にたとえられています。親鸞聖人もアジャセ王子が救われた姿に、わが身の救いを重ねておられたことでしょう。この愚かな身にも平等に、分け隔てなく照らす月の光によって、夜道でも安心して歩むことができるように、煩悩の尽きることのない「わが身」が照らされていることによって、安心して人生を歩んでいけるのです。妙好人(みょうこうにん)として知られる因幡(いなば)(鳥取)の源左同行(げんざどうぎょう)は、次の法座に誰を講師に呼ぼうかと相談されたとき、「誰でもよい、ご本願のいわれと、源左お前を必ず助けるということさえお聞かせいただければそれでよい」と答えたそうです。「ご聴聞」の場は人を選ぶのではなく、話される「み教え」を再確認する場であったのです。せっかく人間として生まれてきて、阿弥陀さまのご本願に照らされていながら、その月をながめることもなく「ご聴聞」もせず、もったいないことであったと気付かされ、ご本願を聴聞する場にこの身を置くことが何より大切なのです。
今、社会は高度成長期から、成熟社会へ移行しています。成熟社会を生きる私たちは、「ものの豊かさ」から「存在の豊かさ」を再確認する時代にあるといいます。私が勤める保育園は、北海道小樽市にある小樽別院の新光(しんこう)地区の説教所に開設されました。今年で創立51年を迎える、園児100人あまりの保育園です。まことの保育(仏教保育)の実践は、時代が変わっても変わることのない事柄と、時代の変化とともに変えていく事柄とがあります。保育園では、お参りの時に手を合わせ「仏参(ぶっさん)」をします。そして「みほとけさま! いつでもどこでも そばにいてくださってありがとうございます」と「奉讃文(ほうさんもん)」を全員で唱和しています。どんな子も、どんな時でも、いつでもどこでも月の光のように照らし見守ってくださる阿弥陀さまの「存在」を伝えていくことが、保育の使命であり、いつの時代であっても変わることはありません。阿弥陀さまは、すべてのいのちの「存在」に、救いの光を照らし続けてくださっているのです。 
 

 

■「念仏うり」-み教えの尊さを縁ある人に伝える-
拝まれて下さる仏
私が住んでいる地域は、浄土真宗の信仰が長い歴史とともに伝えられ、念仏生活が根付いているところです。私のお寺では10月に報恩講が修行されると、そのあとから、各家々の在家報恩講「おとりこし」のお参りに時間をかけています。私にとって、門信徒の方々と、先祖からいただいたお念仏の教えを語りあいながら、親鸞さまのご苦労やアミダさまのお救いが味わえる至福の時間です。若い頃に島根県有福(ありふく)の光現寺を参拝したことがありました。そのときにご住職からいただいた本に、「おがんで たすけてもらうじゃない おがまれてくださる 如来さまに たすけられて まいること こちらから おもうて たすけてもらうじゃない むこうからおもわれて おもいとらるること この善太郎」という味わいがありました。善太郎さんのこの徹底したご本願の領解(りょうげ)は、私に大きな影響をあたえました。心身にしみこんでありがたく、今では、お念仏を味わう導きになっているお領解です。純心にアミダさまの喚(よ)び声を心からうけとっておられます。善太郎さんのこのよろこびを味わっていると思い出すのが、蓮如(れんにょ)さまのお弟子として有名な道宗(どうしゅう)です。道宗の聴聞の心得は『蓮如上人御(ご)一代記聞書(ききがき)』一三一条に「同じお言葉をいつも聴聞しているが、何度聞いても、はじめて耳にするかのようにありがたく思われる」(意訳)とあります。蓮如さまは「いつも初事(はつごと)のようにご法義を聞くべき」とか、「耳慣(みみな)れ雀(すずめ)になってはいけない」などと、お聴聞の心得を申されていましたから、道宗はこのように生涯無心にお念仏をよろこんでいたのです。
油断あるまじき事
蓮如さまのお子さまの蓮悟(れんご)が著わした『拾塵記(しゅうじんき)』に道宗のことが書かれています。道宗は1年の大半を本山参りや同行(どうぎょう)の家を訪ねることについやしていたこと、そして同行といつもお念仏の話をして、アミダさまのお慈悲をよろこんでいたことが記されています。ある時、道宗が数人と本山参りをしたあと、ほかの同行が家に帰ったのに、道宗だけが帰ってこないことに心配した伯父の浄徳(じょうとく)が「一緒にお参りしたはずの道宗がまだ家に帰ってこないのだが、ご存じでしょうか」と同行たちにたずねました。すると、「道宗さんは念仏うりだから、いろんな人の家に泊まっているはずです。いつ帰ってくるのかはわかりません」と答えたそうです。「念仏うり」の意味がわからなかった浄徳は、それからだいぶ経ってから家に帰ってきた道宗に、「道宗よ、みんながお前のことを念仏うりと言っていたよ。これからはみんなと一緒に帰ってきなさい」とたしなむように言いました。これを聞いた道宗は、「どういう意味だろうか」といてもたってもおれません。すぐさま、京都の蓮如さまのもとに行き、事の次第を申しあげました。これを聞かれた蓮如さまは「道宗よ、結構なことではないか。何も心配することはない。お念仏をおおいに売り広めねばなりません。買い手が少ないですからね」と言われたそうです。この蓮如さまのお言葉に感じ入った道宗は、今までにもまして同行とお念仏の話に花をさかせていたといいます。
この時の「念仏うり」は売り買いの話ではなく、お念仏のありがたさ、アミダさまの尊さを縁ある人々に伝えるということです。念仏うりと揶揄(やゆ)した同行の心中は好意的なものではありませんが、ナモアミダブツのはたらきの中に生かされ生きている自分がうれしくて、まわりの人にお念仏をすすめずにはおれなかった道宗の生き方です。その生き方を一言で言えば、蓮如さまがご往生されて2年後に書いた「道宗覚書(おぼえがき)」にある、「後生(ごしょう)の一大事、いのちのあらんかぎり、油断あるまじき事(こと)」「ひきたてる心なく、大様(おおよう)になり候(そうろう)は、心中をひきやぶりまひるべき事」ということにつきると思います。豊かな生活環境にある今の私は、道宗のこの純粋な思いを受け取って生きているだろうかと省みるばかりです。

■一人で生きる力-宇宙全体の中に自己を見出す-
約束がつくる現実
遠方に嫁いだ娘が、2歳前の子を連れて1年ぶりに里帰りしました。娘の来訪の目的は、友人の結婚披露宴への出席です。披露宴の1週間前に帰ってきて、子どもを祖父になじませてから外出しようという考えです。孫は家に来てから、知らない家に来ての不安もあってか、トイレに行っても「ママ、ママー...」と付きまとう状況でした。娘が駅まで人を送っていって不在となった10分間も、やはり「ママは、ママは」と言い続けていました。1週間後の娘の外出は、午前11時から午後6時までの予定です。2時間くらいで泣きやむかな=@これが私の予想でした。さて当日です。私は朝から所用があって外出し、お昼頃に帰宅しました。きっと「ママは、ママは...」と泣いているだろうと思いながら居間に入ると、なんと祖母に見守られながらニコニコして、一人で遊んでいます。夜、娘が帰ってきた時に、「出かける時はどうだった」と確認しますと、「ママは今日はご用事で外出するけれど、夕方には帰って来るからお利口にしていてね。ナナちゃん(長男の子)も来てくれるからね」としっかり約束して、駅でバイバイしたとのことです。言葉には現実をつくっていく働きがあります。「明日、東京駅で会うという約束」によって、人と人が会う≠ニいう現実がつくられます。「広島支社に転勤を命ず」という辞令によって転勤≠ニいう現実がつくられていきます。母と子の約束によって、一人で過ごすという現実がつくられたのです。私には驚きでした。娘が自分の家に戻った後、私はなぜ幼児が母との約束を実行できたのかを考えました。それはおそらく今まで、生活の中で何度も「少し待っててね、すぐ来るから」といった約束という経験の積み重ねがあったからだと思われます。
一人でも一人でない
阿弥陀仏の約束を誓いと言います。「私を浄土へ摂(おさ)め取る」という誓願です。私は、この誓願を生活の中で受け入れて暮らしています。私がなぜ、その誓いを受け入れているのかを考えると、孫と同様に、過去の経験の中で私の念仏となり、私をみ教えを喜ぶ人間≠ノ仕上げ、誓いどおりにはたらき続けてくださっているという事実があったからなのでしょう。『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「人(ひと)、世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独(ひと)り死(し)し、独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)る」とあります。お経(きょう)の言葉は、「ひとり」という孤独な人生の事実を伝えたものです。
そのひとり≠ノついて、ウィニコット(1896〜1971)は「一人でいられる能力」という重要な示唆(しさ)を与えてくれています。ウィニコットは、イギリスの小児科医・児童分析家で、40年以上にわたり6万例の臨床経験を基盤に、独自の視点から母子の対象関係論を発展させています。ウィニコットが教える「一人でいられる能力」は、乳幼児期に開発されるものだそうです。常に親が自分のことを守ってくれているということを体験として理解した乳幼児は、物理的に親が傍(そば)にいなくても、いつしか善意にあふれた心地よい環境に深く安心し、ひとり遊びができるようになる。この安心感を伴ったひとり遊びは、悲観的な孤独体験とは全く正反対で、安心して自ら未知の世界へと向かって行くことのできる孤独だといいます。この能力によって、人は他者といることでひとりでいられるようになり、ひとりでいられることによって他者と一緒にいられるようになるのだそうです。
「一人でいる能力」とは、一人でいても一人でない≠ニいった感性です。逆に、一人でいる能力が阻害されると、「独房に監禁されていて、それでも一人でいることができないということがありうる。こうした人が、いかに苦しむかは想像を超える」とウィニコットは語っています。浄土真宗は、阿弥陀さまによって「一人でいられる能力」が育(はぐく)まれていくのでしょう。その能力は「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(歎異抄)と示されるように、宇宙全体の生命の中に自己を見出(みいだ)すというほどに、力強いものなのです。

■決してすてない -いつもわたしとご一緒の南無阿弥陀仏-
悪いのは母のほう
私の自坊は滋賀県高島市にあります。坊守である母は、本堂でのお朝事(あさじ)を終えると、そのままお内仏(ないぶつ)に行き、おつとめの後、法話集を声に出して読んでいます。私は以前、母の念仏申す姿を他人事のように思い、理解しようとしていませんでした。それは、私が小さい頃から母とあまり気が合わなかったからでした。母は私の自由な行動に腹を立て、私も母の命令口調に腹を立て、よく言い争いになっていました。私はずっと母に原因があるのだと、相手にすべての責任を押しつけていました。大人になって一人暮らしを始め、母の干渉から解放されると思ったら、今度は母からの電話です。その電話を煩(わずら)わしく思い、私が「もう切るで」と強い口調で言うと、受話器の向こうから、「ナンマンダブ ナンマンダブ」という母の声がするのです。私はその声を聞くのが嫌で、「もうやめて!」と怒り、すぐに電話を切っていました。電話のたびに同じことが続くので、母からの電話に出るのが億劫(おっくう)になっていきました。その後、浄土真宗のみ教えを学ぶようになり、お得度もさせていただきました。それからは、お参りの手伝いで自坊へたびたび帰るようになりましたが、母との関係はうまくいきませんでした。その頃母は、体の不自由なご門徒や一人暮らしのお宅に、作ったごはんのおかずを持って行ったりしていましたが、私には何が母をそうさせるのか全くわかりませんでした。ある日、自坊でのお参りが終わり、車で帰ろうと運転し始めると、見送ってくれている母が手を合わせて合掌し、「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏申している姿が車のミラー越しに見えてくるのです。その道中、母はなぜ合掌していたのか...と考えつつ、これまでの母との出来事を振り返ってみました。
知らず知らずに・・・
小学生の頃、寝坊した私を自転車の後ろに乗せ、大急ぎで学校まで送ってくれたり、破れた服を夜遅くまで直してくれたり、体が痛む時にはマッサージをしてくれたりもしました。また、学校に行くのが嫌になった時には、母は怒ることなく理由も聞かず、ただ黙って美術館や映画館に連れて行ってくれました。それだけ私のことを思ってくれた母に対して、なかなか感謝することができず、それは歳を重ねてからも変わることがありませんでした。私の口から出るのは汚い言葉や悪口ばかりです。そんなことを思い返していると「南無(なも)阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と私の口からお念仏がこぼれていたのです。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
これは、あらゆる世界において、阿弥陀仏の名号(みょうごう)のいわれを信じて念仏する衆生を、光明の中に摂(おさ)め取って決して捨てることなく、必ず往生成仏させてくださるのが阿弥陀という仏さまである、という親鸞聖人のご和讃(わさん)です。母は、阿弥陀さまのご恩に報いる生き方を依りどころとする、お念仏中心の生活を送っていたのです。念仏申す母の姿は、まさに阿弥陀仏の大悲心に抱かれた「念仏の衆生」であったのです。私は母に原因があるとばかり思い込み、母の思いに気付こうともしませんでした。いつも反発し、全く阿弥陀さまのお心に気付こうともしない愚かしい私の姿が、本当の自分の姿であると知らされました。同時に、母の念仏申す生きざまを通し、途切れることのない南無阿弥陀仏のおはたらきが、この私を知らず知らずのうちに念仏の衆生へと育てあげてくださったのです。
これまで悪口しか出なかったこの私の口から、今「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれてくださっています。阿弥陀さまの願いである南無阿弥陀仏の名号が、この私といつもご一緒してくださっているのです。だからといって、自分中心に物事を見てしまう限り、母との関係がうまくいくかはわかりませんが、今はただ、阿弥陀さまの大悲のお心に出あわせていただいていることをよろこばせていただき、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すばかりです。

■再発見 伝統の意義 -ストレス多い現代こそ、お寺が心の支えに-
報恩講
「報恩講」 金子みすゞ
「お番」の晩は雪のころ、雪はなくても暗(やみ)のころ。くらい夜みちをお寺へつけば、とても大きな蝋燭(ろうそく)と、とても大きなお火鉢(ひばち)で、明るい、明るい、あたたかい。大人はしっとりお話で、子供は騒いじゃ叱(しか)られる。だけど、明るくにぎやかで、友だちゃみんなよっていて、なにかしないじゃいられない。更(ふ)けてお家へかへっても、なにかうれしい、ねられない。「お番」の晩は夜なかでも、からころ足駄(あしだ)の音がする。
今は、ちょうど「お番」(報恩講・お取り越し)の季節です。ついこの間まで当たり前だった、この光景が、今は、むしろ珍しくさえ感じます。近所の人たちが、こぞって大人も子どもも、お寺に集まって、寒い夜でも心の底から暖かい、一年に一度の地域の特別な集い。それが報恩講でした。お寺だけでなく、各家庭でも、また地域の集落でも行われてきました。しかし、現在、地方の各地の「お講」は、昨今の社会構造の激変により、壊滅的な打撃を受けています。私の地元でも、講中(こうちゅう)の維持が困難な状態となっています。これまでずっと、行政の「区や組」とは別に、むしろそれ以前から「講」という地域の集まりがあり、この「講」は、毎年の報恩講(地域によっては毎月の法話会もありました)と、講員の葬儀とが主な行事で、これが求心力となって維持されてきました。昔「村八分」という言葉があった時代、「八分」のあとの二つが火事と葬式で、「村八分」にされても、火事と葬儀の二つだけは近所が助け合ったと言われています。
自分の都合が横行
ところが、近年、「会館葬」の急増により、求心力の大きな柱が失われてしまいました。葬式には、大変な労力がかかります。これまでは、「お互いさまだから」と、近所の人たちが力を合わせて、一大行事を出してくれていました。それが、「近所に迷惑をかけない」という美名の下(もと)に、葬儀会館という合理的な請負い業者に任せるようになり、講の存在意義が薄れ、新しく講に入会する人がなくなってきたのです。そのため、今や報恩講だけ継続するのがやっとという状況です。お互いに助け合うという意識よりも、自分にメリットがないものには関わりたくないという、「自分の都合主義」が横行しているということなのでしょうか。これは、ご法義の集まりだけではなく、行政の区や組の話し合いでも、学校の保護者会でも、参加数は減少する一方のようです。
他人と関わることを「わずらわしい」と感じるのは、人間関係や気遣(きづか)いに疲れている表れかもしれません。確かに、現代は、さまざまな不安が押し寄せてきて、ストレスに押しつぶされそうになりますし、気心の知れない人と関わるには、大きなエネルギーを要します。しかし、その一方で、人間関係に疲れた現代だからこそ、人は「つながり」を求め、優しい心や、心の支えを必要としてもいるのです。要は、お寺が、その「受け皿」を、どう提供できるかにかかっています。気心の知れない人との関わりは疲れますが、お念仏という同じ価値観を持つ者には、何より安心感があります。そして、心の底から支えてくださる阿弥陀さまのお慈悲につつまれ、お念仏のやさしい心でつながった集まり、お寺がそういう存在として、再認識してもらえたらと願ってやみません。「報恩講」には、実は、その要素が詰まっています。先人たちからの伝統の意義を、私たちが再発見し、自信を持ってつとめていきたいものです。

■妙好人に学ぶ-わが身を振り返り、ますます聴聞を-
現代にはいない?
妙好人(みょうこうにん)、この言葉は、もともとは『仏説観無量寿経』に「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中(にんちゅう)の分陀利華(ふんだりけ)なり」と、念仏者を分陀利華、蓮華(れんげ)の中でももっとも高貴とされる白蓮華(びゃくれんげ)と喩(たと)えられていることによります。さらに、この言葉を七高僧のお一人である善導(ぜんどう)大師が解釈され、念仏者を、人中(にんちゅう)の好人(こうにん)、妙好人(みょうこうにん)、上上人(じょうじょうにん)、希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)と五つの名でほめたたえられ、ここに「妙好人」という言葉が出されます。真実の信心を得た念仏者をほめたたえる言葉として「妙好人」が出てきますが、それとともに、真宗門徒の中でも特に篤信(とくしん)の念仏者を指して「妙好人」という言葉が使われるようになってきます。これは、江戸時代の仰誓和上(ごうせいわじょう)が見聞された篤信の念仏者を『妙好人伝』という書にまとめられたことに始まり、以来、大和(やまと)の清九郎(せいくろう)さん、讃岐(さぬき)の庄松(しょうま)さん、因幡(いなば)の源左(げんざ)さん、石見(いしみ)の才市(さいち)さんなどが有名な妙好人として知られています。
妙好人のお話をうかがうとき、「ありがたい念仏者の方がおられたのだな、私も先徳のように阿弥陀さまのおはたらきを味わっていきたい」という思いを抱くとともに、どこかで、「妙好人は昔の人」という思いを抱いていました。私は平素、京都にある中央仏教学院に勤めています。学院には、通学して仏教・真宗の教えやおつとめを学ぶ、いわゆる全日制の学校とともに通信教育があり、私は主に通信教育に携わっています。この通信教育に携わる中で「妙好人は昔の人」という思いが変わってきました。通信教育は、家庭にいながら、仕事をもちながら、仏教・真宗について学んでいくという教育制度です。親鸞聖人ご誕生800年、立教開宗750年を機縁に1972(昭和47)年に創設され、以来45年、3万5000人以上の方が入学されています。
自分の都合が横行
通信教育は、配布される教材を通して、受講生がそれぞれに学びを進めていきますが、その教材の中に、毎月、受講生のもとに届けられる『学びの友』という小冊子があります。その第1号(1972年9月)の中に「忙しいので勉強ができない 忙しいので手紙が書けない 忙しいので掃除ができない なるほど それじゃあ多分 忙しいので死ねないだろう」という法語が掲載されています。いざ仕事をはじめたり、家庭を持ったり、子育てがはじまったりすると、学校に通って勉強するということが非常に難しくなります。そういった中で、学びたいという思いを持ち、実際に通信教育に入学するという行動を起こされている方がおられます。まして、資格や趣味の勉強ではなく、仏法、親鸞聖人の教えの学びです。
『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』に上人は、「仏法には世間のひまを闕(か)きてきくべし。世間の隙(ひま)をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり」とのお言葉を遺されています。真剣に仏法を聞いていくことは本当に難しいことかもしれませんが、仕事を持ち、家庭を持ち、忙しい中で時間を作り、仏法を聞いていこうとする方がおられます。
こうした通信教育の受講生と出会い、交流を深める中で「妙好人は昔の人」という思いはすっかり薄れ、今の時代においても確かに妙好人はおられるという思いが強くなってきました。それぞれにさまざまな思いを抱いて受講されていますので、一概には言えないかもしれませんが、少なくとも、私には今の時代にも妙好人はおられる、そのように感じられます。ただ、妙好人との出会いは「篤信の念仏者がおられる。有り難いことだ」という話では終わりません。仰誓和上も、大和の清九郎さんと会われ、「誠に我が身のあさましきことも実に思い知られて、かかる広大の御恩を何とて喜ぶ心のなきやと恥(はず)かしみ」と述べられています。はたして私自身はいかほどに如来さまのおはたらきをしっかりと聞けているのであろうかと恥じ、自省する思いが湧いてきます。通信教育だけでなく、お念仏をよろこばれている方々がたくさんおられます。有り難く思うとともに、わが身を振り返り、ますますの聴聞を重ねてまいりたいと思います。

■お念仏のある人生 -父母のように導いてくださる釈迦・弥陀-
先人のおかげで
私もいつのまにか、今年で古希(こき)を迎えました。この人生を空(むな)しく過ごしてはもったいない、と歳を重ねるごとに願っているのですが、その実情はお恥ずかしいばかりです。昨晩、前門さまのご著書『人生は価値ある一瞬(ひととき)』を一気に二度読みしました。その「まえがき」に「外見的には困難に見える人生でも、目に見えない大切なものをわが身に持っているならば、こころ豊かな、空しくない人生となりましょう。目に見えない大切なものとは、一人ひとり、縁によって獲得するべきものですが、私にとっては、仏教の教えです」とあるお心は、この歳になればより深く心にしみてきます。私にとって浄土真宗のみ教えは生きる支えですが、これまでに多くの方々の著書やお言葉に導かれて歩いてきた人生です。
甲斐和里子(かいわりこ)先生の歌に、「ともしびを高く掲げてわが前を行く人のあり小夜中の道」があります。晩年の瓜生津鱆チ(うりゅうづりゅうしん)先生が、「いいお歌だね」と、ほほ笑みながらお話になった姿をなつかしく思い出します。今、この歌が伝えようとする和里子先生の心が届いてきました。私がよろこんでいる浄土真宗のみ教えは、私が親鸞さまの教えを勉強し解釈して身につけたものではありません。すべては先人のよろこんだ心をうけついでいるものばかりだと知らされました。ある人がこんなことを書いていました。私たちは、干しシイタケやかんぴょうをそのまま食べることはできないが、一度水にもどして、それに味をつけて煮付けるとおいしくいただけるように、難解と思える教えも、領解(りょうげ)した人に教えられると、自分の生活のうえで有り難くいただけると。本当にその通りだと実感します。
煩悩があってこそ
私はお目にかかったことがありませんが、一昔前に多くの念仏者が尊敬していた池山栄吉先生は、晩年に大病にかかったそうで、お見舞いにきた人に、「病中ただ念仏ひとつで何もかも始末がついていたが、それでよさそうなのに何か物足りない気がしていました。あるときに気がつきました。それは自分のうちにいろいろの煩悩(ぼんのう)が、花道にひかれた役者のように出番を待っているのに気づきましたよ。そこで初めてしっくりとお念仏が味わえるようになりました。あくまで煩悩があってのお念仏ですよ」と語られたそうです。このご領解(りょうげ)に多くの念仏者がみちびかれてきたのです。浄土真宗の信仰に生涯お念仏をよろこばれたもう一人の念仏者を紹介しておきます。その人は臼杵祖山(うすきそざん)先生です。病床のなかで、「大いなるめぐみのなかにめぐまれてめぐみも知らでみ恵みに生く」という歌を残されました。
臼杵先生の口ぐせは「めぐみによってめぐみをいただく」だったそうです。いつもアミダさまと向き合いながら、わが身を知らされ、称名(しょうみょう)念仏のなかに生きられている尊いすがたが彷彿(ほうふつ)として思いおこされます。親鸞聖人は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』に、「釈迦は慈父(じふ)、弥陀は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種々の方便(ほうべん)をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり」と、釈迦・弥陀を父母にたとえられます。釈迦・弥陀は善巧(ぜんぎょう)方便で私たちを導いてくださっているのです。今、こんな私がご本願を有り難くいただかせてもらってお念仏を申すのも、まったくアミダさまのおはたらきのおかげといわずにはおれません。「わが名を称(とな)えるものを必ず救いとげないと正覚(しょうがく)をえない」とのアミダさまのお誓いが有り難く身にしみてきます。ご本願を信じお念仏を申している自分が不思議で、また有り難く感謝しています。一年一年歳をかさねるごとに、蓮如上人が歌われた、「ひとりでも行かねばならぬ旅なるを弥陀にひかれて行くぞうれしき」を有り難く味わっています。いつもお念仏がある人生だからこそ、人生を空しく感じることなく、喜怒哀楽のなかに有り難い毎日を過ごしています。

■阿弥陀さまの処方箋 -「無自覚性自己中心症候群」の私へ-
"ほんとうの私"
あるお医者さんから聞かせていただいた話です。60歳くらいの男性患者さんが顔をしかめて、お腹(なか)を押さえながら診察室に入って来ました。患者「先生、ワシはどうも肝臓が悪いようです。すみませんが肝臓の薬を出してください...」 医師「えっ? まだ肝臓かどうか、わからないでしょ。まあ、とにかくここに横になってお腹を診(み)せてください。(患者のお腹を押さえながら)ここはどうですか? ここは...?」 患者「そ、そこ...、そこが痛いんです」 医師「ほらほら、ココは肝臓じゃありませんよ。腎臓が腫(は)れていますね」 おそらく、この患者さんは、「若い頃から毎晩酒を飲み続けてきた自分のことだから、腹が痛くなったのは肝臓の病気のせいだろう」と自分の知識で診(み)たてたのでしょう。そんな患者さんが言う通りに肝臓の薬を出したとしても、腎臓の病気は治りません。診たてるのは、きちんと医学を学び、確かな医術を身に付けた医師にお任せしたほうがよいでしょう。そして、医師から自分の病気に応じた薬を処方してもらって、病気を治すことができるのです。同じように「ほんとうの私」もまた、自分で診たてたのでは、わかりません。あるお寺の掲示板にあった「人間みんな裁判官。他人は有罪。自分は無罪」という言葉のように、自分の診たては、どこまでも自分中心で、ご都合次第で変わる、いい加減なものです。ですから、仏さまの教えをお聴聞(ちょうもん)することは、「自分の物差し」で自分を省(かえり)みる「反省」とは違います。間違いのない仏さまの智慧(ちえ)によって診たてられた、自分では気づくことのできない「ほんとうの私」を知らされることでしょう。